群ようこ
撫で肩ときどき怒り肩
目 次
〔アキレス腱にはぺたんこ靴の巻〕
ある日突然の三センチ下降
フォークダンスは嫌い
消えたスリットの謎
はじめての渾名、その名はチビ太
床屋さんでのひそかな楽しみ
男の子って大変なんですねえ
ホタル遊びの頃がなつかしい
「昼下がりのジョージ」って何だ?
カニ運転手の疑惑
減点法による男選びの果てに
レディスコミックの世界
〔テレビでれんこ日記の巻〕
ナスやキュウリよりもピーターさんが好き
女子プロレスが好き! 涙ドバッで気分スカッ
「結婚! 志願ショー」の助平男と図々しい女共
愉快爽快「ビートたけしのスポーツ大将」
わが母のあこがれ「兼高かおる世界の旅」
クーラーの誘惑に勝ちテレビ体操にはげむ私
「夕食リクエスト」のお父さんを観て、反省!
アタックナンパーマン 君にもきっと春が来る
「キングコング」に涙、しゃっくり、鼻血ブー
いしだあゆみの不倫の恋につい憧れて、ン?
「元気が出るテレビ」のたけし猫まねきが欲しい
ピンクのミニの看護婦さん 再放送ドラマ「ありがとう」
タマゴの黄身の色が人工色だと知って驚いてしまった
紅顔の美少年・安達明が丸顔の普通のおじさんに!
おすすめビデオ第一位ディズニーの音楽アニメ
土日休み、別会社で働くサラリーマンがいるとは!
サーカス芸をするパンダ ウェイウェイ君、何思う?
農民・ウゴ作とは無関係だった「雨後のタケノコ」
本能のおもむくまま露天風呂で平泳ぎしたら……
パリのテレビで再会した鉄腕アトムのりりしき姿
「わくわく動物ランド」ふんころがしの健気な姿
十代のニャンニャンに驚き、怒り、安堵する
TBSお昼の三連発「嫁と姑」ドラマの迫力
カラオケビデオ情報に人類の不気味さを見た
コンピュータに結婚の相手を選ばせていいのか
脱脂粉乳のイッキ飲みにタッちゃんの面影を見た
これが三歳の私だった マル秘アルバム初公開!
酒が飲めないから男ができない? フンッ!
ホロスコープで見た「私の七不思議」
知ってますか? 後ろベッピン、前ビックリ
洗濯≠ナ諦めた野球部マネージャーの座
土曜の深夜は「日本映画名作劇場」
ミル69! ベレンコ中尉もこれみてデレンコ!!
一に洗濯、二に掃除、三、四がなくて五に料理……
今年こそはの語学修得♀yして最大の効果をあげるには?
回してうんざりおニャン子・チャンネル
陳腐な仲良しクラブ「テーマはおんな」
いい思い出だったのに今やくたばれモンキーズ
いろんな番組あるけれどやっぱり私は「サザエさん」
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運とクソ度胸が実力を凌いだあのアホらしき受験生時代
ストレスがたまったと思ったら……女装の館に集う面々
いい服だけは着ていても悲しからずやホームレス・ピープル
案外真面目なヘヴィメタ青年の自己主張
「ハエ男」で思い出した高校時代の恩師
これもワープロ後遺症? 知ってる漢字がすべて朧に
芸能人ママには分からないシングル・マザーたちの悩み
「ほとんどビョーキ」に笑えなくなった私
まるでホラー映画の生物も美人講師で艶めかしく
メデッサのヘビ女で真っ昼間からゾクゾク
巨体少女の恥じらいに思わず応援女子腕柔道
金持ちばかりがいい思い なんとかならぬか衛星放送
「毎日を精一杯に」殊勝な決意も長くはもたず
〔アキレス腱にはぺたんこ靴の巻〕
ある日突然の三センチ下降
私の乳をかえせ
二十六歳の夏、ウキウキしながら新品のTシャツをタンスからひっぱり出して、鏡の前に立ったときのことである。
「ゲゲッ」
一瞬我が目を疑った。目をパチパチさせてもう一度鏡の中をみた。納得できないので今度は体を横向きにしてみた。手を上げ下げしてみた。状況は何ら変わらなかった。その状況とは、
「胸の位置が下になった」
つまり、
「乳が垂れた」
ということである。私はタメ息をついてカックリと頭を垂れ、
「あー、失業中にノーブラでいたからこんなになってしまった。ううっ……私の乳をかえせ!」
と胸の中で怒ってしまった。もちろん会社勤めをしている時は下着をきちんとつけているからまだマシだったが、たった三カ月、家にいてきゅうくつなのが嫌だったからブラジャーをしなかった。ただそれだけだったのに、こんなことになろうとは思ってもみなかった。明らかにバストポイントが三センチ下降していたようであった。二十歳のころの体型は今思うと夢のようだった。
「もうこんなんじゃTシャツなんて着られないじゃないの」
と私はむしゃくしゃして鏡をケッとばした。確実にオバンになっていくんだなと悲しくなった。
「まさか私だけではないだろうね」
そう考えるのが私のセコイところで、友だちに片っぱしから電話をかけ「現在のあなたの乳の位置」について質問した。第一子を産んだばかりの紀子ちゃんは、
「私ってすごくペチャパイだったでしょ。それが子供産んでものすごく大きくなったのよね。だけどさ、これが用済みになった場合のこと考えるとさ、恐ろしいよ」
という。ま、彼女の場合は特殊な事情であるから参考にならない。こうなったらと独身者中心に電話攻撃をすることにした。次は明美ちゃんである。彼女に乳が最近垂れたと思わないかという質問をしたら突然ものすごい勢いで怒り出した。びっくりしていると彼女は、
「何いってんのよ。あんた私が垂れるほど胸がないの知ってるでしょ!!」
というのである。そういえば私は彼女のことを「タタミに画びょう」だの「あー、あばら骨が刺さる」だのいいたい放題いっていじめたのだった。
「どうしたのよ、へんな電話してきて」
「いやあ、それがさあ、きょう久しぶりにTシャツ着てみたらすごく胸が垂れてんのよ。びっくりしちゃってさ。みんなはどうかなあって思って……」
「あんたって本当にしょうがないわねえ。もう若くないんだから胸ぐらい垂れるわよ」
「いいねえ、あんた垂れる胸なくて……」
「う……うるさいわね。私だってその兆候があるのよ」
「えーっどうして、ないものがどうして垂れるの?」
「私の場合胸が垂れるかわりにお腹がたるんできたの!」
「ふーん、山がない分、平地にシワよせがきたわけね」
「正直いってさ、水着がきられないんじゃないかと思って心配なのよね」
位置はちがうにせよ垂れたことには変わりはないと私たちは深くタメ息をついた。最後はミホコちゃんである。再び私は「あなたの乳の位置はいかに?」と質問した。
「あんた、垂れたわよォ」
と暗い声をしていった。
「えっ、やっぱり?」
「そう、Tシャツ着てびっくりしちゃった」
「そうなのよ、私も今日びっくりしちゃって」
「こんなになってるとは思わなかったわよ。私さ、肩ヒモがゆるんでんじゃないかと思って短くしてみたのよね。そうしたらさ、ちがうじゃない! もう絶望的!」
「そうなのよ、そうなのよ」
「で、あっちのほうは?」
と逆に質問してくるのである。あっちってどっちかなあと思ってだまっていると、彼女は、
「あっちって、お尻のほうよ」
と小声でいった。
「あのさあ、絶対お尻も垂れてるはずよ。胸だってお尻だって脂肪だからさ、胸だけ垂れることなんてありえないわよ」
と不気味なことを言うのである。
「ちょ、ちょっと私見てくる」
そういって私は再び鏡の前に立ってみた。
「わわっ」
以前は盛り上がっていた尻の頂点というのが明らかになくなり、単なる平地になっているではないか。私は急いで受話器をとった。
「やっぱし垂れてた」
「そうでしょ。もうあきらめなきゃダメよ」
それから二人の会話はタメ息ばかりだった。私はここで何とか対処しないとあと大変なことになってしまうと思い、毎晩寝る前に行なっているフトモモを細くする体操のほかに胸を大きくする、尻を上げる、というものを組みこんだ。毎日毎日忘れずにやった。
私の尻を救うのは
ある日夕食後ボーッとテレビを観ていたらコマーシャルで、シェイプパンツという新製品を宣伝していた。カラフルな色合いのカッコイイお尻がたくさん並ぶのを見て、私の目はそれに釘付けになった。目からウロコが落ちる思いがした。
「あれしか私の尻を救うものはない!」
と信じ、翌日すぐ買って帰った。
「ムフフフ、もうこれさえあれば百人力。私の体には二十歳の頃の尻がよみがえるのだ」
とほくそ笑んだ。早速着用した。期待に胸ふくらませて鏡の前に立った。当然そこにはコマーシャルのような桃の如《ごと》きカッコイイ尻が現われるはずであった。が、鏡の中にあるのは桃ではなく、やや盛り上がった平地だけである。
「おかしいわねえ。もっと上がるはずなんだけど」
はきかたが悪いのかと思い、ウエストの部分をぐいっと上に引き上げたら下からお尻の肉がはみ出てしまった。
「ああ、こりゃたいへんだ」
とあわてて下にずり下げたら今度は上からお腹の肉がボロッととび出してきた。
「うううっ……」
せっかく目から落ちたウロコがまた目に入ってしまった。腹の肉と尻の肉をおおっているシェイプパンツは、行き場もなくただそのやや盛り上がった平地を形成しているだけである。それ以上の効果は全く望めない。高い金払って買ったのに、ウソツキー、と叫びたい気がした。私はすぐ垂れ乳垂れ尻仲間のミホコちゃんに電話した。
「あたし、きょうシェイプパンツ買ってはいてみたんだけどさ……」
「あーら、私もよ」
「ねー、全然コマーシャルみたいな尻になんないよね」
と二人で合唱してしまったのだ! 二人でいろいろ理由を考えた結果、あのシェイプパンツをはいているモデルは、根本的にそれを必要としない体型なのだという結論に達したのである。
「ねえ、じゃあ私たちどうしたらいいのよ」
「そうねえ、もう何やっても無理なんじゃないの、尻吊りバンドが売り出される以外は」
「そうかあ、あれが天の助けになると思ったのにねえ」
「そうよねえ、でも世の中にうまい話はころがってないわよ」
「あーあ」
私たちの一縷《いちる》の望みは消えてしまった。
それから八年、今ではもう、
「垂れたいだけ垂れろ」
という開きなおり精神でしぶとく生きているのである。
フォークダンスは嫌い
寄ってくるのは痴漢ばかり
あっちこっちで書いているように、高校時代の私はデブだった。自分でも嫌になるほどのデブだった。最近になって母親が、
「ホントにあんた、高校生のときみっともなかったねぇ」
とポロッといった。親も嫌になるくらいのデブだったわけである。身長一五三センチ、体重六十キロ、あれこれいわれるのも当然だ。で、やっぱり全然モテなかった。何か一つだけでも男の子にアピールするものを持っていたほうがいいと思い、髪だけは背中の真ん中くらいまでずーっと伸ばしていた。これで何とか男をおびきよせようと半分必死だったのであるが、寄ってくるのは痴漢ばかりだった。通学途中、電車の中でモゾモゾとへんなけはいがするのでふり返ると、背の低い一見マジメなサラリーマン風の男が、折りたたんだ新聞を目かくしにして、今まさに私の臀部《でんぶ》に右手を伸ばさん、というところだった。私と目が合ったその男は一瞬ギョッとしたが、にくたらしいことに、やりばのなくなった右手を指の屈伸運動をしているかのように急にニギニギしてごまかし、鼻歌を唄いながら横を向いてしまったのである。
しかし、やはりそこでひき下がるような男ではなかった。今度は私の横の位置に移動し、腕を曲げて肩を上げ下げするという肩こり体操をおっぱじめ、その曲げたヒジで私の胸をこづくのであった。私は一歩カニ歩きをして右によけた。するとその男もすり寄ってきた。もう二歩右によけた。さすがにもう男は寄ってこなかった。というのもつかの間、ガタンと電車が大きく揺れたのをいいことに、そいつは、
「オットット」
などといいながら私にしなだれかかり、胸をわしづかみにした。私が怒りで目をむいているとそいつはますます体を密着しようとするので、思わず右手でその男のほっぺたをはりとばしてしまったのであった。男がヨロヨロとよろけたのを見て、急に私の潜在的な暴力的血統が目ざめ、今度はカバンでバカバカ頭をぶっ叩《たた》いてやったのである。仰天したのはまわりの乗客である。突如長い髪をふり乱したデブの女子高校生が隣りに立っていた男に暴力をふるいはじめたので、しばし口をあんぐりあけて見ていたが、そばにいた中年婦人が、
「お、お嬢さん、おちついて、おちついて」
と私をなだめている間に、痴漢は手で顔をおおって、車中の人の間をぬって逃げてしまったのであった。
「ガルルルル……」
とまだ怒りさめやらぬ私は肩で荒く息をしながら、車中の視線を一身に浴びつつ、徹底的にブチのめせなかった悔やしさで一杯だった。
それから何度も痴漢にあった。どうもこの長い髪は別の作用を誘発するようであった。誠に惜しい気はしたが、仕方なく肩の長さまで切った。そうしたら友人に、
「武田鉄矢」
といわれた。嫌だなあと思ってアゴの長さに切りそろえた。再び友人に、
「菅原洋一みたい」
といわれた。私は死ぬ思いで髪の毛を切ったのに……。
「私、やっぱり髪の毛長いほうがいい?」
と友だちにたずねた。その子は、
「うーん。でも髪の毛長いとき、ミッキー吉野に似てたね」
などというのである。じゃあ私は一体何なのだ! 多感なる思春期の乙女がこんなふうにいわれていいのであろうか! しかしなまじ当たっているだけに私もつらいのであった。私だって他の女の子と同じようにボーイフレンドと肩を並べて家に帰りたかった。中には校庭の裏でそっと手を握りあっているカップルもいた。そういうのを目にするたびに、男といえば痴漢しか縁のない我が身を呪った。ところが人目をはばからず、大っぴらに男の子と手をつなげる日がやってきた。文化祭の前夜祭にフォークダンスをすることになったのである。私は内心やったやったと喜んだ。秘《ひそ》かにあこがれている剣道部の中西クンはくるかしら、サッカー部の大山さんもくるかしらとか胸ときめかせた。フォークダンスの前日、私は念入りに今や菅原洋一となってしまった頭髪をシャンプーし、爪をきちんと切りそろえてヤスリをかけ、殺菌効果が高いといわれたミューズせっけんでゴシゴシ手を洗った。翌日のことを考えると本当に心がウキウキした。
これで私の夢がかなう
当日、私はずっと校庭をウロウロしていた。用もないのにただ行ったり来たりしていた。午後四時、やっと生徒会長がマイクで、
「これからフォークダンスをやります。皆さん校庭に集まって下さい」
といった。やはり待ちのぞんでいたとはいえ、目を血走らせてハアハアして男子生徒を待っているというのもどうかと思われたので、つかず離れずそれとなくポツポツ集まってくる人々を観察しながら様子をみていた。女の子はいわゆる十人並み程度の子が集まった。はっきりいって十人並み以上の子はいなかった。そういう子はわざわざフォークダンスの時じゃなくても、好きな時にボーイフレンドと手だけではなく足までも組めちゃうからであった。
悲惨だったのは男子学生のほうである。こっちは本当にひどかった。肩にフケをため、顔ワルイ、頭ワルイ、性格ワルイ′フにモテないというどれか一つがよければいいのに、三悪|一揃《ひとそろ》いといったカンジの子ばっかり集まっちゃったのである。集まったメンバーをみて、
「こりゃ、こういう機会じゃないと女の子の手なんかさわれないわなあ」
とつぶやいた。私は全くやる気をなくした。こいつらと手をつなぐくらいならまだ自分の手を握っていたほうがマシだ。私は輪の中に入らず、校庭の隅につっ立ってじとーっと横目で彼らを眺めていた。ワラの中の七面鳥のブンチャカブンチャカという、のどかな曲にのって踊りの輪はグルグルと回りはじめた。みんなはそれなりにキャッキャと楽しそうにしていた。
「どうしようかなあ」
と思って迷っていると何とあのあこがれの中西君が、そのワラの中の七面鳥の輪の中へ入っていったのだ! 私は思わずみんなが踊っているところへかけより、中西君と踊れる可能性のあるポジションをすばやく判断し、
「ちょっと、入れて入れて」
とムリヤリ人数がハンパなのを承知で割りこんだ。中西君と私の距離は五人分ある。一人の男と手をつなぎたいがために、五人のあまり好きではない男の手を握ることもガマンしようと思ったのである。本当にその五人と踊っているのは単なる義務であった。
「ああ、はやく終わって次の人にならないかしら」
とそればかり思っていた。
「あと三人、あと二人」
と心の中でそればかり考えていた。とうとう私のすぐ後ろに中西君があらわれた。今手をつないでいる男をケッとばしてすぐ中西君をこっちにつれて来たい気がした。
「ああこれで私の夢がかなう」
踊っていた男の子と手が離れ、さあ本命の出番というときに、ジャジャジャン!! という区切りのいい音がして音楽は終わってしまったのである。
「えーっ」
とあまりのショックにうちひしがれている私の前を、中西君はフォークダンスで相手をした女の子と仲良く話をしながら通っていった。私は今でもフォークダンスが大嫌いだ。
消えたスリットの謎
ダイコン足というよりも
そろそろお洒落《しやれ》もしたい年頃であるのに六十キロもあるデブだったため、体に合う服なんかなかった。当時の十三号サイズなんてオバさんが着るようなアズキ色やポリエステルの花プリントの柄しかなかったのだ。
「困ったもんだねぇ」
と母親はいった。そういいつつも母は母。ガタガタミシンをふんで、ヒザ上五センチくらいのミニスカートを縫ってくれた。
「はやくはいてみなさいよ」
母親はスカートを手にもってヒラヒラさせながらいった。私はそのスカートをみてギョッとした。それは目にもあざやかなグリーンだったのである。私はダイコン足、ダイコン足といわれていた。ケッと思いながらも気にならないわけがない。ナワトビ、自転車こぎ、足が細くなりそうなことは何でもやった。必死に肉体を酷使している我が娘の姿をみた父親はいった。
「おまえ、みんなにダイコン足ってからかわれるだろう」
「………」
ただただ無言であおむけになって足をバタバタしていた。
「オレはおまえの足はダイコンじゃないと思うよ」
「………」
私はあおむけになったまま、そうか、やはり父親というのは、見てないようでも娘の心の痛みを見抜いているのかと思った。すると父親は、
「やっぱり、長さがないからダイコンというよりもカブだと思うね」
「………」
手近に金属バットがあったら間違いなくあたりは血の海になっていた。私の父親に対する不信感はこの暴言によってますますつのったといってもよいだろう。自分の娘に対して言うに事欠いてカブとは何だカブとは! しかし冷静に考えてみるとそういわれるのも仕方ないほどみごとなカブ足だったのである。
私は友だちにそのことを話した。彼女は全然その話をきいても笑わなかった。何といい人かと思った。すると彼女は、
「私も悩んでるの」
といった。彼女は身長一五六センチ、体重四十六キロ、中肉中背の何のコンプレックスもないようにみえた。私はその悩みとは、よく雑誌のうしろのほうに載っている、ドクトルチエコ先生に相談しているあるべきところにあるべきものがない≠ニか形がへんだ≠ニか、そういう関係のものかしらと思って、
「平気、平気、私、口堅いから。何でもいっちゃって平気よ」
といった。彼女は真剣な顔をして声をひそめた。
「あのー、あたしね」
「はあ、はあ」
私は身をのり出していった。
「あたしね、足が短いの」
「何、足が短い?」
そんなこと私などとっくの昔に自分の肉体的欠陥≠ニして把握しているため、今やその程度のことは悩みにすら入っていないのである。
「あーら、私だって足短いわよ」
「そうね、でもあなたの場合、太さに目がいって、長さまで気がつかないのよ」
ほめられてるのかけなされてるのかわからん。
「私って足はわりと細いでしょ。スカートをはいてる時は問題ないんだけどさ、ジーパンはくとすごいのよ。短くて」
「だってさぁ、太いのは細くなる可能性があるけど、短いのは長くならないよ」
「そこなのよ。だから私このあいだどうしたら足が長くみえるか必死で考えたの。そしてねぇ、すっごくいい方法思いついたんだ」
「えー、そんなのあるの?」
「そう、あるの」
彼女が自信を持っていうには、他人が彼女をみて足が短い女≠ニ認めるためには彼女の姿をじっと見なければならない。それを逆手にとって、じっと見させなければ足が短いと悟られない、ゆえにいつも早足で歩き、極力立ち止まらないことにすれば他人に足の短さはわからないというのである。マジメな顔をして話す彼女の顔をみて、私は最初バカにしていたが、だんだんこれは真理かもしれないと思い、それからは外に出たときは早足で歩くことにした。一人のときはまだいい。彼女と一緒のときは、相手より早く歩かないとこっちの足の短いのがバレてしまう、と必死で歩き、最後は二人でハアハアしながらの全力疾走になってしまうのだった。
タイトスカートに挑む
その後、だんだん年をとってくると私も彼女も開きなおって、
「短足が何だ! カブが何だ! 女の魅力は中身だ」
とむなしく絶叫しながら毎日を過ごしていた。彼女のほうはダンナもみつかり、一人確保したので短足なんかどうでもいいわいとドカッと主婦の座に座ってしまった。独身の私も肉がシボんでカブからダイコン程度になり、まあ体重も平均になりというところで、とりあえず妥協できる肉体となった。カブ足のころはあっちこっちの洋服屋をみてまわった。少しでも足が細くみえるようにと必死だった。しかし今のように明らかに体型が安定してしまうと、ウィンドーショッピングなんて面倒くさくてしょうがない。私はもともと何もしないで家の中でゴロゴロしながら本を読んでいたいというズボラな人間であるから、こまめに安い服を捜して歩くというのが苦手なのだ。だから靴と服は行きつけの店をきめていてそこでしか買わない。私がボーッと立っていると店員さんが適当にみつくろってもってきてくれるという、この上もなく安楽な方式である。
先日、その店へいったら店員さんが、
「ちょっと今までとイメージを変えてみませんか」
と興味がわくような発言をした。
「えっ、どういうふうにしたらいいんですか」
「たとえばスカートもプリーツばっかりはいてるからセミタイトにしたりとか、キュロットにするとか。気分が変わりますよ」
というのである。私の頭に浮かんだのは、タイトスカート≠セった。私はカブ足のおかげで、スソ幅の狭いものは全くダメだった。しかし今はやっと普通サイズになった。もしかしたらタイトスカートが似合うようになっているかもしれない。これは一度試着してみっかという気になり、
「あのー、私、タイトスカートをはいてみたいんですけど」
というと、店員さんは、
「あ、それならこれがいいですよ」
モスグリーンで脇に八センチ程のスリットのあるお洒落っぽいタイトスカートをもってきた。
「あのー、私でもそういうのはけるでしょうか」
「スリットがあるから大丈夫、大丈夫、ちょっとはいてみて下さいよ」
私は狭い試着室でモソモソしながらスカートをはいた。鏡をみてビックリした。ものすごく丈が長くて、それを着た私の姿は根性のないスケバンのようだった。
「何か……とても似合わないみたい」
と私がいうと店員さんはフンフンと鼻歌をうたいながら、
「ちょっとピンでとめてみましょうね」
と裾上《すそあ》げをはじめたとたん、
「あらー」
そういって急に黙ってしまった。どうしたのかと思っていたら、
「裾上げたらスリットがなくなっちゃった」
とつぶやいた。私は筒のようなスカートを下半身にはめたまま、ただそこに立ち尽くすしかなすすべを知らなかった。
はじめての渾名、その名はチビ太
渾名がついたぞ
この世に生まれて三十年、ただ一度だけ渾名《あだな》をつけられたことがある。小学生のときにクラスの男の子がつけたチビ太≠ニいう渾名である。当時漫画の「おそ松くん」が人気があって、登場人物とよく似た子にそのまま渾名をつけて遊んでいたのだ。私は秘かに「おそ松くん」に出てくるなかでただひとりかわいいトト子ちゃんを目ざしていたのだが、ただ背が低いという理由でチビ太になってしまったのだった。髪の毛を横分けにしている男の子六人が六つ子になった。出ッ歯でオカッパ頭でヤセている女の子がイヤミ、メガネをかけていつもブーブー文句ばかりいってすぐ先生に告げ口する女の子がチカ子、鼻をタラしてボーッとしている男の子がハタ坊、太っていてただひたすらニコニコしているが、何の役にも立たない男の子がデカパンになった。栄《は》えあるトト子ちゃんにはクラスで一番かわいい私の親友のマリコちゃんが選ばれた。
私は家に帰って母親に、
「渾名がついたぞ」
といった。ところが、
「ふーん」
と台所で洗いものをしながらうわの空でいい、全く関心がないようすだった。
「チビ太なんだけど」
そういうと彼女は突然、
「ギャハハハハ……」
とのけぞって大笑いした。母親に笑われても、私は渾名をつけられてうれしかった。渾名にあこがれていたからだ。その日、買物から帰ってきた母親は小さな包みを私にくれた。開けてみると中から出てきたのは小さなプラモデルだった。どこでどう見つけてきたのか、それは組み立てるとチビ太≠ェできあがるというもので、赤いパッケージにはチビ太がスキーをはいて、ストックのかわりに両手にオデンの串《くし》を持っている姿が描かれていた。私は夜遅くまでかかってそのプラモデルを完成させた。高さ八センチくらいの大きさで、ふんづけたらすぐバリンとこわれてしまうようなチャチなものだったが私は机の上にそれをおいてしばらくじっと眺めていた。
毎日休み時間になるとみんなでおそ松くんごっこをした。特に何をするというわけでもないのだが、おそ松に、
「デカパン、何かやれ!」
といわれたら間の抜けた声で、
「ホエホエ」
などといえばやたらウケるという単純にそれだけのことなのだ。イヤミは、
「シェー」
とだけいっていればいい。ハタ坊だって、
「ハタ坊だじょー」
といえば皆がゲラゲラ笑うのである。チビ太であった私は何をするか。
「ケケッ」
と語尾を上げて短く笑うというのが私に課せられた使命であった。しかしこれがうまくできない。おそ松たちは、
「なんだよォ、まじめにやれよォ」
と口をとんがらかしてブーブー文句をいい、
「こいつだってシェーをやったんだぜ、それにくらべたらカンタンじゃないか」
などという。まるで宴会の余興大会のようなものだった。私が、
「ケケッ」
と笑うことができないために、皆の盛り上がった気分がいっきに盛り下がった。
「私、できないもん」
といって許してもらおうとした。
「バカァ、私じゃないだろ。チビ太はボクっていうんだぞ、ホントにもう、しょうがねえなあ」
といっておそ松やトド松はむくれるのだった。
私は内心ヤバイと思っていた。小学校の入学当時、いじめにいじめぬいていた子分のガキどもがどんどん背が高くなっていき、私を追いこしていった。昔あんなに力が強かった私も彼らの力にはとうてい及ばなくなってしまったのだった。子分の逆襲を私は一番恐れていたが、それは確実に私の身に近づいていた。
学期最悪の献立は
当時私は給食が大嫌いだった。ただお腹がすいて他に食べる物がないから仕方なく喰っているというそんな感じだった。特に脱脂粉乳はペコペコしたアルミのカップに入り、いやいや口を近づけていくと本当に気持ちが悪くなるニオイがして、おまけに表面に白いマクまで張っている。息をしないでドワッとのどの奥に流しこんでいたが、中には変態的|嗜好《しこう》の男の子がいて、この脱脂粉乳をみんなからもらって、机の上に八個もアルミカップを並べてグイグイのんじゃうのにはおどろいた。みんなはその子がおいしそうに脱脂粉乳をのむのをじーっとみつめ、ゴクンと全部のみ終わると、
「ホーッ」
とため息をついた。私は、
「気持ち悪くならない?」
ときいた。
「ううん、ならないよ。おいしいじゃない、これ」
と口のまわりを白くしながらその男の子は答えた。みんなは陰で、あの子はきっと家で牛乳をのんだことがないんだと噂《うわさ》していた。のちに給食に牛乳ビンが登場したとき、私たちは「わあ、すごい。やっと牛乳がのめるようになった」と感激した。ニコニコして厚紙の丸いフタを開けた。不器用なのがいて、中にモロに指をつっこんでそこいらじゅう牛乳だらけにしていた。ひと口のんでみるとそれは脱脂粉乳よりはマシだが牛乳とは全然ちがうものだった。
「何だこれ」
とみんなでいいあった。先生は、
「うるさい、給食のときは静かにしなさい」
といった。一人、食べ物に関してはやたらうるさい子が、
「先生、これ牛乳じゃないよ。すごく薄いもん。中身と外がちがうよ」
とどなった。先生はあわてて、
「いーえ、これは牛乳です!」
といいはった。私たちは、
「ちがうよ、ちがうよ」
とわめきちらし、だまされた、とひどく落胆した。それからみんなこのニセ牛乳を脱脂粉乳と同じように避けるようになった。小学校の給食というのは、わざわざ嫌がるものをつくっているのではないかと思われるような献立だった。きな粉がべったりくっついた揚げたコッペパンにミソ汁、くじらのたつた揚げなど、カロリーさえあれば何だっていいじゃないかという感じがただよっていた。このドタ靴のようなコッペパンが、あるときはいちごジャム、あるときはチョコレート、あるときはピーナッツバターと七変化で登場するのだけれど、あのアルミの皿にドデッと鎮座した姿をみるとそれだけで胸がいっぱいになってしまう。それにおしる粉というのがおかずにつくと、もうそれは今学期最悪の献立になった。このおしる粉というのが単なるうすーいアズキの甘い汁で、アルミのお玉に汁をすくうと、お玉の底がうっすらすけてみえるというしろものだった。そのうえ一番不思議だったのは、おもちのかわりに貝の形をしたマカロニが入っていたことだった。
「なんでおしる粉にマカロニが入っているのか」
と私はアルミの器を前にして悩んだ。私の家ではこの貝の形のマカロニは、サラダにしか登場しなかったからであった。甘いものが嫌いな男の子は、この不気味なマカロニ入りおしる粉をどう処分しようかと考えあぐね、ずっと机の上をにらみつけていた。しばらくするとその男の子はコッペパンの端っこを二つに割り、中の白いところをくりぬくようにしてパクパクと食べはじめた。あれよあれよという間に手をつっこんでぐりぐりしながら食べていた。一体どうするのかと思ってみていると、キョロキョロとあたりをうかがいはじめた。じっと見ていた私に気づき、小声で、
「だれにもいうなよ」
というと、中をくりぬいたコッペパンの中におしる粉を流しこんで、二つに割ったときのパンの端っこをカパッとはめてしまったのだ。思わず、
「あったまいいー」
と感動してさけぶとその子は、
「ムフフフ」
と笑ってそれを給食のときに机の上にしくビニールにくるみ、カバンに入れて家にもって帰った。なかには自分のはいている靴下の中に酢豚をいれ、それで靴はいてごまかそうなどと考えついたとんでもないドジもいて、自分でもあまりの気持ち悪さに耐えきれず、放課後オンオン泣き出したりして、給食はいろいろ生徒に問題を投げかけていたのだった。
落日の女ガキ大将
しかし、なかにはどんなおかずでもみんなに配り終わってあまるとまたそれをもらいにいく子もいた。私は横目でみながら、
「どういう胃袋してるんだろう」
と信じられなかった。そして私にはもう一つニガテなメニューがあった。それはオデンだった。ところが私はいちおうチビ太としてふるまわなければならないという義務がある。そこでもと子分の逆襲がはじまったのであった。家で作ったのは平気なのに、アルミの皿の上でゴロッとしている大根やちくわやコンニャクをみていると食欲を失ってしまう。憎らしいオデンどもを糸目でじーっと見ていると、こうるさいおそ松がやってきて、
「おっ、チビ太、どうして喰わねえの?」
などという。無視していると、
「チビ太ってオデンが大好きなんだよなぁ」
とカラ松がいう。
「いつもコンニャクとハンペンと揚げボールを串にさして、それ持ってケケッといいながら走りまわっているじゃないかぁ」
と大声でいった。クラスの子がドーッと笑った。私はずーっと黙っていた。内心くそっと思っていた。私はこいつらに元来バカにされる立場ではないのである。小学校にあがったころはよかった。どいつもこいつも弱虫でちょっと足をケッとばすとピーピー泣き、クワガタ採りにいってもこわがって木に登れないのだった。そういう彼らのお尻をころがっている棒でつついて、
「ホレ、登れ登れ」
などといたぶっていたのが夢のようだった。あれから三、四年しか経っていないのに、たかが給食のオデンが食べられないというだけでクラス中の笑い者になるなど思ってもみなかった。明らかに私はチビ太とよばれて小バカにされていたのであった。
私は先割れスプーンをとり、プルプルと皿の上で逃げる白いコンニャクを二つに切った。ヤケクソになって口の中に放りこんだ。するとカラ松が、
「あっ、喰った喰った、ホレ、ケケッて喜べよ、チビ太よォ」
と私の背中をつついていった。この野郎≠ニ内心思ったが、私が向かっていくには敵はあまりにもデカくなりすぎていた。私はオデンを食べている間、ひたすら彼らを無視した。
「いつか絶対やっつけてやるからな」
と学校からの帰り道、こぶしを握りしめて心に誓ったのではあるがそれ以来全くそういう機会は訪れず、私はチビ太という渾名がつけられたことによって、女ガキ大将の座からひきずりおろされたということをむなしく悟ったのであった。
床屋さんでのひそかな楽しみ
男の子は箱入りに、女の子は野放図に
幼いころから近所の子供たちのガキ大将だった私には何も恐いものがなかった。腕力では負けなかったし、手下どもからクーデターが起きそうになるとそれをすばやくキャッチし、到来物のビスケットをあげたりして御機嫌うかがいをしたり、そのへんは誠に万事おこたりなくやっていたのである。ところがいくらお菓子で不平不満を鎮めようとしても彼らにもガマンの限界がある。私にはかなわないとわかっているので、今度は私の弟をターゲットとして攻撃しはじめたのであった。弟は私とは正反対のおっとり優しい性格で、母親がいうには我が家独自の、
「男の子は箱入りに、女の子は野放図に」
という教育方針があったそうで、めでたくそのとおりに私たちは育ってしまったのであった。
弟はよくいえば慎重、悪くいえばとてもトロかった。幼稚園の運動会でもヨーイ、ドン、とピストルが鳴ると、それから一呼吸してやっと走り出すのだった。そのうえマジメな性格が災いしてゴールしてからも、
「ボクはちゃんとピストルがなってから走ったのに、ナオミちゃんとオサムちゃんはピストルがなる前に走ったんだよお……」
といってオイオイと泣くのである。そういう弟の顔をグリグリとなでながら母親は、
「まったくこの子はマジメだからねぇ。男の子はこんなことで泣かないの! わかった? あんたはちゃんと走ったんだからいいの! どうして同じ姉弟なのに要領のいいのと悪いのとできちゃったのかしらねぇ」
といった。私は聞こえないフリをして空を眺めていた。
そういう要領の悪い弟だったから、私の手下どもにすぐ拉致《らち》され、ビニールの刀でパカパカ頭を叩かれたり、ナワトビの縄でしばられて近所をひきまわされたり、幼稚園のバッグをドブに捨てられたりした。彼らはいじめられたウップンをすべて弟に集中していたのだった。そういう弟の姿をみて、初めて、私の蛮行のせいでかわいい弟がいじめられていることを知ったのだ。えらいことになったとうろたえた。
「よし、これから私が弟をかばってやる」
私は正義感にめざめ、それからは毎日弟をつれて歩いた。家の中でどんなにいじめても外に一歩でたら、道路を歩く時は車が通らないほうを歩かせ、途中で雨が降ってきたら私の上っぱりを脱いで頭からかぶせてやった。そういう私の姿をみた近所のおばさんたちの間では、
「まあ、あのガキ大将の女の子もやっぱり弟はかわいがるのね」
とだんだん私の評判はよくなってきた。それから弟はいじめられなくなった。四六時中私というガードマンが横にピタッとくっついているから恐《こわ》くて手が出せないのだ。私たち姉弟に再び明るい日々が戻ってきた。母親も、
「ちょっと、この子床屋につれていってちょうだい」
などと自分の代わりをさせる始末だった。
私は弟をつれていろんな所へいかされたが床屋につれていくのが一番好きだった。そこへいくと自分の家にない本がたくさん置いてあるからだった。週刊誌も「明星」も「平凡」も映画雑誌もあった。弟がきれいに髪の毛を刈ってもらって、私のところに戻ってくると本当にガッカリした。もっと時間がかかればいいのにと思っていた。映画雑誌でみたキャロル・リンレイという女優さんは本当にきれいだった。マリリン・モンローはやらしい女の人だと思っていた。そして「平凡」や「明星」の後ろのほうにあるドクトルチエコ先生の悩みの相談ページも、よくわけがわからぬまま、
「何かいやらしいことが書いてあるらしい」
と一人で納得していた。子供が目の色を変えてそういった類いの雑誌を読んでいるのをみて、床屋のおじさんは、
「お嬢ちゃん、本好きなの?」
ときいた。私は、
「うん。私は弟のつきそいだから本読んで待ってるの」
と理路整然とした回答をした。おじさんは、
「そ、そう、えらいねぇ」
といいながらバリカン片手に鏡の前に座っている弟のところにいってしまった。月に一回床屋にいくたんびに新しい号が並べられていたのでそれを読み続けていくうちに、あいまいでしかなかったドクトルチエコ先生の相談室の内容も、だんだん理解できるようになってきた。床屋で仕入れた知識を翌日学校で披露し、ひとりで得意になっていたが、それをきいた子供が親にたずねたためその事実が発覚し、私は親たちのひんしゅくをかったこともあった。
私はうなじにシッカロールを真白にはたかれ、粉っぽいニオイをプンプンさせている弟と手をつないで帰るときが一番悲しく、
「はやく毛が伸びないもんだろうか」
と思っていた。
血は流れ、首はふっとび
