群 ようこ
無印おまじない物語
目 次
第 一 話 義理の妹
第 二 話 愛の神社
第 三 話 ミカエル
第 四 話 魔性の女
第 五 話 ハッピー・ライフ
第 六 話 明るい未来
第 七 話 ジンクス
第 八 話 小 指
第 九 話 ちちんぷいぷい
第 十 話 面 接
第十一話 よせばいいのに
第十二話 有効期限
第一話 義理の妹
「あ、お姉様ですか。私です、マユミです」
受話器を取り上げて、まだ耳にあてる前から、声が聞こえてきた。
「もしもし」
「あ、あ、お姉様。どーも、どーも。マユミです」
「こんばんは」
「あのあの、すみません。お食事中でしたか」
「ええ、そうなの」
会社から帰ったばかりだったが、私は嘘《うそ》をついた。そういったって、彼女はこちらの都合などおかまいなしで、べらべらと軽く一時間は喋《しやべ》りまくるに決まっているからだ。
話の途中で電話を切りたくなって、「荷物が来たみたい」「今、料理をしているから」などといっても、彼女には通じない。
「あら、そうですか。どうぞ、どうぞ。待ってますから」
などと、受話器のむこうで待機している。するとこっちは嘘をついた手前、誰もいない玄関に出ていって、
「はい、ご苦労さま」
などといって、ドアを開け閉めし、まるで宅配便がきたかのようなふりを、しなければならなくなる。このまま、受話器をとるのはやめようかと思うが、そんなこともできない。いやいや受話器を取り上げると、彼女は、待ってましたとばかりに、またべらべらと喋りまくるのである。
「お食事中だったら、終わったころまたかけますけれど」
私はもう一度、彼女の声を聞くのが嫌なので、
「いいわよ、何なの」
と大げさにため息をつきながらいった。私がこんなことをしたって、彼女は何も感じないはずなのだ。
「昨日の晩もお電話したんですけど、いらっしゃいませんでしたね」
「残業だったのよ」
「で、金曜日なら、きっと早く帰っていらっしゃるだろうなと思って電話したんです。やっぱり私の思ったとおりでしたわ」
私はむっとした。彼女は二十四歳。弟の妻である。そして私は三十七歳で独身である。週末の夜にそこそこの歳の女が一人でいるというのは、あまり喜ばしいことではない。週末の夜は家にいないと思うのが、ふつうの神経である。それも私に彼がいないのを知っている仲のいい友だちが、そういうのならともかく、これでは彼女が、私に彼がいないと決めつけているということではないか。彼がいないのは真実であるが、他人に、彼がいるはずがないと思われているというのは、本当に頭にくる。
「あら、そう。思ったとおりでよかったわね」
「はい」
「…………」
どんなに、どんなことばを皮肉っぽくいっても、彼女には通じないのだ。
「お姉様、明日、うちにいらっしゃいませんか。タカシさんは休みをはさんで出張にいってるものですから、家にいないんです。さきほど、お義父《とう》さまとお義母《かあ》さまにお電話したんですけれど、ご旅行の予定がおありだとかで、だめだったんです。久しぶりですし、お話ししませんか」
両親からは旅行の話は聞いていないので、きっとうまいこといって断ったのだろう。
「あなたのご両親を呼んでさしあげたら」
「電話をしたんですけど、痛風とぎっくり腰で二人とも体調が悪いっていうんです」
掃除もしなきゃならないし、このごろ天気が悪かったので洗濯もしたい。あれやこれやと用事を考えて、彼女の誘いから逃れる手を考えたが、みんなこれまでに何度も使っていた。そして結局は、
「それでは、お待ちしております。楽しみにしていますわ」
ということになってしまった。
彼女は私の家族に嫌われていた。できれば彼女とはずーっと会わずに済ませたかった。しかし義理の関係になったら、無視することはできない。やだなあと思いながらも、つきあわなきゃならない。私は彼女に特別いじめられたわけでもなく、迷惑をかけられたわけでもない。それなのに彼女が好きになれなかった。いっそ、はらわたが煮えくりかえるようなことを、どかーんとやってくれたら、絶交状態も可能だが、ちびりちびりとこちらを不愉快にさせるような発言をする、彼女みたいなタイプは、つきあうのにいちばん困るタイプなのだ。
弟と彼女は三十一歳と二十歳のときに結婚した。弟は友だちからうらやましがられていたが、家族の評判はすこぶる悪かった。特に母は、
「こんなに私を待たせて、連れてきた相手があの人か」
とあきれかえった。まだ彼女と会う前、二十歳だという話を聞いて、私と両親は、
「淫行《いんこう》寸前ではないか」
と話した。
「まさかあの子は、何も知らない清純な娘さんをだまくらかしたんじゃないだろうねえ」
と母は気をもみ、父も、
「そんな若いお嬢さんが大丈夫だろうか」
と心配をしていた。ところが彼女に会ってみると、その心配はふっとんでいった。三十一歳といえば、おじさんに一歩足をつっこんだ年齢である。ところが彼女と並ぶと、その弟のほうが、よっぽど清純に見えた。「私はたくさん、たくさーん、遊んでおりました」という文字が、彼女の顔に浮き出ていた。初対面のときのことを思い出して、母は、
「だましたんじゃなくて、だまされた」
といまだに怒る。そして父は、
「情けないやつだ」
といってため息をつくのであった。
マユミさんは、すべてにそつがないタイプである。ことば遣いがとても丁寧であったが、それがいかにもとってつけたのがわかるしゃべり方で、「お父様、お母様、お姉様」と連発して、私たちを不愉快にさせた。笑うときも、
「ほほほほ」
といいながら口に手をやって、首をかしげたりする。いかにも、
「私って上品でしょ」
といいたげであった。顔立ちも、着ているものも華やかではあったが、よくよく見ると、背中に長い髪の抜け毛がたくさんへばりついていたり、かかとの革がはがれて、松ぼっくりみたいになっている靴を平気ではいていたりした。
「悪いけど、私、ああいうタイプはあまり好きじゃないわ」
気がついたことをあげつらっていくと、弟は目を丸くして、
「そんなところまで、気がつかないよ」
とびっくりしていた。
「いい歳して、何が気がつかないんです。ああいう人は外見はいいけど、何かにつけてだらしがないものなの。そういうことすら、わからないの」
「うーん」
弟は頭をかいていた。
「ま、お前の責任だからしょうがない」
父も不満そうであった。そしてそのときに、彼女が妊娠している事実が暴露され、母は、
「やられたっ!」
といって、悔しがったのだった。
弟をかわいがってきた母は、マユミさんは、貯金もそこそこにあって、人がいい弟に狙《ねら》いをつけてすり寄っていき、計画どおり妊娠して結婚を迫ったのだと、ぶりぶり怒っていた。孫ができるということよりも、弟がだまされたことのショックが大きかったらしく、
「結婚式になんか出ませんよ」
と、式の一週間前までいっていた。しかし彼女にそんな計画があったら、長男である弟に近づかないんじゃないだろうか。母は嫌がるだろうが、やはり弟は彼女が好きだったのだと思うのだ。
二人が結婚してから、何度か新居にいったが、部屋のなかはごみ箱のようだった。冷蔵庫のなかでは、野菜や買ってきたお惣菜《そうざい》が腐り、テイクアウトの空のお弁当箱が、台所の隅で山になっていた。夕食を出してくれたが、ずいぶん料理がうまい。どうもおかしいと思って台所を観察したら、近くの仕出し屋の包装紙がごみ箱に捨ててあった。ふつうの人ならば、
「こっちは作りましたけど、これはお店で買いました」
と正直にいうのだが、彼女はそんなことはひとこともいわず、まるで全部自分が作ったような顔をしてすましていた。それを知った両親はまた怒った。その後、女の子が生まれて、顔を見にいった。しかし、
「孫のミナと息子はかわいいが、あの人は嫌いだ」
とはっきりいいきっていたのであった。
朝、起きても気分は重い。
「どうして、はっきり断らなかったんだろうか」
自分自身に腹が立つばかりである。どうしてこんなにむかつくのかと思うと、弟が彼女と結婚したからだ。
「どうしてあのような人と、結婚をしようと思ったんだ」
その原因は子供である。どうして子供ができたのかというと、弟が彼女と親密に交際したからである。
「くくーっ」
想像するだにおぞましい。私は子供のときに垣間見《かいまみ》た、つくしみたいな弟のマル秘部分を思いだし、また、
「くくーっ」
とうめいた。いくら気乗りがしないからといって、手ぶらでいくわけにもいかない。姪《めい》のためにケーキを買って持っていくことにした。私がふだんケーキを買うところではなくて、見た目は派手なものを売っているが、味はワンランク下の店で買った。嫌だ嫌だとつぶやく私を乗せて、電車は弟と彼女の住むマンションへと運んでいったのである。
「まあ、お姉様。お待ちしておりましたわあ。さあ、どうぞ、どうぞ」
チャイムを鳴らすと、中から白塗り仮面が姿を現した。ウエーブのついた茶髪が揺れて、彼女の首から上は、どこかの国の部族が儀式に使う、お面みたいだった。
「お邪魔します」
そういって一歩玄関に入ると、そこには靴が散乱していた。子供の運動靴、大人の運動靴があるが、ほとんどが彼女のハイヒールだった。
「さあ、どうぞ、どうぞ」
彼女は廊下に散らばっている新聞紙や雑誌を、うさちゃんがついたスリッパで蹴散《けち》らしながら歩いていった。
「おばちゃま、いらっしゃいませ」
ミナちゃんが、深々と頭を下げた。
「んまー、よくご挨拶《あいさつ》できたこと」
マユミさんは、ね、ね、うちの子ってすごいでしょ、すごいでしょ、といわんばかりの笑みをたたえて、私のほうを見た。
「はい、こんにちは。これ、おみやげよ」
私が誉めなかったので、マユミさんは不満そうな顔をしたが、すぐ笑顔に戻り、
「まあ、気を遣っていただいて、申し訳ございません。お茶をいれてきますから、ちょっとお待ち下さい」
そういって彼女はひっこみ、私はミナちゃんと向かい合った。顔はお母さんそっくりで、顔立ちはかわいい。ふと見るとミナちゃんが、首に大きな透明の玉がつながったネックレスをしている。それはあまりに地味で、重そうで、子供には不釣合な品物だった。
「それ、どうしたの」
「これ?」
ミナちゃんは小さな手を首に持っていった。
「水晶かしら……」
そうつぶやいた私に、彼女は、
「うん。すいしょうなの。これをしていると、しあわせになれるんだって。おかあさまがくれたの」
「ふーん、お母様がねえ……」
「ほっほっほ。ミナちゃん、おばさまと何のお話をしていたの」
マユミさんが紅茶を持ってきた。買ってから一度も漂白剤につけたことがないらしい、茶渋がへばりついたカップに入れてある。
「どうしたの。こんな小さい子には、むかないんじゃない」
「ああ、ネックレスですか」
「そうよ。ほら、今、セーラームーンっていうのがはやってるんでしょ。まだそういうもののほうがかわいいんじゃないの」
「お姉様、水晶パワーってご存じじゃないのかしら」
「知ってるわよ。野球の選手が首からぶら下げてるんでしょ。あんなことでホームランがばんばん打てるんだったら、そんなに楽なことはないわよね」
「でも、お姉様」
マユミさんは真顔になった。
「本当にすごいパワーがあるんですよ」
「ふーん」
「私もつけているんですけど、これをつけてから体調がとてもよくなったし、悪いことも起きないんです」
彼女はそういって、ネックレスを私に見せた。
「ふーん」
「どうせなら、不幸よりしあわせなほうがいいと思いませんか」
「まあね。でも子供にまでさせる必要はないんじゃないの」
そういうとミナちゃんはとことこと歩いていき、小さな箱を持ってきた。
「おばちゃま、ほら、ミナちゃんは、こんなのももってるの」
中をのぞくと、そこにはネックレスと同じ球で作られたブレスレットと、紫の座布団の上にのった水晶玉があった。
「まあ……」
「ほほほ、これを持ってお教室にいくと、とてもいいお点がとれるんです」
「お教室って、何の」
「予備校です。有名幼稚園の」
「えっ、あなた、そんなところに通わせてるの」
私はテレビで若い母親が、幼い子供を有名校に入れようとして、東奔西走しているのを見て、ばかじゃなかろうかと思っていたのだが、そんなばかがこんな身近にいた。
「当然ですわ。ぼーっとしていたって、合格しないんです。そのお教室では合格できる方法を教えて下さるんですよ」
「へえ」
「どんなデザインの服が、面接のときに印象がいいとか、親の態度とか、みんな教えて下さるんです」
「へえ。でも、着る物が判断の一部になるなんて、そんな学校って変よ」
「でも受けるほうは必死なものですから」
「へえ」
「去年、お教室に通っているときに、いつも水晶を身につけて、合格した坊っちゃんがいらして、それからみなさんが真似するようになったんですよ」
「へえ」
私は「へえ」しか出てこなかった。
「水晶は体の汚れを浄化してくれて、不幸から身を守ってくれるんです。本当なんです」
マユミさんの目はらんらんと光っていた。
「ずいぶん、立派な玉だけど、高かったんじゃないの」
彼女は口ごもったが、しつこくしつこくたずねて白状させた。何と子供と自分のとで、四十万もしたという。
「えーっ、こんなもんに四十万!」
私はあきれて、目の前のケーキに手をつけるのも忘れてひっくり返った。
「でも、しあわせになれるんです」
マユミさんは何度も繰り返した。
「そんなこと、わかりゃしないわよ。本人次第じゃないの」
「その本人の隠れたパワーを出してくれるのが、水晶なんです」
まるで水晶のセールスマンみたいに、彼女は水晶パワーについて力説した。
「これをしているとね、しあわせになるんだよ、おばちゃま」
彼女の水晶信奉は、ミナちゃんに見事に受け継がれていた。
「本当にそう思うの」
「うん。いつも、おきょうしつのせんせいに、ほめられるの」
「ほっほっほ。この子、とても成績がいいんですの」
どんなにこの親子が水晶グッズにのめりこんでいたとしても、私には関係ないが、マユミさんは専業主婦である。水晶グッズを買うお金は弟の給料から捻出《ねんしゆつ》しているはずである。こんな無駄遣いを、弟は知っているのだろうか。
「タカシさんは何もいいませんわ。ミナちゃんが合格するんだったら、何でもしてあげるっていっていますけど」
(くくーっ)
もうちょっと弟はまっとうな考えを持っていると思っていたが、いまやすべて、マユミさんペースで事はすすめられていた。
「これを買ったことも知っているのね」
「うん。おとうさまにみせたらね、『ああ、ミナちゃん、きれいだねえ』っていってた」
私はがっくりと首をうなだれるしかなかった。
そんな私をよそに、水晶玉を首に巻きつけた親子は、次のお教室で勉強する内容について、ああだこうだと話し合っていた。そして話がとぎれたとたん、ミナちゃんがいい放った。
「おかあさま。このケーキ、まずい」
「あーら、ミナちゃん。ふだんいただいているのと違うのだから、そんなこといっちゃだめよ」
(くくーっ)
侮《あなど》れないガキである。おまけにマユミさんも「まずいわね」とつぶやいて、私の目の前で、居間にあるごみ箱に、食べ残しのケーキを捨てた。私は意地になって、ぱくぱくと自分の分をたいらげてやった。
一時間後、早い夕食がはじまった。まるでケーキを食べそこねたから、腹が減ってしょうがないといいたげな、五時の夕食であった。テーブルにはテイクアウトの寿司と、「松茸《まつたけ》の味お吸い物」が並べられた。
「さあさあ、どうぞ召し上がって下さい。何もありませんけれど」
本当に何もなかった。特別、もてなされなくても、楽しく過ごせる人がいる。しかし彼女はそういうタイプではない。
義理の妹として、彼女は点数をかせいでおきたいのだろうが、私は貴重な休みの日にのこのこやってきたことを深く後悔した。
「それじゃ、そろそろ失礼するわ」
時計は六時を少しまわっていた。
「もっとゆっくりして下さればいいのに」
マユミさんはとってつけたようなひきとめ方をした。私が黙って玄関に歩いていくと、彼女は小走りで追いかけてきて、
「あのー、これ」
といって、少しふくらんだ、小さな赤い布を差し出した。
「縁結びのお守りなんです。お姉様もそろそろ、いい方と巡りあわれたほうがいいと思って」
「あっそ」
私は赤い布袋を受けとって、
「じゃあ、さよなら」
と簡単に挨拶して外に出た。
「ふん、何が縁結びのお守りだ」
赤い袋の中を見てみると、小さな水晶玉が、良縁と書いてある紙と一緒に入っていた。
「くそー、また水晶か」
私の体のどこの汚れを浄化すれば、結婚できるというのだ。
「ふざけんじゃないわよ」
私は学生時代、ハンドボールでならした右腕にものをいわせて、その小さな水晶玉を、道路わきの臭い川めがけて投げ込んでやった。
第二話 愛の神社
私は母と、母の姉である伯母《おば》と、三人で住んでいる。男手のない女だけの暮らしである。うちの家系の女たちは代々、男運がないらしい。きょうだいの中でも男は生まれてすぐに亡くなってしまうし、結婚した相手の男性も、どういうわけだか、ころっと亡くなるのだ。
父は私が一歳のときに亡くなった。
「あの人はね、私の持ってる財産がめあてだったのよ。何かといえばすぐ、『アパートを売って、金を作れ』って、殴るんだからねえ。でも、よかった。そんなことをしなくて。暴力に負けてたら、今、私もあんたも、こうやってのんびり暮らせないものねえ」
そう母がしみじみと話してくれたことがある。
母と伯母は、私の祖父、祖母が亡くなったあと、ささやかな土地とアパートを相続した。母が二十三歳、伯母が二十五歳のときだった。伯母は結婚して五年たっていたが、子供ができないこともあって、嫁ぎ先ともめていた。母はまだ未婚だったが、財産をひきついだとたんに、男がわらわらと寄ってきた。伯母は、
「寄ってくる男には、気をつけろ」
と注意したのに、どちらかというと、のんびり、おっとりしている母は、その中でいちばん優しくしてくれた男と養子縁組をすることにした。すでに親戚《しんせき》は死に絶えていたため、血のつながった親族は、伯母だけという淋《さび》しさであった。ところが、いざ結婚したら、男は豹変《ひようへん》した。それまでは、ちょっとでも咳《せき》が出たりすると、
「大丈夫? 風邪をひいたのかなあ」
といって、背広を着せかけてくれたりした。しかし、ひとつ屋根の下に住むようになってからは、咳をすると、
「うるせえな」
と怒る。アパートの家賃収入をあてにして、会社をやめ、毎日、酒を飲んでぶらぶらしているうちに、いくら働いてくれといっても働かず、家の中でごろごろしている。少しでも母が文句をいうと、ぼこぼこに殴られたという話であった。
「あのときはすごかったよ。顔はお岩さんみたいだったもの」
伯母はそういうが、母の顔は殴られていなくても、だいぶくずれている。それがお岩さんみたいになっていたなんて、どんなにすさまじかったか、想像すらできないのだ。
私が生まれて、少しはまともになるかと思いきや、赤ん坊の泣き声に刺激されて、ますます暴力をふるうようになった。母は私をかばいながら、もう、こんな男のところから逃げ出そうと思っていた矢先、父は酔っぱらって外に出ていって、橋から下の川に落ちた。子供の膝《ひざ》くらいの、たいした深さじゃなかったのだが、泥酔していたこともあって、そのまま、あの世にいってしまったのだった。
「こういっちゃ悪いけど、あのときは本当にホッとしたよね」
伯母と母はそういって、うなずいた。母が逃げなくても、むこうがいなくなってくれたのである。それから二年たって、伯母も仲の悪い嫁ぎ先から出戻ってきて、母と私の住んでいる家に同居した。それから二十四年間、女三人は、ずーっと一緒に暮らしてきたのである。途中、アパートをマンションに建て替え、家賃の倍増計画も順調に運んだ。こういうことを率先《そつせん》してやるのは、伯母だった。
「物事には、ここぞ、とやらなきゃならないときがあるのよ。あんたは、ぼーっとしてるからだめなのよ」
彼女が母にいっても、母は、
「私はよくわかんないのよ。大きなことをして失敗すると困るし」
とおっとりと話していた。伯母はマンション全体の大きな部分を、母はマンション前の道路を掃除したり、玄関の花壇の花を植え替えたり、それぞれの性格に合った仕事をしていたのである。
そんな二人の一番の関心事は、私の結婚だった。母一人、子一人でも、結婚問題は重要なのに、うちの場合は伯母までくっついている。こうるさい母が二人いるのも同様なのだ。母は、
「自分が男で失敗した分、この子には幸せになってほしい」
と願い、伯母は伯母で、
「あんな、男を見る目がない妹にまかせていたら、あの子だって男で失敗する可能性がある。ここでしっかりしている私が、チェックしないとダメだわ」
と考えているようだった。母が一人だけでも、話がかみ合わないことが多いのに、そこに伯母まで口をはさむものだから、「結婚」ということばを口にしたとたん、家の中は大騒ぎになった。伯母は伯母で、
「パイロットとか、商社マンとか、そういう人がいいわ。夢があって、いいじゃない」
といった。かつて結婚していた相手が商家の長男だったので、とにかく家にいない亭主がいいと勧めるのだ。一方、母が、
「お酒も煙草もギャンブルもやらず、とにかくまじめな人がいいわ」
と口をはさむと、伯母は、
「ばかねえ。そういう人は女グセが悪いのよ」
とあきれかえった。
「えっ? そうなの」
「そうよ。男の人はみんなどれかにあてはまるものなのよ」
「えっ……」
「とにかくね、条件はよければよいほどいいわけ。よかったわねえ、私がいて。この人のいうことを聞いてたら、ミサコちゃんもこの人の二の舞をふむところだったわよ」
結婚問題に関しては、伯母が主導権を握っていた。私の会社の同僚とは結婚するなと伯母はいった。
「あんな中小企業に勤めている男は、やめときなさい。お金で苦労するだけだから」
彼女は、お嬢さまの結婚パターンを私にさせたいようだった。信用ある人の紹介で、社会的地位のある男性とお見合いをしてゴールインする。しかし、近所の人が持ってくる話は、どれもこれも伯母の神経を逆撫《さかな》でするものばかりであった。冷たい応対をする伯母にむかって、
「片親なんだし、そんなぜいたくをいってもねえ……」
といったおばさんがいて、喧嘩《けんか》になったこともある。
「ばかにしないでよ。私たちは男に苦労させられたのよ。悪いことなんかしてないわ」
近所のおばさん連中をみかえしてやりたいという気持ちも加わり、伯母のターボは全開になった。そんな伯母を横目で見ながら、母は、
「あんたが平凡に暮らせれば、それでいいよ」
とため息をつく。そうすると伯母は、大声でいい放つ。
「何いってんの。そんなのんびりしたことをいってるから、この子が結婚できないんじゃないの」
伯母と母。二人の女の結婚の期待が、私の両肩に重くのしかかっているのだった。
私たちは秋の祭日に、旅行に行くことになった。本当は二人で行かそうと思ったのに、
「たまには三人で行こうよ。ねーねー」
と伯母に誘われて、ついていくハメになったのだ。だいたいこの二人につき合わされると、私は召使役をさせられる。「お茶を買ってこい」「お腹がすいた」「足が痛くなったから、休憩できるところを捜してこい」「荷物を持って」。嫌な予感がしたが、やっぱりそのとおりだった。伯母と母の好きな神社やお寺を見てまわる。全然、私には興味がないものばかりである。二人は、
「んまあ、きれいなお顔の仏さまだわねえ」
と手を合わせているのだが、私にはみんな同じ顔にみえて仕方がない。いくつも神仏関係の建物を見物したあと、
「あー、疲れた」
といいながら、茶店《ちやみせ》でみたらし団子を食べるのが、彼女たちのパターンなのだった。疲れたというから、これで帰るのかな、と思うと、
「よし、もうひとがんばり」
と脚をパンッと叩《たた》いてまた歩き出す。そのあとを、私は二人の買ったみやげ物を手に、ぼーっと、くっついて歩くしかないのである。
「次はどこに行くの」
