胡桃沢耕史
女探偵アガサ奔る
目 次
プロローグ
HOW DO YOU DO? ……初めましてこんにちは……
第一話 自殺室
A PEOPLE FARM LIFE ……これが都会の生活だ……
B WHERE IT'S AT ONE ……事件の核心は一つ……
C HIS NUMBER IS UP ……奴の命運つきたぜ……
第二話 殺し屋を殺せ
A HARM WATCH HARM CATCH ……人を襲えば自分も傷つく……
B JESUS CHRIST ……イエス・キリストまたは糞食らえ……
C PUT OUT HIS LIGHT ……奴を消せ……
D LET UP ON ……ご寛大に……
第三話 ベニスの血の歌
A SUNNY SIDE UP ……卵の目玉焼き……
B TALKS MUCH ERRS MUCH ……物言えば唇寒し……
C COME ACROSS ……借金を支払う……
D PLOT OUT ……仕掛けは上々……
インターミッション(幕間)
COAST OF LONGBEACH ONLY ……ロングビーチ沖で……
第四話 味方は本能寺
A JOHNY ON THE SPOT ……いつでもお役に立ちます……
B RUN GO ……成り行きがてんで分からない……
C COMES FIRST GRINDS FIRST ……先んずれば勝つ……
第五話 コスタ・メサの盟約
A STEP ON THE GAS ……猛スピードを出す……
B GET OUTSIDE ……沢山喰べた……
C PUSH OFF ……殺《バラ》す……
第六話 大相撲ロス場所
A SCALE UP ……大きくなーれ……
B GUN DOWN ……射殺……
C 那就拝托 ……よろしく頼みます……
D PUSH OUT ……押し出し(相撲の決り手)……
第七話 メリークリスマス
A COKED UP ……コカインに酔った状態……
B BY JINGO ……まさか……
C IT'S MY BUSINESS ……ほっといておくれ……
D HAPPY DUST ……|幸せな粉《コカイン》……
エピローグ
PULL OFF ……すごいことをやってのける……
プロローグ
HOW DO YOU DO ……初めましてこんにちは……
青春は足早に通りすぎて行く。うかうかしていると、そのいいところを少しも味わわないうちに終ってしまう。ぼくももう十九歳。来年はハタチおじんの仲間入りというのに、今年の三月一浪の身でまた受験校をすべってしまった。
すべり止めの最後の大学もすべったと分った日の、暗い思いの夜の食膳の場で、ぼくは翻然《ほんぜん》と悟った。もうこれ以上の勉強はするだけ無駄だ。灰色の生活に耐える気力がない。
そこでありったけの脳味噌を絞って、日本脱出を計った。こういうときにママに打明けるのには話を反対側から持って行くのに限る。食事の箸《はし》もとぎれがちで、ぼく以上にがっかりしているママにいった。
「ママ、ぼくは来年こそは、絶対に東大へ入ってママを喜ばせてやりたい。そこで現在のぼくの学力を分析してみたんだ。決定的に不足しているのは英語の力だ。どうしてもこれを特訓しなくてはならない」
「それでどうしたらいいの」
もう四十歳も半ばを越し、昔は少しは美人だといわれたママも、近年とみに容色が衰えて今ではあまりパパにかまってもらえない。
その分すべての情熱がぼくに移り、ぼくが東大か有名私大へ入学するのだけが、生きている唯一の目標になっている。
「それにはアメリカヘ行って実際に勉強するのが一番だ。向うの家庭に入り、英語しか話さない環境で六カ月もいれば、来年は一発で東大OKだよ」
そう言いながら、新聞の広告欄の『アメリカ人の家庭に泊って楽しく学ぼう』という囲み記事を見せた。一カ月六十万円と、安くはないが、行けばとたんに英語がうまくなるような誘い文句が書いてある。ママがそれを見ているとき、どうかひっかかってくれと、ぼくは胸が高鳴ってきた。
西海岸の灼《や》けつくような太陽が照りつける浜辺。そこにはもちろん、金髪を肩までなびかせたギャルたちが、豊かなボディを、小さなビキニの水着一枚に包み、のびのびと跳ね回っている。ネオン輝く盛り場のディスコの中では、十六ビートの強烈な音楽が鼓膜がやぶれるほどひびき、場内に混み合う若者たちは、シャツやパンツを汗にまみれさせ、体をこすりつけあうようにして踊り狂っている。祈るような目でママを見つめていた。すると
「この話、返事を十日ばかり待ってね」
意外な言葉だった。
「こういう話はわりとインチキが多いらしいのよ。お金だけ取って向うへ連れて行って、空港でおっぽり出すなんてのがね。ママ、向うの宿泊先について心当りがあるの。問い合せてみるから」
結局は承知してくれるらしいのは分ったが、ママの心当りについては見当もつかなかった。
四月に入ってすぐ、ぼくは太平洋を九時間で越える直航便で、ロスアンジェルスの空港へ下りたった。
空港は数年後に控えたオリンピックの準備のため、どこもかしこも工事でごった返して、足の踏み場もないほど混雑していた。おかげで税関は省略されていて、トランクに触られることもなくフリーパスだ。飛行機から出た荷物はそのまま回転台まで直行する。
台の回りには旅客も、迎えに来た人々も一緒に群がって、出てくる荷物を待っていた。
ここへはママの姉、つまりぼくには伯母さんに当る人が迎えに来るはずになっている。だがぼくはその伯母さんをこちらから探す手段がない。
何しろアメリカヘ行きたいと言い出すまで、母は自分に姉のあることなど、一言も語ったことはない。写真もない。どうやら終戦後オンリーという仕事をやっていて、その後アメリカ兵と結婚して日本を去った姉の存在は、一家の恥として口に出さないことになっていたらしい。三十五年ぶりに、その姉のことを思い出して、初めて手紙を書いたのだろう。
それほどまでに冷たくされた姉が簡単に妹を許し、ぼくの同居を承知して空港まで迎えに来てくれるかどうか、本当のことはよく分らない。それに回転台へ出てくる荷物から目を放せない。アメリカは泥棒が多いと、出発前にさんざんきかされている。
荷物の出てくるのを、じっと見ていると、いきなり
「まあー哲ちゃんね。ウェルカムよ」
派手な声がして、大柄な女性に力一杯抱きしめられた。頬をチュッチュッと吸われて、しばらく呆然として物も言えない。
おかしな抑揚の日本語でその女はいう。
「よく来たねえ。若いときのユーのパパそっくりだからすぐアンダスタンドよ」
とするとやはり伯母さんか。その女の体からは、香水の匂いと、甘い薬草のような煙草の匂いが交った、強烈な臭いが発散している。しっかり抱きしめてくる大柄な体のどこも妙に生々しく肉感的で、ぼくはどうしていいか分らずに、真赤になっていた。
ママはもう四十六歳になっている。
そのママが終戦の年、小学校五年生だったときに、姉は十歳年上で、二十歳の娘盛りだったときいた。もともとダンスや、ジャズやチョコレートが大好きで、戦争が終ると、物堅い祖父が厳しく叱るのもかまわずに、進駐軍の兵舎に出入りして、アメリカ兵相手の女になった。どう計算しても、五十六歳になっているはずだ。それがママよりは、十歳も年下に見える。
もしかすると、その人の娘さんが迎えに来たのかと思った。それなら勘定が合う。
「哲ちゃん、会いたかったよ。私が伯母さんのアガサよ。もとは日本のネームもあったけど、もう忘れてしまったよ。ここではアガサと呼んでおくれ」
言われてみれば、その顔だちのあちこちに、たしかに母に似ているところがある。
回転台に出てきたトランクを一個ずつ分けて持って、二人は工事中でごった返す構内を横ぎり駐車場に向った。伯母はいった。
「それじゃー、これから行って、大学の入学手続きをすませてしまおうね。その方がユーもミーも気分が落着くよ」
コンクリートをほじくり返す音が、せわしなくひびいてくるが、この伯母さんの話すことの方が、もっとせわしない。
ぼくはあわてた。
「ここへは、入学を許可されてやってきたのではないんです。大学へ入る勉強をするためやって来たのです」
「こちらのスクールは、書類を出して入学金を納めれば、ジャストそのまま入学できるんよ。試験なんて面倒くさいものはノーサンキュウでね。ユーは中へ入ってから一生懸命勉強すればOKなんよ」
なぜアメリカの学生があんなに楽しそうに青春を謳歌《おうか》できるのか、やっとここで長い間の疑問が氷解した。受験勉強が諸悪の根源、こいつが無けりゃ、何でも楽しめる。だから日本の学生には、灰色の勉強か、非行暴力しか残されていないのだ。
それでもまだ本当に信じられずに、つい念を押した。
「あのうアガサ伯母さん。今日中にぼくは大学生になれるんですか」
「そうよ。それも名門カリフォルニヤ大学のロスアンジェルス校よ」
「えっ、あのUCLAに」
本当に思いきってアメリカに来てよかった。
駐車場には、鉄の扉も頑丈そうなでっかい車が巨体を据えて待っていた。
ペンキがところどころはがれ、鋼板もかなり痛んでいる。だが、風格のある頑丈そうな車であった。
「五六年型のキャデラックよ」
銹《さ》びの出た鍵穴にさしこんで扉をあけながら、伯母がいった。今年は昭和五十七年だ。
「去年の新車ですか」
ぼくはその使い方の荒さに驚いてきいた。
「ばかね哲ちゃん」
伯母はその後彼女の口癖になる、この侮蔑語の第一回目を気易くいった。親しみのあまり出る言葉だろうが、これだけはいつまでたっても馴れることができない。
「ここはアメリカよ。昭和の年で考えちゃだめ」
そうだった。時差の関係で、ママが成田で涙ながらに手を握って別れを惜しんでくれた日の夕方よりは、まだ七時間前の同じ日の午前十時だが、それでもぼくは、太平洋を越えたアメリカに来ているのだ。
「西暦千九百五十六年よ。二十五年前の自動車《ミシン》だよ」
それにしては健在だ。
一発セルを入れると、巨大な車体が胴ぶるいしてから走りだした。
「こちらじゃ車検なんてないからね。乗れるだけ乗ってオーライだよ。その代りトラブルを起したら、責任はがっちりとらされるんだよ」
空港のエリヤを出ると、すぐにこの町名物のフリーウェイに入った。町中を網の目のように走る左右六車線から八車線のこの路はテレビや映画でおなじみで、コロンボ刑事も愛用する高速道路だ。伯母は二十五年前の大古車《ヽヽヽ》を危な気もなく走らせる。まだ左側通行の感覚が抜けないぼくは、追い抜きのたびにひやりとするが、馴れれば、日本よりはずっと車の混雑も少く、分岐点での割りこみには、ちゃんと先方が前をあけてくれる習慣が確立している。すぐに走らせることができそうだった。
三十分で大学の構内についた。広いキャンパスの中央のゆるやかな芝生の丘の上にある大学の事務局で、伯母が書類を出し、入学金を払ってくれた。手続きをすませて学生証を手に入れると、すぐに事務局に付属している学生組合《ユニオン》からTシャツを一枚買ってきた。
「そんな堅苦しいもの脱いでしまいなさい」
車の外で上衣とワイシャツを脱がされた。明るいカリフォルニヤの太陽の下で上半身裸になると、頭からTシャツをかぶせてくれる。そのとき日本語で
「アガサ伯母さん、こんちは」
と一人の少女が近よってきた。ぼくはあわてて、お臍《へそ》をかくすようにして、シャツの裾をひっぱった。
みるとその少女も同じTシャツで、デニムのミニにスニーカーの軽快な姿であった。ただしそちらの方は女だから、UとAの字の部分が、二つの胸のボッチの形もはっきりと盛り上っていて、この名門大学の若い女子学生のさまがキマっている。この姿に、ぼくはこれまで、どんなに憧れたか。とうとうぼくも胸にUCLAの四文字を誇らかに示す名門カレッジの一員になれたのだ。おまけに、これからキャンパス生活を華やかにいろどってくれそうなギャルまで、同時に手に入りそうだった。これで日本へ戻って、絶対落ちることが確実な東大や有名私大を来年受ける気持は、きれいさっぱり無くなってしまった。
「このギャール、小《リツトル》東京の同じホテルにいるのよ。裕子ちゃんというの。かわいい子でしょ。このボーイうちの甥《おい》よ。妹の子。今日初めてロスヘやってきたの。エブリスィング教えてやってね」
「まあー、アガサ伯母さんのネフューなの。あたし、裕子といいます。ここの美術科に学んでいます。どうかよろしく」
ちゃんと挨拶した。このアメリカの大学で、同じ日本語で会話する子に会えて、何となく心強い。伯母がぼくら二人にいった。
「それじゃ、ついでだから、ノーマのお墓に行きましょう。裕子ちゃんは知ってる」
「あたし話にはきいているんですがまだ」
「このすぐ近くよ。ここへ来るたびにお参りするのよ。死ぬ二、三年前から、何かに怯《おび》えてノイローゼになっていたけど、同い年でもあったせいで、頼りにしてあたしには何でも打明けてくれた仲なのよ」
車は後ろに裕子をのせて走り出した。構内を出たすぐのところに、ウイルシャー通りとの交叉点がある。こちらの通りがウェストウッド通りだ。
交叉点の角のガソリンスタンドの裏が、小さな芝生の空地になっている。車を芝生の中まで入れて止めた。周りの三方に塀《へい》のような囲いがあり、大理石張りの箪笥《たんす》の引出しのような段が並んでいる。名札がついて、花束が供えてあった。どうやらこれがこちら式の墓地らしい。賑やかな町の真中にあるのが不思議だった。すぐ前の棚の、下から二段目の引出しを指さして伯母がいった。
「ディマジオって奴は嘘つきだね。世間にはエブリデイ赤いバラを届けるなんて、カッコ良いこといって。これだから男はいやだよ。本当にハートは秋のスカイなんだから。見てごらん、十日も前のバラだよ。枯れかかっているよ」
ぼくはふと気がついてきいた。
「あのうディマジオというと、野球のですか」
「ヤー。ジョウ・ディマジオ。ほら口が大きくて目がギョロっとした野球のバット振りがいたろう」
「じゃこの女の人は」
「そうね。ユーにはマリリン・モンローといった方が分りいいかもしれないね。ミーたちはお互いに本名でノーマ、アガサと呼び合っていたから、つい芸名は忘れてしまったけど」
ぼくの体には、大げさな言い方をするわけではないが、戦慄《せんりつ》が走った。下から二段目の棚に近づき、名札を近くで見た。
MARILYN MONROE
1926←→1962
と刻んである。ああ! と思わず天を仰いだ。この薄い石板の向うには、まぎれもなく、彼女が眠っているのだ。うっとりしているぼくの悩ましい思いを、ことさらかきたてるようなことをいう。
「この中に眠っているあの子の体には、シャネルの五番とパンティだけの上に、ほら地下鉄の鉄板でふわっとスカートがまくれ上ったあの服を一枚だけ着せてあるんよ。納棺に立ち会ったから今でもよく覚えているわよ」
裕子も近よってプレートをなぜながら
「うわーっ、ロマンチックね」
と娘らしく瞳を輝かせていた。
「ノーマが生きていたら、もうフィフティ・シックスだよ。さんざん男を知りつくして、物分りのいいお婆ちゃんになってるわね。それでいてまだ三十代に見えるぐらいかわいいと思うわ」
アガサ伯母の若さから考えれば、それはたしかだろう。
「哲ちゃん。折角アメリカへ来たんだから、記念に一晩ぐらいあの子に頼んで男の修行をさせてもらったらよかったよ。すっきりしたいい男になれるよ。気の好い小母さんだったから、そんなことぐらい喜んで、ひき受けてくれたろうにね。死んじまって惜しいねえ」
もしそれが本当であったのなら、二十年前の彼女の死は、ぼくにとっては一世一代の痛恨のできごとになる。真剣に冥福を祈った。三人はしばらくお祈りした。
「さあーホテルへ戻ろう。明日から、がっちりミーの仕事を手伝ってもらうよ。アメリカの学生はみんな働きながら勉強するんだからね」
「伯母さん、このロスで何してるんです」
呆れたようにぼくを見ながら伯母は答えた。
「探偵よ。ロス一番の腕利きの私立探偵なんだよ。ミーは」
第一話 自殺室
A PEOPLE FARM LIFE ……これが都会の生活だ……
アメリカという国は、ピストルと強盗の国と怖れていたが、ぼくにとってはえらく都合がよい国であった。着いたその日のうちに大学へ入れた。二年も日本で受験勉強に苦しんでいたのがばかみたい。もっとも他の日本からきた人々がすべてそううまく行くかどうかは保証の限りではない。
この伯母さんはロスの市長でさえ一目おく特殊な存在で、神通力《じんつうりき》で通してくれたのかもしれない。ただし無駄に人を遊ばせるのは大嫌いらしい。
「ユーにはミーの二代目になってもらわなくちゃならないからね。今日からもう仕事を手伝ってもらうよ」
ウイルシャー通りの途中の、右に曲って少し入ったところで車を止めると、三階建ての建物に入って行った。
「裕子ちゃんは何回も来て知ってるからもういいね。哲ちゃんに紹介する人があるから。ここは市の監察院だよ。モルグがあるのよ」
モルグが何かぼくはまだ知らなかった。
ぼくだけ連れて中へ入って行く。
地下へ降りると、急に気温が下ってTシャツ一枚では寒い。ぶるっと震えた。扉をあけて入ると、ずらっと、木の台が並んでおり、上に裸の死体《コルプス》がおかれている。何人かの解剖医がメスをふるっている最中だった。
「やあー、ドクターノブチ。今日は何か不審の死体が出てきた」
ちょうど黒人の大男の傷だらけの裸の死体を縦に割《さ》いていた中年の男がマスクの顔を上げていった。
「今日はまだ来ないね。でもぼくの予感では、もう二、三日で一つ来る気がするね。それも若いきれいな女ね」
彼の日本語はアガサよりもっとあやしい。
「それじゃ入ったら、まっ先に教えてね。怪しい死体がミーの飯のタネだからね」
「OK、アガサ」
血のついた手袋に、アガサは平気で握手した。ぼくは温かい太陽の世界から、いきなり死の世界にひきずりこまれ、血の匂いとむき出しの臓器に吐気がこみ上げてきて困った。
「ドクターに紹介するわ。今度東京から来た甥でね。当分、私の助手として使い、行く行くは二代目にするつもりよ」
「OK、OK。グッドラック」
ノブチと呼ばれた解剖医はそう答えて、血のついた手袋をつき出して、握手してくれた。
外へ出ると急にアガサはいった。
「あの死体見てたら、何だかステーキが喰べたくなったよ。この近くのシズラーという店がうまいそうよ。行きましょう」
車で待っていて中の死体の列を見ていないから裕子は平気だ。
「ああ嬉しい。伯母さんごちそうさま」
シズラーの店はそこから七分もしない街角にあった。よくしゃべり、よく喰べる二人の女に挟まれて、ぼくはできるだけさっきの情景を思い出さないようにして、無理に口の中へ赤い肉の切れをほうりこんだ。
再びフリーウェイを、二トンもある鋼鉄車が、胴体をゆるがせ、猛烈なエンジン音をたてて走って行く。周りの車を次から次へと追い抜く。後ろの席からスピード計を見たら、八十が出ている。
「こんな古い車でもよく走りますねー、八十キロ出るんですか」
「ノー。哲ちゃんはばかだねー」
かわいさあまってのことらしいが、その後この伯母と暮している間いつも心にひっかかる言葉になった。
「……ディスイズ、マイルね。キロなら、メイビー百三十キロよ。昔は町の真中を機関銃積んでエブリ二百で走ったもんよ。何しろ死んだパパのマルセルが、この町のマフィヤの支部長で、スロットマシンや、女の体売る、こちらでいうボトム、ああ何ていったっけね、あの商売」
「バイシュンです」
「ああバイシュンね。その取り締りのボスのとき、二万ドルの金出して作った車よ。この扉もガラスも、ライフルの弾丸がジャンプして中へ入らない強さがあるのよ。代りにガス喰うね。でもどこのスタンドもこの車がつくと、たっぷり入れてノーマネーOKよ。うっかりミーから金とったら、明日からロスでは営業できなくなるからね」
だんだんこの伯母が無気味になってきた。
ダウンタウンでフリーウェイを下りると、すぐ、日本人街の小《リツトル》東京だ。その中心のばかでかい駐車場の一画に巨大な車が納まった。
「伯母さん、ありがとう。あたしアルバイトがあるから、これで失礼します」
裕子は下りるとすぐ、飲食店の並んでいる方に駆けだして行った。伯母が教えてくれた。
「牛丼屋でアルバイトしてるんだよ」
「こちらにも牛丼屋があるんですか」
一つ三百八十円。ここ一年予備校の帰りには、ぼくもずっと愛用してきた食事だ。
「ああ今、ベリベリ、ロスで人気があるのよ。ビーフボールといってね。ただ黒人の客は、米が浮ぶほど醤油をかけて喰べるから、採算が合わなくて、どこも困ってるよ」
二人でこの小東京の中心を横切って、裏通りにあるホテルまで歩いた。
その間何人もの、日本人や、白人とすれ違ったが、みんな向うから挨拶し、そのたびにアガサ伯母は一々、ぼくに教えてくれた。
あれは有名な空手の先生だけど、油断して弟子に殴られ昏倒《こんとう》して失業中だとか、あの女は修道女の恰好《かつこう》で、目を伏せて祈って通りすぎたけど、白人専用のコールガールだとか、あの腹巻きのおっさんは、ロスのフーテンの寅さん≠セとか、交友の広さは大変なものだった。
ホテルは赤煉瓦の六階建てでかなり古い建物だ。入口のガラス戸に、金箔《きんぱく》の片仮名の字で『ワシントンホテル』と書いてある。その字が薄汚れたこのホテルの外観とともに、何となく品の悪さを示している。
伯母は見上げると感慨深げにいった。
「ここにもう二十年も住んでるんだよ。だけど一、二年のうちに、このホテルは取りこわされるらしいよ」
「なぜですか」
「小《リツトル》東京を、新しい町に変えるためには、邪魔になるらしいよ。何しろこの町の日本人の吹きだまりだったからね」
六十室もあるかなりのホテルだが、値が安いために、普通の宿泊客は少い。近所のレストランのコックや、皿洗い、ウェイトレス、それに仕事のない旅行者崩れの居坐りの客が多く、懐《ふところ》の豊かでない連中のたまり場になっている。
「あそこにいる連中がいやがってね」
くるりと振り返ると、今、建設工事中のビルが道の真向いにあった。
「JCC、ジャパン・カルチャーセンターいうビルなのよ。ここの一世、二世の成功者が、日本の文化や国力を宣伝するために建てたのよ。バト《でも》、土地のアメリカ人は交通事故ビルというとるよ」
ビルの前の三角のコーナーに、大きな銅像が建っている。こんな乱暴な銅像をぼくは見たことがない。昔のちょんまげ姿の少年が背中に木の束を背負っているのはいいのだが、顔の前に本をさし出して読みながら歩いている。思わず叫んだ。
「あぶない! あれじゃ自動車にひかれてしまう。それでなくても電信柱にぶつかって、ごっつんこの|たんこぶ《ヽヽヽヽ》だ」
「アメリカ人がみんな笑っているのを知らないのはビルに住む奴だけなのよ。これじゃミーがいくら努力しても、日本人はますます誤解されるだけだよ。ロスヘ自殺しに来たのかって」
「一体誰なんです、あの人」
「さあー、ミーにも分らんね。何でもむかし大金持になった人の銅像だということを、東京から来た人が話しておったよ」
伯母はかんたんにそういった。
伯母の部屋は四階にあった。広さはたっぷりとしていたが、寝台は大きいダブルが一つしかない。さすがに伯母も少し気にしていった。
「パパに死なれてからは、他に家族なかったしね。あんたのママの連絡が急だったからね、ベッドを買う時間なかったのよ」
「毛布があれば一人で床に寝ますよ」
「ノー、風邪でもひかしちゃ申しわけないよ。並んで一緒に眠るのよ」
いくら伯母でも何となく気がひける。
「外に日本の食堂があるから、うどんでも寿司でも、ゆっくり喰べておいで」
「伯母さんは」
「ミーはここで眠る前に少し自分だけの楽しみがあるからね」
と追い出されてしまった。
一階のロビーでは、仕事を終えて帰ってきた人がてんでに長椅子に坐って、夕方の雑談を楽しんでいた。黙って通りすぎようとすると
「やあーあんた、アガサ親分の甥ごさんだってね」
早速話しかけられた。こんなホテルだ、もうぼくのことはすっかり、みんなに知れわたっているらしい。
「はい、そうです」
「まあーゆっくり坐って話して行きなさい。ここではアメリカに関する生きた学問が学べる。UCLAよりずっと役にたつよ」
そういわれて、早速仲間に入れてもらった。
彼らは今まで話していた話題に戻った。この国では日本人が三人以上集ると、必ず査証《ビザ》の話になるらしい。ここも同じだった。それはつまりいかにして、この国に長くいるかの方法論である。身装《みな》りのいい中年男が、かなり断定的な口調でいった。
「そりゃー結婚するのが一番ですよ」
どうも彼はホテルでは新人らしい。注目した人々にまず自分の身分を長々と紹介しだした。何でも通産省のエネルギー関係の課長で、本来は道路を隔てて斜め向いにある白亜のホテル・ニューオータニに泊るべき身分であるのだが、別な研究があって、出張のために貰ってきた以上の費用がかかるため、わざとこの格安のホテルに泊っているんだと弁解した。その上でまた自説を展開しだした。
「黒人でもメキシカンでも、死に損いの婆さんでもいい。市民権を持っている女と結婚すれば、即、永住権がとれる」
ぼくは、そのときまだ彼の別な研究がどんなものか知らなかったので正直に
「何を研究しているんですか」
と訊くと一斉に起った笑いの声の中から
「ポルノ映画だよ」
と誰かが教えてくれた。
自称課長は再び能弁をふるいだした。
「簡単にポルノ映画というが研究しだすと実に奥が深いんだ。特にアメリカはすべてむき出しだろう。しかも毎週何本もの大作が封切られる。どーんと出して見せたからってそれだけじゃ客は集らない。第一に美しい女と美しいセックス。二に激しい場面とそれを盛り上げる音。三に納得できる筋。これだけは揃わないと作品とはいえない」
感心してぼくは聞いていた。
「知ったかぶりの評論家が、アメリカでは、もうポルノは飽きられて、劇場にはいつも五、六人の客しかいないというが、そんなことは、体制側の宣伝で真実ではない。いつも八分の入りはある。封切りで二本立て、セカンド興行で四本立てで二ドル。一番安い娯楽だからファンは多い。何しろ四本となると八時間ぶっ通しのピストン運動だ。これは忍耐力の問題になってくる」
話は査証問題からポルノに移ってしまった。
一人がこのポルノ通に尊敬のまなざしできいた。
「課長さんがこれまで見た映画の中で一番面白かったのは……」
「諸君は実に運がいい。今週ブロードウェイの、プッシイキャット劇場で、最高の傑作をやっているよ。〈ジャマイカの熱風〉という海賊物だ。丸髷《まるまげ》に振袖《ふりそで》の娘がセリ台に立たされて、帯から順に脱がされて、腰巻きをとられたところでカットのチョイ役だが、きれいな娘さんでね。何だか淋しげな哀れを誘う表情がまた悩ましくてね。猛烈なファック場面よりずっと昂奮――」
といいかけて突然彼はその口を開いたまま目を一カ所に凍らせて黙ってしまった。ぼくも周りの男たちも、開いたまま閉じない口に、彼が急に脳溢血の発作でも起したのかと心配した。
彼の視線は入口の扉の横にある、ボックス型のフロントに固定したままだ。外から入ってきた若夫婦が金網のボックスにいる老人に宿泊の申込をしていた。その若妻は少し哀愁を含んだ瞳がぬれて、はっとするほどきれいだった。
課長はあたふたと消え、ロビーのおしゃべりも気まずくなって、自然に解散した。若夫婦は何も知らず部屋に入って行く。
ぼくは腹がすいてきたので、裕子がアルバイトしている牛丼屋に入るつもりで外に出て店を探した。狭い町である、すぐ分った。
店には客は誰もいない。隅の台所《キツチン》との境ののれんの下で、男女が抱き合って強烈なキスをしていたが、ぼくが入ってきたのを知って、ぱっと離れた。一人が金髪のハンサムな青年で、一人が裕子だった。二人とも牛丼屋の店名が入った袢纏《はんてん》を服の上にかけていた。あわてて唇を拭きながら出てきた裕子は、ぼくがカウンターに坐っているのを見ると
「わあー嬉しい。哲ちゃん来てくれたのね」
といった。何が哲ちゃんだ。ぬめぬめ光っている唇を睨《にら》みつけたが、まるで平気で、ぼくの耳もとに口を押しつけ、甘い息を吹きかけながらいった。
「本当に白人の男っていやらしいんだから。人がいないとすぐキスするの。逆らうとTシャツ破かれるから、我慢してさせているの。本当はあんな奴大嫌いなの」
それにしては抱き合っていた二人の姿は真剣すぎた。
わざと彼女の言葉には返事もせず、牛丼一つ、ごく無表情に注文し、黙々と喰って勘定払って出てくると、裕子はやはり悲しそうにして見送っていた。ぼくもちょっぴり悲しかった。
部屋へ帰ると、何だか薬草に煙草をまぜたような甘ったるい匂いが充ちている。空港で最初に嗅いだ伯母の体臭にもこもっていた匂いだ。
ベッドのふちにもたれかかっている伯母が手製のパイプをさしだした。
「哲ちゃん吸ってごらんよ」
「何ですか」
「マリファナよ。害はないから。いい気分になれるわ」
伯母は、下着丸見えのすけすけのネグリジェ一枚でベッドの足によりかかり、ぐったりしている。気分がいいらしい。
「初めはしゃがんだり、立ったりしてゆっくり体を動かしながら吸うと、ソフトに回ってきて、よく効くよ」
「いや止めておきます。煙草も吸ったことないんです」
ぼくはパジャマに替え、決して二人の間に不倫な関係が起きないようにと、毛布を体中に強くまきつけると、大きなベッドの壁際に身体を丸めて寝た。
時差を無視して、もう二十時間以上起きたままだ。ストンと落ちこむように、ぼくは寝入ってしまった。
かすかに夢の中で、ピストルの音がし、パトカーが走り、人が騒ぐ声もきこえた。
警官たちが階段を駆け上がり、ぱっと飛び起きたアガサ伯母が、枕の下のピストルをとって、スラックスのポケットに入れてから、ぼくの尻をいやというほど叩《たた》いた。
「哲ちゃん起きなよ、事件だよ」
B WHERE IT AT ONE ……事件の核心は一つ……
ピストルが入った尻のポケットを掌で押えながら、アガサ伯母が廊下へ飛び出す。ぼくも大急ぎでジーパンをはいて出た。深夜だが突然の事件に、みな扉をあけて首を出している。すでに階段の前には三人の日系の刑事がスクラムを組むように立っていて通れないようにしている。ひがんで考えるわけではないが、ぼくにはそれが、アガサ伯母の通行を止めるための措置に思えた。
果して三人が両手を拡げてストップした。
「伯母さんだめだめ」
「何があったんね。同じホテルの客《ロジアー》として黙っていられないよ」
「これはうちの捕物じゃないんです。移民局《イミグレ》の問題だからね。警察はただヘルプしているだけなんですよ」
伯母は口惜しそうに言い返した。
「花のアジヤ機動隊も移民局の下走りとは、随分値打ちがドロップしたもんね」
ロス警察には、日本人を中心にした東洋系の人々の犯罪を専門に捜査するため、日系二世の宮武刑事を中心とするグループがある。五人ばかりの小さな班にすぎないが、自分らでアジヤ機動隊と勝手に称し、小《リツトル》東京の五百メートル四方の狭い区域の中を、肩で風を切って歩いている。
日本にいるとき、ぼくは若者向けの雑誌でその活躍を読み、どんなに華やかな存在だろうかと、ひそかに憧れていたが、現実には、みな二世特有のピントの甘い顔をしている刑事ばかりで何だかがっかりした。
「アガサさん。あんたにはいつも苦《にが》い汁のまされているからね。今度だけは遠慮してもらうよ」
アガサ伯母がその刑事を睨みつけていると、上から足音がして、大男の二人のアメリカ人に両腕をかかえられた小柄な日本の女が下りてきた。足は宙に浮いて、階段に届かない。その顔には見覚えがある。
昨日の夕方、新しい客としてやってきた二人連れの女の方であった。女の瞳は大きくて美しく、やや愁《うれ》いのあるその顔だちは妙に男心をひきつける。
しかし、どんな美女でもイミグレに捕まったら、もう日本への強制送還は免れない。CIA、警察、保安官、このアメリカで人民を取締る機関は沢山あるが、ここほど融通の利かない冷酷な役所はない。
だからこそ、この土地に住む日系人は、お互いに自分の旅券の査証《ビザ》は秘密にしながら、相手の査証についてさぐり合う。もし徹底的に調べられたら、ホテルの中の九割までが、不正《もぐり》だろう。手入れを喰った人が不運なのだ。アガサ伯母が不思議そうにいった。
「ミーの知らないニューフェイスのギャールだね。いつ来たんだろう」
もう二十年もこのホテルに住んで主《ぬし》みたいになっている伯母には、顔を知らない子がいたということの方が珍しいことらしい。
「きれいな娘《こ》だねー。女好きの男だったら、きっと見ただけでのぼせるね。誰が密告《さし》たんだろう。別に居ても何の害もないのにね」
しかしイミグレ問題では、自分が出る幕がないと悟ったのか諦《あきら》めて、部屋へ戻ろうとした。そのとき転がるように男が下りてきて、イミグレの役人の大男に抱きついた。
あたりはばからぬ日本語で
「お願いだ。妻を返してくれ。愛しているんだ。連れて行かないでくれ」
どなりながら泣く。二人の大男のアメリカ人には、こういうことは今までしょっ中であったろうが、それでもこの大げさな号泣には、困った顔をしていた。女もまた涙を一杯たたえた目で夫を見つめている。女の方が度胸は坐っているようだ。
だがアガサは、人の心を見すかすようなきびしい目で、その夫の方を見てから、意外に冷たい口調でいった。
「とんだ愁嘆場のクライマックスだね」
男を腰にぶら下げたまま、かまわずにイミグレの大男が下におり、前後を警戒していた刑事たちも一緒に下へおりると、階段の入口で通行を阻止していた三人の刑事も、彼らに続いて下りて行った。表に待機していたパトカーがエンジンの音を、派手にふき上げた。
上からネグリジェの上にガウンをまとった裕子が下りてきて声をかけた。
「伯母さん何があったの」
「もぐり査証《ビザ》よ。誰かが密告《さし》たんよ。明日はちょっと手伝ってくれるかい。ミーにはこのアクシデント、ちいと匂うんよ」
ぼくらはまた部屋へ入る。壁際へよって毛布を巻きつけて眠ろうとしたぼくを、上から抱きしめてきたので、ちょっとぎくっとしたが、頬にキスしただけで伯母はいった。
「哲ちゃんの査証《ビザ》も早いとこ直しておかないとね。一人もぐりが挙げられると、どうもその後で一斉をやられることが多いんよ」
いい終ると、くるりと振り返って、すぐに軽いいびきをたてて眠りに入ってしまった。
深夜のアクシデントで、次の眠りに入るのに少し時間がかかった。それでぼくが目をさましたときは、あたりがすっかり明るくなっていた。すでに伯母は着替えて、サンドイッチにコーヒーの朝食を用意してくれていた。
コーヒーのいい匂いが部屋中にただよう。これまでぼくは伯母のことを、何も家庭のことなど、できない女だと勝手に考えていたのが間違いだと分った。
部屋もきれいに片づけられていた。朝食をすますと命令が出た。
「昨日の事件どうもおかしいよ。すぐに調べにかかるから、上から裕子ちゃんをコールしてお出で。だけど|女の子《ギヤール》の部屋《ルーム》へ行くんだから、ひきとめられても、ぐずぐずするんじゃないよ。あの程度のギャールは、ロスにははいて捨てるほどいるからね」
そういわれても、好奇心は別だ。張りきって五階の五〇七号室をノックした。扉があいて、昨日と同じ短いジーンズのスカートにTシャツの裕子が顔を出した。
「伯母が来てくれって」
「ええ、今行くわ。でもその前にちょっと」
といきなり扉をしめられ中へひき入れられると唇を押しつけられた。さすがに娘一人の部屋らしく、かわいく整頓されている。机の上の日本人形は藤娘だ。柱からは小熊の縫いぐるみがぶら下っていて、壁にはディズニーランドのミッキーマウスの帽子がかけてある。
「もっと情熱的にしびれさせてくれなくちゃいや」
なぜぼくが彼女にキスしてやらなくてはならないのか、理由は分らないが、まあー別に悪いことではないので、一応望みはかなえてやった。やっと唇を放すと裕子はいった。
「これで私の気持分ったわね。あの金髪のボーイとは何もないの、信じてくれるわね」
そんなこといったって無理だ。彼女の気持はまだまるで分らないし、金髪の子と何もなかったことをこのキスで信じろというのは、明らかに論理のすりかえだ。でもあえてさからわずに、二人でアガサ伯母のところまで戻った。
「すぐ出発だよ。朝のうち少し聞いて回ったら、ますますこのアクシデントがおかしいのが分ってきたよ。それにミーには別に心配なことがあるんよ」
とせきたてられた。
三人は『小東京大駐車場』という看板の駐車場においてある五六年型の、装甲車のようなキャデラックに乗りこんだ。伯母が席を指示しないのをいいことに、ぼくは裕子と並んで後ろに坐った。セル一発で例のように巨体は胴ぶるいしだした。伯母の運転する車は、猛烈な勢いで、ダウンタウンヘ飛び出して、昼でも酔っ払いがひっくり返っている黒人街の真中を通り抜けて、ブロードウェイの方へ向って走りだした。裕子は、ぼくの手をしっかり握ると耳もとでささやいた。
「あたし、飽きるまでは、カーッとのばせるたちなの。しばらくユーのことは愛せそうよ」
間もなく両側は賑やかな商店街になった。ブロードウェイの通りに入ったらしい。靴屋と電気器具屋がやたら多い。伯母がハンドルを握りながらいった。
「このへんをジャンク街というんよ。|ごたまぜ《ヽヽヽヽ》っていう意味だね。みんなマフィヤとつながりがあって、うちのマルセルが生きていたときは、毎夜、売り上げの|一 割《テンパーセント》を取りに行くのがミーの仕事《ジヨブ》だったよ。それをまとめて七丁目にある本部に夜の十二時までに届けるんよ」
「もし払わないと、どうなりますか」
「店に一人も客が入れないように、表に子分が立って追い払うんよ。三日でつぶれるよ。その代りちゃんと納めた店には、よその客でもひっぱってきてくれるよ。お互いに売り上げが多い方がいいからね」
伯母はチョコレートとダンスが好きだったので、敗戦後は、自分で進んで進駐軍相手のダンサーになった。やがて下士官で従軍していたイタリー系の若者と恋をして、彼の除隊とともに一緒にロスヘ来て結婚した。その後で夫がマフィヤの中では有望な中堅幹部と知った。夫のマルセル元軍曹は、カリフォルニヤを支配するマフィヤ支部の中で、みるみる頭角をあらわしてきて、すぐにロスのトップになった。
十年前の一九七〇年代の始め、夫のマルセルは、FBIの弾丸に倒れた。組織防衛のための壮烈な戦死だったので、以後、伯母が他の男と結婚しない限りは、中堅幹部の待遇と月給が出て、彼女の身辺はいつも地区のマフィヤによって保護されている。
キャデラックは、六丁目でぐるりと右回りして、ヒルズ通りを五丁目に上り、公共駐車場に入った。目の前がすぐ劇場で、屋根の上には、女が短いパンツから出した長い肢を空中にはね上げている絵看板があり、そばに飾り文字で、プッシイキャット劇場と書いてある。意味は今はぼくには恥しくてちょっといえない。まさかと思ってついて行くと、伯母は三人分の切符を買った。
入口の扉は二つあり、トイレのように左側にはレディと書いてある。伯母は何も書いてない方から平気で入って行くが、中へ入ってみれば同じ平土間へ出て、なぜ区別されているのか、理由が分らない。中にはアベックも多くて、八分の入りだ。空席に三人並んで坐って改めて画面を見て、とたんに裕子が「キャーッ」と悲鳴をあげて、ぼくの肩に顔を伏せた。体が細かく震えている。
シネマスコープのスクリーン一杯に、芯軸の上下運動が写っている。それから三時間近く中にいたのは、入ったとき二本立ての別な方をやっていたからだ。肝腎のワンカットが出てくるまでの三時間のうち、正味二時間は単調な上下運動のアップで、前日、あの研究家の自称通産省の課長に、謡《うたい》や長唄、ベートーベンを聞くつもりで忍耐しろと注意された意味がよく分った。
やっとあの人は出てきた。大勢の婦人が海賊に捕まって、セリ台に上げられて売られる。その女奴隷の中でただ一人の、着物に日本髪の女がやはり彼女だった。売り値を上げるため上から一枚ずつ脱がされて、全裸にされるのだが、場面はそこで終り、セックスまではなかったのが、同じ日本人としては、救われた思いであった。
ぼくらは午後になって、映画館からふらふらになってホテルに戻った。裕子は怒ったような顔で
「こんな日に学校へなんか行けるはずないわ」
といって自分の部屋へ入ってしまった。
伯母とぼくはまた部屋へ戻った。ぼくは白昼の映画見物でしばらくぽうっとしていたが、伯母は何かをかぎあてたらしい。
しばらく窓際のソファーでじっと考えていたが、突然口を開いた。
「哲ちゃん、すぐに六階に行ってあの亭主がいるから『あんたもイミグレに狙われているらしいよ。ここの主《ぬし》のアガサにパスポート預けておいた方がいいよ』といって持ってきてしまいなさい。どうせもぐりに決っている」
「はい」
ぼくはすぐ六階へ行った。しょんぼりしていると思ったら、一人でのんびりとカードを切っていた。ぼくがアガサ伯母の言葉を伝えると
「そらすまんことです」
とすぐにパスポートをさし出した。
部屋に戻ったとき、伯母は電話を耳にあてていたが、その目には涙があふれて、拭おうともせずに聞き入っていた。しばらくして受話器をおいたのをみて、ぼくはパスポートをさし出しながらきいた。
「どうしたんですか」
「あの女の人、今ちょっと前に死んじゃったよ。イミグレの独房に入れられていたんだけど、密告者の手紙を見せられたらしいんだよ。筆跡に心あたりがあるかと、係官が聞いたら悲しそうにうなずいた。係官が去った後、スカートの布を破いて、手でよって紐にすると、鉄格子のはりにかけて首を吊ってしまったんだって」
あまりの突然の死にぼくも物も言えないでいた。
「イミグレには死体置《モルグ》場はないので、今夜中には監察院に移されて司法解剖するのよ。ドクターノブチの予言は当るのよ」
翌朝、伯母は起きるとすぐに六階の部屋の亭主に電話をかけた。
「あんたも死体置場での死体《コルプス》の立会人に指名されたよ。一緒に行きましょう」
ほどなく亭主がおずおずとした顔でやってきた。裕子もやってきた。四人が伯母の車で出発した。監察院で車を下りて、やや怯《おび》えた感じの亭主をひっぱるようにして入って行くと、地下へ下りるところに、係がいて防寒外套と長靴を貸してくれた。伯母はいった。
「裕子は必ず長靴をはきな。腰が冷えるよ」
死体置場の中は零度よりはかなり低いらしい。入ると体の芯《しん》まで冷えこむ。
ノブチが出てきて、伯母にいった。
「ミーはこのごろ自分でもこわいね。二十年前のマリリン来るのあてたと同じで変な予感いつも当るからね」
そして両側にステンレスの引出しが、びっしりと並んでいる部屋を案内して行く。寒さと恐怖でぼくと亭主の二人は体が細かく震えだした。
ノブチが下から二段目の引出しをあけた。
「ああ、おまえ、何も、死ななくても」
亭主はいきなり、吠《ほ》えるように叫ぶと、膝をついてかがみこみ、妻の顔を撫でようとした。
「ドン・タッチ」
ノブチが意外に強い声で亭主を制してから、死体の肩の上までおおっていた布をそっとめくった。裕子はぼくの手を痛いほど握りしめている。
女の胸や肩がむき出しになった。下は裸で形のいい乳房が半分まだ生きているように突き出して見えた。首のあたりにやや右上りになった、環状の紫色の索条痕《さくじようこん》があり、首が左にかしがって少しのびている。四人がその顔を確認すると、引出しはすぐしめられた。
亭主が弁解がましくいった。
「何も死ななくてもよかったんです。この国を一旦出されても、次はメキシコかカナダから入ってくれば、また入国できるんです。どちらか一人出されたら、必ずそういう方法で再会しようと、ぼくたちは約束してあったんです」
その亭主を冷たく見つめながら、アガサ伯母はいった。
「あんたのワイフが、なぜ死にたくなったのか。その原因はミーが必ず突き止めてあげるよ」
C HIS NUMBER IS UP ……奴の命運つきたぜ……
アガサ伯母は三日ばかりあちこち飛び回って調べていたが、三日目の夕方になってから、サインペンで便箋に書きつけると、ぼくに命じた。
「哲ちゃん、これを下のロビーに貼ってきな」