ある日、いつものように弟を床屋につれていくと、今までなかったマンガ本がズラッと並んでいた。そのころ私はバレエ漫画に熱中していた。「りぼん」や「なかよし」にも必ずバレエの漫画が載っていて、カラーページには森下洋子ちゃんの白鳥の格好をしたポートレートがおまけについていたりした。その漫画にあこがれて、バレエを習いはじめた子もいた。そういう子の家はとてもお金持ちだった。私は一人部屋の中でバレリーナになったつもりでグルグル回り、目を回してタタミの上にブッ倒れていた。そのバレエ漫画は優しく美しく正直なバレエの才能のある少女が、同じバレエ団にいる勝気な少女にいじめられるが、それに耐え、最後は発表会で大好評を博し、勝気な少女とも仲良くなるという、愛あり涙ありのハッピーエンド・ドラマだった。あるページでは花が咲き、鳥が舞い、リボンがはためき、フリルがたくさんついたドレスが出てきたりした。もちろん登場人物の目の中には星がきらめいている。これでもかこれでもかと女の子の好きなものを並べたてていた。私は自分とは全く違う世界の話にのめりこみ、色鉛筆やクレヨンでその漫画を塗り絵にして遊んでいた。
しかし、床屋にあったのはそういう漫画ではなかった。男の子向きの忍者漫画だった。パラパラとページをめくってびっくり仰天した。私が今まで読んでいた漫画の世界とは全く異なるものがそこにはあった。もちろん花もリボンもドレスも出てこない。出てくるのはカラス、野犬、牛、イノシシ、悪い奴に簡単に殺される村の人々だった。目に星が入るどころではなく、片目の男が出てきた。白いドレスでクルクル踊るかわりに腕はちぎれ、血はドバドバ流れ、首はふっとび、野犬の腹はカッさばかれ、城は焼かれ、幼子は殺されるという阿鼻《あび》叫喚の地獄絵なのであった。やたら人が死ぬ漫画をはじめてみた私はただただびっくりしていた。ずいぶん黒い絵だなあと思っていた。「忍者武芸帳」という漫画本だった。私は仰天したままボーッとソファに座っていた。正直いって半分腰をぬかしていた。
「もうこれ以上みてはいけない」
と思って、もとあったところに戻そうとしたが、こわいもの見たさでまたついつい読んでしまい、またショックでボーッとしてしまうのだった。この衝撃がまた快感なのだった。そしてこの「忍者武芸帳」がやたら巻数が多いので、それを読むのが恐いの半分、楽しみ半分という複雑な心境だった。影丸はカッコ良く、結城重太郎はなかなかかわいらしい顔立ちをしていたが、それより何より私は、
「こんなに人が死んでいいんだろうか」
と思っていた。「忍者武芸帳」をみた夜は恐ろしくてなかなか眠れなかった。うつらうつらすると目の前にお腹《なか》に刀をつきさされてバタッと地に伏す人々や、空中にふっとんだ生首、片腕がちらついてきて体がブルブルとふるえてくるのだった。そしてこういうときに限ってトイレにいきたくなってしまう。私は隣りに寝ている弟をまたいでトイレにいこうとフスマを開けた。そのとたんにうす明かりに浮かび上がる人影……
「………」
声をあげようにも声が出ない。私は生まれて三十余年、本当に腰が抜けてヘナヘナとその場にへたりこんでしまったのは、このときだけである。私は本能的にその場から逃げようとゴキブリのようにはいつくばったまま、
「あたあたあた……」
とわけのわからないことばを吐きながら布団の中にもぐりこもうとした。が、様子がどうもおかしい。おそるおそるふり返ってみると、寝ているはずの弟がパジャマのズボンの前をビッショリぬらしてこれまたトイレの前でボーッと立っているのだった。
「ど、どうした」
と私が小声できくと弟は目をこすりながら、
「浮き袋がなくなっちゃって、プールにおっこちたー」
と明らかに寝ぼけているのであった。私は腰が立たない状態のまま、ゴキブリ状態でタンスの引き出しを開け、パンツを出してはきかえさせ、弟を布団の中に寝かしつけた。スヤスヤと再び寝入った弟の姿をみながら、
「このやろー!」
と思った。床屋にいっても絶対あの漫画はみるのはやめようと何度心に決めても、店の中に入るとどうしても「忍者武芸帳」に手が伸びてしまうのだった。恐いのに次が読みたくてしょうがなかった。最終巻でとうとう影丸が捕えられ八ツ裂きの刑に処せられたときはあまりのことに夕食が食べられず、翌日学校を休んでしまったくらいだった。
一人で行けるからいいよ
「忍者武芸帳」の最終巻を読んだ翌月、いつものように弟をつれて床屋にいくと、もう私が興味をもって読むものがなに一つなくなっていた。床屋のおじさんが雑誌や漫画の新しい号を買うのをやめてしまったからだ。私はとてもガッカリして、前によんだドクトルチエコ先生の「毛が生えない女子高校生に対する回答」を仕方なく読んでいた。床屋のおじさんはそういう私の姿をみても何もいわずに革のベルトのようなものでカミソリをといだり、泡をブクブクたててヒゲを剃ったりしていた。そんなこんなで床屋にいく気もうせていたとき、弟は突然頭をボリボリと掻《か》きながら、
「おねえちゃん、ボク今度から一人で床屋にいくからいいよ」
といった。私はびっくりした。
「えー、どうして」
「だってボク来年から一年生だからさ。一人でいけるからいいよ」
と冷たくいい放つのであった。
「くそ、昔かばってやった恩も忘れおってよくも……」
弟にすれば、いつまでも姉がぴったりそばにくっついていたのではカッコ悪いと思ったのであろう。しかしその時はただ、
「ふーん」
と答えておいた。何されてももう知らないからな、と思っていた。それから弟はトコトコ一人で駅前の床屋に歩いていった。最初のころは心配で自転車に乗ってつかず離れず尾行していくと、トロいはずの弟がそれに気がつき、ふりかえってキッ! とこっちをにらむのだった。私はそこに止まり、上目づかいでじーっと弟の顔をみていた。しばらくするとまた弟は歩き出した。私がついていこうとすると弟は前を向いたまま手でシッシッと私のことを追いやるのだった。今まで私の横にぴったりくっついていた弟にそういう態度をされるのは誠に悲しいことだった。私はガッカリして帰った。母親は私の姿をみて、
「ワハハ、弟にフラれたんだろう」
といった。私は黙って母親のお尻に向かってストレートを一発くらわせた。
それから弟は外に出ると何度も何度も私の手下どもにおっかけられたりドブにつきおとされたりしたが、そのたんびに必死で目をつり上げ涙をこらえて走って帰ってきた。そのうちどういうわけか弟はその手下どもと仲良くなり、一緒に遊ぶようになった。私はまた仲間はずれになった。それからは一人でビニールの刀をふりまわし、忍者武芸帳ごっこをしてウサ晴らしをしていたのである。
男の子って大変なんですねえ
何しに学校へきてるんですか
私は高校時代、ほとんど勉強をしなかった。私の通学していた高校は立場こそ都立高校ではあったが学力程度は都内でもドン尻に近く、都立高校の合格点のボーダーラインにいる受験生が、もしやと思って受験するために倍率だけは高いという現実だった。私たちは、
「別に頭なんかよかないんだよね。単にクジ運のいいのばっかり集まったんだ」
といっていた。確かに中には異常なくらいテストに熱中している女の子もいた。戻ってくるテストの点が悪いと机につっぷして、ワーンと泣き出すのである。そんなにひどいのかと思って横目でのぞくと、みごと八十七点もとっている。私などは十三点で先生に向かって、
「先生、このテストは五十点満点じゃなかったんですか」
などときいて廊下に立たされてしまったことすらあった。特に私のクラスは成績が悪かった。皆好き勝手なことをしていた。だからホームルームで何か意見をまとめようと思っても、何の結論も出ず、担任も、
「本当におまえたちは何も考えてないんだなあ」
とあきれ顔でいった。そういわれても私たちは反論もせずボーッとしていた。特に数学の女教師からは何度も何度も罵倒《ばとう》された。女教師というと何やら淫靡《いんび》な感じがするが、実はウシのような中年女性で、顔は昔肉をぶよんぶよんさせて相撲をとっていた若秩父によく似ていて、よくよく見ないとたるんだ皮膚で顔の造作がわからないという人だった。いつも胴長短足の体をガバと黒板におしつけ、目を近づけてものすごく小さい字で微分、積分の公式を書いていた。私は最初から全然公式など覚える気はないので、机の中にエロ本を隠して読んでいた。その本は後ろの席のノムラ君をおどして借りたものだった。彼は私が読んでいると後ろから小声で、
「どお、ねえ、どお」
と何度も何度もきく。
「どおって何が」
私も小声でいうと、ククッと笑って、
「ほら、さあ、何となくその気になってくるとか、そんなふうにならない」
ととんでもないことをいう。
「何いってんだよ、このバカ」
そういって私はそいつの頭を筆箱のカドでブン殴った。そんなことは私ばかりではなく、クラスのほとんどの人間がやっていた。いくらどんくさい若秩父でもそういう現状を目のあたりにすると怒った。
「ちょっと、あんたたち何しに学校へきてるんですか」
顔を真赤にしてブルブルふるえはじめた。私たちはとりあえずしーんとして、このまま若秩父が倒れてしまうのではないかとじっと見つめていた。
「ほんとにいつもいつもうるさいんだから! いちいち言うのがいやだから黙ってただけなの。知らないと思ったら大間違いですよ! いい加減にしなさい! 来年は受験だというのに、何やってんのよ! 少しは自分たちのことを考えなさい!」
若秩父はチョークだらけのやつがしらのような右手をふりまわしながら説教した。いちおうみんなおとなしく聞いてはいたが、ある者は机の中で輪ゴムをのばしたりちぢめたりして遊び、ある者はうつむいたままいねむりをし、ある者は遠くの景色をみるフリをして、体育の授業をしている下級生の女の子の体操着姿を眺めていた。
「一体あなたたちは家に帰って何してるの! えっ? 勉強してるの?」
しつこくしつこく若秩父はきいた。するとノムラ君が小さな声で、
「マスターベーションに決まってんじゃないかよお」
といった。ところがそれは単なるつぶやきにしてはあまりに声が大きく、彼の周囲一・五メートル四方の級友にみごとに聞こえてしまった。私たちはガハハハと笑った。すると若秩父はキッと糸のような目でこっちをにらみつけ、
「何よ、えっ一体何してるの」
といった。すると私の隣りの席のイワタ君が、
「先生、ノムラ君はマスターベーションをしてるそうです」
ととてつもない大声でいった。クラス中ドッと笑った。若秩父は、
「えっ、何? 何なの?」
と眉間《みけん》にシワをよせて一番前に座っている女の子にイワタ君の発言内容をたずねていたが、彼女が顔を真赤にして黙っていたために、
「みんなで私のことをバカにしている。担任にいいつけてやるからね!!」
といって大きなお尻をゆすりながらプイッと教室を出ていった。若秩父が出ていってから私たちはまた大笑いをした。
「オ、オレそんなことしてないよォ」
ノムラ君はうろたえていった。
「あっウソばっかし。私そういったのきいたもん」
と私がいうと、周囲の子は口々にそうだそうだとうなずきながら、また笑った。
「全くもう、いやんなっちゃうなぁ」
そうノムラ君がいって、隣りの席の女の子の机に思わず手をのせると、彼女は、
「ちょっとあんた、どこさわったかわかんない汚い手で、机にさわんないでくれない」
などと死者を鞭《むち》打つ発言をした。
「ひえーっ」
ノムラ君はそういって椅子の上にひっくりかえった。私たちはまたゲラゲラ笑った。
イワタ君あそぼ
担任からは見捨てられ、各学科の教師からも罵倒された私たちは翌年に受験をひかえた十二月になってもまだボーッとしていた。青くなって予備校に通っているのは八十七点をとって泣いた彼女くらいのもので、女の子の二大関心事は肥満と化粧で男の子のほうは女だった。受験をひかえて禁欲的な生活を送るなどということは全然考えず、キャンキャンいいながら女の子をおっかけまわしていた。
ある日ノムラ君が休み時間に私のところにきてニヤニヤしながらいった。
「おまえ、今日ヒマかよ」
私はギョッとして、
「は?」
とききかえした。
「何かカンちがいしてんじゃないの? オレそういう意味でいったわけじゃないの」
「そういう意味ってどういうことよ」
「えっ、いちいちうるさいヤツだなぁ」
「うるさくて悪かったね! 何だっていうのよ。早くいいなさいよ」
「全くもう、すぐ怒るんだからなぁ。ま、いいや、あのさ、イワタのことなんだけどさ……」
彼がクククッと笑いながらいうには、このところ彼は下級生の女の子とつきあっていて彼女にみごとに骨抜きにされている。このままほっておくのは来年の受験にも悪影響を及ぼすこと必至なので、友人としてはここで彼の目をさまさせてやろうというワケなのであった。
「別に誰とつきあおうが、イワタ君が受験に失敗しようが関係ないじゃないよ」
私は面倒くさくなってそういった。
「ちがうんだよ。毎日毎日さ、彼女を自分ちに連れこんでるんだぜ。あの家親も兄貴も勤めてるからさ、昼間は誰もいないんだよ。だから最近あいつおかしいと思わない? ボーッとしてるだろ」
「あら、ボーッとしてるのは前からよ」
「おまえって本当に口が悪いな。ま、いいからきょうの放課後四時に中庭で待ってるからさ、こいよ」
そういってノムラ君は去っていった。面と向かって彼をさとすのか具体的な方法はわからなかったが、別段私もすることがなかったので、とりあえず約束の時間に中庭にいった。そこには同じクラスの子が他に四人きていた。
「さあ、今からイワタんちへいくぞ」
ノムラ君は元気にいった。
「いってどうすんの」
「面白いことが起きるんですよねぇ、これが、フフフ」
ノムラ君は詳細を全く教えてくれない。まあ、今日のところは黙っていわれるがままにしていようと腹をきめてイワタ君の家に向かった。
彼の家は古い木造のこぢんまりとした家だった。一体どうするのかと思ってみていると、ノムラ君は小さい声で、
「あそこの窓がイワタの部屋の窓なんだ。だからあそこの窓の前にいってせえーの、でみんなで、イワタ君あそぼっていうんだよ」
といった。
「イワタ君いるの?」
一緒にくっついてきた女の子がきいた。
「いるに決まってんだろ、今彼女を連れこんでるんだから」
「えーっかわいそう、そんなの」
と私たちはいいながらも、うろたえるイワタ君の姿を想像するとおかしくてたまらず、手で口をおさえてクスクス笑った。
「しっ、静かに」
ノムラ君は小声でいって私たちを窓の前に並ばせた。おかしくて肩をふるわせながらずっと手で口をおさえていた。
せえの、のかけ声で調子をあわせて私たちはとてつもなく大きい声で、
「イワタ君、あーそーぼ」
といった。家の中はしーんとしていたが、かすかにカーテンが動いたような気がした。
「イワタ君、あーそーぼ」
またみんなで呼んだ。それから私たちは声をそろえて何度も何度も連呼した。七、八回呼んだあと家の中から不愉快そうな、
「あーとーで」
という低い声がきこえてきた。私たちはふき出しそうになってみんなで口をおさえて一目散にその場を去った。しばらく走ったあとガマンしきれなくなりギャハハハと無邪気に笑った。イワタ君は疲労がたまっているのか授業中に寝てばかりいた。案の定彼はみごとに大学受験に失敗し、親身の金もうけでおなじみの某予備校に行った。私はまぐれで大学に入った。そしてあのノムラ君も補欠からの繰り上げで私と同じ大学にひょっこり合格してしまったのだった。私はキャンパスでばったり会った彼にむかって、
「あんた、実は私にホレてて後追ってきたんじゃないの?」
といってやった。彼は、
「嫌な女だなぁ……もう……」
そういいつつ暗い顔をして学食へ入っていった。私は内心、ヒマなときにイジめる相手がみつかってよかったよかったと思っていた。
男の子は大変だねぇ
それから何カ月か経って私は同じゼミの男の子からぶ厚いマンガ本を借りた。「喜劇新思想大系」という哲学的なカオリもほのかにするようなタイトルとはうらはらに、かなり内容はメチャクチャなものだった。マスターベーションに専念する逆向春助、悶々時次郎、直木賞をめざす池上筒彦、おまけにホモの不気味な顔をした近松亀丸が登場するギャグマンガで、最初はギョッとしたがだんだんその気持ち悪さが快感になって、私はゲラゲラ笑いながらこの本を読んだ。近松亀丸が持ってきたホモの人用の絶倫パパ、携帯コーモンなどあまりに傑作でこのおかしさを我が母にも教えようとこの本をみせたら、あの大胆な母にさえ露骨にさげすんだ目をされてしまったので、誰にでも受け入れられる内容ではないようだった。
逆向春助は女に恵まれない男である。それゆえにひたすらよりよい状態でマスターベーションができるようにヌード写真やコンニャク、枕、フトンを使っていろいろな方法を考え出し、それが随所に出てくるのが女の私にとっては誠に興味深かった。そこでパッとひらめいたのは逆向春助と同じように女にモテずに自己作業にいそしむノムラ君の姿であった。
「これは教えてやらねば」
そう思って私は「喜劇新思想大系」を手にノムラ君を捜した。遠くのほうからヒョロヒョロ歩いてくる彼の姿を見つけ、私は、
「ノムラ君」
と大声で呼んだ。彼は私の姿をみると一瞬ギョッとした顔をして、知らんぷりして違う方向へ歩いていこうとした。私はムッとしてあわててかけ寄り、
「何で逃げるんだよ」
と腕をワシ掴《づか》みにした。
「いえ、ちょっと……」
「ま、いいや。あのさ、私とってもいいものみつけたからあんたに教えてあげる」
そういって私は「喜劇新思想大系」をみせ、ほれ、このようにいろいろ役に立つことが載っているからぜひ買い求めるようにと勧めた。彼は、
「いろいろお気づかいいただいて……」
といい足早に去っていった。いろいろと男の子は大変だねぇ、としみじみ思った春であった。
ホタル遊びの頃がなつかしい
子供たちの間でテレビゲームやパソコンがものすごい人気である。デパートのおもちゃ売場でもたくさんの子供が群がっている。私が四つか五つのころはデパートでおもちゃを買ってもらえるのは誕生日のプレゼントくらいで、普段はおじいさんとおばあさんが細々とやっている駄菓子屋のような店で買っていた。そこを私たちはオバケの店と呼んでいた。二軒隣りにある幼稚園で山羊《やぎ》を飼っていたので、私はいつも山羊のために家からチリ紙をもってきてそーっと差し出し、ムシャムシャ食べてくれるとホッと安心したりした。その帰りにいつもオバケの店に寄った。水鉄砲、キンキラのコインチョコレート、セルロイドの小さなキューピー人形。十円とか二十円といった程度の値段だったが、色とりどりのおもちゃを目の前にして、
「今度おこづかいをもらったら、どれを買おうかなぁ」
とあれこれ考えるのが楽しみだった。私はおこづかいをもらうと、目をつけていた蛍光塗料が塗ってあるゴムボールを買った。両手にしっかり握ってなるべく陽《ひ》のかげっている所を選んで家に帰った。私は玄関を開けるやいなやダダーッと押し入れの中に突進し、バタンとフスマを閉め、中でそーっと両手を開いた。するとそのゴムボールはボワーッと青白い光を放った。布団の上をそっと転がすとその光もコロコロと動いていった。しばらくそれを両手で握ったりはなしたりして光が見え隠れするのを楽しんでいた。その時、突然ガラッとフスマが開き、
「またそんなところにいる! 布団干したばっかりなんだから、もう、ペチャンコになっちゃうでしょ!!」
母親がすさまじい形相をして立っていて、ズルズルとひきずり降ろされてしまった。
「子供は外で遊びなさい!」
と怒られてしまったが、外で見るボールは単に黄色っぽい色をした半透明の何の変哲もない玉にすぎなかったので全然つまらなかった。ひざにボールをのっけて手でカゲを作って遊んでいるうちに、私は急にホタルのことを思い出した。
「これをお尻につければホタルみたいになるかもしれない」
すぐさまうちの汚い物置の中にかけこんだ。暗い物置の中でボールはますます青白く光った。私はカビとホコリとクモの巣が一緒くたになっている中で、おもむろにスカートをまくり上げ、はいていたパンツのお尻のところにそのボールを入れてみた。木綿の布地をとおしてうっすらと青白い光がすけて見え、私はひどくうれしくなって、
「ほーたる、ほたる」
と歌いながらホコリくさい物置の中でピョンピョンはねまわった。そのたんびにボールはピコンピコンと上下に揺れ、私は本当にホタルのようになった気がした。図にのって狭い中でとびはねていたら、ガツンと何かにぶつかって目から火が出た。棚の上に置いてあった大工道具入れのカドにみごと命中してしまったのだ。涙がじわーっと出てきた。尻は光り、目から火が出るえらい騒ぎであった。そのうちぶつけた所がカーッと熱くなってジンジンしてきて、私はあまりの痛さにガマンできず、ヨロヨロと物置から出て母親のところにいってそばで涙をためたままじーっと立っていた。最初はオロオロしていた母親もパンツの中にボールを入れている私の姿をみて、
「本当に何やってるのよ、この子は!!」
と急に怒り出し、私はお尻をバンバン叩かれてしまった。
デパートのおもちゃ売場で子供たちがずらっと並んでテレビゲームの画面をニラみつけながら黙々とキーを叩いている姿を見て、この子たちも私みたいにバカで無邪気なことをやっているのだろうかとふと心配になってしまった、今日このごろである。
「昼下がりのジョージ」って何だ?
私が子供のころ、夫婦喧嘩をした翌日、母親は必ず雨降りでない限り布団を干し、タンスから衣類をひっぱり出してアイロンかけをはじめた。ランドセルをカタカタいわせて家に帰ると彼女は太モモのような右手で竹製のフトン叩きを握りしめ、バンバンと布団を叩いていた。いつまでもいつまでも叩いていた。アイロンかけも両手でアイロンの柄を握り、ぎゅうぎゅうと押しつけていた。私はランドセルを背負ったままじっとそれをみていた。
「おなかすいたよ」
といってみた。無視された。アイロンがかかりすぎて、角がピンピンにそりかえっているにもかかわらず、小さなハンカチに向かって何度も何度もアイロンをかけていた。
「ねー、おなかすいたよお」
足をバタバタさせながらいうと、彼女はうるさそうに、
「もうちょっと待てないの、あんたは」
といった。
「やだあ、待てないよお」
とわめくと、突如彼女はアイロンを右手に立ち上がり、何と私をおっかけ回しはじめたのであった。私は仰天して恐怖におののき、失神しそうになってしまった。部屋の隅っこに私をおいつめた母親は急にカッハッハと笑って、
「あー、すっきりした」
といった。私もホッとして一緒になって情けない声でカハハと笑った。しばらくだまっていた母親はポツッと、
「あたし、ひるさがりのじょうじ、観たいのよね」
といった。
「ふーん」
そう答えたものの当時の私がそのことばがいったい何をさし、何を意味するか知るはずもなかった。が、私の知っている限り、毎日黙々と洗濯物を洗い、薄暗い台所の片すみでヌカミソをかきまわし、夜は夜でガタガタとミシンをふんでいる母親が「〇〇したい」などというのを耳にしたのははじめてだったので何かとてもうれしかった。私は私なりに勝手にジョージという名前の人が出てくる映画だろうと解釈していた。ひるさがりのじょうじ≠ニいう言葉がいつまでたってもずっと耳に残っていたのである。近所のおばさんに、
「おかあさん元気?」
などときかれると私は無邪気に答えていた。
「うん。うちのおかあさん、ひるさがりのじょうじにいきたいっていってた」
「えっ、ホント?」
「ホントだよ」
おばさんはギョッとしていった。
「あまりこういうことは、よその人にいわないほうがいいよ」
「どうして?」
「えっ、ど、どうしてって、ねえ、……」
うろたえたおばさんはそそくさと帰ってしまった。私は不思議でたまらなかった。大人たちにひるさがりのじょうじ≠ニいったら皆一瞬ギョッとするからであった。
ある日、私は夕食のときに好物の厚焼き卵をほおばりながら気になっていたことをきいた。
「ねえ、ひるさがりのじょうじってどういうこと」
すると父親はムッとした顔をして、
「何でそんなことば知ってるんだ」
といった。
「だってこのあいだ、おかあさんがいってたもん」
「いえ、私はね、ただたまには映画くらい観たいなあと思っていったのよ」
と母親が口をはさんだ。それをきいて突然父親は、
「人妻が『昼下りの情事』などという映画を観たいなどというのは誠に不謹慎である。それをまた子供の前でいうとは何事か」
と怒り出した。
「何よ、たかが映画くらい、このケチ!」
この反撃でまた毎度おなじみの四畳半必殺夫婦喧嘩大会がはじまった。私は子供心にもうひるさがりのじょうじ≠ニいうことばは絶対口にするまいと決めた。
このひるさがりのじょうじ==u昼下りの情事」であること、ビリー・ワイルダー監督、オードリー・ヘップバーン主演ということを知ったのは中学に入ったときだった。私はなんだかおかしくなってゲラゲラ笑ってしまった。本当に母親はこの映画を観たかったのか、ただタイトルにあこがれていたのか私にはわからないが、正直いって、「いい歳してかわいいじゃないの」という感想だった。
あれから十五年、離婚して今は自由になった母親が未《いま》だに「昼下りの情事」を観たいと思っているのか、ちょっときいてみたい気もしているのである。
カニ運転手の疑惑
大学時代、私はバスと電車を乗り継いで学校に通っていた。実家は東京都下で、まだ畑や野原があちこちにあったり、近所で突然遺跡があるのが発見されたりするという、東京の田舎地区であった。まず私は三、四十分バスに乗って駅まで行く。そして私鉄に乗り換えるというルートを使っていた。とにかく東京都の境目なのに、今一つ開けていない土地柄のせいか、昼間バスに乗っているのは、爺さん、婆さん、それにおばさんたちばかり。まれに学生もいるものの何となーく暗い雰囲気だったのである。
そのバスは直線距離を走ればすぐ駅に着くのに、うっそうと茂った竹藪《たけやぶ》に囲まれた藁葺《わらぶき》屋根の家の前とか、破れかかった赤いよだれかけをしたお地蔵さまがそばにあるナントカ塚といった、乗降客があまりいない停留所まで遠回りしていた。そのため均一料金ではなく中間地点のナントカ塚から、料金が百十円から百二十円になるのであった。
あるとき、学校から帰る私はいつものように料金箱に百二十円を入れて座席に座っていた。そして停留所が近づいたのでブザーを押して降りようとすると、車は止まっているのにドアが開かない。おかしいなと思ってじっと待っていたがいっこうに開かない。
「すみません」と運転手に声をかけても私のことを無視している。もう一度声をかけると突然彼は、
「おまえ、ちゃんと金を入れろよ」
というのである。何のことかわからずボーッとしていると、口汚く私が百十円しか入れないのに百二十円区間まで乗った、と一人で騒いでいるのであった。
「そんなこといわれたって、ちゃんと払ったものは払ったんですけど」
といっても、そいつは、
「いや、入れてない」
とカニの甲羅のような顔をますます真赤にして怒っている。乗客もみんな困ったわねえという顔をしている。私も名誉のために何度も「払ったんだ」と頑張っても、カニはガンとしてゆずらない。払った、払わないじゃあいつまでたっても泥仕合である。私だって料金をちゃんと入れたという証拠はないし、テキも私が金をごまかしたという確固たる証拠はないのである。しかし「信用して」といってもカニにはそんな余裕などなさそうなので、私はブスッとして降車口のところで立っていた。
するとそこに山羊のようなお婆さんがよたよたと運転手のところに歩み寄り、
「私はあの人の後ろから乗りましたけど、ちゃんと百二十円払ってましたよ」
といってくれたのである。私は救いの女神にしてはちょっと年をとっているそのお婆さんにぺこぺこと頭を下げた。プシューと音をたててドアが開いて私は解放された。一時はほっとしたものの、だんだん疑われたことにすごく腹が立ち、うちの玄関のドアを開けるやいなや、母親を大声で呼びつけて運転手の無礼な一件を告げた。
彼女は「ふーん」といったあと、他にどういう人が乗っていたか聞いた。「子供連れのお母さんと、助けの女神のお婆さんと、私と同い年くらいのきれいに化粧してワンピースを着た女の子が乗っていた」というと彼女は、
「そりゃ当たり前だ。それじゃあんたは疑われる」
と自分のかわいい娘が犯人扱いされているというのに、非常にクールな判断をしているのである。母親として少しはいたわってくれるかと思ったのに、私はますます頭に血が上ってきた。
「たとえば乗客の写真を撮って、このなかに犯人が一人います。さて誰でしょう、といわれたら、ほとんどの人はあんたのことを指差すわ」
とまでいうのであった。
「どうしてよ」
「だって格好が汚いんだもん」
それについては、私も納得する。洗ってはあるものの擦《す》り切れ寸前のジーンズに運動靴。いくら太っても許容量のあるトレーナーという、年ごろの娘にあるまじきスタイル。しかしそれと人を疑う事とは別問題ではないか、と反論すると彼女は、
「世の中は、着ているもので人を判断する人間が多いの」
といって一方的に話を打ち切ってしまった。必死にバイトしてミンクのコートでも買おうかしらと本気で思った。それを着ていれば日本国では全《すべ》ての免罪符になるのではないかという気がした。
私が帰る時間と、そのカニ運転手のローテーションとがぴったりだったようで、それから何度も何度も顔を合わせた。そのたんびに私は行き先をはっきりといい、百二十円をいれたことがはっきりわかるように一個ずつ硬貨を料金箱に入れた。カニ運転手はその間しらんぷりをしていた。私が乗っているときも、カニは私に疑いをかけたように、高校生の男の子やら髪を染めた女の子にむかって、
「百二十円、百二十円」
としつこく絡んでいた。カニ運転手は「乗客の料金ごまかし絶対阻止」だけを目標に生きているようだった。最近は整理券を取って乗った分だけ下車時払いになっているバスが多いが、これは運転手と乗客の精神衛生上誠に良い方式である。この方式が採用されるまで、私みたいにどれだけの人が疑われ、バス会社にしてみればどれだけ悪いやつに料金をごまかされたかわからないだろう。これで安心してバスに乗れるとは思うものの、正直いっていまだに名前をはっきり記憶しているカニ運転手のことを、生涯許さないと思っているのである。
減点法による男選びの果てに
男と暮らす必要がない
私は今まで、「男と一緒に住みたい」と思ったことが、一度もない女である。一年にいっぺんくらい、
「ああ、この部屋に男の背中があれば、どんなにいいだろうか」
と思うことはある。しかし、三分くらいはそういう気分が持続するが、だんだん、
「その背中はブツブツ文句をいい、メシまで喰う。洗濯もしてやらなきゃならない」
などと考えはじめると、結局は、
「あー、面倒くさい! 一人のほうがよっぽど気楽でいいや」
で、一件落着してしまい、私の男性関係に何の進展ももたらさないのである。
だいたい私の今の生活では、男と暮らす必要が何もない。おかげさまで欲しいと思ったものは買えるし、自分ひとり食べていけるくらいの収入はある。電話をかけたり会って楽しくお話しできる男性の友達もいる。朝は好きな時間に起き、夜は好きな時間に寝られる。へとへとになって帰ってきて、部屋の中が汚れていようとも、自分さえ我慢すれば家事を明日に引き延ばすことだってできる。晩ごはんを食べたあと、大の字になってタタミの上にひっくりかえり、
「あー、喰った、喰った」
と、デレーッとしていても、誰にも文句をいわれない。こうしていると、
「こんなひとときを男なんかに邪魔されてたまるか」
という気持ちになってくるのだ。
私は全然覚えてないのだが、小学校からの親友がいうことには、昔、彼女の家でお人形さんごっこをしているときに、唐突に私は、
「あたしは結婚しないの。ずーっと一人で働くの」
と、おかっぱ頭をゆすりながらいったそうである。
「そのとおりになってるわねえ」
と彼女は感心していたが、我ながら「当時いったい何を考えていたのだろうか」と理解に苦しんだのも事実である。私の父親は定収入がないのにもかかわらず、一時代前の亭主関白をひきずっている男で、母親が働くのを頭っから認めようとしなかった。家に帰ってきても母親が買物にいっていなかったりすると、
「ママはどこにいった」
と、大騒ぎするのである。私は、|きいちのぬりえ《ヽヽヽヽヽヽヽ》をしながら、そんな父親を、
「こいつ、バカじゃなかろうか」
と冷たい目をしてみていた。妻がいなければ夜も日も明けぬ愛妻家のように見えるが、実は自分のわがままばかり妻におしつけて、家のなかにとじこめておこうとする態度がミエミエで、私は子供のころから、男はずるいと思ってきたような気がする。それでも、私の父親が特殊なタイプで、世の男性は違うのだろうと、一縷の望みをいだいていたのである。ところが、私の父親だけがそうではなくて、世の男どももそういう一面をもっていることがわかって愕然《がくぜん》とし、そのとたん、世の中の男がみんなバカに思えてきた。そしてそれは、二十代が終わるまで続いた。最近やっと非常に数は少ないがいい男もいるのだ、ということがわかった。でも、そういった男を自分のものにしたいかっていうと、そうではない。ある程度の距離をおかないと、疲れてしまうからである。お互いが会いたいときに会って、そのとき楽しくすごせれば、それでいい。どうしても結婚しなければならないのなら、私には別居結婚か通い婚しかありえないのだ。
トイレも開けたままでするの
しかし、結婚した人はそれとは違う考えがあったのだろうと、結婚三年目になる友人にきいてみた。
「あなたにとって、夫というのはどういう立場にあるのか」
と、たずねると、
「親にもいえないことを、彼になら相談できるし、やっぱり大切な人である」
というお答えであった。私はふんふんときいていたのだが、次にいったことばをきいてびっくり仰天した。
「家のなかに一人でいると、とってもこわいの。トイレも戸を開けたままでするの。だから、彼が帰ってくるとホッとするわ」
彼女が住んでいるのは、だだっ広い豪邸なんかではない。2Kの普通のアパートである。これが三十すぎた女の発言であろうか。まあ、これだけ頼りにされていれば、ダンナも幸せだろう。他人のことはとやかくいうまい、と思うことにした。ところが、ある日彼女から電話がかかってきた。開口一番、夫が許せないという。何ごとであるかと話をきいてみると、彼が結婚前につきあっていた女の数を二人ごまかしていた、というのである。私はふきだしそうになったのだが、あまりに彼女が怒っているので、じっとガマンし、
「それで、それで」
と、事のてんまつを話してもらった。二人は結婚するとき、
「隠しごとは、やめようね」
といって、おたがいの過去を、あらいざらい喋《しやべ》ったそうである。ところが彼は肝心の二人の女のことを、話さなかった。それが許せないというのである。
「あのとき、ボクは童貞だっていったことも、みーんなウソだったのよ! キーッ」
彼女はぷりぷりして、離縁せんばかりの勢いであったが、私は我慢しきれなくなって、ワッハッハと大笑いしてしまった。
「今、つきあってる女がいるわけじゃないんだから、いいじゃない」
といっても、
「こんなつまらないことで、ウソをつくのが許せない」
と激怒している。彼女の理論としては、自分は親にもいえないことを話しているのに、彼のほうは「秘密」をもっているのが嫌だということなのである。そういう気持ちもわからぬではないが、そういう男女関係ははっきりいって私には疲れるのである。嫌なら子供もいないことだし、さっさと別れりゃいいのに、その後、何もいってこないところをみると、なんとかうまいことおさまったのであろう。しかしこのようなどうでもいいことを、世の中の夫婦はいい争っているのであろうか。こういう話を耳にするたびに面倒くさがりの私は、
「一人でよかった」
と、ホッとするのである。
三十路をすぎて
ところが、独身の友人にそういうと、
「あんた、結婚すると女は変わるのよ。彼女はきっと性にめざめたのよ」
と、成人映画のタイトルみたいなことをいう。
「まっさか」
と、笑うと、彼女はニコリともせずに、
「あんた、好きな男と寝たいと思わないの」
と、目をつりあげて詰問する。
「そうねえ。私は好きな男とは寝ないのがいちばんいいと思ってるんだけど」
と、答えた。すると、彼女は問題ありげに、
「それは、女性ホルモンの欠如よ」
と、きっぱりといい切り、そのうえ、
「あんたは、まだ精神的にガキなんじゃないの」
などといわれてしまった。私にしてみれば、「昼間、家のなかに一人でいるのがこわい女」のほうが、よっぽど精神的にガキのような気がするが、彼女がいうように、三十すぎても私みたいなことをいっているようでは、ガキといわれても仕方ないかもしれない。でも、男と一生懸命寝まくった女がいい女になっているかというと、かならずしもそうではないから、私はこれでいいのである。
しかし、そういう彼女の今までの男関係をみると最悪である。どいつもこいつも、人のいい彼女の体と金をめあてに寄ってきたとしか思えない。それでも彼女は、彼らのことを悪くいわない。どうしてかしら、とよく考えてみたら、彼女は男に対して「加点法」なのに、私のほうは「減点法」なのだ。
まず、非常に彼女は間口が広いというか、あらゆる男に対して寛大である。私のほうは男に限らず、人の好き嫌いが激しいから、嫌な奴とは絶対に会いたくない。そして彼女は、第一印象が悪い男とも会って、彼のよいところをみつけて好きになる。しかし、私のほうは第一段階をパスした男には、まず持ち点10点をあたえる。そして、私がカチンときた行動、および発言をするたんびに1点ずつ減点し、0点になったときには、
「はい、さようなら」
という方式でやっていた。ところがこれが通用したのも二十代までで、三十路《みそじ》を過ぎて私も身のほどをわきまえてきたので、最近はこの方式は適用されていない。なかには、
「最初嫌いでも、寝ればどんな男でも好きになっちゃうわ」
という、大胆な発言をした友人もいたが、私のように第一印象決定主義だと、いつになったらそのような関係になるか予想もつかない。
よく見合い結婚をした夫婦が、
「最初は、それほどじゃなかったけれど、一緒に暮らしてみて、いいところがいろいろとわかった」
