胡桃沢耕史
翔んでる警視正 平成篇4 ランバダに酔いしれて
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目 次
T 殺し屋の最後の仕事
U 美女の受けた秘命
V ザ・ゴクドウ
W ランバダに酔いしれて
X 一日早い殺人
Y 花金八公《はなきんはちこう》パルコ坂
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[#見出し]T 殺し屋の最後の仕事
[#小見出し] プラハの春について
現在ソ連はゴルバチョフという、ソフトな感覚を見せる千両役者を表面にたてて、東西ベルリンの壁の撤去や、かつて銃殺したハンガリーのナジ元首相の復権などと、着々とペレストロイカの成果を上げているが、どうしてもひっかかってくるのが、この『プラハの春』の問題である。チェコスロバキヤは戦後の一九四六年からずっとソ連指導下のスターリン主義による一党独裁の政治が続けられていたが、二十年後の一九六八年、一時的にそこから脱け出そうとしたことがある。ドプチェクが党第一書記に就任してからは、制度を改革し自由な民主体制が回復したかに見えた。しかしその翌年の六九年には早くもドプチェクは、ソ連軍の圧力で解職され、暫《しばら》くは山奥の木こりの重労働で生きて行かねばならない身分にされた。その僅か半年間の自由を『プラハの春』と人々は称して、今もなおチェコ人の心の思い出になっている。
二十年後、再びソ連が、東欧に自由をあたえなければならない立場になって、まだ生きているドプチェクと、『プラハの春』をどう評価するかで、米ソの両首脳が直接会談することになった。
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例年のことだが、十二月に入ると、別にどうということもないのに、世の中全体があわただしい感じになる。特にその代表的な例が、警視庁であって、窃盗、詐欺、強盗から、やがては、それが犯人も被害者も予期せぬ殺人事件にまでなってしまう。
刑事部の捜査課は、一課から四課まで、軒並み忙しい。去年の暮はすべての、賑やかな集会が自粛されたその代わりか、今年は各所の会場・ホテル・飲食店は、月始めから軒並み予約で満杯だ。どこでもなじみの客さえも入れられず、嬉しい苦労をしている状況であった。
おかげで、自然に酔っ払いが増え、事件が多くなる。
捜査一課でも、強行犯(殺人)九係、強盗犯二係、他に、火災と特殊犯係の五係まですべてが動員され、係長以下、刑事たちの殆どは大部屋のデスクに坐っていられないほどの忙しさで、動き回っていた。
本庁の始業は八時半。十五秒間のベルは座席で坐って、心を落ち着けるために聞くが、終わるとすぐにもう、いつもの峯岸婦警が、大|薬缶《やかん》で配るお茶を、デスクで飲んでる暇もなくみな飛び出して行ってしまう。
一係と二係とを同時に担当している管理官の岩崎は、細かい事件は部下に任せ、現場での処理が難しいときだけ、直接出て行って部下の指揮を取る立場だが、現在は一係長は六本木の署長に転出してしまい一係長も兼ねている。しかし一係が処理すべき事件は、大体ベテランの吉田老刑事に指揮を取らせて任せている。四谷署で捜査課長までやった警部だが、岩崎の名捜査にすっかり惚れこんで、自ら志願して平の刑事になった。一係の刑事たちの主任となって働いてくれているから、大体のことは任せておけば問題ない。
二係はこれまで通り村松警視が係長で、その下に鬼より怖いといわれた進藤デカ長がいるから、これも問題はない。
別にそのせいではないが、十二月に入ってすぐの四日の月曜日、管理官の岩崎警視正は、ベルが鳴り終わるとすぐ、どこからか電話で呼び出された。お昼近くまで、デスクに戻ってこなかった。
きっと師走の特別警戒についての合同会議でもあったのだろう。一係、二係の刑事たちは、それぞれ、捜査中の殺人事件を追って、大部分が出払ってしまい、新米で刑事見習い中の峯岸|稽古《けいこ》だけが、デスクに坐って、各所からひっきりなしに入ってくる電話を、もうかなり馴れた調子で適確に捌《さば》いている。
そこへ警視正が戻ってきて、峯岸にきいた。
「お稽古、みなは事件で出ているのか」
「はい。一係はアパートの殺人、二係は老女の行方不明を追っています」
「ポケットベルで、すぐ乃木と中村の二人を呼んでくれ。乃木には何をおいても大至急電話を入れろといいなさい。中村は仕事を手早く片付けてここへ戻って来て待機してるだけでいい。いいかい、乃木の方が先だ。電話が入ってきたら私が話をする。分かったね」
つまり必要度に差がある。まず至急に乃木をポケットベルで呼び出した。十秒もしない中《うち》に公衆電話からかかってくる。そのまま警視正に電話をつなぐ。
「あ、乃木か。今、どこだ」
「日暮里と田端の間ぐらいのアパートで、事件がありましたので現場検証をやっています」
「そこからなら、地下鉄が早い。日比谷線に乗れば、一本だ。六本木の進行方向の前の方から出た改札口の階段の外で待ってろ。昼飯は、高橋君と六本木で喰うつもりでいてくれ」
その電話が終わったころ、中村刑事のポケットベルが通じて電話が入った。それにもやはり警視正が出た。やはり不公平な気がしたのだろう。
「急用がある。事件が片付きしだいすぐ戻れ。それから、新大久保署へ電話を入れて、急用で今夜から十日ぐらいの出張になるからと奥さんによく言い含めておけ。文句をいうような奥さんじゃないだろうが、一言でも不平がましいことをいったら、即座に離婚してよろしい」
そういって電話を切ってしまった。随分、乱暴なことをいう人だなと、峯岸見習刑事はびっくりして、警視正を見ていた。中村刑事は、つい二カ月前、やはりこの捜一にいた、本庁随一の美人といわれた原田ひとみ刑事と結婚したばかりだ。だから原田ひとみ刑事は今、中村ひとみ刑事である。夫婦が同じ捜一で、一緒に殺人犯の追及をしているということは、規則上も許されないし、職場の雰囲気のためにも思わしくないので、妻の方の中村刑事は、新大久保署に転勤している。
同じころ乃木圭子刑事も、一係長の高橋警視と結婚した。しかし苗字《みようじ》を変えていない。峯岸には、そのへんのことがまだよく分からない。警視正が今忙しいのは分かっているが、一応気になるのできいた。
「乃木さんは、どうして高橋さんにならないのですか」
わりと気軽に警視正は答えてくれた。
「ああ、民法の七五〇条では、結婚すれば必ずどちらかの姓になることとなっている。九十七パーセントまで男の姓になるが、それ以前の職場で旧姓の方がずっと通り易く、みなが便利な場合は、特別に希望する者は、たとえ夫婦であっても、別々の姓を名のってもいいことになっている。辞令も、給与支払の明細書も税金の通知も旧姓でくる。妻は夫の従属物ではないという新しい人権意識から考慮された近代的な慣習だ。だが一般の日本人は旧来からの慣習を守って、まだ九十七パーセントまで嫁いだ女は夫の姓になる。NHKのテレビのニュースキャスターに宮沢みどりさんという人がいるのを知ってるかね」
「はい。とてもきれいな方です。いつもテレビを見て、女はあんなにきれいに生まれたら、どんなに幸せだろうかと……」
「そんなことはどうでもいい。問題は彼女の勇気だ。彼女はその慣習のあるのを知って、日常生活では夫婦別姓を採用した。今、新しい時代感覚に目覚めた女性の中には、この人に見習って、夫と別々の苗字を名のる人がかなりいる。乃木も新宿に生まれて新宿高校を出た、純粋な都会ッ子だ。早速それを採用して、ずっと乃木で通すつもりらしい。戸籍だけは高橋になっているがそんなもの、日常生活に何の必要もない」
峯岸婦警は初めて納得したようにうなずいた。そこへまた例の岩崎の強烈な皮肉。
「会津生まれのお稽古が、そんなことしてみても似合わないからやめろよ。それに毎朝、井戸水をかぶって褌《ふんどし》一枚で、軍人勅諭を朗誦しているお父さんにそんなことが分かったら、日本古来の貞淑な婦道を乱す者として叱られてしまうぞ」
「叱られるどころか、きっと短刀で切腹させられてしまいます」
そう稽古は首をすくめていった。そのぐらい故郷の父は会津魂の固まりのような頑固で古風な父だった。
「場合によったら君も出張になるかもしれん。パスポートや、服ぐらいは常にロッカーに用意してるだろう。それが捜一の我が岩崎係の心得だ」
「はい、ちゃんと用意してあります」
「よろしい。昼飯を喰いに一階の食堂へ行ったら、帰りに売店へ行って、ショーツや、ブラなどを、三、四枚揃えておけ」
また言い難いことを平気でいう。そんなこといわれなくても、出張が長引くなら、それは女の常識だ。むっとして返事もしない稽古をおいて、岩崎警視正はさっさと捜一の大部屋を出て行ってしまった。
タクシーで一人で六本木に向かう。
地下鉄駅の進行方向寄りの出口の前で止めた。ほぼ同じタイミングで、乃木が、制服姿のまま、下から階段を上ってきた。
「おう。丁度よかった」
二人は並んでそのまま歩き出す。十メートル行かない所に六本木警察がある。本庁の背広組はすぐ分かる。巡査がぱっと片手をあげて敬礼した。
「本庁捜一の者だ。署長の高橋警視に取りついでくれ。岩崎が来たといってくれれば分かる」
巡査は受付けから電話をかけたが、すぐこちんこちんになって
「どうぞ、こちらへ」
と一階の奥の署長室へ案内した。中ではもう高橋警視が机の後ろで、直立不動の姿で待っていて、きちっと敬礼した。
つい二カ月前に転出するまでは、自分の直属の上司であった人だ。
ただ、乃木が少しきまり悪そうにして、帽子を脱いだ室内の十五度の敬礼をした。家では毎日顔を合わせ、夜はこのごろはいつもしっかり抱かれて寝る夫だ。しかし新しい職場での夫の姿など見るのは初めてのことだ。高橋署長は
「管理官殿、わざわざお出でくださらなくても、お電話さえくだされば、こちらから……」
と恐縮していうのに
「いや、一つの署を預かる大事な任務に就いている人をそう軽々しく呼び出せないよ」
と答えた。すぐ前の応接セットに三人は向かい合って坐る。さすがに六本木署らしくいかにも若くナウい感じの婦警さんが、早速コーヒーを運んできた。
「それで今日はどんなご用件で」
「辛いだろうがな、十日ばかり新夫人を出張させてくれ。同行は、私と刑事一人、それに婦警がもう一人だ。刑事は君もよく知ってる、拳銃の名手中村君だ。彼も新婚の身だが、事がらがあまりにも重大なので、かまっていられない。十日以内に戻ってこれる。奥様には、いつも峯岸をそばにつけて見張らせる」
だから安心せよとは、警察官の身としてはいえなかったが、向こうも同じ警察官どうしとして、それで安心しましたともいわない。
上司を信じ、愛妻を信じ、任務にすべてを捧げる。ここに警察官の魂があるのだ。
[#小見出し] マルタ島について
地中海中央部に浮かぶ小島であるが、いかなる国にも属していない、れっきとした独立共和国である。ただし、島の南側の一角に突き出ている岬だけは、共和国は勿論、世界のどの国の支配も及ばない聖地である。聖堂騎士団の城塞であるが、十世紀ごろから騎士団が所有していた島を、つい最近共和国が借りたのだから、これは仕方がない。
首都はバレッタ市。三百十六平方キロ。人口三十三万。
気候は温暖な地中海型で、平常なら、欧米からの観光客が、四季にわたって絶えることはない。使用言語は珍しくラテン語だ。
魚介類と、果物を喰べたい、グルメ趣味の贅沢な客が、毎年沢山やってくる。
住民はトルコ系、ギリシャ系の他に、イギリス系が多く、通貨はイギリスポンドである。
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成田を出て、既に二十時間を超す。
もし北回りのアンカレッジ経由の、ヨーロッパ行きなら、とっくに、パリのオルリーかドゴール空港につき、ホテルへ入って、おいしいフランス料理を喰べて一休みしているところだ。
最初、バンコック空港で、給油のため一時間休み、次にやたらに暑い、カルカッタ空港で、不潔なトイレの悪臭と大きな藪蚊《やぶか》に悩まされながら、やはり一時間待ち、次にアテネ空港で、現在のやや中型の飛行機に乗り換えた。
いくらファースト・クラスの席がゆったりしているといっても、二十時間、ぶっ続けだと、さすがに足腰が痛くなる。飛行機の旅は、トイレへ行く以外は、中を自由に歩き回れない。乃木も、中村も、峯岸も、ともに二十代の、一番活動的な年代だ。ご隠居さんと違って、一カ所にじっとしているのが何より辛い。
それにアテネで、この最終の中型トライスターに乗り換えるまでの二十時間、岩崎は頭の中で何かをしきりに考え、作戦を練っているらしく、唯の一語も発しなかった。
そういうときは、他の三人は、自分らからは余計な質問はしない訓練ができている。おそらく、大容量のコンピュータも及ばないほどの勢いで、高速回転している彼の頭脳だ。うっかり外から何か声をかけたら、その瞬間、インプットされていたものが、バラバラに分解し、収拾できない混乱をきたすであろうし、場合によっては、彼の天才的な頭脳をこわしてしまう怖れさえ考えられるのだ。
二十時間の間に六度も食事が出た。昼になったり夜になったりで、今現在は何時か分からず、最後に配られた食事が、朝飯か夕飯かも見当つかなかった。ただ全部残さず喰べたら、人間ブロイラーのようになってしまいそうだ。
それにオリーブの実がやたらに入った焼飯は、会津生まれの峯岸にはちょっと口に入りにくい。妙な匂いがして、殆ど残した。
それにお腹がはって、もうどうにも中へ入って行かないという内部事情もあった。
そのとき初めて、頭の中のコンピュータの整理がついたらしい。岩崎は本当に初めて口をきいた。
「みんなパスポートを出してくれ」
この旅行の目的自体が、一体何なのかが知らされていない。でもそんなことを気にする者はいない。この親分に黙ってついて行けば、事件は自然に解決する。頭を使うことの方はすべて任せきっている。みなすぐ手提げや、内ポケットから、赤い表紙に金色で菊のマークが入っていて、『日本国』の三字が箔押ししてあるパスポートを差し出した。岩崎はそれを開いて、ビザ関係でも点検するのかとみなが思ったら、中をあけもせず、自分のと四つまとめて、封筒の中にしまい、テープで封をして、鞄の奥にしまいこんだ。
「これから、その国へ行き、用途を終えて出国するまでは別のパスポートを使う」
そういって、新しいパスポートを渡された。
正面に、剣を交叉させた十字架がついており、その表紙の四隅には鎧兜《よろいかぶと》の中世の騎士が、馬上で槍を振るっている模様が、極めて細密な画法で、金箔押しされている。
パスポートの字がなかったら、西洋の古書市で見かける、十字軍時代の古文書のような風格を持っている。それを見て
「あら」
と乃木がいった。
「私、このパスポートを見たことがある。何でも、随分、昔だったような気がするけど」
「そうだよ。まだ拝命二年の新米巡査だった乃木が、いきなり巡査長に昇進した上、皇宮警察に抜擢《ばつてき》されそうになったあの事件のときだ」
「ああ、やっと思い出したわ。たしかその命令は畏《かしこ》きあたりを通じて出たとかききましたけど、どうしても私、捜査一課を離れるのがいやなので、もし転勤させられるなら、警視庁をやめてお嫁に行っちゃうとごてましたわ」
……乃木は本当はその先にもっといいたいことがあったのを、さすがにぐっと堪《こら》えた。現夫人で当時は上司だった志村警部補と、岩崎への愛を、内心で強烈なファイトを燃やして争っていたときだ。岩崎警視の指揮下を離れて仕事をするなんてことは、とても我慢できないことであった。今では元の志村警部補と岩崎の間に可愛い翔《しよう》ちゃんが生まれ、自分も一係長だった高橋警視と正式に結婚した身だ。その島でのできごとも、遠い思い出になってしまった。しかし今でも、乃木の姓を使い、夫婦別姓を強引に主張した自分の真意を夫が知ったら、絶対許してくれないだろうし、岩崎警視正殿だって激怒して、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。この秘密は自分が死ぬ日まで、絶対、人に語ることのない秘密にしておこう。そんなことを考えながら、パスポートを開いてみた。何やら殆ど読めぬ文字が並んでいる。写真だけは、たしかに自分の顔だ。
岩崎がみなに説明した。
「今、この飛行機に乗っている、定員百五十人の乗客の中で、百二十名までは、アメリカとソ連の、テレビと新聞の関係者だ。他の二十名はその両国の秘密諜報機関から派遣されてきた、腕ききの護衛官だ。中村君ぐらいのピストルの名手が殆どだ。気をつけてみれば、オリンピックに出た著名な、ピストルの選手も何人かまじっているが、別に中村君は、機内を歩き回って、探すことはない」
ファースト・クラスの一番前の席だから、トイレは、操縦席のすぐ横にあるし、強いて誰とも顔を合わせなくてもいい。
「我々は、彼ら護衛官とは、同じ小さな島へ行くが、目的は全く別だ。彼らとは顔を合わせることも、相談する必要も何一つない」
みなにパスポートの二ページ目をあけるように指示した。
「そこに書いてあるのは古代ラテン語の修飾文字だ。ヨーロッパのラテン語の学者でも、高位の聖職者でも、読める人は、ほんの少ししかいない。ただしこれから行く島に住む、一団の人々は、これを千数百年、ずっと誤りないように伝えて、公用語として使い、公用文字としている。小さな島の外れの岬に、いかなる国も武力で侵さぬことを約束している堅固な城がある。この下の青い海の中にある島だ。そろそろ見えてくるのではないか」
そういわれて、三人は窓ガラスに顔を押しつけるようにして、下の海を眺めた。
目にしみるような真っ青な海だ。あまりにも青が鮮やかすぎて却《かえ》って悲しくなるほどだ。その先に、かすかに煙のようにかすむ、島影が一つあった。
「あれが、私たちが目標とする、マルタ島だよ」
「あ、そうだわ、マルタ島だったわ」
乃木は岩崎とたった二人でこの島に来て、ハイジャックの凶漢を射殺した日のことを思い出した。岩崎はそのことには触れない。
「地理的にいえば、アメリカ・マフィアの故郷、シシリー島の南、九十キロにある。人口三十三万人の小さな島だが、マルタ共和国といって、れっきとした独立国で、政府も少数の軍隊もある。面積でいえば日本の佐渡の半分ぐらいと思ってよい。しかし今、君たちに渡したパスポートは、このマルタ共和国が発行したパスポートではない。世界で只一つ、国家が発行しないで、しかも世界中の国が認めるパスポートがある。あの島の右はしに、海に突き出た岬《みさき》が見えるかね」
だんだん島影が近づくと大きく見えてくる、右の方に海に長く突き出た岬がある。
「あの岬全体は堅固な城でできており、特殊な人が、今も祈りと修養の生活をしている。先ほどもいったように、世界中のどの国も決して武力では侵さないと約束しあっている独立王国だ。その団の中にいる人数は千人から二千人ぐらいの間だろうが、正確なことは分からない。堅固な城壁の中には、三百六十五の教会堂があって、中にいる人々は、それを一日に一つずつお参りすることで一年をすごしている。しかし彼らを、司祭とも宗教者ともいわない。騎士と呼ぶ」
パスポートの四隅を彩る、槍を持って馬上で戦う騎士を示した。
「そこへ騎士として入れるのは、信仰心のあついカトリックの信者でなければならないことは当然であるが、まずヨーロッパの旧時代の貴族階級の出身者でなければならない。
それも正妻の子に限られる。難しい信仰問答の試験をパスし、一生の独身を誓う。姉妹、母親といえども、女の身体には絶対触れないことも要求される」
中村刑事が
「そいつは駄目だ。とても無理だ」
と思わず呟いた。ともかく本庁随一の美人刑事を手に入れてまだ二カ月目だ。そんなこといわれたら狂ってしまう。
乃木は大きな目玉を見開いていった。
「あら、あの島に、二隻の軍艦がいるわ。お互いに岬を挟んで向き合う形で……」
「ようやく君たちにも、今度の旅の目的が何か教えなくてはいけない時期が来た」
ベルト着用のアナウンスがあり、禁煙のマークがついた。
首都バレッタのルカ空港へ向かって、海側から着陸の態勢に入ったのだ。岩崎は、ガラス窓を示していった。
「右側の灰白色の方が、アメリカの軍艦ベルナップ号、向かい側にいる黒い軍艦がソ連の軍艦スラーバ号で、両艦は目下、間隔は約五キロの近距離で待機している。そして現地時間の本日正午だから……」
と、これまで、空港が変わったり、各国語でアナウンスがあるたびに丹念に修正してきた腕時計をチラと見た。もうマルタ標準時になっている。
「後、二分で世界中に発表されることになる。ソ連のゴルバチョフ議長と、アメリカのブッシュ大統領とが、それぞれの国の軍艦に乗っていて初めて海上で会談することになっている。議題は、続々と共産主義体制が崩壊して行く東ヨーロッパの状況と、かつてスターリン主義時代に、チェコや、ハンガリーに対して、戦車と銃で威嚇した弾圧の歴史を、その中でも『プラハの春』の問題を今、どんな形で償うかなどという大問題だ」
これまで初めての外国が珍しく、ただ黙って周りを見ているだけだった峯岸稽古が、奇妙だが、いかにももっともな質問をした。
「それでゴルバチョフさんと、ブッシュさんとは、両方の軍艦の甲板に立って、拡声器でも使って、話し合うんですか」
「なるほどな。直接会談だ。その疑問は無理もない。しかし、こう見えても、白い三角波が波間に見えてるから、海上はかなり風もあり波が高い。拡声器の声ぐらいでは吹っとんで届かないし、話の内容は精密マイクで拾われて世界中に洩れてしまう。特に『プラハの春』の始末の問題など、ソ連側にとっては、絶対よそに洩れては困る話もあるだろう。もう一時間もすると、二つの軍艦と軍艦との間に、ソ連最大の客船の、マキシム・ゴーリキー号が入ってくる。船客定員五百七十五人だが、今日は二人と随員五名ずつの十二名だ。西ドイツで作られて二十年前にソ連に売られた客船だ。中に、豪華な会議室があり、時間が来たら、両方の軍艦から、端艇《ランチ》が出て、それぞれ、ブッシュとゴルバチョフを乗せて、中央の客船に行き、乗り移り、その奥深くの会議室で、これからのヨーロッパ情勢と『プラハの春』をどう評価するかの重要会議に入る。分かったかね。お稽古」
稽古は大きくうなずく。
いよいよ着陸態勢に入った。窓からはマルタ政府の少数の玩具のような兵隊たちだけでなく、飛行場周辺に、唯の一人も不審者が近よれないように、多数の軍人が、戦車や、砲まで準備して、厳重な警戒態勢を布《し》いているのが見えた。
車輪がガタンと地面に着いて滑走を始めた。
[#小見出し] 聖堂騎士団について
聖堂騎士団は、一一八九年、フランスの騎士のユーダ伯爵が、同志八名と語らって、誓願をたてて作った。
彼らは、平常は、世俗を離れて、祈りと労働に明け暮れするが、異教徒(主に回教徒)の侵入に対しては、率先、槍や剣をとって勇敢に戦うことを以て、自分たちでは、騎士団と称している。
由緒ある家系の正妻から生まれた男子のみが、一生婦人の汚れた体に触れぬとの誓願をたてて入団し、終身、この島で祈りながら暮らす。
欧州全土にも莫大な財産を持ち、祈りや、衣服などの生活は質素であるが、毎日の食事は大変に贅沢で、どんな大戦争や飢饉のときでも騎士団の人々は一般人の三倍は喰べていたといわれる。
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四人は兵隊たちが物々しく警備している空港の中で、人混みの列とは別に設けられている、聖堂騎士団用の入国審査所に、たった四人だけで並び、しかも審査官はパスポートを開いて顔と見比べただけで、後は何も審査せずにそのまま通してくれた。
入口には、黒いカトリック用の法衣を着た小肥りの神父が立っていた。
はっきりとフランス語で
「ボンジュール」
といって、まず乃木を見つけて抱擁した。初めびっくりした乃木も、しばらくしてやっとこの前のマルタ島での仕事のとき、間一髪で自分の生命を救ってくれた、『国際刑事警察機構《インターポール 》』のサラザール警部だと分かった。無理もない。あのときの彼は、前の方はかなり禿げてはいたが、後ろの方は茶色の髪が残っていた。
それが全く一本もなくなってつるりとしている。こんな禿頭の男に親しそうに抱擁される理由がないと一瞬戸惑った自分が恥ずかしかった。
彼のモーゼル銃の必殺の一撃で、凶悪犯人と対決していた乃木は、九死に一生を得たのである。
「あのときは」
とその胸にすがりついて礼をいうと、ふいに涙が出てきたが、サラザールは、ごく自然に乃木の体を離した。岩崎ともフランス語で必要なことを話してから、空港の前に停まっている車の運転席に坐り、みなを乗せて走り出した。
近くのレイキャビックは、観光都市としては、ふだんは欧米の若い客が多い。海岸の砂浜もなかなかいいし、温暖な土地なので、冬の二カ月を除いて、ほぼ一年中泳ぐことができる。税金の関係で、商店街もデザインのいい欧州ブランド物がかなり豊富に並んで、殆ど水着か、水着にケープをひっかけたぐらいの若い男女で賑《にぎ》わう通りだ。
サラザールはそう説明しながら運転する。
「今日、やってきたみなさまは、まことにお気の毒、首都バレッタ市は勿論、一番賑やかなこの狭いレイキャビックの町へも観光客は一切出入りを禁止されています。住民でさえ、丸三日間は、自由に外を歩くことを禁止され、冷蔵庫の中の喰物と缶詰とだけで、家の中でひっそりと暮らしていますよ」
たしかに、自動車から見えるのは、兵隊の姿だけだ。
一つの町がアメリカ兵で固められていれば、その隣はソ連軍の兵で固められている。すべて両国が、全く公平に同じ兵数で警護している。
そして兵隊以外には、本当に子供の姿も老人の姿も、普通人の姿は全く見られなかった。
その中で、サラザール神父が運転して、普通の私服を着た四人が乗っている車はかなり目立ったが、車の前に挿してある、聖堂騎士団のマークのついた旗と、運転する黒衣の神父姿のサラザールの姿に、みな軽く敬礼して、どんな検問所も黙って通過させてくれた。
もともと、ここは十一世紀の十字軍遠征以来、聖堂騎士団の所有地であったし、南にのびた岬のすべては、その騎士団の聖域で、車はその岬の城塞に向かって走っていたからだ。
CIAでもKGBでも、キリストを神と信ずる西欧民族には、共通して犯すことのできない戒律がある。誰も十字架には唾をはきかけたり、踏みつけたりすることはできないのだ。
いかなる厳戒下であろうとも、聖職者に銃を向けたり、乱暴な行動をとれない。何百年来の先祖から受けついだ血が、自然にそのような行動を控えさせるのだ。
両国の兵隊に埋め尽くされたような町を通りすぎると、やがて大きな城門があった。はね橋があり、古代騎士の鎧を着て長槍を持った、二人の馬上の門番が、槍を交叉して車を止めたが、サラザールが、前部の窓|硝子《ガラス》から首を出して何かいうと、すぐ槍の交叉が解かれ、はね橋が下り、城門があけられた。車はその中に入る。岩崎が少し不思議そうにきいた。
「この前の事件のときは、パリのインターポールには、古代ラテン語のしゃべれる者は一人も居らず、この城の騎士団と接触できないため、私がわざわざここへ呼ばれたような気がするのだが、あれからあなたは古代ラテン語を勉強したのですか」
「いや、君はまだ誤解している。私はもうインターポールの人間ではない。とっくに定年退職している。この前、日本のミツイの社員がフィリッピンで誘拐されたとき既に私は、民間会社のシドニー支社から派遣されて来ているということはお話ししたと思うが」
勿論岩崎がそのことを忘れているはずはない。
「あのときは、たしかイギリスのロイド保険会社の下請の、リスクコントロール会社の社員で誘拐犯人からの救出を専門にやっていたと思いますが、しかし今度は、アメリカのブッシュ、ソ連のゴルバチョフという、今、世界を動かしている、最重要の二人の人物の誘拐や危害を防止するという任務だ。まさか、民間会社の社員の資格で来たわけじゃないでしょう。それでパリの『国際刑事警察機構《インターポール》』に一時復帰して、ここへ派遣されてきたのかと思ったのですよ」
「私は別に、ブッシュや、ゴルバチョフの身の警護をするために、この島にやってきたわけではないのですよ。それは、米・ソが各一個師団にも相当する兵力を集め、巡洋艦クラスの軍艦でしっかりと警備させているのだから、リスクコントロール会社でも、たとえパリのインターポール本局が全能力を動員しても何の足しにもならない無用の配慮だ。ただ偶然に、この同じ時期に違う問題が発生した。CIAがそのことに最初に勘づき、そして、初めインターポールに依頼が来たが、やはりこれは民間のリスクコントロール会社がやった方がよかろうというので、私がやってきた」
城門の中も、幾つもの高い城壁に区切られている。おそらく聖堂騎士団の高位の聖職者たちは、更にもっと深くの城壁に囲まれた聖堂の中で、日々|敬虔《けいけん》な祈りを捧げる、俗界とは無縁な生活を送っているのであろう。
高い塀と、固く扉を閉ざした鉄の門が、中庭と奥の聖堂とを分けている。
何人かの修道僧が出てきて、車から降りたサラザールや岩崎警視正を宿舎に案内した。
広い快適な客間があり、それを中心に幾つもの扉が四方にあって、各人への寝室へ通じるようになっている。サラザール元警部は説明した。
「ここは何世紀も前から、使用されていた部屋です。ヨーロッパの名家から修道誓願にやってくる男子は、ここで家族と最後の別れの一日をすごす。ここまでは、母や姉妹などはついてこられるのです。最後の別れをここでします。といっても恋人や婚約者などは入ってこられない。騎士団に入るのには、そういう間柄の女性は過去にも現在にもいない、肉体的には勿論、精神的にも童貞であるということが一番の必要条件ですからね。ここで、母や妹と、つまり女というものと最後の別れをすませた人は、翌日、鉄門の中へ入ってしまえば、一生、女性の体に触れることは勿論、まずマリヤ様の像以外は女性というものを見ることもできない生活に入るのですよ」
「そうですか」
峯岸稽古は感心したように周囲を眺め回した。彼女にはまだそのときの男性の気持ちが実感できない。むしろ入団する青少年は、さばさばした気持ちで、ここで最後の一夜を送ったのではないかという同感の方が湧いてくる。会津|白虎隊《びやつこたい》の少年も十三歳から十五歳の間の年で腹を切るとき、誰一人女のことなど考えた者はいなかったろう。
だが乃木の考えは違う。ほんの二カ月前結婚したばかりだ。まだ本当の愛の悦びというものがはっきり分かったというわけではないが、男と女がこの世にいるのに、もし一緒にいられないとなったら、どんなに無味乾燥でつまらない世の中になるだろう。
接待の修道僧が、多分この城内で作ったのに違いない、香りの高いケーキと、盆に山盛りのクッキーを運んできた。きびしく性の欲望を制限されているこの城内では、食事だけは(茶菓を含めて)一般人の三倍は摂取するという噂は本当であったのだ。
修道僧がすべて去り、部屋がぴったりとしめられると、サラザールと岩崎一行だけになった。サラザールは初めて用件をいった。
「私がCIAから日本の内閣を通じて至急あなたの派遣を頼んだ用件についてのべましょう」
さすがに、乃木、中村、峯岸たちは緊張した。サラザールの語るフランス語を岩崎はほぼ同時に訳してくれるからだ。
「たしかに、ブッシュやゴルバチョフとは直接関係ない。だが本当に完全に無関係かというと、そこはまだ分からない部分もある。前置きばかり長くなって申し訳ない。結論から先に言いましょう。アブール・ニダーがこの島に来ているらしいことが、分かったのだよ」
いつもは冷静な岩崎警視正も、少しその態度が変わった。
岩崎はふだんデスクにいるときはこれまでの殺人事件をすべて集めて、警視庁の地下四階の大コンピュータに入力している。彼が捜一に着任して以来六年、一日も休みなく、あらゆる殺人事件のデータを打ちこんである。その何百万件に及ぶ事件と何百万人の犯人の中から、もし岩崎が技師の松本コンピュータ主任に『世界で一番危険な殺人犯の名を一名出してくれ』といったなら、まっさきに
「ソレハ、パレスチナ人ノ、アブール・ニダー(50)デアル」
という報告書を送ってくるに違いない。
[#小見出し] 黒い九月について
一九七二年に、西ドイツのミュンヘンでオリンピックが開かれた。昭和でいえば四十七年である。八月二十六日から、十六日間に亙って、戦後すっかり復興なった、西ドイツの威勢を示すように、これはそれまでの規模をはるかに超す、最大豪華な大会であった。四日目の八月二十九日には早くも日本の体操チームが、団体戦で史上初の四連勝を飾った。
こうして日本でも世界各国でも、オリンピックの気分が最高潮に盛り上がっていた。十一日目の九月五日、突然、世界中を驚愕させる事件が突発した。一般人出入禁止の警戒厳重なオリンピック村に、突然『黒い九月』と名のる、アラブゲリラが侵入して、イスラエル選手団の役員二人を射殺し、選手九名を人質にとって、用意したヘリコプターで逃亡した。だが途中西ドイツ警察の攻撃を受け、人質全員と共にヘリコプターは自爆した。結局イスラエル選手は全員死亡し、ゲリラ五名も死亡したが、三名のゲリラは空中で、機体を爆破しながらも、ちゃんと生き残った。それからも何件かのテロ事件を起こし、最後はごく最近の一九八五年、昭和六十年には、エジプト航空機をハイジャックした。乗客五十六人は死亡したが、このときも指導者は生き残ったという。
そのテロ団の正式な名称は『ファタハ革命協議会』で、常に第一線で指導しながら必ず生き残る、凶悪なテロリストの巨魁《きよかい》の名が、アブール・ニダーである。
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海は、このところは、風が強く荒れ模様だ。しかし、米ソの海軍にとっては、却って好都合であったらしい。
小さな船は、危くて海へ出せない。当然、大統領や、議長の乗っている軍艦の周囲には潜水艦や小哨戒艇が、厳重な警戒をしているが、それでも波が高くて、小さな船が近よれない方が警戒がずっと楽なのは事実だ。
両国の巡洋艦の間に浮んだ、二万五千トンの豪華客船のゴーリキー号は、この程度の波には、殆ど揺れを見せない。
城塞の一隅の望楼に上って、朝から全員が見ていると、午前十時に両艦の艦橋に水兵が並び、それぞれの艦のマストに国旗がかけられ、吃水《きつすい》の深い荒天用の特殊ボートが、両船の艦橋から同時に下ろされる。
そして両側から白波を蹴って、端艇は、客船に近づく。
サラザール元警部は、望遠鏡でそれを眺めながらいった。
「いかなる名銃でも陸からあの船まで届く弾丸を射てる銃はない。砲もミサイルも、この島のどこにも隠す余地はない。だからアブール・ニダーが誰かを狙って、この島にやってきたとしても、あの二人の大物ではない。これまで、アブールがやって来たことは一見不可能に見えたが、後で詳細に分析してみれば、やはりこちら側のどこかに隙があった。今度こそは、その隙はない。周囲を鋼鉄板で囲って中で会談しているのと同じだ。だからこそ、この一件をアメリカのCIA、ソ連のKGBから頼まれたときに、私はリスクコントロール会社のベテラン社員だけでは、もはや駄目だと思った。そして無理に政府間の折衝を重ねて、東京から、あなた方を呼んでもらった」
「誘拐や襲撃専門のリスクコントロール会社でもできないと、匙《さじ》を投げてしまった仕事を、東京で起こった殺人犯を追いかけるだけが仕事の我々になぜできるのですか。あなた方ベテランができないと判断したことは私たちでもできませんよ」
丁度、遠い海の上に浮ぶ豪華客船に、両側の軍艦から近寄ってきた二隻の端艇は、ほぼ同時に、左右の舷側につき、タラップが下りた。厳重に武装した水兵に守られた背広姿の両国の首脳が、それぞれにタラップを昇って行った。多少の揺れはあるらしいが、双眼鏡に映る両国の首脳の足取りはしっかりしている。
ここは聖堂騎士団の城内であるから、彼らはその光景を悠然と見下ろすことができる。誰にも咎《とが》められない。咎める人も正門からは中へ入ってこれない。勿論この中から軍艦や客船を襲撃したり、ミサイルを発射するということは、これは十一世紀以来、独立国と同じ待遇をあたえられている、ヨーロッパの名誉ある家系の正妻の子供だけで構成されている彼らにとっては、考えることもできないことだ。サラザールはいった。
「私は東洋人の発想を、ここで期待しているのです。我々、西欧の文化と全く違う世界で日常生活を送っている人間でなくてはたしかに理解できないことが何かある」
客船への乗船が終わり、豪華客船の二本のマストに、米ソ両国の旗が高々と掲げられた。
その十階建てのビルにひとしいような客船の奥に入ってしまった二人の首脳は、もはやどこの国のどんな強力な軍隊でも襲うことはできない。
一応、ニダーの狙いは二人ではない。
岩崎警視正はそう思うことにした。
「別に深く考えて、この質問をするわけではないのですがね、そのアブール・ニダーの健康状態や、活動能力は、今どうなのですか」
城壁の上だから海の風が強く吹く。乃木も峯岸も、スカートでなく、黒いスラックスなので、裾回りを気にしなくてすんだ。
いくらここは聖職者だけが住み一生女性に触れず、女性を見ずという誓願を果たした人々だけのいる聖域だからといって……却ってそれだからこそ、風でバタバタめくれ上がるスカートを下から覗《のぞ》き上げられるような姿はさらしたくない。大事な宗教心がそれで揺らぐような人はいないだろうが、結婚して以来乃木は、一層そういうことに用心深くなっている。
神父姿のサラザールは、長い黒衣の裾を強い波風にはためかせながら答えた。
「今の彼は身辺の状況も、体の具合も最悪といってよい。ついこの間までリビヤの都トリポリの病院に入院していた。肝臓から発生したガンが、全身に転移して、ほっておいても、今年一杯もつか、精一杯、来年の三月までの命だろうという説が流れていた」
「それじゃ、もうテロ活動どころか、病院を出て一人で外を歩くことだって不可能でしょう」
「うん。アブールがもう再起できないという説が流れると同時に、これまで彼を、無二の忠臣として利用しつくし、世界中の要人を襲撃させては、世界の暴れん坊の評判をほしいままにしてきた、リビヤの権力者カダフィが、向こうから縁を切ってきた。病院の費用の支出も断ちきり、今まで公的にも私的にも、アブール・ニダーとの接触は何もなかった、彼がリビヤ政府と何らかの親密な関係にあり、提携をして仕事をしたというのは、全く根拠のない妄説である……という声明を、わざわざ全世界にテレビで放送したそうだ」
岩崎はいった。
「中国には、良い猟犬が主人のため一生懸命兎を追って、獲り尽くしてしまうと、今度はその猟犬が代わりに鍋にいれられて喰べられてしまうという諺《ことわざ》がありますよ」
「まさにその通りだね。もともとリビヤ政府からの殺人の報償金で喰っていた男だ。それは莫大であったかもしれないが、八五年のハイジャックで五十六人を殺したのが最後で、それから五年もたっている。金のかかる女もそばにいたというし、腹心のボディガードも、いつも数人おいて、身の回りを守らせておかなくては、自分が殺し屋だけに、却って身の安全を守れない。それで、ガンがもう治らないと判明して、迂闊《うかつ》な医師の一人が、それをうっかり政府に洩らしたのが、カダフィの耳に届いてしまったのですよ。即日、カダフィ大佐の、アブールとの無関係声明が発表され、医療費が即刻打切られたとき、トリポリの病院ではひどく困ったそうだ。今までのように、バス・トイレ・電話付きの特別室においておくわけにはいかない。殆ど無料に近い、野天に天幕を張り、カンバスの組立てベッドを五十も並べた、最低の病室へ移すわけにもいかない。そこには護衛も何もつかないし、この世界的殺し屋に恨みを持ってる人間は世界中に何百人いるか分からない。ミュンヘンオリンピックで、大事なオリンピック選手の全員を殺されたイスラエルの強力な諜報組織のモサドが黙っているはずはない。三十分以内に殺されるか拉致《らち》されて、ひどい拷問の後で、殺されるだろうといわれている。ところが、そのカダフィの全世界への放送があったその時刻に、自分で点滴の針を外して、看護婦の手を振りきってトイレへ向かったまでは分かってるが、そのまま、彼の姿は消えてしまった。しかもリスクコントロール会社の、世界中の支社員から寄せられてくる情報からも、彼の消息はなかなか分からなかったが、やがてたった一つ、そのアブールらしい、やせ衰えた病人が、この島のバレッタ市の町医者の所に入院しているという情報が入ってきた。当然、我々はすぐ、そのバレッタ市の小さな町医者を訪ねた。しかし行ったときは二日前に退院したということだ。その行く先は、まるで分からない。しかしその今や危篤状態といってよい殺し屋が、どんな手段を使ってかは分からぬが、このマルタ島に来ていることだけはたしかだ。そこで、大統領やゴ議長の警戒とは、一応別の次元で、リスクコントロール会社の私が、その殺し屋の最期を確認するためにここへ来たわけだ。自分の体を一人では動かせない人間が、米ソ両国の精鋭二個師団が固め、軍艦が二隻で守っている二人の元首を狙ってこのマルタ島へやってきたとは考えられないのだ。つまり私たち西欧系の人間の常識ではね。しかしきっと何かをやるつもりには違いない。それでなくては、体中にガンが転移してきっと激しい苦痛に襲われている彼が、この島に来るはずはない」