ロビーでは例のポルノ課長を中心に自殺した若妻の亭主までが加わって、寿司組合推薦のE査証《ビザ》と空手の教師用のH査証《ビザ》の、どちらが有利かを論じ合っている最中であった。ロビーの壁にはアルバイト募集や、部屋代未払者への退去通告などがピンで止めてある。その間にアガサ伯母のお知らせを貼った。
『明日、ラスベガス・ツアーあり。バス代二十ドル。パッケージ、六十ドル分のチップ。アガサ同行、丸損なし。ノーマネーもOK。参加者は当ホテルの滞在者に限る』
こんな妙な文句でも、ここにいる人にはよく分るらしい。みな喜びの声を上げた。壁の前に立ちふさがり、てんでに、スロットマシンや、キーノ、ルーレットなどのうち、どれが一番儲かるかを熱っぽく話しだした。
翌朝は七時にはゆすぶり起された。
「哲ちゃん、起きなよ。朝飯はバスで出るからね。服を着たら出発だよ」
伯母は白いスラックスに男物のワイシャツの腕まくり、ハンドバッグに二十ドル札を何十枚もつめこんでいる。ぼくはあわててズボンをはきTシャツをかぶった。
ワシントンホテルとニューオータニのある道との交叉点を越すと、ロス警察の右側に出る。そこがテンプル大通りで、まだ通勤時間より大分早いのに、何台かバスが並び、周りに大勢の人が群がっていた。三台目のバスの前に、もう裕子が立っていてアガサ伯母をみると、すぐに報告した。
「伯母さん。ノーマネーが八人、自費が二十人よ」
他のバスの周りに群がっている人は殆《ほとん》ど日系の老人ばかりである。だから三台目のバスの入口に待っている人たちの年齢が若いのが目だった。現在ワシントンホテルに居る人の半分以上が集っていた。どうもみんな仕事をサボってきたらしい。よほど面白いのか。
伯母は裕子から報告をきくと、ハンドバッグをあけた。
「哲ちゃん、八人の名前をメモしてから、このお金を渡しな」
八枚の二十ドル紙幣を出す。ノーマネーの人は、気配を覚《さと》ってす早くぼくの前に並んだ。
その中には、空手の先生や、ダボシャツに毛糸の腹巻きをして寅さんスタイルのおっさんも交っていた。ぼくは一人一人名前をメモして二十ドルを渡しながらも、なぜ一文無し《ノーマネー》の人が、ラスベガスで張れるのかが分らず、変な気分だった。しかもその二十ドルは、ステップに立っている車掌にそのままバス代として渡してしまう。裕子がささやいた。
「他のバスは近くにある有料老人ホームや、孫や子供に厄介者扱いされている年寄りが多いのよ。二十ドルで丸二日楽しく遊んで、たっぷりご馳走喰べて、帰りに運のよい人は、二、三百ドルは儲けて帰れるなんてうまい話は、他にないからね。少くともみな借りた金だけは返せるのよ」
他どころか世界中にもないおいしい話だ。八人の最後に、あの自殺した若妻の亭主も並んでいたのにはまた驚いた。
「いやあ、昨日……ハリウッドのプロデューサー連中と、夜通しポーカーをして、すっからかんになってしまったもんで。少しは資金を持ってラスベガスヘ乗りこみたいなんて、欲を出したのが運のつきでしてね」
徹夜でプレイしていたらしい。目は落ちくぼみ、無精髭《ぶしようひげ》が生えていた。二十ドルを貸してから改めて名前をきいた。男は西山と名乗り、ついでに肩をそびやかしていった。
「さすらいのギャンブラー、ウエストの山《ヤマ》ちゃんといえば、ちっとはロスで知られた男です。借りた金は決して|ションベン《ヽヽヽヽヽ》にしません」
みなを乗せたバスは三十分も走ると、ロス市街を出て、どこまでも続く砂漠の中をまっすぐ貫く一本道に出た。四時間の単調なバスの旅の間に裕子がこの二十ドルツアーのからくりを教えてくれた。
バスは昼にラスベガスに着き、明日の昼まで、二十四時間の間に、四時間ずつ六つのホテルを回る。ホテルはみな一階が賭博場《カジノ》で、客寄せサービスのため、バスで来た客に限り、十五ドル分の賭け札《ふだ》引換券と、飲食の券が一つづりになった、ファンブックという手帳をくれる。ホテルとしてはそれが誘い水になって、後は自己資金をつぎこんでくれれば、もとはとれる。ところが、ノーマネーの連中は六つの各ホテルごとにもらえるその十五ドルで何とか資金を稼ぎだして、二日間遊ぶのだそうだ。それでもカジノは損をしない。ファンブックをもらったら、次のホテルに移るまでの四時間はその中にいることになっている。客が多く入っている店は、外から景気よく見えて客寄せになるのだ。
長い砂漠の旅も終り、遠くに蜃気楼《しんきろう》のような高層ビルが見えるようになったとき、アガサは立ち上って、車掌のマイクを借りていった。
「今日はブラックジャックにサービス台をもらったよ。二万ドルまで出すそうよ」
アガサ伯母の死んだ夫のマルセルは、今ではベガス一帯の大ボスになっているミッキー親分の、二十年前の直接の兄貴分だった。アガサが連れてきた客は疎略に扱わないのだ。
「ブラックジャックが上手な人がいたら、みなの十五ドルのサービス券預って張ってみないかい。十五ドルを百ドルずつにして返したら、後は自分の取り分だよ」
ゆっくりと乗客を見わたした。スロットマシンやルーレットと違って、ブラックジャックは手札さばきに年季がいる。素人ではできない。
「それ、自分にやらせてもらえませんか。女房に墓を買ってやりたいもんで」
あのさすらいのギャンブラーを自称する男がすすんで申し出た。アガサはうなずいた。
「ああ、あんたやってくれるかい」
いつもは、フェアモントホテルのカジノから回るのが、きまりのコースなのだが、この日は直接、ミッキー親分が経営するスリークイーンホテルの玄関へ、バスが着いた。ビキニ姿の若い白人の娘が立っていて、降りてくる客を抱きしめてキスしてから、十五ドル券と、飲食物の無料券とがついたファンブックを手渡した。アガサの指示で、二十七人がその最初のページの十五ドル券をちぎって、西山に預けた。自分のとまぜて二十八枚、四百二十ドル分を持って、西山は台に向った。普通、他人のサービス券は使えないのだが、美少女のディーラーは、文句をいわない。後ろにアガサが立っているからだ。
西山は堂々と台に坐った。さすがに自称するだけある。カードを切る手つきも見事だったし、張り方の度胸もいい。今までのうらぶれた姿は瞬間に消えて、体中にプロの貫禄が身についていた。バスの全員が周りに立って感心して見ている。
西山が二枚引いて出す。数は不定だが、必ず三枚目を思いきって引き、どんぴしゃと二十一の数に合せる。天性のギャンブラーであった。取った金は全額また張るから、みるまに四百二十ドルが、四千二百ドルになった。
十五分もかからなかった。
いくらアガサが根回ししてある勝負と思って見ても、ぼくも裕子も、その見事なカードの捌《さば》きぶりには、お互いにしっかり握った掌が、じっとりと汗ばんでしまったぐらいだった。西山は、その四千二百ドルの中から、二十七人に百ドルずつ返して、借金をきれいにした。残った千五百ドルで、いよいよ自前の勝負を始めだした。
目はまるで豹のように光り、体中に精悍《せいかん》な気魄がみちてきた。強敵を前にして、武者ぶるいしている戦士だった。それぞれ資金が百ドルずつ増えたアガサ・ツアーの仲間は、自分のプレイに行くことも忘れて、西山の見事な手付きを注目していた。
アガサ伯母は彼の耳もとにささやいた。
「二万ドルまでは責任もつわ。それでいいお墓買えるよ。それから先はユーの持ち運ね。リミット越したら、ストップした方がいいよ」
一階にある一般客用の賭場では、普通は五百ドル以上のチップが動く勝負はやらない。
だがこの台には、カジノ側が、その大勝負を特別に承認した証拠に、真上の天井に赤いネオンがついた。
他の台の人々も、そのネオンで大勝負が行われることを知ってみな周りに見学に来た。
西山は三度つづけて勝った。千五百が三千から六千へ、そしてまた倍で一万二千ドルまで行った。あまりの勝ちっぷりに、彼が三枚札で二十一点のパーフェクトを出すたびに、周りからどよめきの声が起った。
ここで人気女優ブルック・シールズそっくりの美少女がひっこみ、ワード・ボンドそっくりの腕っこきらしい中年の男に代った。西山の持つ一万二千ドルは、日本円で二百九十万円だ。やめとけばいいのにと、気の小さいぼくはしきりに思った。
そのとき天井の赤いネオンが、三度またたいた。裕子がすぐ教えてくれた。スリークイーンホテルだけにあるルールの『マーカー』のサインだ。
二十一点どんぴしゃのパーフェクト勝ちの場合、賭け金の倍返しで、持ち金が三倍に増える。ただし親が二十一点で勝ったときは、相手は賭け金と同額を手持ちの資金から更につけ加えて払わなくてはならない。もっともギャンブル性の濃いルールで、プロが熱中する。このマーカールールがあることで、スリークイーンは特に人気があるのだそうだ。ただし受けるのも断わるのも客の自由だ。
西山は
「OK」
といった。どっとまた拍手が起った。良い度胸だ。アガサ伯母もさすがに心配になってきたらしく、耳もとでいった。
「五千ドルだけ賭けなさい。そうすれば、勝って二倍返してもらって合せて二万二千ドル。お墓は買えるよ。負けても持ち金の中で払える」
西山は表情も変えずに答えた。
「プロは負けることは考えません」
伯母は黙った。
彼は全額を賭けた。たしかについている。すべてパーフェクトでマーカーを取る。三万六千ドルになった金が二度続けてついに、三十二万四千ドルになった。周囲は只|唖然《あぜん》としている。一万ドルの黄金のチップが三十二枚、七千六百万円分だ。
彼はまたその三十二万ドルを全額張った。誰も次のパーフェクトを信じていた。勝てば九十六万ドル、約二億円だ。
手札が配られた。西山の札はまず二枚で十五点であった。親のディーラーは、今度は二枚だけとって、なぜか三枚目をひかない。これはかなり高い点を持っていることになる。しかし|K《キング》・|Q《クイン》・|J 《ジヤツク》、どれでもすべて十点だから二枚で二十一点のはずはない。西山は自信を持ってもう一枚をひいた。七点以上出たらゼロになる危い橋だが、必勝の信念はゆるがない。出たのは五点だった。合せて二十点だ。
悪くても引き分け、ほぼ勝利は決った。西山はほこらし気に札を表に返して置いた。
親は黙って二枚の手札を返した。|K《キング》に|A《エース》。|A《エース》だけは一点が十一点に変化する。二十一点で今度は親のパーフェクトだった。
「そんなばかな」
西山は唸って呆然と相互の札を眺めた。持ち金ゼロになっただけでなく、スリークイーンルールのマーカーをOKしているから、もう三十二万ドル払わなくてはならない。カジノでは金が無いではすまない。血の気が失せた彼は、アガサ伯母を見ていった。
「どこからかちょっと借りられませんか。一万ドルばかり。二、三回でこんな損は取り返しますよ」
伯母は柔らかく首を振った。
「ここにいてもしようがないから別室でゆっくり相談しましょう。本来なら損失に対しては清算がすまないと、テーブルを離れられないのだけど、後でミーが謝っておくよ」
あまりのショックで、もう自分では起ち上る力のない西山の体を、伯母に目配せされた空手の先生が抱え上げるようにした。
伯母と一緒に、ぼくと裕子、西山と彼を抱える空手の先生の五人が地下室へ下りるエレベーターにのったときは、何だか地獄へひきずりこまれるような気分がした。地下四階の廊下に立って待っていた黒服のマネージャーがうやうやしく挨拶して、伯母がいう別室へ案内してくれた。奇妙な部屋だった。
片方の側に大きなガラス窓のしきりがあり、高校のとき見学に行ったラジオのスタジオによく似ている。伯母はガラス窓を拳《こぶし》で叩いてみせた。
「このガラスは特別製で、ピストルの弾丸が当ってもはじき返すのよ」
部屋の中は、じゅうたんも壁も、テーブルの塗りも真赤、少し坐っていると、気が狂いそうになる。
テーブルには、既に豪華な料理が用意されていて、ワインも上等のものが出された。腹もすいていた。
「ともかく食事でもして気を落ちつけるんよ」
そういって、伯母は全員にワインを注ぎ、乾杯した。ぼくらはその真赤な部屋で食事をしだした。だが西山は今の負けが気になるのか、半分も喉に通らない様子だった。やがて彼がきいた。
「この三十二万ドルの処理はどうすればいいのでしょうか」
伯母はしばらく黙って食事をしていたが、一皿が片づくと、やっといった。
「ユーの生命で決済するしかないよ。賭博場《カジノ》側も、ユーのボディに三十二万ドル分の価値があるとは考えてないけどね、弁償する財産がない以上、生命で払ってもらうより仕方ないだろうね。ここはそのための自殺室だよ」
いやにあっさりいうと、それまで葉巻でも入っているのかと思っていた、テーブルの真中の赤い箱をあけた。中に小型の拳銃が入っていた。
「弾倉に一発だけ入っているよ。心臓にあてるのが確実だけど、耳の孔へあてた方が苦痛が少いという説もあるよ。それでは落着いて決済するんだね」
伯母は西山に向って丁寧に一礼すると、ぼくらを連れて部屋を出て行った。
ぼくらはガラスの外で決済を見守ることになった。さすがの西山も顔に手をあてて泣いている。裕子も泣き出した。
「伯母さん何とかならないの」
「あいつはね」
伯母の顔には憎しみがむき出しになった。
「もぐり査証《ビザ》を密告したら、移民局《イミグレ》から五百ドルの報奨金が出ると知って、ばくちの借金に切羽つまって、密告状を書いたんだよ。ポルノ映画にまで出て夫に尽していたかわいい純情なワイフを裏切ったんだよ」
怒りの目に涙を浮べて密告状のコピーをぼくに示した。
「哲ちゃん、この間ミーがなぜあいつのパスポートを借りてこいといったか分る」
「さあ」
「ばかだねー哲ちゃんは。パスポートのサインだけは自筆だよ。あいつの筆跡を確かめたかったのさ。あのかわいいワイフが密告状の筆跡を見せつけられ、すべてを諦めて、移民局の独房で首をつったと知ったとき、可哀そうでねー。何とか仇《かたき》をとってやりたかったのさ」
西山もやがてどうにもならない運命を悟ったらしい。
むりににっこり笑ってぼくらに手を振ると、ピストルを把み右の耳にあてた。
裕子が、全身でぼくにすがりついてわーっと泣き出した。プシュッと小さい音がガラス戸越しに聞こえ、両耳から赤い血を吹き出した西山が、テーブルにうつぶした。
第二話 殺し屋を殺せ
A HARM WATCH HARM CATCH ……人を襲えば自分も傷つく……
毎夜ぼくと伯母が軽いキスの後で、背中合せになって眠り(当然のことであるが)何事もなく過しているダブル・ベッドの柱に、古びたマンドリンが一つかかっている。
FBIとの壮烈な銃撃戦で亡くなったアガサ伯母の夫で、マフィヤの中堅幹部だったマルセルが生前愛用していたものだ。
伯母は、機嫌のいいときはそれをとり出して弾きながら唱う。マルセルの故郷のシシリー島パレルモの民謡だ。アガサ伯母が若い身空で、夫の愛だけを頼りに、すがりつくようにしてこの土地へやってきたとき、誰も知り合いがなく、心細がっている新妻を慰めるために、マルセルがよく聞かせてくれた歌だという。伯母はそれを、見かけによらぬ、いい声で、うっとりと唱う。
四、五曲唱い終ると、伯母のいう『夜のお楽しみ』の時間がくる。ネグリジェ一枚になって、M字型に股を開いてしゃがみこみ、ゆったりとパイプをふかしながら、電車のパンタグラフが上下するように、体を動かす。はいているものははいているからいいが、胸は押えていない。丸い玉がゆれる。伯母もあまり見られたくない姿らしい。
「五階へ行ってキスでもしてお出で」
と追い払う。五階には、同じUCLAへ通っている、今のところ、ぼくの只一人のギャールフレンの裕子がいる。
このごろはぼくは毎朝、裕子の持っている、赤い小型車に一緒に乗せて行ってもらう。
アガサ伯母の入学手続きの書類に一つ記入洩れがあって、入学はあっさり決ったが、最初に登校したとき、まだ学部が決っていなかった。
事務局にそれを聞かれ、どこにしようかと迷っていたら、一緒の車できて、そばにいた裕子が、自分の学んでいる美術科に、あっさり決めてくれた。だから、絵画やデザインに何の才能も関心もないのに、毎日同じ教室で学んでいる。
五階の裕子の部屋をノックした。中から扉が僅かにあいて、ショートパンツにTシャツだけの姿の彼女の顔が見えた。いつもならすぐにドア鎖を外して、待つ暇もなく迎え入れ熱い抱擁にキスの雨だが、鎖も外さずに固い表情でつっ立っている。
「哲ちゃん、こんな夜に何のご用」
何を言うのかと一瞬カッとしたが、すぐに気がついた。この冷たい態度には多少の原因がある。
今日の昼だった。美術科の同級生にペルシャ湾岸の小国で目下盛んに石油が噴出している国の王子がいた。金がうなりをたてて入ってくる。二十万ドル(五千万円)のスポーツカーを買って、今日はそれを見せびらかしに乗ってやってきた。
当然同級の女の子は大騒ぎになった。昼休み、女の子たちは代る代る乗りこんで校内を一周しては、はしゃいでいた。
王子が女の子しか乗せないのも腹がたったが、走行中、裕子は王子の首ッ玉にかじりついて、さかんにキスしていた。それがぼくには心いやしく見えたので、帰りがけ裕子の車で、小《リツトル》東京のホテルまで送ってもらったときに注意してやったら、忽《たちま》ち頬っぺたが風船のようにふくらんできた。
「これで私たちの間も終ったわね」
今その言葉を改めて行為で示したのか、ぴしゃんと荒い音をたてて扉がしまった。このままアガサ伯母の部屋へ戻る気もしない。
やけ酒を飲んで酔っ払ったら、その勢いで眠れるかもしれないと、一階のロビーヘ行った。長椅子には、空手師範の長山五段が、ロスの寅さんこと、池成と話していた。
長山五段はもとメキシコ大統領の警固隊長をしていただけあって、メキシコについてくわしい。酒の好きな池成がきいている。
「何やね、テキーラいう酒は、掌に塩とレモンをのせて飲むとうまいそうやね」
「それもいいが、パストルという焼肉をタコスで包んで喰いながら飲むのがまたいい。これがメキシコという味がするね」
ぼくはポケットの中の札《さつ》を指でさぐった。
「お話し中だけど話だけでなく、どこかへ飲みに行きませんか。二ドル持ってます」
とたんに長山が嬉しそうに立ち上った。
「哲ちゃん凄い。二ドルあったら三人で一杯三十セントのテキーラが二杯ずつ飲める」
池成もぼくの手をしっかり握った。
「二人とも今晩は一セントも無いさかい話だけで我慢してたところや。ほんに福の神や」
割り勘の仲間に入れてもらおうと思っていたのが、丸抱えのスポンサーにされてしまった。池成がしきりに弁解する。
「市場《ミート》のたつ日に必ず雨が降りよってな。あてにしてすんまへん。今度金が入ったら、このロスで最高級のナイトクラブに案内するさかい|カニ《ヽヽ》してや。あたしゃその店のフランスとベトナムの混血娘のホーという娘に惚れられまして、このごろずっと無理して通《かよ》ってまんね」
この池成の寅さんは一年ぐらい前からホテルに住みついている。肩幅のいかつい体で商売はテキ屋、四十五、六歳になる。
日本で傷害の前科《マエ》が二つあり実刑《おつとめ》ごくろうさんもすましている。今ロスにいるのも、神戸で商売していたとき、土地の支配者の山菱組の幹部と喧嘩して半殺しにしてしまい、身辺がやばくなったので、太平洋をまたぐ長いわらじをはいているためだ。
テキ屋というのは便利な商売で、その気になれば世界中どこでも喰うに困らないそうだ。特にアメリカではスワップミートといって、蹴球場や野球場などがあると、月に何回か日を決めて、近所の人が不用品を持ち寄って、広場に並べて交換する市がたつ。外部の人間でも十ドル前後の出店料を払えば店が出せる。
国籍も査証《ビザ》も身分証明《カード》票もいらない。池成は中古のピントのライトバンを持っていて、西海岸各地を日本製の玩具を売り回っている。いつも景気がいいが、雨で二、三度市が流れるととたんに無一|文《セント》になってしまう。
無一文を二人連れて行く羽目になったぼくは狭い小東京の区域を出た。周囲は黒人やメキシカンが住んでいる貧民地区で普通は徒歩では誰も通らない。しかし今日は空手の達人長山五段が一緒だから、何の心配もない。地面に寝そべっている酔っ払いをまたぎながら行くと、後ろから赤い小型車が猛烈なスピードで追い越した。長山がす早く車内を見た。
「おや、裕子ちゃんの車じゃないのかね」
車内の裕子はことさら背中を固くして振り向きもしない。しかし夜中の外出は只事でない。キスも許さずぼくを追い出してまで逢いに行く相手は誰か。急に不安になってきた。
ぼくらはすぐに飲屋が続く狭い裏通りに入った。肉を焼く煙がたちこめ、褐色の肌に、髪も目玉も黒いメキシカンがどの店のベンチにも溢《あふ》れて酔って騒いでいた。
どの店の入口にも天井の横木から、幅が三十センチ、長さが五十センチぐらいの大きさに巻き固められた肉の塊《かたま》りが吊るされている。周りはほどよく焼かれて赤い。下部が円錐型に尖《とが》っているのは、下から斜めに肉片をそぐからだ。薄くそいだ肉片は、とうもろこしの粉を焼いて作ったタコスの中に包んで出す。これがさっき長山が話していたパストルなのだろう。肉の匂いに腹が鳴った。ぼくが
「パストルはいくらで喰べられるのですか」
と長山に訊くとすぐ教えてくれた。
「ここでは何でも三十セントだ。テキーラ一杯も、パストル一皿もね」
「ぼくは酒を一杯にしてパストル一皿もらう」
取りあえず三人に一杯ずつのテキーラと、サービスの塩と薄切りのレモンが出た。その他にぼくの目の前にパストルの皿が出された。丁度三つのっている。一人だけで喰べるわけにいかない。みなも一片ずつとった。
結局スポンサーのぼくが却って一杯しか飲めないという不公平な状態になった。
二人がすぐに二杯目を注文して飲みだしたとき入口を照らしていた裸電球が切れたのかと錯覚した。黒い姿が光りの前に立ったのだ。薄い黒地のマントがひるがえり、頭には黒い鍔《つば》広の帽子がのっている。
店内の客は一斉にこの地獄の使者のような陰惨な感じの男を見つめた。誰が見ても殺し屋以外には見えない。やせた長身の大男の背中には、目ばかり光らせた若い娘が半身をかくすようにしてくっついている。しかも娘は今にもこぼれ落ちそうな大きいお腹をしている。
いきなり長山が立ち上った。
「おう! ロマン、ロマンじゃないか」
懐かしそうに手をのばす。なりに似合わぬ優雅な名を持つ男は、しばらく疑わしそうに長山を見ていた。メキシコ人が気をきかしてよそへ移り、そこに男と娘がよりそって坐った。
ぼくは目の前で黒ずくめの男を見て、見かけよりずっと老いているのに気がついた。頬や首筋の皺《しわ》は深い。何日もシャワーもあびずに旅を続けてきたのだろう。皺の底には、塩がこびりついていた。頬から顎《あご》にかけては、皺とは違う大きな傷痕が、斜めに深く刻まれ、その底にも塩がこびりついている。低い声で小僧に注文すると周りの空気が凍った。小僧の震える手でパストルの皿が娘の前におかれ、男の前には、テキーラが一杯出された。引換えのコインが何枚か銭箱へ入れられた。
長山と殺し屋風の男はコップを合せると小声で話しだした。重苦しい話し方だ。あまり楽しい出会いではなさそうだ。間に長山が少しずつ、話の内容を洩らしてくれた。
「こいつは、コルトのロマンといって有名なガンマンだった。請負い制の殺し屋でね」
池成の目は相手の貫禄を計って光る。
「小物ややくざは殺さない。金にならない。メキシコでは三年ごとぐらいにクーデターがある。そのたびに政治家、経済人、小うるさいジャーナリストが消される。大概こいつがやった。しかもいつも新政権の御用を受持つ側で働くという見通しのいい奴で、贅沢な暮しをしていた。五年前まではね」
長山は自分の鼻柱に斜めについてる傷を指でなぞった。
「この傷がおれにとっても没落の原因になったが、このロマンにとってもケチのつき始めだ。そしてもとはといえば、その娘のせいだ」
長山は大統領の警固隊長をしていたとき、同時に、国立ガナハト大学の体育学教授として学生に空手を教えていた。ところが、ある日、いつもの道場で入門したばかりの少年を相手に稽古中、あっさりと一発入れられて昏倒してしまった。じつは、ちょっとしたことがもとで、ロマンから顔に傷をつけられ、そのショックで、傷の治ったあとも右の目の外側部分の視界が失われていたのに気がつかず、死角からの蹴りをもらってしまったのだ。弟子に負けた先生は、その場から追放される。すべての地位を一挙に失い、アメリカヘ流れてきて、黒人娘のヒモでやっと生きている。
「その傷はどうして受けたのですか」
ぼくは気になってすぐ訊ねた。
「ロマンの奴も五十をすぎると、金だけでは女にもてなくなってきた。殺し屋という商売は孤独なもので、身辺に女がいないと生きて行けない。山奥のインディオ村へ行って、まだ十五だったチキータという名の口のきけない娘をだまして連れてきた」
「チキータというのはインディオ語では山猫のことらしい。昼は女中、夜は女房として愛用しているうちに栄養がいい上、男の血が入り、みる間に体格がよくなり、背がのび、ここも張り出してきた」
長山は胸の上に丸く手で形を作った。
「おれたちは二人とも高級住宅街に住んでいたが、近くに一軒だけナイトクラブがあった。おれもロマンも常連だった。ところが或る夜ロマンが山猫《チキータ》をデパートで買ってきたドレスで着飾らせてクラブに連れてきた」
「まるで映画の一場面ですね」
「うん、おれもアラン・ドロンを気取ってね、黒いボルサリーノを目深にかぶって飲んでいてね、奥の席からこの若い娘をじっと見つめてやると、いくら口のきけない娘でも五十の男のお供は辛いのだろう。強烈な反応を示しだした。何しろ山のインディオだ。貞操なんて観念は始めから皆無だ。それから数日して彼が所用で一晩留守したとき、山猫《チキータ》は一人で着飾ってクラブヘやって来た。誘ったらすぐおれの邸へ来た。裸にして抱きしめると、するりと抜け出してはじゃれて噛みつく。本当の山猫と遊んでいるようで面白かったな」
「ロマンにはそれが分ったんですね」
「山猫には罪の意識なんかない。翌日帰ってきた旦那に自分で身ぶりで報告した。怒ったこいつが、おれを町の曲り角で待ち伏せして、出会い頭に射った。ピストルの弾丸が左から顔の真中に当り、さすがのおれも血まみれで倒れた。彼は仕留めたと思って安心して逃げたが、おれの三段蹴りが恐くて逆上していたらしい。生れて初めての射ち損じだった。鼻筋を少し抉《えぐ》り右瞼をかすめただけと分り、後で仲間の笑い者となった。それがケチのつき始めで仕事がこなくなり、ひどく貧乏していると風の便りに聞いたことがある」
「射たれて以来会うのは今夜が初めてですか」
「ああ」
「宿命の対決ですね。山猫《チキータ》ちゃんもいることだし、道路に出てケリをつけませんか」
「まさか。もう恩も恨みもない。それより金があったら一杯おごりたいなあ」
池成がふっといった。
「哲ちゃんまだお釣りが二十セント残ってますやろ。わいもダイン(十セント玉)一つあるさかい、一杯もろうて四つのコップに分けて、旧交を暖めまへんか」
四分の一の酒をロマンも嬉しそうに受けとった。一口すすってから何やらしゃべる。長山がそれを伝えてくれた。
「こいつ、山猫の子供は自分の種だと、そればかり自慢している。わざと強調しているところが哀れだな。今は誰でも参加できるスワップミートで、メキシコの肩掛けや貫頭毛布《ポンチヨ》を売っている。この二、三日雨で市が流れて、いま全然金が無くて、お返しの盃をおごれなくてすまないといっている」
「そりゃー全くわいと同じや。きっと明後日のオレンジボールの市で顔を合すやろ」
「何でも近く大きい金儲けの取引があるのでそれを最後に、一切の仕事をやめて、山猫と二人で彼女の実家のあるインディオの村にひっこみ、余生を静かに送りたいそうだ」
長山の伝える言葉にぼくもうなずいた。できたらぜひそうさせてやりたい気分であった。
B JESUS CHRIST ……イエス・キリストまたは糞喰らえ……
うら若いぼくの繊細な肉体には、テキーラなんて酒は無理だったようだ。一杯と四分の一飲んだだけなのに、帰りには目が回り、腰が抜けて、全然歩けない。
多分、空手の師範と、ロスの寅さんに抱えられるようにしてホテルに戻ったのだろう。あたりがすっかり明るくなるまで、泥のように眠りこんでいた。もっとも裕子と仲違《なかたが》いした心の傷手《いたで》を忘れるためのヤケ酒であったから、僅かの金で効率よく目的を達したわけになる。
目が醒めたときは背中に伯母の体がない。一瞬どこか違う所で眠っているのかと、はっと半身を起した。すぐ安心した。伯母が一人でトーストに、サニーサイド・アップ(目玉焼)の食事をすませ、大事にしているピストルを分解して、油布で磨いていた。ぼくが起きたのを知るといった。
「近いうちに、射撃場へ行って、五、六十発射ちこまなくちゃね」
「ぼくもついて行くんですか」
「……ばかねえー。射つのは哲ちゃんよ。ミーは目をつぶって射っても狙《ねら》いは外れない。ユーにも上手になってもらうんよ。折角アメリカヘ留学したのに、一月もしないでステンレスの棺でゴーホームしたら、ママが泣くよ」
「ぼくが死ぬんですか」
「メイビー、ピストルの上手な方が生き残るんだよ。ミーとの仕事では」
二日酔いでただでさえ痛む頭がまた急に痛くなった。
「ジャンク街で、百ドルも出せば、SWの軽くていいのが入るよ。今日あたり買いに行こうよ」
頭の中で鐘が急にぶつかり合って鳴りだした。うつぶして頭を抱えこみじっとしていると、アガサがきいた。
「昨夜、黙ってどこへ行ってたの。手ぶらで夜の町歩くなんて、日本と違うんだよ。裕子のところにいるのかと思って夜中に電話かけたら、全然知らないというしね」
思い出すとぼくの胸の中は怒りで熱くなった。アメリカなどに住むと、若い娘でもこうも堕落するのか。昨夜の裕子とのいさかいのいきさつを一気にぶちまけた。
あまりのひどい愛想づかしにかっとして、結局長山五段と池成の寅さんとの三人で、メキシコ人街の安酒場へ行く羽目になり、持っていた二ドルでテキーラを飲んだ。
そこへ娘のような愛人《ノビヤ》を連れた老殺し屋がやってきた。娘の腹は今にもパンクしそうにふくらんでいた。殺し屋の名はロマンと……。
そこまで言ったとたん、アガサ伯母は話を遮《さえぎ》った。
「え、何だって、ロマンだって。顔に傷が一筋走っていて、黒い帽子をこう目深にかぶっていなかったかい」
「ヤー。その通りです。でも今はもう老いぼれていて、人を殺すのは無理じゃないですか」
「ユーの考えなど聞いていないよ。急に用ができたからといって、二人を連れておいで」
ぐずぐず寝ていたら持っているピストルでお尻を射たれそうだ。あわててジーンズをはいて飛び出した。
長山五段は同棲の相手の背の高い黒人娘と殆ど裸で抱き合っていたし、寅さんは、腹巻きにぶちこんでいる短刀をす早く抜く練習を一人で熱心にやっていた。二人をせきたて、ひきずるようにして部屋に戻った。
部屋が狭いのでアガサ伯母は、タイトのスカートを腿《もも》の中ほどまでまくり上げて、ベッドの上にあぐらをかいた。ハンドバッグをひきよせ、つっぱったスカートの布の上にぶちまけると、三枚の写真が出てきた。
「他の二人についても知ってることがあったら聞かせておくれ。金になる仕事だからね」
一枚はロマンの若いときのものだ。顔の傷が今よりナマで凄味がある。他の二人の男を見て長山五段はすぐいった。
「二人とも知ってますよ。ロマンと同じメキシカンの殺し屋です。一人はおれの道場の弟子だったが、一通りの技を覚えるとやめて殺し屋になったので破門しました。今一人のやせた方はキリストという名のもっと腕のたつ殺し屋です」
池成が感心していった。
「凄い名や。キリストが殺し屋か」
「なーに監獄でオカマ掘られすぎて、慢性の下痢便になり、いくら喰っても骨と皮なのでついた|綽名《ニツクネーム》です。それともう一つ相手を殺《や》る前に必ずロザリオに触って祈りを呟《つぶや》く」
写真にも首のロザリオが写っていた。
「一昨年二人で組んで通学バスをハイジャックして大金を奪った上、面倒くさいので学童は全部殺して、メキシコ中の怒りを買った悪党《わる》でね。その後二人とも捕まって、死刑を求刑されたはずです」
「そいつは変やな」
池成が横からいった。
「……実は、あたしゃ、このごろこの二人をよく見かけますんや。死刑囚どころか、まじめな商人ですねん。明日もし天気やったら、多分オレンジヘ来るのと違いますか」
池成のいうオレンジとは、郊外オレンジ郡にある蹴球場を利用して開かれる市《いち》のことだ。
「ミーにも明日は三人ともオレンジヘ来ることは判ってるよ。そうするように組織で工作したんよ。裕子ちゃんなんかにも手伝ってもらってね」
「え、裕子が伯母さんの仕事手伝ってるんですか」
ぼくがきくと一喝《いつかつ》されてしまった。
「哲ちゃんは黙っていな。本当にばかなんだから、何も知らないで裕子に冷たくして」
それから長山に心配そうにたずねた。
「山猫《チキータ》のお腹は本当にふくらんでいたかい」
「ええ、もう産み月です」
「そいつは困ったねー。実はこの三人、明日はみな一緒に、天国に召されることに決ってるんだよ。ミーは十万ドルで手伝ってるんよ。若い二人はどうせ死刑になる悪党《わる》だからいいけど、山猫《チキータ》のお腹は困ったね。一緒についてくれば彼女も蜂の巣になるよ」
長山が心配そうにいった。
「山猫は無邪気な娘だ。何とか逃がせませんか」
「私も同じ女として女は殺したくないねー。女はこの世の太陽、いつも大事にしてやらなくちゃいけない尊い存在よ」
伯母もロスでは名の知れたアガサだ。腕を組んでじっと考えこむ。ロンドンの、ウォーリングフォードの自宅で、五、六年前に死んだ先輩のアガサ婆さんに負けないぐらいの知恵が次から次へと、その頭の中に湧いてきているらしい。大分長い間考えてから、やっと決心したようにいった。
「この線で突っ張るわ。二人はすぐにメキシコ人街の中を駆け回って山猫《チキータ》を探し、明日はオレンジヘ行くなとメッセージしな。組織《フアミリー》の頭領《ドン》のミッキーには、ミーが手を打つよ」
「しかしロマンに内緒で山猫だけにそれを伝えるのは無理です。山猫は言葉が通じない。ついでに爺さんも助けられませんか」
「そりゃー、|容易でないよ《ノーイージー》。組織の決定に背くことをするんだからね」
さすがに考えこんだ。苦渋の色が濃い。やっと思いきったようにいった。
「よしミーが責任とる。あの若い悪党《わる》なら、ロマンが抜けても、大金に釣られて二人だけでやるだろう。ロマンには理由を一切いわずに只オレンジヘ行くなというんよ。でも今晩八時までに二人が見つからなかったら、すぐ戻っておいで。大急ぎで次の手を打つから」
長山と池成は直ちに部屋をとび出し、伯母もあわててスラックスにはき替えだした。
「どこへ行くんですか」
ぼくがきくとかなり昂奮した声で答えた。
「マフィヤと、メキシコ一の殺し屋との戦いだよ。しかし組織が一度殺すと決めた男を助けようというんだから、半端《はんぱ》じゃないよ。今度はミーも生命がけよ」
「伯母さんも怖いんですか」
「ああ怖いよ。ロスヘ来て三十年、初めて組織の指令に背くんだからね。二人の助命を承知させるのには、何とかボスを納得させるだけの物を揃えなくてはね。さっきの長山五段の話の中に、小さな糸口を見つけたんよ。ミーの勘が当ってるかどうか分らないけど、今から車で国境のサンディエゴまで行ってトンボ返りで夕方には戻ってくるよ。赤ちゃんだけは無事に生ましたいんよ」
尻のポケットに無造作にピストルをほうりこむ。
「哲ちゃんは裕子のところへ行って、ひとこと謝りな。あれで案外気のいい娘なんよ。まだ金髪ひっかけてないんだから、当分あのへんで我慢しておくんよ。ギャールフレンが切れると男は切ないからね」
勝手にいうだけいってから飛び出していった。そうはいかない。ぼくにも男の意地がある。気にはなるがここは我慢した。それに二日酔の頭の中の鐘のひびきがますますひどくなり、一日中伯母のベッドで寝たり起きたりして過した。
アガサ伯母は夕方の七時すぎには戻ってきて、もらってきた沢山の書類を調べていた。そして珍しくしみじみといった。
「殺し屋なんて、本当に哀れな商売だね」
長山と池成はがっかりした顔で八時少しすぎに入ってきた。山猫は見つからなかった。二人の報告をきくと伯母はいった。
「それじゃ現場で助ける以外ないね。これはミーにも十万ドルくれるぐらいだから、組織にとっては、久しぶりの大仕事でね。明日はユーたち二人にも手伝ってもらって、一万ドルぐらいの分け前をやるつもりだったんよ。ここんところ長山五段のところのロザリーちゃんも葬式が少いしね。池成旦那は雨ばかりつづいて、可愛いベトナム娘のホーとも会えない。もっとも会えないのは傘が無いせいでなく、雨で金が入らないせいだけどね」
中年の二人は伯母の言葉にてれている。
「……ただの手伝いで一万ドルはいい話に思えるけど、これが山猫を助けるとなると、二人とも生命の危険が出てくるよ」
「おれは生命なんか惜しくないですよ」
長山が無表情にいうと、ロスの寅さんが、目下逃亡中の身にもかかわらず大きく出た。
「あたしゃー、山菱組とも喧嘩してきた身や。マフィヤなら相手に不足はありまへん」
アガサ伯母は笑いながらいった。
「でも喧嘩よりは、ホーをくどいてる方が楽しかない。これから会いに連れて行ってやるよ。ミッキーとクラブ・アオヤマで会うことになってるんよ。明日の仕事の打ち合せでね」
夜九時になって改めて招集がかかり、サンディエゴ往復で埃《ほこり》だらけになった五六年型キャデラックを、胴ぶるいさせて夜の町に出た。愛するホーのいる店へ思いがけなく行けることになって池成は機嫌がいい。
「これお近づきのしるしに。商売物ですねん」
小袋に入れた仁丹のような菓子を配った。ぼくは早速口に入れた。とたんに口の中で粒が四方八方に飛び跳ね、びっくりして袋を見た。|はじけ菓子《ポツピンケーキ》と書いてある。長山は最初から断わった。
「ここ何年も歯を磨いていないんで歯槽膿漏になっていてね。そんなの喰べたら歯が口の外へ吹っとんじまう」
ハンドルを切りながら、伯母が注意した。
「今日は向うの言いつけを黙ってきくだけにしておくんよ。明日の戦いの手順の説明だからね。山猫とロマンについては、一言も口に出しちゃいけないよ」
車はいくらも行かないうちに、日本字で、城、江利香、蘭などと書いてある看板が並ぶ小路に入った。ここがロスの真中とは、とても思えない。まるで新宿の歌舞伎町さくら通りだ。
小路を通り抜けた所に、並ぶ小店を見下すように、一軒だけ四階建てのビルを一つ占領した大きいクラブがあった。車が横の駐車場に停ると、まっ先にとび出した池成が、振り仰ぎながら嬉しそうにいった。
「あたしのダーリンが居るアオヤマですねん」
ビルの右側、高速道路に面した方が窓のない壁になっていて一杯に壁画が描かれている。豪奢《ごうしや》なドレスに包まれた美女の半身像だ。ただしこういう絵は普通若い娘の絵と決っているのに、どういうわけか、白髪の目だつ老美女の絵であった。ロスのアメリカ人の間では日本人の佗《わ》び、寂《さび》の心情を現わす芸術として評価されているそうだが、ぼくには夜空に浮き出る老女《ばばあ》の顔は気味が悪いだけだった。
伯母を先頭に入って行くと奥のテーブルに一人で坐っていた、品のよい外人が軽く手をあげた。伯母が小声で注意した。
「ミッキーよ。組織《フアミリー》の|加 州《カリフオルニヤ》の頭領《ドン》よ」
御大が自身でやってくるところを見ると、明日のオレンジはよほどの大仕事らしい。改めて周りを見ると、周囲のテーブルには、身なりのきちっとした、それでいて目付きが鋭い白人や黒人の中年の男が、静かに飲みながら、この頭領を油断なくガードしている。
ぼくらはミッキーが用意していたテーブルに並んで坐った。
ベトナム娘のホーを、目で探していた池成が、やっと見つけて手を上げたが、彼女は知らんぷりでよその客のテーブルに行ってしまった。どうも映画の寅さんと同じで、自分が思っているほどには相手に惚れられていない。ベトナム娘はきれいで魅力もあるが、難民として苦労しているから金の無い男にひどく冷たい。女の勘で彼のふところの中が、まだゼロなのが判るのだろう。
森昌子によく似た日本娘のホステスがやってきて、寿印の水割りセットを置くと、すぐ他のテーブルに行ってしまった。伯母以外は女ッ気なしのテーブルになった。
ミッキーの指示だろう。
伯母に向って、ハンフリー・ボガートのようなかすれた声で手順を話す。伯母は同時に通訳してくれた。
「明日の仕事は組織にとっては何年に一度の莫大な利益が見こまれている。ぜひあんたがたのご協力をお願いしますよ……ですって」
長山がメキシコ訛《なま》りの英語で答えた。
「|いくらで《ムーチヨ》も|お助けしますよ《ヘルプオーケー》。しばらく喧嘩がなくて淋しかったですよ」
ミッキーはあわてて手で制した。
「皆様には危険なことは頼みません。戦いは我々プロの集団がやります。皆さんは日本人ですから相手に警戒されないでそばに居られます。始末がつくまで三人が逃げ出せないように見張っていただければ、いいのです」
ぼくに水割りをつくるのを手伝わせながら、伯母は妙な演説を始めた。
「この国の日本人がいくら市民権だ、二世だといってみても、いざ白人がその気になったら、全員をベトナムのボートピープルのように海の上に追い出すことだってできるんだよ。『ジャップ・ゴーホーム』の一言でね。白人への御機嫌は、とれるだけとっておいた方がいいよ。アメリカにいたかったらね」
ぼくは伯母の言葉にひどく感心した。よほどの勇気がなくては、同じ日本人に向ってここまでの本音は言えない。アメリカ生活がすっかり気に入っていつまでも居たかったから、ぼくはやや濃い目に作った水割りをミッキーにさし出しながら、精一杯愛想よく笑ってみせた。いくらかミッキーに好感をあたえることができただろうか。
C PUT OUT HIS LIGHT ……奴を消せ……
二日続けての酒びたりで、十九歳のぼくの肉体はかなりこたえていたが、アガサ伯母には同情というものがない。とろりともしないうちにゆすぶり起された。
「もう六時だよ。すぐ出発だよ。池成の寅さんなんて、全然、眠りもしないで、明方には商品を積んでオレンジヘ出て行ったよ」
ロビーヘ下りると黒いズボンに黒いシャツを着た長山が、愛人のロザリーをしっかり抱きしめて、別れを惜しんでいた。
ロザリーの肌は、長山のシャツと同じまっ黒で、二カ所だけ隠しているピンクの下着がすけすけのネグリジェから見えた。
ロザリーは、ちゃんと大学を出た専門技術職で、このホテルの住民の中では高額所得者だ。大好きな長山一人ぐらい喰わせておける力がある。仕事が順調にあればだが……。
彼女の仕事は、死体化粧士《モテイーシヨン》。検死・血抜きの防腐処置、こわれた肢体や顔面の整形・修復、映画『ゴッドファーザー』のトップシーンの男と同じだ。普通死でも変死でも一度は葬儀所《モルタリー》で、この死体化粧士《モテイーシヨン》の手に委せないと、州法で、葬式を出せないことになっている。ロザリーは長山に抱きしめられながら、切なそうにすすり泣く。
「私の所へだけは帰ってこないでね」
もちろん職場の方へで、ベッドの方へはそれでは困る。
伯母は例のスラックスのポケットにピストルをつっこんだ姿で下りてくると、いった。
「昨夜哲ちゃんが潰れてしまった後、部屋で長山五段と池成旦那とで相談したんだけど、何とか山猫《チキータ》を生かしたい。それには連中が派手にガンをぶっ放してヒメネスとキリストを蜂の巣にする前に、こちらが二人を片付けてしまうしかない。でも殺人専門《プロ》集団を出し抜くのだから、やり損ったら、こちらが両方から射たれて蜂の巣になるんよ。それでも二人はやってみようといってくれた。お腹の中の赤ん坊のためにこのアガサに生命を預けてくれたんよ。ありがたいねー」
涙で声を詰らせた。
ぼくらは日曜の朝のまだ人通りのない道に出た。長山は玄関でロザリーと軽くキスをすると、もう振り返りもせず、腕を組んだまま歩いて行く。映画の中の高倉健か千葉真一か。恰好いい!
