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モモヨ、まだ九十歳
群ようこ
目 次
T
上野動物園パンダ事件
相撲とホーネッカーと東京ドーム
スペース・マウンテンに乗りたいよ
モンスラ≠チて何だ
パワー全開
「ありがとう」か「ふーん」か?
朝起きて、まず散歩
ダイエットはむずかしい
夜明けの花札
U
洗い張りにお針
発明狂の父と夫
リヤカーを引いて
あとがき
文庫版あとがきにかえて
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T
上野動物園パンダ事件
祖母はちんまりと六畳の居間に座っていた。
「おばあちゃん、久しぶりだねえ」
私が彼女と会うのは、二十六年ぶりであった。気をきかせてふつうよりも大きめの声で話しかけると、彼女は、
「まだ耳は達者だよ」
といって、にたっと笑った。今年、九十歳になる私の祖母モモヨは、たったひとりで、六時間かけて東京にやってきた。事前に、祖母と同居している伯父のタカシから、彼女がひとりでやってくるという話を聞いて、私はびっくりした。いくら元気とはいえ、九十年も生きている人間を、ひとりで都会にやるなんて、あまりに非情ではないかとむっとしたのだ。
「いやあ、それが、家のなかでいちばん元気なんだ。もしかしたら、おじさんたちのほうが、先に逝っちゃうかもしれない」
伯父はそう電話口でため息をついていたのだが、私は、いくらなんでも九十歳なんだから、元気といっても、きっと浦辺粂子みたいな「年齢にしてはちょっと元気」くらいのものだろうと思っていた。首にネッカチーフを巻き、新幹線のなかから、不安そうに窓の外を眺めている、腰の曲がったしわだらけの老婆の姿がぼっと浮かんだ。隣の席の人に荷物の上げ下ろしをたのみ、車内販売のお茶なんかも買ってもらっている。親切にされるたびに、おでこが床につくくらい、何度も何度も、深々とお辞儀をしてしまう。それはとても哀れをさそう姿であった。
(ふだん、一緒に暮らしている人は、結構冷たいのね)
私は腹の中で、伯父たちに対して悪態をついたりした。ところが、今、目の前にいるのは、髪の毛は真っ白だが、顔はつるつると艶があり、目もばっちり見えるし、耳も遠くない、しゃきっとした婆さんであった。
「あのねえ、こっちに来た早々、恥かいちゃった」
モモヨは向かい合って座った私の膝を、ぴたぴたと叩きながら、
「くくく」
と笑った。たしか昨日、おとといは、前から泊まりたいといっていた、都内の有名ホテルに泊まったはずである。
「洋式便所の便座に座りそこなって、かっぱりとはまってしまった」
「洋式風呂に入ろうとしてつるっと足がすべり、全裸で股を開いたまま失神していたが、それでも持っていたタオルでしっかと股間は隠していた」
「寝間着の浴衣姿のままうろうろして、フロントで、『大浴場はどこですか』と聞いてしまった」
など、私の頭のなかには、一般的な老婆がホテルでしでかしそうなことが、次々に浮かんできた。
「どうしたのよ」
私は思い切って聞いてみた。
「えーっ、あのねえ」
モモヨはもったいをつけた。
「何をやったのよ、いったい」
「上野動物園パンダ事件、とでもいいましょうかね」
また彼女は背を丸めてくくくと笑った。
モモヨは東京駅からまっすぐ、ホテルに向かった。両手に荷物を持ち、チェック・インも全部自分でやった。部屋に入り、彼女はふと今回、東京に来た目的を思い出した。ふだんゲートボールをやって体を動かしているとはいえ、旅行するといっても近県の温泉くらいなものである。遠出はしたことがない。
「今、行っておかないと、もしかしたらまた東京を訪れることがないまま、お迎えがきてしまうかもしれない」
彼女はまるでせかされるような気持ちで、伯父夫婦に、
「ちょっと、東京に行ってくる」
と宣言して、荷物をまとめて遊びに来てしまったのである。
目的は、
「ホテルにひとりで泊まる」
「上野動物園でパンダを見る」
「東京ドーム見学」
「東京ディズニーランドで遊ぶ」
「おばあちゃんの原宿で買い物」
この五つである。そのうちのひとつは果たした。次は上野動物園のパンダである。せっかく行っても、動物園の都合でパンダが見られないこともあるかもしれない。彼女は早速、部屋から外線電話で、上野動物園に電話してみた。
「もしもし、パンダはいつ出ますか」
単刀直入でちょっと間抜けな質問の仕方だったが、モモヨといえども、ちょっと緊張していた。ところが電話に出た人は、親切に、
「パンダはいつでも出てますよ」
と教えてくれた。そこで安心して彼女は翌日、上野動物園に出かけることができたのである。
動物園は思っていたよりも空いていた。子供連れがたくさんいて、ずらっと長い列を作り、パンダを見るまでに三十分、一時間、待たされるのではないかと心配していたのである。まあ、彼女の場合は足腰が丈夫なので、一時間くらい立っているのは平気なのだが、ひとりでやってきたことでもあるし、やっぱり並んで待っている間は退屈だ。人が並んでいないことにモモヨは感謝した。そしてこれからパンダが見られると思うと、体中がうきうきしてきて、パンダ舎にむかって思わず走りだした。
そこには両親パンダと子パンダが、のそーっといた。テレビで見たみたいに、子パンダもお尻をむけて寝ていることなく、笹を手で持って、はぐはぐと噛んでいた。
「大きくて、かわいい……」
ガラスにへばりつきながら、モモヨは心からうれしくなった。テレビのニュースや、ひ孫に買ってやったぬいぐるみなどで、形状は知っているが、実物を見たのは生まれて九十年の間で初めてのことだった。なるべくゆっくり見ていようと、そろりそろりと歩いていたのに、あっという間にパンダ舎のはじっこまできてしまった。
「えーっ、たったこれだけで終わりか」
モモヨはとっても悲しくなった。後ろでは係員が、
「もう一度見たい方は、列の後ろに並んでくださあい」
といっている。後ろをふり返ると、子パンダは相変わらず、はぐはぐと笹を噛み、両親パンダはのそのそと歩いている。パンダ舎の前には、いつの間にか家族連れや若いカップルの、人だかりができていた。
「もう一度、正面からパンダを見たい」
モモヨはそう思ったが、そうなるとまた列の後ろにつかなければならない。だんだん混んできた気配もある。
「面倒くさいなあ」
モモヨはパンダ舎のいちばんはじっこに、呆然と立ちつくしながら、もう一度、
「面倒くさいなあ」
とつぶやいた。
「そうだ」
モモヨは自分が年寄りだということに気がついた。九十歳といったら立派な老人だ。若い人ならともかく、自分が少々のことをやったって、みんなは、
「ばあさんなんだから」
と穏便に事を済ませてくれるだろう。モモヨの前をパンダ見物をすませた人々が、ぞろぞろと通りすぎていった。彼女はぎゅっと両手を握り、
「よし」
と気合いをいれた。そしてあまり曲がっていない腰を曲げられるだけ曲げ、人混みの中をまるで地を這うようにこそこそこそっと、パンダ舎前の行列を逆行していったのである。
「私は年寄りだ、私は年寄りだ」
モモヨは念仏のように唱えていた。ところがしっかり係員に見つかってしまい、
「ちょっと、そこのおばあさん、ちゃんと列の後ろに並んで下さい」
と公衆の面前で注意されてしまった。ふっと顔をあげると、周囲の人々はこちらを見て、にやにや笑っている。
「あのおばあちゃん、どうしたの」
という子供の声もする。やっと半分まで逆行してきたのに、ここで戻されては元も子もない。係員に注意されたのにもかかわらず、モモヨは耳が遠いふりをして、また腰を曲げてこそこそと逆行していった。明治、大正、昭和、平成、と戦火をくぐりぬけて、物資のない時代を生き抜いてきたのである。ちょっとぐらいズルして、パンダをもう一度見たっていいじゃないか。彼女は、また小声で、
「私は年寄りだ、私は年寄りだ……」
とぶつぶつひとりごとをいいながら、うまいこと係員をまいて、入り口までたどりつこうとした。
「あーら、おばあさんが戻ってきちゃうわよ」
若い母親の声がした。
「ちっ、よけいなことをいいおって」
モモヨはむっとした。そして結局は職務に忠実な係員に途中でつかまえられ、
「おばあちゃん、はい。ちゃんとこちらに並びましょうね」
となだめられながら、手をひかれて列の後ろに連れていかれてしまったのである。周囲の人々には笑われるし、次にパンダを見るまで、二十分間立ちんぼうだったし、
「何でこんな思いをしなきゃならないんだろう」
と腹が立ってきた。口をへの字にしてじっと耐えていた。しかしまた子パンダの前にいったとき、モモヨが小さく手を振ったら、子パンダが小首をかしげてくれたような気がした。
「かわいい……」
もともと単純な性格のモモヨは、さっきまで腹を立てていたのもころっと忘れて、とってもいい気分になったのである。
私はここまで歳をとったばあさんというものは、いわれたことはきちんと守るものだと思っていた。しかしモモヨはそういうタイプではない。以前、車の往来が激しい青梅街道の、横断歩道でも何でもないところを、杖をぶるんぶるん振り回しながら、渡っているばあさんを見たことがあったが、きっと我が祖母も田舎の家の前の広い国道を、大手を振って、平気な顔をして渡っているに違いない。
「お姉ちゃん、ちょっと」
祖母の次女として生まれた母親が、台所から私を手招きした。テーブルの上の菓子鉢には、モモヨのみやげの「もみじまんじゅう」が、てんこ盛りになっていた。
「私、明日から会社を休んで、おばあちゃんにつきあうことになってるの。だけどあの元気でしょう。こっちがまいっちゃうような気がするの」
そーっと様子をうかがうと、彼女は大相撲を見ながら、
「よし、がんばれ小錦!」
と画面のなかの小錦に活をいれていた。
「そうかもしれない」
私たちはため息をついた。そして母親の予想どおり、モモヨは東京の春の大嵐になったのである。
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相撲とホーネッカーと東京ドーム
彼女は相撲と野球が放送されているときは、テレビから離れることができない。自分の贔屓の力士や選手に気合いをいれないと気がすまないのだ。今場所、モモヨがいちばん応援しているのは小錦だった。もともと千代の富士が大嫌いなモモヨは、彼の連勝をはばむ悲願を、勝手に小錦に託してしまった。だから力のいれかたがふだんとは、大違いなのである。私は相撲はいまひとつ苦手だ。中学生のときに家庭科の授業で浴衣を縫い、三人が一グループになって、記念写真を撮った。そして写真が出来上がったとき、みんなに口を揃えていわれたのが、
「まるで相撲部屋の新弟子みたい」
という言葉であった。この言葉は思春期の乙女に心の汚点を残した。何の罪もない相撲協会には悪いが、それ以来、私は相撲が嫌いになった。そんなことは知らないモモヨは、一緒に見ようと私をしつこく誘った。相手が年寄りだと思うと、無下に断れない。私はしぶしぶテレビの前に座り、相撲観戦に加わることになってしまったのである。
彼女は、
「みんな千代の富士が連勝して、強い、強いっていうけど、他の力士がだらしないだけじゃないか。誰か千代の富士を負かさないかと楽しみにしているんだけど、どいつもこいつもなっとらん」
と画面を見ながらぶつぶついっていた。立ち合いのときに、自分が上位なのに体をかわす力士がいると、
「情けないねえ。あんなことをしてまで、勝ちたいか」
とまた怒る。そして、
「ああいうことをやってたら、強くなれないに決まってる」
と画面の中で拍手を浴びている力士に、冷たくいい放ち続けるのだ。
二、三年前、友だちの家に遊びにいったら、おばあさんがテレビで相撲を見ていた。最初は画面から二メートルほど離れていたのだが、ふと見ると彼女と画面の距離が「だるまさんが転んだ」をやっているみたいに、だんだん縮まっていた。そしてしまいには五十センチくらいしか離れていないところで、画面を見つめていた。このおばあさんは頭の中がちょっと花畑になっていて、取組が始まるたびに、友だちに、
「安芸の海はいつでるのかねえ」
と聞いていた。友だちも最初は、
「安芸の海なんて、もういないんじゃないの」
と答えていたが、
「ああ、そうかね」
と納得したすぐあとに、また、
「安芸の海はいつでるのかねえ」
という彼女にうんざりしたのか、
「安芸の海の取組はもう終わったよ」
とつっけんどんにいうようになった。おばあさんは、誰とやってどっちが勝ったのかとしつこく聞いてきた。すると友だちは、
「雷電為右衛門とやって、安芸の海が勝った」
などととんでもない嘘を平気でついた。それでも彼女は、
「そうか、見られなくて惜しいことをした」
と残念がっていた。おまけに「ビデオ・テープでもう一度」というシステムが理解できておらず、力士が同じことをやるのを見て、
「おおっ」
と声をあげ、
「器用なことよのう」
と驚嘆していたのだった。
私は、最初は珍妙なやりとりを聞きながら、おかしさをこらえていた。しかし一生懸命にあれこれ語りかけるおばあさんに対して、家族は真剣に相手をせずに、結構、冷たい態度をとっていた。長いこと生きてきたのに、頭が花畑になってしまうと、ああいうふうに何でも、適当に処理されてしまうのかと、ちょっと驚いたりした。私は小さいときから年寄りと一緒に暮らしたことがないから、そういう場面にでくわして、年寄りのいる家庭の複雑な部分を垣間見たような気がしたのだった。
私の隣にいるのは、そのおばあさんよりも年上の年寄りである。いくら元気とはいえ、彼女も「ビデオ・テープでもう一度」のシステムは、やはり理解できないのではないか。モモヨも相撲を見ていて、ビデオと本番の区別がつかなくなることが、しばしばあるんじゃないかと、様子をうかがっていた。
ところがビデオが流されると、
「これはビデオだね」
といいながらじっと画面を凝視し、
「ここでふんばらないから、転がされるんだよ」
と、どこが勝負の分かれめになったかを検討している。そして右腕のひねり方が足りないとか、こんな腰のいれかたじゃ、寄り切られるのはあたりまえだとか、厳しいチェックをいれていた。そして相撲に興味のない私に、いろいろと力士の解説までしてくれる。まるで神風親方がうちに来てくれたようなものであった。
「この人は先場所、九勝六敗でがんばったんだが、今場所はだめだ。怠け癖がついたんだろうか。どうもいつもやる気がなさそうな顔をしてる」
「この力士はおととし殊勲賞をとった」
「板井の出身地は大分県なんだよ。面白いねえ」
などなど、口からでまかせをいっているのではないかと思うくらい、すらすらと力士のデータが出てきた。
途中、定時のニュースが流れた。トップ・ニュースは東欧情勢である。モモヨはこんな話題には全く興味がなく、
「よっこいしょ」
と立ち上がって、トイレに直行するものだとばかり思っていた。ところが彼女はまじめな顔になって、
「そういえば、ホーネッカーさんがやめたな」
と私にむかっていった。あまりに簡単にいうので、一瞬、うちの知り合いに、そのような名前の外国人がいたかと錯覚したくらいである。
「東欧もいろいろ変わってきたけど、なんだかルーマニアもあぶないそうだねえ」
私は九十歳になる彼女に、まさか東欧情勢について説明を受けるとは思わなかった。私も毎日、新聞は読むし、ニュースも必ず見るけれど、不思議になるくらい、世界情勢については忘れてしまう。女性週刊誌のえげつない見出しはものすごくよく覚えていて、知り合いに電話して、
「よくこんな見出し、考えつくよね」
といいながら大笑いしたりするのにである。特にやたら長くて複雑な名前が多い、ソ連やアジア関係には特に弱い。気がついたらビルマがミャンマーとやらになっていたりして、私は未だに何がどうなってそのようになったのか、よく理解できていない始末なのだ。
「どうして、そんなことまでよく知ってるの」
「ふふふふ」
モモヨは不敵に笑った。
「テレビがお友だちだからねえ。毎日つき合っていれば、そういうことも頭に入っちゃうんだよ」
どうして彼女が私と同じようにテレビを見ていて、私よりもずっと世界情勢に詳しいのだろう。以前、ある雑誌で各国の人々に世界地図を描いてもらったところ、私もきっと同じような物を描いたと思うような、あまりにまぬけでお粗末な絵が多くて、大笑いしたことがあったが、モモヨに描かせたら、何の苦もなく、世界地図を描き上げてしまうだろうと思った。
「東京ドームにはいつ行きましょうか」
母親は相撲観戦中のモモヨに聞いた。とにかくモモヨは西武の清原の大ファンで、野球シーズンには、画面の前でうっとりして彼の勇姿を眺めている。力士のデータと同じように、彼の過去の打率、ホームランの数など、みんな記憶していて、これもまたみんなに教えてくれるのだ。清原のファンなら、西武球場のほうに興味があるのではないかと思うのだが、モモヨは、あの大きな卵の中がいったいどういうふうになっているのか知りたくて仕方がないのだといった。
「日にちがないし、他にもいかなきゃならないところもあるから、なるべく早いほうがいいねえ」
母親は翌日、都内めぐりの観光バスの東京ドームに立ち寄るルートがあれば、それに参加すればいいと、案内所に出むいて調べることにした。ところがそれを聞いたモモヨは、自分も一緒に行くといってきかない。娘がもうすぐ還暦だというのに、まかせてはおけない性分なのである。二人は連れだって案内所にいった。モモヨを隅のソファに座らせ、母親がカウンターにいる担当者に、
「東京ドームが見られるようなルートがありますか」
とたずねた。係の中年の男性が調べてくれている間、ふと横を見たらモモヨがそばに立っていた。彼女はつま先立ちになって、彼の手元をじっとのぞきこんでいる。
「座ってていいわよ」
「東京ドームに行くんだからね」
「はいはい、ちゃんとそういいました」
「ああ、そう」
いちおう返事はしたものの、いまひとつモモヨは信用していないようであった。
「東京ドームは中でイベントがあると、見学できないんですよね」
彼はそういいながら、日にちを調べている。
「母がどうしても見たいっていうものですから」
母親がそういいながらモモヨに目をやると、彼はにっこり笑ってモモヨのほうに向きを変え、
「ああ、そうなんですか。おばあちゃん、無理して東京ドームに行かなくてもね、ほら、このルートだと皇居と靖国神社にお参りができるんですよ。お年寄りはみなさん、『ありがたい、ありがたい』って、とても喜んで下さいます」
とガイドブックを見せながら親切にいってくれた。ところがモモヨはムッとして、
「そんなもの見たってしょうがないんだから、東京ドームに行くのを早く探して下さい」
と彼に怒った。しばらくぽかんとしていたものの、彼は、
「はい! わかりました」
と、大あわてでコンピュータのキーボードを叩き始めた。母親は出る幕がなく、カウンターの前で単なる付き添い人と化していた。そして皇居と靖国神社行きを蹴って、モモヨは憧れの東京ドーム行きのチケットを手に入れたのであった。
夢に見た東京ドームに到着したモモヨは、すでに頬がゆるんでいた。あまり興味のない母親は、ただモモヨを見失わないように、あちらこちらに目配りする役目である。モモヨはうれしくなると、すぐ、ぴゅーっと走り出す癖があるからだ。案の定、彼女は旗を掲げたバスガイドさんよりも先に入場して、周囲の人を驚かせていた。
「そうか、これが、あの、東京ドームなんだ」
モモヨは感慨深げに、見上げていた。
「清原さまも日本ハムと試合をするときは、ここに来るんだねえ」
他の人にはふつうの屋内野球場でも、モモヨにとっては夢のドームなのだ。一緒のバスでやってきた人も、こんなばあさんが東京ドーム見たさに、案内所のおじさんをどなりつけたことなど、想像すらしないだろう。
モモヨは母親がいくら呼んでも、にこにこしながらドームのなかを走りまわっていた。
「きれいで大きいなあ。今度、来るときは、清原さまの姿を見たいもんだねえ」
母親はなごり惜しそうにしているモモヨの手をひいて、半分、無理やりにバスに乗せた。
「よかったなあ、よかったなあ」
特に感動もなかった母親の前で、モモヨは何度も繰り返した。
「やっぱり、よかったなあ。東京ドーム」
「そう、よかったねえ」
「あんなきれいなところで、野球ができるなんていいねえ。それに天気がいい日は屋根が開けたり閉めたりできるのがいいよ。アメリカにはあるらしいけど」
「ふーん」
母親は上の空で相手をしながら、これから起こりうるであろう、もろもろのことを予想してため息をついた。観光バスの案内所の前にある停留所で、一同解散したあと、モモヨはまたぴゅーっと走っていった。母親は反射的に後を追った。モモヨは案内所にかけこんだ。そしてカウンターにへばりつき、この間、どなりつけたおじさんを目ざとく見つけると、
「ちょっと、そこのあなた。すいませんけどね、二、三日うちに、東京ディズニーランドにいくバスを、探してくれませんかね」
と叫んでいたのであった。
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スペース・マウンテンに乗りたいよ
「内股の筋が固くなると、人の体は老化する」
モモヨはこの説をずっと信じていて、自分なりの体操を欠かさない。上京を決意したときも、気合いをいれて足腰の体操をしてきた。モモヨの近所に住んでいる年寄りのなかには、やる気は山ほどあるのだが、真っ先に足が弱り、自分の行きたいところへ行けなくなってしまう人がたくさんいたからだ。そういう年寄りは、動けないイライラを家人にぶつけた。居間の安楽椅子に座ったまま、大きな声で、
「お前たちはなっとらん」
と子供や孫の行動を、逐一、観察しては怒鳴りつけていた。ところが怒鳴られた相手は、年寄りのことを屁とも思っていないようで、小言をいわれても、
「ふん」
と無視していた。するとまた年寄りは、
「何だ、その態度は」
と怒る。怒るのと無視されるのとを何年も繰り返したあげく、年寄りは脳溢血で亡くなってしまうのだった。
モモヨにとって、足が弱るということがいちばん怖かった。
「自分は動けなくなったら、おしまいだ」
だから彼女は、積極的に町内の体操教室やゲートボールにも参加したのである。実は彼女は八十二歳のときに、足を骨折した。このときタカシ夫婦に、近所の人々は、
「こういっちゃなんだけど、お宅のおばあちゃんも、これで終わりかもしれないわね」
と気の毒そうにいった。元気だった年寄りが骨折すると、そのまま寝付いて体が衰弱し、亡くなってしまうケースがたくさんあったからだ。夫婦もこのときは覚悟をした。しかし当のモモヨのほうは、そんなことなどハナから頭にないようで、足が治ったあとどこに遊びに行こうかと、そればかりを考えていた。心配して見舞いにきた子供や孫にも、
「たいしたことないよ、このくらい」
と平気な顔をしている。しかし周囲の人々の心は痛んだ。
「あの元気なばあさんも、このままここを出られなくなるなんて……」
陰で涙したことが何度もあったのである。
ところが周囲の心配をよそに、八十二歳の体はどんどん回復していった。
「先生、どうしたら早く治りますか」
いいかげん、骨折に飽きてきたモモヨは主治医に尋ねた。
「そうですね。毎日、牛乳をコップに一杯飲むといいですよ」
モモヨはそれを忠実に守った。もともと牛乳は苦手なのだが、そんなことはいってはいられない。そのおかげもあったのか、近所の人々の大多数の予想を裏切り、モモヨは元気で退院した。
「あら、すごい」
これが彼女が退院したときの、近所の人々の反応であった。それからもモモヨは、現在まで、牛乳を飲み続けている。
「また、あんなことになったら、たまらん」
といいながら、ちょっと我慢して飲んでいるのだ。
東京ディズニーランドに行く朝、モモヨはいつものように朝早く起きて、運動をしたあと、牛乳を飲んだ。
「あんたも飲みなさい」
といわれたので、牛乳嫌いの私の母親も、しぶしぶお付き合いせざるをえなかった。モモヨは天気のいいのを確認し、
「この日のために、足腰を鍛えてきたんだから」
と、にこにこしていた。母親もそれにつられて、いちおうは笑ったが、心のなかではため息をついていた。東京ドームでもモモヨは、
「あっ」
といったかと思うと、ぴゅーっと走り出してしまった。気がついたときには、モモヨは姿を消していたのである。それをディズニーランドみたいな場所でやられたら、と母親は気が気じゃない。よちよち歩きの赤ん坊に、犬みたいに紐をつけて歩いている若い母親を見たことがあるが、相手が年寄りだとそうするわけにもいかない。きっとこれからディズニーランドで起こりうることであろう出来事を想像すると、どうしてもため息しか出てこないのだった。そのうえ母親は、一方的に写真担当にさせられた。人に写真を撮ってもらったことはあるが、自分が撮ってあげたことはない。モモヨは地元に帰ったときに、みんなに自慢する証拠写真を欲しがっていた。ここで失敗したら、何といわれるかわからない。あれやこれやに神経を行きとどかさなければならないので、母親の頭はまるで爆発しそうになっていたのであった。
ディズニーランド行きのバスは、平日だというのに混んでいた。子供連れ、カップル、おばさん、おじさんの団体。なかにはたったひとり、アタッシェ・ケースを抱えて乗っている、若いサラリーマンもいた。
「きっと会社をさぼったんだね」
モモヨは隣で緊張している母親にそっとささやいた。老若男女、あらゆる人がバスに乗り、目的地に着くのを顔をほころばせながら心待ちにしていた。そのなかでやはりモモヨはいちばん年長者であった。だんだんディズニーランドに近づくにつれて、彼女はバスの外の景色を見ながら胸が高鳴ってきた。九十歳でディズニーランドに行ったというのは、地元ではモモヨひとりかもしれない。とにかく彼女は、ひ孫に買ってやった本のなかで、シンデレラ城の写真を見たときに、こんなきれいなものが日本にあるのか、とうっとりしてしまった。九十年も生きているから、これまで日本全国の神社仏閣は山ほどみた。京都の禅寺、奈良の仏塔。どれもそれなりに美しいたたずまいを見せていたが、モモヨはシンデレラ城に目を奪われた。
「これを見るまでは、死ねない」
とすら思った。その憧れのお城が、あと少しで見られるのだ。モモヨがうきうきしないわけがない。ところが母親は隣の座席で、持ち慣れないカメラを握りしめながら、モモヨが迷子にならないように、写真がうまく撮れますようにと、一生懸命、願っていたのであった。
憧れのとんがり屋根のシンデレラ城を見たモモヨは、呆然と立ちつくしたまま声が出なかった。絵と同じ世界がここにあったと感無量であった。やはり由緒ある神社仏閣よりも感動した。
「ほら、写真、写真」
急に命令された母親は、カメラを手におろおろしたが、係の人がすぐやってきて、モモヨとふたりが並んでいる写真を撮ってくれたので、まずはほっとした。
「何か乗らなければいけないな」
誰も頼んでいないのに、モモヨは義務感を背負っているようだった。まず手始めに母親は「イッツ・ア・スモール・ワールド」に連れて行った。母親が知っているのはこれだけだったからだ。それも横文字のために正確に覚えておらず、
「『世界はひとつ』はどこですか」
と聞いて、教えてもらった。民族衣装を着たお人形と動物たちが、その国の言葉で歌を歌っている。
「おや、まあ、かわいいこと」
モモヨもうれしそうな顔をしていたが、これはまだ序の口という雰囲気であった。
十分程でアトラクションは終わり、母親は、次はどこに行きましょうかとモモヨにたずねた。
