群 ようこ
無印親子物語
目 次
鉄は熱いうちにうて
のれんに腕押し
知らぬが仏
目の上のタンコブ
一難去って又一難
女やもめに花が咲く
同じ穴の貉《むじな》
そうは問屋が卸さぬT
そうは問屋が卸さぬU
子の心親知らず
過ぎたるは猶及ばざるが如し
六十の手習い
鉄は熱いうちにうて
バイト代が入って、ちょっとリッチになったときは、昼御飯をレストランで食べるときがある。雰囲気もそこそこによくて、手頃な値段でランチが食べられる店も、最近は増えてきた。ところが、そういった店に行ってみると、ドアをあけたとたん、見渡す限りおばさんだらけなのである。そこにいるおばさんは、だいたい二派に分けられる。一派は精一杯、着飾っているおばさんである。たしかにレストランはレストランであるが、
「そんなにしなくてもいいじゃない」
といいたくなるくらい、きばっている。ごてごてとお飾りがついたブラウスに、あざやかなプリントのスカートをはいている。座っているときは、
「ずいぶん背の高い人ばかりだな」
と思うのに、席を立つと妙にちんちくりんなのも、おばさんの常である。顔面はファンデーションが白浮きしているというのに、それなのに一緒のグループのおばさんは、その白浮き仮面に向かって、
「あなた、どこの化粧品を使ってらっしゃるの。とても肌がきれいにみえるわ」
などという。そういわれた白浮き仮面は、うれしそうに笑いながら、
「わたくし、ずっとゲランを使っているの」
などと得意気にこたえ、おばさんたちは、
「そう。わたしも使ってみようかしら」
と対抗心を燃やすのである。
彼女たちはとにかく、何事につけてもくどい。派手にすれば華やかにみえると勘違いしている。一度見たら、目の奥底に焼きついてしまうようなプリントの服。食事をするというのに、傍迷惑なほどふりかけている香水。自分たちはいい匂《にお》いがすると気取っている。臭くて周囲から迷惑がられているとは、死んでも思わないのである。派手な服を着て、香水をふりかけて、こってりとお化粧をしたら、大人の女だと思っているおばさんたち。ファッションに敏感なふうを装っていながら、実は鈍感さをさらけだしているのがわかっていないのだ。
もう一派のおばさんは、どこでも運動靴にパンツという山登りスタイルで行ってしまう。こういうおばさんたちは、香水もたくさんふりかけていないし、迷惑度は低いのだが、やっぱり変なときがある。薄いピンク色の壁紙が貼《は》られ、内装がフランス風のかわいらしい雰囲気のレストランなのに、木綿の布のアップリケがついた、トレーナーを着ていたりする。下は明らかにウエストがゴムだと思われる木綿のパンツ。足元はもう百年くらい、履き続けているような、運動靴なのである。
「こういう場所に来るのなら、もうちょっと、何とかすればいいのに」
といいたくなるのだが、おばさんたちはそんなことはおかまいなし。もしかしたら、マキシムでもトゥール・ダルジャンでも、あの格好で行ってしまうのではないかと思うくらい、堂々としているのである。
レストランに行くのは楽しみだが、おばさんの集団のなかに身を置くのかと思うと、ぞっとする。だいたい彼女たちはろくな話をしていない。本人たちは芸能人の話題をしているわけじゃないから、知的だと思っているのかもしれないが、株がどうした、土地の値上がりがどうのと、そんな話をしている。それに飽きたら今度は人の悪口だ。きっと昼間、そういう所で食事をしているおばさんたちは、
「私はふつうのおばさんとは、ちょっと違うのよ」
とアピールしたいのだろうが、傍からみると、十分、彼女たちは問題の多い、ふつうのおばさんなのである。
あんなふうにはなりたくないなと、昼間のレストランに群棲しているおばさんの姿を眺めているが、自分の母親もそういったおばさんたちと、同年輩なのだと気がつくとぎょっとする。うちの母は専業主婦で、出歩くのは好きじゃない。派手系のおばさんとは、ちょっと違うタイプであるが、こっちも問題が多いのである。パートでちょこちょこと働いたことはあるが、
「疲れるから、やめるわ」
といって、三か月以上、長続きしたことがない。あれだけ太っているんだから、体力はあるはずなのに、
「体が辛《つら》い」
と、ふっとため息をついたりする。そういわれると私も心配になって、
「それじゃ、やめれば」
というしかない。体調が悪いというから、しばらく家で寝ているのかと思いきや、彼女は翌日、バーゲンのちらしを見ては、デパートの開店時間に間に合うように家を出て、
「ほーら、こんなに戦利品があったわよ」
と、両手に大荷物を持って帰ってくる。とにかくお金を遣うのは大好きだが、働くのは好きじゃないようなのである。
「まだ四十七歳なんだから、何かすればいいじゃないよ」
とすすめても、
「私、どうも後から疲れが出てくる質《たち》みたいなの」
と、バーゲンのとき以外は、外に自発的に出ようとはしないのである。
うちの父は、
「女性も外で働くべきだ」
というタイプで、母が働くことに関しては、何の問題もないのだが、当の母が楽ちんなほうへ、楽ちんなほうへと流れている。父が見合いで母を初めてみたときに、働き者だと思ったといっていた。あまりやせている女性は、体力がなさそうで、何があっても男性にすがりそうだし、太りすぎている人は動作が緩慢で、こまめに働きそうにはみえない。しかし小太りだった母を見た父は、
「健康的でいい」
と好感を持った。二人でデートをしたときも、
「私は働くのが大好きです」
と、にっこり笑ったので、安心して結婚したら、働くどころか大仏みたいにじっと家のなかにいて、動こうとしなかった。
「たまには、外の空気でも吸ってきたらどうだ」
と父がすすめても、
「面倒くさいもん」
と取り合わない。小太りはだんだん大太りになっていき、ますます外に出ようとはしなくなる。見兼ねた父が、
「見合いのときと、話が違う」
と文句をいったら、彼女はあきれた顔をして、
「あら、あなた、そんなこと信じてたの。意外と純情なのね」
と事もなげにいわれ、しばらくしゅんとしていたことさえあったのだ。
「お父さんがかわいそう」
私が同情すると、母親は、
「あーら、結婚を決めるためには、こういうテクニックが必要なのよ」
とテレビの前にごろりと横になり、ひとくちまんじゅうをぱくぱく食べた。
「そんなこといったら、お父さんだって、愛想をつかして、浮気するかもしれないよ」
「まさか、あるわけないじゃない。そんな大それたことができるような神経をしてないわよ」
父はその通りのタイプで、母にすべてを牛耳られていた。なんだかおとなしい父が、したたかな母にだまされて、つかまってしまったような感じがした。私は父のことを、とてもふびんに思い、
「少しはお母さんに、思い知らせてやったほうがいいんじゃないの。甘い顔をみせると、つけあがるよ」
といっても、彼は、
「そんなことをしたら、お母さんに殺される」
と真顔でおびえていた。たまには、身辺に女性の影をちらつかせてもいいのにと思っているのに、悲しいことに父は、判でおしたみたいに、毎晩、同じ時刻に帰ってきた。それほどまじめなのに、家に帰ってきた父は、母親に、
「あーら、もう帰ってきたの」
などと冷たくいわれたりしているのである。
あるとき、母の高校のクラス会があった。
「顔の白浮きはだめよ。ごってり塗るのはみっともないからね」
と私は、化粧についてアドヴァイスをした。
「はい、はい」
と彼女はいうことをきき、バーゲンで買ったワンピースを着て、いさんででかけていった。ところが帰ってきたら、すごい顔をしている。鬼みたいな顔で肩で息をして、鼻の穴をおっぴろげているのだ。何を聞いても無言でただ家の中を歩きまわるだけ。そっと父のほうを見ると、彼は居間の隅っこにいて、こちらに尻《しり》をむけて新聞を読んでいた。後ろ姿には、
「父さんには関係ない」
という文字がきざまれていた。いつもの楽ちんな木綿のワンピースに着替えた母親は、ぶつぶついいながら再び姿を現した。
「どうしたのよ」
しつこく私がきくと、彼女は、
「ヤマシタさんったら、失礼しちゃうのよ」
と口をとがらせた。ヤマシタさんというのは、クラスでいちばんの玉の輿《こし》にのったという人である。母は彼女のことを、
「あんなにあくどい女はいない」
といつもこきおろしていた。ところが彼女がクラス会にきていて、母の姿を見るなり、
「まあ、どうしたの。こんなに太っちゃって。立派なおばさんねえ」
と大声でいい、母はいたくプライドを傷つけられたというのである。私は、
(そりゃ、当たり前だ)
と思ったが、ここでそんなことをいっては、あとで何が起こるかわからないので、
「それは、ひどいわね」
と心にもないことをいった。彼女は、
「そうよ、そうよ、ひどいでしょ」
とすがるような目つきをして、
「お父さんだって、許せないわよね」
と父に救いを求めた。彼は相変わらず新聞を読みながら、
「あー、それはひどい」
といってはいたが、そのことばには、全然感情がこもっていなかった。
「あの人だって、そんなことをいうけど、すっごい皺《しわ》なのよ。だって、にこって笑うと、目尻《めじり》からほっぺたにかけて、こーんなふうに皺がでるんだから。ほーら、ミエちゃん、見て。こーんなふうよ、こーんなふう」
母はそういいながら、目尻からほっぺたにむかって、放射状に指を動かした。話し方がやっぱりくどい。
「人のことなんか、いえやしないのに。きっとあの人、私に皺がないのをやっかんでるのよ」
たしかに母は歳のわりに皺は少ないが、それは顔面に脂肪がいっぱいついているからと、いえなくもなかった。
「会ったとたんに、頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、品さだめするように見るし、本当に嫌な感じなのよ」
喜んで着ていったバーゲンのワンピースが、この場合、命取りになったみたいであった。
「あたし、絶対にやせてやるわ。絶対、娘時代の体重に戻すんだから」
彼女は宙に目をやりながら宣言した。ぐっと握りしめた太い両手は、わなわなと震えていた。
「がんばれえ、がんばれえ」
か細い父の声が聞こえた。相変わらずこちらに尻をむけて新聞を読んでいる。母は彼の誠意のない声援には何も答えず、台所でがっしがっしと力強く米を研ぎ始めた。そして、首だけをキッと私のほうにむけ、
「あした、ちょっと付き合って」
とものすごい形相でいい放ったのである。
翌日、私は母にひきずられるようにして、デパートに連れていかれた。場所は水着売り場である。
「手っ取り早く痩《や》せるのは、水泳がいいらしいのよ」
彼女は大股《おおまた》で水着売り場に近づき、超ハイレグの水着がディスプレイしてあるのを見て、
「こんなのを着て、ハワイで女の子が外人をひっかけたりしてるんでしょ。やあね」
とぶつぶついった。
「ミエちゃん、お母さんによさそうなのがあったら、いって」
そういって彼女は、水着を片っ端から物色し始めた。私は友だちの水着を選ぶのには付き合ったことはあるが、おばさんの水着選びをするのは初めてである。体型に問題のない人ならともかく、ビーカーのような体型の母に、どういう水着が似合うかなんて、想像すらできない。
「ちょっと、ちょっと。ハイレグじゃないのはおいてないの。こんなの私には着られないわ」
彼女は店員さんをとっつかまえて文句をいった。若い店員さんは、最初はびっくりしていたが、
「あると思いますので、お待ちください」
といって姿を消した。娘としては、
「どうもすみませんねえ」
と心からあやまりたいくらいであった。その間も、母は、
「まったく。スタイルのいい人か若い人むきのばっかりじゃない」
といらついたように水着を物色している。
「お待たせいたしました」
さっきの店員さんが、何枚かの水着を持って現れた。
「こちらなら、よろしいかと思いますが」
母はハイレグの水着と、持ってきた水着を並べて、切れ込みの角度を比較検討していたが、納得したらしい。
「これ、試着させてね。ほら、ミエちゃん、こっち、こっち」
といって私の手を引っ張り、試着室へと連れていった。
「どれが似合うかいってよね」
そういって母は個室に消えていった。どれが似合うかっていったって、あの体では判断不可能のような気がした。
「どう?」
声とともに、勢いよくドアが開けられた。そのとたん私はその場にかたまってしまった。こちらを真剣なまなざしで凝視しているのは、中年の雌イルカだったからである。
「黒はいちばん、やせてみえるんじゃないかと思うんだけどね……」
母の思惑は見事にはずれていた。ビーカーのような体にぴったりした黒い水着は、まさにイルカの皮膚を思わせた。
「うーん」
「そう、じゃ、こんどは茶色のにするわ」
茶色の水着を着て、私の目の前に登場したのはトドであった。
「うーん」
私の口からは、このことばしかでてこない。
「ねえ、さっきあの人は、ハイレグじゃないのを持ってきてくれたはずなのに、これでも結構切れ込みが深いのよ」
母親はそういいながら、水着の股ぐらを指で引っ張り、しきりにローレグにしようとしていた。水着の股ぐりからは下着のパンツがはみだしている。たしかに店員さんは、ハイレグではない水着を持ってきてくれたのだが、あまりに母親の腰回りに肉がついているために、水着が中央に引っ張られ、ローレグがどんどん食い込んでいっているのだ。まさかそうはいえないから、私は、
「そんなもんだよ」
といっておいた。
「あら、そう」
彼女は首をかしげていたが、気をとりなおし、今度は白と紺の太い縦縞《たてじま》の水着に挑戦した。それを着た母は、サーカスの軽業師が、寝転んで爪先《つまさき》で回す樽《たる》にそっくりだった。おまけに白い部分に、はいているパンツがすけて見えて、何だかとっても情けない。
「うーん」
次は濃い紫色の水着であったが、着た姿はナスだった。グレーの地に細く黒い線描きの模様の水着を着たら、今度はまるで墓石だ。
「ミエちゃんはどれがいいと思った?」
「えっ、私が決めるの」
「そう、決めて。お母さん本当にわからないから」
イルカ、トド、樽、ナス、墓石。どれがいいかといわれても、これは究極の選択に等しい。しかし、泳ぐのだったらやっぱりイルカがふさわしいのではないかと思い、
「黒いのにしたら」
といった。
「あら、やっぱりミエちゃんもそう思った? お母さんもこれがいちばん良く似合うと思ったの」
墓石の姿のまま、母はにこにこ笑った。
「もういいから、早く服を着なさい、服を」
私は顔をそむけながらいった。
「はい、はい」
彼女はほっとした顔で試着室から出ていき、店員さんに、
「これがとってもよかったわ」
などといっていた。この歳になると母の裸なんて見る機会はないが、それは想像以上にすさまじいものだった。まだ四十代だというのに、あんまりであった。その夜、母は父が帰ってきたとたん、水着に着替え、
「どう、似合うでしょ?」
とポーズをとった。父は、ちらっと一瞥《いちべつ》すると、いつもの感動のない声で、
「あー、よく似合う、似合う」
と淡々といって、部屋にひっこんでしまった。今まで結婚生活が続いていたのは、こういう父の態度によるものだというのが、あらためてわかった。
水着を買った母親は、喜んで近所の区営のプールに通っていった。そこでは初心者むけの水泳教室があり、きちんとした泳ぎ方を教えてくれるのだという。
「泳ぎも覚えてスマートになれれば、一石二鳥よね」
母はすでに痩《や》せた気になっているのか、やたらと機嫌が良かった。何か月かは基本の泳ぎを教えてもらい、あとは平泳ぎ、クロールなど、選択するようになっているらしい。
「何を選んだの」
「ばた足」
彼女はそう答えた。ばた足? と思って、水泳教室のプリントを見ると、そこには「バタ百メートル」と書いてあるではないか。
「これ、ばた足じゃないよ、バタフライだよ」
「えっ?」
母は一瞬、困った顔をした。
「ま、何でもいいわ。泳ぎがうまくなるんだったら」
彼女は私の気持ちを知ってか知らずか、別段そんなことは気にしていないふうであった。あの黒い水着を着た、雌イルカのような母が、泳ぎがうまくなり、がっぱがっぱと勢いよくバタフライで泳いでいる。
「ゴトウさんの奥さん、上達したわねえ」
などと、プールサイドの仲間に拍手をもらったりしている。母は有頂天である。まるで鴨川《かもがわ》シーワールドのイルカ・ショーのような光景を想像すると、私は頭がくらくらしてきたのであった。
のれんに腕押し
「お母さん、私、ひとり暮らしをするから」
そう宣言したとき、母はしばし呆然《ぼうぜん》とし、そのあと目をつり上げた。ひとこともいわず、口はぎゅっと結んだままだ。これは私が就職してから一年の間、ずっと考えていたことだった。兄と姉がいる末っ子の私は、いつまでも母の手から逃れられなかった。私が中学生のときに、会社を経営していた父が、心臓マヒでころっと亡くなってしまったのだが、それ以来、母は父親どっぷりから、子供どっぷりへと変わっていったのである。母は父の会社の役員となり、月々報酬をもらっているので、生活には困らない。しかしその生活に困らないというのが、困りものなのである。
たとえば私の友だちの家では、一家の生活費の稼ぎ手である父親が亡くなると、母親が猛然と働き始めたものだ。いつまでもめそめそしてはいられない。まず生活という二文字が目の前にぶらさがってくるからだ。
「よーし、これからは私がしっかりしなければ」
というクソ度胸もうまれてくる。しかし幸か不幸か、うちの母親はそうしなくてもよかった。家のなかで脳味噌《のうみそ》がとろけるくらい、ぼーっとしていても、めそめそしていても、十分すぎるほどの生活費が、労働することなしにもらえる。世の中には、経営者である夫が亡くなったあと、自分が社長となって、ばりばりとビジネスに才覚をあらわす女性もいる。私もテレビで、ちょっと厚化粧ではあったが、そんなたくましいおばさんたちをたくさん見た。しかしうちの母は、
「まあ、私、男性がやるようなことはわかりませんわ」
というタイプである。それよりも、一日中、ケーキやクレープを焼いていろといわれたら、それができる人なのだ。
兄は会社を継ぐのを拒否した。
「会社を継がないのに、この家にいるわけにはいかないから」
そういって彼は家を出ていき、普通のサラリーマンになった。私はけじめをつけた、そんな兄をえらいと思ったが、このとき母はショックで一週間寝込んだ。
「こんなことになってしまって、お父さんに申し訳ない。天国のお父さんに、お母さんは死んでお詫《わ》びをしなければ」
といい出したので、あわててお医者さんを呼んで診てもらったら、お医者さんは、
「どこも悪くありませんよ」
といいながら帰っていった。とにかく免疫ができていないから、ちょっとのことでもショックを受けてしまう人なのである。姉は母と似ていて、社会に出ることなく見合いで結婚した。母にとっては娘は結婚して家を出ていく以外の独立は、とんでもない親不孝だと信じているのであった。
母は般若《はんにや》みたいな顔をしたまま、じっと私の顔をにらみつけていた。テーブルの上で、ぎゅっと握りしめていた両手のこぶしがぶるぶると震えだした。
「許しません!」
堪えていた怒りが一気に爆発したのか、声が裏返った。
「どうして」
「どうしてって、考えてもごらんなさい。あなたには、ちゃんとこの家があるじゃない。そのほかに何が必要だっていうの。狭い部屋に兄弟と一緒にいるのならともかく、どうしてそんなこといいだすの」
母の話す言葉の語尾がきんきんと上がった。まだ父が生きているころ、夫婦|喧嘩《げんか》をすると、
「あーあ、またヒステリーか。たのむからそのきんきん声だけはやめてくれよ」
とあきれ顔でいっていたのを思いだした。
「だって、私も社会人になったし」
「社会人になったからって、どういうこと。それと家を出るのと、どういう関係があるの」
さあさあさあという感じで、母は私の目の前に顔を突き出した。ここのところ妙に皺《しわ》が増えたようだ。
「だって、もう一人前だし……」
「えーっ、一人前ですって? おーっほっほ」
私の言葉をさえぎり、母は白鳥麗子のように笑った。
「何をいってるの、ユキコちゃん。一人前っていうのはね、ちゃんと結婚をして子供もできて、人の親になったときに、初めて一人前というんです。あなたなんか、まだまだ半人前ですよ」
「違うの。私は自分の稼いだお金で自立したいだけよ」
「あーら、ひとり暮らしをしていれば、自立できたっていうわけじゃないでしょ。親と一緒に住んでいたって、立派に自立できますよ。だいたいひとり暮らしをすれば、自立ができるなんて思うことが、あなたが自立できていない証拠です」
男性がいると、
「私って、とっても弱い女なんですう」
といわんばかりのタイプの母が、こんなに論理的に話すのを初めて見た。
「だから、ひとり暮らしをして、親と離れていろいろと考えたいのよ」
母はまた、ぶすっとした顔になった。
「そりゃね、毎日、親と顔をつきあわせているような、狭い家だったらね、そういうこともあるでしょう。だけど今、この家にいるのは、あなたとお母さんだけなのよ、誰もあなたの邪魔なんかしていないじゃないの」
ほーら、どうだ、私のほうが正論だろうという口調で、母はにやりと笑った。勝ち誇ったような母の笑いであった。ここでひるんではいけないと、私は、
「とにかく自分が生まれ育った家を離れたいの。それだけなの」
そういって席を立った。
「待ちなさい。まだ話は終わっていませんよ」
追いかけてこようとする母をふりきって、私は自分の部屋にこもった。
その夜の夕食は最悪だった。ふだんは、ああだこうだと、うるさいくらいに喋《しやべ》る母が、ひとことも喋らない。黙って箸《はし》を動かしている。あのおしゃべりが、よく黙っているなあと思ったとたん、母は我慢しきれなくなったらしく、
「あなたのお邪魔になったら悪いからね、お母さんは黙ってるの」
そういって憎々しげに、かぼちゃの煮物を口の中に放り込んだ。私は返事をしなかった。くらーい雰囲気の夕食が終わって、お茶を飲んでいると、母はつっと立ち上がって、電話の受話器を取り、プッシュボタンを押した。
「もしもし、ケンちゃん、お母さんよ。元気にしてるの」
猫撫《ねこな》で声である。
「あのね、ユキコがとんでもないことをいうのよ。家を出るっていうの。お母さん、心臓が止まるくらい驚いちゃったわ。自立したいんですって。自立。えっ、そうそう、お給料をもらってるからなんて、そういうことをいうのよ」
母は当て付けがましく、ちらちらと横目で私のほうに目をやっている。
「そうなのよ。うん、そうそう。うん、えっ、どうして? まあ、あなたまで何ていうことを……」
兄を味方につけようとしたのに、思惑と違って形勢が不利になったようだった。
(いいぞ、いいぞ、にいちゃん、がんばれ)
私は心のなかで声援を送った。家業を継ぐのが嫌で、約束されていた将来の社長の座も蹴《け》って、サラリーマンになった兄である。絶対、私のことはわかってくれると信じていたのだ。母の顔は電話口でみるみるうちに変わっていった。
「もういい。わかりました。みんなで私が悪いっていうのね!」
音をたてて受話器を置いた。
「ふん」
ソファに腰をかけ、母は両手をもみあわせながら、いらだっていた。
「ケンイチも、親に大学を出してもらったとたんに、出ていったわ。本当にみんな都合のいいことしか、考えてないのね。あーあ、子供なんか生むんじゃなかったわ。あー、お母さん、この歳になって、こんなに不幸になるなんて、思ってもみなかった」
私はこの場から、無言で立ち去ったほうがいいと判断し、母がむくれているすきに、つつつと自分の部屋に戻った。そしてそれから一週間、広い家のなかは、どよーんとした雰囲気が漂っていたのである。
私は会社の友だちと相談をした。
「それは強行手段に出るしかないよ」
カズコちゃんはいった。
「やっぱり親に反対されたっていう人がいたけど、引っ越しの手配をみんなすませておいたの。親にはもちろん内緒でね。そして突然、引っ越したんだって。親ってさ、前々から知らされていると、ああだこうだって、ぶつぶついうけれど、突然、トラックが来たら、あっけにとられちゃって、何もいえないんだって。あとのことは何とかなるんだからさ、そうしちゃえば。私も手伝いにいくし。私の彼にたのんでレンタカーで引っ越せば、安上がりだからいいもんね。そんなに荷物だってないでしょ」
親身になってくれる彼女の言葉をきいて、持つべきものは友だちだと思った。もしかしたら、ある年齢以上になったら、親よりも友だちのほうが必要なのだ。たしかに母はかわいそうだが、現実にトラックがきて、疾風《はやて》のように荷物をつんで、疾風のように走り去っていく、月光仮面方式の引っ越しだったら、
「あわわわ」
とびっくりしている間に、ことは済んでしまうに違いない。
「よし、それでいこう」
私は会社の帰りに彼女と不動産屋にいって、たまたま空いていた物件を借りることにした。そして夕食を食べながら、綿密に引っ越しの打ち合わせをした。だんだんわくわくしてきた。たしかに家の部屋よりは狭いけれど、誰にも邪魔されない私だけの場所ができる。家に帰って母親がだんまり作戦に出ていても、全く気が重くならなくなった。これから私を待っている、自由で明るい毎日を考えると、現在起こるどんなことでも、許せるような気がしてきたのである。
引っ越し当日、わたしは前の晩、物音をたてないように荷造りをした。持っていく家具は、ベッドと本棚だけにした。何食わぬ顔で朝御飯を食べ、私は首を長くして約束の十時を待っていた。母は庭で草木の手入れをしている。そのとき玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、カズコちゃんとボーイフレンドが、軍手をはめてにこにこして立っていた。
「お母さんは」
「今、庭にいる。さっさと運んじゃおう」
私が小声でいうと、彼が二階に上がり、本棚をひとりで抱えて降りてきた。次はベッドを運びさえすれば、大きな物はない。ところがこのベッドが曲者《くせもの》で、うんうんいいながら、三人で階段から降ろしていると、両手に軍手をはめ、手を泥だらけにした母が、目をつり上げて立っていた。
「何なの、これは!」
またきんきん声だ。
「こんにちは」
にこやかに挨拶《あいさつ》したカズコちゃんとボーイフレンドを無視して、母は、
「どういうことなのか、説明しなさい」
とにじり寄ってきた。
「だってこうしなきゃ、出ていかれないもん」
「これじゃ、まるで夜逃げじゃないの。お母さんは、あなたをこんなことをする娘に育てた覚えはないわよ!」
私たちがもめている横を、カズコちゃんたちが淡々とベッドを運んでいった。私は母と口喧嘩《くちげんか》をしながらも、頭のなかで、
(あともうちょっとで、全部、運び終わるな)
と計算していた。
「ちょっと、あなたたちもやめなさいよ。何ですか、そんな泥棒みたいなことをして。恥ずかしいとは思わないの!」
「はあ、でも俺《おれ》たち、頼まれましたから」
「頼まれたって……。ユキコ、いったいあなたは親を何だと思ってるの」
「親は親だと思ってるわよ。とにかく話している暇はないから、これでさよならということで。住所は後で連絡します」
荷物を運び終わったというサインを見て、私もトラックに乗り込んだ。さすがにそのときは、ちょっと胸が痛んだが、これも私が成長するためには、仕方がないのだ。説得しようとしても、ああいう性格の人は、そんなに家を出たいのなら結婚しろと、見合い写真を山ほど持ってくるだろう。
「ま、かわいそうだけどね、しょうがないよ。親にも慣れてもらわなきゃ」
「でも、もし僕が親になって娘にこんなことをされたら、ショックで立ち直れないよ」
彼は車を運転しながらつぶやいた。たしかにそうかもしれない。だけど子供だって、親のことだけを考えて、生きていくわけにはいかないのだ。
住所変更も終わり、私はそのとき初めて、母に新しい住所と電話番号を書いた葉書を送っておいた。返事はこなかった。ここは1DKのマンションだが、親と同居している妙な鬱陶《うつとう》しさから解放されて、もうあの家には絶対帰りたくなかった。会社の友だちにも、
「どう、ひとり暮らしは」
と聞かれると、
「快適、快適」
と私は有頂天で返事をしていたのである。
土曜日、私が洗濯をしていると、玄関のチャイムが鳴った。電話もせずに誰だろうと、ドア・スコープをのぞいてみると、引っ越し業者の作業服を着た青年が立っていた。
「荷物、運んできました」
首をかしげながらドアを開けると、そこには山のような荷物が置いてあった。
「こんにちは。で、どこに運んだらいいですか」
青年はにっこり笑った。
「あの、うちは201号室ですけど、間違いじゃないですか」
「えっ、そんなことないですよ。だって、ほら」
彼が差し出した送り状には、間違いなくうちの住所が書いてあった。そして送り状を書いているのは、ウエダマサコ。まさに私の母であった。
「間違いないですよね。じゃ、荷物はこのままでいいですか。よろしくお願いしまーす」
青年は急いでいながらも、笑みを絶やさず、ささっと去っていった。あとに残ったのは、廊下に置いてある荷物であった。
「ま、まさか」
大きさといい、数といい、ここにあるのは、私が実家の部屋に残してきた、タンス、テーブル、椅子《いす》、ドレッサーだった。とにかくここに置いておくわけにはいかないので、私はうんうんとうなりながら、ひとつずつ部屋のなかに入れた。まるで私の部屋は家具店の倉庫みたいになってしまい、インテリアもへったくれもなくなった。タンスの引き出しのなかに、手紙がはいっていた。
「家を出ていくのなら、きれいさっぱり出ていきなさい!」
文末のびっくりマークがものすごく大きく書いてあった。
「くっそー」
これは史上最高の嫌味だった。私が広い部屋を借りられないのを知りながら、残していった家具を送りつける。何という鬼母かと涙が出そうになった。もしかしたら、あの人は、まま母かもしれないとも思った。これで私は、あの人とは完全に縁を切ろうと、心に決めたのである。
私は母に連絡もとらなかった。むこうからも何もいってこなかった。ところが、ある夜、電話が鳴った。受話器を取ると、
「ユキコちゃん、お母さん」
と苦しそうなうめき声が聞こえる。
「どうしたの」
「足が、足が痛くて、眠れないのよお」
病院には行ったのか、いつから痛いのかと、あれこれ聞いてみたが、母は、
「痛いのよう。明日、病院には行くつもりなんだけど。こんなに痛いんだったら、絶対、どこか具合が悪いに決まってるよう。手術をしなきゃならないかもしれないよう」
私は明日は会社に行かなければいけないし、病院に行くようにといって、電話を切ったが、やはり心配で熟睡はできなかった。でも私は意地でも実家には帰りたくはなかった。次の日の夜、電話をかけた。
「はい、ウエダでございます」
ずいぶん元気のいい母の声である。
「どう、病院に行ったの」
「ううん、行ってない」
かーっと頭に血が上った。昨日の夜、あんなにつらそうな声を出していたから、こっちは心配したのに、今日のけろっとした声は何だ!
