群 ようこ
無印失恋物語
目 次
第一話 自 信
第二話 気 合
第三話 期 待
第四話 無 言
第五話 強 気
第六話 相 性
第七話 禁 句
第八話 文 句
第九話 不 幸
第十話 親 切
第十一話 恐 怖
第十二話 逆 襲
第一話 自 信
私の通っている短大の同じ敷地内には、共学の四年制の大学が建っている。ふつう、短大は女の子ばかりなので、うちの短大は女の子のあいだでは、ちょっと足をのばせば男がわんさといる「おいしい短大」として評判だった。男の子のほうは、四年制は頭脳的偏差値が高いが、短大のほうが顔面の偏差値が高いという噂《うわさ》を信じて、短大の門の前で、まるで「ありんこ」のようにたむろしていた。私たちは彼らが入ってこられない、短大の校門の内側から、「ありんこ」の品定めをしていたのである。
「いいなあって思うと、絶対、横に邪魔なのがくっついているのよねえ」
「そうそう。門の前にいるのは、どうでもいいのばっかし」
「そりゃそうよ。あぶれているからこっちに来てるんじゃない」
なかには、オペラグラスまで持ってくる、手回しのいい子もいた。私たちはそれを奪い合いながら、好みのタイプがいるかチェックした。ところがひととおりチェックしたあと、私たちは、
「不作!」
という意見の一致をみたのだった。
しかしそうはいっても、ひと月たち、ふた月たつうちに、みんな「ありんこ」とカップルになっていった。そして私もひとりの男と、くっついてしまった。私が彼と歩いているのをみると、友だちは、一瞬、ギョッとし、そのあと気をとり直したかのように、
「カズちゃん、元気」
と声をかけてきた。彼の友だちに会うと、今度は彼らがギョッとしていた。そして少し間があいたあと、
「よお」
と声をかけ、そそくさと姿を消していった。
ある日、学食でB定食を食べているとき、何でもモノをはっきりいうミカちゃんに、
「あの人のどこがよかったの」
と真顔で聞かれたことがあった。周囲にいた友だちは、みな、
「こりゃ、まずい」
というような表情をしつつも、じっと私の顔をのぞきこんだ。
「そうねえ、なんでかしら。よくわかんない」
正直いって、自分でもよくわかんないのである。
「ねえねえ、なんていって話しかけてきたの」
ミカちゃんもなかなかしつこい。
「えーと、学部と名前をいってから、お茶でも飲みませんかっていわれた」
これもホントである。
「えーっ、へっへっへえ」
みんなの驚きの声がすぐ笑いに変わった。
「だってホントなんだもん」
「いまどき、高校生だってそんなこといわないよ」
ミカちゃんがそういうと、横に座っていた女の子が、顔をしかめて彼女の腕をひっぱった。
「カズちゃんは変だと思わなかったの」
「女の子に慣れてない人は、そういうふうにしかいえないんじゃないの」
「んまあ、優しいわねえ……」
ミカちゃんは、誉《ほ》めているとも、バカにしているともとれる発言をした。
たしかに私の彼は、かっこよくも何ともなく、どちらかといえば、みっともないほうだった。最初に彼の姿を門のところで見かけたとき、私はたむろしている学生を追っ払いにきた、大学の職員かと思った。ところが職員にしては、女の子を見る目がらんらんと輝いているし、他の「ありんこ」仲間をおしのけて、前に前にとしゃしゃり出ようとする。おまけに彼は、背がちんちくりんで、もさっとしていた。若々しさを発散している大学生のなかで、ひとり、妙な雰囲気を醸しだしていたのである。みんなオペラグラスをのぞきながら、
「あれはちょっと勘弁してほしいわね」
などといっているのを耳にした。もしかしたら「あれ」とは、彼のことをさしていたのかもしれないのだ。
私は自分の容姿に全く自信がなかった。小さいころは大柄だったが、それは百六十センチでぴたりと止まり、そのあとの栄養は、すべて体重の増加のために使われた。そして、中学、高校とバレーボールをやったため、しっかりと筋肉がついてしまい、ポロシャツが異様に似合う、たくましい女になったのである。
「こんなたくましい体型の私を、好きになってくれる男の人なんているかしら」
高校生のときから、不安は頭から離れなかった。しかしそのもさっとした彼が、私の不安を取り除いてくれたのである。
テレビの「ねるとん紅鯨団」を見ていると、告白タイムのときに、そんなにひどくもない男の子に対して、平気で、
「ごめんなさい」
をする女の子がいる。私が彼女にかわって引き受けたい男の子がたくさんいた。彼が欲しくてきているはずなのに、どうしてあんなに基準が厳しいのか、首をかしげたくなることもある。
「あんたは相手のことを、とやかくいえる女か」
って、画面にむかっていってやりたくなることもたびたびだ。私は中学、高校のときから、
「カズちゃんは、間口が広い」
といわれつづけていたので、あの番組にでてくる男の子で、喋《しやべ》り方がねちゃねちゃして気持ち悪くない限りは、私の場合はみんなOKなのである。だからみんなから見て、彼がおじさんくさくても、私はそれなりに彼のいいところがわかっていたつもりだった。
見るからに女の子に慣れていない風体《ふうてい》の彼は、デートのときも必要以上に親切だった。大柄な私がぺたんこの靴を履いても、ちょっと私のほうが背が高かったが、彼はそんなことを気にするふうでもなく、堂々と歩いていた。買い物をして荷物を持っていると、彼は黙って持ってくれた。デパートの紙袋だけではなく、私のハンドバッグまで持とうとしたので、
「これは、いいわよ」
と断っても、
「いい! 持ってあげる!」
とむきになった。西武の袋と赤いハンドバッグを持って、ずんずん歩いていく彼のうしろ姿は、何となく間抜けだった。でもそのとき私は、いい人だなあと、
「じーん」
としてしまったのである。この話をしたら、ミカちゃんたちは、
「えーっ、ダサイ」
とあきれ顔になった。ことごとく彼は評判が悪いのである。
「ひと昔前の男の人ならわかるけど……」
「カズちゃん、ちゃんと彼の歳《とし》をたしかめたの。もしかしたら相当さばよんでるかもしれないよ」
学生証をみせてもらったことがあったけれど、彼は私よりふたつ年上なだけだった。たしかに彼のみてくれはかっこ悪い。だけど私にしてみたら、親に外車を買ってもらって、金のネックレスやブレスレットをしている男の子のほうが、よっぽど気持ちが悪い。でも友だちは、結構、そういうタイプのほうが好きみたいだった。
初めて彼の部屋に泊まったとき、壁に残っていた、たくさんのピンナップをはがしたセロハン・テープの跡が少し気になったが、きれいに片付いていたので感心した。布団も日中干したらしく、ふかふかになっていた。ひととおりのことが済み、ふたりしてぼーっと布団のなかからアパートの天井を見上げていたとき、私はふと彼に聞いてしまった。
「この世のなかにね、すごーいデブデブと、すごーいガリガリの女の人と、ふたりしかいなかったら、どっちを選ぶ?」
「うーん、そうだなあ」
私は彼が黙っているあいだ、ちょっとどきどきした。
「やっぱり僕は、デブデブのほうを選ぶと思うよ」
(よかった……)
口には出さねど、私は「じーん」とした。
そしてふたりで布団のなかで手をつないで、朝まで、
「じーん」
としていた。週に三回エッチをするたびに、私はいつもこのときのことばを思い出して、「じーん」としていたのであった。
お互いに異性に縁のないタイプなので、実は私は、このままふたりはウエディング・ベルを鳴らすのではないかと思っていた。だから母親が、
「成人式に振袖《ふりそで》を誂《あつら》えなければ」
といったのを、私は遠い将来ではない、結婚したときのことを考えて、
「訪問着のほうがいいわ」
といったのだ。ところがこのころから彼とはあまり会えなくなった。週三回どころか、二か月も、三か月も会えなくなった。電話をかけてみると、ふだんとまったく変わらない声で、
「ごめんね。勉強が忙しくて」
とすまなさそうにいう。
「そうなの。それは大変ね」
いつも私はそういって電話を切った。ひとりで歩くことが多くなった私を見て、友だちはわらわらと集まってきて、
「どうしたの」
と聞いた。電話の話をすると、みんなは、
「カズちゃん、それは危険よ」
と真顔でいった。
「男はね、他に女ができると、忙しいとかなんとかいうのよ。気をつけたほうがいいよ」
「でも、本当みたいなのよ」
「まあ、彼の場合、不器用そうだから、本当かもしれないけど」
彼女たちは親切に、いろいろと忠告してくれた。私はふふんと聞きながら、彼に関しては、女の子にもてるわけでもないし、安心していたのだ。
急に授業が休講になって、ミカちゃんと新宿の街を歩いていたときのことだ。むこうから、見慣れた胴長短躯《どうながたんく》の男が、小柄な髪の長い女の子の肩を抱きながらやってきた。
「あっ」
ミカちゃんが小さく叫び、私の手を引いて横丁に連れ込んだ。私たちは電柱の陰から、表通りを歩いていく彼らの姿をこっそり眺めていた。
「何よ、あれ」
彼女は興奮し、私の頭のなかにはぽっかりと穴があいた。ただひとつだけ頭に浮かんだのは、
(女の子はやせていた)
ということだけだった。
「田舎《いなか》から、妹さんが遊びにくるとはいってたけど……」
彼に妹がいるのは本当だったが、彼女は写真に写っていた人物とは違っていた。
「全然、似てないよ、違うよ。あの子、かわいかったもん」
ミカちゃんは気の毒そうな、困ったような顔をした。
それから私たちは、静かな喫茶店に入って、見てはいけないものを見てしまったことについて話し合った。
「落ち着いてるね」
ミカちゃんは不思議そうにいった。もしも自分が私と同じ目に遭ったら、頭に血が上って興奮状態になってしまうといった。私はウエディング・ベルを鳴らすことと同じように、こういう結果になることも、想像していたのかもしれない。
「あの子、かわいかったし。私と比べたらやっぱり、あの子のほうがいいよ」
そういったとたん、ミカちゃんは、突然、
「悔しい!」
といっておんおん泣き出した。当の私が落ち着いているのに、関係ない彼女が泣くのでビックリした。
「かっこいい男ならまだしも、どうしてあんな不細工な奴《やつ》にふられなきゃいけないの。つきあってもらったのを、感謝しなくちゃならない立場なのよ、あいつは。それなのに……」
私たちは喧嘩《けんか》らしい喧嘩なんかしたこともなかった。このところ会う回数が急に減ってはいたが、電話をしても邪険に扱われたわけじゃないし、なんでこうなったのか、わけがわからなかった。
「あのー」
「何よ」
彼女は鼻をグズグズさせながら答えた。
「私、ふられたのかしら」
「…………」
彼女はハンカチで目もとを拭《ふ》きながら、とても冷たい顔をした。
「九十九パーセントそうね」
「そうか……」
ちょっと悲しくなった。
「カズちゃんて、裸の大将みたいなとこがあるね」
体型的には類似点があるかもしれない。
「人がよすぎるから、あんな顔も根性も悪い奴にひっかかったのよ。カズちゃんは相手に自信を持たせちゃったの。顔は好き好きだからいいけど、根性の悪いのにひっかかるのは、自分の責任よ」
同じ年なのにミカちゃんはとっても大人だった。ミカちゃんだけでなく、友だちはみんな、彼のうさんくさいところを感じとっていたのかもしれない。だけど私にはわからなかった。
「でも、よかったわよ。このまましらんぷりして別れちゃいなさい。ああいう男は、からだ目当てで、平気で電話をかけてきたりするから、電話がかかってきても、話なんかしちゃダメよ。『もう会わない』っていうのよ。わかったわね」
私はミカちゃんのことば、ひとつひとつにうなずいた。
私と彼のことは、あっという間に同じクラスの子たちに広まった。みんな、
「あいつは生意気だ」
といってぶりぶり怒った。そのうえそのなかの何人かが、厄払いだといって、学校の近くのレストランでお昼御飯を御馳走《ごちそう》してくれた。デザートのケーキを食べていると、彼女たちが急に小声になって、
「ふたつ隣のテーブルに座っているふたり。別れ話をしているみたいよ」
とささやいた。そーっといわれたほうを見ると、私たちと同じくらいの男の子と女の子が食事を食べかけたまま、どよーんとした雰囲気で押し黙っていた。様子をうかがっていたら、彼がぼそぼそとふた言、三言、何やらつぶやいた。しばらくすると彼女も小さい声ながらも、彼よりも強い口調でいい返す。すると彼はしゅんとして、目の前の食べかけのハンバーグ・ステーキをじっと見つめる。ふたりを包み込むながーい沈黙。その繰り返しなのであった。
(やっぱり……)
私たちは目と目で合図し、素知らぬふりをしつつも、横目でしっかりと成り行きを見守っていた。ふたりは何度も、「どよーん」と「ぼそぼそ」を繰り返していた。ところが、その静寂は、
「ふざけないで! もう、あんたなんか大嫌い」
という女の子の絶叫でピリオドが打たれた。そのうえ彼の顔面には、彼女の食べかけのパスタがぶちまけられた。
「ひゃー」
その場に居合わせた人々のため息が、大きな声となって店内に響いた。ウエイターも壁にぴたっとはりついたまま、固まっていた。
「ふん!」
彼女は長い髪を揺すって、すっくと立ち上がり、何ごともなかったかのような態度で店を出ていった。
「ありゃー」
みんな口々に、ことばにならないことばを発したものの、ちょっぴりうれしそうな顔をしていた。彼の顔面からは、ホワイト・ソースをたっぷり含んだパスタや、あさりや、人参《にんじん》が、ぽたりぽたりと落ちて、セーターの胸元を汚していった。
しばらくして、平静を装おうとしているものの、目つきに動揺が隠せない若いウエイターが、白いタオルを持ってやってきた。男の子は黙って前髪や顔面を拭《ふ》き、どろどろになったタオルをテーブルの上に置いた。妙に落ち着いているように見えたが、レシートを手に席を立とうとしたとき、足がからまって転びそうになった。みんな見て見ないふりをしながら、彼が出るまで、うしろ姿を見送っていた。そして姿が見えなくなったあと、誰からともなく、
「すごかったねえ」
という声があがったのである。
「あのくらいやらなきゃダメよね」
ミカちゃんはきっぱりといい切った。
「そうかなあ。でもあんなことをするなんて、女の子だって悪いよ」
私がそういうと、彼女は、
「あーら、私だってあれと似たようなこと、何度もやったことあるもん」
と平然としていた。彼女にいわせると、恋愛に関しては、
「演技力」
が重要な位置を占めるのだそうだ。
「煮詰まっている相手と別れ話をしていて、こっちが別れる原因みたいになるとシャクじゃない。別れたあとまで腹が立つし、だから一発かましてやるのよ。ともかく別れ話のときは、きっぱりといい切ったほうが勝ちなのよ。もう二度と会わないんだから、あとで相手がどうなるかなんて、気にすることはないのよ」
あまりの彼女の堂々とした態度に圧倒されて、私は、
「はあ……」
としかいえなかった。別れ話のときに、相手に一発かませられる人って、うらやましい。そのときはともかく、きっとあとはサバサバするだろう。私みたいに、恋の終わりがああいうふうに派手ではなく、地味にじとーっとやってきたら、どこを終わりとしていいのかわからない。
「カズちゃんは、人がいいっていうか、鈍感っていうか。まあ、ホントに困ったもんだわねえ」
「安心しすぎるのよ。だから相手に刺激がなくなっちゃって、そのうちに忘れられちゃうの。恋愛は結婚とは違うんだから、平穏な日々なんか望んじゃだめよ。恋愛は男と女の戦いだと思わなきゃ」
ふだん、私とあまり変わりのない生活をしている友だちが、話題が恋愛になったとたんに、すばらしく哲学的なことをいいだすのは驚きだった。
(裸の大将も少しは大人にならなくちゃ)
私は「成人式の着物は、やっぱり振袖にして」と田舎の母親に電話することにしたのであった。
第二話 気 合
私は高校生、それも男子高校生に囲まれて、毎日を送っている。男子校の国語の教師なんである。学校のランクは中の下といったところ。他の先生のほとんどは男性で、職員には若い女性もいるが、教える立場では女性は年輩の古文の先生と保健婦さん、そして私の三人だけである。私は彼らに陰で「巨乳」といわれているのも知っている。刺激的な体型かもしれないと我ながら思っている。しかし私の男以上に男っぽい性格が、刺激度を弱めていると自負しているのだ。
最近の若い男の子はほんとうにかわいい。顔面だって、
「大はずれ!」
といいたくなるようなのは、まずいない。足だって長いし、顔だって小さいし、不潔なのはいない。私は教室にいるときはとっても嬉しいが、職員室に戻ったとたんに、どーんと気分は暗くなる。そこは「大はずれ」の巣窟《そうくつ》だからだ。足は短い、顔はでかい、肩にフケはためている。頭に毛がないのにどうして肩にフケがたまるのか、私にとっても不思議である。かと思えば毛がどっさりある先生は、何ともいえない臭《にお》いのポマードで、髪の毛をかっちりと固めている。ゴキブリホイホイ状の粘着性の毛髪に、フケやホコリがへばりついているのを見ると、無意識に私の目は教え子の姿を追ってしまうのだ。
私は水泳部の顧問でもある。高校時代に県の大会で出したバタフライの部、三年連続第二位、大学時代の四年連続大会第三位の記録が役に立ったのだ。私は友だちを喜ばすの半分、自分を喜ばすの半分で、年度がわりにいつも、プールで記念写真を撮ることにしている。
「ほーら、記念写真を撮るぞー」
と部員に声をかけると、
(こいつらは、もしかして、ものすごいバカなんじゃないか)
と心配になるくらい、はしゃぎまわる。わあわあいいながら、自分がいちばん目立つようにポーズをとる。なかには海パンがずれてあぶない状態になっているのに、気がつかない奴《やつ》もいる。
「そんなんでいいの。撮るぞ」
「はあい、いいでーす」
みんな無邪気でかわいい。
そんなふうにして撮った写真を、私はいつも定期入れに入れて、ことあるごとに友だちに見せる。
「ほーら、これが私の教え子だよーん」
写真のなかではしゃいでいる高校生を見て、友だちは必ずといっていいほど、
「ひゃあ、かわいい」
という。そしてひとりひとりの顔をチェックして、また、
「かわいいねえ」
と、ため息をつくのだ。
「へっへっへ」
私は友だちの手から写真をひったくり、
「うらやましいだろう」
と嫌味をいってやる。高校生をかわいいと思うようになるなんて、自分たちがおばさんになった証拠である。だけどやっぱりかわいいものはかわいいのだ。
ところが肝腎《かんじん》の高校生のほうは、私のことをどう見ているかというと、事務職員の若い女性が結婚退職するときくと、
「あーあ、また先を越されてやんの」
とへらへら笑いながら、すり寄ってくる。
「もうちょっとあんたたちが、出来がよかったら、私だって安心して結婚できるんだよ。あんたたちは私がいわないと、何もしないじゃないか」
部屋の隅に山になっているゴミを指さすと、
「あらー」
といいながら、へらへらと去っていく。何となくバカにされているような気もする。しかしいちばん頭にくるのは、顔デカやポマードホイホイまでが、私にあれこれいうことなのだ。誰かが結婚するたびに、彼らはこそこそっとそばにやってくる。そしてしばらく私の横にじっと立っている。私は次の授業の準備のために、教科書やサブテキストを確認したりしているのだが、耳元で荒い鼻息が聞こえるので、ふと横を見ると、彼らがぬーっと立っているという具合なのだ。
「何ですかあ」
できるだけ嫌そうにいってやる。
「いや、いや、あのね、あの、別に私がこういうことをいうっていうのも、なんだとは思うんですがね」
いつもこのパターンである。
「はあ」
「あのねえ、あの」
「次の授業が始まりますから、手短にお願いします」
「あっ、あっ、そうですね、そうですね」
「で、なんですか」
「あの、結婚のことなんですがね。先生は御予定がおありなんでしょうか」
ここで必ず、さぐるような目つきをする。
「ありません!」
「そうですか……。いやあ、事務のね、ほらあの人も、このあいだ結婚退職しましたよね」
「ええ」
「あの人と、先生とは、いくつくらい違うんでしょうかね」
「私が二十九で、彼女が二十三です」
「先生はそんなお歳《とし》ですか」
私の歳を聞くたびに、顔デカはこういう。そして私がぶーっとむくれると、あわてたように薄笑いを浮かべ、
「いや、いや、先生はお若く見えるので、とてもそんなふうには……」
と、とりつくろうのだ。
「あのー、教師というのも、誇りをもてるいい仕事だとは思うんですが、女性の幸せまで犠牲にすることはないと、思うんでございますよ」
「はあ」
「次々に若い人が結婚退職していくなかで、先生も肩身が狭いと、お察ししますが……」
(狭くねえよ)
「早く先生にもいい御縁があることを、校長先生以下、私ども一同、心の底から願っているんでございますよ」
(大きなお世話だよ)
と腹のなかでいいながら、黙って顔デカとポマードホイホイの顔を眺めた。彼らはさも私のことを心配しているふうを装っていたが、目の底には、私の男関係に興味|津々《しんしん》なのがみえみえだった。
これに比べて、男の子たちは、
「せんせー、彼氏いるのかよお」
「ねえ、休みの日はデートなんかしちゃうの」
「ラヴ・ホテルに行ったこと、あるんだろ」
「えーっ、やらしー」
などと、ほうっておくと、まるで野放しにしたアヒルみたいに大騒ぎをする。
「うるさい、どうだっていいでしょ」
一喝すると、今度は、
「じゃあ、せんせー、まだ処女かあ」
とわめきだす。おっさん先生たちからは、いつまでも結婚しないかわいそうな女と哀れまれ、かわいい男の子たちには、格好の標的にされる。彼らには、私が竹内まりやの「元気を出して」を聴きながら、涙したことがあるなど、きっと想像できないに違いない。
彼と知り合ったのは、今から十一年前である。大学のときにおなじ水泳部だった。私たちは「肉体派カップル」と呼ばれていた。巨乳と異様に広い肩幅が歩いていたら、相当、世間を圧倒するものがある。それに加えて私の性格である。当時から私の性格はまったく変わっていない。男子学生よりも男らしいとよくいわれたものだった。何か面倒なことが起こると、みんな、
「トモちゃん、あとはたのむ」
といってみんな逃げていった。たのんでいたジャージのデザインが少し違っていたときも、あれだけ文句をいいながら、いざ業者に交渉する段になると、みんな腰くだけになった。このときも私は交渉役をやらされた。
「だから学生さんは嫌なんだ。かっこばっか気にしてさあ。こっちの都合なんか全然考えてくれない」
と、ぼやくおやじをなだめたり、すかしたりして、タダでデザインを直させたのも、私の手腕であった。その他、試合の交渉やら、お金のことやら、コンパのセッティングやら、その他もろもろの雑用まで、すべて私がからんでいた。マネージャーや担当者から、
「どうしよう」
と相談されると、ほうっておけずについ首をつっこんでしまう。そしてふと気がつくと、私がみんな仕切っているのだった。そしてこんな私を、異様な肩幅の彼は、
「そこがいい」
と誉めてくれたのである。私が、
「どははは」
と大口を開けて笑おうが、ジーンズをはいて股《また》を開こうが、彼はいつもにこにこして私のことを見ていた。喧嘩《けんか》らしい喧嘩もしたことがない。キャンパスで私たちがキャアキャアいってじゃれ合っていたら、周囲にいた人が、顔をこわばらせてこちらを見ていた。部員のひとりが、あわてて駆け寄ってきた。私たちはじゃれ合っているつもりだったのに、殴り合いの喧嘩をしているのと、間違われてしまったのだ。
「あんたね、あれは女の子が好きな男の子とじゃれているとは、とてもじゃないけど見えないよ。相手にストレート・パンチや往復ビンタをくらわせたりしてさあ。おまけに形が決まっているから、あれじゃ、間違われてもしょうがないよ。彼ができたから、少しは女らしくなるかと思ったのに、ちっとも変わらないのねえ」
友だちはため息をついた。
(あんたにそんなこといわれたくないよ)
と思いながら、
