胡桃沢耕史
翔んでる警視正 平成篇1 警視正天山南路を行く
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[#小見出し]   一人の人間がいた
日本の帝国陸軍は明治維新直後の建軍以来昭和二十年(一九四五年)の終戦で崩壊する日まで、八十年近い歴史を持っている。
その中で特筆すべきものは将校たちの階級や昇進がすべて序列本位で、出世の順番は家柄に関係なく大体陸軍士官学校の卒業席次で決まったという珍らしいシステムを持っていたことであった。士官学校を同期生のトップで卒業できれば、以後の軍人生活は順風満帆、まず殆《ほとん》どが、将軍の座にはすべりこめた。外国の軍隊にはこんなシステムを持つものはない。
民間の大学・高校と違って、幼年学校や陸軍士官学校は、睡眠時間や、自習時間が決められているから、勉強する時間はみな同じ、努力も体力も関係なく、成績はそのまま頭の良さを反映していると考えられていた。
だが実戦集団の面白さで、その秀才がそのまま原則通り名将には成長しなかった例も多いのだ。
八十年の歴史の中で、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学をすべて首席で通した、怖ろしいほどの秀才が四人だけいた。
陸士の卒業期は、その人間の生年の明治の年号と大体合致するので(例、明治二十五年生れなら陸士二十五期)、どの時代に活躍したかが分る。その四人とは、藤室良輔(二十七期)、高島辰彦(三十期)、西村敏雄(三十二期)、原四郎(四十四期)だ。
この中で陸軍大将まで到達した者は一人もいないし、戦場での名将ぶりを讃《たた》えられた者もいない。その他良いにつけ、悪いにつけ、陸軍史に名を残した者もいない。いずれも人物が偏狭で、部下の人望が全く得られなかったらしい。
津正信という軍人がいた。明治三十五年生れ、陸士三十六期でノモンハンからガダルカナルと、太平洋戦争に活躍した軍人である。幼年学校、陸軍士官学校は共に首席、陸軍大学だけが二番で、惜しくも三冠王を逸した。参謀として在任中から名声|赫々《かつかく》として、佐官の身分で、上司の司令官や、師団長などを逆に叱咤《しつた》するほどの勢威を自然に持つほどの力量があったが、彼が将官になる前に戦争の方が先に終ってしまい、軍人としての一生の決算はついていない。ただ在任中
『将来は国軍の至宝となるべき人物』
と賞讃する仲間と
『協調性全くなし。自我を押し通し大局を誤るので、中央の要職には、絶対任用してはならない』
と評価する先輩とにはっきり分れていた。
戦後、一時国会議員になったが、その後、治に居て乱を求めるとされた性格がまた出て、治安も保証されない東南アジアの阿片栽培地区へ潜入し、そこで消息を絶った。戦争中シンガポールで、かなりの数の華僑《かきよう》や、英国兵の虐殺を命令したので、復讐《ふくしゆう》をされたというのが定説である。
死亡時期、場所、加害者、墓地等、一切は明らかになっていない。
行方不明になった時期は昭和三十六年四月前後である。本篇の主人公の岩崎警視正はやっと小学校へ入ったころだろうか。
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目 次
第一章 北京争乱
平成元年六月のこと
第二章 ホータンにて
昭和六十三年九月のこと
第三章 カシュガルにて
昭和六十三年九月のこと
第四章 ハン・ノイ遺跡にて
昭和六十三年九月のこと
第五章 天山南路を疾《はし》る
昭和六十三年九月のこと
第六章 北京暴乱
平成元年六月のこと
八月のこと
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[#見出し] 第一章 北京争乱
平成元年六月のこと
万戸傷心生野煙 町中の人が広場の煙を怖がってるよ
百官何日再朝天 役人は政府を見捨ててどこかへ行き
秘槐葉落空宮裏 空っぽの故宮の裏で落葉が舞ってるのに
凝碧池頭奏管絃 公園の池にはデモの学生の歌が賑《にぎ》やかに聞こえている
『北京について』
北京 北平 燕京 PEKING
いうまでもなく、中国の都の名だ。戦時中、つまり四十五年前の太平洋戦争中は、首都が南京にあったせいで、一時的に北平《ペイピン》と呼ばされた時期もあったが、明《みん》や、清《しん》や、それ以前の元《げん》の時代から八百年続いて中国の首都だったし、唐代以前の戦国時代も、国都であったことがあり、都としての歴史は長い。
河北省北部の平原に位置しており、現在の中華人民共和国でも勿論《もちろん》首都である。
北東部は燕山《えんざん》、都山に囲まれ、南西は傾斜して、開いている。満洲(現在東北地方)、華中、華南に向う、中国全体に走る鉄道のすべての始発駅にもなっている。
かつては代表的な文化都市で、同時に消費専門の都市でもあったが、現在は学術・文化だけでなく、製鉄業や、機械工業の大工業団地も作られており、周辺には公団アパートが林立して近代的な生産都市に変貌《へんぼう》もとげている。
住宅は、旧城壁をこわして平地にしたその外の地域に整然として建てられ、工場は西方にあった荒蕪《こうぶ》地を埋め尽くさんばかりに建っている。
古都北京の代表的建物は、映画『ラスト・エンペラー』の舞台となって、内部を丹念に映された故宮(紫禁城)で、清王朝の王城であるが、その他にも、北海公園、景山、頤和《いわ》園などの名勝が、市内に沢山残っている。
しかし、現在、外国人観光客の目をひきつけるものは、一九四九年の中国共産党政府樹立のときから、営々として作られた、天安門広場の威容である。
一九五八年の人民大躍進運動後に整備され、広場を挟んだ反対側には、人民大会堂、歴史、革命、両博物館が並ぶ。
最近はそれに、各国資本が流入して、広場の周辺にホテル建築ラッシュが生れ、二十階、三十階の近代的ホテルが続々と生れている。
もし今回の、北京争乱がなければ、現在工事中のホテルはすべて、一九八九年中には完成され、大勢の外国人客を迎えて、目下盛業中のはずであった。
しかし六月に起った争乱は、ホテルの工事をすべて中途でストップさせ、たまたま完成して営業中のものも、何百室もの部屋にすべて客はなく、一日、二、三人の滞在客のため中を暗くして、エレベーターも必要なときだけ電気を通して使うという、青息吐息の経営をしている。
北京だけでなく観光客全体の激減で、生産性の低い中国経済は、建国以来の危機に陥っている。
平成と年が改まっても、あまり世の中は平静でない。
去年から連続して発生して帝都の母親を不安に陥れている幼児の誘拐犯がまだ捕まっていないが、それに加えて東京ではさまざまの事件が続いた。
警視庁の殺人係捜一は、綾瀬《あやせ》の母子殺し、江戸川の女子高校生殺し、練馬の警官殺しなど、数々の大事件を担当して相変らず忙しい。
その上五月から六月にかけて、お隣りの中国に大事件が発生した。
国民の目が、連日、中国の北京から送られてくるテレビのニュースに釘付けになってくると、いくら捜一はそのような外国の問題に関係ないといっても万更《まんざら》無関心でもいられない。
六月に入ってすぐの、北京の天安門事件が、これまでの平和デモの様相を一変し、そろそろ内乱に近い、実力の暴動事件に発展しそうな様相が見えてきたときだった。
前ぶれもなく、総監や刑事部長を通じての予告もなく岩崎警視正に公安部長じきじきの電話があった。
「ああ、もしもし、岩崎管理官かね」
言葉の具合からも相手は庁内の上司と分る。
「はい捜一の岩崎警視正です」
丁重に答えた。
「公安だ。部長だ」
「はい」
時間は昼前。みな少しホッとするときで、只今のところ東京都内では大ニュースはない。
公安部は、総務、警務、交通、警備、警ら、刑事、公安、防犯と八つある警視庁の各部の中でも、実質上は最先任の部であって、公安部長は各部長の中でも、最も責任が重く地位も高いとされている。ここまで辿《たど》り着いたエリートは、大体、次の次ぐらいには、必ず警視総監になれる。
「私に何か御用でございますか」
岩崎警視正は緊張して答えた。
「うん、用というほどのことではない。あまり、堅苦しく考えないでくれ。ただ昼メシはまだかどうかきいてみたかった。もしまだなら、外で飯でも喰わないか」
これがそもそもおかしい。公安と刑事はまず直接同じ事件を受け持つことはない。岩崎は素早く頭を働かしたが、すぐ思い当ることはない。
公安部長は各部の部長の中でも身分がトップであるだけでなく、同時に最も頭の切れる人物としても定評がある。同じ東大を出て、公務員試験も同じように優秀な成績で通った大先輩だ。どこか性格にも共通の冷酷さがある。
これは最近急に内閣が変ったことに関係があるのだろうか。電話をききながら一瞬チラとそんなことを考えた。今度突然に内閣の長になった人は、実力で総理の座をかちとった人でなく、何となく汚職にかかわらなかったというだけのことで、ひょいと総理にされただけに政権の基盤がひどく弱い。
国民の安定した生活を維持させることが内閣の公安調査局の目的であり、それの帝都での実際の手足であり、実行部隊が警視庁の公安部である。基盤が固まるまでは神経質になっているのだろうか。勿論、同じ本庁に勤めている関係で、これまで顔は何度か合せている。部長が以前外事一課長時代には一緒に事件を捜査したこともある。今でもすれ違ったら挨拶《あいさつ》ぐらいはする。といっても身分が違うから岩崎の方は立ち止って目礼、相手は無言でうなずき返すぐらいで、このごろは一度も親しく話し合ったことはない。この二、三年は飯を喰うのは勿論、喫茶店でコーヒーを飲んだことさえない。
これが上司の刑事部長が、この春以来未解決の連続幼児誘拐事件にまだメドがつかないのに苛《いら》だって岩崎の考えをききたい、ただしその専任に当っている、五係や六係の捜一の同僚|刑事《デカ》諸君を無用に刺激しないためにどこかで二人だけで飯を喰いながら、密《ひそ》かに有効な捜査手段をきいてみたいというのなら、分らないことはない。
自分はあくまで殺人事件を専門に追う刑事警察の第一線捜査官であって、デモや暴動とは、全く関係ないはずだ。不審に思いながら、ひょいと横を見ると、ふだん勤務時間中にはつけないでおいてある部屋のテレビが今日は朝からつけっ放しになっていて、何人かが腕組みして見ている。これは大事件が発生したときに、特に許されていることだ。ニュースによると今日も中国の天安門では、何万人もの学生が坐りこみ、どうやらそれに一般の市民たちさえ同調して加わって暴動に発展しそうだ。すぐに岩崎は答えた。
「はい、部長殿、只今、そちらへ参りましょうか」
「そうだな。一緒に出るところを他の奴らに見られると、どこで何をいわれるか判らないな。別に忍び逢《あ》う男女の仲ではないがね、内閣もつい先日新しく宇田さんに変ったばかりで、公安上問題のない平穏な時代ではない。お互いに行動は少し慎重にしよう」
電話なのに急に声を低めて
「正午に、日比谷ビルの一柳亭に来てくれないか。一緒に鰻《うなぎ》でも喰おう」
といった。日比谷ビルなら警視庁から歩いて七分、車で二分だ。ビルの六階に超高級の鰻屋がある。
ポケット・ベルを部下に見せながら
「何かあったら、これで呼んでくれ。ただし庁内にはいない。ここへ戻るのは早くて十五分ぐらいかかる所にいると考えてくれ。その間自分らでできることは、自分らでまず処理してから連絡してくれ」
と指示をした。若い警視の、高橋、松村、両係長は、直立した姿勢で、その言葉をきく。
警視正は一人で廊下に出る。
いつもつれて行く、進藤デカ長、武藤や、中村などの猛者《モサ》、乃木、原田などの婦人刑事が、目礼で見送る。
表玄関へ出て、すぐタクシーに乗る。まだ本格的な暑さが始まるには少し早い季節だが、昼の太陽は、やがて来るべき夏の暑さを予告するかのように白熱の光りを注いでいる。
日比谷ビルには二分でついた。運転手があんまり近いので、降すときに少し不思議そうな顔をした。
六階に、その一柳亭という店がある。ビルの中だが、入口の格子戸からすべて和風に改造され、植込と玉砂利で作られた小さな径《みち》を入って行くと、奥まった離室《はなれ》の感じで、幾つかの座敷があった。
その内の一つに通された。
既にそこには公安部長が来て待っていた。
それだけでなく、その横には、現在退官されている、前の総監閣下が坐っておられた。これは、岩崎が予想したことであった。今日の呼び出しが天安門事件と結びついたことだと早くも見当をつけた。
前年の十二月、まだ任期を残して勇退された方だ。そして庁内では去年の旅行のことを知っている唯《ただ》一人の方だった。九月に直接岩崎に電話をかけて呼び出してきた方だ。その総監閣下から言葉があった。
「去年君には無理な仕事を頼んだ。しかもそれが終った後も、慰労の会もできずわざと知らん顔していて申し訳なかった。実は私も、総理の御命令で、官邸まで付添って行っただけで本当のことは何も知らなかったのだ。総理に部下である警視正の君を紹介すれば、あの日の仕事は終りで、その後君がどんな仕事で、どこへ行ったのかも知らされていない。それは当時は国家の秘密事項であり、私は触れたり、口を出したりしてはいけないことだと思ったせいもある。だから十日ほどして無事帰国したことが分ってもわざと君を呼ばなかった」
クーラーがきいて小部屋はひんやりしている。熱いおしぼりが運ばれ、テーブルを挟んだ三人は首の周りの汗を拭《ふ》いた。つき出しが運ばれる。
おかみがやってきて
「昼間ですが、一本ぐらいいいでしょう。車を運転しているわけではないでしょう」
と各自のコップにビールを注ぐ。
その間に、鰻の頭や肝で作られた料理の小皿が運ばれる。
おかみが挨拶して去ると、公安部長が手をのばして、床の間においてある小型のテレビをつける。
画面は、すぐに北京の天安門を写し出す。
ほんのちょっと前までは、北京市民の聖地巡拝の目的地であった。日本でいえば宮城前広場で、二重橋をバックにして記念撮影をするのと同じように、全中国国民が親しみと尊敬をこめて、大事にしてきた広場に、今、学生か、唯の市民か分らぬ、何万人もの群衆が集ってきている。のぼり旗。無秩序の騒音。
広場のあちこちに天幕が張られているのは、それらの群衆が、ここに泊りこんでいるためだ。焚火《たきび》の跡や、飯盒《はんごう》や鍋が吊されている榾木《ほたぎ》も見える。
「私がこの動乱について考えるのは……」
と、ビールのコップをおくと、公安部長はいった。慎重な口調であった。
「……どんな民衆のエネルギーも決して、無からは生れないということだ。昭和三十五年というと、若い岩崎君は幾つぐらいのときだったか知らないが、日本中に『アンポ ハンタイ ハマ ヤメロ』の声が澎湃《ほうはい》として起った時期がある。ハマというのは当時の総理であられた浜大介さんのことだ。純粋な国民の発意と思われたあの騒ぎでさえ、そのかげで交通費を出し、弁当代を出して応援した者の存在があったことが当時から、はっきり分っていた。まして現在の中国の民衆の多くは、殆どが喰うや喰わずの貧しさの人ばかりだ。その人々が仕事をほうってこの広場に集って一つのエネルギーを結集する。無料奉仕であるはずはない。この巨額の費用は一体どこから出たかを、私は君と少し話し合ってみたい」
岩崎は、その部長の言葉に当惑した。
「それはどういうことですか。部長は何か私が資金ルートを知っていると考えられているのですか」
「いや、これはこちらの単なる想像にすぎないのだがね、武村総理は、このことをかなりの確度で早くから予見されていたと私は信じている。たとえ宇田内閣が、先日成立したばかりでも今は武村さんは前総理であるから、私ら公安部の立場としては一人の人間として武村さんの行動を監視する必要が生じた。公安部というのは常に現政権の安定を願う立場にある。現職を離れた総理はもう総理ではない。現総理の安定のためには、CIAかKGBに徹して前総理の行動や発言を厳重に監視しなくてはならない」
「なるほど……そういうものですか」
常に国家の秩序に責任を負わなければならない公安部の持つ、きびしさだ。アメリカではCIA、ソ連ではKGB、イスラエルではモサド。それぞれ世界のどの国でも国家の安泰と秩序維持のため公安関係のベテランが、昼夜を分たず、国民に監視の目を光らせているのだ。ある感慨をこめて岩崎はいった。
「フーシェという人のことを思い出しました」
部長はうなずいた。
「そうだよ、公安部はフーシェでなくては勤まらない。特定の個人にずっと忠誠を尽くすことはできない。常に時の最高権力者の政権がいささかもゆるぐことのないように、生命をすり減らす。時には昨日の主人を断頭台に平然と送ることもある」
フーシェというのは、フランス革命時代のパリの警視総監だ。ルイ王朝のときも総監だったが、革命政府のときも同じく総監を勤めて王朝貴族を片っぱしからギロチンにかける。しかもその後のナポレオン時代も、その後の王政復古時代も、いつの時代でも、不死鳥の如く蘇《よみがえ》っては警視総監の職につき、前の時代の上司やそのときの反対派を死刑にし続けたという普通では考えられないほどの不思議な経歴の人物である。公安部長は、昨日まで仕えていた上司を今日は監視の対象にする、自分の冷酷な職務に徹しなければならない。
そこへまた女中が入ってきた。小串《こぐし》の|いかだ《ヽヽヽ》という、この店独特の料理が、膳の上に並べられた。
「さあーメシが来たぞ。喰おう」
そういって、自分から先に、重箱の蓋《ふた》をあける。前総監も、部長にうながされて黙って蓋をあける。
おいしそうな匂《にお》いが部屋中に充満する。前の総監といっても、今は退官して、民間の交通関係の協会の理事長をしている身分だ。たとえ過去は上司であったとしても、今は監視される、一民間人のはずだと、岩崎は考えた。
とすると、これは公安部長が何か職権によって、去年の岩崎の旅行との関連を取調べるため、前総監も参考人として呼んだものと考えた方がよいかもしれない。
岩崎も鰻は嫌いでない。飯の上に細いいかだのように並べられた小串がのせられている重箱に箸をつけながら、これはかなりきびしい飯になりそうだなと、覚悟をした。一年ほど前、『なだ万』の重箱弁当で、えらいしんどい仕事を引き受けさせられてしまった過去がある。
上司というものは、政界であれ、官界であれ、タダ飯を喰わせることはないと考えた方がいい。
これは芸術品ともいわれる高級な鰻だ。うまい。小串が筏《いかだ》状に並んで口の中でとけそうだ、だから無気味だ。
これまでの日本は治安面でみれば極めて平穏、内乱は勿論、大きな暴動も、建物や、街路が破壊されるようなデモも起っていない。
国民が何かを訴えるため、政府に向ってデモ隊を集結させるなんてことは、樺《かんば》美智子事件以来、絶えてなかった。国民がみなこの北京の動乱を胸をわくわくさせて、見物をしている。
日本中の会社人間が、営々として働いて、日本の経済力を押し上げ、日本国が豊かになり、喰うに困る民衆がいなくなった。日本には幹部の自分らだけが入れるデパートで買物する特権階級もいなければ、極端な貧民もいない。国家に向って生命がけのデモを起す理由がない。たまにあっても消費税反対や、森の緑を守れなどという程度の国民の生死に関係のない屁《へ》のような要求だ。
しかし隣国のデモは様相が違う。
この数年、国中をゆるがす大事件には直面したことがなかった政府の公安関係の職員は、隣国の民主化要求デモにびっくりして急に神経をとがらせたのか。実は去年の内ある小さな情報があったのを、関係者は当面の日本の動向に関係ないことと放置しておいたのを、今になって思い出したらしい。
そうでなければ、別に|007《ゼロゼロセブン》でもない、単なる殺人係の一刑事が、わざわざ呼び出されるわけがない。
丁寧に焼かれたうまい鰻だ。三人ともしばらくテレビを横目で睨《にら》みながら黙々と食べる。
このデモ騒ぎを、これまでの公安的な尺度で考えるなら、部長には全く理由や、その黒幕が把《つか》めないのだろう。ひどく戸惑っているのだなとその横顔をチラと見て岩崎は感じた。
自分がその暴動について、すべてを知ってるわけではないが、そのエネルギーの源について、普通の人よりは、多少は知っている秘密の事項がある。……ただ不思議なのは、自分が何らかの形で、この北京争乱の原因の一部に関与《コミツト》しているということを、どうやって公安部が嗅《か》ぎつけたのかということだ。
先ほどの前総監の話を額面通りに聞けば、彼もまた、去年岩崎が総理に何を頼まれたのかは知らなかったはずだ。
といって別に聞かれて特に困るようなことでなく、ただ単に殺人係刑事が頼まれて、殺人捜査に行っただけのことだが。
但し、事件が起きたのが三十年前
[#4字下げ]発生した場所が日本から遠い秘境、被害者はなるべく世間に発表したくない人物でかなり有名人
と、通常の殺人事件と比べて何もかも異例のことずくめであった。更にもう一つ事件を彼に頼んだ人がつい先日退陣されたばかりの前総理の武村閣下だったことだ。だが早速これが、もう国家の公安調査の対象になるものとは思わなかった。
これまで八つある、警視庁の各部の中で、公安が最先任の部とは知っていたが、やめたばかりの前総理の身辺を調べるほど大きな権力を持つ部とは知らなかった。役人だから人事の辞令で動く。いったん他の部への転任辞令がくればフーシェと違って部長の権力などは、その日のうちに、雲散霧消してしまうのだろうが、公安部長の職にいる限りは、直属の現在の上司のために他のあらゆる高官や大物を監視の対象として調査することができるのだ。多分それは、内閣公安調査局という、世間にはよく知られてない役所の、日本のCIAといわれている、部局の下に、監督を受ける身分であろうが。
黙々として鰻を食べている部長の細身の体が、まるで去年、中央アジアの街ウルムチ市から仰ぎ見た天山の主峯|博多拉《ポタラ》山のように大きな威圧感をもって迫ってくる。
「あ、それで」
いきなり箸を止めて、部長はきいた。
「君は現在、北京に大使として赴任しておられる嶋中《しまなか》さんとは、たしか旧知の間柄だったね」
岩崎は突然六年も前のことを思い出させられてしまった。サンパギターの白い花が、夜になると、夕闇《ゆうやみ》に溶けるようにして、甘く漂い出す。頭の上には南十字星がきらきらと輝いている。シンガポールの夜は悩ましかった。パリの国際刑事警《インターポ》察機《ー》構《ル》での研修を終えた、二十歳もまだ半ばの岩崎が、いきなり東京の警視庁の中でも最も荒っぽい猛者刑事《モサデカ》が揃っている、捜査一課の係長に任命された、そのすぐ後のことだった。
階級こそ、一般刑事とは、大分離れている警視であったが、部下はいずれも殺人捜査だけを追って、五年十年とやってきたベテランの猛者ばかりである。ちっとやそっとでは、学校出たてのエリート上司のいうことなどききはしない。それを何とか半年ぐらいで、やっと自分に心服してついてくるようにしたばかりのころ、シンガポールで日本人旅行者の連続の殺人事件が起って、何人かの部下とともに、派遣された。といって捜査権はその土地にあるシンガポール政府の現地警察が持っている。日本の主権のない外国のことだ。
表面はシンガポール観光団ということにして、現地警察や、アメリカのCIAの諜報《ちようほう》員の仲間と協力しあって、その殺人事件を解決した。(「翔んでる警視U 警視南十字星を仰ぐ」参照)
そのときシンガポールに大使として赴任していて、岩崎警視の捜査を助けてくれたのが、嶋中大使であった。
「よく知っております。随分ご協力いただきまして事件は無事解決しました。外交官に珍らしい豪快な方です」
「その後、嶋中さんはニュージーランド大使、外務審議官を歴任して、現在、駐中国大使として、北京に居られる。動乱の場所、天安門から、五百メートルも離れていない所に日本大使館があるそうだ。もし北京の民主化デモが、だんだん大きくなり、本物の動乱になったら、今、五千人以上いる在留日本人を、安全に日本に送り返さなくてはならない責任を持っておられる。今、各国に派遣された日本の大使の中では、最も忙しい方だ。多分、情報収集に、情勢の分析に、全く一秒の暇もなく活躍しておられるはずだ……」
岩崎も六年前、シンガポールで会ったときの、外務官僚には珍らしい実務型の野性味|溢《あふ》れる、大使の風貌を思い浮べた。
去年ほんの十日ばかり中国へ行ったときは、直接、新疆《しんきよう》省の奥地、烏魯木斉《ウルムチ》から、|喀什※[#「口+葛」、unicode5676]爾《カシユガル》まで入ってしまった。十日間では北京へよる時間がなかったし、一司法警察官が、大使館にわざわざ表敬訪問するほどのことはない。大使に会ったのがその五年前のことだし、先方がこちらを覚えていてくれるかどうかも分らない。遠慮して行かなかった。その程度のかすかな知り合いだった。
しかしなぜ今、大使と知り合いのことなど聞かれたのだろう。公安部長はいった。
「武村さんが、まだ総理の椅子に坐っておられるときなら、そのなさることはすべて公務で、存在が日本国家そのものなのだから、いくら在外公館へ電話をされようと、大使に直接命令を下されようと、それは全く問題にならない。しかし現在、総理の椅子を去られ、政府関係の役職には何もついておられない。公安の方の分類からいえば単なる一般の民間人と同じということになる。その一般民間人が、動乱が始まってからは外務大臣よりも頻繁に、大使に電話をかける。何かを指示する。警視庁公安部としては、公安関係のもっと上層の機関である、内閣公安調査局の指示もあって、前総理の電話はすべて盗聴、録音している。その中で、しばしば岩崎警視正の名が出てきたので、改めて私は君に訊《たず》ねることにしたのだ。初め我々はこの北京に突然に起った動乱に、一民間人であられる武村前総理が、なぜこのように異常な関心を持つのかが分らなかった。中国と日本は、海は隔てていても、昔から最も縁の深い隣国だ。さまざまのことでつながっているのは解《わか》る」
岩崎は黙ってうなずいて、食事を続けた。
あの旅は、初め三十年前の殺人事件と思われていたある失踪《しつそう》事件の真相を探るものだった。それが途中から、アメリカ政府の機密文書や、巨大な金塊がからんで妙なものになってしまった。
部長は話を続ける。
「特に、今回突然のように、総理の椅子に坐られた宇田閣下は、充分な根回しの中で、椅子に納まった方ではない。やや偶然のようにして、この栄光の椅子に坐られたので、もしどこかで反対派や、表面は親しいはずの仲間の党員が、あらぬ噂《うわさ》でもたてて、足をひっぱり、政権からひきずり下そうとすると簡単に倒れてしまう怖れさえある。我々公安としてはこれが一番困る。現政権の忠実な番犬としての立場から、あらゆるケースを考え合せて、周辺を見張っていなければならない。ただ一つだけ政治資金のパイプだけは安心できるが、他の交友、女性、一切が安心できない。税金や株の名義などでは清潔であると認められたからこそ、沢山の自選、他選の総理候補者を押しのけて、晴れて登場された。その分|護《まも》りに弱い。また変ったら、見捨てるが、今現職にある間は、どんな、卑劣な手段を使ってもお護りする。それが私の役目だよ」
部長はなぜ前総理の電話まで盗聴したかについて、かなり打明けた話をしてくれたといってよい。岩崎警視正は、刑事部の捜査一課の更にその下に所属する、一刑事捜査官にすぎないのに更に詳しく語ってくれた。
「……いいかね、今の宇田さんにとっては、前の武村さんも敵だと考えなくてはいけない存在だ。武村さんと中国の現在の争乱についての関係に対して重大な関心を抱いておられて、きびしく調査を命じられた」
それで岩崎にすべてを話させるための鰻飯だったのだ。拒否、反抗、黙秘することはできるが、そうまでする理由もない。
「部長のお立場については、只今の説明でよく納得しました。私が知ってる限りのことは、何事も正直にお答えします」
岩崎警視正はそう明言した。
「ありがとう。君にそういってもらって私もやっと話しやすくなった。もう見当はついているだろうが、去年の旅行のことについて、ききたいことがあってここへ来てもらった」
「それは覚悟しております」
「詳しいことは、いずれゆっくり訊《き》く。まずこの男に会ったかどうか教えてくれ」
大型封筒から一枚の写真を抜き出してきいた。
もう七十歳に近いだろうが、よく陽に灼《や》けた精悍《せいかん》な顔だちをしていて、軍人の出身者だとすぐ判る。当然一番先に訊かれると予想していた名前であった。旅行の目的の相手ではないが、もしかしたら、去年の旅行の企画者は、岩崎にそれを命じた前総理ではなくて、この写真の男からの依頼によるものではないかということも、考えられたからである。
「去年、会っております。私とは……」
岩崎ははっきり答えた。
「……しばらく行動も共にしました」
「この男については、世界各国の諜報機関に沢山の資料があり、我々もかなりの知識を持っている。現在世界で最も注目されている男だ。勿論この男が世界の麻薬王のカンサーだということも知っているね」
「それは出発前にきいて、存じていました」
ちょっと岩崎はこのときおかしな感じを持った。警視総監閣下でも、現職を辞めれば徒《ただ》の一民間人だ。前総理でも立場が問題になるなら、前総監も同じである。その公安調査とは無縁の無資格の一民間人であるはずの前総監の目が、今の岩崎警視正の返事で一瞬キラリと光った。カンの鋭い、岩崎だからこそ感じられたことで普通の人なら、まず気がつかなかったろうが。
このことは岩崎の心の中には疑問としてずっと残った。三人で飯を喰うということは、それなりに何かの意味を持っていたのだ。
「私たちは、武村前総理が、この動乱のどの部分に、関与しているのか、現在の政府の公金か、何らかの形で政府資産になるべき隠し資産などが、この争乱に流用されているのではないかということを最も怖《おそ》れている。これは武村さんと中国との関係でなく、日本の立場も危うくすることであるし、現内閣の存続にもかかわってくる問題だからな」
単に一民間交通関係団体の理事にすぎない前総監が、鋭い目で岩崎を注視している。
岩崎の顔に浮ぶどんな表情も見逃すまいという感じだ。この目付きは元警察官僚が誰でも持つ欠点だが今の身分としては露骨に熱心すぎる。岩崎がうなずくと部長が念を押すようにいった。
「そこが前総理と現総理との違いだ。現なら許されることでも、前なら犯罪になる。君がときどき上司にいう、公務員職務分限分掌規定違反になる」
思いがけないところで、自分の口癖を指摘されて岩崎は少しテレた。公安部長は話を続けた。
「ところで、こちらの写真も見てくれ。昨日嶋中大使から宇田総理にあてた航空便外交行李の中に『国家機密』扱いで入ってきた封筒だ。中に今のと一緒に他の写真が入っていた。やはり知っている者がいるかどうか教えてくれ」
一枚は二十代後半の男性の顔だ。
さっきのカンサーと、精悍《せいかん》な風貌に相似点が感じられるが、しかしそれはごく淡いもので、カンサーが、旧満洲国人特有の細目の吊《つ》り上った東洋人の顔だちをしているのに比べて、ずっと鼻が高く、目が落ち凹《くぼ》み、西欧系の彫りの深い顔だちをしている。
その写真に対して黙ってうなずき、すぐ次の写真を見た。今度は女だ。中国の労働者風のカーキ色の作業服を着ているが、顔は全く、西欧の白人系の整った美女だ。十五年ぐらい前混血の美人の女医を題材にした、香港物の甘い恋愛映画がヒットしたが、そのときのヒロインの混血娘のブロマイドではないかと、中年の男性たちの中には間違える人がいるかもしれない。岩崎はまだそんな年でない。それにこの混血のアメリカ女性もよく知っている。
黙ってうなずくと、また次の写真を見た。
そこには年齢があまり多すぎて見当つかないが、知らない人なら多分、九十はとっくにすぎているのではないかと思うような老人が写っていた。目はまるでリングに上ったプロレスラーのように精悍な闘志がむき出しになっている。武村総理がわざわざ岩崎を呼びよせて殺害現場の調査のため中国行きを命じた、その目的の当人だ。
三枚とも見終るとテーブルの上に置いてある封筒にしまった。女中が襖《ふすま》の外から一度声をかけて入ってきた。重箱を下げ、代りに抹茶と和菓子の凝ったデザートを置いていった。
再び部屋は三人だけになった。まるでお茶の席の手前でもしているように、岩崎警視正は坐り直して抹茶をいただいてからゆっくりと丁重に答えた。
「三人とも私がよく知っている人物であります」
「それは、やはり去年の旅行でだね」
「はい。この三人と、ずっと天山南路をインド、ソ連側に近い外れから走り抜けて中国側の中心の町の近くまで同行しました」
「それで三人の名前は」
「最初の若者は、解直方《シヤージーハン》といいます。二番目の女性はメリー・王《ワン》。アメリカ人です。三番目は、日本人です。当人は自分の名を忘れていまして、ついに言いませんでした。私も直接当人からききませんでしたが、どうも旧日本帝国陸軍では、最も力量のあった参謀将校で、ノモンハン作戦や、その他の太平洋戦争を指導した方だとききました。戦後は一時衆議院の議員にもなられたが、その後、タイの奥地からラオスを旅行中、行方不明になられた方だそうです。殺害されたと信じられていました。
それで御自分では、決して名を名のられなかったのでしょう。かつての帝国陸軍では、行方不明とか、消息が絶えるということは、大変に恥ずべきことだったそうで、たとえ後で名が分ることがあっても、当人はその瞬間から永久に名を名のらない慣習があるともききました」
公安部長はうなずいた。
「私も、そんな風なことをきいたことがある、コチコチの陸軍軍人だったからな。いい意味でも悪い意味でも、そこから脱け出せなかった人だ」
岩崎がいった。
「会ってすぐ私もその人の名が判りましたが、戸籍としてはもう殺されている故人です。こちらからは一度も敢《あ》えて直接に名を申しませんでした。これはその人の軍人としての名誉を重んじたからです。そのときは私はよく知りませんでしたが大本営きっての名参謀だったそうで……」
ここで前総監閣下が妙な発言をした。
「いくら力量のある大本営の名参謀だといっても、実際には彼の指導した作戦は、結果としてすべてが負け戦ばかりだからね、褒められたことではない。まあ、あの大戦争を敗戦に導いた、直接の責任者を一人あげよといわれたら、私は東條よりは、こいつの方を指名するね」
かなり憎々しげにいう。よほどこの老人に不快な思いを持っているのだろう。それともわざとそう見せかけたのか。公安部長がその発言を無視して警視正にきき返した。
「今、警視正は最初の若者を解直方《シヤージーハン》といったね」
「はい。現地の中国系の人々の間に解《シヤー》という苗字の一族があり、その一人です」
「その若者の名は、私たちが中国の公安局から、日本大使を通じて知らせてもらった名と違うんだが、たしかに解直方《シヤージーハン》だね」
「はい。さっきのカンサーの孫に当るとききました」
「私らに入ってきた資料では、アルカイヤーとなっているが」
すぐに岩崎警視正は答えた。
「それなら諒解《りようかい》できます。あのあたりの人は漢人名と共にもう一つ、ウイグル語での名を持っています。もとからその土地に住んでいる、ウイグル族と仲好くするためです」
「そうか。やはり君を呼んだのは正解であった。その写真の三人は三人とも今回の動乱ではデモ隊の中核となって活躍した重要人物だよ。なぜこの三人に武村前総理が連絡をとりたがるのか疑って、中国から問い合せがあった。ところでメリー・王《ワン》についてまだ君から何も聞いていないが、彼女が何者か知っているんだろう」
部長は次から次にきく。
「はい。六年前にシンガポールで一緒に仕事をした仲です。そのときは、表面はシンガポール警察の特捜課の刑事でしたが、もう一つ、アメリカのCIAのベテラン諜報員という身分をかくし持っていました」
「それは私の方でも分っていた。私が今君からききたいのは、彼女が今回の争乱で、どのような任務を持って何と呼ばれていたかだ」
「きっと何か別の名で参加しているのかもしれません。解直方がアルカイヤーなら……考えられます。しかし、私は、天山の山脈の中の町で、メリー・王や、解たちと別れて以来、その後二人がどうしていたかを知りません」
「メリー・王は、現在シーリンと呼ばれている。漢字で、紫冷と書く。君は知らなかったのだね」
「それでは、あの動乱のデモの中で女神扱いされている女性ですか。今まで知りませんでした。たしか平和の女神の像の下で、若き闘士と結婚宣言した女を、テレビでチラと見ましたが、あまりの群衆で、顔が小さくてよく解りませんでした」
「警視正、そこまで解っていて、まだ私が何の意図があって、ここへ君を呼んだか、覚らないかね。宇田閣下は外交畑が長い方だけにこういう事件には敏感であられる。君が旅行中、カンサー以下この四人と接触したときに、今回の動乱のことについて予想していたのかどうかについて、ひどく気にしておられる。もし察知していて行動していたとするなら、それは前総理の武村さんが、計画したとまではいわないが、今回の争乱に何らかの形で参加していることにもなると疑われる。ばれたら国際的な信用も失いかねない」
「いえ、それはとんでもない誤解です。私としては単純な殺人事件の捜査を依頼され特別に海外出張をしただけで、それ以外のことは何もありません。先ほども話に出ましたが、私は|007《ゼロゼロセブン》でなく殺人係の一刑事です。私は殺人事件の捜査をするため、この警視庁へ入れていただきました。それ以外の事件を受け持つことは、なるべく避けるようにしてきました。私は去年の旅行のご命令を受ける前にも、総理にそのことをはっきりお断わりしました」
そして前総監に向き直り、岩崎は改めていった。
「私が本庁に入庁させていただいた事情は、総監ならよくご存知のはずです」
それは警視庁中に知られた話題でもあった。
岩崎は東大を一番で出た。国家公務員試験の成績は三番であった。
普通、上級職の上位合格者は、成績順に大蔵省に入り、大蔵事務次官への道を目ざす。
これが日本の官僚の最も正統的な栄光へのコースであるが、彼はその成績にもかかわらず、自ら進んで警視庁を志願した。
警察関係は、退職後の職域も狭く、官庁内では二流の職場とされる。それに警察出身者は、印象が暗いといわれて、選挙で政界に打って出るにもひどく不利で各界のトップになれない。現に何度も官房長官を勤め、大臣も勤め、政治家としての力量が抜群でありながら、この総理の人材難の好機にも、ついに一回も宰相の声がかからなかった超大物がいる。ゲ・ペ・ウの親方に国政を牛耳られてしまうような不安を国民は感ずるのである。
岩崎が警察官僚を志願しただけで、採用担当の人事係はびっくりした。まして国家公務員でなく、中央官庁から比べれば、一地方官庁にすぎない、警視庁を志願したことは、これまで数多くの、公務員志願者の採用に当ってきた人事担当官を驚嘆させた。試験のときに
「本当に君は警視庁へ入りたいのかね」
とても信じられないという口調できかれた。
「はい」
「警視庁で何をやりたいのかね、まさかその優秀な頭脳で交通整理をやりたいわけではあるまい」
「はい。私は殺人事件の捜査をやりたいのです。殺人事件は、人間だけがなし得る、最大の罪悪です。私は警視庁に入り、その組織や人材を充分に活用させていただき、この世から殺人事件の根絶を計りたいのです」
勿論、彼の答えは採用担当官を大喜びさせた。文句なしに警視庁に入庁した。初め、パリの国際刑事警《インターポ》察機《ー》構《ル》に、半年ばかり出向して研修に勤めたすぐ後は、最初から捜査一課に配置された。その一課で、いきなり外人が関係した殺人事件を担当し、口うるさいベテランの鬼刑事たちを、一も二もなく慴伏《しようふく》させて以来、ずっと殺人事件だけを一筋にやってきて、今では警視庁随一の天才捜査官として内外に知られている。
そのへんの事情を前総監にたしかめたのだ。
「うん知っとるよ。しかし今……」
と前総監は岩崎に答えた。
「アルカイヤーといえば、この動乱の指導者として、北京の天安門広場だけでなく、今や世界中のニュースの中心になっている名だ。君が旅行中その男と行動を共にしながら、現在のアルカイヤーを知らなかったのが、私には信じられなかったのだよ」
「解《シヤー》君とは天山南路で別れて以来、ずっと会っておりません。それにウイグル名で呼んだことがなかったので、思い出しもしませんでした」
岩崎は正直にいった。
彼は警視庁捜査一課を代表する殺人係の名刑事ではある。しかし日常の頭脳が犯人の割り出しや、事件の手口の分析など、殺人捜査のことのみに片よりすぎて、そのときの世間の動向にはいくらか疎《うと》いところがある。
それに、中国にどんな争乱が起きようと、東京都内に発生する、殺人事件とは、目下のところ、何の関係もないから、ごく軽いニュースの一つとして、見ていただけである。
たしか、その動乱の中の若い指導者として、女では紫冷《シーリン》、男では辺境民族のアルカイヤーの名を聞いたことはあったが。知らなかったことは知らないと正直に返事するより他はない。そう答えた。部長も納得してくれた。どこまで信じたかは今一つ分らないところがあるが、そこはお互いの立場を尊重する以外ない。
