胡桃沢耕史
翔んでる警視正 平成篇3 キャリアウーマン
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目 次
悲しき殺し屋
十字架は語らず
キャリアウーマン
哀しみは美しさの故
アンダースコート
空飛ぶ大根
[#改ページ]
[#見出し]  悲しき殺し屋
[#小見出し]  この物語の四人の主役(その一)
これから、この物語で活躍する四人の主人公を、順次御紹介しておく。
最初の一人は岩崎白昼夢。妙な名だが、国漢教師の父親が少し凝《こ》りすぎて、漢籍の『史記』の説話の中から取った。字は難しいが、呼び名は平凡で、|さだむ《ヽヽヽ》と読む。
昭和五十X年東大を一番で卒業、同年国家公務員上級職試験に三番で合格。本来なら当然、大蔵省にでも入るところを、当人の強い希望で二十五歳の年に一地方官庁にすぎない東京警視庁の、それも殺人、強盗などの凶悪犯を専門に扱う捜査一課の係長となった。以来、ほぼ六年。
初めは部下であり現場のベテランである先輩の鬼刑事と、かなり|ぎくしゃく《ヽヽヽヽヽ》した感じもあったが、そのうちに彼の天才的な推理力や捜査能力には、さすがの鬼刑事たちもすっかり兜《かぶと》を脱ぐようになった。今では彼が直接指揮監督する捜査一課の一係、二係の猛者刑事《モサデカ》たちは、すべてこの若い上司に心酔しきっている。
現在の階級は警視正、職務は管理官である。
1[#「1」はゴシック体]
捜査一課の部屋は、桜田門前にある警視庁の、淡いパステルカラーの十八階建て庁舎の六階にある。一人ひとりが、凶悪犯が面と向かうと、恐ろしさのあまり膝《ひざ》小僧が自然にがたがたと震えてくるような、凄味《すごみ》のある恐ろしい刑事《デカ》さんばかり、二百人も大部屋にたむろしている。
まだ入りたての外勤巡査などは、何かの用で六階に届け物などさせられたら、エレベーターを降りたとたん、あたりにぴーんと張りつめた空気の鋭さに、身がすくんで足が強《こわ》ばり、もう前に進めない。
といって、鬼ばかりが棲《す》んでいるわけではない。
ヒナマレというか、はき溜《だ》めの鶴というか、捜査一課でも最も荒っぽく、ごっついといわれる二係には、美人の女刑事が二人いて、とかくギスギスしがちな殺人課の連中の、日常の気分を柔らかいものにしている。ここには最近まで四人も美女がいた。
その一人は、志村みずえ警部補。岩崎警視正の三年先輩で、彼が二十五歳で捜査一課に初めて配属されたとき、内部の事情の説明係を引き受けた。今はその岩崎警視正の夫人になり、一子|翔《しよう》を育てるため、休職中である。
もう一人、亡くなった夏目正子によく似た美人の原田ひとみ刑事は、ほんの一カ月前まで勤務していたが、最近、自宅近くの新大久保署の捜査係に転勤になった。捜一の同じ係内の同僚、中村刑事との結婚が正式に決まったためだ。
今、残っている二人の女刑事の内の一人、峯岸|稽古《けいこ》は一昨年高校を卒業したばかりの見習新人だが、出身が会津で、岩崎夫人みずえ警部補の母校である会津の白虎高校後輩で、合気道二段。父が武道師範で、毎朝井戸端で水をかぶりながら軍人勅諭の朗誦をしている家庭の出身だ。
痴漢に手錠をかける早さは名人芸と称されている。
現在、捜一の岩崎管理官が、捜一内でも指導の責任を持って事件の解決に当たっているのは、高橋警視の直属の一係と、村松警視の直属の二係だが、その高橋警視は、十二月の初めに、歳末警戒で最も繁忙な六本木署の署長に転出することに決まり、内示がもう出ている。
一応表面は、捜査一課で修行した幹部エリートは順次に事件の多い署の署長に送りこみ、管理職としてのきびしい現実に直面させて、真の司法警官としての魂の錬成をさせることになっている。高橋警視は、単にその番に当たっただけだということだが……。
しかし真相はちょっと違う。
原田婦警と中村刑事との結婚は、原田を所轄に出すことで解決した。同一課内で夫婦で勤めることは、どんな職場でも好ましくないのは当然だが、特にお堅いことでは日本の代表的存在である警視庁の、その中でも最もごっつい猛者揃いの、殺人・強盗犯専門の捜一では、到底許されることではない。
本当は、同じく結婚した一係長の高橋警視と、単に巡査長である乃木圭子刑事とのどちらを捜一に残すかは、岩崎の胸一つで決められることであった。
捜一課長からも刑事部長からも、
「どちらを捜一に残すかね」
と聞かれたときに、岩崎警視正は、ためらいもせずにはっきり答えた。
「私がほしいのはエリートの捜査官より、私の思ったことを、私が口を出す前に、そのまま、もう事前にさっさとやってくれている気心の分かった部下です」
その一言がきいて、乃木圭子はそのまま捜一の刑事として残ることになり、二係には鬼より怖《こわ》いメス刑事《デカ》が二人、頑張ることになった。鬼でも蛇でも、女は女だ。
むさ苦しい刑事さんたちの中に二人が坐っていると、それだけで捜一の張りつめた空気の一カ所だけ、ぽかりと柔らかく甘い香りが流れているように感じられる。いくら女刑事でもクリームぐらいはつけるからだろう。空席の一係長は、当分の間管理官の岩崎の兼任になった。
警視庁の始業開始は、朝の八時半だ。
全館にベルが鳴る。何か重大な事件があったり、総監閣下の訓辞があれば、そのとき同時に全庁舎内にマイクで伝えられるが、特別のことがなければ、約二十秒の間、自席でじっとベルを聞いて、気持ちを落ち着けることになっている。
鳴り終わると、末席の峯岸見習刑事が、捜一の備品である直径四十センチはたっぷりある大薬缶を持って、廊下の向こうにある湯沸かし場に行く。これまで乃木が見習でこの捜一へ来てから六年間は、それはずっと乃木刑事の専任の仕事であった。湯沸かし場で熱湯をもらい、薬缶の中に番茶の葉をパラッと投げ入れる。それには秘伝があって、みなの湯呑み茶碗に一杯ずつ注ぐとき、必ず中心に形のよい茶柱が一本立つようにするのは乃木しかできない特技だった。
それが冬の休みの期間中、峯岸見習は故郷の会津へも帰らずに、寮で秘法を独力で研究して習得してしまったのである。
八時半の始業のベルが鳴り終わっても、現在、乃木はすぐやる仕事はない。田舎の高校を出たばかりの新米に、かつて独占を誇っていた秘法をあっさり盗まれてしまった。
重い薬缶をこの会津出身のカントリー・ガールは、まるで綿菓子でもぶら下げているように軽々と下げて戻ってくると、岩崎警視正の茶碗から始めて、一人ひとりの湯呑みに注いで行く。刑事さんたちは縁起担ぎが多いから、みなこの朝の一番のお茶の茶柱の立ち方をひどく気にする。
すべてに理知的で、こんなことなどおよそ全く気にもしないと思われる岩崎警視正でさえ、ちらっと眺める。いつもは一本きれいに立つのに、なぜか今日の茶柱は二つ、それが×《バツ》点に入り組んで立っている。
峯岸は自分の責任のように真っ赤になって謝った。
「すみません」
「気にするな。おけいこ」
と岩崎は小声でいった。たった二人の婦人刑事の、乃木の名が圭子、峯岸の名が稽古、両方ともケイコだから混同を避けるため、峯岸見習はお稽古と呼ばれている。それがまた、この合気道二段、その他武術なら何でも好きだという二十歳の娘にふさわしい。
岩崎は末席で自分の電話の端末と同じ線を受け持っている乃木に、上席から声をかけた。
「どうも、今日の茶柱があまり平穏でない。面倒な事件が起こりそうな気配がする」
峯岸がそばで恐縮して立ちすくんでいるのを叱《しか》りつけるようにして、岩崎は他の者に注がせるようにした。
「お稽古は何も考えずに、早く全員についで回れ。進藤は面倒だろうが、一人ひとりの茶碗を覗《のぞ》いて、二本入っていた者はメモにとれ」
右側上席にいる、古参で最も信頼している通称デカ長、現在は捜査主任の進藤警部補に命じた。
そしてすぐに、末席の乃木刑事に、
「乃木は、今すぐか少したってからかは、まだ私も予言者でないからはっきりいえないが、そこへ電話がかかる。まずあの茶柱のもつれ方を見ると、それは外国人がからんだ殺人事件だ。電話がいきなり外国語でべらべらとかかってくる。しかし、乃木が英検二級まで学んだ言葉ではない可能性がある。世界の言葉は多い。ジャスト・モメントでもし通用しなかったら、ウン・ポコといって、私に電話を回せ」
「ウン・ポコ?」
びっくりして冗談だと思っていたが、岩崎の顔が真顔で、いつものように冷酷な光さえたたえているのを見て、あわてて、
「はい、畏《かしこ》まりました」
と答えた。犯罪が岩崎を慕うのか、岩崎が匂いもしない多くの犯罪をテレパシーで感づいてしまうのか、その指示が終わった瞬間にはもう電話がリリーンと鳴って、あわててとった乃木が、それこそ丸い目玉をさらに丸くして、大きな声で、
「ウン・ポコ。ウン・ポコです」
と答えた。
乃木婦警が突拍子もない声で突然、
「ウン・ポコ」
などと、日本語では滑稽にしか聞こえない言葉で答えたので、上席の進藤デカ長も、武藤や中村、花輪などの同じ係の先輩刑事も、びっくりしたように彼女の方を見た。
たとえ身分は鬼も哭《な》く警視庁捜一の殺人専門の刑事でも、乃木の顔はかの人気タレント岸山美加子そっくりの、大きな目玉がくりくりとした丸顔の可愛い子ちゃんだ。一カ月前に結婚したばかりだが、事情があって、今はやりの夫婦別姓にしている。
処女ではないことは確実だが、それでも新婚早々の若妻が気軽にロに出せる言葉ではない。いざ口に出していってみて急に恥ずかしくなったらしい。これは、どうも『しばらくお待ちください』というような言葉らしい。ちゃんと通じて、早口で息せききってしゃべっていた相手の言葉が、少し止まった。
正面の管理官席の岩崎警視正の電話とは、同じ線でつながっている。
すぐに代わって岩崎がとり、やがて機関銃のような早さでしゃべり出した。勿論誰にも何語か分からない。しかしいつもは落ち着いている岩崎にしては、珍しく声も切羽詰まっているし、口調も荒々しい。誰がきいても大事件と分かる。全員が緊張した。
もともとここは警視庁の捜査一課。決して大きな声ではいえないが、殺人事件がなければ商売にならない。大部屋を出た廊下の向かい側が、運転要員控室だ(正式に捜一の刑事になる前に、各署から上がってきた優秀な刑事が、この運転者室で半年間、犯人追及の猛訓練を受ける)その控室の扉の上に神棚があって、通称『捜査大明神』と呼ばれている。
以前乃木が、事件があまりなくて平穏な日が続いたので、つい何気なく神棚に手を合わせて、事もあろうに、
「どうか事件が起こりますように」
と祈ったその瞬間、殺人事件が発生して、あまりの霊験あらたかなのに仰天して、以後は、そういう不届きなことは冗談にも祈らないようにしている。
しかし刑事《デカ》さんたちの本音をきいてみれば、誰もみな他人にはいえないが、大事件発生を待ち望んでいる。岩崎の声、表情、態度、全体に、彼の指導下にある一係、二係の、四十名を超す刑事たちは、一斉に事件の匂いをかいではやりたった。
受話器をおくと岩崎は短くいった。
「出動だ。吉田さんはパトカーを二台、それに鑑識の車の手配もしてください」
既に定年を少し越していて、四谷署では捜査課長までやった吉田老警部が、岩崎の捜査能力に惚《ほ》れこんで、すすんで平《ヒラ》で働いている。こういう根回しの要る事務的なことはこの老刑事に頼むのが一番確実だ。
いつもの武藤、花輪、中村などの刑事が、廊下を早足で出て行く岩崎の後を追う。勿論、乃木と峯岸の両婦警もそれに遅れない。
岩崎管理官の指導する捜査一課の一係、二係の猛者刑事《モサデカ》たちの出動は、他の係よりワンテンポは早い。
普通の班は、パトカーや公用乗用車の手配を頼むと少し待つ。警視庁のことだから、常に二十四時間の出動態勢は整っていて、都内であるならどんな現場にでも、四分間以内にはつかなくてはならないことになっている。どんな場所も九十三署ある各所轄がカバーしている。だが本庁から遠く離れた場所には、取りあえず所轄のパトカーは急行しても、本庁の一般刑事を乗せた公用乗用車がそれほどすぐ間に合うわけではない。
しかし岩崎警視正の係の刑事は少し違う。伝票だとか、上司の許可とか、手配とかを待つことはない。
いきなり飛び出して行って、タクシーを捕まえる。岩崎の父が、道路公団に譲った土地代金を農協に預金したその利子から生ずる、月に一千万円以上の金を、捜査のために使いきれと厳命して送ってくるからである。
タクシー代、事件の終わった後の六本木のレストランでの夕食代、帝国ホテルの十八階でのレミーマルタンを一杯やりながらの打ち合わせまで、すべて他の係と一桁《けた》違う捜査方法をとっている。
その代わり、事件が起こったら迅速果敢、疾風迅雷の勢いで、待ったなしだ。廊下を走りながら、
「進藤、乃木、吉田さん、中村、花輪、武藤、それにお稽古、事件は豊島区の東長崎町だ。詳しい場所はまだ私にも把《つか》めてないが、三人は死んでいる。しかも地元・東長崎署は、まだ何も知らん。だからパトカーも、救急車も出せん。吉田さんと峯岸お稽古は鑑識へ寄って、近藤鑑識官と助手をひっぱって鑑識車には乗せず、国交ハイヤーで大型車を大至急回してもらって直行してくれ。取りあえずの集合場所は、六号環状道路が西武池袋線と交差する跨線《こせん》橋だ。その上で私らは待っている。近藤鑑識官には、はっきり殺人だといってくれ」
と命令を下している。峯岸見習は張り切って答えた。
「はい。ただちに近藤鑑識官と、現場に急行します」
吉田と二人で廊下を曲がって鑑識の方へ駆けて行く。それと同時に、岩崎はエレベーターにのると念を押すように、
「四点装備だ。みなピストルだけは決して忘れないように」
といった。指示も命令もない。装備を忘れたりついて来れないような者は、捜一の刑事失格、明日にでも交通課の駐車違反摘発係の方に行くようにと、ポンと肩を叩《たた》かれてしまう。
ニューナンブの制式拳銃を肩から腋《わき》の下へかけ、手錠、捕縄、警笛などを持って、今呼ばれた全員がエレベーターを出て正面玄関へ駆け足で出て行く。戦国時代の島津家や織田信長などの、剽悍《ひようかん》無比の武将が取った出陣の方式だ。
警視庁の玄関前で、やってきたタクシーをてんでに止めて、間に合った者から乗って現場へ向かう。タクシー代をどうするかなんてケチな勘定は誰の頭にもない。
[#小見出し]  この物語の四人の主役(その二)
捜査一課は殺人、強盗、放火などの荒っぽい犯罪を主に担当する関係上、そこにいる刑事たちも、ヤワな神経の持ち主では勤まらない。
取調室の机で黙って坐って向かい合えば、これまで何人もの相手を平然として殺してきた、良心のかけらもない凶悪犯人が、一|睨《にら》みされるだけで、自然に震え出して、何もかも吐いてしまうほどの威圧惑を持っていなくてはならない。その点、昭和三十年代に巡査を拝命、柔・剣道の実力抜群のため、すぐに捜査係刑事に任用されて、以来二十年間は捜査一課の鬼のデカ長として勤め上げた進藤ほど捜一刑事らしい男はいない。最近は警部補に昇任して、岩崎警視正のもっとも忠実な配下として、二係の捜査係刑事の主任を務めている。しかし六年前、まだデカ長でいばりくさっていた時代、大学を出て研修を終えたばかりの岩崎警視が、彼の上に係長として赴任してきたときは、進藤は彼なりに大いに反感を示し、捜一魂のあり方を、この若僧に示してやろうと図ったのである。しかし続けて起こった幾つかの殺人事件を、この東大出のエリート警視があっさりと解決してしまったのを見てからは、すっかり心服して、その後は反抗がましい振る舞いはない。
進藤俊次。警部補。静岡県の出身である。
2[#「2」はゴシック体]
第六号環状道路が、池袋から出ている西武電車と交差している立体跨線橋は、ゆるやかなカーブを持つ、長さも一キロはありそうな立派な橋であった。
殆ど同時に、警視庁前を出たタクシーが、次から次へと橋の上に到着した。六台の車が何人かずつの乗客を下ろしたが、道路の幅は広いし、通行人も多い所なので、別に目だちはしない。それにほぼ十四、五人の刑事たちは、中心の岩崎の行動には充分に注意を払ってはいたが、決して不用意に一カ所に固まるようなことはなく、ごくさり気ない通行人を装って歩いている。
岩崎は、進藤主任と乃木刑事との三人でガードレールによりかかりながら、都内からいえば外側の方の町並みを眺めていた。
「いやだわ」
と乃木が、その橋から下の方を見ていった。
およそ一寸四方の土地も無駄にしないような混みあった建て方で住宅が並んでいる。それがすべて、本来の木造住宅にプレハブやモルタルをつぎ足して作った改造アパートである。しかもこのあたりは土地が都心に近いせいか、部屋の値が高いのだろう。自然、男より高収人を保証されている水商売関係の女が沢山入っているようだ。
黄色、ピンク、黒、紅、さまざまな色の、パンティーというよりはむしろ三角巾とでもいった方がよさそうな、小さな絹物、レース、ナイロンなどが窓際にずらりと並んでいる。
日本の娘ならタオルでおおったり、スリップの裏側に隠すように吊《つ》るして干したりするはずだ。
進藤主任は四十代半ばを越している。妻も四十歳を二つ、三つは越えている。もうカラフルなパンティーをつける年ではない。膝下まではたっぷりありそうなメリヤスの厚地の布のロングズロースが、だらーんと四つも五つも軒下にぶら下がっているのを見るだけで、こんな色鮮やかな光景を目にしたことは久しくない。
乃木は女性だから、これよりはずっと穏やかで地味な色であるが、原則的には似たような形の物を身につけている。今は高橋警視という夫がある身だから、十一月に新宿の自宅を出て、現在は四谷から市ヶ谷に向かう高台にあるマンションで、甘い新婚生活を営んでいる。しかしいくら若妻とはいえ、乃木の心の中には、自分は警視庁捜査一課の殺人犯係の鬼刑事であるという自負がある。ブラジャーやパンティーなどの恥ずかしい物は、たとえ夫といえども見せてはならない。風呂場の中で、自分がいないときは夫を出入禁止にして、縄を張り巡らして干すことにしている。
だから、岩崎が一目そのカラフルな窓際の満艦飾を見たとき、
「居住者は日本娘じゃないな」
といったことを、乃木はすぐ理解できた。二階や三階だから、痴漢に盗まれる心配は少ないが、本物の日本娘なら、こんなに大胆にむき出しの干し方はしない。
進藤がいった。
「ここも池袋と同じで、いつのまにか東南アジアや中国の女たちに占領されてしまったようですな」
「うん、一人でも信用して入れてしまうと、もう駄目だそうだ。いつの間にか友達が入ってきて、またその友達の友達が入ってくる。感心なことに、男を連れ込んだり、見も知らぬ男が同居人面して一緒に住みこむということだけは少ないそうだ。女たちの多くの、この日本へ来た目的は、ただ金を貯めることだけだ。三年か四年、死に物狂いになってパンティーを脱いだりはいたりしながら、そこを男に一時貸して楽しませるという単純な仕事を、嘘《うそ》もハッタリもなくまじめに実行すれば、日本人は決して無理な搾取やごま化しはしない。三百万や五百万円の金を持たせて帰るように計らってくれる。それだけあれば彼女らは、故国へ帰ればホテルや喫茶店を二、三軒もてるし、大農場を買って、そこの女主人として小作人を雇って、一生|贅沢《ぜいたく》な生活ができる。だからどんな犠牲を払っても、この日本にやってくる。旅券が切れて追い出されたら、今度は他人の旅券でやってくる」
そこへ一人の男が歩いて来るのが見えた。顔は日本人風だが、ズボンのはき方やシャツの着方からみると、どうもそのへんのサラリーマンや商人とは違う。どこかしまりのない感じが、このごろ日本へ渡ってきた数多い東南アジア系の男に見える。男の方の仕事は単純労働しか認められていないから、どうしても収入は少ない。服装も貧弱でみっともない。三人に向かって遠慮がちにいった。
「クエ イスト ウン・ポコ」
今日、この事件が起こってからは、ウン・ポコという妙な言葉も、もう一同にはおなじみだ。
乃木が、そのやつれた、栄養もろくにとっていないような男に、
「ウン・ポコ、ウン・ポコ」
と、自分がその言葉を知っていることを強調した。岩崎がすぐそれをひきとり、男が使う言葉で話し出した。
たしかに外国語であるようだが、途中で、明らかに女、テイソー、カネなど、耳にはっきり聞きとれる日本語がまじるのが、随分変だった。
そばできいていた乃木は、よっぽど何語なのかと訊ねてみようと思ったが、遠慮した。岩崎がすべての国の言葉を殆ど話せるのは物凄い才能で、たしかに羨《うらや》ましくはある。しかし、たとえそれがどんなに楽々としゃべっているようでも、相手と同じ国に育った人のように何の違和感もなくしゃべるためには、岩崎でさえ全神経を集中して努力しているのが分かる。つまらない質問で、その思考を中断させてはいけないと自制した。
しばらく二人は話し合っていたが、やがて岩崎はいった。
「私とこの男は、そこの細い道を入って行く。進藤は私についてきてくれ。それから中村や武藤は、いつも背広の内ポケットに片手を入れて、拳銃を引き出せるようにしておいて、私が見える範囲で後ろを見守っていてくれ」
何も命じられなかった乃木が岩崎を見る。
「ああ君は、近藤鑑識官がほどなく車でやってくるのを待つ。現場はとても車の入れる所ではないようだから、近藤さんから白衣を借りて制服の上に着て、鑑識助手のような顔をして歩いてついてきてくれ。途中の道の整理や、ごく非公式だが、一般人への通行禁止や、不審なものの立ち入りのチェックは、お稽古にやってもらうから」
この言葉はちょっと乃木にはカチンときた。入ったばかりの新米の女の方がずっと大事な仕事をあたえられて、差別されたような気がする。
だが、峯岸稽古はまだ若く、現場経験は少ないが、何しろやっと成人式を迎えたばかりの独身娘だ。
たとえ捜査能力はどうであれ、今やれっきとした人妻である乃木が、男にとってはもう何の魅力も残っているはずはなく、差別されるのは仕方がないと、唇を噛みしめて悲しく諦《あきら》めた。
お稽古は張り切って、ハンドバッグの上から中に入っているコルトをしっかり押さえて、岩崎の後ろについて行く。
道は急に狭く入り組んできた。東南アジア系の人々や中国人が食事に使う特有のスパイスの匂いが、鼻を強く刺激してくる。
窓際から、パンティーとブラジャーだけの女たちが、身をのり出してさまざまな国の言葉で下へ語りかける。
「私たちゃ、何も悪いことしちゃいないよ。正直に股《また》の間を少し貸してるだけだよ」
岩崎にはそういっているのがよく分かる。
つまりそこは、たしかに東京都の豊島区内にあるレッキとした都の一画なのであるが、細い路地へ入ってしまえば、全く国籍不明の不思議な町になってしまう。
そこにある家屋の形は、日本風の玄関や階段、外梯子《そとばしご》がついている典型的なアパート兼用住宅だ。清潔荘、あけぼの荘、平和コーポなどの名の、日本字で書かれた看板がかかっている。そしてたまには、白いエプロンをつけた若い奥さんや、和服の老婆が通ったりするが、しかし大体は派手な原色のセーターやコート、或いはこの寒空によく冷えこまないものだと逆に心配になってしまうような、極端なミニのスカートで歩いている若い女性などの姿が多かった。
幾らミニが短いといっても、日本の娘たちの間には或る種の自制が働き、歩いてスカートがゆれるとき、パンティーがチラリと見えるほどまでに短いのははかないものだが、そこは近隣諸国の女性となると違う。外国にいるという安心感からか、祖国がそのような慣習を別に問題にしないのか、全く平気で歩いている。
その中を、案内役のやせた貧弱な男は、入り組んだ道を入って行く。スリップ一枚や、ブラジャーとパンティーに、日本のネンネコ袢《ばん》てんをひっかけただけの女性がとび出してくる。
本当にそんな奥のどん詰まりに、ごく普通の木造、鉄骨の外梯子付きのアパートがあった。火事でも起きたら消防は始末に困るだろう。
鉄梯子を上る。婦警を交ぜた、刑事らしい何人かの男たちの突然の訪問に、近所のアパートから女たちがとび出し、窓から首を出し、のぞきこもうとしたりする。いずれもそれぞれに民族が違うらしく、さまざまの、まるで見当のつかない言葉がとびかう。
こういうときは、女でも警官の制服を着ていることで住民に対しての威圧力が違ってくる。
鉄階段の下に峯岸婦警が、両足を六十度に開いて立ってふさぐと、もう誰もそこからは入ってこようとしない。日本語の出来る女が、下手な発音でおそるおそるきく。
「何があったのですか」
峯岸はじっとそれらの外国の女たちを睨みつけたまま、一言も答えない。それで却って刑事らしい凄味が感じられる。
案内のやせた男はちゃんと部屋の鍵《かぎ》を持っていた。その点については、いずれ聞いてみなくてはいけないなと進藤主任は早くも考えていたが、岩崎警視正は扉をあける前に、
「ひどい血の匂いだな。三人ぐらいは死んでるのではないか」
とつぶやき、同じことを案内の男が知っている妙な言葉でいった。びっくりしたように、
「シー・シニョール」
男はそう答えると、合鍵で扉をあけた。
岩崎と進藤、それに続いた中村が部屋の中に入り、武藤は一目見てすぐ室内の惨状を悟り、扉の外に背中を押しつけるようにして外部からの侵入に備えた。
三人の女性が、血まみれになって倒れている。何一つつけていない全裸だ。相当な遣い手が殺《や》ったらしく、細身のナイフがまっすぐ心臓に刺さっている。
普通第一発見者を疑えというのは、犯罪捜査の常識である。
だが、自分で本庁に電話してきて、更に途中まで迎えに来たこのやせた男が、これら若い元気盛りの三人の女を、同時に一刀のもとに心臓を正確に突き刺して殺したとは信じられない。女一人を殺すのだって、かなり力がいる。それに女はみな全身から衣服を脱いで、裸のままだ。そんな姿で男と応対する状態というものも、もしむりにさせられたのでないとすれば、相手の男も、充分に女性とのセックスの交渉に応じられる元気な状態でなくてはならない。まして三人の女を同時に裸にするのには、三人を一緒に満足させるだけの精力がみちあふれた肉体の持ち主でなければならない。
岩崎は呆然《ぼうぜん》と突ったったままろくに口をきくこともできない、やせた男にいった。
「ロドリゲス・スダ・スダ君といったね」
「シー」
男は答えた。
これは、ブラジルやその近くのカトリックの信仰の深い国だけにある、特有の名のつけ方だ。まず信仰名をつける。次に、父方の姓と、母方の姓とをつける。ところが一世が日本人で、そこから生まれた日本人の場合に限り、母は日本で結婚しているから、父と母が同じ苗字になる。それで姓が二つだぶって、ロドリゲス・スダ・スダになるのだ。面倒くさいから岩崎は、
「スダさん」
と略して、後はポルトガル語で話しかける。それもブラジルで日本移民が土地の人と語り合う、一種の特別な訛《なま》りの強いポルトガル語で、本土のポルトガル人も、相当考えながら聞かないと分からないといわれる変則的な言葉だ。
「……あんたがここへ来たときは、既にこの三人は死んでいたのだね」
「……旦那、そうです。実は私は週に一回、月曜日の朝だけ、三人の用事を足すためにここへ来ることになっておりますので。いつものように朝の八時にやってきました。いつもはノックしてあけてもらうのですが、今朝は返事がなかったので、合鍵であけたのです」
「そしたら、三人ともこの姿で死んでいたワケかね」
「はい。誰も一糸もまとわず、しかも仰向けに倒れていました」
鋭い調子で岩崎はいった。
「三人とも日系人ではないね。髪の色や体つきから見ると、ポルトガル系だね。それも、あまり現地のインディオとの混血《メステイソ》がない、比較的純粋なポルチュゲスだ。ブラジルでも、上流階級の世界に属する女たちだろう」
男はびっくりして、まじまじと岩崎警視正をみている。あまりにもよく知りすぎているので、びっくりしているのだ。
外から階段を上る音がしてきて、武藤刑事が扉をあける。白衣の一団の人間が入ってきた。本庁鑑識課では神様の異名さえある近藤鑑識官と、その助手、そして助手姿の乃木婦警が入ってきた。
[#小見出し]  この物語の四人の主役(その三)
岩崎警視正が大学を終えて警視庁に入庁し、新人としての研修や、パリの国際刑事警察機構(通称インターポール)から帰ってきて、二十五歳の若さで捜査一課の鬼のような刑事連中の中に入ってきたとき、同じころ見習警官として入って来たのが、乃木圭子巡査である。
初めはお茶汲みや、刑事諸公が最も苦手とする、出張伝票類の整理などの雑用をする気持ちで鬼の捜一に入ったのが、いつのまにか、捜査係の刑事になってしまった。
可愛い顔に似合わず、鋭く光る天才的なカンは、しばしば犯人逮捕の重要な手がかりを提供している。捜一に来たときは二十歳。人気の的の可愛い子ちゃんだったが、彼女がただ一人の人として、本気で愛した岩崎警視正は、ライバルのみずえ警部補の方を選んで結婚してしまった。
失恋の痛みは当人が感じるよりは深く、しばらくは岩崎と正反対の、秋田弁の土臭い花輪刑事とわざとつき合って悲しみをまぎらわせていたが、結局は岩崎の都会的センスが忘れられず、同じタイプの東大出のエリート警視高橋一係長と、ほんの一カ月ほど前に結婚してしまった。しかし、今はやりの夫婦別姓を選び、未だに乃木を名のっているのは、まだ完全に岩崎を忘れていない証拠だ。
東京都新宿区生まれ。新宿高校卒。二十六歳。階級は巡査長。
3[#「3」はゴシック体]
所轄豊島警察署が駐在の急報で事件の存在を知ったときは、警視庁の捜一と鑑識課が徹底的に捜査しつくして、既に事件の概要を把握して引き揚げてしまった後であった。
本件の通報者であり、重要参考人でもあるロドリゲス・スダ・スダは、とっくに武藤と若い刑事がタクシーで連れて行って姿を隠してしまった。
それも警視庁の取調室や、そのへんの所轄の留置場を借りて一時身柄を押さえておくのなら、普通の警察官が普通に行う捜査と同じで、事件の真相には迫れない。
近藤鑑識官が、おくればせながら大急ぎでやってきた地元の所轄の捜査係刑事に、まじめくさった顔で、
「いずれも、ナイフで刺されたのが致命傷です。捜査一課に内部通報が入りましたので、一課から四、五人来て既に調べて行きましたが、こういう水商売関係の外国女のことは、本庁よりも、このあたりの女たちのことをよく知っている所轄の刑事さんたちに先にやってもらう方がいいだろうと、ろくに調べもせずに帰って行きましたよ」
と、しごくとぼけていった。
しかし現実には、その重要参考人である日系人のポルトガル語をしゃべる男は、帝国ホテルまでタクシーで連れられてくると、一泊二十五万円もするスイート・ルームへ入れられた。フロントも男の身なりを見て初めはためらったが、すぐにさっき警視正からの電話があったのを思い出して、丁重にボーイにスイート・ルームへ案内させた。
帝国ホテルといえば、やはり日本を代表するナンバーワンのホテルである。その前を通った人や、外から見た人は、数限りなくあるだろうが、さて実際に泊まったことがある人となると、これはもうほんの僅かしかいないのではないか。
重要参考人であり、気の早い刑事なら容疑者にもしかねない男を、帝国ホテルでも最高に近い値段のルームに宿泊させる気持ちが、刑事たちには勿論だが、スダ・スダ当人にも全く理解できない。日本での貧しい生活に耐えかね、ブラジル移民として日本を飛び出し、しかもそれが成功せずに、今度またブラジル国民として日本へ出稼ぎに戻ってきた人間である。ぴったりと付き添っている武藤と中村の両刑事にも、冗談としか思えない。
スイート・ルームというのは二室続きになっていて、普通、王様や国家の大事な客が奥の部屋のベッドに眠り、壁で隔てられた隣室に扉がある。外から入ってきた者で、その奥の部屋の存在に気がつく者はいない。
廊下から入った部屋は、一見広々とした応接間とちゃんとしたツイン・ベッドがあるが、これは従者や警備兵の待機する部屋で、正式な客室ではない。
ただし今回のような場合、奥の主室に男を入れておき武藤と中村の二人が従者のいる部屋にいれば、この重要参考人を逃がすおそれはない。
おかげで二人の刑事は、思いがけなく帝国ホテルに泊まれることになったが……。
いつまでたってもお嫁さんの来てのない武藤刑事にとっては、これは儲《もう》け物だったが、つい最近結婚したばかりの中村刑事にとっては、何だか一日損をした気持ちだった。といって、そばに重要参考人と同僚の武藤刑事とがいるのに、新大久保署に転勤になってまじめに捜査をしている、亡くなった夏目正子によく似た美しい若妻のひとみ巡査を呼びよせるわけにもいかない。
ともかく命令によって、三人が思いがけなく十二階にあるスイート・ルームでバスルームへ入り、備えつけのローションや香水で身ぎれいにしている間に、実は岩崎警視正の一行も、この帝国ホテルに到着していた。
一度本庁へ戻り、吉田老刑事や乃木や村松係長を動員して関係書類を収集させ、それが揃《そろ》うのを待って、捜一の一係、二係の刑事全員を、いつもの岩崎組の会議室でもある十八階のレストラン・バーに集めた。
まだ、十二階で見張りをしている武藤と中村には知らせていない。
全員のグラスにレミーマルタンがつがれた。そろそろボジョレー・ヌーボーが出回っている季節だが、こういう高級ホテルでは、時流にのるだけで安物のそういう酒は取り扱わない。グラス一杯一万二千円でもホテル側が赤字になる高級酒を全員に配ってから、岩崎はいった。
「三十分ばかりじっと黙って飲んでいてくれ。私は一気に書類を読んでしまう。絶対に私語は禁止だ」
捜一に勤務していて、岩崎警視正の仕事を一緒にしたことのある者なら、このような経験は何度かある。
要領は心得ている。
電話帳ぐらいの厚さの書物なら、岩崎はほぼ十分で全部読んでしまう。しかもその内容を、ページ数から何行目に何がのっていたかまで、一字一句間違えずに頭に入れてしまう。所要時間はページをめくるための時間だけだ。
一瞬ページを見ただけで、そこに書かれている字句がコピーで写したように警視正の頭の中に入ってしまうのだ。ただしその作業に岩崎が入っているときは、部下としては絶対に犯してはならない禁忌がある。読書作業中の岩崎に向かっては、何も話しかけてはいけないということだ。
これだけの集中力を発揮していると、神経はほぼむき出しの状態になっている。うっかり外から他の言葉が入ると、頭脳の中にそのまま直入して、脳髄を破壊してしまうことさえあるからだ。
岩崎の机の上には、高さが三十センチにもなるほどに書類が積まれた。全部彼にいわれて集めてきた物ばかりで、吉田や乃木は勿論、東大出の二係長、村松警視さえ内容が全く読めない外国語の本だった。
二十人近い刑事はその間、特製品の二十年物のレミーマルタンを、ゆったり味わっている。フランス人の叡智《えいち》と技巧が傾けつくされて造られたこの酒は、舌の上に転がって、円やかに喉の奥に広がって行く。いくら殺人係の刑事で、ふだんは犯人をバカヤローとか、どついて脅しつけたりして荒々しい生活を送っている連中でも、うまい物はうまいと分かる。
最高の酒を味わいながら待っているのだから、別に苦痛でもない。
岩崎の目の前におかれている書類の山はみるみる減っていった。十六分目、とうとう最後の一枚まで読み終えた。
顔を上げると、すぐそばに秘書のように坐っている峯岸婦警に、
「お稽古《けいこ》、私にも一杯ついでくれ」
と命じた。すぐ峯岸刑事がグラスにレミーマルタンを注ぐ。そばにいた乃木の表情に多少の影が走ったが、これは我慢するよりほか仕方がない。もう乃木は人妻なのだから。
「吉田さん、ロビーに近藤さんがやって来るはずだから待っていてください。あるいはもう鑑定書が出来上がって下で待っているかもしれない」
吉田老刑事は一礼して出て行った。
「花輪は十二階のスイート・ルームへ行って、そこにいる中村と武藤、それに参考人をここへ連れてきなさい。重要なことは、参考人をふくめて、ただの一言も言葉をしゃべらせてはいけないことと、常に三人が参考人の周りを囲んでおき、いかなることがあっても何者にも奪われないようにすることだ。ピストルかナイフが飛んできたら、おまえらが代わりに受けて死んでくれ」
岩崎にしては随分思い切ったことをいう。
二十人近くの刑事がいるので、会場の警戒はほぼ完全だ。扉の内側に二人ずつ四人が坐り、扉の外には二人が立つ。帝国ホテルのマネージャーに連絡して、岩崎の部下の刑事が身分証を見せて同行する者以外は、これから数時間は、岩崎が借りきっているレストランの小ルームへは近よれないことにしてあった。
厳重な警戒の中で、取り調べが始まった。
近藤鑑識官が、岩崎の正面に坐って、まず経過をのべる。
「大塚の監察院にすぐ運んで、早速司法解剖の手続きをとりました。三人とも外見通り、全裸にされた上、抵抗力を奪われた状態で、既に現場へ直行した刑事諸君が見た通り、細身の短刀でほぼ心臓の真ん中を一気に刺されて、瞬間に絶命しています」
それは大体、みなが予想していた結果であった。ただ乃木が、つい黙っていられずに質問した。いつものくせが出たのかと、誰も気にしない。
「三人とも無抵抗の状態でやられたといいますが、女が三人もいて、みな裸にされて無抵抗で、狭い部屋の中で殺されているのが理解できないのですが」
近藤鑑識官はいった。
「どうして三人がいっぺんに裸にされたかは分からない。ただ、全員が全裸で並べられたことは事実らしい。三人の手首と足首に、縄で強く縛られた痕《あと》があった。手で胸をかくしたり、起き上がって逃げたりできないようにはされていた」
「そうだったのですか」
乃木は納得してうなずいた。近藤鑑識官は書類を見ながら、もっと重大な発言をした。
「普通刃物で刺した傷は人間の力が加わるため、挿入口が多少は大きく、そこで前後にゆすられたり、左右にゆらいだりして、傷を更に大きくする傾向がある。いくら裸で両手、両足ともに動きを封じられていても、やはり無意識に胸や腹を動かすから、それでも傷はもっと広がる」
そこへ、ノックをしてボーイたちが料理の皿を持ってきた。丁度いいステーキが入ったという料理長の伝言があって、胸のあたりの肉と、心臓をトマトで旨煮《うまに》にしたものが配られた。みな話をやめて皿を見つめた。
肉は岩崎の好みで、ナイフで切れば血が出るくらいの、レアー(生)焼きにしてある。そして心臓は、元の形が充分分かるように、一人前が四分の一ずつの大きさに切られて料理されている。
さっきまで近藤鑑識官が語っていた、胸の肉や心臓のことを思いだして、ナイフをつけられなかったり、青い顔をして退席するような者がいたら、明朝は出勤と共に、交通課・駐車違反摘発係に転勤を命ずる辞令が出ているはずだ。
おいしそうに食べながら、近藤鑑識官は重大な事をいった。
「あのナイフは、女の胸に手で剌されたものではありませんよ。ある熟練した殺し屋によって……」
参考人として正面に坐らせられている、日本語が殆どできない日系人は、皿の上の心臓の形がはっきり分かる料理を見て、青ざめてもう物もいえない。当然食べようとはしない。警視正はナイフの先を、その心臓の上に突き刺して立ててみせた。
「つまり、相手の体を押さえて胸を刺したのでは、こうまっすぐには刺さらない。それならば、傷口が前後に広がり、心臓の中にも違う形の傷がつく。もっとも私は殺害の方の現場にいたので、大塚の監察院に行って解剖に立ち会っていたわけではない。心臓の傷の形までは分からないがね、近藤さんが見た具合ではどうですか」
鑑識係の近藤警部は、先ほどまで解剖室にいて、実際にメスで三人の女の心臓を切りとってよく調べてきたから分かる。
「警視正のおっしゃる通りです」
そこで岩崎警視正がいった。
「つまり私が考えるには、誰か三、四人の男が、ピストルか機関銃かを持ってきて、いきなり入ってくる。銃口で女たちを脅して、抵抗できないようにしておいて、裸にしてから後ろ手に縛って、身動きができないようにする。男はきっと女に恨みがあるに違いない。充分に開かれた胸に、力をこめて細身のナイフを投げて刺した。これなら心臓に一直線に通る。一瞬の技で、悲鳴もなく女たちは絶命した。……これは、ブラジルの牧草地帯の牧夫《ガウチヨ》たちが、一旦愛した女に裏切られたときにする殺し方で、ガウチョ出身者の間では習練された技術だ。その男は、明日中に私が見つけ出す。今の君たちは、このおいしい料理を味わいたまえ。特に心臓は柔らかく煮つけられている。味つけに使われているワインも一級品のはずだ。日本ではこれ以上の心臓料理を食べられる店はないだろう」
いくらすすめられても、なかなか食欲が湧いてこない。それでも刑事である限りは、平然としてうまそうに食べなくてはならない。
特に新人の峯岸|稽古《けいこ》は、ともすると胸がむかつきそうなのを必死にこらえて喉にのみこもうとしている。
「私には犯人の見当はもうついている。この日本へ来て妻に逃げられた悲しい男たちだ。ただ、なぜ三人も一緒にやったのか分からない。そのことについては、どうしても参考人のロドリゲス・スダ・スダ君に聞かせてもらわなくてはならない。少なくとも君は、なぜ三人が一緒にやられたかぐらいの見当はついているはずだ。これまではホテルのスイート・ルームでゆっくり休んでもらっていたが、その返事次第では、今晩からコンクリートの床に鉄格子がはまっている部屋で、薄い布団で眠ってもらうことになる。昼も夜も、飯は味噌汁に沢庵だ。簡単なことだよ。君はしゃべるだけでいい。犯人でもないのだから……しゃべったところで、罪になるわけじゃない。相手から狙われるのが怖いのなら、その前に私が相手を逮捕してやる」
通報者であり、今は重要参考人であるスダは、まだ肉の料理には、一つもナイフもフォークもつけずに、ただ震えていた。
[#小見出し]  この物語の四人の主役(その四)
これまで捜査一課の中で最も明るく賑《にぎ》やかに振る舞っていたのは、乃木圭子巡査長であった。しかしそれもつい先月までのことで、今は、六本木警察署長に転勤することになっている一係長の高橋警視と正式に結婚して、もう人妻となった身では、みなのアイドルとはなり得ない。