「そうかしら」
と、ちょっと気取ってやった。
「彼も変わってるよねえ。あなたに『おまえなあ』とかいわれても、にこにこしてるもんね」
「うん、あの人、心が広いから」
友だちは、またため息をついた。彼女はかつて、つきあっていた彼に「ことばづかいが悪い」といわれて、ふられたことがあるそうだ。ふざけて、
「おまえはよー」
といったら、次の日、さよならが待っていたのだ。
そんなこといわれたら、私なんか百回くらい別れなければならない。夜、彼に電話をかけるときも、私の第一声は、
「おー、起きてるか」
である。するとあっちは、
「おー、あたりまえだぜ」
と答える。恋人というよりも同性の友だち、家族みたいなものである。彼は一般の企業に勤めた。私は学校のことで忙しいし、彼も休日出勤が多くて、なかなかふたりそろって休みがとれない。それでも電話をかけて話をしていれば、糸電話みたいに電話線でふたりが繋《つな》がっているような気がしていたのだ。しかしここ二か月は、全く連絡がとれない。これが最近いちばん気になっていることなのだ。
ついつい学校で生徒たちを必要以上に怒ってしまうと、
「せんせー、彼氏と喧嘩でもしたの」
といわれることがある。
「何をいってるんだ、バカもの」
と口ではいいながら、内心ドキッとする。喧嘩はしないけれど、むこうから電話がなかったり、こちらからかけても連絡がとれなかったりするのが続くと、必ず生徒にこういわれる。
(私にも女の部分があったのね)
と思う反面、こんなことで、関係ない生徒を必要以上に怒ったらいけないと、反省してしまう。そうなるとどんどん気分が落ち込んできて、CDプレーヤーに手が伸びる。そしてかけるのは、落ち込んだときの特効薬、「元気を出して」なのだ。
「バカヤロー。なんでいないんだよ」
隣近所の手前もあるので、小さな声で毒づいたあと、竹内まりやと一緒に歌う。涙がじわーっと出てくることもある。するとティッシュを顔面にあてがって、涙をせきとめる。自分でも驚くくらい、涙が流れ出ることもある。ついでに鼻水も出る。胸と同じように涙の出る穴もでかいのかもしれない。でも涙が出るとそのあと、とてもスッキリする。これで寝る前に、柔軟体操を軽くやれば、間違いなく安らかな眠りが待っている。この歌があれば、いつも気持ちが平らでいられるのだ。
彼とつきあっている十一年の間、二か月連絡がとれないことは、ふたりが就職してからよくあった。たしかに面白くなかったが、彼にもいろいろ都合があることだし、と、鷹揚《おうよう》に構えていた。友だちには、
「あなたはいつも、男子高校生の半裸を見ているから、それで欲求不満が解消させられるのよ。あたしなんか、そんなチャンス、ぜーんぜんないんだから。若い男でもいるかと思って、公営プールにいったら、そこにいるのは情けない体型のおじさんばっかりでさあ。まるで毛のはえたゆでたまごが、必死になって泳いでいるみたいなの。あっちから見たら、私なんか若いほうだから、いろいろと話しかけられたりするんだけど、とてもじゃないけど目の保養にはならないわ」
おばさんになると、いうこともなかなか露骨になる。しかし彼女のいうことも一理あるような気がするのだ。
暇があると何度も彼のところに電話してみた。するとあるときを境にして、留守番電話が入っていた。これはよかったと、いつもの調子で、
「おーい、元気でいるかあ。電話してくれえ」
とメッセージを残した。ところが二日たっても三日たっても電話がこない。出張しているのかもしれないと、しばらく様子を見ていたが、うちの電話のベルを鳴らすのは、女友だちからの電話だけだった。十日たってもう一度、電話をしてみた。しょっぱなから「おーい」と叫ぶ元気はなかった。
「もしもし……」
留守番電話になっていた。ところが留守を告げる彼のメッセージの内容が、この間と変わっている。
「私の伝言を聞いているのに、電話をくれない……」
何もいわずに電話を切った。あの人に限って、そんな不義理なことはしないだろうと思いながらも、この現実をどのように受けとめたらいいのか、その時の私にはよくわからなかった。
「せんせー、どうしたんだよ。疲れた顔してるぞ」
翌日、学校にいったら水泳部の生徒がやってきた。
「ああ、まあな」
「どうしたんだよお」
彼は私の顔をのぞきこんだ。
「あっ、クマができてる」
「うるさいなあ、三十近くなると、こういうこともあるんだよ」
「ふーん、そうかあ」
わかってるんだか、わかってないんだか、能天気な奴《やつ》である。気をつけないと頭のなかが、電話のことでいっぱいになりそうだったので、部の練習を目一杯やった。生徒と一緒に、得意のバタフライでガッパガッパと泳いでやった。
深夜、電話のベルが鳴った。
「もしもし、おれだけど」
懐かしい声がした。
「ああ、久しぶりだねえ」
私たちは今まで、こんな調子で会話をかわしたことがなかった。
「ごめんな」
「うん」
「電話しにくくて。なんていうか、うーん。とにかく、おれがみんな悪いんだ」
「…………」
のっけから「おれが悪い」といわれたら、こちらは何もいえない。
「なんだか近すぎてなあ、おれたち。長い間に、いても気にならないけど、いなくても気にならなくなってきちゃったんだ。やっぱりこういうのって……、潮時なのかもしれないって思ったりしたんだ」
ちっとも近くなんかないじゃないか、と文句をいいたくなったが、彼の口調は私が文句をいえないくらい、静かで沈んでいた。
「ごめんな、とにかくおれが悪いんだ」
「…………」
「一方的におれが切るんだから、何とでもいってくれよ」
しばらく私は黙っていた。そして大きく息を吸って、
「そうだな。おまえがみんな悪いんだよな」
と、じゃれ合っているのに、殴り合いをしているのと間違われたころの口調でいってやった。
「そういわれると、気が楽だよ」
彼は私の知らない人になっていた。私だけ取り残されたような気がしたが、黙って逃げないだけでも、やっぱり彼はいい奴だと思った。
「じゃあ、さよなら」
「元気でな」
受話器を置いたあと、私はしばらくぼーっとしていた。そしてプレーヤーにCDをセットした。「元気を出して」がスピーカーから流れてきた。この歌の主人公ほど落ち込んでもいないし、やせてもいないなあ、と思いながら一緒に歌っていたら、やっぱり涙が出てきてしまった。
アパートにいるときは、多少、気分が暗くなることもあったが、学校が近づくにつれて、だんだん体の中からエネルギーがわいてくる。高校生のエネルギーを自分がもらっているのかもしれない。
「せんせー、きょうは女みたいじゃんか」
胸元にリボン・レースがはめこんであるブラウスを着ているのを、めざとくみつけた子に、さっそく声をかけられた。
「女だから、あたりまえだ」
「えーっ、そうかなあ。ガニ股で歩くし、ことばづかいは悪いし、やっぱしそういうことから気をつけないと、女とはいえないんじゃないですかね」
「うるさいなあ、もう」
しっしと彼をおっぱらった。
部の練習も気合をいれてやった。新しい水着が届いたのでそれを着ると、生徒がにたにたと笑った。
「何だ、おまえたち。三十近いおばさんの水着なんか見て、感じちゃいかん!」
「えーっ、感じねえよ、そんなもん」
また彼らはわいわいと騒いだ。
(こいつら、あともうちょっと勉強に熱心だったら、いうことがないんだけどなあ)
私の男捜しはまた一からやり直しになった。ちっとも直らないことばづかい、性格、もしかしたら高校生にしか通用しないのかもしれない。私は顔デカとポマードホイホイの、
「校長先生以下、私ども一同、先生の御結婚のことを、心から心配しているんでございますよ」
という台詞《せりふ》を想像しながら、
「知ったことか」
とつぶやいたのであった。
第三話 期 待
寒くなると、ひとり暮らしのアパートのお風呂《ふろ》には、つらいものがある。家族がいると風呂場の空気も暖まって、入るときも寒くないし、お風呂から上がっても、ホカホカしている。ところがひとり暮らしを始めて、最初にお風呂に入ったとき、私は風邪《かぜ》をひいてしまった。入るときも寒く、上がったあともすぐ体は冷えてしまう。何のためにお風呂に入るのかわからない。だから冬場にお風呂に入るときは、ファン・ヒーターを強≠ノしておく。そうしないと、あとでくしゃみの十二連発になるからだ。
その夜も私は、冷たい風がピューピュー吹き荒《すさ》ぶなか、
「さぶい、さぶい」
と首を縮めて帰ってきた。ドアを開けて真っ先にヒーターのスイッチを入れ、その前で両手をすりすりしながら、
「はー」
と、声にならない声を発していた。こんなときはテレビよりも晩御飯よりも、お風呂がいちばん恋しくなる。御飯を簡単にすませ、さっさとお風呂に入って、ベッドにもぐりこむことにした。
浴槽にお湯をはったあと、ヒーターを風呂場の近くまで引きずっていき、私はそこでウールのパンツを脱いだ。寒いので、その下には厚手の黒いタイツもはいている。そのとき電話がルルルルルと音をたてた。夜の電話には期待を持たせる何かがある。別に私には特定の誰かがいるわけではないのだが、
(もしかしたら、どこかで私を見初めた人が、告白の電話をかけてきたのかもしれない)
と期待しちゃったりする。だからトイレに行く途中だろうが、風呂に入るところだろうが、私はちょっと頬《ほお》がゆるむ期待を胸に抱いて受話器をとる。
「もしもし」
ここで女の声がすると、
(やっぱり……)
と思いつつも、ガックリきてしまうのである。
「トモミちゃん、私」
「ああ、うん。元気?」
ユキちゃんだった。彼女は週に一度、私のところに電話をかけてくる、短大のときの友だちである。だいたい、私たちが友だちにかける電話なんて、ひまつぶしがほとんどなのだけど、彼女の場合はちょっと違う。相手も無邪気に、
「元気?」
などといっているのだが、話はだんだん男関係になっていく。どうも私のところにチェックを入れているらしいのである。短大時代の仲良し四人組のうち、彼がいないのは私とユキちゃんだけである。OLになったら、なんとかなるんじゃないかと、たかをくくっていたのだが、どうにもならなかった。入ったのがおじさんばかりの小さな会社だったのもまずかった。女性も私のほかには、四十歳の既婚者がいるだけ。男関係はお先まっ暗なのである。
おじさんたちは、私を腫《は》れ物にさわるように扱う。入社当時は、
「トモミちゃん、彼氏、いないの」
などと、訊《き》かれたりしたものだった。私も、
「えーっ、いませんよ。誰か紹介してくださいよ」
などと冗談めかしたものだが、本気も少しまじっていた。ところが世の中にセクハラ問題が噴出してからは、下手に口をきいて、何でもはっきりいう私に、
「セクハラだあ」
と文句をいわれたらたまらないと、おじさん連中はびびったらしい。それ以来、彼らは私の前では、とっても無口になってしまった。必要最小限のことしかいわない。怒りもしない。いつも私の顔を、おどおどと観察しているのだ。
それに比べて、ユキちゃんのなんて恵まれていることか。若い男性がいっぱいいる、そこそこの自動車会社に就職した。まして女性が少ない。私の場合は「ヤギの群れのなかにキャンキャン吠《ほ》える犬」をいれたようなものである。ところが彼女の場合は「ワニの群れのなかにニワトリ」である。ヤギが犬を食うわけがない。ユキちゃんにしてみれば、どう考えたって、私よりも彼氏ができる可能性が高いとふんでいたのだろう。ところがどういうわけだか、ワニは半年たっても、一年たっても、ニワトリを食おうとはしなかったのだった。
「トモミちゃんは、どう、その後?」
さぐるような口調で彼女はいった。毎度のことだ。
「別に、変わりないよ」
「いい人、できた?」
いい終わったあとの、妙な沈黙が不気味である。
「ぜーんぜん」
「あっ、そうなの」
彼女のほっとした顔が浮かぶ。
「ユキちゃんは?」
「えーっ、私。うふふ」
「…………」
嫌な予感がした。あのもったいぶった笑い声からすると、彼女は私に自慢したいがために、電話してきたのかもしれない。
「正直にいいなさいよ。ねえ」
なるべく怒った口調にならないように気をつけた。
「うーん、あのねえ」
「なによ、もったいぶって」
「あのねえ」
「あーっ、いらいらするー!」
上半身はセーター、下半身は黒いタイツ一丁の私は、地団太を踏みながら、受話器を握りしめた。
「あのね、好きな人がね、できたの」
「えーっ、それって、告白ずみ?」
「ううん、まだ」
今度はこっちがほっとした。
「どんな人?」
「あのねえ、一年先輩でねえ、ずーっといいと思ってたんだけど、このあいだ、異動があって同じ課になったのね」
ユキちゃんは、ねちねちとしゃべり始めた。こうなると話はとても長くなる。そのかっこいい男性はタキタさんといい、社内では若い女性社員の人気ナンバー・ワンだというのだ。去年のヴァレンタイン・デーには、山のようにプレゼントが届き、他の男性社員の嫉妬《しつと》の視線を一身に浴びたという。ふつうそういう男は、気取っていて嫌味なのが多いのだが、彼は女子社員と平等に接するので、受けがいいというのだ。噂《うわさ》によると、五年来付き合っていた彼女とつい最近別れたらしく、女子社員はいっきに色めきたっているという話であった。
「芸能人でいったら、誰に似てるの」
「そうねえ……。うーん」
また、ねちねちが始まった。私は右足の裏で、左足の甲をこすりながら、次のことばを待った。
「あのねえ、うふふん」
彼女はひとりで楽しんでいる。
「ねえ、誰よ」
「そうねえ、吉田栄作かしらん」
いかにも面食いのユキちゃん好みではあった。でもいくらそこそこの会社とはいえ、吉田栄作にウリふたつの男性が、そんなに巷《ちまた》にころがっているわけがない。きっと惚《ほ》れた欲目だろうから、
「ふーん」
といっただけで黙っていた。
「疑ってるでしょ」
ユキちゃんは鋭くつっこんできた。
「まあね」
「今度、うちの課で飲み会をやるから、来ない? そうしたら彼のことも、見てもらえるし」
ユキちゃんは告白ずみではない、といいながら、すでに付き合っているようなことをいった。どうせうちの会社は、ヤギおじさんばっかりだし、ユキちゃんとこの飲み会に参加して、ワニのなかに身を置くのもいいかもしれない。もしかしたらそこで、ワニに食われる可能性だってあるではないか。
「うん、行く行く」
私はお風呂のことなど、ころっと忘れ、黒いタイツ一丁の下半身を、くねくねさせた。
ユキちゃんのところの飲み会には、男性、女性とりまぜて、二十人が参加していた。
(どんなかっこいいワニがいるかしら)
と期待したのだが、別に感動を呼ぶような人はいなかった。ユキちゃんは横に座って、例の喋《しやべ》り方で、私をみんなに紹介してくれた。会社にいるのがおじさんばっかりだといったら、女の子たちは顔を見合わせながら、
「かわいそうねえ」
といってくれた。同情してくれたというよりも、憐《あわ》れまれたようだった。みんながてんでに飲み始めると、ユキちゃんが耳元でささやいた。
「ねっ、あそこにいるのが彼なの」
そういえば、みんなの顔をみたときに、なかにちょっとマシなのが、いるにはいるなあとは思った。他の男性社員に比べて、やや顔立ちがすっきりとしていて、まるで湯上がりのような雰囲気だ。
「ね、吉田栄作によく似てるでしょ」
だいたい芸能人に似ているといっても、一般人は明らかに本人よりワンランク、グレードが落ちる。吉田A作ではなく吉田B作という感じだった。しかし女性社員に人気があるというのは本当で、彼の両側には女の子が、べったりとはべる「おはべりちゃん」になって、一生懸命に世話をやいていた。それを見たユキちゃんは、キッとした目つきになって、私に、
「トモミちゃんは、そこに座ってて」
といい捨てて、タキタ君のほうにじりじりとにじり寄っていった。
「おい、タキタのまわりが妙に女の子の密度が濃いぞ」
と男ばかりで固まっているところから、声がかかった。
「そうかしら」
女の子たちはそういって知らんぷりをしていた。タキタ君はうつむいてビールを飲みながら、にたっと笑っていた。
「ちぇっ」
誰かがふてくされて舌打ちした。そんなことにおかまいなしに、女の子たちは吉田B作の世話をやき、そばに寄れない女の子は、悔しそうな顔をして、B作のほうを眺めていた。私は、単なる刺身のつまになっている男性社員に囲まれて、なんていうことのない世間話をしていたのだった。
「ねえ、どうだった、彼」
翌日、お風呂から上がって、湯冷め防止のために、ヒーターの前で暖まっているとき、ユキちゃんから電話がかかってきた。
「どうって? 私、ひとことも話さなかったよ」
「違うの、見た感じっていうこと」
「そうねえ」
「似てるでしょ。吉田栄作に」
「うーん。でも、ちょっと落ちるわよ。ま、吉田B作ってところね」
「えーっ」
ユキちゃんは悲しそうな声を出した。
「ひどい!」
そして本気になって怒った。
「まるで佐藤B作みたいじゃないの! やだやだ、そんなの」
私は吉田栄作よりも、佐藤B作のほうが好きだ。
「でも、タキタ君、もててたねえ」
そういうとユキちゃんは、急に沈んだ声になった。きのうの夜も、途中まで帰る方向が同じなので、一緒に帰ろうと思ったら、同僚の女の子たち五人が彼を拉致《らち》していってしまい、あとからあわてて追いかけたのだが、うまくまかれてしまったと嘆いていた。
「それでね、しょうがないから、クマダさんに送ってもらったの」
クマダさんというのは、「名は体を表す」のとおり、毛深い熊みたいな人だ。
「いい人じゃない。クマダさんにすれば」
「やだ、あんな毛むくじゃら」
彼にはまったく関心がないみたいだった。
「で、どうするの。これから」
またまた彼女は、沈んだ声になった。ライバルは社内だけではなく、近隣の会社にもたくさんいるらしい。年上の誰々さん、新入社員の誰々ちゃん、隣の会社の受付嬢と、事細かに彼女は教えてくれたが、すべて左の耳から入って右の耳に抜けてしまった。
「どうしよう……」
彼女は泣きそうな声を出した。
「『どうしよう』ったって、がんばれば」
「うーん。でもやってみても、まけそうだし」
「どうして。やってみなきゃ、わかんないじゃない」
「でもさ。みんな、ものすごく美人でスタイルがいいの。私なんかさ、背は百五十五センチしかないし、胸はないし、O脚だし、前歯はさし歯だし。勝てるわけがないわよ」
「ふーん」
それじゃやめれば、といいそうになったのをこらえ、
「やってみなきゃ、わからないよ」
といっておいた。
「そうね、やってみなきゃわからないよね」
ユキちゃんは、何度も、何度も自分を納得させるように繰り返していいながら、やっと電話を切った。きっと電話のむこうでは、両手で握りこぶしを作って、
「よしっ」
と活をいれているに違いない。客観的に見て、ユキちゃんの勝ち目はあまりなさそうだったが、それは口が裂けてもいえない。最後の最後まで、応援するのが友だちというものである。だから私はユキちゃんが、失恋して泣いたあとまで、
「がんばれ」
といい続けなければならないのであった。
私の社交辞令の「がんばれ」に触発されたのか、それから毎晩、彼女は頼みもしないのに、報告の電話をしてくるようになった。それも、トイレを使用中のときとか、風呂上がりに体を拭《ふ》いているときとか、晩御飯のうどんがゆで上がったときとか、ありがたくないときばかりだ。
「今、都合が悪いから、あとで電話するね」
というと、
「ごめんね」
といったあと、すぐ、
「あのねえ」
と喋《しやべ》り始める。ちっともこっちの都合なんか考えていない。だから私は「ふんふん」と話を聞きながら、なるべく音をたてないように、うどんをすすらなければならなくなってしまうのだ。
「彼がね、女の人と歩いてたの。それがふたりとも、とっても楽しそうなの。もうだめだわ」
「誰なのよ、相手は」
「隣の会社の受付嬢」
ユキちゃんの会社の彼狙《ねら》いの女の子たちが、じとーっとふたりの姿を追っているのが、目に見えるようだ。
「もう、私、本当にだめかもしれない」
「できてるの」
「…………。ううん、そんなことはきっとないと思うの」
ユキちゃんは、いったん弱気になったが、次の瞬間、きっぱりといいきった。
「私、クリスマス・プレゼントに、セーターを編むわ」
思わず、どひゃーといいそうになった。高校生じゃあるまいし、そんなことして吉田B作をおとせるだろうか。おまけに彼女が編み物が得意だなんて、聞いたことがない。
「別のほうから攻めていったら」
「だめかしら」
「そんなことで、心が動くタイプには見えなかったけど」
「そう。それじゃ、どうしたらいいの」
どうしたらいいのっていわれても、どうしようもない。
「ああ、私、どうしたらいいのかしら」
ユキちゃんはため息まじりに、電話口で身もだえていた。そして急に思い詰めた声でいった。
「彼、私のこと、好きだと思う?」
「はっ?」
あっけにとられて、何もいえなかった。
(わかるかいな、そんなこと)
そういってやりたかったが、やっぱりいえない。「映画に誘ってみたら」「電話をかけてみたら」など、いろいろと提案したが、いまひとつ彼女はノリが悪い。
「彼に関心のない女の子と一緒に、ダブル・デートをしたら」
といったついでに、
「私でよかったら、一緒に行ってあげるよ」
とつけ加えたら、
「トモミちゃんは、私よりきれいだからダメ」
とすぐ断られた。そしてまた、
「ああ、私、どうしたらいいのかしら」
が始まってしまったのだった。
ユキちゃんは自分の世界に、どっぷりと浸っていた。「どうしたらいいかしら」を何百回、何千回と聞かされたような気がする。いいかげん、こっちもいつも同じ話ばかり聞かされて、だんだん疲れてきたので、ある晩、
「とにかく告白しなけりゃ、何も始まらないじゃない」
といって、この話題にケリをつけようとした。するとユキちゃんは、ふっと黙り、そのあと小さな声で、
「だって、断られるのが怖いんだもん」
と涙声になった。そういわれたら私も何もいえない。高校生のときに、私だってつらい思いをしたことがあるからだ。結局は、
「ちくしょー」
と元気を奮い起こしたが、それに至るまでは、なかなかつらいものがあった。
「でもユキちゃんの気持ちを伝えないことには……」
「それはわかってるのよ。でも他の人や隣の会社の受付嬢と私が勝負したって、負けるに決まってる。きっとダメよ」
「どうして」
「なかでいちばん不細工だもん」
そこまでわかってんのなら、このままあきらめてしまえばいいのに。
「ああ、どうしたらいいかしらん」
あれから二か月、吉田B作には新しい彼女ができた気配はなく、彼を取り巻く女性たちは、お互いを牽制《けんせい》しあいながら、他の人より一歩先に出ようと、策を練っているらしい。夜になると未《いま》だにユキちゃんから、うじうじ電話がかかってくる。いつまでこの失恋ごっこにつきあわなきゃいけないんだろう。ユキちゃんはこれで結構楽しんでいるのだろうけど、私は大迷惑なのだ。いっそのこと、さっさと失恋して大泣きしてくれないかしらと、私は期待してしまうのだった。
第四話 無 言
僕と彼女は大学に入ったときに知り合った。知り合ったといっても、強引に知り合わされた、といったほうがいいかもしれない。僕が友だちといると、必ず少し離れたところに彼女がいた、と彼らはいう。僕はうしろ向きだったから、気がつかなかったのだが、彼女は背後からじっと僕のうしろ姿を見つめていたらしいのである。
「あの子、知り合い?」
友だちは小さい声で、ささやいた。僕がそういわれて振り向くと、少し離れたところにいた女の子が、ポッとほおを赤らめた。レースの大きな襟《えり》がついた白いブラウスに、ピンクのギャザー・スカートをはいている。スカートからほんの少ししか出ていない足は、内股《うちまた》になっていた。
「知らない」
「そうか、さっきから、ずっとこっちを見てるぞ。お前に気があるんじゃないのか」
「ふざけんなよ」
「あっ、そういえば、このあいだ、学食に行ったとき、おとといだっけ。あのときも、あの子いたぞ。思い出した」