「行ってないって、どういうことなのよ」
「ああ、あのね。今朝、起きてみたら、具合がよかったから、行かなかっただけよん」
母は甘えた声をだした。
「ともかく、早く病院に行きなさいよ」
「うん、わかった、わかった、明日行くから、そんなに怒らないで」
私はむっとして電話を切った。あんなに元気がいいのなら、具合が悪くはないような気もするし、いちおう親だから、悪くても平気な素振りをしてみせたのかもしれない。私の頭のなかにはよからぬ想像が渦巻き、どっちにしても心配なのには変わりなかった。また次の日の夜も電話をすると、一週間後に結果がわかるという。
「ユキコちゃん、お母さんね、血をいっぱい取られたの」
母は悲しそうな声を出した。私は、
「ふんふん」
と平静を装いながらも、やっぱり心配だった。広い家に足が痛い母がひとりでいるかと思うと、余計、ふびんになってきた。そしてまた、一週間後、電話をかけた。すると母は、
「あーら、まだ結果を聞きに行ってないのよ」
などとのんきなことをいうので、またかーっと頭に血が上った。こんなに心配しているのに、何をのんびりしているんだ。
「とにかく、結果を聞きに行きなさいよ、わかった」
そういって私は電話を切った。ところがいつまでたっても電話がかかってこない。また具合が悪くなったのではないかと、電話をかけた。すると、
「ウエダでございます」
という明るい声のあと、相手が私だとわかると、急にトーンが落ちて、ふっとため息まで聞こえた。
「なんだか、ちょっと大変みたいなの」
私は、こりゃえらいことになったと、
「これから、すぐ帰るから」
といってしまった。
実家にいたのは、ぴんぴんしている元気な母だった。
「ユキコちゃん、いい子ねえ。やっぱりお母さんのことを心配してくれたのね。うれしいわあ。病気になっても、もう安心だわ。お母さん、本当にほっとした。ほらほら、ユキコちゃんの大好物の、クレープを焼いたのよ。さあさあ、上がりなさい」
(やられた……)
母は満面に笑みを浮かべて、私の手を引っ張った。こんな古狸では、いくら自立した私でもかないっこないわと、私は母と面と向かって闘うことをあきらめたのだった。
知らぬが仏
私の父は五十歳。中小企業の部長である。よく女の子のひとりっ子は、父親に溺愛《できあい》されるというけれど、うちの場合は違う。かわいがるどころか、ものすごいスパルタ教育で育てられたのである。まだ私が幼稚園に上がる前、ストーブのそばで遊んでいたことがあった。両親から、ストーブのそばはあぶないから、離れていなさいといわれていたのに、ついつい暖かいもので、大事にしているクマちゃんのぬいぐるみを片手に、ストーブによりかかるようにして遊んでいたのだ。ところがその姿を見た父は、
「何をやってるんだ、お前は!」
と大声でどなり、びびってその場に硬直した私の手を持ってストーブからひき離した。それだけでも子供にしたら驚きなのに、彼は、
「あれだけいったのに、どうしていうことを聞かないんだあ」
とわめいて、私の両足首を持ち、二階のベランダから逆さ吊《づ》りにした。
「お父さん、やめて」
父の膝《ひざ》にすがりつく母を、
「ええい、うるさい」
と蹴《け》り倒し、
「いうことを聞かないとこうなるんだ。ほーら、わかったか。よーく覚えておくんだ」
と、ぎゃあぎゃあ泣きわめく私にむかっていい放ったのである。私のわめき声を聞きつけた近所の人々は、びっくり仰天して、
「あーあー」
といいながら家からとび出してきた。隣のおじさんは、わざわざうちの中にとび込んできてくれて、
「せっかんなんて、やめなさい」
と父の頭をぽかぽか殴った。
「せっかんじゃない。教育だ」
すったもんだのあげく、一一〇番に通報する一歩手前で、何とか事はおさまったのだった。
父はどちらかというと無口で、年がら年じゅう、このような暴挙に及ぶわけではなかった。母が私を叱《しか》るのを黙って聞いているような人だった。しかしそれを無視して私がいたずらをしたりすると、今まで無表情だったのが、まるで鬼みたいな形相になって、恐怖の逆さ吊りに及ぶのだ。あるときは黙ってとことこと家を出ていったら、案の定みつかって、ベランダの手すりにくくりつけられたこともある。
「わーん、わーん」
と泣いているのを聞きつけた、隣のおばさんが顔を出して、
「かわいそうに。どうしてこんなことをするのかねえ。早くお父さんにあやまりなさい」
といったことばを今でも覚えている。またあるときは、私が公園の砂場で、男の子に砂をかけて泣かせたら、父がすごい勢いで私のお尻《しり》をぶった。そのはずみで前につんのめり、私はしこたま砂を食べてしまったのだった。隣のおじさんとおばさんは、子供がいないこともあって、私がわあーんと泣くとすぐ、
「どうかしたんですか」
とやってきた。そのたびに父は、
「何でもありません」
と彼らを追っ払ったりした。何日かたって母に手をひかれた私が歩いていると、おばさんはつつつと寄ってきて、顔や手足を点検し、
「かわいそうに、このあいだ泣いてたねえ」
といたわってくれた。
「主人がとっても厳しくて」
母がこぼすと、おばさんはうんうんとうなずいた。私は幼心に、本当のお父さんとお母さんは、隣のおじさんとおばさんかもしれないと思っていたくらいだったのだ。
小学校に上がっても、父は相変わらずスパルタ主義だった。海にいったときも、泳げない私を足が届かない深さのところまでつれていき、
「さあ、泳いでみろ」
といって手を離した。私は唯一のたのみの綱だった父の手を失い、ほとんどぶくぶく状態であった。
「やだあ、やだあ」
むちゃくちゃに手足をばたばたやっているうちにしこたま水を飲み、それが気管に入ってむせて、涙がぼろぼろ出てきた。それでも父は冷ややかな顔をして眺めていたが、途中でこりゃだめだと思ったらしく、あわてて私を抱きかかえ、
「まだ、早かったかもしれんな」
とつぶやいた。まだ恐怖がさめやらぬ私が泣いていると、母が、
「いったい何をしたんですか」
と目をつり上げた。
「お父さんが、みほちゃんを深いところにつれていって手を離したから、おぼれたんだよお」
泣きながら訴えると母は激怒し、
「子供を殺す気ですか。そんな軍隊みたいなことをしないで下さいよ」
と父に詰め寄った。さすがにこのときは、父もちょっとまずかったと思ったのか、
「そうか、そうか、お父さんがみほちゃんにおいしーいラーメンを食べさせてあげるね」
と猫撫《ねこな》で声でいった。そしてあんなにショックを受けた出来事だったのに、私は海の家でラーメンを食べたとたんに父への憎しみが消えていったのが、今から思うととても情けないのだ。
道で転んでも、「大丈夫か」などということばなどかけてもらったことがない。
「ほら、自分の力で起きなさい」
と怒られる。転ぶと痛いから、わーんと泣くと、そばにいるおばさんが、
「あらまあ、大丈夫」
と助け起こそうとする。すると父は仁王立ちになって、
「やめて下さい。この子のためになりませんから」
と怒る。おばさんもめげずに、
「かわいそうじゃありませんか」
と反論する。
「うちにはうちのしつけのやり方があるんだから、ほうっておいて下さいよ」
父も負けずにいい放つ。自力で立ち上がって、ひっくひっくとしゃくりあげている私のことなんかほっといて、父は見知らぬおばさんと路上で口喧嘩《くちげんか》をはじめたことだってあるのだ。小学校に上がってから、私が男の子に泣かされて帰ってきたと聞くと、
「よーし、喧嘩のやり方を教えてやろう」
といい出し、母に、
「いいかげんでやめて下さい。女の子なんですよ」
と文句をいわれたのも一度や二度ではない。しかし、
「女だって闘うときは闘わなきゃいかん。そんなことじゃ、一生、男に泣かされるぞ」
という父のことばに押し切られ、私は次の日の朝から、父と一緒にジョギングをするはめになったのだった。
そんな話を友だちにすると、厳しい父親の話はたびたび聞いたが、そこまで徹底するのは初めてだといわれた。そんな父親でさえ、娘が初潮をむかえると、突然、おとなしくなり、つかず離れずの関係になるのだといった。しかし母から聞いた話によると、私がそうなったとき、父は、
「そうか。ま、女だから当たり前だな」
と、特に何の感動もないようだったという。
「あの人はね、男兄弟五人のなかで育ってるから、デリカシーに欠けるところがあるのよね」
母はため息をついた。新婚当時も母が具合が悪くて寝ていると、
「薬をむやみに飲むと体によくないぞ。気力で治せ、気力で」
と枕元で活をいれたりしたそうだ。同じ新婚の友だちから、
「うちの主人はね、私が寝ついてると、おかゆを作ってくれるのよ」
という話を聞いては、自分がふびんで涙を流したこともあるそうだ。私が第一志望の高校入試に失敗して、部屋でくすんと泣いていると、ふと気がついたら父は背後に立っていて、
「めそめそするな! 甘ったれないで、泣いているヒマがあったら、これから先のことを考えろ」
と、いって去っていったこともある。とにかく幼いころに海でおぼれかけたとき以来、父にやさしいことばをかけてもらった記憶などないのである。
「悪い人じゃないんだけど、とにかく厳しすぎるのよね。まじめっていえばまじめなんだけど」
母がいうとおり、父は度を越しているが、正義の人であった。その正義を重んじるあまり、娘まで逆さ吊りにしてしまう。電車の中で酔っ払って迷惑をかけている男があれば、みんなが関わり合うまいとしているところを、わざわざ歩み寄っていって、
「おい、お前、降りろ」
とつまみ出す。禁煙なのに煙草を吸っているのを父にみつかった人がいたら、吸うのをやめるまでしつこく文句をいわれるのは、目にみえているのである。こんな父の下で働いている人は、さぞかし大変だろうと思う。紙をムダにする社員を叱《しか》りとばし、くわえ煙草で仕事をする社員をひっぱたき、ぺちゃぺちゃと給湯室でしゃべっている女性社員には背後から活を入れ、一同、脇目《わきめ》もふらずにきびきびと働いていないと気がすまないのではないだろうか。もし私が就職して、そんな上司がいたとしたら、すぐに会社をやめたくなる。
「きっと、お父さんは会社で嫌われているんだろうな」
娘としては複雑な気持ちになった。会社で嫌われている男を父に持つ娘ほど、悲惨なものはない。一度、ずっと前のことだが、旅行につれていってもらったときに、会社の人と会ったことはある。しかし当時は父は平社員だったから、相手はみんな偉い人だった。しかし、今は違う。父の部下だって何人かはいるのである。私は一生、彼らとは顔を合わせられないだろうと思ったのだった。
そんなある日、父の部下たちがうちに来ることになった。男性三人、女性三人である。父からは、
「部下が家に来るから、食事を出すように」
とだけいわれた母は、
「どうしたのかしら、何しに来るのかしら」
と私のそばで不安そうな顔をした。
(どうしたんだろう)
私も不安になった。あまり、ふだんひどいしうちをうけているので、彼らは強行手段に出たんじゃないだろうか。正座をして父を糾弾している人たちの姿が頭に浮かび、胸がドキドキしてきたのであった。
彼らが来る土曜日の朝、父は落ち着きがなかった。新聞を読んでいたかと思うと、
「うーむ」
とうなり、玄関のほうにいったり、また居間に戻ったりを何度もくりかえしていた。
「こんにちは」
元気のいい声が玄関から聞こえた。
「はい、はーい」
すっとんでいったのは、母ではなくて父であった。それも今まで耳にしたことがないような明るい声だ。
「おじゃましまーす」
入社して、二、三年目といったところの人たちだ。かっこいい人がいたら、チェックしておこうと期待していたのだが、大ハズレだったので、私は淡々と接することにした。
「いやー、どうぞ、どうぞ。ささ、どうぞ。よく来てくれたねえ。おーい、お母さん、ほらみんなにお茶、さしあげて」
父は満面に笑みを浮かべて、ホストになりきっていた。私と母はその場にかたまってしまった。まさに「なんだ、こりゃ」だった。こんなに愛想のいい父なんて見たことがない。母はエプロンをぎゅっと両手で握りしめたまま、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
「お母さん、何をやってるんだ。もたもたしてると、私がいれちゃうぞ」
そういうと父はキッチンにいき、急須《きゆうす》と湯のみをお盆にのせて持ってきて、自分でお茶をいれてみんなにすすめていた。
(なんだ、こりゃあ)
それは私が生まれて十九年の間で、はじめて見た光景だった。こんな姿、夢ですら見たことがない。きっと母も同じだと思う。それが、こんなにひょこひょこ身軽に動きまわるなんて信じられなかった。私と母にとっては、まさに天と地がひっくりかえるくらいの、衝撃の出来事だったのである。
「いやー、部長はとっても気さくないい方で、みんなに慕われてるんですよ。なかにはこうるさく文句ばっかりいう上司もいたりするんですけどね、部長は違うんですよ。とっても理解があって、とにかくいい方です」
男の人がそういうと、女の人があとを続けて、
「女性にもとてもやさしくて、思いやりがあるんですよ。クリスマスには全員にプレゼントを下さるし」
「あら、まあ」
傍に座っている母は、あら、まあ、しかいわなかった。私も母もクリスマスのプレゼントどころか、誕生日のプレゼントすら、近ごろはもらっていない。ニュースでちょっとでもクリスマスの話題が出ようものなら、
「どうして外国のお祭りに、日本人がうかれなきゃならないんだ。全く何を考えてるんだか」
とブツブツいったのだ。それなのに会社での態度は何なのだ。幼い娘を逆さ吊《づ》りにし、尻《しり》をひっぱたいて砂を食べさせ、海につれていっておぼれさせた鬼の父は、いったいどこにいってしまったんだろう。
「あ、そうそう、きょうはとっておきのおみやげを持ってきたんですよ」
別の男性が鞄《かばん》の中からヴィデオテープをとり出した。
「ああ、あれね」
「うん、そう」
みんなは肩をつつき合ってうれしそうにしていた。
「ほお、何だね」
にこにこしながら父は、彼らの輪の中に入っていった。
「いえ、これはあとのお楽しみということで」
「うーん、気をもたせるなあ」
父と部下はとってもなごんでいた。
「さあ、お口に合うかわかりませんが、召し上がって下さい」
母が顔をこわばらせて、手製のちらしずしを運んできた。
「ん? ちらしずしか。お母さんの作るちらしずしは本当にうまいからなあ」
部下の手前、母はいちおうにこっと笑おうとしていたようだったが、明らかにほっぺたはひきつっていた。盛り上がっている父と部下の話に入っていけず、私と母はつまはじきになっていた。父は大声であっはっはと笑い、ときおり冗談をいったりして、部下の人たちを大喜びさせていた。ちらしずしを全部たいらげ、デザートのアイスクリームも食べ終わったとき、
「それでは、そろそろ」
といって、ヴィデオテープを持ってきた男性が、
「ちょっとお借りします」
といってテープをセットした。テレビの画面に映し出されたのは、浴衣姿の人々であった。どうやら会社の旅行風景らしい。宴会場で食事をしたあとらしく、男の人たちは前をはだけていて、なかにはでろでろになっている人もいた。
「さあ、みなさま、お待たせいたしました。お待ちかね、真打ちの登場です」
おおーっというどよめきと共に画面は暗くなり、ピンク色の照明に照らされた舞台が浮かび上がってきた。何やらなまめかしい曲にのって、一人の浴衣姿の人が後ろ向きに姿を現した。金髪のロングヘアのかつらをかぶっているものの、どうやら男の人らしかった。
「くくくくく」
部下の人たちは口に手を当てて、うつむいて笑っている。
「おいおい、これは、まずい、まずいよ」
父は真剣な顔になり、またまた落ち着きがなくなった。画面の人がくるっとこちらをむいた。そのとたん、
「どひゃひゃひゃひゃ」
と彼らは肩を叩《たた》き合って大笑いした。私と母は、
「ひえーっ」
と画面を指さしたきり、何もいうことができなかった。その金髪の主は父であった。つけまつ毛をつけ、ブルーのアイシャドウもべったり。くちびるはまっかっか。そして肩からは「特出しみほちゃん」というたすきをかけていた。
(私と同じ名前なんてひどい!)