うんざりしてきいた私に、先頭を歩いていた伯母は、
「いいから、ついてくりゃわかるの」
と前をむいたまま、いい放った。
(全くもう、わがままなおばさんなんだから)
私はふてくされながら、歩いていた。
「あっ、ここだ、ここだ」
大きな声を上げて、伯母は小走りになった。これまで回った神仏関係の場所は、見渡す限り、ジジババばかりだったのだが、ここでは若い人も多い。女性同士のグループもいる。車で乗りつけてくる人もいる。ふと横をみると、そこには、
「あなたの良縁をお約束する、愛の神社」
と大きな垂れ幕が下がっていた。
「まあ、結構、たくさんの人がいるわね。ほら、もたもたしてないで、めぼしい男の人がいたら、教えなさいよ!」
伯母はそういいながら、私の背後にまわり、ぐいぐいと背中を押した、急にそんなことをいわれたって、
「あれがいい」
といえるわけないではないか。女の子同士できている人たちは、きゃっきゃとはしゃいで、なんだか楽しそうだった。しかし、両親とおぼしき年配者と来ている人たちの顔に、笑いはない。ぐっと口を真一文字に結び、
「これが最後のチャーンス!!」
という気合いが体をつつんでいた。口はキッと結んでいるものの、目つきだけは落ち着かない。特に男性は、女性とすれ違うたびに、頭のてっぺんから足の先まで、なめるように視線を上下させたりして、落ち着きがなかった。
「やっぱり、有名なのねえ。なんでも日本全国から人が来るらしいのよ」
伯母はそういいながら、みやげ物売り場の良縁グッズを物色していた。女の子が群がって何やら買っている。
「ほら、このお守りだってかわいいじゃないの。買ってあげるわよ。まあ、このお人形も愛敬《あいきよう》があるねえ」
お守りは真っ赤な布でできた袋の真ん中に、「愛」と染めぬいたピンクのハートがついている。人形は高さ二センチくらいで、和服の花婿、花嫁がワンセットになっていた。
「いらない」
「そんなこといわないで、買ってもらいなさいよ」
母は私のセーターの裾《すそ》をひっぱったが、私は少し意地になって、もう一度、「いらない」と小声でいった。
「まあ、そうなの」
伯母は残念そうに、つまみ上げたお守りと人形を元に戻した。
「ああいうものをバカにするんじゃないよ。ご利益があることもあるんだから」
伯母は真顔《まがお》で私にささやいた。みやげ物売り場の隣には絵馬が房状になってぶら下がっていた。「ステキな男性とめぐり会えますように」「神様、四十八歳の男ですが、よろしくお願いします」「大好きなマーくんと結婚できて、かわいいBabyができますようにbyエリコ」。そんな絵馬を見れば見るほど、私の結婚願望は薄れていくような気がした。
「ほらほら、見てごらん。あんなに真剣におがんでいる人がいるよ」
伯母が私の脇腹をつついた。白髪頭の両親らしき人と、青いスーツを着た男性が、何度も何度も手を合わせ、おじぎをしていた。そのおじぎの仕方も、まるで木で作られた人形みたいに、カクッカクッとして妙な雰囲気をかもしだしていた。
「ずいぶん、せっぱつまっているみたいねえ」
伯母と母はうれしそうな顔をして、松の木の陰から、三人の様子をうかがっていた。三人は各自、ぶつぶついったり、頭を下げたり、いつまでたっても立ち去る気配はない。女の子同士で来ている子たちは、彼らの姿を見て、くすくす笑っていた。
十分ほどして彼らはやっとご神体をおがむのをやめ、そばにある「良縁の岩」をいつまでもなでさすり、「良縁の水」もひしゃくに汲《く》んで、がぶがぶと飲んだ。彼らはお互いに、「よしっ」というように目くばせして、私たちのほうにむかって歩いてきた。
「あれじゃあ、ねぇ……」
伯母は母に耳打ちして、クスクス笑った。
その男性と私の目が合った。彼の顔は青白く、アゴがとがっていて、まるでカマキリが黒ぶちの眼鏡をかけたみたいだった。髪の毛はきちっと七三に分けているものの、つむじのあたりの毛は、ぴんぴんとはねていた。ネクタイで首を締めつけすぎているのか、ワイシャツの衿《えり》の先までが、ぴんっとそっくりかえっている。それでも、どこか人がよさそうだと感じる部分があるならまだしも、彼の体からは、ひゅるるーという冷たい風が吹いているような気がするのだ。彼はぐっと私の目をのぞきこんだ。びっくりした私はあわてて目をそらし、伯母と母のそばに寄っていって、ふんふんと適当に話に相槌《あいづち》を打つふりをしていた。
伯母と母は、その男性のことをクソミソにけなした。着ている服がやぼったい。頭が悪そう。お金に縁がなさそう。友だちもいそうにない。お母さんは丈夫で気が強そうだから、嫁さんは苦労する。ああいうのに限って、女グセが悪い。人にいえないような性癖がありそうだ。などなど、よくもそんなに人の息子《むすこ》のことがいえるとあきれるくらい、楽しそうに喋《しやべ》っていた。
「あんな人は、いくらこの神社に来たってだめ。自分を変えなきゃ」
伯母は人の悪口をいうときは、生き生きとしていた。特に二度と会うことがない人の場合は、なおさらだった。
「ほら、ほら」
伯母はうしろをふり返って笑った。その男は、私がいらないといった赤いお守り袋と、「愛の国行き」と書かれたピンクのクッションまで買い、うれしいのか薄笑いを浮かべていた。
「こんなのもあるわよ」
彼のお母さんが、ピンクのハートのついたライターや、靴下や、Tシャツを彼の前に並べると、彼はうなずいていた。するとお母さんが財布を出してお金を払い、彼は「愛の神社」とでかでかと赤い字で書かれたピンク色の袋を恥ずかしげもなくぶら下げ、落ち着かない目つきで、境内をきょろきょろしていたのである。
「苦節十年っていう感じね」
母が小声でいった。
「すごいマザコンで、全部、お母さんがとりしきってるのよ。見てごらんなさいよ、あのお父さん。毛も薄いけど影も薄いわ。尻の下に敷かれてるのが目に見えるようだわ」
気楽な独り者の二人は、格好の話の種をみつけて、はしゃいでいた。当の三人は絵馬を買い、頭をつき合わせて、絵馬に何事か書きこみ、大事そうに木にくくりつけて、またおがんでいた。
「何て書いたのかしら」
伯母は三人がその場を立ち去ったのを見て、絵馬にかけ寄り、私と母に手招きした。そこに書いてあったのは、彼の経歴と連絡先だった。
「まあ、頭が悪そうに見えたけど、国立大学出身なんだわ。やっぱり、一人息子よねえ。そうだと思った」
伯母はバッグの中から老眼鏡をとり出し、熱心に読んでいた。
「あら、ねえねえ、あの人、自分のこと、『眼鏡をかけた石田純一といわれます』なんて、書いてるわよ。写真つきじゃないと思って、いいたいこといってるねえ」
ほとんどサギであった。
境内にはますます人がふえていた。男性は両親と一緒に来ている人ばかりで、みんな、一刻の猶予もないという表情であった。一方、女の子たちは天真|爛漫《らんまん》で、「良縁の岩」にまたがって、かわりばんこに写真を撮ったり、買ったおみやげを手に、仲よく並んで記念写真を撮ったりしていた。そしてそんな彼女たちを、男たちは何ともいえない目で観察していた。ひよこちゃんが遊んでいるところを、蛇がねらっているという感じだったのである。
「ねえ、帰ろうよ」
私はこんなところにいるのは嫌だった。
「わかった、わかった。帰る前にさあ、せっかく来たんだから、おまいりするだけでもしていこうよ」
「そうよ、おまいりくらい、しなきゃ」
おばさん二人は、私の手を引っぱって、さい銭箱の前につれていった。どうしておばさんたちというのは、若いころはきっとそうじゃなかったと思うのに、あんなに寺や神社に行きたがるのだろう。私は柏手《かしわで》を打ってぺこりと頭を下げれば済むのだと我慢して、二人にいわれるまま、おまいりをした。母は千円もおさい銭をあげた。
「良縁がさずかりますように」
二人のおばさんは声を揃《そろ》えた。本当にトホホである。きっと、私たちの姿を見た若い女の子は、
「まあ、あの人、結婚できなくて困ってるんだわ」
と思うかもしれない。
(あー、もう、やだ、やだ)
私はくるっと向きを変え、ずんずんと出口にむかって歩いていった。
「これ、待ちなさい」
おばさん二人はあわててあとを追いかけてきた。
「もうちょっとゆっくり、おまいりしなさいよ。せっかちねえ」
私は無言で歩いた。神社の外に一歩出て、ホッとしたとたん、私は目の前の光景を見て立ちすくんだ。「あなたの良縁をお約束する、愛の神社」の垂れ幕を背に、ひゅるるーという冷たい風が吹いてくるあの男と両親が、直立不動で立っていたからだ。
(変な人)
通りすぎようとしたとき、
「大変失礼でごじゃいますが!」
と大きな声がした。追いついた伯母と母もギクッとしてふり返った。
「私、オオヤマケイタロウと申します。これは家内、そしてこれが息子のカズオでごじゃいます」
天気予報の福井さんとかいうおじさんに、話し方も態度もそっくりだった。
「私ども、息子の良縁を求めてやってまいりました。偶然といいますか、お宅様も同じ時におまいりになられ、えー、あのー、息子がぜひ、お嬢さまとお話ししたいと申すものでごじゃいますもので……」
「はあ? 私ですか?」
三人はこっくりとうなずいた。
「あら、あの、あら、あら、その」
伯母と母は、路上でただうろたえるだけだった。
「よろしくお願いします」
ひゅるるー男はニタッと笑った。上下の前歯が金歯になっていて、おまけに歯に青のりがへばりついていた。
「いえ、結構です。失礼します」
私はそういい捨てて走った。
「娘もああいってますのでねえ、申し訳ありませんねぇ」
伯母と母もぺこぺこ頭を下げながら、走って逃げようとした。
「ちょ、ちょっと待ってくだしゃい」
お父さんとひゅるるー男があわてて追いかけてきた。私たち三人は、後ろをふり返らず、ただ一目散に走った。そのとき、ぶおおーっという排気音が聞こえた。何とあの三人は、車に乗って私たちを追いかけてくるではないか。
「おばさんが、こんなとこに来るから、とんでもないことになるんじゃないよ!」
私は走りながら伯母をなじった。
「お願いします。ちょっとお話ししたいんです」
ひゅるるー男はウインドーから青白い顔を出して、何度も何度もくりかえした。私たち三人は走り疲れて、道ばたの木にしがみつきながら、一部の人だけにご利益のある「愛の神社」に来たことを、心底、後悔したのだった。
第三話 ミカエル
高校に入学したとき、私がまっさきにチェックしたのは、かっこいい男の子がいるかどうかであったが、私の母は合格が決まったとき、
「これで三年前、九年前の仇《あだ》がとれた」
と泣いていた。
私は幼稚園のときに、近所で天才少女といわれていた。母がつきっきりで英語のテープを聞かせたり、漢字の練習帳を毎日やらせるものだから、お勉強ということではなく、遊びのつもりで英語を喋《しやべ》ったりしていた。それで鼻が高くなっていたのが、母であった。彼女はいつもボールペンと紙を持ち歩いていて、近所の人がいると、
「ほーら、ミサちゃん。漢字でうちの住所を書いてごらんなさい」
と私に住所を書かせた。そしてそのあと必ず、百人一首の暗唱と、英語で「ロンドン橋」を歌わせる。みんなが目を丸くすると、
「ほっほっほ」
と満足そうに口に手をあてて笑うのだった。
「こんなに頭がいいんだから、小学校はあそこを受けるんでしょ」
あるおばさんに「あそこ」といわれた母の目が、キラリと光ったのを私は今でも覚えている。そして私が何が何だかわからないうちに、彼女は、
「ええ、もちろん」
ときっぱり答えていたのだった。あそこというのは、私の住んでいた地域では、名門といわれていたT学園のことである。小学校から高校までの私立で、全国の偏差値の高い大学に、大量の合格者を送りこんでいて、他県からも入学してくる子が多かった。母はT学園にひとり娘の私を入学させるのを、人生の第一目標としていた。妙な塾みたいな所に連れていかれたり、暗い家庭教師が家に来たりするうちに、私はT学園の小学校を受験しにいった。鼻息の荒い母は、私の手を引きながらいった。
「わかった? ちゃんとやれば、合格するんだからねっ。いつものとおりにやるのよ!」
父は、
「気をつけていっておいで」
と玄関先でいっただけだった。私はぼーっとしたまま会場にいったのだが、だんだんお腹が痛くなり、しまいには下痢ぴー状態になって試験どころではなくなり、おもらししちゃいけないということだけで、頭の中がいっぱいになった。もちろん落ちた。近所の人々にあれだけ自慢しまくったのに、結局は落ちてしまったものだから、母は、
「恥ずかしくって、もう外を歩けないわ!」
とわめいた。父に、
「いいかげんにしろ」
とたしなめられていたが、彼女の機嫌は何カ月も直らなかった。
彼女の次の目標は同じT学園の中学合格だった。小学生のときも天才といわれた私は、公立小学校の担任にも、大丈夫でしょうといわれたのだが、また落ちた。
「くくーっ」
学校で一、二番を争っている私が、なぜ合格できないのかと、母は悔しがっていた。公立の中学に通っている間、家庭教師をつけられ、私は母に、「目ざせT学園高校」と、しつこくしつこくいわれた。
「成績がいいのに、どうしてダメなんだろう」
母は首をひねっていたが、私にはわかっていた。試験会場にいくと、かーっと頭に血がのぼるか、そうじゃなければ突然、下痢ぴー状態になる。
「そんなことで、今まで落ちていたなんて……」
母は絶句し、高校受験のときは、お腹の調子は悪くないのに下痢どめをたくさん飲まされ、便秘になったくらいであった。
下痢どめのおかげかどうかわからないが、私はやっとこさ、T学園高校に入学した。母は苦節九年の緊張がとけ、三日間、寝込んでしまったが、元気になると、
「うちの子、T学園に合格したんですの」
と近所に吹聴してまわっていた。
しかし私はうれしくなかった。成績のいい子ばかりが集まる学校で、私の成績はトップクラスから中の下へと見事に落っこちたからである。ところが母は、
「どんなに成績が悪くたって、T学園の生徒には間違いない」
と気にもとめていないようで、父のほうが、
「大丈夫か」
と心配してくれていた。私としては、そんなことはほとんどどうでもよかった。高校生になったんだから、男の子と楽しく遊んで、受験なんかのことは考えたくない。だから、入学式のときに、あっちこっちをきょろきょろして、かっこいい男の子を物色していたのも、当然の成り行きだったのだ。
同じクラスになった、チハル、ミドリ、タエコの三人も、私と同じように、「かつて天才、今、アホ」のタイプだった。テストが返ってくるたびに、私たち四人はこそこそと教室の後ろの隅に集まり、テストを見せあった。栄光の百点、九十五点、といった数字はどこにもなく、
「これは五十点満点かしら」
といいたくなるような数字が、私たちのテストにこびりついていた。
「ねー、もしかしたら私たち、お金をつんで入ったのかなあ」
チハルが暗い顔をしていった。
「そんなことないんじゃないの。この学校は裏口はないって評判だよ」
「でもさあ、こういっちゃ何だけど、私、中学のときはクラスで一番だったんだよ」
みんなはそう、ささやかに嘆き合った。タエコは、38点の3を8に書き直せないか必死になっていたが、
「やっぱし、だめか……」
とがっくりと肩を落としていた。
「しょうがないじゃん。私たちよりも、もっと頭のいい人がたくさんいたってことなんだからさ」
私がそういうと、みんなはうなずいた。クラスで成績のいい子たちは明るく、これからの人生には、曇りもかげりもない、といった様子だった。なかには私たちと同じように、成績が悪くなってだんだん顔色が悪くなっていく子もいたが、傍《はた》で見ていて何だかみっともなかった。
「私たちは、もう、今までの私たちではないのよ」
ミドリはいった。
「そうねえ……」
チハルは暗い顔をして、少し残念そうだったが、私が、
「楽しいことを見つけりゃいいのよ。ねっ、そうよ。勉強だけが人生じゃないわ」
「そうよ、そうだよねーっ」
タエコもにこにこした。
「そうよ、ねーっ」
私たち四人は、これからT学園でいい成績をとるといった、無謀な夢は捨て、毎日を楽しく過ごすことにしたのであった。
私にとって楽しい対象は、男の子であった。成績のいい子ばかりが集まるので、うちの学校の男子学生の美貌《びぼう》度は、期待できないんじゃないかと思っていたのだが、それほどひどくなかった。なかには、でかい顔面の中に黒ぶち眼鏡が埋まり、子供が二、三人いるかのようにみえる、とっつぁんみたいな男の子も、たしかにいた。比率でいうと、ふつうが五十パーセント、とっつぁんが三十パーセント、そして、
「おっ、これは」
といいたくなるのが二十パーセントの割合で棲息《せいそく》していたのである。入学式のときにチェックしておいた男の子は、隣のクラスにいた。名前はヤマモトくんという。彼の顔を見つけるなり、私の目は彼の顔面に釘《くぎ》づけになり、かーっと頭に血がのぼった。
「いや〜ん」
と思わずつぶやいて、腰をくねくねしたくなるくらいのハンサムであった。いちおうT学園に入学を許可されたのだから、頭脳だって悪くないはずだ。そのうえ背は、どう低く見積もっても一七三センチは下らず、いつも清潔な雰囲気が漂っていた。彼とすれ違ったとき、男性化粧品かコロンか、さわやかな香りがした。
「いや〜ん」
私はしばらく廊下の隅で、ごろごろとのどを鳴らしていたのだった。
ところが、女の子の目をひく男の子というものは一致するらしく、私がうっとりと彼を眺めていて、ふと気がつくと、同じようにいや〜ん状態になっていた女の子がたくさんいた。どの子も彼とは違うクラスで、彼と気軽に話すことができる同じクラスの女の子を苦苦しく、かつうらやましそうな目で見ていた。
「ああ、あんなにライバルがいるなんて」
入学式のときから目をつけていたのに、と私が訴えると、タエコが、
「みんなそういってるよ、きっと」
という。
「えーっ、ほんと?」
「そうに決まってるよ。あんなに目立ってるんだもの」
「だって他にもいるじゃない」
「でも、彼がいちばんよね」
チハルも目をうるませた。
「えっ? あなたも?」
私がびっくりして声をあげると、何とタエコもミドリも、入学式のときから彼に目をつけていた、と白状した。
「えーっ、ひどーい。私がいちばん最初よ!」
思わずわめくと、他の三人は冷静に、
「だって、私も入学式のときから目をつけてたんだもーん」
といった。この学校に入って、ほとんど勉強に関してはアホ同然になってしまった私に残された望みは、かっこいい男の子とつき合うことしかなかった。それすらも、今、あやうくなっている。
「お願い、協力して……」
私は三人に手を合わせて拝んだ。
「だーめ!!」
「ねー、ゆずって。ねっねっ。あなたたちには他にいい人、みつけてあげるから」
「やーだ!!」
「他にいい人がみつけられるんだったら、ミサがみつけりゃいいのよ」
タエコがそういうと、チハルとミドリが、
「そーだ、そーだ」
といって一歩も譲らない。
「やだー。ヤマモトくんって、福山雅治みたいで本当に素敵なんだもーん」
私がいうと、チハルがいった。
「違うよお、西村和彦だよ」
「えーっ、いしだ壱成にそっくりなのに」
そういって怒ったのはミドリで、タエコは、
「木村拓哉くんよー」
とわめいた。一人の男の子を見ても、これだけ印象が異なるのかと少し驚いたが、とにかくヤマモトくんがハンサムでかっこいいことだけは間違いないのだ。
「はーっ」
私たちは顔を見合わせて、ため息をついた。有名なT学園高校の四人の落ちこぼれ。仲のいい友だちができたと思ったら、憧《あこが》れている男の子が同じ。私は少しでもライバルを減らそうと、
「チハル、あんた、この間、仲よく話してたじゃない。人のよさそうな、ほら、スギタくん。ミドリも隣の席のオオタくんと、いい感じだし。タエコには先輩がちょっとすり寄ってるし」
と思いつくままに、男の子を割りふろうとしたが、みんなはムッとしていた。
「わかった。これからみんな同じスタートラインに立ったことにしよう。いい? でも誰が彼に選ばれても、恨んじゃだめだよ」
私がそういうと、三人はこっくりとうなずいた。そしてきっと口を結び、鼻息が荒くなっていた。
(ヤマモトくん。勝つのは私よね)
私の頭の中で、にっこりと白い歯をみせて笑っている彼にむかって、私は力強く念を送ったのだった。
ヤマモトくんの周囲には、いつも女の子がわんわんと、ハエのようにたかっていた。女の子が多い部に入らなくてもいいのに、よりによって彼はテニス部に所属した。白い短いスカートをはいた女の子が、ぷりぷりした太もも丸出しにして、
「ねー、ヤマモトくぅーん」
と甘ったれた声を出しているのを見ると、怒りが下腹からこみあげてきた。彼女たちはあんなに気楽に話せるのに、どうして私は見るだけしかできないんだろう。あせりと悔しさが体中をぐるぐるかけめぐった。それは他の三人も同じだった。彼に対する気持ちは高ぶっているのに、積極的に出られない。なかにはちゃっかり、
「ヤマモトくん、お話ししよう」
といいながら、平気で彼の肩に手をかけたりする女の子もいた。
(うー)
内心、ものすごーく、うらやましいと思いながらも、私たちは彼女の姿を、横目でにらみつけることくらいしかできなかったのである。タエコが意を決して、
「あたし、行ってくる!!」
と力強くいい残し、ネットの後始末をしている彼のところへ走っていこうとしたが、校庭にあった石にけつまずいて、どでっと転んでしまったりした。
「あーあ」
彼女の行動が四人のことを象徴しているような気がして、私たちはまた同じようにため息をついた。
話したくても話せないとなると、よけい思いはつのった。母の目をごまかすために、家でもいちおうは教科書を開いてはいるものの、数式であっても英文であっても、目の前に浮かんでくるのはヤマモトくんの笑顔だけだった。ただ救いなのは、彼はいくら女の子がハエのようにたかっていても、へらへらしていないことだった。モテる男にありがちな、でれーっとしたところがみじんもない。そこがまたキリッとしていてよかった。
(もしかしたら、私のことを待っているのかも……)
私は机の引き出しから、去年の年末、町内の福引きで当たった小さな鏡をとり出して、顔を眺めた。もうちょっと目が大きくて、まつ毛が長かったら、堂々とアプローチできるのに……。でも彼はこんな私でも待っていてくれてるかもしれない。完璧《かんぺき》な美人だけが、幸せになるとは限らないわ。だってハンサムな男の子と美人の女の子ばかりが、くっついているわけじゃないもん。私はベッドの上にごろんと横になって、買ってきた雑誌をパラパラとめくった。そしてあるページに書いてあることばに目が釘《くぎ》づけになってしまった。
「遠いあの人とお近づきになれる愛の呪文《じゆもん》」。そこには彼と出会ったとき、片手をうしろにしてギュッと握り、「ミカエルよ、力を貸して」と唱える、と書いてあるではないか。
「ミカエル? なんだ、こりゃ」
こんなことやったって、うまくいくわけないじゃん、と思いながら、次の日から私は、校内で彼とすれ違うことがあると、
(ミカエルよ、力を貸して)
と唱えていた。こんなアホくさいこと、どうしていわなきゃならないんだろうかと情けなくなったが、どういうわけだかやめることができない。
あるとき、四人で歩いていると、むこうから彼がやってきた。チハルとタエコがつつっと小走りに前に出た。またミカエルをやらなきゃと思いつつ、ふと前を見ると、何と二人は片手をうしろにやってギュッと握っていた。
「もしかして、あんたたち……」
彼が通りすぎたあと、私が同じ格好をしてみせると、二人は、
「へへっ、ミカエル、ミカエル」
といって笑った。ただ一人これを知らなかったミドリは、三人ともずるいといって、一人でぶりぶり怒った。私だけならともかく、二人も同じことをやってるんじゃ、効果は薄い。私は家に帰って自分で勝手におまじないを作り、花びんの花にむかって、
「どーぞ、ヤマモトくんが私を好きになってくれますように」