岩崎警視正はしばらく考えていた。それからいった。
「殺し屋が人を殺すためにここへ来たということは当然予測される推論です。しかしここに今までの推論では、つい安易に考えすぎて見逃してしまっている大事なことが一つありますよ」
「それは何だね」
岩崎警視正はわざとそれに対して答えずに急に沢山の質問をした。
「その町の小さな医院だって、無料ではないでしょう。たとえもう回復の見込みはないから、病床に寝かせて、精神安定剤程度の薬をあたえて、その日をごま化していたとしても、やはり幾らかの費用はかかるということです。私の知りたいのはその金を、男が払ったか、女が払ったかということです。誰が払ったかではありませんよ。そんなこと聞いたって正直に答える者はおりませんからね」
「なるほどね。そういえば、たしか三十代に見えるトルコ系か、アラブ系の美女が、払って行ったという報告があったようだ」
「その女が、リビヤからマルタ島まで、アブールを連れてきた女です」
「そうか。ではこれから二個師団の全員を動員して島の人家を探してもらおう。その女は医師の証言をもとに、似顔絵を作り、島中探し回れば見つけ出せるだろう」
「サラザールさん。それは駄目です。女だけ見つけても何にもなりませんよ」
「なぜかね」
「アブールは、きっともう死んでいます。多分、その医師のもとから退院したのも、本当は死んだか、その直前であったからです」
「もし死んでいるとしたら、我々の仕事はもうこれで終わったよ。せいぜい、墓地の管理人を訪ね歩いて、最近、死亡して埋葬された者がいないか調べ、年齢や風態の合致するのがあったら、棺の蓋をあけて人相を確認してから我がリスクコントロールの本社に報告するだけでいい」
岩崎は強く首を横に振った。
「いや、終わらないですよ。私たちの仕事はこれからです。殺し屋は決しておとなしく一人で死んでは行きませんよ。
サラザールさん、今回、リスクコントロール会社が請け負った全予算を使いきるつもりで、次のことを調べてください。あなた方は何とも思わない習慣として、つい軽く考えてしまいますが、我々東洋系の人間にとっては、こういう大事な国際会議に、夫人を同伴することが、まだとても不思議なことに思われます。だから初めて分かるのですが、アブール・ニダーの最後の目標は、ブッシュ大統領と、ゴルバチョフ議長の夫人です。どうせ女のことですから退屈して軍艦の中では丸一日もじっとしていられるはずがありません。それに夫どうしが両国の関係をより親密にするために、毎日、真剣に討議しているのですから、夫人どうしも、どこかで落合って親密になる方がいいと考えています。買物や、もしドラマかショウのようなものがあったら並んで観劇するかもしれません。既に死んでいる殺し屋が、最後にしかけた勝負はそのときに実行されますよ」
「死んでからも、人を殺せるのか」
サラザールが不思議そうにいうのへ、岩崎警視正は自信ありげにいった。
「そうです。本当の殺し屋というのはそれだけの根性を持っています。サラザールさん、知ってる限りの人々を動員して、夫人二人の今後の行動を探らせてください。日本にも七《なな》たび生れ代わって国のために働くという格言がありますよ」
[#小見出し] ビロードの声について
レバノンには一人のすばらしい女性歌手がいる。
エジプトから、サウジアラビヤまで、アラビヤ語の通じる世界のラジオをつけると、コーランの次に彼女の声が聞こえてくる。それはビロードの声といわれる、滑らかに洗練された歌声だ。
特にその中の、パレスチナの戦いで、母を失った四歳の少女が、周囲の人に母の行く先をきく『ねえ教えて』という悲しい歌は、アラブ圏内だけでなく、世界中に広く伝わる、大変なヒット曲になった。
彼女はふだんはクエートや、レバノン、シリヤなどにアラブの世界の正義を唱って回るが、アラブ風に、四時間も五時間も続けて唱うので、終わったときは夜が白々とあけていることが多いという。名前はファーリー。夫とは死別して目下独身である。但し本当の年は五十三歳。
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軍は戦争の専門家であり、戦闘技術者の集団であっても、要人警護の方は素人で細かいところまでは目が届かない。ブッシュ夫人にも、ゴルバチョフ夫人にもそれぞれ、お付きの世話係がついていたが、実は警護陣の方はひどく手薄だった。
両国ともこの狭いマルタ島へ来るとき、夫人たちがまさか停泊している軍艦での居住を嫌い、島へ上陸したがるということは想定していなかった。
会議は丸三日かかり、四日目の朝、両国の軍艦はそれぞれの国へ戻ることになっている。
途中どこかの軍港で、それぞれ専用の飛行機に乗り換えて元首二人は祖国へ戻ることになっているが、その寄港地は秘密になっている。
リスクコントロールの根拠地となっている、聖堂騎士団の宿舎用建物に、その日の夜にはもう会議を運営する事務局から
「至急、婦人のボディガードを回してくれないか。二人要る。できれば白人でない女がいい」
と緊急電話が入った。
サラザールがそれを受け取り、岩崎にいった。
「多分、こんなことになると思った。一人はブッシュ夫人、一人はゴルバチョフ夫人のボディガードだ。アメリカ人やソ運人の体のごっつい女が、周りを取囲んでいると、いかにも女兵士に囲まれているようで、夫人たちは自由な散歩を楽しむ気分にはなれないだろう。どちらがどちらにつくかは、ムッシュー岩崎が決めてください」
「いや、二人にくじびきでもさせますよ。二人ともいつも夫人たちのそばにくっついていて、どこから弾丸がとんできても、即座に対応できて、問答無用に相手を射殺できるようにしなさい。一瞬の油断もできないよ」
乃木も峯岸も、使命の重大さに緊張して
「はい、一生懸命やってみます」「頑張ります」
とそれぞれ答えた。
「ただし、それが必要になることはないだろう。殺し屋は多分、昨日か一昨日には死んでいるからね。彼が死体となってする最後の仕事は、銃でする狙撃ではない。それが何か今はまだよく分からないが。城外へ迎えの車がもう来たようだ。どちらがどちらにつくか車の席でジャンケンできめなさい。今晩から軍艦泊りだよ」
岩崎警視正には一種のカンがあるのか、自分の聴覚に届く前に既に車の音を聞いていた。電話のベルでも同じだが、自分に向かってくるものは、直接目や耳へ入るより、少し前に分かるのだ。予知能力というほどの大げさなものではないが……三十秒もしない中に、取次ぎの修道僧が入ってきて、二人の女性警備員を迎える車が、城塞の正門に止まって、待っていることを伝えた。
中村刑事だけが、岩崎のもとに残った。
その夜は男三人であれこれとあらゆる予想をたて作戦を練った。
翌朝、修道院が作った極上のクラッカーと紅茶でひとときをくつろぎながら、岩崎はいった。中村刑事は黙って控えている。
「サラザールさん。もし何か殺し屋がやるとしたら、せいぜい明日の夜までです。実は明後日の夜に、会議がすべて終わったら、ゴーリキー号の大きいサロンで、記念のダンスパーティが開かれるという日程表を見て、私は多分、そのパーティで何かがしかけられると思っていた。しかし今、それは不可能だと分かったのです。気温の関係で……」
「なぜですか」
サラザールは今はただ岩崎の推理に頼らざるを得ない。彼には敵の攻撃がどんなものになるかまるで見当がつかないからだ。
「いくら殺し屋でも死んだら同じだ。死体の腐敗が一日でもおくれるわけではない。この島には完全な冷凍倉庫がないことは昨夜中、電話で各所へ問い合わせておいてたしかめた。明後日ではもう腐敗臭がひどくて、現場で使えない」
「そうかもしれないが腐敗した死者がどうして、仕事をできるのですかね」
「女だよ。ここまで彼を連れてきた女。退院までの入院費を払った女。それが彼の意志をついで必ずやる。この一週間ばかりの、この島の新聞を至急見てみましょう」
サラザールは少し情けなさそうにいった。
「英語やフランス語のもあるが、主にラテン語だ。私には読めない」
「私が読みますよ。ここに持ってくるようにいってくれませんか」
やがて修道僧が、ここ二週間分のラテン語の日刊紙を持ってきて、積み上げた。
そばに坐ってただ待機している中村刑事に岩崎は命じた。
「何でもいい。女の写真があったら、目立つように、周りをペンで囲ってくれ」
もともとくそまじめな中村は新聞を片っぱしからめくっては、女の写真があると、そこに万年筆で囲いの丸をつけていった。
岩崎はまるで銀行員が札束を数えて行くような早さで、その新聞をめくって行く。
すぐに見つけた。三十四、五のアラブ美人がマイクの前で唱っている写真だ。
岩崎がサラザールにラテン語を読んできかせた。
『アラブの真珠 レバノンの至宝。
全アラブ世界に絶大な人気のあるファーリー嬢来る。レバノン・シリヤ以外では聞くことのできない、ビロードの歌声。今日から三日間、バレッタ市民劇場で公演』
「これですよ。実にすばらしい歌だといわれている。ブッシュ夫人もゴルバチョフ夫人もきっとこの劇場へ行く。アラブ圏へ入らなくてはきくことができない声だ。世界中にレコードが何百万枚も売れた現代の生んだ最高の女性歌手が同じ島にいるのですから」
「そうか。たしかに行くだろう。しかし、私の聞いたところでは、彼女は無伴奏で、一人でマイクの前で唱う。もっともマイクは録音のときだけで、普通の舞台ではマイクも使わないそうだ。後ろに楽団はつかない」
「衣裳もアラブ女には珍しく、殆ど肉体のすけて見えるレースのドレスだそうですよ。何の武器もかくせない。しかしそこにこそ絶対仕掛けがある。中村君。これからは一秒でも私の横を離れるな」
「はい」
「サラザールさん。多分二人の夫人は誘い合わせて、その劇場へ行くと思います。劇場側は知っていて、知らぬ顔で最前列中央の席に案内すると思います。舞台の周辺、最前列の他の席は、CIAやKGBの関係者にヤミ値が何十倍でも買い占めさせてください。あなたはフランス語の分かる人だけを、できるだけ、私服で集めてください。軍からは看護婦や女の兵隊も私服で客として参加させてください」
「分かった。いわれた通りにします」
夕方の三時に、劇場は開いた。
島の南側は米ソの重要会談で、外出もままならない。買物もできず、海への散歩もできずに退屈していた市民が、どっとバレッタ市民劇場へ押しよせた。
僧服では劇場へ入れないので、背広に着替えたサラザールと、岩崎と中村とが、二階最前列の指定席を定価の十倍も出して買って入ったときは、場内は超満員であった。
岩崎はす早く場内を見回した。
最前列に、ブッシュ夫人とゴルバチョフ夫人の二人は仲好く並んでいる。両わきには乃木と峯岸が、いつでも制式婦人用コルトが抜き出せるよう、ショルダーを膝の上において坐っている。
やがてファーリーが出てきて一礼する。会場中から熱狂的な拍手が起こった。
アラブ世界にとじこもっているから、西欧の楽界に知られるのはおそかった。本当はもう五十を越しているそうだが、顔も肢体も三十代の美しさだ。
シースルーのアラブ衣裳から盛り上がって見える乳房は大きく艶《つや》やかに光り、張り上げる声と共に妖《あや》しくビブラートする。
観衆は完全に酔った。
言葉はアラビヤ語だから、意味はそのままでは伝わらないが、どれも戦争によって、子供や、父親を失った女達の悲しみを切々として訴えているのが伝わってくる。
約一時間。七曲ばかり唱い、五分ほど軽いおしゃべりをしてから彼女がアラビヤ語と、この島で使うラテン語とでいった。
「私は、歌手になる前はハープ奏者でした。今日のお客様は熱心にきいてくださるので、ここで特別に、私の一番得意の歌を、ハープの弾き語りでお送りします」
楽屋係が、ハープの入った大きな革ケースを押してきた。下に車がついているから、軽々と彼女の横に来る。どっと拍手がまき起こる。しかしいきなりハンドメガホンを持って立ち上がったサラザールが大声のフランス語でいった。
「警戒要員は舞台へ銃口を向けろ。歌手も舞台係もそこを一歩も動くな」
続いて、岩崎が、ラテン語で叫ぶ。
「全観客はただちに退場せよ。退場に応ぜぬ者は、前列の要員は銃口を後ろに向けて、射殺してもいい」
初めは激しいブーイングをしていた人々も、やがてびっくりし、どっと、出口に向かって殺到していった。
忽《たちま》ちの中《うち》に劇場の中に客は一人もいなくなった。舞台の上の歌手とハープのケースを押してきた係員二人だけだ。
最前列で銃をかまえているCIAやKGBの係官たちに、サラザールは更に指示した。「諸君らは銃口を舞台に向けたままできるだけ下がれ。背中を後ろの壁にくっつけるまで下がれ」
私服の警戒陣の男たちや米ソの女兵士は、劇場の一番後ろまで下がる。既に二人の夫人は乃木と峯岸に守られて外に出ている。
「椅子のかげに身を低くしろ。狙いは舞台の三人から外すな」
それから二階の正面の岩崎は中村にいった。
「まず鍵を射《う》て。他の所にはあてるな」
中村が射った弾丸が革のハープケースの鍵にぴたり命中すると、背中を丸め爆弾を抱えた男が、ケースの中から転がり出た。たしかにニダーの死体だ。しかしそれは一瞬、目に入っただけだった。爆弾の先には極めて敏感な信管がつけてあったらしく、体が舞台に転がった瞬間、彼を中心に歌手の姿も、二人の係員の姿も前から二列までの座席(幸いに空席だったが)もすべて粉々に、空中に吹っとんでいた。
[#改ページ]
[#見出し] 美女の受けた秘命
[#小見出し] コスタリカ国とは
北米と中米とがつながっている細長い地峡地帯には十カ国に近い小国がひしめき合っている。その殆どが貧しい農業国で、その農業もうち続く争乱、内戦などでひどく生産性が低い。
どこも政治が安定せず、政府派、反対派にそれぞれ米国のCIAと、近くのキューバを拠点とするソ連のKGBの手先たちが暗躍して火をつけている。
その中では比較的政情が安定し、観光客も安心して入りやすいのが、このコスタリカ国である。
パナマという争乱の多い世界の火薬庫のような国に隣接しながら、国土全体は平和で美しい。中南米のスイスともいわれる首都のサン・ホセ市は標高三千四百メートル、富士山に近い高度にある都市である。
人口は二百十万人だが、他の中南米の国と一つだけはっきり異なっているのは、混血や黒人が少なく、スペイン系の白人が九十%以上おり、彼らは移住時代からの生活様式を厳格に保っているから、中米特有の貧しさの中にありながら、国は安定しているのだといわれている。
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フロント係や、ボーイ、彼女が毎日何度か姿を現すレストランで奉仕する給仕や、バーのバーテン、それらの一切の人々の証言が、これだけ一致するのは珍しい。
つまりどの人もみな
「これまでいろいろきれいな女性を見たことはありますが、あれほど魅力的で、同時に可愛らしいと思った女性は見たことはありません」「どこかヨーロッパの国の王女かと一瞬こちらも姿勢を正したほどの品を持っていましたよ」「ほんと、女の私でも思わず振り返るほどのきれいさでしたよ」
と賞賛している。
しかし、その人は今、化粧台の前の椅子にぐったりとのけぞるようにして倒れている。目はうつろに開き、ものも言わない。
今朝メイドが、いつものようにベッドメイクに部屋に入った。もう三週間ほどの滞在なので、メイドもすっかり馴れて、午前八時になると一度、室内の掃除とベッドメイクのやり直しに入る。いつも八時前には起きて、九時ごろまでに入浴とお化粧もすませて、室内着でゆっくり英語の新聞か、外国語のファッション雑誌を読んでいる。その入浴の時間中に、つまり八時少しすぎにベッドメイクと掃除をするように特に頼まれているのである。こういう客は珍しい。
出かけるのは昼頃になってからが多く、大概はどこにしまってあったのだろうかと、思わず考えてしまうような新しい豪華な服に着飾って、表にハイヤー会社から一番豪華な車を呼んでもらって出かける。装身具も、このホテルの従業員はみな目がきき、本物かニセ物かをすぐ見分けるが、いずれもみな数百万、数千万円の本物ばかりである。
宿泊費も一週間ごとのきまりの日に払っているし、たまに出かけない日には、自ら三、四人の客をこのホテルの十八階にある豪華なレストランに招待し、最上の料理でもてなす。
年齢は二十三歳。国籍は中米のコスタリカ。名前はパメラ・ボーダス。
年齢と国籍を宿泊帳に書いただけで、この格式高いホテルでは本来はやんわりと宿泊を断ったかもしれないが、事前にコスタリカ大使館から(と係員はそう思った。今となってはそのときの向こうの言葉を信用しただけで、何の物的証拠もない)『我が国の重要人物の知人が宿泊するからよろしく頼む』というスペイン語の電話が入った。それから一、二時間して、いくつもの大型トランクを持って、彼女が自身でフロントへやってきたのだ。
しかも一種、神秘的といってよいほどの美貌で、いまだに日本唯一の格式を誇る帝国ホテルでも、これだけの美貌と、上品さを持つ女は滅多に見かけない。
十二階の一人客の部屋としては最高の部屋に入れたのがクリスマスの頃。そして何の異状もなく、新年を越してもう十五日。昨日、三週間目の請求書にアメリカン・バンクの小切手で支払ったから、滞在二十一日か、二十二日目であろう。
女は仰向けに、椅子にのけぞっているだけでなく、その美しい顔の額に、鉄の箸か棒でつけたらしい×の字がはっきりと灼けただれて烙印《らくいん》されていた。
多分赤く焼けた鉄を押しあてている間に悲鳴が洩れるのを防ぐためか、丸めた靴下を、口の中に無理やり押しこんだらしい。ナイロンの生地が歯で強く食いちぎられている。
よく見るとむき出しの両|肘《ひじ》も、何人かの男に全力でつかまれて、椅子の後ろにぴったりと押しつけられていたらしく、左右とも上膊《じようはく》の内側に強く圧迫された痕が残っている。それは単に圧迫の鬱血点というだけでなく、その間の必死の抵抗を物語るかのように、皮膚の一部がさけて、血がにじみ出ている。怖しいほどの力で押えつけられた腕を、更に命がけで全身の力を振り絞って、とき放とうとしたのだが、女の力ではどうすることもできず、辛うじて左右に少し動かすことができるだけだったようだ。それが強すぎて皮膚を破いてしまったのだろう。
これが新宿あたりのラブホテルでの出来事だったら、表にはパトカーが何台も並び、出入口には非常線が張られて、出入りの旅客は一々みな訊問を受けるところだが、しかしそんな気配もない。
さすがに帝国ホテルだ。十二階のエレベーター口に、私服の中村刑事が一人、ごく何気なく立って、エレベーターに乗ろうとしている客を装いながら、周囲をそれとなく警戒しているだけで、どこにも事件を感じさせるものはない。
今朝早く、例のごとく岩崎警視正が登庁して自分の席に坐り、八時半の始業ベルを聞こうとした直前に、緊急の電話が入った。いつも帝国ホテルを自分たち捜一の中の強力犯係の一係、二係の捜査会議、打ち上げの軽い祝宴などに利用しているが、そのとき部屋の手配や酒の用意などをしてくれる親しい久米マネージャーからだった。
声だけですぐ相手が判り、警視正はきいた。
「どうした。誰かやられたか」
以前、もう五年以上も前に、このホテルで一人の老人が殺される事件があった。アメリカの実業家年鑑のトップページに入るほどの大富豪だったが、いつの旅行もお供はつけず、単身、軽装でやってくる。
このときは、エレベーターにたまたま乗り合わせた客の証言で、犯人があっさり割れて、二週間もしないうちに逮捕され、事件は比較的簡単に解決してしまった。犯人が通常の人間の、つまり普通の服装をしていなかったので、エレベーターの乗客に深く印象づけられたからだ。典型的なゲイボーイ姿だったのである。耳にはピアスをつけ、首のネックレスもきらびやかに光り、背広にズボンの男姿だが、ワイシャツはフリルが一杯ついた、ぺらぺらしたものだから誰でもその手の男と分かってしまう。
しかもホテル側のそれまでの調べでも、そのアメリカの実業家の老人は、やってくるたびにどこからか美貌のゲイボーイを部屋に呼びこむ常連だったということが分かったので、エレベーターに同乗したアメリカ人夫婦の協力で目撃証言から似顔絵が作り出され、それを大急ぎで、その世界に詳しい『バラ族』という雑誌の翌月号に無理に割りこませて載せてもらったところ、発売当日には、もう密告電話が警察に殺到して、博多のスナックで名をかくしてバーテンをやっていた犯人が、その日に御用になってしまった。
簡単に解決したからよかったが、それでも日本で最高のホテルとしての輝かしいイメージが、一時的に大きくダウンした事件だった。
事件はいつどこで起こるか分からない。日本のようにマスコミが極度に発達して、時には政府以上の力を持ち、総理でさえ辞職に追いこめる力を持った国では、たとえ帝国ホテルでも、あった事件を全く無かったことにしてすませるわけにはいかない。
しかし、宮崎事件のように、地元所轄が正式に捜査に入る前に、マスコミの方に情報が先に流れて、まだ証拠保全のすんでもいない部屋に、各社のカメラマンがドヤドヤと乗りこみ、周りを写しまくり、ついでに目ぼしい物をくすねていって『本誌独占特ダネ』などと発表されては、警察の面目|丸潰《まるつぶ》れだ。その後でも本庁と八王子署だけの間に取り交わされた秘密の事項が、どこかの線で洩れ、大々的に一部新聞に発表され、事件を追い詰めてきた第一の功績者詰橋捜査一課長が一時、自戒のため丸坊主となったぐらいだ。だからマネージャーの取った処置もしかたがない。
「はい、殺人です。それも自殺ではありません」
と緊張した声で答えた電話の声は、やや震えぎみだ。いつも聞き馴れている久米支配人の声であることははっきり分かる。
岩崎が訊《たず》ね返した。
「それでもう一一〇番に通報したのかね」
「いえ、まず警視正殿にお訊きした上でと思って、お出でになるのを待っていたのです。
八時ごろに早めにベッドメイクに入るメイドが、お部屋の扉が不用意に半ばあけられたままなので、どうも変だとすぐに入ってみたところ、いつもはお目ざめで、そろそろお風呂に入っている方が、椅子に仰向けに倒れるようにして坐っている。首がガクンと垂れていて明らかに死んでいる。
すぐに私の所に知らせに来て、私がまず真先にお電話したわけで……。一一〇番に電話してもよろしいのですが、いきなり何台ものパトカーが正面に乗りつけて、サイレンを鳴らしながら警戒灯をぐるぐる回されると、静かに寝ているお客さんをみな起こしてしまい、警察よりも先に何百人ものカメラマンが、このときとばかり一斉に押しかけてくる怖れがありますので」
「あんたの気持ちは判った。いくら帝国ホテルでも事件のことをまるっきり伏せるわけにはいかないだろうが、私が一一〇番の担当に話してパトカーや一般捜査員の派遣は押えるようにしておく。事件は私の係が見つけ出したものとする。すぐに私服の者が十人ほど行く。その形式ならうちだけで処理できる。被害者は女性だったね」
「はい、大変な美人です」
「とも角後は現場で話そう。女性刑事も私服で行かせるから、行ったらすぐ、普通の団体の客でも案内しているようなふりで、ごく目だたないようにその部屋へ入れてくれ。ホテルでは他の従業員にもこのことを知らせるな。マスコミへ電話する奴が出るといかん」
そう答えてから乃木の方を見た。朝来て制服に替え、ベルが鳴り終わったらすぐお茶を入れる用意をしたり、昨日からの、電話での外部からの報告をすべてまとめて整理しようとしている二人の女刑事に
「すぐ、元の私服に戻りなさい。出発は七分後だ。玄関で待っている」
と岩崎は命じた。乃木刑事と峯岸見習刑事の二人は、まるで電気のショックを受けたように椅子からとび上がった。
女だから身支度に時間がかかる。それをぎりぎりに見て七分の時間をくれたのだろう。あわてて今、出てきたばかりの更衣室へ戻る。八時半の朝礼のベルもまだだ。
その間に、いつものメンバー、村松二係長、吉田老人、進藤デカ長、武藤、中村、花輪などの猛者刑事《モサデカ》を指名した。
「てんでんばらばらに、正面玄関に集まりなさい。三人まとまったら、タクシーを止めて勝手に帝国ホテルへ行き、フロントで客のふりで私を待っていろ。十人まとまったら、一緒に現場へ入る。現場はホテルの中だ。ガイシャは女だ。えらい美人だそうだが、さっき国籍をきいて、私は少し考えたことがある。これは思ったよりはずっと難しい事件になりそうだから、君たちの行動は誰にも気づかれてはならないぞ。この大部屋の他の係にもだ」
指名された刑事たちは、何気なくうなずくと、てんでに所用あり気に一人、二人と去って行った。いつのまにか管理官の岩崎警視正も、二係長の村松警視もデスクからいなくなったし、主だった刑事もごっそり抜けていなくなっていたが、いついなくなったのか同じ課の他の係の者は誰一人として気づかなかった。
そうして今、帝国ホテルでは、エレベーターの所で何気なく十二階に出入りする人々を見るともなく見ている中村刑事一人を除いては残りの刑事が全員、ぴたりと扉をしめた部屋に入っており、室内には久米マネージャー以外はボーイもメイドもホテル側の人間はいない。
椅子にのけぞるようにもたれかかり、仰向けになっている女の目は、カーッと開かれている。ラテン系の女だから目が大きい。それが一杯に空を見つめている。
髪は長くくせのない黒髪だし、瞳も黒い。目玉が開かれたままなのは、死ぬときによほど苦しかったことを意味しているのだが、それでも整った顔だちは、生前どれほど美しかったのか想像できるほどだ。
直接の死因は、どの刑事にもすぐ分かった。首にピアノ線が二重に巻きつけてある。後ろから回って少し力を入れれば誰でも簡単に殺せる。
村松警視の指揮で、武藤や花輪のベテラン刑事が女のトランクや所持品の検査をやっている。同時に呼び出された近藤鑑識官がしきりに、現場での指紋採取と、写真撮影をやっている。所轄に一報が行く前に、直接、捜一の一係、二係が事件に乗り出してしまったからには、この事件は所轄に通報されて、そこからマスコミに通達され、みなが駆けつけたときには既にもう解決してしまって、事件の痕跡は、ごみ一つ残っていないという鮮やかな手際で終わらせてしまわなければならない。
ホテルもそれを期待して、特に一一〇番をせずに岩崎に電話してきたのだろうし、岩崎警視正もその自信があるからこそ、上司にだけは話は通したが、敢えて一一〇番の係には何も通知せず、自分の信頼している捜一、一係・二係のメンバーだけでのりこんできたのだ。
女のカーッと見開かれた目を見ながら岩崎は言った。
「可哀そうに額の傷は生きているときにみせしめのためにつけられている。口に靴下を押しこまれ、両手はしっかり押えられている。多分電気ごてをソケットに差しこみ赤く熱するのを待って、額に押しつけたのだろう。それだけの苦しみをあたえられるのだから、女に幾ら力がないといっても死に物狂いの馬鹿力を出して抵抗しようとしたのに違いない。とすれば、一人の男で両手を押えられるわけがない。後ろに回った男は二人以上だ。片腕ずつつかんで力一杯押えたに違いない。破けるほどの皮膚の傷が、そのときの女の力の入れ方の物凄さを物語っている」
白い手袋をはめて女の荷物を丁寧に調べていた武藤刑事が言った。
「スーツケースの衣類の下にはえらい財産が入ってますよ。百ドル札の束がずっしりと敷きつめられてあって何万ドルあるか、見当がつきません」
同じように調べていた花輪が東北弁丸出しで、小さな箱をあけてみなに見せた。
「これ、多分、本物の宝石だべな。ルビーか、サファイアか、エメラルドだかわたすらには分かんねえが、大きさからいったら、みな一つ何万ドルもするもんだべさ」
岩崎はそれを一目ちらっと見てから言った。
「コスタリカは国は貧しいが、エメラルドの産地としては世界一だ。その宝石王とでも関係のあった女ではないのかね。いずれにしてもそんな簡単なところに、それだけの宝石や、ドル札があって、犯人たちが一つも手をつけていないところを見ると、入ってきたのは物盗りではないな」
吉田老刑事も、進藤デカ長もうなずく。
岩崎が言う。
「女が何かした。或いは組織か何かに命じられたことを裏切った。それで処罰のために殺されたのだ。これは誰にも分かる。それが何かを探り出せば、女の所属する国はコスタリカという小さい国だ、この問題は案外早く片付くかもしれない」
それまで婦人用の衣裳戸棚を担当し、下着類や、その他の女の小物を主に捜索していた乃木圭子刑事と、峯岸見習刑事が、下着の積み重ねの中から、最も悩ましい感じのピンクのショーツの束をとり出し、何枚かの間に挟まれた三冊の帳面を探り出した。
三つとも、旅券であった。
それぞれ表紙の色が違い、そこに金色で箔押しされている模様や国名が違った。
「こんなものがありました」
女だから出てきたショーツなどには何の関心も示さない。中からパスポートだけ出して渡す。
岩崎はそこに記されているパスポートの文字を次々と読み、中を調べた。
「こりゃ、えらい大物にぶつかったのかもしれないぞ」
中を調べながら思わずそう呟いたので、みな緊張した。
[#小見出し] パナマ国とは
パナマ国は、本来はコロンビア国の一部であった。象にたとえれば、鼻の部分に当たる突き出した地域であった。
その鼻の根元に、アメリカの力で、パナマ運河が掘られ、パナマ運河を守るため、運河の両側を八キロばかり、アメリカの警備地区とした。それを機会に、パナマ地域は母国コロンビアから独立してしまった。母国の軍がパナマの勝手な独立を怒って攻めよせるのには、運河の両側にいるアメリカ軍を攻めなければならないので、それが不可能だと見たからだ。
人口二百十万人。
パナマ国独自の通貨はなく、パナマ運河通行料として支払われる米ドルを国庫収入として、それをそのまま国内の通貨としている。産業は農業以外はないのであるが、このごろは軍が関与して、専らコカの葉を主剤としたコカインを製造しているといわれている。
2
いつもは、楽しい昼食会や、打ち上げ祝をやる十八階の部屋が、臨時に会議室に借りられた。
死体の方は、近藤鑑識官の指示下に、急病用の担架で裏口から運び出され、大塚にある都の監察院に送られた。普通、ホテルでの死亡でも、ガス事故か、自殺かはっきりしない場合はまず行政解剖の手続きをとるのだが、ピアノ線が二重に首に巻きつけてある上に、額に電気ごてが×字状にあてられているので、まさか自殺や事故死とは万が一にも考えられない。
他殺となると、最初から司法解剖の手続きをしなくてはならない。その場合はたとえ三歳の女児でも九十歳の老婆でも、外陰部や膣口に暴行の痕跡があるかどうかを必ず調べられる。
顎から円形に切り開かれて、喉の中心からT字状にまっすぐ臍の線を越して、子宮の部分まで裂かれて行く女性の解剖に、これまで担当捜査官としてここにいる刑事たちはみな何度立ち会ったか分からない。
しかし、岩崎は今度の場合は、その殺害方法は絞殺と判っているし、暴行の有無は事件とは何の関係もないことも分かっている。
それで自分も、吉田老刑事も、進藤デカ長も、わざわざ大塚の監察院の解剖に立ち会いには行かなかった。
ただ乃木と峯岸の二人に
「女のホトケだ。あんたらが、そばで見守っていてやれば、ホトケも安心してお腹を切られるだろう」
と言って、付添いに出してしまった。乃木は、今はやりの夫婦別姓をとっているが、つい三カ月前、高橋警視と結婚したばかりで、毎日の夜を楽しく燃え合っている最中だから自分の体をあれほど激しく燃やす子宮や膣というものが、メスで切り裂かれるときは、どんなに無残な状態をさらすかということを、今、この新婚ホヤホヤの時点でよく認識させてやろうという考えが警視正にあった。峯岸婦警は見習刑事とはいっても、もう殺人事件の現場には何度も直面し、さまざまな死体にぶつかっている。ただまだ、あの大塚にある監察院での死体解剖に立ち会ったことがない。現場の捜査にかかりきりで、たまたま行く機会がなかっただけだが、これから殺人課の刑事としてやって行くのには、解剖への立ち会いは必須事項だ。馴れるのには少しでも早い方がいい。いい機会である。女のホトケはどちらかというと少ない。それで、多少はびくついている稽古に
「お稽古、丁度いい機会だから行ってきなさい。もし向こうで真っ青になったり、途中でゲロを吐いたり失神したりしたら、二度と捜一の殺人犯係には戻ってこれないと思って、その覚悟で行くんだ。交通課の駐車違反摘発係は、今、人が足りなくて困っているそうだ」
と言って、送り出した。
一緒に行く乃木は先輩ではあるが、かつて彼女の専門だったお茶汲みの秘術を盗んでしまったし、今まで独身で一人でもてていたその人気を、彼女の結婚以来、稽古が独占してただ一人もてる存在になっている。とても協力してくれるとは思えない。心の中ではむしろ冷静な目で注視されそうだ。たとえどんな無残な情景をみせつけられても、顔色も変えず、平然としていてやろう、と固く決心した。もしゲロが胸元までこみ上げてきたら、ぐっと力を入れてお腹の中にのみ下してやるぞ。少しでも弱みを見せたら交通課に回されて地面にチョークで時間書き係だ。
悲壮な覚悟で鑑識課が用意した病人輸送車に寝ている死体の両わきに、乃木と向かい合って坐って、大塚へ向かったのだった。
十八階の、いつもは全員が最高級のフランス料理とレミーマルタンで、賑やかな打ち上げパーティをやるところが、今日は雰囲気もきびしい捜査会議室になった。
女二人が抜けたので、会場は男だけだ。ボーイにポットにコーヒーを持ってこさせ、砂糖とミルクを各自が好きなように入れてのセルフサービスということで、会議中はボーイやメイドには一切入ってこないようにときびしく言い渡した。
現場の写真も近藤鑑識官により詳細に撮られており、指紋その他もすべて採取してある。
そのため、客室は二、三日は使用しないでおくという約束で、外から鍵をかけて空室にしておくことにして封鎖した以外は、別に張り番をたてたり、刑事が出入りしたりすることはなく、同じ十二階の客でも、中で何が起こったかは気がつかないようにした。中村刑事もエレベーターのそばから引き揚げた。ホテル側はそのことを非常に感謝し、その代わり一切の協力を惜しまなかった。
ボーイたちがごく何気ないふりで、手押し車で、部屋から被害者の持ち物をすべて運んできてくれたので、ふだんは料理がのって賑やかなテーブルには、女の数多くのドレス、下着、寝衣類、化粧品類が、ずらっと並べられていた。
もともと武骨なことが専門の捜一だ。女の品物にはそう詳しくはない。ただし、捜査第一課が編集し、東京法令出版社が印刷して出した捜査参考図という分厚い書類には、現在の日本で使用されているあらゆる物品が、詳細な図面と解説付きでのせられている。その中には、八十五ページから五ページもかけて、婦人用の下着についての解説がのっている。パンティからコルセットまで、何種類も書き分けてのせてあるが、みながそれとつき合わせても、まだ一体何という名の下着か見当もつかないものがある。武藤刑事は、一応証拠品の領置証書を作らなくてはならないから、一見パンティ風下着とか、一見スカート風下着とか、そこにある物にあてはめて適当に書いておく。すべて先ほど乃木と峯岸の二人が裏返しして、縫い目の間まで調べてある。中からはもう不審なものは発見されない。
スーツケースの中は吉田老刑事が、また、ドレスやハンドバッグなどの携帯品は村松係長と、進藤デカ長がそれこそ底の底まで調べた。
出てきた札束は百ドル紙幣の一束一万ドルが二百束で二百万ドル、約三億円である。旅行に持ち歩く金額としては多すぎる。それに小箱の宝石類の価格はそれに数倍するだろう。
それらの品物を部下たちに一つ一つ分類させ、詳細な領置証書を作成させていたが、岩崎警視正自身は手もとにある三通のパスポートをさっきから熱心に点検していた。
三通とも写真は少しずつ違っているが、同じ女であることは間違いない。
日本の入国に使われているのがコスタリカ国発行の物で、パメラ・ボーダスの名義。
宿泊人名簿記載の名前と違っていない。年齢も二十三歳とある。
そういえば確かにそう見える。
あとの二つは、パナマ国とコロンビア国の発行のパスポートで、一つは二十八歳、もう一つは、二十二歳となっているが、どちらだって、それを見て別に入国管理官は怪しいとは感じないだろう。
今は大塚にある都の監察院の冷たいステンレスの床に、全裸で仰向けにされて、腹腔を裂かれ、子宮や、それにつながる臓器を切りとられているところで、折角の美貌も均整のとれた肉体も台無しであろうが、派手なドレスに身を包んで、入国管理官の前に立ったときは、どの管理官もしばらくはその美貌に気をとられて、年齢も名前もどうでもいい気になってしまったろう。
名前が少しずつ違っている。職業もファッション・モデルだったり、社長秘書だったり、デザイナーだったり、三通ともそれぞれ少しずつ違っているが、どれも根本的な違いはない。
使用頻度から見ると、コロンビア国のものが一番多い。コロンビアを基点に、ボリビア国のラパスとか、ペルー国のリマ、チリー国のバルパライソなどへ、しばしば往復している。
そこはファッション・モデルやデザイナーなどの職業の者がわざわざ行くような土地ではない。
コスタリカヘ入るときは、コロンビアから一度パナマへ入り、パナマ国籍のパスポートで入っている。
そしてアメリカ本土のマイアミ空港へはかなりの回数で入国しているが、これには必ずコスタリカ国発行のパスポートを使っている。
これは岩崎には理由がよく判っていた。
コロンビアまたはパナマ国籍のパスポートを持つ人間は勿論であるが、ヨーロッパ人や同じアメリカ人、東洋系の日本人でも、一度コロンビアのボゴタ空港、パナマのパナマシティ空港を経由して一、二日でも滞在してからアメリカへ入国する者は、アメリカの空港では全員別室で検査されるのである。婦人の場合は婦人検査官が一人につき三人立ち会いのもとに全裸にし、洋服、下着の一切を裏まで調べられた後で、最後にはたとえどんな身分の女性でも、外交官夫人でも、まだ未婚の処女でも、膣と肛門の両方に遠慮なく指を入れられて探られる。
だから何も知らないでコロンビアのボゴタ市を一日観光した婦人の団体などは、個々に分かれたあちこちの調べ室で大声で泣いたり、悲鳴を上げたり、コロンビアから飛行機が着くたびにマイアミ空港はいつも大騒ぎになるのが例である。
それを承知で、ちゃんとコスタリカ国のパスポートを持ち、サンホセ空港発でアメリカへ入り、日本へやってきたところを見ると、この女は、むしろ麻薬関係の相当なプロであることを感じさせる。
彼女がコロンビアからしばしば出かけるボリビアのラパス、ペルーのリマは、コカインの原料になるコカの葉の一大群生地であり集散地である。
麻薬製造関係、それも今や世界的に有名になったコロンビアのメデジン・カルテルの有力な構成員ではなかったのか……と岩崎警視正は見当をつけた。初めてみなに語りかけた。
「この女の国籍は多分コロンビアだ。三つのパスポートの中で一番コロンビアの物が使われている。念のため言っておくと、コロンビアは評判の悪い国だ。世界の麻薬の大部分の製造、発売元だからだ。額の×点の焼痕は、彼女がその麻薬関係仲間を裏切った処罰だ。なにかを命じられて日本に来て、裏切るかうまく行かなかったのだろう。彼らには失敗は許されないから」
みなシーンとして聞いている。早くも警視正がかなり確実な線で何かをつかんだらしいと分かったからだ。
「先ほど下着を女の刑事に調べさせた。彼女らが熱心に冷静にやったことは認める。男の刑事にやられるのはいやがるだろうからだ。これは女性特有の心理で警察官といえども変わらない」
岩崎の表情は相変わらず冷静そのものだ。