父は赤いブラジャーとペチコート姿で、腰をくねくねさせていた。曲はドリフターズのカトちゃんがやっていた、ちょっとだけよの曲に変わっていた。だんだん興がのってくるにつれ、「特出しみほちゃん」は、ブラジャーもペチコートも脱ぎ捨てた。するとその下には赤いレースのスキャンティをはいていたのである。
(ひゃー)
母は口をあんぐりと開けたまま、何の反応もなかった。部下の人たちは転げまわって大笑いである。
「脱ーげ、脱ーげ」
の大合唱と手拍子にのせられて、画面のなかの「特出しみほちゃん」は、スキャンティも脱いでしまった。すると股間《こかん》には申し訳程度のピンクの丸いものがへばりついていた。
「あーっ」
それは父の妹である叔母《おば》の中国みやげで、直径十五センチくらいの花びん敷きだった。ショッキング・ピンクのシルクの地に、バラの花のししゅうがしてあるもので、たしか居間にあったはずなのに、いつの間にかなくなってしまい、私と母は、
「おかしいわねぇ」
と捜していたものだったのだ。それを父はこんなことに使っていたのだ。
「どうやって、くっつけてるんですか」
女の人が笑いながら聞いた。
「いやー、ガムテープで貼りつけたんだよ」
「あはははは」
またもや我が家は大爆笑の渦となった。私と母以外は。これだけでも十分なのに、「特出しみほちゃん」は股間の花びん敷きまでも取り去り、マル秘部分を器用に股の間にはさんで、またくねくねと全裸で踊りはじめた。
私と母は、ほとんどハニワ状態だった。
「いやー、何度見ても笑えるなあ」
部下の人たちには大受けだったが、私たちの立場はなかった。
「部長、これ、記念に差し上げますよ」
差し出されたテープを父は、
「そうか、悪いね」
といいながら、大事そうに膝《ひざ》の上にのせた。父は私たちとは目を合わそうとはせず、そのときの思い出話に花を咲かせていた。結構、本人も喜んでいるところも情けない。幼いとき、海に放り出されて私は本当にこわかった。ろくに笑ったこともない父の、ヴィデオの中の姿って、いったい何なのだ! そこまでして社員の人気をとりたいか。それからしばらくの間、私たちが父と険悪な雰囲気になったのはいうまでもなく、父は家ではますます仏頂面になっていった。
目の上のタンコブ
私の家は三世代同居である。七十七歳の祖母、五十一歳の父、四十六歳の母。そして二十一歳の私の四人家族なのであるが、とてもそうは思えないくらい、毎日とても騒がしい。祖母がやってきてから三か月になるが、揉《も》め事が絶えず、日に一回、必ずだれかがむくれる、闘いの日々を送っているのである。
だいたい祖母が家にくることになってから、両親の間が険悪になった。
「どうしてお姑《かあ》さんが、うちに来るんですか。どうして、どうして、どうしてですか!」
父が祖母との同居を提案したとき、母はヒステリックにどなった。今まで聞いたことがないくらいの、とんがった声だった。
「うーん、あのー、そのー」
しどろもどろになっている父の姿を見て、母はますます、
「どうして、どうして」
と詰め寄った。母は何事につけてもそうなのだが、自分がいけると思った相手に対しては、押しの一手で突き進むタイプである。
「どうしてお父さんと結婚したの」
と聞いた私にも、
「条件にぴったりだったからよ」
としゃあしゃあと答えた。社内恋愛の末に結婚した両親だが、実は母がずんずんと父を押して押しておしまくり、とうとう妻の座を手にいれたのだった。
たしかに父は、今でいう三高を満たしていた。残念ながら顔は猿系だが、背は高い。大学院を出ていて、給料も悪くない。おまけに次男ときてる。ふつうの母親だと、娘が、
「私、三高の人じゃないといや」
というと、
「結婚ってそんなものじゃありません」
とたしなめるものだが、自分が三高主義でやってきた母は、私にも、
「あんた、妥協しちゃだめよ。『女の一念、岩をも通す』っていうからね。絶対に条件のいい人と結婚できると思ったら、絶対にできるんだから、あきらめちゃだめよ」
とたきつけるくらいなのだ。
「ふーん」
つきあっているボーイフレンドは長男だし、背だってそんなに高くないし、専門学校生だから、母に会わせたら即座に、
「別れなさい」
といわれるに決まっている。だから私は彼の存在をひた隠しにしているのである。
で、そんな条件にぴったりの男性と結婚した母は、自分の思い描いていた結婚生活を送ることになった。舅《しゆうと》はすでに死んじゃっていないし、面倒な 姑《しゆうとめ》 は長男夫婦と同居している。それも遠く離れた場所に住んでいるから、ごきげんうかがいにいく必要もない。父は仕事で忙しいから、家にもほとんど帰ってこない。だから母はパートに出ることもなく、ずっと専業主婦で、昼間は友だちと買い物にいったり、家でミニ・パーティを開いたりと、やりたい放題のことを、やっていたのだ。そこへ、ふってわいたように祖母が同居することになり、母が好き放題にしていた家はだんだん変化していくことになったのである。
祖母とずっと同居していた伯母《おば》は、とてもおとなしい人だった。品もよくてとにかく伯父《おじ》よりも祖母が気に入って、
「ぜひ、うちの息子の嫁に」
と相手の両親をくどきおとしたのだといっていた。傍目から見ても、とてもうまくいっているようにみえたのだが、あるとき伯母の怒りが爆発した。今まで祖母にも伯父にも口ごたえなどしたことがなかったのに、たまたま伯父が、
「お前は結婚して三十年近くなるのに、漬物はまだまだお母さんにはかなわないな」
といったらば、伯母が激怒して伯父に往復びんたをくらわせたという。そして、
「そうね、もうちょっとね」
と横から口を挟んだ祖母の胸ぐらにつかみかかったというのだった。あの野の花のように楚々《そそ》とした伯母が、ゴリラのような伯父にびんたをくらわせ、遠慮ということばを知らない祖母につかみかかったという話は真っ先にうちに連絡され、私たちは、
「よほどのことだったんだねえ」
と伯母に深く同情した。そしてそれから間もなく、うちに祖母が同居する話が持ち上がったのだった。
「お義姉《ねえ》さんには同情しますけど、どうしてお姑《かあ》さんと同居しなきゃならないんですか」
母は必死に抵抗していた。
「だって兄弟二人しかいないんだし、他にいくところがないじゃないか」
父は自分の母親ということもあって、どうして母がそんなにヒステリックになるのかわかっていないようだった。だけど私にはわかった。自分がやりたい放題やっていて、ふんぞりかえっていた家が、祖母が来ることによって自分のものじゃなくなるのを、恐れているのだ。いくら父が説得しても、母はうんといわなかった。そしてそのあげく、
「私はあなたが次男だから、結婚したのに。こんなことになるんだったら、あなたと結婚するんじゃなかったわあーん」
と泣き出してしまった。
「ぐっ……」
母の泣き声に父は最初はびっくりしていたものの、母のいったことばを、頭のなかで反芻《はんすう》したらしく今度は怒った。
「それじゃ、なにか。次男だったからっていうだけで結婚したっていうのか」
父の両手はぶるぶるとふるえていた。
「やだー、同居なんて。私、絶対、あなたのお母さんとうまくいくはずないもん」
「おい、おれの親を侮辱する気か。そんなことは許さんぞ」
あららーとあせっている間に、どんどん二人の仲はこじれていき、「同居をとるか離婚をするか」という騒ぎにまでなった。私は離婚はないなと思っていた。とにかく自分が働くのは嫌いだが、お金を遣うのは大好きという母が、あれだけ稼ぎのいい父から離れるわけがない。これまでがあまりに恵まれすぎていたのに、母はこの世の中で自分がいちばん不幸だと思っていた。
「ひどいよねえ。この歳になって親と同居なんて、ひどすぎるわあ」
「おもいッきりテレビ」のみのもんたに、相談しようかと真顔でいわれたこともある。
「みのさんは、きっと私の味方になってくれる」
と自信を持っていたが、テレビを見ていたら、自分よりももっと辛《つら》い立場の人が、出演者一同にうまくいいふくめられたのを見て、とりやめたのだった。
母がむくれているのを、完璧《かんぺき》には無視できない父は、「お手当て」と称して、月々の特別お小遣いを母に進呈することにして、いちおう揉《も》め事に決着をつけた。とにかく金の話になると、腰がぐんにゃりとなってしまう母は、しぶしぶこの話をのみ、祖母はうちにやってくることになった。父がいそいそと東京駅までむかえにいっているとき、母は、
「いい歳をして、お父さん、うれしそうだったわねえ。あー、やだやだ」
と顔をしかめた。それに友だちがやってくると、
「ここ、納戸がわりにつかっているのよ」
と見せびらかしていた八畳の部屋が、祖母のものになるのも嫌がっていた。
「あーあ、これからどうなるのかしら。お先真っ暗だわ」
ぶつぶつ文句をいっている間に、父は祖母を連れて帰ってきた。
「はい、こんにちは」
まるで百年前からこの家に住んでいるような態度で、祖母は入ってきた。
「おや、ミナコちゃん。久しぶりだねえ。小学校のとき以来だねえ」
ぼーっと立ちつくしている私を見て、彼女は声をかけてきた。
「いらっしゃい」
そういってちらっと母のほうを見たら、目をつり上げて私をにらみつけていた。
「大きくなって。今、いくつ?」
「二十一です」
「ああ、そう。一郎のところのミユキちゃんより五つ下だねえ」
ミユキちゃんというのは、伯父《おじ》のひとり娘である。
「ミユキちゃんは、器量よしでねえ。ま、どっちに似たとしても顔立ちはいいけどね。それにくらべて、あんたは……。お父さんに似れば、もうちょっと何とかなったのにねえ……」
「…………」
これから私は母の味方になろうと思った。
「私の部屋はどこですか」
廊下を歩く、祖母の声がだんだん遠ざかっていった。
「ほーら、ああいう憎たらしいことをいうのよ、あの人は。よりによって孫のあんたに、そんなことまでいわなくたっていいじゃないねえ」
母は私の耳元でささやいた。
「あっ、そうそう、エツコさん」
廊下でかたまっている私たちのところに、祖母が戻ってきた。
「荷物をむこうから送らせましたからね。二、三日たったら着くはずだから、よろしくね」
「はあ」
「『はあ』じゃありません。『はい』でしょ。いくつになったら、まともな返事ができるんでしょうねえ」
祖母がぱたぱたとスリッパの音をたてていってしまうまで、母はその背中をにらみつけていた。
私たち女性陣がむくれているというのに、父は満面に笑みを浮かべていた。あんなににこやかな父の顔を見たことがない。庭におりていって、祖母に庭木の説明までしている。
「あんたもたいしたもんだねえ。この家を建てるのだって、大変だったろう。よくがんばったねえ」
そう褒められて、とってもうれしそうな顔をしながら、何度もこっくりとうなずいたりしている。二人は手をつないで、庭で寄り添っていた。母は義理でお茶をいれて持っていったが、その光景を見てまたまたむくれていた。
「なによ。でれーっとしちゃって。いい歳をしてみっともない」
私はお茶を飲んでいる祖母と父のそばで、偵察していた。お茶をひと口飲んだ祖母は、
「まあ、ずいぶん安いお茶を飲んでいるのねえ。一郎のところはあなたのところよりも、つましかったけど、お茶はいいものを飲んでましたよ」
といった。
「そうかなあ」
父は首をかしげて、お茶を一口すすった。
「ねっ」
「そういえば……」
「あなたがちゃんと、エツコさんにいわないからですよ」
「うん」
父は妙に素直だった。この分じゃ、また揉めるなと思ったとおり、父が台所にいる母に、もうちょっと高いお茶を買ってこいといったものだから、また母の顔は険しくなった。
「何よ、今まで何十年も同じお茶を飲んでも、文句ひとついわなかったくせに、母親にいわれたとたんに、ころっと態度が変わるんだから」
母は私をとっつかまえてグチった。
「うーん」
私はそういうしかなかった。そうだそうだと母に同調するのもなんだと思ったし、そうじゃないと反論もできなかった。一度は母の味方になろうとしたが、永い目で考えると、それも問題がある。そんなことになったら、母は私を兵隊扱いして、敵陣の視察から何から、みんな私にやらせるに違いないからだ。
「あー、見損なった。お父さんってあんな人だと思わなかった」
母はそれ以来、口を開けばぐちしかいわなくなったのだった。
とにかく祖母に関することで、母が気に入ることなど、ひとつもなかった。おまけに父が何かといえば祖母の味方をするものだから、うちには夫婦の対話などなくなり、お互いのことばを、私が二人の間をいったりきたりして、取り次ぐような有様だった。祖母はなんでもずけずけいった。ついこの間も、テーブルの上に並んだおかずをじろりと見渡して、
「この家に来てから、頭のある魚の姿を見たことがないね」
といい出した。たしかに鮭《さけ》や鯖《さば》や鱈《たら》の切り身しか見た記憶はない。母がむっとしたのを察知した父が、
「どんな魚がいいんだ」
と祖母にたずねると、伯父の家にいたときは、ほとんど毎日、鯛《たい》を食べていたというのである。伯父の家は関西だから、こちらと違って鯛をふだんに食べるのだろうが、東京はやたらめったら鯛なんか食べない。そういうことをちゃんと説明すればいいのに、父も、
「そうだなあ。いつも切り身ばっかりじゃ、味気ないな」
などといっている。魚を食べるのは面倒くさくてかなわないといっていた父がである。
(ああ、これでまた、夕食後に一時間、母のぐちを聞かされるな)
思ったとおり、私は涙目になって怒る母につきあって、食後の大事な時間をつぶしてしまった。そしてこの件は、その夜で終わったつもりだったのに、翌朝、大根おろしにまぶされた、しらす干しに目をとめた祖母が、
「おーや、初めて頭がついた魚が出てきたよ」
といったものだから、またまた母の怒りが再燃した。おまけに父が、
「わっはっは」
と大笑いしたものだから、母の怒りは倍増し、とうとうお昼になるまで、母は自分の部屋にひきこもって、出てこなかったのである。
「ちょっと、ちょっと、ミナコちゃん」
祖母は部屋から首を出して、私を手招きした。部屋に入っていくと、祖母はアルバムを熱心に見ていた。
「ほれ、ごらん。これがお父さんだよ」
指差した写真を見ると、そこにはいかにもまじめといった学生が、制服を着て直立していた。父が結婚してからの写真は、赤ん坊の私と親戚《しんせき》一同が写っている写真の一枚しかなかった。
「それと、ほら、この人、どう思う」
庭木によりかかって、きれいな女の人が立っていた。ワンピース姿のスタイルもよく素敵な人である。
「私はねえ、この人とあんたのお父さんを、結婚させたかったんだけどねえ。ピアノの先生をしていた、優しくていいお嬢さんだったんだよ。きっとお父さんだって、好きだったはずなんだ。それがどういうわけか、こんなことになっちゃってねえ」
私は祖母に、そうはいっても、気に入って伯父さんと結婚させた女の人に、ひどいことをされそうになったんじゃないの、といったらば、
「そうなんだ。あのときは、本当にびっくりした。女っていうものはわからないもんだねえ」
とまるで他人事のように目を丸くしていた。
それから祖母は私にアルバムを見せながら、いかに私の父が秀才で優しい子であったかを力説した。
「やっぱり人は自分にないものを、求めるんだねえ」
こんなことばが母の耳に入ったら、今度は祖母は次男の嫁に首をしめられる。孫がはらはらしているというのに、祖母はおかまいなしに母の神経を逆撫《さかな》でするようなことを、面とむかっていった。おかずを始末してるから、たんまり貯金でもしてるのかと思ったら、雀の涙くらいしかない。貰《もら》ってきたお金は、いったいどこに消えてるのか、とか、ろくに掃除もしないなんて、専業主婦でありながら情けないとか、考えてみたらもっともなことばかりなのである。たとえそうでもそれなりに平穏に暮らしてきたのに、それをわざわざ祖母はひっかきまわしたがった。
「うん、おれもおかしいと思っていた」
父は祖母に同調した。やっと味方を得た安心感からか、最近は顔の色つやがいい。
「ちゃんと、やってます! ねっ、あなた!」
「うう……ま、まあな」
やっぱり母に突っ込まれると父は弱い。それでも祖母は納得せず、家計簿を見せろといいはじめ、母が家計簿をつけていないことがわかると、鬼の首でもとったように、
「あーら、それでよく、『ちゃんとやってます』なんていえますねえ」
と嫌味をいった。
(あーあーあー)
ちらりと父のほうを見ると、腕を組んで事の成り行きを見守っている。私は母がかわいそうになってきた。確かにだらしがない部分はあるが、別に私はひもじい思いをしたことはない。それなのに祖母は自分のやり方を母におしつけている。
「わかりましたか。家計簿は生活の基本ですよ。それをやらなくて、どうしてちゃんとやってるといえるんでしょうねえ。書くのだって、そんなに時間はかかりませんよ。そうそう、あなた、会社で経理をやってたんじゃないの」
こういうことに関しては、妙に祖母は記憶力がいい。そうしてこういう能力が、ますます母を怒らせるのであった。
これまでは、毎晩、食事が終わると、父は居間でテレビを見ていたのに、祖母がきてからは、二人でこっそりと部屋でお話ししている。
「ちょっと、何してるか見ておいで」
そう母にいわれて、お茶を持っていった私の目の前に繰り広げられていたのは、一生懸命、肩叩《かたたた》きをしている父の姿だった。
「あんたは子供のころから肩叩きが上手だったからねえ」
祖母は目を細めて、うっとりしていた。そういわれて父もうれしそうに、にこにこしながら肩を揉《も》んだり叩いたりしている。
(お母さんに、そんなことをしてあげたことがあるか)
父が母に手を上げたのは見たことはないが、肩を揉んであげたりしているのも、見た記憶がない。
「温泉旅行にも行きたいねえ。のんびりとあんたと二人きりで、静かな山奥に行きたいねえ。私もいつまで生きられるかわからないし」
祖母がそういうと、父は、
「そ、そんなこといわないでよ」
とうろたえた。たしか母がひどい風邪で一週間寝込んだときでさえ、あんなにうろたえなかったはずだ。
「みんなで行けばいいさ」
「みんなじゃなくって、あんたと行きたいねえ。エツコさんだって私と一緒じゃ、気詰まりだろうし……」
「そうだな。考えてみるか」
八畳の部屋は、美しい親子の情愛でいっぱいになっていた。私と母は、いったい何なのっていう感じだ。
「はい、お礼だよ」
そういって今度は祖母が、父の肩を揉みはじめた。
「あー、痛い、痛い」
父は笑いながら肩をすくめて痛がった。
(何だ、こりゃ)
私はテレビドラマを見ていて、絶対に冬彦タイプとは結婚するまいと思っていたのに、うちの父はまさしく冬彦ちゃんではないか。
「あー、効く、効くう」
といいながら、うれしそうにしている冬彦パパを見ながら、私は腹のなかで、
(バーカ)
とひとことつぶやいてやった。
一難去って又一難
私は二十四歳。五歳の男の子と、三歳の女の子の母親である。高校生のときから、早く結婚して、子供と姉弟みたいにみえるような母親になりたいと思っていた。当時は友だちにも、私のようなことをいっている人は数が少なく、
「そんな甘っちょろいこといって、どうするの。よっぽど金持ちならともかく、そこそこのサラリーマンと結婚したって、苦労する時間が長いだけよ。適当にOLやってればさあ、給料もボーナスも入るし、休みには海外旅行だっていけるし。結婚したら、そう簡単に旅行なんかいけないらしいよ」
と説教されたこともある。だけど私は、そんなのしんどくて嫌だった。会社の上司や同僚などの人間関係で悩んだり、たくさん働いても給料は変わらない、不毛な仕事よりは、専業主婦で夫や子供のために、おいしい料理を作ったりするほうが、よっぽどやりがいがあると思っていたのである。
高校三年生の夏休み、私は友だちのかわりにいったアルバイト先の、経営者の二十八歳の息子にいい寄られた。学校を卒業して男の数の多い会社に就職して、めぼしい相手をつかまえようとしていたのに、逆につかまってしまった。彼はまじめな人だったし、零細企業ながらも次期社長だし、母親はすでに亡くなっていないし、私は、内心、
(ラッキー)
と喜んでいたのだ。ちゃっかり者のうちの両親も、最初は、
「十八歳で結婚するなんて早い」
といっていたが、相手がいちおう社長の息子だと聞いたら、態度がころっとかわり、
「いいご縁があったねえ」
と大喜びしていた。友だちには、
「青年実業家と結婚することになった」
といって、うらやましがらせてやった。そしてみんなが就職したり、浪人したりしているころ、私は結婚式をあげたのである。
どんなにバラ色の毎日が待っているかと思っていたが、新婚生活は最悪だった。まず結婚した直後に、義理の父が経営していた会社がつぶれた。負債をかかえていたために、義理の父と同居していた大きな家は取り上げられ、アパート住まいになった。私の実家を頼ろうと思っても、お金がないのはわかりきっていることだった。
「これからがんばろう」
と思っていた矢先、私は妊娠した。責任者のくせに、夫には、
「まるで嫌味のように妊娠したな」
といわれるし、義理の父は会社をつぶしたショックで、日がな一日、ぼーっとしていた。夫が知り合いのつてで電気メーカーに就職して、ほっとしたと思ったのも束の間、義理の父が亡くなった。
「この金のないときに、父さんまで嫌味みたいに死んだ」
夫は打ちひしがれていた。いくら金がなくても、かつては経営者である。それなりの葬儀をしなければならない。ここでまた私と夫は、私の実家から費用をできるだけ捻出《ねんしゆつ》してもらい、足りない分は知り合いから借りられるだけ借りまくった。葬儀のときに夫は泣いていたが、父親の死よりもこれからの借金の返済を考えて、悲しくて泣いたんだと思う。
葬儀が終わったら、私のつわりがひどくなった。ひどくてひどくて我慢できず、医者には流産するかもしれないといわれて、ずっと寝ていた。実家の両親はおろおろするし、夫は働き疲れと気疲れで、顔は無表情になっているし、何が何だかわからない状態が続いた。おまけに出産のときは、難産で四十時間も苦しんだ。無事、子供は生まれたものの、おかげで私は痔《じ》になった。赤ん坊は夜泣きがひどく、私と夫は睡眠不足。それにも耐え、なだめたりすかしたりしながら二歳になったと思ったら、また妊娠。
「またか……」
とまるで私が一人で妊娠したみたいに、夫はため息をつくし、あのひどいつわりが再び私を襲いはじめるし、住んでいるアパートは足の踏み場もないしで、
「どうしてこんなに、次から次へといろんなことが起こるのだろう」