それに比べて裕子の奴は姿も見せない。もうどんなことがあっても、キスなんか許してやらないから。
小《リツトル》東京大駐車場に行くと、既にパトカーが、アイドリングでエンジンを温めていて、そばにアジヤ機動隊の宮武刑事ら三人がいた。
「あら、また何か事件《トラブル》があったの」
伯母がそばでからかうようにいった。
「ノー、事件《トラブル》じゃないでの。市場《ミート》の混雑が予想されるでの、交通整理の応援《ヘルプ》で、オレンジヘ行くけんの」
チーフの宮武刑事の二世語は広島の影が濃い。
「偶然だねー。ミーもオレンジ行きよ」
オレンジ市は|郡《カヤンテイ》の保安官《シエリフ》の担当区域だが、事務所のスタッフでは足りない。止むを得ずふだん仲の悪いロス警察《ポリス》の応援を求める。
「くれぐれも事件を起さんようにのう。何や不吉な予感がするのう。アガサさんが行くところ、いつも一騒動あるけんのう」
心配そうな宮武刑事ら一行に盛大に排ガスを吹っかけながら、胴ぶるい一発、アガサのキャデラックは猛然と走り出した。
ぼくたちの行く先は、オレンジボールという蹴球場だが、今では他のことで有名だ。
三年前にここの掃除人夫をやっていたスミスというおっさんが、スタンドの外周の広場を利用して、毎月の第二日曜日に近辺の住民どうしの物品交換市を開くことを考えた。素人でも店を出せるというのが、ブームのきっかけになり、ロス中の評判になった。
出店希望者からは十一ドル、入場者からは二ドルとって経費にあてたが、今では一日に入場者は五万人、出店が三百から五百。発案者のスミスは、ビバリーヒルズに住宅を持つ百万長者《ミリオネア》だ。
ぼくらの車も、フリーウェイを下りて、オレンジの町に入ると、長い車の列に巻きこまれた。はるか遠くに駐車してから、構内バスに乗って切符売場の列までたどりつき、二十分もかかって、やっとゲートをくぐった。
爺さんの代の置時計。蛇腹のコダック。ラッパ蓄音機。今では要らなくなったものを、地べたにじかに並べて、ピクニックがわりにやってきた家族が店番している。
中には、市場を渡り歩く商売人の絵葉書屋、カセット屋、中古工具屋なども交っている。松ぼっくりで作った手作り人形を十ばかり並べて、にこにこしながら客を待っている婆さんもいた。
見るからにアメリカのテキ屋らしい男が、木から木へ『あなたの生活に一つの大きい進歩』と書いた幔幕《まんまく》を張り、その下でミニの娘にわざとパンツが見えるように前かがみさせて、チューブの中の歯磨きをローラーにかけて最後まで絞りとる仕掛けの、くだらない機械の実演をさせていた。
アイスクリームの屋台のかげに、カリフォルニヤ特産のセンサミンという銘柄のマリファナの袋が、ひっそりと置かれている。大っぴらに客をひかなければ、売ってもいいのだ。
大きな蹴球場の外周に溢れる人混みの中に交り三十分近くかけてほぼ半周したころ、ふと目の前の人垣が二つに分れた。その間を白いゆるやかな衣をまとった男たちが、七、八人歩いてくる。頭巾の下の髯《ひげ》が濃い。アラブ産油国の連中だ。今世界で一番金遣いが荒い。さすがに大国意識の強いアメリカ人も自然に道をあけて、通り易いように気をつかっている。
中央に仲間の主人らしい背の高い青年がいたが顔をみるとすぐ分った。先日二十万ドル(五千万円)のスポーツカーを学校に乗りつけてきて、女の子を沸《わ》かした王子だった。いつもはジーパンにTシャツでいるが、アラブの正装をするとさすがに貫禄がある。と思って見ていた次の瞬間、ぼくの味わったショックは、現在のアメリカ人がアラブに持つ屈折した心情などとは比較にならない強烈なものであった。長身の王子によりそいぶら下っている、一見いかれた娘は、裕子だった。
ジーンズの布をつぎ合せて作ったミニのスカートから大根足が丸見えだ。ふざけやがって、日本人の恥さらし。飛び出してひっぱたいてやろうと思ったら、両腕をアガサ伯母と長山にしっかり押えられた。
「哲ちゃん、我慢、我慢。文句は終ってから」
裕子はぼくを見ても知らん顔だ。しばらくは頭に血が昇って周りの光景が何も見えない。気がついたら池成が玩具を地面に並べて、
「あー諸君よ。エブリマン・プリーズ。カムカム・ルックよ。ジャパニーズ玩具だよ。ベリーグーのオーケーね」
と|てれ《ヽヽ》もせず大声で|啖呵バイ《ヽヽヽヽ》している前に立っていた。犬が寝転がったり、猿が太鼓を叩いたりしている。前には大勢人だかりがして、一番前にしゃがんでいた金髪の幼女が、虫歯で真黒な口をあけて、彼の英語の口まねをしては、笑いすぎの腹を苦しそうに押えていた。
アラブの連中も前にしゃがみこみ、犬を転ばして喜んでいる。裕子が甘えた口調で王子にもたれかかってささやくと、王子は厚い財布から無造作に札を抜いて大きい熊の縫いぐるみを買い、裕子に持たせた。まるで水商売の女が物をねだるのと同じだ。ここまで堕落したのかと、情けなさに涙が出てきた。
王子たちは隣りの織物屋の前に移動した。
メキシコ特有のカラフルな織物の中で、特に毛布の真中に穴があいていて、首を入れると外套になるポンチョを彼らは珍しがった。
そばでしきりにすすめているのが、ヒメネスとキリストだ。奥にロマンがいて、車の荷台から、新しい品物を取り出し、山猫《チキータ》がこぼれそうなお腹を品物で半ばかくしながら、キリストのところまで運んで手渡した。
周囲を見ると、昨夜ナイトクラブに居た連中が、客や近くの店の者になりすまして立っている。ミッキーの姿だけは見えない。
伯母が小声でぼくに教えた。
「やっぱりやられた。山猫《チキータ》が手段《て》だった」
新しいポンチョが届けられた瞬間、王子の体が硬直した。キリストとヒメネスが前後から王子を挟んでいる。キリストの左手は胸のロザリオをまさぐっている。一般の人はまだ誰も気がついていないが、周囲のマフィヤの間には、しまったという焦りが浮んだ。
長山が黙って人混みを分けて前へ出た。ロマンは荷物を積んできた車の前の扉をあけ、運転席に入った。市場が終るまでは搬入車の運転は禁止だが、事が起ったら強引に走らせるつもりだろう。まだ事態がのみこめないでいるぼくにアガサは教えてくれた。
「山猫《チキータ》が今持ってきたポンチョに凶器が隠されていたんだよ。キリストの右の手のナイフは王子の腹の皮を少し突いている。ヒメネスが使うピストルは、SWのコンバット・マスターなんよ」
大変なことになった。357のマグナム弾が入る型だ。背中から射たれたら、内臓が全部腹の皮を破って吹っ飛んじまう。
裕子が目を開いたまま立ちすくみ、王子の側近も凍りついたようになった。さすがに群衆の動きも止まった。
山猫は大きいお腹をゆすりながら、一人で機敏に走り回り、パイプ製のスタンドをたたみ、車の前の道をあけた。王子は二人の暴漢に挟まれて、少しずつ車の方にひきずられて行く。側近は青ざめて震えだした。何しろ彼らの国の王様は、つい二年前自分のハレムの美女と通じた近衛の中尉を、衆人の前で斬首したほどのお方だ。もしこのまま王子を人質にとられて国へ戻ったら、どんなに怖しい刑罰が待っているか分らない。
「早くしまいな、ポケットに」
伯母はぼくの手に鉄の塊りを押しつけた。銃身が短くて掌の中に入ってしまう。
|猪っ鼻《スナツプノーズ》の名がある、SWのモデル12だ。
「ぶっ放すんですか、こいつを」
「弾丸は入ってないよ。素人はどこ向けて射つか分らないからね。ミーが合図したら、大声を出して駆け出して、後ろから山猫《チキータ》のおっぱいを掴《つか》むようにして羽交《はが》いじめして、銃口をお腹のふくらみにあてるんだよ。ヨロクと思っちゃいけんよ。マフィヤの一斉射撃から彼女を守るためだからね」
ロマンが運転席から、どすのきいた声で、あたりの人を脅した。
「よーく聞け。王子が死んだら、アメリカの自動車はみなストップだ。石油がこねえ。レーガンのお兄ちゃんが泣くぞ」
裕子が熊の縫いぐるみを弾丸よけにするため、王子にすがりついて渡そうとして、キリストの長靴で蹴られ、派手にひっくり返って泣き出した。短いスカートがまくれ上り、たんぽぽの模様を散らしたパンツが丸出しに見えて、ぼくは自分のお尻が見られたように真赤になった。王子はずるずると車の扉口まで連れて行かれる。
そのときである。
「オンドリャー……オチョクル気か!」
関西弁らしいが意味不明の絶叫が聞こえた。
周囲の人も殺し屋も一瞬気をのまれて声の方を見た。白いダボシャツが青空へ舞い上り、肩から背中にかけての桜吹雪に花札の刺青が、団子のように丸まって飛んで行き、その短い絶叫が終ったときはもう、腹に巻いた晒《さら》しにぶちこんであった九寸五分《くすんごぶ》が白鞘《しらざや》から抜かれてしっかり握られ、体ごとキリストにぶつかって、その腹を抉っていた。
同時に長山の体がヒメネスの体の前で二メートルも飛び上ると、まず左の爪先で顎《あご》を砕き、そっくり返る胸を次の右足ですくい上げるように蹴り、肩から下りてきた左足はもう一度右手に当って腕首を砕いて吹っ飛ばす。SWコンバット・マスターは、右手の手首と共に空中に舞って落ちた。必殺の三段蹴り、ヒメネスの体は空中で一回転してそのピストルの上に仰向けに落ち、ショックでピストルは派手に暴発して彼の背中から首の肉をかなり削って、あたりにばらまいた。
ロマンはあわてて車のダッシュボードに置いてあった、モーゼルの大型、ミリタリーモデルを取り出した。扉から半身を出して射とうとしたところを、出場《でば》がなくていらいらしていたマフィヤの一人の正確な弾丸で掌を射抜かれて、銃は地面に落ち、彼自身も半ばあいた扉からステップの下へ崩れ落ちた。
いきなりぼくの尻は伯母に蹴飛ばされた。
「レッツゴー。山猫《チキータ》のおっぱい」
わーっとぼくは大声を上げて駆け出し、山猫を後ろから羽交いじめにして、こりっとした乳房を掴むと、銃口を腹のふくらみにあてた。無意識に引鉄《ひきがね》を引いていたから、弾丸が入っていたら、無惨なことになるところだった。山猫は銃口が腹に喰いこんでいるのを知ると、地面に坐りこみ、泣きながら、しきりに手を動かしている。
ジェーン・フォンダが映画で使って以来、アメリカでは、手話が判る人が増え、後から聞いたところでは『お腹の子供だけは射たないでください』といっていたそうだ。
ついでにつけ加えると、池成が叫んだのは「オンドリャー、浪花神農割島組《なにわしんのうわりしまぐみ》・分家若頭《ぶんけわかがしら》・池成寅吉をオチョクル気か!」
で、その間にダボシャツが空中へ舞い上り、九寸五分を腹巻きから引き抜き、相手の腹に突き刺して、肝臓のあたりを一|抉《えぐ》りまですませていたのだから、プロの腕は凄《すご》い。喧嘩は一瞬の呼吸だ。すべて伯母の考えていたペースですすみ、山猫も老いた殺し屋ロマンも取りあえず死なないですんだ。
その後の始末はさすがに練達の専門集団マフィヤだ。見事なほど早かった。
キリストとヒメネスの死体は毛布にくるんで、ライトバンの荷台の下につっこみ、老殺し屋と妊婦は後ろの座席の下に重ねて這《は》わすと、上に商品を積み、姿が見えないようにした。
池成の親分も九寸五分を鞘に入れ、ダボシャツを拾って着ると、もう何気なく玩具を売っており、長山は客になりすまして、犬の玩具をひっくり返して遊んでいた。
パトカーが、けたたましくサイレンを鳴らしながら、人混みを分けて近寄ってきたが、なかなか進めないでいるうちに、裕子とアラブの王子たちは、マフィヤの連中に守られて消えてしまった。
いらだったアジヤ機動隊の宮武刑事が車から飛び下り、仲間と一緒に駆けて来て織物の店を囲んだが、もはや血の汚れの上には織物が敷かれ、店では組織の連中が、客と店の者になりすまして、毛布の売買をやっていて、二分前に起ったことを示す物は何もない。
宮武刑事が、ポンチョを持った若い男に、
「一体、何が起ったんだね。たしかに銃声や悲鳴が聞こえたがね」
とたずねると、男はポケットから池成の店から買った、はじけ菓子《ポツピンケーキ》の小袋を出して、すすめながらいった。
「多分、誰かの口の中でこいつがはじけて飛んだ音を聞き違えたんじゃねえんですか」
ぼくも客と一緒になって笑おうとしたら、伯母にたしなめられた。
「明日には……今日のミーたちの勝手なやり方についての、マフィヤの査問があるんよ。褒められるか、処罰されるか、そのときにならないと分らないんね。笑うのはその後にしておくれ」
それを聞いたらもう駄目だ。もう心配でいても立ってもいられなくなってしまった。
D LET UP ON ……ご寛大に……
月曜日の夕方のロビーは、組織の査問会に呼ばれたぼくらを見送る人で賑やかであった。
長山は久しぶりに黒い背広にボルサリーノ帽を目深にかぶって全盛時代を偲ばせる。池成がダボシャツの上にダブルの背広を着ると本物のフーテンの寅さんだ。
死ぬならば一緒にと、ついてくることになった裕子とロザリーは、精一杯のドレスアップで見違えるようだ。通産省出向の課長が
「謝ってすむなら土下座しても謝りなさい。他の人は体中孔だらけになってもいいが、裕子ちゃんの白い柔肌《やわはだ》を思うと涙が出てくる」
と半分は本気で忠告している。気の小さいぼくは心配になってきて伯母にきいた。
「ぼくたち勝手なことしたんで、処刑されるんですか」
「ミーのスィンクではノーだね。鮮やかに処理してくれたって向うは多分感謝してるんよ。メイビー十万ドルまるごともらえるんよ」
時間ぴったりにホテルの玄関に、片側に扉が三つ並ぶ九人乗りのリムジンが止まった。ワシントンの役人か、マフィヤしか使わない大型乗用車だ。みなを乗せると、滑るように走りだした。
これまでぼくは伯母との会話の中で、何度となく、七丁目《セブンス》の本部という言葉を聞いていたが、彼らが街の真中に堂々と本部を持っているとは信じられないでいた。ところが車は銀座にもひとしいブロードウェイの中心の七丁目の角のビルの地下駐車場に入って行った。
このビルのエレベーターにのると、伯母がビルの仕組を説明してくれた。
「一階は貴金属店だから、武装したガードマンがいて当然だね。二階は市の名士だけが入れるアスレチッククラブで、順番待ちでなかなか入れないぐらい権威があるから、無名の一般人はエレベーターヘ乗れないんよ。三階以上は、組織の事務所になっていてね。沢山の事業をやっているんよ。キスカフェー、ケッセルチョコレート、スリフトパン、みんな組織が表の世界でやってる事業なんよ」
エレベーターは三階で止まった。ゆったりしたソファーとテーブルが配置されているサロンになっていた。戸が開いた所には、ボスのミッキーが立っていて、一人一人に丁重に握手し、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
かなり調子はいい。しかし殺すと決った相手にはわざと親しみのキスを贈る彼らのことだ。まだ気を許すわけにはいかない。
ミッキーは長山には空手の実力を褒め、池成にはその勇気を賞讃し、仲間に入りたかったら、いつでも幹部クラスで迎え入れるとまでいった。意外だったのは裕子に対してで、泣かんばかりの声で肩を抱きよせていった。
「今度は本当にありがとう。あなたの勇気と協力がなくては、この成功はなかった」
裕子もまた涙ぐんでうなずいている。驚いたぼくが、裕子に事情をきこうとすると、生意気にも、わざとツンとして横を向いた。
みなは奥のゆったりしたソファーに案内された。バニーガールたちが、コーヒーを配った後でミッキーがいった。
「何をご馳走したらいいかとアガサに相談したら、みなさんがパストルを大変お好きだと伺いました。メキシコの首都《シテイ》の一番有名な料理屋から、何回もかけて丁寧に焼き上げた極上品を、先ほど飛行機で取りよせました」
どんな味がするのかと生唾がわいてきた。
「準備する間に、ちょっと会っていただきたい人があります」
ミッキーは、正面の壁にある大きなスクリーンのそばに行きスイッチを押した。突然殺風景な部屋が写った。粗末な椅子に老殺し屋のロマンが坐っている。頬がこけ、さちに老いが目立つ。右手の掌の包帯が血で汚れてもう黒ずんでこわばっていた。
「これから彼の最後の願いがかなえられるところです」
ぼくは胸騒ぎを押えながらきいた。
「最後というとやはり殺されるのですか」
「それは仕方がありません。三十分後に、私たちが今まで他所からやって来た殺し屋に対して執行する伝統的な方法で処刑します。彼に『死ぬ前に何か望みがあるか』ときいたら、『若い妻と最後のセックスしたい』といいました。いくら何でもそんな不道徳な願いは掟《おきて》が許しません。代りに三分間だけキスすることが許されました」
山猫《チキータ》が画面に飛びこんできた。腹がもっと張り出し今にも破裂しそうであった。
ぴったり抱き合うと、お互いの存在をたしかめるように体中を撫で回した。男の自由な方の左手が女のシャツをずり上げ、耳をつけて中の物音を聞くようにした。青い静脈が浮いた腹は丸い玉のようだ。老殺し屋のロマンは、自分が死んだ後に芽生えてくる生命に何かを託すように、皺だらけの顔を涙で濡らしながらつぶやいていた。山猫はその頭をしっかり抱えている。すぐに三分がたってしまった。泣き叫ぶ山猫を男たちがひきずって行き画面が消えた。
同時にサロンにうまそうな匂いがこもった。身長計のように腕木が張り出した台をバニーガールたちが押してくる。尖端《せんたん》に赤く焼かれた肉塊がぶら下げられ、テーブルの中央の、みなの手が届く所におかれた。
各人に銀のナイフと、受け皿がおかれ、肉をくるむ薄いタコスの皮と、他に果物とサラダの皿が山のように出された。ミッキーが
「私が御婦人方にまずサービスしましょう」
とナイフで、下の切口を斜めに薄くそいで女たちの皿に配った。男たちは三人とも切り方を知っている。伯母がいたずらそうな目でみなにいった。
「すぐそのうち喉を通らなくなるからね。みんなうんと沢山喰べておくんよ」
この言葉の意味にそのとき気がついたものはいない。各自が中腰になってピンクの切口を斜めにそいでは皿にのせて喰べだした。楽しい食事が始まったが、しばらくして事務員らしい中年の女がやってきて、ミッキーと伯母に何か緊張した顔で耳打ちした。伯母は、「みんなそのままで食事しているんよ。三十分ばかりロマンの処刑がのびそうよ。みんなにとってもラッキーだったよ」
といって、ミッキーと、バニーガールたちも一緒に、あわただしく出て行った。三十分が一時間にもなったが、サラダや果物、ワインがあったので、たっぷり喰べられて退屈しなかった。
一時間半たって、伯母とミッキーはやっと戻ってきた。伯母は少し疲れたようだが、機嫌よく笑っており、ミッキーは逆に何か考えこんでいる難しい顔をしていた。
すぐにスクリーンのスイッチが押された。何となく忘れようとしていたロマンの処刑の再開だ。天井からの鉄鉤《てつかぎ》に老人はぶら下げられていた。ズボンが脱がされパンツ一枚の足が辛うじて床についている。一人の大男が出てきた。肉屋が着るようなゴム地の長い前掛けをつけ、刃渡り十五センチぐらいの手斧《ておの》を持っている。
少しゆれている罪人の体を片手で押えて止めると、いきなり手斧を振り上げ、左側の脛《すね》の中ほど、くるぶしより三センチぐらい上のあたりを斜めにスパッと切り落した。
一瞬見えたピンクの肉と白い骨がみるみる血で汚れ、裕子が口を押えてトイレに駆けて行った。ロマンは体中をそらせて物凄い悲鳴をあげた。切口が斜めで目の前のパストルの肉とそっくりだ。池成も口にあふれた反吐《へど》を手で押えながらトイレに駆け出して行き、ロザリーは長山の腕の中に倒れて失神してしまった。抱いてくれる人があるうちはいい。ぼくはこみ上げてくるものと一人で戦っていた。伯母の体に倒れかかったりしたら、一生|ばか《ヽヽ》呼ばわりされるに違いない。
ミッキーは俄に上機嫌でしゃべりだした。
「このままゆっくりと、右、左、順に切って行きます。鉛筆の先が減って行くように、足から脛・膝・腿と無くなって行きます。なるべく死なないように時間をのばして切るのが処刑人の腕の見せどころでしてね」
左側から右側に移った斧は、そこで次の合図を待つかのように振り上げられたまま止まった。出血がひどい。ほっとけば死ぬ。
「ここで私はさっき、アガサ未亡人から提案があった議題を検討したいのですが、それには全員の参加が必要です」
ミッキーがいうと、伯母がどなった。
「哲ちゃん、早く裕子を連れてきな」
「でも……女のトイレです」
「ばかね哲ちゃん。他には誰もいないんよ」
女のトイレにとびこむと、裕子が奥の便器にうつぶして吐いている。背中を撫でてやる。
「哲ちゃん、許して」
とすがりついてきた。口のはしに、まだゲロがついていて、押しつけられた唇が少し苦かったが、快く受けてやった。
「もうあんな意地悪しないから強く抱いて」
それどころではない。今この瞬間もロマンの足から大量の血が流れている。
「すぐ戻るんだ」
二、三発頬をはたいて、ひきずって戻った。
ミッキーがみんなの揃ったのを見ていった。
「先ほどアガサから、今度の仕事の報酬十万ドルの中の五万ドルで、ロマンの生命を買い戻したいという申し出があったのです。組織では一度決めた処刑を取り消すことはないのですが、全員のご意志が同じなら、執行を停止してもかまいません」
その間も出血は続いている。長山が
「賛成だ。すぐ手当てしてやってくれ」
とどなると、みなも口々に賛成した。
ミッキーはうなずき合図すると、スクリーンの画が消えた。ミッキーは少し感動的な声でいった。
「私たちだったら、老いぼれの生命を五万ドルで買い戻すなんて気が違ったと思われますし、私も賛成でなかったのですが。実は先ほど食事の最中に山猫《チキータ》が産気づきました。医者も間に合わなかったので、アガサがバニーガールたちを手伝わせて、無事お産をすませました。生れたのは女の子でした」
わーっと声が上り拍手が起った。
「山猫《チキータ》も赤ん坊も今は元気です。赤ん坊には父親が要る。やっと私は片足だけで処刑を取り消す気持が生れました。一つの新しい生命と、助かった古い生命のために祝杯を上げ、ついでに折角取りよせたパストルをもっと沢山喰べてください」
裕子と池成は、また戻しそうな顔で斜めになっている肉の切口をみていた。ぼくと長山はむりしてナイフでそいだが、実は喉元にこみ上げてくるものを押えるのに必死であった。
……しばらくして、またスクリーンが明るくなった。ソファーを倒した臨時のベッドにシーツに包まれた赤ん坊を抱いて横たわっている山猫のかたわらに、先が無くなった左足に包帯し、アルミの松葉杖《クラツチ》で体を支えたロマンが立っていた。やがて杖をたてかけひざまずくと髯だらけの頬を赤ん坊にこすりつけ泣きだした。
みなも目頭を押えてそれを見ていた。
三十分後に、上機嫌なミッキーに送られて、また大型車に乗りこんだ。走り出すと、安堵《あんど》の息が洩れた。彼らが救われたせいもあるが、マフィヤにご馳走になるのも気が張る。
「ミッキーはとても喜んでいたよ」
伯母は車の中で、みなに日本語でいった。
「多分組織は王子の祖国から、アメリカのメジャー系の石油会社を通さず、自分たちだけの輸入パイプを持つだろうね。王子の生命の恩人だからね。その儲けを考えると、十億ドルでも足りないぐらい大きな仕事になったはずだよ」
「でも処刑の最中にパストルなんてひどいわ」
裕子はまだ文句をいっている。
「気にしない、気にしない。ジョークだよ。それよりミーも初めは評判の悪党をゴキブリホイホイのように誘いこんで片付けるのが面白くて手伝っていたんだけど、山猫《チキータ》のことを知るとそうはいかなくなってね。何とか赤ん坊の生命を助けたくなった。それでミッキーの弱味がみつからないかと考えているうちに、ふと長山五段が『二人は死刑囚だった』といったのを思い出し、事件全体のカラクリにはっと気がついたんよ」
伯母は時間がきたのかマリファナ煙草をとり出して、うまそうに一服吸いこんだ。
「こんなこと考えつくのはミッキーしかいない。当人に有無を言わさぬ証拠をつきつけてから助命の交渉しようと、サンディエゴまで一日で往復したのさ。国境には昔から組織が利用する密入国専門の案内屋がいる。パパの親友だったので無理に問い詰めたら、ミッキーがメキシコの首都《シテイ》の監獄にいる死刑囚二人と傷害で入っていた爺さんとを、多額の金で買ってきて、国境をニセの通行証や許可証で通したことが分ってね、書類をコピーしてきたんよ」
マリファナの甘い香りは、アガサの満足そうな思いとともに車内にこもる。
「赤ん坊が生れてほっとしているミッキーの心の隙《すき》を狙って、コピーを突きつけて言ってやったのさ。『いくら相手が殺し屋でも、頼まれて働いてくれる者を殺すなんて汚ないやり方は、死んだパパは決してしなかったよ』って」
「あのミッキーによく言えましたね」
「長山五段も池成旦那も生命をかけた。ミーもここは生命を張ってぶつかった。しぶしぶ承知してくれたよ。片足と五万ドルは、後で組織の会議で納得させる最低の材料なんよ」
なぜか急に黙りこんだ。しばらくして目頭《めがしら》を拭うと、珍しく|くぐもった《ヽヽヽヽヽ》声でいった。
「実はもう三十年近く昔になるかねー。こちらへ来てすぐに、一回だけミーもお腹をふくらませたことがあってねー。でもアパートにパパの反対派の連中に踏みこまれて乱射されてね、ショックで流してしまったんよ。もう七カ月だったから生きてりゃー、マフィヤの中でも働き盛りの年なんよ。でもそれ以来子供ができない体になってね。だから山猫《チキータ》を不幸にさせたくなかったんよ。おかげで十万ドルが一万ドルに減ってしまったけどね」
「あらまだ五万ドル残っていたんじゃない」
裕子は女らしく計算がしっかりしている。
「さっき山猫ちゃんに四万ドルプレゼントしたんよ。片足の旦那と口のきけない母親とが、赤ん坊抱いてこれから生活して行くのを考えるとほうっておけなかったんよ。初めは手伝ってくれた全員で一万ドルずつ分けるつもりだったのに、千ドルずつになってしまって勘弁しておくれ。その代り残りの五千ドルは、これから池成旦那の冷たい彼女のいるアオヤマに行って思いっきり派手にパーッと使うんよ」
伯母は派手にパーッと使うのが本当に好きだ。大型車はあの老いたる美女の壁画のある建物に近づいた。
伯母は池成にいった。
「旦那には一番働いてもらったから哲ちゃんの分をもう千ドルあげるよ。まだ見習いに金をやることはないからね。アオヤマに入ったらすぐ、物もいわずにベトナムのホーちゃんの手にその千ドル握らせるんよ。とたんに首っ玉にかじりついて『好きよ。今晩どこかへ連れてってあたしを燃やして!』というよ」
ぼくを除いて全員がどっと笑った。千ドルが目の前で消えてぼくは笑う気持にはなれない。クラブの前で車は静かに停った。降りようとしたぼくの手を裕子はぐっとひきよせ唇をつけてから、変に昂《たか》ぶった声でいった。
「哲ちゃん。どんなにきれいなホステスがいても、気軽に口をきいたら承知しないから」……全くよく言うよ。自分のやって来たことを棚に上げて……と喉まで出かかった言葉も現在のギャールフレン保有量の淋しさを考えると、涙とともにのみこまざるを得なかった。
第三話 ベニスの血の歌
A SUNNY SIDE UP ……卵の目玉焼き……
五月も半ばすぎると、ロスはもう真夏だ。
特に大学の構内では、殆どの若者が、カラーのパンツにTシャツだけの姿になる。パンツは腿のぎりぎりで、しかも両脇が切れこんでいて、男女とも下のショーツが少し見えるのが粋《いき》とされている。それにローラースケートをはき、背中に教科書を入れたデイパックを担いで、キャンパス中を走り回る。その若者たちの体に眩《まぶ》しいほどの暑い太陽が照りつける。薄い木綿の布地を通してハートまで灼《や》くのか、こんな環境の学園生活が続くと、ぼくと裕子との間も自然に成長してくる。
毎夜お休み前に彼女の部屋を訪れてするキスが、だんだんと長くなり、ついにキスがキスで終らなくなった。お互いに若いんだし、ともに家族と離れて暮すエトランゼの孤独の影を背負っているし、なるようになる条件は申し分なかった。恥しながらぼくには初めての経験であったが、そんなことが裕子に知られては一生馬鹿にされる。これまでこの日のあることに備えて、数々の週刊誌を熟読し、蓄積しつづけてきた知識を、惜し気なく吐き出して、さまざまに試みてみた。
裕子はこの国際都市にきてもう二年以上、もちろんぼくが初めての男性ではない。それなのに
「哲ちゃん凄いわ。テクニシャンだわ」
ときには溜息をついて感嘆の声を上げるほどだから、ぼくのこの試みは成功した。ぼくの生活は自信にみち、二人の仲はうまくいっている。今では裕子が牛丼屋のアルバイトを終えて戻ってくる十時すぎから、五階五〇七号の裕子の部屋に泊りこんで、チャレンジし、すっかり朝になってからやっと伯母の部屋に戻る。
その朝は、ベッドの中まで気だるくなるような暑さだった。昨夜はさんざん燃やしつくしてしまったから、泥のような深い眠りにつけた。それで朝になっての目ざめは爽か、妖しい元気が出てきた。寝乱れた裕子の体を抱きよせて唇をつけようとしたら、ふと裕子がいった。
「このごろブロードウェイに、変な日本人の姿が多くなったと思わない」
ネグリジェ一枚の下に何もかもむき出しになっている裕子の弾力のある体を抱きしめながらぼくは答えた。
「ああそういえばそうだな。黒いダブルに大きなサングラスのお兄ちゃんが、町のあちこちに三人、五人と並んで歩いている姿が、やたら目につく。こんな恰好は日本人だけだ。どう考えても、西海岸に用のありそうな連中じゃない」
「私、広島の町の高校へ通ったから、ああいう人たち見てすぐ分るのよ。広島はその筋の本場だから。でもロスまでやってきて何があるんでしょうねー。ああ怖い、哲ちゃん抱いて」
そういうわけでその朝はまたもう一度激しく情熱を燃やしあった。結局ぼくらにとって理由は何でもよかったのだ。さすがにいつもより時間がおくれたせいで、下の階のアガサの方から五〇七号へ電話がかかってきた。
「ミーはちいと用があるんでね、コーヒーとトースト作っておいたから、二人でこの部屋にきて喰べな。|太陽が真上《サニーサイドアツプ》も、一人二つずつ焼いておいたからね」
「すみません」
ぼくはいつもながらの伯母の優しい心遣いに感謝しかけると
「今日は二人とも学校を休んで働いてもらうよ。もしかすると生命にかかわる仕事になるかもしれないからね。ちゃんと体を洗って、いつ監察院のドクターノブチの解剖台へ運びこまれてもみっともないことにならないように、下着だけは新しいものと替えておくんよ」
と言われてしまった。卵の目玉焼二つと人間の生命とどっちが大事か。
この伯母と暮すといつもこうだ。裕子にも伝えた。
「アガサ伯母がね、食事は用意しておくから学校へ行かないで待機していろって」
「よかった哲ちゃん。あたしほんとは今日は哲ちゃんを大学へ行かせたくなかったのよ」
「どうして」
「だって、今日はデッサンの授業でしょう。モデルは白人の娘さんで、オールヌードなの。哲ちゃんの目はまだ芸術家の目になっていないから、ヌードを見たらいやらしい欲情が先にたって勉強にならないと思うの。だから行かせたくなかったの」
しまったと思ったがもうおそい。裕子は
「うれしい」
また唇を押しつけてくる。要するに自分以外の女性のヌードは見せたくないのだろうが、怖るべき独占欲だ。
伯母の部屋のテーブルにおかれたトースト、目玉焼、コーヒーを二人でありがたくいただいてから、今日の情報を聞くため一階のロビーヘ下りて行った。
いつもの|ひま《ヽヽ》人が五、六人坐って、無駄話をしたり、唯一の邦字新聞・ロス日報を読んだりしていた。ぼくたちのお互いのことはとっくに知られているから、「お疲れさま」というような顔で、二人のカラーパンツの中心のあたりを孔のあくほど、じろじろと見られたのには参った。
つんとして横を向いた裕子は、家賃滞納の催促や、滞在者同士の交換品の広告などが張りつけてある掲示板の前へ行った。いきなりびっくりしたような声を上げた。
「あら大変、どうしたのかしら」
ぼくは裕子の横に行って張紙を見た。
『コック募集』の張紙のすぐ横に、几帳面な字体で
『私儀、チと身辺ヤバく相成り、皆様方にも御挨拶もせずに失礼致しまするの段、平に御容赦下されたく候。浪花住人、池成寅吉敬白』
と手紙が張りつけてある。この人はかつて大阪を中心とする露店商《テキヤ》の団体・浪花神農割島組の若頭だった人で、神戸で店を出していたとき、土地の支配者山菱組の中幹部を、酒に酔った上の喧嘩で半殺しにして身辺が危くなり、太平洋を跨《また》ぐ長いわらじを履《は》いている身だ。
二人がその理由をいろいろと考えて話し合っているとき、ホテルの前のパーキング・ゾーンに、アガサ伯母の古キャデラックが止まった。ガラス戸越しに見ると、隣りには黒人が乗っていて先に降りてきたが、やけに手足が長い。腰に手をあてながら油断なく周囲に目を配る。ぼくはこの男とは既に何度も会っていた。名前はハミルトン。ミッキーの配下ではガンの名手で知られている。
彼が周囲を警戒する中を、伯母と後ろに乗っていた親子連れの四人が車から降りて、このボロホテルヘ入ってきた。
「ああよかった。哲ちゃんが間に合って」
一緒にロビーヘ入ってくると、伯母はぼくの手を掴《つか》んでいった。
「……このお客様方をどこか遊びに連れて行って。ジャパンから来て以来、エブリデイ、ホテルの部屋にとじこもって、どこへも行ってないので、チャイルドたちが退屈してるんよ」
五十歳ぐらいの禿《は》げて出っ腹の主人と、若作りで上品な夫人、小学生の男の子と女の子。ワシントンホテルにいる、流れ者にもう一歩という際どい人たちに比べると、四人とも住んでる世界が全く違う、贅沢な雰囲気を持っている。それでいて主人の態度は丁重で
「どうかお願いします」
と頭を下げる。まつわりついている二人の子供の目が真剣にぼくらを見つめているのが可哀そうなほどだ。夫人もぼくらに頼みこむ。
「こちらへ来てもう二カ月、今まで一歩も外へ出なかったものですから、二人とも遊びたがっておりますの。どこでも結構ですから」
するとロビーの住人の中に、遊園地について、ばかにくわしい者がいて、自分の席からアガサにいった。
「それにはナッツベリー農園がいいよ。ディズニーは、少し創立者の主観が押しつけられすぎてわずらわしい。そこへ行くとナッツベリーは、西部開拓時代のアメリカの面影を、そのまま残して作られた遊園地だ。駅馬車あり、ガンマンありで、子供が喜びますよ」
「そうだね。ミーもここへ来たばかりのときはいつも、マルセルに連れていってもらったんよ。直営農場から持って来たばかりの牛乳とステーキがとてもおいしいしね。二人で案内してくれない。ミーはセブンス通りへ行って、ミッキーと相談することがあるから」
裕子の小型車では乗りきれないので、それをアガサに提供して、代りにアガサのキャデラックを借りて、用心棒のハミルトンと親子四人、それにぼくら二人で行くことになった。
ぼくらはこの夫婦についてはまだ何も知らなかったし、アガサも別に話さなかったので単に子供連れの金持の観光客だと思っていた。ダウンタウンから七一番のフリーウェイにのり、ガーデナーの町の交叉点で九一番に入る。日本人仲間で最高の金持といわれる石沢商事社長の大邸宅のあるところを目標にして、九一番フリーウェイを下りると、すぐ目の前がナッツベリー農園経営の遊園地であった。
二人の子供たちは車内から喰い入るように車窓の車の流れや、風景を眺めている。普通の子供に比べて無口でおとなしすぎるのが気になったが、これも環境の違う外国にいるせいだと、ぼくは簡単に考えていた。
小東京のホテルから、三十分ほどで、ナッツベリー農園に着いた。入口の切符売り場の所からももう、空中で二回転するジェットコースターが高い青空を区切るように見えている。
オールドタイム・アドベンチャー(古きよき日の冒険)と、切符売り場の屋根に書いてある。白人、黒人、東洋系の黄色い人々、他にメキシカン、アラブ人、印度人、世界中のあらゆる民族の人々が、子供連れでやってきて、半分踊るようにして吸いこまれて行く。
ぼくらも人混みにもまれながら遊園地へ入って行くと、裕子はまた急に欲情してきたらしい。「ねえキスして。ここはアメリカよ。誰もわざとのぞく人はいないわ」
ぼくの背中に回した手に力を入れて唇を向けてくる。女はいつでも自分中心で、欲情が昂ぶると世間の目を気にしない。
「今日は子供を連れているんだから」
そう一応|牽制《けんせい》しておいてから、それだけでは悪いので、はるか空中高くで二回転しているジェットコースターを指さして
「あれに乗ったらキスしてあげるよ」
とやっと彼女の昂ぶりを押えた。その間もハミルトンは、黒人特有の長い手足をななめにかまえ、いつでもズボンの尻ポケットの中のピストルに手が行くようにして、あたりに油断なく目を配りながらついてくる。
男の子と女の子は、どちらも小学校の三年生以下のクラスだろう。
「回転ブランコだ」「縄投げをやっている」「幌馬車にガンマンだ」と、一つ一つ目の前に出てくる遊びに夢中になっていた。その後ろを、全く無口で上品な夫婦がついて行く。
やがてジェットコースターのある所に出た。
ひどく規模の大きい怖そうな乗り物だった。一度前方に走って空中に高く乗り上げ、その惰性で後ろへ下りながら、出発点を通り越し、後ろ向きのまま、後方にある大きい円型を二回りする。裕子はぼくをせきたてた。
「乗りましょうよ。空中で回転するのは、スリルがあっていい気分よ」
親子四人は小声で相談していたが「まずパパが乗って、あんまり怖くなかったら、その後みんなで乗ろうね」
ということに決り、出っ腹の五十歳ぐらいの父親だけが、ぼくら二人と列にならんだ。ハミルトンと夫人と子供は下の小広場で見ながら待つ。アメリカの遊園地の料金は最初入場するとき少し高いが、中の乗り物は何でも無料になっている。二十分ぐらい待ってやっと順番がきた。四人乗りの箱にぼくらと向い合せに父親が一人で坐った。下の妻や子に向って手を振っているうちにジェットコースターは動き出した。
動き出すと、すぐぼくの顔をねじ曲げるようにして自分に向かせた裕子が、唇を近づけると、「ねえ……折角だから、二人で唇を離さないままで大回転してみない。ギネスブックに載るかもしれないわ」
まさかギネスブックはそんなに甘くないだろうが、悪いアイデアではない。二人は目をつぶって唇を合せた。そうすれば、二人だけの世界につつまれて、前の父親からは見えない。本当に見えないわけではないが、ともかく気にかからない。一たん前に大きく上ってその反動で後ろへ下って、後ろ向きのまま一回転し、空中で逆さになった。
「パシュッー!」
小さいながらも妙に迫力のある音が、すぐ目の前で聞こえた。あわてて目をあけて見ると正面に坐っていた父親が、無言で後ろへのけぞった。ぼくらは唇を離して彼を見た。その額の真中に五円玉大の丸い孔があき、そこから噴き出す血で、みる間に顔中が赤く染まり、ゴンドラの座席にバンドで腹部を固定された体が前にがっくりと折れた。血が顔から噴き出して、ぼくのTシャツと裕子のジャンパーを赤く染めた。
裕子が悲鳴をあげてすがりつく。
ゴンドラはそのままもう一回転してから終着点に入った。
係員に何か聞かれる前につんのめって死んでいる父親を残してぼくらは逃げるようにゴンドラから飛び下りた。
いつまでも下りない日本人の肥った男を注意しに、係員がよって来たときは、ぼくたちは柵の外の家族が待っている小広場にまぎれこんでいた。出発点のプラットホームには人が集って大騒ぎで、運転はしばらく中止になり、園内用小パトカーが、人混みをかきわけてやってきた。ぼくらは人混みの中から、母と幼い兄妹を探したが、どういうわけか、下に待っているはずのハミルトンや、夫人と子供たちの姿がない。ただしぼくらもそれほど落着いてあたりを見回したわけではない。二人が同時に頭に閃《ひらめ》いたことがあり、次の瞬間には駐車場へまっすぐ駆け出していた。
ふだんからアガサ伯母に「アメリカでは、殺人の現場に出喰わしたら、関係があってもなくても、すぐ逃げるんだよ」ときびしく言われていた。警官の訊問に会い、見たことをしゃべったために後で殺される人が多い。まして今日の被害者はぼくらが連れてきた人だ。警官が来たら必ず調べられる。母と子が救いでも求めているならまだしも、既に三人の姿はない。大急ぎで外の駐車場へ駆けて行き、アガサのキャデラックに乗りこんで車を発車させた。警戒燈を回し、サイレンを鳴らしたロス警察のパトカーが何台もやってきてすれ違った。
B TALKS MUCH ERRS MUCH ……物言えば唇寒し……
裕子の部屋のベッドで頭から毛布をかぶって、ぼくら二人は震えていた。マフィヤには、目撃者は殺せという鉄則がある。いくら無理に忘れようとしても、恐怖がまた湧き上ってくる。あわてて唇をつけ、お互いの体を折れるばかりに抱きしめて、その刺激で気を散らそうとするのだが、十秒と続きはしない。夕方になって初めて電話のベルが鳴り、仕方なくぼくが手を出して取ると、アガサ伯母からで、やっとほっとした。だが伯母の声も緊張している。
「あっ、そこにいたん。二人とも無事。よかったよ。もう消されたと思っていたよ」
「ひどいなー。あの親父さんが殺されるの知っていたんですか」
「分っていたら、外に出しゃしないよ。まさかと思っていた油断をつかれたんよ。ところで重大なことをきくから、哲ちゃんしっかり思い出しておくれよ。聞こえた銃声は一発だけだった。それとも二発以上だった」
「さあー」
ぼくの記憶はとたんに頼りなくなる。
「しっかり思い出しな。ハミルトンはたやすくやられる男じゃないよ。西海岸じゃ、もう一人、セルジオって爺さんと、一、二を争う拳銃使いだからね。もし一発だったら彼が裏切ったんだし、二発以上だったら、彼もやられて子供や母親と一緒に連れて行かれたんよ。首っ玉にぶら下っている裕子も一緒に考えてみなさい」
まるで電話に目玉がくっついてるようだ。でも二人とも全く思い出せない。
「駄目です。あの前後は完全記憶喪失症です」
「やはりそうかね。まだ鍛えが足りんのね。でも良い加減なこと言われるよりは記憶ゼロックスの方がいいよ。沈黙は愚者の知恵だからね。ああ今日はもう危険だからどこへも出ないでじっとしてるんよ」
これで電話がきれた。聞かない方がよかった。不安はますばかりだ。すりよってくる裕子の体をそっと押して離し、女とふやけているせいでこんなひどい目に会うのだと、深く反省した。その夜は恐怖で一晩中眠れずに過した。
明るくなってもアガサ伯母からの連絡がない。我慢できなくなって、ベッドを抜け出し、四階に下りて自分たちの部屋をのぞいてみると、アガサ伯母はもうちゃんと帰っていて、腹這《ば》いで枕もとの電話にしゃべっていた。ちらっとぼくを見ると、送話口を掌で蓋をした。
「今、サンフランヘ大事な電話をかけているんよ。哲ちゃん下のロビーヘ行って、誰のでもいいから郵便受けから今日の新聞かっ払っておいで」
一階のロビーヘ下りた。しかし仕事のない爺さん連中は早起きで、もう長椅子に二、三人いて、例の世間話をしている。その目の前で泥棒するわけにもいかない。朝の町へ飛び出した。
すぐの四つ角が住友銀行。右の隣りが在留邦人が、餠や、豆腐や、沢庵を買う遠文食品店。その真前に黒人の爺さんが店番している新聞ボックスがある。日本人用の新聞、ロス日報が十五セントで売られている。右からあけると六ページが日本語、左からあけると六ページが英語の混合新聞で、日本からのニュースとこちらの事件が、振仮名つきのやや大き目の活字で、要領よくのせられていて、日系人や在留邦人の唯一の情報源になっている。
いつもは一面は、日本からのニュースでしめられているのに、今日はトップの六段を抜いての大見出しがついている。
『日本の実業家  白昼、遊園地《ナツツベリー》で射殺さる マフィヤと山菱組の全面抗争始まるか』
見出しの横の十センチ四方もある大きい写真は、額の真中に丸い孔があいた被害者の無残な顔だった。一目見てあわてて抱えこむと駆け出してホテルヘ飛びこみ部屋に戻った。
アガサ伯母はシャワーをあびている最中で裸のまま扉をあけていった。
「あっ、哲ちゃん。そこで声を出して読んでごらん。この頃すっかり漢字忘れてね。ミーはもう読めんのよ」
ぼくはベッドに腰かけて大声で読みだした。
事件が起った場所や状況の概要を早口で読んだ後、いよいよ事件を説明する部分に入った。
「被害者、神田竜一氏(48)は、日本の花形輸出産業T電機の会長で、販売の神様といわれた神田貫一氏(77)の長男だが、父に頼らず、独立して事業を経営していた少壮実業家である。最近のオイル不況の波をかぶり、二十億円以上の手形《クレジツト》を振り出したまま倒産した。手形は、父親貫一氏の信用を頼りに、暴力金融へ持ちこまれて、既に換金されており、倒産後それを知った貫一氏は、子息の手形の支払いを拒絶し、いち早く竜一氏と夫人子供を、日本から脱出させた。最近ロスの町で、一見暴力団風の黒ダブル姿が目だつのはそのせいである」
ここまで読んだとき、伯母は腰にタオルを巻き、頭をかしげて別の小さなタオルで髪のしずくを絞りながら出てきた。大きい双つのふくらみや腋毛《わきげ》が黒々と見えても平気だ。甥のぼくは子供と同じで男とは思われていない。ママより十歳も年上だが、肌もひきしまり、体つきも若々しい。薄い小さなショーツを一枚はくと、いつも着ているすけすけのガウン一枚で、マリファナ煙草に火をつけた。
本当はまだ情人《おとこ》の一人や二人はこなしたいところだろうが、シシリー島以来のマフィヤの|血盟の仲間《コーザノストラ》≠フ未亡人としての掟を守って男は近づけない。代りにマリファナぐらいは孤独の肉体の慰めとして仕方がないのだろう。
カリフォルニヤ産のセンサミンという極上銘柄の甘い香りが、たちまち部屋中にこもり、こちらの頭も俄かに冴えてくる気がしてきて、はっと気がついたことがあった。
……池成の旦那が急に消えたのは、昔半殺しにした山菱組の中幹部を町で見かけたからではないだろうか……。
しゃがんで吸っていた伯母がいった。
「さあー、先を読んでごらん。こうして一服すると、何だか先のことまで分ってくる気がするんよ。多分、次の行は、本社、風見編集長の調査によればとなっているはずよ」
アガサ伯母に言われた通りであった。
「本社風見編集長の調査によれば、今回の事件は、次のような経過で起ったと推測される。神田貫一氏はかねて輸出品の荷揚げのため西海岸一帯の代表である、ボナンザ派のミッキーと親交があり、子息や孫の身辺保護を依頼した。ところがボナンザ派では、今年の三月から内部での紛争が起っている。組織の創設者、ジョゼフ・ボナンザの正統四代目、若いビル・ボナンザが、脱税でひっかけられて、あと二年間連邦刑務所から出てこられない。その間、大番頭格で、ニューヨーク地方の頭領《ドン》をしていた『|欲張り殺し屋《グリードキラー》』の綽名《あだな》があるガルミネが、一時的に縄張を預っていたが、去る三月ニューヨークの下町の行きつけのイタリー料理店で、六人組に射殺された。犯人は対立するバンビーノ派の者か、大番頭の専横な振舞いを怒った獄中の若い四代目が指示したものか、今もって不明であるが、それ以来、組織内部がしっくりいかなくなっている。その隙を狙って、日本の山菱組が接触を図ってきたらしい」
「さすがに風見編集長だね。よく把んでるよ」
伯母は煙を吐き出しながら感心している。
「常識から考えれば、手形振出人をいきなり射殺してしまうのはおかしいが支払い能力なしとみきっての、別の人間への警告だったら納得できる。ベニス地区にある秘密の事務所からただちに日米両文の犯行声明が出され、本社にも一部送られてきた。『次には、夫人と子供二人の死体が、ベニスの運河に浮ぶであろう。近親者は速やかに手形の決済をせよ』昨日、子息の死後、一時間もしないうちに、この声明文をテレックスで受けた父親の神田貫一氏は、これまでの支払い拒絶の頑《かたく》なな態度を一変したといわれる」
ベニスというのは、イタリーの本物のベニスではない。サンタモニカとロングビーチの間にある海岸に面した町の名だ。
このあたりに住みついたイタリー系の移民が故国をしのんで、市の観光局と協力して、町に人工の運河を掘った。最初はゴンドラでも浮べて故郷のように風情のある町にしようと思ったが、運河の周りに、倉庫や、小工場ばかりが建って、日本でいえば江東の掘割地区を思わせる、薄汚れた町になってしまった。今では運河の水はよどみ、猫の死体やごみで異臭を発している。
伯母はじっと聞き入っている。
「尚、ロス警察のアジヤ機動隊宮武刑事たち一行は、現在被害者竜一氏と同じ 箱《コースター》 に乗っていた、日系人らしいアベックの行方を追及している。犯行を目撃したものは必ず消される。不幸な犠牲者を救うためである」
ここまで読んで心臓が口から飛び出しそうになった。背筋から体中に震えが伝わった。
「もうぼくらは助からないんでしょうか」
「多分ね。助かるには先に相手をやっつけるという一手しか残されていないね」
アガサは吸いかけのマリファナをブリキの皿に押し潰しながら答えた。
「……だから今、サンフランから、飛行機ですぐ来るように殺し屋を呼んだんよ。ミーの取っておきの切り札だよ。仕事が荒いんで、よほどのことじゃないと使いたくないんだけど、子供や女を人質にとるような卑劣な奴が相手では遠慮してはいられないからね」
大きな乳房をブラで押えてワンピースをかぶると、アガサは食事の仕度を始めだした。
「今ごろは、あの坊ややお嬢ちゃんは、さぞ怖い思いをしているだろうね。可哀そうで居ても立ってもいられないよ」
居ても立ってもいられないのはこちらの方だ。
「裕子も呼んでお出で。怖がってるだろう」
青ざめている裕子と三人で、朝食をとってから二時間ばかりぼんやり待った。昼近くに一階から電話があった。もうサンフランから着いたのだ。
「それじゃいよいよ戦闘開始だよ。二人とも心を合せて頑張ってもらわなくては、この戦いには勝てないよ」
ぼくらは活動的な服装に着替えてから、フロントヘ下りて行った。若い夫婦者が、長椅子に坐って待っていた。二人とも小柄な日系人で、伯母が呼んだ荒っぽい殺し屋とは、とても思えない。夫の方がアガサを見るとおだやかな声でいった。
