群ようこ
別人「群ようこ」のできるまで
目 次
第一段階 必死で外まわりの巻
第二段階 猫背で電卓ため息の巻
あ と が き
文庫版のためのあとがき
第一段階 必死で外まわりの巻
目が醒《さ》めたら夕方だった。思えばもうここ何カ月も学校には行っていない。大学四年になったとたん、みんな青い顔して先輩が勤めている会社に顔つなぎなどをしはじめ、だんだん雰囲気が変わってきたからだ。在学中からテレビ局でバイトをしたり、雑文をかいて二足のワラジをはいていた人は全く我関せずで、フンとした顔をして彼らを眺めていた。親がとてつもない金持ちの女の子などは、
「働くなんてみっともない」
などと発言してみんなのひんしゅくをかった。他の人は親や親戚のコネのコネのそのまたコネをたどり、スーツ姿であっちこっちとびまわっていた。そういう彼らの行動を私は他人《ひと》事のようにボーッと眺めていた。
「あんたって本当に大胆な性格してるね」
同じゼミのジュンコがいった。
「どうして?」
「だってさ、どう考えたってあんたが一番就職に熱心になるのがあたりまえなのに、全然違うじゃない。どこかに男でも隠してんじゃないの?」
などと疑いのまなざしを向けるのである。
「まさか、そんな男いるわけないじゃない」
そういいながらも、内心自分は一体何考えてるんだろうと思った。私はほかの人とちがい、名もなく貧しくコネもない学生である。おまけに二年前に両親が離婚し、弟は国立大学とはいえ大学に入ったばかりでまだまだ親がかりが続く。そういう母と娘だの、姉と弟だのといった「家」という問題を考えると、
「私はワガママで親不幸な娘だ」
と一瞬は感じるのだが、結論はいつも、
「まあ、なんとかなるわい」
となってしまって、日がな一日パジャマ姿でボーッと部屋にいるのであった。そういう生活が続いて、今はもう一月も終わろうとしているのだ。ところがそういう私の姿をみても我が母は何もいわない。
「ねえ、私就職したほうがいい?」
そう母にきくと彼女はテレビに映っている沢田研二をみながら、
「さあね、好きなようにしたら」
と全く興味がなさそうにいうのである。
「私どんなところが向いてると思う?」
「そんなこと親に聞かないでくれる」
母は明らかに娘よりも沢田研二のほうに関心があるらしく、おかきをボリボリかじりながら目はじっと画面をみたままである。
「ねえ、私就職したほうがいい?」
今度は弟にきいてみた。
「そんなの決まってるじゃない。バカじゃないの、おねえちゃん」
弟は線目を横目にしていう。
「どうしていつも本ばっかし読んで、タランコタランコしてるの。はっきりいってボク、目ざわりなんだよね。いっそ前の原っぱの木に登って、首からナマケモノっていう札下げて、ずっとぶら下がってれば」
とひどく冷たいのである。
「私ってジャマものかしら」
しおらしくそういってみると弟は、
「そう! ヨメにいくか働くかどっちかにして」
きっぱりいいきるのであった。ヨメと職捜しとどっちが楽かと考えてみると答えは明白であった。翌日から私は新聞の求人欄を端から端までなめるように読んだ。事務の仕事は全くヤル気がなかったからそれはどんなに高給でもはずした。当時私は密かにコピーライターになりたいと思っていた。だから広告制作会社とか広告代理店という文字があると見逃さず、右手に赤マジックを持ってグリグリとしるしをつけようと意気ごんだが、新卒でましてや女子となると求人も皆無に近く、そういった業界が求めているのは経験者ばかりなのだった。
「あーあ、めんどうくさいなあ」
私はタタミの上に寝っころがってボワーッとあくびをした。するとそういう私の姿をみて弟は細い目をつり上げ、
「バカ! 何考えてんだよォ、ちゃんとやれよちゃんと」
そういって寝っころがっている私の頭をボカボカ右足で蹴るのである。
「痛いよォ、お助け下さい、お代官さまァ」
私が寝っころがりながらうめくと、弟はさげすんだ目をして私を見下ろし、
「フン」
といって去っていった。仕方なく赤マジックを手にまた起き上がり、求人欄を端からずっと見ていった。毎日毎日こういう日が続いた。いいかげん求人欄も見飽きてしまい、広告代理店や広告制作会社の求人よりも、
誰にでもできる簡単でたのしいお仕事≠ニか、
素人歓迎 明るいお店です。スナックうさちゃん
などという広告ばかり目についてしまうのだった。ため息をつきながらずーっと顔を横に動かしていくと、
新卒≠ニいう文字が目に入った。そしてその下に天の助けの男女≠フ文字! そのうえそれは代官山にある広告代理店であった。
「す、すごい……。こ、ここに決めた」
私は興奮して赤マジックでグリグリするヒマもなくその部分をひきちぎった。
「ざまあみろ、このやろー」
そういいつつ私は弟の部屋に侵入した。
「ホレみろ、私はここに入るぞ、ワッハッハ」
露骨に嫌な顔をする弟の目の前に、今ひきちぎったばかりの新聞をつき出し、ピラピラさせながらそういった。二十二歳のその時まで、私は代官山なる場所へ足をふみ入れたことはなかった。小石川→練馬→保谷と転々としたために、渋谷、青山、代官山などという字を見ただけで胸躍るのであった。おまけに広告代理店である。代官山の広告代理店勤務なんて、まるで、「MORE」の世界ではないか。すでに私の頭の中には颯爽《さつそう》と働くおのれの姿が浮かび、自然とだらしなくホホがゆるんでしまうのであった。
「エバるのは受かってからにしてくれる!」
そういって弟は私を部屋から追い出した。
「そうだ、まだ難関があった……」
私はおとなしく机の前にいき、その求人広告に書いてあるように履歴書と作文を送った。実は履歴書を送るのは初めてではなかった。十月頃社名にひかれてCBSソニーに堂々と写真まで貼《は》って履歴書を送った。しかしすぐさまそれは返送され、書類選考で落とされたことを知った。その時はただ、
「ふーん、やっぱりね」
と思っただけだった。しかし今度は代官山という土地がどうも私を刺激するのである。
「代官山勤務をしたい!」
などという本末転倒の考え方で私は履歴書を投函《とうかん》した。それから毎日私は代官山で働く女を夢みていた。そのたんびに、
「かっこいいなあ」
と思い口元がゆるんだ。書類選考のあと試験があるはずだった。二日たっても三日たっても結果を知らせてこなかった。
「ねえ、何か変だと思わない?」
母親にいってみた。
「何が?」
「このあいだの広告代理店よ。まだ書類選考の結果がこないのよね」
「あーら、それは大変だ」
「………」
うちの母親には何をいってもダメなのだ。私は多少イライラして猫のトラちゃんの上に馬乗りになったり、インコのピーコちゃんの尻尾《しつぽ》をひっぱったりしてウサを晴らした。そしてついに一週間後、ていねいな女性の声で面接日を知らせる電話がかかってきた。
「ガハハハ、やったー、第一関門突破! ざまあみろ」
私は一人で明るく騒いだ。しかし母と弟は相変らず冷たい目をして、
「フン、軽はずみにすぐはしゃぐところなんか別れたお父さんそっくり」
といっていじめるのである。
「ところであんた、何着ていくのよ」
そういわれて私は愕然《がくぜん》とした。面接なんぞに着ていく服など持っていないのである。自信を持って着られる衣服はパジャマのみ。なんせ茶色のコーデュロイパンツに同色のセーター、背にはラクダ色のリュックサックをしょって秩父の草深い野原を歩いていたら、地元のおっさんに狸《たぬき》と間違われて鉄砲で撃たれそうになったくらいなので、会社の上層部の人々に会うための服などあるわけないのだ。一応どうしようかとは考えた。「清水《きよみず》の舞台からとび降りたつもりで買う」「友だちから借りる」「母親から借りる」「ふだん着ですます」「面接にいかない」。五つのうち一つである。まず面接にいかない、友だちから借りる、母親から借りる、というのはバツである。私の友だちも母もそんなに人が良くないからである。
「もしかしてこの面接が私の人生を決定するかもしれない」
そう思うと私の心は「清水の舞台からとび降りたつもりで買う」に傾いた。代官山の広告代理店勤務→近くに大使館多し→道を歩いていて大使館員に見染められる→結婚→彼、母国に帰る→外国に滞在。こういうことは我ながらあきれるほどに簡単に頭に浮かんでくる。
「そうだ、人生には勝負するときがある」
しかし面接に着ていく服を買うと、私のスズメの涙ほどしかない貯金残高はゼロになってしまうのである。通帳をみながら、
「服に金をつぎこむ価値はあるだろうか」
そう自問自答した。無事合格すればバンバンザイだが、はっきりいって私が合格する可能性は50パーセントである。他のことならともかく就職試験の面接のために貯金残高をゼロにする必要があるだろうかと思いはじめた。結論はすぐ出た。「ふだん着ですます」ことにした。
当日私は黒のセーター、黒のコットンパンツに運動靴といういでたちで代官山の地を歩いた。外人とすれちがったりモデルさんが歩いていたりして思わず興奮した。その会社は渋谷と代官山のちょうど中間にあり、通りから少し奥まったところにあるとても大きなマンションの十二階にあった。ふつうの二世帯住宅用の部屋を事務所に使っていた。五分程別室で待たされると、総務の女の人が私を呼びにきて面接が始まった。部屋に入ると、
「いやあ、どうもごくろうさまです」
という明るい声がかかった。二人の男性がニコニコ笑いながら座っていた。私に声をかけたのは二人のうち年をとった男性のほうで小柄でコアラのような顔をしていた。
「どうぞお座り下さい。わたくしは山田と申します。こちらが社長です」
社長といわれたその男性は相撲取りのような体格の四十前と思われる男性で、広告代理店の社長というよりも、土建屋のオヤジといったタイプだった。
「どうも、高田です」
大阪弁のアクセントで彼はそういった。
「私はねえ、自分がテストなんか大嫌いだったから、社員を選ぶのにもそういうことはしたくないんですわ。だから広告についてねえ、何でもいいですわ、テレビでもラジオでも雑誌の広告でも、とにかく広告についてあなたの考えを話してくれませんかね」
そういわれて私には思いあたったことがあった。当時私は生意気にも「|20ans《ヴアンタン》」というフランスの女性誌をとっていた。中身など読めるわけがなくただ見てて楽しかったので愛読していた。その中の夏の号で、金髪の女の子が後ろ向きになっていて、三編みした髪の毛に生花が飾ってあるとてもきれいな写真が目についた。写真は女の子の肩から上しかなかったのだが、私はその写真を何度みてもあきなかった。ところがある日西武新宿線に乗っていて車中の広告を何とはなしにながめていて目がとび出そうになった。あの「20ans」の例の写真と同じアングル、多少髪に飾った花の位置や全体の色合いは違っていたが、モロあれのマネとしか思えない広告が堂々とそこにあった。それも大手のデパートの広告だった。私はひどく腹が立った。そういう大手の広告を創《つく》る人たちはきっと感覚も鋭く有名な人なのだろうが、そんなことをして恥ずかしくないのかとムラムラ怒りがこみあげてきた。そしてそんなことしてガバガバ金を儲《もう》けている。
「知らないと思ってバカにするんじゃねえや」
と一週間くらい怒りはおさまらなかった。ということを思い出し、彼らに向かって話した。ところが話しているうちにだんだんそのときの怒りがよみがえって興奮し、最後は社長に対してその件について厳しく詰問までしてしまったのである。
「うーむ、そりゃあいけませんねえ」
コアラ男はわざとらしく腕組みしていった。
「あんたのいうこともようわかる。だけどあの広告創ったのボクじゃないからねえ。そうキツい口調で話さんといてくれんか」
社長はニガ笑いしながらいった。
「そういうことする人もいるんですよ、中には。でもうちは違いますよ。オリジナリティを大切にしてますからね。オリジナリティを」
コアラ男はニコニコしていった。ほかには好きなCMや音楽についてのアンケートに答えさせられ、十五分くらいで面接は終わった。渋谷までトボトボ歩きながら、どうも私の描いていた広告代理店のイメージとは違うという気がしていた。だいたい靴をぬいでスリッパをパタパタさせて歩きまわったり、社長もイタリアンファッションに身をかため、派手なネクタイをしているといったタイプでもなかったし、アカぬけているといった雰囲気ではなかったからだ。
「貯金おろして服買わなくてよかった」
そう思った。ところがどういうわけか私はそこの会社に受かってしまった。アカぬけない雰囲気に合ったのかもしれない。私は勤めから帰った母にむかって、
「おい、会社に受かったぞ」
といった。母は両手に買物袋をブラ下げていたが、ニッコリ笑って、
「バンザーイ、バンザーイ」
といった。弟は、
「ねえちゃん、ヨッ、高給取り! 小遣いちょうだい」
といって手をさし出すのであった。母は親類縁者に電話をして就職が決まったと騒いでいた。そしてひととおり報告が終わると、
「ところであんた、会社に何着ていくんだい」
といった。常に私に対する質問はこれなのだ。会社からは三月一日に出社するようにいわれているし、さすがの私も、これからずっとふだん着ですまそうとは思わなかった。泣く泣く虎の子の貯金をおろしてスーツを買うべく都内をかけずりまわった。ところがズボンとダブダブのセーターを着慣れていたせいで、店員さんから、
「サイズは?」
とたずねられてもよくわからず、
「さあ、どのくらいでしょう」
と答えてしまい、彼女のバカにした視線を浴びたまま差し出された紺色のスーツを試着した。全く似合わなかった。店員さんはいろいろ違ったタイプのものを持ってきたが、結局はその中では紺のスーツが一番マシであった。よく考えてみたらスーツの色、デザインうんぬんの問題ではなくスカート自体が似合わないことがわかった。試着室の鏡にうつる私の姿をみて店員さんは、
「お客様、いつもスカートはいてます?」
ときいた。
「いいえ、四年ぶりです」
そう答えた私は鏡の前で仁王立ちといった具合で、本当に私に着られるスーツがかわいそうだった。
「そのうちスカートにも慣れますよ」
と店員さんにも明るくはげまされ、私はスーツの箱をかかえて家に帰った。母と弟の前で着てみたが当然の如く不評であった。
「なんかウィークエンダーに出てた女装強盗みたい」
母親はいった。弟は、
「こんなにスカートが似合わない女はめずらしい」
と不思議そうな顔をしていった。でも私には初出勤の日に着ていく服はこれしかないのだ。
「まあ何とかなるわい」
あまりこの件は深く考えないことにして、日課にしている太モモが細くなる体操をして寝た。
三月一日は、朝九時までに会社にいかなければならなかった。ここ何カ月もの間、朝という時間帯に起きたことがなかった私は、前日夜中に何度も何度も目が醒《さ》めた。そして大変な問題に気がついたのである。
「靴がない……」
そう、私にはスーツにあう靴がないのだ。まさかいつもの運動靴をはいていくわけにもいかず、どうしようかとうろたえた。
「そうだ、これしかない」
私はパジャマのまま玄関まではっていった。下駄箱を開けて薄明かりの中で物色すると、母のとっておきの5センチのヒールの靴があった。色は黒、シンプルなデザインで紺のスーツにあわせてはいていける。私はその靴を右手に持ち、物音をたてないようにしてそーっと布団の中に隠した。
「ここに確保しておけば安全だ」
ズルズルと再び布団の中にもぐりこみ、一安心してウトウトとしたとたん、
「ビリビリビーン!!」
というものすごい目覚し時計の音でとびおきた。あまりに寝相がひどくて目覚し時計に耳をくっつけて寝ていたらしい。中途半端な睡眠時間で起こされた私の顔は明らかにボケていた。
「あー、またマブタが腫《は》れている」
肝心な時はいつもそうなのだ。好きな男に愛の告白をした日、そしてめでたい初出勤の日、代官山をこの顔で歩かなければならないかと思うと気が重くなった。
「そうだ、靴、靴」
掛布団をパッとめくるとそこにはフニャッとなった靴がバラバラに転がっていた。寝ながら移動し続けた私の体の下でひしゃげてしまったのだ。
「あーあー」
と半泣きになっても私には時間がない。あわてて朝御飯をたべ、似合わないのがわかりきっているスーツを着た。ため息が出た。なるべく自分のいでたちのことは考えないようにして、ひしゃげた靴をはき、駅まで走っていった。ヒールのある靴なんて一、二回しかはいたことがない私は前につんのめりそうになり、そのたびに足元でバックンバックンと音がした。おまけにラッシュアワーで電車はスシづめ。学生時代とくらべると天国と地獄だった。これから毎日こういったきゅうくつな格好してこんな電車に乗らなきゃいけないのかと思うと、ただちに会社へいく気がなくなった。満員の山手線の中で私はなるべく楽しいことを考えようと努力した。
「代官山の広告代理店、代官山の広告代理店」
そればっかりブツブツ口の中で唱えていた。
息をきらして会社のドアを開けたのは八時五十八分だった。みごとに私のかかとは靴ズレになり、痛くて痛くてガニ股《また》じゃないと立っていられないくらいだった。
「あの、皆さん集まってますからこっちに来て下さい」
総務の女の人が私にむかって部屋の中から手まねきをした。いわれるまま部屋の中に入っていくとスーツ姿の男女が緊張した面持ちで並んでいた。私を含めて十一人、そのうち男の子が四人だった。他の女の子はみんなきれいにお化粧していてとても初々しかった。ますます私は気分がおちこみ、四年ぶりにストッキングをはいた甲高幅広の靴ズレした我が足を見ていた。しばらくすると面接の時にいたコアラ男がメモを片手に登場した。そのあとを社長ともう一人初老の男性が体をゆすりながらあらわれた。
「や、どうもどうもお待たせしました」
彼はこぼれるようなわざとらしい笑いを浮かべていった。
「えー、このたび私どもはここにいらっしゃる皆さん方を新入社員として迎えることになりました。実は非常に多くの方から応募をいただきまして私どもも討議に討議を重ねて皆さん方にきていただくことになったわけでして。つまり皆さん方はとっても優秀な方々であることを自負していただきたいですね、ハッハッハ」
私たちは何となく笑わなければいけないような気がして、あいまいな笑いを浮かべた。
「ま、細かいことはそのつどお話することにして、まず配属だけ発表します」
コアラ男は笑いを絶やさずにメモを読み上げた。私は営業部であった。横目で同期入社した彼らをみていると、女の子はきれいなかわりに一クセも二クセもありそうな気の強そうな顔をしていた。男の子は女性優位の人数のせいか、ひっそりと四人かたまっておとなしくしていた。
社長と一緒に入ってきた初老の男性は、コアラ男の説明によると専務だった。この人は、メンメンメガネの五割引き≠フCMのときに、よいメガネ≠ニいう旗をもって出てくるメガネをかけたサルにそっくりだった。そしてワイシャツの下に腹巻きをしているのがすけて見え、話し方といい態度といい、何となくそのスジの人のような雰囲気をただよわせていた。
彼らから、体に気をつけて働くようにというきまりきった言葉をかけてもらった私たちは、コアラ男につれられて、ゾロゾロとつらなって先輩たちに挨拶してまわった。ここの会社は営業部と制作部と媒体部に分かれていて、制作部は一つ下の階にあり、総勢四十人というまあまあの会社だった。営業部の人たちはともかく、制作部にはへんてこな人ばかりいた。制作部長はズラッと並んだ私たちをみるなり、
「山田さん、この中で一年たって残るのは何人くらいかねえ」
とものすごく大きい声でいった。
「いやあ、こりゃまいりましたなあ、ワッハッハ、今度はみんな根性がありそうだから大丈夫でしょう」
私は少し不安になった。制作部の主任というのは若い女性だった。
「あらーん、どうぞよろしくね」
と甘ったるいしゃべり方のしなを作る軟体動物タイプで、素足にフレアのピンクのミニスカートをはいているのも気持ち悪かった。制作部の次長はイガグリ頭で黒ブチめがねをかけた職人のような人だった。ともかく同じタイプの人が誰一人としていない、てんでんバラバラの人間が寄り集まっている会社だった。あまり深くかかわりあいたくないタイプの人ばかりだったが、私の配属は営業部で彼らとは毎日顔つきあわすわけじゃないので少しは気が楽だった。
営業部の上司は制作にくらべて比較的おっとりしていた。例のコアラ男は実は次長で、私の直属の上司では一番偉いのだった。課長は色白でおっとりしたお坊ちゃんタイプで、肥満体にもかかわらずベイ・シティ・ローラーズが着るような真赤なタータンチェックのシャツを着ていた。そして営業部にも井上さんという女性の主任がいた。制作の軟体動物とはちがい、こちらはまさに鉄の女といった風貌《ふうぼう》で、化粧気のない顔に浮き出た無数のソバカスと目尻《めじり》の小ジワが今までの苦労を物語っていた。ひととおり社内のお目通りが終わると、女子だけ井上主任のところで話をきくようにといわれ、私たちは彼女のあとについて台所に入っていった。
「いいですか。お茶くみなどといってバカにしてはいけません。商談もお茶の入れ方ひとつでまとまったりダメになったりすることがあるんですからね。おろそかにしないようにお願いします」
彼女はハキハキした口調でいった。私はシワシワの顔、やせぎすで猫背という体型、しかし眼つきだけは鋭いという容貌をみていた。ずーっと勤めていると、ああいうふうになってしまうのかと思うと私は少しビビッてしまったのだった。彼女はお茶の葉が入っている茶筒を指さし、
「この緑のカンは社員用です。こっちの赤いカンは社長や専務、お客様に出します。これを間違えないように。わかりましたか!」
といった。大きな急須《きゆうす》のフタをあけて、
「いいですか、この急須に葉はこのくらい、これ以上いれるとムダです。分量を早く覚えるように。わかりましたか!」
彼女はわかりましたかを連発しながら湯呑《ゆの》みにお茶をつぐ順序、何人分か一緒にいれるときはお茶の色が均一になっていることなど、とうとうと話しはじめた。
「ああ、めんどくさいことになってきた」
と思った。たかがお茶一杯いれるのにああだこうだといわれ、これから先どんなことをいわれるのか不安になった。彼女は額に汗して一生懸命話し続けていたが、私はそれをぼんやり眺めながら、きょうのお昼は何を食べようかなあ、と考えていた。
「それではさっそく今日からお願いします。わかりましたか!」
彼女のひときわ大きい声がすると、まわりの女の子たちはペコリとおじぎをした。私もあわててペコッと頭を下げた。
「ねえ、今日から何するの?」
私は隣りに立っていた子にきいた。
「あなた何もきいてなかったの。今日からお茶を当番でいれるのよ。あなた今日の当番よ」
というのである。
「え〜っ。私ろくに話きいてなかったから、教えてくれない」
私がうろたえていうと彼女は、
「あ〜ら、主任はさっき全部説明していったわよ。あたし知らない。自分で適当にやったら」
と冷たい。何という陰険女と思ったが、考えてみれば私が悪いのだ。仕方ないので台所に置いてある大きな急須と湯呑み茶碗《ぢやわん》を前にして作業を開始した。唯一覚えているのはヒラには緑、おエラ方には赤のカン≠アれだけである。私はパカッと緑の茶筒のフタをあけ、葉を急須の中に入れようとした。そのとたん予期せぬ出来事がおきた。茶筒の中には想像以上に葉っぱがたくさん入っていて、いっきにドバッと急須の中に落下してしまったのだ。
「わわわっ」
あわてて中を見ると急須の半分が葉っぱ。えらいことになったと必死にスプーンで葉をかき出していると、急に主任が台所に入ってきて、
「どーお、ちゃんとできる?」
という。私はこの事態を悟られてはならじとあわてて急須の中にポットの湯をさし、
「はあ、何とか」
と笑ってごまかした。主任が出ていったあと、急須のフタをあけてそーっとのぞいてみると、中は小学校の裏庭の池のように緑色ににごり、どよんどよんしているのだった。
「ああ、えらいことになった」
しかしこういうときは悪知恵が働くもので、これをちょっとずつ湯呑みについで、あとは湯でうすめてしまうというカルピス方式をあみ出したのであった。お茶をつぎ終わり、湯呑みをお盆の上にのせたまま眺めていると、もとはどよんどよんしたいれそこないのお茶とは思えないほど、おいしそうな色をしていた。
「しめしめ」
私は営業部の社員にお茶を配り終わり、ホッとして自分の席に座った。
営業部は全部で十四人だった。新入社員は私を含めて女の子三人、男の子四人は全員営業部にまわされていた。そして先輩の男子社員が三人、女子社員が一人、井上主任、課長、コアラ顔の山田次長というメンバーで、表面上はとても活気があるようにみえた。緊張して胸がドキドキした。
「ねえ、あなた、ちょっと悪いけどこの書類ファイルしてくれませんか」
そう私に向かっていったのは隣りの席にいる坂田さんという一年先輩の男性だった。デビューしたての沢田研二といった風貌の彼はやたら誰に対しても腰が低く、いかにも営業マンといった感じの人だった。私に手渡されたのは広告主に渡すための雑誌の媒体資料で、そこには発行部数や広告料金が載っているのだが、その広告料金が何十万、何百万という単位なので私はびっくりしてしまった。自分たちの商品の広告をそれだけの料金を払ってあっちこっちに出している会社は、それでも元がとれるのかと思うとそら恐しい気がした。おまけに私たちは広告を出すほうと載せるほうとの間で仕事をしてお金をもらうという、とても中途半端な仕事のようにも思えた。私は高さ10センチくらいある媒体資料を項目別にファイルしながら、この雑誌の広告料金はいくらかなあ、などと好奇心丸出しで、タラタラ仕事をしていた。ほかの女の子も新聞のファイルとか雑誌のスクラップをしていた。
あっという間に十二時になった。山田次長は私たちに向かって、
「さあ、君たちも食事にしなさい」
と優しくいった。食事にしろといわれても右も左もわからない私たちはただ自分の机の前につっ立って、他の人の行動を観察していた。すると私のところに、朝私がお茶のいれ方をきいたときに、冷たかった女の子が寄ってきて、
「お昼食べにいこう」
といった。私は彼女と一緒に会社を出てブラブラと食事ができる場所を求めてさまよい歩いた。彼女はケイコちゃんという名で、色黒骨太のやたら元気のいい子だった。
「あなたどこか知ってる店ある?」
彼女は私にきいた。
「まさか、私ここの会社の試験受けるときにはじめて代官山に来たんだもん」
「そうか。意外とさあ、東京生まれの人って、今はやりの街のこと知らないんだよね。私も家が大塚だから、でかけるっていってもいつも手近な池袋ばっかりだったし」
私たちはあてもなく渋谷と反対方向に歩いていった。すると目の前に真白い建物が登場した。ヒルサイドテラスと表示してあった。
「あっ!! 私ここアンアンで見た!!」
思わず指さして叫んでしまった。「アンアン」の写真と全く同じ建物がそこにあった。
「ちょっと、みっともないからバカでかい声出すのやめなさいよ」
ケイコちゃんはクスクス笑いながらいった。
「そうだ、たしかここには、トムズサンドウィッチっていう店があるのよ!」
「アハハ、あるある。またアンアンで見たっていうんでしょ」
「アンアン」に載っていたとおり、その店はあった。ドアを開けたとたん私たちはのけぞってしまった。そこにいるお客さんたちが明らかに私たちとは違うタイプの人ばかりなのである。そこはもろにマガジンハウスが出版している雑誌の世界だった。そこへいかにも新入社員といったスタイルの私たちが入っていったのだからむこうもびっくりしたらしく、目の上真青、くちびる真赤っか、目のまわり真黒のおねえさんに横目でジロジロみられてしまった。そういう視線に耐えつつ私たちはそこの店でBLTサンドを食べ、そそくさと店を出た。
「くそーっ、面白くねえなあ」
ケイコちゃんはいった。
「私たちだって、こんな格好したくないよね」
「そうだ、そうだ」
私たちはお互いブツブツいいながらヒルサイドテラスをブラブラと見ていた。
「あっ、BIGIだ!!」
私は再びそう叫んで素通しのガラスにへばりついた。突如スーツ姿の女がベターッとガラスにくっついてじーっとこっちをみているので店の中にいた店員さん(まだ当時はハウスマヌカンなどという言葉はなかったのだ)はこっちを見てけげんな顔をしていた。「アンアン」でしか知らなかった代官山にある店を目のあたりにして私は完全に舞い上がっていた。まるで代官山ツアーで、あれが小川軒、はらっぱA、スイートリトルスタジオ、朱里エイコの住んでいるマンション、シェ・リュイ、私はあれこれ指さしながら歩いた。
「あんたって本当に東京の人?」
ケイコちゃんは笑っていった。
「そうだよ。だって私、生まれてはじめて雑誌に載ってる店の実物見たから。あなた興味ないの?」
「あるけどさ、あんたみたいに露骨に恥さらさないようにするわよ、私は」
「ふーん」
そうこうしているうちに時計は一時をまわろうとしていた。私たちはあわてて走り出した。
「ねえ、午後から何させられるのかねえ」
私がそういうとケイコちゃんは、
「さあね。きょうは初日だから顔あわせと雑用で終わるんじゃない。あと五時間の辛抱だからさ。帰りも一緒に帰ろうね」
と骨太の体ながら軽やかに走りながらいった。ケイコちゃんがいったとおり、その日は午前中の仕事をダラダラしただけで終わった。ところが一日営業部にいて、気になることがあった。一年先輩の女子社員である染谷さんという女の人の目つきが、どうも昼間勤めている女の目つきではないのだ。彼女のもつ雰囲気は明らかに水商売の雰囲気なのだ。真赤な口紅に同色のマニキュア、ラメ入りの黒いセーターに前に深いスリットの入ったタイトスカートという服装で、おまけにとても胸がデカイのであった。私が推測するに胸囲が1メートル近くありそうだった。
そして男性社員と話すときは必ず彼らのどこかをさわり、胸を揺すりながら上目づかいにしているのだった。彼女が部屋に入ってくるとどこからかタブー≠ェ聞こえてくるようなかんじがした。彼女は営業事務と電話交換をやっていたが、煙草ばかり吸って仕事へのヤル気など全く感じられず、そういう彼女の姿を冷たい目でニラんでいる井上主任の眼がこれまた恐しいのであった。
「めんどうくさいことにまきこまれるのはいやだなあ」
と思った。とにかくどの人も個性的な人ばかりで、話合いをしても絶対にまとまるはずがないことが予想された。これはうまく立ち回らないと大変なことになりそうだった。
初日は七時に会社から解放された。私はケイコちゃんと一緒にそそくさとバッグをかかえ、エレベーターに乗ろうとした。
「ね、君たち用事がなかったら食事していかない?」
背後で声がしたのでふり返るとそこには営業部の坂田さんと山下さんが立っていた。私たちも別に何の予定もなかったのでおとなしく彼らのあとにくっついていった。住宅街をちょっと入ったところに品の良いフランス料理店があった。
(あっ! ここも「アンアン」で見たことある!)
