胡桃沢耕史
翔んでる警視正 平成篇2 ゴンドラの花嫁
[#表紙(表紙.jpg)]
目 次
T 敢えて犯人を求めず
U 殺人者はL・S・D
V ゴンドラの花嫁
W 真犯人は伯爵令嬢
X 殺し屋のお値段
Y 花嫁御寮はなぜ刺されたのだろ
[#改ページ]
[#見出し]  T |敢《あ》えて犯人を求めず
[#小見出し]  御大喪 参加国
六十四年の長い治世を終えられ崩御なされた昭和天皇の御大喪には、世界中から百六十三カ国の代表が弔問に参加した。
アジア地域は二十カ国。その中には、女性の大統領と首相が居り、ともに美人で、この大喪の中の唯一の彩りとなった。
中東地域は十四カ国。国王や大統領も多数来られた。アフリカ地域は最も多く四十六カ国に及ぶ。
ヨーロッパ全域からは二十三カ国、国王、大統領など殆ど元首クラスの超大物ばかりが来られた。東欧ソ連圏は八カ国。北米はカナダとアメリカの二国しかないが、ともに最高位の大統領と総督が来られて、弔意の深いところを示された。
南米も十二カ国、中米も十三カ国、この大陸のすべての国が代表をよこし、他にオセアニアからも、また国家ではないが重要国際機関もすべて、代表をよこして、空前の大喪になった。
最近で一番大きい喪儀は、ユーゴのチトー大統領の葬儀といわれるが、今回はそれに比べてはるかに規模が大きい。
ただ、まだ国交が回復していないとはいえ、日本とは因縁の深い北朝鮮と台湾からの参加がなく、また韓国は元首でなく首相、中国も外相クラスの人材の派遣に止まったことが、まだまだアジア内には戦争の傷痕が、かなり残っていることを思わせた。
二月の二十四日、雨もよいの天気の中で御大喪は滞りなく終了した。
1[#「1」はゴシック体]
二月の二十六日の日曜日、去年の九月以来不眠不休の活動をしていた多くの警視庁警察官は、久しぶりの休みをとることができて、活力がよみがえったのか、二十七日月曜日の八時半の登庁時間に合せて出て来た庁員たちの顔から疲労の影は殆ど消えていた。定刻に二十秒ほどベルが鳴る。
そのときには椅子に坐って全員がきちっと姿勢を正してきく。みな今日の仕事に対して新しい意欲が湧き、身も心もひきしまる一瞬だ。
ベルが鳴り終るとすぐに伝票整理にかかる者、証拠品の鑑定を始める者、各自がそれぞれの本来の仕事に戻る。
「峯岸見習、行きましょう」
この月曜日の段階では若い婦警の峯岸は、まだ、少年防犯課からの出向の扱いで、身分は見習、既にふた月近く、乃木の下で雑用をさせられていたが、他の刑事たちには、その名も正式には紹介もされていない、存在のあやふやな立場であった。
「はい先輩」
末席に坐っていた峯岸は、さっと立ち上る。制服の襟章の銀の星一つが、まだピカピカ光っている。なかなか愛嬌のある顔だちをしている。しかし女は大体同じ職場に、自分より若くきれいな同性の居る状態を好まない。
乃木の彼女の扱いは何となく冷たい。
これから湯沸かし場へ行って少し作法をきびしく教えてやろうと思っている。本来お茶くみなどは、後輩の刑事や、新米の婦警に任せて、乃木はもう机に坐っていればいいのだが、これだけはまだ他人に任せられないと思っている。大きな薬缶の中に乃木は手づかみでぱっと、番茶の葉を入れる。
それには一種の秘伝がある。部屋に戻って、岩崎管理官、一係長、二係長、そして自分の所属している二係の|刑事《デカ》さんたちと、順次に茶を注いでゆくとき、どの湯呑茶碗の真中にも一本だけ形のよい茶柱がたつようにする。日常、犯罪捜査という、危険な上にかなり運も作用する仕事に従事している刑事さんたちはわりと縁起を気にする。
捜査にかかると、|勝つ《ヽヽ》にこだわって、カツ丼しか喰べない刑事も多い。茶柱の形がいいと素直に喜ぶ。他の誰が試みてもうまくはいかなかった。乃木にだけできる名人芸と信じられていた。
今日も、乃木が大きな薬缶に一杯の湯を注ぎ、茶筒から番茶を出して掌にあけようとしたとき
「あのう」
と遠慮がちに峯岸見習婦警が横からいった。
「何なの」
「それ、自分にやらせていただけないでしょうか」
「まあー」
その大胆な発言に、もともと真丸で大きい乃木の目がますます丸く大きくなり、まじまじとこの後輩を見つめた。
「……これ簡単なようでも難しいのよ」
「存じております。私もいささか……」
と、峯岸はいった。何しろ峯岸の父は会津の町で、今も武芸十八般の師範をしていて、毎朝ふんどし一つで井戸の水をかぶり、軍人に賜わりたる五カ条の勅諭を唱えるということをきいたことがある。若いくせに言葉が少し古風なのはその影響を受けているせいだ。
「……自得したことがあります」
その迫力に負けて乃木は
「じゃー、やってごらん」
といった。後でもし茶柱がうまく出なかったら、うんといびってやろう。昔、自分が捜一に入りたてのころ、今は警部補のみずえ巡査部長にビンタを取られたことがあるが、場合によったら、廊下へ呼び出して、あたりに誰もいないのを見すましてから、この新米に二、三発ビンタを取ってやってもいいと思った。
峯岸は茶筒の葉を掌にこぼすと、しばらく目をつぶってから
「ヤッ!」
と小さな気合をこめて、薬缶の中へ入れる。同じことを三度くり返すと、捜一の大部屋へ一人で提げて戻る。この娘、スタイルは悪くないが、腕も足もたっぷりと筋肉がついて太い。高校生時代砲丸投げで国体に出て、大相撲のある力士の妹と優勝を争い惜しくも二位となったという輝かしい経歴の持主だ。乃木なら多少、反対側の肩を持ち上げなければバランスが取れないほど重い薬缶を軽々と提げて行く。
岩崎から順々に配り出したのを、乃木は先輩として、監視するつもりで見ていたが、実際に注がれた後、その茶碗の中を覗いて見てびっくりした。みな中央にきちんと、太いのが一本浮んでいる。
いつもは周囲に何が起ってもわりと無関心で、コンピュータの端末のキーを打ち続けている岩崎が、珍しそうに新人が茶を注ぐ姿を注視していたが、真中に浮ぶ、茶柱を見て
「ほほう」
と軽く声を上げた。迷信は信じないが、同じことの積み重ねは、ポアンカレー教授の統計学上信用することができるという持論の岩崎はその茶柱を見ていった。
「これは殺人事件が発生するな。しかも我々の手で、二十四時間以内に鮮やかに解決という、甚だ運のいいしるしだ」
そばでくやしそうに唇を噛む乃木のことなど全く無視している。これで新米が今朝は一ぺんに主役だ。一係長、二係長、そして自分の所属する二係の先輩刑事たちの茶碗に順に注いで回る。どこでもこの新人の鮮やかな仕事に賛嘆の声が洩れる。これまでの乃木の権威は崩れた。
乃木は面白くないから
「もういいわね。これからあなたにすべて任せるわ」
と声をかけ、自分のデスクに戻って、椅子に腰かけようとしたとき、デスクの電話機のベルが激しくなった。すぐに取る。
「はいこちら捜一」
「ああ岩崎君に代ってくれ」
相手の名は聞かなくても判った。刑事部長の声だ。乃木の電話は、管理官の電話と端末が同じで、ふだんは乃木が取って、それから必要なら回す。乃木が岩崎管理官の方を見ると気配を悟った岩崎がうなずいて取った。二、三言返事をすると、すぐ飛び出して行った。
去年の暮、この若い婦警が突然捜一に連れてこられ、警視正が、『警部補の高校の後輩だ。見習が勤まったらみずえの代りに捜一に入ってもらう。思いきりしごいてくれ』と乃木に命じた。
それ以来ずっと雑用にこき使っていたのだが、いつの間にか番茶の秘術を盗まれてしまったらしい。全く油断も隙も無い女だ。
岩崎が刑事部長の部屋に入って行くと既に三人の上司が坐っていた。
「いやー待っていたよ。そこに坐ってくれ」
と、課長たちが並んでいるソファーのはしを示した。
一人は岩崎の直接の上司で、捜査一課長。もう一人は、去年刑事部に新設された国際捜査課の課長だ。実は最近の外国人の流入により、今まで皆無に近かった日本国内で外国人が日本人に加える犯罪や、その在留外国人どうしの犯罪が増加してきた。対策に、外国語のできる者だけ集めて国際捜査課が新設された。当然そのとき、岩崎にも誘いがあったが、『私はあくまで殺人事件の捜査専門にやりたいから、必要なときはお手伝いするということにして、このまま捜一にいさせてください』と断わった。
今一人の上司は捜査共助課長で、捜査が他県との間にまたがるときや、他の部課と犯人追跡が競合するときなど、その間を調整する役だ。権限、縄張りが、お互いにきびしく決っていて、なかなか協同して歩調を揃えることが難しい警察内にあっては、絶対必要な役目だった。
刑事部長がテーブルの真中に、カセットの入った機械をおいていった。
「七時半にかかってきたとき、女の言葉は初め英語だった。それで交換係が、国際捜査課の当直に回した。ところが途中でまるで、誰にも分らない言葉になってしまった。君のところに応援を求める時間がない。ともかくすべて録音してから、今、来てもらったのだ」
「一応まずお聞きしてからにしましょう」
岩崎は、慎重な表情のまま答えた。彼は、現在世界中に通用している言葉ならば大体理解できる。たまにそのまますぐ日本語にならない言葉があっても、世界の言葉の流れはそう沢山はないから、どの言語圏から派生した言葉か見当がつけば、何度か聞いているうちには自然に意味が分ってくるのだ。
刑事部長はスイッチを押した。
カセットの声はいきなり女の高い絶叫で始まった。
「ヘルプ・ミー。ウイ・キラード・アフレッド」
このへんは文法上はかなりいいかげんだが何とか英語と分る。
しかしすぐ、英語で話をするのがもどかしくなったのか、それとも感情が激して切羽つまってきて、知らないうちに母国語に戻ってしまったのか、誰にも全く分らない奇妙な言葉になってしまった。
最初は岩崎もその言葉に少し戸惑ったようで、テーブルの上に出されたメモ用紙に、インドか、ビルマか、アラビヤか、ちょっと見たところではまるで分らない文字を、何種類か書いてはあてはめていた。丸い字のつながりがあるかと思うと、角張った字ばかりのつながりも出てくる。それでもうまく行かなくなると、今度は全部が、みみずがのたくったような平らな字のつながりになった。その中でも幾つかの違うパターンがあるらしく、五、六種類書いていたが、やっとその中の一つのパターンに固定した。
短く、みなに
「パンジャビー語です」
といった。そしてやっと安心したように、今度は、一つも迷わずに特有の字でメモをつけ出した。
一心にメモを取っている。こういうときは、この秀れた頭脳のすべてが一つの仕事に集中してしまうため、うっかり横から話しかけると、その脳が、破壊されてしまう危険さえある。
三人の課長は、みなそれを知っているから黙って彼のやることを見ている。
テープの長さは約十分ほど、最後は受話器を握ったまま絶叫して、多分絶命したらしい女の悲鳴で消えている。みな一度、それを前に聞いているから、テープが終るまでは、じっと岩崎の返事を待っている。
やっとテープが終った。
しばらく岩崎は黙っている。異国の言葉で語られた、思いがけない事実を、頭の中で一度ゆっくりと並べ直し整理しているようだ。
たとえそれが、死ぬ間際の、必死の告白であっても、しかし必ずしもその言葉が真実であるという保証はない。真贋を頭の中で分けるだけの冷静さが必要だ。ようやく考えがまとまったのか、みなの方に向き直った。
「この電話には逆探知は入れましたか」
「うん、事態が容易ならざる方向になったので、すぐに手続きして逆探知をかけた」
「それで池袋にあるこの女のアパートの名が分りましたか」
国際捜査課長がびっくりしてきいた。
「どうして池袋のアパートと分ったのかね。我々は電話の番号と持主までは突き止めたが、その持主はとっくに転売していて、しかも電話料だけはちゃんと払われているので、実際にその電話がどこにあるのか、まだ突き止めていない状態だ。ただ漠然と局番から、城北方面と分っているだけだ」
「窓から西の方に、池袋のサンシャインビルが見えるアパートで、清和ハウスという、まあ多分、あまり立派でない、モルタルか、古いコンクリート造りのアパートを探して下さい。二階の二〇五号室で女が死んでいるはずです」
「よし、所轄に命じて、現場を押えて、出入り禁止にしておこう」
捜一課長はそういうと、すぐに所轄の池袋中央署に電話をかけた。はっきり殺人と分れば、これはほうっておけない。すぐに戻ってきて、課長は岩崎にいった。
「所轄には、名前をいっただけで、もうアパートのあり場所は見当ついた。すぐに行って現場を押えて、本庁の出動を待っているそうだ。そのアパートは、最初は日本人の普通のアパートだったそうだが、いつのまにか、インド人や、中国人、タイ人などが入りこみ、狭い一部屋に六人も七人もがもぐりこんで雑魚寝するようになってしまったそうだ。うるさいのと、食べ物の匂いがするのとで、だんだん、他の部屋の日本人が逃げ出して、今では、近隣諸国の外国人だけのアパートになってしまって、所轄でもずっとマークしていたという。それですぐ分った」
「そうですか。多分そんなことだろうと思いました。池袋から板橋の地区にかけて、そういうアパートがとても多いと聞いたことがあります。いずれきっと事故があるとは思っていましたが、とうとう起きたわけですね」
まるで何かが起るのが当然だという顔で警視正はいった。
刑事部長はきいた。
「ところで、パンジャビー語というのは、どこの国の国民が使う言葉なのかね」
「インドの北西部にパンジャブという地方がありました。昔、西ウルドウ国や、東ウルドウ国が、まだ現在のインドから分離する前には、パンジャブ州一帯の人々が使っていました。そのパンジャブ州の殆どが、今西ウルドウ国として独立しましたので、八千万の国民の中、六千万人がパンジャビー語を使っています」
刑事部長は、岩崎の先輩で東大出だ。外務省の書記官として、アジア各国を回ったこともある。インドの情勢に関してはかなり的確な知識も持っておられる。
「私は西ウルドウ国の公用語はウルドウ語で東ウルドウ国の公用語はベンガル語ときいていたが」
「たしかにウルドウ語は西ウルドウ国の公用語ですが、たとえていえば、京都弁を公用語と指定したようなもので、全国民の六パーセント、五百万人ぐらいしかウルドウ語を使う国民はおりません。パンジャビー語は、土地に根づいた言葉で西ウルドウ国の他に、国境を越えてインドにまだ残っているパンジャブ州の人々、二千万人にも使われています。ですからこの録音された声の女性は、西ウルドウ人か、インド人かは、まだ特定はできませんが、つい最近、他の仲間の男女と共に、日本語の学習を名目に、実は世界一高い労働賃金と、売春の報酬を求めて留学ビザで入ってきて、そのまま日本に居ついてしまった、いわゆるジャパ行きさんの一人であるだろうと推定されるのです。ウルドウ人労働者はフィリッピンについで多いからです」
「なぜ殺されたのだろう」
「先ほどの電話の言葉だけでは、私にもまだ具体的には何もいえませんが、どうも他にも男が一人殺されているようです」
「そうか。もう一人殺されているのか」
「ところで……」
と岩崎はこの男にとっては珍しいことをいった。
「警視庁はこの事件に本格的に介入して、どうしても犯人を捕まえるつもりですか。それとも場合によったら、犯人逮捕を諦めて、ただ犯罪の真相追及ができればいいという時点で妥協できますか」
さすがにふだんは温厚な刑事部長もいささかむっとして答える。
「単に犯罪の真相を明らかにするだけですむなら、警視庁はいらんし、逮捕権も手錠もいらんよ。新聞記者が鉛筆とカメラを持って走り回っとりゃーそれでいい。ただしそれではこの世の悪の根絶にはならん。今の女が死ぬまぎわに何をしゃべったかは知らんが、君も警視庁警察官だろう。今日は妙なことをいうね」
岩崎は例の冷酷とも思われるような無表情を崩さずにいた。
「それなら……」
と時計をちらと見ていった。
「……西ウルドウ国のメット首相の一行の特別機が出発するのは、午前九時半ですので、ただちに、成田へ電話して出発をさし止めてください。首相は一応警視庁のどこかに御待機願って、随員一行の中から、出発直前八時のアリバイを調べる必要があります。犯人でなくても、犯人をそそのかした主犯は絶対随員の中におります」
国家元首とその一行からなる弔問団は、羽田までノンストップの車で急行し、羽田からYS11か、ヘリコプターで成田まで飛ぶので、都心のホテルから四十五分で成田へ着けるような態勢になっている。もしその中に犯人がいたとしても七時半ぐらいに犯行がすんで、一行のホテルに八時十五分に戻れると、一行と共に九時半出発の飛行機で祖国へ帰ることができる。
「出発をさし止めますか。今なら出発まで、後十分ばかりあります」
と岩崎にいわれて刑事部長は唸ってしまった。一、二分熟考してからやっと答えた。苦渋の色が顔に浮んだ。
「やめておこう。相手は、日本の一番尊いお方の死を悲しんで、政情のきびしい祖国から大事な時間をさいて、わざわざやってきてくださった日本国と皇室の賓客だ。現行犯で手錠をかけるんならともかく、出発を延期させてまで取調べるわけにはいかない」
国際捜査課長がつけ加えていった。
「それに相手がいけません。メット首相は、西ウルドウ国内では、まるで神様と同じほどに、人民から崇められているカリスマ的存在であります。もしも何か非礼があったら、日本は西ウルドウ国八千万人の国民の憤激を買ってしまいます。それだけでなく、世界中から非難される大変な事態になります。今度の百六十三カ国という弔問参加国の沢山の代表団の中でも、一番目立ったのは、このメット首相と、フィリッピンのアキノ大統領で、葬場殿に浄らかに咲いた二つの花とまでいわれた美人です」
捜一課長が、ここではっと思い出したようにいった。
「あっ、あの美人の首相ですか。若いときのエリザベス・テーラーのような、目玉のくっきりと大きい。こらあかん。証拠も固まっておらんのにつまらん殺人事件ぐらいで、国家の代表を足止め喰らわすわけにはいかんですよ」
岩崎は相変らず淡々とした口調でいう。
「このままいつものような捜査を遂行すれば、四十五年前の日本と同じで、アジア諸国民を軽侮し、制圧しようとしている根本姿勢は、相変らずだと、世界中から大変に非難されてしまいます。しかし、殺された二人がたとえ、西ウルドウ人であっても、現在、日本の東京に住む市民であることには変りはありません。これをただ、在留外人どうしの犯罪と、見すごしておくこともできません」
「それはそうだ」
三人の課長はみな一様にうなずく。岩崎は立ち上るとみなにいった。
「多分、犯人が日本に残っていない限りは逮捕は不可能でしょう。しかし、犯罪の実相は明らかにできると思います。そうしたら、私が、パンジャビー語で詳細な報告書を作り、西ウルドウ国政府の司法機関と、美人の首相に送りましょう。それで多分、二度とこの種の事件を起すようなことはなくなるでしょう」
[#小見出し]  御大喪 日本人の参列者
御大喪の儀に、どのような資格の人が参列できるのか、これは昭和天皇を敬愛する、すべての日本人が、ひとしく関心を寄せた重大問題であった。
国民の代表である衆参両院議員は当然だが、その他の人々の名前は、事前には見事なほど洩れなかった。これは多分、宮内庁が招待状を出した人々に、固く口外を禁止したせいであろうといわれる。
ようやく大喪の前々日あたりに、ノーベル賞受賞者と文化勲章受章者の名が洩れ、これは無理のないことと、国民にも納得されたが、やがて、長島茂雄と、森進一の名が新聞に出るに及んで、とたんに羨望からか意外さからか世論は一挙にかまびすしくなった。事前に洩れたのはこれぐらいで、終った後でやっと一斉に名前が発表された。
女性では、森英恵、宮崎緑、見城美枝子、戸川昌子、残間里江子。
男性では、加山雄三、平山郁夫、大相撲の三横綱、四大関、それにオリンピックの金メダル選手の柔道の斎藤仁などである。
2[#「2」はゴシック体]
場所は池袋だ。
所轄からの報告だと、その清和ハウスというのは、細い曲りくねった路地の奥にある、まるで廃屋一歩手前の木造ボロアパートだとのことだ。
既に二階の二〇五号室では、踏みこんだ警察官によって、現場検証が始められているという。岩崎たちは車で池袋に向って急行していた。
先ほど所轄が踏みこむまでは周りの住民は誰一人事件に気がつかず、警察官に踏みこまれて、何かがあったことを知ったという。
すると犯人は被害者の顔見知りでアパートの住人も気にしない人物だったかもしれない。ぴったりとじられた二〇五号室へ警官についてきたのは全部近隣諸国系の外国人ばかりだそうだ。お互いに口うるさく何かしゃべっているが、彼らの中には、部屋の中で何が起っているのか、知っている者はいないようだったという所轄からの報告だ。
女たちの殆どが夜の商売だし、男は男で、地下鉄や道路の工事、工場の夜勤などで、深夜帰ってきたりする者が多く、それに一部屋に六人から八人も寄り集って暮しているので、終夜物音が絶えず、夜中とか朝方、何か物音がしても、誰も気にする者はいない。そんなアパートらしい。
岩崎は、ハイヤーの中で同乗している四人に事態を説明した。運転手をまぜて六人は、大型ハイヤーでも狭苦しいが、道路に車を乗り捨てて何時間でも待たせておくのには、公務でひっきりなしに呼び出しがかかる本庁の車よりは、ハイヤーの営業所から回してもらった車にあらかじめ一日分の料金を払っておいて、専用で待機させておく方が便利である。
これも最近は月一千万円近くにも増えた利息の金を全部殺人の捜査に使いきれという父の厳命があるからできることだ。それにしては一台に五人もまとまって乗るのは少しケチ臭いようだが、これは走っている間に中で捜査上の指示をあたえるためだ。
一般のタクシーと違って、ハイヤーの会社に、かねてから人物を見こんでいる運転手を指名して頼んでいるから、そこから話が洩れることはない。
前の席に、岩崎と、まるでそれが当然のように、乃木がぴったりくっついて乗っている。
後ろの席は、いつもの進藤と武藤の二人の|猛者刑事《モサデカ》に、今日は、みずえ警部補の推薦で防犯少年課から出向してきて、捜一の見習刑事として、殺人事件を見学実習中の、峯岸婦警が指名されてついてきている。
乃木はまだ心の中ではぶんむくれている。去年の暮に先輩のみずえ警部補にも
「将来殺人事件をやりたいんだって。私の高校の後輩よ。うんとしごいて早く一人前にしてやってね」
といわれたから、それ以来ずっと面倒みてきてやったつもりなのに、全く油断も隙もありゃーしない。いつのまにか、乃木の唯一の自慢である、朝の番茶の茶柱の秘伝をあっさり盗みとられてしまった。もう乃木の立場がない。
『ふーん。こんな子殺人係より、泥棒専門の捜査三課の方がよっぽどふさわしいわ。今日、死体をみて、青くなって震え出したり、傷口や内臓見てゲロはいたり、おしっこちびったりしたらお尻蹴飛ばして、四つん這いにつんのめらせて自分の出したもの舐めさせてやるわ。捜一の気合がどんなものか、たっぷり味わわせてやるから』
そう内心で固く誓っている。二十歳になったばかりで、抜擢されて捜一に回されてきたときの乃木は、とても可愛い素直な婦警さんだったが、この五年間、殺人事件ばかり扱っている|中《うち》に、大分、心が屈折してきてしまっている。
それにバックミラー越しに後ろを見ると、あの誰にでも絶対もてたことのない、武藤刑事が、いかにも嬉しそうに、峯岸によりそって坐っている。たとえ手は握っていなくても、スカートの上に、掌がのっかっていなくても、これは断じて空気を仲介にした痴漢行為だ。本来なら手錠をかけてやりたい。
大体、今はたしかに乃木は、他に好きな刑事がいて、この武藤を冷たく無視しているが、それでもかつては武藤は乃木に夢中になって追いかけ回し、恋の言葉をささやいたこともある男ではないか。男だったら、相手に冷たくされたぐらいで、すぐ次の女にのりかえたりせずに、踏まれても蹴られても愛し続けるぐらいの根性を見せたらどうだ。もっとも、だからといって武藤を愛してやるわけではないが……それでも武藤はいつも自分にひたすら愛の真心を注いでいなくてはならないのだ。男というものはそういう宿命に生きるのだ、それにしても……。
一人で何が何だか分らなくなるほど乃木は怒っている。
岩崎は状況の説明を続ける。
「出発まであわただしかったので、説明ができなかったが、所轄の警察官が薄い木造の扉をあけて飛びこんだときは、部屋のたたみは血を吸って真赤で、その真中に、女が一人倒れていたそうだ。胸を後ろから刺され、一突きでやられていた」
みなじっと聞いている。
「その意味では、死に至る苦悶はさして長くはなかった。初め彼女は腹心の子分がいて、その男に自分の敵を殺させたらしい。その子分に何かの報酬を約束していたのだが、あまり金はなかったようだから、それは自分の肉体というようなあまり利益のないものだったのだろう。ところがその腹心の子分がなかなか帰ってこないのを知って突然裏切られたことを悟り、今度は自分が殺される番だと分ったらしい。もう逃げられない。咄嗟に思いついたのは、どうせ殺されるのなら、すべてをテープに残して打明けておくことだった。誰かに、なぜ自分が祖国を遠く離れた異国のこんなごみごみした町の小さなアパートで死んで行くかを、知ってもらいたかったのだよ。それでまず日本の警察に電話をかけた」
進藤は後ろの席から、質問した。
「それでその殺される理由は管理官殿には、分りましたか」
「半分だけは分った。西ウルドウ国が、一九四七年に、インドから独立して、自分の国を造って以来、四十一年間にわたる長い政治闘争が背後にからまる話だが、我々にはそれはあまり関係ない。もっと簡略にいえば、現首相のあのメット夫人と、前の大統領だった、サク氏との宿命の対決だ。しかし話が半分ぐらいまで行ったところで、彼女を殺す追手が、アパートに入ってきて、ついに背後に迫り、首に手を回して、体を動かせないようにして、一気に突き刺したらしい。その絶命のときまで、受話器を握りながら、彼女は死に物狂いで叫んでいた。『父を殺したのはメットだ。直接手を下した工作員は、昨夜、私が仲間に命じて殺した。しかしいつか必ず私の手でメットを殺す!』とね」
乃木が本来なら、ここで、何か一言いうべきところを後ろからいきなり女の声がして、出鼻を挫かれた。後ろの席には女は峯岸新米見習刑事しかいない。
「メット首相って、今度弔問にやってきた元首の中では、一番きれいで人気があった人でしょう。あのエリザベス・テーラーに似た。あの人が殺人なんか命じたのですか」
乃木の心の中はこの発言に怒りが煮えたぎってきた。本当なら、それは自分がいうべき言葉だ。そして、岩崎に
「ほほう乃木は最近は国際問題にわりと詳しいんだな」
と一言ほめられて嬉しそうに笑顔を浮べたかったところだ。それをこのおしゃべり猫め。
もう許せない。もし現場で見苦しいまねをしたら、すぐあのスカートの下の人よりややでっかいお尻をこのパンプスで、思いきり蹴飛ばしてやるから。
しかし乃木にとって幸いなことに、この峯岸の発言に対して、岩崎の返事はきわめてひややかであった。
「仮にもメット首相は今、西ウルドウ国の実質上の支配者だ。国家元首としてはナーン大統領という方がおられるが、この方は年寄りで何の力もない。西ウルドウ国は若く美しいメット首相の半ば神格化した統率力で動いている。八千万の国民を代表する方を、我々は簡単に殺人犯などと断定してはいかん。この殺人は、全く首相が知らない所で、その部下どうしが勝手にやったものだろう。すべては現場へ行って、直接その死体を見てから推理しよう。それまでは誰も、犯人についての軽々しい推理をのべてはいかん。特に峯岸は、まだ殺人事件については、全くの新米なのだから、勝手な意見は慎みなさい」
とたんに彼女はしゅんとしてうなだれてしまった。
車は六十階のサンシャインビルのある大通りのそばの、有料駐車場に入った。
五人は降りた。
岩崎と、進藤、武藤の三人は、私服だが、乃木と峯岸は婦警の制服だ。それで銀行員か地元のヤーさんか、はっきり分らない三人も、婦警さんと一緒に歩くと自然に刑事に見える。このあたり、今は細い道の中は、地元の普通の住民や、おかみさんは何となく通れるが、逆にやくざやチンピラは怖がって入れないといわれている。普通の住民でも、実は肩身が狭い。というのは一歩横丁の小さな路地へ入ると、日本人は殆ど居なくなってしまって、大きな目玉や、褐色から黒に近い皮膚、或いはやや鼻柱が低く両翼に孔が開いた、平べったい鼻、或いは吊り上った細い目など、それぞれの民族に特有の顔立ちをした、近隣諸国の人々が圧倒的に多くなり、その特有の言語と、特有の匂いの中で、頭が痛くなってしまいそうだからだ。
しかし彼らは、日本に移住している身の分をわきまえ、普通の人が入ってきても、決して危害を加えたり、まつわりついて物をたかったりはしない。しかしチンピラややくざが入ってくると必ず反感をむき出しにする。
昔まだ彼らが少数勢力だったときに、やくざにひどくいじめられ、酷使され、ピンハネされた。こういう恨みは、同じ民族ではないから時間がたっても決して氷解しない。必ず小路にひきずりこみ、忽ちに民族を異にした何十人という人間が周りのアパートから、一斉に飛び出してきて、足腰も立たないほどに、ぶちのめして、半死半生にして帰す。子供も女性も、大声でわめき、目を吊上げて、やくざに唾をひっかけ、石を投げかけて手向うさまは、すさまじいほどで、今はこのあたりは組関係者にとっては全く踏みこむことができない治外法権の地帯になっている。
岩崎が私服の進藤や武藤を連れて入るのに、わざわざ、乃木と峯岸を制服のまま連れてきたのは、これらの外人が、刑事とヤーさんを混同してはいけないと危ぶんだからである。
さすがに彼らは警察には逆らわない。大半が三カ月の観光ビザか、一年の留学ビザで入ってきて、後は延長手続きにも出頭せず、そのまま高収入を稼げる日本に居ついて、アルバイトに精を出している連中だ。もしうっかり警察に捕まって
「パスポートを見せなさい」
といわれたら、モグリがばれて、まじめに働きさえすれば一カ月で、祖国で働く一年分の収入が入って貯金ができる、この日本からすぐ追い出されてしまう。
岩崎が歩いて行くと、みななるべく、目と目が合わないように顔を伏せて、避けて通りすぎる。
清和ハウスはすぐ分った。八百屋と乾物屋の間のやっと人がすれ違えるぐらいの小路を入った突当りにあるモルタル作りのアパートだ。下が五部屋、上が五部屋、階段は鉄骨の外階段の、オンボロアパートの見本のような建物であった。
周囲に縄張りがしてあり、立入禁止、の札が下げられている。
岩崎が近づいて縄をまたごうとすると
「こら」
ととんできた巡査が、後ろについてきている、獅子頭のような顔の進藤刑事と、その後ろでまるで青大将のような冷たい目を光らして睨みつける若い精悍そうな顔をしている刑事を見てあわてて直立不動の敬礼をした。顔が真青になっている。
どこかの弥次馬かと思って咎めだてした、やせた近眼鏡の男が、このときに初めて眼鏡越しにちらと一瞬巡査の方を見たが、その一秒の何分の一の視線にさらされただけで、所轄の巡査は全身が凍りついて恐怖に心臓が止まりそうになってしまった。これまでこんな怖しい目を見たことはなかった。
進藤が獅子頭のように大きく口をあけて
「言葉に気をつけろ。本庁の捜一の岩崎警視正殿だ」
とどなった。警視正といえば、所轄の署長より偉い。立って敬礼したまま、全身が震え出した。
「まあいい、私らは私服だ。階級章をつけて歩いているわけではない。そう怒るな」
そのままさっさと二階への鉄の階段を上って行く。二〇五号室なんていうから錯覚を起すので、要するに二階の五号室にすぎない。入口に刑事が二人、巡査が二人立っており、その周りに集って、口々に日本人には分らぬ言葉で何かわめきながら、中を覗きこもうとしている、アパートの住民を手で制している。
「こら、入っちゃいかん。近づくな」
必死にどなっている巡査が、岩崎たち一行を見てあわてて敬礼した。人ごみをかき分けて、五人は扉に近づく。すばやく刑事があけてくれる。五人は中へ入る。
一瞬、扉の外に立っている人々にも、中の様子が見えて、ウオーッというどよめきに似た声が洩れたが、すぐ扉はまたしめられてしまった。
血の池の中に死体は|俯《うつぶ》せに倒れていた。
片手にしっかりと受話器を持っている。コードは一杯にのびているが、それでも足りないように、電話機の本体そのものが、それがのっていた小机から、転がり落ちていた。
かなり抵抗したらしく、服や体にこびりついた血が、あちこちに更にこすりつけられているかすれた痕がある。
扉も窓もしめきっているから、狭い部屋は一面に血の匂いがたちこめている。所轄から回されてきたばかりの馴れない刑事なら、これだけで吐き気がこみ上げてきて、そのまま廊下へ飛び出して行き、すみにあるトイレに頭をつっこむところだが、乃木が意地悪な目で峯岸を見ると、まるで平気で、死体の背中のところを見ている。
白い上っ張りの鑑識課員は、既に現場保存の写真は撮ってしまって立って待っている。
岩崎は鑑識にいった。
「死体の持物を調べたい。誰もまだ触っていないね」
「はい」
白衣の二人の鑑識は答えた。血は凝固している。もうこれ以上汚れることはない。
「乃木は背中のナイフを抜きなさい。その間峯岸は被害者の首を少し持ち上げて、体を斜めにして、ナイフを抜き易いようにしてやりなさい。被害者は女だ。やはり、あまり男の刑事さんがいじり回さない方がいいだろう」
死んで俯せになっている女の頭を抱えて持ち上げるなんて、いくらお役目とはいえ気分のいいものではない。
乃木は、峯岸がどんな態度に出るかと、ちらと見た。少しでもためらうようだったら、そのときはパンプスの先に必殺の力をこめて……とじっと見ていると、峯岸は
「はい」
と元気よく答えて、頭の向うに回り、スカートの余り布を膝の後ろにきっちりたくしこんで、外部から不用意に中をのぞきこまれないように整えてから、両手で頭を抱えこんで三十センチほど持ち上げた。死んだ人間の頭というものはひどく重たいもので、体重の半分がかかるともいわれている。さすが砲丸投げの選手だけあって、軽々と持っている。女の身体には第一次の死後硬直が来ていて、そのまま全身が斜めにのびてまっすぐになっている。
この娘には恐怖感というものは、一つも起きないらしい。顎の下あたりに手を回しているので、持ち上った顔が、自分の正面に向いている。女の片腕の受話器は、口の前につけられたまま、一緒に持ち上る。
「まだ、何か言いたそうな顔してる。可哀相!」
それから、持ち上った胸の下を見て
「刃の先が心臓から出ているわ。左のおっぱいの下に三センチも出ているわ。鑑識さん、これ写真撮っておいて」
という。岩崎は鋭い声で叱る。
「峯岸、何もいわんで黙ってろ。そんなことはとっくに鑑識さんはご承知だ」
とたんにまた、しゅーんとして黙りこんでしまった。乃木は背中に回ってナイフをひき抜き、すぐに鑑識に渡す。ナイフが抜かれると死体は仰向けにされた。
「二人で一枚ずつ脱がせながら、何か身につけている物がないか調べなさい」
三十ぐらいの女だ。メット首相と似た、黒目のかったはっきりした顔だちをしている。かなりの美人だが今はその目は天井を睨んでいる。
「目をとじてやれ」
峯岸がすぐ、瞼に手をのばしてとじてやった。死体など全く怖くないらしい。それから地味なスーツの内側のポケット、質素なブラウスの胸ポケットや、下着の内側を探って行く。
最初に出てきたのは、女が飛行服姿の男によりそって、写っている写真だった。パンジャビー語で走り書きがある。岩崎はそれを読んでみなに教えた。
「彼女の夫だ。この人は多分、去年の八月十七日に死んでるはずだ」
進藤がその写真をのぞきこみ、ついでに受け取って、裏表を見た。しかしどこにも、数字は書かれていない。それに二人仲好くよりそっている。死んでいることを暗示するものは、この写真から感じられない。
下で激しく騒ぐ声が聞こえた。誰かが妙な言葉で警官や刑事と争っている気配だ。
その言葉が分った岩崎はいった。
「武藤と進藤はピストルをかまえて、部屋の両側に立て。ただし自分が狙われるまでは射つな。獲物は向うからとびこんできたかもしれない」
岩崎も窓際に立って、小型のピストルをかまえた。
いきなり、扉が体当りでこわされて、一メートル九十ぐらいの大男が入ってきた。(のちに岩崎が説明したところによると男は)
「これはおれの大事なご主人だ。この死体はおれがあずかる。誰にも触らせない」
(と叫んでいたそうだ)
そのわめく言葉は他の誰にも分らない。
男は物凄い力があり、立ちふさがる刑事や、所轄の巡査を、投げとばし、はねのけ、傷だらけになって入ってきたのだ。
そこに三人の男がピストルを持って立っているのをみると、よけいカーッとしたのか、死体のそばにいた、婦警の一人にとびかかろうとしてきた。まず女を捕まえ、これを楯にして、自分の要求を通そうとしたらしい。これは喧嘩なれのしたやり方だ。
背中から羽交いじめされて、腕に力を入れられたら、日本の女性の小さい首など、あっさり折れてしまう。たとえ婦人警官だといっても、別に首が一般の女性より固くできているわけではない。この男は事件の大事な証人で殺したくないが、部下の婦人警官をむざむざ殺されては困る。何しろ力士なみの体だ。
岩崎が正面にいる大男に向って、ピストルのひき|鉄《がね》をひこうとしたらそのときひょいと目の前に女の体が立ちふさがった。峯岸の体だ。それが邪魔になってひき|鉄《がね》がひけない。
「あぶない峯岸どけ!」
といったとき、想像もできないようなことが起った。峯岸が男の前でいきなり片膝をついてしゃがんだので、大男はやや前かがみに峯岸の首に向って手をのばした。その手をどうも先にこの新米婦警が把んだらしい。その太い手を中心に、一メートル九十の小錦のような巨体が空中でくるりと自分の勢いで回ってしまった。片手はしっかりと峯岸に把まれたままなので、手まで回りきれず、二百キロ近くの自重が片手の関節にかかり、ポキーンと大きな音をたてて、腕の骨が折れ、男は仰向けにひっくり返ってしまった。苦痛のあまりわあーっと声を上げて泣き出した。
もともと婦警さんのスカートはタイトで、片膝でしゃがんだ場合、膝小僧をかくすだけの余裕はない。
一瞬むき出しになった太腿をあわててかくすようにして立ち上ると峯岸は
「お見苦しいところをお見せしまして」
真赤になっていった。
「どうしたんだ、今」
刑事たちが呆れてきく。それに恥しそうに
「いささか」
と答える。
「いささか、どうしたんだ」
「父に合気道を習いましたもので」
恥しそうにもじもじしている彼女を、進藤と武藤の名うての|捜一《コロシ》の猛者刑事が怖ろしそうに見ていた。
[#小見出し]  御大喪 拝礼の順序
一般の民間人の小ちゃな葬式でさえ、焼香順は『お近い人から』ということで、やたらにやかましいことをいう人がいる。よくこの順でもめごとが起ったりする。
今度の大喪で宮内庁が一番頭を悩ませたのは多分拝礼の順序だろう。国名のアルファベット順だと、名もない小国がトップになる。元首、国王を同格に見て、最初におき、その就任順とするのが国際慣例だが、しかしそうなると今年になって正式に大統領になったアメリカのブッシュは一番ビリになってしまう。
そこでどんな基準を採用したかは分らぬが@ベルギー国王 Aヨルダン国王 Bルクセンブルク大公 Cトンガ国王 Dスウェーデン国王 Eスペイン国王 Fブルネイ国王 Gブータン国王 H英国女王夫君 Iデンマーク王子 Jフランス大統領 K西ドイツ大統領 Lアメリカ大統領 という順序にした。アメリカを不吉な十三番とは、随分宮内庁も大胆なことをしたもので、もし数字にこだわる愛国的アメリカ人がいて、この事実に異議を申立てたらと、ひやりとした外交関係者もかなりあったのではないか。
3[#「3」はゴシック体]
捜一の大部屋のある同じ六階の外れに刑事部長室がある。
先ほど応急手当てを受けて、肩から折れた腕を吊した、まるでフランケンシュタインのような大男が、ひげ面に涙をぽろぽろこぼしながら、捜一岩崎警視正とその部下とに囲まれて中に入って行った。
入口にただちに見張りが立って、室内出入禁止になった。
部屋の正面に移動式の黒板を置き、その横に大男が大型ソファーをあてがわれて坐らされている。
普通の椅子では、その重圧に耐えかねて、こわれてしまう。男はまだ腕が痛むのか、涙をこぼして泣いている。とても抵抗する元気はない。
部屋には、刑事部長と朝方の三人の課長、そして今回の事件に立会った岩崎警視正とその四人の部下しかいない。秘書も遠ざけられている。
岩崎がまず、今日、池袋のアパートで起ったことを簡単に説明した後
「それでは今回の事件の背景について調べてみます。ただこれは、事件がたまたま、東京で行われただけで、事件の内容は純粋に、西ウルドウ国の国内問題なので、これ以上、我々は犯人を追及したり、捜索したりはしません。これで一切を終りにします。我々としてはただ、事件の真相を知っておけばいいという立場で調べてみます。ただし直接ではありませんが、国家元首もからむ問題なので、特に捜一の刑事諸君は絶対外では一言もこのことについてはしゃべらないようにしなさい」
といった。四人とも大きくうなずいた。
それから岩崎は、泣いている男に、何かパンジャビー語で質問した。大男は自分の国の言葉を、まるで自国の人間と同じように話す日本人に、びっくりして、しばらくその顔を見ていたが、やがて心の思いをすべてぶちまけるような勢いでしゃべり出した。