「いくらアガサさんでも、今朝の電話で、午前中に来いでは、面喰らいますよ」
「どうしてもユーが必要になったんよ」
よりそっている若妻の方は目を見張るほどの美人だった。丁度、日本のS化粧品会社が『微笑の規律』というキャッチフレーズを作って、太い男ズボンをはいた美少女のポスターを、やたらにあちこちに貼り出し、このロスの安ホテルのロビーにも貼られていたが、そのモデルにそっくりであった。
夫の方は黒いサングラスで表情が殆ど分らないが、若妻と同じに小柄でやせた男で、それに足が悪いらしく、立ったり歩き始めたりするときは、必ず片手を妻の肩にかける。
「トム、急いでるからすぐ出かけよう」
伯母の愛車の大古《おおぶる》キャデラックは、二十五年目の古エンジンの貫禄で、大きく胴ぶるいしてから小東京を飛び出し、七丁目《セブンス》のビルに向った。運転しながら伯母は紹介してくれた。
「哲ちゃん。トム君はね、ベトナム戦に従軍してね。片目と片足を地雷で吹っ飛ばし、ニクソンから直接、胸に七つの勲章をつけてもらった英雄だよ。ミーの親友《アミゴ》でね。今日はわざわざサンフランから来てもらったんよ」
トムは気乗りしない口調で答えた。
「いくらアガサの頼みでも、もう荒い仕事はやりたくないですよ」
「事情が分ったらやる気になるよ。男なら、やらなくちゃいられなくなるね」
ぼくはトムにきいた。
「トムさんは二世として従軍されたんですか」
「いやただの旅行者としてやってきたんだがね、戦争が始まると、どうしても行きたくなって、むりに志願したんだ。ベトナム人に個人的な恨みでもあるのかって、徴兵局に不思議がられたよ」
珍しい人もいるもんだと思っていると、伯母が声をひそめていった。
「ああ、今のうちに、みなにここだけの話としてきいておいてもらいたいことがあるのよ。西海岸の二十四人|委員《コミツシヨナ》の一人で、セルジオって拳銃のうまい爺さんがいる。哲ちゃんはクラブのアオヤマで会ったことがあるよ。右のテーブルに坐っていた頭の禿げた爺さんだよ」
「ああ覚えています」
「セルジオは、ニューヨークで殺された、欲張り《グリード》ガルミネの従弟《カズン》でね、事件以来、ミッキーとはしっくりいっていないんよ。このことは承知の上で、何も知らんふりでいるんだよ」
えらい難しいことになった。気の小さいぼくにそんな腹芸ができるだろうか。こんなことなら最初から聞かない方がよかった。
七丁目のビルに着いた。目をつぶり呼吸を整え、三階のサロンに入った。
ミッキーの他に、三人ばかりの幹部がいてセルジオも交っていた。ミッキーと親しそうに話していて、さっき伯母のいったことが信じられない。ミッキーが英語で話しかけた。
「若いお二人にいい物を見せてあげましょう。これは犯人側に付添っていたカメラマンが、現場の殺人技術の検討のために内部資料として撮った写真でしてね。犯行声明文と一緒にわざわざ送ってくれたものです」
テーブルの上に何枚もの写真が並べられた。赤い丸点が額についた瞬間。ジェットコースターの箱の中で、天地逆さの体が衝撃で仰向けにのけぞった瞬間。ぼくたちがキスの唇を離して驚愕の表情で見つめているアップ。一発の射撃がひき起したすべての情景を、くまなく望遠レンズは捕えて、十枚以上の連続写真にしている。
セルジオはさすがに神経が鋭くなっているのか、トム夫婦をみて訊ねた。
「アガサ、この夫婦は」
「ああ神田さんの御親戚の方でね、丁度ロスにいたので来てもらったのよ」
セルジオが不審そうな顔でいるのにもかまわず、アガサはぼくら二人に話を移した。
「目撃者は消せというのが、完全な殺人への基本だからね。用心のためにこうした写真を撮っておくんだよ」
そこヘミッキーが沈痛な表情でいう。
「もしお二人が、もう相手の側に捕まっていたらと、ずっと心配していたのです」
胸で十字を切る。何度も死線を越えてきた大親分にこれをやられると、実感があって、体中が冷たくなる。ぼくはちゃんと英語で答えた。
「でもぼくたちキスに夢中で何も見てません」
セルジオが冷たい声でぼくたちにいう。
「そういうのが、却《かえ》って拷問された場合ひどくやられます。話すことがないのを、強情のせいだと勘違いされてね」
とたんに裕子はわーっと泣き出した。ぼくが慰めるように手を重ねるのを邪慳《じやけん》に振り払い、わめき出した。
「いやーっ! 裕子、もう一生哲ちゃんとキスなんかしない」
これはいささか見当外れの、八つ当りではないだろうか。
C COME ACROSS ……借金を支払う……
女はいざとなれば泣くという手がある。
勝手に泣きわめき八つ当りしていれば、多少は恐怖もまぎれるだろう。三階のサロンで
「一生哲ちゃんとキスなんかしない」
と泣いている裕子と、青ざめて物も言えないでいるぼくの前に、禿頭のセルジオが、ぼくらが抱きあっている写真をもう一度、拡げてみせた。いかにも意地の悪い根性をまる出しの口調でいう。
「これだけ熱々《あつあつ》じゃ二人とも周囲のことを覚えちゃおらんでしょう。半殺しになるまで拷問されても何も白状できない。でも私たちの組織はベトナム戦で軍が捕虜の自白用に開発した薬品を持っています。眼球に無意識のうちに映じた像を掘り起すようにしてしゃべらせます。ただしこれを一度使うと脳波が変調して、以後は使いものにならない人間になってしまいますがね」
冗談半分に脅しているのかと、ぼくはちらとセルジオを見ると、その目はマフィヤ特有の冷酷さで、ぼくの内心を見すかすように光っている。また体中が震えてきた。
ミッキーは相変らず沈痛な表情で話す。
「今度の相手はちょっと手強いです。情勢を正確に把んでいます。実は東京の神田貫一氏は一代で財を築いた実業家らしく、二十億の手形の代りに不肖の息子の生命ぐらいは仕方ないとある程度覚悟していたらしい。敵もそれを悟り、息子の体じゃ決済できないとして先に処分した。代りに老人が目に入れても痛くないほど可愛がっていた二人の孫と夫人を誘拐して指定の時間に入金がなければ、この罪もない母と子、三人の死体がベニスの運河に浮ぶと言ってきたのです」
ミッキーの話にますます恐怖がつのってきた。
「さすがに剛腹《ごうふく》の大商人も、これには愕然として、さっき国際電話をかけてきました。泣いていました。『孫と嫁の生命だけは何とか助けたい。明後日の三時のタイムリミットに間に合うよう、邸宅から株券、宝石、好きで集めていた書画、骨董《こつとう》、一切処分して現金を作る。ただ自分の財力にも限りはあり、急ぎのことでもあるから、二十億は無理だ。何とか十億で話をまとめてくれ』とのことでしたよ」
ぼくらはただ顔を見合せていた。
「どうもこの仕事は我々マフィヤの仲間の反乱分子だけでなく、裏に日本の、ザ・ヤクザがからんでいます。子供を殺すなんてやり方が我々より非情です」
そういわれてぼくはもう身の置きどころもない思いだ。あの池成の旦那でさえ、怖気《おじけ》づいてどこへ逃げたのか、姿も見せない。
そのときエレベーターの方から、この間の市場《ミート》で働いた中幹部の一人が、急ぎ足でやってきてミッキー親分の耳に何か小声でささやいた。西海岸のナンバーワンの大物の顔が明らかに動揺した。緊張した声でいった。
「ベニスの運河に、全裸の首無し女の死体が浮んだらしい。首と着物がなくては身もとは確認できないが、皮膚の色と、残された部分の体毛でアジヤ機動隊では、東洋人の死体だと断定したらしい」
さすがのアガサ伯母も蒼白になった。
「まさか……。まだ夫人は殺さないでしょう。十億円になる人質ですからね。これからミー達も行って、死体を見てみましょう。宮武刑事には、私が話をつけます」
立ち上ると、トム夫婦に
「ああトムさん。あんたら親戚なんだから、首のない体でも夫人かどうか見当つくんじゃない。確認してね」
とわざといったが、これはセルジオが、突然入ってきたトム夫婦にやや疑いの目を見せているので聞かせた言葉だ。
事件となると、伯母は急に目が輝き、体の動きがきびきびしてくる。名推理を期待して、ぼくらは伯母の大古キャデラックに乗って、海岸沿いのベニスの町へ駆けつけた。
どぶ泥の運河が流れるロス市内のベニスの町の現場には、数台のパトカーが止まり、川面には巡査が漕《こ》ぐボートが、手網や棒で底をさらっていた。伯母は車をおりてちらとあたりを見ただけで例の鋭い推理を展開した。
「ここから見えるところにはないけど、この運河の流れを辿《たど》れば、いくらも行かないところに必ずイタリー料理店があるはずだよ」
ぼくには、その推理の見当もつかない。
アガサを見つけて、警官隊を指揮していた宮武刑事が近づいてきて厭味《いやみ》をいう。
「どこから事件が洩れたんですかの」
「このあたりから血の匂いがしてくるんよ」
「でももうおそかったですの。検屍はすんで犯人の見当も、もうついてるけんの。アガサさん、妙な推理働かせて、ミーら混乱させないでください」
「ユーたちが考えてる犯人なら、ミーらも分ってるんよ。でも三日も前からこの町にはいないよ。壁に張紙残してどこかへ消えたよ」
「だからよけい怪しいでの。アリバイもたたんけん」
「でもあの人を犯人にしちゃ少し気の毒よ。本当の女好きは、女に殺されることがあっても、勿体《もつたい》ないから女は殺さないもんよ」
とたんに宮武刑事は考えこんでしまった。二世の人の共通点として、温暖な地方にのんびりと育ったせいか、筋道だった反論ができない。伯母はそこをついていく。
「何で河にボート出してるの」
「捜査は基本が大事での。着衣や遺留品か何か見つからんかと思うて」
「無駄な努力だね。親方星条旗でレーガンからいくらでもお手当が貰える警察官だからいいようなもんだけどね。民間の探偵だったらとっくに破産よ」
さすがに宮武刑事も気色《けしき》ばんだ。
「ミーのやってることの、どこが無駄なのかね」
アガサは自分の掌を開き、首のところで横に平らに動かして切るまねをした。
「女の首は、こう真っ平らに切られてなかった。それだったら十年探したって、着衣どころか、パンティ一枚出てこないんよ」
「どうして、そんなこと分るのかの」
「捜査官にミーが教えるなんて、失礼に当るまねはできないね。それより女の身もと、見当がついた」
「もちろん、あの夫人ですの。体つきは東洋人で|恥 毛《ピユービユツク》は直毛で、日本女特有のものですけん」
「そうかしらね。あの夫人は若く見えても四十に近い。死体は二十代の女じゃなかった」
「首がないけん、女の年など分りゃせんの。何かそれとも知っとるんですかの」
「さあーね。今は何もいえないけどね、もしミーがその死体を見たら捜査の役にたつことぽろりというてしまうかもしれないよ」
ここらあたりがアガサの駆けひきの呼吸である。宮武刑事は藁《わら》をも掴みたい心境にあったらしい。
「ロス警察の威信の上からアガサさんのくだらない推理に耳を貸すわけにはいかんけどの、事件の関係者として死体《コルプス》を見せてもいいとは思うとるでの」
死体ときいて裕子はぼくの腕にしがみつきぼくの足もすくんだ。
「こちらにまだ置いてあるでの」
近くに紙問屋の倉庫がある。アガサと、若い妻の肩に手をかけ片足をひきずりながら歩くトムは、平気でついて行く。入口に白人と黒人の巡査が向いあって見張りしている。首無し女の死体など見ないですませたいので、ぼくと裕子は外でぐずぐずしているとどなられた。
「哲ちゃん早く来るんよ」
床にはシートが敷かれ、全裸の死体がむき出しでおかれてある。首が無くても乳房や下腹で女とはっきり分る。黒い直毛の密生した太腿は不自然に開かれ淫猥《いんわい》な感じがする。アガサは早くも何か掴んだらしい。殺し屋のトムとしきりに目配せして頷《うなず》き合った。
首の部分は真っ平らに切れていて、一センチ幅の赤い皮の輪の中に、白い骨とピンクの肉の部分がつまって、ソーセージの断面を見るようだと考えているうちに、急に腕が重くなって、裕子が倒れかかってきた。もう気絶している。
伯母はひどく冷たい口調でいった。
「丁度いいわ。足の線で合せて死体の横に寝かせてごらん。首無しでは背の高さが見当つかなくて困っていたんよ」
ひきずってシートに並んで寝かせた。
腰の線も首の線も裕子より大分上にあり、かなり背が高い。乳房の張りや肌はどう見ても二十代のものだ。あの夫人でないことだけは確かだ。
トムは死体に近づきしゃがみこんで、硬直した腕を上げて腋《わき》の下を見てから、今度はかなり変なことをした。アガサと一緒に両腿を一つずつ持って拡げるようにし、内腿の間を覗きこむ。伯母の耳にささやくと、伯母は宮武刑事に教えた。
「これは神田夫人じゃないよ。日本人でもないね。理由までいったら、捜査官としてのユーの顔がスタンダップしないから、遠慮しておくけど、腕に麻薬《ボツブ》の痕があるから、水商売のホステスか、娼婦《ボトム》の中から行方不明者を探すんだね」
考えこんでいる宮武刑事をおいて倉庫を出て行こうとする。ぼくは気絶している裕子にのしかかり、頬っぺたを強くひっぱたいて、やっと目をさまさせ、ひきずるようにして表へ出た。
伯母はもう現場に用がないらしい。すぐ車を走らせて町へ入ってから、やっといった。
「トム、やっぱりだね」
「昔はやった後でも、死体は隠しましたがね」
「今度のは、むしろ自分らがやったことを、ミッキーや、神田さんの親父に知らせる意味があったのかもしれないんよ」
ぼくは堪《たま》りかねてきいた。
「やったやったって何をやったんです」
伯母は珍しく丁寧に答えてくれた。
「マフィヤが、今までの組織から分れて、一つの地域《エリヤ》で独立することは、大変なことなんよ。全員でお祝いのパーティをする。そのとき余興として白黒のショウをやるんよ。哲ちゃんはこの言葉分るね」
「裕子も分るわ。日本で聞いたことがある」
さっきは気絶していた裕子が代りに答えた。
「ここでは文字通り、男は黒人、女は白人と決っていてね。ただし白人の中では、一番値の安いメキシコ女を連れてきてやらせたんよ」
「それがあの死体とどうつながるんですか」
「黒人はセックスが強いからね、女はもう気も狂わんばかりになる。その最後の一瞬が近づいてくると、巧みに女の体を上にして男が下になる。女は何も知らずに、女上位のまま、極まりに昇りつめて行く。背後から、介添人が近づき、首にナイフをあてて、絶頂の瞬間一気に掻ききる。大変な技術が要るんだけど、組織の中に上手なのがいるんよ」
車が走行中なのに、ハンドルから両手を離すと指で丸い輪を作った。
「頭は遠くに吹っとび、残った首の回りの皮が、こうしてみみずのようにうごめくんよ。ミーは何度も見たことあるけど、三センチぐらいの太い血の棒が二本、テキサスの油田みたいに勢いよく一メートルも噴き出すんよ」
裕子がまたふらっとよりかかってきた。
「……見ている連中は声を上げて大喜び、下にいる黒人も大喜び、もう一度上になって、首のない体を押えこむと、最後のフィニッシュだね。下半身が極限まで締ってこの上なく強烈な感覚が味わえるらしいんよ。哲ちゃんも裕子にあきたら一度切って試してごらん」
冗談にしてもひどすぎる。幸い裕子の意識が半分まだぼうっとしていたから、おだやかにすんだが、返事次第ではひっかかれてしまうところだった。
トムがぽつりといった。
「たとえ暴力金融でも、借りた金は返さなくてはいけない。その点では乗気じゃなかった。だけど今日のベトナム娘の死体を見ると、ぼくはどうも駄目です。ベトナムで女も子供もさんざん殺しましたからね。弱いんです」
ぼくはびっくりしてきいた。
「あの女がベトナム娘ですって。首がなくてどこで分るんですか」
「哲ちゃんばかね。さっき一緒に立ち会って分らなかったの」
また伯母の口ぐせが出た。気にしない、気にしない。トムが教えてくれた。
「腋の下と内腿をアガサと二人でのぞきこんだでしょう。あそこに出身の村を示す刺青を入れてあるんですよ。あの女はユエの近くの村の娘です」
ぼくは自分の頭の回転の鈍さに全くいやになってきた。
ホテルに戻ったときは夕方になっていた。ロビーでは仕事のない人々が大勢集っていた。
ゴールデンウィークは、アメリカにはない。代りに五月の終りにコンビネーション寿司のパーティをやろうという計画が前からあって、みなが手伝って準備していた。
三階に、このホテルではアガサと並ぶ古手の、ジミー・帯川という爺さんがいた。寿司の職人で、ロスの寿司屋へ職人を世話する元締めもやっている。経歴が凄い。戦前の少年時代、汽船の空気孔にかくれて十日間飲まず喰わずで密航してきた。そのまま居ついて五十五年。今ではアメリカの移民局《イミグレ》では実績を認めて、市民権と就労カードを向うから届けてくれたという大物だ。
彼の指示でパーティの日は電気釜をありったけ動員して飯だけ炊いておく。
寿司屋で魚を切るときどうしても切れっぱしが出る。これを冷凍しておいて木桶に何日もためておく。
パーティの日には木桶に何杯もそのネタを持ってくる。
一つのシャリに、三つ四つの違った切れっぱしのネタがのる。よそでは食べられない贅沢な味の寿司が握られる。これがワシントンホテル自慢のコンビネーション寿司で、その大皿の横には、コックやウェイトレスのアルバイト学生がそれぞれの店から|くすねて《ヽヽヽヽ》きた|いかくん《ヽヽヽヽ》や、ピーナツの皿が並ぶ。
ぼくらが疲れて帰ってきたときそのパーティが始まるところだった。ジミーがもうせっせと握りながらいった。
「酒にはおつまみ、シャリにはネタ、パーティにはミュージックがほしい。ここは一つアガサ女親分にお得意のマンドリンでもひいてもらいましょう」
みなが一斉に拍手する。こんなとき伯母は妙な遠慮はしない。
「いいよ。哲ちゃん、部屋へ行って持っておいで」
ぼくは大急ぎで四階からマンドリンを取ってくる。アガサの亡くなった夫の形見だ。シナトラを初めとして『|血盟の仲間《コーザノストラ》』は、みなマンドリンがうまい。伯母は少し調絃してからトレモロをきかしてひき出すと、越路吹雪ばりの声で唱いだした。
シンシヤよ
おまえの恋人が戦いの場で
死んだ知らせが来たら
おまえは女だが
ナイフを磨いて胸に隠し
復讐の旅に出るんだよ
シシリー女の激しく哀しい情熱がひしひしと迫ってくるような歌であった。
D PLOT OUT ……仕掛けは上々……
ホテルのロビーに集った人々は、みな快く酔っていた。ロビーといっても、アメリカヘやって来た人々の中でも落ちこぼれだけが集る一泊五ドルの安ホテルでは、駅の待合室と同じで、ベンチと長テーブルしかない。
テーブルの上の皿には、魚の小片が取りまぜてのせられている名物コンビネーション寿司が、ジミー・帯川の機械のような早い手で、若い人の食欲に負けずに盛りつけられていく。喰べ放題というのが人々の心を豊かにしている。その上アガサの歌がある。異郷の土地で身体をよせ合うようにして生きている吹きだまりの人々の心に、アガサの歌はマンドリンのトレモロにのって、しみ通って行く。パーティはまさにたけなわであった。
そのとき玄関口に変な家族が入ってきた。
よれよれの木綿ズボンに、汚れた半袖シャツだけの三十ぐらいの貧相な男が、四つから八つぐらいの女の子を四人連れて、中の様子を、おそるおそる覗いている。女の子は背の高さだけ少しずつ違うが、顔もワンピースも同じだ。男は東洋人ということはたしかだが、気がついたぼくが、そばに行って訊ねると全く分らない言葉で妙な紙をつき出した。
「こりゃー池成旦那の名刺だ」
気にして遠くから見ているロビーの人に教えた。
その男は、それだけが知ってる英語らしくしきりに訴える。
「ワイフ、ワイフ……」
そばに来て覗きこんだ裕子がいった。
「きっと池成親分にワイフを盗まれたといってるんじゃない。女に手が早かったから」
男がまた話しかけるが誰にも分らない。
木がコンクリートの床にぶつかる音がして、トムが片足をひきずりながら、そばに行き何かたずねる。男は初めて、自分の言葉を解ってくれる人が居た嬉しさで猛烈な早口で訴えだした。アガサがみなに教えた。
「ベトナム語だよ。トムは三年も特殊任務で農村地帯に潜入していたんよ」
話の区切りがつくと、トムが振り返った。
「妻が、いい仕事があると出て行ったまま、もう三日も帰ってこない。残されたハンドバッグから、この名刺が出てきたので、日本の新聞社に持っていったらここを教えてくれた。妻はアオヤマという日本人専用クラブで働いている。名をホーという。誰か知らないか……とそんなことをいっています」
トムの口から、ホーという名が出たとたん、父親の横に一列に並んでいた四人の少女が一斉にわーっと泣き出した。
裕子や他の女たちがあわてて、テーブルの上のいかくんや、柿の種、缶ジュースなどを持ってきて、女の子たちの手に握らせると、やっと泣き声がおさまり、しゃくりあげるだけになった。ぼくは思わず
「そうか、あのベニスの」
といいかけて、いきなりアガサ伯母に
「哲ちゃん、ばか、よけいなことをしゃべらないで。そんなこと初めから分ってるんだよ」
と叱りつけられてしまった。思わず震え上るほどの怖しい声だった。伯母はトムに
「トムさん。この人たちにね、母さんは池成の旦那に連れていかれたんじゃない。二、三日したら必ず消息が分ると伝えてね。でも生きているかどうかには触れないでよ。言えば嘘になるからね」
トムは子供をなだめながら、男に二十ドル札を一枚握らせた。裕子や女たちがてんでに一ドルとか五ドルを出して子供たちのポケットに、コーラ缶や菓子と一緒にねじこんだ。やっと四人の女の子のしゃくりあげは止まり両手とポケットにお土産を一杯持って機嫌を直して出て行った。再びパーティは始まったが、事情を知ってるぼくらは、二度と賑やかな気分にひたることはできなかった。
翌日は、まる一日どこへも出ずにじっとしていた。神田氏に指定の日に東京で現金を積んでもらう以外、何の手段も残されていない。もし間に合わなかったら、母親と二人の子供の死体が運河に浮ぶだけでなく事件の目撃者であるぼくと裕子の生命も危い。
さすがのアガサ伯母も何一つしゃべらず、一日中マリファナを吸っているだけだ。トム夫婦は池成が出た後の部屋に入ったきり電話もかけてこない。あんな、自分一人では満足に歩けないような男が、兇暴な反乱分子のマフィヤや日本から出張してきている、ザ・ヤクザを相手に戦えるとは信じられない。その環境の中でぼくと裕子が、裕子の部屋で一日中抱き合って、恐怖を忘れるために何をしていたかについては、ノーコメントである。
二日目の朝の十時に、ぼくらはまた五人揃って、七丁目《セブンス》の本部へ行った。
いつものようにミッキー親分と幹部たちが待っていた。テーブルの上には、五つの金属のトランクがおいてある。アガサはすぐきいた。
「セルジオはどうしたの」
「今日の夕方にはラスベガスの方の仕事があるといって、さっき出て行きましたよ」
「そう。こんな大事な日にねー」
ミッキーはトランクの錠を一つずつ外して蓋をあけた。隙間なく日本の一万円札が詰っている。すべてが銀行封印のある新券だ。
「時差があるので話が入り組みますが、本日の午後三時直前、日本の銀行に入金がありましたので、こちらにある支店で九時開店と同時に詰めてくれました。三日前から予告しておいたので、何とか間に合いました。新券でもよいというので十億円揃いましたが、使用ずみの旧券だけといわれたら、どうにもなりませんでしたよ。神田貫一氏は背広一着、歯|刷子《ブラシ》一つ入ったバッグだけ持って、六畳一間の安アパートに引越したそうです。長年の友人をこんな目にあわせて私も辛い思いです」
ミッキーの表情は沈痛そのものであった。
「神田さんは日本の実業の世界では生涯負けることを知らない人でした。そして私もこの世界に入って一度もこのような敗北の苦い味は知らないできました。しかし我々イタリー人が組織の中心であった時代は終ったのです。我々の子供は大学を出て弁護士にはなるが、ピストルを握る親の仕事は継ぎません」
妙に弱気になっている。伯母がすぐ聞いた。
「ハミルトンが裏切ったの」
「もう組織もメキシカンや、黒人が中心の勢力になっています。彼は反乱者のグループの中で働いているという情報が入ってきました」
伯母はがっかりしていった。
「とんでもない奴を護衛に頼んでしまったよ」
「後からこの国へやって来た新しい血には勝てません。彼らが日本からやって来た生命知らずの、ザ・ヤクザとがっちりとスクラム組んだのでしょう。作戦は荒っぽく幼稚でも、この残忍さには例がありません。私の生涯に味わわされた最初の敗北です」
ミッキーはぼくら五人の東洋人に改めて丁重に頭を下げた。
「これまで只の一度も間違いのなかったアガサに届けていただければ、向うも安心して受取ってくれるでしょう。金額の確認を終えしだい、夫人と二人のお子さんを連れて帰ってください。これしかもう私にはできることはないのが辛いです。くれぐれもお頼みします」
向うの指定の場所は、運河の終り、サンタモニカの海岸に近い所にある、『マカロニ・プロダクト』という妙な名のレストランだ。
大古《おおぶる》キャデラックのトランクに、五つの金属の箱を詰めると、また胴ぶるいを一発、五人をのせて七丁目の大通りからすぐ、コロンボ刑事でおなじみのフリーウェイに入った。
走り出してからアガサ伯母はトムにきいた。
「もう迷いはない」
「ええ、四人の女の子が雀の学校のように口をそろえて泣いているのを見て、僅かばかり残っていた迷いもふっきれました。戦火のベトナムの村を逃げまどう子供たちが思い出されて堪りませんでした。今度の仕事は丁寧にやらせてもらいます」
車は運河の出口の海岸際に来た。
最初に駆けつけた日に、伯母は運河を辿って行けば、イタリー料理の店があるはずだといったがその通りだった。運河沿いのレストランの五十メートルぐらい手前に、黒人が立っていて、止れの合図をした。ピストルを油断なくかまえて近よってきたのはハミルトンだった。
「そこに車をおいて、一人一つずつ鞄を持って、二メートルずつ離れて歩いてこい。あいた方の手は、ポケットや襟に近づけるな」
指示にしたがって一つずつ重い鞄を持ったが、トムは足が悪くて持てないので、その分ぼくは二つ持たされた。四億円。自分の金ではないから嬉しくも何ともない。
アガサ伯母が先頭で、次に裕子、トム夫婦だけが二人並び、ぼくが一番最後だった。
レストランの表面はボロ板を集めて、乞食小屋に似せて作られており、これがまた、ナウい感じの建物になっていた。
ぼくらは入口で一人ずつ鞄をとり上げられ、両手を頭に上げさせられ、女も男もおかまいなしの身体検査を受けた。両脇と股の間は特に慎重に調べられ、男はパンツの中に手を入れられて睾丸の裏までまさぐられた。女も同じような調べ方をされたらしく、裕子だけが悲鳴を上げていたが、トム夫人もアガサ伯母も、一言も声を出さず、触られるにまかせていた。
入ると店は連中に占領されており、マフィヤの他に、日本の組関係の黒ダブルのお兄さん方も何人か坐っていた。
検査が終ると中央のテーブルに案内され坐らされた。周りを取り囲む五つのテーブルに、それぞれ五つの鞄が分けられ、ザ・ヤクザとマフィヤとが一人ずつ組になり、中の札《さつ》を数えだした。
ぼくらのテーブルにセルジオ爺さんがやってきた。アガサはいかにも驚いた声で
「あんたどうしてここへ」
といった。相当な演技だ。
「ミッキーにはよろしく。多分もう二度と生きてお逢いすることはないでしょうね」
「なぜそんな気になったの。悪い冗談よ。まだ謝れば間に合うわ」
「いや、従兄のガルミネが、自分の親分の四代目が獄中から命じた殺し屋にやられたと分ったときに、このことを決めました」
「そう思いこんでいるなら仕方がないけど、もうこの世で二度と逢えないと思うと残念ね。マルセルが生きていたら悲しむわ」
あちこちのテーブルで勘定が終り、OKのサインがセルジオの所に届けられた。反乱分子の頭領《ドン》は、今朝までこの事件の参謀としてミッキーのそばにいたセルジオ爺さんだった。
全部の報告がまとまるとセルジオがにこやかにいった。
「たしかに十億ありました。人質をお返しします。大事に扱いました。みなお元気です」
奥の部屋から、子分たちに囲まれて夫人と二人の子供が出てきた。子供たちはぼくと裕子を見つけると、声を上げながらすがりついてきた。アガサは夫人を抱きしめるといった。
「もう心配ありませんよ。早くお爺ちゃんのいる日本へ戻りましょう」
子供たちを抱きしめていると自然に涙が出てきた。意外だったのはトムだ。特に涙もろいたちなのか、大粒の涙が両頬にしたたり落ちる。ついに耐えきれなくなったのか、ハンカチで顔をおおい片足をひきずりながら、トイレに駆けこんだ。
大分たってから、顔を洗い、少し恥しそうにして戻ってきた。それとともにアガサは涙を拭い、夫人と子供を両脇にかかえ、きっぱりした口調でいった。
「それでは私たちはこれで帰るわよ」
「いやーアガサわざわざすまんね」
新しい頭領《ドン》は勝者の余裕を見せてうなずく。どこか別の組織《フアミリー》との連繋《れんけい》も成立し、ニューヨークの本部委員会《コミツシヨナ》の内諾ぐらいは、取りつけてある感じであった。
店から車までの五十メートルは抱き合うようにして歩いて行き、少し窮屈だが、キャデラックに八人乗りこんだ。車に乗ったとたんアガサは、エンジンキーを入れ、アクセルを力一杯踏んで、がくんとバックのまま発進して店から離れながら、鋭い声を出した。
「裕子とお母さんは小さい子の両耳を押えてやって、上からかぶさりなさい。ばか! 哲ちゃんは男だから正面を向いてるの」
三十メートルは下ったろうか。目の前のボロ板の乞食小屋風の、実はしゃれた贅沢なレストランが、黄色い炎の筒になった。中天に炎が散り、車が大揺れに揺れ、空気が波になって、ガラスにぶつかる。音は大きすぎて、もう五官に感じない。
空中から焼けた資材や人間の細片が降ってくるが、そのときは、それがかかる所からは離れていた。急激に方向転換すると、前進ギヤーが叩きこまれ、サンタモニカの海岸通りを走りだした。
二十五年前に二万ドルかけた装甲車のようなキャデラックだ。ガラスにひび一つ入らない。子供は怯えて物もいえず、ぼくも、いくら押えていても体が震えてきて困った。
トム夫人はおだやかな表情でかがみこむと、夫のズボンの裾をまくり、膝下に装着されている義足を外した。中の空洞にまだこびりついている黄色い粘土状物質を、ティッシュで丁寧に拭う。そこには夫婦の間のいたわりの姿があった。
トムは少し恥しそうにしていった。
「そのへんの薬局で売っている材料をこねくってこしらえるのです。トイレの水槽に入れておくと、急激に水を吸い、みるみる熱を出し、水が無くなると自分のエネルギーに耐えられなくなって、突然TNT火薬の十五倍の力で爆発します。その間五分といわれています」
随分危い橋を渡ったものだ。ひきとめられたらどうするつもりだったのだろう。ところが裕子はさすがに女だ。少し神経が違う。
「あの十億円を燃やしちゃって勿体ないわ」
アガサ伯母は鼻で笑った。
「ミッキーはそんな阿呆じゃないわ。昔からおとぼけで有名でね。ぐちっぽくこぼしているときが得意で仕方がないときなんよ。あのお金は、シカゴの印刷屋でね、発券国の銀行に戻らない限り絶対にばれないという贋札を作る名人がいてね。一枚千円で買ったの。一億円はかかったけど、手数料をひいても八億円は神田さんに戻してやれるんじゃない」
びっくりしてきいているぼくらにアガサは更に背筋が冷たくなるようなことをいった。
「ミーの一番心配したのはセルジオなんよ。日本の銀行に三時に入金し、こちらの支店にテレックスで入金があったという時点まで、ミッキーのそばにいて、すっかり安心して、自分の根拠地へ戻って受け入れの準備をした。あれだけの大物でも詰めが甘いね。札《さつ》を数える場所に一人も本物の銀行員がいなかった。ザ・ヤクザではあれは見破れないね。もっとも見破られたら、トムがトイレに入る前に全員殺されていたけどね」
聞いてしまったら、背筋どころか内臓まで冷たくなってきた。
今ごろになってやっと、現場へ向うアジヤ機動隊のパトカーがサイレンを鳴らしながらすれ違った。
インターミッション(幕間)
COAST OF LONGBEACH ONLY ……ロングビーチ沖で……
アメリカ西海岸地域《ウエストコースト》が、ぼくや裕子を含めて世界の若者《ヤング》たちの間に熱狂的人気があるのは、その自由で明るい雰囲気と、四月から十月まではたっぷり泳げる長い夏にある。誰でもこの土地の抜けるような青空の下に立ったら一生離れられなくなってしまう。
大学は六月の半ばごろから休暇に入り、九月までは全く若者の自由の世界がくり拡げられる。ロス市中に面している海岸《ビーチ》だけでも、サンタモニカ、ヘルモサ、ラグナ、コスタ・メサ、ロングビーチなどと十以上もある。
そこに全米中から美しい娘たちや美しくない娘たちが集ってきて、限りなく全裸に近いビキニで溌溂《はつらつ》として戯れている。中でも、崖と崖とに挟まれて、通行人が容易に覗きこめないようになっている砂浜は、どこも全裸で泳ぐのが原則のヌーディストビーチになっている。
ここんところロス市内はまあまあ平和で、アガサ伯母の力を必要としない。ぼくら二人は毎日、裕子の赤い小型車でビーチ回りをしていた。二人とも真黒になった。それも男は一カ所女は二カ所白く残る水着の痕を無くすため、たまには思いきってヌーディストビーチで全裸で泳ぐので、殆どまっ黒になった。
七月に入ってすぐの金曜日、いつものように、夕方の五時には、ホテルヘ戻った。六時から裕子は牛丼屋のアルバイトがある。着替えもあるので急ぎ足で入って行くと、珍しくアガサが、ロビーで待っていた。外は暑いのに、きちんとロングドレスを着てお化粧もしており、ダイヤのブローチが胸に輝いている。
「待っていたんよ。パーティがあるんでね。哲ちゃんはここへ来たときのスーツとネクタイがあったろう。裕子もロング持っているね」
「ええ進級式のパーティに着るのを一つ持ってます」
「ここは安ホテルで冷房がないから、しばらくは辛いけど、道の向うのホテルは冷房が効いているよ。急いで玄関へ入ったらいいんよ。三十分だけ待つから着替えてお化粧をすませて下りてきなさい」
何事が起ったのか分らないが、ともかくアガサの言い付けだ。籠型《リフト》のエレベーターに乗って上の部屋へ行こうとしたらアガサに
「三十分は裕子ちゃんのための時間だよ。哲ちゃんは男だから三分よ。顔をブルッと洗って、パンツだけはきかえたら、ネクタイは下りてくるエレベーターの中だって結べるよ」
といわれてしまった。
道をへだてたすぐ向い側に、まるでこの薄汚ないホテルにあてつけるように、日本名の白亜の二十二階建ての高級ホテルが建っている。
宿泊費が違う。こちらがここ十年、一泊五ドルの値を守っているのに、五年前にオープンしたそのホテルは一泊七十ドルが平均で、日本円で考えると、千二百円と、一万七千円の差である。目の前にあるが、このホテルの仲間には玄関から中へ入った経験者がいない。何となくフロントの目が怖いというのである。裏の紀伊国屋書店の売店から入れば、フロントに顔を合さなくても、ショッピングアーケードぐらいの見物はできるのだが、吹きだまりで暮していると、心まで萎縮してしまうらしい。
三十分後にはロングドレスの女二人と、久しぶりにスーツにネクタイのぼくの三人が、鼻の頭に汗をかきながら、まだ暑熱が照り返す歩道を早足で渡り、向いの白亜の高級ホテルヘ入って行った。
厚いガラス扉をあけて、一歩入ったとたん、中はすっかり冷えていて、腕や額の汗がすぐにひいて乾く。地獄と極楽ぐらい気分が違う。フロントもドレス姿のぼくらをうやうやしく迎える。静かで大きいエレベーターに乗ってから初めてぼくは伯母にきいた。
「ぼくら何のパーティに行くんですか」
「あんたたちいつまでも遊んでいちゃ困るんよ。折角大学の方は休みになったんだから、腰を据えて修業してもらわなくちゃならないことがあるんよ」
「それとパーティはどういう関係があるんですか」
「話すと長くなるからね。行けば分るよ」
ここのエレベーターはスピードが違う。すぐに十九階に着いてしまった。扉があくと、目の前の廊下から会場のホールまで、フォーマルのドレスや背広で着飾った、しかしその姿がそれほどイタについているとは思えない人々が大勢集っていた。全員日系人で外人は一人も交っていない。ぼくらはアガサを先にたて、その中をかき分けるようにして受付へ向った。小声でアガサはいう。
「ともかくピストルが上手に扱えなくちゃ、この町では生き抜いていけないからね」
ホールの入口に行くと、そこには『ロス市埼玉県人会』と書いてある。埼玉県と拳銃とどういう関係があるのか、まだ全く結びつかない。
「まあーアガサいらっしゃい」
大柄な婦人が歩みよってきた。アガサよりは少し若くて、二、三センチは背が高い。アガサも大きい方だから周りの人々からは首一つ抜けるぐらいに見える。どちらもアメリカ生活が長い大らかな感じがする。
婦人の胸には黄色い花のリボンがついていて『理事長』と役名が書いてある。
「会費の方はうちでたて替えておくわ。記帳なんかしなくていいからお入りなさい」
それはいいが、ぼくの家は代々東京で、埼玉県とは何の関係もないから、アガサも関係ないはずだ。勝手に招待状もないパーティに入ってしまっていいのだろうかと迷ったが、二人の大型中年女性が肩を抱き合うようにして会場へ入って行くので、そのまま中へついて行くとアガサが振り返っていった。
「ああユーたち、フリーにそこらにあるものを食べたり飲んだりしていいんよ。町では滅多に食べられないご馳走が並んでいるからね」
言われた通り、ぼくらは|もぐり《ヽヽヽ》で入ると、用意されたご馳走を、もうお腹が破れる直前までつめこんだ。
何しろ理事長であるケイコ夫人は、県人会の会長の奥さんで、会長はロス市の邦人の中では一番の成功者といわれる石沢商事社長だ。ぼくらの分の会費は後でちゃんと払っておくといってくれた。で、良心の痛みは少しもなかったが、なぜこのパーティにアガサがやって来たのか最後まで分らなかった。ただし、ここはカリフォルニヤ、土地の流儀に従って何事も深く考えるのをやめることにした。
翌朝は朝早くアガサの車で出発した。生地《きじ》は夏物でいいから袖の長いシャツに長ズボンをはくことを二人とも命じられていた。走り出すとアガサはいった。
「訓練はきびしいよ。一日中海上で日陰がないから、脱水症状を起す怖れがあるのでね、長袖に長ズボンを着てもらったんよ」
まだよく分らない。それでもロス市へきて三カ月、車が走る方向で大体どちらへ行くのか見当はつくようになった。フリーウェイの一一番を走っていたのが、四二番に変り、次にサウスゲートで七番へ入った。
「ロングビーチヘ行くんですね」
アガサはハンドルを取りながら機嫌よく答えた。
「昨日の昼、ケイコ夫人の所に電話をかけたら、ニューオータニのパーティに出るというので、そこでゆっくり打合せしたんよ。おかげで、ユーたちは久しぶりの栄養補給もできたんよ。人生どこに思いがけない余禄がぶら下ってるか分らないね」
「それでロングビーチヘ何しに行くんですか」
「ピストルの訓練よ。これが下手だと、ここでは生命がいくらあっても足りない」
それからやっと話が疑問を理めだした。
「ミーもロスのアガサといわれている、悪党《ラスカル》仲間にゃ、ちょっと知られた顔だからね。町の人が他にも来ているただの射撃場へ、あんたらを連れて行くわけにゃいかないんだよ」
「なぜです」
これは聞かない方がよかった。
「銃の握り方も分らないようなド素人を子分に使っていると噂がたつと、ミーはこの町にいられなくなるんよ」
ひどい理由であった。
「昨日の石沢夫妻は、個人で専用の港と、自分のクルーザー持っているんよ。誰にも見られないで、広い海の上へそっと出て思いきり射ちまくりたいからと頼んだらね、彼女は船も港も貸そう、それにユーら二人を見て気に入ったから、自分も一緒に行って教えてやろうといってくれてねー」
「あの上品な夫人がピストル射てるんですか」
「上品さや可愛さと、ピストルの腕は関係ないね。状況に応じての乱れ射ちならミーの方がうまいけど、最初の基本の装弾から、狙いをつけるときの姿勢などは、あのレディに教わった方がいいかもしれないね」
ぼくは声も出ない。
「スポーツの万能選手でね、ゴルフのハンデはゼロ、テニスは加州のアマチュア選手権、何でもすぐ上達して相手がいなくなってしまう人なんよ。やることがなくなって、何気なくピストル射撃場へ通ったら、たちまちプロ級になってね。評判が伝わって、ロス警察でスカウトに来たんよ。丁度三人続いて子供を生み上げて、それぞれが学校へ行くようになって、手がかからなくなった。アメリカではそうなって暇ができた婦人が、軍隊《ミリタリ》へ入ったり、警察《ポリス》へ入って働くというケースが多いんよ」
こんなことも日本にいてはまるで考えられない習慣の一つだ。
「ロス警察ではアジヤ機動隊に優秀な婦人警官が一人ほしかったんよ。幸い背も規定の百七十センチを五センチも越す。ほぼ採用が決っていたのを、石沢商事を独力で設立、在留邦人の間では一番の成功者として尊敬されていた旦那様がきいてカンカンに怒ったんよ。それまで愛妻に惚れきって叱言《こごと》一ついわなかった優しい旦那様に、いきなり拳骨でゴツンとやられて、泣く泣く諦めて、月に一回ぐらい新任婦人警官のピストル実習に講師として教えに行くだけで我慢しているんよ。教え方はベリーうまいんよ」
ロングビーチの海岸に出た。
目の前にかつてのイギリス第一の豪華客船クイーンメリー号が、華やかなペンキの色もそのままに残して碇泊していたが、今ではエンジンを取り払って海上ホテルになっている。
そのすぐ並びに会社のゲートがあった。アガサ伯母の車が断わりなしにゲートをくぐると、すでに連絡があったらしく、黒人の門番が小型機関銃で捧げ銃《つつ》をして、中へ入れた。
中はほぼ三キロ四方はあるのではないかと思われるような広場で、ギリシャ、中近東、タイなどの異様な文字を横腹につけたコンテナが隙間もなく陸揚げされていた。
会社専用の港には、デンマーク籍のシーリング社の一万トンもある貨物船が横付けになっていて、大量の荷がフォーク・リフトで運び出されている。その先に、可愛らしい桟橋《ピア》があり、貨物船に比べれば、ひどく小さいが個人のボートとしては大型のクルーザーが繋留されていた。甲板には、ネービイブルーの上衣にダブダブズボンをはいた昨日のケイコ夫人が立っていて手を上げて呼んだ。
「アガサこちらよ。弾丸やガンは中にたっぷり用意してあるから、そのまま乗っていらっしゃい」
それでもアガサは車を下りるときに、ダッシュボードから、いつも愛用している、SWの38コンバット・マスターを出した。
これは六連発の蓮根《レボルバー》だが、実戦に際しては自動連発《オートマチツク》よりずっと使い易いという定評のある名銃だ。アガサはいつものように、ズボンのポケットに無造作につっこむと、ケイコ夫人が待っているボートに乗りこんだ。
五百馬力の大型エンジンが点火され、クルーザーは、彼女の夫の持物の|個 人 港《プライベートポート》から、波間に白い筋をつけながら沖へ向った。
「うわーっ、いい気分。あたしこんな大型ボートで、お金持のボーイフレンドと海へ出て行くの長い間の夢だったの」
裕子はいつものように声を上げて喜んでいる。他人の気持を傷つけるようなことを口に出したことには気がついていない。珍しいことがあるとすぐ喜んでしまう。単純な女だから悪意はないのだろう。
三十分も走ると、あたりには何も見えない海の真中に出た。アメリカも広いが、海はもっと広い。
夫人はこの日のために用意してあったらしいコーラやジュースの空瓶を、走る船からまいて行く。
「一つでもそのままにしておくと、船員が遭難信号と間違えて船を止めるからね。必ず一つ残らず射ち砕くのよ」
大分行きすぎたところで、百八十度、向きを変え、戻りながら波間に漂う瓶を射ち出した。初めは片手でハンドルを握りながら、夫人が射ち、続いてアガサが射つ。波間に見えかくれする瓶がみるまに砕け散る。
手本が終ったところで、二人の教官がつきっきりで、同じ型のSWで、まず弾丸のつめ方や、体の構え方から教え始めた。
女三人は姦《かしま》しいということをきいたけど、この二人はもっと口やかましい。両側から一つ一つ細かく言われ、ボロくそに叱られると、裕子と二人で泣きそうになった。
きびしい練習だった。
「ここは海の中だから、どこへ射っても誰もケガしない。自分とわたしたちさえ射たなければいいよ。気楽な練習場だね」
「今日は滅茶苦茶射ちなさい。二日も三日ものんびりやってられないんだよ。帰ったら今晩すぐ、上手なギャングと射ち合わなくちゃならないかもしれないからね」
何でもかんでも今日一日で仕上げてしまうつもりらしい。昼は持参のハンバーグとコーラ一杯。後は水も飲ませてくれない。揺れる船上で両足をかまえて、波間に漂い見えかくれする目標に向って、何百発も続けて射ちこまされた。
いつのまにか夕陽が赤く染まるころになっていた。銃身がやけると、箱の中に十五、六も無造作においてある別のに替える。五時間はやったろうか、体中硝煙くさくなり、耳はもう鳴りつづけて人の声はきこえないほどだ。引鉄《ひきがね》が当る部分の指が、ショックの連続で赤く腫《は》れた。その代りコーラ瓶ぐらいなら、ほぼ九十パーセントが一発で仕留められるようになった。怖しいハードな訓練だった。
丁度沖の方の瓶を狙っていた裕子が
「あっ、ちょっと待って」
といって片手をあげた。指さす方の沖合に小さなボートが一つ見えた。どうも潮流で流されているようだ。危険なので様子をたしかめるため、練習をやめて近づいていった。
船の周りを円を描いて近づいた。
三十馬力ぐらいの船外機をつけた小型の五人乗り強化プラスチックボートだ。船には一人も人はいない。また裕子が見つけた。
「近くに人が浮いているわ」
黄色い救命具をつけた人間が波間に漂っている。エンジンを弱くしてそっと近より長い棒をさし出したが、反応が無い。死んでるようだ。ビキニだけつけた女性だ。もっと近づいて船ばたから覗くとまだ若く美しい。長い金髪が水に流れて藻のように広がっていた。
休暇を利用しての練習がどうもそれだけでは終りそうにもなくなった。
第四話 味方は本能寺
A JOHNY ON THE SPOT ……いつでもお役に立ちます……
ケイコ夫人のハズの石沢氏の会社が所有しているプライベートな港だ。弥次馬や無関係の者は、波止場の区画には一人も入って来られない。それでもぼくらの巡航艇《クルーザー》が、ビキニの美女の溺死体をのせた漂流ボートを曳いて帰って行くと、港にはパトカーが何台も来ており、警官が多数待機していたのは、既にケイコ夫人が無線で事件を通報したからだ。
ぼくと裕子は、濡れた体をタオルでくるみながら甲板に立っていた。
一旦裸になってから飛びこんで、漂っている女の死体をボートの中に入れたらよかったのだが、波間の死体を見たとたん、アガサ伯母から
「哲ちゃん、裕子ちゃん、すぐ飛びこんで、あのボートを縄でつなぎなさい。それから死体の近くでもぐって二人で下から持ち上げてボートに入れるんよ」
と命じられた。二人とも水着は持ってきてない。そのとき練習中のピストルだけ甲板において、船ばたからジャンプした。言われた通り、クルーザーから投げられた縄をボートに結びつけ、近くで漂っている美女の死体の下へもぐり、救命具《カポツク》ごと持ち上げて、やっとボートヘ入れた。
同時にロス警察にケイコ夫人が連絡し、すぐ港に戻ることになった。クルーザーに再び這い上って、初めて二人ともシャツもズボンもずぶ濡れになっていることに気がついた。アガサは大きなタオルをほうり投げてくれた。下着まで脱いで水を絞ったときは、港が近づくまでには甲板で乾くかと思ったが、もう夕陽で簡単に乾かない。
本来は個人の港で、他に誰もいないのだから、タオルを巻いたまま、桟橋に上り、車にもぐりこんでしまえばいいのだが、大勢警官がいてはそうもいかない。仕方なくしめった衣服をもう一度着たが、ひどく気持悪いものだった。
桟橋の反対側には夫人のよりももっと大きい巡視艇が先に入って待っていたのが見えた。
ぼくらの船が着くと、すぐに警官たちが、死体の写真を撮ったり、曳航《えいこう》されてきたボートの検分を始めたりしだした。いつものアジヤ機動隊とは違うロス警察の警官である。ところが彼らの他に、一見|海軍《ネービイ》に似ているが、本物の海軍とは少し違う制服を着たグループが巡視艇から下りて来て、調査に加わった。
両方のグループから、ぼくらは同じ質問を別々に受けた。ぼくは大分しゃべれるようにはなっていたが、それでも耳に入ってくる言葉は、半分ぐらいしか分らない。裕子がそばにいて訊問に立ち会ってくれたので助かった。
船から下りてきた、一見海軍風のグループは、沿岸警備隊《コーストガード》であった。これは軍と民間との中間のような妙な軍隊で、アメリカだけにある組織だ。三十分位で一切の調査を終えると、しばらくぼくらをほったらかしにして、お互いの間で声高に言い合っていた。やっと諒解に達したらしく、ボートは沿岸警備隊の巡視艇に、美女の死体はパトカーヘと、二つに分けて運んで行くことになった。
両方の隊長が、最後に引き揚げて行くときに、それぞれ同じことをいった。
「どうかこのことを誰にも話さないでください。新聞記者はもちろん、これからいろいろ聞いてくる人が、たとえ警察官やもっと高位の調査機関の責任者でも、あくまで知らぬ存ぜぬで通してください。そうでないと皆さまのお生命の保証はできません」
警察よりももっと高位の調査機関といえばCIAかFBIか。一体何が起っているのだろう。
ぼくが何か聞こうとしたら、アガサが睨《にら》んだので、あわてて口をとじた。
桟橋に四人だけ残され、部外者には事件のことは何も洩れていない。あたりに誰もいなくなってから、ケイコ夫人が提案した。
「アガサ、しばらくホテルヘ帰るのをやめてこのまま事件が終るまで、今日の夜行便でヨーロッパヘでも行って身を隠していましょう」
アメリカにいると話のスケールが大きくなる。アガサは答えた。
「初めから逃げ腰では、とてもこの国では生き残れないわ。折角、二人にピストルの練習させたんだから、これからどんなときでも、敵に背中を見せずに立ち向う根性を叩きこまなくては」
これでヨーロッパ行きはふいになってしまった。