別の友だちがうれしそうにいった。
「また、調子のいいこといって」
「いや、そんなんじゃなくて、絶対にあの子だよ」
僕たちは彼女のほうを見ることもできず、まるで関係のない話をしているふりをして、
「あの子は、いったい何だ」
と推理していた。友だちが彼女のほうを見ても、態度に変化がないのに、僕が見るとほっぺたが赤くなる。そして、にこーっと笑うのだが、笑い顔が泣いたような顔にも見えるのが気になる子だった。
「ほーら、みろ。メルヘンちゃんは、やっぱりお前が目当てなんだよ」
勝手に彼は彼女のことを「メルヘンちゃん」と呼んだ。この命名はぴったりだった。
「よかったじゃん。入学ひと月で、もう彼女ができたなんて、すごいじゃんか」
みんないいたいことをいった。
そういわれても、僕は正直いってあまりうれしくなかった。別に彼女が嫌だというわけではないのだが、できればもうちょっと、雰囲気の違うほうがよかったかなあ、と思っただけだ。まあ、あっちがアプローチしてきたわけじゃないんだし、ほっとけばいいと気楽に考えていた。ところが友だちが妙に気をきかせやがって、彼女がどこからともなく姿をあらわすと、
「じゃ、おれたちは、これで」
と目配せして、僕を置き去りにする。
「おい、おい、ちょっと待てよ」
と追いかけようとして、ふと背後に視線を感じると、「メルヘンちゃん」は内股で、例の泣き笑いの顔をして立っているのだった。
僕は少しうろたえて、バッグのなかをひっかきまわして、捜しものをするふりをしていた。するとうつむいた僕の視界に、白いソックスにフラット・シューズをはいた足が入ってきた。
「あのー、スドウさん、ですよね」
ドキッとしながら顔をあげると、彼女だった。「メルヘンちゃん」にふさわしい、トーンの高い、甘ったれた声である。
「……うん。そうだけど……」
「これ、読んでください」
彼女はピンク色の封筒を手渡すやいなや、内股で走り去っていった。僕はあわてて周囲に人がいないことを確かめ、バッグに手紙をねじこみ、あわてて友だちを追いかけた。
「よお、よお」
駅に行くと奴《やつ》らは、にたにた笑いながら待っていた。
「どうしたんだよお、何かいってきたか」
「うるせえなあ」
「おっ、あやしい、目のまわりが赤くなってるぞ」
僕は小さいときから、隠しごとをしているときは、目のまわりが赤くなると母親にいわれていた。こんな秘密までもう友だちに知られている。
「いいから、ほっといてくれよ」
「なんだって、なあ、なんだって、俺《おれ》がいったの当たってただろう」
「知らねえよ」
「なあ、いいじゃないかよ」
みんなどうしてこんなに一生懸命になるのかと思うくらい、必死に食い下がってきた。僕は腕をつかまれて、身動きができなくなってしまった。
「わかった、わかった」
僕が観念すると、みんなはぞろぞろと僕を近くの喫茶店にひきずっていった。そこで僕は、「メルヘンちゃん」から手紙をもらったことを告白させられたのである。
「よくあんなまじめそうな子が、お前のこと好きになったよな」
「ああいう子のほうが、いざとなったら怖いんだぞ」
「ピンクの封筒かあ、いいなあ。おれ、そんなもん、もらったことがない」
みんなは興味|津々《しんしん》でピンクの封筒を透かしたり、匂《にお》いを嗅《か》いだりしていた。僕は中学、高校と男子校で、女の子から手紙をもらったのは、小学校三年生以来である。ところが手紙をくれた女の子というのが、『ちびまる子ちゃん』にでてくる、みぎわさんみたいな子で、僕は半泣きになった。今回はそれよりはマシだが、うれしいような困ったような、複雑な気分になっていた。
「ま、うまくやれよ」
ひとしきり盛り上がったら、みんなは急に熱がさめたようで、さっさと自分の飲んだ分のコーヒー代の小銭を出して、店を出ていった。ふつうなら自慢したっていいことなのに、何となく仲間はずれになったような気がした。
アパートに帰っても、ピンクの封筒は机の上に置いたままにしておいた。それからレンタル・ヴィデオ屋に行って、ヴィデオを三本借りた。そしてコンビニに寄ってカップ麺《めん》のでかいのを三個と、安売りの牛乳を買って帰った。
「そろそろ読んでみっか」
びりびりと指先で封筒を破くと、きっちり小さくたたまれた、ピンク色した便箋《びんせん》が出てきた。指なんかで破っちゃいけないみたいだった。便箋を開くと「愛」「恋」「好き」「うれしい」「会って」という単語が目に入ってきた。僕はいけないものを見たようで、あわてて便箋を閉じた。「愛」とか「恋」ということばは、僕にとっては白い木綿のへそまであるパンティみたいなものである。清純な感じもするが、ちょっと怖い。僕はさっき『ぬれぬれお姉さん、大きいのがだあ〜い好き』という、アダルト・ヴィデオを借りてきたばかりなのだ。それなのに「愛」とか「恋」とか書いてある手紙を、「メルヘンちゃん」からもらっていいんだろうか。僕はふーっとため息をついて、ベッドの上に寝っ転がった。
「女の子って、本気であんなこと書いてるのかなあ」
明日、学校に行くのが憂鬱《ゆううつ》になった。
「おい、おい、どうだった」
学校に行ったとたん、いちばんつかまりたくない、ヤマダにつかまってしまった。どうやら僕のことは、一夜のうちに電話連絡網で知れ渡ったらしい。こいつは自分がふられ続けているものだから、友だちに女の子の気配があると、嫉妬《しつと》から根掘り葉掘り、いろいろなことを聞き出そうとするので有名なのだ。
「どうって」
「手紙だよ、手紙」
「ああ、あれか」
「どうしたんだよ」
「別に……」
僕はなるべく「メルヘンちゃん」のことは考えないようにしていた。
「でっ、どうするんだよ」
彼はにたにたしながら顔を近づけてくる。僕はのけぞりながら、こんなときに「メルヘンちゃん」がまた、にこーっと笑って立っているんじゃないかと、きょろきょろしてしまった。
「お前のどこが気にいったのかなあ、あの子」
「あの子って、知ってんのか」
「ああ。あの子供みたいな格好した子だろう。二、三年前まで、佐野量子があんな格好してたよな」
「…………」
つきあう女の子は、みんなに、
「おっ」
といわれる子がよかった。森高千里みたいなすっごく足のきれいな子がいい。
「何だ、あんなの」
といわれるよりは、そっちのほうがいいに決まっている。しかし、
「そんなに女の子を選ぶ資格があるのか」
と自問自答すると、
「どうも、すみません」
と社会にむかって土下座したくなるのである。
(悪くはないんだ。ちょっと僕がイメージしている女の子とは、タイプが違っただけだ)
もしかしたら、この機会を逃したら、これからずっと彼女ができないかもしれない。それも悲惨だ。それでなくても女の子の望みが高くて、男があまるといわれている。東京に来るとき、おやじが、
「女の子をつかまえたら、逃すな」
とこっそり耳打ちしたくらいだ。
(今度、彼女を誘ってみよう。それが男というものだ)
僕は心を決めたのだった。
彼女は格好と同じように、「身も心もメルヘン」だった。幼稚園から高校までをミッション・スクールで過ごし、他の大学を全部すべったので、仕方なくここに来たんだそうだ。僕はこの大学が第一志望だったことは、これからもずっと黙っていようと思った。彼女は話をするとき、必死になって僕の目を見ようとする。小学校のときに、先生に、
「相手の目を見て話しましょう」
と教えられたのを、ずっと守ってきたような子なのだ。こんな女の子は全然まわりにいなかったので、どんなふうにつきあっていいのか、皆目、見当がつかなかった。新鮮というよりも、途方にくれたといったほうが、いいかもしれない。友だちからは、
「ふたりが歩いていると、中学生とデキの悪い家庭教師みたいだなあ」
といわれた。彼女はどういうわけだか、やたらとギャザーが寄っている服を、好んで着ていた。そして足もとはいつも白いソックスにフラット・シューズ。今どき子供服メーカーでも作ってないような服である。
「そういう格好、好きなんだね」
といったことがある。これは彼女の服装の趣味に対する、精一杯の僕の批判的なことばであった。ところが彼女は、例の笑い方をしながら、
「ええ。全部、うちの母が縫ってくれるものだから」
といった。それ以上、僕は何もいえなくなってしまった。
(いいなあ、あのぴっちりしたミニ・スカート)
それからますます、足のきれいなちょっと遊び人風の女の子に、目がいってしまう僕であった。
「その後、どうだ」
友だちは学校で顔を合わせるたびに、訊《き》いてきた。彼女と一緒にいるときは、拉致《らち》されているのと同じなので、彼女と違う授業をとっているときだけが、僕の解放された時間になった。つきあう前は授業が拉致の時間だったのに、ずいぶん変わったものである。
「あまり、接点がないんだよなあ」
ぽつんとそういうと、友だちは、
「そりゃ、そうだろ」
と冷たくいい放った。
「最初から、思いどおりの女の子とうまくいくなんて、世の中そんなに甘くないの。徐々にね、徐々に、理想に近づいていくわけよ」
僕にも森高千里みたいな彼女を連れて歩ける日が来るのだろうか。でも今、僕の前にはお母さんの手作りの服を着た「メルヘンちゃん」しかいないのだった。
映画を観《み》よう、冬はスキーをやろうといっても、彼女は、
「えーっ、そうねえ」
と首をかしげて乗り気にならない。僕はアパートにいるよりも、外に出たいのに、彼女はどういうわけだか、僕の部屋に来たがった。
(その気があるんだろうか)
と思いながら、僕は見つかったらやばいものを、押し入れに放りこんだりしなければならなかった。万一、そうなったときのために、夜中にこっそり町角の自動販売機で、金五百円でブツを買ってきたりしたが、予想どおり彼女はそんな気などまったくなかった。花模様のエプロン持参で、にこーっと笑いながらやってくる。部屋を見渡すと、いそいそとエプロンをして掃除を始める。そしてそれが終わると、今度は料理を作り始めるのだ。それも煮物ばっかり。部屋はきれいになるし、とりあえず腹はふくれるし、助かってはいるのだが、うっとうしい。料理ができると彼女は、
「できましたよー」
と甘えた声で僕を招《よ》ぶ。そしてまた、にこーっと笑いながら、小首をかしげ、
「はい、お箸《はし》」
といって、両手で僕に箸を手渡すのだ。
「ああ、どうも」
最初のころは、そういっていたのだが、だんだん面倒になって、黙っていることにした。しかし彼女は相変わらず、にこーっと笑って僕の顔を見ている。
(どうしてこんなに楽しくないんだろう)
別にエッチができないとか、そんなことじゃなくて、彼女のとってつけたような笑い顔を見ると腹が立ってくるのだ。どうしてだろうと、ずーっと考えていて、今まで考えたことがないくらい考えたあげく、
「結局、あいつは自分のことしか考えてないんだ」
という結論に達したのであった。そう思ったとたん、むくむくと怒りがこみ上げてきた。
(僕が欲しいのは、女房じゃなくて彼女なんだ!)
森高千里みたいな彼女ができないのも、全部彼女のせいのような気がした。僕は彼女が何度めかにアパートに来たとき、
「僕たち、もう会わないほうがいいと思うんだ。基本的な感覚がずれているみたいだし。アパートに来て、いろいろやられるのも嫌いなんだ」
といった。もう彼女と二度と会わなくても、後悔しないと思ったからだ。彼女はしばらく目を丸くして、口をキッと結んでいたが、突然、ぼろぼろと目から涙をふき出し、
「おおーん」
と犬の遠吠《とおぼ》えのような声を出して、テーブルにつっぷしてしまった。ふだんは甘えた高い声を出しているのに、どうしてあんな地鳴りのような声が出るのか、不思議になった。腹のなかから湧《わ》き上がってくるような、今まで聞いたことがない、不気味な声だ。
「おーおーおー」
彼女はただずーっと泣き続けていた。十分たち、二十分たつうちに、僕はだんだん罪悪感にさいなまれてきた。女の子の泣き声というのは、どうして聞いている人間を自己嫌悪に陥らせるのだろう。
「ごめん、もうこんなこといわないから。僕から別れるなんていわない」
僕にとんでもないプレッシャーをかけてくる、地鳴りのような泣き声に負けて、つい優しいことばをかけてしまった。彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。ねとーっとした、訴えるような目つきだ。
「ひっく、ひっく」
としゃくりあげていたが、しばらくして、やっと地鳴りはおさまった。ハンカチで顔をふいてやる気には、とうていなれない。これで、彼女との仲が泥沼化しそうな気配はあきらかだった。
それからの僕は非情な男になった。わざわざ、カップルでボートに乗ると必ず別れるという噂《うわさ》の、井《い》の頭《かしら》公園に連れていった。ボートに乗って、すぐ、
「疲れたから、漕《こ》いでよ」
といって彼女にオールをまかせた。ところが彼女は嫌がりもせず、口を真一文字に結んで、額に汗してボートを漕いだ。
「もうちょっとスピード出してよ」
僕ってなんて嫌な奴なんだろう。彼女はこっくりうなずき、同じように漕いだ。なにしろ「メルヘンちゃん」だから、相当なダメージを受けているかと思ったのに、余裕がでてきたのか、ソプラノで「ローレライ」を歌い始めた。それが妙に上手で、ますます僕をげんなりさせたのである。
僕たちの乗ったボートは、ただぐるぐると池を回っているだけだった。井の頭公園にまつわる噂なんか気にしないのか、他のカップルは池の中央でボートをとめて、仲よく話していた。
(このなかで彼女と別れるのを期待してやってきたのは、僕くらいのものだろうな)
彼女は必死になって漕いでいた。
(僕はどんなに嫌われてもいい。彼女と別れられるんだったら)
小一時間、彼女にボートを漕がせたあと、僕はだめ押しのつもりで、池のそばにある弁天様にお参りした。カップルが行くと弁天様は女性だから嫉妬して、仲を裂くという噂がある。彼女はその意味を知ってか知らずか、おとなしく手を合わせている。それが済んだら、僕は勝手に行きたいところに行く。今日はパチンコである。そんなときもいちいち彼女に、行き場所なんかいわない。エスコートもしない。勝手にずんずん歩いていくだけだ。
(怒って帰ってくれないかなあ)
と思いながら、そっと様子をうかがうと、彼女はとぼとぼうしろをついてきている。パチンコ屋に入っても、居心地が悪そうではあるものの、じっと隣に座っている。
(早く怒ってくれよ。早く帰ってくれよ)
でも彼女はずっとそばにいようとする。僕が女だったら、そんなことされたらすぐ別れる。しかし彼女は何度そういうことをされても、あとをついてくるのだ。
腐れ縁っていうのは、なんて面倒なものなのだろう。学校に行くと彼女が僕のことをじっと待っている。目があうと例の泣き笑いの顔をする。そして無言で僕のそばにすり寄ってきて、僕のあとをくっついて歩くのだ。
「なんで、こんな奴とこんなふうになっちゃったのかなあ」
ふたりで肩を並べて歩いているときも、ため息が出る。隣にいる彼女の顔を盗み見ても、面白そうな顔はしていない。たまに、彼女を街のなかに置き去りにして、走って逃げ出したくなる。そうなったら彼女は目をつり上げて、口を真一文字に結んで、内股で追いかけてくるのだろう。
(いっそ、浮気してくんないかなあ。でもこいつに手を出す男なんて、いそうもないしなあ……)
僕の目の前をべったりくっついたカップルが歩いていく。手はもちろん足までからませているようにみえる。
(あの彼女、かわいいなあ。どこで見つけたんだろう)
他のカップルをちらちらと観察しながら、僕と「メルヘンちゃん」は何の会話もかわさないまま、人込みにまぎれていった。
第五話 強 気
私がひとりで暮らしていたアパートに、短大に合格した妹が同居するようになって、一年が過ぎようとしている。彼女とは十歳違う。私は、二十歳のときに就職してから、昨年まで、狭いワンルーム・マンションに住んでいた。白い壁を見つめて苦節八年。やっとふた部屋あるアパートに住めるようになったのである。ところがそのとたん、妹が東京に来ることになってしまった。
「あの子のために、広いところに引っ越したわけじゃないんだから嫌よ」
すぐさま断ったのだが、
「そんなこといわないで。たったひとりの妹なんだから、かわいがってやっておくれ。お父さんも私もいなくなったら、頼れるのはお姉ちゃんしかいないんだから」
母親は電話口で一生懸命に私を説得した。妹が生まれたのは母親が四十五歳のときだった。私は十歳年下の彼女を、お人形のようなつもりでかわいがっていた。しかしだんだん大きくなるにつれ、周囲の大人の関心がすべて彼女にむけられるので、だんだん憎たらしくなってきた。妹は、私や両親と血が繋《つな》がっているとは思えないくらい、かわいかったからである。
「お姉ちゃんとは、全然似てないわね」
大人たちがこそこそといっているのを、私は何度も耳にした。両親を含め、彼女をちやほやする大人たちを横目で見ながら、
「ひとりで、強く生きていこう」
と幼い私は決意したのである。
「お姉ちゃん、ねっ、頼むから」
母親は情けない声を出した。四十五歳すぎての出産がたたったのか、産んだ彼女はよれよれである。産ませた父親もよれよれである。長女として頼りにされるのはわかるのだが、いまひとつ妹をかわいがる気にはなれない。小さいときからかわいいことを武器にわがまま放題。田舎に帰るたびに私が「甘すぎる」と怒っても、両親は、
「うーん」
と曖昧《あいまい》な返事しかしなかった。私が上京するときには、まだ十歳だった妹が、そんな歳《とし》になったかという感慨はあるが、正直いってあまりかかわり合いたくなかった。しかし、「迷惑料として二十万贈呈」という条件に負けて、同居を許可してしまったのだった。
小さなバッグを肩から提げて、彼女はやってきた。濃いピンク色のスーツを着ている。とてもじゃないけど、ついこのあいだまで高校生だったとは思えない。私はその姿を見てびびった。彼女の体はエッチっぽいオーラを発していた。AV系の美人なのだ。会社からの帰り道、若い女の子を眺めながら、
「あの子はまじめそうだ」
「あの子は絶対に遊んでるな」
と思うことがある。妹は客観的に見て、明らかに後者のタイプだった。荷物持ちの体の大きな熊のような男の子まで従えていた。しかし彼は両手に大きなルイ・ヴィトンのスーツケースを二個提げてきたのに、
「はい、ありがと。助かったわあ。じゃあ、さよなら」
という妹のことばだけもらって、追い返されてしまったのである。
ケーキをぱくぱく食べながら、田舎での生活を話す彼女にはびっくりさせられどおしだった。上京するにあたり、彼氏とは別れてきたという。理由は彼が地元の大学に進み、将来は地元で就職するからだった。
「東京の男の子のほうが、かっこいいじゃん。彼なんかには私は、ちょっともったいないかなっていう気がしてたんだ」
何という強気。きっと田舎では、わがまま放題のふるまいだったのだろう。両親と一緒にいたときのような甘い考えでは、東京にはいられないということを、姉としては教えてやらねばならない。
「悪い男だってたくさんいるんだから、軽はずみな行動をしていると、とんでもないことになるわよ」
しかし私の忠告は、
「あっそ」
という短い返事で、いとも簡単にふっとばされてしまった。両親や姉のいうことなど、屁《へ》とも思っていないのだ。
彼女の持ってきたスーツケースも、着ていたスーツも、実は別れてきた彼とは別の男に買ってもらったものだった。その相手は田舎では金持ちの馬鹿息子として有名な奴《やつ》で、歳も私とそう違わない。そいつに「一緒に旅行に行こう」と誘われて、「ルイ・ヴィトンのスーツケースを買ってくれたら」といったら、旅行先で買ってくれると約束してくれた。それで彼女はうまいこと両親をだまして、ふたりで香港《ホンコン》に行ったのである。
年老いた両親は近頃、寝る時間が十時である。彼らが背中を丸めて寝ているあいだに、妹は馬鹿息子と海外旅行。エッチもセットされているに決まっている。これでは娘を信用しているよれよれの両親が、あまりにかわいそうではないか。
「これは、オーダーしたの。シルクだよん」
無邪気に彼女はスーツの上着をちらりとめくってポーズをとった。我が妹ながら恐ろしい奴だ。もしかしたら近所中の噂《うわさ》になっていたのかもしれない。
「お姉ちゃん。このことは黙っててね」
「こんな恥ずかしいこと、親になんかいえませんよ」
「へへへ」
ぺろりと舌を出して、彼女はぐいっと紅茶を飲んだ。何だか嫌な予感がした。そして私が心配したとおり、彼女はいろんなことをやらかしてくれたのである。
女の子ばかりの短大だから、少しは男関係が遠のくのではないかと期待していたのにもかかわらず、半月後にはアパートの電話は、毎晩、鳴りっぱなしだった。相手の九割が男の子で、品行方正の私は、まるで彼女の電話番も同然だった。電話に出ると、
「あっ、お母さんですか」
と何度もいわれたのにも腹が立った。あまりに電話がうるさいので、
「文通にしろ!」
と妹に怒ったら、鼻でせせら笑われた。
「あんたの学校は、女の子ばかりでしょ。どうしてあんなに男の子から電話がかかってくるのよ」
「ふふん、それは私の魅力よ」
妹さまは、そうのたまった。男の子から隔離されると、妹のようなタイプはますますはりきってしまうらしい。男の子と知り合うために、近所の理科系の大学のサークルに入ったので、電話はサークルの仲間からだという。
「『先んずれば、人を制す』っていうやつで、みんな私のところに電話をかけてくるんじゃないんですかね」
こういうことばを知っているところからすると、そんなに馬鹿ではないらしい。しかし、平気な顔をして、
「私、男がいないとだめみたい」
などといわれてしまうと、姉としては、情けなくて涙が出そうになる。それでなくても、彼女がやってきてから、
「お姉ちゃんは、着ている服がダサイ」
だの、
「どうしていつも休みの日に部屋にいるの」
だの、
「怒ってばかりいる」
だのいわれ放題だ。私だって、
「赤やピンクのレースの透けたパンツなんか穿《は》くな」
「休みの日くらいは部屋にいろ」
「へらへらと男に愛想をふりまいているんじゃない」
といってやりたい。それをぐっとこらえているのだ。
私の胸の内を知ってか知らずか、妹は相変わらず派手にお暮らしになっていた。電話をキャッチ・ホンにしてくれといったので、
「そんな必要はない」
とつっぱねたらば、一か月後には彼女の部屋に電話がひいてあった。2DK廊下なしのアパートに、電話なんか二台もいらないのに、彼女は、
「今や現代人の必需品よ。お姉ちゃんだって、電話番しなくていいんだから楽でしょ」
としゃあしゃあとしている。どうも上京するときに、両親からたんまりと小遣いをもらってきたらしい。私なんか地元の短大を卒業し、就職で上京するときには、親に小遣いをあげた。何年かたって実家に帰ったとき、タンスの小引き出しから、手付かずのお金が入った封筒が出てきたとき、涙が出そうになった。こんな立派な姉に、妹はまったく似ていないのであった。
次の日に着ていくスカートの裾上《すそあ》げをしている最中に、隣の部屋から、
「うふふーん」
というお尻《しり》を振っているような笑い声が聞こえてくる。それが夕方から夜中、ときには午前三時まで、ひっきりなしに続く。耳に入ってくる話を聞いていると、妹は誰の誘いも断っていないようだった。だんだん帰る時間も遅くなるようになった。酒が飲めないのが幸いしているが、これが飲める質《たち》だったら、今までに何十万人の男と遊んでいるかわからない。深夜、がたんとドアが閉まる音がすると、ふっと目が覚める。時計を見ると夜中の二時をすぎている。翌日、文句をいってやろうにも、グーグー寝ている。会社から帰ってからにしようと思うと、彼女はまだ学校から帰っていない。そして待っているうちにこっちが眠くなり、深夜に彼女が帰ってくるという繰り返しだった。
あまりに深夜帰りが続くので、一緒にいた相手を毎日いわせることにしたこともある。違う男の名前がぽろぽろ出てきた。