「だが女の捜査には、昔から絶対的な欠陥がある。どんなベテランでもそうだ。だから二人とも大塚の監察院へ送り出してしまって、今はここはわざと男だけにしておいた。それではっきり言える。どの女も話や取り調べが生理、即ちメンゼスのことになるのをひどくいやがり、それを避ける。そこに一見、白墨五十本入りのような紙箱があるだろう。乃木のようなベテランでも、それには手をつけていない。いいから真ん中にぶちまけろ」
言われて花輪刑事が生まれて初めて見るおかしな物を、机の上にぶちまけた。紙か綿で巻いたチョークより少し細めの白い棒が机の上に転がった。
「みなで手分けして全部バラバラにしてみろ」
何か分からぬながら、これが女の秘密かと妙な気持ちでみなが固く巻かれた棒をほどき始めた。
乃木が見たら捜査は捜査として女としての立場から激怒するだろうし、峯岸はものも言えないで真っ赤になってうつむいていたろう。刑事たちは無表情に熱心に細い巻棒をほどいていく。
進藤デカ長が一枚の薄い紙を見つけ出した。
「警視正、ありました。何か書いた紙が」
[#小見出し] コロンビア国とは
コロンビアは、ほんの少し前までは、エル・ドラド(黄金郷)とも呼ばれていた。アンデス山脈の北の端で、気候も温暖、平均気温十八度の住みよい国で、サファイア、エメラルド、ルビー等の宝石も出て、世界でも理想的な極楽の国とされていた。
今、この国は、世界でも評判の悪い国である。一つには、歴代の政府が農業政策をないがしろにして、革命と政争に明け暮れしているうちに、地味はやせ細り、産物が荒廃してしまったことがあるが、もっと手軽に大金が入ってくる別な産業を土地の人が覚えて一斉にそれに走ったからである。
それはこの国及び背後の広大な南米大陸全体に、無限に茂っている雑木の一種のコカの木の葉を集めて粉末にして加工しさえすれば、巨額の富が流入してくる産業だ。そのため、悪のカルテルが国中を支配してしまった。
3
一見、それは黒板に使う白墨《チヨーク》と殆ど同じ形をしていた。少し目の悪い人なら、そうだと思って最初から気にしないかもしれない。
帝国ホテルのこの十八階の小集会室は、いつもは、捜査一課の岩崎管理官が指揮を担当する一係と二係が、無事に事件を解決したときに、打ち上げの小宴を開く所だが、今日は扉をぴったり閉め、二つの係のベテラン刑事《デカ》が難しい顔で丸テーブルに向かっている。テーブルの上に並べられているのは、全部、女性用の艶《なま》めかしい所持品ばかりである。
岩崎は、他の刑事にも手伝わせて、そこにあるチョークそっくりの形の白い紙で巻かれた棒をほどかせだした。紙か綿か、一見その素材ははっきりしないが、白い柔らかい物質が強い圧力で、きりきりと細く巻きつけられている。丁度具合よく、女刑事である乃木と峯岸の二人のケイコは、大塚監察院の司法解剖の立ち会いに出してしまった。今ごろは美しき同性の下腹部から、内性器が取り出され、切り刻まれて行くのを、それぞれ刑事としての職分から、冷静な表情を無理にでも保って眺めているのだろう。
今、この部屋には女はいない。だから刑事たちはどんなことでも平気でいえる。
「あの期間、ずっとこんなものを中へつっこんでおくのかね。女って大変だなあ。一本でどのくらいの時間もつんだろうな」
「いくら細くても処女が入れるのは無理だろう」
生まれて初めて触れる物だ。珍しさも手伝って、忽ち五十本入りの箱の中の白い棒が全部、ほどかれてバラバラにされてしまった。
手紙らしい、何か書きつけた紙が三枚出てきた。あとは棒を作っている何かの素材だ。中に入っていた紙は、一見セロハンに似た透明な薄い品質の物だったが、ずっと丈夫そうだ。岩崎はしばらく見てからいった。
「以前南米に詳しい人から、この紙のことを聞いたことがある。中南米のコロンビアから、アンデスのペルー、ボリビアにかけて広く住み、後にやってきたインカやインディオよりもっと古い、最古の文化を持つ原住民といわれるチプチヤ・インディオが、野獣の皮とゼラチンを使って、独自に作り上げた紙であるといわれている。現在の文明国で機械で大量生産されるいかなる種類の紙より薄く、しかも丈夫だといわれている。二十世紀になってこの紙の存在が、その地方にやって来たアメリカ人によって知らされて以来、様々な科学者が、この紙を分解して成分をつきとめ同じ物を作ろうとしたが、どうしてもできなかったということを聞いたことがある」
そういわれて、直径一ミリほどの細い紙の棒を拡げるようにすると、横幅が十センチほどの紙になった。よほど素材そのものが薄くなければ、これはできないことだ。
三枚の紙が平らに並べられた。
透き通った薄い紙に、針のように先の細いペンで書いたらしい文章がびっしり書きこんである。筆記体なので、初めは少し読みにくそうであったが、やがてすぐに
「単純なスペイン語で書かれてある。別に難しいものではない」
といって、一枚目、二枚目、三枚目と岩崎はあっさり読んでいった。それから改めてみなにいった。
「これからの捜査を、お互いにやり易くするため、この三つの紙に書いてあったことを簡単に説明する。三枚とも筆跡が違うだろう。別の人間が書いた書類だ」
そういわれて見せられれば、みな文字の太さや、流れ方が変わっているような気がするのだが、元の文章が全然解らないのだから、違っているといわれればそうかなと思うだけで、本当のことは、刑事《デカ》さんたちには誰も分からなかった。
「一つは、全チプチヤ・インディオの現在の頭領に当たる人間から、メデジン市のボスのカルロスにあてた手紙だ。カルロスについては、後で説明する。二番目はカルロスから、アメリカの大統領に直接あてた手紙だ。もう一つは、カルロスがこの女にあてた命令書だ。その三番目の手紙から説明する方が早い。女はカルロスから金と宝石を預かり、ワシントンへ直接行って、有力な上院議員に会い、必要によっては、その有力な上院議員と寝て、ベッドで話をつけてでも、大統領にカルロスからの手紙を渡すことを命ぜられている。カルロスという男のことを説明しよう」
みなを周りに集めると、岩崎は手帳を開いて、簡単な地図を書いた。
「ここにコロンビアという国がある。パナマ運河の南側だ。首都はこのボゴタ市だ。政府や、裁判所、警察、軍隊が、ちゃんとある。当然、大統領もいる。しかし今、それはなにも機能していない。大統領自身でさえ危なくて外出できない。検事総長も、裁判官も、少しやりすぎると殺される。最高裁判所さえ爆破された。この国にはもう一つの怖しい政府があるからだ」
ボゴタ市の北西に丸を一つ書いた。
「二百五十キロ離れているところに、メデジン市という市がある。アンデス山系の高原の中にある都市で、チプチヤ・インディオが、二万年も前からそこに住みつき、小さな王国を築いてきた、本来なら平和な楽園であった」
いきなり、そのコロンビアの国の後に、岩崎警視正は風船玉をふくらませるように大きく丸く区画を作る。
「背後が、南米の広大な大陸だ。ペルー、ブラジル、チリー、ボリビアなど、二十カ国に近い国々がある。その大半は山脈や、密林でおおわれた、原始そのものの未開の広大な地帯だが、そこに、昔から雑木林の|なら《ヽヽ》や|くぬぎ《ヽヽヽ》と同じに、コカという木が生えていた。特別に栽培したのではない野生の木で、手をのばせば、いくらでも取れるぐらい多い。これが今、世界中を大混乱にまきこんでいるコカインの原料だ。初めは土地のインディオたちが、お腹がすくと、空腹感をまぎらわすためにこの葉を噛んでいた。それを見た、進出してきた西欧人が葉を粉末にして、精製処理をして麻薬を作った」
「ああ、それがコカインなんですね……」
進藤が感心したようにいった。
「……コカで作られるからコカインですか。このごろは六本木あたりへも入っているというので、ついちょっと前、高橋署長が必死にネタ元を追ってると、いってましたよ」
高橋署長とは、乃木圭子刑事の旦那だ。去年までは、同じ課の一係長だった。
「うん、想像以上の量が日本へ流れこんでいるようだな。近いうちに、芸能界やスポーツ界で、大勢、この件に関して逮捕者や、殺人の被害者が出てきて、我々も忙しくなるだろう。今日の事件は、その前触れのようなものだ。特にそのコカインの中でクラックという簡単に大量にできるものが安価にアメリカに持ちこまれて、忽ちにアメリカ中に広がり、東海岸の漁民や、沿岸都市の住民の七十パーセントが汚染されてしまった。その対策がブッシュ政権の目下最大の課題になっている。そのコカインは特にその普及品であるクラックは、殆ど、このボゴタ市の北西のメデジン市で作られている。郊外に工場があり、工場に勤める市民のためには、立派な住宅や、病院や、厚生施設がある。そのすべての頂点に立つ大ボスが、パブロ・カルロスという男だ。これまでもアメリカの指示で、コロンビア政府は、何度かこのメデジン市の工場を潰そうとした。軍隊を送りこみ、警察力を動員して攻めこんだ。しかしメデジン市の持つ武力の方が強く、近づく前に逆に反撃を受けて追い払われてしまう。しかもそういう行動の命令を出した警察署長、裁判官などは、同時にボゴタまでやってきた、カルロスの部下の殺し屋の手で、当人のみならず家族までみな惨殺されている。現在ではコロンビア政府は只、メデジン市のやることを静観しているだけで、積極的に麻薬工場退治をやろうとする者はいない。どの裁判官も怖しがって命令書にサインしない」
吉田老刑事が少し深刻な声で
「日本もあまりこの国のことは笑えませんね。つい先日、ある団体の家屋立ち退き命令を出した東京地裁の判事が怖しがって署名しなかったといいますからね」
まるで吐き捨てるようにいった。これまで、絶対|犯人《ホシ》と信じて送りこんだ凶悪犯罪者を、司法試験に受かったばかりの若僧判事の妙な正義感や屁理屈《へりくつ》で、無罪放免しなくてはならなかった口惜しさを古手の刑事はみな胸の中に三つ四つはくすぶるようにして持っている。現に犯行が行われているのが明瞭でありながら、取り調べ方が違法だとか、証拠の収集が適切でなかったとか、手続きが間違っていたとかのくだらない理由で、狂犬を野に放すような思いをさせられた。
「日本もよほどしっかりせんと、今の裁判官では、人権尊重のタテマエが先行して、犯罪者天国になってしまうよ。まず捜査の段階で、我々がヘボ弁護士につけ入られないようによほどしっかりと頑張らなければね。メデジン市では、市民はこの産業で受ける純益によってみな平和に暮らしている。市民全員が、これもみなカルロス様のおかげと、生き神様のように崇拝している。それによってどんな結果が起こってくるかは土地の人は知らない。まだ女が殺された理由がはっきりしないところがあるが、吉田さんはすぐ二人ばかり連れて、成田へ行ってください。行く前に電話をかけておいて、今、コロンビア政府発行の旅券を持って、アメリカへ行く男の三人から五人の組があったら、理由をつけて空港に留めておくようにしておいてください。その中の一人はエスコパールといって、カルロスの義理の弟、つまり妻か妾《めかけ》の弟ということも、この紙に書いてある。カルロスが渡した命令書だ。多分女を殺したのはこの男だ」
「承知しました。すぐ行って調べてもらいます」
吉田老刑事は若い刑事二人を連れてすぐホテルを出た。
残った刑事たちに、岩崎はいった。
「五人ばかり、ここに残って、正確な領置証書を作り、一つ、一つ、ビニール袋に入れて、分類しておきなさい。現金や宝石類が多いから、数や額面を慎重に当たるよう。このもみほぐした奴は、女性用生理用品何本と、本数のみ、記入しておけばよい。もみほぐして出てきた紙のことは、領置品の中に入れておかんでもいい。では五人はそれをゆっくり丁寧にやったら、すべてをビニール袋に収納し、トランクのようなものには、領置品の証書をはりつけて、全部捜一に運んでおきなさい。ところであと三人残っているな」
といいながら、進藤と、武藤と、花輪の三刑事を指名した。
「三人は私と一緒に行動する。押収領置は中村君が指揮をとってやってくれ。相手は凶暴なメデジン・カルテルから来た殺し屋だが、日本では、ピストルを振り回してドンパチするつもりはないようだ。ただ、どうして、女の額に烙印をつけるような残酷な殺し方をしたのかが、まだよく分からない。だが、成田で身柄を押えられれば、それも分かるだろう」
拳銃の名人の中村刑事には、領置品の押収の一切の業務を任せ、岩崎警視正は、いつも連れて行く、進藤デカ長と、武藤、花輪の二人の刑事と外へ出た。ホテル専用のハイヤーが玄関に回っている。幸いこの殺人事件はまだ外に洩れていない。玄関にも、ロビーにも、新聞記者や、カメラマンの姿は見えない。
所轄の功名心にはやる素人刑事を通さず、ホテルの客室係主任の久米マネージャーが直接、ふだんから顔見知りの岩崎管理官に連絡したから、すべてマスコミに洩れずに処理できた。
うっかりどこかで洩れて、玄関にテレビ局の車が並び、ドタ靴のカメラマンが殺到したら、ホテル側もえらく迷惑するだろうが、捜査もまたひどくやりにくくなる。
その点、ホテル側も感謝して、必要なことは即座に手配してくれる。ハイヤーに乗りこむ三人の背広の男に、久米マネージャー自らが送りに出てきてうやうやしく、礼をして見送る。
出入りする客の中の誰一人として、これが殺人事件の取り調べにやってきた刑事だと気がついたものはいなかったろう。
車に乗るとすぐ、岩崎は、ハイヤーの運転手にいった。
「外務省へやってくれ。玄関の横に車寄せがある。置きっ放しだと怒られるが、運転手と三人は車中で待っていてくれ。それなら一時駐車はできるはずだ。私は中へ入って、二十分くらいで出てくる。今度の相手はアメリカ大使館員だが、まさか日本の警察官が直接乗りこむわけにはいかない。外務省に同級生がいる。前にも頼んだことがあって、要領が分かっている。そいつを呼んでくる」
帝国ホテルから日比谷の交叉点を右折して再び警視庁前を通りすぎると、すぐに外務省であった。
「じゃ、ここでちょっと待っていてくれ」
そういって車寄せにハイヤーを待たせ、岩崎は一人で降りた。近寄ってきた守衛には、中の誰かの名前と用件をいったらしい。そのまま駐車がOKになった。
二十分といったが、実際は十分ほどで、一人の同じ年ごろの職員と出てきた。
二人は前の席に並んで坐った。
「北米局次長の久保田さんだ。私と東大の同級生だ。アメリカ大使館に知人が多い。一緒に行ってくれることになった。運転手さん、虎ノ門の先のアメリカ大使館までやってくれ」
車は再び動き出した。
[#小見出し] メデジン市とは
かつて、理想郷コロンビアの中でも、最も住み易いといわれた都市が、このメデジン市である。首都ボゴタの北西二百五十キロ。アンデス山の高原にある美しい街で、コーヒーの生産と、近くの金鉱や、サファイア、エメラルドの鉱山で働く労働者で、活気に溢れた街だった。
花の街という別名もあって、わざわざ観光コースがつくられて、訪れてくる外国人も多かったが、今は、全く、只の一人も、観光客はやって来ない。この五年前から。
花は咲いている。それも真っ赤なバラが市の役人の胸の上に咲く。少しでも麻薬産業に取締りの手をのべようとすれば、どんな地位の役人でも、即日、胸にピストルを射ちこまれ、左胸に赤い血の花が咲くのである。
市役所も、銀行も、警察も、何度かの爆発の後、今、カルロスの支配するメデジン麻薬産業カルテルの思いのままに運営されている。
4
大使館の応接室は、さすがに一国を代表するだけあって、豪華なものだ。深々とした本革の椅子に、ゆったりと坐っているのは、岩崎警視正と、外務省から一緒についてきてくれた久保田次長だけである。進藤以下三人の刑事たちは、椅子の横に直立不動で立っていて、『坐りなさい』と岩崎に命じられても『この方が落ち着きます』と立ったままだ。
ここは日本の中にあっても外国の主権の支配する世界だ。警察官が職務のため入れる場所でない。しかも相手はアメリカだ。三人とも緊張しきっている。
大柄なアメリカ人が入ってきて、まず久保田次長と握手して何か話をする。気さくな感じだ。続いて岩崎と話をする。二人とも達者なアメリカ語だから、すぐうちとけ合う。
横で直立不動の刑事たちを、別の小さなテーブルに坐らせ、そちらの方には、すらりとしたきれいなアメリカ娘の秘書がコーヒーを運んでくれてやっと落ち着いた。彼らを無視して幹部たちの表面は和やかだが緊張した話し合いが始まった。
「ウイルソン参事官だ。大使の代理で来られた。まず用件を知りたがっておられる」
久保田次長がそう紹介してくれた。岩崎は慎重に言葉を選んで語り出した。
「貴大使館の館員に対して、日本の司法権の全く及ばないことはよく承知しておりますし、私らも取り調べのためにここへ来たわけでもありません。ただ貴国が今、一番の問題として、その処理に手を焼いている、コロンビア国からのコカイン流入問題にまつわる殺人について、協力していただきたいことができたので、お願いに上がったのです」
「OK。よく分かりました。何らかの意味で、当大使館員が関係していると判ったら、積極的にご協力をする用意があります。目下、とめどなくアメリカへ流入しているコカインが、今、製品がだぶついて、次の市場を豊かな日本へ求めて、沢山の仕事師が入ってきているという情報は、もう我々のところに届いており、大使も非常に心配していますから」
岩崎はそれに対して丁重に答えた。
「そのことについては、日本にも担当係官がおり、いずれ日米で協力体制をつくって、大きな撲滅作戦をしなくてはならなくなるでしょう。しかし本日、私が伺ったのは麻薬の売買とは直接関係ありません。たしかに貴国へコカインを運ぶグループの一人とは分かっておりますが、若い女性がこの日本の中で殺されたのです。私は、殺人専門の捜査官でありまして、麻薬捜査には直接タッチしておりません。一人の女が殺された。そのことで、少し事情を聞きたいことがありまして、非礼をかえりみず、お伺いしたのです」
「OK。意味分かりました。何でも率直におっしゃってください」
政治的にも主権の及ばない外国へ、単独でのりこんだようなものだ。岩崎警視正は一語、一語を選ぶようにして慎重にしゃべる。
「こちらの館員のスタッフに、最近コスタリカ国から転任してきた方はおりませんか。正確にいうと、三週間前、二十一日か二十二日ぐらい前に、このトウキョウへやって来た方です。決してその人が犯行にかかわりあいがあるとかいうのではなく、もしいたらその人からちょっと事情をお聞きしたいのです。多分ポールとかいうお名前と思いますが……」
と薄い三枚の紙の一つを見ながらいった。
「ポール。一等書記官だ。私も今、その名を言おうとした。去年までコスタリカ国大使館にいたが、中米の事情や言葉に詳しいので、大使館側でも日本へのコカイン進出作戦を防ぐため、わざわざ呼びよせた。今日も勤務しているはずだ。直接会って聞きたいことがあったら聞きなさい。今、ここへ呼ぶ」
部屋のすみのデスクに坐って待機している女性秘書に、ウイルソン参事官が何か命じる。すぐ返事して、背の高いアメリカ娘の秘書は部屋を出て行ったが、二、三分もしないうちに、同じように背の高い若い男を連れてきた。三十歳前後か。ラテン系の娘が|グリンゴ《ヽヽヽヽ》と愛称して、みな憧れの対象にする典型的なアメリカ男らしい明るい大らかな感じの、どこか良家の育ちを感じさせる男であった。アメリカでも外交官になるには、それ相当の家庭に育ち、トップクラスの大学を出ていなければならない。いかにもそれを感じさせる。参事官が
「ポール一等書記官です」
と紹介した。岩崎と握手してから、彼は正面へ坐ると
「私にどんなご用で……」
ときいた。まず岩崎は
「私的なことで申し訳ありませんが」
と断ってから訊いた。
「パメラ・ボーダスという女の方をご存知ないでしょうか」
一瞬、誰の目にもはっきり分かるような動揺が走った。ここで『ノー』といえば、大使館の中では、それで通る。訊問する権利は、日本の警察にはないのだし、それ以前に日本の警察官がこの応接室へ入ってること自体が異例なことで、もしそれが公《おおやけ》になれば国際問題にも発展しかねない。
しかしその書記官は、育ちのいい、あまり腹芸などできない率直な人間であったようだ。それに日本人がここまでわざわざ訪ねてくるのには、相当な根拠になる事実も把《つか》んだ上のことと、咄嗟《とつさ》に判断したらしい。
「よく知っております。コスタリカの首都サン・ホセで知り合いになりました。ワシントンへ行くというので一緒の飛行機に乗りました。私がワシントンで三泊し、国務省(日本の外務省に当たる)との連絡をすませて東京行きの飛行機に乗ると、彼女も一緒に乗るというのです。それで東京まで一緒に来ました」
「ということは、コスタリカにいたときからかなり親しい間柄であった。ワシントンの三日間は、ずっと一緒のホテルにお泊まりであったと、解釈してよろしゅうございましょうか」
さすがに、少し不快そうな顔をみせた。
「それは男女のことですから……。しかしなぜそんなことをお聞きになるのですか」
「今一つ……だけ、お聞きしたいのです。当然お答えになりたくなかったら、お答えくださらなくてもかまいません。ほんのちょっとしたことです」
「何でしょうか」
やや挑戦的に聞き返す。
「このぐらいの……」
と岩崎警視正は手で二十センチ四方の大きさを示していった。
「……小箱を、外交|行李《こうり》の中に入れてくれと頼まれませんでしたか」
外交行李というのは、外交官専用のトランクで原則としては各国の税関がお互いに中をあけないで通すしきたりがあった。その代わり外交官自身も、麻薬その他禁制品をぜったい運ばないという不文律を守ることを要請されていた。
もっと強い挑戦的な表情が現れた。
「それに対しては、どんな返事をあなたは期待するのですか」
「私は別にどんな返事でもいいのです。これが今朝発見された、パメラさんの姿を写した写真です。たしかに当人かどうか、間違いないかを確認していただきたいのですが」
袋の中から、近藤鑑識官が撮影し、すぐ焼き増しして届けてきた、キャビネ判の写真を三枚ばかり出した。
見たとたん、ポール書記官に驚愕の表情が走り
「うーっ!」
とまるで動物のような呻き声を上げ、顔を両手でおおって立ち上がると、部屋のすみにあるタイルの水飲み場へ俯《うつむ》き、激しく吐いた。参事官もその突然の変わりように驚いて、そこにおかれている写真に手をのばしてみて『おう|、神 よ!《ジーザス・クライスト》』と呻くようにいって、あわてて胸に十字架を切った。
女が仰向けに椅子にのけぞっている。その美しい顔の額にはっきり、鉄のコテで烙《や》きつけたらしい×の字がついている。口の中にはナイロンの靴下が押しこまれており、それがまだ生きている間に見せしめのために行われた処刑であることを意味している。
「ゆっくり痛めつけてから、多分掌で鼻と口をふさぎ、殺したと思います。殺した犯人は今ごろはもう別な名目で、ナリタで保護されているでしょう。日本は島国ですから、他に出国の方法はありません。犯人逮捕については、相手の名も分かっておりますし、私たちは何の心配もしておりません。勿論、貴大使館の人が直接、この殺人に関係しているなどということを申しているわけでもありません。ただ、なぜこんな美しい女性が、死ぬ前にこんなひどい目にあわされなければならなかったのか、その理由を知りたいと思いまして」
しばらく吐いていたポール一等書記官は、やっと治まったのか、顔を洗い直して、元の席へ坐った。
「申し訳ありませんでした」
参事官と岩崎の両方に、同時にいった。
「……私の知っている限りのことは正直に申し上げます。パメラとはコスタリカの首都サン・ホセで知り合いました。まあ、酒場で会ったか、ディスコで会ったかの軽い出会いでした。深く彼女のことは知りませんが、つき合っているうちにだんだん愛し合うようになりました。そして私の転勤が決まると、どうしてもついてくるというので、同行しました。何が入っているか知りませんでしたが、小箱も預かりました。多分、女の装身具の宝石か何かで、税関に見られるのがいやなので、私に預けたと思いました」
それからしばらく考えていたが
「それと、ワシントンでの楽しい三日間、東京でも、毎日のように勤務後は六本木や赤坂を遊び歩いた楽しいナイトライフ以外、私は彼女については実は何も知りません。まさか、こんな目にあっているなんて今まで思いもしませんでした」
その言葉に嘘はなさそうであった。
参事官が急にいった。
「ポール君、もういい。君はこのことを一刻も早く忘れることだ。まだ外交官として、長い輝かしい未来が待っている。すべてはほんの少し楽しい夢を見たと思って忘れてしまいなさい。以後二度とこのことを思い出さないようにしなさい」
きびしくいって一等書記官を追い払ってしまった。それからウイルソン参事官は俄《にわか》に態度を改めて岩崎にきいた。
「ところであんたはこの女についてどこまで知っているのですか」
三枚の薄い紙を見ながら岩崎は答えた。
「彼女はコロンビアのメデジン市の本来の領主であるチプチヤ・インディオの正統な子孫で、町で潜在的な主権を持っている女王だということです。チプチヤ族が代々受けつぐ莫大なエメラルドの鉱山の正当な持ち主であることもこの書類で証明されています。カルロスにはレーデルという息子がいた。やがては、カルロスは、このレーデルを自分の後継者にしたてて、このパメラと結婚させ、名実ともに、メデジン市を中心とするコロンビア王国の支配者にしようとした。ところがどういうわけか、その息子が日本で、アメリカのCIAに逮捕されてしまった。それでカルロス自ら、アメリカ大統領あての釈放嘆願書を書き、今後の譲歩の条件なども書いて女に持たせて、まずワシントンへやらせた。そこまでは分かっています。それ以後については、この三枚の薄い紙に書かれたことだけでは分からなかったのです」
「しかしよくそこまで判りましたな。見事なもんです」
ウイルソン参事官はそう岩崎を褒めると
「カルロスの実子レーデルを日本で捕まえたのは私です。アメリカがきびしくやりすぎたし、製品も作りすぎた。もう世界の金持ち国の日本に売りこむより仕方ない。それで実子をよこして、販路を開拓し、アジアにおける麻薬のボスにしようとした。その実績があればカルテルの次のボスになれると修業のつもりで出したのをCIAが捕まえた。カルロスはレーデルの身柄がどこにあるのか分からないので、最初ワシントンへ、次に東京へ探りに来た。チプチヤ・インディオからも釈放料としてありったけの宝石を出させ、自分も日本で用意できるだけのドルを準備して、買取にかかった。私や大使に接触を求めてきた。日本の大物議員を介してね。さすがにあのポール坊やには何も頼まなかった。頼んでも何の役にもたたないと思ったのだろうし、つき合っているうちに、いかにもグリンゴ《ヽヽヽヽ》らしいポール坊やの方に女が本気で惚れて、肝心なカルロスの息子の釈放のことなどどうでもよくなったのか、あまり仕事に熱心でなくなったようだ。この二、三日、何もいってこなくなった。その仲介に入った日本の大物の政治家の名前は必要ですかね」
岩崎はかぶりを振った。
「いえ、必要はありません。私らはなぜ彼女が殺されたのか、それだけ判ればいいので、それ以上、この事件を大きくするつもりはありません」
「ではその理由だけいおう。息子のレーデルは、一昨日、福生《ふつさ》基地からアメリカ軍の飛行機で兵士に囲まれてワシントンの連邦裁判所へ送られた。求刑は、最低でも百三十五年ぐらいの有期刑になるだろう。昨日、カルロスの所にもワシントンから通達が行った。その報復として大事な使命を忘れて恋に溺れた女に、カルテルが下した、見せしめだよ」
そしてうなずく岩崎に参事官はしみじみいった。
「私がCIAにいたときは、現在の大統領のブッシュさんの長官時代で、その下で鍛えられたがね。今のCIAに、君のような凄腕がいれば随分助かると思うよ。日本人にしておくのは惜しいなあ。何しろ、あのポール坊やみたいな、陽気で甘ったれたグリンゴばかりだからね」
「おそれ入ります。そろそろナリタから電話が入るころですので……」
と立ち上がりかけた岩崎を若い秘書が、手で制し、自分の所へ回った電話を手渡しながら
「ミスター・イワサキ、ナリタからです。エスコパールという人を保護しているそうです」
と、にっこりしながらいい、青い大きな片目をぱちりとつぶってウインクした。
[#改ページ]
[#見出し] ザ・ゴクドウ
[#小見出し] 銃創について(一)
短銃、軍用銃、猟銃等によって生じた創傷をいい、銃弾の種類及び発射距離、方向などで傷の形が違う。これを逆にいえば、傷の形によって、銃器、弾薬の種類、射手との距離、方向を特定することができる。
射入口は、射手との距離を測定するのに最も的確な証拠になる。まず近距離だと、爆発ガス、火焔、火薬粉等による作用が全部現れるが、距離が遠くなるにつれ、初めに爆発ガスによる作用が消失し、ついで火焔による作用、最後に火薬による作用が消失する。遠距離からの被弾には弾丸のみの作用が現れる。
形状は多くは円型であるが、斜めから飛来したときは、楕円または破裂状になる。
射出口は、円型、破裂状と様々であるが、多くの場合、射入口より大きく、辺縁に小裂創が見られる。
1
殺人か、事故か、そのへんはまだはっきりしないままに、ともかく総監じきじきに捜一課長に
「すぐ現場へ行ってくれないか」
と、やや異常と思われる緊張の指示があった。続いて総監に部屋に呼びつけられ、机の横で状況を説明していたらしい刑事部長が、捜一課長に電話で状況を伝えてきた。
「ともかく女が死んだ。今、所轄から一報が入った。被害者《ガイシヤ》は二十三歳の娘だ。具合悪いことにアメリカ人だ。父親はミネソタ州選出の下院議員らしい。よほどしっかりした捜査をしないと、こじれると国際問題になりかねない。場所は中野坂上。女のアパートだ。同じアメリカからやってきた大学の同級生の女性と共同で借りていて、二人とも半分ボランティアのような資格で、AETというのをやっている。AETについては、君んところの岩崎君にきいてくれ。今、説明している暇はない。ともかく岩崎管理官の指揮する係があいていたら、すぐ急行させてくれ。当人もルームメイトもアメリカ娘では、これはもう岩崎管理官に現場に行ってもらうより他ないだろう」
「はい、すぐ直行させます」
豪快、剛腹で聞こえた詰橋捜一課長も、さすがに緊張した。最初から被害者がアメリカ娘だというのでは、岩崎警視正を急行させる以外はない。
すぐに机の後ろの人員配置の名簿札を見た。
岩崎管理官の指揮するのは、捜一の中でも一係と二係で、幸いに両方の係とも、今日は事件を持っていない。在庁勤務であった。すぐに呼びよせ、自分の机の前に立った近眼鏡をかけて、一見銀行員のように見える警視正にあわただしく命令した。
「ともかく行ってくれ。詳しいことは途中、車から電話をかけて、所轄の捜査課にきいてくれ。殺されたのはアメリカ娘、AETだそうだ。AETが何かおれは知らんが」
岩崎はすぐ一係、二係の猛者《モサ》諸公が並んでいる席に戻ると、いつも連れて行く進藤デカ長に、乃木、峯岸の二人の女刑事と、武藤、花輪などのごっつい連中を指名した。二係長の村松警視と、一係のチーフ格の吉田刑事は、残りの人員を待機させ、いつでも出発できる態勢にしておくように命じられて残留に回った。こうした急な仕事が入ると、不思議なもので、同時にまた別な方面から突発事件が起こって、一係や二係の定期の、順繰りの出動の番がくることが多い。その場合は、自分がいなくても、残りの連中で十分な捜査ができるよう、指揮者にベテランを残したのである。既にバスが、中庭に待っていて、鑑識係も乗りこんだし、ピストルの上手な中村刑事も、一係の中から一人だけ、この捜査に加えられていた。
バスはすぐ新宿方面に向かって走り出す。岩崎は車中電話をとって、中野署につないだ。
「こちら捜査一課・岩崎管理官だ。只今からすぐ現場に急行する。そちらが調べてこれまでに分かったことをすべて説明してくれ」
捜一の岩崎管理官の名は、既に各所轄に伝説的に伝わっている。所轄の捜査課長の緊張した声の返事があった。
「はい。現場の状況を申し上げます。三階建てでエレベーターのない、コンクリート造りのマンションの二階で、部屋は2LDKタイプが、各階四室ずつ、いずれも道路に面しています。道路をへだてた正面は二階建ての木造モルタルのアパートです。被害者は 二十三歳のアメリカ娘。ハリトス・メーソングです。道路に面した、ガラスがはまっているキッチンで、一人で朝食の仕度をしていたところ、いきなり外からピストルの弾丸がとびこんできて、その一発がガラスを割って下から彼女の顎に命中し、下顎から顔の中心を脳髄まで貫いて、即死しました。その後は何発も撃ちこまれたらしく、ガラスは粉々に砕けています」
「下から狙われたのだな」
「正式な鑑識の結果が出なければ、自分としては確信を持ってお答えはできませんが、常識的にはそのように推理できます」
二人の問答は、付属の拡声装置で、車内の全員にも伝わる。同時にみな状況を把握する。
「女の父親は、ミネソタ州選出の下院議員で、場合によっては、アメリカ政府の調査団が来る可能性もありますので、こちらも慎重かつ迅速、正確な調査を心がけております」
「そんなことは当然だ。心がけについては質問してはいない。君はルームメイトについて調べたことをのべてくれればいい」
相変わらず岩崎の口調は冷酷そのものだ。
車は四谷の混雑した通りをサイレンを鳴らしっ放しで走り抜けて行く。
「ルームメイトは、彼女の故郷、ミネソタの農業大学の大学生、同じく二十三歳。クリス・ダーウィングです。なんでも金持ちの娘らしいです、ミネソタでも有数の。現在現場でしきりに泣きながら事情を説明していますが、何しろ私のところには、アメリカ人と対等に英語のしゃべれるのがおりませんので、字や絵を書かせたり、手まね足まねで、やっと何とか話をきいている状況です」
「アメリカ人と対等にペラペラやれるなんてのは外務省にだって幾らもいやせんよ。別に捜一は、そんなことまで所轄に期待していない」
この皮肉な口調は岩崎の最大の欠点だが、どうにも改まらない。それでも部下としてそんな言い方を聞いている一係、二係の刑事《デカ》さんたちは、馴れてしまって何も感じないが、所轄の捜査課長には直接の、上下の指揮関係はないし、身分上は殆ど同じだ。いくら本庁からの応援だといっても、こんな風な冷たい言葉づかいをしていいのだろうかと、他の刑事たちは横で聞いていてハラハラした。しかし岩崎は気にもかけない。
これは場合によっては日米両国家の間にひびをいらすようになるかもしれない重要事件だから、総監閣下の直接命令も出たのだ。警察内部の細かい人間関係にまで気をつかっている余裕はない。ともかく一刻も早く事情を正確にのみこんで、岩崎警視正自ら行って解決に当たらなければ、誰もどうしようもない。
「二人の滞在の目的は」
「AETだそうです。そういいますが、観光でも、労働でもないビザで、私らも今いち、そのよく、AETの正体がのみこめないのですが」
と向こうの捜査課長も少し心細い返事をした。
「ああ、それは、私が知っている。そちらも分かっていた方がこれからの捜査をしやすいだろう。日本人の英語はどういうわけか外国人に通じない」
「そうです。うちも大学出がかなり入ってきていますが、文章はいくらか読めても外国人とちゃんと話のできるのは一人もいない。それで捜一のお出でを願ったのですが」
いかにも現場で困惑している感じが伝わってくる。警視正は受話器に向かって、相変わらずの、ぶっきら棒な調子でいった。
「本庁にだって、英語のしゃべれる奴はいくらもおらんよ。うちの女の刑事さんに、英検の二級というのがいるがね」
乃木が、自分のことをいわれて、ごくさりげない顔だが、内心は喜んでいると
「……まあ、こんなものは、幼稚園児が、大人とたどたどしくしゃべっているようなもので、実際には何の役にもたっていない」
とあっさりいわれてしゅんとしてしまった。もう二度と、みんなの前で英語なんかしゃべるもんか。そんなこと全員の前でいわれるぐらいなら、口を固く閉じて一言もしゃべらない方がよっぽどましだと、内心で憤怒して固く決心した。そんな乃木の感情など岩崎には分からないし、気にもかけない。
「まあ、そういう現状を改善するため、東京都では中学、高校の中《うち》に、外人と接して、実際の英語を話させようと考え、アメリカの若い学生に休暇中に交代で日本へ来てもらい、ボランティアで、学校へ行ってもらう制度を作った。滞在費ぐらいみて、ビザにも特別の優遇措置をする。それがAETだ。そのハリトス嬢も、ルームメイトのクリスというお嬢さんもこのAETだ。ただの観光客ではない。日本の、中・高生の英語力向上のために、奉仕活動に来てもらった要員だ。相手が議員さんの娘ということでなくても、十分な対応をしないと、ちょっとうるさい問題になりますよ。それで今度の事件も所轄だけに任せず、総監閣下がひどくお気にかけて、私に直接に出動の指示があった理由ものみこめる」
丁度、その本庁のバスは、靖国通りが青梅街道へ抜ける新宿駅の大ガードにさしかかった。混雑がひどくて、さすがの警察バスも、その中を他の車を排除してまで突き進むことができない。天井の赤い回転灯をぐるぐる回し、サイレンを目一杯鳴らして気がついた車に少しよけてもらうのがやっとだ。
岩崎が、総監閣下の直命でやってきたことを電話でのべている最中に、無電に緊急割り込みの通報が入った。すぐにそちらに切り換えた。
「刑事部長だ。警視正の現在位置を知らせよ」
「新宿大ガードです。青梅街道へ抜けるところです」
「ああ分かった。ところで、これは只今新たに総監閣下から出された命令だ。捜一の諸君は現場へ向かわず、中央公園の前でバスを駐車させ、そこでしばらく待機しなさい」
「それは分かりましたが……、なぜ直行してはいかんのですか」
普通、警察官は、上司からの指示があったときは、まず無条件で従う。その理由などはきかないものである。岩崎警視正も刑事組織の一部に属する官僚だ。まず指示に従う。しかしそこから、他のイエスマン官僚とは違うことを示した。こんな質問は他の部門だったら一喝されるところだが、岩崎の場合はそれはごく自然に認められている。彼の戦力は、捜一にとってはなくてはならない貴重なもので、人事異動のたびに他の部門へ移って行く、昇進通過の一般エリート・キャリアとは違う。
「ああそれだが、あの後、少し違うことが分かった。それですぐ、そちらの専門の四課の猛者《モサ》を出した。君も承知の通り、刑事さんたちは典型的な職人さんばかりだ。自分の捜査範囲に他の係が割り込んでくると、ひどくギクシャクする」
一種の縄張り根性だが、これはどうにもならない。今でも二県にわたる捜査がうまく行かないのはそのせいだ。
「捜四というと、これは暴力団がらみの事件ですね。アメリカ娘が、日本のヤーさん筋の情婦だったとか」
「いや、それとは違うようだ。ハリトス嬢の部屋は二階だが、そこに並んで他に三つの部屋がある。すぐ右側に、三の丸会の幹部が隠れて住んでいた。三の丸会というのは、元来札幌にシマを持つ暴力団だった」
全く知らないわけではないが、課が違うから全国、すみずみまで分布している、暴力団の配置図をそらんじているほどは詳しくはない。不思議そうにきき返した。
「それがなぜアメリカ娘を」
「いやアメリカ娘は直接には関係ない。大阪に本拠をおく、広域暴力団の川中組が、全国の制覇を目論んで、まず全国から幾つかの重要基地を選定し、一斉に進攻を計画した。九州の福岡、山陰、山陽では広島、関東では埼玉県の熊谷、北海道では札幌だ。北海道では幾つかの組の中で三の丸会が集中的に狙いをつけられ、これまで維持していたシマは荒される、幹部の生命《タマ》を取られる、若い衆は片っぱしから背中から撃たれて傷つけられたりする、市内のあちこちにある三の丸会の事務所には、ダンプカーやショベルカーを無人のままとびこませる、荒され放題に荒された」
「そうですか。そのことならきいたことはありますが、それが今度のことと……」