「君の返事が、お互いの信頼をもとに、何の修飾もぼやかしも加えられてない、誠意のこもったものであることを信じよう。しかし我々のこれまでにようやく調べた結果によると、そのとき、解《シヤー》と、その君が名前をわざといおうとしなかった老人、我々は面倒くさいから最初から津正信とよぶことにするがね……とが、旅行の終りに別れるとき莫大《ばくだい》な財宝を所持していたことを、君は知っていたはずだ。そして、アメリカの諜報機関員のメリー・王《ワン》が何かの秘密文書を持って、彼らと、彼らの莫大な財宝と共に、君に別れを告げて、中国のどこかへ去って行った。三人は行動を共にして君の目の前からいなくなった」
「はい、その通りです」
「その三人が、現在のこの動乱で最も大きい役目をしている事実については、これまで考えもしなかったのだね」
「正直いいまして、そこまでは考えもしませんでした……それは……」
これは取調べではないと判っているが、二人の先輩に対して、できるだけ正直に答えた。表面に出たことと真実の事情がもし違うのなら正直に語ること以外解明する手段はないからだ。
「……旅行出発に際して私にあたえられた、武村総理のご指示が全く違うものだったからです。さっきの津という名が出た老軍人が、三十年前に行方不明になっている。殺害されているらしい。最近その死の真相が分ったという連絡があった。アメリカも調べている。それで私にも捜査に行ってくれということだったのです」
「君ほどの人が今回の争乱事件と結びつけて考えなかったのかね」
「それは無理です。去年の中国は平和でしたし、私は単にその老人の殺害されたという話の真相を総理のために調べに行っただけですから。今、アメリカも調査しているようだから、日本の警視庁がほうっておくのは困るとのことで、ともかくその殺害されたという土地へ向って出発しました。すると、そこで、まだ本当は生存しているその老人に会ったのです。もっとも、私が会ったときは、もう完全に自分のことは忘れていましたし、日本語もよくしゃべれない生きているだけの存在でしたが。服装、持ち物その他からも、総理に命ぜられたその人に違いないと判明しました。私は殺人係の一刑事であります。その人が殺人事件の被害者とされている人かどうか確かめて生きていたらそれを報告すれば終りです。もし本当に殺されていて殺人事件であったら、ついでにカンサーの麻薬の件も、その老人が殺される前に持っていたはずの巨額の財宝も捜査の対象になり、報告すべきでありますが、当人が生存していては事件は成立しません。それ以上のことを捜査するのは職務規程にも反しますし、武村総理に依頼された仕事の本質からも外れます」
岩崎は正直に熱心にそう答えた。
この言葉もまた公安部長がどこまでそれを信じたかは、今の岩崎の知ったことではない。そのときの彼に任務を命じた総理と、今の総理とは違う人である。それが今、ここで弁明を求められる原因になっている。もう一度、岩崎は力説した。
「殺人事件の被害者でないと判明すればいいのです。結果として、メリー・王《ワン》や、解直方君、その妙な老人と途中で別れて旅行から帰りました。老人もそれを自分で望んでいるようでしたし、私はあたえられた任務もすんだものと諒解してそのまま日本へ戻って参りました」
「そうだったのか。それではその旅行について出発から帰国までのすべてのことを詳しく話してくれないかな」
「畏《かしこ》まりました。しかし全部お話しするのにはかなりの長い時間がかかると思いますが」
「勿論、こんな昼飯のついでにという、簡単なきき方はしないよ。この部屋はずっと夜まで借りきってある。テープを回し放しで六時間でも十時間でもきくから、話すことはすべて話し尽くしてくれ。その話の中に、もしかして日本の国益を左右するような、大事なことが含まれているかもしれない。含まれていないかもしれない。今の宇田総理が特に心配されるようなことは何もないかもしれない。個人的には武村総理は、清廉潔白な政治家で、決して大きな謀略を企《たくら》まれる方でないことは信じている。しかし何かがあったらすべて調べるのが私の役目だ。今世界中が中国のこの天安門事件の発生に投じられた、エネルギーの源の資金がどこから出たのか不思議に思って調べている」
岩崎は改めてきいた。
「これを本庁内で受けた、職場でのご命令と理解してよろしいですか」
「ああ。君の上司の刑事部長にも、捜一課長にも、既にこのことは、伝えてある」
「それではお話しします」
岩崎はそう返事すると、去年の九月一日から始まった、天山南路の旅行のことについて詳しく話しだした。
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[#見出し] 第二章 ホータンにて
昭和六十三年九月のこと
走馬西来欲到天 馬が西に走れば天に昇る
離家見月雨回円 家を離れて見る月は真ん丸だ
今夜不知何処宿 今夜どこかに宿があるかしら
平沙万里絶人煙 砂ばかりで人家も見えないよ
『ホータンについて』
于※[#「門/眞」、unicode95d0] 和※[#「門/眞」、unicode95d0] KHOTAN
中央アジアの、ターリム盆地南方の、ユルル・カシュ河(白玉河)と、ハラ・カシュ河(黒玉河)とに挟まれたオアシス。タクラマカン砂漠から、インド方面へ向う要地。
また近くの河床から出る玉の産地として有名で、西はイラン、東は中国へ輪出し、謎《なぞ》の土地として知られていた。人口三万ぐらいの小都会。
中国の人々が、まだシルクロードに対して詳しい知識を持っていなかったころは、ここは、平地の中にあるのにかかわらず、巨大な崑崙《こんろん》山の絶壁に囲まれ、一般漢人も、ローマ・イラン人(胡人と総称された)も、入国のできない特殊地帯と思われていて近よる者もなかった。
三蔵法師、マルコ・ポーロなどによって、この地の事情が僅《わず》かに明らかにされるにつれ、崑崙山の山裾にある平野で、砂漠を越えて行けば、徒歩で誰でも簡単に入れる地形の土地と分った。更にあの高価な宝玉が、崑崙山からこの平野に流れてくる二つの河の河原に、無数に転がっていて、いくらでも拾えるということが知られてきた。
しかしそれを信じて、拾いに行った者で、無事生きて帰って来た者は、古来から殆どいない。
河原で拾っている所を、その土地を支配している大月氏族の王朝の役人に見つかると、有無を言わさず、その場で首を斬《き》られたからである。
有名な、漢代の歴史書の「史記」には、この白玉河が、やがて流れて黄河になると、書かれているがこれは嘘《うそ》で、まだ当時の人々には、このあたりの砂漠の地図は、全く解らなかったのである。
1[#「1」はゴシック体]
一九八八年。昭和六十三年の九月。
早くもあたりの空気は爽涼《そうりよう》として秋の気配が深い。
飛行機を降りて、待合室まで歩いて行く者は七、八人しかいない。岩崎たち一行五人の他は、役人らしい中国人の夫婦が一組に、ドイツ人らしい外人が一人。
このタクラマカン砂漠の外れにある、中国の土地で最も辺境にある飛行場は、軍用基地の一つとして、十年ぐらい前から作られていたが、こういうように民間人のため解放されて、各地からの旅行者が入れるようになったのは今年の今月の初めからだ。二日に一本の航空便だから、これが民間機としては、開港以来二度目の着陸であった。
ホータン。
昔はいろいろと難しい字を書いたらしいが現在は、中国ではすべての字が簡略化されて、『和田』と書かれる。
三階建てのターミナル・ビルの屋上に、大きく和田と切り抜かれた字が据えつけられていて、乃木がそれを見てつぶやいた。
「あら、和田《わだ》だって。人の名前みたいだわ。中国語では何て読むのかしら」
乃木はここがどんな所か全く見当がつかない。一昨日の朝、上司の岩崎警視正に突然、呼び出されて
「急に秘密の任務に就くことになった。十日以上かかる。今日、今すぐ帰って、家の者に断わり、十日以上の旅行になるから心配しないようにといっておきなさい。ただしこれは捜一の通常の仕事と違い、国家の重要任務であるから、行く先も、仕事の内容もいえない。他の捜一の仲間にもいうな」
といわれた。婦人警官で捜一の女鬼刑事の乃木圭子は、そのときは自分一人が秘密任務に連れて行かれるのだと思って、胸がどきどきした。家に飛んで帰る途中も、何やら秘境の無人地帯の真中で大勢の悪漢と戦い、やっと追払い、生命からがら草むらに隠れて危機を脱する。そして岩崎警視正と自分の二人はまだ生きていることをお互いに確認するとつい自然にしっかり抱き合い、唇が合わされる。心の中で、日本に残っている岩崎夫人のみずえに、すまないと詫びながらつい二人は、その無人の秘境で越えてはならない一線を越えてしまう。
そんなことばかり考えて、帰りの地下鉄の中で、思わず小さな声の一人言で
「岩崎警部補殿すみません」
とみずえ夫人に謝ってしまって、あわてて周りを見回して、この妄想を誰にも気がつかれないで、ほっとした。翌日の朝早く、成田空港の指定の場所に行ってがっかりした。秘密の任務で、あれほど誰にもいうなと念を押されたのだから、行くのが警視正と自分との二人きりと思ったら、女性ではもう一人、原田ひとみ刑事、男はピストル射撃の名人中村刑事と、東北弁のもっさりした、そのくせ文学や詩文に詳しい、乃木が少し親しくしてやっている花輪刑事がいて、同行四人もいる。女性が二人いることは自然、警視正殿との不倫の恋の機会が無くなることになり、二十五歳の今日まで意地を張って守り続けた純潔を失う危機からは辛うじて免れたが、とたんに何だか、スリルも大分減ってしまって、がっかりした気分になった。
昨日成田を九時出発で、十二時に北京。北京で二時間待って、ウルムチ行きに乗って夕方着いた。渡された中国全体の略図を見て辛うじて分ったのだが、ウルムチという街は、あの広い中国でも、一番奥の、ソヴィエトとの国境に近いところにあるのでびっくりした。なぜいきなりこんな所に連れてこられたのか、全然分らない。
人々の顔も、一般の中国人と違い、鼻が高く、目が落ち凹んでいて、西欧人に近い。
迎えに来た、そのウルムチの人と、岩崎は平気で土地の言葉で話したし、ミニバスに乗りこみ、この町では一番立派な宿泊設備であるらしい、『烏魯木斉賓館』という読み方も分らない難しい名の建物に入った。早速食堂で、羊肉のたっぷり入っている夜食を食べながら
「明日また早い。ここはまだほんの途中だ。昼前には最初の砂漠の中の町に着く。ただしそこも目的地への入口にすぎない。今日は何も考えずに眠りなさい」
といわれた。随分遠くきたようだが、目的地は、もっとずっと遠いらしい。呆《あき》れて物もいえない。
くたびれたので、そのまま原田刑事と隣り合せのベッドで、ぐっすり眠ってしまった。
そして今朝はまた早くからウルムチ発の飛行機に乗って、この『和田』と大きく屋上に字が書かれている、砂漠の真中の飛行場に到着したのである。
飛行機が止まった所から、待合室までは、中国ではどの飛行場でも、草の茂った野原を歩くことになっている。かなりの距離がある。しかし飛行機を降りたばかりでは、みな自分たちが、文明世界からどのくらい遠い世界へ来たのかは、まだ気がついていない。
このホータンは広大なタクラマカン砂漠の外れ、中国というよりは、ヒマラヤに面して、パミール、パキスタン、遠くはビルマ、ラオスと無限に続くアジアの秘境に向う、中国側の最も外れの町である。岩崎がいぶかしそうに周りを見回している四人に説明した。
「かつてここへ来たことを書き誌《しる》した人は、千三百年前の唐代の三蔵法師と、間をおいて、七百年前のマルコ・ポーロとの二人だけでそれ以後は絶えてない。人外の秘境である。玄奘《げんじよう》三蔵はインドへ入る前しばらく滞在したし、マルコ・ポーロは当時の町の支配者、大月氏族の藩王と、イタリヤのベネチアについての話をした。その後はこの町のことは全く、歴史にも旅行記にも出てこない」
あたりはいかにも秘境らしく、空港内にかかわらず、物音一つしないでシーンとしている。逆に耳が痛いほどだ。
「今年の九月の解放までここには外国からの旅行者は誰も来ていないということだ。誰も来ないから紹介もされない。一つにはこの土地が厳重な鎖国政策を取っていたからだよ」
みなは歩きながら聞いている。空港の建物までの距離が長いので、乃木も原田も、二人の男の刑事も、自然にその話をきくことになる。それはいいのだが警視正殿は肝腎《かんじん》の旅行の目的についてはまだ何も話してくれない。
ただここへ連れてきた責任は感じているらしい。町の説明を続けてくれた。
「つまりこのホータンの町には……」
それで、乃木は和田と書いて、ホータンと読むことが分った。
「……白玉河と、黒玉河との二つの大きな河が流れていて、その河に、崑崙山の岩の中に埋もっている宝玉が、砕けて流れこんでいる。河原を探せば、その玉《ぎよく》を拾うことができるので知られた町だ。中国では、高級官吏の就任式や、皇帝の即位の式には、玉は必需品だ。その位にふさわしい、立派な玉を、衣裳や帯につけなければならない。玉は、イラン人や、このあたりのウイグル人の商人が駱駝《らくだ》の背にのせキャラバンを組んではるばる砂漠を越えて北京や長安の都へ持って行った。それがどこでとれるかはっきりと分ると、玉欲しさに遠征軍が起される可能性だってあり得る。それで周辺が全く人跡のない砂漠地帯であることをいいことに、この町に近づく者はすべて捕えて殺すことにした。大体、町へ来る者は近くの土の山にかくれて、夜になると河にそっと玉を拾いに行く。
河原にいくら転がっているといっても、手探りだけでは、玉か石かの区別はつかない。小さい灯をつける。とたんに見張りの役人がどこからかやって来て、有無を言わさず斬り殺す。ただし今は、河へ下りて拾っても殺されることはない。乃木や原田はゆっくりと拾ってもいいよ。時間があったら」
「わあー」
と乃木が、まるでハイキングに来た若い娘のような声を上げるのを岩崎がまた例のように冷たい声でいった。
「ただし今は、採り尽くされてこの土地の専門家が何日もかけてやっと一つか二つ採れればいい程度だそうだ」
「なーんだ」
とか
「わあーつまらない」
とか女二人がいっているうちに待合室についた。中国の役人夫婦らしい旅客には、やはり偉そうな役人が迎えに来て、空港の前に置いてあったミニバスで、町の中にあるホテルヘ連れて行った。
ドイツ人の旅客にも迎えが来た。それで他の客はいなくなり、その空港に残っているのは、岩崎と四人の部下だけになった。
待合室に人の気配が無くなってから、初めて空港長らしい、ズボンに赤い筋の入った軍人が四人を呼んだので事務所に入った。空港長は五つの木箱を並べていた。機内預りの手荷物である。
「ああこれは、特認印の入っている荷ですな。中国と日本との、相互税関条約により、これは、空港長及び、税関長はあけないことになっております。そのままお渡しします。たしかに未開封のまま受け取ったという領収のサインをしていただけませんか」
「はい」
岩崎は世界中どこの土地の言葉で話しかけられても、全くその土地の人と変らずに受け答えできる。初めてそれを目の前で見た人は、その能力にびっくりするが、当人にいわせると、これはさして難しいことではないそうだ。世界中の話し言葉には、五つの大きな文法の流れがあり、最初にそれを正確に、しかも比較しながら、同時に学んでしまうと、後はその亜流で、単語や発音の違いを少し考え合せるだけで、大体現在の世界に通用する、すべての言葉が分るそうだ。
岩崎のサインをもらって、自分の書類入れに確実に入れた後で
「さて、それでは、中の荷についてお聞きしたいのですが」
と空港長は向き直った。
岩崎はまるでそれをちゃんと予期していたかのように、坐り直し
「レントゲンを通したのですね」
と訊ねた。
「ええ、開封したり、没収したりしてはいけないと条項の内規にはありますが、レントゲン光線で中を調べてはいけないとはありません。もしよろしかったら、その中にあるものがどんなことに必要なのかをお聞きしたいのです」
「勿論、別に隠しだてしません。私たちは、このホータンの町から、旅行者が滅多に入らない秘境の遺跡へ多分行くと思います。そこがどこか分りませんが、先方から連絡してくると思います。正直に申しますとその相手はきっとこのあたりの税関の役人がたが、大量のモルヒネ、ヘロインの流入で、ひどく手を焼いておられる中国国民党の元将軍カンサーかその身内の人です」
「カンサーとお会いになるのですか」
「カンサー将軍から、内密で、日本の武村総理に連絡があったのです。私としてはその連絡の内容はよく分らないのです。途中の行程には、多分、四方を敵に囲まれた道を通らなくてはならないような所もあると思います。そのときの護身のためです。自衛のための武器であって決して貴国の人々を殺戮《さつりく》するためのものではありません」
「分りました。それだけお聞きしておけばいいのです。もともと私たちには、没収したり、保管したりする権限はありません。ただ、これから先、オアシスの村落に住む民族は、私たち漢民族と違って、元は騎馬で世界中を荒し回ってきた戦士の子孫です。あなた方の一発の弾丸は、きっと百発にも、二百発にもなって返ってきますから、お気をつけになってください」
「承知しております」
五人は改めて小箱の中から取り出したニューナンブの警視庁の制式|拳銃《けんじゆう》を、手に持って機能の点検をしだした。
空港長は、それを当然のことのように見ていた。
「すでに、北京の中央政府の方から、貴方《あなた》がた五人の旅行は、武村総理と、ケ小平《とうしようへい》閣下との間の諒承事項なので、できるだけの便宜を計らうよう命じられています。カンサーは、我々の敵ではありますが、私たちが直接会うのでなく、あなた方がその仲間と取引するというわけでもない。ただ三十年前のある殺人事件の現場の調査に行くだけだときいています。武村総理にとっては大事な人の殺害の真相が今回の調査で明らかになることを、期待しています」
「ご好意感謝します」
岩崎は丁重に答えた。そして制式拳銃のニューナンブと実弾を砂よけの油紙に包み直すと、各自が背中にしょっているリュックに入れ木箱はここで捨てた。
トランクや、スーツケースなど、手提げの荷物は誰も持っていない。小さいリュックにすべてまとめるようにしろと出がけにいわれている。そのとき、乃木が
「じやあ、服装はスラックスに、何か軽いスニーカーの山登りスタイルで行くのですか」
ときいたら
「問題は両手の自由だけだ。今は向うは一番気候のいいときで、寒くも暑くもない。普通のスーツの上下でいい。足もパンプスにしなさい。要するに本庁へ登庁するとき、そのままの姿でよい」
といわれた。みな普通のスーツに小さいリュックをしょった姿だった。中には武器や手錠など、物騒な物も入っているが、表面は、スーツにスカートの女性が二人と、背広姿の男性が三人歩いている。
砂漠のこの土地では別におかしくない。空港を出た所に民族服のウイグル人の住民が二、三人いて彼らを見ている。たまに日本やドイツなどからやってくる、シルクロードを取材する、学術班のメンバーか、テレビのスタッフかと思っているのだろう。
ホテルとか、航空路が、外国人に解放されたからといって、それですぐどっと、観光客がやってくるような土地ではない。
それだからこそ、カンサーが自分の腹心を迎えによこすという約束をしてきたのだろう。他所者《よそもの》には、全く人間の住む世界とは信ぜられないような砂漠の都市だ。ここから連絡場所へ入れば多分外部の人間に殆ど知られないですむのだろう。
武村総理が岩崎警視正に調べるように命じた、今回の旅行の目的の、ある軍人の死亡か殺害の現場と、この秘境への先進基地ホータンが、どういう地理的関係にあるのかは目下のところは岩崎にもよく判らない。
ただ、武村総理の所に、秘密の連絡文をよこしたのが、麻薬王カンサーの娘で、国際的にも慎重でなければならない立場の総理が、この連絡文に、特別の関心をよせて、数ある警視庁捜査官の中から、最も腕利きだといわれている岩崎を選んで派遣することに決めたのである。
都民の誰かが殺されたわけではないし、その殺人で、帝都の市民が恐怖で震え上って日常生活が極度の不安に陥っているわけでもない。
出発に際して、武村総理から、なぜその軍人の死を、三十年もたってから今さらながらに追究するのかについては、かなり詳しく説明を受けたが、それでもまだ、すべてが納得して釈然として、この秘境にやってきたわけではない。それより前に本当にカンサーからの使者がやってくるであろうか。ホータン空港の玄関まで出た岩崎にも一抹の不安はある。あまりにもあたりが静かだ。人口三万の町とはきいていたが町の広い通りにも殆ど人通りがない。
五人が並んで空港の玄関に立つと、通りの向うから、一台の大型ランドクルーザーがやってくるのが見えた。砂煙が舞い上り、弾丸のようなスピードだ。たしかにこの砂漠の中のたった一つの大きな建物を目ざして走って来る。
どんな起伏の激しい悪路でも、平気で走る。このあたりの乾燥砂漠地帯を走るのには、最も適合した車だ。やがて近づいてくると共に、若い女が運転席に坐っているのが見えた。真ん前までスピードを落とさずにやってくると急ブレーキで停った。
左ハンドル車の運転席があき、飛び降りてきた。背が高く、白人のような鼻筋の通った顔だちをしているのが判った。
頭に白い絹布を巻き服地には金糸、銀糸が、きらびやかに縫いこんである、日本人の感覚でいえば、けばけばしいとしか言いようのない、派手なドレスをつけていた。高い車体から飛び降りたので、膝までのスカートが揺れて、その下に、はいている長いズボンの両足が活発に動く。
野暮ったい木綿のステテコ同様のズボンと金糸、銀糸の陽光にきらめくスカートの布がアンバランスだがこの女性はそんなことを気にもしていないようだ。
その後町の通りを走っているときに、きらびやかなワンピースを着ながら、下にパジャマのようなズボンをはいている女たちを何人も見たから、もともと、この寒暑の差の激しい砂漠の瘴癘《しようれい》の土地では、これがごく普通の若い女性のファッションなのだろう。
彼女は活発な足どりで、岩崎に近づくといかにも懐しそうに警視正を抱擁した。
「ミスター・イワサキ。私《ミー》が、お迎えに参りました。|私を覚えている《リメンバーミー》?」
女は珍らしく英語を使った。警視正も英語で答えながら
「君だったのか。カンサーのお使いというのは。これは驚いた。するとこの仕事には、アメリカが、とっくに関与しているのだね」
それから、同行の乃木圭子巡査長の方を向き
「乃木刑事はこの人を覚えていないかね」
ときいた。
こんな、ホータンなんて、これまで二十五年の生涯で、聞いたことのないような、砂漠の秘境に連れてこられて、いきなりそんなことをいわれても無理だ。そう思いながら乃木は、その西欧系の顔だちをしている女の方に近づき、タレントの岸山加世子そっくりの大きな目を、一層真ん丸く開いて、まじまじと相手を見つめた。
中国人に知人はいないはずだ。砂漠なんか、さっき着陸寸前の飛行機の窓から見たのが生れて初めてだ。こんな所に知り合いがいるはずないじゃないの……と口の中でぶつぶついいながら、その、よく見るとかなりの美人の女性の顔をまじまじと見つめた。……どこかで見たことがあるような気がする。
女の方は、乃木をよく知っているかのようにニッコリと笑いかけ、英検二級の乃木のヒヤリングの能力でも、充分に解るような言い方で
「たしか……ケイコさんでしたね。お久しぶり。お元気……」
と語りかけた。さあー困ってしまった。たしかにどこかで会ったことがあるのだ。喉元《のどもと》まで出てきて思い出せない。警視正殿がほんのちょっとでも、ヒントをあたえてくれたら、すぐに分るのに……と、少し恨めしそうに岩崎の方を見た。警視正はいった。
「あのときは君はまだ成人式がすんだばかりで、今と違ってピチピチして可愛かったよ。南十字星の下で、思いきり南国の夜を楽しんだのじゃなかったかね」
少し気になる言葉があったが、いつものことで無視した。それよりはっと思い出した。五年前、連続殺人事件捜査のためシンガポールに行ったことがある。そのときに、現地警察の女刑事として、協力してくれた女性だ。
「メリー・王《ワン》。メリー・王さんなのね」
思わず懐しさに手を握った。アメリカ軍人と、中国人華僑との混血児で、そして本当はCIAの秘密職員というもう一つの身分があることも聞いたことがある。
「ええ、そうよ。今はこの砂漠の村に調査にやって来た、中国の大学の研究員ということになっているの。あなたもそのつもりでつき合ってね」
「分りました」
岩崎は早速聞いた。
「今の君の身分については諒承した。我々もそのたてまえを尊重してつき合おう。ところで、今日はどうしてここへ」
「カンサーのお使いよ」
「君とカンサー。いつ親しくなったのだね」
「乗ってゆっくりお話しするわ。正確にいうと、今はカンサーの娘さんの所からやってきたの。みなさん方の今夜の泊り場所はその娘さんの家です。タクラマカンの砂漠の真中にあります」
岩崎は、その娘の存在については、出発前に武村総理にきいた、ある奇妙な話を思い出した。
しかし、メリー・王《ワン》がそれを知っているかどうかは分らない。アメリカの情報部から来たと判っている者に、今、こちらから秘密の情報をわざわざ洩《も》らすことはない。黙っていた。メリー・王は自分が先にひらりと、ランドクルーザーに乗りこむといった。
「これから私が現場までご案内します」
「では私たちがどんな目的でここへやって来たのか分っているんだね」
「当然です。カンサーはもう現場でみなさんを待っているのです。現場は丸三日走り続けなくては着かないぐらいの砂漠の奥です」
岩崎はその隣りに乗りこみながらいった。
「私の方は事件そのものについては殆ど知らないのだよ。今のところはカンサーとその身内だけがよく知っているはずだ。メリー・王君はどこまで知ってるのか、まずそれを最初に教えてくれないかね」
「まあ、みんな乗ってください。乗って走り出してからも、飽きるほど、お話しする時間はありますよ」
メリー・王にすすめられ、四人は車に乗りこんだ。横幅の広い車体だから、前にメリーと岩崎、後ろには、乃木以下四人の刑事が乗ればいいのだろうが、乃木はちゃっかりと前へ乗りこんでしまった。たとえ旧知のメリーといえど、女は女。このまま警視正の隣りに坐らせておくことは、岩崎の見張役を自任している乃木にとっては、みずえ夫人(から、別に頼まれたわけではないが)のために、見逃すことはできない。このアメリカ娘が、かなり濃厚な雰囲気で、男性に迫るかもしれないと、五年前の事件からも、予想されるからである。
車のキーが入れられ、いきなり猛スピードで走り出した。
メリー・王はここで日本式にみなに頭をペコリと下げてから
「みなさまを歓迎します」
といった。乃木が気どって
「ありがとう」
と、英語で答えた。
乃木が多少は英語が解ると知ると、メリーは安心したのか、おしゃべりになった。思いきりアクセルが踏まれて、猛スピードで走り出すと共に、話し出した。
「日本の総理が、四月に敦煌《とんこう》まで来るときいて、使いの者を出して手紙を届けさせたのは、今日泊る所の女主人です。カンサーの一人娘で、この先の小さな村に嫁いできています。夫と息子がいます。そこは、ヒマラヤの山岳から、ビルマ・ラオスの密林地帯へ通じる、地図の上の空白地帯の広い地域へ入る、拠点になっています。中国側の本土からヒマラヤに入る唯一のルートです」
そう説明してから改まって
「私はそこでは今では家族同様に暮しています。つまり、砂漠の古代文化と遺跡を研究しに来た学生だといって、そのカンサーの娘さんの女主人に近づき、すっかり信用されて一室を借りて一緒に住んでいます」
多分そういうことは、このCIAのかなりの高級なベテラン職員である、メリー・王にとっては、ごく簡単なことだったろう。案外、カンサーがすべてを知っていて、CIAと、何かの共同作戦を取るため、メリー・王を、娘の家の大事な賓客として、寄宿させているのかもしれない。
見渡す限り人跡まれな砂漠の真中で早くも奇怪な経歴の人間同士の謀略が火花を散らしている。……しかしそれが分るのは、親分の岩崎だけで、乃木刑事の考えていることはもっとずっと単純なことだ。もしメリー・王が、運転席から、岩崎に手をのばしてきたりしたら、じろりと睨《にら》んで、場合によっては実力行動でぴしゃっとやってやろうと、緊張して身構えている。
短い町の通りを十分で通り抜けると、更にスピードを上げて走り出した。
といっても、あたりに、全くといってよいほど他の車を見かけない土地だし、砂漠の真中の一本道は幅が五十メートルもありそうなほどに広い。土のままで舗装してないから、車体が簡単にとび上りすぐ頭が天井にぶつかりそうになる。
地平のかなたまで、自分の土地だといっても、笑われるだけで、別に羨《うらや》ましがる者もいない。途中もう一度十五、六軒の土作りの家がかたまっている村落があったが、それが終るともう町らしい町もなく、再び広い砂漠を真っ直ぐ突き抜けるたった一本の道になった。
「我々はこれからどこへ行くのかね」
岩崎がきいた。
「今晩はとりあえずさっきいった町です。その娘さんが日本からの使いの人に逢《あ》いたがっています」
「いくつぐらいの人だね」
「旧満洲国で、終戦の年に生れたとききました」
「すると……その人は……」
と岩崎は日本のある人物の名が口まで出かかったのをのみこんだ。どうもまだ、メリー・王が全く知らない秘密かもしれない。メリーはカンサーの娘といっているがその人の父の名はもう五、六代も前の日本の総理という説もあるのだ。
「父は……現在、ビルマと、ラオス、タイの国境地帯の黄金の三角地帯を支配して、世界の麻薬王といわれる、カンサーです」
メリーは、別に何のこだわりも見せずにそういった。
「その人には男の子が一人います。カンサーが目の中に入れても痛くないほど可愛がっています。自分の跡をつぐ大事な孫と考えています」
その女性が実の娘と、正直に信じていて、メリーのハンドルさばきには何の迷いもない。
メリーは話し続ける。
「彼女は日本語もできるのです。ほんの少しですが、幼いとき彼女の母……つまりカンサーの夫人ですが、その母に教わったそうです。母は今でもごく普通にしゃべれますが、夫のカンサーに遠慮して話さないそうです」
久しぶりにおしゃべりができて嬉しいのだろう。メリーはハンドルを握りながら口を休めない。英語がだんだん滑らかになってくる。
広い砂漠の中の道には、遠く地平の彼方まで、全く車のかげも見えない。アクセルを一杯に踏みこんでの最高速度で走り続ける。
メリーは女主人のことについては本当のことは知っていないのだと、岩崎はききながら確信のようなものを持った。
メリーが連れて行ってくれる、初めての宿泊地がどんな所か分らないが、着くまではまだ時間がかかりそうだ。岩崎は部下にいった。
「これまで私は何も、今度の旅行について、君たちには話をしなかった。この車が、今夜の泊り場所に着くまでには、まだ少し時間がかかりそうだから……この旅行のことについての話をしよう」
初めて岩崎から先にそう口をきった。四人は砂漠の中を走る車に乗っている自分にまだ呆然《ぼうぜん》としている。
「……といって、私も突然このシルクロードという秘境にやって来てこれから自分たちがどうなるのかについては見当もつかないのだ」
「そりゃー困りますよ。何でもよく分ってしまう警視正が自分で分らないといわれると、こっちは心細くなってしまいます」
ふだんあまりしゃべらない中村刑事が情なさそうにいった。
「ともかくこれは殺人事件だ。そう信じて私はやってきた。それも三十年前のだ。日本で国会議員までやっていた男が、一人で東南アジアのどこかの国へ入って行方不明になった。多分殺害されたのだろうと考えられている。その男は旧帝国陸軍では、相当名の知れた軍人だ。当然姓名も明らかだ。だが私にこの仕事を頼んだ武村総理大臣閣下は、敢えてその名をいわれなかった。私も何か事情があると思って総理から名をきかなかった。元軍人だから、捕虜として生きているときのことを考えてその名誉を重んじてわざと名前を口に出さなかったようだ」
乃木が納得したように答えた。
「そういうことだったんですか。それでは私たちもこれから事件の被害者をただその人と呼ぶことにしましょう」
「うん。……それで、この事件は出発のほんの一日前、突然、私のところへ警視総監から電話があって呼び出され、私が引き受けることになったのだよ。命令は直接総理から出たのだ」
岩崎は出発直前の奇妙な会合のことについて、もう一度考えてみた。
ともかくこの突然の旅について、一緒に連れてきた部下たちを何といって納得させようか。一昨日まで東京にいた身が気がついたら、マルコ・ポーロ以来、外界から他国人が入ったことのない砂漠の中の秘境を走っている。この現実を、文字通り白昼夢でも何でもない、ふだんの職務の、捜査活動の一つなのだと、はっきり認識してもらわなくてはならない。
一昨日の自分の身に起ったできごとを、車の中でもう一度じっくりと思い出してみた。彼が一人で考え出すと、部下たちは、その思考を邪魔しないよう、黙っていてくれる習慣がついている。
考えの筋道がついてから素直に、納得できるように話してみよう。それにしても、総理に直接呼び出されることがまず異常だった。それ以来自分がどうなるかまるで見当がつかない状況になってしまった。
2[#「2」はゴシック体]
今年の夏は例年より涼しかった。むし暑さのあまり人々の気持をいらいらさせる、いわゆる熱帯夜は、一日もなかったのではないか。
こんなことは、この何年、初めてのことだ。
夏はこの方が捜査一課は楽だ。
警視庁の刑事部に所属する捜査課は、一課が殺人、強盗、放火、二課が、詐欺、横領、三課が窃盗、四課が暴力団関係と、大体の担当が分れているが、この冷夏のおかげで、一課はいつもよりは暇だった。
熱帯夜にありがちな、衝動的な殺人が少なかった。
それでも、東京警視庁管内だけでも八月に
田無署 次男が母親刺殺
練馬署 塾講師が病気の次男を殺す
四谷署 銀座のママ、殺害される
江戸川署 スナックで主婦殺される
立川署 OL自宅で変死
新宿署 宣伝カーに拳銃が乱射され少年死亡
と六件の殺人があったが、例年より少ない方だった。
すべて月内に犯人が検挙されていて九月にまで持ちこされた事件はない。
九月一日は木曜日。
防災の日として、警備、保安、などの、災害出動関係の部署にいる関係警察官や職員は、さまざまの訓練や、行事がある。捜一にはあまり関係がない。
殺人事件、犯人検挙後の物証確保、公訴提起の書類作成、犯人の取調べと調書作りと、二百名を越す、捜一の猛者刑事《モサデカ》諸君は、それぞれ忙しそうに事務をこなすが、本物の捜査でないから気は楽だ。
その日は先ほど八時半の執務開始のベルが鳴った後、乃木刑事が入れてくれた茶を飲みながら、岩崎はまだ仕事にかからずに、ぼんやりとしたひとときを楽しんでいた。
『翔も大きくなったことだし、次の日曜は、乃木や新人の峯岸と一緒に、ディズニーランドへでもつれて行ってやるか』
別に気にするわけではないが、茶碗の茶柱を見てみると、いつものようにきれいに浮んでいる。乃木のデスクを見た。今はもう下を向いて、伝票を記入している。何事もやり始めると熱中してしまう娘だ。岩崎に見つめられているのにも気がつかず、伝票に細かいきれいな字で数字を書きこんでいる。
警察官にはきれいな整った字を書く人が多い。上の者のいうことを素直に聞く、律義な性格の人間が多いからだ。
『あの子は誰が好きなのだろう。いずれにしても、早くいい人を見つけて、幸せな結婚をしてもらいたいものだ』
と思った。乃木には一時それらしい人間がいた気配があった。拳銃が上手で、オリンピックの候補に選ばれながら、捜一の仕事に差し支えると、強化練習を自ら辞退した中村刑事だ。
ところがどうもその後そうでないようだと分った。このごろは、東北弁の訛《なま》りがひどく、一見全く風貌が冴《さ》えない、花輪刑事に好意を持っているように思える。生粋の都会ッ子であり、新宿高校出身のナウな現代娘は、却《かえ》って自分にない、もっさりした、雄牛のような重厚な性格や動作にひかれたのであろうか。
『うん、あの娘《こ》だったら、案外、あのもっさりした男と、うまく行くかもしれないな』
いくら岩崎が殺人捜査に当って犯人の心の中を読みとる名人といっても、やはり女心の微妙なところは分らない。本当は都会的な岩崎のことを無理に自分の心の中から振り払うため、その対極にある、もっさりした相手を選んだのだという乃木の悲しい心までは分らない。
この世から殺人を無くすこと、もし殺人犯がいたら、速やかに逮捕して厳罰に処すること。それ以外のことには、岩崎の頭は働かないようになっている。
口にくわえた葉巻の煙が目にしみるのか、少し顔をしかめてまたコンピュータに向った。
勤務中はできるだけ喫煙しないようにとの通達があるが、コンピュータにデータを入力する場合、頭脳は極度の緊張を必要とする。今のところ、彼には葉巻が必要だ。
二百人の刑事さんたちが一緒にいる大部屋ではお互いにいくら小さな声で話し合うようにしても、みなの声が一つの低いざわめきになる。それが脳の中に、直接ひびいてこないよう、薄い目に見えぬカーテンを脳膜に張り巡らす。
かつてイギリスの名探偵シャーロック・ホームズが使った方法であった。
ただし煙草は麻薬と違う。薄い皮膜のカーテンは脳の集中力は高めるが、同時に外界での事象を敏感にキャッチする能力も残していた。
その外界へのアンテナが十一時を少しすぎたとき急にぴりっと震えた。
誰かが彼に向って電話をかけている。電話機が鳴る前にそれが分る。予知能力というほどの大げさのものではないが、いわゆるカンが鋭いというのであろうか。
最初のベルの震動が、リリリンの音を電話機の胴体に伝える前にはもう手に取って
「こちら捜一」
と言っていた。岩崎の机の電話は末席の乃木の机と端末が一緒になっていて、同時にベルが鳴る仕組みになっているが、伝票整理に熱中している乃木は、このベル以前の震動には全く気づかなかった。
「はい承知しました。只今」
短い電話だが岩崎は緊張した表情で答えた。
総監閣下からの直接の電話だ。こんなことは滅多にない。そのまま捜一の部屋を出て行く。
電話に出たことに気がつかなかった乃木が、彼の後ろ姿が扉の向うに消えるのを何となく目で追っている。その背広が今日もブランド物の新品であり、後ろ姿が颯爽《さつそう》と見えるのに溜息をついたのだが、岩崎はそんな乃木の目に全く気がついていない。
総監室は十一階にある。普通の部長以下の平の警視や警視正が、直接行くようなことはあり得ないが、岩崎だけは別で、本庁へ着任以来もう六年近い間に、何回となく呼び出されている。総監閣下も何代か変って、これで四人目だ。
いずれも一見古武士のような風格の方が多く、さすが総監までなる方は違うと、いつも感服させられたが、特に今度の総監はそれにすべてを見通す叡知《えいち》が備わっていて、四千人を越す全警視庁職員の心からの畏敬《いけい》を得られている方であった。
しかしエレベーターの前に立った彼は昇りのスイッチを押さず、下りの方のスイッチを押して一階まで降りた。そういう指示の電話だったのだ。
既に総監閣下が、三、四人の秘書に囲まれて、玄関ホールに立って、岩崎を待っていた。
秘書はすべて警視以上で、中には、岩崎と同期に東大を出て、警視庁に奉職した佐藤警視もいた。
「やあー、岩崎さん」
と彼が呼んだ。すぐ総監閣下が気がついて
「ご苦労」
といった。
「おそくなりまして」
さすがの岩崎も、自分の方が集合におくれたのに恐縮して、こちんこちんになって返事をした。
総監閣下はいった。
「今日、君を呼んだのは、内閣総理大臣だ。我々はこれから官邸に伺う」
「えっ」
とさすがに驚いた。
「……総理のお身内が誰かに殺されたのですか」
「いや、そういうようなことではなさそうだ」
「でも殺人事件ですね」
「多分そうだろうが、そうでないケースもありそうだ」
「それでは困ります。私は同行できません」
車の中で岩崎は、きちっと坐り直して、断乎《だんこ》としていった。上意下達の警察官の世界では、このような抗議は珍らしいことだ。場合によっては抗命行為になりかねない。
「なぜだね」
「私は、帝都から殺人行為の絶滅を期して、すすんで警視庁を志願しました。先般来、公安関係や、暴力団関係など、本来他課のやるべき仕事をずっと引き受けさせられてきました。決してそれらの仕事をすることがいやだと申しておるのではないのですが、もしそういうことにかかっている最中、殺人事件が起り、そちらの捜査がおくれ気味になるようなことがあると、私としては気持が平静でいられないのです。公務員職務分限分掌規定違反にもなります」
といつもの口癖が出た。
「その気持は分る。しかし今や日本は国際世界に重きをなしてきて、同時に世界各国にまたがる犯罪が多くなってきた」
岩崎はいった。
「そのことについては、半年ほど前、国際捜査課が誕生し、新しい強力なスタッフが結集して、もう立派な業績を挙げているとききました。私は、たとえそれが総理からのご依頼であろうと、本来の殺人、強盗、放火犯の追及である捜一の業務と関係のないことは、お断わりするつもりです」
「君のその節を曲げない態度は正しい。私も賛成する。しかし時の総理がわざわざ君をお名ざしで呼んで、忙しい公務の間をさいて話をしようというのだ。公務員職務分限分掌規定については、いやしくも行政府の長であられる、総理閣下が御存知ないはずはない。ともかく君も政府の禄を食《は》んでる公務員として、総理のお話だけは聞かなくてはいけない」
その指摘もまたもっともであると思った。
「……諒承しました」