「行った場所をいわなくていいのは、助かるわあ。聞きたければいってあげるけど」
などともいった。あらいざらい全部、白状させたいけれど、聞いたら最後、私のほうが熱が出て立ち直れそうもない。
「今度、十二時過ぎに帰ったら、部屋に入れないし、全部、お母さんに報告する」
そう宣言したら、さすがの彼女も少しはびびったらしく、それからはちゃんと十二時前に帰るようになった。よしよしと思っていると、私が会社から帰る前に、ちゃんと部屋にいることもあった。ところがどういうわけかいつも男の子と一緒だった。彼女の部屋から笑い声が聞こえてくることもあれば、キッチンのテーブルで話をしていることもあった。みんな違う男の子だった。私は、
「いらっしゃい」
といちおうはにこやかに挨拶《あいさつ》しながら、悟られないように鼻の穴を大きく広げて、部屋の空気の匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
といいながら、すばやくユニット・バスを使った形跡はないかチェックをしたりした。小さな袋をちぎったらしき切れ端や、妙に使用量が多いくず籠《かご》の中のティッシュ・ペーパーなど、あやしいものはあったが、確固たる証拠とはいえない。しかし話をするだけならどこだってできるんだから、アパートにふたりきりでいるなんて、小学生じゃあるまいし、やっぱりおかしい。男の子の姿が見えないのが、月のうち一週間だけというのもあやしい。だけどそれをいちいち問い詰めることは、恐ろしくて私にはできなかった。
「どこか旅行に行かないの」
と妹に訊《き》かれたこともあった。私がいなければ思う存分、男の子を連れてくることもできるだろう。しかし私は責任上、彼女をそのような状況におくことはできない。
「かわいそうねえ、お姉ちゃん。何がいったい楽しいの」
憐《あわ》れむように妹はいった。憐れむ暇があったら、肩くらい揉《も》んでくれといったが、
「お父さんとお母さんに山ほどやらされたから、やだ」
すげなく断られた。
三か月たっても、四か月たっても、妹にはなかなか特定の彼氏はできなかった。アパートにくる男の子たちも、デブ、ヤセ、チビ、デカ、顔面が良、不良、坊っちゃん風、勤労学生風とさまざまな子がやってきた。どうも彼女にはタイプというものがないらしい。だから彼氏がいながらも、年上の金持ちの馬鹿息子とも平気でエッチができるのだろう。どうせ淫乱《いんらん》な質だというのなら、姉としたら特定の彼とやってほしい。不特定多数というのはどうも抵抗がある。不特定多数をもてあそんでいるうちに逆恨みされて、最後に殺されてしまうなんてよくある話である。私なんか、部長のスケジュールを調整するだけでも面倒くさいのに、何人もの男の子の交通整理が同時にできるなんて、ある種の才能というべきなのかもしれないが。
残業で遅くなったある日、ふとアパートを見上げると、部屋に電気がついていた。よしよしとうなずいていると、ドアの前で人影が動いた。ふたりいる。生け垣の陰から様子をうかがっていると、彼らはチャイムを押したり、新聞受けの戸を外からつついたり、ドア・スコープをのぞき込んだりしていた。妹がちゃらちゃらと愛想をふりまいているから、こんなことになるのだ。そろりそろりと近づいていった。アパートの一階の階段|脇《わき》に、ほうきがあったので、それを隠し持って階段を上がった。彼らは私に気がつくふうでもなく、身をかがめて新聞受けのすきまから、必死にのぞいていた。私はなるべく冷ややかに声をかけた。
「どちら様ですか」
「うわあ」
彼らはびっくりして、直立不動の姿勢になった。暗がりで目だけがぎらぎらしていた。ひとりは肩くらいの髪の毛をソバージュにしていて、もうひとりは頭にバンダナを巻き、ディスコ帰りの謎《なぞ》のアジア人という感じだった。
「あの、あの、ミカさんは、あの、いらっしゃいますか」
「今日は、遅くなるっていってましたけど」
とにかく彼らを追い払わなければならない。
「そ、そうですか」
「帰ってきたら、電話させましょうか」
「いえ、あの、いや、いいです。どうも」
彼らはしどろもどろになって、気まずい雰囲気を漂わせて帰っていった。
妹はキッチンで、肉まんを食べながらテレビを見ていた。
「あいつら、帰ったあ」
「帰ったわよ」
「うるさいのよねえ、あのふたり」
彼女は心底、嫌そうにいった。彼らはもともと友だちで、双方とも妹を誘うのに熱心であった。彼らは相手を牽制《けんせい》しつつ、妹を自分のものにしようとしたのだが、彼女は例のごとく、誘われるままふたりとエッチをした。すると彼らは煮え切らない妹に、どちらかを選べと迫り、うるさいので無視したら、ふたりしてどこまでもしつこく追いかけてくるようになったということであった。
「あんたがだらしないから、こんなことになるのよ」
夜遅く、女の子のアパートをのぞいているなんて、よほどのことだ。私と一緒でなければ、今頃はどうなっていたかわからない。私がひとり気を揉んでも、妹は、
「あの子たち、私が自分たちとだけつきあってると思ってんの」
と平気な顔をしている。どっちも選ばずに、両方共捨てるつもりだから放っておいていいという。
「どうして気のない人と、そんなことするの! 信じられないわ」
「うーん、よくわかんないけど、そうなってもいいかなと思ったら、そうなってんの」
返すことばもない。
「あのね、何だかんだっていったって、傷つくのは女の子だからね……」
「ふーん」
彼女にとっては保健の先生のような私の忠告よりも、肉まんのほうが、はるかに興味があるらしい。
「誰でもいいから、早くひとりに決めなさいよ」
「どれもねえ、あっちがいいとこっちが悪いっていう感じだからねえ」
「あたり前でしょ」
「だって私は、どこから見たって完璧《かんぺき》だもーん」
「そんなことをいうところが欠点なのよ」
「お姉ちゃんは、嫉妬《しつと》してるんでしょ。そんなこという前に、自分の彼でも見つけたら」
(くくーっ)
いちばん痛いところをつかれてしまった。
「わかった。もうお姉ちゃんは何もいわない。だけど自分のやったことは、自分で責任をとりなさいよ」
「はーい」
彼女は三個目の肉まんを口にした。こんなふうに簡単に、男の子もぱっぱかぱっぱか食べているのだろう。私は風呂《ふろ》に入り、早々にベッドにもぐりこんだ。
(もういいや。あの子と私は関係ないと思うことにしよう)
私は隣の部屋から聞こえてくる、
「うふふーん」
という笑い声を聞きながら、眠りについた。
それから毎日、会社から帰ると彼女は肉まんを食べていた。男の子を家に連れ込む回数は少なくなったものの、同じことを別の場所でやっているのだろう。食事のときも彼女は元気で喋《しやべ》っている。いっこうにこたえていない。
「お姉ちゃん、ものまねが始まるよ」
食事をしている途中、片手に箸《はし》を持って、テレビのチャンネルを変えた。そのとき、ドアのむこうでカサッという音がした。あらっと思った瞬間、
「お前なんか、最低だあー」
といううめくような男の声が聞こえた。あっけにとられていると、もう一度、もっと大きな、
「お前なんか、最低だあー!!」
という絶叫が聞こえた。ドアを開けるとすさまじい勢いで、男が走って逃げていった。街灯のなかに浮かびあがっていたのは、このあいだやってきた、謎《なぞ》のアジア人ではないうしろ姿だった。ふと気がつくと他のアパートの住人が、不思議そうな顔をしてドアから首を出して、こちらを見ていた。
「みっともない。あんなこといわれて」
あわててドアを閉めて妹に怒鳴った。
「ばっかじゃないの。信じられなーい。そんな根性だから、私にふられるんだよーん」
晩御飯を食べ終わったばかりだというのに、妹はまた肉まんに手を伸ばしていた。
翌朝、トーストを食べながら、今度まとまった休みがとれたら、香港の漢方薬店にいって、淫乱が治る薬があるか聞いてみようと真面目《まじめ》に考えた。友だちの話によると、そこには「やせる薬」「精力がつく薬」など、何でもあるそうだから、もしかしたら棚の奥のほうに、「淫乱が治る薬」もこっそりとしまってあるかもしれない。それを少しずつ飲ませれば、あの子の下半身もおとなしくなるのではないだろうか。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
か細い声が聞こえてきた。
「何よ」
「お腹が痛いよー」
あんなに肉まんを食べるからだ。ざまあみろ。この、ばちあたり。
私は知らんぷりをして、歯ブラシを手にとった。ふっと、背中の丸まった両親の姿が、目の前に浮かんできた。私は歯ブラシを元あった場所に戻し、包丁を持って妹のためにりんごをむいていた。
(あーあ、信じられなーい)
流しで螺旋状《らせんじよう》に渦を巻いているりんごの皮を眺めながら、頭がくらくらしてきたのだった。
第六話 相 性
「世の中で私はいちばん幸せだわ」
彼とつきあうようになってから、私にはバラ色の日々が訪れた。以前、友だちが、うっとりした目つきをして、
「自分が素敵だなと思った人は、必ず相手も自分のことをそう思っているものよ」
というのを聞いても、片想《かたおも》いがことごとくぶちこわしになっていた私は、
(ケッ)
と小馬鹿にしていた。「赤い糸」の話なんかをする子には、小指につながっているはずの赤い糸を、はさみで切ってやりたくなった。しかし彼と知り合ってから、男女を結びつけるロマンティックなその話に、心から拍手したい気分になったのである。
そのとき私は、学校の食堂でBランチを食べ終わり、お皿の載ったトレーをカウンターに返そうと立ち上がった。すると隅のほうで私と同じように立ち上がった男の子がいた。何げなく目と目が合ったとたん、私はその場に立ちつくしてしまったのである。彼はトレーを持って近づいてきた。もちろんカウンターに返すためなのだが、私はまるで自分に近づいてくるような気がして、胸がどきどきしてしまった。彼はきちんとトレーをカウンターの上に置いた。
(学食の外に、出ていってしまうんだな)
残念に思っていると、何と彼は私のところにやってきて、にっこり笑って無言で、私が手にしていたトレーをカウンターに持っていってくれたのだった。
これが私たちの出会いであった。今までは男の子と話すときに、妙に緊張していたのに、彼とはまるで子供のころからの友だちみたいに、話すことができた。デートのときも、マニュアルどおりに動くような人ではなかった。
「どこでどうやって探したのだろう」
と不思議になるような、雰囲気がよくて値段も安い店をたくさん知っていた。そこにはいかにも、「このあとエッチが控えている雰囲気を漂わせたカップル!」はいなかった。ちゃらちゃら着飾った男女がいないのも気分がいい。ちょっと大人の人たちばかりで、そこにまじっても不自然ではない彼が、とても素敵に見えた。
門限にはきちんと家まで送ってくれた。そのうえきちんと両親に挨拶《あいさつ》してくれる。いつもは無口でむすっとしている父親も、
「なかなかいい青年だ」
と誉めていた。母親はまるで自分に彼ができたみたいに、
「いい人ね、いい人ね」
とはしゃいで、父親にちょっと嫌な顔をされていた。
彼は何度もうちに遊びにきた。そのたびに父親は、上機嫌で彼に晩酌の相手をさせていた。彼が親に嫌われるのも困るが、私にも不満があった。うちには何回も遊びにきているのに、彼の家には一度も連れていってくれない。お父さんは彼が小さいころに亡くなり、お姉さんは結婚しているので、今はお母さんとふたり暮らしのはずである。場所だって電車に小一時間乗れば着くようなところで、別に山奥ではないのだ。
ある日、思い切って、彼に、家に遊びにいっていいか、訊《き》いてみることにした。これはある意味で、大きな賭《かけ》であった。もしもしぶられたり、あれこれ理由をつけられて断られたら、私は親に会わせる必要がないガール・フレンドということになる。
(もしかしたら、こんなことをいったせいで、やっと私に訪れた幸せの日々が、一瞬のうちに消え去るかもしれない)
私は胸をどきどきさせながら、それを彼に悟られないようにした。そして学食でAランチを食べているときに、さりげなく、
「今度、あなたの家に遊びにいってもいいかしら」
「んっ」
彼は口から千切りキャベツをはみ出させて、私の目を見た。私もじっと見つめ返したものだから、寄り目になってしまった。
「あなたの家に遊びにいきたいの」
二度目は少し落ち着いていえた。彼はもぐもぐと口からはみ出ていたキャベツを噛《か》みながら、
「うん、いいよ」
簡潔に答えた。あれだけ緊張しまくった私が、ばかみたいだった。そんなに簡単に返事をするんだったら、これまでに連れていってくれたらよかったのに。
「今度の日曜日にしようか。母親がうちにいるから」
私は彼のお宅訪問をとりつけたものの、また別の緊張が襲ってきた。うちの両親が彼のことを気に入ったのと同じくらい、私は彼のお母さんに気に入られるだろうか。
「あんな女の子と会うのはやめなさい」
なんていわれたらどうしよう。また私の悪い癖がふつふつと頭をもたげてきた。
日曜日、私は、ふだん着たことのないモス・グリーンのワンピースを着て、彼の家に行くことにした。最寄りの駅まで迎えにきてくれた彼は、
「へえ、そんな服、持ってたんだ」
と感心したような、ひとりごとのようなことをいった。住宅地を五分ほど歩いた、平凡な建て売り住宅の家並のなかに、彼の家があった。同じ造りの家が五軒並んでいた。
「ただいまあ」
彼はドアを開けて、大きな声を出した。
「おかえりなさーい」
奥から声がした。私はだんだん体が固くなってきた。
「まあ、いらっしゃい」
「…………」
目の前に現れたのは、まっかっかの塊だった。目をつぶってから、もう一度よく見ても、そこには真っ赤の服をきて、茶色の髪を大きくカールした女の人が立っていた。
彼女が着ているのは、やや流行遅れのボディコン気味のミニ・ワンピースである。脚に静脈瘤《じようみやくりゆう》 ができているのかと思ってよく見たら、ブルー・グレーの大きな唐草模様のストッキングを穿《は》いていた。頭にはきらきら光る石がついた、髪留めをつけている。化粧も濃い。もともと目鼻だちのはっきりした顔なのだが、それを強調するように、目のまわりをくっきりと隈取《くまど》りしていた。当然、口紅もマニキュアもまっかっかである。
「あのう、お母さん、かしら」
違っていてほしいと思いつつ、そっとたずねると、彼は、
「そうだよ」
といとも簡単にいった。
(ひゃあ)
想像していたのとまったく違うタイプだ。今、お茶をいれてくれているのは、欧陽菲菲じゃないか。子供が大学生だというのに、膝小僧《ひざこぞう》が丸出しの、まっかっかのワンピースを着ているなんて。
「タッちゃーん、手伝ってえ」
声がかかった。
「はあい」
彼は明るく返事をして、カップが三個載ったお盆を運んできた。私といるときよりも、彼が心なしか、うれしそうにしているような気がする。
「ケーキ、お好きでしょ。ダイエットなさっているかもしれないけど、若いんだから気にすることなんか、ぜーんぜんないわよ。それにあなたは、太ってなんかいないし。若いときは好きなものを、どんどん食べてもいいと思うの。ダイエットしていたとしても、たまには甘いものをとらないとねえ、ストレスがどんどんたまるわよ。そのほうがよっぽど体に悪いわ。遠慮しないで食べてね」
お母さんは機関銃のように口からことばを吐き、私との会話を全部ひとりで済ませてしまった。私には、
「はい」
しか、いうことばがなかった。彼女は隣に座って、ケーキを食べ始めた。背中を丸めて、ケーキを口のなかに押し込んでいる姿は、格好が派手なだけに、哀れを誘うものがあった。
「今年、四十二歳なんだぜ。派手だろう」
「いやあね、タッちゃん。そんなこといわなくてもいいの、おほほほ」
派手といいながらも、彼が嫌な顔をしなかったのが悔しい。
「うちの母親なんか、ふつうのおばさんですよ。着る物もかまわないし」
「おうちにずっといらっしゃる方はそうなってしまうのよ。主人が亡くなって、家とある程度のお金は残してくれたけど、私、働くのが大好きなのよ。ずっと仕事をしているから、そのへんで差があるのかもしれないわね」
うちの母親がこうなってしまうよりは、ふつうのおばさんでも今のほうがいい。
「このケーキ、おいしいわねえ」
お母さんがそういったのは、私に対してではなかった。
「うん、うまい」
彼がそういうと、お母さんが満足そうに、またケーキを食べ始めた。そして次に私のほうを見ていった。
「ねえ、おいしいわねえ」
「はい」
私は二の次、三の次なのだ。
「そうだ、あのねえ、タッちゃん……」
ふたりにしかわからない話をされているあいだ、私は完璧《かんぺき》に無視されていた。
「そうだ。あなたやお母さま、どこの化粧品を使っていらっしゃるの」
お母さんは現在、化粧品のセールスをしているとのことだった。ついこのあいだまで、保険の外交をやっていたのだが、化粧品会社に変わったのだといっていた。どちらにせよ、私は彼女の話を聞かされる運命にある。
「うちの商品はいいわよ。化粧品のかぶれなんかのクレームもほとんどないし、自信を持ってお勧めできるの」
「お母さん、この化粧品を使うようになってから、肌がきれいになったよ」
彼が横から口を出すなんて信じられなかった。うちでは、よけいなことをしゃべらない松本君でとおっているのに。
「ちょっと、いいかしら」
お母さんはすでに化粧バッグを開けて、私の顔をいじくろうとしていた。母親と息子に結託されてしまって、わたしはされるがままになっていた。ブラシで顔の上がこすられるたびに、薄目をあけて彼の様子を観察していたが、彼は満足している表情だった。
(私がきれいになったからじゃなくて、お母さんのテクニックに感心しているんだわ)
なんだかとっても悲しくなってきた。
お母さんと彼のあいだで、私はのけものになっていた。晩御飯は焼き肉を食べにいくことになり、私たちは外に出た。
「あー、やっぱり夜になると寒いわねえ」
お母さんはそういって、彼と腕を組んだ。私とお母さんは彼を挟んで歩きだした。ふと足元を見たら、お母さんは銀色の鋲《びよう》がたくさんついた、真っ赤なハイヒールを履いていた。
「そうだ、タッちゃん。あの気に入ってたブルゾン、ひじが抜けそうになっているから、今度、買いにいかなくちゃね」
「そうだね」
彼と私以上に、この親子は相性がいい。
(あーあ、会うんじゃなかった)
彼の小指の赤い糸は、私とじゃなくて、お母さんとしっかりつながっている。彼とつきあっていても、結局、私は片想いのままではないか。夜道にのびる、密着したふたりの影を眺めながら、私はその上で地団太をふんでやりたくなった。
焼き肉屋に行っても、お母さんは熱心に肉を焼く係に徹し、
「はい、タッちゃん」
と彼の皿の上に載せてやっていた。そしてときおり、「そういえば、あんたもいたんだったわね」という素振りで、私の皿にお義理で肉を置いた。
「さあ、どんどん食べなさい」
このことばも彼にいったものだった。
(私は客だ! おまけに彼のガール・フレンドだぞ。母親がそんな態度でいいと思ってるのか!)
お母さんは十分、これでいいと思っているようだった。息子のガール・フレンドがいても、おかまいなし。きっとふたりは、いつもこんなふうに、仲よく御飯を食べているのだろう。食事のあと、
「若いお嬢さんを遅くまでひきとめたら、ご両親が心配なさるから、そろそろ駅までお送りしましょう」
彼女はそういってくれたが、きっと私が邪魔者だったからに違いない。
「気をつけてね」
彼とお母さんは改札口で並んで、手を振っていた。ふたりのあいだはぴったりとくっついていた。私はうしろを振り返らずに、一目散に階段を駆け上がった。
彼のお母さんに会って以来、彼女に関して、こちらからは何もいわないことに決めたのに、翌日、学校で彼は、
「どうだった、会ってみて」
と、無邪気ににこにこしていた。明らかに誉めてほしいという態度がみえみえだ。母親の感想なんか聞くな。
「そうね、お若いわね」
彼は満足そうに顔の下半分をゆるめていた。
「少しは歳を考えろっていってるんだけど、だめなんだ」
そういいながらも、とてもうれしそうだ。たんに親子という関係だけではなく、別の感情があるみたいで、私は嫉妬《しつと》の塊になった。
「どうしたの、鼻息が荒くなってるけど」
彼は怪訝《けげん》そうに、顔を近づけてきた。
「何でもない!」
「変な奴《やつ》だなあ」
あなたたちこそ変じゃないのと、お腹《なか》のなかでいいながら、私はいつまでもむくれていた。こんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼のお母さんは、また私に会いたいといっていたそうだ。またふたりの姿を見たら、腹が立つに決まっている。なるべくなら行きたくなかったが、邪険にして彼女の心証を悪くするのも、ちょっと問題がある。
「嫌われたんじゃないから、ま、いいか」
私はまた、あのお母さんのいる家を訪れることになってしまった。
今度はふだん着のジーンズ姿で行ってやった。
「まあ、学生さんらしいこと」
頭のてっぺんから足の先まで、眺めたお母さんはいった。相変わらず彼女は、ド派手だった。その日に着ていたのは、またまた流行遅れの黒いボディコンのワンピースで、ポケットには豹《ひよう》のにせ毛皮がついていた。きっとバーゲンで買ったのだろう。黒い大柄のレースのストッキングを穿いていたが、右足のかかとの部分が伝線していた。
「このあいだの件、いかがかしら」
「はっ!」
とっさに、何をいわれたかわからなかった。反射的に彼の顔を見ると、彼は、
「あの、こと、でしょ」
と彼女の顔を窺《うかが》っている。
「化粧品よ。どうだった、くずれないし、自然でよかったでしょ」
「…………」
あの日はふたりの仲にむかっとして、家に帰ってすぐお風呂《ふろ》に入ったので、化粧のもちのよさなんか、全然、覚えていない。
「そう、ですねえ」
「いいでしょう。うちのは他のとは違うのよ。このあいだ、してさし上げたのはね、これと、これと、これと。あっ、お母様にはこのクリームがいいわ、皺《しわ》なんかあっというまに消えてなくなるのよ」
にこやかに笑いながら、彼女は次から次へと化粧品を並べた。
「はあ。でも私、そんなにお金がありませんから」
「あーあ、大丈夫よ。ローンもあるし。学生さんも最近は、みんなローンを組むのよね。最初は大変と思うかもしれないけど、あっというまに終わっちゃうわよ」
私は困ってしまって、ほとんど犬のおまわりさんだった。助けを求めて彼のほうを見ても、彼は明らかにお母さん寄りの姿勢をとっていた。
「うちに帰ってから、よく考えてみます」
「あーら、そう」
彼女は残念そうに、化粧品をセールス用バッグにしまった。
「タッちゃん、お茶をいれて」
声が怒っていた。
「うん」
彼は素直にキッチンに立ち、紅茶をいれてきた。お茶菓子はない。
「ねえ、タッちゃん、名古屋のおばさんったらね……」
また私にはわからない話を、ふたりで始めた。私には、この家を出ることしか頭になかった。
「最近、あの店に行ってないね。今度ゆっくり行きたいわね」
「僕たちは、このあいだ、行ったよね」
沈黙が流れたので、ふと目を上げると、彼は私の顔を見ていた。話題はいつのまにか変わっていた。
「えっ」
「ほら、和食を食べたじゃない、渋谷《しぶや》の裏道の」
「ああ、そうね」
「まあ、ふたりだけで行ったりして、ずるい、ずるい」
お母さんはちょっとすねてみせた。それは私にはぞっとするしぐさだった。
夕食前に帰ってきた私を見るなり、母親は、
「あら、あんたの御飯、ないわ」
と困った顔をした。私は出された熱い紅茶を、できるだけ早く飲み干して帰ってきたのだ。私よりも先に彼女とあの店に行っていた。母親だからかまわないはずなのに、相手があの人だと許せなかった。
(全部、お母さんの息がかかってるんじゃないの。マザコン野郎!)