「それまで市内地での闘争は札幌市民に迷惑がかかると、川中組の攻撃に対しても、ずっと我慢していた三の丸会の大幹部が、とうとう我慢できずに起ち上がった。進出してきた川中組の射手《ヒツトマン》や、地元で川中組の方に寝返りをうちそうな奴を、何人か殺し、始末してしまった。つまり天下の川中組に、自分の地盤を守るため、止むを得ず正面から刃向かった。やられたらやり返す。これが連中の鉄則だ。その前の経緯は問わない。今度はまるでそれを待ってましたとばかり、大阪から本格的な攻撃勢力が乗りこんでくる。こうなると平和なススキノに日常的に弾丸がとびかい、短機関銃《サブ・マシンガン》を首から下げた黒背広のお兄ちゃんが走り回るようになり、北海道一の盛り場が、いっぺんにさびれてしまう。それでは困るというので、三の丸会ではついに膝を屈して、会長自らがシマを捨て、行方をくらました。だが、これでもやくざの抗争は収まらない。生命《タマ》をとられたら、取り返さなくてはならない。それがしきたりだ。そして三の丸会の会長が、東京の愛人宅に隠れていたのを突き止めた。その場所が、今日、殺されたアメリカ女の部屋の隣だ」
車は混雑のガードを抜け出して、新宿中央公園のある、浄水場跡地の副都心に入っていった。目の前に中央公園が見える。
「つまり、これはやくざ同士の抗争のとばっちりで、たまたま台所に立ったアメリカ娘のハリトスを、三の丸会会長の情婦と誤認して、撃ってしまったらしい。だから犯人を押えたり、現場を捜査したりするのは、暴力団専門の捜四にやらせたい。それで十五分ばかり待機して捜四の後から現場へ行ってくれ」
ついちょっと前、コカイン関係の犯罪で保安三課に協力を求められたときは、捜一は殺人専門ですからと、激しく抗議して直接の介入を拒否した岩崎だが、今度は違った。
「いや、それはできません。たとえ、暴力団間の抗争であろうと、誤認の射殺であろうと、これは殺人ですから、私もすぐ行きます。勿論、暴力団同士の争いの方は、捜四に調べを任せますが、アメリカ娘の殺人については、たとえ誤認でも流れ弾丸でも、私の方が捜査します」
と、はっきりいった。
捜四は、捜一と同じ本庁の六階にある。廊下では、行き違うときに軽く会釈するぐらいの仲だが、どちらも鬼のようなごっつい猛者《モサ》さんばかりだから、共同捜査となると、かなり気難しいことになる。
[#小見出し] 銃創について(二)
射創管とは、弾丸が通りすぎて行った傷の穴をいう。
発射距離、火薬|装填《そうてん》量の多少、通過組織(肉、皮、骨)などによって違う。
もし銃口を皮膚に接着して発射したとしたら、射入口縁辺に、爆発ガスによる広範囲にわたる皮下組織の損傷、火焔による燃焼、火薬粉粒による黒染めが認められる。
軟部組織では、管状の欠損を生ずるが、骨を貫通したときは、まず骨に衝突してこれを破砕し、その破片と共に組織を進行するので、そこからは創管が太くなる。
直接骨に当たった射入口は小さく、辺縁も正円だが、射出口は大きく、多くの場合は、骨欠損片も一緒に伴って、円錐形、ロウト状に拡がる。頭に進入した場合は、軟部組織の脳に進入後、弾丸の活力が消失するまで内面に沿って滑走することがある。これを回旋銃創という。
2
結局、刑事部長の指示を拒否して、岩崎警視正以下、捜一の二係の猛者《モサ》刑事連中は、殺人の現場に直行した。
現場は成子坂を一旦下り、交叉点を越して、再び坂の昇り口にかかった所にある。細い路地を左折して、五十メートルほど入ったところだった。このあたりは今はもう都心に近い高級住宅地になってしまっている。
アパートでも、造りのしっかりしたモダンなデザインの新築が多く、その間に、三、四階の小マンションが並んでいる。どれも、都会の若い新婚夫婦の、それも親もとがしっかりした、今の東京では新しい上流に属する人々の住居らしい、しゃれた感じだった。
路地の入口に非常線が張られ、制服警官が張り番に立っていた。本庁からのバスを認めると、路地の入口に群がり、中を覗《のぞ》きこもうとしているヤジ馬を追い払って道をあけてくれた。
アパートとマンションに挟まれた、小さな突き当たりの路地に入った。
捜一の刑事さんたちは一斉にバスから飛び降りた。そしてマンションを見上げて
「こりゃひどい」
と思わず唸った。二階の四区画の中の、真ん中の二区画の部屋が、ひどくやられている。それぞれ、ベランダに仕切りを入れて、二部屋並びの造り方になっており、道路に面した方の四つの部屋のガラスは、両方とも殆ど砕けて、あたりに細片をまき散らしていた。
所轄の捜査課長がやってきて、敬礼しながらきいた。
「岩崎管理官殿ですか」
「捜一の岩崎だ。アメリカ娘の殺されたのはどちらの方かね」
相変わらずきびしい声だ。
「は、右の方の区画です。横の階段を登ると手前にある方です」
「狙ったのは道をへだてた前のアパートからだね」
「はい、前のアパートの一階に半月前に、学生と称する若者が入居して、静かに暮らしていたので、大家さんがこれはいい人を入れたと喜んでいたら、二、三日前から友達らしい男が三、四人やってきて、管理人に断りもせずに勝手に泊りこんだらしいのです。ジャズマンと称していたが、その男たちはいずれも目付きが悪く、楽器のケースとしてはちょっとおかしい重そうなケースを運び入れたので、何か起こらなければいいがと心配していたところ、今朝になって一斉に向かいのマンションに弾丸を撃ちこんだといいます。既にちゃんと準備をしていたらしく、アパートの前には、車を止めておき、エンジンも入れて温めておき、約三分ばかりの間に五つの銃から一斉に何十発も発射し、その銃も、撃ち残した弾丸もそのまま、アパートの部屋へ置きっ放しで、さっと車で逃げてしまいました。付近の住民が、あわてて一一〇番したときは、車はどこへ行ったか分からず、部屋の中にはまだ銃身の熱い銃や薬莢《やつきよう》がほうり出されたままになっていたそうです」
そうしゃべっているところへ、五分ばかり出発がおくれた捜四の連中が、パトカーと黒塗りの隠しパトカーを連ねて入ってきた。恐らく出おくれたことを知った彼らは、天井の赤灯をくるくる回し、警笛を思いきり鳴らしながら、猛烈な勢いで追い駆けてきたらしい。
捜一も荒いが、捜四も荒い。暴力団取締りが専門だが、ときとすると、どちらが暴力団の中幹部か分からないような凄味のあるのが多い。
捜四の三係長がやってくる。岩崎とは、庁内食堂で顔見知りだ。何度か話したり、庁内の会議の後、料亭で酒盃を酌み交わしたりしたこともある。途中の車内電話で、岩崎管理官が率いる捜一も既に現場に出ていることは知っているらしい。友成警視という。
「ああ友成さん」
とまず岩崎は声をかけた。
「詳しくは、中野署の課長さんにきいてもらいますが、そこの二区画の左の方に、三の丸会の会長が愛人と住んでいたらしい。川中組系の殺し屋たちは、こちらのアパートにひそみ、今朝、五人で一斉にやったようだ。私の方は、ここへ来た目的が違うので、刑事さんたちをまだマンションに入れていません。会長と愛人の死体《ホトケ》は左の区画、奥の方にあるらしいので、捜四の方が先にそちらへ入ってください。うちは中を覗くこともなければ、多分捜査のお手伝いをすることもないでしょう。手前の方の部屋の殺人がうちの仕事です」
比較的冷たい口調でいうが、捜四の友成警視は、ふだんから岩崎の言動を見知っているから、さして気にもしない。すぐに自分の部下の何名かを指名して、一組を左の奥の区画、もう一組を向かいのアパートの部屋の捜索に入らせた。アパートに向かう組には「指紋は徹底的に集めろ。全部、前科《マエ》がある奴ばかりだろうから、一発で割り出せ。身代わりに、高校出たてのチンピラや、未成年をさし出して、員数合わせしようとしても、今度こそ、そんなことはさせない」
といい、マンションの方へ駆けこもうとする猛者連中には
「手前のアメリカ娘のいる方には入るな。明らかに誤認射撃のとばっちりだし、それに相手はアメリカ人だ。ルームメイトのアメリカ娘が中にいる。そんなのに興奮して話しかけられても、答えられるようなのは誰もいないだろう。そのため捜一から岩崎警視正殿がわざわざ来ておられるのだ。手前には絶対入るな」
と、きびしく指示した。友成警視は事件の推移を途中の車の中で、何度か本庁と詳しく打ち合わせして、ちゃんと分かっているのだ。
捜四がマンションに飛びこんだ後で、それまで外の路でジリジリと待機していた捜一の猛者連中に岩崎はいった。
「我々には、我々の捜査がある。奥の三の丸会の会長の部屋には入るな。我々は手前の部屋の女の死体だけを調べればいい」
捜一の猛者さんたちが、ゲートをあけられた競馬の馬のように一斉にマンションの階段を登ろうとする。その背中へ岩崎は
「ああ中村君だけ、ちょっと待って、ここでベランダを見てくれ」
と命じた。中村刑事は同僚の婦警原田刑事と結婚している。夫婦で同じ課にいるのは好ましくない。原田刑事は亡くなった夏目正子そっくりの美貌で、春秋の婦警さん募集や、交通事故防止運動のポスターなどに絶対必要なので本庁では退職させずに、新大久保署に転勤させた。夫の中村刑事は警視庁切ってのピストルの名人で、オリンピックのたびに候補選手に取り沙汰されるが、捜一の捜査任務の方が大切だと頑なに断りつづけてきている。射撃術だけでなく、ピストル全体の知識の権威となろうとして、弾道力学や火薬の生成配分などあらゆることを一人でコツコツと勉強している。ただし、そのことを彼はまだ他人に話したことはない。
もともと無口な人間だった。不審そうな顔でいる中村刑事に岩崎はきいた。
「ここから、右の区画の部屋のガラスと、左の区画の部屋のガラスを見て、何か感ずることはないかね。もっとも殆ど残っとらんがね」
中村は初めよく分からないらしく見ていたが、そのうち顔色を変えた。
「あっ、管理官殿はお分かりだったのですか」
「初めここに来たとき、両方同じだったら、私は進藤以下みなを連れて、このまま帰ろうと思った。極道同士の単なる勢力争いにまきこまれた可哀想な誤認射撃の犠牲だ。それに相手はアメリカの有力者の娘だ。首をつっこんで、好んで火中の栗を拾う必要はない。だがガラスの砕け方でこれはそうではないとすぐ気がついた」
「そうですか。いや驚きました」
そう感心している中村刑事を連れて、横の階段からマンションへ入って行く。
中村刑事がその横に並びながらきいた。
「今、ご指摘があって改めて、ガラスの破片や割れ口を見てみましたが、私の考えついたことを申しのべていいですか」
「ああ、それを聞きたかったのだ。少なくともピストルに関しては、君の方がプロだからな」
「左の、三の丸会の会長の部屋に撃ちこまれたのは、まず確実に相手をとらえるための散弾銃の弾丸です。一メートル直径の雨傘のような円型パターンで広がるので、二発で確実に目標にダメージをあたえます。次に身動きできなくなり、倒れかかる何人かの人間に、ライフルと38口径以上のピストルで、狙いながら何発も連射しています。多分左の方には女が一人か二人、それに男が一人か二人、合わせて三人以上が、体中にさまざまな弾丸を受けて、ボロ雑巾のような形で血まみれになって倒れているはずです」
二階に上がると手前の区画では、既に進藤が指揮して、2DKの部屋のすみずみまで丹念に、何か証拠となるべきものはないかと捜索していた。部屋のすみには、一人の若い女性が坐ったまま、青ざめた顔で、何か泣きながら訴えている。ルームメイトのアメリカ女だろう。この場合、岩崎からどんな評価を受けようと、英検二級の乃木が矢面に立って、一応その相手をしなくてはならない。
乃木はしきりに汗を拭き拭き、答えているが、お互いに殆ど通じない。ミネソタ州は、農業を主体にする州で、保守的な農民層が多いせいか、その言葉は外部の人、特に外国人には聞きとり難いといわれている。
日本人と違って、アメリカ女は、あたりはばからず大声で号泣する。
本当に乃木は、どう答えていいか分からずに『バット』『シュアー』『ウェル』などと、何とか接続詞で相槌だけ打ちながら、半ベソの、泣きそうな顔をしている。実のところ乃木にはその娘が何を言っているのか、何を訴えたいのか、てんで見当がつかないのだ。何のための英検二級なのかと、その受験のために夜も眠らずに苦労した日のことが馬鹿らしくなってきた。
「もういい。乃木」
と後ろから岩崎が声をかけ、その女に向かって何か、ほんの二言三言話しかけた。とたんに女は全く信じられないという顔をして、岩崎を見ていたが、突然、立ち上がって『わあーっ』と声をあげて岩崎にしがみついた。
スカートが短い。胸は薄い春用のセーターの下で、まるで夏みかんのように高く盛り上がっていて、それをぐいぐい押しつける。盛大にこぼれる涙が、警視正のワイシャツを濡らして行く。これでもう少し彼女の背が高かったら、唇と唇がくっついてしまいそうだ。このままでも、まゆずみや口紅がとけて、ワイシャツについたら、あの貞淑で温和な、みずえ夫人だって、いらない心配をするのではないか。乃木は、とんで行って、拳闘のレフェリーがクリンチした選手をひき離すように、二人の体を両はしに突きとばしたい思いでじりじりしている。乃木のすぐ後ろに立っていて、同じようにこの愁嘆場を見ていた峯岸稽古婦警が
「あたし心配だわ。あんなにくっついて、もしマスカラがとけてワイシャツを汚してしまったら、みずえ先輩、ひどいショック受けるわ」
といった。すると乃木は、自分と同じことを考えるこの後輩になぜかむかっ腹がたち、後ろを振り向き
「そんなこと、あんたが考えなくていいの」
と一喝した。
岩崎はすがりつくクリスの体を静かに離し、そっと支えるようにして、奥のキッチンに行った。そこには、犠牲者のハリトス嬢の遺体が、撃たれて倒れた形のまま、おいてあった。
多分、ベッドから起き抜けのままキッチンに行ったのだろう。キッチンの横にユニットのバスと、トイレはついているが、洗面台は、こういう日本式の小さなマンションの常で、食器や鍋を洗う流しと共用するようになっている。片手に歯刷子を持っており、使いかけの蓋のあいたままの練歯磨のチューブが、流しのステンレスのはしに転がっている。
俯《うつぶ》せにプラ・タイルの床に倒れているハリトス嬢の体は、薄い透き通るネグリジェ一枚でおおわれているだけで、背中のなだらかなくびれや、豊かに盛り上がった二つの尻の丘は裸と同然に、くっきりと覗けて見えた。
岩崎警視正は、白手袋をはめ、首の下に手を入れて、上体を半ば持ち上げるようにして女の顔を仰向けにした。下顎に明らかに射入口があり、かなりの傷ができている。血が首から豊かな胸を濡らし、床を赤黒く染めている。まだ固まるほどでなく、のりのように濃いゼリー状になって白いそばかすの浮いた肌にこびりついていた。死後四時間ぐらいか。
顔は破壊されていない。しかし、鼻や目から、おびただしい血が外に吹き出している。
外《ほか》にこわれた部分はないが、下から斜めに突き抜けた弾丸は、出口を失って、頭蓋の中をやたらにかき回したらしい。もし解剖して脳の組織を調べてみたら、脳味噌が目茶苦茶に破壊されていることは、十分に予測される。ひどい苦痛だったろう。世界一平和な都市、東京の静かな朝に、銃弾が自分に向かってとびこんでくるなんて、この娘は一瞬前まで想像もしなかったであろう。それだけに哀れだ。
いきなり岩崎は乃木と峯岸にきいた。
「今の若い娘さんは、寝るとき、ショーツもはかないで、裸でネグリジェつけるのかね」
乃木が少し考えていった。
「日本では多分、そんなことはないと思います。マリリン・モンローのシャネルの五番だけよというのは有名ですが、アメリカでもそれはやはりショックな発言だったのです。大体はショーツだけはつけて寝ます。もし考えられるとしたら……」
といきなり黙りこんだ。岩崎がきく。
「どうしたんだね、乃木」
「前夜かそのときまで男がそばにいて、女がセックスに応じて、幸せだった場合だけ、忘れたまま眠るということは考えられます」
[#小見出し] 銃創について(三)
自他殺は、銃創の部位によって大体判明される。
自殺者は、ピストルでは、前頭部、心臓部、こめかみ(右ききは右、左ききは左)を、小銃では頭部、口腔内を選ぶ。銃口が固定され易いからである。
特に自殺の場合は、着衣の上から心臓などを狙うことは稀で、シャツを脱いで肌に直接のことが多い。自殺者の手に銃器が死体硬直によって堅く握られている場合も多い。
他殺の場合は、数発を、しかも着衣の上から撃たれるし、場所も自分では不可能の部位が多い。
自分で自分の体を傷つけて、他人によって撃たれたと詐称する場合には、陳述による発射距離や方向が、射入口、射出口、射創管に一致するかどうかをよく調べれば、すぐ判明できる。
3
クリス・ダーウィングと呼ばれる、被害者ハリトス嬢のルームメイトは、最初のうち、大声で号泣し、英検二級の英語で乃木が何とか話しかけても、何やら全くわけの分からないことをわめき散らすばかりで、乃木は相手にもされなかった。欧米人、その中でも特に白人には、どんなに外に現さなくても、心の内側には、日本人を含めて、皮膚に色がついている、鼻が低い有色人種を一段低い存在と無意識の中で見下す習慣がある。
ところが、乗り込んできた刑事たちを指揮する若い上級警官から、二、三言、何かいわれると、あまりの不思議さにびっくりして、とたんに何もいわずに黙りこんでしまった。
クリスにとっては、この日本で、故郷ミネソタの農民の訛《なま》りそのままのアメリカ語をさり気なく話す人間に会うなど、考えてもいなかったことに違いない。
たとえば日本人がタイかチベットへ行って、そこで地元の警察官に『せば何とする』とか、『ほんま、あかんなあ』とか、いきなり出身地の訛りで話しかけられたようなものだ。
倒れているハリトス嬢の体は、頭を仰向けにされると、そのまま全身も仰向けにされた。
いままでみなの目に見えなかった、双つの形良い乳房や、なだらかにひきしまった下腹に、年の割にはかなり濃く密生している頭部と同じ亜麻色の茂みが現われた。乃木に「つまり普通、セックスが終わった後ででもなければ、ショーツも脱いで寝るということは考えられないのだね」
と岩崎は、もう一度念を押した。結婚してもうじき半年、すっかり女っぽくなった乃木圭子は、黙って大きくうなずいた。
「胸の方の下着は」
「胸の方は、そんなことに関係なく、最初から外して寝る人が多いのです。窮屈ですから」
大事な捜査だから、乃木もためらわずに真剣に答える。岩崎は今度は中村に聞く。
「顎から入ったのは22の弾丸だね」
ピストルに詳しい中村は、傷口を一目見ただけでそれを確認していた。
「はい、38口径だと、このぐらいの近さなら頭蓋の半分をぶっとばして、壁にも脳漿《のうしよう》が散ります。22の火薬の量はその四分の一もありません。頭蓋の内側で止まって、外へ突き抜けられないので、柔らかい脳味噌の中をぐるぐる回って、脳を目茶苦茶にひっかき回したと考えられます。解剖すれば、弾丸は大して原形も変えずに出てくるでしょうが、被害者にとっては、38で吹っ飛ばされるよりは、ずっと苦しく辛かったと思います」
「うん」
相変わらず無表情で答えながら、顎を持ち上げると
「ちょっとお稽古、そのキッチンの洗面所に立ってごらん」
と、立たせ、前や後ろにぐるぐる回らせながら、その顎の下をじっと見る。お稽古も少し恥ずかしかったが、捜査のためだと思って我慢して、白い顎をやや上向きにしてみなに見えるようにしながら、ゆっくり回ってみせた。
「ちょっとそこで止まれ」
思いがけないところで、鋭い声がかかった。
それはお稽古が窓の方に向いているときでなく、背中を流しにもたせかけ、やや顎を上に向け、丁度、視線をベッドの方に向けたときの位置だ。
まず、岩崎は中村刑事に聞いた。
「このへんかね」
岩崎が膝の上に持ち上げている、ハリトス嬢の傷口と、実際にステンレスの流し台によりかかっているお稽古の顎のあたりを、中村刑事は慎重に見比べながら答えた。
「もし、ピストルを撃った男が、そのときベッドに居たと仮定すると、ガイ者は、その姿勢でいるのが、一番この傷痕と合っています。22だと外からだと、ガラスを砕くことは楽ですが、それが弾道に影響を与えますので、狙った場所に正確に命中させるのはちょっと無理でしょう。それに皮膚に火焔反応があるということは、室外からガラス越しに入ってきた弾丸ではないという証拠にもなります」
「そうか」
女の頭を床に置くと
「乃木とお稽古は、この死体を、大塚の監察院に運んでくれ。このところ、ずっと解剖台とのおつき合いは気の毒だが、乃木も結婚したし、お稽古もやがていつかは結婚しなければならない。女性の死体は、三歳から九十歳まで、暴行の有無にかかわらず、必ず性器とその内部を開いて見ることになっている。これは法令で決まっている。二人とも女性の体において性及び性器がどれほど大きなウエイトを占めているか、解剖台の横で一時間も立って見ているうちによく分かるはずだ。そうすれば、二人がもしかして政治家になって官房長官になったとき、下が開いたスカートのまま、褌《ふんどし》もしないで、土俵で優勝杯を渡したいなんて、セクハラ愛好家も真っ青の過激な言葉は出ないはずだ」
張り切っていたのが、二人ともシューンとしてしまった。鑑識係が写真を撮り、血液や指紋を調べた後、持ってきたビニールの袋に、ネグリジェ一枚の死体を無造作に詰めた。二人が出かかったとき急に
「ああ、乃木はやはりここに残っていてくれ。この前解剖に立ち会ったからいいだろう。ここにも女の刑事さんが、一人どうしても要る」
と、いった。それで今回は乃木は、子宮や卵巣が下腹からずるずる取り出されるのを見ないですんだ。お稽古は、若い新米の男の刑事一人を連れて、鑑識課が用意した車に乗りこんだ。既に隣の部屋からは、捜四(暴力団係)の扱いの、男の死体三、その情婦らしい女の死体二が、寝袋に入れられ、狭いバン型寝台車に、重ねるようにして積みこまれてある。車は刑事と死体を載せ、警戒灯を回しながら出て行った。
クリスは、部屋の隅に虚脱したような感じで坐っている。白人娘にとっては、アイシャドウ、マスカラは、欠かすことのできない化粧品だ。殆ど素顔だと思っても、よく見ると、瞼《まぶた》のヘリを必ず細く濃いめの化粧品で彩っていることが多い。それがさっき盛大に泣いた涙でとけて、瞼の下が青黒く汚れている。
岩崎が、そのアメリカ女の方を向いて乃木の英検二級ではまるっきり何をいってるのか分からない言葉で指示した。女ははっと身じまいを正し、膝の上にあったハンドバッグから、コンパクトを取り出し、自分の顔を映して、あわてて汚れを拭きとり始めた。
その間に、また岩崎は、中村にきいた。
「しかし、ガラスの砕け方をみれば、明らかに外から撃ちこまれている」
「破片が中に飛び散ってます。しかし、隣の部屋とは違います、割れ方が。隣の部屋は粉みじんに砕け散っている感じで、向かいのアパートから少なくとも合計五挺以上のライフルや、38口径ピストル、散弾銃などで、全員必殺を狙って撃ちこまれたことが分かります。こちらの方は、万に一つの見誤りもないと断言できますが、外から22口径で、窓ガラスをただ割るだけの目的で、何発も何発も撃ちこんだものです」
その中村の返事をきくと、すぐに警視正は、また乃木の方に向き直った。
「乃木刑事、君の持っている婦人用22口径コルトは何発出るのかね」
「柄に十二発入ります」
「十二発で、この道路に面した窓を、こんな風に割れるかね」
「多分、上手にばらまけば、十二発で割れると思います。22口径の特長は、発射のときに殆ど音がしません。プスッというだけです」
「隣に五挺の銃が撃ちこまれていたら、それによって、全く音が消されてしまうわけだな」
今度は中村が答えた。
「銃声どころか、外の通りをトラックが一台走っていたら、近づいてから遠くへ去るまでの間に十二発撃ちこめます。そして、こんな風にきれいに割ることができます」
「そうか。私が直接聞いてみよう」
そういってから、岩崎警視正は、クリスという娘に話しかけた。
「貴女が死体を発見したときの状況を、お話しください」
「私、六本木で踊っていたのです。日本はとてもいい国です。楽しく遊べる所が多いです。今、サライやアブシダという店ではやっている、ランバダというダンスが大好きです」
「ああ、突き出した男の腿《もも》に、足を開くようにしてまたがり、ショーツの部分を押しつけて、くねくねする、セクシーな踊りだね」
つい先日、岩崎はそれを見る機会があったので、そうずばりといった。もしこんな問答をしているのが分かったら、乃木は目を吊り上げて怒るかもしれない。乃木もまた、捜査の途中で、それを踊っている現場に行き合わせて、そのときはあまりに淫らなセックスの情感を、人前で楽しんでいる六本木娘たちの姿に激しい怒りが湧き上がってきて、丁度、ショルダーにピストルが入っていたので、その店の中で、踊り狂っている全員を射殺しようと思ったぐらいだ。こんな踊りが平気ではやるなんて、神国日本は六本木から腐って亡びて行くと、何日も何日も一人で慨嘆していた。クリスはそれを知らない。
「ランバダがあまりに面白いので、明け方五時まで踊ってしまいました」
「短いスカートは、その踊りのためだったのだね。フレヤーがあったり、長かったりすると、男の股にまたがったとき、パンツを見せられないし、股が開かなかったりするからな」
二人の間ではかなり際どい話が交わされているが、一行の刑事さんの中には、それを理解できる者は誰もいないからよかった。
「ええ」
立ち上がって、くるりと回ってみせた。改めてみると、肢の長いせいもあって、スカート丈は腿の半分にもいかない。にこっと笑ってみせた。クリスという娘も、多くのアメリカ娘と同様に、自分の容貌や肢体には、充分な自信を持っているようだ。だが岩崎は、いつものように冷酷な無表情のままでいった。
「君は明け方六時にここに帰ってきた。そしたら窓ガラスがこわれている。びっくりして飛びこんだ。既にルームメイトは殺されていたというわけだ」
「イエス、イエス、シュアー(確かに)」
そう答えたのだけは乃木にも分かった。岩崎は無表情のまま皮肉っぽくいう。
「まあ、アリバイというのは、自分だけで主張しても何の価値もないので、タクシーのマークでも教えてくれないかね」
「そんなの分からないわ」
「それではこちらで、あのあたりを専門に流す会社にきいてみるよ。明け方五時か六時ではよその地区からの車は、そう流していないはずだからね。ついでに、二、三調べさせてもらいますよ。いま、AETの方は忙しいですか」
すると、クリスは首を振って答えた。
「それが全然よ。私たちは日本の若い人たちに、本物の英語を教えようと、自分たちの大学は一年休学してボランティアでやってきたのよ。それなのに、日本の中学校も高等学校も、上級学校へ行くための授業予定がびっちり詰まっていて、少しもあき時間がないの。頼まれて学校へ行き、出勤簿にサインするだけで、ボランティアだからお手当がないのはいいんだけど、教室へ入って、ゆっくり会話の指導をしたことはないの。日本の教育界というのは、かたつむりか宿かりみたいね」
「ほう」
「自分の固い殻にとじこもって、外からの忠告を絶対に受け入れようとしないの。自分たちがまったく欧米人に通じない言葉をしゃべっているのを、生徒の前で明らかにされるのが怖いらしいのね」
「まあ、そうだろうね。百人の先生がいても、本当にしゃべれるのは、一人みつかればいい方だ」
と、いかにも同調するようにいってから、突然ややきびしい口調に変わった。
「これは、あなたを容疑者として扱うのではない。こういう殺人事件があったときの、日本の警察の一つの形式として、おきき入れ願いたい」
瞬間に切りこまれた感じで目をぱちくりさせて答えられないでいるのに
「もしご不満なら、大使館から婦人職員を呼んでもいいが、勿論、私の方も婦人刑事を一人残しておいたから、一切は婦人がする」
「と、いうと身体捜検もするのですか」
「やむを得ないことだが」
というと、向こうも少しにっこりして
「やむを得ませんわ」
と、同じ言葉で切り返した。そこで岩崎は乃木に日本語で命じた。
「この女の身体と持ち物を調べる。バスルームへ入って、扉をしめ、バスタブの上に蓋をして、そこにハンドバッグの中身をあけて調べろ。セーターの下に、薄いシャツを着ているはずだから、シャツは脱がせて領置する。火薬ガスの鑑定をする。スカートの中もよく調べて、ショーツにも指を入れるぐらいにしろ」
[#小見出し] 銃創について(四)
銃丸には套皮《とうひ》弾と鉛弾があり、前者は鉛弾の表面が、鋼、ニッケル、銅などで覆われたもので、骨に当たっても変形しない。鉛弾は、鉛に砒素等をまぜて硬くしただけのもので、変形しやすい。ダムダム弾は骨や石に当たると套皮が容易にとれて、弾丸の破片によって複雑な創傷が生じ、感染症発生の危険が多い。
火薬には、有煙・無煙の区別がある。
火薬の検査は、射手として疑わしい人に行われる。手の汚染、付着物、被害者の射入口付近の着衣、皮膚等についた物を調べて行う。
火薬の粉粒付着部を水で浸したガーゼで拭うか、或いはパラフィンの手形の上に火薬粉粒をうつしとって行う。
試験には主にジフェニールアミン硫酸か、デイシゾン法を用い、成分、弾丸の種類を特定する。
4
中では、乃木がかなりハードな身体捜検をやっているらしく、女の悲鳴や抗議の声が聞こえてくる。
その間に岩崎は言った。
「花輪と武藤は隣の捜四の刑事さんたちの所に行って、五人の身元がわれたかどうかきいてくれ。そして、その五人と多少ともかかわりのある、素人でも極道でもどちらでもいいから、英語が使えて、六本木で軟派はれるような奴がいないかどうか、きいてくれ。ここの事件の犯人と、隣の事件の犯人は、多分別人だ。しかし、偶然同じ時間に犯行が行われているということは、どこかで、何かの小さな糸がつながっていると思わなくてはいけない」
それだけの指示を受けると、花輪と武藤は廊下へ出て、隣の捜査状況をききに行った。
浴室の中からは、クリスの金切り声が聞こえてくる。何かで激しく争っているようだ。
しかし乃木も負けてはいない。英検二級の英語で必死に言い争っている。アメリカ女は力で抵抗しているようだ。
乃木も負けてはいない。しかも小さなユニットの浴室にとじこめられて、扉がぴったりしめられているから、いくら力が強くて、わめきたてても、外国の女には不利だ。乃木は、日本古来の室内用の武道・合気術の達人だ。やがて完全に相手を押えこんで、身動きできなくしたような気配が外からも分かった。
抵抗力を排除して、ゆっくり丁寧に身体捜検しているのだろう。かすかにすすり泣きながら『OH《オウ》、ノー』と弱々しく拒否している感じの声だけしている。
「進藤……」
と、いきなり、警視正はいった。
「……そこのベッドの毛布をはがし、昨日は男と寝たか、女と寝たか、そして、その相手は、日本人か外人か、敷布《シーツ》を徹底的に調べなさい。ショーツをつけないで歯磨きに立ったという一事だけでも、もう何らかの形式でのセックス行動があったことは確実だ。どちらかの秘毛が、必ず何本か残るし、分泌液のしみも残るはずだ。その臭いで女か男か分かるだろう、相手が」
進藤は捜一へ入ってからも十年は越す。警察へ入ったのが二十歳の年で、もう二十五年のキャリアだ。黙ってうなずき、すぐ続きの部屋にあるベッドの所へ行った。
枕もとに可愛い縫いぐるみがある。毛布をめくってみて分かったが、シングルベッドが二つあり、それをよせ合う形にしてあった。きっとふだんルームメイトのクリスと一緒に寝るときは、少し離し、毛布も別々にかけて眠るのだろう。そして、ハリトスにしても、クリスにしても、一人が東京の街でハントした愛人と寝るときは、ほんの少し離れているベッドを押してくっつけ、毛布は上に一緒にかけてしまい、臨時にセックス・プレイの場所を確保するのだろう。もう一人は外出させて。
進藤は、毛布をはがす。本庁から連れてきた鑑識係に命じて、虫眼鏡とピンセットを借りる。まるでシーツを舐めるように顔をくっつけ、鼻もくんくんときかせながら、すみからすみまで調べた。ほんの一センチぐらいの短いちぢれ毛が三本もとれた。いずれも黒い。そばで鑑識が、そんなものは見なれているのか、別に虫眼鏡で見もせず、あっさり言った。
「ああ、それは日本人のです。男ですよ。まあ、まだ若い男でしょう」
それだけのことを、毛で特定できるのは大したものだが、進藤の反応も面白い。
「なーんだ、ヤローの毛か、汚ならしい」
露骨に顔をしかめた。そしていった。
「すると、ここらあたりに転々としているしみは、男の体から出たものかね」
これまで鼻をくっつけるようにして臭いを嗅ぎ回っていたのに、急にオエーッと吐きそうな顔をしてみせた。勿論こんなことで吐いていたのでは捜一の刑事は勤まらない。ちょっとふざけて見せたのだが、真に迫っていた。人の情事の痕跡を探して実証しなければならない。これも殺人犯を挙げるための仕事だ。ばからしいとはいっていられない。他の刑事たちは、ふだんはいつも、鬼が、ニガ虫を噛み潰したような顔をしている進藤のこの思いがけないパフォーマンスに爆笑した。
岩崎警視正だけはニコリともせず、相変わらず何の表情も交えずにいった。
「これで日本人の男がベッドの中から撃ったということははっきりしたわけだ。先に下の拳銃《チャカ》で、次に手に持つ上の拳銃で」
このきわどい冗談を初めしばらくは、みなは気がつかず、一瞬おいて男の刑事さんたちはどっと笑った。幸い女刑事の一人は大塚《カンサツ》へ死体とともに行き、いま一人は浴室の扉の中で、ガイ者のルームメイトの持ち物と身体捜検をやっていて、この冗談をきかなかったからよかったが、こんな言葉を畏敬してやまない岩崎警視正が口から出したことが分かったら、純粋無垢、警察魂の権化である乃木などは、三、四日は絶望して物もいえなくなってしまうのではないか。
その乃木だが、中で急に二人の女の争う声が激しくなってきた。外の刑事たちは、また顔を見合わせてニヤニヤした。きっといやがるアメリカ娘の体から、むりにシャツを脱がせるか、スカートの奥のショーツの中まで調べろと厳命されているので、乃木が張り切ってそれをしているのだろうと思った。
しばらくして、アメリカ女の声がきこえなくなった。シーンとしている。乃木が一人で出てきた。セーターのすぐ下に着ていたらしい、女物の長袖の薄い、絹地のような手触りのシャツを持って出てきた。アメリカ女の強い体臭がしみついている。少し汗ばんでいたのか、それを吸って腋《わき》や、胸の下の部分がしめっている感じだ。乃木はシャツを突き出して
「これ、やっと脱がせました」
少し恥ずかしそうにいった。進藤が心配そうに扉の中をうかがいながら聞いた。
「まさか殺してしまったんじゃないだろうな」
「大丈夫よ。あんまり暴れるので、合気の当て身で落としてあるの。二分もすれば目をさますわ。それでこのシャツ、どうします」
岩崎は、室内で捜査を手伝っている鑑識の係に
「ああ、そのシャツの袖口を調べてくれ。さっき何気なく見ていたが、あのアメリカ女は左ききのようだ。多分、左の袖口から火薬反応が出るような気がするが、これはあくまでも私の先入観にすぎない。気にせずやってくれ」
といって渡した。
乃木が、扉を後ろ手に閉めたまま、まだたっていて
「あの……あの管理官殿、ちょっと」
と口ごもっている。
「何だね」
と、岩崎が聞き返すと、ためらいながらいった。
「中へ入って、立ち会っていただけますか」
「ああ」
岩崎が入り、進藤がそれに続こうとするのを、乃木が手で遮って押し返した。
「もう少し待って。いま、まだ見せたくない所の検査をしているから」
二人だけで入って、扉をパタンと内側からしめてしまった。
岩崎が入ってみると、女は日本式の四角い浴槽にかぶせた蓋の上に仰向けにひっくり返ってのびている。幸い全体がプラスチックで作られたユニット式の浴室なので、あたりが柔らかく、どこもけがはしていないようだ。
長い肢が二本とも、極限の小ささのショーツからむき出しになっている。スカートは乃木が強引にはぎとってしまったようだ。乃木も捜一で鍛えられて六年、なかなか荒っぽくなった。岩崎にいった。
「ここです。ここを見てください」
そういって、太い腿をやや開き気味にして内腿のショーツのふち、ぎりぎりの部分を岩崎に見せた。他の刑事たちを乃木が入れなかった理由が分かった。白い腿の極限、もう少しで性器の部分に達する所に『極道一代』という漢字と『KEN・LIFE』というローマ字の刺青《いれずみ》が入っている。
「ケン・生命か。つまり、この女は、AETをやっているうちに、あまり暇なのでボーイハントして日本のやくざが好きになった。そして日本人の女が相手の男に惚れると体につけるときいた刺青というものをやってみたくなった。それでもアメリカへ帰ったとき、外から見えるとミネソタのような農業州では生活に支障があるので、腿《もも》の内側に入れた。これなら海水浴場で、ビキニ姿で歩いても人の目に触れない」
「そうですね」
「まあ、大体事情は分かったようなものだが、これ以上は当人の自供を待って、正式に捜査しよう。活を入れて意識を戻したら、ちゃんと服を着せて、部屋へ入れなさい。私は、気持ちがデリケートなもので、淑やかな若妻の乃木がやーっと気合をかけて、活を入れるところをとても見る勇気がない」
と、またこれも痛烈な皮肉だ。折角の苦心の手段も、あまり褒められなかったので、
乃木はまたむくれたが、当て身で落としておいて、いつまでもほうっておくのは危険だ。
岩崎が出ていくのと同時に、いささか荒っぽく、活を入れた。
「ウーン」
と唸ってクリスは息を吹き返す。乃木は機嫌が悪い。
「ハリーアップ(早くしなさい)」
かたわらの、無理にはぎとったセーターや、スカートを示した。これまでアメリカ女のおごりで、やや反抗的に乃木に応対していたクリスも、日本人のカラテ(と思っている)の凄まじい威力にすっかり恐怖心を抱き、命ぜられるままに、シャツをひき抜かれた素肌にセーターを着、スカートをつけた。反抗心や抗議の声は出ず、ただ脅えている。
先に一人で出てきた岩崎は、外で待っている刑事たちにいった。
「進藤は、捜四の友成警視を知ってるかね」
「はい。何度か食堂で話しながら飯を喰ったことがあります」
「いま、隣の極道仲間の捜索の方は友成さんが指揮している。向かいのアパートに、十日ぐらい前から来て、一人でじっと見張りをしていた、ケンという一見六本木の遊び人か、学生風の極道のことをきいてこい。もう指紋か風態で割れているはずだ。武藤と花輪が先に行って調べている」
「行って聞いてきます」
「友成さんには五人の仲間とは別に、そのケンが捕まったら、彼だけは他の極道仲間と一緒に、渡世の掟《おきて》で、アパートから三の丸会の親分に弾丸を撃ちこんだ極道ではなく、自分の女関係を清算し、もう一人の金持ち女と一緒になりたい一心で、これまでの愛人を殺した純粋な殺人犯として、別個に捜一にお引渡しいただきたいと丁重に頼みなさい。アパートの五人の射手の一人ではないと分かれば、捜四もこちらに身柄を渡してくれるはずだし、もしまだ押えていないなら、我々捜一だけで独自にケンを追う。六本木を中心に網の目を絞って行けば、三日もしないうちにパクれるよ」
「はい。では交渉してきます」
進藤がすぐ友成警視に交渉するため、廊下へ出て行った。
ほんの少しして、身なりも整え、お化粧も直したクリスが、乃木に連れられておずおずと狭い浴室から出てきた。今は傲慢な態度はなくなっている。
故郷のミネソタの農民訛りを鮮やかにしゃべる、不思議な警察の指揮者の前にクリスは坐らされ、いきなり言われた。
「クリスさんは、ミネソタ州一帯で手広くスーパーをやっているダーウィング一家のお嬢さんですか。さっき身分証明書を拝見したところ、クリス・ダーウィングと書かれていたのでお聞きするのですが」
彼女はびっくりしてきいた。
「父を御存知で」
「いや、知っているわけではないがね、まあ、ミネソタのダーウィング・ブラザー・スーパーの経営者といえば、州一の大金持ちだ。そこのお嬢さんと下院議員のメーソング家のお嬢さんが、観光旅行をかねて、二人でAETのボランティアで日本へやってきた」
娘は大きくうなずく。
「ところが、日本の学校は折角やって来た二人をちっとも喜ばない。わざと働かせない。することがないから、毎晩六本木へ遊びに行った。そして言葉巧みに近づいてきた、多分英語がかなり上手なケンとすぐ二人とも親しくなった」
目をまん丸くしてうなずく。
「初めは二人の共通のセックス・フレンドとして、日本にいる間の欲望の充足用に楽しむつもりだったが、あなたがその日本人の情熱にひかれ、二人の共通のフレンドでは我慢できなくなった」
何かいおうとするのを、岩崎は抑えた。