それに対していくつか質問する。要点を黒板に書く。何度か話しあった後に、岩崎はいった。
「この男は、先の大統領のサクの親衛隊長をやっていたそうです。サクの評判は国際的にひどく悪いのです。今のメット首相と正反対です。軍人上りですべてに独裁的で、恐怖政治を布き、多くの民主的な政治家を殺しました。しかしこれは、国際的な評価であって、この男にとっては、サクは誰よりも慈悲深い神様のような優しい主人であったそうです」
この憎々しげな顔をみると、その大統領がどんなにひどい恐怖政治を行ったのか、何となく想像がつく。今は腕を折られた痛みで、だらしなく泣きじゃくっているが、こんな奴が大統領の親衛隊長でいばっていたときは、人民はひどく怖かったに違いない。
「サクは、一九七一年には参謀総長でした。そのときの大統領は、現在のメット首相の父親で、この男の言葉によると、優柔不断の実行力のない政治家だったそうですが、国際的には、メット大統領は古い宗教国家を、一歩一歩近代的な民主国家にしていった、偉大な政治家として評価されています」
それからまた二、三言、その男に質問した。
「サク参謀総長が軍部の力を糾合してクーデターを起し、政権を握った後、メット大統領は捕えられて投獄され、半年後には売国奴として、銃殺されました」
日本の総理大臣ひきずり下ろしとは違う、外国の政権交替のすさまじさを、みなはまざまざと見せつけられる思いであった。
「そのときは現在のメット首相はまだ留学生で、ロンドンで法律の勉強をしている最中でしたが、三年前、全国民の要望で西ウルドウ国へ帰ってきて、政治運動を始めました。サク大統領が軍の力を借りて、議会を停止して、独裁政治を強行しているのに抗議して、議会制民主主義を復活させようという運動だったそうです。ところがそれも弾圧を受け、メットさんは投獄され、女の身であるのにかかわらず、銃殺刑の判決を受け、執行の日も決っていたそうです。ところが、その執行日の数日前、つまり去年の八月十七日に突然、事態が変ってしまったのです。サク大統領が、米国の大使や、国連軍の幹部と隣国のアフガニスタンへの輸送基地を視察に行っての帰りの飛行機が、空中爆発してしまったのです」
また岩崎が何かきくと大男は今度はライオンが吠えるような声をあげた。
「この男にいわせると、これはメットがやったというのですが牢に入って刑の執行を待つ身で、そんなことはできません。まあーその真相はどうでもいいことなのですが、すぐメットは釈放され、統いて全人民に推されて、首相になりました。温厚なナーンという老政治家を大統領にし、前のサクのように大統領に独裁権力を持たせることなく、首相に権限を委譲しこれまで着々と近代的な民主国家を築いてきました。美しいだけでなく国際的な評価も高い立派な政治家なのです。池袋のアパートで一人の女が殺されたからといって、その容疑者として出発を差し止めるような扱いはできません」
刑事部長が初めてここで発言した。
「たしかにそれはそうだ。しかしこの殺人事件はどうして起ったのだね。それがまだ解明されていない」
「殺された女はサク大統領の娘の一人だからです。電話に向ってしきりに自分でそれを強調していました。夫は空軍のパイロットで、大統領やアメリカ大使をのせたまま空中爆発してしまった軍用機、C130機の操縦をしていたそうです。女は、そのまま国内にいるのは、身の危険と知って、親衛隊長と二人で一度アメリカへ逃げ、今年になって、日本の尊い方の御葬儀に、メット首相が来ると知って自分の父を殺した憎い奴を殺すために、秘かに日本へ入国したのだそうです。勿論、メット首相にとっては、それは全くの言いがかりでひどく迷惑なことでしたが、身辺を狙われてもし事故でも起きると、日本の警備当局に迷惑をかける。そこで既に出稼ぎとして沢山入ってきている、西ウルドウ人を大使館に呼んで、事態をしきりに、探っていたらしいのです」
ようやく、対立の図式がみなにのみこめてきた。
岩崎はそこで改めていった。
「ここまでは私が、自分で調べた西ウルドウ国の国内事情や、この男の言葉を合せて、できるだけ自分の考えはいれずに公平に事情をのべました。最後はこのフランケンシュタインのような男の言葉を忠実に通訳します」
男に何かいう。男は大きな声でしゃべり出した。
「メットのアマは悪魔だ。ゲスなメスだ。アラーの呪いあれ。昨日、おれは大使館の前の道路で一人の男の首をねじきってやった。昔、おれの親衛隊の一番忠実な部下だった奴が、今、メットのボディガードをやっている。口惜しくてならなかった。大使館に入るメットの一行の行列の中に奴の姿を見たときもうカーッとしてしまった。夕闇にかくれてじっと待っていたら奴が出てきたので、路上でとっ捕まえて首をねじきってやった。そのときいつのまにか銃に囲まれて、大使館の中にひきずりこまれてしまった。おれは殺すなら殺せとわめいたよ」
岩崎は多分(それからどうした)と鋭く問いかけたらしい。
男は急にあたりをキョロキョロと見回してから脅えた調子でいった。
「大使館の役人が、首相の生命をつけ狙っている女を殺してくれば、また親衛隊長にしてくれるといったんだ。それでおれは祖国に戻りたくなってしまった。朝方一思いに、お嬢さんを刺して大使館に報告に行ったら、死体から証拠の品を持ってこなければ信用できないという。それでまた戻ったところをあんたらに捕まっちまった。これはおれたちの間の問題だ。早くこの腕を直してまた大使館に帰してくれ」
その言葉を通訳し終えた岩崎は、四人の上司に改めていった。
「これはあくまで西ウルドウ国の国内問題ですから、二つの死体と、この大男とを、黙って大使館に渡し、我が国の警察は一切関知しないという方針を取るより仕方がないでしょう。ただし大使館がこの男を無事にまた親衛隊長にするか、それとも殺してしまうか、これは私には分りませんが」
上司はうなずく。
「その代りいったん男の身柄をひき渡したらこの件について、一切の文句が大使館側から出ないよう、私がパンジャビー語で詳細な事件報告書を作って、明朝男と一緒に送りつけてやりますよ。どうせこんなことは大使館の下っぱ役人が考えた小細工で、首相は全く与り知らないことでしょうから、すぐ内密に処理してしまいますよ」
[#小見出し]  御大喪 当日のスケジュール
九・三十五 |轜車《じしや》皇居正門出発。
十・十五 葬場殿(新宿御苑)正門到着。
十・三十一 霊柩を|葱華輦《そうかれん》に奉遷、徒歩列進む。
幔門を閉じる。
幔門を開く。
十・五十三―→ 十一・四十五
葬場殿の儀。祭詞、天皇拝礼、|御誄《おんるい》など皇室行事。その後、鳥居を撤去。
十一・五十八 内閣官房長官開式を告げ、大喪の儀開始。
十二・○○ 黙祷。
拝礼、弔辞・総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁長官。
外国元首、弔問使節拝礼。
十三・三十一 霊柩を轜車に奉遷、葬場殿を出発し、武蔵陵墓地に向う。
4[#「4」はゴシック体]
二月二十八日は火曜日。二月はもう今日しか残っていない。日が替れば三月だ。
警察官は世間の土日連休時代にも全く関係ない、ハードな職業だが、寒い冬が終り、春がやってくるのを迎える嬉しさには変りはない。
そして今、豪華なシャンデリヤの下で、次から次へと運ばれてくるフランス料理を待ちながら、食前のワインを、まるで上流家庭に生れついてグルメに育てられた人間のような気分で楽しんでいる、二十人の警察官にとっては、今晩はただもうじき春を迎える嬉しさだけではない、くつろぎの時間だった。
帝国ホテルの十八階。あれほどいた外国の賓客たちはまるで潮がひくように去り、ホテル中はひっそりと静かだ。先日からの雨空で、街の空気はすっかり洗われ、眼下に見える銀座一帯のネオンはくっきりと眩しいほどに光っている。
一係、二係の頂点に立つ、管理官・警視正岩崎|白昼夢《さだむ》が、坐ったまま、ワイングラスを持ち上げると、彼に忠実な捜査一課の|猛者刑事《モサデカ》たちが一斉に、グラスを上げた。
現代の新選組にも匹敵する、鬼のような殺人犯専門の刑事たちも、この一見銀行員か、コンピュータ技師にしか見えない、三十歳をちょっとすぎたばかりの、近眼鏡をかけた、若い上司には頭が上らない。巨大なコンピュータを自由に駆使する上、当人の頭脳はそのコンピュータ以上で、およそ地球上に分布する世界各国の言葉はすべて、理解するという超能力を持っている。その上捜査のカンは、ベテラン刑事の経験による推論などに一顧もあたえずに、いきなり犯罪の核心をついてきて、誤ったことはない。
誰もがこの若い警視正に心服しきっているから、彼がグラスを上げながら
「ごくろうさんだった。では無事儀式が終了したことと昨日難事件を解決したことを心に銘じて乾杯しよう」
というと、みな深々と頭を下げて一斉に
「ごくろうさんでありました」
といってから乾杯した。岩崎が無事に終了したことを心に銘じてといい、敢えて祝うという言葉を避けたのは、それが国民にとっての哀しみの儀式とそれに附随する事がらであったからである。
北海道から、沖縄まで、日本全国の警察から、大量の応援を頼んで、儀式の進行中の警戒や、外国要人の警備に当らせた。外部に応援を頼んで、当の本家本元の警視庁が、公安と警備とSPを出すだけでは、話は通らない。
交通部からも、警ら部からも、防犯少年部からも、抜けるだけの人間を回して、当日の警備と要人の警戒に当らせた。当然、刑事部の捜査各課からも、応援の警官が出て、これまでそのようなことでは、一種の聖域でもあった、殺人専門の刑事や、鑑識のベテラン職員まで沿道ビルの取調べや、参列人の整理に動員された。
それも昨日の二十七日中には来日した外国からの賓客が全員日本から離陸して、特別非常警戒態勢は終った。
応援の捜一は一日早く月曜の朝には全員が元のデスクに戻ってきた。その後一つ事件を片付けたので、今日久しぶりに一緒に夕飯でも喰おうということになり、おなじみの岩崎のお気に入りの子分の刑事さん連中が、帝国ホテル十八階の、特別に用意された部屋に集ったのだった。
みなが一通り、ワインのグラスを飲み干したころを見計って、岩崎は一人立ち上っていった。
「今日は打上げの他に、少し話があって集ってもらった。実は岩崎警部補のことだが……」
ごく|他人《ひと》ごとのようにいったが、岩崎警部補とは、前名が志村みずえ、警視時代の岩崎と結婚した、つまり彼の愛妻のことである。
二十人が四角い長いテーブルを囲むように坐っている。丁度、岩崎警視正の反対側に、四人の婦警が坐っている。その中の一人の三十歳ぐらいの長身やせ型の婦警が立ち上った。本庁の中を制服を着て歩いていると、タレントが、ポスター撮影のためやってきたのかとしばしば、間違えられるほど、容姿、容貌ともに秀れている。岩崎は全く自分に関係のないことのように淡々という。
「……警部補は、三月一日を以て一度退職する。子供が満二歳になり、母親が勤めに出ると淋しがっていけない。ただし、本庁の上司のたってのおすすめで、完全な退職でなく、公務員規定の特例に基づき、現職のまま二年間の休職扱いになる。その間難事件が発生して、どうしても岩崎警部補の協力が必要になったら、一時的に職場に復帰して捜査に従事してもらうこともできるという、柔軟性のある退職だ」
一時みな、みずえ警部補との別れを思って粛然としたが、すぐほっとした気分が流れた。警部補は一礼すると
「どうかこれからも、よろしくお願いします」
といった後で、自分の隣に坐っていた、まだ高校を出たばかりのような若い婦警を起立させ、一緒に頭を下げさせると、いった。
「既にふた月ほど前から見習で、乃木婦警の隣の席で、事務を手伝っていたのでお分りの方も居ると思いますが、私の後任に、これまで防犯少年課にいたのをスカウトしてきた、峯岸|稽古《けいこ》さんです。会津にある私が出た白虎高校の後輩です。乃木と同じケイコさんなので、混同するといけません。峯岸さんの方は、同じケイコでも武道とかお茶とかの稽古という字を書くので、今度は名前を呼ぶときは、おケイコと|お《ヽ》をつけてください」
みな、おかしくなって笑い出し、当の稽古は、さすがに真赤になってうつむいた。
警視正が助け船を出すようにいった。
「これで休職と新任の二つの挨拶が終った。二人とも腰かけなさい。今日で六十年なかった大任も無事終えた。埼玉県警では、まだ未解決の事件が一つあって苦労しているが、首都東京の我々の管内では昨日一つあっさり片付けたので今のところ、ひっかかって苦しんでいる事件はない。大いにくつろいで、おいしい一流の料理と、世界の銘酒を遠慮なく味わってくれ」
「はい、いただきます」
「お言葉に甘えます」
進藤部長刑事や、吉田老刑事など、いつものメンバーは元気よく答えた。
岩崎警視正の父親は、長野県の高校教師を退職して、今は余生を山間の故郷で読書にすごしている身で、それほどの資産家ではない。ただ先祖から伝えられた山林が高速道路計画にひっかかり、五年ほど前に一度、数億の大金が入った。そして去年また駐車エリア拡大のため山林が公団に売却され、更にそれに数倍する大金が入った。
定期預金の金利は下ったが、それでも月の利息は今では一千万円近くになる。
一切名利や、金儲けに関心のない父はそれを全部息子の警視正に送りつけ
「金など貯えると人間、ろくなことにはならん。帝都の殺人犯絶滅のため、すべて使いきってしまえ」
と厳命している。しかし使いきれといわれても、一カ月に一千万円を使いきるというのはなかなか大変だ。そこでこうしてしばしば夕食会をこの帝国ホテルで開くのだ。
帝国ホテルでの夕食会は、岩崎警視正の部下にとっては、これまでの習慣で別に珍しくも何ともないとはいえ、やはり楽しいことだ。ましてちょっと間違えば面倒な国際間題になるところを今度は鮮やかに解決したのだから、みな心楽しく酔った。
だが岩崎個人としては昨夜は、思いがけず長文のパンジャビー語の報告書を書くのに徹夜してしまったため、レミーマルタンの酔いが回ってくると眠くなってきて困った。
楽しそうに談笑している部下が本当に頼もしい。どんな難事件も、この連中がいれば何も怖れることはない。明日からの事件がまた楽しみになってくる。殺人犯を追いつめて行く今の仕事が本当に好きなのだなあーと、しみじみ思った。
[#改ページ]
[#見出し]  U 殺人者はL・S・D
[#小見出し]  L・S・D(その生成)
L・S・Dは、一九三八年(昭和十三年)五月二日に、スイスの、サンドス製薬会社のアルベルト・ホフマン氏によって合成された、比較的新しい人工の錠剤である。
主成分は、リゼルグ酸ジエチルアミドという薬であって、薬剤師の資格と、ちょっとした技術があるなら、さして大きい規模の設備が無くても個人で精製することができる。
別に麻、|芥子《けし》、コカなどの、植物を栽培したり採取したりする必要はない。人工的にいくらでも精製できるので、きびしい罰則を適用して、これを取締らなければ、ある日、爆発的に大量に、世界中にばらまかれる危険がある。
最近、東京ではアメリカ人から、四百錠ばかり手に入れた者が、一錠千円のものを、六千円前後で、ロック楽団の楽士を中心に、バラまいた事件があった。
売買した者だけでなく一錠でも服用した者もきびしく追及され処罰された。
それは使用者が幻覚によって殺人を犯し易いし、殺人を犯した場合も殺人罪で起訴できないからだ。
1[#「1」はゴシック体]
二月に愛児翔が、満二歳の誕生日を迎えた。
この世に生を|享《う》けてから、まだ二十四カ月がたったばかりだが、警視庁の殺人専門の課、捜一で最も忙しい管理官と、課長付きの秘書の警部補を両親に持つこの赤ン坊は、二歳の幼児としては、これまでかなりの体験をしてきている。父の捜査の都合で、アメリカへも行ってきたし、モロッコでは、まさに危機一髪の目にもあってきている。ただ当人は、何分赤ン坊のことで、何も知らずに往ったり来たりしただけで、飛行機に乗ったことも覚えているかどうかは分らない。ただ今年になって、毎朝父と共に、母も出かけて行くのを見送るとき、ひどく淋しそうな顔をするようになった。たとえ、みずえの父の武吉郎や母の吉枝が、翔を抱いて一日中あやしていてくれても、実際の父母と、祖父母とでは赤ン坊にとっても、情愛の通じ方がかなり違うものらしい。気丈な子なので、なるべく泣き顔を見せまいとして、玄関口や、エレベーターの扉の前で、元気に手を振ってバイバイするのだが、そのくりっとした大きい眼に涙がキラリと光っているのを見て、みずえは胸を衝かれる思いがした。
ついに思いきって退職を決意した。自分が女性としては数少い警視の地位に昇進することよりは、愛児を健康で、意志のしっかりした子に育てあげて、夫のような名警視正にした方が良いと考えたのだ。
幸い、一時的な休職という形で、職場を離れることを認められ、四月以来、ずっと自宅にいる。
翔も見違えるほど元気になった。
父親がふだんは無口で、にが虫を噛み潰したような顔をしているのに、この子は生れてすぐ腹鼓の物真似をやってみせたほどで、天性愛嬌のある子だった。テレビでは、朝の子供の時間の、じゃじゃまるとぴっころとぽろりの三人組が大好きで、画面と一緒になって踊り出す。
それを、編物をしたり、家の中を片付けたりしながら見ていると、これまで高校を卒業してすぐ、警視庁に奉職し、ずっと優秀な婦人警察官として、事件の第一線で活躍していたときの充実感とはまた違う意味の充実感があるのを、みずえは知った。
それに、一日中そばで見ていると、この愛児はこれまで、母親が全く気がつかなかった別な才能があることも分ってきた。
みずえは、結婚する前、休日は、町へ映画を見に行ったり、同僚の婦警と、盛り場に遊びに行ったりするということがなかった。休日は大体、公務員の独身者用女子アパートで、朝の内に、洗濯や掃除を片付けてしまうと、後は捜査必携書である、刑法、刑事訴訟法、刑事訴訟規則、犯罪捜査規範などの、難しい法律書を、机の上に開いて、一心に勉強していた。実際に犯罪捜査に当っていると、巡査から、巡査部長への昇任試験を受けるためというより、犯人を相手にして、拘束したり、収監したりする、その一つ一つのケースに、この法律がぴったり役だって勉強が面白くて仕方がなかった。
しかし、東京へ出てから、三、四年目のころ、母が突然やってきて、アパートの中を見て、花一つない殺風景な部屋なのにびっくりした。それであわてて、町へ出て行って、近くの楽器店から、そのころ新製品で売り出していた、エレクトーンとピアノの合いの子のような、学習机ほどの大きさの楽器を、娘のために買ってきておいた。母の吉枝は若いとき、武家の娘のたしなみとして、琴を習って、奥許しまで取っている。自分の娘にもせめて、ピアノぐらいは習わせたいと思ったが、武吉郎があまりいい顔をしなかった。
「歌舞音曲は、人間を柔弱にしていかん」
どうも会津の男には、自分は小原庄助さんで、朝寝、朝酒、大好きのくせに、婦人や女の子が、家内で音楽に親しむのを嫌う風潮がある。この点、ずっと後に本庁に奉職してきた峯岸稽古婦警の家庭も同じようなもので、高校時代、砲丸投げや、ハードルで、大いに活躍したときは、父は満足だったが、(これは、みずえの推測であるが)もしギターでも買ってきてそっと習得でもしようとしたら、きっと頭がそいつの響板をぶち割って、向う側へつき抜けるほどに、強くぶっ叩かれてしまったかもしれない。
みずえは歌がうまく、合唱行進などのときは、いつもリード歌手をつとめたし、先生もピアノを習うことをすすめたので、父に内緒で、バイエルとチェルニーと教則本二冊まではやったが、武吉郎が家にピアノのような柔弱なものを置くことに強く反対した。おかげでそれ以上は勉強しないで終ってしまった。
つまり当人にも、障害を排除してまで学ぼうという熱意はなかったのだ。
だからこの小型の軽い楽器は、深夜のアパートでも、音を絞って使えば、充分に楽しめるのに、母に買ってもらって以来ついに一度も使わないでほうりっ放しにしておいた。結婚してからは、赤坂のマンションには、ちょっとした納戸風の物置があったので、そこへ入れたまま、もう三年埃をかぶったままにしてあった。親の心子知らずだった。ところが最近、急にその小型のエレピアノという楽器のことを思い出した。四月も半ばごろのことであった。毎日が翔と一緒だ。これまでよく知らなかった、翔のさまざまな性格が段々と分ってくる。テレビの音楽をきくと、敏感に反応して踊ったりする。自分が音楽を奏してやったら、どんなに喜ぶか分らないと、ふと考えたからだった。
納戸の奥からそれをひきずり出して、埃を払う。昔少しだけでも教則本をやって、音に馴れているせいもあって、簡単な子供の歌ぐらいなら、自然にひける。
初めは、その母親の姿を翔はびっくりして見ていた。いつもは片時も離さない、|自動車《ブーブー》の玩具を、そこへおいたまま、まるで、物に憑かれたように、母を見ている。やがていきなり、その楽器に近づいた。丁度背のびしたら、指が届くぐらいの高さだが
「ショウちゃんがひく」
自分が手をのばして、あちこち押しては音を出し始めた。
母の演奏をきくより、自分がひくことの方にずっと興味を持つようであった。どこからその血筋が出たのか分らない。昼の食事を一緒にするためやってきた、母の吉枝がびっくりして
「あら、私の血筋が出たのかしら」
満更でもなさそうな顔でいった。武吉郎はにがい顔で
「こんなところ、|白昼夢《さだむ》さんに見せるんじゃないぞ。警視庁第一の鬼の捜査官殿が、あまりの情なさに涙をこぼされるぞ」
と叱った。だが現在の家庭は、どこも女が主で、男がそれに従う時代。武吉郎の、そんな時代遅れの注意など、頭から無視されてしまった。
四月も終りに近い日曜日、岩崎は順当に休みが取れて、朝から家に居た。
埼玉県と東京の境に起きた幼児誘拐事件は、膠着状態に入ってしまって、しばらくは進展の見込みもつかない。それにこの事件は埼玉県警の扱いなので、東京警視庁としては捜一の全力を投入して、一挙に解決をはかるというような手段は、警察行政全般の立場のためからも、とるべきではない。
このことについて、多少の意見も岩崎警視正にはあったが、その事件の捜査の専任を命ぜられたわけでない彼が、今発言することは、真剣に取り組んでいる県警の刑事諸君の努力をないがしろにすることにもなるので、きびしく発言を慎んでいた。もう一つの事件はやはり埼玉県境で起った女子高校生惨殺事件だ。
事件そのものは、日本の犯罪史上稀にみる残忍非道なものだったが、死体の発見や、犯人の検挙は簡単で、事件の解決は早かった。警視庁が取扱ったが、係は殺人の捜一でなく防犯部少年二課だった。犯人は全員検挙されたが、逮捕した警視庁内には、まだ少し重苦しい空気が残っている。検挙して取調べ、犯罪の実相が明らかになってくるにつれ、全都民の怒りが湧き上ってきた。犯人は四人とも全員死刑にせよという声が世間に|澎湃《ほうはい》として巻き起ってきたほどだ。しかし当の検挙に当った、刑事さんたちや、岩崎たち第一線の捜査官には、極めてさめた感想しか湧き上ってこない。みなぼやいている。
『どうせ長くて六、七年。それも大概、四年もたてば、大きな顔をして仮釈放で出てくる。その後は懲役帰りのお兄ちゃんで、どこの組でも中幹部クラスで入れる。全くやれんなあー。裁判所には世間知らずのバカ検事、お坊ちゃん判事ばかりだからなあ』
これが、第一線の捜査官全員の意見だった。
岩崎警視正も、その春の中ごろの日曜日、久しぶりに未解決事件のない、静かなのんびりした休日を楽しんでいたのだが、だから心の中はそれほどすっきりと晴れ上っていたわけではなかった。ただ家にいるとき、仕事に疲れた顔をしているのは家族のためにもよくない。なるべく、ごきげんよくしていようとつとめていた。
外は今にも降り出しそうな雨もよいであったが、一週間ぶりに、朝はゆっくり起きて、隣に住んでいるお祖父ちゃん、お祖母ちゃんも一緒に揃って、朝の食事を始めた。
そのとき、ジャムをつけたトーストに、口を真赤にしながらおいしそうにかぶりついていた翔に、母のみずえが
「翔ちゃん、結んで開いてやってみて」
といった。翔はパンを皿において、椅子から下りて、自分で壁の所まで駆け足で行くと、小さなエレピアノの蓋を下から押し上げた。
それには、警視正は勿論だが、祖父も祖母もびっくりして見つめている。その注目の中で鍵盤に手を出すと、黒鍵を見てその右のミからミミと二つ続けて打って、レドと戻り、ドをもう一つ打って、レレと上り、ちゃんと、結んで開いてのメロディにしてから戻ってきた。
初めはにがにがしげな顔で文句の一つもいいたいらしかった、祖父の武吉郎も、途中で呆れて物もいえずに見つめたままだった。
日曜の朝の食卓はすっかり賑やかになった。祖母の吉枝はもう可愛くて可愛くて仕方なく、やたらに翔を褒めそやす。いつもなら
「あんまり子供を甘やかしちゃいかん」
と、ひと言老妻をたしなめなくては気のすまない武吉郎も、今日はもう何もいわない。
そのとき、翔が妙な気配を見せた。これは職場での岩崎警視正を、しょっ中見ている者なら、ごく当り前のことなのだが、初めて見る人だと、みなびっくりする癖でもある。
いつもデスクに向っている岩崎は、事件が入っていないときは、細長い葉巻きを横にくわえ、煙で目のあたりをしかめながら、コンピュータの端末のキーを打っている。そしてひょいと何気なく電話の方に片手をのばす。のばした手が電話機に届く直前、電話が必ず鳴り出す。鳴り出してから手をのばすなら、ごく普通だが、どうも警視正には鳴り出す前の無音の気配が分るらしい。
それが、まだ満二歳の翔にそのまま遺伝したらしい。突然するっと椅子をすべり下りる。近くの小テーブルの上に置いてある電話機の方へ歩き出す。
そのとき電話が鳴り出した。この癖はみずえがまだ独身の巡査部長だったとき、すぐ上席に坐っていた岩崎警視に何度も見せつけられ、そのたびに感心していたものだ。
「ジェンワ、ジェンワ」
と、まだ鳴り出す前から電話機の方へ歩き出した我が子をみずえは怖しい物を見るように眺めていた。
実際に鳴り出すと、まだ言葉もよく分らない翔を出すわけにはいかない。相手に対しても失礼である。
警視正がぱっと手をのばしてとった。
「はい、こちら岩崎です」
自分が受話器を取ろうとしたのを横取りされた翔が、とたんにふくれて、『ショウちゃんのー』といいながら手をのばした。すっと上にあげて、その小さい手が届かないようにしながら「うん」「そうか」「それで」
と聞いている。電話は乃木からだった。
「警視正。妙なことを聞いたのです。私の高校時代のお友達が、今日、ある所で演奏することになっているのですが、ええその人は、今、有名な、ロックバンドの、|TINKUR《テインクル》の、キーボードをひいてる子で、伊賀さんというんですが」………「私の同級生で同い年ですが、さっき電話があって、どこかの筋に殺されることになったと泣いているんです」
「ばかいえ。日本は法治国家だ。それに我々警察がある。予告して堂々と人を殺すことのできるような野蛮な国ではない」
「でも、今日、みなの前で演奏中に殺されるんですって。しかも殺した相手は絶対に無罪になるような方法で殺されるんだそうです。でももう演奏の切符を沢山売ってしまったので、舞台を休むわけにいかないのですって……」
「殺人がこの日本で無罪であることはない。いくら検事に法律馬鹿が多くても、私が許さない。現場はどこだ。間に合うなら今から行ってやる」
「私たちも行くことにしたのですが、警視正殿に来ていただければ心強いのです。でもお願いがあるのです」
「何だ」
「これは正式な事件発生を待っての捜査でなく、私的に音楽鑑賞中に起る殺人事件の、臨時の捜査をするのですから、あの生意気な見習を連れてこないでください」
早くも女同士、岩崎を中心にしてやきもちの火花が散っている。警視正は他のことについては神の如き推理が働く人だが、こういうことにはひどくうとい。
「見習というと、お稽古のことか」
乃木と同じ名のケイコ。それで若い後輩の峯岸婦警の方は、上に|お《ヽ》をつけてお稽古と呼ぶことにしている。
「はい。私、あの子、出しゃばりだから嫌いなのです」
「捜査に私情を交えちゃいかん」
そう叱りつけるようにして電話を切った。
そこへ玄関のベルが鳴って扉があくと
「こんちは。峯岸でーす。翔ちゃんのお守りにきました」
と声がした。日曜一日、どこへも遊びに行くところがない峯岸稽古が、珍しく女の子らしい花模様のワンピース姿で顔を出した。
[#小見出し]  L・S・D(その特性)
L・S・Dは、専ら脳に、幻覚上の刺激をあたえる興奮剤で、正確にいうと、陶酔状態に導くことを目的とする、阿片や、コカインなどの麻薬とは違うものといわれる。
その効果は、同じような興奮幻覚剤、メスカリンの五千倍、シロサイビンの単独服用の場合の二百倍だといわれている。
効果の現われ方はさまざまだが、いずれにしても即効性の薬剤で、服用して三十分後には、幻覚が現われる。
丸い平たい錠剤は、無味無臭で、丸薬として、透明プラスチックのおおいでパッケージされ、一見したところ、一般の風邪薬や、腹痛薬と形状が変らないので、所持しやすい。
町角や、小路などで、現物を見せあって、取引し易い。ヨーロッパ、特にオランダのアムステルダムのヒッピーのたまり場に行くと、まるで自由市場で買い物をするように、現在でも楽に手に入る。
2[#「2」はゴシック体]
結局、峯岸稽古は、警視正の捜査の手伝いという公的な面には一切関係せず、今は休職中で私人である、元警部補のみずえ夫人の愛児翔のお守り役として、このロックバンドの演奏の見物について行くことにした。
はっきり殺人事件発生が予想される演奏会に翔を連れて行くことについては、祖母の吉枝は猛反対したが、峯岸の父と同じ、剛直の会津武士の血を引く武吉郎は
「|唯《ただ》のチャラチャラした音楽会なら絶対許すことはできんが、殺人事件をもし直接見ることができるなら翔の教育にとっては、大いに有益である。やがては、警視庁随一の殺人係捜査官になる子なのだから、今からその現場と父親がそれをどう鮮やかに解決するかをよーく、見せておく必要がある。うん、これは願ってもない天才教育の機会だ。ここは、お稽古さん、頑張って、できるだけ翔を前の方に坐らせて、事件がよく見えるようにしてください」
何しろ、今、二十一歳の峯岸婦警を、今どき珍しい純血会津娘として、当年二歳の翔の|婚約者《いいなずけ》にしたいぐらいに気に入っている、武吉郎だ。ここは翔と共に、二人で殺人事件の解決に当らせたいと思っての張りきりようだった。祖母が
「冗談じゃありませんよ。そんな危い所へ行かせられるもんですか。まだ二つですよ。もしけがでもさせたらどうするんです」
とあわてて、幼児を抱えこむようにする。
こうして出発までは、祖父母の間にいさかいがあったが、ロックコンサートとなると、さすが老人たちは二人ともついてくるとはいわない。結局、お稽古が、どんなことがあっても今日は、岩崎家のお手伝いとして、翔のお守りに徹して、捜査に口を出さないということで一緒に行くことにした。そうして岩崎夫婦、翔、峯岸の四人でロックを聴きに出かけることになった。
その会場が妙な所にあった。
今はやりのウォーター・フロントだ。
場所は誘いをかけてきた、乃木圭子巡査長も、まだ詳しくは知らないらしい。ただ八重洲口に行くと、午後一時に、会場行きのバスが、何台か指定の場所で待っているとのことで、そこで待ち合せることにした。
入場料は、往復のバス代とドリンク二杯分こみで、男四千五百円、女四千円だそうだが、乃木の友人のバンドマスターの伊賀が、あらかじめ会場の係に話しておいてくれて、乃木の知り合いに限り、無料で、しかも、飲み物は何杯でもサービスということに、決められていた。
別に、無料のサービスで、中に入るつもりはなかったが、ともかくそういう新しい場所には興味があった。八重洲口でも、呉服橋寄りのバスの待機している広場へ行くと、そこには乃木がもう待っていた。軽い春のスーツで若々しい。乃木が私たちもそこで待ってますといったので、誰か連れてくるとは思っていたがこの五年間ずっと乃木と毎日顔をつき合せ、乃木刑事のことは何でも知っていると思っていた、みずえも、夫の警視正も、そのとき、乃木の連れている男を見ておやという顔をした。
実はこれまで乃木がずっと花輪刑事と親しくしているらしいということは、同じ捜一の二係では、周知の事実であった。乃木は、東京生れ、新宿周辺のサラリーマンの家庭に育ち、高校も新宿の町の真中にある都立高を出た。お巡りさんという職業を選んだのに似合わず、チャキチャキの都会ッ子として、おしゃれで、流行に敏感で、芸能界の消息に詳しい。
一方ずっと恋人だと思われていた花輪刑事は、地方出身者のそれも「ああ上野駅」通過者の多い捜一の中でも、飛びきり土の匂いの濃い男だ。まだ故郷の|訛《なま》りが殆ど抜けていない。風貌も、野良作業からそのままひっこぬいて、捜一へ持ってきたようだ。
だからこのコンビの成立は、噂として定着するまでは最初は、おかしいという者が多かった。本当に好きな岩崎警視正を、先輩のみずえに奪われてしまった絶望感で、わざと正反対のタイプの花輪と親しくしているのだ、これは決して本物の恋ではない、一時の反動にすぎない、というのが当の岩崎をがっちりつかんで離さないみずえの意見だった。よく夫の岩崎と二人きりのときには
「私、乃木さんの今の交際、絶対、本気ではないと思うわ。そのうち化けの皮がはがれるわ。今の相手は、|白昼夢《さだむ》さんへの思いを無理に断ち切ろうとするあの子のはかない抵抗なのよ。ダシに使われる、花輪刑事が気の毒だけど、女って、自分の愛には残酷なものなのよ。誰でも一生にたった一度の幸せのチャンスを求めて真剣なのよ」
そういっていた。女の愛は勝てば官軍、こうして、乃木の行動を冷静な目で批判できるのも、彼女に岩崎警視正という日本一大好きな素敵な旦那がいるせいだ。
……だから、八重洲口の北側の広場で、そこに乃木圭子が、春先のシックな背広に、真白い綿のレインコートの、長身やせ型の男性にぴったりとより添って立っているのを見て、みずえは、すぐ納得した。エリートでスマートな一係長高橋警視だった。
これまで幾つか見たアメリカの恋愛映画のラストも大体こういうことになっている。つまりそうだったのだ。
ただ犯罪捜査に関するカンは日本一の岩崎警視正も、こちらの方は、さっぱりヒラメキが足りないらしく、その男の顔を
「君は……」
とびっくりしたように見つめたままだ。
峯岸は乃木から、この捜査兼ロックコンサート見物を、あらかじめ断わられている。仕方なく今日は見習刑事としてではなく、二歳の翔ちゃんの子守り係に徹することで無理についてきたので、できるだけ後ろで乃木には目につかぬようにしていた。だから声こそ出さなかったが、こちらも口をアングリとあけたまま、びっくりしてこの二人を見つめていた。別に、警視庁だからといって、庁員同士の恋愛が厳禁されているわけではない。しかし時と場所をわきまえてもらわなくては困る。
翔を抱いて後ろからかなり離れてついてきた峯岸は、本当は少し近眼の気がある。かけなくても、大体のことは分るし、かけるとアラレちゃんそっくりになるので、ふだんは眼鏡を着用しないが、少し遠くの人は、本当はかなりボンヤリする。
初め、そのすらりとやせた白いレインコートのよく似合う男を、ピストルの上手な中村刑事かと思った。もし中村刑事なら、彼は若くして死んだ夏目雅子とそっくりの、一係にいる原田刑事と、もう婚約が結ばれていて、二人の結婚はたしか秒読みの段階に入っているはずだ。いくら乃木と原田が仲好しの同僚だといっても、その恋人を奪っていいわけのものではない。起るかどうか分らない殺人事件より先に、神聖なる捜一の秩序確立のため、翔を取りあえず母のみずえの手に返した上、すぐさま二人を不倫の恋の現行犯として、手錠をかけて、桜田門の本庁へ引きたててやらなくてはと、胸の息が荒くなり、その息を通すため、鼻の孔まで大きくふくらんできた。そばまで行ってよく見るとそのやせた長身の男が、ピストルの名人中村刑事でなく、もっと大物の上司の一係長高橋警視だったのでなおびっくりした。
峯岸は入りたてだからよく分らないが、昨年の四月、規定の各課の研修を終えて、捜一に配属されてきた、東大出の若手の警視二人の中の一人だ。足かけで数えれば、もう七年も前のことになるが、そのころ巡査部長だった志村(旧姓)みずえと、いきなり捜一へ入ってきた、岩崎白昼夢警視の立場によく似ている。
「高橋係長か」
岩崎はやや不思議そうな顔をしているが、みずえは、むしろ、これは当然なるべくしてなったこと、この二人の恋は本物と見た。さんざん、あて馬で希望をもたせられた花輪刑事には気の毒だが、人生には勝敗はつきもの、花輪陣内刑事は、この悲しい試練を乗り越えて人間として大きく成長して行くことだろう。
乃木は休日でもあり、公務ではない安心感からか、高橋係長の左腕を抱えてより添っている。
今、捜一の岩崎管理官の指揮下には、一係長の高橋警視と、二係長の村松警視の二人の東大出のキャリヤがいる。どちらが岩崎に似ているかといえば、単に風貌だけを取り上げれば圧倒的に、高橋係長の方がよく似ている。もう一人の村松警視は、最近あるボーイッシュなピーターパンの役の上手な女優と結婚した、小肥りの男優とそっくりで、岩崎にただひたすら憧れている乃木には、お気に召さなかったのだろう。
幸せそうにより添っている乃木の表情を見ると、みずえは、乃木もまだまだ若い現代っ子なのだなあと思う。
ミニバスがやってきた。
乃木とみずえは、久しぶりなので並んで坐った。岩崎は事件の打合せのため高橋一係長と並んで坐った。その後ろに、見習刑事の峯岸稽古が、翔を抱いて坐った。ミニバスの横腹には『ミルザ・|潮騒《しおさい》』と大きく店の名が書いてある。それがこれから行く店の名らしい。客で満席になるとバスは走り出した。何台もの車で、東京駅の八重洲口から、その店まで、往復のピストン輸送をしている。
みずえが乃木にきいた。
「面白そうな店ね。どんな所にあるの」
「最近、急に開発されてきた一帯なんです。六本木も赤坂も、もう土地が一杯で新しい建物が建つ余地はないのです。それで最近、広い敷地がいる、ライブの会場とか、ディスコのホールとかは、都心を避けて、どんどんこのあたりにやってくるのです。東京湾の岸辺ぎりぎりの海の見えるところに、新しく開けた土地なので、このあたりをウォーター・フロントといってます。きっとこれからの新しい盛り場になると思います」
「そうなの」
と感心してききながら、みずえは僅か二十日間、主婦として、マンションにひっこんで、翔と老夫婦だけ相手にして、平和な家庭生活を送っている間に、東京全体がまるで音をたてて変って行くようなショックに捕われた。
岩崎はしきりに恐縮している高橋警視に、いつもの冷酷な口調で淡々ときいた。
「君が、このウォーター・フロントへ私たち家族を呼んだ、その根拠となることを述べてみたまえ」
乃木とのデイトのことを質問されなかったことに、ともかくホッとしたらしい。エリート警視にとっては、叩き上げの刑事や上司はちっとも怖くないが、やはり同じキャリヤの道を歩む上司が一番怖い。
「すみません。勝手にデイトなんかして」
冷たい言葉がいきなり返ってきた。
「私はそんなことはきいていない。デイトしようが、妊娠させて逃げ回ろうと、捜一は殺人犯を捕える腕さえあればいい。なぜこのウォーター・フロントの、最近有名になった、ライブ・ハウスに、私を連れてきたのだね」
「はい。申し上げます」
東大出のエリート警視が、全身を緊張で硬直させて、姿勢を正して答えた。
「詳しい事情は後で申しのべますが、今日確実にその『ミルザ・潮騒』の中で、一人の男が殺されるということが分っていましたので」
「係長、それは容易ならざる言葉だよ」
「はい承知致しております。しかし我々は殺人事件が起ったとき、すぐ現場に駆けつけ、証拠、手口等を考え合せて、迅速果敢に犯人を割り出して逮捕するのが仕事でありまして、犯人が心に殺人の思いを秘めて相手に近よっても、直接行動に及ぶまでは逮捕できません」
それはいつも、岩崎自身が上司に述べる言葉であった。この男もその矛盾に気がついてきたのか。捜一へ入って丁度満一年、彼なりに、成長してきたのだ。
「心の中で思ったことは、何の証拠にもならんからなあ」
「それでせめて、殺人が行われることは、ほぼ九十パーセント以上確実ですから、その近くにいて、直前に取り押えるのが第一の目的でお呼びしました。もしそれができなくても、傷が浅いうちに救出して一命を助けたいという目的で、『ミルザ・潮騒』へ入るのです。その現場に管理官殿に立会ってもらいたくて、ご同行を願ったのです」
バスは、昭和通りを突き抜け月島の旧市街、新しい埋立地と、通過して、有明工業団地のフェンスと、殺風景な建物との間の広い道を走って行く。通りすぎる車も、トラックばかりだ。こんな所にレストランや、ディスコ、スナックができるなんてとても考えられない。その|中《うち》に、建物と建物との間に、ときどき海が見えてきた。
店の看板の潮騒、までは聞こえてこなかったが、たしかに潮の匂いはしてきた。
岩崎はいった。
「着いたようだな。あれがそうだろう。なぜ、殺人が行われるのが分ったかについては中でゆっくりきこう」