と土下座してみた。しかし、運悪く母に目撃され、勉強に疲れて屈伸運動をしていたのだとごまかした。一度くらい、お話しできたっていいのに……。そう思っていた矢先、チハルがとんでもない情報を持ってきた。彼女は半泣きになっていた。
「あのね、誰だかわかんないんだけど、男の子二人がね、ヤマモトには彼がいるっていってたの」
「えーっ」
私たちは最初、彼女だと思って血の気がさーっと引いたが、それが彼だといわれて、今度はざざーっと血の気が引いた。そういえばあんなに女の子に騒がれているのに、クールすぎるのもおかしい。それに比べて男の子と一緒にいるときの彼は、本当に楽しそうにしていた。
「本当かな」
「えー、やだよう。女もやだけど男もやだ」
タエコは両手をぶるぶるとふるわせた。あれほどの男の子なら、同性にも好かれるはずだ。でも、やっぱりそれが本当なら悔しい。
「そうだわ」
チハルはいった。
「みんなで、彼が私たち女の子のところに戻ってくるように、お祈りしましょう」
彼女は例の「ミカエル」と同じ雑誌に載っていたという、「恋人がいる人をふりむかせるおまじない」をしようといいだした。なんでも、五円玉に赤い糸を結び、桜や梅などの木の下に埋めるのだといった。彼女の目はあまりに真剣だった。私は、「ヤマモトくんは男が好き」の話を聞いて、ぼーっとしてしまい、思考能力が停止していた。四人は学校の帰りにコンビニに寄って、赤い糸と五円玉を調達し、近所の公園にいった。池の周辺にはカップルがいて、幸せそうに語り合っていた。なかには男同士が仲よくしているカップルもいる。どちらも私たちにはため息をつかせる光景だった。
「みんな、五円玉に赤い糸を結んだわね」
チハルの声にうなずいた私たちは、桜か梅の木を捜した。しかし花が咲いているときならともかく、冬の今ではどれが桜か梅か皆目見当がつかず、五円玉を手にしてうろうろと公園内を歩きまわった。
「どうしよう」
「しょうがないよ、こうなったら適当に埋めるしかないんじゃない」
T学園高校のアホ四人組は、結局、桜も梅も見つけられず、赤い糸を結んだ五円玉を、おめでたいのと、木を知っているという理由だけで、松の木の下に埋めることにした。
「お願いします!」
チハルは真剣に手を合わせていた。他の二人もじっと手を合わせて目をつぶったままだ。
(こんなことしたって、ほんの気休めで、何の役にも立たないんだよ、きっと)
私はそう思いながらも、もしかしたら……と一縷《いちる》の望みを捨てきれなかった。
第四話 魔性の女
「あの人にはね、気をつけたほうがいいよ」
会社に入ったとき、先輩であるユリコさんにまずいわれた。あの人というのは、ミツコさんという、私より二年先輩のことだった。ユリコさんはミツコさんと同期である。
「最初はさあ、あんな顔してるから、すごくおとなしいと思ってたんだけど、ぜーんぜん違うのよ。もう、びっくりしたんだから」
日に焼けていて目がぱっちりしているユリコさんが、大きな目を見開くと、目玉がとび出しそうになる。
「え? おとなしそうに見えますけどねぇ」
「でしょ? でしょ? でも、ぜーんぜん違うのよ」
ユリコさんは「ぜーんぜん」にものすごく力をいれた。彼女の話によると、
「私が今まで会ったことがない、魔性の女」
であるということだった。とにかく男性関係が派手で、すぐ噂《うわさ》になる。それを同僚の女性たちに自分から話すことは一切ないのだが、彼女のしぐさを見ていると、すぐわかるのだそうである。
「それにさ、何か、ちょっと変わってんのよ。私たちは絶対に妙だと思ってるんだけど、男の人たちはそんなこと、わかんないみたいなの。あの人がすり寄っていくと、みーんなうれしそうな顔をするのよ。私が仕事の用事があるから近づいていくと、のけぞるくせにさ!」
ユリコさんはとことんミツコさんが嫌いみたいだった。
ミツコさんは色白で華奢《きやしや》で、藤あや子によく似ている美人である。とろんとした目と、ぽってりした唇で、
「あのー」
などといわれると、女の私でさえドキッとした。しかし彼女が紺の制服を着て、事務の仕事をしている姿は全く似合わなかった。どちらかというと派手な着物を着て、夜の世界にいるほうが、ずっと彼女の雰囲気には合っていた。男の人たちの中には、ミツコさんのことを「掃きだめに鶴」といった人もいるが、掃きだめといわれたユリコさんは、
「何いってんのよ。あの人がいるべきところを間違えてるだけよ」
とぶりぶり怒った。
うちの会社は社長を含め、男性七人、女性はユリコさんミツコさんと私、それに経理担当の生きてるんだか死んでるんだかわからない、社長のお母さんがいた。しかしお母さんは体調のいいときと月末しか来ないため、ふだん仕事をしている女性は、若い私たち三人だけだった。男性たちは、みんなどうしようもなかった。入社三日目で私は、年末のボーナスをもらったらやめようと心に決めたくらいである。社長が、
「新入社員のテラダナオミさんです」
と紹介したときに、男性たちの目が、みな一様に落胆したのを私は見逃さなかった。義理でもいいから、にっこり笑って欲しかった。私はいまだにこのときのことを思い出すと、むかっとする。
「そーなのよ、そーなのよ。あいつらはああいう奴《やつ》らなのよ」
ユリコさんが入社したときは、おっと思うような男性も何人かいた。ところがミツコさんが片っぱしから誘惑したあげくに男性を捨てていき、彼らはボロボロになって会社をやめていったのだといっていた。
「人は見かけによりませんねぇ」
どちらかというと、ミツコさんのほうがボロボロにされて、都会のアパートのひと部屋で、さめざめと泣くようなタイプだが、実は大違いだった。
「あの人、男の人から吸いとれるだけ吸いとって、カスカスになるとポイッと捨てるのよ」
「吸いとるって、お金をですか?」
「ふふん。お金だけじゃないのよん」
ユリコさんはにたっと意味ありげに笑った。私はその笑いですべてを悟ったのだった。
私に対するミツコさんの態度は、ごくごく普通だった。普通といっても、ぽーっとした顔で、
「あのー、この売りかけ伝票、今日中に全部計算して下さい」
といわれると、こっちの腰もくにゃーっとなりそうだった。どの香水をつけているのか知らないが、甘ったるいにおいが彼女の周囲をオーラのように包み、そばにいる男性社員が、くんくんと鼻を鳴らしてうれしそうにしている。最初はセミロングの髪の毛を垂らしていたが、このごろはアップスタイルにしている。それもバレッタを使ったりするかわいいアップではない。ホステスさんやコンパニオンがしているような、巻き貝みたいな結い上げヘアで、妙に艶《つや》っぽい。男どもは彼女が椅子《いす》に座っている背後をとおるとき、うなじのあたりに目をやって、これまたうれしそうにしていた。
「あれも全部、戦略よ」
ユリコさんは刈り上げにした自分の後頭部に手をやりながらいい放った。
「はあ、そうですか」
そういえば私が会社に入ってから、ユリコさんとミツコさんがことばをかわしているのを見たことはない。ユリコさんは露骨に彼女を嫌い、ミツコさんのほうは、ねとーっと彼女のことを嫌っているのだろう。その間にはさまって、私は連絡係にならざるをえなかった。いくら嫌いだといっても、電話の取り次ぎや、仕事のことで話さなければならないこともある。それは全部、私を介して行なわれた。まるで両親が喧嘩《けんか》をしたときに、連絡係になる子供のようだった。
ユリコさんは私を味方につけたいらしく、毎日のように御飯に誘ってくれた。ミツコさんはいつも男性と一緒に食事に行っていた。ある日、ユリコさんはカツカレーの大盛りを食べながら、
「私、管理人のおばさんに、変なこといわれちゃったわよ」
と顔をしかめた。ここのビルの管理人のおばさんは、肝心なことは知らないが、どうでもいい噂話だけは山のように知っている、おばさんの典型である。ユリコさんはそのおばさんに、
「ほら、お宅の会社の事務員さんで、色っぽい人がいるでしょ! あの人ね、ヤマダさんとねー、ぐっふっふっ、今朝、モーテルから出てきたのよー」
といわれたといっていた。今朝というのにびっくりした彼女が聞きかえすと、
「駅のそばに、『ラブラブなんとか……』っていうホテルがあるじゃない。私、うちの父が温泉に行くっていうからさ、駅まで送って行ったのよ。そしたら、あんた、まー、びっくりしちゃうじゃないの。ホテルの出口から二人が出てきたのよ」
会社は八時半からなのに、七時に駅で姿を見たという。
「会社がはじまるまで、どうしてたんでしょうかね」
私がいうとユリコさんは、
「朝早くあいてる喫茶店があるから、そこで暇をつぶしてたんじゃないの? まったくご苦労なことだわよ。ま、あの人にはこれまでいろいろあったけど、朝早くっていうのは、初めてだったわね」
とあきれかえっていた。ヤマダさんというのは、ミツコさんより二十以上も年上で、子供もいた。それでも魅力的な人ならまだしも、背広の衿《えり》まわりやズボンの生地がグレーや紺なのに、何となく黄色っぽくみえるような人だった。
(あんなおっさんとホテルに行くなんて……)
私は急に食欲がなくなってきた。一方、ユリコさんは勢いよくカツカレーを口に放りこみながら、
「そのくらいで驚いてちゃだめだめ。あの人には罪悪感なんかないんだから」
といい捨てた。罪悪感がないから、ヤマダさんみたいな人の相手もできるんだろうが、彼は彼女の特定の相手ではなかった。
「とにかく、男の人の間を、順ぐりにまわってるみたいよ」
「うーん」
話には聞いていたが、現実にそういう女の人がいるとは思わなかったし、同じ女としてどうしてそういうことができるのか、不思議でならなかった。
丈夫なユリコさんが風邪で休んだ。男の人たちは「鬼のかくらん」といって笑っていた。朝、更衣室のドアを開けると、壁にむかってミツコさんが手を合わせ、大きく頭を前後に振りながら、ぶつくさ何事かいっていた。アップにした髪はあっちこっちがほつれている。自分の世界にひたりきっている彼女の気迫に押されて、私はドアのノブをつかんだまま、そろりそろりと後ずさりして、音をたてないようにドアを閉め、廊下でうろうろしていた。十分ほどすると、ミツコさんが出てきた。顔をぽっと上気させて、ますます色っぽくなっている。私は遅刻しそうになって走ってきたふりをして、うまくごまかした。
「ねーえ、たまには私とお昼、食べに行かない?」
昼前にミツコさんは私のそばにきて誘った。それだけでなく、ウインクまでするものだから、ちょっとギョッとしたが、
「あ、いいですけど……」
といって、彼女のあとについて行った。私たちは近所のおそば屋さんで、親子丼《おやこどんぶり》を食べた。ここのおじさんとは顔なじみのようで、
「いつもほれぼれするくらい、きれいだねー。おじさんがもうちょっと若かったら、放っときゃしないんだがなあ」
「やだーん、おじさんったら」
などとじゃれあっていた。でもその前に、早朝ラブホテル事件について聞いている私は、はははと手放しで笑うことはできなかった。
「ところで、テラダさん。人間の罪って何だと思う?」
「は?」
おじさんがいれてくれた食後のお茶を飲んでいるとき、突然、ミツコさんは切り出した。
「は? 何ですか」
「人間の罪よ。あなた、今まで二十年くらい生きてきて、悔やんでいることってあるんじゃないのかしら」
「さあ……」
「全然ない人なんて、いないのよ。何かないかしら。そうねー、悪いことをしちゃったとか、なぁい?」
彼女はほおづえをついて、かわいらしく首を横にかしげた。きっと男性だったら、何もなくても、
「あります、あります」
と身を乗り出してしまうところだろうが、私は、
「ないです」
と答えた。
「ないわけないでしょ!」
彼女の顔から笑顔が消えた。
「嘘《うそ》はだめよ、正直にいいなさい。正直に」
「本当にないんです」
「いい、よーく考えて。よーく」
よーく考えてみるとひとつだけあった。子供のとき、寝ているおばあちゃんの口の中に、叩《たた》き殺したハエを入れたことがある。
「ありました!」
「まあ、なあに。私にいってごらんなさい」
ミツコさんはにこっと笑った。
「おばあちゃんの口の中に、ハエを入れたことがあります」
「えっ?」
彼女の顔が曇った。私は説明した。夏の日、縁側にいたおばあちゃんが、柱によりかかって昼寝をしていた。部屋の中で私はハエを追いかけまわし、やっとの思いで一匹退治した。羽を指の先でつまみ、庭に捨てようとした視界に、おばあちゃんのぽっかりあいた口が目に入った。それを見た私は、よろよろとその口に歩みより、ぽとりと手に持ったハエを落とした。しばらく私は自分でも何をしたかよくわからず、ぼーっとしていたが、ある瞬間、はっと我にかえり、あれはなかったことにしたのだった。
「まあ……」
ミツコさんはあっけにとられていた。
「これが私の罪ですけど……」
そば屋に重い沈黙が流れた。彼女はすっと背筋をのばし、こほんと小さく咳《せき》をした。
「いくつのときだったの、それは」
「四歳です」
「…………」
彼女はぱちぱちとまばたきをして、また黙ってしまった。おじさんがまたお茶をいれにきた。
「あのー、あなた、そのときのおばあさまの気持ち、考えたことある?」
「結局、おばあちゃんはわかんなかったみたいです。何もいわれませんでしたから」
「…………」
また沈黙である。
「ハエがおばあさまの体に毒だったらどうするの!」
怒った顔で彼女は私をにらみつけた。
「おかげさまで、元気にしてますけど……」
「…………」
関係ないのに、おじさんはちょこちょこ顔を出し、私たちの様子をうかがっていた。
「とにかく、あなたのしたことはいけないことなのよ!」
「まあ、そうですね」
「『そうですね』じゃないの。あなたはその罪をつぐなわなきゃいけないわ」
「はあ」
「今日、仕事が終わってから、私と一緒にザンゲしに行きましょう」
「えっ!」
「このまま罪を背負っていたら、あなたはこれから、どんどん不幸になるわ」
藤あや子みたいな美人顔にいわれると、なんだかとても怖い。
「いいです」
「『いいです』じゃないの。あなたは罪人なのよ。ザンゲをしなさい」
私はだんだん腹が立ってきた。たかがばあさんの口の中に、小バエを一匹入れたくらいで、どうしてそんなことしなきゃならないんだろうか。
「そうだよ。あんた、人間はザンゲをしなきゃいけないよ」
呼びもしないのに、おじさんが奥からしゃしゃり出てきて口をはさんだ。
(こいつら、グルだったんだ!!)
「私たちのいうことをきけば、幸せになるんだ。いやー、おじさんも昔、とんでもないことをやっちまってねえ。でもザンゲをし続けたおかげで、今はこんな都会で商売させてもらってるよ」
おじさんはべらべらとまくしたてた。彼は店を出してすぐ、お客さんの食べるおかめそばの中に、ごきぶりが入っているのに気がつかなかった。それを知り合いにぐちったら、ザンゲ場に連れて行かれ、とても気分がすっきりし、そんなことがあったのにもかかわらず、商売も順調にいっている。
「とにかく、ザンゲして、自分の罪をつぐなえばいいんだよ。そうすればあんたも幸せになれるんだ」
いくら二人にいわれても、私には、おれたちひょうきん族で見た、ザンゲの神様のことが頭に浮かんで仕方がなかった。
「ね、今日、行きましょう。すぐそこにあるのよ」
ミツコさんはどんどん顔を近づけてきた。
「もう時間ですから戻らなきゃ」
私はお金をテーブルに置き、かけ足で店をとび出した。しばらくしてミツコさんが後を追いかけてきた。私はとにかく彼女につかまらないように会社にかけこみ、急いで席に座った。
(ユリコさん、早くよくならないかなあ)
いつもそばにいると、うるさいばっかりで面倒なときもあるが、こんなときはそばにいて、よしよしと慰めて欲しい人だった。幸い、ミツコさんは男性たちと飲みにいく約束ができ、私は義理で誘われたのを、用事があるからといって断った。
次の日、ユリコさんが出社してきたのを見た私は、とびついて、そば屋の一件を報告した。
「あの野郎、とうとうあんたにまで……」
まだ少し咳込みながら、ユリコさんは真っ赤になって怒った。
「あの人、あの調子でこれまでの男の人を勧誘してたのよ。男の人たちは誘惑されてると思ってたらしいけどさ」
なんでも、私の部屋に遊びに来ないといわれて、鼻の下をのばしてついて行ったら、ザンゲ場に連れて行かれるのが常だったらしい。それでも彼女とおつき合いしたい男の人たちはザンゲ場にも行き、とことん彼女のいう通りにして、最後は捨てられた。そして当の彼女はザンゲをして、気分一新というわけなのだ。ミツコさんは私と目が合うと、いつも何かいいたそうにしていたが、ユリコさんがそのたびに、
「こっちにおいで」
と私を手招きした。
「ユリコさんは誘われたこと、ないんですか」
「あるわよ、入社当時に。『そんなうさん臭いもの、絶対にやだ』っていったら、あの人、怒っちゃってねー。それ以来、ろくに話したこともないわ」
でもああいうことで救われると思う人もいるからねえ、とユリコさんはつぶやいたあと、
「ザンゲしまくって男遊びがチャラになるんだったら、こんな楽なことはないよね」
といって笑った。私は更衣室で目撃した、ミツコさんの姿を思い出して、背筋がぞっとした。ああいうことをみんなが集まって、ひとつところでやってるなんて信じられない。やるのは勝手だけど、他人を勧誘するな! 私はそれから、ユリコさんにへばりつくようにして歩いた。もちろんあのとき以来、ミツコさんとは食事に行っていないし、仕事以外では話をすることもなかった。しかし彼女は相変わらず、色っぽい雰囲気を零細企業の中でふりまいていた。
月末、仕事が詰まっていて、私たち女性三人と、男性一人が残業をしていた。いつも来るはずの社長のお母さんは神経痛がひどくなったとかで、姿を見せなかった。
「君たち、もう帰っていいよ」
私とユリコさんは、内心あーよかったとほっとして、帰る準備をしたが、ミツコさんは、
「私はまだ残ります」
という。私たちは目くばせをしながら、
「それでは、お先に」
とそそくさと部屋を出た。私たちは、これから残った二人に起こりうるであろうことを想像して、やーね、やーねといい合った。
翌日、私とユリコさんは同じ時間に出社した。ミツコさんはまだ来ていない。
「どうせお疲れなんでしょ。あ、そうだ、きのう捨てられなかったゴミを、踊り場に置いたままにしてあるんだ。捨てるの手伝って」
私たちは廊下の端にある、踊り場に通じるドアを開けた。
「あっ!!」
そこには、大きく頭を前後に動かす、ヘッドバンギング状態のミツコさんがいた。
「人間はザンゲをしなければいけません」
という声が聞こえてくるかのようだった。そのとき、彼女はふっとこちらに顔をむけて、にたっと笑いかけた。目は全然、笑っていなくて、下からの風で結い上げた髪の毛はぐしゃぐしゃになり、ざんばらのメドゥーサみたいになっていた。表情のない美人顔が目に焼きついた。
「ひぇーっ」
私たちはその場を立ち去ろうにも足元がかたまってしまい、なすすべもなく棒立ちになっていたのだった。
第五話 ハッピー・ライフ
週末、実家に帰ったら、父と母が座卓に向かい合って、がっくりと肩を落としていた。
「どうしたの、いったい」
「…………」
二人は無言のままだった。
「ねー、どうしたのよお」
大声を出すと、母はちらっと私のほうを見上げ、また座卓の上に目を落とした。そしてぽつりと、
「お姉ちゃんがねぇ、また戻ってくるっていうんだよ」
といった。
「あの、バカもんが!」
父は圧《お》し殺した声でいうと、母は、
「また、そんなことをいう。よくよくのことなんですよ」
「よくよくったってなあ。あいつだって人の親なんだ。我慢が足りないんだよ、我慢が」
「そりゃそうかもしれないけど、辛いのは本人なんです。身内の者がわかってやらないと、かわいそうじゃないですか」
「甘やかしすぎてるんじゃないか、お前が」
「そんなことありませんよ。お父さんだって、嫌だったら、すぐに戻ってこいっていってたじゃないですか」
「えっ……」
「知ってますよ。私が知らないと思ってるんでしょ。お父さんだって甘やかしてるんです」
「うーむ」
「ここでこんなこといい合ってもねぇ。元に戻るわけじゃなし……」
そういってまた二人は、がっくりとうなだれた。私は、まるで昼の連続テレビドラマみたいな光景を見て、ぼーっと立ちつくしていたのである。
私には姉と兄が一人ずついる。姉は三十二歳で子供が二人いる。実は彼女は二十四歳のときに結婚して、二十八歳のときに三歳の子供を連れて離婚した。で、三十歳のときに子連れで再婚したのだが、どうやらまたもめているようなのである。
「お姉ちゃんのとこ、下の子、まだふたつじゃないの」
「そうなんだよ。上のタカシだって、小学生だし、これからますます大変になるっていうのに。どうしてこんなことになるのかねぇ」
「だから、親の自覚がないっていうんだ!」
父が怒鳴った。
「ほら、お父さん、血圧が高いんだから、そんなに大声を出しちゃいけません」
「うー」
だんだん父の顔が紅潮してきた。
「またですか、お父さん」
「うー、気持ち悪い……」
母はあわてて、父をささえるようにして隣の部屋に連れていき、布団を敷いて横にさせた。
「いったいどうなるのかねぇ」
母は誰にいうともなくつぶやき、狭い庭に目をやったのだった。
両親がこんなに心を痛めているのに、きっと姉はなーんにも感じてないんだろうなあと思った。私と姉とは七歳違うのだが、子供のときから彼女はトラブル・メーカーだった。私が小学生のときだったが、外から帰ってきた姉の姿を見て、家族と飼い犬のシロはびっくり仰天したことがあった。さっきまで黒い髪だったのが、突然、金髪になってしまったからである。人間は絶句したが、シロは呆然《ぼうぜん》として、姉を見上げていた。私たちの視線など、いっこうに気にしていない姉は、
「ねー、シロ、お姉ちゃん、どお? かっこいい?」
といいながらシロの頭を撫《な》でた。ところがシロの尻尾は、力なくハタハタと揺れるだけで、明らかに目がうろたえていたのである。もちろんそれからは大騒ぎだった。父は、
「高校生のくせに、何だその頭はー。いうことを、きかないなら、こうしてやる!!」
とわめいて、ハサミを片手に姉を追いかけまわしたあと、血圧が上がって倒れそうになった。母は母で、おろおろしながら、
「学校に行くときだけでいいから、これをかぶってちょうだい」
といい、押し入れの隅から、自分のおしゃれかつらを取り出して、姉にむりやりかぶせようとした。中学生の兄は、ひとこともいわず、ただ事の成り行きを見守っているだけであった。どんなに両親にぶーぶー文句をいわれても、姉は、
「別にいいじゃん。怒られるのは私なんだし。関係ないよ」
といいながら、満足そうに鏡をのぞきこんで髪の毛を撫でさすっていた。結局、高校の三年間を、姉は金髪でとおし、何度も母が呼び出しをくらっていた。よく退学にならなかったと思う。その後、家族で当時の思い出話をしていたときに姉が、
「退学になるわけないじゃん。風紀担当の先生と私、できてたんだもん」
といい放ち、家族の体温が五度下がったこともあったのだ。
最初の結婚のときも、私たちには一切、知らされていなかった。毎回、違う男性に送られて帰ってくるので、母が、
「年ごろなんだから、みんなにいい顔して、変な噂《うわさ》がたつと困るから、少しはつき合い方を考えなさい」
といっていた矢先、見たこともない男性を連れてきた。それも四歳年下のパンク兄ちゃんであった。下半身にぴったりした合成皮革のパンツをはき、SEX・PISTOLSとプリントされたTシャツを着て、耳と鼻にピアスをしている。おまけに髪の毛は三十センチも逆立ち、オレンジ色とブルーに染め分けられていた。
「生活は成り立つのかね」
こめかみをひくつかせながら父がきくと、彼は、
「さあ、わっかんねえな」
といい、ぼわーっと大あくびをしながら、首筋をぼりぼりとかいていたという。母は、「結婚前だというのに、SEXと書いてあるTシャツを平気で着ているなんて、嫌だねぇ」と全然関係ないところで、眉《まゆ》をひそめていた。両親が大反対しているのにもめげず、姉は、