「たとえば、あなたがハリトスを殺してくれとケンに頼んだところで、ベッドの中できいた者がケンだけでは、ケンがいくら裁判で陳述しても、これは何の証拠にもならない。ケンは隣の三の丸会会長の襲撃のため、真ん前のアパートに半月も隠れていたから、襲撃の時間もわかっていた。それで当日は中からあんたに合図をするということで、ハリトス嬢と寝ていて中で彼女を殺した。しかし、これはクリスさんと直接の関係はない。あんたがやったことは外からの流れ弾丸《ダマ》に見せかけるため、襲撃と同時にガラスを割ったことだけだが、これも目撃者がいないから、立証できない。私らはハリトス殺害の犯人として、ケンだけを逮捕できればいい。あんたは共犯者であり、もしかしたらケンにベッドの中で甘ったれて、ハリトスを殺してくれ、そしたら結婚して二人でアメリカへ行って、父のスーパーをついで社長になって、というぐらいなことを言ってそそのかしたのかもしれないが、女がベッドで男になんと言おうと、そんなものは何の証拠にも罪にもならない。きいた男がバカだったと日本の刑法では処理する。あんたはすぐ荷物をまとめて、一日も早くアメリカへ帰りなさい。これ以上、問題を複雑にしないため……」
女の顔には信じられないほどの喜びが浮かんできて、涙が大きくにじみ出てくる。
外から進藤が飛び込んできた。
「さすが友成さんだ。もうケンのマンションでケンが少女タレントと寝ているところをパクったそうです。えらいいい男で、六本木ではモテモテのスケコマシだそうで」
その進藤の言葉を、クリスに英語で聞かせ、やっと諦めたクリスが荷物をまとめるのを乃木に手伝うように、岩崎は命じた。
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[#見出し] ランバダに酔いしれて
[#小見出し] ランバダとは A
ランバダとはマンボとかルンバとかと同じく、リズムの名称である。三十年も前に、マンボが日本中を席捲するぐらいはやって、現在のお爺ちゃんお婆ちゃんが、若いときマンボズボンにサーキュラースカート姿で夢中になって踊って以来、しばらく国中の若者を熱中させるほどの魅力あるリズムがなかっただけに、久しぶりの大ブームを巻き起こしそうな気配である。
サンバと同じく流行の発生はブラジルで、本国ではさして問題にされないうちに、フランスへ渡って大ヒットし、パリから日本へ渡ってきた。日本の流行の中心地・六本木では忽ちの中《うち》に、多くの若者に競って踊られるようになった。
すべてのラテン・リズムと同じく踊りを伴って初めて曲が生きるのであるが、踊り方が少し特異なので、自由主義思想が根づき、民度の高い、享楽志向の強い国民でなくては普及が難しいといわれたが、その点、日本のロッポンギこそ、普及に最適の温床であった。
1
四月に入ると、官庁でも会社でも学校でも一斉に人事異動が行われる。これで停滞していた気風を一転させ、また新しい仕事に取組ませようということなのであろうか……
乃木圭子にとって、この四月二日月曜日の朝に知った人事の消息ほどびっくりしたことはない。
現在捜査一課二係にいる乃木圭子は、先年の秋に結婚して、戸籍上は高橋圭子だが、捜査一課の仲間が呼び馴れているという(かなり手前勝手で強引な)理由で、夫婦別姓を主張し、それを認めてもらって、辞令も、日常の呼称も乃木で統一させてもらっている。別に、ウーマンリブなんて大それた主張を持つわけではない。夫は六本木署長の高橋警視。夫に不満があるわけでもなく、毎日の生活は琴瑟《きんしつ》相和しての睦《むつま》じさだ。ただ彼女の心の奥の奥にあるものについては、誰も知る者はいない。多分、今後も永久に誰にも分からないだろう。
三月の終わりから気温は例年より高く、冬はいつもの年よりずっと楽にすごせた。それだけに、陽春四月、人々の気分も明るかった。
久しぶりに公務員の月給も上がるという噂もチラホラ聞こえてくるようで、今年こそ、この二、三年ほしいと思っていた、イタリーのブランド物のスーツが買えると、何となく胸がはずんでくる。東北出身の花輪刑事を冷静な判断で、あっさり振って、何から何まで岩崎警視正のコピーといわれる、東大出のエリート、高橋一係長に望まれるままに、自分でも呆気《あつけ》ないほど簡単に結婚を承諾したのも、二十五をすぎてのお肌の曲り角に危機感を抱いたこととともに、教養からも、将来性からも、更に実家の資産からも、自分にとってはこれ以上の良縁はもうないだろうと、ちゃんと計算しつくした上でのことだ。目下のところ、これは当たって、二人はとても幸せ。
自分より後から入ってきた、婦警の峯岸稽古が、かつては乃木の独占であった、朝のお茶配りをやってくれるから、始業のベルが鳴ってからの午前中の時間、ずっと電話の応対や、伝票の整理をやっていられる。目玉が大きく魅力的な女性は例外なくド近眼だが、容貌に影響するので眼鏡をかけないで我慢してしまう。映画スターの殆どがそうだが、乃木も例外ではない。背中をやや丸めるようにして書類に目を近づけて伝票に細かい字を書きこんでいる。
別に、足音を忍ばせたわけではないが、正面の机の岩崎管理官が、乃木の後ろまでやってきたのに気がつかなかった。もっともこれまで岩崎は用があれば、机に坐ったまま呼ぶ。これは乃木が捜一に入って以来、初めてのことなのである。
夢中になって伝票の整理をしていた乃木は、隣のお稽古に軽く肘をつつかれ「乃木先輩」と呼ばれて、ハッと気がついて、顔を上げ後ろを振り向くと、そこに岩崎がいたので、驚いてすぐ起立した。
「あ、管理官殿、ご用があったら、お呼びくだされば……」
というのへ、岩崎は答えた。
「ちょっと、君と二人だけで内密に相談したいことがあってね」
とたんに、乃木は真っ赤になってしまった。自分はもう結婚してしまった。岩崎警視正殿にも、警部補だったみずえという美人の奥さんがいるし、翔ちゃんという、満三歳になったばかりの可愛い坊やがいる。今さら申し込まれてももうおそい。どんなに辛くてもこの申込みだけは断固として断らなくてはならないと表情を固くして
「何でしょうか」
と、やや挑戦的に答える。そんな彼女の心の中のさまざまの波などは、一切気にしない。わざと秘密めかした声で岩崎はいう。
「二人だけで内密に話し合いたいことがある。ついてきてくれ」
といって、先に立って出て行く。生意気にもお稽古の目にはやはり女らしい嫉妬の炎が走り、進藤や、吉田さんは、何だろうかと不審そうな目で二人を見送っている。廊下へ出る。エレベーターへ向かう。たとえ、どんなに誠意を以て申し込まれても警視庁警察官としては、それを受けるわけにはいかない。でも胸がどきどきして体中が熱くなってくる。岩崎は何もいわず先に立つ。エレベーターの前で岩崎は上へ行くボタンを押す。十一階は総監室。十八階は最上階で武道場、それから屋上はヘリポート。ヘリコプターで日本を脱出して、どこか南海の孤島で、二人だけで世間を逃れて暮らそうというのだろうか。
どうも乃木は、相手が岩崎警視正だと考えすぎて自意識過剰になる。
十七階で降りると、人の気配のない廊下を歩く。正面右側の窓際に喫茶店がある。実はここに、喫茶店があることは、別に秘密でも何でもなく、本庁に勤める全職員がよく知っている事実なのだが、警視庁という風紀厳正なる職場では、勤務中ちょっと喫茶店へ入ってコーヒーを飲んで一休みするという習慣がなく、よほどの古手の上級幹部でなくては、滅多にそこを利用しない。自慢じゃないが乃木もそこへ入るのは、六年間の本庁勤務の中で初めてではないが、せいぜい二度か三度目だ。伊奈という四十ぐらいの小母さんがマダムで、もう二十年もこの店をやっていて、総監も各部長も若いときを知られているから、この小母さんに頭が上がらない。
「ああ岩崎警視正久しぶり」
とにこやかに迎えてくれて、別に注文しなくても、モカのおいしいコーヒーを二つ運んできた。窓からは三宅坂の広い坂道と、皇居の緑が一目で見渡せる。コーヒーを前にして乃木の心は乱れに乱れた。これが三年早かったら、どんなに嬉しかったろう。
殆ど息が詰まるほどの緊張で、岩崎の言葉を待ったが、すべて、乃木の一人よがりの考えすぎだった。警視正はいった。
「今日、ここへ呼んだのは人事のことだがね」
「えっ! 私、どこか所轄へ出されるんですか」
それはそれで大問題だ。殆ど泣きそうになった。岩崎班を出されるぐらいなら即座に辞表を出して主婦専業になってしまい、子供を沢山産もう。
「いや、乃木のことではない」
乃木はびっくりして見つめる。
「君の結婚では実は君を残したいため、旦那の高橋警視に六本木署長に出てもらった」
「すみません」
「謝ることはない。すべて仕事のためだ。一係長は空席のまま私が兼ねていたが、事件が多発し、しかもますます複雑化してくる現状では、兼職では少し無理になってきた。そこで二係の村松警視に一係長になってもらい、二係長に新しい警部を迎えることになった。それについて君を呼んだ」
「なぜですか」
不思議そうにきく。もともと部下に相談などする人でない。
「乃木の知り合いの人物が係長になる」
瞬間乃木は答えた。
「花輪刑事ですか」
かつてかなりいいところまで二人の仲はいった。乃木が岩崎への報われない愛の反動として顔のヤボッたい田舎くささにひかれた一時期があった。今ではその思いはさめている。ひきつけるだけひきつけておいて、冷たく扱ったという、多少の後ろめたさが残っている。
「いや、そうじゃない。巡査部長の刑事では係長にはなれない。警部補でもなれない。警部でもエリート・キャリア組でなくては無理だ。公務員上級職試験合格者でなくては」
「でも私にはキャリア組の警部なんて偉い人に知り合いはいません。奥さんのみずえさんは警部補だし」
「向こうも君をよく知っている人だ」
「私を……そんな人、心当たりありませんが」
「大田という苗字だ。先月までパリの国際刑事警察機構《インターポール》で、幹部の研修を受けていた」
「大田警部……さっぱり見当がつきませんが」
「男だと思うから思い出せない。女の人だ。それも君の高校の同級生だそうだ」
「新宿高校の同級生。同級には大田という子は一人しかいません。キックというあだ名のあまりきれいな子じゃなかったです」
少し口惜しそうにいった。
「キックという名じゃなかったな。私の白昼夢《さだむ》という名もかなり珍しい名だが、その警部さんも妙な名だったな。よそでは絶対、きいたことのない名だった」
すると乃木は丸い目をますます丸くした。
「大田さんです。キックです。絶対によそにない名です。蹴鞠子《けまりこ》というのです。平安朝時代の貴族の遊びにあやかってつけられたそうです」
「そうだ、その大田蹴鞠子だ。今日、昼、みなに紹介する。ずっとパリにいて国際警察の仕事をしていた。なかなかの美人だ。さっき刑事部長室で、係員の名簿を見せたら『うわーっ嬉しい。乃木さんて同級生で親友でしたわ』というから、その偶然に私も驚いている」
「別に親友でも何でもありません」
乃木はむしろそっ気なくいった。実は新宿高校在学中の三年間は、無二の親友で、級友から、ピンク・レディとあだ名されたぐらい、いつも二人一緒にいた。新宿高校は名門進学校だった。乃木も大田も揃って津田塾大を受験し、二人とも万に一つの間違いもなく合格して進学できると思ったら、大田蹴鞠子だけが受かり、乃木は落ちてしまった。それで乃木はもう口惜しいので他の大学は受けず、警察学校へ入って、警視庁へ奉職した。
それきり二人の縁はきれた。乃木は意識的に、その後の大田のことを無視して消息を誰にも聞こうとしなかった。ただ漠然と、津田を出てから、テレビ局か、新聞社か、華やかなジャーナリズムの世界にでも入っているものと思っていた。まさか自分と同じ警察官になっているとは考えてもいなかった。岩崎はいった。
「一昨年津田をトップで出た。国家公務員上級職も上位の成績でクリアーし、役人になるため自治省に入省した。取りあえず、国家警察の方の仕事をして、女性としては日本で最初に高級警察官僚になるエリートの道を歩んでいる。人事昇進の一過程の腰掛けだから、捜一にもせいぜい一年か一年半だが、その間協力してやってくれないか」
「それはかまいませんが……でも……」
とためらいながら乃木はいった。
「……彼女、そんなに美人じゃないですよ。どうでもいいことですけど」
と釘をさしておいた。
コーヒーを飲み、くれぐれも協力を頼まれて、渋々承諾し、二人は捜一に戻った。みなは二人の間で何が話されたのか露骨に好奇心をむき出しにしながらも、あえてきかない。乃木もむっとして、事務をとっている。
昼近くなって、黒線に星二つの、警部の襟章をつけた婦人警官が入ってきて、岩崎の前に立った。丁度、みな在庁事務(待機のデスクワーク)の日だ。
この見馴れない婦人警官を一斉に見た。年は二十五、六歳。まだ若いのに、警部の襟章をつけているのは、このごろ警視庁にも少し回されるようになってきた、国家公務員上級職試験合格者のキャリア組だ。自治省や、外務省や総理府などに勤めて将来幹部になる要員が、実務見習いのため、国家警察の一員として、警察業務実習に入ってくることがある。外務省に入れば一等書記官として、各国の大・公使館に出て行くし、警察では警部、大蔵では地方の税務署長、どこでもまず幹部としての修業をさせられる。
こういう、エリート・キャリア組は、大概長くて一年、早いのは半年ぐらいで、他の良いポストに栄転して行ってしまう。でもしばらくの間、お守《も》りしなくてはならないのが厄介だが、その代わり、仕事に口うるさく指図したりしない。上司として持ち上げていればいいのだから、気が楽だ。
捜一のような実務のきびしい所には、これまで、この腰掛け専門のキャリアは来たことがないが、他の課にはよくある。
「ああちょっときいてくれ」
珍しく、岩崎管理官が立ち上がって、自分の指揮監督する、一係と二係との全員にいった。
その女警部は、岩崎の横に立った。背も百六十をかなり越して高い。スタイルも、岩崎の妻となって、家庭へ入ったみずえ警部補と同じようにすっきりとやせ型で、その上ふくらむところは充分ふくらんでいて、なかなか恰好よい。その姿にみな好奇の目をよせているが、中でも一番びっくりしていたのは乃木だ。高校卒業時、二人は一緒に津田塾大を受けた。友達のキックというあだ名の蹴鞠子だけが受かり、自分は不合格になって、進学を諦めなければならなかったときは、口惜しさのあまり、これまでの三年間のピンク・レディといわれたぐらいよかった仲も一ペんに冷却し、『何であんなブスのデブが受かって、この可愛らしくスリムな私が落ちたんだろう』と、一時は天をも地をも呪い、受ければ入れる他の短大の試験も全部ほうって、まっすぐ警察学校を受けた。試験が九月なので、その間、相手がシェイクスピアか何かを習っているのなら、自分は会話がぺらぺらになりたいと、英語学校に通って、ともかく英検二級までこぎつけた。
乃木には、ブス、デブ、とそのときの恨みが骨の髄までしみついて、悪いイメージが離れない。どこかの会社で、そのうち汚職か不倫の恋で刃傷《にんじよう》沙汰を起こして逮捕されるときがあったら、必ず自分が手錠をかけてやろうとまで思いつめていた。それが意外にも大学を出て、上級職公務員になって自分の上司となってやってこようとは、全く運命というのは何と皮肉なものだろう。岩崎がいった。
「空席の一係長には、二係長の村松警視にそのままなってもらう。二係長に新しく任命されたのが、この大田警部だ。パリのインターポールから帰ってきたばかりで、日本の警察はここが初めてだが、捜査の実際を勉強したいというので希望してきた。諸君、しっかり協力してやってくれ」
乃木はしばらく、気持ちが落ちこんで下を向いたままだ。あのときあんなにも相手をブス、デブと思いこもうとしていたのに、今、見るといかにもパリ帰りらしい洗練された容姿に、口惜しさがまた百倍にも増幅された。
[#小見出し] ランバダとは B
本当の源流はブラジルよりキューバだといわれる。ここも音楽好きの人々が多く、数々のリズムを生み出したほどの国だから、その誕生説はうなずける。一九三〇年というから六十年前にはもう生まれていたらしいが、ここではあまりはやらず、ブラジルへ渡って音楽的に成長した。
そのブラジルでも爆発的な流行はせず、パリに渡って初めて大ヒットしたのは、その踊り方のせいだ。
中南米では未だに、宗教や、国家の規制が強い。自由というのは、ある程度の経済的繁栄があり、人々の生活が豊かになって初めて論じられる問題であって、発生国にはこのリズムが普及する素地がまだできていない。
十年前ブラジルのベレンやマナオスなどの港町でカリプソや、チャチャチャなどと共に、はやったことがあるが、土地に根強い勢力を持っている、キリスト教会の禁令で、ついにランバダは追放されてしまった。
2
岩崎管理官の指揮下にある、捜一の一係、二係は、捜査会議も、犯人逮捕の祝賀会の打ち上げも、会議室で番茶に塩せんべいとか、庁内食堂でカツ丼とビールなどという、他の捜査係なみのことはしない。すべて帝国ホテルの十八階のグリルの専用の部屋で、季節の材料を使った、最高級のフランス料理で、一杯一万二千円のレミーマルタンで乾杯して打上げをする。
第二係長に、まるでパリのエスプリそのままの、美しい大田蹴鞠子が着任してきたその歓迎会も、当然、帝国ホテルで行われた。
夕方六時に、全員バラバラに本庁を出て、七時にみな席についた。乃木は遠慮して末席に坐り、自分からは、この友人に話しかけないようにしていた。何しろ在勤六年を少し越す乃木は巡査長、それに比べて一昨年大学を卒業して、自治省へ入省したばかりの友人が三階級も上の警部だ。同級生として、親しく話しするのが何となくためらわれる感じであった。そういうわけで昼間は私的な会話もなく、ぎごちなく終わった。
夜は私服だ。階級章がないだけ気楽にうちとけるかと、多少は思ったが、総員二十名、特別室でフランス料理を前にして、階級、年次順にずらりと並んだとき、とたんに乃木はシューンとしてしまった。
正面の岩崎警視正の背広は必ず英国屋の仕立で、ぴったり身についた良い物であるのは分かっている。村松警視は柔道の達人で、豪放なタイプだが、しかし現在の東大には貧乏人の子息は勿論、普通のサラリーマンの子弟でも入りにくいといわれる。学費は安くても、意外に高級官僚や、財界人の子弟が自然に集まってくるとのことだ。村松も実家は裕福で、よく見ると一般の猛者刑事《モサデカ》諸君とは値段が一桁違う服を着ている。もっとも乃木が選んだ、現在六本木署長に転出した高橋警視も、同じ東大出のエリートでお洒落で、並んでも一つもひけをとらないから、別に何もコンプレックスを感じることはなかったのだが、正面に坐った大田警部の服装にはシューンとしてしまった。
自分も暮のボーナスをやりくりして、せいぜいブランド物をはずんだのだが、何しろ相手は、つい先月パリから帰ってきたばかりだ。いくら同じブランド物とはいいながら仕立が違う。これまで、ブス、デブと無理にでも思いこむようにしていたのに、今日改めて見れば、理智的に輝やく、シックな美人に変貌している。四年の勉学生活だけで、ブスが美人に化けるわけはないから、これまでブスと無理にでも思いこもうとしていたのは自分の希望的願望で、本当はもともと自分より美人だったのかもしれない。そう考えると、乃木はますます落ちこんできて、自分のことを、唯一人の女性として愛してくれ、日本一の美人と思ってくれる夫の高橋警視がいる自宅へ一刻も早く帰りたくなってしまった。
八時半に歓迎会が終わり、みなと一緒に席をたって帰ろうとすると、正面から岩崎が
「ああ乃木君。これからちょっとつき合ってくれないか。大田警部と軽く飲み直しだ」
と声をかけた。いつもなら飛び上がるほど嬉しいのだが、今日は面白くない。
「あのう主人が待ってますから」
「いやご主人は途中で待っていて同行してくれることになっている」
「ああそれなら行きます」
と乃木は張りきって答えた。こんなシックでエレガントな女性を、自分という障壁抜きでじかに主人と会わせるなんて、危険なことはとてもできない。
岩崎と大田警部と乃木はホテルの前から差し回しのハイヤーに乗った。
乗るとすぐ大田警部から声をかけた。
「ごめんなさいね。よそよそしくして。あんまり親し気にしてもケイちゃんが却って困ると思って」
向こうも高校時代のあだ名で呼んだので、乃木の気分も急にほどけた。
「いいのよ、キック。仕事の場は公務員だから階級制度に従って、きびしく命令でも何でもして。でも仕事を離れたら、昔のピンク・レディのコンビ通りにまた仲好くしましょう」
「嬉しいわ。そういってくれると。本当は、もうケイちゃんは、鬼の捜一でも、メスのエンマ大王といわれるぐらい、つまり鬼も震え上がるという意味だそうだけど、怖い刑事ときいて、配属されるとき、内心ビクビクしていたの」
「そんなことないわよ。相変わらず可愛い女の子よ。……といってももう人妻だけど」
「ああ、お祝いいうの忘れていたわ。去年、結婚なさったそうね。お目出とう。どんなすばらしい旦那様かしら、見てみたいわ」
すると岩崎がいった。
「車が混んでるからもう五、六分かかるかもしれないけれど、もうすぐ見られますよ。交叉点の所でハズバンドが待っていてくれるはずです」
「わあー凄い。きっとハンサムなんでしょ。ケイちゃん、もともと面喰いでおしゃれ好きだから」
「それほどのことはないわよ」
と口ではいいながらも、それでも、相手があの東北弁丸出しの花輪でなく、キャリア組の高橋警視にしておいてよかったと思った。まあ胸を張って元同級生に紹介できる。岩崎がいった。
「今日の二次会の発案は大田警部さんだよ。我々が知らない珍しい店に、案内してくれるそうだよ」
「まあ、まだパリから帰ったばかりなのに」
と乃木がびっくりしていると、大田は少し恥ずかしそうにいった。
「別に私もその店を知っているわけではないのよ。帰ってから自治省への報告や、警視庁への申告で毎日忙しくて、遊ぶ余裕はなかったの。でも一カ月前、パリから日本へ戻ってくる飛行機の中で、カラソムさんという外人と隣合せになったの。ニューヨークで生まれて、世界中で、音楽やダンスの興行をしているんですって。かなり軟派で、ときどき手を握ったり何かしていやらしかったけど、エマニエル夫人じゃあるまいし、実際の飛行機の中では、しょっ中スチュワーデスが通るからいやらしいまねはできないものよ。それに日本に帰って自治省に出頭するまでは、まだそのときの私の身分は、パリの国際警察の職員だから、いざとなったら逮捕権もあったの。手や膝くらいならと触るのに任せていたわ。それよりこういう人に、いろいろ聞けるだけ話をきいておいた方がいいでしょう。どうせ警察へ入ってしまうとどうしても狭い視野でしか世の中が見られなくなるでしょう」
たしかにそうだ。パリの生活はせいぜい一年ぐらいだろうが、随分人間的に成長したものと、乃木はすっかり感心した。
「ところが、そのカラソムさん、とても面白いのよ。ねえ、きいて……、日本は今、世界で一番お金があり余っているから、そこから、十億か、二十億は稼ぎ上げるんだって」
「まあー、そんなにうまく行くかしら」
月の手取りはボーナスをならしても三十万円にかける乃木は驚いてきいた。
「パリで爆発的にはやった、ある音楽のリズムを作曲してその権利を持っているのだそうよ。何でもとてもセクシーなリズムとダンスだそうだけど、今、セックス・アニマルといわれて男女ともセックスに目のないエロチックな日本人には絶対受けて流行する音楽で、うんとはやらすんだって。取りあえず、六本木に、手ごろなお店を三軒ばかり買って、最初はそこの従業員に八百長で踊らせるのよ。というのは、いきなりでは、どんな大胆なお客でも恥ずかしがってできないぐらいの変な踊りなのですって」
「ああそれならきいたことがあるわ。写真週刊誌に出ていたわ。もう八百長でなく実際のお客も踊ってるそうよ。女の人は殆どお尻丸出しの短いスカートで、その下の下着もT字の帯のような小さいショーツだけで、男の人の腰や腿に股を押しつけて踊るのでしょう。保安風紀の婦警さんが、庁内食堂で困って話していたわ。そんな踊りが日本中にはやって高校生までやり出したら、どうしようかって……」
「そうよ。それよ。ランバダって踊りよ。もうはやっているの。やはり日本は流行には貪欲ね。その仕掛人と一緒に、日本へ帰ってきたのが、二月の下旬だったから、まだ一カ月とちょっとしかたっていないのに、もう町の話題になってるのね。カラソムさんは、これで二十億円は日本から吸い上げて行くといっていたけど、満更嘘じゃないようだわ。きっと取って行くわ」
すると、それまで黙っていた岩崎がいった。
「そういう大きな金儲けは、決して一人で独占できないようになっている。それは楽しい踊りのリズムかもしれないが、分配金や共同経営者のことで何だか事件でも起きそうな気もするな。それも殺人が」
乃木はそれをきいてヒヤリとした。この岩崎警視正には妙な予知能力がある。あわてて何か言おうとしたとき、道のはしに立っていた男が手を上げたので車はその横に停まった。
乃木の夫である、六本木署長の高橋警視だ。運転手の隣の席に乗りこんできた。
「高橋です」
短く名のるのに、乃木は後ろからいくらかテレて
「主人です」
といった。
「まあーすばらしい方。高校の同級生の大田です」
そう大田警部は答えながら、何か不思議そうに、岩崎警視正と高橋警視を交互に眺めた。
二人ともタイプがそっくりだ。エリートでキャリアであることが判る知的な風貌をしている。眼鏡をかけていて、やせていて、これではコピーだ。……ああそうか、そうだったのかと……元同級生であっただけに、乃木の他人には絶対語らぬ心情の裏の裏まで大田は一瞬に読みとってしまった。
高橋警視が前の席で答えた。
「ご指定のジャブジャベという店はすぐ分かりました。うちの婦警さんに、六本木のディスコやクラブに詳しいのが居まして。何でも最近急にはやってきた店らしいです。私がそこに行くといったら羨ましそうに『私も連れて行って』というので、『これは遊びではない公務だ』と、きびしく叱りつけておきました」
そうだそれでよいのだと乃木はうなずいた。もしそんな甘い言葉に負けて、六本木署の可愛い婦警さんなど連れてきたら、たとえ我が夫なりとも公私混同罪で直ちに手錠《ワツパ》を打って、本庁三階、冷暖房、鉄格子付きのホテルにぶちこんでやる。
車は左折して、少し行くと、また左折して細い道に入っていった。もう十時は越しているのに、町はまさに今、ラッシュ・アワーが始まったばかりのような大変な混雑であった。
八階全部にパブや、ディスコや、ホールの看板が出ている雑居ビルの前に停まり、地下へ降りて行く。重い扉をあけて、やや暗い店内に入ったとたん、耳も破れんばかりの大きな音で、音楽が鳴っていた。すべて電子楽器で、ボリュウムを最大限に上げているのだろう。
店内は狭いフロアーで踊る人、ボックスで抱き合ってキスしたり、一つの飲物を二つのストローですすっている男女などでこみあっていて、熱気でむんむんしている。この店が大当りしていることがよく分かる。
ボーイに案内されて四人は舞台のすぐ近くのボックスに坐る。目の前で六人ばかりの楽団をローレックスの金時計が光る片手で指揮していた、中年もやや終わりに近い、後頭部が少し薄くなった男が、大田警部を見ると、指揮をやめて
「おう、マリー」
といって抱きしめて頬ずりした。外人にはケマリコなんて発音は難しくてできないのだろう。小楽団だから少しの間指揮者がいなくても演奏は続く。フランス語で何やら話しかける。それに対して大田蹴鞠子も答える。英検二級の乃木にはいずれにしても手の届かない世界だ。
岩崎が乃木と高橋警視に教えてくれた。
「大田嬢のお出でを歓迎して、只今から曲をランバダに替えて、お見せするといってる」
音楽が切り替わると中年男はまた片手で指揮を始めた。片側に女の子が並んだ。いつのまに揃えたのか、その女の子たちはみな一般の客と違う、回転しないでそのままでもお尻が丸見えになるような短いスカートをつけている。しかも下はT字の帯といっても誇張でないような細いショーツ一枚だ。それに向き合うように、外人や、いかにも職業ダンサーのようなスリムな男たちが出てきた。だが中には、勇敢にも普通の背広で出っ腹短足の、そのへんのサラリーマンのような中年男も出てきた。
男の列と女の列が同数で向かい合い、腰や腿をこすり合わせ、やがては突き出した男の腿にまたがった女性側が、股の中心を押しつける、セックスの前戯そのままのようなダンスが始まった。恥ずかしさと、こんなことを許してはいけないという怒りで、乃木は一人で真っ赤になってこの淫らな男女の群を睨《にら》みつけていた。
[#小見出し] ランバダとは C
発生地キューバ、ブラジル、パリと移ってやっと世界的ヒットになるまでに、六十年以上もの年月がかかったのは、一にも、二にもその踊り方がセクシーすぎて、宗教家や警察官僚など頭脳の保守的な人々になじまなかったせいである。
基本の型は、男と女が向かい合って、お互いに腰と腿を押しつけ合うようにして踊る。
女はノーパンティが最も好ましいとされているが、風紀上そうもいかないので、ショーツの中でもぎりぎりに細いT字帯のようなものをつけて、辛うじて下半身の中心をおおう。スカートは極端に短く、回転しない状態でも常時双つの臀部のふくらみが殆どむき出しになる。
しかしここまでは、民俗音楽としての判断で認めた教会側も、ついに第二のステップで、禁止追放を宣言せざるを得なかった。その第二のステップとは、向かい合った男が左足をつき出し、それにまたがるようにして、女性がショーツの中心を押しつけて、くねくねと腰を動かすスタイルである。
3
フロアーの両側に、男女が向かい合うようにして並び、淫らな気分をたっぷり表現して踊り出す。
内心、憤怒に燃えたぎる乃木は、立ち上がってその間にとびこみ、男の腿に股を開いてショーツの中心を押しつけて淫らに腰をくねらせている女たちの髪を一人ずつひっぱって、ひき離してやりたい思いでカッカとしていた。乃木だって既に結婚している身だ。男女が愛し合うときには、どうするのかということは分かっている。しかしそれはあくまで二人だけの場所で他人《ひと》に見えないようにして行うのが人間ではないか。
実はショルダーの中には出がけにロッカーに蔵《しま》い忘れた婦警用制式ピストル、小型コルトが入っている。もし自制の限度を越えたらぶっ放して、男も女も射殺してやるかもしれないと目尻が吊り上がってきた。
それなのに、崇敬してやまない岩崎警視正も、パリから帰ってきたばかりの新しい直属上司である大田警部も、いかにも面白そうにこの踊りを見つめている。まさかと思った夫の高橋警視まで、でれでれと目尻を下げて見ている。今夜はもう只ではおかない。帰っても家に入れてはやらない。毛布一枚だけで廊下へほうり出して、扉の外で仮寝だ。夜通し泣いて許しを乞うても心を鬼にして中へ入れてやらない。そう固く決心していると、耳もとで、軽やかなフランス語が聞こえた。
男の声ではあるが、甘く鼻にかかった、少しかん高い声だ。さっきちょっと席へ挨拶に来た、このランバダの作曲者で仕掛人カラソムとは全く対照的なタイプの男だった。カラソム氏がどちらかというと芸術家というよりは、壮年のエネルギッシュな事業家風の男に見えるのに比べ、一見男性バレリーナ崩れの中年オカマという雰囲気が濃厚な男であった。肢は長く、殆どタイツとも間違うぐらいのほっそりしたズボンをはいていて、七分袖にまくり上げた、絹のフリルのシャツからむき出しの右手のブレスレットにはめこまれたダイヤが光っている。右肢のズボンの、膝から少し上にしめったしみみたいな部分があるのは、多分、先ほどまで、フロアーでランバダを踊っていて、パートナーの女性のショーツの中心がそこへ押しつけられていた、そのいやらしい痕跡なのであろう。当人はてんで気にもしていないようだが、乃木としてはまた怒りの炎に油が注がれて無意識に、ショルダーの上に右手が行ってしまったほどだ。
大田警部に、その男はフランス語で話しかける。岩崎は当然よく分かる。乃木の旦那の高橋警視も、聞くだけは分かるようだ。そしてそこは夫婦の仲だ。乃木にすぐ通訳してくれた。
「『私たちの踊りはどうだったか』ときいている。曲はカラソムが、キューバの民謡をもとに、長い期間かけて、ブラジルやパリではやらせたものだけど、踊りは自分で作ったものだといっている」
彼のすぐ後ろには、回りがまくれ上がりT字状の細いショーツの布を丸出しにした、ラテン系の容貌をした女性がやってきて、いかにも彼のパートナーだったということを示すようにこのオカマ風の男の肩に手をかけた。
そういえば……と乃木は思い出した。曲が始まったばかりで、みながまだ踊り方が分からなくて、まごまごしているときに、真っ先にフロアーの真ん中に出て、大胆な踊り方を披露して見せてくれたカップルだ。
もともとセクシーなだけで、ステップそのものはごく簡単な、腰と腰、腿と腿とのこすり合わせだけだから、十分もすると、みな上手に踊れるようになる。女の方に、自分の股の中心部を男のつき出した肢の上に強くこすりつける気持ちさえできてふっきれたら、こんな踊りはすぐ覚えてしまう。乃木は別に無理に詮索《せんさく》するつもりはないが、つい職業的に鋭くなった目で、その肢のやたらに長いラテン系の女の、T字ショーツの前の部分に当たる所を見た。他と違って、生地がそこだけ少し湿っているのがはっきり見えた。女の醜さをまざまざ見せつけられた思いで耐えきれずにぷいと横に顔をそむけた。
大田警部が、この男も紹介した。
「ロートレックさんというの。フランス人だけど、長いことニューヨークのミュージカル劇団で男性舞踊手と振付師をやっていたそうよ。ほら、コーラス・ガールという踊りのリハーサルをテーマにして、日本でも公開した、ミュージカル映画があったでしょう。その中で、第一次、二次とテストを通りながら、最後の八人には残れず、『お疲れさま』のひと言《こと》だけで、ステージを去って行く、恋人二人組のダンサーがいたでしょう。その役をやった二人よ」
そう言われれば、乃木もその映画を大分前に見て、そんな場面があったことを思い出した。ただしこの二人がそれかどうかは、もう記憶もあいまいではっきり思い出せない。
舞台の方では、再び指揮の場所に戻った作曲者のカラソムがローレックスの光る右手を、絶妙なリズムが狂わないように細かく振っている。
何やら、フランス語でしゃべっていた大田蹴鞠子警部は、今度は、みなに教えるように日本語でいった。
「この人も一緒にエール・フランスで、日本に戻ってきたの。少し日本では考えられないタイプだけど、バイ・セクシャルなの」
この言葉は、岩崎だけ分かって、乃木の旦那も、乃木も分からずに、不審そうな顔で、大田警部をみた。
「ああごめんなさい。特殊な言葉使って。これ、フランス人に多いの。特に芸能関係者に。つまり、男女、両方のお相手をする二刀流というわけ。男に対しては女として肉体を捧げ、女に対しては男として愛することもできるのよ」
「まあーいやらしい」
乃木は自分の耳をおおいたくなった。と同時に、まだ結婚もしていない独身の同級生が、既婚の男二人を相手にこんなことを平気で話しできる成長振りにびっくりした。新宿高校の三年間、ブルック・シールズの美しさにため息をつき、ゴダイゴや、ガロの学生街の喫茶店、アグネスの歌に夢中になっていた稚《おさな》い面影は全く払拭《ふつしよく》されている。
「とても面白かったの。エール・フランスにはこの人もその女の人を連れて乗っていたのよ。そして、女の人が機内で少しでも居眠りすると、まるでその瞬間を待っていたかのように、私と話をしていたカラソムの背に手を回してくるの。カラソムって、いやらしくて、すぐ私の手を握ったり、スカートの上に手をのせたりするんだけど、まるでそれにやきもちやくように、背中に回した手に力を入れてくるりと無理に自分の方に向けて、フランス語で『浮気しちゃだめ!』とキスを求めるのよ」
乃木はびっくりして思わず声に出した。
「ウソーッ。男の人が、男の人にキスするんですか」
「そうよ。カラソムさんは、鼻の下にかなり濃い髭があるでしょう。それがこの人の少しのびかかった無精髭とこすれあうの」
ぐえっと胸元から吐気がこみ上げてくるのを、乃木は丸い目をくりくりさせて、やっと耐えて元の喉へのみこんだ。どんなに残酷に殺された死体や腐乱した死体でも、平気で見ることができるように、もう捜一魂が充分に身についているはずでも、さすがに、この異様な現実には、冷静に対処することは不可能だ。
目を白黒させている乃木を少し気の毒そうに
「ケイコちゃんには刺激が強かったようね。でも、これから日本には、あり余るお金を求めて、いろいろおかしげな外人が入ってくるから、どんなことでも平気にならなくちゃ」
かつては、乃木より無口でおとなしくて純情だった、キックがそう先輩のような口をきいた。
その二人の男女は、音楽の替わり目にまたフロアーに戻り、今度はホール一杯を使っての、まるでセックスそのもののような過激な踊りを始めた。模範デモンストレーションだ。
約五分ぐらいの曲が終わると、ジャブジャベの看板のランバダタイムが終わった。アナウンスが、一時間後にまた始めることをつげた。二十分やっては、普通のディスコダンスに戻り、一時間たってまた、ランバダになる。
指揮を終えたカラソムが汗を拭きながら、彼らの席に戻ってきた。
大田と岩崎はフランス語がよく分かる。英語はもっと上手だ。もともとニューヨークで修業したらしいカラソムは、初めフランス語で話していたが三人ともちゃんと英語がしゃべれると分かると、そちらの方が楽なのかすぐ楽しそうに英語で話しだした。
この芸術家は、自らが作った新しいリズムが、今、世界的にはやってくるのを、実際に見ていて、嬉しくて仕方がないらしい。
「私は日本で二十億円は稼ぎ上げたいのです」
ずっと金の話しかしなかった。
「千四百万ドルです。どんなに運のよい人でもまず手に入れることはできません。一千万ドルといえば、二千エーカーの土地に車庫が十台分の広さ、ベッドルームが十以上ある邸が手に入ります。東部の金持のステータスといえます。ニューヨークのマンションでも、百万か二百万あればいいのが手に入ります。それがこの日本で手に入りそうです。一年ぐらいで」
生まれが貧しかったのか、金のことをしゃべるときは、眼がキラキラと輝やいている。
英語に代わったので英検二級の乃木でも、所々、話が分かる。日本の六本木は、世界の数ある盛り場の中では最高の収益が上がる、まるで金の成る木が生えているようなすばらしい場所だ。それに日本の若者はみな金を持っている。CDプレーヤーの普及も、ソフトも、世界一で、今、音をたててカラソムの口座へ入金がある。彼の生涯でこんな幸せな日々はない。
日本人なら、こう臆面もなく自分が儲《もう》かることを他人に語らないが、金が儲かることがイコール成功、誰にも恥ずべきことではないと生まれつき思っているヨーロッパ系白人だ。一つも恥ずかしがらない。男二人は只、彼の怪気炎をきいている。乃木がそっと大田にいった。
「私、やっと吐気が治まったの。そしたら毒喰わば皿までというじゃない。男と男とが口髭こすりつけてキスするの見たくなったわ。捜一魂でどこまで耐えられるか、自分で自分を鍛えるためにもね」
大田蹴鞠子は、その乃木の奇妙な申出に、にこりと笑って答えた。
「ケイコちゃんは、その髭と髭のキスによほどショックを受けたらしいのね。いいわ、きいてみるわ。ここはパリのモンマルトルや、ニューヨークのソーホーよりも、もっと自由な土地といわれる東京の六本木よ。きっとやってみせてくれると思うわ」
上司と旦那の男二人は、この突飛な乃木の申出をニヤニヤしてきいている。大田警部はカラソムに何やら話しかけた。初め、その奇異な申出に、目を丸くしていたカラソムは、やがて肩をすくめると何やら大田に答えた。
「いいですといってます。二人の愛はもう芸能の世界では知れ渡って何も隠すべきことでないし、ここ十年、夫婦よりももっと深いつき合いですから……だって。ただロートレックは、次のランバダの衣裳に替えるため楽屋に行ってます。ああいう男の常で、楽屋に女が入ってくることをひどく嫌いますので、私がそこへ迎えに行ってきます」
気軽に、カラソムは立ち上がった。
五分ぐらいして、カラソム一人が戻ってきた。
「ああ、彼も喜んで承知してくれましたよ。日本のファンの前で、二人の真の愛を示すことができて嬉しいといってます」
岩崎が何気なくきいた。
「どうして一緒に戻ってこないのです」
「ああ途中でお手洗いへよってくるそうです。いくら心は女でも、男の|お手洗い《トワレ》しか入れませんからね」
それからまた五分ばかりも出てこない。カラソムは、ボーイに何かいった。
ボーイが、部屋の奥の、右の方の男のお手洗いへ急ぎ足で行った。しかしすぐ、顔色を変えて戻ってきた。
「大変です。お手洗いに、ロートレックさんが倒れています。胸を真っ赤に血で染めて。どうしましょうか。警察を呼びますか」