岩崎はいつもの無表情で答えた。車は官邸の門を入り、広い前庭を半回りして、玄関の前に着いた。
衛視や、若いSP、官邸秘書たちが、玄関の階段や、扉口のそれぞれの位置で、一斉に敬礼する。総監と岩崎、総監秘書の三人が車を降りて、官邸へ入って行く。
首相秘書官が、玄関で、総監に親しそうに挨拶する。警視庁か警察庁の、局長クラスで、本庁に残っていたら、警視監クラスが、一時的に出向して、首相秘書官を勤めるケースが多い。その秘書は総監よりは、五年ほどの後輩で、警視庁にいたときは仲の好い飲み仲間であった。
「どうもわざわざお呼びたてして申し訳ありませんでした。総理は只今、閣議中ですが、本日は特別にもつれそうな議題はなく、事後の報告と、承認という形ですすめられ、定時にはぴったり終ると思います。そのまま、自分の部屋に戻られた総理は、そこで『なだ万』からの仕出し弁当を取って昼食になさいます。その席で、総監と、そちらの総理お名指しの警視正さんとのお二人が、一緒にお食事を取ることを予定しておられます。午後は一時までに国会へ行けばいいので、十二時五十分まで、昼食と昼の休憩とをまぜて、一時間の時間がとってあります。その間、ゆっくりとお話ししたいそうです」
「分りました。私どももそのつもりでやって来ました」
秘書官に案内されて総理の執務室に総監と岩崎の二人が入った。部屋の一隅に四、五人の来客と話ができるように、テーブルと椅子の応接セットがある。
岩崎も勿論だが、総監閣下も総理大臣の執務室など初めてらしい。なるべく落着いてと思っても、自然に緊張してくる。
やがて秘書が
「只今、総理は閣議を終えられました。すぐこちらへ参られます」
と伝えてきた。それで二人は応接椅子から立ち上って、扉の方に向って立った。すぐに扉があき、小柄の武村総理が入ってきた。もう二年目だ。貫禄もついてきた。
「いやーお待たせしてすまん。その代りこれから一時間だけ時間ができた。食事しながらゆっくりと話をしよう」
武村総理は歴代総理の中では、比較的気さくな方であるという評があるが事実であった。前の総理に見られる無理して作った峻厳《しゆんげん》な態度は見られない。
三人が応接テーブルに向い合って坐ると、すぐ秘書係の女性が、三段重ねに吸物椀つきの弁当を持ってきた。
「まず食べてから話をしよう。さあー一緒に食べよう。すべてその後だ」
自分が先に吸物椀の蓋《ふた》をとって一口飲んだ。
それから黙々と食べ始める。
食べながら話をしようとはいったが、おかずをつまみ飯に箸《はし》をつけながらも、一向話を切り出さない。
さすがに、国家公務員の中でも高級職として、国政の秘密事項に触れることの多かった警視総監は、こういうときの判断が敏感だ。途中ではっと気がついたらしい。かなり急いで、箸を動かし出し、半分ほど食べてしまうと、ぱっと蓋をして
「総理ご馳走さまでした。折角、お呼び出しを受けて、恐縮ですが、私はすぐ戻らなければなりませぬので」
といった。普通なら非礼に当る言葉だが、このへんはもうベテランどうし腹と腹の話し合いだ。
「ああそうしなさい。私の方は個人的な用だ。岩崎警視正だけが残っていてくれればいい」
と、総監の我儘《わがまま》を許すという感じの語調で、途中退出の許可をあたえた。むしろ総理は内心ではそれを待っていたらしい。自分で気がついてくれてホッとしたようだ。
広い総理の執務室には、武村総理と、岩崎警視正の二人だけになった。
すると急に、総理は親しそうに話しかけた。
「君は何も、総監のように急いで飯を喰うことはない。胃のためにもよくない。ゆっくり食べながら聞いてくれ。私は個人的なことを頼みたいので、君に来てもらった。気楽にしてくれ」
「その前に一つだけ、お願いがあるのですが」
生真面目な顔で向き直った岩崎の態度に少し意外そうに総理はこの若い警察官僚の顔をみた。話をする前に注文をつける者なんて、総理になってからは会ったこともない。
「何だね」
「私は警視庁の捜査一課、ご存知かと思いますが、殺人事件専門の刑事です。総理のご命令の一件が殺人事件の捜査だったら、いかようにもして、お引き受けしますが、もしそれ以外の事件だったら、どうか他のもっと適当な捜査官をご指名いただきたいのです」
正面きって、仕事を断わる青年を、総理はむしろ珍らしい物を見るかのように見た。今どきの小役人で、国家の最高職に向ってこれだけずけずけいえる男がいるのか。
「分ってる」
まずそう答えた。
「それはかつて殺人事件だった。かつてといったのは三十年近く前の昭和三十六年、その男は日本人の入れないある遠い国で殺された。もしその情報が事実だったら、今ごろは死体も土に代って残っとらんだろう。だが、このごろその殺害状況だけでも、もう一度調べなくてはならないおかしな事態になってきた。当然、君に行ってもらうべき筋合の仕事だ。これなら承知してくれるかね」
「はい分りました」
岩崎は素直に答えた。そしてもう一度総理と一緒に吸物椀の蓋をとってお互いに一口飲んだ。
「私がつい先日の中国訪問で有名な敦煌に行ったことは知っているね」
総理がいった。
「はい、中国訪問の忙しい日程をやりくりされて、奥地の敦煌まで行かれ、古代の文物史蹟を調査されて、その保護をお約束されたことはよく知られております。そしてこれは日中両国の国民に、日本が経済アニマルだけでなく、文化にも深い関心を持つ国として、大変に好意的に評価されたと思います」
二段目、三段目のお重の中には、おいしそうな料理が沢山並んでいる。岩崎は珍らしく総理に調子を合せた。
総理も岩崎も、健康だ。話しながら、どんどんと弁当を平らげて行く。
「私は文化財にも関心がなかったわけではないが、あの僻遠《へきえん》の土地に行ったのは秘密の連絡があったからだ。それが今回の事件だ」
それから、少し思い出を探るような顔をしていった。
「私が、四十少し前で国会に初当選し、いわゆる陣笠《じんがさ》代議士として、まだ所属する派閥も決まらず、有力な親分を求めて院内の廊下|とんび《ヽヽヽ》をしていたとき、すぐ私に目をかけてくれた人は、時の大物総理浜大介先生だった」
浜総理の名ならよく知られている。
在任期間はそれほど長くはなかったが、戦前から戦後にかけて、官界の中心として活躍し、巨大な権力を握った大物だ。その威風はあたりを払うものがあり、若手代議士などが国会内ですれ違うと、体が恐縮して強張《こわば》り物もいえなくなるぐらいだったといわれている。
「その人が直接、国会の廊下で立っておじぎしている一年生代議士の私に話しかけられ『後で官邸へ飯を喰いに来い』といわれたのだ。私は身にあまる光栄と、その日の昼に早速、官邸へ伺った。丁度、今日のこの日のようにして、ここでこのテーブルで一緒に飯を喰ったのだ。同じ『なだ万』の弁当だ。もう三十年近く前の話になる」
いかにも懐しそうに、当時を思い出して話す。
「浜総理閣下は、戦争前は満洲国の官吏として政府を牛耳っていた方で、戦後、帰国後も、その華麗な人脈をそのまま日本へ持ちこんで腹心を固めておられた。総理のすぐ横には満洲時代以来の子分の平田さんが、官房長官として、陪席されていた。私は光栄で震えていた。そのときにお二人の間に専ら出たお話が、丁度そのころ国会途中に突然旅行に出て、東南アジアのどこかの小国で行方不明になった、友人の代議士のことだった。わざと名前をいうのをはばかり、あいつとか、彼とかいっていたが私は国会の同僚なので、その人の名はよく知っていた。浜さんも、平田さんも、かなり親しい友人であったようだ。でも私はうなずくのに精一杯で口は出せないでいた」
武村総理は、そのとき一年生代議士としてどのくらい固くなっていたかを岩崎の前で、ひょうきんに姿勢を示してみせた。
「こんなもんだったな。……飯もろくに喉を通らんぐらいだったよ。お二人は私をおいて専ら、その友人のことばかり話していた。『困ったもんだな、あいつにはいつも手をやくよ』『これが将来、日本に大きな禍根を残すようなことにならないといいが』そんなことをお二人はしきりにいっておられた。その浜総理と、続いて何代か後でやはり総理になられた平田総理に可愛がられて私は、今とうとうこの官邸に住む身分になった。……そして……」
と総理は少し苦笑していった。
「今回、その禍根の後始末の方も、私が引き受けることになった」
それから岩崎は、武村総理に、浜大介、平田正良、そして二人の友人、津正信につながる、信じられないような話を官邸でじかにきかされたのだった。
三十年前に殺されたはずの津正信が本当に死んでいるのかどうかを、武村内閣の安泰のためにも日本の国益のためにも岩崎はぜひとも調べなくてはならない羽目になったのだ。
3[#「3」はゴシック体]
そして今、タクラマカン砂漠の真中にいるメリーは相変らず真剣な顔でハンドルを握っている。
何もないようでも、広い砂漠を走っていると、途中に様々な気候の変化があった。一カ所では|ひょう《ヽヽヽ》といわれる物が空から降ってきて、激しく車の天井にぶつかった。またもう一カ所では砂の風が、右横方から激しく吹きつける地帯を、車が横転しないよう、やや左前方に頭を向けて、それでいて進み方は直線という、ややこしい運転の仕方で通りすぎた。
ここでは、陽気でおしゃべりのメリー・王《ワン》も無口になる。必死になってハンドルを細かく修整していた。
およそ一キロ以上もジグザグに走って、その風の流れる地帯を突き抜けた。やっと風圧のない道路に出てほっとしたようにメリーはいった。
「昔からここは悪魔が空気で扉をして、通り抜けられないようにしたところといわれています。三蔵法師も、マルコ・ポーロも、旅をするときは、お互いが体を縄でしっかり結び合って、吹き飛ばされないようにして、ゆっくり足を踏みしめながら歩いて通って行ったそうです」
一人ではこの道を通り抜けることは難しかったろう。
また元のような平穏な道を走り出す。
村落らしい家並がやっと地平の先に見えてきた。
どこで消えるか分らないが、畑の間を切って作った、人工の小川のようなものが見えてくる。じゃが芋や、とうもろこしの畑が、まばらに見え、驢馬《ろば》に車をひかせた、ウイグルの農夫や子供が、行き交う。
これまで何もなかった道の両側に、まっすぐに空を突き刺すように立った、ポプラの並木も見えてきた。
やがて人家が三十か五十ほど並ぶ、村落へ入る。これが西域の砂漠地帯の典型的な、オアシスの形である。
車はまっすぐ村の中央へ入った。どうも普通のオアシス村と違うようだ。
村の中央の十字路には、必ず店を出していそうな飲食店や、野菜や雑貨を売っている屋台がない。
代りに一間《いつけん》幅の台が組みたてられた店が何軒も並び、そこにはさまざまの意匠をこらした、アラビヤ風のナイフが置かれている。
奥には、そのナイフの製造工場があるようだ。泥の日干し煉瓦《れんが》で作られた家屋にはみな四角い煙突がついていて、黒い煙を吐いている。家族の老人や女、子供が、男たちの作業を手伝っているらしく水や薪《まき》を運んでいる。
村の中央で車が停った。
「ここは広い砂漠のあちこちで、個人や小さな集団で暮している人々が、盗賊から自分で自分の身を護る武器を、一手で作っている所です。砂漠には食糧や水も必要ですが、政府や警察が生活を守ってくれるわけではありませんので、武器もまた、なくてはならない物なのです」
「広い砂漠からここへ集って買いに来るのですか」
英検二級の乃木が四人を代表してきく。
「ええ、ここから広いタクラマカン砂漠へ入る旅人たちは、すべてこの村へよって、ナイフや、旧式の六連短銃《レボルバー》を買って行きます。反対側のヒマラヤの山岳へ入る人々は、獣を獲《と》る、散弾二筒銃《シヨツトガン》と弾薬を買って行きます。このあたり、天山南路を中心とする、広いシルクロード一帯に武器を供給する、武器庫です」
砂漠という、無人不毛の地帯には、往々、外では伺い知れない不思議な役目を持つ村落があるようだ。岩崎たちはただ感心して周りを見回した。
さすがにこの村の人は、武器だけを作って生産している人たちにふさわしく、いずれも目付きも鋭く、兵士のような俊敏な行動をする。何かのときには、自分で作った武器を持ってすぐたち上りそうな感じの若者が多い。何人か商品を持って近づいてきた。それを見て他の村の人々も、一斉に店から出て車の方へ歩き出した。急にやってきた五人の客を珍らしそうに取り囲む。
メリーはみなを軽く手で制してから、説明した。
「この人たちはかつて、どの民族の兵士がやって来ようと、自分で自分の身を守り、一度もその支配に屈しなかった人です。こんな小さい村ですが現在どこの行政組織にも属さず、どこにも税金を納めていません。省政府も、出張所の役人も、正式な政府の使者としてはここへはやってきません。中国の十二億の人口を持つ広大な領土の中で、唯一つの行政の空白地帯です。もっともこんな砂漠の中の小さな村をわざわざ目くじらたてて、占領しにくるほどのことはなく、無視してしまえばいいわけです」
岩崎はそこでメリー・王に質問した。
「しかしそういう所は、考えようによっては一種の独立国だからね。ここだけの王様か、首長がいるはずだが」
メリー・王はさすがに岩崎だというように大きくうなずいてから答えた。
「それがカンサーです。……もっともカンサーは、陰の存在として、まだこの村にはやってきたことはありません。実質上の指導者は、カンサーの孫の解直方《シヤージーハン》です。さっきいった、私を泊めてくれた宿舎の女主人、楊春蘭の大事な一人息子です」
「私らは、ここでその人に会えるわけだね」
「既に邸《やしき》で待っています。私はその直方《ジーハン》に頼まれて、みなさまを迎えに行ったのですから……」
「つまり、メリー君が、アメリカのCIA職員と分っていても、中国の公安に捕まえられず、悠々とこのあたりで暮して、何かの工作に専念できるのも、村全体に、カンサーの力が及んでいて、一種の治外法権地区になっているからだね」
メリーは一瞬少し恥しそうにしていった。
「ミスター・岩崎のように、そうはっきりいわれてしまうと、全く身も蓋もありませんがね。見てくださいよ。ここの周りでナイフを私たちに売りつけようとしている男たちの顔を。みな凄《すご》い目付きをしているでしょう」
「うん、なかなかの面魂だ」
周りを見回して、そう岩崎は答えた。
「つまり、大古以来、どの支配者にも、一度も屈したことのない男たちの顔です。きっと何年か後に、この男たちが、万一、風雲を得る機会があったら、かつてのジンギスカンやフビライのように全中国を征服するときがあるかもしれません」
岩崎はびっくりしてメリー・王にきいた。
「こんな小さな村の少ない人数で、そんなことを二十世紀の現代にまじめに考える者がいるのかね」
メリー・王はあわてて笑ってごま化した。
「まさか。冗談よ。それには資金も、武器も組織もないし、人を動かす、軍事能力を特った名参謀もいないわ。カンサーもそんな誇大妄想狂ではないわ」
その間もナイフを持った村人が集ってくる。
乃木にも花輪や中村などの刑事たちにも。前後何十キロの人跡まれな砂漠の真中にこんな村があるのをひどく珍らしく思った。
岩崎が現実的な質問をした。
「彼らはこんな所に坐っていて商売になるのかね」
メリーが歩きながら答える。
「一日に何回かトラック便が、あちこちの都会からバザールのお土産物用として仕入れにやってくるわ。そのときは、問題にならないぐらい安い値でまとめて仕入れて行くんだけど、この九月からホータン市に国内や国外の一般観光客が入ってきて、たまにここまでバスでやってくるようになったでしょう。この観光客は、このあたりの人がどうしても手に入れることのできない、外国の物が何でも買うことのできる兌換《だかん》券という、特別な紙幣で買ってくれるわ。それも村の人の言い値で買って行くので、観光客相手なら、元値の十倍にも儲《もう》かる商売ができる。それで今全員がみなさんの周りに集まろうとしてやってくるの。でも私がいるから無理に売りつけさせないわ」
たしかにその通りでメリーがみなに何か土地の言葉でいうと、村中の店から飛び出しかけてきた人々が五人の周りから、去って行った。
そうでなければ、ナイフや旧式の一発ごとに撃鉄を起す方式の六連短銃を、目付きの鋭い青年たちに囲まれて売りつけられてしまったかもしれない。岩崎がきく。
「いつごろから、ここにこんな武器工場地帯ができたのかね」
メリーが答えた。
「昔、三、四軒の鍛冶屋はあったでしょうね。でもここがこんな武器生産地帯になったのは、そんなに昔のことではないのです。何というのか……資本……設備投資……そんなものに要る費用をカンサーが用意して送り届け、その娘が村の人に配って、こうして自立して暮せるようにしたのよ」
カンサーの金《かね》の力で一つの村が作られたのだ。生れついてからの砂漠の民には、最初の資本など一元もないはずであった。ここに資本を入れたカンサーの事業家としての着眼は見事だ。これまで何千年も貧乏生活を無理強いさせられていた地方の人民たちが自由に外国人を迎え、個人で自由な商売をすることを覚え、金儲けのうまみを知ったのだ。こんな砂漠の秘境の中まで妙に活気づいてきた感じがする。
メリーに案内されて小さな家の間の路を入って行くと、思いがけなく、高い土塀と、並木に囲まれた、立派な邸があった。独立国の王城だ。
表門には鉄砲を持った門番が立っている。
一行を見るとあわてて門をあけた。
中は広い庭になっている。
門の外の、乾いた埃《ほこり》だらけの風景と違い中にはオアシスからひいた水が、スプリンクラーで周りにふりまかれ、芝生が茂り、赤や黄の花が、その間に咲き乱れていた。砂漠を歩いてきた人々はこの庭を見て極楽というものを実感するのではないかと、一瞬考えてしまうような光景だ。
何人かの女たちが、皿に乗せた果物や、料理類を、庭を横切って運んでくる。みなきらびやかなドレスをつけ、白い絹のスカーフを頭にのせている。このあたりの道を歩いている女たちがいずれも埃に汚れた衣服をつけ、首筋から腕まで、土が真黒についたような肌をむき出しにしているのとは大違いだ。みな清潔だ。
庭の奥に大広間があった。
赤くつるつるに磨かれた石の床には、スリッパにはきかえて上る。
テーブルがあり、正面に、四十ぐらいの夫婦とその長男らしい男が坐っていた。メリーは女主人と抱擁し、それからみなを英語で岩崎に紹介した。
「主人の|解 斜 方《シヤーシヤーハン》さんです。隣りが奥さんの楊春蘭さんです」
岩崎が立ち上って満洲方言の中国語で
「私は日本から総理の特命でやってきた、岩崎というものです」
とのべると、夫人の春蘭が
「私が日本の総理に手紙を出したのです。そのとき中国語の上手な方に来てもらうようお頼みしてよかったわ。安心してお話しできます」
といった。
「はい、大体の事情は伺っております」
岩崎はすぐ答えた。息子らしい男が中国語で
「私が長男の直方《ジーハン》です」
と、自分で名のった。春蘭がすまなそうに
「私は満洲に生れ、中国に育ちました。戦乱の中を、父と共にあちこち歩き回りましたので若いとき学校へ行くことができませんでした。母から少し日本語を習いましたが、その他は中国語以外は全く分らないのです。それで、中国語の手紙を書き、中国語のできる人が来てくれるようにとのお願いをしたのです。すみませんでした」
とまたいう。息子はにこにこして母の言葉をきいている。
「承知しております。それで私が選ばれてやって参りました。どうか安心して、満洲の言葉でお話しください」
母の春蘭はほっと安心したようにきく。
「それでは私が、楊芳蘭の娘であることももうお分りですね」
「はい」
「父が誰であるかということも」
「はい、それがもし、カンサー氏以外の人のことをいうのであるのなら、噂話の一つとして、多少のことは耳にしております」
と、ごく慎重な言い回しをした。これは秘密の事項であったからだ。
「あなたがお考えになった通りで結構です。私の母は今、ビルマの山奥の例の黄金の三角地帯の中にある、メエサロンという町にいます。ここからはヒマラヤの横を通って行く秘密の道があります。ここ、二、三年会うことはありませんが、元気でおり、父に愛されて幸せに暮しております。父の仕事が世間にいろいろと批判されている仕事とは分っておりますが私は別に、何のひけ目も感じていません。貧しい山の民が、人間らしく暮して行くのには、それ以外の方法がないからです」
そしてかたわらの、にこにこ笑っている夫の方を指さしてもう一度
「夫の|解 斜 方《シヤーシヤーハン》です」
といった。
四十代の半ばか。岩崎警視正よりは一回り上だが、いわゆる男盛りの精気が溢《あふ》れた感じがする。
飛行機に乗るのが怖くて、どうしても連れてこられなかったが、その一点を除けば、鬼の捜一の中でも第一の怖ろしい形相をしていて迫力たっぷりの進藤デカ長に、よく似ている。四十を越しても、尚《なお》、やっと三十代に入ったばかりの楚々《そそ》とした娘を思わせる妻の春蘭に比べて、殺戮《さつりく》と謀略の中をくぐり抜けて、そのすべての勝負に、生命を賭《か》けて、必ず勝ってきた男の、たくましい姿は、まさに美女と野獣である。
手を差し出した。岩崎も出して、お互いに握手した。掌《てのひら》が鋼鉄でできているのではないかと、一瞬岩崎が錯覚を起したほど、固い手であった。ただ金属でないと思ったのは、その固い手に体温があったからだ。
「そして隣りにいるのが長男の直方《ジーハン》です」
若者が立ち上って一人一人に握手を求めてきた。背がすらりと高く、がっしりとした体付きの若者であった。
にこにこ笑っている顔に愛嬌《あいきょう》があって好感がもてる。力も強そうだし、肩や唇のあたりには、この土地で何千年か独立を主張し続けて来た誇りある少数民族の血筋を感じさせるものがあった。
母は自慢そうにいった。
「息子の直方《ジーハン》は、私の父のカンサーの、負けず嫌いの血を一番強く受けています。他にも私の兄弟の子がいて父の仕事を手伝っていますが、その中のどの孫よりもカンサーは、直方《ジーハン》を可愛く思っているようです」
夫の解斜方もうんうんとうなずいている。体はがっちりして顔付きは獰猛《どうもう》だがこの土地に代々住む民族の、中国系ウイグル人らしいおだやかで無口の人らしい。そして、解《シヤー》家には、カンサーとはまた違う、頑固に他民族の支配を排除し続けたしぶとい気風が伝わっている。
「私は……」
と少し口ごもりながら、父の|解 斜 方《シヤーシヤーハン》はいった。
「私は息子をこの土地の武器工場のボスで終らせないで、全中国で名を知られる大物にしたいと思っとります」
それに対しても直方はただにこにこ笑って答えない。
母が勢いこんでいう。
「直方は、ここの土地のウイグル人の名も持っています。征服者という意味です」
急にウイグル語の激しく舌を巻き上げる発音でいったので、よく聞きとれなかった。アルルとかアルカイという風に、聞こえただけだ。
母は更に話し続ける。
「隣りの町といっても、何しろ砂漠のことですから、ここから五百キロ離れています。明日一気に走っていただきますが、あの車で十時間かかります。明日はメリーさんや直方が案内してそこまで行ってもらいます」
四人の刑事たちはその時間をきくと思わず顔を見合せた。相当なハードの旅は覚悟していたが、スケールが違う。
おとなしく母のおしゃべりをきいていた息子の解直方が、父の茶碗に茶を注ぐ。茶を飲みながら、父はまたゆっくりした口調で話しだした。
「そういうわけで、まずここへお出でをいただいたのです。私たち夫婦は、日本の総理が中国へ来る日をずっと待っていました。浜総理や平田総理と続く血脈の人の来るのを待ちました。特に武村総理を心からお待ちしていました」
岩崎は殺人事件に関しては何でも知っているが、政界の人脈や流れということに対してはあまり知識がない。一刑事警察官にとっては、どうでもいいことだし、もともと政治家がどう変ろうと、日本の官僚はそれによって、その地位が動くことは殆どないし自分のやっている仕事に何の影響もない。
父親の斜方は急に熱心にしゃべる。
「カンサーは、平田さんから預った物をお返ししたい。もし日本で要らないというのなら何かお役にたつことに使いたい。それだけが永年の心がかりらしかったのです。世界中から、まるで、この地球を滅亡させる極悪人のように言われていますが義父は、至って律義な人物です。ただお預りした物の中で芳蘭さんだけはお返しできない」
満更冗談でない、本気でいってるらしい。
「……何しろその後、二人は愛し合って、戦後の混乱の中で平田さんに連絡することもできずに、結婚してしまったからです。平田さんの家でも今さら芳蘭お婆さんを返されても困るでしょうし、今、ビルマ奥地の三角地帯で、夫と共に幸せに暮しているお年寄りを、もう昔愛してくれた人も死んでしまっていない、見も知らぬ他国へ送るのも可哀相ですし、送られた方もびっくりするでしょう」
もし本気でそんなことを考えているとしたら、このあたりの人はちょっと物の考え方の次元が、一般の文明国の人々と違う。しかしよく考えてみると、預かった物を返すという次元に於《おい》て、これは正論でもある。むしろ、その素朴な考え方にだんだん感心して、岩崎は解《シヤー》が熱っぽく語るのを聞いている。
「カンサーが、平田局長から預った物は、金やダイヤなどだそうです。当時、アメリカと、南方と、中国と、世界中を相手に、日本は只一カ国で戦争をしていたそうですね。今から考えれば、とても本当とは思えないのですが」
「ええ、私も生れる前のことで、父から聞いた話ですが、父は一兵士として、実際にその戦場に従軍したそうです。その父がいったのですから、それは本当のことでしょう。結局、日本は最後に負けて殆ど国家が滅亡する寸前までになったそうです。全く私たちの世代の者には、考えられない話ですがね。どうも戦争したのは本当らしいです」
岩崎はそう答えた。
総理にきいた話も、その線からつながってくる。
このシルクロードの、それも、ソ連や、ヒマラヤや、更にパミールに抜ける国境に近い辺境の名も知れない村にまで、五十年も前に日本がアジアの各地をまきこんだ戦争の影響が、残っているようだ。
ほんの三日前のことだが、今ではかなり昔のことのように思える、総理官邸での話し合いが、またまざまざ思い出された。
岩崎と、二人だけになったとき、総理はカンサー、浜大介総理、そして当時の作戦参謀津正信たちが行なった仕事が、その後四十五年、現在の日本にどんなつながりを持って影響してきたかを詳しく話してくれたのだ。
「浜大介さんや、当時の作戦参謀のある男が企案し、後にカンサーが継承した、阿片栽培の仕事を悪くいう人が多いのですが、そうともいえない事情もあったようですね」
岩崎がそう答えると、この邸の主人は、いかにも嬉しそうにうなずいた。これで初対面の挨拶は終った。広間には茶の用意が整った。
多分、今日はこのまま泊ることになりそうだ。四人の部下たちはくつろいで、出された果物などつまんでいる。
この家の女主人春蘭と岩崎との中国語のやりとりは邸の使用人たちには全く分らないらしい。別間に黙々として食事の用意をしている。
もし言葉が分る人間がいたとしてもあらかじめ、岩崎が総理からじかに聞いた、旧満洲帝国時代の、日本の政府や、役人、軍人などが行なったことに対しての知識がなかったら、三人が何のことを、今話し合っているか、まるで分らなかったろう。
浜大介の直接の子分が平田正良で、二人とも日本の総理大臣になった人だ。いずれも、今度、岩崎がわざわざこの土地へ殺害の状況を調べに来た原因の、昔、満洲帝国へ派遣された日本軍の参謀で戦後国会議員になった人物とは親しい仲であった。
だからこの殺人はどうしてもカンサーともつながってくる。
この砂漠の都市が唯一のルートになっている、ヒマラヤ、シルクロード、ビルマ、タイにつながる、広大な地域で突然、消息を絶ってしまった、その妙な軍人の殺害状況を知るのには、この村で春蘭や、解斜方から情報を得てから、現地へ向うよりは仕方がないようだ。
岩崎はこの中年の夫人に改めてきいた。
「私はある軍人の殺害の状況を調査に参りました。そちらから私の国の総理に送ってくださった連絡も多分、その軍人の殺害の状況が最近分ったからというようなことだったと思いますが」
「ええそうです。でもそのお話をする前に、私に、父カンサーの名誉のために当時の満洲の話をさせて下さい」
そう断わってから、また春蘭は話を続けた。
「父のカンサーによると、平田さんは、その時の在満の日本陸軍の、当時は関東《かんとう》軍といっていたそうですが、その軍の現地の行動用の特別予算を、日本の大蔵省と全く別枠で一人で苦労して調達していたそうです。しかも買手は上海から、わざわざ占領中の日本軍の目を盗んでやってくる中国の商人。その中国の商人が、平田さんが熱河省で作った阿片を、結局はアメリカから秘かに上海の共同租界にもぐりこんでくる、アメリカのギャングの中のイタリヤ系のマフィヤの代表にドルで売っている。その仲介をした人が津さんという軍人だとききました。そこから入るドルで買った、金やダイヤを持ってまた商人が、満洲の奥地へ阿片を買いにくるという、図式だったのです。そのころの日本は、結局、アメリカから得た金で、アメリカと戦っているという妙な時代だったらしいです」
それは岩崎も納得できる。日本は小国だった。考えてみると、夏の間に今年のように少し雨もようの日が続くともう東北一帯は凶作になり、農家の人々の殆どが、地主に納める小作米が無くて、娘を吉原や洲崎に売りに出すような貧しい日本であった。現在の金余り国と違う。そんな後進の貧乏国が、世界中を相手に一国で戦っていたというのだから、戦費などあるはずはない。途中までは、イタリヤ、ドイツと、二つ同盟国があったが、その二つの国も先にさっさと降伏してしまった。最後にたった一カ国だけになってしまった日本が、世界中を相手にして軍費の調達にどれほど無理したか。
平田総理が、まだ若い日、少壮大蔵官僚として、先輩の浜大介のもとで、必死に阿片の増産に励んでいたことも、彼の純粋な愛国の熱情を考えればよく理解できる。
「ところが戦局が難しくなってきた一九四四年から、四五年にかけては、その満洲の曠野《こうや》から、関東軍は殆ど居なくなってしまったそうです。若い優秀な兵隊と、威力ある精度の良い武器は、すべてフィリッピンや、タイ、ビルマ、ベトナムなどの南方諸島の戦線に持って行かれて、残ったのは老兵と古くて使い物にならない武器ばかりだったのです。これも当時、上海でドルの仲介をしていた実力参謀の津大佐が突然、南方軍に転出となり、自分の身の移動と共に満洲での戦争を見切り優秀な武器兵員を運んでしまったせいといわれています。優秀な人ですから敗戦が分ったのでしょう」
岩崎はうなずいて答えた。
「その参謀はそんな性格の人だったと聞いております。だから日本の敗戦と決ったとき、南方戦線でも敵味方双方から嫌われて、身のおき所がなかったし、中国大陸戦線でも身のおき所がなくて、何年間か全く行方を晦《くら》ましていたといわれています」
「ええ、父もそういっていました。父は満洲国では、その参謀の下につく忠実な部下だったそうですが、やはり敗戦後何年間かは、自分たちを見捨てたその男が憎らしくて何度か殺そうと思い、行方を探したそうです。それほど、敵にも、味方にも嫌われた男だそうです。今ではもう恨みは持ってないといっていますが、これは当時満洲国軍として、このあたりの防衛に専念していた父のカンサーがいうのですから間違いないでしょう」
たしかにそれが津参謀が戦後|暫《しばら》く行方を晦ましていた真相だろう。これ以上確かな証言はない。
「平田さんは、沢山の金や、ダイヤを集め、関東軍がもしソ連と戦う日があったら|、莫大《ばくだい》な特別軍事費の要求にも耐えられるように、ずっとプールしてあったのですが、八月九日に思いがけなく早くソ連がいきなり攻めこんできて、実際に戦争が始まってみると、もう相手と戦いながらの軍事費調達どころでなく、関東軍はただ負け続けて逃げるだけのありさまで収拾のつかない混乱に陥ってしまったのです。それで平田さんはカンサーの部隊に手伝ってもらい、阿片の畑から、一切の栽培の痕跡《こんせき》を消し、取引の証拠も消すため、何もかも焼き払ってしまい、ついでに身重の愛人の芳蘭と一緒にその軍事用に貯えてあった莫大な財宝をカンサーに残して、単身、引揚者に交って日本へ戻ったのです」
ようやく終戦当時の、満洲の混乱ぶりと、なぜ、莫大な財宝が残されたのか、その理由がよく分った。父親の斜方が今度は話を代った。
「その財宝がどのような使われ方をしたかについては、既にもう出発前にお聞き及びと思います。現在のカンサーの、黄金の三角地帯におけるゆるぎない勢力は、すべてそのときに預った財宝によって築かれたものであることを、カンサーは決して忘れていません。今ではカンサーはその何十倍もの富を、ビルマの奥地の自分の帝国に貯えております。それで一応預った物を、四十年の期間にふさわしい利息もつけて、日本にお返ししたいと、先般申し出たのです。その際、それは平田さん個人にお返しすべきか、日本国政府にお返しすべきか、というのが、直接に、武村首相にお届けした手紙の第一の趣旨でした」
「よく分りました。私は秘境に潜入して消息を絶った、津という元参謀の殺害の状況を、殺人係専門の刑事として、ここまで調査にきた者です。しかしそれが、今、お話しする財宝とも密接にかかわり合っているなら、やはり殺人事件の一つとして、調査しなくてはなりません。その意味で只今のお話は興味深く承りました」
解《シヤー》は大きくうなずいた。
「これで私たちの話は終りました。他のみなさんが退屈したでしょう。明日一緒に隣りの町まで走り、そこで財宝と、消息不明の元軍人の生死を明らかにするため、みなでその秘蔵された場所に出発しましょう。直方《ジーハン》とここの村にいる若者たちが案内します。メリーさんも同行するそうです。先ほど表で車を降りてきたとき、何人かの若者が貴君の周りに、ナイフを売りつけようとして、集ってきたでしょう。あの若者たちは、ナイフ売りの商人であるとともに、世界に比類ない、ナイフ使いの名人でもあるのです。砂漠の町で何もおもてなしができないので、ここでお食事しながら面白い余興をお見せしましょう」
岩崎がそれを簡単に四人の部下に通訳する。
「長いこと、二人だけで話をしてすまなかったといっている。これから歓迎の宴会をする。おいしいご馳走や、お酒をたっぷり用意しておくから、心おきなく楽しんでくれ……ああそれから、今、面白い余興をお見せするそうだから」
そう言われて、もともと喰いしんぼうのところがある乃木が、早くも目を輝かせている前に、羊肉を主体にしているが、ちょっと材料がどんな野菜か、魚か、分らない、珍らしい料理が次々と並べられだした。
甘いがかなり強い酒も、酌み交わされる。
花輪が東北生れのせいか、五人の中で一番酒が強い。早くもぐいぐいとやり出した。岩崎も、口や顔に出る方ではなく、酒はかなり強い。端然とした姿勢を崩さずに、やっている。
原田ひとみ刑事も、女ながら、いかにもおいしそうに、酒を飲み出した。乃木だけが、しきりにご馳走に箸を出して、途中でいったん恥しくなって盃をとったが、もともと酒が殆ど飲めないので、本場の玉《ぎよく》で作った盃を口に持っていったところで、全く間がもたない。すぐにまた盃をおいて、ご馳走に箸をつけてしまう。
その酒や、ご馳走の皿を持ってくる娘たちは、どれも殆ど、西欧的な彫りの深い目鼻だちをした美女たちであったが、しばらくして三人ばかり、全くの裸で入ってきたときには五人の客はびっくりした。
全く胸のおおいも、腰のおおいの布もつけていない。胸の双《ふた》つのふくらみの頂点のピンクの粒も、下腹に、赤味がかった、燃える炎のような茂みも全くむき出しだ。いくら砂漠の中の邸だといってもこれは極端だ。しかし女たちは恥しがったり、隠そうとしたりする気持は最初からまるでないようだ。ウイグル族は回教文化圏に属する民族だから、他の宗教に属する民族以上に、男女の区別はやたらに厳格で、女性が、腕や足の肌を見せただけでも、罪悪視する風習があるのに、この女たちの平然さに、一同はびっくりした。しかし岩崎にはすぐ納得できた。
回教の世界では、女性は完全に、夫とか主人とかの所有物なのだ。だから所有者以外の男にその肌をみせて目の悦《よろこ》びをあたえることはきびしく禁止されて、手も足もおおったりするのだが、いったん自分の所有者と定められた人の前では、どんな悩ましい姿であろうと、全裸で跳び回ろうと、それは許されることであったのだ。
勿論、それが主人の指示ならば、女として喜んで従わなければならないことだった。
三人とも、正面奥の壁に立った。
両腕を水平に上げた。手入れをしていないかなり濃い腋毛《わきげ》が見える。両肢《りようあし》もやや開いて大の字になった。
秘毛のおかげで、女たちの性器がむき出しになるのは避けられたが、それでも乃木も、原田も、まるで自分の体が、花輪や中村に見られているかのように、真赤になって、もじもじしてしまった。
女たちの背中は木の扉だ。濃い塗料の色がその思いがけなく白い肌の色をくっきりと浮き出す。
三人が並ぶ。真中の女がのばした手に、両側の女の手が重ねられ三つの女体がつながった。
息子の直方と父の斜方とが、テーブルを離れて、その女たちの前に立った。五メートルはある。
解家の父子は、いつのまにか、腰にバンドを巻きつけていて、そのバンドに、この土地で作られた飾り柄のあるナイフが、何本もずらりと刺しこまれていた。
斜方がいった。
「私たちは決して名人というほどではありません。でもごく普通の私たちでも、このぐらいはできるのです」
といってから、父は長男と顔を見合すと
「ハッ」「ヤッ」
とお互いにひと言ずつ気合をかけ合って、手早くナイフを抜きとって、女たちの体に向って投げた。どれも、体の線に沿ったぎりぎりの所で、板に突き刺さる。
裸の娘たちは、別に目ばたきもせず、唇にほほえみを浮べて平然とそれを見ている。
最後に父が二本、息子が二本、それぞれの女たちの秘毛の茂みを分けるぎりぎりの深さで体の中心を刺してぴたりと体の動きを止めたときは、五人とも思わずふーっと大きな息をついたほどであった。
拍手が起った。
「見事なものです」
岩崎がそう褒める。女たちは、手をつないだまま、そのナイフの林の中から抜け出した。
扉板には、きれいにナイフの刃の大の字が、三つ並んだ。みな急に陽気になって、また盃を重ねた。
中村刑事が何か隣りの原田刑事の耳もとでささやいた。原田刑事は初めは、顔を赤くしていやいやしていたが、やがてごくりと唾《つば》をのみこむ気配をさせてうなずいた。
中村刑事が立ち上っていった。
「もしお許しいただけるなら」
岩崎はほほえみながら中国語に直して親子三人に伝える。
「……私どもでもお返しに余興をお見せしたいのですが」
「ほほう」
と明らかに興味を見せて解《シヤー》の父子は目を輝かせた。メリーはキラリと目を光らせた。紹介されて一礼した女刑事は美しすぎる。日本人というのは、写真や漫画で見るときは、細い吊り目の顔が多いが、ここへ来た二人の娘は、二人とも目が真ん丸く大きい。そして今立ち上って並んだ女は、二人の女の中では、愛嬌は少ないが、美貌ではきわだっている。中村刑事はその原田の紹介を日本語で続ける。すぐ岩崎が訳す。
「……警察官の身分でもありますし、まだ未婚の身でもありますので、日本の風習として先ほどの三人の娘さんのように、すべてを脱ぎ捨てて、裸になるというわけにも行きません。しかし実験に差し支えのないような衣服に着替えさせていただきます」
そういうと、原田は自分のリュックから自分の分のピストルを出して中村刑事に渡してから残りの着替えの入ったリュックを抱えて、女中に何かいった。こういうときは言葉が通じなくても女どうし意味は分るのか、女中は背後の小さい部屋へ案内したようだ。それはまあ、いいのだが、乃木には、この小さな出来事が面白くない。自分では今や捜一の主《ぬし》と思っている彼女の知らなかったところで、二人の仲はかなり進行しているようだ。相当に心が通じ合っているらしい。
心が通じ合っているのはいい。恋愛は自由であるからだ。しかし神聖なる職場の警視庁警察官が、もし結婚前に体まで通じ合っていたとしたら、これは絶対許せないことだ。きっと原田は全裸でないにしても、警察官としては許せる範囲の、裸に近い形で出てくるのに違いない。
そのとき心眼《ヽヽ》を働かして、彼女の体を見る。もし中村との間にもう体を通じ合っているようなところが心眼に写ったら、天に代りて、不義を打つ、警視総監になり代って、自分がリュックからピストルを出してこの場で原田を射殺してやろうと、そう覚悟を決めて待っていた。
別室から原田が出てきた。上は双つの胸を下着でしっかり押え、更にマラソンのランニングを着けている。下は運動用のレオタードで、裸以上に、悩ましく彼女の細く長い肢をぴったり見せている。たった一枚のその下につけている薄いショーツの線さえくっきりと見えるほどだ。
だがその原田の体に心眼をこらして見つめてやる余裕が乃木には無くなった。自分の隣りにいる花輪刑事がその大して大きくない眼をまるではりさけんばかりに開いて、ごっくりと生唾をのみこむようにして、原田刑事の体を見ていたのだ。
全くもう頭にきた。鈍重ではあるが素朴、そして捜一刑事の中では、多少、文学も分るところを買って秋田弁丸出しのダサイのも我慢して、二度までも(一度は三浦海岸での海水浴でかなりハイレグの水着姿も見せてやった)デイトをしてやったのに、何たることだ。この態度は。ドスケベイ!