「私が稼ぐから心配しないでよ」
といい、家を出ていった。もちろん結婚式はなかった。その後、彼のほうもコンビニで働いたり、引っ越しのバイトをしたりして、多少は稼いでいたようだが、姉の育児休暇が終わると、主夫となって家事をやっていた。いつまでたっても家計は姉がささえていた。
「いったい、どうするんだ」
両親は姉の顔を見るたび、文句をいっていたが、
「別にいいじゃん。私たちはこれでうまくいってるんだからさ」
と取り合わなかった。私と兄が、
「男の人が主になって働かなくてもいいよ。そのかわりに家のことをやってるんだし」
とパンク兄ちゃんをかばっても、両親は、「男としてだらしがない」だの、「近所に息子だというのが恥ずかしい」などといっていた。両親が不満でも、それなりに姉たちは幸せのようにみえた。ところが、その後パンク兄ちゃんは、十八歳の女の子と一緒に逃げてしまったのだった。
「ほーら、みたことか」
両親は鬼の首でもとったみたいに騒ぎ、やいのやいのと姉に迫った。ところが姉は、取り乱すどころか、
「ま、こういうふうになるとは、思ってたんだけどね」
と全く気にしていない。そして、
「子供も小さいんだし、養育費はもらいなさい」
という母の意見を無視して、離婚届に判を押しただけだった。
「あんたは、自分の子供がかわいくないのか」
とにじり寄る母に、姉は、
「だって、あの人ぜーんぜんお金がないから、そんなこといったって、払えるわけないもん」
と平然としていた。
子供を連れて戻ってきた姉は、近所の好奇の目にさらされた。父と母は背を丸めて歩いていたが、姉は胸を張っていた。姉が戻ってきて三日目、三軒先の金歯のアベさんがやってきた。この金歯は町内に不幸があると、呼びもしないのにやってきて、
「幸せになる品々」
を売りつける、評判のおせっかいだった。
「奥さん、大変だったわねぇ」
おばさんは樽《たる》のような体をくねらせ、いかにも気の毒そうにいったが、目はうれしそうに輝いていた。
「何ですか」
母がムッとしていうと、
「いやー、私もさ、小さいころから知ってるアケミちゃんのことだから、幸せになってもらいたいと思ってねぇ」
といいながら、持ってきた荷物を玄関の下駄箱の上に広げた。和紙に包まれた、紫色のヒモやら、細い金属の輪っかや、妙な色合いの玉が、ごろごろ出てきた。
「これを持っているとね、災いが福になるのよ。私、お世話して、みなさんに喜ばれてるの」
まだショックから癒えていなかった母は、
「とにかく今日は帰って下さい」
と、幸せになれるんだからとくい下がるおばさんをつきとばすようにして、追い返した。
そしてそれから十カ月ほどたち、姉は新しい彼氏をつれてきた。前はパンク兄ちゃんだったが、今度はロッカーだ。金髪を背中の中ほどまで垂らし、ジーンズにピンクのバラの花模様のジャケットを着て、紫色のパール入りアイシャドウと真っ赤な口紅でメイクをしていた。姉はとことん金髪が好きらしい。もちろん今回も、両親は絶句である。
「前の男は金髪が上にむかって生えてて、今度のは下にむかって生えてるんだな」
父はボソッとつぶやいて泣いていた。
「前の人で、あの系列は懲りたと思っていたのに……」
母も泣いた。しかし姉だけは、
「もう、子供ができちゃったんだよーん」
とスキップしながら家の中をぐるぐるまわり、両親を踏んだり蹴《け》ったりの目に遭わせたのだった。
二回目も結婚式はなかった。すでにお腹が目立ちはじめた姉は、
「日中は家に出入りするな」
と申し渡されていたが、まっ昼間、平気でやってきた。
「ねー、これもらってもいい?」
戸棚から缶詰を勝手に取り出しては、姉は持参したビニールの手さげ袋に入れた。
「勝手にしなさい」
母は後ろをむいたまま返事をした。
「あっ、よかった。うち、大変なんだ」
姉は悪びれずにいうと、さっさと帰っていった。
「本当に何を考えているんだか。子供はどうするつもりなんだろうねぇ。うまくやっていけるのかねぇ」
姉が姿を消すと、母はしきりに心配していたが、甘い顔をみせると、あの子は調子に乗るといって、姉には冷たい態度をとっていた。
家族に呆《あき》れられつつ、彼女は出産し、上の子もロッカーパパになついて、やっと人並みの幸せがやってきた。そのとたん、また、夫婦が揉《も》め出したのである。今度は姉は子供を二人連れて、相談にきていた。何でも例のロッカーが、
「ロッカーには家庭はいらない。おれはアーティストとして生きるんだあ」
とわめき出したというのである。
「でも子連れのあんたと結婚する気になったんだから」
「自分がだんだん所帯臭くなるのが嫌だったみたい」
それから姉は姿をみせなくなった。うまくいってるのかなと思っていた矢先、
「子供を連れて実家に帰る」
と宣言され、両親はあわてふためいたというわけなのである。
翌日、姉は二人の子供を連れて、にこにこしながらやってきた。とても二度目の結婚に破れつつある女とは思えないくらい、元気いっぱいである。
「あんた、それでどうなった?」
「えっ、ああ、届けのこと? 判こをついて置いてきたから、むこうが役所に出すんじゃないの。二度目だから、手際がよくなったわよ,私も。はっはっはっ」
誰も笑わなかった。
「ほーら、おじいちゃん、おばあちゃん、それに遊びにきてるおばちゃんよ。今日はいないけど、おじちゃんもこのおばちゃんと同じ、東京に住んでるの」
「ふーん」
甥《おい》のタカシと姪《めい》のリエは、珍しそうに家の中を見渡していた。
「かわいそうに。転校しなくちゃいけないんでしょう」
母はタカシの頭を撫でながらいった。
「うん。お父さんとお母さんが離婚したってボク平気だよ。住む所だってあるしさ」
そのことばを聞いた母は、ふんふんとうなずきながら、
「あんた、子供の気持ちを考えてやりなさいよ」
と姉をにらみつけた。
「はあい」
父はすでにいうことばを失い、庭を眺めながら将棋《しようぎ》の駒をいじくりまわしていた。
そのとき、玄関でどーんという大きな音がした。びっくりして出ていってみると、そこには両手で荷物を持ち、肩ではあはあと息をしている、金歯がいた。
「イイダさん!」
「は、はいっ」
母は思わず、上がりがまちに正座した。
「いわんこっちゃないでしょう。ほら、この前、アケミちゃんが帰ってきたときに、ちゃーんとやってれば、こんなことにはならなかったのよー」
誰も上がれといっていないのに、彼女は乱暴にサンダルを玄関に脱ぎ捨て、家の中に入ってきた。私と母はあわてて後を追った。
「まあー、アケミちゃん。いろいろと大変だったわねぇ。おばさん、ずーっと心配してたのよー」
「へへへっ」
姉はぽりぽりと頭をかいている。
「私ね、どうしてこうなったのかなって、調べてみたの。そしたら、わかったのよ。おたく、墓の位置が悪いわ」
「はあ?」
父と母は同時に腰を上げた。
「おまけにね、形もよくないんだわ」
「うちのはごくごく一般的なものですよ」
金歯は得体のしれない本を取り出し、
「ほーら、ここがね、とんがっているでしょ。このとんがりが、縁を破っちゃうのよねー」
と説明した。父と母がふに落ちない様子で黙ると、彼女はますます張り切り、
「でねー、とってもいい墓所があるのよ。ちゃーんとそういうことも考えられた、すばらしい所なのよ。で、どうかなって思って……」
墓地のパンフレットを父と母にみせた。
「何ですか、これは」
「いえ、その、私がとってもお世話になっている方が経営してらっしゃる所なのよ。本当に手を合わせたくなるような方よ」
彼女は満面に笑みを浮かべたが、父と母の顔はこわばったままだった。
「ちょっと、取りこんでますから、今日はこのへんで」
と追い出そうとすると、
「あら、ちょ、ちょっと待って。そうよ、そうよねえ、墓所はそう簡単には変えられないわよね。じゃ、こちらはどうかしら」
と荷物の中から次々と品物を出した。
「ほーら、一つ二万円。お宅なら、買えるでしょ。二個でも三個でも」
私はたくさんの和紙の小さな包みを見て、嫌な予感がした。あのとき、下駄箱の上に広げた、あの珍妙なものが……。予感は的中した。中には紫色のヒモ、細い金属の輪っか、妙な色合いの玉。それだけでなく、変な形をした板もある。
「ほ〜ら、ね、見て、見て。素敵でしょ。これ、汚い手で触っちゃいけません」
わらわらと寄ってきたタカシとリエを、おばさんはしっしっと追い払った。
「なーに、これ」
姉は紫色のヒモをつまみ上げた。
「それはねー、ありがたーい絹糸で作った、草木染めのハッピー・ネックレス」
「ネックレス?」
姉、母、私が思わず声を上げた。どこからみたって、ただの三つ編みのヒモだ。
「ふーん、これは」
次に姉は輪っかをつまんだ。昔、うちのカーテンに、こんなカーテン・リングがくっついていたっけ。
「ああ、それはね、ラブラブ・リング」
「はあ?」
「とってもご利益がある指輪よ」
そういわれて、もう一度よく見てみたが、路上でイラン人が売っているアクセサリーのほうが、格段に出来がよかった。おまけに金ではなく、しんちゅう製のようだった。
「この玉はね、お財布の中に入れておくと、お金持ちになるのよー。ほら、おばさんも財布に入れてたら、宝クジで千円、当たったのよ」
「ふーん。で、名前は、ハッピー・ボールとか何とかいうんだ」
姉がつまんなそうにいうと、おばさんは、
「そうなのよ! ぜーんぶこれは、ハッピーになるものなのよ」
おばさんは金歯をむき出して笑った。
「これはすべて、すばらしい霊能者の方のパワーが入ったものなの。それを使って、ひとつひとつ手で作ってるのよ」
「ヘー、誰が」
姉がリエを膝の上にのせてたずねた。
「……私」
「えーっ」
この金歯は、自分で作った、こんなへんてこな品々を売りつけに来たのだ。
「ちょっとひどいよねー」
姉は指先でハッピー・ネックレスをつまみながら、文句をいった。
「素人が作ったから、職人さんみたいにはいかないけど、とにかく材料はすばらしいし、第一、私の心がこもっているのよ。この私の心が、ねっ。世の中の人を幸せにしてあげたいの」
金歯は、橋田寿賀子のドラマの登場人物みたいに、茶の間で切々と訴えた。あんたの心なんかいらないよ、と口から出そうになったのを私はこらえた。どよーんとした空気のなか、ふと横をみると、タカシがハッピー・ネックレスの止め金をはずし、片方の鼻の穴につっこんでいた。そして次は、妙な玉を口の中に入れ、しばらくもぐもぐやっていたが、ぶっと畳の上に吐き出した。
「ま、何てことをするんだろうね、この子は! バチが当たる」
金歯は叫んで、あわててころころと転がる玉を大きなお尻で追いかけた。それを見てタカシは、鼻の穴から、びろーんとハッピー・ネックレスを垂らしたまま、へらへらと笑っていた。
「うるさい! そんなもん、いらん。帰ってくれ」
今まで黙っていた父がハッピー・グッズをわしづかみにし、袋の中につっこんで、金歯めがけて放り投げた。
「こんな大切なものに、手荒なことをして。人の恩を仇《あだ》で返す気ね!」
金歯は捨てゼリフを残して帰ろうとしたが、きっちりタカシの鼻の穴のネックレスも持っていった。
「あーあ、こんな家、どーんどん不幸になって、バチが当たればいいのよ」
金歯はそうわめきながら出ていった。父と母はきっちりと鍵《かぎ》を閉め、暗い顔で戻ってきた。
「平凡に暮らしているっていうのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならないの。どれもこれも、みーんな、あんたのせいなんだからね!」
母はキッと姉をにらみつけた。しかし当の姉は、ぽーっとしているリエ、鼻の穴をほじっているタカシをしたがえ、
「へへーっ」
と、へらへらと笑っていたのだった。
第六話 明るい未来
「ちょっと、そこのあなた!」
友だちと少し飲んだ帰り道、駅前の暗がりを通ったら、声が聞こえた。きょろきょろしていると、また、
「あなたよ、あなた! そう、そう」
暗がりの奥のほうに、ぼーっとしたろうそくの光に照らされた、おばさんの顔があった。まるで畳半畳分はあるかと思われるような、でかい顔だった。
「さあ、こっちにいらっしゃい。そう、そうよー、こわがらなくていいのよぉ」
波の揺り戻しみたいな妙ちくりんな抑揚のある声で、彼女は手まねきした。そして私は、ふらふらと、招き寄せられるまま、彼女に近づいていったのである。
彼女は六十センチ角のテーブルの上に小さな小さなろうそくを立てて、座っていた。でかくてごつい顔のおばさんの顔を下から照らすと、ものすごくこわい。くっきりした二重まぶたに、幅五ミリの黒いアイライン。肉がぼってりとついた大きな鼻、ぶ厚いくちびる。耳にはでっかい耳輪、ぶっとい首にはネックレスがくいこみ、十本の指には指輪がはまっていた。どうせなら、鼻輪もしてたほうが、彼女の雰囲気に合っていた。
「ほーら、こっちにいらっしゃい。そーそー、大丈夫よぉ」
私が彼女の目の前に立つと、おばさんはにやっと笑った。顔と同じように歯の一本一本もでかい。
「あのー、何でしょうか」
そういったとたん、おばさんはキッとまじめな顔になって、目をむいて私をにらみつけた。そして、
「あなた! フラれましたね!! ちゃーんと顔に出てるわよ!」
といい放ったのであった。
「ぐ……」
思わずその場で固まった。おばさんのいうとおり、私は一週間前に、一方的に相手の男性から別れを告げられた。今夜も,そのウサ晴らしのために、友人と飲んだのだ。
「はあ……。そうなんです」
今まで、こんなことにめげちゃいけないと気を張っていたのに、彼女に痛いところをぐいっと突かれて、私の体から、一気に力は抜けていった。ふと気がついたら、テーブルの前の椅子《いす》に座りこみ、彼女にこれまでのいきさつを、話していたのであった。
彼とは学生時代からのつき合いだった。もともと浮気者で、何度も泣かされた。そのたびにむこうが、ごめんと平あやまりし、
「本気で好きなのは、お前だけだから」
というものだから、それを信じていた。他でへらへらと遊んでいても、必ず私のもとに帰ってくるもんだと思っていた。今まではそうだった。しかし今回は本当に、私から逃げていったのだ。
「先週、アパートに行ったら、彼と、新しい彼女がいたんです」
「ふむふむ」
おばさんは真顔《まがお》でうなずいた。
「二人でうどんを食べてたんです」
「ほほお」
「私、びっくりして、ドアを開けたまま立ってたんです。そうしたら、彼女が彼に、『この人、だあれ? セールスの人?』っていったんです」
「ふむ。で、彼は何ていった?」
「『さあ、知らないな』っていって、二人はまた、うどんをすすったんですぅ」
「あらー」
「私、びっくりして何もいえなくて、ドアを閉めて帰ろうとしたら、彼が追いかけてきて、『こういうことなんだ。じゃあな』って」
「それだけ?」
「はい」
「悪かったとかも?」
「いいませんでした」
青天の霹靂《へきれき》って 一生、使わないことばだと思っていたけれど、こういうときに使うためにあったのだと、泣きながら思ったりもした。あまりに突然だったので、友人にもこのときのことは喋《しやべ》っていない。
「フラれちゃったわよん」
とふざけ半分で話したものだから、友人は、
「また、ちょっと喧嘩《けんか》したくらいじゃないの」
と軽い気持ちでいたみたいだ。
「あら、本当なのよ」
と明るくいったものの、私の心の中は鉛の固まりが百キロぐらい、詰まっているような気分になっていたのである。はじめて、あのときのおぞましい光景を人に話して、私の目からは涙がほとばしり出て、路上でもらったサラ金のティッシュは、あっという間になくなった。
「若いころはいろいろあるもんだけど、災難だったね」
おばさんは優しいことばをかけてくれた。
「ふあい」
私はあとからあとから流れ出てくる、涙と鼻水を指でふき取りながら返事をした。それを見た彼女は、銀行の名前が入った箱入りのティッシュを、どんと目の前に置いてくれた。
「すみましぇん」
おばさんは口をへの字に曲げたまま、ずっと天を仰いでいた。背後から、
「へへっ、ねえちゃん、どうした、フラれたのか」
という声が、酒臭い息と共に近づいてきた。びっくりしてふり返ると、酔っぱらった中年のおやじが、にたにた笑いながらすり寄ってくる。私は思わず顔をそむけた。
「えっ、どうしたんだよ。彼氏が欲しいんだったら、おじちゃんがなってやってもいいぞ。どうだ、んっんっんっ?」
しつこくおやじはからんでくる。そのとき、おばさんはすっくと立ち上がり、
「あんた、うるさいよ。とっととあっちに行きな」
とドスのきいた声でいった。
「なにぃ?」
おやじはふらふらしながら、彼女をにらみつけ、ふふんと鼻でせせら笑った。
「お前、妬《や》いてるな。おれが若い子に声をかけたもんだから、妬いてんだろ。誰がお前みたいな不細工なばばあに声をかけるかってんだ」
「いいから、あっちに行けって」
「へへへー、そんならここに、ずーっといてやろ」
おやじはそういいながら、地べたにしゃがみ込み、げっぷをした。
「邪魔だから。ほれ、あっちに行けっていってるだろ」
「へーん、どきませんよーだ」
「ちっ。しょうがないね、酔っぱらいは」
おばさんは舌打ちして、私に、
「気にするんじゃないよ」
といい、目の前に座り直した。少し落ち着いた私は、
「これから、どうしていいかわかりません」
と訴えた。私は二十四歳、あんな男でも、結婚相手として考えていたこともある。むこうの弱味も握っていたし、これからは私の思いどおりに事が運ぶような気がしていた。まさかこんなことになるとは思わなかったので、この一週間は悲しいというよりも、ぼーっとしていた。今夜はじめて、このおばさんにズバッといい当てられて、私の身に起こった現実を考えてみると、やはりとんでもないことだったのである。
「悔《くや》しい?」
おばさんは静かにたずねた。
「はい。ものすごく悔しいです」
「ふむ。だけど恨《うら》んじゃいけないよ」
「どうしてですか」
「人を恨んだりしてると、顔に出るんだよ。そうするとますます、新しい男がよりつかなくなる。と、また、あいつが悪いっていうことになって恨む。もてなくなる。その堂々めぐりで、何の解決にもならないんだねぇ」
「はあ……」
あたりは、しーんとしていた。おやじの声もしない。ふり返ってみたら、おやじは地べたに大の字になって寝ていた。
「全く、しょうがないねえ」
おばさんはつぶやくと、寝ているおやじの耳元で、
「こんなところで寝ると死ぬぞ! いいかげんで帰れ! このスカタン野郎!」
おやじはのろのろと体を起こし、無言で帰っていった。
「いろんなのがいるよね。あんなおやじだって、いい成績で大学に入って、有名な会社に勤めてたりするんだから」
「はい」
私は涙も鼻水もおさまり、おとなしくおばさんの前で座っていた。
「あのー、これから私はどうなるんでしょうか」
おずおずと聞いてみた。私の失恋をいい当てた、この占い師のおばさんだったら、的確なアドバイスをしてくれるだろう。
「さあ、私にゃわかんないね」
おばさんはいい放った。
「はっ?」
私はぽかんとした。それじゃ、この人はいったい何なのだ。
「人の将来がどうなるかっていうのは、わかんないんだ。過去はわかる!」
おばさんは胸を張った。しかし人が知りたいのはこれから先のことで、過去ではない。
「あのー、失礼ですけど、占い師さんですか」
上目づかいでたずねると、彼女は、
「うーん、ちょっと違う」
これまたいい放った。
「じゃ、どうして私のことが……」
「あー、それはカンね。カンなの。あなたの顔を見て、ピーンときた」
「はあ」
「私は占いをしてるわけじゃないの。明日、起こることはわからないけど、明日をよくしてあげることは……ふふっ、できるのよーん」
おばさんはにやっと笑った。この人は何かたくらんでいるのではないかと、私はちょっとおびえた。自称占い師にだまされて、ボーナスをそっくりまきあげられた人の噂《うわさ》もきいたことがある。
「あなた、今、お金の心配をしたね」
おばさんは、また、にやっと笑った。ことばに詰まっていると、彼女は、
「お金なんかいらないよ。ほんの気持ちだけでいいの」
「でも、その気持ちって……。何十万とか何百万とかっていう額じゃ……」
「まさか」
おばさんは、かっかっかっと笑った。
「あたしゃ、高校生の相談にだってのってるんだよ。心配しないでいいんだ。あなたは占いとか、そういうことじゃなくて、自分の力でしあわせになれるんだよ」
私の目をじっと見つめて彼女はいった。
「はあ」
「私がうそをいう人間に見えるかい」
はい、ともいえないので黙っていると、おばさんはパタパタとテーブルと椅子《いす》をたたみ、大きな風呂敷に包んだ。そして、
「あなた、一人暮らしでしょ。うちにおいで」
といって、ずんずん歩いていった。
「でも、もう遅いですし……」
「えっ、まだ十時半じゃないの。一時間くらい平気でしょ。私も一人だから、気にしないで」
彼女のアパートは、駅から四、五分の裏通りの奥のそのまた奥の袋小路のどんづまりにあった。木造モルタルの建物の外階段を上がった、いちばん奥の部屋が彼女の部屋だった。電気がついている。
「さ、上がってちょうだい。ほら、大丈夫だから。何してんの」
ドアの前で立ち止まった私の腕をひっぱって、おばさんは中に引き入れた。
「んまー、リリーちゃん、ただいまー」
声が三オクターブくらい高くなった。ピンクの大きなリボンを頭につけてもらったマルチーズが、キャンキャンと鳴きながら、彼女にとびつく。
「はいはい、ごめんなちゃいね。お客さんがきたからねー、いい子しててねー」
ひとしきりでかい顔をリリーちゃんになめさせたあと、おばさんは私をひと間しかない六畳に座らせた。ごくごく普通の家具、うさんくさい祭壇とか仏壇とか、あやしげなものはとりあえずない。
「お茶でもいれましょうかね」
「あ、あの、おかまいなく」
台所に立っているおばさんは、外の威圧的な姿とはずいぶん違っていた。厚化粧もでっかい耳輪も、彼女の年齢を感じさせている。
「はーっ」
日本茶をひと口飲んで、おばさんはため息をついた。リリーちゃんが尻尾を振りながら膝《ひざ》の上にじゃれついているのを相手にしながら、おばさんは、
「幸せになれる、いい方法があるの」
とウインクしながらいった。
「はあ」
「お金もかからないし、本当に元気が出るのよ」
「はあ」
「これまでも、自殺しようとした人とか、借金に苦しめられている人とか、あなたみたいに失恋した人とか、たくさんの人がやったけど、ここに来たときはみんな背中を丸めていたけど、帰るときは明るい顔で帰っていったよ」
「そうですか」
「さ、ちょっと、やってみましょう」
おばさんは、よっこいしょとつぶやいて立ち上がり、じゃれつくリリーちゃんを、
「ちょっと待っててねー、ママはお仕事しますからねー」
と猫なで声でなだめて、座布団の上に座らせた。
「はい、あなたも立ってぇ」
私は首をかしげながらも、つい立ち上がってしまった。不思議なことに、彼女の声を聞くと、そのとおりにしなければいけないような気になるのだ。
「手を上に上げて、そのまま手のひらを合わせて、胸の前まで下ろす。はい、いいですよー、そして、そのまま、顔を上に上げてぇ、腹の底から声を出しますよー。わっはっはっはっ、わっははーい! さあ、もう一度、元気よく! わっはっはっはっ、わっははーい」
おばさんは耳をつんざくような大きな声て、わっははーいを連発した。あまりのことに私は声も出ない。
「どうしたの、元気ないねぇ。ま、いいや。じゃ、次ね。はい、両腕を肩まで上げてー、そこでひらひらさせる。顔を右にむけて、はい、右にむかって歩きますよー。はい、声を出しながら、るりるり、るーんるん、るりるりるーん。はい、今度は左……」
これはまるでコントである。どんなに深刻に悩んでいたって、「わっははーい」に「るりるりるーん」と叫ばされたら、全身の力が抜けてしまうだろう。