まるでそれを見越していたかのように、峯岸という若い婦警が、刑事見習として入ってきた。現在岩崎夫人になっている元警部補、志村みずえの出身校、会津白虎高校の後輩なのだが、名前が少し変わっていて、稽古《けいこ》という、偶然、先輩の乃木圭子と呼び名が同じケイコなので、区別するために、峯岸の場合は、|お《ヽ》をつけてお稽古と呼ばれる。
父親が武道の師範で、今でも毎日井戸端で褌《ふんどし》一枚になって水をあびながら、軍人に賜わりたる勅諭という、もう六十五歳以上でなければ文句も分からない、難しいお経のようなものを唱える。
そんな古風な家庭の育ちだから、勿論志操堅固で身持ちも堅く、恋愛の経験もない純粋な処女で、おまけに合気道は二段。
ただ女子高生時代、砲丸投げのチャンピオンだった関係で足が太いのを気にしている。規定の制服のスカートの、長さをぎりぎりまでのばしてはいて、絶対に膝から上が他人には見えないようにいつも気をつけている。
4[#「4」はゴシック体]
「今日の捕物の相手は、これまでかつてないほど強力だ。機能のすぐれた武器も持っている。何しろみな大事な女房を殺すほどの人でなしだからな」
朝、捜一の部屋に刑事たち全員が集まったときに、岩崎はまずそういった。昨夜、帝国ホテルでたっぷり御馳走になった部下たちは、それがどんなに危険な捜査であるとしても、尻込みするようなことはない。
机の上には、『東長崎町のアパートで女性殺人事件起こる』と書いた大きな見出しの新聞が出ている。
三人の女性が、全裸で殺されていた。どうもみな、最近東南アジアか中南米諸国から出稼ぎにやってきた、水商売関係の女性らしいということだけで、後は地元の所轄は何も分かっていないらしい。既に警視庁の捜査一課が、とっくに捜査を開始しているということもまだ気がついておらず、所轄の捜査課の刑事たちが、一気にこの犯人を割り出してしまおうと、張り切って付近一帯を聞きこみに歩いているらしいことが記事に載っていた。
まあ、こんな根性が刑事たちの功名心にもなり、しばしば大手柄にもぶつかる。先方が、捜一に助力を求めてこない限りは、こちらで助けてやることもない。岩崎はいった。
「品川区上大崎通りにパラグアイ大使館があるが、乃木はその近所の喫茶店を探して、そこで一人で待機せよ。峯岸は青山にブラジル大使館があるから、そのそばの喫茶店を探して、じっと待機している。場所が決まったら、デスクに連絡。デスクは、今日は進藤デカ長だ」
命令は否応なしだ。
いつもは猛者刑事たちをひきいて一番先にとび出して行く進藤が、こんなときデスクを命ぜられたのは意外らしかった。他の刑事たち二十人もみな、デスクで待機しているようにいわれ、しかもその間に実弾の点検や防弾チョッキなどの用意もしておくように命ぜられて、何かあるなと納得した。
乃木と峯岸は私服のスーツに替えさせられた。ただしピストルだけはハンドバッグに入れて持つようにいわれた。
二人をそれぞれタクシーに乗せると、岩崎は少しおくれた車で、青山にあるブラジル大使館へ行った。
受付の女は、ブラジル生まれの三世と全く変わらないポルトガル語でしゃべる男を、同国人と信じたようだ。
「日本で職を探したいのですが、誰かそんな事をやっている人はいませんか」
二世らしい、背の高い垢《あか》抜けした感じの受付嬢は、一度中へ入って、しばらくしてから戻ってきていった。
「ここは政府機関です。そのようなことはご紹介できません。これが、日本人の方がこれからブラジルへ移住して働くというのであれば、今でも喜んでお世話する課があるのですが」
と、そうあっさり断られてしまった。ただしその受付嬢は、少し声を低めて、
「これは、どうか、大使館の公式なお話としてはきかないでください。私がきくところでは、ブラジルに移住しながら、ブラジルではうまくやれなくなった人が、昔、国境を越えてパラグアイ領へ沢山入っていますが、それらの人々が、今度はそのパラグアイ領でもうまく行かなくなって、パラグアイ国籍を持ったまま、外国人として日本へ入ってきて、ブラジルの移民帰りといっては、日本でいろんな仕事を沢山しているそうです。ビルの窓拭きとか、危険な仕事をすすんでやる上に労賃も安いので、日本人も非常に便利に使っているのです。でも日本へ夫婦でやってきた人は、女の人があまりにもお金を稼げるので、みな奥さんに逃げられているんだそうです」
と、美しい眉《まゆ》をひそめて、憂い深げな顔でそう答えてくれた。大使館でも、このことには困っていたのだろう。
「そのパラグアイから来た人には、どこへ行けば会えますか」
「品川にあるパラグアイ大使館のそばの、アスンションという喫茶店に、昼間から仕事を探しにきたり、情報を集めにきたりしています」
「ありがとうございました。私もその仲間に入って、ビルのガラス拭きでも紹介してもらいましょう」
そういって外へ出ると、すぐ通りの電話ボックスへ入った。デスク役の進藤刑事に伝える。
「青山と品川の喫茶店に待機している二人に、すぐ品川の大崎にあるアスンションという喫茶店へ行くように指示しなさい。そこでは二人とも、日本語がしゃべれず、無口で、仕事を探しに来た女のような顔をしているように命じなさい。それから進藤は、パトカー二台とタクシー五台にピストルの上手な刑事を全員乗せて、その近辺を包囲していなさい」
進藤は、すぐ岩崎の指示を実行した。
それまで、品川と青山の二つの大使館のそばで、所在なげに一人でコーヒーを飲んでいた乃木と峯岸は、それぞれ電話に出ると、彼氏との待ち合わせ場所を変更したようなふりをして、そのままそこを出て品川に向かった。
アスンションという店は、妙な小路を入った突き当たりで、女一人では入りにくい感じの店だが、乃木も峯岸も、警視庁捜一の殺人係の刑事だ。そんな、店の外の気配ぐらいでは、恐れていられない。それに、お互いそのうちどちらかがやってくるはずだと考えた。ハンドバッグの中には、警視庁の婦人用の制式拳銃であるコルトが入っている。二十二口径だから、弾丸の威力は小さいが、握り柄の中に十二発入る自動銃で、かなりの殺傷能力がある。
店には、乃木の方が場所が近かったので、先に入ったが、十五分もしないうちに峯岸も入ってきた。後々のため、二人はわざと知らん顔して離れて坐った。
ところが、岩崎の方も妙な経験をした。
赤電話の前に、大型の外車がすーっと停まり、中の女が、
「ジニー ベメエ」
一緒に行きませんか、とわざとブラジル訛りでいった。二世として育った人は、日本語よりはポルトガル語の方が、ずっと話し易いらしい。日本人の血は半分か、四分の一ぐらいになっているのだろう。細くて長い肢《あし》をしている。短いスカートが、車の座席の関係で吊り上がって、ストッキングをとめてあるガーターの線までのぞけそうだ。自分で扉をあけて、岩崎を乗せた。
「私がアスンションにご案内します」
「それはありがたい。しかし、大使館の仕事の方はいいのですか」
「私たちの大使は、実は何かこの間、パナマかニカラグアとの仕事で活躍されたあなたのお顔を存じておるそうです。受付へ入ってきたとき、ビデオカメラに写ったのを見て、すぐ分かったようです。ブラジルとしては、この事件には、大変困惑しています。地元の刑事がどこからか聞きかじって調べにやってきたりすると、日本語の上手なのがいないし、説明もしにくいことなので、私に、あなたと協力して犯人をぜひ逮捕してくれ、ということなのです」
車は青山から品川に向けての道を、巧みに混雑を避けて走って行く。女が続ける。
「ぜひとも説明しておかなくてはならないことがあるのです。それはつまり、この日本に出稼ぎに来ているブラジル女というのは、ほとんどがパラグアイ人なんです。それも、夫婦でやってきた男の妻なのです。それには深い事情があります」
それが話したかったらしい。静かな屋敷町の小路にはいると、自分で車を停めて話しだした。
「パラグアイという国は、長いこと戦争ばかりしていたために、男の数が減って、女がその三倍もいるのです。女だって、年頃になれば男に抱かれたい。その男がいないため、女だけがセックスしたさに大量にブラジルへ流れてきました。ブラジル人の男一人と、二人も三人もが一緒に結婚してしまうこともあるのです」
人通りの少ない屋敷町に車を停めて、二人だけで話し合っているのさえ妙な気分になる。相手はラテン系と日系の顔だちのよさの両方を持ち合わせた非常な美人である。しかも、座席とアクセルにのばした長い肢《あし》との関係で、殆ど腿《もも》の中ほどまでスカートからのぞけている。他のラテン系の男や外国人なら、ついスカートの間に手がのびてしまうだろう。しかし相手が悪い。岩崎警視正の冷酷な表情は、全く何の変化も見せない。女は少し期待はずれの表情で、また話を続けた。
「男性の三倍もいる女性が、ただセックスの相手ほしさにブラジルへやってきて、これまで稼ぎまくってきました。といっても、セックスさえしてくれればただでもいいという女たちだったので、これまでブラジル娘たちはみな迷惑してました。ところが、このごろはブラジル男はインフレで金が無くなりだし、一人で何人もの女を食べさせることができなくなったため、一斉に金のある国へ移動しました。他の外国娘よりはずっと安い相場でも、女たちには、この日本では大金が入ります」
「ああ、それが昨日の事件の女たちですね」
「彼女らがブラジル人を名のったりしなければ、我が国でも知らん顔していられるのですが、そうもいきません。同じ言葉を話しますし、それに女たちを日本に送るのは、これまで日本人との多少の接触もあり、コネもある我々の国の移民崩れの日系人です」
「スダ・スダもその一人ですね」
「そうです。スダ・スダは、単に女に下宿を世話したり、稼いだ金の半額を週に一回取り上げに行って、本当の主人や組織の親分に渡す役です」
「そうですか」
女は再び車を動かしだした。
「ともかく私はアスンションまでお送りします。五十メートル先で降ろしますから、後は歩いて行ってください。私がそこへ案内したということは、誰にもいわないでください」
「それは承知しました。しかし、あなたがなぜそんな親切なことをしてくれるのかが私には分からないのです」
「店へ入って二階へ上がれば分かります。女が何十人もいます。一人、リーダー格の男がいます。女の容貌や体付きを見て、一回の売春代と、会に納める歩合を決めています。中には、ピストルやサブ・マシンガンを持った数人の男がいつでもいます。みな、日本へ来て奥さんに逃げられた悲しい男たちです」
「ありがとう。いつか機会があったら、本場のサンバでも教えてください」
「結構ですわ。日本の有名な警視正さんとは、サンバより、もっとしたかったことがあったんですが」
車は路地の入り組んだ場所に停まった。一人で岩崎は店に近づいた。大きい通路には、何気なくパトカーが二台停まっているし、タクシー、喫茶店、煙草屋などのあちこちに、捜一の頼もしい部下たちが、ごく知らん顔で立っている。岩崎は全員を確認しながらも、顔や目付きでは全く無視して、アスンションという喫茶店へ入った。ラテン女特有の濃厚な体臭と、狂熱的なサンバのリズムが、どっと彼の身辺を包んだ。
どこを見ても、女、女、女だ。
ここはまるで女しか入れない店なのかと思ったが、そうではないらしく、ちゃんと席に案内してくれた。
中年の混血らしい女が近づいてきて、へたな日本語で、
「女、沢山いるよ。一時間三万円で連れ出していいよ」
といった。岩崎が上手なブラジル訛りで、
「ポルトガル語でいいよ。ぼくもここで商売したいんでね」
そう答えると、急に女は気楽になったようだ。
「そうかい。それじゃ、話は簡単だ。二階には上玉が揃っているよ。今、サントス親分が女を裸にして直接体を検査しているから、掘り出し物があるかもしれないよ」
急に親し気に話しかけてきた。岩崎は、
「下にいる女もみな若くてきれいじゃないか」
そう言いながら店内を見回したが、もうとっくに入っているはずの乃木と峯岸がいない。少し不安になった。中年女は、膝のあたりをゆすぶっていった。
「それにどういうわけか、さっき全く日本人好みの初々しい処女のような娘が二人飛びこんできたんだよ。仕事したいってね。サントスは大喜びで、早速いい職場を見つけて、歩合も五分五分でなくて、六分四分までの好条件を出したんだよ」
岩崎は二人に危機が迫っているのを知った。ポケットの中に手を入れ、小型無線機のスイッチを押して、全刑事にこのアスンションにすぐ飛びこめるようにとの指示をした上できいた。
「マダム、どうだね、その女たちの身体検査を見学できるかね」
「あんたもスケベーだね。でもあんたのブラジル言葉は本物だ。まじめな商売人と分かるよ。私が一緒に行ってやるよ」
中年の混血女は、スカートがはちきれそうなお尻を振って、二階に上がって行く。その後を岩崎はついて行く。広い部屋の壁際に、十人ぐらいのパラグアイ人らしい少女が、全裸で並べられていた。そのすぐ横に、既に親分に命じられたらしい乃木と峯岸が、スーツを脱がされ、スリップ姿で立っていた。二人ともハンドバッグだけは放さないのは、いざとなったらその中から婦人警官用コルトを抜き出すつもりだからだ。
肥《ふと》った女につれられてきた、近眼鏡をかけた男を一目見たリーダーらしい男が、いきなり左手をポケットに入れた。しかし、ポケットの布ごとその左手が射抜かれていた。
岩崎の方が、一瞬早かった。男がやっとズボンから抜きとった左手には、細身のナイフが握られていたが、もう投げる力はなかった。掌は半分くだけていた。殺された女たちの心臓の傷痕から、犯人は左ききと分かっていたのだ。
乃木と峯岸は、そのときはまだマシンガンをかまえることもできないでいる男たちの額に、婦人用コルトをまっすぐ押しつけていた。
岩崎は、上手なポルトガル語でみなにいった。
「今、ここに二十人以上の刑事が入ってくる。動いていいのは、真っ裸で検査されていた女たちだけだ。その子たちは、ショーツとブラジャーだけつけなさい。乃木と峯岸は、刑事がここの男たちを始末するまでは、もう少しその悩ましい姿で頑張っていてくれ」
[#改ページ]
[#見出し]  十字架は語らず
[#小見出し]  物語を支える四人の刑事(その一)
現在、岩崎警視正が直接指導する立場にある、捜査一課強行犯係の一係と二係には、一番若い、去年成人式を終えた見習刑事、峯岸|稽古《けいこ》のような新人から、最年長の通称吉田老と呼ばれる、一係主任の吉田警部まで、四十人を超す猛烈刑事が揃っている。
この吉田老は、本当は定年をとっくに越しているらしいが、公務員という職種は、慣習的な定年はあっても、規則としては、何歳になっても、首に縄つけて外へひっぱり出さなければ、やめさせられないことになっている。だから、吉田老の本当の年は誰にも分からない。
昔、四谷署の捜査課長をやっていたとき、岩崎警視の捜査指揮ぶりを見せられて、すっかり感心し、自分で一介の平刑事として岩崎の部下になり、その仕事を見習いながら、協力をしているという、大先輩である。
当然、庁内の各種の繁雑な事務、各課などへの根回しは、得意中の得意で、その点では、岩崎警視正もどれくらい助かっているか分からない。
1[#「1」はゴシック体]
平成二年は、何もかもお目出たい。
実質的には、平成という年が新しく始まる年だ。
気分的にすがすがしい。それに今年は、ご即位の大礼がある。外国では、これまでやや片意地を張っていた感じの、恐ろしい社会主義国がどこもすっかり軟化して、きびしい独裁体制、官僚万能主義の恐怖政治が、どんどん崩れて行く。それがみな、政府自身の反省や、他国からの干渉でなく、人民の内部からの自然の希望が実現した感じで、古い型《タイプ》の指導者が追放されて行く。
日本国民としては、自国には関係ないことであるが、それでもこれでやっと世界の殆どの国が、人民が自由に物をいえる民主主義国になったわけで、何となく心|和《なご》むことであった。それに今年は、去年と違って世間も平静だ。
暮れから、正月休みを返上して警戒に当たるような大事件もなかったので、岩崎警視正としては珍しく、暮れの忙しい最中に、
「元旦の正午に、全員でどこかの神社に神参りしようか」
といった。ついでにまた例の憎まれ口で、
「乃木もお稽古《けいこ》も、一応は女の子だろう。着物は持っているんだろう。たまには長い袂《たもと》で、チャラチャラと歩くと、少しは女らしさも戻ってくるよ」
二人は表面はふくれたふりを見せたが、本当は、久しぶりに殺人係の刑事であるということも忘れて、お化粧して晴れ着で出かけられるのが、心はずむ気分であった。ところが、どういうわけか突然、中村刑事が、
「参拝するなら、ぜひ明治神宮にお願いします」
といった。みな理由が分からずキョトンとしていたが、さすがに天才警視正は分かった。
「そうか。もらったばかりの奥さんの晴れ姿を、ぜひ見てみたいのだろうなあー」
今年の元旦は、近年でも最もお目出たい日に当たる。平成二年の一月一日であるから、これは、何でもかんでも、ただただお目出たい。峯岸|稽古《けいこ》も乃木圭子も、かねて行きつけの美容院へ早目に申しこんで、昨日一日はほぼ潰して、お化粧や着付けをやってもらった。二人揃って、まず岩崎邸へ訪ねてきた。
峯岸稽古は、娘らしく本物の振り袖。乃木は、それでも秋には結婚して、もう人妻だから訪問着だが、これが若々しくまた色っぽくて、かつては、目玉が大きくて可愛いだけが取り柄だった乃木圭子が、今や匂うばかりの女っぷりをみせている。夫の高橋警視は、六本木署の署長としての初めての正月だから、この若妻がいかに臈《ろう》たけて綺麗であったとしても、テレテレとつき合ってはいられない。
今ごろは、全署員にきびしい訓辞を垂れてから、ビールとさきいかと簡単なお節《せち》料理で、正月のお祝いをしているだろう。
岩崎夫婦は、いつものように自家用のBMWを動かして行くわけにはいかないので、全員が揃ったら、赤坂のマンションからタクシーで明治神宮へ行くことにしていた。
乃木と峯岸は、着物姿のまま、まず、岩崎一家のマンションの玄関で、それぞれ、まるで違う人物のようにお淑《しと》やかに、
「明けましてお目出とうございます」
と挨拶した。中から飛び出してきた岩崎警視正の長男の翔《しよう》も、蝶《ちよう》ネクタイをつけた洋服を着せられて、すっかりはしゃいでいたが、二人の和服姿を見て、
「わあ、おねえさんたち、すっごくきれい」
と、ちゃんとお世辞をいった。もう一カ月もすれば満三歳だ。ついこの間まで赤ん坊だと思っていたのに、もう大人たちと対等に話をし、お世辞などもいうようになるのだから、子供の成長は早いものだ。
みずえも勿論、和服姿だ。二人の若さをひきたててやるため、柄はやや渋目に抑えているが、物は京都の職人に染めさせた本物だ。それに三人の中では一番背が高く、容貌もときどき女優の松板慶子に間違われるほどに綺麗だ。並んでみると、一際美しく見える。他の二人は、若さと愛嬌《あいきよう》でそれに張り合う他はない。
正月休みは意外に都心の道路はすいていて、タクシーは楽に走ったが、さすがにJ・R線のE電の原宿駅のそばまで来るともう動かず、五人は車を降りて歩き出した。
既に原宿駅へ別々に直行し、その近所で待ち合わせしていた進藤、武藤、花輪などの刑事や、二係長の村松警視が、三人の和服を着た美しい女性に囲まれてやってきた岩崎警視正を、すばやく見付けて口々に、
「管理官殿、お目出とうございます」
といいながら、近づいてきた。
「中村は?」
岩崎は片目をつぶって、わざときいた。
「今、ぼうっとしてますよ、新妻の晴れ姿に。管理官殿の推理の通りでしたよ」
参宮橋から鳥居へ流れる人波の中央に、パトカーが一台停まり、|取り付け屋根《ルーフ》の上に婦人警官が一人立って、ハンドマイクで、群衆の流れを整理している。
パトカーの上で、制服姿で白い手袋を鮮やかに動かし、ハンドマイクで、群衆の流れを巧みに整理している婦人警官の姿を、参詣の人はみな、びっくりしたような目で見上げている。
制服の形は、別にふだんと違っているわけではないが、新しい物で、きちんとプレスがきいている。女のお巡りさんは、普通、特別のブスはいないが、特別の美人もいないものだと、何となくみなは思っている。
もしポスターなどで、えらく綺麗な婦警さんが、にっこりほほえんでいるのを見かけたとしても、大概、それは最も人気のあるテレビタレントだったりする。
だから参拝客も、群衆指揮用の屋根台《ルーフ》のついたパトカーの上で、白い手袋とハンドマイクで、鮮やかに大群衆の流れをさばいている婦人警官を、初めはどこかの女優さんかタレントが、一日お巡りさんでもやっているのかと思った。岩崎警視正や、一緒に歩いてきた捜査一課の刑事連中でさえ、初めはみなそう思ったほどだ。
しかし、すぐそれが誰だか分かった。つい二カ月前まで同じ係にいて殺人犯追及をやっていた、原田ひとみ刑事だ。故人の夏目正子そっくりの目鼻だちのくっきりとした顔は、捜一にいたときから、庁内随一の美人として名高かった。
最近では、『婦人警官募集』や、『犯罪防止月間』などのキャンペーンのポスターは、外からタレントを頼まず、庁内で彼女を使って作ってしまうことが多いぐらいだ。
「原田さんじゃないの。わあーっ」
と峯岸が声を上げた。和服の三人が下から、
「原田さん……あっ、そうじゃない。中村さん、頑張ってねー」
と、結婚した新姓の方で呼んだ。そして改めて、その夫の中村刑事が、一行に加わっていないのに気がついた。一度は原田刑事に迫って、結局断られて、未だに独身の武藤刑事は、同行のみなにいった。
「きっと、車の上の彼女を一番いいポーズで撮れる所で、カメラをパチパチやっているよ」
事実、その通りで、中村刑事は、パトカーの周辺の人の渦をかき分けながら、しきりに自分の新妻の晴れ姿を写していた。
鳥居の前の広場で、往きと帰りの人は、くっきり二分されて、入り乱れないようにされている。
その鳥居より十メートルぐらい手前に、長くて大きな白い旗が立っていた。吉田が、初めは珍しそうに見ていたが、途中でその眼付きが、まるで殺人犯でも追うときのように、きびしく変わった。
高さは五メートルもある。貧相な、吹けばとぶような男が、風によろめく旗竿を、必死に支えて持っている。
『主《しゆ》はいわれた。罪人《つみびと》は悔い改めよ』
男の腰には、カセットがぶら下げられていて、そこからひっきりなしに聖書の文句が流れている。
いくら何でも、これはひどすぎる。自由主義の行き渡った日本だからできることで、回教の本山メッカで、こんなに堂々と他の宗教の宣伝をやったら、その男は群衆に踏み潰されていたろう。
カセットのマイクは、パトカーのマイクが丁度届かないあたりで、よく自分の声が聞こえるような位置に設定されている。
『マタイ伝の十二章に、主《しゆ》はいわれました。人はどんな罪も、冒涜《ぼうとく》も許していただけます。しかし聖霊に逆らう罪はお許しになりません』
他の多くの参拝者は、まるでそれを無視して通りすぎて行く。それがキリスト教であろうと、マホメット教であろうと、何の関係もないようだ。お目出たいときは神様を拝む。身内の者が死んだときは、今度はお寺さんに連絡して、一連の作業順序に従って、処理してもらう。
お金を増やしたければ、鎌倉の銭洗弁天に行って、笊《ざる》の中にお金を入れ、池の中に沈める。いいお嫁さんをもらいたければ、出雲大社へお参りに行く。
岩崎警視正は、その状況をごく客観的に見て、そう軽く考えただけだ。もともと日本人には、自分の生命をかけてまで守り抜こうとする深い信仰はないのかもしれない。しかも、これだけの人波だ。一行には小さな翔《しよう》の他に、和服で行動が少し不便な女性が三人もいる。いくら周辺を屈強な刑事に守らせても、いつまでも同じ所に立ち止まってはいられない。
ところが、一係の捜査主任の、ふだんは温厚な吉田老が、顔を真っ赤にして立ち止まり、腕組みをして、この白い旗を持っている男を睨みつけている。
警視正が、
「おい、吉田老、どうしたのだね」
と、きいた。老人の顔が、鬼のような憤怒の形相になった。
「私はね、こいつらを許せないんです」
「吉田老、それは間違っているよ。日本は憲法で、宗教の自由を認められている。一応、鳥居よりはほんの十メートルほどだが、外に立っている。神前で、ルカ伝やヨハネの福音書を朗読しているわけではない。知らん顔して通りすぎなさい。時代が変わったのですよ。世の中には、自分の信ずる神以外は、すべて悪質だと信じている者が多い。宗教家という人種は、殆どみなそうだ」
吉田老は、真っ赤になっていった。
「管理官殿はどうか、みなさんとお参りに行ってください。私はここで、何となく彼らを見張っています」
「見張ってどうするんだ」
「連中がどんな所に帰るか、よく調べてみたいと思ってるんです。そして、もしそこで今度、一年に一回のお祭りがあったなら、私はその会の前に、白い大きな旗を立てて一人で立ってやり、カセットにスピーカーをつけて、『今すぐ悔い改めよ。日本は八百万《やおよろず》の神のしろしめす尊い国なり』といってやりますよ」
そういって動かない。こうなると、老いの一徹だ。
人混みの中で、何十万という人々が、一定の方向に動いている。
それに昼ごろまでに参拝を終えたら、今日の昼食は、帝国ホテルのコック長に予め頼んで、素敵なお料理をこしらえさせておくことになっていた。
ふだんは、日曜も休日もなく、殺人事件があれば、深夜でも叩き起こす、非情な管理官であるが、こういうように、少し事件が収まり、ほんの僅かな休息でも得られるときは、できるだけ部下を大事にしてやりたい。
「じゃあ、吉田老は、そこで頑張ってくれ。何かが分かったら、すぐ帝国ホテルの十八階の特別ルームへ電話を入れてくれ。全員で楽しくお屠蘇《とそ》をやってるからな」
といってから、人波に従って歩き出した。周りは屈強な体格の男たちがいつのまにか、十五人以上も岩崎たちをしっかり囲んでいる。和服姿の三人も、子供用の背広に赤い蝶ネクタイの翔《しよう》ちゃんも、その人垣の中では全く安全地帯で、ぴょんぴょん跳びながら歩いて行ける。特にこのごろ翔は、片足跳びのスキップを覚えたばかりだから、砂利道でやるのが嬉しくて仕方がない。
全員が、無事社前まで辿《たど》りついた。
男の刑事は大概、百円玉をお賽銭《さいせん》箱にほうりこんだ。女はもう少しお金の余裕があるのか、千円札を箱の中までよく飛ぶように、縦長に四つに折って投げては、長いこと祈っていた。
まあ、庁内の捜査大明神が対象ではないから、『どうか殺人事件が起こるように』という祈り方はしないはずだった。
乃木は、夫の体によって初めて知った性の悦びが、意外に深く甘いものと分かり、もっともっと毎日強くたくましく愛してくれるようにと秘かに祈って、一人で顔を赤くしていた。
峯岸は、まだ数年先でいいが、素敵な彼氏が見つかるようにと祈り、その他の者はみな、家内全員の安全健康を祈った。
警視正は、十枚ぐらいは重なったままの一万円札をほうりこみながら、
「一係、二係の部下刑事諸君が、全員、凶悪犯人を逮捕して、栄ある警視総監賞に輝くように」
と祈った。
帰りは代々木口へ抜けた。
車がすぐに拾えたので、何台かに分乗して、全員で帝国ホテルに向かった。
日がまだ短いころだ。暗くなるほどではないが、そろそろ寒くなってくる時刻だ。
テーブルの上には、フランス式の材料も混ぜたきれいなお節《せち》料理と一緒に、いつものレミーマルタンが、何本も置かれている。
「お屠蘇代わりだ。ブランデー・グラスに注いでくれ……」
そういったとき、片手に電話機を持ったまま、ボーイが飛びこんできた。
「どうした」
「吉田様という方からお電話で、恐ろしい事件が発生したから、すぐ連絡してくださいとのことです」
[#小見出し]  物語を支える四人の刑事(その二)
この捜査一課の中で、今日のうららかな新春のお目出たさと同じぐらい気分的にうららかで、ハッピーなのは、中村刑事であろう。警視庁本庁の規則のために、同じ職場にいるわけにはいかないが、あの思い出多い名女優、夏目正子とそっくりの美貌の、原田ひとみ刑事と、永い恋愛婚約期間を終えて、去年秋、無事結婚にまでこぎつけた。
しかもその若く美しい妻は、二人の新居の公団アパートにほど近い、新大久保署の捜査課に転勤になったが、抜群のスタイルのよさと本庁随一の美貌を買われ、正月三ガ日の間は、明治神宮の大鳥居前のルーフ付きパトカーの上で、白い手袋の手さばきも鮮やかに、何十万人もの人を誘導する係を務めている。
夫の彼は、その晴れ姿を、カメラの中にたっぷり収めてきた。現像はすませていないが、そのフィルムはポケットに四本も入っている。
今晩アパートへ帰ったら、妻もまた、新大久保署の慰労パーティーを終えて、ほろ酔いの体で戻ってくるだろう。抱きしめて、充分に優しい言葉をかけてやろう。
本庁随一のピストルの名手、中村刑事の心は、ホテルの宴会中、ずっとはずんでいた。
2[#「2」はゴシック体]
正月の宴会の浮きたった気分は、ボーイの飛びこみで、たしかに一瞬、シューンと静まり返った。ボーイに手渡された長いコードの電話機を受け取ると、警視正は、耳にあてて黙ってきいている。
ときどき、ふむ、とか、うん、とか、聞いているしるしでうなずくだけで、特別に何かの発言はしない。ただ、残った片手でグラスを取り、中断された乾杯の続きをやり、酒を口に含んで、テーブルで酒や御馳走を前にして、自分の方を注目している部下たちに、手付きで飲食を始めさせた。大したことではないということを教えるかのように、片手を振ってみせた。
部下は、安心して御馳走に手を出した。警視正が電話中なのが少し気にかかるが、メイン・ディッシュの大型の伊勢海老が、みなのテーブルの前に並べられたので、どうしても黙って見ているわけにはいかない。振り袖の女たちも、若い刑事たちも、硬いからをひっくり返して、柔らかい身にフォークを突き刺した。
小さな翔《しよう》も、目を真ん丸くして、
「わあっ、大きな海老。翔ちゃん怖《こわ》い」
と、びっくりしている。長い話が終わってやっと、電話が切れた。ボーイに返す。
「みな、あまり気にせず、ゆっくり御馳走を味わってくれ。正月の元日から、そう取り乱して、駆けずり回ることはなかろう。吉田さんもすぐ、ここへ帰ってきて、みなと乾杯するはずだ」
誰もが、それでは大したことはないのだと思っている。警視正は、隣のみずえ夫人にごく世間話のような調子で話しかけた。
「乃木と峯岸を、そっとお手洗いへ誘うふりして、廊下へ呼び出してくれ」
お酒も少し回った。
お節《せち》料理の他に、大きな伊勢海老のおいしい身も沢山食べた。
みながほどよく酔いも回り、晴れ着の女性が一層美しく見える。吉田老人も、外の仕事に一段落ついたのか、外から戻り、すーっと入ってきて、
「やぁー」
と、隣の仲間に軽く挨拶しただけで、まるで何事もなかったようにして坐った。まずグラスのレミーマルタンを、目の高さに上げて、岩崎管理官と乾杯の挨拶をして、それからフォークとナイフを使って料理を食べ出した。彼の態度には、誰も異常を認められない。
さっきの電話のハプニングで、幾分動揺していたみなの心も、これですっかり元の落ち着きを取り戻し、元旦らしい気分になった。
みずえは、丁度みなが快く酔って、あまり他人のことを気にしなくなったころを見計らって、翔《しよう》と、ついでに女二人を誘った。
「翔ちゃん、おしっこに行きましょう。乃木さんと峯岸さんも、少しお化粧直しにつき合ってね」
おいしい物を食べると、どうしても口紅のあたりの線が崩れることがある。きっと、みずえ夫人がそれに気付いたのだろうと推察して、乃木と峯岸の二人の女性刑事は立ち上がった。
振り袖の華やかな女と、訪問着のしっとりした美しさの女が、二人とも部屋の外へ出て行く。一瞬、みなの目にぱーっと映って、何とも華やかだ。
中には、二人に交際を申しこみながらすべて振られて、ずっと淋しい独身を強いられている武藤刑事のように、(ほんの一瞬であるが)どちらかの女性が、洋式便器に腰掛けるため、何枚か重ねた美麗な絹の布を、一枚ずつ丁寧に帯の間に挟んで、ゆっくり下半身を露《あらわ》にして行く姿を、頭の中でリアルに再現していた男もいた。どちらの女刑事をその妄想の対象にしたかは、お互いの名誉の問題でもあるので、ここでは明らかにしない。
男という者の中には、そんなことを考える者もいると認識してもらえれば結構だ。
二人が用をすませ、和服の裾《すそ》のあたりの乱れもきちっと直して、手洗いの所へ出てくると、既に翔の小用もすませて、自分の方も終えてしまった、目下休職中のみずえ警部補が、鏡の前で軽く化粧を直しながらいった。
「二人とも、すぐ準備があるのよ。出動よ」
三人が並んで鏡に向かいながら話をしている姿を、もしここに他の女性が入ってきて見たら、女同士で、楽しい噂話でもしているのだろうと思ったはずだ。みずえがいった。
「乃木は新婚家庭で、小石川のコーポラスには誰もいないのでしょう。でも、新宿にある実家にはお母《かあ》さんがいるでしょう。ジーンズと男物のワイシャツか、コットンのブラウス、それに丈夫なブルゾンにパンプスなど、一式すぐ会場に届けるように頼みなさい。お稽古《けいこ》は、一人住まいの寮で、誰にも頼めないから、私のマンションから、母に翔を迎えかたがた持ってきてもらうから、私のを着なさい。ピストルは、本庁からもうここへ運んでる途中です」
お手洗いの中での、和服に盛装した三人の女のおしゃべりは、ひっきりなしに出たり入ったりしている他の女たちの目には、楽しい新年宴会の途中を抜け出した、上流階級の若夫人二人と、未婚の娘のおしゃべりとしか見えなかったろう。実は、事件出動の緊急打ち合わせなのだ。
「私たちは決して、あわてたり、張り切ってみせたりしてはいけないの。このまま全く何事もなかったようにして、みなにサービスし、お酒や御馳走を楽しんでいてください。九時丁度に宴会が終わるまでは、今のことは気ぶりにも出さないで、お色気たっぷりでいてね」
「はい」
二人は、口紅やパフで顔を化粧しながら、同時に答えた。鏡の中には、いつもより数倍も美しい女が、にこやかに映っている。
「今日は一月一日。しかも、実際的には平成の時代の始まりの年ですから、みんな美しい上にも美しく、にこやかに新年の宴会を終わらせてくださいね」
そう最後に注意して、三人はまた会場へ戻って行った。
男たちだけで、少し乱れていた会場は、突然また花が咲いたように、ぱっと明るくなった。少し酔った刑事たちは手を叩き、歓声を上げて、三人を迎えた。
窓の外は暗くなり、ネオンが点《とも》り、新年の夜らしい感じになった。今度は岩崎が、
「吉田さん、ちょっと。ああ、進藤デカ長も連れションベンにつき合ってくれ」
わざと陽気な声で二人にいう。吉田老と進藤デカ長どの二人を連れて、警視正はトイレに行った。
女の場合と違って、男は並んで小用を足しながら、話ができる。
「多分、この犯行は一カ所だけでない。五カ所か六カ所で同時にやられているだろう」
吉田老が黙ってうなずく。自分もそう考えていたことを示す合図だ。
進藤デカ長だけは、さっきの電話の報告をきいていないし、その後のことも話し合っていないから分からない。
「管理官殿、何かあったのですか」
「うん。参道で大きな旗を持っていた、貧相な男がいたろう、吉田さんが見張っていた」
「ええ、旗の竿が長すぎてよろけていた、妙な男でしだね」
「うん。吉田さんの報告では、周りが少し暗くなったころ、その男は旗を巻きつけて片付け、竿も幾つかに分解してケースに入れて、両手で持って帰り出した。吉田さんは、連中がどこへ帰るのかをたしかめてから、この宴会場へ戻ってくることになっていた。それはデカ長も知っているね」
「はい」
「男は表へ出て、タクシーを見付けて乗りこもうとした。黒い車がすーっとやって来て、あっという間の出来事だった。その男は、旗と竿を入れた二つの荷物《ケース》と共に、車の中にひきずりこまれ、車は猛スピードで走り出した。でも吉田さんは、ちゃんとすぐタクシーを捕まえて、男が連れ去られた場所は確認してきた」
小便を勢いよくほとばしらせながら、進藤デカ長はいった。
「そうですか。そこがどんな組織の会か分かりませんが、いずれはやられると思いましたよ。日本は幾ら自由の国といっても、もともとは、神が造り給うた国です。各自が、自分たちの集まる神社や教会で何を祈ろうと、それこそ素っ裸で踊り狂おうと、憲法で宗教の自由を認めている限りは自由だ。しかし、国民がみなお目出たい元日を祝いに行く日の、その目の前で、神に祈れば、悪魔にとりつかれて罪になる≠ネんていうのは、却って彼ら自身が宗教の自由を破ってることになりませんかねー」
小便は終わった。手洗い場で、水で手をしめらせながら、警視正はいった。
「憲法論争は、ゆっくりその中《うち》に、天丼でも喰って舌を滑らかにしてからやろう。我々にとっては、これから殺人が行われるかどうか、行われるなら何人かをたしかめること。もし行われたら、すぐ犯人を探し出して、検挙すること。捜一の仕事はこれしかない。今日だけは、さっき警備課の連中に応援を要請しておいた」
「なぜ警備課の連中なんかに応援を頼むんです。我々は、誇りある捜一じゃありませんか。いっちゃ悪いが、彼らは要人通行の際の道案内かガードマンじゃありませんか」
「なーに、君たちに夜が更けるまで、ゆっくり新年宴会の気分を味わってもらうためだ。邪魔者も入れず、九時まではとことん楽しんでくれ。休日も正月もなく、交替で本庁に詰めているのが警備課員の役目だ。九時十分すぎに防弾チョッキ十三枚、うち二枚は女性が着てもいいように、胸の所に双《ふた》つふくらみがあるやつが届く。デカ長と吉田老は、村松係長と相談して、度胸のある、ピストルの成績のいいのだけ十人を選んでおいてくれ。それに、乃木とお稽古《けいこ》と私が、今晩の作戦に加わる。ただし……」
と、宴会場の扉をあけて中に入る前に、岩崎警視正は、二人に厳粛な声でいった。
「今は楽しい宴会最中だ。まだ時間は一時間もある。その間は、みなに徹底的に愉快にやってもらう。今まで何かあったこと、これから何かあることを、一言でも洩《もら》してはいけない。二人が率先して、愉快な歌をうたってはしゃいでくれ」
「承知しました」
三人がそれぞれの席に戻ると、またてんでに賑やかに話し出した。伝統ある帝国ホテルだから、カラオケ・セットなどという、専《もつぱ》ら音痴と蛮声が幅をきかす、妙な機械が持ちこまれることはなかった。
代わりに、正面の小さな舞台に、ハープとバイオリンとピアノが用意され、いずれも芸大在学生らしい、美しいお嬢さん方が、正月用の華やかなロングドレスで、外国の曲をひき始めた。といっても、難しいのでなく、「ブーベの恋人」とか、「マドンナの首飾り」とか、みながよく知っている、分かり易い名曲だけだった。宴会の雰囲気は、一層盛り上がった。
楽しくて仕方がない。
気の合った仲間で、おいしいお料理と最高級の酒と、帝国ホテルの十八階の見晴らしのいい最高級の部屋。ハープとバイオリンとピアノとの洗練された音楽。
一年中、殺人事件ばかり追って、日曜も休日もない激務の中で暮らしている刑事たちにとっては、これは、一生忘れられない楽しい元旦になった。
正九時。
岩崎管理官は、ごくさり気なく立ち上がった。
「ただ今九時だ。これで新年のパーティーを終わろう。残りの御馳走は、こんなホテルでもちゃんと折りに詰めてくれる。それを持って行って、家で待っている家族を喜ばせてやりなさい。ご用始めは、四日の朝。だから、事件さえなかったら、二日と三日は、一日中家にいて、家族サービスに従事しなさい。あ、それから……」
と、全く何気ないふりで、さっき村松係長の所から回ってきた人員のメモを見ながら、
「次の十人と女性二人は、会場の後片付けのため、三十分ぐらい残ってくれ」
といった。他の者も指名された者も、何の疑いもなくその発表をきき、指名外の者はフランス料理の折りを、機嫌よく持って帰途につく。
その指名外の者が室内にいなくなるとすぐに、岩崎はきびしい口調でいった。
「十六階に、部屋がとってある。そこに防弾チョッキと、機動隊用のジャンパーがおいてある。ただし、ズボンや靴までは間に合わなかった。今着ている物で、任務を遂行してくれ。傷つき傷むのを気にするな。仕事が終わったら、新品を、イギリス屋とニューヨーク靴店で、注文でこしらえてやる。ピストルには、十二発全弾装填し、安全装置だけはしっかりかけておけ」
余りにも急な命令だ。九時丁度まで盛り上がっていた気分が、一斉にさめてしまった。
振り袖のお稽古《けいこ》と、訪問着の乃木は、みずえに案内されて、更にもう一階下の十五階の、主に外国貴族のために使用されるスイート・ルームに案内された。
翔《しよう》は、この二人のためのブルゾンやジーパンを届けに来たおばあちゃんに抱かれて、もう帰ってしまった。
部屋には既に、二人の着付けや化粧などを専門にする、ベテランの化粧係が、何人か待機していた。
中央のベッドの上には、二人の女性のため、ショーツやブラジャーだけでなく、寒くないようにジーパンの下にはく、膝下の中ほどまである、ロングのパンティーも用意されていた。布地も、コットンだけでなく、ウールも交じった厚い感じで、これだけは絶対、男性には見られたくない物だ。
二人の着物は、着付け師の手によって、みるみる上手に脱がされ、要領よくたたまれる。和服だからすぐ全裸にされた。そこにしっかりとした下着がつけられて行く。最後に二人の胸の所に、双《ふた》つの丸いふくらみがある防弾チョッキも、ぴったり装着された。
[#小見出し]  物語を支える四人の刑事(その三)
もう五十年も昔のことになるが、現在のヒカル幻氏や坂本夏美の歌謡曲のように、日本中にはやった浪花節という音曲があった。他の娯楽が少ないせいもあり、当時の日本では、上は七、八十歳の老人から、下は小学生まで、宴席、会合は勿論、道を歩きながらでも、声をわざと潰した塩辛《しおから》声で、