と思ったが黙っていた。
「こんなに早く帰るのって何年ぶりかなあ」
「オレ、信じられない。家帰って何していいかわかんないよ」
坂田さんたちは口々にそういった。
「いつもは何時くらいなんですか」
「何時なんてもんじゃないよ。だいたい十一時に会社を出るのがふつうなんだから。君たち今日みたいにはやく帰れるのは今日だけだと思ったほうがいいよ、ねーっ」
坂田さんと山下さんは顔をみあわせていった。
「そんなに遅くなるんですか」
私は心配になってきいた。
「女の子だって大変だよ。うちの会社は男女同一賃金だからシッカリ男と同じだけ働かされるぞ。覚悟してたほうがいいよ、ホント悪いこといわないから。家の人にもそのことは早めに話したほうがいいと思うよ。まともな時間には家に帰れないって。心配するから」
先輩たちは私たちに気をつかってくれた。私はフィレステーキを前にしていたにもかかわらず、だんだん食欲がなくなっていった。
「今日だってさ、営業に七人配属されたでしょ、一年たって何人残ってると思う? 想像できないでしょ。オレたちのときだって最初二十人いたんだぜ、それが一年たって残っているのは坂田とオレとあの染谷だけだもんな」
そう山下さんがいうと坂田さんもうなずき、
「君たちだっていつやめるかわかんないぞ、今はのんきに代官山で肉喰ってるけど」
とキツイことをいうのだった。
「はっきりいってさ、むちゃくちゃ働かされるよ。ボクなんかみてよ、君たちと一つしかちがわないんだぜ。それなのにこのシワ!」
そういって坂田さんは自分の顔を指さした。まだ二十三歳の若さだというのにすでに目尻はシワが刻みこまれていた。
「オレはシラガなの」
山下さんはそういってこめかみのはえぎわをかき上げた。そこにはシラガが群生していた。
「体なんかガタガタ。腰は痛いし足は弱るし。もうお嫁さんもらえなくなっちゃう」
といって情けない声を出すのである。
「君たち井上主任の顔見たでしょ。あの人他の会社から主任待遇でひっこ抜かれたんだけど、うちの会社にきてまだ半年しかたってないんだよ。たった半年だよ。それでああいう顔になっちゃうんだから」
「えっ、たった半年でああいう顔になっちゃったんですか」
私がびっくりしてきくと、
「そうだよ。半年前にはあんなにシワはなかったよ。ねーっ」
そういって二人はうなずくのであった。
「なんせうちは三年ガマンしたら係長になれるんだから。ま、三年もつか体がダメになるかどっちかだけどね」
「でも今日みてて活気があるような気がしましたけど……」
「活気? そんなのあるわけないじゃない。課長だって何やってんだかよくわからないし、ため息ばっかりついてるんだから。張り切ってるのはファッカーだけだよな」
「そうそう」
私とケイコちゃんは顔をみあわせ、ますます食欲は減退していた。
「あのー、ファッカーっていうのは誰なんですか」
ケイコちゃんが小声でたずねると、山下さんはつっけんどんに、
「山田だ! 山田!」
といい放った。
「ファッカー山田っていうんだあいつは」
おとなしい坂田さんもだんだん激昂してきてフォークで肉をグサグサとつついた。彼らがいうにはファッカー山田はコアラのようなボーッとした顔をしつつもとても計算高く、部下をこき使う一方で上司にモミ手するといったどうしようもない男であるらしかった。
「悪いこといわないから、いっしょうけんめいやらないほうがいいよ。役付きになりたいっていうなら別だけどさ」
「じゃあ、坂田さんや山下さんはいっしょうけんめいやってないんですかあ」
ケイコちゃんはサラダを食べながらきいた。
「………」
彼らは顔を見あわせて黙々と肉を食べていた。
「染谷さんは元気がよさそうですね」
私がそういうと、
「ああインラン染谷ね。あいつ仕事してないから元気なの」
坂田さんはそういってつけあわせのパセリをムシャムシャ食べた。初日だというのに先輩からきいた話はやたらと暗いものだった。代官山でのフランス料理の味もほとんどわからなかった。別れ際、渋谷駅で彼らは、
「君たち、|代官山《ヽヽヽ》にダマされちゃダメだよ」
といった。私たちはドキッとしてうつむいてしまった。山手線に乗っている間、私とケイコちゃんは何もしゃべらなかった。ただ目が合うとお互いため息をついた。彼らのいったことが本当だとすると、これから毎日とんでもない生活になりそうだった。それにガマンしても半年たつと、井上主任のようなシワだらけの顔になるのかと思うと、ますます暗くなった。
次の日、また私は超満員の山手線に乗って会社に向かった。せっかく確保した吊革《つりかわ》をとられるものかと必死に右手で握りしめていた。ところが駅に着くたびに乗りこんでくる、目をつり上げたドブネズミ背広のおじさんたちに押されて、私の右手はわっかをつかんだまま体だけ奥へ奥へと移動し、肩から右手がはずれそうになってしまった。おまけに左肩からはショルダーバッグがすべり落ち、かろうじて握ったヒモの先についたバッグ本体は、ギッチリつまったおじさんたちの密着した腹と腹との間でペッチャンコ。ふんばって開いた足の間にはいつしか誰かの足が入っていて、まさに両手両足をおっぴろげたすさまじい姿になっているのだった。そういう体位のまま、電車が右に左にゆれるたびに人がドーッと押しよせてくると、思わず、
「うーっ」
と声が出てしまう。たかだか高田馬場から渋谷までの十分くらいの間で、再起不能なくらいの肉体的ダメージをうけた。うしろからつきとばされるようにしてプラットホームに放り出された人々は、ハーッとため息をついた。私もヨレヨレになりながら会社までトボトボと歩いていった。あっちこっちドツかれて体中が痛かった。どうしてこんな思いをしなきゃならないのかと悲しくなった。重い気分で会社のドアをあけるとケイコちゃんや同期の男の子が雑巾《ぞうきん》や掃除機をかかえて走りまわっていた。私たち新入社員は男も女も先輩たちよりも三十分早くきて掃除をしなければならないのだった。
「ちょっと、あんた、何ボーッとつっ立ってんのよォ」
ケイコちゃんは雑巾のしずくをポタポタとたらしながらいった。
「奥のトイレの掃除がまだなのよ」
仕方なく雑巾をもって、はいつくばってトイレの掃除をした。男の子たちは思いどおりに作動しない古い掃除機に腹をたて、足でケッとばしながらあっちこっちウロウロしていた。
「いやー、ごくろうさん。みんなマジメに掃除やっとるねえ!!」
社長が出社してきた。どういうわけか社長が姿をみせたとたん、会社の雰囲気は代官山の広告代理店というよりも、土建屋というかんじになった。
「よしよし、男性諸君もマジメにやっとるね。こんなことは女の仕事だと思ったらいかんぞ。いつ何どき台所用品や便所のコピーを書いてくれという仕事がくるかわからん。そんなときにこういうことが役に立つんや。実際自分で見たりさわったりしてはじめて商品がわかるんや。だから勉強だと思ってしっかりやれや」
社長は誰もきいていないのに、ひどく上機嫌でしゃべりまくった。
「いやー、まったく、まったくそのとおりでございますねえ。何事も経験ですからねえ、ハハハハ」
いつ来たのかファッカー山田がいつものように社長のそばでタイコもちをしていた。私たちは黙ってヌルヌルした雑巾を洗い、乾燥機の中に入れた。私たちの掃除が終わるころやっと先輩が出社してくる。DOMONのスーツ、マダム花井のニットワンピース、ワイズ、みんなそういういでたちでやってくる。その中でただ一人異質な人類は染谷さんであった。まず彼女が入ってくると強烈な動物性の香水の匂いがした。ストレートの髪を背中まで垂らし、黒地にラメの入った体にぴったりしたセーター、後ろに20センチもスリットの入ったタイトスカート、そのうえ幅5センチのベルトで重量挙げの選手のように胴体を締めあげ、10センチのヒールをはき真紅の濡れたように光る口紅をつけてやってくる。まず今日も顔より何より胸からつき出た二つのマッターホルンに目がいってしまった。
「あーら、おはよー」
ハイヒールをぬぎながら彼女は私に向かってウインクした。
「はっ……は、あの、おはようござい……」
私はドギマギしてペコペコ頭を下げた。
「ねえねえ。あれなに。気持ち悪いなあ」
掃除機を片づけようと通りかかった吉岡君が小声でいった。
「あーら、男の人ってああいうタイプけっこう好きなんじゃないの」
「えーっ。なーにをおっしゃるウサギさん。オレ毎日肉ばっかりみたくねえよ」
「ふーん」
私はお尻をふりながら部屋に入っていく染谷さんのうしろ姿をみていた。社長のときと同じように彼女が部屋の中に入ってくると急にキャバレーのような雰囲気になる。そして運悪く私は彼女の隣りの席なのだった。
きのうと同じように私たち女子社員だけ主任に呼ばれた。私はきょうはお茶くみ当番ではなかったので安心していた。彼女は、
「みなさん方に今後注意していただきたいことがあります」
と目尻の小ジワをヒクヒクさせながらいった。私は腹の中で、はい何でしょうと答えた。
「誰とはいいませんがお茶をいれるときにきちんとしたいれ方をしなかった人がいます。今後濃くいれたお茶をお湯でうすめるようなことはしないように! わかりましたか!!」
「ス、スルドイ……どうしてわかったんだろう」
思わずうつむいてしまった。さすがダテに齢《とし》はとってないなあと思った。ケイコちゃんは私のことを指さしながらアカンベーをするのだった。画期的なカルピス方式も見破られてしまい、私はたかがお茶くみといえども奥は深いとため息が出てしまった。
部屋に戻るとビーブービーブーとうるさく電話が鳴っている。先輩の社員は誰も電話をとらない。ファッカー山田は、
「は、はやく誰か電話をとりなさい」
と立ち上がってわめいている。私たちはお互いの目をさぐりあっているだけで受話器に手は伸びない。私たちは電話の操作の仕方もまだ何も教えてもらっていないのである。
「はやく電話に慣れるために、新入社員が電話をとることになってるのよ」
私の隣りで染谷さんは身をくねらせていった。思いきって受話器をとると、まわりの人はみなホッとした顔をした。
「もしもしー、どうしたの? 社長いる? ○○だけど」
電話をとるやいなや早口でまくしたてられ、今きいたばかりの相手の名前が右の耳から左の耳ヘツーッとぬけていった。ともかく社長室へ電話をつなげばいいのだと思うのだがいったい何をしていいのかわからない。
「内線1番のボタンを押せばいいのよー」
染谷さんは足を組みながらそういった。
私は息をとめて1と書いてあるボタンを押した。
「はい」という声がかえってきてホッとしていった。
「あのー、社長にお電話ですけれど」
「私は社長ではありません」
電話口に出た男性は淡々とそういって一方的に電話を切ってしまった。
「えっ……」
汗が流れてきた。電話の赤い保留ボタンはピカピカ点滅しているままで、私の頭の中は真白になった。
「あっ、ゴメーン、2番だった」
染谷さんはクスクス笑いながらそういった。私は顔でハハハそうですか、と笑いながら腹の中は煮えくりかえっていた。やっとの思いで社長に電話をつないでも相手は公衆電話だったようで、すでに切れてしまっていた。そういうことがあるとますます電話をとるのが恐くなった。
「こういうことは数やって慣れるしかないのよ」
染谷さんはそういったが、次から次へとかかってくる電話を先方が名指しする人へとりつぐのはなかなか困難な仕事であった。とんでもない人に電話をとりついだり、保留ボタンを押すのを忘れて「少しお待ち下さい」といいつつ一方的に電話を切ったりして、私たちは毎日ファッカー山田から怒られ、電話恐怖症になっていった。
「いつもお世話様になっております」と「こんにちは」が一緒くたになって、「いつもこんにちは」
を連発してまわりの人に笑われたり、ドジを踏むまいと、きばればきばるほどますますドジを踏んでしまうのだった。
私はビーブー電話が鳴るたびに背中がゾクッとした。そして条件反射で汗がタラーッと流れてくるのだった。頭の中は電話がかかってきたらどうしようということでいっぱいなのに、隣りの席の染谷さんはそんなことはおかまいなしで、雑誌の広告ページ数の集計をしている私に向かっていろいろなことを話すのだった。
「ねえ、あんた彼氏いるの?」
彼女はニヤニヤしながら私にたずねる。
「えっ、いませんけど……」
「えーっ、いないの。淋しくなあい?」
「別に。私自宅から通ってますから」
「ああ、そうか。それじゃあ男遊びもできないわね」
「………」
「あたし、今|同棲《どうせい》してるんだ」
「はあ、そうですか」
「彼、ものすごく素敵なのよ。ボディ・ビルやってて、知的でたくましくて優しくて、あっちのほうも強いし……フフフ……」
「そりゃあ、よかったですね」
私はそう答えるしかなかった。香水の匂いをふりまき、胸をつき出してすり寄ってくる彼女の姿は異様だった。この人は明らかに選択する職業を間違えている。
「ねえ、あたしの彼氏の写真みたくなあい」
私は当然みたくなかったが、彼女の目は絶対嫌だとはいわせないぞといった光をただよわせていた。
「はあ、ぜひみせて下さい」
私はまわりで一生懸命仕事しているみんなの姿を横目で気にしながらそういった。彼女はハンドバッグの中から赤い西陣織の二つ折りの定期入れを出して、
「ほら、カッコイイでしょ」
と得意気に私に向かって一枚のカラー写真をみせた。そこに映っていたのは黒ブチ眼鏡をかけた大橋巨泉を若くしたような男だった。某宗教団体の本部にいけばいくらでもいそうな顔をしていた。
「ねっ、ほらねっ」
彼女は私の顔をのぞきこみながら明らかに同意を求める目つきをしていった。何かいわなければいかん、と私はあせった。
「と、とても優しそうな人ですねえ」
私がそういうと彼女は不満そうに私の手を握り、
「えーっ、それだけぇ、もっと誉《ほ》めるとこあるでしょ」
といって身をくねらせる。そのたんびに胸からつき出たマッターホルンの先が私の腕にさわり、異常な感覚が私を襲うのだった。相変らず他の人は眉間《みけん》にシワをよせて媒体資料をみながらああだ、こうだとマジメにお仕事をしている。私だけ男のことしか頭にないこのへんてこ女にとっつかまって、どうでもいい男の写真をみせられ、彼女が気に入る感想を述べなければならないのである。しかしどうみたって私にはその男には知性も感じられず、しいていえばデブをたくましいといい変えればそういえないこともないといった程度のものだった。
「ねえ、ねえ、他にはなあい?」
黙っている私に対して彼女はますますすり寄ってきた。私はマッターホルンの襲撃を避けながら必死に何かいわねば……と思ったが、適当な誉めことばがみつからず、
「この方と、どのくらいつきあってるんですか」
ときりかえすことにした。これは成功した。彼女は今まで握っていた私の手を離し、
「あのねーえ、もう七カ月になるかしら……」
とうっとりしながら話しはじめた。私は手が解放されてこれ幸いとさっきまでやっていた仕事の続きにとりかかった。彼女は胸をふるわせながらあの若い大橋巨泉を誉めあげ、ああいう素晴しい男とは今まで会ったことがなかった、これからもずっとそうであろうというのである。そして別の女と同棲していた彼を奪いとるために自分はどれだけ苦労をしたか、どれだけその女にいじめられたかを話すくだりでは、うっすら涙さえ浮かべはじめたのである。私はただきいているフリをして、
「ははあ、なるほどね」
と相槌《あいづち》をうってごまかしていた。彼女の話はとめどなく続く、ネバー・エンディング・ストーリーだった。いいかげん相槌をうつのもめんどうくさくなってきたちょうどそのとき、専務がやってきて彼女に用事をいいつけたので悪夢のような時間からやっと解放された。ところが彼女は座を立つときに、
「じゃあ、続きはまた明日ね」
などという。こういう話ばかりしている人が給料をもらっているなんてまさに給料泥棒だと思った。
事実、彼女はみんなから嫌われていた。何でも媚《こ》びればそれですむと思っているフシがあった。営業部内でふだんデスクワークをしているのは彼女だけで、話相手はいない。彼女と同期に入った社員は外まわりで忙しいし、下らない男の話ばかり聞かされては嫌われるのもあたりまえだったが、彼女は自分が嫌われているとは夢にも思っていない幸せな人だった。人の噂話《うわさばなし》、自分の彼氏自慢が何よりも好きという性格なので、仕事だってテキパキとできるわけがない。社内では、人が一日でやる仕事を三日間かけてやるというので有名だった。
それできちんと仕事ができていればどんなに遅くなってもそれなりに評価されるだろうが、彼女の場合はそうではなかった。仕事を彼女にたのむくらいなら、どんなに忙しくても自分でやったほうが早くて確実だというのが会社での常識になっていた。彼女が作成した書類の間違いを上司が指摘すると、
「あらー、間違えちゃったわ」
ですまそうとする。おまけに彼女が二、三回胸をブルブル揺するともうそれだけで上司は何もいえなくなってしまうのだった。それにひきかえ私たちは毎日毎日怒られない日はなかった。電話をきちんととりつがなかったといってどなられ、返事の仕方が悪いといってどなられ、早く帰ろうとしてもどなられて神経はピリピリしていた。
同期に入った社員もどんどんやめていった。会社にいくたんびに人数が減り、だれも座る人がいない机の上に花を置いてファッカー山田にひどく怒られた女の子もいた。私たちは先輩の坂田さんや山下さんと一緒に、
「ひーとり、ふーたり、さんにんやめた。ごーにん、ろくにん、しちにん、やめた、はちにん、くーにん、じゅうにんやめた、かいしゃがつーぶれたあー」
と十人のインディアンの替え歌をマンションの屋上で大声で歌ってウサ晴らしをした。私たちの仕事もだんだん過酷になっていった。最初、私にあてがわれた仕事は上司が指定したオーディオ誌のメーカー別の広告出稿ページ数をカラー、モノクロ、おのおのスペース別に分けて一覧表にするというもので、これは一日ページをめくりながら電卓を叩《たた》いていればよかった。ところが同期入社の男の子が次々に失踪《しつそう》したため、私にも外まわりの仕事がまわってきた。インラン染谷のネバー・エンディング・ストーリーから解放されると思うととてもうれしかった。
ところがあとから、インラン染谷のそばにいたほうがどんなに楽であるかを思い知らされるハメになるとは想像だにしなかったのであった。
突然来週からの外まわりを命じられて一番に困ったのは私は何を着用したらよいのかということであった。今までは部屋の中にいたから、家にあるものを適当に着ていけばよかったが、これからはそうもいかない。考えてみれば私は化粧すらしていなかったのであった。ファッカー山田は私を呼びつけ、
「私がいうのもなんだが、化粧ぐらいしてくれないかね」
と小声でいうのである。私は家に帰って母親に、
「化粧しろといわれたから、あまってるのをめぐんでくれ」
といった。すると母親は、
「そうなのよ。あんたももうちょっとかまえば、少しはみられるようになると思ってたのよ。そうかそうか、やっとその気になったか」
と勝手によろこび、翌日私の手をひっぱって化粧品店につれていった。カッパリとみごとに厚塗りした美容部員は私の顔をみて、パッパとアイシャドーやらほお紅やらいろいろなものを選び出し、私はいわれるままにそれを買って帰った。
「ちょっとあんた少し練習しなさいよ。今までみたいにギリギリまで寝てたら化粧してる時間なんかないよ」
母親は鏡の前の私の横にピッタリと座り、一緒にじっと鏡の中をみつめているのである。とにかく私が化粧品に望んでいることは、
「顔が細く、目がでかくみえること」
だった。美容部員の話によると、ほお紅とアイシャドー、アイライン、マスカラ、それとアイブロウペンシルを駆使すれば、
「岩崎宏美ぐらいにはなれる」
という話だったが、いわれたとおり色を塗れど全然近づかず、おまけにアイブロウペンシルで眉毛《まゆげ》をかいたら、ちっこい目を退けて眉毛ばかり目立ってしまい、博多俄《にわか》のメンのようになってしまったのだった。必死にやればやるほどどんどん私の顔はへんてこになっていった。青やピンクや赤がピカソの絵のようにいり乱れて、私は鏡の前に座ったままただあっけにとられていた。
「うーん、何かものすごい顔になったねえ」
母親は腕組みしていった。
「もうちょっとどうにかなると思ったんだけどダメみたいだわ。はっきりいって化粧品負けしてるね」
彼女は娘が悩んでいるのにもかかわらずキッパリといい放った。
よけいなお世話だ。誰のおかげでこうなったのだとムカムカした。
「あたし、代官山に通ってるんだよ! 街の中だってみんなモデルみたいな美人ばっかりなんだから! 一人だけみっともないなんていやだ!!」
「だってあんた、人間には限界というものがあるからねえ」
すでに母親は私のことを見捨てていた。そのうえふくれっツラをしている私に向かって、
「二十歳《はたち》すぎたら女は自分の顔に自分で責任をもて」
などと勝手なことをいって去っていった。
少しは学生時代に化粧でもしとけばよかったと後悔した。うちの会社の女子社員はデザイナーズブランドの服を着てきれいに化粧していたし、男子社員も営業部のジュリー、制作部のジュリー、媒体部のジュリーというのがいて、給料はほとんど服につぎこんでいるようだった。どうしても代官山≠ニいう土地の名前が私の背後にちらつき、私は着ていく服のことを考えると暗くなってしまうのだった。教科書にしようとあらゆる女性誌も買ってみた。そこには最小限の服で賢い着こなし。あなたのワードローブ活用法≠ネる一見役に立ちそうなページもあったが、私にはその最小限のワードローブすらないのだった。
私の通っていた芸術学部というのは明らかに日本の資本主義を投影している場所であった。社会的地位と財産がある両親をもち何不自由なく学生生活をおくる金満派と、金も地位も何もなくただおのれの才能のみに一縷《いちる》の希望を抱いて泥沼の中ではいずりまわっている貧民派がいた。いわずと知れた貧民派の私は夏はTシャツにジーンズ、秋になるとその上にベストをはおり、冬になるとセーター、マフラー、ジャケットを着込むという十二|単衣《ひとえ》方式だったため、根本的にジーンズを拒否されるとあとの衣服は何の役にもたたないのである。
幸いに私は前月分の給料をもらっていた。当時手取りで十万あったその額はどちらかといえば高給のほうだった。私はあとのことも考えず、全額銀行からお金をひき出して、某ブティックにいき、
「とにかく会社に着ていける服を選んで下さい」
とお店の人にたのんだ。ファッションから全然関係ない生活をしていた私は自分の目でいろいろな店をまわって服を選ぶことなどできず、とりあえず名のあるブティックのものならみっともなくないだろうといういやらしい魂胆を持っていたのである。私は今まで着たこともないニット・スーツやワンピースが入った紙袋をかかえて胸がドキドキしてしまった。次は靴である。いつまでも母親の冷たい眼に耐えながら靴を借りているわけにもいかない。私は紙袋をかかえたまま某若い女性向き有名靴店にとびこんだ。スニーカーしか見慣れていなかった私は白、クリーム色、赤、と色とりどりのハイヒールをみてとっても気恥ずかしくなった。なんだかとてもなまめかしかった。ただキョロキョロしていると男の店員が寄ってきて、
「何をお捜しですか」
という。思わず、
「靴です」
と答えて冷や汗が出てきた。とにかく店員さんとの会話に慣れてない私はひどくトンチンカンなうけ答えをしてしまうのだった。しかしさすがむこうはプロ、一瞬ひるんだが再びニッコリ笑って、
「いろいろなデザインがありますけど、どれがお好みですか」
と誠に親切なのだ。季節は五月のはじめ、いちばんいい季節であった。足元も軽く女っぽくキメてみたい。頭の中ですぐ結論を出した私は、
「バックベルトのサンダルにします。横から足の小指がハミ出ないのがいいです」
そういってまた冷や汗が出た。かつて私が母親のサンダルをかりたときにそのデザインが私の足形とはあわず、みごとに小指だけハミ出してしまいそのうえ道端の石に足をぶつけて爪をはがしそうになったので思わずそういうことをいってしまったのだった。そういわれても店員さんは笑いもせず、小さな声で、
「小指が出ないの、小指が出ないの」
とブツブツつぶやきながら靴を選んでもってきてくれた。私はその中のベージュの靴をはいてみた。見事に小指はハミ出なかった。
「あー、小指ハミ出ませんね」
店員さんはうれしそうにいった。7センチのヒールの靴をはいただけでこんなに視野が変わるのかと思った。気分がスーッとした。今まで自分はひどくソンをしていたような気がした。鏡の中の私の足も足首からふくらはぎが伸びてカッコ良くなったようにみえ、学生時代もこういう格好をしていたらもうちょっと男の子と縁があったのではないかと悔やんだ。代官山に通うにあたって当面衣服については万全だと満足した。そう思う気持ちはどんどんエスカレートし、私は荷物をかかえて家に帰るとすぐ美容院へ急ぎ、きっちりとした正しいオカッパ頭にカットしてもらったのである。そういう私の姿をみて母親は、
「どうしてあんたは一日で何もかもやろうとするの。だから今まで私が少しは女らしい格好でもしたらっていったでしょ」
といった。しかし私は何をいわれてもフンと鼻でせせらわらっていた。明日の私は今までの私と違うのだ。明日からは代官山にある広告代理店の営業ウーマンとして働くのである。寝る前にもこっそりアイシャドウなんぞをつけたりして、
「もしかして私もやりようによっては少しは色っぽくなるかもしれない」
などとニンマリしていたのである。
翌日、私は出勤二時間前に目がさめた。外ではチュンチュンとスズメがさえずっていた。今日の私は新しい私だった。服も靴もすべて新しいのであった。家を出ようとした私に向かって母親は、
「ふーん、馬子《まご》にも衣装だねえ」
といった。内心ケッと思いながらも私は嬉々として電車に乗った。ハイヒールの威力はすごかった。私よりも身長が7センチ高い人はこういう風景をみていたのかと思った。
ところが、山手線は相変らず超満員であった。こればっかりは以前と変わりようがなかった。いつものように奥へ奥へとおしこまれた。
「きょうの電車の揺れはキツイなあ」
いつになく私の体はあっちこっちにとばされ、隣りのおじさんにのしかかり、向いのおねえさんににじり寄るといった具合で自分でもクラクラした。そのうえ買ったばかりの靴はふんづけられるわ、あちこちつきとばされて毎度おなじみ両手両足がおっぴろがった姿で汗を流し毛を逆立てていた。
「ああ、スカートにシワが寄っちゃう。わーん、靴は泥だらけ……」
私は新しい服や靴が気になってしかたがなかった。はやく渋谷につかないかなあといいかげんうんざりしたとたん、左足がスーツと軽くなった。
「はっ、ヤバイ……」
私の足から買ったばかりの靴が脱げてしまったのだった。下を向いて捜そうにも当然こんな車内では足元などみられるわけがなく、私はできる限りつま先を伸ばして、親指のツメで靴の行方を捜してみたが、私のつま先の届く範囲にはそれらしいものが全くみあたらない。
「こうなりゃ意地でも捜してやる」
私は吊革を握っていた右手を人さし指だけにし、体を奥のほうにずらし、股関節《こかんせつ》をグーンと伸ばして別の方向にさぐりを入れてみた。そのとたん私の左足はギーンとなり、何と満員電車の中で足がつってしまったのだった。
「あたた、あたた、足つっちゃった」
思わず小声でそういうとまわりの人々は私のほうをみてプッと笑うのである。私は人と人との間にはさまっている左手をむりやりひっこぬき、しばらく左足をさすっていた。右手と左足が胴体からちぎれそうになって全くさんざんだった。電車が減速してやっと渋谷についた。私には二十分も三十分も乗っているような感じだった。ドドドドと乗客はなだれのように降りていったが私は足をふんばり、目をこらして床をみつめていた。
すると私が捜していた方向とは全然ちがう所でかわいそうにグシャグシャになったサンダルちゃんの姿があった。そのうえバカな乗客どもはその上を平気な顔をしてドカスカ踏みつけていくのだった。私ははいつくばってサンダルを手にし、プラットホームにとび降りた。私の右足の甲には足跡がのこって黒く汚れていた。行方不明だった左足のほうはもうヨレヨレ、ベージュというよりすでに薄茶色に変色しているのだった。
「ううっ、九八〇〇円もしたのに……」
涙が出そうになってしまった。たかだが十分間で九八〇〇円の靴がこんなふうになってしまうなんて悲しくてたまらなかった。私はこうべを垂れてトボトボ並木橋方向に歩いていった。他人のはいている靴が気になって仕方なかった。会社のドアを開けると、また雑巾片手にケイコちゃんが立っていた。私の姿をみるやいなや、
「あー、どうしたんだ、女みたいな格好しちゃってさ。めざめたのかよ」
と明るくいう。私は今朝の出来事でやたら不機嫌だったので、
「うるせえな」
といいながらニラみつけてやった。
「ねえねえ、正直な話さ、着るものに苦労しない?」
ケイコちゃんは下駄箱の上を掃除するふりをしながら小声でいった。
「そうなのよ、だからきのうあっちこっちかけずりまわって服や靴買ってさ。それなのに今朝の電車の中でもう、靴メチャクチャになっちゃった。みてよ、これ」
「あちゃー、これはひどい」
「ね、ひどいでしょ。九八〇〇円もしたのに」
「あたしも今日新しい靴はいてきたのよね。そうしたら工事中の所に置いてあった鉄板の穴に、ヒールがズボッてはまっちゃってぬけなくなっちゃってさ。ウンウンひっぱっても全然ダメなのよ。そうしたら現場のおにいちゃんが来てくれてやっとひっこ抜いてくれたんだけど、もうヒールはガタガタになっちゃうし、もう、ロクなことがないわよ」
「みんなよくあんなきれいなかっこうして会社にこれるわね」
「私たち三十分早くこなきゃいけないから、モロにラッシュにぶつかるのよ。三十分ちがうと全然混み具合がちがうもんね」
「あーあ、来年までずーっとこれが続くのか」
「あーあ」
私たちは掃除をしているフリをしてグチをこぼした。慣れない靴をはいた私のふくらはぎは早くも痛んでいた。こんなことできょう一日外まわりができるんだろうかと心配になった。あっちこっちウロウロしているうちに掃除の時間は終わってしまった。新しい服を着た私をみて発せられた社員のことばのほとんどは、
「女みたい」
であった。じゃあ、今まで私はどう思われていたのかと思うと背スジが寒くなったがそういうことはいちいち気にしないことにした。例の染谷さんは、机の前に座っている私のそばによってきて、
「あらー、どうしたの? 変身したの?」
とのんびりした口調でいう。彼女は相変らずぴったりしたセーターから二つのマッターホルンをつき出している。
「はあ、今までは母親の借り物でしたから」
「そうなの、とってもいいわよ。髪の毛も切ったのね」
「はあ……」
「今はみんな男の美容師でしょ」
「そうですね」
「ステキな人だった?」
「はあ、まあ、ハンサムでしたけど」
「ねえ、うまくいった?」
「はっ?」
「うまくいったかってきいてるのよ」
「何がですか?」
「何がってあなた、しようがないわね」
私は彼女の話をきいてビックリした。彼女はいい男だなと思ったらニャンニャンしないと気がすまないのだという。そのためにはどんどんあの手この手をつくして誘っちゃうと大胆なことをいうのだった。
「そんなことできるんですか」
「あーら、できるできないじゃなくて、男って女から誘われたら絶対断わらないわよ」
と自信満々なのだ。
「だって美容師なんて次から次へとお客さんが来るし、どうやって誘うんですか」
「横のほうの毛をカットしているときにさ、手が顔にさわるじゃない。そのときに手を舌でぺロっとなめちゃうのよね」
「………」
背すじがゾーッとした。
「そ、それでどうするんですか」
「それで気をひいてあとは電話番号を教えたらOKよ」
「はあ。成功率はどのくらいですか」
「フフフ、ほぼ一〇〇パーセントね」
「………」
彼女は全く悪びれずにニコニコしている。
「ここの会社では何もなかったんですか」
私はそーっときいてみた。これだけ男好きならその可能性も十分にあると思った。
「まさか、あるわけないじゃないの。みんなヒドイ男ばっかりよ。社内でくっつこうなんてぜーんぜん思わないわ。男は世の中に山ほどいるんだから、広く外に向かって目を向けなきゃいけないのよ」
彼女はもっともらしくそういった。
「あのー、今まで何人ぐらい……」
「キャハハ。あなたも好きねえ。そうねえ三十人ぐらいかしら」
「………」
私はこのホルスタインのような女が手あたりしだいにニャンニャンしている姿を想像したら気持ちが悪くなってしまい、この気持ち悪さをぜひケイコちゃんにも分けてやろうと女子ロッカー室に呼んで話をした。
「うげえ。あいつ病気なんじゃないの」
「あたしもそう思う」
「赤線を廃止してもああいうのがはびこるんだねえ」
「あんた何いってんの」
「いやあ、はっきりいって異常だね。どうしてあんな女入れたんだろう」
「面接のときに胸揺すったんじゃないの」
「そうだな、きっと。あんた、あんなのの隣りに座ってるとインランがうつるよ」
「やめてよ気持ち悪い」
「やだねェ。あーやだやだ。でも一カ月くらいたったらあんたも同じような格好して胸揺さぶって歩いたりしてね、ハハハ」
「ちょっと、かんべんしてよ。それでなくても毎日困ってるんだから」
「まあ、これからは外まわりだから少しはマシになるんじゃないの」
「まあね」
かくれて話す人の悪口ほどたのしいものはない。私とケイコちゃんはひとしきり胸のでかい女は頭が悪いんじゃないか、とか、ああいうのは首輪でもして柱につないでおけばいいとかいいたい放題いいまくった。だんだん気分が晴れやかになってきた。そのとき、ドアをこわさんばかりにしてものすごいノックの音がきこえ、
「何やってんだ君たちは! 仕事中だぞ! これからすぐクライアントまわりにいくんだからすぐしたくしなさい!」
ファッカー山田が廊下でどなっていた。ああこれから営業ウーマンとして働かなければならない。私とケイコちゃんはお互いの目をチラッとみてまたまた深くため息をついたのであった。
ファッカー山田は私とケイコちゃんを呼んで外まわりをするにあたっての注意を申しのべた。
1、クライアントは神様
2、服装はきちんとすること
3、いつも、何をいわれても何があってもニコニコしていること
4、ミスをしたらすぐ上司にいうこと
5、名刺は両手でとり扱うこと
私たちは一つ一つにハイハイとうなずいた。ワクワクする反面、外まわりの男子社員が会社に帰ってきてファッカー山田がいないと机の上にグターッとつっ伏しているのを知っている私は少し不安になった。私が担当するのは相模大野に工場のあるA社、溝ノ口にあるB社、目黒のC社、それにオーディオ誌のタテ1/3やヨコ1/4に広告を出しているカートリッジを作っている小さな会社がいくつかあった。そしてそれ以外にも、その会社の広告を制作しているデザイン事務所に版下の校正を持っていかなければならない。ただそのデザイン事務所が渋谷区神宮前にあるというので私の気持ちは少し救われた。
「きょうちょうど広告掲載誌ができてきたから吉岡君と一緒に車に乗って配ってきなさい。遠いところは明日にするから」
ファッカー山田はそういうと吉岡君を大声で呼び、きょう一日私を車に乗っけてクライアントの場所を教えるようにいった。吉岡君は私と同期で入社した男の子の中で一番見場《みば》がよかったが、無邪気にとんでもないことをしでかすタイプだった。
「よろしくお願いします」
とペコッと頭を下げると彼は、
「はいはい、まかせといて下さいよ」
と明るくいった。私は机の中の名刺をわしづかみにし、FM週刊誌や月刊誌を車に積んで代官山を出発した。ヒルサイドテラス方向に車を進めていくと、外国人のモデルっぽい女の子やカタカナ職業風の男の人が、必ず犬を連れて歩いていた。
「あーあ、オレも代官山に住みてえなあ」
吉岡君は車の中で大声でいった。
「今どこに住んでるの」
「田園調布」
「………」
話によると彼のお父さんは会社を経営しているのだが、彼は職種が全然肌にあわないので跡を継ぐ気などさらさらなく、弟はとんでもないアホ学生であんな奴《やつ》に会社の経営なんかできるわけがないから父親一代で会社はつぶれるだろうということだった。
「オレ、コピーライターっつうのにあこがれてるんだけどさ、この会社にいたってそんなのになれるワケないじゃない。朝から晩まで車に乗ってペコペコ頭下げてさあ。坂田さんや山下さんだってみてごらんよ。うちの会社は三年いれば係長になれるったってさ、こんなセコイ仕事してたってしようがないじゃん。もうマスコミは派手なのに限りますよ、まったく。オレ他人に頭下げるのやだもんね」
彼は片手ハンドルで運転しながらそういった。そしてコピーライターになるべく、大学へいくかたわら、コピーライター養成講座に通っていたというのである。私は学生時代からそういうことをしている人がいるのかとビックリしてしまった。もちろん私の大学にもそういう人はいたのかもしれないが、私とは別世界の人というかんじだった。大学にいくだけでもかったるいのにその上また勉強するなんて信じられなかった。
そういう人からみたら私など遅れをとったもいいところで、漠然とコピーライターになりたいと思っただけで何の勉強もしておらず、こんなことで大丈夫なのだろうかと心配になってしまったし、私に命じられたのは外まわりである。コピーライターとは関係ない仕事である。私の頭の中には机の上につっ伏している男子社員の姿がポッと浮かんできた。
「こういうことしててコピーを書くときの役に立つのかしらね」
「まあ、ながーい目でみれば何かの役に立つかもしれないけどな」
「私もあんまりペコペコ頭下げるの好きじゃないんだけど平気かしら」
そう小声できいてみた。
「だってオレたちが悪くなくたってさ、あやまらなきゃならないときだってあるんだぜ。ま、仕方ないけど」
「せっかく外まわりになれたから喜んでたのになあ」
「いや、絶対外に出てるほうがいいって。あんな部屋に一日中ずーっといたらサボれないじゃない。それにホラ、胸がでかくて色目つかう女がいるじゃん。あんなののそばにいたってロクなことがないぜ、きっと。外まわりは自分でうまく時間つかえば買物だってできるしさ、いいよ。オレなんかいつも渋谷の裏通りに車止めて昼寝してるもん」
そうだ、外に出られれば気をまぎらわすことなんかいくらでもできる。煙草とネバー・エンディング・ストーリーとビーブー電話に悩まされるよりはずっとマシだろう。
「ねえ、やっぱり広告代理店とかに就職しようとする女の子っていうのはあのキャリアウーマンとかいう人種になりたいのかね」
私はギクッとして、
「うん、まあ……そうじゃないの」
とゴマカした。
「でもああなるまでは大変よ、きっと。あんな雑誌にでるほどカッコイイわけないわよ」
「けっこういい女もいるけど、うちにいるのはシワシワ女だからな。女もああなったらおしまいだよ。ああいうふうにならないうちに適当に男みつけたほうがいいよ」
「何いってんのよ。私つとめてまだ二カ月しかたってないのよ。おまけにどこで男みつけるのよ。これからはまともに夜は帰れないしさ。お先真暗だわ」
「女の人も大変だねえ」
彼はそういってカーラジオをFENにあわせた。明るい英語のDJと音楽が聴こえてくると車の中だけアメリカ気分になった。
「いいなあ、アメリカはいいなあ」
彼は大学時代にいったロスアンゼルスの話をしてくれた。
「全くマッカーサーが気をきかせたから日本がこういうふうになっちゃったんだよ、きっと。いっそ植民地になっちゃってればストーンズだってオレたち何回もみられたぞ」
「あなたって本当にとんでもないこというのね」
下らない話をしながらも私たちは楽しかった。その日はクライアントまわりをなるべくはやくきりあげてサボろうと話がまとまり、車のスピードを上げて第一関門の小さなカートリッジを作っているメーカーに向かった。
その会社は汚い雑居ビルの五階にあった。
「はい、これ持って」
吉岡君から手渡された雑誌をかかえ、階段をのぼったがひどく急でそのうえラセン階段だったので目がまわってしまった。彼は私の前をズンズン歩いていき、いきなり、
「こんちわ」
とものすごくバカでかい声を出してドアを開けた。中の人々がいっせいにこっちを向いた。ちりちりパーマの中年のおばさんがメガネをズリ上げてソロバンの手をとめた。私は汗が出てきた。ファッカー山田の話では、クライアントのところへいったらばまず直立不動でドアをノックし、相手が出てきたらニッコリ笑って四十五度の角度でおじぎ、何の用件できたかを伝えて相手の気分を損うことなくうまくそのへんをとりまとめること、だったのだが彼の場合はノックもなしおじぎもなし。ただバカでかい声のあいさつだけだったので、私は何かあったらどうしようかとオロオロしてしまった。
「ああどうも。いつも御苦労さんですね」
ヤギのような声をした中年の男性が出てきた。頭はハゲあがり、黒い靴下に健康サンダルをはいていた。
「今日は女性も一緒ですか……どうも御苦労さんです」
彼はペコッとおじぎした私には目もくれず、ドアのところで掲載誌をペラペラとめくった。
「うちんとこの広告はホントにいつも変わらんなあ、ハハハ」
と力なく笑った。私たちはそうですねともいえず、ただニコニコ作り笑いをしていた。
「また、来月もお願いしますよ」
その中年男性はそういって静かにドアをしめた。すると彼はものすごい勢いでラセン階段を走りおりた。私は慣れないハイヒールをはいて、急なラセン階段をおりるのにとても時間がかかった。
「バカ、何やってんの。はやくはやく」
ラセン階段の中をのぞくと下のほうで彼は声を殺してどなっている。
「だって」
「ニブイなあ、パッパとおりてこられないの」
私はムカッとしてガンガン音をたてて階段をおりた。彼はすでに車の中で待っていた。
「いつ行っても暗い会社だなあ」
「あの人だれ?」
「あれが社長なの」
「へーえ」
とても社長にはみえなかった。そのメーカーは小さいながらもステレオのカートリッジではある程度マニア受けしている会社だった。しかし思えば中にいる人々は郵便局の窓口に座っている人が着ているようなブルーのうわっぱりを着ていた。
「あんなものなのかもしれないな」
ボソッと彼がいった。私は黙っていた。少しこの会社に入ったことを後悔していた。私はおめでたく、広告代理店に入社すればクリエイティブな仕事ができてガッパガッパと給料がもらえるものだと思っていたからだった。クライアントの人もみんな垢《あか》ぬけてカッコイイ人ばかりだと思っていたので、あの小さなカートリッジメーカーをみたら失望してしまった。
私たちは猛スピードで都内のクライアントをまわった。あるところはだだっ広いオフィスの中におびただしい数のデザイナーがいて、黙々と仕事をしていた。私は邪魔してはいけないと思って小声で、
「掲載誌をお届けに上がりました」
といった。
「なに!」
そばにいたヒゲヅラの男性が顔を上げずにどなった。
「あのー、掲載誌を……」
「あっそ。ドアのとこにでも置いといて」