六本木署長の高橋はさっと立ち上がった。
「私が警察だ。所轄の六本木の署長だ。すぐここへ刑事たちを呼ぶ。圭子は入口に行ってそこで見張り一人も外へ出すな」
我が夫ながら見事な指揮振りだった。乃木は、さっと入口へ走ると、そこの扉を後ろ手でしめ、ショルダーからピストルを出してかまえた。さっきから抜きたくてうずうずしていた思いがやっとかなった。もし無理にその間をくぐって外へ出ようとする者がいたら勿論だが、さっき出っ腹で禿《はげ》のくせに、若い娘にショーツの股をこすりつけられてニヤニヤしていたセクハラ親父などがやってきたら、まちがったふりで公務執行妨害で射殺してやりたい思いだ。
高橋警視は電話をかけて、自分の署の当直に捜査課の全員を集めるように指示すると、すぐにトイレに馳けていった。岩崎がもういる。
トイレの小便器にのめった顔をくっつけ、胸を真っ赤に染めて、振付師が倒れかかり即死していた。以前よりももっと細い銀ラメ入りのズボンにはきかえ、わざと股のもっこりを強調している。胸はレース飾りの沢山ついた絹のブラウスで、それが半分赤く染まっている。弾丸は背中から入り、胸を抜けている。
正確に胸の真ん中を射抜かれたらしく、声もたてない即死だ。岩崎はそばに立った大田に
「大田君、もう犯人は分かってるんだろう」
「はい」
とパリ帰りの若い警部は力強く答えた。
「さっきテーブルに戻ってきたとき分かっていました。でもなぜこんなアリバイのない見えすいた犯罪をしたんでしょう」
「我々を少し見くびったんだろう」
[#小見出し] ランバダとは D
ニューヨークの音楽プロデューサーが、ブラジルのこのランバダを、ヨーロッパ風にアレンジして、パリのホールで演奏したところ、八八年、八九年の二年で大ヒットになった。
セクシーで、情熱的で、その上哀愁もただよい、人々の情感を強く打った。ヨーロッパという、さして広くない市場で忽ちLPレコードを四百万枚も売りつくした。
流行に敏感で、儲かることなら絶対ほうっておかない日本でも黙っていられない。
それに世界各国の女性の中では、目下のところ、日本の女性が一番、裸や、セックスについて、タブーが少なく大胆といわれている。T字帯のような細いショーツ一枚で、男の腿にまたがって、腰をくねらすことなど、それが踊りのフリの一つなら、平気でやれるという女性が多い。六本木を中心に、渋谷でも池袋でも、ランバダをダンスの中に組み入れたり、ショウタイムに、客に見せて喜ばせるためにやっている店が多い。客もまた一度か二度見ているうちには、ミニにT字ショーツの女の子と、喜んで踊り出す。今や熱狂的ブーム発生の一歩手前というところだ。
4
扉の入口に、乃木が立っている。
ややフレヤーのあるスカートだから、両足を広げて、充分なスタンスをとることができた。これがタイトで只立って、ピストルを持っていたら、少しサマにならないだろう。いつもなら、四十五センチの首紐だけで、胸の内ポケットへ入れておく、黒褐色の警察手帳も、見る人には見えるように、上衣の襟と襟との間に、下げておく。只の女の子が、銀色の小型の玩具のピストルで、ふざけているのかと思って、近よってきた連中も、その手帳の表紙に刻印されている警視庁の金文字を見て、さすがに、ギョッと足を止めて後ろに下《さが》る。腰をやや後ろへひいたスタイルは本式だ。可愛い顔だちで真ん丸い大きな目玉をしているくせに、その奥に意外に鋭いものがあるのを感じて、入口へ出かかって逃げ出そうとした者も、みな立止まって後ろへ下った。乃木は注意する。
「この事件でみなさまの名やご身分が外に洩れることはありません。この事件はすぐ解決します。新聞もテレビもやってきません。一時間もすれば、再び楽しく踊りを再開することもできます。ただし……」
と一度そこで言葉を区切って、みなをゆっくりと睨み回した。
「……我々の捜査に協力してくださることが条件です。無理にでも帰ろうとしたり、ここに三人、警視庁の幹部が来ていますが、その方の質問に対して意識的に虚偽の事実を答えられる方があったりしたら、みなさま全員二、三日、取調べのため、警視庁の三階の鉄格子付き大ホテルに泊っていただくことになりますし、新聞やテレビに、お顔やお名前が大々的に連日報道されることになるかもしれません。要はお心がけしだいです。どうぞ、これまでのお席にそのままお戻りください」
その凜《りん》とした声に、本物の殺人係の刑事の気迫を感じて、殆どの人がおとなしく席に戻った。だが中でどこかの組員らしいのが一人
「やいやい女のくせに粋がって、このわいに指図する気か」
と突きのけて前へ出ようとしたが、乃木が何のためらいもなく、プスッと、その靴の爪先に22口径の弾丸をあてた。とたんに
「いてえー」
ととび上がってひっくり返った。革がさけ、爪先から血が出ている。
「次はガイ者と同じ、心臓の真ん中よ。公務執行妨害だから、死んでも保険も下りないわよ。後で救急箱のヨーチンか、マーキュロでもぬっておきなさい。コードバンの靴だけは自分で買い直すのね」
さすがに文句を言い返すこともできず、青ざめた顔で脚をひきずりながら、すごすごと自分のテーブルに戻っていった。
さっきまで、ホール中、ボリュウム一杯に鳴っていた、新しいリズムの音楽もぴたりと静まった。
トイレの小便器の前に、振付師のロートレックの女のようなしなやかな体が崩折れるように倒れていた。胸にひだ飾りの多いブラウスを着ているが、背中の部分は、女のドレスがその部分のチャーミングな魅力を男に誇示するために、ぐるっと切り抜くようにしてむき出しにしてあるように、彼の背中も男のくせに、殆どむき出しになっていた。白いなめらかな皮膚で、女の肌のようにそばかすが少し出ている。もしホモ好みなら多少は悩ましく感じるかもしれない。一緒にやってきた、作曲者のカラソムが、ニューヨーク訛りの英語で
「ロートレック、どうしたんだ」
と叫んですがりつこうとするのを、高橋署長が手で押し止め、正確な英語で注意した。「まもなく、署から鑑識係がやって来ます。それまで、いかなる者も死体には触らないでください」
カラソムは後ろへ下げられる。岩崎はうずくまってロートレックの背中を見ていたが
「22口径で射ち抜かれている。ここがもし男のトイレでなければ、うちの乃木も大田警部も持ち物を調べられて容疑者にされるところだった。もっとも二人ともアリバイは、私と高橋署長が証明するがね」
高橋がいった。
「ここは裏口のないビルです。まだ誰も外へ出ていません。拳銃を見つけて、指紋をとる。話は簡単です」
大田警部がいった。
「こんな単純な犯罪はないわ。この事件が起こる直前、このカラソムさんがお手洗いへ行ったわ。戻ってきてからしばらくして、この人が死んだわ。これじゃ、まるでカラソムさんが殺したこと以外考えられないじゃない」
これは日本語でいったからよかったが、もし、英語やフランス語でいったら、カラソムはフランス人特有の大げさな身ぶりで騒ぎたてたろう。
「しかしもしピストルの現物が出てこないと少し難しいことになるな。彼以外考えられないということと、彼がやったということはあくまで別のことだからね」
岩崎はパリ帰りの気負いで張りきっている悍馬《かんば》のような若い大田警部の手綱をそういってひきしめた。
「……それにここまでアリバイがはっきりない犯罪を承知でやるには、何かよほどの勝算があるはずだよ、警部。たとえばピストルを全く出てこない所に始末してしまったとか。ピストルがなければ弾丸もなしだからね」
いつもの岩崎の冷酷な口調になれていない大田警部は、正直にむっとした反応を示していった。
「絶対出てきますわ。この人さっき右腕にローレックスの金時計をはめていたのに、今はめてないのは、水の中に腕をつっこんだ証拠と思うの。袖まくりして水の中に入れ、ついでに石鹸で洗っておけば、22口径ぐらいの小さな|ヘリ打ち弾《ヽヽヽヽヽ》の硝煙反応なら、流されて落ちてしまうわ。だからその意味では、うまいことやったつもりだろうけど、さっきまではめていたローレックスを外しておいたのが千慮の一失」
岩崎は大田にいう。
「しかし念のため、時計もあらかじめ外して上着やシャツをうんと腕まくりをして射ったとしたら」
「時計には反応が出てこないかもしれないけど、武器はピストルよ。チョコレートや紙細工と違って、水洗トイレで流して溶かしてしまうわけにはいかないわ。映画は私たちにいい前例を教えてくれるわ。ゴッドファーザーで三男が敵のボスをおいて一人でトイレに入る。そしてそこの水洗タンクにあらかじめかくしてあったピストルをとり出して、ボスと悪徳警官を射ち殺す。女の私が男の大便所の扉をあけるのも変だから、その扉をみなあけて、右上に流す水を入れるタンクがあるかどうか見てくださる。あんまり話が単純すぎて自分でもいやになるけど」
と少し恥ずかしそうにいった。タンクがあれば便器に蓋をしてそれにのり、タンクの中に手をつっこんで、中に入れてあるピストルをとり出す。指紋は消えてしまっているだろうが、この後は、ゆっくりカラソムを訊問すれば、自白を焙《あぶ》り出せるはずだ。大田警部はその成功を百パーセント信じていた。
高橋警視が四つ並んでいる大便用のボックスの扉を片っぱしからあけた。
「あっ!」
言い出しっぺの大田警部がびっくりして中を見つめた。信じられないというように首を振った。ボックスの隅には四角い貯水タンクがなかった。これで大田蹴鞠子の日本における初推理は見事に空振《からぶ》りだ。上にない場合、右前に手洗い兼用で備えつけてあるひし形のタンクもない。四隅の壁はきれいに何もないのだ。把手の代わりに、便器の前に小さな丸いペダルがあるきりだ。
岩崎が大田警部を慰めるようにいった。
「現在、住居、OA機器、すべての点で、ハイテクが一番進んでるのは日本で、ヨーロッパは三十年以上はおくれているよ。がっかりしないで、テーブルでゆっくり話し合いましょう。話しているうちに何かが分かってくるもんです。私もこいつが犯人《ホシ》だと睨んでいることでは、あなたと全く意見が同じだがね。時間的にも空間的にも彼以外の犯人は存在し得ませんから。それが彼にも分かっているだけに、よけい巧妙な手段を使ってるはずですよ。一つ知恵比べと行きましょう」
友の死にショックを受けたように、涙を流している作曲家を、今一度丁重にテーブルの所に連れて行った。
ホール中がシーンとして、このテーブルを見ている。音楽も鳴らず、踊りも始まらない。やっと六本木署からの要員の刑事が到着して十名ほど入口の配備や、男子トイレの現場検証にかかった。
鑑識係はしきりにフラッシュを焚《た》いて、死体や、その周辺を撮影している。死因はもう誰の目にも明らかだ。
小便の便器の真後ろに、ボックスがある。犯人は先に中に入っていて、そこをあけて、何も知らず用便中の被害者の背中に正確に狙いを定めて、まっすぐ心臓に抜けるよう一発で仕留めたことも分かる。
22口径のピストルは、全く無音ではないが、プシュッと空気が洩れるぐらいの音しかしないから、外へは洩れないはずだ。
「カラソムさんにお訊ねしますが」
と岩崎は達者なニューヨーク訛りでいった。この言葉が一番このランバダの作曲者に使い易いと考えたからだ。両掌で涙でぐしゃぐしゃになっていた顔をおおっていた彼は、掌を離すといった。
「どんなことでしょうか。どうか、私のたった一人のパートナーで、愛人でもあるロートレックの仇をとってください。必ず犯人を見つけてください」
「多分犯人は、すぐ見つかるでしょう。ところでさっき右腕におはめだった時計は今どこにありますか。見せてくれませんか」
「ああこれですか」
ズボンの右のポケットからとり出した。
「手を洗うとき外しておかないと、つい水の中につけてしまうもので……」
岩崎は無言で受けとり、そこへやってきた所轄の刑事に命じた。これは日本語だ。
「科捜研で硝煙反応テストをやってもらうよう回してくれ。どんなに微細な反応でも出すように」
すぐニューヨーク弁に戻り
「別に何もあなたを疑ってるわけではありませんが、ちょっとお貸しください。うまくアリバイがたたないので。……ところで今一つおききしますが、このランバダの爆発的流行で入った、レコードや演奏料、映画化権料についての分配はあなたと振付けのロートレツクさんとはどんな割合になってるのですか」
「すべて、五分五分です。我々の間はとてもうまく行ってます」
岩崎警視正のいつもの人の心を凍りつかせるような冷たい目が光った。
「私どもも二人の男どうしの愛の崇高さから、それを信じています。しかし五分五分だと十億の儲けでも五億、二十億日本市場から吸い上げてもやっと十億ですね」
「それは共同の作業ですから。私は感謝と共に、半分を彼に渡すつもりでした。それなのに……彼は……可哀相で、可哀相で……」
とまた顔をおおって泣き出した。いつのまにか乃木が戻ってきて、大田警部の横に坐った。少ししょげて、大田警部はこの問答をきいていた。乃木が横に並ぶ。いくら警察官でも軽いお化粧はする。女だから。それに六本木へ来るのだから、少し濃い目の化粧をしている。甘い香料の匂いがした。とたんに大田は立ち上がった。
「そうだわ。なぜ気がつかなかったんだろう」
それから乃木に
「ケイコちゃん一緒にきて。女じゃなきゃ入れないところよ」
といって奥の手洗いの方に歩き出す。女性用は男性用と反対の左奥にある。
「さっきランバダを踊ったガイ者のパートナーの女と作曲者がグルだったらできることよ。トイレの入口でホステスのするようにむしタオルを持って立たせておいて、そのタオルにすばやくくるめばよそへ運べるはずよ」
二人は女子トイレにとびこむと、片っぱしから扉をあけた。一つは使用中だったがどなりつけるようにして中から追い出した。そして、右隅にある、ホーロー引きの小さな汚物入れを、足で蹴ってすべてひっくり返した。三番目のボックスから、血に汚れた綿や布と一緒に、22口径コルトが一つとび出してきた。コルト自動銃だった。
白手袋でそれをつまんで、テーブルに持ってきた大田警部の姿を見ると、それまで悲しそうに泣いていた、作曲者カラソムの顔が真っ赤になり
「ガッデム!」(畜生!)
と思わずどなって立ち上がった。その手にすばやく高橋の手錠がかかる。
その夜、快く酔った乃木と高橋署長は現場から家に直行した。部屋に戻り入浴し、二人はベッドに入った。
さすがに少し疲れたが、それは快い疲労であった。本当は、際限がないというので、一日おきにセックスの日を決めて制限していた。今日はおとなしくキスだけして、背中に手を回してもらって、抱っこだけして眠る日だったが、こんなことがあって、心が昂っていては、とてもおとなしく寝につくことはできない。
「抱いて、体が燃えて仕方がないの」
と妻の方から積極的に求めて行った。そしてそれが、いつもよりも、ずっと強く甘い情感で、終極のコースへ昇りつめようとしたとき、突然その情感を振り払うようにして乃木は
「待って!」
と鋭くいって、夫の動作を止めさせた。
「えっ、何だね」
びっくりしてきく夫に、丸い目をらんらんと光らせて、下から睨みつけるようにいった。
「承知しないから。殺してやるから」
「おい、何だよ、急に」
「……もし、大田警部といくら仕事上の打合せであっても、二人だけで英語かフランス語で変な打ち合わせしたら許さないわよ」
「するわけないじゃないか」
「学校時代は彼女はブスでデブだったの。今の見かけに騙されちゃだめよ。あなたは私一人だけを永久に愛してくれればいいの」
「分かってるよ。ばかなことをいうな」
再び、中断した愛は再開され、二人は無我の境に昇りつめて行く。
かくして春の夜は悩ましく更けて行く。
[#改ページ]
[#見出し] 一日早い殺人
[#小見出し] 保険の種類 A
定期付終身保険[#「定期付終身保険」はゴシック体]
保険の契約書は例外なく細かい字でびっしり書きこまれているので、素人には内容が分からないようになっている。それで代表的な保険の要点を分かり易く簡単に書き直す。
三十歳の時に入り、三十年満期、支払い額五千万円が標準で、月の掛金が二万三千八百円。それに多少の掛金の追加で、災害や事故での不慮死をした場合、何倍かの増額が保証される。宣伝文句は必ず『働きざかりは大きく保証』である。どの社も大体名称その他に変わりはない。
ここに、加入者に思いもよらぬ罠《わな》がある。
もし三十年かけ続けて六十歳になり、誕生日を一日すぎたらどうなるか、誰も考えない。六十歳までは五千万円貰えるが、一日すぎてからは、貰える金は五百万円に減る。どの保険のパンフレットにもこのことははっきりとは書いてない。長生きするとえらく損をするのである。
1
梅雨の季節に入った。陰気だ。それにやや気温が高くなると、じっとりとシャツが汗ばみ、逆に気温が低いと妙に肌寒い。
外の空気をすっかり濡らしている雨の水分が、気温を本来の温度よりプラスしたり、マイナスに感じさせたりする。
といってまだ六月に入ったばかりでは、どこのビルも、冷房も暖房も入れない。
ましてお堅いお役所の警視庁ビルでは完全空気調節とはいかない。六階の捜一の部屋も、表のガラスを打つ雨の滴の影響をもろに受ける。もともと殺人犯追及が専門の捜査一課は、気性の激しい、やや荒々しい男たちが揃っている。他の係のように、人情や、穏便に扱うことができない、待ったなしの冷酷な殺人犯を相手にするのだからこれもやむを得ない。弾丸が降りしきる戦場と同じで、やらなければ、こちらがやられるという怖れさえある職場だ。
このところ、続けざまに凶悪事件を鮮やかに解決した一係、二係の二十名の猛者刑事《モサデカ》諸君は、降りしきる雨を窓の外に眺めながら珍しく在庁で机にしがみついていた。
事件があってこそ刑事。事件がなくて在庁のときはあまりサエない。背広はつるしの安物で、それも年月かけて古くなったものだし、人相は誰もみな、明朗・快活・爽やかハンサムというわけにはいかない。
隣席の同僚を見るときでさえ、つい白目で睨み上げる感じになるのは、チェーンソウを使う森林労働者の白蝋《はくろう》病や、セメント山の工夫の珪肺《けいはい》病と同じ職業病だ。
六階の捜査一課の大部屋には、もし事件が何も起こってないと仮定すると、二百名を超す荒っぽい男たちが揃って坐ることになる。幸い? 帝都東京では、毎日三つや四つの殺人事件が起きないことはなく、おかげで二百名の男が全員、大部屋にひしめくという事態になったことはない。
一係と二係のデスクが、十ずつ並ぶ列に向かい合って、その両係の直接の指導官である管理官岩崎警視正の机がある。
他の四係や、七、八係は(殺人専門は全部で九係)外へ出払って空席だが、目の前の一係と二係の刑事さんたちは、出番を待って、馴れない伝票や、日誌類の記述をしている。
コンピュータへのデータ打ち込みを休み、警視正は珍しく穏やかな目で自分の部下を見つめた。二十二名、みな頼もしい。仕事にひたむきな可愛い刑事《デカ》さんたちばかりだ。
『それでも……』
と内心でそっと呟いた。
『……他の係が面倒くさがって仲間に加えない女の刑事さんを二人入れておいたから、在庁のときやこんなうっとうしい梅雨どきにも、みながついいらいらすることがない。大分助かっているな』
と思った。事実九つある殺人担当の強行犯係の中で、正式な捜査係刑事として、女の刑事がいるところは、一係、二係の岩崎警視正の配下だけである。お茶汲みや、伝票専門の事務職員の女の子をおいている係は他にもあるが、係長によっては、鬼の捜一に女は不要と、一人も女性をおかない係もある。
岩崎がこの捜一に着任したときからのコンビが乃木圭子。最近、一係長だった高橋警視と結婚した。(実は内緒の話だが)どちらか一人が管下所轄に出なくてはならない不文律があって、その処置は、岩崎の胸三寸にあったのだが、警視正は新夫になった高橋警視の方を六本木の署長に出すことで解決してしまった。おかげで岩崎班の乃木刑事は捜一に残り、夫婦別姓方式を取り、結婚後も名実ともに捜一の乃木女鬼刑事として健在である。
もう一人は、岩崎夫人になって、目下一子翔の子育てのため休職中の志村みずえ警部補が、自分の代わりに、故郷の会津、白虎高校の後輩で、スポーツと武道の達人の若い張り切り娘を推薦して見習いで入れた。今はレッキとした女刑事の峯岸稽古である。名前の呼び方が乃木と同じケイコなので、峯岸の方はお稽古と呼ばれている。
今一人新人が来た。その女性の入庁は乃木の結婚と少し関係がある。
一係長の高橋警視が六本木署長で出て行くと、二係長の村松警視が一係長にスライドして二係長が空席になった。この四月に、エリート特進組の若手警部が、パリの国際刑事警察機構《インターポール》の研修勤務を終えて着任した。津田塾大を出て、国家公務員上級職試験も、優秀な成績で通った、女性のキャリアだ。自治省の採用枠だから、将来は総理府か、内閣官房のエリート官僚になるキャリアだが、その官僚生活の出発を捜一の殺人係捜査から始めさせるというところに、この秀才女性に対する自治省の期待が並々ならぬものを感じさせる。この女性の名前は大田蹴鞠子。彼女が空席の二係長になった。
皮肉なことに、乃木圭子とは、都立新宿高校時代の同級生で、ケイとキックのピンクレディ・コンビといわれるぐらい仲良しだった二人であった。ただし、一人は大学に受かり、一人は落ちて警察学校へ入ったために、運命は二人を分けてしまった。それから六年。六年も前に入庁した乃木の直接の上司として大田警部が着任したのであるから、乃木の気持ちはかつての親友とはいえ、かなり微妙である。
[#捜査一課の組織図(fig1.jpg)]
岩崎は久しぶりに事件も入らず暇なので、デスクで熱心に帳面の記載をしている三人の女刑事の横顔を眺めた。みな若い。乃木と大田が二十六歳。お稽古に至っては二十二歳だ。俯《うつむ》いたうなじや、ほつれかかる後《おく》れ毛にも、若い女の持つ爽《さわ》やかなお色気がある。
こんな可変い女性が犯人に対しては鬼より怖い刑事になるとはとても信じられない。だが、この三人が頑張っているからこそ、この捜一の中でも、一係と二係が、一番検挙率が高い。特に女性がからむ痴情関係の犯罪には、キメの細かい対応ができる。
多少、他の係の係長や、管理官、理事官などの反発があっても、女刑事三人を置いてよかったと思った。
ふだんは、特別にこんなことを考える警視正でなかったが、その日に限ってそんなことがしきりに思われたのも、やはり予感が自然に働いたせいらしい。
いつまでも女刑事の首筋ばかり見ていても、少しセクハラめくので、視線をガラス戸の外の、じとじとしめっぽく降る雨の方に移したとたん、岩崎のデスクの電話が鳴った。岩崎のデスクの電話は、乃木のところにも端末がある。
乃木がはっと顔を上げて取ろうとしたのを、片手で制するようにして岩崎が取り上げた。
電話の中の声が、電話線を伝わり、まだ送話口に出る直前の数百分の一秒前に警視正には話の内容が殺人であるかどうかの区別がつく。これは明らかに殺人だ。それもこの長雨と同じかなり陰気なじめついた殺しに違いないと感じている。
ベルの音が止まり、正面の管理官の方が、先に電話を取り上げたのを知り、乃木はのばしかけた手を、黒い電話機の上で止めて押えると、丸い大きな目で岩崎の方をじっと見つめた。岩崎は先方に答えている。
「こちら捜一。……はい岩崎管理官です。……はい、部長ですか」
それまで黙々とデスクで仕事をしていた一係、二係合わせて二十名以上の刑事《デカ》さんたちが、一斉に緊張し、坐り直して聞き耳をたてた。
これまでの例によれば、末席の乃木より早く岩崎が電話を取るときは、必ず殺人事件が発生している。
岩崎のすぐの上司は理事官。その上が捜査一課長。更にその上が刑事部長。一課長を飛び越して、刑事部長からかかってくるということは、それだけ事件が大きいということだ。腕ッ節に自信のある猛者刑事諸君は、みなはやりたつ気持ちを抑えて、正面の管理官のデスクを見つめる。
しかし岩崎の耳に入ってくる指示は、およそそんな部下たちの期待とは全く相容れないおかしなものだった。
「ああ、岩崎君。君の所には、鬼より怖いメスデカがいたね」
さすがふだんは豪胆沈着な警視正も、あわてて電話の声が外に洩れないようにと、耳にあてた受話器の部分を、外から掌で囲った。このセクハラ攻撃時代だ。うっかりこんな言葉が女刑事たちの耳に入ったら、大変なことになってしまう。
小声でそっと答えた。
「三人おります」
「一人は警部だね」
「はい、四月にやってきました。新人ですが」
「女だけで立件、逮捕、公訴に持ちこめれば新人でも未経験者でもいい」
刑事部長が三人の女刑事の内の一人の階級をわざわざたしかめたのには理由がある。
一般の人は、悪事を犯した犯人を見つけたら刑事が行って捕まえられると思っている。もっと何も知らない人は、お巡りさんがのこのこ出かけて行って手錠と縄をかけて、しょっぴいてくればいいと思っている。それは江戸時代の岡ッ引の話で、現代の刑事訴訟法では現行犯以外には、刑事でも、巡査でも、すぐその場で逮捕することはできない。
既に犯罪が行われてしまった後、充分な捜査と推理で犯人を割り出し、証拠も揃ったら、裁判所にまず逮捕状の請求をして取り、それを相手に見せてからでなくては、身柄拘束をできない。その令状は、司法警察職員でなくては請求できない。乃木やお稽古がいくら頑張ってもだめだ。
司法警察職員というのは、普通警部以上という階級の制限がある。
「はい階級は警部です。なったばかりですが」
「三人、こちらによこしてくれ。ああ君も一緒に来てくれ」
「畏《かしこ》まりました」
電話が切れた。二十人の部下が、全身を緊張させて、もし一旦警視正から『行こう』と一声あったり、『ついてこい』と警視正が廊下にとび出したりしたら、ただちに一斉に出て行けるよう身構えて、岩崎の一挙一動を注目している。彼らに向かって親分は軽く手で制した。
「刑事部長から緊急の召集がかかった。ただし猛者諸君はお呼びでない。やはり世の中マドンナ時代なのかね。うちの三人に特別のご用だ。私について来なさい」
大田係長と、乃木と峯岸の二人の刑事が立ち上がった。他の刑事たちは少しがっかりした。
女性刑事は三人ともきちっと制服を着ている。男の刑事たちは、殆ど一年中私服だ。その方がすぐ外に飛び出して捜査に当たるのに便利なのだ。婦人刑事の場合は、現場へ入って行くのに、制服の方が便利なので、日常の勤務は制服でするしきたりになっている。
岩崎の後に続いて三人がついて行く。デザインは三人とも同じで、腰がくびれている上、やや短めのタイトのスカートが、体格のいい三人の(きっと)豊満な肉体をぴったり包んでいる。階級章だけがそれぞれ少し違う。
刑事部長室は同じ六階にあった。岩崎がノックし、中へ四人は入った。
既にそこには部長の他に、捜一課長が待っていた。部長は四人をソファに坐らせると
「いやーごくろうさん。さすがに岩崎君が選んだだけあって、みな頼もしい女刑事さんばかりだね。それにとびきりの美人ばかりでまことにお目出たい」
といった。何がお目出たいのか意味がやや不明だが、これはムードとして聞いておく。
捜査能力と美貌とは関係ないが、目くじらたてる問題でない。すぐに部長が、三人のメス刑事《デカ》に向かっていった。
「君たち三人でなくては、できない事件が起きた。殺人だ。ただし殺人とはっきりすれば、我が捜一は女子修道院でも宮内庁の女官室でも、女風呂でも、男の刑事さんが入る。これは捜査だから仕方がない。ところが先方は病院だ。何の証拠もないし、死因も自然の病死として処理できるので、もし強いて男の刑事さんを派遣してくるのなら、適正な死亡診断書を出して先に病死で処理してしまうというのだ。医者がそういうのだから、多分警察が横から口を出しても事件として立証できないだろう」
岩崎が質問した。
「なぜ、男の刑事ではいけないのですか」
「そこは、設立以来かつて男が一人も入ったことのないという女の聖域だ。その伝統を汚したくないということだ」
捜一課長が感心したようにいった。
「高野山に女が入れないとか、相撲の土俵に女が上れないと聞いたことがありますが、男が絶対入れない世界ってのが今でもあるのですか」
女三人も知らなかったらしく不思議そうな顔でいる。警視正は知っていた。
「聖テレジヤ協会病院の、西病棟ですね。一応婦人科疾患が専門だが、癌も、外科も、何でもあるときいてます。ただし、周りを厳重に塀で囲み、一般病棟と区別し、中は医師も、見舞客も、男は一切入れないしきたりになっている」
「そうだ。先方からの知らせによると……」
と刑事部長は続けて説明した。
「……そこで一人の老婆が今朝死んだ。ほうっておいても、明日中には死ぬと決まってたんだが、調べてみると少し死因がおかしい。無理に事件にしなくてもいいのだが、もし優秀な女の刑事さんだけでやってくれるのなら、一応真相を明らかにしたいので来てくれるかというのだ」
三人の女刑事は瞳を輝かしてうなずいた。
[#小見出し] 保険の種類 B
終身保険[#「終身保険」はゴシック体]
これが普通の生命保険である。
一例をあげると、四十歳で始めて六十五歳で払込満了とする。保険金は二千万円で、月々の掛金は二万五百円だ。保険金は半分以下、掛金は高いが、六十五歳以上、絶対生きるという自信のある人はこちらの方が少しばかり安全だ。幾つで死んでも二千万円は貰える。
ただ六十五歳以上になると、家族がそろそろ保険金をあてにするようになる。それで長生きが必ずしも歓迎されない風潮が生まれる。その上生きていて自分が使うことは絶対できないのだから、葬式でも派手に出したいと願う人以外は、まあつまらない投資だ。
その葬式だってちゃんとやってくれるかどうかは、自分で確かめるわけにはいかない。
2
聖テレジヤ協会病院は、東京世田谷の、昔の陸軍の病院に隣接した緑の多い地帯に、広大な敷地を占有して建っていた。
岩崎はふだん通勤に使っている自分のBMWを運転して、その病院の門の中に入れ、予め病院に頼んであった駐車スペースに向けた。
後ろの席には、制服に白いショルダーの三人の婦人刑事が、緊張して坐っている。
病院には警視正が連れてきてくれたが、中での捜査はこれから女三人だけでしなくてはならない。
大田警部は、階級だけは逮捕状請求や公訴提起ができる資格があるが、実際には、殺人事件の現場の経験は一度しかない。
乃木と峯岸の二人のケイコは、もう何度も現場を踏んでいるが、いざとなると自分らだけでは逮捕も身柄送検もできない。それに必要な書類の下付の申請ができないからだ。お互いに助けあっての二人三脚でやる以外ない。これまでは、まず現場に岩崎管理官が行って、一切の指揮を取るから、乃木もお稽古も、書類のことなどは何一つ考えず、ただ命じられた通り動いて犯人をみつけたら、大いばりで手錠をガチャリとはめればよかったのだが、今回は自分らだけでは心細い。
岩崎は車を建物の横の駐車スペースにおくと三人にいった。
「警察の車だと、黒塗りのかくしパトカーでも自然に分かって、マスコミにかぎつけられる。それに患者たちに何となく不安感をあたえる。だから私の車にした。ちゃんと車内電話もあるし、刑事部とは無線もつながっている。私は中へ入らないが、すぐ君たちの後ろに一緒に歩いていると思って、三人だけでどんどん捜査をすすめなさい」
そういいながらスイッチを押した。
とたんに前のスピーカーからザーッと音が流れ出し、かすかに心拍音のような音もきこえる。何かしらと三人が顔を見合わせる。
「さっき胸につけてもらったバッジからだ。今の君らの心臓の音を拾っている。君らが中でやっていることは、すべてここで聞こえる」
「まあー」
「ときどき中から私に電話をかけなさい。どうしたらいいか指示するから」
「はい、では行ってきます」
三人は、車を出て歩いて行く。その三人のお互いの会話が車で待機している岩崎の前のスピーカーに入ってくる。乃木がみなに
「別棟というから、本棟があって小さな別棟があると思ったら、ここは別棟の方が大きくて広いのね」
と話しかける。お稽古が答える。
「今は女の時代ですから。このごろは温泉地の旅館へ行っても、男のお風呂よりは女のお風呂の方を大きくしておかないと、お客に文句いわれるそうです」
本部や一般の病棟は貧弱な三階建てのコンクリートのビルだったが、周囲をぐるりと塀で囲み、怖い顔をしたガードマンが入口を固めているビルは、六階建ての近代的なビルで、明るい象牙色だ。外から見ても快適な病室とベッド、近代的な高価な医療器具が充実していることが、一目で感じられる。
入口のガードマンも三人をすぐ通した。三人とも、たとえ制服とはいえスカート姿で、胸もたっぷりと前に突き出ており、誰が見ても女性である。その入口は、女性でありさえすれば、まず無条件で通れることになっている。その代わり男の姿であればどんな身分証明を提示しても入れない。
ガードマンは、婦人警官がやってくることは、予め知らされていたらしく、姿勢を正して挙手の敬礼をした。それに答えながら、三人とも一層緊張した。
これからはすべての捜査を自分たちでしなくてはならない。特に大田警部は、四月に捜一勤務を命ぜられてから、まだ二月《ふたつき》しかたっていない。事件には、四、五回は立ち会ったが、吉田老人や進藤デカ長などの先輩がやることを傍らでみており、いう通りに行動していればよかった。今度は二人の部下を連れて捜査主任の警部として、自分が先にたって現場で判断し、犯人の割り出しに当たらなくてはならない。令状の請求や犯人の収監、起訴の手続きなどはこれまでずっと研修で勉強してすべて頭の中に入っているが、肝心な捜査に対しては、ひどく自信がなくて心細かった。
心細いことに関しては、捜一での現場生活六年、殺人事件には毎日のラッシュ・アワーの通勤電車の混雑と同じぐらい馴れっこになっている乃木も同じだ。たしかに経験はたっぷりだが、それはみな岩崎警視正の的確な指示のままに動いていただけで、殆ど自分の判断で多くの事実の中から、一人の犯人を探り出すということをやったことはない。
エレベーターで五階に上る。
そこには『癌研センター』という標識がある。
エレベーターを降りると、三十ぐらいの、いかにも利発そうな容貌の女医が待っていた。目が大きくきらきらしていて、聡明で自信あり気だが、同時に勝気で、正義感が強そうだ。
「警視庁からお出でになった方ですね」
「はい捜一から参りました」
大田が代表して答える。
「事件……今のところは……これはまだはっきりしませんが、今、死者のいる病室はこの廊下の突き当たりです。普通、病室で死亡された患者は、できるだけ早く、地下の霊安室へお移しするのですが、私の判断でまだ死体を部屋から出していません。どうにも腑に落ちないことがあるからです」
そして、一旦足を止めると、さらにいった。
「少しゆっくり歩いてください。多分、部屋へ入るまでに私が特別に捜査をお願いした事情をすべて説明できると思います」
三人は女医と歩調を合わせてゆっくり歩き出した。女医とそれを取り囲む三人の婦人警官に、すれ違う見舞客や看護婦は、みなけげんそうな表情を浮かべる。女医がいう。
「この階へは末期の症状で、当人も癌を自覚し、もう外へ出られることのないことを悟った人だけ移します。人間としての最期をいかに静かに安らかにすごさせ、安心させ、無駄な苦痛を取り除いてあげるかに、ここの階の病室を預かっている私たちのすべての努力がかかっています。治療はもう考えておりません」
三人はシューンと黙ってしまった。三人ともまだ若い。それにみな健康だ。病気らしい病気をした経験などない。
病いよいよ重く、意識はしっかりしながらも、近くどうしても死を迎えなくてはならない人間の苦しみや悲しみなど、とても想像もできないが、それでも聞いているうちに心が暗くなってくる。女医は自分の腕時計をひょいと見た。日付と曜日が出るカレンダー式時計だ。確認してからいった。
「今日は六月一日ですね」
「はい、金曜日です」
お稽古が歩きながら答えた。出勤簿を整理し、勤務日録を作成するのは彼女の仕事であるので、日時や曜日はいつも正確に頭に入っている。
「その人は六月二日の夕方ごろ亡くなるはずでした。それは私のこれまでの医学的な知識からいっても、絶対間違いないことだったんです。三日までの延命は絶対無理でしたが、といって一日前の今朝に亡くなるということは、やはり考えられないのです」
女医は、黒く大きな瞳をきらきら輝かしていった。自信にみちた表情だ。乃木がいう。
「みすみす、苦しめるのが可哀想なので、誰か身内の人が生命維持装置を外したのではないのですか」
女医は大きくうなずいた。
「たしかにそれは考えられます。でも後もう一日だけです。二日の午後という臨終の時間は分かっていたのです。ここの病院は、一つの倫理規定として、どんなに患者や家族の人が望んでも、決して安楽死の処置はしません。たしかに患者さんは、酸素吸入器を口にあてて辛うじて生きている状態でした。だから誰かがそのスイッチに触って、五分ほども酸素の供給を断てば、その患者さんは確実に死にました。しかし病院自体が安楽死を認めていないのですから、家族、医師、看護婦が、酸素ボンベのスイッチを勝手にいじれば、殺人罪が成立します。たとえ自然に死ぬ日の一日前であっても、殺人罪は殺人罪です」
大田はこれまで学んだ、刑法やその関連法律を頭の中で大急ぎでくり返してみた。何ともはっきりはいえないが、やはり殺人罪を構成すると思われた。
「誰かが酸素ボンベのスイッチをいじったことだけは確実です。ねじの位置が規定よりずれていました。ただこのことは、今のところ私一人しか知りません。それであなた方に出張をお願いしたのです」
女医と一行は、長い廊下を歩いて、突き当たりの部屋まで来た。女医は扉の前で最後にいった。
「これで私の話は終わります。関係者はすべて呼んであります。この五階は、人間の出入りは、わりとやかましく、途中のナースステーション(看護婦詰所)で厳重に監視してますので、病室への出入りは私が許可した者以外はできません。これまで出入りを許されていた人はすべて今死者の枕もとに呼んであります。あなた方の見た目で別にこれは事件でないとご判断いただけるのなら、このまま私は死亡診断書を記載し、手続きを取ります。その場合は右手の指の親指と人さし指とで小さな輪を作ってください。もし少し考えるところがあるなら、掌をそのまま下へ指を向けてのばしたままにしておいてください」
そう大田に頼んでから扉をあけた。
ベッドの周りには、四人の女性が坐っており、涙を拭っていたり、薄っぺらな布団の上に顔を伏せてすすり泣いたりしていた。すべて身内だろう。女性専用病棟だから、そこにいるのは当然女性ばかりだ。
死者の顔には、白布がかけられているが、やせた肩や、殆ど平らに近い布団のふくらみからも、亡くなったのはかなりの老女と分かる。
四人の身内の女は、女医の後ろにいる制服の婦人警官の姿を見て、不審そうにした。中には露骨に不愉快そうな顔をして見る者がいた。
三人は、捜一の刑事としてもその視線にたじろいではいられない。いずれも冷たい探るような視線でその女たちを見つめ返した。乃木も峯岸も、もう捜一が長い。かなり現場を踏んでいる。冷たい、感情のこもらない目で、じっと相手を見つめる岩崎警視正そっくりのテクニックを会得している。大田はまだ、相手を凍らせるような冷酷な視線で見つめるやり方には馴れていない。少しどぎまぎして
「これは捜査とか何とかいうものではありません。ただ少し事情をお聞きしたいだけです。どうぞそのままおかけになっていてください。すぐ終わります」
という。女医が三人の警官にいった。
「一番右のはしが、お孫さんの秀《ひで》子さん。その枕もとの方が、お嬢さんの美《よし》子さんです」
秀子は十七、八歳の女子高校生だ。もう一人のお嬢さんといわれた女は死者の娘だということで多分もう結婚しているのだろう。四十を大分すぎている。
「こちらの左におられるのはご長男のお嫁さんの志津子さん。そして左のわきに坐っておられるのは、亡くなられた方のお花の一番弟子で代稽古もやっておられる文江さんです」
嫁は娘と同様、四十を越している。お花の弟子といわれた女は、明らかに五十はとっくにすぎている。
孫を除いては三人ともすべて、刑事さんたちより年上で、やりにくい相手だ。
この女たちの中でも、一番発言力が強いらしい娘の美子が、はっきりと今は敵意を見せて、三人の婦人警官にいった。
「私たちは今、母に死なれて悲しみの最中なのです。それがどうしてお巡りさんに調べられなければいけないのです。何かおかしなことでもあるのですか」
すると、女医がはっきりいった。
「一つあるのです」
「まあー」
四人の女が一斉に非難するような瞳を向ける。女医は黒く大きな瞳を一杯に見開いてたじろがない。