旅行けば 駿河の国に
茶の香り
と唸《うな》ったものだ。その長い音曲の最後の一節に、自分では一番|喧嘩《けんか》が強いつもりの森の石松が、どうしても自分の名前を思い出せない相手に、
「肝腎《かんじん》なのを一人忘れていませんか」
と、しつこく聞く場面がある。
武藤刑事は、刑事仲間では一番若く、勿論浪花節など聞いたこともなく、そんな話も知らないだろうが、既に岩崎警視正のもとで活躍している諸刑事を五人も紹介しているのに、まだ自分の名が出てこないので、きっと内心では『肝腎なのを一人忘れてはいませんか』といいたくなっているだろう。
岩崎が初めて捜一へやってきてからの直系の子分で、あらゆる事件に全部顔を出して協力し、相応の奮闘をしながら、まだ目ざましい功績に恵まれていない。
乃木に求愛してはねつけられ、次にもう一人の美人刑事、原田にも申しこんでみたが、これも振られて目下独身。力も強く、仕事も熱心でいい奴なのだが……。
3[#「3」はゴシック体]
親分の岩崎|白昼夢《さだむ》警視正の故郷は、これまでは、中央線の岡谷から乗り換えて、中部地方へ向かって深い山峡の間をくねくね走る、たった一本の鉄道が通っているだけの山間の村であった。
しかし今は、東京から名古屋へ抜ける高速道路の重要拠点で、目ざましいほどの発展を遂げた。
岩崎の父は、その地方の中学校の国語・漢文の教師として、ごく平凡な人生を送り、今は定年で退職して、悠々自適の身である。戦争中、二年間従軍した以外は、これといった苦労もしないですんだ人だが、どういうわけか、後年、想像を絶するほどの大金が転がりこんできた。
先祖の一人が何気なく所有していた山林が、高速道路の用地に指定され、政府に無理に買い上げられた。そのとき交付された金は、預金しておくだけで月の利息が四百万円になるほどだった。
しかもその四年後、道路のわきに、休息所とレストラン、給油所の用地が必要になり、またかなり政府に買い上げられた。それも合わせて地元の金融機関に入れておけば、黙っていても一千万円以上の金が利息として増えてくる。
もともと金銭に対する欲望の全くない父は、利息分を東京の警視庁で働いている自慢の一人息子に全額回して、厳命している。
「人間、金を貯めようなんて考えるときりがなくなる。送った金は、すべて捜査のために、全額、使いきれ」
帝国ホテルの前に、四台の高級ハイヤーが並んだのも、岩崎警視正の係には、捜査に対していくら使っても使いきれないほどの経費があるからだ。
夜の町は、一月一日であるだけに、却ってしーんと静まり返っている。
四台の黒いハイヤーは、いつもよりずっと車の少ない通りを、五十メートルぴったりの車間距離を正確に取って走る。間に他のタクシーや自家用車に割りこまれることもなく、悠々と走って行く。
先頭の車の客席には、吉田老人と岩崎だけが、いかにも宴会帰りの重役のように、ゆったりと二人で乗っている。
本当は、今は人妻だが、私設秘書のつもりの乃木圭子刑事も、その一台目の車に乗りこみたかったのだが、
「他に三台来ているんだ。残りは十一人だ。お互いに正月らしく、ゆっくりした気分で行きなさい。ロールスロイスにつめこんで乗るのは、ヤボというもんだ」
と、あっさりいわれて、二台目の車に回されてしまった。
警視正は、一月元旦、最初の日の捜査を気の毒に思ったのか、四台ともハイヤー会社に特注して、最高のロールスロイスを回させるようにしてくれた。
本当の革を、ベージュの上品な色に染めて装飾されたロールスロイスの座席は、何ともいえぬほどの快適な坐り心地だった。……と、そこまではよかったのだが、乃木には両隣に坐りこんだ二人が、あまり快適でない。
既に訪問着や、その下につける絹の下着は、ちゃんとたたんで帝国ホテルに預かってもらっているし、丈夫な綿で作ったしっかりした下着から、ジーンズ、男物のワイシャツまで、ちゃんと活動用の服装になっている。しかも、ワイシャツのすぐ下には、ブラジャーの丸い形にまるでぴったり合わせて作ったような、双《ふた》つの丸味を持っている防弾チョッキをきちんと着こんである。さっきまでの華やかな正月の気分などは、とっくになくなっているのだが、真ん中に坐らされた自分の車が走り出してから初めて気がつくと、右側が武藤刑事なのだ。
乃木が警視庁に奉職してすぐ抜擢《ばつてき》されて、花の捜一に回されて以来、ずっと机を並べてきた仲だ。一時はたしかに求愛と思われるような振る舞いをされたこともあったが、何しろそのときは、全身ただ岩崎係長を慕い焦がれ、同僚の志村みずえ(現岩崎夫人)と激烈な恋の闘いの最中だった。ろくに相手もせずに断った。
左に坐っているのが、秋田県出身の花輪刑事だ。この人には、乃木は少しすまないと、胸の痛みをさすがに感じている。憧れの岩崎が、あっさり志村先輩と結婚してしまってからは、無理にでも岩崎のことを忘れようと、同僚の刑事の中でも、一番岩崎と反対のタイプの、動作がもっさりして、いつまでも東北の訛《なま》りの抜けない彼に、わざと接近したのだ。二度ばかり、海水浴にも行き、水着姿まで披露してやった。一度は真剣に結婚まで考えたのだが、去年の四月の人事異動で、一係長に、まるで岩崎のミニコピーと思われるような、エリートの高橋警視が入ってきた。
とたんに、花輪刑事のダサさ加減が気になり出して、冷たく遠ざかってしまった。
四台のハイヤーの運転手は、さすがに会社からロールスロイスの運転を任されるだけあって、みな腕ききのベテランばかりである。実に見事に五十メートルの距離を保って、一定の指定速度で走り続ける。
行く先が分かっているのは、先頭の車の吉田老刑事と、その直接の報告を受けている、総指揮官の岩崎だけである。
三台目、四台目に分乗している刑事たちはそれぞれ、腋の下に吊るした、警視庁制式、ニューナンブ式ピストルの重味をずっしりと肩に感じながら、無言で夜の町を見つめていた。岩崎と二係長の村松警視が、一係、二係の四十名の刑事の中で、最もピストルが上手だといわれている者を十名選んだ。みなは、自分がその中に入っている光栄で、胸が一杯であった。
それに比べれば、乃木の胸の中はたしかに複雑であった。
既にもう十一月には結婚して人妻で、明らかに両隣にいる二人の刑事に対しては、何も遠慮してやる必要はない。
そして今、夫の高橋警視は、夫婦とも同じ課にいることは、警察官としては好ましくないということで、六本木警察署という、東京でも一番忙しく、またナウい若者の犯罪が多い署の署長に抜擢されて、捜一から出た。
新婚生活は二カ月になり、初めての浄《きよ》らかな体で夫を迎えたことも誇らしく、日々愛情も深まるばかりだ。これまでは、そんな大事なこととも考えていなかった、性の悦びのその極限が、日にまして想像もできないほどに深まって行く。それでもただ一つ、乃木は自分が死んで行くまで、絶対に夫には語れない秘密があった。
民法七五〇条によると、結婚した男女は、必ずどちらかの姓を選ぶことになる。九十七%までは男の姓になる。だから、乃木圭子も戸籍上は高橋圭子である。
しかし職場では、今でも乃木の姓を使っているし、辞令も、給料支給の伝票も、税金の通知も、一切乃木で押し通している。実は、NHKの美人ニュース・キャスターの宮沢みどりさんが、結婚後も姓を変えないのに気がついて、庁内の法律関係に詳しい人の所へ早速聞きに行った。するとその係は、わりと明快に答えてくれた。
「職場とか、社会生活上、旧姓の方が広く通用している場合、現在は、通称として旧姓をそのまま使用してもよいことになっている。ただし、戸籍は駄目だよ。ちゃんと入れておきなさい」
それに力を得て、今でも乃木と称しているのだ。高橋警視の妻ではあるが、付属品ではない。特に、岩崎警視正にもし、
「高橋刑事」
などと呼ばれたら、よけいに今、人妻であるのが強く意識されて、悲しくなってしまう。それで、世間に通用するほどの知名度はなくても、庶務課に届けて、無理に乃木の名にしておいてもらっているのだ。捜査上混乱して差し支えると、屁《へ》理屈を押し通した。
車はいつの間にか、京葉道路を通り抜けていた。先日大きな外車ショーがあった、どでかいメッセという建物の横を通る。
四台の車の人々はみな、一層緊張した。
合計十二名の刑事が、岩崎とともに武装して出張して行くのは大事件だ。本来はパトカーに無線車、鑑識車などが同行して行くのに、全く警察色のない、ロールスロイスだけで行くのも、本来は警視庁の直接管轄でない、千葉県警の領域に突然踏みこんで行くせいだと分かった。
これは、同じ刑事部に捜査共助課という課があって、そこに申し入れ、そこから千葉県警に連絡をとってもらって、双方の警察が協力して犯人の追及・逮捕に当たるのが原則だが、もはや、そうしていては間に合わないのだろう。
先頭の車の岩崎は、運転手に何かきいた。するとハイヤーの運転手は答えた。
「はい、揃えてあります」
「車内無線は」
「運転席のわきにある自動車電話のダイヤルのゼロを、三つ続けて押してください。全車に通じます」
すぐに岩崎はゼロを三つ押して、他の三台に指示をした。
「全員に告ぐ。もう二十分で目的地に着く。運転手の横に小箱がある。その中に銀の十字架が入っている。鎖がついていて、首から下げると丁度胸の真ん中にキリストがくるロザリオだ。
普通、キリストが処刑されたときは、腰の回りに一枚の布を巻いた形で十字架にかかっているが、この宗教の物は、布も巻かれておらず、ちゃんと性器がむき出しになっている。歴史的にはこの方が正しいそうだ。ただしこれは、この教団の特別の地位にある幹部しかつけられない大事な像だ。みな胸にかける。かけたら、ゼロを三つ続けて押して、返事せよ」
各車から順次に応答がある。
「女性刑事も、今日は仕事であるから、男子と同じ気持ちで冷静に聞け。十字架のキリストの性器の先を見る。大きく皮が剥《は》ぎとられてむき出しになっている。これが、この教団が最高の秘儀としている割礼《かつれい》のしるしで、ニセ者の信者が、混じって入ってくるのを防ぐため、ときどきそこに細工をしていない物を混ぜる。みな点検せよ。異常があったら、すぐゼロダイヤルで知らせろ」
ほぼ一分間待ったが、ゼロ通信はなかった。
「それでは作戦を指示する。各人には、車を降りたらトランクをあけてもらう。後ろの三台のトランクの中に、二つずつのアルミ製のスーツケースが入っている。一応は一つに一億円ずつ詰めてあることになっている。あけてみると、表面は一万円札が敷き詰められてある。先方に会ったら、堂々と見せてよろしい。その下は新聞紙だなどと考えてはいかんよ。考えるから態度に出る」
いかんぞといわれて、みなは、やはりそうだと分かった。
「これは、もうかなり前から実行されていた犯罪で、私は秘かに調査していた。たまたま吉田さんの日本人的正義感のおかげで、今日の元日にやっと相手の本拠を見つけることができた。しかし、私は考え違いをしていて、対応が少しおくれた。奴らの狙っているのは、金をガバガバと儲けている教団だけで、貧乏で有名な、原始もろびと教団の連中まで狙うとは思わなかった。かなり難しい闘いになるぞ」
最近の京葉工業地帯の発展は目ざましく、房総半島内側の東京湾側は、かなり先の方まですっかり埋めたてられてしまった。工場が造られ、その間を大型トラックが何台も並んで通れるような、百メートルもありそうな広い道路が、縦横に続いている。
さすがに一月一日。街路灯が道路を照らしている他は、いつもは混み合うトラックの姿はない。
しかし不思議なことに、途中二回ほど、三、四台の車を連ねた列とすれ違った。いずれもこちらと同じ、外国の高級車だ。
一つの列の三台目には、赤い僧衣に僧帽をかぶった老僧が、若い修行僧に守られ、いたわられるようにして、ぐったりして乗っていた。もう一つの車の列も、一瞬すれ違っただけでははっきりとは分からなかったが、中年の肥《ふと》った女性が、半分、涙で顔をくしゃくしゃにして、若い女弟子にすがりつくようにして乗っていた。
岩崎も吉田老人も、その他の刑事たちも、誰もその女性が誰なのか気がつかなかったが、二台目の車の乃木刑事と、三台目の車の峯岸刑事の二人だけは、すぐその女の名が分かった。
占いとお目出たい印鑑と、新しい神様への信仰で、日本中の女性の尊敬を集めている、肥田塚子《ひだつかこ》である。その占いで運が開けたとか、いい結婚ができたとか、全国で大変な人気だが、願いごとが叶《かな》うと、その後で高い神棚を一つ買わされるので、ジャーナリズムの間には評判が悪い。
警察は、大体は宗教に従事する人が、中で何をしようと干渉しない方針だから、誰がどんなことをしているかは殆ど知らない。たまたま女刑事二人は、女性用週刊誌の愛読者で、特に占い欄は、自分の身にあてはめて真剣に読むから、その中年女の顔をよく知っているのである。
それにしても、あんなえらい人がなぜ、泣きじゃくっているのかと、女二人はそれぞれ不思議に思ったが、敢えてゼロ三つ打って報告するほどのことではないと思って、報告しなかった。直接事件に関係しているかどうかも、よく分からなかったからである。
その工場街の外れに、コンクリート四階建ての、殆ど装飾もない、地味な感じのビルがひっそりと建っていた。
車が近づくと、最後の指示があった。
「アルミケースの底には、最新式のサブ・マシンガンが二丁ずつ入っている。弾倉は七十二発入るのが四つある。正月早々気の毒だが、ニューナンブの十二発を射ち尽くして、まだ相手に勝てないようだったら、初めて出せ。では、これで無線を切り、指令を終わる」
建物の周辺に鉄柵が巡らせてあり、その門柱には『社団法人 税金完全徴収協会』と書かれてある。入りロで四台の車が停まると、中から守衛の服を着た男が出てきて、岩崎に何かきき、男性性器の皮が切られている銀の十字架を見せられると、「ごくろうさまです」と扉をあけて、中庭へ入れた。
[#小見出し]  物語を支える四人の刑事(その四)
男が女をみるとき、その女性の性質や心情には最初はあまり重点を置かずに、まず美貌とスタイルで選択してしまう傾向があるのは事実だから、逆に女性に文句をつけられないのだが、女性が夫となるべき男性(それ以前にまず恋をする相手)を選ぶのにも、この傾向があるのは誠に嘆かわしい。
花輪陣内刑事。生まれて育って、高校を出るまで、秋田県でもかなり奥の小さな町で過ごした。
地方の高校から警察を受験して、いきなり東京警視庁へ回され、二、三年、防犯や警備をやっただけで、すぐ捜査一課へ回されてきた。よほど優秀な素質や適性があることを、上司が見抜いての大抜擢であろう。
現在、岩崎警視正が直接指導している強行犯一係、二係の中では、中堅の存在であり、粘り強い捜査には定評がある。ただ、天は二物をあたえず、容姿風貌がもっさりとして、あまりパッとしない上、東京生活も、もう十年になろうとするのに、重い北秋田の方言が直らない。
捜査課では唯一の読書家で、トルストイから吉本ばななまで読んでいるのに、一度はかなりいいところまで行った乃木との仲も、進展せずに終了してしまったのが、もし容姿のせいであったなら残念である。
4[#「4」はゴシック体]
四台のロールスロイスは、ビルの前の広い中庭に停められた。一台に一人ずつ、運転手が残されているが、彼らには、エンジンのキーは入れたままハンドルの前で待機させた。
車のダッシュボードには、通常の制式拳銃、ニューナンブよりは、もっとずっとパワーがある特殊目的の短銃が、ぴったりとはめこまれている。助手席にいた若い刑事が、知らん顔で入れておいたのだ。
それがどんな銃であるかは、本庁の秘密兵器であるから、ここでは明らかにできない。
真四角な木の箱に入っているので、運転手も何も気がつかない。
車から降りた十三人の刑事の中、若いのが六人、後ろのトランクをあけて、アルミの中型ケースを取り出した。
一つに一億円ぴったりと入っていたとしても、それはそれほど重いものではない。といって、満更軽いものでもない。その重さをリアルに見せて運ぶのには、やはり若い、力のあり余っている刑事でなくては無理だ。本当は、それは三倍も重いのだから。
玄関には、全身黒ずくめの法服に、黒い袢てん、全員が夜なのに真っ黒い眼鏡をかけている男たちが立っていた。その一人が胸のキリスト像を確認すると、丁重だがドスのきいた声で、
「既に先に二組の客が待っています。三列目のベンチに坐ってお待ち下さい」
といった。十三人は、六個のアルミケースを提げて中へ入った。昔、工場の敷地だったような広い部屋だが、男の悲鳴と女の泣き声が中にひびいている。
コンクリートの冷たい床には、ごく粗末なベンチが何列か並んで、一列目には、神官らしい白い装束をつけた男や、信者や多分、教団が経営している大学の運動部員らしい、体格のがっしりした学生たちが、それでも重そうにふくらんだトランクを持って、緊張した顔で坐っている。
二列目のベンチには、三人の修道女姿の女と、残りは中年のやつれた身なりのエプロンをかけた女や、中には五、六歳の子供を抱いたおかみさんもいた。子供たちは手に瀬戸物で作った貯金箱を持っており、女たちも、手に何枚かの千円札を汗ばむほどにしっかりと持っている。有り金全部を持ってきた感じだ。
三列目のベンチに、岩崎たち十三人が、アルミのケースを六つ、みなで守るようにしておいて並んで坐った。
正面に、墨痕も黒々とした字で、
『税金は国民の最高の義務であり
最高の悦びである』
と書かれてあり、その横に、
『社団法人 税金完全徴収協会』
と、やや小さく、赤というよりは黒褐色に乾いた色で書かれてある。明らかに、人間の血で書かれた文字だ。やがて、岩崎たちの後ろのベンチにも、これは僧職らしい丸坊主で法衣の連中が、それぞれずっしりと重そうな布袋を持って、黙って坐った。
もっと驚いたのは、正面の垂れ幕の下に、鉄道貨物に使われるコンテナが十個も並べて置かれていることであった。
そのコンテナの扉は半分あけられ、鉄格子になっているので、中に人間が一人ずつ閉じこめられているのが分かる。
仏教、神道、各種新興宗教、キリスト教、ユダヤ教、モルモン教など、それぞれの教団の中で、それ相当の地位と権威を示す、立派な服を着ている人々ばかりだ。教団の中でその地位にまで到達するのには、やはり長い修行と祈りの年月が必要なのであろう。いずれもかなりの年の人ばかりで、だだっ広いコンクリートの床の部屋にはまるで暖房がなく、冷えこんでいるのでみな寒さに震えている。
どのコンテナにも、黒い法衣に黒い袢てんの若い男たちが、二人ずつ見張りでついている。中央に、四十ぐらいの男がいる。やはり黒い眼鏡をかけているので、その素顔は分からなかったが、岩崎はすぐ気がついて、隣の吉田老にちらと目配せした。
吉田老はしばらく考えていたが、やがてその長い捜査経歴の中で思い出す人物があったらしく、うなずいた。男が誰か分かったのだ。男は独りでしゃべる。
「我々は、真に日本国の将来を思う愛国者の集まりである。全国に二十万人の同志がいる」
そう力強くいったが、その声は、警視庁内の声紋のコレクションの中の一つである、ポケットに入っている小型録音機を再生すれば、名前から経歴までいっぺんに出る、重要手配中の犯人だった。
「日本国の健全な発展のために、一人でも税金を納めない人間を認めるわけにはいかない」
十個のコンテナの中には、既に相当痛めつけられたらしく、金属でできているコンテナの底に俯して、傷だらけで苦しそうに呻《うめ》いている者もあり、まだ迎えの者が来ないかと、涙で一杯の眼で、入り口の扉の方をじっと見つめている女教祖もいた。男の雄弁は続く。
「ともかく、どんなに貧しい人々も、その乏しい収入の中から、自らの血を絞りとるような思いで多額の税金を払っている。私は、神や仏がこの世にいない架空の存在だといっているのではない。たしかに何かはあるだろう。それを信じることによって、心の安定を得ることは、人間の生活を滑らかにし、穏やかにするには、絶対必要であろう。だからといってだ……」
かたわらのコンクリートの柱を、どーんと拳で殴った。もともと空手で鍛え上げたような拳ではないらしく、それに演出効果も充分に狙ってのことだろうが、その男の拳は、みるみる真っ赤に血で染まった。
吉田老刑事と岩崎は、男が手の中に、どこかで買った、輸血用の血を入れたゴム袋でもかくしていて破ったのを、ちゃんと見抜いてしまっていたが、乃木と稽古《けいこ》は、一瞬、恐ろしそうに掌で顔をおおって、軽い悲鳴をあげた。
もっとも、一般信者のふりをしているには、その方が本物らしく見える。本当は二人とも捜一の鬼刑事で、惨殺死体や流血は見なれているはずだ。上手に演技をしたのだろう。
各コンテナの前に張り番している黒衣の協会員たちは、まるで自分たちが、彼らが批判して止まない『宗教』というものの信者のように、血だらけの拳を振り上げる自分たちのリーダーに向かって、一礼したり、両手を合わせて拝んだりしている。男の熱弁は続く。
「だから私は、日本国の健全な発展を願うため、平成二年の正月元日を期して、昭和時代に各宗教が、脱税もしくは合法的無税という、忌《い》まわしき手段でもって蓄財した金を、回収することにした。本来は国家に納めるべき税金を、一個教団、平均六億円と計算した。これは、社団法人の当税金完全徴収協会が、大蔵省の資料を詳細に検討した結果出した数字で、甚《はなは》だ妥当な額と認められている。そこの四列目の月蓮宗草丘学派の坊さんたちは、もう揃えてきたようだな」
「はい、持ってきました。だからどうぞ、最初に私どもの学務部長のご釈放をお願いします」
四列目のくせに一番前に出て、昔の言葉でいえば、信玄袋といわれる、布で作ってあって底が丸い板になっており、入り口を紐《ひも》で絞る袋から、百万円の札束を幾つも出して並べ出した。百個で一億。小山のようだ。
協会員の男たちが顔色も変えず、全部数え上げると、右から三つ目のコンテナから、紫の立派な僧服の男の腰を蹴るようにして、外に出した。二、三日はろくに物も食べていないらしく、足腰もふらふらだ。金集めのうまさでは定評のある草丘学派でも、やはり六億の金を作るのには大変だったのだろう。
腰を蹴飛ばされて、床に這《は》いつくばった老僧が、金とひきかえに釈放され、弟子や信徒たちに抱えられるようにして出て行く。
リーダーの男の拳から流れる血は、手首を伝わり、黒服の下の白いワイシャツを真っ赤に染めて、この凄惨《せいさん》なショーを、ますます残虐なものに見せている。一列目の神官の連中も同じようにして、すぐ持ってきた金を出して、捕われの老人をひきとった。
ベンチが一つずつ詰められて、貧しげな身なりのかみさんや、子供連れの女がいる連中が一番前に出た。既に後ろのベンチは四列も埋まってしまった。
おそらくこれだけの人々が警察へ訴えもせず、六億円もの大金を持ってきているのは、彼らが狙った教団が、それぞれ六億円には代えられない弱みを握られているのか、それとも、誘拐された人物が、とても金では代えることのできない重要な人物で、もし何かの手違いで殺されてしまったら、教団自体が、もう存続できないような状態になってしまうからかもしれない。
岩崎は、目で吉田老に語りかけた。吉田老も目で答えてうなずいた。一言も語り合わなくても、二人には、お互いにいわんとすることは分かる。
もう十五年以上も前の一九七四年、何人かの仲間で、東京駅近くのビルを爆破して無関係な通行人を八人も殺し、三百八十人の重軽傷者を出した容疑で、死刑の判決を受けた男だ。
死刑囚として刑務所内で執行を待っているときに、仲間がマライの上空を航行中の、一般人の乗っている旅客機をハイジャックした。そして人質の乗客を釈放する代わりに、現在服役中の死刑囚を超法規措置として、国外へ出すことを要求してきた。
多くの警官や司法関係者の恨みのこもった瞳の中を、悠々として特別機に乗りこんで出国した、女を交ぜた、彼ら六人の顔は、警察関係者なら一生忘れられないだろう。
今のところ、黒眼鏡の下の顔がその男だと気がついているのが、岩崎と吉田老だけでよかった。
血の気の多い、進藤デカ長などが気がついたら、待っていられないで、いきなり飛びかかってしまったろう。男は、一列目の女たちにきいた。
「おまえたちはどれくらい持ってきた」
一番前列の修道女姿の三人は、前に出て膝をついて祈った。
三人は、十円や百円が入った小箱をさし出した。おかみさんや子供たちが、瀬戸物の貯金箱をこわし、小さい財布から小銭を足した。全部合わせて一万円になったかどうか。
リーダーは、冷酷な口調でいった。
「今の草丘学派の坊主は運のよい男であった。昨日まで、五日間も交渉していた。どうしても、本山の月蓮宗が金があっても出さないといってきたので、本日午前二時を期して、コンテナごと東京湾外の深い場所に沈める予定であった。それがやっと助かった。しかし、おまえたちは何だ。六億円どころか、六千円にも足りないんじゃないか」
「私たちは、ただ十字架に祈るだけで、お金を集めるようなことはしない純粋な宗教ですから」
リーダーは、それには答えずに顎《あご》を振ると、一つのコンテナから修道尼姿の女がひきずり出された。若い男たちによって、その修道衣がみるみる脱がされる。
黒い頭巾の下には、白い布で長い髪が束ねてある。それがほどかれ、まっすぐの髪がパラリと肩にかかる。
法衣も剥《は》がされるとその下は、(当然のことではあるが)普通の女性が着るようなスリップで、下には意外に高く盛り上がった胸と、豊かな腰があった。それぞれ女性しか使用しない二枚の小さな下着でおおわれている。そのたった二枚の下着も、男たちは無惨にむしりとって行く。女は羞恥《しゆうち》の悲鳴をぐっと耐えている。
リーダーの演説は続く。
「キリストは、自ら望んで十字架にかかった。それは、人類が犯した罪を自らの生命で償おうとしたためだと、ヨハネ伝では語られてある。あなたには、全宗教家が国家に税金を払わなかったという大罪を、一身に背負って十字架にかかってもらう」
体から一切の物を剥ぎ取られたその女性は、全裸姿になると、まだ三十代半ばの、成熟した肉体を持った魅力的な女性だった。最前列の信者たちは、どうすることもできずに、ただ祈り、泣くだけだ。
きっとそのために用意されていたのだろう。がっしりした木で作られた十字架が運ばれてきた。コンクリートの床に倒された十字架の上に、女は横たえられた。両手は拡げられ、豊かな乳房が露《あらわ》につき出す。
眼には涙を一杯にためていても、悲鳴も羞恥の叫びも、哀願の声も出さない。神の救いを信じきっているのか。
拡げられた両手の掌の所に、一人ずつの若者がやってきて、五寸|釘《くぎ》をあてて打ちこむ準備をした。二千年前にゴルゴタの丘で行われた処刑の儀式を、本番そのままに実行しようとするのだった。男の自己陶酔の演説が続く。
「私は、国民が税金をひとしく納める世の中に、この日本を改革して行きたい。この後も、宗教法人無税を主張した政治家二人、税理士三人も同じように十字架にかけて、この平成二年の正月の最もショッキングな国民の願いとして、宮城《きゆうじよう》前広場にこれから十字架をぶち立てるつもりだ」
岩崎の秘かな合図が全員に送られた。十二名の刑事たちは、それぞれ何気なく腋の下へ手を入れた。
今日の自分たちの教団の代表の役は、わざと口の重い、花輪陣内刑事がやることにしてある。彼は二列目で立ち上がっていった。
「おまえさま方、一体、何をさらすだ。そげなことしたら、いてえではねえかよ」
「よそから文句をいうな、さあ、釘を打て」
リーダーが叱りつけるようにいう。
「よし!」
一言だけ岩崎の小さな声が洩《も》れた。
金槌《かなづち》を持って振り上げた男の手が、上へあがったとたん、二人とも掌ごと吹っ飛んで血が飛び散った。
中村刑事のピストルが、リーダーの胸をぴたりと狙っている。
「即死させましょうか。それとも、ハートを外して三十分ぐらい苦しませましょうか」
「捕まれば死刑は決まってる男だ。今のところは右腕の肘《ひじ》から先だけ吹っ飛ばしておけ。獄中で、一日ごとに近づく絞首刑の恐怖を、味わわせてやれ」
中村刑事は、右肘の上を狙って、引鉄《ひきがね》をひいた。
吉田老が珍しく鋭い声で、何か叫んだ。
いきなり、六つのトランクがあけられ、中にあった表面の一万円札、そしてその下の新聞紙の束がぶちまけられ、奥底に入っていたサブ・マシンガンがとり出された。
さっき、中に何が入っているか考えちゃいかん、考えるから態度に出ると、岩崎に叱られた物だ。
「MG9だ」
刑事の間からも声が洩《も》れた。二百四十発の弾丸が入る、超高性能の短機関銃だ。六つを刑事たちが持った。その二百四十発が、一分で一ペんに出るのだ。
二階からピストルをかまえたり、棍棒《こんぼう》や短刀を持った男たちが何十人か下りてきたが、自分たちに向けられた、六つのマシンガンにぎくりとして、足を止めてしまった。花輪がいう。
「今日は一月一日だでな、おらは死者《すしや》を出すたくねえだ。だんが、このマスン、引鉄《ひきがね》をひくと、一分間に二百四十発の弾丸《タマ》ッコ、一ぺんに出てしまうで、どうにもならねえだ。死《す》にたくねかっから、みな武器を捨てて、頭ッコに手ッコのせて、そこさ坐れ」
この何ともまのびした東北弁に、また妙な凄味がある。百人ぐらいはいた若者が、ぞろぞろ下りてきて、コンクリートに正座した。
「全部下りたべか」
誰かがうなずくど、とたんに花輪が引鉄をひいた。ほんのテストのつもりだが、一分間に二百四十発が瞬時に出る物凄さを、人々は初めて知った。二階への鉄の階段が、一部吹っ飛んで、なくなってしまったほどだ。
岩崎は、二係長の村松にすぐ命じた。
「ロールスロイスのダッシュボードに、照明弾用の銃が入っている。このビルの奥は岸壁になっていて、既に貨物船が停まっている。人間の入っているコンテナも乗っているかもしれない。周りを明るくして、一回MG9を撃ってみせて、船員全部と、既に乗りこんだ協会員を、全員陸へ上げて正座させろ」
村松係長は、MG9を持った若い刑事を二人連れて、外へ飛び出して行った。
既に指揮者を失って、抵抗する気もない。連中は、十三人の刑事たちに完全に制圧されてしまっている。
全員が丸腰のまま、両手を上げて、広いコンクリートの床に正座させられた。船からも五十人ぐらいの船員と、既に沈められるために乗せられていた、宗教人の入っているコンテナが取り出されて連ばれてきた。
中村刑事がピストルで、一つひとつの鍵を撃ちこわして、コンテナの中にいる全宗教人を解放した。裸にされて十字架に打ちつけられる予定の女性も、すぐ黒衣の修道服をもとのように着せられた。岩崎がみなにいった。
「みなさんは、どうかこのままお帰りください。既に取り上げられた金は、警視庁が責任をもってお返しします。ここにいる連中は、これからしばらくは刑務所で税金代わりに、みな二、三年はただで働くことになるでしょう」
そういうと、本庁と千葉県警へ、全員を手錠と腰縄付きで連行しにくるようにとの電話をかけたのだった。
[#改ページ]
[#見出し]  キャリアウーマン
[#小見出し]  頸部圧迫による窒息死(その一)
[#小見出し] 縊死《いし》[#「縊死」はゴシック体]
頸部《けいぶ》を圧迫して、呼吸できないようにして人を死に至らしめる方法は、あらゆる殺人方法の中で、最も簡単なものとして、古来から沢山《たくさん》実行されてきた。
しかもこれは、自分で自分を殺す自殺にも、他人を殺す他殺にも、そして刑罰によるための殺害にも、最も多く採用されてきた。
その死は、事件として扱うと、縊死と絞死《こうし》との二つに分けられる。
縊死とは通常、頸《くび》の周囲に索条《さくじよう》を巻きつけてから、自分自身の体を吊るし、自分の体の重みで頭部を締め、そのため窒息して死亡する方法である。
索条は、前頭部では舌骨《ぜつこつ》と喉頭《こうとう》との間を通り、左右対象に側頭部を後上方に向かって斜めに走り、耳の後方を迂回して後頭部に達し、ここで結節を作る。足先は必ず地上を離れて、体の重みで索条が頸を圧迫しているのが、普通の形である。
1[#「1」はゴシック体]
平成の年が始まり、新年で、世間がお目出たい、お目出たいと、人の心も浮きたっているのは、せいぜい一月の七日ぐらいまでで、それからは急に世の中は冷えこんでくる。
単に気温だけの問題でなく、経済面でも十二月の末に札束が舞った反動か、市場の動きはにぶくなり、個人の財布も、月末が近づくにつれて心細くなる。
二月に入っても、その冷々《ひえびえ》とした状態は変わらない。一年間の内で最も寒い時期であるが、冬のボーナスはとっくになくなり、衣服費や光熱費もかかる。特に東京という大都会は人間が多すぎて、却ってお互いの間のつき合いがない。だから一人暮らしの者は、この冷たさや淋しさが身にしみて感じられる。
殺人事件より、何となく淋しくなっての、衝動的な自殺が多くなる。夫(或いは妻)に先だたれた孤独な老人。地方から東京へ働きに出ている女子事務員で、二十七、八をすぎて結婚の相手もいなくなったような、いわゆるオールド・ミスなどが、突然死にたくなる月だ。
この事件も初めはその一つと思われた。昼少し前、岩崎警視正の机に、急な電話があった。
「六本木の高橋です」
この電話は端末がもう一つ、乃木刑事の席にある電話につながっていて、いつもは乃木が素早く取って用件をきき、内容によっては管理官の岩崎に回すのであるが、今日は何か予感があって、親分自らが先に取った。それでよかった。
一応夫婦別姓にしているが、六本木の高橋といえば、高橋署長のことで、乃木の結婚した相手だ。自分で取ったら少し恥ずかしいだろう。
「岩崎だ。何だね」
「キャリアウーマンが自殺したというので、部下を現場に行かせたのですが、少しおかしいのです」
六本本という町は、ほんの三十年前は、お寺と崖《がけ》と、崖下にくびりついたような、貧しい長屋があるだけだった。表通りには、それらの貧しい人を相手にする質屋と、安い定食屋、煮豆屋ぐらいしかなかった所だった。
それが今では、束京でも一番ナウくて高級な街になっている。若い人が、夕方から明け方の四時、五時ごろまで歩き回り、ディスコ、パブ、レストランが終夜営業していて、日本中のヤングの心のメッカとなっている。
六本木の真ん中に立って、もし石を投げれば、必ずタレントかタレント志望者に当たるといわれている。今や東京で一番賑やかで、現代的な盛り場である。
その盛り場の裏には、これまた、どの部屋も目の玉の飛び出るほど高い家賃の、豪華なマンションが並んでいる。そこに入っているのは、タレントのような芸能人か、実業家でも上場会社の役員で、月に二、三百万ものお手当を出せるクラスの大物に囲われている、若い美女ばかりだ。
「どんな状況なんだ」
岩崎が、電話で六本木署長にきく。
「朝、その女の勤めている会社から電話があって、『うちの女子社員が、丸四日も何の連絡も入れずに欠勤している。今までそういうことがなかったので、妙に思って、マンションへ電話をかけてみたが、誰も出ない。心配だから、警察でマンションへ行って、管理人にことわって、中を調べてもらえないか』という要請があったのです」
「うん、それで」
「うちの捜査課の刑事が四人、現場に直行しました。場所は署のすぐ裏です。歩いて五分もない所ですが、近代的というか、用心深いというのか、管理システムがえらく厳重で、管理人を呼び出し、警察手帳を示して、会社からの依頼があったことを確認させて、ともかく、その女の部屋へ入るのに、すったもんだで十分もかかってしまったそうです。
四人の刑事が、厳重な電子ロックの鍵をあけて中に入れてもらったとき、真っ先に目についたのは、天井の豪華なシャンデリアの鉄の鉤《かぎ》に、太いロープを結びつけて、そこからぶら下がっている女の死体でした。ストーブも消えているし、この三、四日は寒かったので、死体の腐乱はまだないのですが、それでも、すぐに駆けつけた鑑識の連中によると、死後三日か四日は経過していて、死臭も部屋にこもっているそうです」
岩崎は、かつての部下の高橋警視の報告を、途中で遮《さえぎ》るようにいった。
「自殺と分かっているなら、それは六本本署内で処理できるものじゃないかね。なぜ、こちらへわざわざかけてきたのか」
「それが、自殺とはいいきれない点があるそうです。私もまだ現場へ行ってないのですが、出先の刑事の報告によると、つまり、天井でもシャンデリアでも、ロープを首にかけてぶら下がるのには台がいるのに、その台が死体の足もとにはないそうです。お出まし願えませんか」
「よし分かった」
岩崎は力強く答えた。
六本本署長からの電話を置くと、二係長の村松警視を呼んだ。
岩崎警視正は管理官として、一係と二係とを同時に指導監督する立場であるが、一係長の高橋警視を、乃木との結婚で、夫婦を同時に捜一に置いておくわけには行かなくなり、六本木署の署長に抜擢、栄転させた。空席の一係長は今のところ、管理官の岩崎が兼任している。
「村松係長、六本木の高橋署長から、今、至急の連絡があった。キャリアウーマンといわれるような女性が自殺していたが、どうも自殺とだけはいいきれない点がある。それにしても、現場は女一人の部屋だ。若いのを連れて行って、目の毒になるようなことがあるといかん。六本木の中心のマンションでは、いくら上場企業の大会社のキャリアウーマンでも、その収入だけでは入っていられるはずはない。調べているうちに、いろいろと出てくることは分かっている。
一番お年寄りの吉田さんと、君の所からは主任の進藤デカ長を出してくれ。それに女の部屋だから、家宅捜査で、衣装戸棚から下着や、その他女性でなくては分からないものをひっぱり出して広げなければならない事態が起こるかもしれない。乃木と峯岸の二人を付添で出してくれ。乃木は現場で旦那と顔を合わせることになるだろうが、そんなことを気にするようなヤワな神経の持ち主じゃなかろう」
「はい、畏《かしこ》まりました」
「係長はここで待機して、他の事件が入ったり、私が行った現場からの応援の要請があったら、すぐに必要人員を派遣できるように準備しておいてくれ。私が考えるには、この事件は、我々が予想したよりずっと大きくなりそうだな」
何事も事前に鋭いカンを働かせて、ある程度は予知してしまう不思議な本能を持っている、この天才警視正が自らそういうのだから、この事件には、何か深く感ずるところがあったのだろう。
いつものように、岩崎と吉田老と進藤デカ長、それに今日はキャリアウーマンの自殺検証ということで特別に加えられた、乃木と峯岸の二人の女刑事は、わざわざ呼びよせた大型ハイヤーで六本木署に向かう。
署の表に高橋署長自らが待っていて、岩崎たちのハイヤーが来ると、自分も署の黒い乗用車に、刑事二人を乗せて先にたつ。
六本木全体は、裏へ入ると、どこも狭い道で坂が多い。もはや地価が高すぎて、普通の住宅は存在しない。低いのは三、四階のテラス風、高いのは二十階を越す高層ビル風のマンションばかりだ。
その一つの、白亜の塗りが豪華にしつらえられているマンションの車寄せに入る。刑事が迎えに来ていて、すぐ全員をエレベーターで十階へ案内する。
扉をあけると、すぐ目の前に死体がぶら下がっていた。腰までの短いスリップに、薄いショーツだけつけているが、後は裸だった。
一人の人間が、首に縄を巻きつけて吊り下げられているのだから、その根元のシャンデリアの軸がもしヤワなものなら、人間の重みでとっくに折れてしまっているであろう。
十八世紀風の古風な彫刻を施《ほどこ》した豪華なシャンデリアは、中央から八本の鉄の枝が出ていて、それぞれの先に、百ワットクラスの明るい電球がついている。夕方になってスイッチを入れたら、きっと部屋中が煌々《こうこう》として輝くであろう。
その張り出して湾曲した枝の一本に、麻で作られたロープが結びつけられ、その先が丸い輪になって、輪の根元は正式の三重結びになっている。
腰までしかないスリップを、乃木が、岩崎に説明した。
「キャミソールといいます。ミニを着たり、スラックスをはいたりするときには、腰から下が邪魔になるので、そんなときにつけます」
鑑識官がしきりに写真を撮っている。人が出入りして、室内の温度が高くなったせいか、死臭がだんだん濃くなって行くようだ。
女の背は百六十五ぐらいある。首を締められているので俯《うつむ》きがちになっているが、まだ腐乱していないので、顔の形はよく分かる。
目も大きく、鼻筋もやや高目に整っていて、多少は外国人の血も入っているのではないかと思わせる美女である。スタイルもなかなかいい。
薄いショーツ一枚で、辛うじて女の部分は隠されているが、それでも、もう十七、八の娘ではない。二十歳も後半の、三十近い成熟した女らしく、たくましく繁茂した生命力を思わせるものが、薄いショーツのわきからはみ出しており、布地を突き抜けるようにして見えている。
現場に最初にやって来た刑事が、岩崎管理官に伺いをたてた。
「ホトケを、そろそろ下ろしてやっていいですか。いつまでも宙ぶらりんにしておいては、気の毒ですから」
岩崎は、いつものように冷酷な口調でいう。
「鑑識はもう充分に写真を撮ったかね」
白い上っぱりを着た中年の鑑識係が二人、カメラをかまえながらそれぞれ答えた。
「はい。前後左右、すべての方向から撮りました」
「室内全体もくまなく撮りましたが」
それに対して、岩崎はきびしい顔を崩さずいった。
「顔と向かい合って、同じ高さで撮ったかね」
「えっ?」
意味が分からずにきき返すのに岩崎がいう。
「そこらにある椅子でもテーブルでも何でもいい。それに乗って、顔と正面に向かい合う高さで撮らなくては駄目だ。それからやや頭の上からと、顎の下からも撮っておきなさい」
二人の鑑識官は、あわててカメラをかまえる。
岩崎は六本木署の刑事にきく。
「女の名前と職業、年齢は分かってるね」
「はい、すべて判明しています」
「このあたりの銀行に片っぱしから電話をかけ、その名でこの二、三日以内に大金が下ろされていないか、問い合わせなさい」