「自然がいっぱいあるのがいいね」
あっちこっちに行って何がいいか聞いた結果、ジャングル・クルーズの評判がいいようであった。
「こりゃあ、面白そうだ」
船に乗ったモモヨは目を輝かせていた。やっぱりお人形がかわいく動いているだけでは、この人は満足しないのだと、母親は思った。船が進むにつれて、シマウマやライオンやキリンが姿を現わした。
「よくできた、造りもんだなあ」
モモヨは感嘆の声をもらして、周囲の人に笑われてしまった。
「本当にねえ」
前に座っていた年配の夫婦も、振り返ってモモヨの声にうなずいてくれた。さすがに、首狩り族が襲ってきたときはモモヨもちょっと驚いたが、
「あらー、あらー」
と四方、八方を眺めて感激しているうちに、あっという間に、終わってしまったのである。
「次はどれにしよう」
モモヨはとても意欲的だった。あれこれ物色しているモモヨと、未だ緊張が解けない母親の横を、若者のグループが通り過ぎて行った。
「やっぱりスペース・マウンテンに乗らなきゃ、ディズニーランドに来た甲斐がないよな」
モモヨの耳に、そのことばがこびりついた。
「それに乗らなければ、ディズニーランドに来た甲斐がない」。そんなことを聞いたら最後、モモヨはどんなことをしても、乗りたくなってしまうのだ。
「ちょっと、さっきのあの男の子がいっていた、スペースなんとかっていうのに乗りたいよ」
母親は、どこにいけばいいのか聞いてこいと指図しているモモヨの目つきを察し、通りすがりの女子大生風の女の子を掴まえて、スペース・マウンテンの乗り場を聞いた。彼女はジャングル・クルーズの反対側を指さし、トゥモローランドでやっていると教えてくれた。
「これ、年寄りでも大丈夫ですか」
母親は小声で聞いた。こんなことを聞いていると知ったら、モモヨにどんなに怒られるかわからない。女の子は母親のうしろで、準備万端整えて、足踏みをしているモモヨに目をやった。
「さあ、どうでしょう。でも、これジェット・コースターみたいなもので、暗いなかを、すごいスピードで走るんですよ」
母親はこりゃだめだと思った。スペース・マウンテンに乗ったはいいが、スペースではなく、そのままあの世に行かれたんじゃ、母親の立場がないではないか。
母親はモモヨに、スペース・マウンテンがどのようなものか説明した。スピードも出るし若い人でも降りたあとは、足元がふらつくらしいと、ちょっと大袈裟にいった。
「そうか……」
モモヨは残念そうに下くちびるを噛んだ。足腰を鍛えてきたのになあ、と、ひとりごともいったりした。母親はここぞとばかり、若い人でも足がふらつくらしいから、へたに乗って周りの人に迷惑をかけたらいけないと、もうひと押しした。
「うん、やめる」
周りの人に迷惑をかけるといわれると、モモヨは引き下がるしかなかった。それを押し切ってまで、スペース・マウンテンに乗る勇気はなかった。母親は、自分から乗るのをやめるとモモヨがいったので安心した。もしかしたら年齢制限があり、モモヨがその気になっても、断られたかもしれない。しかしそんなことになったら、大事になるのは目に見えていた。
「どうしてこんなものがあるんですか。私は元気ですよ」
といいだし、しまいには、年齢をさばをよんでも乗ろうとする可能性があったからだ。流星のなかをコースターに乗って走りまわるのは、楽しいことに違いない。モモヨが大好きな世界でもある。しかしいくら元気とはいっても、それは彼女にとってはあまりに過激なアトラクションであった。
昼御飯を食べているとき、モモヨはちょっとしゅんとしていたが、ミッキーマウスがいるのをみつけると、
「あっ」
といって、ぴゅーっと走っていった。三匹のこぶたのダンスも見た。
「ブー、フー、ウーがいた」
などといって、少し勘違いもしていたが、シンデレラやかぼちゃの馬車が出てくるパレードも見ることができて、スペース・マウンテンに乗れなかったショックも、やわらいだようだった。
ディズニーランドにも年寄りはいた。でもみんな、のんびりと歩き、その場の雰囲気を楽しんでいた。しかしモモヨは彼らに比べてとても行動範囲が広かった。他の年寄りが十歩歩く間に、その倍くらいは平気で歩いていた。まだ何か面白いものはないかと目を輝かせているモモヨの背後で、母親はバスの出発時間をチェックしていた。きっと早めにバスに戻り、そこで他の人が来るまで、むだ話でもすることになるだろうと、ふんでいたのである。だいたい母親が観光バスなどで年寄りと乗りあわせると、どうしてこんなに早く戻っているのだろうと思うくらい、年寄りは予定を早く切り上げて座席に座っていた。こういうことに関しては、モモヨだって例外ではないと思ったのだ。
「バスに戻りましょうよ」
母親が声をかけると、モモヨは自分の腕時計で時間を確認した。
「五時ですからね、そろそろ……」
おみやげを買う時間も必要だし、と、母親は出口に向かって歩いていこうとした。そのとたん、モモヨの声がした。
「そうか。よし、あと二つは見られるな」
そういったかと思うと彼女は、母親があせりまくっているのを尻目に、またまたシンデレラ城にむかって、走っていってしまったのだった。
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モンスラ≠チて何だ
私や母親がモモヨに衣類をプレゼントすると、彼女はいつも、
「これはいい。ゲートボールのときに着ていこう」
とうれしそうな顔をする。布の袋、靴下、スカーフ、マフラー、身につけるものは何でも、ゲートボール用なのだ。そんな彼女の日常着は、真夏以外、ほとんどズボンである。靴は何十年もの間、買う店が決まっていて、そこでしか買わない。
「ここ以外の靴は、私には合わない」
と頑固に決めているのである。東京にはベージュ色のポロシャツの上に、キャメルのVネックのカーディガンを着、淡いグレーのズボンをはいてやってきたのだが、そのVネックのカーディガンは見覚えがあった。よくよく考えてみたら、それは私が五年前に大枚三万円をはたいて買ったものだった。軽くて暖かいので愛用していたら、それを見た母親が、
「いいわねえ。私にぴったり。お姉ちゃんには地味よ」
としつこくしつこくいい寄ってきた。後にくっついて歩いて、あまりに、
「いいわ、いいわ」
というので、ちょっと着てみせたが最後、そのまま横取りされたのである。それをどうしてモモヨが着ているのだろう。
「それ、どうしたの」
「お母さんからもらったの」
モモヨはにこっと笑いながらいった。その背後で母親はちょっとむっとしていた。母親に話を聞くと、彼女がそのカーディガンを着てモモヨの家を訪ねたら、モモヨが、
「軽くて暖かそうだねえ」
とすり寄ってきた。最初はそれにうなずいていた彼女も、モモヨがカーディガンに深い関心を抱いているのに気がついた。それは自分の娘から取り上げたものだ。そこで自分の着ている物から関心をそらそうと、彼女はモモヨに、服を買ってあげると約束したのである。
翌日、ふたりはデパートに行った。シルバー・コーナーという年寄り向け売り場にいってみたものの、モモヨはいまひとつ不満そうだった。母親が目についたものを勧めても、いまひとつノリが悪い。あれこれ物色していた母親が、ふと横を見ると、さっきまでいたはずのモモヨがいない。あわててフロアを捜したら、彼女はある売り場のショー・ウインドーをじーっと見上げていた。そこはカルバン・クラインのコーナーであった。手を後ろに組んで、マネキンを見上げている彼女に、母親は声をかけた。
「どうしたの」
それには答えずに、モモヨはつぶやいた。
「いい色だなあ」
マネキンが着ていたのは、赤紫色のショート・コートであった。モモヨは着物でも洋服でも、紫系統の色に弱いのである。
「軽そうだし、本当にきれいな色だ」
店員が人の気配を感じてやってきたものの、ウインドーの前にいるのが、金がなさそうなおばさんとおばあさんだったので、
「いらっしゃいませ」
とマニュアルどおりに応対しただけで、すみやかに去って行った。いいなあ、いい色だなあといいながら、モモヨはいつまでもカルバン・クラインの前を動こうとはしなかった。
「これは外国のものだから、色がよくても体に合わないわよ」
母親がそういうと、しぶしぶモモヨは戻ってきた。そしてシルバー・コーナーの品揃えと、彩りの悪さにぶつぶつ文句をいう始末であった。若い人が着るものはきれいなものがいっぱいあるのに、年寄りが着るものは同じような色ばっかりでつまらない。あそこにあるのと同じようなコートが、シルバー・コーナーで売られるべきだと怒り出した。
「年寄りは暗い色が大好きだと思っているんだろうか。それしかないから、我慢して買っているだけだ」
母親は、ぼそっとつぶやいたあと、口をキッと真一文字に結んだモモヨを連れて、デパートを出た。いくら探しても、ここには彼女が欲しているものがないと察したからであった。
街中を歩いていたら、たまたま手染め専門店の前を通りかかった。おとなしく隣を歩いていたモモヨは、その店のウインドーに引き寄せられていた。そこには草木染めのブラウスやワンピースが並べられていた。モモヨは草木染めにも弱いのである。店内には柔らかい色合いの服が並べられていた。
「藍染めもいいけど、今日は他のにしよう」
デパートのシルバー・コーナーと違い、モモヨはうれしそうに店内を歩きまわっていた。
「これがいい」
そういって彼女が選んだのは、うぐいす色の薄手のシルクのブラウスだった。
「ああ、いいじゃない」
そういいながら値札を見た母親は、目がとび出そうになった。ところが店員は、
「それにぴったりのウールのスカートもございます。ブラウスと同じ色で染めていますからお洒落ですよ」
とよけいなお世話をやいてくれた。モモヨはブラウスとスカートを両手に握りしめて、にっと笑った。子供だったら贅沢だと叱れるけれど、相手が年寄りだと、いまひとつ高飛車にでられない。
「どうしても欲しいの」
「うん、欲しい」
母親はがっくりしながら、ブラウスとスカートの支払いをした。自分の月収以上の支出であった。
母親はこれでキャメルのカーディガンまで、モモヨの魔の手は伸びないと安心していた。ところが、母親が東京に戻るため、支度をしていると、そばにモモヨがちんまりと座っている。そして鞄にしまおうとした、カーディガンをじーっと見つめる。穴があくほどじーっと見つめるのである。母親が彼女の顔を見ると、にっこり笑う。そしてまた視線をカーディガンに落として、目から「欲しい光線」を発しているのだ。母親は有り金全部を使ってしまったことも手伝い、半分やけくそでカーディガンを進呈したのであった。モモヨはシルクのブラウスとスカートは、着るのがもったいないので箪笥にしまいこんで、時折、出して眺めるだけだったが、カーディガンは愛用した。モモヨがカーディガンを着て歩いていると、近所の人々がみんな、
「おばあちゃん、素敵なのを着てますね」
と誉めてくれた。モモヨはなんだかとってもうれしくなった。着ているものを誉められるのは、いくつになってもうれしい。彼女は、テレビで知った、東京の「おばあちゃんの原宿」に行きたいという思いが、ふつふつとわき上がってきた。
「そこでたくさん服を買おう」
モモヨはいさんで東京にやってきたのである。
母親とモモヨは「おばあちゃんの原宿」を訪れた。モモヨははしゃいでいたが、母親のほうは、おばあちゃんの仲間に入るのは嫌だと、還暦のくせにごねていた。
「おおっ」
まずモモヨを驚かせたのは、巣鴨駅前の老婆の多さであった。彼女の住んでいる地元では、お寺でさえこんなに老婆が集まらないからである。老婆たちはぞろぞろとレミングのように行進していた。ふたりはその中にまじらないようにしながら、しかし傍目には違和感なくまじり合いながら、地蔵通り商店街にはいっていった。次にモモヨの目を奪ったのは、店の前に堂々と置かれている、メリヤスのズロースだった。なかにはごていねいに、軒下から「もち肌タイツ」と並べてぶらさげている店もあった。ここにはカルバン・クラインはないが、ふだん必要なものが山になっていた。
「おばあちゃん、人が多いから、あっちこっち走りまわらないでね。それでなくても、おばあさんばかりで見つけにくいんだから」
まだ自分が周囲となじんでいることがわからない母親は、一方的にモモヨに意見した。
「はいはい、わかりました」
そういいながらモモヨは、ズロースの山に突進していったのである。
物資のない時代を生き残ってきたために、モモヨは下着でもおいそれとは捨てることができない。ふだん愛用しているのは、伸縮性があって洗濯がきくメリヤスのものだったが、身につけているうちにどうしてもほつれてくる。すると彼女はためておいた残り布のなかから、同じようなものを探して繕っていた。縫い物は女学生のころに「お針の塾」に通っていたので、お手の物なのである。なんでもぼろぼろになるまで、捨てられないのだが、あるとき友だちの七十八歳の梅子さんに、あることをいわれてから、ちょっと考えが変わってきた。
彼女は「自分はもったいなくて物が捨てられず、下着なども繕って履いていたが、歳をとっていくうちに、外に出るときは、こういうものは履くのをやめようと思った」という。今の世の中、外を歩いていて何が起こるかわからない。動きも鈍くなっているし、いつ車に轢かれるかもわからない。もし事故に遭って病院に連れていかれたとき、つぎはぎの下着を身につけていたら、子供たちが悲しく恥ずかしい思いをするだろう。だから外に出るときは繕っていない下着を履くことにしている、とモモヨにうちあけたのだった。モモヨはその意見に納得した。それ以来、彼女は出かけるときは、必ず繕っていない下着に履き替えることにしていたのだが、だんだん底をついてきたので、商店街でズロースの山を見たとたん、思わずとびついてしまったのであった。
ズロースを十枚抱え、他の商品を物色していたら、「モンスラ」という字が目にはいってきた。モモヨは「モスラ」は聞いたことがあるが、モンスラというのは聞いたことがなかった。何だろうと見てみると、履きやすそうなスラックスがたくさん並べてある。
(ゲートボールにぴったりだ)
モモヨはますますうれしくなった。ウエストがゴムで腰回りがゆったりしているし、年寄りに合わせてあるので股下が短い。店員さんが親切に、
「どうぞ鏡でよく見て下さい」
といってくれたので、下半身にあてがってみた。よそゆきにはならないけれど、年寄りの体型を考えて、よく作られていた。ふだん穿くにはこれ以上のものはなかった。モモヨの顔見知りのお婆さんのなかには、もんぺに靴下とか、スカートに草履という和洋折衷の人もいるが、彼女の美意識はそういうものを許さなかった。あれはものすごくかっこ悪いと思っていた。着物か洋服かどっちかにしなさいといいたくなってしまうのだ。モモヨのモンスラを選ぶポイントは、モンペのように裾が縮まっているものではなくて、スラックスタイプのものばかりであった。モンペ型は穿いたときにすっきりしないというのが、モモヨの意見である。たしかにモモヨにはスラックスのほうが似合った。彼女は実は自分の部屋にこもっているとき、嫁入りのときに持ってきた鏡台の前で、自分はいったいどんなものが似合うのかを、日夜、熱心に研究しているのかもしれない。
モモヨは娘と一緒に来たことを、ころっと忘れていた。娘は還暦とはいえ、まだズロースやモンスラを買う歳ではない。
「どうしたのかしら」
と首を伸ばして探してみたら、着物の古着屋の前にしゃがみこんで、物色していた。
「どっちがふらふらしているか、わかったもんじゃない」
モモヨは肩から斜めに下げたポシェットから、財布を出してお金を払った。この財布は私のスペイン土産で、淡いグレーに染められた、柔らかいトカゲの皮でできていた。これはポシェット、履きやすい靴と並んで、外出のときに使われる「おでかけ三点セット」なのであった。
「たくさん買ってきたよ」
その夜、帰ってきたモモヨはにこにこ笑った。それにしてはモンスラもズロースも部屋の中にない。帰ってすぐ、自分で荷造りをして、宅配便で田舎に送ったのだそうだ。あまりの手際のよさに、ただ黙っているだけの私に向かって、彼女はいった。
「ほら、あんたにぴったりのおみやげ。手を出しなさい」
掌には私にそっくりな顔の金太郎飴が、ころりと転がったのだった。
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パワー全開
モモヨの滞在中、母親はだんだんおとなしくなっていった。ふだんの周囲の人々を圧倒するようなパワーが、だんだん消失していったのだ。
「最近はさすがに、無理がきかなくなったわ」
といっていた彼女は、モモヨの東京案内のために、一週間の休暇をとったものの、もしかしたら満員電車に揺られて通勤していたほうが、疲れなかったのではないかという雰囲気であった。
母親の疲労度と反比例して、パワー全開なのがモモヨである。だいたい九十歳のばあさんでなくても、ある程度の年齢になると、一日外に出かけたら、二、三日は家のなかでじーっとしているものである。丸一日、外を出歩いていたとなれば、最低でもそのくらいのインターバルをとらないと、外出する元気がでない。だんだん体力が回復するのが遅くなるから、それはあたりまえなのである。もしもインターバルを取らないで、一週間もぶっ続けで外を出歩いていたら、夜、布団に入ったまま、寝たきりになってしまう可能性だってあるのだ。ところがモモヨは違った。うちに泊まっている一週間の間、一日たりとも家にじっとしていることはなかった。東京ドーム、ディズニーランド、おばあちゃんの原宿。毎日毎日が遠足だった。それにくっついていった母親が、ぐったりしたのも無理はない。元気いっぱいの、中学生、高校生のように、モモヨは東京見物をしたのである。
肉体的疲労よりも、精神的疲労のほうが母親を襲っていたのかもしれない。モモヨがいくら元気だとはいえ、いつ何どき、
「あっ」
といって倒れてしまうかわからない。もしそれがモモヨが行きたいといった場所でも、
「こんな年寄りを毎日連れて歩いて、いくら行きたいっていっても、それをやめさせるのがあたりまえだ」
と非難される可能性だって十分ありうる。場所も皇居や靖国神社ではなく、東京ドームやディズニーランドでは、万が一、事が起こったときに、ますます母親の分は悪くなるばかりであった。母親は「モモヨみたいなばあさんは、長患いではなく、あっという間に、ころっと逝ってしまうに違いない」といつもいっていた。だから一歩外にでたら、心配になって、モモヨの一挙手一投足に目を光らせていなければならなかったのだ。一週間連続の外出。肉体的、精神的疲労で、母親の背中はだんだん丸まってきた。そしてそういう姿を見て、モモヨは、
「まあま、だらしがないねえ。私がこんなにぴんぴんしてるのに」
といって笑った。母親はその隣で、
「ははは」
と笑っていたが、その声にはいつものような力はなかったのだった。
伯父から聞いていたものの、この体力は並大抵のものではなかった。
「私は田舎にいるときは、毎日がお休みだからいいの。東京に来るために英気を養ってきたんだから。ほーれ、足だってこのとおり、丈夫だよ」
といいながら、屈伸運動をしたり、両足をパンパンと力強く叩いたりした。
「はあ……」
母親は畳の上にへたりこんだまま、屈伸運動を続けるモモヨを、うつろな目で眺めていたのである。ふだん私の友だちからは、
「信じられないくらい元気な生き物」
といわれている我が母ではあるが、モモヨの前では、おとなしい羊ちゃんのようだった。口数も少なくなってくるし、モモヨと比べると明らかにパワーに差があった。母親もおしゃべりなほうであるが、モモヨも相当なものだった。ふつう年寄りと話すとなると、こちらも大きな声でわかりやすいように、ゆっくりとしゃべることがある。相手ものんびりとしゃべるので、微妙なタイム・ラグが生じたりする。しかし彼女は、私が友だちに話すような口調でしゃべっても、それにぽんぽんとことばを返してくる。おまけに次から次へと、ギャグを交えながら、いろんなことを話してくれるので、自然とこちらが無口になってしまうのであった。
「おばあちゃん、どうしてそんなに元気がいいの」
だいたい九十歳の老婆が、こんなに足腰が強いなんて信じられない。階段もひとりでひょいひょい上っていくし、新宿の高層ビルにいったときも、なかなかエレベーターが来ないのに苛立ち、
「階段はないのか」
といったらしい。私の友だちがこっそりいったように、
「おばあちゃん、何かいけないお薬でも打っているんじゃないの」
といいたくなるような、すごさなのである。
「ふふふ」
モモヨは笑った。
「私もどうしてこんなに元気だかわからないんだけどね。とにかく足はよく動いてくれるわ」
自分でもちょっと不思議と感じてはいるようだった。人間の体というものは、どこかが調子がいいと、どこかが具合が悪い。それでプラス、マイナス、ゼロになっているものだが、モモヨの場合は身体上のマイナスがなかった。目もばっちり、耳も聞こえる、足腰は丈夫。もちろん口はそれ以上に達者である。だいたい人体というものは、三十年、四十年と使っているうちに、どこかにガタがくるものである。そこで、
「無理しちゃいけないな」
と始めて気がつき、自分の体をいたわるようになるものだ。ところがモモヨが入院したのは、足の骨を折ったときだけ。それも再起不能と近所で噂されながらの、見事な復帰であった。
しゃきっと背筋を伸ばしているモモヨの隣で、母親はぼーっとしていた。
「やだねえ。まだ、若いのに。そんな顔してどうする」
九十歳にそういわれると、母親も私も、彼女の前では口が裂けても、
「あー、疲れた」
などといえないのである。
私はモモヨと同居している、田舎のタカシ夫婦の話を思い出した。
「おばあちゃんがものすごく元気でなあ、おじさんたちのほうが、先に逝きそうだ」
私はその話を聞いていたのだが、モモヨの姿をこの目で見て、初めて彼のことばに納得したのであった。伯父夫婦が「疲れた」などといったら、
「まあまあ、私よりも若いのに」
といいながら、苦笑いをするだろう。
「元気を出して」
とはっぱをかけたりもするのだろう。いくら還暦をすぎたとはいえ、タカシはいつまでもモモヨの息子である。何となくいつも頭が上がらないという気がするのではないだろうか。そのうえ、モモヨは地元でもこちらにいるのと同じように動き回っているのだろうか。そうだったらば、ほとんど超人である。「万国びっくり人間大集合」に出演させたって、ひけをとらないくらいのパワーである。
「おばあちゃん、田舎でもああなのかしら」
私はモモヨがトイレに立ったすきに、母親にささやいた。
「いやあ、きっとそうじゃないと思うよ」
私と母親が話し合った結果はこうである。ふだん田舎では、モモヨはゲートボールなど多少の運動はしているものの、それ以外は、家にいてテレビを見ている。そんな毎日の繰り返しである。モモヨは同居しているタカシのお嫁さんのことを、「お姉さん」と呼び、結婚した時点で、家事を一切まかせた。そのうえ、
「家に女がふたりいると、面倒になるから、私は働きにでますよ」
と宣言して、八十二歳までパートに出ていたのである。ずっと黙っていた伯父も、さすがに八十二歳でパートに出るモモヨの姿を見て、
「お母さん、もういい加減でうちにじっとしていてくれないか」
といったのだそうだ。そしてそれから、彼女はゲートボールとテレビの日々になった。しかし東京のように近くに面白いものがたくさんあるわけではなく、モモヨにとっては変化がない日々だったのだろう。だんだん欲求不満をつのらせていた彼女は、まるで火山からマグマがほとばしり出るように、いままで溜め込んでいたものを、東京で噴出したのではないかという結論に達したのである。
「そうよ、それじゃなくちゃねえ」
休んでいることがないモモヨの姿しか見ていない私たちは、うなずいた。どこかでパワーをたくわえていなければ、あれほど元気でいられるわけがないのだ。
「いったい何の相談かね」
モモヨはにこにこしながら戻ってきた。
「おばあちゃん、田舎でもあちこち走りまわってんの」
「ゲートボールのときはね。あとはテレビがお友だち」
私と母親は顔を見合わせて、ほっとため息をついたのだった。
「田舎に帰る日に、東京駅まで見送りに行く」という私に、モモヨは、
「仕事があるんだから、いいよ」
といった。しかし母親は、
「できれば見送りに来てよ。これが最後になっちゃうかもしれないんだし」
とモモヨの目を盗んで小声でいった。「これが最後になるかもしれない」と何度も繰り返した。モモヨがなまじ元気なものだから、いつも、唐突に来るであろう、彼女のあの世への旅立ちを気にしなければならない。
「じゃあねえ」
帰りがけ、モモヨは玄関先でにっこり笑いながら手を振った。私もバイバイと手を振りながら、あの人はこれから五十年たっても、あのままかもしれないと思ったのだった。
帰る当日、私は母親から聞いていた列車の発車時間をたよりに、東京駅のホームで待っていた。するとむこうから、やつれた母親と、肌がつるつるのモモヨがやってきた。
「わざわざありがとう。悪かったねえ」
モモヨは元気にそういうと、グリーン車に乗り込んだ。切符を見ながら自分で座席を見つけ、
「こっち、こっち」
と私たちを手まねきした。やって来たときと同じ、五年前は私のものだったキャメルのカーディガンを着ていたが、首には洒落たスカーフを巻いていた。
「それ、どうしたの」
「あ、これね。新宿に行ったときに買った、デオールだ。お姉さんにも色違いのを買ったんだよ」
「おばあちゃん、デオールじゃなくて、ディオールよ」
ふだんミックス・ベジタブルを、「ミックス・ジベタブル」、パビリオンのコンパニオンを「バビリオンのコンバニオン」といってしまう母親も、得意になってモモヨの間違いを指摘した。私たちは空いた車内で、はははははと笑った。傍らで、まだ眠たそうなサラリーマンがぼわーっとあくびをしていた。
「着く時間は連絡しておいたから、むこうではお姉さんがむかえに来てくれることになってるの」
すべてモモヨが手筈を整えていた。車内で食べる弁当、菓子、お茶の類いも全部準備されて、足りないものは何もなかった。
出発のベルが鳴った。
「じゃあね、おばあちゃん、また」
そういってホームに降りて、私は手を振った。モモヨはこちらをむいて、にこっと笑った。ところが次の瞬間、彼女はものすごく悲しそうな顔をしてくちびるを噛みしめ、ぷいっと横をむいてしまった。私ははっとした。初めて見たモモヨの悲しそうな顔だった。子供が辛いことをじっと我慢しているときのような、ちょっと怒ったような顔だ。モモヨは私たちのほうを二度と見ることなく、横をむいたまま行ってしまった。
「これが最後かもしれない」
母親のことばが、また思いだされた。が、当の母親は、
「あーあ、やっと役目が終わった」
と、安心した顔をしていた。モモヨはちゃんと元気で家に着いただろうか。私は別れるときの悲しそうな顔を思い出して、少し心が痛んだ。彼女も本当は、これが最後になるかもしれないと思っていたのかもしれない。今まであんなに元気にふるまっていたのに、東京を去るときになって、ずっと隠してきた気持ちが、いっきに噴き出してきたのだろう。あのままでなければいいがと、私は少し心配になった。しかしその夜、うちにかかってきたのは、いつものような、
「無事についたよ」
という元気なモモヨからの電話だったのであった。
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「ありがとう」か「ふーん」か?