「この方々は、私が頼んできてもらいました。まずここでなぜ私がこんなことをしたか、初めにいいます。警察官の方もご遺族の方もここを見てください」
ベッドの枕もとのゴムのパイプをたぐって行くと、酸素ボンベに辿りつく。その根元が回転式のバルブ栓になっている。
「ここが動いています。きちんと止めたときはこの栓の黄色い所まで、把手の先が来なくてはいけないのが、二センチも前で止まっています。これは誰かがいじって、何分間か酸素を止めた証拠です。この方はその酸素の中断で亡くなりました」
「でも明日の昼まではもたなかったのでしょう」娘がいった。女医はすぐ答えた。
「たしかにそうです。しかしその前日に死ぬのはやはり殺人です。私は医師としてこの一日早い死を決して許すことができないのです」
大田が四人の女に厳然としていった。
「捜査にご協力をお願いします。これから一人一人お伺いしますので、何事もかくすことなくお答えいただきたいのです」
[#小見出し] 保険の種類 C
定期付養老保険[#「定期付養老保険」はゴシック体]
ごく普通に普及している保険であるが、加入時には面倒でも、弁護士もしくは司法試験受験者程度の法律知識のある者と相談した方がよい。
例えば、三十歳の男性が三十年払込六十歳満期の保険に入るとする。
保険金の受け取り方に二つの方法がある。
途中で目出たく死亡できた場合は三千五百万円入る。六十歳より一日でも生き残った場合は残念ながら受取金は只の三百万円である。
月々の掛金は一万八千四百円。
支払い満期、その他の条件は同じで次の方法も取ることができる。
三十歳から二十年間のうちに死亡したら三千五百万円。まことに有難い。二十年を一日越すと三百万円。これは月々の支払いは一万六千三百円が五千百円に減るというおいしい条件付きだが、ただし、五十歳をすぎて死ぬと、貰えるのは三百万円だ。何とも不気味な死亡ゲームなのである。
3
病室は広くはないが、ベッドが一つということは、多少経済的に余裕があり、健康保険での支払いの他に、一日一万円なり二万円なりの差額料金をこの家族は払っているということだ。
大田蹴鞠子警部は、まだ殺人係になって日が浅いから、死者の家庭はかなりの良い家庭で、ここにいる家族たちが、今ベッドで白布を顔におき、小さく縮まってしまっている故人のお婆ちゃんを敬愛して大事にしていると、ごく単純に考えていた。高校からストレートで津田塾大へ入り、そのまま国家公務員上級職試験に合格して、エリート官僚への道をまっすぐ進んでいる彼女は、当然自分自身もかなりの家庭の出で、経済的に苦しんだことがない。人の心の裏側までは見抜けない。
乃木も都内の一般中級サラリーマンの家庭の子女だし、峯岸も地方であるが、まあまあの家庭の出で、貧乏を体験しているわけではない。ただ大田警部と違うのは、最下級の巡査の階級から出発し、奉職後、防犯や殺人の現場を数多く踏んできている。金を巡って、人間が、お互い同士どんなに醜く争い合うか、貧乏が人間の心にどんなに様々な影響を与えるかをよく知っていた。必ずしも、人の言葉をその額面通りには受け取らない。本当はおとなしいお嬢さんに育って、お嫁にいって、素直ないい奥さんになるには、こういう習性はない方がいいかもしれないが、乃木もお稽古もこれから捜査のベテラン殺人係刑事になろうとしているのだから、単純に相手のいうことを信じていては職責は果たせない。
二人は既に、四人の身内の女性の心の中に、大田警部の調査をかなり迷惑に思っている動きがあるのを鋭く感じとっていた。
ただし岩崎警視正の直接の指導で、現場で鍛えられているから、表面はあくまで全く無表情だ。瞳も動かさない。犯罪者の中には、刑事が相手の心の動きを読み取るより先に、刑事の考えを読んで都合のいい返事を先取りする者が多いからだ。
大田警部は手帳を出して広げると聴く。
「それではもう一度、ご当人の口から、それぞれ、この亡くなられた方との続柄や、もしご職業があったらおっしゃってください」
四人の中では一番発言力があるらしい故人の娘の美子が、明らかに不快の念をあらわにしながらいった。
「それは、警察のおっしゃることだからどんなご協力でもしますわ。でも、大事なお母さんが亡くなったばかりで、身内だけでしみじみと冥福を祈ってあげなくてはいけないところに、とんだ災難だわ」
大田警部はまだ場馴れしていないので
「すみません。ご協力をお願いします」
と下手《したで》に出て丁重に謝る。乃木とお稽古はじっとその女を見ている。娘の美子は、この二人の女刑事の奇妙な無表情に気がつき、ふいにどぎまぎしたように語り出す。
「私は故人の長女で美子といいます。四十五歳です。夫は証券会社の課長です。はい、一山《ひとやま》証券で営業をやっています」
乃木が妙な行動をした。美貌の女医師の耳もとへ口をよせて何かささやく。ベッドを取りかこんだ女たちは、みなその乃木の動きを気にした。峯岸稽古刑事は、その女たちの、それぞれの反応をしっかり見ている。
乃木が女医に聞いたのは、それほど大事なことではない。
「外へ電話をかけたいのですが、どこかに電話がありますか。この部屋でない方がいいのですが」
それに対して女医も、この捜査にのっているのか、乃木の耳に口をよせ、掌で声を遮るようにして秘密めかして小声で答えた。
「廊下の中ごろのナース|詰 所《ステーシヨン》にありますわ」
乃木は大きくうなずき、まだ質問をつづけている大田にかまわずに部屋を出た。四人の女たちは、みな気にしていないような顔をしながら、かなり気にしているのを出て行く乃木は、背中でもう悟っていた。四人ともかなりくさい。
廊下を足早に歩く。ナース詰所の窓口に、カード式の電話が三台並んでいた。患者の家族の外部連絡用においてあるのだろう。
さっき岩崎に別れ際に教えてもらった自動車備えつけ電話の番号を回した。
「乃木です。これまでの状況は、胸のバッジのマイクが拾った音で、そちらでももうお分かりと思います。これから四人にいろいろと質問を致しますが、私とお稽古はどんなことを探ったらよいのでしょうか」
すると、自動車で待機している岩崎の声が返ってきた。
「女医さんのいっていることは充分信頼できる。ここで声だけを聞いていると、なまじ表情の動きを見ていないから真実が分かる。予定の日より一日早く死んだのは、間違いなく人為的な操作の結果だ」
「私もそう思います」
乃木はつられて、ついそう返事をした。とたんにまた、いつものようにガツンと一発喰らってしまった。
「今は乃木の考えはきいていない。黙って私のいうことをききなさい」
一瞬、ぷーっと頬がふくれたが、すぐまた体中がゾクゾクとしてきた。こういう冷酷できびしいところがたまらなく好き。
「……取りあえず、昨夜から今朝にかけて、四人がその病室でどんな風に交代して看病していたか。臨終のときは、誰と誰が枕もとにいたか。誰がいなかったか。もし誰もいなかったとしたら、誰が一番先に、その老婆の死を発見したのか、そのへんのことを詳しく聞きなさい。……もっとも私には、大体、この事件が、どんな風に行われたのか、見当はついているがね。犯人は別に逃亡するおそれはないし、被害者はちゃんと目の前に横たわっているのだから、慎重に、ゆっくりと事実を掘り起こしていった方がいい。その質問が一段落したら、また電話をかけなさい。次の指示を出す」
「はい」
そう答えて、乃木は電話を切って病室へ戻っていった。本当はもう一歩踏みこんで警視正の推理をききたいところだったが、『よけいなことは考えんでもいい』と叱りとばされそうなので、我慢した。
それに警視正は、この犯罪の概要は把《つか》んでしまっているらしいことは分かった。これまでは、病室の感じや、四人の女たちの態度からも、母の臨終で悲しんでいる女たちに、よけいな疑いをかけて、何となくすまないという感じも多少あった乃木も、相手にきびしい質問をする元気が出てきた。親分がこれをもう犯罪として断定している。
それなら殺人事件に間違いない。
再び病室へ戻った。中にいる四人の女の眼は、前より露骨に敵意を秘めている。
大田警部は、四人目の文江という女性に最後の質問をしているところであった。
「それでは、この亡くなられた方のお花のお弟子さんということですね」
「はい。亡くなられた先生は古式流生花の東京総師範でした。私は、ずっと副師範として、代稽古をおおせつかっていました」
そう上品に答える。大田はそのまま手帳につけている。乃木はその彼女の着物や帯、指輪などを値踏みしている。
席を外していたので、この五十代の女が独身か、人妻か、未亡人かは分からない。しかし、着物も装身具もかなり金のかかった物を身につけている。主人に当たる人が相当な地位にあるか、もしくは、その代稽古はかなりの収入がある仕事なのだろう。代稽古がそれほどうま味のある仕事なら、総師範はもっと収入《みいり》が多いだろうから、少しでも早く死んでもらって代わりたいと思うかもしれない。
しかし乃木は自分の推理はもう少し慎むことにした。今はこの病院の、女性病棟のすぐ外に、親分が待機して捜査の進行を見ていてくれる。自分らなどがよけいな推理をしない方がいい。
大田警部が、四人の身元調べを終えたのを待って、今度は乃木が聞いた。
「昨日の夜から、今朝のお亡くなりになるまでの間、みなさまがこの病室に出入りした時間をおっしやっていただけませんか……」
四人の間に一瞬不快そうな表情が素早く走ったのを知ると、乃木は全く岩崎警視正そっくりの、殊更に感情のこもらない声で話を続けた。
「……これは単なる現場の事情聴取で、何ら法的な規制力のあるものではありませんから、自己に不利益なことはおっしゃらなくてもかまいません。それにお一人ずつ別室でお質《たず》ねするわけではありませんから、四人の方、それぞれに、お互いに聞かれて困るようなこともあるでしょう。だから、お答えになってさしつかえないことだけ、お答えいただければ結構なのです。ただしお答えはそのまま真実のものとして捜査の証拠にさせていただきます。何分、警察官というものは、頭が単純にできておりますので……」
と、ここで全くの無表情で四人を見回した。乃木はふだんは、一見亡くなったタレントの夏目正子にそっくりの真ん丸い目玉をした可愛い子なのだが、いつのまに警視正の取り調べ方を身につけたのか、表情の全くない、仲代達哉が更に遠くの方を見ているような目で見ることができるようになった。一わたりじっと見回すと、女たちはさすがに少しおびえた感じになった。上司として赴任してきた大田警部でさえ、この乃木刑事の凄味のある変貌ぶりにはびっくりした。
長男の嫁である志津子が、内心の動揺を隠そうとするかのように、ややヒステリックな疳《かん》高い声でいった。
「私たち四人の間には何もお互いに隠しだてするようなことはありませんわ。私が、中沢一家の長男の嫁として、一家を代表して昨夜のことを申します。昨夜は十時までは四人がずっと病室にいました。お義母《かあ》さまは静かにお休みでした。私たちは、この女医《せんせい》様をみな大変に信頼しています。その女医様が、明後日の午後ぐらいに多分、このまま苦しむことはなく、安らかにご臨終を迎えるでしょうとおっしゃるので、私たちは、お義母さまが癌と分かった日から、その日の来るのを覚悟はしていました。悲しくないといっては嘘になりますが、悲しみとは別に、女はお葬式になると喪服のことや親戚の人へのお知らせ、その他の応対と、沢山の雑用が出てきます。それに美子さんが車の運転ができますので、病院の駐車場には、一台、車がおいてあり、深夜でも自由に往来ができます。それで一度お孫さんの秀子さんと美子さんに家へ片づけに帰っていただき、その間は、私と、お弟子さんの丸田文江先生にここへ残っていただきました。明け方四時に秀子さんと美子さんに戻ってきていただいて、私たちが代わりに自宅へ戻って少し休むことにしたのです」
乃木が相変わらず表情のない目でその嫁の志津子の方を向きながら聞いた。
「それでおうちはどこですか」
「ここからほんの十分の用賀町です」
「他のお二人の方は四時に戻ってきましたか」
「いいえ、それが少しおくれたので、私が気になって廊下に出ますと、十分ぐらいおくれてエレベーターから出てきました」
乃木の質問は機関銃のように休みなく続く。
「それでは、部屋に一人で残ったのは、丸田文江さんですね」
その質問の意味にはっと気がつき、代稽古の丸田文江はあわてて答えた。
「いいえ違います。志津子さんがエレベーターの方へ行ったので、私は一人でいるのが何となく不安になってきたし、ポットのお湯ももうなくなっていたので、すぐにポットを持って、看護婦さんの所にある湯沸かし場へお湯をもらいに行きました」
「じゃー、一人でここへは残らなかったのですね」
「はい。殆ど同時に出ました」
「それで」
また嫁の志津子が少し疳高い声で答えた。
「私はエレベーターの所へ行って二人を迎え、お義姉《ねえ》さまから車のキーをもらい、代わりに運転して文江先生を乗せて帰り、明け方一休みしようと思いました。でも、何か虫が知らせるというのか、気になって『もう一度、お義母さまの様子を見てから帰りましょう』とみなさんに言い、また病室へ戻って、ベッドへ近づいて、みなで一緒にのぞきこむと、どうも様子が違うのです。それまではかすかながらも寝息がして、薄い布団もほんの僅か上下していたのに、息が全く止まり、布団も動かなくなっていたのです」
乃木は何の感情も交えずにいった。
「では午前四時十分ごろですね」
「はい。多分、そのころだと思います」
すっと立ち上がると
「只今、私が聞きたいことはそれだけです。状況を上司に報告しまして指示を仰ぎますから、しばらくここでお待ちください」
といって、廊下へ出ていった。看護婦詰所の窓口の前の電話機の一つにカードを入れる。
今の、嫁の志津子の証言を病院の前に待機している岩崎に話し、つづけて昂奮して口がすべってしまった。
「これは、犯人は絶対、代稽古をやっている丸田文江に違いありません。一時的にせよ部屋に残ったのはその女しかありません」
とたんにまたガツンと一発やられた。
「私はおまえの考えなどきいてない。いいように四人にあしらわれている。捜査に予断は禁物だ。疑えば四人が全部怪しい。次におまえはその老婆に保険がかけられていなかったか、かけられていたら幾らか、何という保険か、四人の顔色をよく見比べながら、ききなさい」
乃木はあわてて電話を切って病室へ戻った。
[#小見出し] 保険の種類 D
養老保険[#「養老保険」はゴシック体]
この保険も、その本質をよく見抜かないと、かなりリスクの高い、危険なゲームになる。
三十歳で契約し、三十年払込で満期が来ると一千万円に利息がつく。もし目出たく払込期間中に死ぬことができれば、それに死亡保険金が一千万円ついて二千万円になるが、六十歳より一日でも多く生きのびれば、一千万円しか入らない。
残された家族の生活を考えれば、保険は人間にとって必要なものであり、入れる人は掛金を払って沢山入った方がよいのだが、もし少しでも有利に投資を回収しようと思うなら、満期日よりは一日だけ早く死ぬ覚悟が必要だ。満期日を越すと半額。
人生八十年時代、考えれば考えるほど、やり切れない思いがする。
長生きして得になる保険は絶対ないのだ。
4
大田警部は、階級は警部で上司であるが、捜一に着任してからまだ二カ月。それも他の課で充分に捜査の現場を踏んできたベテランなら、乃木が出しゃばって、何もかも一人ですることはないが、大学を出て入省してから一年、国家公務員上級職試験に受かっているから、たまたま上司でいるにすぎない。少なくとも捜一の殺人係では、乃木はもう六年の先輩、ベテランだ。
たとえ階級は巡査長《ヽヽヽ》で、まだ逮捕状の請求や収監手続きは法律上できなくても、実際の捜査の要領は心得ている。
それに大田蹴鞠子警部とは、新宿高校での同級生。今は階級を飛び越して、こちらが勝手に捜査を進めていっても、どなりとばされることはない。……それどころか、四人の名前と身分を聞いて手帳に記入してしまったら、後は何をやっていいか分からない新人の警部をかばうようにして立ち働いているのだから、感謝されこそすれ、文句をいわれる筋合いはないのである。
それでも乃木は本庁生活が長いから、たとえ心の中では素人はしようがないと思っても表面は上司をたてている。
「警部殿、もう一つ質問したいことがあるのですが」
大田も上司らしく答える。
「乃木、聞きなさい」
「では、警部殿に代わって質問を少しさせていただきます。もう一回か二回ですみますから、そう気にしないで気楽に答えてください。この亡くなられたご老人には保険がかけられていましたか」
このときの乃木の視線は岩崎警視正直伝の、表情のない冷酷なものになっていた。しかも乃木の内心は警視正の注意のように、四人の女のいかなる心の動揺も見逃すことのないよう、鋭く研ぎすまされていた。
保険ときいたとき、四人にはそれぞれに反応があった。口や顔には出していないが、みなに何となく困ったなという感じが現れている。やはり親分は凄い。事件の核心を把んでいるのだ。乃木は相手の出方を待って黙っている。その何一つ語らぬ冷たい視線は相手に充分威圧感をあたえ、落ち着きを失わせる効果があった。
とうとうその重苦しさに耐えられなくなったように、四人の女の中で一番気の強そうなリーダー格の、故人の娘の美子が口をきった。
「ばかばかしい。私たちが母を殺したというのですか。保険金は、それを貰う立場にある人が相手を殺したら、無効になってしまうのよ。黙っていても明日は死ぬと決まっている人に誰がそんな危険なことをするもんですか。あんた少しおかしいんじゃない」
普通これまでいわれたら、大概の刑事はムーッとしてしまう。現に峯岸の表情は怒りで少し赤くなったし、大田警部は正面切って抗議されている乃木刑事を気の毒そうにみている。だがもう捜一魂がたっぷり入った乃木の表情は全く動かない。ゾッとするほど冷静な口調でいった。
「私の聞いてることは違います。殺したかどうか、アリバイがあるかどうかなどということは、いつか自然に分かってくることです。私の聞いているのは、保険に入っていたかどうかの事実だけです。そしてもし入っていたら何という会社の何型の保険かです」
娘の美子にとっては、全くのれんに腕押しの事態になった。じれったそうにいう。
「変な人ね。入っていたわよ。定期付終身保険よ。会社ごとに名称が違うらしいけど、うちの入っていたのは、大命保険で『希望の虹』という愛称だったわ。金額も必要?」
「いえ、それは結構です。自然に分かることですから。ちょっと裏を取る必要がありますから、また三、四分失礼します」
そう一礼して病室を出て行く。残った四人は不安そうに顔を見合わす。
気丈な娘の美子が、長男の嫁の志津子に話しかけるようにいう。大田への当てつけもある。
「変な刑事さんねー。私たちが母を殺したなんてこと、どうして考えるのかしら。たとえもし保険金がほしいとしても、明日になれば自然に入ってくるのにねー」
みなに話しかける。残りの三人の女は、故人の枕もとからいつまでも去ろうとしない婦人警官を非難するように、一斉にうなずく。大田も困って、彼女らに同情するようにうなずく。この新任の警部は、母を失った悲しみの枕もとに乗りこんで捜査をしているのが気の毒で、できれば容疑なしと宣言して一刻も早くここから抜け出したい思いであった。
乃木は三度目の電話をかけた。
「管理官殿。保険に入っていました。種類は定期付終身保険、大命保険の『希望の虹』です」
「そうか。そんなところだろうと思った。この事件は意外に簡単だった。今一つ念押しの質問がある。あの亡くなられた婦人の生年月日を聞いてくれ。いいか、それから、ここが肝心のところだが、多分、明日の六月二日だろうと思う。そしてもし六月二日だったら、次の電話は、大田警部をここへよこしてかけさせてくれ。乃木はもうかけんでいい」
とたんに、また乃木の頬っぺたがぷうっと丸くふくらんだ。用があるときだけさんざん酷使されて、いざそれが実ろうとしたとたんに、もうおまえはいらんと、除外される。ひどい。今まで犯人逮捕を目前にして、張りきって、丸く大きく見開かれていた瞳が、自分でも知らぬうちに、涙がじっとりと湧いてきて、しめってきた。くぐもった声で
「なぜ、なぜ次の電話も私ではいけないのですか」
抗議する。とたんにまたガツンとやられてしまった。
「よけいなことはきかんでいい。捜査の都合だ」
「分かりました。そう致します」
半分涙声で答えた。
でも泣いた顔で病室へ戻ったのでは捜査にはならない。廊下でしっかり涙を拭き、内ポケットに入れておいた小さな手鏡で、眼の回りや顔などを素早く見て、泣いた痕跡がないのを確認してから、再び冷酷な無表情に戻り、病室へ入った。
四人の女の敵意のこもった目が自分の一身に集中するのを知った。しかし少しもたじろがない。
殺人捜査の現場ではそんなことはしょっちゅうだ。特に、自分が犯人の場合は最近はわざと善人ぶって、警察に対して、露骨に反感をぶつけてくる者が多い。
近代の志操教育がねじ曲がってしまっているのか。良心の痛みに耐えかねておどおどしたり、申し訳なさそうに俯いたりするような犯人は、最近では絶無だ。むしろ自分にそんな疑いがかかること自体が意外で迷惑も甚だしいと、真顔でつっかかってくる者の中に犯人が多い。
捜一に六年もいると、そのへんはよく分かってくるから、四人の女がどんなに非難の目で自分を見つめようと、乃木は全く動じない。小さな丸椅子に坐ると、相変わらず感情のこもらない目で、一わたりみなを見てから、口だけはごく丁重にいった。
「申し訳ありませんが、もう一つだけおききしたいことができました。これで私の質問は終わります。どうかご協力をお願いします」
故人の娘の美子が相変わらず気丈な声でつっかかるように答える。
「何よ。もういい加減にしてよ。あんた、私たちがこんないいお母さんを本当に殺したと思っているの。それも黙っていても明日は亡くなると分かっているお母さんを」
急に感情がこみ上げてきたのか、両掌で顔をおおって、わあーっと声を上げて泣き出した。大田警部はその中年の女性を気の毒そうに見ている。ただこのことを最初に警察に通報し、予定より一日早い死をまだ絶対承認できないでいる女医だけは、聡明で意志の強そうな大きな瞳を、その泣いている女にひたと据えてまばたきもしない。
乃木の表情も声も、淡々として、全く変化がない。
「最後の一つの質問をします。この亡くなられたお婆ちゃんの生年月日をお教え願いたいのです」
明らかに女たちの間に、ある種の動揺が走ったようだ。お互いにお互いを見て、すすんで言い出そうとしない。何か牽制し合っている感じもある。相手の最も弱い所をついたのだ。乃木がいった。
「こんな簡単なことは、カルテをみればすぐにはっきりします。女医さんに調べてもらいましょうか」
長男の嫁の志津子が無理に心を落ち着かせるようにいった。
「大正九年の六月二日です」
それをきいて、乃木は心の中ではあっと声を上げそうになった。六月二日のはずだと、親分の岩崎がいったことが、ぴったりあてはまったのだ。心の動きを絶対に悟られないよう冷静さを保ちながら
「大田警部殿」
と声をかけた。
「なぁーに、乃木刑事」
大田はまだ事態の重大さに気がついていないから、そうごく普通の調子できく。
「ナース詰所の電話で、今の日時を管理官殿に至急連絡してください。これからは警部殿の指示を待つだけです」
「そう」
よく事情が分からないままに大田警部は、病室を出て行く。乃木と峯岸は、入口をふさぐようにしてきびしい顔で坐っている。四人の女は、表面は無理に平静さを保っているようだが、心の中の不安と動揺を必死で抑えているのが、まだ捜査歴一年と少しの経験しかない峯岸お稽古刑事にもよく分かった。しょせん、この女たちは、犯罪のプロではない。一歩一歩、捜査が核心に近づくと、あくまでシラを切り通すわけにはいかなくなる。
ただ、乃木も、お稽古も、なぜ、老婆の生年月日をきいたとたん、これまで比較的冷静さを装っていた四人が落ち着きを失ったのか、そのへんが分からない。ただいつもの岩崎管理官の鋭い推理を全面的に信頼する以外ない。
ほんの二分ぐらいで、大田警部が戻ってきた。四人の女は、もう本能的に部下の刑事より、この上司の方が自分たちに同情的だと感じとっている。
いくらかホッとしたような目で大田を見る。しかし殺人という犯罪に対しては、捜一はそんな甘いものではないということを、四人はすぐ知らされることになる。
大田は戻ってくると、入口に立ったまま初めてのきびしい仕事に少し緊張した表情でいった。スカートの横の所に垂らしている手の親指と人さし指が丸く輪になっていた。
「申し訳ありませんが、みなさまに任意で本庁の方へ来ていただくことになりました」
「四人ともですか」
びっくりして怒りの感情もあらわにいう美子に、大田警部は捜査主任らしく厳然としていう。
「はい、四人とも全員です」
女医はこのとき黙って大きくうなずいた。美子がまた叫んだ。
「まあー、母に死なれて悲しみにくれているというのに。……それにたしか任意の出頭でしょう。任意というと行っても行かなくてもいいのでしょう。任意なのですから。お通夜の用意もしなければなりませんし、とても警察のそんな暇潰しにつき合っていられませんわ」
大田警部もだんだん捜一のやり方のコツをのみこんできたようだ。冷静にそれに対して答える。
「任意ですから当然、出頭を拒否できます。お出でになるならないは自由ですが、その場合は、容疑充分と判断されて、逮捕状が出されます。逮捕が、任意出頭と違うのは、ここを出るときから手錠と腰縄をかけられることです」
「まあーひどい。警察の横暴だわ。私たちには誰にも母を殺す必要などないし、アリバイはしっかりしているわ。それに四人とも一緒にだなんて……」
「それは、任意に出頭して、本庁で私たちの上司に堂々と申し述べてください」
一歩もひかない大田警部の態度に仕方がないと諦めたのか
「じゃ、行きましょう。弁護士さんに相談して後でとっちめてやるわ。そのあんたの上司という人を」
四人はぞろぞろと立ち上がった。
エレベーターを出て病棟を出る。
婦人用の西病棟を囲む塀を出た所に、もう三台のパトカーが赤い屋上灯を回転させて待機している。四人がギョッと立ち止まるのに、車の前に立っていた岩崎がいった。
「決してお手間はとらせません。ただなぜ、一日おそくなると五百万円になるのが我慢できなくて、五千万円が入るようにと一日早くバルブをひねったか、その当たり前のことを少しお話しくださればいいのです。一、二時間で一切すみます。どうか少しだけお付き合いください。容疑は殺人罪です」
四人の女は、おびえてお互いにしがみつき抱き合うと、わーっと大声で泣き出した。
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[#見出し] 花金八公《はなきんはちこう》パルコ坂
[#小見出し] タレントになる方法 A
公募[#「公募」はゴシック体]
農山漁村でまじめに働く青年たちにお嫁にくる女性が少なくなった。しかし、年頃の青年が傍に女性がいなくては正常に生きて行くのは難しい。苦しい欲望で精神的に発狂の一歩手前になる。そこでフィリピンや韓国から、とりあえず若い娘をつれてきて、一家の働き手の肉体のバランスを図り、子孫の獲得も期待する。
生まれるのは男女ほぼ同数のはずだ。
農山漁村から一斉に姿を消してしまった女性たちは、どこへ行ったのだろうか。
殆《ほとん》どが都会に集まる。直接に歌手や俳優になるわけにいかないから、喫茶店、商店、会社、そして一部は(実は殆どが)もっと収入が多い特殊な世界で働いている。しかし、その心の奥をのぞいてみれば、まさに金太郎飴を切ったようなもので、必ず出てくる願いは同じで『将来、有名タレントになりたい』である。だが地方の出身者はコネを持たない。そこで新聞紙上などに発表される公募に殺到する。この募集の殆どは予め入賞者が決まっていて、その人気を盛りたてるために、一般の人を集めるにすぎない。かくしてなりたいと思いながら、どうしてもスターになれない人が巷《ちまた》にあふれ返る。
1
八月も半ばすぎてもまだ暑さは一向に去らない。七月の終わりごろから、連日の熱帯夜続きで、もう二十日以上も東京都民は辛い思いをしている。
警視庁は一千万都民の治安を守るためにある。原則として都内に住居を持つことを義務づけられている。事件発生の場合、自宅からなるべく早く現場へ駆けつけられるように、住居は通勤時間が一時間ぐらいまでの所とされている。
土地の値上がり、住宅難のこの時代だ。それはかなり困難な状況になっており、原則に忠実たらんとする職務熱心の刑事さんたちは、安い俸給と都内の住居という二つの矛盾する条件に応えるため、どうしても一般社会のサラリーマンより劣悪な住宅事情の中で生活することを余儀なくされる。
全員が超ベテラン揃いで、これまでも猛暑、酷寒の季節にもあまりへたばったところを見せたことのない、捜一の一係、二係のおなじみの猛者諸君も、かなり参っている。
本庁にいるときは、庁内のすみずみまでエアコンがきいて、汗もかかずにすむが、どの猛者刑事さんたちも夜はそんな快適な所ですごしているわけではない。殆どが慢性的な睡眠不足になっているので、逆に本庁のデスクで、じっと事件の起こるのを待機しているときが辛い。普通の職場でも、デスクで居眠りしたら、あまり状況は芳《かんば》しくないが、まして執務規律は厳正にして、内に警察魂が充実していなくてはならない警視庁の鬼の捜一の部屋で、居眠りは勿論、うっかりあくびでももらしたら大変なことになる。
このところ蒸し暑い夜の衝動殺人が二、三件起こったが、一係、二係の出番はなかった。
ずっと在庁(庁内待機)勤務が続いている。こういうときの昼下がりが、進藤とか武藤とか、張り切り型の、昔の刑事さんタイプには苦手だ。カンカン照りの太陽の下にわっと大声で叫んで飛び出したいぐらいだ。
事情は張り切り方では男に負けない乃木、峯岸の二人のケイコ女刑事《メスデカ》も同じだ。
乃木などは、迫り来る眠気(注=彼女の眠気はまだ新婚なので居住環境の悪さとは関係ない)と、それを吹っとばすようなきびしい事件にぶつかりたい思いで、まさにヒステリーが昂じて爆発しそうだ。誰かがつまらない冗談でもいったら、机のはしに吊してあるショルダーに入っている、婦警用制式ピストルのコルトをひき抜いて、眠気ざましに相手の胸をぶち抜いてしまいそうだ。勿論、警察官として絶対そんなことがあってはならないのだが。こんな苦しい危険な心理状態にいるよりは、むしろ廊下の向かい側にある捜査大明神に向かって、柏手《かしわで》を打って
「どうか殺人事件が起こりますように」
とよっぽど祈ってやろうかと、チラと思った。それが悪かった。突然乃木のデスクの電話がリリーンと鳴った。しまったという気後れがある。何しろ捜査大明神は絶対効験あらたかなのだ。殺人事件が起こったのは、もう間違いない。まるで自分が犯人になって、誰か知らぬ人間を殺してしまったかのように電話を取るのを一瞬ためらった。既にそのときは正面の机の岩崎の手が受話器にのびていて
「こちら捜一」
と答え、何かじっとその電話をきいていたが、やがて
「承知しました。面倒な事件《ヤマ》のような気がします。うちが預かりましょう。渋谷署にはまだ通報しないことを約束してください。所轄で縄張りをして余計な捜査をされると後が面倒なことになる。そちらはできるだけ事件の起こった状態をそのままにしておくため、そのとき現場にいた者は、全員そのままの位置でそのままの服装で待機しているようにさせること。私たちは三十分以内には、そちらに着く」
といいながらも早くも半分腰を上げた。こういうときの一係と二係の岩崎の直属の部下たちの対応は見事だ。全員が瞬間にもう飛び出せる構えになっていた。
岩崎はぱしっと一言命令を出す。
「最初は二係の猛者諸君が行く。但し二係長の大田だけは今回は残って連絡に当たる。まず車の手配をして全員を渋谷のパルコ坂まで最も速やかに行けるようにしなさい」
大田警部を除く二係の全員がさっと廊下にとび出す。乃木も、峯岸も現場へ行くのは男と同じだが、女の場合は制服でそのまま現場へ行くことが多い。次の瞬間には二係の猛者は廊下を足早にエレベーターへ向かう。ぴったりと岩崎の後を追いながら乃木は
「すみません、管理官殿」
つい謝ってしまった。何だかこの事件は自分が起こしたような気がする。何事もお見通しの岩崎管理官は歩きながら答える。
「乃木が心の中で祈ったせいでないよ。そう心配するな」
ちゃんともう大明神に祈ったことは承知のようにいった。乃木はまた体を小さくする。玄関前にはちゃんと隠しパトカーである黒い乗用車が一台、指定の会社のハイヤーが三台待っていた。黒い只の乗用車だが、いざとなったら天井に突然赤い警告灯が飛び出し、サイレンも鳴る。これでないと交通渋滞地区を切り抜けて現場へ駆けつけるわけにいかない。といっても、初めからパトカーでは、途中通過地区の所轄署や、管轄の機動捜査隊に感づかれ、どやどやと一斉に乗りこまれ、現場が混乱させられる。
先方からの通告の電話によれば、絶対よそに知られたくない事件らしい。殺人事件であるから、いずれ広く世間に知られるということは仕方がないにしても、何かが片付くまでは、地元の警察にも知らせないで、警視庁の捜一の、本当の捜査係によって事件を速やかに解明してもらいたいということだ。
まだ、どんな事件か、さっぱり見当もつかないが、ともかく二人死んでいる。それは一人は被害者で一人が加害者であるということだが、加害者も死んでいるということなら、犯人はもうこの世にいないということらしい。
所轄や一一〇番でなく、直接捜一にかけてきたところも、何やらこの事件の難しさが感じられる。
岩崎管理官が電話を置いて立ち上がり、二係の全員に出動を命じて、エレベーターで玄関へ行くまでの間に、在庁へ回されてまだ捜一へ来て間もない、新しいエリート幹部の係長の大田蹴鞠子警部が、すばやく車の手配をやってくれていた。
僅かの期間に、この津田塾大学出身の秀才警官はこれだけの仕事ができるほどに成長したのである。
たしかにこれは、警部という階級と、係長という役職がなくてはできないことだが、ずっと捜一にいて、鍛えられているつもりの乃木も、よく大田がこれだけの手配ができたと感心した。
隠しパトカーを先頭に、残りは岩崎が豊富な資金から経費を支出する、民間のハイヤーが三台続き、桜田門から虎ノ門交叉点、溜池、赤坂見附と、渋谷に向かう道を走る。先頭に何やら曰くあり気な黒い車が走り、後ろに同じような黒いハイヤーが続く列は、他の行き交う車にも少し異様な威圧感をあたえるらしく、自然に道があけられて、別に渋滞に巻きこまれずに、十五分ぐらいで渋谷のガードを越した。タクシーではこうはいかない。
渋谷駅を越すと、正面の道玄坂と、そのすぐ手前右にNHKへ入って行くパルコ坂と、二つの坂がある。
パルコ坂は、現在、東京で最もナウいファッションの先端地として知られている。
坂にはこの真夏にかかわらず、或いは真夏であればこそだが、ノースリーブに短いホットパンツや、超ミニ、或いは水着にボレロを軽く肩からひっかけただけでないかと思われるような大胆な服装のヤングの女性が、まるでここを自分たちの街とでも思ってるように歩いている。男は目立たない街だが、彼らはここの主流ではなく、その女たちにまつわりつく存在としての役目しか果たしてないからだろうか。
坂をかなり上り、大きなファッション専門ビルの前に、四台の車が並んで停まった。
通る人々が突然停まった四台の車を不思議そうに見ている。前後の車からバラバラと降りてくる目付きの鋭いごっつい体つきの男たちを見て、初めは暴力団同士の抗争でどこかが殴りこみに来たのかと思った人もいた。しかし、すぐ制服を着た婦人警官が二人降りてきたので何か事件が起こったのを知った。ビルとビルの間の細い道を入って行く。
若い男女が、忽ち野次馬に変わってその後をつけようとする。もともと何か用があってこのパルコ坂へやってきた連中でない。土日の休日制が広まり、金曜日が最も心楽しい日になった夏のハナキン日に、ニューファッションをパルコ坂で見せびらかして歩きたいというだけの単純な行動だから、何かあったらすぐにそちらへわーっと行く。
二係の中でも最も体がごっつく、顔も獰猛《どうもう》な二人が、小路の入口に立ち、中へ入ろうとするヤング連を睨みつけた。
両股を開き、両手を腰にあてて、立ちはだかっただけで、もうその間を突破して中へ入ってこようとする者はなくなる。
かなり奥へ入ったビルの地下への階段の入口には、ビキニの美女の、等身大の絵看板が立っていて、『ファッション・ヘルス パルコ坂 キューティ』と書いてある。しかもその横に小さく『全員医学的処女保証』とも書いてある。
当然、分かる人には分かるが、初めてその看板を見る人には、そこが何をする店なのかは、まるで理解できないだろう。ファッションとは普通、美容や衣裳の流行を示す言葉とされている。ヘルスは健康だ。それで、最も新しい美容と健康法を施してくれる、マッサージの治療院か何かと想像するのが、ごく普通であろう。
まさか、現代の中年男、変態老人、時にはヤングの間でも流行を極めている新しい女体市場の一つの形式と考えつく人はいない。
まあー、乃木や峯岸は、捜一という殺しの専門の刑事であるから、職業上、この形態の店の名をよく耳にする。大体中でどんなことをしてるかを観念的には知っている。しかし女だから、中へ入ってサービスを受けたことはない。
他の刑事たちも、妻帯者は勿論だが、独身の若者でも、警察官の立場があるから、客としてこのような所へ入ることはない。
こういう店の取締り監督の責任は、地元所轄の保安課がやる。所轄でも他の部署の刑事は関連事件がなければ、わざと近寄らない。
岩崎も以前一度、新大久保で事件があって扱っただけで、それから五年近くこの種の店には来ていない。ただ近ごろは内部はすっかり改良を加えられ、かなり豪華になり、女性も現役の女子大生や、タレント志望の若い女性など、十代からせいぜい二十二、三歳までの若いのを揃えて、稚拙だが初々しいサービスを売り物にしている、今流行を極めている売春形態だと聞いたことはある。
だがそんなことより、事件の内容が気にかかる。ともかく約束通り、三十分以内に着いた。幸い所轄の刑事も、機動捜査隊の張り切り警官もまだ着いていない。警察官同士は手柄争いをするため、大事な証拠をかくしたり、現場を目茶目茶に荒らしたりする。殺人の専門家の捜一の刑事さんたちにとっては素人同然の地元のチンピラ刑事に先に乗りこまれるのが、実は一番困ることなのだった。
階段を下りきると、アルミサッシのドアがしまっている。その前に、黒い細身のズボンに、縞柄のワイシャツ、トンボの羽のような蝶ネクタイをつけた男が立っている。いずれ他のことでは、前科の一つや二つはありそうな暗いかげがある。目付きも相応に鋭い。
先頭に立った岩崎がいった。
「捜一だ。あんたの望んだ通り三十分以内に着いた。現場はいじってないだろう」
「勿論です。私らも店が大事です。こんなことで警察のお怒りを買って、店がつぶれてしまっては、ここで働く男女合わせて二十人近いスタッフの死活問題です。協力の姿勢を捜一でぜひ認めてください」
岩崎がアルミサッシの自動扉をあけさせた。入ってすぐ右側が待合室。
長椅子がおいてあり、その前面がガラスの扉になっている。
長椅子の前に、二人の男が倒れていた。二人ともお互いに胸や腹を刺されたらしく、出血多量での死亡は明らかだ。ボーイがその死体を見張りしている。
ガラスの大きな窓の向こうは、ショーウインドーのような女の展示室だ。小さなパンティと細いブラジャーだけの裸と同じ若い娘たちが七人、ベンチのような椅子に坐っている。ボーイが入ってくる刑事にいった。
「マジック・ミラーなので、女たちにはこちらが見えません」
[#小見出し] タレントになる方法 B
スカウト[#「スカウト」はゴシック体]
六本木の交叉点で石を投げると、タレントもしくはタレント候補者に当たるといわれる。それほど多い。もっとも、自分が心の中でタレントになりたいと思えばタレント候補であって、実績も資格も要らない。そこで六本木の四丁目交叉点の角を、東西南北、いずれの方向から来た女の子はブスでも、おばんでも候補者なのだ。たまに本物のタレントが通ると、決して他の町のように、そばへよって、わーっと騒ぐようなことはしない。六本木族としての誇りがあるからだ。但しその心の中の嫉妬羨望は激しい。こういうときこそ街頭スカウトにとって最大の稼ぎどき。『映画に出ませんか』『テレビが待ってますよ』の一言で純情な美少女がころころひっかかる。