撮影係の鑑識官が、岩崎警視正に気合をかけられて撮影をやり直している中《うち》に、岩崎管理官の指示が、次から次へと飛ぶ。
「高橋君はすぐ、署に待機している捜査係の刑事《デカ》さんを動員して、聞き込みにかかりたまえ。これは自殺じゃないよ。もしどこからか遺書が出てきたら、それは死ぬ前に強制的に書かされた物だ。無視してよろしい。
刑事諸君は、この女のアルバムか、そこらに写真があるはずだから、それをすぐコピーして、近所のスーパー、喫茶店、それから踊れるスナックなど、六本木に住むキャリアガールが利用しそうな店を全部、しらみ潰《つぶ》しに当たりなさい。どこかで見かけた者はいないか。もし見かけたら、一人か、連れがいたか。連れはどんな人間だったか」
「はい、すぐそう指示します」
室内には彼女の電話があった。ベージュ色の毛糸でカバーがしてあり、全体が可愛い縫いぐるみのようになっているが、捜査には、そんなことは何も関係ない。
岩崎の命令は、ぴしぴしとした口調で続く。
「吉田さんは、この女が勤めていた会社へ行って、どんな仕事をしていたかきいてきてください。六本木署から刑事さん二人を貸してもらって、三人で行ってください。人事係の線で、きっと話はストップしてしまうだろうが、吉田さんの考えで、少しでもその話の中にあいまいな部分があったら、捜査上の理由があるからということで、重役や社長にも無理に会ってきいてきなさい。
いいかね、どんな有能な秘書や事務員でも、まず月収百万円を超す娘はいないだろう。しかしここのマンションでは、百万円の生活費では暮らせないはずだ」
大分荒らされたり物色されたりした跡があるが、それでも置かれている調度は金のかかった物だし、まだ刑事から報告が来ないからはっきりしないが、銀行にも相当な金が預けてあるのではないかという気配がする。
「その点、会社がどの程度の金をそこの女に出していたかを、徹底的に調べてきます」
高橋署長がつけてくれた二人の刑事を連れて、吉田老刑事は、女の勤務先だった、丸の内方面にある有名な商事会社に向かって出て行った。
普通の若い刑事なら受付で軽くあしらわれて、表面的なことだけを聞いて帰ってくるのだろうが、吉田老刑事がねばって喰らいついたら、そうは簡単に追い返せない。
鑑識官がすべていわれた通りの撮影を終えると、岩崎管理官の指示で、死体が下ろされることになった。
しかしそのやり方は、縄を首から外すのでなく、だらんとぶら下がった足を、乃木と峯岸の二人にしっかり抱えさせて固定してから、他の刑事が椅子に乗って、シャンデリアの鉄の枝から、結んでいたロープをほどくやり方だった。
「こりゃー、女が結んだんじゃありませんよ。結び目が、えらくきつく縛られてます」
死体は首に縄をまかれたままの格好で、じゅうたんの上に横たえられた。
[#小見出し]  頸部圧迫による窒息死(その二)
[#小見出し] 絞死《こうし》[#「絞死」はゴシック体]
索条《さくじよう》を頸《くび》の周辺に巻きつけて、これを自分の手、足、または他人の手で強く引き締めて、窒息して死亡するものを絞死という。
その索痕《さくこん》の典型的なものは、全|頸囲《けいい》を水平に輪状に走り、傷の深さは、どこもほぼ均等である。
頭部の頭髪、長|鬚《ひげ》、深目の帽子などで頸の一部がおおわれ、その上を索条が走った場合は、その部分だけ索条痕《さくじようこん》が浅くなったり、中絶したりする。
また、加害者が被害者より高い所にいて、索条を後方から巻きつけて引き締めたような場合は、索条痕は上後方によって斜めに走り、加害の状態を測定することができる。ただし、縊死《いし》と絞死との区別の鑑定がつけにくくなる。
絞死の多くは他殺であり、自殺または過失によるものは少ない。
2[#「2」はゴシック体]
六本木署の所轄刑事と、本庁の捜一とが駆けつけたのだから、これはレッキとした刑事事件で、事故として簡単にすませるわけにはいかない。
シャンデリアから、キャミソールと小さなショーツ一枚つけただけでぶら下がっている女性が、まず自殺か他殺かを決めなければいけないが、これは、現場に駆けつけた岩崎管理官が、死体の状況を見ながら明快に説明を加える。
「これは自殺じゃないよ。たしかにそのシャンデリアは……」
と八本にのびた鉄の鉤《かぎ》を示しながら、
「人間一人がぶら下がっても、こわれないほどの強度を持っている。自殺のために綱をひっかけるのにはもってこいだ。
季節も憂鬱《ゆううつ》な二月の初め。婚期を逸した二十七、八歳のオールド・ミスにとっては、何の理由がなくても、何となく死にたくなってくる季節だがね、自殺者は普通、綱のはしとはしとを結んで、その間に首を入れるだけで、綱の先を丸くして結び目を作るなんて、そんな複雑な、絞首刑囚の首にはめるような仕掛けにはしないよ。それに根元の結び目は、プロの結んだもんだ。さっき分かったと思うが、並の固さではない」
といった。既に死体は下ろされて、ベッドの上に寝かされていた。
六本木署の刑事と、自分の部下たちとに教えるように説明する。
「それにもし自殺だとしても、一人で|飛び上がっ《ジヤンプし》て丸い穴に首を入れるわけにはいかない。何か踏み台があって、それに乗って首を入れてから、踏み台を蹴《け》飛ばしているはずだ。だが、その台がない」
たしかにそこがおかしい。みなは最初からそれには気がついていた。ところが岩崎は、更にみながびっくりするようなことをいった。
「さっき鑑識の諸君は、写真を撮った時にもう気付いただろうが、このロープによる縊死でもないよ」
六本木署の刑事も、本庁の天才捜査官といわれた岩崎警視正が直接乗りこんで、死体を前に講義してくれるのだから、緊張している。
もし、真剣に刑事として殺人捜査を勉強するためなら、これほどよい実技教室はない。岩崎警視正はみなにいった。
「もしここに踏み台一つ、椅子一つが転がっているなら、これは当然、自殺の線が出る。彼女の身辺を調べてみて、失恋とか、孤独とか、躁鬱《そううつ》症の状態だとか、そんなデータでも出てくれば、警察はできるだけ事件にしたくないから、自殺説を採《と》る。捜一に電話もかけてこない。それでキマる」
所轄の刑事が、お互いに少してれたような顔を見合わせた。他殺と分かれば刑事だから、たとえ本庁であろうと所轄であろうと、犯人を見つけるまで徹底的に喰い下がるのが普通だ。
だが、このような高級マンションでの一人暮らしの女には、自殺者が意外に多い。さして詳しい調査もしないで、自殺としたケースも多々ある。
一流会社のOLであるにもかかわらず、少し身辺を洗うと、ヤーさんの情婦だったり、高級売春組織にからんでいたりして、死亡の原因を親や身内に知らせると、却って死んだ当人が可哀相になるようなことが、都会の生活には多いのだ。
「私がこの死体を見て、真っ先に考えたことを今からのべる。たしかに前顎部《ぜんがくぶ》から後頭部にかけて大きな索条痕《さくじようこん》がある。しかしこれは、ベテランの解剖医なら瞬間に見破ってしまうな。生活反応のない単なる鬱血《うつけつ》痕で、死後硬直が始まったとき、死体の下方にできる斑痕《はんこん》と同じものだ。物体の重みがかかった点にある、充血の痕と考えてよろしい。死因でも何でもない」
みなはむしろ呆《あき》れたように、その説明をきいている。もしそうだとしたら、この美しいキャリアウーマンは、何で死んだんだろう。
全員の注目の中で、岩崎は赤く太い首の筋をなぞるようにして、みなに示した。
「殆ど大部分は、この赤い線に重なって目だたない。しかしさすがの犯人も、一カ所だけ細かい注意が払えなかった。もっとも、それは誰かを意識してわざとやったことかもしれないから、見つけたからといって、自慢にはならないがね。武藤と花輪は、両方からこの女の頭を持ち上げてみなさい」
いわれて、若くて力のある二人の刑事が、手袋をはめた手で、くせがなく長くのびた髪の頭を、両側から持ち上げた。
首の真後ろの中央に、一際黒い痕がある。|×《バツ》点状についていて、その中心部は少し皮がねじれて、血がにじんでいるほどだ。ただ、それまでの赤い大きな索条痕に目を奪われて、誰も気がつかなかったのだ。
「死因は首吊りじゃないよ。最近も同じような殺しを見たばかりなので、すぐぴーんときたのだが、針金のような細いもので締めてから、力一杯×点の所でねじって窒息死させたのだ。そして、その上で自殺を偽装して、天井からぶら下げた」
現実に女の死体を前にして説明されると、岩崎警視正のいうことは、いちいち納得できる。岩崎は、うなずいている峯岸婦警にいった。
「峯岸、これは捜査上の命令だ。男の刑事にやらせるわけにもいかないことだから、特に命ずる」
何だろうかと、けげんな顔をしている峯岸|稽古《けいこ》見習刑事に、
「ショーツの中心の、いわゆる女性の外陰部といわれる部分の上を、掌でたしかめなさい。濡れているかどうかだ」
これは捜査だ。峯岸はためらいもせずに、
「ハイ」
と答えて、薄い布の上を、中心の線にそって掌で探った。
「全然濡れていません」
「それも絞殺死を証拠だてている。縊死《いし》の場合、女性の大部分は失禁したり、突然、生理の血が流れ出して、床や下半身を汚す場合が多い。そのため、女性の死刑囚に絞首刑を執行するときは、わざわざ革の、両|裾《すそ》がしっかりゴムで閉じられた半ズボンを獄衣の上に、もう一枚はかせるのが内規になっている。
そこに失禁の痕が全く見られず、乾いているということは、死後三日という経過があったとしても、絞殺されたときには、そういう現象がなかったことを物語っている。ともかく、何か他のことで気がまぎれていたときに、思いもかけず、瞬間に殺されたことを意味している。それも相当なベテランの手でね」
みなはただ黙ってきいている。
「表面上は自殺という形で、縄から吊るした。しかも警察のベテランが見れば、踏み台のないことで、すぐ他殺と分かる殺し方をしている。ここに、多分この事件を解く鍵がある。この死体は、すぐ司法解剖に送るよう手配しなさい」
六本木署が事件の管轄だし、署長の高橋警視自らが、現場で刑事たちの指揮を取っているので、死体検案の要求書を作り、所轄刑事と外勤巡査に死体を守らせて、都の監察医務院へ送る手続きをとった。
死体が車で運ばれた後の部屋を、捜一から派遣された刑事と、所轄六本木署の刑事とが丹念に調べた。持ち物は、二十八歳の独身OLとしては、かなり贅沢《ぜいたく》で高価なものが揃っている。もともとこの場所で、これだけのマンションにいるのが普通でない。
そのとき、電話が鳴った。
六本木署から二人刑事を借りて、女の勤めていたセンサー貿易という会社に事情をききに行った、吉田老人からの電話だった。
「たしかにその名の女性は在職していました。一般の庶務課で、もう勤続六年。欠勤も遅刻もない、ごく模範的な社員だったそうです。月給は、手当を含めて二十五万円ぐらい。六本木のマンションは、友人と共同で借りていると、会社へはいっていたそうです。もっとも、今のところ、まだ人事係長より上の重役とは会わせてもらえていませんが」
「まあー、半分は嘘をいってるな。いずれ締め上げてやる。会社の上層部に何となくいっておきなさい。『自殺ではない。どうも殺されたようだ。それも、何かの理由があってらしい。もうすぐ分かる』とね」
吉田老刑事にそう指示した電話が終わるとすぐに、何本も続けて電話が入ってきた。
それは、高橋署長が近所に聞きこみに回らせている、所轄の刑事《デカ》さんたちからだった。
背も高く、髪の毛も長い、あれだけの美人だ。アルバムからはがした写真をコピーして見せると、見知っている人間が多かった。
近所のスーパーのおかみさんは、
「いつも、東南アジアの人らしい、少し色の黒い青年と、肉や野菜を買って帰りましたよ。土曜日が多かったですねー。早く家に帰って、一緒に食事していたんでしょう。恋人といってもよさそうな睦《むつ》まじさでしたよ」
という証言をよせたと、ある刑事はいう。また別の刑事は、
「何曜日かははっきりしないけれど、外人と二人で、夜おそく帰ってきますよ、高級車に乗って。外人は中年の白人です。相当に身分のある人らしいのは、その服装で一目で分かりましたよ。それにその高級車には、ちゃんと制服の運転手がいて、二人がマンションへ入って、出てくるまでの大体二、三時間、じっと待っています。やがて、きっとネグリジェにガウン一枚ひっかけただけに違いない姿の女が、ベランダで手を振って見送るのに応えながら、白人の男は帰って行きますよ。何曜日かは思い出せないけど、週に一度は来ていましたね」
という話を聞きこんだ。それは、そのマンションのはす向かいのマンションの二階で、小さな会員制スナックを営んでいるマダムの証言であった。
ところが、道を出た所にある、煙草や酒の自動販売機を並べた雑貨屋の婆さんによると、話は全く違う。
「あれほど黒人の好きな女の子を見たことはないねー。日曜日になると十時ごろ出て行って、昼ごろには、誰か大きな黒人の手にぶら下がるようにして、甘えながら帰ってくるんだよ。それも、毎回違う黒人だよ。ただ私がみるところでは、兵隊のような品の悪いのはいなかったね。黒人といってもみんな、きちんと背広を着た紳士ばかりだったですよ。
昼ごろマンションに入ったら、夕方おそくまで出てこない。出てくるときは、二人とも少し疲れてるようだけど、いかにも|あれ《ヽヽ》をやりまくって満足したという顔で、べたべたとくっついて、キスしたりしてるんだよ。夕方でなければ人がたかってしまうよ。子供がもう外を歩いていない時間だからいいけど。
あれだけやってもまだ元気が余っていて、きっとディスコか何かに改めて行くんだろうねー。もつれあって、表通りの方へ歩いて行くよ」
その電話のすぐ後に、切羽詰まった声での電話が入った。銀行回りを担当させられた刑事からだ。
「署長、大変です。彼女はこのあたりの銀行四つに預金していましたが、定期は解約され、普通預金は全部、この三日の内に下ろされていました。合わせて五千万円を超します」
「うん」
と電話に向かって一言、岩崎警視正ははっきりと答えると、珍しくその所轄の刑事にいった。
「銀行担当は君だけか」
「いえ、私ともう一人です」
「どこの銀行にも、預金引き出し機の所には、ビデオカメラがついていて、誰が引き出したか分かるようになっている。定期解約者も、引き出し者も、調べてみればすぐ同一人と分かるはずだ。それを二人で調べる。こんなものは捜査の初歩だ。二時間もあれば、四つの銀行全部で分かる。
ただし、それからが大変だ。結果が出たら、六本木署の署長応接室に戻ってきなさい。勿論、これも刑事のイロハだから、今さら私がいうことはないだろうが、今の金額のことを含めて、途中で見知ったことは、私と署長の高橋警視とがたずねるまで、誰にも一言もしゃべらないように」
先方で諒解した旨の返事があって、電話が終わった。岩崎はいった。
「このマンションには、外勤と若い私服とを二人ばかり残して、しばらく出入り禁止にしておく方がいい。しかし、もう犯人がここへやってくることはない。まだこの犯罪が行われたことを知らない、東南アジア系の恋人が、土曜日に遊びにやってくるかもしれないが、急にいなくなったと答えて帰してしまえばいい。
多分、彼女が、会うのを一番楽しみにしていた恋人だろうが、この犯行には全く関係ないはずだ。仕事と恋と、快楽とをはっきり分けていた。いくらかでも犯罪に関係ある奴は、今ごろ、みんな息をひそめてじっと成行きを見守っている。まあー、言い方を換えれば、日本警察の手並み拝見というところだろう」
見張りを残して、全員が六本木警察の署長室に隣接している応接室に戻った。
「かなり難しい事件であるが、犯人は少し凝《こ》りすぎて、却って少しずつ、正体を現しかけている。そう長引かないと思ってよろしい」
本庁の管理官である天才警視正がいうことだ。まだ理由が分からないままにも、みなは何となく安心した表情になった。
もう夕方に近い。考えてみれば、電話がかかってきたのが昼少し前だ。忙しさの間に、昼食を忘れた。
署へ戻ると、すぐ出入りの食堂からカツ丼を全刑事分とらせ、ついでにお茶代わりのビールも一本ずつつけて、昼夕兼用の食事をさせながら、岩崎だけは本庁に直通の電話をかけた。連絡係に、二係長の村松警視を残してある。
「村松係長かね、そこからすぐ、丸の内のセンサー貿易に電話してくれ。多分、吉田老人がまだ重役室でねばって待機しているはずだ。その吉田さんを呼び出して、社長さんに、じかに警視庁の捜査主任がお話ししたいことがあるといってきましたが、どうしますかと伝えさせなさい。庶務係の女性の死は、単に当人の自殺ではなく、会社に対する一種の警告のためだと、社長あてに文書を書き、密封して秘書に渡すようにさせなさい」
[#小見出し]  頸部圧迫による窒息死(その三)
[#小見出し] 扼死《やくし》[#「扼死」はゴシック体]
手や腕をもって頸部《けいぶ》を圧迫し、窒息させて死亡させるのを扼死という。
扼死の多くは、喉頭部《こうとうぶ》の両側、特に左側、または下頭部に多い。
扼痕《やくこん》には、半月状の爪痕《つめあと》、または不正形表皮|剥脱《はくだつ》のことがあるから、その形状よりも、むしろ痕跡の部所によって判断しなければならないことがある。
顔面部はチアノーゼが顕著で、酸素不足の青紫色に変化し、眼瞼《がんけん》部、皮膚、及び結膜下に、多数の溢血《いつけつ》点が出る。
扼痕に近接する皮膚の皮下組織、血管、頸椎《けいつい》などの前面に出血が見られる。
ときとして喉頭粘膜、殊に声帯及びその上下に扼圧した手、腕の圧迫による出血の痕が見られる。
扼死には自殺はない。不可能であり、すべて他殺である。乳・幼児、無抵抗の女子に多い。
3[#「3」はゴシック体]
丸の内も、有楽町そごうデパートに面した通りは、旧来の赤|煉瓦《れんが》ビルが一掃され、いずれも二十階前後の、近代的設備を整えたオフィス用ビルが並んでいる。
明治以来、このあたりは日本のビジネスの中心であって、たとえ新宿に四十階建てのビルが乱立して、副都心と称そうと、渋谷のパルコ通りが流行の中心であろうと、世界を相手とするビジネスは、今もなお、この丸の内を中心にした一画にすべて集まっている。
上場会社の殆どが、このあたりに本社をおいている。つまり、本社が丸の内を中心にした一画にあるというだけで、会社の格式が違ってみられるからだ。
特に最近のように、いい大学から優秀な人材を集めるのが困難になってきた時代は、会社のある場所そのものが一流で、しかもそのビルは、近代的で設備が整っていないと、社員を募集しても、応募者が来ない。そして、会社名にカンパニーとか、BBMとか、英語か片仮名が入っていると、余計人材は集まり易い。
社員には、一流大学から応募してくるし、女子事務員にも、タレントと見まがうばかりの美女が、大勢応募してくる。家柄もよく、品のよいお嬢さんが集中する。
センサー貿易は、まさにその典型的な会社であった。応対に出た受付の女性は、美しく上品で、応接室のセットは、革張りの本物だ。テーブルのデザインも、イタリーの巨匠の手によるものらしい。
応対に出てきた秘書課の男も、一流の洋服店で仕立てたことがそのまま分かる、いいものを着ている。それだけに、また応接ぶりもいわゆる慇懃《いんぎん》でありながら、心が入っていない。
「社長は、財界の会合が六時から予定されておりますので、お会いできませんのですが」
応接セットの反対側に坐っているのは、既に警視庁奉職以来三十年はとっくに越している、吉田老刑事である。
一緒に連れてきた六本本署の捜査係の二人が、何となく腰をもじもじさせて落ち着かないのは、このビルの堂々たる威容や設備、そしていかにも一流大学を出て、すんなりと就職したという感じの、エリート気質丸出しの社員の隙のない応対ぶりに、気圧《けお》されているからだ。
地方の高校を出てすぐ巡査を拝命し、こつこつと捜査畑を務めてきて、やっと刑事になったばかりだ。まだ修行が足りない。それに比べると、吉田刑事は、そんな慇懃《いんぎん》無礼な応対にも、てんで動じていない。
すり減った靴、吊るしの背広を買って、もう十五年になるが、袖《そで》がすりきれて薄くなっているのを気にもしていない。三十年以上刑事をやっていて、刑事とはこういうものだという信念がある。
四谷署で捜査課長をやっていたとき、本庁からやってきた、若い岩崎警視の名捜査ぶりを見せつけられ、突然、眼から鱗《うろこ》が落ちる思いがして、すすんで平刑事になって捜一に入り、定年も肩叩きも一切無視して、岩崎の下で忠誠を尽くしている。
いくらエリート社員が表面は丁重に、実は決然としてこの老刑事を社長に会わせずに追い返そうとしても、通じていない。
「そちらから無断欠勤のご通報があって、それで所轄が調べました。そしたら庶務課の女性が自殺していた。それで、私たちが事情をききに来た。ただそれだけのことです。これだけの会社ですから、社員の数も多い。いちいちその社員の自殺や事故に、会社全体がかかわることは不可能だ。庶務課の同僚か、庶務課長への事情調査ぐらいまでなら、いくらでも協力はできるが、社長まで取り調べられるのはご勘弁願いたいというのが……今のあなたのご意見ですな」
これから自分がいおうとしたことを、この冴《さ》えない感じの老刑事に先にいわれて、奇妙な表情をしながら、エリート社員はいった。
「さようでございます。こちらとしては、さっきから、当人の履歴書、給与支払一覧表、家庭の状況一切の書類をお見せし、ずっとご協力を申し上げてきました。これ以上ここで事情をお調べになっても、別に彼女に関しての新しい事実は出ませんよ。それに社長などに会っても、庶務の一女子事務員のことなど覚えているかどうか分かりません。写真を見せれば、廊下ですれ違った顔ぐらい覚えているかもしれませんが、さあー、多分私は知らないんじゃないかと考えるんですが」
その皮肉っぽい言葉を、いかにもというふうにうなずいてきいていた吉田老刑事は、全く落ち着き払っている。
「ここは法廷ではないから、あなたが心とは別の、口から出任《でまか》せをいおうと、それによって偽証罪を構成したりすることはありませんがねー。でも、もし何かのことであんたも共犯として、留置場《ブタバコ》へ入るようなことがあったら、その言葉だけで、拘留が二、三日はのびますよ」
何をこの老人が脅かすのか。こちらには、一流の弁護士がついているのだぞ、という自信を丸出しに、社員は抗弁した。
「共犯って、私たちが何か、犯罪でも犯したかのようにおっしゃるが、単に自殺者が出たというだけで、少し大げさすぎませんか」
そのエリート社員の反撃も、吉田老人には、蛙の面《つら》に小便という奴だ。まるで無視して、ポケットから小さな名刺入れ型の機械を取り出した。
「貿易商社でも、テレックスからファクシミリ、パソコンと、どんどんOA機器を新しく性能のいいものに換えて行く時代でしょうが、我々警察は、そう潤沢《じゆんたく》な予算に恵まれておりません。商社と違って、利潤追求の機関でもありませんが、私の上司の管理官は、個人的にハイテク機器が好きでしてね」
その黒い名刺人れのはじを指で押すと、中で機械が少し空転する音がして、すぐに今しゃべったお互いの会話が再現された。
それまで、録音されていたことなど想像もしていなかったらしく、ぎくりとした表情をした。それでも強いて虚勢を張っているのを、吉田老刑事はとぼけた目で見ながらいう。
「勿論、これ自身は何の価値もない。大体法廷でも、テープが証拠として採用されることは滅多にない。しかもこれは、まだ事件とも何とも決定していないのですからね。しかし、もし任意に出頭していただく事態になったら、ついでに収監状が出て、二、三日泊まっていただく材料にはなる」
思いもかけない言葉だったのに違いない。端正な表情から血の気がひいて、蒼白《そうはく》になった。これまで警察へ呼ばれたことなどなかったろう。まして留置場《ブタバコ》など、一生縁のない物と思っていたはずだ。
「どうして、私が……」
「いや、別に誰を逮捕するとも何ともいっておりませんよ。ただ、あの女性の死は、明らかに他殺です。これはもう立証されています。今の予想では、多分、事前に細い金属で一度ねじって息の根を止めてから、更に自殺に見せかけるように、何者かの手によって、こしらえてあった綱にひっかけられただけです。
だから、関係者は何人か参考人としてお呼びしなくてはならない事態にもなる。そんなとき、一日で帰される人、三日かかっても夜は自宅へ帰って、また翌朝来る通勤の形で、家庭や世間の人にはまるで知られないですむ人、三日ばかりブタ箱へ入ってもらう人と、そのへんの区別をする権限は、刑事という、まあー、あなた方から見れば、取るに足りないような小役人の考え方一つで決まりますもので」
人の好《よ》さそうな、もう老人に近い年の温厚な男が、意外にしぶといのに驚いている社員に、更にいう。
「たとえ、もと最高検の検事総長が、顧問弁護士として会社におられようと、こういう小さな権限に関しては、意外に何の力も及ぼせないものでしてね」
「あなたは私に、一体何をいいたいのですか」
そういったとき、外から電話が入ってきて、その秘書は一旦取ってから、老刑事に渡した。
今はすっかり心乱れて、狼狽《ろうばい》の色もかくせないでいる秘書の手から、受話器を受け取り、
「吉田です。ああ、係長ですか。どうぞ」
と答えた。それからしばらく長い電話に、ただ『はい』『そうします』『しかるべく』『多分OKでしょう』などと、ききようによっては、どうにでも取れる相槌だけを打っていた。
約五分はかかった。
そして最後に、
「それでは、今から三十分後ですね。多分、問題ないでしょう。大体の事情は話しておきましたから。お待ち申しております」
といい、電話に向かって、深々と礼をした。その間に秘書は、強いて冷静さを装っていたが、心の中ではだんだん不安が広がって行くのが、刑事たちには見てとれた。六本木署から来た若手の二人も、ようやくこの会社に馴れてきた感じで、どっかりと落ち着いて坐り直した。
吉田老刑事は、テーブルの中央にある、接待用の煙草に初めて手を出した。
「一本いただきます」
火をつけながら、まるで普通の口調でいう。
「ああ、もう十分ぐらいしたら、アメリカからファクスが、このセンサー貿易に入ってきます。発信者はFBIで、そのトップにUSA・ワシントン政府発信の、特殊コードネームが入っています。貴社のファクス機が受け取るのだから、当然、お読みになるでしょうし、お読みになってもかまいませんが、特殊暗号で書かれておりますので、コピーして秘かにコンピューターにかけたところで、解読には二十時間や三十時間はかかるでしょう。
それに、発信者はUSA・ワシントン政府でも、宛先人は、ここの応接室で待っているはずの、岩崎という人名になっています。そのファクスが入ったら、何もなさらず、そのままこの部屋へ持ってきていただくのが、会社のご名誉を守るためには、もっとも安全な方法と考えますが」
青ざめて、やや声が震えていたが、それでも、一部上場会社の秘書らしい威厳を、無理に保とうとしながらきく。
「そのイワサキという方は」
「私どもの上司です。何でも、貴社の常務の高村さんとは東大の同期だそうで。今、電話でいってましたよ、全面的に協力してくれると約束してくれたので、助かったとね」
「高村さんと……。高村さんは、社長の娘婿です。次の次の社長といわれていて」
「そんなことは、こちらは知りませんね。今、FBIはルーカスという男の前歴を全部調べて、ファクスに送りこんでいるところだそうですよ」
「ルーカス氏を御存知ですか、我が社の大事な取引先ですが」
「私は何も知らんのです。だが、どうも火曜日から水曜日にかけての、そのルーカス氏の夜のお相手をする役目の女が、この会社にはいたらしい」
若い秘書は、俄《にわか》に態度が丁寧になり、オドオドと落ち着きなくあたりを見回している。あまりにも変わり方が激しくて、可哀相なほどだ。
扉があいて、三十二、三の、若いがまた一段と身なりのいい人物が入ってきた。明らかに、重役と思われる。
秘書に向かっていう。
「友田、お客様方に失礼な振る舞いはなかったろうな」
「はい、それは」
「すぐ、コーヒーとケーキを女性秘書に運ばせなさい。受付にはちゃんと出迎えを出して、警察の幹部の方がいらしたら、すぐにこちらに案内すると同時に、社長室に即時、そのことを知らせる」
いろいろなことをいっぺんにいわれて、まごつきながら出て行こうとするのに、また叱る。
「友田、まだ私の話は終わっておらんよ。うろたえるな。これは会社の浮沈にかかわる重大事だ。以上のことは、女性秘書や部下に命じておけばできる。おまえは、ファクス機の所に立っていて、USA・ワシントン政府の文書が入ったら、そのままここへすぐ持ってきなさい」
「はい、畏《かしこ》まりました」
秘書がまるで、弾丸のような勢いで飛び出して行くと、若い高村常務は、三人の刑事に丁寧に挨拶した。
「何か、友田がご無礼なことを申し上げたようで」
「いや、別に。ただ事態が紛糾したら、彼には二、三日は重要参考人として、署の方に泊まっていただかなくてはならなくなるかもしれません。丁度、今は寒い盛りですし、ご承知のように、冷暖房完備というわけには参らない場所ですから、その際は、下に充分着こんでくるようにご注意を、今のうちに重役の方からしておいてください」
「それは分かりました。私の方としては、庶務の一人の女子社員が、自分のマンションで自殺したとだけしか伺ってませんが」
「ルーカス氏がどんな人か、私も知りません。だから、私はこの事件については、まだ殆ど分かっていないのです。ただ、その女性が自殺でなく、他殺だということと、彼女には、三人の男性がいたということだけです。
まあ、今どき二十七、八にもなれば、三人ぐらいの男性がいるのは当然ですが、これまでの調べでは、一人が白人、これが火曜日と水曜日で、土曜日が東南アジア系の男性、日曜日は黒人と、民族性が実に豊かであったようです。他の普通の日にも、この社の人らしい、日本人の若者と、それは外のホテルで交渉があったらしい。誰が彼女を殺したのかは、もう少しすると、銀行の現金引き出し機のビデオが出てくるので、多分、それで自然に分かるでしょうが」
高村重役は、本当にびっくりしたようだ。
「ルーカス氏は、我が社の大事な取引先ですが、他のことは全く初耳です」
[#小見出し]  頸部圧迫による窒息死(その四)
[#小見出し] 呼吸道閉塞によるもの[#「呼吸道閉塞によるもの」はゴシック体]
縊死《いし》、絞死《こうし》、扼死《やくし》のいずれにも属さないが、ごく似た症状を示して死亡する例がある。
A.鼻口部閉塞による窒息死。鼻口部が紙、布団、乳房、衣類等によって閉塞されるため起こる死で、これは自殺は少ない。しかし偶発的(例=赤ん坊に乳を飲ませているときの母親の居眠り)なものか、或いは作為的な殺人なのかの区別が難しい。
B.呼吸道が内部からふさがって起こるもので、小児がコインやあめ玉、玩具などを飲みこんで起こすことが多く、これも偶然か、殺意を持っての、他人が行ったものかの区別がつきにくい。
いずれの場合も、口腔粘膜、呼吸道に、表皮|剥離《はくり》出血の現象が見られるが、頸部《けいぶ》の外部に傷痕がないので、縊死、絞死などと区別できる。
4[#「4」はゴシック体]
午後八時、岩崎と東大で同期だったという高村常務の取りなしで、このセンサー貿易の会議室が提供され、会社側からは社長、専務、それに被害者の女性の上司である庶務課長などが臨席した。
とはいうものの、夕方、何か他に財界の大事な会合があったらしいのを、警察の要請で、こちらに出席を命ぜられた社長や重役陣は、あまり機嫌がよくない。
しかし、相手は警視庁の殺人犯の係の中でも、最も鋭いやり手であるといわれている捜一の岩崎警視正で、直接おきかせしたいことがあると申しこんできたのだから、これはたとえ被害者が、単に庶務の女の子であっても、無視するわけにはいかない。
八時丁度に会議室に集まってくれといわれて、みなきちんと並んでいた。警視庁からこの社に一番先にやってきた老人の、一見おとなしそうな、それでいて実際には煮ても焼いても喰えない吉田刑事から、わざわざ説明があった。
「これは殺人事件ですが、同時に、この会社にとっては存亡の危機に関する大事件でもあります。もし何の規制も事前に会社で行わずに、新聞その他に他殺事件として洩《も》れると、恐らくセンサー貿易本社全体が疑われて、大きなダメージを受けるだけでなく、会社の重要幹部から縄付きが出ますよ。
ですから今日は、会議とは思わず、警視正が同級生の高村さんへの友情から、本来なら全員本庁の取調室へ来ていただくのを、ここで他人《ひと》目につかないよう内密で取り調べて処理をしてくれている。そんな風にお考えください。コーヒー、ケーキのたぐいは勿論、お茶一杯出さないでください」
テーブルの上には、何も置いていない。
岩崎警視正は、暗号ファクスを解読するためと称して、別室を用意してもらって一人で閉じこもり、もう十分間も出てこないから、まだこの場にいない。
不安そうに押し黙っている重役陣の反対側には、本庁の刑事が十人、これは椅子も少ないが他の理由もあって、壁際に背をつけて立っている。
向かいの椅子には、右から、ついこの間まで捜一の一係長だった、今は六本木署の署長の高橋警視と、同署の事件担当の捜査課長が坐っている。
その隣に、基地から無理に連れてこられた黒人の兵士らしいのが二人並んで、これは手錠をかけられて坐っている。
二人とも、顔や体付きはいかにも兵士のようだが、わりときちんとした背広を着て、絹のワイシャツに、それぞれランバンとシャネルのネクタイをつけているのが、黒人兵にしてはかなり金回りのいいことを示している。
次に、本庁の進藤デカ長と二人の女刑事、乃木と峯岸が坐り、その隣に、東南アジアのタイかマレーシアあたりの出身と思われる青年が、これもやはり手錠をかけられて、落ち着きなく坐っている。
その左側で、ピストルの名人、中村刑事が、背広の内側に片手を入れて、いつでも腋の下に吊ったニューナンブが抜けるようにして身構えている。
みな沈黙して、岩崎が別室から出てくるのを待っている。その緊張が、どうにも耐えられなくなった頃合いに、岩崎が入ってきた。部下の武藤と花輪には、テレビの受像機とビデオ・デッキを持たせている。
重役陣に軽く会釈しただけで、相変わらず冷酷な表情のまま、無言で彼らの正面に坐ると、若い刑事たちに指示した。
武藤がコードをつなぎ、花輪が機械を操作して、ビデオを映し出す。テレビの下に、丸い回転台がある。画面は、銀行内部の、自動金銭出納機のあるコーナーを一日中監視しているモニターカメラが写したビデオだと、すぐ分かった。全員に見えるよう、台をゆっくり回す。
四つの銀行のビデオには、一人の日本人の男が必ず映っていた。カードを入れては、一回五十万円(銀行によっては八十万円)の引き出し枠一杯を使って、何回にも分けて全額引き出している。
四つの銀行全部で、御丁寧に窓口では、印鑑証明と印鑑まで出して、委任状を示して定期預金を解約している。すべて同一人だ。
社長の傍らで、これまでも何となく落ち着きなく坐っていた友田という秘書が、突然、机の上にガバッと打ち伏して大声で泣き出した。
びっくりしたのは社長で、不審そうに、
「友田、どうしたんだね」
ときく。岩崎の同級生だった高村常務も、呆然としてこの秘書を見ている。さっきまで、吉田老刑事に慇懃《いんぎん》無礼に応対したあの尊大さは全くなく、すすり泣いている。
「違う、違う。私が殺したのではない。頼まれただけです」
にがい声で、庶務課長が発言を始めた。
「頼んだのは私です。しかし、弁解するわけではありませんが、私は彼女が殺されたことさえも今まで知りませんでした」
岩崎警視正が、初めて口を出した。
「ここにいる誰も、彼女を殺してはいない」
ビデオは消された。普通で三千万円、定期で二千万円、合計五千万円近い金が、四つの銀行から引き出されている。
デパートでも興行街でも、すべて女性客を狙えといわれているように、今は女の方が金を持っている。二十七、八歳にもなれば、自然に金もたまるだろう。でも、五千万円は多すぎる。
社長が庶務課長にきいた。
「馬場君、どういうことなんだね」
「彼女が欠勤する前に、私に通帳の一切を預けました。『社で引き出して、社の金庫に預かっておいてください。変な男に狙われて、現金もマンションに置いておけないし、通帳もかくしておけなくなりましたので』というので、その友田秘書に頼んでやらせたのです」
それから少し赤くなって、告白した。
「私も友田君も、一、二回は酔ったはずみのハプニングで、ホテルでついあやまちのあったことは、ここに正直に申し上げます。誘うと、わりと誰にでも素直についてくる子でした」
「つまり、それで彼女からの頼みは断りきれなかったんだね。何かあったのは、他にもいるのだろうな」
社長がにがにがしげにいった。重役の中には、他にも少し首筋のあたりを赤くした者もいた。やましい者は、かなりあったようだ。
岩崎の友人の高村常務が、やや怒気を含んだ声でいう。
「友田君も馬場課長も、月給二十五万円の女子社員が、五千万円も持っているなんて、少しおかしいとは思わなかったのかね」
「はい、それは思いましたが、故郷にあった山林を母が処分して、娘の私にくれたが、それを母の弟、つまり叔父がよこせというので困ってる、ときかされましたので。金は、まだ社の庶務の金庫にそのまま預かっております」
岩崎は、その社員同士の言い争いを、手で制するようにしていった。
「これは殺人事件だ。お二人とも犯行には関係ない。彼女はある目的を持つ人間によって、殺されたのだ。しかもそれは、もう一人のある人間に、彼女が何かの裏切りで、死刑にされたことをわざわざ教えてやるために、死刑用の綱の結び方をして、そこへぶら下げてみせたのだ。事件の広がりを防ぐ見せしめだ」
会社の人間は、その突然の岩崎の発言に仰天して、声もなく見つめている。岩崎は声を改め、
「貴社とルーカス氏との関係を、簡単にのべてください」
と、まず同級生の高村常務にきく。
「来年度、私どもがアメリカのコネチカット州に土地を買い、そこで新しい工業システムのプロジェクトを作るので、その仲介役として、アメリカから派遣されてきたのです」
「そのプロジェクトの話はすすみましたか」
「いえ、それが当初の予想より、かなりおくれてなかなかうまく行かんのです。そのうち、ルーカス氏とその庶務の女の子が銀座で親しく飲んでいたという情報も入ってきたので、むしろ好都合と思っていました。外人は、女好きですからね」
岩崎は、切り捨てるようにいった。
「彼女を殺したのは、そのルーカス氏です」
みなが、唖然として声もなく、岩崎警視正を見つめている。
「しかしルーカス氏を逮捕することはできません。既に昨夜、最終の軍事便でワシントンに帰り、ペンタゴン(国防総省)とFBIに報告をすませて、このファクスも彼自身が送ってきました。福生《ふつさ》から出ている軍用機の定期便だと、ワシントンまで六時間で着きますから、悠々と報告する時間もあったのです」
社長が唸るようにいった。
「ルーカス氏というのは、何者なのだね。コネチカットの工揚地の地主ではなかったのか」
「その話は、彼も正式に地主から委任状を受けてやってきた代理人ですから、次にやってくる人に引きついで、会社はそのまますすめてください。ただし、ルーカス氏自身は実業家ではありません。ペンタゴンの高級職員です。昔の日本語でいえば、憲兵でしょうか」
重役陣は、青ざめて声も出ない。
「被害者の過去を、あちこちで詳細に調べたところ、タイ、マレーシア、香港などへ、三、四年前に五、六回も続けて旅行しています。そのとき、ここにいるマレー系のワンチャイと恋仲になりました。手紙を交わし、何回も往来しているうち、ワンチャイが一人でやってきて、近くに下宿を借り、表面は東南アジア人らしく、下級労働に従事していました。被害者の恋人は、このワンチャイだけで、後の白人や黒人や日本人は、便宜上や必要上、肉体を任していただけのようです」
それでもまだ、彼女がなぜ殺されたのかは、誰も理由が分からない。
「ワンチャイは、実は、タイ、ラオス、ミャンマーの三角地帯を支配する麻薬王クンサーの一の子分で、東洋の金持ち国日本へ、そこで作られた純粋ヘロインの市場を開拓に来た、大物です」
しょぼくれた見せかけの東南アジア人は、日本語がよく分からないので、まだキョトンとしている。岩崎は黙って彼のそばへより、手錠のかかっている左手の袖をまくった。|どくろ《ヽヽヽ》と妙な字の入れ墨がある。突然、男の顔が凶暴になった。
「最初の香港旅行で、遊び半分にこの男に飲まされたヘロインが病み付きになり、以後、彼のいうままの女になったのです。といって、さすがに日本人にはヘロインはすぐ売れません。ところが、八王子、横須賀、福生などの軍基地には、中毒者《ジヤンキー》がいくらでもいます。六本木のディスコへ行って話をしかければ、いくらでもさばけます」
だんだんみなは、真相を知ったようだ。
「アメリカ軍でも中毒者が増えることは、軍の力の低下につながります。すぐ熟練した特殊諜報将校をFBIを通じて派遣し、供給元をつきとめ、接触させたのです」
最後に、断言するようにいった。
「いつものように、日曜日に黒人がマンションに買いに来たら、売人の女が殺されていた。処刑だと分かるように。これは、アメリカ合衆国の政府の処刑です。日本では、自殺として処理するより他、仕方がないでしょう。甚《はなは》だ気の毒ですが。預かったお金は、故郷に母親がいるということですから、そちらから送ってやってください」
[#改ページ]
[#見出し]  哀しみは美しさの故
[#小見出し]  コカインとは(その一)
現在アメリカの大統領が抱えている最大の悩みは、貿易不均衡でもなく、対ソ軍備のバランスの問題でもない。