モモヨには気軽に物をあげられない。これはうちの親戚の間で有名な話である。私は、ちょっと好みじゃないなと思うものを貰っても、いちおうは、
「ありがとう」
という。しかしモモヨは価値がないものを貰うと、
「ありがとう」
なんていわないのである。包みを開いてみて、自分の気に入らないと、
「ふーん」
といったっきり黙ってしまうのだ。だからこちらはモモヨが、
「ありがとう」
というと、
「このプレゼントは喜んでもらえた」
とわかり、黙っていると、
「ああ、気に入らなかったんだな」
とがっくりするしくみになっている。物をあげたらモモヨが何というか、口を開く瞬間まで、こちらはスリルに満ちた時間を味わわなければならないのであった。
私はモモヨが田舎に帰るとき、彼女に草木染めで手織りの薄茶色のマフラーをあげた。薄い桃色と薄い藍の色が縦縞に入っていて、なかなかよい配色だった。
「これ、プレゼント」
私が包みを渡すと、モモヨは、
「わざわざ、すまないねえ」
といいながら包みを開けた。そしてなかから出てきたマフラーを見たとたん、
「まあ、なんてきれいな色なんだろうねえ」
と声をあげた。そして触りながら、
「いい毛糸を使っているんだね」
とうれしそうにしている。
「ありがとう、ありがとう」
何度もお礼をいわれた。そして私がアパートに帰ると、母親から電話があり、モモヨはそれからもマフラーを何度も首に巻き、
「あったかーい」
といいながら、鏡の前で上機嫌だったという。鏡に映った自分の姿を見ながら、にこにこしていたのだそうだ。
モモヨの家を訪れることになったとき、私は彼女におみやげを持っていこうと思った。今度は家にいるときに使う、肩掛けをプレゼントしようと、マフラーを買った店にいったのだが、長期の休暇をとって閉店していた。そこで私の頭に浮かんできたのは、以前、その店で自分用に買った大判の肩掛けである。それは純毛ではなく、化学染料で染めたものだった。でも、未使用であることだし、家の中で使うぶんにはこれでもかまわないだろうと、これを贈呈することにしたのである。
「おばあちゃん、気に入ったら使ってね」
私はモモヨの家に到着し、グランドピアノがでんと置いてある応接間で、肩掛けを渡した。
「まあ、何だろうねえ」
彼女は包みをあけたものの、黙っていた。長い沈黙が流れたので、私が少しあわてて、
「肩掛けなんだ」
というとモモヨは、
「ふーん」
と気のない返事をした。そして結局、ありがとうともいわないで、肩掛けを元どおりに包んでしまった。私はちょっとショックをうけた。年寄りならば我が子はともかく、相手が孫ともなれば傷つけないような配慮をするものだが、モモヨはそうではなかった。誰から物を貰おうが自分の気に入らないものは気に入らないし、心にもない「ありがとう」は絶対にいえない性分なのだった。
こういう状態であるから、モモヨの誕生日にプレゼントをあげるとなると、親戚中が大騒ぎになった。どうせならば、モモヨに喜んでもらえるようなものをあげたい。だからみんな必死で、気に入られるものを探さざるをえないのだ。叔母たちからは毎晩のように母親のところに電話がかかり、
「今年のプレゼント作戦」
についての電話会談がなされる。お互いに何をプレゼントするかを聞き出して、自分があげるものを判断しなければいけない。もちろんダブッてもいけないので、プレゼントの中身のバランスも考えなければならない。そしていつも、会談は、
「おばあちゃんは、目が肥えてるから、手が抜けないのよねえ」
というため息でしめくくられる。自分のふところが痛まず、なおかつモモヨに気に入ってもらえる物を探すのが、プレゼント作戦のキー・ポイントなのだ。
うちの母親は、おととし、サマー・ウールのスーツをモモヨに送った。実はこのスーツはバーゲン品であったが、値段のわりには仕立てが悪くなかったので、このくらいならいいだろうと決めたものだった。そしてジャケットの下に着るブラウスは、シルクの草木染めのものを奮発した。そのブラウスはスーツと同じくらいの値段だった。後日、モモヨからお礼の電話がかかったが、礼をいうのはブラウスのことばかりで、スーツのことは何もいわない。そして、
「あのブラウスはとってもいいから、色違いがあるとうれしいなあ」
といったのだそうである。そこで母親はまた有り金をはたいて、色違いのブラウスを買って送るはめになった。
「どうしよう」
困った、困ったといいながら、昨年、母親は東京中のデパートを歩き回っていた。そして某デパートで、大幅にダンピングしているオーバーを発見した。襟元に毛皮がつき、生地もシルエットもよい。店員さんの話によると、他の色はすぐに売れてしまったのだが、このグレーだけが、どちらかというと老人むきの色合いだったので残ってしまい、値下げしたのだという話であった。母親は私だけにこのダンピングの事実を告白し、自分の姉妹には、
「いいコートをみつけたの」
とだけいっておいた。
「これなら絶対よ」
母親は自信まんまんだった。そしてその通り、モモヨはコートを見て大喜びし、
「あんないいものをもらって」
と電話口で有頂天になっていたのであった。
「あんたも何か送っておきなさいよ」
作戦が見事に成功した母親にそういわれて、私は困った。なにせ、おととしは、モモヨの気に入らないものを持っていって、「ありがとう」をいわれなかった私である。またミソをつけたら、
「あの子は物を見る目がないねえ」
といわれてしまうだろう。
「うーん」
私は頭を抱えた。何かないかと盛り場のショー・ウインドーを眺めていて、ふと目にとまったのが桐の箱だった。下町の職人さんが作っているこの箱には、昔のちりめんの布が鶴や花の形に飾りとしてはめこまれていて、とても手が込んでいた。
「これなら、いいかもしれない」
モモヨの部屋には雰囲気はぴったりである。そこで私は小さなくず箱を買った。ティッシュ・ペーパーの箱を立てたくらいの大きさで、ごみを入れる部分が丸ではなく、勾玉状にくり抜いてあるのも凝っていた。
「贈物でしたら、和紙の箱にお入れしましょう」
店員さんは箱を見せてくれた。蓋には「御久寿箱」と書いてあった。私は「くず」を「久寿」と書く日本人の知恵に感心しながら、無事にプレゼントを選び終わって、ほっとしたのであった。
このプレゼントは予想以上に、モモヨに大受けした。草木染めだけでなく、彼女は職人の手作りにも弱いことが判明した。
「もったいなくて、鼻紙なんかいれられないよ」
箱から取り出しては、眺めているとのことだった。
私と母親は何とか難関をクリアしたものの、まだ頭を抱えていたのは、叔母であった。たびたび母親のところに、
「どうしよう」
と電話があったので、母親は、
「それじゃ、直接聞いてみれば」
と返事をしておいた。いわれたとおり叔母が、モモヨに欲しい物をたずねると、
「ニットのアンサンブル」
という希望であった。そういわれた叔母は、あちらこちらのデパートを走りまわり、やっと彼女のおめがねにかなうような、ニットのアンサンブルを買った。ところが今の商品には、ほとんど肩パッドがついている。そのアンサンブルもカーディガン、セーターの両方に、肩パッドがついていた。叔母はモモヨには着やすいほうがいいと、肩パッドをどうするかと電話をした。
「いらないんだったら、私が取るけど」
モモヨの返事は、
「カーディガンのは取っていいけど、セーターのは取らないで。セーターのほうはつけておかなきゃだめだよ」
であった。
「セーターに肩パッドがないと、格好が悪いんだよ」
モモヨはそういったものの、もう一度、叔母がアンサンブルを取り出してみると、やはり肩パッドは老人には不似合いのように思われた。それほどぶ厚いパッドではなかったが、明治生まれには鬱陶しいものだろうと、気をきかせて両方の肩パッドを取ることにしたのであった。
叔母は肩パッドを取ったアンサンブルを持ち、モモヨの家にいった。モモヨの意向と少し違うことをやったので、念のため、セーターの肩パッドはハンドバッグにいれて持ってきていた。
「はい、どうぞ」
叔母が包みを渡すと、モモヨは、
「手間をかけたねえ」
といいながら、包装紙を開けた。
「いい色だねえ。どうもありがとう」
モモヨがそういったので、叔母はひと安心した。ところがカーディガンとセーターを広げたとたん、モモヨは、
「ん?」
という顔をした。あせった叔母は、
「おばあちゃんは、カーディガンだけ肩パッドを取れっていったけど、肩のあたりがもぞもぞするんじゃないかと思って、セーターのほうも取ったのよ」
と弁解した。しかしモモヨの仏頂面は直らなかった。セーターに目を落としたままずーっと黙っている。叔母も仕方なく黙っていると、モモヨが、
「あれほど、セーターのほうは取るなっていったのに」
怒りを押し殺したような声でいった。叔母は背中を丸めて、ハンドバッグから肩パッドを取りだした。
「あのー、いちおう、持ってきてはいるんですけど……」
モモヨは肩パッドをひったくり、自分の部屋に入っていってしまった。お茶を運んできた、事情を知らない伯母は、
「あら、お姑さんは」
といい、黙っている叔母の姿に首をかしげながら、モモヨを呼びにいった。
「お姑さん、どうしたんですか」
と声をかけても返事がない。そっと襖を開けてみた。するとそこには、愛用の針箱を出し、
「まったく。格好が悪くなるから、あれだけ取るなっていっておいたのに」
とぶつぶついいながら、セーターに肩パッドをつけ直している、モモヨの姿があったのだった。
このような話は、また、あっという間に電話連絡網で伝えられ、親戚中を震撼させた。困ったもんだという顔をしたモモヨの前で、おろおろしているのは、叔母だからと他人事のように安心しているわけにはいかない。明日は我が身なのである。このように毎年、ああだ、こうだと大騒ぎするのならば、いっそプレゼントなどやめてしまえばいいのにと思うこともあるが、やはりそうはいかない。いくら元気なモモヨとはいえ、九十歳は九十歳である。九十年も生きている。動物園のカメだって、こんなに生きるかどうか、わからないくらいである。その一年、一年を、けがもせず病気もせずに無事すごしてきたことに対して、ごほうびくらいあげたっていいはずだ。毎年、毎年、すったもんだするのは、私とモモヨとのゲームみたいなものである。彼女の反応がいまひとつだと、
(やられた)
と思うし、にっこり笑われると、
(ほーら、みろ)
と、そっくり返りたい気分になる。年末になると母親は、
「プレゼント、プレゼント」
と、ぶつぶついいはじめる。年が明けると間もなくモモヨの誕生日がくるので、年内から準備をしておかないと、間に合わなくなるのだ。季節の行事など、ほとんどやらなくなってしまった私たちにとって、モモヨの誕生日は、年中行事のひとつのようなものなのである。
今年も母親の行動は素早かった。先んずれば人を制すで、いいものを見つけたときは、さっと買っておかないと、大変なのだ。同じ品物は贈れないから、あとになるほど選択肢が少なくなるし、日は迫ってくるわで、ヘタをするとまっ青になって、盛り場をうろうろすることになるのだ。
「あたしは完璧よ」
母親はそう自慢した。彼女は、自分の選んだものがモモヨに喜ばれているのが、自慢なのである。今年、彼女が選んだのは作務衣だった。ふつう作務衣は藍染めで紺色をしているが、それは草木染めで薄紫色をしていた。衿もとと袖口、ズボンの裾にかすり風の布で細いパイピングがしてあるのが、ポイントだった。
「予算オーバーだったけどね、おばあちゃんのためだから、いいわ」
母親は気がかりな問題を片づけて、ホッとしたのか、豪快に笑っていた。困ったのは私である。
「何がいいか」
そう考えれば考えるほど、頭の中に何も浮かんでこない。
「デパートや小売り店のウインドーでも眺めていれば、いいものにぶち当たるかもしれない」
書店に行くついでに、ブラブラ歩いてみても、いいものにかすりもしなかった。あれこれ考えるのも面倒くさくなって、いっそのこと、知らんぷりして、母親が買った作務衣の色違いを送っちゃおうかしらとも思ったが、やっぱりそれはできなかった。若い人向きのプレゼント用の品物は、山ほどあるのに、年寄りが喜びそうなプレゼント用の品物など、ほとんどないのだ。三十年も前から店に売れ残っているようなショールとか、ババくさい信玄袋とか、白髪三千丈のジジババが、二人揃ってニッと笑っている額とか、もらったら、即バッタ屋行きといいたくなるような物しかない。年寄りのお洒落心をくすぐる物が本当に少ないのだ。巷に、私が欲している商品がたくさんあったら、こんなに苦労はしないのに、と、世の中のマーケティング戦略のズレを指摘しつつ、デパートの中をキョロキョロしていた。デパートの上の階から一階ずつ降りて物色していたが、目ぼしいものはない。私は三階の婦人服、肌着売り場まで降りてきて、
「ここで何も見つからなかったら、もうアウトだな」
と思っていた。婦人肌着売り場は華やかな色で、あふれかえっていた。そこで私は、「これだ!」といいたくなる物に出会った。紫のブラジャーやパンツ、まっ赤なスリップがディスプレイされているなかで、ひときわ地味ゆえに目立っているカシミヤの下着であった。白と薄茶の中間の、形状はいわゆるおばさんが着る「ババシャツ」と同じであるが、カシミヤという素材のため、品の良さがにじみ出ている。試しにさわってみたが、やわらかくて、ゴロゴロとその上でノドをならしたくなるくらいの気持ちよさである。
「ああ、もう、これしかないわ」
私はまるで自分がもらうみたいに、大喜びして、このカシミヤのババシャツを握りしめていた。しばらく喜びにひたっていた私の脳裏に浮かんだのは、値段のことだった。おそるおそる値段を見ると、ついこの間、私が買ったカシミヤのセーターよりも高い値段がついていた。
「うーむ」
そこへつつつと走り寄ってきたのが、店員さんであった。
「これは本当によろしいですよ。暖かくて」
よろしいのはわかるが、値段もよろしいから困ってしまうのだ。しばし私は考えていたが、
(年寄りにあげる金をケチッてどうする!)
と腹を決め、
「これ下さい」
と胸を張って店員さんに宣言した。ところがホッとしたのも束の間、
「ありがとうございます」
と頭を下げた店員さんは、何とババシャツの陰から同じ素材の衣類を取り出し、
「お揃いのズロースもありますが、いかがでしょうか」
と、間髪いれずにいい放ったのである。
「うっ……。うーむ」
店員さんは胸の前にズロースを掲げ、じっと立っている。
(やっぱりズロースもあったほうがいいよなあ)
私の目の動きを察してか、店員さんは、
「スカートをおはきになったときも、裾から出ないように、丈がひざ上なんですよ」
とプッシュしてきた。シルエットもきれいだし、モンスラの下でもスカートの下でも、モモヨの下半身をホカホカと暖めてくれるだろう。
(うーむ)
値段のよろしいのが倍になって、私は悩んだ。しかし、
(よーし、私は尻の穴の小さい女じゃないぞ! どーんと買うときゃ買うんだ)
と意を決して、ババシャツとズロースを購入したのである。
突然、荷物が着いてビックリしないように、私は肌着を送った直後、モモヨに電話をした。絶対に文句をいわせない、という自信満々で電話をしたら、結婚している従妹が遊びに来ていたらしく、電話に出た。
「ちょっと待って下さいね」
そういって彼女は取り次ぎにいってくれたが、いつまでたっても戻ってこない。しばらくすると彼女がまた電話に出て、
「さっきまでいたのに、どこかにいっちゃった」
という。そして、
「変ねえ」
と、あっけにとられているふうなのである。一時間後、再び電話をすると、今度は本人が出た。
「元気?」
と聞くと、
「元気ですよ、あなたも元気ですか」
と返してくる。まだ耳もよく聞こえるらしい。話をしているうちに、私は少し調子が狂ってきた。どうしてかなあと思っていてふと気がついたのは、モモヨが敬語を使って話しているからだった。ふだん面とむかって話しているときは、ふつうの話しことばなのに、電話だと緊張するのか、おすまし状態になってしまうのがおかしかった。相変わらずモモヨは毎月、老人会の旅行に行っているらしい。一月は下関の一ノ俣温泉に三泊四日の旅をし、二月は由布院温泉に行くのだといっていた。老人会の最長老であるが、
「私がいちばん元気ですよ」
といっていた。誕生日のプレゼントのことを話すと、彼女は、
「そんなに気を遣わないで下さいねえ」
といった。しかし私はその声を聞きながら、私に面とむかって化学染めの肩掛けを見たときの、
「こりゃ、何だ」
といいたげだった姿を思い出し、笑いがこみ上げてきたのである。
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朝起きて、まず散歩
モモヨの日常は、飼い犬のコロちゃんと共にあった。十年前、彼女が朝の散歩をしていたとき、道ばたに木箱が置かれているのを発見した。そっと中をのぞきこむと、生まれて間もない一匹の茶色い子犬が、タオルにくるまって鼻を鳴らしている。そしてまだよく目が見えていないのに、ぷるぷると震えながら、彼女の指先にすがろうとした。そこで絶対に見過せないのが性分の彼女は、子犬が入っている木箱を抱えて家に戻ってきた。幸い庭もあるし、みんな動物が好きだ。
「子犬を拾ってきたよ」
「ああ、そう。それでは飼おう」
いとも簡単に話はついてしまい、その子犬はコロと名付けてもらい、モモヨの家で飼われることになったのだった。伯父は会社、伯母もいろいろと仕事がある。孫たちは中学生、高校生で、それなりに忙しい。自然とコロの飼育はモモヨの役割りになってしまった。かつては子犬だろうが、子猫だろうが、育てるときは牛乳を飲ましてやったものだが、子犬用のミルクが売られていることを知ってモモヨは驚いた。
「何とぜいたくな」
と思ったものの、木箱の中でふるえている姿を思い出すと、そっちのほうがやはりいいかしらと、ついつい「子犬用ミルク」を買ってきてしまったのである。
子犬用のミルクをぐびぐびと飲んだコロは名前のとおり、あっという間にコロコロになってしまった。目がくりっとして尻尾がくるっと巻いている。典型的な日本犬の雑種の姿であった。子犬用ミルクを買ったペットショップの店員さんは、モモヨの姿を見かけると、
「ワンちゃんは元気ですか」
と声をかけてきた。
「はい、おかげさまで」
つい立ち話をしていると、店員さんはうまいこと、話題を「犬の健康」に持っていき、ドッグ・フードの袋をモモヨにみせながら、
「これはいちばん新しい餌で、よく考えて作られてるんですよね」
と熱心に勧めた。
「はあ……、そうですか」
モモヨは相槌を打ちながらも、それじゃうちの残飯整理は、いったい誰がするんだろうかと考えていた。
「もう、ミルクだけじゃ嫌がるでしょう」
店員さんのいうとおり、コロはだんだんお腹にたまるものを欲しがるようになり、そのたびに鶏肉の軟かい部分などを、コロちゃん用のおわんの中に入れてやっていたのだ。ところがその話をすると店員さんは、
「人間の食べる物をやってると、塩分とか、犬の体によくない影響を与えることがあるんですよ」
と恐ろしい顔をした。そして犬のためを考えて、ぜひこのドッグ・フードを買いなさいというのであった。物を勧められれば勧められるほど、疑いをつのらせるのがモモヨの性分である。家ではポチ、チビという犬を飼ったことがあった。どれも捨て犬で雑種だったが、毎日、ごはんにみそ汁をかけ、それに残り物のおかずがてんこ盛りにされる「犬ごはん」を食べて、二匹とも十三、四年生きた。ポチ、チビ、そしてコロも、残飯を喜んで食べる。こちらも助かる。これで丸くおさまっているのに、ここにドッグ・フードを入れると、家の残飯整理のバランスがくずれてしまうのだった。
「今はいりません。それでは、失礼します」
店員さんは、犬の健康によくないことを、知っててやってる、いけない飼い主というような目つきで、モモヨのことを見た。いろいろな技術が発達しているから、店員さんのいうことも本当なのかもしれない。しかし飼育係のモモヨは、いまひとつドッグ・フードばかりをコロにやる気にはなれなかった。
「やっぱり『犬ごはん』でいいわ」
そう思いながらモモヨは、コロのためにコロッケを買って帰ったのである。
モモヨが「犬ごはん」を作って、目の前に置いてやると、コロは尻尾をばたばたと振って喜んだ。伯父や伯母もたまに「犬ごはん」を作ってやることがあったが、尻尾の振り方が少し違った。よくよく観察していたらそれは年功序列であった。いちばん尻尾の振幅が小さいのは中学生の孫で、コロも誰の側についたらいちばん得かを、犬なりに考えているらしかった。
(ふっふっふ)
モモヨは満面に笑みを浮かべて、かわいいコロの姿を眺めていた。他の家族は、コロはいつも庭にいるのに、思い出したかのように、たまに、
「コロちゃんや」
と声をかける。それもうれしいことだが、毎朝、毎晩、一緒に散歩をしているモモヨのほうが、コロにとっては身近な存在だったのだ。
朝、モモヨが目覚めて軽く体操をし、着替えて階下に降りていくと、まだみんな寝ているので、しーんとしている。音をたてないように庭に出ると、コロちゃんは小屋からのっそりと這い出てきて、ぼあっとあくびをひとつする。そしてそのあと、モモヨの顔を見上げて尻尾をちぎれんばかりに振るのだ。
「はいはい、行きましょうね」
ひもを杭からはずしてもらえるのがわかると、コロはピョンピョンとはねまわり、中腰になったモモヨの背後から喜んでとびついたりする。
「わあっ」
瞬間、腰くだけになってしまいそうなモモヨではあったが、ゲートボールで鍛えた足腰は、コロのとびつきくらいではダメージもなく、
「全くしょうがないねぇ」
とブツブツいいながら、コロを従えて朝の散歩に出かけるのだった。坂を上ったり下ったりしながら、広い野原まで行く、往復一時間の道のりが、モモヨとコロちゃんの朝晩のお散歩コースである。コロはいつもモモヨが持っているひもがたるんだ状態で歩いた。途中、散歩仲間の人や犬に会う。人間同士はそつなく、
「おはようございます」
と挨拶をするが、犬の中にはヘソまがりもいた。顔を合わせるまでもなく、コロが歩いてくるのがわかると、
「あっ、コロちゃんだ」
といいたげに、尻尾を振りまくって待っている犬もいるのにだ。
「タロちゃんと会えてうれしいねえ」
モモヨが声をかけると、コロも喜んでタロちゃんにじゃれついたりしている。しかしそのように愛想のいい犬ばかりではない。中にはコロは何も悪いことをしていないのに、まるで親の仇みたいに吠える犬もいた。
「ま、お友だちでしょ、どうしてそんなに吠えるの」
飼い主はあわてて手にしたひもを引っぱったりなだめたりしていたが、何かにとりつかれたように犬のほうは吠え続けていた。コロは、僕がいったい何かやったかなあ、というふうに途方にくれた顔をしていた。モモヨが顔をのぞきこむと、とても情けなさそうにしていた。吠え犬の飼い主は、
「本当にすいませんね。ごめんね」
とコロにまであやまって、一心不乱に吠えている犬をひきずっていった。コロとモモヨは呆然と一人と一匹の後ろ姿を見送っていた。
「どうしたんだろうねぇ、あれは」
モモヨがつぶやくと、コロも小さくはたはたと尻尾を振った。モモヨは人にも犬にも愛想のいいコロは、本当に性格のいい犬だと思った。ああいうふうに、むやみにワンワンとがなりたてる犬は、小心者だよ、とモモヨは歩きながらコロに話しかけた。心が広い犬はここぞというときにしか吠えない。つまんないことで吠える犬に限って、吠えてほしいときに吠えないものなのだ。泥棒が入ったときに吠えもせず、小屋の中でおしっこをちびってしまうのが、あのタイプの犬なのである。
「コロも泥棒が来たら、吠えなきゃいけないよ」
コロはまた小さく尻尾を振った。
「できる限り、やらせていただきます」
といっているようなそぶりではあったが、モモヨは何となく、コロは泥棒に愛想をふりまいてしまうような気がした。
「それでもいいか……」
そのときはそのときだ。モモヨとコロはそれぞれの思いを胸に秘め、野原への道をのんびりと歩いていった。
一時間歩くとお腹はぺこぺこになる。家へ帰ると伯母が朝食を作ってくれているので、ちょうどいい頃合いなのである。コロも「犬ごはん」をがつがつと食べる。モモヨもいつものようにごはんもみそ汁もおかずも残さず食べ、一日が始まるのである。家の周囲と自分の部屋を掃除したあとは、テレビを見て、午前中のニュースをチェックする。午前、午後にゲートボールのスケジュールが入ることもある。それがなければ一日のほとんどは、衛星放送で流されるニュースを見たり、針仕事をしたりして費されるのだ。そして夕方、晩ごはん前もコロとのお散歩タイムである。またこれも一時間かけて帰ってくると、いい具合にお腹がすいている。食後もテレビ観賞、入浴などで過ごし、十時過ぎには寝る毎日なのだ。
うちの母親がモモヨの家に泊まったとき、健康のためにと朝晩のコロの散歩につき合った。健康のためというのは口実で、ぬぼーっと家の中にいても伯母の邪魔をするだけなので、それならば外を歩いていたほうがいいとふんだのが、真実なのだろう。ただでさえ愛想のいいコロは、お客さんをむかえて有頂天になっていた。
「散歩に行きましょうね」
と声をかけたら、まるで頭のセンが切れたみたいに、ぴょんぴょんと跳ねまわった。
「あらま、何やってんだろうねえ」
モモヨはあきれかえってそんなコロを眺めていたが、コロは早くいこうと催促するみたいに、自分で、杭に結びつけられているひもを、ぐいぐいと引っぱったりして、ほとんどわけのわからない状態に陥っていたのである。
行きのコロはぴょんぴょんと相変わらず跳ねまわり、後ろ足で立ち前足で母親に抱きついた。
「あら、やめてちょうだい」
そういいながら母親が歩くと、電車ごっこみたいにぴったりくっついたまま、後ろ足だけでちょこちょこと歩いた。
「おや、訓練したらこのままずっと二本足で歩くかもしれないねえ」
テレビ番組をチェックしているモモヨは、芸をする動物ネタにも詳しいのである。
「コロちゃん、がんばってずっと二本足で歩いてちょうだいよ」
母親が声をかけると、しばらくは後ろ足で歩いていたが、やはり無理があったのか元の姿勢に戻り、そこいらじゅうを跳ねまわっていた。野原にいってもコロは母親にじゃれついていた。
「はいはい、わかりましたよ」
動物あしらいが異常なほど上手な母親は、コロの体を撫でてやった。するとコロはくるっと仰向けになり、足をかわいく折り曲げて、ぐふんぐふんと鼻を鳴らした。
「あらま、丸見え……」
モモヨがくすっと笑うのもかまわず、コロはお腹を上にして舌をべろんと出していた。
「あーら、いい子ねぇ」
そういいながら母親はコロのお腹を両手でさすってやった。
「ぐふぐふぐふ」
コロは世の中にこんなにうれしいことはないというような顔をしていた。
「まあ、こりゃ、何だろうねえ」