そうつっけんどんにいわれた。梱包《こんぽう》された本を一束ドアのそばに置いて、何気なくその男性の机をのぞいたら、エロ週刊誌を読んでいた。みんな一見黙々と仕事をしているようにみえたが、実は下を向いて鼻をほじっていたり、ヌードグラビアをじとっと眺めていたり、隅のほうではアロハシャツをきてチリチリパーマの若い男がふんぞりかえって足を机の上にのせ、ボワーッと大アクビをしていた。
「失礼します」
とファッカー山田にいわれたとおり部屋に向かっておじぎをしても誰もこっちのほうなんかみず、てんでに好き勝手なことをしていた。自分が情けなくなってきた。
「ひとこと何かいってくれたっていいじゃないねえ」
私は車の中でブツクサ文句をいった。
「あんなもんですよ、先生」
彼は事もなげにいった。
「頭にこない?」
「最初は毎日頭に来てたけど、いちいち気にしてたらやってられないじゃない。もう要領ですよ、要領」
そうなのだ。いちいち気にすると、自分の悩みのタネがふえるだけなのだ。わざわざ足を運んだことをねぎらう優しいことばや、デザイン事務所の一年中陽焼けした肌に真白い歯を持った涼しい目元のアートディレクターを密かに期待した私が愚かだったのだ。
「あと何軒まわったら終わるんでしょうか」
私はこんな状況がいつまで続くのか不安になった。
「あと一カ所で終わり!」
彼が元気よくいったのでホッとした。そこは例の神宮前にあるデザイン事務所だったがすでに興味は完全に薄れていた。表参道に駐車して私たちは本を抱えて裏道に入った。神宮前小学校のそばを通ると校庭では元気なガキどもがギャンギャンいいながら走りまわっていた。
「まあまあ、お金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんがはしゃいで」
彼は立ちどまっていった。裏道はとても閑静な住宅地で、その一角には草思社があった。ビルではなくふつうの二階建の一軒家で玄関|脇《わき》にはブルーバードが駐《と》めてあった。ビルじゃなくて、こういう出版社ってカッコイイと思った。
私は物珍しくてたまらず、キョロキョロしながら歩いた。庭にたくさんの植木がある、品のいい造りの家や瀟洒《しようしや》なマンションが建ち並んでいた。
「ここだよ。そこのインターホンの101押して」
本を抱えた彼はあごでドアのところのインターホンを示した。ボタンを押すと中から応答があり、ブーッという音がした。彼は肩でドアを押して入っていった。さて私も、と入ろうと思ったらどういうわけか勝手にドアが閉まり、私は扉の間にはさまれてしまった。
「いてててて」
うめいていると突如すさまじい勢いでブーッとブザーが鳴った。すると再びインターホンから、
「どうかしましたあ」
とのんびりした声がきこえた。
「あのー、ドアに、あの、はさまれちゃったんですけど……」
首をねじまげてインターホンに向かっていうと、声の主《ぬし》は、
「きゃははは」
と笑っているのである。そのままおとなしくしていたらやっとドアが開いて私の体は解放された。よたよたと101号室に入っていくと彼は、
「何やってんの」
といってバカにするし、そこのデザイン事務所のチーフデザイナーは、
「なかなか珍しい人ですね」
といって私の顔をみてプッと笑うのである。
「いえ、あの、こういう特殊な建物に慣れてないもんですから」
とよけいなことをいってまた笑われた。でもそこの人たち(といっても四人だけだったが)はみんな感じのいい人ばかりだった。しかしそこも所長さんはふつうのおじさんだったし、チーフデザイナーの人も、かのジャックスを彷彿《ほうふつ》させるいでたちで勤めていた。雑誌をここにも一梱包置いて帰ろうとすると、アシスタントの男の人がコーヒーをいれて持ってきてくれた。私は感動してしまった。何度も何度もおじぎをしてコーヒーを飲む自分がミジメにも思えた。
私はここではじめて名刺を渡した。しかしソファの上においたハンドバッグからゴソゴソ名刺入れを出しているうちに、相手は名刺を手に持ってじっとこっちを見ているし、あせればあせるほど手はふるえ頭に血がのばった。
ファッカー山田の話によると名刺は両手で渡し、両手でいただかなければいけないということだったが、左手に名刺入れを持った私は右手しか使えないことに気がついて、再びあせってしまった。とっさに名刺入れをどこにやったらいいかということがグルグル頭の中をかけめぐった。一番簡単なのは股にはさむことだったがそれは当然はばかられ、私は反射的に名刺入れをスカートのベルト部分にはさんで両手を自由にして自分の名刺を渡した。すると相手はまた、きゃははと笑い、
「社員教育がよくいき届いとるねえ、キミんとこは」
と彼に向かっていうのだった。
「中にウルサイ人がいるんですよ」
彼はすっかりこの雰囲気になじみ、マルボロを吸いながら大胆なことをいった。
「山田さん?」
「そうです」
「あの人はもうタイコ持ちみたいな性格してるからなあ」
私はどういう顔をしていいかわからなかったので、あいまいな笑いを浮かべて彼らの話をきいていた。みんな好き勝手に次長の悪口をいった。どれもこれもあてはまることばっかりで、所長が最後に、
「忙しくないのに忙しいフリが社内で一番うまい」
といったときに思わず、
「そうなんですよねえ」
と口をはさんでしまい、またまたみんなに笑われてしまった。
「また息抜きにおいでよ」
所長さんはそういってくれた。
「オレ、あそこにいくとホント、ホッとするんだよ」
車の中で彼はいった。
「相当くつろいでたもんね」
「ハハハ、わかった?」
「でもさあ、私たちが帰ったあと会社に電話して次長に告げ口されてたりしてさ……」
「ひえーっ」
猛スピードで車は発進した。すでに午後一時をまわっていたが、私たちはノルマを果たしていた。
「さあ遊びにいこうぜい」
彼は元気にいった。
「どこにいくのよ」
「どこでもいいよ」
「あたし外まわりの初日から次長に目をつけられるのいやよ」
「うーん、まあ、そりゃそうだ」
「だからきょうは昼御飯食べて帰ろうよ」
「そうだな」
車を竹下口で駐めて、ブラブラと狭い通りを歩いた。
「ちょっと……」
といって彼はメロディハウスというレコード店に入っていった。
「いつもここでレコード買って帰るんだ」
そうだ、外まわりをしていればこういうことができる、と再び元気がでてきた。何か気がまぎれることをみつけないと滅入ってしまうような気がした。彼がレコードを二枚買うのを待って通りぞいにあるレストランに入った。いろいろ話をしていたら、すでに彼は自分がやめる時期をきめていた。うちの会社は一年勤めていれば他の会社の三年に匹敵するといわれていた。
「ひととおりのことを覚えたらやめちゃうよ。長くても、二、三年じゃない」
「ふーん。でも女の場合就職すること自体が大変だからねえ。私なんか運がよかったわ」
「じゃあ、ずっといるの。主任の二代目になってシワだらけになってガンバるとか……」
「それ考えるとおそろしいのよね」
私はせっかく勤められたのだからできるだけ長いこと居ようとは思ったが、自信はなかった。男女の賃金差がないこと、男もトイレ掃除をするのと同じように女も同じように働かなければならない。やっぱりつらいとか苦しいとかいってはおれないのだった。
「これからどんどんキツくなっていくのかな」
「そりゃそうだよ。先輩の顔見てごらんよ。あの老けかた。ただごとじゃないぜ」
私はため息しか出なかった。入社そうそう結婚のことなど考えられなかったし、目の前にあるのは自分に与えられた仕事をどうこなすかだけだった。
「そろそろいかないとまずいかな」
彼は時計をみてそういった。私は自分の分の代金を彼に渡すと、彼はつっけんどんに、
「いらないよ」
といった。
「だって、そういうわけにはいかないわよ」
もう一度渡そうとすると、また、
「うるさい、おごってやるっていう時はおとなしくそうしてもらってればいいの!!」
とどなるのだった。私は周囲の目を気にしつつ車の中に戻った。またFENをガンガンかけた。しかし残念ながらこれから私たちを待っているのは煙草の煙につつまれた会社の部屋だった。
「本が出るたびにこうやって配るわけね」
「そう。明日は大変だよ。きっと溝ノ口と相模大野にいかされるから」
私は今まで溝ノ口にも相模大野にも行ったことはなかったが、あまり楽しそうな所じゃないだろうなという予感がした。話によると昔はそこにも車を使って掲載誌を配っていたのだが、何年か前に本を届けにいったまま帰ってこなくなった社員がいた。事故ではないかと必死で捜したら本人はちゃっかり他の会社に就職していて、車は駅前に乗り捨ててあったという。その掲載誌トンズラ事件≠ェあってから、上司がついていかない限り車の使用は認められなくなったらしい。
しかし私は溝ノ口だろうが相模大野だろうがナイロビだろうが、行けと命じられたところにはニッコリ笑ってどこでも行かなければならないさだめなのだった。
原宿から代官山なんてあっという間だった。並木橋を曲がると私たちは申しあわせたように、
「あーあ」
といった。
「さあ、帰ってからも元気でお仕事しましょうね」
自分にいいきかせるように彼は大声でいった。
「そうですねえ」
私も負けずにいった。
開けたくない会社のドアを開けるとそこには相変わらずマッターホルンをつき出した染谷さんがいた。
「あらー、二人おそろいでいいわねえ。ねえ何してたの」
そういって私にすり寄ってくる。彼は完全に彼女を無視して部屋の中に入っていった。
「何してたのって、掲載誌を配ってたんですよ」
「ああ、そうか。ねえねえ、お昼何たべたの」
この人はこんなこときいてどうするのだろうか。
「はっ、忘れました!!」
めんどうくさいのでそういっても、
「あらー、だってまだ三時よ。もう忘れちゃったの。やあね」
といって全然感じていないのだ。私はあきれかえって自分の椅子に座った。そのとたん、ファッカー山田に呼ばれた。もしや、表参道での冗談が本当になったのでは……と冷や汗が出てきた。一緒に吉岡君も呼ばれた。私たちを前に立たせ、ファッカー山田はにこやかに笑いながら、
「いやあ、きょうはごくろうさん。どうだったかね」
と私にきいた。私は、
「はあ、名刺を渡すタイミングがわからなくて困りました」
と答えつつも、いつファッカー山田が、
「よくも悪口をいったな!!」
といきり立つか、気が気じゃなかった。
「そうか。まあ、それも数をこなせばタイミングがわかるようになるからね」
思いのほか彼はおだやかであった。
「ところで、今日は車が混んでいたのかね」
今度は吉岡君に向かっていった。
「いや、それほどでもなかったです」
「ふむ、それならば戻る時間が一時間程遅すぎやしないかね……」
ファッカー山田はクドクド、こことこことここをまわるのならば、こういうルートで行けば一時間短縮できて、その分会社に戻って仕事ができるということを説明した。そして外で食事をした私たちに向かって、弁当を持ってくるか、会社の近所にある、味は二のつぎというか五のつぎぐらいで、速いだけが取柄の、キッチン東京でとるようにというのである。
「こういう仕事は一分でも無駄にしてはいかんのだよ。キミたち、コマーシャルを一分間放送しようと思ったらいくらかかると思うかね」
今後お昼もゆっくり食べられなくなるのかと思うとがっかりした。内心、今日は遊んでこなくてよかったと思った。十分程遠まわしに説教されたあと私たちは解放された。解放されても私にはやらなければならない仕事が山ほどあった。まず、きょうまわった所の一覧表をつくり、広告のスペースとどの雑誌に広告を出しているか、その料金、雑誌の発売日などを記入しなければならなかったし、ファッカー山田からいわれている莫大な広告料金の集計を出さなければならなかった。それに私が担当するクライアントのここ一年の広告のコピーをとって自分のファイルを作ったり、そのうえ突発的に入る版下の校正届けやら、いちいち考えていくと気が遠くなりそうだった。
私は一覧表を作りながら今日は何時ごろ家に帰れるのだろうかとそればかり気になった。正直いって私は自分にまかされた仕事は広告代理店の仕事のうちでどういう位置をしめるのか、皆目わからなかった。仕事の流れがどういうものか誰も教えてくれなかった。ただ媒体部から校正と版下が届けられ、私がそれを持ってデザイン事務所やクライアントに行き、赤字で校正してもらったのをまた受け取りに行ってそれを媒体部に戻すという、それだけのことをやればいいといわれた。カラーページの校正の色校≠ニいう言葉すら知らず、媒体部の部長との内線電話で、
「色校って何ですか」
ときいて、
「おまえは広告代理店にいて色校さえ知らないのか。とっとと会社やめてどこかへいってしまえ」
と想像を絶する罵倒《ばとう》をされ、涙さえホロッと出そうになった。概して上司はすべてその調子で不親切で意地悪だった。私は先輩にうるさく、
「色校って何ですか」
と、きくしかなかった。そうやって罵倒されつつ一つ一つ覚えていくしかなかった。トイレにいくと必ずだれか女の子が泣いていた。みんなかわりばんこになぐさめあい、腹の中で、
「今にみていろ、このやろー」
と思っていた。冷静になって思えば上司だって仕事をしているのだから、一つ一つ手とり足とり幼稚園じゃあるまいし、大卒のいい齢をした人間に教えることなんかできないだろう。だからその分は自分で勉強しなければならないのだった。
その夜、自宅に帰ったのは十時すぎだった。さめた晩御飯の上にナフキンがかぶせてあった。精神的に疲れて、自分でお腹がすいているのかそうじゃないのかよくわからなかった。私は誰とも話をしたくなかったが、母親はいろいろと話がききたそうなそぶりをみせた。
「あしたからお弁当がいるんだけど」
そういうと母親は、
「まあ、急にいわれても困るわねえ。何にしようかしら」
といいながらもうれしそうだった。そういえば母親っていうのはお弁当を作るのが好きだなあと思いつつ、ただお風呂に入ってバタンと寝てしまった。ところが、神経が昂《たか》ぶっていたのかうつらうつらすると目がさめてしまう。私の耳に入ってくるのはカチカチいう目覚し時計の音と、ドキドキしている心臓の音と、ガーガーいっている母親のイビキだった。ああ寝なければ、寝なければと思っていたら非情にも朝になっていた。私はもうろうとした頭で化粧をし、服を着て、朝ごはんを食べた。ありがたいことにきちんとお弁当はできていた。母親はまた何か話したそうだったが、私にはそんなヒマはなかった。
「あんたがもうちょっとゆっくり出られれば一緒に会社にいけるのにねえ」
私が靴をはいていると母親が私の背中に向かってそういった。私は朝八時すぎに家を出て帰るのは早くて十時すぎ、母親は九時すぎに出て七時には帰ってこられるのだった。
「これからもっともっと遅くなるかもしれないからね」
私はひとこといって家をとび出した。目は寝不足で腫れぼったいし、何となく全身がだるかった。これからまたあの満員電車に乗るのかと思うと、このままクルッと方向転換して、フトンをかぶって寝たかった。だんだんこういうことが喜びに変わる日が来るのだろうかと不安になった。新米の私は、一日何回も上司に嫌味をいわれ、どなられ、そのうえクライアントには神経をつかわなければならないという八方ふさがりの毎日に、どれだけ耐えられるのかそればかり気になった。あまりに考えすぎて耳をふさいで突然道路に座りこみたくなった。
「仕方ない。やるしかないのだ」
やるしかない、それだけが私の救いという暗い日々だった。
この会社でキツかった仕事の一つにカタログのてんてん削り≠ェあった。その日は月曜日だった。相変らず私は広告の版下を抱えて慣れないハイヒールをはいてただあっちこっちをうろうろする毎日で、何しろまた新しい一週間がはじまるのかと思うと苦痛で苦痛でたまらず、なかばふてくされて席に座っていた。九時きっかりにビーブーと電話が鳴った。もうこの音を聴くとうんざりした。しかしそんな中で私たちの精気を日々吸いこんでいるかのように、ファッカー山田だけは鼻の頭を真赤にして鼻息も荒く元気一杯だった。ところがいつも元気な彼に異変が起こった。電話で話をしていて突然バッと立ち上がり、
「誠に、誠に申し訳ごさいません。すぐ、すぐ参上いたしますので、今しばらくお待ち下さいませ」
と時代劇のようなセリフを吐き、何度も何度も電話機に向かって頭を下げた。受話器を置いてもまだそこに立ったまま、その場で足踏みをしながら、
「どうしようかな、どうしようかな」
と悲愴な声でブツブツいっていた。私たちはわけがわからず、ただ顔をみあわせているだけだった。彼はしばらくそこで足踏みをしていたが、すさまじい勢いで社長室に向かって走り出した。しばらくして今度は社長と二人でダダーッと部屋に戻ってきて、眉間にシワを寄せて何やらもめているのだった。
「いったい誰が悪いんや」
「いや、それはもう私のチェックミスでございまして、お恥ずかしい限りでございます」
「そうか。ともかく早う先方にいかにゃならんなあ」
私たちは小声でファッカーがドジをふんだらしいわよ、と噂しあった。いつもあれだけ私たちにガミガミいうのだから、たまには自分だって怒られればいいんだ、いい気味だと思った。ところが突然彼は私のところにツツッと歩み寄り、私の肩を叩いた。
「君と……君と……」
肩を叩かれたのは私とケイコちゃんだった。
「はい! いいかね君たち、はやく支度して!! 今からきっかり三分後だぞ!! それとカッターだ! そうだカッターを忘れるな! 1ダースの箱入りと替え刃を忘れずにな!!」
それだけいうと彼は自分だけさっさと下に降りていってしまった。ファッカー山田の名誉|挽回《ばんかい》のためにかり出されるのはわかりきっていた。が、そんなことはやなこったと思っても、肩を叩かれて御指名をうけた以上、何が何でも行かねばならないのであった。私たちは口々に、
「なんなんだ、なんなのだ」
といいながらバタバタとあわただしく会社の車にとび乗った。
車を運転しているファッカー山田の目はつり上がり、赤信号のたんびに、
「ちくしょう、ちくしょう」
とつぶやいていた。何をしにどこへいくのか、おそろしくてとてもじゃないけど聞けなかった。私はカッターを右手に握りしめたまんま、ボヤーッと外の景色をながめていた。どんどん景色は田舎の風景になっていき、一時間くらい揺られてついたのはある会社の溝ノ口工場だった。駐車場に車を駐めると彼は、
「きょうは会社には帰れないよ」
と不気味な発言をした。私たちはまた、
「何やらされるのかしら、いやねえ」
と目線で話した。彼にくっついていくと倉庫のような大きな鉄の扉の前につれていかれ、ここで待っているようにといわれた。彼がいなくなると私たちは、
「ねえねえ、何なのよいったい。きいたあ、きょう会社に帰れないっていってたわよねえ。それにカッターなんてどうしているのよ。どうせファッカーの尻ぬぐいでしょ。どうして私たちがやんなきゃなんないのよ」
とすさまじい早口でまくしたてた。そこには人っ子一人いなかった。私たちは置きざりにされたのではないかと思った。まわりがすべて鉄でできていて、遠くからコツコツと靴音がきこえてくると古いドイツ映画みたいで、
「ひえーっ」
と声が出そうになった。五分くらいたってファッカー山田がジャンパーを着た中年男性と一緒に戻ってきた。その男性の二、三歩あとを歩きながら彼はペコペコ頭を下げていた。
「おや、お嬢さん二人。わざわざ御苦労様です」
その男性は傍らでペコペコ頭を下げている彼には目もくれず、私たちに向かってニッコリ笑っていった。そこへまたファッカー山田はシャシャリ出て、
「あいにく皆出払っておりまして。実は会社におりましたのが、この二人だけだったものですから……」
とウソばっかしいった。
「遠くまできてもらってすみませんねえ」
また彼はファッカー山田を無視して私たちにそういった。
「いいえ、仕事ですから……」
私たちも心にもないことをいった。
「あの、部長、そろそろとりかからせていただきますので」
ファッカー山田はそういって目の前の扉をギーッと開けた。中は体育館のようにだだっ広かった。そこには山積みにされたコンポーネントステレオの箱とカタログの束があった。私とケイコちゃんは横目でお互いをみながら首をかしげた。
「それではどうも失礼いたします」
ファッカー山田は言葉づかいはていねいだが、邪魔だといわんばかりに部長といわれた男性を部屋から押し出した。広い倉庫に私たち三人、カッター片手に何をやるのだろうかと思ってビクビクしていると、彼は鼻息を荒くして、
「さあ、がんばるぞー」
と肩をグルグルまわしながら明るくいった。
「あのー、何をすればいいんでしょうか」
有無をいわさずつれてこられた私はおそるおそる聞いた。
「ああ、そこにあるカタログ持ってきなさい」
ファッカー山田は山と積んであるここのメーカーのカタログを指さした。私はヨロヨロしながらそれを一束もってきて、汚いスチール製のテーブルの上にドンと置いた。
「このカタログ、うちで作ったんだけどねえ……。ちょっとミスしちゃって。ここだ。上から三行目にダイレクドドライブってあるね。そのダイレクドのドの字のてんてんをカッターで削って欲しいんだよ」
「はっ?」
一瞬何をいってるんだかわからなかったが彼はそれ以上語ろうとはしなかった。私たちがあっけにとられていると、彼は器用にカッターの刃の先でドの字のてんてんをコリコリと削った。印刷されているのがツルツルのアート紙なので、カッターで軽くこすると簡単にてんてんが消えるのだった。
「ぼくはこれがけっこううまいんだよ」
とつまんない自慢までする。まさか誤植のドの字のてんてんを削るためにカッター右手に溝ノ口までやってくるとは夢にも思わなかった。私たちはやることは理解したが、想像だにしていなかったことなので、二人してカッターを持ったまま呆然《ぼうぜん》としていた。おまけにここには椅子もない。エビのように腰をまげてその作業をやらねばならないのである。
「何だ!! さっさとやらないか、さっさと! 時間ないよ! 全部で三万部あるんだから」
「………」
私たちは顔をみあわせてため息をついた。思えばこの会社に就職してから一分間に一度はため息をついているような気がした。ともかくてんてんを削らないと私たちはいつまでたっても解放されないのである。仕方なく再びヨロヨロと山積みのカタログを持ってきて、彼のやるのを真似してカッターでコリコリ削った。ついつい力が入ってブスッとカタログに穴をあけたりすると、目ざとくみつけ、
「何をしとるんだ君は!! もったいない! 一部作るのにいくらかかると思っとるのかね」
としつこくしつこくイビる。私たち三人は何の楽しい会話もかわさないまましーんとした中でコリコリ単純作業を続けていた。何とかこの単純作業の中にも喜びを見いだそうとてんてんを一つずつゆっくり削ってみたり、二つ一緒にグリグリッといっきに削ったりしてみたが目の前にあるカタログの山をみると気が遠くなった。私たちがモタモタしているのに反してファッカー山田は本当に手際よくパッパカパッパカ量をこなしていた。そして三十分に一度、私たちがやった分のカタログをみると冷ややかに、
「ちょっと、君たち、もうちょっと早くできんのかね。ただ削るだけなんだよ、削るだけ。こんなことができないのかね、大学出たくせに」
とムッとしていうのだ。私たちはそういわれても、
(はいはい、どうもすいませんねえ、お役に立てませんで)
と腹の中で文句をいい、ふてくされて黙っていた。
ブーッとお昼休みを知らせるブザーが鳴った。私はお腹がすいてすいて仕方がなかった。しかしこんな状況で、
「私たちの昼ごはんはいかに?」
などということは聞けるわけもなく、グーッとお腹の鳴る音をゴホンという咳《せき》ばらいでごまかしながら、彼が「お昼にしよう」といい出さないかとじっと待っていた。廊下からは「はやくメシにしようぜ」という声がきこえてきた。
「いいないいな、みんないいな」
お昼の食べられる人がうらやましかった。そのとき先程の部長が四つのお弁当らしき箱をかかえて中に入ってきた。神様のように思えた。
「ご苦労様。お昼にしましょう」
そういってお弁当をテーブルの上に置いた。
「あっ。どうもどうも痛み入ります。ご迷惑をおかけしましたうえに、お気づかいまでいただきまして……」
ファッカー山田は再びペコペコ頭を下げた。私たちもボーッと立っているわけにもいかず、一緒になってペコペコ頭を下げた。
「まあまあ、腹が減っては戦ができぬ、ですよねえ。さあ、食べましょう食べましょう」
部長は私たちのためにカタログの束をつみ重ねて椅子がわりにしてくれた。しかしファッカー山田には、
「どうぞ適当に」
といっただけで冷たかった。彼は私たちとお話したかったらしく、
「どこの大学出たの?」とか「仕事はどう?」
とかいろいろ聞いてきた。それに対してファッカー山田がよけいな口をはさむと急に不機嫌になり御飯をかきこんで、
「はあ、そうですか」
と気のない返事をした。
「まさかこんなことさせられるとは思わなかったでしょ」
と聞かれたので、私たちは正直に、
「そうですね」
といった。するとファッカー山田は、
「とんでもございません。まだこの子たちは新入社員ですので、何事もいい経験になりますから」
とおかずのかまぼこを割りバシでつまみながら作り笑いをした。
(何がいい経験だ。てんてん削るのが何の経験になるんだ)
私はおいしくないお弁当を食べながら、聞こえないように口の中でブツクサいった。ケイコちゃんも口をへの字に曲げて黙ってたくあんをかじっていた。
「全部終わるのにどのくらいかかりますかねえ」
部長さんはすっかりお弁当を食べおわり、マッチ棒で歯の間をシーハーしながらのんびりといった。
「そりゃもう、私ども、こちらのお仕事を最優先させていただきますので、まあ今週いっぱいでメドはつくのではないかと思っておるんでございますよ」
私とケイコちゃんは表面上は動揺をみせず、テーブルの下でお互いの足をケッとばしあった。こんなことが一週間も続いてたまるか。だんだん御飯がノドにつまってきた。彼が出ていってからとうとうケイコちゃんが本当に嫌そうな顔をしながら、
「こんなこと一週間もやるんですかあ」
といった。入社してはじめての反逆だった。
「だってねえ、キミ。キミは社員なんだよ。社員が会社のために働くのは当然じゃないか。それとも何かい? タダ働きしてるのかねキミは。違うだろ。働いて会社から給料をもらっているじゃないか」
ファッカー山田も嫌そうな顔をしていった。こんな薄暗い椅子もないところでずっーとてんてんを削っている私たちの姿は女工哀史に匹敵するのではないかという気すらした。
「あっ、そうだ。トの字のシールを作って上から貼るっていうのはどうですかねえ」
気分を盛り上げようと私がつとめて明るく提案すると、彼はニコリともせずに、
「シールを作るのに、いったいいくらかかると思ってるんだ」
と吐き捨てるようにいうのであった。
お昼のときはカタログを椅子がわりにできたのに、部長がいなくなると彼は、
「立て立て! 君たちが尻の下にしいてるのはうちの会社のメシのタネなんだぞ! 楽するな、楽を!」
といって片づけてしまったものだから、再び私たちはエビになって作業を続けるしかなかった。
「はい、少し休憩」
というから十分ぐらい休ませてくれるのかと思ったら、ただ両手をグルングルンと二、三回まわしただけ。
「はい、はじめ」
またうつむいて延々とてんてん削りは続くのだった。朝から三時間も四時間もこういうことをやっていると、勝手にカッターを持つ右手が動き、そのうえ頭の中が真白になって目は点目、口は半開きというおメン顔になってしまうのだった。
「よーし、調子が出てきたなあ」
楽しそうにファッカー山田がいっても私たちには何の感動もなく、相変らずエビ女でいるしかなかった。
「MOREのカラーグラビアに載っていた、電通や博報堂のキャリアウーマンもこんなことしたのかしら」
と思うと悲しくなった。隣りではもうヤケクソといった雰囲気で、ケイコちゃんが肩いからせてテーブルの上にかがみこんでいる。
「おっ、キミすごいねえ。うまいうまい、その調子」
と誉められても彼女は完全に彼を無視していた。その背中には殺気すら感じられた。
工場の人たちが五時のチャイムと共に帰っても私たちは解放されなかった。部長さんは昼と同じように夜食のお弁当を持ってきてくれた。
「本当にすみませんねえ。たいしたものじゃないけどまた御飯食べて元気つけて下さいよ」
そういって彼は本当に申し訳なさそうな顔をした。しかしそういわれても私とケイコちゃんは疲れきってしまい、
「はあ、いただきます」
しかいえないのだった。それなのに諸悪の根源のファッカー山田だけ相変らず元気がよく、
「部長! そんな御夜食までお世話いただいて……。いけません、いけません。そこまで御好意に甘えるわけにはまいりません。わたくしお代金をお支払いいたします」
といってわざとらしく財布をとり出して、部長さんにお金を払おうとするのだった。しかしまた彼はファッカー山田を無視し、
「おうちの方も御心配でしょうから、これ食べたらすぐ帰りなさい」
といってくれた。しかし私たちは、
「こいつが帰してくれないんだよ」
というわけにもいかず、曖昧《あいまい》に笑ってごまかした。お弁当を食べ終わっても延々と作業は続いた。八時になっても九時になっても十時になっても続いた。もうすでに十一時をまわっていた。
「ひえー!! まだやってる!!」
今度は背広姿で現われた部長さんが叫んだ。
「ちょっと。お嬢さんたちをこんな夜遅くまで働かせていいんですか」
と彼は怒った口調でいった。するとファッカー山田は少しもひるまず、
「いやあ、私どもはこのくらいの時間まで仕事をするのはふつうなんでございますよ。それにうちは男女差が全くない会社ですので、その点、社員は覚悟しております」
もみ手をせんばかりに満面に笑みを浮かべて答えるのだった。
「しかしねえ……ものには限度っていうもんがねえ……」
部長が急に不機嫌になったのでファッカー山田は少しあわてていった。
「じゃ、このくらいで、キリのいいところで終わろうかね。続きはまた明日」
続きはまた明日≠ナ私たちは打ちひしがれた。ケイコちゃんと二人してトイレの鏡に映った顔をみてお互い腰が抜けるくらいビックリしてしまった。ずっとうつむいていたので毛は逆立ち、目は充血しておまけにクマまででき、ほっぺたにはひからびたごはん粒がへばりついていた。たった一日だというのに四歳も五歳も年をとったようだった。首に巻いていたのがメルローズのスカーフだったことを思い出してよけいに腹が立った。
「あんた、いっきにフケたね」
目をつり上げている私に向かって、力のない声でケイコちゃんがいった。
「あんただってそうだよ!」
いやな沈黙が流れた。毛は逆立ち腰は曲がり、ヒザはガクガクといった状態でこのまま家に帰れるのかと心配になったが、これから車をとばしても十二時。きっとタクシーで家まで送ってくれるんだろうと私たちは話し合った。
会社の車に倒れこむように乗ると、ファッカー山田は、
「ご苦労さん」
とぶっきらぼうにいった。私たちは、
「はあ」
といったつもりだったがそれは単なるため息に終わった。私たちは車中で死んだように眠った。すると突然車は止まり、
「それじゃ、また明日」
と彼が運転席から私たちのほうをふりむいていう。てっきりタクシー乗り場まで車をつけてくれるもんだと思っていた私たちはポカンとしていた。
「何だ、寝ボケたのか。グズグズしてると終電車に遅れるから、はやくはやく」
というのである。私たちはまだ何が何だかわからないまま車を降りた。彼は自分だけ車に乗って帰っていった。私たちは怒るのも忘れて腰をガシガシいわせながら駅の階段をかけ昇った。ケイコちゃんといつ電車に乗って、いつ別れたか全然覚えていなかった。
気がついたら自分の家の湯船の中でボーッとしていた。自分が何やってんだか全然わからなかった。もうろうとして布団の中に入ったら、あっという間に朝になった。
「きのうは何時ごろ帰ったの」「何してたの」「どうしてお弁当を全然たべてないの」
という矢つぎばやの質問を母親から浴びせられてもボーッとして何も答えられず、
「きょうも遅くなるよ」
とだけいいのこして満員電車の乗客となったのであった。
この仕事は三日間で終わった。まだてんてんを削らなければならないカタログは山のようにあったが、部長が連日の私たちの激務にたまげて、はっきりいえば、
「もういい! 見るにしのびない」
という結果になったのであった。
「ほらみろ。誠意をつくせばみなわかってくれる」
ファッカー山田はトンチンカンなことをいった。私はマジメにこの会社に就職したことを後悔していた。新聞の求人欄にこの会社と一緒に広告を出していた会社の名前をあれこれ思いだした。
「きっと、あの会社に就職した人は楽しくやってるんだろうな」
とひがんだ。昼間は相変らずの仕事。吉岡君との遅刻の件があって以来、私は車に乗せてもらえなくなった。毎日毎日都内近郊をウロウロしてるかと思えばとんでもないところにとばされたこともあった。
その日、たまたま私は夜十時という早い時間に家に帰ることができた。いつものように、
「どうしてこんなに遅いの」「何やってるの」
という質問に適当に答えてテレビを観ていた。母親は不満そうな顔をしてブーたれていた。そこヘジリーンという不吉な電話のベル。おそるおそる出ると、思い出すのもおぞましいファッカー山田の声だった。
「いやあ、すまんねえ、こんな夜遅く」
全然すまないと思ってないことがわかるいい方だった。
「いやあ、実はね。明日出張してほしいんだ。場所は宮城県の白石っていうところなんだがね。いってくれるかね」
そういいつつも、暗に行けと命令している口ぶりで、私はもちろん行きたくなかったが仕方なく、
「はあ、いいですよ」
と返事をしてしまった。そのくせどうしてイヤなくせにイヤとはっきりいえないのだろう、といつも後悔するのだ。彼は明日の朝五時に出社するようにいった。私はなんでこんなに忙しいのか理解できなかった。同じ部にいながら一週間も顔をあわさない人が何人もいた。たまに会うとお互い感動して手なんか振って、
「久しぶりー」
とわめくというへんな会社だった。
翌日いわれたとおり私は半分眠りながら会社についた。当然ファッカー山田も出社しているもんだと思ったら、誰もいなかった。そのかわり私の机の上に土管の子分のような筒がデーンと置いてあった。直径30センチ、長さ150センチはあるしろもので、女ポパイといわれる私が「ドッコイショ」とかけ声をかけなければ持ち上がらないくらいの重量があった。そして、これは先方の会社に届けるべき業務用エアコンの実物大のパッケージの版下であること、今日の二時がそのリミットであること、駅からタクシーでM工場といえばすぐわかること、用事が終わったらすぐ帰ってくることなどが、メモに走り書きしてあった。
私は今もそうだが当時からひどい方向音痴であった。日本国内の路線に関して全くわからず、満足に電車にさえも乗れないのである。私は白石なんて行ったこともないし、何に乗って行くのかも全然わからない。全く関係ない土地に行ってしまって、そこで悪いおじさんたちにだまされて、東南アジアに売られたらどうしようなどということが頭の中に浮かんできた。しかし私は行かねば、行かねばならぬのである。まるで三波春夫の歌みたいだった。
私はその筒を抱きかかえ、ともかく上野駅に行けば何とかなるだろうとタクシーをとばした。目をつりあげ、ぶっとい筒を抱きかかえてドデドデと切符売り場めざして走った。巷《ちまた》の人々はこの人はいったい何なのかというような顔をしてじーっとみていた。そんなことにはかまっておられず、私は切符を買い終わった前の男をつきとばし、
「あの、ともかく二時までに白石までいきたいんですけど、はやく切符下さい」
とわめいた。窓口のおじさんは、
「はあ、二時ねえ」
といって調べていたが、
「あることはあるけどねえ、今日は運休だわ」
と無表情で告げたのであった。
「トホホホ」
その場につっぷしたくなった。
「その次だとねえ……三時半すぎになっちゃうねえ」
「それでいいです。ともかく早く着くやつを下さい」
「うん、だからねえ、さっきもいったけどね、それは今日は運休なのね」
なんとニブイおじさんなんだろうかと腹がたち、ともかくわめきちらして三時半に着くという切符を口にくわえ、筒をかかえて走り出した。
その列車が発車するらしいプラットホームはしょうゆで煮しめたような色の服を着たジイさんバアさんばっかりだった。ああ、これから北へ行くということをしみじみと感じた。しかしジイさんバアさんたちはそれなりに楽しそうだった。やっと乗った列車の中でも、彼らは信玄袋の中からゆでたまごとかおにぎりを出して物々交換をしていた。私は筒を傍らにおいてボンヤリ外をみていた。行けども行けども何の変化もない景色だった。緑の田圃《たんぼ》が一面に広がっていた。でっかい立て看板がビュンビュンとうしろにとんでいった。おたふくわたとハイアースの看板がいくつとんでいったであろうか。あまりにヒマなので一つ、二つと立て看板を数えようと思ったがバカバカしいのでやめた。少し寝た。五十分たって起きてみても外の景色は全然変わっていなかった。私のまわりでは、ジイバアによる宴会が繰りひろげられていた。
「ハア、ドッコイショ」と、
「ホント、あんた年にみえないわあ」
というそれだけが、おぞましいほどくりかえされる状況に耳をふさぎたくなった。そっと車内をみわたしても若い人間など一人もおらず、私と年が一番近いのは車掌さんというおどろくべき環境だった。その唯一の仲間と思われた彼も、検札にきたときには私の横に座っている筒をギロリとみて、
「ちょっと、これなんなの?」
と冷たくいうのである。ちょうどそのころ世間では過激派によると思われる爆発事件が相次いでいたので、この場に全然そぐわないぶっとい筒をもっている私は疑いをもたれたらしい。
「あの、これは」
「何なの、えっ!! これは何だ!!」
だんだん車掌さんは声を荒げていった。そのさわぎを聞きつけて、今まで宴会をやっていたジイバアが、ゆでたまごをもぐもぐやりながら、興味津々といった顔つきで、わらわらと座席のまわりに集まってきた。
「これは、会社の仕事で届ける品物です」
「ふーん。この筒を」
私はあれこれ細かいことを説明するのが面倒くさくて、
「どうぞ好きなだけ調べてもらっていいですよ」
ふてくされた。車掌さんはしばらくその筒をゆすったり中をのぞきこんだりしていたが、黙って行ってしまった。ジイバアたちはなーんだという顔をしてバラバラ席に戻っていった。しかしそれからはもぐもぐ口を動かしながら、チラチラと私のほうをみるようになった。
「疑うんなら疑え」
私はどうにでもなれと思って寝てしまった。ハッと目をさますと駅のホームに白石の文字があり、おまけに発車のベルが鳴っている。ジイバアたちは私が白石に行くのを聞いて知っていたくせに、私が駅についても起きないのに気がついていてもあえて起こそうとはせず、みんなで遠まきにしてじーっと私の姿をみていたらしい。私はガバと立ち上がり筒を抱きかかえて列車からとびおりた。白石はとても寒かった。いわれたとおりタクシーに乗って工場に着いたら、先方の課長さんが優しく、
「どうもご苦労さまでしたねえ。今日はどちらにお泊まりですか」
と声をかけてくれた。私は「このままトンボ返りで東京に戻ります」といったとき、涙が出そうになった。
入社して五カ月がすぎた。あっという間だった。不規則な仕事に不満を持ってもしようがないとあきらめ、ただハイハイと返事をして上司のいうなりになっていた。平日、家に帰るのは早くて十一時すぎだった。
「ただいまあ」
とドアを開けると、母親が寝巻の上にカーディガンをはおり、
「遅かったねえ」
というのが日課だった。そして何もしゃべりたくないほど疲れている私に向かって、
「どうしてこんなに遅いの? そんなにやる仕事がたくさんあるの」
と毎日毎日飽きずにきくのだ。
「そんなこといったって仕事だからしようがないじゃない」
「だって……最近みんなで晩御飯を食べたことがないわ」
とまるで新婚夫婦のような会話になってしまうのだった。中にはファッカー山田に電話して、
「うちの娘はホステスじゃないんだから夜中まで働かせないでくれ」
と怒り狂っている親もいた。
「あんた、最近笑ったことないでしょう」
母親は私の顔をみてそういった。思えばいつも目ばかりつり上げ、会社でアハハと笑うことなどなかった。そのうえ休日はドッと疲れが出て昼すぎまで寝ているし、少しは明るい気持ちになろうと、テレビのスイッチをいれて漫才をみても全然おかしくないのであった。何をみても面白くも何ともなかった。そのくせクライアントに会うと、パブロフの犬のように思考とは無関係にニコニコッと笑顔が出てしまうのだった。鏡に映るおのれの姿は、目に光なく、ドロリとして唇の両端は下がり、ホッペタはふくれっつらでブーッとむくれていた。おまけに爪は雲母の如く次から次へとはがれ、髪には枝毛がふえ、だんだん猫背になっているのであった。
夜、布団の中に入っても神経が昂ぶってなかなか眠れなかった。やっとの思いで眠りについても、会社で働いている夢ばかりみるので、朝起きても全然寝たという気がしない。二十四時間寝ても醒《さ》めても私の頭の中には自分が働いている姿しかないのだった。会社に入って、すぐ彼をみつけましたなんていっている女は、よほど仕事をしてないのだろうと思った。こういう状態では彼氏をみつけるどころかどんどん老けていくこと必至だった。
ある日ケイコちゃんが頭の中で爆弾が炸裂《さくれつ》したようなヘアースタイルをしてきた。今までオカッパだったためにいっきに頭の大きさが二倍になってしまった。
「あわわ、どうしたんだね、キ、キミ、その頭! それでどうやってクライアントのところにいくんだね!!」
女性のヘアースタイルにうといファッカー山田は、鼻息を荒くしてどなった。
「今、ああいうのがはやりなんですよ」
相変らずベイ・シティ・ローラーズのようなシャツを着た課長がせり出してきたお腹をボリボリかきながらいった。
「はやり? 何がはやりだ! あれでうちの印象が悪くなったら一体どうするんだ。まったく何考えてんだ」
鼻を真赤にしてファッカー山田の怒りはおさまる気配がない。私はロッカー室に行ったケイコちゃんを追いかけていった。
「ちょっと、どうしたの?」
ケイコちゃんは、口は悪いが派手な格好をする女の子ではなかった。ましてやカーリーヘアーにするとはとてもじゃないけど信じられなかったのだ。ケイコちゃんは黙っていた。あれっと思って顔をのぞきこんでみると、目に涙をいっぱいためているのだった。
「ねえ、どうしたの」
ケイコちゃんはボソッと、
「あたしハゲちゃったの」
というとオンオン泣き出してしまったのである。
「えっ!! ハゲたあ?」
私はビックリ仰天して目の前に綿アメのような格好で揺れている髪の毛をじーっとみていた。彼女が鼻水をすすりながらいうことには、昨日激務のため四カ月行けなかった美容院に行って、カットしてもらおうと思ったら、そこの美容師に、
「お客さん、ハゲてますよ」
と宣告され、椅子から転げ落ちそうになってしまったのだという。美容師さんに調べてもらったら十円玉大のハゲが二つできていたのだった。