「ちょっと、出てくる」
左手に片手鍋《かたてなべ》を持ち、あっけにとられている母親を無視して、私は駅前のアーケード街に向かった。今日は一個五百円のタルトを六個買って、お父さんとお母さんと私とで仲よく食べるのだ。
(きっと私がいないところでは、『ママ』なんていってるんだわ)
ケーキを買って帰るときも、まだふたりのことが頭から離れなかった。ふと前を見ると、母親と私くらいの男の子が、メンズ・ブティックの袋を提げて、並んで歩いていた。ブルゾンのひじが抜けそうだから、買いにいかなくちゃといっていた、お母さんのことばが蘇《よみがえ》ってきた。
(きっとあんなふうにして、買い物をしてるんだわ。気持ちが悪い)
私は前を歩いていた親子のあいだに割りこんで、通り抜けてやった。背後で母親の驚いた声がした。
「近頃の若い女の子って、本当に失礼なんだから」
(ふん、失礼なのはどっちだ)
私は目をつり上げて怒っている母親と、その隣でぼーっとしている情けない男の子の姿を想像しながら、思わずタルトの入っているケーキ箱を振り回した。
第七話 禁 句
私が会社に入った目的はただひとつ、結婚相手を見つけることだった。私の好みは他の女の子たちから、「げーっ」といわれるような、独身なのに何となくおっさんくさいタイプだ。ありがたいことにそういう人々は、競争率が異常に低い。すがすがしい青年の場合は、ライバルがごまんといて、私の取り入るスキなんてないのだが、おっさんくさい人々は、むこうが手を広げて待っていた。私も気に入り、相手は誰でもいいとなれば、話がまとまるのは早いと思いきや、実はそうではなかった。純朴そうに見えたのが、知性も何もない単なるボケ男だったり、人当たりがよくて誰にも優しそうに見えたのに、つきあってみたら短気ですぐ暴力をふるったりと、陰の部分がだんだん表面化してくることが多かったのである。
九年前、二十歳の入社当時を思い出すと、とても懐かしい。それは私にとってまさに春であった。結婚をあせっている、おじんくさい同僚の独身男性、何人にもいい寄られた。婚約寸前までいったこともあった。早く返事をくれと迫る彼に対して、
「そうねえ、どうしようかなあ」
ともったいをつけていた。何となくじらしているのが楽しかった。そしてそろそろ返事をしなくっちゃと思っていた矢先、社内の噂《うわさ》で、彼が他の女性と婚約したことを知ったのだ。ちょっと動揺したものの、
「あんな人、どうってことないわ」
しらんぷりするように心がけた。そのうち彼に子供が生まれ、会社でうれしそうに赤ん坊の写真を見せびらかしているのを見たりすると、複雑な気分になったこともある。
私にいい寄ってきた数多い男性たちは、こちらに脈がないとわかると、未練などみじんも見せずに、さっさと方向転換をして、別の女性にアタックを開始した。
「結婚しませんか」
「だめ」
「そうですか。それでは、さようなら」
これを繰り返していた。まるで就職の面接に行って、雇用主と条件で折り合いがつかないで物別れに終わった、応募者みたいなのだ。
「どうせ、男性が余っているんだから、あせってカスをつかむことはないわ」
結婚をしたいと熱望しながらも、そんなことを考える余裕があった。しかし男性たちは、どちらかというと、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で、相手が女性でその気があれば誰でもよく、何とか「結婚」というふた文字に到達しようとしていた。結婚していないと、どうしても社外の人にいまひとつ信用がないという。そんなことは偏見だと思うのだが、うちの会社のように金融関係だと、特にその傾向があるらしいのである。
かつて私がプロポーズを断った男性は、やっとこさ結婚が決まったとき、
「よかった……。もうこれでプロポーズをして断られることはない」
と目がうるうるになっていた。
「やった、やった」
と独身長老グループも、半分はやっかみながらも、胴上げせんばかりの喜びようだった。かつてはいろいろあったが、今になっては私たちは同志になっていた。私よりひとつ年下で経理担当の無口な女性も独身で、長老グループに入る資格があったが、酒の雰囲気が好きではないらしく、声をかけても、
「用事がありますから」
と小声でいってそそくさと帰っていった。
「あの人、ちょっと苦手なんだ」
長老グループのなかにはそういう人もいたが、私はもしかしたら、彼とデートの約束があるのかもしれないと、睨《にら》んだのだ。
深い仲ではないものの、私は長老メンバーのひとりと、ちょっと親密なおつきあいをしていた。これを公にすると、同僚が興味|津々《しんしん》でどんなにうるさいことをいわれるかわからない。私は正直いって「あとがない」身である。だからこそ、婚約するときはドカーンと一発、爆弾発言をして、みんなに刺激を与えてあげようと考えていたのだった。
「えーっ」
とみんながびっくりしてくれなければ、今まで独身でいた甲斐《かい》がないではないか。
その彼のことが、私は入社当時からずっと気になっていた。婚約寸前までいって、返事をひきのばしたのも、あとになって考えてみると彼のことが頭にあったからではないかと思う。彼は一歳年上で、純朴でおっとりしていた。天然のボケではなくて、知性もあっておっとりしているのである。見るからにいいお父さんになるタイプだったが、本人は結婚をあせっているふうもなく、日々、淡々と仕事をしていた。私は追いかけるタイプだが、彼の場合は、一気に追いかけると、びっくりして逃げていく可能性があるとふんだので、ほどほどのところで自分をアピールした。こっそり机のなかに手紙を入れたこともある。もちろんヴァレンタイン・デーには義理ではないチョコレートも、机のなかに入れておいた。年下の女の子が、ロッカー・ルームで、
「〇〇さんに手紙渡すんだ」
とか、
「チョコレートをあげるの」
と、うきうき会話をかわしているのを聞いて、
「あなたたちはいいわねえ。私なんか、もうそんなことはできないわ」
といいながら、ちゃっかり同じことをやっていた。仕事をしながら彼の動向を観察していると、机のなかの物を発見すると、ひとりでぽっと顔を赤らめて、きょろきょろと周囲を見渡し、またそーっと引き出しを元に戻した。なかなか頬《ほお》の赤みが消えないのも初々しい。そして私が帰ろうとすると、こそこそっと人目を忍んですり寄ってきて、
「どうもありがとう」
といって、ぺこりと頭を下げるのだった。
(んまあ、何てかわいい人なんでしょ)
顔もそんなによくないし、やたら地味だけど、この人のよさをわかっているのは私だけだわ。近頃の若い女の子は、目先のかっこよさにばかり惑わされて、人間的魅力っていうやつを忘れてるわよ。私は彼の姿を見るたびに、そうつぶやいた。
彼とデートをしていても、私は「結婚」ということばを決して出すまいと心に決めていた。物欲しげな女だと思われたくなかった。だから、
「今度、アパートに行って、料理をつくってあげるわ」
とか、
「赤ん坊ってかわいいわね」
などということばは厳禁。とにかくむこうが、「結婚」ということばを口に出してくれるように、うまいことしむけようとした。会社の人々の目をごまかすために、平日はふたりだけで会うことはなかった。会うとなると長老グループの会合としてだった。
「みんなに見つかると、あれこれうるさいから、お休みのときに会いましょうよ」
そう提案すると彼は、
「うん、いいよ」
とあっさりといった。
(彼も私とのことを、大切にしているんだわ)
家に帰ってひとりでにんまりしていた。
ふたりのときは、彼は私のいいなりだった。
「デパートで洋服を見たいんだけど」
「うん、いいよ」
「お腹《なか》すいたから、どこかで食事をしない」
「うん、いいよ」
それがちっとも面倒くさく感じさせず、彼の鷹揚《おうよう》さを表していた。結婚して私がああしよう、こうしようといったら、すべてに、
「うん、いいよ」
と返事をしてくれそうだった。おっさんくさい風貌《ふうぼう》と、細かいことにこだわらない態度を見て、私は、
「しょせん私は、彼の手のひらで転がされているようなものなんだわ」
と、またまたうっとりしていたのである。
デートした帰りも、うちのアパートの前まで送ってくれるけれど、決して部屋に上がろうとしなかった。
(ちょっと、お茶でも飲んでいかない)
ということばが頭をかすめたこともある。しかしこれで、こんな女だったのかと嫌われたら、もう最悪である。せっかくの彼との仲を、大切に大切にしていかないと、私の人生はぶち壊しになってしまうのだ。
「じゃあね」
彼は手を上げて帰っていった。私は彼が、
「部屋に入ってもいいかな」
といったら、一も二もなく、ドアを開けるつもりだった。ところがつきあって五年のあいだ、彼はそういうことは一度もいわなかった。
(もしかしたら男性のほうが好きなのかしら)
しかし長老グループからは、そういう話は出たことがなかった。
(男性機能がうまく働いていないのでは)
そんな男の人って信じられないわ、と友だちがいうので、ますます心配になった。ところが週刊誌で「眼精疲労の激しい男性は、精力が減退する」と書いてある記事を読んで、ちょっと安心した。いつも彼は、
「眼が疲れるんだ」
といっていたからだ。
「一生懸命に働いているから、そういう気にもならないのね」
私はまたこっそりと、彼のために目薬を机のなかに入れておいてあげた。そうするとまた彼は、
「どうも、ありがとう」
頭を下げた。二十九歳の女と三十歳の男は、まるで中学生のような清い交際を続けていたのであった。
ある日、私が体の具合が悪くて休んだとき、昼休みに外から電話をくれた。
「大丈夫?」
私は「食欲はあるんだけど、下痢ピーで下半身がくにゃくにゃになっている」と正直にいってはまずいと思い、
「なんだか食欲がないの」
と甘えて訴えた。
「御飯、食べてないんだね」
「うん」
「そうか、大変だな。それじゃ、帰りに何か買っていってあげるよ。何時になるかわからないけど、とにかく行くから」
そういって電話は切れた。
(初めて彼が私の部屋に入る……)
私は天井を見上げながら、ちょっと興奮してしまった。パジャマを着て私はベッドに横たわっている。
(こんな姿を見て、いったい彼はどういう気分になるかしら。突然、男が目覚めて、獣のように襲いかかってくるのかもしれない。でも私はすっぴんだし、体の具合が悪いし、それも下痢だし、力んだとたんに変なことになっちゃったら、二度と彼に合わす顔がない。どうしよう)
私はひとりで身悶《みもだ》えていた。しかしうれしい気分になったのも束の間、またまた下腹部に何ともいえない鈍い痛みが走り、私の頭のなかはごっちゃごちゃになった。
会社からここまで一時間もあれば十分なのに、彼はなかなか来なかった。今の時期はそんなに仕事は忙しくないはずなのに。
「みんなと飲みにいっちゃったのかしら」
私は下腹部の鈍い痛みに耐えながら、じーっと天井を見上げていた。時計はすでに九時をまわっていた。お腹はすいているような気がするが、食べたらまた一気に鈍痛が襲ってきそうな気がした。夜がふけてくるにつれて、だんだん淋《さび》しくなってきた。
(早く結婚したいよお……)
そう思ったとたん、チャイムが鳴った。下腹部を刺激しないようにとび起きて、急いでドアを開けると、炊飯器を手に彼がぼーっと立っていた。
「ほらほら、早く寝て」
あっけにとられている私をベッドに寝かせると、彼は電源を探し始めた。
「コンビニに行ったんだけど、弁当は売り切れだったし、レトルトのものは体によくないんじゃないかと思って。実家から送ってきた『秋田こまち』を食べてもらいたくて、一度、うちに帰ってから来たんだ」
そういえば彼の実家はお米屋さんなのだ。彼は持参してきた炊飯器にといだ米をいれ、スイッチを押した。どうしてわざわざ炊飯器を持ってきたのか、理解に苦しんだ部分もあったが、それ以上に私は感激した。
目の前には、おかずとして「ごはんですよ」「ちりめんじゃこ」「無着色梅干し」などが並んだ。
「うまい飯を食えば、一発で治るよ」
私たちは秋田こまちが炊けるあいだ、世間話をしていたが、その最中にも私は、下腹部の鈍い痛みに負けて、何度もトイレに直行した。
(これじゃ、いくらごまかしたって、私が下痢していることがバレちゃう)
私はトイレのなかでがっくりした。初めて好きな人がやってくるのだから、万全の体調で迎えたかったのに、下痢ピーだなんて最悪ではないか。臭いが部屋に充満しないように、気をつけてトイレのドアを閉め、ベッドに横になると、彼は、
「ちょっと買い物にいってくる」
といって出ていってしまった。もしかしたらそのまま帰ってしまうのではないかと、気を揉《も》んでいたが、しばらくしてビニール袋をぶら下げて戻ってきた。なかにはスポーツ・ドリンクがたくさん入っていた。
「友だちがコレラになったときに、医者がこれを飲めっていったんだって。下痢の脱水症状には、いちばんいいらしいよ」
私は掛布団から目だけを出して、黙ってうんうんとうなずいた。結婚前にここまでみっともない姿を見せておいたら、一緒に暮らしても彼はびっくりすることはないだろう。
(きっと、彼もそのつもりだわ)
ふたりして遅い晩御飯を食べながら、私は彼に悟られないように、ほくそ笑んだ。
彼は私の本当の気持ちを察しているのに違いない。そうでなければ、わざわざ炊飯器なんか持参でやってこない。おいしい御飯を食べさせたいなんて、これは何よりの愛情ではないか。「いつ彼に最後のもうひと押しをするか」これが私に課せられた、大問題だった。このままうじうじとやっていたら、ずっとこのままの関係が続きそうだった。やはり「妻」になるためには、相手に「夫」になってもらわなければならない。
(湾岸戦争のときのブッシュ大統領も、こんな気分だったのかしら)
攻撃の時期を見計らいながら、私はことを起こすときのタイミングの難しさを、改めて知ったのだった。
春風の吹く気持ちのいい日、私は彼を呼び出して今まで禁句にしていた「結婚」を持ち出そうと決めた。おっとりとした人だから、気分のよさも手伝って、いつものように、
「うん、いいよ」
といってくれるのではないかと期待したのである。平日には会わないという決まりも、初めて破った。レストランで食事をしたあと、雰囲気のいいこぢんまりしたバーで、
「あの、そろそろ私たち、話を決めてもいい頃だと思うんだけど」
切り出してみた。胸がどきどきした。彼はしばらく首をかしげていた。
(とんでもないことをいってしまった)
とあせりつつ、ぼーっとしているから、いわれた意味がよくわからず、ことばを反芻《はんすう》しているのではないかとも思ったりした。
「何が?」
不思議そうに彼はいった。体中から汗が噴き出してきた。
「け、結婚……」
「えっ」
彼は目を丸くしてびっくりした顔をした。私は何もいえなくなって、お互いに目を丸くしたまま、じっと見合った。
「僕、今度、結婚するんだけど……」
「えーっ!」
私の頭のなかは、でかい「えっ」でいっぱいになった。電撃婚約発表でみんなを、「えーっ」といわせてやろうと思っていたのに、自分が「えーっ」という立場になるとは、想像だにしなかった。頭のなかの「えっ」の字が消えたあとは、目の前が真っ白になり、一気に脳天から力が抜けていった。それからの私は単なる抜け殻だった。
「そうか、そこまで思ってくれてたのか。みんなの話によると、奴《やつ》らのプロポーズを断っていたっていうから、結婚する気なんてないんだろうと思ってたんだ。だから僕、きみとは平気で会えたんだよ」
「それじゃ、あの、下痢したときは……」
「僕の男の友だちがああなっても、同じことをやるよ。できる範囲のことをやっただけなんだけど……」
エッチつきじゃなかったのは、それはできる範囲のことではなかったからなのだ。
「チョコレートも目薬もくれたことがあったよね。そうか、そうだったのか」
彼は過去の思い出にひたっていたが、私はこれから先のことばかり考えていた。
「困ったなあ。君もいい人だしなあ。でも僕は琴錦にはなれないし」
彼は椅子《いす》の上に置いた、スポーツ新聞に目をやりながらいった。
「いいの、今日のことは忘れてね。結婚する人のことはいわないで」
私はそういって、ひとりでアパートに帰った。起きていると泣いてしまいそうだったので、化粧も落とさずに、そのままベッドに倒れ込んで寝てやった。
次の日、出社した私の耳に入ってきたのは、彼と無口な経理の女性との結婚の噂だった。
(無口だと思ってたけど、やることはちゃんとやってたのね)
私はコンピューターで伝票処理をしている彼女の背中を見ながら、憎しみが体の底からわいてきた。
(私、絶対、あの人に見劣りしてないわ。それに彼女って、ちょっと陰険そうなところもあるし、何かあったら、ヒステリックにわめきそう)
そう思わなきゃ、生きていけそうになかった。彼の態度からすると、もっと私が早く行動を起こしていたら、妻の座は私に与えられたかもしれなかった。攻撃時期をまちがえてしまったのかもしれない。しばらくして、披露宴の案内状がきた。
「行かないと、その日、もっとみじめになるわ。絶対に行って、ふたりの姿をこの目で見届けてやる」
「御欠席」の文字を、ハガキがつき抜けるくらいに強く消して、ポストに投函《とうかん》した。
みんながにこにこしている披露宴で、仏頂面《ぶつちようづら》をしているのは、私くらいのものだった。
(金屏風《きんびようぶ》の前には、この私が座るはずだったんだからね!)
あの無口な女性があんなに勝ち誇った顔をしているのを見たことはなかった。ウエディング・ドレスを着た、ピンク色の顔が当てつけがましく、私のほうばかり向いているような気がする。
「やっぱり花嫁さんは三十歳前じゃないと、かわいらしくないのよね。今日の花嫁さんは、ぎりぎりってとこね」
隣の席に座っていた、おばさんたちのこそこそ話が、私の耳に鋭く刺さった。ナイフを持つ手がわなわなと震えた。そして私は堂々としている花嫁を見ながら、目の前のステーキにナイフを突き刺し、心のなかで、
(ふえーん)
と泣いたのだった。
第八話 文 句
大学一年生の同じクラスに彼はいた。彼はじっと人の目を見て話すのが癖で、こちらがあまり真剣に話を聞いていると、だんだん体がのけぞってしまうような、威圧感のある人だった。そんな彼が私のそばから離れようとせず、ずーっと私の目を見つめながら、話しかけてくるようになった。そして、
「あら、あら」
と驚いているあいだに、ぐいぐいと押しの一手で私に迫り、ふと気がついたらふたりは交際中ということになってしまったのである。私はそれほどでもなかったのに、彼は自分以外の男が私のそばに来ると、たのんでもいないのに、あっちに行けといわんばかりだった。ただ同じクラスの男の子と雑談しているだけなのに、横からしゃしゃり出てきて、相手の男の子の目をじっと見ながら、
「何か用?」
とたずねる。その異様な迫力に男の子たちはビビッてしまい、彼の姿が見えると、あわてて去っていくようになった。ひどいときは、男の子と立ち話をしていると、それを目ざとく見つけた彼がどこからともなくやってきて、
「じゃ、行こうか。それじゃあ、また」
と今まで私が話していた男の子に、一方的にそういって、行くあてもないのに私をずるずるとその場からひきずっていったこともある。
「自分以外の男は、この女のそばに寄せつけない」
という信念みたいなものを発しているすごい目つきをしていたため、私のそばには誰も寄りつかなくなってしまったのだった。
十八歳だった私は、
「こんなに強引なのは、それだけ私のことを大切に思っていてくれてるのかしらん」
と甘い考えでいた。気は強いものの、男に疎《うと》かったので、ぐいぐい迫ってくる彼を見て、
「男ってこんなものなのか」
と新鮮な気持ちで眺めていた。ひとりっ子で、男性は父親しかいない環境で育った私は、父親を男の代表的なタイプと思っていた。父親はいるのかいないのかちっともわからない空気みたいな人で、話しかけても、
「ああ」
とか、
「うん」
とかいうだけ。家にいないと思っていると、よれたジャージを穿《は》いてのそーっと姿を現したり、いると思って部屋のふすまを開けると、そこはもぬけのからだったりすることがよくあった。母親は、
「本当にお父さんって、頭も薄いけど影も薄いわね。男だったらもうちょっと、堂々としてもらいたいわ」
と、ぶつぶつ文句をいっていた。しかしそういわれても父親は怒る様子もなく、無表情で押し黙っているだけだったのである。
彼とつきあい始めたころ、彼に、
「そういう口紅の色、似合わないんじゃないの」
といわれて、びっくりしてしまった。うちの父親なんて、母親の口紅の色どころか、美容院に行ったことにも気がつかない人だった。突然、結婚二十年にもなる妻に、
「お母さん、いつそんなに太ったんだ」
と驚いていってしまったりする。
「急に太りなんかしませんよ」
母親が憎々しげにいい返すと、父親は母親のがっしりしたうしろ姿を見つめ、
「すごいなあ」
と感心していた。それくらい妻の変化に無頓着《むとんじやく》だったのだ。
「あんたはお父さんみたいな人じゃなくて、男らしく、どーんとした人を選びなさいよ」
母親は、胸板も薄い父親の姿を横目で見ながら、何度私の耳元でささやいたかわからない。だから父親と正反対のタイプの彼と会って、
「これが男らしい男というものかもしれない」
と錯覚してしまったのである。
「それほど私に、関心を持ってくれている」
まだまだ初心《うぶ》だった私は、無邪気にそのことを考えていたのだった。
ところが、彼が口をはさんでくるのは口紅だけではなくなった。会うなり、
「何だ、お前のそのシャツの色。何とかなんないのかよ」
といわれたのも一度や二度ではない。シャツの部分は、ヘア・スタイル、キュロット・スカート、靴などさまざまに変わり、そのつど文句をいわれた。
「何とかって何よ」
「変なんだよ」
「あなたに関係ないでしょ」
「お前がみっともないとな、おれが恥かくんだよ」
「ふーん、それじゃあなたはどこから見ても完璧《かんぺき》っていうわけ。いつも、いつも! えっ、そうなの? 何とかいいなさいよ」
「うるせえな。男と女は違うんだよ」
「どこが違うのよ。いってみなさいよ」
「うるさいんだよ、バカ」
「バカとは何よ、バカとは!」
「バカだからバカっていってんだよ。がたがた口答えすんな!」
私の腹のなかは煮えくりかえった。ただならぬ様子を察して、私の友だちが集まってきたが、彼の発言にはみんな怒っていた。なかには、
「あなたには悪いけど、あんな男、許せない」
といって目をつり上げた子もいた。だけど私と彼は一年三百六十五日、ほとんどこの調子でつきあってきたのだ。
最初に彼の部屋に遊びにいったときも、私の頭のなかにはエッチをするなんて想像もしていなかった。しかしどういうわけだかそうなってしまい、私は少し失望した。もうちょっとロマンティックなシチュエーションを思い描いていたのだが、現実はまったく違っていたからだ。
「複雑な気分だわ」
私がぽつりというと、彼はまた怒りの目つきになった。
「おれだってそんなつもりじゃなかったんだよ。ふざけてスカートをまくってみたら、お前がそんなパンツを穿《は》いてるからこうなったんじゃないか!」
その日穿いていたのは、ピンク色のハイレグのごくごくシンプルなものである。別段、卑猥《ひわい》でもない。
「そんな切れ込みの深いのなんか、穿きやがって。男を誘うようなパンツを穿くんじゃない!」
こうなったのも、全部私のパンツの責任にした。あまりに悲しくて、自分のアパートに帰ってすぐ、友だちに電話してやった。
話していくうちに、彼女のわなわなと震えるさまが、電話線から伝わってくるようだった。
「ひどいよね、ひどいよね」
「ひどい! 悪いことはいわないから、もう会わないほうがいいよ」
友だちは怒りながらも、心配してそういってくれた。別れたほうがいいと、はっきりいわれたのはこれが第一回目だった。でも私は頭の片すみでは、彼は照れ隠しにそんなことをいったのではないかと、一縷《いちる》の望みを抱いていたのである。
ところがつきあっていくにつれ、彼は照れ隠しなどという、繊細な感覚など持ち合わせていないのがわかってきた。まるで大魔神みたいに、気に入らないことがあると、みるみるうちに顔が変わり、ぶつぶつ文句をいい始める。大魔神は正義の味方だから、悪に対して怒るけど、彼の場合は自分の気に入らないことすべてに怒る、「逆大魔神」だ。ふたりで旅行に行こうと提案したら、
「それじゃ、ちゃんとやっとけよ」
というだけ。スケジュールをたてるとか、どこに泊まるかをふたりで仲よく相談しようと思ったのに、二日後に彼の口からいい放たれたのは、
「まだ何も決めてないのか、このグズ!」
というおことばだった。
「ふたりで行くんだから、真剣になってくれたっていいじゃない」
「おれはどうだっていいんだよ。お前が行きたいんだろ。好きなようにしろよ」
私は半泣きになってガイド・ブックを買い、旅行代理店に足を運んで、すべてを自分で手配した。ところがいざ現地に行ってみたら、案の定、彼は、新幹線の席の場所がよくなかっただの、食事がまずいだの、ホテルの部屋がしみったれてるだの、見るもの全部に文句をいった。そのあげく、経費を徴収するときにまで、
「ちっ、こんなもんで五万円も取られるのか」
と悪態をついた。
「それなら自分の好きなようにやったらよかったじゃない。私ばっかりに押しつけて」
「ふざけんなよ。おれはお前につきあってやったんだぞ。どうして切符やホテルの予約をしなきゃならないんだ!」
私は今後、絶対に彼とは旅行に行くまいと心に決めた。ひとりでスケジュールをたててなるべく安くていいホテルを捜してもらったのに、こんなにこうるさくいわれちゃ、割が合わない。私はこういうことがあるたびに、友だちと電話で喋《しやべ》って、ウサ晴らしをしたかった。でも彼のことを冷たい目で見ていた友だちは、私がグチるのを聞いても、
「だから別れろっていったじゃない」
というに決まっている。そして、
「どうしていつまでもくっついてるの」
と聞くだろう。そうなったら私は、「どうしてそんな男と別れないのか」それに対する答えをはっきりいわなければならない。そのへんをつっこまれたら、私もちょっと困ってしまうのだった。実家を離れてひとり暮らしをするようになって、何だかとても淋《さび》しいことがある。もちろん女の友だちと話していても楽しいけれど、それだけでは埋められない何かがある。会うと喧嘩《けんか》ばかりしているけれど、あんな彼でも一緒にいると、淋しいという気にはならないのだ。それにもうひとつ、友だちにボーイ・フレンドがいるのに、私だけフリーになるのは嫌だったこともある。とりあえず旅行に行ったり、食事をしたり、映画を観《み》たりする男の子を確保しておきたかった。一緒にそういうことができるボーイ・フレンドもいなくて、ひとり暮らしの部屋と学校の往復だけだったら、どんなに気が滅入《めい》るかわからない。友だちに、
「早くやめちゃいなさいよ」
といわれても、私は、
「うん、そうする」
ときっぱりと彼との仲を断ち切ってしまう勇気はなかったのだった。
つきあいが二年たち、三年たっても、彼の「文句たれ」は、いっこうに直る気配がなかった。私のマンションに彼をつれてきたときも、文句ばかりいっていた。今まで隣の部屋には大家のお婆さんが住んでいて、住人の女子大生やOLの男出入りを厳しくチェックしていたのだが、ついこのあいだ、そのお婆さんがヨイヨイになって入院してしまったので、住人の女の子たちは待ってましたとばかりに、彼をつれてくるようになったのだ。
「部屋に入れてもらうまで、長い道のりだったよ、まったく」
彼はもっと早く来たかったとぶつぶついった。私がいくら弁解しても、
「そんなばばあのいうことなんか、気にするこたあなかったじゃないか」
の一点張り。そして「メゾン・ロゴス」「メゾン・イデア」と表示してある、うちと隣のマンションを見て、
「へっ、何がロゴスとイデアだ。お前んとこの大家、何考えてんだ」
とマンションの名前にまで文句をいった。そんなこと私にいわれたって仕方がないのに、いちいちひとこといわないと、気が済まない奴《やつ》なのだ。部屋に入っても、まず、
「天井が低い!」
そして衛星放送のアンテナが配線してあるのを発見し、
「たかが六畳程度のワンルームに、こんなもんまである。かっこつけやがって」
と衛星放送にまで文句をつけた。
「どうせこんなもんがあったって、お前、ワールド・ニュースなんか見ないんだろ。宝の持ち腐れだよな」
私は聞こえないふりをして、晩御飯のおかずを作っていた。手軽に作れてボリュームがある、鶏の唐揚げとポテトサラダ。それにキャベツとベーコンが入ったスープである。彼はやたらと衛星放送に興味を示し、
「面白いじゃんか」
とひとりで楽しんでいた。
「はい、どうぞ」
ところがテーブルの上に並べたおかずを見たとたん、彼の顔はみるみるうちに「逆大魔神」になった。
「何だ、これは!」
「はっ?」
「『はっ』じゃない!」
「えっ?」
「油ものばかりじゃないか」
「へっ?」
「おれが太り出したのを気にしてるっていうのに。こんなもん食わせて、もっと太らせようとしてるんだろう!」
「そ、そんなこと思ってるわけないでしょ」
彼は私の目の奥をのぞきこむようにした。
「ふん」
彼は腹だたしそうに割りバシを引き離し、がつがつと御飯を食べ出した。あんなに文句をいったくせに、鶏の唐揚げもサラダも、スープも全部たいらげていった。
「あーあ、これでまた三キロ太った」
彼はテレビの前にごろんと寝転び、衛星放送を見ながら、まだ文句をいっていた。
(この野郎……)
さすがにこのときは、私もこれで終わりにしようと思った。だけどそうなったら、男のごろんとしたうしろ姿も、この部屋で見ることができなくなる。ワンルームにいつもひとりきり。私は、山のようにいい返したいことばを全部のみこんで、キッチンで洗い物をしたのだった。
私のマンションにやってきてから、彼はたびたび、ここに立ち寄るようになった。
「学校に一緒に行こう」
といってくれるのかと期待したが、
「おれはここで衛星放送を見てるから、お前さっさと行け」
と追い出された。どうせ晩御飯も食べていくのだろうと、買い出しをして帰ると、冷蔵庫のなかをあらいざらいひっかき回して、
「ろくなもん、ないんだなあ」
とふてくされていた。もちろん私が作った料理にも、
「塩分が多い」
とケチをつけた。おまけに帰り際には、
「肌寒くなってきたから、ブルゾンを貸せ」
といって、私が買ったメンズ・サイズのブルゾンを着て帰ってしまった。それ以降、彼は、何だかんだと理由をつけて、自分が着られそうな私の服を持っていこうとした。
「このあいだのブルゾン、返してよ」
「持ってくるのを忘れたんだよ」
「あれからずいぶん経《た》ってるじゃない」
「うるせえな! 忘れたんだよ。じゃあ、これ借りるぞ」
私が文句をいうと、彼はセーターをひったくるようにして帰ってしまった。
「私って幸せなのかしら、不幸なのかしら」
彼が散らかしていった部屋のなかにひとり、座りながら、私は確認するように、ぽつんとつぶやいたのだった。
「卒業がチャンスよ。ここでケリをつけないと、あなた、いいように使われるだけよ」
友だちは謝恩会のときに、私にそういったが、つきあいは就職直後も続いていた。彼は銀座、私は池袋に勤めていた。
「銀座で会おう」
彼にそういわれたとき、ああ、これでやっと彼もわかってくれたのだと感激した。自分が勤めている場所にある、よく行く店に私をつれていってくれるのだろうと、とてもうれしくなった。ところがいざ待ち合わせをして銀座を歩き始めると、彼はまた「逆大魔神」になった。
「日曜出勤をしてる人がいるんだ。こんなとこをみつかったらみっともないから、少し離れて歩けよ」
そういいながら、しっしっと追い払う手つきをした。忘れよう、忘れようとしていた憎しみが、ふつふつと湧《わ》いてきた。こんな奴ともう並んで歩いてなんかやるものか、と三メートルうしろをのろのろと歩いた。ふと前方を見ると、彼の会社の大きな看板が見えた。
「おい、お前、うしろじゃなくて、あっち側の歩道を歩け! すぐそこは会社だし、誰に見つかるか、わからないからな」
(ひどい……)
私はぷいと横を向いて、緑の信号が点滅している横断歩道を渡り、反対側の歩道を歩いた。ほとんどヤケクソだった。
(許せない!!)