モモヨは笑いながらも半分はあきれかえっていた。やっぱりコロは性格がいいだけが取り柄の犬のような気がしてきたのだった。
コロの至福の時も終わり、モモヨと母親はコロを引っぱって歩き出した。ところがいつもは聞き分けのいいコロの様子が、どうもおかしい。道の片側を歩かずに、ジグザグに歩き、ふと立ち止まってはモモヨと母親の顔を見上げては、訴える目つきをする。
「どうしたの、お家に帰るよ」
モモヨがうながすと、仕方なさそうにトボトボ歩き出すのだが、また立ち止まる。
「これ、どうしたの。また」
モモヨがいうと、コロは前足で足元の土をいじくりながら、いじけている。
「ははーん」
モモヨはそういってニタッと笑った。
「まだ遊びたいんだね」
コロは尻尾を振り、彼女を見上げて切なそうな顔をした。
「まだ、おばちゃんと遊びたいの?」
母親がそういうとコロはすり寄ってきた。
「みんなごはんを食べないで待ってるからね、お家に帰らなきゃダメなのよ」
モモヨはしょんぼりしているコロを引きずって、歩いてきた道をひきかえした。コロはジグザグ歩きと、土を掘るいじけた態度でささやかな抵抗を試みたものの、それは無駄に終わってしまった。しかし家に帰って「犬ごはん」をもらうと、そんなことはころっと忘れてしまう、ちょっと情けないコロちゃんだったのである。
いつもはモモヨと共にいるコロであったが、彼女が旅行にいったりすると、散歩は伯父、伯母の役目になった。
「いってくるからね、いい子にしてるんですよ」
出がけにモモヨがそういうと、コロは一瞬ついていきたそうな素振りをみせるが、あきらめてお見送りをしている。あきらめもいい犬なのである。ところがモモヨと違う人がコロを散歩につれていこうとすると、大問題が持ち上がった。コロのような捨て犬で雑種でも、ちゃんとモモヨが年寄りだということは把握しているらしく、彼女のペースに合わせて歩く。無理なことは絶対やらないのである。しかし、モモヨ以外の人が散歩につれていくと、コロの態度が二重人格のように変わるのだ。
「散歩に行こうね」
そういいながらヒモを杭からはずしてやったとたん、人間の体勢が整っていないのに、すさまじい勢いで、まるで弾丸のように一目散に走っていく。
「あーっ」
伯父や伯母の両足は、まるで谷岡ヤスジのマンガみたいにフル回転し、道路を疾走していく。
「こら、待ちなさいったら、待ちなさい!」
怒ったって何したって、コロの全力疾走はとどまることを知らず、
「わあーっ」
と叫びながら町内を駆けぬけることになる。顔見知りの人に会うと、そんな状況でも無視できないのだが、あまりのスピードで、
「こんにちわあー」
と、おたけびのような挨拶になってしまう。するとそれを目撃した隣近所の人々は、
「あら、おばあさんはおでかけなのね」
とわかるのであった。モモヨとだと往復一時間の道のりを、他の人だと約その半分の時間で帰ってくる。コロは満足そうに、
「やった」
という顔をしているが、気の毒なのは伯父や伯母である。戻ったときは半分よれよれで、口をきく元気もない。ただ、
「水、水を……」
とあえぐだけである。そして水を口にして人心地ついたとたん、
「うー」
とうなって、座卓の上につっ伏してしまう。
一方、コロのほうは、人間様が青息吐息でいるのに、我関せずで、「犬ごはん」を元気よくたいらげていた。
「コロも今まで我慢していたのだろうなあ」
心臓の動悸がやっとおさまると、伯父と伯母は座卓の前にへたり込んで話をした。犬というものは本能的に野山やそこいらへんを走りたがるものである。しかしコロちゃんは小さいときから、モモヨ付きであったため、走ることがめったになかった。自分勝手な犬だと誰が散歩につれていこうが、やりたいようにやるのだろうが、その点コロは気遣いがゆき届いていた。モモヨの歩調にあわせて、ちゃんと歩く。無茶なことはしない。しかしそれは犬としての本能を押し殺した行為だったのである。それがモモヨより若い伯父や伯母だと、相手のことなんぞかまわずに、今まで自分の体内に蓄積していたうっぷんを、一気に爆発させる。
「あーあ、お母さん、早く帰ってこないかなあ」
伯父たちは、元気百倍で「犬ごはん」を食べているコロを見ながら、カレンダーの日にちを数えたりしたのだった。
コロをかわいがるモモヨと、モモヨの体を気遣うコロは、町内でも有名な名コンビだったが、拾われて十一年目のある日、文字どおり、コロはころっと亡くなってしまった。
昨年、二十五年ぶりにモモヨの家を訪ねることになったとき、コロに会うのも目的のひとつだった。私はがっくりしたが、モモヨはそれ以上にがっくりしているのではないかと思ったが、電話では淡々としているふうだった。
「とにかく早いとこ、おいで」
モモヨは私が家に行くのを、とても楽しみにしていたのだ。私が小学生のとき訪れたモモヨの家、正確には伯父の家は、海のそばにあった。家の前には川が流れていて、いとこたちと一緒に川で泳いだ覚えがある。当時、伯父の家には大きな五右衛門風呂があり、大きな木のフタをふんづけて入るので、私はビックリしたのだった。てっきりまだあの家に住んでいるものだとばかり思っていたら、
「あーら、とっくにあそこから引っ越したよ」
といわれてしまった。川も汚いドブ川になり、海も埋めたてられて、今は団地が建っていると教えてくれた。地方都市もどんどん変わっていくのだ。私はホテルから車で行く道順を伯母に聞き、メモを手にタクシーに乗った。国道沿いの大きな交差点で降りるようにといわれた。伯母と会うのも二十五年ぶりである。伯母は外に出て目印がわりに待っていてくれるといっていたが、とんでもない方向オンチの私は、いまひとつ不安であった。すぐそばまで来ているのに、全然気がつかず、うろうろして頭が混乱するなんて、日常茶飯事だからだ。
「次の交差点ですよ」
二、三十分タクシーに乗ったところで、運転手さんが教えてくれた。
「はあ、そうですか」
身をのりだして東西南北を確認していたら、交差点に見覚えのある、ばあさんが立っている。そしてタクシーに乗っている私を見たとたん、大きく手を振って合図を送ってきた。タクシーが減速したら、待ちきれずに伴走していた。
「おばあちゃん、わざわざ悪かったわねぇ」
伯母が来てくれるといったので、モモヨは家でおとなしく待っているものだとばかり思っていたのだ。実は電話に出た伯母がむかえに行くといったのだが、モモヨが、
「お姉さんはあの子の子供のときの顔しか知らないんだから、むかえに行ってもわからないかもしれない。私はこのあいだ会ったばかりだから、私がいったほうがいい」
と説得し、伯母を近くの酒屋さんのベンチに座らせてきたというのであった。
「こっち、こっち」
モモヨは私の前を歩き出した。周囲は緑に囲まれ、小川が流れている。モモヨの姿を見つけて近所の猫が、フニャフニャ鳴きながらすり寄ってきた。
「はい、こんにちは。東京のおねえさんが遊びに来たんですよ」
猫は私の顔を見上げて、小さくフニャと鳴いた。酒屋さんの前のベンチには、伯母がニコニコ笑いながら座っていた。
「遠いところから、よくいらっしゃいました」
私が小学生のころに会ったときと、全くかわっていないのでビックリした。
「お姑さんがね、私じゃわからないってね、ここで待ってなさいっていわれたんですよ」
おっとりと伯母はいった。
「そうそう、子供のときと全然顔が違う人もいるからね。でもそういえばあんたはちっとも変わってないね」
モモヨは新しい発見でもしたかのように、私の顔を見詰めていた。横では伯母が、うんうんとうなずいていた。
「はい、どうぞ、ここですよ」
モモヨは坂を上った、いちばん奥の二階屋に入っていった。応接間には結婚した従妹のグランドピアノが置かれ、居間にはとてつもなく大きな「画王」が、でーんと置かれていた。
「衛星放送をつけたのは、町内でうちがいちばん早かったんだ」
モモヨは胸を張った。衛星放送の開始を知ったとき、モモヨは伯父に、
「今度、こんなにいいものが放送されるらしいから、うちでも見られるようにしてくれませんかね」
とたのんだ。エンジニアである伯父も、まんざら興味がないわけではなかったので、NHKと契約することにした。ところがパラボラアンテナを設置する段になったらば、伯父が、
「あれくらいのことならわかるから、自分がやる」
といい、自ら屋根に上ってアンテナを設置したというのであった。町内初の衛星放送が受信できるパラボラアンテナを見た近所の人々は、
「あーっ」
といって、屋根を指さしていたという。
「とにかくうちが、いちばん早かったんだ」
またモモヨは胸を張った。衛星放送が知られるようになってから、いっとき、中華ナベがパラボラアンテナのかわりになるという噂が流れたことがあった。それを聞いたモモヨが、やってみようと提案したのは容易に想像できる。が、何度か伯父が屋根に上ってトライしたものの、見事に失敗したとのことであった。
「そろそろ二階に行きましょうかね」
モモヨにうながされて、私はモモヨの部屋に入った。
「あらっ……」
窓際にズロースが一枚干してあるのに気がついて、モモヨはあわててそれを隠してしまった。六畳の部屋はきれいに片づけられ、彼女が結婚するときに持ってきた、サクラの木でできたタンスと姿見が並べて置いてあった。そのタンスは幅がとても広く、引き出しもゆったりと深く造られていた。七十年前のものなのに、今でも十二分に使える、しっかりしたものだった。
「姿見とタンスは、結婚が決まったときに、私の伯父さんが買ってくれたんだよ。たしか七十円くらいだったかねえ」
近ごろの家具屋さんでは見かけない、シンプルだが重みのあるタンスであった。そして姿見の隣には、モモヨのお友だちであるテレビが鎮座していた。
「なるほど、これを毎日見ているわけね」
「そうなの」
モモヨはにこっと笑った。コロ亡き今は、朝起きるとひとりでのんびりと散歩をする。道順はコロと一緒に歩いたときと同じである。ゲートボールがあるときは出かけるが、予定がない場合は、一日中、テレビ観賞である。昼間はニュース、夕方から夜にかけては、相撲、野球など、スポーツ番組中心である。とにかく清原が打てば機嫌がいい彼女は、過去の打率もチェックして、
「今日は豪快な一発を打ってくれるかしら」
と、楽しみにテレビを見ているのである。モモヨは毎日をこの部屋で送っていたが、私には少し淋しい気がした。他の部屋が手を加えられてきれいになっているのにもかかわらず、彼女の部屋は何も手が入れられてないように見えたからだった。モモヨがこのままでいいといったのかもしれないが、東京で元気百倍だった彼女に比べると、ここにいるのは、もっとこぢんまりした感じのモモヨであった。やはりここはモモヨの天下の場所ではない。年寄りの気遣いが感じられる、少しもの悲しい部屋だった。
「ひいばあちゃん」
ひ孫のケンちゃんが顔をのぞかせた。私の従妹の子供である彼は三歳になるが、伯母のことを、「おばあちゃん」、モモヨのことを「ひいばあちゃん」といって、甘えてくるのである。
「東京のおねえちゃんですよ」
「こんにちは」
私が挨拶をすると、ケンちゃんは恥ずかしそうな顔をして横をむき、
「こんちは」
と小さな声でいって、ふっと姿を消してしまった。
「ちゃんと挨拶して、えらいねえ」
モモヨにそういうと、
「そうなんだよ、いい子なんだよ」
と目を細めていた。私が子供のときに会ったモモヨは、優しいおばあちゃんというよりも、厳しいおばあちゃんだった。「部屋を出るときには電気を消すように」と母親にいわれても、いちいち面倒くさいので、ほったらかしにしておく。するとモモヨがやってきて、
「電気を消しなさい!」
といって怒る。本をたくさん買ってもらった覚えもあるが、いちばん印象に残っているのは躾の厳しいモモヨだった。ただ孫にでれでれと目尻を下げているだけの、ばあさんではなかった。母親の躾の行き届かない部分をモモヨが請け負い、逐一、私の小生意気なところをチェックして更生させようとしていたのである。ところがケンちゃんを前にしたモモヨは、目尻をでれっと下げた、単なるおばあちゃんだった。孫よりはひ孫のほうが、ずーっとかわいいのだろう。
「だあーっ」
突然、ケンちゃんがミッキーマウスの絵のついたバスタオルを手に、私に体当たりしてきた。
「とおーっ」
すかさずバスタオルをつかみ、手元に引き寄せようとすると、彼はきゃあきゃあいいながら足をふんばっている。
「おやまあ、会ったそうそう、とんでもないことになったねぇ」
相変わらずモモヨはにこにこしてケンちゃんを眺めていた。私とケンちゃんは、ぐいぐいとバスタオルで綱引きをやっていたが、しばらくすると飽きたのか、彼ははしゃぎながら階下に降りていってしまった。
「本当に元気がよくてねぇ」
うれしくてたまらん、といった表情のモモヨであった。
晩ごはんが終わり、階下でみんなと話していると、またまたケンちゃんが、バスタオル攻撃を始めた。おじいちゃん、おばあちゃん、ひいばあちゃん、に手加減なしである。伯父や伯母はともかく、モモヨにも手加減なしというのは、結構きついのではないかと心配したが、何をやられてもモモヨはケロッとしていた。彼女が正座していると、膝の上を狙ってケンちゃんが突進してくるのだが、それが素早くでんぐりがえしをしながら、近づいてくる荒技だった。でんぐりがえしができるようになったのがうれしくて、自分が気持ち悪くなるまで、ころころと転がっているのだ。私は彼の両足がモモヨの顔面を蹴りそうになったので、
「あ、あぶない」
とあわてたが、モモヨはさっと体をかわし、
「ははは」
と何事もなかったように笑っていた。次はモモヨに抱きついて、体中を叩きまくる。
(そんなことしたら、死んじゃうかもしれない)
ハラハラして見ていたが、モモヨも負けじとケンちゃんを叩き返していた。バタバタとお互いの体を叩き合って、二人は、
「あはは」
と笑っていた。
ケンちゃんは、何かあるとすぐ、
「ひいばあちゃん」
と声をかけていた。まず最初が「ひいばあちゃん」なのである。
ひ孫が手荒に挑んできても、
「やめなさい、そんなこと。おばあちゃんは嫌ですよ」
と顔をしかめたりせず、「来るなら来い」と受けてたち、自分も負けずにやり返したりしている。バチバチとお互いの体を叩き合っている姿は、かつての麒麟児と富士桜の突っ張りあいを見ているかのようであった。ひ孫相手に彼女は、室内でも運動をしていたのだった。
コロが亡くなって、外に出るよりも家にいることが多くなったモモヨの耳に、朗報がとびこんできた。徒歩二十分のところに「健康ランド」が建ったのだ。
「これはいい」
モモヨは大喜びした。そこには温泉もありサウナもリラックス・ルームもある。一日千円払えば、心ゆくまでのんびりできるのである。ゲートボールにそろそろ飽きていたモモヨの次の楽しみは、「健康ランド」になった。健康ランドには、中年夫婦や若い人など、いろいろな人がいた。そんな中でモモヨはやはり、いちばん年上であった。お湯に入っている人と世間話をし、気がむいたらマッサージをしてもらう。リラックス・ルームで少し横になっていると、こんな幸せはないような気がしていた。こういうときに着ていくのは、「おばあちゃんの原宿」で買ったモンスラである。歩き易く格好もいい。健康ランドの常連のばあさんたちに、
「さすが、東京のものは違うわねぇ」
と羨望のまなざしで見られた、自慢の品である。モモヨがどんな格好をしても、モンスラは彼女の下半身にフィットしているのだった。
現在、モモヨは朝は散歩ではじまり、健康ランドに行ったあとに晩ごはん、テレビ観賞をして就寝という毎日を送っている。ある晩、近所に住んでいる叔母が車を運転してやってきた。
「お母さんも一緒に行かない?」
叔母は夜しか時間がとれないし、一人で行くのはつまらないので、モモヨを誘いに来たのである。
「昼間、行ったもの」
「でも車だし、乗ればすぐよ」
「いいの、昼間行ったから、もう行かない」
「まあ、せっかく寄ったのに……」
ぶつぶついう叔母にかまわず、モモヨはそういって、叔母の申し出をきっぱりと断わってしまった。そして二階に上がり、愛する清原さまがホームランを打つのを、楽しみにしてテレビの前に座った。このようにして一日はすぎ、寝て起きると、彼女にはまた新しい一日が待っているのである。
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ダイエットはむずかしい
タカシが結婚したとき、近所の人々は、
「これでモモヨさんも楽になるわね」
と噂をした。これからのんびりと暮らせると誰もが思っていたのだが、彼女は、
「家の中に女が二人いると面倒ですからね。私は働きに出ます」
と宣言し、あっけにとられているタカシ夫婦や親類を後目に、さっさとパートの働き口を見つけて出勤することになった。妙に気をまわすお嫁さんだと、
「わざとらしいわね。私が追い出したみたい」
と勘繰ったりするものだが、幸いにも彼女はそういうタイプではなく、
「そうですか。体にだけは気をつけて下さい」
とにこにこしているような人だったので、万事円く納まっていたのであった。
五十歳を過ぎて見つけたパート先は、乳酸飲料の工場で、容器に紙蓋をするのが仕事だった。容器に中身が詰められて、だーっと並べられている所で、ひとつひとつ丸い紙蓋を貼りつける作業を、モモヨは十五年もやった。
「よく飽きなかったわね」
と私が感心すると、彼女は、
「えっ、飽きてたよ」
と軽い調子でいった。しかし、もう子供を学校にやる心配もなく、毎日、電車に乗って工場へ行くのは、とても楽しかったともいっていた。
「気楽でよかった。友だちはできたし、お金はもらえるし。だから十五年も続いたんだよ」
家の中では嫁と姑の仲はうまくいっていたが、中にはモモヨが働きに行くのを見て、
「嫁にいじめられているらしい」
と噂をする人もいた。しかしモモヨの性格をよく知っている人々は、
「あの人は、そう簡単にいじめられる人じゃない」
と耳を貸さず、その噂もたち消えたという。もともとおっとりしていて人がいい伯母と、サバサバした性格のモモヨとでは、喧嘩をしようとしても、喧嘩のタネがなかった。それにもまして、割れ鍋に綴じ蓋ではないが、モモヨの苦手な部分を、彼女がうまくカバーできる人であったから、モモヨも内心、
「これは、よかった」
と、外に出て働き始める気になったのではないかと思う。
私がにらんだところでは、モモヨは自分から口には出さないが、実は、料理が苦手のような気がする。伯母は料理が得意であった。きちんと料理が作れる嫁がやって来て、モモヨは内心、
「御飯関係はもちろん、家の中のことはすべて、まかせてしまおう」
と、喜んだはずだ。妙な姑のプライドを丸出しにして、きゅうりの漬け物の切り方が大きすぎるだの、味つけが濃いだのと、逐一、文句をいっていびるなんていうことよりも、自分の不得手なことはさっさと得手な人にまかせて、気楽にやりたいことをやろうとしたのだろう。最初はそのほとんどが手作業だった工場も、だんだん機械が導入され、パートのおばさんたちも、一人やめ、二人やめしていった。その中でモモヨは十五年間通い続け、やめたときは七十歳になろうとしていたのである。
「お母さん、無理しないで下さいね」
タカシ夫婦は体を気遣って、毎日通勤する彼女にいったが、
「無理はしてませんよ」
のひとことしか返ってこなかった。当時、七十歳になって、自営業ならばともかく、わざわざパートに出ている人は、とても少なかった。長男夫婦と同居し、孫が生まれたら子守りをし、町内の集まりに出かけてはお喋りをするのが、年寄りの日課というものだった。伯父夫婦にしたら、七十歳近い母親を働かせておくのは、ちょっと気がひけたところもあったのだろう。間接的に、そろそろやめたほうがいいんじゃないか、といういい回しに気づいているのかいないのか、モモヨは元気で工場に通っていたのだった。
ところが工場が全面的に機械化され、パート全員が退職させられることになった。いつまでも紙蓋をひとつひとつ手で貼りつけているわけにはいかなくなったのも、あたりまえである。タカシ夫婦も、
「これで家にいてくれる」
とモモヨの退職を喜んだ。ところがそんな彼らの思いを裏切るかのように、彼女は最後のおつとめを果たしたその足で新しいパート先を見つけて、二人を仰天させたのである。
「もう働かなくてもいいじゃないですか」
タカシは必死に説得した。しかしモモヨは、
「決めたから、行く」
といってきかず、夫婦のため息を背中で聞きながら、新しい職場へと通いはじめたのだった。
新しい職場は家具店の工房だった。モモヨの仕事は塗料及びニス塗りである。この家具店では、年寄りのパートを募集して、座っていてもできる塗りの作業をまかせていた。もともと手仕事が好きなモモヨは、喜んでこの仕事をやっていた。椅子に座っていると、工房の男の人が、テーブルやソファの脚だけを山のように持ってくる。それに何度も、乾いたら塗り、乾いたら塗りの作業を繰り返し、組み立ての工程へまわすのだ。新しい型の脚が運ばれてくると、
「今度はどういうものですか」
とパートの年寄りたちはたずねる。すると、担当の人がデザイン画をみせてくれる。猫脚だったり、まっすぐだったり、飾り彫りがしてあったりと、いろいろなデザインの家具が次々に生産される。年寄りたちはそのような新しいデザイン画を見るたびに、
「私らの若いころは、こんなのはなかったねえ」
とうなずきあったりしたものだった。
この工房でもモモヨは一番年上だった。女性が五人いて、特に二歳年下のトミさんと五歳年下のテルさんとは仲がよかった。ラジオを聞いたりお喋りをしたりしながら、のんびりと刷毛を動かすこの仕事の時間は、七十歳すぎたモモヨには、ホッとするひとときだった。別に社長から、
「とっとと、やれ」
と怒られることもない。叱られるどころか、
「お年寄りは仕事がていねいだから、助かります」
と感謝された。モモヨやトミさんやテルさんは、どっかと椅子に座って、日がな一日刷毛を握っていた。そして何日かたって、
「出来上がりました」
と完成品を見せてもらうのも、楽しみだった。立派なソファの脚を見ると、
「ああ、あれだ」
と塗った木材の型を思い出す。自分が何度も手間をかけて塗ったものが、このようになると、やはりうれしくなるのだった。
だんだん時がたつにつれて、モモヨはトミさんやテルさんと、駅で待ち合わせて一緒に通勤するようになった。
「まあ、幼稚園や小学生みたい」
といったら、
「そうなの。とっても楽しかった」
とモモヨはにこっと笑った。私などはとうの昔にそんなことはしなくなったが、モモヨたちは毎日、駅で待ち合わせて仲よく工房に通っていたという。私が自分の子供のころを思い出すと、いつまでも友だちといたかった。朝から晩までいても、邪魔くさいと思ったことなどなかった。きっとモモヨたちも歳をとって、子供のときと同じ気分になっているのではないかと、ふと思ったりもした。工房の五人の仲間と、仕事が休みの日に、都合のいい人の家に集まって、宴会を開いたこともあった。各自の家に電話をかけて、
「トミさんも、暇だったらいらっしゃい」
と誘うのだが、みんな暇なのでいつも全員集まった。
「食べ物は持ち寄りで、私は気がむいたら、お鮨を作って持っていったりしたけど、面倒くさいときは買っちゃった」
モモヨはそういって笑った。彼女の料理嫌いが垣間みえるような発言だった。お鮨にお茶、ジュース、ビールが食卓に並び、彼女たちは、あっはっはと笑いながら食べたり飲んだりした。
「ビールはコップ一杯飲めば、ありゃ、十分だねぇ」
なかにはジュースよりも、ビールのほうがいい人もいたらしいが、モモヨはもっぱらお茶を友だちにして、お腹をふくらませていたのである。
工房も居心地がよかったので、モモヨは延々と勤め続け、あっという間に十年経ってしまった。十年の間、じっと耐えていた伯父は、今度は少しきつい口調で、
「いいかげん、勤めに出るのはやめてくれませんか」
と申し出た。しかし、働くのが楽しくてしょうがない彼女は、
「うーん」
といったっきり黙っている。するとそんな姿を見た伯父は、
「お願い。たのむから、もう勤めるのはやめにして」
と懇願した。
「あそこまでいわれたら、私も折れるしかないねえ」
彼の願いは、二十年以上たって、やっとモモヨに聞き入れられたのであった。
ほとんど、周囲の人たちに半強制的にやめさせられたモモヨは、日々をもて余すようになった。手伝おうにも家事は彼女がいない間に、伯母の手によってきちんとシステム化されていて、横はいりする余地はなかった。縁側に腰をかけて、ぼーっと庭を見ている日が続いた。ふと思いたって縫い物をしたりしてみるのだが、もともと外に出るのが好きなモモヨには、いまひとつ物足りなかった。かつて家具の工房で働いていた仲間たちは、あっけなくころころと亡くなっていき、残った一人も床に臥すようになった。
「つまんない」
モモヨはボソッとつぶやいた。近所には老人が楽しむものはない。体を心配したタカシたちのいうことをきいて勤めをやめたものの、このままじっとしていたほうが、体の具合が悪くなりそうだった。
「お姑さん、お茶でも飲みましょう」
毎日、午後三時になると、伯母が甘い菓子とお茶を持ってくる。そして二人で庭にやってくる雀たちを見ながら、他愛もない話を続ける日々をすごしていたのだった。
一週間、二週間たつうちに、だんだんモモヨは動きたくなくなってきた。今までは何があっても身は軽く、
「どっこいしょ」
といって重い腰を上げることはなかった。しかしふと気がつくと、椅子に座るとき、立つとき、布団の上げ下ろしをするときに、
「どっこいしょ」
といっているのだった。ひょいひょいと町内を歩き、
「いつもお元気でいいですね」
と、人々に声をかけられるのがあたりまえだったのに、どうも、ひょいひょいと歩くというわけにはいかなくなった。体が重くなってきたのである。モモヨは風呂上がりに、脱衣場に置いてあるヘルス・メーターにのってみた。このヘルス・メーターには、太りやすい体質の伯母と従妹が、毎日食事をするごとに乗って、ため息をついていたものだった。従妹が結婚して家を出てからは、伯母一人でしばらくは体重測定をしていたが、ダイエットの効果を自慢し合う相手がいなくなって意欲が薄れたのか、今では洗面台の上でホコリをかぶっていたのである。モモヨはそっと上に乗ってみた。
「ありゃ!」
家具工房をやめる直前、仲間と一緒に行った隣県のヘルス・センターで測った時より、三キロも太ってしまった。
「どうりで体が重いわけだ……」
モモヨはブツブツいいながら、早速、体操をしてエネルギーの消費を試みた。しかしこんなことは何の役にも立たないような気になってきた。肉体労働ではないものの、毎日通勤する生活を何十年も続けていたものだから、家にずっといて食べ続けていたものが、みんな肉となってしまったのである。こそこそと部屋に入り、モモヨは嫁入り道具の姿見の前に立ってみた。そういえばお腹のまわりに肉がついたようだ。三キロ太ったのが、たった二週間、というのもショックだった。彼女の頭の中には、無節操にデブデブに太った自分の姿が浮かんできた。町内のばあさんたちが、太った体をゆすって辛そうに歩いているのを見て、彼女は内心、