なんていうことをよくいっているが、私にしたらそんなことは神業にちかい。それほどじゃない人と一緒に暮らすなんて考えられない。そういう考え方ができる人は、人と暮らすのにむいた人なのだろう。
しかし、こうはいいつつも、もしかしたらこれから、いままでの考えを覆してしまうような男が現われるかもしれない、と、ほんのちょっぴり期待している私なのである。
レディスコミックの世界
月産五百万部の秘密を探る
かつて私はマンガ大好き少女であった。毎月、「りぼん」、「なかよし」、「週刊マーガレット」、「少女フレンド」を買い求め、それでも物足りなくて、友だちの家へいって「少女」や、「少年」、「冒険王」まで借りてきた。目の中にお星さまがまたたき、バラの花や鳥が舞うページをみてはハーッとため息をついた。大好きな絵にはていねいに色鉛筆でぬりえまでした。ひところはバレエ漫画に影響されて、
「あたしは大きくなったら森下洋子さんと一緒にバレエを踊るんだ」
と強く思いこんでいたくらいである。ところがだんだん歳をとっていくにつれ、
「こんなお姫さまや外人の少女の話なんかにあこがれている場合ではない」
ということに気づき、もっと現実的にクラスの男の子を追っかけまわしはじめた。小学校の高学年でマンガの世界とは縁を切ってしまったのである。その後、大学生になったときに土田よしこの「つる姫じゃー」に出会い、
「世の中にこんなに面白いマンガがあったのか」
と狂喜してむさぼり読んだ。この周辺で他に面白そうなマンガはあるのかと、いろいろ物色はしてみたのだが、めぼしいものは見あたらず、それっきり。それ以来ただ活字を追う毎日になってしまったのである。
ところが最近世間ではレディスコミックなるものが、二十三歳から二十五歳の主婦、OL、そして学生層に異常にうけているということを耳にした。そんなこと全然知らなかった。目に星の入った絵をみることに興味がなくなっていたから、書店でもまったく気付かなかったのだ。今回一カ月に発売されたレディスコミック誌を読むことになっても、
「多くて五、六冊だろう」
と気楽に考えていた。しかし現実はそんなに甘いものではなく、実はひと月の発行総数が推定五百万部、というスゴさで、うちの玄関には小包四つ分、全部で十八冊のレディスコミック誌がドサッと届いたのであった。
レディスコミック ジュール 双葉社
レディスコミック シルキー 白泉社
レディスコミック ユー 集英社
レディスコミック ハーイ 主婦と生活社
レディスコミック メイ 少年画報社
ビー・ラブ 講談社
ビッグコミック フォア・レディ 小学館
ラ・コミック 笠倉出版社
エレガンス イブ 秋田書店
キュート ワニマガジン社
………………
これらを一冊ずつタタミの上に広げたら、私はイヤーな予感がしてきた。どの本も定価が二百五十円前後と一定で判型も皆同じ。ひと月に十八冊も出版され、続々と新シリーズが発売されている。かのロマンス小説軍団と非常に似ているのだ。実際その読者層というのも、ロマンス小説を読んでいた人が多く、レディスコミックにも中毒症状を起こしているらしい。
私は三年前、「文藝春秋」で「ハーレクインロマンスは西洋恋愛小説の水戸黄門である」という文章を書かせてもらった。そのときは、たかだか六冊しか読まなかったのに、ひどい下痢になってしまって閉口したのだが、今回は十八冊もある。またワンパターンの恋愛物語が、今度は目に星を入れた男女で繰り広げられるなんて、私は途中で大腸カタルにでもなるんじゃないかとおびえてしまった。
ベッドシーンは堂々と
とにかくレディスコミックについては完璧《かんぺき》に無知である。人気がある描き手は、橋本多佳子、河あきら、柴門ふみ、重富奎子、のがみけい、もりたじゅん、志賀公江、川崎ひろ子の各氏だそうだが、私は柴門ふみと、もりたじゅんしか名前を知らないというヒドさである。どれを読んでも初めて知る名前と絵ばかり。ページをめくるとまずヤセる∞脱毛∞ボールペン習字∞胸がデカくなる≠ニいう広告がとびこんでくる。
「ホントに能がないわね」
とブツクサいいながらまたページをめくる。絵が迫ってくるからめったやたらとペースが早い。おまけにたいてい読み切りだから、前の号の筋なんか知らなくたって関係なく、パッパカパッパカはかどってしまうのである。おまけに一冊には何篇もの話が入っていて、うんざりする間もなく次のマンガに移るので、あっという間に読み終えてしまう。
下痢はしなかったもののさすがに十八冊もぶっ続けで読むと、頭がフラフラしてきた。私の頭の中には、主人公として登場した人妻、女子大生、芸者、ホステス、小説家、編集者、キャリア・ウーマン、ドジOL、娼婦、愛人たちが、年下の男、TVディレクター、教師、俳優、歌手、報道カメラマン、青年実業家たちと、大挙して押し寄せてきたようなかんじで、一回読んだくらいでは、何というタイトルが何の話かということが覚えられない。ほとんどが現代もので愛と結婚がテーマ。ベッドシーンもけっこうある。
「目に星を入れたのがこんなことしていいのか」
と思ったが、だいたいキスして胸をいじくりまわして正常位、もう少し大胆だと後背位。最初はいやがっていても、終わったら、
「あたし後悔してないわ」
というパターンで、新鮮さはなかった。描き手も女性だから多少テレもあるのか、「アミ・ジュール」に描いていた「結婚への序曲」の筆者、童夢梨乃のように少女マンガの典型のような絵を描いておきながら、ベッドシーンになったとたんにタッチが原律子のナンセンスマンガ風になってしまうという極端な人もいた。笑ってゴマかそうとしたのだろうか。
「こんなこと描いちゃっていいのかしら」
とオズオズやっている。「キュート」はベッドシーンに力を入れているようで、特に峰岸ひろみは原律子調になることもなく劇画タッチをつらぬいて、がんばっておられた。ベッドシーンを描くなら描くで、腰くだけにならず堂々と自信をもっていただきたい。
しかし正直いって、特に絵がうまいという人は少なく、
「何だ、これは」
というのがほとんど。しかしストーリーが面白ければ、絵なんかまずくても楽しめてしまうところが問題で、コミックといいつつ絵よりもセリフがポイントなのだ。ストーリーもよく、絵もよい、というのは十八冊読破した中で二、三篇であった。でもハーレクインを読んだときよりは、ずっと面白かったというのが私の素直な感想である。それは、紅毛|碧眼《へきがん》のメラニーちゃんとマイケル君のお話ではないからである。もちろん読んだなかにも外人の男を相手にしたものもあったし、
「こんなことあるわけないじゃんか」
と思われるクソ面白くもない話もあった。しかしたいていは、女ならばいろいろ考えたり悩んだりするであろう身近な問題をとりあげていて、あまり違和感はない。
軽いタッチで主婦売春
「ジュディ」(小学館)に載っていた飯野恵子「エンゲージリングにはパールを」の主人公の二十五歳の女が、
「女はなんてったって二十五からよ、若い子なんてメじゃないわ」
と元気よく宣言したと思ったら、鏡をのぞいて、
「きゃー、目尻にこじわがー」
とうろたえる。女友だちと、酒をのみながら、
「物知らずで気がきかなくて、仕事はちゃらんぽらん、そのくせ自己主張だけはする若い女の子ばっかり男どもはちやほやする。あたしたちを売れ残りだなんてぬかしてっ。バーカめがっ。女はこれからだ!!」
とわめきつつも、高校時代の友人が結婚するという話題になると、
「まさか、あの女に先を越されるとは……」
といっきに暗くなってしまう。
そこで私も、
「そうだ、そうだ」
と深くうなずくのだ。かくいう私も、
「あたし、結婚して家庭におさまるなんて絶対嫌だわ! 主婦なんて家政婦とたいして変わりないんじゃないの」
などと強気の発言をしておきながら、同年輩の女の結婚式によばれると、
「ヒドイ男ねぇ、相当妥協したわね」
と二人の姿をみながら品定めをし、年下の女の子が結婚したときけば、その場では、
「まあ、おめでとう、よかったわねぇ」
とニッコリ笑っていうものの、家に帰るやいなや、ふつふつと怒りがこみあげてきて、
「クソッ、また遅れをとってしまった」
と面白くない。そしていつも、
「結婚しないっていったのはお前だろうが。どうして心の底から素直に喜んであげられないのだ。本当に度量の狭い女だ」
と自己嫌悪に陥る。そしてヤケ食いしてまた太るのである。
主人公が女だと、自分とは立場がちがえど、それなりに心理がわかる。「ビッグコミック フォア・レディ」の西谷祥子「危険な昼下がり」も主婦売春を軽いフットワークでこなしていて面白かった。私は主婦の生活をしてないからわからないが、彼女たちの欲求不満はきっとそうなのに違いない、と納得できてしまった。主人公のセツコさんは新婚で家が欲しい。しかしダンナは安月給。自分は家でじーっとしているだけ。初めはふつうのパートをしているのだが、金の誘惑にまけて、主婦売春のグループに入ろうかなあと迷う。ローン支払い中の友人の奥さんは、
「この身体で一日十万円稼げるなら」
と大乗り気。驚くセツコさんにむかって、
「早く結婚しすぎて特殊技能もないっ。学歴もない。おまけに子持ちで時間がないっ。そんな女にほかにいい仕事があると思うのォ」
と吉幾三調で迫ってくるのである。そして具体的に、
「銀行ローンが二千万円、両方の親からの借金が合わせて一千八百万……」
とパチパチそろばんまではじいてしまう。
「うんうん、ローンの支払いはキツいから。そうなっちゃうかもねぇ、結果的には」
これまた私はうなずいてしまうのである。頭ではすっかり割り切っているつもりでも、心の底にはいつも、
「こんなことしてていいのかなあ」
という迷いが残っている。その迷いをうまく描かれると胸にグサッときて、
「そうなのよねぇ」
と深くため息をついてしまうのである。
しかし波風たっても結局はハッピーエンドで、みんながホッとする常識的な結果で終わる。こうなるといかにもハーレクイン的でクサさが残るが、中には描き手のやる気が感じられる、とてもいい作品もあるにはある。
「オフィス・ユー」、市川ジュンの「陽の末裔《まつえい》」はホレたハレたという話ばかりのなかにあって、ただひとつ異彩を放っていた。舞台は珍しく大正時代。裕福な東北の旧家に育った南部咲久子という女の子と、同郷の貧しい農家の石上卯乃という女の子の話である。咲久子の家が第一次世界大戦で没落したため、彼女が親友の卯乃と共に上京してくる。咲久子は失った土地をとり戻そう、卯乃は働きながら女学校へ通おう、という希望を胸に秘めて気丈に生きるという話である。時代背景がちょうど平塚らいてうや市川房枝が新婦人協会を作ったころとダブっているのでそのへんも興味深い。
しかしそれと一緒くたになって、カラーグラビアで、
「水着姿のイイ男、さあさあ品定めしてちょーだい!!」
なんていう毛ズネを出した海パン姿の男がポーズをとっていたりする。この節操のなさが、レディスコミックなのだろう。
心淋しき女たち
レディスコミックは、女の好きなものがあふれんばかりにでてくる、女のためのオモチャ箱である。あなたのインラン度を測るテスト、四コマギャグマンガ、日本全国独身男、ヒマつぶしやウサばらしにはまさにうってつけである。ハーレクインが夢みる夢子さんを作るものなら、レディスコミックは、自分と同じ心の迷いや淋しさをもった仲間を見つけだすものである。本を読みながら、
「そうなの、あたしもそうなのよ」
という声がきこえてきそうである。同じオモチャであそんでいると安心するのだ。読者の欄でも流産・死産をのりこえて、女性はつおいっ!≠ニいうコラムがあったり、彼がいるのに妻子もちと浮気してしまったという告白も載っている。ただそれだけなら、
「ふーん」
で済むが、そのあと、
「何よりもあそこに大きな真珠が二つも入っていてテクニックもすごく、もうわりきってつきあうことができなくなってしまったのです」
とあって仰天してしまう。
「これが本音なのかしらねぇ」
とあきれながらも、パタッと本を閉じればそれっきり。あとに何も残らない。
「ああ、さっぱりした」
という感想だけ。自分の現実が気になりながらもそればっかり考えるのはコワイ。だからそれをフィクション化したものをよむとほどほどにホッとする。次から次へとレディスコミックを手にとり、ウサばらしをする。こう思ってるのはあたしだけじゃなかったわと安心する。おまけにたくさん字をよまないでいいから誠にお手軽。これにやみつきになってしまう主婦や学生、OLの気持ちもわかるが、
「世の中にはそんなに生きることにおよび腰の心淋しい女がいるのか」
と複雑な気持ちで赤やピンクが散らばるレディスコミックの表紙をみつめてしまったのであった。
〔テレビでれんこ日記の巻〕
ナスやキュウリよりもピーターさんが好き
一年間ずーっとがまんしてやっとハイファイビデオを購入した。私は月賦や借金が大嫌いなので何を買うにもキャッシュで払わなければならない。それゆえ小金が貯まるまでじっと耐えていたのである。店頭で、
「まさかこの値段よりも安くなることはあるまいね」
と念を押して、ビデオの箱をかついで帰ったときの喜びは忘れられない。
私がビデオを購入した第一の目的は、TBS系で毎週火曜日の深夜に放送されている「ザ・ポッパーズMTV」を録画するためである。私はこの番組で森岡マミさんという女の子をアシスタントに司会をしているピーター・バラカンさんの大ファンで、そのあまり英語もろくにわからないのに彼の奥さまが書いた「TOKYO CITY GUIDE」という本まで購入してしまったくらいだ。「ザ・ポッパーズMTV」は、他のこのテの番組と違って、単に海外アーチストのヒット曲ビデオを紹介していくというのではない。彼の独断と偏見でヒットしていても気に入らないものは放送しないというポリシーで構成されていて、またその紹介されるビデオがいいものばかりなのである。だから私は毎週一本三七〇〇円のテープに標準スピードで録画してすべて永久保存版にし、原稿を書く合間に繰り返し観ては、
「いいわ、いいわ」
と一人で喜んでいる。彼に会ったという知り合いの編集者にはわざわざ電話をしてしまう。
「ね、ね、ピーター・バラカンさんって実物のほうがテレビよりずっと素敵でしょ」
「ええ、素敵な人ですよ。ヘタな日本人よりも日本語をきれいに話すし、あんなにきちんと敬語が使える人なんてちょっといないんじゃないですか」
「やっぱりねぇ、そうだと思ったのよねぇ」
女として異常か
私はいつもちょっぴり恥ずかしそうにして喋《しやべ》るピーターさんの姿を観ては、ムフフフと知らず知らずのうちに頬がゆるんでしまうのである。だから未《いま》だにうちのビデオテープは、どれを再生しても彼がニッコリ笑って登場することになっている。しかしそういう私に対して冷たい目をむける人もいる。
「あんたって、どうしていい歳していつまでもそうなの?」
そう憎々しげにいうのは、すでに二児の母となっている友人である。彼女は熱心にビデオを購入しろとすすめた人間で、購入したあかつきには、女性が自発的にナスやキュウリを出したり入れたりするビデオを貸してやるとしつこかったのである。そちらの方の世界にのめりこんでいる彼女にMTV番組の良さなどわかるわけない、とムッとしていった。
「私のどこが悪いのよ」
「あんたがここ五、六年いいといった男、覚えてる? 所ジョージに山本学に、そして今度はピーター・バラカンですって! それはよくないわよ」
ときっぱりという。そして、
「あんたねぇ、少しは自分のこと考えてみなさいよ」
とさとすようにいうことには、私は明らかに女としておかしいらしいのだ。三十すぎた女だったら手元に三七〇〇円あったら口紅を買うものだという。そういえば私はメンターム薬用スティック以外口紅は一本も持っていない。彼女は冷たく、
「口紅っていうのはね、発情した女の証《あかし》なのよ! 一本も持ってないなんて女として異常です!」
とののしるのである。
さすがナスやキュウリの出入りが好きな人だけあってなかなか大胆な発言であったが、そういう意味でいえば私は明らかに立ち遅れている。私は昔から好きな人の動く姿をみているだけで、満足してしまうフシがあった。一緒に映画を観たいとか全然思わなかった。普通に好きで私が何をしても許される男≠謔閾大好きで私が何もできない男≠フほうがよかった。だから今でも私が好きになる対象は、妻帯者だろうが年下だろうが全然関係ない。自分のものにしようと思ってないから、私が片想いしているだけで何の問題も起きないからである。
「あなたねぇ、それは女として不幸よ! もうピーター・バラカンのことは忘れて、現実に目をむけることをしなさい」
そうキュウリ夫人はいう。しかし何をしても許される男ほど面倒くさいものはないのではないか。そういうことにエネルギーを使うんだったら、ニッコリほほえむピーター・バラカンさんを観つつ、一人で原稿を書いているほうがよっぽど気楽で楽しいと思うのだが。こういう生活ってやはり女としては不幸なのでありましょうか。
女子プロレスが好き! 涙ドバッで気分スカッ
私はある時期まで、テレビや映画で悲しい場面を観ても、全く涙というものが出たことがなかった。友だちには、
「あんた女じゃないわよ」
といわれ、弟にまで、
「この冷血無感動!」
とののしられる始末だった。思えば生まれてこのかた、幸いにも親族の葬式に列席する機会もなかった私にとって、涙を流すなんて日常的なことではなかった。
ところが何年か前、テレビで「泥の河」を観たときに、二十年近くたまりにたまっていた涙が一気にドバーッと噴出してしまった。これは私にとっても非常にたまげた出来事だった。恐るべき量の水分が目から流れ落ちた。私の思考的予想では、涙がじわっとにじむ程度だったのだが、現実はティッシュペーパーどころかタオルを目の下にあてなければ間に合わないひどさだった。
「アレ、こんなはずではない。おかしい」
と思うさきから涙がドバドバ流れてくる。そのうえ鼻水まで垂れてきてしまい、仕方ないのでしばらく顔面にタオルとティッシュをあてがったまま、体液がにじみ出るのにただ体をまかせるしかなかった。こんなに涙が出るものかと本当に驚いた。
それ以来、涙腺《るいせん》につまっていたゴミがとれたのか、今度は簡単に涙がボロボロ出るようになってきた。笑っただけでも出てくる。だからテレビを観るときも番組を選ばないとえらいことになる。
毎年放送される「中国残留孤児のみなさん」。もうこれは完璧にダメ。身元が確認されて家族と喜びあう姿や控室でガックリ肩を落とす姿に涙がボロボロ出てしまう。そしてどういうわけか観れば泣くことがわかっているのに必ずチャンネルをまわしてしまうのである。
動物が死ぬ番組もダメ。観たあと、
「テレビカメラをまわしていないでなんで助けなかったんだ」
と怒りがこみあげてくるので、このテの番組は極力観るのを避けている。
私の友人で、悲恋ものを観て泣くという人もいるが、私はそういうのを観ても、
「フン、バカバカしい」
と不愉快になることはあれど涙なんか出たことない。なかには松田聖子の別離記者会見を観てもらい泣きしたという女までいたが、他人の色恋沙汰なんてどうでもいいから、こんなもんじゃ泣かない。私には毎週必ず涙|滂沱《ぼうだ》する番組があるのだ。
まさに観るリポビタン
フジテレビの月曜夜七時からの「女子プロレス」がそれである。たまに日曜日の午後に放送されるときもあるので、それも欠かさず観ている。一度「ナンバー」の取材でリングサイドで観たのが運のつき。中年からの女狂いと同じで、
「世の中にこんないいものがあったのか」
と歓喜して、毎週テレビの前に座ってはパチパチ手を叩いているのである。このときはどんなに仕事がつまっていても仕事はおっぽりなげて女子プロレスに没頭することにしている。善玉、悪玉入り乱れて若い女の子が体を張って元気に動いているのが誠によろしい。そしてつい感情を入れすぎて、ロメロ・スペシャルなんかをかけられているジャガー横田の身になって、
「ああ、いたいいたい、これはいたい」
と思わずいってしまい一人で赤面している。長与千種の頭の中をハサミでグサグサつき刺しているダンプ松本を観て、
「何もあそこまでしなくてもねえ」
とハラハラしているくせに、やり方が手ぬるいと何か物足りない。そして観終わったあと涙がドーッと出てくる。特に長与千種対ライオネス飛鳥というクラッシュギャルズの対決のときは、引き分けという予想通りの展開になったものの、試合が終わると、
「二人ともよくやった。これからもがんばるようにね。ウェーン」
とまた「泥の河」と同じ状況になってしまった。この試合はしっかりビデオに録画してあるので、いつ何時でも私は同じ試合を観ることができる。正直いって私のビデオの棚にはポッパーズMTVと女子プロレスのビデオしかないのである。原稿をただひたすら書いている単調な日が続くと、どうしても刺激が欲しくなる。女子プロレスを観てありったけの涙を出すと、スカッとして非常に気分がよろしい。ボーッとした頭に活をいれてくれる。まさに観るリポビタンスーパーAである。毎週一度、気分をリフレッシュするため、私は女子プロレスにチャンネルをあわせるのだ。
「結婚! 志願ショー」の助平男と図々しい女共
先日、高校時代の友だち二人と会った。女性のほうとは年に一度くらいは会っているのだが男性のほうは十三年ぶり。彼とお互いを指さしつつ、
「わあ、全然顔が変わってないじゃないか」
とひとしきり騒いでも、どうも雰囲気は暗い。実は、彼の八年間つきあっていた彼女がさっさと別の男と結婚してしまい、意気消沈しているというのをきき、私たち女性軍が彼の慰安と激励の会をしようということになったわけなのだ。
彼は背高く頭脳明晰、次男、性格最良、容貌は若かりしころの石坂浩二といった具合で、唯一の難点は給料があまり良くないことらしいのだが、それを差し引いてあまりあるほどの好青年である。
彼女とはお互い雷に打たれたように一目|惚《ぼ》れしたのだが、唐突に破局は訪れてしまった。
「気の強い女でねえ。待ち合わせの時間に少し遅れてブン殴られたことがあったからね」
私たちは顔を見あわせて驚いてしまった。彼は本当に健気に彼女につくしていた。そして彼女が彼にむかって一方的に、
「あんたとはもう一緒にいられないわ」
といって去っていったくだりでは、怒りと共にハラリと涙がこぼれそうになってしまったのであった。
「あんた、そんな女と別れてよかったわよ」
「うーん。もちろん彼女の悪いところも十分わかってるんだけど、残念ながら好きだということとそういうことは別問題なんだよね」
彼はまだ未練があるような素振りをみせるのだった。私たち女性軍は帰り道、彼が気の毒でたまらず、いろいろと話し合った。
「あんなにいい人がどうしてこんな目にあわなきゃならないのかしら」
「そうよね。男夢千代みたいなもんよね」
「お見合いだったら一発で決まると思うんだけど、とにかく数多くの人に彼の存在を知らしめなきゃダメよ」
あれこれ話をしていて、
「そういえばむかし、テレビ集団見合いみたいな番組があったね」
といいつつ同時に私たちの頭の中に浮かんだのは、東京12チャンネル、金曜日夜九時から放送されている「結婚! 志願ショー」のひどさであった。この番組には毎週一人ずつ医者、レーサー、エリートサラリーマン、デザイナー、青年実業家などといった、俗にいう社会的に地位も金もある適齢期の男性が登場する。そして結婚志願というふれこみの若い女性たち五人が、とりあえず未来の妻の座をめざして自分の長所をアピールするのだが、この出てくる女がみんなひどい娘ばっかりであきれかえってしまう。番組の中に組みこまれている水着審査≠ナも堂々と水着姿をさらし、「ウソー」「ヤダー」「信じられなーい」といった三語族で、
「本当に普通の家の娘さんなんだろうか」
とただおどろいてしまうばかりである。
プライドはないのか?
ところが彼女たちは女奴隷市の如く番号をつけた水着姿で五人並べられ、ゲストの芸能人に、
「そうね、彼には1番か4番の方がいいと思うわ」
といわれてもニコニコしている。彼女たちには女のプライドというものなんかないのであろう。ま、○○会社のキャンペーンギャルとやらが名門女子大卒で、「最初は水着姿になるのがとっても恥ずかしくてたまりませんでした」といかに彼女が普通のお嬢さんであるか書いてあるのを読んで、
「バカもん。コンテストの間だって水着になる機会はいくらだってあっただろうに、ブリッ子するんじゃないよ。普通のお嬢さんがそんなことするわけないじゃないか」
と怒っていたのであるが、もしかしたら現代の普通のお嬢さんというのはそういうタイプに様変わりしてしまったのかもしれない。
五人の中から一人を選べる男も、鼻の下を伸ばしてだらしがないったらありゃしない。金にものをいわせている男と、プライドもなく金目あての女が出てくる番組なんて一体どこが面白いのだ。
「金がある男と図々しい女っていうのは、さっさと結婚できるのよ。彼みたいにおとなしくて性格のいい人が、気づかれないまま縁遠くなっていくのよね」
私たちは深夜、三十女の禁句といわれる、今どきの若い女は≠ニいう言葉を発しつつ、
「絶対彼にはいい人をみつけてあげようね」
と心に固く誓ったのだった。
愉快爽快「ビートたけしのスポーツ大将」
何かスポーツをやっていましたか、ときかれると、私は思わずたじろいでしまう。
「ううう……」
としばしうなってから、度胸をきめて、
「中学時代、卓球をやってました」
と告白すると、大抵の人は、
「へーえ、ずいぶん暗いことやってたんですね」
という。私は卓球は暗いスポーツだとは全然思っていなかったのだが、ネアカ、ネクラブームのとき、スポーツの中で何が暗いかというアンケートの結果、水球と肩を並べて卓球という文字を見たとき愕然とした。おまけに私は卓球部の部長であった。ネクラの頂点に立つ人だったわけである。
そもそも卓球を始めた理由というのは、だんだん交通事故が増加してきたという新聞記事を読んだ父親が、
「卓球をやると動作が敏捷《びんしよう》になって、車に轢《ひ》かれない!」
ときっぱりといい切ったので、まだ純真だった私はおとなしくそれに従ったのである。
当時私はダイコン足と呼ぶにはあまりに股下《またした》が短いカブ足に紺色の短パンをはき、頭にはハチ巻き、短パンと同色の紺色の体操着を着て、ラケットを握って素振りを繰り返していた。
外にはサンサンと太陽が輝いているのに、わざわざ体育館の窓を暗幕で被い、真夏でも猫背になって汗をダラダラ流しながら必死にピンポン玉を追っている短躯《たんく》な私の姿は、今から思えばやはりネクラという言葉以外の何物でもないような気がする。練習を一回休むと校庭三周、二回目は体育館をウサギ跳びで五周、三回目は退部という規則があったり、監督の教師からは、
「お前らは根性がないから試合に負けるんだ」
とののしられて、よくガマンしたもんだと思う。根性だの練習だのといわれ続けて、現在の私が人様から喜ばれるような人間になっているかというと、温泉場にいったときの浴衣姿のピンポン大会≠ナ、全くのド素人の中で少しでも卓球をやった者がいると場が盛り上がるといった、その程度のものなのだ。
テレビでスポーツを放送すると、涙、汗、根性、努力といったことばかりが強調されて、
「いいかげんにしてくれ」
といいたくなるが、そんな中でテレビ朝日系で火曜日夜八時から放送されている「ビートたけしのスポーツ大将」はマジメにスポーツをやりつつも、ゲラゲラ楽しく笑えるのがとてもいい。たけし軍団の若い男の子たちや素人の参加者が、陸上、水泳、野球、バスケット、バドミントン、バレーボールなどをやるのだが、男子百メートルでも本当にみんなマジメに走っているのがよろしい。マジメな実況放送も入る、ちゃんとした競技会なのである。
カール君がいい
もちろんいいタイムを出せば番組記録として残るし、百メートル走の場合はトップの選手はカール君に挑戦させてもらえる。このカール君というのが傑作で、カール・ルイスに顔は似ていないがほぼ実物大と思われる黒人の人形で、百メートルをだいたい十秒前後で|走る《ヽヽ》ように作られている。走るといっても、スタートのピストルが鳴ると同時にスタッフがレールの上のカール君を押し、あとはモーターの力で手足をバッサバッサと動かしながら記録を出すといった、いわば人形式トロッコのようなものなのである。しかし挑戦者は相手が人形なのにマジメに走り、カール君は走っている最中に手がもぎとれたり、レールの上から脱線したりとアクシデントもあったりして何度観ても笑ってしまう。家族リレーは水泳と四百メートル走と二種目あり、子供ががんばってもお父さんがめったやたらと遅くてビリになったり、意外な展開がみられてこれもまたよい。
「いやー、あの小ちゃい子は飛びこんだときにもう浮かんでこないと思いましたけど、めちゃくちゃ速かったですねェ。それに比べてお父さんは本当にだらしがないですね」
とビートたけしがけっこう毒づくのだが、みんなアハハハと笑って頭を掻《か》いたりしている。水泳の個人メドレーに出場してみんながクロールで泳いでいるのにテレビに出演してアガってしまったのか、一人で平泳ぎをしている人までいたりする。
とにかくこの番組をみていると、ビートたけしやたけし軍団の全てにおいてのセンスの良さに驚かされる。野球はもちろん、バスケットボール、バレーボールも、おふざけでなくちゃんとした試合ができるから、この番組が面白いのである。やっぱりスポーツは汗や根性や努力から解放されたときが一番面白い。
わが母のあこがれ「兼高かおる世界の旅」
先日、家で原稿を書いていたら、母親から電話がかかってきた。
「おねえちゃん、元気? 忙しそうじゃないのォ!」
相変わらず元気いっぱい。彼女は私のことをおねえちゃんと呼び、事あるごとに電話をかけてくるのである。
「何よ、いったい」
私は右手の万年筆で原稿用紙の枡目《ますめ》を埋めつつ、左手で受話器を握り、聞いていないが聞いているふりをする。
「あのねぇ、あたしねぇ、グフフフ……」
だいたい母親がこういう態度をとると、ろくなことがない。このあいだだって電話の向こうで一人でグフグフやっているので、気持ち悪いなあと思っていたら、
「あのねー、あたしねー、またプロポーズされちゃったのよねぇ。これで三度目じゃない。だからおねえちゃんに電話するのも悪いかなあって思ったんだけど、やっぱり相談するのはおねえちゃんしかいないから……」
などと、とんでもないことをいい出したのである。
「あっそ。それはよかったわね!」
とたんに私の機嫌が悪くなるのは当然のことである。十一年前に離婚してからというもの、中古の五十女が三度もプロポーズされ、新品同様の私になぜそういうことが起きないのかと思うと、親と子の立場を越えて腹は立つばかりである。
「何だ、また男か?」
「あーら、いやあねぇ、そうじゃないのよ。あたし、今度スイスに行くんだよねー、グフフ」
またここで別の嫉妬心《しつとしん》が頭をもたげる。海外旅行をしたいしたいと思いつつ、毎日背を丸めて原稿を書いているというのに、どうして毎日能天気に暮らしている母親がスイスに遊びに行かねばならないのか。たしかに離婚してからというもの、私は母親に対して、子供さえ産まなければ何をしてもいい、これまで苦労したのだから、独り身になって好きなことをやればよいと思っていたのだが、あまりに好き勝手なことをされると、こちらはうろたえるばかりである。母親の話によると、勤め先の上司と喧嘩《けんか》して会社をやめてしまったので、そのウサ晴らしに友だちと行くのだという。
「だって、あたし生まれて初めてなんだもん」
と、子供のようにはしゃいでいる。そうだ。母親は五十四歳にしてはじめて海外旅行に行くのである。
あこがれの海外旅行
母親は昔から海外旅行にあこがれているようだった。いつも日曜日の朝、「兼高かおる世界の旅」を観ていた。番組を観ながら、まだ寝ボケてボーッとしている私にむかって画面を差し示し、
「ほらみてごらん。あの兼高かおるさんっていう人がいるでしょう。あの人は自分がこういう仕事をしたいと思って一生懸命勉強したから、女の人でもここまでやってこれたんだよ。これからは女も仕事をしたいと思ったら、男以上にがんばらないといけないんだよ」
といった。私はまだ朦朧《もうろう》としながら、兼高かおるさんのエキゾチックな彫りの深い顔を眺めつつ、
「かっこいい女の人だなあ」
と思った記憶がある。それから母親は朝寝坊している私を、放送時間になると布団からひきずり出してテレビの前に連れていき、
「一緒に観よう」
というのだった。それから二十年もたっているような気がするが、未だにこの番組が続いていて、兼高かおるさんのナレーションも昔のまま。ちらりと画面に登場する御本人の姿も全く変わらず、本当に驚いてしまった。毎日子供の世話に追われ、グウタラ亭主の尻を叩き、何の楽しみもない生活のなかで外国の街の様子や風俗がわかる「兼高かおる世界の旅」は、母親の唯一の楽しみであったのだろうし、世界をかけめぐる彼女の姿はあこがれだったのだと思う。それを思い出したら急に母親がふびんに思えてならず、知り合いの旅行雑誌の編集者に、母親がスイスに行くのだが、どういう所を観てきたらよいか、食物で気をつけることはないか、洋服はどんなものを準備していったらいいのかを尋ね、実家に電話して逐一教えてやったのである。そうしたら涙声で、
「おねえちゃん、ありがとう。行ってくるからね」
などといったりして、カワイイのである。ところが出発前日、再び電話がかかってきた。
「おねえちゃん。あたしが行く所、スイスじゃなくてスペインだった。同じスの字がつくから間違えちゃった。ハッハッハ」
私は頭が痛くなった。
クーラーの誘惑に勝ちテレビ体操にはげむ私
「私の家にはクーラーがない」
これがこの夏、締切りに遅れたときのいいわけであった。もともとクーラーは好きじゃないのだけれど、さすがの私も誘惑に負け、近くの西友の電器売場のクーラーの前で財布を握りしめて、しばしたたずんでいた。そして、ひととおり値段と機能を確認し、結局は、
「たかだか一年のうちに二、三カ月しか使わないものに、これだけお金を出すのはもったいない」
とケチな根性を出して買わないことに決めたのだが、どういうわけか西友に行くたびに、無意識にクーラー売場に足をはこび、未練たらしく、ボーッとしている自分に気付いた。おまけにツツッとすり寄ってきた店員さんに耳元で、
「まだ決心がつきませんか」
といわれて赤面し、
「はあ、どうも」
といいながら逃げて帰ってきた。それ以来クーラー売場には足をふみ入れていない。
私の机の前のカレンダーには過ぎ去った日々が赤いバツ印で消してある。
「もうちょっとがまんすれば、すぐ紅白歌合戦だ! ガンバレ!」
と、カレンダーを見ながら、おのれを叱咤激励していた。原稿を書きながら辞書を引けば、心頭を滅却すれば火もまた涼し≠ネどといった忘れ去っていた言葉まで目に入ってきて、
「そうだ、そのとおりだ」
とうなずいていた。
しかしもうここまでくれば、クーラーの誘惑に屈しなかった私の勝ちである。三千本安打の張本選手ではないが、
「自分を誉《ほ》めてやりたい気持ちです」
といいたくなる。おまけに冷たい人工的な風に身を晒《さら》さなかったせいか、夏バテをしなかった。大食漢の私の食欲も落ち、デレデレグッタリするはずなのに、そんな事もなく逆に二キロも太ってしまった。朝は六時にチュンチュンと鳴くスズメの声で目がさめ、夜は十一時には眠くなるという誠に健康的な生活で、午後昼寝をしたければタタミに寝っころがってガーガー寝てしまう。これで不健康な人がいたら異常だと思うくらいの毎日である。そして気分がいいからいつもはしゃいでいる。はしゃぎついでに最近は朝起きると体操までしてしまうのである。
毎朝六時三十分から十分間、NHK教育テレビで、テレビ体操をやっている。これが私の体操の友である。最初は寝起きのもうろうとした頭でテレビのスイッチをつけたら、三人のお嬢さんが太モモあらわに体操をなさっていた。それも青い短パンに、女の人なら誰もが着たくないと思うデザインのTシャツを着せられていた。NHKの「さわやかシェイプアップ」では、かわいいレオタード姿なのに、どうしてテレビ体操ではこんなアナクロの極致のようなスタイルをさせているのかわからない。それでも微笑を絶やさず、一生懸命体操をしている彼女たちの姿は健気《けなげ》であった。
こんなはずではない
「体調いいから、一緒にやってみるか」
これが間違いのもとだった。だいたい体操というのはどちらかというとバカにしていて、
「こんなのはチョロイ」
と思っていたのであった。しかし手をグルグルまわし、首を右、左に曲げ、体をねじっているうち汗がじとーっと出てきて、息がハアハアしてきた。
「こんなはずではない。体の具合が悪いのかしら」
そういう考えが頭をかすめたが、昨夜焼き肉を三人分たいらげたことを考えると、そういうことでもないようだった。約五分間柔軟体操をやると、そのあとは、あのなつかしいラジオ体操第二であった。小学校の朝礼を思い出し、気を入れて必死にやってみたらこれがキツイのなんの。曲がるはずの腰は曲がらず、体を動かすたんびにあっちこっちでボキボキ音がする。無理してやると足のスジがつりそうになるので、ところどころゴマカす。あまり必死になりすぎて頭部をふりまわしたらしく、途中でヨロヨロとよろけて尻モチをつきそうになる。跳躍をするとミシミシと音をたてて本棚が揺れるというすさまじさであった。十分間続けると信じられないくらいドキドキしてきて、心臓が口から出てきそうになった。この頑健な肉体をもって、この体たらく。本当に情けなくなった。それからはこの状態を克服するべく、日夜柔軟体操に励んでいる。おかげで始めた当初よりはずっと体も曲がるようになり、その快感を知って、ほとんど病みつきになってしまった。考えてみればこんなことばっかりやってれば、原稿がはかどらないのも当然なのであった。
「夕食リクエスト」のお父さんを観て、反省!