今度こそ私が正しい「大魔神」になっていい番だ。四年間もあんな男につきあったんだもの。反対側を歩いている彼の様子をうかがいながら、私はすっと地下鉄の駅の入口に入った。そしてそのままマンションに帰ってきた。夜遅くなるまで、何度も何度も電話が鳴った。けれど、絶対に出るつもりはなかった。明け方、何度もチャイムが鳴ったが、ずっとベッドのなかにいた。これで居場所を変えたら、永遠に私は彼と会わなくてすむ。そう思ったら、気分がとても晴れ晴れしてきた。今まで別れるのをためらっていたのは、別れたあと、彼と学校で顔を合わせるのが嫌だったからだ。私がどんな授業を受けているか、すべて彼は知っていた。だけどいまはそんなことはない。ここの住所を消すだけで、あいつがどんなことをやろうが、すべて私とは無関係になる。会社に電話をかけてきたって、交換台にいっておけば、あいつなんか無視できるのだ。
私は学生時代の友だちに片っぱしから電話をかけ、別れる決意と引っ越しをする計画について話した。
「それがいいわ、絶対よ」
彼女たちはやった、やった、よくやったと、まるで我がことのように喜んでくれた。
「これで『おしん』状態から解放されるね」
彼女たちは私のことを、陰で「おしんちゃん」と呼んでいたのだそうだ。ふつう、友だちが彼と別れるとなれば、なるべくその件に触れないように、そっとしておくものだ。しかし彼女たちは興味|津々《しんしん》で、私が口をつぐむことが多かった、別れる理由にさぐりを入れてきた。最初から「うさん臭い奴」として彼女たちの目に映っていたが、私がピンクのハイレグ・パンツや鶏の唐揚げ、ロゴスとイデア、服のかっぱらいについて話をすればするほど、どんどん彼は「バカヤロー」呼ばわりされた。
(もっといって、もっといって)
友だちが彼のことをののしってくれればくれるほど、私の気持ちは明るくなっていった。きっと彼はふられても、私から奪い取ったセーターとブルゾンを着て、斜め四十五度上空を見上げながら、
「あんな女、屁《へ》でもねえぜ」
とかっこつけるだろう。そんな姿を想像しても、悔しさよりも笑いがこみ上げてきた。
「一生、文句いって、かっこつけてろ!」
もう私はおしんちゃんではない。一発逆転したような気分になって、私はまた別の友だちにこのことを話そうと、受話器に手を伸ばしたのだった。
第九話 不 幸
女の子というものは占いが好きだが、私の友だちのユリちゃんは「好き」などというなまやさしいものではなく、占いにのめり込んでいる。高校生のときからアルバイトをすると、そのお金を握りしめて占い師のところに走っていった。路上に手相、人相を見る占い師が座っていると、片っぱしから見てもらわないと気がすまない、そのうえ姓名判断、星占い、その他ありとあらゆる占いをチェックしないではいられない性質《たち》なのだった。だからいろいろな種類の占い師が集まっている、占いの館みたいな場所に行くと、すべての占い師に見てもらうまでは、絶対に帰ろうとせず、つきあった私はとことん疲れてしまったこともあった。私がブラウスだ、スカートだと着る物を買っているときも、彼女はそのお金をみーんな占いにつぎ込んでいたのである。
「まったくねェ、占いなんて雑誌のうしろにくっついているので十分じゃない。それをさぁ、占ってもらうのに一回に何千円も遣うなんて、信じられないわ」
同じクラスのマキちゃんは、あきれ顔でいった。
「うーん」
たしかにそうだが、別に私には何の被害も及ばないし、単に趣味が違うだけだと思っていたのだ。
あるとき、ユリちゃんは、
「私、彼と別れたの」
とポツリといった。彼女はサッカー部の男の子とつきあっていた。かわいいユリちゃんと男前の彼はなかなかのベスト・カップルだった。
「どうして?」
私とマキちゃんはじりじりとユリちゃんに迫っていった。
「だって、てんてる先生が、彼と別れないとよくないことが起きるっていうんだもん」
てんてる先生というのは、彼女が神のようにあがめたてまつる占いの先生で、羽織、袴《はかま》を着た、ゆでたまごのようなおっさんだ。
「もったいなーい」
私とマキちゃんは大合唱してしまった。ふたりのあいだにトラブルがないのに、おっさんのひとことで、あんな美形と別れてしまうなんて。
「ね、ね、てんてる先生は彼を友だちにあげるといいっていわなかった?」
「いわない!」
マキちゃんの希望は見事に打ち砕かれていた。私なんか彼みたいな人とおつきあいしていたら、周囲がどんなに反対しても、死んだって彼を離さないと思うのに、ユリちゃんの行動はちょっと友だちの私にも理解できないことだった。
ユリちゃんは、てんてる先生のお告げどおり、美形をふり、「今まで自分が大嫌いだった男の子」とつきあい始めた。みんなに嫌われていたキザでどーしようもない男が、彼女と並んで歩くようになった。
「本気なの?」
私がおそるおそる聞くと、彼女は満面に笑みを浮かべ、
「うん。彼が私に幸福をもたらしてくれる人なのよ」
と有頂天《うちようてん》になっていた。しかし月に一度はてんてる先生のもとに足を運んでいた彼女は、年下の男の子が開運の源という話を聞いたとたん、嫌われ男とさっさと別れ、一年生を追いかけまわし、彼女のかわいさに惹《ひ》かれて、よろよろとよろめいてきた子をしっかとくわえてしまった。そんなことが続いても、いつも彼女はにっこり笑っていたのだった。
卒業してもユリちゃんは、ずーっとてんてる先生のお世話になり、彼のおことばが彼女の命になった。彼にいわれたとおりの学校を受験し、いわれたとおりの短大に進学したのだが、彼女は片道二時間半もかけて通学することになったのである。
「占いのおかげでいいことばかり起きるの」
電話でも彼女はとてもうれしそうにしていた。
「ふーん」
一回百円だったらいいけど、お金がもったいないとしか思えない私は、彼女の電話を上の空で聞いていた。一週間後、また電話があった。
「あのね、金春先生と星天先生に見てもらったの」
占い師のことである。短大の友だちに紹介してもらって行ってみたら、過去の出来事をズバズバあてられ、驚嘆した彼女はますます占いの泥にズブズブとはまってしまったらしい。
「てんてる先生とそのおふたりが同じことをいうときがあるのよ。もちろん三人が一緒にいるわけじゃないのよ。会った日も時間も違うのに、同じ質問をしたら三人が同じ答えを出すの。びっくりしちゃうわ。やっぱり真実はひとつなのね……」
ユリちゃんはうっとりしていた。話題は占いのことだけであった。在学中、彼女はその三人の先生にいわれるがまま、男の子と簡単に別れたり、厄落としのためにおじさんとつきあったりしていた。それなのに、
「私、とっても幸せ」
と能天気に喜んでいたのである。
就職も三人の先生が占ったところ、「公務員」という答えが出たそうで、ユリちゃんは迷うことなく、商社などには目もくれず、郵便局に就職した。同じ職場にちょっと心ときめく人ができたので、もちろんアプローチする前に、てんてる先生、金春先生、星天先生におうかがいをたてると、どういうわけだか、これまた三人、同じように、
「半年以下のつきあいならよし」
というお答えであった。それを聞いた彼女は猛烈なアタックを繰り返して彼をものにしたが、先生たちのいいつけはきちんと守り、ちょうど半年たったところで、さっさとさよならをいい、あっけにとられている彼をしり目に、次はどのように行動するべきか、先生たちのもとに足繁く通ったのである。
「あなたは二十二歳から二十三歳にかけて、非常に強い結婚運があります。それをのがすと、あとは四十五歳まで待たなきゃならなくなりますよ」
三人の占い師が出した結果はまた同じだった。
「がんばるわ。どんな人と結婚するか楽しみにしててね」
ユリちゃんは今まで、すべての災いが去るようにと暮らしてきたので、何をするにおいても自信満々だった。何をするにしても、三人のいうことさえ聞いていれば、幸せな人生が送れると信じきっていた。電話で声高らかに宣言したあと、彼女は若い男女の仲をとりもつパーティを主催する会社に登録した。金春先生が、
「パーティで知り合った人と結婚するほうが、より幸せになれる」
といったからである。第一回目のパーティのとき、彼女は淡いクリーム色の花柄のワンピースを着ていった。参加した女性たちは、
「どんなもんか、ちょっと来てみただけよ」
という精神的に余裕のあるタイプが多かったが、男性たちは目が血走っていた。かわいいユリちゃんのまわりには、三人の目ざとい男たちが寄ってきた。
「あの、私、役所に勤めているヤマダです」
背が低くて顔が不細工で、まじめさだけが取り柄みたいな男であった。
「大学院の学生です。イシカワです」
一流国立大学大学院に通い、背も高く顔も悪くなかったが、首から下がどことなくなよなよしていた。
「スポーツ・インストラクターのオオヤマです!」
見るからに頭がからっぽという顔をしていたが、体だけはたくましく、みんながスーツを着ているというのに、こいつだけは肉体を露出するTシャツ姿の参加であった。貧相なヤマダはあとのふたりを見て、自分がいちばん分《ぶ》が悪いと思ったのか、雑談の最中に、貯金が八百万円あることをさりげなくアピールした。ユリちゃんの心はちょっと動いた。それを素早く察知した、なよなよイシカワは、自分がいかに複雑で高度な研究をしているか、熱弁をふるった。体しか自慢するものがないオオヤマは、
「あー、この会場、暑いなぁ」
といいながらTシャツの袖《そで》をまくり上げ、力こぶがもりもりしている二の腕を、彼女の前で見せびらかしたのだった。
「ねー、今度、別々に連れていくから、会ってくれない」
ユリちゃんはそういって電話をかけてきた。マキちゃんに電話をしたのだが、
「やだ!」
とすげなく断られたのだそうだ。
「うーん」
「ね、お願い、高校からのつきあいじゃない」
そういわれたら、やっぱりいやだといえず、私はまず、ヤマダと会うことにした。彼は信じられないくらい話題に乏しく、無趣味な男だった。ある有名芸能人の婚姻届を彼が受け取り、テレビのワイド・ショーにちょこっと顔半分が写ったのが何よりの自慢らしく、
「いやあ、あれから田舎ではちょっとした騒ぎになりましてねえ。実家に電話がずいぶんかかってきたそうですよ」
といって、わっはっはと笑った。が、まったく迫力がなかった。私とユリちゃんが映画の話をしていても、彼はただうつむいて、ずるずるとアイス・コーヒーを飲んでいた。ただユリちゃんに嫌われてはならじと思っているのか、彼女が話しているあいだは「ボクは君のいうことは何でも理解しているからね」といったふうに、にこにこしていたものの、目に当惑の色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。そして私たちの話が終わると、いつのまにか話題をお金のほうに持っていき、
「貯蓄高、八百万円」
を、しつこくプッシュするのだった。
イシカワはどこに出しても、とりあえずは恥ずかしくない青年だった。しかし頭がいいわりには、いまひとつ何を考えているかよくわからない、内向的なところがあった。そしてなよなよした体つきも、正直いって、いまひとつかなあ、という感じであった。スポーツもせず、お勉強ひとすじで、明治時代であったらとっくに結核で命を落としているようなタイプだったのである。
一番濃厚だったのは、体自慢のオオヤマだった。待ち合わせの喫茶店に体をゆすりながらやってきて、ガバと大股《おおまた》を開いて椅子《いす》に座った。喋《しやべ》り方もまぬけで、ユリちゃんの胸から下の部分を、目で何往復も眺めまわし、すぐ横をミニ・スカートの女の子が通ると、彼女の太ももの部分に目が釘《くぎ》づけになっていた。からっぽの頭のなかは、女のことだけしかないようであった。
「ああ、暑いなあ」
オオヤマがそういうと、ユリちゃんはちょっと嫌な顔をした。すると彼ははおっていた白いブルゾンをパッと脱いだ。その下には、げーっといいたくなるような黒のタンクトップを着ていて、
「どうだ!」
といわんばかりに手を腰にあて、私たちのほうを見て、ニッと歯をむいた。もりもりした筋肉のかたまりが体にへばりついていた。
(あーあ)
彼らにはもちろん、私がこうやって三人と会っているのは内緒だった。ユリちゃんが、この三人のなかから相手を選ばなきゃならないのかと思うと、他人事《ひとごと》ながらガックリしてしまったのである。
「どうだった?」
ユリちゃんは翌日、感想を聞いてきた。
「どの人も一長一短ね」
「そうなのよ」
「でも、ほら、占いの先生がいい人を選んでくれるんでしょ」
「うん、もうしばらくしたら行くつもりなの」
彼女が心酔しているように、本当に占いが当たるのか、私はまだ疑問を持っていた。私は高校時代の美形の彼を、あっさりふってしまった彼女は不幸ではなかったかといまだに思っている。幸せでいいことばかり起きるとユリちゃんはいっていたが、ドカンと宝くじが当たるわけでもなく、アラブの大富豪に見初められたというわけでもない。私とたいして変わらない生活を送っている。占いにかけるお金の分、私よりも生活が大変じゃないかといいたくなる。
「まだあの人、バカなことやってんの?」
マキちゃんに電話してみたら、心底あきれかえっていた。三人のユリちゃんに群がる男の話をしても、
「けっ」
と冷たい。現実的な彼女は、もう、ほとんどユリちゃんのことは見捨ててしまったのだった。
私がオオヤマと会って十日後、情けない声でユリちゃんから電話がかかってきた。
「どうしよう……」
いつになく落ち込んでいた。
「何かあったの?」
「うん……、あったの」
彼女は占い師の先生方のところへ御意見をうかがいにいった。何しろあと半年で二十三歳になってしまうので、とにかく相手だけは決めておきたかったのだ。ところが、今まで別々に占ってもらっても一致していた占い師のお答えが、何とバラバラだったというのだ。
「てんてる先生はイシカワさんだっていうし、金春先生はヤマダさんで、星天先生はオオヤマさんなの……」
きっと誰でもいいっていうことなんじゃないのといおうとしたが、これはやめておいて、
「いちばん信頼している先生のを信用したら?」
といってみた。でも返ってきたのは、
「どれも素晴らしい先生方だから、そんなことできないわ」
というため息まじりのことばだった。
「あー、どうしよう……」
私はもうちょっとしてから、また占い師のところに行けばとなぐさめて電話を切ったが、簡単な問題を彼女が自分自身でややこしくしているような気がしたのである。
何度占い師のところに足を運んでも、お答えは同じだった。
「ヤマダさんは貯金しか魅力はないし、イシカワさんはあの体で健全な夫婦生活が営めるか心配だし、オオヤマさんは夫婦生活は安心だけど、それだけっていう気がするし……」
うじうじとユリちゃんは電話口でグチッていた。
「八百万円の貯金があって顔も頭もよくて、体もたくましい、三人が合体したような人がいればいいのに……」
そんな奴《やつ》いるか。うじうじ彼女が悩んでいるうちに、三人の男たちは三ツ股をかけられていることがわかったらしく、ほとんど同時期にパッタリと連絡が途絶えてしまった。あわてた彼女が占い師のもとに走っても、
「いうとおりにしないからです」
と静かにいさめられる始末だった。そして魔の二十三歳になったとたん、ユリちゃんはパーティに参加しても、誰からもお呼びがかからなくなってしまったのだった。あれだけ熱心に三人の男がすり寄ってきたのに、今では潮がひいたかのように、しーんとなっていた。彼女は電話口でおんおん泣いていたが、私はそんなことより違うことを考えていた。
(当たった……)
初めて、占いって当たるのかもしれないと思った。
それからのユリちゃんは、この暗い状態から何とかして抜け出そうと、あらゆる手段を使い始めた。久しぶりに会うと、今まで着ているのを見たことがない、やたらと胸の開いたブラウスに、じゃらじゃらとアクセサリーをいっぱいつけていた。十字架、仏像、ヘビ、扇子、星型、ハート型のペンダントを一緒くたにしていた。おまけに金色あり、銀色あり、宝石入りありで、ちっともコーディネートができていない。
「どうしたの、それ」
「みんな幸運を呼ぶペンダントよ」
どれもちゃんとしたところで買ったのだそうだが、一本が五万円もするというのを聞いてビックリした。
「これは二十万円」
彼女はブレスレットをさわりながらつぶやいた。見たところ、盛り場で外国人が売っているアクセサリーと大差ないような作りだ。
「これが太陽のパワーを吸収して、私に幸せのエネルギーを与えてくれるのよ」
なるべく太陽のエネルギーを取り入れるために胸の開いた服を着て、人と会うときはアクセサリーを身につけるのが幸運への道なのだそうだ。きっとユリちゃんは、ありったけの幸運を呼ぶペンダントやブレスレットをつけてきたのだろう。
「ありがたい絵も買ったの。じっと見ていると心が洗われるのよ」
その絵も十万以上するものだった。そんなにお金をかけるんだったら、私は幸運が来なくてもいいから、ティファニーのアクセサリーが欲しい。私の疑った目つきを察したのか、ユリちゃんは、ひとつひとつのペンダントの御利益《ごりやく》を説明しはじめた。どれもこれも熱心な説明によって、それなりにパワーを持つものだということは理解できそうな気がしたが、それを全部首や手にぶら下げている姿は、不気味以外の何ものでもなかった。
「先生方もね、今は辛抱のときで、このアクセサリーを肌身離さず身につけていれば、すべていいことに転化できるんですって。四十五歳まで待たなくても、出会いがあるかもしれないの」
そんなことやってるんじゃ、いつまでたっても彼なんかできないよ、といってやりたかったが、彼女のキッとした目を見ていたら、何もいえなくなってしまった。
「私、来週、メキシコへ行くの」
「えっ、何で」
「てんてる先生がね、メキシコに行くと私にとりついている悪いものが消え去るんですって。貯金をはたいちゃうんだけどね」
てんてるって奴は、もしかしたら旅行代理店と結託しているんじゃないだろうか。メキシコに行けというほうもいうほうだが、行くほうも行くほうだ。この分じゃ、占い師のいうことなら、ユリちゃんは北極だって南極にだって行っちゃうに違いない。それもたった一日行って、すぐ戻ってくるなんて信じられない。
ふと気がつくと、ユリちゃんは目を閉じて、ぶつぶつと何事かつぶやいていた。もしかしたらおまじないでもしているのかもしれないが、私は聞く気もおきなかった。
「メキシコから帰ってきたら、すぐ北の方に行くの」
目を開けて彼女はにこっと笑った。
「北の方に、私のことを必要としている男の人がいるんですって。星天先生がそうおっしゃったのよ」
北の方の山道で、転んでいるじいさんと出っくわすんじゃないのというギャグも口に出せないくらい、ユリちゃんの目はぶっとんでいた。
「ふつうの人がわからないことがわかるなんて、占いって素晴らしいわねぇ」
彼女はひとりで納得していたが、私は、あんたは十分に不幸だよと心のなかでつぶやいた。そして占いのドツボにはまった彼女から離れていった、三人の男たちが、とってもまっとうに思えてきたのだった。
第十話 親 切
サッちゃんは私の学校の友だちのなかで、いちばん男出入りが多い。だけど、みんなは全然うらやましがらない。というのも、彼女はとても男性の守備範囲が広く、私たちが鼻もひっかけないような男の人とも、平気でつきあうからだ。ふつう、二十歳くらいの女の子は、それなりの年齢差の男の人とつきあうことが多い。同じ立場の学生とか、サラリーマンでも若手とか、よほどお金がらみじゃない限り、父親みたいな歳《とし》のおじさんとはつきあわない。ところがサッちゃんは、同年輩の男の子はもちろんのこと、学校の近くのスケベで根性が悪い、果物屋のおやじとでも平気でつきあえる子なのである。
「あのねー、今、つきあってる人はねえ」
彼女は無邪気に相手の男の人について、私たちに話した。だいたい、一か月にひとりは変わっている。私たちは学食で、ふんふんと聞いてあげるふりをしながら、
(この子、どうしてこう、バカなんだろう)
と思っていた。彼女は特に美人というわけではなかったが、肉体派であった。胸もでかいが尻《しり》もでかく、見るからに何も考えていないというような、ぽーっとした顔をしていた。これで警戒心があって、男の人を避けるくらいだったらよかったのに、彼女はその反対で、男の人に声をかけられるとそのまま、
「うん」
とうなずいて、おとなしくくっついていってしまうタイプだった。おまけに通学時の格好も、大胆なミニ・スカートである。それもフレアーで、いつお尻が見えてしまうかと、ひやひやするような短さだった。
「ちょっとそのスカート、あぶないね」
あまりに太もものあたりで裾《すそ》がひらひらするので、注意したことがあった。でもサッちゃんは、
「えー、平気よお。私、足が太いから、スカートのなかが太ももでいっぱいになって、下着が見えるすきまなんかないもん」
と、のんびりと答えていた。しかし彼女は、水玉模様のパンツを丸見えにして、校内の階段をのぼっていた。
「見えてるよ」
「えっ、やだーん」
彼女はあわててバインダーでお尻を隠したが、白地にピンクの小さな水玉が目にやきついてしまったのだった。
「あの人、もしかして変態じゃないの」
口の悪い子はそういうこともあった。彼女は無防備だが、自分から誘うとか、そういうことは一切ないはずだ。そんなに、男をひっかけるテクニックを駆使するほど、頭の回転がよくなかったからだ。
「私ねー、お金を積んで短大に入ったんだよ」
こういうことを平気でいっちゃうような子なのである。良くいえば、人を疑うことを知らない純真な子で、悪くいえば大人気ない、おまぬけな子であった。
果物屋のおやじとつきあうきっかけになったとき、私は彼女と一緒にいた。うちの学校は山の上のほうにあり、駅の近所には小さな商店街があった。交通の便が悪くて、電車も一時間に二本くらいしかないので、めざす電車に乗りおくれると、私たちは駅前の公園で暇つぶしをしなければならないのだった。その日、私とサッちゃんは、とぼとぼと山を下りていた。駅まで徒歩三十分であったが、近ごろ太り気味なので、少しでもカロリーを消費しようと思ったのである。すると、背後からとってつけたような不気味な猫撫《ねこな》で声が聞こえてきた。
「おじょーさん。乗っていきませんか」
ふり返ると、そこにいるのは軽トラックに乗った、ハゲおやじだった。ハゲのわりにヒゲが異様に濃く、顔の下半分はうす黒くなっている。
「駅まで行くんでしょ。どうぞ、乗っていきなさいよ。ねっ、ねっ、ねっ」
黄色い歯と金歯が交互に並んでいる口をニッと開いて、彼は私たちに愛想をふりまいた。
(誰がこんなエロおやじと)
彼の目つきはねとっと私たちの体にまとわりつき、何度も首から下を往復していた。
「行こう」
サッちゃんをうながして歩こうとすると、彼女は、
「うーん」
といって立ちどまってしまった。
「どうしたの?」
「さあ、どうぞ、どうぞ」
おやじは身を乗り出してきた。
「気持ち悪いからさあ、行こうよ」
小声でいいながら彼女の手を引っぱると、彼女は、
「あたし、乗っけてもらう」
とにっこり笑って、エロおやじの車に乗ってしまったのである。かっこいい大学生が運転するBMWじゃない。おやじが運転しているボロ軽トラックに、喜んで乗るなんて信じられない。
「あなたもどうですか」
私はエロおやじのいうことは、完全に無視して、助手席に座っているサッちゃんに、
「早く降りておいでよ」
と何度も何度も声をかけた。でも彼女は、
「疲れるから乗せてもらうわ」
というばかりで、そのうえ私にも一緒に乗れというのであった。
「それじゃ」
あっけにとられている私を置き去りにして、おやじは車を強引に出発させた。
(まったく、もう)
心配なのとムッとしたのとで、私の頭のなかはごっちゃごちゃになってしまった。あのエロおやじは、もしかしたら女子大生狩りをしていたのかもしれない。だけどいちおう、あいつは商売人だ。そんなことをしたら立ち直れないことくらいわかっているはずだ。単に若い女の子と話をしたいだけだったのかもしれない。だけど相手がサッちゃんじゃ、物事をいけないほうへ、いけないほうへ考えてしまう。とにかく何でもOKのサッちゃんは「NOといわないサッちゃん」として有名だった。あんなエロおやじにも、うんといってしまうかもしれない。私はアパートに戻っても、サッちゃんのその後が心配でならなかった。
翌日、サッちゃんは無事、学校にやってきた。しかし私の顔を見たとたん、
「やられちゃったよー」
とにこにこしながらかけ寄ってきた。
「やられたって、何よ!」
「やだーん、わかってるくせにィ」
「わかってるわよ! わかってるから怒ってるんじゃない」
「だってえ」
「だってじゃない!」
サッちゃんはぽっとホオを染めて、もじもじしていた。
「あのね、あのおじさんがね、私のことをかわいい、かわいいっていうから、つい……」
そりゃ、自分の女房と比べたら、若いサッちゃんのほうがかわいいに決まっている。だけどあんなおやじがナンパするな! それも軽トラックで! ハゲも金歯も直してからにしろ!