「だからゴマかすために予定変更して三時間もかけてこの頭にしてもらったのよ。あーん、このままだったらどうしよう」
私はたくさんワカメを食べよ、と彼女にアドバイスし、こんなに体に変調が起こるまで働いていいのかと腹が立ってきた。かくいう私も何か忘れ物をしていたような気がして、よく考えてみたら月のものが二カ月も止まっていたのだが、別に止まってあわてふためくような原因もないので、面倒くさくなくていいやとほったらかしにしていたことも思い出した。
「ねえ、ハゲたこと誰にもいわないで」
ケイコちゃんは涙声でいった。
「わかった、わかった」
私はそういって部屋に戻った。ファッカー山田はまだ機嫌が悪そうだった。カーリーヘアーの真実を知らないみんなは、
「どうしたの? そのアタマ」とか、「スズメの巣」「カミナリ坊や」「陰毛移植」とかいいたいことをいった。そういわれてもケイコちゃんはキャッキャと笑って、
「やあね、これ、今はやってんのよ」
と明るくいった。そのけなげな姿に涙が出そうになった。そういう姿をみていたファッカー山田はケイコちゃんをよびつけ、
「そんな派手な頭じゃクライアントにいくのは失礼だから、すぐ元に戻すように!!」
といい渡した。そういわれても彼女は真実をいわず、いやだといいとおした。そうしながらもロッカー室でオンオン泣いているのだった。
考えてみればすべて上司のファッカー山田が悪いのだ。他の媒体部、制作部は忙しくないときはみんなニコニコして八時には会社を出るのに、うちの部ではそんなことは許されない。彼は夜遅くまでいるのが会社に対する忠誠心だと思っているみたいだったが、そういうことを私たちにまで押しつけられてはたまらない。
そのうえ会議で私たちがアイディアを出すと、さも自分がそれを思いついたかのように社長に提案し、誉められて喜んでいるという、どうしようもない人間だった。私たちはみんな、誰があんなお調子者のために協力してやるかと思っていた。私はケイコちゃんと相談して、やるべき仕事はパパッとやったらすぐ帰ることにしようと決めた。その日も夜七時になってやるべき仕事が終わったので、二人してファッカー山田に向かって、
「それでは失礼します」
と挨拶をして帰ろうとした。想像どおり彼はギリッと私たちをみて、
「えっ! まだ七時だぞ」
と不満そうにいった。私たちは何もいわず黙っていた。お互い目線だけで対決しているかんじだった。
「何や、どうしたんや」
そこへ社長が体をゆすりながらスリッパの音をパタパタさせてやってきた。
「仕事が終わりましたので、失礼しようと思うんですけれど……」
と、そっというと社長はニコニコして、
「おっ、そうか、ええよ、御苦労さん。彼女たち帰ってもええんやろ」
と彼に向かっていった。
「はあ……いいよ、いいよ、帰りなさい」
憎々しげに彼は答えた。私たちはホホがゆるむのをさとられないように、平静をよそおって会社を出た。エレベーターに乗ったとたん、ケイコちゃんは自分のハゲのことも忘れて壁をケッとばし、
「ざまみろー!!」
とわめいた。
「社長だってさ、私たちを夜遅くまで働かすつもりはないんじゃないの? それじゃなきゃ、七時に帰っていいなんていうわけないわよねえ」
「そうよそうよ、みんなあいつが悪いんだわ。ああ、もう体中の毛をむしりとってやりたい!! くくく……」
ケイコちゃんは再びハゲのことを思い出したのか、身をよじってくやしそうにいった。考えてみたらこんな早い時間に帰るのは、初出勤の日以来だった。
「もう今夜はおいしいものバクバク食べようね!!」
私たちは半分意地になって渋谷に向かって歩いた。夜七時のにぎやかな渋谷を歩くのは久しぶりだった。考えてみたら帰るときに酔っぱらいの姿しかみたことがなかった。赤い灯、青い灯が目にまぶしかった。私たちはチカチカするネオンに目をしばたたかせ、ナンパしようとしてきた男たちを無視してレストランに入った。その夜私たちは腹十八分目くらい食べた。我ながら全身が胃ではないかと思うくらい食べた。
「こんなんじゃ私たち旅行にもいけないね」
ケイコちゃんはボアボアの頭に手をやっていった。
「そんなこと完璧《かんぺき》に無理よ。こんなに休みがないんだもん」
「そうねえ、ここの会社にいたって海外出張なんてありえないしね」
話をしているうちにだんだん猫背になり、またそれをまぎらわすために次から次へと料理を注文した。うつむくと料理が全部また口から出てきそうだった。
「きょうは久しぶりに親孝行しようね」
といって私たちは九時前に別れた。
家に帰ると母親は、
「どうしたの」
と心配そうな顔をしていった。ふだんより早く帰ってきたので具合が悪くなったのかと思ったのであった。
「きょうはね、料理の本みて、結構手のこんだのを作ったんだよ」
と母親はニコニコしてテーブルの上に夕食の準備をしようとした。
「もう食べてきたからいいよ」
そう断わると急に母親の顔が鬼のように変わり、
「せっかく作ったのにどうして食べないの! そんなの絶対に許さないからね!」
とすさまじい勢いで怒り出したのである。私はその剣幕にあわてて満杯になっている胃の中に夕食をつめこんだ。私が夕食を食べはじめるととたんに母親は機嫌がよくなり、
「おいしい?」とか「おかわりは」とそばに座ってうれしそうにいう。ポロポロごはんをこぼすとそれを台ふきで掃除しながら、
「まあ子供みたい」
と一見いやそう、実はうれしそうに私に話しかけるのである。
「いつもこのくらいに帰れるといいのにね」
「うーん」
「何とかそうしてもらえるように上司にたのめないの」
「仕事だからしようがないよ」
「そんなこといったって……ヒロシだって最近おねえちゃんと話してないから淋しそうだよ」
ここ五カ月間幾度となくくりかえされた、全く新婚夫婦の会話と変わらない母と娘の会話である。私の弱点である弟の名前を出してくるのも、妻が子供の名前を出して夫の弱味をグリグリついてくるのと同じであった。
「まあねえ、いくら仕事っていったって、限度があるからねえ。こうも毎日遅いんじゃ心配にもなるわ」
と少々あきらめたようにもいう。そういわれても私は、
「これで給料もらってるから」
としかいいようがないのだった。その夜も同じように会社で働いている夢をみて、翌日また会社に行った。ファッカー山田は何もいわなかった。ただ私たちをみるまわりの視線がするどいかなあという気もしたが、いちいち気にしてたら何もできないので無視した。私はケイコちゃんと、これから強行策をとり続ける確認をとった。だれかが突破口を開かないと何も変わらないのである。私たちがブリブリ相談をしていると吉岡君がやってきて、
「お前らが帰ったあと大変だったんだぜ」
という。新入社員の男の一人が、私たちのことを称して、
「甘えている」だの「根性がなってない」だのといいたい放題ファッカー山田に向かっていっていたというのである。
「おれ、あまりひどいから何かいってやろうかと思ったんだけどさ、ヤバイことにそのちょっと前に怒られちゃったからさ」
話をきいてみると、スタジオの撮影に立ちあったときに荷物運びもさせられるので、アロハシャツとジーンズに着がえたら、ファッカー山田にネクタイをしてこい! と怒られ、アロハにネクタイをして再び怒られたというのであった。
「あんたも本当にろくなことしてないね」
「うん、いいの。おれ、別に出世しようと思ってないから」
彼は軽くいって去って行った。しかしこんな会社でも役付きになりたい、出世したいと思っている男がいるのには驚いた。上司のいいつけはハイハイと何でもきき、そのくせコピーとりとか資料集めを同僚である私たちにさせようとするのであった。
「コピーをとるのだって仕事のうちの一つだろうが」
と文句をいうと、
「えーっ、だって染谷さんはとってくれたよ」
などという。こういうことに先輩の女子社員を使っても何とも思ってない。
「あたしだって自分の仕事があるんだから困るわよ。自分でやって!」
というと彼はおびえた目をして去り、陰であの女はキツいとかあんなんじゃ嫁のもらい手もないとか、大きなお世話をやいてくれたらしい。自分の悪いところを女につかれるとすぐ「あの女はかわいげがない」とひとことで片付けようとするバカがいるから本当に腹が立つ。そのうえこいつは本来ならば白石の出張に行くはずだったのだが、ボクは行きたくないとダダをこね、ファッカー山田がそんなに嫌がっているのにムリヤリ行かせるのはかわいそうだということになり、かわりに私が行くハメになった顛末《てんまつ》をあとになって知ったのである。
「都合のいい仕事ばかりを選びやがって」
私がケイコちゃんにグチると、彼女は、
「そんなやつ、体中の毛をむしってやりたい」
とまたわめいた。
その日も私たちは冷たい視線を浴びつつ七時半に会社を出た。食事をしながら会社の人の悪口をいうのはいいストレス解消になった。私は社長は嫌いではなかった。奥さんは毛を茶色に染めたあき竹城といったタイプであった。ドむらさきのワンピースの胸にチワワを抱いて唐突に会社に遊びに来るのには閉口したが、人間的にはいい人だった。社長は、
「わしらはチンドン屋」
というのが口グセだった。わけのわからぬ広告は嫌いで、その点いつも、
「作り手が目立ってどうする!」
とデザイナーやコピーライターに怒るために制作部もやたらと人のいれかわりが多かったようだった。コピーライターの部長もとっても厳しい人だったが、いつもお昼に代官山のトムズサンドウィッチにつれていってくれた。そこに来ているブティックの女の人に向かって、
「ブティックの女の人って、どうしてみんな同じ顔してるんですかあ」
と大きい声でいって、嫌われていた。
「おまえもね、あんなに厚化粧してみんなと同じ顔になるんじゃないよ。真赤な爪して煙草吸って、ああいうのがカッコいいと思ってるんだからバカだよな、あいつら」
私は、黙って聞いていた。いろいろな人がいた中で、貪欲《どんよく》に出世したいと思っている男の子は、はたからみたら単なるたいこ持ちの二代目といったふうだったが、彼にしてみれば必死だったのだろう。スキあらば私たちをも蹴落とそうとする人間であった。私たちはただビックリしてその男をみているだけだった。
「出世のことしか頭にない男ってやだよね」
私はほうれん草のサラダを食べながらいった。
「うん。でもさ、いつまでもヒラっていうのもちょっとねえ」
ケイコちゃんはフォークをくわえながらそういった。私たちはどういう男が一番望ましいかという順位をつけた。もちろん容姿が入ると混乱してくるので、ポイントは性格と仕事のみである。もちろん第一位は性格がよくて仕事ができる男である。
そういう男は社内にいるだろうかと話し合ったが、吉岡君は性格はいいが、アロハにネクタイをしてしまうアホだから、いまいちそこまでいかないという結論に達した。ビリも当然仕事ができず性格が悪い男である。しかし往々にしてこういうタイプは自分が仕事ができないことを全く把握していないことが多く、そのうえ大胆にも、
「オレは社長に特別目をかけてもらっている」
と誤解しているのだった。会社の先輩で不二家のロバというアダ名の人がいて(いつも着ているシャツが不二家の制服と同じピンクと白のストライプで、顔がロバにそっくりだった)、その人がまさにそうだった。いつもえらそうに私たちに向かって、
「ボクは社長に特別かわいがられているから、ボクの下にいれば安心だよ」
といいながら、結果は地方に支社ができたとき、まっさきに左遷させられてしまった。
「あの人、みんなが気づいていたのに、自分だけ自分の能力に気づいてなかったのね」
と私たちはその話を聞いて噂したのである。困ったのが二位と三位である。
○仕事ができて性格が悪い
○仕事ができず性格が良い
これの順位をつけなければならないのである。
「うーん、どっちもどっちですねえ」
「これはむずかしい」
単なる思いつきではじめたのに我ながらこんなに真剣になるとは思わなかった。
「先生、これは自分とその人がどの程度の関係だと想定すればいいんでしょうか」
私がそういうとケイコちゃんは、
「そうねえ、まあそれによっても違うわね」
性格が悪いよりは良いほうがいいに決まっているし、仕事もできないよりはできるほうがいいに決まっている。私たちは食事をする手を休めてエンエンと話し合った。やはりどんなに性格が悪くてもそれなりに仕事ができれば人は評価してくれるが、そうじゃない人は、
「人はいいんだけどねえ」
といわれるのがオチで、結局は仕事ができて性格が悪いというのが第二位となった。
「やっと決まりましたね」
再び私がパクパク食べだすとケイコちゃんは、
「うーん、でもねえ、自分の彼氏だったらどう?」
彼氏にするんだったら性格の悪いのなんてやだし、性格がいいと思っても会社で無能よばわりされていることを知ったらそれもまた悲惨だ。
「やっぱり両方やだわ」
「そうよね、でもこの二つが男のうちで一番多いんじゃないの」
「そりゃそうでしょ」
「うーむ」
私たちはまた悩んでしまった。
「でも性格の悪いのは直る可能性はあるけど、仕事ができないのはどうしようもないんじゃない?」
「そうだよね。会社は人の良さに対して給料払ってんじゃないもんね」
あまり考えすぎると頭が混乱してくるので、ことのほか奥深い問題になってしまったこの件は、もうこの場で忘れることにしようということになった。
「男はどう思ってんのかね、女のこと」
「バカねえ、男には頭っからそんな発想なんかないわよ。会社に行って働く女より、自分のパンツを洗ってくれる女のほうがいいと思ってるのに決まってるわよ」
「そりゃそうだわね」
私たちはデザートのアイスクリームをペロリとたいらげ、駅に向かってダラダラと歩いていた。しばらくして突然ケイコちゃんが、
「あたし、結婚しようと思ってんのよね」
とボソッといった。一瞬頭の中が真白になり、裏切り≠ニいうことばがふとよぎったが、気をとりなおし何かいおうと思った。しかし私には、
「ヘーえ」
ということばしか出てこなかった。その彼は高校時代からの同級生で、大学時代に彼女が別の男と浮気してもじっとそれに耐え、過去はすべて忘れるから一緒になってくれといったのだというのである。
「ふーん、じゃあもう決めちゃってるわけね」
私は不機嫌になっていた。
「まあ、まだわかんないけどね」
「しかしけなげな男だね」
「そうなのよ、私もおどろいているの」
忙しい忙しいといいながら、人はちゃんとやるべきことはやっているではないか。ガーガー寝るしかすることのない私がバカみたいに思えてきた。吉岡君との営業ドライブも禁じられ、私には何の楽しみもなかった。別れ際私はケイコちゃんに向かって、
「彼氏がいるのに他の男と浮気するから頭ハゲちゃうんだよ」
といってやった。
「ガハハハハ」
彼女は大きな口をあけて笑い、手を振って人ごみの中に消えていった。
それから毎日毎日、私たちは早く会社を出て食事をしてから家に帰った。ところが家に帰って用意した夕食を食べないと母親が相変わらずものすごい顔して怒るので、仕方なくそれも食べた。その結果当然の如く私は太った。階段をのぼると息切れがして、立っているだけでつらくて、椅子に座るときには、
「どっこいしょ」
と声まで出してしまうのだった。一カ月で茶筒のような体型になってしまい、顔は青白くむくんでいた。ますます気分は落ちこみ顔は無表情、ただボンヤリしているだけだった。会社にいって、ヒマつぶしにみんなにお茶をいれると、先輩の男たちは、
「あっ、よく気がきくねえ。きっといいお嫁さんになれるよ」
といった。そういうことが女に対して一番の誉め言葉だと思っているらしかった。
「バカめ」
と腹の中で毒づいた。しかしそう思いながらも、自分は仕事をずっと続けていける能力があるのかどうか不安でたまらなかった。ただこのままでは毎日ズルズルとおし流されていくだけで、何も落ちついて考えることができないような気がした。
「あたし、会社やめようかと思ってるんだけど」
と母親にいうと、洗いものをしながら、
「あっそ、やめたきゃやめれば。やめたら家のことやってよね」
というだけだった。ケイコちゃんにいっても吉岡君にいっても誰一人止める人はいなかった。みんな、
「それがいい、それがいい」
と賛成し、三カ月後には私たちもあとに続くというのだった。ファッカー山田にやめるといっても、なかなかうんといってくれなかった。今になって考えれば、私も会社に対してひどいことをしたのかと思う。しかしそのときはただ、
「やめたい!」
ということしか頭の中になかった。結局二日間話し合ってやっとやめさせてくれることになった。あの染谷さんは、
「ほんとうに淋しいわー、たまには遊びにきてね」
といつものように胸を揺すりながらいった。ハゲもだんだん治ってきたケイコちゃんも、
「私もやめたら連絡するから」
といった。吉岡君は名刺の裏に自宅の電話番号を書いて、
「何かあったら電話して」
といってくれた。坂田さんも山下さんも、
「元気でね」
といってくれた。トムズサンドウィッチで昼食をごちそうしてくれた部長も、
「そうか、残念だなあ」
といってくれた。あのファッカー山田でさえ、
「どうもありがとう」
と最後にいってくれた。私はとんでもない嫌なことをしている女のように思えた。私はあまりスッキリしない気持ちで会社を出た。
そして半月後、競馬場で馬券を握りしめたまま、心臓発作でファッカー山田が死んでしまったことを知らされたのであった。
会社をやめたとたん、私は家にいてもよいから家事一切をやるように! と母親にいい渡された。母親と弟を送り出したあと皿洗いをし、掃除、洗濯、そのあいまに私をお嫁さんにしたいという、近所の三歳になるケンちゃんが遊びにくるのでその相手をする。ホッと一息つくと飼っている八匹のトラちゃん一家が腹減った、腹減った≠ニ家中を走りまわるし、そうなるとインコのピー子ちゃんもギャーギャー一緒にわめくというすさまじい大騒動になってしまうのだった。しかし私のこのむくんだ体は、そういった中に身をおかない限りとてもじゃないけどヤセるとは思えなかった。昼間の重労働と夜の美容体操のおかげで十日間で元どおりの体重になった。
家事には、ほとほと飽きていた。私は専業主婦にはなれないと確信した。そうなるとまた職を捜さなければならない。私はもう広告の仕事もふつうの事務の仕事も死んでもいやだった。新聞の求人欄を見てもパッとしないし、どうしようかなあと考えつつ、寝っころがって弟が買って放りなげてあった音楽雑誌をパラパラとめくっていた。するとそこにはまるで私のために作られたような求人≠フ囲み記事。私はガバととび起き、机のひき出しの奥からフチが茶色に変色しかけた履歴書をひっぱり出して駅前のポストまで出しにいった。音楽も好きだし雑誌も好きだから、これは一石二鳥だと内心ホクホクしていたのである。
一週間たって面接日が指定されてきた。ビルの中にあるその会社には絵にかいたような若者ばかりがいた。中には相当トシの人もいたがTシャツにジーンズ姿で若づくりをしていた。面接をした営業部長なる男性はきちんとスーツを着た温厚な紳士だった。
「あのねえ、あなたのような人がいてくれると助かるんですけどねえ。ところがあなたが応募者の中で一番年が上なんですよ」
と彼はいった。当時私は二十二歳で、そういわれて私はビックリした。
「うちの雑誌は読者が若くてね。だいたい二十歳が限度なんですよ」
思えば年齢制限はなかったような気がするが、私が応募者で一番年上というのはショックだった。
「もしダメでも気にしないで下さいね」
と彼はひたすらあやまる。私はダメならダメでもいいので、
「はあ、大丈夫です」
と面接されたのかどうかもよくわからないまま家に帰ってきた。母親も弟も私のしたことに全く何の関心も示さず、この会社に行ってきたといっても、
「あっそ! 就職したらまた家に三万円いれなさいよ」
というだけ。相変らずテレビを観ながらガハガハ笑っているのである。私もあの面接の調子じゃ、このまま自宅での肉体労働が続くことになるな、と思っていた。ところが、どういうわけか採用通知が来てしまったのである。できるだけ若作りをして出社すると、そこには若い二人の女の子がいた。私が行くと、面接した部長が私を手まねきして別の部屋につれて行った。
「あのねえ、さっき若い子二人いたでしょ。あの子たちが実は正式に採用された子なんですよ。それで、あなたの場合は、もしアルバイト待遇でもよければ来てもらえないかということなんですけれど」
と申し訳なさそうにいった。別に私はそれでもよかったのでそのむね了承すると、彼はニコニコして、
「ああよかった。それじゃ社長をつれてきますから」
といって部屋を出ていった。入れかわりに入ってきたのは髪の毛は肩のあたりまで伸び放題。ヒゲ、真赤なTシャツにベルボトムのジーンズ、おまけにヒールが10センチもあるピンクとグリーンのコンビのロンドンブーツをはいている、ド派手な初老の中江滋樹といったかんじの男だった。そのとき彼に私にはいろいろなことを手伝ってもらうということと、正式採用された彼女たちよりも一万円多い、八万円が私の給料だといわれたこと。そして私のことをジロジロ頭のてっぺんからつま先まで眺めていたことだけなぜか覚えている。
ところがこの男はとんでもない高血圧のヒヒジジイであった。なにしろ毎日怒り狂うのが仕事のような男だった。先輩から聞いたところによると、社長はかつてはそこそこの作曲家であったらしい。
「だからさ、ホラ、あの車みてわかるでしょ」
先輩は社長の乗っているこれまたド派手なプリンスのことをいった。そのプリンスは相当の年代物であったにもかかわらず、車体のそこいらじゅうにピンクや赤のお花と、○○旅館のうた≠フ、そよ風がどうした、花も香ってめでたいとかいう歌詞がくっきりと書いてあるのだった。その○○旅館のうたの作曲をしたのがこの社長というわけだが、でかけるたびにその車に同乗しなければならないので私は気が重かった。信号で止まるたびにまわりの車に乗っている人や道行く人が指さして笑うからである。私がじーっとうつむいているのに社長はふんぞりかえって得意そうに、
「ほら、またみてるぞ」
とニヤッと笑っていうのである。しかし私の耳には、
「なんだあれ、宣伝カーかよお」
などという笑い声が聞こえ、ただうつむくしかなかった。甲州街道を猛スピードでとばしていたとき、対向車から身をのり出して私たちの車を指さして笑っている男がいた。ムッとしてすれちがいざま顔をみると、その男はさだまさしだった。
車から降りたら降りたで、例のとんでもない服装にフチを七色に塗りわけた大きなサングラスをかけて歩きまわる。いくら他人に無関心の東京人とはいえ、一緒に歩いているとヒシヒシと人々の視線を感じてしまうのであった。
「いいか、外に出たらな、社長といわないで先生といえよ、先生と」
といわれた。社内にいるときは、
「オレは高血圧だから過激な運動はダメなんだ」
といっているくせに、いざ人混みに出ると肩をいからせロンドンブーツをガッパガッパいわせながら私よりもずーっと先に行ってしまい、立ちどまってそこから両手を振りながら私に向かって、
「おーい、こっちだ、こっちだ」
と大声で叫ぶのである。そしてまわりの人々が社長に注目すると、この上もなくうれしそうな表情をした。
「私は何をしたらよいのでしょうか」
とそーっと聞いても、
「うるさい! 黙ってついてくりゃいいんだ」
というだけ。私はただ巷の人々の好奇の目にさらされながら、褌《ふんどし》かつぎのように社長のうしろを首うなだれてトボトボ歩くしかなかったのである。社長はアポイントも何もとらず楽器メーカーヘ唐突にたずねて行っては受付で社長に会わせろとわめいた。応接室にとおされても当然私はやることもなく、ただふんふんとうなずいて話を聞いているフリをしていた。あるところでボブ・ディランが来日したときにエレキ・ギターを持っていたとメーカーの社長がいったときは、
「はあ、そうですか」
といっていたくせに、別のところに行くと、
「社長、知ってますか、あのボブ・ディランでさえ、今やエレキ・ギターを使っているんですからな、ドハハハハ」
と、さも昔からこのことを知っていたかのようにいう。そして外に出ると、
「こういうふうにな、今きいたことでも知らない奴に教えてやると尊敬されるんだぞ」
と私にいうのである。私はいいかげんこんな男と一緒にいるのはあきあきしていた。しかし社長がこういうときは十日にいっぺんのとても機嫌がいいときなのである。機嫌の悪い日は、私は出社して椅子に座っているだけで怒られた。
「バカヤロー、いつまでお嬢さんみたいに座っているんだ。さっさと広告でもとりに行ってこい」
というのである。そんなこといわれたって私はどこへいって何をしていいのか皆目わからず、何いってるんだこいつと思いながら社長の顔をみていた。彼はそういう私をいまいましそうにみつめ、
「レコード会社へ行ってな、宣伝部のエライ人のところへ行ってオレの名前を出せば黙って広告の一つや二つくれるんだ」
とわめく。私はひとこともいわず会社を出て、近所の喫茶店に入ってレコード会社の宣伝部に電話をかけてみた。社長の話だと名前をいえばすぐ広告をくれるような話だったが、社長の名前をいっても、
「そんな人知らん」
といわれた。そんなに簡単な話なら山ほど広告が入っているはずで、私もおかしいなと思っていたから知らんといわれても、ああやっぱりね、と納得してしまったのだった。ところが一つだけ、あるレコード会社の宣伝部長は、
「そういえば昔、会ったことがあるかなあ」
と電話口でいい、ともかく会社に来てみて下さいといってくれた。私がおそるおそる六本木に行くと、温厚な部長はだんだん記憶がよみがえってきたらしく、いろいろ私に話してくれたのだが、社長と彼が会ったのは十何年前にたった一度だけというのをきいて、社長の図々しさにあらためてあきれてしまった。しかし部長は、
「広告はすぐ出せないけど検討しておきましょう」
といってくれ、そのうえ試聴盤のレコードを十枚と、
「女の子がこういう仕事をするのは大変だね」
と昼御飯までごちそうしてくれたのだった。私は何度も何度も彼に頭を下げた。会社に戻ってみると社長の機嫌は少し直っているようだった。まさか、そんな人知らんといわれて広告をもらえませんでしたというわけにもいかず、あの親切な部長の話だけ報告した。社長は自分の言動を棚にあげて、
「どいつもこいつもケチンボばっかりだ」
とブーブー怒ってフラッと出ていってしまった。
社長が出ていくと、今までしーんとしていた社内は一転して社長の大悪口大会に変身した。
「ケチンボ」「悪趣味」「変態」など先輩たちの口から罵詈雑言《ばりぞうごん》がとび出した。
「あっ、ヤバイ、ちょっと待て!」
編集長が叫んだ。すると先輩たちは突然蛍光灯の上とかゴミ箱の中、花ビンの中、机の下などを調べ出した。
「どうしたんですか」
「いや盗聴器が仕掛けられてるんじゃないかと思ってさ」
編集長は机の下から顔を出していった。話によると、かつてやはりこういう状況で編集者たちが大声で社長の悪口をいっていたところ、次の日になって、一番たくさん悪口をいっていた人が別室に呼びだされて、
「おまえ、会社やめるかね」
といわれたというのである。
「あいつ、そういうイヤラシイことやりかねないよ」
編集長は小声でいった。それから私たちはひとっところにかたまってコソコソと悪口をいいあい、社長が帰ってきても知らんぷりをしていた。背中で社長のようすをうかがっていると急に肩を叩かれ、別室に来るようにといわれた。この別室というのは三畳くらいの取調室のような部屋で、来客があるとそこに通されるよくいえば応接室のようなところだった。私は悪口大会のときも、
「そうよね」
しかいわなかったし、ましてや唐突にやめろともいわれないだろうと思いつつも緊張して椅子に座った。社長はいつものようにジロジロと私の頭のてっぺんからつま先まで眺めてから口を開いた。今度自分が趣味で雑誌を出すので、それについては私に編集をしてほしいというのである。それが軌道にのればページ数もふやしていくけれど、最初は直販で書店や楽器店に置いてもらうしかないだろうということだった。
「オレは金は出しても口は出さないから好きなようにやってくれ」
とはいったが、この自己顕示欲の強い男が黙っているわけがないじゃないかと思った。しかし、とりあえずは自分で好きなようにできるし、編集も覚えられると思ってその申し出にOKした。それから私は西に家族で音楽会を開いている人があればそれを取材し、東にコンサートがあればそれも取材し、レコード評を書き、渡辺真知子の迷い道≠フレコードを聴いてスコアを作成するという作業を毎日毎日くりかえしていた。そのあいまに再びレコード会社に行っては広告をもらえないか、ご機嫌うかがいに行ったり、本当に目のまわるような忙しさだったが仕事自体は楽しかった。そのまま何事もなければずっとここにいたと思う。
ところがある日、社長がまた私を別室に呼んだ。
「最近忙しいから疲れてるだろう」
彼はロンドンブーツをガタガタいわせながらいった。
「はい、でも仕事ですから」
「そうか、やる気になってるんだな。忙しくて大変だったな。オレはマッサージが得意だから肩こってるだろうから揉《も》んでやろう」
といって私の肩をガシッとうしろからつかむのである。
「いいです!」
といっても勝手にゴリゴリマッサージははじまるし、私は凝り症なので肩がこっていたのも事実であるが、それにしてもあまりに話のつながり方が唐突だった。ところがこのド派手初老中江滋樹はその肩に置いた手をズリズリと胸のあたりまで下げてこようとするではないか! 私はびっくりして、
「ちょっと! 何するんですか!!」
と身をよじって彼から離れた。
「オレにさからうのか」
彼はいまいましそうにいった。
「さからう? ふざけないでよ」
私も頭にきていった。
「ほお、キミ、うちの会社やめるかね?」
ニヤッと笑ってそういうヒヒジジイに向かって、
「やめるにきまってるでしょ!!」
と宣言して自分の机を片づけてドアをけっとばして会社を出た。ここは三カ月の命だった。駅まで歩いていて腹が立って腹が立って仕方がなかった。もし私が男だったらこういう問題は起こらないだろう。どうして仕事をしていくうえで、女だというだけでこうも面倒くさい問題が出てくるのかと思うと嫌でたまらなかった。プリプリ怒りながら歩いている私に向かって、一人のジイさんがよろめきながら近づいてきた。そして私の耳元で、
「ねえちゃん、一発やらねえか」
とささやいた。私がキッとにらむとジイさんは薄笑いを浮かべながらヨタヨタと去っていった。私は悔しくて足元にあった石ころをひろってそいつの背中めがけて投げつけ、一目散に走って逃げた。
私は家に帰ってこの一件を逐一母親に話し、私は再び失業者になるがこらえてくれといった。
「よし! 許す!」
そう母親はいい、母子して、
「女子社員をペット化するスケベ上司を粉粋する会」
を結成して、こういうバカ男に負けてなるかと心に誓ったのであった。
また家事労働がめぐってきた。新聞の求人欄をながめる日が続いた。それにあきるとフラッと家を出て、高田馬場の書店にいって棚を眺めた。山ほどある本の背を眺めていると心が落ちついた。思えば私は学校を卒業してからろくに本を読んでいないのだった。しかし失業者の私には好きなだけ本を買う金なんてなかったのである。本を買うために働くと読む時間がないし、読む時間があると金がないという状態だった。私はその書店を上から下までエスカレーターに乗って徘徊《はいかい》した。すると一角に平台があり、その上に何冊かの薄っぺらいパンフレットのようなものが並べられているのが目についた。近くに寄ってみると白い表紙には紺色で、
「本の雑誌」
と描いてあった。パラパラと立ち読みして私はガーン! としてしまった。このガーンとしたのは二度目で、小学生のときに駅前の西友のレコード売場でローリング・ストーンズのサティスファクションを聴いたとき以来の衝撃だった。こんな雑誌が世の中にあるのかと思った。この号の巻頭には4ページにわたって、今月のお話として「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」が載っていた。本をこんなに面白く紹介することができるなんて、考えられないことだった。たしかに月刊「宝島」での「チューサン階級の友」も面白かったし、それ以外にも面白い読物はたくさんあったけど、こんなに斬新《ざんしん》なスタイルで本を語れるのかとたまげてしまったのである。私は平積みになっている本の雑誌を、バックナンバーともども買い求めた。駅で切符を買おうと思ったらお金が足りなかったので、一駅手前で降りて歩いて帰った。4号の「読みかたの研究千八百円の新刊本と二百三十円の古本を同じ姿勢と眼つきで読んでいいものかどうか」、5号の「さらば国分寺書店のオババ」、6号の「何か面白い本はないかなあーと捜した35冊」など、どれもこれも私の頭の隅っこにあった、
「本を読む人は偉くて賢い」
といういやらしさを消し去ってくれるものだった。私は「本の雑誌」を手にしたことで、本を読む|楽しみ《ヽヽヽ》を知ったような気がした。しかし現実に私は働き口を捜さなければいけない失業者である。いくら雑誌が面白くても毎日そればかり読んでいるわけにはいかないのであった。
また新聞の求人欄を見る日が続いた。そしてあるとき、一つの求人広告が目にとびこんできた。六本木にある社内報を編集している会社だった。私は編集の仕事が中途半端で終わってしまったので、これからも編集の仕事を続けてやりたかった。また机のひき出しの中から履歴書を出し、その会社に送った。いつもと同じように面接試験があり、そしてまた私は受かってしまったのであった。その会社は総勢六人でそのうち女性二人、私ともう一人女の子が合格していた。社長は私に向かって、
「あなたは菅原さんのほうの仕事をやって下さい」
といった。菅原さんというのは社長の共同経営者のような立場にある人だった。私は前の音楽雑誌のこともあり、なんとなく嫌な予感がしていた。いつも本筋から少しはずれた仕事をさせられてはいろんなことが起きるからであった。それは菅原さんという人がどうも虫が好かないタイプだったということもあった。五十がらみで猪首の肥満体でハゲ。そのうえゼッペキ頭であった。先輩女子社員の話によると、近所の写真店の受付にいるグラマー嬢を愛人にしているということだった。彼は私に向かって、
「いいかい、キミを気に入っていれたのはボクだからね」
といった。またか、と思った。しかし私も少しずつ免疫ができていたから、何事が起こってもうまく対処できる自信はついていた。どの編集プロダクションも同じだが、小さいところでは一人が何もかもやらなければならない。私がまかされたのは、信用組合のグループで作っているPR用のパンフレットを作ることだった。よく窓口でタダで配っている私たちのくらし≠ニかあなたと信用組合≠ニいったようなたぐいのものである。
A5判オフセットで取材もレイアウトも写植の指定も版下づくりもすべて私一人でやらなければならなかった。そして一番のネックは読者の対象が五十歳以上の人々ということだった。私がその信用組合の広報担当者に会いにいったときも、ハヤリものにはまず拒絶反応を示すので、その点だけ気をつけて欲しいとクギをさされてしまった。
そのうえ、パンフレットの連載は「都内でおまいりできる神社、仏閣」「地名の由来」「民謡クロスワード」にしてほしいと一方的に決められてしまった。これはもう私の趣味とか何とかいっておれる場合ではない。給料をもらえるのと仕事が覚えられるだけマシだと思わなければいけない! とおのれを叱咤《しつた》してパンフレットの作成にとり組んだのであった。1ぺージと2ページ目は信用組合からのお知らせ、その他はすべてお遊びのページであった。若い人相手なら、いろんな本からネタをひろって「おばあちゃんの知恵」とかいうページなんかも作れるのだが、読むのがおばあちゃんだから正直いって何をどうしていいか全くわからなかった。私はやり方もわからないまま、ただ見よう見まねで仕事をしていた。
「都内でおまいりできる神社、仏閣」には必ず写真を載せなくてはいけないので、お役所にその許可をもらいに行ったり写真を借りに行ったりした。自由に写真撮影ができるところはカメラ片手に写真を撮りに行った。そのカメラもゼッペキハゲの愛人の店から借りたものだった。ピントのあわせ方もろくに知らず、境内に群れている蚊にくわれた足をボリボリ掻《か》きながら写真を撮った。写真を現像に出している間にも、
「小豆沢《あずさわ》という地名はどうしてできたのでしょう」
という原稿を書かねばならず、そしてそのあとにはおぞましい「民謡クロスワードパズル」の恐怖が迫っているのであった。私が知っている民謡なんてソーラン節と花笠音頭ぐらいしかないので民謡の本を買って自分でクロスワードの枠を作った。原稿が出来上がると級数指定して写植屋さんに出す。そして写植が打ち上がったら裏にペタペタとペーパーセメントを塗って版下を作り、印刷所に渡して一段落するといった具合。そして刷り上がったら自らその包みを持って信用組合に配って歩かなければならなかった。こういうPR誌というのははっきりいって企業のちょうちん持ちである。最初は先方も、
「いやあ、私たちは素人ですから、すべてプロの方におまかせしますよ」
といったくせに、いざ具体的にそれが形となってあらわれてくるとああだ、こうだととんでもないことをいい出す。自分で企画を出しておいて、もうすぐそれが刷り上がってくるというのに、
「やっぱりやめよう」
とかいい出したりして、そのたんびに私は印刷所と写植屋の間を走りまわった。
秋の号の第1ページは、最初は大運動会の報告の予定だったのだが、新しい信用組合の旗が作られ、それのおひろめのページに変更になった。
「今、屋上につけてきましたからね、ぜひそれを撮って下さいよ」
広報担当者は明るくいうのだが、そんな話ここに来てはじめて聞いた私は、また会社に戻ってゼッペキハゲにそのことを話した。すると彼はいつものように例のところでカメラを借りて写せという。実は彼はとんでもないケチで、なるべく会社の経費を節約するために人づてで借りられるものはすべてそれですまそうとするセコイところがあるのだった。カメラを借りに行くと、何と二眼レフしかないなどという。一眼レフだってこなせないのに二眼レフなんてどうやったらいいのかとわめいたら、写真店のお姉さんは、
「平気、平気」
といって取扱い方を教えてくれた。私は自分の能力にあまるカメラを手にして信用組合に戻った。担当者は、
「できればパタパタッと風にはためいてるのがいいですね、そして欲をいえば、欲をいえばですよ。できればでいいんですけどね、鳩なんかそこにとんじゃってるとベストですね」
とはりきっている。しかしその日は明らかに風力0である。おまけにこのへんはカラスはいても鳩なんていないのである。
「まあ、できるだけ努力しますけど」
といって私は外に出た。担当者がいったとおり、信用組合の屋根に旗はあった。しかしそれはダラッと垂れ下がっていてはためくどころではなかった。そのうえカメラをかまえても旗とピントが全然あわないし、ファインダーの中にうまくおさまらないのである。私はファインダーをのぞいたまま前に行ったりうしろに行ったりした。道路をウロチョロしたもんだから車にひかれそうになった。もしかしてこういう場合、望遠レンズとやらで撮ればよかったのかしらということが頭をかすめたが、何をどうやっていいのか全然わからない。
ともかく私はあっちこっちファインダーをのぞいたまま何とかうまく撮れそうな場所を捜し出した。しかしそこは民家の生け垣の中で、勝手口の裏木戸を入ったところだった。私はそーっとその家の裏木戸を開けて敷地内に入り、そこでカメラをかまえていた。道行く人々は私の姿を見てギョッとし、レンズを向けている方向に目をやっては、
「何やってんだろうこの人」
というような顔をした。旗はまだ垂れ下ったままである。どうしようかと思っていると運悪く小学生の下校時と重なってしまい、私の目の前をキャアキャアワァワァいいながら、たくさんのガキどもが砂ぼこりを上げて通って行くのである。
「あっ、写真撮ってる。ね、撮って撮って」
一人のガキが目ざとく私の姿をみかけるとそのへんの一団がわーっとかけ寄ってきて、ピース、ピースとやりながらポーズをとる。私はあまりの騒ぎに頭がクラクラしたが、
「おねえさんは仕事だからだめ!」
ときっぱりといった。
「ふーん、何の仕事?」
「あそこにある旗の写真を撮らなきゃならないの!」
「えーっ、くだらねえ」
はっきりそういわれて私はうつむいてしまった。ガキどもは自分たちの写真を撮ってもらえないと知るや、再び砂ぼこりをあげながら去って行った。いつになったら写真が撮れるのか全く予想できなかった。ところがカメラをかまえて二時間、やっと少し風が出てきた。旗はともかく鳩は完璧に無理だった。信用組合の屋根の上には雀が群れをなし、たまにそこにカラスが乱入して大騒ぎになったりして、のどかに鳩がとぶなんてありえないのであった。けっきょくその日撮った写真は全く使いものにならず、それから三日間カメラを持って日参し、どうにかこうにか旗の写真は撮れた。
私は今まで写植の指定なんてやったことがなかった。先輩の女の人に指定のしかたを聞いて、級数表やディバイダまで駆使してレイアウトをしたが、たまにとんでもない間違いをして、とてつもなくデカイ文字が打ち上がってきた。彼女が、
「どうしたの、それ」
とあっけにとられているのを、
「いえー、ちょっと、ハハハ」
と笑ってごまかし、こっそり写植屋さんに走ってすぐ打ちなおしてもらうようにたのみこんだりした。字間や行間の指定を間違えて、版下を作るときにすべて切り貼りをしたこともあった。息を殺して指先に神経を集中させなければいけないのに、そういうときに限ってクシャミが出て、せっかく貼った写植がゆがんだり、あまりに何度も貼りかえたりしたので写植がヨレヨレになったりした。
しかし唯一の救いが、信用組合は比較的時間がきちんとしているので、自分の仕事さえスケジュール通りにしていれば、夜、本を読む時間が作れたことだった。私は会社の帰りに書店に寄って、「本の雑誌」が出ているかどうか確認していた。季刊とうたってあり、次の号は何月何日発売ですと書いてあったのだが、そのとおり発売されていたことはなかった。しかし、新しい号が出たのをみつけ、思わず、
「あっ、あった!」
と叫んでしまい、まわりの人にジロッとみられたりもした。私は電車の中で読むのはもったいなかったので、読みたい気持ちをおさえて家にもって帰った。何度も何度も読みかえした。それにひきかえ私が今作っているものは、読みすてのパンフレットである。人々は私が今までそうしていたように、窓口にパンフレットが積んであっても注意も払わず、もらって帰ってもパラパラみただけですぐゴミバコにポイされるのに決まっている。私は毎日仕事をしても、何か報われないような気がしてきた。しかしこの会社に入ったおかげで少しなりとも写植の知識はふえ、役に立っていることは確かだった。
一方、上司のゼッペキハゲは社内では別珍のぞうりをパタパタいわせながら歩いていた。そして仕事中だというのに、