私はスーツにネクタイ姿のサラリーマンが恐かった。一人、二人ならまだいいが、ラッシュ時の駅のように、あっちからもこっちからも、わらわらとものすごい人数で現われると、心臓がドキドキしてきた。だから丸の内などとてもじゃないけど歩けない。みんな同じようないでたちで、近代的なビルの中から出てくる姿というのは、とても異様な感じがしたし、自分とは全然関係ない別世界が都心にボツッとあるみたいで、できれば一生通りたくない場所であった。
でかける時も朝、夕のラッシュ時は極力避けた。昼間ならいいだろうと午後、ターミナル駅に向かうと、そこにもアタッシェケースを持ったスーツ姿のサラリーマンがいる。食後でボーッとしているのか、ダラダラした歩き方をして、ボワーッと大あくびをしている人。駅のベンチで昼日中居眠りをしている人。まだ働き盛りといった年齢だろうと思うのに、疲労が溜《た》まっているのかすでに眼光はニブり、ただの点目になっている人。スーツ姿とそういう態度というのは誠に不似合いなのである。満員電車に乗って痴漢にあい、驚いて顔をみると、十中八九、ネクタイをきちんとしめたスーツ姿のサラリーマンだった。なかには社章をして堂々と私の臀部をさわっていった大胆な男もいて、あきれかえったこともあった。
セーラー服の下に秘めた欲情する若い肌というのなら、成人映画でけっこういいところまでいくだろうが、スーツ姿でおおい隠した助平心というのはただみっともなく情けないだけである。私にとってスーツ姿のサラリーマンというのは一体何を考えているのかわからない、とらえどころのない人々であった。
かくいう私の父親というのはサラリーマンではなかった。いちおう社会的には自由業ということにはなっていたが、自由業とは名ばかりの失業者といったほうがよかった。いつも家でゴロゴロしているかと思うと、ある日|忽然《こつぜん》と姿を消してしまう。当時六歳の私が母親にむかって、
「どこに行ったの」
とたずねても、彼女は物干しざおに干した洗濯物のシワを伸ばしながら、
「さあ、ねえ。起きたらいなかったわ」
と全く関心がないといったふうにそっけなくいった。そしてそれから唐突に母子家庭になってしまうのだ。そのあと父親がひょっこり家に帰ってきても、うれしいなどとは全く思わず、
「ふーん、戻ってきたのか」
としか感じなかった。父親は勝手気ままに釣りにいったり、写真を撮りにいったりしていたようであった。そして行ってきては私と弟を呼びつけ、「この魚はでかいだろう」とか「いい写真だろう」と自慢するのである。そしてその横ではいつも暗い目をして母親が内職をしていた。それから十五年後、父親はとうとう家を追い出されてしまったが、やはり家庭を持った事が父親の唯一の不幸であったような気がする。
かわいいお父さんたち
ところが大多数のサラリーマンは妻子のために、満員電車に揺られて汗水流して働いているわけである。それを考えると大あくびも居眠りも、許してあげなきゃいけないのではないかという気もしてくる。そういう父親のほうが、忽然と姿を消してフラッと帰ってきても、
「ああ、無事でよかった」
と妻子が体にとりすがり、泣いて迎えてくれるのであろう。
フジテレビの朝十時からやっている「らくらくTOKIO」の中で、八月まで水曜日に放送された、おやじの夕食リクエスト≠ニいうコーナーがあった。職場へスタンドマイクを持ちこんで、お父さんがその前に直立して、こういうものが食べたいとテレビを通じて奥さんにお願いするのである。登場するのはショージ君のマンガに出てくるような、普通のサラリーマンのお父さんばかり。照れながら、
「営業部の鈴木です。おーい、トミコ。今日こそまっすぐ帰るぞ。冷たいビールを用意してくれ。近所の人と焼肉パーティやるっていってたけど、お父さんにも肉を残しておいてください。これでおわります」
「建材部の山田です。今日は九時ごろ帰るよ。最近野菜が不足しているから、サラダが食べたい。それと冷奴《ひややつこ》と熱いミソ汁もたのむ。よろしく」
と、小さなお願いをする。そういうお父さんの姿はとってもかわいかった。抜毛におびえ、上司のイビリに耐え、家でのビールを楽しみにしているスーツ姿のサラリーマンに、これからは優しい目をむけるようにしようと、このコーナーを観ながら反省したのであった。
アタックナンパーマン 君にもきっと春が来る
外で見知らぬ人に、唐突に声をかけられるとドキッとする。珍しく化粧をちゃんとして、着衣にも気をつかって、
「よし、今日は完璧だ!」
という時に限って誰も声をかけてこない。恐ろしいことに、「こんな所で声をかけられたらヤバイ」と思うと、案の定そういうことが起こるのである。
今年のはじめ、私は大判焼を買おうと思って店の前に並んでいた。冬場、買物に出るときはいつも持っていく、愛用の赤い巾着《きんちやく》をブルンブルンとふりまわしながら、大判焼が焼き上がるのを、ボーッと待っていた。はっきりいって、そのときの私の神経はすべて大判焼に集中していて、他のことを考える余裕など全くなかった。そこへ唐突に、本名でない私の物書きとしての源氏名が呼ばれたのである。私はドキッとして巾着をふりまわすスピードをだんだん遅くしつつ、横目でそーっと声がしたほうをみてみた。そこには一人の若い女の子が立っていて、
「わあ!! こんなところで会えるなんてびっくりしちゃった」
といってニコニコしている。そこへまた間が悪いことに、
「はい、お客さん、お待ちどおさん。あずきと白あんとうぐいすね!!」
とドデカい声と共に大判焼が登場し、私の頭の中は真白になった。彼女とどういうやりとりをしたか全く覚えていない。ただその夜、東京のどこかで、
「あたし、群ようこが赤い巾着ふりまわして、大判焼買ってるの、みたわよォ」
という話をされているのは想像がつく。
ハダカをみられた!
その次は銭湯であった。私が桶《おけ》もって洗い場に入っていったら、女の子が寄ってきて、
「あー、やっぱり群さんだ!」
などというではないか。
私は目がとび出そうになったが、あわてて前を隠し、しどろもどろになって、
「はあ、どうも」
といった。ところが二人の間でこの状態ではあまりに生々しすぎる、という暗黙の了解が生じ、二人共前を隠してエビのように腰を曲げ、おじぎをしつつじりじりとあとずさりして、何事もなかったかのようにその場をとりつくろうしか、なすすべを知らなかったのである。しかしその夜は悩んだ。
「まさか、あの人、群ようこって○○が○○○だったのよォとか、××が×××だったわあなんて、いわないだろうねぇ」
モロに三十すぎの無防備な裸をみられてしまったショックで、私は家に帰ってタタミの上につっ伏してしまった。
しかし、私は何の面識もない人に声をかけることができる人はスゴイと思う。特にナンパをする男の根性には感心する。あれだけ手あたりしだいに声がかけられるのは一種の才能であろう。テレビ朝日木曜日の深夜零時二十五分から始まる、「ミントタイム」という番組の中に、ナンパーマンのコーナーがある。少し前までは道行く女の子にアタックナンパーマンの松澤一之クンが声をかけ、そのうちの一人の部屋までいって、タンスの引き出しやら洗濯物の中身をひっぱり出し、時にはパンツを頭からかぶり、パンティーストッキングの匂《にお》いまでかいで、女の子がギャーギャーわめくのを楽しみ、そのあとオフロに入ってもらうという、まあノゾキ趣味的なコーナーであった。今はエゲツなさも薄れ、街頭でTシャツにキスマークをつけてもらい、そのうちの一人の女の子の家にいって、ちょっとお遊びしてオフロ、というパターンになってしまった。またこのナンパーマンの松澤クンがまさに適役で、
「本当に女の子の下着を集めて、その中で身もだえしているのではないか」
とすら思えるような風貌なのである。女の子がオフロに入っていると、乱杭《らんぐい》歯をむき出し、ヨダレを垂らさんばかりにして、
「いま! ○○チャンが、オフロに、入ってぇーまちゅ!!」
と叫ぶ。そんな彼の姿をみて、はじめは何てバカな奴なんだろう、と冷たい目でみていた。しかし考えてみれば、一番気の毒なのは彼である。声をかけても、キャーといって逃げられたり、中には、
「何よ!! あんた!!」
といって逆襲してくるのもいる。彼はお仕事でやっているのである。いくらがんばってナンパしても女は自分のものにはならないのである。伝えきくところによると、彼は夢の遊眠社≠フ団員さんだそうだ。まさに「劇団員はつらいよ」という悲哀が漂っている。この番組を観るたびに、
「松澤クン、きっといいこともあるわよ」
と声をかけてあげたくなる、私なのであります。
「キングコング」に涙、しゃっくり、鼻血ブー
母親には私とケンカをして負けそうになると、必ず奥の手として持ち出してくる、私の弱味がある。
まだ小学校に上がる前だと思うが、私はその夜、テレビの洋画劇場で放映されている「キングコング」を観ながら、不二家のショート・ケーキを食べていた。画面の中のキングコングは好きになった人間の女の人を手のひらにのせて、ビルをよじのぼっていこうとするところだった。キングコングはただその女の人が好きでたまらないのに、地上の人間たちはキングコングから女の人を引き離すために大砲をぶっ放したり、放水したりとひどいことばかりするのであった。最初は、ショート・ケーキのイチゴの大きさに気をとられていた私も、だんだん画面にのめりこみ、我を忘れてしまった。
「キングコングは何も悪くないのに、どうして人間はあんなことするんだろう」
と思ったら急にノドがつまってきた。自分でもおかしいなとは思ったが、どうしようもなく、突然私の細い目からは涙が噴出し、我が家の四畳半に、
「うぎゃあー」
というすさまじい泣き声が響き渡った。たまげたのは親である。今までニコニコしてケーキを食べていた娘が、突然泣きわめき出したのでオロオロするばかり。
これは映画じゃないの
「わっ、この子フォークで口の中刺したんじゃないかしら!」
母親は天を仰いで泣きわめく私の口の中を、無理矢理こじあけて点検してみたが、何ともない。
「どうしたの? いってごらん」
と優しくいわれて、ますます私は悲しくなり、両手を握りしめて涙|滂沱《ぼうだ》したまま、
「キングコングが、かわいそうだあ」
と訴えたのである。
「なに? キングコング?」
母親はチラッと横目で画面を観ると、一転して冷たい目つきになり、「これ観て泣いてんの?」というのである。私はおーおーと泣きながら、こっくりとうなずいた。
「バカだねぇ、これ映画じゃないの」
母親はニガ笑いをして、泣いている私を無視してケーキをパクパク食べはじめた。自分でも、これはみっともないと思って、早く泣きやまなきゃとあせるのだが、私の思考とは全く無関係に涙やしゃっくりが出てくるし、あまりに力みすぎたために鼻血まで出てきてしまったのであった。
「どうしてあんたは、キングコング観て鼻血出すの!!」
私の鼻の穴に綿をつっこみながら母親はブツブツいった。子供心にもこれはみっともないと思った。しかしそれから二十何年たっても母親は、
「キングコングを観て鼻血ブーになった」
といって笑い者にする。これを出されると反論のしようもなく、私も「ケッ、イヤな女!!」と毒づいて去っていくしかないのである。
私は親と一緒に映画館に行ったという記憶がない。だいたいが食べるのに精一杯。そのうえ本とかレコードを見境なく買ってしまって、貯蓄がゼロという我が家では映画館に行く金などあるわけがなかった。だから私が子供のころに観た映画は、すべてテレビで放映されたものだった。未だにその習慣が残っていて、どうも映画はテレビの前で観るほうが落ち着く。タタミの上に寝っころがってもいいし、途中でトイレにもいけるし、なかなかよろしいと思ってはいるのだが、やはり一番の難点はカットされていることである。ポリスのスティングが出演しているというので楽しみにしていた、「さらば青春の光」も当然の如くカットもの。私は欲求不満のまま翌日貸ビデオ屋に走り、全篇心おきなく観ることができた。
NHK教育テレビで、ノーカットで放映される懐しいモノクロ映画も、私にとっては新鮮だし、十月に入ったら民放各局も続々と目玉商品をノーカットで放映するようになった。「レイダース 失われたアーク」、「道」、「陽暉楼《ようきろう》」、「スター・ウォーズ」。「レイダース」と放送時間が重なるので、勝手に実家にしのびこんで留守録してしまった「細雪」。私はテレビでは映画はノーカットで放映できないのだとずーっと信じていた。しかし実はそれも可能だとわかったいまは、うれしい反面、
「ちゃんとできるのに、どうして今までやらなかったんだ」
と少し腹が立つのも事実なのである。
いしだあゆみの不倫の恋につい憧れて、ン?
私はほとんどといっていいほど、テレビドラマを観ない。あの「澪《みお》つくし」ですら、一度も目にしないまま終わってしまったくらいである。ところがある日新聞のテレビ欄を見ていたら、「金曜日の妻たちへ・パートU恋におちて」が始まると書いてあった。過去のシリーズも好評で、俗に「キンツマ」と呼ばれていたそうだ。私はそんなことも知らなかった。で、ためしに観てみたら、もう病みつきになってしまった。第一回目は原稿を書きつつ左目でテレビを観ていたのだが、第二回目からは原稿を書く作業はとりやめ。「キンツマ」に没頭することにした。
金曜日の夜九時五十五分になるとコーヒーをいれて、編みかけのセーターをとり出す。これで「キンツマ」をみる準備が整うのである。どうして「キンツマ」を観るのに編み物をしなければならないのか自分でもよくわからないが、毛糸のホニャホニャした手ざわりがないと、いまひとつ雰囲気が出ないのだ。
ドラマの内容としては、主婦の彩子(篠ひろ子)、由子(小川知子)、法子(森山良子)、独身の桐子(いしだあゆみ)の四人が幼なじみで、今でも事あるごとにパーティなんぞを開いて夫ともども会ったりしている。ところが桐子がかつて同棲《どうせい》していた相手の圭一郎(古谷一行)が今は彩子の夫。そして桐子が独身とあっては、きっと圭一郎と桐子の間に何かが起こるであろうとは容易に予想がつく。そして現在その通りにドラマは進行しているのである。
「キンツマ」を観はじめたころ、私の一番の関心は、
「圭一郎と桐子は激情に負けて寝てしまうのだろうか」
ということであった。寝なきゃドラマとして面白味に欠けるだろうが、映画「目撃者」のハリソン・フォードとアーミッシュの美しい未亡人のように、出会いを大切にして何事もなく、静かに別れていくのも、清くていいわぁと思っていた。ところがやっぱり圭一郎と桐子は出張先のホテルで一夜を共にしてしまった。私は思わず、かのこ編みをしていた手を休め、息をのんで画面を凝視した。
「やっぱりねぇ。あたしもこうなるとは、うすうす感じてはいたけどねぇ……」
気がついたら一人でブツクサブツクサいっていて、我ながら情けなくなった。しかしドラマが進むにつれて、だんだん圭一郎に腹が立ってきた。家庭ではいい父親、いい夫のような顔をしている一方、かつての恋人ともヨリを戻してしまうなんて、こんな虫のいい話があるだろうか。まるで圭一郎役の古谷一行自身が悪人のように思えてきて、
「だからお前がブラジルから日本に帰る途中で、スチュワーデスの彩子に目うつりしなけりゃこんなことにはならなかったんだ!」
と編棒で机の上をグサグサ刺して怒ったりしてしまった。彼がどのように事態を収拾するか、今後の展開が楽しみではある。
私はこれからだ!
私の友人で「キンツマ」命! というほどこのドラマが好きな主婦は、
「ストーリーは面白いんだけどさ、私にはいまいちリアリティに欠けるんだよね」
という。たしかにドラマでは法子が桐子の同僚の男性と仲良くなるのだが、彼女にいわせると、
「あんなこと、パーティも開けない家に起こるわけがないわ」
と怒る。そして、
「あんたはいいわねぇ。夫や子供のことなんか考えなくていいんだもん。桐子と同じ立場に、これからもいくらだってなれるじゃないの。好きなだけ恋愛ができるわよ」
とうらやましそうにいうのである。そういわれるとすぐその気になるのが私の悪い癖で、
「そうか。私は身軽だもんね。そうだわ、これからよね!! グフフフフ」
そして容貌まで、いしだあゆみになってしまったような気もしてくるから恐《こわ》い。それからというもの「キンツマ」を観ていても、桐子がいとおしくてならない。過去をひきずった不倫の恋も、なかなかいいわね、という気分になってきた。そこへ友人の、
「あなたも、桐子になれる」
ということばが脳下垂体に強く響くのである。ところが重要なことに気がついた。私にはひきずるべき過去など何もなかったのである。
「こんなことなら本ばかり読んでないで、二十代に過去の一つや二つ、作っておくんだった」
そう「キンツマ」を観て悔やむ私なのであった。
「元気が出るテレビ」のたけし猫まねきが欲しい
ある雑誌の連載が終わったので、担当の編集者が私の欲しいものをプレゼントしてくれるという。
「シャネルの香水でも、エルメスのスカーフでも、何でもいいですよ。覚悟はできてますから」
となかなか潔い。それきいて私はシメた、と即座に、
「たけし猫まねき!!」
と元気に答えた。ところが彼は、
「何ですか、それ」
といって、たけし猫まねきの存在を知らないのである。あまりの激務のため、日曜日にテレビを観る暇もないので、どういう番組が巷《ちまた》に流されているのか全くといっていいほどわからないらしいのである。
「たけし猫まねきっていうのはまねき猫の顔のところが、ビートたけしの顔になってるの」
と教えてあげたらば、
「げーっ。そんな気持ちの悪いもの」
などと、とんでもないことをいう。
「かわいいじゃん」
「かわいくなんかないですよ。そんな不気味なもの、どこ行きゃあるんですか」
私は彼のために他にもトレーナーやらTシャツ、キーホルダーがあることも教えてあげた。
「きっと荒川区の熊野前商店街か浦安のフラワー商店街に行けば、あると思うの」
あきれたり感心したり
そういっても、もう手遅れであった。彼は自分の発言をひどく後悔したように、聞こえないフリして、ソッポを向いているのである。
「ねぇねぇ、たけし猫まねきがもらえないんだったら、猫まねき貯金箱でもいいわ。九〇〇円なんだけど……」
私がいくら猫ナデ声を出しても結果は同じであった。そんなもの買いに浦安までいくのは嫌だ、という彼のかたくなな態度に私も、
「フン、もういいわい」
と怒ってしまった。
このたけし猫まねき≠ネるものは、日本テレビ、日曜夜八時から放送している「天才・たけしの元気が出るテレビ」のキャラクター商品である。正確にいえばビートたけしを社長、松方弘樹を部長、木内みどりを秘書、高田純次、兵藤ゆき、桑田靖子、何でいるのかわからない野口五郎を社員とする元気が出る商事≠ェ販売している商品ということになっている。
私は第一回目から観ているが、よくもまあ、次から次へとバカバカしくて面白い企画を考えつくものだ、とあきれたり感心したりしている。
商店街の復興計画、沼にカッパがいた、ワニ相撲の行司募集、奇跡を起こすインド人ガンジー・オセロ、お嬢さまを捜せ、そしてこのあいだの、川崎徹さんが夜間金庫の前で暴漢に襲われたときの命の恩人捜しなど、そのたんびに視聴者の脳みそをひっかきまわしているのである。
この番組の面白さはウソかホントかよくわからないところで進行していくところにある。ガンジー・オセロや沼のカッパは最初っからウソだとわかってしまうから、
「ガハハハハ」
と笑って観ていられるが、正直いってワニ相撲の行司の件に関しては、
「これは、もしかしたらホントじゃなかろうか」
と未だに頭の片隅で思っている。お嬢さまに関してはお嬢さま軽井沢テニス・トーナメント≠フ予選出場志願者の顔ぶれをみて、
「あら、あの子はこのあいだ雑誌のグラビアで見た、キャバクラの女の子に似ている」
と思ったりしていまひとつ信じられない。
「元気が出るテレビ」を観て元気が出るか、というとそうではない。私は次から次へと面白い企画が出てくるほど傲慢《ごうまん》になって、テレビの前でふんぞりかえってしまうのである。
「なに、今度は命の恩人捜し。よーし、お手並みをみせてもらおうじゃないの」
面白くたぶらかしてくれる落としまえをきっちりつけてくれないと、許さないぞ、という気になってくるのである。ガンジー・オセロにしたって、彼が残していった巨大な卵の中から、デンデン虫の化け物みたいなものが出てきてわけがわからなくなり、結末はすでに泥沼化している。沼のカッパに至っては、あれでちゃんとケリがつけられるのかと心配にすらなってきた。
観る四コママンガみたいな面白い企画の結≠フ部分がいつ来るか、いつ来るかと、それだけを期待して、私は半年間、毎週欠かさずこの番組を見続けているのである。
ピンクのミニの看護婦さん 再放送ドラマ「ありがとう」
私は子供のころから、ずっと看護婦さんになりたいと思っていた。クリミア戦争で活躍したナイチンゲールの伝記を読んで感動したわけでも、あの白衣にあこがれたからでもない。子供心に自分を分析したら、向く職業は看護婦さんしかないと信じざるをえなくなってしまったのである。
まず体が丈夫。カエルやブタの目の解剖が一人でできる。苔《こけ》、アメーバ、軟体動物、寄生虫の類いに愛着を感じる。人を叱咤激励するのが好き。悲しいことが起こると、ひどく心を痛めるが、あとはコロッと忘れて気持ちの切りかえが早い。これならば血がドッと出る現場をみても、何の心配もない。私は自信をもって、
「学校を卒業したら、病院へいって看護婦さんをやらせてもらおう」
と固く心に決めていたのであった。
当時私は、看護婦さんに資格が必要なことなんて知らなかった。年末の郵便局の年賀状仕分けアルバイトのように、
「やらせて下さい」
とお願いすれば、
「はい、どうぞ」
といって簡単にやらせてくれるものだと思っていた。白衣とお帽子を貸与してくれるものだとばかり思っていたのである。ところが実はちゃんとした試験に合格しなければ、なれないのだということを知り、私は目の前が真暗になった。
人類の危機は救われた
試験科目も私の不得意なものばかりで、受験しても絶対に落ちるのは確実であった。どんなに看護婦さんにあこがれていても、自分の不得意なものを必死に勉強するのは嫌なこった、と思う性質《たち》なので、この時点ですぐ、看護婦さんになる夢はキッパリと断ったつもりであった。しかし正直いうと適性はともかく、性格的には物書きよりも看護婦さんにむいているはずだと秘かに思っている。
この話を弟にすると、
「白衣の天使にならなくて本当によかった。人類の危機が救われた」
などという。そういえば「愛染かつら」の高石かつ枝の昔から、看護婦さんは白衣の天使とよばれていた。
「清くて立派なお仕事」
というイメージがあった。ところがポルノ映画では制服の女の筆頭として登場したり、「ガープの世界」に至っては、看護婦さんが男の患者を襲って、自主的に子供を作ってしまうという大胆さである。どうも看護婦さんのイメージは、清いか大胆か両極端なようである。ふつうの年相応の女としての姿が、描かれているものがとても少ないのだ。そういう点においては、今、TBSで午後二時から再放送されている「ありがとう」はなかなか面白い。何年か前、まだ私が看護婦さんの夢を捨てきれないころ、毎週楽しみに観ていて、
「いいなあ」
とため息をついていた記憶がある。
何しろ出演者がすごい。水前寺清子、石坂浩二、児玉清、河内桃子、山岡久乃、乙羽信子、山本学、長山藍子など、よくもまあ連続ドラマでこれだけの人材を集めたものだ。それに放送されたのが、ミニスカート全盛時代だったこともあり、小鹿ミキや、水前寺清子の黄色いTシャツにピンクのミニスカート姿を観ることができるのも貴重である。女優さんが目にくっきりと太いアイラインを描いているのもすごい。
話としては、水前寺清子演じる看護婦と石坂浩二が演ずるところの医者とのラブ・ロマンスを中心として、それをとりまく人々の日常を描いたもので、特に心臓がドキドキすることも起こらない。とにかく悪人が誰一人として登場しない。設定が病院でありながら、重病人が出ない。ほとんど患者さんが亡くならない。看護婦さんというのは女ばかりの世界だから、もっとドロドロとした女同士の葛藤もあるはずなのに、ヤキモチ程度で誠にかわいらしい。嫉妬に燃えて、お茶にパラコートを混入するような、ふとどきな女など出てこないのである。夫婦の離婚問題が噴出しても、
「離れて住んでみてわかった女房のよさ」
と深く反省してヨリは戻るし、すべてが安心して観られるドラマなのである。
再放送を観ていると、「看護婦さんはもっと激務なはずだ。その点のつっこみが甘いのではないか」とか、「物わかりのいい人間が多すぎる」など、不満も出てくるが、奥様番組の「妊娠四カ月の嫁の腹を蹴る、鬼姑!」を観て、眉間《みけん》にタテジワが寄るよりは、精神衛生上よろしい。昼食後の腹ごなしにのんびり観るには、最適である。
タマゴの黄身の色が人工色だと知って驚いてしまった
私は子供のころ、ひどい偏食だった。タマゴとノリしか食べられず、毎日毎日おかずはそれだけだった。ところがある日、ちゃぶ台の前に座ると、タマゴとノリではなく、私の大嫌いなニンジン、タマネギ、キャベツ、肉が入りまじった野菜イタメがおかずになっている。
「やだ! タマゴとノリ!!」と私はわめいた。すると母親は知らんぷりして、きゅうりのヌカミソ漬けをポリポリとかじっている。「タマゴとノリ!!」もう一度大声でわめいた。すると母親は、「それしかないの」と冷たくいい放った。私は逆上してその場にひっくりかえり、「やだやだやだ!! タマゴとノリ!!」と手足をバタバタさせて、泣きわめいた。そうしながらもいつ母親が観念してタマゴとノリを出してくるかと、心待ちにしていたのである。ところが母親は私の分の野菜イタメを食べてしまい、お茶を飲んでさっさとちゃぶ台を片づけてしまった。「わーん、あたしのごはん!!」と叫んでも、母親は「だって、あんた食べたくないんでしょ」という。私も偏食の子供の意地があるから、縁側に座ってぶすっとしていた。
それから私の嫌いなおかずばっかり出てくる。そのたびに文句をいっても、「うるさい! 親が作ったものはおとなしく食べろ」といってとりあってくれない。私は三日間、おかずなしで済ませたが、母親の根性に屈し、四日目からはニンジンを食べた。それ以来、私は偏食がなくなり、人が尻ごみするような生肉でも平気で食べられるまでになってしまった。
子供のころはワガママをいっても通るが、大人になってもあまりに偏食する人はひどくみっともない、と最近やっと思うようになった。やはり親のいうことは素直に聞いておくべきであります。
特に一人暮らしをして自炊をするようになってから、そういう思いは強くなった。食べた物をエネルギーとして動いているのだから、口に入れるものは慎重に選びたい。ところが巷にはびこっているのは、食品添加物や着色料、保存料が加えられたものがほとんどである。十一月十九日の夜十時から放送されたNHKの「食べものふしぎ? ふしぎ!」の卵・黄身の色はお好みしだい≠ヘ、黄身の色は作ることができるのだ、ということを実験で示した面白い番組だった。ふつうタマゴを割って、ポトッと落ちた黄身の色は、|自然な色《ヽヽヽヽ》だと思っていたが、あれは黄身の色のカラーチャートがあって、消費者の好みにあわせた濃い黄色になるように、着色剤を加えたエサを鶏に食べさせていたのである。畑を走り、ミミズを食べ、そこいらへんの葉っぱをついばんでいる鶏のタマゴの黄身は、それよりも明らかに色が薄い。おまけに着色剤入りのエサを食べている鶏は、鶏であって鶏でない生活を余儀なくされている。一羽一羽狭いケージの中に入れられ、朝から晩までエサをついばんでタマゴをポコポコ産むだけ。それを死ぬまで繰りかえすのである。
笑ってばかりはおれぬ
青い空もミミズも石ころも地べたも知らない、キカイダーのような鶏が産んだタマゴなんて、気持ち悪くて食べたくもないが、実はそういうものを消費者が望んでいるので、農家のほうも不本意ながらそうせざるをえないのである。
実験では、鶏にいろいろな色のエサを食べさせて、黄身がどのように変化するかをやっていたが、赤いエサを食べさせると黄身は赤に、三原色のエサをまぜると真黒の黄身。一日ごとに色を変えたエサを与え、そのタマゴをゆでて二つに切ると、その断面は、昔駄菓子屋で売っていた、なめていると次々に色が変わる、かわり玉を割ったのと同じように、何層もの色の輪ができるという具合であった。
「おお、これは面白い」と観ていたのだが、だんだんこれは面白いと笑って観ていられなくなった。
タマゴというのは、ひよこちゃんの素《もと》だから、栄養分がすべてそこにつまっている。だから鶏が食べたエサが影響してくるわけだが、消費者は買ったタマゴの産みの親が、どんなものを食べているかまで考えないと、安心して食べられない。そのはずなのに、実際は黄色の濃いのがいい、といって人工的に色がつけられたタマゴを、ありがたがって買っていたわけなのであった。
色がきれいだとか見た目がいいという理由で、本来あるべき姿をどんどん変えてしまうのには非常に問題がある。一番恐ろしいのは、変えられたものをあたりまえと思ってしまう消費者のあり方だと考えさせられた。
紅顔の美少年・安達明が丸顔の普通のおじさんに!
テレビをつけっ放しにして原稿を書いていたら、めちゃくちゃ懐しい歌謡曲が流れてきた。画面を観たら、あの渡辺マリが「東京ドドンパ娘」を歌っておられる。何だこれはと確かめたら、フジテレビおもしろバラエティ「総決算'85懐しの歌謡曲リクエスト特集」という番組であった。懐しの歌謡曲といっても登場するのは、淡谷のり子、渡辺はま子、藤山一郎、近江俊郎という方々ではない。舟木一夫、橋幸夫、園まりといった、私が小学生のころにアイドルだった歌手である。
私は小学生の時、異常なるテレビっ子で、特に歌謡番組は大好きだった。少女雑誌には詰襟姿の舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦のブロマイドが特別付録でついていた。あのカール・ルイスを日本でレコードデビューさせた橋幸夫もかつてはアイドルだったわけである。私の小学生の時の担任教師は、授業中にわめき散らす生徒どもを鎮めるために、突如教壇の前に仁王立ちになって、「うるせえ!! オレは園まりを教えたことがあるんだぞ!!」と一喝した。当時園まりといえば、今の中森明菜以上の超人気歌手で、彼女の歌を聴かぬ日はないくらいだった。私たちは一瞬ドキッとして、しーんとなった。「じゃあ、先生、園まりの本名は何ていうんだよォ」。いつも人一倍騒ぎたてる悪ガキがいうと、先生はフフンと片頬で笑って、「本名ソノベマリコ。実家は花屋さんだ!」と早口でいった。
それまで私たちは担任の教師を、内心「おとなしくてチョロイ奴だ」と思っていた。しかし、園まりを教えたという事実が判明するや、教師を見る目がガラッと変わってしまった。「すげェー」と私たちの声はため息にかわり、それ以来その教師は尊敬のまなざしで見られるようになったのである。
この番組には他にも久保浩、守屋浩、森山かよ子、神戸一郎、高石かつ枝という懐しい歌手が次から次へと登場してきた。私が大ファンだった紅顔の美少年、安達明も出演していた。ただ、大股開いて手をグルングルンまわしながら「回転禁止の青春さ」を歌った、美樹克彦が出ていなかったのは残念であった。
我ながら驚いたのは、彼らが歌う曲の歌詞、久保浩「霧の中の少女」、大木英夫と津山洋子「新宿そだち」、高田美和と梶光夫「わが愛を星に祈りて」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」、安達明「女学生」、守屋浩「僕は泣いちっち」などを一字一句間違いなく覚えていたことであった。「哀れ少女よ、霧の中の少女」だの「うす紫の藤棚の下で歌ったアベマリア」だの「ボクは泣いちっち、よーこ向いて泣いちっち」だの、画面に流される歌詞なんか見なくても、いくらだって歌えちゃうのであった。
ああ、人体の不思議
キョンキョンの「なんてったってアイドル」や吉川晃司の「RAIN DANCEがきこえる」なんて何度聴いても覚えられないのにである。昔のことはよく覚えていて最近のことを思い出せないのは老化現象の始まりらしいが、それが我が身にヒタヒタとしのび寄ってきているのにはゾッとした。
「僕は泣いちっち」は昭和三十四年、「霧の中の少女」は昭和三十七年のヒット曲だそうで、あっという間に二十年以上の月日が流れていたのである。疲れも知らずに元気に棒きれをふりまわして野原を走りまわっていた女ガキ大将の私が、今やシラガや腰痛に悩むようになったのがその証拠だが、出演していた歌手の顔にも年月は残酷にも襲いかかっていた。女性歌手の場合は二十年以上経っていても、どの方もそれなりに美しく、若い時よりも年をとってシワもある現在のほうが数段美人になった人が多かったように思う。問題は男性歌手である。歌うのをやめ、実業家に転身した人もかなりいた。それでも芸能関係の人は、それなりに過去の芸能人顔を多少なりとも維持しておられたが、芸能界とは関係ない仕事をしている人には、かつて彼らが発していた芸能人オーラ≠フようなものは全く感じられず、歌が上手で金まわりのよさそうなただのおじさんになってしまっていた。若いころのあのかわいい顔の、どこをどうやればあのようになってしまうのか。人体の不思議という言葉さえ浮かんできてしまった。
清潔そのものの紅顔の美少年安達明さんは、丸顔の人の良さそうな普通のおじさんに、「雨に咲く花」を歌われた井上ひろしさんは今年病で亡くなられた。かつてのアイドルのその後を目のあたりにして、痛々しさや、自分への寄る年波を感じてしまった、八五年の年末であった。
おすすめビデオ第一位ディズニーの音楽アニメ
私の場合、正月はたいてい寝正月である。テレビを観てはボーッとし、おモチを食べてはボーッとし、編物をしてはボーッとし、ボーッとしたまま風呂に入って死んだように眠る、というのがパターンであった。ところが昨年、ビデオを購入したおかげで、今年はなかなか充実した毎日を送ることができた。ボーッとしていた分をビデオを観る時間にあてて、まさにビデオ漬けの毎日であった。
だいたいビデオソフトは定価が高い。よほど回数を観る自信がないと、おいそれと買えない。私の手持ちの中でも、いつも観るビデオソフトは決まっているので、日がな一日次のうちどれかが機械の中に納まっていることになる。再生頻度第三位は「ビデオ・エイド」。定価一万二千八百円で、エチオピア飢饉《ききん》救援チャリティー・ビデオとして有名だが、購入したときに、ビデオエイドバッジをくれたのが、赤い羽根共同募金みたいで恥ずかしかった。第二位は「ストップ・メイキング・センス」。定価一万一千九百円。焼酎《しようちゆう》のコマーシャルに、とてつもなく肩幅のあるスーツを着て、首をニワトリのように動かしていた、オールバックのお兄さんが出演しているコンサートビデオである。これも映画館にいかずに、ビデオになるのをひたすら待っていたシロモノ。第三位、第二位とも満足度において十分定価のモトをとっている。
そして、栄えある第一位は、「ディズニー、ポップ&ロックアニメーション1〜3」であります。ポニーから発売されていて定価はそれぞれ七千八百円。私は何かといえばこのビデオを観ていた。一本の長さが三十分前後ということもあり、ちょっとしたヒマに観るのには誠に適している。
これは、てっとりばやくいえば、ポピュラー音楽とディズニーアニメーションの合体作品である。今までの厖大《ぼうだい》なディズニーのアニメーションの中から、曲のリズムやテーマに合ったシーンが、パッチワークのように再編集された、という努力と記憶のたまものとしか思えないビデオなのである。中にはあまりに古い作品から持ってきたシーンもあるので、白黒になっている部分もあるくらいだ。ホール&オーツ、マービン・ゲイ、ビーチ・ボーイズ、ブルース・ブラザーズ、シュープリームズ、スティービー・ワンダー等の曲にあわせて、短気なドナルド・ダック、ミッキーマウス、ミニーマウス、ダンボ、白雪姫、色じかけで迫るリス、やんちゃな子猫、くまのプーさんが次々と登場してくる。アニメーションにあわせて曲を作ったのではないかと感じるくらい、曲と画がピッタリ合っている。
たとえば、ドゥービー・ブラザーズIT KEEPS YOU RUNNING≠ノは、色白ポッチャリのメウサギグルーピーに囲まれた生意気なウサギと、益田喜頓によく似た面立ちののろまなカメが、お話どおりのウサギとカメ≠フレースを展開する。ジャクソン・ファイブダンシング・マシーン≠ノは、ダンスを邪魔するワニを腹で押しつぶし、クルクルとただひたすら踊りまくる巨大なメスカバ集団が登場する。何度も繰りかえして観ているのに、そのたびに新しい笑いの発見がある。
現在テレビでディズニーのアニメーションが放映されているかどうかは知らないが、私は「ミッキーマウスクラブ」や「ディズニーランド」を観て育った。「皆で楽しいジャンボリー……」というテーマソングにあわせて手を叩き、音楽と共に画面にディズニーランドのきれいなお城が浮かびあがると、その美しさに圧倒されてテレビの前でのけぞりそうになった。
「アメリカの子供たちは好きな時にディズニーランドにいける」
と思うとうらやましくて仕方がなかった。ピーターパンやティンカーベル、眠り姫、魔法使いに弟子入りして、あたりを大洪水にしてしまったミッキーマウス。花が咲き、滝があってボート遊びができるディズニーランドは、子供にとってまさに桃源郷であった。しかし日本に住んでいる私には、飛行機に乗ってアメリカのディズニーランドに行くなんて、ほとんど天国に行くのと同じくらいの感覚だったことは確かである。まさかそれから何十年もたって、浦安にディズニーランドができるなんて想像だにしなかった。
ディズニーのアニメーションは観れば観るほど画面のすみずみまで手を抜いていないのだ、ということがこの歳になってやっとわかった。子供はもちろん、ディズニーの世界を本当に楽しめるのは大人ではないかという気がしてきたのである。
土日休み、別会社で働くサラリーマンがいるとは!