「そうね。いざとなってもポリスやコーストガードが守ってくれるわけじゃないしね」
「これからではブロードウェイのガンショップに新しいの買いに行く時間がないから、今夜用にこの子たちにをSWを一つずつと、弾丸を三箱貸してくれない」
「いいわよ」
まるで女学生どうしが文房具でも貸し借りするように、簡単に返事をした。船から上げた箱の中には、十五、六挺の拳銃が無造作にほうりこんである。その中から二つ選んだ。五十発入りの弾丸の箱も、一人に一箱ずつ分けてくれた。
別れ際にケイコ夫人はいった。
「私は明日の飛行機で、黙ってパリに飛んで主人がテレックスで事件が解決したと知らせてくるまで買物でもしているわ。あんたたちも気をつけてね。事件の根は深そうよ」
ぼくらはアガサの車で帰ることにした。
走り出すとすぐアガサがいった。
「まだ暑いけど、窓はしめておいた方がいいよ。この車の窓|硝子《ガラス》なら大概の弾丸ははじいてくれるからね」
「どこからか射ちこまれるおそれでもあるのですか」
「そんなことは起らないと思うけどね。まだ向うは死体を見られたことに気がついていないはずよ。問題は、あのポリスや、コーストガードの中に、一人でも裏切り者が出たらズィエンドだね。ミーらと夫人は必ず消されるね」
ますますアガサのいうことが分らなくなった。しかしあの美女の漂流死体は、何か相当に大きい意味を持つらしい。
車は小東京のホテルヘ戻ると思っていたら、途中で大きく左にそれて、今までぼくが行ったこともない町へ入って行った。
ロスは全体では関東地方ぐらいの広さがあるのに、三十分に一本ぐらいのバスがまばらに通っているだけで、公共の交通機関が何一つない不便な都市だ。アガサか裕子の赤い車に乗って連れて行ってもらった場所以外は知らない。
ゴルフ場があり、右側を通りすぎると、一軒ずつ、かなり広目に敷地をとってある、高級な住宅街だ。全体にゆるやかな丘になっており、日本の歌謡曲ではおなじみの地名が立札に書かれていた。サンタモニカ地区だ。ずっと同じような住宅が続くアプリントン|小 路《アベニユー》を走っていく。ピン|大通り《ブールバード》とワシントン大通りの間で車を停めた。
芝生に囲まれた一階の建物の広い前庭では、白い空手着に、黒いけさ衣をつけた丸坊主の青年たちが、何人も向い合って、飛び蹴りや、拳法の稽古をしていた。中には女性も交っていた。
アガサは芝生に入って行くと稽古している弟子の一人に聞いた。
「山盛入道先生はいる」
弟子たちはみな日本人である。礼儀正しく合掌してから答えた。
「はい、寺の本堂で組手を見ておられます」
目の前には普通の住宅があるきりで寺など見当らない。
「サンキュウ」
礼をいってアガサは、住宅に向って歩いて行く。普通の玄関である。ただのロス風の邸だが、扉の上に額がかかっていた。『本能寺』と達筆で書かれている。弟子たちの稽古着や拳法の技を見て、ぼくは何となく書いてある字が少林寺だと思っていたので、この三字は意外であった。
アガサは扉をあけて入った。
中は黒い板が敷き詰められている床であった。よく磨きこまれていて、鏡のように光っていた。左右に十人ぐらいずつ、強そうな門弟が並び、正面の御本尊のある仏壇の前には巨大な坊主頭の人物が正座していた。
全員が黙想して静まり返っている。声をかけるのが悪いようで、アガサも隅に坐って見ていた。正面の海坊主のような師範が、目をつぶったまま片手を上げた。
向い合った席から一人ずつ立ち上る。中央でお互いに攻撃の姿勢をとる。二人は睨み合いながら間合いをつめる。いきなり裂帛《れつぱく》の気合がかかり、右側の男の蹴りが相手の顎の下の直前まで足指がのびて決った。寸止めの見事な技であった。
海坊主は目をつぶったまま
「山下の勝ち」
と右側の足指を決めた方に判定を下す。
ぼくは一瞬この師範は盲目かと思ったが、そうではない。すべて目を瞑《つぶ》ったまま、空中を斬る音で判定を下しているらしい。三組ばかりの組手の試合を終えた後で、初めて目を開きアガサを見つけてきいた。
「これは、アガサさん。何かご用ですかの」
「ええ、ちょっと事件にまきこまれてね。ユーの拳士《けんし》団の皆さんのお力を借りたくて来たんよ」
まるで友達に話すように気楽に語りかける。
「そうですか。分りました」
海坊主のような男は大きくうなずくと
「それでは全員、組手の自習をしなさい。倉元ケンシだけは私についてきなさい」
そういって立ち上り、御本尊の裏に回った。そこはこの邸のもとの形がそのままのリヴィングルームになっており、しゃれたデザインのソファーや、アクリル製のテーブルがあり、抽象画が壁にかかっている。寺の中とはとても思えない。
そういえば本能寺というのはたしか、京都にあって、織田信長が明智光秀に殺された寺だと、歴史が不得意なぼくはこのときになってやっと思い出した。
弟子の筆頭であるらしい倉元ケンシという男が、部屋の隅にあるサイフォンでコーヒーを入れてくれた。ケンシとは拳士と書き、ここではお互いの呼び名に使うということが話をきいているうちに分ってきた。日本にいるパパが数年前にやっとライオンズクラブの会員になれたとき、しばらく得意そうに
「お互いに苗字の下にライオンをつけ、吉田ライオンとか田中ライオンとかいう名で呼び合うんだぞ」
と、しきりに言っていたのを思い出した。
アガサは今日のできごとをごく淡々とした口調で話しだした。ここの師範山盛少林入道も、きいている倉元拳士もその内容にびっくりしていたが、一緒に聞いているぼくらの方がもっとびっくりした。
アガサの悪いくせで、一番大事な子分であるぼくらに詳しいことを何一つ教えてくれていなかったのである。
今アガサが山盛少林入道に話すのをきいて初めて分ったのだが、そのビキニの美女はケイコ夫人の知人だったのだ。
三月前ぐらいにテニスコートで初めて逢ったらしい。ケイコ夫人は、テニスではカリフォルニヤのアマの選手権保持者だ。腕に自信のある女性たちはコートで夫人を見ると、わざわざお手合せを頼みにくる。その若い娘も会うとすぐに頼んできた。
ところが、いざ打ち合ってみると夫人は驚いた。アマとは球の威力が違う。カリフォルニヤでは敵のなかった夫人が、僅か三十分の試合だったが、互角に戦うのにもう必死であった。終ったときには、シャツやパンツまで汗でぬれてしまうほどの苦闘であった。
夫人と比べて、その若い娘の方は呼吸一つ乱れていなかった。明かにプロだ。アメリカのプロなら全員知ってるはずだが、どう考えてもその顔に心当りがない。どこから来たのか聞くと
「すみません。またお願いします」
と丁寧に頭は下げたが、夫人の質問には答えずに立ち去っていった。
一週間ばかりおいてまた会った。どうもケイコ夫人以外には相手がいないらしく、夫人の姿を見ると、すぐにやってきて
「お願いします」
といった。その言葉に、かすかに夫人は他の国の訛《なま》りを発見した。自分も結婚してアメリカへやってきたとき、外国人として、初めはなかなか英語がうまくならずに、政府が一月一ドルの形式的な月謝で教えている新入国者用のアダルト学校へ通った。夫人はそこでさまざまの外国人を知った。その中にもいたある国の訛りを発見したのである。
それ以後、今日までの三月の間、十回ぐらいコートで戦ったが、その間一度も相手の名前も、身分もきかなかった。ところが今日突然、海の上で漂流死体になっている美女と再会したのである。
そこまでじっと聞いていた山盛少林入道は初めて重々しく口をきいた。
「自分はこのアメリカに少林寺拳法の普及のため初めてやってきた二十年前の青年時代、アガサのご主人に、道場開設や、他の韓国系、中国系の、既成空手師範との地区割調整で大変にお世話になりました」
ロスではスーパーマーケットの数より空手道場の方が多い。しかも入国の早かった他のアジヤ諸国の空手師範が、市のいい場所の殆どに、もう道場を開いており、戦後日本から渡ってきた師範たちには、なかなか地区が割り当てられなかった。
弟子が共喰いになるのを嫌ったのである。その中を剛柔流や松濤館流の使い手たちは、独力で、一つ一つ地歩を確立していったが、一番後から少林寺派がやってきたときは、もう道場は飽和状態で、いくらか残っていた地区の割り当て分も、もう無くなっていた。
それをアガサの口ききで、この本能寺と、もう一つ、ダウンタウンの先にある日本人墓地の前の金光教教会会堂との二つを借りて道場を開くことができた。
その恩を入道は終生忘れていない。
「それで、自分に何をしろとおっしゃるのですか」
「あんたが東京の竹川会長の命を受けて、ここでも、自由主義を守り、在留日本人に尊皇愛国の志を失わないように教育しているのを、ミーはよく知っているよ」
ここの拳士たちは日常生活でも西暦の年号は使わず、未だに日本の紀元の年号を使っている。今年は二千六百四十二年である。日本精神の筋金が入っている。
「山盛入道なら、あの女を殺した犯人をふだんの調査活動から、すぐ割り出せると思ったんよ。降りかかる火の粉を払って身を守るには先に相手を殺《や》るより外はない。簡単な相手じゃないかもしれないけどね、ミーのためにも、自由のためにも犯人をこちらが、先に見つけたいんよ」
倉元拳士が精悍な表情をたぎらせて、横からいった。
「自分も埼玉県人です。石沢夫妻にはお世話になっています。夫人の身に万一のことがあったら大変です。この仕事自分にやらせてください」
彼は過去の激しい戦いで歯が全部折れていて、それに金をつぎ足しているから、口を開くと唐獅子そっくりの顔つきになり、凄味が出てくる。
B RUM GO ……成り行きがてんで分らない……
倉元拳士は、少林寺会派唯一の公認武器の六尺棒を座席の中央の前後に橋のように横たえ、右手を軽くかけたまま助手席で油断なく途中の道に目を配っている。棒は扉側においたらよさそうなものだが、いざ飛び下りるとき邪魔になって武器の用をなさないらしい。アガサ伯母も珍しく真剣な表情でハンドルを握っている。
おかげで後ろの座席で恐怖に震えている裕子を抱きしめることも、唇を合せることもできない。六尺棒ごしのキスなんてムードはゼロックスだ。仕方なく裕子の掌を強く握りしめるだけで、切ない我慢をしているぼくにアガサがいきなりきびしい声でいった。
「哲ちゃん。これはユーが考えているほど、|軽い事件《ライトアクシデント》じゃないんよ。裕子の掌の上にあるお手々はズボンのポケットに入れて、いつでもSWを取り出せるようにしておきな。裕子も同じよ。ポッケのSWの引鉄《トリガー》に指をかけておきなよ。自分を助けるもんは自分しかないんよ」
ピストルと温かい掌ではかなり握り心地が違う。しかし命令を無視できない。あわてて身がまえながら聞いた。
「どのくらいの|重大事件《ヘビイアクシデント》なんですか」
「大きくいえば、アメリカとソ連の戦いだよ」
「えっ原爆でも落ちるんですか」
アガサは当然のように答えた。
「場合によったらそうなることもあるね」
これはえらいことになった。
「あの金髪女はソ連の女スパイだったんですか」
「ロシヤ人じゃないけどね。その支配の中に住む民族でね。ポリッシュといって、アメリカには昔から沢山いる人種なんよ」
裕子がいった。
「知ってるわ。ポーランドから来た移民でしょ。二年ぐらい前、映画で見たわ。北部のミルウォーキー州に沢山固まって住んでいて、鹿狩りが好きで、ベトナムに兵隊に取られて、ベトナム人とピストルに弾丸を一つだけ残して自分の頭にあてて引鉄《トリガー》をひくゲームをやった人たちよ」
よせばいいのに裕子は自分のピストルを取り出して頭にあててひくまねをしたので、バックミラーで見たアガサの方が慌てた。
「裕子ちゃんやめなさい。安全装置なんて、かけてあるつもりでも外れてることはしょっちゅうあるんよ」
叱られて裕子はすぐ下してたしかめた。
「あらやっぱり外れていたわ。そうださっきポケットの中で引鉄《トリガー》に指をかけたとき外しておいたんだわ。ためしに引かなくてよかった」
ぼくは胸の上にいきなり氷を押しつけられたような気分になった。ほんとにこの娘の頭の構造どうなってんだろう。
「あの娘ナルシコワというの。一昨年のウインブルドンに初出場していきなり三位になり、世界中から注目されていたけど試合終了後、ふいと行方不明になったんよ。本当はロンドンにあるアメリカ大使館に駆けこんだらしいけど、アメリカ側では、その事実を発表しないし、その後、彼女の姿を見たものがいないんで、亡命が確認されていないの。ポーランド側に事前に察知されて密かに本国へ連れ去られたという説もあるんよ」
「その話知ってるわ」
また裕子が口を出した。おしゃべりはいいがポケットの先からはみ出しているSWの銃口は、ぼくの下腹に向いている。安全装置はかかっているのか。
「学生組合《ユニオン》会館の大型のプロジェクターでずっと試合を見ていたわ。でもあのときの記憶では髪は赤髪、鼻はもっと丸く、頬っぺたはあばただらけでずっと田舎っぽかったわ」
「あばたじゃなくてそばかすだろう」
ぼくは注意してやった。実際アメリカに二、三年もいると、あくびとしゃっくり、かゆいとくすぐったいの区別がだんだん分らなくなる。アガサもその一人だが、ぼくは逆に叱られた。
「細かいことはどうでもいいの、哲ちゃん。今に、アメリカとソ連の間に戦争が始まろうというときなんよ。裕子ちゃんそれで」
「だから変なの。どうしてあんなにきれいになったの。全く別人だわ」
「別なアメリカ人をCIAが作ろうとしたんよ。まだ若い娘だったから、髪の毛の色を変えたり、鼻を整形したりして、ミルウォーキーのポリッシュの中から出てきた新人ということにしたんよ。経歴も新しく作り、今年の秋の全米プロに初めてデビューさせようと特訓中だったんよ」
「どうしてそんなことする必要があったんだろう。亡命ポーランド人じゃいけなかったんですか」
車はネオンの光が渦巻くハリウッド地区の横を走っている。ダウンタウンはもう近い。
「ばかね哲ちゃん」
また口癖が出た。気にしない、気にしない。
「普通の亡命者なら、人の目につかない所でひっそり暮していればいいんだけど、テニスは大勢の人の居る前でやらなくてはいけない。着ている物はシャツとパンツだけ、客席から狙われたら一発よ。でもちゃんとしたアメリカ人としてデビューしていたら、多少疑わしくても、手を出せないんよ」
「そのことをあのケイコ夫人《ミセス》が知っていたんですか」
「ミセスはそこまで知らなかったわ。その娘さんの球のスマッシュが決るときの切れ味が、どうもナルシコワ嬢に似ているとは思っていたらしいけど」
「それじゃ、どうしてナルシコワ嬢だと分ったんですか」
「用心棒なら長山五段がホテルにもいるのに、ミーがわざわざ、本能寺の加州別院に行ったのは、山盛少林入道から情報をもらいたかったからよ。入道は日本にいる反共同盟の竹川会長の命を受け、日本人が沢山厄介になっているアメリカを赤色勢力から防ぐため、ボランティヤで情報活動をやっているの。FBIもCIAも、カリフォルニヤに関してのソ連側の特別の動きは、すべて入道に聞きにくるほど、正確な情報を、本能寺は握っているんよ」
ぼくはすっかり感心した。
「そうですね。長山さんは腕っ節は強いが、飲屋で酒を飲んでるか、部屋の中で黒人娘のロザリーを抱いて、あきずにセックスしているだけですね。とても天下国家に目を向ける余裕なんかないですよ」
車は我々のボロホテルの前に着いた。
ところが、噂をすると影が射す(少し違っているかな)といわれたように、丁度黒人娘のロザリーがホテルの前に立っていた。ハリウッドのモデルか踊り子で通るほどにスタイルがいい。ホテルの大部分をしめる日本人たちはロビーの長椅子の前を尻をふって通りすぎるロザリーのパンティラインを目で追いながら『まるで股がおっぱいのすぐ下から裂けているような気がするぜ』と溜息をつく。そんな女を抱き、逆に喰わせてもらっている失業中の空手師範長山五段はいつも皆の羨望の的である。
そのロザリーが腕時計を気にして誰かを待っている。車を止めてアガサ伯母がきいた。
「ロザリー、どうしたの。長山五段が酔っ払って帰ってこないのかい」
ロザリーはアガサの車を見るとほっとした表情で近よってきた。
「違うよ。|おばさん《アウント》をここで待っていたよ。仕事が八時からあるので、もし来なかったらどうしようかと、気が気でなかったよ」
それから前の扉をあけてかまわず乗りこんで、倉元拳士ごしに話をする。
「この車で、そのままハリウッドのメモリヤルにある葬儀所《モルタリー》に行って」
「それじゃ今晩は仕事が入ったんだね」
「ええ、それがアガサにはどうしても報告しなければならないような仕事だよ。カンで分るんだ。若い娘だけど事故死でないから、処理をすませたあと、自然死の証明出してくれと、ロス警察からわざわざ頼んできたよ」
「そいつはおかしいね。九十歳の老人でもなければ、人間は自然に死なないんよ。病気でないとすると、事件だね」
「だから一人で行くのいやだったよ。これでも五年間大学へ行ってやっと取った大事な資格だからね。間違った証明書が後で問題になって免許取り上げられたら困るからね」
車は再び休む間もなく、ハリウッドヘ向った。
ロザリーは死体化粧士《モテイーシヨン》の資格を持っている。飾り壇を整えたり火葬場や墓地の手配をする日本の葬儀屋とは全然違って、医師、弁護士なみの権限を持っている。アメリカでは人間が死ぬと、一旦遺族と引き離されて必ず死体化粧士の所に送りこまれる。傷口を修復し、防腐処置を施し、生前そのままに化粧してからでないと、葬式を出せない。ここで犯罪の痕跡が思いがけなく発見されることもある。死体化粧士のサインのある証明書が|埋葬許可証《ベリアルパーミツシヨン》にもなる。
「ありがとう。ロス警察が何を狙っているか分ったよ。本来は存在していなかったアメリカ娘だ。ここで事件を公けにしてしまうと、一人の人間をでっち上げたCIAの立場がなくなる。強い圧力がかかったんだよ」
「CIAがからんでいるの」
「ああ、女が鮫《さめ》に喰われてしまえば、お互いによかったんだろうけれどね。ところで葬儀所《モルタリー》の作業《ジヨブ》には警察は立ち会うの」
「それは州法で許されていないよ。立ち会うつもりなら、監察院のノブチ博士の解剖に回すよ。それなら司法上の職務だからね。私たちのする仕事はごく普通の状態で死を迎えた人か、解剖がすんで当局の手から離れた死体だけだよ。個人の平穏な眠りを妨げることは何者もできない。肉親でも立ち会うことは駄目だよ」
「ではミーらは」
「私の友人として密かに入ってもらうよ。もしかすると襲われるおそれがあるので、そのガードのためということでね」
車はハリウッド・メモリヤルの構内に入った。
ここには、ゲーリー・クーパー、ハンフリー・ボガート、クララ・ボーなど往年の大スターの墓がある。木立に囲まれた一画に白い建物があった。
車を横におき全員で扉をあけて入った。五十人ぐらいが坐れるホールがあった。そこは化粧が出来上った死体を、半分開いている棺に入れて葬儀をする場所だ。正面祭壇の右側に扉があり、かまわずあけて入って行くと、中もホールと同じくらいの広さの部屋で、木の台が四つあり、そのうちの一つに女が横たわっていた。海に浮いていた女だった。さっきと違うところは、ビキニも外され、全裸であったことだ。すばやく恥毛を見たら赤毛であった。アガサの話が証明された。
部屋の奥には、まだ使用されていない棺が三十も積んであり、それぞれに値札がついている。老人が一人、死体のあちこちに注射していた。仕事は手馴れていても、資格上は助手らしい。入って来た黒人娘に丁寧に礼をすると、彼女の指示を仰いだ。ロザリーはてきぱきと命令を下した。
さすがに大学五年の国家資格だ。
物の言い方も、仕事ぶりも堂々としている。
ぼくはできれば、死体化粧など見たくはなかったが、またアガサがいった。
「二人ともこの近くでよく見ておきなさい。アメリカにいたら、こうして必ず処理されるんだからね。日本のようにすぐ焼かれてしまうのと、ここでいじくり回されるのと、どちらがいいかは分らないけど、アメリカ生活をユーたちが選んだからは、いつかは自分の運命だからね。それもミーたちの仕事では明日にもあることだからね」
またいやなことをいう。
ロザリーは血管にビニール管を突き刺した。さっきの注射で、凝固した血が再び溶解してくるらしい。下においてあるポリバケツにしたたり落ちてたまる。何杯もお代りして捨て、すっかりからになったところで血管に防腐剤をポンプで押しこんだ。
これまでいかにも死体らしかった裸身が、またみる間に艶をとりもどし、若さにはちきれて(飛行機で目にした週刊誌の小説の表現を無断で借りれば)女の体はムチムチ、プリンプリンになってきた。生きているような死体の顔に、口紅をひき、アイシャドウをつけてから髪をととのえるため、うつぶせにした。
なだらかな背中から丸い双つのお尻の山、そこからのびている太腿とふくらはぎ。秋の全米プロの女王を狙う、均整のとれたすばらしい肉体だ。女の盛りの生命が全身にみなぎっている。しかし探偵というのは、もっと非情に徹しなければいけない職業である。
「こら哲ちゃん、何を見ているの」
いきなりどやしつけられた。
「ここよ、これを見るのよ」
アガサはふくらはぎを示した。その中央にぽっつりと血の玉が吹き出したような痕がある。
「これでKGBのやったことと分るね。これは溺死体じゃないよ。靴の先か、杖か、こうもり傘の先に、針をつけて、後ろから何気なく突くの。二十秒で絶命するんよ。奴らの得意の手だよ。殺しておいてボートに乗せ、ビキニ一枚にして、水泳中の事故に見せかけた。それこそ沖へ流されるか、鮫に喰われてしまえば、すべてがすんでしまったのにね。もともと居ないはずの人間だからね」
作業の終りまでつき合い、棺に納めてから厳重に鍵をかけてホテルヘ戻った。ロザリーと別れて、用心棒の倉元拳士と四人でアガサの部屋へ行くと、扉の所には小さなスーツケースに腰かけて、ケイコ夫人《ミセス》が待っていた。
「あっ、どうしたの。ヨーロッパヘ行かなかったの」
「KGBらしい男から、もし女の死体を返さなかったら、明日あたしたち全員を殺すという電話がかかってきたの」
「面白いじゃない。やってもらいましょうよ」
アガサはいきりたった。扉をあけて全員アガサを中心に、部屋のあちこちに坐った。
「それでもあたし怖いから、一人でヨーロッパヘ逃げようとしたら、夫の尚太に分ってしまったの。うちのご主人《ダーリン》はカンカンに怒ってしまってね。『おまえだって埼玉県人じゃないか。埼玉県人がそんな卑怯《ひきよう》なことをしていいのか。アガサと一緒に戦え』と、またゴツンと拳固でぶたれて、家を追い出されてしまったの」
よせばいいのに、ぼくは東京都民として、つい言ってしまった。
「埼玉県なんてそんな立派な県なんですか」
心理学的にいえば、これは一種の近親憎悪である。
「埼玉県なんて冠婚葬祭のたびに、お互いに砂糖を五キロずつやりとりするので、どこの家にも使わない砂糖が山のように積まれているだけの砂糖だまり県だと思っていましたよ」
倉元拳士がカーッとなって金歯をむき出して言い返した。
「とんでもないです。かの二・二六事件は埼玉県人が止むを得ぬ愛国の至情に燃えて起したのです。それが証拠にそのときの司令官が現在知事になっております」
それはいいが、さしあたって、今晩これだけの人数が二つの部屋で、どうベッドを分けて寝たらいいんだろう。
その方が、ぼくには心配になってきた。
C COMES FIRST GRINDS FIRST ……先んずれば勝つ……
実はその夜はベッドなんか使う時間がなかった。コーヒーをわかしトーストと目玉焼とで全員が腹を整え、代り番こにシャワーを使ってる間にも、ひっきりなしに何本もの電話が入った。
アガサのそばで皆は洩れ聞こえる声に耳をすました。
「アガサ親分《ママ》だね」
「ヤー」
「死体を黙って返してもらえないかね。うちの国へ。無駄なことで生命の取り合いは止めよう」
「ミーもそう思う。でもCIAがそれを許すだろうかね」
「そりゃーちっとはCIAは困るだろう。うちの国の人間を盗んで、勝手に一人アメリカ人を作ってしまった。それまで費用も手数もかけて養成した選手を只でいただいちまうなんてのは世界中に知られたら困ることだから」
「でもKGBも相変らず、ふくらはぎを狙って亡命者を殺していると知られたら困るんじゃない」
切るとすぐ入れ違いにまた電話があった。
「私立探偵のアガサ親分《ママ》ってのはあんたかね。連邦捜査局《FBI》だがね」
「おやこの事件はCIAの管轄だと思ったら、FBIが乗り出してきたんかね」
アガサはてんで平気だった。
「純粋な国内問題だからな。中央情報局《CIA》といえども口を出すことは許さない。特に今度は、自分が預って大事にしなくてはならない重要人物を敵の手に殺されるという失策《ミス》をやらかした。少ししめ上げておく必要がある」
「そりゃーあんたたちの勝手だがね……ミーに一体どうしろというんだね」
アメリカ国内でも、CIAとFBIは、ひどく仲が悪い。FBIのフーバー長官がやたら積極的な性格でCIAの職分を喰っていったので、今ではお互いに欠点非行を探し出してあばき合うようになってしまっている。
「ママ、現在どこに死体があるのか教えてくれ。奴らをしめる証拠として死体が欲しい」
「それはロス警察に聞きなよ。ミーの知らないことだね」
「さっきロス警察に聞いたら、ママに聞いたら分るといっていたがね」
「ミーはFBIには協力しないことになっているんだ。覚えているかい。十年前あんたのところの、ビッグ・シャークって若僧に、大事な旦那がトミーガンで虫ケラのように殺されたんよ。ミーはFBIを困らすためなら、CIAでもKGBでも助けたいね」
「おれがその、ビッグ・シャークだ。もっとも今は若僧でなくここの土地の部長だがね」
「じゃ余計協力できないね」
ガチャンと電話を切ってしまった。
ぼくらは心配してきいた。
「大丈夫ですか」
「死体さえミーらが預っていれば、手を出せないよ。それにこの慌てぶりを見れば、ロス警察ではまだあの葬儀所《モルタリー》のことを洩らしていない。となると、やはり裏切ったのは沿岸警備隊《コーストガード》だということになるね」
そのアガサの推理には、ぼくもケイコ夫人もすぐに納得できた。夫人《ミセス》が船の携帯無線で死体発見の通報をしたのは、ロス警察へだった。ところが夫人《ミセス》のご主人《ダーリン》の個人所有の港には、夫人の帰りつく前にもう沿岸警備隊《コーストガード》の大型クルーザーが来て待っていた。ぼくらのクルーザーの動きをどこからか見張っていたのだ。ロス警察が調査を始めると、陸上の捜査権はないのに勝手に加わってきた。
「そこが怪しいね。その中の誰かが、KGBの手先に買収されて、陸上で殺した死体を沖に流すのを手伝ったんだよ。本当の軍人じゃないからね」
隊長は中佐。部下も海軍に似た服を着ているがもとは少年団と同じボランティヤで、その階級章は救世軍と同じだという説もある。
ひっきりなしの電話の間にぼくらは、ありったけの毛布を巻いて、床やベッドで勝手にごろごろと休むことにした。
明け方までの何十回もの電話のやりとりで、アガサが今のところ敵として渡り合う相手がKGBの手先《エージエント》、CIA、FBI、沿岸警備隊の四つもあることが、だんだん分ってきた。
一応味方と思われるのはロス警察だけだが、これは事件に消極的でひどく頼りない。
ひととき明け方の電話が絶えて、やっと一眠りしたが、すぐあたりが明るくなってしまった。
ロス市で一番汚ないワシントンホテルの四階のアガサの部屋は、今では米ソ両大国を相手にして戦う一大敵国の本拠になってしまった。それでもアガサは平気であった。
「こうなったら四組は今ごろミーらの頭越しに勝手に死体引き取りやその処置の相談をやっているよ。ミーらは、四組の間に平和裡に相談がまとまって、共同で丁重に処分するようにリードして行けばいいんだよ」
なるほどと納得した。既に昨日から、アガサの肚《はら》は決っていたのだ。
「ただね、こちらに少しでも弱味があると、四組の一つがバランスを崩して、抜け駆けで死体を持って行くおそれがある。連中だって手柄をたてたいからね。哲ちゃんも、裕子もここで肚を据えてかかるんだよ。ピストルを分解して油をさしておきな」
アガサは床にあぐらをかいて、SWの分解をしだした。
ケイコ夫人《ミセス》は、持ってきた小さいスーツケースをあけた。そこには船に積んであった十五挺のSWがちゃんと並んで入っていた。
「一人三つずつ分けて。全部に弾丸をつめると一人が十八発。二つをズボンのポケットに入れ、一つを手で持つのよ。本当の射ち手はケースなんかに入れないわよ」
午前八時に電話があった。それがアガサが一番待ちかねたものだったらしい。
「ああ、少林入道さんね。準備はできた」
「すべてすんでおります。全員がもう各所で待機しています」
「それで安心したわ。九時にはそこに行けると思うよ。多分一人もけがしないでこの事件《アクシデント》は解決するよ」
アガサは既に終りまで、この事件の成り行きを読んでいるのか。少林入道の電話があって、五分もしないうちに、FBIからの電話が入った。
「あんたがマルセルのおかみさんじゃ、脅しもきかない。平和のうちに納めたい。それでうちとKGBとCIAとコーストとが昨夜中に相談して、話がまとまった。四組の代表が五人ずつ出て、二十人が一緒に平和裡に死体を受けとることにした。それでいいかね。それなら、お互いの間にも、あんたとの間にも戦いは起きない」
「ヤー。それがミーが一番望んだ解決よ。お互いの間に揉《も》めごとを起さず、可哀そうな娘の死体が丁重に弔われるなら、ミーはいつでも返してやるよ。十時に、石沢商事のコンテナ広場に届けるよ。あそこなら人目につかないからね、五人ずつ四組がちゃんと並んで待っているんだよ。そこへ持って行って渡し終えたら、ミーらも今度の事件は無かったことにするから、あんたら四組全部も、それぞれの立場をすてて、事件は最初から無かったことにするんよ」
「分った、分った」
そばで電話から洩れる声をきいていたぼくたちも、みなほっとした。これが一番最良の解決法だ。しかし伯母はさらに念を押した。
「ミスター・ビッグ・シャーク部長。あんたの返事だけきいても、本当は何の保証にもなりゃしない。これから五分間に一本ずつ、CIA、コースト、KGBの手先《エージエント》の代表から、ここへ連絡させて、今の事項を一人ずつ、確認させておくれよ」
「OK。さすがにマルセルの夫人《ミセス》だな。今のやり方きいたら、旦那が天国でほめてくれるぜ」
「あんたにマルセルのことは言われたくないね。友達のノーマの死の真相を追ってマルセルはあんたに殺された。その理由はいつかはっきりさせてやるよ」
「よけいなことだが、それは止めといた方がいいよ。ケネディ兄弟は二人とも、もうおっ死《ち》んじまっていないし、残った弟はインポのアル中だ。今さら真相を暴《あば》いても何にもならない」
相手の電話をアガサは今度も途中で切ってしまった。すぐにその後、五分に一本ずつ、各団体の代表からの電話が入り申し合せ事項を確認しあった。
最後はロス警察からもかかってきた。
「我々は立場上、この事件にはこれ以上かかわりません。石沢商事の個人港には、一人もポリスは派遣できませんが、相手はいずれも奸智にたけた一筋縄では行かない連中ですから充分に気をつけてください」
ばかに気の弱い伝言であった。上級機関からよほどの圧力がかかったのか、ブルってしまっている。こうなれば、やはり自分の身は自分で守らなければならない。
アガサは立ち上った。
「出発だよ」
蓮根《レボルバー》に六発ずつの弾丸をしっかり詰め終ったピストルを二つ、両尻のポケットにつっこみ、左手に一つ持って、ぼくらは外に出た。倉元拳士もむりにすすめられて、黒い衣のふところにある縫いこみの袋に三つつっこんだ。サファリジャケットを着たケイコ夫人は胸の両ポケット、尻のポケット、上衣の脇ポケットと、六つもつっこんだ。
「今日は思いっきり射ってやるわ」
夫人は、本当はロス警察の警部補になりたかっただけあって、張りきっている。スタイルもいい上、大変な美人だ。キャンディス・バーゲンの西部劇を見ているようでてんで恰好よい。五階のロザリーを呼んで車ですぐ出た。最初に車はハリウッド・メモリヤルの片隅にある、昨日の葬儀所《モルタリー》へ向った。扉の正面には既に黒い衣の袖と裾をからげ、丸坊主の頭にねじり鉢巻をした弁慶のような恰好の大男が立っていて、左右に四人ずつの拳士が並んでいた。
山盛少林入道が拳士たちを連れて待機してくれていたのだ。拳士たちは昼はみなガーデナーという仕事をしている。一般の住宅を回って歩いて芝を刈る仕事である。日本の移民は大概みなこの仕事から始める。だから全員商売用の芝刈用の長柄の大鎌を武器としてかまえている。
ぼくらの車から下りたロザリーが、彼女だけが持っている鍵で厚い扉をあけた。すぐにナルシコワ嬢を入れた棺がひき出されると、拳士たちが乗ってきたガーデナーの仕事用のピックアップの荷台にのせられ、目だたぬように棺の上に道具や芝の束がかぶせられた。
ピックアップと、アガサの車は十時には、ロングビーチに着き、クイーンメリー号の前で曲って、三キロ四方もある広い石沢商事のコンテナ置き場に入った。
その中央にピックアップを止め荷台の道具や芝の束を払いのけて、棺がよく見えるようにした。
その後、車から十メートルの手前に、二人の女親分が、両手にピストルを構えて並び、その二歩後ろにぼくと裕子、両わきに六尺棒を持った倉元拳士と、長柄の鎌を斜めに握ったねじり鉢巻の山盛少林入道が並んだ。じっと敵の来るのを待つ。カリフォルニヤの十時はもう陽が高く、烈日が灼けつくようにぼくらを照らす。敵の姿は見えない。
正にハイヌーンの音楽でも聞こえてきそうだ。コンテナに囲まれた広場に人っ子一人いない。
突然、モーターボートが何|艘《そう》か近づいてきて、岸壁の方から、二十人の男たちが上ってきた。五人ずつ四組、CIAとFBIとが揃いの背広、KGBの手先《エージエント》は、ジャンパーや作業衣で、沿岸警備隊が海軍風の制服だ。
彼らは棺が乗せてある車の十メートルぐらい前まで近づくと止まった。
アガサが彼ら二十人にいった。
「海に浮んでいたのだから海へ静かに葬ってやりたいんよ。若い娘だから、今さらまた死体を調べたりしないでおくれ。各隊三人の十二人で棺をボートに積んで、ここから目に入るところで海に入れて戻ってくるんよ。八人はここに残って」
ビッグ・シャークらしいFBIの隊長がかみつくようにいった。
「アガサ、それは約束が違う」
「もうどうせ死んでしまった者よ。相手は可哀そうな若い女よ。いう通りにしなよ」
二十人の男が一斉にピストルをかまえた。ぼくらも抜いた。急に怖くなってぼくは足が震えて困った。これじゃとても当らない。
そのときあちこちのコンテナの陰から、ウオーッと声が上り、まず幟《のぼり》旗がつき出された。『尊皇攘夷《そんのうじようい》』『八紘一宇《はつこういちう》』アメリカ人には日本の字は読めない。風にはためく幟は悪魔の呪文のように見えたろう。
本能寺の三百人の拳士が、四方のコンテナの隅から、黒い衣の袖まくりをした戦いの姿を現わした。
武器は六尺棒、草刈り鎌、素手の拳だが、ピストルが少しばかりあっても、どうにもならないと、二十人はすぐ悟った。
ビッグ・シャーク部長が口惜しそうにいった。
「少林寺派のボランティヤ活動で、FBIやCIAはこれまで随分助けてもらった。これからも、ソ連の勢力からアメリカを守るためには、情報調査の面でプレジデント・タケガワや少林寺にはお世話にならなくてはならない。ニュード・ヤマモリの顔をたてて今日はアガサのいう通りにしよう」
各隊の若いもんが三人ずつ選ばれて棺を担いだ。アガサはほっとして小声でいった。
「これでKGBは自分らがふくらはぎにつけた傷を永久に秘密にできる。CIAは架空に選手を作った工作を、不注意でKGBに明かされそうになったミスをやっとかくせる。FBIはCIAをしめつけるいい機会だったのを取り逃して少し残念だけど、死体がなくなってしまえば、もともとこの世にいない人間のことだ。諦めもつく。コーストの連中の誰かがKGBに手を貸して海へ死体を流そうとした裏切りも不問にされた。この連中が一番嬉しかったろう。もともとミーらが死体をみつけなければ、何もこんなにみながあわてることはなかったんだよ」
ボートは沖合に行き、みなが見ている前で静かに棺を海の中に落した。再び戻ってくると、それをしおに、二十人はまたそれぞれのボートに分乗して去って行った。
緊張が去ったがしばらくは誰も声が出ない。
そのとき高級車のリンカン・コンチネンタルが矢のような猛スピードで入ってきて止まった。真黒に陽灼けした精悍な男が飛び出してきて夫人を抱きしめた。
「ケイコどうした。無事か!」
とたんに夫人《ミセス》は膝がヘナっと曲り、首っ玉にぶら下るようにしてわーっと泣きだした。
「ダーリン、あなた、助けて、怖かった」
もう顔は涙でくしゃくしゃだった。あの颯爽《さつそう》としたキャンディス・バーゲンのカラミティ・ジェーンぶりを夫人《ミセス》の姿から想像していたぼくらは、すっかりしらけて物も言えない。
てんでに車で引き揚げだした。夫妻は人目もかまわず、広場の真中でしっかりとキスしている。さすがにその点はアメリカ生活がもう長いだけあって、この夫妻の抱擁は、港の広場での一|場面《シーン》になっていた。
第五話 コスタ・メサの盟約
A STEP ON THE GAS ……猛スピードを出す……
六月の半ばから、ずっと大学が休みなのはいいが、それから遊びっ放しである。
サンタモニカからラグナビーチまで、何十とある海岸の殆どを回り、ハリウッド見学コースや、ディズニーランドの全コース踏破も三日がかりで終えると、もう行くところが無くなってしまった。
学友たちが、リュックに簡易テントをのせて、全米中に飛び出す気持が分る。
八月の初めの日、朝になっても起きる気にもならない。容赦なく窓から陽が射しこむベッドで、二人とも裸の体にタオルだけ巻き、できるだけ体を動かさずに、暑さに耐えていた。休みはまだ一月《ひとつき》もあるというのに、スタミナが切れた。
じっとしていると、アガサの部屋から電話が入った。
「まだ寝ているのかい。もう朝の目玉焼ができているよ。今日は何か予定があるの」
「いえ、もう行く所がなくなって困ってしまっているんです」
「それじゃ、面白い所へ連れて行ってやるよ」
急に元気が出てきた。Tシャツにパンツ姿の夏の制服になると、四階の部屋に下りた。
アガサ伯母はいつものように、目玉焼にトーストの朝食を作り、コーヒーを沸かして待っていてくれた。
伯母の方は、ぼくを呼ぶ前に朝の日課である、マリファナの一服もすませてしまったらしく、晴々とした顔でいる。ご機嫌もよい。
ただし、ぼくらは部屋へ入ったとたん、お互いに顔をしかめて見合せた。
佐々一《さつさピン》が居たからである。アメリカ風にいえば、ピン・サッサ。しかしここではスイートという綽名《あだな》で通っている。年はまだ二十七か八だというのに頬や顎の無精ひげが、そのままのびて、武者人形のようになっている。アメリカにも、ヒッピースタイルを気取ってひげをのばしっ放しの青年も多いが、色も淡く毛に力がない。日本人のは直毛で黒いからひどく怖しく見える。それに彼には、もう一つ人にはばかられる事情がある。高校のとき留学生でアメリカヘやってきて、もう十年、ずっとこちらの学生生活が気に入って、日本に戻っていないうえに、入国以来今日まで一度も風呂へ入っていない。アガサの部屋も、彼一人が食卓に坐っているだけで、何ともいえない妙な体臭が、空気を重くにごらすぐらいに漂っている。それが彼のスイートという綽名の由来で、よくいえば甘酸《あまず》っぱい匂いといえないわけではないが、大概の人は隣りに坐っただけで、吐気をもよおす。
このロスで一番安い値のホテルには、いつも六十人から八十人ぐらいの吹きだまりの人々がいるが、殆どが日本人で、身なりは貧しくても大体は清潔にしている。
「やあーお早う」
と親しそうにスイート・サッサに話しかけられても、ぼくらは同じ調子で返事をする気になれない。彼の口の周りの黒いひげに卵の黄身があちこちこびりついているのを横目でにらみながら、朝の食卓についた。
当人はまるで平気だし、アガサも知らん顔でいる。むかつく吐気を押えながら、食事を喉に詰めこむのは、満員の国電の扉が開いた瞬間、降りる人と乗る人が押し合うようなもので、喉のへんが収拾のつかない状況だ。
ところが目玉焼は二つずつ。これは今日もまた生命がけの仕事があるということを意味している。喰べないと叱られる。
二人とも無理に口の中へ押しこんでいるとアガサが
「それじゃ、喰べ終ったら、いつノブチの解剖台や、ロザリーの葬儀所《モルタリー》で処置を受けてもいいように、下着を替えなさい」
と命じられた。裕子は自分の部屋があるからいい。ぼくは正式にはまだこの部屋で間借りの身分だ。シャワールームヘ入り、こそこそと着替えた。
三十分後には、伯母の二十五年前の大古キャデラックは、もう小東京を飛び出していた。
一〇番のフリーウェイを走っているから、海岸の方へ向っているのが分る。
ぼくたちが広い後ろの席にわざと意地悪して二人で場所をふさぐように坐ったので、スイート・サッサは運転席にいるアガサの隣りに坐った。それが却って悪かった。すぐ後ろを向き、十年来一度も磨いたことのない口を、ぼくらの顔の正面に向け、ひどい口臭を吐きかけてしゃべりだした。
「ぼくが自分の体の匂いのことで皆さまにご迷惑をかけていることは充分承知してますよ。でもこれは職業上の必要なのでしてね」
アガサは相変らず快調な車をハンドルさばきも軽々と走らせながらいった。
「スイートさんはね、|犬 屋《ドツグ・ブローカー》をやっているんだよ」
「|犬 屋《ドツグ・ブローカー》というと」
「アメリカでは、広い敷地に塀のない一軒家が多いんでね、泥棒よけにどこでも犬を飼っている。それが社交と商売兼用の楽しみになっていてね」
スイートがまだ卵の黄身がこびりついているひげを動かしながらしゃべりだした。前を向いてしゃべってくれても、よく聞こえるのに、わざと息を正面から吐きかける。
「週に一度、犬を連れて町の広場に集り、午前中はお互いの犬の品評会。午後は一品料理を持ちよってのおしゃべりパーティ、これが、このあたりにいるおかみさんたちの楽しみになっているんです」
海岸に近いあたりまで来ると、敷地も広く建物も凝った作りの高級な住宅が続く。アガサは一〇番のフリーウェイから、右折してしばらく四〇五番を走っていたが、やがてそれも下り、丘の方に上って行く細い道路に入った。
なだらかに続く斜面に並ぶ住宅越しに、はるかに青く続く太平洋が見えた。
道標を見ると、ブレントウッドとある。昔は一帯が雑木林だったのだろうが、今はすっかり切り払われて見事な住宅地になっている。
豪華な見晴らしにいい気分でいるところに、またまともに濃い口臭を吹きかけられて夢がさめた。
「犬というのは、石鹸の匂いのする人間には本当の信頼はよせてくれないのです。心からの友達になるため、ぼくは体を洗うわけにはいかないのです」
大きな邸の前でアガサは車を止めた。広い前庭には、既にこのあたりのおかみさんらしい中年から初老の婦人が、てんでに犬を連れて集っている。庭のあちこちに天幕が四つばかり立っていて、それぞれの中に審査員らしい人が二、三人坐っている。犬ごとに違う天幕の前に集合し、歩き方や坐り方、犬ができる芸、それに犬自体の体格などを審査している。アガサは近よりながら、二、三の顔見知りに挨拶してからいった。
「ここはハリウッドの有名なプロデューサーのお邸よ。だから審査を受ける客の中にも、俳優さんの奥さんや、有名な女優さんもいるんよ」
裕子があっと口を押えた。スイートがかまわずに
「へーイ」
と声を上げて近より、大がらの美女と軽く抱擁するようにした。よく見ると、キャンディス・バーゲンだ。体つきも目鼻も大きい。八月の陽光に照りつけられて彼女の周りだけが、また一きわ眩しく見える。彼の体臭が気にかからないのかと、ひとごとならず気にかかった。婦人たちもこの我がホテルでは鼻つまみの男に、一斉に歓迎の表情を見せた。もっと歓迎したのが、犬たちで、何十匹もの高級なテリヤやコリーたちが、一斉に尻尾をふりたてて、スイートの方へ向って吠えたてる。それは決して警戒の吠え声でなく、長い間逢わなかった友人を迎える甘え声だ。
キャンディスが、アガサをみつけて近よってきて握手した。どちらも大柄なので、名優どうしの舞台のように形が決る。キャンディスの呼ぶ声に邸の主人がやってきて、すぐ三人は親しそうに話しだした。そばに立っているぼくらも手招きされた。
アガサはぼくらにわざわざ日本語で命じた。
「特別に邸の中を見せてもらえることになったよ。住込みの女中さんが案内してくれるからね。おとなしく後について、ゆっくり見せてもらうんだよ」
「映画のプロデューサーはどんな生活しているか調べておくんですか」
「ばかだね、哲ちゃん」
とまたいつもの癖が出た。気にしない。
「ここはノーマがずっと住んでいた家だよ。そして二十年前の今日、八月四日の夜中に死んだんよ。ここの人々はもう忘れているけれど、相手にはそのことは思い出させない方がいいよ。黙ってぼやっと見ているふりをしながら、頭の中で部屋の間取りをよく覚えておいて、後でちゃんと見取図を書けるようにしておくんだよ。スイートの臭い匂いを我慢してやって来たのも、ここへ入るためなんよ」
やっとアガサの狙いが分った。ノーマとは昔アガサが親友であった、マリリン・モンローのことだ。中からまだ十五、六ぐらいの、短いバレエ着のようなスカートをはいた少女が出てきた。あどけない顔だが、天使のように美しい。いずれハリウッドの映画に起用される日が訪れることを信じて、住込みで弟子入りしているスター候補生なのだろう。
少女はぼくらを大事な客人と思って邸の中をすみからすみまで案内してくれた。
その間にスイートは、ここでの審査を指導し、各人に渡す品評会の入賞証明書に、サインを入れてやっていた。犬のスタイルの鑑定にかけてはロス第一の権威とされているPIN SASAのサインがあると、証書の価値が全く違うそうだ。見かけでは人の価値は分らない。
犬の品評会が終った後は、一ドル会費のパーティが同じ庭であり、それがまた、あたりの大金持のハリウッド人種の夫人方の持ち寄り料理だから、すばらしくデリーシャスだった。夕方の四時にはアガサの運転する車は、今度は海岸沿いにメキシコ国境のサンディエゴまで続く一号線を走っていた。
道は広々としている上、いつも右側には太平洋が見え、ヨットの白帆や、漁船、大型汽船など見えて実にいい気分だ。腹の方もいつまでも気分よかった。突然アガサがいった。
「哲ちゃんは前、裕子は後ろを見てね。パトカーを見つけたらすぐ報告だよ。少しお腹をすかせないと、夜の料理がおいしくないからね。ただし見つかったら罰金はパトカーを見つけ損った方が払うんだよ」
いきなり車にスピードがかかり、二トンもある鉄塊が唸りをあげて走りだした。みるみるメーターは百を越して、百五十に迫ってきた。マイルだ。肝っ玉がちぢむのでキロに換算は控えたが、大砲の弾丸が飛んで行くようだ。座席にしっかり掴《つか》まっているうちに、緊張で力がこもってみるみるお腹がすいてきた。スイートはこんなスピードに馴れているのか、快く居眠りしている。何十台も抜いているうちに、ハンティントンビーチをすぎ、コスタ・メサ地区へ入った。半島の先が海岸を囲むように丸くおおい、中に小さな湾が沢山ある。昔スペインの海賊や、イギリスの私掠《しりよう》船が横行していた時代は、一海戦を終えると、みなこの半島の陰の湾のあちこちに逃げこみ、船をかくしてゆっくり上陸して休養をとった所らしい。アガサがそこまで説明してくれると、スイートが目をさましていった。
「つまり、コスタ・メサというのは、昼飯を喰う海岸という意味のスペイン語でね。安心して上陸して飯が喰えたからつけたらしいのです」
大きな橋があって、ぼくらの車はそれを渡って海に囲まれた島に入って行った。その先を大きく突き出した半島がおおっているので、島の周りの海はおだやかである。
「バルボア島といってね。昔初めて太平洋を見た航海士の名らしいよ」
狭い島の中は最近になって町ができたらしく、碁盤の目のように縦横の道がきちんとついていた。一軒の中国料理店の前でアガサは車を止めた。既にあたりは薄暗く、青と赤の文字が『上海松園』の四字を浮き出している。
前に車が何台も並んでいる。その間のスペースにでっかいキャデラックをすれすれに入れながら、アガサはいった。
「ジョン・ウエインは本当は、モンローと結婚したかったんよ。二人は撮影の合い間によく人目を忍んでこの店に来たんよ。この店の主人がお気に入りで、日本の歌で『トウキョウナイト』という歌があってね、主人にそれを唱わせては、楽しそうに|老酒《ラオチユー》を飲んでいたよ」
スイートが扉をあけながら注釈してくれた。
「トウキョウナイトって歌は、日本では、シーナの夜って歌ですよ」
「それなら知ってるわ」
裕子が答えた。キーをハンドバッグの中へ入れながらアガサは先にたった。
「もう一人、大きな餌をぶら下げて、モンローを強力に口説《くど》く競争相手が出なかったら、二人の結婚はうまくいっていたかもしれないんよ。そうすれば、どちらに似ても、体が大きくてチャーミングな子が生れて、今ごろはハリウッドの人気をしょって立っているかもしれなかったね。ノーマは今ごろは、その子の親で、二年前ガンで死んだウエインの未亡人として、平和な生活を送っていたかもしれないのにねー」
「惜しいことしましたね」
「二人には、ミーもよく相談されて、大賛成だったんよ。年だって、十九の違いだから中年以後の夫婦ならお互いに丁度良いぐらいの離れ方だった。ところがもう一人の競争相手はとてつもない餌をぶら下げてやっと口説き落しながらいざとなるとその約束が実行できなくて、始末に困ってノーマを殺しちまったんよ」
それが誰か聞きたかったが、うっかりきけば、また
「ばかだね。哲ちゃん」
が始まるので我慢した。
店の扉をあけた。かなり広い店だが、中はもうアメリカ人で満席であった。ぼくらが坐る席があるのかと心配して見回すと、奥の方のテーブルを三つよせて集っていた仲間から声がかかった。