たとえここが地球の中の全くの秘境で、日本人はたった五人、そして総理大臣閣下の直命を受けた、重要な任務を各自が遂行中であっても、尚かつこの男を生かしておくわけにはいかない。いきなり自分のリュックからピストルをひき出して、その右腹から左腹にぶち抜き、長い時間苦しみの中にのたうち回る姿を残酷な目付きで睨《にら》みつけ薄ら笑いしてやりたいと思ったが、やっと唇を血のにじむほどに噛《か》みしめて、それを耐えた。代りに彼の腿《もも》のあたりを力一杯思いきり強くつねってやった。
『そんなに原田刑事がいいなら、男らしく中村刑事と張り合いなさい。私はもうあんたとはデイトなんか絶対してやらないから。このウスラトンカチ』
それだけの思いが爪の先にこもっている。しかし捜一刑事としての誇りはあるし、これまで花輪と自分の二人が多少は仲のよかったことを、警視正殿に知られるのも恥しいことだったから、その怒りは口には出さなかった。いくら鈍重な花輪刑事でもそれまで強く抓《つね》られれば、意味は分る。うーっと、痛みの方は息をつめて耐えて、外には出さなかったが、それまで原田の体のある一点を凝視していた視線はようやく外された。
中村刑事がさっきのナイフの時よりはずっと距離をとって、今度は別間のテーブルの後ろに立った。
原田刑事は曲線があらわになった悩ましい姿で、扉に背をつけて立っている。的と射手との間は確実に十メートルぐらいは離れている。中村刑事の右手には、先ほど原田から受け取ったピストル、左手には自分の持っていたピストルが無造作にぶら下げられている。原田が両腕を上げた。腋毛はきれいに剃《そ》られている。白い艶やかな腕だった。やや広げた両肢も乃木よりずっと長くて恰好よい。
「耳もとで、鳴りますから」
と、耳を掌で押えるように指示してから、さっと両手を上げて食卓越しに、いきなり両方一緒に引き金をひいた。フルオートにしてあったから、殆ど二秒以内に両方のピストルの、握り柄の中に装填《そうてん》されていた、十二発の弾丸が、同時に出た。
しばらく銃声と、硝煙で、人々には何が起ったか分らなかった。
原田刑事が、相変らずほほえんだまま立っていた。まだ生きている。傷はついていない。
硝煙が治まると一礼して、前へ出た。
人々はあっといった。扉には、右側に十二発、左側に十二発の、二十四発の弾丸の穴で、原田ひとみの女性の体を、そのままの形で出した姿が、くっきりと描かれていた。
邸の従業員たちも、みな集ってきた。窓の外から、首をよせて、ガラスに額を押しつけるように見ていたが、この早業に、どっと声を上げ拍手をした。
原田は別室へ下り、また前のようにスーツ姿で戻ってきた。乃木は二人のこの鮮やかな連繋《れんけい》プレイに目を奪われて、二人の間に肉体的に通じ合うものがあったかどうか、心眼を以て見破ってやろうと思っていたこともすっかり忘れてしまっていた。考えてみれば、もうそんなことはどうでもいいことであった。
生命を預けて平然としていられるほどの仲なら、たとえ結婚前に不倫の事実があっても許せるような気がしてきてしまったのである。再びスーツ姿で出てきた原田が元の席に坐ったので、賑《にぎ》やかな酒宴が再開された。
4[#「4」はゴシック体]
四人の刑事たちは、女二人、男二人、それぞれに別れて寝《やす》むことにした。
飛行場からこの村まではかなりの距離があったし、砂漠の中の舗装されていない道をがむしゃらに突っ走る乱暴な運転にみなすっかり疲労していた。
それぞれの小部屋の二つ並んだベッドで、みなもう快い眠りに入っているころだろう。あたりは物音一つ聞こえない静かさだ。
岩崎だけは突然の旅立ちに至る経過や、これから先の自分にあたえられた任務を考えると、なかなか眠りにつけなかった。
解の妻の春蘭は、旧参謀将校がもう殺害されているかどうかについては、今のところ慎重に話題を避けている。その死に触れる件については、わざと何もしゃべらなかった。
彼女はまるで岩崎を、政府の使者のような態度で接している。
それは困る。
岩崎はそんな役目で来たのではない。まだ自分にそれを命じた、武村総理の本心は分らないが、彼自身としては、あくまで、その失踪した人物の、三十年前の殺害事件があったとして、死の真相を調べに来たつもりだ。
東京警視庁の殺人事件専門の捜査官なのだから。
眠る前に、今一度、三日前突然総理官邸に呼ばれ、武村総理と二人だけになり、なだ万の弁当をつつきながら話したことを思い出し反芻《はんすう》してみた。武村総理は自分がまだ新米代議士で、浜総理、平田官房長官の二人が、官邸で食事をするのに、お相伴を命ぜられ、体中こちこちに強張らせて、緊張していた状況を身ぶりを交えて、ユーモラスに岩崎にきかせてくれた。
今や宰相となり、日本の政治の頂点に立った武村総理としては、政界入りたての若き日の懐しい思い出らしかった。
「そのとき浜総理は、平田さんと失踪事件の話の区切りをつけると、いきなり話題を変えて一年生の私の方を向いていわれたのだよ。私はびっくりして食べかけのご飯をのみこんで眼を白黒させてしまったよ……岩崎警視正……」
一体、三十年前巨大な宰相浜大介は、武村陣笠代議士に、どんなことを語ったのだろうか。
そのとき岩崎も弁当と箸をテーブルにおいて、じっと武村総理に注目した。
武村総理はまた懐しそうに話しだした。
「浜総理は、はっきり私にいわれたのだよ。『自分の総理の在任期間はそう長くはないかもしれない。それは今、自分が国民に憎まれるような条約を敢えてアメリカと締結しなければならないからだ。ただし本来は極東の一小国にすぎない日本の平和など、この条約がなかったら近隣諸国の理不尽な攻撃にあって、ひとたまりもなく崩れてしまう。しかしまあ、国民というものは勝手なもので私はひどく憎まれて、早期退陣を迫られるだろう』といわれたのだ。私には、今をときめく大物総理がなぜ新米の私にそんなことをいわれるのかが、全く分らなかった」
それ以前に岩崎警視正には、なぜこの武村総理が若い自分を呼び出して、こんなことをいうのかが、よく分らない。
「まあ、要するに、浜総理の言われることは、自分が退陣した後、一代か二代、他の者が総理になるが、その後は必ず平田君になる。君は若いから、今、自分で自由に派閥を選べるが、平田官房長官は将来必ず、総理、総裁になれる人物だから、平田君の子分になって今から保守政界の中の最も主流に身を置く方がいい。議会にいる限りは平田君に忠節を尽し、平田派の若手武将からやがては中堅、大番頭として、閣僚歴を重ねて行く方が良策だとこうすすめられたのだ。そこで私はそれ以後、ずっと、平田さんの下につき、親分を変えなかった。平田さんも悪いときがあったが、その時も離反せず、節を守ってきたので、その後、平田さんが天下を握ってからは、ずっと陽《ひ》の当る道を歩むことができた」
かなり多弁な方で、陳情か何かで面会すると武村総理一人にしゃべりまくられてしまうと聞いたことがあるがどうもそれは事実のようだ。もっとも今日の場合は会談をしに来たのではなく、何か特別の任務を受けに来たのだから、総理が一人でしゃべるのは当然のことだが……。
「私は平田さんが総理になってからは、しばしば、世田谷にある私邸に招かれて、夕食を共にし、夜おそくまで語り合った。来年度の予算の配分や、閣僚の人事問題など、国政に関する重要な案件の腹案は大体このときに決った。そんな会議が終ると、平田さんの好きな日本酒が出され、庭で月を見ながら一杯ということもあった。やがて、私も五十を越した。次の次の次ぐらいには、総理の座を狙ってもおかしくない地位になったし、平田さんに仕えて二十年、お互いに腹蔵なく意見を交すことができるようにもなっていたとき、それで思いきって、時の平田総理にきいたことがある。『浜先生と総理とは、いつごろから親しくされていたのですか』とね。すると平田総理は『実はもうお互いに青年のころからだよ。浜先生が三十代の終りから四十にかかるころだし、私は二十代からやっと三十になったばかりだ。二人とも、日本の大蔵省からはじき出されて、当時出来たばかりの満洲国へやらされたのだよ。もっとも浜さんは、総務長官という、満洲国では総理にも匹敵する高官だし、私は戒煙局という、つまり阿片の売買を取締る役所の局長という、ごく低位の役人だったがね。これから先に、浜さんと私が、満洲でしたことについては、お互いに生きている間は、絶対口外しない約束だから、君たちも特にそれを調べようとしたり、深く考えたりしないでくれ』と、平田さんは自分でしゃべりながら、その後急に奥歯に物の挟まったような言い方をしだした。それで、私も二人の話はそれ以上聞かなかった。お二人とも故人になられている。その後私がお二人のしていたことを他の筋から知った。今日の一件を頼むのにはある程度話す必要があるようだな」
するとこれまで途中で言葉をさし挟まなかった岩崎が初めて、武村総理に向っていった。
「私は、戒煙局が、満洲でどんな任務を持っていたかについての、詳しいレポートを最近岩風新書で読んだ記憶があります。ご説明が無くても、今ではかなり国民の間にそれは知れ渡っている事実といってよいでしょう」
「そうか。それなら私も話し易い。つまり平田さんは戒煙局長として、内蒙古に近い熱河省で、表面は取締りに従事しながら、そのかげで、支那事変(日中戦争)大東亜戦争(太平洋戦争)と拡大して行く一方の日本の膨大な軍費を、阿片からひねり出していたのだ。戦争が終ってからは、浜さんは一時戦犯になり平田さんは元の大蔵省に残った。そしてやがて二人とも政界に入り、頭角を現わしてきた」
いつのまにか、弁当はすっかり平らげられていた。途中で女性の秘書係が弁当箱を片付け、コーヒーを持ってきた。
「これで浜さんと平田さんが、お互いに総理と官房長官という以上の、まさに刎頚《ふんけい》の同志であった事情は、警視正もよく分ったと思う。ところで、これからが本日、君を呼んだ、本当の要件だが」
コーヒーは、さすがに豆も選び抜き、入れ方も丁寧であったので、実においしく入っていた。
昼食つきではあるが一時間という長い時間を、超繁忙な武村総理がとったのも、つまりこれだけの前おきがなくては、依頼の話が通じないような、何か複雑な事情があるらしいと見当がついた。
突然、武村総理は聞いた。
「君はカンサーという男の名前を聞いたことがあるかね」
岩崎は答えた。
「たしか、ビルマと、ラオスと、タイとの三つの国にまたがる黄金の三角地帯といわれる山岳の中にいて、そこで阿片を栽培して、その資金力で軍隊を養い、他国の者が入れぬ独立国家を作って麻薬界の帝王といわれていると聞いたことがあります。このごろはそのあたりで作られた、かなり質のよいヘロインが日本に沢山入ってきて、私の所の、防犯三課の麻薬担当官もひどく困っているという報告がありました」
総理はもう一度岩崎にきいた。
「それは現在のカンサーのことだ。彼の過去について君は他に何かきいたことがあるかね。黄金の三角地帯へ入る前のカンサーについてだ」
「はい」
岩崎も総理の方を向いて答えた。
「カンサーは日本との終戦後の国共内戦時は、国民党の少将まで勤めた軍人で、最後まで中共軍と戦った勇敢な将軍だと聞いたことがあります。特に野戦のゲリラ戦に強く、膨大な中共軍に向って、広い大陸の戦場を神出鬼没のやり方で走り回り、各地で大変に悩ましたといわれます。彼が国民党軍に入る前は、日本が中国の東北地方に作った満洲国軍の少壮将校だったとも聞きました」
総理はうなずいた。
「それも事実だ。満洲国内に作った、日本の士官学校に当る、満洲軍官学校の卒業生だ。そして実は殺されたある軍人の秘蔵の弟子であったのだ。その当時は若い紅顔の美少年の少尉だったそうだ。今では世界の怪物として、国際刑事警《インターポ》察機《ー》構《ル》からは、最重要、極悪人物としてマークされているし、それにふさわしい、ふてぶてしい顔をしているがね」
横においてあった資料袋から、一人の男の写真を出した。もう六十は大分すぎているはずだが
「これはわりと最近の写真だそうだ」
と、総理が自らそういって示した写真は、まだ五十代前半にしか見えない、精悍で、残忍で、好色そうな、男の顔であった。いかにもやり手という感じがする。
「最近彼が手紙を送ってきた。それは今日、岩崎君に自宅に持っていってゆっくり読んでもらうが、中国語で書かれている。読めるね」
岩崎はうなずいた。中国では手紙文には『白話体』という、昔からの漢文とは少し違う文章が用いられる。全く漢文と違う文体というわけではないが、まず普通の中国語の知識では、読むことはできない。最近の革命以後の横書きの簡体字ともまた違う文体だ。
岩崎の手に写真や手紙を渡してから
「ではそれは自宅へ帰ってからゆっくり読んでくれ。ともかく私は今、君に話さなければならないことが多すぎる。まず平田さんのことだ。平田さんが熱河省の戒煙局長をしていたとき、あれでなかなかの艶福の人で、土地の娘さんと仲好くなった。当時、まだ満洲の奥にはちゃんと市民生活が営めるようなマーケットや、病院、学校などもなく、治安の状況もよくないので、単身赴任で役人たちは満洲へ行くケースが殆どだ。かりに満洲へは連れて行っても、妻子は奉天とか、新京とかの、大きな都会の設備の整った官舎に置いて、自分は、現地の掘立小屋に単身で住み日曜ごとにその都会に帰ってくるという人が多かった。平田さんがどちらであったかは、今は、分っていない。ただ現地の芳蘭という娘と仲がよくなり、その間に赤ん坊が生れそうになった。だが平田さんは、一緒に暮しながらその赤ん坊の顔をついに見ることができなかった」
岩崎はただ黙って聞いている。若き日の平田総理が、そこで日本の軍事費調達のため、表面は厳重に禁止しながら、陰では農民を督励して、必死に阿片を増産させている姿が浮んでくる。当時の官吏の登用試験である、高等文官試験を合格して、大蔵省に入っても、地方出身で、きらびやかな閨閥《けいばつ》の無かった平田は、中央の本省には残れず、こんなわりの合わない仕事をさせられていたのだ。
「なぜ、平田さんが自分の赤ん坊を見られなかったかというと、思わぬ見込み違いの事件が起ったのだ。昭和二十年の八月に入っていて、戦争は絶望状態になりながらまだまだ日本軍の見込みは甘かった。表面は戦争を続けながら、近衛さんを、ロシヤへ行かせ、スターリンに停戦の仲立ちを頼もうとしていた。自分が管理している農園では、のんびりと、畑作を続けて行けると思っていた。友人の参謀はさっさと南方に逃げてしまう。そこへ停戦の仲介をしてくれるはずのソ連が突然満洲の曠野に一斉に攻めこんできたのだ。実はそのころの関東軍は武器の殆どと、精鋭部隊とをその参謀につけて南方に送り、大砲の代りに電信柱に黒いタールを塗って陣地に置いてごま化しているありさまで、兵隊も老兵ばかりだった。ひとたまりもなく敗れて敗退してくる。特に平田さんのように、国家の秘密任務に従事している責任者は、すべての証拠物を廃棄し、自分は捕まらないよう、機密の書類を持って日本の本省へ戻らなくてはならない。奉天にいる本物の妻子を関東軍の特別機に乗せて帰してからほぼ三日、ロシヤ軍の銃声がすぐ目の前で聞こえるときまで頑張って、一切の始末をすませた。だがいくら何でも身重の満洲女の現地妻を日本へ連れて逃げるわけにはいかない。それでそのあたりの警備小隊長をやっていた、当時楊福健という名だった若い将校に身重の現地妻の体をあずけると、自分はたった一人で徒歩で大勢の避難民にまぎれて日本へ戻ってこられた」
「つまりその楊福健がカンサーなのですね」
総理はうなずいて答えた。
「うん。そうだ。平田さんのお子さんは、楊の保護のもとで生れた。女のお子さんだった。楊は親子ともども可愛がっているうちに、いつのまにか、情が移った。女の方も、もう日本に平田さんが帰ってしまった後はいつ戻って来るか全く分らない。頼る者もない身だ。自然、自分を被護してくれる男がほしくなる。しばらくして、二人は結婚した。平田さんは多分それを見越していたのだろう。それまで太平洋戦争の軍事費に回すつもりで、阿片と交換して蓄積していた黄金のかくし場所を、女との別れ際に、ひそかに教え『何かあったら、それを持って逃げなさい』といっていたそうだ。その黄金が、結局、カンサーが将軍となった後、国民党が敗れ、部下を連れてタイ、ラオス、ビルマの三国に挟まれた秘密地帯へ逃亡し、そこで自分の帝国を作り上げるまでの彼の軍事資金になったそうだ」
だんだんと話の筋がのみこめた。総理はちらと腕時計を見ていった。
「話を私が今年四月敦煌に行ったときのことまで飛ばそう。途中のことはすべてこれまで世間に知られた通りだ。夫の楊福健ことカンサーは国連も、国際警察も手を焼く、麻薬王国を三角地帯に作り上げた。その彼から、秘密の使者が来て、私が泊っている敦煌のホテルに、封書が届いたのだ。持ってきたのは孫だというなかなかいい青年だった。写真と手紙が入っている。内閣にも、中国語の手紙文の読めるのもいる。帰ってからそれに読ませて検討させたところ、その学者がいったのだ。これは警視庁の若手の捜査官に頼んで、現地に行ってもらうより他はないでしょうとな。私もその手紙の大体の意味を聞いて、まさにそうだと思った。それで総監に頼んだら、事件がまだ何かよく分らないが、自分のところの岩崎警視正なら、外国人がからんだ難しい国際問題は得意だというので、直接連れて来てもらった。事件の内容を話す前に承諾を求めるのは悪いが、もう時間が足りない。一つ引き受けてくれないか。これは奇妙な殺人事件であり、その上日本の国益に関することでもあるからな」
いくらか釈然としないところはあるが、総理がそうまでいうのなら仕方がない。
岩崎は答えた。
「本来はその手紙を私が読み、仕事の内容を検討してからお返事すべきでありますが、このさいもう、そんなことはいっていられません。お昼休みも終り、総理閣下はすぐまた忙しい国務に従事されます。問題が未解決のままでは、お心もすっきりなさらないでしょう。日本国政府の禄を食《は》む、官僚の一人としてここへ参りましたからは、ご命令を慎んで承ります」
そう岩崎はいった。
一枚のタイプ用の薄紙が中国語の手紙の間に挟まっていた。英文の平文で、アメリカ国務省の鷲《わし》のマークが、紙の上部に、印刷されている公文書であった。
[#ここから1字下げ]
発 CIA 長官 ダーリス
宛 アメリカ合衆国 大統領 ジョーン・ケネシー 閣下
緊急につき、平文。発タイ支局、受長官。
昨日、一九六一年四月二十六日、未明、タイ国境に派遣の、トーマス・G・より、報告あり。去日二十四日、ラオス国境を越えて潜入し、行方不明を伝えられている、日本人、衆議院議員 ツ・マサノービは、バッタンバン山|西麓《せいろく》の山村に於て、身もと不明の、独立ゲリラ部隊に逮捕され、村民の見守る中で、公開銃殺刑に処せられた旨の通報あり。独立ゲリラ部隊の長は一説にはイギリスの特務機関であり、また一説には旧・中国軍の残党で、ヤンという中国名を持ち、現地では、カンサー、黒い魔豹《まひょう》、と呼ばれている、暴れ者だといわれている。委細は次報。
[#ここで字下げ終わり]
これはアメリカのCIAや、大統領府にとっては、別に大きな事件ではなかったのだろう。世界中から、一日何十本もケネシー大統領に送られてくる雑電報の一つで、必要度は、当時、アメリカの最重要課題であった、キューバの動向に関する情報に比べればうんと薄かったようだ。
届けられても、大統領が見たかどうかも疑わしい。すぐどこかに綴《と》じられ、やがて不用書類として廃棄されたらしくVOIDのスタンプが、紙のはしに押されていた。
……
そのタイプ用紙にざっと目を通すと、岩崎は内ポケットにしまった。
丁度一時間がたっていた。
「たしかにお引き受けします」
立ち上った岩崎はそう答えた。
「すまん。もしその男の消息が分った後での一件の処置に関しては、私から何も注文は出さない。すべてを日本の国益という点から考え、現在の日本の持つ国際的立場から照らしても堂々として公明正大な方法だと評価されるやり方で貫いてくれ。貴君ならきっと私の期待にこたえてくれるだろう」
立ち上って手をさし出した。
いくらか小柄の総理を、長身の岩崎は、やや見下す姿勢になったが、二人の目はしっかりあった。
視線にはお互いの信頼がこもっていた。
ここで二人は、もう何も口に出さず、目と目ですべてが分る大事な会話をした。
その男が死んでいるか、またはまだ生きていてどこかで見つかったのか……そのどちらでもいい。ここで本当に総理が何を望んでいるのかを悟って、日本の国益に副《そ》う形で、できるだけ希望に副う形で処理する。そう目で約束したのである。
ベッドでじっと考えて、そこまで思い出したとき、すーっと扉が開いた。
多分、そんなことだろうと思って、岩崎は内鍵《うちかぎ》を下ろしてなかった。
すぐ電気をつけて、ベッドに半身を起した。岩崎から先にきいた。
「メリー・王。なぜ君がこのホータンの町に先回りして迎えにきたのか、教えてくれるのかね」
既にネグリジェに着替えているが、このCIAのベテラン職員は今晩は決して淫《みだ》らがましい意図でやってきたわけでないのは、きちんとつけられた下着や、前をしっかりバンドで結んだ恰好で分った。何か連絡の用があったのだろう。
真向いの椅子に坐ると
「葉巻きを一本吸わせて。ずっと吸っていないから」
といって、岩崎の持物の細巻きの葉巻きを勝手にケースから取り出して一本火をつけた。
しばらくおいしそうに煙を吐き出してから、やっといった。
「カンサーの指示で連絡に来ていたのよ。あなたに伝言があったの」
「どんなことだね」
「ほんのつい最近、ラオスの山奥の村で、もう記憶も失いかかっている、九十歳ぐらいの老人が見つかって『おかしい、日本人らしい』ということで、カンサーの所に連れてこられたのよ。つまりあんたが探す人よ。死んでいなかったのよ」
「そうか。それをCIAも、現地に潜入させておいた、諜報員の報告で知ったのだね。そして君もやってきた」
「そうよ。ベトナムから、あのあたりにかけては、CIAの諜報網は、完璧《かんぺき》よ。カンサーは、自分の所でその老人をひきとっているうちに、お互いに誰が誰か分ったのよ。三十年前殺そうとしたのはカンサーじゃないわ。アメリカの情報員の勘違いなの。再会した二人が話し合っているうちに、カンサーが保管して、やがてはいつか、日本のある人に返そうと思っていた財宝についての打合せになったのよ。もし、もう受け取り手がないのなら、それで、世界をアッといわせることをやろうじゃないかと、二人の野心家はぴったりと考えが合ったのよ」
「なるほどね。ありそうなことだ。ラオスとビルマの三角地帯の中にいちゃ、現在の世界の状勢については殆ど判らないから、どんな誇大妄想狂的な計画もできるような気がしてくるのだろう」
「果してその計画が誇大妄想狂的かどうかは、やってみなくては軽々しくいえないわ。多分、もう三日もしないうちに、ミスター・イワサキは、その老人に会うわ。もし本物の参謀だったら、彼が太平洋戦争でやり残した、アジア最終処理案をあんたに話すかもしれないわ。もっともボケたふりをよそおっているから、何も言わないかもしれないけどカンサーは、そのことについて、手紙を書いて、ここの女主人の春蘭に中国語で清書させ、孫の直方《ジーハン》を敦煌に走らせて、武村総理の泊っているホテルに届けさせたの。CIAは、そのカンサーの計画に、アメリカ側から援助できる条件を伝えに、私をよこしたのよ」
「そうか」
相変らずCIAは素早い。日本も海を隔てているからといって、知らん顔もできない。ついに総理は止むを得ず、この自分を砂漠に送ったのだと納得した。
「そのカンサーの計画がどんなものかについては、明後日でも、その次の日でもカンサーに会ってから、直接聞いてね。新しい原案は、アメリカでCIAの長官がその参謀の計画に修正を加えたものが骨子になっているけれど、まさか私の口から、あんたに話してきかせるわけにはいかないわ。もっともカンサーや、そのボケ老人を装っている、元参謀と称する男に会っても、本当のことをいうかどうかは分らないけど……」
そして、思いきりもう一回葉巻の煙を吸うと、その先をねじって消し、ネグリジェのレース飾りのついたポケットに入れ
「ご馳走さん。あ、それに、私……この仕事をずっと続けていかなくちゃならない理由がもう一つできたの。実はある男に恋をしてしまったの」
と、少し顔を赤くしていった。
西欧人らしい強い香料の匂いを残して、すーっと立ち上ると、また音もなく扉をあけて出て行った。そういうことだったのか。それでメリー・王の恋人とは、と、そんなことを考えながら、疲れていたのですぐ寝入ってしまった。
5[#「5」はゴシック体]
一晩のゆっくりした睡眠は、みなをすっかり元気にした。全員|爽《さわ》やかな顔で朝食をすまし、車にのりこんだ。
翌朝村落の邸から出発したのは、ランドクルーザーだけではなかった。
「これから先は、すべての人がみないつでも強盗に変化する怖れのある無法地帯です。武装がない限り、走ることは危険です」
出発する前に邸の主人の|解 斜 方《シヤーシヤーハン》はいった。
そしてこの村の武器作りの若い人を二十人集め、二台のミニバスに分乗させて、ランドクルーザーの前後を護《まも》らせてくれた。
朝早く村を出て、ひたすら一日中走り続ける。まだどこへ連れて行かれるか分らない。もしかしたら広い地域の中の、どこか名もない土地かもしれない。そこに目的の人物がいるのか。何かの痕跡があるのか。それも分らない。ただ一つカンサーは先に目的地に来て待っているということだけが知らされている。
昨夜は、解斜方邸の別棟で岩崎警視正が一部屋、中村、花輪の男刑事組が一部屋、原田、乃木の女刑事組が一部屋で、中国式ベッドであったが温かい布団にくるまって寝た。
岩崎は朝早くみなの顔を見て安心したが、乃木は警視正が思ったほどは安眠したわけではない。
昨日は民家に泊めてもらったわけだから、いくら立派な部屋であっても、室内にはトイレがついていなかった。夜は必ず一回は行くくせのある乃木は、夜中に起きて、廊下のはずれから少し外へ出た所のトイレヘ行ったが、その帰り、ふと岩崎警視正殿の部屋を見てみると、夜中なのに灯《あか》りがついている。
よく聞くと女の声がする。二人は英語で話をしている。カーッとしてきて、すぐにその部屋にとびこんで、女に猛烈なビンタを喰らわせた上で、東京へ直通電話をかけてみずえ夫人を呼んで、事の次第を報告してやりたいと思ったが、しかしすぐ思い直した。岩崎警視正殿に限って、決してそんな淫らがましいことをする人でない。何か明日のことで大事な打合せをしているのであろう。
よく考えてみると、この捜査旅行に出てから自分は他人のことばかり気にしている。これはよくない老化現象だ。いつのまにか、意地悪オールドミスになってしまったのか。それとも、考えたくはないことだが、自分は欲求不満に陥っているのだろうか。
ほんの少し前までは、誰にも注目される明るいピチピチのギャルだったのにと、鋭く反省した。
残念ながらそろそろ純潔の重荷は捨てなければならない時が来たようだとも思った。
この二台目に走っているランドクルーザーのハンドルは、相変らずメリー・王《ワン》が握っている。ただし息子の直方《ジーハン》がその隣りにいつでも交替できるように付添っているのが昨日と違う。
その隣りに岩崎。その隣りに乃木が無理に坐った。後ろの席は二人の男性に挟まれるようにして、原田が端然と坐っている。直方が増えたから前四人、後ろ三人の変則的な坐り方だ。
前後の二台のミニバスのどちらかに父の|解 斜 方《シヤーシヤーハン》がいて、二台のバスの指揮を別に取っている。
父と息子の直方との間には、携帯無線機《トランシーバー》があり、別個に連絡しあっており、走行中は、ずっと双方の距離は千メートルぐらい離されていた。こうして朝から昼、夕方と只砂漠の中をろくに止まりもせずに走り続けた。
父が何かどなっているのが、運転台のハンドルの向うに立てかけている、機械の中からガーガー洩《も》れてくる。運転席の隣りの助手役の直方が無線の応答の一切を引き受けて、メリーに細かい指示をあたえる。斜方はどなっている。
「これで連絡は切る。我々が自分の村を出たことは、既に先日からホータンの町にうろうろして見張っている、中国側の密偵に洩れている。空港の税関長が密偵の手先になっているらしい。彼らも、カンサーが、既にビルマの山奥から、沢山の財宝を持ち出して近くへ来ていることは知っている。そして日本からそれを受け取りに来た者のいることも調べている。昨日からホータン出発の飛行機は、一週間臨時に休航させられて、どこへも動けないようにさせられたそうだ。今、ホータンから、そういう連絡があった」
これはえらいことになったと、岩崎は思った。
もし開放地区であることを信じて、外部から旅行者が入っていたら大変なことになる。
ホータンが、あのあたりで、どれほど重要な都会であっても、一週間もとじこめられてしまっては、見るものは何もなくなりホテルでゴロゴロしているより他どうしようもなくなる。タクラマカン砂漠のはじの、全くの秘境、どこへ行くにも、何千キロも砂の道を越えて行かなければならない所では、孤独感がつのって、気の弱い人は確実にノイローゼになってしまうだろう。
トランシーバーは最後のメッセージを伝える。
「もう少し行くと検問がある。おまえの車は止められて、いろいろ聞かれる。あまり逆らわずに、ただ旅行者だといっておく方がよい。カンサーの財宝の件だけは一言も口に出すな。私たちは、その車が訊問を受けている横を通りすぎる。我々はナイフの集金に、これから近所の村々や、バザールの土産物屋を回るといえば、黙って通過できる。私はこの土地の警察官は大体顔見知りだからな。ではうまく通ってくれ。多少乱暴な扱いを受けても争いは避けるように。何か揉《も》めたら、警察署長から手を回して、救い出しに行くから。これで無電を切る」
ピーッという終了の発信音がして、無電は止まった。正式にスイッチが切られたのだ。朝から走ってもう夜の闇が迫るころになっていた。
直方はこれまでは父の指示に従ってメリー・王のハンドルの動かし方を注意していればよかったのだが、自主判断を命ぜられて、やはり少し緊張した顔になったようだ。
自分の方の携帯無線機もスイッチを切り、それを座席の下に、外から分らないようにして作ってある物入れに入れた。
岩崎は自分の部下たちに
「ここで検問があるかもしれないが、できるだけ、平穏に事を運んでくれと、後方の解《シヤー》親分から連絡があったよ。まあ、それも無理のない要求だな。たとえ検問の四、五人をあっさり殺したところで、それはこの広い土地では何の意味も持たない。静かに相手の出方を見て、何でもはいはいと聞いておくように。ここでうっかり争いを起したりすると、全中国の人民を相手にして戦うようなことになってしまうからな」
みなは大きくうなずいた。たとえ全中国はオーバーにしても、この土地の警察だけを相手にしたとしても、女三人男四人の、武器といえば三五口径のニューナンブ、警視庁制式、十二発|装填《そうてん》の自動拳銃が各自に一つだけでは、とてもかないっこない。
天才警視正がついていたとしても、正面切っての戦いはできない。
それに別に争ったり、何も悪いことをしに来たわけではない。総理の直命で、中国政府にそれなりの、筋を通して入国した。
別に解《シヤー》のひどく気にするほど、こちらは相手を気にすることはないのではないか。ただしどの人々の顔も、朝からもう十二時間走り続けの旅で疲労の影があったが、しかし口に出してそれを訴える者はなかった。
目的地のカシュガルは、新疆《しんきよう》省の天山南路では第一の大都会らしく、町へ入る大分前から、シルクロードのオアシスの町特有のポプラの並木があった。
一日中、四方が真っ平の、広い砂漠の中の一本道をただ走り続けてくると、ほんの小さな人家や、草むらでさえ、とても懐しく思える。
高いポプラの木が、両側に整列した中へ入ると、儀仗兵たちが、ラッパを吹いて出迎えてくれたような気がする。まだかなり日は長い方だったし、中国政府の政策として北京と同じ時間にしている関係上、八時ごろまでは、太陽が残っていて明るかったが、それでも八時半をすぎると、さすがに暗くなり、同時に冷々としてきた。
だが街の灯はすぐ目の前だ。
ポプラの並木越しに人家の灯が洩れてくるのを見ると、砂漠と、人間が住んでいる集落とでは、同じこの地球の上の景色でも、全く、死と生ぐらいの違いがあるのがよく分った。
これまで五百キロの長い道のりに、小さいオアシスの村が三つあったきり、後は全く砂と石ころだけ、地には獣一匹おらず、空には飛ぶ鳥もない沈黙の世界を、ともかくやっと乗り越えてきた。また沢山の人間が、体をよせ合い、温かい火を焚《た》いて、生活しあっている世界に戻ってきたのだという実感が湧《わ》いてきた。
ほっとした表情がみなの顔に一斉に浮んだ。しかし長くは続かなかった。
前方の道の中央に、灯りが照らされ、一人の男が大きな懐中電灯を丸く振っているのが見えた。近づいて見ると、銃をかまえた五人ほどの兵隊が立っており、移動式の柵が、道をふさいでいる。やはり検問があったのだ。
ランドクルーザーは止まった。
柵の内側には、白い制服を着た公安官が一人いた。中国政府側から派遣されて来た警察官を、地元の泥棒を捕まえたり、たまに起る交通事故を整理し、善悪の決着をつける裁判官の役をするウイグル人警察官と区別するため、公安官と呼ぶのである。この埃だらけの乾燥アジアでも公安官は毎日、洗いたての白い木綿の上衣の制服を着ていて、何となくそれが権威のように見える。
その公安官の前では、地元の警察も口を出せないが、両者はしっくりといってないとの風評もあった。
もともと、広い西域一帯に住むウイグル族と漢族との間には、何千年もの間ひっきりなしの闘争がくり拡げられてきた。今は中国共産党政府の政治力、軍事力が強大で、広い西域諸国をすべて少数民族国家として、内部での自治は或る程度認めながらも、政治、軍事、警察、すべての面で北京政府から派遣された役人が、権力を以てしめつけている。
しかしもし中国人民政府の統率力が弛《ゆる》めば、このあたりは忽《たちま》ち、ウイグル人やキルギス人が、勝手に騒ぎ出すだろうといわれている。
今の場合も、初め兵隊だと思った軍服姿のウイグル人警察官が、銃を突きつけて止めても、調べるのが白服の公安官であったから、両者は、完全に一体になって調査をしているのかどうかは怪しいものに思えた。
軍服の方は面倒くさそうにそっぽを向いていた。白服の中国人公安官のいうことと、これから入る地元都市のウイグル人役人の考えとは、決して同じでないと考える方がよさそうだ。この検問はさしてきびしいものではなさそうだと感じですぐ分った。
白衣のたった一人の公安官は近くで見ると女だった。みなを服従させるため、わざと荒っぽい口調で応対している感じが露骨であった。
二、三質問したがすぐその女の役人はいった。
「取調べのため、この車に同乗します。これは、北京の李鵬《りほう》閣下の命令です。日本からやってきた、武村総理のお使いの方が、この土地に、どんな御用があったのか、よく承り、我々ができることだったら、何でもお手伝いしろといわれました」
女公安官は、岩崎と乃木を一度下ろさせ、運転助手の直方の隣りに坐りこんでしまった。
続いて岩崎が、白い制服の女公安官を挟むようにして乗ると、前の席は乃木の坐る余裕はなくなってしまった。
つまんないの。乃木はむくれた。
わりこんできた、女性公安官を、内心で恨みながら後ろの席に移った。これで前四人、後ろ四人の、丁度バランスのよい坐り方になった。
そこに立っていた地元の軍服のような制服を着た警察官と、後からやって来た父の解斜方はお互いに二、三言話し合うと、十人ずつの若者を乗せた二台のミニバスは、そのまま、通りすぎて先に行ってしまった。
乃木が、クルーザー車の後ろの扉をしめるとすぐに、女の公安官が前の席で
「出発していいわ」
といった。女の命令なので、いくらか気分を悪くしたメリーが、乱暴にアクセルを踏んで、車を急発進させた。
隣りの女性公安官の体がぐらりと少しゆらいだ。町の中をそのまま猛烈に突っ走って、ランドクルーザーはあるビルの前に停った。
ビルの中から大勢の社員が夜なのに整列して、解の父子や、メリーや、日本からの客、そしてその中に交っている白い上衣の、北京政府直属の女性の公安官を迎えた。
前の車から降りてきた斜方が、もうくたくたになっている四人の日本人にいった。
「いやぁー、お疲れさまでした。やっとカシュガルに着きました。明日はここから、カンサー父さんの待ってる場所に行けます。ここが私たちの仕事の、本拠があるビルです。みなさんにご挨拶したいと外に立ってますのは、直方の会社の社員たちですよ」
それから女性公安官にはわざわざいった。
「お役目があるでしょう。一緒にビルヘ入って、食事でもしませんか」
すると、そのウイグル人の顔だちの、白衣の女性公安官は手を振って断わった。
「いえ、私としては、ホータン市から砂漠へ入った、日本からの旅人が、今日どこへ泊ったのか、それが分ればいいのです。私はこの町の支所から北京へ、無事、到着したという電報を打ちます。後で北京中央からの指示があったら、あなたにお電話しますが、今晩の検問はこれで一応は終りました」
そういって、ビルの中までは入らずに立ち去っていった。岩崎たちが確実にこの町へやってきたことだけ確認できればいいという感じであった。北京が何を考えているのかは、まだ見当がつかない。気にしないことにした。
十二時間のきびしい砂漠の旅を終えた一行は埃だらけの体で、この意外に大きな町にある、ビルの中へ入って行った。
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[#見出し] 第三章 カシュガルにて
昭和六十三年九月のこと
疎勒《チユルク》川陰山下 カシュガル川の畔《ほと》り崑崙《こんろん》山の麓《ふもと》
天似穹盧   天は丸天井のように
籠蓋四野   四方の平野におおいかぶさり
天蒼蒼野茫茫 青々とした空と同じく地にも何もない
風吹草低   風が強くて草は低く曲り
見牛羊    牛と羊が少しだけ見える
『カシュガルについて』
疎勅 喀什※[#「口+葛」、unicode5676]爾 KASHGAR
中央アジア、ターリム盆地西辺に位置するオアシス都市。古くから東西交通の要地として開けた。
現在人口十五万。平地のような錯覚を起すが、海抜は千三百メートルあり、空気は乾燥している。
町からは、インド領とパキスタン領、ソ連領キルギス共和国にまたがる、パミール高原が遠望できるし、遠くヒマラヤと続く崑崙山脈も見える。
現在のカシュガルが、紀元前二世紀から続いた疎勅国であるかどうかについては、歴史上、多少の疑問があるとされているが、この町でなければ、そこは多分ややキルギス共和国よりの、ハン・ノイ遺跡に向うあたりの、さほど遠くない地域であったと想定される。
人口の八○パーセントはウイグル人だが、それと並んで、タジック、キルギス、ウズベク人、そして、現在は町の指導階級として、かなりの数の漢民族もいる。
紀元前六十年の記録でこの地に、人口が一万八千人あったと伝えられているから、相当に古くから栄えた町である。
現在では、インド、パミール方面へ抜ける貿易通商路の中心地となり、町の中へ、ソ連、インドなどの外国のトラックが、しばしば入ってくると共に、それら辺境部への観光旅行の客のための基地になっている。
町には、中国最大の回教寺院や、この町から清王朝へ捧げられた、絶世の美女香妃の哀《かな》しい歴史を秘めた、香妃|廟《びよう》などがある。
1[#「1」はゴシック体]
一台は白いランドクルーザー。
その前後に十人乗りのミニバスが二台、それぞれ満員の人間を乗せて、とっぷり日も暮れてしまったころカシュガルの町の郊外へ入った。朝早く、ホータン郊外の小さなナイフ作りの町を出て、只ひたすら一日中走り続けた。ほぼ五百キロ。日本でいえぼ、東京←→大阪間にひとしい。
この砂漠の中に、突然、近代的ともいってよい大都会が出現したこと自体が、岩崎を始め、四人の刑事たちには、まるで信じられない思いであった。
ビルマとラオスとタイの三国の国境地帯で行方不明になり、殺害されたかもしれないと信ぜられている男の、死の状況を調査に来たのが、岩崎の公式にあたえられた任務である。少なくとも、密林か、山岳の入口か、砂漠の果てか、人跡も稀な地帯へ連れて行かれると思っていた。
それが中央はコンクリートの舗道が一本整備され、五、六階建てぐらいまでだが、近代的なビルが何軒か並んでいる。これは都会である。オアシスや、村落や、砂漠の駱駝《らくだ》の休憩地とはいえない。ただここが確実にシルクロードの中の一画であると思わせるのは、町の舗装通りを、驢馬《ろば》が引く一輪車が、白いウイグル帽をかぶった人をのせて、ガタゴトと昔ながらの音をたてて、何台も走っていることである。
ビルの前には大勢の社員が並んで待っていた。
社員たちは|解 斜 方《シヤーシヤーハン》と直方《ジーハン》の親子を見ると、一斉に回教徒風に深々と頭を下げた。夜なのに自宅に帰らず待っていたようだ。
それに対して、若い直方が、みなの先頭に立って、鷹揚《おうよう》にこたえる。父の斜方がその後ろに並んで歩いて行く。岩崎に話しかけた。
「一応、ここの店の責任者は長男になっております。私はいわば相談役です」
ビルの一階は都会のビジネスビルと同じように、広いフロアーを持ち、よく磨かれたタイルが張りつめられていた。
広い応接室に案内された。
若い直方が、いかにも社長らしく正面の席に坐り、父の斜方がその横に控えて坐る。砂漠の村での立場とまるで逆だが、ごく自然にふるまっている。それぞれが指定の席に坐った。
何事も、家長や、一族の長をたてての秩序を重んじる、回教徒らしい。
「お疲れでしたろう……」
ここでは主人になった直方が、席に落着いたみなにいう。
「……実はこの町にも飛行場があります。ウルムチから、一ぺんにここへ来れば、今日の十二時間の強行軍はなくてすみました。日程も一日縮められました」
岩崎はその直方の弁明を、不審そうな顔できいている。回教徒の会社らしく、女性従業員の姿はなく、少年たちがお茶を給仕する。直方は全員にお茶をすすめながら話をする。
「私たちの小さな村を見ていただきたかったのです。地図にものっていない、オアシスの小村落ですが、広さからいったら、ヨーロッパ全域にも亘《わた》る地域に、刀剣や小火器を一手に提供しています。実はあの村で作られた武器が毎日のようにトラックで、ここへ定期的に運ばれてきます。まずその実体を知っていただきたかったのです。勇敢な戦士も沢山いることもです。そして更にもう一つ、この広いタクラマカン砂漠一帯に住む沢山の民族は、どんな小さな村落の住民でも、心の底では現在の中国の支配下にいることを辛《つら》く恥しいことに思っています。砂漠の民は、みな少数民族のそれぞれが独立することを望んでいるのです。母はそういうことを組織だって語るすべを知りませんが、あの村へお招きしておもてなしするようにと、まず私に命じ、間違いのないよう、あなた方を知っているメリーさんを迎えに出したときから、そのことをみなさまに伝えたかったのです」
「そうですか。それでわざわざ、ホータン経由で、このカシュガルヘ来るという回り道をしたわけですね。だが私たちは、ある人間の殺害現場や、状況を調査に来た、刑事捜査官です。いずれにしても、あそこが武器庫であり、周辺に戦闘能力のすぐれた若者が沢山おり、そして全員が独立を望んでいるとしても、それが私の今回の捜索の任務とは何の関係もないことだと思いますが」
そう冷やかにいった。
直方は岩崎の非難がましい口調を別に気にもしていないようだ。
「母は、二十五年前十八歳であの村を中心に、何千年も昔から、広いタクラマカン砂漠一帯に、鋭利なナイフを供給し続けてきた、シルクロードの名族、解家にお嫁に来ました。自分の事業の拠点の一つを、この広い中国の一角のどこかに残しておきたいという、父の思惑もあったのですが……」