私は学校を卒業して、広告代理店の営業部外まわり部隊に命じられたとき、何でこんなに忙しいのだろうか、と呆然《ぼうぜん》としたことがあった。朝九時前に出社してから深夜十一時まで、何がなんだかわからないままグルグルと都内をまわり、会社に戻っても山のように処理する仕事があった。他人よりノロマというわけでもないのに、どうして毎日こんなに働いて楽になる時がないのか。これは誰かの陰謀ではないかと勘ぐったくらいである。
同僚が自分のするべき仕事を、私におしつけているのではないか、と周囲を見まわしても、みんなそれぞれ私と同じように忙しかった。九時から五時まで働けば、会社の仕事は終わるものだと思っていた私は、残業しなければ仕事が終わらないなんて、欲に目がくらんで仕事を引受けすぎているのではないかと同僚と話した。しかし引受ける仕事があるということは、発注する会社があり、その会社も必要に迫られているからそうするわけである。一つ一つ、「うちの会社はここから仕事をもらって、この会社はあそこから仕事をもらって……」と、激務を生じる悪の根源を明らかにしようと試みたが、途中でこんがらがってしまい、結局はわからずじまいだった。「ともかく、この東京の空の下に悪いヤツがいるのよ。そいつが他人の迷惑もかえりみず、必死で働いているから、めぐりめぐって私たちまでこんなにつらい思いをしなきゃなんないのね!!」。私たちは見えざる憎き敵にむかってコブシをふりあげ、わめき散らした。
法律で、会社員は午前九時から午後五時まで以外の労働を禁ずと定めてくれたら、どんなにいいだろうかと思っていた。そう決まればそれなりに会社は動いていくはずで、みんな忙しい思いをしなくてすむ。しかし現実はウィークデーは目を血走らせて都内を走りまわり、ウィークエンドはバタンキューという、その繰りかえしであった。
土、日の休みが宝物のような気がしていた私は、せっかくのその休みをまた別の会社で働くというサラリーマンがいるのを新聞で見て驚いた。正直いって、「この人たちは何が楽しみで生きているのだろうか」と思った。NHKの金曜日、夜十時から放送された「首都圏」では、住宅関係の土日会社≠ニそこに登録した二百人のサラリーマンについてレポートしていた。きっとこういう会社に応募してくるのはエネルギーがあり余っている、若いサラリーマンが多いのではないかと想像していたが、全体の五八%が四十代、五十代の働き盛りの中間管理職、後に続くのが二七%の三十代であった。
年収五五〇万円の三十五歳の妻子持ちは「ボーッとしているのが嫌だし、マイホームも欲しいから」と話す。暇さえあれば井の頭公園に行って、ボーッとしている私には、何百年経ってもマイホームは持てないようである。四十代、五十代になると、「自分が今まで会社で培ってきたことを、別の場所で活《い》かしたい。またそこで得たものがあれば、本業のほうに役立てたい」「会社にいると、自分のやりたいことができないから」という。片や土日会社のほうは、業種の違いを越えて、いろいろな情報を得るのが狙いである。住宅を建てかえたい人の情報を彼らから得て契約が成立した時は、紹介料として建築費の数%を支払う。他にも住宅関係の出版物に執筆したり、住宅展示場でのガイド、住宅商品開発会議への参加と、応募者が自分の適性を活かせるようになっているが、社員とは違って固定給ではなく歩合給である。それだけ意欲のある人にはヤリガイのある仕事だろう。
二、三年前私も二足のワラジをはいていたことがあるから、自分の本業のほかに仕事を持つことが、なかなか魅力的であるのもわかる。副業のほうが、自分を活かせると思ったこともある。忙しい、忙しいとはいいながら一つの会社だけではなくふたまたをかけていると、自分がとても能力があるような人間のように錯覚して、「忙しい自分に惚れぼれしている」こともあった。ところが結局は二足のワラジは永続きしなかったのである。
私は独り者だから、自分だけの生活を考えていればよい。しかし、四十代、五十代となれば妻子もあってそうもいくまい。いくら仕事に意欲を燃やしているからといって、そんなに働く必要があるのだろうか。それとも、そうしなければならないほど、|会社《ヽヽ》という組織にしか自分の居場所がないのかしら、と白髪まじりの彼らの姿をみて複雑な気持ちになった。
サーカス芸をするパンダ ウェイウェイ君、何思う?
サーカスというのは、観ていて楽しいものだが、いまひとつその中にのめりこめない哀《かな》しさがある。私は子供のころ、よく「悪いことばっかりしてると、サーカスに売っちゃうからね」と叱られた。私は親に叱られても、絶対に泣かない子供だったが、「サーカスに売っちゃう」といわれると、心にグサッときた。ムチでビシビシ叩かれながら、玉のりをしなきゃならないのかと思うと涙が出そうになった。だから木下サーカスやキグレサーカスを観にいっても、「あのお兄さんやお姉さんたちも子供のころ、サーカスに売られてきて、大人になったんだろうなあ」とずーっと思っていた。トラやライオンが火の輪をくぐったり、台の上をピョンピョンとんだりしても、ムチのビシビシいう音がすると、動物がイヤイヤやっているのに「ちゃんとやらなきゃ、痛いよ!!」と無理強いしているようで哀しくなった。おまけにサーカスのテーマともいえる、「天然の美」のブンチャッチャ、ブンチャッチャというリズムが、これまた哀愁をおびていて、哀しさをあおりたてるのである。
一月二十七日夜九時から、日本テレビで放送されたTime21「涙と笑いのサーカス一座 上海雑技団」には、親に売られなかったにせよ、サーカスでウルトラCを観せるために寮に入って生活している子供たちの姿があった。上海雑技団というのは技にかけては、世界のトップクラスで、伝統的にうけつがれている曲芸を絶やさないように、七歳から十四歳の二十五人の子供たちに、立派なサーカス団の団員になるべく英才教育を施しているのである。
この学校に入るためには、ルックスもよく頭もよく、運動神経もよく社会に対する考え方もきちんとした子供でないと入学を許可してもらえないほど厳しい。頭も悪いし、顔も悪い、しかし運動だけは人並み以上にできる、という日本によくいるタイプの子供は、当然入学は許されないのである。どの子も賢く素直そうで、とってもかわいい。しかし、ひとたび練習となるとキリッと顔がひきしまってくる。昔からいわれているように、この子たちは酢ばっかり飲んでいるのではないか、と思うくらい体がぐんにゃり柔らかい。私が一番たまげたのは「頭での跳躍」だった。台の上に頭だけで倒立し、さかさまになったままポンポン跳躍するのである。首の筋肉だけを使う技で、これだけでも万国ビックリショーに出演できる。この子供の頭のテッペンは丸くハゲてコブができている。それでも毎日練習に耐える。別の子供は指が赤く腫《は》れてタラコのようになり、血がにじんでいる。それでも午前中は授業をうけ、午後は体をつかって練習をしなければならないのである。いくら好きだといっても、幼い子供たちが親元を離れて、文字どおり血のにじむ訓練をしているというのは、傍からみていると痛々しい感じがした。
パンダの生きる意欲
上海雑技団は、世界で唯一パンダの芸をみせるサーカスでも有名である。パンダというのは、反応がニブく、生きる意欲が少なくて、サーカスには向かないのに、調教師の若い男性が十二年間寝食を共にして芸をしこんだという。パンダにおける生きる意欲≠ニいうのは、具体的に何を示すのかよくわからないが、このウェイウェイ君というパンダの姿をみていると、何となく生きる意欲はない、という雰囲気はあった。ウェイウェイ君と人気を二分しているマルチーズの七匹の親子の目つきには、「しっかりやらねば」という、犬なりの決意がみえていたが、ウェイウェイ君のほうは体型もあるのかもしれないが、「しかたないなあ。やってやるか。ドッコイショ」というかんじだった。パンダのぬいぐるみのなかに人間が入って、芸をしているかのようであった。テーブルの前に座ってきちんとお食事はするわ、シェパード二頭立ての車のうしろにふんぞりかえって、プップカプーとラッパを吹くわで、上野で邸宅ぐらしのパンダと同じ生物とは思えない。
またこの調教師のお兄さんが、十二年も寝食を共にしてきたのにもかかわらず、ニコニコ笑いながら「パンダは頭は大きいけど、中身は何も入ってない」などと大胆なことをいう始末である。私としては雑技団における、子供たちの過酷な訓練は垣間みえたが、ウェイウェイ君やマルチーズ一家に、どのようにあれだけの芸をしこむのか知りたかった。
雑技団の団員は美男美女ばかりで、そういう選《え》りすぐられた人々が空中ブランコをすると、なかなかなまめかしく胸がときめく。しかし華やかな笑顔の合間にふとみせる表情は厳しくて、どうも無邪気にパチパチと拍手はできない気分なのである。
農民・ウゴ作とは無関係だった「雨後のタケノコ」
私は今、文章を書いてお金をいただいているが、それが恥ずかしくなるほど「言葉」の意味を知らない。学生のころ試験に、「船頭多くして船、山に上る」の意味を書けという問題が出た。私はその解答に、「船頭が一人だけではなく、何人もいれば力を合わせて、がんばって船を山に上らせることができる。一致団結してがんばろうということのたとえ」と書いて、当然の如くバツをもらい、「こんなことを書いたヤツがいた」と名指しでいわれてクラス中の笑い者になったこともある。
人前で笑われたのはこの一回だけだが、人に知られずに家の中で一人真赤になったことなど数知れない。「ウゴのタケノコ」ということばの本当の意味を知ったのも、つい一年程前である。私は田吾作のことを愛称でタゴと呼ぶので、ウゴというのもそのテの愛称だと思っていたのである。私の頭の中には、谷岡ヤスジ氏描くところの明るい農村マンガの、「ターゴー」「なんだぁ」という、のどかなシチュエーションがどういうわけか浮かんでしまったのである。それがすべての間違いのモトであった。タゴさんが馬のアオを可愛がっているように、「ウゴさん」が手塩にかけてタケノコを育てているのだと信じきっていたのだ。だからもし「ウゴのタケノコ」の意味は何かと試験に出たら、私は、「ウゴという農民が、大切にタケノコを育てて、山ほど収穫があったということ。つまり、結果的にたくさんのものが手元に残った、というたとえ」と書いたはずである。
ニュースなどで「○○がウゴのタケノコのように出てきましたね」ときけば、「そうか、たくさん出てきたんだな」と私は納得していたのである。その意味自体、私にとっては何の違和感もなかった。問題は「タケノコ」のほうではなく「ウゴ」のほうであった。正直いって、愛称としてウゴというのは少し変だなとは思っていた。しかし昔はウサギ年生まれの「卯作さん」とか「宇吾作さん」がいたかもしれぬ、と自分を納得させ、「ウゴ」が大切にしていたタケノコに思いをはせていたのである。
そして、その「ウゴ」が私の信じきっていた「ウゴ」ではない、と知ったのは、あるエッセイを読んでいたときである。そこには、きちんと「雨後のタケノコ」とあった。私の目からはボロッと固いウロコが落ちた。
私は一人、部屋の中で真赤になって頭をかかえてしまった。
「あー、人に知ったかぶりして教えなくてよかったあ」。心底そう思った。こういうことは巷の人々はみんな知っているのかと思い、学生時代に一番国語ができなかった友人にたずねてみると、彼女でさえ正しくその言葉の意味を把握していたのである。そして「あんた、どうして急にそんなこと聞くの」と不思議がる。友人だから、ま、いいや、と「タゴ」の件を話すと「バカねえ」と大笑いされてしまった。そして私が恐れていたように、一夜にして私の「タゴ」の件は友人宅に矢のような速度で広まり、それからしばらくは、私は「タゴの人」と呼ばれていたのである。
「未必の故意」も勘ちがい
そして最近は、あの三浦事件の「未必の故意」である。私は仕事をしながらテレビを|聞いた《ヽヽヽ》りしていて、何度となくこのことばを耳にしていたのだが、これも「ウゴ」と同じく、自分で勝手に「密室の恋」だと信じきっていたのであった。矢沢判決が出る前で、レポーターが、「矢沢美智子の判決は、密室の恋かどうかが決め手になりそうです」というのをきいていて、「裁判をするのに、密室で二人が恋を語らっていたのが争点になるなんて、ずいぶんロマンチックなもんだ」と思っていたのである。ところがそれが、実は「未必の故意」だと知ったときの驚き。これまたボロボロと目からウロコが落ちた。「そうか。どうりでおかしいと思った」。新聞、週刊誌の類いも読んでいたにもかかわらず、それにずーっと気がつかなかったわけである。自分が正しいと信じきっていることは、必ず正しいのだと思いこんでしまう、母親の性格をしっかり私も受け継いでしまったようであった。
TBSテレビで夜七時五十八分から、ほんの一分間放送される、「ことばのプリズム」は、短いながらも、タイトルどおり、ことばの意味だけでなく、ことばから派生するいろいろな知識を教えてくれる。番組と番組とのつなぎといったかんじだが、観終わったあと、「うーむ、なるほど。知らなかったあ」と感心してしまう。文字どおり「知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」を肝に銘じて、じっと画面を凝視している私なのである。
本能のおもむくまま露天風呂で平泳ぎしたら……
ある日、風呂好きの私に「温泉に入る」という夢のようなお仕事がやってきた。私ははしゃいで電車に乗ったものの、ここで初めて温泉というものが丸井のように駅のソバにはない、ということを知ったのであった。駅に降りたち、「温泉はどこですか」と編集者にたずねたら、「ここからタクシーに乗って一時間半です」と事もなげにいう。十分後には温泉に入っている自分を想像した私は、遠い道のりを思うと少しガッカリした。またその道のりというのがヘアピンカーブの連続で、車に弱い人だったらば、酔いどめの薬でさえも吐き出してしまうくらいすごい場所であった。やっとの思いで村の駐車場について、再び「温泉どこですかあ」とたずねたら、件《くだん》の編集者は「ここから一時間歩けば着きます」といってさっさと歩き出すではないか。私は目の前が真暗になった。
ほとんど人気《ひとけ》のない川道を歩いていると、今まで見たこともないような、不気味な景色が目の前に広がっていた。川の水は干上がって巨大な石がゴロゴロし、白っぽく枯れた木が折り重なっている、「岡本太郎も爆発だ!」といったふうの世紀末的な自然のオブジェがあった。ヒザをガクガクいわせながら、やっとの思いで温泉にたどりついた時は、涙が出そうになった。
シッシッ、男は去れ!
さっそく手ぬぐいを持って露天風呂に走っていった。が、ここは混浴である。事前に露天風呂内の偵察をしておいたほうがよかろう、とヒタヒタと忍者歩きをしながらそーっとついたてのフシ穴からのぞいてみた。誰もいない。脱衣所の壁には、「今は女性専用時間です」と書いてある。私はホッとして白濁した温泉の中につかった。頭の上には空が広がり、赤トンボがピュンピュンとんで、鳥の声もきこえてくる。そこへ突然「あのー、一緒に入ってもいいでしょうか」という声。ふりかえるとボサーッとした男が、こっちをのぞきこんでいる。「ダメ!」とどなっても、そいつは、「どうしてもダメですかあ」といいながら、すでに服を脱ぎはじめているではないか。
非常時に無防備なのは本当に困る。私は腹の中で「シッシッ、一緒に風呂に入る男は私が選ぶ!!」と叫びながら「地獄の黙示録」のマーロン・ブランドのように、首までつかって横目でギョロギョロするしかなかった。しかしそれを見つけた宿泊客のおばさんが、「出ていけったら出ていけ!!」と一喝してくれたおかげで、私の操は守られたのである。危機も去り、「極楽、極楽」と手足をのばしていたら、突然泳ぎたくなってしまった。
私が得意とするのは背泳であるが、露天風呂で背泳をするのは、いくら私でもはばかられる。ガッパガッパとバタフライをするのも異常である。やはりTPOを考えると、適切なのは平泳ぎであろうが、私は平泳ぎができないのである。しかし本能のおもむくままガバッとカエル足をしたとたん左ヒザに激痛が走り、目から火花がとび散った。一瞬わけがわからなくなり、ヒザをかばおうとしたら今度は右足がつってしまい、私は「ぐわっぐわっ」といいながらしこたま湯をのんでおぼれそうになってしまったのである。タイルや木造りのツルツルした風呂しか知らなかった私は、露天風呂が岩で造られているのも知らず、みごとにヒザを四センチも切ってしまった。しかしヒザでよかった。少し位置が違っていたらエライことになるところだった。しかし温泉はいいのだが、そこに行くまでがしんどい。最近は温泉ブームで、テレビでも番組が組まれたりしている。テレビ朝日のトゥナイトで毎週放送している「荒勢の名湯めぐり」もそのうちの一つである。私が久しぶりにチャンネルをまわした日は、マルコスとアキノの対決で、大騒ぎしていた時である。こういう世界が注目している事件がある時は、緊急に予定を変更して報道特別番組になることが多いから、「今日は名湯めぐりはないな」と思っていた。ところがフィリピン情勢に関するニュースを放送したあと、いつものように、フンドシ姿のがぶり寄りの荒勢が湯につかっていた。他局では、識者を呼んで今後のフィリピンはいかにと論じあっていたのに、荒勢は温泉旅館の美人|女将《おかみ》と仲良く入浴の真最中であった。以前新聞のテレビ欄で「重大事件があったのに、風呂に入っている姿を放送している」とこの番組を批判している投稿を読んだことがあったが、他局とのバランスは明らかにくずれるが、取材のために重い機材をかついで山道、川道を歩いたであろう苦労を考えると、「能天気に風呂に入っていても、いいじゃないか」と、思ったのであった。
パリのテレビで再会した鉄腕アトムのりりしき姿
先月、十二年ぶりで海外旅行にいった。当時はまだ羽田空港に国際線が発着していたので、成田空港に行ったのは生まれて初めて。あっちこっちキョロキョロして、「あっ! これが神田正輝と松田聖子が登った階段だ!!」などとわめいて、まわりの人に笑われた。
ギーンと飛行機に乗って、到着したのはまずマドリードである。何のたたりか、その日は冷たいみぞれが降っていた。私は寒い街の中を歩きまわるよりも、いち早くスペイン社会を知ったほうがよかろうと、手はじめにホテルのテレビのスイッチをつけた、というのはウソで、エッセイのネタがころがっていないかと期待してテレビを観ようとしたというセコイ根性が下心としてあったにすぎない。闘牛に熱狂する国民性ゆえ、ド派手で過激な番組が数多くあるにちがいない、と決めつけていたところ、これが大違い。いちおうチャンネルは三つあったが、一つはとにかく休みばっかり、もう一つはおエラ方の討論ばかり。もう一つはいちおう英語放送で、映画とかどこかの国の何十年か前の軍隊の姿などを放送していたが、何がなんだかよくわからないのである。日本だとひっきりなしにコマーシャルが入るが、スペインではそんなこともなく、私の記憶に残っているのは、キッチン用品のCMと、子供向き百科事典のCMだけ。話によるとスペイン人は今まであまり本を読まなかったので、最近国があわてて、子供たちに本を読ませようと必死にPRしているとのことであった。
しかしとにかく退屈で、テレビを観ていると眠くなってしまう。夜になったら、スタンリー・ジョーダンのライブを放送していたが、これまた日本では考えられないほど質素かつ地味な舞台で、まるでNHK素人のど自慢大会のようなシンプルさであった。
スペインのテレビの地味さに多少裏切られ、期待するのは次の滞在地フランスである。私はパリに到着するや、まずテレビのスイッチをいれた。ところがここでも放送されているのはTF1、A2、FR3の三つのチャンネルだけ。でもさすがフランスは番組づくりはなかなかおシャレだった。まずA2の朝のニュースワイドショーの女性キャスターが、めちゃくちゃかわいい。顔立ちもさることながら、笑顔がとてもいい。「フランスにも、こんなに笑う女の人がいたのか」とおどろいたくらいである。出勤前にあのような笑顔を観れば、パリジャンも「きょうもお仕事をがんばろう」という気にもなるだろう。そしてそのニュースワイドショーの終わり方もまたシック。画面に映るのは大きな花びんに活けられた、カスミ草や大輪のバラ。エディット・ピアフ歌うところの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」が流れ、今日の出演者とスタッフ全員の名前が次々に映し出されるのである。
仏語のテーマソング
私は日本における日の丸バタバタと君が代を思い出して、「それではお休みなさい」といいたくなってしまったが、そのとおり、それから放送は午前中だというのにテストパターンを写し出したまま、しばらくお休みになってしまうのである。四六時中これでもか、これでもかと張り切って番組を流している日本とは、えらい違いである。
他局では何をやっとるのか、とチャンネルを回していたらば、突然懐しい曲が耳にとびこんできた。何とそこには、あの鉄腕アトムがあのりりしい姿でブーンと空をとんでいたのである。日本で姿を見ないと思っていたらフランスで「ASTRO LE PETIT ROBOT」という名前で出稼ぎをしていて、その番組のCMが流れていたのである。テーマソングを歌っているのは少年合唱団ではなく男性一人。仏語ゆえ、めったやたらと鼻の穴から息が抜けて、アトムも全然強そうな感じがしない。しかし、私が幼いころ放送を心待ちにし、鼻血が出るほどマーブル・チョコを食べてシールを集めたアトムが、二十年以上たっても、フランスのお子様方に喜んで観ていただいているのは、誠にうれしかった。
スペインにしてもフランスにしても、チャンネルが三つしかないうえに、日中でも休みになってしまうのは、最初とても物足りなかった。しかししばらくそういう環境にいると、子供は子供番組にしか出てこないし、下手なアイドル歌手も出てこない、外国のテレビ事情のほうが、潔くてケジメがあってよいと思えるようになったのである。
「わくわく動物ランド」ふんころがしの健気な姿
私の実家では、この三十三年間、ずっと動物を飼い続けている。一時期インコ二羽、十姉妹《じゆうしまつ》三羽、ネコ八匹、金魚五匹、ハツカネズミ二十四匹と人間三人が、団地サイズの3DKに、寝起きしていた事もある。当然面倒をみるのも分担制で、鳥類と魚類は弟、ネコは母、そして私はハツカネズミの担当になった。
そのハツカネズミ集団のルーツは縁日で赤いカゴに入れて売られていた、子供のつがいであった。ところが、まだ子供だ子供だ、と思っている間にこいつらはサッサと私の目を盗んで交尾してしまい、文字どおりネズミ算式に増えていって、あっという間に二十四匹の大所帯になってしまったのである。私はオス十二匹、メス十二匹に分けた、透明の大きな飼育ケースを部屋の中に置いて、期末試験の勉強をしていた。でも、白いフワフワした毛でおおわれた、目の赤いかわいいネズミがチョロチョロ動きまわっているのを見ていると、もう勉強どころではない。私はオスの大ちゃんという名前のネズミを机の上に乗っけて、もてあそぶことにした。レポート用紙に鉛筆でいたずら書きをしていると、大ちゃんが不思議そうな顔をして、じっと見ている。ネズミは目があまりよく見えないから、ふだんと違うニオイがするので、オヤッと思っていたのかもしれない。しばらくすると、鉛筆を握っている私の指のニオイをかぎ、おもむろに後ろ足で立ち上がり、ガバッと前足で鉛筆に抱きついて離れようとしない。
「だめだめ、そこにおとなしくしてるの!」と叱ってひき離そうとすると、あのちっこい手で「うるさい!」というふうに私の指を払いのける。私が大ちゃんとモメている気配を察知して、残りの二十三匹のネズミは全員後ろ足で立ち上がり、ピョンピョンはねながら「外に出たい」と訴えているのである。
「わかったよ! しょうがないねえ」。私はオス十一匹を部屋の中に逃がしてやった。オスメス一緒に逃がすと、ふとどきものが物陰ですぐまぐわってしまうので、それを避けるためである。あんなに出せ出せと騒いでいたのに、いざ外に出してもらうと、彼らはいちおう緊張して、ガマガエルみたいにベタッとじゅうたんの上にへばりついて、匍匐《ほふく》前進をする。しかし二、三分して何の危険もないとわかるや、とたんに元気がよくなり、タッタカタッタカ走りはじめる。いちいち一匹ずつ尻尾をつまんでケースの中に入れるのは面倒なので、飼育ケースのフタを開けて、厚紙でハシゴを作っておいてやると、そのうち自主的にケースの中に入ってくれるので、本当に楽だった。
マイナーな動物に光を
ところが「ネズミはかわいいよ」というと、たいていの人は「えーっ、気持ち悪い」と顔をしかめる。ミミズみたいな尻尾が嫌だという人もいた。尻尾を指でナデナデしてあげるとネズミはクルクルッと尻尾を私の指に巻きつけてきたりして、とっても心暖まる生き物なのだが、いまひとつ存在が理解してもらえないようで、私は不満である。
どうも動物というと、動物園にいる大きな動物とか、イヌ、ネコ、鳥ぐらいしか頭に浮かんでこない人が多いようである。ミミズだってガマガエルだってナマコだってウミウシだって、それなりにカワイイのである。ラッコだのコアラだの、次々に脚光をあびる動物は出てくるが、その陰ではハナもひっかけてもらえず、その存在すらも知られることのない動物が山ほどいる。そういう動物たちにもテレビ出演という機会を与える、TBSの「わくわく動物ランド」は、私の好きな番組である。このあいだは、ふんころがしが登場していた。このふんころがしは、シマウマなどの動物が脱糞すると、ササッと集まってきて、糞を器用に団子状に丸め、コロコロと転がしながら自分のすみかまで持っていく。そして糞団子の中に卵を産みつけて幼虫の餌《えさ》にしたり、自分が食べたりして地べたの清掃に協力している、見上げた行ないの尊い生き物である。
この番組の面白いところは、動物の紹介だけでなく、習性のユニークさを実験で示してくれるところにある。ふんころがしの時のテーマは、「ふんころがしは、どんな大きさの糞でも転がしてしまうのか」ということであった。ところがあの小さな虫にも、それなりの自我があり、自分の後ろ足がモノサシ代わりになって、糞のその間に納まるものであれば、ピラミッド形でも円筒でも必死になって転がしていくのが判明した。一生懸命糞を転がしていく姿を見て、私は「僕らはみんな生きている……」という歌を突然歌いたくなってしまったのであった。
十代のニャンニャンに驚き、怒り、安堵する
春である。いろいろと萌え出づるころである。イチャリンコイチャリンコしたアベックが、路上にわいて出る時でもある。私が住んでいる場所は、若者が多いせいか、そのアベックというのも学生がほとんどである。大学生のアベックは、見慣れているせいか大して驚きもしないが、セーラー服と学生服が、仲良く肩を抱き合いながら、下校しているのを見た時はたまげた。私服のときは、単に「若者のカップル」としかみえないのが、制服姿であるがために、誠に淫靡《いんび》な雰囲気なのだ。ところが気をつけて見ていると、周囲の目もはばからず、手をつないだり、腕を組んだりしている制服姿のカップルの多いこと。中でも超ド級にたまげたのは、ビジネスホテルではないホテルの裏を通りかかったときに、目にした光景であった。
あたりは夕暮れどきで薄暗くなってきている。そしてどういうわけか電信柱の陰から、得体のしれないウメキ声がきこえてきた。
誰か具合でも悪いのかと思ったがどうも様子がおかしい。人影が二つ、モソモソと動いている。「もしや……」と思いつつも、足がどんどん前に進んでしまう私は、はっきりいって、のぞきのオバさんである。近づいていった私の目にとびこんできたのは、まくれあがったスカート及び女の子のお尻であった。じとーっと私が横目でにらんでいるのにも気がつかず、二人とも制服姿で一心不乱にコトに励んでいる。
制服の処女いずこ
昭和三十年代の道徳の授業をうけた私はだんだん頭に血がのぼり、コトに励んでいる二人の間に割って入り、頭の一つや二つ、ブッ叩いて「とっとと家に帰れ!」とどなりたくなったが、その勇気もなく、ブツクサいいながら家に帰った。もちろん私が高校生のときにも、男女関係が発展している子たちもいたが、制服を着ているときは、恥ずかしいというささやかな恥じらいがあった。現在では制服というのは大人が思っているほど大した意味を持っていないようである。
ところが現実はもっともっと大事《おおごと》になっていた。NHK特集「少女たちの産婦人科診察室・10代の性のカルテ」を観て、私はうーんとうならざるをえなかった。今や高校生ではなく、中学生にまで性の乱れが及んでいるのであった。
OL、人妻の性の乱れというのならば、まだわかるが、その中に中学生や高校生がまじってしまう、というのでは、お話にもならない。
番組では、広島のある病院の産婦人科の診察室に来た人々の一部を映していたが、その中に妊娠している中学一年生十三歳の女の子がいた。もちろん顔も声も画面には出ず、ただ婦人科医の声が耳に入ってくるだけだが、性的に無知なようすで、問診した女医さんも「こんなネンネでも、やることはやっちゃう」と嘆いていた。私にはそこのところが理解できないのである。
私が十三歳のころにも、あこがれのスターや同じクラスのサッカーの上手な男の子と結婚できたらいいなあ、と思ったこともあった。結婚の深い意味も知らず、バラの花にかこまれて、幸せいっぱい夢いっぱいという、少女マンガの世界に包まれる、ぐらいの感覚しかなかったのである。だいたいが、自殺とか下半身関係のことは、「あれは大人がするもので、子供の私たちがやることではない」と思っていたのである。恐いもの見たさで、「あれはいったいどんなものなのか」という興味はあったけれど、頭の中であれこれ思いをめぐらすだけで、結局は眠くなって寝てしまうのがオチだった。
ところが、今の子は少女マンガをとびこえて、すぐ劇画の世界へととびこんでしまうようであった。
その十三歳の女の子の相手は同じ中学の男の子であった。一月十一日からつき合って、一月十五日にニャンニャンしてしまうといった早技である。校庭を走りまわったり、ボンボンとびはねたり、他にもすることは山ほどあるはず。若いみそらで、いくつになってもできることをやらなくてもいいのに、と思うのは、そういう新人類≠ノついていけなくなった証拠なのかもしれない。子供たちは本能のおもむくままにニャンニャンし、それを知った親はオロオロし、ではこのまま泥沼化するばかりである。きちんと、オシベとメシベではない性教育をすれば十代の妊娠が防げるかといえば疑問だし、さりとて毎日鋼鉄のパンツをはかせるわけにもいかない。私は無責任だが、正直いって親でなくてよかったと、ホッとしたのであった。
TBSお昼の三連発「嫁と姑」ドラマの迫力
私が会社をやめて昼間家にいるようになったのを、一番喜んだのは主婦の友だちである。子供もいず、家事をこなしても、まだ腐るほど時間がある。だから週刊誌をしこたま買ってきて、少年隊のナントカ君のキンキラした姿を眺めるのが唯一の楽しみになっている。彼女は芸能人のことに関しては、メチャクチャ詳しい。私は週刊誌を全く読まずして、芸能人の不倫、不幸、その他モロモロの情報を彼女から得ているのである。
その日も、いつものように午後二時すぎ、彼女から電話があった。私はいつも彼女が電話をかけてくると、長電話になるので、向こうが話を切り出す前に、「今忙しいから三分だけ」といおうとするのだが、テキもさるもので、なかなか自分のペースに巻きこむのがうまい。リビアとアメリカの今後の関係はいかに、といわれるよりも、「岡田有希子ちゃん、かわいそうだったねぇ」といわれれば、「そうだよね。どうしてああならなきゃ、いけなかったんだろうね」と答えてしまうではないか。そうしていくうちに、どんどん話は派生していって、気がつくと一時間も二時間もたっている。その間、一方的に話しているのは、彼女のほうである。私はただ、ふんふんと聞いているだけ。やっと話が終わって受話器を置いても、しばらくは、耳がジーンとしている。どうして、こんなことになるのだろうと考えてみたら、芸能人の不倫、不幸といった、会話の導入部にゴマカされていたが、話の内容のほとんどが姑《しゆうとめ》の悪口なのであった。
避けては通れぬテーマ
姑は地方に住んでいて、同居をしていないわけだから、顔を合わせない限り何の問題もないはずだ、と部外者の私は考えるが、さにあらず。姑が電話をかけてきただけで、山ほど怒りの種ができてしまうらしいのだ。最初は、遠慮がちに私にグチっている彼女も、話しているうちにだんだんその時の怒りがこみあげてきて、声がヒステリックにカン高くなってくる。たまに「それは、あなたのほうが正しいわ」などと口をはさむと、これがまた火に油をそそぐような結果になる。自分の話したことばに、また興奮してしゃべりまくる、という悪循環で、しまいには、私が嫁に厳しく詰問《きつもん》されている気分になってくるのである。彼女の場合は、明らかに姑のほうが理不尽な理屈をこねているのである。が、世の中のほとんどの嫁姑のトラブルは、両方ともそれぞれ納得できる意見を持っているのに、それがうまくかみあわない。同居している主婦はもちろん、別居している主婦にも、避けては通れない問題であるらしい。だから未だに嫁と姑の関係をテーマにしたドラマが次から次へと飽きもせず登場してくる。
特にTBSの午後一時から二時までの一時間は、「嫁と姑」をテーマにしたドラマしか放送していないというすさまじさ。まず一時三十分までは「袖《そで》すりあうも嫁姑」、一時三十分から一時四十五分までは「母はおしかけ同居人」、一時四十五分から二時までは「嫁と呼ばないで」という三ツ巴《どもえ》で迫ってくるのである。この時間帯は、主婦にとってのゴールデンタイムである。午前中に家事を終え、朝食の残りものでおざなりの昼食を済ませてホッと一息。ゴロリと横になっている時に、どうだ! と、嫁と姑の関係がテーマになったドラマを観せられたら、ついつい三本連続で観てしまうではないか。同時間帯に放送されているフジテレビの「いただきます」、日本テレビの「ごちそうさま」、テレビ朝日の「徹子の部屋」に対抗できるのは、このラインアップしかない! という局側の意気込みが感じられて面白い。
「袖すりあうも嫁姑」は、小林千登勢の原作をドラマ化したもので、嫁は友里千賀子、姑は高森和子という、シャキシャキした嫁と姑の対決である。「母はおしかけ同居人」は、嫁・奈美悦子、姑・宝生あやこ、そこに実母の庄司歌江がからむという複雑なお話。「嫁と呼ばないで」は、楚々《そそ》とした伊藤栄子が嫁役。夫は亡くなったのにもかかわらず、脳軟化症の姑の世話のために、嫁ぎ先にとどまる、という嫁姑の対立というよりも、まあ嫁の美談に近い。小姑や実家の親まで出てくれば、どれかは主婦の琴線に触れるに決まっている。それにつけても、嫁姑のドラマでの夫の影の薄いこと。「仕方ないじゃないか」の事なかれ主義か、女二人の騒ぎから逃れてウサ晴らしに浮気しているか、死んでるか。どれもこれも、嫁と姑の仲を改善させるのに、何の役にも立たないところが、これまたおかしかった。
カラオケビデオ情報に人類の不気味さを見た
私は今まで一度もカラオケで歌ったことがない。仕方なく取材やらつきあいやらで、三回ほどカラオケスナックに行ったことはあるが、自己陶酔にひたる俄《にわ》か歌手の歌をききながら、「みんなよくやるなぁ」と思っていた。カラオケのどこが面白いのか、ちっともわからない。だいたい私は自分の声が大嫌いなのだ。喋っている声でさえ聞くとうんざりするのに、そのうえ歌うなどというおぞましいことはできない。中学生のころは、音楽の時間にアルトのパートにいて歌っていると、先生は困った顔をして、「しょうがないなぁ。よし、お前、テノールやれ!」といわれた。私はただ一人、男の子の中にまじってムッとしながら野ばら≠ネんかを歌っていたのである。高校生のときは、「体つきは十分オペラ歌手並みなんだけどねぇ。どうしてそんな声しか出ないんだろう」と教師に不思議がられたくらいのヒドさなのである。ところがカラオケスナックで、小指をピクピクさせながら熱唱しているおじさんたちは、自分がダミ声だろうが胴間声だろうが全くおかまいなし。自分が気持ちよければ周りの人間などどうでもいいようなのだ。
私は根がキライなものだからカラオケブームなんて、すぐすたれると思っていた。ところがなかなかこの業界もしぶとい。決まったキーでしか歌えないという不満にはキーチェンジャー付きの機械を、自分の歌唱力の評価を望む向きには、点数が表示されるものを出す。そして現在は、ビデオカラオケが主流になっている。
この略してビデカラは、カラオケファンにいわせると、映像と共に歌詞が出てくるから、曲さえ知っていれば、画面を見ながら歌えるのが利点だそうだ。物覚えが悪くなってきた中年にはうってつけといえよう。私は三大スケベビデカラを見せてもらったことがあるが、一本は、ポルノ女優・水月円《みなづきまどか》を起用してそれなりに製作者の意欲を見せていたが、あとの二本は着物姿の過去のありそうな二十七、八の女が、いかにもヒヒジジイといった男にベロベロとあっちこっちナメまわされたり、ひなびた旅館に泊まっている女が、浴衣姿で一人身もだえる、という、どうしてそうなるのか全然わからないストーリーなのである。おまけによくよく見ると、ヒヒジジイになめまわされる女と一人身もだえる女とが同一人物で、同じモデルを再使用しているところに、この業界の苦しさを垣間見たような気がした。「歌わなくても、けっこうビデカラって面白いでしょ」とスナックのお姉さんはいったが、私は裸の女が画面に登場するたびに、スルメをしゃぶりながら「おーっ」とうめいて画面を凝視する、サラリーマンのふぬけた顔を見ているほうが、よっぽど面白かった。花見にまで、わざわざビデカラを持っていって歌いまくる人もいて、カラオケ人類はいったい何を考えているんだか私には想像できないのである。
日曜日深夜のキワモノ
東京12チャンネル、日曜日の深夜に放送されている「TMNおもわずビデカラこんばんわ」も、何がなんだかよくわからない番組だった。テーマミュージックもなかなか軽快で、テレビモニターがズラッと後ろに並び、一見してCNNデイウォッチのセンをねらっているようだ。
まず最初に、ちまたウォッチングというコーナーがあり、子象の背中にまでビデカラのモニターを持ち込み、子象が嫌がっているのに背中にまたがって夏ざかりほの字組≠歌う、わけのわからぬ女が出ていた。そのあとは全国のカラオケスナックめぐりで、レポーターが客にむかって「あなたにとって楽しみとは何であるか」「あなたにとって女性とは何であるか」という質問をしている。盛り場で、妙にナレナレしくすり寄ってくる不気味なアンケート女と、大して変わらぬ発想だった。おまけにカラオケ人類の心をゆさぶる、ビデオカラオケに主演して歌える「自分だけビデカラを2倍楽しめる法」という、自分のプロモーションビデオを作ってくれるコーナーまである。ところが応募先の住所が東京12チャンネルで放送されているのにもかかわらず、福岡市中央郵便局留。局留というと、「私の恥ずかしい写真送ります」の広告の宛先のほとんどが、ナントカ局留になっているのを思い出し、何やらキワモノっぽいかんじ。
三十分の中に次から次へといろいろな情報がつめこまれているのではあるが、私のように役に立たない人間にとっては、残念ながら面白くも何ともない番組なのであった。
コンピュータに結婚の相手を選ばせていいのか
小学生のときに、デパートで行なわれていた人集め企画、コンピュータの恋人選び≠ェ流行したことがあった。あるとき仲の良かった友だちから「恋人選びをやってみたいけど、一人で行くのは嫌だから、一緒に行こうよ」と、しつこく誘われた。そのころ一番人気があった芸能人は、何といっても加山雄三。クラスでいち早く恋人選びをやったエリちゃんは、相手が加山雄三と出たので、将来彼と結婚できるかのように有頂天になっているのだった。私はそういう女の子はバカにしていたので行きたくなかったが、友だちがあまりに熱心なので、それにつきあうことにしたのである。
紙に書かれた質問にハイ、イイエで答え、五分待つと結果が出てきた。興味はないといえども、さすがに相手の名前を見るときはドキドキした。私のほうは「アナタニピッタリノヒトハ、カレシカイマセン」と書いてあり、そこには「寺田農」の名前があった。友だちは横目でのぞきこんでいたが、自分の相手の名前を見たとたん、ウッといった。彼女の相手もリエちゃんと同じ「加山雄三」であった。「ねえ、恋人っていうのは一人一人違うよね。どうして私、リエちゃんと同じなの」。これは正論だった。結局、恋人選びをした女の子のほとんどに、加山雄三が登場していたことが判明した。いくら好きでも、どうも女というものは、子供のころから他の女とは男を共有したくないようで、「コンピュータはインチキだ」という結論に達して、嵐のようなブームもおさまったのである。
Time21のレポート
こういうことがあったため、今はやりのコンピュータで結婚相手を紹介するというシステムも、広告のうたい文句ほど、いい条件の人がわんさかいるわけではないだろうと思っていた。五月十二日の日本テレビ、Time21で、そのテの結婚相手紹介会社のシステムや、実際に結婚相手がみつかった人、現在捜している人などをレポートしていたが、意外なことがいろいろとあった。先入観として、そこまでして結婚したいと思っているのは、陰気な目つきの暗い人ばかりじゃないかと思っていたが、会員は普通の人だった。ああいう人ならコンピュータで相手を捜してもらわなくても、十分イケるんじゃないかと思ったが、現実はそうではないらしい。会社では一カ月に四、五人の条件の合う人を二年間紹介し続けてくれる(ちなみに男性から女性への第一条件は年齢で、私のもとに、三十すぎてからパッタリ会社からの勧誘のDMがこなくなった理由がこれでわかった)。
しかし、相手が自分のほうのデータを見て、ノーだったらそれっきりで、会うこともできない。私は面と向かって嫌だといわれたほうが、会わないで嫌だといわれるよりも、ずっといい。運が悪ければ入会金の二十万、三十万を払っても一人も会えない可能性だってあるわけ。お互いデータを見て会い、交際をしてみて途中で嫌になったら、カウンセラーが先方に断わってくれる。断わるほうにしてみれば、こんなに都合のいい話はないが、断わられる側になってみれば、こんなに腹の立つことはない。人間関係では、自分でいうのは嫌だけど、どうしてもいわなきゃならないことがあるはずで、自分に都合の悪いことは他人にいってもらって、都合のいいことだけどんどん取り込もうというのは、どんなものか。中にはより条件のいい人をと捜し、ついに二十二人目の男性と結婚した女性がいて、私はそのエネルギーに半分あきれつつ、感心してしまった。私もよく、どういう条件の人だったら結婚するのかと聞かれるが、全くわからないのである。最初から確固たる条件を持っていて、それに合わない男を切り捨てていくというのは、なかなかスゴイ。会社のパネルには、最初から条件が合わない人をふるい落としておいて、残った人の中から相手を選べば、結婚生活を無事送ることができる、そして幸せな老後が待っているとイラストで示してあった。私は「いつ死ぬかもしれないのにいちいち老後のことなんか考えて、結婚相手を捜せるか」と思ったが、こういう私みたいなのは、会社の人がいう「紹介所に来ても相手が見つからない、結婚に向かない人」なのであろう。
これだけ会社と会員の双方が力を入れてがんばっていれば、成婚率はものすごく高いだろうと想像していたが、実際は会員の二割しかいない。広告では何万人が幸せになっているとうたってあるが、実は陰でその何倍もの人々が未だに相手を捜し続けているのだ、ということもこの番組で初めてわかったのであった。
脱脂粉乳のイッキ飲みにタッちゃんの面影を見た
「給食」ときくと、どうも私には良いイメージがない。特に小学校の低学年の頃は、悲惨な記憶しかないのである。昭和三十年代に私は小学校に通っていたが、勉強より何より、給食を残さず食べるということが、人生の一番初めの試練だったような気がする。
生まれて六年目の私たちは、給食の時間が待ちどおしくもあり、また苦痛だった。担任の先生が、パン以外のものを全部食べ終わらなければ、家に帰してくれなかったからだ。私はおいしくないなぁとは思いつつも、いつもちゃんと給食はたいらげていたから、泣きながら給食を食べたことはなかった。しかし登校下校がいつも一緒だった、タッちゃんが好き嫌いが激しくて、嫌いなおかずがでるとすぐ目をうるませて、「ボクが食べ終わるまで待っててね」と哀願するのであった。私はコッペパンをわしわしと食べながら、「うんいいよ」と答えるのが常であった。しかし、さすがにあの脱脂粉乳を飲むときは、決断が必要だった。アルミのカップに入っているミルクの表面には、薄い膜まで張っていて気持ちが悪く、冷たくなるとマズすぎて飲めないので、ほどほどにさめたときに息を止めてぐわっと一気に流しこんだ。
あるとき、いつものように下駄箱のところでタッちゃんを待っていると、うつろな目をして彼はやってきた。
「早く、帰ろ」
といっても、タッちゃんはボーッとしている。おかしいなと思って顔をみると、静かに泣いているではないか。
「どうしたの」
ときくと、どうしても、おかずの酢豚が食べられずに、先生の目を盗んで靴下の中に入れたのだ、という。タッちゃんの左足からは、じわじわと酢豚がにじみ出していて上履きにシミが広がっている。私はあわてて彼を校庭の足洗い場につれていって、足を洗わせた。証拠品の左足の靴下は花壇の植えこみの中に隠し、上履きは捨てると書いてある名前からアシがつくので、ブラ下げて家に持って帰るように! と命じた記憶がある。
献立は、ただ栄養素だけが満たされればいいといった感じで、ちくわを油で揚げて青ノリをふったちくわの磯辺揚げ≠ェ出てきたときに、私は子供心に「こんなもんでコッペパンが喰えるか!」とムッとした。そのうえ、コッペパンも油で揚げてきな粉をまぶしたものまであった。ランドセルの中に入れて持って帰ると、油がしみ出てノートにシミができるのも悲しかった。おしるこの中に、貝の形をしたマカロニが入っているのも解せなかった。自らすすんでおかずのおかわりをする子を私は横目でみながら「変な奴」と思っていた。その後、何年もたって、あの脱脂粉乳はブタのエサだったらしいという噂をきいて、「成長期にそんなもの食べさせられたら、私の足が短いのも当然だ」と未だに恨んでいる。
ひとこと「マズイ!」
ところが今の小学校の給食はなかなかメニューが充実しているらしい。あの脱脂粉乳を飲まされないだけでも幸せだ。五月二十九日、フジテレビ「美味《おい》しんぼ倶楽部《くらぶ》」では、昭和三十年代の給食を、小学校五年生に食べさせていた。
そのメニューというのが脱脂粉乳、コッペパン、それに給食の帝王ともいうべき鯨のたつた揚げ。私たちのころは、給食において唯一の固形肉だった鯨も、鶏や牛や豚を食べ慣れている子供たちには、生まれて初めて口に入れるもののようであった。「固いけど、おいしい」といいながらムシャムシャ食べている男の子や、マジメな顔をしてただ黙々と食べている女の子。コッペパンも固いと不評だったが、レポーターの話によると、「こういった固いもののほうが、アゴのためによいのだ」と蘊蓄《うんちく》を傾ける子もいたらしくてなかなか賢い。そして、メーン・エベントの脱脂粉乳。おそるおそる口をつけた女の子の顔がアップになる。そして口に入れたとたんに、キッと眉間にシワが寄り、カップを置いてひとこと「マズイ!」。ところがどの時代でも同じような子供がいるもので、一人の男の子は、ぐいーっと息もつがずに脱脂粉乳のイッキ飲み。そして上くちびるにミルクをくっつけたまんま、「あー、おいしかった」といってニカッと笑った。そしてその顔が、かつて同じクラスにいた、脱脂粉乳が大好きで、みんなの分をもらって喜んでいた男の子とソックリだったのでビックリした。短髪で剛毛、目は一重でやや上がり目、そして前歯が大きくて団子鼻の男の子は、先天的に脱脂粉乳が好きなのかしらと不思議な気分になったのである。
これが三歳の私だった マル秘アルバム初公開!