「アガサこちらだよ」
仲間から拍手が起り、ぼくら四人は、そのテーブルの人々の間に、ばらばらに離して用意された空席に坐った。
背中の壁のところには、モンローとウエインが仲好く坐って、頬をこすりつけんばかりにしている大きな写真がかけられている。首を回すようにしてその写真を見たぼくは、同時に飛び上るほどびっくりした。
その写真の背景の壁の模様や、柱の位置から合せると、今、ぼくの坐っている椅子が、モンローの坐っていた椅子であった。しかもウエインの坐っていた隣りの椅子には、中国服を着た、三十歳になったかならないかぐらいの、羽が生えた衣裳でギリシャの歌を唱った歌手によく似ている、どんな男の魂も魅せられて吸いこまれそうな美女が坐っていた。
対面《トイメン》に止むなく坐らされた裕子の刺すような瞳が痛くても、もう気にもならなかった。
「御職業は何ですか」
ぼくがきくと、彼女は艶然《えんぜん》と微笑んで答えた。
「殺し屋よ」
B GET OUTSIDE ……沢山喰べた……
人形のように、目鼻だちのぱっちりした美女から『殺し屋よ』と自己紹介されてびっくりしない方がおかしい。ましてぼくは自分でも情けなくなるほどに度胸がない。ほとんど椅子から飛び上りそうになった。
しかし、そのとき正面の裕子の隣りに坐っていた温厚な感じの紳士が立ち上って、みなの視線が集中したので、狼狽《ろうばい》ぶりは誰にも知られないですんだ。
背が低く明かに東洋人の顔だちをした紳士だった。一人おいた隣りに坐っていたアガサが、そっと耳打ちして教えてくれた。
「このあたりで有名な牧師さんよ。ノーマのためのお祈りしてもらうために来てもらったの。リン先生というの」
リン牧師は多分、華僑系の人だろう。このモンローを偲《しの》ぶテーブルには白人半分、東洋人半分ぐらいのわりで坐っている。
リン先生は静かに荘重に語りだした。
「二十年前の本日、八月四日私たちの良き友、マリリン・モンローの芸名で知られるノーマ・ジーンが、突然、天国に召されました。そのときノーマと多少なりとも親しくしていた方を、ここにお招きして、彼女の思い出を語る追悼の夕ベをこれから行いたいと思います。では最初にノーマの魂のためにお祈りしましょう」
ポケットから小さな聖書を出すと、リン先生は、おだやかな声で一節を朗誦《ろうしよう》し、そのあと、みなは二分間の黙祷《もくとう》を捧げた。
終ると、それまですみに控えていたかわいい女給仕たちが、すぐに温めた老酒《ラオチユー》の瓶を持ってきて、みなの小さい盃に注いだ。アガサが、この会のリーダーであるらしい。次に立ち上るといった。
「まず最初の一杯は、我らの親しかったノーマのために、次に十年前の同じ日死んだ私の亡き夫マルセルの為に、そして三杯目は三年前の六月に亡くなった西部一のだて男ウエインのために、みんなで三杯の盃を飲み干してください」
これが開会の辞の代りだった。みなはうなずくと、温かい老酒《ラオチユー》の盃をお互いに触れ合い、まず、一杯飲み干し、人によっては小皿の氷砂糖を盃に入れて注ぎ足したりして、三杯ずつの老酒を、一斉に飲み干した。そこへ少女たちの手によって、沢山の料理が運ばれ、人々は急に賑やかになってきた。ここまで人が多いと、スイートがまじっていても、誰も気にしない。匂いが拡散してしまうらしい。中年の婦人たちの中には、もとブレントウッドのノーマの住宅のそばにいた人々が何人かいた。彼女《ノーマ》は撮影がなくて自宅にいるときは、近所のおかみさんや、少女たちを招いたり自分が呼ばれたりして、ごく気軽につき合っていたらしい。だから、いつまでもこうして慕われているのだろう。テーブルを囲んだ男女の殆どは、もう中、高年の人々で、上品なおだやかな雰囲気を持っていた。ただし三人だけ、どうもこのテーブルになじまない感じの男がいた。丁度アガサの向い合せに、何となく居心地悪そうにもじもじしている。みな四十半ばぐらいで、がっちりした体格の精悍な感じの男たちだった。
酒が回ってきて、みなの口がほぐれてきたころ、そのうちの一人がいった。
「ぼくらは先日、パーティの招待状をもらって急にやってきた者です。中に二千ドルも入っていたので、欠席するのも失礼と思って来ましたが、何だか場違いな場所に来たような気がして仕方がありません。本当にここに坐っていてもいいのでしょうかね」
三人ともみな別々な場所から、やってきたらしい。三人の男にアガサはいった。
「私たちが、ちゃんとあなた方をご招待したのです。招待状には、パーティが終ったら、一晩中魅力的な女性のサービスもあると、書いてあったでしょう」
「ええ、それで来たようなものですが」
「そのうちの二人がこの徐さんと、そこのユーコというキュートなギャルよ。最後の一人がミー。でもミーだって満更じゃないでしょう」
腕を高く持ち上げると大きい胸がつき出して見える。袖がまくれ上って、白い二の腕と腋毛がのぞけて見えた。
「三人ともプロの女ではないわよ。素人の女性がサービスするなんて滅多にないチャンスよ。最後までゆっくりと遊んでいらっしゃい。そのときのため、しっかりご馳走を平らげてスタミナつけておくのよ。これがあたしたちの真心こめた歓待のしるしよ」
「しかしなぜ呼ばれたのかが分らないんで」
「今日でこの会を終りにし、もう私たちはみんなこれきり過去のことを忘れるためよ。ずっと追い回していたあなた方にお詫びする意味もあるのよ」
三人ともまだいぶかしそうにしている。裕子もまたなぜ自分がいきなり三人の中年男の相手に指名されたのか分らずに、アガサの方を目を丸くして見ている。
他の上品な婦人方は、考えようによっては、まるで乱交パーティでもアガサが始めそうな言い方に、本当は眉をしかめ、席を立って帰ってしまうはずなのに、にこにこ笑ってうなずいている。まじめ一方にみえるリン牧師さえ、その厳粛な表情に初めて、おだやかな微笑を浮べた。
アガサが三人の男にゆっくり納得させるようにいった。
「あのときのあんた方のしたことは、アメリカの国家の安全のためには仕方がなかったと思うの」
「そんなことを言われても、ぼくたちには何のことか思い出せませんね。ただ急に二千ドル入りの手紙まできては、断わりきれなくて来ただけです。たしかに昔、同じ仕事をしてはいましたが、今は別れ別れで、今日まで十年ぐらいお互いに消息も分らなかった仲ですよ」
「それでもいいじゃない。みな久しぶりに会えたんだから。まあーあんたたちは、宝くじでも当ったつもりで、ゆっくり食事をして、今晩一晩、腰の抜けるほど、私たちの体で楽しんでから、それぞれのおうちへお帰りなさいよ」
「まあー、本当にそういうわけなら、ありがたくご馳走になります」
三人とも、本当はまだ納得のいかない顔をして、お互いに顔を見合せたりしていたが、しかし、裕子と徐夫人には大いに気をひかれたらしい。山のように盛り上げられた料理に箸をつけ出した。目の前に女性をぶら下げられたら、多少の理性もどこかへふっとんでしまう。
少女の給仕が、ギターとマンドリンを持ってきた。
ギターは料理店の主人が受けとり、マンドリンはアガサに渡された。みなの拍手の中でアガサは前奏のトレモロをきれいにひくと、モンローが映画の中で唱った『帰らざる河』を、モンローばりの低音のきいた悩ましい声で唱いだした。一番が終ると、さっき徐夫人といわれた、ぼくの隣りの美しい女性が続いて唱いだした。一つの歌が終るとすぐ次の歌が出た。
三時間ばかりかけて、ゆっくりした食事が終った。三人とも最初に持っていた多少の警戒心はとけたようであった。
ぼくにはなぜこの三人が呼ばれたのか、理由が分らない。裕子がもしかすると夜のお相手までさせられるのかもしれないと思うと、妙な気持だ。これまでそれほど裕子が大事な女と思っていたわけじゃない。今のところ、他の相手がいないから、毎日、夜の食事がすむと、五〇七号の裕子の部屋へ行って、お互いに相手にないものを提供しあって、楽しく夜をすごしているだけの、きわめて、ドライな関係にすぎない。それでも彼らの一人に、今晩裕子が抱かれるのかと思うと、何か耐えられないほど胸がキューンとなってくる。
裕子はどう考えているのだろうかと思って見ると、さっきはぼくと隣りの美しい夫人を、目尻を吊り上げて睨みつけていたくせに、今は間の中年婦人と席を代って、三人の男の一人に近づき、楽しそうに盃をやりとりしている。
食事が終った。人々はそれぞれ夜の戸外へ出た。アガサは自分の車の隣りに裕子を乗せ、後ろの席に、三人の男たちを坐らせて、さっさと先に出てしまった。ぼくは徐夫人に手招きされた。
「私の車に乗りなさい」
もう一人の同行者で、パーティの間は一言もしゃべらなかった、匂いのスイート・ピン・サッサのことが気になって見ると、スイートは初めてぼくのそばへよってきた。
「今晩の仕事のため、少しこのあたりを駆け回って利口な犬を集めてきますから」
それだけいうと、一人で暗い路を歩いて消えてしまった。仕方なくぼくは徐夫人の車に乗った。他に誰も乗ってこないので隣りに坐った。スイートのと違う本物の甘い匂いが車にこもった。夫人は赤い車にキーを入れ、静かに発進した。
かなり酔っていたように見えたが、ハンドルさばきの腕はしっかりしていた。
「心配しなくてもいいわ。みんな同じところへ行くのよ。パーティは、これからなのよ」
「二次会の会場があるのですか」
「あたしが今やっているモーテルが、すぐその先にあるの。たっぷり喰べて、たっぷり飲んだ人々が、そこのプールで少し泳いで、酔いをさましてからロスヘ帰るのよ」
橋を渡った。すぐ広い道が続く。同じ料理店を出た仲間の車が、前後を走る。
「まあー、ここ何年はずっとそういうことにしているの。ただし今年でもうノーマを偲ぶ会も終りね。だからいつもの年と違って、少し違った趣向が用意してあるらしいわ」
「あの三人の男は、モンローとどんな関係があったのですか」
「それは後でゆっくりアガサが説明してくれるわ。すべてが終った後にね」
ぼくは一番心配なことをきいた。
「それであの一人と、裕子は、今晩ほんとに寝るのですか」
美しい徐夫人はハンドルを握りながらいった。
「あら、あたしのことは心配してくれないの」
「いえ、別にそういうわけじゃないですけど。あまり守備範囲を広げても……」
「いいのよ。弁解しなくても。でもね殺し屋の仕事って、ときには非情に徹しなくてはならないことがあるのよ。だから、あのかわいい子、ええと……」
「裕子です」
「そう、その裕子ちゃんが、三人の男の一人に抱かれるかどうかってことなんか、ちっとも大事なことじゃないのよ。生命をとるかとられるかというときには、仕方がないじゃない」
平然としていう。すぐに広い道の右側に、漢字と英文と組み合せたネオン看板が、突き出して見えた。
『金剛MOTEL』
多分華僑の人の専用のモーテルだろう。レストランからやってきた車は、次から次へと駐車場に入る。徐夫人はいった。
「私のモーテルよ。別れた旦那から慰謝料として捲《ま》き上げたの」
「ご主人と別れたのですか」
「そうよ。台湾政府の陸軍軍医中将だったのよ。私と二十五歳違っていたわ。五十二歳で退役《リタイヤ》してこちらへ来て、まだ二十七歳のときの私と結婚したんだけど、他にも何人も奥さん持ってるの知って、三年で別れてやったのよ。それからずっとここの女主人よ。殺し屋はときどき、頼まれると趣味でやっているだけなの」
ますますこの夫人のことが分らなくなった。
従業員がキーボックスを持ってきて、車でやって来た人々に、一つずつ部屋のキーを渡す。駐車場の向うに、型の二階建ての建物がある。二階が客室らしい。部屋の前は廊下になっていて、一階のフロントわきの外階段を登った廊下から直接に入れるようになっている。もう十時はとっくに過ぎているのに、どの部屋にも、人の気配がない。本日は全室貸しきりになっているようだ。
アガサがぼくと裕子を呼んで、鍵を渡した。
「みなでプールで一泳ぎするからね。二人は二階へ上って仕度をしてらっしゃい」
ぼくはすぐ答えた。
「まさか泳ぐと思わなかったから、水着持ってこなかったけれど」
「ばかね哲ちゃん」
といきなりまたやられてしまった。
「夜、気心の知れあった仲間だけで泳ぐんだよ。水着なんかつけるの誰もいないよ。素っ裸になってから、部屋の中に用意してあるガウンだけつけておいで」
あたりを見回した。さっきの婦人たちや、あの三人の男や、その他の人も、みな鍵をもらってプールを見下す二階の部屋へ、それぞれ入って行く。
「早くしなさい。温泉へ入るとき、パンツなんかはかないでしょう。それと同じよ」
そう言われて気が楽になった。外階段を二階へ上って行く。ブスッとした顔で裕子がついてくる。何かあると思っていたら果して背中からいわれた。
「ドライヴ、楽しかった? きれいなミセスね。お色気盛りってとこね。途中で車止められて抱きしめられたら、唇が蜜《ハニー》のように甘かったでしょ」
「冗談じゃないよ。何もなかったよ」
「うっそー。かくしたって分るわよ。その上今日はあたしは、あの毛むくじゃらの外人に抱かれることになっているのよ。いい気味と思ってるんでしょ」
「そ、そんなことないよ。君を誰の手にも渡しゃしないよ」
扉の前で止まった。裕子はまだ光る目で睨みつけながらいった。
「その言葉ほんとにほんと」
「ほんとだよ」
「もし外人の人が、裕子を求めてきたら、哲ちゃん生命がけで守ってくれる」
「ああ……しかし」
ぼくの答えはそこで歯切れが悪くなった。
「……しかし何よ、守ってくれるの、くれないの」
「でもアガサに何か計画があって、それがこのパーティの本当の目的で、そのため、君が抱かれるのだったら、止められないよ」
「何いってんのよ。そんないい加減な人だったの、哲ちゃんは。仕事とあたしとどっちが大事なの」
睨みつけられてぼくは困った。
みるみる裕子の目に大粒の涙が浮び
「もう知らない! 哲ちゃんの心は分ったわ。あたし、あの外人の男の人に抱かれて、今晩燃えて燃えて燃え狂って、抜けがらのようになってしまってやるから」
扉の前で言い争っていると、下から声がきこえた。
「何をぐずぐずしているの。早く脱いでいらっしゃい」
プールの周りに昼のように明るい水銀灯がついた。
よく均整のとれた、アガサと徐夫人が全裸の体を躍らせて、きれいに水の中に飛びこんだ。透けた水の中を、魚のように二人はもぐって泳いで行く。
C PUSH OFF ……殺《バラ》す……
八月の初めはロスの町では暑さの真盛り、夜になっても、空気が熱っぽい。その上たとえ口争いでも喧嘩すると体に熱がこもる。扉の前で睨み合っているぼくと裕子は、暑さで息苦しくなった。下から声をかけられて見下すと、プールでは、アガサと美しい徐夫人が全裸の体で鮮やかに水をくぐっている。
さすがの意地っぱりも向うから折れた。
「喧嘩は後で、ともかく泳ぎましょう」
部屋に飛びこみ、着ている物をむしるようにしてベッドにほうり投げ、代りに室内にあったガウン一枚をまとって、また廊下に出た。あちこちの部屋から同じような姿の人々が出てくる。プール際の芝生にガウンをほうり投げると、男も女も全裸で、冷たい水の中に飛びこんだ。大部分が中年以上の男女だから、外人特有のたるんだ皮膚に赤茶けたしみが大きく浮んでいる。並んでプール際に裸で立ったぼくらは、ここで大いに誇らしかった。
二人とも若いし、裕子はもちろんだが、ぼくだって、若者《ヤング》のひきしまった肉体には自信がある。
手を上げて並んで飛びこもうとしたとき、二階の三人用の角部屋の扉があいて、あの正体不明の招待客三人が腰にタオルを巻きつけただけの姿で出てきた。もう三人にはためらいや不安の影はすっかり消えてアメリカ男らしい陽気さで、プールの中のアガサや徐夫人、そしてプール際で今飛びこもうとしている裕子に向って
「へーイ」「ホーッ」
などと奇声を上げてみせた。
裕子が手を振って答えたので立場がなくなったぼくは、屈辱を全身にこめて、水に飛びこんだ。一たん深く水にもぐった。さすがに水は冷たく、ほてる体に快い。裕子も続いて飛びこんだらしく、ぽっかりと顔を出すと、二人の顔はすぐ近くで向い合った。
いつもはお互いに口から水を吹き出してにっこりと笑い合うところだが、今日の彼女は限りなく憎悪に燃える目で睨みつけている。
「もうあたしにつきまとわないで。あたしには外人さんを一晩この体でお慰めするという大事なお役目があるんですからね」
イーッと顔をしかめてから、ぼくの顔にたっぷり水しぶきがかかるような乱暴なバタ足で泳いで行った。
三人の外人は一斉にプールに飛びこんだが、レインジャー部隊出身者でもあるのか、みな上手だ。既に三人の間には、それぞれの相手はくじでもして決めてあるらしい。迷わずに、別々の女のところへ泳いで行く。裕子のところへは、三人の中では一番肥った赤ら顔の醜いのが近づいてきた。ぼくは喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な思いだ。
早速、裸の男たちは裸の女たちに抱きつく。大勢が泳いでいるプールの中だから、まさか本番行為《フアツク》には及ばないだろうが、これではあまりにもあんまりだ。
アメリカ建国二百六年、メイフラワー号で大西洋を越えてきた清教徒のバックボーンは、どこへ消えてしまったのか。ワシントンや、リンカーンに恥しくないのか。
しかし、ぼく一人でいくら憤慨してもどうにもならない。この奇妙な集いの主催者であるアガサ伯母が、自分より十も若い男に抱きしめられて、いかにも嬉しそうに、娘のような悲鳴を上げている。徐夫人は男の一人に抱きしめられ、うっとりと唇を合せて水の中にもぐり、ときどきまた顔を出しては、ふーっと長い息を吐きだしてにっこり笑い合う。このモーテルは別れた旦那の血と汗の結晶を慰謝料という名目でもぎとった物だということを忘れたのか。
裕子ときたら、もうとても見ていられない。肥ったおジンに後ろから抱きかかえられ、両乳房をしっかり押えられると
「いやーん、エッチ」
と悲鳴を上げている。もし本当にエッチ行為がいやなら、蹴っ飛ばすなり、ひっかくなりして、大和《やまと》撫子《なでしこ》としての毅然とした態度を示すべきなのに、ただいたずらに足をバタバタさせているだけで、これでは男を挑発しているようなものだ。ぐいと顔をねじ曲げられると、うっふんと甘えた声で唇を合せる。
ちきしょう! 思わず唇を噛んで、痛いので掌でこすったら、赤くしみてプールの水がにじんだ。
ぼくの全身には爪先から頭の毛まで火がついた。といって素手《すで》で三人に向ったら、逆に軽くノサれてしまうだけだ。はっと思い出した。アガサの車のダッシュボードには、いつでもSW38コンバット・マスターが、二つぐらいはつっこんである。必ず弾丸がつめてあるから二挺で十二発、これでプールサイドから、淫《みだ》らな男女三組を狙って射ちまくってやったら、プールは正義の赤き血に染まるだろう。アメリカ全国民の惜別の嘆きの中で、シンシン連邦刑務所の電気椅子で、英雄的な最期をとげるのも、男、十九歳の花の散り方としては悪くない。
プールからとび出して、芝生を歩いて行った。丁度、メイドたちが芝生にシーツを敷いて、その上に、冷たいコーヒーの入った魔法瓶や紙コップを並べていた。わざと紙コップを三つばかり蹴とばして元気をつけてから、素っ裸のまま、駐車場の方へ出て行こうとしたら、片手をしっかり把《つか》まえられた。
「|坊や《ボーイ》、待ちなさい」
さっきの牧師のリン先生だった。外部の人がまぎれこまないよう庭の出入口の見張りでもしていたらしい。ちゃんと短いパンツにシャツをつけている。妙に力強い手だ。この人はカンフーか拳法をやっていたらしい。全身が動かなくなってしまった。
「あと五分の我慢です。自分も辛いのです」
リン先生の顔もよく見ると泣きそうだった。
「えっ、どうしてです」
「あの徐さんは、現在の私の妻なのです。ただ再婚すると、モーテルの権利を失うので、二人は世間的には他人でいるのです」
どういうわけか、あの美人に旦那がいると知ったとたんに気が抜けた。それにしても殺し屋の夫人に牧師の亭主の組合せは少しおかしい。別におかしくないか。殺しておいてお祈りしてもらえば、すべて他人の手をわずらわせずに、一貫作業で天国へ送りこめる。
「いつまでもとはいいません。もうほんの少しです」
ぼくはリン先生にひきずられるようにして、プールサイドの水銀灯の下にある明るいテーブルに坐らされた。冷たいコーヒーを飲んで、なるべくプールの方を見ないようにしていると少し気分が落着いてきた。
ぼくはリン先生にきいた。
「あの三人は一体何ものなんですか」
それには答えずに先生はシャツのポケットから一枚の紙を出した。
「ここにいるみなは、二十年前に盟約を結びかわいそうなノーマのために復讐を誓った人ばかりです。これはノーマの死体《コルプス》を担当した、検屍官《コロナー》のノブチ博士の解剖書のコピーです。馴れないとちょっと読み難いでしょう。ここをまず見てください」
走り書きしてある部分を指で示した。見たって分りっこない。字の綴りが全く読めない。先生は丁寧に解読してくれた。
『解剖所見。
本官は、ロスアンジェルス監察院内にあるロスアンジェルス|市区域検屍官《シテイコロナー》、死体保管所《モルグ》付設解剖室で、芸名マリリン・モンローこと、ノーマ・ジーン、三十六歳(女性)の急死体の解剖を、担当警察官より依頼され、約五時間にわたって執刀した結果、死因を次の如く推定するものである。
死因。……薬物過剰摂取による、急性バルビタール酸中毒』
ここまで指で示しながら読んでくれてから先生はそれについての自分の考えを話した。
「ノブチ博士は通常この文の後に、事件にとってもっとも重要な事実、つまり、自殺か他殺かを書きこむのですが、どういうわけか、これに限って書いていません。当時ノーマは時の大統領の愛人と思われていました。それで私らは、そのへんを考慮して博士がある事実を知りながら、記入を避けたのだと思いました。しかしアガサの夫だったマルセルは、マフィヤなりの嗅覚で十年間かけてある真実に近づいたのです」
プールの狂態があまり気にかからなくなった。それほど重大な話であった。
「当時はもうノーマの存在は大統領夫人に感づかれ騒ぎたてられ、困った大統領は弟に愛人を譲ってしまったのです。しかしその方が、問題が大きくなる素因がありました。兄が二期八年やった後は、誰もが当然、弟が続けて二期八年やると思っていました。弟はノーマの愛を獲得するため、現在の妻を離婚して、ノーマをファーストレディとして、ホワイトハウスヘ迎え入れる約束をしたのです。貧しい田舎出身のノーマはその男の言葉を信じこんでしまったのも無理はありません」
「純情だったんですね」
「のぼせ上ってしまったノーマは、毎日のようにロスからワシントンの弟のところに長距離電話をかけました。それをFBIが嗅ぎつけたのです。これでふだんから気に入らない、このエリート兄弟の息の根を止めようと考えました。ジョン・ウエインも早くからそのことに気がついて、もっと控え目にするようにノーマに忠告したのです。でも、ファーストレディの夢にのぼせ上ったノーマはききません。やたらに人に自分の未来を話す。そこで何者かの手が動きました。彼女の口を封じるために……」
できればその何者かの手で裕子も始末してもらいたいと思って、ちらとプールを見ると水の中の男女の姿が急に少くなっていた。今では三組の男女六人だけが、ふざけている。さすがに常識ある人々は淫らな彼らの痴態を見ていられなくなったのだろう。芝生に寝そべってコーヒーやサンドイッチをとっている。
「マルセルは十年後に、ここに気がついたのですよ」
そういってまた一部を説明しだした。
『外部所見。その1。顔面と胸と、背中の左半面と、左側ヒップに、鉛色の斑点がある』
「つまりこれだけで、マルセルは、ノーマの体にどんな暴行が加えられたか一目で見破ったのです。組織がいうことを聞かない売春婦《ボトム》たちをこらしめるため、いきなり殴り倒すと必ずこのような痕が体につくのです。ここまでマルセルは探ったのですが、そのときビッグ・シャークのひきいる、FBIのGメンが突然、加州マフィヤの一掃にのりだし、マルセルの体は、蜂の巣のように孔をあけられてしまったのです」
ぼくはこの事件の根が意外に広く深いのを初めて知った。
ゴキブリが飛んだような感じの黒い影が目尻をかすめたので、気になってまたプールを見た。何匹かの黒い犬がいつのまにか入ってきていた。よく見ると八匹もいる。二匹ずつ、プールの四方の岸《サイド》に立った。
人々は後ろで寝そべってプールに近づかない。代りにスイート・サッサがパンツ一つで立って犬の耳もとで何かいっている。
もしスイートがプールに入ったら、彼の十何年の垢でプールの水がどぶのように汚れてしまうのではないかと、ぼくにはそれが心配だ。
六人ともあまりふざけすぎて疲れたらしい。手すりに把まって上ろうとした。女はそのまま上れた。しかしどういうわけか、男が手すりに把まろうとすると、とたんに黒い犬がやってきて、前足をかがめて水をのぞきこみ、歯をむき出して唸る。そして今にも喰いつきそうにする。
八匹とも獰猛《どうもう》で知られるドーベルマンだ。こいつにやられると肉がちぎれるどころか、骨まで砕けるといわれている。睨む目も光って凄味がある。
「よせよ」「おどかすなよ」
三人の男は初めは冗談と思って、犬にしゃべりかけたり、それでも駄目と知ると、反対側に泳いで行く。ところがそこにはもうちゃんと別な犬が待っていて、歯をむき出す。
「おいこれは一体どうしたんだい」
「冗談はもう止めてくれ」
男たちも異状を惑じて真剣な声になった。
アガサがガウンを羽織り、タオルで頭をしぼりながらプールサイドにやってきた。
「別に冗談じゃないの。もう少し入っていてね。きくことがあるから」
さっき裕子の両乳房を後ろから揉《も》んでいた赤肥りの男が三人のリーダーらしい。立泳ぎしながら、中からきいた。
「これは一体どういうつもりなんだね」
「三人が誰に命じられてやったかは、口にしなくてもいいわ。もう分ってることだし、アメリカの歴史を汚すことだから」
「何のことだかさっぱり分らない」
「ともかくわりと用心深かったノーマが黙って部屋へ通したほどだから、その男は恋人か、よほどの顔なじみね。その後に三人が続いて入って、一人がいきなり殴って倒すと、二人で彼女の体を床に押えつけた。あんたらのボスか、手の余った一人が彼女の腋《わき》の下とあの地下鉄シーンではいていた薄いパンティの内側ぎりぎりのところに、大量のバルビタール酸注射を打ったというわけね」
「おれじゃない。いやがって泣くモンローの口を押えていただけだよ。注射したのは、ボスだ」
ついに赤肥りの男は耐えかねてしゃべってしまった。
「そのボスももう死んでしまったし、将来のあるボスの息子や一家のためにも、また死んだノーマのためにもこのことは永久に私たちだけの秘密にしておきましょうね」
一人でうなずくと、後ろにいたガウン姿の徐夫人にいった。
「それじゃお願いね」
「OK、アガサ」
夫人はフロント事務所の方に駆けて行く。
「苦痛は短いわ。一瞬ですむわ」
ちょっと水銀灯の光りが暗く落ちた。瞬間ぼくは珍しいものを見た。水と水とが空中でぶつかって火花が散ったのだ。マイナスとマイナスと合さるとプラスになると教わったことがあるが、水と水とがぶつかって火になるとは初めて知った。三人はいきなり背筋が反って平らに水に浮び上り、二、三度体ごと水面でジャンプし、髪の毛と、手先の爪先から青い火花が飛んだ。
殆ど一瞬の死だった。
気がついたときは、三人とも、白い目をむき出して水面に浮び、体から焦げ臭い匂いがしていた。口から内臓が焼ける青い煙が細く出ている。裕子がぼくにしがみついてきた。二人とも体がふるえて止まらない。
水銀灯の光りはすぐに元の明るさに戻り、徐夫人が出てきて、またガウンを脱ぎ捨てると
「あっ」
とぼくが思わず声を上げるのにもかまわず鮮やかに水に飛びこんだ。自分でスイッチを入れて、自分で切ったのだから、これ以上安全なことはない。つづいてみなも飛びこみ、死体を布に包みひき上げると、何人かでどこかへ運んでしまった。二十年間にわたって、毎年八月四日の夜から五日の朝まで続けられてきたコスタ・メサのパーティの、これが最後のセレモニーだった。
第六話 大相撲ロス場所
A SCALE UP ……大きくなーれ……
九月に入っても猛暑が続く。十月まで泳げる街だから仕方がない。大学の方もよく心得ていて、休み明けはしばらく、ヌードのデッサンばかり続く。
モデルは海岸の遊びの続きで、裸で立っていればお小遣いになるので、いつでもなり手がいて不足しない。この授業でこの大学以外ではちょっと考えられないんじゃないかという面白い経験をした。同じ教室で遊ぶ女の子や男の子が一回だけ授業を欠席扱いにして、アルバイトとしてモデル台に立つことがあるのだ。女の子の場合はみなその勇気に敬意を表して、しーんと黙りこんで真剣にデッサンするが、男の子が立った場合、女の子たちは大騒ぎだ。もろにむき出しになるから
「うわーっ、すごい」
「いい形してるじゃない」
そこのことばかり話題になる。ときどき教授がきびしい声で叱りつけないと、ざわめきはなかなかおさまらない。
裕子は、女の子のモデルの場合は、ぼくのそばにまつわりつき
「まだ芸術家の目になっていない」
などと変にケチをつけるくせに、男の子の場合は物も言わず真剣な目でリアルにデッサンする。見事なものに出会った日の夜などは、妙に昂奮して、一心に息を吹きこむようにし
「ああ今日のジョウのすばらしかったわ。哲ちゃん、もう少し何とかなんないの」
むりなことをいう。空気を吹きこめば黒人並みになるのなら、誰も苦労はしない。
朝晩はいつも裕子の小型の赤い車に便乗してのアベック通学であり、またこの日本娘の嫉妬深いことは知れわたっている。裕子に好奇心半分で近づいてくる男の子はいても、ぼくに迫ってくる外人娘は一人もいないという、不公平な状態での学園生活が始まった。
九月に入って最初の金曜日の夕方、裕子の車で、大学から小東京へ戻る途中、メキシカン|村《ヴイレツジ》 の横を通りかかると裕子はいった。
「哲ちゃんはこうしてあたしの車があるから、こんな危い所を無事通れるのよ。感謝しなくてはだめよ」
半分迷惑だとは口がさけても言えない。この車さえ無ければ帰り際《ぎわ》他の女の子の車に乗せてもらってデートができる機会が何度かあった。
「うん、とても感謝しているよ」
「そうよ、哲ちゃんはあたしを生命の恩人と思ってくれなくちゃ」
裕子がこのあたりを通るたびわざわざ、ぼくに恩着せがましくいうのには理由がある。四、五日前、日本人の間に衝撃的なニュースが走った。ロス日報の一面はこのところ連日の大フィーバーだ。
日本から中年の男が、二十七も年の若い女性を連れてきた。新婚旅行とのふれこみだ。男は現地でレンタカーを借りて、ロスの町中をドライヴした。昔ここの大学に学んだことがあり町のことをよく知っているらしかった。若い妻は、モデルかタレントといっても通るぐらいの美女だった。男はメキシコ村が背後に見える窪地の原っぱで車を止めて、若妻を下して写真を撮った。本当はごみ捨て場で、とても撮影などしたくなるような場所ではない。しかも、そこへ突然車がやってきて、中からメキシコ人風の男がピストルを出して、いきなり女を狙い射ちして去って行った。いわば理由なき殺人だ。アメリカでは誰でもピストルを持っているから、たまには起る。が、そうしょっ中あることではない。それが今、目の前に見える原っぱでだった。
相手が新婚旅行でやってきた日本の女と分るとロス市長や加州知事はこの事件を重大に見た。女が即死せず植物人間の状態でも、とりあえず生命はとりとめたので、即座に軍の飛行機を調達し、生命維持装置を積み込み、日本へ送り返して、アメリカの費用で治療を始めた。
「なぜあんな所でわざわざ女を下したか、その方が問題よ。おかげでロスの楽しいイメージが随分落ちたわよ」
ハンドルを握りながらの裕子の怒りは、この町に住む日本人たちの平均の意見をいつも代表している。夫への同情の声は小東京でも全くきかれなかった。
メキシカン村《ヴイレツジ》 の横を通りがけにさんざん車のありがたさを聞かされながらホテルヘ帰ってくると、珍しくアガサがロビーの長椅子で待っていた。
隣りには漢学先生という綽名の老人が坐っていた。二年ばかり前から二階の部屋に住んでいる。日曜の夜にどこかへ働きに行くだけで後は、布袋《ほてい》様のように大きい腹を抱えて、長椅子でおしゃべりしている。誰も相手がいないときは一人で漢字だらけの、横目で見ただけでもお腹が痛くなるような本を読んでいる。
もとは大学の漢文の先生をしていたというふれこみだが、このホテルの人は分らないと思って、日本での身分をオーバーにいう癖がある。誰も本当にはしていない。
アガサがその漢学先生との話をやめて
「これから大助うどんを喰べに行くんよ。二人とも夜になっても寒くないように、長ズボンはいて、ジャンパーを持ってきなさい」
裕子はまるで飛び上るようにしていった。
「うわーっ、裕子、大助うどん、大好きー」
このぐらいが彼女にとっては精一杯のジョークだ。ぼくも以前、同級の外人の女の子にガーデナーにある大助うどんは、とてもおいしいということはきいたことがある。
すぐに仕度をすませ、アガサの運転する車に乗った。例のように裕子と手をつないで後ろの席に乗ると、布袋さんのような老学者はアガサの隣りの席に坐ったが、太った腹がダッシュボードにつっかえて、無理に押えて凹ませてやっと入る状態であった。
ロスの下町から郊外の町ガーデナーに入るフリーウェイを、例のアガサ流でぶっ飛ばして二十分で着いた。さすがに町の中心とは一味違った、ゆったりした庭を持つ敷地のたっぷりした邸が並んでいた。
その中にある大助うどんは、うどん屋といっても広々とした駐車場を持つ、一流料亭並みの店だった。
店の前に品物の模型を置いたショウケースがある。この国では他に見かけられない日本を思い出させるもので、瞼《まぶた》がにじむほどになつかしい。ただお膳の上はやはり純日本風と少し違って、必ずうどんの丼の横に丼に山盛りのライスが付属していた。外人の客には、うどんはあくまでライスのおかずなのだ。
入ったところの平土間のテーブルは半分以上、外人の家族連れで占領されていた。土間の奥に五十センチぐらいの小川が流れ、石橋がかかっていて、一般客の食事の場所と、特別客との座敷とを区切っている。鹿《しし》おどしの音もきこえる数寄屋造りの廊下を通り、幾つか並んでいる座敷の一つに案内された。
入口の襖《ふすま》が中からあき、坊主頭の墨染の衣姿の男が平伏していた。顔を上げたら、お獅子のような金歯が見え、少林寺派拳法ロス支部の師範代倉元拳士であった。
座敷に通される。正面に八十ぐらいの目付きの鋭い老人が坐っていた。どうも見たことがあるなと考えているうちに思い出した。テレビで何度か見た。駆け足でコマーシャルに出てくる元気なお爺さんだった。背筋をのばして端座している老人の隣りには、明らかにこの土地生れの二世と分るふっくらとした大柄の三十ぐらいの美人が坐っていた。正面に用意された席にアガサとぼくらは向い合って坐った。漢学老人だけが、最初からあぐらをかいた。シャツの前が割れて丸くふくらむお腹にお臍《へそ》が見えた。
倉元拳士は袴《はかま》の両側の切れ目に手を入れて少し高目にすると、すり足で両者の中間に来てからぴたりと平伏していった。
「本日、皇紀二千六百四十二年、長月《ながつき》の吉日ここに大日本帝国武道振興会会長兼、全日本詩吟剣舞連盟総裁、竹川好斎先生を、ロスにおける陰の実力者であり、渡米を果しながらも止むを得ず未だ下層貧困の境遇を余儀なくされている人々の間に絶大な人気を持つアガサ親分にご紹介する光栄を得たことは、まことに本拳士の一生の喜びとするところであります」
この拳士、口調のいい漢語に酔っている。本当に自分の言っていることが分っているのだろうか。未だ下層貧困の人々とはよく言ったものだ。ぼくはむくれたがアガサは気にもしていない。両者は向い合って軽く頭を下げた。
竹川会長は年のわりにドスのきいた声で話しだし、その声で、ぼくはこの人が六十三歳のときに、九十歳の母親を背負って百十五段の階段を登って神社参拝している有名なコマーシャルをはっきり思い出した。えらい人に呼び出されたものだ。
「わ、た、く、しは」
この老人の特徴で、一語、一語、区切って力強く話す。
「このたび三つの大事な仕事をするために、このカリフォルニヤにやって来ました」
そこへ女中たちによって、特製天プラうどんが、ライスの丼つきで運ばれてきた。ビールも酒の徳利も出てこないのは、老人が禁酒禁煙をきびしく守っているからだろう。
うどんの丼でも持ち上げてカチンと合せるのかと思ったら、そういう改まったセレモニーはなく、箸を掌に合せて合掌すると、まず一口すすり、ぼくらにすすめて、自然にまた話が続けられていた。
「この三つの仕事はまだいずれも秘密の段階なので、他言は慎んでもらいたいが、我が大日本帝国の力とご皇室のありがたさを、アメリカの人々の魂に灼きつける意義ある仕事であります」
他国へ来て、そんなことしていいのかと気になったが、ぼくら如き小人物《チンピラ》の批判など、戦車に向けるパチンコ玉と同じで何の役にもたたない。ただひたすらお説をきくだけだ。それにこの天プラうどんは本当にうまい。まさかロスまできて、きざみねぎや唐辛子を一杯かけて、太くて腰の強いうどんを喰べられるとは思わなかった。老人《ドン》の言葉は続く。
「その一つはロスからメキシコとの国境の町、サンディエゴまで、日本の技術を動員して新幹線を敷くことで、わたくし一身でこの費用を負担し、完成後はアメリカ政府に無償で提供します。これは日米修好百二十年、これまで何百万人もの日本人がこの豊かな国土でお世話になったお礼を、わたくし一身でお返しして恩に報いたい真心からであります」
天プラの海老は日本でも今は殆どメキシコ産だ。ここで喰う天プラが日本よりうまいのは当然だが、新幹線ができれば、国境から一時間で着く。もっとずっと天プラがうまくなる。
「二番目は、ここに敷地を確保して、世界中の青少年の身心を鍛練する武道の大学を作りたいのであります」
倉元拳士が大きくうなずくと、やや開いた唇の間の金歯が光って上下する。
「青少年の非行化、教師への反抗はもちろん、憂うべき不純異性交遊も無くなるでしょう」
じろっとぼくと裕子の方を見た。教師をぶん殴ることより、男女の交際の方がもっと悪いことだといわんばかりだ。しかし相手が大物すぎる。睨み返すなんてできない。ぼくも裕子も下を向いたまま、うどんの汁とお新香で、付属についているライスの丼を片づけだした。
「既に武道大学の校長に山盛少林入道、主任教授に倉元君を任命した」
倉元拳士は、うどんの箸をおいて少し下り
「ハハーッ」
と声を出して平伏した。
老人《ドン》の隣りに坐っていた三十代のぽっちゃりとした、二世風の夫人が、老人に向って軽く頭を下げてから、ぼくらに初めて口をきいた。
「私は山盛の妻、クミコです」
やっと事情が分った。このクミコさんについては、ぼくはホテルにいる人から聞いたことがある。こちら生れの二世で、若いときは評判の美少女で、歌がうまかった。世話する人があって、十代の終りに日本へ行き、淡谷のり子さんの弟子になった。容貌も歌唱力も問題なかったのだが、平仮名しか読めない。それで新譜を渡されても、誰かに振仮名をつけてもらわなくては読むことができず、ついに日本でのデビューはあきらめた。今はロス市内名物の、ピアノバーでのひき語りでは、最高の人気があり、沢山の収入がある。
旦那の少林入道が弟子からとる月謝では、生活が成りたたず、主にクミコ夫人の稼ぎで暮しているので、あの巨大な海ぼうずのような武道家が、家では三人の子供の食事を作り、おむつの洗濯までやっているという。
老人の話はやっと本題に入った。
「しかし本日アガサ親分をお呼びしたのは、以上の二件の事業とは全く関係がない」
どこでも老人の話は長いのが普通だ。
「三件目はいまだ絶対の秘密だから特にご留意いただきたい。日本の国技といえば、もちろん相撲だが、その大相撲をロスヘ呼んで在留日本人のややもすれば、アメリカ的な軽佻浮薄《けいちようふはく》の男女交際に毒されがちな精神をひきしめ直し……」
この老人はよほど男女交際が嫌いらしい。
「アメリカ人には、日本特有の格闘技のすばらしさを見せて、二度と日本に戦争をしかけてくるような気持を起させないようにしたい。これこそ世界平和八紘一宇の道であります」
アガサが初めて質問した。
「ミーに何かすることがあるんの」
竹川会長は深々と頭を下げた。
「たとえ国技の披露といえど、これは興行ということになる。場所はスポーツアリーナを借りることにしているが、アガサ殿なら、既にお分りの通り、あの場所は、加州マフィヤのミッキー一派と、メキシカンの暴力団体聖十字顕彰団のゴンザレスと、チャイナマフィヤ功夫《カンフー》会の陳会長の三つの勢力が激突しているところで、事前に充分な根回しがなくては、何もできないところです」
竹川会長もその点は充分に調査してきていたらしい。
「ピストルや青竜刀で場内に暴れこんでこられて、客や力士にけがでもされたら、折角の催しも却って逆効果です。それでアガサ殿には加州マフィヤとメキシコ系の根回しを、チャイナ関係は春田先生に一切の根回しをお願いするため、お二人をお呼びしたしだいです」
ぼくはこの布袋腹の漢学の先生が春田という名なのを初めて知った。
アガサは答えた。
「加州マフィヤのミッキーは多少でも利益が入るようにすれば、何とかなるんよ。場内売店のいなりずしやハンバーグの売上げの二十五パーセントを回してもらえたら話がまとまると思うんよ」
「もちろん条件はお任せします」
春田漢学先生は、一言だけきいた。
「興行の日は」
「十月の二十五日です」
「ほう旧暦の九月九日、重陽《ちようよう》の節句ですな。それなら何とかなる」
アガサがいった。
「問題はメキシカンの連中だけよ。ミーにはまだどうして話をつないだらいいか見当がつかんのよ。でも会長はどうしてもミーにやれというんの」
竹川は大きくうなずいた。
「条件はお任せしますから頼みます」
B GUN DOWN ……射殺……
ふだんは近くでお姿を拝むこともできないほどの大物《ドン》と向い合っているとすっかり疲れてしまった。大物とやっと別れたぼくらは、クミコ夫人のすすめで彼女がひき語りをしているピアノバーヘ行くことにした。
アガサも漢学先生もうどんと飯とお茶だけではどうもお腹のあたりが落着かない。アメリカにだってビールが無いわけではない。
ガーデナーからロスの町へ戻る道は、今の時間、通勤コースと反対だから、アガサはまた猛烈なスピードで走らせた。ハンドルを握りながらも、漢学先生やクミコ夫人にしきりに話しかける。
「ミッキーはもともと日本人が嫌いというわけじゃないから、利益の一部が入ってくれば文句は出ない。その線が固まれば、黒人の方はついでに押えられるんよ」
漢学先生は太い腹の上に腕を組んでいった。
「チャイナの方は、自分らの面子《ミエンズ》がたてばいいので、私がボスの陳とゆっくり条件を煮つめましょう」
漢学先生の姿を後ろから眺めたが、このくたびれたシャツ一枚の布袋《ほてい》腹に、チャイナ・タウンの親分と対等に話しあえる力があるとは、とても信じられなかった。
クミコ夫人は二世特有の大らかな人だが、その分細かい気くばりのない人だ。裕子が乗りこむとすぐに続いて乗り、ぼくとの間にわりこんだ。おかげでぼくらはいつものように手を握ることもできない。
アガサが困ったようにいった。
「ただメキシカンだけが、どうにもコネがつかんのよ。以前ミッキーの片腕だったセルジオって爺さんは四分の一メキシカンの血が入ってて、聖十字顕彰団とも太いパイプがあったけどね。この前裏切行為をしたから、爆薬で吹っとばしてしまったんよ」
「おう!」
クミコ夫人がいきなり派手な声を上げ、手を叩いた。
「ゴンザレスの親友《アミゴ》を思い出したよ。それもうちの店に来る日本人のお客だよ。店へ着いたら、すぐに電話をかけて呼び出しておくよ」
「何て人」
「ロングビーチ一帯で建売り住宅をやっている戸島さんて人だけど、建築の仕事にメキシコ人を使うので顔が広いのよ」
「その人のことなら、ミーもミッキーに聞いたことあるんよ。ラスベガスでいつもマーカーで張って、大概、住宅一軒分は負けてしまう下手の横好きだけど、一番払いがきれいなので、とても大事にされているんだってね。マーカー戸島っていえば、良い鴨《かも》なのでラスベガスのカジノのオーナーで知らない人はないらしいんよ」
裕子も口を出した。
「牛丼屋の日本人の間でもよく噂できくわ。会社では石沢商事が一番大きいが、個人所得では戸島さんが一番多いだろうって。裕子そんな人のところにお嫁に行きたい」
手をのばしてつねってやろうと思ったら
「でも今は哲ちゃんを愛しているからむりね」
とあわてて言い直した。
アガサの車はやがて、池成の寅さんの愛人で、殺されたベトナム娘のホーがいたアオヤマの駐車場に入った。しかし老美女の壁画のあるアオヤマには入らず、その周りに密集している何十軒かの日本人用のバーの中では比較的大きい店に入って行った。『皇紀』といういかにも一世の人が喜びそうな名の店であった。
クミコ夫人は大変に人気があるらしく、入るとすぐ店中の人から拍手で迎えられた。
グランドピアノの周りがぐるりとテーブルになっていて、ピアノの蓋の上には、直径三十センチぐらいのばかでかいブランディグラスが置いてあり、リクエストしたい人や、マイクで唱う人が、その中ヘ一ドルから五ドルぐらいの札を折って入れる。
クミコ夫人は電話をかけ、ホステスに二言三言指示すると、すぐにピアノの前に坐った。
たちまち、『戦友』『暁に祈る』『麦と兵隊』、日本にいたとき、パパが酔っ払ったときに必ず唱う、妙に物悲しい歌ばかり続いた。たまにぼくらと同じ年ぐらいのホステスが客にねだってお金を出してもらって、『思い出酒』とか『雨の慕情』とか、やってもらう。知っている歌が出るとアガサも裕子もクミコ夫人について、坐ったまま小声で唱った。
ホステスの一人がやってきてクミコ夫人に耳打ちした。うなずくとアガサにいった。
「マーカー戸島さんが来て向うのボックスで待っているわ。お話をきいてみるって」
「どうもありがとう」
アガサとぼくらと、漢学先生の四人は、ピアノの周りを離れてボックスの席に坐った。ホステスが一旦外からカーテンをひいた。これで中の話は聞かれない。
マーカー戸島は四十ぐらいの大柄のがっしりした体格の男だ。裕子がうっとりと見ているのが、ぼくには何とも耐えられない。アガサをしばらく見てから、戸島はいった。
「たしか七丁目《セブンス》の事務所で何回かお会いしたことがありましたね」
「ええ。でもあの場所で紹介されたりすると、つい日本語で話しあったりしてしまうんね。これ、あの人たちの間にいるときは、やはりまずいことなんよ。すべてに疑い深い人の集団だからね。それでミーはわざと知らん顔してお話ししなかったんよ。ミーはアガサという名だけれど、日本人なんよ」
アガサは日本人でありながら、マフィヤの中でそれなりの地位にいるのには、やはりふだんから細心の注意を払っていたからだ。
「それで今日は私に何のご用で」
ビールが運ばれてきて乾杯となった。みなもやっとアルコールにありついて一息ついた。
アガサは答えた。
「今度日本から大相撲が来ることになったんよ」
「ああそのことなら承知してます。切符を二百枚ばかり引受けることにしました」
「興行には昔からしきたりがあって、これは世界中同じなんよ。事前に関係者にしっかり根回ししておかないとうまくできないんよ。ミスター戸島はメキシカンの聖十字顕彰団のゴンザレスと親しいとききましてね」
「なるほど、お話の意味は分りました。ゴンザレスの会は名前はいかにも信仰深い人々の集りだが、あれほど兇暴な団体はない。メキシカンとさげすまれて生き続けてきたコンプレックスの固まりだから、やることが荒い。しかし筋を重んじるところがあって、話して分らない連中じゃない。ともかくゴンザレスと会うだんどりだけつけてみましょう。それから先はアガサさんの腕前ですよ」
マーカー戸島は立ち上って電話機の所へ行った。三分ぐらいして戻ってくるといった。
「向うも何か日本人の代表に一言、言っておきたいことがあるそうで、セルバンテスという店で待っているそうです。ここから歩いて十分もかかりません。途中の夜道の安全は保証するから、武器は持たず、全員徒歩で来てくださいとのことです」
戸島はニヤリと笑うと内ポケットからコルトのオートマチックを出して、テーブルの上においた。アガサもズボンのポケットヘつっこんであったSWのコンバットを出す。驚いたことに漢学先生までだぶだぶのズボンの内側のポケットからコルト32を出したら、裕子までジャンパーの内側からこの間分けてもらったSWをちゃんと出した。
「哲ちゃんは」
とアガサに睨まれたので首をすくめた。
「すみません。うどんを喰べるのに何もピストルまで要らないと思って……」
「生命が惜しくないのかねー。ばかだねー哲ちゃんは」
またやられてしまった。ホステスがやってきて、テーブルの上のピストルに白い布をかけ、ボックスにカーテンをひいて見えないようにした。日本人はもちろんだが近くの地元の人も、暗い夜の町の中を、徒歩で往き来するようなことはしない。歩いているのは、人から何か盗もうとしている人間か、酔っ払って一文無しの浮浪者だけだ。
どんなに腕に自信があるものでも、懐に金があったら相手を挑発しないため車で走りすぎる。そんな暗い道の安全を保証するというのだから、このあたり一帯にゴンザレスはよほどの力を持っているのだ。
ぼくらが女二人を中心に囲むようにして歩いて行くと、道に立っている酔っ払いや、暗い闇にとけこむようにして立っている黒人が何となく怖しそうに顔をそむける。大きな道の交叉する場所には、つばの広いソンブレロをかぶったメキシコ男が、ピストルでふくらんだ胸ポケットを片手で押えて立っていて、うなずいてから行く先を示す。
「グラシャ」
マーカー戸島は馴れているのか軽く声を上げて通りすぎる。一キロ、十二、三分ぐらいの道のりだが、妙にスリルがあった。やがて少し坂になっている所を登って行くと賑やかな通りになった。