「ねっ、体がスッキリ、気分が明るくなったでしょ」
「はあ」
「何よ、若いのに、元気がないねぇ。うじうじしたってだめよ。男は戻ってこないんだから。次のことを考えましょ。明るくしていれば、明るい未来が待ってますよー。さあ、もう一回!」
私は来るんじゃなかったと後悔しながら、六畳間でおばさんと向かい合って、わっははーいとるりるりるーんを繰り返した。リリーちゃんは私たちの姿を見て、とびはねて喜んでいる。
そのとき、ゴンゴン、とドアをノックする音がした。おばさんが出ると、かすかに、うるさい、何度、迷惑、という単語が耳に入ってきた。おばさんは、どーも、すみませんとぺこぺこ頭を下げていたが、ドアを閉めたとたんに、
「いつも、ああなのよ、お隣の人。私には黙ってるけど、あの人、絶対、若いころ亭主に逃げられてるね」
「はあ」
私はぬぼーっとその場に立ちつくすしかなかった。
「わかった? これ、一日、十回ずつやってね」
(ひぇーっ、十回もこんなアホなこと……)
「それともう一つ。ちょっと格好《かつこう》が大胆だけど、ま、女同士だからいいわね」
おばさんは畳の上にあぐらをかいた。
「あっ、あの、あの」
私があせっているのにもかまわず、ぐわっと股《また》を開いている。ぶ厚い冷え予防の肉色の膝丈パンティが丸見えだ。
「いい? こういうふうに、股をしっかり開いて、へその下に手を置いて、今度は声はなしで、息だけを力強く吐きますよー。はいっ、ふおっふおっふおっ……」
おばさんの体が息を吐くたびに大きく揺れた。
「どお?」
おばさんの顔面は脂浮きして、てらてらと光っていた。しわの間によれたファンデーションが溜《た》まっている。
「はあ」
「コツは股をぐわっと開くことよ! ぐわっとね!」
「はあ」
こんなことで、高額なお金をとるほうがサギだ。
「この三種類をやれば、体の中が浄化されて、精神も清らかになるんだ。ねっ、見ているだけで明るい気持ちになってくるでしょ」
もう明るくなりすぎちゃって、頭の回転がゆるくなりそうだ。
「ぜひ、やってね!」
おばさんは目を輝かせ、息をはずませて私の目をのぞきこんだ。
「はあ」
失恋した女が、ひとりマンションの部屋の中で、わっははーいだの、るりるりるーんだの、ふおっふおっふおっだのやっているほうが、ずーっと変ではないか。
「そろそろ、失礼します」
私はものすごくもったいないと思ったが、彼女にお金を払うために、財布を開けた。ところが、飲んでしまったために、二千円しかない。
「あのー、すみません、これしかないんですけど……」
私はウソをついて、千円札一枚をおばさんに渡した。
「えっ」
おばさんははじめて、暗い顔をした。心底、がっくりしているみたいだった。
「友人と飲んだ帰りなもので……」
「そう。……じゃ、しょうがないね」
声にも力がない。
「じゃ、さようなら」
「はい、どうも」
バタンとドアは閉められた。夜もふけると、春になったとはいえ、まだ寒い。私は早足で帰り道を急ぎながら、あのおばさんは今ごろ、暗くなった気持ちをふるいたたせるために、例のわっははーいとるりるりるーんと、ふおっふおっふおっをやっているんだろうなぁ、と思った。そして、千円札をちゃっかり残した自分の図々しさを考えると、これから何があってもふてぶてしく生きていけるような気がしてきたのである。
第七話 ジンクス
私はお金を貯《た》めるのが好きだ。大好きだ。幸か不幸か、夫の給料も多くないために、貯まるのは微々たるものだが、それでも通帳の額が増えていくのは楽しい。いや、少ない給料から貯金をしていくのが、大きな喜びといってもいいのである。結婚前のOLをしていたときの私も、お金を貯めるのが好きだった。会社にひと目で胃が悪いとわかる、青黒い顔をした銀行の営業がやってきたことがある。彼が、
「お願いしますよー、ねー、積み立て、して下さいよー」
とみんなの席を回っているときも、まじめに相手をしていたのは私くらいのものだった。他の子はいやいや、
「じゃー、あたしは五千円」
「んー、困ったなー、三千円でいい?」
などといっていたのに、私は十四万円の給料から、どーんと五万円も積み立てていた。アパートの家賃も払わなきゃならないから、ボーナスを含めて、ギリギリの生活だったが、ひと月五万円、一年で六十万円。二年で百二十万円、三年で百八十万円。特に他に趣味もない私は、アパートの部屋で通帳を眺めるのがいちばんの楽しみだったのだ。そんな私にプロポーズしてきたのが、同僚だった今の夫である。他の女の子が、服だ旅行だとお金を遣っているのに、私は地味なしっかり者に見えたらしい。いざ結婚したら、
「こんなに小遣いを切りつめられるとは思わなかった」
と泣いていたが、
「浪費癖のある女よりはマシだ」
とあきらめていた。何でも学生時代にとんでもなく金遣いの荒い女の子とつき合い、どこをどうやっても、ちりひとつ出ないほどむしられたといっていた。その反動で、私には貯金関係をまかせ、彼は小遣い一日千円という厳しい状況にも、じっと耐えているのである。
私は結婚後、新しい楽しみを知った。それは貯金と連動する楽しみ、懸賞である。子供が生まれたとき、私はじっと家にいて、週刊誌、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ漬けの毎日を送っていた。もちろん雑誌の類は図書館でタダで借りてくる。ビービー泣く子供がやっと寝てくれて、ほっとしながら新聞を見ていたある日、「化粧品のトライアルセット、プレゼント」という文字がとびこんてきた。全く知らないメーカーだったが,無添加、無香料だと書いてあったので、年賀状の残りもあったことだし、軽い気持ちで応募した。ところがそれが大当たりで、結構、ちゃんとした製品が送られてきた。それまで私はクジ運がないと思っていた。宝クジも当たったことがないし、町内の福引きでティッシュ以上のものをもらったことがない。
「私にも当たることがあったんだ」
ものすごくうれしかった。おまけにハガキ代はかかるものの、ほとんど丸もうけ状態だ。
「これしかない!」
私は心に決めた。そしてすぐに郵便局に行き、広告つきのハガキを買ってきた。
「これはすぐなくなっちゃうんです。運がよかったですねえ」
窓口の女の子に運がいいといわれ、私は逆上して百枚買った。運がいいということばは何よりもうれしい。私はそれから、目を皿のようにして、懸賞をチェックした。すると、あるわ、あるわ、靴下から車まで、人間の生活に必要なものが、すべて懸賞品のなかにあったのである。
まず、運だめしにバッグの懸賞に応募した。買物袋とハンドバッグの中間みたいなデザインはおばさん向きだったが、そんなことをいってはいられない。腐るわけじゃなし、押し入れにいれておけば、すぐ使える年齢になるだろう。当たらなくても、これだったらそんなに惜しいとも思わないし、と思いながら、ハガキを一枚送った。ところが何と、三週間後に、そのおばさんバッグが送られてきた。写真うつりのほうがずっとよかったが、それでもうれしかった。歳をとっても使う気にならなかったので、実家の母にあげたら、とっても喜んでいた。
「よし、やるぞ」
ますます勇気がわいてきた。夫も、
「タダでもらえるものは、何でももらえ」
と応援してくれたこともあり、私の懸賞熱はどんどん高まっていったのである。
「私、懸賞にハマッてんのよ」
友だちに電話をしたら、意外に彼女も、
「あー、あれはやみつきになるらしいね」
という。私は欲しくて欲しくてたまらなかった、親子ペアのレインコートの懸賞にはずれた悲しさを彼女に訴えた。十枚、ハガキを送ったのだが、首を長くして待っていた私に届いたのは、
「ご応募ありがとうございました。残念ですが、選にもれたため、商品はお送りできないことと相成りました」
という、ていねいな挨拶状《あいさつじよう》一枚であった。
「物量作戦でいかなきゃだめなのかしら。今度、ワープロの懸賞に応募して、手に入れようかと思ってるんだけど」
すでに私は、懸賞に当たってうれしい、というのとは違うところにいた。当てなければいけないと、必死になっていたのである。
「あーら、それはダメみたいよ」
団地に住んでいる友だちは、あきれた声でいい放った。
「どうして」
「うちの団地にもさ、あなたと同じような人がいるんだけど、あれは手書きに限るっていう話よ。それと何十枚も出してもダメみたい。ま、物にもよるらしいけどね」
「へえ」
「心をこめた手書きが一番らしいよ。物量作戦は懸賞道に反するんだって」
「懸賞道ねえ……」
私はちょっと反省した。物に目がくらんでしまった自分がちょっと情けなくもあった。娘もこのごろは、紙があると鉛筆やボールペンを握って、何やら書く真似をし、
「ポチュトにポイ、ポイ」
といったりする。私のやることをちゃーんと見てるのだ。
「そうだわ。あさましくなってはいけないのだわ」
私は友だちの話してくれたことをしっかと心に刻み、心をこめて、一件につき一枚、ハガキを書いた。でも、やっぱり不安になる。
私は団地の友だちに、翌日、また電話した。
「ねえ、例の懸賞のことなんだけど」
「えっ、ああ」
彼女は投げやりに答えた。
「あなたのお友だちっていう人、どういうふうに応募してるのか、詳しく教えてくれない?」
「えーっ、あたし、よく知らないのよ。電話番号教えるからさ、悪いけど、電話して自分で聞いてくれる?」
電話口からは、ギャーギャー泣きわめく子供の声がした。私は番号を教えてもらい、彼女の家に電話した。
「はい、シマダでございます」
「あのー、私、オカムラさんから電話番号を教えていただいた、カナモリといいますが、あのー、私、懸賞が好きなんですけど……」
「はあ」
しどろもどろになって、やっと事情を説明し、話をわかってもらった。
「私、とくにやってることはないんですけど、縁起っていうのかしら、ジンクスはありますよ」
「え、ジンクス?」
「ええ、私の場合は、ハガキを出す日は、すべて左手、左足を優先して使うんですよ。歯を磨くのも、食事をするのも左手。靴下をはくのも、家を出るのもぜーんぶ左足からにしてるんです。そうすると、これがね、当たるんですよ」
シマダさんは意味ありげに、しまいには小声でいった。
「あの、あの、それで今までで当てた、いちばん大きなものって何ですか」
「ほっほっほっ。まー、懸賞とは違いますけどね、別荘ですかしらね」
「えーっ! 別荘」
何でも建物のみを格安で販売、という話に応募して、見事、大当たり。ご主人のご両親所有の土地に建てたということであった。
「ばかばかしいとは思うんですけど、やっぱりやらないと気になっちゃって」
彼女は明るく笑った。すべて左手、左足を使って別荘が当たるんなら、一生、左ききで過ごしてもいい。そしてこのジンクスは彼女には通用しても、私に効果があるかどうかはわからないのだ。どうしてレインコートが当たらなかったのかと、冷静に考えてみた。そのときは娘の具合が悪く、病院に連れていく途中に、ハガキを投函したのを思い出した。それまで当たったハガキを出したときのことを考えると、家族に病人はいなかった。おまけに天気は晴れていた。レインコートのハガキを出したときは、大雨だったのである。
「そうか、そうだったのか」
私は懸賞応募状況を控えているノートの表紙の裏に、
1、病人がいるときは投函禁止
2、天気が悪いときも投函禁止
と書いた。
それ以来、私は懸賞ハガキを送るたびに、この二つのジンクスを守った。おかげで娘の帽子、夫のベルト、私にはスカーフが当たった。気分をよくしているところへ、また、バンバン当選通知が舞い込んだ。靴、ステンレス鍋、そのうえ羽根布団まで。最初は小物が多かったのが、このごろは大物が当たりまくる。
「ほら、見て」
酔って帰ってきた夫に自慢すると、
「よーし、よくやった!」
と賞められ、
「もっと運をつけてやろう」
とずるずると布団の中にひきずりこまれてしまった。三年前に出産してから、はじめてであった。ところがこれで運がついたのかわからないが、それから連勝続きだった。電子レンジ、携帯電話、洋食器一式、などなど、我が家はどんどんグレード・アップしていった。私は控えノートに、
3、SEXして運をつけよ
と書いた。夫に、
「あれから全勝よん」
というと、彼は、
「何が?」
とぽかんとしていた。
「何って、ほら、あの夜からってことよん」
「はあ?」
彼はあの夜のことは何ひとつ覚えていなかった。
「ねー、大当たりするんだけど……」
そういいながら、懸賞で当たったピンクのネグリジェを着て、腰をくねくねさせても、彼は、
「ふん」
と鼻でせせら笑って、夕刊を読みはじめた。
「ねーん、当たるのよーん」
もう一回、プッシュしてみたが、夫は完全に私を無視していた。
「いいわよ、もう。これで当たらなくなっても、知らないからねっ」
何も答えは返ってこなかった。
夫に無視された私は、見事に運から見放された。ちゃちなレター・セットですら当たらなくなった。もちろんハガキはどんどんなくなっていき、見返りはない。やっと当たったのは、お笑い公開番組の入場券だけだった。もちろん気分は最悪だ。
「これも、あの人が私を相手にしなかったせいだわ」
せっかく上り調子だったので、このまま負け続きだったら、いったいこの責任はどうとってくれるのか。一生懸命、懸賞で当たったものを、買ったことにして貯金しているというのにだ。
「こういうことは、夫婦が一致協力しなきゃできないのに。わかってないのよ、あの人は」
こんななかでハガキを出しても、当たるわけがない。勝率はますます悪くなるばかりで、家計費は持ち出しが多くなってきた。以前はお米券が当たったり、ホテルの缶詰セットや、お野菜ダンボール一箱分、一年間宅配プレゼントの恩恵をこうむっていた。ことごとくどれに応募してもハズレてばかりだ。
「このごろ、お前、静かじゃないか」
妙な気配を察してか、夫が珍しく声をかけてきた。
「ふんっ」
無視していると、
「どうしたんだよ」
としつこく聞いてきた。
「当たんないのか」
「そうよ!」
「お、大声を出すなよ」
「何いってんの、あなたのせいじゃない」
「えっ……、どうして……」
「ツキがなくなったのよ。私のこと無視するから」
「してないよ」
「したわよ、この間」
「何いってんだよ。あんなことくらいで……」
「あんなことくらい、じゃ、なあい!!」
私は思わず大声を出してしまった。娘がびっくりして、「ママ」と小さな声でいいながらすり寄ってきた。
「あれ以来、ぜーんぜん、当たらないのよ。なーんにも。あれだけ当たってたのに。もう信じられないくらい」
「それがおれのせいなのか」
「そうよ」
「ふーん。でも本当にそうなのか?」
「だって、現実にハズレてばかりだもん。このままだったら貯金だってできないわよ。給料だって安いままだし。寝るくらい、いいじゃないよ、夫婦なんだから」
「そうはいってもなぁ……」
彼はポリポリと頭を掻《か》いた。見ると髪の毛にフケがいっぱい浮いている。
(あーあ、こんな汚い男に、こんなことをいわなきゃなんないのか)
悔しくなって涙がじわっと出てきた。
「あ、泣いてる」
私がこんな思いをしているのに、彼はこちらを見てつぶやきやがった。
「きーっ」
手近にあった花柄のクッションを、彼の顔めがけて投げつけた。懸賞で当たったものだ。
「や、やめろよ」
彼は左手で顔をおおい、右手でクッションを払いのけた。私は逆上し、新聞、雑誌、ハガキ、ボールペン、しまいには自分がはいていたスリッパも投げつけた。
「わ、わかった、わかった」
投げつけられたスリッパを手に、彼は肩で大きく息をした。
「すればいいんだろ。すれば」
あらためてそういわれると、まるで私が欲求不満みたいな気になってくる。
「そんないいかたしないでよ」
「したくもなるよ」
お互い気分が盛り上がらないまま、私たちは布団の中に入り、ちっとも面白くない夜を過ごした。彼も、
「あーあ」
といい、私も、
「あーあ」
とため息をついた。こんなにつまんないのははじめてだった。義務で寝なきゃならないのって、本当にむなしい。
「これで懸賞に当たるんだろうな。本当だろうな!」
彼は恐ろしい顔で私をにらみつけた。
「だ、大丈夫よ。まかせてちょうだい」
これでハズレたりしたら、懸賞どころか、夫婦仲まで悪くなる。私は根性をいれてハガキを書きまくった。目につくものは何でも、必要、不必要、関係なく、手あたりしだいにハガキを送った。ところが、今までのツキの悪さはどこへやら。うちには誰もやらないのにゴルフウェアやゴルフクラブ、将棋《しようぎ》セット、園芸用具一式が、じゃんじゃん送られてきた。そして、とうとう軽自動車まで当たってしまったのである。
「わーい、わーい。まっかなくるま」
娘はアパートの前に駐《と》められた車を見て、大はしゃぎだ。
「ふふーん」
私も鼻高々である。
「ね、効果があったでしょ」
「そうだなあ」
彼も目を丸くしていた。ツキはとどまるところを知らず、グアム旅行、台湾旅行と、続続、大当たり。
「わーい、わーい」
ついこの間、寝る、寝ないで大モメしたことがウソのように、夫婦仲はよくなった。団地に住んでいる友人から、テレビで懸賞マニアを探しているので、写真を貸してほしいと電話があった。
「とうとうテレビ出演か。懸賞に応募してると、こんなにラッキーなおまけもあるんだわ」
と喜んで写真を渡したけれど、それっきりになった。私が出演するはずの番組にチャンネルを合わせたら、私より懸賞当選経験は浅い、きれいな女の人が出ていた。
「ふん」
私はテレビを横目で見ながらハガキを書いた。車でさえ当たったのだから、もう何でもイケるに決まっている。
「おしっ」
ハガキをポストに入れる前には、気合いをいれる、というのもジンクスに加えた。何気なくやったときに、娘用の机とタンスが当たったからだ。これでランドセルが当たれば、二年後の娘の小学校の入学準備は完璧《かんぺき》である。私には高級化粧品、ワンピース。彼にはスーツ、ジョギング・シューズが当たった。私の手にかかれば、もう当たらないものなんかないように思われた。彼も、
「本当に本当だったな」
と感心ばかりしていた。
そんなとき、私の目を奪ってしまった商品があった。ピンク色の訪問着である。
「これ、ぜったい欲しい!」
裾《すそ》のほうにぼたんが描かれていて、うっとりするくらいきれいな着物だ。市価七十万円の品というのも、私の心を強く動かした。
「これをハガキ代だけで、手に入れてやる!」
私はもっとツキを上むきにするために、ピンクのネグリジェで、彼に、
「ねえーん」
と迫った。
「えっ……また?」
彼はおびえた。私は着物をぜひ手に入れたい、ここであなたの力を借りなければならないのだ、と切々と訴えた。
「うーむ」
彼は困った顔でうつむいた。
「どうしたのよ!」
「疲れがたまってるんだ、このごろ」
「そんなの何よ、赤まむしドリンクでも、鼻血が出るくらい、飲ませてあげるわよ」
「それになあ、下痢気味なんだ……」
家族が健康でなければならないのに、この大事なときに何ということだ。
「えっ、きついの?」
「けっこう、きつい」
「もー、やだ、やだ、やだあ」
私はいそいで近所の薬局にドリンク剤を買いにいった。そして家の救急箱から胃腸薬を出して、彼の口の中につっこもうとした。
「やめてくれぇ」
「何いってんの、早く治してくれなきゃこまるのよ。明日の消印まで有効なんだから!」
「かんべんしてくれよぉ、ふんばるとミが出そうなんだよお」
「きーっ、だからこの薬を飲んで、早く治してってばあ、早く」
私は自分でもわけがわからないくらい、必死になっていた。そしてふと気がつくと、彼を押し倒してその上に馬乗りになり、彼の口の中に薬とドリンク剤を流しこんでいたのであった。
第八話 小 指
私が勤めているのは、不動産屋である。就職して一年がすぎた。学校の卒業を前に、就職活動をはじめようとしたとき、郷里にいる両親が、
「伯父《おじ》さんの知り合いに、とてもまじめな不動産屋さんがいて、事務の女の子を募集しているから、そこにいけ」
といってきた。私はもっと華やかで、会社の帰りにショッピングができたり、こぎれいなレストランが近くにたくさんある会社がいいなと思っていた。ところが私の憧《あこが》れの会社に勤めている先輩に話を聞くと、実際は大違いだった。みかけほど給料はよくなくて、毎日、お弁当を持っていっている。同じ服を着ていくと、うるさい先輩のおばさん社員が、
「あーら、昨日と同じ服ね。もしかして下着まで同じじゃないの」
と嫌味をいい、毎日着替えていくと、
「あーら、衣装持ちね。そんなにお給料がいいのかしら」
とまた嫌味をいわれる。
「おばさんたちが、うるさくて大変よ」
先輩が心底、嫌そうにいっていたので、私はちょっとびびった。
「噂《うわさ》は年中、渦を巻いているし、あることないこといわれるし。いい加減やめたいわよ」
私はただ、はあはあとうなずいて聞いているだけだった。
私は子供のころから、プレッシャーに弱かった。先輩がいるような環境で、何事にもめげずに、自分自身でいられるとは思えなかった。
「いったい、どういうところに就職したいの」
そうたずねた先輩に、私は、
「勤務時間がきっちりしていて、給料がよくて、かっこいい男の人がたくさんいて、上司が素敵で、みんないい人ばかりのところ」
といった。
「はあーん」
先輩はあきれた顔をした。そして、
「いっとくけどね、そんな会社、世界のどこを探してもないからね!」
ときっぱりといい切った。
「そうですか」
「当たり前じゃないの。いい歳して、そんな甘ったれたこといってんの」
「でも、東京にはたくさん会社があるし、ひとつくらいはあるんじゃないでしょうか」
「まあ、あるかもしれないけどね、そういう会社が、あなたみたいな人を欲しがるかが問題だわね」
そのとおりだった。
「あなたは実家に帰ったほうがいいんじゃないの。そのほうがむいているような気がするけど」
先輩は煙草に火をつけて、首をかしげた。
「はあ」
それも嫌だった。郷里には私の胸がときめくものは何もない。山があって川があるだけだ。たまに帰ったときは、
「自然っていいな」
と思うけど、それを毎日眺めながら暮らすのは嫌だった。やはり華やかな洋服や、雑貨を目にしていたかったのである。
親は私を実家に戻したがったが、私が抵抗すると、その不動産屋の話を持ってきたわけなのだ。
「なんでも勤務時間は朝十時から夕方六時までで、残業はないし、そんなに忙しくないから、会社にいて電話をとったり、お茶をいれたりすればいいらしいのよ。なんでも社長さんは、親からひきついだ駐車場をいくつも持っているらしいわよ。社長さんと営業の男の人と、今は二人だけで、意地悪な女の先輩にいじめられることもないし。この間、事務の女の子がやめたから、人が欲しいんですって。お給料だって、それほど悪くないみたいよ」
ふだんは無口な母がよく喋《しやべ》った。先輩からは、就職の面接のときに嫌な思いをした話を山ほど聞かされた。それを聞いていたら、とてもじゃないけど、就職戦線をのりきる自信もなくなった。現実にじっと耐えて、自分の希望を貫くか。それとも、親のすすめる安楽な就職口を選ぶか。友だちも暗い顔をしていた。きっと解禁になったら、もっと暗い顔になるだろう。私は悩んだ末、親のいうとおり、試験も何もない、私鉄沿線の不動産屋に就職することにしたのである。
うちの社長は五十歳。細身でとりたてて印象のない人だ。いちばん最初に会ったとき、彼は私の爪先《つまさき》から頭のてっぺんまでを眺め、
「これはまた、東京に二年間いたとは思えないお嬢さんだねえ」
といった。私は育ちがいいとほめられたのかと思い、喜んで友だちに話したら、
「ばかね、あなた。それはダサイっていう意味なんじゃない」
とあきれられた。独身の社長はやや白髪まじりの直毛をきっちりと分け、貧弱な体つきをしていた。煙草も酒もやらない。友だちには、
「もしかして、そのうち不動産屋さんの奥さんになるんじゃないの」