かくしてその悪質スカウトに純潔を奪われ、金も巻き上げられた少女たちが裸やセックスまでむき出しに画面にさらす、裏表のAV女優になる。
それでもタレントにはなれたのである。
2
どやどやと七人の刑事が、死体のある待合室に入った。
床は血のりで汚れているので、それを踏まないように、足もとに気をつけながら、二つの死体を早速調べ始めた。
こんなことは、進藤や武藤などの現場の経験を積んだ刑事たちにとっては、難しい事件ではない。すぐに全員が判定した。奥の方でガラスに向かって倒れている五十ぐらいの男は一人に殺されたのではない。簡単にいえば加害者は目の前に倒れている若い男一人だけではない。何といっても捜一の目はごま化せない。
手前でソファに向かって倒れている二十代後半の若い男は、傷は胸に一カ所、見事に大きく入っている。これは犯人は五十代の男一人と特定していいだろう。五十代の男の体には、顔や首、胸、手足にやたらに刺し傷があり、結果として、その五十代の男も死んでいるのだ。真相は分からない。ただ相対死《あいたいじ》にとして、犯人を若い男一人に特定するわけにもいかない。岩崎は死体のそばに見張りのため立っていた、青ざめた顔のボーイたちを冷酷な目でじろりと見ながらいった。
「先に手を出したのは、この爺さんの方だね」
ボーイは恐怖に震えながらうなずく。
乃木も峯岸も捜一にもう長い。この血だらけの死体をみても別に何のショックも受けないが、もっとびっくりしたことがあった。ガラス窓の向こうには、裸に近い女が七人、何もいわず取り乱しもせず、というよりは明らかに何も知らない状態で、ごく平然として坐っていることだ。
こちらには血まみれになって倒れた死体が二つあり、しかもその殺害現場をガラス一枚へだてただけで、すべて目撃したはずなのだ。本来なら泣いたり怯《おび》えたりするはずの女の子が、まるで何も気がつかないでにこにこと愛嬌さえ浮かべて坐っている。しかもみな、ほんの小さい二枚の女性用の最後の下着だけでいる。
もう幾つもの殺人事件の現場を踏み、事件に直面した人々の色々の反応を見てきた乃木や、お稽古にとっては、逆にこれがどうしても信じられない。別に女性の裸など今更見ても仕方がないが、このガラス窓越しに見える小部屋から目が離れない。
ベンチと思ったのがよく見ると鏡の板で、その上にぺったり薄いショーツ一枚のお尻の部分がのっかって、下からの特殊な反射装置でガラス窓の外からもちゃんと見られるようになっている。そんなことは、客の好色心を刺激して、女の売行きをよくしようという仕掛けだと思えば別に珍しくもないし、セクハラ運動家でないから目くじらたてる必要はない。七人の女の子が、お互いに小声で笑い合ったり、ケン玉をしたりしているのが理解できない。
乃木刑事の不思議そうな顔に気がつくと、トンボ型の蝶ネクタイのマネージャーが説明した。
「婦警さん、女の子たちはまだ事件のことは知らないのですよ。早番の子は十二時にはちゃんと椅子に坐るように決められているのですがね、日によって一時ぐらいまでは客の来ないこともありますから。ただ今日はハナの金曜日で、まだ一人も指名がかからないのは少しおかしいとは思っている子もあるかもしれません。ああしておとなしく待つのももう五、六分が限度でしょう。三十分以内に来てくだされば、何とか現場を保存しておくといったのはこのためです。実は女の子たちはまだ何も気がついてはいません」
お稽古がまだよく仕掛けがのみこめないらしくきく。
「どうしてなんですか。こんな大きなガラス窓では何もかも見通しじゃありませんか」
「いいえ、これは只のガラスでなくマジック・ミラーです」
「ああそうなの。それなら分かったわ。本庁にもあるもの」
何人かの人間の中から、特定の犯人を見つけてもらうため、こちらから見えるが、向こうからは見えないようになっている、マジック・ミラーがついた面通し室という部屋が、本庁にある。しかし、こんな部屋一杯に大きなミラーは初めてだ。マネージャーはいう。
「店をあけるとすぐ爺さんの方の客が入ってきて、続いて幾らもしないうちに若い方の客が入ってきて、二人並んで何か話をしたかと思った瞬間、年寄りの方が一気に若い方を刺したのです。それから刺された若い方が、自分もナイフを出して相手に斬りかかる。二人は終始無言で猛烈にやりあって、結局五分ぐらいで両方とも死にました。止めることも何もできませんよ、危なくて。私がまず考えたことは、この凄惨な殺し合いの現場を女の子に知らせないことです。店にとっては女の子は飯のタネ、女の子が怖がって店へ来なくなったら、明日から商売できなくなりますからね」
人が殺されるということの重大さより、自分の店の女の子が怖がって明日から出て来なくなることの方が、もっと困るような口調でそういった。
岩崎はまたいつもの冷酷な無表情に戻った。
「ガラスの中には音も全く聞こえないのかね」
「はい」
「客とはどうして会うのだね」
「そのベンチに客が坐ります。並んでいる何人かの女の中から、気に入ったのを選び出し、テーブルの上にある電話で話をします。そして一応合意ということになりましたら、横の扉から入って別室で会い、女は自分の作業用のベッドルームへ連れて行って、三十分単位の時間内で処置をします」
「それが一本で一万二千円だね」
「はい」
「ところで女の子は今の段階では、ここで何が起こっているか、まるで知らないのだね」
「はい、殺人事件は勿論のことですが、ここへ今、刑事さんたちが来ていることさえ知りません。私としてはこの事件のことを女の子たちが知って動揺することが一番心配だったのです。二度と店へ来なくなったら、えらい打撃ですからね。渋谷では一番上品でおとなしい女の子を揃えているという評判は落としたくないのです。うっかり所轄などに連絡したら、それをいいことに、ちょこちょこ刑事さんに出入りされます。この後の店の営業に差し支えますから、できるなら女の子だけには、目の前で殺人事件が起こったことを知らせたくないのです。それで捜査一課に電話したのです。殺人の専門の捜査一課の方なら、この程度の事件は、五、六分で片付けて、死骸はどこかへ運んでくださり、我々がすぐ床をモップで水洗いしたら、開店が一時間おくれただけと思って、諦めもつきますから」
これが現代の青年の考え方なのだろう。全く自分の利益しか念頭にない。人間が二人も死んでいるのに、蚊が二匹潰されたぐらいにしか思っていないようだ。進藤や花輪、武藤などの、血の気の多い刑事たちは、内心から噴き出る怒りを、辛うじて抑えているため、顔に血が昇って真っ赤になっていた。本当は全員が大声でこのマネージャーを『馬鹿野郎!』とどなりつけたいところだが、親分の警視正殿が、黙っているのに部下が出しゃばって、どなったり、ぶん殴ったりはできない。岩崎警視正は相変わらず何の感情も交えず冷酷な口調で話す。
「二人も死んでいるというのに、所轄にまるっきり何も知らせないですむというわけにはいかない。捜一の調べは、あんたが考えているほど簡単にはいかない。取りあえず、十日は営業停止、ここにいる従業員は、男も女も、ともにその間の証拠保全のため、各署に分散してブタ箱暮らしをしてもらわなくてはならないような事態になるかもしれない」
「えっ! そんな馬鹿な」
「もしかしたらマネージャーは殺人をそのまま見逃したことにより幇助《ほうじよ》罪で未決に入って一年ぐらい、同囚の先輩にいじめられ、それから裁判で求刑二年、判決で執行猶予がついて再び娑婆《しやば》に出たときは、店はもう他人の手に渡って……というようなことになるかもしれん。あんたの心掛け次第ではね……」
「そ、そんな」
「そういうケースもあるから、あまりこの事件については軽く考えない方がいい」
最後にそうぴしりというと、これまで何となく事態をなめていた感じのマネージャーは俄《にわか》に青ざめた顔になった。死体が二つ凄惨な姿で転がっていることには何の感情も見せなかった男が、未決入りや、店の倒産という言葉にはひどく動揺している。岩崎の冷静な口調は続く。
「マネージャーは前科《マエ》を持ってるね」
明らかにぎくりとしたところへ更にもう一発。
「店は借り物だね。しかし理由の如何に拘らず、名義はあんたになっているから損失にはすべての責任を持つ。そしていかなる損失も現金か、もしくは自分の身体、つまりあんたは女ではないからいわゆる肉体で返すわけにはいかないから、指を落とすなり、片腕を斬るなりして、金の貸し主に返却しなくてはならない。つまりこのあたりなら渋谷竜紋会の竜田虎一親分に払わなければならない」
途中からマネージャーの顔の血の気がひき、組の名や親分の名が出てきたときには足が震えだして立っていられなくなった。
「まあー、死体が二つも出たからには満更ほうっておけないと思ったあんたの判断は正しいがね。それでできるだけ、その影響を少なくして、一時間のおくれぐらいで店の営業を再開したい。女の子たちには全く知らせないですませたい……とあれこれ考えて、捜一をわざわざご指名下さったんだろうが、キャバレーやソープのご指名とは違う。捜一はそうあんたらの思惑通りに動かない」
それから隅の方に立っているボーイにいった。
「君、この婦警さんたちをガラスの中に入れてやりなさい。女の子たち一人一人にも聞くことがある。まさか裸で訊問もできない。たしかこういう形式の店は、二階、三階がベッドのある作業場になっているが、女の着てきた衣服はその部屋にはなく、廊下か階段の壁際に作られているロッカーに入っているはずだ。着替え室はどこも大体、トイレに隣接して、もう一つの隠し扉から入るようになっている。この応接室を通る以外は、女の子の逃げる道はないから、乃木と峯岸の二人だけでいい。女の子に事情を話して、ロッカーへ行かせ、そこで衣服をてんでに持たせたら、更衣室まで付き添って、全員にここへ来たときの服を着させて十分ぐらいでまたここへ出てきなさい。この暑さだ。いつまでもかかっていては死体がいたんで臭いがしてくる」
ボーイはすぐ、乃木と峯岸の制服の二人の婦警を横の扉から回り道させて、ガラス扉の中に入れた。
応接室にいた刑事たちがびっくりして
「フェーッ」
と声を上げた。ガラスのショールームの中へ、二人の婦警が入ってくる。彼女らからは応接室の方は全く見えないが、応接室の方からは入ってきた二人の婦警さんの行動がよく見える。坐っている自分たちとはあまり年の違わない若いお巡りさんの、突然の進入に、女たちはびっくりして立ち上がった。隅の方にかたまって敵意を持って睨みつける。
女たちは自分らのやっている仕事が、やはり法律の網をくぐった不正なことだとは承知しているから、取締りに来たのかと錯覚したらしい。中で声を上げて何か一斉に乃木たち二人に非難をあびせていた。
中の声は外には聞こえない。かたまった女たちは、着替えに行くことを拒否しているらしいことが分かる。今、服を着せられたら警察に連れて行かれる。その単純な発想が服さえ着なければ警察へ行かなくてすむという考えになっているようだ。
中の一人の、きっと町ではズベ公の番長《バンチヨウ》でも張っていたことのある子だろう、いきなり若い峯岸の頭の毛を把もうとした。しかし相手が悪かった。峯岸稽古は、合気の二段。実力は警視庁の婦警さんの中でもトップクラスだ。瞬間にその女の体は大きく回転して、プラ・タイルの床に仰むけに叩きつけられて目を回してのびてしまった。コンクリートの上だったら気絶だけではすまなかったろう。
それを見ていた残りの六人の女は乃木にうながされると、もう素直について行く。のびた女もお稽古に背中に活を入れられると息を吹き返して、今度は素直について行く。
全員の姿が鏡の向こうに消えて十分丁度で、乃木を先頭に、それぞれのドレスを着た女の子たちが奥の方の扉から出てきた。
狭い応接室にはいつもと違って大勢の男たちが立っているのを見て、陽気な子は一瞬、足を止めてささやいた。
「まあー、もうお客が大勢来ているのね」「なぜご指名がかからなかったのかしら」
しかし敏感な子はその男たちがいつもの客たちでなく、デカらしいと気づいて、ギョッとして立ちすくんだ。
ソファの所に人垣のようにして立っていた刑事が二人、自分の体をどけた。岩崎が女たちにきびしくいう。
「この男を知ってるかね」
奥の方にガラスの方に頭を向けて倒れている初老の男の姿があった。突然、七人の女の子の中では、誰が見ても一番きれいで、最初から目立った、背も高く、体つきもすんなりとやせて、そのままアイドルタレントとしても通用しそうな子がいきなり
「お父ちゃーん」
といってその男にしがみついた。
ドレスに血がつくのも気にしない。
「お父ちゃん……どうしてここへ」
後は泣きじゃくる。
他の六人の女は、死体を見て恐怖で愕然としていたが、特に個人的な反応は示さなかった。
もう一人の、半身をソファに向けて死んでいる若い男の周りにいた刑事が、体をどけて、一人がその死体の男の首筋を抱えると、女の方に顔を向けてきく。
「この男には心当たりはないかね」
父を殺されて泣きじゃくっていた女が一旦顔を上げて見ると、はっと立ち上がった。
「あ、せんせい!」
そう叫んだまま、茫然と声もなく立ちすくんだ。
[#小見出し] タレントになる方法 C
養成所[#「養成所」はゴシック体]
父親は平凡なサラリーマン。家庭には外車もないし、プールもない。周囲にいる高校の同級生を含めてすべてのボーイフレンドは、千円の小遣い銭にも不自由するぐらい貧しく、おまけにダサイ。
自分にも西麻布のマンションで暮らし、外車を買い、休日にはハワイに行けるような生活をする権利があるはずだ。そこでコネも、歌や踊りの才能もない子は、その技術を教えてくれる養成所、タレントスクールに入って学ぼうとする。入学のとき多額の入学金を取られる。大体想像した額の五倍から十倍の出費になる。そこでこれだけ出したのだから、卒業したら必ず芸能界の一流どころの会社に紹介してくれるだろうと思う。
出費も多い。借金もできる。今のところは小さい部屋でもいいからマンションを借りて自立したい。
そのためには背に腹は代えられない。世間体が悪くても日銭の入る商売につい目が向く。ソープ、ファッション・ヘルス、SM嬢、つまり肉体を男に切り売りする職業に良心の抵抗なく入ってしまう。
3
「私たちは保安の風紀係のデカではない。この商売が新風俗営業法の示す範囲で営業しているかどうか、客寄せのための極度なエッチサービスをしているかどうかについては全く関心がない。ただ殺人事件の参考人として、明日から何日間か、従業員全員に警視庁へ任意に出頭してもらう。ただし任意だからといって出頭してもしなくてもいいと思ったら大きな間違いだぞ」
岩崎はいつものように人の魂を凍らせるような鋭い目付きで、女子のコンパニオン(サービス嬢を店ではそう呼ぶ)全員と、ボーイ連中を一人一人眺め回した。中にはそれだけで怯えて、俯いてかすかに震え出す者もいれば、わざと反抗的に睨み返そうとして突然恐怖にかられて震え出す者もいた。
「まあー中にはどこかへ逃げてしまえば、自分には関係ないと思っている者がいるかもしれない。ホテル住まい、友人の部屋に居候《いそうろう》、何人かで一緒に部屋を借りている者は、我々の解釈では住所不定と認める。本日、この場から参考人訊問が終わる五、六日の間は警視庁三階の冷暖房、三食、及び、布団の上げ下ろし掃除の、軽労働付きホテルへ泊まってもらう」
女たちの中にはわーっと泣き出す者がいた。男の中にもそれを聞いただけで足がガクガク震え出してきたのもいる。
「今の居住場所が自宅や、ちゃんと敷金を払って自分の本名でアパートを借りている者は一旦、自宅に帰ってよろしい。指定の時刻には、任意であるが、つまりタクシーに乗って来ても、地下鉄で来てもいいという点の任意にすぎないが、時間をしっかり守って、出頭してもらう。この中には、日本は広い、どこかへ逃げてしまえば分かりはしないと思ってる者もいるかもしれないが、本日、ここを出る前に本籍地と住所をすべて調査し、ここにいる刑事さんたちがウラを取る。もし指定の時間に出頭しなければ、ただちに逮捕状に切り替える。風俗営業規則違反でなく、刑法の殺人罪による逮捕状だから、日本国中に指名手配の網が張り巡らされる。こうなると日本は狭い。逃げきれるものでないし、捕まったら後は厄介だぞ。殺人の共犯にされる」
近眼鏡をかけた、一見銀行員にしか見えない若い男だが、どうもここへ来た十人に近いごっつい体付きの鬼のような刑事たちの中では、一番位が上らしい男が、きびしい口調でいう。女の子には別な意味で顔を青くして心配そうにする子ができてきた。自宅からここへ来ている者だ。警視庁には行かなくてすむが、家の者にはこういう所へ勤めているということを隠している女の子が多い。昼間の勤務の早番の子は、デザイン学校へ行ってるとか、コンピュータ会社のプログラム係をやっているとかいって家をごまかせる。岩崎はそんな心配はもうちゃんと分かっている。
「本籍や住所の照会には、店や警察の名は出さない。ここに女の刑事さんもいる。おまえたちが行ってると親に話してある学校や会社の名で丁寧に聞くから心配するな。但し家出娘はどうにもならない。親に何も知られたくないなら、そのまま住所不定人扱いで、桜田門ホテルに五、六日泊まって行けば、別に何もバレんですむ」
それで露骨にほっとした顔の女もいた。ボーイの中には親に学生アルバイトと称して働いている者がいたらしく、秘かに胸を撫で下ろした者もいる。
入口の扉の前に『当分休業』と貼り紙させる。電話で鑑識を呼びよせて、到着するとすぐ現場での死体検案をさせる。二人ともどこから見ても、ナイフによる殺傷死であって、犯人、犯行、凶器についての疑問は一つもない。ただちに司法解剖をしなくてはならない。検案が終わるころは死体運搬車が来て、ビニールシートに包んだ二人の男を運んで行ってしまった。
通行人がよけいな通報をしたらしい。渋谷署から所轄の巡査が駆けつけたが、扉の外に昔、四谷署で捜査課長をやっていた吉田老警部が立ち
「この事件はもう、本庁の捜一が預かりましたから」
といって、一歩も他の署の者を中へ入れなかった。捜一に先に乗りこまれては、所轄でもどうにもならない。せいぜい周辺の野次馬を追い払うぐらいのことしかできない。
入口を遮断して、岩崎警視正が直接指揮して取調べが始まった。
応接間にボーイと、コンパニオンを別の二列に並ばせ、進藤と武藤が、それぞれ後輩の刑事をそばに二人ずつおいて、本籍現住所の調査を始めた。本当は、進藤と武藤だけでできることだが、そばに目付きの鋭い刑事が両側について睨んでいると、甚だしく威嚇の効果がある。相当なワルでも出鱈目《でたらめ》はいえない。
事件を小さく内輪に収めようと思っていたマネージャーは、事が意外に大きくなったので、隅でにがりきっている。
岩崎がマネージャーにいった。
「奥に女の子たちが休憩したり、食事したりする控え室があるだろう」
「はい」
「そこでこの女の事情聴取をする」
さっき死体にとりすがって泣いていた女を指名した。父とせんせいと呼ぶ男が殺し合って死体となっているのに直面した彼女は、今、死体が運び去られた後は茫然としたままだ。
「こちらで話をきこう」
といって控え室へうながす。返事はしたものの、魂がどこにあるのか分からない、うつろの表情である。マネージャーに半ば助けられるようにして、自分らが食事をしたり、客との応対中は禁じられている煙草を秘かに喫ったりする小部屋に入った。応接間や客との作業用の部屋には比較的豪華な家具がおかれているのに、その部屋は建築現場の小屋の食卓のような、むき出しの板のテーブルに木のベンチがおかれているきりだ。灰皿でさえ缶詰の空き缶が利用されているほどの粗末さだ。
女と向かい合って坐る。まだぼーっと気抜けしたままの女に、心配そうに付き添っているマネージャーに岩崎はきびしい声でいった。
「あんたは応接間に戻りなさい。取調べは私と二人だけでする。もしも無料で店の女にいたずらされては損すると心配なら、女の刑事さんを一人この部屋へ入れて付き添わせてもいいが」
じろりと睨みつけると
「と、とんでもない。いいです」
とあわてて否定して立ち去った。岩崎警視正はその女と二人だけになった。
「名前は」
女はやっと口を開いた。
「ここではルミちゃんです。本名は由里早智子です」
ようやく正常な意識が戻ったらしい。改めて岩崎は正面から、その娘の顔を見た。知的ないい顔をしている。ゴクミよりもりえよりも品が好い。スタイルもいい。こんな美女が三十分一万二千円で、いやらしいサービスをし、全裸の体を客の思うがままに見せ、触らせてくれるなら、これまでキャバレーやソープに通っていた客が、どんどんファッション・ヘルスというわけの分からない業種に流れてしまうのも当然だと思った。
「この店へ入るまではどこに勤めていたのかね」
「お勤めはしてません。大学へ行ってました。今でも行ってることになってます」
「どこだね」
「赤坂学院大学です」
「ほう」
と岩崎は少し驚いたような声を出した。金持ちの娘の行くお嬢さん学校として有名な大学だ。
「何科かね」
「英文科です」
「外資系の会社にでも入るつもりだったのかね」
「違います」
女はむしろ胸を張るようにして答える。
「私は、ニュースキャスターもやれる、バイリンギャルのタレントになりたかったのです。ブブ漬けの山口美子さんが目標でした」
しばらくその女の顔を見ていた。まあーこれだけの美貌なら、今はやりのニュースキャスターになるのは、それほど難しいことはないだろう。だが……と岩崎は突然彼女に英語で
「貴女はペレストロイカと、東独の壁の崩壊との関連をどう考えますか」
と聞いた。やっぱりヒアリングの力がまるでない。岩崎のいってることが殆ど聞きとれない。少し何かは分かったらしいが、答えを作れるほどの作文の力もない。真っ赤な顔をして
「ううっ……」
と詰まってしまった。岩崎はまた日本語に戻っていった。
「今の君の年で、そのぐらいの英語の力では、ニュースキャスターのバイリンギャルは無理だ。諦めた方がいい。ただのタレントの方なら、もしかしたら……」
やっと女は気を取り直していった。
「ただのタレントでもいいのです。今、スカウトされて勉強しているのです。必ずタレントにはなるつもりだったのです」
「誰にスカウトされたのかね」
「塔方プロの荒井せんせいです。何でもトーホー映画の系列のプロで、中で成績がよかったら、映画の主役に抜擢してくれるのです。さっき死んでいた人です」
彼女に目の前の紙に塔方プロと書かせた。それから聞いた。
「何の成績かね」
「ここでの仕事の成績です。早番は一日十本、おそ番は十二本以上、毎日お客を稼げば、大衆に与える魅力抜群ということで、三カ月後には、撮影所の方に回されることになっています。私が早番を選んだのは、実家から通っているので、昼間外出する方が、そのまま通学しているようで、家族によけいな心配をさせなくてすむからです」
「というとこれが、やはり親には知られたくない悪い商売だということは幾らか分かっているのかね」
「ええ、でもタレントになるために必要な女の魅力を増すためには、仕方がないと思いました。それにここは、フィンガーや、リップのサービスが主体の作業場のようなもので、売春設備ではありませんから、自分さえ慎重に行動していれば、全裸でサービスしても処女だけは守っていけます。タレントになるには、そのデビュー作の監督さんへの贈り物として処女だけは、大事に取っておかなくてはいけないと店からきびしく言われています」
英語は殆ど駄目でも、タレントになるにはどうしたらいいかという知識だけは、ちゃんと勉強しているらしい。それは噂や風聞だけを根拠にした浅薄な知識であっても、店からもいわれると彼女らなりに真剣なものがあった。
「君の仕事の種類は分かった。我々が考えていたよりもずっと清潔で純粋なものらしい。君がタレントになるための女の魅力を増すため一生懸命働いていたというその真心は認めよう。ところで一本一万二千円のサービス料金の内、君の手にはどのくらい入るんだね」
「店と五分、五分です」
「六千円だね。一日十本で六万円。二十五日働いたとして、月百五十万円だ。貯金はできたかね……」
「いいえ、できませんでした」
「つまりタレント養成料や有力芸能プロへの根回し料として、取り上げられたのだろう」
「ええ……どうして分かるのですか」
「君は自分がスターになることへの夢からもう覚めなければいけない。君のお父さんはさっき殺された。今、大塚の監察院という所で白いステンレスの解剖台にのせられて、体中のあちこちを切り刻まれているのだ」
岩崎警視正の感情の全くこもらない冷静な言葉に、急に悲しみが強く湧き上がってきたらしい。いきなり両手で顔をおおうと、わーっと泣き出した。涙がいくらでも出る。
少しおさまるのを待ってゆっくり話しかける。
「そろそろ分かってもいいだろう。お父さんと争って殺された男は、君をスターにしようなどという考えは初めから無かった。このようなファッション・ヘルスは、渋谷のパルコ坂周辺だけでも今は二十店近くある。五、六人のタレント志望のかわいい女性を置いて、店でフルに稼がせる。正当な店の取り分の他に当人の貰い分の中からも、タレントになるための事前の根回しと称して、その殆どを巻き上げてしまえば、六万円の七人でも一日四十二万円の所得の他に三十万ぐらいは取れる。月に三千万円は超す。吉原の一流のソープでもこれほどの大きな稼ぎは出ない。それに女に処女を守ることを常にきびしく注意しておくということは、ヒモ役になったスカウト役の男が、何人かの自分の手持ちの青くさい娘に無理にセックスをしてやらなくてもいいということだ。ごく気楽にヒモの役目が勤まる。金儲けと自分の情欲と考え合わせてどちらが大切かと考えれば結論は明らかだ。こんな商売していたら、セックスはもう売り物にならなくなった少し古手の女の子がいくらでもいるから不自由はしない」
「せんせいはそんな人じゃありません。本当に私をスターにしようと考えてくれた、いい人なんです。私の肉体には指も触れませんでした」
「君の大事なお父さんを殺してもか。ナイフで滅多突きに刺しているよ」
女は黙りこんでしまった。岩崎が続ける。
「君はお父さんを心配させただけでなく、とうとう生命まで失わせてしまったんだよ。君を美しい少女に育て、大学まで行かせてくれた、大事なお父さんを。そろそろこの巧妙なカラクリに気がついたらどうかね。スターという、おいしい餌を目の前にぶら下げて、何も知らない女の子を、堕落の道へまっすぐ走らせてきた男のことを。単に処女を示す粘膜一枚が損傷されていないからといって、それで、心も身体も完全に純潔というわけにはいかないのだよ」
女は声を上げて一層強く泣き出す。
「ときには……というよりいつもサービスの一つとして、男のセックスを口に含み、その欲情の排出物をのみこんだりして、金銭を稼いでいる女を通常は処女とはいわないのだ。お父上はどこからか、君がガラス窓の中で裸の姿で並んで男にセックスのサービスをしているということを聞いた。それまで学校へ行っているとばかり思っていた自慢の一人娘の本当の姿にびっくりした。そこへあの男がやってきた。或いは少し事情が分かって、お父上が男を呼び出したのかもしれない。今となっては二人とも死んでしまったからその真相はよく分からない。しかし君にお父上に申し訳ないという気持ちがあったら、どうしてあの若い男の手に落ちたか、そこを詳しく話しなさい。これからああいう連中の手に君の後輩が陥らないようにするため」
女は泣きじゃくるのをやっと止めると
「八公の銅像の所でタレントにならないかと声をかけられたのです。テスト用のスタジオがこのビルにあったのです」
と涙できらきら光る眼で話し出した。
[#小見出し] タレントになる方法 D
プロダクション[#「プロダクション」はゴシック体]
学校で規則正しく学んでいく英語や数学などの学科が大嫌いだ。好きなのは、テレビの音楽番組と少女漫画だ、という女の子が多い。
自分もそんな世界に生きたい。感性でナウい世の中を渡って、人々に尊敬される存在になりたい。
ここで最もそれに近い道として、少しコネのある人は実際のスターの事務を扱っているプロダクションに何とかもぐりこむ。ここまで辿りつけたことは、他のタレント志望者に比べて大幅のリードであるが、しかしやがてプロダクションが自分に求めているのは、タレントとしての才能でなく、我がまま、気まぐれ、ヒステリーのジャリタレに、召使いのように仕える、辛抱強い付き人であると気がつく。
スターの雑用係になるためにプロダクションに入ったわけではない。一年もたたないうちに夢破れてバー、クラブ、スナックなどの水商売に転向して行く。我がままがきいて金も入る。水商売はプロダクションと比べて天国のようだ。
かくて有名プロにいたと称する元タレントで、東京の盛り場は華やかに彩られる。
4
奥の控え室から、岩崎と、ここでルミちゃんと呼ばれている、美貌の少女由里早智子が出てきた。眼は泣き腫《は》らして真っ赤である。
応接室では、全員の身上調査がほぼ終わったところだ。
岩崎は自分の後ろにもう魂が抜けてしまって茫然として立っているルミを坐らせると
「女の子の取調べは終わったかね」
と進藤にきく。
「はい、全員終えました」
「その中で住所のはっきりしている子は自宅に帰しなさい。出頭日は通知してあるね。住所、宿泊先が当方の指定の条件をみたさない不定扱いの者は、本庁へ泊まってもらう。どうせ一日幾らでこの店からその日の稼ぎをもらうと、全部使ってしまうのだろう。今日の帰りがけに、ここでの稼ぎを貰わなくては、食事代も、ホテル代もない者ばかりだろう。本庁の三階なら宿泊も食事もただだよ」
残りの女のうち、四人は部屋の隅にかたまり、泣いたり、刑事を睨みつけたりしている。今日は花の金曜日。昨夜の暑さで寝苦しい時間をすごした、彼女ない歴《ヽヽヽ》何年かの若者が、どっとやってくるのに違いない。金が儲かることとは別に、たまにやってくる若いいい男を、商売気ぬきで掌や唇のサービスで極限まで導いて、その苦悶の表情を一緒に楽しむ肉体の適応性までできてしまった子もいる。それがこれから商売をするどころか家へ帰るのも許されず、このまま怖しい留置場へ連れて行かれる。
彼女たちは、ここで何が起こったか見ていないし、犯行については関係がないから、一応心の中ではそれほどの心配はしてないが、まだ入ったことのないブタ箱というものが怖い。テレビの時代劇で、女牢で若い美貌の囚人は先輩の鬼婆のような囚人に残虐なリンチを受ける場面がある。その画面を思い出して怯えている。
岩崎が二人の婦警に命じた。
「乃木とお稽古は一台に女の子を三人ずつ乗せて本庁へ戻りなさい。どちらにも自宅に戻る子をもう一人乗せる。みな都内に家がある。自宅だ。最初にそこへ回って送る。家人に会って母親か父親かの確認がとれたら、『日射病でふらふらしていたので、交番で休ませてから送ってきました』といって引き渡しなさい」
自宅へ戻れる女は、店のことはいわれないですむことを知ってほっとした。
「他の四人は本庁へ連れて行って、三階のホテルの管理係に渡して収監手続きを取りなさい」
そうして婦警二人に六人の女を預けて店を出してしまった。それでも男の刑事が七人、まだ残っている。一人は扉の外、一人は扉の中に立つ。全員が脱け出せないように監視している。残りの五人は、四人いるボーイたちを睨みつけている。
マネージャーは、最初は捜一の旦那を何とか適当に言いくるめて早く取調べをすませてもらい、できればせいぜい一時間おくれで店を再開したいと思っていた予定が狂った。少し馴々しく押しつけがましかったのが、だんだん神経質になり心配そうな顔になった。思いきってきく。
「床や長椅子に飛び散ってる血を、水で洗いたいのですが。早くしないと、固まってとれないようになってしまいますので」
「駄目だ」
岩崎は切り捨てるようにいった。
「……ここは殺人現場だ。すべての捜査が終わるまで何一つ現状を変えることは許されんよ。勝手に掃除したり、片付けたりしたら証拠隠滅罪として二、三年の実刑がつくぞ」
ボーイたちは思いがけない強い言葉に震え上がってしまった。
「由里君」
ルミという名で働いていた女の本名を呼んだ。
「はい」
「君がスカウトされたときのことをみなの前で話してみなさい。死んだお父さんの霊を慰めるためには、すべてを明らかにする以外はない。遺体は今晩家に帰る。これから君の家族にもすべてを語らなくてはならないときがくる。辛い苦しい人生が始まる。それは何不自由なく育てられた令嬢である君が、たとえ人にだまされたからといっても、少しでもこの商売で働いてしまったことに対しての一生負わなければならない十字架だ。多くの人にわざわざ知らせることはないが、夫を失った気の毒な君の母親にだけは本当のことを言わなくてはいけない。そのときのためにもここで記憶をしっかり整理しておきなさい」
こっくりとうなずくと話し出した。
「渋谷駅の八公のところでお友達を待っていたのです。大学の同級生で女の子です。でもその子予定よりおくれてしまって、なかなか来なかったんです……。そこへ背のすらりとしたいかす感じの男の人がきて話しかけられました。『自分はプロダクションのスカウト係だが、今、新しい作品の主役を探している。丁度、あんたにぴったりの役だ。ついその先にスタジオがあり、今、有名な先生が来ているから』というのです。今行かなければ、これまでずっと夢みていたタレントになる機会を逃がしてしまうような気がして、それでついて行ったのです。その男の人がせんせいです。さっき死んでいた」
そこまで彼女がいったとき、突然岩崎がきいた。
「それで撮影は無料だったかね」
女よりむしろマネージャーがギョッとして顔色を変えた。由里早智子は淡々と話す。
「いいえ、帰る直前、今の撮影料は五十万円だといわれました。私は初め何のことか分かりませんでしたが、連れてきてくれたせんせいが『一流の先生に写してもらって只というわけにはいかない』というのです。でもそんなお金はありません。自宅へ一緒に取りに行くというのです。両親に分かったら叱られます。すると『スタジオの下に、女性の魅力を養成する稽古場のような店があるから、そこで働きなさい。一日に六万円以上にはなるからとりあえず十日ぐらい働きなさい』といわれたのです。『早番もあって学業に差し支えないから』ともいうのです」
秋田出身の、顔は鬼のようだが心は純情の花輪刑事は、女のその言葉に怒り心頭に発してしまった。いきなりマネージャーのえり首を把んで、ぎゅーと壁に押しつけた。今にも拳固でぶん殴りそうになった。それを岩崎は
「まあーいい。もっとお嬢さんから話をきこう。この殺人事件の本当の姿がだんだん見えてくるかもしれない」
といって止めた。
ゴクミよりもりえよりも見方によってはきれいなその少女が、なぜこんな変態男を相手の、売春一歩手前の仕事をやるようになったか、そのカラクリが、みなにだんだん分かってきた。それとともに、さっきここで死んだ若い男だけでなく、この『パルコ坂 キューティ』の店そのものが、だんだんこの殺人には無縁でないと刑事たちに分かってきた。
もしここに乃木がいたら、ショルダーバッグから制式拳銃のコルトを抜き出して、このマネージャーの胸をぶち抜いてやろうと思うほど怒り狂っただろう。
女が少しずつ話し出す。一日十本以上の稼ぎを強制され、その中から五十万円を返して行くのだから、単純にいえば、十日もしないうちに返せたはずだ。それがぼつぼつひと月にもなるのに、未だに半分も返せないのは、途中、芸能の業界の大物へのプレゼント代、写真を豪華アルバムにして映画テレビの各界の有力者に回したりする代金、パーティに協賛金を出したり(実際にはどのパーティにも彼女は出席したことがないし、誰のパーティかも知らない)ということで、どんどん稼いだ金をひかれるので、借金が減らないからなのだ。
女の話が進んで行くとともに、岩崎や刑事たちの顔がだんだんきびしくなってきた。
女の話が終わった。
「こうして、今日も少しでも早く、写真の撮影料を返したいと思ってここへ来たのです。実は私は今ではもうタレントになれなくてもいいという気持ちになってきたのです。こんないやらしい仕事をしていては、お嫁に行けなくなりそうですし、父や母にかくしておくのが辛くなってきたのです。私が馬鹿だったのです。早くせんせいにお金を返したいんです」
女はまた、今は亡い父を思い出してか、わーっと泣き出した。岩崎が語りかける。
「君のお父上はこのことを知ったようだな。会社の知り合いか何かが教えたのだろう。まさかと思った。君が学校へ出かける後をつけた。ところが渋谷駅で降りると赤坂へ向かう地下鉄に乗らずに、まっすぐパルコ坂を上る。そしてこの店まで来た。父上は開店を待って入ると、もう既に君が裸になって、他の女の子と同じに、ハレムの奴隷のように並んで坐っている。カーッとなって、マネージャーを呼んだ」
マネージャーはあわてていった。
「私は知りません。騒ぎがあって、入ってきたときには、二人とも死んでいたのです。なあーおまえたちもそうだろう」
とボーイたちにも話しかける。みな不安そうな顔だが、マネージャーの言葉に合わせてうなずく。
岩崎はぴしりといった。
「おまえらも少しは組関係の下ッパの仕事をしているなら、本庁捜一がそんなに甘いところではないということも知っているだろう。この事件を、お互いの相対死にで、犯人なしですまそうとしてもそうはいかない。進藤デカ長、手錠はいくつ持ってきた」
進藤は張り切って答えた。
「刑事の持っているのを全部合わせれば、十以上あります。一列につないでバスに乗せて運べるような腰縄もちゃんとあります」
「そうか」
とうなずくと、岩崎はみなにいった。
「ここにいる全員、マネージャーに、ボーイ四名の計五名を、先ほどの老人と若者の二名殺害の共同正犯として逮捕する」
マネージャーとボーイたちが
「そんな」「出鱈目です」「共同正犯なんてひどい」「ぼくは何もしなかった」
と口々にわめき出したが、こちらは何しろ捜一の選《え》り抜きの、二係の猛者刑事だ。それに刑事の方が七人、従業員の方は五人では最初から敵ではない。みな押えつけられて手錠をかけられ、床に正座させられた。
岩崎のきびしい指示は続く。
「進藤は四人の刑事をつれて、上の写真スタジオに行き、そこにいる全員を手錠腰縄でここへつれてきなさい。殺人の関係者としてだ。花輪は本庁の大田警部に連絡して、犯人護送用の鉄の網戸つきのバスをこちらへ回すようにいいなさい」
残った刑事は吉田老と武藤と岩崎だけになった。
正座させられたボーイとマネージャーに岩崎はいった。
「おまえら、八公の所に集まってくる女の子はごま化せても、捜一をそう簡単に丸めこめると思ったら大間違いだ。入ってきた老人だけを殺しておいたら、もう少し芝居はうまくいったかもしれない。老人を殺した男として、店や組織の口封じに、誰かが一刺しでやった。実際はどちらが早く絶命したかは分からないが、それはゆっくりきく。老人の体の傷が、一人の男の手でやられたものでないことは、私たち捜一が見たら、最初から割れている。
これから本庁のホテルに泊まって、十三日間かけて、毎日ゆっくり説明してもらう。大塚から届けられた解剖所見を参考に、どんなかすり傷でも、誰がどうつけたか、すべてはっきりする日までは、おまえらみな二度と娑婆の風には当たれないよ」
半分泣きそうな男たちに更にいう。
「死体が二つだから、一人や二人は絞首台に吊されることもある。今のうち覚悟はきめておくのだね」
涙を出して泣いているボーイもいる。岩崎は更に冷たくじろりと見る。
「バスは渋谷駅の横を通る。おまえらの大事な、漁場の八公の所も今日で見納めだ。まだ釣り上げてない周りに群がっているギャルたちと一緒に八公にもゆっくりお別れを告げるんだな。当分はもうピチピチした女の子も犬もみることもできないからな」
そして最後に
「進藤立たせろ。バスが来たようだ。ぐずぐずしてる奴がいたら腰を蹴飛ばしてもいいぞ」
ときびしくいった。
[#地付き]〈了〉
初出誌
殺し屋の最後の仕事
オール讀物/平成二年二月号
美女の受けた秘命
クォリティ/平成二年三、四月号
ザ・ゴクドウ
クォリティ/平成二年五、六月号
ランバダに酔いしれて
オール讀物/平成二年五月号
一日早い殺人
クォリティ/平成二年七、八月号
花金八公パルコ坂
クォリティ/平成二年九、十月号
単行本 平成三年二月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年十月九日刊