私は写真を撮られるのが苦手だ。誰かと話をしているうちに撮られるのならまだいいが、「はい、こっちを見てニッコリ笑って下さい」とレンズを向けられるとすぐ目つきに現われるらしくて、「本当に撮られるのが嫌いなんですね」といわれることが多い。なかには「もしかして、未だに写真を撮ると魂が吸いとられるんじゃないかと思ってるんじゃないでしょうね」などという人もいるが、私としてはそれと等しいくらいの恐怖なのだ。
世の中にはとても被写体になるのが好きな人がいて、毎年の記録として事あるごとに写真を撮り、きちんとアルバムに整理して見せてくれる人もいる。そういう人はたいがい結婚、出産といった女のメーン・エベントがあった人に多い。何事もなくただぼーっと学校を卒業して現在に至り、おまけに写真嫌いとあっては、強制的に写真を撮られた高校を卒業してしまってからの十四年間の空白を埋める目に見えるものは、何もない。その高校三年の時に撮った最後の写真というのも、ちょうど記念撮影の日に私はおたふく風邪で休んでしまい、写真左上隅の楕円形の中に憮然《ぶぜん》として納まっているという情けなさである。中学、高校時代に各学年ごとに一枚ずつ計六枚。小学生時代はアルバム一冊分。ところが幼年時代の写真はアルバム五冊もある。というのも、父親が写真を撮るのが好きで、新しいカメラを買ってうれしくてたまらず、手あたりしだいに私や弟の写真を撮りまくったらしいのだ。それには私の幼なかりしころの蛮行の数々が克明に記録されている。
ごめんね、五郎
一番古いアルバムを開くと、しょっぱなに登場するのが、路地に猫を連れ込み、その上に馬乗りになって片手を上げ、ゲヘヘと笑っている一歳の私。次は近所の五郎ちゃんの髪の毛をひっぱって泣かしている二歳の私。これまた五郎ちゃんの臀部《でんぶ》に蹴りを入れている私、等々、とても人様にはお見せできないシロモノばかりである。これは私のマル秘アルバムとして門外不出にしておこうという無言の了解が親となされていたのである。ところが先日、酔狂な編集者がやってきて、私の幼年時代の写真を貸してくれという。私はタジタジとなって「実家にあるので、捜してみてもし使えそうなのがあれば貸します」といっておいた。そして三年ぶりに、バスで十五分の距離にある実家に戻り、アルバムのページをめくっていると、うちの親子四人で一緒に撮った写真があった。弟が生まれてすぐ撮ったもので、赤ん坊の弟はスヤスヤと寝ているが、父も母も私もニコニコと笑っている。一見幸せそのものの家族である。それから十八年後に夫婦別れするとは、このとき誰が想像したであろうか、としばし私は感慨にふけった。
私はアルバムの中から人様にお見せできる、数少ない恥ずかしくない写真をピックアップして、編集者に渡した。すると、彼女はそれを見るなり、ギャッギャッギャと大笑いし、涙を流しながら「昔からぜーんぜん顔が変わってないですねぇ」とのたまい、続けて「ホント、これじゃ性別がわかんないわ」というのである。私もとりあえず、「そうなんですよね、ハハハ」といいながらも、やはり門外不出の掟《おきて》は守るべきだったと悔やんだのである。
月曜日から金曜日までの朝九時五十五分から十時までの五分間、フジテレビで放送している「一枚の写真」という短い番組がある。有名人が自分のアルバムの中から、文字どおり一枚の写真を選んで、それについて話をするのだが、彼らの意外な過去が判明して、笑ったりジーンとしたりする番組である。先日は、ある女優さんが小さな人形を抱いてゴールデン・ゲート・ブリッジを背にしている写真を紹介していた。その写真だけを見ると、単なる海外旅行の記念スナップなのだが、やはりそこには「一枚の写真」たる理由があった。彼女は十年以上前に、最初の子供である女の子を九カ月で死産してしまった。小さなお骨《こつ》となった娘を家に連れて帰ったその夜、御主人と一緒に、赤い靴下で作ったのが、その小さな人形なのだった。彼女は、「はじめての海外旅行だったので、娘も一緒につれていって記念の写真を撮りました」といっていた。その話をきいてから、もう一度画面に映ったその写真を見ると、まさに「人に歴史あり」という思いがふつふつとわいてきた。撮ることに意味がある写真、ただ無邪気に撮ってしまって、あとで深い意味が出てくる写真などいろいろあるが、やはり写真が苦手の私としては、写真って奥が深くて恐ろしいものだなあとつくづく思ったのである。
酒が飲めないから男ができない? フンッ!
私は酒が飲めない。そのために酒飲みにどれだけあれやこれやと、ウルサイことをいわれたかを思い出すと腹が立ってくる。まず、「酒の飲めない人間は信用できない」という御意見。私はそれを聞きながら、腹の中で「おまえなんかに信用されなくたっていいわい」とムッとした覚えがある。「飲んでいるときに、シラフの人間がいるとしらける」というのもでた。そこまでいわれて、私は酒場にへらへらくっついていくほど、お人好しじゃないので、酒の上でのおつきあいは無くなった。「酒が飲めないから男ができない」。これについては、一理あるかもしれぬ。学生時代、どれだけコンパやスナックで男と女がくっついたり離れたりしたことか。女が酔ってしまって、男にしなだれかかれば「ニャンニャンをOKしたも同じ」という暗黙の了解があった。クラスの女たちが、ぐふんぐふんといいながら、男に体をささえられてアパートに送られていく横を、私はちっこい目をしっかと見開いて、「私は酔ってませんから送ってくれないでいいです!」とキッパリと宣言して帰った。中には陰で「お高くとまっている」と私のことをいっていた男もいたらしいが、簡単に男にぐふんぐふんいう女のほうがバカなので、そういうアホ男は無視した。だいたい「酒の上での〇〇〇〇」は、〇〇〇〇が何であっても、なあなあで許されてしまうところが嫌である。肝心なことは酒ヌキでやるべきであると思っておるから、別に飲めないために男ができなくてもかまわないのだ。
酒飲みに陰陽のタイプ
で、下戸から逆襲させてもらうと、一番困るのは他人に迷惑をかける酔っぱらいである。一緒にいて楽しいのならいいが、突然怒り出したり、からんだり、尻をさわられたりすると、下戸は困惑するのだ。「昼間のあの人の姿はいったい何なの?」という疑問がわいてくるのである。
あるとき、終電に近い時間帯の電車に乗っていたら、スーツ姿の中年男が真赤な顔をして酒臭い息を吐きながら、そばに立っていた大学生の男の子のグループにむかって、しつこく説教をしていた。そこへ乗ってきたのが、人品卑しからぬ紳士。彼はどういうわけか、革のカバンをひしと胸にかき抱き、大声で「浜辺の歌」を歌いながらワルツのステップを踏みはじめたのである。私は陰と陽の二つのタイプを眺めながら、「この事実を知ったらば、家族はいったいどう思うだろうか」とおかしくてたまらなかった。
私の友人の超美人にも酒乱がいた。女子大に通っていた彼女は、某国立大学の学生と合コンをした。今までニコニコして酒を飲んでいた彼女が、突然目の前にあった氷を左手でわしづかみにし、隣りに座って歓談していた男の子の髪の毛を右手でちぎれんばかりに引っぱって、「これでもくらえ」という絶叫と共に口の中に力いっぱいねじこんだというのである。かわいそうに彼は前歯二本が折れて顔面血だらけ。あまりのことに、彼がおいおい泣き出したため、合コンはパニック状態。それ以来、その女子大との合コンは御法度《ごはつと》になったとさえいわれるくらい、ショッキングな傷害事件だったのである。しかし、当の彼女が全くそのことを覚えていないというのは恐かった。もう一人の女の子は顔色一つ変えずに、ビールを大ジョッキ十四杯飲んだ。そして、何かの拍子でジーンズのジッパーがこわれたのにもかかわらず、ハハハと笑いながら社会の窓を全開して帰っていった。しかし、次の日気がついてみたら、泥だらけになって他人の家の軒下で寝ていたというので、これもまた恐かった。下戸の私にとっては信じられない行動であった。
六月二十九日、日本テレビの「知られざる世界」で、アルコールが人間にどのような作用を及ぼすかを放送していた。アルコールがだんだんまわってくると、脳のなかで、本能的に自由な行動を司る部分の抑制が、とれてしまう。そして自分のしたことを忘れているのは、大脳のなかで記憶をひき出す海馬《かいば》≠ノまで、アルコールの作用が及んでいるからだ、ということだった。たしかにアルコールはストレスを発散させる作用があるのもわかった。きっと酒好きの人はそのために飲むのだろうが、きれいに酒を飲む人っていうのは少ない。わかっているけれど、つい度を越してしまうというケジメのない人が多いのである。そしてそういうのに限って酒グセが悪い。
それゆえ私は触らぬ神にたたりなしで、極力無意味な酒宴は避けるようにしているのである。
ホロスコープで見た「私の七不思議」
私の友人に、星占いをする人がいて、一カ月程前に私のことを占ってもらったことがある。占いの本はいろいろあれど、どうも「これだ!」と思えるものがない。しかし、友人ならば、おじょうずもいわず、正直に何でもいってくれるだろうと、彼女に私のデータを教えてホロスコープを作ってくれるようにたのんだ。
二、三日して、彼女から報告の電話が入った。こういうときって、どういうわけかドキドキしてしまう。開口一番彼女は、「あんたって、本当に面白いホロスコープしてるのね」といって、クククと笑う。面白い顔してるねと笑われる場合は、その理由が自分の目で確かめられるから、納得、反論の余地はあるが、ホロスコープの場合は、面白いといわれたって何がどうなってるのか、私には全然わからない。「えーっ、どこが面白いの? 早く教えてよ!」と電話口でわめくと、彼女は「何人ものホロスコープを作ったけどね。あんたの場合、すごく極端なんだわ」という。ホロスコープというのは、三百六十度(つまり円)の中が三十度ずつの十二の部屋に分かれていて、生まれたときの星の位置をその中に書きこんで、占うものである。彼女|曰《いわ》く、私の場合は生まれつきものすごく強運だそうである。そういえば一歩間違えば死ぬような状況を、今まで三度、ひょこっと通りぬけてきたことを考えると、それは納得できる。
あっちのほうはどう?
「とにかくね、健康と仕事と運はバッチリよ」、とまずはありがたいおことばであった。とにかく、ホロスコープの中に、この三つの意味をもつ星ががっちりと正三角形を組んでいるらしいのである。「うひひ、それでそれで」。私はとたんに気分がよくなり、今後は彼女のおことばだけを信じて生きようと思ったくらいである。「それとねぇ、女の人に影響をうけたり助けられる運命にありますね。特に母親ね!」。これまた納得できる部分は多分にある。しかし、今までの話をきいていると、肝心な問題が登場してこない。私はどの占いをやっても、男運がいいとでたためしがないのである。「先生、あっちのほうはどんなもんでしょう」。私がおそるおそるきくと、彼女は、「そうなんだよね」といまひとつ口が重い。「何よ! ハッキリいって。驚かないからさ」と再び私はわめいた。彼女がいうには、ホロスコープにおいて、金星がこのテの問題を司っており、十二の部屋のうちどこにいるか、また他の星との位置関係で判断するのだが、私の場合「何もない」という判断しかできないというのである。「えーっ、どうしてそうなの?」とあせってきくと、彼女は冷たく「だって、金星と土星がくっついてるんだもん」といい放った。ふつうは金星と土星がどの角度にあるかで判断できるのだが、私の場合くっついているので、男運がいいか悪いかどころの騒ぎではない。誰もが持っている金星が無いに等しいのである。
「どうしたら金星と土星は離れるの? 体をブルブル揺すってもダメ?」
私は泣きたくなった。
「バカね、ダメに決まってるでしょ。でも、物は考えようでさ。中には男のために仕事を失ったり、男の犠牲になって転落の一途をたどったりする女が山ほどいるんだから。あんたの場合はさっぱりしたもんよ、全然男の影響を受けないんだから。もうあんたには、この不滅の正三角形しかない! 金星はないものと思いなさい」ととどめのおことばを残して電話は切れた。私は今まで男運が悪いもんだとばかり思っていたのだが、それは男運があっての結果で、私の場合ハナから何もないので、何もないのは当然なのであった。「私の七不思議」のうちの一つが残念ながら解決したのである。
先日、何気なくテレビ東京で午後四時から放送している「レディス4」という番組を観ていたら、手相の基本的な見方を放送していた。占いの先生が「手首から月丘(小指から手首にむかって垂直に降りたところにある手のひらのふくらみ)にむかって、線が何本か出ている人は旅先でラブ・チャンスがあります」というと、女性アナウンサーがしげしげと自分の手を眺め、残念そうに「あっらー、ないわぁ」と、自分の立場を忘れた発言をしていたのが、ほほえましかった。そのほか「不倫しやすい手相」「愛情豊かな手相」などを紹介していたが、私は例の占いの結果を思い出し、「ふん、どうせ私は金星と土星がくっついてるもんね」と、どれにもあてはまらなかった我が手相をみながら、むくれていたのであった。
知ってますか? 後ろベッピン、前ビックリ
私の母親は、四十歳になるまでパーマをかけたことがなかった。だいたい私くらいの世代だと、親よりも子供のほうが背が高くて、スタイルがいいのがあたりまえだが、うちの場合はその逆だった。母親のほうがやせていて背が高く、おまけに私より八センチも足が長かった。母親が小学校の授業参観にやってくると、クラスの子たちはあとから私のそばに寄ってきて、「あんたのおかあさん、ママハハ?」ときいた。体型だけは二十代前半だった。
あるとき、母親は珍しくスーツを着て、デパートに一人ででかけた。いつもは連れていってもらえる私も弟もお留守番。もちろん父親も、じーっと母親の帰りを待っていたのである。
「ただいま」
と母親は、元気よく帰ってきた。垂らした髪の毛をバッサバッサと揺らしながらとても機嫌がいい。どうしたのかなあと思っていたら、晩御飯のときに、彼女はギャハハと笑いながら、「あたしねーえ、きょう男の人に声かけられちゃった」といった。おはしを持って一心不乱に飯を喰っていた私たち三人は、「はっ?」といって母親の顔をみた。
「うしろから肩を叩かれてね、お茶飲みませんかっていわれたの。ふりむいたら、その人、すみませんっていって、いっちゃったんだけど。大学生みたいな人だったのよ」
私と弟は何といっていいかわからず、おはしを右手に持ったまま、ボーッとしていた。父のまわりだけが異常な雰囲気であった。しばらく彼はぬたをつっつきまわしていたが、突然大きな声で、「このバカッたれが! 正面から男がやってきてそういったのならともかく、うしろから声をかけてきてふりかえったとたんに逃げたなんて、みっともないと思わないのか! おまえみたいなのを、後ろベッピン、前ビックリ≠チていうんだ!!」と叫んで、家を出てどこかへ行ってしまった。
再び私と弟はボーッとしていた。母親はといえば、恥ずかしそうな顔をして、「いやーね。ヤキモチなんかやいちゃってさ」などといっている。私は子供心に、そういう問題ではないと思ったが、この場合はおとなしく、メシの続きを喰ったほうが、円満におさまるような気がして、ポリポリとたくあんをかじった。
それから私の家では、母親のアダ名は後ろベッピン、前ビックリ≠ノなった。
大学時代には「サギ娘」というアダ名の子がいた。彼女は日本人とは思えないほどスタイルがよかった。特に足がきれいで太さといい長さといい、申し分なかった。もちろん彼女の後ろ姿をみて、発情した男子学生が何もしないはずはない。あわてて追っかけていって、声をかけようとしたとたん、ラグビーの大八木選手にそっくりの顔を見て思わず「サギだ!!」といいたくなる、というのでだまされた男子学生の間で、秘かに「サギ娘」と呼ばれていたのであった。
尻カボチャにビックリ
このように、後ろ姿は自分でみられないだけに、他人にどういう印象を与えているか、などと思うと家の中から出られなくなる。先日、ギャザースカートをはいて鏡の前に後ろむきに立ち、首だけひねって見てみたら、想像以上におのれの尻がでかいのでびっくりした。まるでカボチャをはいてるみたいにでかかった。びっくりしたあとガックリした。
月曜日の深夜、テレビ朝日で放送している「グッドモーニング」という番組がある。かつては、この番組から出た深夜のアイドル、オナッターズの「恋のパッキン」を唱和し、そのあと、水島裕子と「てんぱいぽんちん体操」をやれば、原稿書きのいい気分転換になったが、昼型に切りかえた今は、寝る前のいこいの番組になった。
この中に時たま放送される「バックシャン・ハンティング」というコーナーがある。中村ゆうじが道行く女性の後ろ姿を見て声をかけ、美人だったら「お茶飲みませんか」、まあまあだったら「いま何時ですか」。それ以外は「人違いでした」といって足早に去るのだが、後ろベッピン、前ビックリ≠竍サギ娘≠ヘ数が少ない。やっぱり前ビックリの人は、後ろもビックリなのである。
私も尻はカボチャだし、足は短いし、後ろ姿が何とかならないかと思ったこともあったが、最近では、「こればっかりはどうしようもない。そんなことまで、気にしていられるか」とひらきなおってしまうようになった。
そんなことを考えているうちに、だんだん尻の肉は下に落ち、オバさん体型になっていくんだろうなあ、とおびえている今日このごろである。
洗濯≠ナ諦めた野球部マネージャーの座
高校野球の放送を観ていて、いつも思うのだが、プレイしている選手たちはともかく、炎天下声を嗄《か》らして応援している人々のパワーがすごい。会社に「息子がでてるから」と断わって、休暇をもらって、必死に応援しているお父さん。一族郎党、あつらえたおそろいのTシャツに身をかため、メガホン片手に声援をおくるお母さん。まあこれは、ありがたい親の姿である。
よく、地方予選をどんどん勝ち抜いて、気がついてみたら甲子園に出場することになってしまったチームが、急遽《きゆうきよ》チアガールを募集したり、応援団をつくったりした、という話を耳にするが、彼女たちもたいへんである。衆目のなか、ミニスカートをはき、助平なカメラマンと闘い、シミやそばかすが山ほどできそうなギンギンの日差しをあびて、汗だくになって応援しなければならない。勝てばその苦労もむくわれるが、敗ければハイ、さようなら。まわりの女の子や、野球部の女子マネージャーとひしと抱き合い、おいおいと泣くしかないのである。まさに無償の愛である。
直立不動の人
実は高校時代に野球部のマネージャーになろうと志願したことがある。たった一度しかない青春を、ナインと一緒に笑ったり泣いたりして、謳歌《おうか》したかったから、というのはウソで、手っ取り早く彼氏をみつけるには、男の集団のなかに身を置くこと。それには野球部の女子マネージャーになるのがいちばん、とふんだからである。
放課後、校庭の隅で練習している野球部のところにいった。そこには、直立不動でじっとしている三年生の女子マネージャーの姿があった。
うちの高校の野球部は、あってないも同然のクラスで、ただ野球が好きな男の子が、楽しんで球を打ったり投げたりという程度のものだった。女の子にも全然人気がなくて、その三年生のマネージャーが卒業してしまうと、あとをつぐ女の子はいなくなってしまうのである。そこへ私が、しゃしゃり出ようとしたのであった。
「あの、マネージャーをやりたいんですけど」と、おそるおそる彼女にいってみた。
「あら、そうですか」。彼女は落ち着いた声でいった。高校生とは思えない、おばさんっぽい雰囲気の人であった。そして、直立不動の姿勢のまま、女子マネージャーの仕事とはなにかを説明した。必ず練習には顔をだし、スコアブックをつけること。練習が終わったらユニフォームの洗濯をすること。部費の管理をすること。そのほか、山のように「しなければならないこと」を聞いたが忘れてしまった。これだけのことをやって、彼氏をつかまえるヒマなんかあるかしら、と心配になった。
彼女は、額に汗していつまでも立ちつくしていた。「椅子に座らないんですか」ときいたらば、「彼らがあれだけ一生懸命練習をしているのに、座れるわけないでしょう。終わるまで、じっと待っているのが、マネージャーの務めです」と、ものすごい顔でにらまれてしまった。
ともかく私は、マネージャーに志願したわけだから、その日は彼女にくっついて、具体的に仕事がどういうものか見学させてもらった。練習が終わると彼らは、汗とホコリと砂にまみれた、ばばっちいユニフォームを団子状にまるめて、カゴの中にほうりこんだ。全部で十四人分あった。それを、彼女は、嬉々として洗濯している。「どうして、女子マネージャーが、洗濯しなくちゃいけないんですかぁ」ときくと、「こういうことは昔から決まっているのです」と、彼女はおごそかに答えるのだった。
私は寝る前、布団の上にアグラをかいて、女子マネージャーをやるか否か真剣に悩んだ。
「直立不動の姿勢のままでじっと耐え、山のような洗濯をしたあげくに男がついてくる可能性」と「家に帰って好きなことをやって、彼氏ができるのは、なりゆきにまかせる」のと、どっちにしようか考えあぐねたが、やっぱりマネージャーは、私の性格に合わないと判断し、この際「男」はあきらめることにしたのである。次の日、その旨伝えても、彼女は「そうですか」と、静かにいっただけだった。
その後、校内文集で彼女が書いた「美しい黄昏《たそがれ》」という題の詩を読んで、私は納得した。それは、「あなたがたが、汗を流して白球を追っている、若者らしい姿は何ものにもかえがたい」と、ロマンチックに賛美している。こういう人でないと、やはりマネージャーは務まらない。
私は彼らのためにも、自分のためにも、マネージャーをやらなくて本当によかった、と心から思ったのである。
土曜の深夜は「日本映画名作劇場」
私が最近気にいっている番組に、テレビ東京の土曜日、深夜零時十五分から放送されている「日本映画名作劇場」がある。この番組は、私が生まれる前の邦画を観せてくれることが多いので、いろいろな発見があって誠に面白い。邦画に詳しい人だと、「あの大事なシーンをカットしている」とか「こんな映画は名作ではない」と、文句も出るのだろうが、そういうことは、私にとっては関係ないのである。
八月二十三日に放送された「安城家の舞踏会」で、生まれて初めて、動く「原節子」を観た。「そうか、この人が永遠の処女か……」と、私は布団の上にひっくりかえって、画面を凝視していた。安城家という華族の没落をテーマにしたストーリーで、もと運転手で、今は事業に成功している男(神田隆)に家を買われることになって、落胆する父親(滝沢修)や出戻りの姉(逢初夢子)を励まして、明るく健気に生きる末っ子が、原節子である。華族としての最後の記念の舞踏会を開き、そこに父親のお妾《めかけ》さんまで呼んであげるという優しい乙女なのである。当時、彼女は何歳だか知らないが、気品があって役柄にはピッタリだった。そして早口で喋りまくる今風のセリフとは違い、あまりにゆっくり、のんびり、はっきり話しているのには、時代の差を感じてしまった。
子泣きジジイと共演
原節子の姿を観たのも感動したが、それと同じくらいジーンとしたのが、神田隆の姿を初めて観たことであった。私は彼が亡くなったことを新聞記事で知ったが、普通の死亡記事ではなく、けっこう大きく扱われていたので、「この人は、昔、活躍した俳優さんなんだな」と思っていた。映画の中の彼は、優男《やさおとこ》ふうではなく、明るくて健康的などちらかというと、スポーツマンタイプの男性であった。
「そうか、この人がこのあいだ亡くなったわけね」と私は、若かりし頃の彼の姿を観て感無量であった。ところが、それから一週間もたたないうちに、私はもっと年配になった彼の姿を観た。仕事がらみで「妖怪大戦争」という、一九六八年製作の映画のビデオ版を観たのだが、偶然それに出演しておられた。バビロニアの妖怪《ようかい》「ダイモン」にのりうつられる、情け深い代官様という役柄であった。屋敷の池に棲《す》みついているカッパや、日本の妖怪がそれを知り、ダイモンと闘って勝利をおさめる、というお話で、なかなかおもしろかった。しかし、かつてはパリッと背広を着こなしてスクリーンに登場した彼も、仕事とあれば子泣きジジイやカッパと、共演しなければならないのである。俳優という仕事もなかなか大変だったようである。
そのほかこの番組では、今でも活躍している女優や俳優の、若い日の姿を観ることができる。八月三十日は、一九五三年製作、徳田秋声原作の「縮図」が放送された。貧しいために、芸者に売られてしまった銀子という女の半生記である。出演者のなかには、山田五十鈴、逢初夢子、奈良岡朋子の名前があった。主演は乙羽信子である。一番最初に、ゆでたまごみたいにつるつるした顔に、おさげ髪の乙羽信子がでてきたときはビックリしたが、初々しくてかわいい。山田五十鈴はヒステリックな芸者置屋のおかあさんで、今みたいにふっくらゆったり、という雰囲気ではなくて、典型的なうりざね顔の細面美人であった。「安城家の舞踏会」では、華族の出戻り娘を演じ、イブニング・ドレスを着て優雅に歩いていた逢初夢子も、「縮図」では育ちのよろしくない芸者役であったが、両極端の役をそれなりに、こなしていた。小沢昭一がでてる、と思ったら、若い頃の芦田伸介だったりして、これにもビックリした。
なかでも、私が一番親しみがあったのは、奈良岡朋子である。ところが、どんな役ででてくるか楽しみにしていたのに、映画がおわってもどこにいたのか全然わからない。おかしいな、と思ってビデオをまわしてみると、何人もいる芸者の中の、芸者Cといった役どころで、セリフも「やらせ、やらせ」というだけ。今やベテランといわれている女優も、最初はその程度のことしかやらせてもらえなかったわけである。ヘタをすると、おばさん女優は、「いただきます」にでてる面白い人ぐらいにしか、みられないこともありうる。永いこと業界で生き残ってきた間には、いろいろなことをしてきたはずである。私はそれが知りたい。
だから自分でも暗いなあと感じつつ、土曜の深夜たったひとりで、モノクロの画像がちらつく映画をみているのである。
ミル69! ベレンコ中尉もこれみてデレンコ!!
先日、TBSで放送している「情報デスクToday」を観ていたら、かつてミグ25に乗って、函館空港に着陸し、その後アメリカに亡命した、ベレンコ中尉が出ていた。メイン・キャスターの秋元秀雄氏がアメリカに行き、彼のインタビューをしていたのである。私はべつに、ベレンコ中尉とはお友達でも何でもないが、私たち家族にとっては忘れられない名前である。
この話は、私の一冊目の本にも書いたのだが、「ベレンコ中尉亡命事件」が起こった直後、私は高田馬場を歩いていた。学校の成績はだんだん落ちるわ、六年間別居していた両親は離婚するわ、浪人の弟は脚気《かつけ》になるわで、二十歳すぎの乙女だというのに、明るく楽しいことなど、なーんにもなかった。
いまひとつ気分が盛りあがらないまま、駅前をブラブラしていたら、あるストリップ劇場の看板が目にはいった。それには、でかでかと、「ミル69! ベレンコ中尉もこれみてデレンコ!!」とかいてあった。私は人目もはばからずガッハッハと笑ってしまい、この面白い看板のことを、脚気の弟や、必死に働いている母親に教えてやろうと、急いで家に帰った。
ところが家には誰もいなかった。早く誰か帰ってこぬかとイライラして待っていたら、のそーっと脚気の弟が帰ってきた。
離婚の母も大笑い
私はニコニコ笑いながら弟に、「今日、面白い看板をみたぞ」といった。すると彼は「ふーん」といったきり、自分の部屋に入ってしまった。私はムッとして部屋のフスマを叩き、もう一度、「あのなあ」とトライしてみた。ところが「うるさいなあ。ボク、勉強しなきゃならないんだから、ほっといてよ」と冷たい。「よーし、わかった。聞きたくないヤツには話さない」と、私は母親の帰りを待った。
しばらくすると、髪の毛を振り乱して母親が帰ってきた。私はすぐさま彼女の手をとって、にじり寄り、「ねえねえ、面白い話があるんだけどさあ。聞きたい?」といった。予想どおり母親は「うん! 聞きたい」というので、「ミル69……」の話をしてやった。すると、これが想像以上に受け、あんなに邪険にした脚気の弟までが、フスマのむこうで「ひゃっひゃっひゃ」と笑っているのである。
それからは、テレビでベレンコ中尉の名前を耳にするたびに、私たちは、「ベレンコ中尉もこれみてデレンコー!!」とわめき、わっはっはと笑った。彼の名前のおかげで、離婚直後の母子家庭に明るい笑い声がよみがえったのである。
もちろん当のベレンコ中尉はそんなことを知るよしもなく、アメリカで宇宙航空産業の仕事に就いて、元気に暮らしていた。おぼろげな記憶では、当時のベレンコ中尉は、やせて神経質そうな感じがしたが、インタビューに答えている彼は、丸々とした柔和な顔をした人で、坊っちゃん刈りのジャック・ニクラウスといった容貌であった。暗さなどみじんもない、明るいおじさんだった。新しい名前を使って、世界中を旅行しているといっていたから、今回は特別、「ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ」という昔の名前で、出ていたわけである。
この亡命事件が起こったとき、私は母親や弟と「こんなことしたって、KGBにつかまって、連れ戻されるか、ヘタすれば殺されちゃうよ」などといっていたのだ。しかし、ハンバーガー太りした典型的アメリカ人といった姿になり、結婚もして子供も二人いる、などときくと、「この人、本当に本人かしら」と、そこまで疑りたくなってしまう。しかし彼が「私がベレンコです」といっているのだから、本人なのだろう。
ソ連という国もよくわからないし、アメリカもどうでもいい情報だけ流して、肝心のことはしっかり隠しているはずだ。両方とも一筋縄ではいかない国である。その間をブーンと飛んでしまった彼は、「アメリカには無事到着したが、その後行方不明になった」といわれたほうが納得できるのである。ソ連の元空軍中尉が、今まで無事に暮らしていることのほうが、不思議だった。
彼は「アメリカでは有名人ではなく、普通の人でいい」と話し、「ソ連は、まるで強制収容所のようだった」などとソ連の批判はするが、「アメリカでの生活は安全で、夢のようだ」という。彼がそういうたびに、誰かに「そう言え」と、指示されているのではないか、と勘繰りたくなってしまうのだ。
結局は、具体的な彼の生活については明らかにされず、アメリカにいって、デレンコしている姿だけが映しだされていたのであった。
一に洗濯、二に掃除、三、四がなくて五に料理……
私は料理が苦手である。一人暮らしをはじめて、一番困ったのは料理である。私の好きな家事のランキングは、第一位が洗濯。これに関しては異常な執着をもち、洗濯して干してみて、汚れが落ちてないと、すぐまた洗う、ということをくりかえしたこともある。白いものは真白くないと気がすまない。シミが一つついても逆上して、やっきになってシミ抜きをしてしまうのである。
でも、今は洗濯機があるからいいが、一人暮らしをした当初は、電話も洗濯機もなかった。タライを買ってきて、シコシコと手で洗っていると、いつまでたっても汚れが落ちないような気がした。あまりに必死にやりすぎて、手のひらの皮がムケてしまい、それを目ざとく見つけた友だちに、「水虫?」などといわれて、腹を立てた覚えがある。
今でも西によい柔軟剤があるときけば試し、東に真白く仕上がるアメリカ製の洗剤があるときくと、早速でかけていって購入する、といった具合で、洗濯に関しては、「洗剤」「洗いかた」「干し方」にまで、しつこくこだわっているのである。
一位の洗濯から、やや落ちて二位は掃除である。どうせ一人暮らしだから、汚れても我慢すればいいのだから、ホコリに関しても鷹揚《おうよう》である。毎日するのは面倒くさいので、目についたところをコチョコチョとやるだけ。二週間に一回の割で、突然、
「よーし、きょうは家中ピッカピカにしてやるぞー」
という気分がムクムクと頭をもたげてくる。そのときに、三角巾で頭をおおい、袖付きエプロンにゴム手袋という、お掃除スタイルで、全部まとめてやってしまうのである。蛇口の汚れ、洗面所の黒ズミまで、古ハブラシを使って、きれいにする。そして、どこもかしこもピッカピカになると、
「ざまーみろ。こんなにきれいにしてやった。ワッハッハ」
と、誰にいうわけでもないのに、ガオーッと天にむかって吠えるのである。
で、問題の料理であるが、これは、一位と二位からズドーンと、相当下がった位置にある。なにしろ一人暮らしをはじめたとき、何を作っていいか頭に浮かばないのである。そのせいか一週間で二キロ、やせてしまった。それからは手あたりしだいに本を買いまくり、あれこれ研究してみたが、基本的に料理のセンスがないから、どうもうまくいかない。おまけに、良い鍋を持っていれば、おいしい料理が作れる、という誤解をしていたため、家には結構上等な鍋が揃っている。しかし、実力が全くともなわず、何万円もする鍋を前にして、点目になってボーッとしている始末なのである。
見事なまでの、鍋のもち腐れなのだが、私の料理を食べた友人は、
「料理はヘタだけど、鍋だけはよく磨いてあるね」
という。皿洗いや跡始末はいくらでもするから、毎日料理を作ってくれる人がいたら、どんなにいいか、と思っている。
穴うめ番組もまた楽し
これだけ料理の才能がないと、料理をテキパキ作れる人をみると、ただただ尊敬してしまう。だから、料理番組を観るのは好きである。ニンジンやジャガイモが、ちゃんとした料理になるのを観ると、人ごとながらうれしくなり、
「わー、すごい」
とテレビの前で、パチパチと拍手なんかしちゃったりするのである。
しかし、数ある料理番組のなかで、グラハム・カーが出演する「世界の料理ショー」を観たときは、本当にビックリした。清潔第一の日本の料理番組とは違い、ベロベロとなめた指で盛りつけはするわ、ワインを飲みながら片手間で鍋をかきまわすわで、あの適当さは私と相通ずるものがあって、うれしくなった。そして、まず自分が試食してうっとりしてしまう、というところも図々しくてよろしい。
一番最初にこの番組を観たのは、十何年も前のような気がする。知らないうちに番組が始まり、知らないうちに終了している、その繰りかえしという不思議な番組でもある。
出演しているグラハム・カーも、私が最初に観たときから、全然歳をとっていないようにみえる。今は、テレビ東京で昼間十二時から十二時半まで、「笑っていいとも!」のテレフォン・ショッキングの裏番組として、がんばっている。
唐突に番組が始まり、唐突に終了するということは、テレビ東京の番組編成における「穴うめ番組」なのかもしれないが、料理が苦手の私にも、固苦しく考えないで、「適当にやっても料理が作れる」気にさせてくれる、楽しい番組なのである。
今年こそはの語学修得♀yして最大の効果をあげるには?