「ああいうのが好みなの?」
私はあきれかえって、サッちゃんに聞いてみた。別におじさんが悪いわけではない。若い男の子よりマシなおじさんも、いるにはいる。だけどそれはエロおやじのような奴《やつ》ではない。もっと紳士で知性的なタイプ。もちろんお金だって持ってなきゃだめだ。
「まさか、お金をもらったんじゃないでしょうね」
サッちゃんはちょっと困ったような顔をして、何事か、もごもごいっていた。
「お金はもらってないよ」
彼女がエロおやじの車に乗ったあと、彼は彼女をじろじろと見ながら、肌がきれいだの目がかわいいだのと、ほめちぎったのだそうだ。私なんかそんな男にほめられてもぞーっとするだけだが、彼女はだんだんほめられて、うれしくなってきちゃったんだそうだ。そして駅まで送ってもらうはずが、国道を走るドライヴになり、そのままモーテルに入ってしまったというのだ。
「あんた、それでね、いいと思ってんの?」
「うーん、ちょっとびっくりしたけど、仕方がないかなあって思って……」
あなたがいうほど、おじさんは悪い人じゃないよ、ともいった。悪い人じゃないかもしれないけど、そういうのと寝るのは別だと怒っても、サッちゃんにはいまひとつ、私のいうことがのみこめてないみたいだった。
「あのねー、私のこと好きだっていう人は、みんな好きになっちゃうんだ」
彼女はのんびりとした口調でいった。男のなかには体が目当てで、目的を達成するまではホイホイほめちぎるけど、あとは知らんぷりするふとどき者が多いのだ、と忠告しても彼女は、
「ふーん」
と不思議そうな顔をしていた。いちばんそういう目にあった回数が多いはずなのに、ちっともこたえていない。
「今までだって、そういうことあったでしょ」
「そういえば、私が何度電話してもすぐ切られたり、電話番号が全然違うことがあったなあ」
そんなときも彼女は、
「変ねえ」
と首をかしげたままで、男のことを疑いもしなかった。そしてまたすぐ次の男に声をかけられるので、そういうことは次々に忘れていったというのだった。
「あんた、遊ばれてんのよ」
「えっ」
彼女は、そんなこと初めて聞いたというふうにギョッとした。
「遊ばれるって、東京の六本木とかにいる、派手な女の子がされることじゃないの?」
とことんおまぬけなサッちゃんなのであった。
エロおやじとモーテルに行った代償として、彼女は大きなスイカを一個もらった。
「とってもおいしかったよ。アパートに帰ってすぐ半分食べちゃって、あと半分、冷蔵庫に入ってるんだ。そうだ、今日、食べにくる?」
私は力一杯、頭を横に振った。そんなもの、友人として口にできない。
「アパートまで送ってくれたんだよ」
彼女はエロおやじは親切だといわんばかりであったが、私はそれがいかに危険であるかを説教してやった。そういうおやじは、甘い顔をするとつけ上がり、次には彼女のアパートの前でじっとたたずんでいたりする。そこでなかに入れると、これ幸いと上がりこみ、モーテルのかわりにアパートの部屋を利用し、経費の節約をはかるようになる。そしてそういう男出入りの現場を他の住人に目撃されて、悪い噂《うわさ》がたち、サッちゃんはアパートに住めなくなるのだぞとおどした。
「まあ、どうしよう」
まるで他人事《ひとごと》のようなリアクションであった。私の心配は現実になり、エロおやじは軽トラックに乗って、彼女のアパートに押しかけてくるようになった。そのたびに彼は、甘夏みかんやビワやぶどうを持ってきたという。私はそのなかにメロンが入っていなかったので、やっぱりあのエロおやじはケチだと思った。果物屋さんの店先にあるメロン以外のものをひととおり持ってきたあと、エロおやじはパッタリとサッちゃんのところに来なくなった。ほら、みたことか、といったが、もともと物事を深く考えない質《たち》の彼女は、ほとんどダメージがなく、
「別にいいよ、たくさん果物ももらったし」
といって、笑っていた。
サッちゃんの「妙な雰囲気」は、学校の女の子から見て、相当にうさん臭いものだったらしい。「不気味な中年男と親しげに話をしていた」「交番のおまわりさんに、手作り弁当らしきものを手渡しているのを見た」「みんなが嫌いな六十八歳の英文学の教授に肩を抱かれて、学校の裏庭の隅を歩いているのを見た」などなど、サッちゃんの目撃情報は次々に私の耳に入ってきた。
「あの子、商売してるんじゃないの」
耳元でそうささやく子もいた。いかにもという感じのド派手タイプでないのが、よけいあやしいというのである。
「そんなふうにいわれてるよ」
ぼーっとしているサッちゃんに話すと、彼女は、
「お金なんかもらったことないよ。物ならあるけど」
と、さすがにほんのちょっとだけ怒っていた。しかし噂のひとつひとつに弁解することもせず、自分のプライドを取りもどそうとする様子もなく、どうしてかなあと首をかしげていた。こんなにトロい女の子をひっかけるのは、手慣れた男の人にとってはいとも簡単なことなのだろう。
「きょう、彼がむかえにくるんだ」
英語の授業が終わったとき、サッちゃんはうれしそうにいった。
「彼って誰よ」
「うふっ、二十三歳なの」
ちょっとはまともになったらしい。
「どこで知り合ったの?」
「道ばた」
「…………」
ちっとも変わってない。彼女はバインダーを両手で胸の前にかかえ、うきうきしている。彼が車を運転していて彼女に道を訊《き》き、教えてあげたのがつきあうきっかけになったのだそうだ。男の人とつきあうきっかけがそんなに簡単なら、どうして私にはそういう人がいないのかと面白くなかったが、私は「量より質」でいこうと自分自身を納得させることにした。
「どんな人?」
またかと思いつつも、ついそう聞いてしまう私も情けない。
「えー、そうねえ、優しいよ」
彼女はぼーっとした顔をもっとゆるめながら、校門にむかって歩いていった。少しうしろからついていった私は、目の前でぶりぶりと動く彼女の太ももを眺めながら、これじゃあね、とつぶやいた。
「あっ、もう来てる」
サッちゃんは小走りに走っていった。ミニ・スカートの裾がめくれあがってあぶない。私もつられて走った。サッちゃんは大きく右手を振った。その延長線上に目をやると、何とそこには、電飾キンキラキンの満艦飾の四トントラックが止まっていた。
「まだこんなのがいたのか……」
キャバレーのネオンみたいなのがいたるところに点滅し、ボディには浮世絵が描いてある。運転席からは色の浅黒い、パンチパーマのお兄ちゃんが、筋肉質の腕を振っていた。短大の校門の前に止まっているキンキラキンのトラックはあまりに異様で、周囲の人々たちは何事かとビビッていた。しかしそんなことなど気にかけないのか、気づかないのか、サッちゃんはトラックに突進していった。
「おー、待ったぞー」
「ごめんねえ」
「わかんないと困ると思ってよお、電飾、力いっぱいつけてやったぜ」
こんなすごいものが目立たないわけがないのに、このトラックのお兄ちゃんは、めいっぱいかっこつけていた。
「早く、乗れや」
「うん」
「じゃあねえ」
サッちゃんはエロおやじのときと同じように、私を置いて四トントラックに乗り込んでいってしまった。エロおやじといい、パンチのお兄ちゃんといい、彼女はどうもトラック関係に弱いようだった。
「あれ、なあに? 何なの?」
呆然《ぼうぜん》と立ちつくす私のまわりに、同じクラスの女の子や助教授まで、わらわらと集まってきた。
「サッちゃんの新しい彼氏らしいよ」
「ふーん」
ほとんどみんな放心状態だった。しばらく四トントラックの派手なうしろ姿を見送っていたが、そのうち「あら、まあ」「何でまあ」と口々にいいながら散会し、キャンパスには平穏が戻った。次の日、彼女がどんなことをいうか簡単に想像できた。無邪気にペラペラと、何でもしゃべっちゃうのだろう。
案の定、翌日、彼女は私を見るなり、
「やられちゃったよー、五回」
といいながらやってきた。
「回数までいうな、回数まで!」
いったいあんたはこういう現状をどう思っているのか、このままでは、遊びたいだけ遊ばれて、ポイされるだけだぞ、と真顔でいってやった。
「私だって、ちゃんと断ったことあるもん」
彼女は反撃してきた。そうか、この子にもそういう面はあるのかと少しホッとした。
「『お前、堅いなあ』っていわれたもん」
ところがよくよく話を聞いてみると、その相手はあのパンチのお兄ちゃんだった。道を訊かれたその日、彼女はいつものように助手席に座った。国道をどんどん走っていくと、モーテルが見えてきた。パンチはあそこに入ろうとしつこく誘ったのだが、彼女は拒否した。知り合って五分では、あまりに早すぎると思ったからだった。しばらく走ると、またモーテルが見えた。体じゅう、そのことしかないパンチは、また、
「いいじゃんか、ちょっとくらい」
と誘った。でも彼女は断った。またしばらく走るとモーテルがあった。とにかく国道沿いはモーテルが地べたから生えているみたいに多いのである。パンチはまたなかに連れ込もうとした。そして彼女が断ると、彼は、
「おねえちゃん、堅いなあ」
とつぶやいたというのだ。私はそこで話は終わったと思っていたのだが、結局、その次のモーテルで彼女はOKし、なかに入ったという。断ったといっても、私の考える意味とは大いに違っていた。
「私だって、断るときは断るの!」
きっぱりと彼女はいい切ったものの、つくづく、あんたの頭のネジは締まっているのかといいたくなったのである。
半月後、彼女はパンチのお兄ちゃんに、やりたい放題のことをされて、捨てられてしまった。
「優しかったんだよお」
そういって彼女は、さめざめと泣いた。
「ふーん」
「私のどこがいけなかったんだろう」
「あんたも悪いけど、それ以上に男が悪いの」
「うわーん」
サッちゃんはもしかしたら、本気になっていたのかもしれない。これで少しは考え直すだろう。
「失恋を忘れるのは、新しい恋しかないわよね」
彼女がそういうのにも驚いたが、今までのことを恋愛だといったのにも驚いた。
「男の人は私に親切にしてくれるから好き」
エロおやじやパンチのお兄ちゃんたちに使い捨てにされても、彼女はまだそんなことをいっていた。
「女の人は陰でこそこそいろんなことをいうから嫌いなの。だけど、あなたは別よ。ずっとお友だちでいてね」
サッちゃんは、無邪気なのか、まぬけなのかわからない目で、私をじっと見た。
「う、うん。そうねえ……」
サッちゃんを清い乙女として更生させたほうがいいのか、それとも好きなようにとことんやらせてしまうほうがいいのか、私は飼育係のような気分になって、ため息をついた。
第十一話 恐 怖
「ちょっと、あんた。今日、学校の帰りに、駅前を男の子と手をつないで歩いてたって、ホント?」
家に帰ったとたん、お母さんにそういわれた。びっくりして顔を見ると、彼女の目は三角形になり、ぶっとい脚はしっかりと玄関マットを踏みしめている。
「え、いったいどうなのよ!」
「手なんかつないでないよ! うるさいなあ」
たしかに私は同じクラスの森くんと一緒に、駅前を歩いて帰ってきた。高校に入学してから二年、入学式のときから目をつけていた彼と、やっとここまで仲よくなれたのである。しつこくいい寄ると、ビックリして逃げていきそうなタイプだったから、じわりじわりと攻めていった。サッカーの試合のときはさりげなく陰で応援し、ヴァレンタイン・デーやクリスマスにもかかさずプレゼントをあげ、雌伏《しふく》二年。私が入学式のときに彼の姿を見て以来、頭に描いていた夢が現実になったのだ。私は地べたから足の裏が二十センチ浮いているような気分だった。一緒に帰ってくれるようになったのは、私と親密になってくれてもいいっていう意思表示に違いないわと内心、有頂天《うちようてん》になっていたのだ。クラスメートの噂話《うわさばなし》をしながら、
「やだー」
といって、ふざけて彼をつきとばしたような気もする。あまりべったりとくっつかないように、そしてほんの少しは体がさわるようにと、彼の隣を歩いていたが、手は絶対につないでいない。そうなったらばこんなにうれしいことはないが、残念ながら今日のところはそこまでいっていないのである。
「誰がそんなこといったのよ」
「誰だっていいでしょ」
「そんなことしてないったら、してないの」
「それならいいけど。あまりみっともないことはしないでよね。ここは変な噂がたったら、あっという間に広まるんだから。そんなことになったら恥ずかしくてたまらないわよ」
お母さんはぶりぶり怒っていたが、疑われた私はもっと頭にきた。やりたいと思っていることをやったといわれると、むしょうに腹が立つものだ。実際、そういうことをしていたのならともかく、そうじゃないんだから誰かがウソをついていることになる。
「くそー」
私は部屋に入って制服を脱ぎ捨て、お母さんに余計なことをいった犯人を推理した。私の友だち関係には絶対にいないだろうし、駅前商店街の人たちでもない。
「あっ……」
頭のなかに、ボッとある人物の顔が浮かんだ。
「あいつだ……。あいつに違いない」
他人の噂を嬉々《きき》として話し、それを人生の最大の喜びとしている。それは先隣に住んでいる、源田のくそばばあ以外には考えられなかった。
私が住んでいるのは団地である。団地といっても、誰が住んでいるかわからないマンモス団地ではなく、同じ棟の入居者のことはほとんどわかってしまうような、小ぢんまりしたところである。生まれて半年でこの団地に引っ越してきた私は、近所のおばさんたちに秘密にしておきたいことのほとんどを知られていた。
「あーら、ゆりちゃん、大きくなったわねえ」
中学生になった私を見た、四階に住んでいる出っ歯のおばさんにしみじみといわれたことがあった。「こんにちは」と挨拶《あいさつ》した私は、それで解放されるのかと思ったら、彼女はうれしそうに、
「よちよち歩きのときに、花壇のまんなかでうんちをおもらししたゆりちゃんがねえ。こんなになるなんてねえ。あのときはおばさんが全部、あと始末をしてあげたのよ。そうしたらゆりちゃん、パンツを穿《は》くのを嫌がって、下半身丸出しのまま、団地の廊下を走って逃げたのよねえ」
といった。こういう人に限って声がばかでかく、私は、話を耳にした、見ず知らずの人に、
「ぷっ」
と笑われながら、顔を赤くしてじーっとその場に立ちつくしていたのであった。だけど、まだこういうおばさんはマシだった。ここの団地B棟でいちばん問題なのが源田のくそばばあなのだ。
彼女は年齢は五十歳。子供はおらず、「笑ウせぇるすまん」の喪黒福造に体型も顔面もうりふたつである。顔見知りに会うと、幅広の顔、分厚いくちびるをゆるめて、にたーっと笑う。そしてとってつけたような、お上品ぶった声で、
「どちらへおでかけ?」
とたずねるのであった。彼女は顔見知りが歩いていると、いろいろなことを根掘り葉掘り聞き出し、頭のてっぺんからつま先まで身につけているものをすばやくチェックして、噂話のネタを勝手に作成してしまうのだ。ある若い奥さんは、ふだんよりちょっと明るい色合いのワンピースを着て、でかけようと外に出たら、運悪く「喪黒」と会ってしまった。
「あーら、どちらへおでかけ?」
にたーっと笑われて、背中がゾーッとした奥さんは、パート先の社長さんの家に招《よ》ばれたので、これから行くところだと、用件を手短にいって、そそくさとその場を立ち去った。ところが翌日、団地をかけめぐったのは、
「奥さんがパート先の社長と不倫をしていて、駅のむこうのラヴ・ホテルに入っていった」
という噂であった。それを聞いて、
「そういえば、きのう、あそこの家、夜中までずっと電気が消えてたわ」
といい出すおばさんも出てきた。
「ご主人が出張中だっていってたわよ、あそこの奥さん」
おばさん連中はどういうわけだか、耳に入ってきた噂をまず否定することなど絶対にしない。それどころか、噂を事実に変えられるような出来事をあれこれ思い出しては、噂がさも真実であるかのように、尾ひれをつけて作り変えてしまうのだ。ご主人の出張、派手めな服装の若妻、パート先の社長。この三つの題材で、源田のくそばばあを中心とした噂好きのおばさん連中は、不倫話をでっちあげてしまった。そうなったら彼女たちの天下で、それから先は噂が真実にとって代わり、若奥さんは、夫の目を盗んで不倫している妻のレッテルを貼《は》られてしまったのだ。
「ああいう人は困ったもんだわね」
うちのお母さんもそういうことはあった。しかし、源田のくそばばあがことば巧みに噂話をすると、のがれられない魔力があるのか、お母さんも完璧《かんぺき》に無視することはなかった。ずるずると彼女のペースに巻き込まれ、しまいには、
「もしかしたら、そうかもしれない」
と思わされてしまう。私からみれば源田のくそばばあは、人間関係をぶちこわす、悪魔の手先みたいな奴《やつ》だったが、おばさん連中は、
「あんな人」
といいながら、喜んで噂話を聞いているように見えた。団地の掲示板の前でつるんでいるおばさん連中を見るたびに、
「ああはなりたくないもんだ」
と私はいつも思っていたのであった。
「私のこと、あれこれいったの、『喪黒』でしょ。そうでしょ」
お母さんを問いつめてみた。
「あはは、喪黒だって」
ちょっとウケたが、すぐ彼女は真顔になり、
「そうなのよ」
と白状した。私と森くんが仲よく気持ちよくお話をしながら歩いていたのを、あいつはどこで見ていたんだろう。想像するだけでもぞっとする。商店街を歩いていたからまだいいが、駅の反対側のラヴ・ホテルのあるほうを歩いていたら、何といわれていたかわからない。噂が先行すると親が警戒して、私たちがこれからやりたいことがやりにくくなってしまうのも問題なのである。
「あの、くそばばあ」
「これ、やめなさい」
お母さんは、噂はともかく、人の目には気をつけろといった。そしてお決まりの「高校生らしいおつきあい」「隠しごとはするな」「ふしだらなことをすると、結局泣くことになるのは女の子」といったテーマのお説教が続いた。親に隠しごとしない高校生なんかいるかと思ったが、今、そんなことをいって反抗したら、お母さんは「喪黒」側についてしまう可能性があるので、とりあえず、
「はいはい」
と聞くフリだけしておいた。
「で、どんな男の子なの、同じ学校の子?」
お母さんは森くんのことを、あれこれ聞いてきた。友だちに話すのはとても楽しいのに、相手が親だととたんに、彼について話したくなくなる。
「変な子じゃないでしょうね」
「変て何よ」
「ほら、よくいるじゃないの。髪をオレンジやピンクに染めてたり、首からじゃらじゃらアクセサリーをぶら下げてたり、派手なダブダブのズボンを穿《は》いてたり。お母さん、あんなの大嫌い」
私はああいう子たちは、かっこよくて大好きだが、むこうが全然相手にしてくれないだけなのだ。
「まさか、そんな子じゃないでしょうね」
「違うわよ。サッカーやってるのよ」
「おや」
ちょっとお母さんはうれしそうな顔をした。彼女はスポーツマンはみんな性格がいいと信じている。スポーツをやっている人は相撲《すもう》からウエイト・リフティングまで何でも好きなのだ。だからオリンピックがあるたびに、お父さんとお母さんは、
「あの選手、本当にステキねえ」
「ふん、あんなガニ股《また》」
ともめるのである。
家に連れてきなさいとお母さんはしつこくしつこくいったが、私は無視することにした。やっと一緒に帰るまでになったというのに、ここで逃げられたらえらいことになる。きっと会ったら、「娘に手をつけないように」といったニュアンスのことを、彼にいうだろう。娘がそういうことになるのを、何よりも彼女は恐れているらしいのである。ガール・フレンドの母親にそんな話を聞かされて、気分がいい男の子なんかいるわけがないではないか。とにかく私たちの仲を永続きさせるためには、うちのお母さんを含めたおばさん連中の目を避けなければならないのであった。
私と森くんは、学校でも公認の仲になっていった。サッカー部の練習が終わるのを待って、一緒に校門を出ると、
「ひょー、ひょー」
とサッカー部のホコリ臭い奴らから、からかわれた。
「うるせえなあ」
面倒臭そうにつぶやく森くんの横で、私はまた地べたから二十センチ浮いているみたいな気持ちだった。私たちはどうでもいいような話をしながら、だんだん駅に近づいていった。すると、どうも妙な気配がする。歩きながらきょろきょろしている私を、彼は不思議そうな顔をして見ていた。
「どうしたの」
「誰かに見られてるような気がする」
「あいつらは、もういないぜ」
「そうじゃなくて、もっと変な感じがするのよ。見張られてるっていうのかしら」
「そうかあ?」
彼は首をかしげながら、私のマネをしてきょろきょろしていた。歩いていると背後に視線を感じ、ふり返るとそれらしき人はいない。そしてまた歩き出すと、私の背中にじとーっとした視線が浴びせられる。まるで「だるまさんがころんだ」をやっているみたいだった。五歩歩いてふり返り、また三歩歩いてふり返る。ときおりフェイントをかましてやったが、じとーっとした視線を浴びせる奴はわからなかった。
「何やってんだよ。気のせいだよ、そんなの」
彼はあきれた顔で笑ったが、私はほとんど意地になっていた。
(絶対見つけてやる)
「おいおい、目がつり上がってるぞ」
仁王立ちになって、歩いてきた道をにらみつけてやった。するとこそこそっと、電信柱に取りつけられたヴィデオ・ショップの看板の陰で、黒いものが動いた。はっとして近寄っていこうとしたら、その黒くてずんぐりした影は、さささっとすさまじい勢いで走り去ってしまった。
「あいつ……」
顔はわからなかったが、あの足の太さは絶対に源田のくそばばあだった。葬式の帰りらしく、黒いワンピースを着ていた。
「葬式の帰りに尾行なんかするんじゃねえよ」
あまりに悔しくて怒鳴ってしまい、ふと彼のほうを見たら、ものすごくビビッていた。
「ど、どうしたんだよ……」
ちょっと気も弱いのである。私は源田のくそばばあが噂をでっちあげて、団地の住人を混乱に陥れていること、そして最近は、私たちのことまで噂にしたことを訴えた。
「嫌な奴だな」
彼も顔をしかめていたが、彼女が「喪黒福造」にそっくりだというと、やたらと大喜びし、
「ぜひ一度、お目にかかりたい」
とはしゃいだ。
「私なんか、もううんざりよ。さっさと引っ越していってもらいたいわ」
あれが団地にいる限り、私たち住人に平穏な日々はやってこないのであった。
翌日、学校から帰った私の耳に入ってきたのは、
「夜中の十一時すぎに私が男の子といちゃいちゃしながら歩いていた」
という噂だった。昨夜、家に帰ったのは七時半だ。きっと源田のくそばばあが目撃した私たちの姿に、おばさん連中が喜びそうなシチュエーションをてんこ盛りにして、
「あそこのゆりちゃんが、また男の子と歩いてたのよ。それも夜遅くなの。十一時すぎかしらねえ……」
などといったのだろう。さすがにこのときは、私が七時半に帰った事実を知っているお母さんも激怒して、