(ああなる前に、何とかすりゃいいのに)
と思っていたからである。これまで悩んだことがないのに、珍らしく彼女に悩みの種ができてしまったのだ。
「さあ、お姑さん、おやつにしましょ」
いつものように、にこにこしながら伯母が、日本茶と羊羹を運んできた。
「おいしいですよ、これ」
パクパクと食べる伯母の前で、モモヨは羊羹には手をつけずに、お茶だけを飲んでいた。
「どうしたんですか。具合でも悪いんですか」
「いいや、あの……」
モモヨは黒光りする、おいしそうな羊羹を見ながら口ごもった。伯母は心配そうに顔をのぞきこんでいる。
「太っちゃったんだよ」
モモヨがそういうと、伯母はなーんだという顔をした。
「いいじゃないですか。やせるよりも」
そして、何も心配事のない、無邪気な顔で羊羹を食べ続けた。
「でも、三キロなんだよ」
「あーら、私なんか三キロなんか、すぐですよ」
伯母はすでにダイエットはあきらめたようだった。たしかに彼女は顔が丸顔のせいで、とても若くみえた。しかしモモヨは自分が若くみえることよりも、三キロ太ったことのほうが大問題だったのだ。
「やっぱり、やめておきます」
モモヨは羊羹の載った皿を返した。
「あーら、そうですか。それじゃ、いただきます」
竹製のフォークで羊羹を切り始めた伯母の前で、モモヨは暗い気持ちでただお茶を飲んでいたのだった。
夕食のとき、箸のすすみが悪いモモヨを見て、伯父が声をかけた。するとモモヨにかわって伯母が答えてくれた。
「お姑さんは少し太られたものだから、気にしてるんですよ」
「えっ?」
伯父は驚いて茶碗を置いた。モモヨはなるべく目を合わさないようにして、うつむきかげんで大根の浅漬けをかじっていた。
「いい歳して、太ったもやせたもないだろうに。元気だったら十分じゃないか」
「……」
モモヨは無言だった。会社をやめて、こんなになってしまった。このままじゃ、ぶよぶよになるかもしれない。
「ごちそうさまでした」
彼女はすっと席を立ち、流しで自分の食器を洗って、部屋に入った。これからどうやって三キロ体重を減らすかが、モモヨに課せられた問題だった。食事を食べないと二人が心配する。おやつを全然食べないのも少し悲しい。あれこれ考えたあげく、体重を減らすためには運動がいちばんという結論に達し、これからがんばって元に戻そうと心に決めたのだった。
モモヨが選んだのは縄とびだった。ボクサーが減量のときに、水分も制限して縄とびをしている姿を、テレビで観たことがあるからだ。たしか文房具屋にあったはずだと、記憶をたどりながら、行ってみた。
「はい、ありますよ」
店のおばさんは天井からぶら下げてある、ピンクやグリーンのビニール縄とびを持ってきた。
「どの色にしますか」
おばさんは、まさかモモヨが使うとは思ってもいなかっただろう。彼女も自分のものだとはいえなかったが、
「女の子ですから、ピンクを下さい」
といって、ピンク色のを買ってきたのであった。家に戻って庭の平らな所で、試しに縄とびしてみた。足どりも軽く、なかなか具合がいい。これだったら、体重の三キロぐらい、すぐ減らせそうだった。
「お姑さん、何してるんですか!」
だんだん調子がのってきたとき、背後でビックリした声がした。伯母が呆然と縁側で立ちつくしている。
「何って、縄とびですよ」
「それはわかってますけど、でも……。大丈夫ですか」
「はい。大丈夫」
再び縄とびを始めると、伯母は庭ばきのサンダルをつっかけて飛び出してきた。
「大丈夫っていったって……」
「いえ、なかなか具合がいいの」
「でもそんなに、急に始めたら体に悪いですよ」
「そうかねえ」
「そうですよ」
伯母が、やめろやめろというので、やむなくモモヨは縄とびを中止した。多少、心臓がドキドキしていたものの、これならば何とか続けられそうだった。
「よしっ」
気合いをいれてヘルス・メーターにのってみたが、体重にはほとんど変化がみられなかった。
「あの程度じゃ、やっぱりだめか……」
ため息をつくモモヨの背後では、心配そうに伯母が様子をうかがっていたのであった。
「いい加減にしなさい!」
夜、モモヨは伯父にこっぴどく叱られた。
「万一のことがあったら、どうするんですか。八十すぎた年寄りが縄とびなんかやって」
万一なんか、絶対に起こりっこないと信じているモモヨは、ちょっとむくれて話をきいていた。たかだか三キロ太ったのを気にして、急に縄とびを始めるなんて、暴挙であると彼はいった。少しは自分の体のことも考えろと、ふだんの温厚な態度とは全く違う、強い口調でモモヨは叱られてしまったのである。モモヨは、もし万、万が一のことが起きても、それは自分の責任で、タカシ夫婦が悪いわけではないと思っていた。しかし傍目からみたら、当人が好きでやっていることでも、八十すぎても母親を働かせていたり、縄とびも黙認している、気遣いをしない息子夫婦と映るのだろう。
「もう見てくれなんか、気にするような歳じゃないだろうに……」
ひとりごとのようにタカシがつぶやいた言葉に、モモヨは心の中で反論した。仕事をやめて三キロ太ったのは、彼女にとってはショックだった。若いから太るのはショックで年寄りだから平気というわけではない。
(あの子は、ちっとも女の気持ちがわかっていない)
モモヨはその場はおとなしく話をきいておいたものの、いうことなんかきくか、と、固く心に決めたのだった。
翌日からモモヨは、縄とびの|な《ヽ》の字もいわず、もちろん庭での跳躍もとりやめた。しかしそれは彼女の周囲の目をあざむく、作戦だったのである。
「散歩してきます」
そう伯母に告げて、モモヨは外に出た。散歩をしに行くというと、伯母も心配しない。年寄りには散歩がいちばん似合っていると思っているらしいのである。お気に入りの布袋を下げ、町内を歩いていると、顔見知りの人々から声をかけられる。
「こんにちは」
と挨拶をするものの、タカシたちはこういう人たちの目を気にしなきゃいけないのだ、と思うと複雑な気持ちであった。
「どちらにお出かけですか」
「はあ、ちょっと、そこまで」
人は「ちょっと、そこまで」というと、それなりに納得する。具体的な場所をいわないのに相手は、
「そうですか、いってらっしゃい」
と、にこやかにいってくれる。何の答えにもなっていないのに、納得するのなら、どこに行くのかなどと聞かなきゃいいのに、といつもモモヨは考えていた。しかしそれを口に出すと、また、
「ほーら、始まった」
とタカシたちにいわれるので、腹の中でぶつくさいうだけにとどめていた。
顔見知りが少なくなって、町内のはずれにやってきたとき、モモヨは布袋を開けた。
「ふふふ」
中には縄とびが入っていた。いくらタカシに叱られても、自分がやりたいと思ったことは、そう簡単にはやめられない。昨晩、寝る前に考えた結果、タカシたちや近所の人に見つからないように、隠れてやろうと決心したのである。あたりをきょろきょろと見渡しても、まだ誰かが見ているような気がした。彼女はそれから二十分歩き、隣町の野原にたどりついた。平日の日中ということもあって、そこにはほとんど人影がなく、こっそりと縄とびをするには最適の場所だった。彼女は思う存分、縄とびをした。今日、一日やっただけで三キロ、一気に減りそうだった。人に危ないと心配されるけれど、まだまだ私は平気だといってやりたくなった。ところが、いい調子でやっているうちに、少し胸が苦しくなってきた。心なしか目もくらんできたようだ。彼女は縄とびをやめ、しばらく大きな木の根方で休んでいた。
「ちょっと、無理したかもしれない」
さすがのモモヨも、その日はそのまま家に帰った。部屋にいても動悸はすぐ治まらず、体がじんじんしていた。
「ずいぶんゆっくりでしたねえ」
そういう伯母にも、悟られてはならじと、モモヨは適当にごまかして、シラを切っていた。
「無理されたんじゃないですか。鼻息が荒いようですけど」
モモヨはギクッとした。たしかに縄とびをやって疲れてしまった。が、ここでぐったりしたら、不審に思われてしまい、せっかくの作戦が台なしになる。そこで彼女はなるべく口で息をしないで、鼻の穴で呼吸をすることにした。はあはあと犬のように息をしたのでは、怪しまれるのは確実である。だけど鼻の穴だったらわからないだろうとふんだのだ。
「おや、そうかねぇ」
そういいながら鏡を見たモモヨは、鼻の穴がふだんの倍も広がっていることを知った。さすが気合いは入っているものの、体は正直で、酸素を体内にとり込もうと、いっしょうけんめい、鼻の穴はがんばっていたのだ。
「ちょっと遠くまで、いっただけだったんだけどねえ」
鼻の穴をおっぴろげながらモモヨは力なくいった。
「気をつけて下さいね。この間も、角の米屋のおばあさんが、無理をして走ったら、そのまま寝たきりになったらしいですから」
(うーむ)
三キロ太ったのもショックだったが、いつまでたっても動悸が続いているのも、それ以上にショックだった。このままでは三キロ減る前に、あの世に行ってしまう可能性だってある。
「まだ始めたばかりで、体が慣れていないからかもしれない」
モモヨにも一縷の望みはあった。少しずつ慣らしていけば、そのうち、いくら縄とびをしても、こたえない体になるかもしれないのだ。
それから毎日、モモヨは散歩に行くフリをして、布袋に縄とびを入れて隣町の野原にいった。しかし三日たっても、五日たっても、すぐ疲れてしまい、木の根方で休むことになってしまう。そして休んだあとは、再び縄とびをする力が体からわいてこないのだった。
(やっぱり、疲れる……)
根方で彼女は、がっくりと首を垂れた。頭の中では軽やかに縄とびをし、ヘルス・メーターの上で、にっこり笑う姿があったのに、縄とびだけで、こんなに疲れてしまう。
(だめだ……)
モモヨは隠れ縄とびによる減量作戦はとりやめ、ピンクの縄とびを布袋にしまいこんで、トボトボと帰った。そして二度とその縄とびは、使われることがなかったのである。
減量の道を断たれたモモヨは、退屈な日々を送っていた。伯母たちがしてくれることに、
「はいはい、ありがとう」
と礼をいって過ごす、おだやかな毎日であった。私の母のところにも、暇つぶしのために電話をかけてくることもあった。が、どうも様子がおかしい。孫の私のことをすでに結婚したと思いこんでいたり、記憶がさだかでなかったり、頭の中がやや花畑状態になっているようなのである。あわてたのは伯母はじめ、親戚一同である。今まであれだけ、しゃきしゃきしていたのが、うすぼんやりしてきたという話は、血族一同の大ショックであった。まだそれほどひどくないのが救いで、私たちは何とかせねばと、緊急電話会議を開き、モモヨをなるべく外に出そうという結論に達したのだった。
「お姑さん、今度、町内でゲートボールを始めるらしいんですけど、行ってみませんか」
そう切り出したのは、伯母だった。町内の老人会で、茶ばかり飲んでいるのもつまらないので、今度は、体を動かすことになったと世話人がやって来たのだ。
「うん、行く」
モモヨは喜んでゲートボールに参加するのを決めた。
「やっぱりスカートじゃまずいから、ズボンを買わなきゃ。そうそう、荷物を入れるバッグもいるね」
彼女はウキウキして、ゲートボール用の品々を揃え始めた。散歩にいったついでに、目についた服を買って帰り、ゲートボールの日を楽しみにしている。もともと運動神経のあるモモヨは、ゲートボールも上手になっていった。老人会の中でも彼女は年長グループに属していたが、誰よりも動作が機敏で、みんなに、
「本当に元気でいいわあ」
と誉められた。そうなるとますます、ゲートボールをするのが楽しくなってきた。たまに伯母もやってきて、
「がんばって」
と応援してくれる。モモヨは照れながらも、これが私の求めていたものだと思うようになった。
何はなくてもゲートボールの生活をするうちに、やや花畑状態だった頭も、霧が晴れてきて、以前と同じ、いや、以前にもましてしゃきしゃきするようになった。そのしゃきしゃきの陰で、泣いていたのが、ゲートボール仲間のじいさんたちである。彼女はふつうの人はいじめないが、ぐぢぐぢと文句をいったり嫌味をいう彼らには、はっきりと、
「あんたのここがいけない!」
といい放つ。理屈でいえばそうだが、家で邪険にされ、ゲートボールにやってきてまで、モモヨに叱咤されるじいさんたちは、気の毒といえば気の毒であった。が、そのように犠牲になってくれるじいさんたちのおかげで、モモヨはますます元気いっぱいの毎日を過ごし、体重も元に戻ったのである。
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夜明けの花札
明治生まれの、特に女性はそうだと思うが、娯楽をみつけることが苦手のようである。編物や和裁も生活上の必要に迫られて覚える場合が多く、楽しみとは少し違うような気がする。モモヨもそういうタイプである。和裁も洋裁も編物も、子供や自分のために身につけたもので、趣味や娯楽とはかけ離れている。自分が作らなければ裸でいなきゃならないので、とにかく時間に追われて物を作っていたのだ。子供たちも成長し、ふと考えてみるとモモヨには趣味がなかった。働くのは好きだが趣味とはいえない。針仕事はするけれど、これもかつての日常生活の延長で、嫌いなことではないが、とりたててやっていて楽しいというものではない。夫が亡くなり長男が結婚してから八十歳すぎまで勤めてきたまではよかったが、それ以降、彼女の楽しみといったら、テレビの海外ニュースをチェックすることくらいしか、なくなったのである。
毎年、正月、親戚一同は、行ける者はモモヨの家で集まることになっている。私は行ったことはないけれど、孫もひ孫もやってきてにぎやからしい。四、五年ほど前、子供が全員寝たあと、大人たちが集まって雑談をしていた。途中で睡魔に襲われた人は、勝手に抜けて布団にもぐりこむことになっているのだが、最後まで目をカッと見開いて雑談をしていたのは、モモヨの長男であるタカシ夫婦、次男、三男、三女の夫、そしてモモヨであった。時計を見ると十一時になっていた。正月の十一時など、ふだんの七時くらいの感覚である。そこであまり喋ってばかりいるのもナンだから、とゲームをすることになった。ゲームといっても、戸棚を捜してみつかったのは、ディズニーの絵合わせゲームとか、オセロとか、ダイヤモンド・ゲーム、いろはかるたで、平均年齢五十五歳がやるには、いまひとつ乗り気になれないものばかりであった。
「うーむ」
みんなが腕組みして悩んでいると、タカシが、
「あっ、そうだ」
といって二階に上がっていった。そして十五分ばかりして、戻ってきたときに手にしていたのは、花札であった。箱はボロボロで輪ゴムでとめてあったものの、札には影響がなく、
「よしよし」
と男性陣は乗り気になって、コタツ板の上をいそいそと片づけはじめたのだった。
「お姉さん、花札知ってる?」
モモヨは小声で聞いた。彼女は、
「まだ実家にいるときに弟たちとやった覚えがあるんですけどねえ」
という。困ったのはモモヨである。いろはかるたやディズニーの絵合わせならば、ドンと来いだが、生まれてこのかた、花札などやったことがないのだ。かといって、
「知らないから、みんなでやって。私はここで見てるから」
というような性格ではない。にこにこして札を配りはじめた男性陣にむかって、彼女は、
「知らないから、教えてちょうだい」
といい、八十六歳にしてはじめて花札の手ほどきを受けたのであった。
「たとえばこれは桜で、こっちには短冊が描いてあるでしょう。これで一組。坊主っていうのはこれね。だいたい絵がていねいに描いてあるのは、点数が高いと思えば間違いないの。ま、一回目は、どんなもんか、ためしにやってみよう」
男性陣の指導を、モモヨは正座して、
「はいはい」
と素直に耳をかたむけていた。ディズニーの絵合わせみたいなもんじゃないかと思ったが、やはり絵柄が日本的であるため、ミッキーやグーフィーよりは、親近感を覚えた。最初に配られた手札はいわゆるカスばっかりで、モモヨはちょっと落胆したが、次から次に札がめくられていくたびに、だんだん胸が高鳴ってきたのであった。
「どう? 簡単でしょ」
叔父にいわれてモモヨは元気よくうなずいた。第一回戦はいまひとつの点数だったが、
(このままじゃ、済まさない)
とモモヨは心の中で思った。そしてすぐ、第二回戦が行なわれた。男性陣はもちろん、モモヨも勝つために必死になった。相手がいい札を引くと、悔しくてたまらず、自分にいい手が来ると思わず頬がゆるんでしまう。もう一回、もう一回とやっていくうちに、まず伯母が、夜中の一時に、
「まぶたがくっついて、開きません」
といって寝てしまった。
「お母さんは平気?」
「私は平気ですよ。さ、やりましょ、やりましょ」
モモヨの体にはもりもりと力が湧いてきて、いくらでも花札ができそうだった。年寄りが「やる」といっても、周囲は、
「そろそろ時間だし、寝たほうがいいんじゃない」
といったりするものだが、うちの親類は違う。口に出したことばが即、その人の意思とみなされるので、
「口ではそうはいっても、腹の中で考えてることは違うんじゃないか」
などと、腹の中をさぐるようなことはしないのだ。その反面、かまって欲しいのに、ほっといて、などというと、
「あっそ」
と事もなげにいわれて、放ったらかしにされてしまう。だからいくら年寄りでも、モモヨが「やる」といったら、花札は永遠に続行されるのであった。
何回もやるうち、モモヨの手に花札はものすごくなじんでしまい、彼女は、
「こんな面白いものが世の中にあるんだろうか」
と感動すらしてしまった。博打打ちが目をギラギラさせて、お金を握りしめて賭場に通うのがわかったような気がした。面白いことをやって、そのうえ金がもうかるのならこんなにいいことはない。以前は映画やテレビで博打打ちが出てくるシーンを見ても、
「何であんなことにのめりこむのだろう」
と不思議だった。しかし花札を知ったモモヨは、やっと彼らの心情が理解できるようになったのである。もう一回、もう一回と札を配っているうちに、時計の針は午前三時をさし示していた。
「もうこんな時間か……」
男性陣も寄る年波に勝てず、そろそろやめようかなあ、といった気配になっていた。しかし気分がのっているときは、睡眠時間を食いつぶしても、そのときは疲労感などなく、テンションが上がっているので、逆に目がさえてしまうことが多い。まさにモモヨがその状態に陥っていたのである。
「こんな時間っていったって、ここまできちゃったら、何時だって同じですよ」
「そ、それもそうだな」
男性陣は素直にモモヨの意見に従い、再び花札の勝負にいどんだのだった。
五人で花札をいじくりまわしていると、だんだん夜が明けてきた。庭ではチュンチュンと元気よく雀がさえずっている。午前六時であった。
「よくやったなあ」
タカシはさすがにぐったりして、座布団の上に仰向けになった。
「そりゃそうですよ。十一時から始めたんだもの」
「ぶっとおしで七時間かあ」
「お義母さん、眠くないですか」
三女の夫が気を遣ってくれた。
「うーん、眠いのか眠くないのか、よくわからない」
徹夜あけの心情を正直に表わすモモヨであった。
「いやあ、ここまでやるなんて……」
男性陣はほとんど、よれよれだった。さすがに徹夜をしたモモヨも、ぐったりしたものの、それよりも面白かったという気持ちのほうが、ずっと勝っていたのである。
「まあ、どうしたんですか」
伯母が起きてきて、目を丸くした。
「今の今までやってたんだ」
「あらー」
あきれて物がいえない、といったふうであった。七時間、花札にどっぷりつかったモモヨたちは、仮眠をとる間もなく、また新しい一日に巻きこまれてしまったのだった。
モモヨは花札が忘れられなくなった。正月のときは、いまひとつ思うように点数が伸びなかったが、次にやるときは負けるもんかと思っていた。花札を自分の部屋に持ってきて、触っているだけでも、あのときの興奮がよみがえってきた。
「いろんなことをやってみるもんだ」
八十六歳にして花札に目ざめてしまったモモヨは、これからもたくさん楽しいことが待ちうけているような気がして、うれしくなってきた。彼女にしてみれば、せっかく花札を知ったこともあって、腕だめしをやりたかった。しかし毎日、一族が集まるわけでもなく、まさか結婚して別に住んでいる孫を呼んでくるわけにもいかない。彼女の腕はぶんぶんとうなっているのだが、残念ながら目ぼしい相手はみつからず、いつ花札をやるチャンスが来るかと狙っていたのである。
親類が集まることがあると、彼女は必ず花札をふところに忍ばせていた。雑談が終わり、
「何かして遊ぼうか」
という話になったら、すかさず花札をとり出して、にっこり笑おうと思っていたのだ。ところが、ここだ、と花札を出そうとすると、
「いや、そんなことよりも、外を散歩しよう」
と急に話がまとまってしまい、空振りに終わったことも何度かあった。彼女ははっきりした性格ではあるが、さすがに明治女であるから、図々しいことなどしない。花札をちらちらさせて、
「やろう、やろう」
と迫ることなんてできないのである。だからじっと、誰かが、
「花札をやろう」
と声をかけてくれるのを待っていたのだ。
モモヨが楽しみにしていた正月はやってきた。が、男性陣は花札には全く興味を示さず、コタツ板をひっくり返して緑色のラシャの面を出し、麻雀牌を手際よく積んでいた。
「あら、花札は?」
モモヨは棒立ちになってしまった。
「うーん、やっぱり麻雀のほうが面白いよ」
そういいながら男性四人はサイコロを振った。
「あのー、それは五人じゃできないのかね」
モモヨは仲間はずれになるのが嫌だった。せっかく花札を覚えたと思ったら、次に彼らは麻雀をはじめてしまった。もちろん麻雀もしたことがない。彼女は学習意欲が満々だったのにもかかわらず、
「麻雀は定員四人だから、無理だね」
といわれてしまった。カチャカチャと音がしていて、麻雀も面白そうだったが、彼女は相手にしてもらえなかった。
「どうしたんですか」
伯母が廊下をとぼとぼ歩いているモモヨに声をかけた。
「はねられちゃった……」
「えっ」
「花札をするのかと思ったら、麻雀なんだって。やったことないからわからないよ、ねえ。四人でいっぱいだからっていわれたよ」
「麻雀をはじめたら、また徹夜になりますよ。夜食でも準備しとかなきゃ、いけませんねえ」
「どうだかねえ」
仲間はずれになったモモヨは、心底がっかりした。また花札ができると期待していたのに、男性陣には彼らなりの楽しみがあったのだ。
「お正月に花札をやってねえ、徹夜までしちゃったんだよ。面白かったよ」
私に花札のときの話をする彼女は、本当にうれしそうにしていた。しかし孫の私としては、とにかく何にでも一生懸命になってしまうモモヨのことである、彼女には気の毒だが、老人博徒にならなくてよかったと、胸をなでおろしたのである。
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洗い張りにお針
モモヨは一九〇〇年、キャラメル、まんじゅう、あられ、せんべいなどを取り扱う、菓子問屋の長女として生まれた。上に二歳違いの兄がいて、両親とも女の子の誕生を、とても喜んだのだそうである。彼女が自分が生まれた家の中で、いちばん鮮明に覚えているのは、居間に飾ってあったイギリス製の八角時計のことだった。その時計は七、八十センチ程の大きさで、のんびりと振子を動かしていた。幼いころのモモヨは家の中をちょこまかと走りまわり、しーんとした居間の中で、八角時計が動いているのを見上げていた。その時計があるせいで、居間ではおいそれと騒げない雰囲気がただよっていたのである。
「これは父さんが横浜にいったときに買った時計だ。これは父さんよりも、ずっと歳をとっているんだぞ」
モモヨの父は時計が大の自慢で、酒に酔うといつも八角時計を横浜の骨董屋でみつけた話をした。幼いモモヨ兄妹は、内心、うんざりしながらも、正座して父の話を聞いていたのだった。
モモヨの家は問屋街にあり、麩屋と蒟蒻屋にはさまれ、むかいは漬け物屋だった。蒟蒻屋の同い歳のたみちゃんとは大の仲良しで、二人でよく遊んだ。二階建ての家は一階が店、台所、座敷、便所、風呂になっていて、裏に京都や大阪から連れてきた職人さんたちが菓子を作る工場があり、二階が家族の使う部屋になっていた。彼女の父は手に菓子作りの技術もなく、商売も素人だったが、妙なことを思いついては行動を起こし、よく自爆していた。夜、食事が終わると、つっと席を立って部屋にこもってしまう。
「また、始まりましたね」
母は事もなげにいい、漬け物をポリポリとかじった。また始まったのは、得体の知れない機械の発明である。
「おい、おい、|つる《ヽヽ》。見なさい、見なさい」
何日かお籠りを続けていたある日、父は母の名を大声で呼びながら、紙を手に持ち、部屋からとび出してきた。
「どうなさいましたか」
「ほーれ、よーく聞きなさい。これが自動的に串がさせる機械だ。職人がひとつひとつ苦労して作った団子を並べておけば、一瞬に串をさすことができる。これが完成すれば、職人は串をさす分だけ楽になる、というわけだ」
父は満面に笑みを浮かべて立っていた。
「まあ、まあ、それはようございますねえ」
母はそういいながらも半分はあきれていた。ついこのあいだも、一度にまんじゅうが木箱いっぱい作れる機械を製作しようとして、失敗したばかりだったからである。
「今度は大丈夫だ」
父は自信を持っていいきった。
「おめでとうございます」
兄がそういって頭を下げたので、モモヨもそれにならって、ぺこりと頭を下げた。
「うん。ありがとう」
父はすでに機械が完成したかのように、堂々としていたが、母は、
「また、お金がかかるんでございましょうねぇ」
と気を揉んでいた。
「いや、心配するほどのことはない」
今回は相当に自信があるようにみえた。ここまで家族に宣言した手前、彼は機械を完成させなければ許されない立場に陥ってしまったのである。午前中は店で客の相手をし、午後は明日のための商品の補充がある。夕食後が父の機械作りの時間であった。モモヨはこっそりと、裏庭の工場の前で、木材を買ってきて試作品を作るのに没頭している父の姿を眺めていた。
「まだ起きていたか」
「はい」
「もう寝なさい。父さんは区切りのいいところでやめるから」
「はい、おやすみなちゃいませ」
「うん、おやすみ」
幼いながらモモヨは、あれで本当に大丈夫なんだろうかと不安になった。裏庭には山のように板や木くずや歯車が積み上げられていたが、あれが形になって団子に串をさすようになるとは、とても思えなかったからである。