すると、これまで黙って息子のいうことをきいていた父親の斜方が、笑いながらおだやかにいった。
「いや……直方《ジーハン》、それだけじゃないよ。私たちは、お互いに充分、愛しあっていたんだよ」
一体この直方は、自分に何を言いたいんだろう。体が疲れた上に、かなり空腹でもあった岩崎は、ますます不審の思いにかられてくる。直方《ジーハン》がいった。
「祖父のカンサーは、砂漠の中でこれまで通りの製造を続けて行こうとする鍛冶屋同然の工場に娘を嫁がせると、それから二十五年、せっせと資金を送り続けて、現在のような村落工場地帯に作り上げたのです。見かけはオアシスの小さな村ですが、このカシュガルの町までトラックで運ばれた小火器は、私のこのビルの事務所を経由して、インドへ、ネパールへ、チベットへ、パミール高原へと運ばれて行きます。特にアフガニスタンのソ連軍相手のゲリラ戦には、AKチクやトカレフの、本物以上に精巧なコピーが、大量に送られて、大活躍しました。このビルと、後ろの車庫にあるトラックは、本当はその武器を各地へ運ぶためのものです。ただし表面はあくまで、一般の衣料品や食料、雑貨などの貿易品を、輸送していることになっていますが」
これで町の真中に大きなビルを持って、堂々と営業している理由が分った。
「先日祖父は、母を通じて武村総理に手紙を届けました。実際に敦煌《とんこう》のホテルまで行って、総理に手渡したのは私です。祖父は、自分の所にある、あり余る資金と、あの村落の武力や、生命知らずの若者とを、すべてこの孫の私に託して、何か大きな夢を見ているのです。それは、もう、東京警視庁随一というカンの鋭い警視正さんが実際は殺害されたのではなく、どこかに生存しているのではないかと早くも察しておられるある老人が、父に吹きこんだ夢かもしれません。実現不可能の狂人の夢かもしれません。しかし私は祖父の期待を一身に集めている孫として、私から見れば不世出の偉人である祖父の願いを実現するため努力してみようと思います。全世界の笑い者になるような、妄想でもかまいません。特に武村さんにお頼みして、東京の警視庁の中でも、最も優秀な方のお出でを願ったのは、これから、一緒に現地へ行って、祖父とこの計画の立案者でもう殺害されていると思われている昔の陸軍の参謀将校の人に会っていただきたいのです」
やっと岩崎はそのことを初めて知ったかのように
「これでどうにか、お話の筋道は把《つか》めましたよ。やっぱりその人は生きていたのですか」
といった。それからメリー・王《ワン》の方を向いて
「あなたを通じて、CIAもこのカンサーさんの大きな夢に参加してるんですね」
昨夜きいたことはわざとここでは口に出さなかった。
「ええ、アメリカの国としての立場上、表面に出ることはありませんが、長官からできるだけの支援を惜しまないとの確約を得ております」
メリー・王はいかにもCIA職員らしくそうはっきりと答えた。『それに恋もしてるんです』と赤くなって告白した、女らしさは、今はまるっきり見られなかった。
ビルの応接室でのひとときの休憩は終った。父の斜方がここでみなにいった。
「後ろに、もっとくつろげる場所がありますから、そちらへ行きましょう。ここでは、私たちの事業や、これから先の予定など、がお分りいただければいいのです。もし夜中にでも中国の公安の女性から電話がかかってきたら、この土地における、解家の活躍振りや、砂漠で作られた小火器がどんなルートで、チベットやアフガンに送られているか、参考のため日本から見に来たのだと答えてください。それで北京政府の公安局は多分満足するでしょう。わざわざあのオアシスの村を回ったことに対しての弁明さえはっきりすればいいのですよ」
それから、一同は立ち上った。
ビルの廊下に出る。まっすぐ裏口ヘ抜けるようになっている。
裏口の外にも、四階建てのビルがあった。
事務用のビルとは少し感じが違う、ホテルのような建物であった。
ビルの後ろにあったのは、表側の近代的な『カシュガル流通貿易』という会社が、自分で来客接待用に持っている賓館《ホテル》である。ろくなホテルのない町での大企業には、賓館は必需の設備だ。
大きな市場《バザール》や商店を町の中に持っている、カシュガル市の中にあるだけあって、賓館は昨日の解の本邸より、一層、贅《ぜい》を尽くした建物であった。特に広い応接《ロビー》の調度品は、北京の王宮の美術品を、全部この土地へ移したのではないかと思うほどの華美な装飾であった。
このシルクロード地帯の物資の流通や、貨物自動車業の経営などの実権を掌握している若い解直方が中央にどっかと坐り、その横に、若いカシュガルから天山南路での運営面での責任者たち、重役陣が何人も畏《かしこ》まって坐った。
椅子も事務所よりはずっとゆったりしているし、給仕人は女性に代り、さっきのビルとは全く違うやすらいだ気分になった。寝室もすぐ廊下続きであるようだ。これなら休めそうだ。
日本の四人の刑事を除けば、全員が土地の言葉で話している。岩崎は何語でもオールマイティだが、解直方とメリー・王とのじかの話し合いのときは、岩崎たちを考えてか英語になったりした。
あたりはアジア有数の葡萄《ぶどう》の産地だ。まず大皿に山盛りにされて運ばれてきた。
同行の乃木、原田、メリー・王などの女たちは、男たちが雑談中、それぞれ自分の部屋に入って、簡単に化粧をし、着替えてくることにした。若い社長、直方《ジーハン》の心遣いなのであろう。
極度に荷物を少なくするため、誰もちゃんとした着替えをもってこない。乃木と原田のために、このシルクロードの都市の美しい民族服が用意されていた。これまでふだん着のステテコ・ズボンにスカートのメリー・王《ワン》にも、同じ物がちゃんと用意してあった。
合せて三人のそれぞれに美しい令嬢たちが、三十分後に一斉に華麗な民族服で、応接室に入ってきたときは、丁度酒も回ったころでこれまで大声で話し合っていた人々の声が一瞬ぴたりと止まった。
しばらくの沈黙の後で、あちこちから讃嘆の声が起った。長い、広いスカート。その下には、絹の細いズボンをはく。そのズボンの先がスカートからはみ出し、踝《くるぶし》から上の足の部分は外からは直接見えないようになっている。でもいざその服を着てみると、乃木には絹の薄い生地でおおわれた足の先の方の部分が外に見えるということが、意外にもミニをはいて、膝小僧から上が見えるときよりも恥しい気がした。隣りの原田も、こんな経験は初めてらしく、昨日レオタードとランニングシャツ姿で、ピストルの的《まと》になって大の字で立ったときの勢いはどこへやら、恥しそうにもじもじしていた。
「何だか変な気持ね」
「そう、みんなに見られているみたい」
二人がそんなことを言い合っているとき、メリー・王は、まるでここの民族の女のようにぴたりと決った民族服姿で、早速女中たちを指揮して宴会の用意を始めた。
メリー・王のウイグル語は横から聞いていると、小鳥がさえずっているように、可愛く聞こえた。
だが乃木や原田、そして花輪と中村の二人の刑事には話の意味は分らない。
ただ何てきれいな言葉があるのだろう、本当に音楽のようだと、男二人はびっくりしている。たしかにこれまでの言葉とは違う、洗練された言語だ。特に女性の口から、正確な抑揚をつけてしゃべられると、本当に音楽だ。ただうっとりしてしまう。
しかし逆に言葉が解る者には、それをうっとりと聞いていることができなくなってしまう。一つ一つの音の中に意味があり、それが分るからである。
「早く御馳走を運びなさい。ぐずぐずしてると、直方《ジーハン》さんから痛い鞭《むち》を十回もいただくよ」
メリーはそういってるのだ。すっかりリラックスしたこのホールでは大勢の着飾ったウイグル女性が、次から次へ御馳走や、ビールや、馬乳酒などを運んでくる。その賑やかな宴会場の雰囲気とは、まるで違う話を、直方はそばに並んで坐った、メリー・王にしだした。
「私たちがさっき、ミスターに語った北京公安の女性への観測は本当は少し楽観的にすぎると思うのだがね」
「あら、どうしてかしら」
「公安は、ミスターの行動をマークしているんではないよ。あの日本人五人がどこへ行こうと北京にとっては、あまり関係のないことだよ。公安がマークし、北京政府が本当に知りたいのは、カンサーがどこにまだ財宝を置いているかということだ。そこの見当がつけば、北京政府から、この土地の漢民族系の役人にすぐ通報が行くよ」
岩崎は話していることがすべて分る。二人も彼に聞かせるつもりでいる。
「つまり、カンサーはどこかでミスターや、その部下たちにまだ財宝のあることを見せて、それを自分らが使用するための諒解を求めるのではないかということだよ。もとは日本の国の物だからね」
今、岩崎はこの二人の話を、ごく何気なく聞いているようで、実はその話の中に、何かまだ自分の知らないことが含まれていないか、もともと鋭いカンをもっと鋭くしては、一語、一語をすぐに頭脳にあるコンピュータを動員して分析しているのである。
「どうして財宝のことを北京がかぎつけたのかしら」
「そりゃー分らないけど。もしその財宝がこのビルなり、ホータンの邸《やしき》なりにあることが分ったら、ここの新疆省自治政府は、きっと何らかの手段で、それを奪いとろうとするよ。たとえば三十人ぐらいの生命知らずの、動作の敏捷《びんしよう》な男を選んで、特別攻撃隊を編成させる。夜間、自分の体から自分の身分を証明する一切の物を外し、全く無名の盗賊になりきり、武器だけは自治政府支給の強力なものを使って、ビルなり、邸なりに攻撃をかける。こうなったら、このビルの地下倉庫がどんなに厳重でも、また周辺を多数の優秀なナイフ使いの若者に守られていても、とてもその野盗の攻撃を防ぐわけにはいかないと思うよ」
メリーは、社長の直方のその言葉に感心したように答えた。
「そうそこまで分っているなら、私もいうわ。たしかにその通りよ。自治政府だって、泥棒を何度も出すわけにはいかないでしょう。一回で財宝をすべてかっさらって、倉庫番や目撃者を皆殺しにして、証拠を全く消滅して、事件を迷宮にしなくてはならないわ。それには、まず財宝が、現在、どこに置かれているのかを事前に調べ上げなければならない。これが彼らにはまだ全く分っていないので北京公安の女に探りに行かせたのよ。今度、日本から、五人の若い旅行者がやってきた。中国中央政府直接の招待者として、北京から直行の乗り継ぎ便で、ホータンヘ入ってきた。そしてまっすぐ、郊外のあの家へ来た。この辺はとっくに、大勢の通報者たちによって、もう自治政府主席の耳にも入ってるわ。つまりお父さんの解斜方が、次に日本人の客を自ら案内する所が財宝のある所だと」
そこで今度は直方がいった。
「そこまでメリーが分っているのなら、私たちが、このビルに兵力を動員して今厳重な見張りについているわけが分ると思う。もしその財宝をどこかこのビルの倉庫から取り出して運ぼうとしても町の中で戦いをしかけることはまずい。明日出発してかなり走って遠くへ行くまでは無理な襲撃は避けるんじゃないかな」
「そんな……甘いわ……よく考えてごらんなさい」
メリーの声が思わず大きくなったが、あわてて周りに気がついて声を低めた。みなの盃に酒が注がれ、それまで酒席で熱帯魚か蝶《ちよう》のように、軽やかな姿態で、客のサービスをしていた女たちが、ホール中央に集った。三、四人、比較的年長者が、馬頭琴や、大きな柄の弦楽器《タトーラ》を持ってすみに控え、若い娘たちは、頭に巻いていた布をほどいて、手に持ち直し踊り出した。
賑やかな民族音楽。娘たちのきらびやかな踊り。激しく回転するたびに、スカートが広がり絹のズボンが腰のあたりまでむき出しになる。見物の男たちにとっては、その薄く透けて中の下着がみえるズボンは、直接下着が見えてしまう姿より、もっとエロティックな情感をそそるものであるらしい。
男たちの目が踊りに注がれている間も、直方とメリー・王《ワン》との熱心な討論は続く。
「なぜ、私の考えが甘い」
「ここの中央政府主席の辺《ピエン》は、一応漢族だけど、夫人はウイグル人、育ったのもこのカシュガルで、全くのウイグル人で、本当は中央政府の人間には大変な反感を持っているわ。しかし決してその恨みや反感を見せることはない人よ。卑屈なほど従順よ。明日きっと、中央政府招待の日本のお客さんのためにわざわざ市役所から表敬訪問に来るわ。そして大変に歓迎しているところを見せておく。一方でさっきあなたが指摘したように自分がかねて特別費で養成し訓練をしておいた、親衛隊に、襲撃の準備をさせているわ。それは一切の身分証も持たない、どこの誰とも分らない野盗たちの群だから中国の北京政府の公安の白い制服だって、その前には何の効果もないわよ。さっきの女は只の便利な通報員だと思っているわ。殺してしまえば同じだし、そのため中国政府から突き上げられても市長としては『何分、少数民族の不平分子がやったことで、まだ犯人像が把《つか》めていません。私どもとしては、これから鋭意努力して犯人を探しますから』といってしまえば、それですんでしまうことだわ」
民族服の女たちの踊りはいよいよ佳境に入ってくる。男たちは周りではやしたてる。乃木も原田も、日本の二人の刑事たちも、食事しながらみなそのあでやかな舞いを見ている。満腹しても、まだ喰い物がなめらかに腹へ入って行くようだ。
岩崎も目は踊りの方を見ているが、耳は入ってくる会話を、必死に頭のコンピュータで分析している。
「たしかにすんでしまうね。いままでの中国公安が相手だったらね……」
直方は答える。メリーは更に話し続ける。
「辺《ピエン》は北京側に全く協力せずに、『女性公安官、一名、現地で野盗に襲われる』の一行の報告だけで、何もかも片をつけてしまうわ。多少はあの女もそのことを予感していて、ここでは深追いしないわ。私はむしろ、ソ連が何か動きを見せると思っているの」
「アメリカでなくソ連がかね」
「ソ連って、あれで典型的な白色人種優先の人種差別主義国で、有色人種の間に起ったことに対しては驚くほど冷酷なのよ。そのへんのことはこのカシュガルが、ソ連領との国境に近いだけにあなたならよく分るでしょう」
直方はうなずいた。
「うん、それはよく分るけど」
「つまり中国人や、このあたりのウイグル人は人間とも思っていない。欺《だま》せば欺し得《どく》。うまい条件を出して、辺《ピエン》や、その仲間に仕事をやらせ、後でその実行部隊を全部殺してしまえばいい。きっとそんな戦略でもう工作は始まっているのかもしれないわ」
それから急にメリー・王は警告するようにいった。
「CIAにはもう情報は少し入ってるのよ。ここには解家の人々と、日本側の人しかいないから何を聞かれてもかまわないのだけど、踊ったり、お皿を配ったりしている女の人に、何人か顔の知らない人がまじっているから、もしものことがあったら困るわ。このカシュガルの町には、中国本土から来た人が多いでしょう。文化大革命のとき、下放といって、それまで北京や上海などの大都市で勢いよく暴れ回っていた若い男女を、北京政府は沢山この地方へ送りこんだそうね。その人たちがこの土地から出られず、仕方なくこの土地の娘さんや青年と結婚して出来た子供が、もうこのビルヘ来てアルバイトする年ごろになっていると思うの。だから父や、母に教えられて、北京語が解る人が案外といるのよ」
「多分そうだろう。ミスター・岩崎もそう考えますか」
すると岩崎が英語で二人に答えた。
「もし刑事警察官としての私のこれまでの経験を信用していただけるならこの中に一人だけ、私らの話が分っている女がいますよ」
丁度、六人の女たちによる、カシュガル地方の民族舞踊が終った。六人の女が並んで片膝ついて腰をかがめて一礼し、四人の楽器を持った女が一応楽器を置いた。十人が元の酒席のサービス娘に戻る。
テーブルの上にさっきからおいたままで、カラになったり、冷えてきた土地の酒の瓶がとり替えられ、新しくでき上った料理がまた皿に盛られて届けられた。
メリーが男たちにまた中国語に戻って
「みなさん聞いてください」
といった。みなは雑談や飲食をやめて、メリーに注目した。
「これから私が面白いものをお見せしますわ」
メリー・王は立ち上ってみなの中央に立つと民族服の胸のボタンをあけた。この土地のウイグル娘とは、本質的に、白さの質が違う。ミルクのような純白の肌が一瞬むき出しになり、みなの目は釘付けになった。
胸をおおう丸いカップがついている女性用下着の肩からの吊《つ》り紐《ひも》に、黒い仁丹ケースぐらいの金属がとりつけられてあった。バネのきいたつまみで紐に止めてあるらしい。それを外した。
また服のボタンは元のようにはめられ、白い肌がかくされた。
メリー・王は、乃木の耳に
「ヘルプ・ミー(手伝って)」
と小声でささやく。乃木はうなずく。一体何をするつもりだろう。見ていると、その小さな機械を持って、フロアーの真中に行ってそこに集っている若いサービス係の娘たちにいった。
「勝手にどこへも出ては駄目よ。そこに立って待っていなさい」
そういわれて、女たちは扉口の前で並んだ。
メリーは小さな機械を一人一人の胸に当てる。手伝ってくれといわれたのはこのことかと、乃木はすばやく覚り、ぱっと立ち上って、メリーの後方に立つ。
何かあったらすぐに横から手助けするつもりで、メリーを見張っていた。十人の娘の右から四人目。明らかにウイグル系の血の濃さそうな鼻筋の通った西欧人にも見える顔だちの娘の前にきた。背も大きく、胸も堂々と突き出していて、踊っていた十人の娘の中では一番目立つ娘だった。
しかしメリーに前に立たれると、目を伏せたり、足をもじもじさせたり、落着きがなくなった。乃木は何かあると緊張した。
メリーも少し鋭い目をして、自分の小さな機械を女の胸のふくらんだあたりに押しつけた。とたんにピーッと高い音がした。音程が高すぎて、普通はよほど耳の良い人しか聞きとれない音だが、あたりが息詰まるような緊張でシーンとしているので、その音は、部屋中の殆どの人の耳にちゃんと入ったようだ。
それで全員の注目がその女に集った。そのため同時にその次の瞬間、女とメリーと乃木との間に起った、すばやいアクシデントは、どの人間の瞳《ひとみ》にもまるでスローモーション・カメラでゆっくり見たときのようにはっきり残った。
女の胸に押しつけた機械が鳴った。いきなりメリー・王《ワン》の手が、その女にのびてボタンをちぎり胸の所をむき出すようにした。
そのとき、胸をひっぱられた女の体がぐらりと前にかたむき、メリーの体にぶつかりそうになった。
「危ない!」
乃木の悲鳴にも似た日本語と、キラリとひらめいたナイフの刃が見えた。刃渡り二十センチにも渡るとぎすまされたものだ。きっと広いスカートの内側のひだの間にでもたくみに縫いつけてあった物だろう。
相当のプロだ。抜く手もみせずという言葉そのままの鮮やかさで誰もが、メリーの下腹のあたりに、それが深々と突き刺さったのだと、思った。他の踊り手の女の中には、顔に両手をあてて
「あーっ」
と悲鳴をあげながら、うずくまって泣き出してしまった者もいた。しかし次に人々が見た光景は誰もが思いもかけなかった事態であった。その刃は空中にとび天井に一度突き刺さったが、刺さり方が弱かったのか、それとも柄の装飾部分が重すぎたのか、天井の板から抜け落ちて、これは真下にいた女がキャーッと飛びのいたその足の先のスカートの布のはじを貫いて、今度は深々と床に突き刺さった。
スカートが刃で縫われ、動けなくなった女は、よほど気の弱い娘さんらしく、恐怖でわっと泣き出した。
しかしそれより以前に、ナイフを思いきって突き出した女の手首は、乃木の手刀できびしく打たれてその反動でナイフが天井にとび上って空《から》になった握り拳《こぶし》を、今度は手刀の形から掌《てのひら》をやや丸めた乃木の手で思いきりひっぱられた。ナイフを突き出そうとした手に、女の全体重がかかっている。相手の腹に入れて、一気に抉《えぐ》ろうとしたら、勿論人を殺すのにはそれぐらいの力をこめて刺さなくては駄目だ。
しかし、それがこの場合、襲った女の最大の弱点になった。乃木は警視庁で合気道を学んでいる。有段者である。合気は自分の力を使わず、すべて相手の力を利用して戦う、日本独自の不思議な武道だ。女は自分の力が乃木に引っ張られることによって何倍もの加速度がつき、前へ転ぶようにしてつんのめった。その足が乃木の足で強く払われると、スカートが大きく華麗に空中で開き、絹のズボンをはいた、他の女よりもかなり長い両足が、二本天井を向いて二、三度交差し、そのまま背中から床に体中をぶっつけるようにして落ちた。
背骨を思いきり床にぶっつけた勢いで息をつまらせて、のびてしまった。
父の斜方はさすがに、こういう取扱いに馴《な》れているらしく、踊り手の女たちにすばやく何か命じた。女の一人が、赤い木の手桶《ておけ》に水をくんできた。
それを斜方は女の頭からかける。
呻《うめ》いて、息を吹きかえした女の胸のあたりを、今度は直方が思いきり蹴《け》とばしてから踏んづける。苦痛に顔を歪《ゆが》めるのを、メリー・王がのしかかって上衣をむしりとる。
首の回りに、ペンダント風の鎖で、やはり小さな機械が下げられていた。
みなに何もしゃべるなと、唇の上に指をたてにしてあてて、沈黙を命ずると、その小さな機械をむりやり、ねじきるようにして、鎖から外してしまった。ハンドバッグから、ティッシュを出して、何重にも包んで、外からの声が入らないようにして中へしまった。
「もうここの話が、外へ洩《も》れることはありませんよ。明日のことについて、私たちは自由に話し合って大丈夫ですよ。ただこの女は、生かしておいてはいけません。どうせ自分でも死ぬつもりでやったことでしょう。これだけのことをする女です。責めたてても何もしゃべるはずはありません」
女は仰向けに寝たきり、動けないでいる。少しでも身動きしたら、直方の革靴をはいた足が、いきなり顔や、胸や、脇腹を、力一杯蹴飛ばしてから踏んづける。意外に気性の激しいところがこのときみなにむき出しにされた。社長としての威厳を保つためでもあろうか。
「……早く一発で殺してやった方が、この女のためです」
女は当然、メリー・王の言葉が分っているはずだ。それでも顔色を変えないのは、仕事をやり損ったスパイは、どういう目に遭わなければならないのか、充分に分っているからだろう。相当な訓練を受けている。
岩崎が立ち上った。
「私もこの女が脅かして何かしゃべると思っているわけではないが、殺そうと思えばいつでも殺せる。庭先へ連れて行って、跪《ひざまず》かせてお祈りでもさせて、その後頭部へ一発ぶちこめば、一秒ですんでしまう。別に急ぐことはないでしょう。私に少し取調べさせてください。聞きたいことがある」
この広間にいる解父子や社員は日本人の客が単なる財宝受け取りのための政府の特使でなく、本職は日本の警視庁の捜査一課の優秀な警視であることに気がついた。
岩崎はぶっ倒れたままの女を、ひき起して自分の前の椅子に向い合うようにして坐らせた。
岩崎の思いがけない優しい振舞いに、乃木はいささか不満だ。メリー・王は危うく、ほんの0点何秒かの差で殺されそうになったのだ。それが、自分の生命がけの合気の踏みこみで、やっと助かった。その女は殺人未遂に、公務執行妨害に、スパイ罪の併合で、直ちに死刑にされてもしようがないのに、うちの親分は一体何をするつもりなのだろう。
いきなり、この女に向って、岩崎はこのホールにいる人が誰も分らぬ言葉でしゃべり始めた。
ところが、前に坐った女は、その言葉をきいた瞬間、明らかにその顔から血の気がひき、態度が動揺した。誰が見ても、それははっきり分るほどだった。
岩崎は別にきびしい顔をしているわけではない。むしろふだんよりおだやかな表情で淡々として語っている。
だがその誰も分らない言葉の一つ一つが、スパイをしていた女の胸にグサリと突き刺さるのか、だんだん、うなだれてきてしまった。
みなはもうびっくりして、この二人の状況を見ているだけである。
やがて、女の眼のふちに涙がたまり、もともと大きい目がうるんでずっと大きく見えるようになった。突然、その目の雫がぽたりと、膝に垂れた。もう一方の目からも、大粒の涙がこぼれ落ちた。
びっくりするよりは、むしろ呆《あき》れて、人々は見ていた。
それでも気丈に耐えているのか、瞼《まぶた》を拭きもせず、両手を膝の上に突っ張って、うつ向いたまま、何もしゃべろうとせずに、頑張ろうとしていた。膝のあたりが濡《ぬ》れてきた。
もう一度、岩崎が何かいった。
とたんに人々にとっては、また信じられないようなことが起った。
女が
「わあーっ」
と大声を上げて、岩崎にすがりついて泣き出したのである。乃木は頭にカーッと血が昇った。本来なら、即刻、目の前の庭に引きずり出されて、今ごろは死刑になっていてもいい女だ。息があるだけでも、ありがたいと思わなくてはならないのに、こともあろうに、乃木さえまだ抱きついたことのない(実は無意識の中に、瞬間的に抱きついたことは、二、三度あるが、それは抱きついたうちには入らないと思っている)岩崎の体に、大勢の人のいる前で堂々と抱きつくなんて、全く八つ裂きにしても飽き足らない思いだ。その背中を把んで引き離そうとしたが、岩崎が手を出して、やんわりと、それを止めた。
乃木は不満だが、仕方がない。心の中で呟《つぶや》く。
『いくら女が西欧的でグラマーで、美人でも(私はこの女をちっとも美人とは思わないが)もしこれ以上警視正殿がエコひいきして、生命を助けてやったりしたら、東京のみずえ夫人の所にすぐ国際電話をかけてやるから。職務怠慢罪で逮捕できるよう、逮捕状を用意しておいてもらって、成田へ帰ったとたん、私が代って警視正殿に手錠をかけて、三階の冷暖房、鉄の格子戸付きのホテルヘぶちこんでやるわ。もう知らないから。そんなにいつまでも、そのグラマーの女の体を優しく抱きしめてるんじゃない。警視正殿のエッチ野郎め!』
最後の一言は殆ど口から出そうになって、あわててやっとのみこんだ。
岩崎が静かに女の体を離した。
女は今度は、みなに向ってこの土地の言葉で何か語り出した。
解一族や、メリーや他の踊り子たちはその告白を聞いている。
今度は日本側の四人が女が一体何をいっているのか、見当がつかない。岩崎が日本語に直して、その言葉を伝えだした。
2[#「2」はゴシック体]
「明日、この解《シヤー》一族が、充分な武装を整えて、ビルマとラオスとタイとの三角地帯から、運ばれてきた、旧日本政府大蔵省の満洲出先機関が現地に作った財宝に相当する返却資産を、受け取りに行くことはもう私たちにはよく分っています。当地、カシュガル省自治政府の辺《ピエン》主席は、日本からの招待使節がウルムチから、ホータン行きの飛行機に乗り換えたとき、その事実を知りました。それを知らせてきたのは、カシュガル郊外のソ連との国境を接する町、コーカンドにある、ソ連のKGBの分室からです。常にカシュガルや、天山山脈一帯の情報収集や監視に当っている、コーカンドのKGB支局は、ずっとカシュガル省主席と、通信を交し合って協力する仲だったので、すぐに知らせたのです。どうして省主席がそのような、国を裏切る利敵行為をしたかというと、省主席はカシュガル省を、隣接するタジック共和国や、キルギス共和国のように、ソ連の配下におき、その代りに単なる省でなく、ソ連本国をとりまく連邦国の一つにしてもらって、その国家の大統領になりたかったからなのです」
それは内乱を企てるのと同じ大罪だ。女が語る事の重大さにみなただ驚いている。
「勿論ただいきなり、省主席が中国の中央政府に刃向うことはできません。カシュガル省の役人も、軍の役目も兼ねる、省警察も、まだまだ中国の中央政府に忠実な人が多いのですから、事が充分熟す前にそれがばれてしまうと、逆に部下に背かれて、自分が反逆罪で中央政府に逮捕されるおそれがあります。それで、厳重にその意志を秘密にしていたのですが今度の招待客の警視に、中央政府からの公安官が一人、派遣されてきたことを知ってもしかしたらと必要以上に神経質になっているのです。私が盗聴の無線マイクを忍ばせてここへ来たのも、公安官が、省主席のその野望をどこまで知っているかということを探るためです。そしてもし、その秘密の任務を相手に気づかれたら、ただちに公安官を殺し、自分も何もしゃべらずに死ねと命じられていたからです」
人々はただ驚いてきいている。
「私はこのカシュガル省の人間ではありません。ソ連領のタジック共和国のコーカンドで生れたものです。モスクワヘ行って教育を受け二年前にこの町へやってきました」
鍛え上げの本物のスパイだ。
人々の顔にまた疑問が浮んだ。
『そんな筋金入りの女が、なぜ、ほんの十分ほど、岩崎に淡々とした口調でしゃべられただけで泣きながら、何もかも打ちあけてしまう気になったのか』
口に出してはいわないが、誰の顔にもそんな思いが浮んでいる。
女はまた涙ながらにしゃべり出した。
「勿論、この省の事情に詳しい解さん一家の方々は、省主席が表面は友好を装いながら、明日は別の特攻隊を出して、財宝を奪いにかかり、それを全く省政府とは関係ない野盗のせいにして、形式的な追跡隊を出す。何日かして『どこかへ逃げられて、賊も野盗の行方も分りません。申し訳ありません』ととぼけて報告することが分っています。まだ財宝のあり場所が省主席に分りませんから、襲撃しないだけで、明日、財宝のある場所が分って自分の手に奪うことができれば、それは国境へ向いまっすぐソ連領から、アフガニスタンの方へ突き抜けるパミール高原へ運ばれます。そしてアフガンとの戦争を終えてそこに駐留しているソ連軍に、手渡されることになっています」
話は全く思いがけない方向に、どんどん広がって行く。
「なぜ省主席は財宝を自分の手もとにおいておかないかというと、それは辺主席が、周囲の状勢を見て、機が熟したと見たときのためです。タジック共和国から、精悍《せいかん》な騎兵や、機関銃、山砲を出してもらって、一気に省を乗っとり、その武力を背景に、大統領になるためです。私の父はそのときは、タジックからやって来て、大統領の上にたち監視をする、新設のカシュガル連邦共和国の特命全権公使になることになっています。そしてもしかしたら辺主席も殺してしまいます。もし私がその作戦を生き抜いて、新しい連邦共和国誕生の日を迎えられたらその共和国の初代の女性大統領になることが内定していました」
だったらなぜと疑問がますます重なってくる、今、死を前にしてすべてをべらべらしゃべってしまうのだろう。ホールにいる者は、いっそう不思議な思いで彼女を見つめていた。
「でも私は今この日本の人からある北の国の女の工作員の話を初めてきいたのです。彼女は敵対関係にある、南の自由主義国の乗客が百五十人も乗っている飛行機を墜落させて、国家の命じた特殊工作を無事成功させた大変な功績者です。でもその祖国は、成功して生きて帰った場合でも、もう一人の同行者と共に、祖国へ戻った日に彼女を銃殺して口をふさぐ手配をしていたのです。残された一家の者は父も母も、九親等まで全員が残らず逮捕されて一生自由の日がやってこない、強制収容所送りになることになっていたと、たしかな文書を基準として、この日本人の捜査官に、今教えられたのです。しかも彼女はその任務に成功したけれど、自分は捕まって敵側に誰にその任務を命じられたかまでしゃべってしまいました。その失敗に対して彼女の父母と、その九親等までがどうなったか、今、この日本の人は、一人一人詳しく、赤ん坊まで名をあげて、その境遇を知らせてくれたのです。全部殺されたそうです」
世界中の言葉が聞き分けられる岩崎の情報収集力は定評がある。世界の空を飛び回る無数の電波を殆どすべて聞いている。それが暗号通信であっても、彼の頭脳コンピュータは、ほぼ四十秒から一分ぐらい聞き流しているうちに、その全くわけの分らない言葉が、平文同様に耳に入ってくるのである。頭の中で自然に暗号解析作業がすんでしまうのだ。
だからこれは、このスパイ女を脅かすための作りごとでなく本当の情報であると、岩崎を知る者は誰も納得できた。
女はまた掌を顔にあてて泣き出した。これだけの筋金入りのスパイが、泣き出すのだ。あやふやなガセ情報では、ここまで感動させ、自供をひき出すわけにはいかない。
「みんな死んだのです。小ちゃな女の子も。|いとこ《ヽヽヽ》の|いとこ《ヽヽヽ》の|めい《ヽヽ》に当る、全くその実行者の顔も名も知らない三つの女の子まで、刑場に引き出されて、銃殺されたそうです。それが北の社会主義体制の国に所属する、国のため生命をかけた忠実なKGB職員が、任務に失敗したときの運命と分ったとき、黙って死ぬより、すべてを打ち明けて死のうと思ったのです」
乃木は、さっきこの、タジック国の女スパイが、岩崎警視正に抱きついてしばらく泣いていたことをこの告白で許してやる気になった。筋金入りのスパイがたとえ死の前だといっても、すべてを打ち明ける気になるのには、それに踏みきるだけの心の準備が要ったのだろう。
女が話し終って、またすすり泣きしだした。
それに対して岩崎は質問する。
女は泣きじゃくりながらまた答える。今度もまたこの中の誰も知らない言葉だ。
二人の間に問答がしばらく交される。
それから岩崎はメリー・王と、乃木に、乃木にも解るゆっくりした英語でいった。
「メリー嬢と、乃木君に聞きたいのだがね、この女の人の生命を助けてやる気はないかね。少しの間生命が必要なのだが……」
メリー・王はすぐ答えた。
「私はいやよ。私の気持は許せても、CIAの一員として、一度私が殺されかかったその相手を、無傷で釈放することはできないわ。もしミス乃木が、あのとき合気で助けてくれなかったら、今ごろあのナイフが……」
と、今はテーブルの料理の皿の横においてある飾り柄つきのナイフを指さしながら
「……私のここから背中まで突き抜けていたのよ、そして私は苦しみ抜いて死んでいたのよ」
「しかし……」
と岩崎警視正はメリー・王にいった。
「この女は、カンサーと直方が近く行なう予定の、もう一つの計画もちゃんと知っていたよ。私でさえ初めてきいたことだがね。今、君がしゃべる前にスパイがいるかと調べて、この女を発見して、未然に敵側に洩れるのをやっと防いだつもりで、ほっとしていたろうが、その計画自体がもう洩れていたのだよ。もっともカンサーや君たちの間では全くの秘密でも、相手は名にしおう、KGBだ。どこかで洩れているのが常識だ。ある程度は漠然と知っていた、財宝のあり場所とともに、正確なことを知りたくてやってきたわけだ。この女がカンサーのその計画を知っているということを教えてくれただけで、我々は大分危機を助けられたと思わなくてはいけないな」
メリー・王はうなずいた。
「分ったわ。彼女がどこまで知ってるかについては、別に興味はないけど、そのことが分ったことはありがたいわ。直方」
と急に直方の方を向いていった。
「この女を絶対に外と接触できない部屋にとじこめておくことはできないかしら。私たちの仕事が成功したら生命だけは助けてやる。それまでは生かしておいてやるわ。でも計画が始まるまではもう外部との接触ができないようこのビルの中の部屋に入れておいてよ。私たちの計画が失敗したと分ったら一カ月か二カ月、そのまま、食事も水もやらずにほっといて、気がついたらもう死んでいたということにしておいてね」
と怖ろしいことをいった。
「いいよ」
直方はそういうと、部下の重役たちにそのタジック共和国からやってきた女スパイを連れて出るように命じた。先にたって自分も出て行く。
十分ぐらいで戻ってきた。
「ビルの地下に、牢屋がこしらえてある。絶対抜け出せないようになっている厳重な牢屋だ。もう安心だよ」
そうメリーに報告した。
宴は途中、意外なハプニングが交ったが、酒も回り、料理も揃い、今の中断の活劇を忘れたかのように、残りの五人の踊り手の、以前よりテンポのずっと早い、胡旋舞《こせんぶ》(回転を主としたウイグル国の踊り)でますます賑やかになった。
夜も更けた。
花輪と、中村の二人の男性刑事は一部屋、乃木と原田の女性刑事の二人も、また別の一室で安らかに眠っていた。一度殺されそうになったメリーはまだ昂奮《こうふん》がおさまらないで、自室で寝返りを打っている。
一日で五百キロを休みもなく一気に走った上に、温かくおいしい料理に、甘味が強くて、つい飲みすごしてしまいがちな口当りのいい地酒だ。二人とも、ならんだツインのベッドで、それぞれ純白の毛布にくるまって、ぐっすり眠りこんでいた。だがメリーはこんなときは無性に誰かに抱かれたくてなかなか寝つけなかった。
岩崎は自分の部屋で黙って天井を睨《にら》んでいた。
シンガポールの捜査のとき、情熱的に迫ってきたメリー・王《ワン》の激しい欲望を知っている。それにここでは、メリー・王としては、何としても、岩崎に向って最後の瞬間までは、お互いに捜査に協力しあうという保証を取らなくては気持が落着かないだろう。お互いに、背中に国益を背負って働かなくてはならない立場にあるし、こういう場合は、口約束の協力など、掌の上の紙屑《かみくず》と同じで、一吹きで軽く吹っとんでしまう。何の役にもたたないものであることをメリーはよく承知しているはずだ。だがこの秘密任務は文書には交せない。
肉体的な結びつきが、必ずしも協定の保証になるとは言えないが、しかしお互いに何の保証も期待できないときは、せめてもの保証代りに、それを求めてくることは考えられる。たとえ今、誰かに恋しているとしても、これだけきびしい状態になると、任務の方が大切になる。昨日と同じでいられるはずはない。きっとメリー・王は、五年振りの再会で燃え上った自らの体の情炎を鎮めるためと称し、本心はさっきの相互の口先だけの協定をより確実にするため、その肉体をぶっつけてくるに違いない。こうして古来の歴史ではシーザー以来、近世アメリカのハート大統領候補まで何百人もの軍人、政治家が、女の色香に負けて、国を裏切り、国益を損じて亡びて行った。
しきりにそんな予感がする。
やはりそっと扉のノブを回す気配があった。静かに開く。するりと一人の女性が入ってきた。
扉を背にして立つ。アメリカから持ってきたのだろう。昨夜とは違う透き通った布地のピンクのネグリジェ一枚で、その下は何もつけていない。とうとう覚悟を決めてきたのだ。
双つの実り豊かな乳房と、その頂点の赤く熟れた粒、ひきしまった下腹を彩る燃えるような黄金色の茂りもはっきり見える。
じっと立っている。男が起きていることは知っていて自分の体をゆっくり展示しているのだ。
「寒いからそこへ入りなさい」
と岩崎はいって、隣りのあいたベッドを示した。
「私が何でここへ来たか分る」
メリー・王は立ったままいう。
「それは分っている。しかしぼくらの間に、今、はっきりした愛が燃え上って、どうしてもお互いに相手がほしくて仕方がないという状態でない」
「いえ、私はあなたがほしいの。どうしても」
「……ともかく風邪をひいてはいけないから隣りのベッドに入りなさい。早く毛布の中に入って体を温めなさい。それからゆっくり話し合おう」
「あなたは、私の体が見たくないの。きっと見たら喜ぶと思ってわざわざ裸になってきたのに、このまま毛布にくるまってしまうなんて勿体《もつたい》ないわ。私の体きれいと思わない」
裸の体でくるりと回ってみせた。
「……今、この体の中では、貴方に抱かれたくて、火のような情熱が燃え狂っているのよ。それでも抱いてくれないの」
「しかし、いくら体の中が燃えていても、それで、外からの冷気が押えられるものではない、現在室内はかなり暖房が効いているように思えるが、それでも九月だ。外はもう零下に近いはずだ。この室内でも、そんなに気温が高いはずはない。早く中へ入りなさい。お互いに並んでゆっくり話し合おう」
「変な人ね」
そう文句を言いながら、さすがに寒さを感じてきたのか、メリー・王は示された隣りのベッドに渋々ともぐりこんで、しばらくじっとしていた。
「たしかに、情勢は昨日とまた違ってきた。君が加担した老人の参謀やカンサーの計画は、この分では、この土地にいる間につぶされてしまうおそれさえ出てきた。昨夜までは君も新しい恋に殉じて、浄《きよ》らかな体のまま、その誰か知らぬ新しい男のために生きようと思ったのだろうが、今日はあたえられた任務を達成することの方が大事になってきた。そのためには、私と、もっと密接に結びつき、私や、ピストルの上手な四人の部下の協力を得たい。それですぐ脱げるネグリジェに着替えてやってきた」
「たしかにそうよ。でも女が覚悟を決めてやってきたのを、そういう冷たい言い方で拒否するのは、大変な非礼だわ」
恨めしそうな目で睨みつける。
アメリカ系の父に中国系の母の血を受け、普通の娘よりずっと美しく生れついた。これまで男に求められたことはあっても、拒まれた経験のないメリーには、美女としてのプライドがある。これだけの姿態を見せつけても、まだ燃えるには条件があるという偏屈な男のベッドに、無理にもぐりこんで、迫ることは、とてもできない。
しばらく自分のためのベッドの毛布の中にもぐりこんでじっとして、心の昂《たか》ぶりを押え、やっと冷静になったところで、顔を出して同じように天井を向いたままいった。
「あなたみたいな人は、初めて見たわ。こんなに私が燃えて抱かれたがっているのに何が不満なの。覚えていらっしゃい。大体、相手の情熱を断わるなんてのは、女だけに許される権利なのよ。男は愛がなかろうと、生理的な状態の方が女性渇望の本能に支配されれば、いつでも、誰でもかまわずに抱けるのでしょう」
「単に肉体的に可能かということだけで考えればその質問はイエスだ。セックスは充分に可能だろう。しかし私はその状態で女性を抱くことはしたくない。自分と一つの体として結びつける以外は、もうその愛をお互いに相手に伝え合う方法が見つからないと分ったとき、初めて自分の体から、すべての衣類を脱ぎ捨て、お互いの肉体の秘められたる部分を一分の隙《すき》もなく密着させあって、二人が一つになる。そして二つの体が一分の隙間もなく密着しあうように、二人の愛の中にも一パーセントの不純物も交ってはいけないのだと思いたい」
じっと天井を向いたまま、少し怒りの思いをこめて、メリーはいった。
「私は、ミスター岩崎を愛してるわ。たしかに……ここまで来たのは愛があったからよ」
するとこのとき岩崎は、初めて半身を起して、はっきりと、メリー・王にいった。
「それだけはいってはいけない。それでは、直方《ジーハン》が可哀相だ」
「えっ!」
「君の愛を信じてる。あの純情な青年がね」
「知っていたのね」
「ここへ来てすぐ分った。君は一生に一度ぐらい、CIA職員という身分を忘れて、本当の恋というものをした方がいいよ。それにふさわしい青年とね」
しばらく無言でいた。
それから少しの間、小さな声で泣いている気配がした。
岩崎はその背に優しく声をかける。
「直方《ジーハン》はいい青年だ。まだ粗野で何の飾り気もないが、君を大切にするよ。多分一生」
「分ったわ」
そうメリーは答えた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
岩崎の枕もとの灯りが消された。メリーがやっといった。
「それ以上は決して何もしないから頬ぺたにキスだけさせて」
「いいよ」
身をのりだしたメリーが軽く頬に唇をあて、すぐ自分の寝床にもどった。
どちらが先に寝入ったか分らない。ほどなく二人は安らかな寝息をたてだした。
明朝、もしこの状態を知り乃木が怒り狂おうと、岩崎はそんなことは何も気にならない。やましいところはないからだ。
[#改ページ]
[#見出し] 第四章 ハン・ノイ遺跡にて
昭和六十三年九月のこと
君不聞胡笳声最悲 聞いて下さいウイグルの歌の悲しいメロディを
紫髯緑眼胡人吹  紫の髯《ひげ》に緑の目のウイグル人が吹く
吹之一曲猶未了  笛の曲が一曲、まだ終らない中に
愁殺楼蘭征戌児  戦いの途中の兵士たちがポロポロ泣いている
『ハン・ノイ遺跡について』
斑井 HANNOI
カシュガル市の西南を出て、パミール高原へ向う道を四十キロばかり行く。