バスは、高床式の、博物館のような建物の前に停った。玄関の両側にはコンクリート製の巨大なモンスターが、二匹立っていて、入場者に向って牙をむいていた。
翔がさすがに怖しそうに、ぴったりと峯岸の体に抱きつき、丸い眼をいっそう真丸くして怪物の像をみつめていた。
[#小見出し]  L・S・D(その効果)
服用後三十分は、一旦ひどく落ちこむ。これは一種の不安状態にかられるからで、殺人、傷害、その他の凶悪な犯罪は主にこの時期に行われる。
その時期を通りすぎると、今度は精神が極度に昂揚する状態になってくる。いわゆるハイな状態だ。
この状態は十時間以上続く。幻覚はまず七色の帯の流れの形から現われる。絶え間なく流動する、その色と形は、人の心をも、一定の波にのって流動させる。
幻覚は最高にのってきて、自分もまた、限りない宇宙空間を飛翔し、たゆたっている気分になる。
ときには、自分もまた鳥のように自由に空を飛べる気がしてきて、高層の窓から飛んで死んでしまう人間が出てくる。
それで、大勢でL・S・Dをのむときは、一人だけ、のまない人間が、みなの見張りに立って、危険な行動を監視する役につくことになっている。
これを仲間の言葉でガイドという。
3[#「3」はゴシック体]
階段を六段ばかり上り、両側から怪物に迎えられるようにして暗い洞穴に入って行く。すぐ場内に入った。普通こういう所は夕方から始まると思っていたが、それが間違いだと分った。もっとも、今日は日曜のせいかもしれない。外は雨もよいではあるが、まだ夕方というのには早い時間なのでかなり明るい。しかし中は人工照明だけの世界だった。
峯岸稽古は中へ入る前に翔が怖がるかと、少し心配したが、入口の洞穴へ入ったとたん、中からガーンと、パンチのきいた音楽が、まるで音で人を吹き飛ばすようなひびきで聞こえてくると、小さな体をリズムにのせて、手も足も動かしだした。しっかり抱いていたから、すべり落ちなくてすんだが、いいかげんな抱き方なら床に落してしまうところだった。
よほど音楽が好きなのだろう。
正面が舞台になっており、丁度六人編成のバンドがやっていたが、みなまだ二十歳前の少年ばかりなので、乃木のいった、人気絶頂のバンドの、|TINKUR《テインクル》、ではないようだ。
舞台の前がフロアーになっていて、既に十組ぐらいの男女が、踊っている。ライブを聴くのと踊りとが一緒にできるのが、今の若い人々にとっては却って珍しいのかもしれない。
これは昔はどこにでもあったスタイルなのだ。大分前に岩崎が、独身時代赤坂や、渋谷にかけて、「遊び人の夢さん」の名で知られたころのナイトクラブは、入場料や席料がもう少し高価で、一般の若い人が入れる場所ではなかったが、みんなこんなスタイルになっていた。だから正確にいえば岩崎には、こういう場所は初めての経験ではない。
フロアーの周りのテーブルには二脚ずつのやや足の長い椅子がついている。どれも普通よりはかなり高いテーブルである。
乃木の相手はみずえに任せ、部下の高橋一係長と並んで坐った。一テーブル二人だと、どの客も、舞台を向いた形で坐るようになる。
翔はまだやっと、歩いたり駆けたりすることができるようになったばかりの年のくせに、初めは、自分もフロアーに降りて踊るのだと、しきりにお稽古にせがんでいた。その内に果物が沢山入っていて、アイスクリームもかかっている、おいしそうな飲物がくると、そちらの方に気をとられてしまった。
岩崎は早速、高橋一係長に、質問を再開する。
「今日、この『ミルザ・潮騒』で確実に殺人が行われるといったね」
バンドはのりにのって演奏しているし、聴いている人も、真中に出て踊っている人もみな楽しそうで、全くそんな険悪な兆候や、場末の盛り場によく見るような、背徳的な雰囲気を持っている人も見うけられない。
場内の照明も、七色が絶え間なく変化して眩しいぐらい明るくて、悪徳が生れそうな気配はない。むしろ、ディズニー・ランドや、室内体育館でやる運動会を見るような、健康なものだ。まあー峯岸の父の軍人勅諭の朗誦を毎日欠かさない武術師範や、みずえの父の旧華北戦線の陸軍少尉上りの武吉郎では、とても、中に溶けこむのは無理だが、これはもともと西洋音楽そのものが、何でもかんでも嫌いなのだから仕方がない。その他の人たちなら、大概、この場所を、面白い遊び場所として抵抗なく受け入れるのではないか。
「……私が見たところ、それほど背徳的な場所には見えないが」
そう岩崎はいった。高橋一係長は、まだ緊張が解けず、コチコチにしゃちほこばった体で答える。
「私はその報告を乃木とデイトの最中、正直に申し上げますと、二人きりで固く抱擁していたとき……」
しきりに汗を拭き、顔を真赤にして答える。
「……といって、管理官殿、私らは決して、もう、その一線を越えたわけでなく……ただ二人が親しいところを、カンの鋭い捜一の他の刑事たちに見つからないように、つい二人だけになれる場所を選んだだけで……」
岩崎は鋭く叱った。
「私は何も、君らのことは聞いておらんよ。ラブホテルで腹上死しようと、君と花輪が乃木の取り合いで、ピストルで決闘をしようと、今日の問題とは関係ない。早くこの情報を君が入手した過程をのべたまえ」
きびしい声にまた体が硬直した。
「はい。それは二人の熱いキスが終った後でした」
いくら音楽が大きくても隣の席のみずえ元警部補の耳には、この高橋警視の告白が自然に入ってくる。今では乃木も体中真赤にして、うつむいて黙りこんでしまっている。
何も知らないのは、翔と峯岸見習刑事のアベックだけで、二人ともおいしい飲物と、体中がわくわくするような賑やかな音楽に、すっかりご機嫌で、椅子の上で体をゆすぶらせて、楽しくリズムをとっている。
高橋一係長は、まるで自分が問い詰められて、逃げ道が無くなってしまった犯人であるかのように、しきりにハンカチで汗を拭きながら答えを続けている。
「……唇をすっと離した彼女が、あのいつもの大きい目で、じっと私を見ていうのです。『お願いがあるのです』私は、乃木の親に正式に結婚を申しこんでくれということなのかと思いました。そのことなら、既にとっくに、私の母の所へ彼女の写真や、経歴も書いて送り内諾を……」
岩崎はまた冷酷に言い放った。
「おまえたち二人がどうなろうと、そんなことはかまわん。問題はここで殺人が行われるのかどうかだ。早く本論に入れ」
びくっとしてすぐ答えた。
「はい、殺人はあります。彼女、つまり乃木の同級生の男性が、乃木の所に深夜、電話をかけてきて、今日、即ち二十三日の日曜日、二回目の公演で殺されることをある筋から予告されたといってきたそうです」
岩崎は飲物のカップの横に置いてある、プログラムをチラと見た。
「それが、この|TINKUR《テインクル》で、一番人気のある、伊賀というキーボード奏者だな」
「ご存知ですか」
「さっき乃木自身が、そのことを電話でいってきた。だがなぜ、乃木が君を誘う前に、昨日のうちに本庁内で、そのことを私に相談しなかったのだね」
たしかに、岩崎にとってはそれは少し意外なことだった。捜一の部屋に勤務して以来、もう足かけ七年、その間殆ど毎日、乃木がそばにいる。まこと金魚のウンコのように、在庁の事務のときも、捜査で出張のときも、乃木がそばにくっついていないときはない。
高橋はまたどっと出てきた汗を拭いた。
「乃木が私の所に飛びこんできたのが今朝早くなのです。昨夜おそく同級生から、その電話があったといって青ざめてやってきたのです」
高橋はまたつっかえ、つっかえ続ける。
「……乃木は、あの大きい目玉に涙を一杯ためていうのです。このごろは、警視正殿はもう私よりは新しく入ってきた見習の方を大事にして、ちっとも私のいうことを聞いてくれないと、胸にすがって泣き出したりしたのです」
よっぽど、乃木とこの警視の二人に、『ばかなことをいうな』と、どなりつけて、ついでに、二人に一発ずつビンタを喰らわしてやりたくなったが、みずえも居るし、翔も何も知らないで、キャッキャッと、踊って喜んでいる。それでその衝動をおさえてまた冷酷にいった。
「乃木の心境など、何もきいておらん。早くそこをとばして、殺人について語れ」
「はい」
バンドが替った。今度は奇妙な|端切《はぎ》れを縫い合せたような衣裳だが、腰の丸味や、タイツだけでむき出しの肢、胸の双つのふくらみから楽団の全員が女と分った。みな、飛び上ったり、でんぐり返りしたりして、派手なアクションの中で、なかなかいい音を出している。勿論、特に喜んだのは翔で、もうお稽古見習刑事の膝の上にのって、両脇を支えられると、一人で手足をさまざまに動かして踊っている。
「はい、伊賀は、実は去年、あるアメリカ人の男から、仲間が買った丸薬を、試しに一粒のんで、演奏したところ、ひどく澄んだいい音が出せたそうです。それで、自分で横浜へ行ってそのアメリカ人を探し、丸薬を買って、自分の楽団にも使用させていたらしいのです。それと共に、楽団|TINKUR《テインクル》の|音《サウンド》はキマっているというので、急に人気が出てきて、テレビの出演や舞台の依頼も多くなり、収入も増えてきた。すると薬の使用量も増えてきました」
「丸薬だな。ワイシャツのボタンぐらいの大きさといっていなかったかね。目の前を七色の線が川の水のようにくねって流れて行く幻覚が生れる」
「私が、楽団の男に直接聞いたわけではありませんが、多分そうです。そんなことを乃木が私の胸にすがりつきながら……」
「君の胸など、どうでもいいが、それはアメリカでL・S・Dといわれている薬だ。他のヘロインやコカイン、マリファナなどが、植物から採取されるのと違って、薬品会社で何種類かの薬品を合成して作り出すことができる。その気になれば工場で、何キログラムでも合成して供給できるので、アメリカでも製造に対しては厳重な罰則が設けられている」
「どうも一回ごとに少しずつ使用量が増えてくるそうです。体に耐性ができてくるのでしょう。本当は防犯部保安課の麻薬専門の|刑事《デカ》さんたちを呼んでくれば、もっと詳しく分るのでしょうが」
「奴らに教えたら、ヤクを持っているということだけで、すぐ検挙して手柄にしてしまう。所持者がそれから先もし大きいことを起す予定があっても、それを挙げる前に事件が終ってしまう。たしかに事件は起らない方がいいのだが、結局はやる奴はどこかで、近い内にやるのだから、それでは追い詰めた犯人を散らしてしまうだけで、防犯としての効果は何もない」
「そうかもしれません。我々がのり出したのですから、これは我が課で取扱って解決に持って行きましょう。どうもバンドマスターの伊賀がまとめて買っているうちに、向うの言い値は上ってくる。バンドの人間の使用量は多くなる。他の麻薬ほどの苦しい禁断症状はないが、無いときの虚脱感がひどい。張りつめた緊張状態をずっと維持して行かなければならない、楽団の演奏などはとてもできるものではない。それで相手側に借金を重ねては買い足しているうちに、いつのまにか、その金額が、一千万円を超してしまった。やがて向うはまとめて一ペんの支払いを求めてきた。それができないなら、二回目の演奏で合法的に殺すといってきたのだそうです」
「一体、この日本に合法的な殺人なんてあるのかね。臨終|間際《まぎわ》の病人の願いで、医者側が同情して、酸素吸入器を外す尊厳死という処置さえ、まだ刑法上では殺人罪に該当させられるこの日本でだよ」
「アメリカ人はいっていたそうです。日本の刑法のサーティナインはとても便利な法律である。つい先だって横浜で、わざと高校生三人を後ろから車で轢き殺した、ザ・ヤクザも、事前にシャブを射っていたせいで、無罪になった。だから、そのバンドリーダーの伊賀を殺す奴にも、事前に、L・S・Dを二、三粒のませてからやらせれば、日本の頭の固い法律馬鹿の判検事諸君は、無罪にしてくれる。五百万円のヤク代の代りに、もうちゃんとその殺人をひき受けてくれる人間を見つけてあるから、時間通り、殺人を実行すると、アメリカ人があまり上手でない日本語で、深夜、|TINKUR《テインクル》の伊賀に電話をかけてきたそうです」
「そうか」
さすがに天才警視正も考えこんでしまった。
「……刑法第三十九条だな。『心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス』だ。日本は法治国家だからな」
「何とかなりませんか」
「何ともならんな」
|俄《にわか》に岩崎の態度は冷たくなった。
「しかし事前に挙動不審の者を逮捕するとか」
「我々は防犯部保安課の人間ではないのだから、事前に身体検査もできない。せめてやれることは、相手に殺人をまず犯させる。それを目撃して即座に現行犯緊急逮捕することだけだ。しかし仮に検挙して裁判所の検事の手に移っても、すぐL・S・Dの幻覚状態にあることが証明されて、公訴提起前に、無罪で釈放されてしまう。ここは、あの鬼の進藤デカ長にでも来てもらって、逮捕時に凶器を持って抵抗したので、捜査員としては、自分の身体の安全を守るための正当防衛行為で仕方がなかったということにして、組んずほぐれつ格闘する。両腕をへし折り、睾丸を蹴り上げて、その後使用不能にするぐらいに痛めつける。少くともその時点においては、我々は、その犯人がL・S・D服用の、臨時心神喪失者だということは知らないのだし、相手は現に人を一人殺している凶器を持っているのだから、正当防衛は成立する。こちらの意図が見破られない限りは、どんなにひどく痛めつけても許されるのではないかね。ところで進藤は今から間に合うかね。あいつならそのへんはうまくやってくれるはずだが」
高橋警視はチラと腕時計を見た。進藤|部長刑事《デカチヨウ》の自宅は練馬にある。夫人の実家が昔から代々伝わる大根畑の持主だったので、土地ブームの始まる前に、娘が公務員と結婚できたと大喜びした父親が五十坪分も畑を潰して造ってくれた立派なマイホームを持っている。只一つの難点は、既設の鉄道のどの駅からも遠いことで、バスを二つ乗りつがないと、警視庁の下を通る地下鉄に乗れない。ましてこの、『ミルザ・潮騒』などという、ナウい場所に彼の古い頭脳の方向感覚では、何時間たったら辿り着けるか見当がつかない。
高橋警視は横に首を振っていった。
「次に|TINKUR《テインクル》が出演するのは、五分後です。もうとても間に合いません」
「それじゃー、せいぜい、私たち二人が気張って逮捕してみても、片手を肩から脱臼させるぐらいが精一杯だ。とても骨をへし折って砕いてしまうわけにはいかない。こういうときは、お互い東大出の学力は何の役にもたたないな」
「ごもっともです」
高橋もまた、国家公務員上級職試験をかなり上位で通りながら、一地方官庁である警視庁へ進んで入ってきた秀才である。かみそりのような頭脳を持っているエリートであるが、いかにせんやせて非力そうだ。これがもう一人のエリートの二係長村松警視なら、体も大きく柔道もやっていたというから、こういうとき意識的に、|逆手《ぎやくて》をかけて、腕をへし折るという|荒技《あらわざ》ぐらいはできる。乃木の奴、惚れるにこと欠いて、とんでもないのを選んだものだとこのとき岩崎は秘かに嘆いた。勿論、岩崎には、少しでも岩崎に似た者を求めている乃木の悲しい乙女心などは永久に分らない。
「仕方がない。バンドリーダーの伊賀君には無駄死にしてもらう他はないな」
それが本心かどうかは分らないが、いかにも残念そうにいった。
[#小見出し]  L・S・D(その害毒)
このL・S・Dは、阿片やコカインと違って中毒性はないので、薬が切れても、禁断症状は起らず、苦しまなくてすむということで、無害説を唱える人々もいた。この点は、今、論議がやかましい、マリファナも似ている。
ただし、これはその気になれば、煙草や、キャラメルと同じように、工場で無限に製造することができるので、もし人民の思想統制のため、政府が意識的に作ると、かなり危険な状態が起り得る可能性がある。
この事実を予言するかのように、一九六八年、ディーン・ロマノという作家が『幻覚で町中が旅をしてしまった』という、小説を書いた。ほんの数人のいたずらで、町中の人が、L・S・Dをのんでしまうとどうなるかということを書いたもので、やがて予想される近未来国家の、怖しさを予告したものだ。
マリファナや、コカイン系のクラックとまじって、このL・S・Dも着々と日本進出の地盤をきずいている。
4[#「4」はゴシック体]
女性だけで、賑やかに、跳んだり、ひっくり返ったりして演奏していた楽団が、盛大な拍手の中をひっこんだ。入れ違いに、もっと盛大な拍手が起った。
総勢七人のメンバーが出てきた。
全員が、二十五、六歳、若さを売物にするロックグループとしては、体力、気力とも充実し、サウンドの技術も向上して、最も演奏の成果が期待できる年齢である。
「ティンクル! ティンクル!」「頑張って、イガちゃんに、クリッペ」「ノッテ、ノッテ」
などと、場内全体から、応援の声がかかる。全員、それが楽団のトレードマークなのか、頭をとうもろこしの毛のように真黄色にしている。
みなが一斉に拍手すると、翔も峯岸刑事の膝の上にチョコンと坐り、小さい手を合せてみなと同じように、パチパチと拍手した。
乃木は、みずえにささやく。
「あの真中で、キーボードをひいている人がいるでしょう。あの背の高い人。あの人が、伊賀さんなのです、私の同級生の。昨日、電話をかけてきたのです。何とか生命だけは助けてくれって、……ああ心配だわ」
みずえは、乃木を慰めるようにいう。
「大丈夫よ。うちの警視正殿が何とかやってくれますよ。あの人は、冷たい目で人を見て、いつでも、何にでも心を動かされないような顔をしているけれど、根はとても優しい人なんだから」
「すみません。どうかお願いします」
今、自分一人の力では、どうすることもできない乃木は、そういって頭を垂れると、胸の前で両手を組んで祈った。通常の殺人事件で犯人を追い詰めて、凄みながら手錠をかけている、あのいつもの乃木の強さはどこへ行ってしまったのか。
高橋警視は事件が起きたら、すぐ飛び出せるよう、腰を半ば浮し、じっと舞台を見つめている。それを岩崎は叱った。
「そう緊張するな。殺人は絶対あってはいけない犯罪だが、ここで我々が公演を中止させて、全員を追い出すわけにもいかない。もし何かがあったら、忠臣蔵の松の廊下のように、背中から抱きとめる時間はない。それに日本を狙うヤクのバイ人組織をここで洗い出すには、本当は一度奴らに思いきって、罪を犯させてしまう方がいい。ここで我々がいる内に正体を明らかにさせてしまう。その上で、奴らの組織の根元までえぐり取る。我々は防犯の麻薬係でないから、組織を洗い出しても何の手柄にもならないが、もしこれで組織の大もとを辿れれば、これから起るかもしれない何人もの殺人を未然に防ぐことができるし、これまで犯人不明のまま、放置されていたいくつかの殺人事件が、新しく解明されるかもしれない」
「はい」
まだ拳を握りしめたままの若いエリート警視を、岩崎警視正はきびしく制した。ここで犯人側に妙に警戒されてしまってはつまらない。今のところ、岩崎警視正が、真に対決しなくてはならない問題は、麻薬の流入元を辿ることより、麻薬常習者の殺人も心神喪失者として無罪や、それに近い軽微な刑に持って行こうとする、法律バカをどうなだめすかし、本来の殺人事件にもちこむかということだ。これは一警察官として、六法の一つである刑法の領域に踏みこんで行く挑戦だ。
どの手で行こうかと、あの手、この手と様々な思いが、頭の中を駆け巡る。いずれにしても先方に行動を起してもらわなくては何も生れない。自分がいる限りは被害者を死の直前から何とか救い出してやれる自信は内心にあるのだが、もし今後の大勢の人の死を救うきっかけになるのなら、場合によっては、一|麻薬中毒者《ジヤンキー》の死も仕方ないかとも考えたりしている。
「あら、まあ」「翔ちゃん」
と、乃木とみずえの席から同時に大きな声がした。とうとう踊りたくて仕方がなくなった翔が、お稽古刑事にむりにねだって、フロアーに出てしまったのだ。
といっても、まだ背も小さくて、足どりも覚束ないので一緒にフロアーで踊ったら、みなに踏み潰されてしまう。それで女のくせにやけにがっちりしている峯岸見習刑事の腕の中に抱きすくめられて、空中で足をバタバタさせながら得意そうに踊っている。
日曜でなければ見られない光景だ。みなの拍手が今度はこの幼児に向けて一斉にまた盛り上る。
翔も彼を抱く峯岸も人々の拍手に上機嫌だ。みながこの二人に注目している間に怪し気な男が、バンドに近づかないかと、岩崎と高橋の視線は鋭くなる。
バンド演奏のステージは、フロアーから三十センチほどの高さしかない。
飛び上って接近するのはひどく容易だ。これだけ大勢が踊っていると、飛び上る前にその体を押えるのは、かなり難しいだろう。やはり、一回殺させておいてから、間髪を入れず飛びこんで痛めつけるか……
峯岸はこれまで上機嫌で踊っていた翔の体が突然、何かに脅えて、こわ張ったのを感じた。
妙な違和感だ。急におしっこでも洩らしてしまったのかと、お尻に手をあてようとして、翔の視線が凍りついたようになって、一カ所を見つめているのに気がついた。
その視線の先に、自分の視線をやり、はっと気がついた。
……それから先は、文章にすると長いが、すべては、ほんの一瞬のできごとである。……
ワンレン、ボディコン姿という典型的な現代娘のスタイルの少女と向い合って、ビートの激しい踊りをしていた、セーターに、ジーンズの男が、ポケットからナイフをとり出して、パチッと刃を出していた。女の子と体を密着させているから、他の誰にも見えなかったが、丁度、峯岸の胸に抱かれている翔にはよく見える位置だったらしい。ナイフや庖丁は怖いもので、絶対触ってはいけないものだということを、ふだんからきびしく祖母や母のみずえにいわれていたので、翔は本能的に脅えて、峯岸の体に抱きつき、真丸の大きい目が張ったのだ。
その男は舞台まで背中を向けて近づいて行き、そこでくるりと振返った。
瞬間、峯岸は近くで、夫らしい老人と踊っていた、中年の夫人に
「おば様お願い」
と、翔を押しつける。翔が中年夫人に抱かれて、わーっと泣く。席からみずえが立ち上って翔を受け取りに走ってくる。
岩崎と高橋が、自分のテーブルを押し倒すようにして、高い椅子から飛び降り、踊りの人をかきわけて、舞台へ駆け抜ける。
しかしそれらのフロアーの混乱よりは一瞬早く、ナイフを持った男は、キーボードをひいている伊賀に、背中を丸めて飛びこんで行く。駆けつけて行く岩崎は、その事件の経過を追いかけ、今から男の体にとびついて、床に突き倒すのは、一秒の何百分の一かの差で間に合わないと判断した。高橋警視の場合も同じだ。突き刺した後で、犯人に飛びつくぐらいなら、ここで立止まって、一連の行動のすべてを、頭のフィルムの中に焼きつけておくように見ておく方が良いと判断した。
すべてが、神の領域に属する刹那の中の、判断であり、処置であった。
キーボードひきの伊賀は、椅子から立ち上って逃げようとしたが、まだ|咄嗟《とつさ》のことで片指が、キーに残っていた。半分、腰が浮いたままのポーズだ。多分、高速カメラで撮ったなら、猛烈なスピードで突き出されるナイフの刃が、脇腹の位置より、三センチから二センチに迫る、計測不能の短い時間だ。その手に黒いものが当って、ナイフが空中に飛んだ。
視線を周りに拡大すれば、その黒い物は、婦警さんに、本庁より年二足支給される|革短靴《パンプス》であり、その上には、邪魔になるので、腿の白いショーツが丸々見えてしまうまで大きくスカートをまくり上げた、太い太腿と脛の、健康ですらりとたくましくのびた足が空中にあった。
舞台の正面から、走り高跳びか、ハードル競技の要領で高々と飛び上り、譜面台とシンセサイザー越しに、跳び越したのだ。邪魔になるスカートは、ワンピースのことだから、思いきりぱっと高くまくり上げている。楽器や譜面台にひっかからないようにちゃんと跳び越した。男が床に倒れて、ナイフが遠くへほうり出され、後頭部を打って|脳震盪《のうしんとう》を起してのびてしまっている横に、跳び下りると、もう一度思いきりその顎に蹴りを入れてから、あわてて手を放して、まくり上げたままのスカートをはじめて下ろした。
雪のように白く、たくましい太腿は、一瞬の|中《うち》に人々の幻想の視界から消えた。爪先の飛び蹴りは空手の方で、相当鍛えたものらしく、男の顎の骨は粉々に砕けている。もう顔が変形して物がいえない。
さすがに少しやりすぎたと思ったのか、お稽古はスカートを下ろして、両足を必死にかくしながら、走ってきた岩崎警視正に
「またはしたないことをしてしまって申し訳ありません。この人大丈夫でしょうか」
と、心配そうにきいた。
「人が一人死にそうになったのだ。何をしても問題でない」
岩崎はそう答えて安心させると、今度は自分が、男の固く握ったままの左の拳を思いきり踏んづけた。それでも男は、苦しみを耐えて、拳を握りしめていたが、何度も踏みつけるととうとう我慢ができなくなって、拳を開いた。
岩崎はいった。
「誰かカメラを持っていたら、この開いた手をアップで二、三枚、それから顔と一緒にロングで二、三枚撮ってくれ」
といった。男が手を動かそうとすると、高橋警視が、その手首を押える。
その男の掌には、ワイシャツのボタンぐらいの大きさの丸薬が三粒あった。
「私、カメラを持ってます」
乃木がすぐ近くにとんできて、持ってきたカメラでさまざまの角度や距離から、その掌と丸薬の写真を撮った。岩崎はその男を相変らず冷酷な目で見ながら、近くへよってきた、みずえや、峯岸見習刑事や、手首を押えたままの高橋警視にいった。
「よく見なさい。これが、刑法三十九条の正体だ。ぐさりと刺してから、混乱の中で瞬間、口にヤクをほうりこむ。誰もそこまで見ている者はいない。危うく、完全犯罪は成功して無罪になるところだった。この前後関係が証明されない限りはな。卑劣な奴だ」
一度砕けている顎を、冷酷な顔で岩崎はまた蹴り上げた。砕けた骨の位置が更にバラバラになって、もう元の顔に修復するのは不可能になってしまった。それから会場のみなにいった。
「ちょっとケガ人が出ただけです。ガードマンさん、こいつを救急病院に送ってください。楽団|TINKUR《テインクル》のみなさんはまた演奏をはじめてください」
それから人々にまた踊るようにすすめると、恐縮しきっている峯岸に翔を抱かせてからいった。
「翔ちゃん。これからみなと一緒に銀座へ行って、おいしいお寿司でも喰べようかね」
[#改ページ]
[#見出し]  V ゴンドラの花嫁
[#小見出し]  O・PのT
現在の自由主義国家の経済的繁栄に支えられた平和な生活を、最も脅やかしているものは、戦争ではなくて麻薬による汚染である。健康な肉体の中に突然、悪性の癌細胞が発生したように、周りを|蝕《むしば》んでいく。
この、人間そのものを駄目にしてしまう麻薬には、幾つかの種類があるが、その中で一番大量に組織的に、犯罪集団の手によって供給されているのは、|O・P《オピユウム》(阿片←→ヘロイン)と、|C・K《コカイン》(エクスタシー←→クラック)系の二種である。
O・Pの主要供給地は、タイの奥地のシャン州から、ビルマとラオスの国境にまたがる山岳地帯で、通称黄金の|三角地帯《トライアングル》といわれる。
元、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の国民党の将軍だった、クンサーという男が、近隣各国の軍も警察もよせつけない独立王国を造って、住民を支配して、世界各国に流通している非合法ヘロインの七十パーセントを生産供給している。
1[#「1」はゴシック体]
警視庁捜査一課は、東京都内の、殺人・強盗・放火、などの凶悪犯罪の一切についての責任を負っている課である。今年は春以来、大きい事件が頻発し、みな目が回るほどの忙しい思いをして、その解決に努力してきた。その中では、練馬の警察官殺しのように、警視庁の威信のかかった大事件を、ともかく短期間に解決して鬼といわれた、詰橋一課長の大きい目にも、思わず嬉し涙がにじんだ日もあったが、その喜びも一週間と続かなかった。
これまで埼玉県内の問題とされていて、協力態勢を敷きながらも、直接には責任を問われることがなかった幼児誘拐事件が、殆ど同じスタイルで都内にも発生して、俄然、警視庁に対する風当りがひどくなったのである。
一課全体が、連日、重い気分に包まれている。
ところで……捜一の二百人も|猛者刑事《モサデカ》さんたちがいる大部屋の中では、一番の新人で実の所はまだ見習にすぎない、二係の婦警峯岸稽古は、若いなりにこんな気分を少しでも明るいものにしようと努力しているのである。
毎朝、警視庁婦人警官用の独身寮をそれでもクリームや薄い口紅で一応娘らしくお化粧して、張り切って出てくる。
これまでの防犯少年課の仕事もやり甲斐があったが、しかし本物の殺人事件と比べればかなり生ぬるい。被害者の無念を思い犯人への怒りを燃やして追い詰めて行く緊張は、よくぞ捜一へ入ったものだという喜びを味わわせてくれる。毎日が楽しく誇らしい。
朝、捜一の部屋へ入る。頭はすっきりして全身溌溂、お目々がぱっちり。このごろはみなが重苦しい顔をしているだけに、よけい自分は、一番若い、チャーミングな(と思っている)女性としての天命を自覚し、明るく華やかに振舞うように努めなくてはならないと思う。
制服に着替えるため入った更衣室の鏡で全身を一通り眺め渡し、ちょいと首を曲げて頬笑んで、『かなりいけると思うわ』と自分で自分に安心して、デスクの所へ戻ったら岩崎管理官殿は、もう既にきちんとデスクに坐っておられた。
八時半の朝礼のベルが鳴る。二十秒間じっと姿勢を正してきく。終るとすぐに|空《から》の大薬缶を持って湯沸かし場へ行く。そのときわざと乃木の方をチラリと見てやる。かつて乃木は五年間誰にも薬缶を譲ることなく、朝のお茶汲みを独占してきた。
茶碗の真中へんにきれいにお茶柱が一本立つという名人芸を披露してきた乃木のその秘伝を、峯岸は苦心の研鑽で自分のモノにした。それは先輩として若い峯岸をしごいてきた、乃木に軽く一矢むくいるつもりでしたことだが、乃木巡査長にとっては、予想外の大きいショックであったらしい。そのときから乃木の若い峯岸に対する態度が、急に遠慮勝ちになってきた。
考えてみれば乃木圭子も二十歳で捜一の見習で入ってから、もう六年たつ。若くて可愛くて、みなのアイドルで何をしても許された時代は終ったのだ。峯岸をしごけば、欲求不満のオールドミスのヒステリーと言われかねない。歳月の流れは残酷なのだとまあ考えてチラリと見てやったのだが、今の乃木は峯岸のチラリなど全く気にもしていない。心の中はほんのりと甘く、温かく、ずきんずきんとうずいている。
小娘と張り合っている余裕などない。
すべてがはっきりして、ウエディング・ベルを鳴らす日までは、決してこれは誰にも気づかれてはならないとは思っていながらも、乃木の視線はついつい、ななめ右の一係のデスクの列の先で、みなの方を向いている高橋係長の方を向いてしまう。かつて志村みずえ先輩と結婚するまでの、二係長だった、若き日の岩崎警視とそっくりの、神経質そうな顔で高橋警視は事務をとっている。人が何といおうと、乃木は岩崎警視正が今でも一番好きなのだが、妻も子もある人にいつまでも恋々としているわけにはいかない。一時は思いきって岩崎の面影を、頭の中から振り払うために、捜一の中でも、一番田園色を残している、東北弁丸出しの花輪刑事をデイトの相手に選んで、つき合ってやったこともあった。一種の逆療法のつもりだった。だがやはり岩崎のことを忘れることはできなかった。結局、新しく赴任してきた、岩崎のコピー版ともいえるような若きエリートの一係長、高橋警視に自然に接近し、いつのまにか、お互いに結婚を考えるまでになっていた。
歴史は繰返されるというが、乃木が今はかつての、みずえ警部補の立場になっていた。
峯岸は湯沸し場で、番茶の缶から葉っぱを把み、念力をこめて、大薬缶の中にパラリと入れようとしているところだ。
乃木の前の電話が鳴った。取ろうとするともう音が止まっていた。正面の岩崎管理官の席と同じ電話で、この五、六年、岩崎警視正の秘書役も兼ねている関係上、乃木が端末を受持っている。チラと乃木が岩崎警視正の方を見ると、片手を挙げて、乃木に合図をしてくれた。それで乃木はホッとして、電話は取らずそのまま、出張費や、消耗品の出金伝票の整理を続ける。何か事件が起ったことは確実だ。埼玉県警と、幼児誘拐関係の共同作戦をやっているのは、捜一の中では、九係ある強行犯の中の五係と六係で、岩崎が管理係として見ている一係と二係は目下のところ直接タッチしていない。しかし全員の士気が何となく重苦しく沈滞している感じは否めない。岩崎親分以下、いつもの進藤|部長刑事《デカチヨウ》や、武藤、吉田、などのベテランたちがのり出して鮮やかに解決するというようなことがなくては、みなの気持は晴れないかもしれない。乃木は廊下へ出て、真向いの運転者控え室の扉の真上にある、通称『捜査大明神』の神棚の前で手を合せて拝んで来ようと思った。
大分前に、『どうか大事件が起ってください』と祈ったとたん、殺人事件が発生して、びっくりして、もう二度と祈るまいと思ったことがあるが、幼児誘拐に全員がひきずり回されて重い気分でいる現在は、せめて気分だけでもパーッと切換えたい。殆ど腰を浮しかけたときに、岩崎の電話が終って彼の方がすーっと立ち上った。黙って出て行く。上司からの急な呼び出しがあったようだ。これは大事件が発生したことを意味する。
乃木はすーっと顔が青ざめ、胸がどきーんと大きく鳴った。前に神棚の下で両手を合せたとたん事件が発生した。今度は神棚の所へ行こうと腰を浮しかけたとたん、何やら大事件が飛びこんだらしい。岩崎警視正はかなり緊張した表情だ。
それからしばらくして、大薬缶を持って、峯岸が戻ってきた。高校時代、国体の砲丸投げでチャンピオンを争ったこともある、峯岸稽古はお茶が一杯詰った大薬缶をごく軽々とぶら提げる。肩も|傾《かし》がない。これだけは乃木にはできない。
部屋へ戻ってきて、真先に岩崎の机の所に行って、お茶を注ごうと思った稽古の顔は、とたんに、くしゃくしゃになった。今日もまた形のいい茶柱を一本立ててやり、岩崎の気づかぬふりの無表情の中にも、満足気な感じが走るのを敏感に悟って、一日中幸せでいられるのに……これだけのことで、とても悲しくなって、稽古には今日はきっと悪い日になりそうな気がした。
かたわらに坐っていた乃木がそのとき思ったのは、何もこのことには関係がない言葉だが『|驕《おご》る者は久しからず』という言葉で、いつまでも若さを誇って先輩をないがしろにすると(別にないがしろにしているわけではないのだが)きっと天の罰が当るからということだった。やはりこれまでのアイドルの座を奪われた恨みが、乃木の心の中には深く内攻しているらしい。
稽古は必死に心をたて直し、にこやかに、進藤や、その他の刑事連中の前を回って茶碗に注いでいったが、最初に心が動揺したせいか、全然、形の良い茶柱が出ない。寝そべったり、底に沈んでしまったり、さんざんだ。
ところが二係のラストで、乃木の茶碗に注いだとたんいかなる皮肉か、きれいに大きく一本立って、『まあーいい形。きっといいことあるわ』とほめられたのは意外だった。
ついでに一係の方も回って注いだら、一係長の高橋警視と、ずっととんで、ピストルの上手な中村刑事と、一係の唯一の婦警で、亡くなった、夏目雅子さんとよく似ている美人の原田刑事の三人にだけ、どういうわけか見事な茶柱が立った。他の人はすべて、まるで駄目だった。
岩崎は珍しく、総監室へじかに呼ばれた。捜一へ来て以来、何度か直接呼ばれたことがあり、総監室は初めてではないが、今の総監に替ってからは、初めてだ。もっとも総監閣下とは初対面ではない。警視監として、外事と公安関係を担当しておられたとき何度か直接の指示を受けて、仕事をしたことがある。
部屋へ入ると、二人の外人がいた。岩崎を見て立ち上って、それぞれ手をさしのべる。
一口に外人といっても、二人は全く違う国の異なる民族の男であることが岩崎にはすぐ分った。右側の赤毛の男が、指の先までブラシのような剛毛の生えた手をさし出し「ドブリユフ・デン(こんちは)」
といった。いくらかグルジヤ出身者らしい訛りがききとれるが、ロシヤ語だ。モスコー生れらしく見せかけようとしているのはエリートコースにいる役人だからなのだろう。岩崎はすぐに、はっきりしたモスコーの言葉で返事をして、手を握り返した。
続いてもう一人の男は、背の高い身だしなみの良いアメリカ人で
「グッド・デイ・ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」
と、話しかけてきた。言葉のはしばしから、東部|特権階級《エスタブリツシユメント》の匂いがはっきり分る。
それに対しては、岩崎はアメリカ語の中でも特に品が良いとされている、ボストンの昔から伝わる家系の人々の間に使われる訛りを強調する言葉で答えた。
二人とも同時に、岩崎の鮮やかな応答に感心している。アメリカ人の方が、すぐにいった。
「繁雑になりますので、全員が共通に理解できる、普通の英語でお話ししたいが、よろしいか」
「ヤー」
と、あっさり答える。
「あなたが語学の天才ときいて、私たちはやってきた。私はアメリカ大使館の、ハーベイ一等書記官です」
「私はソ連大使館のスミルノフ参事官です」
岩崎は自分の名と、現在の役職階級をのべた。総監は、応接用のセットに、全員を坐らせる。自分も非常に格調の高い英語を使われる方だ。すぐに岩崎に説明した。
「米とソの、大使館のそれぞれ最も重要な部門を受持っておられる方が、一緒に我が警視庁にやってこられるなんてことは、これは普通では考えられないことだ。事件は、よっぽどの大事件であると思ってもらいたい。米・ソ両国とも外交関係トップの会議の結果、この事件は君に解決してもらう以外はないと決めてわざわざやってこられたのだ」
その言葉に、二人の外交官はうなずく。
岩崎は困惑した表情で答えた。
「その事件がどんな事件かお聞きしていないので、まだ私にはどうお答えしていいのか分りませんが、私はただ単なる刑事警察官にすぎません。米・ソ両国の間の問題といえば、通常核爆発物の処理とか、東欧や中国の社会主義政策と、それに反撥する民衆を、お互いにどう扱うかというような、高度の、政治的問題だと思います。とても一警察官のコミットできるものではありません」
総監がおだやかにいった。
「いつもは何でも明察する君も、今度ばかりは予測が狂ったよ。今度のことは幼児誘拐事件だ。営利目的誘拐や、殺人が予想される誘拐は、当然、捜一の仕事だ。実はアメリカ大使のお孫さんと、ソ連大使のお子さんが世界の別な場所で同時に誘拐されたのだ。アメリカの方はボゴタにおられた駐コロンビヤの大使デューイ氏のお孫さんであるお嬢さんで、ソヴィエートの方は、クアラルンプールにおられた、駐マライシヤ大使のアレクセイ氏の末の坊やだ」
「それは一体どういう事情で起ったことなのですか」
不思議そうに岩崎がきく。どうも事件の全体がのみこめない。
「二人の大使のそれぞれの赴任先を考えてくれ。これがヒントだ。二つの事件は、何万キロも離れた場所で、同日、同時刻に起った」
そして尚も考えこんでいる岩崎に総監はきいた。
「君はイタリヤ語を話せるかね。それも、北部のベネチヤの言葉だと尚いいのだが」
「シー」
と岩崎はベネチヤのイントネーションで答えた。
[#小見出し]  O・PのU
O・Pの原料はラオス・タイ・ミャンマーの国境にいる、部族の名も明らかでない、少数民族の多くの農民たちによって、とうもろこしや、じゃが薯畑の間に栽培される|芥子《けし》の花である。山の北側の冷たい風が吹き通る、しかし日当りのいい斜面に七月頃種がまかれる。夏にかけて山肌は赤や青、黄色の、鮮やかな花の畑になる。十月から十一月にかけて、花はみなねぎ坊主のような|さや《ヽヽ》をつける。農民たちは朝早くその|さや《ヽヽ》に、汐干狩りの熊手のようなもので三本の傷をつけ、下に垂れてきた汁を缶で受けて集める。
その乳汁を水に入れて煮沸して、釜の周りにこびりついた、鼠色のものを、竹べらでこそぎ落して集めると、生阿片になる。
農民たちはこのペースト状のものを煙管の先につめ火をつけて吸う。これで充分楽しめるが、もう一度蒸溜水で煮沸してやや固めたものは安定がいいので、製品として出回る。
更にもう一工程無水酢酸で煉瓦状に固めたものがモルヒネで、それを更に複雑な化学処理をし、不純物を取り去ると、O・Pの|NO《ナンバー》4の、ヘロインになる。
ペナン空港に集められマライシヤ警察の中の一部腐敗幹部の見逃しのもとにコペンハーゲンに送られ、そこから世界中に配給される。製作はクンサー。配給は、イタリヤ系のマフィヤの大物の協同態勢ですっかり整っている。
2[#「2」はゴシック体]
成田空港の北ウイングは、かなり混み合っている。
特にKLMオランダ航空のカウンターは、若い人や、明らかに新婚旅行と思われる男女が大勢群って他のカウンターよりずっと華やかだ。みな搭乗手続きの順を待っている。