私は人生に何の目的も持っていない女であるが、これだけは何とかしたい、と思っていることに「語学の修得」がある。毎年四月に新しくNHKの英語会話の講座が始まると、「よし、今年こそはガンバルぞ!」と、カセットテープやテキストを買いこむ。フランス語にも手を出した。そして今年はスペインに行って、みごとにスペインかぶれしたため、スペイン語のテキストやテープまで買いこんで、それなりに努力はしているのだが、今のところ何の役にもたってない。二兎を追うどころか、三兎を追ってすべてを取り逃がしているのである。
考えてみれば、中・高・大と英語は十年間、フランス語は大学のときの第一外国語だったので、英語よりもみっちりやらされたが、習ったことはすべて頭の中をみごとに通過している。これだけやれば、ペラペラとまではいかなくとも、ペラぐらいは喋れたっていいじゃないか、と自分に対してムカッとするのである。
私の友だちの母上は、英語のテキストを丸暗記しようとつとめ、外国人の客が来るわけでもないのに、ここ十年間ずーっと「プリーズ・テイク・オフ・ユア・コート」のフレーズから抜け出られず、ブツブツと念仏のように唱え続けている。まじめな完璧主義なので、ひとつのフレーズが覚えられるまで次に進まない。歳をとってますます物覚えが悪くなってきたために、友人は「きっと母親の英語の修得は、プリーズ・テイク・オフ・ユア・コートで終わりであろう」と、冷たく判断を下しているのである。
英語に英語のスーパー
私は中学校のときの、英語の教師が大嫌いだったので、学校の勉強は全然しなかった。その教師は、英語の点数のいい子にはニタニタと笑いながら酒臭い息を吐いてにじり寄ってくるとんでもない奴だったので、私は極力点数をとらないようにしていた。しかし、英語そのものは好きで、家の近所の上智大学の神学校の神父さんのところに教えてもらいにいったりしていた。一生懸命、「トムとスージー」のお話を教えてくれた神父さんの努力もむなしく、いまだに私は、中学一、二年くらいの語学力しかないのではないかと思っている。
先日、「おはようCNN」を観ていたら、日本の小学生の学校生活のレポートを放送していて、小学校の先生にインタビューをしていた。さすが先生は英語で答えていたのだが、驚いたのは画面に先生が話していることばどおりに英文のスーパーインポーズが出てきたことであった。たしかに英語の発音とはほど遠く、日本人によくわかる発音ではあった。きっとCNNの担当者はそれを本国で放送するときに、「こんな発音じゃ、何いってるか、わかんないだろうなぁ」、と、スーパーを入れたのであろう。英語を喋っているのに、英語のスーパーインポーズが出ているのを、私ははじめて観た。
「学校の先生だって、あの程度なんだ」、と私は少しホッとしたが、こんなことで気をゆるめていると、いつまでたっても語学の進歩は望めないのである。なるべく楽をして最大の効果をあげたい私は、まずテレビ番組の副音声を利用することにした。
二週間程前から、「マイアミ・バイス」が始まり、前々から楽しみにしていた私は、英語の副音声に切り換えて、耳をダンボのようにして、じーっと画面を凝視していた。しかし、あれよあれよという間に、お話はどんどん進み、何が何だかわからないうちに、次回のお知らせが出てしまう。
「うーむ」と考えこんでいたら、次に「ファミリー・タイズ」というマイケル・J・フォックスが出てくるドラマが流れてきた。「マイアミ・バイス」が刑事ものであるのに対して、「ファミリー・タイズ」のほうはタイトルどおり、家族の会話が主なので、まだわかり易い。
ところが、この番組、公開番組にしているのか、笑い声の効果音をいれているのかわからないが、面白いシーンになると、「ワッハッハ」という笑い声が入る。これが困る。私も一緒になって、明るく「ワッハッハ」と笑えればよいが、何をいってるかよくわからないから、テレビの前で、ボーッとしているだけ。耳をダンボにして、ヒヤリングしている最中に「ワッハッハ」とやられると、「何がおかしい」、とムッとしてしまうのだ。
「よし! 今に見ていろ。絶対に、面白いときには笑えるようになってやる」
今の私にはこの怒りが、語学修得のエネルギーになっているのである。
回してうんざりおニャン子・チャンネル
知り合いの、小学校六年生担任の先生に、今の小学生の話をきいて、ビックリした。彼女のクラスに、異常にモテる女の子がいる。私が小学生のころの同級生にもいたが、たかだか十一、二歳だというのに、妙に色っぽいタイプである。そして、隣りのクラスにも、これまた異常にモテる男の子がいる。同じクラスの女の子たちからは、バレンタイン・デー、クリスマス、誕生日と、事あるごとに貢ぎ物を山のようにもらう。しかし、そういうおっかけ少女たちには目もくれず、彼は色っぽい美少女となんとか接点を持とうと、ヒマさえあれば隣りのクラスからやってきて、熱い視線を彼女に浴びせていたのである。ところが、あるときそれが発覚し、おっかけ少女たちは騒然となった。
ま、ここまではよくある話で、私にも覚えがある。自分の好きな男の子に、好きな女の子がいると知ったときの、あの驚き。そして、学校の廊下を忍者みたいに、つつつっと歩き、相手の女の子がどんな子か、そっと偵察し、明らかに勝ち目はないと悟った日。それなのに、自分にすり寄ってくる、かさぶたや、鼻タレの男の子は、シッシッと追っぱらっていたのである。
私たちがありながら
私は自分の想いが、かなわぬこととわかると、この事実を忘れよう、忘れようとつとめ、きっとそのうち、もっといいのが出てくるに違いない、と自分自身にいいきかせた。
ところが、今の女の子の行動は、全く違っていた。ふられた女の子たちは、一致団結し、「私たちという、同じクラスの女がありながら、隣りのクラスの女を好きになるなんて、許せない」と、ヒステリックに泣きわめき、「彼ときちんと話し合える場を作ってくれ」と、担任の若い男の先生に直訴した、というのである。いわれた先生は、ただオロオロするばかりで、仕方なく、惚《ほ》れられた女の子の担任である、私の知り合いの先生も、一緒にその事件にかかわることになってしまった。
先生二人と、惚れた男を前にして、彼女たちは、「隣りのクラスの女の子のところばかりいかないで、少しは私たちとも遊んで下さい」と、たのんだ。担任が、「キミ、どうするかね」とたずねると、その男の子は「ボクも悪かった。これからは君たちとも遊びます」と、平然と答えたというのである。先生たちもホッとし、これで一件落着かと思いきや、また一騒動が起こった。この事件の直後に行なわれた移動教室で、夜中に彼女たちが彼のいる部屋に集団でおしかけ、彼のパンツを脱がしてイタズラした、というのである。
「もう、私、頭が痛いわよ」
と、担任の彼女は嘆いていたが、私もこの話をきいて、おかしいやらビックリするやらで、複雑な気持ちになった。
いったい彼らは、どういう思考回路をもっているのか、と、テレビ朝日で木曜日に放送されている「鶴太郎の大人によくないテレビ」を観てみたら、これは子供向け夕やけニャンニャンみたいな番組だった。夕やけニャンニャンの司会ぶりをかわれた片岡鶴太郎と、オールナイト・フジの司会ぶりをかわれた松本伊代ちゃんが、ただスタジオに素人を集めてワイワイやるという番組に、慣れているだろう、というだけで、つれてこられたというかんじがする。
私はもともと子供が嫌いだから、スタジオにあれだけの人数の子供がいて、ワイワイ、キャーキャーやられたら、すぐ気分が悪くなってしまうが、鶴太郎はその点、ソツなく子供たちと応対している。しかし、伊代ちゃんのほうは、いまひとつ対処のしかたがわからず、マイクを持っていても、腰が逃げているのが、おかしい。
秋のスーパースポーツシリーズ第3弾というタイトルで、男の子五人で争われる「ティッシュ早どりレース」、十九歳のお姉さんの彼氏を捜す「恋人あてクイズ」。ミス読売ランドに、どの女の子が選ばれるかを子供たちが予想したものの、予想がハズれてムッとしたのか、ミスに選ばれた女の子のVTRを観て、
「あんなデブより、あっちの女の子のほうがいいよぉ」
とわめき散らす始末。ひとつところに火がつくと、あっというまに燃え広がる冬場の山火事みたいな騒ぎで、「まあ、元気でいいこと」などと、おおらかな気持ちで子供を見ることができない私は、「あー、うるさい、うるさい」、とチャンネルを回してしまった。
いくら仕事とはいえ、子供の相手をする鶴太郎と伊代ちゃんには、私が絶対できないことをしているという点で頭が下がる。この番組をみて、「やっぱり私は、子供が嫌いなんだ」と、再確認したのであった。
陳腐な仲良しクラブ「テーマはおんな」
秋口から、いろいろな新番組が始まる、という予告はあったが、「これは面白そうだ」と思わせるものは少なかった。しかしその中で、テレビ朝日で始まる「テーマはおんな」には、非常に興味があって、早く始まらないかと楽しみに待っていた。
久和ひとみ、秋野暢子、山村美智子、という三人のレギュラーの人選と、制作スタッフも女性がほとんど、ということだったので、今までにはなかった、「何か」があるのではないかと期待していたのである。
十月三十日、木曜日、夜八時が、第一回目の放送であった。この時間、いつも私は「世界まるごとHOWマッチ」を観ていた。そのうえ、この日から「アメリカ横断ウルトラクイズ」まで始まってしまい、ビデオの裏番組録画をつかっても、おっつかないこの現実をどうしようか、と悩んだ。結局「ウルトラクイズ」は、きっと土曜日の昼間に再放送するだろうとニラんで観るのはやめ、「HOWマッチ」を録画して、チャンネルを10に回したのである。
観終わって、私は非常にガッカリした。あまりに期待が大きすぎたのかもしれないが、「こんな事、いまさらテレビをつかってやることないんじゃないの」と思うことばかりなのである。
「ふーん」で終わり
第一回のテーマは「いい女」であった。まずこのテーマで、ちょっぴりガッカリした。女が集まって、何かをやらかそうとすると、まずいちばんに頭に浮かぶのは、まだこういうことなのか、とうんざりした。それでも中身は濃いのではないかと、私はしつこく期待したわけである。
外国ではこのような女性だけの番組がある、という話が最初にあり、「いい女」とは何かという追求が始まった。東京とニューヨークの女性が、自分の周りにいるいい女をリレー式に紹介していくコーナーや、男と女にきいた「いい女の条件ベスト10」なんていうのがあったが、何かやってくれそうだと思ったレギュラーの三人の口から出るのは、「内面からにじみでる美しさ」なんていう、使い古された言葉ばかり。ただ、そのなかで山村美智子が、
「私は、結婚すればいい女になれると思って結婚したの」
といった発言は、私と考え方が違うからとても興味をもった。これから話は発展するかと期待したが、それも秋野暢子と久和ひとみが放った、
「ふーん」
という、ひとことで簡単にかたづけられてしまい、誠に残念であった。
やや期待はずれに終わった一回目ではあったが、一縷《いちる》の希望をもって二回目も観た。このときも、裏番組の処理が大変であった。「ウルトラクイズ」「HOWマッチ」に加え、教育テレビの「国際共同制作、禅の世界」が加わってしまった。そのため友だちに電話して、教育テレビをビデオにとっておいてくれるようにと、手配したのである。
二回目のテーマは「下着」で、これまたガッカリした。私は「いい女」にもなりたいし、「下着」も好きだけれど、いまさらそんなことをテレビで観たいとは思わない。巷の女性週刊誌や雑誌で、そのたぐいの情報は、腐るほどあるはずだからだ。まあ、女の興味の最大公約数を集めたものが女性週刊誌であるから、そのセンを狙えば、視聴率が取れるとふんだのかもしれないが、週刊誌のカラーグラビアが動いたような内容ではしょうがない。
ゲストの春風亭小朝や野田秀樹に、好みの下着のタイプをきいて、それがいったい何になるというのか。
なかでいちばんビックリしたのは、久和ひとみが大胆にも試着室のカーテンを中から開けて、黒いスリップ姿で、唐突に画面に登場したことであった。私は彼女のCNNデイウォッチでのキャスターぶりを好ましく思っていたが、
「ああいう姿でも、カメラの前に立てる人」
とわかって、彼女を見る目が変わってしまった。ああいう姿を見せるのは、彼氏だけにしてほしかった。
この番組は、レギュラーの三人が、ひとつのテーマにたいしてもっと話し合う番組だと思っていた。それでなければ、あの人選は全く意味がない。女がただ寄り集まった、単なる楽しい仲良しクラブの番組だったら、観たくない。「女がきちんと、話し合う」ことに先鞭《せんべん》をつけるためにも、この番組には頑張ってもらいたいと思ったのだが、どうやら私の期待だおれに終わってしまうような気配が濃厚なのであった。
いい思い出だったのに今やくたばれモンキーズ
八年程前に、私が大学時代に異常に好きだった男の子と、バッタリ出くわしたことがある。結局、私はみごとに彼にふられて、ほぼ一年間立ち直れなかったのだが、卒業しても大学時代と同じ服を着ている彼の姿を四谷で見つけるなんて、想像だにしていなかった。
彼は、うつむきかげんに、トボトボと歩いてきた。私はなるべく街路樹にまぎれてしまおうと、木の陰に身をひそめ、横目でじっと様子をうかがっていた。そして陰に隠れて彼の顔をあらためて見て、愕然《がくぜん》とした。
「私があんなに好きだった男って、アレだったの?」
私のイメージの中の彼は、ニコッと笑うと歯が真白く、なかなか魅力的なオーラを放っていた青年だった。ところが私の横を通りすぎた男は、顔色悪く足どりも重く、世の中の苦悩をすべて背負っているみたいな、暗い雰囲気であった。学校を卒業して、まだ二、三年しかたっていないのに、生活に疲れたおじさんのようだったのである。
そのとき私は、
「まあ、なつかしい。でも元気がないわね。何かあったのかしら。心配だわ」
などと、みじんも思わず、
「私をふったのは、あの程度の男だったのか。あんな奴のために、一年間も立ち直れなかったなんて、バカみたい」
と、フンとしてその場を去ったのである。
「私はだまされた」
後日、私はこの話を、女友だちに話した。彼女は、
「そうなのよ。そういうことってよくあるわ」
といい、彼女の友だちの話をしてくれた。友だちは、いつも眉間《みけん》にシワを寄せている、無口で影のある渋い男が好みであった。たまたま学校の先輩に、そのタイプがいて彼女はポーッとなり、そのあこがれの君と結婚したわけである。ところが、その影のある男は、結婚するや突然豹変した。毎日はしゃぎまわる、明るくて軽い男になってしまったのである。あなたは、昔、こんな人じゃなかった、というと、彼は学生時代は金もなく、胃も悪くて、本当につらかった。ところが結婚したら、おいしいごはんは待っていれば出てくるし、パンツもきれいに洗われてタンスの中に入っている。本当に楽しくてたまらない、と答えたというのである。
「私はだまされた」と彼女は憤然としていたそうだが、やはり過度の幻想を抱くと、ろくなことがないようである。
毎週土曜と日曜の深夜に、テレビ朝日で放送されている「MTV」に、あのモンキーズが出ていた。小学生のころに、テレビで放送されていた「ザ・モンキーズ」という番組をくいいるように見つめ、LPやEPを片っぱしから買いまくった。そのうち、番組のスポンサーだった製菓会社が、お菓子の包み紙についているマークを切りとって送ると、モンキーズからのプレゼントと銘うってビーズのネックレスとか、女の子が喜びそうなものをくれることになった。私はもらった小遣いをすべてチョコレートにつぎこみ、毎週そのプレゼント欲しさに、せっせと封筒を送り続けた。しかし、いつのまにかネックレスはどこかへいってしまい、そのうえ体重は六十キロに増え、それを十二キロ減らすために、私は死ぬような努力をしたのである。
当時、圧倒的人気だったモンキーズは、「デイ・ドリーム」を歌ったのだが、好きだった男と出っくわした時と同じように、
「モンキーズって、こんなモノだったの?」
とビックリしてしまった。目がパッチリして、かわいかったディビー・ジョーンズは、シワだらけになり、全然似合わないヘアースタイルに、とんでもないピンク色のシャツを着ていた。演奏は、別の助っ人がいたためにまだ救いがあったが、歌のひどさといったらなかった。外タレであれだけ下手クソなのはめずらしい。彼らも若いころは、美貌だけで売れたが、歳をとって外見で勝負できなくなってくると、やっぱり「何か」がないと見るに耐えない。当時「モンキーズ」がいたことで、私は楽しい日々を過ごせたことは事実だけれど、やっぱり思い出はそのまま残しておきたかった。
「また人前に出てきたって、あの程度じゃ誰も喜ばないんだから、醜態をさらさないで、さっさと引っこみゃいいのに」
と、ののしってしまった。好きだった男と出くわした時といい、モンキーズに対しての暴言といい、「私ってホントに男に対して冷たい女だなあ」と思ったのであった。
いろんな番組あるけれどやっぱり私は「サザエさん」
先日、前々から欲しいと思っていた、ゲゲゲの鬼太郎のゲゲゲハウスを買った。これは、テレビのCMをみて、早速デパートにいってみたものの、その前にガキどもがいて、ゲゲゲハウスをじーっと見ているものだから、なかなか買えなかったシロモノなのである。私は子供は嫌いだが、欲しいものを買ってもらえない子供の前で、これみよがしな事はしないことにしている。だから、ゲゲゲハウスを手に入れるときも、ガキどもがいないのを見計らって買ってきたのである。
だいたい、こういうものは、一番欲しい子供時代には買ってもらえず、自分で買えるようになると、興味は薄れていくものだが、私は貧乏な子供時代に買ってもらえなかったものを、今になって買っている。弁髪のクーニャンの人形とか、ドイツの手作りの男の子の人形とか、木彫りのカバとか、ディズニーのビデオなど、手でさすっては「ひっひっひ」と、ほくそ笑んでいる。こういう気持ちをわかってくれる人ならいいのだが、そうでない人には、「いい歳して、何やってんのかしら」と、軽蔑《けいべつ》の視線をむけられるのである。
家を買ったと勘違い
念願のゲゲゲハウスを手に入れたので、このことを一緒に喜んでくれそうな女友だちに、「ゲゲゲハウスを買ったから、遊びにこない」と、電話した。すると彼女は「わあすごい」などといい、前にもうちにきたことがあるのに、
「私、場所を知らないから、駅まで迎えに来て」という。私は、少し不審に思いながらも、彼女も私の気持ちがわかるのだろうと、一人で喜んでいたのである。そして当日、彼女を駅まで迎えにいった。彼女は、
「私、とっても楽しみにしてたの。でも、すごいわねえ」と、やたらと感心している。明らかに、彼女は誤解をしているな、と思ったがそれが何だか私には分からなかった。
そして、私のアパートに連れてくると、彼女は、
「あら、まだ引っ越してないの」と、不思議そうな顔をしていう。「してないよ。どうして?」「だって電話で、家を買ったっていったじゃない」「いわないよ。そんなこと」「えーっ。じゃあ、ゲゲゲハウスって、ホンモノのゲゲゲハウス!」
彼女は私が家を買い、それを謙遜《けんそん》してゲゲゲハウスといっているのだと、勝手に勘違いしていたのである。
「私はあなたの新居が見られると思ったからこそ、この寒いなか、わざわざ埼玉の奥地からやって来たのに」と、彼女はブツブツいっている。私がいくら一反もめんや、子泣きジジイの人形を指にはめて、
「みんなで唄おう、ゲゲゲのげー」と、雰囲気を盛りあげても、目が全然笑わない。こんな事で、長年の友人関係にヒビが入ってはいけないと、私は関係修復に必死になった。もらいものの三年前の試供品のパックがあったので、それを顔に塗りたくり、台所から真白の顔で、唐突に彼女のまえに姿を現わし、「十三日の金曜日ー。ジェイソンは生きていたあ」と、やってみても、「フン」と、鼻でせせら笑われた。
これは、相当ウケるのではないかとふんだが、みごとに当てが外れ、自分でも鏡をみたらひどく情けなかった。
「三十過ぎて、よくそんな事、やっていられるわねえ」
淡々と、友だちに説教されることほど胸にこたえるものはない。
そんなふうにいわれたら、「次はデーモン小暮の、でーまんグッズを手に入れようと思ってるんだあ」などと、無邪気にいえなくなってしまった。
世の中には、いろんな番組があるが、私はいまだに「ゲゲゲの鬼太郎」と「サザエさん」は大好きだ。残念ながら今の鬼太郎は、熊倉一雄がのんびりとテーマソングを唄っていた頃の雰囲気が薄れてしまった。昔は、憎めない妖怪が出ていたのに、最近のはどうも、おどろおどろしくていけない。が、サザエさんは健在である。どうってことはない内容なのに、やっぱりすごいのである。
ろくでもないドラマを作ったり、同じような歌番組を作ったりするよりは、「チロリン村とくるみの木」「ひょっこりひょうたん島」などを、再放送してくれたほうがどれだけいいか、と思う。
「こんなことを考えたり、過去の思い出を追ったりするなんて、私はまだ幼稚なんだ」と思っていたが、実はそれが、年寄が勧善懲悪のワンパターンの時代劇のドラマを見てホッとしてしまうのと同じように、過去にあったものをみると安心してしまうという、私の老化現象の第一歩ではないかと、恐ろしくなってしまった。
ひと月の化粧品代ゼロ「私ってほんとに女かしら?」
物を書く仕事を始めた時、インタビューでよくきかれたのは「どういうところへ遊びに行くか」ということであった。
「私は出歩くのが嫌いなので、どこにも遊びに行きません」
と答えると、ほとんどの人が、へえーっと不思議そうな顔をした。
雑誌に出てくるようなお洒落な店で、夜な夜な遊んでいるのではないか、と思われたらしいのだ。雑誌にいくら紹介されていても、そこに行きたいと思ったことはほとんどないし、興味がない。
ブティックなんかにも行かない。たとえば洋服を購入した代金三万円と、本代の三万円とでは、はるかに本を買ったほうが、うれしいのである。洋服の場合は買った瞬間はとってもうれしいが、帰りの電車のなかで、とっても無駄遣いした気持ちになる。
「着る服がないわけでもないのに、三万円も遣っちゃった」と悲しくなり、買った店に戻って、お金を返してもらいたくなってくる。ひと月の化粧品代はゼロだし、たまに、「私って、ほんとに女なのかしら」と、我ながら不審に思ったりするのである。
私が育った家は、着るものは母親がブラウスからコートまでみんな縫っていたから、「服は作るもの」というイメージから、どうも抜け切れない。一年前、私がミシンを買ったのを知った母親は、
「あんたの性格で、洋裁なんかできるわけがない」
と、フフンとせせら笑った。やる気になっていた私は、ムッとして、
「よーし、出来上がったのをみて、驚くなよ」
捨てぜりふを残し、布をしこたま買って、毎日毎日お針子さんの日々を送ったのである。
編み物の場合は、伸びたり縮んだりしてくれるから、適当にやっても何とか格好はつく。ところが一センチでも違うとおおごとになる洋裁は、大ざっぱな私の性格には合わず、十着分の布地を買ったのにもかかわらず、出来上がったのは、ワンピースがたった一枚。しかし、一応何とか形になったので、これはにくたらしい言葉を吐いた母親に見せてやろうと、そのチェックのワンピースを着て実家に帰った。
「ふーん」
母親は私の姿をしばらく眺めていたが、突然、裾《すそ》をひっくりかえし、「これ、表と裏が逆じゃない」と、冷やかにいった。
この布を裁つとき、ものすごく迷ったのは事実である。しかし、いつまで迷っていてもきりがないので、こっちだと思うほうを表にして、ハサミでジョキジョキやってしまったのである。もう一度落ち着いてよくよくみたら、やっぱり表と裏が逆になっていた。
「だから、あんたにできるわけないっていったでしょ。この、おっちょこちょい」
母親は、勝ち誇ったように、ケッケッケと笑った。この件があってから洋裁はあきらめ、編み物ひとすじでいこうと決めた、はずだったのである。
男あさりよりは……
私はNHKの「婦人百科」を必ず観ているのだが、ここでは編み物はもちろん、ビーズ刺繍《ししゆう》、着物から洋服を作る、刺し子、紙をすいてハガキを作る、など、私が手を出したくなるものばかり放送する。なかには、ちょっと趣味が今一つだなと思うものもあるが、やっぱり人が、手で物を作っているところを見るのは楽しい。そして一番困るのは、順を追ってだんだん形に仕上がっていくのを見ると、いてもたってもいられず、材料を買ってきて家のなかでしこしこ製作に励んでしまうことである。「男をあさらないと、いてもたってもいられない、などということにくらべて、何て罪がないのだろう」と自分を納得させつつ、次から次へと買い込む。そして不思議なことに、こういうときは、コロッと本のことは忘れているのである。それで、きちんと最後までやればいいのに、生まれつき熱しやすくさめやすい性格なため、すぐ飽きて途中で放り投げる。そして、また番組をみては、さらし木綿とか、ガラスビーズを買ってきてまた飽きる。その繰りかえしである。うちの押し入れには、何の形にもならず、中途半端にピラピラしたものが山をなしている。その存在を忘れていたのに、大掃除をしたために、見たくないものを見るハメになった。いま私は、頭しか作ってない人形とか、ちゃんちゃんこみたいになっているブラウス、カボチャみたいになってしまったビーズ刺繍のバッグを前にして、頭を抱えているのである。
運とクソ度胸が実力を凌いだあのアホらしき受験生時代
先日、夜眠れないので、布団にはいったまま何気なくテレビを観ていたら、国公立大学のボーダーラインについての番組をやっていた。私の周りには大学受験をする人などいないので、他人ごととしてみていたら、まるで選挙速報みたいに数字が並ぶので、驚いてしまった。各地域にある、大学の一次試験、二次試験のボーダーラインの52・0だの58・5などの数字が、次から次へと画面にうつし出される。各地域のボーダーラインについて解説するのは予備校の人で、緊張した面持で淡々と話していた。私が受験生であったころ、ラジオでは、大学受験講座などがあったが、テレビで受験に関する情報を流しているのを見た記憶はない。
彼らはあれこれ親切にボーダーラインの解説をしている。しかし、「この大学は、昨年にくらべてボーダーラインは変わっていません。比較的入りやすいところなので、皆さん頑張ってください」などといっても、明るく受験生を激励しているようには思えず、雰囲気がなんとなく暗いのである。予備校の人がいくら「頑張ってくれ」といっても、落ちてくれる人がいなければ商売にならないのだから、これは当然のことであろう。
相変わらずガーゴー
私の受験生時代は、学力の程度からいって国公立大学なんて、ハナから頭になかった。とにかく「楽して入ろう」としか思ってなかったのである。高校生のときに、一番点が良かったのは、保健体育だった。そのほかは見事に3が並び、ひどいときは物理が2だった。だいたいその程度の成績だと、予備校に行くとか、補習授業を受けるとかするものだが、面倒くさいからなんにもしなかった。だからいつも担任に呼ばれて、「おまえは受験というものを、真面目に考えとるのか」と怒られた。そのときはとりあえず、「はあ。まあ、よく考えてみます」と答えておき、結局は予備校に行く友だちを尻目に、アルバイトをして本を買い、自分の部屋のすみっこで、じーっと読んでいたのである。
だいたいうちの親は、都立高校の生徒は、みんな都立大学に入れてくれると思っていたので、私が三年生になって受験のことを話して初めて、「あんた、受験があるの?」と、ビックリした、というひどさであった。そのうえ、「受験するのは、あんたなんだから、親がいくらあせってもしょうがない」といって、相変わらず、ガーゴーガーゴーとイビキをかいて、のどかに寝ていた。
だんだん受験がさし迫ってくると、みんな、まわりのことが気になってきたようで、「誰々は、あれだけ勉強をしている」などと、噂し始めた。「世界史はまかせとけ」のよっちゃん、「古文の天才」のみっちゃん、「日本史の女王」のせっちゃんと、いろいろいた。ところが私は、「運とクソ度胸が実力を凌《しの》ぐ奴」と、いわれたのである。私が反論すると、みんな口を揃えて、「どう考えても、あんたは運がいい。少しはそのおこぼれを、もらいたいくらいだ」という。なかには、私にむかって、おがむ子まで出てきたのであった。
で、結果は、やはり、運とクソ度胸が実力を凌いだのか、私だけ合格した。「やっぱりそうなのかな」と、そのとき初めて思った。試験の漢文の問題は、授業でやったものと設問まで全く同じだった。英語は、勉強もせずに、読みふけっていた本がヒントになって、苦手な記述式も書けたのである。そのことがあって私は、「金も使わず頭も使わず、最も楽をして合格した女」ともいわれた。
これから受験の季節がやってくるが、運が悪く不合格になったって、「ウサギとカメ」のカメさんになったと思えば気が楽である。そして、大学なんかにいかなくたって、その人の本質的な人間性には何の影響ももたらさないことが、社会に出てやっとわかった。事実、私が今までいちばん頭がきれると感じたのは、高卒の人だったし、一番トンチンカンなことをいった人は、慶応大学を卒業していた。
勉強ができたということよりも、どういうふうに物を考えられるか、ということのほうが、世の中では大事だということもわかった。そういうことを、親も含めて世の中の大人が、子供のころから、もっと教えてあげればいいのに、どうもこの受験地獄は、大人たちがあらゆる意味で「数字」ばかりをちらつかせ、青少年を追い詰めているとしか思えない。私はボーダーラインの数字が次々とうつし出される画面をみて、殺伐とした気持ちになってきたのであった。
ストレスがたまったと思ったら……女装の館に集う面々
最近のコマーシャルを見ていると、特にストレスに効くことを売り物にしている薬が多いような気がする。神出鬼没の松本幸四郎が、「ストレスと胃の粘膜の関係について、ご説明いたします」といって、みんなにうるさがられているものなど、関係ない人間は、ハハハと笑ってみていられるが、ストレスを抱えている人にとっては、とてもじゃないけど笑ってすませられる問題ではないだろう。
私も勤めているころ、どうも胃が重苦しくて、体の調子が悪かった。医者に行っても内臓にはどこにも異常がないという。となれば、これはあのストレスというやつだな、と思っていた。何とかしてこの厄介な状態から抜け出たいと思って、ストレスとは何かを書いてある本を読んでみたら、自分はストレスがたまっていると思っているからよけい症状がひどくなると書いてあった。考えてみれば、調子が悪いとき、「またストレスがたまっている」などと考えると、余計、気が滅入ったのは事実である。私はそれを読んで、ストレスがたまったと思わなければいい、と悟ったら、気分が良くなった。そしてそれ以来、少々調子が悪くても、「私の体にストレスなどありえない」と、強気に生きているので、食べすぎたとき以外、胃が重苦しくなったりすることはなくなった。私は、今はわがまま放題いっているから、ストレスがたまるほうがおかしいが、自分と他人との関係を、いつも考えていかなければいけない立場の人は、さぞや大変だろうと思う。
たまたま、テレビ朝日の「こんにちは2時」を観ていたら、「ストレス解消法」をテーマに、ジャーナリストの生江有二氏がレポーターをしていた。環境ビデオなどを見せて、精神を安定させるバイオフィードバック療法。二、三年前から話題になっていた、母親の胎内にいるかのごとき気分になれるというフロートカプセル。四十分間このなかにはいって、ポカーッと浮かんでいると、ほとんどの人は気持ちが良くなって眠ってしまうそうである。画面に登場した利用客は、姉妹くらいにしかみえない、嫁と姑の二人連れだった。嫁と姑がストレスを発散させるために、スッポンポンでカプセルのなかに入り、両者共、無心でポカーッと浮かんでいる図を想像すると、滑稽《こつけい》な気もしたが、腹のなかでいつまでも根に持って、おたがいいがみ合っているより、ポカーッと浮いて気分がスカッとすれば、それにこしたことはない。
安らぎはどこに?
そして、その中で一番驚いたのは、女装の館《やかた》を利用して、ストレスを発散させているお父さんたちの姿であった。三十半ばから四十すぎくらいのお父さんたちが、OLやおかっぱ顔のセーラー服に変身しているのだ。参加者のうち、クリクリカールの頭に、赤いチェックのリボンを結び、ピンクのギャザーいっぱいのドレスを着た、自称「キャンディー・ミッキーちゃん」は、なかなかの迫力であった。みんなかつらをかぶり、きれいにメークをして、その女装の館で、そこだけに通用する名前で、同じ趣味をもつ仲間とお話している。本名など誰もきかないのである。普通、そういうところに出入りする人というと、ちょっと変わったタイプの人なんじゃないかと思うが、どの人も、とてもきちんとした礼儀正しい人ばかりだった。キャンディー・ミッキーちゃんは、
「会社では仕事に追われる。家庭では、父親として、夫としてのくつろぎはある。しかし、家庭をうまく維持していくためには、頼りになる父や夫であるように、振舞わなければならない。会社でも家庭でも頑張る。だからストレスがたまってしまうのです」
と、アイラインと付けまつげを施した目をぱっちりと見開き、続けて、
「ここに来ると男であることを忘れられるし、性格が変わってとっても穏やかになります。だけど会社では、燃える男です」
と、力強くきっぱりいいきる。
会社ではもちろん神経をすりへらし、独身の私から見れば、結婚している人の安らぎの場所は家庭だと思いこんでいたが、そこにも安らぎがないというなら、いったい彼らの人生は何のためにあるのだろうか、と気の毒になった。そして、むしゃくしゃしたからといって、何も関係ない人を殺したり、放火したりするとんでもない人間がいるなかで、ささやかな自分の楽しみをみつけているこのお父さんたちを、誰が不気味とか、気持ち悪いといってバカにできるだろうかと思ったのであった。
いい服だけは着ていても悲しからずやホームレス・ピープル
私は子供のときから現在までに、八回引っ越しをした。うちの親は金もなかったが、家をもつことに全然興味がなく、借家を転々としていた。そして私も自分で稼ぐようになってから四回引っ越した。引っ越し貧乏というけれど、今までの引っ越し費用をきちんと貯めていたら、マンションの頭金ぐらいにはなったと思う。でも、どうもひとっところにいると、引っ越しの虫がムズムズと動き始め、賃貸情報の雑誌を買い込んでは、世間の家賃の相場を検討しているのである。
私が一番最初に家を出たのは二十四歳のときだった。楽しい独り暮らしではあったが、私が住んでいたアパートは、ずさんな造りだったようで、風呂にはいっていると、暖かくて気持ちがよくなったのか、タイルの目地のすきまから、たくさんのミミズがにょろにょろとはいだしてきた。私はそのたんびに、まっぱだかでおろおろし、まるでホラー映画の舞台になりそうなところだった。
会社に入って二、三年のうちは、給料も多くないのだから、そんなにリッチなところには住めない。私の友だちが当時住んでいたアパートも、会社から帰って部屋の電気をつけたら、部屋のド真ん中にナメクジとゴキブリが仲良くいた。うちのミミズ風呂とどっこいどっこいのところだった。
ところが、きょうびの青少年のなかには、想像できないような、結構なところに住んでいるのが多い。私が住んでいるところよりも、もっと家賃の高いところに新入社員の分際で、住んでいたりする。給料を聞いてみると世間並みの納得できる金額である。そうなるとどう考えても、家賃を払えるわけがない。意地になっていろいろ聞き出してみると、社会人になったというのに、田舎の両親に仕送りをしてもらっているというのである。
「安い変なアパートに住んで、もし何かコトが起こってお嫁に行けなくなったら困る」
というと、田舎の親はあわててお金を送ってくるらしい。
「学生時代、男とやりたいだけやっといて、いまさらお嫁に行けないもないだろうが。いい歳をして親から金をもらってるなんて、恥ずかしくないの」
嫌味ったらしくいってみても、
「だって変なところに住んでると、かっこ悪いんだもん」
と身をよじっていう。私はこういう子の親じゃないから、
「ふーん」
とバカにしていればいいが、これじゃあ親はいくら金があっても足りないはずだ。いい加減親も子も、べったりと甘える関係はやめてもらいたい、という気がする。
にまんごせんまんえん?