はるか前方には、インド領をへだてるヒマラヤ山脈、ネパール方面への道を辿《たど》る崑崙山系、そして反対側の西方には遠くアフガンからイラン・バクダッドヘ向う、パミール高原、北方にはソ連領タジック共和国や、キルギス高原へ向う道が続いている。
しかしそれらは、いずれも遠くの地平線のかなたに、ほんのかすかな盛り上りを見せている程度で、そういわれればやっと気がつくが、言われなければ分らない。その遺跡から見る、四方の景色は、大体に於て地平線のつながりといってよい。
そのぐらい何もないところに、高さ十六メートル、天井が丸くなっている巨大な塔がある。これは古代カラハン王朝の王城の跡ともいわれているし、付近に大都市があって、その住民たちの信仰の中心であった大寺院の、伽藍《がらん》の残りである、ともいわれる。
1[#「1」はゴシック体]
カシュガル市の大通りのビルの前に、十台の車が並んだ。
カンサーの義子でホータン郊外にいて睨《にら》みをきかしている、|解 斜 方《シヤーシヤーハン》の長男で、カシュガル省内全体の物資の流通や、商品の供給、貯蔵などの実権を握っている解|直方《ジーハン》のビルである。
解一族の商売の基盤は、はるか地平のヒマラヤを越えた、ビルマ・ラオス・タイの三国の国境一帯に蟠踞《ばんきよ》し、世界中の阿片、モルヒネ、ヘロインの八○パーセントを供給している、祖父のカンサーから送られてくる豊富な資金によっている。
しかしそれがたとえ世間に判ったところで、一度国際金融機関でクリヤーされて運ばれてきた資金はどうしようもない。
ヘロインが多くの殺人者を生み、強盗犯を作り、売春婦とそのヒモを発生させ、究極のところその常用者を年々何十万人も廃人にしてしまう怖ろしい薬であるにしても、今、世界のどの国の司法機関も、カシュガル省に本拠を持つ、この流通事業を潰《つぶ》すことはできない。
カンサーの娘で、この一族のボスの解斜方の妻となっている、楊春蘭が、実は日本の元の総理の血をひいているということも、別に関係ない。誰にも知られていない秘密だから問題にもならない。砂漠の中で独力で立派に仕事をやっていると分っている企業を、資本の形成が不明朗だといって、突つき散らすことは、世界のどの機関もできないのだ。
一番最初は直方の運転する白いランドクルーザーだ。昨日のように、その隣りにぴったりメリー・王がくっついて坐り、その隣りに岩崎警視正が坐った。
乃木が、前四人、後ろ三人の多少変則的な乗り方にはなってもかまわずに、すぐにその横に体を押しつけるようにしてさっさと坐ってしまうところだが、今日はその大きいまん丸い眼をもう張り裂けんばかりに開ききって、ぐっと岩崎を睨みつけて前へ乗ろうとしない。
これまで岩崎に抱いていた信頼も愛情も一挙に砕けてその細片が強風で空中に吹っとんでしまった思いだ。
もともと東京で育ち、新宿にある男女共学の公立高校に通い、早くから男性というものがどんなに下劣でエッチで、しかも浮気であるかはよく知っているはずなのに、それでも尊敬してきた岩崎だけはそうであることは許せない気持なのだった。
たしかにかなり長時間メリーは岩崎と同じ部屋にいた。一緒に寝て愛し合ったかどうかそこまでは分らないが、同じ部屋ですごしたことは確実である以上、二人の間に何もなかったと考える方が不自然だ。
あの貞淑なみずえ夫人や可愛らしい、坊やの翔ちゃんに、一体何といって弁解するつもりなのだろう。上手に弁解して、それが任務のために必要だと納得してみずえが夫を仮に許したとしても、乃木としては絶対にこのことだけは許すことはできない。
精一杯の皮肉の思いをこめて
「どうも前の方は窮屈なようだから私は今日は後ろに乗るわ」
といった。中村、原田、花輪と並んでいる花輪の体を、かなりじゃけんな態度でぎゅっと押すと、その横に並んで坐った。
「あんまり体がくっつかないようにして」
自分で体を押しつけてむりに坐ったくせに、人の好い花輪をそういって叱りつけた。
機嫌が悪いことは誰にも分る。
岩崎は原因が分っているが、一々部下の女のくだらないヒステリーなどにはつきあっていられない。
「ああ丁度よかった。これでもう一人を前に乗せられる。どうしても作戦上前に乗せておかなければならない者が一人出たんだ」
誰だろう。もし女だったら承知しないから。警視正殿のエッチ男め!……と口の中でしきりに罵《ののし》る。二日続けてなんて色気違いだ。もう許せない。
そこへ後ろ手錠でくくられ、腰縄の先をしっかり握られた女が歩いてきた。昨日の女スパイだ。
自動車の所へ近づいてくる。足がふらついて、うまく歩けない。よろけそうになったり、おくれたりすると、腰縄を持った男が後から遠慮なくその腰を蹴飛ばした。
女はそのたびに、また転がりそうになりやっと体をたて直す。昨日乃木に足払いをかけられ一回転して床に思いきり叩きつけられたときの腰の痛みがまだかなり残っているらしい。
その西欧風の顔だちのグラマー美女が自分の代りに警視正殿の隣りに並ぶのは、何とも憎みてもあまりあるが、しかし腰の痛みでよろけているのは少し可哀相にもなった。女をつれて扉の下まで来た男が岩崎にお伺いをたてた。
土地の言葉だ。岩崎は同じ言葉で何か答える。女の後ろ手錠が外され、女はやっと乗りこんできた。
扉がしめられる。
ランドクルーザーは走り出した。すぐ後ろを一族の支配者である解斜方が直属の十人の部下と共に乗ったミニバスが続く。昨日と同じもう一台のミニバスが、やはり十人の部下をのせて更にそれにぴったり続く。
その後に七台のトラックが続いた。
いずれも幌《ほろ》をかけているから、中に何が入っているか分らないが、多分、西南方のパミール高原に、中国の物資を運び、帰りにソ連領のタシケントや、サマルカンドから、インドやソ連、トルコなどの物資を運んでくるのは、このトラックたちなのだろう。
この財宝受領の行動を、いつもの交易に見せかけるつもりか、それとも幌の中には多数の武装した男たちを潜《ひそ》ませておき、一行の行く先を狙《ねら》って、突然襲いかかってくる野盗たちと戦うつもりなのかもしれない。車が動き出すとすぐ岩崎は
「この女はタチアナという」
と女スパイの名をみなに教えた。
「昨日から食事も水もあたえていない。人間二日や三日の絶食で死ぬことはない。それにこのぐらい体が肥っていれば、やせた人間より更に二、三日はよけいにもつ」
そういって、わざと肩や腕の肉をつまんでみせた。女は何も抗議せずうつ向いている。
岩崎の助命で、やっと生きているのだから、たとえどんなことをされても、文句はいわない。
「いいかね。これからはみんな自分が食事をするときも水を飲むときも勝手にこの女に分けあたえてはいけない。我々のために役にたつ行動をしたときに初めて、食べ残しを少しあたえ、ほんの唇をしめらすだけの水をあたえる。もう決して反抗したり逃げ出したりはしないと思うが、そんなふるまいが少しでもあったら、各自の判断でぶちのめしてもいいし、場合によって止むなしとなったら射殺してもいい」
殺人を人間だけが持つもっとも野蛮な習性として何よりも憎み嫌う岩崎としては随分思いきったことをいったものだが、それは最初に彼女の方から相手を殺そうという行動に出たことを未《いま》だに心から憎んでいたからだろう。
車は街の通りを西南の方角へ向って走って行く。五分も行かない中に、並木道の奥に、一見回教寺院かと思われる、大きな建物が出てきた。
「香妃|廟《びよう》です」
そう直方はいうと、その前で車を止めた。
「省主席の辺《ピエン》さんがここで我々を待っています。出発前に話があるそうです。警視正と、メリーさんと私だけが降ります。他の人は車の中で待っていてください。タチアナを逃さないように」
前の席から三人が降りタチアナが残った。念のため、二人の男が代りに、両側から乗りタチアナを囲んで坐った。彼女はお腹《なか》がすいているし、腰が痛くてとても逃げるだけの元気はないようだった。
しかしこういう事件に油断は禁物だ。後の席に残った女二人も、膝の上に置いたリュックから拳銃を抜いて、いつでも女が逃げそうになったら後ろから射つ構えを示した。
後ろの車からは、ボスの解斜方が一人降りてきた。並木の道には十台の車が並んだ。
省主席側は黒い大型乗用車一台でやってきている。
解直方とメリー・王、そして背広の岩崎の三人は大きな回教寺院風の建物の前に立った。五メートルもありそうな高い大扉の前に門番がいかめしい顔で待っている。
「辺《ピエン》主席からここで待っているというご指示があった」
直方がみなを代表していう。
「もう中で待っておられます。どうぞ」
大きな扉を少しあけた。そこで体を斜めにするようにして、一同は中へ入っていった。
中は薄暗いが、高いドームの天井に幾つかの明り取りの窓があったので、中の状景はぼんやり見える。目がなれてくるとだんだんはっきりしてきた。
全体が一族全員の墓所である。この地方を長らく支配していたホージャ王一族の共同墓所だ。入った所は、参拝に来た人が、経文を上げたり、線香を供えたりする礼拝所になっていて、その先が一メートルぐらいの高さの台になっており、そこに一族全体のかまぼこ型の墓が三十ぐらい、それぞれの身分に応じた大きさで並んでいる。
歴史上有名な絶世の美女香妃がここに葬られているので、香妃廟と名づけられているらしいのだが、このホージャ王家にとっては、香妃の存在は小さなものらしく、彼女の墓は、はじっこのどこかにあるらしいのだがはっきりしない。
香妃廟と表面は称していながら、中へ入ってしまえば香妃なんかどうでもいいところが、このあたりの人の大らかさか。
岩崎はそんなことを思いながら、おそらくもう二度とは来ることはないだろう、この廟の中を見回していた。
カシュガル省主席は、やせた長身の男だった。一応漢人ではあるが、その血の中にかなりの濃さで、この土地の血が交っているのが分った。案の定昨日の女公安官がそばにいた。
主席は顔見知りの直方といかにも親しそうな口調で挨拶した。それから廟内を見回している岩崎に気がつき、自分から手をさしのべ流暢《りゆうちよう》なる北京官話で話しかけてきた。
「日本からお出でになったお客様ですか」
「そうです」
岩崎は答えて手を出して握った。
「お役目ごくろうさんでございます。よくこの辺境へお出でくださいました。ここまで来た日本の方は殆どありません。私個人としては、こうして直接日本人をお迎えして親しくお話ししたことは初めてのことで光栄と思っています」
いかにも好意にみちた顔でいう。たしかにその言葉だけは親切心にみち溢《あふ》れている感じがする。かなりの役者だ。
「私たちにご用というのは」
岩崎は手を握り返しながらそうきいた。
「いえ、大したことではありませんが、実はまことに申し訳ないことでありますが、カシュガル省政府は、中国中央政府のきびしいご意向で……」
と、ちらと白い制服の昨日の女性の公安官の方を見ながら少し声を小さくしていう。
「……独自の軍事力を持たされておりません。ほんの貧弱な警察力に何もかも頼っている現状です。ですから市内はまだしも、いったん郊外へ出てしまうともう旅行者の安全を保つことはできなくなります。それでもあらかじめ……」
と、ここで言葉に力をこめて主席はいった。
「もし、そのお役目のすべてを最初から私らにお任せいただけるなら、私の直属の警察隊を派遣して、何事も、無事にすませることができると思います」
多分そう言うであろうと思った通りのことを申し出てきた。すべてが終った後で彼に
『警察隊を派遣したが、途中、何倍もの野盗群に襲われて、衆寡敵せずで、とうとう取られてしまいましたよ。申し訳ありませんでした』
ととぼけられてしまえば、それで終りだ。
魂胆は見えすいている。
「ご好意はありがたいのですが、これは日本政府と、ここの解さんとの間に交された個人的な取り決めで、省政府のお力などを私個人が勝手にお借りしたりしたら、私が帰国後、ひどく叱責《しつせき》されます。もし何かの事故が起るとしても、省政府は全くそのことについては知らなかったという立場を取っていてくださった方が、あなたのご身分にも傷がつくことなくいいのではありませんか」
丁重でありながら、しかしきっぱりとそう断わった。
「そうですか。惜しいですな。もし何かが起っても知りませんよ。御無事を祈ります」
最後はそう少し凄《すご》んでみせた。
そのまま双方はまた親しそうに握手したが事実上はこれで、お互いに宣戦布告しあったと同じになった。
これからどんなことがあっても、後は自分で自分を守って行くより他はない。
一行は廟の外に出た。カシュガル省主席は、黒い乗用車で町の方に去って行く。
再びランドクルーザーに乗った岩崎たちは、西南のソ連領への国境に向う道を走りだした。
すぐに街の道は終る。乾いた土の道の両側に、ポプラ並木がずらりと並んでいた。所々に日干し煉瓦で出来た農家が点在する、畑や、果樹の地帯になったが、それもやがてなくなって、ただ何も生えていない、土と石ころだけの乾燥ゴビ地帯に入った。
目にたつものといえば、たった一本の黒い電線だけで、それはどこまでも地平のはじまでのびていた。
直方がハンドルを握りながらいった。
「この電線だけが、町を守る生命《いのち》綱《づな》です。外部との通信は、この電線で辛うじて保たれています。切られたら、カシュガルなんて町は、地球上のどこからも孤立してしまいます」
そういわれればたしかにそうだ。どんな近くの村でも、二百キロから五百キロは離れている。歩いて行けば、少なくとも、十日以上はかかってしまう。
「昔は、この電線がよく切られて盗まれたのです。建築のときの資材や、少ない家具の代りにとても役だったからです。それに全く人の目のつかない場所にずっと電信柱がたっているから、盗んでも見つかる怖れがなかったのです。……でもいかなる理由にせよ、個人がこの電線の一部を所有していたら、即刻死刑という刑罰を、省が採択したので、それ以来、切る人がいなくなって、やっと砂漠の中の各都市、村落が孤立しなくてすむようになりました」
この広大な中央アジアのオアシス都市にとって、一本の電線がどんなに大事かよく分る話であった。
道が極端に悪くなった。足回りがヤワな乗用車なら、とても走れないだろう。ランドクルーザーに、砂漠走行用のミニバス、それにどんな悪路でも物ともしない大型トラックは、悠々とその道を乗りきって行く。
二、三日前にこの地方には珍らしい雨が降ったらしい。途中、地形の関係で低くなっているところは、池になっていた。車が走れば、あたりに砂塵《さじん》をまき上げて前も見えないような地形だがいったん傾斜を下りれば、泥の世界だ。タイヤの半分以上がお汁粉の中につかって、もがくような悪路になる。
車でこれだけ難しい道なのだから、歩いたらどのくらい辛いか、よく分った。直方が
「今ごろは、あの電線の中の電話が辺主席にしきりにかかっているはずだ。我々の行先を告げている。このあたりの住民は、昔からの長い習慣で官にはとても忠実になっています。もっとも、ほんの五十年ほど前までは、税金を、百二十年先の分までも、前払いさせられて、もし払えなかったら、首の筋を切られたぐらい苛酷《かこく》な政治が支配していたからです。ここでは人民の顔は表面はみなそのときのお上の方にぴったり向いています。心ではひどく憎みながら」
岩崎は直方のいうことには納得してうなずいた。どこでも民主主義の新しい文化が育っていない途上国は首長の権力は馬鹿強い。……代りにもし、一度、首長の座を降りると、今までの恨みでよくて追放、大概は獄死、暗殺、など生命を失う例が多い。だからこそ在位中の人民への取締りもきびしくなるのだが……
少し英語の分る乃木が後ろから質問した。
「首の筋を切られると、その人どうなるの」
何やら興味を持ったらしい。直方は運転しながら答えた。
「頭ががくりと前に垂れてしまって、いつも下しか見えなくなるのです。歩いているときも足もとしか見えないんです。五十年前にはそんな人がこの町に沢山いて、全然前が見えないので、お互いどうし道の真中でぶつかったり、そのころやっと出来かかった電信柱や並木のポプラに、どーんとぶつかる人が随分多かったのです」
「まぁー」
首が垂れ下ったまま持ち上らなくなった人間のことを思うと、気の毒でもありおかしい。乃木は仲間の刑事たちにそのことを日本語で説明した。
原田も、中村、花輪の二人の猛者も、さすがにこの未開地の税務官吏の荒っぽいやり方には呆れている。
岩崎は車に備えつけの双眼鏡で、ずっと地平のあたりを眺め回していたが、日本語で感想を話し合っている後ろの四人に向って話しかけた。
「日本で金《かね》が無くなって困ることをよく首が回らなくなるというが、語源はここから出た。中国語で、没回首了《メイホイスラ》という」
鮮やかな発音でいったから、思わず
「本当ですか」
と乃木が聞き返したら
「いや、全くの出鱈目《でたらめ》だ。この話今、私が作った」
とあっさり答えた。からかわれたと知った乃木が
「まぁー」
と岩崎の背中を睨みつける。まるでそれがちゃんと判っているかのように
「乃木は、本当は誰かの首の筋を切りたいと思って聞いたのではないかね。あちこちの女の顔をやたらに見ないようにするために」
といった。乃木は昨夜の寝室の件で、自分が岩崎警視正のことを、まだひどく怒っていることを、見抜かれたのかと思ってどきりとした。そしてあわてて
「いえ、そんな誰にも怒ってなんかいません」
と、真赤になって弁明した。
「それならいいが、物事には思いもかけない真実があるものだ。自分がそのことについて直接見聞きしたことでない限り、勝手に疑ったり、怒ったりしちゃいかん。個人的な憎悪の場合は、もし間違いだと相手に対してひっこみがつかなくなるぞ」
といさめられてしまった。他の人間には、まるで何のことか分らなかったが、彼女の場合は、その言葉が一々身にしみる。
「すみません」
ついうなだれて小さくなってしまった。他の三人は、一体、乃木が誰の首の筋を切ろうとしたのだろうかと、不思議そうに乃木の顔を見ている。
乃木はもう何もいえなくなって、ますます体を小さくしている。全くこの親分の前では何を考えても駄目だ。胸の中で思っているだけでも、口に出して大きな声でしゃべったのと同じくらいに分ってしまう。
「もう二度とそんなことは考えません」
といったため、却って他の刑事たちに、自分がそういうことを考えていることが分ってしまった。
まあ、今のところ一体彼女が誰の首の筋を切ろうと考えていたのか、分っている人はいないが、これからは日常の言動だけでなく、胸の中で思うことも慎しまなければいけないと、強く反省した。
直方が、ハンドルを握りながらいった。
「やっぱり奴ら出てきたぞ」
メリー・王は備えつけの小型双眼鏡を出して地平の方を見た。可愛い装飾のついた物だが、性能はぐーんといいらしい。
「黒いゴマ粒のような人間が見えるけれど。地平のあたりに」
「うん、馬に乗ってる人間だな。こちらに向ってくる」
直方がそういった。後ろの刑事たちにはまるで見えない。双眼鏡で見えるのは納得できたが、普通に車を運転している直方にどうして見えたのかが分らない。
後ろの席の四人は目をこらしていて一点を見ているのだが視力一・五ある、ピストルの名人、中村刑事でさえ、やっと地平に点線を打ったぐらいにしか見えない。
「奴ら向ってくるのかな」
岩崎がきく。運転しながら直方が答える。
「そう少しして、止まるね。一応、我々の裸眼視力の標準が分っているから、その限界の丁度、見えるか見えないぐらいの所で待機しているよ。まさかこちらがもう気がついているとは知らないでいる」
「奴らは何だね」
「辺主席が、秘密裡に養成して温存しておいた親衛隊です。といっても、実質は馬賊と同じだよ。村を襲って財物を掠《かす》めたり、きれいな女をさらったり、そんなこと平気でする連中だ。村の人は、まさかそれが実は辺主席が自分のポケットマネーで秘かに養成している親衛隊の暴力団とは、まだ知らないものだから、何か被害があるとすぐ政府に連絡する。ここの警察は警備軍も兼ねて、優秀な武器と機動力を持っているから、すぐ辺主席の命令を受けて出動する。しかしどんなに早く彼らが出動しても、かつて賊にぶつかったことがないのです。……そりゃー当り前だね。賊の指揮者と、警察の指揮者が、同一人物では、仲間同士戦わせて、お互いを消耗させるなんてばかなことをするはずはないからね」
岩崎は大体のことを後ろの刑事たちに日本語に直して教えておく。最後に
「この辺境まで来ると、まぁー中央都市ではいろいろ考えられないような珍らしいこともあるよ。さぁー、ピストルだけは出しておきなさい。多分、我々が、直接彼らと戦うことはないだろうが」
と、一応みなに注意した。既に先ほどこの前の席に坐っているスパイ女の逃亡を防ぐため、みなリュックからピストルを出している。
しかしもし正式に地平線にいる敵が馬に乗ってこちらを襲ってくるなら、それは多分、小銃だろう。それも近代の小銃は十二発や二十発は、即座に弾丸が飛び出す自動小銃だし、もし辺主席がこの私兵に金をかけているなら、みんな自動発射装置のついた、トカレフか、PPSのサブ・マシンガンを持っているかもしれない。それだと、七十発の円盤弾倉をつけて、弾丸がまるで、雨あられと降りそそいでくる。
向うの銃の一発ごとの命中精度は低くても、こちらが十二発しかない弾丸を狙いを定めて射っている間には、体中に穴があいてしまう。砂漠の中のオアシスヘ行けばいくらでも作って売っている。
岩崎の父は、戦時中応召して実戦の経験がある。それまで神様のように頼りにして、世界一の優秀な武器だと信じていた、当時の日本軍の制式小銃の三八式歩兵銃が、いざ実戦となると、これら近代的軽火器に対して、いかに無力であるかよく知っていて、まだ警視正が中学生ぐらいのときにしきりにその話をしたものだ。
さすがに乃木が心配になってきいた。
「私たち、あの連中と戦うんですか」
岩崎は何も答えない。それで乃木は今度は英語で直方に同じことを聞いた。
「多分、そんなことはないね。まず向うも確実に、財宝が出たと確認してからでない限りは、決して攻めてこない。これまでも、私の解商会としては辺主席に相当な保護税を払ってきている。我々の解一族の交易用トラックは、彼ら親衛隊馬賊の攻撃の対象から外されてきているはずだ。もし攻めてくるとしたら、これから我々が長い間払う保護税をフイにして我々一族を敵に回しても、充分に余りあるほどの財宝が得られると分ったときだけだ」
岩崎が直方に聞いた。
「その財宝がどのくらいの量があるかが、地平線の向うにいる親衛隊にはどうして分るのかね」
「そこの……」
と片手で、直方は、自分のすぐ隣りに、坐らされているタチアナを小づいた。彼女だけは、昨日から一滴の水も、一口の食べ物もあたえられず、腰の痛みも何の手当てもされずにほっとかれて乗せられている。押されて体が少しかたむいた。
しかし声もあげない。スパイは裁判なしに即銃殺と決っているのであるから、まだ生きているだけでありがたいと思わなくてはならない。しかしこれから先の運命は分らない。
「……女がもうしゃべっていますよ」
釈放されて祖国へ返されれば、そちらの方がもっと死は確実だ。できるだけ、この潜入して逮捕された方の国の中で、みなの役にたつようなことをして、気に入られて、その生命を少しでも永らえるようにしなくてはならない。
捕われの身で、何を言われても、どんなに手荒に扱われても仕方がないと覚悟している。
「……タチアナのようなスパイが、まだ我々の隊にも必ず何人かいる。父があのホータン郊外のナイフの町から連れてきた二十人の中に、ずっと親衛隊と連絡している者があるかも知れないし、或いは二台のミニバスの更に後ろにいる七台の大型トラックに潜んでいる人間の中にいるかもしれないね。七台のトラックの幌の中には、今日は荷物なんか載っていないのです。中に、政府親衛隊よりはずっと優秀な武器を持っている、勇敢な戦闘員が、三十人ずつ、二百人以上乗っています。できるだけ、彼らには姿を現わさせないつもりでいるけど、時によっては、いきなり幌から二百の銃口を突き出して、一斉にあの騎馬の連中を襲う。馬でこの凸凹の多いゴビを走り回るのと、荒地用の頑丈なタイヤとボディがついたトラックで走り回るのとでは、既に戦いの結果は明らかだね」
それで乃木はほっとした。他の三人の刑事もいくら殺人課の猛者でも、これまで本当の戦闘というものを体験したことのある者は一人もいない。日本は昭和二十年の敗戦以後は、四十三年間全く戦争をしたことのない、世界でも珍らしい平和国家になった。それはまことにお目出たいことでその間日本の若者は軍隊に取られて上級兵にビンタを張られたり、戦場で怖ろしい敵の弾丸の下をくぐったりする、哀《かな》しく辛い経験をする必要がなかった。
かつてその経験をした人は、最低の年齢でも六十三歳になっており、もう十年か十五年したら殆どこの世にいなくなってしまう。
岩崎以下三人の刑事は血なまぐさい殺人現場は沢山知っていても、人が現実に武器で殺し合う、戦場については全く知らない。自分が参加するとなると、さすがに天才警視正もいささか心細かったが、どうやら、その事態だけは、免れそうだ。
やがて、頂上の丸い塔がみるみる近くなってきた。初めはもっとちゃんとした石や木で作られた遺跡かと思っていたのでなかなか見つからなかったが、近づくにつれて、それが唯単に土でできている塔だと分った。しかしいくら雨の殆ど降らない国だといっても、単に土を練っただけでは、十六メートルもの高さは築き上げられるはずはない。表面は風化して土になっていても、そのもとは多分、煉瓦か何かでできていて、昔はちゃんと四角なり六角なりの形をした塔だったのだろう。その後何千年の長い歳月で周囲が風化して、丸くおだやかな形になり、土が表面に出てきて、遠くから見たらあたり一面の、土《ゴ》砂|漠《ビ》の起伏と色や形があまり変らず、特別に目立たなくなったのだ。しかし近づくとさすがに十六メートルの高さは良く目立った。
しかもその塔がある所があたりに比べるとかなり高い丘になっている。
車はそこへ上っていく、塔の下に並んで止まった。
十人ばかりの男が待っていた。
そしてその丘の平らな土地の向うに、二台の軽飛行機が止まっているのが見えた。この十人は、はるかな、どこか遠くの方から、その飛行機でやってきたのが分った。
そこへ並んで待っていた男たちの殆どが腰にバンドを巻きピストルを下げている。
しかも首からは、たしかにチェコ製と思われる、型の小さな性能のよさそうな、サブ・マシンガンを下げていた。
最初の一分で二百発が飛び出す奴だ。値も、相当するらしい。金持ちの家の用心棒か、荒い金儲けをする、ギャングでもなければ簡単には手に入らないほど、ばか高いものと聞いたことがある。
中心に二人だけ、まるで武装していない、男がいた。一人は七十歳近くらしいが、体は赤黒く陽焼けして、精悍な顔付きをしている上に、服装も、戦闘用のジャンパーに、丈夫な作業ズボンだが、しかし仕立てやボタン、装身具などに、たっぷり金がかけてあるのが、よく分る高級なものであった。
車から降りてきた解斜方を見つけて
「おう、斜方、我が娘春蘭は元気かね」
と聞いた。
お互いにしっかり肩を抱き合う。これで岩崎はその男が、タイの奥地、シャン州のメエサロンを本拠地に、タイ、ビルマ、ラオスの三国の国境の山岳地帯にまたがる秘境で、世界中の阿片の八割を供給しているといわれている、麻薬王カンサーその人だと分った。
直方もその男のそばに行き、父の斜方の抱擁が終ると、すぐ代って、この祖父を抱擁した。
カンサーは、直方が可愛くて仕方がないという表情で愛孫をしっかり抱きしめた。
そして三人は抱き合いながら親しそうに何か話し出した。
2[#「2」はゴシック体]
直方に連れられて、カンサー自らが、岩崎の前へやってきた。意外なことに、かなり達者な日本語を使った。
「あなたが、日本の総理大臣閣下からのお使いですか」
「はい。東京警視庁の岩崎|白昼夢《さだむ》と申します。総理への手紙はここに持っています」
岩崎は背広の内ポケットから、総理が敦煌で受けとり、彼に見せてくれた手紙を、取り出そうとした。カンサーの一人娘春蘭が父に命ぜられて出した手紙だ。カンサーはそれを押し止めるようにしていった。
「いや結構です。日本の総理から中国の首相への依頼があって、正式に入ってきた人でなくては、ここへは入れないはずです。ともかく、ここは公安関係の監視がきびしい国ですから。大体のことはメリー・王から聞いて存じておりました」
とそう、メリー・王の方を指さしてから、別に岩崎の持っている書類を見ようともせずに信用してくれた。
「それに岩崎さん、あなたの日本語は、本当の日本語です。私、若いとき、大勢の日本人と一緒に仕事をして、沢山の日本語を聞いていますので、日本人以外の、満洲人、韓国人のしゃべった日本語がすぐ分ります。あなたは間違いなく日本から来た方だ……」
そして更にカンサーはまるで懐しい物でも見るかのように、岩崎のそばでその顔を見、更に体の周りをぐるぐると回るようにして見ていた。
それからしみじみと感心したようにいった。
「だんだん、日本語が思い出されて話が楽になってきます。何しろ一九四五年に日本が負けて以来、殆ど使っていないのですからね。それがこうして急に楽に話せるようになってきました。それと一緒に、あなたを見ていると、ある人が思い出されてきました」
カンサーは何か遠い昔を思い出すような口調になってきた。
「満洲国の天皇は、いや正確には皇帝というべきかな。ただ家柄が清朝の血統の正統の継承者というだけで、遊ぶことが好きなだけの、はっきりいえば全くの無能なプレイボーイでした。こういう遊び人の常で、女も愛すれば、男も抱くという、どうにも矯正しようもない変態性欲者でもありました。当然、新生国家の国務を処理する能力はゼロにひとしかったのです。勿論それは、満洲国家を実際に作り上げた日本国政府や、満洲に派遣された日本の軍部の総称である関東軍の司令官も、ちゃんと計算ずみのことでした。私はそのときはまだ十六歳で、満洲国軍官学校に入学したばかりですが、それでも皇帝がまるっきり、傀儡《かいらい》であることはよく承知していました」
だんだん言葉を思い出してくると共にカンサーは、日本語をしゃべること自体が楽しくて仕方がなくなってきたように見えた。
「国務総理には、もと馬賊出身の、一見人物だけは茫洋《ぼうよう》として大きそうに見える人がおりましたが、ただ誰が見てもお飾りとしてしか役にたたないことは明らかでした。そしてその人の下に、当時の日本の官僚の中では、一番将来が嘱目されていた男をつけました。四十歳にならない若さでありながら、既に各省の高級役人の間に睨みのきいている、大物でした。新しい国家で、思いきり政治の腕を揮《ふる》わせるためです。名目上の地位は国務次官ですが、実際上は、この人が満洲国の政治の独裁者でした。浜大介さんといいます」
浜大介は戦後の日本でも、戦犯を解除されると、忽《たちま》ち政界に復帰し、総理になった。大変に長命してつい先年亡くなったばかりだが、在任中から、先年亡くなるまで、政界では大物として、睨みをきかしていたわりには、国民一般の人気は殆どなかった。
最近その人の亡くなった日、後に汚職で摘発される政治好きの文部次官が、次官通達で、全国の小中学校に半旗を掲げて追悼せよという指示を出して、世論から袋叩きにあった。むしろ大部分の国民は、この人を嫌っているといってもよかった。
しかし実はこの浜大介が本当はどんなにやり手で、しかもどんなに偉大な人物であったかを、岩崎警視正は、今度の旅の出がけに武村総理から直接に聞いている。政治家同士の人物評は、一般人のものと、その尺度が違うから、必ずしも、そのまままっすぐ聞くわけにいかないが、このカンサーが浜大介をどう思っているかは興味があった。彼は何度も岩崎の顔や姿を見ながらいう。
「私はたった一回だけ浜閣下を見たことがあります。私はまだなりたての満洲国軍の少尉でした。しかし熱河省へ視察に来られた閣下は私のすぐ前を通られました。そのとき、若い私の体中にしびれるような一種の戦慄《せんりつ》が走りました。周りの人間を威圧する迫力です。その後しばらく私は、そのとき感じた一種のしびれから抜け出すことはできませんでした。その人を思い出したのです」
今度は岩崎がカンサーにいった。
「……あなたにはそれがありますよ」
「いやそれはあんたの買いかぶりです。むしろ若いあなたにそれがあるのです。私にあるものは、多少の財力によって貯えられた武力によるおごりだけです。世界中の誰も、どの機関も怖くないという自信だけです。浜閣下のものは私のとは違う。生れつきの人間的な迫力でした。ナポレオンも、ヒットラーも、スターリンも、きっとそんなものを持っていたのでしょう。その後私は四十年間、浜閣下以来、そういう人物を見たことはありません。しかしここへ来て、あんたを見たとき初めてその怖れを再び感じました。ただしあんたの体から発散されているものは、浜閣下の体から出ているものとは少し違う。閣下のは、やがて日本も満洲も自分の意のままにしたいという強烈な権力欲でした。しかしあんたのものはそれと違って、この世の悪は許さじという、強烈な正義感です。さっきご自分では単に総理のお使いと申しておられたようだが、私には分ります。あんたは行政関係の人ではない。長く司法、警察関係に従事して、世の正義の実現のために働いてこられた方に違いありません」
さすがに、自分一代、独力で国家を築き、世界中から国際的犯罪者と名ざされながら、断固として頑張っている大物だけある。人を見る目は鋭い。
もし岩崎が、殺人係でなく、麻薬を扱う保安部にでもいたら、いずれ生命を賭《か》けての戦いが、二人の間にくり拡げられるのは確実だ。今のところ、そういうことがないから話していられる。
「いや、貴下の印象があまりに強烈でしたから、つい無駄な話をしてすみませんでした。私には、もっと沢山お伝えしなくてはならないことがあったし、やらなければならないこともあったのです」
そういうと、自分の隣りにいた老人を紹介した。
「特に総理にお頼みしたのは、この老人のことです。この老人を日本へ帰してやりたいのです。もう三十年以上もずっと国境地帯の山岳の農家の中に監禁されていました。この人は全く自分で自分が誰か分らなくなっています。実は昭和の三十年代の中ごろ、突然、ラオスで行方不明になったある政治家なのです」
他の刑事たちはそういわれて、改めてその老人を見たが、全く見当がつかない。
殆どが、そのころは生れていなかった。僅《わず》かに岩崎だけが、信州の田舎で小学校に入ったばかりだが、小学生では、いかに後の天才警視正でも、まだ世の中のことは分らない。武村総理から話をきいていたから誰か分っただけだ。
「この人は、当人も自分の名を忘れてしまって、田舎の親切な農民の家で、一種の虚脱状態の精神《プオー》異常者《ヤツト》として暮していました。メオ族の言葉で、まぁー夢遊病者とか、魂のない男とかいう意味です。最近たまたまラオスとの国境の山岳地帯で完全に記憶を喪失した痴呆《ちほう》状態で、さまよっているところをメオ族の農民に発見されたのですが、そのときでももう相当な年でありました。だから行方不明になったときが仮に六十歳としても、もう九十歳前後です。ずっと自分というものを失っているので、今、何歳かは分らないのです」
岩崎はうなずいた。カンサーがぼやかして話しているのはもし津当人であったなら、満洲に於ても、中国に於ても、さまざまの弾圧や、虐殺にすべて関係している主犯として決して出国を許さないと分っているからだろう。
この老人の名が関係者に洩れたら、どの国を経由したところで、無事に日本に帰国することはできない。
「しかしどうして記憶喪失の状態になってしまったんですか」
カンサーは答えた。
「村の人でもこの爺《じい》さんが転がりこんできたときの状態を覚えている人はいません。ただいくらか言い伝えが残っていました。この爺さんが、まるで家畜のように飼い殺しにされて、山の奥の、誰も知らないところに収容されているということを聞いて、私がすぐに救い出しに行ったとき、そのかなりおぼろ気な記憶による言い伝えをききました。それによるとその村まで入ってきたイギリスの特務機関員に、一人の旅行中の僧侶がいきなり捕まったのです。普通そのあたりの国では僧を捕まえたり、殺したりしないことになっていました。神聖な存在でしたから。その僧侶は荷物を取り上げられ、指紋や、頭の周りの長さを計られると、すぐに村の外れにひきずり出されて、銃の前に立たされました。文句なしに銃殺にされそうになったとき、突然どういうわけか、僧は笑い出したり泣き出したり、そして大声で唱いながら踊ったりしだしたのです。呆《あき》れてイギリス人がそばへよると、黄色い僧衣の股《また》に回した部分は、突然の糞尿《ふんによう》にまみれて、異臭を発していますし、瞳は坐ったまま動かなくなってしまっていました。誰が見ても完全に発狂しているのです。決してニセ気違いではなかったのです。満洲のノモンハン事件では、味方の武器弾薬不足を一切棚に上げ、戦いに負けた部隊の将軍及び将校の全員に、ピストルによる自決を命じ、捕虜になってからやがて数カ月して送り返されてきた兵、下士官、将校の全員を原隊へ到着以前の、野原で味方の日本兵の銃で銃殺してしまった男です。その軍歴の殆どを、冷酷な殺人の血で汚した男が、いざ、自分が、イギリスの特務機関の工作員の銃の前に立ったときは、恐怖で排泄《はいせつ》物まみれになりながら発狂してしまっていたのです。あまりのことに、イギリスの特務機関員も呆れて、もしかして人違いかと思ったり、人違いでないとしても本当に気が違ってしまった、無力な老人を今さら殺しても仕方がないと思ったのか、死刑をやめにして、ただ充分に脅かすために、腰が抜けて動けなくなった男の体の周りに、すれすれに弾丸をまきちらしてから去ったそうです。そのときは自分の踊りの伴奏をしてくれている太鼓の音に浮れているかのように手だけ動かしていたそうです」
結局|糞《くそ》まみれの老人をおきっ放しにして、どこかへ行ってしまい処刑はされなかった。そして山奥の村のできごととして、旅行者の行方不明事件は、年月の経過とともに忘れられるともなく、忘れられてしまった。祖国日本では、大体その大物が、いつどこで死んだかも全く分らないままに、ほんのいっとき、中ぐらいのニュースとして伝えられただけで、やはりすぐ忘れられてしまった。旅行へ出るまでは彼は政治家として国会議員の職にあったが、それでももうそのころは、かつて自国民も、占領地区の他国民にも、生殺与奪の権力を振った、戦争中の参謀将校時代の威勢は取り戻せず、殆ど鳴かず飛ばずの存在であった。もともと権力志向が強く、常に自分が中心で世の中が動いていなくては気がすまない男であったから、また何か大きなことをやらかして、日本中をあっといわせようと考えたらしい。かつて自分が専制君主に近い暴力を振った、東南アジアの占領地区にお供もつけずに一人で入った。かつて自分の一声で、ひれ伏したアジアの国民だ。日本人ほど学問のない連中だから、精神的なものは少しも進歩していないのだろうという甘い彼独得の錯覚があって、もし自分が行けば、かつて怖れに慴伏《しようふく》した原住民たちが、再びひれ伏し、まるで何年振りかに帰ってきた救世主でも迎えるかのように、迎えてくれると思いこんだのではなかったか。
誰も反抗する者の居なかった時代の軍人は、それが自分の力でなく、背後にある軍刀と小銃の力であるとは思いもしなかった。
その自信がラオス、タイ、ビルマの三国の国境の山岳地帯の秘境で、人に知られず銃殺されそうになった危機に陥らせたのだ。
「そうか。この人でしたか。でも何か証拠がありますか」
と聞いた。カンサーが答えた。
「その上衣は三十何年か前に捕まえられたときに、僧衣の下に着ていた服です。もとは軍服だったそうです。いざというとき、黄色い僧衣を脱ぎ捨てて、その服を見せれば、椰子《やし》の木の下の住民たちは、恐れ入って、ヘーいとひれ伏すと考えていたらしい。そうはいかないで、イギリスの工作員に頭の大きを調べられているときに僧衣の下に着込んでいるのが見つかって、逆に逃れられない証拠となった物です。その後、彼をひきとった村の人が時にはそれを脱がせて、何か新しいこの土地の農衣に替えさせようとするのですが、絶対脱がなかったそうです。魂はもうどこかへ飛んで行って何も分らないとしても、この上衣だけは彼には自分の存在そのものだと分るらしいのです。三十年、着っ放し、夜も着たまま眠るそうです。時々あまり汚れると、自分で川で洗濯したのですが、そのときも乾くまでそばに坐って離れなかったといいます」
そういわれてみると、それはたしか昔は日本の軍服ではなかったのかと思わせるものがある。しかし今はもう形も崩れ、色もあせ、よれよれになっている。とてももとは軍服とは思えなかった。
「私が両手を押えていますから、上衣のボタンを外して、内側を見てください」
そういってカンサーが、後ろから老人の両腕を押えた。岩崎は上衣のボタンを外そうとした。老人は、『うううっ』と呻《うめ》き、両手でそれを拒否しようとする。
かなり力を出して抵抗しようとするが、何しろ、もう八十を越して、九十の方に近い老人だ。それほどの力が出るわけではない。
カンサーのがっしりした手に押えられて、両腕は全く動かない。
岩崎警視正はゆっくり、胸のボタンを外して上衣の裏をのぞきこんだ。カンサーが、長々と上衣の説明をした理由が分った。旧日本軍の軍服の裏にあった、『注記』と称する縫取りの場所があり、そこに糸で名をかがった痕《あと》もある。今はかすれたり、薄れたりして判読はできないが、辛うじて分るのは、この老人が、サンズイのついた一字だけの姓の持主であったことだ。戦時中の少壮将校で、戦後の政治家であることは、これでほぼ間違いがない。
「分りました」
再びボタンをかけてやり、老人に対して旧軍隊風の敬礼をした。
そして二人は初めて正面からお互いにしっかり目を合せた。
かすかにゆらぐものが老人の目にあった。
岩崎警視正はこのときに、すべてを悟った。
岩崎はどうあろうと、四人の部下は日本語が分る。それにここに集っている者の中にも何人、ソ連や中国北京政府公安関係者がいるかもしれない。
当人を他人の前で正面から馬鹿にして気違い扱いするのが、一番ニセ気違いの芝居を成功させやすい。
カンサーと、この稀代の秀才だった元軍人が、考えに考えた狂言であったのだろう。ここではみなの手前も欺《だま》されてやるのが、礼儀であったろう。もう一度思いをこめて敬礼した。
『すべて分っています。でも私はお別れするまで何も言いませんよ。安心して気違いのまねをしていてください』
これはまた、岩崎は目だけで語った。
腕を離されて自由になった老人は、最初、珍らしいものでも見るようにびっくりしていたが、やがて何かの思い出が、この老人の脳をゆっくりと刺激して軍人時代を思い出したかのように、はっと踵《かかと》を合せると、なかなか形のいい答礼を返した。
カンサーがいった。
「この方をここから、一緒に連れ出していただけますか」
「勿論結構です」
「多分そのまま生きたとしても、もうそう何年も寿命はないでしょう。亡くなる前に祖国で家族に囲まれて、平和な最期を送らせてやりたいと思って、私はここまで連れて参りました。これは私が武村総理に特にお願いしたことなのです」
「事情は分りました。ご老人が望むなら」
「当然、預っていた財宝もここにあり、途中までは直方もお供させますから一度、ウルムチの新疆省政府のある所まで連れて行ってください。そこで申請すれば、この老人の日本行き旅券が出ると思います」
総理が出発に際して、はっきり具体的に用件を指示しなかった、様々な理由が分った。いずれにしても、そのどれ一つでも、国民の間に知られたらまずいことばかりだ。