出発は二十一時三十分。これまでのアムステルダムへの直行便だけだったら、こんなに華やかな若い人々の姿はなかった。オランダへ着いてから空港で四時間の待ち合せで、水の都として知られている美しいベニスに向う空路が新しく開拓され、日本からベニスへ殆ど直通で行けるのと同じ便利さになったのである。しかも週に三便もある。今や新婚旅行の、本命人気路線になっている。若い男女で華やかに混み合っている、エコノミー用のカウンターの隣にはファースト・クラス用のカウンターがあり、ここは普通の受付と比べてややまばらだ。それでも、通常のファーストの乗客らしい、実年や老人の姿より、若い夫婦者や、ベニスへ行って、今はやりのゴンドラの結婚式をあげるつもりらしい新婚旅行のアベックが何組か、搭乗手続きのため並んでいた。人々の表情や服装が全体的に若々しくなっている。もう結婚式を終えた旅行組か、これから向うへ行って式を挙げる組か見ただけでは分らないが、若い男女の二人組というものはいいものだ。
自分ら二人だけでなく、あたり全体、周りの人々までついでに幸せにしてしまいそうだ。
もっとも、今の峯岸お稽古は、この世の不幸は自分一人でしょっているような、悲愴な顔で、出発カウンターを見ている。
稽古の腕には、赤坂のマンションから抱いてきた、彼女の唯一人のボーイフレンドの二歳と四カ月の翔が抱かれている。利口な子だから、もう事態を知って、じっと涙を耐え、泣きはしないが、それでも丸い眼を更に真丸く見張って、カウンターの前に、すっきりとしたワンピース姿でいる母の姿をじっと目で追っている。
翔君でさえ泣かないで待っているのだから、もう大人である、そして立派な警視庁警察官であり、鬼の捜一の見習刑事である、お稽古が泣くわけにいかないではないか。
それにしても、朝のお茶は大失敗というか、大成功というか、思いもかけない予言を正確にやってくれた。ベニス行きという幸運をひき当てたのは稽古によって今朝珍しく茶柱がきれいに立った、僅かな人々だけであった。
乃木先輩に、高橋エリート警視。ピストルの選手の中村刑事に、夏目雅子に似た美人の原田先輩婦警。どんな仕事が急にできたのか知らないが、その全員を引き連れて行く岩崎警視正が、みずえ夫人を同伴することになった。今は休職中の夫人を同伴するぐらいなら、自分を世話係に連れて行ってくれればいいのにと稽古は思う。たとえ、警視正と同室になっても、警視正は決していやらしいことをする人ではないし、故郷で武道の師範をしている、軍人勅諭が大好きな父も決して怒ったりはしないだろう。父も警視正には深い信頼をよせているのだから。
それなのに自分は全く、今回の捜査から外されて、赤坂のマンションに残される、小ちゃな翔君のお守り役だなんて、何て情ないのだろう。公私混同だ。でもじっと我慢してみなを笑って見送るのだ。
翔ちゃんに負けては恥しい。そう思っても口惜しさに自然に涙がにじんで情景がかすむ。
岩崎は、以前から他人の感情には無頓着なところがあり、そんな稽古の感情には全く気がつかない。明るい声で一行にいった。
「荷物の札は各自がたしかめたら中へしまいなさい。途中のオランダのスキポール空港では出す必要はない。最終到着地のベニスで出せばいい。ところで、このベニスだが、今後はベネチヤという言い方に統一する。我々の耳には、昔からの習慣でベニスの舟唄とか、ベニスの商人とかと、ベニスという言葉がなじんでいるが、これは英語読みで、現地ではみなは、ベネチヤと発音する。全員それで統一してくれ」
乃木や原田はすなおにうなずいた。まだこの幸運が信じられない顔をしている。思いがけなく昼の休み時間の前に、部屋へ戻ってきた管理官から捜査のための出張を命ぜられた。それがどんなきびしい危険な仕事か分らないが、ともかくこれまでただ話だけで聞くしかなかった、イタリヤのベネチヤという都にだとそのとき初めて知らされたのである。
しかもまだ乃木と原田にとっては幸せすぎて事態を正確に自覚できないでいるのだが、お互いが心の中で愛し合っている相手がどういうわけか同行を命ぜられているのだ。
警視庁の捜査は、女子学生の合同コンパではないし、出張は見合や、新婚旅行とはまるで性格の違うきびしい仕事だ。そんなことは考えてもいけないことだが、つい胸がはずんできてしまう。
荷物の積み込みや、搭乗手続きが終ると
「さあー中へ入ろう」
と岩崎警視正は、相変らず何の感情もこもらない表情でいった。みずえは、あわてて稽古が抱きかかえている翔のそばに駆けより、チュッと頬っぺたにキスして
「翔ちゃん、おとなしくお留守番してるの。四つか五つお寝んねしたら、ママは帰ってくるからね」
というと、翔は大きくうなずく。辛いけれどそこは男の子だ。
「お稽古さん、お願い。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいるから、夜、泣き出したりはしないと思うけど、昼の間は捜一課長さんにはお許しを得ているから公務としてつきそっていてね。何でも、米・ソ両国にまたがる大事件でどうしても私たち二人で行かなくてはならないらしいのよ」
はいと大きくうなずく。何だか辛くて、泣きそうになるのを稽古は必死に耐えて、翔ちゃんの小ちゃなお手々を握って、一緒に振る。その前を、六人はエスカレーターを下りて、地下にある、出国の窓口へ入っていった。
KLMオランダ航空の八六八便北回りアムステルダム行きは定刻二十一時三十分に出発だ。
出国検査、乗り込みと、殆どお互いに話をする余裕もなかった。
ようやく落着いたのは機が、空中を巡航速度で水平に滑るように飛ぶようになってからだ。ベルト着用のサインも禁煙のサインも消える。
こうして乗ってみると、さすがにファースト・クラスは豪華だ。外航用は国内線と違って、ビジネスもエコノミーも座席はゆったりしている。飛行機が絶対怖しい進藤デカ長を除いて、捜一でも岩崎の部下たちは、これまで外国での仕事が多くて、何度も乗っている。しかしこうして、ゆったりしたファースト・クラスの席で行けるのは珍しい。費用は米とソという両大国の膨大な機密費から出ているのだから、思いきり贅沢をしてもかまわない。
みずえは、久しぶりに、四年前の、ノルウェーへ急に行くことになってしまった、新婚旅行の飛行機を思い出した。あのときは、一応公式の出張だったので、ファーストの切符を買うのを控えた。普通席よりは幾分楽なエグゼクティブという席で行ったが、それでももう心の中は幸せで一杯であった。夫の故郷の信州の伊那の山峡の実家で、三三九度の盃を終えるか終えないかの途中で、空から、乃木と原田の二人の女性刑事がヘリコプターで降りて迎えにきた。そのヘリコプターに乗せられ、まだ披露宴も、もっと大事なお床入りもすまない|中《うち》に、二人は新しい仕事のために、成田へ運ばれてしまった。
今日、この突然の海外出張に、そのとき迎えにきた乃木と、原田の二人の、婦人刑事が乗っているのも何かの因縁に思える。
二人の女刑事はそれぞれ、昼食の直前に突然の海外出張を命ぜられて、すぐ自宅へ戻り、手回りの荷物だけをまとめて、急いで成田へやってきた。
どんな仕事が待っているか、岩崎管理官からはまだ何も知らされていない。事情は、同行する高橋警視も、中村刑事も同様で、成田へ来て初めて、女刑事二人に、みずえ夫人も同行すると分ったのである。
機は少しも揺れることなく飛び続ける。ジュースが出て、しばらくして食事が出ても、相変らず岩崎は何もいわない。
だが、コンピュータ以上に複雑に入り組んだ頭脳は、何か難しい作戦を組みたてては、こわし、また組み直したりしているらしい。誰も話しかけられない、きびしい表情であった。
黙々としてコーヒーを飲み、黙々としてステーキを切り、パンを喰べている。
相手は世界の麻薬を牛耳っている、ニューヨーク・マフィヤのドンなのだ。東南アジアのマライシヤでヘロインが二トン、中南米のコロンビヤでコカインが三トンの膨大な麻薬が輸送直前に、米・ソ両国にそれぞれの空港でさし押えられた。
三角地帯のクンサーをマークして、ペナン空港で麻薬を押えたのはソ連側KGBの工作員だ。
コロンビヤの麻薬王パブロをマークして、ボゴタ空港で麻薬を三トン押えたのは、アメリカのCIAの工作員だ。
いずれも役人の見て見ぬふりで、普通の荷物にまぎれて、飛び出そうとしたその直前にCIAとKGBの緊密な連繋プレイで、飛行機の出発前に押えられてしまった。いずれの荷物も大量の現金を揃えて最後に引き取るのは、アメリカのニューヨークにいる、マフィヤの七大ファミリーの共同買い付け機関だ。それぞれの空港での、工作員による、荷物のさし押えまではうまく行ったが、その翌日には、ペナン空港のあるマライシヤの首都のクアラルンプール市に駐在するソ連大使のアレクセイ氏の末の息子さんのイワン君が誘拐され、同時に、ボゴタ空港のあるコロンビヤの駐在アメリカ大使のデューイ氏のお孫さんでお母さんと一緒に、コロンビヤへ遊びに来ていたキティちゃん、十二歳が、やはり誘拐されて行方不明になった。
二つともマフィヤがやった報復だ。
二人の消息が全く分らなくて半狂乱になった大使夫妻のところへ突然通知があったのだ。
『二人とも元気だ。大事に預っている。一九八九年の丁度真中の日、六月三十日の正午にイタリヤのベネチヤの大運河の上でお返しする用意がある。当然、条件がある。その条件については、米・ソ両国以外の人間でイタリヤ語が上手に話せる人間を交渉によこしてくれ。その交渉人は途中いかなる武器も持たず、我が方の使いに対し発砲、攻撃、逮捕、拘禁などの不当なる行動をせぬように注意しろ。もしそのような、いささかでも、信頼を裏切る行為があった場合は、これまで大事に扱ってきた二人の子供の生命は、即座になくなるものと思っていただきたい』
これが両国の大使館が、同時に受け取った通告であった。
両国の大使館どうしが話し合いの末、日本の警視庁に相談に来た。米・ソ両国以外といえば相談するのは日本以外にない。専門は殺人係ではあるが、語学に関しては天才といわれる、岩崎警視正が、すぐに選び出された。というより、こんな難しい仕事は岩崎以外にはやらせる人がいない。
ベネチヤ便が始まってからも、KLM航空は、日本人スチュワーデスが四人乗り、普通の席もゆったりしているので、いつもほぼ満席に近い状態である。みな快適な旅を楽しんでいる。
乃木も原田も、当然、中村も、この先何が起るか判らないながら、突然ベネチヤなどという、一生行けるとは思っていなかった美しい観光地へ行けるのが嬉しくて仕方がない。
はずんだ気持でお互いに楽しいおしゃべりをしている。
途中アンカレッジで、給油のため、二時間休んだだけで、翌日の現地時間の朝の七時にはオランダのアムステルダム市のスキポール国際空港に到着した。
ここで四時間待って、ベネチヤ行きの便に乗ると、後は一時間五十分でベネチヤのトレビソ空港へ着くときかされていた。それだと日本を出て正味二十四時間でベネチヤに着くことになるが、現地時間だから、昼の一時四十五分になるはずだ。
スキポール空港はホールが成田のウイングの三倍はある広々とした空港で、壁はすべてガラスで明るく、待合室はゆったりしている。乗りつぎ客用の二階の待合室に集った五人にこのとき岩崎は初めてしゃべった。
「乃木と高橋君、原田と中村刑事とは、それぞれベネチヤで結婚式を挙げてもらう。愛し合っていていつまでもそのままにしておくのはよくない」
「えっ!」
突然の言葉に返事もできない二人であった。
「式はサン・マルコ寺院か近くの寺院でやってもらう。その後ウエディング・ドレスで、|中央大運河《カナル・グランデ》を、二組の新しい夫婦が、ゴンドラに乗って揺られて行く。周りの人々は、道路から、橋の上から、このすばらしい花嫁・花婿を、きっと祝福してくれるはずだ。もし何だったら、このスキポール空港の売店のダイヤは世界一品質の良い物が揃っていることでも定評がある。時間も四時間ある。お互い安月給で、今ダイヤを買う金など持ってはいないだろうが、私のカードを貸してあげるから、思いきり、高いのを買ってよい。明日の式のときにそれぞれ相手の指にはめてやりなさい。その金は本庁を六十歳になって定年退職するときまでに私に返してくれればいい」
あまりのことに乃木が信じられないような顔できいた。
「それ、私たちのことなのですか」
「そうだよ。今までいわなかったがみずえの持ってきたトランクには、二組のウエディング・ドレスが入っている。君たちは現代で、最もナウい結婚式を挙げるわけだ。不満があるかね」
乃木も原田もあわてて首を振った。
「式は明日の三十日の朝。ただしそれまではホテルでも男女別々の室だ」
[#小見出し]  C・KのT
ヘロにしても、コカにしてもその最大の消費地はアメリカである。東洋側に面した西海岸にはアジアで出来たヘロが多く入ってくる。ワシントン、ニューヨークを中心とする東海岸一帯は、今や小学生から、七十歳代の老人まで、近年できた、コカイン系の麻薬・クラックに汚染されてしまったといわれる。
C・Kの原料は、南米のペルーと、ボリビヤに無限に生えている、コカの木の葉だ。これは芥子の花と違って、全く栽培のための人手が要らない。ただ山野に自生する木の葉を刈り集めればいい。
コカの葉は袋に詰めて、コロンビヤか、パナマに運ばれる。
コロンビヤでは、アジアのクンサーに当る、パブロ・エスコバールという大物の麻薬王が、大統領以上の実力を持ち、政府の追及など無視して、山間の奥地に大規模の工場を作り、コカインの量産に励んでいる。主にボゴタ空港から出荷される。
3[#「3」はゴシック体]
ベネチヤに来る人は普通、マルコポーロ空港へ着くのだが、週三便の直行便を持つKLMオランダ航空の飛行機はそこから少し離れたトレビソ空港に着く。これまで国内便に主に使われていた、やや小さな空港だ。
四人の男女の若い刑事たちは、北イタリヤの爽やかな初夏の気候にもうすっかり胸をはずませていた。結婚なんて考えたことはなかったというと嘘になるが、少くともいつ式を挙げるなんてことは、四人とも誰もまだ具体的には全然、計画もできていなかった。しかし今日、いきなりしろといわれると、お互いに、それも自分たちの運命と思えてくる。女たちはベネチヤの町を流れる運河の上を、ゴンドラに乗って花嫁衣裳で行けるだけでいいじゃないかとも思う。こんなすてきなパフォーマンスができるなら、もしも相手が少しぐらい嫌いな奴でも我慢して結婚しちゃうかもしれないと考える。これが女心かもしれない。
まして好きでたまらない相手で、仲人は尊敬し、親分として慕う岩崎警視正、同みずえ休職警部補のお二人であるのだから、この結婚には何一つ文句などあるはずはない。
トレビソ空港からはKLMのリムジンバスで、ベネチヤ市街の入口のローマ広場の大駐車場まで行く。これが三十五分。ベネチヤは、陸地からはみ出した、大きな島と考えた方が早い。
島は百十七の運河によって区切られており、その間は四百の橋で結ばれている、百十八の小島の集合体になっている。ベネチヤを訪れる人は橋と運河で構成された街を足で歩いてみなくては、水の都の実態は分らないといわれている。島内はどうしても狭いし、歴史的建造物や石段が多いので、自動車の乗り入れはできない。交通はすべて、運河の上を走るバポレットと呼ばれる水上バス、小型ボートの水上タクシー、ゴンドラなどの船に限られている。後は徒歩だ。
島の入口にある、サンタルチヤ駅の右側のローマ広場の大駐車場でリムジンを降りて、バポレットに乗る。島の中央をSの字に流れている、カナル・グランデ(大運河)を、小型水上タクシーが走る。
乃木の丸い目はますます丸くなるばかりだ。
ときどき黒と白の縞模様のシャツを着た男たちが漕ぐゴンドラが行き交う。明日は、女の子としては誰でも夢にまで見る白いウエディング・ドレスを着て、この運河の上をゴンドラで行くのかと思うと、胸がどきどきしてくる。
本当は高橋警視の腕をしっかり抱え、その胸によりかかりたかったが、まだ結婚前の身であって式が終るまでは他人であるし、それにこの一連の行動は、何かかなり難しい捜査活動の一つでもあるらしい。だから行動は警察官らしく厳正なものでなくてはならない。
仕方なく、隣にいた原田ひとみ巡査の腕をしっかり抱きかかえる。彼女は中村刑事と、もう二年越しの恋人どうしだ。しかし捜一殺人係の刑事としての身分を自覚してか、これまで行動を控え目にしてきていたのだ。
思いは乃木と同じだ。乃木にしっかり腕を抱えられると、自分もすすんで乃木の掌を熱く燃えるような掌で握り返した。
このローマ広場から出ている大運河コースは、ベネチヤ観光コースでも最大の目玉だ。四人の目の前に何百年も前から栄えた、この町のすばらしい教会や、宮殿が、次から次へと見えては消えて行く。家々はみな運河に面する方に玄関を持っている。入口には通称飴ん棒と呼ばれる、だんだら模様の柱が立っている。船で訪れた客が、自分の船をつないでおく柱だ。
すべてが、他の都市では見られない、このベネチヤだけの独特の情緒あふれる風光で、女たちも男たちも、胸をわくわくさせ、時には歓声を上げて眺めている。
ただ一人岩崎だけは周りの景色を黙って睨んでいる。通りすぎるすべての寺院、すべての宮殿の形や名前を頭の中に焼きつけてしまうかのように、KLM航空事務所からもらってきた案内図と引き比べて見ている。
みずえが、若い二人の後輩に話しかけた。今は現役の勤務中ではないから語りかける話し方も昔ほどきびしくない。
「あなた方、私の昔の苗字と同じ志村何とかいう俳優さんがブランコに乗って、※[#歌記号、unicode303d]|生命《いのち》短かし恋せよ乙女 という歌を唱う映画知っている」
乃木がすぐ答えた。
「ええ、テレビの深夜劇場で見たことあります」
「あの歌の題は」
「さあー」
二人とも知らない。
「あれは『ゴンドラの歌』というのよ。※[#歌記号、unicode303d]赤き唇あせぬ間に って、いい歌だったわね。このゴンドラの水夫さんと、ベネチヤの美しい乙女との間の恋を唱った歌だと聞いたことがあるわ。だからあなた方も明日は頑張ってね」
何が頑張ってねだか意味が不明だが、二人ともとたんに、真赤になってうつむいてしまった。ときには凶悪な殺人犯も震え上らせる鬼刑事とはとても思えない恥しがりようだ。
「多分、そうだ……」
いきなり岩崎はいった。男二人はさっと緊張して岩崎の方を見た。
「……この街には車が入れない。交通は水上の便だけによっている。ギャングたちが武器を運ぶにも、街から逃げ出すにも、歩いて行くか、土地の組合に登録した、バポレットか、水上タクシーを利用する以外はない。こんな狭い運河は自分の船では入れない。ということは、大きな武器を持ちこんだ犯罪はできないということだ。ここはマフィヤの故郷としてとかく世界中から敬遠されている南イタリヤと違って、きっと世界一、治安の安定した観光地なのだ。だから人質の交換場所に選ばれたのだ」
男の刑事たちは納得してうなずいた。
「私は、ホテルへ着いたら、すぐどこかへ出かける。こんな狭い街だ。私が行方不明になることはない。相手の条件をきいてくるだけだから、君たちは心配しないで、私一人で行かせてくれ。相手はプロだ。私の後をつけたり身を守ったりするような下手なまねはしない方がいい。むしろそれより女性たちは、明日の着付けと化粧の打合せをホテルで楽しくやっていてくれ。男たちにはホテル側のレセプション係がすべてやってくれるはずだが、サン・マルコ寺院か近くの関連の寺院での挙式の段取り、それからの大運河や小運河でのゴンドラの周遊コースの選定などをやっておいてくれ。費用のことについては、一切考えるな。足りなくなったら、日本の銀行もある。それにこれは君たち四人の一生に一度のことだから」
といった。男たちは二人とも感激に頬を|強張《こわば》らせている。しかし岩崎は冷静だ。米・ソ両大国の、大事な外交官の子供を無事受け取って帰る仕事だ。それに、同時に何トンもの麻薬の取引をぶっ潰す大仕事なのだ。それによってマフィヤの受ける損害は十億や百億ではきかないだろう。小国なら、一国の国家予算がかかっているぐらいの金額のO・PとC・Kが、それぞれ、アジアと中米とで押えられているからこそ、ニューヨークの七大ファミリーも人質の交換にこれだけの慎重な方法を選んできたのだろう。
やがて屋根のついた形の、大きい橋が見えてきた。大運河には、海際へ出るまでに三つしか橋がないが、その真中の橋で、ベネチヤ第一の名所にもなっているリアルト橋だ。
「みなは後で陸へ上ったら歩いてこの橋を渡ってみなさい。橋の周りは、この町のショッピング街の中心でしゃれたデザインで有名なイタリヤのことだ。高橋君も中村も可愛い女の子にプレゼントするのに最適な物を沢山売ってるはずだよ。ただ、明日式を挙げてしまえば、二人とももうそんなことはできなくなってしまうがね」
思わず話にのりかけた中村刑事は、原田刑事の優しくしかも内に鋭さを秘めた目で睨まれてぎくっとした。高橋警視の手も、さりげなくのびた乃木の爪がチクリとつまんだ。これまでそんな振舞いをしたことがなかった乃木だが、明日、式さえ挙げてしまえば、もう男は永久にこっちの所有物でどこへも逃げて行けない存在になってしまう。やや遠慮がちだが女がどんなに怖しいものかは、少しだけ知らせておいてやった方がいい。
橋をくぐると、両岸に幾つかの美しい宮殿が続き、やがて大きく運河がくねって、海に向っての眺望が開けてきた。
サン・マルコ寺院の船着場で水上タクシーは停る。岩崎を除いた五人はみな大理石の石だたみを登る。
二つの円柱の間を通り五つの円天井の大寺院に向って歩く。水上タクシーはここからUターンして、荷物をさっきの屋根のついた橋との間にある、ホテルの駐船場につけて、部屋へ入れてくれる手筈になっている。岩崎は
「歩いても、四、五分だ。君たちは見物しながら、ゆっくりホテルへ戻りなさい。ついでに買物もしてきなさい。私はこのタクシーでまっすぐホテルへ行きメッセージを調べてみる」
岩崎は一人だけ水上タクシーで、リアルト橋と大寺院の中間にあるホテルに戻った。広い中庭のあるイタリヤ風の建物である。水上タクシーから、運河沿いの入口に入り、チェックインをする。一緒に上ってきた水上タクシーの運転手がボーイに荷物を持たせてついてくる。フロント係にきいた。
「何かメッセージは」
彼が、日本人、サダム・イワサキとチェックイン用紙にサインするのを見て、マネージャーがメモをさっと出した。それには『四時に大鐘楼の展望台で会おう。条件その他はそのとき』
とこれはごく普通の英文で書いてある。
「グラツエ(ありがとう)」
時計を見て、そのまま飛び出す。
ほんの五、六分の所にあるさっきのサン・マルコ寺院まで戻ればいい。みずえと一緒にさっきの四人が町を歩いているかもしれないが、今日一日は行きあっても話しかけるなとさっき別れ際にいってある。
サン・マルコ寺院の前の広場には、世界各国からやってきた観光客が沢山居て、その客たちが、まいてくれるパン屑や、ポプコーンを求めて鳩がよってくる。
鐘楼は、寺院のすぐ横に、中天を大きく区切るようにそびえていた。高さは九十九メートルもあるという。
入口にエレベーターがあり入場料千リラ(百円)を払って上る。時計を見ると、四時五分前。エレベーターボーイはなかなか愛らしい少年だった。エレベーターを降りると、昔、灯台と船の見張りに使った展望台があった。丁度四時ぴったり。こちらの着く時間を向うはすっかり計算しているようだ。
二人の黒服の男が立っていて、さっと岩崎の前に立ち交互に手をさしのべた。
「ごきげんはいいかね」
これはもう完全な南のシシリヤ島の訛りだ。コーザ・ノストラといわれる、マフィヤの中でも純粋な血統を持つお兄ちゃんたちなのだろう。
「ああとてもいいよ」
彼もシシリヤのパレルモ訛りで答えた。これこそ、純血の中の純血の証拠だ。若い二人は交互に強く手を握りしめながらこの返事ですっかりうちとけたらしく上機嫌でいった。
「現物をお見せするよ。ガセを返したなんていわれちゃ、我々の名がすたる。二人とも預ってもう二週間、大事にさせていただいている。どこも病気はない。あんたなら、本物かガセかはしゃべればすぐ分るはずだ。行って話してごらん」
一人は背のひょろりと高い少女で、金髪が軽く肩にカールし、白い顔にうすくソバカスが浮いている。細い肢が長くのび、もう三、四年したら、きっとすばらしいスタイルの美女となることを思わせる品のよい顔をしていた。
一人はまだいたずら盛りの子供だ。
二人ともこれまで親の手もとからさらわれて以来、男たちにとりかこまれ遠い外国を転々とひきずり回されて、随分淋しい思いをさせられてきたらしい。それでも子供なりに、お互いに自分の運命を諦め、二人で助け合っている健気な姿があった。
二人の近くには見張り役らしい肥ったイタリヤ女が一人つきそっていたが、ギャングの男たちに許されて岩崎が近づくと、自分と子供たちとの間をあけた。
岩崎は男の子と並んで手すりに体をもたせながらロシヤ語で話しかけた。
「イワン君。お父さんのアレクセイ大使には明日中には会えるよ。しっかり頑張ってくれよね」
思いもかけない祖国の言葉なので、びっくりして少年が振向く。瞳が輝いている。
「おじさん、ほんと」
その顔が、出発のときに警視庁で渡された手配写真にそっくりだ。少年の言葉が、グルジヤの訛りをもった、ロシヤ語だということを確認する。もう間違いない。すぐにその隣の少女に、ボストン訛りのイングリッシュできく。
「キティちゃん。明日、お祖父ちゃんと、ママのリンダとが、あんたを迎えに来るよ」
「えっほんと」
少女の顔もぱっと輝いた。
「……ママとお祖父ちゃんは今どこにいるの」
「すぐそばとしか、今はいえないけど、明日の四時すぎには、ママの熱いキスが、キティの頬っぺに雨のように降っているよ。絶対に」
「あーっ」
と少女は顔に手をあてて泣き出した。その少女の肩に手をかけて
「じゃー明日まではおとなしくここにいるおじちゃんたちのいうことをきくんだよ」
優しくそういうと岩崎は一人でエレベーターで降りていった。
[#小見出し]  C・KのU
北米と南米との間をつなぐ、細い地峡にコロンビヤとパナマの両国はある。もし旅行者がこの二つの国から直行便でアメリカへ入国すると、税関では女性は娘も老婆も少女までも別室へ連れて行かれて、下半身に持つ二つの孔を徹底的に調査される。他の国の人々で、何も知らずに、うっかりこの二国に立ち寄ってからアメリカへ入国した女性は気の毒だ。驚愕のあまり、悲鳴、絶叫、号泣の声が検査室から洩れてくる。
空路の他に東海岸の広く長い海岸線には、カナダ国境から、マイアミの海岸まで、中米からの漁船が船底に、コカインやクラックを積んで自由に寄港している。
コカの葉の粉末をコカインに精製するのには二十工程以上の難しい工業技術が必要だが、クラックだけは、コカの葉の粉末に脱臭剤をまぜればすぐでき上る簡単なものなので、値も安い。今や、東海岸地区から猛烈な勢いで、アメリカ本土を侵食して行っている主要製品になり、配給を独占しているニューヨーク在住のマフィヤ七大ファミリーの最も大きい財源ともなっている。
4[#「4」はゴシック体]
サン・マルコ寺院の話では|伽藍《がらん》が大きすぎて一般の結婚式はやらないということだった。仲介したホテルの話だから真偽は分らないが、代りにすぐ目の前にある、サン・ザッカリヤ教会で、快く引受けてくれるという。しかもそこはそういう式には馴れているという。
みずえは結婚式の方の交渉にかかり、岩崎は専ら誘拐事件の方にかかった。
夜中、イタリヤ電話局の好意で、アメリカと、ソヴィエートと三つの回線を結ぶ特別の通話の枠をこしらえてもらった。ほぼ二時間もつきっきりで岩崎は一切の連絡をした。
途中の会話は、音声を乱調にする盗聴防止機にかけて、その三人の当事者以外はいかなる者にも、内容が洩れないように配慮してすすめられた。そして明け方にすべての手配がやっとすんだ。一方みずえが交渉した、サン・ザッカリヤ教会での式は午前十時と決められた。
ワシントンの外務省当局と、モスコーの外務省当局との、米・ソ二大国の意志が、彼らの結婚式の時間を決めたなどということは、乃木と高橋、原田と中村の、二つの新しいカップルは全く知りはしない。
朝早く起されて、ホテルから出るゴンドラに衣装を着付けた六人が三台に二人ずつ分乗した。行きは、岩崎夫婦で一艘、男どうしが一艘、花嫁どうしが二人で一艘。昨日の泊りの部屋もそういうわけで、若い二組はまだ肉体的には結ばれていない。
しかし式さえ終れば、もう夫婦だ。四人は昨夜は独身最後の夜を、それぞれ夢と希望にみちて、浄らかにゆっくり寝んだ。教会の下の小運河にゴンドラをつなぎ、六人はサン・ザッカリヤ教会の古い建物に入って行く。
正確に十時に式が始まった。さすがにカトリックの本場の国で何百年も前から建っている由緒ある建物である。式を行う伽藍も豪華であるし、式を挙行する司祭たちの態度、音声、衣装ともに荘重にして華麗で、進行中、女たちは何度も、目尻に湧き出る涙を、指先で拭っていた。
男たちもさすがに厳粛な顔で花嫁の横につきそっている。
十時三十分、式を終えてサン・ザッカリヤ教会の前の小広場に出る。全く四人が知らない、只の参詣人のお爺ちゃん、お婆ちゃんが待っていて、小さい花束や、米を白くふくらませたお菓子を頭から振りかけ
「コングラツラツィオーニ」「アウグーリ」
と口々に祝いの言葉を投げかけてくれる。四人は見知らぬ人の祝福を受けて、ひどく感動していたが、全体の会計をひき受けたみずえは、思わずニヤリとした。それでもやはり感心していた。
これらの見知らぬ人々の祝福も、初めにホテル側が計画した一切の見積りの中に入っていて、ちゃんと有料なのだ。ただそれが、とても演技とは思えない感動的な心からの悦びを表現してくれているのだ。
今度は男女、一組ずつが、手をつないで小さなゴンドラに乗った。
運河の両側にいる人は、拍手したり『ビバ』とか、『ブラボー』とか声をかけてくれる。これは八百長でなく、純粋なお祝いの言葉だ。
「ガンバッテネー」
などという黄色い声の日本語が対岸から聞こえてきたのは、日本から来たやや婚期を逸したO・Lの旅行者が、羨ましさのあまりつい声を出したのだろう。
いったん小運河から海際に出、嘆きの橋を右に見て、また大運河に入る。
時計を見ながら岩崎は、ゴンドラの船頭に土地の言葉で指示した。
「十二時丁度に、リアルト橋の真下を通ってくれ。そこで一艘の水上タクシーにすれ違う。橋の下で、二人の人間が、後ろのゴンドラに、一人ずつ乗り移る。子供だからかまわないだろう」
「ええ、お心付けしだいで」
ベネチヤのゴンドラの船頭は、昔から料金をふっかけたり、途中で釣り上げたりして、ひどく評判が悪いが、その代り欠点は同時に長所で、チップのはずみ方しだいでは、いろいろと無理をきいてくれる。
両側の人に見送られながら、三艘のゴンドラはまるで、パレードのように進んで行く。普通のときだと、大勢の人に見守られた中を行くのは恥しくて仕方がないことだが、女性は一生一度の結婚式だけは突然ずうずうしくなる。自分の晴れ姿を、百人にも千人にも、一人でも多くの人に見守られたくなる。
乃木も原田も、日本娘としては標準以上の顔だちをしているし、しっかりお化粧している上に白いウエディング・ドレスでベールを髪にかけているから、誰が見ても可愛らしく見える。運河の両岸から、拍手や口笛が聞こえてくる。
その間、先頭のゴンドラの中では岩崎が頭の中でもう何度となく時間の計算をしている。何度やり直してもどうしても一時間ほど足りないのだ。
それをどうするかの手段が、まだ見つからないのだ。あんまり単純すぎて却って方法が見つからないのだ。
マライシヤのペナン空港でソ連側のKGBの工作員に押えられたヘロインは二トンである。これはマライシヤ航空の特別貨物便で、コペンハーゲンに運ばれることになっている。
今日の正午に、リアルト橋の下で、すれ違う水上タクシーから、少年と少女が一人ずつゴンドラに飛び移る。第二のゴンドラでは高橋警視が、イワン坊やであるかどうか、そして元気かどうか確認する。第三のゴンドラでは中村刑事が、キティ嬢であるかどうかを確認し、元気であったら、それぞれ第一のゴンドラの岩崎に指でサインを送る。
実はこの間、花嫁衣裳の二人は、にこやかに四方に会釈を送りながら、自分たちを狙っている者がいないかどうか、油断なくあたりを見回している。
昨夜の|中《うち》に、地元の警察の好意で借り出しておいた、イタリヤ製の優秀なベレッタ自動拳銃が、長いふんわりとしたスカートの下に、ちゃんといつでも抜き出せるように吊下げられているのだ。
結婚式は結婚式で、たっぷりと感動し、エンジョイしながらも、大事な仕事を女二人は油断なく務めている。
コロンビヤの、ボゴタ空港にパブロ一派が製造したコカインが、三トン以上もずっと、アメリカのCIAの手によって押えてある。
正午に、二人の人質が、それぞれのゴンドラに移される。無事のサインが岩崎に送られる。岩崎の持っている小型の携帯の無電に『OK』の一言が入ると、マライシヤのペナンは午後の七時、コロンビヤのボゴタ空港は朝の六時、いずれも、現地の空港管理官に、ベネチヤにいる、両国特務機関員からの報告が届く。
瞬時に、マライ半島からと、中米の海峡地域からと飛行機がとび出す。
それぞれ、末端価格、何百億ドルという、想像もつかない価格の麻薬を乗せてとびたつのだ。
問題は何時間で、子供を抱えた、岩崎たちが安全圏に逃げこむことができるかということだ。
ゴンドラをゆっくり漕がせても何とか一時間後の十三時二十分までには、ローマ広場横の大駐車場のそばに船を着けることができそうだ。
駐車場から、トレビソ空港まで三十五分。十四時二十分の飛行機にはともかく乗れるが、オランダのスキポールに着くまでは、まだどのようなことが起るか予測できない。米・ソ両国ともその間はまだ麻薬を乗せた二つの飛行機には手を出してもらいたくないのだが……
当然、飛行機が飛び出してからは、ぴったりレーダー網がそれを追い、いつでも撃墜できる態勢は整えているだろう。折角取り戻した人質を途中で殺されては何にもならない。安全圏は、広い待合室と、厳重な警備兵を持つ、スキポール空港内だ。そこで待っている、それぞれの両親の手に渡してしまえば、いくらアメリカのマフィヤでも、もう手も足も出ない。スキポール空港では大型の自動銃を持っている兵が、いつもパトロールしている。
十四時二十分にトレビソから出たKLM三四九便の飛行機がスキポールに着くのが早くても十六時十五分。ここが問題だ。
十二時に人質を返してもらってから、スキポールの安全圏に入るまでには四時間十五分かかる。普通に飛んでも七、八時間かかる、ペナンからコペンハーゲン行きの方ならいい。
昨夜アメリカ側と電話したとき、CIAのベテランが悲愴な声で岩崎にいった。
「三時間以上は駄目なんだ。待てない。ボゴタから、どんなおそい飛行機でも、アメリカのテキサスかフロリダの領内に入ってしまう。いったん着陸されたら、三十分で荷物はトラックに分散されて、アメリカ中にばらまかれて消えてしまう。三トンの麻薬はやがて確実に百五十万人の生命を奪う」
「分りました。私たちがその一時間は何とかします。その代り、イタリヤ航空局と、KLMのトレビソ発、三四九便の機長、スチュワーデス諸嬢に幼い二人の生命と、世界の人々の平和のために協力するよう、米・ソ両国から、お願いしておいてください」
とくれぐれも念を押しておいた。
ペナン発のコペンハーゲン行きの、クンサー側の二トンのヘロインは時間の許す限りゆっくり飛ばせ、こちらの安全を確認して空中で爆破する。多分、トルコかブルガリヤ上空でミサイルを一発喰らい空中にバラバラに散ってしまうだろう。しかし、ボゴタ発のアメリカ行きは、十四時二十分のトレビソ発が飛びたったのを確認した後、正味十五分以内ぐらいで、爆発させなければ、間に合わない。それでもメキシコは越えて、ルイジヤナかフロリダ半島はかすっているギリギリの所だろう。
正午になった。
三台のゴンドラが、屋根のある大きな橋の下を通りかかった。ベネチヤだけでなく、世界的にも珍しい形の、リアルト橋だ。先方から、軽快なエンジン音をたてて、水上タクシーがやってきた。
昨日のいかにもマフィヤの正統純血らしい精悍な顔をした黒背広の男が、船の前後に立っている。さすがにゴンドラの船頭たちはその相手がどんな種類の男たちか分るのか少しどきっとしたような顔をしたが、それでもすぐ一人が気を取り直したようにいった。
「なーに旦那、このベネチヤは、世界一、平和な街です。この街の中では猫も喧嘩はしませんよ。奴らだって何もできません。凄むだけです」
「まあーそうだろう。実は私の方で用があるのだ。彼らに返してもらうものがある。ゴンドラを近づけてくれ」
両方から寄ってくると、まず水上タクシーの上で少年の両腕が軽々と掴まれ、乃木の船にぽんと投げ移された。ついで少女の両腕が掴まれ、短いスカートからひょろ長い足をバタバタさせながら、原田の乗っているゴンドラに投げこまれた。原田は少女を全身で受けとめた。
水上ボートから男の、シシリヤ訛りの声が聞こえる。
「おれたちは先にローマ広場へ行って待ってるぜ。トレビソ空港から出る三四九便には一緒に乗りこませてもらいますぜ。ボゴタから出るアメリカ行きの飛行機を、三時間以上はどうしても無事に飛ばせてもらいたいのでね。さあー早くボゴタとペナンに、出発OKの通知を出してくれ」
岩崎は、二つのゴンドラを振返り、二人の子供の人質が元気なのを確認すると、携帯無線に『OK』と短い返事をし、その無線機をそのまま運河の中に投げ捨ててしまった。
ゴンドラの船頭が少し勿体なさそうな顔をして見たが、こうなったら、もう運を天に任せるより他はない。
ゴンドラは一時丁度ぐらいにローマ広場に着いた。花嫁衣裳のまま、女二人は空港行きリムジンに飛び乗る。少し恥しかったが、これも任務だ。それぞれしっかり一人ずつ子供を抱えている。リムジンはトレビソ空港に向った。
既に、空港での協力態勢はでき上っていて、花嫁花婿と、二人の子供は一般客より先に、何の検査もなしに、飛行機に乗りこんでいた。
その後、一般客はいつもよりずっと感度を高くした、金属探知機のゲートをくぐって入って行く。二人の男は見事にひっかかり、ナイフをあちこちのポケットから幾つか取り上げられた。
その他に、ハンドバッグの小型ピストルをとられた女が二人、規則にはないのだが、今日の運航には差しつかえるからと、小型のラジオを預けさせられた男が一人いた。
何らかの怪しい物を持った客は誰もまとめて自然に最後尾の席に坐らせられた。七人もいた。機は飛びたった。
みなマフィヤの仲間らしい。一カ所にまとめられて、にがい顔をしている。
「みなさん、お気の毒だから、花嫁さんをお話相手に連れてきましたよ」
そうイタリヤ語でいいながら、白いドレスの、乃木と、原田を、その七人の客が見回せる席に、坐らせた。
間に二席ばかり空席があり、充分に全員が監視できる。ということは、二人の花嫁姿が、この一団の男女にも見えるということだ。
その花嫁たちが二人とも妙なことをした。
もし普通なら多分絶対に行わないことだったろう。長いスカートを大きくまくり上げて二本のつややかな太腿を出した。
白い絹の靴下の上縁の、ガーターが止められている部分にベレッタが差しこんである。
「今、みなさんには向けませんがね……」
と、岩崎はいった。スカートはすぐ下ろされた。
「……スカートの中のベレッタには安全装置はかけてありません。たとえ、スカートでおおわれていても、〇・三秒で、銃口はみなさんに向けられます。何もなかったら多分そのまま、スキポールで降りていただきますが、何かあったら、死体で降りていただくことになります。人体は貫通するが、機体のジュラルミンにはべちゃっと潰れてくっつく柔かい実弾があることはご存知でしょうが」
七人のマフィヤたちは口惜しそうに顔を歪めた。
ちらと時計を見た岩崎がいった。
「三時丁度です。多分、フロリダの沖でボゴタを出た飛行機が、三百億ドルのものを積んだまま落ちてる時間です。私は殺人犯を追いかける単なる刑事ですから、これは全く管轄違いの仕事ですが、それでも、百五十万人の人を殺す予定の犯罪を事前に抹殺できたことに大いなる誇りを感じています」
鋭く目を配る。しかしもうこの飛行機の中では、誰もこの二人の白衣の花嫁に刃向って来ようとする者はいないようであった。
十六時十五分、スキポール空港に定刻に到着した三四九便の飛行機から、特別の計らいで一番先に降ろされた、キティ嬢とイワン坊やは、フィンガーのゲートで待っていた、それぞれの母親にとびつくと、今度こそ、思いきり声をあげて泣き出した。
「ママ、ママ」「マッツ」
これまで十四日間、子供心にもしっかり耐えてきた悲しみを、思いきり絞り出すような二人の泣き声であった。それを見て乃木も原田も涙をポロポロこぼしていたし、珍しくふだんは冷酷な表情の岩崎まで何となく目をうるませていた。
[#改ページ]
[#見出し]  W 真犯人は伯爵令嬢
変態性欲百科A かつてその道の権威だったS氏の著作から引用
明治・大正・昭和と、まだ国民生活が、ごく貧しく平凡なときは、それほど変態的な欲望は複雑な様相を見せていなかった。
覗き・サディズム・マゾヒズム・男色など、一般の男女の性愛から少し離れた程度である。
こんな物に目くじらたてる者は居らず、現在はこれらは成人男子のマンネリズム化した欲望をかきたてる一つのお遊びとして扱われている。