と途方にくれたのも、一度や二度ではなかったのである。
その地獄の日々から、やっと立ち直れるようになったのは、一年ほど前からである。なんとか生活はできるようになったが、バブルがはじけてからは景気も悪く、去年のボーナスは現物支給のヴィデオデッキだった。しかしまだ、生活のほうはいい。問題なのは子供たちである。私は子供が好きだったけれど、生んでみるとこんなに面倒くさいものはなかった。かわいいというよりも、憎たらしいと思うほうがずーっと多いのだ。
長男は喋《しやべ》るのがとても遅かった。病気なのかと心配したが、調べてもらっても異常はない。あれだけ夜泣きをしたから、それで喋る分がなくなっちゃったのかしらと、心を痛めていたら、四歳になる間際に喋るようになった。ところが今までたまっていたものを吹き出しているのか、まるでうちに子供の黒柳徹子がいるみたいに、すごくうるさい。朝から晩まで喋りまくっている。それも私に対するぐちばっかりである。洗濯をしていればそばに寄ってきて、
「せんざいをたくさんいれちゃだめだよ」
という。洗濯物を干そうとすると、
「しわはちゃんとのばすんだよ」
という。実家の母が私の家事のやり方を見て、小言をいったのをみんな覚えていて、それをいちいちいうのだ。
「うるさいわねえ」
怒ると彼は、
「うるさいわねえ」
と口真似をする。
「いい加減にしなさいよ」
というと、
「いいかげんにしなさいよ」
といって、けらけらと笑う。頭にきて、
「お母さん、本当に怒りますよ」
と怒鳴ると、負けずに、
「へーんだ、ばーか」
といい返す。するとそれを聞きつけた下の娘がちょこちょこやってきて、兄と一緒に、
「ばーか、ばーか」
と私にむかって罵倒《ばとう》するのである。
(ううっ……。親の気も知らないで……)
あんたたちのせいで、私がどんなに辛《つら》い思いをしたことか。食事もろくに喉《のど》を通らず、四十時間も病院で苦しみ、看護婦さんには励まされるどころか、
「たまにこういう、長くかかる人もいるのよね」
としらーっといわれ、やっと出産したと思ったら、今度は痔だ。夜泣きに悩まされ隣近所に気をつかい、
「どれだけ苦労したと思ってるんだあ!」
と子供たちの耳の穴にむかって、メガホンを使って、わめいてやりたいくらいであった。
そんな私の苦労を知るよしもなく、子供たちは私が嫌がること、嫌がることをやってくれた。しのざき美知が出ているテレビを見ていて、ふと私のほうを振り返り、
「おかあさん、どうして、しのざきに似てるの?」
といったりする。とっても不愉快だが、当たっていないわけでもないので、我慢もしよう。しかし彼らは他人にたいしても、全く遠慮がないのだ。近所の公園で二人を遊ばせているとき、知り合った親子がいた。ちょうど上の子と同じ歳だったので、子供同士が仲よくなり、奥さんに、
「一度、遊びに来てくださいよ」
と誘われた。私も退屈していたし、子供のつきそいを口実に、よその家をのぞきにいくのもいいなあと訪ねていった。その家はとんでもなく大きかった。庭にはハスキー犬もいる。家を見たうちの子供たちは、すでに興奮し、鼻の穴を広げて、
「おかあさん、すごいねえ」
を連発していた。
「さあ、どうぞ」
奥さんと坊やが部屋のなかに招きいれてくれた。居間には高そうな壷《つぼ》や絵が、飾ってあった。
「わあ。おかあさん、うちと全然違うね。この家、お金持ちなんだね」
長男が大声でいった。
「これっ」
小声で叱《しか》ると、奥さんはうれしそうに、
「ほほほほほ」
と口に手をあてて笑った。
「あっ、にゃんにゃんだ」
娘が指を差すほうを見ると、真っ白いペルシャ猫が優雅に歩いている。
「すごいわねえ、うらやましいわあ」
きょろきょろしながらそういうと奥さんは、
「全部、主人の父の会社のものだから」
といった。夫の父の会社。そうだ、私だって青年実業家、次期社長と結婚したはずだったのだ。それがどうしてこうなったのだ。私は今までたまっていたものが、口から次々に出てきてしまった。奥さんはいい人で、私の話を、
「ご苦労なさったのねえ」
といいながら、真剣にきいてくれた。夫との出会いから長男の出産までをまくしたてて、ふと気がつくと、うちの子供たちが、
「わーっ」
と、居間を走りまわっていた。その家の坊やは、おとなしくソファの上で絵本を見ているのにである。
「置いてあるものを壊したらどうするの!」
「あら、大丈夫よ」
奥さんはそういってくれたが、子供たちは今度は居間を出て、廊下を走り始めた。
「わーい、わーい」
端から端まで何度も往復して、きゃあきゃあいって喜んでいる。
「これ、やめなさいったら、やめなさい」
「本当に大丈夫ですよ」
奥さんがそういってくれるので、私はまた彼女に、いかに今まで苦難の道を歩んできたかの続きを話した。するとどうも子供たちの様子がおかしい。わあわあとはしゃいだ声はするのだが、どうも胸さわぎがする。
「ちょっと、みてきます」
と立ち上がり、声のするほうにいってみた私は、目の前で繰り広げられている光景を見て、失神しそうになった。何と二人は和室にしのびこんで、そこに張ってある障子の紙を、両手両足を使ってぶすぶすと、ぶち抜いているではないか。
「何やってんの!」
「あはははは」
二人はやっと紙をぶち抜くのをやめた。
「まあっ」
さすがの奥さんも、あまりの光景に呆然《ぼうぜん》とし、その場に立ちつくしていた。
「こんなことして、いいと思ってるの!」
奥さんの手前もあるし、ここは一発ぶちかまさなければ、今後のしつけにも影響すると思い、私は息子のお尻《しり》をぶとうとしたが、うまく逃げられた。そこで逃げそこなった娘のお尻を、ばちんと叩《たた》いてやった。
「うわーん」
火がついたように娘は泣きだした。泣き声を聞くとうんざりすることも多いが、叩いて子供が泣きだすと、今までの敵をとったみたいで、すかっとする。
「お母さんのところに来なさい!」
怒鳴っても息子は姿を見せない。
「ああっ、メリーちゃんが……」
奥さんの絶叫が響いた。何と息子は、今度は、爪《つめ》をたてて抵抗しているペルシャ猫の尻尾《しつぽ》をつかみ、家のなかをひきまわしていた。
「こらっ」
私は息子の耳をぐいぐいと引っ張り、
「あやまりなさい!」
と土下座をさせた。
「ごめんなさい」
簡単に息子はぺこりと頭を下げた。
「ああ、メリーちゃん、かわいそうにねえ。こわかったでしょう。もう大丈夫よ」
奥さんは体じゅうの毛を逆立てたメリーちゃんを抱きかかえ、頬《ほお》ずりしながら何度もつぶやいていた。坊やは心配そうに、お母さんにしがみついている。私たちが何をいおうが、彼女には全く聞こえないようであった。私はぺこぺこ頭を下げながら、そのままの姿勢で家を出た。
「よその家に遊びにいって、どうしてあんなことをするの! もう信じられない! お母さん、あんたたちみたいな子は、大嫌いだからね。どこにでもいっちゃいなさい!」
道行くおばさんたちは、
「まあ、こわいお母さんだこと」
とこそこそいいながら、横目で私のことを見ていた。息子と娘は何事か二人でぼそぼそ話しながら歩いている。ちょっとは子供なりに反省しているのかと思っていたら、二人は、
「家を出たら、どこにいこうか」
と相談していた。
「あーあ」
これが私が描いていた家庭かと思うと、目の前が真っ暗になってきたのである。
翌日、子供たちを連れ、菓子折りを持って、彼らが傍若無人にふるまった家にあやまりにいった。
「申し訳ありません。破った障子は私が貼《は》り直します」
メリーちゃんを抱いた奥さんが、
「いいえ、結構です。素人の方にやっていただいても、うまくいかないでしょうし……」
といい始めると、息子が、
「よかったじゃん、おかあさん。やらなくてもいいってさ」
と横から口をはさんだ。
(ひえーっ)
おそるおそる奥さんの顔をみると、目がつり上がっていた。
「とにかく、結構ですから」
最後はいい捨てるようにして、彼女はドアを閉めた。
「ねえねえ、おかあさん。何のお菓子をあげたの。ねえねえ」
まだドアのむこうに奥さんがいるはずなのに、息子は大声をあげた。
「いいなあ、あのおばさん! お菓子もらってさ」
私はぐいぐいと子供たちの手を引っ張り、
「あんたたちがあんなことをしたから、おわびにいったんでしょ!」
「ふーん」
子供たちはよく意味がわかっていないようだった。夫にその話をしたら、
「おれが小さいときは、すごくおとなしかったらしいぞ。それはお前に似たんだ」
といったきりで、子供たちを叱《しか》ろうとしない。
「ひとこと、きつくいってやってよ」
「もう、子供たちだってわかってるよ」
子供たちに嫌われたくないものだから、逃げようとする。
「さっ、あいつらと風呂《ふろ》に入るかな」
三人で大騒ぎしながら、風呂に入っている声を聞きながら、私はむくれるしかなかったのだった。
それから公園で奥さんと坊やに会っても、彼らは挨拶《あいさつ》はするものの、おびえるような目つきで、
「それじゃ、失礼します」
といって姿を消した。
「おかあさん、すぐ帰っちゃったね」
まるで他人事のように話す息子に腹が立ち、
「あんたたちが、そういうふうにしちゃったんじゃないの」
と怒鳴っても、反省するどころか、
「おかあさんは、うるさいなあ」
とぶつぶついっている。
「もう、これから悪いことをしたら、おやつはないからね!」
「えっ」
子供たちの顔色が変わった。彼らはおやつを取り上げられるのが、いちばんこわいのだ。
「やだやだやだ、おやつちょうだい、おやつちょうだい」
二人はまるで練習したみたいに、同じようにわめきながら、私にまとわりついてきた。
「知らない。反省するまでそうするからね!」
「あーん、やだよう、やだよう。おやつちょうだいよお、おやつ、おやつ」
二人はまっ赤な顔をして、わんわん泣きわめいた。公園にいる親子がびっくりしてこっちを見ている。そのなかで仁王立ちになって、子供たちにすがられている私は、ものすごく目立った。だんだん子供たちの泣き声は、
「ぎゃーっ」
という絶叫になった。
「ちょっと、あなた」
初老の品のいい婦人が、男の子らしい赤ん坊を抱っこして近づいてきた。
「そんなに子供さんを泣かしたらいけませんよ」
「でも、いうことをきかないんです」
「相手は子供なんだから、ちゃんといいきかせればわかりますよ。そんなに泣かせるのはよくないわ」
「はあ」
「ささ、二人とも泣くのはやめて、お母さんのいうことを聞きましょうね」
婦人の姿を横目で見ていた二人は、優しい言葉をかけられても、泣きやむどころかますます、ぎゃーぎゃーと大声で泣いた。
「あら、困ったわねえ……」
どうしようもないことがわかった彼女は、赤ん坊をぎゅっと抱きしめ、静かに去っていった。この子たちだって、赤ん坊のときはまだ泣くだけだからましだった。私のことを罵《ののし》りもしなかった。あの上品なご婦人だって、かわいがっていた赤ん坊が大きくなって、
「死ね、ばばあ」
などといったら、ショックを受けるに決まっている。そんな日がやって来るなんて、彼女には想像もできないのだろう。
人の家にいって、やりたい放題のことをやるうちの子供は、近所でも評判が悪くなっていった。どこの家でも出入り禁止になり、
「あの子たちと遊んでいいのは、外でだけだからね」
と子供たちは母親にいいふくめられているようだった。それでも外でちゃんと遊んでくれるならいい。あるときなど、長男は一緒に遊んでいる子の三輪車をぶんどった。それも頭を一発殴って泣かせてだ。そしてその子がわんわん泣くのもかまわず、公園をいい気分で走りまわったついでに、転んで地べたで泣いている子の頭まで轢《ひ》いてしまった。もちろん親は半狂乱である。有名小学校を受験するとかで、
「これで頭が悪くなったらどうしてくれる。落ちたらお宅の子のせいだ」
と、一生分の嫌味をいわれたのだった。
さすがにその話を聞いて、夫も怒り、
「何ということをする」
と長男に往復びんたをくらわせた。さすがに長男も泣いたが、おんおん泣きながら夫の体をばんばん殴り返していた。ところが運悪くその一発が見事に急所に決まり、夫も一緒になって泣くはめになった。
日に日に子供たちは悪くなるし、私も疲れ果てていた。毎月のお客さんがなくなったこともあり、ホルモンのバランスが崩れているのかと、産婦人科にいった。診察した医者は、にこにこしながら、
「おめでとうございます。ご懐妊ですね」
といった。そんなはずはなかった。無防備ではなかったのに。もう一度、確認しても、
「間違いありません」
といわれた。今でさえ大変なのに、これでもう一人増えたら、いったいどうなるんだろう。思わず涙が出てきた。ハンカチを目に押し当てている私を見て、医者は、
「そんなに喜んでいる姿を見ると、私もうれしいですなあ」
と能天気なことをいう。私はすぐ立ち上がる元気もないまま、誤解している医者を目の前にがっくりするしかなかった。
女やもめに花が咲く
私の母はとてももてる。ものすごくもてる。四十五歳で私みたいな十八歳の娘がいるから、当然、中年のおばさんなのだけど、異様に男の人の受けがいいのだ。母は私が三歳のときに離婚した。だから私には父の記憶はない。それから母は会社に勤めて、私を大きくしてくれたというわけだ。
小学校のときは、授業参観に来たみんなの母親を見比べて、「ひでえブス」「センスが悪い」「すごい美人」とか品評会をした。私の母は男の子に誉めてもらったが、それよりも学校の男の先生に評判がよかった。独身の担任の先生に、
「みゆきちゃんのお母さんは、今度の参観日にはくるのかな」
「お母さんはいつも何時ごろ帰ってくるの」
などと、しつこくしつこく聞かれたこともあった。私はその先生が嫌いだったので、いつも、
「わかんない」
を連発していたのだが、母が参観日にやってくると、先生はぽーっと赤くなり、黒板を見るとき以外は、母のほうを見ていたような気がする。授業参観のあとの個人面談が終わって家に帰ってくると、
「先生はとてもあなたのことを心配していたわよ。『お母さんひとりで、よくこんないいお嬢さんをお育てになりましたね』っていわれちゃって、お母さん、うれしかったわ」
などといっていた。私は先生が母に好かれたいためにいっているのは、わかりきっていたので、腹のなかで、
(ちぇっ)
と舌うちしながらも、
「ふーん」
といったりした。家庭訪問のときは、母が休みの土曜日にやってきた。それも用もないのに何度もやってきた。母が、
「この子、算数がこのごろわからないみたいなんです。私が勉強をよくみてやれないから」
と相談すると、山のように参考書を持ってきて、
「これをやれば大丈夫です」
と胸を張った。参考書を見てげんなりした私は、ますます先生が嫌いになった。彼は私を無視して母と話していた。それを横目で見ながら、
(情けないなあ)
とあきれ、それ以来、彼が大嫌いになったのだった。
私が中学生になり、母がその分、歳をとっても、もてるのは同じだった。今度は同級生の男の子まで、
「おまえのお母さんって色っぽいなあ」
といいだした。そして知らないうちに母が銀座の一流クラブに勤めているという噂《うわさ》が流れ、それをみんなが信じてしまったくらいなのである。最初は母が美人だといわれるとうれしかったが、だんだん母ばかりが誉められて、私は無視されていることに気がついた。男の子は、
「お母さんは色っぽいなあ」
というものの、誰一人として、私に、「かわいいね」「きれいだね」といってくれなかった。近所の口の悪いおばさんなどは、私が小さいときは、
「あんたもお母さんに似て、そのうちきれいになるからね」
と私の頭をなでながらいった。小学校の高学年のときは、
「中学にいったら娘さんらしくなるよ」
といった。中学に入ったら、
「もうちょっとだね」
といった。しかし今は何もいわない。私はおばさんの予想を見事に裏切ったんだと思うのだ。
高校受験のとき、私は初めて別れた父に会った。彼は、
「大きくなったねえ、別れたときはまだ、よちよち歩きだったのに」
と目にうっすら涙を浮かべて私のことを見ていた。傍らの母も、ハンカチで涙をぬぐっていたのだが、普通は美しい再会の場面になるはずが、私はしらーっとしていた。そして腹のなかで、
(お母さん、どうしてもっと男の人を選ばなかったの)
と叫んでいた。父はゴリラみたいな顔をしていた。ごつくて鼻の穴がおっぴろがっていて、おせじでも洗練された顔とはいい難かった。そして私は父にそっくりなのを知ったのである。
「学校は好きなところを受けていいよ。学費のことは心配しないで、お父さんがちゃんとするから」
彼は優しくそういってくれた。とてもいい人だった。それとは別に、私の心は晴れなかったのだ。
彼に会うまで、頭のなかで、まだ見ぬ父のことを想像するのが私はとても好きだった。別れたとはいえ、母のような女性を妻にしていた男性だから、モデルみたいにハンサムでスタイルもいい人に違いないと、ベッドのなかでにたにたしていたのに、実際にやってきたのは、ジミー大西をちょっと品よくしたみたいな人だった。それでもうまく母の顔面がブレンドされていればよかったのに、どこからみても私は父から生まれたとしか思えない。これで私は自分の顔面の限界を感じたのであった。
一方、高校生になった娘を差し置いて、母はどんどんきれいになっていった。
「今日、また電車のなかで痴漢にあったのよ。こんなおばさんをどうして触るのかしら」
そういって母は自分の姿を鏡に映して首をかしげていた。実は同級生の男の子が、
「おまえのお母さんとだったら、お願いしたい」
というのを聞いて、私ははらわたがにえくりかえったばかりだった。私は彼が好きだったのに、母よりも二十七歳も若いのに、全く相手にされていなかったのである。ひどい奴になると、
「おまえんちに遊びにいっていいか」
というから、ちょっと私に気があるのかと思って家に呼ぶと、母になついていった。そして次の日、学校で、
「おれ、お母さんにお茶いれてもらったぞ」
と自慢していた。ほとんど私は彼らに利用されているにすぎなかった。もちろん母は彼らに恋愛感情を抱くはずもなく、私のボーイフレンドだと思っていたのだが、私と彼らの会話が全くはずまないのを見ては、きょとんとしていた。
私は母が再婚してもいいと思っている。みんなに自慢できるような条件を備えた男の人も、母ならばつかまえられる。この歳にしてあの美貌《びぼう》をもってすれば、男性だったらみんなころっとまいってしまうだろう。おまけに娘からいうのも何だが、性格だって悪くない。母に玉の輿《こし》に乗ってもらって、ぴったり私がくっついているのが理想である。そうなったら母だって働かなくてもいいし、私にもお嬢様としての、洋々たる未来が開かれることになる。もしかしたら彼には独身の息子が一人いるかもしれない。そして私と恋に落ちるのだが、「血はつながってないとはいえ、兄妹なのだから、愛し合うなんていけないことだよ」と優しくさとされて、私は泣く泣く別のハンサムな青年実業家と結婚する。そんな夢をみながら、私はベッドのなかで、
(いやーん、本当にそうなったらどうしよう)
と身もだえていたのであった。
だから私は、母が、
「男のお友だちを連れてきてもいいかしら」
といったときも、
「うん、いいよ」
と一も二もなく賛成した。
(きっといかにも紳士といった感じの、素敵なおじさまが、遊びにくるんだわ。そうしたら将来、私は義理の娘になるかもしれないんだから、印象をよくしておかなくちゃ)
そう思った私は、念入りに髪をブローして、あんまりきばった格好でお迎えしても場違いなので、新品のセーターとスカートを着用することにした。約束の時間になって、その男性が姿を現した。
「娘のみゆきです」
母に紹介され、
「こんにちは」
とお辞儀をして顔をあげたとたん、私はそのまま、クラッとして倒れそうになった。そこにいたのは、紳士でも何でもない、ただのらくだみたいなおやじだった。おまけに薄茶色のVネックのセーターの下に、同色のハイネックのセーターを着ているものだから、よけいらくだっぽい。
「おお、おお、みゆきちゃんかね。お噂《うわさ》はかねがね。ほお、ほお、いい子だねえ」
話すことばもじじむさい。おまけに話しながらいつまでもぺこぺことお辞儀をし続けている。私はいっきに落ち込んで、
「どうぞ、ごゆっくり」
といったまま部屋にこもり、外にでていかなかった。
「あの方ね、退職なさったんだけど、去年、奥さんを亡くされたばかりなの。会社にいらっしゃるとき、お母さん、とてもお世話になったのよ」
母はそういっていたが、私はやっぱりあのらくだおやじは嫌だ。毎日、
「ほお、ほお」
などと相槌《あいづち》をうたれたら、気分が暗くなる。それからしばらくたって、母はまた男友だちを連れてくるといった。それでちょっと気分も晴れてきた。お母さんも結構やるものだ。あのらくだおやじは単なる前座で、これからどんどんグレード・アップしていくんだろうと、また胸がわくわくしてきたのである。
ところが、次にやってきたのは、赤ら顔のうさんくさいおやじだった。おばあちゃんの家の物置の片隅で、このおやじにそっくりな、ほこりをかぶった木彫のほてい様の置物を見たことがある。こいつは家に一歩足を踏み入れたときから、鼻息が荒かった。母がお茶を持ってくると、
「やあやあ、すまんね。ありがとう、ありがとう」
とわざとらしく大声をだし、手伝うふりをして、母の手をにぎったのを私は見逃さなかった。そして母が目の前に座ると、おやじの目は母の脚にむけられ、彼の視線は母の顔と胸と脚をいったりきたりしまくっていた。前のらくだおやじのときは、部屋にひっこんだ私だが、今回は、私が同席していないと、このヒヒおやじは母を押し倒しかねないと思ったので、じーっとにらみつけてやった。それを悟ったおやじは、ちらちらと私のほうを見て、邪魔くさそうな顔をした。
「ん、みわちゃんっていったかな」
「みゆきです!」
「おー、ごめんごめん。名前を間違えたら、おじさん嫌われちゃうよなあ。そうだ、おこづかいをあげよう。ほーら、服だってCDだって何でも欲しい年頃だろう、な、な」
そういっておやじは、がまがえるみたいにふくらんだ財布から、一万円札を取り出し、私の掌《てのひら》にのせた。
「まあ、そんな、いけませんわ」
母がうろたえると、おやじは、
「いやあ、いいのいいの。お嬢さんにも好かれなくちゃいけなくなるからな、これからは。ふっふっふ」
と意味ありげにふくみ笑いをした。私はちゃっかりお金はもらっておいたが、ヒヒおやじが帰ったあと、
「お母さんは男の趣味が悪いよ」
と怒った。
「そうかしら。みなさん優しくていい方よ。そういえば、ちょっと個性的かもしれないけど」
個性的すぎる!