「いいかげんなことはいわないで」
と源田のくそばばあに抗議していたが、
「あーら、ごめんなさい。時間はよくわからないけど、男の子と歩いていたのは本当よ」
といい返されていた。
「人の目には気をつけなさいっていったでしょ」
お母さんは私に八つ当たりした。きっと人目につかないように、こそこそと会ったりしたら、
「高校生らしい、明るいおつきあいをしなさい」
というのだろう。結局、私と彼は団地のおばさん連中のおもちゃになっているのだ。
何日かたって、私がひとりで団地のなかを歩いていると、相変わらずおばさん連中はそこここでつるんでいた。
「あ、ゆりちゃん、お帰りなさーい」
そのうちのひとりが目ざとく私を見つけ、満面に笑みを浮かべて声をかけてきた。
「あ……、こんにちは」
みんないちおうは、にこにこして会釈《えしやく》するものの、さぐるような目つきなのがうっとうしい。
「娘さんらしくなったわねえ」
「ねー、お母さんのあとを追って、わんわん泣いてたのが、ついこのあいだのようだわね」
「いい人、いるんですってね。いいわね、若い人は。おばさんたちなんか、あっという間にフケちゃって、うらやましくてしょうがないわ。あっはっは」
「あは、は、は……」
おばさん連中は異様に元気だったが、私の体からは力が抜けていった。私がその場を立ち去りながら、そっとふり返ると、彼女たちは私のほうを見ながら、頭を寄せ合ってこそこそと何やら話していた。
私と彼の噂を耳にしたお母さんは、一度彼を連れてくるようにといった。源田さんちのおばさんが噂をたてても、きちんと反論できないのは、彼を紹介されてないからだといわれたら、今までそのことを無視していた私のほうも拒否できない。彼は、
「うーん、いいよ」
とふたつ返事で、学校の帰りにうちに寄ってくれることになった。道を歩いているだけで、源田のくそばばあに見つかってしまうのに、団地のなかをふたりで歩いたらどうなるかと心配していたら、案の定、ハエのようにおばさん連中がたかってきた。
「すごいなあ、おばさんばっかりじゃないか」
彼は妙に感動していた。あっちでもこっちでも、おばさん連中が四、五人のグループを作って立ち話をしている。
「あっ」
むこうからよりによって、源田のくそばばあがやってきた。見れば見るほど「喪黒福造」に似ている。不思議そうにしている彼に、あいつがこのあいだ、私たちを尾行していた奴だと教えてあげた。
「おおっ」
会いたいといっていた人に会えて、彼は喜んでいたが、私はガックリきた。
「まあ、まあ、ゆりちゃん!」
こそこそと逃げていくかと思いきや、「喪黒」はかけ寄ってきた。
「この方、お友だち?」
そういいながら彼の頭のてっぺんからつま先まで、じろじろとなめまわすように見ている。
「素敵な人ね、いいわねー、こんなハンサムな人と歩けて」
彼女は興奮してべらべらしゃべりまくっていた。私たちは「はあ、はあ」と気のない相槌《あいづち》を打ちながら、そこに立ちつくしていた。「喪黒」は私たちに口をはさませることなく、弾丸を撃つように、口からつばをとばしていた。そしてしまいには、「親に心配をかけるな。親を大切にすることは、先祖を大切にすることだ。ひいては人々を愛することだ」ともっともらしいことをいいやがった。噂をバラまき、スーパー・マーケットのレジで、気の弱そうな若い子の前に横はいりする奴と、同一人物の発言とは思えない。
「あのー、急ぎますから、これで」
私は困り果てている彼を引っぱるようにして、「喪黒」から逃げ出した。逃げながら後ろをふり返ると、彼女はにたーっといつものいやらしい笑いを浮かべながら、私たちの姿を眺めていた。
「すげえなあ」
彼がぽつりとつぶやいた。ところが一難去ってまた一難。今度は四階の出っ歯と出っくわしてしまった。
「まあ、まあ、ゆりちゃん。お友だち?」
明るい声にさぐるような目つき。おばさんたちのリアクションは、ほとんど同じだ。隣で彼が、あーあとため息をついたのを、私は聞き逃さなかった。おばさんはいろいろと話を聞きたそうな素振りを見せていたが、私は、
「急いでますので、失礼します」
といって、彼の手をとって走り出した。あちこちでつるんでいるおばさん連中は、私たちの姿を見て興味|津々《しんしん》の顔をしていた。
「あの子、誰だっけ」
「B棟の三階の。ほら、ゆりちゃんよ」
走っていく私にそんな声も聞こえてきた。
「女の人って恐《こわ》いなあ」
彼は顔をこわばらせた。
「蚊に喰《く》われたあとだらけの足を、人前で平気でボリボリ掻《か》いちゃったりしてさ。それに噂話が好きなんだろ。君も歳《とし》とったら、あんなになっちゃうのかなあ」
「そ、そんなことないわよ」
私は必死に否定した。自分だって将来ああなるかと思ったら、うんざりしてくる。
「そうかなあ。だってああいうおばさんたちだって、昔は処女の高校生だったんだぜ」
「…………」
私は少し不安になった。せっかく仲よくなれたのに、うるさいおばさん連中にひっかきまわされたくない。
(私たちが、万が一、別れたら、それはあいつらのせいだわ)
もしそんなことにでもなったら、私は生霊になって、一生「喪黒」や「出っ歯」に祟《たた》ってやる、と本気で思ったのだった。
第十二話 逆 襲
「お姉ちゃんは恐《こわ》い」
私と両親は、姉が何かしでかすたびに、居間に集まってそういった。三つ違いの姉は、ファッションと食べ歩きに一番興味がある、二十歳の短大生である。妹の私からみても、姉はそこそこの美人系の顔立ちをしている。ところがひとたび口を開いたとたん、彼女は周囲の人たちを驚愕《きようがく》させてしまう、毒の舌を持っているのだった。母の話によると、姉は小さいころから、思ったことは全部、口に出していたらしい。そのために、あのような顔立ちをしているにもかかわらず、特に男の子に怖れられていたのである。しかしそんな姉にも、高校生になって彼氏ができた。同じクラスのイイモリ君が、どういうわけだか姉のことを気に入り、そして今までずっとつき合っている。私も何度か会ったことがあるが、正直なところ、
「よく、こんな姉とつき合って、我慢できるな」
と思うばかりだった。
イイモリ君は、両親と私の間では別名、イイナリ君と呼ばれていた。つき合ってまだ間もないころ、学校からの帰り道、姉が彼を連れてきたことがあった。
「ただいま!」
と勢いよくドアを開けたので、一人かと思ったら、背後にイイナリ君が、ぬーっと立っていた。両手に鞄《かばん》を提げて、まるでお付きの者のようだった。
「まあ、すみませんねぇ」
母があわてて彼に声をかけると、姉は、
「いいの、いいの、ほっときゃ」
と冷たいことばをいい放ち、さっさと家の中に入ってしまった。
「ごめんなさいね。さあ、上がってちょうだい」
母がぺこぺこと頭を下げてイイナリ君にあやまると、彼は、
「はあ、おじゃまします」
と淡々といって、のそーっと家の中に入ってきた。一方、姉のほうは居間のソファにどっかと座り、目ざとく見つけた到来物のクッキーの缶をあけて、ボリボリとかじっていた。
「本当にごめんなさいね」
母はやたら恐縮して、まだぺこぺこしていたが、
「はあ、慣れてますから」
といわれて、ますます彼は体を縮め、小さくなっていた。姉はアーモンド入りクッキーを食べ散らかしながら、
「いーの、いーの、お母さん。『あんた、私がこんな重い鞄を持って歩いてるのに、よく平気でいられるね』っていったら、持ってくれたのよ。自発的行為なんだから、そんなにあやまるこたぁ、ないわ」
と早口でいった。感情があるのかないのか何の反応も示さないイイナリ君は、じっとテーブルの上のクッキーの缶を見つめていた。
「どうぞ、遠慮しないで食べて」
母が勧めると、また姉が横から鋭い口調で、
「アーモンドとチョコは食べちゃだめ。あたしの嫌いなジャムならいいわ」
と口をはさんだ。すると彼は黙って、ジャムが塗ってあるクッキーをつまみ、もぐもぐと食べ始めたのだった。
「ごめんなさいね、ホント、ごめんなさいね」
母はコメツキバッタのように、ぺこぺこあやまっていたが、イイナリ君は相変わらず、
「はあ、慣れてますから」
というだけであった。
彼が帰ったあと、姉は母にこってりと怒られた。「ボーイ・フレンドとはいえ、ああいう物のいい方は失礼ではないか」と叱《しか》っても、彼女は、
「そお。嫌だったら私から離れていくんじゃないの。いわれてもくっついてくるよ」
と知らん顔をしていた。
「恐い子ねぇ……。いったい誰に似たのかしら」
母のいうとおり、毒の舌を持った鬼の子である姉は、誰にも似ていなかった。父も母もやたらと体面を重んじるタイプなので、腹の中と口から出ることばが違っていることが往々にしてあった。ところが姉は口と腹の中が一本のラインでつながっているため、周囲をパニックに陥れてばかりいたのだ。
「リエはフランス人に生まれてくりゃ、よかったんだな」
どっから見ても、ひょっとこ顔の父はつぶやいた。
「どうしてこんな子になっちゃったのか……」
どっから見ても、おかめ顔の母はうなずいた。しかしそんな二人の心配をよそに、姉は、
「自分の気持ちとは裏腹のことがいえるっていうほうが、おかしいわよ」
とケロッとして、イイナリ君を従えて、いばって歩いていたのである。
高校を卒業しても、二人の仲は続いていた。よくあんな性格の女と、つき合っていられると不思議でならなかった。だが、そのたびに、
「男女のことは、当人同士にしかわからない」
という、人生相談によくありがちなことばが頭に浮かび、
「私も彼ができたらわかるかしら」
と首をかしげていたのだ。別々の大学に通っていても、姉はイイナリ君を家に連れてきた。少しは彼が主導権を握るようになったかと期待していたのだが、状況は高校生のときと全く変化がなく、いや、あのころよりも悪くなっているみたいだった。姉は都心にある短大に入ってからというもの、
「あららら」
と家族がびっくりするくらい、派手になった。制服を着て、無難な高校生向きヘア・スタイルだったから、口が悪くても、
「気が強いわね」
で済んだけど、全身キンキラキンの今では「タカビー」と呼ばれる範疇《はんちゆう》に属する女になったのである。
「そんな格好やめなさい」
体面を気にする母は、とてもこれから登校するとは思えない、お飾りだらけの姉の姿を見て、毎日、怒った。しかし姉は何をいわれても、
「いいじゃん。お母さんと私の服の好みは違うんだから。そんなことまで、いい年した娘に押しつけないでよ」
と反論し、屁《へ》とも思っていなかった。髪の毛をサビさせ、赤いマニキュアをし、風呂《ふろ》上がりにビールを飲むようになった。純日本的|風貌《ふうぼう》の父と母の嘆きは相当なものだった。テレビの画面に登場し、あまりお利口とは思えないことを口走るタイプの素人娘の典型になってしまったからだ。ドピンクの腹巻きが胸にずり上がったようなタンクトップに短パンをはき、サビさせた長い髪をかき上げている姿を見て、父は、
「家にミニ・クラブのホステスがいるようだ」
と悲しそうな顔をした。そして、
「こんな娘でも、幸せな結婚ができるんだろうか」
と真剣に悩んでいたのである。
一方、イイナリ君は高校時代の延長で、素朴な学校生活を送っているようだった。髪型も高校時代とそれほど変わらず、いつもポロシャツにジーンズ姿だった。そのポロシャツの色が会うたびに違うところが、唯一《ゆいいつ》、彼のおしゃれ心を反映しているような気がしたが、有名ブランド品ではなく、ダイエーかイトーヨーカドーのセールで買い集めた雰囲気であった。お飾りだらけの姉と一緒に歩いている彼は、まるで田舎《いなか》から出てきたての弟のようにみえた。しかし姉はそんな彼に、いいたい放題のことをいっている。彼の姿を見ると反射的にぺこぺこしてしまう母は、
「本当にこの子は反省しなくてねぇ」
と、あとをくっついて、あやまっていたが、姉はそんなことはおかまいなしで、ソファに座って雑誌のページをめくっていた。
「加勢大周っていい男よね」
ページから目を離さず、姉はうっとりといった。そばに座っているイイナリ君は黙っている。
「ねっ」
沈黙が流れた。
「ねっ!!」
だんだん大きくなる姉の声におどかされたかのように、彼は、
「ああ」
と相槌《あいづち》を打った。
「まだ、そんなこといってるの、ほほほ」
母はちらちらとイイナリ君の様子をうかがいながら、この場をうまくとりつくろおうとした。しかし次に姉が発したことばで、母と私はひっくり返りそうになった。
「あんたも加勢大周くらい、かっこよきゃね」
一瞬、棒立ちになった母の体からは「おろおろ」という文字が浮き出ているようだった。あまりにあせったせいか、口からことばが出ず、ただぺこぺことイイナリ君に頭を下げて、娘の言動を態度で詫《わ》びていた。私は、あんないい方をされて、イイナリ君が激怒し、家を出ていってしまうのではないかと心配した。しかし彼はおっとりと、
「どうしたら、加勢大周みたいになれるのかなあ」
などといっていた。そこでうまくあしらっておけばいいのに、姉は真剣な目つきで彼の全身を眺めた。
「もとが大違いだから、がんばったって、たかが知れてんだけどさ」
彼女はイイナリ君の髪の毛の中に、両手の十本の指を突っこみ、あっちに分けたりこっちに分けたり、髪の毛をかきむしった。
「これ、やめなさい」
母が注意しても、全く耳を貸さずに髪の毛を引っぱったあげく、
「あ……抜けちゃった……」
と自分の指にまとわりついた抜け毛を、手を大きく振って、床の上に落とした。
「この鼻も、もう少し高いといいのよ」
イイナリ君はむんずと鼻をつかまれ、ぐいぐいと引っぱられて、「むぎゅっ」と小さな声をもらした。そのあと両手でむちゃくちゃに彼の顔面を揉《も》みまくった。
「いい加減にしなさいよ」
母の声と姉が彼の顔面から手を離したのはほとんど同時だった。
「結局、どうやったって、無理なのよ」
イイナリ君は髪の毛を逆立て、顔面を真っ赤にして、ぼーっとソファに座ったままだった。
「ごめんなさいね」
母はまたぺこぺこ頭を下げながら、乱れた彼の頭を手ぐしでとかそうとした。
「はあ、慣れてますから……」
照れくさそうにイイナリ君はうつむいていた。
「ほーら、見てごらん」
姉は雑誌のグラビアで、何でもない白いTシャツにジーンズ姿で、にっこり笑っている加勢大周を彼に指し示した。
「Tシャツとジーンズだけで、こんなにかっこいいのよ。あんたが着てもダサイだけなのに。同じ男なのにどうして、こう違うのかしら。もうちょっと、ファッション・センスを磨いたほうがいいわよ。浪人生のほうが、もっといい格好してるよ」
我が姉とはいえ、私はむかっとした。
「お姉ちゃんだって、鈴木保奈美や牧瀬里穂と大違いじゃん」
「そりゃ、そうよ。だけど私、努力したもん」
姉は機関銃のように喋《しやべ》りはじめた。たしかに高校時代は地味だった。ファッションに興味はあったが、自分には似合わないと思っていた。しかし勇気を出して化粧をし、流行のヘア・スタイルにしてもらい、雑誌を参考に洋服を買うようになったら、自分もこういう格好が似合うのだと気がついた。それからは少しでも他人からよく見えるように、体中を磨きたて、こんなに美しくなったのだと堂々いい放ったのだ。
「あんただって、うれしいよね。私がこんなにきれいになって」
図々しくイイナリ君の顔をのぞきこんでいたが、彼はそっぽをむくどころか、
「そうだねぇ」
などとのんびりいっていたのが、ものすごく哀れであった。
母も実の娘ながら頭にきたのか、父が会社から帰ってきたとたん、「リエがこんなことをいった」と、いいつけた。母は素朴なイイナリ君を気に入っていたので、自分の好みの男の子のことを、傲慢《ごうまん》な娘が傷つけているのが許せなかったのだ。私も取りたててハンサムではないが、どこか憎めない彼を気に入っていた。おとなしいのをいいことにいいたい放題いっていると、いつかバチが当たるぞ、と私は心から思っていたのである。
「お前、わがままばかりいっていると、誰からも相手にされなくなるぞ」
父の横で母もうなずいていた。
「わがままをいったんじゃないわよ。どうしてあいつが加勢大周じゃないのかなあって、思っただけよ」
「バカか、お前は」
父もあきれかえっていた。
「あんないい人、今どきいませんよ。あれだけいいたいことをいわれて、怒らないなんて人間ができてるわ」
「違うの」
姉はせせら笑った。
「脳に通じてる怒りの線が切れてんの」
「…………」
父と母は何もいわなくなった。純日本風家屋に住む、純日本風の顔面を持った私たちの中で、日焼けして髪の毛をサビさせた姉は、明らかに異人種、異文化だった。
「お姉ちゃん、イイモリ君のどこがいいの」
風呂上がり、全身にボディローションを塗りたくっているときに聞いたことがあった。
「あいつは、すべてに耐える男なのよ。私がいいたいことをいっても、すごく打たれ強いの。ひとこといってビビられたりしたら、たまんないじゃん。いちいち逆らわれるのも頭にくるしさ。あいつはただ耐える人なの。そういうのが好きなのよ、きっと」
私はベッドに入って、どうしてイイナリ君が姉とつき合っているのかを、真剣に考えてみた。第一に考えられるのは「あんな女でも、いないよりマシ」である。毒舌傲慢攻撃さえかわしていたら、いちおう女という生物と歩いたり映画を観《み》ることができる。エッチもできる。体育会系のノリで「忍」の一字なのである。第二は「ああされるのが好き」である。他人から見てひどいことをいわれても、それがうれしくなっちゃう人も世間にはいるらしい。そうなると毒の舌を持った姉と彼は、この上もないベスト・カップルといえるのだ。嫌だったらさっさと逃げればいいんだから、イイナリ君は第二のタイプかもしれないのだった。
両親の嘆きをよそに、相変わらず姉はイイナリ君に暴言を吐き、山のような荷物を持たせたあげく、
「あんた、そこに置いて」
と邪険に彼を扱ったりした。服はあそこの店で買え。そのズボンにそのベルトは合わせるな。トランクス型の水着ははくな。誕生日には指輪を買え。たまには花くらいプレゼントしろ。とろろソバなんて、ダサイものは食うな。うちの居間で、よくもこれだけ相手にいうことがあるとビックリするくらい、イイナリ君に命じていた。しかしそれだけいわれても彼は、「うーん」としかいわない。私はこの人にはプライドというものがないのかと心配になった。自分の家であれだけのことをいうのだから、二人でいるときはあの何倍もの暴言を吐いているに違いない。
「あのー、うちの姉のどこがいいんですか」
私は胸の中にたまっていたものをスッキリさせようと、おそるおそるイイナリ君に聞いてみた。
「そうだな、ハッキリしてるところかな。すべてにおいて」
「でもハッキリしすぎてませんか」
「うん、でも慣れてるから」
いつも淡々としているイイナリ君なのだった。この話を母にすると、彼女は、
「そうかねえ、あれでもリエがいいのかねぇ」
と気を揉んでいた。そして将来のことにまで想像が及び、うちはイイナリ君が息子になってくれたら、こんなにうれしいことはないけれど、お姉ちゃんは絶対、むこうの両親には好かれない、といい出し、
「そんなことになる前に、心をいれかえるように、もう一度、あの子に意見してやらなきゃ」
と暗い顔をしていた。ふつう娘のほうの親は、彼氏ができると、自分の娘によからぬことが起きるのではないかと心配するものだが、うちの場合は、相手を傷つけているのではないかと、そればかり気にかけていたのだった。
どうしたもんかと、純日本風の顔面三人が姉とイイナリ君の仲を見守り続けていたある夜、
「うわわーん」
というすさまじい泣き声と足音が、私たちの耳をつんざいた。姉はそのまま部屋にこもってしまった。私たち三人はそーっと居間に集まり、
「どうしたんだ」「泣いていたみたい」「ヘタに近寄ると恐ろしいから、放っておこう」と、こそこそ小声で話し合い、五分後に解散した。壁に耳をあてて、隣の姉の部屋の様子をうかがっていると、ひっくひっくとしゃくりあげる声と、
「どうして、こんなことになるのよ」
という涙声が聞こえてきた。気にはなるけれど、きっと今、私が口をはさんだら、どんなとばっちりを受けるかわからない。私は気にはなりながらも、イアー・ウィスパーを耳の穴につっこみ、ベッドの中にもぐりこんだ。
翌日の朝、姉はいつものように、パジャマ姿で食卓の前に座っていた。
「おはよ……」
顔を見て驚いた。まるでおてもやんのように、両方のほっぺたが赤く腫《は》れていた。
「どうしたの?」
「ふん」
姉はトーストをほおばりながら、ふてくされていた。昨夜、イイナリ君と喧嘩《けんか》をしたら往復ビンタをくらわされたという。私は、なかなかあいつもやるじゃんか、と感心したが、姉は、あんな奴《やつ》とは二度と会わないと、息まいていた。
「女を殴るなんて、男として下の下の下よ」
両親と私はお互いに目くばせしながら、
(そんなこといえる立場じゃないよ)
と、意見の一致をみた。しかし喧嘩の理由が、イイナリ君に別の彼女がいたというのには驚いた。「ひどい」というよりも、「やっぱり」という気持ちのほうが強かった。姉にいいたい放題のことをいわれて、黙っている彼よりも、そっちのほうがずっとまとものような気がした。
「あいつ、とんだ食わせもんだったわ。『お前とつき合うのは本当に楽だった。いっていることをマジメに聞かないで、ふんふんって聞き流していればよかったんだから』っていうのよ。頭にきて女のことをなじったら、『四年分の恨みを晴らしてやる』っていわれて往復ビンタをくらわされたのよー」
姉はまた、わーんと泣いて、サビさせた髪の毛を食卓の上にバサッと広げたまま、つっ伏していた。
(あーあ)
私と母は横目で姉の姿を眺めながら、もそもそとトーストを食べていた。こんな場合、父親っつーもんは、どんな態度をとってるのかな、と様子をうかがったら、新聞で顔を隠しながら、
「ぷぷぷ」
と笑っていた。自分の娘が男に殴られたのに、どうしてこんな顔の下半分がゆるんでいるのか、と不思議だったが、きっと父親の立場ではなく、男の立場で、顔がゆるんだのだろう。
「ふん、あんな奴」
と強気でいた姉だったが、その日以来、イイナリ君からの電話は途絶えた。しばらくして、別の男性から電話がかかってくるようにはなったが、二、三か月すると、別の人に変わった。いちおう派手めにきめているからアタックしてくるのだが、つき合ってみると、あの毒舌に耐えられず、逃げ出すらしいのだ。
「どいつもこいつも、ヤワでやあねぇ」
反省ということばを知らない姉は、体中をぶりぶりいわせて相変わらずいばり散らしている。しかし相手にしてくれる特定の男性が未《いま》だ見つからないまま、毒舌はむなしい遠吠《とおぼ》えとなって、家の中に響いているのであった。
本作品は平成三年十二月に小社より刊行された単行本を文庫化した。
無印失恋物語《むじるししつれんものがたり》