マイアミから始まって、ニューヨーク州のカナダ国境まで、まっすぐにのびている東海岸の海岸線に、無数に散在する小漁港や商業用の小港に、漁船やレジャーボート、小貨物船を装って入ってくる船の、船底に隠して持ちこまれるコカインである。
特にその一種クラックには、沿岸漁民の七十%が|やられて《ヽヽヽヽ》いる。下は小学生から、上は七十代の老人まで殆ど侵されて、中毒者《ジヤンキー》になっているという報告があるほどだ。
手を焼いた政府は、あるとき全海軍を動員して、海岸線を封鎖して検問した。だが結果は、たった一艘の漁船が拿捕《だほ》されただけであった。上院議員の中に、麻薬を扱うマフィアへの協力者がいて、内通があったせいだといわれている。
1[#「1」はゴシック体]
警視庁内で、月に一回、第二火曜日に開かれる各部の部長会議は、途中から急に議論が紛糾して、部長と部長とが、お互いに鋭く睨み合った。
正確にいえば、片方は保安部長、片方は刑事部長の補助役としてついてきている、捜査課の一管理官にすぎない。両方とも階級は同じ警視正であるから、それでも抗弁は許されたのだが、もし管理官がただの警視だったら、この息詰まるような対立はなかったろう。
会議室は、十一階の総監室のすぐ右側にある円形のテーブルを囲む部屋で、その窓からは皇居がすっかり見え、吹上御所の森の中にある、天皇のお住居《すまい》の屋根まで見られるので、一般人は立ち入り禁止、警視庁に何十年と勤めた警官でも、たまたま部長になって、この厳粛な会議にでも出席するのでなければ、ここへは入れない。昔なら、絶対に許されないこの尊い景色を、目にすることはできないのだ。
この部長会議は恒例により、総監も列席することになっている。窓ガラスを背にした総監は、老練な部長と若い管理官の対立を、興味深げに見ている。お互いに熱心だからだ。
特に、若い方に対しては、なかなかやるな……と、むしろ感心したように見ている。何でも東大を一番で出て、国家公務員上級職試験も三番の好成績だったのに、わざわざ一地方官庁である警視庁へ入ってきた変わり者らしい。
「そりゃー部長、筋が違います」
若い岩崎警視正は、相変わらず冷酷な表情でいった。
「……たしかに麻薬の捜査は、常に殺人が伴う危険なものです。しかしだからといって、捜査一課がいつのガサ入れにも協力するようにといわれても、お引き受けしかねます」
保安部長は怒りに顔を真っ赤にして答える。
「うちの麻薬係の相手はみな、札付きの殺人犯ばかりなのだ」
ふだんは、さまざまの打ち合わせが和やかなうちにすみ、終わるとコーヒーとケーキが、十七階の喫茶室から運ばれる。総監以下、雑談の中に、今後の一層の協力を約して散会する。
午後一時に始まって、三時にはコーヒーを飲み終わって帰るというのが、定まったパターンであったが、今日だけは、本来はもうコーヒーの出る時間になっても会議は終わらない。
十七階の喫茶室の名物おばさんの伊奈さんは、電話が来たらすぐ熱いのを入れて持って行けるよう、支度はすべて整えて、上でいらいらと待っていることだろう。岩崎警視正はいう。
「私は、部と部とが、お互いのセクト主義を捨てて協力するのは、大切なことだと思っています。新しい警察は、それでなければ、このように犯罪が国際化し、複雑になる時代にとても対応できません」
じゃー、なぜ抗弁するのだね、と保安部長は岩崎を詰問するような目で睨みつける。岩崎は、平然として抗弁を続ける。
「……であるからこそ、本来の任務には余計忠実でないと、思わぬ取りこぼしをしてしまうことがあるのです。
我々、刑事部捜査一課は、殺人が専門です。殺人が行われた。死体が出た。犯人が分からない。所轄が捜査本部を作る。そこへ応援と指導に行く。あくまでこれが本筋で、たとえ麻薬犯の中に凶悪な殺人常習者がいて、今度の手入れには確実に何人か被害者が出ると分かっていても、あらかじめその殺人予定者の逮捕に同行するような協力はできません。たとえ殺人鬼としてブラックリストにのっていても、それを逮捕するのは、保安の麻薬課独自か、もし応援が要るなら、防犯部の方へお願いします。それが、警察の業務を円滑にすすめる最良の方法です。
勿論、死体が先に出て、それが、ヤクがからんでいるような、前回の六本木のような事件だったら、我々も殺人事件ですから、全力を挙げて保安部に協力し、麻薬マフィアの本拠にでも何にでも、逮捕に飛びこんで行きます」
総監が間をとりなすようにいった。
「岩崎管理官のいう理由の筋は分かった。まず死体ありき。この原則を守ってくれということだろう。保安も防犯も、公安も、みなこの原則を守ってくれ。あまり会議が長引くと、十七階の伊奈のおばちゃんが心配する。これで終わりにして、コーヒーをもらってくれ」
はじの席にいた秘書がすぐ電話をかけ、ほどなくコーヒーとケーキが運ばれてきた。
再び和やかな雰囲気が戻ってきた。話が解ければ、みな根にもたない。
ふと会議室の電話が鳴った。普通、このような大事な会議のときは、電話は途中で処理されて、ここまでは上がってこないことになっている。よほど重大な事件が発生したのだ。総監自らが手もとの受話器を取ったが、すぐに岩崎に回した。
「噂をすれば影とやらだ。死体が出たよ。それも、日本中の誰もが知ってる美少女だよ。アイドルタレントだそうだ」
岩崎は緊張して電話を取った。
黒い車は、覆面パトカーだ。
岩崎管理官兼一係長と、村松二係長、それに進藤デカ長、結婚しても旧姓のままの乃木刑事とが乗りこんでいる。他に水上署の刑事一人。
事件が、どうも芸能界にも及びそうだし、その方面にはうといのが多いので、一番年若い峯岸婦警は、吉田老刑事とともに、デスク待機を命ぜられた。
吉田老刑事は、煮ても焼いても喰えない芸能プロ対策のためと、死体が、春とはいえ、まだ薄ら寒い季節なのに、寒風吹きさらす東京湾の真ん中の海上にあるというので、老体に風邪でもひかせては大変ということで、在庁勤務になったのである。
その他の、武藤、花輪などのいつもの猛者《モサ》二十人中、十六人まで動員され、これは黒い車の後ろにすぐ続いてくる、本庁の輸送用バスに乗っている。
普通、資金が潤沢《じゆんたく》な岩崎係は、公用のバスを使わず、タクシーを勝手に我勝ちに呼び止めて、現場に最も早く駆けつけるのだが、今日は現場は海の上で、どかどかと刑事がバスで乗りつけても目立つ所ではない。それに湾上に出る船の発着所は、タクシーの入れない場所で、覆面パトカーに乗った迎えの水上署の刑事でなければ分からない場所であった。
車は桜田門の庁舎から、銀座を抜けて、まっすぐ築地へ向かい、それから、今はべイ・サイドストリートといって、東京で最もナウい街になった、湾岸の道を走り出した。かつては工場か原っぱしかなかった淋しい一画が、最も前衛的な美術展示場、奇怪な装飾のディスコ・クラブ、実験用演劇舞踊劇場の建ち並ぶ街路になった。
進藤デカ長は以前、L・S・Dの常習者の取り締まりで、この一画にあるディスコに入ったことがあるから、別に珍しがりもせずに、平然としているが、これがもし初めてであったら、
「へえー、東京にもこんな所があったのですか」
と、きっと何度も洩《も》らしたに違いない。
まるで異国だ。後ろのバスの刑事さんたちの中には、この異様な街並みが初めての人が多く、窓ガラスに首をくっつけては、しきりに感嘆の声を上げている。
岩崎は、相変わらず冷酷な表情でいった。
「大森エリザというのは、それほど有名なのか」
すぐ乃木が答えた。
「ええ。この半年で急にアイドル歌手として売り出してきた、可愛い子です。まだ十六か七のはずです」
「例の、褌《ふんどし》写真で有名になった子かね」
「いえ、あの子とは違います。もう噂になったときはすでに古いんです。もっと新しい子で、少し丸顔の可愛い、お人形のような子で、今、レコードもブロマイドも売れ行き一番です」
岩崎は、ふいと迎えに来た刑事にいった。
「いずれにしても、水上署が先に死体を発見して幸運であった。海上保安庁の巡視船に先に見つけられたら、えらく厄介なことになるところだった」
車は、倉庫を改造した劇場の間の細い道へ入って行く。
そこには、埋め立て地へ深く切りこんだ、渡船用の運河の船着き場があるはずだった。
水上署から迎えに来た刑事が、岩崎の問いかけに、同感するように答えた。
「我々も、みな幸運だと思っています。これがもう少し海の真ん中に浮いていたのだったら、当然、海保の巡視艇に発見されていて、事件は海保の扱いになっていたでしょうね」
「うん。これが船員とか漁師とか、この間の、潜水艦にぶつかった釣り船の乗客の死体で、海に浮かんでいたのなら、海保に捜査を任せるのも仕方がないがね。たしかに東京湾の水の中で起こった事件は、東京、横浜、横須賀の三管区の海上保安官に先に見つけられたら、向こうに捜査権がある。その事件の捜査が陸上の何かに関係するときは、彼らはそのまま陸上に上がって、我々の管轄内で捜査をやり始めることもできる」
進藤デカ長がそこで黙っていられないで、横から口を出した。
「陸上の捜査は我々に任せればいいのに、海で起こったことは、あくまで自分たちが解決すると、素人に近い船員が上がってきて、事件をひっかき回すから、陸《おか》に逃げられた犯人を大概|迷宮《おみや》にしてしまう」
満更そうでもないのだろうが、陸上で毎日殺人犯人を追っているベテラン刑事からいわせれば、連日船員として海を走り回っていた海保の連中が、捜査権があるからといって、陸へ上がって、あちこち家宅捜索したり、犯人を追いかけたりするのは、何ともわりきれない気持ちであったのだろう。
車は細い運河のふちにある船着き場へ着いた。岩崎は、バスや車から下りたみなにいった。
「バスには、機動隊から借りてきた防寒ジャンパーが積んである。みな着用しろ。海の上は、風が吹きさらしだ。しかも、空気は水で冷えて冷たい。男たちはみなその倉庫の横で小便を出しておけ。乃木だけは、そこに仮設のプレハブのトイレが一つあるから、その中でしっかり出しておけ」
また警視正の悪いくせが出た。すぐ用便のことをいう。わざわざいわなくてもいいのにと、少し恨みながらも、乃木は一つだけぽつんと建っているプレハブの仮設トイレに入った。
全員が、裏毛のついた防寒ジャンパーをつける。岩崎もつける。乃木も男用のを着た。袖口が五センチも余ったが、裾が制服のスカートをおおうほどの長さだったので、船に乗ってから、スカートがはためかないので助かった。
陸ではポカポカした陽射しの早春陽気だったが、いざ海に乗り出すと、真っ向から当たってくる風は冷たい。もし制服のままだったら、下着も春用の薄いのしか着こんでこなかったから、乃木は寒さに震え上がって、どうにもならなくなるところだった。全員が体を寄せ合うようにした。
船の先頭に立って、あたりを見ていた水上署の係員がいった。
「この湾の上を、二、三年で、川崎から木更津まで横断する橋がかかることになっています」
水上署の署員は、右の方を指さして、
「川崎の方が大師の横の浮島ジャンクションから、千葉の方は木更津側の中島高須という地点まで橋がかかります」
みなは、この広い東京湾の真ん中に、瀬戸大橋のような橋が一つ大きくかかるのかと、初めて聞いた壮大な計画にびっくりしていた。
「途中の支柱はなしでの、一本橋ですか」
と、若い刑事の一人が質問した。水上署の小さい船は、どうも少し定員をオーバーしているらしく、船脚はおそかったが、その代わり、風や波のわりには揺れが少なかった。
「いや、まだそこまでの工法は発達してません。途中二カ所にかなり広い人工島を造り、そこに支柱を立てて、支えます。今、その人工島が大体でき上がったところなのですが、どうも密輸の品物の受け渡しや、外国スパイの通信文交換、密航のベトナム船の食糧補給などに悪用されるので、水上署としては、最重要見回り地域に指定していたのです。
そして今朝の六時に、そこへ見回り船が着いたとき、岸辺に一つの死体が打ち上げられているのを発見したのです。もう少し海へ流されていたら、湾内を二十四時間警戒巡視で走り回っている、海上保安庁の巡視艇が見つけていたでしょうが、死体が島内に一メートルばかり打ち上げられていたので、水上署の発見するところとなりました。こうしてみると、ここから二つの人工島が見えるでしょう。手前に見えるのが、川崎人工島の方です」
船が近づくと、既に水上署の刑事と、一緒に来た鑑識係員が調査を始めていた。
平らな所へ移し直された死体は、まだ若い女性の死体であった。背も百七十センチ近くはある。のびのびした足の長い体だ。腿《もも》の所はそのままむき出しだが、腰から胸は、黒いゴムでぴったり包まれている。潜水用のウエットスーツをつけているのだが、体に合わせて作らせた特注物らしく、腰の丸味も胸の大きさも、豊かな裸身をそのままに現していた。
今まで顔につけていたらしい水中眼鏡と、呼吸用のシュノーケルは、外されて顔の横に置いてあった。
まだ髪はぺったりと、水に濡れて額にへばりついていたが、それでも彼女の顔は、瞳《ひとみ》が大きく、全体がくっきりしているので、誰かよく分かった。
名前を知らない者は、ある薬のコマーシャルに、少し年輩の有名美人女優の娘役として一緒に出ているのを思い出したし、名前を知ってる者は、彼女が主演の純情連続テレビ・ドラマ、『青山コンテンポラリーの娘』という青春ドラマを思い出していた。大森エリザ嬢だ。
島には工事をする人々もいたが、既に刑事や制服警官によって、遠くへ追いやられている。それでも船から下ろした白いテントで死体の周りを囲むと、主だった幹部クラスの刑事と、女性の乃木とが中に入った。
「乃木、ウエットスーツを脱がせなさい」
乃木は女性刑事としての役目で、胸のジッパーを下ろし、肩から、濡れた肌に密着している黒いゴム地のスーツを脱がした。意外に大きく形のよい胸が、双《ふた》つ飛び出した。
[#小見出し]  コカインとは(その二)
コカインは、化学的にいうとメチル・ベンゾイル・エクゴニンであり、白色の粉末をしている。注射や吸入によって人間の体内にはいると、初めはその人間を陽気で幸福な気持ちにさせる。しかし続けて使用すると、やがて幻覚や抑うつ症、偏執病を起こし、常用者は禁断症状を起こす。
それが苦しいため、購入費用を稼ごうとして、男は強・窃盗や殺人を平気で犯すようになり、中毒者《ジヤンキー》は、その凶行の最中も罪の意識がまるで感じられず、平然として冷酷極まる殺人をする性格になる。
どんな貞淑な婦人でも、一度禁断症状に襲われると、売春、万引、人前での淫行も厭《いと》わなくなり、ただヤクをほしがるので、昔からマフィアが、美貌の売春婦を手もとに引き止めて稼がせるために、盛んに利用した。
2[#「2」はゴシック体]
捜一の刑事にとっては、死体は毎日の仕事の相手だ。若いのから老人まで、すべての死体を見馴れていて、どんなに残酷な殺され方をしていたり、腐乱したりしていても、それで足がすくんだり、胸がむかつくようなことはない。
ひと昔前、長兵衛親分というあだ名のあった刑事などは、傷口や露出した内臓を手袋で触ると、後ろからその刑事の腰を蹴《け》飛ばして、
死体というものは、掌で触ってみるもんだ。もっと鼻をくっつけて、傷があったら舌で舐《な》めてみろ。内臓のくさり具合など、舌で舐めてみなくては分かりゃせんぞ」
と、どなったものだ。
今は警視庁捜一も、ぐっと紳士的になっていて、着衣の死体も白い手袋をはめて触るし、血|塗《まみ》れの腹腔内を調べるときは、ゴムの手袋をする。
大森エリザのぴっちりした肢体を、辛うじておおっているウエットスーツを脱がせている乃木を、周りで注目しながらも、このときばかりは、若い刑事たちはみな職業意識を忘れて、胸をときめかせてしまった。
刑事だって男だ。まして若い。普通だったら、今、人気絶頂の美少女タレントの、ショーツもつけていないヌードを見る機会など、あるはずはない。といっても、今はもう物いわぬ死体だが……。
乃木は同性として、冷静に作業をすすめて行く。他の若い男たちの前に同性の肉体がさらされていくのは、少し可哀相な気がしないでもなかったが、これは業務であり、殺人事件であるから仕方ない。
双《ふた》つの乳房が充分に飛び出し、肩から短い袖を外すようにして上半身を脱がせば、このスーツはシングルの水着と同じように、腿《もも》の部分がないから、そのまま全部脱げてしまう。
若い刑事たちの中には、このとき、昔の長兵衛親分が死体は素手で触り、傷口は舐めてみろといったという伝説を思い出し、この女の子なら、わざわざ手袋を脱ぎたいくらいだと思ったのもいた。
下腹部の茂みなど、あるかないかの薄さで、この子が額面通りの十六歳の処女であることを示している。岩崎は、乃木に非情な口調で命じた。
「ひっくり返して俯せにしろ」
今は捜査中だから、誰も口では残念とはいわなかったが、心の中では、折角の美しい裸身が俯せにされてしまうのが、少し勿体ないと思った刑事さんもいたに違いない。
しかし、その全裸の死体が乃木の手で俯せにされて、まっすぐのびた背中と、凹《へこ》んだ腰と、固めだが、豊かな盛り上がりの双《ふた》つの尻の肉を見た一瞬、誰もがその裸身の美しさに感情を動かされる前に、気がついたことがあった。
「あっ!」
「やっぱり殺《や》られたんだ」
「どこでだ」
と、口々に声を上げて、ある一点を凝視した。
最初から事故ではないと思われていた。アクアラングをつけていれば、ボンベの中の空気が無くなるとか、パイプが詰まったり、切れたりすることがあるし、鮫《さめ》に襲われて(東京湾にもかなりいる)逆上し、浮き上がる泡より早く水面上に逃れようとして、肺の細胞を破裂させてしまうこともある。
死体の損傷がなく、きれいであった場合は、殺人より事故死の方が多い。しかしボンベを背負わず、自分の息を止めて潜る場合は、水中で何かに足をはさまれでもしない限り、事故も殆ど考えられない。
背中の二つの貝がら骨の、向かって左側の内側に、一センチ大の赤い斑点があり、その中心に鋭く光った金属が刺さっている。
ウエットスーツといっても、ボンベを背負っての深海用でなく、むしろ海辺でのモデル撮影や、水中にゆらめく健康な女体美を撮影するために作られたファッション用であるから、腿《もも》や足のズボンに当たる部分がなく、背中の方も大きくえぐられていて、腰の近くまで肌がむき出しになっている。これが却って傷の発見をおくらせた。
出血はスーツ内に回らず、海水が洗い流し、傷口の周辺に見られるだけだからだ。
岩崎は、全裸の体の背中へかがみこみ、針の太さや、刺された角度を調べてから、立ち会っていた水上署の刑事にいった。
「第一発見者は」
「ここの工事現場で雇われている労働者です。ただしこれは公然の秘密ですが、今ではこの仕事の労働者はほとんど近隣諸国の外人です。日本語がよく分からない。それで、工事監督のたった一人の日本人に知らせた。その監督が、これまで仕事上のことで私と交渉があったので、海保より先に、私の署に早速知らせてきたわけです」
「すぐ監督と、その発見者を連れてきなさい」
そう命じると同時に、鞄《かばん》を肩からかけた花輪に、
「花輪は電話を出しなさい」
といった。警視庁捜一に、備品として割り当てられている携帯電話は、三年前の古い型式のもので、ズックの鞄に入って四キロぐらいある。しかし、ともかくどんな場所からもかけられる。
それを出して、捜一を呼び出す。峯岸婦警に、
「お稽古か。すぐ大森エリザの所属事務所に行き、彼女の経歴、交友関係、両親の職業など一切を洗ってこい。分かりしだい、こちらにすぐ連絡をしろ」
タレントのことに詳しいので、峯岸はわざと本庁の留守番役に残してあった。
死体は俯せであるが、全裸のままほうり出されている。遠くの工事関係者には見えないよう、水上暑が用意した白いテントで囲んでいるが、若い刑事の全員の目には、さらされている。
乃木は、自分がウエットスーツを脱がせた当人でもあるので、たとえ背中からでも、そうたやすくは、この美少女スターの全裸の肢体をみなにじろじろ見せたくなかった。できればおおいかぶさって、隠してやりたかった。
せめてもの救いは、乳房や性器やその周辺が、何もかもさらけ出される仰向けの姿勢でないことと、自分の新しい夫の、六本木署長の高橋警視がここにいないことだ。
もしいたとして、じろじろとこの少女のお尻の形など見ていたら、たとえ業務上の必要であろうと、今晩帰ったら、鍵をかけて寝室どころか、室内には入れず、マンションの廊下で、毛布一枚だけくれてやって、ごろ寝させてやる。朝飯は絶対食べさせてやるもんか……などと考えていると、急に厳しい声で岩崎が命じた。
「乃木、そこにあるシートをすぐ死体にかけてやれ。工事の関係者が来る。このままでは女の子が可哀相だ」
やはり、何でも警視正には分かっている。はっと怒りの幻想からさめて、シートをかける。間一髪で間に合う。
殆ど入れ違いに、日本人の工事監督と、明らかに東南アジア系らしい、やせて色の黒い、鼻が平たくて孔が開いている男が入ってきた。
男はガタガタ震えている。そこに突っ立って、祈るように、一応両掌を合わせながら、何かしゃべり出した。
勿論、ここにいる者誰一人にも分からない言葉だ。初めは一分ばかりじっと彼のいうことをきいていた岩崎は、すぐそれがどこの国の言葉か分かったらしい。いきなり男の言葉を押さえつけ、叱りつけるようにしゃべり出した。
男も、自分の国の言葉を流暢《りゆうちよう》に話す人間が、日本にいるとは思ってもいなかったらしい。しばらくは、信用できないというような顔で岩崎を見ていたが、やがてがくっと膝をつき、体中を震わせながら訴え出した。
岩崎は、みなにこの男のしゃべっていることを、少しずつ必要に応じて伝えた。
「女の死体は、仰向けで漂流する。だから、この男が最初に見たときは、ここで仰向けで横たわっていたと主張することは正しい。しかし、嘘も交じっている。
溺死《できし》の仮死者だと思って、人工呼吸のため唇に息を吹きこんだり、胸を何度も押したといってるが、それは嘘だ。死んだと分かっていても、これだけの美しい少女だ。そして、祖国出発以来、ずっと女なしで暮らしてきている。キスの他に、乳房や太|腿《もも》は、堪能するまで触りまくったはずだ」
また何かきびしい声でいうと、男はそこへ平伏し、岩に額をぶつけて、破れて血が出るほどにこすりつけながら、訴え出した。
「まあー、そんなことはどうでもいい。この事件には、もっと大きい秘密が隠されている。監督さん、こいつのロッカーをこじあけて、中の物を全部ここへ持ってきてください」
若い刑事が二人ばかり、日本人監督の後について行く。更にその背中へいった。
「ロッカーだけでなく、その近辺のテーブルや床下、天井などに、テープで張りつけられている可能性もあるな。多分、缶か瓶かだ。そうだ、もう五人ばかり行って、ロッカーの中にボロ服や洗面道具しかなかったら、工事事務所をひっくり返すぐらいのつもりで探してこい」
すぐ、若い気合のこもった捜一の鬼刑事が、監督の後を追いかけて行った。岩崎は、残った刑事たちに話す。
「普通、第一発見者は犯人の可能性があるというのが、我々の間の常識であるが、こいつの場合はそうじゃない。少女に少しいたずらした。もしかして、そばで空中発射ぐらいしたかも知れないが、ウエットスーツの腿《もも》は固くしめつけられてあるから、直接汚してはいないだろう。死体への強制|猥《わい》せつという程度だ。犯人ではない。
この殺しの真相は、もっと複雑だ。こいつら外国から来た素寒貧《すかんぴん》ができる犯行《ヤマ》じゃない。もう少し金がかかっている。とんでもない大物が釣れるかもしれない。ただし、証拠次第だ。誰か足の蹴《け》りに自信があるのがいるか」
すると、刑事の一人で、肩幅のがっしりしたのがすすみ出ていった。
「私は学生時代、アメフトをやっておりましたが」
アメリカンフットボールなら、足の力はあるだろう。
「じゃあ、もしかすると、実験してもらうから、靴だけ脱いで、靴下で待っていてくれ。片足だけでいい」
その刑事が靴を脱ぐ。携帯電話が入ってきた。
「岩崎管理官をお願いします」
峯岸稽古婦警の声だ。
「ああ、お稽古か。何だ、息せききって。誰かもう捕まえたのか」
「いえ、大変な事件が起きたのです。今、アメリカのロスの空港で、日本の女優が一人、逮捕されました。現地時間で午後十一時です。今より一時間前ですが、日付は昨日になるそうです」
岩崎は冷酷に答えた。
「日付のことなど、しゃべらんでも分かっている。こちらがお稽古に調べさせたのは、そんなくだらんことではなかったはずだ」
「いえ、管理官殿、これが重大な関係があるのです。捕まったのは、志麻みゆきです」
「それがどうしたのか」
何でも知っているように見えて、岩崎にも少し弱いところがある。芸能界方面のことには、さっぱりうとい。乃木が見かねて口を出した。
「いつもコマーシャルに、この被害者の母親役で一緒に出ている女優ですよ。この娘は、志麻の推薦で芸能界に出てきたようなものです。お稽古にきいてあげてください」
「その志麻がどうかしたのかね」
「入国手続きで並んで待っていると、いきなり入国管理官がやってきて、志麻さんだけ選んで、別室でパンツを脱がせて中を調べたそうです。内ポケットが縫いつけられていて、中にコカインの一包《パケ》があったそうです」
話の内容は、みなにも聞こえる。みなもびっくりしていた。
お淑《しと》やかな家庭婦人の役をやらせたら、これ以上、ぴったりの女優さんはいない。私生活でも浮いた噂は一つもない。つい五年前まで、タレントだった男と結婚していたが、離婚してからは一人でおとなしく暮らしていて、男の噂もない。
奥様役が似合うので、家庭電化製品、洗剤などのコマーシャルにはもってこいの女優で、しょっ中お茶の間でにこやかな微笑みが見られる。このごろは、今、ここで死体となっている大森エリザと、母と娘になって幸福な家庭を演ずるCMフィルムが大当たりだ。一日に何回も、お茶の間に映る。
刑事たちは、意外の表情が隠せない。
岩崎は、電話にどなる。
「おとなしく入国待ちの列にいた女を、いきなり一人だけ任意に引き出して、別室で身体検査とはおかしいな。誰かタレコんだのだな。他に、何か分かったか」
お稽古が息せききっていう。
「事務所では、彼女が隠れてコカインの中の一種のクラックを、部屋で、一人で夜中そっとやっているということが、これまで噂になったことはあるそうです。クラックを吸うのでなければ必要ない、アルコールランプがあったし、部屋に甘ったるい匂いがしみこんでいたといいます」
「よし分かった。君はこれからアクアラングを貸し出す店を探して、自分用に一つ借りてこい。たしか、砲丸投げや合気道の他に、潜水もやったことがあるといっていたね。水上署に連絡すれば、すぐ運んでくれる。ただ、君の太い肢《あし》が入るウエットスーツがあるといいが」
とたんにお稽古は怒って、
「私の肢は、そんなに太くありません」
といって、ガチャンと電話を切ってしまった。いつも太いのを気にして、スカートを少し長目にして、なるべく膝から上が見えないように、しょっ中気にしているくせに、女心というのは微妙なものだ。正面からいわれると、頭にくるらしい。
やがて、工事現場へ行った刑事たちが戻ってきた。一人の手に、フィルムの空き缶をほんの少し大きくしたような缶がある。それを見て、東南アジアからの出稼ぎ労働者は、何か首を振って騒ぎ出した。多分『知らない。そんなもんは見たこともない』といっているらしいのが、身ぶりで分かる。
岩崎が、靴下で待機している刑事にいった。
「ここには理論上は誰もいない。明日はアメフトの関東リーグの決勝がある。君は、どうしてもキックの練習をしたい。肋骨《ろつこつ》が二、三本折れても、見た人がいないのだから、転んで石に蹴《け》つまずいたのではないか、ですむ。思いきりやってくれ」
刑事は片足を後ろへ下げると、まだ何やら分からない東南アジア語で弁解している男の胸を、力一杯蹴った。
「ぐえーっ」
と悲鳴を上げて、後ろへのけぞる。口から血が少し出た。その鼻先へ、岩崎は缶をあけてつき出した。白い粉を指先につけて、匂いをかがせて何やらどなった。
[#小見出し]  コカインとは(その三)
コロンビアやパナマは、アメリカにとっては一応、他国であり、主権は何もないが、コロンビアの麻薬ボスを、わざわざフロリダヘ連行して、アメリカの刑務所へぶちこむ。パナマに至っては、大統領選挙に干渉し、アメリカが推す候補者を、選挙中迫害した参謀総長を追放して、逮捕連行までしてしまった。
これは世界でも、民主国アメリカにあるまじき不可思議なこととされているが、アメリカに住む人間には、ごく自然に納得できる措置であった。
というのは、中米という小国のつらなる地域にあるこの両国は、まさに国をあげてコカインを作り、それを小船に乗せ、海を越えてアメリカへ持ちこむ元凶だからである。今にして、この両国の内部から麻薬産業を追放しておかないと、アメリカ自身が亡びる危険さえあったからだ。
3[#「3」はゴシック体]
その東南アジア人は、仰向けにひっくり返って、物もいえないでいる。まさか、紳士国日本の警察が、こんなに荒い取り調べ方をするとは、考えてもいなかったらしい。そのショックで、物もいえなかったようだ。
その東南アジア人らしい人物は、口から少し血を噴き、体中を震わせていたが、鼻先につきつけられたフィルム缶より少し大き目の缶を見て、唇を真っ赤に血でにじませながら、必死に何か語りかける。もう、嘘や作り話をいう気力は残っていないようだ。
しばらく、岩崎はその男が息も絶え絶えの中でしゃべる言葉を、鋭い調子で反問しながらきいていた。
他の刑事たちは、ふだんは寡黙で、被疑者に対して直接手荒なことなどしたことのない、この超インテリのエリート管理官が、いきなりあまりにも荒々しいことを部下に命じたので、みな一瞬、粛然となり、同時に呆れてもいた。乃木など、突然変わった岩崎の態度に、むしろ怒りさえ覚えて、むーっとした表情をしている。
岩崎はみなにいった。
「連中の心の中には、ある安心感がある。日本の役人や警察は、決して殴ったり、蹴《け》ったりしないと思っているのだ。だから、痛い思いを絶対しないですむから、ごま化せるだけごま化した方が得《とく》だ。まず、この信念からうち砕いておかなければ、自白は得られない。
これは相当に大きな事件だ。場合によっては、日本人が何千人も何万人も廃人にされるかも知れない。……こいつの胸の肋骨など、二週間も入院すれば、自然にくっついて治ってしまう。気にすることはない。こいつの自供の方が大事だ。
缶は、ここへ死体で打ち上げられたときに、この女がしっかり掌の中に握っていたそうだ」
「中身は何なのですか」
「コカインだよ。その一種のクラックだ。どうやら、この男も何かは知ってるらしい。もう一回蹴るまねだけしろ。まねだけでいい」
若い刑事が、片足を後ろへ引いた。
仰向けになり、口から血を吐いて、ぜいぜい音をたてていたその東南アジア人の労働者は、若い刑事の足がもう一度思いきり後ろへ下げられたのを見ると、立ち上がる気力もないのに、やっと半身を起こして、両掌を合わせて拝みながら、何やら必死に語り出した。
じっと岩崎はきいている。
「死んだ女の掌から奪い取ったのは悪かった。これがとても高く売れるものらしいということも知っている……といっている。とうとうすべてを隠しだてなく白状する気になったようだ。
この女を初めて見たわけではないそうだ。これまで月に一回か二回、女二人、男一人の三人連れでここへ来ている。男が簡易テントを張り、その中で、女二人がウエットスーツに着替えて潜るそうだ。いつも、人工島の作業員が仕事を終えて、島の飯場で風呂へ入り、寝てしまったり、安い酒を飲みながらテレビを見たりしている時間なので、この島のはじに、モーターボートでそっとやってくる三人のことを知っているのは、他にはいないそうだ」
一緒に来た日本人の監督がいった。
「私もそんなこと何も知りませんでしたよ。こんな美人が来ると分かっていたら、隠れて見ていたのに、この野郎、何も教えもしないで。後で傷が治って退院してきたら二、三発、ひっぱたいてやらなくては、気がすまない」
岩崎がいう。
「女は二人とも綺麗だったという。ときどきテレビで、二人が母と娘の役になることも知っている」
「じゃあ、大森エリザに、志麻みゆきだわ」
そう乃木はいった。岩崎がみなにきかせる。
「女二人は海に潜ると、十分ぐらいで、小さな缶を三つか四つ取り出してくるそうだ。
地面に身を伏せてじっと海面をすかすようにして覗くと、二人が、一旦全裸になってからウエットスーツに着替える姿が、天幕の隙間からチラリと見られることもある。その楽しみをみなに知られたくないので、誰にも教えなかったといっている。
そして昨晩は、この女は珍しく一人でやってきて、岩かげでさっさと服を脱いで、ウエットスーツに着替え、一人で潜って行ったそうだ。残された少女の衣服は、この男が、その先の岩かげにしまって、いつか故郷へ帰るとき、お土産に持って行くつもりだったそうだ」
刑事の二、三人が、指さされた方に駆け出して行く。すぐに、岩の間に押しこんであった、派手なドレスやハンドバッグ、下着類などを持ってきた。
岩崎は、花輪刑事が担いでいる携帯電話を取ると、すぐに捜一のデスクに回した。
「吉田さんですか。大急ぎで、大森エリザの住居と志麻みゆきの住居、二人の所属事務所の捜索令状を請求して、三係の刑事諸君と水上署の残りの刑事さんとを借りて、家宅捜索を一斉にやってくれ。ウエットスーツ、水中銃、モーターボートの免許を重点的に探してください」
電話を受けたのは、ベテランの吉田老人だ。四谷署では、捜査課長までやった警部である。家宅捜索令状の請求などは、もうお得意中のお得意だ。
「畏《かしこ》まりました。すぐにかかります」
現在デスクには、二人か三人しか残っていない。しかし吉田老の顔なら、同じ捜一や水上署から、猛者《モサ》刑事を動員して、何カ所であろうと、ただちに同時捜索を始めることは間違いなかった。
水上署の一人が、さすがにこの東京湾を仕事場にしている刑事らしく、捜一の刑事より早く、ボートを見つけていった。
「うちのボートがこちらにやってきます」
それから、備品として持たされているらしい双眼鏡で見ていった。
「ああ、先頭に婦警さんが乗っていて、こちらに向かって手を振ってますよ」
岩崎は、その方向をチラと見ていった。
「まだここへ着くまでは、十分ぐらいあるな。その前に、たしかめておくことがある」
もう一度、携帯電話を花輪から受け取り、ダイヤルを回した。
今度は最初から英語だ。ロスの出入国管理事務所を直接呼び出したのだ。
周りにいる刑事たちには、一体彼が何を話しているかは、全く分からない。
岩崎はまず、自分の身分と、現在日本に起こっている事件を簡単に述べてから、直接、責任者を呼び出してもらってきいた。
『毎日、何百人も日本人が入ってくる。その中で、一人の女だけを選んで、別室で身体検査をしたら、下着の内側からドラッグ(麻薬全体を指す言葉)が出てきた。これは通常、事前に密告《タレコミ》があったとしか考えられないが、それについて教えてもらいたい。勿論、そちらの捜査の秘密に関することは、答えてくれなくても結構だが』
『OK、OK』
いかにも陽気な、アメリカ人らしい答えが返ってきた。
『密告はたしかにあったよ』
『もう一つ、女か男か』
『女だね。飛行機が東京を出たすぐ後だから、こちらへ到着する十二時間前には、もう分かっていたよ。若い可愛い少女の声だよ。もしテープがほしかったら、コピーして送るがね』
『サンキュウ。そこまではいらない。すべてが読めてきた。捕まえた女の身柄は、そちらの法律で処理してくれ。処分が終わって帰ってきてから、こちらでまた改めて、日本の法律で調べ直す。つい先日も同じヤク絡みで、こちらで女が一人殺された。日本もいよいよターゲットに入ったようだ。お互いに頑張ろう』
そういって、電話を切る。お稽古《けいこ》を乗せたボートが着岸した。手にウエットスーツと酸素ボンベを抱えた峯岸婦警が降りてくる。
「お稽古、そこに白い幕が張ってある。中に人間が一人いるが、死体だ。別に見られてもどうってことはないだろう。すぐウエットスーツに着替えて、ボンベを背中につけて、出てきなさい」
大森エリザの死体を、人目から避けるために張ったテントが、こんなときに役だった。いくら峯岸稽古が、質実剛健を旨とする会津娘でも、やはりまだ若き処女だ。
野天の見通しのいい、大勢の人のいる前で、平気で全裸になってから、ウエットスーツに着替えるわけにはいかない。白いテントの中に入った。
死体が一つ横たわっている。体の大半はシートでおおわれて、見えないようにされているが、全裸であることは、薄いシートの布の起伏で分かる。
しかも、今、日本で一番人気のあるカワイコちゃんタレントであることも分かっている。日本中のアイドルで、何百万人のタレント志望者の少女たちの憧れの頂点に立つスターであるだけに、哀れであった。
先日はキャリアウーマン、今日はタレント。日本はいよいよ連中のいいターゲットになってきたのだ。
そっと両掌を合わせてから、もう外のことなどは気にもせずに、さっさと制服や下着を脱ぎ、ショーツ一枚になって、ウエットスーツを身につけた。女性用としては、一番|腿《もも》回りの太いのを選んでもらったのだが、それでも下半身を入れるのには、かなり力が要った。窮屈ではあったが、その分、肢《あし》は実物よりずっと細く見えたはずだ。
酸素ボンベを背負って出てきた。
他の刑事は、そのボディコン姿にホーッという声を出したが、これは厳粛な捜査だがら、誰もからかったり、余計な口をきいたりはしない。
岩崎警視正の表情は、いつものように冷酷そのものだ。
「ちょっと一緒に、死体を見てくれ」
先に立って、テントの中に入る。すぐに女の体からシートをはがし、全裸のまま俯せになっている女の背中の傷を見せて峯岸にいう。
「君なら分かるだろう。ここに刺さっているものが何か」
「ええ、海中で大きな魚を仕留める水中銃の尖端《せんたん》です。柄の所は、折れて無くなっています」
「多分、撃った奴が、抜き取ろうとして失敗して折ってしまったのだ。それとこれだ」
と、フィルムの缶より少し大き目の缶を示した。
「これを、むき出しではないだろうが、しかし、十か二十か、まとまって入れてある物が、この近くの海の中にあるはずだ。素潜りで取ってこられるほどの場所だから、大して深い所じゃない。ボンベは一時間はもつね」
「はい」
「そうはかからんだろう。一人でやらせてご苦労だが、中をゆっくり探してくれ」
「はい、必ず探し出してきます」
峯岸見習刑事は、一人で島のはじから、海の中に潜って行った。
その姿は、すぐ海の底に沈んで見えなくなった。五分、十分、二十分。みなじっと待っている。三十分。初め、水中銃の折れた柄が右手に握られて、水の中から出てきた。すぐ全身が出てくる。左手には、十センチぐらいの大きさの、密封された缶も持っていた。
[#小見出し]  コカインとは(その四)
コカインは、南米の広い地域、特にペルー、ボリビア両国にまたがるアンデスの高山地帯に、無限に繁殖するコカの木の葉を原材料にして作る。
昔から、土地のインディオたちの間には、空腹をまぎらわし、傷や病気の痛みを忘れるため、この葉を噛《か》む習慣があった。
葉を乾燥させて粉末にし、さまざまの薬品で処理して作られた純粋コカインは、アメリカの上流階級や、知識層に愛用された。これは高値だが、毒性が少ないと文化人たちにも信じられていた。
最近、葉の粉末に、重曹と水だけを混ぜて固めて作られた、クラックという安価なコカイン製剤が出回るにつれ、この愛用者は急速に広がり出した。マフィアの新財源にもなってきた。
そして今、世界の中でも新しい有力な販売先として、日本が狙われ、六本木を中心にクラックが入ってくる気配が、確実に見られてきている。
4[#「4」はゴシック体]
別に水ぶくれしたわけではないだろうが、今、ウエットスーツで皆の前に戻ってきた峯岸婦警が、両|肢《あし》開いて、どっしりとして立っている姿を見ると、改めて、なるほど、ふだん長いスカートで、必死になって肢を隠そうとしていた気持ちが分かる。たしかに太い。
しかしそれは、若い彼女にとっては、むしろ健康な肉体美を誇示しているようなもので、決して恥ずかしいことではない。みなもそういってやりたいし、当人も今は、開き直って堂々としている。
右手には、水中銃の刃先が欠けた柄の部分が握られており、左手には、十センチぐらいの直径の缶を持っている。
「多分、この缶の中に、小缶が沢山詰められていると思います。でも水中であけて、中に粉末が直接入っていたら、海水で駄目にして、証拠能力をなくしてしまう恐れがあるので、あけないで、そのまま待ってきました」
受け取った岩崎警視正が、その中型の缶の蓋《ふた》をあける。中には、お稽古《けいこ》が推量したように、例の、フィルムの空き缶より少し大きめの缶が、沢山詰めこんであった。
「ここへ来て、中から一缶ずつ取り出して使っていたんだな。これだけの量を自宅に置いておいて見つかると、流通経路の一端を受け持つバイ人の一人として起訴される。そうなると、二年や三年の小便刑ではすまず、最高は無期まで打たれるからな。しかし、こうして隠していること自体が、彼らの背後にもっと大きい組織がいるということの証明になっているな。他にも缶があったかね」
「はい、あと五つほど岩の棚に置いてありました。また潜って取ってきましょうか」
そう稽古がいうのを止めた。
「しばらくそのままにしておけ。これから先は、保安部の仕事だ。そこの刑事《デカ》さんたちにあり場所を教え、飯場に待機するなり、水中を見張らせるなりして、バイ人をあげてもらおう」
それから岩崎は、峯岸婦警に、
「もう、ウエットスーツを脱いで、制服に替えてよろしい」