新宿や、六本木を歩けば、覗き部屋・SMクラブ・ゲイバーが大きなネオン看板をかけて客を呼んでおり、覗かれるための痴態を演ずる女、サディズムの相手になって打たれたり縛られたりして、一時間幾らで男に泣き声を楽しませる女性が職業として存在している。
逆に男を責める役の女も職業として定着している。つまり従来考えられていた変態性欲は、今、普通のセックスのバリエーションとして完全に市民権を得ているのである。
1[#「1」はゴシック体]
八月に入ってすぐ、突然、ふだんは静かな警視庁ビル十八階全部が、どうっ!! という一種のどよめきに包まれた。まだ午前中の執務が始まったばかりである。
今日も一日、暑い日になりそうだという予感だけあっても、誰もこの大きなニュースを予測した者はいなかった。
これは六階の捜一の大部屋でも同じであった。埼玉県西部を中心に連続三件も発生し、更にそれが東京江東区にまで及んできて、警視庁も捜査に加わったが、犯人の目星さえつかなかったのが、突然今朝になって別件の強制ワイセツで八王子署に逮捕されていた青年が、江東区における、幼女誘拐事件の一端を自白したという大ニュースだった。
それは幼児の裸の胴体だけが、埼玉県西部の一連の誘拐事件の頻発した地域にほうり捨てられていた事件だが、幼女の胃の内容物から、江東区で誘拐された幼女の肢体だと分っていた。犯人の自供によって胴体から切離されて行方が分らなかった頭部が、朝早く見つかっている。
殺人・強盗など、凶悪犯罪を一手に扱っている六階の捜一でも、このニュースによって受けた衝撃は同じだ。
先程、朝のお茶配りを終えて、それがいつになく形良く全員の茶碗の中にまっすぐ茶柱が立ち、理由が分らぬままに、なぜか知らぬが今日はいいことがありそうだと思っていた、一番新米の見習刑事・峯岸稽古は、思わず立ち上って
「ウワーッ」
と声を上げてしまい、同時に突然、どっと溢れ出てきた涙を押えるために、両手で顔をおおってしまった。ふだんなら、そんな|女女《めめ》しいふるまいをしたら(女だから、女女しいのは当り前でも)この捜一の大部屋の中にいる、二百人の|猛者刑事《モサデカ》全員の激しい非難の目にさらされる。二度とこの光栄ある、警視庁随一のエリート集団の仲間に入れてもらえないところだが、今日はこの大部屋の全員が、みな同じような気持だったので、誰も峯岸見習を咎めだてするような目では見なかった。
帝都の殺人事件を一手に引受けている捜一は、事件の解決への|緒口《いとぐち》が見つからぬままに、この何カ月間かずっと、重苦しい沈黙に包まれていた。だから誰もが
「やったぞ」「とうとう|犯人《ホシ》は落ちたか」
などとささやき合い、前の席の仲間と握手したり、思わず立ち上って目頭を拭ったりしている。
正面の席に坐っている岩崎管理官だけはこのことを予期していたのか、顔の筋一つ動かさず、相変らずコンピュータの端末のキーに指を走らせて、入力している。
ただ何気なくチラと視線を走らせた。それをいつも、親分の一挙一動に注目している、進藤|部長刑事《デカチヨウ》、吉田老刑事、武藤、中村、花輪などの猛者たちが気がついて、揃って同じ方に振向いて、同時に納得した。
江東区の幼女誘拐殺人事件は、九係ある殺人専門の強力係の中でも、五係が担当している。今改めて気がついてみると、五係のデスクは、いつのまにか一人もいなくなっている。
とっくに現場に行って、自白の裏付け捜査をやっているのだろう。
もし、もっと鋭いカンを持っているなら、さっき臨時ニュースを知らせるベルが鳴って、犯人の自白が報ぜられる前に、こんな事態は、とっくに分っていたはずだった。
そして、同時にみなが考えたことがある。これは実際に警察に職を奉じた者でなければ絶対、思い浮ばないことだが、進藤デカ長などは、正直にそれを声に出していった。
「よかったなー。奴を取り押えたのが、八王子署で。これが飯能署や、狭山署など埼玉県警だったら、江東区の事件はえらいやり難くなるところだったぞ」
八王子署は、東京都の中にある。
警視庁の管轄だ。八王子署が犯人を自白に導き、更に身柄を押えている限りは、犯人を、江東署の幼児殺害事件の捜査本部に移して、令状一杯の二十日間たっぷりしめ上げて、まず江東区で起した事件の解明や、証拠などの裏付け捜査に専念できる。
自分らの取調べを百パーセント完全に終えてから、初めて彼の身柄を、埼玉県警へ移して、狭山、飯能両署でゆっくりしめ上げさせればいい。
やがて、みなが見ているテレビに記者会見のため、刑事部長と捜一課長の顔がうつった。この一年、幼い子を持つ母親を不安のドン底に落してきた凶悪犯人の身柄をともかく押えることができたという安心で、ふだんはきびしい鬼のような課長の顔にも、いくらか明るさが見える。
捜一の室内ではもう昼食どころではない。
テレビの前で、事件の経過を淡々と語る、捜一課長の顔を喰い入るように、全員が見つめている。
峯岸は、みなの後ろから、テレビを覗きこみながらも、後から後から涙が流れ出て止まらない。
乃木だけは、テレビの周りを囲む、|刑事《デカ》さんたちの仲間に加わらず、端然とした姿勢で机に向って事務を執っている。岩崎がそうしているからだ。同じ婦人刑事の原田ひとみと二人で、つい先月、イタリヤのベネチヤに行き、原田はかねて相愛の中村刑事と、乃木は一係長の高橋警視と、一応形式的な結婚式を挙げた。それもイタリヤの水の都ベネチヤの運河を、ゴンドラに乗り、白いウエディング・ドレスを着て、静かに行くというロマンチックな式だった。
しかし、岩崎の見解ではこれはあくまで捜査のための任務であって、個人の私用でベネチヤに行ったわけでないから、改めて秋頃、日本で正式の結婚式を挙げるまでは、捜一の他の人には結婚したことはまだ伏せておくことを命じられている。入籍や改姓もそれまで延ばしている。
その注意のとき岩崎は四人にいった。
「多分現地では式を挙げて、すぐ帰国で、実質的な結婚行為は二人ともまだないだろう。もっともそれがすんでしまったかどうか、私にはどうでもいいことだが、秋の正式の挙式の日が来るまでは、辛いだろうが、できるだけ、そのことを慎み、一係、二係の仲間には、気配を悟られないように。特に妊娠は厳重に避けなさい」
その注意を守り、二人の女性刑事は、それぞれ、これまで以上に相手の男とはよそよそしく、同室の刑事たちには、絶対、気配を悟られないように気を配っている。乃木は相変らず警視正に対して忠実で、岩崎が事件に関心を示さないので自分もわざと平然として机に坐っている。だが事件はますます発展して、五係の外に、昼すぎには今、事件を持たない、他の係も応援に駆り出される。五日市の犯人の自宅や、江東区の犯行現場に、証拠品探しや、聞きこみのために、大量の一般警官が周辺の警察署から動員されている。その指導に、本庁のベテラン刑事も、どんどん参加しているのだ。
だが、今、全員、事件の手があいている在庁勤務の一係と二係とには、なぜか課長からお呼びがかからない。進藤デカ長は考えた。じっとしていられなくなって、一係の最先任の吉田老刑事のところへ行って話しかけた。
「こんな非常のときに、うちの|警視正《ボ ス》に何の連絡も、応援要請も来ないのはおかしいですよ。吉田さんはどう考えますか」
するともう定年をとっくに越しながら、岩崎警視正に惚れこんで、彼の下で働きたい一心で、平の刑事で頑張っている、吉田元・四谷署捜査課長は、言葉を慎重に選びながらいった。
「こういう犯罪をやる奴は、うっかり根負けして自白した瞬間にはもう、自分は、|絞首刑《バタンコ》は、どんなことがあっても免れられないということぐらい見当がついている。一言|告白《チク》ってしまったら後ではもう取消しがきかない。そうなるとそれが行われる日が来るのをできるだけのばすことに専念する」
「何か方法があるんですか」
と訊き返す進藤デカ長に吉田老人は教えた。
「それはね、明らかにその男がやったことが分る、もう一つの罪を係員に匂わせながら、それについては、素直に白状しないで、チビリチビリと小出しにすることです。供述も、二転、三転させて、|手古《てこ》ずらせるだけ、手古ずらせることです。検察官としては、すべての罪を正確に明らかにしないと、裁判に持ちこめないから、取調べがまたのびる。これで一年ぐらい稼ぐ奴が出てくる。実際はそううまくはいかないがね」
「なるほど、その手もあるのですか」
さすがのベテランの進藤も、あんぐりと口を開いて呆れていた。
変態性欲百科B 引用は前と同じS氏の著書による
[#小見出し]   浣腸《かんちよう》と|褌《ふんどし》[#「浣腸と褌」はゴシック体]
この世界を研究していない人には、一体これが何で性欲なのであるか、全く見当つかないだろう。しかしもうこの道にのめりこんだ人にはこの二つの言葉は聞くだけで、身内が震えてくるほどの甘い官能をゆさぶられるそうだ。
どちらもホモ性愛から発生したものである。浣腸は肛門に強力な浣腸薬を入れて、その薬が腹内を駆け巡り、腸内が痛みで収縮する。その痛みを楽しみエクスタシーに至るものでホモの受身の男たちの究極の楽しみである。
褌は、女性自身よりもその身につける下着に愛着を感じる人があるのと同じで、やはり本物の男子同性愛者が、男根や肛門より、そこをきりりとしめた、白い褌の美しさを讃美する趣味である。
浣腸と褌はどちらも同好者の会員雑誌が二万部程度出ており、その中には有名な純愛作家の名前もある。
2[#「2」はゴシック体]
岩崎が直接指導する、捜一の一係と二係の中で、特に彼が信頼して、いつも事件に投入するスタッフが、今日はいつになく緊張した表情でテーブルに坐っている。
進藤デカ長以下、峯岸見習まで合せて十人のメンバーだ。
場所はいつも困難な捜査を終えたとき、みんなが一杯一万二千円のレミーマルタンと、極上のフランス料理で、祝杯を上げる帝国ホテル十八階のラウンジだ。
窓からは、昼の炎暑が納まり、短い通り雨もあって、涼しい夜風にネオンが濡れている、東京の夜景が見えている。
テーブルには、フォアグラや、鴨のテリーヌなどを盛った贅沢な料理が並んでおり、各人のブランディグラスには、既にレミーマルタンの琥珀色の液体がなみなみとつがれている。
それなのに、誰も料理にも、盃にも手をつけようとしない。
こちんこちんに、体を強張らせて、じっと正面を見つめている。その正面には、いつもの岩崎警視正の他にもう二人、五十歳と四十歳ぐらいの警察の幹部が坐っている。年長の方は浅黒い顔をした、一見野球の監督か、工事現場の取締りかと思われる男だった。捜一の鬼といわれる課長だ。もう一人は年は若いが、身分はもっと上のキャリヤ組の刑事部長だ。二人とも今日の昼までは庁内の関係者しか、その顔を知る人はなかったろうが、今では日本中の大部分の人がその顔を知り、全幅の期待をよせている顔である。今朝の幼女誘拐殺人事件のテレビの記者会見の席に姿を見せ、国民に初めてその顔を見せたからだ。
岩崎が自分の部下にいつもよりずっときびしい緊張した声でいった。
「現在お二人とも事件の指揮者として捜査の進行や、埼玉県警との連絡、マスコミへの対応で、体が幾つあっても足りない超多忙なお方である。ここにはせいぜい十分ほどが限度だ。それでもお二人は捜一の二百名の刑事の中で、最も信頼する諸君にぜひ頼みたい、大事なことがあるといって、ここへやって来られた。諸君はこの課長のご信頼に応えられるようによくお二人の指示を承ってくれ」
捜一課長が立ち上った。
「犯人は現在、既に我々の手にある」
じろっと全員を見回す目からは、まさに火が噴き出しそうだ。
「犯人というものは一回しゃべったらその後はすぐ全部吐く。警視庁管内の|事件《ヤマ》は一つだけで埼玉県の|事件《ヤマ》が二つか或いは三つだが、しかしこちらでは十日と十日の目一杯二十日間身柄をとって、埼玉に犯人を渡すときは両方の事件のすべてを|白状《ゲロ》させてしまう」
これは捜査の常識だ。ともかく先に逮捕した方が勝ちなのだ。突然捜一課長の声の調子が強い大きなものになった。
「問題はこの一犯人の逮捕にない!」
これには捜一の|猛者刑事《モサデカ》の全員がびっくりした。捜一の仕事は犯人を逮捕することにある。全員がそのことにすべての力をそそいできた。まるで今までの仕事を真向から否定されたようだ。捜一課長は続けて激しい口調で語る。
「今回の一連の事件なら、多分、今朝の犯人の自供で、すべてが解決するだろう。自供通りに、斬りとられた首が出たということは、後の埼玉でやった事件も、そのまますべてが判明することだ。この犯人を捕まえたことは我が捜一は甚だ鼻が高く、帝都一千二百万都民もほっとして、まことにお目出たいことであるが、しかしながら、この事件の本当の解決にはなっていない。表面に出ていない幼女への強制ワイセツ事件は、都内と周辺部を合せると年間二千件を超している。本日の容疑者以外にも、同じような罪を犯す可能性のある者が、まだ四百人も野放しになっているのだ」
捜一は殺人事件や、強盗や放火などの凶悪な犯罪だけを追う係だ。幼女を甘言で誘い、裸の写真を撮ったり、幼い性器にいたずらしたというような、これまでは、どちらかというと、軽犯罪まがいと考えられるようなものは、防犯、少年などの、もう少しおとなしい係の者がやることと思っていた。捜一の鬼刑事がそんな小ちゃな事件に首をつっこめるかというプライドもあった。それで関心がなかったので、訳を聞いてみなびっくりした。
課長はいった。
「十日前の強制ワイセツで八王子署が身柄を押え、まだ事件が海の物とも、山の物とも分らないうちに、私がすばやく自宅から押収させておいた物がある。この男は幼児殺害に必ず関係あると見たからだ」
課長は持っていた鞄から、十冊ほどの雑誌と、十巻ほどのビデオ・テープを出した。
「雑誌はここでみなで見てくれ。ビデオは後で、全員が機械に写して見てくれ。中味は少しずつ違うが、大体同じようなものだ」
出された写真雑誌を開いて見ていた刑事たちの口から
「こりゃー何だ。こんなものの出版が許されていたのか」
「こんなもの野放しにしておいたら、事件が起っても当り前だ」
という呻きに近い怒りの声が洩れた。進藤デカ長などは、末っ子はまだ小学校に行っている女の子だから、顔は憤怒の形相で赤鬼のようになっている。
みなが見ているのは、写真だけの雑誌だ。
『小ちゃなレモン』というタイトルがついている。表紙はさすがに腰のあたりは草や花で隠してあるが、一ページ目からすべて、少女のオールヌードだ。それも一番年上でやっと七、八歳。多くは四、五歳の幼女だ。特に強調しているのは、つるりとした下腹で、そこにくっきりとした陰裂が一筋喰いこんでいる。峯岸見習など恥しさで体中真赤になって身もだえしている。
吉田老人が課長に抗議するようにいった。
「保安・風紀係はこれまでどうしていたんですか。こんなもの認めてるんですか」
課長が答える。
「残念ながら、大手取次も経て、日本中の一流の書店にも配られて、堂々と売られている合法出版物だ。ビデオはもっと露骨だが、これも何らの規制も受けていない」
「なぜです。見てごらんなさい、ここを……」
温厚な吉田老人が怒りのあまり、開いたページの一部を指でさし示す。
「……これでも合法ですか」
下腹の中心の一筋に切れ上った溝の上辺に小さな貝の実のようなものさえチョコンと覗いている。だが何も知らぬ幼女は、にっこりと笑って写っている。
課長は苦渋にみちた顔でいった。
「御存知のように警察官僚の最大の美点は、規則に忠実なことだが、これを別な見方でいえば、頭が固いということになる。これまで保安係がヌード写真で、唯一の判断の基準としていたのは、陰毛があるかどうかだけだ。たとえ有名芸術家の写真でも、陰毛があれば禁止という一線を必死に守り抜いてきた。この写真のどこに陰毛があるかね。彼らも必死に努力しているんだ」
乃木も、原田も、仕方なくうなずいた。取締りというのは一定の枠を設けてやらないと混乱してしまう。
保安係も仕方なかったろう。課長はいきなりいった。
「この警視庁の弱点を巧みにつき、この少女・幼女のポルノ写真を商売にして大儲けした者がある。たった一人でこのブームを作り、日本中の若い青少年にこの忌わしい幼女趣味を植え付けた元凶だ。一人でその利益を独占している。諸君、そこの四月号の二十四ページをあけてごらん。そこに立っている女の子は」
やはり陰裂をむき出しにした可愛くほほえんでいる女の子の写真を示した。乃木がすぐいった。
「何だか見たことがあるような気がしますが」
「今度の埼玉県の一連の幼児誘拐事件の中には入っていないが、それ以前神奈川県で三人ばかり幼児の行方不明事件が起きた。もう六年も前になる。発生時期がバラバラで、よくある誘拐事件として、しばらくすると、すぐ忘れられてしまった。もし乃木刑事が何か記憶にひっかかっているなら、そのときの手配写真でも、どこか記憶の底にあったのだろう」
「そうです。六年前というと私この捜一に回されて見習で働き始めたばかりです。そのとき志村デカ長さんと一緒に少し調べたことがありますが、そのまま迷宮になって、事件は終ってしまったのです」
捜一課長はいった。
「よく思い出した。乃木のいう通りだ。私はそのとき鑑識課にいたからよく覚えている。しかしそのときには、このヌード写真雑誌の存在は知らなかった。ただそのころから、都内の公園、近郊の人の気配の少い空地などで、幼女を裸にして写真を撮ったり、いたずらする犯罪が急に増えてきた。私はこんな雑誌がそのころから世の中に急に普及している事情は知らなかった。今となっては、そういうことを好む人間が多くなって、雑誌が出るようになったのか、雑誌が出たので、犯罪が増えたのかは分らない。しかしそれから六年、本日、明らかになった犯人の年齢の若さから考えても、今回の犯罪及び、今後また頻発を予想される犯罪については、この忌わしきヌード雑誌が原因であるといってよい。合法の雑誌として書店の店頭で堂々と売られているのだ。今でも……、そしてこの幼女ポルノは、さっき言明した通りたった一人の人間によって、ほぼ独占的に作られてきた」
みなあわてて雑誌の後ろの奥付欄を見た。
意外なことに女の名が書かれている。
寺小路|緑子《みどりこ》。聞き馴れない名前だ。
「本名ですか」
刑事の一人がきいた。
「本名だ。れっきとした名家の出だ。今の諸君には華族といっても分らんだろうが伯爵だ。昔は、|公《こう》・|侯《こう》・|伯《はく》・|子《し》・|男《だん》という五つの爵位があって、貴族の身分を世襲し、一般市民とは別の存在として、皇族の周辺で優雅に暮していた」
そして捜一課長はきいた。
「峯岸なら分るだろう。会津の殿様が何の爵か」
突然の質問にびっくりした峯岸稽古だが、幼い時から会津武士の父からきびしく薫陶を受けて分っている。
「はい子爵です。ただし会津は幕末にたまたま賊軍にされてしまったからで、お殿様は本来ならもう二つ上の侯爵になるはずだったそうです」
課長は答えた。
「私は歴史を勉強したわけでないから、詳しいことは知らん。ただその寺小路家は菅原道真の子孫で、京都で|公卿《くげ》をしていて、明治になってから伯爵を賜わった、かつての日本なら、社会のトップに立つ名家だということだ。もっとも今は、伯爵もバカ爵もない。ただの一市民だ。|手錠《ワツパ》をかけるときに区別する必要はない」
チラと腕時計を見ると、少し早口でいった。
「私は今忙しい。それでもこれから始まるすべての捜査の前にこのことだけをいっておきたかったのだ。この女は今、七十歳になる。ヌード写真の出版が当って、大変な金持だ。どういうわけか男が嫌いで、いつも身近に若いきれいな女を集めて、同棲している。多分、彼女はどの幼女の殺害事件にも全く関係ないだろう。一人も殺したりはしていない。しかし彼女がいて、今の仕事を続けている限り、これからも、同じような犯罪はなくならない。私が諸君にこれからいうことは、警察官の本分に|悖《もと》るような非道のことかもしれない。しかしこれから発生するに違いない、第二、第三の幼女誘拐殺人事件を防ぐためには、ぜひともやってもらわなくてはならないことだ。二千件もワイセツ事件は起きているのだ。たとえ警察暴力、ファッショといわれてもいい。裁判で公判維持ができなくて、こちらの大黒星となってもいい。そのときは私が泥をかぶろう。今、警視庁随一の頭脳を持つ岩崎警視正と、殺人捜査のベテランの諸君たちの協力でこの伯爵令嬢である七十歳のレズ女、『小ちゃなレモン』の発行者を何とか証拠をでっち上げて殺人犯として逮捕してくれ。くそ弁護士どもが人権侵害などと騒ぎたてても、気にするな。我々は無抵抗で危険にさらされている、幼女たちを守らねばならん。もっともらしい理屈は後だ。今は非常事態だ。処罰は甘んじて受けよう。非難も覚悟しよう。真の殺人者は、その七十女だ。忌わしい幼女の陰裂写真で稼いで、多くの青年に誤った興味や、変態性欲を植えつけてきた伯爵令嬢だということを日本国全体に、知らせるのだ。私にこの強引な指示を出させるのは、天から命ぜられた使命感だ。やってくれるか」
多くの刑事たちは、同じく怒りに顔をそめてうなずいた。正面でただ一人端然と坐っていた岩崎警視正の瞼から、つつうーと涙が、こぼれ落ちていた。その理由は誰一人分らなかった。
変態性欲百科C 引用は前と同じ
[#小見出し]   便器趣味[#「便器趣味」はゴシック体]
女性のための便器になりたいという男もかなりいる。初歩は出てくる尿を直接口に受けて飲む程度だが、これもだんだんエスカレートしてくる。
会員同士、女の仲間を紹介し合い、黄金水を出してくれる女性を求めている|中《うち》に、大便さえも、平気で口に入れるようになる。
一家の便所を、自分の頭をおき、口をあけて、いつでも受け止められるように、柔かい枕付きに改造した人や、その改造を引受ける施工業者もいる。
マニア雑誌は五種類も出ていて、城北方面の某駅の前の本屋には、その五種の本が毎月|堆《うずたか》く積まれるが、二十日の発行日を、三日すぎたら、もう売切れで手に入らない。
かのアドルフ・ヒットラーはその趣味の持主として有名である。
3[#「3」はゴシック体]
日本中が八王子署に逮捕された、まだ年若い、一見ごく普通の青年が犯した残酷な犯罪に興奮している。折柄成立した新しい内閣のことなど、まるで話題にもならない。
捜査一課には、殺人・強盗などを専門に担当する強力係が九つある。
その中の多くが、目下捜査中の事件を持っている。たまたま事件が解決して、庁内の言葉で在庁勤務、一般の言葉でいえば待機中の係員は、ほぼ全員が今度の幼女誘拐事件に駆り出され、江東区と、五日市を結ぶ線での、犯行の裏付け捜査をやっている。そして江東区だけでなく埼玉県での他の二件の犯行もどんどん明らかにされて行くが、身柄を本庁が預っているのだから、他県の|面子《めんつ》のことは顧慮する必要はない。
その九つの強力係の中では、岩崎管理官が指導する一係と二係とはこのとき極めて異常な行動を取っていた。
岩崎以下、全員が全く別な仕事に没頭していた。自分たちが押収したビデオは、時々見ているが、一般報道のニュースは見ない。新しい証拠が発見され、他の係がどっとどよめき、応援の刑事が慌ただしく出て行き、徹夜で草むらをかき回していた刑事たちが朝方疲れきって帰ってきても、声もかけない。完全にこの大事件とは無関係の存在になっていた。
一係と二係の|刑事《デカ》さんたちのデスクの上には、いつのまにどこから集められたのか膨大な捜査関係の資料が山積みされている。初めの五日ほどは、みなその資料の分析にかかっていた。その後、坐りこんでいた人々の行動が急に活発になった。しきりに外部へ電話をかけて面会の打合せをする。やがて原田・乃木・峯岸などの婦人刑事が、一人、男の刑事を連れて二人で外出する。どこかで誰かと会っているらしい。やがてその|中《うち》にはそれだけで足りなくなって、刑事たち全員が二人一組になり、朝早くから深夜まで外に出て、デスクには誰もいなくなった。ただ岩崎一人だけが、全く無表情で、コンピュータに向って入力している。ただしいつもは比較的端然とした姿勢で、横ぐわえした葉巻の煙に、やや眉をしかめながら、コンピュータの端末を打ちこんでいる警視正も、この数日は早朝デスクについたときからすぐ背広の上衣を脱ぎ、ワイシャツの袖まくりまでする珍しい姿で、コンピュータに取りくんでいる。余程の量の仕事が溜っているらしい。
もっとも当の警視正にとっても、この数量は全く予想もしなかったものであった。
最初に刑事部長と捜一課長から、幼女の被害者二千人、変質者や予備軍は四百人と聞かされていたが、まず犯行の一つ一つを、分析しようと、東京都内及び、周辺部の各県のデータを集めたときは、ふだん大抵のことには驚かない岩崎が、思わず
「えっ!!」
と声を上げてしまったほどだった。
昨年一年だけで二千件の届出があり、今回の三人の幼女の殺害事件があった、埼玉県西部地方だけでも、八百件の届出が出ているのだった。嘘の数字ではなかったのである。
「これほどの事件を、なぜそのまま」
と思わず暗然として言葉もなかった。しかしここでひるんでは駄目だ。全員に当ってみることにしたのだ。
そのため途中からは今は自宅にいる、妻の、みずえ休職警部補も動員して、朝から一日十件以上も足を棒にして実状調査に走り回らせた。
全員が外回りに出て、一週間がすぎ、十日目も近くなった。朝早く本庁を出て、夜おそく戻ってくる。みな本当に疲れきった表情だ。
大部屋の他の刑事さんたちはこれを見て、初めは八王子署で捕まった青年の容疑の裏付けでも引受けたのかと考えていたが、その中にはそうでないと分るようになった。
本件がどんなに進展し、テレビで刻々と、新しい事実が報道されようと、全く無視し、我関せずの態度で耳も傾けない。国民的関心事であるこの事件に岩崎の部下たちはいささかも興味を示さない。
一係、二係は、全く目の回るほどの忙しさだ。全員が、連日、雇い上げのハイヤーをフルに使って、一人一人の幼女の被害を丹念に聞きとって行く。東京都下で千二百件、埼玉西部で八百件、合計二千件、それを全部調べるのは並大抵ではない。水面下のあひるの足のように、猛暑の中をひたすら駆け回っている。実際に殺人を犯していない者を殺人犯として公訴に持ちこむためには、岩崎も自分でできるだけの努力を注いでいるのだ。
捜一でも、一係と二係とは特に気性のねばっこい者が揃っている。他の班には荒々しい気性や体力を自負する者はいるが、親分の岩崎がそのような人材を好まない。まむしか、スッポンのように、一度噛みついたら、絶対離さないという、執念深い粘着質の我慢強いタイプの刑事さんだけを揃えている。だから毎日全く同じ、はたから見たら退屈極まる作業を一つも気を抜かず真剣に遂行している。
こうして半月がすぎた。
本件の幼女誘拐事件は、東京江東区の警視庁扱いの方は一切の供述の裏付けがとれ、もはや送検してもどこにもゆるぎない公訴の書類ができた。
犯人の身柄も埼玉県警に移し、一応警視庁側捜査本部の仕事は一段落ついた。担当の五係の刑事さんたちも、デスクに戻り、安心した余裕ある顔で、公訴書類提出の整理をしているころだった。
昼すぎ、三人の婦人刑事が、最後の調査を終えて同時に外から帰ってきた。同時に仕事を終えたみずえは、書類だけ郷土の後輩の峯岸婦警に託し、自宅に戻った。休職中の身だから本庁へ帰るのをはばかったのである。
久しぶりにデスクに、一係二係の全員の顔が揃った。どの|刑事《デカ》さんの顔も疲労していた。この数日は殆ど一瞬の休みもない働きぶりであった。書類の取調べや、写真集に入っている幼女との関係、ビデオに映った無邪気な幼女のその後の安全の確認などの、難しい、張りつめた神経の要る仕事で、げっそりと頬がこけ、目が落ち窪み、眼光が鋭くなっている。暴れ回る凶悪犯人を追いかけている方が柄にあっている彼らにとっては、この半月の捜査は、想像以上に過激な労働であったのである。
「諸君の努力により、本日で基本的な捜査はすべて終った。ごくろうであった」
ふだんは部下に対して頭など下げたことがない岩崎警視正が、このとき初めて(おそらく、警視庁に入って以来初めてのことだろう)頭を下げた。みなびっくりして見ている。
「二千件の全員とはいかなかったが、八割ほどは当人を探し出し、被害の実態を確かめられた。その中には、もう少しで、傷害・殺人に至る危険な事態が予想される事件が、二割以上、実に五百件近くもあった。つまり五百人以上の幼児が、まだ野放しの凶悪犯のため、生命を落す一歩手前の危険な状況に直面していたということだ」
みな同じ捜査に従事したから、警視正のいうことはよく分る。大きく頷いた。
「残念ながら……この場合は敢えて残念ながらというが、日本は法治国だ」
みなの前に立ってしゃべる岩崎警視正の声は小さいながらよく通る。
「……罪刑法定主義といって、直接殺人を犯した人間しか、刑法は殺人罪を認めない。この二千件の幼女への強制ワイセツ罪の犯人は、もし運が悪ければ各地の警察に一晩か二晩泊められ、ぎゅうぎゅう油を搾られるが、運がいい奴は、いたずらしてから逃げおおせて知らん顔して、大学へ通ったり、社会の一般人の中にまぎれこんでいる。この実数四百人に近い変質者を殺人罪で逮捕してぶちこむわけにはいかん。強制ワイセツの罰はせいぜい軽犯罪と同じだ」
「許せません」
思わず峯岸お稽古は大きな声で叫んでしまった。両膝においた握り拳がぶるぶる震え、やや細目の瞼が額の方まで怒りに吊上っている。完璧な処女で、警視正の一子二歳半の翔ちゃん以外には、ボーイフレンドのいない、峯岸見習刑事にとっては、幼女に対するワイセツ犯はいずれも絞首台にぶら下げて、ニューナンブ38口径で体中に百発も射ちこんでやりたいぐらいの罪なのだ。丁度土曜日だった。
「明日一日は今捕まっている三人のワイセツ罪の容疑者を私と一部の者が調べる。実は日野署と、奥多摩署と、栃木の宇都宮署とに、今、一人ずつ幼女に対する強制ワイセツ容疑者がいる。ただし明日は日曜日だ。他の|刑事《デカ》さんたちには今年の夏はおかげで休暇があげられなかった。だから指名された者以外は明日の一日だけは、仕事も何も忘れてゆっくり休んでくれ。この間捜一課長に直接、指示を受けた者だけ、三十分ぐらい明日のことで打合せがあるから残ってくれ」
いつもの仲間を除いた|刑事《デカ》さんたち十五人は、この半月ですっかり落ち窪んだ目と鋭くそぎ落されたようなやつれた頬で、てんでに帰り仕度を始めた。
残ったいつもの、信頼している部下の十人に向って警視正はいった。
「ここまで捜査してきて、諸君らはきっと分ったろうと思う。今度の事件の真犯人は、たった一人の五日市に住む青年でなく、もっと違う人物だということが」
「はい分りました」
「誰だね」
みなは一斉に
「寺小路|緑子《みどりこ》です」「自称伯爵令嬢のレズビアンです」
と答えた。
「ただし甚だ残念であるが、その女は直接殺人を犯していない。現行の刑法は殺人を犯してもいない者を殺人罪にはできない。しかし私は敢えてやる。私は法律違反を承知で汚れ役を敢えてやる。強引で、無茶苦茶で、一旦は犯人を逮捕しても、公判はとても維持できないだろう。バカ検事や、世間知らずのお坊ちゃん判事は、私を非難し、場合によっては、私のこれまでの功績は抹殺され、この捜一の職を追われるかもしれない。九十九パーセント私の黒星失点で、世間の人権擁護者と称する大甘文化人からは総攻撃を受けるだろう。しかし私の一身上のことはどうでもよい。二千人を超す、可愛い幼女を再びあのひどい、いたずらにまきこませないようにするため、四百人を超すと思われる痴漢候補者を絶滅させるため、僅かの間にそういう人間を発生せしめた総責任者を、殺人罪にひとしいぞと警告を加え、大鉄槌を下さねばならない」
みな、そうだ、そうだと大きく頷く。
「この半月、二千人の被害者の殆ど大部分に一人ずつ聞き取りをし、調書をもとに徹底的に洗い直し、調べることはすべて調べ尽した。後は逮捕あるのみだ。明日は君たち十人は一緒に朝から、日野署、奥多摩署、宇都宮署と回って歩く。これは単なる、事情聴取ではない。全員で最初から容疑者を脅し上げしめつけ、彼らが幼女に対していたずらしたのはそのまま、機会があったらその幼女を絞め殺して無抵抗の状態で思いのままにしたいという気持から出たものであることを、自分の意志で吐かせる。誘導尋問結構。脅迫結構だ。ともかくあまりの質問の凄まじさに泣きながら告白するまでしめ上げて、殺人未遂に持って行く。今、こうしてテレビや新聞で騒ぎたてられている時代だ。我々十人で生命がけで責め、罵倒し、脅しつければ必ず落ちる。個人的にはその青年を気の毒に思う者があっても、これから狙われる何万人の幼女のため、心を鬼にして、そいつらを自白に追いこめ」
既に、自分の功績も栄光ある未来も捨てて、幼児を守ろうとする、岩崎の決意は固かった。
[#2字下げ]変態性欲百科D 引用は前と同じ
[#小見出し]   ロリコン[#「ロリコン」はゴシック体]
これは目下世界的な流行だ。アメリカでは、そのロリコン仲間が、当歳、つまり生れたばかりの赤ん坊へのセックス行為を認めよという請願書を出して議会で否決されたことがある。会員雑誌は日本の、『小ちゃなレモン』が世界的にも有名である。
ただしアメリカのポルノ店でこの雑誌を買った者は、必ず市警の刑事が尾行して、以後二十四時間監視されるという。一番危険視されている。
4[#「4」はゴシック体]
警視正は深夜、疲れた表情で家に帰った。
「お帰りなさい」
と機嫌よく迎えに出た、みずえ夫人を、珍しく、しっかり抱きしめキスした。みずえも久しぶりの夫の行動に、やはり唇をつき出し軽い抱擁で応えた。
「一緒に風呂に入ろう。翔ちゃんはもう寝てしまったろう」
もし乃木や峯岸が聞いたら驚いて目をむきそうなことをいった。これはその夜、愛し合おうという二人の間の信号でもあった。
入浴を終え、淡い香水の匂いをあたりに漂わせて、みずえは夫に抱かれた。この二十日間、お互いに忙しかったし、なかなか進まぬ膨大な捜査に追われてゆっくりとくつろぐ余裕はなかった。
夫がはっきり自分を求めてくることは、まだ捜査の途中であっても、その心の中で一応の結着がついたからだろう。夫の体の疲れ、心の疲れを慰めるため、自分は精一杯、その愛に応えなくてはならないと、みずえは思った。
薄いネグリジェがはがされ、夫の若々しい体を迎えて、ぴったりと二人が一つになったとき、彼女は夫を迎えて大きく体を開く自分の姿を、きっと人間として最も美しい姿をとっているのではないかと、誇らしく思った。
より美しく、そして優しく、夫を愛したい。二人の間に激しい愛の時間がすぎていった。
……二人は快く疲れた体をお互いに俯せにして頭を並べて、休めていた。二人の枕もとには、印刷物が入っている、一通の書簡があった。
ようやく落着いた夫は、若い妻の背中を一度軽くひきよせると、枕もとのスタンドの下でその書簡をひき出しながらいった。
「私がこの女を、絶対、殺人罪で起訴に持ちこめると思ったのは、この手紙があったからだ」
それは二千件のワイセツないたずらをされた被害者である幼女の家庭を、|虱《しらみ》潰しに調査したとき、半分以上の家庭から参考のため提出させた書簡でもあった。
各捜査員はそれを参考品として領置し、今では捜一の岩崎管理官のデスクの横には、おそらく千通に近い同じ手紙が集っている。その一つを持ってきたのだ。
手紙を受け取った家の女の子の半数近くが、幼女の陰裂むき出しのポルノ雑誌『小ちゃなレモン』に幼い裸像をのせていた。もう創刊してから八年間、百冊以上のバックナンバーが、岩崎のデスクにある。
「殺人をしていない者を殺人罪でしょっぴき、デカデカと新聞に取り上げさせる。世間の非難を一身に受けるかもしれない。それでも、君は私についてきてくれるね」
「当然ですわ。世間から、鬼だとか、横暴だとか言われても、私はあなた一人を信じます」
「ありがとう。この文書は悪質だが、それでも読んでひっかかった方が悪いといえばいえる。しかしある神様を信じる、熱烈な信徒集団の集会を利用して、まるで神の恩恵のようにして配付したことが許せない」
「そうですわ。特にどちらかというと、信徒の方は、社会の底辺で、貧しい生活をしている方々が多いのですから、一層許せません。これは殺人を犯していないとしても、立派な殺人罪ですわ。あなたが警察の力を悪用して強引なこじつけ捜査をしようとしているのだとは決して思いませんわ」
二人はもう一度その印刷された手紙をひき出し、枕もとの紅いシェードがかかったスタンドの下で読んだ。
『六十万円 差し上げます[#「六十万円 差し上げます」はゴシック体]』
まず一行目には大きな活字でそう書いてある。次に
『一流ホテルで有名人や上流階級の方と、豪華な昼食会を楽しみましょう』
と書いてある。
そして次に本文。
『私は明治の元勲、寺小路伯爵家の長女に生れ、女子学習院卒業後は、華族の娘として、蝶よ花よと育てられました。
娘として美しく成長してからは、毎日のように、皇族や華族の方々と、帝国ホテルや、高臨閣で、楽しく豪華なダンス・パーティで過ごしていました。
今、思い出しても夢のような毎日です。
その楽しいパーティを現代でも復活して、みなさんと共に楽しい一夜を過ごせないかと考えました。幸い父祖から受け継いだ財産が使いきれないほどあります。
それで、みなさまの中で、若く美しい、十二歳以下のお嬢様をお持ちの方を、特に選んで、この手紙を出させていただくことにしました。
パーティに出席していただき、ゆっくりお食事していただき品格もマナーも、貴族にふさわしいお嬢様がいらっしゃったら、各地の映画・テレビ・芸能会社にスターとしての推薦の労を取らせていただきます。そのとき合格者の方には、規定として、寺小路伯爵家の財産管理をする、財団法人伯爵令嬢品位維持協会より、六十万円を当日差し上げます』
そこまでは普通の活字で書いてある。その後に虫眼鏡でなければ見えないような小さな字で、二行ばかりの追加条項が入っていた。
『場合によっては写真の撮影を致します
撮影は水着もしくは全裸で行います』
岩崎はいった。
「撮影には家族は立会せない。別室で六十万円の一割の六万円を手付金でもらい、生れて初めての正式な西洋料理を喰べて、どの親たちも、まるで夢のような気分で待っている。二時間の間ケーキとコーヒーと、元華族のお友達という上品な婦人連の思い出話に、自分も戦前の華族の世界の一員であるかのように錯覚して何の不安もなく過ごしてしまう。その間に自分の可愛い娘や孫が、どんなポーズをとらされ、どんなハレンチな写真を写されているのか、誰も知らない。私は断固として殺人罪で逮捕する」
夫の固い覚悟の声をきき、ひしとすがりつきながら、みずえは『私はこの人について行くわ』とまた固く誓ったのだった。
翌朝の目ざめは爽やかであった。
日曜だ。本庁もひっそりしている。
江東署に派遣されている、五係の刑事さんたちは、最初の誘拐事件があった現場周辺を百二十人の機動隊で厳重に封鎖して、一般人を出入禁止にしてから、既に身柄を押えてある容疑者を、現場の遊園地に連行して、実際の誘拐の状況を再現させている。テレビは朝早くからそれを報じ、日本国民の全員の視線が、その報道のナマ中継に集中している。第一線刑事連の動向にかなり敏感な本庁詰めの記者たちも、捜一の岩崎係のいつもの猛者たちが日曜も出勤して三台のタクシーに分乗して出て行ったのには、全く気がつかなかった。毎月、父から使えと命じられて送られてくる一千万円の金がどうしても余ってしまう岩崎だ。このような遠隔地の出張には決して本庁の車は使わない。捜査のための予算は限られている。私費で補えるところはさっと身銭を切ってしまう。
普通の犯罪者を一時的に拘置している留置場では、日曜は大体取調べがない。
最初に捜一の一係と二係の鬼のような猛者刑事たちが、日野署に到着したのは、午前十時。日曜で今日は何も訊問はないと安心していた容疑者は、いきなりこれまでの刑事さんとは、声も眼付きも格段に違う、十人のおそろしい猛者、猛女に囲まれて、震え上った。
強制ワイセツと、罪名は何やら物々しいが、実際にやったことは、まだ物の判断もつかない幼い女の子を、物蔭へ呼んで、小ちゃなパンツを脱がして、足を拡げさせた写真を撮ったり、その稚い谷間に指を走らせてまさぐったりするぐらいの、チャチな行動だ。
呼び出されて、青ざめて坐っている、その容疑者は、まだ二十代の前半で、現役の大学生だった。そしてこれは、取調べる方が却ってびっくりしたのだが、眼鏡をかけた、やややせぎすの容貌が、驚くほど八王子署で捕まった犯人と酷似していた。
場所も日野署と八王子署とはすぐ近い。
気の弱そうなしけた男のくせに、三十三件の余罪が判明している。
進藤が訊問のつっこみ役。中村、花輪が凄み役、武藤は今にも相手の頬げたがぶっこわれるのではないかというように棒を振り回し、机の下の足を膝小僧ぎりぎりに蹴っとばす。女三人は、とても言い逃れできないように理詰めの意地悪の言葉で責めたてて行く。ときどき吉田老人が、慰めるのか誘導しているのか分らぬように
「まあー、このさい何でもはっきりいってしまった方がいいよ。気分がさっぱりするよ」
とすすめる。
要するに、そういう撮影をしたり、いたずらをした後、自分の家にさらっていって、できれば首を絞めて殺して、自分一人の物にしたい気が起らなかったか、どうかということだ。
初めは頑強に否定していたその男も、ベテランの十人に、息もつがずに責めたてられているうち急に涙をこぼし出し