「父さんの機械はでき上がるのかなあ」
兄が母に、ぼそっとつぶやいた。
「一生懸命おやりになってるけどねえ」
「とても小さい大八車のこわれたようなものが、置いてありました」
「えっ、……そう」
母はそれを聞いて、今回もダメだと悟ったのに違いない。そして案の定、一度に団子に串をさす機械は、一同の前に姿を現わすことはなかった。
「機械はどうなりましたか」
とたずねると、父がとたんに不機嫌になるので、みんな素知らぬふりをして、この件には触れなかった。モモヨがついついこのことを聞こうとすると、兄が横から袖をひっぱり、気くばりをみせていたのであった。
モモヨの兄はとてもおとなしく人見知りをしたが、モモヨはにこにこと愛想のいい子供だった。午前中に店にやってくる人々の姿を見ては、ちょこんと店に座って、
「いらっちゃいませ。ありがとうございまちた」
とおじぎをして、みんなにかわいがられていた。母には、
「こんなところにいないで、奥にいなさい」
と叱られたが、ざわざわと人の気配がすると、ついつい店をのぞき、愛想をふりまきたくなるのであった。
モモヨの父も母も、彼女の兄に店を継がせようとは、全く思っていなかった。何代も続いた老舗でもなく、生活のために始めた商売であったから、
「お前たちは、好きなことをやればよい」
と、モモヨたちにいっていた。子供たちは、商売を覚えることには背をむけて、本を読んだり、好き勝手なことをしていたのである。
モモヨが小学校に上がるころには、妹が二歳になっていた。お手伝いさんがいたので彼女は子守りをすることもなく、
「元気なモモヨ嬢ちゃん」
として、問屋街を走りまわっていた。
「こんなにお転婆じゃ、ますます男の子をいじめるようになるんじゃないだろうか」
母はモモヨが小学校に着ていく、木綿の赤っぽい太目の縞柄を縫いながら、ため息をついていた。それでなくても、男の子の首根っこをつかまえて、泣きじゃくるのを今度はつきとばし、
「あっかんべー」
をするのを、何度も目撃されていたのだ。
「あーあーあー」
女の子なのに、という口に出さない言葉が含まれた周囲の人々の声を聞いても、父は、
「元気がいちばん」
といってにこにこしていた。
「それも、そうですね」
心配している母も、だんだん気分は明るくなり、モモヨのために何枚も、かわいい縞の着物を縫い、教科書を入れるための袋も作った。毎朝、髪の毛を母におさげに編んでもらい、縫ってもらった着物を着て三尺帯を締め、袋を持ち、下駄をはいて家をとび出した。もちろん仲良しのたみちゃんを誘うのも忘れない。小学校には近所の子たちと連れ立っていく習慣だったので、町内のあちらこちらでは、縞の着物を着た女の子と、絣の着物の男の子がぞろぞろと歩いていく姿が見受けられたのである。小学校には貧しい家の子もたくさんいた。眼病をわずらっていても医者にいくことができない子がいて、モモヨたちはみんながいじめるのに便乗して、一緒になって悪態をついた。さすがに相手もぴーぴー泣くような軟弱者ではなく、一人で立ちむかって、互角の勝負をしたそうだが、モモヨは私に当時をふりかえった話をしながら、
「本当に悪いことをした」
と反省していた。そのような貧しい家庭の子供は、小学校四年生になると、次々と学校をやめていった。口べらしのために彼らは奉公に出される。モモヨは彼らを見て、
「勉強ができなくなって、かわいそうに」
と思ったそうだ。モモヨはとにかく勉強が大好きな子供であった。予習復習は欠かさずやり、わからないところは兄に聞いた。二階の子供たちの八畳の部屋には大きな塗りの座卓が置いてあり、兄妹が一つの机で勉強し本を読んだ。モモヨは先生に誉められる学業優秀な子だったのである。
学校から帰ると、モモヨは桑畑で桑の実を取ったり、花びらで布をこすって色を染めたり、麦わらでかごを編んだりした。が、いちばんのめり込んでいたのが、お手玉だった。母から端切れをもらい、作り方をおそわってちくちくと針で縫う。こういうことは六歳くらいからみんなやっていた。四角い布をはいでお手玉にするのは難しく、最初は丸い布を使って縫ってばかりいたという。
「こういうのも教えてもらったよ」
と友だちがおばあさんから聞いてきた、新しい作り方をまた教えてもらい、中にあずきを入れて箱にためておくのが楽しみだった。一度、とても気に入った布で作ったお手玉を、うっかり箱にしまわないでいたところ、ネズミにかじられてしまった。虫がつかないように、豆を炒るのは知っていたが、ネズミにまでは気がまわらなかったのだ。
「絶対、食べられないようにしよう」
悔しくてたまらなかった彼女は、考えたあげく、小石を中にいれた。
「ところが遊んでみたら、手が痛くて痛くてまっかになっちゃって、お母さんに怒られちゃった」
あれこれ考えて自爆するところは、父に似たようであった。
彼女が母に似ているのは、針仕事が好きなところだった。母は袷の羽織を一日二枚縫い上げるので、店の仕事をやるかたわら、近所の着物を縫っていた。もちろん家族の着る物もすべて母の手によるものだ。モモヨが天長節に着ていく紋つきの黒の振袖も袴もである。小学校二年のときには、モモヨは運針の名人といわれるくらいの腕前になっていた。おさんどんは嫌いだし、やれといわれたことがなかったので、無視していたが、勉強と針仕事はやめることができなかったのだ。端切れを集めてお人形の着物や布団を縫うのも好きだった。お手玉にもならないような小さな小さな切れはしも集めておいて、掌に乗るような人形のものを作る。そんな小さな布でも捨てたのがわかると、
「この布を作るために、どれだけの人が苦労していると思っているのですか」
と母にお尻を叩かれる。鼻息でとびそうな小さな布も、大事に大事にためていた。別に大作を作るわけではないのに、布や糸をいじっているだけでも、楽しかったのである。
小学生のとき、モモヨがいちばん怖かったのが、学校の幻燈会だった。年二回、行なわれるのだが、そのときはいったん家に帰って夜になるとまた学校へ行った。校庭で映写するので、夜でないと見られないからである。いくら昼間は元気でお転婆な子供でも、夜には弱かった。それはみんなも同じらしく、まるでひよこみたいに、みんなくっつき合って、そろりそろりと歩いて学校にむかった。大人がひとりついてきてくれるので、多少は心強いものの、もたもたしていると、後ろからお化けにすっとさらわれそうな気がした。だからたて一列に並ばず、団子状態になっていたのだった。
「大丈夫、大丈夫」
そう励ましてくれる大人はよかったが、子供をからかうのが好きな人だと、モモヨの恐怖はつのった。
「おじちゃんが、せんだって山に登ったらなあ、そこに、うずくまっている年寄りがいたんだよ」
「ひえーっ」
まだ何もいわないうちから、子供たちは体をふるわせた。モモヨももうちょっとで口から声が出そうだったが、じっと我慢していた。
「どうしたんですかっていっても、何もいわない。もう一度、どうしたんですかっていって肩に手を置いたら、年寄りがふり返った。すると年寄りの顔には、大きなまっかな口しかなかったんだぁ」
「うわぁ」
ひよこたちはしっかとお互い、抱き合いながら、ぶるぶるふるえていた。モモヨももちろん、たみちゃんと抱き合ってふるえていた。おじさんは人通りや民家があるところでは、あたりさわりのない話ばかりしているのに、みんなが気味悪がっている竹やぶにさしかかったときを見計らって、怖い話をするのだった。幻燈会は楽しみだったが、夜道を歩くのだけは怖かったとモモヨは未だにいう。だから、私が、
「何を見たの?」
と聞いても、全く覚えていなかった。幻燈会の思い出は竹やぶの怖さとして、残っていたのである。
モモヨは冬生まれのせいもあるかもしれないが、寒いのは大好きだった。
「寒い、寒い」
と青っ洟を垂らして、おさる(綿入れのちゃんちゃんこ)の裾や、絣の着物の袖口でふきとっている男の子もいたが、彼女は垂れそうな鼻水も、ぐぐっと鼻の奥深く吸い込んで、母が縫ったおさるを着て元気にたみちゃんと登校していた。冬の雪の日も、さすがに足袋ははくが下駄ばきなので、歯の間にだんだん雪がつまってきて、高下駄状態になってしまう。そうなるとモモヨは、足をぶんぶんと振りまわして雪をふり落とした。それを何度も何度も繰り返して、学校にいくのである。しとやかな女の子は、つっと門柱や塀によりかかって、下駄をぬいで、ていねいに雪を払っていた。しかし元気が取り柄のモモヨは、いちばんてっとり早い、男の子がやるのと同じ、「下駄をはいたまま、ぶん回し方式」をとり、それを目撃した良家のざーます奥さんの眉をひそめさせたのであった。
モモヨは上の学校に進学することになった。仲良しの蒟蒻屋のたみちゃんは、家業を手伝うことになったので、進学はしなかった。
「モモヨちゃん、上の学校に行っても、仲良くしようね」
彼女はそういうたみちゃんと、麦わらで鳥籠を編みながら、少し悲しくなってきた。当時、男の子の学校は三校あったが、女子のための学校はたった一校しかなく、進学したい女生徒は、一時間も二時間もかけて歩いていかなければならなかった。問屋街の顔見知りの女の子たちも、みな家業を手伝うことになっていた。特に他に兄弟がいないと、すでに親が結婚相手を決めていて、店を守るため、おかみさんとしての修業が待ちうけていたのであった。ところがモモヨの父は、
「好きにすればよい」
しかいわず、全く親の意見を強制しなかったので、彼女は自分の望んだとおり、片道二時間歩いて、学校に通い始めたのだった。
当時、世の中には大正色という地味な渋い色合いの袴がはやり、いちおうは女の子だったモモヨも、親にねだって買ってもらった。特別な行事のある日には、髪の毛にリボンをつけ、天長節は五つ紋つきの中振袖にえび茶色の袴がお決まりのスタイルであった。彼女は毎日、毎日、雨の日も雪の日も二時間歩いて通った。モモヨのクラスの担任の先生は、ものすごく気が強い、ややヒステリー性格気味の女性であった。その先生が音楽と体操以外のことを教えるため、一時間目に先生がヒステリーを起こすと、丸一日、モモヨたちは嵐の中で過ごさなければならなかった。先生はいつも鞭を持ち、神経質そうに弄んでいた。そして生徒に問題をやらせてみて、それができないと、
「どうしたのですか!」
と叫んで、鞭でビシビシと机の上を叩いた。なかにはその音を聞いただけで、目にうっすら涙を浮かべる子もいたが、モモヨは、
(あらあら)
と思いながら机を鞭打つ先生を眺めていた。
(あんなことしたって、勉強ができるようになるわけじゃあるまい)
運良くモモヨは、解ける問題ばかりあててもらったので、鞭の仕打ちはうけなかったが、成績がいまひとつの子には、いつも怒鳴り声と鞭の音がとんできた。体は絶対に叩かなかったが、ビシッという音が教室に響くと、最初は怖くて体が震えた。
モモヨのように物事を深く気にしないタイプは、こういうことにもすぐ適応したが、そうではないタイプの子は、しくしくと泣き、学校をやめていったりした。
「あら、まあ、あれくらいのことで」
と、クラスメートがやめていくのを知った彼女はつぶやいたが、当のクラスメートにしたらそれは、まるで全人格を否定されたような出来事なのだった。そのころ父はまんじゅうのなかにクジを入れる方法で、大儲けをした。当たりクジが入っていると、菓子類がタダになる。客がわれもわれもとやってきて、一日中、大忙しだった。そんななかでモモヨは、流行の袴をはき、教科書をかかえて学校に通っていった。遠足の山のぼりも下駄でやった。とにかく歩けるだけ歩いた毎日であった。近くに学校の友だちがいないので、家に帰ると本屋さんにいった。「吾輩ハ猫デアル」「少女界」などを手にして、座卓の前で読みふけっていた。親には、
「おさんどんを手伝いなさい」
といわれたことは一度もなかった。彼女が本に没頭していようが、針仕事をしていようが、台所に連れていかれることは皆無だった。ただ年末だけは、餅作りを手伝った。年末になると、毎年同じ顔ぶれの「餅搗き屋さん」がやってきた。体の大きな男三人が、臼と杵持参で、家々をまわるのである。モモヨの家でも毎年、一斗のもち米を搗いてもらっていた。そして搗き上がった餅の一臼めは、みんなであんころ餅やきなこ餅にして食べる。次からはお供え用や丸餅、水餅にした。搗きたての餅を、くるくると丸めたりするのは大好きだったが、日々のお総菜を作るのは嫌いなモモヨであった。食べる物を作るのに参加するのは、年末のこのときくらいのものだった。正月に銘仙の新しい着物を着て、雑煮を食べると、
「ああ、この餅は私が丸めたのだ」
とうれしくはあったが、おさんどんよりもモモヨは本を読んだり針仕事をするほうが、もっと好きだったのである。
モモヨは学校に通いながら、近所のお針の塾に通うようになった。今までは母がふだん着から紋つきの振袖まで縫ってくれていたが、これからは自分の着る物はすべて自分で縫わなければならないのだ。お針の塾では、たみちゃんも一緒だったので、モモヨはとてもうれしかった。学校に行ってヒステリーの先生の鞭の音を聞くよりも、近所の幼ななじみの女の子たちと共に、ちくちくと針を動かしているほうが、心がなごんだ。塾を開いている先生は、独身の三十すぎのおとなしい人で、ひとつひとつていねいに教えてくれた。単衣で手ならしをしてそれから袷を縫う。帯も袴も綿入れも縫った。学校の授業でもお針はあるのだが、塾の先生のほうが能率的な方法を教えてくれた。着る物、自分の身を飾る物に興味を持つような年頃になり、彼女も小間物屋に通うのが楽しみになった。
週に一回、髪結いさんが、髪を梳くのだけが仕事の梳き子さんを連れ、道具を持って家に来ていた。
「奥さんの髪は多いから、梳くのが大変だ」
と髪結いさんは来るたびごとに言っていたという。そうやって母は一週間に一度、丸髷を結い直してもらっていた。髪結いさんもいろいろな柄の手絡を持ってきて売ってはいたが、やはり小間物屋のほうが種類が豊富にあった。たみちゃんと誘いあって、銘仙やお召に着がえて小間物屋をのぞくのが楽しみだったが、母からは、
「まだ学生なのだから、あれこれ何でも買ってはいけません」
といわれていたので、欲しい手絡やリボンも、ほとんどはあきらめざるをえなかった。
今までは子供扱いされていたモモヨも、だんだん一人前の女性として扱われるようになり(といっても、お針だけのことだが)、母と共に、家族の着る物は全部縫うようになった。学生のときはまだ大目に見てもらって、自分の着る物だけ縫っていればよかったが、卒業して家事手伝いの身となってからは、布地と布地が縫い合わさっている物は、すべて母とモモヨの手で作らなければならなかったのである。
髪を桃割れに結ったモモヨは、午前中は明るい色の縞の着物に半幅帯を締めて、店に出た。
「あの嬢ちゃんが、こんなに大きくなったのかね」
とみんなにビックリされ、気恥ずかしい思いをしたこともあった。店売りの仕事は午前中で終わり、午後はお針の塾に通った。ついでに本屋さんにも寄って、雑誌や本を買ったりもした。
「あの雑誌を買ったよ」
と話すと、たみちゃんやお針の塾の友だちに、
「読んだら貸してね」
と次々に予約をうけた。友だちが本を買うと、それを貸してもらうのはあたりまえだった。みんながみんな欲しい本は買えなかったので、相互扶助をしながら、読書欲を満足させていたのである。
母、モモヨ、妹は座敷で三人、顔をつき合わせて、縫い物をした。モモヨと違って妹は、もうひとつ器用じゃなかったので、自分の物を縫うにも苦労していた。が、彼女は料理を作るのがとてもうまかったので、モモヨは妹のことはいじめられなかった。毎年、家族全員の着物は洗い張りをして縫い返していた。新年には仕立ておろしを全員が着るので、その分も縫わなければならない。まずモモヨが母から教えてもらったのは、洗い張りに使う糊の作り方だった。
「力を入れて、揉み出すんですよ」
ごはんの残りをためておいて、さらしの袋に入れ、それを少しの水でもみ出すと、どろりとした糊状になる。それをほどいて洗った反物につけて板にはりつけるのである。家族全員、五人分の着物、綿入れ、布団、すべてを縫い返すのは重労働だった。裏庭のそこいらじゅうに反物を張った板や|伸子《しんし》が広げられ、雨など降ろうものなら大騒動になった。綿入れも布団も、まずほどいて綿を出し、布地に石けんをつけて洗うのだ。空をうかがいながら洗い張りをした布は、積み上げると一メートル程の高さになる。それを年内に全部縫い上げなければならないのだった。
(腕が鳴る、腕が鳴る)
ひと山になった布を見ると、モモヨは胸がわくわくした。妹は乗り気でない顔をしていたが、モモヨは、
「これから大仕事が始まる」
とうれしくてたまらなかった。そんな女性軍の姿を見て、父は、
「精が出るなあ、毎年」
と感心していった。
「ま、あまり根をつめないようにな」
そういって父は奥に引っ込んだ。
「お父さんはこのごろ、機械を作ったりしないね」
妹が母に小声でいうと、母は、
「クジまんじゅうが当たったからねえ。もう機械を作る気がなくなったようでね。でもいつも紙に何やら書いては、じっと腕組みしておられるけれど」
裏庭にはできそこないの妙な型に組み立てられた木切れが、山のように放ったらかしにされていた。家族に公言すると、失敗したときに恥をかくのがわかった父は、誰にもいわずに新たな機械作りをもくろんでいるらしかった。しかし誰もそのことには触れず、知らんぷりしていたのである。
「洗い張りした布を中に入れると、あっという間に縫い上がって出てくる機械を作ってくれないかしら」
妹はなかなかすすまない、自分の着物を持てあましてモモヨにいった。
「そんなもの、できるわけないでしょう」
「そうですよ。そういうものができたって、ちっともよくありません。ひと針、ひと針縫っていくからこそ、着物なんですから。横着をしてはいけませんよ」
母は妹をたしなめた。母は料理、お針、客あしらいなど何でもそつなくこなす働き者だった。幼いころに両親が亡くなり、兄が親がわりになって育ててくれたが、自分ひとりでも食べていかれるようにと、お針の塾に通って、技術を身につけた人だった。店の経営、職人さんの相手など、どちらかというと母がてきぱきととりしきっていた。一方、父は現実派の母に比べ、どちらかというと、夢ばかり見ているタイプであった。骨董品に目がなくて、出物があるという話を聞くと、出かけていき、仏像だの掛軸だの、さまざまなものに目をつけてきた。いちおうは妻に、
「こういう出物があって、買おうかどうか迷っている」
というのだが、そのときはもう手付金を渡しているのを彼女はわかっていた。だから床の間の掛軸が替わっていたり、仏像がちんまりと立っているのを、
「おやおや、またか」
と思いながら見ていたのであった。モモヨは両親が喧嘩をしているのを見たことがなかった。現実派の母と夢見る父はうまいバランスで生活していたのである。
「姉さんは、どういう方のお嫁に行きたいですか」
小生意気になってきた妹は、モモヨがドキッとすることを、着物を縫いながら平気でいった。
「そ、そんなこと、考えたこともないわ」
しどろもどろになるのを、母は横目で見ながら、ぷっとふき出した。幼ななじみの近所の女の子たちの中には、すでに結婚している子もいた。ついこの間まで、桑畑で桑の実とりをしていたのに、大きなお腹を抱えて実家に帰ってきたりしていた。そういう友だちの姿を見るたびに、モモヨはそういう年齢に自分もなったことが信じられなかった。
「考えたこともないっていったって、そういうわけにもいかないでしょう」
「……」
モモヨはうつむいて針を運びながら、こういう問題は考えるのはよそうと思った。小学校は男女別学だし、上の学校も女子だけ。もちろんお針の塾にも男性はいない。雑誌の小説などでは、女学生が一高生と知り合ったりする場面もあったが、モモヨには憧れることもできないくらい、現実離れした話だった。近所の問屋街の青年たちは、生まれ育った店を守ることが決められていた。実は両親は、
「モモヨは商人の家庭にはむかない」
と話し合っていた。商人の嫁というのは、すべてをそつなくこなし、働き者で、家の内も外もきちんとまとめていかなければならない。たしかにモモヨは愛想もいいし、物事ののみ込みも早いほうだった。しかし働き者かといわれたら、首を横に振るしかなかった。商家に嫁いで、こまねずみのようにくるくると働くタイプではなく、モモヨは箱入りで育ってしまった。だから両親は学校を卒業しても、やいのやいのと縁談を持ってきて、うるさくせっついたりすることはなく、
「時が来れば、何とかなる」
と鷹揚にかまえていた。もともと結婚願望が強くなかったモモヨは、親に何もいわれないことも手伝って、家でのんびりと過ごしていたのである。
妹がこまっしゃくれた口をきいて、モモヨがドキマギしたり、母に昔の歌を教えてもらい、三人で歌いながら手を動かしているうちに、一メートルの高さに積み上げられた布は次々に着物になり、銘々に分けられた。何年か着た着物も洗い張りをして縫い返すと、新品のようになった。自分が縫い返したら、変なふうになったとしょげる妹を母はなだめたりしていた。妹とは四歳しか違わないのに、ずいぶん自分が歳をとったような感じがしてくるのだった。
モモヨたちが縫った新しい着物を着て、みんなで新年を祝った二か月後、突然、兄が亡くなった。友だちと山に登ったところ体調をくずした。しばらく臥せっていたが、肺炎をこじらせて、あっという間に亡くなってしまったのだった。モモヨをはじめ、家族一同、びっくりして涙も出なかった。おとなしく、妹たちの勉強をよくみてくれる、優しい兄だった。葬式が終わってはじめて、母が、
「こんな若くして亡くなるなんて」
と、たった一度だけ泣いているのを見たが、次の日から母は、何事もなかったかのように働いていた。父は苦虫をかみつぶしたような顔で、ずっとむっつりしていた。兄弟姉妹が亡くなるのは、モモヨの住んでいたあたりでは、ふつうに近い出来事だった。赤ん坊も生まれたと思ったらすぐに亡くなってしまうし、子供は無事だが、産婦が亡くなることもよくあった。もちろんジジババはよく死んだ。寒い時期や季節の変わり目には、葬式がぶっ続けで行なわれることもあった。が、まさか自分の家がそういう災難に見舞われるとは、モモヨは想像すらしなかったのである。長男が亡くなっても、もともと家業を継がせる気がなかったので、モモヨの生活は変わらなかった。
二十歳になるまで、モモヨは家にいて、おさんどん以外の家事手伝いをしていた。たみちゃんも嫁ぎ、お針の塾の仲間もほとんど結婚していた。ある日、父がモモヨを呼んで、彼女の従姉の嫁ぎ先の話をした。彼女は彼らのことはよく知っていた。従姉はモモヨよりも三歳年上で、一年ほど前、警察署に勤める男性と結婚した。しかし結婚して三か月程で、従姉は亡くなってしまった。その話を聞いてモモヨたちは驚き、
「お気の毒に」
といった。父は彼女に、
「あの男性はなかなかよい人だ。どうだ、結婚する気はないかね」
と切り出した。モモヨは一度、彼に会ったことがあった。見るからに人柄のよさそうな、実直そうな人で、悪い印象はなかった。
「よく考えていいが、私はとてもよい話だと思う」
父は暗にこの話を勧めていた。男性の両親はすでに亡くなり、一人息子だった彼は天涯孤独であった。両親が残してくれた広大な土地を所有していたが、それを元手に何かを興すといったことは苦手だったので、亡くなった父親の友人の世話で警察署に勤務していた。モモヨは断わる理由が見当たらなかったので、彼と結婚することにした。父も母も大騒ぎをするわけでもなく、
「それでは話を進めましょう」
と、淡々と事は運んでいったのだった。モモヨの結婚が決まったのを知った母の兄である伯父は、とても喜んでタンスと鏡台を嫁入り道具にと買ってくれた。タンスは五十円、鏡台は二十円であった。彼女が、
「あらあら」
と思っている間に、嫁入り道具が準備されていった。母は嫁入りのための着物を選ぶのが、うれしくてたまらない様子だった。家から歩いて一時間程離れたところに、有名な呉服店があった。冬場に、店に出向いて、
「絽の反物を見せてほしい」
といっても、小僧さんが、
「はい、承知いたしました」
といって奥に引っ込んでいく。大きな蔵と店が廊下でつながれていて、どの季節にいっても、一年中の反物が買えるので、嫁入り用はここで揃える人が多かったのだ。母は結婚式用の濃い紫の反物に紋入れをたのみ、それ以外にもひととおりのものを揃えた。時折、問屋街に京都から反物を運んでくる男の人がいて、彼から母が気に入って買った帯があった。円山応挙の写しなのか、竹林で虎がガオッと吠えている柄で、モモヨもその柄が気に入って、嫁入り道具のタンスの中に入れたのだった。
モモヨは結婚式まで、夫となる男性と、ろくに話をしたこともなかった。まだ顔を知っているだけマシで、式のときにお互い始めて顔を合わせる男女もいた。モモヨが結婚するずっと前、両親が商売仲間の息子の結婚式の話をしていたのを耳にした。新郎新婦は式が初対面だったが、相手の容貌を気にした男性のほうが、仲に入ってくれた人に、相手がどういう顔かをしつこくたずねた。それならばと仲人が絵か写真かをみせて、男性は納得したのだが、いざ式のときに顔を合わせてみたら、ずっと顔立ちが落ちるので、男性は結婚しないと怒り出すわ、新婦は泣きじゃくるわで、大騒ぎになったというのだ。
「親がいいっていう人だから、いいのだろう」
モモヨは何の疑いももたずに、結婚式の日をむかえた。自宅で高島田を結い、綿帽子をかぶり、紫色の紋つきを着た。近所の人が集まって食事をし、酒を飲む、簡素な式であった。ふつうはここで、新婦は新郎の住まいに行くものである。二度と実家の敷居はまたぐなという親もいる。しかしモモヨの両親は、新郎に、
「あなたも大変でしょうから、しばらくうちに一緒に住んだらどうでしょう」
と提案した。すると彼は全く躊躇することなく、同居に同意した。男の面子がつぶされるとか、面目が立たないとかいったことは考えない人だった。だから結婚したにもかかわらず、翌日から彼は菓子問屋から警察署に勤めに出た。伯父に買ってもらったタンスと鏡台は、嫁入り道具のはずなのに、モモヨの家に置かれたままだったのである。
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発明狂の父と夫
「あの、名前のことなんだが……」
モモヨの結婚相手は、一段落したときに、口ごもりながら切り出した。
「はあ」
夫の名前は五郎助といった。男らしくキリッとした名前をつけたのだと、世話をしてくれた伯父がいっていたのを、モモヨは思い出した。
「どうかしましたか」
「あのなあ、自分の名前が嫌でたまらないんだ。所帯も持ったことだし、これからは私が気に入っている名前で呼んでくれないか」
モモヨは少し驚いたものの、
「よろしいですよ」