「情けないのと横柄なのと、極端すぎるのよ。もっとさあ、こう、穏やかで趣味のいい人はいないの。あれじゃひどすぎるわよ」
と文句をいった。
「そうかしらねえ」
母はふにおちない様子ではあったが、おとなしく私のいうことを聞いていた。そしてらくだおやじとヒヒおやじの両方から、プロポーズされていることも白状した。
「ひえーっ。だめだめ、あいつらはぜったいにだめ!」
「そうねえ、ちょっと難しいかもしれないわね」
あんな「らくだみたいな」なんていったら、らくだに悪いようなおやじと、あのいやらしいヒヒおやじのどちらかを、お父さんと呼ばなきゃならないのなら、母と二人だけでいたほうがずーっといい。
「ねえ、もっとかっこいい人はいないの」
「かっこいいかどうかわからないけど、もう一人いることはいるの。その人にもプロポーズされてるんだけど……」
母はそういって、ぱちぱちと瞬きをした。とても中年の女とは思えない、初々しいしぐさである。これでおやじたちは、ころっとまいってしまうのかと、私は母の姿を眺めていたのであった。
らくだおやじも、ヒヒおやじも、母よりも十も二十も年上である。そんな人なんて私からみたら、じいさんだ。
「ねえ、お父さん、これ買って」
などとおねだりして、首にしがみついたら、らくだおやじだったら、そのまま、
「きゅー」
といって死んじゃうかもしれない。ヒヒおやじだったら、
「おお、そうか、そうか」
舌なめずりしながら、私の体を触りまくり、
「ついでに娘のほうもいただいちゃうか」
と、とんでもないことを考えないとも限らない。私は二人とも嫌だし、母も彼らのことを嫌いではないが、大好きというわけではないようだ。
「いいわよ。あんなのふっちゃってかまわないよ。お母さんにはもっといい人がいるわ」
「そうかしら」
母はそういって、ちょっとにっこりした。
娘として期待が持てるのは、もうひとりの穏やかな男性である。話によると理系の大学の教授だという。
「いいじゃん、いいじゃん」
大学教授なら教養もあるし、若い人に囲まれているから、あんならくだおやじやヒヒおやじみたいに、若者をぎょっとさせるようなこともしないだろう。もしうまくいったら、母は大学教授夫人で、私は教授の娘だ。なんだかとっても成績がよくなったような気がする。教授なら教え子もたくさんいるし、そのなかの有望な青年と、さりげなくお見合いなんかしたりする。そしてその青年も、のちに大学教授となる。教養もあり人望もあり、そして社会的な地位もある。そんな人の妻になる可能性は大である。またまた私はベッドのなかで、妄想をめぐらし、
「もう、そんなうれしいことになったら、どうしよう。こまっちゃうわ」
といいながら、次の出会いに大いに燃えたのであった。
待望の大学教授が家にやってくる日になった。母の態度は、らくだとヒヒのときとかわらなかったが、私の意気込みは違った。今度は母も私も幸せがつかめるような気がしてきた。いいお嬢さんにみえるように、ふだんよりもおとなしめの服にして、鏡をみて笑顔の練習もした。頭にリボンなんかも結んじゃったりした。私は母以上に気合いが入り、準備万端整えて、彼が来るのを待っていたのである。
「おじゃまします」
家に入ってきたのは、母のいったとおり、見るからに穏やかそうな紳士だった。らくだおやじも一見、穏やかそうにはみえるが、実は情けなかった。情けない奴はおとなしいので、ちょっと見は穏やかそうにみえるのである。しかし彼はそうではない。純然たる穏やかさを持っていたのだ。着ている服も目をみはるようなものではないが、みだしなみに気をつけているのは十分にわかった。まずは八十点である。
「こんにちは、イシダと申します。きょうはお言葉に甘えておじゃますることにしました」
私に対しても、丁寧な挨拶《あいさつ》をしてくれた。感じがいい。九十点。見るからに実直そうな、研究一筋といった感じの人である。
(この人だったら、お父さんと呼んでもいいかもしれない)
らくだやヒヒのときとはうってかわって、私は積極的に二人の会話に参加した。予想したとおり、彼は話題も豊富で教養にあふれていた。
三人はとてもうちとけた。何だかとてもうれしいな、と思っていると、彼は、
「あっ、そうそう」
といいながら、持ってきた鞄《かばん》の中から、紫色の袋を取り出した。
「美佐子さん」
彼は母にむかって呼びかけた。
「私ね、練習してやっと曲が吹けるようになったんですよ。家で一人で吹いていても、なにか張り合いがなくてねえ。ぜひ、美佐子さんとみゆきさんに聞いてもらおうと思いまして」
「イシダ先生は、尺八をやってらっしゃるの」
母は私にいった。
(えっ……、尺八……)
「先生、尺八って難しいんですってねえ。音が出るまで、とても時間がかかるそうですね」
黙っている私にあせったのか、母が彼に声をかけた。
「いやあ、それが思いのほか上達しましてねえ。先生にも筋がいいと誉められました」
彼はうれしそうにいい、口元に尺八をもっていった。鼻の下をのばしている顔が、妙におかしい。それだけでも笑いそうになるのに、大きく息を吸い込んで出た音は、
「ぴよろ〜ん」
というものすごく間抜けな音だった。吹きだしそうになるのを、こらえていたが、尺八から出るのは、ぴろろーっという情けない音ばかりだった。
「ぴろ〜ぴろ〜、ぴゅろろろろ〜」
必死に聞き取りをした結果、どうやら「荒城の月」を吹いているらしかった。ところが突然、オクターヴ上の音が出たり、耳をつんざくような音が出たり、なんだかものすごいアヴァンギャルドな演奏だった。とても人に聞かせるような、特に好きな女性の前で聞かせるようなものじゃないと思った。
「どうも、お粗末さまでした」
吹き終わって彼は一礼したが、本当にお粗末だった。
「そこまでになるのも、大変なのでしょうねえ」
母は本当に男の人を気持ち良くさせるのがうまい。
「そうですか、気にいっていただけてよかったです」
気にいってなんかいねえよ、といいたかったが、彼は満面に笑みを浮かべて、とってもうれしそうな顔をした。
「実は、もう一曲、練習してきました」
(げげっ)
「『佐渡おけさ』を吹きます」
彼はまた、鼻の下をのばして尺八をくわえた。鼻の穴がものすごく縦長になっている。
「ひょろ〜、ひょろ〜、ひょろ〜ぴー!」
ときおり耳をつんざくような、とんでもない「ぴー!」という音がはいるのは、「荒城の月」のときと同じだった。おまけにとてもたどたどしい。まるで小学生が初めて縦笛を吹いてみたようなものだった。
「ぴょら〜、ぴょらららぴー」
彼は首をふりながら熱演していた。ちらりと母を見ると、一小節が終わるごとに、うんうんとうなずいて真剣に聞いてあげている。
(あーあ)
私はあくびをすることもできず、ただその場にかたまっていた。頭のなかの大学教授の娘の姿はだんだん遠ざかっていった。延々と続く、マグマ大使を呼んでいるような、尺八の音を聞きながら、私は母とのこれからの人生について、あらためて考えることにしたのであった。
同じ穴の貉《むじな》
今日、お父さんの浮気が発覚した。以前から母は、おかしいといっていたが、私は、
「あんなフランシスコ・ザビエルみたいな、かっぱ頭のお父さんが、女の人にもてるわけがないじゃない」
と、とりあわなかった。傍からみても身内からみても、フェロモンを発している人が浮気をするもんだと思っていたのである。ところが、さすが長年連れ添った妻の勘は鋭い。娘の私があれだけ、
「そんなことないんじゃないの」
といったのにもかかわらず、きっちりと証拠を握ったのであった。
「ミキちゃん、やったわ。これでお父さんも観念するわ」
母は興奮していた。夫に女性がいて悔しいとか、悲しいとかいうよりも、自分の感じていたことが真実だったので、自信満々の勝ち誇った顔だ。
「ほーら、みてごらん」
母は胸を張ってテーブルの上の写真を指さした。そこには後ろ向きの男が写っていた。手にとってよーくみると、よれたグレーの背広といい、かっぱ頭といい、父にとてもよく似ている。写真は日中、ラブホテルの前で撮られていた。
「…………」
ただただ絶句するだけの私に、母は別の一枚を見せた。それは正面をむいた男女二人の姿だった。ちょうどホテルから出てきたところらしい。それは父に間違いなかった。満面に笑みを浮かべているのが、娘としてはとても情けない。女性のほうは細身で小柄で、ごくごく平凡な顔だちの、三十歳すぎという感じの人だった。
「ねっ、ねっ、これでお父さんもいい逃れはできないわ」
母は腕を組み、まるで悪玉の大親分みたいに、「かっかっか」と笑った。
「これ、全部お母さんが撮ったのよ」
彼女は得意そうにいった。
「えっ、どうやって」
「ずっと尾行してたの。おかしい、おかしいっていったって、あんたは全然とりあってくれなかったじゃない。お母さんは絶対に変だと思ってたのよ。探偵社にたのもうかとも思ったんだけど、お金ももったいないし、暇だからやってみたの。お母さん、結構こういうのが好きなのよ。これだけ証拠があれば、もうこっちのもんだわ。あたし、探偵の才能があるかもしれないね」
母は父の会社の近くで張り込んでいたという。それも気づかれてはまずいというので、コンビニで買ったサングラスをかけ、マスクをかけて変装した。そしてその姿でずーっと会社の前の喫茶店にひそんでいたのである。母は父の相手は素人《しろうと》に間違いないと決めていた。というのも父の給料が少ないので、玄人《くろうと》を相手にするような甲斐性《かいしよう》はないだろうとふんだからだった。そして現場の証拠写真を撮るために、写ルンですを片手に持ち、父の行動を監視していたのであった。
「そうしたら、真っ昼間、二人が会社から出てきたの。そして後をついていったら、ホテルに入っていったわけよ」
「どこで撮ったの」
「このへん、ラブホテル街だから、むかいのホテルの塀の陰から撮ったのよ。こうやってしゃがみこんで」
母は大きなお尻《しり》でよっこいしょとしゃがみこみ、カメラを構える動作をしてみせた。
「入るところだけだといい逃れをされるから、出るとこも撮らなきゃならないから、ずっと待ってたの。お客さんに嫌な顔されちゃった」
「当たり前じゃない」
「あーら、悪いことをしてるのは、お客のほうよ。私は正しいことをしているんだから悪くない!」
母はそういってまた胸を張った。もともと鳩胸だから、ほとんどのけぞっているようにみえる。
「写真が撮れたからうれしくってねえ。すぐスピード・プリント・サービスに出して、現像してもらったのよ。なんだかわくわくしちゃうわね、こういうの。ふふふ、さあ、どうやって締め上げてやろうかしらね」
ぽきぽきと指を鳴らしながら、母はにたっと笑った。今夜、繰り広げられるであろう、夫婦の戦いを考えると、私はその場でライヴで見たいという思いと、我関せずで自分の部屋にこもっていたいという思いとが交錯し、何となく気分が落ち着かなかったのであった。
父は私たちがこんな話をしていたとは、全く知らずに、いつものようにのそーっと帰ってきた。母は何くわぬ顔で玄関に出迎えにいった。
「遅くまでご苦労さまですねえ」
「今日は給料日じゃないぞ」
「あーら、そんなこと、わかってますよ。いろいろ毎日、大変だなあって思って」
「なんだ、今ごろそんなことがわかったのか」
父は母の言葉を真正直に受けとり、いばっていた。
(あーあ、あんなこと、いわなきゃいいのに)
自分の部屋にこもるのはやめて、戦いをライヴで見ようと決めた私は、いつ決戦の火蓋《ひぶた》が切られるかと、不安なような楽しみなような複雑な心境だった。
父はいつものとおり、食事はせずに熱いお茶だけを飲んだ。
「晩御飯はどういう人と食べるんですか」
「どうして」
「いつも食べないから、どうしてるのか気になって」
「そりゃ、接待のときもあるし、会社のみんなと行くときだってあるさ」
「へえ。個人的に女の人と行くこともあるんでしょう」
母はにたにた笑いはじめた。
「えっ、そりゃ、会社には女の人もいるからな。そりゃ、行くさ」
私と母は父の顔が変わるのではないかと、じっと観察していたが、彼は母の質問にもしゃあしゃあと答えていた。もうちょっとうろたえれば可愛気《かわいげ》もあるのに、そんな父の姿はまさしく図々しいおっさんの姿であった。母は急に黙って席をはずした。
「いったい、どうしたんだ。何か変だぞ」
父は首をかしげながら、ずりずりとお茶をすすり、へっくしょんとくしゃみをひとつして、新聞を読み始めた。
手に写真を持った母が、どすんと音をたてて椅子《いす》に座った。
「何だその座り方は。礼儀を知らない娘っ子じゃないんだぞ。親しき仲にも礼儀ありだ」
父は横目で母をにらみつけた。
「あら、失礼。それじゃあなたは、礼儀を知っていらっしゃるわけね」
「そんないい方はないだろう」
面白くなさそうに父はつぶやいた。
(おー、とうとう始まる)
私はごくりとつばを飲み込んで、事の成り行きを見守った。
「そんないい方もしたくなるんですよねえ」
そういいながら母は写真を、父の目の前にぱしっと音をたてて置いた。
「んっ」
面倒くさそうにちらりと写真を目にした父は、次の瞬間、
「ぐっ」
と声にならない声を発し、口を真一文字に結んだまま、呆然《ぼうぜん》と母の顔を眺めた。
「これは、いったいどういうことでございましょうか。礼儀をご存じのだんなさま!」
戦いは母のミサイル攻撃から始まった。
「えっ、どうって、これ?」
「ほっほっほ。あなたがいちばんご存じでしょ。この女性がどなたで、この男性がどこのどちらさんか」
母はそういいながら、うれしくてたまらないといった様子で、体を揺すっている。
「うっ」
さっきまでのいばりくさった父の顔は消え、顔色がどんどん青ざめていった。
「さあ、さあ、説明していただきましょ」
ここで父がパトリオット・ミサイルで応戦しないと、負けるのは目にみえている。父に勝利はあるのだろうか。
「うーむ」
しばらく父は写真を凝視してうなっていた。そしてふっと彼は黙った。腹をくくったのかもしれない。私は沈黙のあとの彼のおわびのことばを待った。やっぱり、テレビ・ドラマの浮気発覚場面みたいに「すまん、悪かった」というのかしらなどと考えていると、突然、
「違う!」
という父の絶叫が家のなかに響いた。
「違う! ちがーう。これはおれじゃなあーい」
「はあ?」
私と母はあっけにとられた。このかっぱ頭といい、背広といい、ネクタイの柄といい、弁解の余地のない証拠写真をつきつけられて、父は「違う」といった。これも攻撃の一種ではあったかもしれないが、ミサイルで攻撃されたのに、竹槍《たけやり》で襲いかかるようなものだった。しかし、こちらにしてみれば思ってもみなかった応戦で、さすがの母も、一瞬、ひるんだ。
「よく見てよ。このハゲ頭、背広とネクタイの柄。どこをどうみたら違うっていえるのよ」
「違うったら違う。これはおれにとてもよく似た別人だ!」
父はそういって、新聞で顔を隠し、
「話にならん」
とぶつぶつと口のなかで文句をいっていた。
「私、ずっと張り込んでいたんです。会社のむかいの喫茶店で。午後三時半、この女の人と一緒に会社から出てきて、そのあと、別々にこのホテルに入ったでしょう。私、ぜーんぶ見ていたんです」
「ふん、そんな嘘《うそ》、信じられるか」
父は母が何をいっても、「その男はおれじゃない」としかいわなかった。そのうえ、
「そんな下品なことをするなんて、人間として許さんぞ」
と怒る始末であった。
「どーして、どーしてそんなことがいえるわけ。素直に認めれば許してあげようと思ったのに、あなたがそんな態度なら、こちらにも考えがあります」
母は憤然と席を立った。父は最初は無視していたが、ちらりと母の後ろ姿を眺めて、ため息をついていた。
「ミキはお父さんを信じてくれるな」
父は私にすり寄ってきた。母のいうとおり、素直に「ごめんなさい」とあやまれば、許してやっていいかなと思っていた。しかしあんな態度では、私と母はばかにされ、裏切られたような気になるではないか。
「さあね」
「どうして」
「どうしてって、これお父さんに決まってるじゃない。ずるいよ、そんなの。男らしく認めなさいよ」
「うるさい。なんだお前まで。あんな卑怯《ひきよう》な手を使う奴のことなんか、信じちゃいかん。あれは別人だ!!」
「卑怯とは何よ。卑怯なのは誰よ。私たちに嘘をついたりして。この写真はお父さんじゃないの」
私は父の目の前に写真を突きつけていった。それでも彼は、
「別人だ!」
といい張り、そのうえ母のことを、
「隠し撮りする下品な奴」
と罵《ののし》った。私はかーっと頭に血がのぼり、母と同じように憤然と席を立った。
母の部屋のふすまを開けると、彼女はぶすーっと正座をしていた。
「とんでもないわよ、お母さん」
声をかけても母は黙っている。
「どうする? あのまま知らんぷりをするつもりなんじゃないの。お母さんを悪者にして」
「許せません!」
きっぱりと母はいいきった。
「あんなにひどい人だとは思わなかった。とことん愛想がつきたわ」
私もそうだ、そうだといいたくなった。あの態度は家族に対する裏切りである。「ごめんなさい」と反省すれば、家族としてまたやり直しができるのに、相手がその気ならば、こちらも考えなければならない。
「よしっ」
母は力強くすっくと立ち上がり、どすどすと音をたてて廊下を歩いて、父のところへ歩いていった。
「この人はあなたと違うんですね!」
父は黙ってそっぽをむいている。
「本当に違うんですね!」
答えはなかった。
「それならば、こちらも考えさせていただきます」
母の再度の攻撃で、戦いはいちおう終わった。私も父とは話す気もなく、ベッドにはいってもあきれかえって、なかなか寝付けなかった。
翌日、大学の授業がなかった私が、いつもより遅く起きると、母がでかける準備をしていた。
「頭にきたから、朝御飯をつくってやらなかったわよ」
「いいよ、いいよ」
私はうなずいた。もしも私が結婚して、夫にそんなことをされたら、同じようにすると思う。きのうの夜の一件で、うちのヤマザキタツオという人物は、夫でも父でもない、嘘《うそ》つきの情けない男になった。
「どこにいくの」
「ま、帰ってきてから話すわ」
母はそういって、別にがっくりした様子もみせずに、出かけていった。心なしか父の弱点をみつけたときから、前よりもはつらつとしているようにも見える。家のなかに一人残された私は、父と一緒にホテルに入った女性のことを考えていた。ごく平凡なおとなしそうなあの女の人は、どうしてうちの父とあんなことをする気になったんだろう。そうなると父がうまいことをいって、彼女を騙《だま》したのかもしれないなどと考えはじめ、ますます父に対して不信感がつのってきたのであった。
夜、母が帰ってきた。
「さあ、さあ、どうぞ」
ぱたぱたというスリッパの音と共に、母が姿を現した。
「さあ、ご遠慮なく」
「はい、お邪魔します」
小さな声がして、女の人がはいってきた。何とその人は父と一緒にホテルに行った、あの女性であった。何て大胆なことを母はするんだろう。いくら父にしらをきられたからといって、浮気相手を連れてくるなんて、とんでもない核戦争級の暴挙ではないか。さすが探偵志望だけあって、すごい執念だ。いったいどうなるんだろうかと、彼女と母をみていると、別に険悪な雰囲気ではない。それどころか穏やかに話をしている。
「お宅までお邪魔する立場ではないと思ったのですが……」
彼女がいいよどむそばから、母が、
「あたしが無理をいって来てもらったのよ」
といって、にこっと笑った。
「今日は晩御飯を食べていって下さいね」
母も別に嫌味をいっているわけではなく、いそいそと台所に立っていた。
彼女は三十七歳で、父と同じ会社に勤めている人だった。ご両親もすでに亡くなり、天涯孤独でひっそりと暮らしている人だった。きちんとした感じのいい人である。ますますこんな人がどうして父とホテルになんか行ったのか、信じられない。極力、父の話題は避けるようにして、女三人で仲よく晩御飯を食べた。
「こんな家庭料理を食べるのは、久しぶりです。自分ひとりだと、ついつい外食ですませてしまうので」
彼女はそういって、本当においしそうに御飯を食べた。私も母も何となくじーんとした。この人、いい人だなと思った。
「おたんこなすが帰ってくるまで、いてくださいね」
母がそういうと、彼女はこっくりとうなずいた。女三人でああだこうだと世間話をしていると、ばたんとドアが閉まる音がした。
「おたんこなすが帰ってきた」
父は仏頂面で現れた。そして私たちと一緒にいる彼女を見つけたとたん、目をまん丸くしてその場にかたまってしまった。
「タケダミユキさん。私のお友だちなの。あなたと同じ会社にお勤めのようなのよ」
「そ、そういえば会社のなかでお会いしたような……」
父はしどろもどろになっていた。
「とっても楽しいわあ。どう、仲間に入らない?」
母はにこにこして父を誘った。
「いや。腹具合が悪いから、もう寝る」
父は蚊のなくような声でいって、そそくさとこの場から逃げようとした。しかし母は彼の首根っこをつかまえ、
「まあ、いいじゃないの!」
といって、無理やり椅子《いす》に座らせた。
「本当に、楽しいわねえ。さ、じゃんじゃん飲みましょう」
母はすごいペースで水割りをあおった。タケダミユキさんも飲んだ。ほとんど二人はへべれけ状態である。武器は竹槍《たけやり》しか持っていない父は肩をすぼめ、背中を丸めてお茶を飲んでいた。
「おい、かっぱ」
母が父にむかって怒鳴った。
「はいっ」
「どうするつもりだよ。聞いたところによると、今までのホテル代を全部彼女に借りているそうじゃないか」
父はとことん情けない奴だった。
「いや、あの、その」
「『あの』じゃなあい!」
母は両手をふりまわしてわめいた。
「そうだ、私の体と金を返せ」
おとなしそうに見えた、ミユキさんまでわめきはじめた。父はすっかりおびえて、しゅんとなっている。私のほうにすがるような視線をむけてきたが、完璧《かんぺき》に無視してやった。
「ずるいぞ、嘘つきかっぱ」
「そうだ、そうだ、ずるいんだあ」
母とミユキさんは、きゃははと笑いながら父の悪口をいった。
「もうこの男とはつき合うつもりはないぞ」
「そうだ、やめろ、やめろ。私だってこんな誠意のない奴とは別れるぞ!」
また二人はきゃははと笑った。
「慰謝料をたんまりとって、丸裸にしてやれ」
「そうだ、そうだ」
父は小さな声で、
「近所に聞こえるからやめなさい」
とたしなめたものの、二人に、
「うるさい!」
と反撃されてまた黙ってしまった。
「真っ裸で追い出してやるぞ」
母がわめいた。
「そうだ、そうだ」
ミユキさんもわめいた。誰も邪魔する者がいないなかで、一人の男に不愉快な思いをさせられた、二人の女の思いは一致していた。すでに夜中の十二時をまわっているというのに、彼女たちは、
「慰謝料がっぽり、かっぱは丸裸」
と即興の歌をつくり、いつまでもいつまでも合唱していた。そして私はその前でがっくりと首をうなだれている父の姿を見ても、
(もっと、やってやれ)
と冷たく見放していたのであった。
そうは問屋が卸さぬT
私と彼は高校の同級生である。ひとことでいえば、彼は人畜無害。外見はいちおう男でありながら、まるで男を感じさせない、全く危険を感じないタイプである。当時、私が彼とつき合っていることは黙っていたので、友だちはクラスの男の子の品定めをしたときに、彼の番になったら、
「あの人と、裸でひとつの布団に入っていたって、ぜーんぜん平気よね。何も起こらないような気がするわ」
などといった。とりあえず、
「そうよね」
といって笑っていたが、そのときすでに彼とひとつの布団に入っていた私は、腹のなかで、
(ふざけんじゃないわよ)
とムッとした。彼は、女生徒に不安を与えない、素朴な人だった。少なくとも私はそう思っていた。しかし女の子たちは彼に、大胆にも「宦官《かんがん》」というあだ名をつけ、
「宦官のてっちゃーん」
と大声で彼を呼んだ。彼は一瞬、ぎょっとしたが、怒るどころか、
「やめてくれよう」
と困ったような顔をする。それでも彼のことなんか無視して、
「宦官のてっちゃーん、何してんの」
とわざと大声をあげると、彼は真剣な顔をして走り寄ってきて、
「たのむからさあ、やめてくれよう」
と、女王様のようにいばっている女の子の前で、お願いする始末だった。
卒業した後、私は彼とつき合っていることを、友だちに公表した。
「つき合ってたって、絶対、手なんか握らないでしょ。ねっ、ねっ、そうでしょ。あの人、そんなことできそうにないもんね」
彼女たちは、自分たちが勝手に宦官などといったくせに、まるで彼が本当にそうであるかのようにいった。
「そんなことないよ」
控え目ながら反論すると、また彼女たちは目を輝かせ、
「えーっ、それじゃ何したの? ねえ、ねえ」
としつこくつきまとってきた。ここで詳しく話すと、また大騒動になると思った私は、
「もう、いいじゃないよ」
といって、ごまかした覚えがある。
私が短大にいき、彼が大学に入ってからも、相変わらずおっとりしていて、まるで坊さんと一緒にいるみたいだった。あまりに怒らないのに腹が立って、一度、彼がアルバイトをして買ったばかりの腕時計を取り上げ、公園のベンチの脇《わき》にあった石碑に叩《たた》きつけたことがある。さすがにそのときは、「あっ」と叫んであわてて腕時計を拾い上げたが、じっと腕時計をみつめているだけで、何もいわなかった。あやまっても、許してくれないかもしれなかった。しかし彼は、
「仕方ないよ」
といい、何ごともなかったかのように、その後を過ごしたのだった。
「あんた、それは、よほどの大人物かアホだよ」
友だちはそういった。どう見ても、外見からは大人物とは思えない。それじゃアホなのかしらと情けなくなったが、男性に暴力をふるわれたり、泣かされたりした女性の話を聞くたびに、
「宦官《かんがん》といわれても、平穏なつき合いのほうがいいわ」
と思ってきたのである。