「映画にいこう、映画にいこう」
といい、銀座で映画をみたこともあった。でも会社ではみんな仕事をしているのに、こういうことをするのは気がすすまなかったし相手も相手なので気分はあまり良くなかった。ゼッペキハゲはそれから会社の帰りに晩御飯を食べようと誘ってくるようになったが、行く場所は必ずホテルの中にある一流レストランなのである。別に一流レストランに行くのは問題はない。しかし一緒に行く相手が問題なのである。ゼッペキハゲは着ている服もだらしなく、とてもそういう場所に行くにはそぐわないのである。もうちょっと身だしなみをどうにかしてほしいと思っても別に私がそんなこといえるわけもなく、内心イジけながらくっついて行くしかなかった。豪華な料理を前にしても、ゼッペキハゲのいちいちうるさい、
「この料理はね」
というどうでもいい蘊蓄《うんちく》話の連続で、味なんか全然わからなかった。食事するときはズーズー音をたてるし、終われば終わったで楊子で口の中をシーハーするし、私は早く家に帰りたくて仕方がなかった。
「あのね、よくここでメシ喰ってから上に泊まるアベックがいるんだよね」
唐突に彼はそういった。
「はあ」
「肉喰ってさ、栄養つけてさ、ケケケ」
「………」
私はムッとして黙っていた。
「これからどうする?」
「どうするったって帰りますけど」
「ああ、そう」
私たちはてんでんバラバラに帰った。
「ああ、やだやだ」
私はブツブツ一人ごとをいいながら電車に乗った。どうして私は仕事はともかく上司に恵まれないのだろうか。でも上司と親は選べないから仕方ないのだとあきらめ、とりあえずはおとなしくお仕事をこなしていたのであった。しかし、ゼッペキハゲがそれから何度もしつこく誘ってくるのをうまくかわしながら仕事をするのもいいかげん疲れてしまった。
ある日、私がゼッペキハゲにいいつかって書類を届けに行ったときのことだった。丸の内線に乗ってついうとうととしてしまったらヒザの上に載せていた紙袋の中からバラバラと伝票が落ちた。その一枚を拾って私はおどろいた。これからこの書類を届けに行く先方の宛名で、私の母親が内職代として領収書を書いているのである。母親の名前の筆跡は明らかにゼッペキハゲのものであった。そういえば正月に母親あてに年賀状がきて、おかしいなという気はしていたが、私の知らないうちにこういうことがされているなんて全然気がつかなかった。
押してあるハンコは私がふだん机の中に入れているもので、私がいないときにきっと黙って使っていたのだろう。私は腹が立って仕方がなかった。私の名前が使われるのならいいが、母親の名前を使ったことは絶対に許せなかった。私は興奮して電車をとび降りて会社に戻った。そして外から社長あてに電話をして、相談したいことがあるからといって近くの喫茶店にきてもらった。私がその領収書をみせると社長は、
「うーん」
とうなって黙ってしまった。
「私にひとこといってくれればいいのに、親の名前まで勝手に使われてこういうことをされては困ります」
というとますます彼は小さくなり、
「そうだよね。それはそうだ」
とうなずくばかりだった。
「よく彼に聞いてみるから」
と社長はいったが、共同経営者という立場上、あのおとなしい社長でははっきりした結論は出さないだろうと思ったが、やはりそのとおりだった。私は会社につとめながら、また新しい職場はないかと新聞の求人欄をながめていた。
するとそこに女子編集者募集、ストアーズ社≠ニいう文字。私は突然頭に血がのぼり、一人ではあはあしてしまった。そのストアーズ社という会社は、「本の雑誌」の編集長である椎名さんの本業のほうの勤務先だったからである。「本の雑誌」で彼が自分の本業は流通関係の業界誌の編集長であること、場所が銀座で福家書店の真向いにあるビルだということ、そして何かの雑誌で、たしか「ストアーズ・レポート」の編集長として紹介されていたのが頭のすみにひっかかっていたからだった。私はストアーズ社がどのくらいの規模であるかも知らず、近所の雑貨屋に走って履歴書を買い求めた。職歴のところにはいろいろな社名が並んだ。応募動機のところには、
いつも「本の雑誌」を読んでいるから
とだけ書いた。私はその夜、「本の雑誌」11号を何度も何度もくりかえし読んだのであった。
第二段階 猫背で電卓ため息の巻
やっとできたパンフレットは一日中かかってやっと配り終わった。私はへばってやっとの思いで会社に戻ったとたんにグッタリして、椅子に座ってボーッとしていた。そろそろころあいをみはからって家に帰ろうと思っていた。さて、と立ち上がったとたん、目の前の電話が鳴った。受話器をとると、
「あの、椎名ですが」
と落ちついた声がした。椎名さんって「本の雑誌」の椎名さんかしら……とうろたえてしまった。彼が話しているのを、
「はあ、はあ」
と聞きながら、一体何だろう、やっぱりダメだったのかな、それにしては電話がかかってくるのはおかしい、といろいろな考えが頭の中に渦まいた。椎名さんは私と会って話をしたいということであった。私は呆然としたまま受話器を置いた。
「どうしたの、何かあったの?」
先輩が優しく声をかけてくれたが、それほど私ははた目にもボーッとしていたのであろう。しばらくそこに立ちつくしていたが、突如私はショルダーバッグをむんずとつかみ、ドドドッとビルの階段をかけおりた。駅まで走りながら、
「たしか伊勢丹の前だといっていたような気がする」
とあいまいな記憶をたどり、前傾姿勢を保ちつつ待ちあわせ場所に急いだ。
シャッターが降りた伊勢丹デパートの前では何人かの人が立っていた。考えてみれば私は椎名さんの顔など知らない。とりあえず、ああいう雑誌を作っている人というイメージの男性を捜したが、サラリーマン風の人ばかりで、ミニコミ誌を作っているようなタイプの人など誰一人としていない。
「場所を間違えたのかな」
あわてて伊勢丹のまわりを息を切らしてぐるぐるまわってみても、どこにもそういう人はいない。五分くらいして元の場所に戻ってみると、私が最初そこでみかけた男性が、本を読みながらまだ公衆電話によりかかるようにして立っていた。髪は短髪、三ツ揃いのスーツにトレンチコートという姿で、どうみても、
「クソだけはいたずらに小気味よくドスドスと落下し、じゃあねえ、などと言いながら水洗孔のなかに消えていくのであった」
などと書くような人にはみえない。しかしここでウロウロしていたら私は永久に椎名さんとは会えないのである。どうしようどうしようと思いつつも、おそるおそる彼に近づいていった。
「あの」
上目づかいにして声をかけると彼は、
「あ、椎名です、突然電話してどうもすみませんでした」
ときちんとした大人のサラリーマンといった態度で私にそういった。私の予想していたタイプとは全く違った。ミニコミ誌を作っている人というのは、ジーンズにTシャツ、多少みだしなみに気をつかう人はスニーカー、そうでなければ下駄、長髪でうつむきながらボソボソと話す、暗い文学青年くずれというイメージがガラガラとくずれた。
「とても、ああいう文章書くようにはみえませんね」
と、私は彼の顔をじーっと下から見上げながらいった。
「そうだろう。いつもそういわれるんだよ。みんなヘナヘナして青白いのだと思ってるらしいから」
と歩きながらいった。私たちは伊勢丹の横にある店でワインを飲んだ。私はふだんは飲まないくせにそのときは興奮してしまい、グラスに一杯飲んで目がグルグルまわってしまった。椎名さんはいいにくそうに、
「あのう、うちの会社のほうなんだけど、悪いんだけどダメみたいなんだ。せっかく応募してくれたのにどうも申し訳ない。そのかわりといっては何だけど……」
と今度「本の雑誌」が新しく事務所を作るので、もしよければこちらのほうへ来てくれないだろうかといった。私は内心、これはいい展開になったとほくそ笑み、待遇もきかないうちに、
「はい、やります」
と返事をしてしまった。
「でも、うちはろくに給料が払えないんです。今度、フリーライターやってる目黒考二っていう発行人に会ってもらうから、彼から詳しい話があると思うけど、本当に、もうほとんどないに等しいんです」
といった。大会社ならともかく、ああいう雑誌を作っているところに金がないのは当然だと思った。たくさん給料をもらっても、社長にいろんなところを触られたりするよりは、低賃金でも働きがいのあるところのほうがいいし、なにしろ私は「本の雑誌」が好きだった。彼は、
「会社はすぐやめられるのかな」
ときいた。私は現在の状態を説明し、
「私がやめるといってもむこうには引きとめられる理由もないし、それは大丈夫です」
と自信をもって答えた。その夜、私たちは西武新宿線に乗って帰った。なぜか車中で、海老沢泰久の『監督』の話をしたことだけを覚えている。
その二、三日後、目黒さんと会った。新宿東口駅前、じゅらく≠ニいう喫茶店で待ちあわせた。椎名さんとは対照的に黒のブレザーにジーンズといったスタイルでまだ学生のようにみえた。
「あ、どうも、目黒です」
事務的に彼はいった。
「このあいだ椎名から少しは聞いたと思うんですけど、もうちょっと細かいことを話します」
理路整然と、彼ははきはきとした口調でいった。
「仕事は全然面白くありません。ずっと会社の中にいなきゃいけないし、僕たちはいつも会社に行けるわけじゃないからすべてのことをやってもらわなきゃならないんです。だからふつうの会社でいえば経理と事務と総務っていうところなのかな。勤務は朝十時から夜六時まで。給料は、最初はとりあえず三万円です。まだどのくらい払えるか僕たちもわからないんだけど、当初はそれでお願いします」
彼はニコリともしないであくまでも事務的にいった。
「事務の仕事はやったことはありますか」
「ありません」
「ああそう。でも、うちの場合はそんなにむずかしいことをやっているわけじゃないですから。でも、事務がしっかりしていないと会社は成り立たないんです。吉本隆明が出している試行という雑誌があるでしょう。あれがなぜ今までずっと続いているかわかりますか?」
「いいえ」
「事務がきちんとしているからこそ、ずっとやっていけるんです」
キッパリといい放った。
「はあ、そうですか」
目黒さんの話を聞きながら床に置いた布製のショルダーバッグに目をやると、はちきれんばかりに単行本が入っていた。
「仕事、面白くありませんよ。給料は三万円。それでもいいんですね」
目黒さんは念を押した。
「はい」
「そう、それなら今月末、事務所の引越しをするので午後にでも来て下さい。場所は地下鉄の四谷三丁目を出たところの京樽《きようたる》っていう寿司屋のあるビルの七階です」
目黒さんは会っている間中、全く笑わなかった。私は彼とはうまくやっていけそうにない気がした。
「それじゃ、僕、紀伊國屋に寄って帰りますから」
彼はそういって重たそうなショルダーバッグを肩にかけて人混みの中へと消えていった。
翌日、会社に「本の雑誌」をもって行き、社長に、
「私は今度ここに勤めることになりましたので、今月いっぱいでやめさせて下さい」
といった。人のいい社長は、
「ああ、そうか。僕には君をひきとめる理由なんかないんだけど、悪いことしたね。やっぱりうちに勤めてもらうわけにはいかないんだね」
といった。
「すみません。もう決めてしまいましたから」
私は少し心が傷んだ。
彼はパラパラとページをめくりながら、
「こういう雑誌はねえ、たまにヘンな奴らが作ってることがあるんだよ。何も知らない女の子をだまして喰い物にしちゃうとか、朝、会社にいったらもぬけのカラだったとか、いろいろあるんだよ。ちゃんと作ってる人に会ったのかい? きちんとした人だった?」
「はい、それは大丈夫だと思います」
「それに一回コケると小さい所はみんな共倒れになるよ。それでもいいの?」
「もしそうなったら仕方ないですから」
「そうだね」
社長はうなずいていた。ゼッペキハゲは、
「どうして勝手にやめるんだ」
と一人でプリプリ怒っていた。
もう二十四歳にもなれば、次にまちうけているのは全然面白くない仕事というのはわかりきっていた。経理とか事務を一日中ずっとやるなんて、今までの私だったらはっきりことわっていた。それをOKしたのはその会社が「本の雑誌」だったからだ。そのときどういうわけか私の頭の中には、
「五年たてばひと区切り」
という考えがあった。五年の間に会社がつぶれるか伸びるか、メドがつくだろうから、それから自分の生き方を考えても遅くないと思った。ともかく五年間はいよう、と心に決めたのである。しかし私の友人はこぞって猛反対した。
「あんたダマされてるんじゃないの」
といわれた。
「大学卒業して今まで広告や編集の仕事してて、どうして今さら経理やらなきゃなんないの」
「給料三万円なんてバカにしてる」
「もっと給料がよくて、あなたのいいところを生かせるところあるわよ。悪いこといわないからやめなさい」
そしてみんなの一致した意見は、私の頭がおかしくなったということだった。あまりに転職しすぎて、何が何だかわからなくなってしまったのに違いないというのである。給料も、変われば変わるほど安くなる、という三段逆スライド方式だったし、友だちの助言ももっともであった。そんななかでただ一人大賛成したのは母親だった。
「行きなさい! ここはあんたに向いている」
彼女は一般的常識には多少欠けているが、動物的なカンは異常に鋭いのである。
「給料三万円なんだって」
「それがどうしたっていうのよ。あんたには絶対こういうところがいいの! 金のことなんかグダグダいうんじゃない!」
母親は一人で乗り気になっていた。これから「本の雑誌」にかかわっていけるのはとてもうれしかったが、全然笑わない冷たい目をした目黒さんや、一日中部屋の中にいなきゃいけないことを思うと少し不安になったのも事実である。だけど自分がやると決めたのだから、やらなきゃならないのだ。
「本の雑誌」の事務所はとても狭かった。壁の面積が床面積の二倍あった。部屋はウナギの寝床式で細長く、バックナンバーを置いて机を入れると、残ったスペースは二畳か三畳。そしてシャワー室とは名ばかりのただ排水口があいているだけのスペースと、トイレ、台所の流しが一坪足らずのところにいっしょくたにあった。そのうえ目黒さんが家でいらなくなった応接三点セットをもってきたため、三、四人が部屋にいるとだんだん息苦しくなってくるのだった。たった一つしかない窓のそばに机と電話が置かれ、私の居場所が作られた。
目黒さんが書店から電話がかかってきたときの応対のしかたを教えてくれた。先方の書店名、地区、取次と番線番号、書店コード、これを聞くのは地方・小出版流通センターという取次ぎ扱いの書店の場合。直販の書店は書店名だけでわかる。新規の注文の場合は直販か、地方・小出版流通センター経由かを選んでもらい、それによって対処すること、であった。
本ができてきたら直販書店に納品するときに使う納品書、前号を納品した分の請求書を書き、定期購読者の封筒のあて名書きと発送。地方・小出版流通センターヘ納品する分にはスリップをはさみこまなければならない。編集部門では原稿の催促、交換広告の版下づくり。そして日々のお金の管理、といったことが私がやらねばならない仕事だった。
目黒さんも椎名さんも「本の雑誌」とは別に自分の仕事を持っていたので、日常の「本の雑誌」にかかわる事務的なことすべてを私一人でやらなければならなかった。こう書くとものすごく大変そうな気がするが、実のところはひどくヒマだった。目黒さんからていねいに、そしてあくまでも事務的に教えてもらったことを実践でやろうと思っても、まさかこちらから書店に電話をするわけにもいかず、じーっと机の前で待っているしかない。ところが電話のベルはリンとも鳴らないのである。私はてっきり電話が通じていないのだと思って177や117に電話してみたが、きちんと通じる。これでは書店との応対のしかたなど練習できる状態ではなかった。
白い殺風景な部屋と中古品の応接三点セットに、少しは色どりでもつけようと自腹を切って買ってきた花も、壁の塗料がかわいていなかったらしく、そのシンナーの影響をうけて一日ですべて枯れた。金をドブに捨てたような気がして腹が立った。私も部屋の中にいるとラリったようになり、家に帰ると髪の毛や着ているものにシンナーの臭いがしみついているのがわかった。たまに電話のベルが鳴って喜んで受話器をとると、それは目黒さんか椎名さんだった。
「何か電話あった?」
「ありません」
そればっかりの毎日だった。目黒さんが、中にいてくれれば何をしててもいいといったので、私は本を読んだり編物をしていた。たずねてくる人もなくあまりにヒマすぎて、一週間にセーターを三枚も編んでしまった。朝十時に会社に来てカギをあげ、簡単に掃除をして机の前にじーっと座っている。十二時になると持ってきたお弁当を食べて一時まで休み(といってもずっと休んでいたのと変わりないが)。そしてまた机の前に六時までじーっと座っているというくりかえしだった。目黒さんは一週間に三回ぐらい、夕方から顔を出して事務的なことだけいって、あとは応接三点セットの椅子に座って黙って本を読んでいた。
「仕事はどう?」とか、「慣れた?」とか、ふつう会社に入って先輩がいうようなことは、ひとこともいわなかった。ベラベラ喋《しやべ》られるよりはマシだったが、あまりの愛想のなさに私はますます不安になった。きっと私は目黒さんに試されているのだと思っていた。
「気にいらなきゃ、クビにしてもらったってかまわないやい」
私もとりたてて目黒さんに愛想もいわず、私と目黒さんがいると不自然な空気が流れているような気がした。私がそのころのことを話すと、目黒さんは、
「キミもすごく冷たい目して、僕のことみてた」
というところをみると、二人して冷たい目つきをしながらお互いの腹の中をさぐりあっていたのだろう。
まだそのころはストアーズ社につとめていた椎名さんは、用事をすませてそのかえりによく事務所にやってきた。相変らず電話はリンとも鳴らなかった。
「電話鳴らないねえ」
「はあ、たまに電話がかかってきても椎名さんか目黒さんで」
「そうか、まいったなあ。大丈夫かなあ、アハハハ」
私はハハハと一緒に笑いながらも頭の中に、
「共倒れ」
ということばがよぎった。
「あ、そうだ、まだ沢野こない? きっとくると思うけどさ、ゴチャゴチャうるさいこといったら、仕事の邪魔しないで下さいって追い返していいからな」
あのうつろな目つきのイラストを描く沢野さんという人は、いったいどんな人なのか想像もつかなかった。ただ椎名さんの話によると、とてつもなく変人のようだった。そういう人と、この狭い部屋の中に面と向かっていて、どんな話をしていいのか見当もつかなかった。
ある日、私がいつものように鳴らない電話を前にして、一心不乱に編物をしていると、きちんとスーツを着た背の高い男性が、
「こんにちは」
といって入ってきた。セールスマンにしては堂々としすぎている。私はどのような態度をしていいかわからず、とりあえず椅子から腰を上げてその場につっ立っていた。
「沢野です」
彼は勝手にソファに腰をおろしていった。何だ、全然変な人でも何でもないじゃないかと思った。
「ここ便利だね。駅からすぐだし。きみはずっと一人でいなきゃならないんでしょ、一日中。大変だけどよろしくお願いします」
沢野さんは優しくそういってくれた。そして白い壁をながめ、
「女の子がいるのに鏡もないんじゃ困るね。僕、とてもいい木彫りの鏡を作る人を知ってるから、今度それ持ってくるよ。鏡があると部屋が広くみえるし。お嫁に行くときその鏡持っていけばいいじゃない。そうしよう。それじゃ、さよならあ」
そういって沢野さんは疾風《はやて》のように現われて疾風のように去っていった。私は今まで誌面だけでしかわからなかった、「本の雑誌」を作っている人たちの実際に動く姿をみて意外に思った。三人三様、全く違うタイプで三人が友だち同士とはとても思えなかったからである。
私が事務所に来て十日ほどたって、やっと書店から取引きをしたいという電話が入った。うれしいのとあせったのとで、
「そうでござりまするか」
などと、時代劇のような応対をしてしまった。私は未だにこの大阪府茨木市の書店名と担当者の名前、注文してくれた部数を覚えている。そしてその日、いつものように目黒さんや椎名さんから電話があったときに、私ははしゃいで、
「はじめて注文の電話がありました」
といった。一時はどうなることかと思ったがこれで少しホッとした。二人とも、
「ああそう、よかったよかった」
と電話のむこうで喜んでいるようだった。
それからはポツポツ注文の電話がかかってくるようになった。直販書店の注文のときは、専従アルバイトとはいってもスズメの涙くらいのお礼のお金しかでない、ボランティアの大学生の男の子に事務所に来てもらい納品した。それでもそんな仕事はいつもあるわけではなく、私の毎日はただあくびと共に過ぎていくだけだったのである。
私が狭くて寒い事務所にいると、近くで打ちあわせがあった椎名さんがやってきた。
「この部屋寒いねえ」
椎名さんが手をコートのポケットにつっこんでいった。当時事務所には暖房器具というものは全くなかった。椅子に座っていてもだんだん足元から冷えてきて、腰が痛くなってくるので、私はマフラーをグルグルと犬印妊婦帯のように腰にまいて仕事をしていたのである。椎名さんはお茶を飲んで五分ぐらいして帰っていった。そして、大きな箱を二つかかえてすぐまた戻ってきた。
「こんなところにいたら体が冷えるから」
といって、ストーブとひざかけを買ってきてくれたのだった。
「どうも、お気づかいいただいて、すみません」
とおじぎをしたら、もう椎名さんは姿を消していた。
ストーブをつけてひざかけをかけると、急に体の中がホカホカしてきて、また眠たくなってしまった。
部屋の中でボーッとしていると、いろいろなセールスマンがやってきた。そういう人たちはドアを開けて部屋の中をのぞきこむと、必ず、
「あれ?」
という。梱包された雑誌の山がデーンとあり、単なる場所ふさぎの応接三点セットに事務机。そしてそこには紙袋からズリズリと毛糸をひっぱり出してヒマそうに編物をしている私しかいないからであった。
「あのー、ここは何屋さんですか」
鼻の頭に汗をかいて白粉《おしろい》がハゲている太ったおばさんはいった。彼女は手に大きなぺったんこの黒いカバンを下げていた。
「雑誌を出しているんですけど」
「んまあ、あなたが?」
「いえ、私は電話番です」
「あら、そうなの」
おばさんは入れといいもしないのに、勝手にズカズカ入ってきて部屋の中をキョロキョロと見まわした。そしてふんふんとうなずきながら、
「こういうところじゃ、あまり給料ももらってないんだろうねえ」
と一人でブツブツいっている。
「どういうご用件ですか?」
おばさんの図々しさに少しムッとしていうと、
「あたしねえ、保険の勧誘に来たんだけど、ちょっと無理みたいね。あなたもまだ若いのに、こんな牢屋《ろうや》みたいなところに一日中じっとしてなきゃならないなんて、かわいそうだわあ」
とおばさんはビニール袋に入ったピンクのふちどりのあるガーゼのハンカチをくれて、
「さよなら」
といって帰っていった。しかし物をくれる優しいおばさんばかりではなかった。目がとび出るような値段の化粧品を山ほど持ってきて、
「ホレ、ここにシミがある」だの、「ソバカスがある」だの、「小ジワの予防をしろ」だの、私の顔を手でつかんで、ベラベラしゃべりまくった京劇のような化粧をした年増のセールスウーマン。自分の子供の手をひいて、私の目をじっと見つつ、「あなたも救われる」といった新興宗教への勧誘。書店の応対よりも、セールスマンとの応対のほうがずっと多かったのだ。
それに間違い電話がジャンジャンかかってくるようになった。話を聞いてみるとどうも前の電話の所有者が、年寄り相手に健康食品を売りつけ、そのままろくにアフターケアもせずにどこかへ行ってしまったらしい。そしてとにかく相手が年寄りなので、こちらの社名を名のっても全く聞いておらず、
「かね、かね、かねをかえせ」
といって電話口でドナる。
「あの、うちは本の雑誌社という出版社で、今年の三月にここに引越してきたばかり……」
「なにィ、うちはほんごう? だれもそんなこときいとらん!」
「いえ、あのですね……」
なにしろ十分ぐらい説明しないと全く現在の状況を理解してくれないのだった。最初はブツブツ文句をいっていたお年寄りも、怒りのもっていき先がなくなると今度は私に向かって、この高い健康食品を買うために大切な年金を使ったとか、嫁に、
「ほーらみなさい。やっぱりだまされたんじゃないの」
とバカにされてくやしいと、めんめんと訴えるのであった。そのたびに私は、
「はあ、そうですか。それは困りますよねえ、信用してたのにねえ」とか、「どうぞおだいじに」
とお互いひどくヒマなので、全国老人電話相談室というかんじで出版社の人間とは思えないような会話をかわしていたのだった。そしてそういうときに限って現金書留が来たり、書店の人が本を直接買いに来たりと、忙しいときには何もかもがいっしょくたになってくるのだった。一時話を中断して別の用事をしなければならなかった。トイレに行くときは受話器をはずしていった。
いつも書留を配達してくれたのはアンパンのような顔をしたおじさんで、いつも、
「おねえちゃん、書留だよ」
といって元気に部屋の中にとびこんできた。
「これでまた少し、もうかったね」
現金書留を私に渡すたびにそういった。そしてまた五、六通まとめてあると、
「きょうはすごいよ」
とニコニコしていた。
「いつも一人じゃ淋しいね。じゃあね」
いつも元気ないいおじさんだった。
四谷警察署の刑事さんまで来たこともあった。近所で起きた内ゲバ事件の聞き込み捜査とかで、殺された学生の写真をみせて、最初はていねいに、
「何か知っていたら教えて下さい」
といっていたのに、部屋にドーンと積まれているバックナンバーの山を見るなり、
「ちょっと。おたく、何してるところ?」
と鋭い口調で聞きはじめた。私はギクッとして、
「は、あの、雑誌を出して……おります」
とフニャフニャと答えてしまったので、ますます刑事さんの疑惑を招いたようだった。さっきまでのにこやかな顔からうって変わって目つきがギリッとしはじめ、私はうろたえてしまった。最新号をみせて、
「書評誌です」
と説明すると、彼はふんぞりかえっていった。
「へえ、じゃあ、ここに載せた本の会社からお金をもらってるわけだ」
「いいえ、そんなことしてません」
「えっ、どうして。だってこういうものに載ったら本の宣伝になるわけでしょ」
「ええ、まあ、そうかもしれませんけど」
「それじゃ、おたくたちは別にたのまれもしないのに、お金を出して本を買って、紙代とか印刷代をかけて、ただでその本を載せてやってるわけ」
「はあ、そういうことになりますか……」
「そうかあ、うーん」
彼は急に優しい顔になり、
「えらい。えらいねえ。でもね、悪いこといわないから、これからはちゃんとお金もらいなさい。これ本屋で売ってるんでしょ。そうしたらこの本に載ったおかげで売り上げが伸びるかもしれないんだもの。ただで他人の本の宣伝したってホント、バカみたいじゃない。ね、お金もらえばこんな狭いところじゃなくて、もっと広いところにいられるじゃない」
彼はえらいを連発しつつ私にそういった。
「この部屋、ずっとあんた一人なんでしょ。おじさん、たまに様子みに来てあげるから、少しでも変なことがあったらすぐ連絡してきなさい」
私は恐縮してペコペコ頭を下げた。それからもこの刑事さんは道で会ったりすると、
「本の会社のおねえさん、元気?」
と声をかけてくれたりした。
昼間ずーっと白い壁に囲まれた部屋に一人。外にもでられない軟禁生活が続いて、私は少しおかしくなった時期があった。この部屋はどこも逃げ場がない。もしも悪党が押し入ってきたらもうそれっきりで、悲鳴も外苑東通りを通る車と四谷消防署のサイレンでかき消されて、一巻の終わりになってしまうなあ、と思ったら部屋の中にいるのが恐怖になった。窓を開けて下をみると渋滞している車の列があり、向かいには、ダンス教室や設計事務所が入っている雑居ビルがあった。ダンス教室では短めのフレアースカートをはいた女と、黒いとんがった靴をはいた男が毎日ソシアルダンスを踊っていた。
「みんな楽しそうだなあ」
キャーキャー騒げる同僚もいない。気分転換にお昼御飯も外に食べに行けない。毎日私と同じように会社に出社すると思っていた社長からは午後四時ごろ、寝ボケた声で、
「きょうは行きませんから」
という電話があるだけ。
「ここからとびおりたら楽になるなあ」
と窓から身をのり出したことも何度かあった。とにかく独房にいれられているようだった。ひと月くらい私はこのままおかしくなってしまうのだ、という強迫観念にとらわれていたが、椎名さんが、
「ラジオぐらいなきゃ退屈だろう」
といって家から古いラジオを持ってきてくれたので、それからは私の気もまぎれて少し明るい日々がやってくるようになった。
「本の雑誌」の編集作業に入ると一日ずっと仕事があるので楽しかった。原稿がまだこちらに届かない人には電話して催促、交換広告をしている十五社の雑誌宛に写植を貼りこんで広告版下を送る。駅まで来たので改札口で原稿を渡したいという電話が入ると、カギをしめて駅まで大あわてで走った。挨拶もそこそこに原稿をうけとり、エレベーターの中ではやく、はやくと足踏みして急いで部屋の中へ戻ると電話がリンリン鳴っている。そして電話に出ると、
「いくら電話しても出ないじゃないか。版元のクセに何やってるんだ」
と書店の人に怒られるのであった。最初は心から申し訳ないと思っていたのだが、あまりにそういわれると自分の感情とは全く関係なく、
「どうもすみません」
という言葉がスラスラと出てきてしまうのに我ながらあきれかえってしまった。
集まった原稿の行数をかぞえ、椎名さんがレイアウトをするための準備をしておくのも私の仕事だった。椎名さんが時間があいたときに事務所にきてレイアウトし、印刷所に入れてゲラが上がってくると校正をやってくれている女の人に渡し、本のカバーの複写をしてくれる学生アルバイトの男の子と一緒に写真の指定をした。最初のころは人手が足りなくて、私も事務所を六時で閉めたあと、印刷所で出張校正をしていた。目黒さんと椎名さんと私と三人で、終わったあと飯田橋で飲んで帰ったような記憶もある。
印刷の上がりを待つ間にも、山ほどやらなければならない仕事があった。地方・小出版流通センター宛に納品する本にはスリップとよばれる短冊をはさみこまなければいけない。それには誌名、号数、定価、版元名といった一個一個別々のハンコを押さなければ完成しないのだった。まだ当時はスリップを印刷する予算などなかったからである。お金がない分、肉体労働をしなければならなかった。さすがこれは私一人ではどうしようもなく、配本を手伝ってくれていた学生アルバイトの男の子二、三人とやった。最初は和気あいあいと楽しくやっているのだが、やってもやっても減らないスリップの山をみると、
「どうしてこんなことしなきゃならないんだ」
という不満がムラムラとわいてきた。だんだんみんな口数が少なくなってきて、しまいには口をへの字に曲げて、
「しーん」
とした中で、ポコポコというゴム印を押す音だけがむなしく響く。ずっとうつむいてゴム印を押していると目が疲れて肩や腰が痛くなってくる。三十分に一度私が、
「ハイ、やめ」
と声をかけてみんなが伸びをするたびに、ボキボキッという音がして、再びみんなため息をつくのだった。広告代理店のときのカタログてんてん削り≠ニ同じようなことをここでもやらなきゃならなかった。
「オレ、授業に出てるときよりもいっしょうけんめいやってるみたい」
留年している大学五年生の男の子がいった。
「困ったもんだねえ」
「もうハンコ押しはプロですよ。これならどの会社に就職したって負けない自信があるんだけどなあ」
みんなでそんなとこあるわけないじゃないの、と私たちはアハハと笑った。そしてふと横をみると、いつもむっつりして冷たい目をしている目黒さんが一緒に笑っているではないか。私はびっくりした。
「目黒さんも笑うんだ」
そう思った。目黒さんの笑い顔をみて、だんだん私の目黒さんに対する印象はよくなっていった。目黒さんだって冷たい人じゃないんだと思うと少しホッとした。
スリップ製作は四人がかりでやって丸一日かかった。それが終わると今度は書店へ納品するために納品書、請求書、領収書の準備をしなければならない。ところが書店によっていろいろ精算方法がちがうので、それによって請求書を変え、その場で現金で支払われるのか後日振込みかも頭の中にたたきこんでおかねばならず、それを覚えるまでがひと苦労なのだった。うちのように会社が小さくて直販の版元は、とかくお金の面でだらしがなくて、書店のほうでも困ることがよくあるというのを耳にしていたので、それだけは避けたいと思っていた。
直販書店すべての伝票を書きおわると今度は地方・小出版流通センター宛の注文票を書かねばならない。それには取次の番線番号、地区、書店名、部数、誌名、定価を記入し、ひとまとめにしてセンターのほうに渡すのである。当時でも一部単位の書店を含めて千店近くあったからこれを作るのにも一週間近くかかった。それに定期購読者へのあて名書きだけでも五日かかった。そしてやっと本ができると配本に行っている間に定期購読者へ発送をして、配本が終わると各書店別になっている台帳に納品書と請求書をみながら売れ部数を記入し、お金のチェックをしてどうやら私の仕事は終わるのだった。
でも当時はまだマシだった。車一台だけで午後からのんびり出発しても、夕方には十分帰ってこれるだけの数しか取扱い書店がなかったからである。
配本が終わると四谷にあったぴったん≠ニいう店でうちあげをした。みんなやたらと酒を飲んだ。全く酒が飲めない私はみんなの話をただフンフンと聞いているだけだった。
「本の雑誌に入ったからには酒ぐらい飲めるようにならなきゃダメですよ」
と学生アルバイトの男の子にいわれたが、毎朝決まった時間に会社に行かなければならない私は、そうね、といってガバガバと飲むわけにはいかなかったのである。ともかくふだん私一人しかいないということが、とても私を規則正しい人間に変えてしまったのであった。
私が「本の雑誌」に入ったその年の十一月に、椎名さんの『さらば国分寺書店のオババ』が出版された。椎名さんは会社の休み時間に事務所に寄って、サインして私に渡してくれた。私は表紙をみて思わず吹き出してしまった。芝居の書き割りをバックに蛍光ピンクの地に、ぶどうの柄の着物を着た男がマイクを持って歌っている絵が書いてあったからだ。
「これ椎名さんなんですか」
「フフフ、そうかもしれないね」
椎名さんは笑いながら自分の本をパラパラめくりながらいった。本文カットに登場するいしいひさいちさん描くところの椎名さんらしき男性は、信用組合の窓口にいるような眼鏡の細面のように描かれていたので、本人とのあまりのちがいにこれまた笑ってしまった。電話番をしている間に読んでしまったが何度読んでも面白かった。家に帰るとすぐ母親にこの本をみせて、
「椎名さんの本が出たぞ」
といった。母親は表紙をみるなりキャハハと笑い、
「こういう本は若い人にうけるんだろうね」
といいながら手にとってながめ見ていた。
「よし、お風呂に入ったあとに読もう」
と元気よくいっていたが、あとで部屋をのぞいたらオババを片手に、
「んがー」
とイビキをかいていた。私はムッとして母親の手元から本をひったくり、自分の本棚の一番いいところに置いた。いつになるかわからないが、編集長の本が本の雑誌社から出せるようになればいいなあと思った。
私は椎名さんから遠隔操作の編集作業指示電話が入るたびに、「本の雑誌」の座談会のセッティングをしたり、資料を集めたりしていた。座談会があったときは六時に帰ることはできず、終わるまでずっと部屋にいて、店屋物であったが夕食を出したりお茶を出したりしなければならなかった。もちろん椎名さんか目黒さんは自分の仕事が終わってから事務所にやってきた。あの狭い事務所で座談会をすると大変だった。一人が尿意を催すと中にいる人々すべてが立ち上がって壁にはりつかないとトイレまで行けないというひどさだった。
ともかく私たちは編集作業も座談会もすべてそこでやった。最初のころ私はいつも椎名さんに怒られていた。根がズボラで繊細さに欠けているため原稿依頼をするのを忘れていたり、交換広告の数を間違えたりというのはしょっちゅうだった。当時から「本の雑誌」を作る時には台割りなど作らず、ただレイアウト用紙をコピーした控えが一部あるだけだったので、つい見過ごしてしまうのだ。そのたびに椎名さんに、
「どうしてそんなことになったのだ。ちゃんとやってくれなきゃ困る」
と本気で怒られた。私はうつむいて、
「これから気をつけます」
と答えるしかなかった。そしてあとで自分のことを何たるバカ! とののしるのである。いつもそのくりかえしだった。どうしてこういうことがわかんないのだろうかと自分が情けなくなった。現金出納帳をつけるのも嫌だった。生まれつき数字は苦手、まして死んだって経理なんかイヤ、今までの会社でも丸一日中デスクワークなどしたことがない私だから、正直いって好きな仕事ではなかった。いくらやっても足し算があわない。
そのとき私が使っていたのは、目黒さんが使っていた小さなポケット電卓をゆずりうけたもので、押すボタン部分も小さくてすぐ押し間違える。そうなるとますますイライラするし、三度検算すると三度とも金額がちがってしまうのである。電卓と帳簿を前に悩んでいる私をみかねて、配本をしてくれていた大学生の助っ人の男の子が、
「ボクがやってみてあげましょう」
とあらためて計算してくれたのだが、また金額がちがってしまい、二人して悩んだこともあった。私はミスをするたびに、いつクビにされるんだろうかとビクビクしていた。大会社で同じ仕事を何人かでやっているならお互い助け合ってミスもフォローできるけれど、うちのような零細企業では、私がミスしてしまったら大変なことになってしまうからである。電話のうけ答えとか原稿依頼の仕方とか、先方が不快な思いをしたらそれでおしまいのような気がして、神経がピリピリしていた。そのくせ編集作業でミスをするのだからどうしようもない。
「本の雑誌」もオババが出版されてから、取扱い書店がだんだんふえていった。私も前ほどボーッとしていられなくなった。雑誌の追加注文も増えてきて、助っ人の男の子も布カバンをかついで電車に乗って出かける回数もふえていった。やはり追加注文の電話が何本もはいるとうれしくなり、
「絶対つぶれっこない」
とだんだん気が大きくなっていった。
助っ人希望の学生さんもふえていった。私はそれが不思議でならなかった。なぜ滅私奉公に近い「本の雑誌」の助っ人に来るのかと思っていた。彼らは「本の雑誌」の誌面に助っ人募集≠フ記事が載ると、それを見てやってくる。もちろん報酬はないに等しく、仕事は重い本をもって歩きまわる配本と編集雑務といった限りなく地味なものである。それも明記してあるはずなのに、助っ人募集の記事を出すと、必ず何人かの大学生がやってきた。来てくれるのはうれしかったが、
「他にも楽しいことがたくさんあるんじゃないのかねえ」
と思ったものだ。
しかしせっかく来てもらってもまだそれほど仕事もなかったので、目黒さんはよく帰りがけに彼らをつれて飲みにいっていた。私も最初はつき合っていたのだが、ギャーギャー騒いで酒を飲むよりも、早く家に帰って一人で本を読んでいるほうが楽しかったので、それには参加しなくなった。当時、私は広告代理店のときの友だちと会っているほうが楽しかった。彼女たちはそれぞれ安定した会社につとめていた。食事をするときはいつも、
「あなたからお金はもらえないよ」
といって私の分までお金を払ってくれた。そんなところまで気をつかってくれてとてもうれしかったが、二十五歳にもなって友だちにそういわれる自分もみじめだった。あるとき私たちは、千駄ヶ谷にあるピーター・キャットという店に行った。私はそこに行くまでそこが村上春樹さんの店だったとは知らなかった。お店の中は混んでいて、お洒落《しやれ》っぽいカップルが多かった。とても感じのいい内装で、のんびりしていたら、私はとてもつまらない毎日をすごしているような気がしてきた。
私は今まで広告代理店につとめたり、編集の仕事をしていた。しかし「本の雑誌」に来てからの私の本当の仕事は経理、つまり帳簿つけである。「本の雑誌」は好きだし、何か手伝えることができればと思ったのもホント。そして私のしている仕事はつまらないというのもホントだった。自分の仕事に自信が持てる確信のようなものが何も見あたらなかった。店内に流れるスタンダード・ジャズを聴いていたらむなしくなってきた。ふとカウンターのうしろの壁をみたら、ものすごく大きなゴキブリがはりついていた。私はそれを見つつ、
「そうか、村上春樹さんの店にもゴキブリはいるんだな」
と思い、明日の仕事のことを考えてホドホドで切り上げて家に帰ったのであった。
オババが出てから椎名さんはとても忙しくなっていったようだった。今までは元気にドアを開けて部屋に入ってきていたのが、ヌーッと目から部屋に入ってくるようになった。
「ああ、疲れた」
といってはコートも脱がないで応接セットの椅子の背にもたれかかってずーっと目をつぶっていた。お茶をいれても半分くらいしか飲まず、たえずイライラしているようにみえた。私は直感的に、
「こういうときはそっとしておいたほうがいい」
と思い、背後を気にしつつ机に向かって仕事をしていた。顔色もあまりよくなかったし会社勤めと書く仕事で相当大変なんだろうなあと思っていた。それから二週間くらい、椎名さんは事務所に来なかった。私は別段気にもせず、本業のほうが忙しいのだろうぐらいにしか考えていなかったのである。ところが久しぶりに明るい声で椎名さんから電話があって私はおどろいてしまったのだった。
「オレ、少し変だっただろう」
「そうですね、疲れているみたいでしたけど」
「オレね、ノイローゼだったんだって」
「えっ? ノイローゼ?」
私はあまりのことに受話器を持ったままギャハハハと大笑いしてしまった。だいたいノイローゼになるタイプというのは青白いヤセ型、ネチネチと執念深くて暗いというイメージで、椎名さんとは全く正反対だからである。私は椎名さんが冗談をいってるんだと思った。
「本当なんだよ。病院へいってわかったんだけど、もう大丈夫なんだ。だけどそういうとみんな笑うんだよな。オレだってデリケートなんだぞ」
椎名さんの明るい声を聞いて、
「そういえばあの暗い目つきはやっぱり変だった」
とそのときはじめて気がついたのだった。
それから半月ぐらいして四谷の穴蔵のようなスナックで忘年会が行なわれた。
「悪いけどホステス役をたのむよ」
とノイローゼも癒《い》えた椎名さんからいわれたものの、酒を飲まない私は水割りの作り方も知らず、酒の種類すらわからないのでうろたえた。「本の雑誌」のライターの方々や、椎名さんの知り合いの編集者が集まった。私はただわけもわからず、
「水!」とか「氷!」とかいわれると、そのとおりに、