カンサーの話はかなり長くなったが、周りにいる人は、無駄話一つせず、じっと立って聞いている。四方が地平線の広い砂漠。その地平の先に、雲をへだてて、ヒマラヤや、崑崙、天山の山脈が、かすかな蜃気楼《しんきろう》のように見える。しかしそれはそういわれれば、空気の中に、そんなものがあるような気がするだけであまりにも遠すぎて、はっきりとは確認できない。
カンサーも首から双眼鏡をぶら下げている。老人のことを話し終えるといよいよ財宝を引き渡す時間になったと思ったらしい。ゆっくりと地平を眺め回した。
「やっぱりいますな。もし財宝を持ち出してきたとき、いきなり襲いかかられると厄介ですね」
さっきゴマ粒のように、騎馬の人間が見えた方を指さしていった。
カンサーは、娘婿の解斜方を呼んだ。ナイフ部落の大ボスはすぐ、カンサーの前へ来た。
二人はここの新疆省の訛《なま》りの多い中国語で話しだしたが、岩崎には勿論分る。土地の言葉だ。
「おまえはここにどのくらいの武力を持ってきている」
解は七台のトラックに、三十人ずつの若い訓練された兵が、強力なサブ・マシンガンを持って待機していると答えた。
こうして長時間停っていても幌の中から物音一つ聞こえず、一人も降りてきたりしないのは、よく訓練されている証拠だ。
「そうか」
とカンサーは、満足そうに答えた。
「もし、本当に襲われたら、その兵を使わせてもらうよ。しかし、これは私の個人的な用だともいえる。そういう用に、今、会社のトラックの兵を使うのは本当は少しまずい。おまえや、息子の直方も、今後、ここで商売を続けるためには、あまり辺主席の神経を逆撫《さかな》でしないようにした方がいいだろう。といって、あの地平線の連中に勝手なことをさせるわけにはいかない。この仕事は一つ私に任せてくれ」
いかにも親父らしく、慈愛にみちた声でいうと、義理の息子の斜方の肩を叩いた。四十をすぎた一族の大ボスも、義父の偉大なカンサーの前では、全く素直な婿であった。
岩崎に向い、カンサーはまた日本語に戻っていった。
「最初に奴らを追い散らして近づかないようにしておいてから、ゆっくり、ご案内します」
それから、自分のそばにいる若い男に何か命令した。声が小さいから、岩崎の耳にもよく聞こえなかったが、それはどうも、ビルマとラオスの言葉の交った、シアン族の方言らしく、さすがの岩崎でもはっきりとは分らなかった。『殺さないように』『逃げたら追うな』、多分そんな言葉だと見当つけた。
男は、軍隊式の敬礼をぱっとカンサーに返すと、飛行機の所まで駈《か》け出して行った。
飛行機にとび乗る。あたりは、土と石くれの砂漠だ。多少は起伏はあるが、この遺跡のある丘の上は、飛行機の発着には差し支えないぐらいには平らになっている。一機の飛行機が、ほんの百メートルも滑走したかと思うとふわりと飛び上った。さっきゴマ粒のような黒い点が見えた地平線に向って飛んで行く。
その間にメリーと乃木が、両側からなだめすかすようにして、老人を自分らが乗ってきたランドクルーザーに乗せる。
周りにいる、解《シヤー》の会社の社員に、座席に坐っている老人の見張りを頼んで戻ってきた。
飛行機は地平線の方へ飛んで行き、小さな爆弾を落としたらしいのが分った。二、三発続けて、白い爆煙が上った。
直方は肉眼で、逃げ惑う騎馬の賊たちの姿が見える。日本から来た刑事さんたちには、いくら目がよくても、ゴマ粒のような黒い点が見えるばかりだ。それも見えない者さえいる。
岩崎や、メリー・王は、双眼鏡でじっくりと見ている。
飛行機の爆音で早くも逃げ腰になっているところへ、実際に爆弾が落ちてきて、あちこちに、火柱をたてると、馬はもう乗り手がどんなに手綱をひきしめようということをきかなくなった。必死に逃げ出す。
横一列で、じっとこちらを伺っていた、辺主席の私設馬賊たちは、忽ち四方八方に散らばってしまった。それに止めを刺すように、彼らのすぐ後方を、飛行機の機銃で追い討ちする。決して人間を狙い討ちにしているわけでなく、ただ馬の後ろを脅しの弾丸を射ちこんでいるだけだが、恐怖のあまり前足を上げて立ち上ったり、つんのめって逆立ちになったりして、乗り手を振り落し、狂ったように駈け出す。
乗り手は、転がり落ちた地面から起き上り、夢中になって自分の馬を追い駈けて行く。
プスプスと地面に射ちこむ弾丸の音が、双眼鏡で見ている者たちには聞こえるようだ。
忽ちのうちに、馬賊たちの姿は見えなくなってしまった。
それでもまだしばらくの間は、彼らが勢いをたて直して、やって来ないように、飛行機はぐるぐるとゆっくり周りを飛んでいる。
カンサーがいった。
「いよいよ、私からのお返し物を渡すときが参りました。平田戒煙局長から預からせていただいたときから、もう四十三年たちます。本来なら何十倍もにしてお返ししなくてはならないのですが、それではとても運べませんし、私どもとしても実現不能のことですので、一応、ほぼ二倍の分量を返却の目安にさせていただきました。既に半年前から、ここへ移しておき、お出でをお待ちしておりました」
そういうと、自分の部下の何人かにカンサーは、手で合図をした。
四人ばかりの男が、とび出してきて、十六メートルの土の塔の下に行く。そこの一見何もない土の表層を、塔の基部から、スコップの柄を何本もつぎ足すようにして、距離を計ると、地面に四角い線を描いた。場所が決まるとスコップで土を薄く削る。石の扉が出てきた。
3[#「3」はゴシック体]
石の扉には鉄の環《わ》が埋めこみになっている。社員の一人が、それに手を差し添え、軽々と持ち上げた。
だが石の厚さは五センチ以上。一メートル二十センチ幅の真四角だから、まともな力ではとても持ち上る重量ではない。
それを軽く片手で上げて、横へずらせた。
階段がある。岩崎たちにいった。
「いやただの穴があるきりです。わざわざ、中へ入っていただくほどのことはありません。私たちが運んできます」
六人の男が、石段を下りて中へ入って行った。
六人ずつで、三回、三つの木箱を運び上げてきた。
通常、茶や、羊毛を、梱包《こんぽう》して外国へ送るのと同じように、厳重に釘付けされた木の箱に入っている。
一番最初の木箱が一番大きく一メートル四方はあったが、次の五十センチ四方、容積にしては約四分の一の物が、一番重そうであった。
最後の木箱は、一番小さく、二十センチに十センチの細長い箱でこれはあまり重くなさそうだが、やはり六人が全員かかって、重そうに運び上げてきた。
カンサーはいった。
「この中には、十キロの金塊が、百本、約一トン入っています」
六人で運び上げたとしたとすると、一人二百キロ近くを持ち上げたことになる。
オリンピックの重量挙げの選手でもちょっと及ばない力だ。
「多分二番目の包みも重さは同じくらいでしょう。しかしもし、金銭的価値でいえば、二番目の箱の価値は一番目の箱とは比較にならないほど大きいでしょう。この中は日本国民や、在満の日本人家庭から供出させたダイヤモンド、そしてアメリカのバイヤーが持ってきたドルで買い集めた、満洲や、北支、中支の、財閥から買い上げたダイヤ、サファイヤ、ルビー類が入っていました。もし最後に日本が一国だけ孤立してどうしても中立国から、弾薬や銃器、そして国民を飢えさせないためのパンや米、肉を買う必要が出たときには、もはや紙に印刷された円貨などは、何の役にもたたなくなるのです。といって文明国がまさか直接阿片を持っていって、物を買うわけにはいかないのでこうして財宝としておいたのです。もしこの金とダイヤを使うつもりなら、日本の出先軍機関である関東軍は、あの満洲で、四方をソ連と中国の軍に囲まれて孤立化させられても、二年ぐらいは戦って行けるぐらいの資金量があったのです。しかし本家本元の日本が無条件降伏し、出先関東軍の上層部が、戦う意志を捨てて先を争って本国へ逃げ出してしまっては、関東軍全員は、全く士気を失って、統帥系統もバラバラに、てんでに敗走にかかるだけでした。平田さんとしては、これだけの物……そのころ熱河省の戒煙局内の特別の地下金庫に貯えられた、金やダイヤは、丁度これの半分ぐらいでしたが……をとても担いで持って行けるわけはない重さです。貨車を一台無理に仕立てて運ばせても途中でもしそんな噂が洩れたら、住民や避難民が暴徒と化し、掠奪《りやくだつ》に奔《はし》ることは確実です。そんな目に合って、どこかへバラバラになってしまうぐらいならということで、私に全部預けてくれたのです。条件は何もありませんでした。強いていえば、今まで増産に協力してくれたからということでしょう」
たしかにこんな重いもの、今にも敵軍が押しよせて、全員が何一つ持たずに敗走しなければならないときには、実際どうしようもなかったであろう。
「孫の直方がトラックを一台と護衛兵を十名おつけしてウルムチまで送ると申してます。護衛兵の指揮と、途中の宿舎の交渉、それにさまざまの障害があると思いますので、メリー・王にもついて行ってもらいます。兵士たちは、社長の解直方と、その父で私の義理の息子である、解斜方の、それぞれの部下で、ふだんは忠実な商人です。何かのときに戦わせるのには、やはり、解一族の者がいた方がいいでしょう」
岩崎警視正は質問した。
「私たちには、これから敵がいるのですか」
急にカンサーは、自分の言葉をタイの言葉に代えた。ただ漫然と聞いている人には、咄嵯《とつさ》に言葉が代ったかどうかは分らない感じだ。言葉の流れもイントネーションもそのまま自然につながっている。カンサーの言葉が、ごく自然の中に、日本語からタイ語へ代ったのに気がついたのは、最初は岩崎警視正一人しかいなかった。勿論岩崎は顔色一つ変えず、そのまま相手の言葉を聞きその言葉で応答した。多分そばにいるメリー・王を意識してのこととすぐ分った。
「最初に考えられるのは、当カシュガル省主席の辺《ピエン》の手下でしょう。カシュガル省の領域は、この天山南路を南へ二千三百キロ、コルラの町の外れまでです。その町を通りすぎると、直接、天山山脈へ入る、天山公路という、山岳縦断のウルムチ市へ抜けるバイパスがあります。古来からの重要な貿易用の道路ですが、ここへ入れば、もうウルムチ省の管轄であり、ウルムチ省は中国政府には忠実ですから、我々の財宝到着を待って、ただちにそれを中国の北京まで無事航空機で届けるよう、手配するでしょう」
「なぜこのカシュガルで、この荷物を航空機に乗せられないのですか」
「辺主席が、カシュガル省の自分の領域の飛行場は、すべて一昨日から一週間閉鎖してしまったのです。それでどこにも着陸させるわけには行かないのです」
「住民がよく承知しましたね」
「どの地域も、この時期、突発的な暴風が起り、激しい砂嵐《すなあらし》が巻き起る怖れがあります。するとプロペラエンジンだろうと、ジェットエンジンだろうと、多量の砂を吸いこんで、飛行機は使用不能になってしまうし、着陸で地上に近づいたとたん、大量の砂を吸いこんでたらそのまま墜落するおそれさえあるというのです。……とまぁー理屈はもっともですがね。そんなことは、辺主席が無理につけた理由なのです。この金や、ダイヤを、自分の支配する領域から出したくない一心の策略です。飛行機が動かないなら、この財宝はともかく、砂漠の中を突っきってウルムチまで、車で送るだけです。走り続けに走っても丸六日はかかる、この砂漠の道を、トラックで運ばなければなりません。その間に彼らはまぁー奪いとることもできると計算したのでしょう」
「そうですか」
「難しいのはもう一人の女のことです」
「タチアナのことですね」
岩崎はいった。
「彼女には飯も喰わせず、水も飲ませず、やっと生きてるだけにしておいてあります。そうしておけば、別に連れていっても大丈夫と思いますが」
「いや、もし私がこれからウルムチまでの困難な旅を続ける指揮官であるなら、車を出発させる前に、あの娘を殺しておきます。さっき、双眼鏡で見たとき、自動車の運転席の真中にぐったりしていましたが本当のところは分りません。あれはKGBでも筋金入りの女です。いつ反抗するか分らないのです。毒蛇を餌付《えづ》けに成功して、もう従順だと思って油断してガップリやられた人は多いのです。KGBの工作員は、野獣や、蛇と同じで、本質的な部分では決して人間には馴れないのです」
「ご忠告有難く承りました」
そう岩崎は答えると、カンサーに片手を差し出して、その手をしっかり握った。カンサーも急に岩崎に親しみをみせ、名残り惜しそうな顔をした。
「孫の直方をくれぐれもよろしく頼みます」
しっかりとまた握手した。
財宝を積みこんだトラックと、直方が運転するランドクルーザーは、再びカシュガルの町の方へ戻り始めた。
ランドクルーザーの前席は、直方、KGBスパイのタチアナ、既に自分の記憶を持っていない元日本の政治家の老人に、岩崎の四人。
後ろの席に、メリー・王と、四人の刑事、乃木、原田、花輪、中村の五人が坐った。後ろのトラックには、十人の護衛隊と、三箱の財宝が積まれている。
それを守るようにして、他のトラックが、周りを囲み、カシュガルヘ一列になって進む。
飛行機はしばらく、その上を飛んで、周囲からの攻撃を警戒してくれていたし、カンサーは、十六メートルの遺跡の塔の下で、いつまでも手を振りつつ、その隊列を見送っていた。
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[#見出し] 第五章 天山南路を疾《はし》る
昭和六十三年九月のこと
五月天山雪 五月にも天山では雪が降る
無花祇有寒 花などなくて身体が冷える
笛中聞折柳 雪の重さで枝が折れて
春色未曾看 春の色もまたどこにも見えない
『天山南路について』
天山南路 TIEN―SHAN―NANRU
中央アジアのタクラマカン砂漠北辺を、パミール高原から東に向って走り、モンゴール国境まで達する、東西二千五百キロメートルの大山脈である。北はジュンガル盆地に達している。最高峰はポペーダ峯で七千四百三十九メートルもあるが、他に中国では、古来から白山と呼ばれて、信仰の対象にもされていた、ハン山六千三百メートルの方が有名である。その山を中心に、前二世紀頃(秦《しん》の始皇帝の頃)から、このあたりは天山と呼ばれるようになった。
天山の麓のオアシスの村落を結ぶ道路は、山の手前の中国領側と、外側現ソ連領の二つのルートがあり、手前が南路、外側が北路と呼ばれている。どちらも、ローマやペルシャに、中国産の絹を運ぶ交易路となっている。近代に至って、これがシルクロードと名がつけられた。
天山の手前の方の路、ウルムチからカラシャールを経て、コルラ、クチャ、アクス、そしてカシュガルにまで至る、二千五百キロの路が、天山南路である。
常に天山に沿って走っている、坦々とした一本道であり、現在は、中国人民政府の、下放政策による青年の労働力で、全線の舗装が完成し、悪路といわれるような所は、ほんの数カ所しかないが、しかしその全線走行は決して楽ではない。
ガソリンの補給、水の補給、食糧の補給、すべてのことが、オアシスを持つ小さな村へ着かなければできない。都市から都市の間は平均五百キロ(ほぼ東京―大阪間)。その間は、村や家や休憩所は勿論無いが、樹木も、鳥も動物もいない、砂と土と石ころだけの砂漠であり、一滴の水も得られないから、車が故障して止まり水がなくなってから、四、五日以内に通りかかる車が無かったら、そこで一同は飢渇による死に襲われる危険が今でも珍らしくないのである。
一旦、トラックやランドクルーザーはハン・ノイ遺跡からカシュガル市へ戻った。解《シヤー》一族が経営する個人賓館で二、三日滞在して旅の準備を整える。そこはカシュガル省最大の、そして現在の、人民中国の、インド、パキスタン、タタール方面からの物資の唯一の輸入取扱商社でもある。市の最大のビルでもあってゆっくり休養し、車庫の奥では武装や通信設備を整え、荷物の梱包もきびしくやり直した。
食糧も水も、ともかく二千五百キロを五日から十日の間で走り抜くことを予定して充分な物を積みこんだ。
出発前に解|斜方《シヤーハン》がごくおだやかな顔で岩崎や直方《ジーハン》にいった。
「今、北京の女公安官をうまく説得して地下の牢に入れてしまいましたよ。そのまま十日も忘れてしまえば別に殺す意志はなかったのですが、きっと干からびていつのまにか自然に死んでいたということになるでしょう」
九月五日の早朝、この重要な任務を持った三台の車は、まだ薄暗いカシュガルの街を出発した。
目標は、天山の北側、そしてはるか、蒙古《もうこ》の国境に近い、ウルムチの町である。およそ二千五百キロ。
しかも、最初のオアシスの街のアクスに着くまでの五百キロは、全くその間に何もない砂漠が続く。
一番最初に、直方の運転する、ランドクルーザーが走る。八人乗りの車に九人が乗っている。
運転手は直方。
直方の隣りはタチアナが坐っている。
カンサーも、解斜方も、この女だけは、地下の牢獄に入れたまま、一月ばかり、水も食物もあたえずにほうっておいて、全くその存在を忘れているうちに、いつか死んでいたという状態が一番賢明な処理の仕方だと、何度か忠告したのだが、指揮官の岩崎はなぜかそれを聞かなかった。
「きっと困難な状態になったら、この女が役にたつときがある。もし役にたたなかったときも、ウルムチヘ着いてから、市政府の役人の手でロシヤのスパイとして処刑してもらってもおそくない」
そういって乗せてしまった。もっとも乗せられた女スパイの身としては、殺されてしまっていた方がずっと楽であったかもしれない。他の人々は、みな食糧は、三食充分に支給され、水も一日、二リットルずつの割当てがある。だが、このタチアナだけは、一日、百グラムの黒パン一枚、丁度、掌《てのひら》ぐらいの大きさの薄い物が支給されるだけだ。
他には、砂糖も油も野菜も何一つ支給されない。乃木や原田や他の者には岩崎から指令が出ている。タチアナに同情して、何か食べ物をやるのは厳禁で、違反者は、たとえ何国人であろうと岩崎の部下の刑事でも三日分の食糧と水だけをあたえられて、砂漠の途中で放置されるとのことだ。
水もタチアナだけは、一日に牛乳瓶一本。
乃木が心配して岩崎に
「大丈夫ですか。途中で死んでしまいませんか」
ときくと、彼はいつもの冷酷な口調で答えた。
「死んだってかまわんさ。あのとき死刑になっていた女だからな。しかしもし本物のKGBのスパイなら、こんなことで死にやしないよ。多分このぐらいの食糧しかなくても三月ぐらいは生きていけるよ。それよりいつ逃げられるか、逆にとびかかられるかそれだけは注意しなさい」
両手も、両肢《りようあし》も、別に縛ってはいない。しかし一つだけ、解直方社長の忠告を聞き、女性の原田と、乃木と、メリー・王との三人でタチアナを別室へ連れて行き、スカートの下の、下着のパンツの裾のふちに、鉄の輪をはめ間を二十センチぐらいの長さの鎖で、両足が自由に動かないように止めてある。鉄の輪は太腿《ふともも》にきっちりはまっているし、間の鎖が長さ二十センチでは、駈け出して逃げるわけにはいかない。
しかしやや長目の民族服のスカートの中なので、そのことは、岩崎と、設置した三人の女としか知らないことだ。外から一見拘束されているようには見えない。
これからの夜の泊りは、ホテルがあるにせよ、野宿にせよ、その鎖に更に長い鎖がつけられて、柱か並木、それがなければ、トラックの車体の一部につながれることになっている。
タチアナの隣りは、もはや、意識があるのかどうか分らない、九十に近い老人だ。しかも、一応、日本を出て行方不明になったときは、国会議員という要職にあった人で、更にその前、太平洋戦争中は、軍の中心部にいて、軍の機構や、占領地の行政を思いきりかき回した大物だという。ただし本当のことは誰も分らない。カンサーからそういわれて、財宝返還の引換条件として、日本へ連れて帰ることを頼まれただけで、本当に彼がそうであることを証明する確実なものは無にひとしい。
そして四人目に岩崎警視正が坐って、その二人を運転席の直方と挟んで見守る恰好になった。
メリー・王は後ろの席に移った。五人だ。
おかげで、中村も、花輪も、乃木を真中にし、両側を女性に挟まれて、坐る形になった。
男ばかりの警察社会にいたら、このような幸運は滅多にやってこないが、二人はこんな生れて初めての経験に却って、緊張してしまっている。
四人分の座席に五人が坐るのだからどうしても体を押しつけあう形になる。女性は自分が押しつける立場になるのだから比較的平気だが、押しつけられる方としては、窮屈な思いをした上に、痴漢呼ばわりをされたらたまらないから、ゆったり坐ることもできない。
こちんこちんに体を硬くして一瞬もリラックスなどはできない。幸運どころか、とんだ災難だ。
ランドクルーザーが、それぞれの思いをのせて、天山南路を走り出した。その後、五十メートルぐらい離れて幌《ほろ》をかけた、十トントラックが続く。
厳重に梱包され、車体に固定された三つの荷物と共に、十人の護衛兵が武器を持って乗っている。高性能のサブ・マシンガンの他に、爆薬や、重機まで積みこんである。
他に食糧、水、生きた羊が一日一頭として十頭積みこんである。これも大事な食糧だ。
こうして一行は、天山南路を丸五日ひたすら走り続けて、九月の十日よりちょっと前に新疆省の首都ウルムチの近くまで無事に着いた。
省都が見える、天山南路の終点の峠にトラックの運転手相手のうどん屋がある。二人のいきなお姐《ねえ》ちゃんが、峠の一軒屋に、大きな鉄鍋を備えて、やきうどんを作って売っているのだ。|干※《かんこう》峠という峠だった。
一行はそこに入る。
既にはるか山の下にウルムチ市が見える。
同じテーブルを囲んだ直方とメリーに岩崎はいった。
「どうやら、私の役目は終ったようだな」
直方がびっくりして
「ウルムチからあの老人を連れて北京までは一緒に行っていただきたいのですが」
「いや、あの老人は、きっとこれから北京でする予定のあなたの仕事に役にたちますよ。それにタチアナもあんなに元気だし……」
このごろはいつのまにか仲間になって、食事もあたえられているタチアナが、元気にメリーや乃木と話をしている。腿の鉄輪や腰縄をつけられていて、今さら逃げても、どこも逃げる所がないと知って、タチアナは従順だ。
「……あの女も、生かして北京へ連れて行きなさい。どうせやるなら、気心の知れた仲間は多いほどいい」
直方は何のことをいっているか分らないという顔をしている。
岩崎はそれにかまわずに、直方とメリーにいった。
「私たちは明日帰ります。お二人は計画が成功するか否かはもう神に任せなさい。でも自分たちのお互いの愛だけは、神任せにしないで一回ごとに自分と相手をたしかめ合って完成させてください」
それから二人に手をさしのべた。
「グッドラック。町へ着いたらすぐ我々五人をあの車で空港まで送ってください。我々はあなた方の計画や財宝については、何も知らなかったし、また何の関係もなかったという立場をずっと貫くつもりです」
メリーと直方が、両方から手をのばしてきた。
大皿に山盛りの焼うどんが、どしんとテーブルにおかれた。
荒っぽく刻まれたキャベツ。拳《こぶし》大の羊肉。そして狐色に焼けたうどんが、おいしそうな匂《にお》いをまき散らしている。
太古以来全く人跡のなかった天山山脈の真中に、公道を通り抜ける運転手を相手にして、女二人だけで店を開いたうどん屋の姐ちゃんの威勢よい声がひびく。
明朝の飛行機に乗れば、この太古の秘境から、多分、夜までには東京へ戻れる。
そう岩崎は部下の四人の刑事に教え、直方と一緒に地酒を一本注文して、この妙な旅の無事終了を祝ったのだった。
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[#見出し] 第六章 北京暴乱
平成元年六月のこと
八月のこと
古人無復洛城東 昔の人はもう都にはいないが
今人還対落花国 今の人だっていられるかどうか
年年歳歳花相似 毎年咲く花はよく似ているが
歳歳年年人不同 去年の学生と今年の学生はちと違う
寄言全盛紅顔子 若いもんがあまり暴れ回ると
応憐半死白頭翁 死に損《ぞこな》いの白髪爺いが騒ぎ出す
『北京について……続』
文教地区は市内の喧噪《けんそう》から隔離するため、近年、市郊外の頤和《いわ》園に至る広大な区画を仕切って、すべて新しく移して建て替えられた。
北京大学、清華大学、師範大学、民族大学、郵電大学などに、それぞれ大学側が要求する思いきり広いスペースを与えて、学究生活に支障ないようにした。
ここまではたしかによかった。人民にも不平はないはずであった。
躍新共産党のスローガンで党指導者のもとに一致団結し、あたえられた仕事をまっしぐらに働く、模範的な国民の姿があった。労働や、低賃金や、すぐこわれてしまう粗末な家庭用品にも、何の不審も抱かなかった。党の中央指導部が政争に明け暮れして、市民生活の向上をまるでほうり出していたことも、人民は長い間気がつかなかった。
ある日、つい最近、祖国が一党独裁により、中央幹部党員とその家族のみが特権階級となり、それがまるで昔の王族と庶民のように身分として固定化し、自国の近代文化や、産業製品が、他の自由国家と比べて、極度に劣っていることに、人民は気がついた。
どこかが変だ。
なぜ自分の国の国民がみなこれだけ一生懸命に働いているのに他国より、文化、生産能力などが三十年以上分ものおくれを取ってしまったのか。
テレビは外国の事情を遠慮なく写し、輸入制限の緩和で外国の優れた製品がどんどん入ってくる。隣りの国の人々はすべて自動車を持っているのに、自分の国では自転車がやっとだと気がついたとき国民は、何となく従ってきた、自国の指導者の能力に対して疑問を持ち出した。
若い学生がまずそれを問題にした。学生の方が書籍、写真、電波などで一般人より広く世界の新しい時代の流れを見ることができたからだ。そしてその原因は、国民の生活に、近代的な人間思想の根幹である『自由』がないことだと気がついた。
自由をあたえよ。
その何とも把《つか》みようのない、丁度、かつての日本の国鉄がやったスト権ストのような、的確な答えの出せない、無いものねだりのスローガンを掲げて、いつのまにか学生が首都北京の中心の天安門広場に集り出したのだ。
この学生たちに対しては、これまで政府は一般の国民の貧しい市民生活を犠牲にしても、最大限の保護をあたえ、経費を注ぎこんできただけに、まさに飼い犬に手を噛まれた口惜《くや》しさを持ったようである。
学費も、日常の生活費も、政府が保証して無料だ。世界一恵まれた学生生活をしているはずなのに、今更、何が自由を寄こせ! だ。党幹部はすべて、大事にして育ててきた我が子に、裏切られたような思いを持った。政府や党の首脳には若いとき貧しくて学校へも行けなかった環境で育って来た者が多い。まして各地で大学へも入れず、軍隊生活をしていた若者たちは、あまりにも我儘《わがまま》すぎる、エリート呆《ぼ》けの大学生たちに向って、恵まれない一般民衆の怒りを代表して立ち上った。その彼らを銃で鎮圧し、死体を戦車で踏みにじるのに、何の内心の抵抗もなかった。
知らない者は、天安門の虐殺と騒ぎたてるが、北京市民及び、一般の中国国民にとっては、自分らの口惜しさを軍が代りに晴らしてくれた胸のすく快挙であった。
いつか一度は、これは国民精神の安定のためにも、起きなければならない事件であった。さてこの暴乱と虐殺は誰が演出したのか?
1[#「1」はゴシック体]
十日間の旅行のことを、元総監や公安部長に岩崎が語り続けているうちにかなりの時間がたってしまったようだ。途中、夕食の時間が来た。
場所は鰻屋《うなぎや》だ。その好意で一部屋にずっと居させてもらっている。店の方でも、座敷の雰囲気で、中では相当に重要な会議が開かれていると思ったらしい。一度大きいポットと茶筒を持ってくると
「夕方まで店の方は一休みしますから、どうぞご自分でお茶を自由に入れてください。晩のお食事の方は、いくら鰻屋でも続けてまた鰻では、あまりにお色気がなさすぎます。もしよろしかったら、こちらでなだ万のお弁当でも見つくろわせていただきます」
といった。
その弁当もすんで、夕方のひととき、サラリーマンたちでいっときこみ合う店の騒ぎもおさまり、やがて夜もふけて板前たちが火を落し、女中さんはお化粧を落し通勤の洋服に替えて、家に帰ってしまった。
おかみだけが仕方なく、やはり化粧を落し、通勤用のワンピースで、灯を消した店内のレジの所に、一人で坐って待っていた。
ビル全体のガードマンが回ってきて点検して、それよりおくれそうな人には、特別に裏の非常口から出られるようにチェックをしにきた少し後にやっと、長い会議が終った。
三人は立ち上った。
「おかみさん、すまなかった。これで失礼する」
土間は既に暗く、客の気配はもう全くなかった。
三人がそれぞれに靴をはいて出かかるのへ、おかみが
「私も一緒に外に出ましょう。もう廊下も暗くなっているし、エレベーターも非常用しか使えないので、私が一緒に行かなかったら、場所も分りません。それに裏の非常口は、私があなた方をうちのお客さんという証明をしなければ出られませんよ」
警察の高級幹部が泥棒と間違われては恰好がつかない。
「どうもすみませんなぁー」
にが笑いしながらも、女主人の先導で、内部の関係者だけが使用する非常用の小型エレベーターで降りた。エレベーターの出口にはちゃんとガードマンが厳しい目付きをして立っていた。男三人だけで出て来たら多分そのまますぐには出られなかったろう。
「すみません。お客さんとついお話がはずんだものですから」
おかみが先に陽気な声をかけてくれたので、ガードマンも安心して
「ああそうですか、どうぞお通りください」
と、比較的簡単に外に出してくれた。
銀座あたりの夜は、新宿や渋谷と違って早い。ましてそこから更に霞ヶ関の官庁街に向っての道は、大体八時が過ぎるころにはまるで、人通りがなくなってしまう。おかみが
「私、地下鉄でお先に」
と、近くの地下街の入口の階段を降りて行ってしまうと、三人は日比谷公園の茂みにそって本庁の方へ向って歩き出した。
これまで暗い公園の中で、キスや抱擁を秘《ひそ》かに楽しんできたらしいアベックが二、三組、少し上気した顔を寄せあって通りすぎる。彼らにとっては、こんな時間に人通りの少ない夜の街を歩く男連れなど、酔っ払いか、ノゾキが趣味の痴漢ぐらいにしか思えない。特にこれまで男の肩にうっとりと頭をよせるようにしていた女性の方が、必ずきーっと鋭い目で、三人を睨《にら》んで通りすぎる。これには三人はまた苦笑したが、すぐ目の前の本庁まで帰るのに、この時間タクシーを捕まえるのは不可能に近いし、もし捕まえたとしても、折角好意を見せて止まってくれた運転手に『馬鹿にするな』とどなりとばされてしまう。
丁度、初夏の気候は夜の散策にも好適である。まだ足の衰える年でもない。すぐに本庁の玄関前に来た。昼に突然出てきたため、ロッカーに荷がおいてある。ただそれだけだ。制服の婦人警官と違う。中へ寄って着替えなくてもいい。
元総監の、今はどこかの公団の理事長は、本庁前の地下鉄入口で、そばにあった公衆電話のボックスを指で示しながら
「ぼくはここで失礼する。公団理事長なんて大して月給をもらえるわけのものではないがね、車だけはふんだんに使えるんでね」
というと中へ入って行った。そこで呼ぶつもりだろう。
二人は一旦本庁の玄関へ入った。玄関の警備に当っていた巡査が、もう退勤時刻をはるかにすぎた夜半になっての高級幹部の帰庁を迎えて、緊張して敬礼した。公安部長室は十四階にある。岩崎の捜一は六階だ。一階の綜合受付へ行き、岩崎警視正にそばで待っているように手で指示すると、部長は十四階の自分の部屋に電話を入れた。秘書が電話の所に待機していて外からの連絡を全部チェックしている。
それがかなりあったらしい。長い間部長は電話を聞いていた。
「ふむ。……そうか……やはり……それで」
聞き耳をたてていると思われないよう、少し離れて、表の方を見ながら岩崎は立っていた。
やがて電話が切られた。
「これから用があるかね。警視正」
部長はきく。
「いえ、ただ家へ帰るだけですが、その前にデスクヘ戻って、私の方の係も外出中何か起らなかったか、調べてみたいのですが」
「引き止めて悪かった。だがそれをここで電話ですませて、格別の処理案件が無かったら、もう少し私に付き合うようにしてくれ。つまりこれが公安の仕事というものだ。日本が存在している限り、心臓の鼓動と同じで二十四時間中監視の目を注いでいなければならない」
「承知しました」
今度は岩崎が捜一へ電話をかけた。
自分の席にかかる。すぐに
「はい、こちら捜一」
刑事の中の首席である、進藤|部長刑事《デカチヨウ》の声がした。
「ああ、デカ長さんかね。岩崎だがね。何かあったかね」
「いや別に今日《きよう》は」
「君は」
「管理官のお帰りがおそいので、戻ってくるまでは、坐っていようと思いまして」
「そりゃーすまなかった。今日はもう何もない。帰っていいよ。……ああ帰る前に私の家へかけて、これからまだ大事な用があるから、おそくなると出先から連絡があったと、うちのかみさんと坊やに伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
「ところで……デカ長」
急に岩崎はきいた。
「何ですか」
「君はまだ飛行機に乗れんのかね。今、北京か、上海へちょいと飛んで行けば、面白いものが見られそうだよ。特に明日から明後日がヤマだ。一生こんな機会はないかもしれない」
「と……とんでもない。とてもとべませんよ……こりゃ別にしゃれていってるわけじゃないですがね……どうか飛行機だけはご勘弁ください。いつでも警視正殿のためには、この生命を捧げる覚悟はできていますが、同じ死ぬのでも、地面に両足をしっかりつけたまま死にたいです」
殺人犯たちからは、鬼よりも怖いといわれた、進藤デカ長は早くも涙の出そうな声で答えた。少し薬がききすぎたか。
「いや、心配するな。デカ長。今のところ何も予定はない。向うから在留邦人がなだれをうって一斉に戻ってくるような危険な状況だ。こんなとき逆にあんな所へ行くなんていったら、外務省や、北京にいる大使館の役人に叱られてしまうよ。じゃあ明日」
「管理官殿、ひどいですよー」
まだ文句をいっているのを、泣き言の途中でさっさと電話を切った。公安部長の方へ向き直りすぐに答えた。
「お待たせしました。私の方は終りました」
「そうか。すまない。管理官が自宅へ予告した通りかなりおそくなりそうだ。実はもう中庭に車が待っている。いつか前総監閣下と君が辿《たど》った道だ」
「大体さっきから分っておりました。陳腐な言い方ですが、歴史はくり返すです」
「そこまで警視正が覚ってくれれば、言い出す私の方は気が楽だ」
庁舎の一階の人の気配のない廊下を抜けて中庭へ出る。黒い大型国産車が、どっしりとした姿で待っている。二人の姿を見ると、制服の運転手がぱっと飛び出してきて、うやうやしく頭を下げながら、扉をあけた。
二人が後ろのゆったりしたクッションにおさまると、大型車はスケートのようになめらかに滑り出した。部長がいった。
「今日は新しい政務次官が十二名も一遍に任命された。新しい総理としては組閣のときの大臣の任命も気分のよいものだろうが、これは各派閥の綱引きや押し付け駈け引きなどがあって、なかなか自分の思うようにはいかないものらしい。ところが政務次官の人事となると、かなり自由になる。しかも将来ある若い政治家に、今のうちたっぷり恩を売っておける。随分気分がいいものらしい。今ごろはそれも一段落してごきげんよく飲んでいるころだろう。私たちを待ちかねているはずだ」
岩崎はズバリときいた。
「前総監閣下と同行なされなかったのは、なぜですか」
「岩崎君には何も隠せんな。あの人が任期切れを前に退任されたのもある理由があった。どうも宇田閣下はあの人をあまりお気に入らんらしい。前の武村閣下と親しすぎたことに対して、いつまでも警戒心がおとけにならん。あの人もまあ、今は本庁に開係がない方だから連れて行く理由がないといえばそれまでだが、宇田総理は、意外にそんな風の一面もある方だと考えてくれ。公安部長とは辛《つら》い商売だよ」
その時の内閣には絶対忠実であるということと、総理個人への好き嫌いは別らしい。部長のその口調には今の総理を突き放してみる冷静さも感じとられる。これが役人としての一番模範的な生き方なのだろう。
ここの所ずっと総理は私立大学出が続いている。どうしても私大出にはある距離をおいて対処する姿勢になる。岩崎警視正の心の底も洗い出してみれば同じであるが、東大出の上級職試験合格者としては、私大出に心服する心理になれない。服従して忠誠を尽くすのは国家の運営をスムースにする、官職上の指揮系統や上下関係の規約を尊重して従っているからにすぎない。
部長がいった。
「宇田総理は岩崎管理官には、ぜひ会いたいと、数日前からしきりにいわれていた。どうやら、今度の天安門に、デモ学生が集り出したニュースをきいたころからだ。もともと外交方面の職域に長く関係されていた宇田さんだ。すぐにデモは自発的に生じたものではないと気がつかれた。総理に就任されたばかりだ。張り切っておられる。たとえほんの偶然で回ってきた拾い物の内閣であっても、一旦、その任を引き受けたからは、五年でも十年でもの、長期政権を目ざすのは当然だ、少なくとも外交面の過失は、総理就任以前にずっと長く担当していた自分の過失として改めて加算される怖れがある。我々も及ばない、調査網を動員して探られた。凄《すご》いものだよ。ただ内政面ではあの人は女癖が悪くて、その方のスキャンダルを見つけ出して、何とかひきずり下ろそうとして、党の大物が目下暗躍しているから、それにやられると思わぬ不測の事態が生じる可能性なきにしもあらずだが、まず国際関係ではしくじりたくはないだろう。とうとう、まず、あの天安門のデモ騒ぎに、正体不明の老人の存在をかぎ出してしまった」
岩崎は返事もできずに黙っていた。さっきあれだけ詳しく旅行中の話をしてしまった。
最後に一度、『もうつけ加えることは何もありません』と言いきってしまった。その後で、今さら部長にこんなことをきかされて『実は私もそれについては……』などと、弁解がましいことはいいたくない。聞き流すことにした。
部長が続ける。
「デモや、アジ演説、警官隊との駈け引き、出処進退の呼吸が、これまでこういう大衆活動に不馴れの中国人の学生仲間としては、ずば抜けて鮮やかだ。まるでゲリラ戦の達人の模範戦闘を見ているようだ。中国の公安筋とは、宇田閣下はずっと太いパイプを持ってらっしゃる。最初の正体不明、年齢不明の老人の存在をすぐに、元日本の軍人で、三十年前に国会議員在職中、行方不明になってしまった、津なんとかいう男らしいと向うから知らされた。もっとも中国だから、シンと発言する。それでも続けて正体を追っているうちに、武村前総理のこと、そして、警視正の名も浮んできたのだ。もっとも最初に、中国公安筋から伝えられてきた貴君の名をきいて、あまりに変な名なので、しばらくは本当にそんな人がいるとは思われなかったらしい。……それにしても君の名は変な名だねー」
部長も今更ながら感心したようにいった。
そういわれて岩崎も苦笑した。父親が田舎の高校の国漢の教師で、息子の名前にこりすぎた。白昼夢と書いて、さだむと読ませる。学生時代は恥しくて一種のコンプレックスになった。多少、人となじまない性格はそのことから生れているかもしれない。
何度か改名しようと思ったが、日本の法律は改姓、改名にきびしく、いかなる方法でもそれは不可能と判明して今はもう諦《あきら》めて、多少からかわれたぐらいでは動じない。
部長がいう。
「どうしても総理が、警視正に会ってみたいといわれだしたのは、どうも中国のこの不思議な現象に、津だなんていう幽霊みたいな老人の出現と一緒に、白昼夢だなんていう、まるで、とても現実の名前とも思えない名前を持つ警視正の若手の捜査係の名が突然登場してきたからだよ。総理にいわせれば、今回の事件はまるで白昼夢のようなものじゃなかったのかねえ」
部長は昼間から岩崎の詳細な、旅行中の説明を、ふんふん感心してきいていたが、実は額面通りには信用はしていないようだ。
これまでいろいろな人物を相手にしてきたが、初めてこの部長は手強《てごわ》いなと、岩崎は考えた。
どう返事したらいいかちょっと見当がつかない。迂闊《うかつ》なことはいえない。そう改めて思い直しているとき、いつのまにか、車は議事堂の横を通って総理官邸の前に着いた。一年前に呼ばれて以来初めてだ。そのときの主人と代ってしまっている。
もう夜がおそいのに、官邸の前庭に赤々と灯がつき、自動車がしきりに出入りしているのは、さっき部長がいったように、十二人の政務次官が一斉に代り、それらの人が挨拶や用談をすませて、帰りかかる時間だったからだろう。
公安部長と警視正の二人は、すぐ中へ招じ入れられた。
広い執務室には、官房長官と、秘書官長ともう一人の三人が総理につきそって待っていた。
総理は特徴ある白髪の頭ですぐ分る。
二人が入ってきて一礼すると
「やあ、そこへ坐りなさい」
と気楽に椅子をすすめてくれた。
前のときと違い、今度は仕事を依頼されるのでなくて、査問を受けるような感じの呼び出しである。さすがの警視正も少し緊張して正面に腰かけた。自分としては、殺人の捜査に出張し、被害者だと信じられていた相手が殺されておらず、しばらく旅行に随《したが》って、その本人が生きているということを確認したからは、もう他にすることがないと知って、そのまま帰国してきた。殺人係捜査官は|007《ゼロゼロセブン》とは違う。それなりに筋を通し裏も表もない正直な報告をしたつもりだ。ただそれだけだ。そう答える以外ない。
岩崎が坐ったすぐ横で、公安部長が要領よく、さっき岩崎にきいた旅行の話をしてくれた。
要所要所で、岩崎はうなずくだけで、別に口をさしはさまなかった。もともと東大出の大秀才の公安部長だ。どちらかというと口の重い岩崎よりはかなり要領よく短く旅行のことを話した。
ほぼ五分でざっとアウトラインを話し終えた。公務多忙な総理には、この程度の報告で充分だったのだろう。部長が最後に
「これで終ります」
というと、宇田総理は特徴あるロイド眼鏡の奥から、意外に大きい目を光らせていった。
「お話正直に承っておく。今回の動乱と警視正は直接は関係のないものと認識しよう。ただ少しだけ、事件の発生には、因果関係がある。その責任上、一つの任務を果してくれ」
岩崎も、自分では全く因果関係は考えられませんと、強弁したかったが、場所が場所なので遠慮した。
総理がいった。
「日本の国民の大部分や、今回の事件を見る、国際的評論家知識人は、この学生デモから出発した動乱は、やがて全中国の人々を巻きこみ全中国に激しい民主化の嵐が吹き荒れ、中国はかつてない争乱の中におかれると見ている。中には早々と、今の学生たちや、その蔭にいる一部の指導者の下《もと》での新しい民主政府の誕生を予言する者さえある。しかしそんなことは幻想にすぎない」
ふだん芸能人や文化人好きで、武断派的印象をみせることを避けてきた新総理が、意外にきびしい声でそういった。きっともう少し若かったら、どしんとテーブルを叩いたかもしれない激越な調子だ。
「警視正には、今一度、すぐに中国へ行ってもらいたい。もう二、三日したら動乱は、予想外の無残な結果でカタがつく。そのとき、津老人や、アルカイヤー、紫冷《シーリン》……つまり、中米混血のメリー・王《ワン》などを、中国公安の手に捕まらせたくない。つまりこれが日本の旧軍人やカンサー、CIAと三者が組んだ陰謀と、明らさまにされると、日本の立場は難しくなる。私としては武村さんを窮境に落したくない。それは我が内閣も窮地に追いこまれる原因になる。たとえ、自分が知らなかったといっても、国際場裡では、そんな言い訳は屁《へ》のようなもので、何の役にも立ちゃせんよ。ハクチュウム君」
といってまたロイド眼鏡の奥からきっと睨んだ。いくら捜一の鬼捜査官でも、普通ならこうして総理から睨み据えられたら、畏怖してうつむいてしまうところだろう。総理になるほどの人には、どうしても自然の威というものが身についているし、官僚社会での身分の差は、どうしようもない。