と答えた。彼が自分のために自分でつけた名前は「孝明」だった。彼はまるで弁解するかのように、
「私は長男だというのに、どうして五郎などとつけたのだろう。そのうえ、助までついているなんて、妙だと思わないか。昔の侍じゃあるまいし」
と、まくしたてた。
「五郎助も悪くありませんけれど」
新妻のモモヨは、初々しく、気配りをみせたが、彼はキッとした顔で、
「いや、これからは孝明になる」
と、いい切った。
「どうしても戸籍の名前でなくてはいけない場合以外は、孝明だ」
モモヨはきっぱりと新妻の前で宣言する夫の姿を眺めながら、内心、
(ふーん)
と思っていたのだった。
孝明はモモヨの家から、毎日、警察署に通っていた。独身のときは、おさんどんをすべて母まかせにしていたモモヨだったが、さすが朝食だけは作るのをちょっと手伝った。そして彼が帰ってくるまでは、店に立ち、針仕事をして過ごした。彼はいつもモモヨに、
「こういう仕事は体がきついから、やめたい」
と話していた。知人の口ききで就職したこともあり、自分勝手にやめるわけにはいかないのが辛そうであった。
「十年間勤めたら、恩給がつくから、それから一年、御礼奉公をしたら、やめるから」
彼は仕事をやめる計画を、ほとんど毎日のようにモモヨに聞かせていた。
「はい、どうぞ」
そのたびに彼女はそう答えていた。孝明はマメな男であった。帰り道、丸髷を結っているモモヨのために、櫛や飾りを買ってきてくれたこともあった。
「よく買ってこられましたね」
女ばかりの店の中に入って、買物をしてきた孝明にビックリしていると、彼は、
「そうかな」
と首をかしげ、
「そういえば、じろじろ見られたな」
とぼそっといったりする。あまり頓着しないタイプなのだった。
モモヨが妊娠したのがわかったのを契機に、二人は駐在所に移ることになった。そこは二間の住まいと裏に畑がついていた。他にも二、三軒候補があったのだが、彼が、
「ここがいい」
といって決めたのである。
「広い畑があるのがいいな」
モモヨは正直いって、肉体労働は大嫌いであった。彼が喜んだ広い畑も、彼女にとってはただの地べたであったが、彼は時間さえあれば一人で黙々と土を耕し、種を植えて水をやった。
「お前もやりなさい」とモモヨに労働を強制することもなく、ただ一人で汗を流している。そういう姿をモモヨは大きなお腹をかかえて、ぼーっと眺めていたのだった。生まれてからずっと親元にいたモモヨは、夫婦で所帯を持って、とまどうことばかりだった。針仕事はともかく、日常生活の基礎となる、おさんどんはほとんどやったことがない。それが結婚してはじめて、彼女の身にふりかかってきたのである。引っ越してきた翌日、モモヨは主婦としての役目を果たすため、土間のかまどに火をたきつけ、御飯をたこうとした。彼は朝食の前のひと仕事を畑でやっていた。小一時間ほどして、彼が汗をふきふき家の中に入ると、まだ朝食はできている気配はない。慣れていないこともあるから、ま、のんびり待つかと、鷹揚にかまえていたが、いくら待っても目の前に朝食が出てくる様子などないのだ。職業上の立場もあるので、彼は日常の業務に入った。近隣近在の人々が通り過ぎるときに挨拶していく。にこやかに応対しながらも、彼はお腹が空きすぎて、くらくらしそうになった。いったいどうなっているのかと、そっと土間をのぞいたら、かまどの前で放心状態になっているモモヨの姿があったのだった。
「どうした」
声をかけると、モモヨはうつろな目で、彼のほうをむいた。
「火が……」
「火がどうした」
「火が、火がつきません」
「えーっ、まだ火もついていないのか」
あわててかまどの中をのぞきこむと、点火に失敗した残骸が山のようになっていた。
「しょうがないなあ」
気まずい沈黙が流れた。モモヨは真っ先に、ひとまわり年上の夫に怒られる、と覚悟した。しかし彼は、ひょいとしゃがみこみ、
「じゃ、私がやろう」
といって、点火作業をはじめたのだった。モモヨは傍で、ぼーっと彼の手元を眺めていた。特にモモヨを怒るわけでもなく、彼は熱心にかまどの中をのぞきこんで、おさんどんという別の業務に専念していた。やっと火がつき、お釜の中身も音をたてはじめると、彼は御飯たきの段取りをモモヨに指示し、居るべき場所に戻っていったのである。
私が新婚当時のモモヨのお間抜けぶりをからかうと、彼女はムキになって弁解した。九十すぎの老婆がムキになるのを、私ははじめてみた。
「あれはね、私が料理ができなかったからじゃないの。実家はガスを使ってたけど、駐在所は薪だったから、火がつかなかっただけ!」
半分意地になって、私は悪くないといい張っていた。しかし話を聞いていると、やっぱり彼女は、肉体労働というか、当時の日常生活にはむいていないし、彼女自身もやりたがらなかったようである。
「畑があったんだから、最初は畑仕事をやらなくても、だんだんやるようになったんでしょ」
「ううん」
モモヨは首を横にふる。
「私は生っているナスやキュウリをもいだだけ。イモはおじいさんが、朝、掘ってくれた」
朝、起きると彼はまっさきに畑にとんでいき、丹精こめて育てた野菜の出来具合を調べ、ざるを持ってきて、食べごろの野菜をもいで、
「モモヨ、ほら、こんなに豊作だ」
と喜んでみせたりした。モモヨは、
「まあ、たくさんできて」
と喜んでいるだけである。手伝えといわれないのをいいことに、彼女は畑仕事には全く手を出さず、おいしい野菜を料理して食べるという、いいとこどりをしていたのであった。彼は、モモヨにたのんでも、らちがあかないと思っていたのか、それとも頭に事が浮かぶとすぐ行動しなきゃ気がすまないタイプだったのか、さだかではないが、何でもやる男だった。家の中が汚れていると思っても、ふつう男性は何もしないものである。
「おーい、ここを掃除しろ」
と妻には命令するものの、自分は何もしない。ところが彼は、ホウキを持つことも包丁を持つことも、鋤や鍬も下肥の桶をかつぐことも、草むしりもいとわなかった。人にたのむよりは自分ですべてをやったほうが早い、と考えるタイプなのだった。
「まだ飯も炊けないのか、女のくせに」
などと文句をいう前に、さっさと自分でやってしまうような男性と結婚したモモヨは、幸せだった。彼女が私に、
「おじいさんが亡くなるまで、夫婦喧嘩をしたことがなかった」
といっているところをみると、割れ鍋に綴じ蓋の夫婦だったのではないかと思う。
彼は仕事上、転勤が多かったので、そのたびに、生まれた子供たちを両脇にぶら下げ、住む家を探さなければならなかった。
「どんな家でもいいが、畑つきだぞ、畑つき」
彼の命令をうけて、モモヨは畑つきの借家を探した。当時、小家族が住める家の家賃は十円程だった。借りた家のうち、いちばん広い畑があった家の大家さんは、借家を建てることだけが趣味みたいな人だった。医者が借りていた、生垣、門柱、門石、大きな庭つきの家の家賃が二十円、モモヨの家が十円だったが、次から次へと大小とりまぜた家を建て続けた。別に強欲な人でもないし、不思議に思ったモモヨが、
「どうしてそんなに家を建てるんですか」
と聞いてみた。すると大家さんは、
「月に千円の家賃が入るようになったら、建てるのをやめるのです。月、千円が目標なのですよ」
と、にっこり笑った。次々にその付近一帯に家が建っていき、そこは新興住宅地といった様相を呈してきた。いくら目標、月、千円といいながらも、大家さんだけでは店子の管理もなかなか大変である。そこで雇われてやってきたのが、人のいい大作さんというおじさんだった。彼は大家さん所有の家、全部の管理人で、一軒一軒まわっては、
「何か不都合なことは、ありませんかぁ」
とたずねていた。モモヨが、畳が古くなったといえば、すぐ畳を替えてくれ、建てつけが悪くなったといえば、
「はい、わかりました」
と大工道具を抱えてきて、すぐ直してくれた。モモヨが、
「ご苦労さまですねぇ」
とねぎらって、お茶を出したり、穫れたての野菜をあげたりすると、
「仕事でやっているだけなのに、こんなにしてもらって……」
と、恐縮するような人だった。大作さんと同じように、大家さんも善人だった。みつばちの巣を持っていて、みつがとれると、大家さん自ら、店子の家をまわって、
「どうぞ」
と配って歩いたりする。特にモモヨ夫婦は大家さんにかわいがられていた。新しいもの、珍しいものを見ると、首を突っこまずにいられない夫が、みつばちの巣に興味を示して、大家さんのあとをくっついて、あれこれたずねたことがあった。自慢のみつばちの巣に興味を示してくれたものだから、大家さんは特にモモヨ夫婦に目をかけてくれたのだった。新しく借家が建つと、
「一週間後に建つから、そこに移りなさいよ」
とわざわざ教えにきてくれた。
「ここでいいです」
と断っても、
「新しい家のほうが気分がいいから、いうとおりにしなさいよ。家賃は同じでいいからさ」
と熱心に勧める。そこでモモヨ一家は、大家さんにいわれるがまま、百メートル程、離れた家に引っ越したこともあった。
二人目が生まれたとき、モモヨは丸髷をやめて、断髪にした。周囲の人々に助けられて、モモヨ夫婦は大正時代を過ごしたのである。
モモヨと孝明は男三人、女四人の子供をもうけ、家族の人数に見合う大きさの家を買って移り住んだ。そのときには、気乗りがしなかった警察署の仕事をやめ、彼は財務局に勤めるようになっていた。警察にいるときと違って時間の余裕ができた孝明は、余った時間を発明に費しはじめたのであった。
「家のなかには、次から次へとがらくたばっかりふえていった」
モモヨは当時をふりかえって、半分あきれ顔でいった。どこからか舶来品のカタログをもらってきて、彼女に何の相談もなくトースター、扇風機、オーブンを購入し、勤め先から帰ってきては、
「ここのところが、どうなってるのかなぁ……」
と、天地をひっくりかえしたり、蓋を開けて中をのぞきこんだりしていた。そういう夫の姿を見て、モモヨの頭の中に浮かんだのは、父親の姿だった。父親も団子にいちどに串を刺す機械を発明しようとして、何度も自爆していた。そんな事実を話したこともないのに、自分の夫も同じような発明に没頭している。モモヨは、内心、またかと思い、失敗するんじゃないですか、ということばがのどまで出かかったが、じっと黙って彼の行動を見守っていた。
発明だけでなく、彼は勤めから帰ってくるたびに、荷物を抱えて帰ってきた。それは掛軸であったり、骨董品であったり、わけのわからない珍妙な置物だったりした。
「おかえりなさい」
と出迎えると彼は、にんまりした顔で、
「ただいま」
といい、手にした風呂敷包みに目をやりながら、
「出物があったぞ」
とモモヨにうれしそうにいった。
「あら、それはよかったですねぇ」
いちおうはそういいながらも、腹の中では、
(また、がらくたか)
とつぶやいていた。夕食のときも彼はご機嫌で、子供たちの口の中に、御飯やおかずをかわりばんこに押しこんでやりながら、にこにこしていた。満足のいく買い物をしてきたときはいつもそうなのだ。
「お父さんが、あとでいいものをみせてあげるからな」
「へえ、なあに、なあに」
「ふふ。それは内緒だ」
何だ何だと騒ぎたてる子供たちに囲まれて、彼は黙ったまま笑っているだけだった。その中でひとり冷静だったのがモモヨである。骨董品にはあまり興味のないモモヨは、彼が喜んで買って帰ってくる品々のどこがいいのか、正直いってちっともわからなかった。大騒ぎの夕食が終わり、彼は風呂敷包みをほどきながら、家族に、
「これはすごいぞ」
と自慢した。
「早く、早く」
子供たちが、わいわいいう声を聞きながら、何分か後に起こるであろう光景を想像すると、ため息をつきたくなった。
(あんなに子供たちに自慢したって、あの子たちにわかるはずありませんよ)
しかしモモヨは黙って、事の成り行きを見守っていたのである。
「ほーら」
目を輝かせて、すごいものの出現を待っていた子供たちの前に掲げられたのは、和紙に書かれた文字だった。
「あ……」
子供たちはいっせいに、口をあんぐりと開けたまま、ぼーっとしていた。
「すごいだろう。伊藤博文の書き損じだ」
子供たちからは何の反応もなかった。
「うーむ。それでは次はこれだ」
これも書だった。
「これは頼山陽の……」
モモヨは頼山陽ときいて、ちょっとすごいと思った。伊藤博文も書き損じではしょうがない。しかし頼山陽といえば儒学者であり、漢詩人、書家でもある。世の中に書のプロと認められた人のものとあれば、彼が喜んでいるのもわかる。ところが、次の瞬間、
「……頼山陽の息子の書だ」
ということばが続けられたのを耳にして、がっくりした。頼山陽はともかく、息子なんて誰なんだかちっともわからない。そのとき長男が、
「どうして頼山陽のじゃないの」
とたずねた。
「うーむ」
彼は書を掲げたまま、うなった。
「お金が足りなかったんだ……」
「ふーん」
子供たちは納得したのか、しないのか、よくわからない風で、返事をした。
「さあさあ、りんごでも食べましょうかね」
彼の窮地を察したモモヨは、食べ物で子供たちの関心をひいた。
「わあい」
子供たちはモモヨの周りにまとわりつき、ただひとりとり残された彼は、黙って書を風呂敷包みにしまって、無表情でちゃぶ台の前に座っていた。モモヨのほうにいってしまった子供たちの姿をうらめしそうに眺めながら、ただ放心状態といったふうであった。彼は温厚でマメな性格。そのうえ子煩悩で、家族に対して手をあげることはもちろん、大声をあげることすらしなかった。嬉々として書を買ってきたのに、家族には無視されてしまい、彼はじっとその辛さに耐えていたのである。
「はい、どうぞ」
モモヨが大皿にりんごを盛ってやってきた。子供たちはすでに一個ずつ、丸かじりしている。
「うむ」
彼も淡々とりんごを食べはじめた。その日以来、永い間、伊藤博文の書き損じと頼山陽の息子の書の件は、誰も口にしなかったのだった。
自分がいさんで買ってきた書画、骨董の評判がかんばしくなかったので、さすがの彼もいじけてしまったらしく、買い物のおひろめはなくなった。モモヨが知らんぷりをしつつ、様子をうかがっていると、彼は押し入れの桐箱の中に、ていねいにしまっていた。モモヨにも見せることはなかった。みんなに一緒に喜んでもらおうとして相手にされなかった彼は、桐箱の中に自分の楽しみを詰めて、部屋に一人でこもっては、たまに取り出して頬をゆるめていたのである。
父親の趣味にいたって無関心だった子供たちのなかで、ただ一人、次女である私の母だけは、多少の興味を持っていた。彼は休みの日になると、突然、茶道具を持ち出してきて、
「さあ、茶を点てるぞ。みんなおいで」
と家族に声をかけた。家事で忙しいモモヨはもちろん不参加である。子供たちも、正座のまま何度もお辞儀をさせられ、やれ茶碗はこのように回すのだ、お道具はこのようにして拝見するのだ、といわれるのがうっとうしくて、ちりぢりに逃げていった。いつも父主催の茶の間の茶席に参加していたのは私の母だった。一人でも相手がいるので張り切った彼は、若いころに習った裏千家の手前どおりに、彼女に茶を点てた。
「よし、ハルエはなかなかよいな」
彼は上機嫌で誉めた。しかし他の兄弟姉妹たちは、茶の間をそっとのぞきながら、
「よくあんなことができるなぁ」
とあきれかえっていた。しかしそれで、うちの母が今も茶道のたしなみがあるかというと、そうではない。いくら子供のころに茶を点ててもらっても、身につかなかった典型といえるだろう。時折、気をつかったモモヨが参加することもあったが、最高参加人数二人の、情けない茶会になった。
「静かにお茶をいただいたあと、いそいでお芋を洗わなきゃならないんだから、調子が狂ってしまうよ」
モモヨはそういいながら炊事をしていた。彼は暇だから、買いためた書をごそごそと引っぱり出して眺めたり、茶を点てたりと、のんきにしていればよいが、モモヨの場合はそうではない。子供の面倒を見たうえに、山のような家事をこなさなければならなかった。畑仕事は相変わらず彼の役目だったが、子供がふえていくにつれ、モモヨの肉体労働の比重が大きくなっていった。そんななかで彼は、勤務している時間以外は、すべて趣味に費していたのだった。
家にあった、ぶ厚い池坊の華道の本を日がな一日、ページをめくっていたこともあった。そして思いたったように家をとび出すと、山のように花を抱えて帰ってきた。子供たちがびっくりしているのを後目に、物置からありったけの花器を出して家中に花を活け、そして子供たちを呼びつけ、
「どうだ、いいだろう」
と自慢する。最初、子供たちは父にそういわれるものだから、反論もできずにただぼーっとしていた。しかし台所から、ふかし芋のにおいがただよってくると、みんなは我慢しきれずに台所にかけ込んでいき、またまた彼は、ひとりぼっちでとり残されてしまうのだった。私の母は父親である彼が、池坊の華道の本を眺めていたり、茶を点てている姿を見るのが好きだった。ふつうのお父さんとは違う雰囲気がただよっていたからだ。彼女もふかし芋のにおいに負けて、台所に走っていったくちだが、すぐに芋を片手に戻ってきて、
「お父さん、きれいだねぇ」
とゴマをすることを忘れなかった。七人の子供のうち、一人だけでも自分のやったことに反応してくれると、やはりうれしいものらしく、彼は私の母をかわいがり、茶の間の茶席でも、
「おい、やるぞ」
と彼女だけに声をかけるようになった。このようにして、私の母はお父さんのお気に入りの子になっていったのである。
ふつう子供のうち、一人だけ特別待遇をうけるとやっかまれるものだが、この場合だけは違っていた。お父さん子であるということは、父親の趣味を認め、その手伝いをするということにつながり、他の子たちは彼女がその役目を引き受けてくれたことに、ある意味で感謝をしていたのである。朝、畑で野菜を掘りかえし、
「おーい、誰かいないかぁ」
と家の中にむかって声をかける。子供たちももちろん起きているが、返事をするといろいろと面倒なことを押しつけられるので、知らんぷりをしていた。家の中から何の返事も聞こえないので、もう一度、彼は声をかける。
「ほら、誰かお手伝いしなさい」
台所で炊事中のモモヨが子供たちにいっても、子供たちはしーんとしたままだ。そこで
「はあい」
と返事をするのが私の母だった。彼女の役目は、泥だらけの大根や人参や芋を抱えて、台所まで運んだり、野菜を穫ったあとの跡仕末の手伝いだった。子供たちに相手にしてもらえない彼は、それでも書画、骨董のたぐいを買い、一人でにんまりしながら眺めるようになった。そんな姿を見ても、モモヨは何もいわなかった。
「お父さんは、あれくらいしか楽しみがないんだから」
と、彼がどんな変てこなものを買ってきても、文句をいったり、口をはさんだりしたことはなかった。ところが、ついこの間、この件に関して彼女は疑問を持った。九十歳になって始めて、彼の趣味に関して、首をひねったのである。
「あのね」
彼女は真顔で私に切り出した。
「あのときは何とも思わなかったんだけど、骨董品を買うお金は、どうしたのかねぇ」
あきれかえるくらいの、のんびりである。そのとき、変だと思わなかったか、とたずねても、
「ぜーんぜん、疑わなかった」
という。給料袋は封を切らないで渡してくれたので、それ以外のお金の出入りに関しては、関心がなかったそうなのだ。
「給料を使ってるわけじゃなし、バクチもやる人じゃなかったから、考えてみれば変なんだけどねぇ」
モモヨは、あの書画、骨董を買うためのお金がどこから出ていたかを、必死に考えたという。彼が亡くなってすでに五十年もたとうかとしているときになって、やっと、
「変ね」
といい出すのは、ちょっと間抜けであったが、あれこれ考えたあげく出たのは、
「恩給を使っていた」
という結論だった。給料袋には手を出さず、恩給をちゃっかりと自分の小遣いにしていたのである。
「そうか、これでやっとわかった」
モモヨは自分の出した結論に満足していた。
「そんな大昔のこと、どうして今さら思い出したんだ」
と、タカシたちにもいわれたが、彼女は頭の中にふっと浮かんだ疑問は、解決しないと気がすまない性質なのだ。お金の出どこが判明するまでは、考えるのをやめない。よくよく話を聞いてみたら、彼は給料の中から、小遣いをもらっていなかった。その点を私がモモヨに追及すると、
「くれといわれなかったから、あげなかった」
とのんびりといっていた。そしてあげくの果ては、
「なるほどね」
といいながら、一人で感じ入っている始末だった。勤め人の夫に一銭の小遣いもやらず、おまけに当時、それを全く疑問に思わなかったモモヨにも、相当の問題がある。それだけ彼は、彼女に関心を持たれてなかったのかしらと、ちょっとふびんになったが、きっと、
「恩給があるから、いいや」
と淡々としているタイプだったのだろう。
私がモモヨの家を訪ねる何年か前、家を建てかえて引っ越した。そのとき蔵を開けてみたが、どうも変だったとモモヨがいうのだ。
「とてもたくさん書や骨董品があったはずなのに、何だか数が少ないの」
みんなで桐箱の中を調べても、明らかに数が減っているという。
「おかしいなぁ」
一同は桐箱の前で腕を組んで考えてみた。彼が亡くなってから、誰もこの箱を開けたことがないはずなのに、掛軸が半分程になっているのだった。
「うーむ」
しばらくうなっていたが、タカシが、
「もしかしたら、盗られたのかなぁ」
とつぶやくと、他の人々も同じことを考えていたようで、一同はこっくりとうなずいたのだった。身内が出し入れしないのだから、他人が持っていったのに決まっている。しかし警察に届けようにも、いつ盗まれたか、どんなものがなくなっているか、重要なことが何ひとつモモヨたち一同にはわからないのであった。
「しょうがないから、『何十年かぶりに蔵を開けてみたら、掛軸の数が減ってました』っていうしかないだろうねぇ」
結局、モモヨのことばをうけたタカシが、警察署に届けを出しにいき、予想どおり、警官にあきれられたのである。
蔵の中からは、懐しい品々がたくさん出てきた。
「おおっ、これだ、これだ」
タカシがひっぱり出してきたのは桶だった。この桶は、孝明こと五郎助が、突然買ってきたものだった。
「漬け物樽なら、ありますよ」
当時、桶を見たモモヨがそういうと、彼は満面に笑みを浮かべて、
「漬け物に使うんじゃない。これを作るのだ」
そういいながら、背広のポケットから紙を出し、モモヨにみせた。そこには、
「ウースター・ソースの作り方」
と書いてあったのだ。ふだん彼がハイカラな人と尊敬している男性が、
「これは、うまいぞ」
と耳打ちして、作り方を書いてくれたというのだ。
「トマトは畑のを使えばいいし、玉ネギもあるな。よーし、やるぞ」
彼は両手をぐるんぐるんとまわして、子供たちを呼び寄せた。内心、子供たちは、
(またお父さんが、妙なことをやろうとしている)
と乗り気ではなかったが、
「これは、みんなのためにやるのだ。このソースは本当においしいのだよ」
といわれると、だんだんその気になってきた。食べ物でつられると弱い彼らは、彼の指示どおり、トマトをもいできたり、水をくんできたりした。
「ちょっと待て」
肝心な味見は、彼の役目だった。
「どうかな」
モモヨにソース液をなめさせて、感想を聞いたりするものの、決定権はすべて彼にあった。自分のいうとおりに事がすすまないなんて絶対に許さない、というふうに、頑固な人格に変わってしまうのだった。でき上がったソースは、彼の命令により、一升ビンに詰められて保管され、近所にも配られた。彼は出来のよさに大満足し、それから誰もたのみもしないのに、思いつくとタカシを助手にしてウースター・ソース作りに励んだ。そして幸か不幸か、彼は今でも、桶一杯のウースター・ソースの材料の分量を、鮮明に記憶しているのである。
蔵の中からは、昔、使っていたパウンド・ケーキ型やサビだらけのオーブンやトースターが続々と出てきた。どれもこれも彼が買ってきたもので、新発明のヒントにしたあとは、台所でモモヨが使うことになっていた。
「子供のときに、鶏の卵をとってメリケン粉にまぜて、おばあちゃんが蒸しパンやビスケットを焼いてくれたよ」
私の母親はよくそういっていた。とにかく珍しいもの、ハイカラなものが好きな彼は、料理でも何でも、珍しい話を耳にすると無視することができず、すべて家に帰って試したがった。命をうけたモモヨは、指揮官の彼のいうとおり、メリケン粉をまぜたり、オーブンの使い方をマスターして、焼き具合をチェックしなければならなかった。子供たちのおやつはふかし芋からパウンド・ケーキまで、バラエティにとんでいた。それを聞きつけた近所の子供たちが、用もないのにやってきて、パウンド・ケーキをもらおうとしたりするので、庭に三十人もの子供たちがわらわらと所在なげにいることもあった。四、五人の兄弟姉妹が全員つながってやってくるので、近所の五、六軒の子供たちが集まると、すぐそのくらいの人数になってしまうのだ。そんな子供たちにケーキやビスケットを分けてやりながら、私の母たちは誇らしく思っていた。
(この子たちが食べていないものを、私たちは食べている)
と思いながら、にこにこして手を出す友だちに、ビスケットを配ってあげた。このときばかりは、自分の父のことも誇らしく感じたのである。
蔵のオーブンの奥には、得体の知れない、ばかでっかい鉄のかたまりが鎮座していた。
「あっ、これは……」
モモヨは思わずかけ寄った。
「これを作るのに、お父さんは本当に苦労したんだからねぇ」
それは彼が唯一、世の中に認められた、孵卵器の試作品だった。彼の願いはひとつでいいから、特許をとることだった。外国製のトースター、オーブン、扇風機を購入し、黙々と発明にいどんでいたものの、ほとんどすべてで自爆していた彼は、この孵卵器に命をかけていた。勤めが遊びで特許をとるほうが仕事みたいに、勤務が終わると真っすぐ家に帰り、部屋にとじこもって、図面をひいたり、鉄くずをこねくりまわしたりしていた。当然の如く、子供たちは、
(また始まった)
とあきれ顔で、面倒くさいことをいいつけられるのを恐れて、父のこもっている部屋には近寄らないようにしていた。それでもモモヨは彼には何もいわなかった。
「いってもいわなくても、どうせやるに決まっているのだから、いわないほうがいい」
というのが彼女の考えだった。彼が試作に失敗してしょげていれば、
「なかなか、うまくいきませんねぇ」
と慰め、
「やった、やった」
と大喜びすれば、
「本当によかったですねぇ」
と一緒に喜んだ。夫唱婦随かと思いきや、
「そのほうが楽だからね」
という。別に悪いことをしているわけではなく、家計に支障をきたしているわけでもないので、野放し状態にしておいたほうが、お互いに都合がよかったと彼女はいいきったのである。
小さな自爆を何度かくり返し、山のように卵を使ったあげく、とうとう試作品は完成した。孵化させるのに失敗した卵は、次々と食卓にのぼったものだった。当然、弁当のおかずも卵である。