「はいはい」
とテーブルに配って歩いていた。そこで「物書きの私」を産んでくれた母親ともいうべき人と出会うことになった。沢野さんがカットの横によく名前を使わせてもらうかえでちゃん=A本名西村かえでさんという女性が私の産みの親である。彼女は当時文化出版局の「TODAY」という雑誌の編集者で、先輩の渡辺さんという女性編集者と忘年会に来ていたのである。そのときは、私たちはお互いに形どおりの挨拶《あいさつ》をしただけだった。十一時前に忘年会がお開きになると私は二次会へは行かず、まっすぐ家に帰り、母親が準備しておいてくれた夕食をバクバク食べてすぐ寝てしまった。
正月休み、唐突に母親が私に向かって、
「おまえ、いったいどうする気なの」
といった。
「何が」
「何がって、あんた、本当に結婚する気はないの?」
そんなこといったって現実に相手がいないんだからしようがないでしょ、というのもめんどうくさくて、
「うるせえな」
とだけいった。
「だって、このあいだ中学のとき同じクラスだった斉藤ミチコちゃんのお母さんに会ったら、お腹が大きくなってるっていうし、波川さんだって今年の六月に結婚するんだってよ。もっとも菅原さんはまだだっていってたけどね」
母親は結婚した女の子のことを話すと暗い顔をし、未婚の子のことを話すときはうれしそうな顔をした。
「私はまだ転職したばかりなんだからね。あれもこれも一緒にできませんよ」
「まあ、そりゃそうだけど」
やはり娘に好きなことをやれといっても、ふと我にかえると母親としての思いがいろいろとあるようだった。私は、
「孫の顔がみたかったら自分ががんばって子供を産むように。そのほうがてっとり早い」
と母親にいってやった。
「本の雑誌」にいた五年半、私は恋愛というものをしたことがなかった。バタバタいろいろな恋愛以外のことが起こりすぎて、気がついたらただ六歳年をとっていたというむなしい日々であった。年があけても「本の雑誌」の注文は減ることはなかった。減ることはなかったのだが、一番問題なのは発売日に本が出ないことだった。椎名さんも目黒さんも自分たちのやるべき仕事が他にあるし、どうしても決めた発売日に本ができないのだった。そのたんびにジャンジャン苦情の電話がかかってきた。書店の人からは、
「発売日が遅れても死にはしないんですけれど、お客さんからいつ出るんだっていつも責められるんです。それがつらくて」
と訴えられ、読者からは、
「いつ出るかいつ出るかと、書店に毎日足を運んでいたけれど、しんどくなって一週間行かなかったらその間に発売されていて、あわてて行ってみたらもう売り切れていたぞ」
と怒られた。そういわれても私にはただていねいにあやまるしかなく、毎日毎日あやまり続けていたために、受話器をとって、
「はい、本の雑誌です」
というべきところを、
「はい、どうもすみません」
といって相手に仰天されたりした。人間というのはあやまり続けているとだんだん卑屈になっていき、世の中の悪事はすべて自分の責任のような気になってしまうのだ。目黒さんには、
「これだけ苦情が来ました」
といっても、
「あっ、そう」
と軽くかわされてムッとした。しかし私もここに来る前は一読者として本が出るのが待ち遠しくて何度も書店に行った。新しい号が出ているとうれしくてたまらなかった。だけどそのときの私にはそういううれしさはなかった。私が気になるのは、「本の雑誌」の売れ行き、それだけである。一番好きな雑誌にかかわる仕事をした不幸だった。
苦情の電話が続くなか、忘年会で会った西村かえでさんから私あてに電話がかかってきた。ド素人の私に書評のコラムを連載で書いてほしいというのである。私は学生時代、課題のレポートは書いたことはあるが、当然書評なんてやったことがなかった。
「そんな深く考えることないわよ。本好きでしょ? それでいいのよ。別に論文書くわけじゃないんだから軽い気持ちでやってみれば」
そういわれても私はふんぎりがつかなかった。私はいちおう会社に雇われている身だし、やはり、お上の意見をうかがわねばと思い、おそるおそる目黒さんと椎名さんに、この仕事を引き受けてもいいかとたずねた。すると二人とも、
「いいじゃない。やれば」
と快く賛成してくれたのでこの仕事をひきうけることにした。そうするにあたってはぜひペンネームをつけて欲しいと目黒さんにたのむと、彼はうれしそうに、
「ボク、ペンネームつけるの大好きなんだ」
といった。そして、
「実は、十個のペンネーム持ってるの」
と教えてくれた。
「車の雑誌に書くときのペンネームなんか車《くるま》 道郎《どうろう》っていうんだよ」
そういって笑った。ペンネームを考えるのはとても時間がかかるのかと思ったら何と五分で決まってしまった。まず苗字のほうは、目黒さんがペンネームの中で一番気に入っているという群一郎の群をのれん分けしてもらった。問題は下のほうの名前である。目黒さんはすぐ、
「よし! ようこにしよう」
と明るくいった。
「どうしてようこなんですか?」
「ボクの初恋の人の名前なの」
あくまで目黒さんの個人的な思い入れで、私のペンネームはいとも簡単に決まってしまったのである。そのとき単純に、
「わ、もう一人別の自分がいるみたいで面白いな」
と無邪気に喜んでいたのだが、まさかこの名前で仕事をするようになるとは思ってもみなかった。今になれば、
「もうちょっと知的な名前のほうがよかったな」
という気もしないではない。たとえば慶子とか麗子とか、こみいった漢字だと重々しい雰囲気がただようではないか。ようこでは、いつまでも幼稚園児みたいな女がキャピキャピとはしゃいでいるような気がしてくる。一度目黒さんに、
「たった五分でペンネームを作っちゃうんだから」
と冗談まじりにいったことがあった。
「だってまさかこういうことになるとは思わなかったもの。でも自分でいうのもなんだけど、とてもいい名前だと思ってるよ、ボク」
彼のいうとおり、五分で名付けられたわりには、この名前、運だけはよかったようだ。
私は編集部に原稿を渡す前に必ず目黒さんに原稿を読んでもらった。
「ここのところはこうしたほうがいい」
などとアドバイスしてもらった。椎名さんもわざわざ書店でそのページを立ち読みして電話をかけてきてくれたりした。生まれてはじめて三万円の原稿料をもらって、私はとても感激してしまった。もちろんそれで身をたてるなどと夢にも思わず、単なる気晴らしの小遣い稼ぎというくらいの気持ちだった。昼間のカンヅメ状態が終わるとすぐ家に帰り、原稿を書いた。いくら気晴らしとはいえ何度書き直しても心配で、何度も何度も目黒さんに見せては、
「そんなに書き直したってたいして変わらないよ。自分が思ってるほど他人はひとことひとこと気にして読んでるわけじゃないんだから、もっと気楽にやれば」
と笑われた。そういわれても、ペンネームが載るとなるとひどく緊張した。半年ほど「TODAY」に連載したあと、椎名さんから今まで書いてたようなことでいいから「本の雑誌」に原稿を書くようにいわれた。
「TODAY」の連載よりももっと緊張した。今まで自分が一番好きだった雑誌を読む側から書く側になってしまったので、
「恥ずかしいものを書いてはいけない」
と思った。
「ま、いいや。ペンネームなんだから誰も私とはわかるまい」
そう思って原稿を書いても、なかなかうまくいかなかった。四百字七枚弱の原稿なのに四回も書き直して椎名さんに渡した。そしてはじめて「本の雑誌」21号に私の文章が載ったのである。21号が出て、しばらくしてアンケートハガキが戻ってきた。中には面白いと言ってくれた読者もいたが、批判的な人も多かった。
「何だあれは」「書評になっていない」「下らない」「もう載せるな」「本の雑誌を何だと思っているのか、この女は」というものまであった。
「こんなの気にすることないの。なんだかんだいう奴はどこにもいるんだから」
私はそういうハガキを見て少なからずガッカリしたが、もう一人の、今の自分とは無関係の自分≠ノ対して批判されていると思えば気が楽になり、それからも図々しく書き続けることにした。
当時私は原稿を書いて一発で出来上がりということはありえなかった。最低三回は書き直しをしていたために、やたらと原稿用紙の消費量だけ多くて仕事ははかどらなかった。でも自分の子供のころのことを思い出しながら原稿を書くのはとても楽しかった。私は他人の家庭のことなどよく知らないし、自分が育ってきた環境をそのまま書いたのだが、逆に面白いといわれると、どうしてそんなに面白いのかと不思議でたまらなかった。
「だって普通じゃないもん」
目黒さんはゲラゲラ笑いながらいった。
「そうですか」
と、とりあえず一緒に笑っても、内心はムッとしていた。そんなに私の家は、人から物笑いのタネになるような、まともな家じゃなかったのかとそのときはじめて知ったのであった。
私は友人にも親にも「本の雑誌」に原稿を書きはじめたことは黙っていた。
「私がこういうことをしているのを誰も知らない」
と思うと秘密を持っているようで気持ちがよかった。目黒さんも椎名さんも、群ようこなる人物は一体誰なのかということを黙っていたほうがいいと思っていたようなので、私は昼間は本の雑誌社で猫背で必死に電卓を叩く事務員、夜は幼なじみの男の子の鼻の穴に指をつっこんで泣かせたり、バカヤローとわめき散らす過激な「群ようこ」として、ジキルとハイドのような生活を送りはじめていたのであった。
「本の雑誌」に原稿を書きはじめてすぐ、今までの事務所が手狭になり、信濃町の住宅街の中にある賃貸マンションに移った。六畳二間に四畳のキッチンという広さで天井も低かったが、四谷三丁目から比べたら天と地ほどの違いがあった。部屋の中に三、四人いても窒息することはなくなったし、机も在庫を置いておく棚も購入してだんだん出版社らしくなってきた。四谷三丁目のときから助っ人の人数もふえ、女の子もまぜて十人くらいが事務所に出入りして引越しを手伝ってくれた。
「本の雑誌」は矢印が斜めになった形で部数が伸びたのではなく、グラフにすると階段状態で部数が増えていった。部数が増えたときの事務所の電話の鳴り方というのは尋常ではなかった。十時前だというのにジリジリとベルが鳴り続け、受話器を置けばすぐまた注文の電話がかかってきて、壁にある伝言板には「○○書店、本の雑誌21号20冊、バックナンバー各5冊、至急」とかいたメモが所狭しと貼りつけられて、風にふかれてビラビラしていた。助っ人たちも学校の授業がない時に来るのだけれど、こっちが忙しくなるといつも同じように彼らも忙しくなるといった具合で、それがテスト期間に重なると悲劇だった。書店からは、
「もう一冊も在庫がないから早くして」
といわれるし、中には、
「いいや、もう待てないからボク行っちゃう」
といってわざわざ会社に来て下さる書店の人もいた。あまりに電話がかかってくるので一台しかない電話はパンク寸前で、
「どうして何度電話しても話し中なんだ!!」
とものすごい勢いで怒られたりした。
「お金もうかってんでしょ。もう一台電話いれなさいよ!!」
そういわれても、電話をとるのは私一人なんだから、何台あったって結果は同じなのであった。
朝、鍵を開けて掃除したり、食事をするために昼間外に出られないという状態は全く同じ。部数がのびてきた分、私の仕事はますます量がふえた。経理の台帳の冊数もふえていって、誰からもきちんとした経理のやり方を教えてもらっていない素人の私は、
「こんな方法でやっていていいのだろうか」
と台帳を前にしていつも首をかしげていた。そのうえ椎名さんへの仕事の依頼の電話もものすごい量になった。台所で洗いものをしていて、電話が鳴っていても助っ人諸君がお互いを見つめあったまま、ジリジリと鳴り続ける電話を目の前にしても手も出さない。そのうえ手が泡だらけの、私に向かって、
「電話ですよ」
などという。
「電話ぐらい取ってくれたっていいじゃないか!」
とはいえないから腹の中で一人、じとっと怒っていた。
編集業務のほうでは、椎名さんの単行本を作るのをすすめていて、これがまた大変だった。このときすでに発売が半年遅れていて、読者からも書店からも、やいのやいのといわれていた、いわくつきの本だった。以前「本の雑誌」に掲載したもだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵≠下敷きに新たに書きおろしを加え、他の新聞や雑誌に書いたものをまとめるという仕事だったが、厖大《ぼうだい》な原稿量だったのと、あれこれさしかえたりしていたので、すぐ混乱してわけがわからなくなった。この時でさえ、会社には本の台割りというものがなかったのであった。
やっと原稿整理もでき、沢野さんにイラストを描いてもらえば一段落というところまでこぎつけたのだが、いつまでたってもイラストが出来上がってこない。沢野さんも会社につとめているし、長期で出張に行くというので、目黒さんと椎名さんがその前の手があいている時に集中して仕事をしてもらえるように、スケジュールを調整した。それにもかかわらず沢野さんの行方がわからなくなってしまったのであった。まさかこちらから会社のほうに電話をかけるわけにもいかず、
「どうしたんだろう」
とみんなで話をしていたら、沢野さんが私たちに内緒で出張に行ってしまったことが判明した。私たちは大パニックに陥った。もうすでに配本スケジュールは決まり、ポスターまで刷り、大々的に売ろうとして意気ごんでいた矢先の出来事であった。
「沢野が来ても絶対に入れるな! お茶なんか出さなくていい!」
椎名さんは大声でドナった。目黒さんは本当にがっかりした様子でしばし声も出ず、
「あいつ……ポスターもう配っちゃったじゃないか。一体どうするんだ」
とかろうじて平静を保っていたが、感情の起伏が激しくない目黒さんにしては珍しく、目がつり上がっていた。
「もう絶交だ! あいつとは絶対口をきいてやらないからな!」
目黒さんや椎名さんの怒りももっともだったが、一番怒りたいのは私だった。なにせ本の発売日が遅れると苦情の矢おもてに立たされるのはこの私なのだ! 電話をかけてくる人は一度だけだが、それに答える私は何十回、何百回とあやまらなければならない。中には受話器をとったとたんにドナる人もいるだろう。グダグダネチネチ十分ぐらい文句をいう人もいるだろう。その相手をしている最中に、郵便配達のおじさんが現金書留を持ってきたりといったメチャクチャな毎日を考えると、机につっぷして死んだフリをしたくなった。案の定、予想どおり毎日毎日苦情の電話がかかってきた。たいていの人は私に文句をいえば気がすむようで、最後には、
「ま、こんなことあんたにいってもどうにもならないんだけどね」
といってはくれるのだが、中には私がまるで悪人のようにののしる人もいて、いいかげんにしてくれといいたくなった。
不愉快な毎日をすごしていると、小包が届いた。差し出し人をみると沢野公とあって、長崎から送られてきた。私は、
「あっ、やっとイラストが来た!」
と思ってすぐ目黒さんにその小包をみせた。
「目黒さん、沢野さんから小包がきました」
「えっ、そうか、あいつも心をいれかえたんだなあ。出張先から送るんだったらそういえばいいのにね」
そういいながら目黒さんはバリバリと包み紙を破った。私が息をのんで目黒さんの手元をみていると、中から出てきたのは長崎カステラ一箱。そして箱の上には紙切れがのっかっていて、沢野さんの字で、
「ごめんなさい」
とだけ書いてあった。小包が届いて一瞬口元がゆるんだ目黒さんの顔がまたこわばり、
「なに考えてるんだあいつは! こんなの送るヒマがあったらイラストの一枚も送れっていうんだ!!」
といってカステラを私に投げてよこした。
「あのー、これどうしましょうか」
「そんなもの、さっさと捨てちゃえ!」
私はあんなに怒った目黒さんを見たことはなかった。ともかく目黒さんの目の届かぬ範囲までこのカステラを遠ざけなければと、とりあえず台所に持っていき、どうしたものかと悩んでいた。すると今まで遠まきに事のなりゆきを見ていた助っ人の女の子が来て、小声で、
「どうします、それ」
といった。
「捨てろっていったってねえ」
「そうですよ、もったいないですよ。目黒さんだって、目の前に出されればきっと食べますよ」
「そうだよね。カステラには罪がないんだから」
そういいながらも、この先どうなるんだろうか心配になった。
「目黒さん、ま、そういわずにカステラでも食べて、少し休みましょう」
私はおそるおそるカステラをのせたお皿を手に目黒さんに近づいていった。もし目黒さんが、
「うるさい! 捨てろといったら捨てろ!」
とわめき出したらどうしようかと思った。
「うーん」
目黒さんは一声うなって椅子に座りなおし、一口カステラを食べて、
「ああ、もう、いやになっちゃうよなあ。なあ、おい、ポスターに発売日訂正のシール貼りにいくのって大変だよな」
と助っ人諸君にいった。
「一枚一枚ですか?」
「そうだよ」
「そりゃ、大変ですよ。手間だってかかるし」
「あーあ、一枚一枚シール貼って歩かなきゃいけないのか」
「あーあ」
実際外を歩きまわる助っ人諸君も大変なのだった。
「目黒さん、沢野さんはいつ帰ってくるんですか」
「わかんないよ、そんなの」
「この調子じゃ長崎から帰ってこないかもしれないぜ」
「大丈夫だよ、会社につとめてるんだから帰ってくるよ」
「でも沢野さんだからなあ」
「それはいえるよな」
助っ人諸君も口々に今後の展望を予想しはじめた。椎名さんは外から電話をかけてくるごとに、
「沢野はどうした」
と聞き、
「連絡はありません」
というといつも、
「何やっとるんだあいつは。いいか、事務所に来たって絶対口きくなよ!」
といって電話を切った。
カステラが到着して一週間ほどたって、午前中にフラッと沢野さんが姿を現わした。私は、
「イラストどうしたんですか」
といおうと思ったが、椎名さんから口をきいてはいけないといわれていたので、無視していた。
「ごめんね」
沢野さんはポツリといった。
「大変でした」
私は事務的にいった。
「あ、そうだ。あの、カステラ届いたかな」
「カステラ? 目黒さんがものすごく怒って、『こんなもの捨てちゃえ!!』ってドナってました」
「ふーん。そうなの。目黒くん捨てちゃえっていったの。そんなに怒ってたの……」
「はい。私はあんなに怒った目黒さんを見たことはありませんでした」
「そうか。おにいちゃんは?」
沢野さんはいつも椎名さんに対して負い目があるときは、椎名さんのことを陰でおにいちゃんというのである。
「椎名さんもとても怒ってました。沢野さんが来ても部屋の中に入れるな、お茶も出すな、口もきくなといわれました」
「そう……おにいちゃん、そんなに怒ってた……」
「はい」
私がキッパリいうと沢野さんは困った顔をしてそこにたたずんでいた。
「やっぱり本出るのが遅れちゃうよね」
沢野さんが小さな声でいったので、私はすでにポスターを作って書店に配ってしまったので、発売日の訂正シールを貼りに行かなければならないこと、それでまた経費がかかって手間もかかること、苦情の電話を処理しなければならないことを話した。すると沢野さんは、
「そうか、大変なんだ」
といったまま黙ってしまった。私は沢野さんに背を向けて自分の仕事をはじめた。しばらくすると沢野さんは、
「じゃあ、みんなにあやまっといて」
といって帰っていった。少しかわいそうな気もしたが、約束を破ったのだから仕方がないと思いつつ、今まで沢野さんが座っていたところをみると、一枚の紙切れが置いてあった。そこには、胸にさわのひとし≠ニ名前をかいた札をぶら下げて涙を一粒流している幼稚園児の絵がかいてあり、その横に、ボクのことキライ?≠ニ書いてあった。
「しょうがないわねえ」
思わず笑ってしまった。午後になって目黒さんが来るとすぐその絵をみせた。
「これで自分のしたことがどういうことかよくわかるだろう。しかしこんな絵画く暇あったら、一枚でも味噌蔵の絵を描きゃあいいんだよ、ホントに」
しかし沢野さんが出張から帰ってきても、なかなかイラストは出来上がってこなかった。椎名さんも、
「まだか、まだか」
と気にしていたのだが、あまりに遅れるので今度は椎名さんが、
「もうちょっと書き足したくなっちゃった」
といって、初校ゲラも出ていたというのに、ものすごい勢いで原稿を書き足しはじめたのであった。
「あーあー、もう」
目黒さんが頭をかかえて机につっぷしてしまったのはいうまでもない。私たちは印刷所に手配して、発売日の訂正シールを作ってもらった。助っ人諸君はそれを手に各書店をまわった。なかには配本に来たのとまちがえて、喜んで迎えてくれる書店員さんもいたようだった。
「すみません、発売日が遅れます」
そういって一店一店まわってポスターにシールを貼る彼らの背に向かって、
「君たちも本当に大変だねえ」
と心からねぎらいの言葉をかけてくれた人もいたらしい。
「沢野さんがちゃんとイラストを描いてくれればこんなことにはならなかったのに」
彼らは黙々とシールを貼りながら、沢野さんのことをうらんだといっていた。しかし発売日に出来上がらないものは仕方ないのである。目黒さんと私は沢野さんからイラストが届くのをじーっとおとなしく待っているしかなかったのである。
しばらくたって届いたイラストは、どれもこれもとてもよかった。目黒さんの機嫌もなおり、やっとこれで本が出ると思ったのもつかの間、また事件が起こった。椎名さんが書き足した原稿の枚数があまりにも多すぎて、本の厚さが当初の予定と大幅に違ってしまったのであった。私たちはあわてた。おそるおそるこれから作る本と同じ紙で作った、ツカ見本をハカリの上にのせたら郵送料が変わってしまった。これはすでに読者から予約金としてもらっているものがあり、その差額分はこっちの負担になる。それどころか新たに製作原価を計算したら、前に決めた定価では、うちのもうけがなくなってしまうという重大な問題が起きたのであった。
「だめだ、百円値上げしよう」
そういって再び目黒さんは机につっぷした。再三いっているように、私たちは書店にポスターを配った。当然ポスターには値段も印刷してある。私は暗い気持ちで印刷所に電話をかけ、値段の訂正シールを作ってもらうようにたのんだ。
「ええっ! またですかあ」
印刷所の担当者はそういった。助っ人諸君は、もう一度同じことをしなければならないという事実を目のあたりにしても少しも動ぜず、
「はあ、そうですか」
と無表情で淡々としていた。もうハナからあきらめていたのだろう。気の毒に彼らは値段の訂正シールを手に、再び書店めぐりをしなければならなかった。
「キミたちんとこは、本持ってこないでシールばっかり貼りに来るんだね」
そういった書店の人もいた。本当に書店の人にも迷惑をかけた。苦情の電話も日増しに多くなり、
「本当は出る出るってウソついて、ハングリーマーケットにしてるんでしょ」
などといわれたりもしたが、そんな作戦なんかできるはずもなく、自然とそういう状況になってしまったのであった。
「キミたち商売うまいね」
という人もいたが、こっちは必死だった。
あっちこっち寄り道しつつも、あのブ厚い『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』が、事務所に運びこまれたときは本当にホッとした。ところがあまりの量の多さに、せっかく引越して広くなったと思っていた事務所もあっという間に四谷三丁目と同じことになった。助っ人諸君はこれを四谷三丁目現象≠ニ名付け、今まで自分たちが座っていたところを本に占領されても文句もいわず、おとなしくあいているところにひっそりと立っていたのであった。しかし厚さ2センチ、重さが一冊650グラムもあるので、それが山をなしている姿はまるで砦《とりで》で、玄関に人が立ってもその砦が邪魔して、立ち上がって背のびをしないとその人が誰だかわからないくらいだった。いざ配本するとなったらその厚さが災いして部数もあまり手に持てず、何度も事務所と書店を往復しなければならないこともあった。幸か不幸かこの本は売れ、次々と増刷が上がってくるので、この砦は消滅することはなかった。私は助っ人がこない間はその砦に埋もれて仕事をしていた。目黒さんはフリーライターをやめ、「本の雑誌」の仕事に専念することになったが、相変わらず出社してくるのは毎日午後三時すぎてからだった。雑誌と並行して単行本が売れていくにつれ、ますます私のやっている仕事の量がふえた。せめて配本に行くときの納品書は自分たちで書いてもらいたいと思ったが、目黒さんが、
「間違いがあると困る」
というので、私が伝票類のすべてを書いていた。そういうとき助っ人諸君は私が書類を書き終わるまで、雑談をしたりマンガ本を読んだりしていた。そういう姿を見ていると彼らがとても気がきかない人間のように思えてイライラした。掃除のほうもきちんと毎日しなければいけないと思うのだが、毎日そういう時間すらないほど仕事が山のようにたまっていた。助っ人諸君は配本が終わればホッと一息つけるのだが、私の場合はそれからが大変で、集金してきたお金を銀行に入れ、伝票類を整理し、在庫台帳と納品台帳を書き、原稿料を支払う手続きをしなければならなかった。そのうえ日々の経理の仕事があり、椎名さんへの原稿依頼とか原稿受け渡しの連絡はすべて私あてにかかってくるのでその取り次ぎをしたり、いいかげん疲れてしまった。私が必死になって電卓で計算していると、助っ人の女の子がつつっと寄ってきて、
「目黒さんがトイレのタオルが汚れてるっていってますけど」
といった。私は腹の中で、だからどうしたっていうんだ! とつぶやいた。私はドナりたくなったがグッとこらえて、
「悪いけどあなた洗っといてくれない」
といってみた。すると彼女はあっさりと、
「はい、わかりました」
といって台所できれいにタオルを洗ってくれた。私は彼や彼女たちと世代のちがいを感じてしまった。彼らは気がきかないといってしまえばそれまでなのだが、全く何もしないことには悪気があるわけではなく、いわれればとても素直に何でもやってくれるということに気がついた。しかし、いちいちこちらが指図しないと体を動かそうとはしないのであった。
「これからは何もかも自分でやるのはやめよう。人にまかせられるものはまかせよう」
と思った。そうしないと年がら年中忙しいばっかりで、自分がバカバカしくなってきてしまうからだった。しかし、いざいろいろなことをやってもらうとミスも多く、それを直すほうに時間がかかったりして、またこれでイライラが始まった。私の仕事が楽になるにはまだまだ遠い道のりがありそうだった。
信濃町に事務所があった最初のころ、主婦の方がお手伝いに来てくれたことがあった。彼女は夏の日、唐突に私の目の前に現われた。だいたい平日の午前中にブザーを鳴らすのは、ハンドルの化け物みたいな肩コリ治療器を持ったセールスマンか、現金書留を運んでくれる郵便配達のおじさんしかいないのである。
「はいはい」
といいながら、ドアののぞき穴から訪問者を確認した。そこにはセールスマンでも郵便配達のおじさんでもない、一人の明るい顔をした女の人が立っていた。そしてドアを開けた私に向かって、
「突然ですが私を雇って下さい」
とニッコリ笑っていった。私は急にそういうことをいわれて一応おことわりした。しかしとても熱心にお手伝いをしたいといって下さるので、
「アルバイト代は全く期待しないで下さい」
とだけいって、次の日から来てもらうことになった。私は彼女が来てくれたおかげで、とても気がまぎれた。彼女は私が読まないジャンルの本もたくさん読んでいて、ルー・ザロメとはいったいどんな女性であるかを教えてもらった。そのかわり私は谷岡ヤスジ氏描くところのバター犬とは一体何であるかを彼女に教えて、お互いの足りない部分を補っていたのだ。掃除を分担できるのもとても助かった。今から思えば人妻にトイレの掃除までしてもらって、私は甘え放題甘えてしまった。彼女はいつも、
「雑用は私がしますから、どうぞ御自分の仕事をして下さい」
といってくれたが、あまり御自分に割りあてられた仕事が好きじゃなかったので、タランコタランコしてごまかしていた。私の仕事を手伝ってもらえるよりも、話相手になってくれるほうが、ずっとありがたかった。
思えばこの信濃町時代が私にとって一番ため息をたくさんついた時期だった。会社が伸びてきて、それに私の気持ちがついていけないころだった。相変わらず助っ人諸君は何人か出入りしていたが、彼らが事務所に来られるのは、まっとうに進級すれば四年の夏休み前まで。それ以降は就職のために専念してほしい、というのが目黒さんの考えだったので、いなくなる四年生の分を補うために、毎年一回助っ人募集の記事を出していた。中には卒業できるはずが必修科目を一つ落として卒業できず、本人も親も落胆していたのだが、それを知りつつも、
「よかった、また今年も来てもらえるね」
と目黒さんとこっそり喜びあったこともあった。
信濃町に引越してから、第一回目の助っ人募集のときは、ものすごい数の学生が集まった。今までは多くて十人くらいだったのに、たかだか2Kの広さの事務所に毎日二十人近い人数、総勢六、七十人もの学生が集まった。事務所の場所をたずねる電話が日に何本かかってきたかわからない。聞くほうは一回でも、答えるほうは同じことを何度も何度もくりかえさなければならず、いいかげんうんざりした。半分ひやかしの学生や、やはりアルバイト代がないと困る学生もいたので、初めより人数は減ったものの、常時二十人の学生が2Kの部屋の中、いたるところに座って膝《ひざ》をかかえてじーっとしていた。もちろんまだお互いなじんでいないから黙っている。それは異様な光景だった。
「こんな状態がいつまで続くのだろう」
と思っていた。何とか明るく雰囲気をもり上げようと少しは話しかけてみたほうがいいのかしらとも思ったが、なんせいる人数があまりにも多く、一人に声をかけるとみんなに声をかけなければならないし、園遊会みたいにそんなこといちいちやっていられないのでやめた。仕事もないしヒマなので男の学生たちはめったやたらと煙草を吸った。一人、二人ならガマンできるが、十何人が一度に吐き出す煙を吸わされて、一日中ドライアイスのスモークの中にいるみたいだった。目黒さんに、
「煙草をなんとかしてほしいんですけど」
というと、目黒さんは、
「アルバイト代も払っていないのに、彼らにそんなことまでいえないよ」
という。そういわれると、そんな気もしたが、
「やっぱりそんなの、イヤだなあ」
と思った。人数は少なくてもきちんとお金を払って、何でもいいあえる関係のほうがずっといいような気がしたが、実際配本をしている人たちからしたら、まず必要なのは頭数《あたまかず》で、こういうシステムでやるしかないのかもしれない。私は現実に配本をしてないのだから、その実態は全然わからないのだ。
最初のころはその十何人もの学生と目黒さんたちは、会社の中で酒盛りをしていた。けっこういただきもののアルコール類には不自由しなかったし、それで少しおつまみを買えば外で飲むよりも明らかに安く上がるからであった。私はもちろん六時になるとあとも見ずに帰った。
そして次の日、鍵を開けて中に入ってびっくりした。昨夜の酒宴の残骸《ざんがい》がそのまんまになっているのであった。のみかけのビールのコップ、散乱したおつまみ。じゅうたんにはシミ、クシャクシャのままほうり投げられたティッシュペーパー。汚れたままの皿にはたくさんのゴキブリがはりついていた。そしてそのゴキブリたちは、私の気配に気づくとカサカサッと在庫が積んである砦の陰に隠れてしまうのだ。
「よくもほったらかしにして帰ってくれたな」
私はこの残骸を残したまま帰ってしまうという人間の神経がわからなかった。次々にかかってくる注文の電話をうける合間に、私は仕方なく汚れものをはいつくばって片付けた。すると管理人さんがやってきて、
「きのうの夜、うるさいって上と下の人から苦情がきたから、あまり夜騒がないでね」
と注意された。
「どうも、申し訳ありません」
そういってペコペコ頭を下げた。だんだん腹が立ってきた。だけどその当時私は面と向かって目黒さんに文句をいうほど、まだ大胆な性格になっていなかった。
朝、出社してドアを開けて中に入るとよく、男の子たちが昨夜のみすぎて帰れなくなり、ゴロゴロ寝っころがっていることもあった。湯沸器の上に細いタクアンが置いてあるので、酔っぱらって誰かがのっけたのだろうと思って捨てようとしたら、その正体が汚れた靴下だったこともあった。
「誰だ、こんなところに靴下のっけたのは」
とドナると、一人の男の子がのそーっと起きてきて、
「僕でーす、カレーをふんづけた上に酒がこぼれてしまったので、洗ってそこで乾かしておいたのです」
という。どうするつもりかとみていたら、二時間ほどするとまたその靴下をはいて学校に出かけていった。そして相変らず食い散らかしたゴミや汚れものはすべてそのまんま。私はマグロのように横たわっている彼らの間をツマ先立ちして歩きながら片付けをしなければならなかった。
「まるで保育園のお昼寝の時間ではないの。私は保母さんじゃないわい」
しかしいくらふくれっツラをしても、その場は跡片付けをしなければ仕事ができないのであった。そういう状態が一カ月ほど続いた。
あるとき、助っ人の男の子から電話がかかり、相談したいことがあるので会社が終わってから新宿の喫茶店に来てほしいといわれた。彼は助っ人の中でもとてもマジメでおとなしく、どちらかといえば車内吊りの広告によく出ている話し方教室に行ったほうがいいタイプの無口な学生だった。
「どうもすみません」
彼はとても恐縮していた。
「どうしたの? まさか、女のことじゃないだろうねえ?」
私がそういうと、彼は頭をかきながら、
「はあ、まあ、そうです」
と恥ずかしそうにいう。事務所に来ている女の子が好きなのだが、どういうふうに告白したらうまくいくか教えて欲しいというのである。
「こういうことは目黒さんに聞いてもわからないと思って」
「まあ、ねえ……」
そういうことを聞かれたって私だってよくわからないのである。
「女の子っていうのは特に好きでもない男からでも、プレゼントをもらうとうれしいでしょうか」
「そりゃうれしいんじゃないの、よほど嫌いな人からじゃなければ」
「やっぱり迷惑に思う人もいますかねえ」
「そうねえ、くれた人が嫌いな人だと困るわね。でも平気じゃないの? いちいち気にしてたら何もできないじゃない」
「はあ……そりゃそうなんですけど……。あのー、デートにさそってもかまわないんでしょうか」
「えっ! あなた彼女と会いたいんでしょ」
「はい」
「それだったらさそえばいいじゃない。もしかしたらたまたま彼女が都合が悪くて出てこれないかもしれないけど、それはその時々で考えるしかないわね」
「そうですね。ボク、彼女のこと展覧会なんかにさそいたいんですけど、彼女来てくれると思いますか」
「そこまであたしにはわからないわ」
「すみません、そりゃそうですね」
「あーあ、○○さんは幸せねえ、そんなに思われて」
つい我を忘れて大声を出してしまった。そういわれて彼は赤くなって下を向いて頭をボリボリかいている。彼には悪いが、私はどうしていつもこうなのだろうと情けなくなった。
「どうして世の中っていうのはこう不公平なのかしらね!! 私なんかさ、昔っから相談されるばかりでさ、自分には全然いいことがなかったのよ! 本の雑誌に出入りするのは妻帯者と年下の大学生ばっかりでさ、朝十時から夜六時までで昼ごはんだって食べにいけないのよ! こんなんで男と知り合えるわけないじゃないの! 一体私、どうしたらいいのよ!」
私はいままでたまっていた不満がいっきに爆発し、だんだん息が荒くなってきた。会社の中にちょっと気になる男の一人もいれば、つらい仕事も多少ガマンできるというものなのだが、同僚はいない、そういう男もいないというのでは八方|塞《ふさ》がりではないか。彼は目をつり上げた私の姿をおびえた顔をして見ながら、
「あのー、相談してるのは、ボクなんですけど……」
とすまなそうにいった。
「ともかくね、あなたが彼女のことを好きだという意思表示しなけりゃ、何も始まらないんだから。わかった。男だったらパーッとやりなさい、パーッと」
「そうですね、パーッとやってみます」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「それと、僕、気になってたんですけど、最近会社の中で飲んでますよね。僕たち、いつもそのまんまにして帰ってますけど、あれはいつも次の日片付けてるんですか」
「はい、そうです。私がしております」
私は事務的に答えた。
「これから僕がいるときは片付けますから……。勝手に楽しんでるんだから、飲んだ人間が片付ければいいんですよ。これからはもう放っておいて下さい」
私はそれを聞いて彼の両手をしっかりと握り、
「ありがとう、ありがとう!」
といいたくなった。どんな中でもわかってくれる人はいるのだ。私はこういうとってもいい性格の男の子の恋愛は、何としてでも成就させてあげたいと思った。しかし私が彼のお目あての女の子を呼び出して、
「○○君があなたのこと好きだっていってるけど、ひとつどお?」
などというわけにもいかないし、彼には、
「がんばりなさい」
ということしかできなかった。
その後、彼と彼女が会社の中で話している姿を見ると、
「うまくいってるのかな」
と気にはなっていたのだが、彼はとうとう最後の決定打のひとことをいうことができなかったようだった。
男の子と女の子が一緒にいるんだから、そういうことが他にもいろいろとあったが、正直いって私は大変面白くなかった。中に口の軽いのがいて、
「ここだけの話ですけどね」
といって○○君と××さんがあやしい、ということを私に話す。
「まあ、そうなの。全然知らなかったわ」
と口では明るくいいながらも、私の顔はひきつっていたのである。
酒宴後の跡片付けの件も少しずつ改善された。ある日、出社したら、またマグロの大群がピーナッツや柿の種と共に、床にころがっていた。もちろんみんなと共に一夜をあかした目黒さんも一緒であった。私に相談した彼は寝ボケまなこで起きてきて、目を半開きにしながらもビニール袋をもってきて、跡片付けをはじめた。私は寝ている彼らをヒョイヒョイとまたぎ、自分の席に座り、仕事をはじめた。彼がゴソゴソしはじめたので、他の学生たちもマブタを腫《は》らしたまま、自分のまわりに落ちているゴミを拾いはじめた。それ以降私が出社してドアを開けても、床に柿の種や、ゴキブリちゃんのはりついた皿が散乱していることはなくなった。
お手伝いをしてくれる彼らは一人一人はいい子だったが、集団になると閉口することがあった。本の雑誌社の雰囲気は、
「まるで大学のクラブの部屋みたいですね」
と来た人によくいわれたが、まさにそういうかんじだった。目黒さんは学校の先生になりたいと、教育実習までした人だから、彼らが何十人もいることに対しては何とも感じなかったと思うけれど、サークル活動、クラブ活動、団体行動大嫌い、私たちは仲間です、などというのは糞《くそ》くらえという私にとっては、それは正直いって苦痛だった。それは本の雑誌社のシステムを根本的に否定することになってしまうのかもしれないが、突然会社が大学の部室のようになってしまって、私はよけいイラだった。
電話がかかってきても大声でゲラゲラ笑って騒いでいるから、相手の声が開きとれない。何度私は彼らに向かって、
「うるさい」
とどなったかわからない。自分たちが読んだ雑誌を元の場所に戻さないで、そこいらへんにおっぽらかして帰っていく。される≠アとばっかりに慣れていてする≠アとを知らない彼らにはうんざりした。椎名さんもそのころは自分の仕事が忙しくなって、あまり事務所にも来られなくなった。ところが毎日椎名さん宛の郵便物が届くため、それをひとまとめにしておく必要があった。椎名さんは部屋の隅にころがっていたダンボール箱をもってきて、
「椎名箱」
と太マジックで書いた。
「この中に郵便物を入れといて」
そういって椎名さんはまた取材旅行に行ってしまった。そして沢野さんがやってくると目ざとく箱をみつけ、そこに、
「バーロ、バーロ、椎名のバーロー。毎日が日曜日です。まことちゃん」
などと勝手に書いて、また疾風のように去っていくのであった。椎名箱が出来てすぐは、郵便物がきちんとその中に入れられていたのだが、助っ人の学生が例の如く、自分が読んだ雑誌をめんどうくさいもんだからその椎名箱に放りこむ。私は最初はブツブツいいながらより分けていたのだが、めんどうくさくなってやめてしまった。
「何だ、これは」
きちんと整理されていない箱の中をみて、椎名さんは不愉快そうにいった。
「はじめは片付けてたんですけど、助っ人諸君がどんどん勝手に入れちゃうもので」
私がそういうと、椎名さんは手近にあった紙に、
「この箱にゴミや不用の雑誌を入れたヤツはテッテイ的にはりとばす」
と書き、ペタリと箱に貼った。それ以来だれ一人としてその中に雑誌を放りなげる者はいなくなった。
古い助っ人の学生たちは、そのへんのところをわきまえているのが多かったのでそういう思いをすることは少なかったが、新しく助っ人が来るたびに同じ現象が起こった。やはり会社が自分たちの遊び場ではないことがわかるまでは、しばらくかかるようだった。だから新しい助っ人が来るたんびに、いちいち気にさわることが出てきた。そのたんびに、
「こういうときは、こうしろ」
といおうと思うのだが、満足にアルバイト代を払っていない≠ニいうことが頭をかすめ、そのまま口をつぐんでしまう私なのだった。
椎名さん関係の来客も多くなった。突然やってきて、
「椎名さんが来るまで待たせてもらう」
とこっちが仕事をしているのに、勝手にズカズカ上がりこんできて椅子に座りこむラジオ局の二人連れのおじさんもいた。片方は白髪、もう一人は半分ハゲているのに、お互いを石井ちゃん、高橋ちゃんと呼んでいてとても不気味だった。そして私に向かって、
「椎名さんから電話がかかってきたらすぐ私たちに取り次いで下さいよ」
とふんぞりかえっていうのだった。
「はい、わかりました」
といいながら腹の中では、
「とっとと帰れ」
と思っていた。
「私は木村晋介先生に了解をとっています」
といって、これまた突然現われ、これまた勝手に上がりこんできて、目黒さんの机に座ってテープ起こしを始めるフリーライターの女もいた。
「目黒が来たら、すぐそこを空けて下さいね。うちも仕事をしてますので」
私はそれだけいって彼女を無視して自分の仕事をした。そのほか、
「あたしは椎名さんと会う約束をしているから連絡先を教えてよ」
という不気味な雰囲気の女の人からの電話もあった。話に全く筋が通ってないところをみると、少し病的な人ではないかと思ったが、椎名さんと直接話せないことがわかると、私に向かって、
「あんたは私と椎名さんを会わせまいと意地悪をしているんでしょう」
としつこくわけのわからない、いいがかりをつけてくる。それから、
「目黒さんと椎名さんってホモなのォ」