私には父親はいない。生まれたときからいないのである。当時、ホステスをしていた私の母が、家庭のあるお客さんの子供を妊娠した。それが私である。羽振りのいい人で、子供を育てなければならない母のためにと、バーを一軒出しても、まだ余りあるお金をくれたあと、病死したのだそうだ。それから母は一軒だった店を三軒に増やし、マンションを一棟建て、今では女実業家として君臨している。
「あなたのお父さんは、とにかく格好のいい人でねえ。まるで俳優みたいだったのよ。教養もお金もあって、優しくてねえ。あんなに素晴らしい人はいなかったね」
母は父のことを話すといつも、うっとりとしていた。
「ふんふん」
とうなずいて話を聞いていると、母はだんだん忘れていた過去がよみがえってくるらしく、次には怒り始める。
「お父さんの母親が突然やってきたこともあったわよ。私がお腹が大きいのを見て、『あんたみたいな女は人間のクズだ』っていったの。おまけに私がぽんぽんと物をいうもんだから、『こんなきつい性格の女のどこがいいんだ。あの子には大学出の優しい嫁がいるのに』ともいわれたんだったわ。あー、思い出しても悔しい……」
そしてその怒りはなかなかおさまらず、こうなると私は母をひとり置いて、自分の部屋に避難するしかないのであった。
そんな母でも父の悪口をいったことがなかった。だから私は女の人に優しい男の人がいちばんだと思っていた。友だちの彼はかっこよかったが、自分はすぐ浮気をするくせに、彼女の男友だちのチェックは厳しく、何でもないのに、
「おまえはあいつと、浮気しただろう」
としつこく追及した。彼女も怒って、
「それじゃ、あなたはどうなのよ」
と反撃すると殴った。やりたい放題の野蛮人でもあった。宦官のてっちゃんにはそんなところはみじんもなかった。そこだけでも私には、安心できる人だったのである。
おっとりとあまり刺激がないまま、お互いが社会人になっても交際は続き、あるとき、とうとう彼は、
「結婚しようか」
といった。私は十分、うれしかったが、ひとつ問題があった。それは私は小さいときから、母に、
「あんたは養子をとるんだからね。お嫁にいくんじゃないのよ。そうしないと、お父さんが残して、お母さんが増やした財産をひきつぐ人がいなくなるんだからね。適当な人がいなかったら、結婚することはないのよ。一生、食べられるくらいのものはあるんだから」
といわれていた。どうでもいい男と結婚するくらいなら、一人でいろ。これならという男がみつかっても、何をさておいても、養子にきてくれるのが第一条件。それ以外の結婚は認めないと釘《くぎ》をさされていたのである。
「お母さんが、こういってるの」
事情を話すと彼は、
「僕はかまわないけど、うちの親にも聞かないと」
と口ごもった。彼には妹さんが一人いる。普通のサラリーマン家庭である。
「もし反対されたら、どうしよう」
「うーん、まだわからないからなあ」
彼は即答を避けた。そんなとき頭に浮かんだのは、友だちのひとことだった。
「優しい男っていうのは、優柔不断な人が多いから、ここぞというときには、役に立たないのよね」
もしかしたら私の結婚は、「ここぞ」である。私は彼と結婚したいし、家庭の事情で別れるのは嫌だ。結婚した友だちが、
「あんたね、結婚は当人同士の問題だっていうけど、あれは嘘《うそ》よ。未だに親とか家が関係してくるんだから」
といったのを思い出した。ひとり娘の彼女は、代々続いている商家である自分の家を守るために、交際していた男性と泣く泣く別れた。相手も代々続いた商家のひとり息子だったからである。そして親にいわれるとおり、すべての事情を呑《の》み込んでいる男性と見合いで結婚した。前につき合っていた彼は、現代風のかっこいい男性だったのに、結婚した相手は、まだ二十代だというのに、だんなを絵に描いたようなおっさんくさいデブだった。結婚式で両親と新郎が満面に笑みを浮かべていたのに、彼女だけが浮かない顔をしていたのが私はずっと気になっていた。それなのに子供ができたことに私はびっくりした。親にうるさく、
「跡取りの男の子を生め」
といわれたからである。未だにそんなことがまかりとおるなんて、ものすごく変だと思うのだが、多かれ少なかれ、うちだってそうだ。私だって安心してはいられない。へたをすれば、親をとるか彼をとるかの究極の選択を迫られる可能性だってあるのだ。
「とにかく、まず、うちに遊びにおいでよ」
彼は誘ってくれた。彼をうちに連れてくるよりも、私が彼の家にいったほうが、段取りとしてよさそうだった。そして私たちは結婚の準備にむけて、水面下で着々と計画をすすめていったのである。
彼の家は本当にごくごく普通の家だった。人のよさそうな彼とそっくり同じ容姿のお父さん。ちゃきちゃきした妹。そのなかでお母さんだけが、緊張した目をしていた。真っ黒い髪の毛を後ろでひとつに結び、顔も体も四角でごつい。どこかで会ったような気がすると思ったら、松浪健四郎にそっくりだった。
「いつも哲也がお世話になっています」
心の底からそう思っていないのが、ありありとわかった。
「こちらこそ」
「高校生のときからのおつき合いなんですってねえ。全然、知らなかったわ。この子、私に何もいわなかったものですから」
お母さんは海苔《のり》おかきの入った、木製の菓子器をテーブルの上に音をたてて置き、おかきをわしづかみにして、ぼりぼりとかじった。横座りをして、私を斜めの角度から眺めている。
「これ、やめなさい。お客さんの前で」
お父さんがたしなめても、お母さんは、
「あーら、気にしないわよね、平気よね」
と私にむかってにたっと笑った。はいとしかいうことばがない。
「やだなあ、お母さんは」
妹さんは露骨に嫌な顔をしている。
「あーら、なぜ? 私、何か悪いことしてるのかしら」
お父さん、妹、彼はその場でかたまっていた。お母さんのそれは、私がやってきているのを、明らかに嫌がっている態度だった。
「ど、どうだ、こんな狭いところで顔をつき合わせているのもなんだから、近所の公園に散歩にいったら」
あせったお父さんはそういって、助け船を出してくれた。家に遊びにいって十五分しかたっていないのに、私と彼は散歩にいかされた。あとから妹さんも追いかけてきた。
「ごめんなさい。お母さん、更年期でちょっと変みたいなんです」
隣で彼もごめんとあやまった。
「そんなことないわよ。大丈夫よ」
と口ではいったが、内心、面白くないのは当然である。
「なんでかなあ。ああいう態度をとるなんて、めったにないんだけど」
彼は真剣に考えていた。
「大事な息子のガールフレンドが来たから、取られるような気がしたのよ。あたし小さいときから、お兄ちゃんとはずいぶん待遇が違うなあって思っていたもの」
「そうかなあ」
「そうだよ」
兄妹の会話を聞きながら、私はため息しか出てこなかった。私という人間が姿を見せただけで、ああいう態度なのだから、結婚はもちろんのこと、養子になどといったら、どんなに反対されるかわからない。今日は気を遣ってくれたお父さんも、長男が養子にいくとなったら、ころっとお母さん側に寝返るかもしれないのだ。第一段階は失敗した。彼がうちに来たときに、うまくいくようにと祈るばかりであった。
彼が家に来るというと、母は、
「あら、そうなの。うちの事情は全部わかっているのね」
と前のめりになった。
「まあ、いちおう養子のことはいったけど」
「そう。じゃあ納得しているのね」
「まだ、そこまで話してないわよ」
「えっ、じゃあ何で来るの? まさか、養子に来る気もないような男と、つき合っているんじゃないでしょうね」
母に矢継ぎ早に物をいわれると、何ともいえない。事前に彼には、不愉快なことがあったら、ごめんとあやまっておいたが、彼は、
「お互いさまだから、いいよ」
とおっとりしていた。今となっては、彼ののんびりとしたところだけが救いであった。
彼が一歩家のなかに踏み込むなり、母の目はぴかっと光った。彼のすべてに目を光らせ、私の結婚相手にというよりも、うちの養子にふさわしいかどうかをチェックしているのが、ありありとわかった。ところがそんなことをされているのを、知ってか知らずか、相変わらず彼はおっとりとしていた。三人でコーヒーを飲んでいると、母は突然、彼の目をのぞきこんで、
「あなた、性欲、強い?」
と聞いた。げっとのけぞって母の顔を見ると、彼女は真顔だった。彼は急にそんなことをいわれて、びっくりして声も出ない。
「あのね、男の人っていうのは、やる気なのよ。その根源は性欲なのよ、わかる? 私はいろんな男の人を見てきたけど、淡白な人は大成しないわね」
「はあ、そうですか」
宦官《かんがん》とあだ名されていた彼に、そんなことをいうなんてあんまりだ。それに私が口を出すとよけい妙なことになるし、ただただ呆然《ぼうぜん》と二人の姿を眺めているしかなかった。
「うーん、わかりません。他人と比較できることじゃないし」
(てっちゃん、いいぞ、いいぞ)
私は心のなかで拍手した。
「あら、自分の体について自覚もないの」
(げげっ)
母はすっぽんみたいに、しつこくくらいついていた。
「うーん」
彼は本当に当惑しているようだった。母は彼のほうに膝《ひざ》をつめていき、どすのきいた声でいった。
「養子の話はご存じね」
「はい」
「ご両親にも、どーぞよろしくお伝えくださいね!」
「はあ」
「それでは、どうぞ、ごゆっくり。私、これから出勤ですの」
母はそれだけいって、ひっこんだ。そしてしばらくして、ピンク色のスーツに、アクセサリーをじゃらじゃらといっぱいつけて、出ていった母を見て、彼は目を丸くしていた。そりゃ、てっちゃんちの松浪健四郎とは大違いである。
「ごめんね、変な話をして」
「うん」
短い会話のあと、残された私たちは、せーの、とタイミングを合わせたみたいに、
「はーっ」
とため息をついた。二人とも、お互いの母親には、もろ手をあげて歓迎してもらってない。最初は、
「男にとって、相手の女の人にお父さんがいないというのは、結構、ラッキーなんだよな」
といっていたのだが、実物の母にあって彼は、
「お母さんは、お父さん五人分だね……」
と、ぽつんといった。私だって彼のお母さんの冷たい目つきを思いだすと、だんだん背中が丸まってくる。
「ともかく様子をみよう」
彼はそういって、手を振って帰っていった。
翌日、母は、
「おとなしい坊やねえ」
と彼のことをいった。
「私があなたの結婚相手にいいなって思っていたのは、外見は渡辺裕之で、生きる気力にあふれていて、お金が自然と集まる運をもっていて、人づきあいがうまくて、女の人を大切にする人よ」
そんな男いるか。だけど母は、私の父はそういう人だったというのだ。
「それに比べるとねえ、いまひとつねえ。こう、ぴしっとしないのよ。なんだかあっという間に、お金を騙《だま》しとられるようなタイプよね」
母の頭のなかには、自分が増やした資産のことしか頭にないのだ。私にとっては腹の立つことではあったが、母の努力と意地の結果、私はここまで大きくしてもらったのだから、「あんまりだ」とむやみに反抗もできない。
一方、彼の家は大騒動になっていた。予想どおり、お母さんはもちろんのこと、お父さんも反対側についた。妹は金持ちが親戚《しんせき》になるなんてうれしいとはしゃいで、大目玉をくらったそうだ。特にお母さんは養子の話をしたとたんに興奮状態になり、
「うちのまじめな哲也を、キャバレー王にするつもりか」
などと、トンチンカンなことをいって、暴れたという話だった。
「てっちゃん、どうするつもり」
私が聞いても、彼は、
「うーん」
としかいわない。母は彼に対して、悪くもないが良くもないという判断を下していた。
「うちに来てもらうんだったら、それなりの勉強をしてもらわなければね」
といい、何かにつけて、彼をうちに呼ぶようにといった。彼は素直にうちにやってきた。母は、
「経営に興味がある? 数字には強い?」
などと聞いた。
「はあ。ないことはありません」
「『ないことはない』って、あなた。そんなヤワな気持ちでは、会社の経営なんてできませんよ。相手と渡りあわなければならないのに、だらっとしていたらすぐつけこまれるのよ。もうちょっと気をひきしめてちょうだい」
「はあ」
そういわれても、彼は別に不愉快になった気配もなく、母が見せる帳簿や書類を、うなずきながらのぞきこんでいた。
「ねえ、大丈夫」
母が席をはずしたときに、ささやくと、
「うん、なかなか面白そうだね。お母さんも女手ひとつで偉いなあ。太刀打ちできないよ」
それを漏れ聞いた母は、満面に笑みを浮かべてやってきた。
「哲也くん、うれしいわ。私、これまで本当にがむしゃらにやってきたの。あなたもこれからお勉強すれば、ちゃんとできると思うのよ。三人でがんばりましょう」
「はい」
彼はいいお返事をした。私はほっとした反面、彼のあの怒濤《どとう》のようなお母さんを、どのような方法で納得させたらいいかと思うと、頭が痛くなってきた。彼に対して、悪くもなく良くもないといっていた母も、人のいい彼のことをわかってくれたのか、好意的に扱ってくれるようになった。
それからたびたび彼はうちに来て、母から水商売の経営についてのノウハウを教わっていた。三人でいるとなんだか心がなごんできた。あるとき、ヒステリックにインターホンのチャイムが鳴った。ものすごい速さで押しまくっている。インターホンは無視して、そーっとドアスコープからのぞいてみると、そこには茶色のスーツを着て、仁王立ちになった、松浪健四郎がいるではないか。母と彼は足音をたてないようにかわりばんこに、ドアスコープをのぞき、ため息をついた。
「何やってんだよ。まずいなあ」
彼は小声でつぶやいた。
「いいわ、居留守をつかいましょ。それでいいわね」
母が確認すると、彼はこっくりとうなずいた。相変わらずお母さんは、ヒステリックにチャイムを鳴らし続けている。
「ごめんくださあい、ごめんくださあい」
今度は大声でわめきはじめた。私たちは三人でじっと息をひそめていた。彼は泣きそうになっている。
(どこの母親も、いざとなると強烈なのね)
私はいつまでも続く、「ごめんくださあい」の声を聞き、勝ち誇ったような母の顔を見ながら、ちょっぴりおびえたのであった。
そうは問屋が卸さぬU
彼のお母さんは、玄関先でいつまでも、
「ごめんくださあい」
といいながら、チャイムを押し続けていた。「出てこなきゃ許さへんで」とわめいているような、いかにも闘いを挑んでいるという押し方であった。そのチャイムのすさまじい音にだんだん私たちはびびり、中腰になって応接間のソファから移動して、じゅうたんの上にぺったりと座った。
「しつこいなあ」
てっちゃんは、苦々しそうに舌打ちをした。
「何も来ることないんだよ。それにしても、どうして家がわかったんだろう」
彼はこめかみから流れてくる汗を、一生懸命に手の甲でふきながらつぶやいた。
「母親って、どういうわけだか子供のことになると、動物的なカンが働くのよ」
母はうなずきながら彼にむかっていった。口には出せないが、彼のお母さんはいかにも動物的カンが強そうだ。人間の女性というよりも、たくましいメスという感じであった。
(私たち、このまま三人で仲よくできそうな気がするのに)
こうなったら相手の家のことなんか、私はどうでもよくなっていた。彼をこちらに拉致《らち》したまま、知らんぷりして養子にもらっちゃえばいいんだ。だいたい今は子供が少ないんだから、長男、長女と結婚する可能性は高い。それなのにいちいち、「養子はだめ」などといっていたら、結婚が成立しなくなるではないか。どこぞの旧家でもあるまいし、てっちゃんの一人や二人、養子にくれたってどうってことはないじゃないか。
「まだ、いらっしゃるのかしらねえ」
母はつぶやいた。
「ちょっと、見てきましょうか」
彼が立ち上がろうとするのを、母は腕を引っ張ってとめた。
「だめ、みつかったらもうこの家にはこられないわよ」
「はい」
彼は小さな声で返事をして、じゅうたんの上に正座した。母にうながされて私は、中腰のまま、カーテンごしに外をうかがった。するとそこには、ブロック塀の上に両腕をひっかけ、けんめいにこちらをのぞいているお母さんの姿があった。
(ひえーっ、怖いーっ)
母親の執念は恐ろしい。
「どう?」
母が小声できいた。彼も心配そうだ。
「塀にへばりついていた」
そういったとたん、彼は、
「あー」
とため息をつき、がっくりと肩を落した。母はあっけにとられて、呆然《ぼうぜん》としていた。
「と、とにかく、今日のところは哲也くんはこのままうちに泊まりなさい。ねっ、そうしましょ」
彼は何もいわなかった。私たちと実の両親の間に挟まれて、気を揉んでいる彼がかわいそうでならなかった。そう思うと、ますますお母さんへの憎しみがつのった。窓を大きくあけて、
「あなたがそうすると、かわいい息子をますます苦しめることになるんですよ」
といってやりたかった。が、現実はそんなことができるわけもなかった。
「お母さん、いつごろ帰りそうかしら」
居留守を使うのに少し疲れてきた母は、彼にたずねた。
「家のことはちゃんとする人ですから、晩飯の時間には帰ると思うんですけど」
私たちは夜の七時まで、ずーっと家の中で息を殺していた。そして母がそーっと様子を見にいって、誰もはりこんでいないのを確認し、私たちは安堵《あんど》のため息をついたのだった。
彼がお風呂《ふろ》に入っているとき、母は、
「困ったわねえ」
と暗い顔をした。
「あれは相当、頭にきてるわね」
私に会ったときに、彼女の態度がよくなかったという話をした。そのとたん、母は、
「何ですって!」
と目をつり上げた。
「だいたいね、あなたは哲也くんにはすぎた相手なのよ。見てごらんなさい、あの子は頭がいいのか悪いのか、ぼーっとしてて、しゃきっとしたところがないし。おまけにお母さんはああいう人でしょ。それなのにあなたのことを、気に入らないっていうのは、どういうことなの。こっちがむこうを気に入らないっていうのならわかるけど、どうしてあなたが嫌われなきゃならないのよ」
母の怒りのエネルギーが爆発して、一気に問題を片付けてくれるとうれしかったが、なかなかそうはうまくいかない。
「明日、帰って、どこにいってたのかって聞かれたら、友だちのアパートに泊めてもらったっていうのよ。いい、何といわれても、絶対にそういい張るのよ。わかったわね。そうしないと、あなた、この子と一生、結婚できなくなるわよ」
風呂あがりの彼は返事をする気力もなさそうに、ただこっくりとうなずいただけだった。
翌日、彼は、
「いろいろとご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
とぺこりとお辞儀をして帰っていった。
「よろしくね」
母はこの言葉に、あらゆる意味を含ませて彼を見送った。
「どうしても、あの子と結婚しなきゃいけないのかしらねえ」
母はため息まじりにつぶやいた。
「あんなにむこうが嫌がっているんだったら、それを無理して説得するのもねえ。第一、哲也くんはそれをしてくれるつもりなの」
「うーん、そうはいってるけど……」
「昨日だって、ただ、ちょこんとここに座ってただけよ」
「お母さんが、出ていっちゃだめだ、っていったからじゃないの」
「そりゃ、そういったけど……。どうも、いまひとつ、男としてぴしっとしないのよねえ。どうも不安なのよ」
そしてまた話は、あなたのお父さんは、どんなに立派で男らしかったか、という話が延々と続いた。妻と愛人との両方の生活をちゃんと維持できたのは、男の甲斐性《かいしよう》である、と母はいった。
「女一人でぜいぜいいっているなんて、先が思いやられるわ」
そういわれても、私は相手は彼以外、考えられなかった。しかし母は、たった一人の人としか付き合わないで、結婚を決めるのは、危険だといった。
「世の中には、いろんな男の人がいるんだから、すぐ決めることはないわよ。もしいいのがいなかったら、結婚することはないんだから。将来、寂しいと思ったら、子供だけ生めばいいわよ」
これまで自信を持って生きてきた母であるが、発言にはついていけないことが多かった。こういうと母は怒るだろうが、私には店がどうなるかなんて、どうでもいいことだった。彼と二人で暮らせればいい、それだけである。しかし母は、そんな私を、
「甘い」
といった。夢ばかりを見ていて、現実に暮らしていけるかというのだ。
「私はね、あなたの今の生活よりも、辛《つら》い生活をして欲しくないの。もちろん最初は大変よ。問題は二人の将来性よ。冷静に考えて、彼には私があなたにしてあげた以上、それでなかったら、同程度の生活をさせてくれる技量があると思うの」
そんなことをいわれたってわからない。
「あの子、個人では絶対に無理ね。あなたは平凡なサラリーマンの妻になって、一生、やりくりに頭を悩まさなきゃならないのよ。おまけにあのお母さんがついているの。まあ、うちで彼のための居場所をつくってあげれば、そんなことはないでしょうけどね」
私は考えれば考えるほど、彼とのことが暗礁にのりあげるような気がして、なるべく深く考えこまないようにしようとした。
翌日、彼から電話があった。家に戻ると、家庭内には何の変化もなかった。お母さんに、友だちのアパートに泊まっていた、といったら、
「あら、そう」
といっただけだったという。それが私には不気味だった。彼も怖いとおびえていた。
「怖いっていったって、あなたのお母さんなんだから、そうはいっていられないのよ」
ついつい声を荒らげると、彼は、
「このままじゃ、やっぱりまずいよ」
という。母親がブロック塀によじのぼってまで、相手の家をのぞかなくてもいいように、きちんと両家で挨拶《あいさつ》したほうがいいというのだ。私はすぐに母に話をした。ちょっと気乗りはしない感じだったが、母は、
「それじゃ、うちでご招待するということにしましょう」
といい、話はまとまった。家に呼ぶのかなと思ったら、母の友だちがオーナーの、有名な中華料理店の個室を予約した。まだまだ家に呼ぶほど仲がよくないというのが、母のいい分だった。
当日、彼の一家はやってきた。彼の話によると、直前まで、
「行くことはない」
と両親が反対していたのを、彼が説得したとのことだった。
「はじめまして」
どピンクの派手なスーツを着て、でっかいイヤリングをつけた母がお辞儀をすると、彼のお父さんはぎょっとした顔をした。
「あ、どうも」
お父さんの挨拶はそっけなかった。
「母と妹です」
てっちゃんはあせった様子で二人を紹介した。
「どうも」
面白くなさそうにお母さんはぺこりと頭を下げた。相変わらず松浪健四郎みたいに、後ろで髪の毛をひとくくりにして、色黒の四角い顔を丸出しにしていた。
「こんにちは」
とにこにこして明るいのは妹だけである。ナプキンが花のようにかたどられたテーブルの前に座っても、喋《しやべ》っているのは母だけだ。その昔、ホステスをやっていたために、その場に沈黙が流れているのは、彼女にとっては耐えられないことなのだ。しかしそんな母の気持ちを知ってか知らずか、彼の両親は「はあ」とか「ええ」としかいわず、全く会話は弾まない。
(早く、料理が出てこないかなあ)
どよーんとした空気のなかで、私は気が気じゃなかった。ここで彼も協力して、うまく座をとりもってくれればいいのに、ただ黙っているだけなのだ。
「お宅にこういうことをしていただいて、何とも……」
彼のお父さんがぼそっといった。母はゆったりと笑いながら、お父さんのほうを見た。
「私は地味な普通のサラリーマンですから、こういうことはおいそれとはできません。正直申しあげて、何も決まっていないのに、こういう場所で、こういうことをされては……」
しどろもどろになったお父さんの言葉を受けて、今まで口をつぐんでいたお母さんが、
「馬鹿にされているような気がするんです」
といい放った。
「お母さん!」
彼の妹が彼女の横腹をつっついたが、すでに遅く、ますます険悪な雰囲気が流れた。
「馬鹿にするなんて、そんなことはありませんわ。なぜですの」
母が前のめりになって、話しはじめたそのとき、ドアが開き、運よく料理が運ばれてきた。テーブルの中央に置いてある回転台に、前菜の皿が置かれた。
「とにかく、先にいただきましょう」
母が立ち上がって料理を取り分けようとすると、彼のお母さんが、
「結構です。自分たちでしますから」
とドスのきいた声でさえぎった。立場がなくなった母は、そのまま椅子《いす》に座るしかなかった。
(ひどい)
母の好意をふみにじるなんて、あんまりだ。
「おいしいですねえ」
彼の妹と母が、一生懸命、場を盛り上げようとしたが、どよーんとした雰囲気は変えられなかった。おまけに面白くない顔をしながらも、彼のお母さんは大食らいで、私が楽しみにしていたセロリの辛し酢あえを、ひとりで全部食べてしまった。私はその身勝手さに、心底、腹が立った。
笑い声も話し声も上がらない、中華料理のテーブルは最悪だった。食べているうちに、だんだんみんな気分が盛り上がってくるかと思ったが、どんな料理が出てきても、相変わらず暗いままだった。
「これをお出しいたします」
ウエイターがペキン・ダック用の、丸焼きにした肉を見せ、すぐに姿を消した。
「お父さん、あれ、どうするの」
彼のお母さんは聞いた。
「あれは皮だけをそいで食べるんだ」
「肉はどうするの」
「肉は食わんのだ」
「どうして」
「どうしてって、ペキン・ダックとはそういうものなんだ」
「だって、あれ、高いんでしょう。なんだ、皮だけであんな値段なの。ばかみたい」
「お母さん! やめなさいよ」
見兼ねて妹が小声で怒ったが、お母さんは納得できない様子で、ずるずるとスープをすすっていた。それだけでなく、お母さんは料理が出てくるたびに、「塩がきつい。体に悪いわね」とか「肉が硬くて歯が変になりそうだ」と、難癖をつけるくせに、他の誰よりもたくさん食べていた。最初は得意の接客テクニックで場を盛り上げようとした母だったが、もう彼らを放ったらかしにしていた。
デザートの時間になって、やっと彼が、
「今まで両方の家族がそろうことがなかったから、今日、食事をする時間をとったんだ」
と口を開いた。彼の両親は黙ったままである。