だが岩崎警視正は、その総理の目をじっと見返した。反抗するのでも、納得したのでもない。いつもの殺人犯を魂の底から震え上らせるような冷酷な目だ。むしろ総理の方がその思いがけない視線で少しどぎまぎしたほどだ。
視線と視線が空中でぶつかって氷の火花が散った。
岩崎の相手の魂の中まで届く冷酷な目付きの持つ意味を強いて言葉にするなら『私が、そんなことも知らないで、アルカイヤーや、紫冷《シーリン》、津老人のお供をして、漫然とシルクロードの旅を楽しんでいたのだと、総理はお思いなのですか』という、返事であった。
それに対して総理も黙ってうなずいた。やはり口には出さないが視線は語る。
『多分、それは武村君の依頼を尊重してその意志に従った君の忠誠心の現われだろう。だが、今のこの日本国の責任者は、私に代ったのだ。忠義を尽くす相手は私なのだ』
このぐらいのことは、眼の光りだけで相手に届いてしまう。それだけのやりとりをした後で、初めて宇田総理は口に出していった。
「明朝北京へ発ってくれ。アルカイヤーと紫冷《シーリン》を、デモの群衆の中から探し出して、もう白昼夢は終った。軍隊が本格的に出動したら民衆のデモなど、一日で片付く。同じ国民が同胞に銃を向けないなどというのは単なる甘い錯覚にすぎないと教えてやれ。一日も早く二人は、自分の体だけでも、アメリカ大使館か、香港などの安全な世界へ逃げこむように伝えなさい。大使館の嶋中《しまなか》さんにはさっき電話しておいた。君が行くとね。君は若い二人にたとえ親友を裏切っても……自分だけは捕まらないように、忠告するのだ。聞くところによると、中国の公安の拷問はナマ半可じゃないそうだよ。捕まったら必ず吐くそうだ」
岩崎は相変らず冷酷な目付きは変えずに質問した。
「私の任務は、それだけじゃありませんね」
「君と話をするときは、全く手数がかからない。救い出すのでも、拉致《らち》するのでも、それは君たちの自由だが、この前同行した四人の部下がいれば、老人一人、混乱の乗客に交ぜて、日本へ連れてくるのは困難なことではなかろう。昨日までは少し激しいデモだが今夜あたりから様子が違ってきた。本式に軍が介入して、天安門広場に戦車が突入し、学生も民衆も差別なく発砲し、戦車の下にせんべいのようにしてひき殺し、流れ弾丸《だま》が近くのホテルのガラス窓を三、四枚も割ってみなさい。今、北京にいる外国人観光客、外交官、在留邦人、商社マンなどが一斉に空港に殺到する。内閣の調査では……」
といって、かたわらの、いかにも元警察か自衛隊出身らしい、精悍《せいかん》そうな体付きの男の方を見た。岩崎は、多分その人が、警視庁公安部長の直接の上司で、日本全体の治安の責任者でもある、内閣公安調査局の新しい局長であると見当をつけた。鋭い目付きはライオンの持つものでなく蛇の陰惨さである。昔の憲兵の持っている雰囲気をそのまま伝えている。そして昔の軍隊でも、第一線で銃を持って戦う歩兵や砲兵たちが、憲兵を毛嫌いしたように岩崎にも、この局長への、何とも理由がつかない嫌悪感が湧《わ》いてくる。
それを口には出さず、岩崎はいった。
「閣下のご用の趣きは諒承しました。この件は、去年お引き受けしたときから、私はあくまで、その元参謀で国会議員だった人への殺人事件の捜査であるという考えは変えていません。去年はたまたま本件への充分な捜査の手が及ばず、殺人事件としては、被害者の状況も、犯人も、特定できませんでしたが、私にはたとえ本人が生存していてもこの一件には捨てきれない未練が残ります。明朝十時発JAL七八三便で北京へ向い、この一件を何とか解決してみせます」
他の人々は、今更岩崎警視正が何をいい出すのかと、呆《あき》れたような顔をしていた。総理の指示と、岩崎の返事とは、全然、話がずれて噛み合わない。
公安部長だけが、僅かに同情的に岩崎の今の心情を察した。
むりやりにでも、この一件を殺人事件として扱わなければ、捜査一課殺人係の天才捜査官、岩崎警視正としてのプライドが許さないのだろうかと……。
2[#「2」はゴシック体]
「うわーっ! くさい」
相当に鍛えられて我慢強くなっているはずの乃木が、思わず口から声をもらしそうになって、隣りに歩いていた、岩崎警視正に、またいつものように冷酷な目で睨まれてしまった。
乃木圭子は二十歳の成人式がすんだ直後にすぐ、捜一の殺人科に配置されて五年間(本当のところは足かけ六年になるが、正直にいってしまうと、年齢がばれるので)毎日のように血まみれの死体や、腐乱した死体に直面して、人間の放つ異臭にはかなり馴れているはずであったが、これには参った。
もっとも、そう思わず呟いてしまった乃木たち一行五人の姿も、そこらあたり一面をおおい尽くしている、何万、何十万の人々の姿と、全く変らないようなかなりくさい臭いを発している汚れた作業ズボンに、白や灰色の木綿のシャツだ。相応に汗や埃《ほこり》で汚れて臭いのついているのを、大使館の方で揃えてくれた。他人のことはいえないのだったが、しかしこの天安門広場に何十万人もびっしりつめかけている人間の発している異臭は凄い。室内ではなく天井が青空に広がっている大気の中でありながら、あたりの空気は、不馴れの者が吸ったら嘔吐《おうと》を催すほどに濃密だ。
一生に何度か、よくてせいぜい一年に一度ぐらいしか風呂に入らない民族が、挟い所にひしめきあい、各自が昂奮して体中から汗をほとばしらせて、わめき合い、荒れ狂っているのだから、毎日、風呂へ入らなくてはすまない民族としては、普通では耐えられないのは当然だ。
しかしここではそれに耐えなくてはならない。どんなに突然でも、うっかりでも、この混雑の中では、一言も日本語を口に出すことはできない。
唯でさえこの広場の中の群衆はもう何日も昂奮しきっている。押し合いへし合いしながらもお互いの感情はみな爆発寸前になっている。そこへ来て、これまでは、公安警察隊は規制のため、周辺を囲むだけで、デモ隊の行動に対しては静観するだけであったが、どうも政府が、強行政策に出ようとしているらしいという噂が、先ほどから群衆の間にしきりに行きかっていた。比較的、人民に対して好意的な姿勢で周辺を警備していた二十八軍に代って、改めて今日は満洲の瀋陽《しんよう》から内蒙古にかけての兵士で構成されていて北京語も分らない荒っぽい野蛮人の軍隊の三十八軍がやってくるという。
市民や学生は怯《おび》え、動揺している。
もしこんなときに、うっかりこのもみ合いの中で、日本語でも飛び出したら、忽《たちま》ち周辺の人々に聞きとがめられ、袋叩きにあってしまう。
日本にいるからこそ、捜一の睨みもきくし、警察手帳も威力を発揮する。北京のこの争乱の大群衆の中では、何の効果もない。
五人とも、まさか昼少しすぎの、まだ太陽が、中天に高く輝きじりじり照りつけるこの時間にもう、天安門の争乱の大群衆にもまれているとは昨夜までは思いもしなかった。
何しろ、乃木や、中村、花輪、原田の、去年の旅行に参加した四人に、突然の呼び出しがかかったのが昨夜の夜中であった。
『明朝八時には成田のJALの北京行きカウンターで待っていてくれ。朝の一番電車で間に合うなんて、ケチなことは考えるな。今は成田空港へ入る道は混み合って、ちっとばかりの時間的余裕を持っていても、渋滞にひっかかったらそんなもん、すぐすっ飛んでしまう。飛行機は待ってくれん。おくれたら取り返しはつかんぞ』
そうハッパをかけられて、まだ突然の電話に、心の用意が整わないでオロオロしているところへ更に念を押された。
『仕度など、捜一の私の所で働いている間はいつでもできているだろう。パンツやショーツの替えもいらんよ。そのままパスポートだけ持ってタクシーで来れば、ホテルが用意してある。そこで泊れ』
そういって四人とも狩り出された。みな独身で、身軽だ。
ところであの一年前と違い、原田婦警と、中村刑事との間には婚約が整ったので、今回の呼び出しはよかったのだが、乃木はちょっと困ったことになった。
一年たつと、人は同じからずだ。
去年の九月は、かなり花輪刑事に好意をもって、そのもっさりした風貌が頼もしくも思えていたのだが、今はもう駄目だ。実は他の人を乃木は愛してしまっている。ほんの少し前、やはり岩崎警視正に従ってイタリヤまで捜査で行ったとき、別な男とかなり深い約束を交し、今では花輪陣内刑事を、振ったという形になっている。
それで岩崎警視正から深夜に連絡の電話が入ってきたときは
『あのう、この前の四人が一緒というと……』
と思わず問い返そうとすると、相変らず冷酷な岩崎の返事がすぐ返ってきた。
『同行者は戦友だ。一心同体のつもりでやらなくちゃいかん。……もっともおまえの場合は、まだ同体になっとらんので、高橋君にも言い訳がたつがな。よかったな』
とまた、怒りと恥しさに、乃木が耳たぶまで真赤になるようなことをいった。
成田のホテルでは、前年と同じに、女は女どうし、男は男どうしで一室をとり、翌朝の朝食のとき、乃木と花輪の間だけ、少しだけ気まずい空気が流れたが、それも他人には感づかれないぐらい、ささやかなものだ。毎日、職場で顔を合せている仲だ。いつまでもこだわっていられない。
十時発のJALの北京行きに乗って五人はびっくりした。もっとも乗った五人だけでなく、乗せたスチュワーデスの方もびっくりした。
五百人乗りのジャンボ機に乗った客は、彼ら五人だけであったのだ。昨夜一晩で北京の様相はすっかり一変した。
本式に二十八軍は撤退し、代って三十八軍が天安門警備についたというニュースが、北京発で世界中に、終夜流されていた。まだ誰も、この大きなデモが敗走したり、潰滅《かいめつ》するというまでは予想はしないが、これまで空砲だったのが、実弾になり、密集したデモ隊の中からは、沢山の死傷者が出るだろうということは予想されている。
様子を見ていた外国人の観光客や在留邦人が一斉に、どっと帰国の途につき出した。JALもANAも、精一杯臨時便を出して、北京から出たがる人々を連れ出そうとしている。だから帰りはどれも満席が予想されても、まさかこの非常の危機にわざわざ、北京へ向う人があろうなどということは、考えられもしなかったのだ。早朝の成田のカウンターでも
「えっ北京ですか。これから」
とまじまじと顔を見つめられて、しばらく信じてもらえなかったほどだ。スチュワーデス嬢も、たった五人だけの乗客が、一かたまりになっている席へやってきてわざわざ
「ごくろうさまです。お仕事ですか。大変でございますね」
と慰めにきたほどだ。帰り客の子供に用意されたケーキや、飲物などを沢山運んできて
「どうかおけがのないようにしてください。無事のお帰りを一同心からお待ちしてます」
と、まるで泣きそうな悲壮な声で、励ましてくれたりした。
北京へ着いたときは時差の関係で正午であった。既に空港は、帰りの便を求めての人で一杯だった。みな避難民のように、できるだけの荷物を担ぎ、子供にもリュックや水筒をしょわせ、弾丸や破片よけの防空頭巾をかぶらせた姿の、在留邦人がひしめいていた。
広い空港内が騒音でわーんとひしめいている。次から次へと入ってくる各国の臨時便の到着を知らせるアナウンスに、そのたびに空港を埋め尽くした避難民の間から喚声が起る。何百人がゲートから出国して行くが、そんなのはほんの焼け石に水で、後から後から押し寄せてくる出国の客は、増えるばかりだ。
そんな混乱の中で、まるで、これから北京を見物に来たといわんばかりの、背広の男が三人、夏の明るい色のワンピース姿の若い女二人が、降りてきたのには、空港に詰めかけた人々がみな呆れたような顔をして見ている。
そこにいる女はすべて、スラックスで、中にはもう|思い出《レトロ》の懐しい風俗になってしまったモンペをはいている婆さんもいる。
人々の非難するような視線をはね返しながら、五人が人込みをかき分けるようにしていると、三十歳ぐらいの男が
「岩崎君だね。久しぶり」
と近よってきた。
「やあ」
「大使閣下からお迎えするようにいわれてきましたよ。野坂参事官です」
といって、みなの方に手をさしのべた。
「いやあ、すまんな。野坂さん。こんなときに」
どうやら岩崎は知り合いらしく気軽に挨拶する。
「とんでもありません。お国の仕事です。ごくろうさまです。岩崎君には大使は六年前のシンガポールでお会いしたそうですね。よく覚えておられまして、懐しがっておられますよ」
空港の表に迎えの車が待っていた。
五人が出て行く間も、出国客を満載したバスが、次から次へと入ってきて、玄関に溢《あふ》れ返って、戦場のように騒いでいる客たちの群に、新たに客を加えて行く。
北京市へ向う車線には車の姿はない。殆どの車は反対側の空港行きの方の道を走っている。
だから、ノン・ストップで三十分で町へ入れた。
大使館へ入ると迎えに出た、嶋中大使が六年ぶりの岩崎との再会を喜び
「まず昼飯をゆっくり食べて行きなさい」
と勧めてくれたが、岩崎は大使に丁重に詫びた。
「情勢は今、きびしく、一分ごとに変化しているようです。ただちに現場に行って処理したいことがあるのです」
「しかしそのままでは行けんよ。労働者や、闘争用の軍服まがいの服を着た学生たちの中に、そのままの姿で入ったら、忽ちよってたかって、身ぐるみ剥《は》がされてしまうよ」
「それでお願いがあったのです。大使館の従業員の方の、使い古しの作業服を貸していただけませんか」
「ああいいよ。庭番や、メイドに中国人を沢山雇っている。今、呼んで、彼らが庭作業や、炊事洗濯などに使ったのを持ってこさせるよ。まあ、ここで働いている従業員が着ている物だ。一般中国人よりは、数段生活の水準が高い層だ。着てみて、くさくてたまらないといったことはないだろうがね、現場は大変だよ。うちでも若い書記官が、何度か現場へ取材に行っているが、人いきれの中から発してくる猛烈な臭気に、みな参ってしまって逃げ帰ってきたよ」
そう嶋中大使は親切に忠告してくれた。
そうして、婦警たち二人には
「もしかしてもみ合っているとき、上衣のボタンが外れたり、ズボンにかぎ裂きができたとき、チラとナイロンの下着や、レースが見えたりすると、群衆に疑われて、リンチに会うかもしれない。服を借りるついでに、掃除の小母さんに予備の下着も借りなさい。今の下着の上に、木綿の頑丈なパンツやブラジャーをつけなさい。少しぐらい上衣が破けても、すぐに中が見えないようにすることだ。ともかく、群衆は軍が発砲するかもしれないと思って、今、みな殺気だっているからね」
大使の注意で、乃木と原田の二人は掃除の小母さんから、武骨で頑丈な下着を借りて、別室でしっかり、服の下を整えた。もう強姦されても怖くない。
こうして、五人は相当な準備を整えてやってきたのだが、やはりこの天安門の騒ぎは、想像を絶していた。
かなりこれまで異臭に強いはずの乃木が、最初に思わず悲鳴をあげてしまった。それでも、もしこれが、去年の旅行で、この国の特有の臭いに馴れていなかったら、悲鳴を洩らす前に、気絶してしまうところだった。
3[#「3」はゴシック体]
汗でねばつく肌を押しつけてきたり、ただやたらに抱擁したり、話しかけてくる、およそ何十万人もいるか分らない群衆の中を、必死に五人はかき分けて、その渦の中心に一歩、一歩と近づいて行く。
もし何か話しかけられたら、妙に知ったかぶりで、覚えたての北京語で答えたりしたら却って疑われる。五人は唯『好《ハオ》!』『好《ハオ》!』と大声で答えることに決めていた。
午前中は、天安門の広場の周りは戒厳令の兵士が、トラックや、軽装甲の自動車に乗って、取りまいていただけであったが、昼のひととき、気がついたら、一人の兵士も、一台の車もいなくなって、周りがシーンとしてしまっていた。しかしもう大群衆は、党の幹部連中がデモの要求に屈して戒厳令を解いたと安心するほど甘くない。むしろ昨夜からひそひそと噂をされていた、二十八軍が撤退して、蛮族の乱暴部隊の三十八軍が姿を現わすのではないかと、不安が昂《たか》まってきた。
その不安を却って無理に忘れるようにして、罵《ののし》り声を高くし、同志が抱き合って、革命歌や労働歌を合唱する。しかしもし冷静な目で見れば、喚声を上げて騒ぎまくる群衆のすべてに、近づく死の恐怖を必死にまぎらわせようとする怯えを見つけたに違いない。
やがて、広場から見通せる、四方の道路の外れに、まるでほんの豆粒のような戦車の姿が見えてきたとき、外側にいた群衆がそれを発見して
『戦車来《チヤンチヨウライ》!』
と騒ぎ出した。しかも戦車は、人々が考えているよりはかなり早いスピードで近づく。初め豆粒のような大きさに見えた戦車は、みるまにその姿がくっきりと分るほどになった。
砲塔の砲身を、群衆に向けた。ただしまだ射っても直接当らないように砲口を高く上げている。どの道も、人ッ子一人居ない道になっていた。実はもし戦車部隊の進入があったなら、一般北京市民の大衆が道に立ちふさがり、勇敢に阻止してくれるはずだった。
しかし気がついてみると広場を囲む四方の道のどの一つの道にも人間の影が見えない。これまで一枚岩の団結を信じてきていた広場の群衆はとたんに恐怖にかられてきた。
周辺にいた群衆がさーっと逃げようとし始めた。しかし党や軍の方が、役者が一枚上だった。
どこから出てきたのだろう。突然、銃剣をかまえた兵士が、広場をとりかこむように姿を現わし、銃口で襖《ふすま》を作るようにびっしりと並んで群衆を威嚇した。
それがじりじりと包囲を狭め、無言で迫ってくる。まだ何も発砲していない。聞こえてくるのは戦車のキャタピラの音だけだ。民衆の恐怖は急激に高まり、外へ逃げ出す者、人垣の真中へとびこんで、周辺からの弾丸がともかく自分に当らないようにと考える者など、これまで一つにまとまっていた人々がここに至って十人十色に分れて勝手な行動を取り出した。
十万の群衆の真中にあって、これまで団結の象徴でもあった、自由の女神像には闘争のリーダーや、幹部が集って革命歌を悲壮に唱《うた》い出す。
乃木と原田はもうテレ臭いなどといっていられない。それぞれ中村刑事と花輪刑事のがっしりした体にしがみついて、どんなことがあっても離れまいとしている。
心細いのは、中村と花輪も同じだ。だが男だから、こんなときに弱みを見せられない。ただ彼ら二人には、神様より頼りになる存在の岩崎管理官殿が、ちゃんと前に立っている。人垣をかき分けて、どんどん自由の女神の方を向いて歩いている。
だから、もう迷いはない。ついていくだけだ。
これまでも、幾度かこの人と生死を共にしてきたが、いつでも救われた。
だから今さら『大丈夫ですか?』なんてこともきかない。銃口をぴったり襖のように並べた兵士たちが、ぐんぐん四方から迫ってこようと、戦車がまるでスピードを落さず、砲口をだんだん水平に下ろして、進んで来ようと、只、すべてを任せてついて行くだけだ。
あの猛烈な臭気も今ではあまり気にならなくなった。
やっと目の前の人垣の向うに、自由の女神の像が見えてきた。一目で張りボテ細工と分るチャチなもので、所々の布がはがれ、木組の土台がのぞけている。その安っぽさ加減が、十万以上の群衆の熱気にかかわらず、この民主化運動の基盤の脆《もろ》さを象徴しているようだ。
だんだん中央に集った群衆の一部が、どっと天安門側に動いた。広場の三方はしっかり封鎖しているが、天安門の門の下の入口がある一方があけられている。デモの方もかなりのベテランが指導していたようだが包囲する軍の方にも、相当な実戦のベテランがいる。
一方の逃げ道を残しておく方が、敵の無茶な抵抗を防ぎ、敗走を誘発しやすい。もともと組織された団体が敵ではない。こうなると、自分の生命だけが惜しい烏合《うごう》の衆だ。
少しでも生きのびる可能性のある方へ逃げようとする。
やっと五人は、自由の女神の像の下まで辿《たど》り着けた。
かなり近くなってきた兵士たちが発砲を始めた。本来ならそれで密集した群衆がみな殺しになるはずだが、ただ逃げ惑うだけなのは、どうも最初は紙の空包を射っているらしい。
それでも群衆の恐怖は頂点に達している。
真中へんにいると、発砲の音だけで、実包か、空包かは分らない。女は泣き出し、男は恐怖に顔を青ざめる。
自由の女神の下に、この十万人の団結の象徴である、何人かの幹部が、像を守る形で、立ちすくんでいた。
解直方《シヤージーハン》とメリー・王《ワン》が、二人でしっかり腕をくみ、群衆の自分たちへの最後の信頼に応《こた》えようと、革命歌を唱っている。その目の前に、岩崎は四人の部下と並んで立った。
五人の体で、二人の姿が群衆の目から見えないようにした。
最初は、解直方も、メリー・王も、自分の前に立ちふさがったのが誰か判らなかったらしい。群衆に変装した公安の選り抜きの局員が、指導者の逮捕でひっこ抜きに来たのかと思ったらしい。
二人はここでは、あのシルクロードの解家の長男とそこへ接触してきたメリー・王ではなく、辺境の少数民族の解放を訴えて、今度の運動のリーダーにのし上った若き闘士アルカイヤーであり、自由の女神像の下で、全員に民主主義を訴える混血の美人闘士、紫冷《シーリン》であった。
「誰だ君たちは」「私たちに何の用」
二人は他の仲間に声をかけ助けを求めて抵抗しようとする気配をみせた。
「直方《ジーハン》に、メリー・王《ワン》」
岩崎は正面に立って、ウイグル地方の方言で話しかけた。
「えっ!」
始めて気がつき、二人は岩崎たちを見た。
そこに思いがけなく、一年前に十日間も砂漠の旅をした仲間が、立っているのに気がついた。突然の岩崎の出現にはしばらくは全く信ぜられないような顔でいる。
周辺の発砲の音がだんだん激しくなる。まさか偶然に岩崎がやってきたはずがない。やっと
「君たち……どうして……ここへ」
と直方がいった。岩崎が叱りつけるように
「ともかく逃げなさい。今なら生きて外へ出られる」
という。
「なぜだね。ぼくたちはここで民衆と一緒に死ぬのだ」
「もう、君たちの仕事は終った。カンサーとあの老人と、アメリカのCIAとが組んだ狂言は、今日までで終りだ。これだけの大騒動を起せたのだから、見事なものじゃないか。大成功だ。僅かあれだけの金で。……まさか、あの金で十二億の人口を持つ中国をすべて乗っとって、毛沢東や、ケ小平の代りになろうなんて野心を持ったわけじゃあるまい。もしそんなことを本気で思っていたなら、誇大妄想狂の悪い夢だ。世界中に笑われる。今がしおどきだ。メリー・王《ワン》も、君にあたえられたCIAの任務は終了したんだろう」
さすがに黙っていたが、恥しそうにうなずく。
「いつも冷静で、冷酷な君にしては珍らしい熱中ぶりだったね。……CIAの職員としては、少しその分から外れているんじゃないかね。これも恋のせいかね。君ほどの人が……」
群衆の混乱はますますひどく、人波は大きく、右に左に揺れ、だんだん統制が崩れて行く。周辺も人、人、人、で勝手に逃げ出せないから、辛うじて固まっているだけで、もし自由に逃げられる空間が、四方にあいていたら、この巨大な群衆は忽ちのうちに北京中に一人残らず散り散りに消えてしまいそうだ。巨大であったエネルギーは、もうとっくに、その影も残っていない。
その群衆の叫び声の中で、メリー・王《ワン》が消え入りそうな小さな声でいった。
「恋です。生れて初めて……知りました」
混乱の中でメリー・王は、しっかりと直方の手を握った。
「私たちは……民衆の前で、結婚式を挙げたのです」
どんな混乱が激しくなろうと、岩崎警視正はその冷静さを失わない。
「それはテレビのニュースで見せてもらった。世界中が知っている。だからこそ、君たちは死んじゃいかん。この広場の仮りテント住まいでは、まだセックスはできなかったろう。結婚しても、セックスをきちんとして、二人がちゃんと一つにならんと、正確には結婚したことにはならんよ。世界中に公告したてまえも、どこか安全な所で、思いきり情熱が燃えつきるほどのセックスを君たちはしなくちゃいかん」
こんな場所で不謹慎なようだが、一応理屈は通っている。何よりもこれまで群衆と共にここでの死を考えていた二人に、セックスの一言でいくらかでも生への未練が浮び上ってきたようだ。そうなれば、もうとても死ぬ気になれない。そんなことがどんなにばからしいことか。
現にどの人々も、今はもう恐怖にかられて、ただ逃げることしか考えていないではないか。指導者と共に死ぬため、中央に集って人垣になって守ろうという人など、一人も出てこない。
岩崎は決然として直方にいった。
「直方《ジーハン》逃げろ。メリー・王《ワン》逃げろ」
「しかし私たちは逃げられない」
「私が迎えに来たのだ。ちゃんと逃がしてやる。ついてこい」
岩崎がまた先に立って歩き出す。
中村と花輪が、その周りを囲む。混乱がひどくなると、誰が誰かもう注意していられる状態でなくなる。いつのまにか最高指導者のアルカイヤーと、紫冷《シーリン》の姿が見えなくなっていることに気がついた者は一人も居なかったのではないか。
「実包を射ち出したぞ」「女が射たれた」「戦車が、立ちふさがる、一般人民を平気でひき殺している」
群衆の肩越しに悲鳴や、絶叫が伝わってくる。たった一つあけられた天安門方面の入口に、群衆は活路を探して移動して行く。
血が逆流し喉がからからになり、目が吊り上り半狂乱だ。
岩崎はみなを励ます。
「いいかお互いに手を放すな。ただ私についてきなさい。もう手配はすんでる」
こういうときには、岩崎の言葉は、千鈞《せんきん》の重みを感じさせられる。それはふだんから岩崎警視正を信頼している部下の四人の刑事だけでなく、他の二人も全く同じであった。彼らは熱に浮かされたように指導者として強くふるまっていたが、そのエネルギーが、恐怖でバラバラにされてしまえば、今はただ弱い、死に怯える民衆の一人にすぎない。
天安門の所にもちゃんと軍隊がいた。門柱で狭められて群衆が細い列になっている。立っている兵士の首実検をパスした者だけが外へ逃げて行ける。腕章を巻いている者や、旗を持っている者は片っぱしから検束され、別の広場へ連れて行かれる。
その兵士の後ろに、各国の報道機関が、テレビカメラのレンズを向けて、脱出してくる人民たちの姿を撮っている。
ようやく、漏斗《じようご》状に絞られた、その入口に七人は近づくことができた。全部がバラバラの群衆の中では、三角形の錐《きり》の先のように岩崎を先頭とする七人の集団は、意外に強い力で進んで行けた。先頭の指導者がしっかり間違えないで進んでいる限り、集団の力は強い。
「いいか、もう迎えの者は来ている。生きて出られる。誰も心配は要らない。信じてついてくるんだ」
もう日本語を使っても周囲に聞きとがめられるようなことはない。何度かこう励まされた。
「三十八軍にも根回しはすんでるはずだ。しかしどこでどんな邪魔が入るかもしれない。直方《ジーハン》と、メリーはできるだけ顔を隠せ。五人の真中に入って下を向いていろ。今は鉄砲を向けている三十八軍より、一般の民衆に見つかる方が怖い」
メリーも直方も刑事四人に囲まれ、体を小さくしてうつ向きになっている。やっとこさで、門の所へ来た。兵士の検問を通り抜けようとしたとき
「おう、岩崎君」
と明快な日本語の声がその後ろからした。腕に日の丸がつき、『JAPAN EMBASSY 日本大使館』との縫取りがある。さっきの大使館員だ。
「野坂、来てくれたのか」
そう岩崎が答える。乃木は不思議そうに二人を見た。空港でも、大使館でも、二人が特に親しそうに打合せした気配はなかった。
それがまるで、古くからの親友ででもあるかのように、しっかり抱き合う。
たしかに少しは本気らしくはあるが、幾分演技くさくもある。……と気がついたとき、乃木も、中村もはっとした。
近くに日本大使館の旗がついた、ミニバスが停っている。岩崎が後ろ手で、そちらへ行けと合図している。乃木はすぐ直方を恋人のように抱きしめ、混乱の中にやっと逃げてきて本当によかったというような姿を、わざと三十八軍の田舎の兵隊に見せつけるようにして、しっかりと唇を合せながら、ミニバスの方に歩き出した。花輪もチャッカリしている。役得だ。或いは未だに心秘かに愛している乃木が直方《ジーハン》とキスまでしているのを見せつけられて、頭に来たのかメリー・王の唇をしっかり捕えて、メリーの顔が周辺の人民や、カメラをかまえているマスコミに見つけ出されないように気をつけながらミニバスの方へ行く。群衆の中でミニバスの方へ一緒に行こうとした者が何人かいたが、腕章をつけた、野坂と呼ばれた大使館員が、大きい声を上げ、腕を振って阻止するので、便乗の流入が防げた。
中村と原田ひとみ刑事は、恋人どうしどころか、もう婚約もすんだ間だ。ごく自然に手を組み、軽く抱擁しながら、車に乗りこんだ。
七人と大使館員が乗りこむと、あちこちに散り散りになって逃げて行く、一般人民の群の間をかき分けて行くようにして、ミニバスは走り出した。
岩崎が不思議そうにしているみなにいった。
「この方は、野坂参事官。東大で私の同級生だ。昨夜のうちに国際電話で打合せはすんでいる。この車はまずアメリカ大使館へ向う。メリーはそこで降りる。多分、二、三日中に、或いは今日中に、アメリカヘ帰国する、大使館の家族と一緒に、サンフランシスコ行きの飛行機で脱出できるはずだ。このまま残っていて捕まれば、銃殺刑は間違いないからな」
それから解《シヤー》に向っていう。
「直方《ジーハン》君。野坂参事官は、もう一つ難しいことをやってくれた。香港から来た華僑団が、これから出国するため、王府井《ワンフーチン》の友誼デパートの三階の弁理事務所に待機している。そこで君の旅券を作って待っていてくれる。同胞の一人がおくれてやってくると信じている。君は観光の華僑の一人として、取りあえず香港に逃げる、それから先、二人がどうしようと、我々は関知しない」
直方もさすがにホッとした表情を浮べた。
車はまずアメリカ大使館へ向って走って行く。今は取りあえず、危機を脱して喜び合っている二人に向って、岩崎はいった。
「二人とも、こんなにうまく脱出できたのを只の偶然とは思ってはいけないよ」
「えっ」「どうしてですか」
と岩崎の眼をみる。
岩崎は遠ざかって行く、混乱の広場をチラと見ながらいった。
「もうじき天安門の検門口は、党の命令で、閉鎖される。逃げ場を失った群衆は、全面降伏を求められるだろうが、その命令が全員に徹底されるまでには、三千人や五千人の人は死ぬだろう。或いは死者は何万人となるかもしれない」
すると野坂參事官がいった。
「私らのところに入った情報によると、戦車の後ろには、効率のよい死体焼却炉を積んだトラックが何十台も続いていて、デモで犠牲者が出ても、その痕跡《こんせき》が全く世界の人々には知られることのないように処理されるそうですよ」
岩崎がいった。
「直方とメリー、それに私らも含めてだが、この幸運は決して偶然でないと知ってくれ。天安門検問所を守る軍隊の隊長は、昔の満洲の奉天省出身の竜巴将軍だ。竜巴将軍は旧満洲軍官学校出身で、津大佐に作戦指揮の指導を受けた教え子だ。今回は特に我々のために、特別の配慮をされたのだ。……もっとも、このデモは、殆どが、津さんが、直方の祖父《じい》さんと二人で考え出して、ちょいとやってみただけのことで、最初から、カンサーさんの可愛いお孫さんを殺すつもりはなかったのだよ。この脱出を含めて、すべてが天安門デモ計画の膨大なマニュアルの中に一括して入っていたことだ」
野坂参事官もその言葉にうなずく。
既に砲弾の音はかすかになり、車が走っている通りは、ふだんの北京の町と、全く変らない、人通りの多い賑《にぎ》やかな商店街に入っていた。
屋台まで出て、そこに家族連れが腰かけ、しきりに丼《どんぶり》の飯を食べている。
一体あの動乱はこの街のどこにあったのだろう。ここに群れている市民は、そんなことが、同じ北京の中で起り今のこのとき何千人もの人が、銃弾に射たれ、戦車にひき殺されているのをまるで知らないのではないか。
ミニバスは、アカシヤの木に囲まれたアメリカ大使館の前に着いた。大きく門があけられて、中に入って行く。
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[#小見出し]   一人の人間がまだ生きていた
八月に入った。
七月から、予報は今年は暑いと、しきりに流していた。
たしかにそれが当って、一日から猛暑が続く。夜も暑い。
いわゆる、夜間も二十五度以上の、熱帯夜が続く。こういうときは殺人事件が多い。何でもないことで、ついむしゃくしゃして兇行《きようこう》に及ぶというケースだ。近来都市では、住宅事情がますます悪くなり、狭い所に沢山の人が住むので、一層この種の衝動が発生し易い。捜一は殺人が専門で、毎日が目が回るほど忙しいはずなのに……たしかに一般の刑事《デカ》諸君はキリキリ舞いの忙しさであったが、……捜一課長と、理事官(一名)と管理官(七名)の少数の幹部の表情には、ある安心というか、満足感が見えていた。それは押えようとしても、どうしても押えきれない喜びがつい口の端に出てしまう感じであった。
犯人が捕まったのだ。
この一年、全東京を震え上らせていた兇悪な連続幼児誘拐殺人事件の犯人を本庁管下の奥多摩署が捕えたのだ。幼児のわいせつ犯を別件で調べている中に、ひょうたんから駒が出て、本ボシにつき当ったのだ。
もう当人の自白も得て物証も取ってある。しかしまだ世間には、一言も発表していない。事件が事件だけに、もし、発表すれば先ごろの天皇のご大葬以上の大きな衝撃を、国民にあたえる。
今はそんなニュースを流してはまずい時期だ。
八月に入って宇田内閣が退陣に追いこまれ、八日に内閣の新しい首班が選ばれる指名投票が行なわれる。それまでは、国民の目を、この新首班の選出、新内閣の誕生へと続く、政権交替劇にひきつけておかなければならない。内閣が無事誕生するのを九日の深夜とみて犯人逮捕の発表をぎりぎり押え十日の早朝に、一斉にこの衝撃的なニュースを流すことに捜一では決めていた。
これで内閣や新総理への面目もたつ。
しかし七人の管理官のひとりである岩崎は、同じ殺人係の刑事として、つい押えても唇がゆるんできそうになる。
八日に予定通りの内閣の首班が決った。
三人の候補者の中から、予想通り若い海辺氏が選ばれたが、当然、そんな偉い人には知り合いがいるはずはないし、岩崎警視正としては、自分には全く関係がないことと思って、大して気にもしなかった。
ただ、少なくとも来年の春ごろまではもつだろうと思った宇田内閣が僅か三月で崩壊してしまったのが、何とも気の毒だった。
内閣交替を報じる新聞をみながら岩崎は自分のデスクで考えた。
「誰が女のことをチクッたのかな」
宇田のライバルとされている政治家の何人かを考えてみた。その方面に、大して知識のない岩崎はすぐそれをやめてしまった。こんなことは、ライバルよりは、むしろ親友といわれた人がやるケースが多い。政界は一寸先は闇、ましてすべての政界人が、生涯の夢として目ざす金的を、さして苦労もなしに射止めたことに対しての、男の嫉妬《しつと》はすさまじいものがあったろう。
『どう考えても気の毒だな。よほど護《まも》りが甘かったのだな』
新聞を見ながら思わずそう呟《つぶや》いてしまった。
先月夜中に参上して会ったときは、そんな風には見えなかったが……むしろ外交のベテランらしく、鋭く迫ってきて、危うく本心を見抜かれそうになり、そこは目と目の無言の会話で急場を取りつくろった。二カ月前の緊迫した場面が嘘のようであった。
あれだけの外交のベテランを、単に芸妓の愛人がいたというだけの屁のような理由で退陣に追いこんだ、最近の世論の根性の挟さがいやになってきた。
そこへまたデスクの電話が鳴る気配があった。例のように岩崎は鳴る直前に受話器を取り上げる。
「ああ岩崎管理官かね」
「はい」
「部長だ。公安だ」
二カ月前とまるで同じ話し方だ。
「昼飯でございますか」
岩崎が先回りしていった。
「いや、今日は違う。すぐ玄関に出てくれ」
何か重大な用がありそうだ。既に一度、とことんまで話し合って、この上司に頼まれた、仕事をやっている。
それは成功した。最近アルカイヤーと、中国のジャンヌ・ダルク紫冷《シーリン》が、香港とサンフランシスコからお互いに駈けつけてきてロスのアナハイムの教会で、亡命中国人の一団に祝福されながら、結婚式を挙げたらしい、華やかなニュースが、つい数日前の新聞に報じられていた。
これは、結果としては、岩崎が北京へ入って、脱出させたため、できたようなものだ。
これが公安部長が望んだ形かどうか分らないが、声の調子によると、ご機嫌はよさそうだ。
「はい只今」
そう返事をした。公安部長は直接の上司でなく指揮系統はないから、その指示に従う必要はないが去年の武村総理の依頼を引き受けてしまってからは、この幻の殺人事件の一件がすべて片づくまではお付き合いは仕方がないだろう。乗りかかった船だ。
エレベーターで降りると、もう玄関のホールには、ちゃんと公安部長が来て待っていた。
「やぁー、警視正、すまなかったな。ともかく行こう」
「今日は何を食べるのですか」
「いや食事ではない」
そういって玄関を出る。そこには黒い乗用車がもうちゃんと待っていた。二人は後部の座席に乗りこむ。すぐに部長は話しかけた。
「新しく内閣ができて、まずまっ先に公安調査局の局長が代られた。別に賞罰、功績は関係ない。歴代、自分の最も腹心をおかれるのが例だ。新しく自分のものとなった、絶大な権力を思うがままに駆使して内閣の長命を計るのには、公安調査局だけはしっかり身内で握っておかなくてはならない。国務大臣クラスの力量があって、自分と最も親しい人をあてるのが例だ。その人選を誤ると、宇田さんのように三カ月もたたない中に、折角の内閣をほうり出すようなお気の毒な結果になる」
岩崎は深くうなずく。政治の世界も大変なのだ。一瞬たりとも油断はできない。
公安調査局の局長室は総理の官邸に付随している、総理府長官室と隣り合せにあった。車から降りた二人は、秘書官に案内されて、その局長室の前に立った。
部長がノックする。
女性秘書官が中から扉をあける。
「どうぞ」
二人が入る。正面の机に坐っていた局長が
「やぁー」
と手を上げて迎えた。
岩崎は一礼して納得した。来がけの車で、公安部長は、どんな方が新しい海辺内閣で局長に就任されたのかということを、本来はまっ先に岩崎にいうべきなのにわざとそれに触れなかった。
そのときに、このことが大体岩崎に予想されていた。岩崎がよく知っている人物だったから話題にするのを避けたのだ。
岩崎は長官の大きなテーブルの前に行くと、深々と頭を下げていった。
「総監、局長就任、お目出とうございます」
「ありがとう、君のおかげだよ」
前総監もそう丁重に答えた。一公団の理事長から、考えようによっては、CIA長官のダレス、ゲ・ペ・ウのべリヤのような絶大な権力を振える地位に就いたのだ。内閣も動かす実力者だ。ブッシュ大統領だってCIA長官出身だ。
三人はデスクのすぐ近くの、応接セットに移った。美しい女性秘書官が早速コーヒーを運んできた。
「先に用を片づけておいてから、今日はもっとうまい飯を喰おう」
新局長はそういった。
それから改めて岩崎にきいた。
「警視正は、武村総理から、突然、この仕事を依頼されたときに、どこまでこの一件について知っていたのかね。大体殺人事件しか扱わない、天才刑事といわれた君が、この事件を引き受けたことがまだ理解できないのだが……」
「これは殺人事件です」
ときっぱり岩崎はいいきった。
局長と公安部長が興味深そうに岩崎を見ている。
「私は武村さんが去年の春に敦煌《とんこう》に行ったとき、カンサーから、娘の春蘭を通じて受けとった手紙に、今回の天安門事件に至る詳細な計画が書いてあって、武村さんはそれを知っておられたと思います。計画者は、三十年も痴呆をよそおい続けて、カンサーの保護のもとにいた、津正信さんです。アメリカのCIAとも作戦についての打合せは、何度かなされていたと思います。軍資金はある。アジアの共産主義化や独裁政治を防ぐという大義名分があれば、アメリカはいくらでものってくる。そう思ったのでしょう。ただその実行力や資金源についての疑問が武村さんにあった。もし見るも無惨に失敗した上に、その資金源が、旧日本政府が満洲で軍費として貯えた阿片密売資金であるということがKGB関係のスパイにでも洩れたら、ソ連側から世界にその情報が流される怖れがある、そうなれば、まず、保守本流に通じる、浜大介、平田正良と続く旧満洲国官僚出身の政治家が傷つく。そして、保守の本流の浜大介直門の政治家がすべて退陣を迫られる。それを怖れた。そこで武村さんが考えられたのです」
一息切って岩崎はいった。
「殺人専門の捜査官がわざわざ行くのだから、そこである殺人が行なわれても、日本からリモートコントロールで殺されたと誰も思わないだろう。もしデモの計画が杜撰《ずさん》であったり、あるとされていた資金が、予想より少なかったら、とっくに死んだとされていた爺さんを一人、本当に死んだといわれる状態にしても別に、どこに何の影響もない。日本の国益にとっては本当に死んだことにして、殺人事件を一つこしらえてくれた方がいいと、そのように考えていられると思いました。しかしもしその計画がなかなかまともで、現在の中国を倒すといかないまでも、現在の党、政府の体制を相当にゆさぶれるのなら、生かしてそのままこの無謀なドン・キホーテたちを北京に送ってくれという、お考えも判りました。その線にそって、私はやってまいりました」
岩崎は、淡々とそう答えた。
局長がうむと一言いってから答えた。
「君の考えは大体大筋にそっている。その意味で武村閣下は動乱が起る直前まではかなりご満足であった。ただ一つ予定が狂ったのは例の取引税のことと、周辺の欲深政治家がそろって巻き起した、ラクルト株の売買という不詳事件でついに退陣に追いこまれたことで、ご自分が隣国の総理として、天安門事件の鮮やかな幕引きができなかったことだ。そしてもう一つ、天安門事件の最中、これまで自分の忠実なコピーと思って信頼していた宇田さんが、どうやら天安門と武村さんとの関係に気がついて、何か危ない火をつけそうな気配が見えてきたことだ。これは武村さんにとっては、とんでもない裏切りだ。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。攻撃は最大の防禦《ぼうぎよ》だ。どんな手段を使っても、宇田さんは退陣させなければならない」
そこで前総監の局長は、また目で何か語りかけた。言葉に出さなくても、岩崎にはすべてが判る。
『宇田内閣必殺の手はある老人が考えてくれたよ。今は内閣の最高顧問におさまっておられるがね』
おかげで彼も局長に就任できたのだ。
宇田内閣よりはもっと偶然の拾い者をした海辺総理は、ひたすら武村総理に忠実なコピー内閣に徹するだろう。
この局長が厳として日本のCIAでいる限りは。そして旧日本陸軍が作った、満洲帝国の役人として君臨して、富も力も築き上げた浜大介の系譜を継ぐ、保守本流の世界は、世代を越えて、日本の政界に永久に引きつがれて行くだろう。岩崎は政治の世界の、本当の流れというものが、ここで初めて理解できた思いであった。
隣りの部屋へ通じる扉が開いて
「やぁー、もう飯を喰う用意ができたかね」
明るい陽気な声がして老人が顔を出した。相変らず元気な老人だった。
「もう九十歳だ。死ぬまでにあと何回飯を喰えるかと思うと、やたらに飯の時間が待ち遠しくてな」
老人は大きな声で笑うと
「海辺君が、ニュー・クラタニですてきなフランス料理を用意していると、さっき電話で直接いってきたよ。『部長にも岩崎君にも今後の日本を率いて行く自分を、よろしく補佐してもらうため、ぜひご面識を得たいから同行してくれ』ということだ。さあ、行こう」
相変らず元気で、先にたって、はずむような足どりで、この不可解な老人は、廊下に出て行った。
岩崎は、天才といわれ、怪物といわれても、自分はまだまだ、若僧だと、このときまた改めて思い知らされた。
そしていつものように無言、冷酷な表情で、局長や部長に続いて、官邸の玄関に出て行った。
[#地付き]〈了〉
単行本  平成元年十二月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成四年五月十日刊