「すみません、そういうように思ったこともあります。捕まって死刑になるのが怖いので踏みきれませんでしたが、もし絶対に捕まらないなら殺して自分一人の物にしたいと何度も考えました」
と自白した。落すのに二時間はかからなかった。
午後から始めた奥多摩署の容疑者も、一時間半もしないで、同じことを泣いて自白した。一応彼は都の環境保全係という公務員で、結婚したばかりの妻を持っていた。白状した後机につっ伏して、泣きじゃくり、今さらながら自分の罪のおそろしさに震えていた。この男が自白した幼女へのいたずらは五十件に及ぶ。自宅にはこの幼女趣味の唯一の専門誌『小ちゃなレモン』が創刊以来の百冊全冊揃い、狙った幼女もそのモデルになって、誌面で可愛いヌードと陰裂をさらしている子ばかりであった。
夕方からは、全員が三番目の宇都宮署に移動して、峻烈な取調べが始まった。
この男も大学生であった。車を持っており、被害者は埼玉県ばかりだ。まだ解決していない、全く消息が分らない幼女誘拐事件の本ボシは、五日市ではなくて、こちらではないかという疑いもあった。判明しているワイセツ件数は十六件。それもパンツの中に指を入れて、いじくり回すという、多くの事件でも比較的軽い方でありながら、もう二十日も身柄は拘束されたままだ。宇都宮から車を使って、団地が多い埼玉県西部へ、わざわざ出張して犯罪を重ねていることが、彼の情状を悪くしているのだ。
一日に三人の犯人の取調べは、大変な重労働だった。何しろ潜在意識を現実のこととして自白に持って行かせる超強引な誘導訊問だ。
この犯罪に対する怒りがなくてはできないことだ。最後の宇都宮署での峻烈な取調べを終えたときは、全員が心身共に疲労|困憊《こんぱい》の極にあった。
そして、取り調べられた三人の方も、追及・糾問・威圧、そして最後はこれまで軽く考えていて反省もなかった罪のおそろしさを知らされて、全員がボロ雑巾のようになっていた。
[#2字下げ]変態性欲百科E 引用は前と同じ
[#小見出し]   解剖願望[#「解剖願望」はゴシック体]
これはどこから出てきた欲望なのだろうか。完全に空想上の世界だが、今流行している。自分を女性に仮想し、若く美しい肢体を持ったまま死んだということにする。磨きたてられたステンレスの解剖台に、自分の美しい全裸像が横たえられ、医師の手によって、腹がひきさかれ、胸が開かれ、心臓や、肝臓が、次々に取り出され切り刻まれる情景をうっとり考えながら、自分の手で欲望を発散するのである。
ビデオ、アニメに、この種のものが多いのも、この楽しい妄想を助けるためで、今回の一連の幼女誘拐事件の犯人の心理は、この線から考えて行くとかなり理解できるのではないか。会員雑誌は『解剖通信』一誌だが、一万五千の発行部数を持つ。
5[#「5」はゴシック体]
月曜日、朝早く集合した、岩崎警視正が管理官として係員の指導に当っている、捜一の一係二係の全員は、明らかに他の係とは違う様子を見せた。
男たちは全員、背広の内ポケットにニューナンブ制式拳銃のホルスターを吊った。よほどの凶悪犯が相手でなくては、こんな物々しい装備はしない。最近では、新宿で暴れ回る台湾の|青幇《ちんぱん》・|紅幇《ほんぱん》系の凶悪マフィヤを相手にして以来だ。全員実弾をきっちり弾倉一杯に装填し、安全装置をかけた。
それだけでも、他の係の者はびっくりしていた。八王子署の本|犯人《ボシ》は、淡々として、何件かの余罪を白状し、その裏付け捜査は順調だ。何か大事件が起る気配もまるでない。その物々しさにびっくりしたが、もっと驚いたのは三人の婦人刑事の姿だった。こんなことはおそらく、この警視庁始まって以来のことだろう。
三人とも和服を着ている。実際上は、みな若い娘だからどんな派手な和服を着てもかまわないのだが、それぞれがどこで見つけて来たのか、地味な生活をしている主婦が、精一杯めかしこんだという感じの、上に白いかっぽう着を着れば、そのまま似合いそうな、生地は安物の和服を着ている。
都心部ではもう見られないが、東京郊外か近県に群生している団地のママが、P・T・Aに着飾って行く和服姿、まさにそんな感じであった。
女たちは岩崎の細かい指示を受けた後は、制式のショルダーバッグに、婦人用のコルトと手錠・警笛などを入れ、しっかり点検してから早目に出て行った。会場へ行く前に、実際の母や祖母につれられてやってくる幼女を一時預り、若い母のようなふりで、乗りこむのである。
その婦人刑事が出発してしまった後、一時間ぐらいして、男たちも、岩崎警視正を中心にして、一斉に出て行った。
武器をしっかり上衣の上から押え、緊張の表情で物もいわずに坐っている捜一の刑事さんたちを乗せた、五台のタクシーの運転手は、いずれもその気迫に打たれて、脅えた表情を見せた。乗せたのが警視庁の前だからまだよかったが、これがどこかの盛り場だったら暴力団同士の抗争に巻きこまれたのかと思うほどだった。
『鶏をさくのに牛刀を用いる』
というたとえがあり、自分でも大ゲサと岩崎も思った。だが二度と幼女の頭を切断して、頭蓋骨を磨いて楽しむような青年の出るのを防ぐためにはやらなくてはならない。この非道な産業のあることを、世間にショッキングなニュースとして発表し、二度とこの産業に手をそめる人間が出ないよう、国民全体に訴えなければならない。
男の刑事さんたちより三十分早く、ホテルに到着した、三人の婦警さんは、ロビーで、幼児を連れて不安そうに待っている、その保護者たちに会った。
今日は十人の幼女が招待されているらしい。
他の七組の付添いは、事情は何も知らないし自分たちの招待と、今度の残酷な幼児殺しとに何かの関係があるとは思いもしない。正直に招待状の文句を信じ、自分の娘が、芸能界のスカウトの目に止まり、これからスターとして、デビューできる契約のパーティが華やかに行われ、帰りには採用されて六十万円の現金がもらえると思っている。
ロビーからボーイに案内されて、通された部屋も、豪華なシャンデリヤが吊された、まるでフランスの王宮のような華麗な部屋であった。
一人の若い母親が、他の女たちにいった。
「今はこの、タニクラホテルが、日本で一番格式が高いホテルなんですってね」
そして自分の子のおかっぱ頭を撫でて
「あけみちゃん、本当によかったわねー。こんな一流の所にお呼ばれして、伯爵家のお嬢さんとお食事するなんて」
乃木が早速、相槌を打った。
「今では、アメリカの大統領や、イギリスのサッチャーさんなどは、みんなここに泊るそうよ。普通の人では申しこんでもお部屋は予約できないそうよ」
そこへ峯岸が、いかにも自分の子供を可愛がるように、連れてきた幼女を抱き上げて、頬ずりして大芝居を演じた。
「恵美ちゃん、よかったわねー。伯爵様のお嬢様と一緒に御飯を喰べるのよ」
幼女は何も分らないから
「ハクシャクってなーに」
と無邪気に聞き返す。
一方、そのころ既に警視庁から連絡があった、各新聞社や、テレビ局のカメラマンが、続々とロビーに集ってきていた。彼らもこれから何が起るかは誰も知らない。ただ捜一では最も切れるという評判の岩崎警視正から、正午をすぎるころロビーに来て待機していろ、大特ダネを流すからという、一報があったからやってきたのだ。
しかしロビーには何の気配もない。もしかして、外国の大物政治家が亡命しているのか、アラブの有名な殺し屋が来ていて、ここのロビーでパクるのかと、みんなカメラをかまえて待機している。正午をすぎても、まだ何の知らせもない。
しかしカメラマンたちはロビーの一隅に、岩崎が端然と坐り、トランジスタ・ラジオのような機械からイヤホーンを出して、じっと目をつぶって待機しているのを見て、お互いに何もいわずに、じっと坐っていた。
それでもいつもとは違って、ロビーの状況は異様だ。支配人らしい男が何度かロビーを見にくるが、何も物もいわずにじっと坐っている男たちを追い出すわけにはいかない。遠くから不安そうに見ている。
みなが丸いテーブルに並んで席につくと、七十ぐらいだが元気な女性が出てきた。
「私が寺小路です」
そう伯爵令嬢は、みなにいった。といっても、これが自分でいうような伯爵令嬢とはとても思えない異様な姿の女であった。
髪は、男の五分刈りに近く短く刈り上げ、殆ど白髪だ。青いブルゾンに、ジーンズで一見男のようだ。声も太いガラガラ声だ。ただもう還暦をとっくにすぎた七十女なのに、薄い絹のブルゾンを持ち上げている、双つの胸は、気味悪いほど高く突き出し、実際に中身が充実しているらしく、動くとプルンプルン震えた。
彼女の後ろにまるで護衛のように付きしたがっている七、八人の女性は、いずれも上品できれいだ。二十歳の前半の若々しい肢体を、ローブ・デコルテ風のロングドレスで包んでいる。まるで宮中で行われる舞踏会から抜け出してきたようだ。
乃木たち婦警にはその女たちの正体が分っていた。この寺小路緑子はレズビアンの世界では伝説的なテクニシャンで、一度狙って手に入れた女は、みな夢中になって、彼女に慕い寄り、恋い狂うといわれているのだ。
レズの愛戯は乃木にも、峯岸にも、さっぱり興味のない汚らしさだけが感じられる世界だが、しかし現実にこんな上品で美しい娘たちがこの老令嬢にまつわりつき、甲斐々々しく仕えているのをみると、やはりよほど女心や肉体を惑わせるものらしい。
たしかにすばらしい料理が運ばれた。岩崎のお供で、これまで一流の料亭に何度も出入りして、かなりの御馳走を喰べたことのある乃木も、これほどの料理は初めてだ。
母親や、祖母などの、子供の付添いで来た女たちは、ただ目を丸くして、しばらくは声も出ないほどだった。
その食事もほぼ終るころ、美しい娘の手によって、付添いの母や祖母に紙幣の入っている封筒が配られた。
「ここにテスト料として、一割の六万円が入っています。二時間のテストの後に、合格された方には、改めて伯爵令嬢品位維持協会プロと契約していただき、残りの五十四万円をさし上げます」
「まあー」
みなの顔には一斉に五十四万円に対する憧れの表情が輝いた。乃木も原田も峯岸も、絶対、自分の娘を契約にまでこぎつけて、その金を手に入れるぞという表情を見せた。
しかし、三人はその残りの金が、これまで只の一回も払われたことがないのを知っている。
『慎重審査の結果、正式契約には至りませんでした』
という返事が、親子がホテルを出ると同時に発送されることになっている。
毎月、新しい違った女の子の下腹と、稚い陰裂の写真を手広く|愛好者《マニア》に届けるだけが目的の『小ちゃなレモン』誌は、一人の幼女を二時間もかけて、何人かのカメラマンがさまざまな角度から撮りつくせば、後はもう一度呼ぶ必要はないのだった。
食事もほぼ終るころ、白髪の坊主頭の伯爵令嬢は立ち上って
「では、これからテストにします。コーヒーやケーキも用意しておきますから保護者の方はこの部屋で待機してください。撮影中は、私情をさし挟まないように、スタジオには保護者の方は入らないでください」
そういった。ローブ・デコルテを着たきれいな娘たちが幼女を一人一人抱えるようにして別室へ連れていった。
幼女たちは何も疑いもせず、きれいなお姉ちゃんに抱かれて別室へ入っていった。
入る直前、乃木は自分が抱いていた幼女のワンピースのポケットに、仁丹ケースぐらいの小さな無線発信機を入れた。
岩崎は端然として坐っている。
呼びよせられた、三十人近い報道陣も、今日は何が起るか分らないから、じっと無言で待機している。
突然岩崎がイヤホーンを外して立ち上った。
今まで一体ロビーのどこにいたのかまるで分らなかった十五人近い屈強な、明らかに刑事と分る男たちが、さっと姿を現わして岩崎警視正の周りを囲む。
さっさと岩崎が廊下を歩く。その後をカメラマンがついて行く。この無言の集団を支配人やボーイたちでは阻止できない。ガードマンを呼びよせて防ごうとしても、ガードマンには、本物の刑事はすぐ分る。まして警視庁の捜一の猛者だ。体から発する迫力が違う。脅えて声も出せない。
エレベーターを降りて、地下二階の廊下に出る。迷わず岩崎は歩く。
『天平の間』という札がかかったままぴったりしめられている部屋がある。鍵がしまっている。何もいわずに、鍵穴に消音器つきのピストルをあてた。鍵がこわれ扉は足で蹴飛ばすとすぐあいた。
十五人の刑事はさっととびこみ、周囲にピストルを向けた。
「誰も動くな。動くと遠慮なく射つぞ。おまえたちは殺人犯の容疑者として、射殺していいことになっている」
幾つかの、海や山の背景セットがこしらえてあり、沢山のライトが光っている。その一つ一つに、幼女たちが、パンツも脱がされたすっ裸で、さまざまのポーズをとらされている。それはすべて稚い陰部を強調するポーズだ。
突然の侵入で、老伯爵令嬢も、宮廷服の女たちも、両手を上げたまま物もいえない。カメラマンたちも、呆然と立ちつくしている。岩崎警視正は、続けて入ってきた、マスコミ陣に厳然といった。
「この情景を各社が思いきり写していい。コメントは後で私がのべる。掲載の条件は、一面トップに扱い、写真の上に、三号活字以上の大きさで、『幼女誘拐殺人事件の真犯人は伯爵令嬢だ!』と必ずキャプションをつけることだ。これは日本中の人に知らせたい、重要な事実なのだ」
各社の連中は大きく頷くと、忽ちフラッシュを稲妻のように光らせ、この状況をあらゆる角度から丹念に撮影しだした。
[#改ページ]
[#見出し]  X 殺し屋のお値段
[#小見出し]  ヘリコプターT
ヘリコプターは一九三〇年から三六年ごろにかけてフランスのルネ・アレグレ氏によって何台か作られ、それが忽ちに世界中に普及した。
形式は、回転翼が一つの単回転翼式と、二つの前後回転翼式に分けられる。
揚力を発生させる翼が、推進用のプロペラを兼ねているので、垂直に上昇できるし、揚力と重力をつり合せて、空中に停止することもできる。
速度は一時間約三百キロ程度出せるので、飛行機よりはおそいが、大概の地上の乗物より早い。民間用にも、軍事用にも、その軽便さが買われて急激に発達した。特にベトナム戦争では、ジャングルの中に潜って戦う敵を相手に最大の威力を発揮した。もはやどの国の軍もヘリコプターなしの編制は考えられないほどだ。警察もそれに|倣《なら》ってきている。
1[#「1」はゴシック体]
警視庁の刑事部の大会議室では、捜査係の全刑事が集められて、臨時の報告会が開かれていた。
先日のA県で起った幼児誘拐殺人事件で、どうして幼児を犯人にみすみす殺させてしまったのか、A県警の捜査員を呼んで、警察庁の長官立会いのもとに、捜査の詳細を報告してもらうための会だ。単にA県の不手際を責める査問会ではなく、警視庁でも他山の石として反省するためだが、どうしても刑事たちはA県側の参加者を睨みつけてしまう。
刑事部長の挨拶に続いて、A県訛りの強い現場の第一線刑事が演壇に立って|訥々《とつとつ》として状況を語り出した。五回もパトカーと接触して、車の中に女の子がちゃんと乗っていたのを確認しているのに捕まえることができなかった。現場としては恥しいことなので口ごもる。
まるで裁きの庭にひきずり出されているように辛そうだ。しきりに汗を拭きながらいった。
「ヘリコプターがいかんのです。|いかい《ヽヽヽ》音をたてるで……犯人がつい……」
それは同時に、岩崎警視正の頭に浮んだことでもあった。空から追いつめられ逃げられないと思って恐怖のあまり殺してしまったのだ。
『警察が使うものならやがて犯人も必ず使う』
と岩崎は思った。犯罪者の中には、コロンビヤ国の麻薬カルテルのように、国家よりもギャング団の方が武力も金力も巨大で組織化されたものもある。
早晩、ヘリコプターも、潜航艇も、犯罪に投入されることを計算に入れる必要がある。現に海外では脱獄に何度か利用されている。
くどくどした刑事たちの弁明を聞いているよりは、そういう時代に向ってどう対処したらいいのか、それを今からみなで考えておく方が大切ではないか。
警視庁の現場刑事を全員集めてのA県の報告会は、約三時間の熱心な質疑応答で終った。始業のベルが鳴ってすぐ会議室へ集合したのだが、終ったころは、もう昼飯直前であった。
会議室から一旦部屋へ戻らず、少し早目に一階の食堂へ直行する刑事さんたちもいて、廊下やエレベーターは混み合っている。
「ああ岩崎管理官。ちょっとコーヒーでも飲んで行かないか。三十分ぐらい」
そう廊下で背中から声をかけられた。
ふだん、あまり話したことのない、捜三の課長であった。直属の命令系統はないが、一応上司であり、本庁内の職歴からいえば大先輩である。
「はいお供します」
岩崎はそう答えた。捜三は窃盗専門だ。
ただコツコツと泥棒一筋に追い続けている刑事らしい刑事ばかりだ。課長には|特進組《キヤリヤ》が人事の都合で回ってくることは少く、捜一同様、刑事一筋で昇進してきた苦労人が多い。
こういう人は、全くの雑談でキャリヤ組を呼ぶようなことはない。何か大事な話があるのだろうと思った。
二人は、他の刑事や課長たちと反対に、上へ行くエレベーターに乗りこんだ。十七階に見晴しの良い喫茶室がある。江戸ッ子の気性そのままの威勢の良いママが名物だ。カレーやサンドイッチ程度の軽い食事もできる。
二人は入って行き、窓際に坐った。皇居前から三宅坂や、国会前へ向って行くなだらかな広い坂道が見える。
「本当はこれは、公安や警備の責任者に先に話すべきことかとも思ったのだが、岩崎君の顔を見たら、やはり、君に一番先に話しておく方がいいと考え直したのだ」
やはり何か話したいことがあったのだ。コーヒーを注文して、岩崎は相手の言葉を黙って待った。
「さっきA県警が、犯人をヘリコプターで追い詰めて行ったという話を聞いたときに、ふと思いついたことがあるのだが……」
やはり捜三課長も岩崎警視正と同じような思考の経過を辿っていたのだ。
「……このごろ、二件ばかり続いて、捜三に妙な盗難の報告が入って来た。悪いことが起らなければいいなと心配しているのだが……」
岩崎警視正は、まだ黙ったまま次の言葉を待った。
「……以前は、スポーツカーや新型外車がよく狙われた。最近ヘリコプターが、二機続けて盗難にあったのだよ。これで何かとんでもない犯罪が起らなければいいなと、盗難よりもそれから先のことが心配だ。警官の拳銃と同じでね。過激派の手に渡るのが心配だ」
「そうですか。やっぱり狙われだしたのですか」
少しは予期していたかのように、岩崎は答えた。警察が使うものなら、犯罪者が使いたがるのは当然だ。
「うん。一つは東京の|東雲《しののめ》ヘリポート。もう一つは羽田のヘリポートから堂々と大空へ持って行かれてしまった。当然まだ行方は分らないから、回収されていない」
「たしかにそのお話承りました。私としては、それを殺人事件に使われることのないよう願うばかりです」
コーヒーを飲むと、それぞれ別の所で昼食をとることにして、二人はその喫茶室を出た。
六階の捜一の大部屋に戻る。とたんに
「あ、よかった。今、二、三人で手分けして庁内を探そうとしていたところですよ」
二係の刑事の最上席にいる進藤が、待ちかねたようにしていった。
鬼瓦そっくりの怖しい顔をしていて、犯人を問い詰めるときは、いかなる凶悪犯も恐怖のため、小便をチビってしまうほどきびしく迫って行く進藤だが、岩崎警視正には心服して忠誠を尽している。自分よりかなり年下であるのにかかわらず、警視正の姿が見えないと母を見失った子供のようにオロオロと落着きがなくなってしまうところがある。
「何があったんだ、デカ長」
自分のデスクに坐りながら、いつもの冷静な表情できく。
「今朝未明の六本本のマンションの殺人事件のことなんです」
「それは分っている。だから君と、原田婦警、武藤、花輪などに行ってもらった。もう犯人は|検挙《アガ》ったのか」
A県の幼児誘拐事件の報告会の方を欠席させて、現場へ行かせていたのである。
「ええ大体見当つきました」
事件が難しく錯綜してきたケースでなければ岩崎は出て行かない。なるべく所轄の刑事をたてて、こちらからは応援の刑事を出して手伝わせる形でそのまま解決へ持って行く。最初の一報から、それほど難しい|事件《ヤマ》にはなりそうもない、大体、|犯人《ホシ》の見当はついていますからという、所轄の東麻布警察の報告が入っている。所轄が簡単であると報告してきて、必ずしも、それが簡単であったためしはないのだが、人間と人間の連繋プレイだ。一応最初はたてるところは、たててやらなくては、後でギクシャクする。
それで自分が行く代りに進藤や、花輪、それに六本木では多少、女性問題もからむと思って原田婦警も同行させていた。
茶柱の名人乃木刑事は本庁に残し会議に參加させた。原田と中村は、イタリヤのベネチヤで一応結婚式をすませたが、これはあくまで捜査上の便宜ということで、捜一の中では正式には発表していない。十一月に入ったら日本で改めて式を挙げさせ、戸籍上も結婚させたら、中村か原田かのどちらかが捜一をやめて、所轄や、他課に移ることになっている。進藤が報告を続ける。
「犯人は女にからむ線だというので、調べてるうちにその女の名も出て、原田が、武藤刑事と一緒に、目黒にある女のマンションに向いました。いずれ連絡があると思います」
「殺されたのはたしか、夫人だったな」
「はい、そのマンションの主人、秋月すすむ……自由業……今はやりのコピーライターやデザイナー、その他芸能界のマネージャーまでやってるらしい忙しい男ですがね。五十一歳の男の……そのかみさんの、とき恵四十八歳です。元女優でファッション・モデルとかいいましたが、死に顔を見ましたが、苦しんだせいもありましょうが、およそ、美人などとは、縁もゆかりもない、ひどいもんだったですよ。それに首筋は皺だらけ、肩は骨が浮き出し腕の皮膚もカサカサ、梅干し婆あ一歩手前、とても四十代とは思えませんでした」
「うん、それで、進藤はどうして捜査中なのに早々に一人で帰って来たんだね」
「あの傷はとても女が|殺《や》ったもんじゃありませんよ。亭主は、問い詰められると自分に愛人が居ることを、我々の前で涙ながらに告白して、その愛人はまだ二十四歳のクラブ・ホステスだが、かねて自分と正式の結婚をしたがっていて、それで嫉妬のあまり妻を殺したんだろうというんです」
「話が少しおかしいね。今の進藤デカ長の言を信じれば、殺されたのは四十代だが、年よりふけて見える梅干し婆さんだという。婆さんが嫉妬のあまり若い娘を殺したというのなら分るがね……若い方が年寄りを嫉妬のあまり殺したなんていうのは……」
進藤も少し首をひねりながらも答えた。
「そうおっしゃられれば、たしかにそうですがね、女というものは、正妻の座をほしがるので、そうしたんでしょう。もっともこれは私の意見じゃないんです。被害者の亭主の意見です。はじめ、現場は、物盗りが荒したように散らかされて、事実夫人の財布やハンドバッグが無くなっていました」
「亭主のアリバイは」
「近くのサンバ・ポンチョスというホールで、その夜はピアノをひいていたというのです。調べさせたところ、ずっと夜通しそこでジャズの伴奏をしていたそうで、所轄が調べたアリバイは完全に白です。死亡推定時刻は午前三時前後でした。死因は刃物での滅多突き。三十カ所も創傷がありました」
「そりゃーひどい」
「そこで私が、物盗りを主張する所轄と亭主を睨みつけて、こりゃー怨恨だ、単なる物盗りはこんなにやたらに刺さないよ……と一喝してやったら、しまいに泣きながら亭主が自白したのが、その愛人のホステスの名です。ホステスの名は田阪純子、二十四歳。逮捕歴も非行歴もありません。まあー亭主が自白したのだから、半分がとこ間違いないだろうというので、原田と武藤が、目黒の女のマンションに向ったところで、私はここへ帰って来たのです。少し警視正にお訊ねしたいことがありまして」
「何だ」
「ありゃ……犯人は違いますよ。女がいくら嫉妬に狂っても、三十カ所も力一杯刺せませんよ。そいつを警視正殿に行って立証してもらおうと思って……私では所轄と正面から意見がぶつかるので……」
[#小見出し]  ヘリコプターU
ヘリコプターは、垂直に上昇した後で、一カ所にだけ止まっているのでは仕事にならない。といって前にプロペラがついていないから、前進する力は本当はないのである。
操縦席には操縦桿と、ピッチレバーと踏棒がある。その内の操縦桿を前に倒すと、機首が下に向いて自然に前へ出る。後ろへ倒すと機体がのけぞるようにして機首が上り、後退する。この原理で前進後退するのだ。
地上の自動車や機関車は後退ができるが、空中を飛ぶ乗物で後退できる物はヘリ以外にはない。それがヘリの一つの特長となっている。
右回り、左回りは、操縦桿の下の踏棒を踏む。右を踏みこめば機体そのものが右に傾いて右回り、左を踏めば左に傾いて左回りする。
上下の推進は、回転翼の推力を増減させればよい。ピッチレバーを上・下に動かすと、回転翼についている、ピッチ・プレートが上を向いたり、下を向いたりして、推力が生ずると共に、機体全体を高く昇らせたり、地面に降ろさせたりする。操縦は飛行機よりはかなり難しいといわれる。
2[#「2」はゴシック体]
進藤は警視正を前にしていろいろと、自分の推測をのべたてる。『どうもおかしい、絶対犯人は女じゃない。あれは若い男が力一杯刺した傷だ』そう言い張る進藤刑事をまず落着かせるため、食堂へ連れて行き、一緒に昼食を摂ることにした。
「まあー、現場で証拠品が揃って、当人が自供してしまうと、所轄は身柄を押えて、七日間の拘置を請求し、その犯人を起訴まで持ちこもうと努力する。これは犯人を捕まえた警察官なら誰でも持つ感情だ。確たる証拠とか、別な有力な犯人でもこちらで出さなければ、ひっくり返すのは難しい。捜査をギクシャクさせてしまう。もし女が本当の犯人でなければいずれその女の方で、自白するよ。今デカ長がたてつく必要はない」
「なぜですか」
二人は上寿司の定食を取った。上といってもここでは四百五十円だ。まだ事件にかかっている最中でいつ呼び出しが来るかも知れないから外へ行けない。庁内でささやかにすます。
ぱくりとまぐろの寿司を一つほうりこんだ進藤に警視正はいつものように冷やかな声でいった。
「女にはもともと他人の罪をかぶるなんて犠牲的な行動はできないんだよ。まして信じていた愛人に裏切られて逮捕された。それでもまだその亭主に未練があって、一時的な激情がさめないで、つい損な役目を背負っても、最後までは背負いきれないよ。人殺しといえば、裁判官の機嫌が悪ければ、死刑を求刑されることもあり得る大罪だ。早ければ正式に逮捕状を執行される前に『わあーっ』と泣き出して『私じゃないんです。私は殺していません』と白状するさ」
「そんなもんですか」
あっというまに進藤は自分の分を喰べてしまって、まだ半分以上残っている岩崎の皿を睨む。
誰かの推理小説に必ず大喰らいの刑事の話が出てきたな……と思いながら警視正は残った皿をそっと進藤の方に押してやった。
「そんなもんだよ。まして私と一緒に六年間、殺人捜査をやってきたデカ長だ。君が傷口の具合を見て男が|殺《や》ったというのなら、まず男が殺ったことは間違いないだろう。この飯が終って、六階の部屋へ戻るころには、早ければ女は泣いて|白状《ゲロ》してるよ。本当にやってなかったら、冷たい|手錠《ワツパ》が、ガチャリと腕にはまったときにはもう自分を裏切った愛人の身代りになろうなんて、甘い情熱はどこかへ吹っとんでしまうさ」
「そうですか。じゃ、女の|白状《ゲロ》は、すぐですな」
進藤はもう犯人が決ってしまったかのように鬼瓦そっくりの顔を嬉しそうにほころばせた。ついでに皿の残りも片付けてしまった。
警視正がその進藤にもう|一言《ひとこと》いった。
「まあーだからといって、今デカ長が考えている男が正犯といえないかもしれない」
「えっ」
「誰かに頼んで殺させた場合、直接の下手人と依頼した方とどちらが正犯であるかについては、まだ判例は確定していない。ましてその男が自分でやったのでもなく直接他の男に頼んだのでもなければ、犯人は全く違った線で出てくる怖れもある」
珍しく進藤は反論するような口調で答えた。
「いや警視正、そんなことはありませんよ。私は|殺《や》ったのは被害者の夫と見ているんです。サンバ・ポンチョスのアリバイなんて怪しいものです。バンドは三十分やって、三十分休憩です。夜中まで若者でゴチャゴチャ混み合う店で、楽士たちは休み時間は休憩室もないので近くへ酒を飲みに行ったり、食事しに行ったりするそうです。しかも奴のマンションとそのサンバ・ポンチョスとは歩いて八分しか離れていない。往復歩いたとしても、家の中で十二、三分は時間がある。充分殺人はできる。奴が|殺《や》ったんです」
それに対して、別にそうだとも違うともいわず
「まあー推理小説の中だったらちゃんと殺せるな」
と答えただけだ。番茶を飲んでしまうと、食堂の入口を見て、ちょっと顎を動かした。
「ほら来たよ……」
見ると食堂の入口に見習婦警の峯岸稽古が立って、キョロキョロ中を見ている。
本当は捜一を追い出されたりしてはいけないので、誰にも分らないようにかくしているが、お稽古は仮性近視で、少し離れているものはかすんでしまう。警視正が、自分の席から軽く手を上げてくれたので助かった。
「どうしたお稽古」
そばに来た峯岸見習に警視正は聞いた。
「六本木の現場の原田先輩から連絡がありました。目黒のマンションヘ行ったら犯人の女は、ちゃんといたそうです。自分の犯行だと自白したので、すぐ所轄の刑事と一緒に現場に連れてきたところ……」
途中で岩崎は稽古の言葉をさえぎるようにしていった。福島訛りが少しまどろこしい。
「……それで女は誰が本当の犯人といった」
あれっと不思議そうな顔をしながらいう。
「分っていたんですか、管理官殿は」
「いいから君は聞かれたことに答えなさい」
「はい、すみません。手錠をかけられたとたん、それまで自分が犯人だといっていた田阪純子、これが被害者の夫の愛人のホステスの名ですが……、わーっと泣き出し、『私がやったんじゃーない』といい出したんです」
「犯人は誰だといったのだね」
「それがそれから先はただ泣きじゃくるだけでいわないそうです」
進藤がはっきりとまた断言するようにいった。
「あの男に決っとる。自分の女房をやきもちで殺したとみせかけるほどだから、女はその亭主に惚れきってるのに違いない。女は好きな男のためには何でもするからな。野郎とぼけやがって、女房を殺された亭主の泣きまねみせるのは、三浦和義、一人でいいの。警視庁ではもう間に合ってるの。今すぐおれが行って女の口から吐かせてやる」
岩崎警視正は、峯岸見習刑事にいった。
「私も行こう。吉田さん、中村、乃木など手があいているのがいたら、みんな表玄関へ出るようにここから電話をかけなさい。所轄には気の毒だが、やはり捜一が行かなくては、こいつはうまく納まりそうもないようだ」
そのまま六階に戻らず、玄関に直行した。そのときまでに間に合った者だけを一緒に連れて行く。遅れた者は自分でタクシーを拾ってついてくればいい。戦国の武将織田信長の出陣をまねた、岩崎流のやり方だ。
玄関に出ると進藤が、大通りから、タクシーを正面の車寄せに誘導して来る。電話を終えた峯岸が前の扉をあけて真先に乗りこむ。六階から降りてきて扉が開いたばかりのエレベーターから、乃木と、中村刑事の二人が背中を丸めるようにして駆け足でやってきた。あまりの勢いに、外から一階ホールヘ入って来た人が、びっくりして見ている。玄関まで出てきた乃木はまだ胸を大きく上下させて荒い息をしている。バストが豊かだから、それが目立つ。
六人乗りの車に、岩崎以下五人が詰めこまれた。運転手をまぜて定員。警視庁の玄関の前だから、警官が率先して法規違反はできない。少し遅れたエレベーターで吉田老人や、村松、高橋の両係長など報告会に出席させるため本庁に残しておいたメンバーが降りてきて、あわててロビーを横切ってきたが
「行く先は分ってるんだ。待つ必要はない」
とタクシーを出させてしまった。走り出すとすぐに進藤にいった。
「現場へ着くまでには大体十分ぐらいかかる。その間に進藤が現場で見たり聞いたりしたことを全部話してくれ。たとえば、被害者秋月家の生活程度などどんな具合だったね」
「そりゃ、びっくりしましたよ。六本木のマンションだっていうから、まあー相当な家賃もとられる、インテリヤ・デザインなんかきらきらしたえらい豪華なものだとは思っていましたがね、それが想像以上なんです。応接セットは全部本物の革張りでできているし、強盗に大分物色されていましたが、それでもじゅうたんや大きい置物などは持って行けません。それらが、私ら素人が見てもかなり値が張りそうな物ばかりでして。フリーターって儲かるんですね」
「さっき進藤は、物盗りの仕業ではなく、誰かの怨恨だと、立会った亭主を一喝したんじゃなかったのかね。今のを聞くと物盗りに狙われたようだが」
「そうです。でもこれも怨恨説の理由の一つになってるんです。彫刻や値のはりそうな細工物はこわされちゃいませんよ。ほんの少し置場所を変えてありますが、こわれないように動かしたのが、こちらにはすぐピーンときた。亭主の野郎ガセこいてやがるなと、それ見ただけで分りましたよ」
中村刑事が質問した。
「フリーターがはやりの職業とはききましたが、デザインや臨時のピアノひきで、そんなに儲かるのかなあー。家賃いくらですか」
進藤が少し得意そうに答えた。
「当人に聞いて、出鱈目いわれても困るので下の管理人に聞いてきたよ。月に二十五万円だってさ。……この五年間、一度も滞納したことはなかったそうだ」
「かなり景気がいいんだな。愛人にも大分出していたらしいね」
岩崎が感心したようにいう。
「そら、相当らしいですよ。何しろまだ若い女が、|嫉妬《やきもち》焼いて、自分が妻の座をほしがって……これはあくまで奴の証言を信じてのことですがね……もう梅干しに近い|女房《かみさん》を殺すほどですからね。私ゃこの言葉決して信じてやしませんがね。|犯行《ヤマ》は亭主がやったと思ってますからね」
「進藤の推理は後で打上げのときでもゆっくり聞く。他に何か気がついたことをいってくれ」
「ああ、それからそういう金のある奴は、大概、ベンツとか、ジャガーとか持ってるんですが、車は持ってないんです。代りにヘリコプターを持ってるといいやがった。贅沢もそこまでくると一級品ですな。壁の額縁に二人がヘリコプターの下に立って記念撮影しているでっかい写真が入ってました。もっとも写真などそんなに価値のあるものじゃないから額縁がほうり投げられガラスがこわされて吹っ飛んでいましたよ」
じっと聞いていた岩崎警視正が、途中でいった。
「進藤が現場で見たことはそれだけか」
「はい額縁のガラスなんて、いくらもしやしないから擬装犯人が物盗りにみせかけてぶっこわすには最適だと」
「最近、その大事にしていたヘリコプターが盗まれたとかいわなかったかね」
「えっ! 管理官殿はどうしてそんなことを知ってるんですか。中古を友人に譲ってもらった物だけれど、千五百万円もしたそうです。がっかりしてましたよ。仕事のないときに夫婦二人で、大空から東京の街を眺めるのが唯一の楽しみだったそうです。心が広々として、あくせく地上で働いている世間の人が馬鹿みたいに見えるそうです」
「進藤、誰でも働かなくても金が入るのだったら働いている人間はみな馬鹿みたいに見えるものだ。きっとヘリコプターに乗ってるだけで大金が入るんだよ。それでヘリコプターのおいてあった所は|東雲《しののめ》飛行場か、羽田のヘリポートのどちらだった」
「全くいやんなっちゃいますよ。どうしてそんなに何でも先に分ってしまうんです。ここで車をUターンさせて、もう一度食堂で寿司でも喰べながら、犯人の名をそっと、私に教えてくれませんか。改めて逮捕状取ってひっくくりに行きます。その方が早い」
「そうカリカリするな。私でもまだ犯人の名までは分らない。どちらのヘリポートだったかね」
「|しののめ《ヽヽヽヽ》です。し・の・の・め。若い管理官殿には分りませんでしょうけれど、私の子供のころにゃ、婆さんが好きな一つ覚えの歌が……」
「しののめのストライキだろう。私も聞いた記憶がある」
「本当にストライキを起したくなりますよ。どうして、そんなに何でも分っちまうんですか」
「手品の種なんて、いってしまえば馬鹿みたいなものさ。六本木のマンションヘ着いたら、私たちを降ろして進藤はこのままこの車を使って、東雲へ行きなさい」
「私ゃ、自慢じゃありませんが、東京に東雲なんて所があったことさえ知りませんでしたよ」
「むくれるな。この間行った、入口に奇妙なお化けの装飾が立っていたロック・クラブを覚えているだろう。『ミルザ・|潮騒《しおさい》』とかいったな」
「ああ、あのウォーター・フロントですか」
「そこまで行けばすぐ分る。近くだ」
すると運転手が口を出した。
「東雲のヘリポートなら、私がよく知ってますよ」
「ああそこへ連れて行ってください。そこで進藤は秋月夫妻の利用状況、ヘリが盗まれた前後の様子などを聞いてきなさい」
タクシーは犯行が行われた、秋月夫妻の住んでいたマンションの前に停った。
岩崎たちが降り、進藤だけがそのタクシーに乗って、東雲のヘリポートへ向う。
そこへ本庁から、吉田老人や、一係長の高橋警視らが、タクシーを急がせて追跡してきて、その車が停った。
「間に合ってよかった」
そういいながら高橋警視がやってきた。このエリート警視は先頃、夏のベネチヤで、乃木と結婚式を挙げている。外部には原田たちと同じで一応捜査上の便宜で式のまねをしたということにしてあるが、当人たちは決してそうは思っていない。二組ともいずれ今年中には正式な結婚式を、東京で挙げるつもりだ。
そのときこの組もどちらか一人を他の職場へ移さなくてはならない。考えると少し頭が痛い。
自分によく似たタイプの高橋警視に岩崎は
「ああ、係長。折角来てもらって申し訳ないが、これからすぐ羽田へ行ってくれ」
そういって、盗まれたヘリの所有者と、盗まれたときの状況、これまでの使用実績などの調査を指示した。最後に何気なく
「ああ、助手に乃木を連れて行きなさい」
といった。二人だけにしてやろうという親切心か。或いはそんなことは露ほどにも考えなかったか。
[#小見出し]  ヘリコプターV
ヘリコプターは他の輸送機関ではとても無理だというような場所に行くときに、その特長が発揮できる乗物だ。
孤島や、山岳の、遭難救助。
ダムの工事現場への資材運搬。
また成田空港のように、途中の道路がひどく混雑する場合は、渋滞した車の上を飛び越えて、要人を運ぶのに利用される。渋滞が今や慢性化してくると、空港と都心との定期便も開かれようとしている。
地上げや、宅地造成のため、森林や土地の広さを正確に測るには空中からが一番よいし、ゴルフ場の設計・開発には、もはやなくてはならぬものであろう。
山の頂上の観光地に、ずらりと自動飲物販売機が並んでいるのを見た漫画家のしょうじ氏が、どうして運んだのかときいた。山頂の人にヘリコプターだと教えられてひどく感心し、最近の著書に特筆している。
3[#「3」はゴシック体]
犯行が行われたのは、マンションの六階で、入口も廊下もエレベーターも、縄張りをして立入禁止の札が下り、所轄東麻布署の制服や、刑事たちがあちこちに立ち番し、忙しそうに往き来している。
岩崎を先頭に吉田老人や、峯岸稽古、中村などの刑事が、マンションへ入って行くと、その歩き方や態度だけで分るのか、現場にいた所轄の刑事たちの顔に緊張が走った。
それはちょっと表現の難しい心理状態だった。所轄は張りきって今朝未明のうちには、もう現場に駆けつけた。第一発見者の夫の通報で、到着したときは、まだかすかながら、被害者とき恵の体に、温かみも残っていた。遺体や現場保存、証拠品収集など、一連の基本捜査は順調であった。
警視庁の捜一から応援に来た、鬼瓦みたいな顔の刑事の一喝により、被害者の夫の主張する物盗り説が崩れるまでは、もう事件の先は見えている感じであった。
ところが鬼刑事の一喝で亭主が泣きながら愛人の存在を告白してから、どうも順調でなくなった。
その愛人はちゃんと目黒の小さなマンションに居ておとなしく連行されてきた。若い愛人が年長の醜い夫人に対して嫉妬するという事態は少しおかしいが、全く考えられないケースではない。
これでキマリ、所轄だけでこの一件は片付き、と思ったらそうはいかなかった。
自白した女に現場を見せて、殺害の様子を説明させようとしたら突然しどろもどろになってはっきりしない。尚もきびしく追及しているうちに
「違うんです。私が|殺《や》ったんじゃないんです。殺したのは違う人です」
といって、わーっと泣き出した。
一体誰が、やったんだときびしく追及すると、ただ泣きじゃくって答えない。それに、この民主主義、人権尊重の世の中、女にわーっと泣き出されると、ぶっ叩いて自白を強要するわけにもいかない。泣き止むまでは周りで黙って立っているだけだ。
そんなところへ捜一のベテラン刑事たちがのりこんできたのだ。だから有難くもあり、少し困った立場でもあったのだ。
「ごくろうさんです」
本庁に対して敬意を表し、みな岩崎に向って丁寧に挨拶する。
岩崎は黙ってうなずきながら中へ入って行く。既に死体は検死と、写真の撮影を終えて、司法解剖のため大塚の監察院に送られた。今はただその跡が、白いテープで|象《かたど》ってあり、被害者がどんな姿で死んでいたかは、一目で判るようになっていた。