というオカマとおぼしき人からの電話。そのほかに「本の雑誌」が発売日どおりでないという苦情の電話、他の出版社から出版されている本の問いあわせ、私にプロポーズ大作戦に出てくれという、明らかにイタズラとわかる電話。あらゆる種類の電話がかかってきた。「本の雑誌」の42号の巻頭にニコニコ電話相談室じゃないぞ≠ニ書いてあるが、今さらそういう問題が出てきたわけじゃない。ずっと以前からそういうことはあったのである。電話でイライラ、図々しい人間にイライラ、おまけに助っ人で来ている女の子のなかには、椎名さんが来ると我れ先にとお茶をいれるくせに、来客があっても知らんぷりという態度をとるのがいて、そういう子を横目でにらみつつ、私は仕事を中断してお茶をいれなければならなかった。そういう女の子たちは、椎名さんが会社に来られなくなるといつの間にか来なくなった。
来客、電話、書店の応対で一日中バタバタしている私の姿をみて、古くからいる助っ人の学生たちは、私にいろいろと気をつかってくれた。目黒さんは、相変わらず午後三時か四時すぎにならないと出社してこなかった。
「みんな、朝から来てるのかと思ったら、ちがうんですね」
とよくいわれた。目黒さんが来るまで一人であれこれ仕事をしている私に向かって、
「目黒さん、遅いですね。何やってんでしょうか」
と、私の気持ちを見すかしていってくれる学生もいた。
「さあ、寝てるんじゃないの?」
私はさりげなく答えたが、内心目黒さんは本気で会社をやっていく気があるのだろうかと思っていた。よく目黒さんは電話で、
「きのうの3─5とった? オレ、ダメだった」
などと明るく話していたが、そういうことばを耳にするたびに、みんな好き勝手に遊んでいて、私だけが一生懸命に働いているような気がしていた。六時に会社が終わって気分転換に助っ人諸君や目黒さんとお酒でも飲めばよかったのかもしれないが、会社の勤務外の時間に、会社の人と顔を合わせたくなかった。助っ人諸君に、
「また一人で帰っちゃうんですか? たまには飲みましょう」
といわれたが、やっぱりその気にはなれなかった。助っ人諸君は、いわゆる出版業界の人々が出入りする飲み屋に行けば、何となく出版の空気を吸ったようで、うれしいこともあるだろうが、私はそういう雰囲気が嫌いだった。
新しい助っ人諸君が大挙して押し寄せてきたころから、私は夜眠れなくなってきた。体もだるいし、一重マブタはますます腫れぼったくなるし、これではイカンと子供のころから行きつけのお医者さんのところへ行って診てもらった。
「特に悪いところはないけどね」
そういって先生はマイナー・トランキライザーを二粒くれた。このマイナー・トランキライザーは信じられないくらいの効果をもたらした。飲むとウソのようにスーッと眠れ、朝もパッと目がさめて気分|爽快《そうかい》。
「よし、今日もガンバるぞ!」
という気分になってくるのである。先生は二粒以上はくれなかった。しかし、私はどうしてもそれが欲しくて、医者からマイナー・トランキライザーをもらったけど飲まないのがあるという人から、相当な量を分けてもらった。完全にヤク中毒だった。毎日毎日飲み続けた。薬を飲んでいる間はバラ色の日々だった。しかし、これがだんだんエスカレートして、今度はシャブ中毒になったらエラいことになる、と自戒して半月後、残っていた分を全部捨ててしまった。
物を書く仕事も当時はあまり他社からの原稿依頼はなかった。ただ知り合いからたのまれて、PR誌のレイアウトをしたり、座談会のテープ起こしをしたり、自販機で売っているエロ雑誌に匿名《とくめい》コラムを書いたりして、小遣いかせぎをしている程度だった。やはり会社の仕事を大切にしたかったが、どうもいまひとつ気分はのりきれなかった。これからますます仕事をきちんとやらなければならないと思う反面、またいいかげんやめたい病≠ェムクムクと頭をもたげてきた。私のそういう目つきを察知してか、古くからいる助っ人諸君が私の誕生日にプレゼントをしてくれた。手製のカードに、
「いつもお世話にばかりなってすみません。これからもご迷惑をかけると思いますが、どうぞよろしくお願いします。お願いですからやめないで下さい」
と書いてあった。私が彼らからもらったのは、木製のケースに入った七十二色入りのパステルだった。私が以前、「パステルが欲しい」といったのを、誰かがおぼえていたらしい。私は彼らに対して特別あいそもいわなかったし、仕事でミスをすれば嫌味をいったこともあった。私は嫌われて当然だと思っていたし、それでもいいと思っていた。私は単に彼らを仕事を手伝ってくれる人たち≠ニしてしかみていなかった。目黒さんのように彼らの教師になろう、彼らを指導しようなんて夢にも思ってなかった。
私は家に帰って七十二色のパステルを眺め、とても自分はひねくれた人間ではないかと自己嫌悪に陥った。実は私だけとても意地が悪くて、まわりの人々は心優しいのではないかという気がしてきた。
年が明けてすぐ、私は前年の経理状態をまとめて、目黒さんに見せた。すると彼は、
「あ、そういうの、ボク全然わからないから」
といった。それをきいて私はものすごく頭にきた。私だって不安なまま仕事をしている。友だちに聞いても本を読んでもあまり良くわからない。だけどそれなりに勉強してきたつもりだった。それなのに社長たる人間がそういうことでいいのか、と思うと腹が立って腹が立って仕方がなく、
「絶対にやめてやる!」
と固く心に決めて、家に帰ってすぐ退職届を書いた。そしていつでも提出できるように、いつもバッグの中に入れていた。私は会社の仕事以外のこと、たとえば読んだ本の話とか、巷の出来事などを目黒さんと話すのはとても楽しかったし、特に本の話では私は知らないことをたくさん教えてもらった。個人的にはとても好きな人だが、いざ会社の社長という立場で彼をみると、私は彼のことが嫌いだった。
「いったい私が病気になったらどうするんだろう。いや、いっそ病気にでもなったほうがいいのだわ」
と思ったが、私の体は調子が悪くなっても、それは休日の間でしっかりと回復し、翌日からの業務には何の支障も起きないのであった。
「ホントにどうして病弱じゃないのかしら!」
我が身をのろったこともあった。ただもうヤク中毒にだけはなるまいと心に誓い、バッグには退職届をしのばせて、会社と家を往復するしかなかったのである。
その当時、私は一人暮らしをしたくてたまらなかった。いい年してまだ実家にいるのは嫌だったが、アパートを借りられるほどの給料はもらっていなかったので、仕方なく実家の四畳半でじーっとしていたのであった。ところが、椎名さんの『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』が売れたので、私はその年の十二月十五日、ボーナスと名のつくものをもらった。今までは会社につとめてもすぐやめていたので、ボーナスという名目のまとまったお金を見るのは生まれてはじめてだった。それと、少しずつためた原稿料を足して、なんとか一人暮らしをはじめようと思った。ところが頭ではそう思っていても、生来不精な体質ゆえ、なかなか不動産屋へは行けなかった。夕食時、
「あたしもそろそろ家を出ようかなあ」
というと、母親は最初無関心を装って、
「勝手にすれば」
という。しかし具体的に、私が○○沿線の駅よりは○○線の駅のほうがいいといいはじめると、とたんに不機嫌になり、
「あんたみたいにズボラでだらしないのが一人暮らしなんかができるわけがない」
と悪態をつきはじめる。うちの母親くらいの年だと、東京に実家があるのに一人暮らしをしなきゃならない理由は理解できないようであった。私が家を出たとたん、自分は見捨てられると思ったらしい。私がいくら家を出たいといっても、彼女は、
「そうしたら、あたし、誰にいろんなグチをこぼしたらいいのォ?」
といって甘えてくる。たしかに親と住んでいれば楽だし、面倒くさいことは少ない。しかし二十代の半ばにもなって家事手伝いではあるまいに、親と一緒にいるなんて、みっともないではないか。幸いうちの母親は、自分が結婚に失敗したせいか、よその家の親のように、結婚しろ、結婚しろとうるさくいわないのはよかったが、その反面無邪気な分だけ疲れた。まあ、これは少しずつ土俵の外に押し出していくしかないなと思っていた矢先、私たちはものすごい大ゲンカをした。理由はどういうのか忘れてしまったが、なにしろここ十年来したことのないようなケンカであった。五年前に親が離婚してから、私は口に出してはいわないものの、母親のことをふびんな奴じゃと思っていた。だから多少コンチクショウとは思っても、まあ、いいやで聞き流していたのである。ところがそれから五年もたつと、そういう気持ちもうすれ、厳しい女と女の戦いは復活してしまったのであった。
私はムカムカしたまま眠れない夜をすごし、会社が終わったあと、前から目星をつけていた不動産屋へ行った。
「1DK、1Kでもいいです。おフロがついてて、家賃が四万円ぐらいの物件ってないですか」
私がそういうと、不動産屋の若い男は、
「そうねえ、四万五千円出せばけっこうありますけど……。ま、陽あたりがいまひとつですが、その条件に近いのはあります」
といわれたので、早速西武新宿線下井草駅徒歩八分という物件を見にいった。木造モルタル二階だての一階、もちろん夜だから陽あたりなんてわかるわけがない。はっきりいってそんなことはどうでもよく、どんな部屋でもいいからあの家から出ていきたかったのである。
「はい、ここでいいです。決めます」
「えっ、すぐ決めちゃっていいんですか?」
不動産屋の若い男はビックリしていった。
「いいんです!」
私たちはすぐひきかえして契約をすませた。私は家に帰って、母親に、
「あたし、五日後に家出るから」
ときっぱり宣言した。彼女は、
「そんなこと……勝手に決めて……」
と最初はうろたえていたが、だんだん怒りがこみあげてきたと見え、
「それなら勝手にすりゃ、いいでしょ!」
と怒り出した。私は怒ってくれればくれるほど、家が出やすくなっていいやと思っていた。それからは会社から帰ると、毎日近所のスーパーからダンボール箱をもらい、荷作りをした。
引越し当日は、古くから「本の雑誌」の助っ人をしていた男の子や女の子が、五、六人来てくれた。引越しにかかった費用で貯金をほとんど使ってしまったので、最初は電話も洗濯機もステレオもなかった。テレビは助っ人の男の子が不用になった白黒のをくれたし、冷蔵庫は目黒さんが独身時代使っていたのをもらった。なんとか荷物を片付け、団地サイズの六畳間にへたりこんで、部屋の中を見わたした。築十年たっているボロアパートだったが、ここで一人暮らしがはじまるのかと思うとやっぱりうれしかった。しかし冷静になって部屋の中を点検すると、ユニット・バスとは名ばかりで、タイル貼りのトイレの片隅にポリバスがあるといったほうがよく、押入れからは前の住人が使用していたとみられる数珠の忘れ物まであったりして不気味だった。
そのアパートは上下三世帯ずつの六世帯で、私は一階の角部屋だった。隣りに住んでいるのは私より三つか四つくらい年上とみられる暗いかんじの女の人で、一番端に住んでいるのはソリこみをいれてマユゲをそり落としてはいるものの、やたらあいそのいい若い男と、同棲相手らしいフィリピンのフェイちゃんによく似た女の子だった。
二、三日たっても私は熟睡できなかった。緊張してちょっとの物音でも目がさめてしまうのだった。そのうえ庭側は、夜になると暴走族がパラレラパラレラとクラクションを鳴らして大音響で走りぬけるので、そのたびに部屋が揺れた。正直いってやはり最初は心細かった。新聞の勧誘、わけのわからない開運印鑑売り、消火器売り、のぞき。それにいちいち対処しなきゃならないので、慣れるまでは大変だった。みんな私に危害を加えそうな気がした。しかし親元を離れたのだから、このくらいのことでめげてなるかと、おびえながらもそういう輩《やから》に対してうまく応対できるようになったのであった。
私は母親にはここの住所を教えていなかった。まだずっとケンカした状態だったし、向こうが勤めに出ている間に引越したので、いちいち住所を教えるのが面倒くさかったこともある。世間はちょうどクリスマスだった。ジングルベルを聞くとどういうわけか腹が立った。夜一人で御飯を食べていると、ドアをドンドン叩く人がいる。またどうせ物売りだろうと返事をしないでじーっとしていると、
「あたしよ、あたし!!」
と聞きおぼえのある声がした。私はあわててドアを開けた。すると両手にいっぱいの荷物を持った母親が立っていた。
私は口をあんぐり開けて、玄関先で呆然としていた。私はアパートは下井草にあるとだけいって、あとは黙っていた。それなのに母親は私の住んでいるアパートをつきとめてきたのである。
「ど、どうしてここがわかったの?」
私がたずねると、このへんだろうなとフラフラ歩いてみたら、偶然見つけちゃったというのである。私は今さらながら、彼女の動物的カンに、あきれたり感心したりした。
「狭いわね」
部屋の中を見渡して開口一番そういった。私は返事をしなかった。
「何の用?」
つっけんどんにいうと母親はニコニコしながら持ってきた袋の中から密閉容器をとり出し、
「おねえちゃんはろくにおかずも作れないと思って、おかずを作って持ってきたのよ」
といった。私はあっけにとられてタタミの上に棒立ちになり、次々に登場する煮物とか焼魚とか、パン粉をまぶした肉とかをながめていた。「これはこのように料理するように」。「これはゴボウと煮るとおいしい」、というのを「はあはあ」とききながら、二十五歳にもなる娘のためにおかずを持ってくる母親の心理をいろいろと考えていた。いつまでたってもこんなことでは困ると思い、こんなことはしないでよろしい、というと、彼女は素直に、
「うん、わかった」
といった。ところが次の日、また同じ時刻にドアをドンドン叩く人あり。嫌な予感がしつつドアを開けると、
「また、来ちゃったあ」
といってニコニコして母親が立っているのである。おかずは持ってこなくていいといったので手ブラだったが、会社で起こったことなど私が実家できいていたのと同じような話を一方的にして帰っていった。いいたいことをいって帰っていくと私はドッと疲れた。まあ、弟と住んでいるからとはいえ、息子よりも娘にグチをいいやすいのは当然だろうが、はやくこの状態に慣れて子離れしてほしいと思った。しかしさすがに飽きたらしく、四日たったら来なくなった。
正月休みに実家に帰ったほうがいいかな、という気はしたが、これまた面倒くさくなってやめた。
引越してきた当初はわからなかったが、住んでふた月、三月とたつにつれ、このアパートは非常に問題があることがわかった。とにかく安普請で、二階に住んでいる女子大生が歩くたんびにドスドス音が響いてくるし、隣りの暗い女の人が電話している声すら聞えてしまうのだった。
ある日いつものように風呂にお湯をためて、脱衣場で服を脱ぎ、
「さあ、入ろう」
と風呂場のドアを開けたとたん、失神しそうになってしまった。思わず体中鳥肌が立ち、再び服を着てそーっとドアのすきまからのぞいたら、やはり、いた。何とそこには何十匹というミミズがうごめいていたのである。どこからあらわれたのかと目をこらしてじっと見ていると、壁と床のタイルのすきまから、ニョロニョロとはい出してくるのだった。私は急に腹が立ち、湯船からお湯をすくって手あたりしだいにミミズに湯をかけまくった。ミミズはの≠フ字やし≠フ字をかきながら排水口に消えていったが、私の体からは鳥肌は消えなかった。
「うーむ」
とうなりながら、仕方なくまた裸になって風呂に入ったものの、どうも落ちつかない。洗い湯の横にはすぐ便器、いつミミズが足元からはい上がってくるかと思うとおちおち体も洗っていられず、すぐ湯船にとびこんでじっとしていた。しかし目はキョロキョロと四方八方に配ることは忘れなかった。ところが再び私の背後の壁からミミズがウネウネとやってきた。私は町なかの看板でみた、成人映画の女体ミミズなんとか、とか快楽ミミズ責めとかいうタイトルをふと思い出し、給湯式の蛇口から熱湯を出し、考えてみれば何の罪もないミミズにそれをぶっかけた。風呂場だからまだいいが、もしかしたら床下にミミズが異常発生していて、私が寝ている間にタタミのすきまからもニョロニョロとはい出してきたらどうしようかと思うと、気が狂いそうになった。
「そうか、ここはミミズ風呂だったのか」
今後の対策はどのようにしようかと思って風呂から上がり、尻が落ちつかないまま部屋に戻って座布団に座っていたら、今度は、
「だから何だっていうのよ」
という女の金切り声が聞こえた。何が起こったのかと思って耳をそば立てると、その声の主は隣りの暗い女の人だった。私は思わず壁にへばりついた。彼女はワンワン泣きじゃくり、ヒステリックに、
「それじゃ、私に別れろっていうの」とか、
「あたしがどれだけガマンしたか、あなたわからないでしょ! そうよ! わかるわけないのよ!」
「もういいわ! あたしたちおしまいね!」
と私がテレビドラマでしか聞いたことのないセリフを吐いていた。あの病的な暗い目つきをした女の人がこんなに過激に物をいうとは思ってもみなかったし、あまりにヒステリックなので恐しくなってしまったが、耳は壁から離さなかった。三十分くらい彼女はわめき続けていたが、そのあとは泣きじゃくりながら、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
とあやまり続けていた。
「こりゃ、ヤマは越えたな」
私はそう判断して、生活費の足しにしようとはじめた、知り合いからまわしてもらったテープ起こしをはじめた。二時間のテープをざっと聴きおわっても、まだ彼女は泣いていた。異常に気味悪かった。床下からはミミズ、隣室の女はヒステリー、
「えらいとこに引越しちゃったなあ」
と後悔した。しかし、その反面、会社でのウサ晴らしになったことも事実であった。
会社に遊びに来た沢野さんといろいろ話をするのも私のウサ晴らしの一つであったが、これはなかなか疲労感を伴うウサ晴らしだった。
沢野さんは「本の雑誌」に来るときは、いつも静かにドアを開け、黙ってのそーっと入ってきた。そしてどういうわけか、必ずそのとき私と目を合わさない。そしてしばらく部屋の中をウロウロしたり、雑誌をパラパラめくっていて、やっと、
「どお、本誌売れてる?」
と話しかけてくる。
「ええ、結構売れてますよ」
と答えると、何のフォローもなく、
「ボクね、このあいだ出張に行ったんだ」
と唐突に話がコロコロ変わるのである。
「はあ、はあ」
「それでね、そのとき目黒君に『何か面白い本なあい』って聞いて、同じ作家の文庫本を十二冊持ってったの」
「はあ、はあ」
「それで新幹線に乗って、もう片っぱしから読んじゃった」
「全部ですか」
「そう、全部」
「えー、よく読めましたね」
「うん、ボク本読むの速いの」
「何が一番面白かったんですか?」
「よく、わからなかった……」
そして十二冊も持っているのは重くてイヤだと新大阪の駅に降りるとすぐ、読み終わった本をゴミ箱に捨ててしまったのだ、というのである。それに沢野さんはほとんど翻訳本を読まない。目黒さんや椎名さんが、
「あの本は面白い!」
といっても、必ず、
「それ、たくさん人が出てくるんでしょ」
とたずねる。とにかく横文字の名前が二人以上出てくると何がなんだかわからなくなってしまうそうなのだ。
ある日、「本の雑誌」のイラストを描くために、沢野さんがやってきた。ところが椅子に座るやいなや、
「あー、疲れちゃったなあ」
とほとんどやる気が失せているようなのである。〆切ギリギリということもあり、ここでやる気を無くされたらエラいことだと思って、助っ人諸君に、
「ホラ、すぐ肩をお揉みして」
と指図した。すると彼らは素直にささっと沢野さんのそばにかけ寄り、手、肩、足をマッサージしはじめたのである。
「うーん。あまり効かないなあ。これじゃ、やる気無くなっちゃうなあ」
「ホラ、君たち、ちゃんとやりなさい」
そう私が叱咤すると、またまた素直に彼らは一生懸命マッサージをはじめた。
「よし! 手と足はやめてよし! 肩はまだやって!」
手と足担当の助っ人はパッと離れ、何事もなかったかのように週刊誌を読みはじめた。かわいそうなのは肩担当の青年である。
「ちゃんとやれ!」
と沢野さんにいわれて、必死の形相で肩を揉んでいる。それなのに、
「そんなんじゃ効かないよー」
といわれる。沢野さんは肩幅が広くて手が長いので、揉むほうも大変なのだ。
「遠慮しないでいいからさあ、もう骨がくだけちゃうくらい肩揉んで」
「だって、体がカタくてカタくて」
青年はもう泣きそうな顔をして、
「ああ、ボクの肩まで凝ってきちゃった」
とつらそうにいうのである。
「わかったわかった、もういい」
沢野さんは手をグルグルふりまわして、肩揉みの青年を追っぱらった。
「沢野さん、ちゃんとマッサージしたんだから、イラスト描いてって下さいね」
私がそういうと彼はロットリングをとり出して、
「はい、やりまーす」
と、とてもよいお返事をする。さっきまで肩揉みしていた青年は隅っこで、別の青年に肩を揉んでもらっている始末だった。私はとりあえず安心して、また電卓と台帳相手に何度やっても合わない計算を繰りかえしていた。しばらくすると助っ人諸君の間にどよめきが起こった。
「どうしたの?」
とふりかえると、彼らは小さい声で、
「沢野さん、帰っちゃいました」
というではないか。
「えーっ!!」
今まで沢野さんが座っていた席には、けしゴムの消しカスすらなく、下描きをした気配もない。
「誰かイラストあずかってないの」
と聞いても、みんな上目づかいにして首を横に振っている。
「しばらくは、ケースからロットリングを出していじくってたみたいなんですけど……そのあとしばらくいねむりしているみたいに机の上に伏せてて、変だなって思ってみていたら、急にガバッと起きて、カバンを持って出ていっちゃったんです」
「なにィ、これだけ人数がいて何で黙って帰しちゃったの!! これじゃ本が出ないじゃないの!!」
私は彼らに八ツ当たりした。そしてすでにイラストは出来上がっていると安心しきって午後三時に出社してきた目黒さんに、
「沢野画伯はマッサージだけしてもらって、何もしないで帰ってしまった」
といいつけた。それでまたいつもの大騒ぎになり、いつものように目黒さんは、
「あーあー」
といいながら机の上につっ伏すのであった。
その次に沢野さんが来たときは、
「ボク、夏ミカンとイチゴ食べないと絵が描けない」
と大声でいう。私は助っ人諸君に、
「ホラ、スーパーヘ行って夏ミカンとイチゴを買ってらっしゃい」
と指図した。夏の暑い盛りに汗を流して、わざわざ沢野さん一人のために買いに行ったのである。そうしたら今度は、
「ボク、ミカンの皮むくの、面倒くさくて嫌なんだ。全部袋から出してすぐ食べられるようにして」
と皮むきを要請したのであった。助っ人諸君が狭い台所で黙々と皮をむき、ラーメン丼いっぱいに夏ミカン、皿にヘタをとったイチゴを盛って、沢野さんのところへ持っていこうとしたとたん、彼は、
「じゃあねえ」
といって帰ってしまったのだった。助っ人諸君の怒りはここに記すべくもない。中には、
「今後絶対沢野さんのいうことはききたくない」
と断言する青年までいて、困ってしまった。しかしそういうことをやっても、次に来たときに、
「このあいだ、ボク、とっても悪いことしちゃったみたいね」
というので、彼らも、
「しようがねえなあ」
といっているようだった。私も沢野さんに冷たくしたことがあった。やらなければならない伝票の計算がたくさんある時に限って、彼がいろいろと話しかけてくるのである。
「ねえねえ、聞いてくれる?」
そう、とてもうれしそうに話しかけるのであるが、私のほうは切羽つまっていて、
「はあ、そうだったんですか、はあ、それで?」
と口ではいっても、ほとんど耳の穴を通過するだけであった。そしてそのいい方にもだんだんトゲが出てきて、しまいには沢野さんも黙ってしまい、
「じゃあねえ」
と帰ってしまうのだった。そして次に来ると、
「ボクのこと嫌い? 最近ボクを見る目がとっても冷たいんだもん」
という。
確かに沢野さんが来ると、助っ人諸君が右往左往したのは事実だった。そしてそれのまとめ役が目黒さんだった。「本の雑誌」の入稿が近づくと、
「沢野さんを逃がすな」
というのが合言葉になり、彼がイラストを全部描き終わるまで、いろいろ精神的テクニックを駆使するのが大変なようだった。だから入稿が終わると、描いた沢野さんもそうだが、目黒さんもグッタリしていたのが誠に気の毒であった。
たまに別のウサ晴らし人間もやってきた。いつものように午前中一人で台帳の整理をしていたら、
「こんにちは」
と助っ人の女の子がやってきた。
だいたい助っ人諸君は午後一時すぎにやってくる。午前中から事務所にくるのは休講になったかサボったかのどちらかだが、彼女の場合は下宿も学校も埼玉なので、わざわざこっちまで出てくるのは少しヘンなのだ。
「どうしたの?」
そういってもただニコニコ笑っている。
「何かいいことでもあったの?」
「いいえ、その反対ですよ」
彼女はソファに座るとバッグの中からきれいなピンク色の包みを出し、
「さあ、一緒に食べましょう!」
と元気よく宣言するのであった。私はまだ事情がのみこめないでいた。私のけげんそうな顔をみて、彼女はちょっと顔を赤くして、
「きょうはバレンタイン・デーでしょ。で、とりあえず好きな人にあげようと思って持っていったんですけど……やっぱり、ちょっと恥ずかしくてあげられなかったんです。だからもう持っててもしようがないから」
というのであった。
「そうか、きょうはバレンタイン・デーか……」
そんな日の存在すら、忘れていた。そう思ったらまた腹が立ってきた。
「よし、食べよう、食べよう」
私は遠慮なく高級品のチョコレートに手をのばし、
「まったくあなたも、ついてないわよねえ」
と少し気落ちしているふうの彼女の肩を叩きながらも、片方の手では口の中にチョコレートを押しこんでいた。彼女は一時間ほどして帰っていった。
「バレンタイン・デーなんて、毎年やってくるんだからさ、気にすることないわよ」
と彼女の背中に向かっていったものの、我が身をふりかえってみると、
「いったい私には明るい未来はあるのだろうか」
とまた暗くなった。私のバッグの中には、多少ヨレヨレにはなったが退職届は依然入ったままだった。ただ他の会社に勤めた友だちに話をきくと、先輩のイビリや上司の、
「まだ嫁にいかないのか」
という冷たい目つきがガマンできないというのだが、私にはそれがなかった。誰からもイビられず、何しろ私が大将≠ンたいなかんじだったから、他人にいじめられるということはなかった。それよりも、
「よくやってくれている」とか、「君がいなきゃ何もわからない」
などと誉めてもらってうれしくなり、それで自分の気持ちをゴマかしているようなところがあるような気がしていやだった。正直いって私は本当に病気になって、電話もかかってこない、十何人も学生が来ない、わずらわしい台帳のないところに行きたいと思っていたのだ。
その不満はすべて、原稿にぶつけられた。最初のころの私の原稿の内容といえば、やたら男をいじめて怒って≠「た。会社でのイライラやムシャクシャが怒りとなって原稿用紙の枡目《ますめ》をうめたのであろう。だから最初のころは原稿を書くと本当にスッキリ、サッパリした。欲求不満の解消としてはこれ以上のものはなかった。六時になるとキッカリ事務所を出て書店を二、三軒ハシゴし、アパートに戻る。晩御飯を作ってミミズに注意しつつ風呂に入り、
「さあ、原稿書くぞー」
と腕まくりする。私なりに当時は原稿を書くのにはりきっていたのである。ところがそういうときに必ず二階からとんでもない音が聞こえてきた。二階の女子大生が男をつれこんでいるのだ。はじめは二人して、ルービック・キューブをやりながらキャッキャと騒いでいる。なにしろ安普請なので、今日は何をやってはしゃいでいるか手にとるようにわかるのである。
「うっるさいねえ、もう」
頭にきて壁をケッとばしても全く気がつかないようで、二人の笑い声はどんどん大きくなるばかりなのである。
「あんな女子大生のところに泊まりに来る男なんてロクでもないのに違いない」
その女子大生というのは、いつ、どこで会っても口を半開きにしている間抜けた子で、しょっちゅう洗濯物を下に落とすので、そのたんびに私は赤地に白の水玉のパンツとか濃い茶色のパンストを拾ってやらなければならなかった。あの顔で原色のパンツをはいているのかと思うと不気味だった。そのうえBGMには、松山千春がかかっているといった具合で、背中がモゾモゾしてくるのであった。こっちも大きな音を出して、レコードを聴いてスッキリしようかと思ったが、二階の二人のその後が気になり、仕事も半分うわの空でじーっと様子をうかがっていた。
しばらくするとドタドタと歩きまわる音がした。それがやんだとたん、今度は風呂場で二人がまたたわむれていると思われるはしゃぎ声が聞こえてきた。
「んまあ、何とハレンチな」
と怒りにふるえ、私は風呂場のドアを開けた。排水口から共鳴して聞こえる二人の声はもっと生々しかった。あの口半開きの水玉パンツの女の、
「キャー、イヤーン、ウフフフ」
といううれしそうな声を聞いて、逆上してしまい、水洗トイレのレバーを大≠フほうにむけて力いっぱいひねってやった。トイレの水がゴーゴー流れる音が聞こえたのか二階の二人も一瞬静かになった。が、二、三分するとまたキャッキャと騒ぎはじめた。
「うー」
私は団地サイズの六畳間を8の字に歩きまわった。
「こんなことが、許されてよいのだろうか」
昼間はマジメに勤務し、家に帰って自炊をして、そのあと背を丸めて黙々と原稿用紙の枡目を埋めている私には男もできず、親から仕送りをしてもらって、のうのうと暮らしている原色パンツをはいた女子大生は、男と風呂まで一緒に入っている。いっそ彼女の親にいいつけてやろうかと思ったくらいである。私は机の上に広げた原稿用紙の前に、少し気をとりなおして座ってはみたものの、どうしても二階の様子が気になってしまい、上目づかいになってしかたがなかった。
「これから何が起こるのであろうか」
と怒りながらも予想すると、だんだん胸がドキドキしてきた。
「そうだ、怒りを楽しみに変えればよいのだ」
私は洋裁をするときに使う一メートルの物差しを押入れから出し、
「フフフ」
とふくみ笑いしながら、二階の二人が風呂から出てくるのを待っていた。再びドスドスと足音がして、キャーキャーいう声が私の頭上でしはじめた。チラッと、こういう場合二人は着衣なのかそうでないのかという想像が頭の中をかすめたが、よけいなエネルギーを使うので、そういうことを考えるのはやめにした。しばらく声がしていたが、それが急にパタッと止んだ。私は息をひそめて、次に耳に入ってくるのはどんな音かと期待していたのだが、それふうの音は何一つきこえてこない。私はそろりそろりと机の上によじ登り、物差しで天井をゴンゴンつっついてみた。それでも何の音も聞こえてこなかった。
「いったい何をしているのだ」
私はまたイライラして、部屋の中に8の字をかいた。
きっかり三十分後、またギャハハハという二人の笑い声がきこえてきた。ムッとしてさっきと同じように天井をゴンゴンつっついても、今度は大胆にも笑い声は途切れず、ますます二人の雰囲気は盛り上がっているようであった。
「やっぱり、あの三十分の空白は、やはり、やっぱりなのであろうか」
なまじ物音がしなかっただけに、どうも私の気分はすっきりしなかった。そしてそのすっきりしない私の頭に追いうちをかけるように、彼らはギターの伴奏と共にてんとう虫のサンバ≠ネんかを歌い出したのである。
「うるせえなあ」
私の思い切り出したつもりの声は、単なるうなり声になった。しかし隣りの家のおじさんが、
「うるさい」
とどなってくれたので、私は小さくパチパチと手を叩いた。どなられて歌はとりやめたものの、彼らは相変わらずはしゃいでいた。
「今夜泊まったら、許さないからな」
私は二階に向かって捨てゼリフを吐いて風呂に入った。湯船に入ってボーッとしていると、生き残っていたミミズが、ひょろひょろと出てきた。
「フン、どうせ私には、一緒に風呂に入る相手はミミズしかいないわい」
私は無表情でミミズに湯をかけて排水口に流した。すると二階のドアがバタンと開いて、キャッキャとたわむれる声が聞こえてきた。私はそーっと風呂の窓をあけ、首をのばして外の様子をうかがった。件《くだん》の二人は外の階段を降りてきた。
「それじゃ、あした、語学の時間にねー」
そういって女子大生のほうはピョンピョンその場跳びをしながら手を振っていた。男のほうは暗がりで顔はよくわからなかったが、そいつも一生懸命手を振っていた。
「あした、語学の時間にねー……か。バーカ」
私はふてくされて風呂から上がった。原稿を書く意欲も薄れてしまい、さっさと布団をしいて今夜は寝ることにした。うつらうつらしている私の耳に、遠く近く、へんなうなり声のようなものが聞こえてきた。私は暗闇の中でおそるおそる布団からはい出し、庭側の窓を開けたり、台所へいって外の様子をうかがったりしてみたが、生き物のいる気配はない。おかしいなあと思いつつ、また布団の中にもぐりこむと、さっきよりももっと大きくそのうなり声が聞こえてくる。そしてそれはどうも二階から聞こえるようなのだ。もう一度よーくその音を聞いてみると、何とそれはイビキだった。二階の女子大生のものすごいイビキが、ンゴーンゴーと、この安アパートに響きわたっていたのだった。布団の中に入ってもそのイビキは衰えることなく、
「ンゴー、ンゴゴゴー」
と怒濤《どとう》のように私にせまってきた。彼女の実態を、さっきの男は知っているのかと思うと、笑いがこみあげてきた。
「ああいうふうに、男をつれこむような女の子は、本の雑誌には来ないんだろうな」
と思った。原色のパンツをはいているかどうかはしらないが、バイト代もほとんどなく、決まった仕事もなく、狭い事務所でじっと声がかかるまで待っていなければいけない。よほどヒマで男もいず、他にやることもなく、そのうえ人が良くなきゃできないなあ、とつらつら考えていたら、同病相哀れむで、「本の雑誌」に来る女の子たちがかわいそうになってきたのであった。
ある日、新しく助っ人志願できた女の子二人が帰る途中、電車の中で、
「私たち本の雑誌に来ても、迷惑じゃないんでしょうか」
ととてもマジメな顔をしていった。
「迷惑だなんてそんなことないけど、どうして?」
びっくりしてたずねたら、昨晩目黒さんと飲みにいったら、面と向かって、
「ボクは女の子は信用してないから」
といわれたのだというのである。
「全くよけいなこといって」
私は目黒さんに腹を立てたが二人の前では平静を装い、
「酔っぱらってたんじゃないの、気にすることないわよ」
と明るくいってみた。しかし彼女たちは笑いもせず、
「いいえ、あれは酔ってなんかいませんでした。マジメな顔して私たちにそういいました」
と眉間にシワをよせていうのであった。私は、
「うちのほうは来てくれれば助かるんだから、あなたたちのほうで、来るか来ないか決めてくれればいいのよ」
といったものの、目黒さんがいったことは本音ではないかという気がした。
結構、「本の雑誌」は男の世界で、女子供は関係ない、といったような雰囲気があったし、考えようによっては私はその点が割りきれて、とても楽だった。しかし、椎名さんと目黒さんが雑談をしているときに、
「だから女ってダメなんだよなあ」
などといっているのを耳にすると、
「だったら私なんか雇わないで、男の事務員を入れたらいいのに」
と思っていた。しかし、助っ人の女の子に対してそういうことをいうのは、少しひどいのではないか、という気がした。彼女たちは本当にがっかりしていたので気の毒だった。
彼女たちと別れて、いつものように駅のそばの本屋さんへいって、隅から隅までずっと棚を物色していた。すると、いつもは全く目にもとまらないジャンルの棚に思わず手が伸びてしまった。その棚はいわゆる女のもろもろの悩み≠ェ集結した棚で、好きになったらどうするか≠ニか愛されるにはどうしたらいいか≠ネどといった、いままで私が手にとったこともないような本ばかりならんでいた。いつも私はこのテの本を横目でみながら、
「こんな本、読む人いるのかしら」
とずっと思っていたのだ。しかし、当時、心に傷があった私は、ついふらふらとそのうちの一冊を手にとってしまったのである。それは会社にいきたくなくなったら、どうしたらよいか≠ニいうテーマの本であった。どうして会社に対して不満が出るのかということが書いてあって、その中に、
「あなたは他の人に期待をしていませんか」
と書いてあった。私はそれを読んで思わず、
「これだ!!」
と叫んでしまった。そうなのだ。私の今までのわけのわからないイライラの原因がやっと判明した。目黒さんが午後三時にならないと来ないこと、女の子が椎名さんにはお茶を入れるが、客人がきても知らんぷりしていること。いくらいっても助っ人諸君が配本の伝票処理を間違えること。本を読めばそのまま。あっちこっちに散らかしたまま平気で他人に始末させること。すべてが私がこうしてもらいたいと内心期待していたことの逆なので、イライラしていたのであった。
「これからは、誰にも一切、何も期待しないことにしよう。なーんだ、かんたんなことではないの。ハッハッハ」
今までイライラしてマイナー・トランキライザーまで飲んだことがバカみたいに思えた。私はアパートに帰って一人ではしゃいでいた。そしてバッグからヨレヨレの退職届をとり出し、ビリビリ破いてゴミ箱に捨てた。これでまた会社にずっといられそうな気がしてきた。
それから私には明るい毎日がやってきた。助っ人諸君に対して心の奥底で思っていた、どいつもこいつもしようがない≠ニいう彼らを敬遠する気持ちも薄れ、彼らの性質を楽しむことができるようになった。
その年代の男の子と話していると、おどろくことばかりだった。自宅から通っている子はともかく、下宿をしている子は信じられないくらいフロに入っていないことを知って仰天した。本の追加分を書店に届けにいって伝票を渡しに私のそばに来ると、異様な臭いが漂うのである。
「ちょっと、あんた、きのうおフロに入らなかったでしょ」
私がそういうと彼は少しのけぞり、
「あれ、わかっちゃったかな」
という。
「それじゃわかるわよ。どのくらい入ってないの」
「えーと、えーと、一週間ぐらいです」
私は冬ならともかく、初夏に一週間もフロに入らないなんて信じられなかった。
「よくガマンできるねえ」
「ええ。ボクも最初は気持ち悪かったんですけどね、慣れました。でもパンツは毎日替えてますから安心して下さい」
「さあ、どうだかね。たまに裏がえしてはいたりしてるんじゃないの」
「あれっ、どうしてわかっちゃうのかな」
彼は頭をかきながら向こうにいってしまった。それからは、
「きのう、ボク、ちゃんとフロに入ったから堂々とそばにいけるもんね」
といって寄ってきたり、
「ここんとこフロに入ってないんで、風下にいます」
というので笑ってしまった。なかなか彼らの実生活というのは興味深かった。洗濯物を特大の紙袋に五つもため、近所のコインランドリーの洗濯機と乾燥機を占領して、近所の人々のひんしゅくをかったとか、親元から仕送りがあるとすぐパンツを三十枚買い、一日一枚ずつとりかえて、洗濯するのが面倒なので、全部はき終わったらそのまま燃えるゴミとして出してしまうとか、考えられないことをするのだった。なかには自分がはいているうす汚れた靴下を私の目の前に出して、
「クイズです。さて、私が今、はいている靴下は何ローテーション目でしょうか」
というのまでいた。
「三回目!!」
「ピンポーン」
けっこうこのローテーションあてクイズは長つづきした。彼は一週間分七足の靴下を持っているのだが、当然の如く洗濯をしない。そうなると最初の一週間はいいが、次の週には、はく清潔な靴下がなくなってしまう。すると畳の上に先週はいた七足の靴下を並べ、その中で一番汚れ度の少ないのをはいていくというのであった。
「どのくらいのローテーションまでいけるもんですかねえ」
と聞くと、
「そうですねえ、だいたい三回が限度でしょう」
というお答えであった。「本の雑誌」の事務所は、椎名さんが靴を脱がないと落ち着かないというので、じゅうたん敷きにしてあった。そこを彼らは汚れきった靴下でドタドタ歩きまわっていたわけで、私はよく今まで水虫がうつらなかったものだと感心してしまった。
ある男の子は、スーパーで大安売りしていたティッシュ・ペーパー五箱入りのビニール袋を下げて、今晩のオカズにしようとコンニャクを買いにいったところ、そこのおじさんがニタッと笑って、
「にいちゃん、糸コンニャクのほうがいいから、そうしな」
と強引に糸コンニャクを買わされ、もうボクはあそこの店には買物にいけない、と私に訴えた。
「まあ、かわいそうにねえ」
といいつつ、
「それじゃ、お姉さんが慰めてあげるわ」
と、いわなかったところが私の身持ちの固いところである。助っ人の女の子たちをめぐる、彼らの腹のさぐりあいみたいなことを目にすることもあって、若い男女がいるとまあ、いろいろと大変だわいと思っていた。目黒さんは、
「うちはガールフレンド斡旋《あつせん》所じゃない」
といっていたが、まあ仕方ないじゃないかという気もした。男女間のことだけではなく、必ず新しい助っ人が入ってくると、今までいた子たちが急に先輩といった態度になり、
「今度きた奴らは、なってない」
というのでおかしかった。
夏休みになるとほとんどの助っ人が実家に帰ってしまうので、東京にいる間のローテーションを組み、それに従って来てもらった。私の休みというのは、だいたい土日を含めて五日間ぐらい。そして、その日が決まるのも十日前くらいなので友人と旅行の予定もたてられず、アパートでじとーっと一人ですごした。そのうえ休みになると必ず熱が出て寝こむという悲惨さで、休みをもらってもあまりうれしくはなかった。
クーラーもない部屋で死人みたいに寝ていると、相変わらず二階の女子大生の部屋からは、松山千春がきこえてくる。おまけに彼女の歌とギター伴奏つきである。昼間はそれで悩まされ、夜はゴキブリに悩まされた。外から帰ってきてドアをパッと開けると、無数のゴキブリがクモの子を散らすように逃げた。それだけならまだいい。一番ひどかったのは、夜中、どうもモゾモゾくすぐったいと思って何気なくパジャマの中をのぞきこんだら、何と胸の谷間にゴキブリがはりついていた。あまりのことに声も出ず、反射的にそのゴキブリをわしづかみにして、壁に向かって叩きつけてやった。ヒクヒクしているゴキブリに向かって、大洪水のようにゴキブリエアゾールをふっかけ、私は急いでフロに入った。そうしたらまたミミズがにょろにょろ出てきた。私はこのミミズとゴキブリ館から引越すことに決めた。
新しいアパートを探していたら、ちょうど「本の雑誌」の校正をしてくれている女の人が、今いる吉祥寺のアパートを引越すというので、そのあとに住むことにした。家賃は四万二千円、六畳と三畳の台所とトイレ。風呂はなかったが目の前に銭湯があった。銭湯に行くのははじめてだったが、行けば新しい発見もあるだろうとそこに決めたのだった。