とからかわれたりもしたが、そんなことなど、これっぽっちも考えられないくらい、本当に何の印象も受けない人だった。一方、社員の三十五歳のマルヤマさんという男性は、メキシコの人みたいに顔の造りが濃かった。ひょろりとした社長と、体格のいいマルヤマさんが一緒にいると、日本人にもいろいろなタイプがいると思わざるをえなかったのである。
私は社長に怒られたことがない。朝、開店の十五分前に出勤したら、すでに社長は来ていて、店の前を箒《ほうき》で掃いていた。
「あの、私がやりますから」
びっくりしてかけ寄ると、彼は、
「いいんだよ。今日は何だか掃除をやりたい気分なんだ」
といって、丁寧に掃き清めていた。商店街の顔見知りの人が通りかかると、その体からは想像もできないほど大きな声で、
「こんにちは! いいお天気ですね!」
と挨拶《あいさつ》した。そんな姿を見たマルヤマさんは、私の耳元で、
「社長ってさ、ぜったい子供のときにシーモンキーを飼ってたタイプだよな」
といった。私はシーモンキーとやらを見たことがないから、どういうタイプが飼うのかわからなかったが、私の仕事を奪われるのは、うれしいというよりも、困ったような気分であった。
お客さんの案内など、外まわりはすべてマルヤマさんがやっていたので、社長と私はいつも店内にいた。バブルがはじけてから、めっきりとお客さんが少なくなったということで、学生の移動の時期以外は、来るお客さんなど、ほとんどいない。
「こんな狭い店にいると、息がつまっちゃうよ」
と私にグチをいっていたマルヤマさんは、近所のパチンコ屋で暇をつぶしていた。用事があったら、ポケットベルで呼び出してもらうようにしたいと、社長に申しでて、
「いいですよ」
とOKをもらったのだ。私は毎日やる仕事はあるが、社長は特別ないようで、飼っていたセキセイインコのタロウちゃんを、家から連れてきた。そして鳥籠《とりかご》を机の上に置き、
「タロウちゃん、これからずっと一緒だからね」
などと、暇さえあれば話しかけていた。
「動物ってかわいいよね」
社長はいった。
「そうですね」
私もお愛想をいった。
「何か飼ってるの」
「今はワンルームですから飼えないんですけど、実家には猫がいます」
そういったとたん、彼は、
「えっ、猫?」
と嫌そうな顔をした。
「猫なんてよく飼えるね」
「そうですか、かわいいですよ」
「えっ、かわいい?」
彼は信じられないというような目つきで私を見た。
「ええ、人間のいうことはわかるし。家族と同じですね」
彼は黙っていたが、しばらくして、
「猫は嫌いだ」
とつぶやいた。
「前に飼っていた文鳥のピーも、カナリアのチビも、みんな猫にとられたんだ。この間だって、タロウがのら猫にやられそうになったんだよ。あんな残酷で野蛮な動物はいない」
彼は真顔《まがお》だった。自分のかわいがっていた鳥をとられたら、それは腹も立つだろうと思ったが、やはり私は猫も好きなので、
「そうですね」
と適当に相槌《あいづち》を打って、ごまかしていた。
閉店間際にマルヤマさんが帰ってきて、
「今日も何もありませんでしたね」
といっても、社長は、
「そうだねえ」
といいながら眼鏡を拭《ふ》いて笑っていた。それから何か雑談が続くのかと思ったら、マルヤマさんは、
「それじゃ、失礼します」
といって、店を出ていった。
「はい、ご苦労さん」
社長も別に不愉快そうな顔をしていない。あっけにとられていると、社長は、
「ほら、早く帰りなさい。勤務時間が二分、過ぎてますよ」
とうながした。私はあわてて帳簿を机の引き出しにしまい、
「失礼します」
と頭をさげて店を出た。
「はい、ご苦労さん」
私の前にはマルヤマさんが歩いていた。体格がいいからお尻も大きい。まるで丸太が歩いているみたいだった。道路を渡るとき、こちらを見て私がいるのがわかると、私が追いつくのを待って、
「たまには食事でもしていくか」
といった。はじめてだった。駅前の小料理屋でビールを飲み、雑談をしていると、彼が、
「ねー、うちの社長、どう思う」
と小声でいった。商店街の人も来ることがあるので、大声での会話は禁物だ。
「まじめだと思いますけど……」
「うーん、まじめねえ。まじめはまじめなんだよな」
彼はコップのビールを飲み干した。
「おれには都合がいいんだよ、あの人。だって、いくら客がこないからって、ふつうパチンコ屋にいって、暇をつぶしてるなんて、まずいじゃない。それでもいいっていうんだからさ」
「そうですね」
「人がいいっていうのか。まあ、なんていうかさ……」
そういってまた、彼はビールを飲んだ。
「どうして、社長は結婚しないんですかねえ」
「えっ」
マルヤマさんの顔がちょっと変わった。息をひそめてじーっと彼の目をみつめていると、
「それがさあ」
と口を開いた。ここで私は社長の失恋話を聞いたのだった。
「きみの前に勤めていた人はね、おれの今のかみさんなんだよ」
彼はひじきの煮物をつまんだ。
「ところがさ、社長もかみさんのことを気に入っててさ。それを知ったときは驚いたなあ。でも、おれは社長に勝つ気はあったけどね」
ふふふと彼は笑った。マルヤマさんは豪快に、気に入った彼女を、どんどん飲みに誘い、食事も一緒にした。ところが何回か会っているうちに、彼女が、
「社長が何度もマンションに来るの」
と困った顔で告白したので、それではじめて社長がライバルだということが判明したのである。夜、八時ごろ、
「こんばんは」
という声がするので、彼女がドアスコープからのぞいてみると、社長が立っている。仕事でミスをしたのかと、びっくりしてドアを開けると、彼は、
「あなたに渡したいものがあって」
といって、ケーキを持ってきた。だんだんそれがかわいいイヤリングになり、ブラウスになり、しまいには、鳥籠に入ったつがいの桜文鳥を彼女におしつけ、
「これを僕たちだと思って。かわいがって下さい」
とひとこといって、去っていったのだという。さすがの彼女も驚いてマルヤマさんに相談し、彼も仰天してあわてて結婚を決めたのだといっていた。彼女がやめた直後、彼は、結婚することを社長に話した。
「あのときはまいったよ。わなわな手をふるわせながら、顔は一生懸命に笑おうとしてるんだ。そして『二度、結婚できるなんて、本当にうらやましいなあ』って、とってつけたような大声でいわれたんだぜ。おれ、もう何もいえなかったよ」
マルヤマさんが再婚だったとは知らなかった。
「きっと最後のチャンスだと思ってたんじゃないのかな。それからだよ、ますます鳥にのめりこんじゃったのは」
彼の言葉どおり、社長はタロウちゃんを溺愛《できあい》していた。出社、退社もタロウちゃんと一緒。タロウちゃんがピーとかわいい声で鳴けば、
「あー、そうか、そうか。今日はご機嫌がいいんだねえ」
と目を細め、おとなしいと、
「具合が悪いのかい」
と本気で心配していた。おやつのクッキーを口にくわえ、タロウちゃんに口うつしで食べさせていることもあった。
「タロウちゃんは、本当にかわいいですねえ」
と誉めると、ものすごく機嫌がよくなり、早退を許してくれたりした。しかしふと彼の年齢を考えると、複雑な思いがこみあげてきたのである。
ある日、社長の座っている机を拭こうと、雑巾《ぞうきん》を持って近づいていった。
「はい、どうぞ」
いつものように、彼は私がここに来てから一度も置き場所を変えたことがない、書類のファイルを両手で持ち上げ、拭きやすいようにしてくれた。そのときふと彼の両手に目をやると、左手の小指の爪だけが長く伸ばしてあった。
「あら……」
思わず声が出てしまった。
「どうしたの」
「いえ、あの、何でもありません」
私はそういうことをしている男の人が大嫌いなので、ごまかそうとすると、彼は、
「隠さなくてもいいじゃない。いったい何なの」
としつこくしつこく聞いてきた。だんだん目が真剣になってきて、こわかったので、私は、
「どうして小指の爪をそんなに伸ばしているんですか」
とおそるおそる聞いた。すると彼はうれしそうに左手を見つめながら、
「ふふ、どうしてだと思う」
とちょっと笑った。
「わかりません」
郷里のめちゃくちゃ評判の悪い、町内のおやじが同じことをしていたので、私にはいい印象がない。たしかに最初に会ったときは、社長はこんなことをしていなかった。
「いや、ちょっとね。人から教えてもらったもんだから」
「はあ」
「どんなことか知りたい?」
「はあ、まあ」
「ふふ。そうか。でも教えてあげない」
そういいながら彼は、私にむかってウインクをした。私はのけぞった。
「意地悪をしているんじゃないんだよ。人に話すとちょっとね。いいことが逃げちゃうんだよ。ねー、タロウちゃん」
「はあ、そうですか」
彼はひとりでうれしそうにしていた。口には出さねど、僕にも秘密があるんだもーんということばを、体中から発散していた。五十歳の不動産屋の社長の秘密っていったい何だろう。ものすごいことのようにも思えるし、どうでもいいことのようにも思えた。
社長はそれからも、タロウちゃんと一緒に出勤し、籠を机の上にのせると、
「ほーら、ついたよ」
と話しかけていた。そのたびに私はちょっとだけ背筋が寒くなったが、マルヤマさんは知らん振りをしていた。珍しく地区の会合で社長がいなかった日、むかいの酒屋のおじさんがやってきた。
「うちのかあちゃん、友だちと旅行にいっちゃってね。鬼のいぬ間の洗濯だよ」
そういって彼は禁煙パイプつきの煙草をふかした。
「おたくも不景気だろうけどさ、社長さん、いい気分なんじゃないの」
おじさんはにやっと笑った。
「はっ」
「えっ、知らないの。もう町内じゃ評判だよ」
楽しそうにおじさんはいった。
「毎日、デートしてるらしいよ。若い子と」
「えーっ、それは誰ですかあ」
思わず大声が出た。
「いや、どこの誰かは知らないけどさ、若いんだよ。まだ二十歳かそこらじゃないかなあ。顔はかわいいけど、とにかく体がでかい子でね。隣のうどん屋のおやじなんか、口が悪いからさ、『あれは二子山部屋の力士じゃねえのか』なんていってんだよ」
社長と彼女は、この近辺でたびたび目撃され、商店街の格好《かつこう》の噂《うわさ》になっていた。時には腕まで組んでいるという。もちろんそのときもタロウちゃんが一緒らしいから、社長の片方の手はふさがっていることになるのだが。
「社長もいい歳だしね。若い子を嫁さんにしてさ、これからひと花、咲かせればいいんじゃないの」
そういっておじさんは、店に戻っていった。私はパチンコに飽きて戻ってきたマルヤマさんに、すぐ報告した。
「たしかに社長は太めが好きかもしれないけど、力士クラスまでいくとは思わなかった」
やっぱりあの小指の爪は、彼女の存在に関係があるのだろうか。社長はもったいをつけていたが、痒《かゆ》いときに掻《か》きやすいとか、タロウちゃんの餌《えさ》の袋のシールをはがすときにはがしやすいとか、そんなもんじゃないだろうか。
「それにしても、恋愛が似合わない人だよね」
マルヤマさんはつぶやいた。
「本当にそうですよね」
社長には恋愛をしてほしくない。悪いけど、恋愛という言葉が醸《かも》し出すロマンチックな雰囲気がぶちこわしになりそうだった。彼にはタロウちゃんを溺愛しているほうが似合っている。そう思いながらふと社長の机の上の鳥籠を見ると、タロウちゃんは、目をしょぼしょぼさせながら、ぼわーっと大あくびをしていたのだった。
第九話 ちちんぷいぷい
私の結婚が決まったとき、家を出るつもりでいたのを必死に引きとめたのは、五十四歳の母と八十歳の祖母だった。母と祖母と私で一軒家に住むようになって、七年になる。女三人の生活は、気がおけない反面、面倒くさいことも多かった。私はそんな状況から逃げるチャンスと喜んだのだが、母と祖母は逃げようとする私の足に、しがみついてきたのである。
夫となる人は、幼いころに母親を亡くし、父親も一年前に他界していた。私と同年輩の彼は、
「僕はどっちでもいいよ。君の好きなようにしたら」
とのんびり構えていた。
「そんなこといったって、うちの母や祖母と暮らすのは大変よ」
「ふーん」
認識の甘い彼に、私はどんな生活を送ってきたかを説明した。着る物のこと、料理のこと、その他、どうでもいいことでいちいちもめる。あるときは母が買ってきた一枚のブラウスを発端に、二時間も喋《しやべ》りまくる。それが、隣からもらった土産物のまんじゅうであったり、テレビショッピングの押し入れケース五個セットだったりする。二人のおしゃべりセンサーに、ぴっと反応するものを手にすると、延々とおしゃべりがとぎれることがないのである。
彼女たちの孫、娘である私ですらうんざりするのに、そのなかに男性がまぎれこんだら、びっくりするに決まっている。おまけに彼はひとりっ子で、母親を早く亡くしているし、女性に対して勘違いをしている可能性もある。
「女三人だからって、優しくしてくれるとは限らないのよ」
私は念を押した。
「うん、君を見てるとわかる」
「…………」
私は特別、女っぽい格好《かつこう》もしないし、
「ねえーん」
と男性に甘える質《たち》でもなかった。
「きっと、こき使われるよ」
「うん、いいよ」
「知らないよ、そんなこといって」
「男手が足りないから、不便なことだってあるんでしょ。僕、大工仕事なんか、結構好きだし、得意なんだ」
「そんなこと、口が裂けたっていっちゃだめよ」
私の頭のなかには、金槌《かなづち》を手にして、家の中をうろうろする彼の姿が浮かんだ。大掃除のときはタンスを移動する姿。台風のときはずぶ濡《ぬ》れになって、家の外回りを点検する姿。大雪の日は雪かきをする姿。火事のときは祖母を背負い、母の手をひいて逃げる姿まで浮かんできたのである。
母と祖母は別居の話を持ち出すと、
「あーら、私たちは一緒に住んでも、ぜーんぜん、あなたたちのことは邪魔しないわよ。ねーっ」
と顔を見合わせた。ここで私ががんばらねばと説得すると、しまいには、二人は結託して、
「年をとったばあさん二人を、置き去りにするのか」
と泣き落とし作戦に出た。
「みんなで一緒に住むのが、私の夢だったんだよ。やっとそれがかなうと喜んでいたのに……」
祖母はがっくりと肩を落とした。母は母で、
「あんただって、勤めを続けるんだったら、一緒に暮らすほうが楽でしょう」
と私のスキをぐいぐいとついてきた。たしかにそのとおりだった。今だって御飯は母に作ってもらい、部屋の掃除もたまにやってもらっている。その代償として、母のお喋《しやべ》りや、祖母の愚痴に付き合うのも、仕方ないと思ったりしてたのだが、こういう生活を続けていた私は、ちょっと別の生活もしてみたかった。もちろん、朝起きて、家事をするというのは、今よりも辛いことである。でもそれには代えられない生活が、私を待っているような気もしたのだった。
「だからさあ、僕はどっちでもいいんだよ」
私が相談すると、彼はいつも同じことをいった。
「自分でも決められないのよね」
「ふーん。じゃあ、僕に決めさせて、もし何かあった場合、僕のせいにするつもりなの」
「まっ、そんなことするわけないでしょ。やめてよ」
「だって、自分で決めればいいじゃない。僕は君の耳にたこができるくらい、『どっちでもいい』っていってるんだからさあ」
彼はのんびりといった。
「本当に、あの二人と同居してもいいのね」
「いいよ」
「ほんとーに、いいのね」
「いいっていってるだろ。うるさい!」
とうとう彼は怒った。私はそれからしつこくしつこく考えたあげく、目先の楽なほうを選んで、彼女たちとの同居を決めたのだった。
二人は大喜びで、にこにこ笑いながら話をしていた。何をそんなに話しているんだろうかと聞き耳をたてていたら、
「これで安心できるわねえ。女所帯だからって神経質になることもなくなるし。そうそう、物置の屋根が壊れかけているから、直してもらいましょうよ」
「あたしの使っている座椅子《ざいす》の具合もよくないんだよ。ちょっと見てもらいましょうかねえ」
「私は植木鉢を置く棚を作ってもらいたいの。いろいろ見たんだけど、気にいったのがなくって」
二人ともいいたいことをいっていた。
「ちょっと、彼は私の夫なんですからね。お母さんやおばあちゃんのお手伝いさんじゃないのよ」
思わず口をはさむと、二人は、
「あーら、そんなことわかってるわよん。あなたの旦那さんってことは、私たちの息子、孫ってことでしょ。お手伝いさんなんて、とんでもないわ」
心からそういっているとは、とてもじゃないけど思えなかった。
「これからは楽ができるわ、ラッキー」
といいたげなのが丸出しだった。
「覚悟してね」
何度も念を押す私に、
「わかった、わかった」
と彼はうるさそうに答えていた。
問題もなく結婚式が終わり、私たちと彼女たちの同居が始まった。二階の二部屋を私たちが使い、一階を母と祖母が使うことになったが、玄関、台所、風呂は共同である。これが夫の家族との同居となると、
「二世帯仕様にしてほしい」
と奥さんから要求が出されたり、嫁ぎ先が気を遣って建て替えたりするものだが、うちの場合は、
「このままで問題ないわよね」
という母のひとことで、どこもなおさず、ただ彼がうちにやってきただけだった。
心配している私をよそに、母と祖母は有頂天《うちようてん》になり、
「たっちゃん、たっちゃん」
と彼の後をくっついて歩いていた。彼もそんなことをいわれたことがないもんだから、顔をでろんでろんにゆるめて、
「はい、何ですか」
とうれしそうにしていた。
「ねー、たっちゃん。私、デパートで買物がしたいの。いつも手近なデパートですませているんだけど、たまには横浜のほうにも行ってみたいのよね」
と母がいえば、彼は、
「ああ、いいですよ」
といって運転手をかってでる。それを聞きつけた祖母は、ふだんは、
「あっちが痛い、こっちが痛い」
と文句ばかりいっているくせに、
「あたしも行く」
といって、着物を着替え始める。すると母は、
「何もおばあちゃんまで、ついてくることはないじゃないの」
といい、そういわれた祖母は、
「私をのけものにした」
といってむくれてしまう。そんななかで困った顔をして笑っているのが、彼なのであった。
(あーあー、やっぱりなあ)
嫌われているよりは、好かれているほうがいいとはいえ、ほとんど彼は母と祖母のおもちゃと化していたのである。
あるときは例の物置の修繕のために、屋根の上に登らされた。高所恐怖症の彼は、母に、
「ねっ、おねがーい」
といわれ、仕方なく梯子《はしご》を登っていったが、手足はわなわなとふるえていた。金槌を片手に、へっぴり腰で屋根をつたっていくと、母が、
「男でしょ、しゃきっとしなさい。しゃきっと!」
とはっぱをかける。それを聞いた祖母は、縁側から、
「そうです。人間は腰が大事ですよ。ほら、たっちゃん、腰がひけてますよ」
と活をいれる。
「は、はいっ」
彼の声は震えていた。いくら下からいわれても、だめなものはだめだ。
「ひーっ」
いつまでたっても、腰がひけている彼の姿を見て、母と祖母は、
「まっ、だらしがないわねえ。男でしょ!」
といった。私はまけじと、
「無理しなくていいのよ」
と声をかけた。
「あ、ああ。大丈夫」
全く大丈夫そうじゃなかった。
どうにか修繕を終えて戻ってきた彼は、汗まみれになっていた。
「はい、ご苦労さま。やっぱり男手があると便利がいいわねえ」
母は、彼が持っているコップにビールをついだ。彼の腕がまだ震えているのを見て、
「まあ、そんなに怖かったの。はっはっは」
と笑った。私は本当に腹が立った。それでも彼は、
「高い所は苦手なものですから」
といいながら、頭をかいている始末だった。このままでは、彼はいいように使われてしまう。これはきっちりと私が、母に話をしておかなくては、と思った矢先、母はクモ膜下出血で亡くなってしまったのだった。
あまりのことに私たちは呆然《ぼうぜん》とした。祖母は、
「あんなに元気だったのに。本当なら私のほうが先にいく番だったのに」
と泣いた。お葬式の準備もしなければならないので、私と彼は泣いている祖母を慰めつつ、事務的にもろもろの雑事を処理せざるをえなかった。葬儀のときも、彼がいてくれたおかげで、とても助かった。祖母は、
「たっちゃんがいてくれて、よかったねえ」
とまた泣いた。彼も、
「結婚早々、こんなことになろうとは」
といって泣いていた。
八十歳の祖母と、三十歳の彼と、二十八歳の私の、三人の生活が始まった。四十九日も済み、どうやら落ち着いたころ、私の体調が悪くなった。疲れが出たんだろうと思っていたが、いまひとつ調子が悪い。もしやと思って病院にいったら、妊娠していることがわかった。それを知った祖母は、喜びつつ、
「お母さんが知ったら、どんなにうれしかったことか」
とまたまた泣いた。月日にちょっとつじつまがあわないところもあったが、祖母は喜びでそんなことまで気がつかないようであった。彼も大喜びして、我が家は一転して、明るい雰囲気に包まれたのである。私はぎりぎりまで働くつもりだった。祖母は、
「私もいつまでも、のんびりしてはいられない」
といって、母がやってくれていたように、私たちに朝御飯を作ってくれた。
「いい子を生みなさいよ」
といいながら、毎回、食卓に出てくるのは、小魚の佃煮《つくだに》、牛乳だった。
「私、小魚の佃煮って苦手なんだけど」
というと、祖母はむっとした顔をして、
「何をいってるの。あんたのためじゃないのよ。お腹の赤ちゃんのためにあげてるの」
という。そっと彼のほうを見ると、彼は目で、
(食べろ)
と合図した。私はしぶしぶ食べた。やっぱりおいしくない。
「私がお腹に赤ん坊がいるときには、山のように煮干しを食べたもんだったよ。お味噌汁のだしをとったあとのとかも、たくさん食べたねえ。だから、ほら、お母さんの骨も立派だったろう。あれは私が一生懸命、煮干しや小魚を食べたおかげなんだよ」
「そういえば、お母さんの骨、みなさんきれいで立派だったっていってましたよね」
彼と祖母はうなずいていた。
「あんたもこれからは好き嫌いをいわないで、何でも食べなきゃだめよ」
「はい」
祖母のことばに、いちおう返事をしながら、私は母親が嫌々食べたものが、赤ん坊のためにいいとはいえないんじゃないか、などと思っていた。
会社から帰ると、祖母が縫い物をしていることが多くなった。
「赤ちゃんのために、産着《うぶぎ》やおむつを縫っているんだよ。やっぱり手をかけたものがいちばんだからねえ」
祖母はまるで何かに憑《つ》かれたように手を動かしていた。彼女のかたわらには、浴衣《ゆかた》をほどいて作った布おむつが置いてある。
「これ、使うの」
「そうよ、むかしっから、おむつは洗いざらした木綿《もめん》がいちばんいいんだよ」
「でも、紙おむつを使うから、別にそんなに縫わなくてもいい……」
「だめだめ、紙おむつなんて。あんなもの、いけません」
祖母は頑固に布でなければいけないと首を振った。あんな、後始末に不便なものを、山のように作ってもらったって困る。誰がおむつにこびりついたうんちを洗うんだろうかと考えると、頭が痛くなってきた。また妊娠五カ月になったときには、
「ほら、岩田帯だよ」
といって、私の腹にさらしを巻こうとした。こんなものを巻いたら、格好悪いというのに、彼女は、
「お腹が冷えたら大変なんだよ。むかしっから妊婦はこうしたもんだよ」
といってゆずらない。私は鏡に映る、自分の間抜けな姿を見ながら、母が生きていたら、こんなことはしないだろうな、と思っていた。母だったら、私が布おむつは嫌だといったら、
「そうね、後始末が大変だしね」
といって、引き下がるだろう。しかし祖母は自分がやってきたことがいちばんだと信じきっていて、それを私に押しつけた。こんなときに母がいてくれたら、間に入って、
「おばあちゃん、もうそんなことをしなくても、もっと妊婦が楽になるような時代になってるのよ」
と私の味方をしてくれるだろう。しかし、彼は何をしていいかわからず、私と祖母がちょっといい争うと、ただおろおろするだけだった。