賃貸情報の雑誌をみても、給料は上がらないのに、家賃はどんどん上がっていく一方だ。真白いただの箱みたいな部屋が六万円も七万円もする。日曜日の新聞に、どさっと挟まってくる不動産のチラシをみても、一戸建ては億単位である。不動産屋のなかには、「億」という字は使わないで、「二五〇〇〇万円」などと書いて「二千五百万円」だと思わせてしまう、汚い手を使っている者もいる。よくよく広告をみて、「にまんごせんまんえん?」としばし考え、それが二億五千万円だとわかったとたんに、
「こんな物、誰が買えるか」
と腹が立ってくる。誰かに保険金を掛けて、犠牲になってもらわなければ、普通に働いている人間に買えるわけがない。宝クジで一攫《いつかく》千金と思ってもマジメに働いている人には、悲しいかな、当たらないようである。
かつては安いのが取り柄だった公団住宅も、一般のマンションよりも家賃が高いものが多くて、一体何のために建てているのか全然わからない。
NHKの「YOU」でも、同居生活をテーマに放送していたが、取材班のアンケートで同居相手にふさわしい人、というのが「ほとんど家にいない人」「朝、目覚めのよい人」「共通の友だちのいない人」「空気のような人」というのには笑ってしまった。つまり金は半分払ってくれて、存在価値のない人がよいわけだ。友だちと生活して、自分自身を高めるというより、まず経済的な問題が先決というのも、限られた収入のなかで、まじめに生活していこうとしている若い人にとっては、仕方がないことだろう。
これからますます住宅事情が悪くなるのは目に見えている。何十年後かには、妙にいい服を着て路頭に迷っている、ホームレス・ピープルがたくさん出てくるような気がして、そら恐ろしくなる。
案外真面目なヘヴィメタ青年の自己主張
私が学生のころは、盛り場にいくとヘヴィメタ青年がわんさといた。髪の毛を金髪に染めていたり、鉄のイガイガのついた革のジャケットと、パッチのようなおそろいのパンツ。おまけにお箸《はし》のような細い足に、高さ二十センチもあるロンドン・ブーツを履いて、黒い網タイツをはいた、メドゥーサみたいなヘアースタイルのおねえちゃんの肩をひしと抱いて、歩いていたりした。
ロンドン・ブーツのおかげで、人込みから頭一つ出ている、自来也《じらいや》みたいな風体のお兄ちゃんを見つけると、おばさんたちは脇腹をつつきあい、
「あれ、なあに。気持ち悪いわねえ。男か女かわからないじゃない」
といった。ヘヴィメタが好きなのも、ああいう格好をするのも趣味の問題だから、他人がとやかくいうことではないが、私には、ヘヴィメタ青年は「何を考えているんだかわからない人」というイメージがあった。特に夏場でも脱がない、あの黒革のパンツとロンドン・ブーツを見ては、
「あれでは下半身は蒸れ切っていて、水虫やタムシの巣窟《そうくつ》になっているかもしれない」
と考えたりもした。ヘヴィメタ青年はヘヴィメタ仲間とだけ固まって歩いているものと決まっていたのに、私は先日初めて、お父さんとお母さんと一緒に歩いているヘヴィメタ青年を見てしまったのである。
ヘヴィメタにも親はいる
彼は逆毛を立てた髪の毛を背中の真ん中まで垂らし、おまけに金髪に染めていた。鉄のイガイガのついた革のジャケットにパンツ、ロンドン・ブーツも履いていたが、手にはお父さんとお母さんの旅行かばんを下げていたのである。両親は人の良さそうな普通の人だったが、息子と一緒に歩いているのを少し恥ずかしがっているようにもみえた。そのヘヴィメタ青年は、
「ここのほうが、タクシーが捕まえやすいんだよ」
といって、ロンドン・ブーツをポックリポックリいわせながら車道に侵入し、あっという間にタクシーを止めた。
「じゃあ、気を付けてね」
「ああ、お前もな」
心暖まる親子の会話が交わされたあと、そのヘヴィメタ青年は車が遠ざかるまで、ずっと見送っていた。私は彼の姿を見て、
「ヘヴィメタ青年にも親はいる」
という、あたりまえのことに初めて気がついたのである。
ヘヴィメタ青年は、摩訶《まか》不思議な存在だった。ヘタに声をかけたりすると、
「うるせえ」
と怒られて、鉄のイガイガでいじめられそうな気がしていたのだ。
月曜日の深夜に放送されている「デモ・タカ・ビデオジャム」に、ヘヴィメタ界では大成功したといってもいい、ラウドネスとアースシェイカーというグループから一人ずつ、「何を考えているんだかわからない人」の代表が出ていて、「ヘヴィメタの人への質問」に答えていた。
その質問というのも、「ヘヴィメタの人は、なぜ路上でアクセサリーを売っているのか」「髪の毛が長くて、手入れがたいへんじゃないか」「どうしてみんな色白でやせているのか」といった、今までききたくても怖くてきけないことばかりで、彼らを見て、みんなが不思議だと思っていたことが、この夜、明らかになろうとしていた。
彼らの話によると、とにかくお金がなかった。路上でアクセサリーを売っているのも、お金を稼ぐためだし、食えないから、みんな色白でやせてしまうそうなのである。かっこよさを保つために酒ばかり飲んで、物を食べないのかと思っていたら、食べるものが買えないために、自然ダイエットになってしまうのは気の毒なことである。外人のヘヴィメタ青年のなかには、運転手付きリムジンに乗っている人も多いらしいが、かわいそうだが日本のヘヴィメタ青年には、そういう日はこないだろう。
髪の毛もちゃんと洗って、トリートメントもしている。一年間逆毛を立てていたときには、髪を洗ったらごそっと毛が抜けてしまい、風呂場の流しを詰まらせてしまったことがあるとか、彼らもそれなりに苦労しているのである。そして最後に、
「俺達が十年間、一生懸命やってきた音楽が、髪が長いから不潔だ、っていうひとことで嫌われちゃうんだぜー」
と、悲しそうにいったのが、ヘヴィメタ青年の正直な心情を物語っていた。彼らはなかなか感じのいい青年であった。ヘヴィメタ界で人が良さそうなのは、デーモン小暮だけではないらしい。
この夜は、まじめな「ヘヴィメタ青年の主張」を見たような気がしたのである。
「ハエ男」で思い出した高校時代の恩師
先日、テレビの洋画劇場で「ハエ男の恐怖」を見た。今はリメイク版が公開されているらしいが、私はテレビで流されたCMしか観ていない。現代の特殊メイクの技術を駆使した、ハエと人間がいりまじっていく姿が不気味だった。
でも「ハエ男の恐怖」のほうは、三十年くらい前の作品だから、きっと技術もお粗末で、子供のときに怯《おび》えつつ見た日本の怪獣映画も、今は笑って観ていられるみたいに、お笑い恐怖映画として楽しめるのではないかと期待していた。おまけにハエ男になってしまう科学者の声の吹き替えが渡辺徹である。恐怖映画なのにどうしてこういう人選になったのか不思議だが、私はテレビ欄で彼の名前を見たときに、映画を観る前にすでに笑ってしまったのだ。
最初は半分バカにしていたものの、だんだんにハラハラさせられた。前半は背が高くスリムな科学者から渡辺徹の声が出てくるものだから、どうも気分が乗らなかったが、後半になると「これから先、どうなるんだろう」と、ドキドキした。科学者がハエ男になり、人間のことばが喋れなくなったのが幸いしたようである。
予想どおり、変身した「ハエ男」はでっかい目玉がついた行灯《あんどん》のお化けみたいなものを頭にかぶって、左手には毛だらけのハエの手をはめているだけだし、もう片方の「人間バエ」のほうは、ハエの体に人間の頭を合成して写しているだけ。しかしハエの体から、ハエと交換した人間の左手も、にょっきりはえている芸の細かさには感心した。最後まで画面から目を離せず、想像した以上に楽しめた。そしてこの映画のおかげで、高校生のときに「ハエ男」を作ったことを、突然思い出してしまった。
「ハエ」というのは私の担任のアダ名だった。チョークを握っていないときは、いつも両手をすりあわせるクセがあったのと、風貌も人間離れしていたのが相まって、誰がつけたのか我が校に代々伝えられていたのである。
体育祭のとき、私たちはクラス対抗で仮装大会をすることになった。ああでもないこうでもない、と話し合っていたのだが、一等賞をとるにはこれしかない、とっておきの出し物にすることになった。それは「ハエ」にハエの格好をさせるという、教師の存在を冒涜《ぼうとく》するものだった。いくら生徒から「ハエ」と呼ばれていても、家に帰れば大学生の子供もいる中年の男である。最初は「もっと高校生らしいものにしなさい」と、わけのわからない文句をいって抵抗していたが、体育委員が職員室に日参して、「こういうことをお願いするのは、ボク達が先生のことを好きな証拠です」とか何とかうまいことをいって、やっとOKをとりつけた。
ちょっぴり反省
それから私たちは、手分けして必死で衣裳を作った。足元は厚ぼったい黒のタイツと地下|足袋《たび》。羽はセロファンをしわしわにしたもの。男の子がどこからか拾ってきた大きなプラスチックのザルに、足を出すための穴を開けて、それをもとに演劇部員の美術担当者がハエの本体を作った。黒の長袖のTシャツを着用し、頭には黒く塗ったザルをかぶってもらうことにした。ザルには針金で、ぴよーんとつっぱった立派な触角がつけてあった。ハエにこんな立派な触角はないんじゃないかと批判も出たが、これも景気づけということで一件落着し、ハエの衣裳は全て出来上がった。
当日、仮装行列はプラカードと共に、校庭を一周することになっていた。ハエの装束を着た「ハエ」は、ハエというよりも歳をとってしょぼくれた「みつばちハッチ」みたいだった。
「ハエ」は見るからにふてくされて歩いていたが、全校のみなさまには圧倒的に受けた。特に校長はテントのなかから身を乗りだし、「ハエ」がハエの格好をしているのがわかると、教育者とは思えないはしゃぎぶりで、しまいには笑いながら椅子から転げ落ちた。
「ハエ」は、「ハエ」とでかでかと書かれた、クラス委員長が掲げるプラカードを背に、苦り切った顔でトボトボ歩いていた。全校生徒及び教職員一同の拍手|喝采《かつさい》を浴びたのにもかかわらず、「ハエ」は校庭を一周歩き終わると、かぶっていたザルを憤然とかなぐり捨てて、家に帰ってしまった。
私たちは「ハエ」の行動に少しびっくりしたが、面白かったんだからいいや、とみんなで明るく笑ってすませてしまった。しかしこの映画を見て、今になって「やっぱりハエの格好などさせるべきではなかった。先生にすまないことをした」と、ちょっぴり反省したのであった。
これもワープロ後遺症? 知ってる漢字がすべて朧に
私がワープロを使い出して、約一年になる。万年筆でせっせと枡目《ますめ》を埋めていたころは、
「あんな機械、使うもんか」
と思っていた。ところが右手の調子が悪くなり、やむなくワープロに切り替えざるをえなくなったのである。最初は自分の考えるスピードと、指の動きがちぐはぐでイライラしたが、最近やっと慣れてきて、手で書くよりも速くなった。そしてワープロを使ったおかげで、机のまわりがゴチャゴチャしなくなったのが喜ばしい。原稿用紙を机の上に置き万年筆にインクを入れ、準備万端整って、
「さあこれから書きましょう」
と、枡目を見たとたん、やる気をなくしたこともしばしばあった。ところがワープロの場合は、気軽にポコポコ打てるのがいい。
髪を振り乱して書いて、ふと気がついてみたら、右手がインクだらけになっていることもない。あまりに書き込み、書き直しが多くて、原稿用紙が真黒けになってしまい、何を書いてるんだかわからなくなって、自己嫌悪に陥ることもない。すべて画面のなかで、きれいに操作できるのでなかなかよろしい。
目が悪くならないかと聞かれることも多いが、私の使っているのはグレーの画面に白く文字が出てくるタイプだが、今のところは何の影響もない。万年筆時代は肩が凝って、いつもマグネキングのお世話になっていたのだが、ワープロにしてからはそんなこともなくなった。とにかく身も心もスッキリして、ワープロを導入したのは私にとっては正解だった。
ところが、やはり物事はいいことばかりではない。あるとき友だちに手紙を書こうと、久し振りに万年筆を持って、私はビックリした。字がとってもへたくそになっていた。そして漢字まで忘れていた。大まかな形は分かっているのだが、ディテールが思い出せない。ワープロでは、画面に映し出されるたくさんの漢字から適当なのを選べばよいので、文字の細かい部分まで注意して見ているわけではない。だから文字を書いてみると、私の頭にあった漢字が、すべて朧《おぼろ》になってしまったのであった。拝啓の「拝」の字の横棒が、三本か四本かわからなくなったときは焦った。ワープロのせいではなく老化現象かもしれないが、まだこの歳でこんなこともわからなくなるようでは困るのである。便利にはなっていくが、どんどん脳のほうは退化していくようで恐ろしい。
まるで最後の署名
ワープロ導入のため、筆記用具を使って字を書くことが少なくなったせいか、最近、書道に興味をもつようになった。万年筆、サインペンのたぐいは、ふだん使い慣れているから、字を書いてもヘタながらどうにか格好がつくが、筆を使うとなると話は違ってくる。
私は筆圧が強く、おまけに字がバカでかいので、筆で書くと本当に悲惨なのである。万年筆のつもりで書くと、筆の先がグニャッと割れて字ではなくなるし、力を入れまいとすると、筆の先がブルブルと震えて、老人が息も絶え絶えに書いた最後の署名、といった具合になってしまうのだ。友だちの結婚式に呼ばれて、芳名帳に筆で署名したとき、受付にいた人が私の書いた字をみて、
「あらー」
といって絶句したくらいのひどさなのである。何かの折りに筆を出されて、
「サインペンはありませんか」
とあわてるより、きちんと字が書けるようにしておいたほうがいい。今すぐ書道を習おうとは思っていないが、テレビの趣味講座「書道に親しむ」を観ては、なるほどねと感心しているのである。
新聞のテレビ欄でこの番組を発見して観たとき、私みたいなド素人にもすぐ役に立つというような、生易しい内容ではなかったので驚いた。ただ単に、紙に字を書けばいいっていうものじゃなかったのである。おごそかなギターの音をバックに、スローVTRを駆使して筆運びを追う、「講師の筆法鑑賞」という新手のテクニックまで登場していた。これだと筆先の動きがよくわかるのである。上達するにつれて、書き手のオリジナリティーが必要になってくるから、「資料の字典化」をして自分なりに字体を研究しなければならない。講師が手に持っていたのは、古典の書の本からいろいろな書体の平仮名を切り取って貼ったファイルであった。コピーのなかった時代は、そうやって資料を作ったそうである。私がそこまで到達するのは、何十年も先のことになるだろうが、そのうち道具を買って、マジメに勉強しようと考えている。
芸能人ママには分からないシングル・マザーたちの悩み
勤めていたときに、定期入れのなかに必ず子供の写真をいれて持ち歩いている男がいた。何かにつけてはそれを取り出し、
「生まれたばかりの長男なんだ」
といって、私たちに見せる。たいがいの赤ん坊は可愛いが、なかには例外もある。
お父さんにそっくりの獅子鼻《ししばな》であっても、
「まあ、何て可愛いんでしょ」
といっておけば、世の中丸くおさまるのである。ところが一度|誉《ほ》めたら最後、そのあと頼みもしないのに、我が子の成長写真を見せてくれる。そのたんびに私たちは、「かわいい」を連発しなければならない。我が子がかわいいのは当然だが、他人に子供の押し売りをしないで欲しいのだ。
最近、午後二時から三時にかけての主婦向けの番組には、芸能人の妊娠、出産のニュースがめったやたらと多い。無事に生まれておめでたいことではあるが、いちいち記者会見までするほどのものか疑問である。
なかには、仕事場に赤ん坊を連れていこうと頑張っている芸能人ママもいるようである。テレビのトーク番組で彼女は、
「小さいときから、いろいろな人に囲まれて育ったほうが良い。子供もそれなりに環境に順応していくから、子供を仕事場に連れていっても、ちっとも大変じゃないんだということをわかってもらいたい」
と話していた。これだけ聞くともっともな意見である。しかし、本番中は自分の背中に括《くく》りつけているわけではなく、スタッフが面倒を見ているとなると、これは単にあらゆるものに恵まれた、わがままに過ぎないのではあるまいか。ふだんから世の中に対していろいろと発言している彼女だが、いったい誰に「ちっとも大変じゃないことをわかってもらいたい」のだろうか。出産して子連れになってもすぐ復帰できる職場があり、子供を連れていっても面倒を見てくれる人がいる。そういう状態で、
「母は強いんです」とニコニコされても、私としては、
「甘いわね」といいたくなってしまうのだ。
私の親友は学校を卒業してすぐ、地方の大金持ちに嫁いでいった。なかなか人間関係がうまくいかず、彼女は生まれて間もない赤ん坊を抱えて離婚した。今風にいえばシングル・マザーである。それからの彼女は大変だった。子供の父親のほうには腐るほど金がありながら、子供の養育費すら払わない。彼の家がドケチの果てに金を貯めこんだことがそれでわかった。両親とも亡くなっていた彼女は、自分ひとりで赤ん坊を育てていかなければならなくなった。しかし彼女が突き当たったのは、八方塞がりの現実だった。
まず赤ん坊を預けようにも、預かってくれるところがない。もし預けられたとしても、夫がいなくて赤ん坊を抱えた女には、就職の道すらない。そのうえアパートを見つけるのに何カ月もかかった。家族構成をきいて、貸してくれる大家がいなかったからだ。
頭が下がる思い
彼女からの電話でその話をきいて、とても悔やしかった。どうして結婚していると勤めることができて、ひとりで子供を育てているとダメなのか。人を馬鹿にした話だ。東京に戻ってくれば、仕事もあるのではないかといってみたが、経費がかかりすぎて暮らしていけないという。自分一人だけだったら何とでもなるが、女手ひとつで子供を育てるのは大変なことだ。バーゲンでもう一枚ワンピースを買うために働くわけではない。それなのに社会は冷たく、一番仕事を必要としている人を締め出しているのである。箱をもって街頭に立ち、
「寄付をお願いします」
などともいえない。いったいどうなることかと気を揉《も》んでいたら、やっと彼女の事情をわかってくれた小さな工場があって、そこで働かせてもらえることになった。子供は背中に括りつけてである。
「仕事をさせてもらえるだけでもありがたいわ」
と彼女がいったとき、私は頭が下がる思いがした。芸能人の頑張りママのまわりには、こういうシングル・マザーは、きっといなかったのだろう。
私の友だちにも、これから働きながら子供を生んでみたいという人がたくさんいる。私は彼女たちにむかって、
「そういう生活をしたいんだったら、これからプロダクションのオーディションを受けて、芸能人にならなきゃダメだぞ」
と脅かしているのである。
「ほとんどビョーキ」に笑えなくなった私
うちの家族は元気がいいのだけが取り柄である。ところが二カ月ほど前から弟の体の調子が悪く、町医者にかかってもいっこうに良くならない。で、我が家で初めての、緊急入院および精密検査が行なわれることになってしまった。
母親は心配しながらも、自分も出産で入院した経験があるから冷静だったが、「ガーン」ときたのはこの私である。入院するという電話をもらってから、食事が喉《のど》を通らなくなった。毎日、三度の食事をしっかり腹一杯食べる私がである。いままで病院と関係ない生活を送ってきたので、異常なくらい病院が怖い。入院したら生きては帰れないんじゃないかと怯えてしまうのである。
弟は無事に帰ってこられるだろうかと考え始めたら、これがろくなことにならない。子供の頃のことを突然思い出して、「あの可愛かった弟が、何でこんな目にあわなきゃならないんだろうか」と涙がじわっと出てきたりする。友だちに電話をしたら「大変ね」といいながらも「鬼の目にも涙」とからかわれるし、この一カ月はどういう結果が出るか心配で、ボーッとして過ごしてしまった。
気分転換をしようとテレビのスイッチを入れても、どうも心の底から楽しめない。だいたい今まで気にならなかったものがいちいちグサッとくる。芸能ニュースでは美空ひばり、平幹二朗の入院。浅香光代のご主人の急逝が報じられ、CMでは「今が墓地、霊園獲得の最後のチャンスです」といって、懸命に地べたを売ろうとしている。それを見ると、「ああ、入院、急逝、墓地、霊園。まさか弟が」と一気に気分が落ち込んでくるのだ。
お笑い番組では、元気のいい芸人さんたちが観客にむかって「こいつらは、ほとんどビョーキです」などといっている。そのとき私も一緒に「ハハハ」と笑っているのだが、口で笑っても目までは笑えない。「ビョーキ。ああ、弟はいったい何の病気なんだろう」とまた暗くなってしまうのである。笑いをとるために「てめえら死ね」といっているのを見ると、「軽々しくそういうことばを吐くな」と本当に腹が立ってくることもあった。
今までは自分のまわりに病人がいなかったから軽く聞き流せたものでも、こういうことになって気にするまいと思っても、目や耳から入ってくるとやっぱりムカッとする。だいたいこういう発言が多いのは若い子向きの番組だから、彼らがそういわれても傷つかないだろうし、私もかつてはそうだった。やはり自分がそういう立場になってみないとわからないものだ。
弟は体中|隈《くま》なく検査をしてもらった結果、単なる過労とわかった。今月中に退院できることになり、私の食欲も回復した。うちの場合は大したことがなかったけれど、病院に入っている人はたくさんいる。動くこともままならず、テレビを楽しみにしている人もたくさんいるはずである。はたしてそういう人たちに対して、今のテレビは明るく笑えるような内容なのだろうか、と身内に病人が出て初めてそう思ったのであった。
まるでホラー映画の生物も美人講師で艶めかしく
高校生のとき、生物の時間にニワトリの発生の観察をしたことがある。受精卵の中でどんどん成長していく過程を記録していくのだが、心臓が動いていたり、血管が網の目のように広がっていたりして、なかなかスゴかった。目や足がわかるようになってくると、気味が悪いながらも成長しているのがわかってそれなりにうれしかった。そのまま大きくなって可愛いひよこちゃんが生まれればよかったのだが、その一歩手前のぐにゃぐにゃしたものまで観察したら、生物の教師は、「はい、そこまででよろしい」といって、その卵はあわれにもごみばこ行きになった。あのわけのわからないものが、ぴよぴよとこの世に出てくれれば、こっちも「無事に生まれてよかったね」とほっと胸を撫《な》で下ろせるが、その手前でポイしてしまったため、生きたままのひよこを殺したようで、いい気分ではなかった。それからは卵を見ただけでも、「そういえばあの中には、ああいう生き物がいた」と思い出して背筋がぞくぞくした。それが目玉焼やゆで卵になって出てくるともっとダメで、半年くらいは卵が食べられなかった。
生物は面白いが、気持ち悪い部分も多い。夕方にテレビをつけたら、NHK教育テレビに若い美人が出ていた。何だろうかと眺めていたら、それは高等学校講座の生物の放送で、その美人は講師だったのである。私も高校生の時にテレビ講座のお世話になったことがあるが、こういった番組の先生といったらほとんどがおじさんばかりで、雰囲気が何となく暗かった。ところが今では、こんなに若くて美人の先生が、にこにこ微笑《ほほえ》みながら授業をしてくれるのである。
「世の中、変わったもんだ」とつい観てしまったが、その日の講義内容は「鳥類と哺乳《ほにゆう》類の発生」で、私が気持ち悪さと罪悪感にさいなまれながらやった、あの卵の観察をやっていた。画面には、かつて観察したひよこの一歩手前の光景が映し出されていた。そして次に、美人の先生は優しく微笑みながら、「これはヒトの女性の生殖器官を抜き出して描いたものです。卵巣、輸卵管、子宮がありますね」といって棒でその絵を指す。無表情のおじさん先生に同じ事をいわれても何とも感じないが、若い美人に明るくいわれると、何やら艶なまめかしい感じがしてくる。黒木香嬢の御講義を聞いているような気もしてきた。
そのあとはウサギを使った発生のVTR。さすが哺乳類の発生は卵みたいに簡単なものではなく、気持ち悪さもかなりのものだった。画面には生殖器だけが映し出されていたりする。まっかっかの胎盤やへその緒。羊水に浮かんでいる誕生直前の胎児など、生まれ出てきたものは可愛いが、その前の段階のものは自分も似たような姿だったとは思えないくらい不気味で、まるでホラー映画みたいだった。
最後に先生は「おわかりいただけましたか。貴重な映像がいくつか出てきましたね」とにっこりされていた。しかし、この高等学校講座「生物」の映像と美人講師との取り合わせは、講義という内容を越えた、何とも不思議な雰囲気を醸し出していたのであった。
メデッサのヘビ女で真っ昼間からゾクゾク
CMを観ていてゲッと思ったものが今までに二つある。そのうちのひとつは、海苔《のり》のコマーシャルである。女性が唄う「エリーゼのために」をバックに、和服を着た美人がズルズルと音をたててお茶漬けをすするのだが、この音がとても気持ちが悪い。窓ガラスを爪でキーキーひっかくのに匹敵するくらい、体毛が逆立つ代物なのだ。ちょうど晩御飯を食べ終わったあとにあのズルズルが聞こえると、一瞬胃がひきつり背筋が寒くなってくる。物を食べる姿はもともと見てくれのいいものではないが、それと共に食べ物が口の中にはいる音まで誇張されて聴覚に訴えられると、それが好きでない音の場合非常に困るのである。
私は酒が飲めないが、ビールのコマーシャルなどで耳にするゴクゴクという音は「おいしそうだな」と、飲めない私も飲みたくなってくる。ソバをすする音も大丈夫だが、このCMのお茶漬けズルズルの音だけは勘弁してほしかった。
もうひとつは、音はズルズルしないのだが女の人がズルズルはいまわる、訳のわからないメデッサという飲料酢のCMである。「メデッサ、メデッサ」と念仏みたいにぶつぶつ唱える男性の声をバックに、若い団地妻風の女の人が、頭からガラスのコップをニョッキリ生やして登場。
「なんと奇怪な」と私がたまげている間に、彼女は尺取虫と同じ移動方法でズルズルと電柱から民家の瓦屋根へとはい上がる。上で猫が悠々と体をなめており、屋根のはしっこにビンが置いてある。ズルズルとはってきた女の人は、そのビンのそばまでやって来るとその尺取虫の格好のままで、
「メデッサーッ!」
と絶叫する。そして最後に低く淡々とした女の人の声で、
「健康、メデッサ、飲料酢」
というナレーションがはいるのである。
一番最初にこのCMを観たとき不気味な格好に「ゲッ」となり、そのあと「今のCMはいったい何を意味しているのだろうか」と腕組みして考えてしまった。だいたい「健康、飲料酢」というのなら、見ている側に「これは元気になりそうだ」と思わせるのがCMとして一番効果的なのではないか。しかしこれはメデッサを飲んだら最後、楳図かずおの描いたヘビ女になってしまいそうで恐ろしいのである。このCMの製作者の意図は何かとあれこれ考えているうちにふと思い出したのは、子供の頃よく聞かされた「サーカスで曲芸をする人たちは、体を柔らかくするために毎日酢を飲んでいる」という話である。奇怪なメデッサの十五秒のCMの意味は「これを飲んだらヘビ女みたいに体が柔らかくなる」ということかしらと考えてもみたが、いまだによくわからない。
海苔のCMとは違い、私はメデッサのCMはゲッと思いながらも結構好きなようである。これはヘビ女がこわいこわいと思いながらも、ついマンガのページをめくってしまった子供の頃とよく似ている。私は時間をみはからってチャンネルを回し、メデッサのヘビ女をみては、真っ昼間不気味な刺激に背筋をゾクゾクさせているのである。
巨体少女の恥じらいに思わず応援女子腕柔道
毎週土曜日の夕方放送している「鶴ちゃんのプッツン5(ファイブ)」という番組の中に、「全国学校対抗 腕柔道女子大会」というコーナーがある。女子中学生や高校生が三人一組になって、テニスウエアに鉢巻きという姿で足をふんばって腕柔道(腕相撲)をする。五回戦勝ち抜くとサイパン旅行に行けるのだが、これがなかなか楽しい。
まず、彼女たちの姿を見ると第二次性徴って本当に個人差があるんだなあと思う。中学生から高校生というと六歳の差があるが、彼女たちが普段着で「笑っていいとも!」の年齢当てクイズに出たら、まず当てられない子が結構いる。
生まれて十四、五年しかたっていないのにすでにおばさんみたいな体型の女の子もいる。しかし見かけは巨漢のおばさんでも、片岡鶴太郎にからかわれると恥ずかしがってポッと赤くなったりしてかわいい。こういう子が出てくると絶対に逃さず、しつこく食い下がる鶴太郎は、勝手に「ジャイ子」などというわけのわからないあだなをつけ、かわいそうに彼女は五回戦勝ち抜く間、対戦相手からも「ジャイ子さん」と呼ばれていた。しかしそれにもめげず五回戦勝ち抜いたときに、大きな体で泣いちゃうところがまた中学生でかわいいのである。
もちろん彼女のような巨漢ばかりではなく、いかにも高校生といったポニーテールの元気な子もいるし、妙に色っぽくて風俗営業に今すぐ行ってもおかしくない子もいたりと、出場者の姿を見ているだけでも面白い。
この番組を観ていると、かつて「11PM」で放送していた「イレブン女相撲」を思い出す。最初はうちの親が何やらひわいなものを想像して、夫婦でこっそり楽しもうとしたらしいのだが、あまりに面白かったので私と弟を叩き起こして、一緒に観るようにと命令したのである。
いかにも経産婦といった体型のお母さんや、若さにものをいわせた元気のいいおねえさんが短パン姿でスタジオで必死に相撲をとっていた。優勝した人は次の場所でちゃんと堂々の横綱の土俵入りまでやった。おとうさんをはじめ一族郎党の大声援も雰囲気を盛り上げ、場内が異常な興奮に包まれる番組だった。ふだん私は「11PM」を観ることは許されなかったが、この女相撲の放送のときだけは観るのを許可されていた。私たちは「イレブン女相撲」が終わったとき本当にがっかりした。NHKでやっている本編の大相撲よりずっと面白かったし、観ていても心から応援したくなったものだ。
全国腕柔道女子大会でも、鶴太郎が背後から「パンツが見えそうです」だの「おっぱいを机の上にのっけてます」などといって、いたいけな女子高校生たちを恥ずかしがらせているのだが、いざ試合が始まってしまうとついマジになって応援してしまうようだ。試合中にパンツが見えようがブラジャーがずり上がろうが、やっぱりどちらの腕力が強いかが問題なのである。この番組もいつまで続くかわからないができるだけ頑張っていただき、いつまでも楽しませてもらいたい。
金持ちばかりがいい思い なんとかならぬか衛星放送
最近、私と友人の間でもっぱら話題になっているのがNHKの衛星放送である。あれだけNHKが大々的に宣伝しているのにシステムを全く把握しておらず、
「衛星放送って何チャンネルを回せば映るの」
と間抜けたことをいいだす者もいて驚いたりもした。
「あれは屋根にアンテナを付けて、テレビに特別のチューナーを接続しないとダメなの」
といったのだが、衛星放送の話題がでるたびに、私たちは暗たんたる気持ちになるのである。ミス日本などは見たくもないが、コンサートやリアルタイムのニュースが見たい。あの衛星放送のプログラムにはとても心ひかれるものがある。しかしこういう設備を取り付けなければならないとなると、
「私たちは一生衛星放送を観ることができないねえ」
と、この話題はいつもため息で締め括《くく》られるのである。
友人は東京に実家がありながら親元を離れて一人暮らしをしている人ばかりで、賃貸のアパートやマンション住まいである。住んでいるところが他人の所有物だと、やはりあれだけの装置を取り付けてしまうのには抵抗がある。賃貸住宅でも家庭を営んでいる人々はそう簡単には引っ越さないこともあるだろうが、独身者でアパート、マンション住まいをしていて、一回も引っ越したことのない人は少ないのではないかと思う。ある友人は、
「お前が家に戻ってきたら、衛星放送のアンテナもチューナーも家に取り付ける。衛星放送が観たいんだったらすぐ帰ってこい」
と父上にいわれて、
「お父さんは手口が汚い」
と怒っていた。
このときばかりは、自分の持ち家がある人をうらやましいと思った。土地高騰の折り、東京に持ち家があるというだけで、すぐ「資産何億円」と計算してしまう私は、彼らの皆が皆BSアンテナを取り付けるわけでもないのに、
「金持ちばっかり得しているみたい」
といじけたくなってしまうのだ。
私たちが必死にやり繰りしてBSアンテナ、チューナー締めて三十万円弱の衛星放送観賞グッズを購入、設置したとしても、転居のたんびにパラボラアンテナを取り外したり付けたりしなければならない。こういうことでいちいち大家さんにあれこれいうのも悪いし、それだけの費用をかけてもいつ引っ越すかわからないので、ヒヤヒヤものなのである。テレビはとっても手軽な楽しみだったのに、金はかかるわ、手間はかかるわ、何かおおごとになってきたなあという感じがする。こうなると結局は我慢するしかないのだが、そう簡単にあきらめられない衛星放送のプログラムが憎いのである。
今のところこういうシステムでしか受信できないのだからブーブー文句をいっても仕方がないので、こんな大掛かりな装置を使わずにすむ画期的なシステムが発明されることを信じて、それまで気長に待つことにしよう。
「毎日を精一杯に」殊勝な決意も長くはもたず
ここのところ昼間テレビをつけていると、ほとんど毎日有名人の訃報《ふほう》ばっかり流れていた。私は石原裕次郎のファン層からは少し年齢がずれているから、中年の人たちとは違って彼の死に際してはそんなに悲しくはなかった。それよりもトニー谷が亡くなったことのほうにジーンとした。もちろんテレビに出ている彼しか知らないのだが、「アベック歌合戦」で、
「あなたのお名前なんてえの」
といって拍子木を叩いてツイストを踊っている姿を見て、子供心にとてもビックリしてしまってすぐ真似した。使わなくなった直方体の積み木を押し入れの奥から引っ張り出してきて、キッキッキッと叩きながら弟と「アベック歌合戦」ごっこをやった。同じ頃に裕ちゃんが死んでしまったので扱いもとっても簡単で、パンダとたまたま同じ日になくなったために、パンダよりもちっちゃい死亡記事だった三遊亭円生の事を思い出したりした。
ETV8では再々発のガンを抱えた体で仕事をしていた、ジャーナリストの故千葉敦子さんの特集をしていた。私は彼女の「乳ガンなんかに敗けられない」を読んで、何て嫌な女なんだろうと思ったことがある。ガンにかかったのはお気の毒だが、それ以上に読後感が不愉快だった。
「そんなに外国人がいいのなら日本になんか住んでいないで、さっさと外国で生活すればいいのに」と思ったが、そのとおりニューヨークで亡くなられてしまった。
この番組で初めて彼女の生前の声を聞いたが、死に直面した人の声を聞くのは何ともいえず痛ましいものである。しかし彼女の場合は死に直面しながら非常に口調も明快で力強かった。このあとすぐ声を失ったということだったが、それを聞いて病気の進行の早さに脅威を感じてしまった。
彼女はとくに死を意識してから、一日一日をムダに過ごさないようにしていたそうである。自分の命が限られているとして、私が彼女のように一日を精一杯生きていくかといったら、やっぱり今みたいにでれーっとしているのではないかと思う。四十代五十代の働き盛りの人の訃報をきくたびに、
「自分もいつそうなるかわからないから、一日をムダに過ごすことはやめよう」とその時は殊勝にも思ったりするのだが、それが持続するのはいいとこ一日か二日で、あとはいつものようにムダだらけの毎日を送っている。一日を精一杯生きようとしたら、やらなきゃならないことがたくさんあり過ぎて、それをこなすだけでもストレスがたまりそうなのだ。
いくら永遠のスター石原裕次郎が亡くなろうが、子供の頃に見た面白いおじさんトニー谷が亡くなろうが、千葉敦子さんが亡くなろうが、訃報に接したときはそれなりにショックを受けるが、生活態度は全く変わらない。夏バテもせずにパクパク御飯を食べ、グーグー寝て、ぼけーっと自堕落な日々をこれからも送り続けるのである。もしかしたら自分の身近な人間が亡くなったとしても、私は結局は死を他人事としかとらえられない性格のような気がしている。
〈了〉
発表誌
ある日突然の三センチ下降…「とらばーゆ」一九八四年十月二十六日号
フォークダンスは嫌い…「とらばーゆ」一九八四年十一月九日号
消えたスリットの謎…「とらばーゆ」一九八四年十一月十六日号
はじめての渾名、その名はチビ太…「青春と読書」一九八四年十一月号
床屋さんでのひそかな楽しみ…「青春と読書」一九八四年十二月号
男の子って大変なんですねえ…「青春と読書」一九八五年一月号
ホタル遊びの頃がなつかしい…「飛ぶ教室」一九八四年十一月号
「昼下がりのジョージ」って何だ?…「翻訳の世界」一九八四年十一月号
カニ運転手の疑惑…「オール讀物」一九八七年十一月号
減点法による男選びの果てに…「月刊カドカワ」一九八六年十一月号
レディスコミックの世界…「文藝春秋」一九八五年十月号
テレビでれんこ日記…「週刊文春」一九八五年六月六日号〜一九八七年八月十三・二十日号
単行本 昭和六十三年三月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 平成二年十二月十日刊