と、テントの中を示した。峯岸は、マスクやボンベを体から外し、元の制服に着替えに、幕で囲われた中に入っていった。口には出さないが、警視正は彼女が少しでも早く、スカートで、そのたくましい両|肢《あし》を隠したがっている気持ちがよく分かっていたからだ。
花輪刑事が、ズングリした体に斜めにかけているズックの鞄の中の、三年前の旧式な、重い携帯電話が鳴り出した。すぐに岩崎が受話器を取って、耳にあてた。吉田老からだ。
「岩崎だ。そうか、あったのか、やはり」
それからしばらく、黙ってうなずきながらきいていたが、やがてキッパリといった。
「犯人は、そいつだ。目下のところ、うちはこれを単純な殺人事件一罪だとして処理するつもりだ。そいつの行く先を押さえて逮捕すれば、遠山の金さんじゃないが、これにて一件落着だ。
すぐに、アイドルタレントの死体と一緒に、刑事さんたちと引き上げる。男の立ち回り先は、うちで本気になれば、明日か、おそくとも二、三日中には分かるだろう。これから陸に上がった刑事さんたちを、どことどこへやらせるか、男の立ち回り先を全部押さえられるよう、あなたが考えてくれ」
電話を切るとすぐに、また刑事さんたちにいった。
「乃木と峯岸は、死体に元通りウエットスーツを着せてから、シートに包んでやりなさい。いくら人に見てもらうのが商売のタレントさんだって、死んだ後の姿までは見られたくないだろうからな。二人が、大森エリザ嬢の体をシートですっかり包み終わった段階で、私たちは引き上げよう」
女二人は、テントの中に入り、なるべく外の目に触れないようにして、まだ少女のみずみずしい体に、元のようにウエットスーツを着せ、白いシートできっちりくるみ、一見、何か分からないようにした。
その処置が終わると、刑事全員がまた水上署の艇に乗った。参考人の、東南アジア系の労働者と、白いシートに包まれた死体と、後から加わった峯岸婦警とで、ボートは定員が超過しているようだが、取り締まる側が運航するのだから、そんなことはさして気にもしない。
ぐんと船脚が重い艇の舳《へ》先に立った岩崎が、乃木と峯岸の二人にきいた。
「多能村ジョージという名の男を知ってるかね」
最近のタレントについては、お稽古《けいこ》の方が詳しい。すぐに答えた。
「はい。五年前まで志麻みゆきの夫でした。今は別れています。何でも、プロダクションをやっているそうです」
「大森エリザが、その多能村のプロダクションに属しているとしたら、この問題を、どう考えるかね」
二人とも、困った顔になった。
「さあー」
「何ともいえませんが」
「今、答えを出さんでもいいよ。どうせ犯人はすぐ捕まる。ともかく犯人は、多能村と決まった。家から水中銃やアクアラングが出てきた」
十一階の、大きな円卓のある会議室では、今日は保安部長と刑事部長とが、直接向かい合っている。
他に、殺人を専門に追及する詰橋捜査一課長が、赤鬼のようなきびしい顔で坐っている真ん前には、これも目下、麻薬を扱っているバイ人たちには、鬼のように恐れられている保安第三課長が、鋭い目で、一課長を睨むようにして坐っている。
捜一からは、岩崎警視正以下、一係と二係のリーダー役の、村松係長と進藤デカ長が出ており、保安三課からは、これまで狡猾《こうかつ》かつ獰猛《どうもう》な麻薬バイ人たちと、激闘の修羅場をくり返してきたことが一目で分かる、骨っぽい麻薬係の刑事たちが、四人ばかり並んだ。
この会議室は、総監室のすぐ右側にあり、窓からは、皇居が一望の下に見下ろせる場所だ。一般の職員は出入りを禁止されているし、警視庁に一生勤めていても、ここから皇居が見えるなんてことを知らないで退職していく警察官が大部分だ。
昨日は窓の外は晴れていて、緑の森がよく見えたが、今日は雨で、あたり一面銀色にくもっている。
「昨日もお話しした通り……」
と、今にも爆発しそうに緊張しきっている双方の刑事たちの間に、岩崎警視正の、いつもの全く感情を交じえない、冷酷そのものの声がひびく。
「……私たちは、殺人、強盗の犯人を追うための強行犯係です。とりあえずの目標は、タレントの大森エリザの殺害の犯人を割り出し、それを逮捕することで、それ以上は職分の分掌から外れます」
保安三課長と麻薬係の刑事たちの眦《まなじり》は、この他人行儀の言い分に、まさに張りさけそうに開かれて、岩崎の、一見銀行の貸付係のような、無表情で冷酷な顔を睨みつけている。
「……既に、その犯人の立ち回り先は、私の係の全刑事が動員されて追っていますから、この会議が終わるまでには、どこかで|検挙さ《パクら》れるでしょう。だからといって……」
と、一息ついて、目の前の十センチ直径ぐらいの缶を示していった。
「……この問題を知らん顔するつもりはありません。結果からいったら、こちらの方が何千人、何万人の人間を廃人に追いこむ、大きな犯罪を構成することは、よく分かっています。ただ私たちは、もうこの件は追わないと、はっきり申し上げます」
保安三課長が、耐えかねたようにいう。
「そこまで追い詰めたのに、知らん顔はひどいじゃないですか」
岩崎は、冷静に淡々と語る。
「別に、これで知らん顔しているわけじゃありません。これから先は、そちらで見張るなり、犯人を捕まえるなり、自由にやってくださいと申しておるだけです。麻薬《ヤク》のような難しい捜査は、却って素人がひっかき回さない方がいいと思いましてね」
胸の内ポケットから、白い紙片を出した。
保安三課としては、これだけ重大なブツを押さえながら、一向に協力的な姿勢を示さない岩崎警視正を、まるで殺してやりたいような思いで睨みつけている。ところが次の瞬間、彼らの怒りの表情が一転して、驚きと、むしろ感謝の表情に変わった。
岩崎警視正が内ポケットから取り出した白い紙は、折りたたまれていて、広げると、週刊誌を開いたぐらいの大きさになった。
「これは、昨日、私が実際に海に潜った婦警と相談して、作り上げた図面です。現在、東京湾には、橋をかける支柱の基部にするため、二つの人工島が作られてあり、これは岸から向かって右の、川崎人工島と思ってください。飯場と死体発見場所と、そして潜った地点が左側に書いてあります」
相手側に図面が見えるようにして渡した。
保安三課の刑事たちは、その人工島の略図をじっと喰い入るように見つめている。
「右側は、その|×《バツ》点の地点から、実際に潜った水中の略図です。約五メートルぐらい潜った所に、そのような岩の棚があり、そこに、これと同じような十センチ直径ぐらいの缶が、あと五つは置いてあったそうです。ただし、我々が殺人犯として、もうすぐ検挙する犯人とは別の、もっと大きな組織が、そこに置いたのでしょう。それで、その組織には、我々が残りも見つけたことは気がつかれないように、他の缶はそこに置いたままです。
私らの追っている殺人犯は、とてもそんな大量の麻薬を動かせるような大物とも思えませんし、そんな大物なら、無抵抗なカワイコちゃんを、背後から水中銃で撃つなんて、そんなケチな、すぐ足のつく殺人はやらなかったと思います。多分今ごろは、大物の方では、そのブツのことが気になって、回収のためもう動き出しているかも知れませんが、さっきもお断りしておいたように、私たちは、それに対しては、何のご協力もしません」
保安三課長が立ち上がった。
「岩崎管理官、ありがとう。何も手をつけないでおいてくれたことが、何よりもの協力だ。そしてこの図面、いくら感謝しても足りないぐらいだ。これから先は、たしかに我々の仕事だ」
そう深々と頭を下げて礼をすると、すぐ部下のベテラン刑事らしいのに図面を渡して、口早に何か命じた。
「はい。畏《かしこ》まりました」
その刑事が図面を握って、飛び出すように円卓の会議室を出て行った。
保安部と刑事部の両者の息詰まるような対立が、瞬間に解けて、みながほっとしたとき、ノックの音がして、乃木婦警が入ってきた。
余程のことがない限り、会議室へは、途中の出入りを禁止されている。入って室内十五度の敬礼をしている。結婚以来めっきり女っぽく、綺麗になった乃木刑事に、岩崎はいきなり、
「逮捕したか」
と、きいた。乃木が緊張した声で答えた。
「自分から出頭してきました。水上署に、関西の組の弁護をするので有名な弁護士に付き添われて」
しーんとした取調室には、岩崎警視正と、進藤、吉田の両刑事が坐っている。その正面に、手錠をかけられ、腰縄のはしを若い武藤に握られた、五十ぐらいの犯人が、うなだれて坐っている。
昔は、きっとかなりいい男だったに違いない。それだけに、今、年とってうらぶれた姿は、一層哀れであった。
「君が志麻みゆきと五年前に別れた、多能村ジョージだね。芸名だね。本名かね」
「本名も同じです。ただし、ジョージは漢字で書きます」
男はうなだれて、ぼそぼそと答えた。
「組関係の弁護士に付き添われて、水上署に出頭してきたそうだね」
「その方が、いくらかでも罪が軽くなると、弁護士の方がおっしゃいましたので」
とたんに、また警視正特有の、相手の骨まで突き刺すような、鋭い冷酷な口調がとんだ。
「弁護士は、そんなこといいやしないさ。いいかね、犯罪が発覚して、犯人が特定されてから自首して出てきても、これは刑法上の自首にはならない。刑の減免には何の関係もないことは、弁護士ならみなよく知ってるはずだ。むしろ、君の弁護を引き受けて一切の面倒をみてやる代わりに、これだけは決してサツでしゃべるなと、取引したことがあるはずだ。しゃべったら、何年か先に仮釈で出たときに、生命はもらうとね」
とたんに、この元タレントで、今はマネージャーの男は、意気地なく震え出した。
「いいさ。そんなことはこちらは分かっている。しかし我々は、麻薬の係の保安三じゃない。そのことは、もうこれ以上きかないよ。いずれ、君がしゃべらんでも、ネタ元はすぐわれる。君がこの罪で何年喰らうか、死刑になるか、量刑のことは予測できないが、まあ仮釈で出られたとしても、組のことは心配しないでいいよ。
私はきかない。君はしゃべらない。それでいい。ただ私がききたいのは、どうしてあんなカワイコちゃんを、後ろから水中銃で撃つようなむごいことをしたのか、そのへんの心理だけだ」
「申しわけありません」
男のくせに、わーっと泣き崩れた。そのままほうっておくと、大分たってから、やっと涙を拭き、語り出した。
「あるタレントのオーディションでエリザを見つけ出してからは、私はすっかり彼女に夢中になりました。女としてではなく、高価な宝石の原石として、自分の手で磨き上げて、日本一のタレントにしようと思いました。幸い、昔の女房が女優として大成していて、それと組ませたCMがヒットして、人気を得ました」
「二人が別れた原因は、昔から女房が中毒者だったからだときいているが」
「そうです。女房は共演の合間に、この私の大事な宝石に、ヤクの味を教えてしまったのです。これは、一度覚えたら、もう治りません。私の希望は、すべて無くなりました」
「それで、自分のプロダクションの女性事務員に、ロスに電話をかけて密告させ、同時に、薬が切れて勝手に取りに行った少女の方は、殺してしまったというわけだね」
この、元二枚目のマネージャーはがっくりと頭をたれてうなずいたのだった。
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[#見出し]  アンダースコート
[#小見出し]  女性の下着への考察(その一)スポーツ時代
女性がスポーツをするなんてことは、明治以前には考えられないことだった。日本には、女性用で、腿《もも》の中心を閉じて人目に隠す形の下着がなかったからである。
外国ではそういう下着が普及していて、かつて近代オリンピックがヨーロッパで行われたとき、女子も出場できることが伝えられた。
視察を命ぜられた文部省の役人は、その女子選手たちを見てびっくりし、『女子が太腿を露出して走り回る姿など、絶対、日本人に見せてはならん』と、怒りの報告書を書いたぐらいである。
最近でも、それほど頭が堅いわけではないが、バドミントンの女子選手の間で、ちょっとしたショックが走った。今年から連盟が、ショートパンツでなく、短いスカートからフリルのついているパンティー(アンダースコート)が見える、スコート姿に統一したことに対してだ。
彼女らは、下着が技術以上に、観客へ|見せる《ヽヽヽ》大事な要素となったことを、まだ理解できないのだ。
1[#「1」はゴシック体]
春宵《しゆんしよう》一刻|値《あたい》千金。
という、古い難しい言葉がある。春の夕方から夜にかけての時間はなかなかいいものだ、というほどの意味だが、宵だけでなく明け方もまた、捨て難い味がある。こちらの方は、「春眠《しゆんみん》暁を覚《おぼ》えず」という言葉があって、夜が明けてくるのも分からず、ぐっすり眠ってしまった、と解釈される。
都立新宿高校在学中は、国語の時間が好きで、『枕草子』などを愛読した乃木圭子は、三月に入ったある暖かい朝、突然、高校時代に学んだ、その古文の解釈が、微妙に違っているのを感じた。
今は六本木署の署長をやっている、かつての捜一の上司、一係長の高橋警視の妻となって、もう半年に近い。高橋警視は、その容貌や性格、東大出のキャリアという立場まで、乃木が心秘かに敬愛する岩崎警視正とそっくりであった。
乃木が思い切って、岩崎への口には出さぬ、内心の愛を断ち切って結婚へ踏みきったのも、この、似ているということが最大の理由だ。それに、二十五歳、お肌の曲がり角を過ぎて、独身への見切りどきと思ったことも、その決心を助けた。
「あー」
と、また彼女は声を上げて、夫の体にひしとすがりついた。何もかも脱ぎ捨てた、若い二つの体が、布団の中でむれて熱い空気を作り出している。
「こんなにいいなんて、考えもしなかったわ」
もう起きる時間が近いというのに、再び彼女の体を求めて夫が迫ってきたとき、拒否するどころでなく、そういってひしとすがりつき、はっと気がついたのだ。あの解釈は違っている。あんまりよすぎて、朝が来るのが分からなかったというのが正しい。
二人の愛の巣は、四谷から市ヶ谷に向かう高台にある、ごく中級のマンションにある。
かつては、心の中で秘かに愛した岩崎警視正が、先輩のみずえ警部補と、彼女という存在を無視して結婚してしまったときは、もう既に、結婚というものが、男女がどういうことをするのかよく分かっていただけに、ときどきは、あの虫も殺さぬような美しい顔をしたみずえが、裸になって抱かれていることを思って、カーッとした。
二人とも手錠をかけて、ワイセツ罪でブタ箱へぶちこんでやりたいと、何度支給品のピストルを握りしめながら、嫉妬《しつと》の怒りにかられたか分からない。しかし、今は許せる。自分もしてるからだ。
夫の一挙一動が、こんなにも女に幸せと安らぎをあたえるなんて、結婚前には考えもしなかった。今なら岩崎もみずえも許せる。
結婚式の直後、正式に入籍して、戸籍上は高橋圭子になったが、勤務先や外部では、今まで通りの乃木で通すという夫婦別姓を主張して、それを黙って許してくれた、この理解のある夫が、急に愛しくなった。
「あなた、好きよ。浮気したら、支給品のピストルで射殺しちゃうから。六本木署には、綺麗な婦警さんが多いというから。くやしい」
まるで理屈の通らないことをいいながら、少し汗ばむ裸の体を押しつけ、両手、両足を夫の体にからませて、今一度、しっかり抱きしめようとした。そんな自分勝手な女を、神が許したまうわけがない。とたんに枕もとの電話がリリーンと嗚った。
職場にいるときの習慣で、反射的に手がのびて、『こちら捜一』といいそうになってあわてて、
「高橋です」
といったら、若い女の声が飛びこんできた。
「署長さんお願いします」
女の声であることが、今一つ気に入らないが、公用だと思って、耐え難きを耐えて渡す。
「ああ高橋だが……村上巡査か。……えっ、何、殺人事件……当直ご苦労。私もすぐ行く。捜査課の者を全員、集めておきなさい」
電話を切ると、まだぴったりしがみついている乃木の裸の四肢を、一つひとつ解きほぐすように離していった。
「かあちゃん、仕事が入った。このまますぐ出る。君は自分の朝飯だけ作って定時に出勤すればいい。何だかこの事件は、難しそうな気がする。そうなれば、ここは君の親分にまた助けを求めるかもしれない」
そういって立ち上がり、シャワー室へ入って行った。乃木ものんびりと一人だけ眠っていられない。一緒に汗を流すと、自分は裸の体にパジャマをひっかけただけの姿で、夫の身支度を整え、送り出した。
ようやく夜が明けかけ、あたりに陽がさしこんで明るくなった。やれやれ春眠《しゆんみん》暁を覚えずだわ、と思いながら、もう一度ベッドへ入る気もせず、お風呂へゆっくり入って、眠気をすっかり体から払い捨てた。
裸身にテディという、新しいタイプのスリップをつけて、春のドレスを着た。
春らしいデザインの、少し短い(警察官の私服として許される範囲の)スカートで、時間には颯爽《さつそう》と登庁したのだが、それも更衣室で制服に替えるまでだ。
八時三十分より少し前には、今日は事件を持っていない、一係、二係の他の刑事《デカ》さんたちと共に、椅子に坐った。八時三十分に、警視庁全体に、始業のベルが鳴る。
約二十秒。その間はみなきちっと坐ってベルをきき、今日一日の任務に向かう気持ちを引き締めることになっている。
乃木圭子と後輩の峯岸|稽古《けいこ》の二人のケイコも、目をとじてじっと朝のすがすがしい気分で、そのベルをきこうと思ったときに、乃木の前の電話が鳴った。普通、この時間は、部内では遠慮してかけない。何か緊急事態発生だ。ある予感があって手をのばしかけたが、その前に、もう警視正の手が受話器を取っていた。
乃木の机の電話は、岩崎の机の電話とつながっている。ふだん秘書役を務めている乃木が、まずその端末を取って内容をきき、回す必要のあるものは、正面の机に回す。ところが、岩崎管理官は妙な勘が発達していて、殺人事件の場合には、鳴り出す前にもう分かってしまい、ぱっと取り上げる。
ベルが鳴っている間、耳にあてて、うなずきながら聞いていたが、鳴り終わるころ置くと、
「お稽古、今朝はお茶は配らんでもいい。女の刑事さん二人はすぐ私服に戻れ。一係は全員、いつでも出動できるよう待機していてくれ。二係は、進藤デカ長以下全員行く。乃木は、私がどこへ行くか、いわんでももう分かってるだろう。お稽古と二人で私服に戻ったら、後から急行してくれ。我々は、六本木署で待っている」
二係の残りの猛者刑事《モサデカ》の連中は、一斉に外へ飛び出した。普通の係なら、あくまで予算の中で捜査活動をしなければならないが、岩崎管理官の指揮監督する一係と二係の場合、金は使い放題だ。何しろ岩崎の父が、捜査のため使いきれと、月に一千万円を無理に送ってくる。それだけ使うのは、却って大変だ。
岩崎を中心に、六階から玄関へ飛び出すと、二、三人で一組《ひとくみ》になってタクシーに乗りこむ。バスやパトカーなど使わない。
女刑事二人も、白いショルダーバッグに拳銃や警笛、短くたためる警棒などを入れて、私服に着替えをすませてきたにもかかわらず、そう遅れずに到着した。
六本木署では、署長の高橋警視と岩崎警視正が、一階の応接室で、既に現場の見取り図を前に、簡単な初動捜査の打ち合わせをしていたが、捜一の応援部隊全員が到着したのを知るとすぐ、
「全員、現場へ行ってくれ。ここから徒歩三分の、このビルだ。地下が体育館になっている。表にもう制服が立って縄張りしている」
全員が示された図面を見て、署を飛び出した。
六本本は、一番静かな時間だが、それでも若々しい春のドレスに身を包んだ女たちが、もうかなり歩いていた。
ビルはすぐ分かった。
道を渡った向こう側の、中華料理屋とインド料理屋の間のエスニック通りを少し入った、突き当たりのしゃれた作りのマンションだった。
ロビーの管理もしっかりしていて、中から応答がない限りは、勝手に玄関の中へ入れないような仕掛けになっている。
家賃は随分高そうだが、刑事さんたちは、誰もそのことは考えないようにした。現在は、入り口のシステムも解除され、玄関をふさぐ鉄の格子戸はあけたままだが、代わりに制服の警官が立っていて、マンションの住民でも、出入りのたびにきびしくチェックされていた。
どやどやとやってきた、いずれも一癖あり気な頑丈な体付きの男たちの群れを見つけて、制服の警官たちは、はっと緊張し、
「ごくろうさんであります」
と、一斉に敬礼した。
捜一の猛者刑事《モサデカ》さんたちは、答礼も返さない。デカい面をしているから刑事《けいじ》のことを刑事《デカ》さんというが、制服の外回りなど、捜一の猛者にとっては、同じ警官の中には入らない。
じろりと睨んでから、それを答礼代わりに、かたわらの階段から、地下へ降りて行く。
地下は、住居としての環境が悪いので、貸室にはしていない。全面が広いフロアーになっており、運動用の、固定自転車、ボート漕ぎ機、エキスパンダーなどが置いてある。
隅にプレハブで囲われた一画があり、その入りロに、もう顔なじみになった、六本木署の捜査課長が立っていた。
彼が丁寧に、
「ごくろうさんであります」
というと、捜一の刑事さんたちも、今度は適当に挨拶を返して中に入る。
周りは白い壁だけで何もない。その一隅に、テニスのラケットによく似た形のラケットを持って、一人の女が俯せに倒れていた。
既に息はない。死後七、八時間はたっているようだ。肢《あし》が長く、肌の色が異常に白い。髪の色も明るい亜麻色で、すぐ外人と分かった。
凶器もまたすぐ分かった。白い、細いビニールロープが、首にしっかり巻きついている。誰かが後ろから、力一杯締めつけたらしく、鮮やかな青黒い絞痕《こうこん》もある。
岩崎がぽつんといった。
「えらく短いスカートだね。こんな、ひだのあるパンツが丸見えのを、わざとはくのかね」
殆どあるかなきかの長さだ。その下のパンティーのお尻には、ひだ飾りのレースが三段についている。
自分も(今、見せるわけにはいかないが)テディという新しいスタイルの、流行の下着を着けている乃木は、憤然として、
「管理官、それは違います」
といいかけたら、それを抑えられてしまった。
「知ってるよ。スコートに、アンダースコートだろう。今、協会がこういう競技に出る女子選手に、ショートパンツの代わりに統一して、何とかはかせようと説得しているものだ」
相変わらずの意地の悪い言い方に、乃木はふだんでも大きい丸い目を一層大きくして、恨めしそうに岩崎警視正を見つめた。
分かっているなら、わざわざ変なことをいわなければいいのだ。短いとか、変なパンツだとか。これが、このスポーツの正式の制服なのだ。心の中でふくれていると、
「乃木、これは、スカッシュの方かね、ラケット・ボールの方かね」
と、きいてきた。咄嗟《とつさ》の質問にまごついて、乃木の大きい目が、白黒した。
たしかに壁に打ちつけて、一人で楽しむテニスのような競技があり、やや経済的に余裕のある若夫人や、令嬢たちの間にはやっているとはきいたことがあるが、乃木自身は、漠然と壁テニスという言葉で考えていて、まさか二つの種類があるとは思ってもいなかった。
ところが口惜しい。お稽古《けいこ》の奴が、いきなり横から口を出した。
「管理官殿、これはスカッシュの方です。ラケット・ボールではありません」
「どこで分かる」
「ラケットの形が違います。このように、先の網の部分が小さく、柄が長いのは、スカッシュ用です」
「二人でやることもあるのか」
「むしろ二人で平行に並んで、正面にぶつけて返ってくるのをとり、勝負を競うことの方が多いのです。映画のエマニエル夫人に出てきたのは、このスカッシュです」
岩崎が、今さらのように峯岸婦警の顔を珍しそうにまじまじと見ていった。
「お稽古は、そんな映画も見るのか」
「はい、高校のとき、同級生十人と一緒に、姉や母のワンピースを着て、大人っぽい服装で、映画館に入り見ました」
「赤信号、みんなで渡れば怖くないんだな」
と、妙なことをいった。そこへ、被害者のドレスや下着、靴など、ロッカーの中に入っていた物を、ビニールの布で包んで持ってきた刑事が、死体と岩崎の間に、そのビニールの布を拡げた。
岩崎は白い手袋をはめて、靴や持ち物を一つひとつ調べていたが、突然、
「武藤刑事は、六本木署の刑事さん二人を借りて、表で待っているパトカーで、この向こうの坂を下りて広尾まで行ってくれ。チャコル国の大使館があるはずだ。
被害者は、チャコル人だ。多分、ナブラ・テレスコワという名で、日本へ入っている。職業は分からない。独身かどうかも分からない。まあ、こういう所でのんびりと遊んでいられるのだから、背後に、金持ちの男がいると思っていいだろう。正面から乗りこんできいてこい」
といった。
岩崎はそれだけ命じると、既に作業を始めている鑑識係に、写真をきちんと撮ったら、すぐ死体を監察医務院に送るように命じてからいった。
「我々はここを引き上げる。これはこの悩ましい死体から離れて、ゆっくり考えた方がいい」
[#小見出し]  女性の下着への考察(その二)明治まで
明治の時代になって、洋装が一部上流階級に入ってくるまで、日本の女性は、腿《もも》の周辺を閉じる下着を知らなかった。
一番下につける下着は、腰の回りに巻く平面の布だけで、もし強い風が吹いたりしたらまくれ上がるし、男の一動作でそこが露《あらわ》になってしまう。異国からやってきた男たちはそれを知って、あまりの開放的な大胆さにびっくりした。これでは、性道徳は保てないのではないかと心配した。
その開放的な衣服が、却って世界一慎ましい、日本女性の身だしなみや動作を生み、人の妻となった後の貞節を守らせているという理論は、外国人にはどうしても理解できないことであった。まして芸妓や女形が、女らしさを出すため、現在でも閉じられた下着をつけないと知ったら、その逆説に仰天するのではないか。
2[#「2」はゴシック体]
部屋にはカレーの匂いがしみついている。
マンションヘ入る路地の入り口にある、中華とインドの二つの料理屋の中《うち》、左側のインド料理屋の方の三階に、宴会に使う小室があるときいて、貸してもらうことにした。
普通の使用料の三倍を払い、更に、ここで会議中は、若い食べ盛りの捜査員たちが、沢山の料理を注文するだろうといって、強引に借りた。
警察が捜査のための前線指揮所として借りるときいて、初め難色を示した亭主も、自分の故郷のタミール語を、祖国の人々同様に鮮やかに話す、やたらに金を持っている不思議な若い捜査官に頼まれると、すぐ、あっさりと承知してしまった。
地下のスポーツクラブから引き上げた二係の刑事《デカ》さんたちと、六本木署の捜査係の私服の刑事《ベテラン》たちが、大きいテーブルに、向かい合うようにして坐った。
机の上には、現場の見取り図が置かれている。窓からは、マンションへ出入りする人々を、すべて見張りできる。
「今日からしばらくは、みな思う存分、インド料理を味わってくれ。カレーにチャパティ、その他、ここでは純粋なインド料理がすべて揃っている。メニューにある物は、好きなだけ注文してくれ」
早くもメニューに目を走らすみなにいった。
「代わりに、どっしり腰を落ち着けてやってもらう。これは、表面に出てきた単なる一女性の絞殺事件では収まらない。ずっと複雑な、難しい事件だ。
花輪は、この先の角にリージェントというホテルがあるから、六本木の刑事さんと一緒に行って、前金でとりあえず二日、十室を押さえておいてくれ。君達全員の宿泊用だ」
「はい」
彼は起立して、飛び出していった。
花輪が所轄の刑事と一緒に飛び出して行くのを見送り、他の刑事たちにもいった。
「幾つかの方面から、同時に捜査を進めていかなければならない、非常に難しい捜査になると思う。
とりあえず、刑事《デカ》さん諸君は、解決まで家には帰れないつもりでいてくれ。もし新婚間もなかったり、女房《おかみ》さんがきびしかったりして、外泊の際は断らなければまずい者は、ここから電話しておきなさい。捜査は各方面を一斉にやるから、三日もあれば片付くと思うが」
みなをじろりと見る。ここが、捜一・殺人課刑事の辛いところだ。
男児一旦、家を出れば七人の敵あり。外泊ぐらいでいちいち文句を垂れる女房がいたら、叩き出してやる、というぐらいの男の強さを見せておかなければ、仲間になめられてしまう。立ち上がって電話をかけようなんて者は誰もいない。セクハラ何のその、無理につっぱった。
岩崎は、二人の女の刑事さんにもいった。
「ダブル・ケイコ、君たちもいいのかね」
二人は同時に、
「かまいません」
「私はいいです」
と答えた。乃木の場合は、この事件を持ちこんだ六本木署の署長が旦那だし、峯岸の場合は独身寮の一人暮らしだから、誰にも知らせる必要はない。岩崎は二人の返事にうなずくと、
「乃木は、映画のエマニエル夫人を見たかね」
ときく。憤然として乃木が答える。
「私は、ああいういやらしい映画は見ません」
「別に自慢にならんよ」
と、切り捨てるように岩崎はそれに答えた。
「あの映画の中に、スカッシュのシーンがある。お稽古《けいこ》は覚えているだろうが、試合の途中で、相手の中年夫人に、エマニエルが壁に押しつけられ、シャツをまくり上げられて、乳房を吸われる場面がある」
お稽古は真っ赤になって俯いている。高校時代、それを見たときに、終夜、体がほてって、眠れなかった記憶が、まざまざと浮かんできた。
「まあー、ああいうスポーツは、テニスの世界チャンピオンにしろ、ゴルフの女子世界一にしろ、みなその種の愛人を連れて歩いているが、どうしても女同士の秘密の性愛が発生しやすい。これは世界中、どこへ行っても例外のない、公然の事実だ」
みな岩崎の言葉を真剣にきいている。誰の頭にも、あの現場を見ただけでは、具体的な犯人像が、まだまるっきり浮かんでこない。
「多分、あのスカッシュ練習場は、場合によってはあのスポーツクラブ全部が、男子禁制、女子だけの設備だと思う。この点に関しては、お稽古《けいこ》がすぐジムの責任者に電話してたしかめてくれ」
「はい」
立ち上がって峯岸婦警は、部屋の隅のピンク電話に十円玉を幾つか入れて、きき合わせた。岩崎は説明を統ける。
「もう一つ、別な件がからんでいる。さっき外事課長に問い合わせて、ファイルを調べてもらった。ナブラ・テレスコワは、かつて全世界テニスのチャコル代表であった」
お稽古が電話を終えて戻ってきた。すぐ報告した。
「ジムの責任者がいうには、やはり管理官殿のおっしゃる通りでした。主人や恋人が、応接間まで迎えに来るのはかまわないが、中の施設は女性専用で、練習場へは男性は足を踏み入れることは勿論、覗き見ることもできないようになっているそうです」
「多分、そうだろう。ごくろうだった」
峯岸婦警を坐らせるといった。
「……まあ、そうでなければ、たとえ壁《パネル》で囲われていたとしても、ああいう大胆なことはできないからな。もっとも、これは映画の上でのことを話しているのだがね。現実もそうは変わらないだろうが」
みなは、女が同じ女の乳房を吸う情景を想像して、何となく悩まし気な顔をした。
「だが、この線だけでは考えられない要素がある。彼女は十五年前、まだ十七歳のときは、全チャコルの若者の憧れであり、全チャコル人の希望の星であったそうだ。二十二歳のときにも、三度目の世界チャンピオンを目ざし、イギリスのウインブルドンへ行った」
話の途中で、インド人のボーイが、各自の前へ皿を置いた。カレーに、薄いせんべいのようなものがついている。
「丁度昼だ。食べてくれ。これは本当は右手の指で食べるものらしいが、我々は日本人だ。そこは勘弁してもらって、スプーンでも箸でも、使い易いもので食べてくれ」
各自が珍しそうに、インド料理に手を出す。
「できるだけ一口ごとに水を飲んで、口の中の炎を消すようにしないと、辛すぎて食べられなくなるぞ」
いわれたのがおそかった。いきなり口をつけた、豪気な刑事さんたちが、あちこちで悲鳴を上げ出した。
「辛い」
「こいつはすごい」
フーフーと息を出して、口内のほてりをさましている。それからは、みな注意して水を飲みながら食べ出した。
「そのウインブルドンでのことだ。強敵をすべてなぎ倒して、世界一の覇権を握った。その日の夜、彼女の姿は消えた。
一説によると、ロンドン駐在のアメリカ大使館へ逃げこんだというが、この説は想像だけで確認されていない。それ以後、世界のどの土地でも、ナブラの姿を見た者はいないからだ。
もし無事アメリカに渡ったのなら、充分、プロ・テニスの選手として活躍して、稼ぎまくることもできたろうが、それもしなかった。姿を見せれば、祖国からやって来た殺し屋に一発で仕留められる危険があったからだ。稼ぎよりもチャンピオンの座よりも、平凡な暮らしを望んだのだろう」
店の表にパトカーが停まり、一人のチャコル人らしい大男に、六本木署の署長と武藤が、両側からつきそうようにして入ってきた。三階にすぐ三人が入ってくる。
「大使館の、チャペック二等書記官です」
英語の分かる署長がいい、乃木がなぜか少し赤くなった。
「まあー、そこへお坐りください」
初め、岩崎はおだやかに英語でいい、男を坐らせると、六本木署長にきいた。
「高橋君、どうしてこの方をお連れしたのかね」
高橋署長は、乃木が惚れこむだけあって、岩崎のコピーといわれるぐらいにタイプが似ている。近眼鏡の鋭い目で、じろりと大男の外人を見てから、
「大使館に行った武藤刑事から、何やら英語でしゃべりかけられ、さっぱり分からないから、助けてくれといわれて、応援に駆けつけました。もともと私らで解決しなくてはならない問題ですから」
「そうか。それでこの大男は」
「私らがなぜチャコル大使館にやってきたのかと、受付の職員がきくので、『六本木のスポーツクラブのスカッシュ場で、女性が一人殺されていたが、身の回りの持ち物から、チャコル人らしいと思われるのでやってきた。誰か職員の夫人か令嬢で、スカッシュ練習場に出入りする女性に心当たりはないか』ときいたのです。
するとこの大男が、自らチャペック二等書記官だといい、『自分の妻がスカッシュが好きで、夕方になると必ず道具を持って出かけ、深夜に帰ってくるが、昨日は一晩中帰ってこないので心配していた』といって出てきました。それで連れてきました」
「そうか」
うなずくと、いきなり岩崎警視正は、モルドウ訛《なま》りのある、いわばチャコルの江戸っ子弁でいきなり話しかけた。大男の書記官は、初めは信じられないという顔で、しばらく岩崎を見つめている。日本人で鮮やかにチャコル語を話す人間なんて、これまで会ったことはない。
「奥さんの名は、ナブラというのですか」
相手の表情に浮かぶ、どんな小さな動きも見逃さないように、じっと見つめながらきく。かすかに何か動いた気がするが、まるでその心の動揺を抑えつけるように強い言葉で、「ネ(ノー)」
と彼は答えた。岩崎はそこで、ポラロイドの写真を示した。長い肢《あし》や派手なアンダースコートのフリルや、亜麻色の毛など、主に背中から撮っているが、それでもやや横にねじ曲げられた首から、充分に女の顔立ちや特徴は分かる。
「この女性が、貴下のご夫人か」
「アノ(イエス)」
と大きくうなずくと、突然、両手で顔をおおって泣き出した。それも、あたりはばからぬ号泣だ。首の後ろでしっかり締められたビニールロープや、青黒い絞痕《こうこん》を見ては、死亡を確認しないわけにはいかない。
やがて、チャコル語でわめき出す。
「私の妻はどこにいる。一体誰に殺されたのだ。なぜ殺されたのだ」
岩崎はわりと冷ややかに答えた。
「奥さんにはすぐ会える、司法解剖を終えたら。犯人を一緒に探すため、ここへお呼びした」
突然、そのチャコル人の大男は立ち上がり、両手を振って、何やらどなり出した。岩崎が、みなにそのチャコル語の要点だけ教える。
「おれは絶対に犯人じゃない。調べようとしても、おれには外交特権があるから、調べることはできないぞ……といっている。私は答えておいたよ。そんなことはいわれなくても分かっている。あそこは、女しか入れない所だ。いくらかつらをかぶってスカートをはいても、あんたは大男すぎて女に化けられない」
乃木が吹き出しそうになって、じろりと岩崎に睨まれ、あわてて下を向いた。
岩崎が、今度はまたチャコル語で男に話しかけた。
「あなたは、この女性をナブラと知っているはずだ。そこを正直にいってもらわないと、いかに日本の警察が優秀でも、犯人を探すことはできない」
最初はしきりに、ネ、ネ(ノー、ノー)、と否定していたが、更にきびしく問いつめられると、男はがっくりしていった。
「たしかにそうだ。ナブラ・テレスコワだ。彼女とは、アメリカ勤務中に知り合った。
いや、初めは本国からの命令で、説得して連れ戻すために、身分を隠して交際した。いずれ、平和裡に彼女を納得させて、向こうへ連れて帰るつもりでつき合っているうちに、私たちは愛し合った。本国でも、私がいつも彼女の監視を続けていることを条件に、早急な祖国召還を望まないといってきた。
私も彼女も、やがてプラニからソ遠の軍隊が引き揚げ、我が国に西欧の自由主義諸国と同じ、自由と平和の日が来ることを、固く信じている。そうなったら二人で堂々と戻れるということで、しばらくは私は祖国へ帰らず、各国を転勤して回った。日本でも二人は、この上なく幸せであった」
そのおしゃべりを遮るように、岩崎はきいた。
「犯人の心当たりは、あなたにあるか」
「ロシア人に決まっている。チャコルの自由な独立を嫌うKGBの手先に違いない」
岩崎は、急に二人の女刑事に向き直っていった。既にホテルの予約を終えた花輪が席に戻っている。
「二人とも、今晩は徹夜になる。だから、夕方七時、あたりが暗くなるまで、花輪が予約したリージェントホテルに行き、ぐっすり眠っておきなさい。ああ、眠る前に……」
といって、何十枚かは確実にある札束を出して、乃木に渡した。
「そこには一流のブティックがある。それからブランド物専門の、有名な下着店もある。ついて行って選んでやる時間がなくて残念だが。
女はその体さえあれば、男を悩ますのは簡単だが、同じ女をボーッとしびれさせるほどに美しく装うというのは、並大抵のことではない。すべてに派手で、しかも品のある一流品を選んで、ホテルでゆっくり着替えて、夕方ここへ戻ってきなさい。
ああ、それから、下半身は最終的には、華やかなフリルのあるアンダースコートで包むように。これが多分、仲間のしるしだ」
二人はびっくりして、この妙な命令をきいていた。
[#小見出し]  女性の下着への考察(その三)明治・大正・昭和
明治、大正に入り、洋装が徐々に普及し、パンタロン、ブルーマー、そして今は死語となったズロースという下着などが、一般に用いられるようになった。それについて語る場合、必ず例に挙げられるのが、昭和七年、十二月十六日の白木屋デパートの火事である。
屋上から両手で綱を伝わって脱出しようとした数人の女店員が、下には大勢のヤジ馬がいるし、風で和服の裾があおられるので、つい片手で押さえようとして、綱から手が離れて、群衆の面前で墜落して死んだ。
以後、山田忍三白木屋専務の厳命で、女子店員全員のズロース着用が義務づけられ、日本中の女性へ、急激に普及したという説だ。
しかし消防側は、これはズロースを普及させようとする紡績会社の巧みな宣伝で、着用の有無に関係なく、屋上から素手で滑り降りることは、掌が摩擦で焼けて、無理であると反論した。
3[#「3」はゴシック体]
枕もとに、買ってきたブランド物の衣類を山のように積んで、しかも昼間、窓にカーテンをかけて暗くし、初めてのホテルでいきなり夕方まで熟睡しろというのは、生理的にも心理的にもかなり難しいことだ。だが、これをやれるようでなくては、花の警視庁の、鬼の捜一の女刑事は勤まらない。
二人とも、六本木の交差点の角のリージェントホテルで、午後の一時から夕方までぐっすり眠り、六時に、頼んであったフロントからのテレホンコールで、ぱっと目をさました。
「ああ、よく寝たわ」
「今日は、徹夜しても大丈夫だわ」
そう、お互いに同時にいって、飛び起きた。交代でシャワーに入った。それから、裸の体に、ブランド物のショーツ、ブラジャー、シルクのアンダースコート、短めのスリップ、大胆な、胸ぐりの開いたブラウス、思い切って短めの臙脂《えんじ》のスカートをつけた。
スカッシュの練習場へ行く、金持ちのお嬢さんの友達同士に見えるような服装だ。
スカッシュのラケットやタオル、ドレスの替えを入れるための、アディダス・スポーツ・クラブのマークの入った大きなバッグも持った。実は中には、首だけ出しているラケットの他は、手錠、警笛、捕縄、ピストルなどの恐ろしい逮捕道具が入っている。
ぱっちり目をさました後で、お化粧の|のり《ヽヽ》もいい。少し濃い目にした。
いつも恥ずかしがって、ことさら長目のスカートをはいて、足を見せないようにしている会津娘の稽古《けいこ》も、今はもう開き直って、両|肢《あし》を腿《もも》の中ほどからむき出しにしている。決して細くはないが、若さに溢《あふ》れた充実感があって、乃木は少し羨ましかった。
二人が、またインド料理屋の三階に戻ってくると、岩崎警視正が、五十歳ぐらいの顔色の悪い女と、しきりに英語で話し合っていた。
今、岩崎と英語で話し合っている女は、顔だちからもスタイルからも、純日本種には違いない。それにしても、凄い英語をしゃべる。
乃木は、英検を受けて二級を取っているから、外人とはゆっくりなら話はできるが、そんな程度の力では、てんで一つも意味が分からない。本場のニューョーク訛《なま》りだ。
乃木は、新宿高校時代、仲良くしていた、自分よりは顔もスタイルも落ちると思う同級生と一緒に、津田塾大を受験したが、友達が合格し、まさかと思った自分の方が不合格になって、ショックを受けた。
ついにやけくそで、短大行きもやめて、警察学校を受けてしまったという、これまで誰にも話したことのない、悲しい過去がある。
警察学校の試験は、毎年九月。それまでの間、急に殺してやりたいぐらい憎くなった同級生を見返してやるため、英会話学校で猛烈に勉強して、英検の二級まで行った。しかし、そんな頑張りが屁の役にもかなない。