「さきほどおっしゃってましたけど、別に馬鹿にするとか、そういうのではありませんわ。たまたま私とここのオーナーが知り合いだというだけですから」
母が続けると、彼のお母さんは、
「まあ、こんな立派なお店の方とお友だちなんて、よろしいですわねえ。私の知り合いなんて、パートのおばさんばっかりですわ」
と嫌味たっぷりにいった。
「お母さんったら! どうもすみません」
妹はぺこりと頭を下げたが、母はこわばった顔のままだった。
「それに着ていらっしゃるものも、素晴らしいものをお召しでしょ。あたくしなんか、これ三回も仕立て直ししたんですのよ」
「す、すいません。母はすぐ太る体質なんで、あっという間に服が入らなくなるんです」
妹が必死にフォローしたものの、母の顔には変化がなかった。
「あのー、お父さんやお母さんには、いろいろと考えがあるとは思うんですけど、僕たちのことを認めて、そのー、欲しいんです」
(もっと堂々としてよ)
心の中でそういったが、彼の目はきょときょとして落ち着かない。
「認めるとはどういうことだ」
「結婚です」
「結婚はいいが……」
「あたしは認めませんよ」
お母さんは大声で叫んだ。
「だいたい結婚してもうまくいきっこありませんよ。こちらさんは、贅沢《ぜいたく》にお暮らしなんでしょう。うちのような質素な家では我慢できないと思いますわ」
「あの、お言葉ですが」
母は椅子の上で座り直し、両手を膝《ひざ》の上にのせて背筋を伸ばした。
「うちの子には、そういう躾《しつけ》はしておりません」
「あーら、そうですか。でもお母さまも結構お派手にみえますし。だいたい水商売のお宅でしょう。堅気のうちとは違いますからねえ」
「水商売のどこが悪いんですの」
「やはりねえ、感覚がちょっとねえ」
「お母さん、いい加減にしてよ」
「いーえ、やめません」
妹がとりなしても、松浪健四郎の勢いは、とどまるところを知らなかった。逆上して彼にむかって、
「あんたはこの人たちに、アマンド・コントロールされているのよ」
と怒鳴り、妹に、
「マインド・コントロール、マインド・コントロール」
と直されていた。
「とにかく、養子の話はお断りします。そちらのような派手な職種には、この子はむきません」
お父さんは静かにいった。すると母はふっと息を吐いて、
「そうかもしれませんわね」
といって、うなずくではないか。こんな話に同意してどうする。
「私もそんな気がしているんです。なんだか頼りないし、店をまかせるのも心配になってきましたわ」
「頼りなくて悪うございました」
表面上は争っていたが、双方の親の気持ちは、
「二人の結婚は反対!」
という点で一致してしまった。
「やっぱり、この話はなしにしたほうがいいんじゃないかしら」
母は私の目を見た。それは、あんまりだ。こんな展開にするために、みんなで会ったんじゃない。
「あんたはどうなのよ」
お母さんは彼にきいた。
「うーん」
迷っている彼を見て、母は、
「ほら、ごらんなさい。何がなんでも、あなたと結婚したいっていうわけでもないみたいよ」
ここでドッキリ・カメラのプラカードを持った人が現れたら、どんなにいいだろうと期待したが、誰も来なかった。
(かけ落ちしてまでも、私と結婚してくれるかしら)
そう思いながら彼のほうを見ると、ただ、
「うーん」
とうなりながら、下を向いているだけ。高校時代、宦官《かんがん》といわれた、てっちゃん。やっぱりあんたはそうだったのか。意見の一致を見て、盛り上がりはしないが、親たちは世間話をしはじめた。彼はずっと下を向いたきりだ。ここですっくと立ち上がり、堂々と、
「許してくれないのなら、かけ落ちする」
くらいのことをいってくれればいいのに、そんな気配はみじんもない。じーっとにらみつけても、こちらを見ようともしない。
(こんなことになるなんて……)
なんだかんだといっても、親には勝てないのかと、私は途方にくれてしまったのだった。
子の心親知らず
うちの母は、子供のころから、私と一歳違いの兄を溺愛《できあい》している。たとえば食事のときも、私がおかずを残すと、ものすごい顔をして怒るのに、兄には何もいわなかった。皿の隅によけられた人参を見ても、
「しょうがないわねえ」
といっただけだった。
「どうして私には怒るの」
と聞くと、母は、
「あんたは将来、お母さんになって、料理を作らなきゃならないんだから、そのときに好き嫌いがあったら困るじゃない」
と胸を張った。そのときは私も小学生だったために、「そうかもしんない」と納得したのだが、やはりよくよく考えると、人参だのピーマンだのを残しても何もいわれない兄と、好き嫌いをいうと怒られる私とは、やっぱり違う扱いを受けていると思ったのである。
私が風邪をひくと、
「お薬を飲んで寝ていなさい」
というだけなのに、兄がそうなると、
「まあ、大変。お腹の具合はどうなの、気持ち悪くなあい。すぐお医者さんに来てもらいましょうね」
といって、おろおろした。そして兄を抱きかかえるようにして子供部屋までつれていき、あっという間に、兄は立派な病人扱いされてしまうのである。私は熱が下がると、
「いいかげんで学校に行かなきゃだめよ。ずる休みをしたら許しませんからね」
と枕元でいわれた。兄には、
「無理をしないで、ゆっくり休みなさい」
と優しい言葉をかけるのにである。たしかに私には、ずる休みをしたいという気持ちがあったのは事実であるが、それにしても、この差のつけかたは何なのだと、子供心に不満がつのっていたのである。
兄が声変わりをし、背が高くなっても、母は兄にべったりだった。今まで子供だったのが、だんだん男みたいになっていく兄を、私は不思議な気持ちで眺めていたが、母は、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
と後をくっついて歩いていた。中学時代、サッカー部に所属していた兄は、バレンタインデー、誕生日、クリスマスと、事あるごとにプレゼントを山ほどもらって帰ってきた。
「まあ、どうしたの」
ビニール袋に詰め込まれている、赤やピンクのリボンのついた包みを見て、母は目を丸くした。
「こんなにたくさんどうするの、お兄ちゃん」
「知らないよ。お母さんが好きにすれば」
「でも……」
「適当にやっといてよ」
兄は自分の部屋に入り、ぱたんとドアを閉めてしまった。
「そんなことをいってもねえ。せっかくもらったのに」
「いいじゃん、お母さん。お兄ちゃんだって、好きにしていいっていったんだから。開けちゃおうよ。このまま放っておくわけにもいかないんだから」
早く中身が見たくてしょうがない私は、片っぱしから包みを開け始めた。しかしこんなときでも母は、
「これ、あんたがもらったんじゃないのよ。お兄ちゃんのものなんだからね」
とひとこと文句をいうのを忘れなかった。
中から出てきたのは、スポーツタオル、ソックス、キーホルダー、男性用コロンなど、さまざまであった。なかには兄がサッカーのユニフォームを着ている姿を象《かたど》った、手作りのマスコット人形なんかもあった。がんばって作ったのはわかるが、とんでもない下手くそなできで、こんなものをもらっても、さぞや迷惑だろうと、私は兄に同情したのである。母はプレゼントにくっついているカードまでチェックしていた。
「大好きなタケシくんへ。いつまでも、かっこいいあなたでいてください」
「部のなかで、いちばん素敵です」
「いつもタケシくんの姿を見ています」
などと兄を誉めたたえる言葉が書かれていたが、なかにはキスマークつきのものも何枚かあって、母を仰天させたのであった。
「まだ中学生だというのに、こんなことをするなんて、大丈夫なのかしら」
母は会社からまっすぐに帰ってきた父をつかまえて、ごそごそと話をしていた。そーっと聞き耳をたてていたら、
「女の子がこういうものをくれたけど、これはお兄ちゃんにとって、よくないことじゃないかしら」
と真剣に悩んでいた。父は、
「いーじゃないか、もてて。中学生のときからそうだなんて、先が楽しみだよ。いいなあ。おれなんかそんないい思いをしたことがない」
とうらやましがっていたが、母は相変わらず暗い声をだしていた。
「今の女の子は、積極的らしいですよ。そうそう、お父さん。この間、美容院で女性週刊誌を読んだんだけど、中学生の性体験の相手で、同級生っていうのがいたんですってよ。お兄ちゃんは人がいいから、悪い女の子につかまったらたまりませんよ」
「何をいってるんだ。ばかばかしい」
「でも……」
母はますます暗くなっていった。
彼女の気分が暗い理由はもうひとつあった。
「最近、お兄ちゃんは私と話をしてくれない」
と私にグチった。私も父や母と話すのが面倒くさいのだから、兄だって同じはずだ。おまけに相手があの母である。敬遠したくなるのは当たり前だと思うのだが、母は自分に冷たくなったと嘆いていた。そんなとき、兄に女の子から電話がかかってくると最悪だった。自分が話せないのに、女の子なんかに楽しくお話をさせてたまるかと、電話もとりつがない。受話器をとって相手が女の子だとわかると、
「えっ、タケシですか。いませんよ。さあ、いつ帰るかわかりませんねえ」
と嫌味たっぷりだった。そして何度も電話をかけてくるらしい女の子には、
「ちょっと、あなた、どういう関係なの」
と問い詰めたりしていた。私が電話にでたときは兄にとりつぐが、運悪く、母が電話に出た人は本当に気の毒だった。世の中には、運のいい人と悪い人がいるんだなあと、私はこのときほど感じたことはなかったのである。
母の電話チェックは、兄が高校に入ってからも続いた。彼女は兄の男友だちから電話がかかってくるのは喜んでいた。
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
と一オクターブ高いトーンで話すときは、男の子。
「えっ、いませんよ」
とつっけんどんにいい放ったときは女の子であった。しかし兄だって女の子と話したいから、自分から電話をかけることがある。そんなとき母は、ふすまの陰から様子をうかがっていた。
兄が、
「じゃ、あしたね」
といって受話器を置いたとたんに、
「お兄ちゃん、今の人は、どういうお友だちなの」
と飛び出していった。そのたびに兄は、
「何いってんだよ、うるさいな」
といってそっぽをむいた。
「うるさいですって……。親にいえないような友だちなの。ね、どういう関係の人なの。ねえ、ねえってば」
「うるさいなあ、友だちっていったら、友だちだよ」
「だからどの程度のお友だちかってきいてるのよ」
兄は心底、嫌そうに顔をしかめ、
「友だちに程度もへったくれもあるかよ。いいかげんにしてくれよ」
と吐き棄てるようにいって、自分の部屋にひっこんでしまった。
「あっ、待って、待って、お兄ちゃん」
母は追いすがったが、完全に無視された。
「放っておけばいいじゃない」
私がそういっても母は、
「質《たち》の悪い女の子にひっかかったらどうしよう。お兄ちゃんはとても優しい子なのよ。女の子にしつこくされたら、断りきれずにひきずられるタイプなのよ。子供ができたなんていわれて、結婚を迫られたりして。ああ、そんなことになったらお兄ちゃんがかわいそう」
母はひとりで身もだえしていた。ふつう娘がいたら、息子《むすこ》よりも娘のほうを心配すると思うのに、母は違った。年頃の私の心配なんかよりも、兄のほうが何倍も心配なのだった。
兄の帰る時間が遅くなると、母は父に、
「女の子とつきあっているみたいなの」
と訴えた。
「ほう、そうか、たいしたものじゃないか」
父が気にもとめずにいうと、母は、
「少しは心配してくださいよ」
と怒った。
「心配っていったって、男だからなあ」
「今の女の子は積極的なんです。もしも変な女の子にだまされたら、どうするんですか。あの子はうぶだから、そういうことはきっとよくわからないんですよ。ああ、もう、そうなったらって考えただけで……」
私たちはあっけにとられていた。母はひとりで心配し、風呂《ふろ》にも入らずに、
「遅い、遅い」
と玄関の前でうろうろしている。
「おれのことも、あれくらい心配してくれたらなあ」
父はぽつりとひとこといって、プロ野球ニュースにチャンネルをあわせた。十二時前になって、やっと帰ってきた兄の後ろに、母はくっついて歩いた。
「どこに行ってたの。誰と一緒だったの。この間の電話の女の子?」
しつこくしつこく聞いて、
「うるさい」
と嫌がられていた。
「せっかく心配したのに、うるさいなんていわないでよ」
しゅんとした母の背中は丸まっていた。
ふつう、子供のころは息子のことを心配しても、だんだん歳をとっていくうちに、それほどかまわなくなるものだが、母は兄が高校を卒業し、大学に通うようになって、ますます警戒心を強めていった。母の友だちの息子のなかには、二十三歳くらいで結婚した男性もいた。そういう話を聞くと、
「まさか、うちのお兄ちゃんも……」
と青ざめた。兄が母の干渉をうるさがって、アルバイトで自室に電話をつけたときも、大騒動になった。父が、
「電話代も自分で払うっていってるんだから、別にいいじゃないか」
といっているのに、母はぶつぶついっていた。兄のことは、一から十まで知っていないと気がすまない。母が、
「お兄ちゃんがねえ」
というたびに、またまた父と私は、
「あーあ、あの十分の一でいいから私たちのことを心配してくれたら」
と、お互いに慰めあったのだった。
そんな母の宝物である兄が、大学にいく途中、バイクに乗っていて転倒して、脚の骨を折った。治療を受けて入院が決まった本人からの電話を母が受けたのだが、
「バイクで事故った」
ということばを聞いたとたん、母は受話器を握ったまま、失神しそうになった。そして事情もよく聞かずに、そのままの格好で家を飛び出して、病院にすっとんでいった。右足に靴、左足にサンダルをはき、血相を変えて病院に飛び込んでいった母の姿を見て、看護婦さんが、何ごとかとびっくりしたくらいであった。お医者さんも、
「ひと月ばかり入院したら、若いんだからちゃんと元どおりに治りますよ」
といったのに、母は、
「ああ、お兄ちゃんがこんな辛《つら》い目に遭うなんて。私が代われるものなら、代わってやりたい」
といって、病院のベッドの脇《わき》でおいおいと泣いた。その病室には、スキー場で骨折した人や、酔っ払って公園の噴水に飛び込んで、頭のてっぺんがばっくり割れた人、自転車をこいでいて居眠り運転をして、電柱に激突した人など、命に全く別条のない、お間抜けな人ばかりが入院していた。そんななかで、ベッドの横でおいおいと泣く母の姿は異様だった。兄の隣のベッドに寝ている、頭のてっぺんがばっくり割れた人は、私に、
「あんなに心配してもらってうらやましいよ。ぼくなんか、みんなに大笑いされたんだ。いちおうCTスキャンだってとったんだぜ。それなのに、会社の同僚も親兄弟まで、腹を抱えて笑ったんだ。いいなあ、本当にうらやましいよ」
とささやいた。母は血色のいい兄の横で、いつまでも泣いていた。そんな母を、兄は困った顔で眺めていた。
ところがあんなにかわいそうといっていたのに、母は次の日から、いそいそと病院に通っていった。
「お兄ちゃんも不便だろうから、毎日いってあげようと思うの」
重病人でもないのに、いろいろな食べ物を持って、病院に日参した。
「お兄ちゃんがね、私に、あれしてくれ、これしてくれって頼むのよ。今度はアイスクリームが食べたいとか、サッカーの本を買ってきてくれとかいうの」
病院から戻ってきた母は、うっとりとしていた。いまのところは、安静にしていなければいけませんといわれたから、用事があったら、母に頼むしかないのだが、それがうれしくて仕方がないらしい。兄にしてみれば、やむをえずという部分もあるのに、母は、
「私を頼りにしているみたいなのよ」
と有頂天になっていたのである。そのうえ、
「看護婦さんのなかに、お兄ちゃんに色目をつかう人がいるんだけど、どうしたらいいだろうか」
と気を揉《も》みはじめた。
「それは色目じゃないよ。顔色や体の具合を調べていたんじゃないの」
「いーや、違う。あれはそういう目つきじゃなかった」
母は頑固にいい張る。きっと病院にいっては、兄の横にへばりついて、その看護婦さんをにらみつけているのだろう。とにかく母は、面会時間いっぱい病院にいた。兄が動けないのをいいことに、ベッドの横で、べらべらと好きなことをしゃべりまくっているのは間違いない。それは拷問に等しいことだった。私はさぞや兄も辛《つら》かろうと同情した。家に帰ってきて話すのは兄のことばかりである。気になるような病状だったら、そりゃ、私たちだって熱心に聞くが、治るのがわかっている脚の骨折である。そんなに関心が持てる話ではないのだ。それなのに母は、
「次はいつ来るのか、いつ来るのかっていうのよ。私が来るのを楽しみにしているみたいなの」
と浮き浮きしていた。私と父は、
「そんなはずないよね。お兄ちゃんだってきっと迷惑だよ」
と話し合っていた。
兄の入院している病院に日参していた母が、突然、私に、
「明日、お兄ちゃんのところにいってくれない」
といい出した。
「行かないっていっておいたんだけど、暑い日が続いているから、冷たいものでも持っていってあげようかと思って。ゼリーなんかいいんじゃないのかしら」
大学生の、それも男にゼリーをわざわざ持っていく必要はないよといっても、母はそうしてやりたいといってきかない。
「それじゃ、自分でいったら」
「隣の奥さんと前々から、バーゲンに行く約束してたのよ。お兄ちゃんも気にはなるんだけど。招待状がなければ入れないバーゲンだし、ホテルでやるから丸一日かかると思うの。あんたのも買ってくるから、病院にいってちょうだいよ」
母はそういって、バーゲンの招待状を眺め、自分の世界にひたっていた。
私は「あんたのも買ってくる」ということばを信用して、翌日、病院にいった。部屋に入っていくと、兄のベッドのところに若い女の人がいる。
「あれ、どうしたんだ」
兄は不思議そうにいった。
「お母さんがこれを持っていけって」
夏みかんのゼリーの箱を差し出すと、
「いいのになあ。こんなことをしなくても。頼んだわけじゃないのに」
といってテーブルの上に置いた。
「これ、妹」
兄は女の人にむかっていった。
「こんにちは」
「あ、どうも、こんにちは。マエダです」
その人はにっこり笑っておじぎをした。感じのいい人だった。テーブルの上には真っ赤な薔薇《ばら》の花が飾ってある。きっと彼女が持ってきたに違いない。私は兄の「早く帰れ」という視線を感じ、
「じゃ、これで」
と病院を出ようとした。すると兄は、
「わかるだろ、頼むな」
と小声でいった。私は、
「うん、わかった」
とうなずいて病室を出た。
私は帰りの電車のなかで、兄が母に、
「次はいつ来るのか」
といった謎《なぞ》を解いた。兄は彼女を母に会わすまいとして、スケジュール調整をしていたのだ。母の来ない日を彼女に連絡して、二人でゆっくりと話をするというわけだ。もしも病室ででっくわして、
「んま、あなたどなた、うちの子とどういうご関係?」
などとわめかれたら、どんなにうまくいっている恋人とでも、気まずくなるのは目にみえている。母の心理を鋭くつき、そして傷つけない、ナイスな方法だ。
「お兄ちゃん、お母さんの扱いに慣れてるねえ」
私はそうつぶやいて、にたっと笑った。
一方、母はバーゲンの戦利品をずらっと並べてご満悦だった。母の買ってきたものなんか、兄は喜んで着ないのがわかっているのに、兄のものがいちばん多かった。
「新しいパジャマを持っていかなくちゃ」
そういいながら、母は楽しそうに病院に持っていく荷造りをしていた。
「お兄ちゃんも、うるさいとかいうくせに、次はいつ来るのかって、私が行くのを楽しみにしてるの。いつまでたっても、私を頼りにしているのよ」
母は何度も反芻《はんすう》するように、同じことをいった。それは大きな勘違いであるのだが、彼女は勘違いしたままおめでたく喜んでいる。私は大声で、
「あー、そりゃ、よかったねえ」
といって、その場から立ち去ったのだった。
過ぎたるは猶及ばざるが如し
私の父は家庭第一の人である。とにかく会社にいるよりも、家にいるほうがずっと好きな人である。私には二歳年上の兄がいる。母が兄を出産したあと、父は、
「よし、次は絶対に女の子を産んでくれ」
と産院のベッドの横でいったという。出産でぐったり疲れた母が、
「これからが大変なのに、産んだ早々、そんなこといわないでくださいよ。第一、男か女かなんて、私が選ぶわけじゃありません」
と答えた。すると、父は、
「そりゃ、そうだ」
と素直に納得し、それから子育てを手伝う一方で、男女を生み分ける方法が書いてある本を買ってきては、ひとりで研究していたのだそうである。
「今だからいえるけどね、もう大変だったんだよ。食べるものから、夜の生活まで、その本のとおりにやろうとするのよ。もうワンパターンだから、しまいにはうんざりしちゃってさ」
母からその話を聞いたのは、つい最近である。まあ、私も二十三になったから、こういう話もできるのだろうが、とにかく父は、女の子、女の子とまるで呪文《じゆもん》のようにとなえて、母のまわりをくっついて歩いていたというのである。
父は女の人がとても好きだ。母の話によると、結婚する前の父は、あまりに周囲の女の人に優しくするために、いいように使われることが多かったらしい。大工仕事、引っ越しの手伝いはもちろんのこと、
「お金がないの」
といわれれば、ただでさえ少ない給料を貸してあげた。初任給の半分を女の人にとられていても、
「女の人がにこにこしているのを見ると、うれしいなあ」
と彼もにこにこしていた。いくら同僚の男性が、
「あの女に騙《だま》されているんだ」
と忠告しても、気にしない。あまりに気にしないので、彼らが、
「お金と引きかえに、いい思いでもしてるのか」
とたずねたら、
「手も握っていない」
と父が答えたので、彼らはびっくりした。
「それならどうして、金を貸すんだ」
と聞いたら、父は、
「そんなことをするなんて男として最低だ」
と激怒したというのである。あまりの人のよさに、彼らは感心するやら、あきれるやらで、みんなに「坊さん」と呼ばれていたのだった。
「私と結婚したときは、お父さんよりもまわりの人が喜んでねえ。『やっと坊さんにお嫁さんがきてくれた』っていってたわよ」
父よりも二歳年上の母はそういった。母は知り合いの人に、
「とにかく人間だけはいい男性がいるから、会ってみないか」
と勧められてお見合いをした。そのとき父は、
「たくさんの女の人と、お話ししたことはあるんですが、気がつくとみんな僕の周囲からいなくなっているんです。そしてお金もなくなっているんです」
と真顔でいったという。母は、こんなにぼーっとしている人なら、人様に迷惑をかけることはないだろうと、結婚を決意したのである。
結婚直後から、他の女性に対する親切は影をひそめ、母への全面的な協力に変わった。子供が生まれてからは育児も分担する、当時は珍しいタイプの男性であった。念願どおりというか、本のいうとおり、女の私が生まれると、父は、
「やった、やった」
と大喜びし、おしめを替えることから、洗濯までやった。赤ん坊の私と別れるのが辛《つら》いと、会社におんぶしていこうとしたので、母があわててとめたこともあった。
「そんな格好でいったら、笑われます」
というと、
「そんなこと、かまうもんか」
と私を背負おうとする。そこで母が、
「満員電車で押されて、この子に何かがあったらどうするんですか」
と怒ったら、やっとあきらめた。私を風呂《ふろ》にいれるのが、自分の役目だと思っていたので、母が私を風呂にいれたら、怒って口をきかなかったこともあったらしい。
私と兄は、休みのたびに遊びに連れて行ってもらった。学校の参観日、運動会、遠足にまでついてくることもあった。もちろん会社は休んでである。だから父は出世からは見事に見放されていた。部下に追い越され、閑職に異動になっても、
「ま、しょうがないなあ」
といって笑っていた。父は会社で力を出していないぶん、家庭で力を発揮しようとしていた。私が小学校の低学年のときは、
「マキコちゃん、宿題はどうした。ちゃんとできたのか。お父さんに見せてごらん」
としつこくすり寄ってきた。最初は私もうれしいから、
「ここがわからないの」
と頼りきっていた。父はお酒を飲んで帰ってくることもほとんどなかった。母が、
「お付き合いも大切ですよ」
といっているのを聞いた記憶がある。しかし父は、算数の教科書とノートを開いている私の頭を撫《な》でながら、
「どうせ、会社や同僚の悪口ばかりだから、家にいたほうがいいんだよねー、マキコちゃん」
と気にもとめていなかった。父はそういうだけあって、熱心に勉強を教えてくれた。ところがずっと教えてくれるのかと思ったら、三年生になったとたんに、
「宿題はどうした」
といわなくなった。
「お父さん、ここがわからないんだけど」
と教科書を持っていくと、
「ああ、うん、お父さんは今、忙しいんだよ。自分でやりなさい」
と逃げる。
「どうして、ねえ。ここがわからないの」
そういいながら父のあとを追っていくと、彼は真顔で、
「本当にお父さんは忙しいから、ごめんね」
と新聞を持ってトイレに入ってしまった。ふくれっつらをした私に、母は、
「勉強が難しくなって、お父さんはもう教えられなくなったのよ。だから頼るのはやめなさい」
と小声でいった。
「ふーん」
私は父の限界を知り、たいしたことはないんだなあと思ったりしたのだった。
それでも父は、私と兄の立派な父たらんと張り切っていた。夏休み、家族で旅行をすることになった。私と兄は、
「これで夏休みの宿題の日記が書けるね」
と大喜びした。私たちの喜んでいる姿を見て、父も有頂天になって、当日も、
「どーれ、お父さんが荷物を持ってやろう」
と上機嫌だった。両手に荷物、背中にはデイパック、家族全員の水筒を肩からふたつずつ斜めがけにした、とんでもない姿で、スキップせんばかりに電車に乗り込んだ。行き先は父と母が新婚旅行をした温泉場であった。駅についたはいいが、いるのは若い新婚さんばかりで、私たちみたいな家族連れなんて、ほとんどいなかったのである。