私は男の子を生んだ。三千五百グラムあり、祖母も彼も大喜びだった。私は赤ん坊のために、こっそりとデパートの乳児用品売り場で、かわいい産着やベビー服を買っておいたのだが、祖母は自分が縫ったさらしの産着を取り出してきて、いそいそと着せていた。幸か不幸か、赤ん坊は昔風の顔をしていたために、私が買っておいた産着よりも、祖母が縫った産着のほうがずっと似合った。
「まあ、よく似合うこと。ひ孫が見られるなんて、うれしいことだねえ。それにしても、ここにあんたのお母さんがいてくれたら……」
また祖母は泣いた。問題のおむつは、私と祖母との闘いだった。祖母が先に息子のお尻に手をつけると布おむつになり、私が先だと紙おむつになった。あんなに布おむつ、布おむつというのだから、祖母が全部後始末をしてくれるものだと思っていたら、祖母から、
「はい、お母さん、汚れ物」
と臭《にお》いがぷんぷんするのを渡されて、私はショックを受けた。それをまた洗って使う元気はないので、こっそりそのおむつは捨てた。
夏になればなったで、私はかわいいTシャツを買っておいたのに、祖母は腹掛けをさせたがった。
(ひえーっ、こんな戦前の子みたいなもの)
びっくりしている私をよそに、祖母は勝手に息子に腹掛けをさせて、
「ほーら、金太郎さんの腹掛けをすると、男の子は元気になるんだよ」
と抱っこして頬《ほお》ずりしている。
「おばあちゃん、それはいくら何でも、格好悪くなあい」
といっても、
「何いってんの。男の子は元気な腹掛けって決まってたんだよ」
といって聞かない。近所でもうちの息子はレトロ趣味の赤ん坊として有名になっていた。年配の奥さんたちは、
「懐かしいわねえ」
といっていたが、若いお母さんたちは、
「わっはっは」
と息子の姿を見て笑っていた。
よちよち歩きをするようになった息子がばたんと転ぶと、祖母はマキロンをつけるより先に、
「ちちんぷいぷい。痛いの痛いのとんでいけー」
といいながら、自分のつばを息子の膝《ひざ》になすりつけた。
「おばあちゃん、汚いよ」
あわてて救急箱を取り出すと、
「平気、平気。つばをつければいいの」
などという。人間の口の中には、お尻とは比べようもないくらいの、雑菌があると聞いたことがあった私は、気が気ではなかった。裸になりたがる息子は、夫と庭で遊んでいるとすぐ催してしまい、トイレに連れていくひまもなく、花壇のところで放尿してしまった。それを見て、祖母は、
「ま、ミミズがいたら大変」
といいながら、よろよろと部屋の中から飛び出してきた。運悪く、そこにはまるでたこ糸みたいな、細いミミズがいた。
「ミミズがどうかしましたか」
のんびりと聞く夫に、祖母は真顔で、
「ミミズにおしっこをかけるとね、おちんちんが腫《は》れるんですよ」
といった。
「はあ」
夫は首をかしげたまま笑った。
「笑い事じゃないのよ。私は幼なじみの時蔵ちゃんが、学校の帰りにミミズにおしっこをかけて、おちんちんがぱんぱんに腫れ上がったのを見たことがあるんです。だめだめ、ミミズのいるところはだめよ」
祖母は息子を抱き上げて、さっさと家の中に入ってしまった。私と夫は呆然として、二人の姿を見送った。これから息子が大きくなるにつれ、祖母はますますいろいろなことをいい出すだろう。
「あーら、おばあちゃん、そんなことありっこないわよ」
と一笑に付すわけにもいかない。私は奥から聞こえる、
「はーい、おしっこをして気持ちがよくなったのねえ」
という祖母の声を聞きながら、
「うーむ」
といつまでもうなっていたのだった。
第十話 面 接
毎日、毎日、封筒の山で、うちの会社の郵便受けはあふれかえっている。たった一人の社員を新聞広告で募集しただけなのに、次の日から速達で、じゃんじゃん履歴書が送られてくるのだ。私の勤めている会社は、総勢十人。編集とか広告を請け負ってやっている、マスコミのすみっこのすみーっこにいるような会社である。給料は高くはないけれど、妙に社員の気が合っていて居心地がよく、私は十年、この会社に居続けている。今回、募集したのは、事務の女性である。二人いるうちの一人がやめるので、その補充なのだ。私は編集の仕事をしているので、募集には直接関わってはいないが、女性でいちばんの年長ということもあり、
「女性にもいてもらったほうがいいから、きみも一緒に面接してくれないか」
と頼まれてしまった。
「いいですよ」
と返事をしたのはいいけれど、広告が出た当日から、反響があったのにはびっくりした。
やる気まんまんなのか、それとも先んずれば人を制すと思ったのか、
「近くに来ましたので」
といいながら、バッグの中から履歴書を取り出す女性がいた。きちんと紺のスーツを着ていた。すぐに帰るのだろうと思っていたのに、
「あのー、私、暇なんですけど、何かお手伝いすることありませんか」
といいながら、社内を歩きまわりはじめた。
「結構ですから、どうぞ、お引き取り下さい。もし面接に来ていただくことになったら、またご連絡しますので」
といっても、
「でも……」
と名残惜《なごりお》しそうにしている。
「みんな、仕事をしていますので、また、あらためて」
と課長が出てきて、じわじわとドアのほうへと追い出すようにすると、
「よろしくお願いします。私は普通の人より能力はあると思います」
と大声で叫んで、彼女は去っていった。
「はー」
社員一同、ドアが閉まったあと、いっせいにため息をついた。あまりの気迫に、私たちの生気が吸い取られるようであった。
会社が出した、「女性社員一名募集。事務職。新卒応相談」の吹けば飛ぶような三行広告を見て、私たちは、
「いくら不景気だっていったって、こんなちっこい広告を出す会社に応募してくる人なんて、そうそういないよね」
と、話をしていた。ところがいざ蓋《ふた》を開けてみたら、大騒動になっていた。事務の女性が封筒を開封し、履歴書を一枚ずつ広げて、私の机の上の書類入れに入れておいてくれたのだが、あっという間に書類入れはいっぱいになった。大事な履歴書を邪険に扱うわけにもいかず、私は段ボールの箱を持ってきて、そのなかに履歴書を入れた。
「まだ来るか、まだ来るのか」
といいたくなるくらい、毎日、履歴書は私の机の上で山になっていったのである。
外での打ち合わせが終わって、夜、会社に戻ると、若い男性社員三人が履歴書を手にやたらと盛り上がっていた。
「何やってるの」
声をかけると、タカハシくんが、
「こんなにたくさんの女の人の写真を見て、選べるなんていうことはないですからね」
とうれしそうに笑った。
「選べるってあなた、別にあなたの彼女を選ぶわけじゃないのよ」
「でも、同じ会社に勤めるわけですから、その可能性もないわけじゃないでしょ」
他の男性も「そうだ、そうだ」とうなずいた。
「あなたたちの気にいった人はいたのかしらねえ」
「僕はこの子がいいと思うんです」
ヤマダくんが履歴書を手に、身を乗り出した。今風の髪の毛が長くて前髪をくりんと上に巻いた、目のぱっちりした女の子である。
「おまけにお嬢様ですよ。都内に親と同居で、ほら、お父さんは会社経営。お兄さんが慶応で、本人は白百合ですからねえ。こりゃあ、すごい。短期留学もしてますよ。フランスに。特技は語学か」
「それよりも、こっちのほうがいいよ」
タカハシくんの一押しは、ショートカットの和風顔の女の子だった。お父さんは商社マンで帰国子女である。
「こういう、こざっぱりした子がいいよ。気もききそうだし」
「おれはこの子がいい」
タケムラくんが気にいったのは、
「こりゃあ、あんた、クラブのチーママだよ」
といいたくなるような、派手な子だった。履歴書の写真だというのに、アイラインがくっきりと目立ち、もしかして提出する会社を間違えたのではないかと、疑いたくなった。
「どうしてそんな子がいいんだよ」
「げーっ、この子、二十歳《はたち》なのか。老《ふ》けてるなあ」
ヤマダくんとタカハシくんは口々にいった。
「だってさ、うちの会社って、みんな家族みたいじゃないか。楽だけど刺激がないんだよなあ。いるかいないかわかんないのより、こういうタイプが一人いたほうがいいんだよ」
「だけどさあ、これは刺激がありすぎだよ」
よく履歴書だけで、こんなに盛り上がれると呆《あき》れるほど、彼らは履歴書を手から離さなかった。
コーヒーメーカーの温めなおしのコーヒーを飲みながら、私も履歴書に目を通した。どうせ、そんなに応募者はいないだろうと、たかをくくっていたのだが、そんなことをいっていたら、間に合わない状況になっていた。一枚、一枚見ていくうちに、私は自分がどういう会社に勤めているのか、錯覚を起こしそうになった。有名大学の卒業見込者、留学経験者など、うちのような小さな会社に、
「どうして応募したの?」
と聞きたくなるような人たちばかりだったからである。会社に入って、自分のやってきたこと、興味があることが生かせる仕事ならまだしも、銀行に行ったり伝票を書いたり、高学歴の彼女たちには、割り切らないとできない仕事なのだ。男性三人は、
「美貌《びぼう》ベストスリー」
「顔面ワーストスリー」
「エッチそうなのベストスリー」
などといいながら、履歴書を並べては議論を繰り返している。
「こういう人たちがきてくれるのはうれしいけど、仕事に我慢できるかしらねえ」
私がぽつりとつぶやいたのも、彼ら三人には全く聞こえないようであった。
会社に届いた履歴書は、三百通以上にもなった。
「そんなに来たのか。三百人もどうやって面接すればいいのかね」
今まで、多くても二十人くらいの面接しかしたことがない社長は、私の机の上の履歴書を手に、笑ったり真顔になったりしていた。
「一人、一分としても、三百分になるだろう。ということは、ぶっ通しで五時間! おいおい、こりゃ、仕事なんかやってられんぞ」
彼は自分の席に戻り、椅子《いす》に座って腕組みをした。
「どういうふうに、なさるんですか」
私がたずねると彼は、
「うーん、こんなにたくさん来ると思わなかったんで、なーんにも考えてなかった」
といい放ち、私たちを唖然《あぜん》とさせた。
「書類選考をして、面接する人数を減らすっていうのは、どうですかねえ」
タカハシくんが口をはさんだ。
「何なら、僕がやってもいいですけど」
一同が笑ったのに、社長は笑わなかった。
「うーん。困ったなあ。書類選考っていっても、写真と履歴書だけじゃあ、わからないからなあ。みんなに会ってみないとなあ。でも、三百人もいるしなあ」
「応募する側にしたら、どうなんだろうね。書類選考っていうのは」
部長とは名ばかりの、社長の次の年長者の男性が私にむかっていった。
「あれは、ちょっとねえ」
誰もが苦い思い出を持っていた。別にタレントスカウトキャラバンに応募したわけでもないのに、写真と履歴書を見て、「受験する必要がない」と判断されるのは、心外なことだった。
「僕は選ぶのは好きですが、選ばれる側になるのは嫌ですね」
ヤマダくんはいった。
「あれは嫌よねえ」
「気分が悪いんだよ、しばらくの間。じっと自分の顔を鏡で見たりしてさ」
みんなであれこれ騒いでいると、社長は、
「よし。みんなと会う!」
と宣言した。
「はあ、そうですか……」
ほっとしたものの、私は面接もしていないのに、ぐったりした気分になった。短い時間ながら、三百人に会うなんて、いったいどういうものか、想像すらできなかった。
結局、面接は一週間かけてやることになった。日にちを連絡すると、
「どうしても、用事があるんです。その日にいけないと、もう面接のチャンスはないんでしょうか」
と半泣きになって電話をかけてきた人が何人もいたと、事務の女性がいっていた。他に会社をまわっているといったら、不利になると思って、彼女たちは用事があるとしかいわない。きっと何社もかけもちをして、都内を走りまわるのだろう。うちの会社は小さいけれど、その分、小回りがきくので、日にちを変えて欲しいという人には、そのとおりにしてあげた。
面接の初日、たいして大きくもない会社には、わんわんとうなるほどの女の子が集まってきた。若い男性たちは、いつもはさっと外に出ていくくせに、今日はいつまでたっても社内にいる。そして応募した女性がくるたびに、ドアに目が釘付《くぎづ》けになっていた。少しずつ面接時間をずらしたというのに、ちょっと長話をすると、応募者がたまってしまう。社長は、
「一人やめちゃうから、ま、新しい人でもいれないとな」
というような、軽い気持ちで募集したのだろうが、応募してくる人たちの目は、真剣そのものだった。みんなきちんと地味なスーツを着ていて、大会社の面接風景のようだ。
「私は文化祭のパンフレットの編集もしましたし、広告研究会に入ってましたので、何でもできます」
と堂々といい放った女の子がいた。写真ではそう見えなかったのに、必要以上にはきはきと話してうるさいくらいだった。就職浪人のため、今はアルバイトをしているという。
「広告にも載せましたけど、今回募集したのは事務で、そういった仕事ではないんですけどね」
部長がいくらそういっても、彼女は、
「私には編集の仕事がむいています」
というだけ。
「事務の仕事はどうですか」
とたずねると、
「会社に慣れるまではいいけど、ずっとやる気はありません」
といい張る。こりゃ、困ったと思っていると、そのうち彼女のほうが、
「どのくらい事務の仕事をしたら、編集や広告の仕事ができるようになるんですか。一年ですか、二年ですか。一年だったら、我慢できるかもしれませんが」
とぐいぐいと攻めてきた。
「はあ。でもねえ、何度もいいますけど、今回の募集は事務職なんですよ」
部長と社長は机の上に広げた、彼女の履歴書に目を落とした。
「ともかく、来ていただくとなったら、またご連絡しますから」
「……はい、わかりました。失礼します」
私たちの態度で、望み薄だとわかったのか、彼女は暗い顔で出ていった。
社長と部長は、一人面接が終わるたびにため息をついた。
「人を選ぶっていうのは大変なことだねえ」
「本当に今回はそれを痛感しましたよ」
しばらく沈黙が流れた。しばらくして、社長がぽつりと、
「人って会ってみないとわからないねえ」
といった。
「そうですね……」
といいかけたとき、また新たな応募者が部屋に入ってきた。
「よろしくお願いします」
彼女を見て私たちは顔を見合わせた。
「あのー、次はオカダユリコさんの番なのですが」
手元にある履歴書の写真と、目の前にいる彼女は全く違う人だった。どうやら順番を間違えたらしい。私は彼女を動揺させてはいけないと、
「いいですよ。それでは先に面接しましょうか。お名前は何とおっしゃるのかしら」
「あのー、私、オカダユリコなんですけど」
「はあ?」
私たち三人は、手元の写真と目の前にいる女性を交互に見比べて、呆然《ぼうぜん》としてしまった。
(こんなことって、あり?)
私は心の中でつぶやいた。写真に写っているオカダユリコさんは、すっきりした顔だちのかわいらしい感じの人である。しかし私の目の前にいるオカダユリコさんは、写真よりもずっと老けたおばさんっぽい人だ。私は同姓同名の人がいるのではないかと、これから面接する予定の人の名前を調べてみたが、オカダユリコさんは一人しかいない。社長と部長が質問している間、私はじっと彼女の顔をみつめていた。
(どこをどうやったら、こういう写真になるのだ)
不思議でならなかった。写真をとったあとに整形をして、より美人になったのならわかるが、彼女はマイナーチェンジしている。それも、ほとんど別人といっていいくらいである。どんよりした目と下ぶくれが、どうして写真みたいに、小さいけれど張りのある目、卵型の輪郭になるのかわからない。
(この写真を撮ったカメラマンはすごいわ)
私は彼女よりも、履歴書の写真を撮ったカメラマンと仕事をしたくなった。これだけ写真写りをよくできるテクニックを持っているのだったら、広告の物撮りで技術を発揮してもらいたい。
「何か、ありますか」
部長の声で私は我に返った。あまりのショックのため、彼らの質疑応答は何も耳に入っていなかったので、
「いえ、私からは何も」
とごまかした。どんよりした雰囲気のオカダユリコさんは、体をゆすりながら、のろのろと出ていった。まだ二十代の前半だというのに、若さのかけらもない。社長と部長は無言だった。
それから私は、面接をしていても、履歴書の写真と現物の差ばかりが気になって仕方がなかった。写真どおりの印象のほうが少ないのには驚いた。写真では楚々《そそ》としたお嬢さんなのに、笑うとぐわっと歯茎が前にせり出して、馬が笑ったみたいな顔になる人もいた。
(よくぞ、ごまかした)
私はまたカメラマンに拍手を送った。なかでも一番強烈だったのは、実際に会ってみたら、顔面の大きさが写真の三倍くらいあった人である。写真では髪の毛を肩まで垂らしていたため、頬《ほお》がほっそりとみえた。ところが面接のときにはバレッタで髪をひとつにまとめていたので、顔が丸出しになっていた。それは、思わず、
「おおっ」
と叫びたくなるくらいの、変わりようだった。まさか髪に隠れている部分が、横に張り出しているとは、夢にも思わなかった。彼女は顔は写真の三倍あったものの、まじめで感じのいい人だったので、私は彼女にはマルをつけた。
タケムラくんの一押しのチーママは、やっぱりチーママだった。ほとんどの人が地味なスーツを着ているのに、彼女だけはドピンクのスーツに金と白のコンビのハイヒールをはいてきた。彼女の場合は、写真と現物と差がなかった。それよりも素顔と写真とで大差があるタイプなのだろう。彼女は椅子に横座りして、カールをたんねんにした髪の毛をかきあげながら、ハスキーな声で質問に答えた。この妙な落ち着きはただものでなかったが、会社の事務職としてはやはり刺激が強すぎるタイプであった。
若い男性社員がチェックしていた。
「美貌ベストスリー」
「顔面ワーストスリー」
「エッチそうなのベストスリー」
に会えるのも楽しみだった。美貌ベストスリーのうちの一人は、写真と変わらないくらい美形であったが、あとの二人はカメラマンのテクニックに負うところが大きいのがわかった。顔面ワーストスリーは、そのうちの二人はやはり、陰気な顔をしていたが、一人は、
「どうして、あなたはあのときあんな顔をして写っちゃったの」
とききたくなるくらい、実物のほうがチャーミングだった。エッチそうなのは、実際会っても三人ともエッチそうだった。これだけは写真でもわかることが判明して、私は新しい教訓を得た思いであった。
すべての面接を終え、私はぐったり疲れた。
「カメラマンって、すごいわねえ。あの履歴書の写真の撮り方は、神業に近いわ」
そういうと知り合いのカメラマンは、
「そうなんだよ。最近、写真を撮るのが上手な写真館にいくのがはやってるんだよ。『ここで撮影して合格した』っていったら、みーんなそこに行って写すらしいよ」
「ふーん」
溺《おぼ》れる者は藁《わら》をも掴《つか》むというから、彼女たちの心理もわからないではないが、そんな小細工をしたって、実物と会ったらよく撮れていれば撮れているほど、
「何だ、こりゃ」
状態になるはずである。そのほうがよっぽどまずいんではないだろうか。
「履歴書だけで合格させる会社なんてないでしょう」
「そりゃ、そうだけどさ、きっと安心したいんだよ。ここで撮影すれば大丈夫だって、自分を納得《なつとく》させたいんじゃないのかなあ」
「ふーん」
面接官と会ったら、一発でわかるのに、そんなものにすがるなんて、滑稽《こつけい》でもありかわいそうでもあった。
うちの会社には、あの顔面が写真の三倍ある女性が入社した。社内を見渡すと、まっさきに彼女の顔面が目に入るくらい、顔がでかいが、なぜか彼女がいると安心できる。仕事ぶりもまじめで、頭の回転もいい。
「写真が重要だっていったって、結局はその人が会社にとって必要かどうかなのよ」
私は若い男性社員にむかっていった。彼らは口では、
「そうですね」
といいながら、明らかに落胆の表情をみせていたのであった。
第十一話 よせばいいのに
トモコちゃんは、短大のときの友だちである。学生のときから付き合っている彼がいるのだが、こいつは、私から見たら、どうしようもない奴《やつ》だった。しかし彼女はどういうわけだか、彼|一途《いちず》にのめりこんでいったのである。
彼とは短大生のとき、近所の大学の合コンで知り合った。合コンの申し込みがあったと知った私たちは、
「そんなに偏差値も高くないし、まあ理系っていうところには、ちょっと興味があるけど、期待はしないほうがいいわよね」
といっていた。そしてそのとおり、当日やってきたのは、期待しなくて大正解のメンバーであった。
別に私たちは、美形の集団を期待していたわけではない。感じのいい男の子だったら、それで十分だ。ところがそういう子は、すでに売約済みだったのか、姿はみせず、正直いってカスばかりだった。大声でやたらと喋《しやべ》りまくる奴。ただへらへらと笑っている奴。やたらと体を密着させようとする奴。無言で酒を飲んでいて、女の子たちをなめまわすような目で見たあげく、にたーっと笑う奴。
「あー、もう、やめてえ」
といいたくなるような奴が勢揃《せいぞろ》いしていたのであった。
おまけに私の隣には、嫌いなタイプが座ってしまい、最悪だった。すでに体型がゆるみ、腹がせり出ていて、白いワイシャツにグレーのズボンをはいていた。彼はやたらと声がでかく、
「はじめまして」
と挨拶《あいさつ》をするなり、
「きみ、まだ若いのに、目の下にクマがあるね。貧血気味か」
とほざいた。黙っていると、
「女の子はろくな食事をしていないらしいからな。気をつけろよ」
と、おやじみたいなことをいった。彼に×を五百個つけたのはいうまでもない。
(ぱっと気分がよくなるような人を探さなくちゃ)
どんなに何度も見渡しても、これというような人は一人もいなかった。少しでも、隣のおやじみたいな奴から離れようとしても、狭い店の座敷はいっぱいで、移動することもできない。しつこくなんだかんだと話しかけてきたが、完全に無視していると、今度は彼の右側に座っていたトモコちゃんに、話しかけはじめた。
横目で見ていると、よせばいいのにトモコちゃんは、おやじのいうことに耳をかたむけて、ふんふんとうなずいたりしていた。おやじは調子にのり、声高《こわだか》に現在の世界情勢やら、流行について話しはじめたが、どれもこれもテレビに出ている評論家の受け売りばかりであった。そんな彼を男の子たちは、
「ふふん」
と鼻でせせら笑って見ていた。それでますます私は、彼のことが嫌いになり、トモコちゃんに向かって、
(やめなよ、やめなよ)
と念を送っていたのである。
合コンが終わり、男の子たちは、
「送っていく」
といっては、私たちにまとわりついてきた。私たちをなめまわすように見て、にたーっと笑っていた奴は、暗がりにぽつんと一人だけ離れて、やっぱりにたーっと笑っていた。ある女の子たちは男の子に送ってもらい、ある子は友だちとしっかり腕を組み、
「私たち一緒に帰りますから、大丈夫です!」
と必死に申し出を断っていた。私はトモコちゃんと帰ろうと思っていたら、たまたま帰る方向が同じ、シノダくんという男の子がやってきた。彼は私に興味を持っていないことがわかった。これは安心だ。酔っ払いにからまれたときに、男の子がいるほうが都合がいいかなと思い、トモコちゃんを探しにいった。すると、例のおやじ男が図々しくくっついてくる。コンパのときの話では、帰る方向が違うということだったのに、
「送っていってやるよ」
といばりくさっていた。
「あら、逆方向なんじゃないの。私たち、シノダくんに送ってもらうし」
「えっ。何だ、お前」
おやじは私の隣に立っていたシノダくんに文句をいった。
「ずるいぞ、抜け駆けするな」
「そんなことしてないよ。たまたま帰る方向が一緒だっただけさ」
「ふん。自分一人で女の子二人を独り占めしようとしているな。そうはさせないぞ」
あっけにとられていると、おやじは、
「ほら、早くしないと、電車に間に合わないぞ。お前たちはどうせ貧乏なんだから、遠くから通ってるんだろう」
と私たちをせかした。
(本当ーに、失礼ね!)