それにしても、女の顔色はひどい。頬はむくみ、目は両瞼《まぶた》が重く腫《は》れて、少ししか開いていない。全体が青黒い。
警視正が、早口の英語を止めて乃木にいった。
「ベティ・時田さんだ」
「えっ、あのジャズ歌手の」
と、横からお稽古《けいこ》がびっくりしたようにいった。この会津娘、軍人勅諭と合気道だけしか知らないと思ったら、芸能界にも詳しい。しかし先輩がいるのだから、勝手な発言は慎んでもらいたい。ベティ・時田なら、乃木も知っている。
ただし乃木の頭にあるのは、若くて綺麗で、颯爽としたプレーガールの代表として、アメリカへ渡り、文豪といわれたエレン・リチャードと結婚した、華やかな伝説の女としてだ。
驚いたことに、花輪刑事がいかにも東北訛りが抜けない発音の、ただし、文法的にはかなり正確な英語で、
「エレン・リチャード氏はご健在ですか」
ときいた。時田はふてくされたように、
「エレンはとっくに死んでしまったわ。だから私、日本へ帰ってきて、毎日、何も楽しいことはないから、クラックやってんのよ」
この英語は乃木にも分かった。同時に、一度は自分が振った男が、かなり正確に(発音だけは訛るが)英語を話すのにびっくりした。
警視正は、ベティ・時田にきびしくいった。
「今日は、君のクラック常用のことを調べるために呼んだわけじゃない。それは係が違う。追及しない代わりに、他人にも話すな。私のしたいのは、一種の取引だ。うちの二人を案内してくれ」
「どこへ」
「レズ・バーだ。昨日、スカッシュの練習場で、ナブラ・テレスコワというチャコル人の女が死んだ。殺したのは多分同国人で、スカッシュをやる女だろう。そんな女たちの来る所へ連れて行ってくれ。そこの女二人を」
顎で示したので、二人のケイコは時田の前に立った。時田は、麻薬常用者特有の、物憂げなしぐさで何か呟《つぶや》き、岩崎がいった。
「二人とも後ろを向いて、お尻が見えるぐらいにスカートをまくり上げろ、といっている」
なぜお尻を見せなくてはならないのか、と考えているようでは、捜査係は勤まらない。アンダースコートを下着と思うから、腹も立ち、ためらいも出る。これは本来、見せるための衣服だ。思い切って、短いスカートをたくし上げた。
お尻に当たる部分に、三段のレース飾りがついていて、シルクの布が灯《あか》りに光る。
「もういいわ。ありがと。それなら刑事さんと分からないわ。連れてってあげる」
二人はスカートの裾を下ろした。始めてきいたベティ・時田の日本語は、かなりたどたどしく、単語を思い出しながら、やっとしゃべっている感じであった。声も、声帯が潰れたような、ひどいダミ声だ。往時とは似ても似つかない醜い老いぼれようも、すべて麻薬のせいか。それでも、いうことは何とか通じる。
「あたしだって、いかにも刑事丸出しの女の子を連れて店へ入ったと分かったら、二度と六本木を歩けなくなるからね」
あたりに完全に夜の気配が漂うまで待って、三人は表へ出た。英語の方が楽だというので、乃木と時田は英語で話す。英検二級でも何とか分かるように、ゆっくり話してくれた。
六本木という街は、交差点を中心に、四方に奥深く入っている小路が多い。そこにびっしり建ち並んでいるマンション、ビルなどの殆どが、料理店、スナック、バーなどで、その店の多さには、ただただびっくりするばかりであった。
六本木では、どの道もこれからラッシュを迎える時間だ。今が普通の町の朝に当たる。活気が注入されて行く。
スカートが揺れると、ひだ飾りのついたお尻が見える。しかし、ここではごく当たり前で、じろじろ見る者はいない。どんな服装でも、全裸でない限りは許されそうな、自由な雰囲気が、みるみる街中に充足して行くようであった。
そのスナックは、マンションの二階にあった。はっきり『お嬢さまのクラブ アフロデイト』と、ピンクの看板が出ており、入りロの柱に小さく、『男性のお客様はご遠慮願います』と、墨で書いた紙の札が貼りつけてあった。
重い扉をあけると、中は薄暗いが、まず女だけの世界であることを示す、濃厚な香料の匂いが、甘く、重ったるく漂ってきた。
男装の麗人という、やや古めかしい言葉がいかにもふさわしいような、燕尾《えんび》服を着て、頭の後ろを短く刈り上げた、マスターらしい女が、ベティ・時田を見る。
「わあー、なつかしいわ。おばちゃま、今日は一曲歌ってもらえる?」
といって、しっかり抱きしめ、頬をすり寄せてきた。
「このごろは、私、女の子にも手を出してるんだよ。男よりずっといいもんね」
「そうよ。男なんて最低よ。ケチで、スケベーで、汚らしくて」
それから二人に向かって、マスターはいった。
「ようこそ。このアフロデイトへ」
カウンターへ三人並んだ。ベティの小声の指示で、二人のケイコは、両側からベティを挟むようにして並んだ。
甘いリキュールを主体にしたカクテルが出され、それをチビリチビリなめながら、ベティは小声でいう。
「私たちはできているんだから、もっと体をくっつけて、親しそうにして。ときどき、頬をつけたり、キスしたり、そっとお互いに胸に触ったりしなくてはだめ。それでいて、ホモやレズは浮気で、すぐ違う相手を見つける。これがヘテロと違うところよ。お互い対等で、誰にも支配されないの。
だから二人とも、私とそんなことしながらも、店の中をゆっくり見回して、こちらにサインを送ってくる人がいないか、探していいわよ」
ヘテロという言葉の意味は、最初は分からなかったが、きいているうちに、どうやら普通の男と女の性愛のことらしいと分かった。英検二級や、警察にいるだけでは、覚えられない言葉だ。
二人が、ときどき交互にベティと頬ずりしたり、ベティの指先が、どちらも二つずつ、固くふくらんでいる二人の胸の上を巧みに這い回るのをじっと我慢したりしながら、チラチラと店の中を見回した。
店の十幾つかあるボックスは殆ど満席で、女同士がどこでもしっかり抱き合っている。頬ずりや、体中を撫《な》で回したりするのは当然で、中には舌を熱くからませ、お互いのブラウスやスカートの下に、手をもぐりこませて喘《あえ》いでいる者もいた。
いくら女だけの店とはいえ、この日本で、こんなことが許されているのは以《もつ》ての外《ほか》だと乃木には思えた。アディダス・マークのバッグの底に入れてある、女子警官用の制式拳銃のコルト自動を抜き出して、十二発の弾丸のある限り、全員のハートの真ん中に撃ち込んで、ぶち殺してやりたくなった。
「そんなきつい目で見ないの。もっとうっとりして見回さないと、バレるわよ」
すぐベティに注意されて、乃木はあわてて丸い目をとじて、ベティの頬ずりを受けた。
そのとき一斉に、男役のホステスと、男装のスラックス姿の客が立った。妙なリズムの音楽が鳴った。これは、ロックやサンバに詳しかったつもりの乃木でも、ちょっとすぐには分からないリズムだが、ここへ来て、五歳の年の差は大きい。お稽古《けいこ》がすかさずいった。
「あら、ランバダだわ。これがそのリズムなのね」
男役が一列に並んで立つと、今度は短いスカートの女たちが、パラパラと席を立ち、男役がつき出した右|肢《あし》の腿《もも》にまたがるようにして、しがみついた。パンティーの中心を、男役のスラックスに押しつけるようにして踊り出した。
腰をくねくねとさせ、性感そのものを楽しんでいるようなダンスだ。こんなダンスが許されていいものだろうか。乃木の心は、また羞恥と怒りに震えてきて、殆どバッグの中のピストルへ手が伸びそうになったとき、一人の外人が寄ってきた。
「べティ、このカワイコちゃんたち、どこから拾ってきたの」
女の外人は、どちらかというと、男役《タチ》の大柄な体付きをしている。そしてその目は、今宵のお相手を見つけたがっているような欲情に光っていた。
ベティは、その外人の女に答えた。もうこのへんになると、英検二級では半分も聞きとれない。
「スカッシュで拾ってきたのよ」
「私もスカッシュやるわ。でもまだ二人ともホールで見たことないわ」
そういいながら、半分体をねじ曲げて、自分のスカートをたくし上げ、お尻のあたりを少し見せた。その外人女も、レースのひだ飾りが真珠色に光る、シルクのアンダースコートをつけているのが一瞬、チラリと見えた。
ベティは、ごく平然と答える。
「二人ともやり始めたばかりなのよ。どうせやるなら、最初にいい先生につきたいと思ったらしいの。テニスの世界チャンピオンのナブラ・テレスコワさんがいるときいて、探しているの」
「ナブラとは、私は直接話したことはないから、どこにいるかよく知らないけど、いつもナブラの相手をしている女なら知ってるわ。マダム・チャペックよ」
どこかで聞いたことのある名だ。二人とも、一瞬表情が変わったが、すぐ抑えた。さっき、昼寝に入る前、六本木署長に連れてこられた男は、たしかチャペック二等書記官といった。
しかもチャペックは、ナブラを自分の妻といった。彼女が亡命者なので、正式に結婚できないのだといっていた。それなのに、もし正妻がいるのなら、ナブラは一体どんな立場になるのだろう。
いろいろとききたいことがあるが、しかしここで、刑事根性むき出しで、この外人女にきくわけにはいかない。
それに英検二級では、そこまでの会話力はおぼつかない。本当に、あのとき津田塾大に入った、自分よりずっとブスの友達が、殺してやりたくなるぐらい、また憎らしくなった。彼女なら、上手に話しするぐらいの力があるだろう。
ベティ・時田は、かつては六本木の女王といわれた女だ。麻薬で半分ぼけていても、まだこういうときの捌《さば》きは上手だ。
「この二人のカワイコちゃんを、マダム・チャペックに会わせてくれる?」
「OK。彼女がスカッシュを終えてからゆっくりする店をよく知っているわ。
それに今、彼女は夫のいる官舎には戻っていないのよ。ホテルで寝泊まりしているの。最近、チャコルから出てきたら、夫にアメリカで女ができていて、日本でも一緒に暮らしているのが分かって、そのまま官舎を飛び出して、ずっとホテル住まいよ。そこでやたらにブランド物を買っては夫に請求書を回して、贅沢しているの」
何だか、この線でもう犯人が見えてきそうな気がしてひと安心したら、少し早かった。
「でも、無料奉仕はいやよ。その二人のうちどちらかが、私のお相手をしてくれるという約束でなくちゃ」
[#小見出し]  女性の下着への考察(その四)戦後の流行
戦後の女性の下着は、戦前と一変した。
たまに運動などのときには、今は提灯ブルーマーと茶化していう、裾がゴムで締められている、ふくらんだ下ばきを用いることもあるが、現在この形は、全く無くなった。
語感も悪いズロースという下着は、地方のスーパーに、幼児用か、逆に老人用に残されているだけで、殆ど全部が、裾口をゴムで締めていないパンティーに変わった。しかしこういう物は、使っている中《うち》に、また語感が新しい羞恥心を伴ってくるので、形も小柄になってくると共に、パンティーは段々、短いという意味の、ショーツという言葉に変わっていくようだ。
もっともあるデパートで、ショートとショーツと二通りに分けて売っており、その差を問い合わせてみたが、正確には答えてくれなかった。
4[#「4」はゴシック体]
もう夜中、女はすっかり乃木を気に入り、もうこの子は自分のものになったということが決まったかのように、嬉しそうに抱きしめながら、何度もキスし、頬ずりする。エレベーターに乗って二人だけになったときは、それまで耐えに耐えていた欲情が爆発したかのように、体中を震わせて、しがみついてきた。
エレベーターの中だからよかったが、これが道ばただったら、いくら夜中の六本木でも、通りすぎる人に、色情過剰の女として変な目で見られたろう。
「マンジェルカ・チャペック」
チャコル語で自ら、チャペック夫人と名のるこの女は、欲情が酒を呼ぶのか、酒が欲情を深めるのか、もう正体もないほどに酔っている。
そして乃木がたどたどしい英検英語で誘った、『私とホテルへ行って、楽しいことしましょう』という言葉を、頭から信じている。こんな可愛い丸い目玉をした小娘が、自分を裏切ることがあるなんて、考えてもいないようだ。
酒臭い口のキスに閉口しながらも、この策略に、乃木はかすかに胸が痛んだ。だがこれが、捜査に当たる、自分にあたえられた任務だから仕方がない。今、お稽古《けいこ》の方は、あの大柄な外人女とホテルヘ行って、まだ男の抱擁を知らない浄《きよ》らかな裸身を抱きしめられ、多分、死ぬより辛い思いを必死になって耐えているはずだ。このぐらいのことで迷ってはいられない。お稽古を窮地から救うためにも。
三階でエレベーターが止まった。これより上はない。扉があいて、しばらくは待っている。ホテルに着いたものと思って、身もだえしている抱擁からやっと体を離し、後ろを向いて一歩部屋へ入りかけた。
夫人は、最初はもうろうとした目で中を見ていたが、視線が固定して、その中に大勢の男がいると知ると、突然、ハンドバッグの中に手を入れ、ピストルを抜き出そうとしながらチャコル語で、
「あなた、騙《だま》したのね」
と叫んだ。
夫人の、ピストルを持った手は、入り口に待ちかまえていた進藤デカ長によって、しっかり押さえられた。鍛え上げられた合気の腕で握られると、ピストルはそのまま床に落ちた。はずみで安全装置が外れた。
弾丸が一発、床を這ってテーブルの下をくぐり、向かいの壁にぶつかってめりこんだ。
手を把まえられた夫人は、何やらチャコル語でわめき出した。彼女の視界には、奥の方のテーブルに、青ざめた姿で坐っている夫のチャペック二等書記官の姿が、はっきり入ったはずだ。体をねじり、握られた手のまま、スカートの肢《あし》を蹴り上げて、進藤から逃れようと、猛烈な抵抗をし出した。
そう短いスカートではないが、はっきり進藤の股間を狙って蹴り上げる肢は、フリルのついたアンダースコートが、派手に丸見えになるほど、高々と上げられる。
「おっとっと、危ない、危ない」
進藤はこんなことには馴れているから、その手首をねじ上げて背中に持って行って、身動きできないように、締め上げた。
夫人の前に、一人の日本人の若い男が出てきて、彼女が考えてもいなかった、モルドウ訛《なま》りの鮮やかなチャコル語で話しかけた。
「マンジェルカ(マダム)、お待ちしていました。ほんのしばらくお話をきくのを許してください。まず、おいしいコーヒーでも」
夫人はしばらく、信じられない奇跡でも起こったときのように、びっくりしている。
岩崎は進藤に、『夫人を、夫の前に坐らせて、酔いざましに濃いブラック・コーヒーを下から取りよせて飲ませなさい』と命令した。それから、乃木にきいた。
「お稽古《けいこ》は」
「今、この夫人のいたスナックを、あるレズ女に教えてもらうのと引き換えに、その女の愛を受けることを承知して、ホテルへ入りました。ただお稽古は、よそのホテルヘ行くのは怖いと頑張って、これまで私たちが午後の時間、予め寝だめするために使った、リージェントホテルの部屋へ、二人で入るといってました」
「六本木署に電話して、署長と婦警さんにいって、助け出してもらおう」
婦警さんと一緒に、が気になったが、個人の我儘《わがまま》はいっていられない。黙ってうなずくと、岩崎警視正は、すぐに六本木署に電話をかけた。
「高橋君かね。婦警さんとアベックで、リージェントホテルヘ入り、強引に七一〇号室をあけてもらって、外人女に急いでドレスを着させて、外へ追い出しなさい。日本の娘の保護者だとか何とかいって。もし女が文句をいってわめきたてたら、尻を蹴飛ばして、廊下へほうり出せ。私が、ホテル側には、これは殺人事件の捜査だといっておく」
きびしい声での命令だ。若干気に入らない点もあるが、これでお稽古はいやらしい変態外人女から救われる。乃木はほっとした。
二人のチャペックが向かい合っているテーブルに警視正は行くと、チャコル語できいた。
「さて、昨日のことをききましょうか」
岩崎警視正の、チャキチャキのモルドウ訛《なま》りのチャコル語に、二人はしばらく気をのまれて黙っている。だが突然、夫のチャペック二等書記官は、両手を拡げ、全身でわめき出した。
「私はこの女が何をやったか知らなかった。ただ、今朝、ナブラが死んだときいて、私は確信した。この女が殺したのだ。絶対、そうに決まっている。
私は公務のため、ナブラに接触した。チャコルが新しい国家として生まれ変わる前に、ナブラをKGBの手で殺させてはならない。ナブラ・テレスコワは、チャコルが民主国家になったときは、体操のチェブリンスカヤと共に、新生チャコルの婦人を指導し、婦人の票をまとめる女だ。彼女のために、有力な政府役員のポストが用意されていた。私は国家のために、彼女を保護していたのだ。
それを、私がナブラと同じ屋敷に住んでいるのは不倫な愛のためと誤解し、今、外貨が無くて、国民の外国渡航にもきびしい制限をしているというのが国家の実情なのに、一人で勝手にやってきて、ホテルに泊まり、貴重な外貨を浪費して、自分では払わず、請求書を私に回して苦しめている。面白おかしく遊び回りながら、ナブラに接触して、とうとう嫉妬のあまり殺してしまったのだ。おまえという奴は……」
体をぶるぶる震わせて、指をまっすぐ突き出す。チャコル語を一つも知らない刑事さんたちにも、この二等書記官が、自分の前にいる夫人を指さして、犯人だと指摘していることがよく分かった。
警視正の表情は変わらない。氷のように冷静だ。いつものように、人の心の奥までひやりとさせるような眼で見ているだけだ。
夫人の表情は、外で見ていてすぐそれと分かるほど、よく動いた。初め青ざめ、やがて全身から怒りがわき起こるように、真っ赤になった。
夫の言葉が終わると同時に、忽ち機関銃戦の応酬のように、夫人が立ち上がり、腕を前に突き出したり、自分の胸を固く抱いて身をゆすぶったりしながらわめき出した。
「何よ、殺せといったのは、あなたじゃないの。役目のため、接触しているなんていっても、私の目はごまかせないわよ。私たちは、教会で式をあげた正式な夫婦よ。どんな女も、その間に割りこむことはできないわよ。
私がチャコルから飛んできたら、あわてていったじゃない。今、ここで派手な夫婦喧嘩して上司に知られると、近く一等書記官に昇進するのに邪魔になる。俺にとっても、今はあの女は厄介者だ。おまえが誰にも分からないように、あの女に近づいて、隙をみて殺してくれれば助かる。後は大使館特権で、必ず何としてでも事件を揉《も》み消してやる。二人の愛を元に戻すのには、これ以外ないと、優しく抱きしめながらいったじゃないの。大嘘つき」
その怒り方の物凄さに、乃木は驚いて物もいえない。とても日本人の女では、そこまではやれない。岩崎は相変わらず、氷のような眼で二人を見ているだけだ。
同じ三階に同席している捜一の刑事たちは、この外国人夫婦の、すさまじいどなり合いにあてられてしまったようだ。呆然として見ている。チャコル語が分からなくても、二人がどんなことを言い合っているかが分かるほどだ。
二人はそれぞれ思い切りどなり合うと、今度は、肩で荒い息をしながら、お互いに憎悪に燃えた眼で睨み合った。
かなり長い沈黙の後で、岩崎警視正は、相変わらず冷静な声で話し出した。
「これでお二人の考えは、すべて出しつくされましたか」
二人は同時に答えた。
「そうよ。これがすべてよ」
「私はこの女が殺《や》ったと、神に誓っていえる」
岩崎の声は、音楽でいう通奏低音のように、二人の興奮した声の間を縫って流れて行く。チャコル語の分からない刑事さん連中は、激しい調子の音楽が演奏されているというふうにしか、この言い争いを理解できない。
「只今は、お二人で立派な舞台を務めていただいて、ありがとう」
この意外な言葉に、二人とも一瞬びっくりして、まじまじと岩崎を見た。岩崎の落ち着いた語調の言葉は続く。
「チャペックさんは外交官だ。マダムも外交官家族だ。外交特権は、二人の身柄拘束や、拘留を禁止している。
裁判を請求して、証人として出廷してもらい、有罪と決定した場合のみ、日本の刑法で裁くことができるが、この場合も、書記官が日本に滞在して裁判に出廷し、通訳と弁護士をつけて、正当な弁明をした後で、両国で交渉をしてからということになっている。その前に、証人が日本からいなくなっては、この裁判は成立しない。だから私は、二人を法廷で裁くことは無理だと信じている」
二人の顔には、心なし、安心の表情が生まれたようだ。ただ、信じられないほど上手にモルドウ訛《なま》りの言葉を話す、この若い日本の警察の指揮官に、まだ疑いの目を向けている。
「私も法律を学んだが、特に国際法は、今、最高裁判事になっている方に、直接ゼミナールを受けて、よく叩きこまれた。お二人が、やがて途中でこの国からいなくなることを前提として、今のお二人の芝居は成立した。ところが、日本の警察は、そんなに甘くないことを、祖国へ帰る前に知ってもらうため、私が考えた、この事件の真相を申し上げたい。
殺人に開しては、実行者は夫人であり、命令者はご主人と思うが、実は二人とも、もっと大きい筋からの、きびしい指示を受けておられる」
二人とも、ギョッとしたように岩崎を見た。何か急所を突かれたような感じだ。
「その命令を出した人が誰かは、個人の名誉のためにいわない。これは推測にすぎないからだ。ただ、殺人の常識としては、ナブラに生きていられては困るんだという答えが自然に出てくる。大統領は一人しかいらないからだ。それは、チャコルが新しく民主国家になったとき、国民の賞賛を、彼女と二人で分かち合わなければならない女のひとだとだけ申しておく」
向かい合った二人の男女の顔は、凝然として凍りついたようになったままだ。
「これ以上は、私たちはお二人の身辺を追及しようはない」
岩崎の言葉は、淡々として抑揚がなく、全く冷静に続けられる。二人の表情は、またいくらか安心したように、少し和らいだ。だが、心の底では、まだこのチャコル語のうまい日本人の猿は、信用できないぞという疑いの念が去らない。
「書記官殿には、正規の外交官を正式な令状もなく、これまでの時間、身柄を拘束するようにして、無理にお引き留めしたことを、心からお詫びする。もし明日から始まる裁判のため、日本に残って証人になっていただければ、もっと有難いことだと希望して、ここで大使館にお帰りいただく。長いことすみませんでした」
にこにこ笑って手を差し出す。書記官も文字通り外交辞令で手を差しのべながら、
「勿論、ナブラは、私の国の大事な英雄です。その死の真相をはっきりさせて、彼女を安らかに天国へ送ってやるために、私は残って協力します」
しきりに手を振って別れを惜しみながらも、自分から立ち去ろうとはしない。岩崎は、知らんぷりをしている。ついに耐えかねて、二等書記官はきいた。
「私のマンジェルカも連れて帰ってよいか」
さっきまで犯人はそいつだと罵《ののし》り合った勢いはどこへやら、少し心配そうにきく。岩崎の冷静、淡々とした表情は変わらない。
「私はこの件の捜査の間に、出入国管理局の書類を大急ぎでファクスで送ってもらって調べた。それには貴下の夫人としては、ナブラさんの名があった。ここにおられる婦人は、入管の書類では独身の女性ということになっている。もし外交特権の適用を主張なされるのなら、日本に於いては、死んだナブラさんだけがその特典を受けられる」
男は、また立ち上がってどなり出した。
「そんなばかなことがあるか。そこにいる女が、たしかに私の妻だ。このイエロー……」
といいかけて、口をつぐんだ。今、日本が経済的に豊かになったので、止むを得ず対等の交際をしているが、彼ら白色人種の心の中には、拭い難い優越感がある。
岩崎がより一層、冷酷な口調でその言葉を引きついだ。
「日本人の中にも、かつてアルゼンチン大使を務めたほどの人で、自分らの民族は醜い猿だ、といった人がいる。だから、イエローモンキーで結構です。ただこの猿は、少し人間の法律を知っている。世界中、今は一夫一婦制で、チャコルに限り、男は二人の正妻を持つことが許されるとは、一九四九年改正のチャコル修正民法にも書いてない。このご婦人の身柄は、一旅行者の殺人容疑者として、拘束します。このご婦人を救うには、あなたが日本に残って、証人として裁判に出てもらうより仕方ない」
「くそっ! この猿め、思い知れ」
およそ外交官としては考えられないような悪態を、彼はドイツ語でついた。戦時中は、ずっとナチス・ドイツの支配下にあったので、今でもドイツ語を使えるものが多い。みなミュンヘン訛《なま》りだ。
この、チャコル語がばかうまい日本人が、まさかドイツ語まで知っているとは思わなかったのだが、岩崎警視正は、今度は同じようなミュンヘン方言を主体にしたナチス訛りの強いドイツ語で、丁重に答えた。
「ともかく、大事な奥様を殺人の罪から免責して、お国へ連れてお帰りになるには、このまま大使館へお戻りになって、大使閣下によく事情をお話しの上、裁判にずっと証人として出ていただくより他はありませんね」
一瞬、信じられないといったように、この日本人警察官を見ていたチャペック書記官は、これではとてもかなわないと思ったのか、今度は丁重に握手をし、礼の言葉をいって出て行った。
入れ違いに、あいたエレベーターから、六本木署の高橋署長と若い婦警に抱きかかえられるようにして、峯岸婦警が戻ってきた。乃木もほっとした。彼女を犠牲にして、自分だけ帰ってきたような、いくらか後ろめたい気持ちだったからだ。
峯岸婦警の目は、さんざん泣き腫らした後のように、真っ赤にふくれ上がっている。
岩崎警視正が、
「お稽古《けいこ》、ごくろうだったな」
というと、突然、峯岸婦警は、乃木の夫の署長も若い婦警も突き放すようにして駆け出してきて、『わあーっ!』と派手に泣き声を上げながら、警視正にしがみついた。
そして、その胸に頭髪をうずめて、泣きじゃくる。
そうなると、乃木はまた面白くない。ここまで連れてきてくれた、夫の高橋署長を突き飛ばすようにしたのは、まあ、非礼とはいえ許せる。だが、いくら変態女にいやらしいことをされたからといって、大事な純潔を奪われたわけでもあるまいし、自分一人が殉教者面して、みんなの岩崎親分にしがみついて泣いているのは、少し行きすぎだ。
もし親分の方も、こんなお稽古に同情して、髪の毛でも撫でて、『よしよし、泣くなよ』なんて甘い言葉をかけたら、断じて許さないからと、丸い目玉をさらに真ん丸くして、睨みつけた。
そこはさすがに親分だ。そういう甘いところは見せない。すがりつく稽古の体をそっと放してからいった。
「お稽古も乃木も、制服に替えなさい。さっき六本木署から借りてきている」
それからみなに厳然としていった。
「もう二時間したら夜が明ける。朝の一番は、六時三十分のフランクフルト行き、ハンザ航空だ。書記官は、ともかくそれに乗るだろう。ここに残ってはいないよ。妻がどうなろうと、外交官は何事もなく祖国へ帰らなくてはならない。我々はすぐ出発して、彼をみなで見送ってやろう」
乃木と稽古は、部屋の隅で制服に着替えた。
きちんとした衝立《ついたて》がなかったので、下着まで替えるわけにはいかない。結局、六本木署から借りてきた、ややゆる目の制服の下には、ひだ飾りのついたアンダースコートをまだつけたままで、変な気分であったが、それで出発することにした。
何しろ時間がない。
チャペック書記官にしても、日本のモンキー同様の黄色い男たちに、身柄拘束の屈辱を受けたくはないだろうから、六時半の一番のハンザ航空に飛び乗ることに全力をあげるだろう。
今は四時。二時間の勝負だ。
岩崎の電話で、いつも使いつけのハイヤー会社から、五台の大型車が入った。
「これは、私の個人的な趣味の範囲に入ることだからね、パトカーでサイレンを鳴らしては行かない。しかし、大筋でいえば公務だ。自動車電話で、途中の通過地区の警察の交通課へは根回ししておくが、もし間違って、スピード違反でパトカーに呼び止められたり、白バイに追跡されたら、いつでも手帳を示して、公務であることを強調しなさい」
そう全員にいい、インド料理屋の前に停まった五台の車に、岩崎以下、刑事たち全員が乗りこんだ。
まだ呆然としている書記官夫人は、六本木署の高橋署長に任せて、しばらく六本木署で身柄を預かり、正式な逮捕状請求をするようにさせた。
そして一切の手配が終わると、先頭のハイヤーに乗った岩崎がいった。
「運転手さん、成田だ。高速へ入ったら、いくらスピードを出してもいいからね。交通違反で検挙されることはない。根回しはすんでいる」
五台の車は、すぐ近くの霞が関インターから高速へ入り、まっすぐ成田へ向かった。
どこでチャペックを抜いたか、それは分からない。空港へ着くと、空港長に話をつけて、岩崎以下十人の刑事と、二人の制服の女子警官は、入管事務所を通り抜け、出国者の待合室へ入った。
そこは一応、形式としては日本の領土ではない。入管を通りすぎた後は、国外だ。
既にパスポートを示し、スタンプを押してもらって、出国手続きを終えた旅客たちが、一番のハンザ機に乗るため、続々とやってくる。
出発十五分前。六時十五分。
五、六人の仲間に囲まれた、長身の男が駆け出すようにやってきた。そこに並んで立っている、いかにも刑事らしい男の群れに、ギョッとして立ち止まった。二人の制服の婦警もいる。足が止まり、何かいおうとして口が凍りついて何もいえないでいるチャペック二等書記官に、岩崎は丁重にいった。
「どうぞ、ご無事な旅を。お見送りに来ただけです。ここは日本の警察権の及ばない地域ですから、もう安心です。さあ、遅れないように急いでお乗りください。乗ったらたまには、日本で殺人犯にされて一人で残される、哀れな奥様のことを思い出してやってください」
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[#見出し]  空飛ぶ大根
[#小見出し]  中国語について(その一)
北京語
中国は、日本の二十六倍もの面積を持ち、十倍の人口を持つ大国である。
日本のような狭い国でも、純粋な鹿児島弁の老爺と、純粋な青森弁の老婆とを向かい合わせてしゃべらせたら、まず、お互いの意思は全く通じないだろう。中国は国が広いだけに、その差がもっと大きく、各省ごとにほぼ外国語と断じてよいぐらい違う言葉を使っている。
北京語は、北京周辺で使われる言葉にすぎないが、官庁用語で公文書に採用されていて、政治家や学者などの演説には、なるべく使うようにしている。
しかし日本の標準語ほど、全国民に普及しているわけではないので、各省のテレビ、映画などは、声を吹き替えるか、漢字の字幕をつける。幸いなことに、音《おん》は違っていても、文字が共通の言葉が多いので、字幕で大体の意味は通ずるのである。
1[#「1」はゴシック体]
少し春が早いかなと、人々は噂している。
三月に入ってから、いつもの年より急に気温が上がってきて、花が咲き始めた。この分なら、桜は大分早いのではないかと、もう三月に入る前に、新聞などに開花の予測が出たほどだ。
警視庁の六階の捜一の部屋にも、春はやってくる。たとえ、秋霜烈日《しゆうそうれつじつ》という言葉で形容されるような、きびしい威厳を以《もつ》て常に殺人犯に対処する捜査一課の猛者刑事《モサデカ》さんたちにとっても、春は春だ。
特に目立つのは、今は六本木署長に転出した高橋一係長と結婚した、乃木圭子だ。突然綺麗になった。今は、新宿にある実家のすぐそばの、四谷と市ヶ谷の境目の所にあるマンションに、二人の愛の巣がある。
彼女は、旧姓のままで勤務する夫婦別姓を認めてもらい、以前と同じデスクで、同じように、岩崎警視正の側近兼秘書役を務めていて、表面は何一つ変わっていないのだが……。
結婚というのは、女性の体を根本的に変えてしまうものらしい。これまでかたくななつぼみだった花弁が、春光をあびて一度に開いたように、乃木の体全体が、みずみずしく光輝いてきた。何気ない動作にも、つかつかと姿勢を正して歩く姿にも、女の幸せが一杯に満ち満ちた輝きが、あたりにまきちらされる。
岩崎警視正も、ときどき、ひょいとした彼女の動作に、以前と全く違うお色気を発見して、女とはこんなものかと感心することがある。決して句口に出したことはないが……。相変わらず端然として、デスクに坐っている。
その警視正のデスクの上には、今年に入って急に増えてきた、外国人同士の傷害、殺人、強窃盗などの犯罪記録が山積している。それを分類して、これまでは主に日本国では日本人だけであった、犯罪記録のコンピューターに、デスクの端末から鋭意入力しているのだ。
このごろは、庁内でも一種の嫌煙運動が勢力を持ってきて、かつては自由だった勤務中の喫煙も、なるべく一定の場所で、決まった時間にするようにと、改善指導されてきた。
しかし、岩崎警視正は、|てん《ヽヽ》からその風潮を無視している。デスクで、コンピューターの端末にデータを入力するときは必ず、上質の葉巻を横ぐわえにし、流れる煙に目をしかめながら打ちこむ。
殺人だけをこれまで専門にやってきた岩崎警視正の経験によるカンで、コンピューターにデータを打ちこめば打ちこむほど、物いわぬ機械が彼にささやきかけてくる声がきこえてきた。
それは次のような声だ。
『やがて東京の殺人事件の相当部分が、近隣諸国人がしかけてくるものか、近隣諸国人同士の間で行われるものになる』
機械のディスプレーが直接そう指示したわけではないが、データは、テレビの選挙速報が、開票一パーセントの段階で、もう当確を早々と打ち出してくるように、それを物語ってみせる。新しく打ちこむのを中止し、思い切って機械にきいてみた。
「サツジン、ハンザイヲ、ナンパーセントノカクリツデ、カレラハオコスカ」
将来の判断を示させられるときは、コンピューターは過去のデータをすべて掘り起こし、年度ごとの発生増加率を出して、将来ヘカーブを描く。これはコンピューターが最も得意とする分野で、どんなに鋭く明晰《めいせき》な頭脳でも、とても人間が太刀打ちできない能カを発揮する。
それでも、返事が入ってくるまでに二秒、というコンピューターにしては、異常に長い時間がかかったのは、32ビットの全能力を振りしぼり、何万ワットもの電力をむさぼり喰い、機械全体が身をよじらせるほどの苦しい計算の後で、息も絶え絶えになって答えを送ってきた証拠で、警視正にはその努力が察せられた。
「ショウガイトセットウハ、三十四パーセント。サツジンハ、三ネンイナイニ、二十パーセントヲコエル」
これはえらい数字だ。蛍光色のディスプレーの字は、帝都に於ける殺人事件を絶滅させようという悲願を持つ岩崎警視正には、喉元にナイフを突きつけられたような思いのする数字だった。
もうのんびりデータの打ちこみなどやっていられない。将来の捜査一課のためにも、早急に対策を講じなければならない。
「ソノタメニ、ワレワレハ、ナニヲナスベキカ」
この答えは瞬時に返ってきた。コンピューターにとっては、最も容易な設問であったようだ。
「ケイジニ、カントンゴヲ、シュウトクサセヨ」
そうか、と世界の状況に詳しい警視正は、すぐ納得した。彼自身は、世界の国のあらゆる言葉ができる。しかしもし、豊島区池袋を中心とする、外国人の多数が在留する地域に犯罪が今後多発するとしたら、これまで万能語と考えられていた英語や北京語では、殆ど役にたたないことは、もう実験ずみだ。
しかし、広東語は発音がやたらに難しい。うちの猛者《モサ》さんの中に……と、改めて見直した。
今、管理官という職責にある、警視正の岩崎|白昼夢《さだむ》は、捜査一課の強行犯(殺人犯)係が九つある中の、一係と二係とを指揮監督している。彼の机に向かい合うように、その部下、四十人を少し超す猛者刑事《モサデカ》さんたちが、じっと命令を待って、いつでも飛び出せる態勢で坐っている。
みな、本庁のデスクでの待機(これを庁内の言葉で、在庁勤務という)が大嫌い、一刻も早く現場へ出たくて、出発用ゲートの中に入れられた競走馬のように、気負い立っている感じだ。
それはそれで甚だ頼もしく、殺人犯絶滅の悲願達成に一路|邁進《まいしん》している警視正としてはありがたいことだが、さて、これから発声法が一つの言葉に九つもあるといわれる、世界の言葉の中でも特別に難しい広東語を学ばせるとしたらと、一応ゆっくりみなの顔を睨み直して考えた。
犯人を追及したり、調べ室でおどしとすかしで白状《ゲロ》させたり、細かい証拠を見つけ出して犯行を固めたりするのなら、それぞれ得意の専門があって、選り抜きの猛者さんたちだが、難しい語学習得の研修に出すとなると、はたと考えこんでしまう。
少なくとも、一番のインテリは、と考えているうちに、二係の猛者たちの中に坐って、ごっつく太い指で、書きにくそうに日報にペンを走らせている、花輪陣内刑事に視線が止まった。
刑事にしては珍しく読書家で、赤河二郎から草枕漠、熱血山田のポンチャンこと山田永美なども読んでいる。新しい文学が分かる男だ。
ただし風貌は、一見鈍牛のように冴えない上、出身地が北秋田の花輪村、既に東京の本庁に奉職して十年以上になるのに、生まれつきの訛《なま》りが全く抜けない。これはこれで、面《つら》の皮《かわ》が千枚張りの、常習の強姦《ごうかん》・殺人犯を落とすのに、ひどく迫力があって、効果が出る。
ただし、岩崎警視正が志村みずえ警部補と結婚した直後は、乃木刑事がなぜか、この花輪刑事と親しくなって、一時は二人が結ばれるんではないかと、岩崎も思っていたが、去年、乃木はあっさりこの花輪を振った。そして当時一係長だった、東大出のエリートの高橋警視と結婚してしまった。
だから花輪は、本当なら失恋してかなりの衝撃を受けてヤケになるところだが、相変わらず鈍牛のように、一つも心の動揺を見せず、黙々として勤務している。
考えてみれば、広東語は北京語と比べれば大いなる方言だ。純粋な東京人が、いくら学んでも本当の秋田弁がしゃべれないと同様、北京語から入った外国人は、広東語に習熟できないときいている。どう考えても、花輪刑事以外に研修の適任者はいない。
「花輪、ちょっと来てくれないか」
そう岩崎はいった。滅多なことでは、直接部下個人に話しかけることのない親分だ。
「はい、ただ今」
立ち上がって目の前に来た。肩幅が広く、胸も腰も厚く、鈍牛そのままだ。
「貴君には、一カ月ばかり語学研修に出てもらいたい」
ともかく、どこでどう話が決まったのか、その一時間後には、花輪陣内は、東京駅から久里浜行きの、横須賀線のグリーン車に乗ってていた。
三浦市|毘沙門《びしやもん》町藤村朱実というのが、その広東語の先生の名である。
三浦という地名には、少し甘酸っぱい、そして悲しい思い出が花輪にはある。乃木との仲が順調に行っていた一昨年の夏は、京浜急行に乗って、二人で二度ばかり三浦海岸まで行ったことがある。そのときの大胆なビキニ姿の乃木の肢体は、まだ心の奥に、深く焼きついている。
毘沙門という町に行くには、京浜急行と横須賀線の、二つの方法があるときいたとき、即座に横須賀線と決めたのも、今は思い出となったそのことを、少しでも避けたい気持ちからであった。
幸い横須賀線には、まだ花輪が乗ったことのない二階車輛がついていた。グリーン車だが、岩崎管理官の命令による研修だから、普通車で行くようなケチなまねはしなくてすむ。
高い座席から、沿線を眺めて走る一時間半の電車の旅は、なかなかいい気分だ。
つまりこうなったのは、まず花輪を自分のデスクに呼びよせて、広東語の研修を受け、一カ月以内に簡単な日常会話ができるようになれ、と無理な厳命を下して承知させた上で、
「さて、先生だが」
と、あわてて岩崎は考えたらしい。それまでは、外語大学の聴講生にするか、横浜中華街のコック見習いにするか、とか様々な考えが、岩崎の頭の中でコンピューター同様の早さで駆け巡ったらしかったが、突然、何かハッと思い当たるふしがあったようだ。
香港を基地とするキャタイ航空という会社がある。そこには日本人のスチュワーデスが何人かいて、みな上手に広東語を話すはずだ。
今、乃木に冷たく振られて、この男の内心は寂寥《せきりよう》とした淋しさに満ちているかもしれない。スチュワーデスなら、どうせ若くて綺麗に決まっている。そういう女性に教えてもらったら、彼の気持ちの傷もいやされるのではないか。岩崎は、一見冷酷に見えて、内心は優しいのだ。
キャタイ航空に、最近退職したか、東京のデスク勤務に回ったスチュワーデスで、一月《ひとつき》ばかり広東語を教えてくれる人はいないか、と申しこんだ。するとしばらくして、キャタイの支配人から妙な返事が返ってきた。
「その刑事さん、大根を抜いたり洗ったりできますか」
「なぜですか」
「三浦の大農家の娘で、社会勉強のためキャタイのスチュワーデスをやっているのがいるのですが、三月中は大根の収穫期なので、四週間ほど休暇をとって実家へ帰って手伝っています。今、彼女に電話してきいてみたら、大根の収穫を手伝ってくれるなら、一緒に働きながら教えてやってもよいといってます」
岩崎が、その電話を花輪に伝えると、花輪は、
「ンダスな。それなばできるす」
自信たっぷりに答えた。
終点の久里浜で降りてタクシーにきくと、毘沙門の藤村家ならすぐ分かった。
海岸に向かって、高台が続く畑地を走りながら、運転手は話しかけた。
「藤村家なら、三浦半島一番の大農家です。宅地にしたら、坪何百万円の土地を何万坪も持っていて、兄と妹の二人で、全部、大根を植えています。収穫期には、六百箱積んだトラックが、何十台も東京へ出るほどです」
大根畑は、花輪の故郷の秋田にもある。春先に花が咲くころは、大根畑にアベックで横たわって恋を語る習慣があったというのは、もう爺ちゃん婆ちゃんになった年寄りの昔話だ。今は、農村に若い人は残らないから、花輪も見たことはない。そんなことを考えたのは、たしか石川木の歌にでもあったからか。
しかし、車の両側にずっと続く、緑の大根の葉はみずみずしく、花輪は久しぶりに故郷を思い出した。今さら秋田の田舎に戻るのはいやだが、せめて嫁さんは、あんな乃木みたいな冷たい東京っ娘《コ》でなくて、土の匂いが分かる質実な女をもらいたいものだなと、考えたりした。