現場に出しておいた原田婦警と、花輪刑事も、所轄の刑事の邪魔をしないように少し後ろでその訊問に立会っている。女は椅子に坐って、ただ泣きじゃくっているだけでまだ手がつけられないでいる。
しかしここに、捜一の管理官岩崎警視正が入ってきたことで、取調べの様相は一変する。主導権が、このときを以て、所轄から捜一に移る。部屋中がきびしくひきしまった。
泣いている女の正面に、まるで体がくっつきそうに近づいて坐っていた所轄の主任刑事が岩崎に椅子を譲る。岩崎がそこに坐る。岩崎は最初は女を泣いたままにさせておいて、次々と周りの刑事に質問する。
「この女のマンションを家宅捜索したのは」
すぐ東麻布署では古手らしい中年の刑事がすすみ出て
「はい私です。連行する前に捜索令状を取って、徹底的にやりました」
「預金通帳が出てきたかね」
「はい、三友銀行のが一つ」
「あけてみたかね」
「まだですが。別に犯行と関係がないと思いました」
「今は君の意見を聞いてるのではない。ここにその通帳があるかね」
「はい、領置しておきました」
ビニール袋に入れ、袋の入口をホッチキスで閉じて番号札がついている。
その袋を受け取ると、警視正は女には何も断わらず、袋の口をあけて中から通帳をとり出した。泣きながらも、刑事達の出方を気にしていたらしい女は、岩崎がその預金通帳の中を平気でめくって見ているのを知った。
気になるらしく、泣きじゃくる間にときどき、岩崎の手もとを窺う。
岩崎警視正はわざと女に聞かせるようにいった。
「なかなか几帳面ないい子だね。この三万とか五万とかいうのは、お客さんにもらったチップかね。今、セックス代はこのへんではこれが相場かね」
「まあー。セックス代だなんて」
とホステスの田阪純子は恥しさと怒りに顔を真赤に染めて抗議した。衆人の中で全裸で立たされた上、体の値踏みをされているような気がしたのだろう。いくら殺人の容疑者が相手でもあんまりだ。それに自分ではないのだといってるのだ。仮に容疑者だって人権がある。
正面から岩崎を睨んで
「いくら何でも失礼です。勝手に見たりして」
岩崎はいつものように冷酷な表情に戻った。
「勝手に見とりゃせんよ。令状によって捜索している。それとも、ここで、やはり私がやりました、申し訳ありませんと、謝ってしまうかね」
あわてて純子はいった。
「いえ、そんなことはできません。私がやったんじゃありませんから」
「だったら、早くそのやった奴の名を言いなさい。私らはそれを知るため、こうしてここにいるんだから。もっともこの通帳を見ていると、自然に分ってくるがね」
「何がです」
「あんたがやったんじゃないということだよ。いいかね、ここに、二百万円という金が出ている」
女の顔色がとたんに変った。
「これが外から入った金なら、私らも君の犯行ときめつけ、厳重に追及するところだがね、出た金だ。それも今まで、三万、五万とためたセックス代の中から出している」
「セックス代じゃありません」
彼女は悲鳴のような声を上げてさえぎる。
「じゃー、そうしておこう。ともかく、その大事な金の中から、二百万円を、いっぺんに払ってるとなると、誰かに殺人でも頼んだと見る他はない。日本は経済大国というが、まあー、現実に殺し屋に、人殺しを頼むとなると、二百万円あたりが、多からず、少からずで、まず妥当なところだろう。あんたが愛人の夫人である、あの被害者を殺したいと思ったことは事実だが、自分では殺す度胸はない。最後まで隠してくれると思った愛人の方が警察にあんたの名を先にいってしまったからはもう、隠しているのは馬鹿らしい。それに死刑になったり刑務所に入ったりするのは怖い。だがあんたが何もいわなくても、この通帳を見ていると、殺し屋を二百万円で雇った、つまり頼んだのはあんただが、殺したのはあんたじゃない……という図式は証明された。さあー、もうこれ以上は泣いてごま化してもどうにもならんよ。誰に、どこで頼んだか、吐いちゃった方がいい。警視庁は女の涙でごま化し通せるところじゃない」
とたんに
「す、す、すみませんでした……私が二百万円で頼みました」
しゃくり上げながら告白しだした。
それをきいた後、岩崎はその日の夜九時までは、被害者の夫の秋月すすむも、一度は容疑者になったその愛人の田阪純子も、重要参考人として、被害者のマンションの一室に待機させておいて、どこへも自由に出ないようにさせた。
女はキッチンの方に、亭主の方は浴室の便器に蓋をして、坐っていてもらうことにした。亭主は
「私は被害者なんだ。これから妻の死体引き取りや、親戚に知らせて葬儀の用意もしなくてはならない。こんなところに閉じこめておいてどうするんだ」
と文句をいったが、警視正はいつもの冷酷な、人の魂も凍らせるような目でじろりとその亭主を見て
「もしあんたが奥さん殺しの容疑をかけられたくないのなら、少しは協力してもらわなくては困るね」
といって、浴室の入口の戸をしめてしまった。トイレがあるから何時間もほうったままにしておける。
その間に岩崎は大塚の監察院の主任執刀医師と連絡をとり報告をきいた。死因は鋭利な刃物による刺傷。三十二カ所あったという。だが、ためらい傷もあり、傷の多さのわりには中でねじこんだり、深々と突き刺したりするのは少く、怨恨とも思えないということだ。強いて担当医師として所見をのべさせてもらえれば、無理に怨恨と見せかけた刺傷で、傷そのものに特に致命傷と思える深いものはなく、直接の死因は、傷つけてからしばらく放置したための出血多量のせいだ……とのことだった。
「ありがとう。先生」
うなずいてその電話を切った。少ししてから、|東雲《しののめ》のヘリポートからマンションへ進藤の報告が入った。
「たしかに秋月夫婦のヘリでしたよ。機の名前はオータム・ムーン号というそうです。これは秋の月という意味だそうです。二人は週に二回ぐらい来て飛んでいました。一回飛ぶごとに、ガソリン代、整備費、空港使用料ふくめて、平均十万円かかるので、ヘリポートの係員は、よほどの金持だと思っていました。六本木のマンションに住んでる、フリーのアルバイターだというと、意外そうな顔をしていましたよ」
「私も少し意外だな」
そう岩崎は答えた。実はさっき愛人をキッチンに、亭主をトイレに閉じこめてから少しマンションの中を調べたのだ。被害者宅なので家宅捜索令状を正式に取るのは難しいが品物を押収したり、位置を動かしたりしなければ、分りやしない。洋服ダンスの中から、机の抽出しまで相手に分らないようにして丹念に調べ、元のように戻しておいた。
特に怪しいものは何も見つからなかったが、一つ分ったことがある。家具・調度・持物、すべてに共通するのは派手なけばけばしい趣味で、最初に進藤がびっくりしたほどには金のかかった物はない。意外だったが納得できた。進藤がいった。
「その十万円はきちんと支払って延滞したことはないようですがね。飛行が終ると、そそくさとタクシーで帰って行って、派手に仲間や女を連れてきたり、帰りに銀座へくり出したりする他の贅沢な|所有者《オーナー》とは一線を画していたようですよ。仲間同士の親睦クラブにも入っていない。係員はよほど大空が好きなんだろうといってましたがね。それで今度の盗難には心から同情していましたが、同時に、一つしかないはずのエンジンキーがどうして犯人に渡ってしまったのか、不思議がっていましたよ」
「それで盗難にあったときは係員はどうしていたんだね」
「そこのところが少しおかしいんですがね。この二人はわりと夕方暗くなってから、夜景が好きだといってヘリを出すことが多いんだそうです。その日も、もう暗くなっていて、てっきり、二人がやってきたとばかり思って係員はあまりよく見もせずに、出発するのを手伝い、飛び上ったヘリを見送っていたそうです。翌日になって盗難にあったといわれて、初めて違う人が乗って飛んで行ったと分ったのですが、ヘリポート側ではえらい迷惑だともいってました」
「そうか。進藤よく分った。これは殺人事件以上の大きな事件に進展するかもしれない。東雲を出たらこのマンションに直行でなく六本木の交叉点の前の喫茶店アマンドに九時ごろまでに戻って、そこでアベックでも眺めながら待っていてくれ」
そういって、進藤の電話を切った。
[#小見出し]  ヘリコプターW
全国の警察には、ヘリコプターは二十二機あり、二機は警視庁の屋上に常駐して、出動命令を待っている。その他に緊急避難の誘導などに必要のときは、ふだん連絡のある民間の会社からチャーターすることもある。ただし犯人の追跡や、発見などには、民間の機は使わない。捜査はあくまで警察が所有している機で行う。
A県警にはたまたま一機あった。ふだん待機が多く出番がなかった。このときとばかり飛ばし、犯人の逃走する車が空中から手にとるように見えると昂奮して、つい、空中から呼びかけたり、爆音を轟かせて威嚇しながら追跡していることを知らせて、逃走を諦めさせようとした。搭乗していたこの警官の職務熱心さが、犯人を絶望的な恐怖に追いこんでしまったのだろう。殺さなくてもいい|幼子《おさなご》をスコップで殴り殺し、土に体を埋めて隠そうという狂気の心理状態にさせてしまった。
4[#「4」はゴシック体]
まだ田阪純子には逮捕状は執行していない。スカートにセーター、それに夫人の秋のコートを羽織らせて外に出すことにした。手錠も腰縄もつけていないが、見習のお稽古刑事が、真剣な表情で、ぴったり純子のそばにくっついている。
更に本庁からやってきた花輪や中村のベテランたちがごく何気なくその周辺にいる。亭主の方は、所轄の刑事を見張りに置いて、マンションに残し、本庁からの一行は純子に同行した。六本木の交叉点で、岩崎一人が角の喫茶店へ入り、待っていた進藤と何か打合せしてから出てきた。
進藤は大きくうなずいて承知したらしく、そのまままた喫茶店の椅子に坐った。
午後九時、六本木では一番人が混み合う時間で、人混みで肩と肩とがすれ違って、なかなか前へ進めないぐらいだ。入口に三方がガラスのエレベーターがあって、夜景を眺めながら、各階にある店へ行けるようになっている。入口は混み合っていたが、無理に割りこみ、それで三階の“コンテンポラリー”という店に入った。純子を先頭に、全員がごくさり気なく店に入った。
バラバラに別れて坐る。店内はかなりうす暗い。テーブルの奥に十坪ぐらいのフロアーがあり、まるで体をこすり合せるようにして何十人もの男女が踊っている。坐ったまま純子がいった。
「あの白いブルゾンを着て踊っている男です。少しいい男。本当はカントリー・ボーイだけど、あれが中江竜介よ。私が二百万円渡した男よ。ほら今、鼻の頭をかいた人」
岩崎は峯岸婦警にいった。
「お稽古、踊ろう。ああ原田は中村と踊りながら、奴がどこへも逃げられないように退路を遮断してくれ。踊り相手の女は原田が腕をひっぱってフロアーの外へ出し、大きな声を出さないように注意する」
同行の刑事はみな何気なくフロアーの周りを囲む最前列のテーブルに坐り直した。
自然にフロアーへすべりこんだ、峯岸と岩崎が、人混みの中を、徐々に中江に近づいて行く。ぴったりと背中がくっつく位置までくると岩崎が、前を向いたまま、ひとりごとのようにいった。
「中江! もし、ここで恰好よく退場したかったら、黙って自然にフロアーを出なさい。いきに軽快にステップを踏んでね。騒いだら痛い目にあうだけ損だよ。恰好も悪い」
びっくりして周りを見回した中江竜介は、一度は人混みをつきのけて、逃げようとしたが、すぐとても駄目だと分ったらしい。
にこやかに相手の女とステップを踏みながら、フロアーの外にすべり出した。捜一の刑事が、まるで包むようにして彼の体を隠し、エレベーターの方に連れていった。
全員が東麻布署に向う。
捜査課の一室を、臨時に取調室にして、岩崎が訊問に当ることになった。
一応所轄からは、捜査課長が立会ったが、当初、所轄が見込んだ線と状況が大幅に違ってきている。岩崎の訊問にただ立会っているだけで、発言することもできない。
捕まった男には、最初に吉田老人が、何十年もこういう犯人に接してきた手馴れたやり方で、基本の訊問をして行く。住所、氏名、職業などを一つ一つ聞きながら、その間に男の心の昂ぶりを鎮静させようとする。
しかも、中村や花輪がそばに立っていて、この男のいうことを、すぐ各所へ照会しウラを取って行く。氏名、職業、本籍地、すべて正直に答えており意外に素直だ。前科もない。男の前に坐って、吉田老刑事との一問一答を黙って聞いているだけの岩崎は、途中次々と入ってくるウラづけのメモをみて、やはり少し意外そうであった。
吉田老刑事の訊問が終った後、代って正面に坐って岩崎は最初の質問をした。
「中江といったな」
「はい、中江竜介です」
「中江はヘリコプターの操縦はできるかね」
「……え、何のことです。おれヘリコプターなんか触ったこともありません」
不審そうに聞き返す。とぼけているわけではなさそうだ。
「そうか、それじゃいい」
立ち上って、部屋を出た。ただ別室へ行って他の電話を借りただけだが、犯人にとっては不安が増してくる。自分の犯行をどこまでサツが把んでいるか見当がつかない。絶対ばれっこないと思う。何しろ被害者とは一面識もない。どこにもお互いを結びつけて考える接点はないのだ。現場に証拠品さえ残してこなければ大丈夫というので、ポケットには凶器以外は何も持たず、軽い気持で行ってすませてきた。まさかこんなに早く自分の所にサツが来るとは思っていなかった。どこでしくじったのだろう、などとさまざまに思い悩む。
岩崎は別に特別の手配をしているわけではない。交叉点の角にある喫茶店へ電話をかけて、進藤を呼んでもらっただけだ。
「ああ進藤デカ長。羽田のヘリポートから報告が入ったかね」
乃木と高橋一係長を、聞きこみに行かせてある。進藤がすぐに答えた。
「三十分前に二人から連絡が入りましたよ。女優の沙羅沙也加の所有だそうです。もっとも当の女優さんは忙しいらしく、ひと月に一度も来ないのですが、その友達だという、一見音楽屋らしい、白いのや黒いのやが交った外人が来て、乗って行くそうです。いつも必ず海の方に向って飛んで行くといってました」
「うん、それで使うのは夕方が多いといってなかったかね。帰りになにか箱入りの荷物を持ってくるともね」
「そちらでそんなことまで分るのですか。たしかにそういって不思議がっていましたよ。船から何か受け取ってくるのだったら文句はいえないが法に触れるかもしれない。困ったことだといってました。現在二人とも羽田で待機してますが、どうしますか。あたりは吹きさらしで喫茶室もないそうです」
「すぐにマンションの方へ戻れといいなさい。もっとも君もこれからまたマンションへ行く。ただし中へ入らず外で待っている。こちらからも手のすいたのを応援に回す。もう二時間して亭主を釈放する。そのとき亭主がどこかへ出て行く。出て行かんかもしれんが、九十パーセントは出て行くよ。ヤクのきき目が切れる時間だ。そしたら上手に手分けしてぴったり尾行する。亭主が外に出たら、私らは東麻布署の捜査課にいるからすぐ知らせてくれ」
必要な指示だけすると電話を切った。
元の捜査課に戻る。クラブ・コンテンポラリーのフロアーで、まさかばれることもあるまいと思って安心しきって踊っていた男には、まだどこで尻尾が把まれているかが分らない。それが不安だ。
『被害者とは一つも関係がないのだから、カマをかけてきてものらないぞ。トボケきってやる。証拠はないと言い張れば、それ以上追及もできまい。兇器は指紋を拭いてとっくに目黒川の暗渠へほうりこんだ。間違っても二度と出てくることはない。大丈夫だ。どんなことがあってもばれっこない。もし頼んだ女が何かで捕まっても、女も同罪だからばらしっこないし、ばらしたとしてもお互いの口約束以外証拠はないから、裁判で否認すれば通らない。あんまりひどく訊問してきたら弁護士に相談すればいい』
ようやく考えが決り、もうどこからつつかれてもいいという気になって、心も少し落着いてきた。そのとき部屋へ戻ってきた岩崎が、すーっとまた目の前に坐った。もう心の武装もできた。さっきは突然のことだし人混みの中でもあったから、この若い捜査官におとなしく何もいわずに連れられてきたが、今度はそうはいかない。相手の目を怖れ気もなく見る。たしかに何も分らず死んで行く女は哀れであったが、今の中江には悪いことをしたという良心の|呵責《かしやく》はきれいさっぱりない。ないから視線にも迷いはない。……はずだった。
他の刑事が相手なら、それは通用したかもしれなかった。中江は一目、相手と視線がぶつかった瞬間、ぎくっとした。まるで魂の底まで凍らせるような冷酷な視線だ。背筋がぞーっとしてきた。
そこへまた同じように体中を冷やすような言葉が聞こえてきた。
「竜ちゃんといえば、六本木で少しはカッコ良いお兄ちゃんのはずだときいたが、二百万円とはな。随分安く引受けたもんだな。他にヤクでも回してもらったのかね。これで、首に麻縄が巻かれ、下の台が合図と一緒に、バタンと開けば、|青洟《あおばな》に小便が垂れ流しだ。三人に一人は糞もズボンの中に洩らす。それが、サンバ、ロック、何でもカッコよく踊った、いきなお兄ちゃんのジ・エンドとはね」
みるみる青ざめる。唇が震え出す。もとが気の小さい男だ。それでも必死に
「違う、違う。おれはヤクなんか見たこともない」
と口ごもって抗議する。
「あんまり手数をかけない方がいいよ。何でも自分で先に白状すれば、死刑が十年ぐらいに減り、七年で仮釈がとれるかもしれない。死ぬのと、また娑婆に出てくるのとは大違いだ。生きてりゃ飯も喰えるし、セックスもできる。それにしても、たったの二百万円とは殺し屋のお値段も安くなったもんだ」
「違います。おれ、二百万円がほしくてやったんじゃない」
「じゃー何がほしかったんだ。やはり白い粉か」
「そんなもの知らない。ただおれ、田舎から出てきたんで東京で派手にやるには貫禄つけるため一度は有名女優と寝てみたかったんだ。そしたら、いつも店で会う純子の奴が、もしいうことをきいてくれたらご褒美に一晩すごしてくれる有名女優がいる。その仕事が何かきかないで寝てくれ。秘密さえ守ってくれればいい。もともと男なしでいられない淫乱女だから、目茶苦茶に燃えてサービスしてくれるといった。それで先に一晩楽しませてもらったんだ。二百万円の話も、あの婆あを刺す話も、もう女優と寝てしまってから『じゃー、条件はこれよ』と後から出てきた話なんだ。断われなかったんだ」
「男としては断わることはできないな。おまえにもプライドがあるからな。そんな話なら、同情するよ。田阪純子にうまくはめられたわけだ。といって別に罪はまからんがね。しかし吉本早百合や、後藤紀美子ぐらいの一流が相手なら……まだ一晩の思い出に諦めのつけようもあるが沙羅沙也加ではね。スクリーンでさんざん胸も股も見飽きてるだろうが。まだ日本ではあそこだけは、ちゃんと見せてくれないが、あんなもの麻のロープで生命捧げるほど、価値のある場所じゃない」
突然、中江はまるで子供のように、両手を顔にあてて泣き出した。岩崎は立ち上った。
「まあー、泣いたり後悔したりする時間は、これからいやになるほどある。もっとも吊されてしまえばおしまいだが」
それから岩崎は課長と一緒に署長室に挨拶に行った。
「これで主犯は、中江と田阪純子の二人に絞られました。この東麻布で、書類をまとめ、送検しておいてください」
東麻布署の捜査課長はほっとしたような表情でいった。
「うちで送ってもいいんですね」
「ああ、捜一はもっと大きい事件を今、追いかけていますから。そちらへすぐ全員を向けなければならないのです」
「そうですか。しかし管理官、後藤紀美子の後にいきなり沙羅沙也加の名前が出てきたときの奴の顔ったらなかったですよ。どきっとして、目を真丸くして、しばらく喉がつまりそうでしたよ。あれでキマリましたね。何でも吐く気になったんでしょう。参考までに聞かせてくれませんか、どこからあの肉体女優の名が出てきたんです」
署長や、捜査課長の疑問はもっともだ。捜査にかかったのはこちらの方が後なのだから、不思議だったのだろうが、岩崎はさり気なくボカした。
「捜一はとりわけ優秀な|刑事《デカ》さんだけ集めていますから、ひっかき回しているうちに何でも自然に耳に入ってきてしまうのです。……ああ、下の応接を少し、うちに貸してくれませんか。あちこちに散らばってる部下を集めて、二時間ぐらい待機させます。外からの電話を待ちます。その間に近くから出前を取って食事でもさせたいのです」
朝から現場へ駆けつけたメンバーや、途中で応援に本庁からやってきた刑事さんたちを含めて、東麻布署の応接室は十名以上の捜一の猛者で一杯になった。
いずれも背広の内側にはホルスターを吊って、拳銃を入れている。所轄の|刑事《デカ》さんたちにはそれが分る。殺人事件はもう落着したのに一体これから何が起るのかと、その物々しい姿を不審そうに見ている。
出前のカツ丼とビールが応接室に届いた。これから大きな捕物に出るときには、勝つという縁起をかついで、カツ丼にビールで乾杯するのが、もともと殺人課の|刑事《デカ》さんの全国的慣習になっている。
出先なのでいつものフランス料理をやめて、慣習に従ったのだ。全員が満腹して少しくつろいだ。
十一時を少し回ったころだ。その応接室に電話が入った。進藤の声だった。
「今、奴が出て行きました。|釈放《バイ》されたので、本当に嬉しそうに足取りも軽くという感じです。まず乃木と高橋係長が追います。タクシーは三台押えてあり、他に花輪と原田の組、それに私とで、三台の車で追って行きます」
「行く先は大体分ってる。青山四丁目のホーライ・コーポだ。女優の沙羅沙也加の住居だ。万一違った場合だけ、ここへ電話を入れてくれ。二人だけ残しておく。私たちは、まず間違いないと思うから先に行ってそこで待ってる」
「やれんなあー。何でも先に分ってしまって。今度からもしあらかじめ分っているなら、わざわざ私に報告などさせないでください」
「そうー怒るな。念には念を押せということがあるからな。ホーライ・コーポの前で会おう。ハジキは持ってきたか」
「今日は朝から現場、食堂、ずっと肩に吊しっ放しですよ」
「OK。相当に手強いと思ってくれ」
電話を切ると、応接室に待機していた捜一の部下たちに短く一言。
「行くぞ」
といって自分が先に飛び出した。東麻布署の前は六本木の大通りだ。ひっきりなしにタクシーが通る。他の係と違って、費用は岩崎管理官が自腹を切る。父親が捜査に使えと押しつけてくる金がこのごろは月一千万円を超す。どんなに無理して使っても残る。タクシー代ぐらいは勘定にも入らない。青山へ向って何台ものタクシーが急行する。青山四丁目交叉点で車を降りた一行は意外に細い路地を入って行き、ホーライ・コーポの周りで、さり気なく物蔭にかくれた。
みな塀に体をくっつけたり、通りがかりの人のようにして周囲を歩きながら、コーポの玄関を見張っている。
亭主がやや急ぎ足でやってきた。
釈放されて嬉しそうだ。女房に死なれた男としては少し表情が浮き浮きしすぎている。
すーっと入って行く。
すぐに乃木と原田がとびこんでエレベーターの所へ行く。今停った階を見る。
花輪刑事が、管理人室へ入って行き、手帳を見せる。
「本庁の捜一です。殺人ともう一つの重大な容疑で六階の沙羅沙也加の部屋を捜索します。我々以外はしばらく玄関の出入りと、エレベーターの使用を禁止します」
同じ東京弁でしゃべっていても、花輪刑事には東北の強い訛りが混ざる。それがこの場合、一層、|刑事《デカ》らしい凄味になる。管理人は無言で頭をぺこぺこ下げるばかりだ。
扉の横に岩崎が立った。拳銃を手に持つ。
じっと時計を見て時間を計る。五分たった。
「そろそろヤクが回るころだ。いいだろう」
うなずくと、乃木にベルを鳴らさせた。
「だーれ」
中からインターホンで女の声がする。なるべく顔がはっきりしないようにしながら乃木が少しいかれた声でいう。
「六本木できいてきたの、あたし。ここへくれば、クラックあるって」
帽子をぬいで髪をわざと、崩している。ドアにはまった覗き孔には、可愛い女の子の顔しか映らない。峯岸が反対側に拳銃を持って立つ。
扉が中からあいた。あいたとたん、そこに制服の警官の女が二人立っているので
「何よあんた方」
とヒステリックに叫んでいきなり扉をしめようとしたがおそかった。既に脇から出てきた峯岸見習刑事の持っていたピストルが、薄い透き通ったガウン一枚の沙羅の自慢の巨乳の間にぴったり押しつけられていた。
全員が一斉に飛びこんだ。
広いリビング一間に、じゅうたんが敷きつめられていて、男女半々で十五人ぐらいが、寝そべっている。女も半裸のだらしない恰好をしているし、男もいつでも女を抱いてすぐ行為に及べるような、気楽なガウン姿だ。各自の前にアルコール・ランプが一つずつあり、上にフラスコがおいてあって、中で白い薬品がパチパチはぜている。
今年になって急激に六本木を中心に普及してきたクラックだ。コロンビヤから送ってきた新種のコカイン系の麻薬だ。フラスコの中ではぜた粉が熱にとけて、甘い匂いの煙を出している。全員がその煙にうっとりと酔っている。
あまりの突然の侵入に抵抗するひまもない。
刑事たちはみなピストルを抜いて飛びこんできた。
「全員を麻薬吸引の現行犯で逮捕する。別に、秋月すすむと、沙羅沙也加の二名は、秋月とき恵殺害の容疑で逮捕する」
十人を超す刑事たちに踏みこまれては、逃げることも抜け出すこともできない。
近くに脱ぎ捨ててあった、衣服をつけて、全員が連行された。連絡によって、本庁からのパトカーが何台も表には迎えに来ている。
そこにいた客たちをみなそれに乗せてしまった。だが、亭主と女優の二人は、進藤と乃木がそれぞれ手錠をかけ、残りの片方を、自分の手にはめて逃げられないようにした。表でタクシーを二台、呼んだ。乗る前に岩崎は犯人たちにいった。
「もしヤクに|殺人《コロシ》がからむと、死刑は確実だ。二人ともまだバタンコに吊下りたくないだろう。ブツをたっぷりしこんだため、動くロッカー代りにヘリを使って、当分の間どこかにかくしてあることは分っている。そのヘリがかくされている場所まで、タクシーを走らせなさい。その秘密を知ってる奴の|女房《かみさん》を黙らせるために|殺《や》った。でも亭主もあんたも直接手を出していない。殺人事件とはつながっていない。運がよけりゃ生きて出られることもある」
蒼白になってうなずいた二人は、それぞれ自分と手錠でつながっている刑事と一緒に、タクシーに乗りこんだ。
岩崎は乃木と女優とが乗りこんだタクシーの前の席に乗りこむと運転手にいった。
「多分、山の中だと思う。チップは沢山出す。車で登れるところまでは登ってくれ。近くまで行けなかったら、そこからは夜明けにかけて、山をよじ登るさ。案内人がちゃんといるからね」
裸の体にあわててジーンズとセーターだけつけてきた、女優の沙羅が顔を手でおおって泣き出しながらいった。
「私は殺人なんて知りません。ただある人に、『男がやってくるから黙って一晩だけ抱かれなさい』といわれて目をつぶってお相手しただけです。何も頼んでいません」
岩崎は、相変らず冷酷に答えるきりだった。
「女性の貞操は刑法では、金銭の対価と同様に扱われる。ちゃんと報酬を払ったことになった判例がある。まあ、裁判のときに、せいぜい女の弁護士を頼むか、女性知識人でも証人に呼んで女性の性を物質視する不当をのべるんだな。それともいつでも無料で抱かせるのかね、その体は。性の神聖をまもるために」
口惜しそうに唇を噛む沙羅を乗せて、タクシーは夜の甲州街道を、山岳地帯に向けて走って行った。
[#改ページ]
[#見出し]  Y 花嫁御寮はなぜ刺されたのだろ
[#小見出し]  結婚の歴史
1 神代の結婚[#「1 神代の結婚」はゴシック体]
八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を
これは、日本の始祖|天照大神《あまてらすおおみかみ》の弟君とされている|素戔嗚尊《すさのおのみこと》の作られた歌とされている。
遠い神代の昔の話だから正確なことは不明だが、春秋のある一時期に、若い男女がある山に集る。そこで男女がお互いの思いを歌に唱いながら、好みの相手を見つけると、手をとりあって暗闇の草むらの中に消えて行く。当然、愛の営みは夜があけるまで続けられ、お互いに気に入ったら一生添いとげる夫婦になるし、一度交わりあって、どうもフィーリングが合わなければ、その場ですぐに別れて、また唱いながら新しい相手を探し歩く。
セックスのテストもかねた集団見合で、日本人が農耕民族として定住するまでは神代の人々にずっと、広く行われた優雅な結婚の形式であった。
1[#「1」はゴシック体]
勤務は夕方の六時半か七時ごろに終る。朝の八時半には全庁内にベルが鳴って、そのときは全員が各自のデスクに坐って、約二十秒の間は鳴り続けるベルの音を、じっと目を|瞑《つむ》って聞いていなければならない。ベルが鳴り終り黙想がとけると、すぐに刑事さんたちははじかれたように立ち上って、その日の仕事に就く。だから、何も事件がない日で、どうにか七時か八時に帰れるのであって、もし事件でも起ったら、もう何時に帰れるか分らない。
週休二日制は勿論、一日、八時間労働なんて話も、ここでは全く永久に実現が考えられない夢の世界のできごとにすぎなかった。
しかしそれも仕方がない。只の場所ではない。
警視庁の捜査一課。殺人、強盗、強姦、放火、兇悪事件を一手に引受けている係である。その中でも殺人犯だけの専門の強行犯は九係あって、約百人とちょっとの、ベテランの刑事が、一千万都民が、広い都内のあちこちで引き起す殺人事件を、すべて引受けている。
捜一にはその他に強盗犯係が五係、放火犯係が五係、特殊犯罪係が三係で、合計二百人を超す大所帯だ。いずれも鬼より怖い猛者ばかりが一つの大部屋に、たむろしている。
この捜一と、同じように荒っぽい暴力団関係を扱う捜査四課も共に六階にあって、近代的な明るいパステルカラーに塗り替えられた警視庁の、スマートな十八階建てのビルの中でも、六階でエレベーターの扉があくと、いうにいわれぬ、悽愴な殺気がさっと中に吹きこんでくる。何も知らないで乗っていた一般の来客は、何となく背筋のあたりに氷でも押しこまれたようにぞくりとするといわれている。
入りたての巡査などは、書類を届けるために捜一に使いに出されて、一歩室内に入ったとたん、もう周りの突き刺すような視線に、足が前に出なくなり、気がついてみたら、膝小僧どうしが、自然にぶつかり、何か用件をいおうと思っても、歯の根が合わなくなって、物もいえなくなるそうだ。
そんな恐しい捜一の大部屋に、鬼の荒くれ男どもに交って、各係に一人か二人ずつの婦人警官がいる。どの女性も、司法捜査が出来る刑事の資格を持っているのだから、知らない人は物凄い女ばかりと思うかもしれないが、実は意外にも美人が多い。その刑事たちの正面には、四人の管理官がいて、殺人専門の強行犯一係から九係を指導しているが、その先任の、管理官の岩崎警視正は、一係と二係との指導を受持っている。
以前この二つの係には三人の美女がいた。一人は警視正より三歳年上で女優の松坂慶子によく似た志村みずえ警部補だが、実はとっくに岩崎夫人に納まっている。赤坂のマンションに二人の愛の巣があり、一子翔の養育のため、目下休職中である。
代りに、みずえ夫人の母校の会津白虎高校を一昨年卒業して警察学校へ入ったばかりの新人峯岸稽古巡査が、お茶汲み兼用の見習刑事として、二係に入ってきているので、女性の職員三名は変らなかった。
正面の机に坐り、葉巻を横ぐわえにして、その煙に目を細めながら、実は岩崎は残った二人の女子刑事のことを考えていたのである。
一人は乃木圭子。六年前、岩崎が東大を出て上級職公務員試験を三番で通り、誰からも大蔵省に入ると思われたのに、自ら進んで一地方官庁にすぎない警視庁に奉職し、二十五歳の若手の係長として、捜一の荒くれ男どもの中に上官として入ってきた時、早速協力してくれたのが、今の妻みずえと、そのころ新人の乃木圭子だ。一時は岩崎もその二人に共に親しい態度を見せられて、かなり迷ったが結局、数年後、警察官の妻としての適性を考えて、年長のみずえ警部補の方と結婚してしまった。
乃木圭子はそれ以来ずっと独身である。一時は秋田出身のもっさりとしたタイプの刑事とかなり仲好くしていたようにみえたが、それはどうも、何事も都会的でスマートな岩崎を無理に忘れるためのやせ我慢らしく、しばらくは東北弁の男と、親しくしているところをみなに見せつけてから突然に、去年の四月に一係長に就任してきた、東大出のエリート警視で殆ど岩崎のミニコピーと思われるような高橋係長と婚約してしまった。
もう一人、一係には、亡くなった女優の夏目雅子によく似た美女の原田ひとみがいる。彼女は、同僚の中ではピストルが一番上手で、オリンピック候補選手にもなったことのある中村刑事と長いこと親しくしていたが、これは最近堂々と婚約してしまった。
業務に忙しく何も見ていないようでいつも一係、二係の両方の猛者たちの動向に常に気をつけていなくてはならない岩崎には、この二組の男女の恋の進行具合はよく分っていた。
それが今年の六月、米・ソ両大国の秘密情報機関の特別の依頼で、イタリヤのベネチヤに急遽派遣されたとき、わざわざ、この四人の部下を選んで連れて行き、現地のカトリック寺院で結婚式のまね事をさせた。乃木と原田の両婦警には、ウエディング・ドレスを着させて、ゴンドラでベネチヤの中央を流れる大運河を航行させた。世界的な麻薬組織を握るマフィヤの一団を欺くための苦心の捜査作戦であったが、同時に二人に、いつまでも婚約者気分でいないで、早く正式に結婚しろと、因果を含めるつもりもあった。
日本に戻ったら早速適当な式場を選んで、刑事部長か、副総監ぐらいの大物を仲人にたて、二組同時の結婚式をやろうと思っていた。おそくても十一月中にはと思っていたのに、それがついついのびてしまったのは、幼児誘拐の宮崎問題に続いて、中華料理店主のくず餅殺人、アパートに一人住居の東海大女子学生殺人、池袋のホテルでの台湾人ホテトル嬢殺人事件と殺人事件が頻発して、それがみなまだ犯人が挙がっていない。捜一は目が回るほど忙しくて、とても結婚式などあげる余裕がなかったせいもある。だが実は理由はそれだけではない。
さすがに警視庁随一の明晰な頭脳を誇る岩崎警視正にも一つの迷いがあった。それが今、ふっきれたのだ。だからその日六時半になって、ちらと腕時計を見て立ち上り、みなにいった。
「今日は事件ももうないようだから、これで帰ろう。ああ、それから……」
と一息区切ってから
「乃木と原田、それに高橋一係長と中村刑事の四人にはちょっと相談ごとがあるので私と同行してくれ。但し乃木と原田には五分だけの時間をやる。私は下で待つ」
こんなことは珍しい。といってもぼやぼやしていることはできない。机を片付けてさっと立ち上る岩崎におくれないように、いわれた四人も、大急ぎで机を片付けた。
女性の場合は制服で勤務しているので、通勤用のスーツに替えるために特に五分の時間をくれたのだろうが、その間に制服を脱ぎ私服に替え、顔ぐらいは洗って、口紅を薄くひくぐらいのことはしておきたい。ついでに、お化粧室で小さな扉をあけてお手洗いもすませた上で、パンティストッキングの線が後ろから見て正しくまっすぐついているかどうかもたしかめておかなくてはならない。その何でもかんでも合せて五分間だ。随分ひどいと思ったが、岩崎警視正の下で捜査一課の殺人係の刑事をやっている限りは、これは仕方がない。
五分後には、警視正を交ぜて五人が、警視庁の正面玄関の車寄せに立っていると、すーっと外車が一台停った。車の中をみて
「あら、お久しぶり」
乃木が懐しそうに声を上げた。運転しているのは今は岩崎夫人として一子翔の養育に専念するため休職中の、みずえ警部補であった。
しかも、もうすっかり幼児らしくなった翔が大きい目玉をくりくりとして、周りをみながら、一人前にチョコンと坐っている。
「定員は六人だ。後ろの席に少し窮屈だが、四人詰めて坐りたまえ。もうあれがすんでるかどうかまでは詮索しないが、一応まねごとだけでも結婚式はすんだ仲だ。体がくっつき合ってもどうということはないだろう。殺人課の鬼刑事でも一応は人間だからな。少し楽しめ!」
相変らず女性がきいたら真赤になるようなことをずけずけいう。前の席で一人前に坐っていた翔を警視正は膝の上にのせた。翔は嬉しそうだ。
「法規を正確に適用すると、これは違反行為になる。道交法の中でいかなる緊急避難、危急の時でも、只一つ例外が認められないのが、乗車定員のオーバーだ。これは免許証を貰う試験に必ず出てくる。ただし乳幼児は、法規が許しているわけではないが母親の体の一部として定員に入れないという特別解釈で処理している」
一応岩崎がそういったのは、警視庁の真前で、警視正自らが法律を破るわけにはいかないからであろう。
BMWの三二三一型、百七十馬力、左ハンドルだから、岩崎が乗って翔を抱いた席は、普通の車とは反対の側だ。
乃木が早速、前の席の翔に話しかける。本当なら自分が、警視正の妻として産んでいたかもしれないはずだ。
「翔ちゃん、今、幾つになった」
「二歳と八カ月」
もうはっきりと答えられる。少しやせて小さいような気がするが、それは乃木のひがみかもしれない。つまり私ならもっと、母胎が若くて健康なのだから、丸々と肥った元気そうな子ができているのにといってやりたかったが、近く結婚が決っている高橋警視がぴったり体をくっつけて隣に坐っている上に、膝の上に手を重ねて握りしめたので、もうそのことは考えないことにした。原田ひとみと、中村刑事は、もっと親しそうにお互いの腰に手を回し、もし少しでも自動車が揺れたら、はずみで頬が触れてしまうかもしれないようなスタイルをとっている。いくら結婚が近い婚約者だからといってこれは絶対許すことはできない。その怒りの余波で乃木は自分の手にそっと、重ねられている高橋警視の手をつねってやりたくなったが、これから始まるかもしれない二人の長い結婚生活の平和のため、辛うじて我慢した。
二歳八カ月の翔ちゃんは、車のフロント・ガラスから前方を大きな目玉で見つめながら、不思議な才能を発揮した。
「ベンツ」「ブルバード」「アウディ」「シトロエン」「プジョ」「トヨタ」
片っぱしから通りすぎる車の名をいうのだ。多少、車の種類に詳しい中村刑事が、自分よりも正確に沢山の車の名をいいあてるのにはびっくりした。天才岩崎の頭脳が遺伝しているのだろう。
車は六本木にできた新しいホテルの駐車場に入れた。エレベーターに乗りながら、警視正がいった。
「鴨がおいしくなってきたようだ。ご馳走しよう」
エレベーターは最上階の二十三階で停った。もともと小高い台地の上に建っているホテルだから、四囲のガラス窓から、六本木、青山、赤坂などの現在の東京の最もナウい盛り場が一望にできる。ボーイは岩崎の顔を見ると、早速、窓際の最上の席に案内した。
まずワインの種類を決め、各自の盃に注がせて乾杯してから、前菜、チーズと、こったフランス料理が運ばれてきた。翔はジュースとケーキに、アイスクリームまでついているので、すっかりごきげんで、母親にしきりに、|自動車《ブーブー》の話をしている。頭の中には今はそのことしかないようだ。
「今日、ここへ呼んだのは、ようやく私の決心がついたからだ」
とそう警視正はいった。四人は自分たちの親分が一体何を言い出すのかと注目している。
「君たちは一応捜査上の作戦ではあるがベネチヤの運河をゴンドラに乗って花嫁姿でお披露目をした。予行演習の方をもうやってしまったが、日本で正式に上司の方を呼んで、結婚式を挙げて、入籍しなくてはいけない。これが警察官のけじめというものだ」
高橋警視も中村刑事も同時に答えた。
「私らもそう考えていました」「こういうことはきちんとしたいと思います」
それに対して警視正はいった。
「管理官としては、自分の部下の間から、二組の恋人同士が生れ、同時に二件の慶事が重なるのは、非常にお目出たいことで、嬉しいことでもあるがね。一つ困ったことが起った」
四人は何をいい出すのかと注目している。
「君らも当然覚悟しているように、警視庁は日本一お堅い役所だ。夫婦が同じ職場で机を並べて勤務することは許されない。どちらかが……」
「ああ、それなら」
と、夏目雅子にそっくりの原田ひとみ刑事が途中でいった。
「……私、とっくに考えていました。二人で高田馬場と新大久保との間にある都営アパートに、あるコネを通じて入れるようになりましたので、できれば私の方が、そこから通勤できるぐらいの地域にある所轄へ行って、今しばらく刑事の仕事をしようと思います。殺人課でなくて、少年防犯係でも我慢します」
「そうか。君からそういってくれるとありがたい。何しろ捜一にいた者は、外に出るのは格下げにあったようで、みないやがるからな。それで、高橋係長と乃木刑事だが……」
二人とも困ったように顔を見合せた。お互いに愛し合っていながらも、思いきって、二人とも式の日取りが決められなかったのは、どちらも、殺人捜査の第一線・警視庁随一の花形の職場捜一をやめる気がないからだ。そこがまた、岩崎管理官が最も悩んだところでもあった。そして今朝やっと結論が出た。そこでここへ呼んだのだ。
「……ここは高橋君に少し修業をしてもらうことにした」
「えっ、私がよそへ出るのですか」
びっくりしてそのエリート警視は答えた。