前に一回長山五段や池成の寅さんに連れてこられたことのある、メキシカン村の飲み屋街に出た。両側の店の軒先には必ず円錐状の焼肉のパスカルが吊され、テキーラと肉を焼く煙の匂いが外まで流れてくる。母音がはっきりしたメキシカンたちの言葉が行き交う。このへんまでくると戸島はいい顔で、肩を叩かれたりして
「マーカー元気かね」
「今度はベガスで少しもうかったかね」
などとあちこちから声がかかる。
セルバンテスは周りが平屋ばかりの飲屋街の中で、一軒だけ二階屋になっており、屋根の下にはネオンの字が光っている。本家スペイン建築の伝統を模して、二階が張り出し廊下になっていて、右側の外階段から、上って行けるようになっている。階段の下の入口には木の揺り椅子があり、長靴にソンブレロの目付きの悪いメキシカンが坐っていて、両腿の上に、銃身の長いルガー・ブラックホーク44を横たえている。使うのにも力がいるが、こんなのでまともに射たれたら顔全体がどこかへ行ってしまう。銃身十九・三センチ、当人は腿の上においたまま、鼻の孔をほじっていたが、ぼくらをみると
「やあー、マーカー。ゴンザレスがお待ちかねだ」
と鼻くそのついたままの指で上を示した。まるで西部劇の世界へそのまま入ってしまったようだ。
二階は広いホールになっており正面の大きい丸テーブルには五人ぐらいの幹部クラスの悪党《カバレロ》がゴンザレスを中心にして並んで坐って待っていた。アガサも漢学先生もスペイン語は殆ど分らない。マーカー戸島がついてきてくれてよかった。意外なことに裕子には学友にメキシコ人がいて少し勉強したというので、わりとよく分った。二人の通訳で話が始まった。裕子のその学友が、女の子か男の子かは、このような緊急な場合だったので、敢《あえ》て問いつめなかった。
ゴンザレスは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。大体スペイン系の民族は陽気で愛想がよい人が多いのに、これは珍しい。
「俺に何の用があって逢いに来たのかね」
アガサが答えて、戸島が通訳する。
「近く日本から、レスリングに似た、スモウという格闘技がやってきて、ピコとオリンピック通りの角の、スポーツアリーナで興行をするんよ。そのさい興行の進行に差し支えのないようにご協力をお願いしたいんよ」
するとまるで噛みつくように答えた。
「ノン。それはできねえよ。俺の方はもうとっくに日本のスモウの興行するのを知っていた。そのときこそこれまでさんざん恥をかかされてきた恨みをたっぷり返そうと、今仲間と計画を練っていたところだ。もう今さら止めるわけにゃいかない」
やっぱり事前に根回しに来てよかった。しかし、ゴンザレスが一体何でそんなに怒り狂っているのか、その事情が分らない。
「ミーたち日本人が何かあんたらメキシカンに恥をかかせるようなことをしたん」
「おうしてくれたとも」
ゴンザレスがはったと睨みつけた。マーカー戸島がつきそっているから、黙ってそこに坐らせておくんで、本当はただではここから出せないところだと語っているようだ。心の中まで冷えてくるような凄味のある目だ。
「四日前のことだ。このすぐ下のごみ捨て場で日本から来た新婚旅行中の夫婦の若い女房が射たれて、植物人間になって、日本へ帰った事件を知ってるかね」
「ああ、大騒ぎになったんで、新聞に出ていたからね。ロス日報によると、いきなり車でやって来た正体不明のメキシカンが、理由もなく若妻を射ったと書いてあったね」
「そこが癪《しやく》に障るところだ。メキシカンは黒人《ブラツク》と違う。もう少し頭がしっかりしている。理由も何もないでピストルはぶっ放さねえ。人を殺すには相手から何か取るとか、或いは誰かから頼まれたとか、その人間に恨みがあったとか、ちゃんとした理由があるはずだ。その女はただメキシカンにいきなりやられたということで、ロス市中の人々から同情をひいて、政府が沢山の税金を使って、軍用機に医療器具一式を積んで日本へ送りとどけた」
なぜ怒っているのか、まだよく分らない。
「たしかに殺したのはメキシカンに違いない。現にやった二人は俺の可愛い部下でちゃんとこの村《ヴイレツジ》にいる」
それなら何もそんなにむきになって怒ることもないと思うのに、ポケットからピストルを出して丸テーブルの上にぽんとおいた。
「いいかね。弾丸だって只じゃない。何も目的がなくては射たねえ。それなのにこの事件で女房を射たれた男が、メキシカンが理由なくぶっ殺したと当局にしゃべりやがった。そこでロス警察のアジヤ機動隊が妙にハッスルした。しないでもいい強制捜査の手が何度も入り、商売にさしつかえてくる。メキシカンの評判がガタ落ちだ。本当は、あれは頼まれてやった仕事だ。しかも金を持って直接に頼みに来たのは、同じ日本人だ」
ぼくらも初めてきく話であった。
「その頼みに来た日本人が女の旦那とどんな関係か分らない。ただあの二人は新婚旅行なんかじゃねえよ。男は日本にちゃんと妻子がいて平和な家庭を持っている、一流会社の会社員だ。女はハワイに遊んでた大学生だ。日本ではコルトの大学というのがあるそうじゃねえか」
コルトといわれてピストルを教える大学かと思ったが、すぐもとの意味に気がついた。コルトとは短いという意味のスペイン語だ。短い大学、つまり今はやりの、花の女子短大生ということか。
「その頼みに来た男か、その男を頼んだ大もとの奴を見つけだして、コルトで頭を射ちくだかない限りは、俺たちメキシコ村にとっちゃ、日本人全体が敵なのよ。黙って興行させるわけにゃいかない」
今にも唾がかかりそうな勢いでゴンザレスはまくしたてた。
C 那就拝托 ……よろしく頼みます……
メキシコは、カリフォルニヤ州とは地面続きの隣りの国だから、旅券なしでもぐりこんできた人が、ロスには沢山住んでいる。正業につけないので、使い捨ての下層の労働者や悪の世界の手先に使われている。そのため屈折した心の持主が多く、侮辱を加えられたと知ると、前後を忘れて爆発する。
メキシカンの兇悪な暴力団体聖十字顕彰団のボスのゴンザレスの心の中は、まさにその状態にあった。アメリカヘ入ってきた移民の序列の中では、日本はずっと後のはずなのに、母国の経済発展を背中にしょって、のし歩いているのが大体気に入らない。その上、日本人のアベックの女が殺されたことで、ロス警察やアジヤ機動隊の手入れを受けて、彼らの誇りある村《ヴイレツジ》の中を捜索されるという、いわれなき侮辱を受けた。
ゴンザレスの声は激昂し、目は燃え上った。
ただこちらが武器を持ってきていないので彼も腰の拳銃に持って行きそうな手を、辛うじて抑えている。拳銃をピアノバーヘ預けておいて来たからよかった。てんでに持っていたら談判破裂して間違いなく射ち合いになっていたろう。そうなれば、ぼくが一番先に殺される。そのときどういうわけか、裕子がすっくと立ち上って、ゴンザレスに顔を突き合せるようにして近より、早口のスペイン語で話しだした。これにはアガサもマーカー戸島も、呆然とみつめていた。
「ただどなっていても、しようがないじゃないの。その日本人がどんな男かはっきりさせてもらわなくちゃ。誰か顔を知っている人はいないの」
半分呆れた顔で今度は戸島の方が、ぼくらに裕子の言葉を通訳してくれた。まるで裕子がこの喧嘩を一人で買ったようなもので、その度胸のよさと、鮮やかなスペイン語に感心した。それはいいのだが、ぼくには他のことがもっと気にかかった。
これだけ言葉が上手になるのには、単に友達の関係の人間に教わったぐらいでは無理だ。異性の友人と同棲でもしていたのではないか。これまでスペイン語ができることを気《け》ぶりにも見せなかったことからして怪しい。過去を責めるわけではないが、ぼくの黒い疑惑は濃くなるばかりだ。彼女はぼくよりほんの一年三カ月だけ年上にすぎないが、アメリカヘ来たのは五年早い。
ぼくの気持などに関係なく、裕子の歯切れのいい啖呵《たんか》が続く。さすがのアガサがお株を奪われて呆然と見ているだけだ。
「直接に殺しをやった二人を、ここへ呼んでくれない。金を貰ったとき、相手の人相を見ているんでしょう。それをしゃべってもらわなくちゃ、あたしたちだって、犯人の探しようがないじゃない」
今度は裕子の唾がゴンザレスにかかりそうで、ボスの方が顔をそむけながら答えた。
「そりゃーたしかにそうだが」
「すぐ呼んでよ。あたしが話をききながら似顔絵描いてやっからさ」
今にもスカートを威勢よくまくって、お尻でもぽんと叩きそうな口調であった。ゴンザレスは勢いにのまれて、すぐ部下に何かどなりつけた。部下がとび出して行く。その間に部屋のはじにいた給仕女が壁の観光ポスターをはがして、裕子の前のテーブルに白い裏を出しておいた。鉛筆や、マジックペンが何本かそばに置かれた。
いかにも獰猛そうな感じの男が二人、呼びに行った部下に連れられて入ってきた。前に黒い帽子に黒マントの殺し屋のロマンを見ているから、陰惨な顔には馴れてきているが、やはり、ひやりとした凄味が体に伝わってきた。裕子は全く平気で、どんどん質問する。わざわざアメリカまで来て美術科に学んでいるだけあって絵には自信があるらしい。
「顔の形は」「眉は」「顎の具合は」
ぼくはまだ東京にいたとき、テレビの番組で、肥った喜劇俳優が、子供を二人並べて質問しながら親の似顔絵を描いて行くのを見て、ひどく感心したことがある。
裕子も同じことができるのだ。初め鉛筆で線をひいているうちは、二人の殺し屋は面白半分に見ていたようだが、その上にマジックで濃く輪郭をつけて、多少の陰影をつけると
「おう! おまえ奴を知ってるのか」
「こいつは本物そっくりだ」
などと声をあげた。だがもっと反応が大きかったのは、でき上った顔をみたときのマーカー戸島の表情であった。
「この男が金を出して頼んだのか」
二人の殺し屋は頷いた。
「あんたら、いくらで引受けた」
「五万ドルずつの合せて十万ドルだよ」
「なぜ女を殺したいか理由をいったかね」
「ああ、前にハワイで一緒に暮していた女だといっていた。あの夫婦は正式な新婚旅行ではなく、女がその男を捨てて、金持の中年男にくっついてカリフォルニヤヘ遊びに来たんで、その後を追いかけてきて、ようやく居所が見つかったから、殺《や》るんだといっていた」
マーカー戸島は、改めてゴンザレスの前に立った。そして皆にも聞こえるように、長身の体からドスのきいた声をひびかせた。これはちょっと威勢のよかった程度のさっきの裕子の啖呵と違って、周りのメキシカンを沈黙させるだけの迫力があった。
「友達《アミゴ》よ。この事件は、私《ミー》に任せてくれ。必ずこの男を生きたままあんたらに渡す。村《ヴイレツジ》が侮辱された恨みは、奴を斬るなり射つなりして、ゆっくり晴らしてくれ。私たちには、現在、日本の国からやってくる、日本の国を代表するスポーツであるスモウレスリングの興行を成功させなければならない義務がある……」
そう言ってから、ずっと一同を見渡した。
「そのためには興行の前にその男をここへ連れてきてひきわたすから、スポーツアリーナでの興行には、どうか手を出さないでくれ」
「分った」
ゴンザレスは立ち上ると、戸島の体を片手で抱きしめた。頬をこすりつけるようにする。これで固い約束はできた。
ぼくらはまた夜の危険な道を歩きだした。歩きながら、アガサが初めてたずねた。
「裕子ちゃんはどうしていきなり、あんなにハッスルしたの。まるで人が違ったようだったよ」
「あたし、メキシカンが相手となると、どういうわけか、自分でもカーッとして、抑えがきかなくなってしまうの」
きっとメキシカンの男に手ひどい捨てられ方をしたんだろう。まだ恨みが残っているのかと思うと、ぼくはまた心穏かでなくなった。今晩ゆっくり問いつめてみたい気もしたが、自分に都合の悪いことになると、急に貝のように口をつぐんでしまうか、始末におえないほどのヒステリー症状を起す我儘《わがまま》な娘だから、この疑問はやはり口に出さない方がいいだろうと、悲しく諦めた。
ぼくはマーカー戸島にきいた。
「ポスターの絵見てなぜすぐ分ったのですか」
「そりゃー裕子ちゃんの絵が上手だったからだよ。あの男は、私のやっている戸島建設加州本社の社員だった。といっても、一月ほど前、喰うや喰わずのやつれきった姿で転がりこんできた。只《ただ》の観光ビザの入国だが何とか働きたいという。それで雇ってやった。二週間後同じ日本人だからと思って、つい気を許して、集金に行かせた。ニューヨークのユダヤ人宝石商が、ラグナビーチの海の見える斜面の別邸がほしいというので丁度手頃なのを売ってやった代金の残り十万ドルだ。それを彼は持ち逃げした。見つかったら腕の一本もへし折ってやりたいと思っていたところだ」
これまであまり発言の無かったアガサがきびしい表情でいった。
「この私の目の届く範囲で、若い日本の女がひどい目にあった。このことがどうにも許せない気持だね。女は大事に扱わなければいけない、この世の宝石だからね。金を出した日本人は見つけしだい、マーカーに腕一本反対側にへし折ってもらう。それからゴンザレスに預けて好きなように殺させよう。だがミーはそれだけでは気がすまんのよ」
「なぜですか」
裕子がきくとアガサは怒りの目で答えた。
「直接の下手人のあのメキシカン二人も、あの世へ送ってやりたいんよ。男を悦ばせるために一途に生きているのが女だよ。それを殺すなんて……」
尚も怒りがつのりそうになるのを漢学先生が、抑えるようにしていった。
「私たちの本当の仕事は、ロスで、大相撲を成功させることにある。そのための仕事だけを今は考えて、他のことは我慢しないとな」
もとのピアノバーに着いた。クミコ夫人のピアノの周りには、商社マンらしい日本人が大勢囲んで、休みなしにリクエストしている。
カーテンをかけたボックスヘ戻ると、てんでに自分の拳銃を回収した。作戦はいずれ後でたてることにして、ぼくらはもうおそいのでそれぞれに解散することにした。
アガサの車でホテルに戻りながら、ぼくが大変な一日だったなと考えていると、漢学先生がいった。
「私のチャイナヘの根回しが、まだすんでいないが、朝の六時にはもう若いお二人はお借りしなくてはならない」
疲れたから眠りたい。眠る前に定期的な愛の行事も厳粛に執行したい。しかし、これではどちらかを犠牲にしなければならないと、咄嗟《とつさ》に考えをめぐらせた。
先生はいう。
「これまでのメキシカン相手の折衝よりは、私の方の仕事がもう少し危いかもしれないと考えておいた方がいいよ」
まるでアガサのお株を奪って脅かされてしまった。すぐに車はホテルに着いた。
僅か三時間しかない二人きりの時間だったので眠りをとるか喜びをとるか、ぼくらはかなり迷ったが、死んだらいくらでも眠れるのに、今さら眠ることもあるまいとの結論に達した。若さに任せての燃えつきるような時間をすごした。
朝六時ぼくらは、布袋様のように突き出した下腹の漢学先生の後ろについてホテルを出た。意外なことに先生は駐車場に自分の車を持っていた。かつてロスの寅さんが持っていたと同じフォード社のピントのバンだ。
布袋腹の肉を無理に席とハンドルの間にきしませて押しこんでいる。足が長いわけではないから、ハンドルが腹の肉に食い込んでも、座席を後ろへ下げることができない。裕子が気の毒がって
「あたし運転代ってあげようか」
といったが先生はそのままキーを回し
「いや少しは腹の肉が減るだろう」
といって、アクセルを踏みだした。
小東京と中華街とメキシコ村は、そう離れていない。いずれもこの国にとっての余計者が一カ所にまとめられた感じであった。
五分ぐらいで中華街に着く。
「いつもなら日曜日の夜にここへ来て朝まで仕事をする。それで私の一週間の生活費は出る。それ以上は働かない。今の私にはどうにか生きて行くだけの金があったらいいからだ。しかし今日だけは、目一杯仕事をする。私も戦争が終ったときから、もう日本国のために仕事をすることは二度とないと思っていた。それに竹川さんて人は、私は個人的には好きじゃなかったが、ともかくこのアメリカで、日本の相撲をやって見せようとする気持には、同じ日本人として感動した。手伝ってやりたい」
まだ朝のうちだから、中華街の大通りは殆ど人通りがない。夜が明けているからネオンも消えている。赤い色が多いけばけばしい看板や、楼門が、しーんとした通りに、奇妙に浮き上って見える。
何軒かビルが続く一画に出て裏へ回ると、ちゃんと大きい駐車場があった。終日勤務の守衛がいて、あわてて敬礼して、中へ入れてくれた。
エレベーターでビルの六階まで上って行く。
華僑連合会羅府支所
功夫会総本部
そんな表示が下っている部屋へ入ると、支所長らしい男が大きなテーブルに坐って待っていた。体付きからいえば殆ど漢学先生と同じで、腹がつき出してよく肥っている。中国では、団体の長となるのには、どうも腹が突き出していなくてはいけないようだ。
二人のよく似た感じの男は、握手すると向い合って坐った。とたんにまるで罵りあうように、激しい口調で話しだした。
お互い中国語だから、ぼくら二人には、全く分らない。しかしそう簡単には話がすすんでいるわけでないことは感じで分る。それを執拗に、先生の方が追い詰めて行く。今度は逆に支所長の方が何か要求を突きつけてくる。先生の方がそれに対して逃げ腰になる。
ほぼ一時間もかかって、二人の間の交渉はやっと一致点に達したらしく、向い合って握手した。
ぼくらはその間、耳の上を通りすぎて行く訳の分らぬ声をただじっと聞いているだけである。先生は立ち上るとぼくら二人に言った。
「これで話は成立した。地下へ行こう。ここの地下に工場がある」
「何のですか」
「行けば分るよ」
地下へ下りるエレベーターは、実は支所長の机の後ろにある戸棚の中にあった。それだけでも、ぼくらは何やら怪しい気分になってきた。
三人だけで地下へ着いた。小部屋があって白い厚地ビニール製のオーバーオールが並んでいる。
「下はそのままでいいから、上からその作業衣をかぶりなさい。工場の中は冷房がきいているから、暑いことはない。すべてに快適な環境になくてはいい製品はできない」
オーバーオールにすっぽりと包まれた三人が入って行くと地下の殆どが工場になっていた。誰もいないし、何の音もしない。
「ここで私は毎日曜の夜すべての工員が帰った後、明け方までの間に最後の工程を一人で受持つ。どこの国の誰も知らない秘法だ。一晩で一キロの純粋のヘロインができる」
「ぼくらでヘロインを作るんですか」
「ああそうだ。これは中国の奥地で日本人の技術者が長い年月をかけて完成させた秘法だ。これ以上の純度は、どんな科学設備をもってしても不可能というものを私は現地で名人といわれた人から学んだ。但し一週間に一キロ以上は作らない。人間を亡ぼす薬だからだ。今日だけは興行を無事にやらせてもらうことと引き換えに明け方まで三キロ作る。二人に手伝ってもらうが、人力の限界を超えた作業だし、ちょっとしたミスがあるとビル全体を爆発させるだけの危険も生じる。気をつけて手伝ってくれ」
そうきびしく命じられてしまった。
D PUSH OUT ……押し出し(相撲の決り手)……
ビルの地下を占領した広い工場の片すみには、煉瓦状の赤茶色の塊りが、三十個積んであった。
「この煉瓦は通常モルヒネという名で呼ばれている。学問的にいえば、OPの3だ。これをここで二十四時間かけて、次のOPの4にする。煉瓦は一つ一キロで、ここに三十キロある。それが十分の一の三キロの、白い針状結晶の薬品に変る」
肥った漢学先生が、これまでぼくらには見せたことのない、きびしい表情でいった。
「作業工程は、無水|醋酸《さくさん》を百八十度に熱してできた溶液の中に、これを砕いて入れて、エーテルで処理する。全工程、丁度、二十四時間、手順通りやれば、明日の今、三キロのヘロインができ上る。もちろん工程さえのみこめば素人でもできるが、でき上った純度が違う。私が満州、つまり現在の中国の東北部熱河省の阿片局の局長をやっていたとき、名人といわれた先輩から習得した微妙な技術が要る。これまで一週間に一キロしか作らず、この最終工程は誰にも見せたことはない」
一体これから何が起るのだろう。ぼくらは二人とも体中をすっぽりおおう、ビニールのオーバーオールから、目だけ出してきいていた。
「それにこれまでここへ助手を連れてこなかったのは、エーテル処理の途中で温度を二度間違えると、この研究所など吹っ飛んでしまうような大爆発が起きる。もちろん生命はない。だから一人でやりたい。しかし一人一回一キロが限度だ。それを三キロ作らなければならない。私だって死にたくないし、これから先のある若い生命を巻き添えにしたくない。よーくいうことを聞いて、いつも頭と目をはっきりさせてしっかり仕事をしてもらいたい」
前夜一睡もしていない身に、えらいことになった。
煉瓦を、臭い匂いのする釜の中へ砕いて入れて溶かすことから作業が始まった。いつ爆発するか気が気でない。温度、分量すべてに慎重に言いつけをしっかり守った。死の淵にたつと、人間、眠気や怠け心などふっとんでしまう。彼はきびしい指示を次から次へ出した。
「君らの頭がそれほどシャープでなく、どちらかというと、ギリシャの隣り、つまりトロイといわれるほどのクラスであったことは、まずは目出たいことだ」
作業の手は休めるわけにはいかない。金属のシャベルで、釜の中を休みなく攪拌《かくはん》しながら、漢学先生のいうことを拝聴する。
「二人とも、一度作業をしたら、自然に工程をのみこんでしまうような優秀な頭脳だと分ったら、二、三日のうちに、世界中の業者から狙われて誘拐されてしまう。いくら黙っていようと、君らのやわな体じゃ、天井から吊されて、二、三十発裸の背中に鞭《むち》を喰らっただけで、知ったことを全部しゃべってしまう」
「二、三十発どころか吊されたとたんに、もう怖しくて吐いてしまいますよ」
「だから何も覚えるな。やったことはすぐ忘れてしまえ」
「忘れるのは得意です。だてに浪人までしながら、全国の大学を全部すべったわけじゃありません」
そのぐらいは相手側も察知している。
「その頭の悪さだけが、今後の君たちの生命の安全を保証する。よかったなあー」
年よりのくせにこんなに口の悪い人も珍しい。
二十四時間後、一キロの袋入りのヘロイン三つを、華僑連合会兼|功夫《カンフー》会の会長の、例の肥った陳会長の机の上におき、代りに、スポーツアリーナで、中国暦の九月九日の重陽の日に挙行される、大相撲ロス場所の興行に対しては、何も手出しをしないという誓約書を一通書かせた。
ぼくらは再び朝の町を車で出た。まる二日眠っていない。さすがに裕子も今度は自分が代って運転してやるとはいわなかった。この老人どこまで頑丈なのか、平気で車のキーを入れ、悠々と走りだした。車は十分ほどでワシントンホテルの前へ着いた。白塗りの新型のキャデラックが待っていた。中からマーカー戸島が下りてきて、漢学先生にいった。
「そのボロ車を誰かロビーにいる人に頼んで駐車場にしまってもらいなさい。私から十万ドル盗んでその金でメキシカンに女の殺しを頼んだ奴の居所が見つかったんだ。すぐ行こう」
ぼくらが白い車の中を覗きこむと、アガサがもうちゃんと助手席に乗っていた。
「その男は、ちゃんとミッキーたちの手で、ベガスで遊ばせてもらっているよ。今のところ順調に勝って金があるので、ショウの踊子の金髪娘と毎日楽しくやってるようだよ。ミーたちは、ゴンザレスとの約束をこれから実行しに行くんよ」
ぼくら三人は白いキャデラックの後ろのゆったりした席に坐りこんだ。今度はぼくと裕子はすばやく並んで入り、間に肥った先生が坐れないようにして、しっかりと手を握りあった。マーカー戸島は別に恋仇というほどのことではないが、金のある中年男を裕子の目の前にぶら下げておくのは、猫に鰹節《かつおぶし》である。手でもしっかりと握り、ぼくがいつもそばにいることを常に認識させておかなくては、裕子の心も身体もふらふらと、どこへ飛んで行ってしまうか分らない。
ロスの市街を出て、十五分も行かないうちにすぐ砂漠に出た。その中央を真っすぐ貫く一本の道へ走り出るとアガサは意外に優しい言葉でいった。
「春田さんも、哲ちゃんたちも、一睡もしていないんだろう。どのくらいきつい仕事だったか想像つくんよ。ベガスヘ着くまでは何も用がないから、ゆっくり眠っていていいよ」
そういわれなくても冷房のきいた車内のふかふかした席に納まった瞬間、もう目蓋がくっつき出して我慢できなかった。
このキャデラックなら常時七十マイルは何でもない。三時間半でベガスヘ着く。
西海岸地区一帯のマフィヤの頭領、ミッキーのラスベガスでの根拠地、スリークイーンホテルの前で止まるまで、ぼくら三人はそのまま眠りこんでしまっていた。はっと目をさましたときは、目の前がホテルであった。揃って金髪で体の発育のいい少女が、ビキニだけの姿で何人も立っていて出迎えてくれる。一階の大衆用カジノは今日もまた満員であったが、今の我々には縁がない。そのまま通り抜け、奥のエレベーターで四階に昇る。
そこには常時一万ドル以上の現金を持ってきて賭けるお客のための特別のカジノがあった。やかましい音をたてるスロットマシンや下品なルーレットなどはない。
広いフロアーに、ゆったりと、カードの台が配置され、美女の|賭け親《デイーラー》がいる。ブラックジャックと、客どうしが親になったり子になったりして張り合うのをボーイが世話するポーカーの二種の競技が行われていた。みな殆ど声もたてずに真剣な目で札《ふだ》を切っている。只一人だけ、後ろに踊り子らしい大胆なドレスにけばけばしい化粧の金髪娘二人を坐らせて、大声ではしゃぎながら、ポーカーのカードを切っている日本人の小男がいた。
改めて裕子の絵の腕前にぼくは感嘆した。メキシカン村のバーでポスターの裏に描いた顔と全くそっくりだった。
ぼくらは近くのソファーでその台の勝負を見物することにして、マーカー戸島と、春田漢学先生だけが、台のそばまで近づいていった。まるでそれを待っていたかのように、絵の青年の向い合せに坐っていた二人のアメリカ人が立ち上った。
二人とも一見、ロスで会社の重役でもやっていそうな温厚な顔だちに上品な服装をしていたが、ぼくはすぐにミッキーの子分のうちでも名のある幹部と分った。市場での殺しの場面でも、セルジオとの全面対決でも、二人とも子分を叱咤《しつた》して駆け回っていたのを覚えている。これまでは、青年を上手に遊ばせて儲けさせながら、ずっと座にひきとめておいてくれたのだろう。
正面に坐ったマーカー戸島が
「やあー嵐君、いいごきげんだね」
と声をかけたので、青年は初めて戸島の存在に気づき、少し顔色が変った。戸島の隣りには、ふくらんだお腹のためシャツが割れて、お臍が見えている老人がにこにこして坐っている。いぶかし気に二人を見ている青年に戸島もほほえみながらいった。
「いや、別に逃げなくてもいいよ。そこに十万ドルぐらいチップがありそうだ。それを張って勝負しなさい。勝っても負けても、君が今、十万ドル張るなら、君が私から横領した十万ドルとその他、二、三万ドルの小切手類はすべて返してもらったということにしよう」
嵐という青年はとたんに、ケチなコソ泥特有のいやしげな笑いを浮べた。
「本当ですか。そりゃーすみませんねー」
自分のチップの山の中から、三分の一ぐらいを取り分けて、中央の場に出した。全員が同じに張って、一位の者がそのすべてを取る。それがここのポーカーのルールであった。
他にアメリカ人が二人いたが、十万ドルを嵐が出すと、とてもつき合えないというように肩をすくめ、勝負を下りて、後ろの席へ下った。テーブルには若い従業員と、戸島と漢学先生の四人だけになった。新しいカードがボーイの手によって配られる。
マーカー戸島は、無造作にポケットから十万ドルの札束を出しておくと、春田漢学先生もまた、ふくらんだズボンの内側から、やはり無造作に十万ドルの札束を掴み出しておいた。
青年は金を見ると急に自信あり気にいった。
「でもぼくが負けるとは限りませんよ」
「そんなことは分っているよ」
札が配られ十分で勝負は決った。嵐の一人勝ちで、彼の手もとに二十万ドルの現ナマがかきよせられ、自分の出したチップと合せて三十万になった。他に二十万ドルぐらいが、まだチップで残っている。
戸島と、先生とが揃って、ポケットから三十万ドル出した。七千五百万円だ。ぼくと裕子は息をのみ、手を握り合って見つめていた。
滅多に見られる金でない。汗ばんで二人の掌が濡れているのが分る。
「マーカーにしてくれ」
戸島はいった。マーカーの本来の意味は借用証である。賭博場では、株の信用取引と同じ意味になり、実際の決算は、張った額の倍になる。負けた方は六十万ドルを相手に払わなくてはならない。家へ戻ればくさるほど金のある者でなくてはできない勝負だが、勢いにのって目がくらんでいる嵐も、さすがに一抹《いちまつ》の不安に襲われたらしい。
「負けた場合、十万足りない。どうすればいいのですか」
ときいた。漢学先生が笑いながらいった。
「なーにたかが十万だ。ほんのちょっと痛い目をすればすみますよ」
それをせいぜい頬ぺたをぶん殴られるぐらいの軽い意味にとったらしい。しかも
「博奕打ちが負けることを考えちゃいけませんなー」
と軽くたしなめられて、すぐ三十万をマーカーで張った。再びカードは配られた。
今度の勝負は五分でついた。マーカーのルールになると、マーカー戸島を名のるだけあって戸島は強い。一人勝ちであった。春田漢学先生は何の表情も変えず、ズボンの内側のパンツの上のあたりに手をつっこみ、また三十万ドルを無造作に取り出した。あのだぶついたズボンの中には、一体どのくらいの金が入ってるのか見当もつかない。
戸島はそれを押しとどめた。
「先生、その六十万ドルは要りませんから、私に代って、十万ドル分の軽い取立てを、その嵐君にしてくれませんか」
春田老人は立ち上るとおだやかな声でいった。
「それじゃ私が代りにしましょう」
ビンタでも張るのかと、嵐もほほえみながら頬を肥った老人に向けた。マーカー戸島はすかさず耳に蓋をした。あの気の強いアガサでさえ、掌で目をおおった。ぼくら二人は何が起るのか分らないからただぼんやり見ている。老人は近よって、嵐青年の右手に握手をした。その腕をしっかり握り、二、三度振るとひょいとねじった。ぽきっ! と気味が悪い音がして、肘《ひじ》の先から折れて逆さ向きにぶら下った。
「ギャオーッ」
悲鳴とも絶叫とも分らない声がし、青年がとび上り、裕子は
「キャーッ」
と悲鳴を上げて、またぼくの体に倒れかかった。目がまん丸くなって固定し、物も言えない状態だ。体中が震えている。
アガサが苦痛に呻《うめ》いている青年を慰めるようにいった。
「このアメリカで、腕の折れた他国者を雇ってくれる人などいないよ。といって只で喰わせてくれる人は絶対いないしね。人間十日喰わなかったら飢え死にだからね。今のあんたにとって、一番幸せなのは、少しでも早く死ぬことだけなんよ」
「助けてくれ。ぼくは死にたくない」
「でも何の罪もないかわいい娘を殺したんだろう。自分で手を下したんでなくても罪は同じなんよ。このアメリカ、男などなんぼ殺してもかまわないがね、かわいい女を殺したとなると、自分の生命でその罪を償《つぐな》う以外の道は残されていないんよ」
ミッキーの子分が四人ばかりやってきて、大きな麻袋の中に嵐の体を押しこんだ。アガサが命じた。
「生きのいいうちにゴンザレスの所に届けておやりよ。死ぬまでたっぷり苦しむ時間があるようにね」
これでメキシカン村の聖十字顕彰団への解決はついた。
十月の二十五日。よく晴れ上ったさわやかな日だった。
ロスの下町、オリンピック通りと、ピコ通りの角にある、スポーツアリーナの広い会場の前には、横綱北の湖、千代の富士以下、各関取の名前の幟《のぼり》が、秋風にはためいている。
ワシントンホテルの人間は、すべてアルバイトにかり出されて、会場の中と外で、いろいろな仕事で働いていた。
一番目だつのが、浴衣《ゆかた》の着流しで取組表《マツチリスト》を売っている春田老人で、大概の人が、その肥ったお腹を見て、既に現役の関取を終えた親方と間違えて、持ってきたカメラで記念撮影をしたがる。
春田漢学先生も決してそれを否定しないでカメラに納まりながら
「今の若い関取は辛抱が足りなくてすぐゴーホームするんで困るね」
などと大ボラを吹いていた。
ぼくと裕子もなとりののしいかの揃いのハッピを服の上から羽織って、入場者に席を教える案内係を忙しくやっていた。そろそろお相撲さんが浴衣姿で仕度部屋に入ってくる。稽古帰りの乱れ髪、両国橋を賑わす男だての姿だ。
同じ日本人として、ぼくは彼らの姿を見ると、なぜか涙が流れて仕方がなかった。アメリカに長くいて心の中までアメリカ化しているはずの裕子も同じようなうるんだ目で関取の姿を見送っている。
テレツクテンテン、テレテンテン……太鼓の音が高い櫓《やぐら》の上から、ロスの秋空にひびいて消えて行く。
第七話 メリークリスマス
A COKED UP ……コカインに酔った状態……
西海岸にも冬はある。十二月から二月までのほんの短い間であるが、海で泳ぐ人はいなくなり、人々はコートにくるまって、身をこごめて歩く。暮が近くなると寒さだけでなく、ワシントンホテルの住民たちは、妙な噂で落着かなくなった。
噂は十一月ごろから、ロビーでの雑談で、何となく出てきたが、十二月に入ると、いよいよ確実性が増してきた。
玄関の前の歩道に、ホテル全体を囲う天幕や、クレーンに吊り下げて壁にぶっつける鉄の玉、パワーシャベルなど、このボロホテルをぶっこわすための機械が並べられだしたのである。
十二月も半ば近くなると、このホテルでは恒例のクリスマスパーティの準備が始まる。古くからいる人も、最近やってきた若い人も、それぞれの仕事を受持って、楽しい準備をするのであるが、今年だけは、そのためのロビーでの会談も、つい話がそれて湿りがちになってしまう。日曜日の午前中、ロビーで相談会が開かれた。こういうとき頼りにされるのはアガサだが、他の人より深い部分で情報を把んでいるので、却っていい返事が出ない。
「前の二宮金次郎ビルがあるでしょう。あそこが取りこわしの計画の元兇なんよ」
アガサはロビーに集って心配そうにしている人々に断言するようにいった。長山五段が答える。
「ぼくら交通事故ビルだなんてばかにしたのがいかんかったのですか」
「いや人間というのはおかしいものなんよ。あのビルはここの日系人が、日本の文化や経済の力をロスの人々に示そうとして作ったものなんよ。この町で一応の地位に就き、外国人に対して対等に発言できる人々にとっては、自分たちのビルの正面に、一泊五ドルの薄汚れたホテルが建っているのが、何とも耐えられないことらしいんよ」
春田漢学先生が、キスチョコレートをみなに配りながらいった。
「のど元すぎれば熱さ忘れるちゅうてね、人間いったん成功してしまうと、過去の自分の属していた世界のことは少しでも早く忘れたい。ましてもぐりのパスポートで、イミグレの目を気にしながら、半分の賃銀で働かされていたころの思い出が、目の前につきつけられるこんなビルなど、少しでも早くぶっこわして、目の前から消滅させたいのさ」
このホテルが無くなったら、体の匂いの関係で、よそでは住むことのできないスイート・サッサが、髯《ひげ》だらけの顔から、悲しそうな目をしてきいた。
「ぼくらどこへ行ったらいいんでしょう」
アガサは、つい気楽に二十年近くもここに住みついてしまって、宿泊者の仲間からは、まるで、主のように思われているが、実は経営者とはまるで関係がない。
「ミーも心配で、七丁目《セブンス》の仲間にこの間調べてもろうたんよ。そしたらとっくに、建物の権利は前のビルのものになっているんよ。アメリカには立退き料なんて便利な制度はないからねー。年の暮には、それぞれ荷物を一つ抱えて、ここを出て行かなくちゃならないようだね。工事はクリスマスの翌日から始まって、大《おお》晦日《みそか》の夜までには、一気に終えてしまうらしい。ぶっこわしてサラ地にしてしまうらしいよ」
「やはり駄目ですか」
ここの人々との交流に支えられて、アメリカでの底辺の生活を、陽気に気楽に過してきた人々にとっては、このホテルが無くなることは大変なことだ。
「まあ、他にも五ドルホテルが無いことではないし、いよいよとなったら、ミッキーや石沢商事の社長さんにも話して、みなが安い金で住めるとこぐらい何とかしてあげるよ」
アガサがみなを、慰めるようにいった。
「それではクリスマスのパーティの相談でもしよう」
ようやく話は最初の目的に戻った。
「お祈りは、いつものようにナンシーに簡単にやってもらうことにしましょう」
「いいわよ」
隅におとなしく控えていた、ナンシーという大柄な女がいった。四分の一がスペインで後が日系という血統を持っている。メキシコからロスヘやってきて暮している日本人には多い、移民の子孫である。
ナンシーは、修道女の恰好をしている。頭をすっぽり包んで、黒い法衣を長くひきずっている修道女ではない。灰色のミディのスカートに、頭に白い縁取りのリボンのついた帽子をかぶり灰色の上衣を着た、日常、町で奉仕活動を続けている修道女姿である。
ハリウッドにある伝道教会《ミツシヨン》に毎日働きに行っているといわれているが、人によっては伝道教会の前で、ハリウッド見物に来た好色な男たちの袖をひいて、近くのホテルで法衣を脱いで、法悦にひたらせているのだと、小声で彼女の仕事を説明する者もいる。
いろいろな手順がアガサの指示で、決められた。シャンパン、ケーキ、クラッカーなどの準備。ジミー・帯川には今度は切落しだけでなく、新しいネタもたっぷり職場からくすねてきてもらって、おいしいお寿司の食べ放題も計画された。
ナンシーは立ち上った。
「伝道のお仕事がありますので、私はこれで出かけます。お祈りの方は引受けました。讃美歌は、毎年やる百十一番にしましょう」
みなに一礼すると、修道女らしく、しとやかに一礼して出て行こうとした。
裕子も午後から牛丼屋のアルバイトがあるので、ナンシーと並んで扉口に向った。
冬場のシーズンオフは、飛行機代が大幅にディスカウントされる。それをあてにして、日本からあまり金のない観光客がどっとやってくる。とてもホテルで高い日本食を喰べる余裕がない連中だから、小東京の中にある寿司屋や牛丼屋にみんな団体を組んでやってくる。アルバイトの裕子も一番忙しいときだ。
「それじゃ哲ちゃん、夜まで浮気しちゃだめよ」
自分のことを棚に上げて毎度、気に障ることをいってから二人並んで出て行った。それからほんの二、三分たったときだった。
するりと、四人ばかり、大柄なアメリカ人が入ってきた。いずれも目付きの鋭い、体のがっしりした一癖あり気な男たちばかりであった。
ロビーのベンチで雑談していた人々は、早くも暴力団を使って住民を追い出しに来たのかと、腰を浮かして身がまえた。長山五段を始め、喧嘩なら得意の連中がいないわけではない。
リーダーらしい一きわ大きい男が、アガサに近よって、手をさしのべた。
「おうアガサ、逢えて嬉しいよ。急な取調べができたんだ。立ち会ってくれよ」
アガサはその男を見ると、露骨に不愉快そうな顔をした。かつてアガサの大事な夫のマルセルを、機関銃で蜂の巣のように孔をあけてしまった、FBIのビッグ・シャークだ。今は栄転して加州の支部長になっている。
「えらい疫病神《やくびようがみ》が来たもんだね。あんまりいい顔で迎えたくないねー。一体今日は誰の体に孔をあけに来たんね」
「いや体に孔をあけるのは、もっと先のことだ。取りあえずホテルの部屋の中を調べに来たんだ。鬼も哭《な》くか笑うか知らないが、アジヤ機動隊が踏みこむときにも、一応アガサに断わるというからな。私らが調べるのは女の部屋だ。アガサにはどうしても初めから終りまで、そばで立ち会ってもらいたい」
「誰の部屋。まさかミーの部屋じゃないんだろうねー」
「ああ。今、出て行ったナンシーの部屋よ」
「修道女だよ。十字架と聖書以外何も出てこないよ」
「そこが面白いとこさ」
「それにナンシーなら、車を持ってないから、ハリウッド行きのバスを待って、まだ住友銀行の前に立っているんじゃないかい。呼んでこようか」
「いやナンシーには、うちの方から優秀な職員が何人かぴったり後をつけている。今日一日の行動は、ずっと監視される。捜索は彼女がいない間の方がいい」
その間もビッグ・シャークの部下が、入口や裏口をぴたりとふさいでしまった。いつでもピストルをひきぬけるよう、片手を胸にあてている。これは相当な大げさな配置だ。
このホテルに住みついている、若い学生や女性たちの大半は、もう期限の切れてしまった観光ビザで、もぐりで働いている。一斉検査があったら、強制送還が沢山出てくる。みな怯《おび》えた顔で、FBIの男たちを見ていた。四人の幹部はアガサを囲むようにしてリフトに乗った。
ナンシーの部屋は最上階の六階にある。ぼくは一緒に乗るかどうかロビーでまごまごしていると、アガサから呼びつけられてしまった。
「哲ちゃんも、一緒に来てよ。か弱い女が一人、四人の男に囲まれて行くんだよ。もし変なことされたら困るじゃないの。ちゃんと監視役がいなくちゃ。程度の悪い連中だからね」
アガサがか弱い女とは思えないし、ぼくなど監視役にいて何か役にたつとも思わなかったが、そういわれてあわててもう定員で窮屈なリフトの中に割りこんだ。
ワイヤーをきしらせながら、リフトはのろのろと上って行く。
アガサはシャークにきいた。
「鍵はどうするの。まさかその出っ歯で、鮫《さめ》のように捻《ね》じきるわけではないんだろう」
「いや、本物のシャークほど、もう歯は強くない。ちゃんと合鍵はこしらえて持ってきてある」
ナンシーの部屋は、六階の廊下の突当りにあった。目の前のJCCビルからまっすぐ見下される。ビッグ・シャークは、あっさり合鍵で扉をあけた。
女らしいきちんと整頓された部屋で、裕子の乱雑な部屋とは、かなり違う。
ホテル全体が古いから、壁や床はくすんでいるし、ベッドもきれいではないが、その他はすべて、できる限り清潔にしている。
それに、この部屋はいかにも修道女の一人住居らしく、全体に濃厚な宗教的雰囲気が漂っている。
まず向って右の壁には、ちゃんと聖なる祭壇がしつらえてあり、その下に、灯明や香炉をのせる壇があり、ひざまずいて祈るためのカーペットが敷かれてある。壇の灯明の間には分厚い聖書がきちんと置かれていた。
あの大柄な女が、男との恋も忘れて、ここでひたすら祈りの世界に没入している姿が想像される。多分メキシコに生れて、幼少時は移民の娘として、他国に生きる人間の苦しみを味わってきたのだろう。その娘がどんなことが契機で、青春の盛りを祈り一筋の人生で生きているのか、心の動きを探ってみたい気がしてきた。
だが部屋が清潔で整頓されていようと、宗教的雰囲気にみちていようと、FBIの職員の心には、毛ほどの影響もあたえないらしい。
アガサとぼくを、部屋の隅の椅子に坐らせると
「捜査中は見ているだけで、絶対動いたりしちゃいけませんよ」
と念を押した。
そしてシャークは三人の部下にきびしい声で指示した。たちまち戸棚はあけられ、机の引出しは外され、すべてがひっくり返された。
女だからドレスと一緒に地味ではあるが、それでも充分に色っぽい下着類もちゃんとたたまれてしまわれている。それも全部とり出され、ブラジャーのカップの裏や、パンティの裏のあて布までナイフで一つ一つひきさかれた。
ベッドはこわされ、マットレスはすべて布がはがされ、中の屑《くず》や、スプリングのコイルが散乱した。さすがにその徹底したやり方には、アガサもびっくりした。
「こりゃーひどいね。ナンシーが帰ってきたら、どんなにびっくりするだろうね」
シャークはうそぶくようにいった。
「ナンシーはもうここへは帰ってくることはないさ。ブツさえ見つかれば、チーノの女囚房で十五年は間違いない。今もし調べていることの筋が出てくれば、死刑もあるのよ。ただし、無罪って線もちょっとある。ブツが見つからなかったらな。しかしここが、今大きな中継地点になっていることは把んでいる。おれたちは何としても、ここの部屋で見つけてあのとりすました女の面《つら》の皮をひんむいてやりたいのさ」
一人がとうとう最後に残った聖壇に近よった。壁にかかった、五十センチと二十センチぐらいの銀の十字架をもぎとった。三センチぐらいの厚さだが、そう重くはないらしい。中が空洞になっている。どこかでつながっている部分があるのかと、FBIの職員が、前や後ろ、頭の部分をしきりに細かく調べていたが、小さな埋め込み鋲《びよう》を発見した。すぐに小さいドライバーで鋲を外した。
十字の縦の柱の頭が外れた。
逆さにすると、白いビニールの小袋に包まれた薬《ドラグ》がいくつも出てきた。シャークがその一つを取り出して、アガサの掌の上にのせた。
「何だと思うね」
粉の形を、陽にすかして見ていたアガサがいった。
「コケだね」
正式にはコカイン。南米地区ならどこにも茂っているコカの木の葉から成分を抽出して作る。普通は粉をアルコールの液に入れて溶解する。脱脂綿の玉をピンセットでつまんで、この液の中にひたし、鼻の先へ持っていってくんくんと嗅ぐ。
麻薬の中でも、比較的毒性の強いもので、中毒状態になるのが早い。ヘロインとともに、最も危険な薬品に指定されている。
「これでもうナンシーは、後、何も出てこなくても十五年は確実だ」
もう一人の職員が、聖書をいじっていたが思いきって背皮の部分にナイフを入れてひきさいた。そこも破れると、直接に入れてあった白い粉が床に散った。
「あら、あの男」
と、アガサは窓から外を見ていった。シャークが腰をひねって、瞬間長いピストルをひき抜いて窓わくの所にいった。
ぼくも一瞬、向いのビルの頂上に、何か黒いかげが動くのを見た。
誰かが望遠鏡で、このコーナーの部屋をじっと見張っていたのだ。だがもう消えてしまっていた。シャークは唸《うな》った。
「ちきしょう。早くナンシーを逮捕しておかないと、事前に奴らに始末されてしまうぞ。そうなりゃーこの事件は永久に闇に葬られてしまう」
アガサもぼくにいった。
「ミーらもこうしちゃいられないよ。何とかナンシーの生命だけは助けたいからね」
さんざんいいように働かされるくせに、官憲に目をつけられたら、身内に消される。これが麻薬密売人の宿命なのだ。
B BY JINGO ……まさか……
アガサ伯母が、ベッドによりかかって両足を投げ出し、ブリキの灰皿を置いて、マリファナを吸っているときは、そばから話しかけない方がいい。
忘我の時間を体中で楽しんでいる。現実に戻しては気の毒だ。だがそばにいるぼくは、一人ですることがなくて困った。
裕子は夜おそくまで牛丼屋のアルバイトで忙しい。ロスの街というのは不便なところで、車を持たない人間が暗くなってから遊びに出かける所がない。下のロビーヘ行っても、近く追い出されるかもしれないという不景気な話しか出ない。
やることがないので、この間から、ぼく用に支給されたSW38コンバット・マスターを出し、油布の上に置いて、輪胴、銃把、機関部、撃鉄、引鉄などの部分に分解した。油をひいて磨きたてて、時間潰しをすることにした。甘く漂ってくるマリファナの匂いにももう馴れた。ピストルの部品を磨いていると、このままロスに止まって、伯母の推薦でライセンスをとり、私立探偵になるのが、何だかぼくの前世からの宿命のように思えてきた。新聞広告によると捜索、尾行、変装、暗号などの基本教育を三カ月ぐらいで一通り教えて卒業免状をくれる学校がある。腋の下にピストルを吊したワイシャツを腕まくりして、横ぐわえにした煙草の煙に顔をしかめながら、報告書をタイプで打っているなんて、男の仕事としてはかなりいかす。
「哲ちゃん」
いきなり話しかけられて、はっとして磨きかけのスプリングコイルを落しそうになった。こいつにはねられて床へ転がられたら、小さいものだから探すのが大変だ。布で包みこんで机の上にしっかり置くと
「ヤー、アガサ」
と、伯母の方へ向き直った。アガサの顔からはさっきの陶酔の表情は消えている。
「パトカーのサイレンが聞こえなかった」
「聞こえましたが、しょっちゅうですから」
「だめだねー哲ちゃん。いい探偵はサイレンの音だけで、どこの署のパトカーか分るんよ。今のはそこのロス警察署のアジヤ機動隊の宮武刑事が、いつも乗ってるやつだよ。きっとナンシーが殺されたんよ。すぐに行かないと、またあの二世のポリスに、事件をひっかき回され、犯人の手がかりがてんでみつからなくなってしまうよ。牛丼屋に電話をかけて裕子にすぐ戻ってくるように言いなさい」
ぼくが枕もとの電話をかけている間に、アガサはゆるやかなネグリジェを脱いで、裸になるとシャワールームヘ入った。熱めの湯をあびてから、全裸で出てきて下着から取り替えだす。母より十歳も年上の女性の下着について別に気にするわけではないが、ぼくの目の前で湯上りの全裸の体からつけて行くので自然に見える。冬だからやはり外は寒い。七分袖のシャツに、膝下まであるパンティをつけてから、スラックスにブラウスと重ねて、セーターを上に着た。珍しく厚着だ。電話を終えてぼんやりしているぼくは、また叱りつけられた。
「哲ちゃんもパンツから替えなさい。今晩は今までで一番相手が悪い。ノブチ博士の解剖台の上で汚れたパンツ脱がされるのはみっともないからね。それに場合によったら、冷たい風の吹きすさむ荒野での射ち合いになるかもしれない。外套着てちゃ戦《いくさ》にならないよ」
アガサの忠告に従って、ぼくも下着を替え、寒くないようにしっかり身づくろいした。
牛丼屋のアルバイトからあわてて戻ってきた裕子にも同じ注意をして部屋に行かせ、十分後には駐車場から、ぼくらの大古の五六年型キャデラックは、セル一発、唸りをたてて走りだした。夕昏《ゆうぐれ》の町並にはぼつぼつ灯りが見えている。ウイルシャー通りの途中を右に曲り、もうすっかりおなじみになった、煉瓦色の建物に入って行った。
この街へ来てから、この建物には何度入ったことだろうか。いつ来ても決して気分のいい所ではない。ところが、アガサはまるで久しぶりに懐しい我が家へ戻ったかのように、いそいそと入って行く。いかめしいガードマンも、アガサには、軽く右の指を上げ、ウインクして通す。勝手知ったる地下の解剖室だ。夏は入ったとたんに鳥肌がたつほど寒かったが、冬はあらかじめ厚地の物を身につけているから、それほど寒く感じない。