故郷では、畑の真ん中に小川が流れている。収穫期には、まだ水が冷たい。小川に堰《せき》を作り、そこで主に女たちが取ったばかりの大根を洗う。花輪が小学生ごろまでは、まだ村にかなり娘さんが残っていて、モンペに、ほぼ太|腿《もも》がかくれ、胸に前垂れがついている長いゴム長をはいて水に入り、タワシで泥を落としていた。
中学生ぐらいのときは、モンペが無くなり、ジーンズに派手なセーター姿になった。
そのうちに、娘たちの姿は、農村にいなくなり、高等学校に入るころには、婆ちゃんや中年のかあちゃんたちだけの仕事になった。
「藤村さんの家の、誰に会いに行くのですか」
詮索好きの運転手がきく。
「何でも、朱実さんという名の女の人だ」
「そら、あんた、大変な人に会いに行くのですね」
「なぜかね」
「ここらの人では、滅多に話しかけられない娘さんですよ。何しろ、ミス横浜、ミス三浦海岸、その他、ミスと名のつくタイトルを十以上持っている評判の美人でね。今は、何でもスチュワーデスになって、ヨーロッパや中近東を飛び回っているという話だが、はて、家にいるんじゃんか」
と、運転手も思わず方言が出る。花輪もつられて方言で答えた。
「たしかいるだべ。さっき当人の電話さ、きいたばかりだでよ」
小川はたしかに畑の真ん中を流れている。その畔《ほとり》に小屋があり、モーターが唸り、沢山の大根が自動回転ブラシの間をくぐり抜けて行く。そのそばで、ほっそりしたジーンズに薄茶のセーターの、背の高い娘がスイッチ盤を操作している。車を降りた花輪が、おずおずときく。
「このへんに、藤村朱実さんという方が」
「ああ、朱実は私よ。あんた、警視庁の捜一の方ね」
[#小見出し]  中国語について(その二)
上海語
中国の政治の中心は、明、清の王朝以来、近代の各政府まで代々北京だった。しかし商業の中心は、上海だった。自然、国内の大きな商工業者は、その流通の範囲を上海語で統一させた。
もともとは、呉、越の抗争で知られている、古い呉の時代から続く言葉で、北京語と比べると全く外国語同様、そばに字幕がなくては会話は聴取不可能だ。
根本的に発音が違う上、同じ漢字でも意味が違うこともあり、頭が混乱する。特に大きな違いは、北京語は、すべての漢字を四声、高、上、低、下の四つで区別するのに、上海語は五声、高、半高、中、半低、低の五声で区別しなければならないことだ。なまじ四声の訓練を受けてしまうと、却って覚えにくいという。
上海語を学ぶ人は、北京語を学ばずに、直接学習に入った方がいい。他の方言も、原則は同じである。
2[#「2」はゴシック体]
広いベルトの上に、大根が次々と置かれる。その仕事を黙々とやっている青年は、顔が似ているので、多分、その朱実というスチュワーデスの兄だろう。
スイッチの具合をもう一度見てから、ジーンズにセーターの朱実は、その場所を離れて、機械の反対側に行った。
まるで育ち盛りの女子中学生の肢《あし》のような、真っ白でつるつるで、少し太目の大根が、すっかり泥を落とし、春先の陽光に眩しいほどの色艶で出てくる。彼女はそれを見守りながらいった。
「今は、うちでは一年中で一番忙しい季節よ。いくら警視庁の頼みだからといって、机に向かい合ってゆっくり教えてあげる時間はないのよ」
「ン、だすか」
「もしどうしても習いたいというのなら、これから四週間、いつでも私のそばにいて、私の仕事を手伝ってくれながらでなくては駄目よ。畑で大根を抜く仕事、やったことある?」
「それだば、村でやったことあるす」
「あんた刑事さんにしてはかなり訛《なま》るわね。でもいいか。もともと広東語ってひどく訛った言葉らしいから」
「ン、だす。よろすく願います」
「耳さえよければすぐ覚えられるわ。でもその恰好じゃ、大根の仕事は無理ね。作業小屋に兄の作業服があるから、それに替えてきてね」
すぐに花輪は小屋に行き、作業服に替えてくる。彼女のそばに立ち、磨き上がって出てくる大根を箱に入れる作業を手伝う。
彼女は作業の手を休めないで、隣でまじめに手伝っている花輪に、早速講義を始め出した。
「広東語の一番の特徴は、同じ音を九通りに発音することよ。私がやってみるから、その通りに発音してみなさい」
まず彼女は、『ア』『アー』と発音した。
昼の食事は、近くのそば屋か食堂に行ってすまそうと考えて、店のあり場所をきこうとしたら、
「何いってんの。うちで一緒に食べなさい。食事のときも勉強よ。ただで作男をやってくれるんだから、食事ぐらい出すわよ」
といって、広い母屋に連れて行かれ、いかにも農家の手料理らしい昼飯を、兄妹と一緒にご馳走になった。ずっと警察の独身寮におり、昼間は警視庁の食堂で定食かカレーライスですませてきていたから、故郷の母の料理に似た、素朴な味が嬉しかった。
しかし、彼女の授業ぶりはきびしかった。食後のお休みもなくすぐに、
「お早うございます、ゾウサン。こんにちは、ネイホウ、よ。これ、北京語だとサオシャンにニイハオ。字は同じでも、耳できいたらまるっきり違うでしょう。九音声を間違えないように自分で発音してごらんなさい」
と、学習させられる。
夕方、あたりがとっぷり昏《く》れるまで、きびしい労働を手伝わされたが、彼女自身がその仕事を脇目もふらずやりながら、耳と口は、専ら彼の広東語の教習のために使ってくれているのだから、彼もそばで一緒に、口で発音をくり返しながら、仕事を手伝わないわけにいかなかった。
朝早く家を出ると、横須賀線のグリーンの二階電車に乗り、久里浜からタクシーで、大根畑の真ん中を横切って、自動大根洗い機のある作業場へ通う日が続いた。三月一杯、花輪刑事の日程は、すべてその会話実習と、同時に進行する大根畑での農作業に終始した。
成果は、目に見えて分かる。彼がさまざまの単語を覚え、日常の会話がだんだん出来るようになってくるのに並行して、緑の葉で埋め尽くされていた大根畑が、どんどん平らな土だけの畑に変わって行くからだ。
お早うから始まって、道をきき、名前をきき、食事をし、ホテルに泊まる交渉が出来るようになってくるころには、広い畑の大部分の緑の葉が、土の下の白い根と共に、抜きとられていた。
毎日乗るので、タクシーの運転手とは、すっかり顔馴じみになった。周りの緑の葉がすっかり抜きとられたのを見ながら、運転手はいった。
「何しろ朱実ちゃんは美人じゃんか。この毘沙門町周辺でも狙っている青年が多かったでよ。ところが当人も面喰いで、これまで佐藤浩一か野村弘伸みたいな、背の高いハンサム男しか相手に考えてなかったらしいがね、このごろはそれを諦めて、農業を手伝える実用一点張りの婿さんを見付けたらしいって、町で噂してるだよ」
花輪は、後ろの席から真っ赤になって反論した。
「そら、まちがいだす。わたすは、ただ朱実さんに広東語を教えてもらうお礼に、大根畑を手伝っているだけだす」
「かくすことはないじゃん。ほら」
と、運転手が指さす方を見ると、朱実がしきりにこちらに向かって手を振っていた。
車が藤村家の前に着いた。家の周辺の畑はすっかり抜き取られ、今では周りが広々と見通せる。もしこれが宅地としたら、何十億だろうか。
「町の青年は恨んでるじゃん。喧嘩売られないように、気をつけるがいいだよ」
運転手はそう忠告してから、車を停めた。
「遅れてすみません」
そういって、表に立って待っている朱実に、ぺこりと頭を下げて作業小屋に着替えに行こうとすると、彼女がいった。
「ああ、待って。私が立っていたのは違うのよ。本庁の岩崎警視正という人から、さっき電話があって、着き次第折り返し電話を……」
「すみません」
半分もきかないうちに、すぐ玄関から飛びこみ、廊下の柱についている電話機を取った。
「花輪だす。管理官殿だすか」
「ああ、花輪君か。ただ今、神奈川県警の刑事部長から、厚木で殺人事件があり、緊急の応援要請があった」
花輪は不思議そうにきく。
「神奈川県の事件にうちの捜一が」
「殺されたのが香港から来た男女二人らしい。心中に偽装しているが、県警の刑事《デカ》さんたちが見たところ、どう見ても他殺だそうだ。周囲にいるのが全部香港人らしいが、英語も北京語もまるで通じない。県警には、広東語の分かるのがいない。本庁に問い合わせがきたから、まだ習得中だが、かなり使えるのがいるからと、君のことを推薦しておいた」
「えっ、わたすがですか。まだ……とても」
「黙れ! 日本一忙しい警視庁が、ただ綺麗な娘さんと、楽しく大根の引っ張りっこするために、第一線刑事を一月《ひとつき》も出張させられるか。すぐ厚木警察まで行って、向こうの刑事さんと連絡を取りなさい。できるところまでは自分でやりなさい。どうしても駄目なら、私のところへ連絡しろ。
外国語というのは、横できいている日本の関係者には、誰も分からないのだから、へたでも何でも堂々とした態度でしゃべればうまくみえる。初陣だ。頑張れよ」
それで電話が切れてしまった。心配そうにそばに立っている朱実に、今の警視正の命令をそのまま伝えると、彼女はすぐにいった。
「そうね。今の実力では少し頼りないわね。私、探偵ごっこ大好きだから、ついて行ってあげる。ちょっと待っててね。スーツに着替えてくるから」
奥へ入って、ジーンズに作業用のセーターを、ベージュ色のスーツに替えて出てくる。手早く軽いお化粧もすませている。これまで作業と語学実習で気がつかなかったが、改めて見ると、いかにもスチュワーデスらしい、すっきりした美貌だ。とても三浦の大根とは結びつかない。
「私の車で行きましょう。厚木までは、電車だと乗り換えが多くて面倒だから」
車庫からベンツを引き出してきて、左ハンドルを握りながら広東語でいった。
「快々的―ファーイヤッティ(急ぎましょう)」
一旦、鎌倉まで出て、海岸通りを走る。日本でも一番ドライブらしいドライブが楽しめる湘南道路だ。東京から自慢の高級外車でやってきた若者たちがここへ入ると、制限速度も何のその、待ちかねたようにスピードを上げる。
その流れに入ったとたん、彼女のセミスポーツタイプのベンツは、それらの外車をみるみるうちに抜いて、茅ヶ崎まで猛烈なスピードで走り抜け、そこからは、厚木に向かう国道へ入り、一時間で警察署へ着いた。
アベックで、スポーツタイプのベンツで乗りつけた二人に、警官が不審そうな目を向けたが、花輪がなるべく標準語に近づけて、
「本庁の捜一から来た、花輪刑事です」
と告げると、警官は不動の姿勢で、
「連絡を受けております。すぐ課長が参ります」
緊張して答えた。中から課長が飛び出してきて、ベンツと、同行の女性を見ると、ためらいがちにいった。
「現場は狭い路地なので、我々は自転車で行きますが、車を署の駐車場においてご同行願えますか」
とかく無口の花輪刑事よりは、むしろ藤村朱実の方が張り切って答える。
「いいわよ。私も自転車で行くわ」
課長がいぶかし気に花輪にきく。
「本庁の捜一には、美人の刑事さんがいるとききましたが、この方が」
朱実が、またすまして答えた。
「別に私は刑事ではありませんが、岩崎警視正殿に依頼されて、広東語の通訳として来た者です。この刑事さんの教師です」
「そうですか。先生と生徒の二人でやってきてくださったのですか。それでは我々も安心です。何しろ連中の言葉は、やたらにつっかかるようにせわしなく、まるっきり分かりませんものですから。これで助かります」
ただちに署の自転車が五台出され、前後に制服の警官がつき、並んで市内を走り出した。
ちゃんとした婦人用の自転車ではないので、朱実のスカートから、さっき洗っていた大根よりももっと白い、つるつると光る太|腿《もも》が見えるが、ふだんはずっと香港で暮らし、世界中を飛び回っている彼女は、そんな小さなことは気にもしない。
自転車で来たのも無理はない。路地は、車が入れないほど細く、しかもくねくねと曲がっている。長いこと米軍基地があり、米兵相手の店が盛っていた名残か、路地の左右には英語文字の看板の、小さなバー・スナックが並び、まるで迷路のように奥まで続いていて、案内も無しに来たのでは、とてもその店は見つけ出せなかったろう。
奥の奥の、再び元の道へ戻れないのじゃないかと心配したほどの突き当たりに、『九竜《クーロン》』と漢字で書かれたその店があり、巡査が張り番している。課長に案内され、花輪と朱実が入る。とたんに、花輪が叫んだ。
「これはひどい。断ずて、自殺《ずさつ》でねえす」
狭い店の中は、血の匂いにみちていた。
テーブルが三つ、それにカウンターだけの、十二、三人も入ったら満員の小さなバーだ。
カウンターの中には、三十歳ぐらいの化粧の濃い、いかにも香港あたりにいそうな、丸顔の、黒目が大きく、鼻が少し低くて横に広い女が、放心したように坐っている。そのはじには、バーテンらしい、二十代終わりぐらいの背の高い男が、かなりふてくされた顔で坐っている。こちらはイギリスの血が半分ぐらい混じっている感じの、色白のちょいといい男だ。
課長が二人に説明した。
「ここは、ふだんこのあたりにいる、香港、広東、台湾などの、南から出稼ぎに来た人々がより集まって、安い酒と広東料理で楽しんだり、情報を交わしたりする基地になってるようです。
我々がこれまで調べたところによりますと、そこのカウンターによりかかって血|塗《まみ》れになってる二人は、黙って二人で入ってきて、お互いに射ち合ったそうです。店の者も何が何だか分からないうちに、二人はお互いに相手を狙って殺し合ったので、心中したのではないかとのことです」
よく見ると、たしかに二人はお互いの手に、小さなコルトを持っている。親分の警視正をまねて、じろりと周りを見回し、壁や棚に被弾した痕が全く見られないのを花輪は確認した。
「そんなはずはないと思います。わたすが直接きいてみましょう」
覚えたばかりの広東語でまず、
「ネイ カイセン(おまえの名は何というか)」
ときいた。マダムもバーテンも、広東語を話す刑事の突然の出現にびっくりして、あわてて自分の名を答える。ところが、まだやっと三週間ばかりの学習では、九音の声調が正しくききどれない。向こうが名のっても、その名が正しい漢字の名として浮かばない。
それはまあ、どうでもいいが、続いて花輪は、
『おまえたち、嘘ばかりいって、日本の警察は、そんなに甘くないぞ』
と鮮やかに一喝したかったが、いざとなると、言葉が全然出てこない。今まで教わった単語や語句をどうつなげても間に合わない。朱実がそっと花輪にきいてくれた。
「二人にどんなことをききたいの」
それで自分の考えをのべると、藤村朱実が女ながらも、かなりのいかめしい顔を作って、二人を何やら叱りつけた。
二人は、初めは手を顔の前で振ったり、しきりに頭を下げたりして弁解する。花輪は相互のやりとりが、ほんの十パーセントぐらい分かるだけだが、それでも少し勉強したおかげで、要点を把めるから、睨みつけては、よろしい、とか、だめだ、など、簡単な合の手を入れて威嚇する。
とうとう二人は、頭をがっくりと垂れ、泣きながら白状した。朱実が通訳する。
「突然、若い二人が店に入ってきて席に坐り、青い顔で震えていると、外に車が停まり、五人の黒服の男が追いかけてきて、二人を射ち殺し、自分たちの持っているピストルを、二人の手に握らせて逃げて行った」
[#小見出し]  中国語について(その三)
広東語
現在、外国の各地区(アメリカ、南米、中近東)などの中国の商人、華僑《かきよう》の進出の多い所で実際に使われているのは、この広東語と、それにやや近い関係にある福建語である。
たとえば、東京の池袋周辺で、このごろやたらに耳にする中国語は、これまで多少は中国語をききかじったことがある人にも、全く見当がつかない。それは大体、広東語であるからだ。
広東省から発生し、香港に定着し、外国へ行く移民によって、世界各国に拡まった。アメリカの日本語が、『じゃけんのう』とやたらに入る、広島弁が主流になっているのと事情は似ている。
声調は、北京四、上海五に比べ、九種類もあり、|/>\という北京語学習につける声調の印も、もうつけられないので、耳で習熟する以外ない。
3[#「3」はゴシック体]
「まあ、本当に帝国ホテルで会議をするのね」
東名高速を、厚木インターから入り、吹っとばしてきて、霞が関で降りた三浦の大農家の娘は、左ハンドルのベンツをホテルの駐車場に入れながら、改めてまた感心したようにいった。
「……警視庁にも、案外ナウい人がいるのね。私はもうずっと前から、結婚式はここでやることに決めているの。引き出物は、バームクーヘンということも決めてあるの」
少し心配そうに、花輪刑事がきく。
「誰か、もう決まったお相手が?」
きれいに、車を駐車用の白線の中に入れてエンジンを切ると、朱実は答えた。
「今は、ノーコメント。それに、そんなのんびりしたときじゃないわ」
いわれてみれば、たしかにその通りだ。さっき厚木のバーから取りあえず状況を電話で送ると、すぐに岩崎警視正から、
「こちらは一時間後に、いつもの十八階の会議室で、捜査会議を開くから、できたらその広東語の先生を連れて出席してくれ」
と命じられたのである。警視庁は、十七階までしかない。十八階の会議室とは、帝国ホテルのラウンジの小会議室のことで、そこでしゃれたフランス料理を食べながら、捜査に対する方針を会議し、指示するのが、これまでの捜一の一係、二係のやり方だ。
行く先が帝国ホテルときいて、藤村朱実はすっかり張り切って、また猛烈に吹っとばした。
「もしパトカーに捕まったら、花輪さんは警察手帳を見せて、『捜一だ。殺人事件だ』といってね」
ともかく一時間で、厚木からホテルに着き、エレベーターで、十八階のいつもの部屋に入った。
既に、二十人を超す捜一の一係、二係のいつものメンバーが、席に坐って待っていた。
扉をあけて中に入った二人は、全員の視線を一斉にあびて少し戸惑ったが、岩崎がすかさず藤村朱実に、正確な九声で、
「ツェン、ツオ、フンイン、フンイン」
と話しかけた。朱実にはそれがどのくらい上手かよく分かる。花輪にも、三週間を超す研修で、大体の意味が分かる。二人は、正面にあけられた二つの空席に並んで坐った。
乃木圭子刑事は、真ん丸の目を更に大きく開いて、花輪を睨みつけた。そうか、全然捜一に出てこないと思ったら、こんな綺麗な娘と一日中くっついて、カントン語のお勉強をしていたのか。それでは熱心になるはずだ。
一度は冷たく振った相手であり、自分は目下、他の男と幸せな結婚生活をしているのにもかかわらず、花輪が美しい娘と嬉しそうに並んでいるのは、やはり面白くない。職務侮辱罪で、手錠をかけた上、射殺してやろうかと、いつものショルダーバッグに手がのびかけたほどだ。
テーブルには、昼食には遅いが、夕食には少し早いフランス料理が並べられ、極上のワインも注がれる。他の係の、本庁の会議室でガタピシの机を並べての捜査会議では考えられないことだ。
一係、二係の岩崎管理官の指揮下の刑事さんたちは馴れているが、朱実は想像とまるで違うので、ただ驚いている。その朱実に岩崎が話しかけた。
「今日は面倒なことをお頼みしてすみませんでした。多分、今晩これからは、私たちはずっと広東語を使う人々を相手にしなくてはならないでしょう。私も少し広東語に馴れ、忘れかけていた単語も思い出すため、二人でしばらく広東語で打ち合わせしませんか。大よそのところは、この花輪が三週間以上の研修の成果で、みなに訳して伝えてくれるでしょうから、勝手に話しましょう」
花輪は頭をかいて困った顔をしたが、それを無視して岩崎は朱実に語りかけた。
それからは、岩崎と朱実の間に、まるでお互いが相手を叱りつけているような、せわしなく激しい広東語の応酬が続いた。ときどき花輪が、ぶすっと、
「今、この女の人、現場の状況説明してるんす」
「死んだ人、いや殺すた人に、親分いるす」
「親分、池袋、いや東池袋に事務所持ってるす。部下十五人いるす。みなピストル、いや、ピストルと短刀も持ってる殺し屋だす」
と説明する。
どうやら、横できいていると少しは分かるぐらいにはなっているらしい。ただ、広東人と面と向かって話し合うと、きくことと答えの言葉とがこんがらがって、うまくしゃべれないようだ。
それでも部下の刑事たちは、二人の会話の流れを、花輪の通訳で大体追うことができた。
岩崎が突然、乃木に、
「豊島区の地図をここに拡げなさい」
と命じた。乃木は、持ってきた細かい番地の入っている区分地図を拡げた。
朱実に広東語で何度もきく。朱実としても、たださっき、バーの女とバーテンに、番地と大体の場所をきいただけで、実際に行ったわけではない。地図の上を、岩崎と顔をつき合わせるようにして辿っている。
岩崎を未だに崇敬してやまない乃木と峯岸の二人のケイコは、その必要以上の親密な姿に、激しい嫉妬心にかられ、眦《まなじり》が張りさけんばかりにして睨みつけている。朱実のやや栗色がかった長い髪の先が、岩崎の顔に触れるではないか。女刑事二人がやきもきしているのを、警視正は全く気づかない。
二人は会話を止める。岩崎は決然としていった。
「猛者《モサ》諸君、みな拳銃は携帯してきているな」
みな同時にうなずく。
「これは殺人事件だ。神奈川県警から、捜査共助課を通じて、捜一が正式に応援の要請を受けたが、県内での事項は、広東語に熟達した花輪刑事の出張により、ある程度のメドがついた。花輪と藤村さんは、ごくろうでした」
花輪は、本当に褒められたのか、例の皮肉かどうか分からずに、まごまごしている。朱実は岩崎に頭を下げられて、素直に自分もおじぎした。岩崎は、その朱実に続けていった。
「ごくろうついでに、今晩もう少し頑張ってください。うちには、武道の達人でピストルの上手な女刑事が二人いますから、あなたの身辺を厳重に警護させて、間違ってもけがさせるようなことはありません」
「かまわないわ。私、危ないこと大好き」
朱実がやや興奮して嬉しそうにいう。乃木はにがい顔をした。
『これだから素人は困る。捜査とイベントとの区別がつかないのだから』
「ただ今から、全員がタクシーに分乗し、通称、六つ又ロータリーという場所に行く。そして、私の姿を見たら、みな何気なくバラバラになって私の後についてくる。そこからいくらも行かない所に、三階建てのビルがある。二階と三階が、今では広東から来てヤミで滞在している連中の拠点になっている。
まず一階の全員を追い出してカラにし、二階以上へ上って行く道を絶つ。二階以上に上って行くのは、私とこの美しいお嬢さんと、乃木、峯岸の女刑事二人、それに広東語がかなり熟達している予定の花輪と、ピストルの中村だ。他の者は、ビルを包囲して外部から誰も寄せつけるな。進藤以下と八人は、いつでも二階へ飛びこめるよう、拳銃の安全装置を外し、階段から中を覗いて中の連中を威嚇しろ。
以上で捜査の手順の説明は終わる。まずゆっくり料理を食べ、ワインで乾杯して、体にスタミナ源を蓄えておけ」
岩崎はそういうと、食事を始めた。部下の刑事たちも黙々としてフランス料理を食べる。かなり早いピッチだ。それでも警視正は、自分の分を食べ終えると、立ち上がっていった。
「行くぞ」
部下も、まだ食事を残して一斉に立ち上がった。
六つ又口ー夕リーというのは、池袋の駅からやや王子方面に向かって五百メートルほど行った所にある。
吉田老人は、以前公安部にいて、中核派ゲバ学生の検挙のため、しばしばこのあたりに来たことがある。しきりになつかしがっていた。近くのアパートや貸しビルに、当時の戦闘的な左翼学生がたてこもり、公安と熾烈《しれつ》な闘争をくり返したものだ。
そのころは、六つ又ロータリーの真ん中に、高い交通管制塔があり、そのてっぺんで、マイクを持った交通係の巡査が、一日中、周りにどなっては、割りこみ車や違反車に注意していたものだが、今はそんな光景も無くなっている。
吉田老刑事にとっては、やや感慨無量だ。
当時の左翼ゲリラの闘争の根拠地も、現在は、不法滞留外人たちの根拠地になっている。
いずれにしても、池袋という新興の盛り場にとっては、逃れることの出来ない運命だったのだろう。
朱実を中心にして、その両脇に乃木と峯岸がぴったりよりそって、三人の女が先頭に歩いていく。その後ろに、岩崎と花輪、中村の両刑事が歩いて行く。
細い道だが、完全に盛り場の中に含まれた道だから、人通りが多い。最初の六人は、その人混みに交じって、入って行くのは殆ど目だたなかった。
次に十五名ぐらいの、いやに体格のがっちりした男たちが、バラバラであるが、みな一つの目標に向かって歩いて行くのは、そのとき道を歩いていた人には、多少、異様に感じられたようだ。ただ、このあたりに多い、ヤーさん筋の何かの集会でもあるのかと勘違いして、恐ろしそうに見ている。
道の突き当たりは崖になっていて、崖の下にJR線が走っている。その崖っぷちに、薄汚れた三階建てのビルがある。窓に外から板が張りつけてあるのは、かつてそこが左翼ゲバ学生の本部であったことを意味する。
入り口には椅子が持ち出され、間に台が置かれ、一つひとつが握り拳ぐらい大きい。中国将棋の駒《こま》が置かれている。門番がてら、若い二人のチンピラが、裸電球の下で将棋を楽しんでいた。
三人の女がそこに近づいて行った。朱実がにっこり笑って話しかけた。
「私、ちょっと前日本に着いたばかりよ。このお友達と。日本へ来たら、ここへ連絡するようにいわれたの」
完全な広東語だから、二人とも疑わない。ただ、一応まだ無条件に通すわけにはいかないらしく、質問をする。
「ビルの誰に会うようにいわれたのかね」
「何《ホー》羅辰親分よ」
「そうか、親分の名を知っているなら本物だ。入っていいよ」
三人が中へ入りかけると、門番はすぐに、また目の前に別の三人の男が立っているのを知った。若い二人は、あわててきいた。
「おまえたちは誰だ」
いつの間にか、二人の門番の男の前に立った三人の男たちの一人も、正確な広東語をしゃべった。
「今入った女たちのボーイフレンドだ」
門番の一人が、三人の前に立ち塞《ふさ》がった。
「ボーイフレンドか何か知らないが、親分は滅多なことでは、男の客に会わない。銭《ゼニ》にならねえからな。誰か来るときは、おれたちに上から指示がある。予め指示がない限りは、男は勝手に通すわけにはいかないんだ」
ここで花輪が、三週間と少しで習い覚えた広東語の成果を初めて見せた。
「おい、お兄ちゃん。そうはいかないんだよ。おれたちは、どうしても何《ホー》親分に会わなくちゃならんのさ」
この程度なら、広東でも市から離れた郡部の農民の方言ではないかと思われるぐらいにはしゃべれる。
「何を、この野郎」
相手も、広東か香港ではかなりのチンピラだったらしく、いきなり花輪に向かって真正面から蹴り上げてきた。花輪はひょいと身をかわして、高く空中に空《カラ》振りしたそのチンピラの足を片手で把んでねじ曲げると、頭をコンクリートの歩道にまともにぶっつける形で、ひっくり返した。
もう一人が咄嗟にピストルを抜こうとした手に、中村刑事の手から手錠《ワツパ》が飛び、ガチャリとはまると、かたわらに倒れている男の足に、そのもう一方がかけられた。
男の手から落ちたピストルをひょいと拾って、また花輪の広東語が、二人に向かって叱りつけるように飛ぶ。三週間の成果は充分あった。
「日本は香港と違って、誰でもピストルを持っていいことにはなっていない。持ってるだけで、一年ぐらいの罪になるんだよ」
いつの間にか、後ろに続いた十五人の刑事たちが、女三人、男三人の後ろに続いてビルの中へ入った。
そこは、机が十ぐらいある、ただの事務所だったが、中の者はみな、一斉に顔色を変えて立ち上がった。対立する組織の、ベトナムかタイか、福建省の連中が乗りこんできたのかと、一瞬思ったらしい。机の引き出しのピストルや、壁に、傘や花束のかげにかくして吊るしてある短機関銃《サブ・マシンガン》へ手を出そうとした。
岩崎の鋭い声が、広東語でひびく。
「それ以上、誰も手も体も動かすな。もし武器に指先を触れたら、一まとめで中国本土に送還するぞ。そうなれば、今の中国情勢では、みんな間違いなく到着、即日銃殺刑だよ。おとなしく両手を頭に乗せろ」
いつの間にか壁には、それぞれ四隅に、今入ってきた男たちが立って、拳銃をかまえ、いかなる場所でどんな動きをしても、即座に射てる体勢に入っていた。日本選り抜きの捜一の刑事《デカ》だ。
「日本の警察だ。おまえらがもしこれからも、この黄金が唸る日本で働きたいなら、今はおとなしくしていた方がいいぞ」
すると、ミス三浦海岸の朱実が、悪ノリして続けていう。
「香港より東京の方が暮らしいいなら、抵抗しようなんて考えないことね」
[#小見出し]  中国語について(その四)
漢字と簡字
かつては、中国全体に何十という方言があっても、漢字というものがあったので、全中国は文書によって意思が統一できた。
日本人でも老齢の人の中には、少年時にしっかり漢文を勉強したおかげで、筆談ならどの土地へ行っても楽々とこなすという人が多かった。
台湾の新聞などは、今でも私たちは、文字の拾い読みで、大体、意味が取れる。
しかし現在、却って中国本土の新聞は、字が変わって読めなくなった。
業務はであり、総務は、であり、薬屋は屋で、日本人はコンニャク屋と思う。この新しい妙な漢字を、簡字というが、これは毛沢東のやった仕事である。昔の漢字をわざわざ繁字といい、うるさがっている姿勢も面白い。
4[#「4」はゴシック体]
二階が、広東や香港系の不法滞在者の群れの親分の、何《ホー》羅辰の部屋だ。
既に下に何か起こったことを察して、中央の机にいる、五十ぐらいのでっぷり肥《ふと》った親分らしい男の両側にいる、精悍な感じの幹部が、イスラエル製のウジという短機関銃をかまえて立っている。何かあったら、即座にぶっ放そうというつもりだ。
ただ彼らも、ここは一応無法がまかり通る香港ではない、一度ぶっ放したら、そのときは、相手が誰であれ、自分たちも、世界に誇る日本の警察に徹底的に追及されるのだと分かっている。場合によっては、全員国外退去を命じられるかもしれないから、発砲に対しては慎重だ。
「あんた方は誰だね」
親分の何《ホー》が、入ってきた男女三人ずつのグループにきいた。
その後ろには、七、八人の男が、階段をふさいでいるのも見える。
六人の中から、岩崎が一人、前に出る。妙なことをした。
両掌を開いて、顔の前で指先を合わせた。右の人差し指の先を左手の中指と薬指で押さえると、そのままその両掌を下ろして、右膝の前に持ってきた。
瞬間、何《ホー》親分は、ハッと居ずまいを正し、自分も立ち上がって机の前に出る。そして岩崎警視正に向かって、同じように両掌を顔の前で合わせ、右膝の上に持って行く挨拶を返した。
二人はお互いの間に短い言葉のやりとりをした。このやりとりは、朱実だけは、かすかに理解することができた。
現在、香港の暗黒街は、中国の二大秘密結社、青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》の中の、青幇系が支配している。その結社員と、結社から正式に客員として待遇される資格を持った者同士が、初対面のときにする挨拶だ。日本のやくざの仁義に似ていて、もっと厳粛なものだ。
挨拶を終えると親分は、部下に、武器を下に向けるよう指示した。
いつ、どちらが先に発砲してもおかしくないような、極度の緊張状態が、これでかなり緩和された。
親分と警視正の二人の間に、和やかな会話が続く。三浦市の令嬢には、この会話はよく分かる。花輪も研修のおかげで、要点だけは少し分かった。
「あなたがかつて新宿で、紅幇《ホンパン》と青幇《チンパン》が対立してどうにもならなくなったとき、鮮やかに解決してくださった、警視庁の岩崎さんですか。お名前は存じておりました。こんな所でお目にかかれるとは光栄です。それで、わざわざこんな所までおいでいただいたのは、何のご用ですか」
「一つ、お願いがあって参りました」
岩崎は丁重な言い方だが、かなり強い決意をこめていった。
「はて、何のお願いでしょうか」
「貴方には辛いことでしょうが、五人ばかり、容疑者を、黙って私たちに差し出していただきたいのです」
「容疑者? さて、何のことをお話しになっているのか分かりませんが」
「私にとぼけても無駄です。昨日の深夜、若い男女が、厚木にある小さなバーで、五人のヒットマンに射殺されました」
さすがに、そんな事件は知らないというのは無駄なことと思ったらしい。
「若い二人が体中射たれて死んだということはきいております……香港から来たばかりの恋人同士だったそうですが……」
と、そこまでは認めたものの、
「……しかし、岩崎|大人《タイジン》、それは二人が、予め心中をするつもりで来て、お互いにお互いを射ち合ったときいていますが」
「私は、何も、あなたの作った面白いストーリーをききに来たわけではありません」
その言葉にむっとした二人の幹部が、ウジをかまえかけたが、鋭い声で親分はそれを制した。岩崎は、ゆっくりと説得するようにいう。
「あんたがそれだけのことをするのには、やはり、何か、相当な理由があったと思います。幸い、日本の刑法は、理由のある殺人行為に対しては、貴国よりはかなり寛大だ。
私たちが別個に一人ずつ逮捕して、伝票操作で、わざと香港から中国本土に書き換えて送還したら、彼らの生命は即日無いはずです。それは今、下にいる者にもよく言っておきました。三階で寝泊まりしている若い男女の不法入国者にも、よくいっておきなさい。みなが送り返され、この大事な会が無くなってしまうか、このまま黄金の唸る日本で、もう何年か働いて、一生遊んで暮らせるだけの金を持って、故郷の広東市や香港、台湾に戻れるかの境目です。
どちらを選ぶか、よく考えてください。まじめに服役していれば、長くても五年ぐらいで外に出られますよ」
何《ホー》親分は、がっくりと頭を垂れた。
「私としては、私の指示に従った部下を、日本の警察に渡すことは、身を切られるより辛いことですが……」
何《ホー》親分の右側にいた幹部の一人が、三階へ上がって行った。
何か説得しているのであろう。かなり長い時間、上から下りてこない。中村刑事や花輪刑事は、もしものときは、まず誰から先に射止めようかと、油断なく周りに目を配っている。階段の所から、二階の広間を監視している八人の刑事たちも、まるで心が灼《や》けつくような激しい緊張の中にいた。
やがて三階から、五人の男が下りてきた。いずれも、この組織からヒットマン(殺し屋)を命ぜられるだけあって、精悍な顔付きと、敏捷そうな体付きをしていた。
男たちはすっかり諦めた顔で下りてくる。今、彼らの背後には、これから何万人と日本に入ってくるかもしれない、祖国の貧しい人々の運命がかかっている。船を仕立てたり、航空機で観光客を装って入国するより他に、自分の国の同胞たちが、貧しさを抜け出して、富裕な人間への道を辿る方法はないのだ。
何《ホー》は、悲痛な表情でいった。
「私の方も、組織にある貯金をすべてはたいても、いい弁護士を頼みます。そちらも調書をお作りの際には、この五人が止むを得ずあの行動に移った事情を察していただきたいのです」
岩崎は、何《ホー》親分が次の言葉をいい易いように、先をうながした。親分は続けた。
「あの殺された二人は、日本の出入国管理官に、個人的に不法滞在を見逃してもらうことを引き換え条件に、新しく難民が入ってきたり、観光客が着いたりすると、表面上他のベトナムやラオスの難民を装っていても、中国系の経済難民が混じっている場合に密告していたのです。
我々は、観光ビザで入ってきて、三カ月の滞在期間が切れても、普通、五百万円をためるまでは、みな二年か三年、必死になって働きます。五百万円持って帰れば、ホテルに喫茶店を作り、故郷で大邸宅を買って優雅に残りの一生を暮らせます。
ところがこのごろ、みな、三カ月の期限が切れて、やっと職も落ち着き、金もたまりかけなところで、いきなり役人に乗りこまれるのです。それが、誰のせいかと分かったときに、五人は仲間のために、自発的にやったのです」
「分かりました」
岩崎は大きくうなずいた。
「……このことを、あの二人のアベックが殺される前に知っていたら、悲劇は未然に防げたでしょう。五人の身柄はいただいて行きます。日本の裁判は、それほど心配することはありませんよ。長くて五年、仮に強制送還になっても、この五人だけは、中国本土に送らず、香港に帰れるようにしてあげます」
いつの間にか、その五人の恋人らしい若い女が三階から下りてきて、それぞれの男にすがりつき、泣き出した。日本人はこんなとき、声を忍ばせてのすすり泣きが普通だが、彼女らは、あたりの誰もかまわず、精一杯の声を張り上げて泣く。すると、情にもろい乃木の大きな目にも、大粒の涙があふれ出た。
三浦半島は、東京よりも春の来るのがかなり早い。三月の終わりだというのに、もう五月の初旬なみの暖かさだ。
四週間の予定の語学研修も、今日でとうとう終わりになった。それが否応なく分かるのは、三月の初めにこの藤村家にやってきたときは、家の周辺の畑は、見渡す限り、緑の大根の葉に包まれていたのに、今ではどこもすっかり刈りとられて、土の肌が露出しているからだ。
もうすぐここでは、夏の名物である、西瓜の種が蒔《ま》かれる。
小川の畔《ほとり》の、作業機械の向こうにいる朱実の兄が、リヤカーに乗せた最後の大根の束を、ベルトに移して朱実にいった。
「これが最後だ。終わったぞ」
「OK、兄さん」
これまで絶えることがなかった、白い大根の列が途切れて、ベルトの先がからになって出てくる。
最後の一本が出てくると、朱実はそれを抱いて頬ずりしながら、モーターのスイッチを切った。すぐ花輪が、
「コンヘイ、コンヘイ(お目出とう)」
というと、朱実は、
「ム・コイ(有難う)」
と少し涙ぐんで答えた。
それから日本語に戻り、改めて礼をいう。
「あなたのおかげで、随分作業がはかどったわ。これで私、明日から安心して飛行機に乗れるわ」
「こちらはおかげさまで、難しい広東語が大体分かるようになりますた。それに、懐かすい故郷を毎日思い出すて、とても楽すかったです」
家の方から朱実の母が、
「お祝いのご馳走が用意してあるから、花輪さんにも来てもらいなさい。みんな手足を洗って着替えたら、早くね」
と手を振りながら叫んだ。
朱実は一人風呂場へ行き、兄と花輪は小川に入って、手足を洗った。
これまで四週間の研修中、殆ど話しかけることのなかった兄が、小川で手足の泥を落としながら、珍しく話しかけてきた。
「朱実ももう二十五歳じゃん。そろそろ嫁に行かせねばなんねい。うち中で心配しているのに、当人はさっさとスチュワーデスになって外国を飛び歩いている。昔からミス・コンテストがあると、片っぱしから出かけて行って、一等をかっさらってくるじゃん。それが当人にとって、よくなかったんだな」
「どういうふうにですか」
「気ぐらいばかり高くなってな。何しろ、ダンスとデートと結婚は、決して自分の方からは申しこまないと決めているでな。もう二十五歳すぎたら、そろそろそのへんはよろしく、含みを持たせて行動しなきゃーね」
「いや、朱実さんなら、自分で申すこむことないですよ」
「じゃ、あんた、申しこんでくれるか」
兄は、意外にまじめな顔でいった。
折角の日曜日だが、花輪のたっての頼みで、乃木と峯岸の、捜一の花の女刑事、ダブルケイコは、成田まで花輪刑事につきあってやることにした。
車は、乃木が夫にねだって月賦で買ってもらった、中型の国産車だ。ハンドルは彼女が握っている。
一昨年は、岩崎を失った悲しみのあまり、思わせぶりに(一種の面あてもあって)花輪とわざと親しくして、三浦海岸まで二度も一緒に行って、ビキニ姿まで見せてやりながら、あっさり去年、エリート警視の高橋と結婚してしまった。……だから多少、この花輪を気の毒に思って、今日は一緒に来てやったのだ。
東京から京葉国道に入り、車を走らせながら、乃木と峯岸の二人は、昨日までの、花輪と朱実との進行具合をきき糺《ただ》した。ふだん、犯人の尋問をやっているから、こういうことは、二人とも名人だ。三十分もすると、女刑事たちは、花輪と朱実との進行具合をすべてきき出してしまった。
「何だ。まだキスもしていないの」
峯岸お稽古《けいこ》は、自分もまだキスしたことがないくせに、そう花輪に軽蔑《けいべつ》したような口調でいった。それに乃木がハッパをかけた。
「男は、押しあるのみよ。あんた少し、女に対して気が弱すぎるのよ。それじゃー、女の方も踏みきれないわよ。押して押して押しまくるのよ」
他人のことだと思って、いい調子でけしかける。
その調子で女刑事二人が、ゼンマイもちょん切れそうになるほどネジを巻き続けたから、車が成田へ着くころは、明日から始まる予定の、NHK朝の連続ドラマではないが、花輪の全身には、勇気が凛々《ヽヽ》と湧き上がってきた。
車を指定の駐車場に入れ、三人は北ウイングのキャタイ航空の発着所に入って行く。入管の事務所を通りすぎれば外国扱いだから、普通では入れないのだが、三人とも『公務です』と警察手帳を出して入って行く。
スチュワーデスたちは、一般の客より三十分早く、飛行機に乗りこむ。
待合室に続く搭乗口で、三人が待っていると、スチュワーデスたちが、キャリヤカーに小さな鞄を乗せて引きずりながらやってくる。華やかな一群れだ。
「来たわよ。これからはあなた一人で行ってきなさい。頑張ってね」
と送り出した。花輪は決意した表情で、つかつかとその群れに近づく。目ざとく見つけた朱実が、早足で飛びついてきて、
「嬉しいわー。来てくれたのね、やっぱり」
と抱きしめた。そこで花輪が思い切って、ぼくと結婚……といいかけようとしたら、彼女が抱きしめながら、彼にささやいた。
「花輪さん、喜んでね。待っていた甲斐があったわ。昨日とうとう、向こうから結婚を申しこまれたの。東大出の全日航の社員よ。帝国ホテルの式には来てね」
[#地付き]〈了〉
初出誌  タ刊フジ/平成元年十二月五日から平成二年六月二日
単行本  平成二年九月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年四月十日刊