「いや別に乃木に対しての愛情で我慢しろなどと、無理なことをいうつもりはない。たしかに女性は可愛く大切なものであるが、男の進路を邪魔する存在であったら、断固捨てる覚悟も必要だ。しかし私の言わんとすることはそんなことではない。高橋警視は、捜査官として犯人を追いかけ回すことより、管理職として、これから大勢の部下を統率して、近代的な警察を作る根幹の人材になってもらわなくては困る。それでまず、東京でも最も事件が多くて忙しい六本木署に行ってもらうことにした」
「捜査課ですか」
少し不満そうだが交通係にされたらたまらないと思ったのか一応聞き返す。
「いや署長としてだ」
「署長?」
びっくりしていう。
「……私はまだやっと二十七歳になったばかりです。警察に奉職してからもまだ三年たっていません」
「だからやってもらうのだ。六本木は若者の街だ。二十代でなくては署長は勤まらない」
当人も信じられないような顔でいる。署長とは大変な抜擢だ。普通職の警察官なら五十近くになってやっと辿り着く最終コースだ。
茫然としている四人に警視正はもっと驚くようなことをいった。
「十一月三日は友引だが、葬式以外は何にでもお目出たい日だ。どこでも二年先までの結婚式の予約で一杯だ。しかも後十日しかない。しかし私はあるコネを通じてここのホテルの一番よいホールを確保しておいた。総監閣下にはきていただけるかどうか分らないが、大事な部下が二組も一緒に挙式するのだ。各部長は全部呼ぼう。仲人もできるだけ大物を頼む。今、鴨の料理が出るから、終ったら四人はすぐ家に戻って、式の準備をしなさい。衣裳はこの間イタリヤのベネチヤで使ったのでいいだろう」
[#小見出し]  結婚の歴史
[#小見出し]       2 天皇の結婚[#「2 天皇の結婚」はゴシック体]
あくまで伝説上の話であり、現実の歴史書とは異なるかもしれないが、日本初代の天皇神武天皇は大和地方を東征された後、現在より二千六百五十年前に、大和の|橿原宮《かしはらのみや》で即位された。そのとき、前年から正妃としての待遇をえていた、|媛《ひめ》|蹈鞴《たたら》|五十鈴媛《いすずひめ》を、正式な皇后として、結婚の誓いをたてた。
この姫は、|事代《ことしろ》|主 命《ぬしのみこと》の娘で、|大国《おおくに》|主 命《ぬしのみこと》の孫娘に当る。
この話を歴史的に読もうとする学者は、南方から九州へ渡り、九州から更に日本本土の畿内地方に進出してきた豪族と、大陸から朝鮮半島を経て、島根県|出雲《いずも》地方に住んでいた豪族との、民族的融合政策が実行された象徴とみる。
ときに神武天皇、満五十二歳であられたが、夫婦の愛情濃やかで沢山の皇子を作られた。
2[#「2」はゴシック体]
今のこの世の中で、一番、華やかで、艶めかしく、しかもその上初々しい女性の裸身が見られる場所はどこにあるだろうか。
ストリップ小屋の楽屋では、いくら若いのが揃っていても初々しい体というわけにはいかないし、女子高校の体育用の着替室では女として未熟でその青臭さはまだ美というにははるかに遠いものだ。
銭湯の脱衣所では、中年の三段腹どころか皺くちゃな七十婆さんまで混り、とても正視に耐えるものではない。
たった一つどんなにコネや金をきかせても、男がそれを見ることができないのだけが残念であるが、そのような場所がこの世にある。結婚式場にある。花嫁の支度部屋である。やがて何時間後かに花婿に、全裸にされて抱かれるまで、ただそのときの一瞬の純潔を心の誇りにするため、美しく成長しながらも、それまで誰にも見せず、触れさせもしなかった神秘な裸身が、そこの部屋では惜し気なくさらされる。
大きな結婚式場では、一日に何組もの式が同時に行われる。披露宴の方は、幾つもの宴会場で手分けしてやればできるが、式の方は、神式とキリスト教式の会場との二つしかないし、大概は出雲大社の出張所の分社のある神式の会場で行われるから、ほぼ十五分に一回の、きちんと決められた時間通りの流れ作業で行われる。
当然、花嫁の着付室を一人一つずつ用意するというわけにはいかず、広い部屋に、鏡台を幾つかおいて、間に簡単な屏風かカーテンでもかけて仕切っておればいい方で、それもなくて、あちこちでてんでに着付けをやっている所もある。
原田と乃木は、最初の衣裳は和服でやりたいと主張した。どうしても文金高島田のかつらを頭にのせて、打掛に振袖の姿で、しとやかに、仲人さんに手をひかれて入場したいというのだ。
勿論結婚式だけは、人間世界のあらゆる儀式の中では唯一つ、女性が主役であり、主導権を握れる儀式だ。それに二人一組だからということも迫力が出てくる。
初め和服でやって、次は先日、ベニスで使った白いウエディング・ドレスにして、第三回目のお色直しは、警察官らしく、制服に、金モールや、ピカピカの大きな肩章がついている特別儀礼服にすることにした。
男は花嫁側の一度目の和服、二度目のドレスのときも、モーニングだが、三度目の儀礼服のときには、それぞれやはり、警察官らしく、特別儀礼服に着替えて、二組四人が並んで式場に入り、入口の所でパッと照明がついたときに一斉に右手を肩の所まで挙げての挙手の敬礼を形よくすることになっていた。
普通なら、機械的に流されるようにして二時間ぽっきりで終る結婚式が多い中で、ここでは時間は無制限、洒も料理も、途中で足りなくなったら、いくらでも出すということになっている。
正面の席は別として、左右に居並ぶ列席者の殆どは、若い元気のいい刑事さんばかりだから、ホテルの上等な料理などは、前菜のカナッペぐらいの役しかない。
仲人役は副総監が務めてくれた。長いこと公安部長をやっていて、岩崎警視正を誰よりも信頼してくれている上司であるので、二組の若い第一線捜査官のため、快くひき受けてくれたのだ。
それにしても、正面に花嫁が二人、その両側に花婿が二人並んでいる、四人制結婚式はたしかに珍しい。華やかさは二倍。お目出たさも二倍。
そこで式場のマネージャーが最も苦心したのは、仲人挨拶の後でまず行われるデコレーションケーキのカットである。
最近のデコレーションケーキは、全体をスポンジやプラスチックでこしらえておいて、ナイフを入れる場所だけ、三角形に本物のケーキを毎回はめこんでおく。一メートルから、中には、一メートル八十センチぐらいの高さの超特大のものもあるが、式場の大きさに準じて決めてあるので、同じ型のが二つない。それにナイフをうやうやしく差し出すボーイが二人いる。これも要領がある。
それもなるべく背丈も同じ、容貌、年齢も似たようなのを並べて使わないと、ホテル側が、両者を区別したように思われる。一人が警視で、一人が巡査部長であっても、それはホテル側としてはあくまでも知らないことになっている。
ようやくアルバイトの学生の中から二人、容貌体格の似通ったのを選んで、赤いリボンのついたナイフを、花婿に手渡すときのやり方などを特訓した。
原田刑事はもともと夏目雅子にそっくりの目鼻だちのしっかりした美人だから、文金高島田がよく似合い、思わず全員から、どうと声が洩れるほどの美しさだったが、乃木刑事もそれに負けない。もともと、岸山美加にそっくりの丸顔に大きな目玉がついている。こういう顔は、高島田に濃いめの化粧をすると、まるで別人のように可愛らしく映える。
秋田弁の花輪刑事だけは、さすがに釣り損なった魚の大きさに、内心では無念の涙をのんだが、両方ともに|接近《コナカケ》して、両方ともに相手にされなかった武藤刑事に至っては、しょせん、二人とも縁がなかった存在と思って最初から諦めきって、専ら関心は極上の松阪牛の炭焼きステーキに向けて、ボーイに命じてもう四皿もお代りしてしまった。
ケーキカット、主賓の挨拶と、一応の形式的な堅苦しい儀式が終ると、第一回のお色直しの時間になった。
これには花婿は加わらない。
仲人は一組で夫婦二人しかいないし、男性の副総監がどちらかの花嫁の手をひいて、着付室まで行くのもおかしい。そこに工夫があった。
乃木の手は、みずえと、子供用燕尾服をつけた翔ちゃんが両側からひき、原田の手は、マンションの下にいる商社員の若夫人と、その娘で翔と同年輩の|新菜《ニーナ》ちゃんという可愛い女の子が、ロングドレスを着て、一人前の介添人の風をして廊下へ出て行った。
この演出は大成功であった。全員の拍手の中に、二人の花嫁とその付添いは、廊下に出ていった。
付添人の役目は着付室へ送るまでで、後は近くの休憩室で待っているか、いったん席へ戻り、残りのご馳走を食べながら、また係の女中が迎えに来るのを待っている
子供たち二人は、堅苦しい式場より、廊下や階段が珍しいらしく、遊んでいて、戻ろうとしない。
それで、共に黒い江戸褄姿の二人の女性は廊下の待合室で、坐って待つことにした。
乃木と原田の二人は、そこで女中から着付師の手にひきわたされた。
丁度混み合う時間で、他にも五人の花嫁がカーテン一枚で隔てられた、鏡台の前の二畳ぐらいの部屋で着替えしなくてはならない。
女だけしか入っていないから、カーテンの生地が薄くてすけて見えても、人の動きでゆらいで、布がまくれようと、別に気にもしない。絶対男の入れない世界なのが勿体ない。
乃木と原田は、入るとまず重いかつらを外し、台におくと、次は帯をほどいてもらった。その下に|扱帯《しごき》から腰紐まで、女性は合計九本の帯で体を締めつけられているという説があるが、これは女性でなければ永遠に解けない謎である。
かなりの数の帯をといて、下の長襦袢だけになると二人はまず交互に、この小部屋の中にセットされているお手洗いに行った。着付けてしまった後でももし行きたくなったら、美容師の助手に介添してもらってお尻をかかげれば何とかなるように、和装の場合はパンティはつけない。
勿論長襦袢一枚だから、自分一人で楽にすませられる。二人は出てきたが、長いこと(実は幼児のときから)はくくせがついているものをはいていない状態が不安定で仕方がない。まして女性ながら兇悪犯を追う刑事である。下半身はしっかりしておかないと、気分的にひきしまらない。鏡台の前には洋装が一揃い重ねられている。
一番下にピンクのショーツ。ついでレースのフリルのついたやや長めのパンティと、腰をひきしめるガードル。男性には絶対見せられないものだ。
長襦袢をつけたままでははき難いし、女しかいない部屋だ。会場では大勢のお客さんが待っている。ゆっくり着替えしている暇もない。
乃木も原田も思い切って長襦袢をぱっと脱いで生れたままの姿になった。後、七、八時間ぐらいしたら、相手の男性によってそういう姿にさせられるのだからという考えは勿論頭の隅にもなかった。一刻も早くまずショーツをつけて、一まず心の安心を得ようと思う気持だけだった。
ショーツに手をのばし始めたとき
「キャーッ!」
と悲鳴が聞こえ、次に
「うーっ」
といかにも苦しそうな声がして、殆ど裸の女性がカーテンを破って乃木の前に倒れかかってきた。
カーテン一枚だから何の支えにもならず、女は和風の襦袢とピンクのお腰だけで、その肌襦袢の胸を真赤に血で染めたまま倒れかかってきた。
乃木と鏡台の間にひっくり返る。隣の原田は共にトイレに入っていたので、もうパンティとブラジャーはつけていて
「どうしたの」
ととびこんできた。その女の胸の左の乳房の下に、深々とナイフが刺しこまれている。そこは警官だ。原田は部屋の出口ヘ行き
「誰も一歩も動いてはいけません」
といい、みなの出るのを止めた。その間にショーツの上に長襦袢だけ羽織った乃木が、扉から顔を出して
「警部補殿」
とみずえを呼んだ。翔と長椅子の上で遊んでいたみずえ夫人があわてて飛んできた。
「どうしたの。乃木刑事」
「中で殺人が行われたのです。でもまだ中で裸で着替え中の花嫁が五、六人いますから、会場から婦人警官だけ呼んでください。この密室の中で行われた事件です。すぐ片付くと思います。男の人は、岩崎警視正の他は誰にも知らせないでください」
「分ったわ。婦人警官だけ呼んでくるわ」
それから、マンションの下の同居人であり、一子翔のガールフレンドの母親である商社員夫人に翔の世話を頼んだ。
そして一人で会場へ戻り、岩崎警視正に耳打ちする。岩崎はすぐマイクを借りていった。
「花嫁さんのお色直しがもう少しのびるそうです。時間はたっぷりあるので、ここで、浪花節でも、坂本夏美でも、好きな歌を順次に披露して気分を盛り上げて待っていてくださいとのことです。それから女性の刑事の方は、ちょっと簡単な用があるので、ぜひ廊下の方へ出てください」
大概の人は、その軽い調子に、女性だけがコーラスの打合せでもするのかと思った。刑事といっても、振袖姿、イブニング姿、カクテルドレス姿、みなふだんの殺人や強盗などの兇悪犯を追い詰めて行く鬼刑事には見えない。
八人ばかりの女性がいた。
成人式以来半年振りで着た振袖姿の、見習刑事の、峯岸稽古もその中に交っている。着付室の入口をぴったりふさいだ乃木が八人の婦人刑事を狭い室内に入れた。
血はあたりを真赤に染めている。
ホテルの医務室から来た医者が女の脈をとってから首を振った。一突きで絶命している。血はまだ噴き出しているが、それも余勢のようなもので、もう殆ど力がない。
これまで香水や化粧品と若い処女たちの体臭に甘ずっぱく閉ざされていたその部屋は、今、血の臭いに閉じこめられていた。
[#小見出し]  結婚の歴史
[#小見出し]       3 貴族の結婚[#「3 貴族の結婚」はゴシック体]
現代風にいえば合理的というか、また、だらしがないというか。奈良平安時代を通じて日本を支配した、公卿・高官たちの結婚は実に特異であった。
どこそこに美しい姫がいるという噂があると、それにふさわしい身分の男がその邸へ通って行く。女官とか、老女とかの目をくぐり抜けた(実は選考の基準をパスした)男のみが、姫の寝室に押し入り、何やかやあってもまず抱きしめて交わってしまう。
人気のある姫は自然、何人かの男を受け入れてしまう。その中で気に入った者を姫の方から夫として決める。そうして世に発表する。
しかし男の方は既に何人もの姫を次々と回って味わっているから、一人とは決めにくい。たとえその姫が自分自身で、自分をその男の妻と決め、その男一人を守り、儀式らしいものをあげ世間に公認されても、それはそれとして男はそのような姫をまた何人も決めて回り歩く。だから『源氏物語』のような話もできたのである。
3[#「3」はゴシック体]
着付室の中は、忽ち人で一杯になった。
これから衣裳を着るために、これまで着てきた物をすべて脱いでしまった花嫁。今、肌襦袢に腰の回りをおおう、昔の腰巻と呼ばれた薄い絹の布一枚で、背中を殆どむき出しにして美容師らしき中年の女から、背中の筋にそって、殆ど半分ぐらいが埋まるまで、水白粉を刷毛で塗られている花嫁。長いドレスをつけるため、まずガードルで腰をひきしめて、それから今日のため買った、有名外国メーカーのブランド品のショーツやパンティをつけている洋装のお色直しの最中の花嫁。或いは長襦袢の|扱帯《しごき》もきちっときまり、熟練した着付師が肩からふわりと、振袖の衣裳を着せて襟元をしっかり合せようとしていた花嫁。
すべて男性が覗き見ようとしても一生見ることのできない、|艶《えん》で妖で、美しい光景が、厳密に決められた時間割に従って、ごく自然と進行していたとき、それが突然止まった。
……その昔、明治の時代に活人画というものがあって、或る劇の一部分を、衣裳をつけ、背景の前でただ黙ってポーズをつけて何分間かみせる見世物があったそうだが、それと同じだ。現代でいえば、ビデオ・フィルムの一時停止の状態ともいえようか。
みなどうしていいか分らずに、そこに茫然としているときに、どやどやと四人ばかりの人間が入って来たのだが、すべて女だったのでほっとした。しかも、お召しや振袖、ロングドレス姿の美しく装った若い娘ばかりだから、入ってこられても、そのための動揺はなかった。
小紋散らしの訪問着を来た三十歳をちょっと超えたぐらいの女が、それぞれの席で仕度中の花嫁たちにいった。
「私は警視庁の捜査一課、殺人事件の担当のものです。今日はここへ招かれてお客で来ましたが、事件が発生しましたので、やむを得ず捜査に従事させていただきます。これは殺人事件ですから、本来はここで、みなさま一人ずつ現場参考人としてゆっくりお調べしなければならないのですが、只今、私のすぐの上司が、式場に客でいる主任捜査官の指示を仰ぐためにここを離れるため、その直前に私に指示したことがあります。まず、それをお伝えします」
花嫁も、美容師も、着付師も、母親や姉妹などの付添人も、このお召しを着た、顔だちは整って美しいが、目付きが少し鋭く、体の全体に鍛えられた身ごなしが感じられる女を注目していた。
「その女性の上司は、主任と相談してからほんの三、四分でここへ戻ってきて、すぐ次の指示を何か出されますが、それまでの間は、みなさんは、そのまま今のお化粧や着付けを続けていてくださいとのことです。今日は一生に一度の大切な日なので、今の出来事は、できるだけ早く頭の中から消し去って、幸せな表情を取り戻してください。お色直しや衣裳の着付けをすましてからも、絶対にこの中で起ったことは、外の男どもや客、式場関係者に洩れないように、にこやかに晴れがましく振舞ってください」
みなはほっとした。たしかに死体が一つあり、そばに医者と看護婦がこれはもう絶命した後だからただどうしようもなく坐っているのは仕方がない。それでもみなは自分たちのために大勢、祝福にやってきた客を、式場にいつまでも放っておくわけにもいかない。
まだ式がすんでないのが二人、これは二人とも和装がほぼ出来上りかけている。
式が終って、披露宴のために、お色直しに戻ってきたのが、乃木と原田の二人を除いても五人、そのどれかの仕度が片付いたら、すぐ次の人がかかるのを予定に入れて、鏡台や衣裳セットの数も用意されている。それを死体が一つ占領している。
普段、一分の狂いもなく、巧みに式と披露宴を進行させているだけに、このような突発事故が起ると、会場側は一体どう処理していいか分らなくなってしまう。一応支配人らしい者がいてその指揮を執るものだが、それも何もかも順調に行っているときだけで、こんなときはもうどうすることもできず、初めはただおろおろしていた。
ただその支配人にとってよかったことは、今日の会場の二重使用などすべてを合せれば、十五組ぐらい|捌《さば》かなければならない婚儀の中の一番大きな宴席が、警視庁の、その中でも殺人専門の捜査一課の人々の披露宴だったということだ。
女性のリーダーらしい人に止められたせいもあるが、一一〇番に電話をかけることもなく、おかげでパトカーもやって来ず、制服の警官や、くたびれた背広を着た目付きの鋭い刑事たちが、客席や宴会場をウロウロすることもなく、随分助かった。女性のリーダーらしい、高価な訪問着を着た、美しい夫人がいった。
「あなたが警察に知らせても、その電話をいつも受けるのはこの私たちで、つまりここへ捜査にやって来るのは私たちですからね。だから、一一〇番する必要はないの。それにここには、殺人係専門の刑事は勿論、上は捜査一課長から副総監まで、現在の警視庁の最高のスタッフが全部揃っていますよ。こんな事件すぐ片付きますよ。あなたは、会場、廊下、宴会場などをふだんとまるで変らない顔で進行を指導していればいいんですよ」
と、きびしくいわれた。それでマネージャーは、やっと安心して、それからはむりに心を落着け、タキシードの襟を正し、蝶ネクタイの曲り具合を直してから、ことさらゆっくり廊下を歩いているのだった。
式場から、夫の岩崎警視正と二人で更衣室の方へ戻ってくるみずえ夫人は、休職中といえども、れっきとした警部補だ。
廊下を、花嫁の着付室まで歩いている間も、夫に対して要領よく状況と手配について説明する。
「死体の傷はたしかに心臓を貫いており、一刺しで刺しています。心臓から左の乳房の下に刃物が出ておりますので、私も一瞬、前から刺しこんだと思いました。だが、そのとき胸の乳房の先に出ていたのは刃先のように思います。犯人はきっと後ろから刺したのだと判りました」
「みずえがそういうのなら間違いないだろう。それにそのとき花嫁は鏡に向って夢中でお化粧していたときだろう。前へ回って刺したら|あっ《ヽヽ》とか、|きゃあー《ヽヽヽヽ》とか殺される前に悲鳴を上げているはずだ。後ろに回った人間が表情は好意的に見せながら背中で刃物を隠すようにして、一刺しで刺したに違いない。これは素人でも考えられる。ところでそのとき背中に誰がいたかは、当然判っていないのだろう」
「はい、乃木が殆ど全裸で、一刻も早くショーツだけはつけなくてはと、一種の心のあせりでよそ見もせずに足を通しかけたとき……」
岩崎が
「女だけしかいない部屋でも、そんなことで心があせるのかね。鬼刑事といわれた乃木が」
と皮肉なことをいうと、いきなり手の甲をしたたかに夫人に|抓《つね》られてしまった。
「こんな大事なときに、くだらないことをいってはいけません。それで私はこれからみなにどういう指示をしたらいいのですか」
「私が中に入って指示してはいけないのか」
みずえ夫人は断固としていった。
「いくら殺人事件でも、今はいけません。すべての花嫁が式と披露宴を終って、新婚旅行出発用のふだんのスーツ姿に戻ってからでなくては男は誰も入ってはいけません。何しろ狭い部屋で、あの事件のときから、只の一人も部屋を出ていませんから、犯人は絶対外に出ていないはずです。乃木の裸の体の前に、肌襦袢とピンクのお腰だけで倒れてきた花嫁の姿に気がついた乃木は、さすがに職業柄、ショーツを下腹にひき上げながら同時に片腕で、間のカーテンをめくってみたそうですが、そこにはもう誰も怪しい人物はいなかったといっています」
「怪しくない人物は」
「怪しくないといえば、変ないい方ですが、これから背中にお白粉を塗る美容師さんは部屋のはじの水道の所で、ぬるま湯を調節しながら、お白粉を溶かしていた最中だったそうですし、母親は少し離れたところで、衣裳を調べていて、二人とも一瞬花嫁から目を放していた隙だったそうです。当然、その僅かな余白の時間、誰がその花嫁の後ろに近づいたかを見た人は、一人も居ないのです」
二人は着付室の扉の前に来た。みずえは先に入った。
「中の指示は私が出すわ。貴方は今は一歩も中へ入っては駄目よ。そこに翔はちゃんとマンションの|新菜《ニーナ》ちゃんと楽しく遊んでいるでしょう。貴方も外で待っているの」
妻という者の理性は、ときには常識も習慣も平気で無視して踏みにじってしまう。さすがの天才警視正も、妻のみずえには逆らえない。
「分ったよ。しかしもう私には犯人の見当がついているのに、残念だな」
「見当がついているなら、よけい入ることはないじゃないの。中で私が代りに、貴方の指示を実行するから、早く方針だけ教えて」
「分ったよ。じゃ、次のことを的確にやってくれ。まずこの部屋を出て行けるのは、衣裳着付けが終った後、式場に向う花嫁さんだけで、仲人さんや介添人でも、外に待っていた人なら、一緒に式場や会場へ行ってもいいが、室内で待っていた人は、たとえ仲人と|雖《いえど》も、今はここから出てはいけないということを伝えるのが、まず第一だ。もっとも私が中へ入れば五分で片がつくが」
「ずるい。そんなことをいって、ごまかそうとしてまた中へ入ろうとするのね。絶対だめ。いくら天才警視正でもそれは許されないことです。たとえ捜査が倍かかってもよ」
みずえはひっかからない。
「……それで次の指示は」
「乃木と中村(旧姓原田)は今日は花嫁だから捜査に直接加わらなくてもいいといいたいところだが、そうもいっていられない。少し手伝わせる。乃木と中村は二番目の洋装のお色直しの方は省略する。この前、ベネチヤで一回着ているからいいだろう。まああの時は捜査の都合のまねごとだったが、式は由緒あるベネチヤの教会で大司教にやってもらったし、ウエディング・ドレスは、ゴンドラに乗って、ベネチヤ市民に十分見せびらかしたのだから今回は省略しても不満はないだろう」
「とすると、二人は」
「最後の式服の警察官儀礼服に飛ぶ」
「それはいいけど、なぜなの」
「儀礼服は上衣のモールが仰々しいだけで、スカートは制服と同じで長くても膝までだ」
「それがこの大事なときに何の関係があるの」
みずえは、今日の主人の頭の中で考えていることがさっぱり分らない。もともと天才肌のところがあって、ふだんから何を考えているか分らないことがときどきあるのだが、今日考えていることは、尚更分らない。
「下は普通のスリップですむ。ことさら長いペチコートや、その他面倒な仕度は要らない。スリップだけで恥しかったら、その上に軽くガウンでもかければいい。その姿で大至急捜査を手伝わせる。二人は今日の花嫁だから、まあー理論的に正しいかどうかは別として、ともかく花嫁の身体を検索しても許される。和装の場合も、洋装の場合も一応『職務であるから』と断わって、胸のブラジャーやさらしが当る部分の中を調べさせてもらえ」
「まあー、何てことを、花嫁さんを」
「この場合、君がそんなくだらん反応を示しちゃいかん。休職中、翔のお守りばかりしていて少しボケたのか」
「ひどい。ボケてません」
「では、今すぐ、その二人に命じてやらせなさい。犯人でないとしても共犯者の可能性はある。問題は赤いリボンだ。今のところ花嫁さんだったらブラジャーのスポンジのパットの裏のポケットしか隠すところは考えられない。花嫁が誰も持っていなかったら、それでよい。捜査のためといって、一応詫びて、外へ出してやれ。ともかく式に間に合せることだ。早く中へ入って、そのことだけ、二人に伝えろ。伝えたら、すぐまたここへ戻ってきなさい。次の指示がある」
「はい」
みずえは言いつけに従って着付室の中へ入って行った。
[#小見出し]  結婚の歴史
[#小見出し]       4 武士の結婚[#「4 武士の結婚」はゴシック体]
一生懸命という言葉がある。これは文字的には一所懸命と書く方が正しい。
武士にとっては、所領を守り、それを増やすことがすべての目的であった。
だから、娘はすべてそのための道具であって、美しく育つまで邸の奥深くに隠され、同じ領内の若侍などに顔を見せることもほとんどなかった。自由の恋愛など絶無であったし、もし家来が姫を恋したら大概は死罪になった。
その代り所領を増やすため、もう四十五歳にもなった人妻の妹を無理に夫と離婚させ、他の男に嫁がせて強引に親戚になった大名の例もある。
4[#「4」はゴシック体]
三分もしないうちに、みずえ夫人は戻って来た。扉から出てきた母親を見て、ガールフレンドの|新菜《ニーナ》ちゃんと遊んでいた翔がとんできて、まつわりついてきく。
「ママ、まだお姉さん出てこないの」
「乃木のお姉さんも、原田のお姉さんも、警察のきちんとした服を着るので、少しお時間かかるのよ。もうちょっと、ここのお廊下で|新菜《ニーナ》ちゃんとお遊びしていてね」
とさとすと、翔は生意気に
「そうか、そうなのか、分ったよ」
と、そういって、|新菜《ニーナ》とまた遊び出した。
みずえは報告した。
「二人は熱心に花嫁さんたちの胸の内側を探っていますわ」
「後の女性刑事は中に何人いる」
「四人です。他の四人は外の待合室にいて、何となく周辺を探らせています」
「一番色気のないのは、お稽古だな。中に入っているか」
「はい。中にいます。主に看護婦さんと一緒に死体の周りで警察の検死があるまで身内の人が触らないように監視に当っています」
「お稽古は成人式はすんでいるのか」
「たしか去年」
「しかしまだ処女だろう」
「今日は何故そんなことばかり訊くんです」
みずえはまたむくれる。夫人としてはどうにも気になる質問ばかりだ。ところが警視正の瞳に冷酷な光が見えた。岩崎警視正は部下や同僚だけでなく、時おり上司や親しい女人、時には自分の妻にさえ、その魂の底を凍りつかせるような冷酷な瞳で睨むことがある。
「くだらんことをいうな。今は一分一秒を争う場合だ。私情をさし挟むときでない。美容師、着付師の職業人のグループを、部屋のすみに集めて、やはりブラジャーの中と、今度は腰の中へも手を入れさせて探ってもらう。これは実際に性の経験のある女は却って、そこがどんな作用をする場所かよく知っているからやり難い。胸やブラウス、着物の裏側などは、他の三人の年長のグループにやってもらうが、実際に腰の回りの下着の中は、お稽古一人にやらせろ。別にむりに中に入れさせなくてもいい。あのリボンは六十センチはあった。いくら小さくたたんでも現在の女性の下着では、中に押しこんでみても外から触れば十分に分る。それでいい」
「では峯岸婦警にそのことをやらせます」
去年入ってきたばかりの新米の見習刑事の峯岸稽古は、みずえの出た、会津白虎高校の後輩だし、それまで防犯少年課にいたのを、みずえの強力な推薦で、鬼の捜一、殺人専門の強力犯係に入ってきた。みずえの命令なら、どんなことでもきく。そんな命令をいやがる女ではない。
本人も、第二の、志村(旧姓、現・岩崎)みずえ警部補を目ざして張りきっている。
「彼女なら立派にやりとげます」
「それなら折角の長い振袖ではやりにくかろうが、君が手伝って、背中で袖をしっかり結んでやり、両手を自由に使えるようにして断固やらせなさい。こういうことは、あくまで殺人犯人を見つけ出すということが本筋だ。そのためには、人権もセクシャルハラスメントも羞恥も、世間の常識には何もこだわることはない。取り敢えずお稽古にそれだけ命じて、また出てきなさい」
みずえ夫人は、また、夫の警視正の指示を伝えに中に入った。中で多少の動揺があったようだが、三人の先輩と峯岸稽古は、その指示に従って行動しているようであった。
今度の指示もほんの二、三分しかかからなかった。
休職中といえども、みずえの指示は的確で要領よく、しかも威厳があるので、中に入っている女刑事諸嬢には従い易いものであった。
三度目に出てきたみずえはいった。
「まだ、親戚の人や、付添人、仲人さんの夫人が中に残っているわ」
「待合室を見張っている四人をすぐここへ連れてきなさい」
みずえは、訪問着の裾を押えて、各式場の周辺や、待合室などへ呼びにいった。怪しい挙動の者がいないかと見張っていた残りの女刑事が四人、着付室の前に集った。四人とも、刑事だといわれなければ、ごく普通の娘さんであり、若奥様であった。僅かに、みずえの指示のもとにきびきびとたち働く姿が、刑事らしさをしのばせる。
「一人はすぐ本庁の鑑識へ電話をかけて指紋採取の用具一式を、近藤鑑識官にすぐ持ってくるように連絡してくれ。そのとき、普通の背広か、できれば同僚に上質の礼服に近いのを着ているのがいたら借りてきて、絶対に白衣を着てこないようにと注意しなさい。器具は小型アルミケース一つにまとめるようにして、外からは目だたないようにして入ってもらう。君は玄関で待っていて、鑑識官がきたら、すぐにホテルの事務室へ入れてしまい、外部の者には気づかれないようにする」
指名された女刑事は、黒いパーティドレスを着ていたが、少しスカートの裾を上げて、廊下のカード電話が並ぶ台の方に駆けて行った。
その間にも、乃木と原田の両刑事花嫁に胸の内側を検査された花嫁たちが、無事終って、ほっとした表情で何人も出てきた。着付室の中で行われたことや、殺人事件のことは、このお目出度い婚儀をすべて終えるまでは、絶対しゃべらないことを、部屋の中に入ってきた刑事たちに厳重に言い含められている。それはお祝いの席の気分をこわしたくないから、彼女たちの気持も同じだろうし、第一、結婚式の式場では、来賓と違って花嫁がスピーチすることなどないし、無駄な話をする機会もない。まず洩れないだろう。
いずれも一人で出てくると、少しはじらいで染まった顔をうつむき勝ちにして、手をひいてくれる人を待つ。
みずえが三人の女刑事と一緒に手配し、仲人の女性が中にとじこめられて出られないで一人で出てきた花嫁には、母親か伯母、姉などを『ちょっと事情があって、仲人さんが来られませんから』といって呼びに行かせた。着付け、衣裳直しを終えた花嫁さんは、全部、式場や披露宴会場へ出て行った。時間は五分とおくれていない。送り出した後で岩崎警視正に指示されて、みずえが三人の残った女刑事にいった。
「中へ入って、美容師、着付師の検査をすべて、お稽古が終えるのを待って彼女らの全員を一度外へ出しなさい。中に親族、仲人、関係者だけを残すのよ。つまり、夫の警視正の推理によると……」
とすぐそばに無言で立っている夫をチラと見ていった。
「夫の話ではこれまでは、只、念のためだけだったのです。三人は中へ入る。これからが本式の捜査です。扉は厳重にしめる。いかなることがあっても途中で開かないようにして、中から鍵を下ろし、一人がそこに張番に立つ。間のカーテンはすべて外す。医師と看護婦は一時的に、部屋のすみの物蔭で、反対を向いて坐ってもらい、こちらから合図があるまで、決して後ろを振向かないようにする。中の刑事のうち、乃木と中村は手伝いを終えてすぐに制服の着付けに入ってもらう。たとえ儀礼服でも、もとは警察の制服です。美容師がいなくても自分で着付け、お化粧も自分でするようにいいなさい」
「はい、二人には自分でやらせます」
「これで殺された花嫁の花婿以外の花婿と会場の客は、ほぼ時間におくれることなく、滞りなく式はすませられるわけです。花嫁を殺された花婿は、どうせいくら待っても最愛の花嫁は帰ってこないのですから、私たちの手で少しでも早く犯人を挙げてやるのが最善の道です。いいですか。三人は中へ入ったら、これまでいた四人の女刑事と協力して、中にいる関係者全員を、一人ずつ、全部脱がせなさい。襦袢もパンティも、すべて裏までひっくり返して調べなさい。当然、中には仲人を頼まれた名流夫人もいるし、また未婚で、初めてこのような晴れがましい式に出てきた、純情なお嬢さんもいるでしょう。しかし抗議が出ても泣かれてもすぐそばで胸を後ろから刃物で一刺しで突かれた女の人がいることを思い出させなさい」
それまで黙っていた警視正が初めて直接に指示した。
「なあーに五分もすれば、腰布の下か、ブラジャーの裏か分らないが、必ず六十センチぐらいの長さのリボンが出てくる。誰かから出てくる。ナイフはどうでもいい。三十秒もあれば探し出せるからこだわらないこと。リボンが出てきたら、扉の内側から、トントンと三つ叩け。他の者は客の各人が仮に肌をかくせる程度のものを大急ぎでまとわせてから外に知らせてくれ。また美容師、着付係を入れて、大急ぎで仕度させて、知らん顔ですぐ会場に戻してやる。ただし赤いリボンを隠し持っていた者は実行犯人だから長襦袢かスリップだけにして、お稽古を一人見張りにつけて、中に監禁しておけ」
「はい」
残りの三人の女刑事はみずえと一緒にすべて着付室の中へ入って行った。
翔が、父親の足もとに来て
「ママやお嫁さん随分、時間おそいねー」
と訊いた。ガールフレンドの|新菜《ニーナ》もそばにきて、翔と一緒にしゃべった。
「お嫁さん随分おそいのねー」
警視正は、その子供たちや、|新菜《ニーナ》の母の、同じマンションの商社員夫人に弁解するようにいった。
「女の人はどうしても実物以上に美しく着飾ろうとしますから、自然に時間を食ってしまいます」
本当に五分で全てが決った。
まさに岩崎警視正のいった通りであった。
扉の中からトントンと三つ叩く音がした。
警視正は扉ロに耳をつけて中の声をきいた。
「リボンが出てきました。お腹の中に押しこんでありました」
みずえの声だ。
「六十センチの長さのケーキカットのナイフの尻にくっついていた奴だったろう」
「そうです」
「隠していたのが誰かは今いわんでもいい。すぐ分ることだ。スリップか長襦袢のまま、後ろ手に縛っておけ。他の者は肌をかくす程度のものは着させたか」
「はい。大体着ました」
「では、すぐ外に出しておいた美容師だけを入れるから急いで元とすっかり同じ姿にさせる。中にあったことは今は何一つしゃべらないように、よく念を押して、また会場に戻るようにさせなさい。他の先任刑事に中の指揮をとらせ、みずえは赤いリボンを持って出てきなさい」
中の手配をすませ、美容師、着付係などがどっとまた女子着付室へ入って行くのと入れ違いに、白い絹布に大事に包んで、指紋がつかないようにした、赤いリボンを持ってみずえが出てきた。
警視正はすぐにそのみずえにいった。
「一階の事務室の中には、既に到着した近藤鑑識官が器具を揃えて待っている。そこで指紋をとってもらう。その指紋が、今日、我々二組のケーキカットのナイフ持ちを手伝った、身長も容貌もよく似たアルバイトボーイたちのどちらのものであるか、すぐ照合してくれ。それがナイフを現場に運んで犯人に渡した共犯者なのだ」
「はい、下の事務室に行って来ます」
警視正の夫人のみずえは、訪問着の裾が多少乱れて赤い裾よけが少しぐらい見えるのは、もう気にしていられず、じゅうたんをしきつめた階段を、まるで飛ぶように駆け出して行った。
[#小見出し]  結婚の歴史
[#小見出し]       5 近代の結婚[#「5 近代の結婚」はゴシック体]
男と女が、お互いに好意を持ち合って結婚するようになったのは比較的近代のことだ。
明治、大正までは、それは『自由恋愛』として、ごく特別の、一種の不道徳な所業に考えられていた。現在でも見合結婚の比率はわりと高い。
一つには恋愛をすると自然にセックスを許す。男は一回セックスをすると、もうその相手とは結婚したがらないので、その後、許した女は仕方なく、初めてのような顔をして見合をして、やっと待望の結婚にゴールインするのである。
5[#「5」はゴシック体]
カラオケの|種《タネ》も出つくし、ご馳走も腹一杯につめこんだ。酒も快く回ってきた。
少し花嫁の仕度が手間どっているようだが、これは和服を脱いで、洋服に替えるのだ。女は男より、体中にずっと複雑なものを沢山つけているから、多少のおくれは我慢してやらなくちゃいけない。
きっと、すばらしい洋装の美女が出現するだろう。制服をつけてもあれだけ美しかった二人なのだから。
出てきたら何と声をかけてやろうか。
みなが期待をこめて待っていると、突然、場内の電気が消えて真暗になった。
いつのまにか花婿の姿が席から見えなくなっているのは、花嫁を迎えに行って、二人で手をつないで出てくる趣向か。暗い中で正面の扉があいた。
パーッと一斉に電気がついた。
うおーっ! という叫び声。手の皮も破れんばかりの拍手。
スポットが四人の姿を照らし出した。一番右が警視の金モールの儀礼服の高橋係長、その隣がやはり金モールに白い警笛の紐も真新しい、儀礼服姿の乃木圭子。乃木に並んでやはり同じ婦人警官用の儀礼服の中村(旧姓原田)ひとみ、その隣が、オリンピック選手候補時代に作った、両肩から白い革バンドで二挺のピストルを交叉して吊した制服の中村。
四人とも全く同じ形の見事に決まった、敬礼であった。
どっと拍手が上る。
更に後ろの扉があくと、みずえを中心に、訪問着、ロングドレス、カクテルドレスなどの美しい姿に着飾った八人の女性が並んだ。
そしてみずえの指揮で、エレクトーンの伴奏で、一斉に
「ここに幸あり」
「花嫁御寮の歌」
などを、二部か三部のハーモニーに分けて唱い出した。
この賑やかな趣向に、副総監以下は大喜び、誰もそのとき、岩崎警視正がそこに加わっていないのに気がついた者はいなかった。
長襦袢一枚つけただけで三十ぐらいの女が柱に結びつけられている。
そこへ、たった一人、合唱団に加わらなかったお稽古が、ボーイの一人の後ろ手首をしっかり把んで入ってきた。ときどき男の尻を蹴とばして急がせる。
岩崎と女の犯人、ボーイと峯岸稽古。この四人に、死骸と医師。部屋はこの六人だけでまた閉めきられた。
警視正がいった。
「花嫁の急病ということで、このカップルのお客さんだけは引出物を渡し、花婿さんに挨拶してもらって無事帰ってもらった。今、この現在、このホテルの中で殺人が行われたことを知ってる客は一人もいない」
柱に縛られた女はほっとした顔をした。岩崎はいつもの冷酷な魂を凍らせるような目でその犯人を見つめていった。
「明日はそうはいかんよ。今夜みなの結婚式が解散するころ、新聞・テレビすべてのマスコミが来る。社長の長い間の愛人が捨てられ、若い事務員に社長の妻の座を取られた口惜しさに、花嫁化粧中の後輩の事務員を激励するふりをして後ろから刺した。ナイフはケーキ切りで使った奴だが、花嫁衣裳の帯に差す懐剣の空の鞘にうまく納めて隠した。しかしリボンだけはどこへも隠せなかった。手伝ってくれた今のボーイフレンドの年下の青年もリボンを外して持ってくるまでの時間はなかった、というところだ」
女も、ボーイのアルバイト男も、罪の怖しさにおびえて、そこの畳に大声を上げて泣き伏したのだった。
[#地付き]〈了〉
[#2字下げ]初出誌
[#2字下げ]敢えて犯人を求めず
[#5字下げ]オール讀物/平成元年四月号
[#2字下げ]殺人者はL・S・D
[#5字下げ]オール讀物/平成元年六月号
[#2字下げ]ゴンドラの花嫁
[#5字下げ]オール讀物/平成元年八月号
[#2字下げ]真犯人は伯爵令嬢
[#5字下げ]オール讀物/平成元年十月号
[#2字下げ]殺し屋のお値段
[#5字下げ]オール讀物/平成元年十二月号
[#2字下げ]花嫁御寮はなぜ剌されたのだろ
[#5字下げ]クォリティ/平成二年一、二月号
[#2字下げ]単行本
[#2字下げ]平成二年四月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成四年十二月十日刊