たまたま方角がよかったのか、ここに引越してからは、原稿の依頼もだんだんふえてきた。しかし「本の雑誌」の四百字詰七枚弱の原稿を書くのにも、三回も四回も書き直していた私は、七枚以上の原稿をたのまれると途方にくれた。はっきりいって、七枚以上の原稿を書くのに悩みぬいて一週間はかかってしまうのだった。
「ああいう軽い文章だと、どんどん書けちゃうでしょう」
といわれるとムッとした。夜、机に向かいながら、
「誰も知らない、私の悩み」
などとブツクサいいながら枡目を埋めた。ふつうのエッセイだけではなくて、取材原稿の依頼もきた。私としてはカンヅメ状態から少しでものがれられればと、外に出られる仕事はひきうけたいと思っていたが、やはり一介の雇われ人なので、目黒さんに相談した。目黒さんは、
「そういう仕事をやってみたいの」
と私に聞いた。私は正直に、
「今まではじっと座って書くことばかりだったので、いろんな人に会ったり、ものを見たりしてみたいから、やりたい」
といった。目黒さんは、
「そうだよね」
といいつつも、
「会社の仕事があるんだから、勤務中は基本的に取材の仕事は控えてもらいたい」
といわれた。どうしてもという場合は、目黒さんが会社に来ている時間中にしてもらいたい。ただし、会社が終わってからとか、休みの日は自由にしてもらって全然かまわないということだった。私はそれに納得する反面、いいかげん会社にしばられるのは、嫌な気がしていた。当然会社には随時助っ人が五、六人いたわけで、電話をうけるくらいはできる。丸一日休むわけじゃなし、どうしてダメなのかなあと思った。しかし私がたまたま外に買物に行って、助っ人が電話を取り次いでくれたときに、あとから、
「このあいだ電話に出た男の子、態度がとても横柄だったよ」
などといわれて冷や汗をかいたこともあった。やっぱり私がいなきゃダメなのかしらとも思ったが、それよりも、
「いいかげん、私一人に甘えないでほしい」
という気持ちのほうが強かった。最初のころは、
「社員は私だけなんだからがんばろう」
とか、外部の人々に迷惑をかけたり、うしろ指をさされるような不始末をしでかしてはいけないと、責任を感じて神経がピリピリしていた。それが根本的に私の気持ちをだんだん暗くしていき、ヤク中毒になってしまったのである。
「会社がつぶれようが何しようが、私には責任がない」
というくらいに思わないと私の精神状態も安定しなかった。仕事もポイントさえきちんと押さえておけば、手を抜けることも多かったので、それからはがんばらないこと∞一生懸命ということばは忘れること≠モットーにすることにした。
私のあとに一人新入社員の浜本君という青年が入ってきたので、私の仕事も少し楽になってきた。彼は今の若い子にしては珍しく、その場の雰囲気をすばやく察知し、自分が今何をしたらよいかを判断できる賢い子だったので、私もあれこれいわなくてすみ、とても助かった。おまけに私とはちがって、きちょうめんな性格だったので、これも幸いした。私はすでに助っ人諸君が散らかしたものを片付けるという奉仕行為はやめていたので、いつも足元には本や雑誌が散乱していた。すると、ある日突然、彼は、
「ボク、本の雑誌社厚生課を作りました」
と宣言した。壁を指さしているので、近づいてみると、そこには、
「諸君!! 空カンを灰皿代わりに使用したものは、以後厳罰に処すぞ。反省したまえ。なお、来週一週間をとりあえず、事務所内美化週間と唐突に定め、所内美化に努めた者には何らかの形でいい思いをさせようと、一部良識ある社員らの間でとりきめが成されたので、各々美化とは何かを自分なりに考え、とにかくキレイにしようではないか。厚生課」
と書きしるした紙が貼ってあった。
「これはまことに立派である」
と私は浜本君を誉めたたえ、その末尾に、
「ちゃんとしないと、おねえさんはおこるよ」
と書き足した。助っ人諸君もその紙をみて空カンを灰皿がわりにするのをやめ、着々と効果はあがっていたが、浜本君はスポーツ新聞をそこらへんに放っておいたりすると、目ざとく犯人をみつけて名指しで怒るので、その完璧主義ぶりには頭が下がった。彼が入ってきたので、私は今まで自分が一人で責任をとらなきゃならないようなプレッシャーが半分に減ってホッとした。少しずつ、助っ人諸君に対する攻撃的な思いが薄らいでいった。
それまでは配本のあと、助っ人諸君が書いてきた伝票をチェックすると、どうしてこんなつまらない間違いばかりするんだろうかと腹が立っていた。彼らはちゃんと試験をうけて大学に入り、学校で教わる知識については驚くほど豊富ではあったが、たかだか、三けたの足し算、引き算、かけ算ができない。そのくせ、
「今の出版界は、どうのこうの……」
と煙草を吸いながら、意見をのべるときだけは一人前である。私はそのアンバランスが不思議でならなかった。私の背後で、現在の出版界はいかにというテーマで議論をしている彼らの声を聞きながら、
「今の出版界もいいけどねえ、どうして七〇〇円と六三〇円を足したら一四三〇円になるんだろうねえ、ホントに」
と彼らがミスした伝票の尻ぬぐいのために電卓を入れながら、ふかーくため息をついた。腹が立つ≠ゥらしようがない≠ニいうふうにだんだん私の気持ちの中にも他人を許すという心のゆとりがでてきた。私は「本の雑誌」に来てから、忍耐強くなったと思う。
私は子供のころから飽きっぽく、いつも母親に耳をひっぱられてタタミの上に座らされ、修身の教科書に書いてあったという、からまった糸をほぐす気の長い女の子の話を聞かされた。ヨシコさんだったかツネコさんだったかは忘れたが、その女の子はめちゃくちゃにからまった糸を、はさみでちょん切ろうとはせずに、少しずつ丹念に、何時間もかけてほぐしたというのである。そして話し終わると、
「あんたはきっとイライラして、ハサミでちょん切るんでしょう。そんなことじゃいけないんだよ。少しはガマンということをしなさい!」
といって頭をパカパカ叩かれた。その母親でさえ、私が四年間も同じところに勤めているのをこの世の奇跡≠ニいい、
「目黒さんと椎名さんは、よほど人使いが上手なのだろう」
と感心しているくらいだった。
私は仕事に不満があり、面白くないことがあっても、やっぱり「本の雑誌」という雑誌は一番好きだった。だからやめようと思ってもキッパリやめられなかったのだと思う。その反面私の気持ちの中で割り切れない部分もあった。取材の仕事も、目黒さんにいわれたとおり日程があわないものはすべておことわりした。外部からの仕事の依頼の用件はすべて目黒さんに報告した。外部の仕事が入ってくるようになると、私の一カ月の休みはすべてつぶれた。それでも私は原稿を書く仕事をけっこう楽しくやっていた。原稿が雑誌に載ると、目黒さんも気にかけて読んでくれていたようで、
「面白かった」とか「あまり出来がよくない」
とか、いろいろ感想を話してくれた。
そして私が外の仕事をはじめたころ、目黒さんのほうから、私の本を出すからそのつもりでいるようにといわれた。私は別段、今まで書いてきたものをまとめるなどということなど考えてもおらず、掲載誌はサッと読んだらすべて捨てていたのだ。
「物書きっていうのは、自分で上手にのちに一冊にまとめられるように、書くときに自分でよく考えなきゃいけないんだよ」
と目黒さんにいわれてはじめて、世の中の物を書く人々が、それであれだけの本を出せるのかと納得したのであった。今まであっちこっちに書き散らかしたようなものをまとめて売れるのだろうか、というのが、まず頭の中に浮かんだ。経理の台帳をみれば会社の経営状態は一目瞭然で、幸いにも本の雑誌社は順調にいっていたが、私の本を出したのはいいが、
「出しました、つぶれました」
というのでは著者として顔向けができない気がした。
「これからはちゃんと心して原稿を書かなきゃダメだよ」
と目黒さんや椎名さんにいわれた。もう単に息抜きだとか気晴らしだとかっていられなくなってきたが、もともとの私の性格がだらしないため、すぐ、
「もうどうでもいいや」
と腰くだけになってしまうのだ。
そしてそのころ、また事務所を引越す話がもちあがった。とにかくバックナンバー、在庫が私たちの机の横に山積みになっていた。地震がくると、私たちは青い顔をしてその山がくずれないよう、我が身を挺《てい》してその上におおいかぶさるといった具合で、訪れた人は在庫の山の陰から姿を現わす私におどろいていたようだった。ふだんはともかく雑誌の編集時期に入ると、目黒さんや助っ人諸君が泊まりこむため、その場所が確保できなくなってしまったこともあった。
私たちは不動産屋にたのんで、物件を探してもらった。自衛隊市ヶ谷駐屯地の正面のやたら天井の低いビルや、中も外観もすばらしく良くてみんな気にいったのだが、目玉がとびでるほど家賃が高かったビルもあった。
「こんなところに引越したら、私たちのボーナスが全部家賃のほうにとられてしまうだろうから、ここに決めるのは、反対!!」
そう私と浜本君は目黒さんにいった。そして、二、三日たって、靖国通りに面したビルがあいているのを教えてもらい、家賃も手ごろなので、そこを見にいった。しかし外観はドス黒く、ビルの中は、ラセン状の十三階段。おまけに地下一階はゲイ・バーというしろものであったが、それも、本の雑誌社らしくていいのではないかというわけのわからぬ理由で、決定してしまったのであった。壁は真白、床にはベージュのカーペットを敷いてもらい、私と浜本君は、
「外は不気味だけど、中に入ればカリフォルニアみたいだね」
といって、はしゃいだ。広さは信濃町のマンションの二倍あった。
「今までみたいに汚くしたら許さないからね!!」
私は助っ人諸君にいった。彼らも、
「そうですよね、こんなにきれいなんですもんね」
とうなずいていたが、一人がロットリングのインクをボトッと落としてシミをつけてからは、あとはいっきに汚れ放題になった。目黒さんは、引越すと必ず新しい家具を欲しがる人なので、このときも会議用のテーブルや、キャビネットを買った。三畳ほどの納戸《なんど》には、今まで使っていた布団を押しこんだ。
「こんなに広いと、仕事もはかどるね」
などといいあったのは最初ばかりで、信濃町のときと同じようにどんどん床にはものが散乱していった。
そして助っ人諸君が一番狂喜したのは、向かいが坂善という紳士服の卸売りセンターだったことであった。助っ人諸君は少ない謝礼を手にすると、すぐ坂善に走っていった。そして一時間ぐらいすると、またドヤドヤと帰ってきて、戦利品を自慢しあうのである。
「あーっ、それ気がつかなかった。Tシャツもあったの? まだいっぱいあった? じゃ、買ってこよう」
そういってまた財布を握りしめて走っていくのであった。私は毎日毎日、よく買うものがあるもんだと半分あきれていた。翌日から彼らは上から下まで揃えても三千円という坂善ファッションに身を固めることになった。中にはみんなにあおられて、売り場で興奮してしまい、
「せっかくお金もらったのに残りが二千円になっちゃった」
と首うなだれる男の子まででてきた。
「ただでさえもらうお金が少ないのに、そんなにパッパカ使っていたら、なくなるのはあたりまえでしょう」
と少し説教すると、彼は紙袋一杯につまったTシャツ、ポロシャツを前にして、
「いいこと考えつきました」
とニッコリした。どうするのかと思ったら、卸売りセンターで購入した商品を二百円、三百円と割引いて、社内で小売りをしはじめたのであった。こんなこと、いつまで続くんだろうかと冷たい目で見ていたが、一カ月もたたないうちに誰一人としてそこで買物をしなくなった。まるで熱病のような坂善フィーバーであった。
酒を飲みすぎて終電で帰れず、会社でザコ寝しているのは、前と全く変わらなかった。
朝、ドアをあけると、目黒さん以下、助っ人諸君は大の字になって、ある者は口をあけ、ある者は毛だらけのおなかをむき出しにして寝ている。そして、もそもそ起きてきた助っ人の男の子が私に向かって、
「目黒さんはずるい」
といって怒るのだ。理由を聞いてみると、人数分だけ布団があるわけではないので、誰かが何かをガマンしなきゃいけないのに、目黒さんは、さっさと自分だけ、かけ布団や枕《まくら》を自分の机の下に隠し、完璧な姿で寝ているというのである。
「ボクなんか、浜本さんと毛布と敷布団の二つのうち一つを話し合いで分けたんですからね。しようがないから、ボク、敷布団をかけて寝たんですよ」
と口をとがらせていうのであった。私が、
「そんなにくやしいんだったら、目黒さん寝てるから、顔ふんづけてやれば」
といったら、彼も大胆に、
「アロンアルファでまぶたをはりつける」
だの、目黒さんが坂善で買ってきた服を全部捨ててしまうだの、二人でめちゃくちゃなことをいった。考えてみればその寝具類は今まで何の手入れもしていなかった。みんなが起きたあと、それを引っぱりだしてみると、敷布団とかけ布団の厚さは五センチくらいしかなく、毛布なんていうのは名ばかりで、毛など一本もなくただの一枚の布。枕カバーにはヨダレのしみまでついて茶色く変色しているのだった。
「汚いなあ。洗うのめんどうくさいから、カバーを裏返しにしておけば誰にもわかるまい」
と思って裏返しにしてみたら、すでに一回裏返してあり、両面使えるだけ使ってあったという不潔きわまりない状況であった。
私は自分に魔の手がのびるのを恐れ、何もいわれないのに、
「あたし、洗濯しませんからね!」
ときっぱりいった。目黒さんに聞いてみたら、これは目黒さんの実家から五年前に持ってきたもので、この布団に寝るとダニにかまれるという、ダニ布団であった。助っ人諸君は布団や毛布をビルの屋上に干しにいき、コインランドリーでカバーを洗ってきた。
会社での私の仕事はだんだん楽になっていったが、外からの原稿書きの仕事がふえていき、今度はそっちのほうが忙しくなってきた。七枚以上のものは、どうやって書いていいかわからない、などとはいっていられなくなった。
あっちがヒマになればこっちが忙しくなる。どういうわけか、私は年がら年中何かで忙しかった。それが男関係でないというのもとっても悲しいことであった。
正月の休み、いつものように私は体の調子が悪くなり、毎日布団の中でグダグダしていた。バスに乗れば十五分の実家に帰るのもいつものように面倒くさかった。ただゴロゴロしているだけで、いたずらに日は過ぎていった。昼間はお笑い番組を観たり、飽きたら本をパラパラとめくり、夜はテレビ映画を観て明け方寝るといった具合であった。
「正月休みに、ちゃんと単行本の足りない分書いておいてよ」
と目黒さんにいわれたのに、原稿用紙を前にしても出るのはため息ばかり。
「あーあ、かったるいなあ」
とつぶやきながら、机の上につっ伏しているだけだった。
気晴らしに自転車をギーコギーコとこいで外に出れば、そんな間抜けたことをしているのは私ぐらいのもので、街行く人はみんな晴着を着てのんびりした顔をして歩いている。同じような髪型で、白いショールを肩からかけている着物姿の女の子を見ると石を投げたくなった。どうせ実家に帰っても、母親が待ってましたとばかりにとびついてきて、
「あのねーえ、うちの会社の○○さんがねえ」
とグチられるのに決まっているのだ。弟はそれから逃れられるので、私が来ると、
「それでは、あとはよろしく」
といって冷たく立ち去る。どっちみち疲れるのだったら、ここにいたほうがいいや、とアパートに帰り、タタミの上にひっくりかえって、そこいらへんにころがっている雑誌をパラパラめくっていた。そんなことばかりやっていたから、けっきょく全然原稿ははかどらなかった。どうにかこうにか書いた十枚分だけ持って会社に行った。
本の雑誌社の仕事はじめには、必ずお赤飯を食べるのに決まっていた。二年程前から突然目黒さんがそういうことをいい出したので、それが習慣になってしまったのだ。助っ人諸君も来られる人は顔を出すことになっていたので、二十人近い人数が会社に現われるのである。
「あー、また一年がはじまるのか」
私は彼らの顔を見ながらそう思った。彼らは休み中に実家に帰り、地方のお土産をもってくるのだが、なかでも新入社員の浜本君が持ってきた「オットセイ」「アザラシ」「トドのカレー煮」のカン詰めは圧巻であった。私は生まれてはじめてこのような肉を食べるので、少なからず興奮していた。
「うまいぞお、これは」
カンを開けながらニコニコしている彼の表情とは裏腹に、みんなの顔はひきつっていた。紙皿にとり分けられた肉を目にしても、誰も手を出さない。私は食べたいのはやまやまだったが、
「誰か一口食べてからにしよう」
と思い、ハシを持ったまま、横目でまわりの様子をうかがっていた。すると、助っ人の中でも何を食べてもお腹をこわさないという噂の男の子が手を出し、
「平気、平気、食える、食える」
と明るくいったので、みんなも手を出しはじめた。オットセイやアザラシは、クジラ、カツオのような味だったが、トドはちょっと勘弁してほしいという気がした。結局、日本酒は二升、食べ物は全部なくなったのに、この三種類の肉だけはみごとに残ってしまった。浜本君は、
「うーむ、みんなに喜ばれると思ったのに。これは残念だなあ」
と腕組みをして考えるフリをしていたが、実のところ彼は肉を一口も食べなかったことを私は知っているのであった。
みんなはそれからワイワイと雑談をしていたが、私はその中にいないほうが気分が落ち着くので、自分の机に戻って年賀ハガキの整理をしていた。次から次へと助っ人がやって来ると、
「これ、大したものじゃないんですけど」
といって、お土産を持ってくる。どれもみんなで食べられるようなものばかりなのだが、お金も満足に払っていないのに、こんなことをしてもらっては申し訳ない、と思いながら、
「そう、悪いわねえ」
といってしっかりと手を出してもらってしまう自分が情けなかった。ふだんはみんなの尻をビシビシと叩き、
「また同じとこ間違えてる!! 一回やったことは二度とやらないでちょうだいね!!」
とドナり、里帰りしてトボしい小遣いの中からお土産までまきあげてしまうというのは、腰元をいじめる大奥のナントカの局《つぼね》みたいで、我ながら嫌になった。私があれだけギャーギャー怒っているのに、みんなは何も感じないのだろうか、と不思議だった。もし私のことを嫌な奴だと思っているのに、表面上は何もないように接してくれているとしたら、
「何とできた子たちだろうか」
と思わずにはいられなかった。
彼らが仕事を一生懸命やればやるほど、私の仕事は経理だけになった。正直いって私はこの仕事に対して、何のヤリガイもなかった。興味がなかったし、嫌だったのは変わらなかった。ただ他にやる人がいなかったから仕方なしにやっていただけであった。椎名さんは相変らず、
「やりたい仕事があれば、どんどんいいなさいよ」
といってくれたが、実際それは無理だった。私が編集の仕事をしたいといったって、この状態ではどうにもならないからである。目黒さんにしてみれば私に、
「まかせておけば安心」
という気持ちもあっただろうが、まかされたほうは全く自信がないときているのだから、私はいつもそのギャップで悩んだ。
当時私の原稿書きの仕事は、手帳をみると、一月は四本─二十四枚、二月は三本─三十枚、三月五本─四十枚、四月四本─五十七枚、五月六本─八十枚と、月を追うごとにふえていった。当然、平日の取材の仕事はダメで、休日をそれにあてていた。別の会社から、こっちへ来て編集の仕事をしないかと誘われたこともあった。給料もよかった。そっちのほうがヤリガイが背中からニョキニョキはえてきそうな気がした。だけど私は本の雑誌社をやめる気にはなれなかった。ここでやめたら絶対に後悔すると思った。私はおめでたい性格なのかもしれないが、あのときああすればよかった、こうすればよかったと思ったことが一度もない。だけど、今、やめたら私はずっと後悔するだろう、やめるのなら自分が納得してやめようと思った。ここ一、二年私がいうのもナンだが、目黒さんがものすごく会社の仕事に対してヤル気になってきたような気がしたし、そういうときに、
「私、やめます」
というのはいくらなんでもはばかられた。しかしその分、私は経理の仕事にしばりつけられるようになった。
「ヘタすると、このまま、ずっとやめられなくなっちゃうかもしれない」
という不安もあった。でも原稿を書いて生活しようなどとは全然思っていなかったし、やめたあとの生活設計なんてまるでなかった。
「ま、仕方ないや」
という気持ちで毎日出勤していた。私はよく、
「本の雑誌に勤めてるなんていいわねえ。目黒さんや椎名さんと毎日会えて楽しくてしようがないでしょう」
といわれた。逆にへんな女に面と向かってイヤミをいわれたこともあった。そういわれるたびに、
「それなら私とかわって」
そういいたかった。外の人からみれば、あの椎名さん、あの目黒さん、ということになるのだろうが、私にしたら上司なのだから、毎日、
「椎名さんや目黒さんと会ってお話できてうれしいわ」
というわけにはいかない。というか、そう感じたことは一度もなかったような気がする。椎名さんにだって不満はたくさんあった。椎名さんのひらめきで着々と準備をすすめていた特集が、突然変更になってしまう。椎名さんの命をうけて、助っ人諸君が東奔西走している矢先のことである。私や目黒さんは、そんなことを急にいわれてうろたえ、思わず、
「えーっ」
というと、椎名さんは急にギリッとした目つきになる。そして、
「やれといったら、やるんだ!」
といい残して去っていくのである。またすべて一からやり直しである。私はいつも、
「泣く子と椎名さんには勝てぬ」
と思っていた。
一般のOLが、昼休みに外で食事をしながら、
「ちょっと、部長ってこうなのよ」
「やあねえ、そんなこと自分でやればいいのにね」
などと上司のグチをこぼすのと同じ気持ちが私の中にあった。私には外で食事をすることやグチをいう同僚がいなかっただけである。ただ世の中にはバカな上司が山ほどいる。どんなに仕事をしても当然、ましてや部下の女なんか屁とも思っていない男が多い中で、きちんと私のした仕事を評価してくれたのはとてもうれしかった。だからやめる一、二年前には予想以上のボーナスももらえるようになった。しかし、そうなればなるほど、私はお金で自分の気持ちをごまかして勤めているようで嫌だったのである。
五月の連休あけに、単行本の書きおろし分を全部書きあげた。たかだか六、七十枚だったが、めったやたらとしんどかった。目黒さんも椎名さんも、製作担当者の上原君も、忙しい中申し訳ないくらい、いろいろと考えて本を作ってくれた。中でも我が母親は狂喜乱舞し、一日中、
「よかった、よかった」
とはしゃぎ、親類縁者に連絡をとって、
「本が出たらちゃんと買うように!」
と指示しているのだった。私はまだ自分の本が売れるかどうか不安だった。
七月に入って私は急に体の具合が悪くなった。めまいがして立っていられない。
「もしや……大病では」
と不安になった。よくドラマであるように、
「この子にひと目、出来上がった本をみせたかった」
と墓前に本をそなえて涙ぐむ母の姿が目に浮かんできた。私はめまいと不安でクラクラしながら、ビルの管理人さんに教えてもらった病院にいった。
「もし、不治の病だったらどうしよう」
そればかり考えていた。しかし不治の病というには相変らず顔は丸い。いいや、これはムクんでいるのかもしれない、と思ったら、目の前が真暗になった。お医者さんに診てもらっている間、私は胸がドキドキした。あっちこっちていねいに診察してくれた初老のお医者さんは、
「どっこも悪くないよ。あんた寝不足じゃないの」
といった。そういわれてみれば六時に会社の勤めが終わり、それから家に帰って原稿を書く生活がずっと続いていて、睡眠時間は多くて五時間、少ない日はほとんど徹夜だった。
「夏はね、自分が思っている以上に疲れてるから、ちゃんと睡眠時間はとりなさいよ。ま、心配だったら一週間に一回でも血圧を測りにおいで」
お医者さんはそういった。しかし、睡眠時間をとるのが私には一番できないことだった。
本が出来上がってきたからといって、私はふんぞりかえってはいられなかった。贈呈本や、事前に郵送希望として読者から注文が来た分を、梱包しなければならなかったからである。印刷所から届いた本を一冊一冊ビニール袋で包み、書籍小包用のダンボールの中に入れて宛名を書いて切手を貼る、という作業を二百冊分やったら、また頭がクラクラした。
「本が出てよかった、よかった」
などとのんびり感慨にふけることなどできなかった。本が出てしばらくは、恥ずかしくて書店にいけなかった。遠くから表紙をじーっと眺め、ポッと顔を赤らめて去っていくという、まるで乙女の初恋であった。どういうわけか自分の書いた本というのはとっても恥ずかしかったのである。目黒さんが、
「本を一冊出すと、また忙しくなるよ」
といっていたのを、
「そうですかねえ」
と半分聞き流していたのだが、いわれたとおり、書く仕事の量はますます増えていった。一番ひどいときは一カ月で二十本の〆切があった。会社から一目散に帰り、明け方の四時、五時まで仕事をして、仮眠をとり、十時に出社する毎日で、私の目はますます点目になり、思考能力はどんどん衰えていった。会社の仕事のほうは、テキパキやればけっこう空き時間もとれるようになった。目黒さんが自分の原稿を会社で書いていたので、私も短い原稿はそういう時間を利用して書いていた。だけどやっぱり睡眠不足というのはつらかった。朝、フラフラと中央線に乗り、荻窪で丸の内線にのりかえる。どうやってのりかえたか自分でもよくわからない。気がつくととにかく電車の中に座っている。そうするとすぐマブタが重くなり、ンガーと寝てしまうのである。よく、男性が嫌いな女のタイプという中に、
「電車の中で居眠りする女」
というのがあるが、私は、
「男になんか、どう思われたっていい! とにかくあたしゃ、眠いんだ!」
と堂々と眠ることにした。あまりに熟睡しすぎて、新宿三丁目で降りなければいけないのに、四谷まで乗っていってしまい、あわてて戻ったことも何度かあった。机の前に座っていると突然心臓がドキドキし、目の前が真暗になった。再びあわてて病院に行って血圧を測ってもらったり、あちこち調べてもらっても全く異状がなく、
「だから睡眠不足っていってるでしょ!」
とお医者さんに怒られてしまった。
会社に戻ると助っ人諸君が煙草を吸いながら、原田知世がどうした、とかのぞき部屋がどうだとか、どうでもいい話ばかりをしていた。
「うるせえ。どいつもこいつもとっととでていけー!!」
とわめけたら、どんなにスッキリするだろうかと思った。
「みんな寝たいだけ、寝てるんだろうな」
と思うとだんだん腹が立ってきた。私は昼間仕事がはかどるタイプなので、夜遅くまで起きているというのがつらいのである。原稿を書いているのは目黒さんと同じなのだが、目黒さんは夜型のようなので、夜仕事をして午後出社できる。しかし私は昼型なのに夜起きて、朝十時には会社に行かなければならない。私は体力の限界を感じた。
原稿を書くことをキッパリとやめようと思った。「本の雑誌」にだけ原稿を書いていければいいと思った。思いのほか本も出してもらったし、これは今までの私に対する社長と編集長からのプレゼントだと思うことにして、出版社の事務員をやっていたほうがいいのではないかという気がした。時間内の仕事をきちんとやっていれば定収入ははいるし、これからもこの会社はつぶれることはないだろうから、それ相応の待遇をしてくれるだろう。もしかしたら役付きになるかもしれない。いろいろと考えた。会社の仕事と原稿書きと両方やっているから睡眠不足になるのである。どっちか一つにすればその悩みは解消する。問題はどっちを選ぶか≠ナあった。しかし、
「四十歳になって、今と同じことをやっていて私は満足しているだろうか」
と考えてみると、
「そんなの絶対に嫌だ」
という思いがふつふつとわき上がってきた。たとえば四十歳になって今の仕事を続けていたら、私はそのとき絶対に後悔しているだろう。しかし会社をやめて原稿を書く仕事をして、たとえ一年間で巷から相手にされなくなっても後悔しないだろうと思った。今の世の中、何をしたって食べていけるのである。飢え死にすることがないんだったら、ウダウダと悩まないのがよろしいと判断した。
自分の中ではいちおう会社をやめたい、という意志は固まったものの、それをいい出すタイミングをみつけるのは、大変だった。やっぱり私がやめたあとのことを考えると不安になった。まず一番に影響をうけるのは浜本君であろう。新しく入る女の子にも、私が五年半やってきたことをすぐやれというのも無理な話だし、どうしようかと思っていた。私がいつ話を切り出そうかと考え続けていたある日、目黒さんにこういわれた。
「これからは会社で原稿を書かないでほしい」
私はそれを聞いて、どうしてかな、と思った。目黒さんもやっていたことだし、私は自分なりに仕事もしていたつもりだったので、意外だった。きょとんとしている私に向かって、目黒さんは、
「やっぱり悲しいことにさあ……ぼくたちサラリーマンだからさあ……」
と少し申し訳なさそうな口ぶりでいったが、私はサラリーマンだから一体何なのだ、といいたくなった。きっと目黒さんは、助っ人諸君が仕事をしているのに、私たちがプライベートな仕事をするということに気がひけたのだろう。私は、
「わかりました」
と答えたものの、
「もうここにはいられないな」
と思った。それからはますます私の生活はきつくなった。もちろん目黒さんも原稿を書くのをやめた。私は自分のやるべき仕事をすべてやってしまい、何もすることがないままボーッとして机の前に座って鉛筆をけずっていた。時間がもったいなかった。
それから二、三日たって目黒さんに会社をやめたいといった。これ以上はもう体がもたないこと、今の仕事はもうやりたくないこと。すべて正直に話すと、目黒さんは、
「そうだね、そのほうがいいかもしれないね」
と快く承諾してくれた。
「恩を仇《あだ》でかえすようで」
というと、
「自分のことなんだから、それは割り切って考えたほうがいいよ」
ともいってくれた。私はホッとした。でも新しい事務の女の子がみつかるまでは、まだまだ安心できない。「本の雑誌」に求人広告を出したら九十人近い応募があった。パリとロンドンの大学に留学していたというものすごい学歴の人もいた。スチュワーデスもいた。私はどの人に決まっても、
「よかったね」
とは心情的にいい難かった。
「気の毒だな」
という気持ちのほうが強かった。相当神経が図太く、かつ繊細でないとできない仕事で、精神的にまいってしまう業務であるからだ。「群ようこ」たる人物が「本の雑誌」の事務員であると身元が割れたとき、読者からはショックのお手紙というのがたくさんきた。
「男たちの中で健気にじっと耐えて、黙々と仕事をしていると思っていたあなたが、ガハガハと笑って男をブン殴っている群ようこと同一人物だと知ってショックでした」
と若い男の子から失望しきったハガキもきた。男というのは老いも若きも耐え忍ぶ女≠ニかいうものがやたら好きなようで、
「バーカ、男ばかりの中で仕事してるのに、図太くなくてやっていけるか!」
と、私は現状把握の甘い、この青年のハガキに向かっていってやった。
九十人の中からやっと後任の女の子も決まり、私は一九八四年十二月いっぱいで退社できることになった。退社する直前、以前に仕事をしたことがある出版社の編集者が来て、私に向かって、
「いやあ、これからは群さんの時代ですよ、アハハハ」
という。この人はその前に会ったとき、ある若い物書きの人の名前を出して、
「きょう、|先生《ヽヽ》の原稿をもらってきました。ふつうはロビーで原稿を渡されるんですけど、私は部屋の中にまで入れてもらいました」
とうれしそうにいった。私はそのときは、ああそうなのか、とただ思っただけだったが、その人は今回は手のひらをかえしたように、私に向かって、
「もう、あの人はダメですね。物書きとして長くないですよ」
などというのであった。私は腹が立った。編集者の中にこんなバカな人がいるのかと思った。きっとこういう人はよそへ行って、いつか私のことも同じように話すだろう。まさに明日は我が身である。私はこれから勝負しなければならないのは読者だとばかり思っていたのだが、どうやらその相手は編集者らしいのだ。中には突然やってきて、
「私はあなたのことを何も知らないが、けっこう出した本も売れているらしいので、何でもいいから来年の四月くらいまでに、一冊書いてくれませんかね」
といった大手出版社の男もいた。異常になれなれしく、あなたと私はずっと前からお友だちよー、というかんじで来る編集者もいた。私は仕事の話だと思っていたのに下らない話ばかりして、
「きょうは何の用だったんですか」
と別れ際に聞いたら、
「会ってみたかっただけです」
などといわれておどろいたこともあった。仕事をしているのか単にミーハーなのか全くわからないのである。そういう人々を見るたびに、
「今まで気がつかなかったけど、きっと私もライターの人たちに失礼なみっともないことをしていたんだろうな」
と思うと恥ずかしくなった。今までは会社の一員としてやっていればよかったが、これからはそうもいかない。全部自分でやらなければいけない。でも万年寝不足でいるよりは、ずっとよかった。
私が出した本のアンケートもいろいろなものがきた。あるものは罵詈雑言《ばりぞうごん》が書き連ねてある終わりに、
「こんな人の本を出すよりも私の本を出して下さい。お願いします」
と書いてあった。
「そうか、世の中ってそんなものだろうな」
と人の心の複雑さを知った。
「本当にあんたの書くものは最近つまらない。もう書くことがなくなったんだろう」
というハガキもきた。しかしどういうわけか批判、悪口のハガキすべてが同年輩の女なのである。
「フン、こんなんじゃ、へこたれないもんね」
私はそういいながら、こういうハガキに目を通しつつもすぐ忘れることにした。男性のほうからは、某雑誌でボツになった原稿が私のところに送られてきて、
「あなたなら理解してくれるだろうと思った」
という手紙が入っていた。ところがその原稿というのが、自分のスワッピング体験を書いたもので、何でこういうものが私のところに送られてくるのか全然わからなかった。インタビューでも何度も何度も同じことを聞かれて嫌になった。
「どうしてこういうペンネームになったんですか」
「本を出してどういう気持ちですか」
「結婚はしないんですか」
こういうことにも、いちいちニッコリ笑って答えなきゃいけないのかと思うと気が重くなった。でも自分が決めたから仕方ないのである。
十二月二十八日、最後のおつとめが終わったとき、私は、
「ああ、終わったあ」
と大声を出して叫びたかった。これから、好きなだけ寝られるのでうれしくてたまらなかった。「本の雑誌」の読者からは、お別れのおハガキをもらった。私の後任に決まった女の子にも激励のおハガキが来ていた。ちらっと横目で盗み見ると、
「ボクはあなたが好きです」
などと書いてある。
「あら、まあ、大胆な」
と思って差し出し人を見たら、私が「本の雑誌」にいるときに、いつも、
「好きだ、好きだ」
というハガキをくれた男ではないか。
「フン、このお調子者めが」
私は面白くなかった。
私は「本の雑誌」と結婚したようなものだった。目黒さんと椎名さんが造った子供のところに嫁いだ、まさにヨメだった。舅《しゆうと》や姑《しゆうとめ》とも、うまくいっていたと思う。しかしダンナとは別れたい、別れたいと思っていても、どうも腐れ縁で情が移り、なかなかキッパリと縁切りができなかった。よく離婚妻が、
「さあ、わたしの人生はこれからだわ」
というセリフを吐くが、私もそれと同じだった。二十五歳から三十歳までの五年間は、やっぱり長かった。やめるときにふざけて、
「あたしの青春を返して!」
といったが、それも正直な気持ちだし、私がやっただけの仕事を評価してくれ、また私の別の面を引き出してくれた目黒さんや椎名さんに対して感謝しているのもまた正直な気持ちである。
「いいかい。どんなに生活に困っても、へんな写真だけは撮らせるんじゃないよ」
という、椎名さん、目黒さん、沢野さんのお別れのことばを頂戴《ちようだい》し、私はバタンと本の雑誌社のドアを閉めた。
これからは数をこなせなくてもいい。自分が、これはやりたいという仕事だけやっていくつもりだ。それで収入が落ちても金は天下のまわりもので、何とかなると気楽に考えている。
今は朝起きてカーテンを開けると、鳩やスズメが鳴きながらとんでくる。毎日餌をやっていたら、いつのまにか慣れてしまい、鳩なんかは手を出しても全く逃げなくなった。それから掃除、洗濯をして原稿を書きはじめる。疲れたら書店に行って本を物色する。近くの公園へ行って、池のアヒルにちょっかいを出し、怒ったアヒルにガーガー逆襲されてあわてる。近くの動物園に場所をかえ、サルやアライグマやラクダをボーッと見ている。帰り道、道端に寝そべっている野良猫の上にまたがってあそぶ。好きな時に寝て、好きな時に起きる。こういう生活は、収入の不安よりもずっと優る。
こういう、フラフラした生活のほうが、やっぱり私の性にあっている。
あ と が き
十代のころ、私は母親に、
「二十歳すぎたら坂道を転がり落ちるように、あっという間に年をとるんだからね……」
といわれた。ところが二十歳すぎてみるとそれどころではなく、富士急ハイランドのムーンサルトスクランブルに乗ったかの如く、わけがわからぬままキャーキャーいっている間に、三十代に突入してしまった。私は二十代のうちに六回転職し、友人からは転職のプロといわれた。雇用主の敵というべき女であった。最長記録は本の雑誌社の五年半。最短記録は某大手メーカーで試験に一週間かかってやっとこさ入社したものの、上司と喧嘩《けんか》して二日でやめてしまった。その間、我が弟は国立大学を卒業し、技術屋として安定した企業に勤めていて、失業中の私は毎日、うつむいて弟のパンツを洗っていたのである。近所の男の子を持つおかあさん方は、いつもうちの母親に向かって、
「本当におたくの坊ちゃんは立派だわあ。うちの子も見習ってくれないかしら」
といった。しかし女の子を持つおかあさん方は、誰一人として、
「おたくのお嬢さんのようになってもらいたいわ」
といわなかった。それどころか、
「いったい何やってるんですか」
と不思議そうな顔をしてたずねられたくらいなのであった。
近所のヒマなおばさんたちが協議した結果、結婚が決まって家事手伝いをしていたが、それが破談になり、嫁《い》くあてもなく家でブラブラしているという結論に達してしまった。それ以来、私は道でおばさんたちに会うと、不思議そうな目つきから、うって変わって哀れみのまなざしでみられるようになってしまった。
この本は、これからも会社勤めをしないであろう私の、勤め人時代の記録みたいなものである。思えば私の家にドサッと原稿用紙が届けられてから、一年半以上もたってしまった。まるでゾウのような妊娠期間を経て、この本は産み出されたことになる。やはり初めての書き下ろしとなると、緊張した。フルマラソンを走るような気持ちであった。いつも私は、
「はいはい、がんばってやりますよ」
とお返事だけはよかった。
「こいつ、早く書きゃいいのに。オレだって仕事は山ほどあるんだ」
などとドナりたかったであろうに、
「ゴールはもうすぐですよ、もう40キロ地点にまで来てますからね」
とお尻を叩いて下さった、新井信さんには本当に申し訳ないことをしてしまった。最近、めっきりお腹が出てしまわれたのも、その怒りが腹部に蓄積されてしまわれたのではないかという気がする。同じく谷津晶子さんも、お会いしたころはふつうのボブヘアーだったのに、私が脱稿したとたんに、楳図かずお氏描くところの「赤んぼう少女、タマミ」のような、オカッパ刈り上げ頭にしてしまったのにも、何か深い意味があるようである。
ともかくこの一年半、あらゆる方にいろいろご心配いただき、本当にありがとうございました。やっと陽の目をみました。よかった、よかった。
昭和60年12月
群 ようこ
文庫版のためのあとがき
またまたあっという間に年月が過ぎ、「別人『群ようこ』のできるまで」が文庫になってしまった。新井さんは出てきたお腹をベルトでしばり、各種健康食品を身のまわりにおいて、楽しそうにため息をついている。そして、顔を合わせると、ニコニコ笑いながら「原稿、原稿」といって追いかけてきたりする。刈り上げだった谷津晶子嬢の髪の毛も背中のあたりまで伸び、見かけだけは女らしくなった。あらためてこの本を読みかえすと、ここに書いてある出来事がまるで他人事のように感じられる。カタログのてんてん削りをしたOLも、背中を丸めて電卓を叩いていたOLも、自分のことなのだが、ああいうことをしていたなんて信じられないのである。私の現在の生活は、単行本のおしまいの部分に書いてあるのとほとんど変わらない。朝、のそっと起きて掃除、洗濯をして買物にでかける。御近所の犬、猫、野鳥たちの姿を見ながら、ブラブラと散歩も兼ねている。そして午後からイヤイヤ仕事をはじめ、飽きたら本を読んだり編み物をしたりして、日の入りと共にやめる。夜は友だちと遊んだり、仕事に関係ないことをやって過ごす。ほとんど自堕落な毎日である。満員電車に乗ったり、夜遅くまで都内をかけずり回ったり、数字や帳簿とにらめっこしていたあのエネルギーは、いったいどこにいってしまったのかと思うくらい、精神的にはもうグニャグニャである。歯止めがないから楽なほう、楽なほうへと流れてしまって、窓の外の樹々の緑を眺め、
「フィトンチッドがおいしいなぁ」
といいながら一日中ボーッとしていることもある。きっとこういうことをしていると、世の中からとり残されるぞ、と心配になることもあるけれど、そうなったらそうなったで、まあいいやとひらきなおっている。
この本が単行本で出たときには、ほとんど毎日のように手紙がきた。一番多かった内容は、
「どうしたら作家になれますか」
というものだった。そのたんびに私は、返事をもらいたいといいながら返信用切手も同封していない無礼な人にも、手間と時間をかけて、
「私に便箋二十枚もの手紙を書くヒマがあったら、原稿の一枚でも書きなさい」
と返事を書き続けた。本を出したいので編集者に口をきいてくれという人もいた。弟子入りさせてくれという人もいた。あまりの反響の大きさに正直いってうろたえた。世の中にこんなに物書きになりたい人がいるのかとビックリしたのだ。最近になってやっとそういう「物書きになる方法」をきいてくる人の手紙もなくなってほっとしている。文庫ではじめてこの本を読んでくれた読者の方もいると思うけれど、面倒くさいので、くれぐれも「どうしたら作家になれますか」などという手紙を送ってこないように。
この文庫本に素敵な絵を描いて下さった加藤裕将さん、どうもありがとうございます。文庫本を出版するにあたっては、いつもビックリした目玉をしている花尻まどか嬢が、おっとりと仕事をしてくれた。どうもありがとう。
一九八八年十二月
群 ようこ
単行本 昭和六十年十二月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 昭和六十三年十二月十日刊