車内で私は彼のほうを一度も見ることもなく、印象の薄い、帰る方向が同じ彼と、世間話をしていた。おやじはトモコちゃんにむかって、
「ほーら、どの顔も疲れきった顔をしているだろう。これが日本人の真の姿なんだ。みんな自分の仕事に誇りすら持っていない、敗北者の顔なんだ」
などと大声でいい、周囲の大人からにらみつけられていた。しかし、にらみつけられればつけられるほど、おやじはうれしそうな顔になった。
「ねえ、あの人、何なの?」
小声でシノダくんに聞くと、
「あいつはいつも、ああなんだよ。えらそうなことばかりいっててさ。でも特別、成績がいいわけでもないんだ」
私はそれを聞いて、笑いがこみあげてきた。くすくす笑っていると、シノダくんもふふふと笑った。相変わらず、おやじはトモコちゃんに、ああだ、こうだと熱弁をふるっていた。私だったら、
「うるさいわね! いい加減に、やめてちょうだいよ!」
と怒鳴りたくなるのに、トモコちゃんは周囲の無関係な大人たちも嫌がる、おやじのいうことを、おとなしく聞いてやっていたのであった。
翌日、学校で私たちは、合コンの結果を報告し合った。
「げーっ、よく次に会う約束をしたわね」
といいたくなる子がいたり、
「あの人、私もいいなと思ってたのよ」
と悔しがる子もいたが、私はただみんなの情報を集めて、「へー」とか「ほー」とかいって楽しんでいるだけだった。
「まさか、あいつとはあれっきりだよね」
私はトモコちゃんにささやいた。
「うーん」
いまひとつ彼女のリアクションがはっきりしない。
「えっ、どうしたの。まさか、会う約束をしたんじゃ……」
「うーん、しちゃったの」
「えーっ、何で!」
トモコちゃんは、うつむいた。
「『きみは僕と出会うために、今日、やってきたんだよ』っていわれたんだもん」
「ひえーっ、ばかじゃないの」
「でも、真剣だったみたい」
「そんなこと、わかるわけないじゃない。あいつ、ずーっと喋りまくってたでしょ。私、お喋りな男って嫌いなの」
「でも知識は豊富……」
「何いってんの。ああいう奴は最低よ」
「そうかしら」
トモコちゃんと私は、全くかみあわなかった。
「今度、いつ会うの」
「うーん、今日なの」
「えーっ」
私だったら百年に一度でも嫌なのに、トモコちゃんはそれからひんぱんに、彼と会っていた。そのうえ、覚えたくもないオシザカという彼の名字も、私の頭にインプットされてしまったのである。
どこからみても、ぜーんぜん魅力的ではない彼と、トモコちゃんは卒業してからも、ワンセットだった。
「あなた、就職したら新しい彼をみつけるチャンスよ」
いくらいっても、
「そうねえ」
と煮え切らない。彼女には、会社の同僚や先輩がにじり寄ってきたが、そんな彼らのことばには耳を貸すことなく、トモコちゃんはオシザカに操を立てていたのであった。
あるとき、彼女から電話があった。そんなに口数が多い人ではないのだが、いつになく雰囲気が暗い。あれやこれやとさぐりをいれてやっと、彼女は、
「彼がお金を返してくれないの」
とぽつりといった。ほーらみたことかと思った。だいたい会ったときから、うさん臭い感じがしたのだ。そうでなければ初対面の私に、
「クマができている」
なんていうわけがない。
「とっとと別れなさい」
彼女は電話口で黙っている。
「これがいいチャンスよ。あの人はよくないって」
「でも、迷惑をかけられたの、はじめてだし」
よくよく話を聞いてみると、彼女が就職してから、彼は何だかんだといって、お金を持っていって、返してくれないのだという。
「どのくらいなの」
「二十万円くらい」
「あんた、それはまずいよ」
「そうよね」
話を聞くと、奴は自宅から通っているという。トモコちゃんは、学生時代から住んでいる1DKのマンションに、今もいる。
「どうしてそんなにお金がいるのよ」
「よく、わかんない」
「遣いみちも聞かないで、お金を貸したの?」
「だって、どうせ何に遣ったって、お金を貸すのは同じだし」
「ばかね、何に遣うかが問題なんじゃないよ」
「…………」
「これから二度とお金を貸しちゃだめよ」
「うーん。でも……」
「でも、何よ」
「もし断ったら、私のこと嫌いになるんじゃないかしら」
私は受話器を持ったまま、固まった。
「い、いいじゃない。嫌われたって」
「私にとっては大切な人なのよ」
「じゃ、好きにすれば」
とだけいって、電話を切った。
「まったく、あんなばかだとは思ってもみなかったわ」
私は電話をにらみつけながら、ぶつぶつ文句をいった。お風呂に入っても、トイレに入っても、ベッドに入っても、怒りはおさまらず、あまりに怒りすぎて、頭が痛くなってくる始末であった。
そんなことも忘れ去りつつあったある夜、またトモコちゃんから電話がかかってきた。真剣に相手をするとばかばかしいので、ドンタコスを食べながら、
「ふんふん」
と話を聞いた。もう二人のことに関しては、何もいうまいと心に決めた私は、「ふんふん」「それで」「なるほどね」を適当におりまぜて、相槌《あいづち》をうっていた。
「あのね、彼がお金を返してくれたの」
「ふんふん」
「『お前がぎゃーぎゃーいうから、やりたくもない肉体労働をやって、金を作ったぞ』っていってた」
「…………」
「そして、『あーあ、もっと金を持ってる女と付き合えばよかった』って」
「…………」
「でも利子だっていって、金の指輪をくれたのよ」
お間抜けなトモコちゃんは、ちょっとうれしそうだった。金の指輪でころっとだまされてしまうのが、情けなかった。あなたって、本当にしょうがないわね。そんなもんでだまされてどうすんの。などといいたいことは山ほどあったが、まじめに怒るのもあほらしくなっていた。
それからしばらくたって、彼女から食事をしないかと、誘いの電話が会社にあった。私は彼女一人だったらと釘《くぎ》をさして、会社が終わったあと、待ち合わせのレストランにいった。見るからに不幸そうな顔をしている彼女は、それでも精一杯、笑顔をみせていた。そこで食事をしながら語られたのは、私の髪の毛が総立ちになりそうなことばかりであった。
彼が彼女から借りていたのは、高校生を自分につなぎとめておくための資金だった。トモコちゃんから借りたお金で、服だアクセサリーだと、その子に買ってやっていたのだ。そして、お金を返してもらったときもらった指輪は、高校生にあげようとしたが、逃げられてしまい、トモコちゃんの手に渡った。そしてそういった顛末《てんまつ》を彼女に話したのは、現在、オシザカと交際している、逃げた子とは別の高校生だというのだ。
私は頭のなかがぐるぐる回って、何が何だかわからなくなった。
「だからね、高校生から聞いたの」
「どうしてその子のことを知ってるのよ」
「だって私、会ったもの」
「はあ?」
「待ち合わせの喫茶店にいったらね、二人がいて。三人で話したの」
「えーっ」
「彼はその子のことを友だちだっていって、私のことも友だちだって紹介したの。そうしたらその子が、『知ってます? この人、高校生にお金を貢いで、逃げられたんですよ』っていって、それで初めて知ったのよ」
私は深くため息をついた。トモコちゃんは、遠いところにいってしまったなと思った。
「あなたさ、それで何ともないの」
「ちょっとびっくりした」
「それだけ? 目の前の高校生を見て、何とも思わなかったの」
「まあ、私とは関係ないことだし」
「あなたの彼と付き合っている人でしょ」
「友だちだっていってたけど」
「あなたのことだって、友だちっていってたんでしょ」
「うん」
「じゃ、違うじゃない」
「あ、そうか」
この人は脳味噌を、とことんオシザカに吸い取られてしまったようだった。私はそこで三人が、表面上だけでもにこやかに食事をし、何事ももめずに帰ってきたのが、驚きだった。
「高校生に対して、嫉妬《しつと》とかさ、ないの」
「別に。しょうがないよ」
そういって彼女はうつむいた。
「だって彼は『お前はあの子より、歳とってるんだから、相手にされなくて当たり前だ』っていうのよ」
(ひ、ひどすぎる……)
「でも、それって、本当だもの。今の高校生って、とってもスタイルがよくて、肌なんかつるつるなのよ。とってもかわいいの。私なんかもう、おばさんだわ」
(ばかすぎる……)
彼女はそれからも、うじうじとねぼけたことをいっていた。
「でさ、どうしようっていうわけ?」
私はそういって、ドンとテーブルを叩《たた》いた。
「どうするっていっても」
「あんた、このままじゃ、ぼろぼろにされて、しまいには、捨てられるよ」
「そうかなあ。あの人は、みんなに好かれるみたいなの。だから女子高校生にも頼られるのよ」
ばかなうえに、すでに彼女はボケているようであった。どこをどうすりゃ、あいつが人に好かれるというのだ。おまけに彼にはまた別の高校生の相手がいて、また、トモコちゃんから金を借りているという。
「あんたもあいつも最低だね」
私は吐き捨てるようにいった。
「そうかもしれない」
どこまでいっても、こんにゃくみたいに、くにゃくにゃしている彼女にも腹が立つ。
(あんたは自分っつーもんがないのか)
と怒鳴りたくなった。
「あんたたちのことはわかった。もう勝手にやってちょうだい」
そういって私は店を出た。彼女は、
「あ……私も帰る」
とつぶやいて、ついてきた。
「いっそのこと、どんどんお金を貸して、ぼろぼろになるのもいいんじゃない」
そういって私はにたっと笑った。精一杯、いじわるをいったつもりなのに、彼女は、
「そうねえ」
などといっていた。
(どうしてあんたは、怒らないんだ)
私は彼女の顔を見て、いらいらしてきた。同じ電車に乗っていても、私たちは無言で立っていた。ドアのそばでは、流行の格好をした若い男女が抱き合っていて、そばでおじさんが不愉快そうな顔をしていた。いちばん最初、奴と彼女と私と、ついさっきまで名前を忘れていたシノダくんと、四人で同じ電車に乗って帰ってきたとき、今の二人の仲など、想像すらしなかった。金を借り、女子高校生に貢ぎ、トモコちゃんを罵倒《ばとう》する。それでも彼と別れない理由は何なのか、私には理解できなかった。
「あなた、それが恋愛というものよ。傍でああだこうだといったって、しょせんは、当人同士の問題だから、放っておいたほうがいいって」
会社の同僚はそういった。だけど私はどうしても納得できない。冗談じゃなくて、月に代わっておしおきをしてやりたかった。奴の家に電話をして、
「お前のことを、親や兄弟にばらすぞ」
くらいのことをいってやりたかったが、
「どうぞ」
といわれたら困ってしまう。だけどこのままでは、トモコちゃんはともかく、私の気がおさまらない。何とか奴に天罰を下してやりたい。私は晩御飯の後片付けをしながら、何かいい方法はないかと、台所で考えていた。ふと横を見ると、朝、食べた納豆《なつとう》がくるんであった、水戸納豆の藁《わら》づとが転がっていた。いらないというのに、実家の母が送ってきたものだ。
「ううう」
私は納豆臭い藁を適当に折り曲げたり、組み合わせたりして、人形の形に仕上げた。非常に不細工だったが、人形だと思うことにした。
「てめえ、オシザカ。勝手なことばっかりいって、ふざけんじゃねえよ」
そういって私は、人形をまな板の上に載せ、包丁を手にして人形を輪切りにしようとした。しかし包丁の手入れが悪く、ちょっと藁がばらけただけで、人形自体にはそれほどダメージはなかった。
「きーっ」
ますます頭にきた私は、その人形をわしづかみにして、ゴミ袋に叩きこみ、右足で力をこめて、踏んづけてやった。そしてその上に、三角コーナーのごみをまき散らし、次は何をしてやろうかと、ゴミ袋の人形をにらみつけていた。
第十二話 有効期限
ひとり暮らしをして十年になるが、私はこれまでに五回、引っ越しをしている。住んでいるとすぐ飽きてしまい、それほどひどい部屋でもないのに、二カ月もすると引っ越したくなってしまうのである。そのたびに、郷里に住んでいる母は、
「どうしてあんたは、そんなに引っ越すのかね。ちょっとは腰をすえなさい」
と怒った。
「住所や電話番号をやっと覚えたと思ったら、引っ越すじゃないの。もう、お母さん、あんたの住所を覚えるのが面倒になったわ。住所録だって、直し、直しで、汚くてしょうがないって、お父さんも怒ってるよ」
私は両親が年をとってから生まれたひとり娘だったので、二人は同級生の親よりも、十歳くらい年上だった。母は年々、物覚えが悪くなっていったし、父はやることがないもんだから、元来の細かい性格に拍車がかかり、家のなかのこまごましたものに目がいった。最初のころは、私も母のことばにまともにいい返し、ガチャンと受話器を叩《たた》きつけて、一方的に電話を切ったこともあったが、このごろは、
「はい、はい、わかったわよ」
と聞き流すことにしている。受話器を叩きつけた翌日、会社から帰ったら、母がドアの前に立っていて、びっくり仰天したことがあったからである。
当時、私は二十二歳で、母は、
「あんなに怒るというのは、どうしても引っ越さなければならない事情がある。ひとり暮らしだと、それほど切羽つまって引っ越す必要がない。ということは、ひとりではない。男がいる。親としてはぜひ、その男と会わなければ」
と、矢も盾もたまらず出てきたというわけである。言葉がでない私に、母は、
「あんた、ここで男の人と住んでるの」
と小声でいった。
「そ、そんなこと、あるわけないじゃない」
たまに来るともいえないので、とりあえず、否定しておいた。それでも母は疑いのまなこを私に向け、
「こそこそしないで、そういう人がいるんなら、きちんと挨拶《あいさつ》もしておかねば」
というのだ。
とりあえず、部屋に上げると、母はきょろきょろと室内を点検し、男の濃厚な気配がないとわかると、
「あんたも結婚をまじめに考えねば」
と説教をはじめた。
「これから引っ越すのは、結婚するときしかないよ。お金だってかかるんだし、その分、貯金しときなさい。こんな生活していると、ろくなことにならないんだから」
生まれた土地をずっと離れずに育ち、結婚相手も幼なじみという、土着的生活を送ってきた母は、あちらこちらと気ままに住まいを変えるのが、信じられないといった。
「しょうがないじゃない。相手がいないんだから」
そういえば納得《なつとく》すると思ったのに、母は、
「『しょうがない』じゃない!」
と真顔で怒った。
「なんでまじめに考えられないの。結婚は大事なことなんだから。ね、いつまでも若くいられるわけじゃないんだよ。今はまだいいけど、三十になったらどうすんの。世の中の男は、三十の女になんか、ふりむいてくれないよ。そこんとこ、よーく、考えないと」
母はそういいながら、バッグのなかから、ごそごそと一枚の和紙を取り出した。
「ほら、これ。あんたも覚えてるでしょ。坂の上のご住職に、無理をいって書いてもらったんだよ。これを持ってると、悪い虫がつかないし、いい縁談に恵まれるんだって」
寺の住職がそんなことまでするのかと思いながら、紙を開くと、筆で私の名前が書いてあり、あとがぐじゃぐじゃで何が何だかわからなかった。
「ふーん」
「『ふーん』じゃないよ、あんた。他人事《ひとごと》じゃないんだからねえ。ああ、それとね、これは隣の奥さんから」
隣の家には私より二つ年下の男の子がいた。その彼がつい先日、結婚した。母は、「彼は旅行先で奥さんと知り合った」「奥さんは近県の人で」などと奥さんについてデータを教えてくれたが、私は何の興味もないので、右の耳の穴から左の耳の穴に抜けていった。
「あんたがまだ一人でいるって話をしたら、奥さんがくれたんだよ。縁結びのお守りだって。奥さん、いい人だよ。ちょっと鼻が低いけどね」
赤いお守り袋だった。
「御利益があればいいねえ。大事にするんだよ」
この和紙とお守りには、母の怨念《おんねん》がこもっているように思えた。
翌日、母を東京駅に送りがてら会社に行った私は、仕事が手につかなかった。そろそろ引っ越そうかなと思っていたのが、
「絶対に引っ越そう」
という気持ちになった。母がきたことで、私の隠れ家をあばかれたような気持ちになった。きっとまた両親は、文句をいうだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。週末、私は不動産屋に行って新しいアパートを探した。そしてそれから私は何度も引っ越しを繰り返し、三十歳を目前にして、また引っ越しをすることになったのだ。
今のマンションに、私は住めない事情ができた。つきあっている三十三歳の彼と私は、いわゆる不倫関係である。うまいことに会社の人には全く知られていない。というのも、相手が特別かっこよくもなく、女性に人気があるわけでもなく、スピード出世をしたわけでもない、社内でも地味な存在だからだ。ひどいときなど、新入社員に出入りの業者だと間違われたりする。女性にまめでもないし、口がうまいわけでもない。奥さんとも、親にすすめられるまま見合いをして、
「意地悪そうじゃないから、いいか」
と結婚を決めたそうである。見合いをしてから結婚式まで三カ月。その間、彼は二カ月、海外出張をしていた。やっと出張を終え、成田に到着したら、婚約者が迎えにきていた。そのときも、
「ああ、こういう顔をしていたんだ」
と思ったくらい、二人の関係は稀薄《きはく》だったという。そのわりには、子供を三人も作ったのは理解できないが、彼は、
「恋愛というものをしたことがない」
と常々いっていた。別に私も結婚を望んでいるわけでもないし、
「ま、お互い、楽しきゃいいか」
と軽い気持ちでいた。ところがそのうちに彼が、反対方向の私のマンションに来るのが面倒なので、うちの近所に引っ越してこないかといい出した。
最寄《もよ》り駅を中心にして、反対側ならいいだろうと、マンションを決めた。最初はちょっと心配だったが、
「もしかして、彼の家族と会うかもしれない」
と、ちょっとわくわくしたりした。だんだん、彼の奥さんがたぶん行っているであろう場所にも足をむけるようになった。日曜日、彼の家の近くのスーパーマーケットに買物に行ったら、彼の一家が買物に来ていた。子供三人が彼にへばりついている。ちょっと期待していたとはいえ、実際にそうなるとうろたえてしまった。知らんぷりをしたほうがいいのか、それとも後輩として挨拶をしたほうがいいのかと、買物|籠《かご》を持ったままあせっていると、彼が、
「ああ、サトウさん」
と声をかけてきた。私も、
「あら、こんにちは」
とわざとらしく挨拶をした。奥さんは、
「いつもお世話になっております」
と丁寧に挨拶をしてくれたが、さぐるような目つきをした。
「お近くにお住まいなんですか」
「ええ、駅の反対側なんですけれど、こちらのスーパーのほうが野菜が安いので」
というと、
「あーら、そうかしら。私はむこうの店のほうが新鮮で安いから、よく行くんだけど」
といわれた。さすがに主婦はあなどれない。私はしどろもどろになって、そこそこに退散した。
それから一年ほどして、彼が、
「ちょっと、まずい」
といいだした。奥さんがどうも気づいたらしいのだ。それも直接、彼にいうのではなく、食後、テレビを見ていると、背後で奥さんが、
「お父さんに、浮気なんかされると困るわねえ。浮気するとしたら、どういう人なのかしらねえ」
と話しかけていたというのである。
「あれは、感づいている」
彼は真剣な顔をした。私は、偶然じゃないかと、そんなに気にしていなかったのだが、休みの日、洗濯物を干そうとして、ベランダに出ようとしたら、体が固まった。子供を連れた彼の奥さんが、あたりをきょろきょろしながら歩いてきて、うちのマンションに目をとめ、その前にたたずんだ。そして上を見上げ、じっとこちらの様子をうかがっているではないか。私は洗濯物の入った籠をかかえたまま、カーテンの陰に身を隠していた。もしかして、うちに来るのではと思ったが、それはなかった。
「本当にまずいかもしれない」
私はまたまた引っ越しの数をふやすことになった。
少しは荷物の整理でもしようと、押し入れをごそごそやっていると、開かずの段ボール箱が出てきた。私は父と正反対の性格で、部屋が散らかっていても、物が斜めになっていても、いっこうに気にならない。引っ越しのときの荷物を、面倒くさいからそのまま押し入れに突っ込み、一度も開けないまま、またそれを持って引っ越すということを、繰り返していたような気がする。でも一度も開けなかったということは、不要なものということである。私は全部、捨てるつもりでいたが、いちおう中をチェックした。
中から出てきたのは、見覚えはあるけれど、自分が買った記憶がないものが多かった。なくしたとばかり思っていたイヤリングの片方。以前、つきあっていた男性がくれたハンカチ。胸元に染みをつけてしまい、捨てようとしていたTシャツ。必死に探して見つからなかった、水着のパレオ。三日坊主で終わった家計簿。会社の業務連絡メモ。バーゲンの招待状。通販のチラシ。衝動買いをして、全然、似合わなかったスカーフ。同僚からもらった趣味の合わない置物。英語のカセットテープ。シャネルのロゴ入りの紙袋。靴下の片方。半分使ったチューブ入り脱毛剤とヘラ。料理のレシピを書き抜いたメモ。破っておいた、雑誌のファッションページ。がらくたの宝庫であった。
「ん?」
箱の隅にくちゃくちゃになった紙があった。
「あっ」
住職が書いた、良縁に恵まれるおことばが書いてある和紙であった。ばちがあたったかな、と思いながら、私は和紙の皺《しわ》をのばした。もう一度、開いて見たが、やっぱり何と書いてあるのか判読できない。
「うーむ」
私は紙を手にしたまま迷った。ポイッと捨てるのは簡単だが、私のために書いてくれたと思うと、捨てるのもしのびない。
「あーあー、こういうものって、いちばん困っちゃうのよね。本当にお母さんは、もらってどうしようもないものばかり、持ってくるんだから」
私は紙でぱたぱたと顔をあおぎながら、ため息をついた。ふと箱の中に目をやると、隅っこに赤い袋があった。
「あー、これもだ」
隣の奥さんも厄介なものをくれたものだ。やはり気楽には捨てられない。
「こういうのに有効期限はないのかねえ。期限が切れていたら、どんどん捨てられるのになあ」
お守りの有効期限は、どのくらいかとしばし考えたが、あほらしくなってやめた。箱の中のものはほとんど捨てたが、住職の和紙と赤いお守り袋は、仕方なく中に戻した。そしてその上から、タンスの中のものをどんどん詰めこんでいった。
新しいマンションは、彼の住んでいるところと全くちがう沿線にした。引っ越しをしたら、彼とのことなんか、どうでもよくなってきて、会いたくもなくなってきた。会社で顔を合わせると、彼に、
「このごろ、どうしたの」
などといわれたが、
「忙しいの」
といい続けたら、それっきりになった。会社の人に知られなかったのは、本当にラッキーだった。彼は三人の子供の父親として、これからを生きていけばいい。あの人には、不倫はむかないのである。
引っ越してすぐは、実家に連絡をしなかった。
「また、あんたはそんなことをして。いくつだと思ってんの。三十なのよ、三十。いいかげん、落ち着きなさいよ」
私は母の口調を真似して、へへっと笑った。きっと両親は、やきもきしているだろう。もしかしたら、毎日、神社仏閣に拝みにいっているかもしれない。近所の人たちに、
「誰かいい人、いませんかねえ」
と声をかけまくっている可能性もある。それよりも、私が一人でいることを恥じて、私の話題を避けているかもしれない。いっそ無視してくれれば、やりやすいのに、気にかけるのが私しかいないものだから、両親は嫌になるくらい、私に執着していた。
私が外出から会社に帰ったら、電話を受けた若い女性が、
「お母さんから電話がありました。急用があるみたいでしたけど」
と心配そうにいう。もしかして、父に何か……と、電話をしてみたら、母がでて、
「親に住所を教えないとは何事だあ!」
と大声で怒鳴った。親に、
「電話番号は、現在、使われておりません」
などというアナウンスを聞かせるなんて、何と親不孝な子かと、電話口でわめいている。その後ろからは、父の、
「これ、そんなに怒鳴るのはやめなさい」
という声が、合いの手みたいに聞こえた。
「はい、はい、わかりました」
新しい電話番号と住所を教えて、やっと母の気持ちは落ち着いたが、
「あんた、本当にこのままじゃ、だめになるわよ。少しは自分の歳を考えなさい」
と捨て台詞《ぜりふ》をはいた。
「はい、はい。仕事があるから、じゃあね」
一方的に電話を切った。今夜、帰ったら、うちの留守番電話には、
「もしもし、お母さんだけどね。あんた、本当にまじめに考えなさいよ」
と入っているに決まっているのだ。
私は結婚よりも、三歳年下の、彼と呼べそうな男性が出現して、そっちのほうが楽しみになっていた。彼は独身だが、私は結婚したいとは思っていない。つきあっている人がいるなどといったら、両親は正装で相手の親に会い、
「娘をどうぞよろしく、お願いいたします」
と挨拶をしにいく可能性は大である。両親にとって、恋愛というものはこの世にはない。男女の仲は「他人」か「結婚」しかないと信じているのである。これまで私がしたことを全部話したら、両親は卒倒するだろう。
「人の道にはずれている」
「ご先祖様に顔向けができない」
山のように罵倒されるだろう。だから私は彼らとは距離を置いたほうがいい。両親が願っているような生活を私はできないからである。
友だちの話を聞いたりすると、最初はうるさくいっていても、しまいにはあきらめて、
「もう、好きなようにしろ」
と親がいうこともあるらしい。しかしうちの両親は、粘着気質らしく、全くあきらめようとしない。十年以上、同じことをいい続けるなんて、私には信じられないが、彼らはそれをやってのける。ある意味では、その根性には敬服しているのである。
「僕さあ、ずっとつきあっていても、サトウさんとは結婚できないよ」
私がいいなと狙《ねら》っている男性は、私にそういった。
「あら、私、結婚したいなんて、思ったことないわよ」
ちょっと頭にきた。
「えっ、そうなの。だってサトウさん、三十でしょ。なんだかんだっていったって、仕事にも疲れちゃったし、結婚して楽しようとしてんじゃないの」
「どういうことよ」
「え? いや、女の人はさ、口でそんなこといってても、本心は違うんじゃないかなってことだよ」
「…………」
「だから、そういうつもりだったら、僕は結婚できないから、先にいっておいたほうがいいと思って」
「私こそ、あなたと結婚するつもりなんかないわよ」
「ふーん、じゃ、割り切って遊んでみます? でも、あとで本気になられると、困っちゃうんだよなあ」
私は三十歳まで生きてきて、こんなに人を見る目がなかったのかと、愕然《がくぜん》とした。こんな男を、ちょっとでもいいなと感じた自分が恥ずかしかった。それ以来、私は彼と会うのはやめた。
勤続年数がふえるにつれ、少しずつではあるが、私の給料も上がった。二十二歳のころから比べると、贅沢《ぜいたく》ではないが、気にいった部屋に住めるようになった。もしもこの部屋に、男性がいるとなったらどうなるかと想像してみた。最初はうれしいかもしれないが、だんだん邪魔になってきそうだ。
「やっぱり私は、恋愛に生きるわ」
不倫相手の彼みたいに、三人の子供を育てるなんてできない。
私は母が持ってきたものを持っている限り、彼女の怨念《おんねん》にとらわれるような気がしてきた。押し入れにそのまま突っ込んだ、すでによれよれになっている段ボールの箱の底から、和紙とお守り袋を取り出した。住職が書いたほうはそのまま捨てた。お守り袋は捨てる前に、中に何が入っているか気になって、開けてみた。小さな折り畳まれた紙が、厚手の紙に挟まるような形で入っている。紙を開くと、そこには住職のわけのわからない字ではない、印刷された文字が並んでいた。
「このお守りを持っていると、海難事故にも遭わず」
なぜだかわからないが、
「腰から下の病気にはかからない」
と書いてあった。じっとその紙をみつめた。結婚は捨てた。しかし私は、腰から下の病気にかからないというのがポイントになり、その赤いお守り袋は、これから化粧をする鏡の前に置いておくことにしたのである。
本書は小社単行本(平成六年十二月刊)を文庫化したものです。
無印《むじるし》おまじない物語《ものがたり》