もう通常の行政関係の事務的な解剖の執刀時間は終っているらしい。沢山並んでいるどの台も片づけられ、死体も医師の姿もなくて静かであった。奥の方に一つだけ、何人か関係者が囲んでいる台があった。ノブチ博士に助手、宮武刑事にその部下の二世の刑事。ぼくは、パトカーのサイレンの音だけで、事件を嗅ぎつけた伯母の鋭いカンに感心するばかりだった。
アガサはノブチ博士に近づき軽く目礼してから、台の上の死体に鼻の先がつくほどに身をかがめた。ノブチ博士も、そばに難しい顔で立っている宮武刑事やその部下も、何も言わないのは、彼らでは解決できないことが何か起っているからだ。ぼくもアガサのすぐ後から死体をのぞいてみた。やはりナンシーだった。大柄で豊かな体であることは分っていても、いつもは地味な修道服を着ているので、これほど見事な均整のとれた裸身を持っていたとは思わなかった。ナンシーはメキシコから来た日系移民二世だ。スペイン人の血が四分の一入っているという。全裸の肌は白く艶やかであったし、乳房はたしかに一般日本人のものより大きく突き出している。すぐ目が行くのが、ぼくの悪い癖だが、下腹部の合せ目の茂みは、黒よりはむしろ褐色で、強くちぢれていて豊かに盛り上っていた。
アガサの一の助手だから、職業がらぼくもまた死体に鼻がつくほどにのぞきこもうとしたら、裕子にぐいっと後ろへひっぱられた。
「哲ちゃんはそんなことしなくていいの」
死体が女性だったからだろうが、全く公私の別の分らない奴だ。アガサがきいた。
「どうしてまだカットしてないの」
ノブチ博士がアガサの到着にほっとして、かなり怪しくなった日本語でいった。
「実はどこからカットしたらいいか方針がたたないね。外傷もないし、毒物の徴候も出てこないよ。普通、どんな死体でも、何で死んだか、外見で分るね。これ全く見当つかない。でも死んでるね。心臓止まり、脈ないね。もう三十年解剖やっていて、外から死因分らないの初めてのことね」
たしかに外傷も、皮膚の斑点もない。大理石の彫刻のような死体だった。アガサは見下しながら、かなり自信ありげにいった。
「ミーは|私 立 探 偵《プライベート・デイテクテイブ》よ。公職にある人に指示できる立場にないんよ。でもカットの部分をできるだけ少くして、早く死体化粧士《モテイーシヨン》の手にこの死体を渡したいと考えるなら、一人言でしゃべりたいことあるんよ」
宮武刑事もお手上げのようすらしい。
「一人言でも何でもいいけん、何かしゃべってくださらんかのう」
「この死体うつぶせにすると、もしかして、何で殺されたか、そして誰が殺したか分るかしれない気がするんよ」
「そんなうまい方法があるなら、ノブチ博士うつぶせにしてもらえんかの」
ノブチ博士と助手の手によって、ナンシーの死体はすぐうつぶせにされた。アガサは背中の右側、正面から見ては左側の、肩胛骨の内側を、灸《きゆう》のツボでも探るように押していたが、やがて何か細いものをみつけ
「ピンセット」
といった。助手の一人がはじかれたようにアルミの皿の上のピンセットを渡す。アガサは指先で白い肌を押しながら、ピンセットの先で糸のように細い銀の針をつまみ、一気に引き抜いた。周りから思わず感嘆の声が上る。アガサは針をぶら下げながら
「これが背中から打ちこまれていたんよ。先の方がどのように曲りくねって、心臓の中のどの組織を破壊していたかは、これからノブチ博士のメスが答えてくれるね。ミーはすぐこの針をぶちこんだ人間を追いつめて、ナンシーの仇をとらなくてはならないんよ。これで失礼するよ」
といって出て行こうとした。
宮武刑事はあわてた。
「アガサさんだけが犯人を知っていて追うのでは困るのう。死因が分ったら、ぼくもここに用ないけん。ぼくらアジヤ機動隊がこの犯人を挙げられるよう、協力してくださらんかのう」
「それは無理よ。ユーらは自分で犯人探しなさい。パトカーがあって、金はガバメントから、ガバッと好きなだけ出てくるのに。それにポリが動いたと分ったら、犯人隠れてしまうんよ」
かなり冷たい断わり方をして、アガサは解剖室を出た。もちろんぼくら、忠実な二人の助手はついて行く。ノブチ博士はすぐ、心臓を中心にした組織機能の破壊の状況を検査しにかかった。宮武刑事が自分の面子《メンツ》と迷いとで、ぐずぐずしている間に、ぼくらは玄関に出た。大古キャデラックはセル一発、巨体をゆすぶって飛び出すと思ったら、それがそうはいかなかった。シャーッと空回りして、エンジンにつながらない。いくら古くても、アガサの死んだ亭主のマルセルが全盛時代二万ドルもかけた特注車だ。間違ってもそんなはずがないことが起った。
二度、三度、セルモーターだけが空回りだ。フロントグラスに、ぬっと顔が出て、アガサの手が、スラックスのポケットのむき出しのSWにかかったが
「私だよ、ビッグ・シャークだ」
でかい顔が笑ってウインクした。
「ガソリンタンクにたっぷり水を入れておいた。一度全部抜かなくちゃ、いくら二万ドルのキャデラックでも走らない」
窓ガラスをあけ、首をつき出してアガサはどなった。
「どうしてこんなことするの」
「これからは、私の車で一緒に追いかけてくれないかね。勝手に走り回られちゃ困るんでね」
アガサは口惜しそうにいった。
「あんたら役人の走らせる車ときちゃ、乳母車よりのろくてね、お尻のあたりがむずむずして乗ってられないんよ。ホテルヘタクシーで帰って寝てた方がましだよ」
「昔マルセルはエブリ二百で走ったってね。私なら政府の証明書に物いわせて、二百三十で走ってみせるぜ。どうせ目標は国境だろう。今から小東京へ戻って他の車借りたんじゃ、夜が明けちまうよ。それにそこのお姉ちゃんの赤い小っちゃな車で行くつもりだろうが、さっきタイヤの空気を抜いてきたから、地面にエンコしている」
「まあ」
裕子が真赤になって殴りかかろうとしたが、その手をひょいと掴まれ吊り下げられると、スカートの上から平手でお尻を打たれた。背が低いから、あやつり人形のように空中に浮んで足をばたばたさせているだけだ。
「分ったよ。あんたの車で行くよ」
アガサも、ビッグ・シャークの強引なやり方には参ったらしい。ぼくらは、彼らが用意した大型のワゴンに乗った。
ビッグ・シャークと部下が前に乗り、ぼくら三人は後ろの席に坐らされた。大型のワゴンはセル一発でゆれもせず、滑らかに飛び出した。
「ベルトだけはかけてくれ」
ハンドルを握りながら、ビッグ・シャークはいった。
「この車ならダンプにぶつかっても、こちらはこわれない。鉄の固さが違う。しかし中の人間が自分の車や扉やガラス窓にぶつかって潰れちまうんじゃジョークにもならない」
フリーウェイに入ったとたん、ぐーんとスピードがのびた。
車が一回り大きく新しいだけに、安定感がある。エンジン音も小さいが、速さが全く違うのが分る。右も左もかなりのスピードで走っているはずなのに、みるみる抜いて行く。
やがて海岸の見える一号線に出た。ロングビーチ、ラグナビーチ、コスタ・メサと、この前走った道はあっという間に通りすぎた。
「まあー日本の大金持が、ここへ新幹線を|ただ《ヽヽ》でひいてくれるそうだがね、そいつが走り出したら、一回並んで競走してみたいね」
アガサは平気だが、ぼくらはそのあまりのスピードに、もう物もいえない。自然、二人はしっかり手を握って、その恐怖をお互いに分ちあうことになる。
アガサはまだ怒りがおさまらないらしい。
「ナンシーはミーと同じホテルにいたフレンドなんよ。だからミーはその仇をとる。FBIになんか助けてもらいたくないんよ」
「そいつが困るんだな。ナンシーは、コケの密輸の重要な証人なんだ。殺されちまったのは、私らの手落ちだが、ナンシー以外に、密輸の大もとに近づく手はない。アガサが、ナンシーを消した相手の見当がついているのなら、USAの忠実な市民として、ぜひ協力してもらわなくちゃならない」
「ミーがなぜ、ユーらに協力する必要があるんね。ミーの大事なダーリンの体を蜂の巣のようにしたのは、ユーの短機関銃《トミーガン》なんよ」
「あのときは公務の執行中だ。偶然、トミー坊やを向けた先にダーリンが立っていただけで、悪気は何もない」
そんな話をしていて運転の方は大丈夫なのだろうか。
「このことは、マフィヤのニューヨークでの、七大ファミリーのドンの会議でも確認され、ずっと私個人は、ロスでもシスコでも、裏町を一人で歩いていても、狙われることがない」
「ミーだってユーを射とうとは思わないけどね、しかし一緒に仕事しようとも思わないね」
「それがすることになるんだよ。理由がある。一つは私はこのコケの密売のルートを見つけて摘発したらFBIを退職して弁護士になろうと思っている」
「何もミーに関係ないことよ」
ビッグ・シャークは話を続ける。
「私には、これまで家族がいなかった。ここで弁護士になったら、ロスあたりで女房を持って、新しく家庭を作りたい」
「ふん、ユーの所にくる物好きな女がいるかねー」
「弁護士になったら、主にミッキーを中心にした西海岸のファミリーの仕事を手伝う。|顧 問《コンシリエール》になるつもりだ」
|顧 問《コンシリエール》は頭領《ドン》につぐマフィヤの2の地位だ。意外な話にアガサは声も出ない。
「それにはマフィヤの血筋か、それに準ずる女と結婚しなければならない。そして私はアガサに惚れている」
アガサの体は凍りついたようになった。やっといった。
「まさか!」
C IT MY BUSINESS ……ほっといておくれ……
いつの間にか、舗装のハイウェイは消えていて、荒野の中を跳ね上りながら、大型ワゴンは走っていた。ハンドルを回しながらビッグ・シャークはどなった。
「アメリカも広いようで大したことないな。もうはじっこに来ちまったぜ」
どんなにでこぼこでもスピードは全く落さない。シートベルトを巻きつけているから、辛うじて天井に頭をぶつけないですんでいるが、それでも片手で上を押え、片手で窓枠か前のシートを掴《つか》んでいないと、ベルトをひきちぎって、窓からとび出しそうであった。
ブルドッグのような声でしゃべり続けるビッグ・シャークが、よく舌を噛み切らないなと感心した。
荒野に入ったときは、もう夜中だった。月のない夜で、ライトが照らす正面以外は、殆ど何も見えない。それだけに、まだはるか遠くの、ほんのかすかな小屋の光りでも、すぐに分った。目に入った瞬間、シャークはライトのスイッチを切り、ついでに車のエンジンも止めてしまった。車は大きな丘の登りかけで、頭だけ出して、きりりとサイドブレーキをひかれて止まった。
「ライトを消しては、いくら私でもこれ以上走れない。だが相手は狙い撃ちのサイモンという綽名《あだな》の爺だ。車で乗りつけるわけにはいかない」
さっきシャークから妙なことを言われて以来急に不機嫌に黙りこんでしまったアガサがやっと初めて口をきいた。
「ミーがサイモン爺さんの小屋へ行きたいと思っていたのがよく分ったね」
「おまえさんは探偵、こちらは小うるさい探偵をずっと取り締ってきたFBIだ。おまえさんらの、ちっぽけな脳味噌コンピュータの回路など、とっくにお見通しさ」
「来たいところに連れて来てもらったのだから、お礼をいうよ。でもこれからは、ミーのビジネスだからね。口を出さないでおくれ」
アガサはズボンの尻ポケットの拳銃を片手で押えながら、暗闇の荒野に跳び下りた。
ぼくら二人の子分も続いた。十二月も終りに近いというのに、地面の石ころと砂には太陽の熱がこもっていて、足の裏が靴を通して灼《や》けてくるようだ。アガサは、正面の小屋の灯りを目標に見据えると、足もとが全く分らない道を手探りで這《は》うようにして歩きだした。
シャークと子分たちが続いて下りてくるのを気配で知り、後ろの暗闇にいった。
「……それに親切ごかしに、もう五十をすぎた女の尻を追いかけ回すのはやめておくれ。あんたも天下のビッグ・シャークだ。ロスヘ戻ってもっと生きのいいのを口説きなよ」
シャークが平気で煙草に火をつけた。一瞬彼と二人の部下が、それぞれ左肩に、短機関銃《トミーガン》の負い紐をかけ、抱きかかえるようにして持っている姿が浮び上った。銃口が斜め前に向いて恰好がいい。一度|引鉄《ひきがね》を引いたら、七十二発が一ペんに飛び出す。ぼくはジャンパーの内ポケットに入れた蓮根《レボルバー》に六発込めのSWだけでは何とも心細くなった。
火が消えて彼らの姿はまた闇の中にとけた。やはり這うようにして、小屋に向っているようだ。
「ここは二つの国のどちらの政府も手を出さない無法の地帯だよ。中で起った犯罪は、すべてほったらかしだ。それに丸一日たてば、コヨーテが骨までバラバラにしてくれる。殺されても何一つ証拠が残らない。まあ、大事なアガサ親分の体を、メキシカンの安物の弾丸で穴だらけにした上で、コヨーテの餌《えさ》にしたくはないからね」
「ほっといておくれ」
そう投げつけるような声で、アガサはシャークに答えた。それから
「哲ちゃんに裕子は、ミーのお尻を見失わないようにしてついてくるんよ」
ときびしい声でぼくらに命じた。ぼくと裕子は白いスラックスのアガサの丸いお尻に、目をくっつけるようにして這って進みだした。
遠くで赤ん坊の泣くような声がきこえてきたのでびっくりした。ぼくは石ころの上を這いながらきいた。
「あれは何が泣いているのですか」
「あれがこのあたりの名物のコヨーテだよ。狼の一種類なんよ」
「おおかみ!」
聞いたとたん、足がすくんで前へ出なくなった。
「なに驚いているのよ。近づいてきたら射ち殺しゃいいのよ。滅多に生きている人間には向ってこないよ」
裕子がぼくの手を握ってひっぱる。
「しっかりしなさいよ。男のくせに」
いつもはすぐ悲鳴を上げるくせに、今夜に限ってなぜ強いのかよく分らない。
「ここは一体どこなんですか」
ともかく自分たちは、これから一体何をしようとしているのか、それをまず知らなくては、恐怖で手足が動かない。
「ばかだね、哲ちゃん。ここまで来てまだ分らないの」
また例の口ぐせが始まったが、全くの暗闇だからいつもよりも、もっと気にならない。手さぐりで、ゆっくり進みながら、アガサはそれでも三人が離れないようにとの配慮からか、小声で絶えず状況を説明してくれた。ここは、アメリカとメキシコとの国境の砂漠の中に設けられた無人地帯で、双方の監視|哨《しよう》からいっぺんに見通しがきくように、一切の樹木や草は取り払われている。
しかし夜間になると必ず、アメリカヘ密入国するメキシコ人が潜りこんでくるため、あちこちに地雷が埋めてあったり、穴を掘って逆茂木《さかもぎ》を仕かけたりしてある。
それでメキシカン村《ヴイレツジ》のゴンザレスの子分がコヨーテ団と名づけた支部を作り、安全なルートを研究した上で、旅券や証明書のないメキシコ人から、かなりの金を取って、アメリカ領内への案内をしている。そこまで教えてくれてから、アガサはいった。
「地雷にひっかかると、運がよくても足や腕を吹っとばされるよ。悪けりゃ、空中で細《こま》切れになって散らばってしまうからね。ミーの歩いた後を、ちゃんとついてくるんよ」
もうこうなれば、アガサ伯母のお尻に鼻がぶつかっても、くっついて行かなくてはならない。さっきまで震えてすくんでいた足も、今度は少しでも早くここから抜け出さなくてはという恐怖で、順調に動きだした。
「ナンシーは、コヨーテ団の世話で、この道を通ってロスヘ来たんよ。でもそのときの案内料が足りなくて、一生、奴らにつきまとわれて、働かされていたんよ。何としても、あの可哀そうなナンシーを殺した犯人を見つけて始末したいからね」
やっとその言葉で、こんな辛い危い思いをして熱い石ころの砂漠を這って行く理由が分った。二時間近く、ただ黙々として這って、小屋の下まできた。アガサは平気で小屋の戸をあけた。
長靴の足を高く上げたままソファーに寝そべっていた老人が、意外に素早い動作で坐り直すと、いつの間にかピストルの先をぼくら三人に向けていた。しかしアガサは全く平気だった。
「サイモン爺さん、元気かね」
かねての顔見知りらしい。
「やあ、アガサか。びっくりしたぜ。今夜は急に何の用かね」
「このごろはコヨーテ団は活発に動いているかどうかききたくてね」
「まあー、政府から監視役を言いつけられているおれがしゃべっちゃまずいがね、このごろは大分、賑やかなようだね」
「それじゃー、目こぼし料はたっぷり入るだろうね」
「奴らには案内料は入るようだが、おれにはちっともおいて行きやがらねえ。好きな酒もあんまり飲めねえぐらいよ」
「今ここで案内を専門にやっている人間は」
「パコとロコだ」
「聞いたことがない名だがね」
アガサはテーブルの周りの椅子に腰かけた。ぼくらも並んで坐った。
「何でも向うはこの間、あんたにゃロスの村《ヴイレツジ》で会ったようなことを言っていたぜ。それに今日の昼もロスで仕事を片づけてから、夕方国境の向うのティハナの町へ、新しいお客を迎えに行った。もう二、三十分もしたら、二人とも、それぞれの玉《ぎよく》を連れて戻ってくるよ」
「それでサイモン爺さんは取り締らないのかね」
「黙って通すだけよ。この小屋で少し休ませてよ。奴らを取り締るなんて最初から無理な話さ。メキシコの国は破産した。国民を喰わせられねえ。みんなアメリカヘ来たがっている。こいつを止めたら、戦争になっちまう。それより、うちの小屋を通すようにして、面倒見るふりしながら、確実な人数や行き先を押えておいた方がいいのさ。いわばメキシカンにも、アメリカの政府にも両方から喜ばれている仕事をやってるのさ」
ロコとパコの二人がお客を連れてやってくるまで、ぼくらは小屋で待つことにした。
それにしてもロスからたった二時間の場所で、こうも気温が違うのかと驚くほど、そこは暑かった。まるで蒸し風呂に入っているように空気が熱している。昼の太陽の熱が、砂や石にしみこみ、そのまま残っていて冷えないのだ。汗が全身から吹き出して、下着も、着込んできたジャンパーやズボンもすっかり濡れて気持悪い。
一人の男が荒々しく扉をあけて入ってきた。四人の男女が、その後ろについていた。その中の一人は混血娘《メステイソ》らしい、瞳の黒いかわいらしい十五、六歳の少女で、残りの三人はその両親と弟らしかった。少女はブラウスやスカートのあちこちが破れて、肌がむき出しになり、背中には殴られたあざや、ひっかき傷がついていた。瞼《まぶた》はさんざんに泣き腫《は》らした後らしく赤くふくれている。三人の家族は諦めきった顔でいる。
ぼくはその案内役の男の顔に見覚えがあった。メキシカン村で会った兇暴な二人組の殺し屋の一人だ。ロスでは、そうやたらに荒い仕事があるわけではない。二人の本当の働き場所はここだったのだろう。
少女はいきなり隅の板壁に向って坐ると、額をぶつけるようにしてすがりつき、一人で泣きだした。スカートの破れ目から尻のあたりが剥《む》きだしに見えるのは、暗闇で脱がされた下着を拾ってくることができなかったかららしい。少女の泣き声に、男はいらだたしそうに、スペイン語で親たちにどなりつける。彼らは、あわてて娘のそばへ行き、両脇から何とか慰めようとした。機嫌の悪い声でなおどなり散らしていた男が、ひょいと裕子を見つけて少し驚いたような顔をみせた。
「この間の似顔絵のうまいお嬢ちゃんじゃないかよ。こりゃーこんな所で会うなんて、全く珍しいことがあるもんだねー。なーにびっくりしちゃいけねえ。こいつら、正規の案内料の半分しか持ってなかったからね。他のもんで払ってもらっただけだよ」
裕子は以前、メキシカンにひどい目にあわされたことがあるらしい。今にも喰いつきそうな目で、その男を睨《にら》みつけた。だがこの男にとっては、そんな目付きも却《かえ》って可愛らしく見えるだけらしい。
「それにね、この混血娘《メステイソ》はまだ生娘でね。だからこれからロスで、残りの金をゴンザレス親分に払うためにしなくちゃならない仕事のやり方を、俺はわざわざ丁寧に教えてやったわけでね。お礼の一つも言ってもらわなくちゃならねえところだよ」
今にも裕子がとびかかりそうにしているのを、ぼくはその手をしっかり握って押えた。そんなことをしたら大変なことになる。
そこへまたもう一人のメキシカンが入ってきた。今度は女たちばかり四人連れていた。この男もぼくらの顔見知りであった。あの二人組の殺し屋の仲間であった。今度の女たちは四人とも、もう経験があるらしい熟れきった体をしており、それぞれにスカートに泥や草がついていたが、小屋へ入ると平気で手ではたいたり、乱れを直したりしていた。柱にある鏡に顔を写して、髪をとき、こびりついた汚れをくしで削りとったりする。すべて馴れていた。
サイモンは、それが仕事らしく、連れられてきた客に、ブリキのコップで水を一杯ずつ配って飲ませた。泣いていた少女までがブリキのコップの水をうまそうに飲んだ。
後から入ってきた男の方が、悪党としても格が上らしい。じろりとアガサの方をみると
「ところで女親分は、ここへわざわざ何のご用できたのかね」
と聞いた。
「あんたがパコの方だね」
「ああ」
「今日の昼、ハリウッドでナンシーが殺された。誰がやったか知りたくてね」
「どうしてここへやって来たんだね。何かそれと関係でもあると睨んだのかね」
「殺し方が、コヨーテ団特有だからね。あの細い針金の殺し道具は、誰が使うものか、昔、マルセルが教えてくれた」
パコとロコの目が同時に光った。今度はロコがいった。
「そこまで分っていちゃ仕方ねえな。誰がやったって、おれたち二人のどちらか以外、あれほど上手にやれるのは、今の村《ヴイレツジ》にはいねえ」
「なぜやったの」
「今、教えてやる」
ロコが、もう中年に近いメキシコ女の客のスカートをまくり上げた。女は別に表情も変えずに立っている。下着の中へ手を入れると、やがてコンドームに入っている物をとり出した。
「こいつだよ」
中には白い粉がつまっていた。
「コカインだね」
「ああコケだ。ナンシーはこいつのなかなかいい売捌《うりさば》き人だった。修道服は、スカートがゆるやかだ。パンツの中に入れておいても、見つかることはない。随分働いてもらったが、FBIに見つかったとなったら、やはり口をふさぐしか方法がない」
アガサがポケットヘさっと手を持って行こうとしたとき既にその前に、サイモンと、ロコとパコの三人が、ちゃんとぼくらに向って、コルトのオートマチックをつきつけていた。
「アガサさんよ。むだなまねはやめるんだな。大体あんたが気に入らなかった。女のくせにでかい面して。でもここは国境を越えた無人地帯だ。ミッキーでも手が出せない。ここで死んだ体は、外に出しておけば、肉や内臓はもちろんだが、骨まで砕けて残らねえ。たった一日で、何もかもなくなっちまう。それに、ナンシーのことやコケのことまで知ってる人間をロスに戻すわけにはいかねえのよ」
えらいことになってしまった。
ぼくの手は辛うじて、SWが入っている胸ポケットの上まで行ったが、そこで止まってしまった。足も金しばりにあったように動かない。心臓だって今にも止まりそうだ。アガサも青ざめて立ちすくんでいるきりだ。怖しさに全身が細かく震えてきて、脳の中に大釘が打ちこまれていくようないやな感じがした。裕子も立ちすくんで今にも泣き出しそうであった。
D HAPPY DUST ……|幸せな粉《コカイン》……
ロコとはメキシコの言葉で気違いという意味だ。生れたときに、もう親からつけられた名前だというのだから、性質は赤ん坊時代から狂っていたのだろう。ピストルの銃口をぼくらに向けていった。
「|可愛い女の子《ポニートニーニヤ》は二人ともおっぱいがでけえ。その左側の真下を狙って射ちこめば、二人とも楽に一発で死ねる。といっても、あんたにゃ、この間、村《ヴイレツジ》の名誉を汚してくれた卑怯な日本人を捕《つか》まえてもらった。大恩ほどではねえが、小さな親切ぐらいは受けている」
真中に立って、震える膝小僧に必死に力を入れながら見ているぼくは、このロコの言葉にかすかな希望を持った。もしかしたら殺されないですむのじゃないか。だがそんな甘い観測を一瞬でも抱いたぼくを笑うように、兇暴な言葉が続いた。
「だから、その形のいいおっぱいに血がはね返って、丸い丘を汚すのを見るのは、おれら気の弱い少年《ニーノ》にとっちゃ、堪らなく悲しいことよ。女だけ二人は壁の方を向き、背中を出しな。背中なら、おっぱいがねえから、射ちこむとき、少しばかり良心の痛みも残るというもんよ。それに、目かくしの手間もはぶけるってことよ。壁に向って静かにお祈りを唱えるんだな」
両側の女二人が諦めきって、後ろを向いたのでぼくもついでに体を回そうとしたら
「おっと|坊や《ホーベン》はだめだ。しっかりと目を開いて、おれたちの指が引鉄にかかり、弾丸が飛び出し、自分の心臓にぶちこまれるところを、よーく目で見ておくんだな。これはそうやたらに見られるもんじゃねえ」
と止められた。二度見られるものでないことは分っているが、別に見たいわけではない。かすかな希望も砕けて、膝の奇せ目のぶつかる音がひどくなった。
「じゃ静かに気持を整えてな」
せめてもう一度裕子をしっかり抱きしめることができたら、後は何もほしくないと思ったが、それもどうにもならない。連れられてきた連中は、流れ弾丸《だま》を怖れて、両側の壁に体を張りつけている。一杯に開かれた黒い目には、恐怖と同情がみちている。
悪党どもの指が引鉄にゆっくりかかろうとした瞬間、異常な光景が展開した。
ロコ、パコ、サイモン老人、三人の首の所に、横一列に点線のような赤い孔が走り、それが右から左、左から右へとくり返され、孔から血煙が吹き出し、二、三回往復したと思ったら、首が吹きちぎれて後ろの壁にぶつかり、床に転がった。体は、前、後、横とピストルを握ったまま、各自勝手な方向に倒れた。残された頸の根っ子から、ポンプのように血が吹き出し、アガサや裕子の足にもひっかかった。
「わーっ」
と叫ぶぼくの声に、まだ生きているのを確認したようにアガサはふりむき
「どうしたの哲ちゃん」
ときいた。物も言えずにぼくは転がった死体と、ちぎれてこちらを睨んでいる三つの頭《かしら》を指さした。アガサはいつもの調子でいった。
「顔には一つも弾丸が当っていないね。誰が誰かよく分るから、地獄の閻魔《えんま》は便利だね」
裕子は一目見て、恐怖からか安心からか、ずるりと床に腰を落して失神してしまった。
このままでは、スラックスが床を流れてくる血にまみれてパンツにしみてしまう。女にとっては他のことと誤解されてみっともないことだ。ぼくは胸の下に手を回して立ち上らせた。温かく重く、それが生きているという実感になって、頬ずりしたいぐらい可愛かった。
入口の扉と、両側の窓から、同時にFBIの連中がとびこんできた。三人とも胸の短機関銃《トミーガン》の銃身が灼けて真赤だ。七十二発のフルオートで、全弾射ちつくしてしまったらしい。入ってすぐ丸い弾倉《ケース》を外し、新しいのとはめかえた。いくら悪党の太い首でも、いっぺんに七十二発の弾丸を射ちこまれたら、ちぎれてしまう。ビッグ・シャークは機関部から上っている煙を口を丸めて吹きとばしながらいった。
「弾丸の値段は経費で落ちるから、別にあんたらに心配してもらわなくてもいいよ」
しかしこのやり方で弾丸をばらまかれるのでは、税金を納める方はかなわない。
シャークは顎で部下二人に命じると、部下は今度はメキシコから入ってきた連中に命じて、首や、体を外にほうり出させた。
「これで明日のうちには、コヨーテがやってきて、骨まで砕いて喰っちまう。サイモン爺には、ちっと気の毒したが、まあ、ロコやパコと一緒になって、あんたらに銃口を向けたのだから仕方ない。この無人地帯で起った犯罪は、どちらの国の側も捜査しないことになっているから、三人の死は永久に誰にも分らないこととして処理される」
それからまだ呆然としているメキシコ人に向って、シャークは歯切れのいいメキシコ語でいった。
「男はここから自分の足で歩いてアメリカヘ入れ。明るくなるまでに、この地帯を越えられれば、アメリカ側の警戒は休ませてあるから、サンディエゴの町には自由に入れる。国境でバスに乗るなよ。三駅ばかり歩いてから乗りな。それならパスポートの検査なしで、ロスヘ入れる。後は運次第だ。早く行け」
さっき板壁に頭をぶちつけて泣いていた娘の父と弟らしい二人の男を、そのまま夜の闇に追い出した。
部下の一人が、遠くにおいてある車をとりに一緒に外に出て行った。
残った女に改めてきいた。
「さっき初めて男を知らされた娘さんも含めて、全員がパンツの中の女の肉体の持つ、特別の収納所にコンドームに入れた物を咥《くわ》えこまされているはずだ」
後から来た四人の成熟した女はもちろん、泣きじゃくっていた娘も、その母親もこっくりとうなずいた。
「全く猫のけつの孔でも、商売に利用する奴らだ。中・南米ではコケを作りすぎて困っている。内乱がひっきりなしに起るから金はいくらあっても足りない。それでおまえらが使われた。これから車でロスヘ連れて行ってやる。ただし我々に協力してくれたらだ」
女たちの目は、ビッグ・シャークに熱い思いをこめて注がれた。今では彼女らは、どんな目に会わされても、アメリカ人になってアメリカで暮したい。
「どこでどんな奴からそれを受取って、パンツの中へ咥《くわ》えこまされたか、ロスヘ着いたら、誰の所へ持って行くように言われたか、取調官の前で正直にしゃべってもらいたい」
一斉にうなずく。
「場合によっては、指定された場所まで持って行く。ちゃんとFBIが見張って安全は保証する。それが終れば、みなに正しいパスポートが支給される。就労ビザのスタンプが押してあるから、先にもぐりこんだ仲間の三倍の給料で、どこででも堂々と働ける」
大型のバンが小屋の前までやってきた。女たち六人を、後ろの扉をあけて、荷台へつっこんでから、FBIの三人が前列、ぼくとアガサと裕子が後ろの席に坐り、それぞれしっかりシートベルトを肩から腰に回した。
「帰りも二百二十は出すぜ。アガサ伯母ちゃまは、スピードの出ない車に乗ると、とたんに、ご機嫌が悪くなるからな」
でこぼこの荒野を、車は猛烈な速さで走り出した。シートでしっかりしめておいても、天井にぶつかり、窓わくをぶっこわしそうに体が揺れる。それでもシャークは嬉しそうに口笛を吹き出した。一時はやったジャズのナンバーで、サウス・オブ・ザ・ボーダー(国境の南)。たしかにここは、サウス・オブ・ザ・ボーダーだから、ぴったりだが、こんなひどい揺れ方で、よく唇から曲が出ると、本当に感心した。やがて広い道に出た。サンフランシスコまで通じている一号線だ。とたんにコマのような唸りを上げて車は加速した。たしかに二百二十は出ている。アガサが横を向いたまま、憎たらしそうにいった。
「一度や二度、生命を助けてもらったからといって、マルセルの体を蜂の巣のようにされた、ミーの記憶が消えるわけじゃないよ。十年間、ただの一人の男も知らずに浄《きよ》らかに暮してきたミーの身体をものにできるなんて考えたら、大きなミステークだよ」
ハンドルを握っているビッグ・シャークにとっては、そんな一人言など、可愛い女の子の甘えぐらいにしか聞こえないようだ。むしろ嬉しそうに薄ら笑いをしているのは、脈ありと睨んだからか。
一時間で車はホテルの前に着いた。ぼくらを下すとき、わざわざ裕子にいった。
「お姉ちゃんの赤い車は、四つともタイヤの空気が抜いてあるから、今は使えない。明日の朝明るくなったら、すぐ修理車を回して、直しておくよ。その修理代金は経費で落しておくから心配してくれなくてもいい」
「当り前じゃないの。自分でやっておいて」
裕子は睨みつけたが、シャークは動じもしない。
「このメキシカンのお客様は、これから本部へ連れて行く。一週間もすれば、マクドナルドやケンタッキーのスタンドで、元気で働いているところを見かけるだろう。そのときは、声をかけて励ましてやってくれ。三日したらクリスマスだ。そのときは多分、またあんたらと会うと思うよ」
そういうと、猛烈なスピードで夜の町へ消えて行った。ぼくら三人はホテルヘ入った。
大変な一日だった。一刻も早くベッドにもぐりこんで眠りたい。ところが、夜中なのにロビーには、このホテル中の人が集っている。そしてアガサの姿を見ると、まるで救世主を待ちかねた群衆のように、口々に声をかけた。
「ああアガサ」「やはり戻ってきてくれたんですね」「みんなで待っていたんだ」
長山五段も、通産省出向のポルノ研究課長も、春田漢学先生までが、すがりつくような目でアガサを取りまいた。
「何があったんよ」
その熱っぽい迎えぶりに、アガサが不審そうにきく。このホテルでは一番古参の、寿司屋のジミー・帯川老人が、掲示板を指で示した。
「これを見てください。夕方に気がついたら、いつの間にかこんな紙が貼ってあるのです」
ぼくらも、その紙を見た。
『ワシントンホテルの住人に告ぐ。
私たちJCCビルの株主一同は、既に、合法的な手段により、このワシントンホテルの権利一切を、前オーナーより譲り受けた。JCCビルの株主総会では、このホテルの存在及び、住人諸氏が、ロスにおける日系人のイメージ向上に必ずしも役にたたず、在留邦人の間で正しからざるビザの使用による不法滞在者の温床になっている現状を憂えて、この際取りこわし処分にすることに、決定した。来る十二月二十四日のクリスマス・イヴの祭りの終了と共に、午前零時を期して、取りこわし工事が実行されるので、何人もそのときまでに、新しい住居をみつけ、一切の荷物を移しておくように警告する。ただし十二月分の家賃はこれを徴収しない』
かねて予期していた通告であった。
さすがのアガサも、どうにもならない。このホテルの住人は長く住んでいるから、自分もホテルのオーナーの一人のような錯覚を持っていたが、現実には、誰一人として、このカンパニーの株を持っている者はいない。
個人の権利意識が発達したアメリカでは、正当な財産の持ち主に対しては、無条件に敬意を払う。日本のように借家人が坐りこんで居住権を主張するような妙な横車は通らない。金を払って手に入れた持ち主が、出て行けといえば、FBIでも、マフィヤでも、これはどうにもならないことだ。
何度も読み直したアガサが、さっぱり諦めたような口調でいった。
「こりゃー仕方ないよ。この周りには、まだヤマトホテルや、ヨシダの婆さんの安い下宿があるから、早くそこへ移るんだね。初めから喧嘩にならない」
アガサにそう言われると、人々もやっと納得した。
「やはり、あの背中に荷物をしょって、本を読みながら歩く危っかしい銅像が、目の前のビルに建ったときから、どうも悪い予感がしていたんだ。おれたちもあいつと同じで、自動車が走っている道を、これまで本を読みながら歩いていたみたいなもんだ」
「もうぐちるのはやめて、せめて二十四日のクリスマスだけは楽しくパーッとやって、花が散るように、いさぎよく別れようよ」
みなもやっと最後の決心がついたようであった。
二十二日、二十三日の午前中に大部分の人々は、どうにか周辺の安ホテルや、明治時代の移民が使ったような、古い安下宿を見つけて、散っていった。
ただ肝腎なアガサと裕子は、全然動こうとしない。ぼくは、だんだん心配になってきた。とうとう思いきってきいた。
「アガサ伯母さんは新しい住居《うち》を探さないのですか」
「ミーは、このホテルがこわされたら、一緒に鉄の玉にぶつかって死ぬつもりなんよ」
「えっ、冗談じゃありませんよ」
コンクリートと一緒に砕けて、屑の山にほうり投げられるなんて、あまりにも惨めだ。本気で心配しているぼくにいった。
「ばかだね、哲ちゃん。行く所は、その日になれば、どこにでもあるよ。ミーも、裕子も、トランク一つにドレスや下着二、三枚つっこめば、他にもう持って行くものは何もないんよ。だから、そのときが来るまでは何も考えないんだよ。今さら慌てても仕方ないからね」
とうとう二十四日が来た。
ホテルの前はすっぽりと大シートで蔽われ、中にある巨大なクレーンに直径一メートルもある鉄の玉が、時間がくると、四階のどまん中あたりをすぐ直撃できるように吊り下げられた。
ロビーには、すべてのテーブルが集められ、ケーキ、いかくん、ビール、ジミー・帯川の最後のコンビネーションの握り寿司、ピーナツ、チョコレートと山のように盛り上げられた。ナンシーの部屋から、中身の抜きとられた銀の十字架が運ばれ、正面奥におかれて、さてお祈りをするときになって、困ってしまった。ナンシーの他には誰も教会のお祈りができる者がいないのである。すると恥しそうに春田漢学先生が申し出た。
「中国語でよかったら、少しお祈りできるがね」
止むを得ない。みなが承知すると、先生は懐から、漢字だけの聖書を取り出して、読み出した。ハオハオでプチャンカイと、一言ごとに吹き出しそうになる言葉が続き、我慢するのが苦しくて参った。
お祈りが終るとすぐ、アガサのマンドリンと、コックをやっている青年のハーモニカで音楽が入り、ダンスが始まった。シャンペンが音をたてて景気よく抜かれた。
エピローグ
PULL OFF ……すごいことをやってのける……
「坊や、かわいいわー。よくこのおうちへきてくれたわ。今晩は朝まで一睡もさせないわよ」
ぼくは上からしっかり抱きしめられていた。
顔中にキスの雨が降る。ベッドの中はシャネル五番の香水の匂いでむせ返るようだ。
ぼくの顔の上に金髪がほどけてシャワーのように散る。ぼくは幸せにも、今、世界の美女から迫られ、犯されようとしている。
アガサがいうノーマ、マリリン・モンローだ。悦びに震えながらも、心の中ではそんなことがあるはずないという、さめたものがあって、素直に燃えきれない。これはフーテンの寅さんの映画のトップシーンと同じで、必ず誰か意地悪のお節介が、さます夢なのに違いない。結果は分っているのだ。何しろ昨日も、一昨日も、ノーマのネグリジェの前が割れ、豊満な胸が上からぼくに押しつけられようとすると必ず……
「哲ちゃんだめ! またモンローの夢を見ているんでしょう。夢でも見ちゃいや」
ひきずられるようにして、他の女に抱きしめられ、閉じている瞼《まぶた》を指でこじあけられるとそこに、裕子がぼくを怒りの瞳で睨《にら》みつけている姿があった。
どうせ夢を見だした初めから、こうなることは分っていたのだから、さめたときの惨めさを思えば、見ない方がいいのだが、どうしても見てしまう。
それも仕方ない。
ぼくたち二人は、大きな立派な部屋の、レースの天蓋のかかったベッドで眠っていた。そのベッドが問題だった。
アガサはニューヨークヘ所用で行っている。広い邸に二人きりで何の仕事もない、久しぶりの安らかな日が続いている。ベッドルームは沢山あるので、二人は別々に寝てもいいのだが、恥しい話だが、裕子がぼくを放さないのだ。せめて夢の世界だけでも、彼女と離れて安らかに休み、ノーマの大らかな愛に包まれていたいのに、裕子の鋭くとぎすまされたカンは、そこまで悟ってしまっていて、容赦なく踏みこんできて目をさまされてしまう。
ぼくを抱きしめてくれようとする相手が、即座にマリリン・モンローとばれてしまうのには、理由がある。
この広い部屋はかつてモンローの寝室だった。その後の所有者の映画プロデューサーが、モンローのことを慕って、ずっとそのままに保存しておいた部屋だ。
だから今、ぼくたちがもぐりこんでいる広いベッドは、モンローが一人で寝、或いは何人かの今ではほとんどが解明されているさまざまの男たちと、夜ごとの愛を交したベッドなのである。
ワシントンホテルは、クリスマス・イヴが終った、十二月二十五日の午前零時を期して、現場作業員や、アジヤ機動隊の応援でぼくら全員が建物から追い出されてしまった後、すぐに目の前で鉄の玉をぶつけられて崩壊していった。人々は無限の愛着を残しながら、それぞれに、あらかじめ探しておいた、新しい住居に去って行った。
アガサは本当に身の回りのものをスーツケースに詰めこんだだけで、例の大古のキャデラックに乗った。ぼくも小さなバッグ一つを持っただけで、その車に乗りこんだ。いつものように裕子が隣りに坐らない。
すぐ後ろに彼女の赤い小型車がついていた。女の子らしく、無いといっても、かなりの荷物が座席に積みこんであった。窓から首を出して、アガサが後ろの裕子にいった。
「この車についてくるんよ。ミッキーたちが、とてもいい住居を用意してくれてるんよ。ユーは一度行ったところだから、すぐ分るよ」
車は暗い夜の町を走り出した。ロスに半年いるぼくには、それが一〇番のフリーウェイで、海岸に向っているのが分って、海辺の別荘でも買ってあったのかと、ふとそう考えたが、途中で右折して四〇五番へ入って、思い当ることがあった。
やはりブレントウッドの丘の住宅地へ入った。アガサの親友、ノーマが二十年前に、そこで殺されるときまで住んでいた家だ。
ぼくら三人が、二台の車で着いたときは、家の中は明々と照らされ、どの部屋もきれいに掃除されていたが、住んでいる人の姿はもう見えなかった。
初老の映画プロデューサーが、ハリウッドのスター志望でやってきた可愛い子ちゃんを、次々にお手伝いさん代りに住みこませては、優雅な生活をしていたはずだが、彼らの姿は見えなかった。
「ここが新しい私たちの住居よ。ミッキーに頼んで、前の所有者から譲ってもらったんよ。ミッキーにできないことはないのよ」
それから、ぼくらの小さい荷物を中へ運びこんで、ぼくらはリビングで向い合った。
「楽しいクリスマスパーティだったわね」
ぼくには少し不満があった。
「アガサ伯母さんはどうして、ワシントンホテルを、あの人たちのために、残してやろうとしなかったんですか」
「最初から、その気がなかったんよ。日本人が、このアメリカで、アメリカ人にばかにされないで、きちんと暮して行くのには、ああいう安いホテルは却って害になるんよ。不正のビザの、もぐりの入国者を増やすだけよ。ミーは、本当は取りこわしの話は、早くに知っていたけど、みなに黙っていたの」
ぼくはこの伯母の別な一面を、そのときに初めて見せられた気がした。
ブレントウッドのノーマの住宅は、庭も、邸もすべて広々としており、いくつもの寝室があった。しかしノーマが、いつもシャネルの五番だけを身につけて眠った寝室は、この一つだけだ。
初めの日は、そこは当然アガサが使った。しかし、十二月の三十一日までに、ニューヨークとワシントンヘ行って決着をつけておかなければならないことがあるといって、アガサは翌日、ぼくたち二人を邸の留守番にして、一人で東部へ出発した。ミッキーの迎えの車で出て行く日、アガサはぼくらに言い残した。
「新しい年から、新しい生活が始まるからね。二人ともそのつもりでいなさい。哲ちゃんも裕子も、もし希望するなら、ずっとミーと一緒に働くのよ。あっ、余計なことだけど、ミーが今使っているノーマのベッドは、留守中使わない方がいいよ。きっと夜になるとノーマが出てくるからね」
そういわれると、ぼくらは却って使いたくなってきた。マリリン・モンローならお化けでもいいから、逢ってみたい。
もうその夜からぼくら二人はそのベッドヘもぐりこんだのだが、どういうわけか、モンローの悩ましい肢体が夢の中で迫ってくるのはぼくだけで、裕子の夢の中にはあらわれない。頽廃《たいはい》的なハリウッドのスターと違って、根が貧しい境遇から出た、健康な欲望を持つ娘だったノーマには、レズのような趣味は全くなかったのだろう。
ぼくの瞼を指でこじあけ、目の前に低い鼻の、やや平べったい顔を押しつけるようにしてみせて裕子はいった。
「この顔以外の女の人は夢でも見ちゃだめ」
また無理なことをいう。少し不満の表情が出たのだろう。すぐ敏感に悟っていった。
「別れたいなら、いつでも別れてあげていいの。私にだって今はメキシコの大臣になっている人の息子で……」
と初めて何かを口に出そうとした。以前からメキシコというとややむきになるところがある。
いきなり、ぼくはカーッとして
「メキシコのことは口に出すな」
と思いきり強くひっぱたいてやった。しばらくはあまりの思いがけない強力ビンタの痛みで、びっくりしていたらしいが、数秒後いきなり
「哲ちゃん好き! そんな強い哲ちゃんがほしかったの。もう裕子、一生哲ちゃんから離れない」
涙で一杯の目で唇を押しつけ、しっかり抱きしめてきた。ぼくもまた急にこの娘が可愛くなってきて
「もう我儘《わがまま》いうんじゃないよ」
何だか歌謡曲の間奏にのせて、歯の浮くようなセリフをしゃべっている、脳の中が空白のあんちゃん歌手になってしまったような気がしないでもなかったが、そのときちょうど、枕もとの電話が鳴って、照れくささが救われた。
「今ワシントンを発つよ。大きい方の車で空港へ迎えに来てね。ちょっとした式があるから、二人ともいい服を着て来なさい。今からだと正午につくわ」
ぼくらはあわてた。
入浴し、とっておきの服を着た。裕子にとってもアガサの大きい車を運転するのは初めてのことだ。セルを回しながら
「何だか怖いわ!」
といったが、ぶるーんと胴ぶるいして一発でエンジンが動き出すと、裕子の覚悟も決ったらしい。長めのスカートを思いきって、膝の所で折り返すようにまくってしまってから
「じゃ哲ちゃん行くわよ」
とやや悲壮な緊張した声でいった。
たちまちフリーウェイヘ出る。
ハンドルを握りながら裕子はいった。
「アクセルが軽いのでびっくりしたわ。これじゃアガサ伯母さんが、すぐ百マイルも出したがるわけよ。こんな重い鋼鉄の車がどうしてこんなに軽く動くのかしら」
初めは慎重であったのが、少したつと、アガサ以上の大胆さで、走らせだした。どんな車にぶつかっても、こちらが潰れることはない強固な鉄板で作られているからいいようなものだが
「裕子、もう少しゆっくり走ってくれよ」
怖くなってぼくはついそう頼んだほどだった。
ロス空港の国内線《ドミス》の待合室には、何だか見なれた人が大勢いると思ったら、すべてミッキーの身内であった。なぜこんなに、あの連中が来ているのかよく理由が分らない。
「やあー、テツオ君にユーコ君だね。まことに今日はおめでたい。よく来てくれたね」
ミッキーが遠くからぼくらを見つけてそういう。
定刻にはアガサが、きちんとした仕立てのツーピースに花束を抱えて下りてきた。ニューヨークで買ってきたらしい、えらくいきな婦人帽を斜めにかぶっている。
まるでどこかの貴婦人だ。その後ろには、フォーマルな黒いスーツの大男が恥しそうについて来ている。それがあの、いつも大口開いて言いたい放題のことをいう、ビッグ・シャークなのには驚いた。ミッキーの配下たちは、みな周りに近寄って握手しては、口々にお目出とうをいう。
全員と挨拶した後、ぼくらはかたまって、駐車場に行った。
アガサは、ぼくたちが運んできた鋼鉄の大古車の運転席に坐ると、花束を後ろの席のぼくら二人に投げてわたしてから、エンジンをかけた。
ビッグ・シャークは、ミッキーたちの乗って来た白い新品のキャデラックの方に乗った。車が走り出すと、初めて、アガサ伯母は語り出した。
「ビッグ・シャークは、十二月三十一日づけで、FBIをやめたんよ」
「どうしてですか」
「弁護士として、ロスで開業するためよ」
「しかしアガサ伯母さんは、どうしてそれについていったんですか」
「ついていったんじゃないんよ。ミーは別のことよ。ミーの結婚は、組織《フアミリー》ではニューヨークの幹部会議の許可がいるの。七大ファミリーの代表が集って、相手の人物や経歴を慎重に調べて、全員の許可が出なくては許されないの。大体イタリー人は、ローマンカトリックの、敬虔《けいけん》な信者ばかりでしょう。離婚は絶対許されないし、未亡人の再婚も原則として禁止されているの」
「伯母さんは結婚するんですか」
裕子がびっくりしてきく。
「そうよ」
「誰と」
これはぼくがきいた。
「ばかねえ哲ちゃん、まだ分らないの。ビッグ・シャークとよ」
「へっ」
ぼくはしばらく声も出なかった。やっといった。
「だって前のご主人のマルセルを殺した相手でしょう」
「その点では、シャークの公務上のことで、仕方がなかったという結論が出ているの。多少|揉《も》めたけど、シャークが、組織の陰の法律顧問として、全力をあげて、組織のために尽すということを誓ったので、不問に付すことになったのよ」
「組織が不問に付したって、アガサ伯母さんが不問に付せるのですか」
裕子がやや不満そうにきく。
「あたしも、ノーマと同じ夢を持つようになったの。そして、それがシャークによって実現しそうだから、この際十年前に死んだ人のことは忘れて、残りの人生をその夢に賭けることにしたの」
「夢ってなーに」
「シャークは弁護士になる。次に地方検事に立候補するのよ。これはミッキーの応援でまちがいなく当選するわ。次に、州の議員を一期か二期やって、実力をつけたら、州知事を狙う。ここまではミッキーが本気で肩入れすれば、順調に行く予定よ」
「州知事」
「ええ、レーガンが歩いた道よ。最後は大統領よ。ビッグ・シャークなら、その経歴や血筋からいっても可能なのよ。彼のその夢をきかされたとき、あたし、ノーマが必死で夢みたことを思い出して、体がしびれたようになってしまったの。大統領本人は、アメリカ領土内に生れた純粋なアメリカ人という憲法の条項があって、それで移民のキッシンジャーが、ついに候補にたてなかったのだけど、シャークならその点OKよ。ファーストレディには何の制限条項もないのよ。正式に結婚している妻ならいいの」
「伯母さんがファーストレディ」
裕子が半ばあきれたようにいう。車は市内へ入る道で、またスピードがぐーんと加わった。帽子を斜めにかぶったアガサは、若々しい情熱をたぎらせた声でいった。
「ノーマはね、それを約束されて、浮気な男を信じたばかりに、最後にはその男に殺されたのよ。あの田舎娘はただ純粋にその大きな夢に憧れていたの。ミーもノーマのように、その夢に賭けてみるわ。もっとも男が裏切ったら生かしちゃおかないけどね。これからはミーらはハリウッド教会へ集って、教会始まって以来の盛大な結婚式をあげるのよ。二人に断わっておくけど、ミーはこの式が終るまでは、あんたたちと違って、シャークにはまだキス一つ許していないのよ」
ハンドルを握りながらそういったので、後ろの席で、アガサの結婚の話に感激して、ついでに抱擁し、キスしようとしたぼくらは、あわてて体を離した。
〈了〉
初出誌 「週刊文春」 昭和五十八年四月二十一日号〜十一月三日号掲載
単行本 昭和五十九年二月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 昭和六十二年一月十日刊