旅館の部屋に荷物を置いて、私と兄は館内を探検に出かけた。そっと他の部屋をのぞくと、四本の足がからんでいたり、
「いやーん」
という声が聞こえたりしていた。浴衣の胸をはだけて、抱き合っている男女もいた。私と兄はどきどきしながら、一部始終を観察し、
「男の人と女の人が、抱き合ってたよ」
と無邪気に報告した。
「えっ」
母の顔がさっと変わった。
「まあ、どこで見ていたの。そんなことするもんじゃありません。どこにいってたのかと思ったら……」
しかし父は、
「そうか。そのうちお前たちも、ああいうことをするようになるんだ。よく見ておきなさい」
とうなずいた。
「そんなこと、いわないでくださいよ」
母が嫌な顔をしているのにもかまわず、父は、私たちに、
「どんなふうにしていたか」
としつこくしつこく聞いた。そして母を除いた私たちは、抱き合った男女の話題で、しばし盛り上がったのである。
夕食前にお風呂にも入り、私たちは刺身がいっぱいの晩御飯を食べた。旅館の人が気をつかってくれて、ハンバーグを作ってくれていた。母の機嫌も直り、みんなで、あははあははと笑った。そんなとき、父はふっと席を立ち、外に出ていった。
「お父さん、どこにいったの」
「さあ、煙草でも買いにいったんじゃないの」
母はビールを飲んで、顔を真っ赤にしていた。しばらくして父は帰ってきた。
「どこいってたの、お父さん」
「いや、ちょっと煙草をね」
「ふーん」
私たちは父のいったことばに、疑いを持たなかった。そのあとに、びっくり仰天するような出来事が起こるとも知らないで。
旅館のおばさんが、空になったお皿を下げてくれて、テーブルの上はきれいになった。
「自分で後片付けしなくていいと思うと、本当にうれしいわ」
母は心底うれしそうだった。そのとき、
「失礼しまあす」
とおばさんの大きな声がした。
「はい」
母が返事をしたと同時に、金髪に髪を染め、真っ赤な光る服を着たおばさんが、とびこんできた。ものすごく太っていたので、まるで運動会の大玉転がしの赤い玉がつっこんできたのかと思った。
「うわあ」
私と兄は声をあげ、横座りになってひしと抱き合った。あっけにとられている母と私と兄をよそに、おばさんと父は、
「いいんですか、お客さん」
「ああ、いいよ」
と淡々と話をしていた。
「では」
呆然《ぼうぜん》としている私たちの前で、おばさんは突然、
「ちゃーん、ちゃちゃちゃちゃららーん」
と歌いながら、服を脱ぎ始めた。
「…………」
私たちはただ口をあんぐりと開けているしかない。おばさんは次々に勢いよく服や下着を脱いでいった。
(どひゃー)
母よりもすごい三段腹が、ゆさゆさと目の前で揺れていた。理科の視聴覚の時間に見た、「ぶたのおかあさん」にそっくりだった。そして最後におばさんは、真っ裸になって、タコ踊りみたいに、くねくねと腰を動かした。
「ちゃららららー」
おばさんはにたにたと笑いながら、金歯をむきだして私と兄にすり寄ってきた。
「わあーっ」
兄が泣いた。私はものすごい肉のたるみが、ぶるぶると目の前で動くのを、ただ黙って見ているしかなかったのだった。
それは私たちにとっては悪夢であった。母は放心状態であった。そのあと母が激怒して、大騒動になったのは覚えている。あとから母に聞いたら、父は、
「あれは性教育のためだった」
とわけのわからない弁解をした。父はそういうことに関して、隠してはいけないという主義であったらしいが、母が文句をいうと、
「性教育もかねて、みんなで見れば楽しいかなと思った」
といって母を仰天させたのである。母とすれば、あの夜のことは、うちの家族の記憶から消し去りたいと思っていたのに、帰ってきてから父が兄に、
「あれはお座敷ストリップというものだ」
と教えた。それを聞いた兄が、夏休みの宿題の日記に、
「りょこうにいって、おざしきストリップをみました。とってもこわかったです」
と書いたものだから、学校でも大騒動になって、両親は呼びだしをくらってしまったのだった。
私が大きくなるにつれて、父とはあまり話さなくなった。なんだか照れるし、
「マキコちゃん、マキコちゃん」
といつまでもつきまとわれるのが、鬱陶《うつとう》しくなったこともある。私が中学校に入ってから、父との会話はなくなった。一方的に私のほうが拒絶していたふしもあった。私は友だちとの付き合いのほうが、大切になり、そして父のほうは、ビニ本収集に命を燃やしはじめたのであった。
小学生の私たちがいるのに、お座敷ストリップのおばさんを呼ぶくらいであるから、父は私たちがいても、ビニ本を隠そうともしなかった。
「お父さん、もういい加減に、やめてくれませんか」
母が文句をいっても、父はいうことをきかない。ほとんど彼の生きがいのようなものだった。そのころ兄は十四歳。母としたら、いちばんそういう物を見せたくない年頃だったが、父は、
「世の中には、こういうものがあるということを、知らなければいけない。ほーれ、これが最新のビニ本だ」
と兄の前でわざと、無表情でぱかーっと股《また》を開いている女の子の表紙を見せたりした。さすがに中身は見せなかったけれど、兄は顔を真っ赤にして、
「うるさいなあ」
といい残して部屋にこもってしまった。
「ほら、見なさい。嫌がっているじゃないですか。だいたいねえ、ふつうは親が子供にああいうものを見ていないかどうか、気にするもんなんです。それを子供に見せる親がどこにいるんですか」
母は怒った。
「いーや。あれは嫌がってない。残像を目に焼きつけておいて、あとで楽しむに違いないんだ。若いときはそういうもんだ」
父と母の会話は全くかみあっていなかった。教育上ビニ本収集はやめてくれという母と、絶対に嫌だと抵抗する父の話し合いは、いつも平行線を辿《たど》っていた。
父の部屋は段ボール箱が山積みになり、なかにはぎっしりとビニ本が詰まっていた。部屋で何をしているのかと、そっとのぞいてみると、いそいそとビニ本の山を整理していた。几帳面《きちようめん》な父の性格どおり、五つの本の山がきちっと並んでいる。
「えーと、これは、こっちのほうがいいな。それと、えーと、これは、うーん」
父は段ボール箱から丁寧に一冊ずつ取りだし、まじめな顔をして悩んでいた。私は複雑な思いであった。いっそ、
「お父さんって、何ていやらしいんだろう」
と軽蔑《けいべつ》できればよかった。父はスケベ心丸だしで、
「イヒヒヒヒ」
といいながら本を見ていることはなかった。いつも真剣であった。まるで難しい研究書を読んでいるみたいに、大股開きの女の子の写真を、
「うーむ」
とうなりながら見ている。次は唇がだんだんとがってくる。そして、しまいにはその唇がぷるぷると震えるのだ。
「どこがいいんですかねえ、あんなもの」
父がビニ本収集に熱中してから、母はあきれた表情が顔にしみついてしまった。
「あれはね、文化なんだよ」
「はあ?」
「大切な人間の資料なんだ」
「…………」
父は、男と女というのは、調べていくと本当に奥が深い。こういう本が男性の間で流行するということは、絶対に何かがあるのだ、と力説した。
「それを私は、これからも調べていこうと思う」
父はきっぱりといい切った。
「あんただって嫌よね。お父さんがあんなことをしていると」
母は私にむかってそういった。父の体がびくっと動いた。こちらの様子をうかがっている。
「別に、いいんじゃないの。みんなに知られるのは嫌だけどさ。私には関係ないもん」
「そ、そうか、そうか」
父は、ほっとした顔をしたあと、はははと力なく笑った。
「そうか、関係ないか……」
そんなことばを残して、父はまた部屋にこもった。
父は休みの日は、毎日、ビニ本を売っている書店をまわっていた。お店の人とも顔なじみになって、父のために特別品をとっておいてくれた。
「いやー、よかった、よかった」
そんなときの父は上機嫌で、私たちに特別に、ケーキやお鮨《すし》のおみやげがあった。
「ビニ本は神聖な気持ちで見なければいかんのだ」
父は晩御飯のとき、私たちにいった。
「ふーん」
それで会話はとぎれてしまった。たしかに彼はまじめに研究しているのかもしれなかったが、いくら研究されても、私たちはちっともうれしくなかった。そしてしまいには母もあきらめ、父は黙々とビニ本収集人生を歩むことになったのである。
それから十年以上たって、父も歳をとり、渾名《あだな》のとおり、頭部は「坊さん」みたいになった。ビニ本がすたれ、AVが全盛になると、
「こんな想像力をかきたてないものはいかん。おまけに出ている女の子に対して、愛情がない」
と怒った。古本屋に行って昔のビニ本を見つけて、買ってはくるものの、
「あーあー、こんなに使いこんじゃって。これじゃ、商品価値はないなあ」
などとがっくりしていた。最近はやりの写真集は宮沢りえから辺見マリまで、全部、揃《そろ》え、大切にページをめくりながら、
「うーむ」
とうなっている。ときには何を書いているんだか知らないが、ノートまで買ってきてメモをしたりしていた。
「どうしてみんな、映像ですまそうとするのかねえ。やっぱり写真がいいんだよ」
母にいわれて、台所で大根をおろし金でおろしながら、父はつぶやいた。
「あー、そうですか」
母は天麩羅《てんぷら》をあげながら、適当に返事をしていた。
「まあ、どんなものでも、数が集まれば立派なコレクションよね」
そういった私に父は、ものすごくうれしそうな顔をして、にっこりした。
「そうか、マキコちゃんはわかってくれるか」
久々に見た、父の心からの笑い顔であった。私が父と話をしなくなった十代のときには、見せたことがない顔であった。父は満足そうにうなずきながら、一生懸命に大根をすっていた。こんな父で私は幸せなんだろうか、それとも不幸なんだろうか。父は母に、
「まだ足りない!」
と怒鳴られながら、いつまでも大根をすり続けていた。
六十の手習い
私の父は定年後、再就職しなかった。会社をやめたその日、これまでの父の慰労会ということで、父、母、私と夫とで、食事をしにいった。
「お父さん、永い間、ごくろうさまでした」
「うむ」
父は胸を張って、いちおうビールを飲みほしたものの、そのあとすぐしゅんと肩を落してしまった。
「これからは、あくせく働く必要もなくなったんだから、のんびりとやりましょうよ」
父がやせた分以上に、年々、太っていった母は、ぶっとい腕で、父の肩をばしっと叩《たた》いた。
「うーむ」
ぐらっと体がかしいだ父を見て、私は嫌な予感がしたのである。
父は会社に行くことしか関心がない人だった。朝早くから夜遅くまで会社にいた。会社の人の話によると、
「きょうは少し早めに出よう」
と会社に行くと、すでに父がいた。またある日、夜、十一時すぎに出張先から会社に戻ったら、父がいて仕事をしていた。徹夜|麻雀《マージヤン》あけで、家に帰らずに、午前五時に会社に行ってみたら、またまた父がいたというのである。びっくりした彼は、
「ヨシダさんは会社に住んでいるんじゃないだろうか」
といいだし、一時は社員一同、父の行動が気になって仕方がなかったそうである。さすがに定年間近になると、そういうことはなかったが、私が小さいときは遊びにつれていってもらった記憶はあまりない。だからといって、私は父に対して、ひどいとも思わないし、永い間、そんなに一生懸命に働いてくれてありがとうとも思わない。
「そんなに仕事が好きだったのか」
と思うだけであった。
「きみはいいなあ。まだまだ働けて」
父は私の夫にむかっていった。私と彼は社内結婚で、私も退職せずに働いている。そして実家から歩いて十五分ほどのところに住んでいるのだ。
「そうですねえ、まだ、間はありますけど」
「あっという間なんだよ。私なんか、あれだけ働いたはずなのに、何をやったかあまり覚えておらんのだ」
それを聞いた母は、ものすごくあわてた。
「やだ。お父さん、まさかぼけちゃったんじゃないでしょうね。よくいるんだって、定年をむかえたとたんに力が抜けちゃって、ぼけちゃう人が。やだわあ、まさか、そんな。ねっ、私が誰だかわかるわよね。じゃ、この人たちは、いったいだあれ」
真顔になって私たちを指さして迫る母に、父は露骨に嫌な顔をした。
「うるさいな。下らんことをいうな」
「だって、やだーん。そんなことになったら、私の人生めちゃくちゃだもん」
「おれの人生はどうなるんだ」
「それはそっちで何とかして下さいよ」
「…………」
父はいままで、母にいばっていた。おれは仕事をしているという意識がみえみえだった。ところがこれからはそうはいかない。母のほうが優位になりつつあるのは、明らかだった。
そうはいっても母は、
「町内の釣り大会があるそうだけど、行ってみたら」
「今度、将棋教室ができたそうですよ」
「カラオケボックスが近くにできましたよ」
と、それとなく父に気を遣っていた。しかし父は、首を横にふるばかりで、勤めていたとき自分が克明につけていた手帳を、未練たらしく読み耽《ふけ》っていたらしい。私は電話で母から報告を受けた。
「そりゃ、あぶないよ。何かさせたほうがいいよ」
「そうなんだけど。いくらいってもだめなのよ。全然、外に出る気がないみたい。庭いじりが好きだとか、旅行が好きだとかいう人もいるんだけどねえ。お父さんには、何をいってもだめなんだよ」
母はため息をついた。これから十年、二十年と、過去の手帳だけをたよりにされていたら、最悪としかいいようがない。
「二人で一緒に買物に行こうっていってもね、『どうして今さら、そんなみっともないことをしなきゃいかんのだ』なんていうのよ」
母はほとほと困り果てているようであった。
私は夫に相談した。
「お父さんはきっと、今は虚脱状態で何も頭に浮かばないんじゃないか。そのうち興味を持つものも出てくるさ」
そうだったらいいけれどと、期待していたのであるが、ひと月たってもふた月たっても、父は過去の自分の記録を熱心に読んでいた。
「お父さん、そんなにそれが大切なものなら、自費出版でもしましょうか」
これは母の思いやりである。ところが父は、
「うるさい。そんなみっともないことができるか」
と怒った。
「そんなみっともないものなら、日がな一日、読まないで下さいよ」
「そんなものとは何だ! そんなものとは! これは大事な私の記録なんだ!」
父はわけのわからぬ理屈をいってわめき散らし、父と母は不仲になっていった。
「あんなわからずやだとは思わなかった」
嫌がる犬をひきずっていくようにして、父を散歩に連れ出しても、会話が成り立たない。母の口からは熟年離婚ということばまで出てきて、両親はあぶない雰囲気を漂わせていたのである。
そんなとき、私が妊娠していることがわかった。夫も喜んだが、それ以上に喜んだのは両親であった。
「実はマサオくんは線が細いので、子供は作れないんじゃないかと、心配していたんだ。そうか、そうか、よかったなあ」
父が電話口で喜んでいるというのに、母は受話器を横取りし、
「よかったねえ、体の具合は大丈夫なの。もう仕事なんかしなくたって、いいんじゃないの。子供のことを第一に考えなさい」
とまくしたてた。
「そうだ、そうだ。体が一番だ」
父の声が小さく聞こえた。
「本当に体を大事にしなさいよ、仕事で無理しちゃだめだからね」
家にいてぼーっと子供が生まれるまで、待っているより、仕事をしているほうがストレスがたまらないと思うのに、両親はいまひとつ理解がない。職場で産んじゃったらまずいかもしれないが、許される限りは出勤するつもりだった。ところがそれから両親は、暇さえあれば、うちにやってきて、
「まだ勤めているのか」
とぶつぶついった。たまたま夫がいると、
「お腹が大きくなっているのに、働かせていいのか」
などといったりもした。
「いやあ、そういうことは本人にまかせてあるんで……」
そう答えた夫に私も、
「働きたいから働いてるの。この人が働けっていってるわけじゃないのよ」
と味方した。
「ふむ」
父は腕を組んで首をかしげた。父の勤めていた会社は、女性は結婚したら退職するのが当たり前だった。というか、きっと女性にとっては魅力のない会社だったんだろうと思う。だから私のように、三十歳をすぎてお腹が大きくなっても働いている女性は、信じられないのである。
「産むのは私なんだから、放っておいてちょうだいよ」
頭にきて怒ると、父は夫にむかって、
「何とかいってくれよ」
とすがった。
「はあ。でも、本人まかせですから。僕は彼女が体さえ気をつけてくれればいいんです」
「まるで他人事みたいねえ」
母は顔をしかめた。そこで黙っていればいいものを、夫が、
「しょせんは他人ですから」
といったもんだから、ちょっと険悪な雰囲気になり、両親はむっとした。
「あっ……、そういう雰囲気はお腹の子供に最悪だわ。ああ、気分が悪くなってきた」
そういいながら様子を窺《うかが》うと、両親の顔はとたんに心配顔になり、
「そ、そうね。お腹の子に障るわね。それじゃ、そろそろ帰るから。無理しちゃだめよ」
とあわてて帰っていった。
休みの日や、会社の帰りに実家に寄ると、両親は赤ちゃんグッズを山ほど買い込んでいた。出産の心得の本から、産着、ぬいぐるみまで、ひと部屋が赤ちゃんグッズで埋まっていた。
「ほーら、かわいいでしょう。デパートでみつけたのよ。ポケットにうさちゃんがついてるの」
「ほれ、こっちはくまちゃんだ」
両親はそのひとつひとつを広げてみせては、顔をゆるめていた。
「すぐ生まれるわけじゃないのに、そんなに買って。流産するかもしれないじゃない」
「これ!!」
母はものすごい形相で怒鳴った。父はおろおろしている。
「縁起でもないことをいうんじゃない! これから母親になろうっていう人が、よくそんなことがいえるわね!」
そういう可能性もあるっていいたかったのだが、私はそのことばを飲み込むしかなかった。実家の部屋は、私じゃなくてまるで母が出産するみたいになっていた。かわいくて、ふわふわしたものが山のようにあるなかで、両親はにこにこしていた。赤ん坊の姿がないので、それはそれは不気味な光景であった。
私は予定日から一週間遅れて、無事、女の子を出産した。父は知らせをうけて、
「落ち着け、落ち着け」
と母にいったにもかかわらず、玄関先で転んで、大きな絆創膏《ばんそうこう》をおでこに貼《は》ってやってきた。ヴィデオカメラも忘れずに持ってきていた。あのケチな父が、ヴィデオカメラを購入したというのは、私や母にとっては本当に驚きであった。じいさんとばあさんになった両親は、新生児室のガラスの壁に顔をこすりつけるようにして、赤ん坊の姿を眺めていた。
「おーおー、よく寝ているなあ。なかなか美人じゃないか。あれはおれに似たな」
「えっ、お父さん。あれは隣の赤ちゃんですよ。ほら、うちのはその隣の、泣いてばたばた暴れている子ですよ」
「えっ……」
父は絶句していたが、
「子供は元気が何よりだ」
と気を取り直して、はははと笑った。そして自分が孫の名前をつけるものだとばかり思っていたのが、夫がユカリと命名したので、ちょっと怒っていたが、赤ん坊の顔を見ると、また目尻《めじり》をでれーっと下げていた。
入院しているときはともかく、赤ん坊を連れて家に戻ると大騒ぎだった。ただ、ぎゃあぎゃあ泣くだけのユカリにむかって、父は懸命に、
「ほーれ、おじいちゃんだよ」
と話しかけていた。母もあわててそばににじり寄ってくる。
「ちょっと、私にも抱かせてくださいよ」
「うるさいな、ちょっと待て」
「ずるいわよ、自分ばっかり」
「うるさいな、あー、よしよし。ほら、みろ、お前が大きな声を出すから、また泣きだしたじゃないか」
「抱き方がへたなんですよ。こちらにかしなさい」
父と母は赤ん坊を取りあって、喧嘩《けんか》をした。
「病院でいってたけど、赤ちゃんを取り合っているうちに、床に落とした人がいたんだってさ」
「…………」
これで、やっと騒ぎはおさまったが、ほとんど毎日、ユカリを奪い合っていた。
自分の子が生まれたというのに、かわいそうに夫は、赤ん坊を抱きたそうな顔をして、両親の周囲をぐるぐるとまわっているだけだった。早く連れて帰りたいのに、両親は、
「あんたたちは帰っていいけど、ユカリちゃんは置いていきなさい」
などといったりした。
「ねー、ユカリちゃんもそのほうがいいわよねえ」
母がそういったとたん、ユカリは、
「ぎゃー」
と泣き出した。
「あら……」
じいさんもばあさんも、ユカリに泣かれると、心底、困った顔をする。私たちはこれ幸いと、ユカリを抱いて私たちの住まいに戻ったのだった。
あれだけ、勤め続けるのはどうのこうのといっていたくせに、父は、
「お前は早く職場に戻れ」
などといい出した。どうしたのかと話を聞くと、
「ユカリのことは、お父さんにまかせなさい」
と胸を張る。父はもう過去の手帳を開くことはなかった。開くのは育児の本だけである。母が、
「そんなもの読んだって、だめだめ。経験がものをいうんですよ」
というと、父は、
「お前ひとりで子供を生んだわけじゃあるまい」
と不機嫌になった。そして、
「時代が違うんだから、育て方だって違うんだ」
と朝から晩までどっぷり育児の勉強をしていた。
私は職場に復帰するとき、ユカリの世話を両親にたのんだ。彼らは有頂天だったし、こっちもそのほうが気楽だからだ。
「おじいちゃんが、いいこいいこしてあげまちゅよ。いいでちゅか」
ほとんど父はふぬけじじいであった。
「孫となると、あんなに違うものかしらねえ」
母はあきれかえっていた。私が赤ん坊のときは、おしめを替えているときに、
「臭いから風下でやれ」
といっていたくせに、今は、
「立派なのが出まちたねえ。そうか、そうか、気持ちがいいか」
と、うんちゃんを前に目を細めている。そして、やたらとユカリを抱いて外に出たがる。あれだけ家のなかに引っ込んでいたのにだ。そして近所の人に会うと、自分から声をかけ、
「大きくなったでしょう」
とユカリをみせびらかしているというのであった。たまたま通りすがりの人が、ユカリの姿を見て、
「まあ、元気な坊ちゃんね」
といったときは、ものすごい形相で家に帰ってきたという。
「どこが男の子なんだ。失礼な」
と、ぶりぶり怒っていた。その話を聞いた私は、「坊ちゃん」といった人を怒る気にはならなかった。ユカリはしっかりとした体つきで愛想も悪く、そういわれても仕方がない容貌《ようぼう》であった。しかし父には、本当にかわいらしい女の子として映っていたらしいのである。
「私の出番なんかないのよ。ミルクだって自分であげてるんだから」
母は嘆いた。
「ユカリちゃん、おじいちゃんがパイパイをあげまちゅよ」
といいながら授乳している。とにかく何をするにも、「おじいちゃん」を赤ん坊に印象づけているのである。
毎日、十時前になると、父はユカリを抱いて、いそいそと公園に出かけていく。そこでは父のお友だちが待っているからである。だいたい同じ年頃の子供を持つ母親というのは、町内で友だちになりやすいものだ。最初は偶然、公園で出会ったのだが、いろいろと情報交換もあったりして、父もそれに参加しているのだった。もちろんおじいさんというのは、父ひとりで、あとは私よりも若いお母さんばかり。そこで父は、
「ユカリちゃんのおじいちゃん」
と呼ばれて、お母さんたちのアイドルになっていたのである。そこでいい紙おむつがあると聞けば、帰りに安売りをしている薬店に寄って買ってくる。赤ん坊がとても喜ぶおもちゃがあると聞けば、デパートに行って買ってくる。とにかく情報量の豊富さは、母の比ではなかった。
「あのメーカーの紙おむつだとかぶれるけれど、新しく買ったのは大丈夫だ」
と食事をしながら母にいう。これまで夫婦の間で会話がなかったのに、ユカリの世話をしてからというもの、父の話題は育児だけであった。
「将棋教室なんか行かなくてよかった。ユカリといるほうが、ずっといい」
父はどっぷりと育児にひたりきっていた。たまに私の帰りが遅くなると、夫がユカリを引き取りにいく。なるべくユカリを手放したくない父は、
「ちょっと寄っていきなさいよ」
と熱心に勧める。そういわれると断れないから、夫もビールを飲んだり、夕食につきあって、いい加減、時間をつぶしていざ帰ろうとすると、
「ユカリが寝てしまったから、起こすのはかわいそうだから、今日はこのまま寝かせておこう」
と父がいいだす。そこでマンションに帰ったものの、二人がいないので実家に寄った私と父は喧嘩《けんか》する。私がむりやりユカリを抱いて連れて帰るのだが、父は名残惜しそうに玄関先で手を振っている。
「また、明日ね」
その声を聞きながら、私と夫は、
「うれしいような、悲しいような」
といいながら実家を出るのだった。
熱心な父の育児のおかげで、ユカリは病気らしい病気もせずに、ますますしっかりした体型になった。ふりふりのドレスよりも、腹がけのほうが似合うような子である。はいはいをし、つたい歩きをしたとき、父はとびあがらんばかりに喜び、何かに憑《つ》かれたようにヴィデオカメラで撮影した。
「お父さん、私も撮って」
母がユカリの横に並んでにっこり笑っても、父は舌打ちをしながら、
「お前を撮るために、このカメラを買ったんじゃない。あっちに行け」
と追っ払う。そしてころっと態度を変え、
「ユカリちゃん、ほーら、こっちを見てごらん」
と猫撫《ねこな》で声を出すのであった。
あまりに父が熱心にユカリの育児をやってくれたおかげで、制作担当者である私たちの影は薄い。私はともかく、夫はいないも同然だった。
「おれが抱っこすると、ユカリのやつ、泣くんだよ」
そういって夫はしょげる。すると父はうれしそうに、
「そりゃあ、ふだん面倒をみている人になつくからなあ」
と胸を張るのだ。つたい歩きをするようになったユカリの手と、父の手はいつもしっかりとつながれている。誰もそこに横はいりできない。そんな姿を見ながら私と夫は顔を見合わせ、
「うれしいような、悲しいような」
とつぶやくのである。
本書の単行本は平成五年十二月、小社より刊行されました。
無印親子物語《むじるしおやこものがたり》