「また、卵なの」
ため息をつく子供たちを、
「食べ物に文句をいうんじゃありません」
と叱りながらも、内心、どうなることやらと案じていた。そっと彼を見ると、うつむいて御飯を食べている。子供たちに何かいわれるたびに、どんどん肩身が狭くなっていくようだった。そのあげくの、堂々の試作品完成で、彼は、
「やった、とうとうやった」
と大騒ぎだった。この日のために、どれだけの労力と日数を費したかわからない。父が大喜びしているのを見て、いまひとつ実感がわかなかった子供たちも、庭にでーんと置かれている孵卵器を見て、
「お父さんは、とうとう成功した」
ととりあえずは喜んだのであった。
特許を申請してそれが受理されると、ますます彼の発明に対する意欲は高まっていった。やる気満々の夫の姿を横目で見ながら、モモヨは相変わらず、家事をこなしていた。畑仕事は嫌いだが、それ以外のことは毎日やっていれば上達するようで、かつて彼に御飯を炊いてもらったことなど嘘のようだった。
「今度は人のためになる発明をするぞ」
そう宣言した彼は、どこで調達したのか、蓋つきのガラスの広口ビンを、たくさん買ってきた。そして庭の隅には掘っ立て小屋が建てられ、中に入ると一面に棚が作ってあった。毎日、勤め先から急いで帰ってくると、彼は脱脂綿とピンセットを持って、ガラスビンを置いた小屋に入りびたりになった。すでに彼を相手にしなくなった子供たちは、父が小屋にこもろうが何をしようが、
「どうしたの」
とすらいわなかった。モモヨはひとりで気をもんでいた。今まで山のようなガラクタやポンコツを生み出し、かつてはモモヨの実家から三千円を借りたこともあった。彼の両親が残してくれた山、田畑のほとんどを手放してしまった。しかしもともと土地などには、全く興味のない彼は、とにかくひとつでも多くの特許をとり、便利なものを作ることに没頭していたのであった。ずっと自爆をくり返していれば、人間、いつかはあきらめることもあるだろう。しかし、なまじ孵卵器で特許をとってしまったものだから、彼の発明に対する意欲は、ますます高まっていったのだった。彼はモモヨが、「そろそろ寝る時間だから」と小屋に呼びに行くまで、ずっと中にこもりきりだった。
「今度はどんなものが出来上がりますか」
モモヨがたずねると、寝巻きに着替えかけていた彼は、前をはだけたまま、待ってましたとばかりに本棚からぶ厚い本を取り出した。
「これだ、これなんだよ」
彼は、きのこの本を示しながら、ページをめくりはじめた。
「ま、とりあえずヒモを結んで……」
彼は寝巻きの腰ヒモを結ぶのももどかしそうに、本を片手に布団の上にあぐらをかいた。モモヨは、
(これから話が長くなるなあ)
と、うっかり水をむけたことを後悔したが、そんなモモヨの気持ちなどわからない彼は、
「ちょっと待っていなさい、えーと、どこだったかなぁ」
といいながら、あっちこっち、ページをめくっていた。
「あった、あった」
彼の指さしたところには、えのき茸の絵が描いてあった。
「これを各家庭で手軽にビンの中で栽培できるようにするんだ。そうすると、えのき茸がもっと身近に食べられるぞ」
「はあ……」
モモヨは少しガッカリした。夫がえのき茸のために、寝る間も惜しんで頭を使っているのかと思うと、とってもふびんな気がしてきたのだ。しかし彼女の心配をよそに、彼はますますボルテージが上がり、
「そもそも菌類はだなあ……」
と、たのみもしない、きのこの講義まで始めてしまった。やっと自分の話を真剣に聞いてくれると大喜びした彼は、モモヨを座布団の上に座らせて、延々と今度の発明の重要性と問題について、熱っぽく語りはじめてしまった。
(あーあ……)
あくびをかみ殺しながら、モモヨは彼の声を右の耳の穴から左の耳の穴へと流していた。あしたも子供たちは朝早く起きて学校に行く。便所に行く時間帯が一緒だから、毎朝大喧嘩になる。はじかれて便所の戸の前で大泣きする者もいれば、ちゃっかりと庭で用を足そうとする者もいる。そんな子供たちをうまくとりなして、送り出さなければならない。夫の勤めも大変だとは思うものの、彼みたいにえのき茸のことばっかり考えているわけにはいかないのだ。
モモヨはふっと気がついたら、彼の前でこっくりこっくりと舟をこいでいた。
「眠くなったようだな」
夫は布団の上で、ちょっと不満そうな顔をしたが、
「そろそろ寝よう」
とやっとぶ厚いきのこの本を閉じた。火の元を点検し、布団にもぐりこんだ彼女は、
(どうなることやら……)
とため息をついた。子供たちにはほとんど相手にされていない夫である。味方になれるのは彼女だけだが、労が多いわりにはいまひとつ報われないことをやっているような気がますますつのってきたのだ。やめなさいとはいえないし、どんどんおやり下さいともいえない。やはりこの場合は、子供たちのように、無関心を装うのがいちばんいいかしらなどとつらつら考えながら、いつの間にか寝てしまったのだった。
ときおり、つるが孫の顔を見に遊びにきた。もちろんおみやげの菓子を抱えてである。
「来たよー」
といいながら、つるが玄関を開けると、子供たちは、
「わあーっ」
と歓声をあげながら、出迎えた。菓子折りを奪い合うようにして、子供たちが奥に去ったあと、つるは不思議そうな顔をして、庭の隅に建っている掘っ立て小屋を指さした。
「どうしたの、あれは?」
モモヨは夫の発明癖のボルテージが、ますます上がっていることをもらした。
「あっはっは」
つるは大笑いしながら、とび出そうになった入れ歯を着物の袖で押さえている。
「親子でもないのに、お父さんとそっくり」
そういってまた、つるはあっはっはと笑った。モモヨはとんでもないものばっかりを作り、どれひとつをとってもまともな製品にならなかった父の姿を思い出していた。
「別に不都合はないんでしょう」
「ええ、それは、まあ……」
「じゃ、ほうっておけば。孵卵器では特許をとったそうだし、長い目でみればまた特許がとれるかもしれないよ」
モモヨは、そうですねといいながら、いっそ父のように誰にも認められず、自発的にあきらめてくれたほうがいいような気がしていた。孵卵器はともかく、えのき茸は何となく情けなかったからだ。モモヨがつるにそうこぼすと、つるは、
「他人が『何だ、こんなもの』ということを一生懸命考える人たちが、世の中を進歩させていくんですよ。ま、仕方がないでしょうね」
モモヨの亡くなった兄は、発明には全く関心を示さず、語学ばかりを熱心にやっていた。知り合いが、ウラジオストックに行った話を聞けば、ロシア語を勉強したりしていた。実の息子がそうなのに、なぜ血のつながりがないモモヨの夫が、父に似てしまったのかはわからないが、ただひたすら、つるは、
「縁とはそういうものだ」
といいながら、ひとりで喜んでいたのであった。
話相手のいない夫は、義母であるつるに、現在、自分が研究中である、「えのき茸の自家栽培」について、熱っぽく説明した。自分の夫で慣れているつるは、そういった類の男性の取り扱いが上手で、彼の発明心をくすぐることばを並べたてた。えのき茸ときけば、
「あれはおいしいですからねぇ。自分の家でとれるとなったら、みんな喜びますよ」
と相槌をうち、研究過程を説明されて、わかるのかわからないのか、さだかではないが、
「それはすごいですね。あともうひと息ですね」
などといった。そしてしまいには、
「みんな楽しみにしていますからね。がんばって下さいよ」
と激励し、彼の発明意欲をますますかきたててしまったのであった。
「よおし、あと、もうひとがんばりだ」
義母のことばで気をよくした彼は、張り切ってピンセットでビンの中をつっつきはじめた。
「あれでいいんですよ」
帰りがけにつるはモモヨにささやいた。
「いいんです、いいんです」
黙っているモモヨにそれだけいって、つるは草履をはいて、さっさと出ていった。いまひとつモモヨにはふに落ちない何かがあったが、つるがこれでいいというのなら、それでいいのだろうと思いはじめた。そして庭を掃くついでに小屋をのぞくと、そこには棚にへばりついてビンの中を凝視している夫の姿があったのだった。
「そもそも菌類は……」
子供たちが父の口ぐせを真似て、家の中で騒ぐのを小声で叱りながら、モモヨはいつになったら、ビンからえのき茸が、にょきにょきとはえてくるのか心待ちにしていたが、小屋の中に並んでいるのは綿を底に敷いた空のビンばかりで、兆候のありそうなものはひとつもなかった。
「なかなか生えてきませんね」
小屋で腰をかがめて作業をしている彼に背後から声をかけた。
「ん?」
彼はビンを片手にふりむき、モモヨの顔をじっと見つめた。
「ビンの中で栽培するのでしょう。それにしてはどれもまだ……」
彼がちょっとムッとしたこともあって、彼女は口をつぐんだ。
「違う!」
突然、きっぱりと彼はいいきった。
「違うんだ!」
彼はまた、お得意の「そもそも菌類は……」をはじめてしまった。
「このビンの蓋を開けた瞬間に、ビンの綿に植えつけたえのき茸の菌が外気に反応して、一瞬のうちにえのき茸が生えるのだ。別にビン詰めを作っているわけではない」
モモヨは呆然としてその場に立ちつくしていた。彼はいいたいことだけいうと、くるりと背をむけてビンの前にかがみこんだ。
(そんな手品みたいなこと、本当にできるんだろうか)
ふだんのおだやかな姿とは違って、ビンの中を見つめているときの彼は、鬼気迫っていた。あれだけ子供に相手にされないとなると、意地でも「やってやる」という気分にもなるだろう。しかし彼がやっている、えのき茸が蓋を開けたとたんに瞬間的に生える研究は、どう考えても、うまくいきそうになかった。万が一、成功したら世界の大発明のうちのひとつになるだろう。モモヨは、何度も不安になった。書画、骨董は心を安らかにしてくれるが、発明は心を安らかにしてくれるとは思えなかった。睡眠時間を削り、ぶつぶつといつも何事かつぶやき、静かになったと思うと、じっと腕組みをして考え込んでいる。
「いいんです、いいんです」
再びつるのいったことばがモモヨの頭の中に浮かんできた。
(いいのかしら、本当に)
モモヨは気持ちがぐらぐらと揺れ動くなか、とりあえず、つるがいったとおり、「いいんだ」と思うことにしたのだった。
えのき茸栽培が全く日の目をみないある日、モモヨは彼の顔色がよくないのに気がついた。少し休んだほうがいいといっても、彼は、
「財務局は今がいちばん忙しいから、休むわけにはいかないよ」
といってきかなかった。そして家に帰ってきてからは、相変わらず「えのき茸」であった。根ががんこな彼は、いくらモモヨがすすめても休暇をとろうとせず、毎日、変わりなく出勤していった。しかしそれが過労につながり、とうとう風邪をこじらせて肺炎を起こし、あまりにあっけなく、ころっと亡くなってしまったのだった。そのとき私の母は十歳だった。父親が大好きだった彼女は、学校の授業中に先生から訃報を知らされ、泣きながら家に帰ったという。上は高校生、下はまだ幼児の子供たちがモモヨのまわりにへばりついていた。残されたものは子供たちと、研究途中の無数のえのき茸のビンだった。今まで家の中のことだけをやってきたモモヨの両肩は、今度は父親役もどーんと背負わなければならなくなった。近所の人々は、
「子供がいて大変なのだから、長男の学校をやめさせて、働きに出せばいいのに」
といった。ところがモモヨは、
「そんなことは絶対にさせません、学校はやめさせませんよ」
といい放って、みんなをあきれさせた。近所の人たちの目も、少し冷たくなった。そしてそれから何年かは、モモヨの人生のなかでいちばんつらい日々が、続いていったのである。
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リヤカーを引いて
孝明こと五郎助が亡くなってまもなく、第二次大戦が始まった。家の大黒柱が亡くなって暮らしむきが大変になったというのに、バッド・タイミングで世の中もひっくりかえってしまったのである。これから上の学校へいかなければならない七人の子供を抱え、モモヨは彼が残してくれた保険金の証書を、じっと眺めていた。これだけあれば、何とか子供たち全員を上の学校に行かせられると、そのとき彼女は、ほんの少しだけホッとしていた。
「日々、食べるものを何とかすればいいんだから」
そう自分を勇気づけながらも、いまひとつ意欲的に鋤や鍬をふるう気にはなれない、モモヨだった。畑仕事を父からひきついで積極的に行なっているのは、長男と次男、及び長女と次女だった。学生のときには、学校にてくてく歩いて行ったので、ただひたすら歩くのには慣れているが、力仕事は、
「どうしてもやらなきゃ」
とは思うものの、頭がこばんでいるので体が動かない。そこで十七歳を頭に、年上の順の四人の子供が、モモヨのかわりに畑をやってくれた。しかしそれだけでは親子八人分の食卓を満たすほどはとれず、モモヨは生まれてはじめて、自分が大黒柱となって働かねばならなくなったのだ。少しでも食べるたしにしようと、夫が残した何百個ものえのき茸のビン詰めのフタを片っぱしからあけてみたが、一個としてえのき茸が瞬間的に生えてくるものはなかった。彼女は自分で何ができるかを考えてみた。お針の塾に通っていたから、着物はひととおりは縫えるが、毎日、毎日、業として成り立たせるのは大変なことである。そのような仕事はできそうになかった。モモヨの気持ちが定まらないというのに、近所の人々は彼女の姿を見ると、あれやこれやといいながら寄ってきた。
「大変でしたねぇ」
「はあ、突然だったもので」
「無理なさったんでしょう」
「そうですね、ろくに寝ていなかったようですから」
最初は気の毒そうな素振りをみせているが、立ち話をしているうちに、
「で、どのくらい御主人はお残しになったの?」
などとさぐりをいれてくる。そのたびにモモヨはムッとしながらも、適当にあしらっていた。心底、心配してくれる人もいるにはいたが、それは少数で、多くの人々は、
「これから子供を抱えて、あの家はどうするのかしら」
と興味津々だった。そのころ戦争でも、いけいけ状態の日本では、まだ他人の生活に首をつっこむ余裕があったのである。そのおせっかいな人々は、高校生のタカシの姿を横目でみながら、
「どこに就職するんですか」
とたずねた。モモヨが、
「大学に行かせます」
と答えると、彼らは信じられないというふうに驚き、父親が亡くなったのに、上の学校に行きたいなどというのは、とんでもない、我がまま息子だといった。そして、
「あなたも、そんな息子のいうことを、きいちゃいけないよ」
としたり顔で説教を垂れた。
「いいんです。あの子も行きたいというし、私も行かせたいんですから」
モモヨが平然としていい放つと、おせっかいやきは退散していったが、翌日からモモヨは、町内を歩くたびに、
「息子を大学に行かすんだって?」
と顔見知りにたずねられ、同じように意見されたのだ。
モモヨは彼らに、見栄っぱりのレッテルを貼られていた。裕福ならともかく、そうでもないうえに片親の家庭で、長男を大学に行かせるのは、見栄っぱり以外の何ものでもないというわけだ。近所の人たちの噂は、モモヨの耳に入ってきた。それでも彼女は、
「いいたい人は、勝手にいえば」
と知らんぷりをしていた。そのころ、義理の弟が、モモヨに仕事の提案をしてきた。彼はモモヨの妹のところに婿入りしたのだが、実家は造り酒屋を営んでいた。商売仲間で話をしているうちに、
「子供を抱えて大変だろうから、豆腐でよければ卸してあげてもいい」
といってくれる人が現われた。モモヨはその話にとびついた。昔から力仕事は苦手だが、歩くのだけは自信がある。家には亡き夫が、どういうわけだか買ってきた、リヤカーもあった。卸してもらった豆腐をリヤカーに積んで、引き売りをすればいいとふんだのである。モモヨは翌日から、リヤカーを引いて、豆腐を卸してもらいにいった。店の人は気の毒がって、とても安い値段で卸してくれて、モモヨのほうに、たくさん儲けが入るように配慮してくれた。リヤカーに積んだ豆腐、油揚げ、厚揚げ、おからを見ながら、彼女は、
「本当にこれが売れるんだろうか」
と不安になった。生家は商売をしていたが、モモヨは桃割れを結って、小売りの業者を相手にしていただけだ。お飾りというか、彩りみたいなものである。しかしこれからは彼女が売らなければならない。さすがのモモヨもため息をついた。このとき彼女は四十一歳だった。
お嬢さん育ちで何不自由なく暮らしてきたモモヨは、うつむきながらリヤカーを引いた。こういう格好をしているのが、どうしても恥ずかしかったからだ。でも傍目からみると彼女は間違いなく行商のおばさんだった。リヤカーを引いている姿を見た奥さんたちが、鍋を持ってやってきた。
「木綿一丁ね」
そういわれて、
「はい」
と返事はしたものの、プロの行商のおばさんにはほど遠いものだから、段取りが悪い。それを見た奥さん連中が、
「この仕事、始めたばかりなの?」
とたずねる。そこで身の上話が始まり、彼女たちは、
「毎日、来るの? またうちの前を通ってね」
といってくれるのだった。町内のおかみさんの中の親玉らしき太ったおばさんが、
「豆腐やお揚げは、この人から買ってあげて」
とみんなに命令し、それに従った奥さんたちが、リヤカーのまわりに、わらわらと集まってくるようにもなった。もともと仕入れた商品の質がよいこともあり、素人が始めたというのに、商品は毎日完売だった。
その日、売れた分のお金を持って、モモヨは子供たちに食べさせる食糧を買い出しにいった。
「その日だけ、今日だけ、子供たちにお腹いっぱい食べさせてやろう」
それだけを考えていたんだよ、とモモヨは私に話した。
「一週間先、一か月先のことなんか、わからないからねぇ。今日は今日だけなんだよ。明日は明日の風が吹くだねぇ」
一日の仕事を終えて、売れた分のお金を数え、
「ああ、これで一日は食べられる」
と安心する、その繰り返しだった。
モモヨが行商する一方、受験をひかえているタカシも、義弟の実家でアルバイトをするようになった。ところがそれを知った近所のこうるさい人々が、また騒ぎはじめた。
「大学を受験させるといっていたくせに、あそこの母親は勉強もさせずに働かせている。あんなことをやらせて、受かるわけがないじゃないか」
相変わらずモモヨは無視していた。彼女は男の子は技術畑にすすむのが、いちばんだと考えていた。幸いタカシは理数系に強く、彼女の望んでいる分野にむいているようだった。
「うちの事情はわかっているね」
受験をひかえた彼にモモヨはひとことだけ告げた。金がないのだから、学費の安い大学へ入れという、暗黙の命令である。しかし授業料の安い学校は、入試が難しい。町内でも同じ学校を受験するのは、三人だけだった。もちろんその中で、いちばん貧乏だったのがモモヨの家である。
「官立の大学は貧乏人から入れてくれないのかねぇ」
家を出る前にそんな冗談をいいながら、モモヨはリヤカーを引いて出かけた。問屋さんに行く道すじに、タカシと同じ学校を受ける学生の家があった。一軒はごくふつうの家だったが、その家の子は、こんなに重そうな眼鏡があるのかといいたくなるくらい、度のきつい眼鏡をかけ、うつむいて歩いていた。もう一軒はとても大きな家で、受験のために家庭教師を三人も雇っているという話だった。きっとそれらの家の息子たちは、寝ている時間以外は、眼を血走らせて勉強しているのだろう。しかしその間、タカシは造り酒屋の手伝いだ。
「もう働かせるのは、やめたら」
おせっかいやきは、モモヨの姿を見つけると、忠告しにきた。
「はあ、心配していただいて、どうも」
そう答えながら彼女は、腹の中で、
(受からない人間は、何をやっても受からない。受かる人間は、どんなことをやってたって受かるんだ)
とつぶやいていた。あら、どうしましょ、などとは、みじんも思わなかった。そしてその強気がタカシに乗りうつったのか、受験をした三人のうち、彼だけが合格したのであった。
「ほーれ、みろ」
あれこれ余計なことをいった人々に、モモヨは声高らかに叫んでやりたかった。
「本当に頭がいいということは、こういうことだ」
相変わらずリヤカーを引きながら、モモヨはほっと胸をなでおろしたのであった。
戦争が激しくなり、女学生だった私の母も工場で働かされたりするようになった。物資もなくなり、モモヨもリヤカーの行商を中断していた。畑を拡大するのを思いついたのは彼女だったが、掘りかえしたのも、タネ芋を植えたのもみんな息子や娘たちだった。特に私の母は、学校で習ったこともあって、肥桶をかつぐのが上手で、こやし担当だった。モモヨも縁側で子供たちの作業を見ているだけでは、母としての面目が保てないので、一度、肥桶をかついでみたことはあった。満身の力をこめて桶は持ち上げたものの、一歩歩くたびに周囲はもとより、自分にもこやしがとび散り、子供たちに、
「やめたほうがいいよ」
と申し渡され、おとなしく引き下がることにしたのだった。
当時のことをふりかえり、私の母も叔母も、
「食べる物がなかったなんて、信じられない」
と口を揃えていった。とにかく、お腹がすいたとか、食べる物が欲しいとか感じたことなど一度もなかったといっていた。たしかにたくさんの種類のおかずが、所狭しと並んでいたわけではないけれど、毎晩、満足して布団の中に入っていたのである。七人の子供たちは、ふとしたはずみに、喧嘩を始めることがよくあった。一組だけならまだしも、二組、三組が同時進行し、それを見てビックリした一番下の男の子がギャーギャー泣き出すなんていうのも、ザラだった。そんなときでもモモヨは、「やめなさい」とか「いいかげんにしなさい」と怒ることなどなかった。取っ組み合いを始めると、つつっとやってきて、フスマを取りはらう。そして廊下の隅に立てかけると、何事もなかったかのように、さっきまで自分のしていた仕事に、またとりかかる。ひどいときには、喧嘩をしている子供たちを背に、たくあんでお茶漬けを食べていることもあった。私の母が、
「どうしてフスマをはずしたりするの」
とたずねると、彼女は、
「破られると、貼り直すのが大変だから」
とケロッとしていた。
「やめなさい、やめなさい」
と気弱な母が、子供たちにとりすがって、泣きながら喧嘩をやめさせる姿は、絵としては美しく成り立つが、うちの家系とは無縁の光景である。
「やりたきゃ、やれ」
だいたいにおいて、このような雰囲気が、家の中に漂っていたのだった。
特にひもじい思いもせずに、戦時中も暮らしていたモモヨ一家であったが、「勝ってたと信じてたのに」実は日本は戦争に負けていた。ラジオから「快挙」を連発する放送が流れてきても、モモヨは、
「こんなことは、信じちゃいけない」
と子供たちにいっていたという。しかし私の母などは、先生のいうことを真にうけていて、
「アメリカ兵が来たときのため」
といわれて、なぎなたの練習を一生懸命やっていた。終戦のときも、モモヨ一家は淡々としていて、大声ではいえないので、家の中で子供たちは、
「これで軍需工場に行かなくてもよくなるね」
と喜んでいた。学校にも再び通いはじめ、貧しいなりにやっと安心して暮らせるようになった矢先、モモヨは目の前が真暗になった。新円の切り替えで、それまでのお金の価値が十分の一になってしまったからだ。
「これさえあれば、みんなを上の学校に進学させられる」
と虎の子のように大切にしていた、夫が残してくれた保険金も、十分の一になった。このときがいちばん辛かったとモモヨはいった。
亡くなった夫は、
「女の子はこの学校しか、入学させてはいけない」
と、ある私立の学校の教育方針を全面的に信頼していた。もちろんこれは遺言でもあった。私の母は女学校に入学するとき、彼のお気に入りの学校よりも、セーラー服のリボンが胸元にふんわりと結ばれている制服の学校のほうがいいといったのだが、モモヨは頑としてそれを許さなかった。
「お父さんのいいつけを守らなかったら、申し訳がない」
そういって、半分嫌がる娘を指定された学校に入学させたのである。そこの制服は色気も素っ気もない、普通のセーラー服で、しつけが厳しいことで有名だった。家政科だった私の母は、毎朝、授業前に運針の練習をやらされ、着物を縫わされた。その反動かどうか知らないが、クラブ活動ではテニス部でラケットをふりまわし、真っ黒けになってモモヨを驚かせていたのだった。まだこれから学校に行かさなければならない子供たちが、あとに三人控えていた。保険金があったからこそ、
「今日だけ食べられればいい」
と思ってきたのだが、それが十分の一になってしまったものだから、これからどうしようと、さすがのモモヨも途方にくれた。
「だから学校なんかやめさせて、働かせればよかったんだ」
近所のおせっかいやきの顔が、頭の中に浮かんだ。行商の売り上げだって、そんなに爆発的に伸びるわけがない。しかしいつまでも考えあぐねていることもできず、再びモモヨはリヤカーを引き、豆腐やお揚げを売って歩いたのだった。
ある日、いつも豆腐を買ってくれる、よろず屋の奥さんが、ミシン内職をする気はないかと持ちかけてきた。針は持ったことはあるが、ミシンは踏んだことはない。長女のために長男が壊れかけた中古のミシンをもらってきて、修理して使えるようにしたものはあった。娘たちは面白がってミシンを踏んでいたが、モモヨはあまり関心がなかったのだ。
「ミシンはあるんだけど」
「それじゃ、ちょうどいいから、ね、お願いします」
ミシン内職なら家でもできる。少しでもお金が欲しいモモヨは、ミシンを踏んだ経験がないのに、こっくりとうなずいてしまったのだった。その夜から、洋裁の特訓が始まった。子供たちがミシンのまわりに集まって、面白半分でわいわい騒ぎはじめた。長男は「ミシンはなぜ動くのか」を説明するし、長女、次女は、
「とにかく何でもいいから、縫ってみて」
とせっつくし、モモヨはパニックになっていった。糸のかけ方から、ミシンの操作まで、悪戦苦闘したあげく、何とかマスターすることができた。あとは実践のみである。リヤカーを引いていって、よろず屋の奥さんからミシン内職を受け取るのが日常になった。内職の品物はさまざまだった。猿股、ズロース、子供服など、すでに裁断済みのものを十枚ずつもらってきて縫った。モモヨが疲れてやる気がないときは、娘たちがかわりに縫い、期日に間に合わせることも多かった。ミシン内職はおかず代くらいにはなったし、仕事がていねいなためによろず屋の奥さんにも重宝がられて、仕事は途切れなかった。
「一生のうちで、あれだけ働いたことはなかった」
とモモヨがいっていた四、五年が過ぎ、タカシもやっと学校を卒業し、会社に就職した。
「お母さん、これでもう行商してもらわなくても、よくなったよ」
タカシにそういわれたとき、モモヨは心底、ホッとしたといった。それから彼は父親がわりになって、妹や弟たちの経済的な面倒を見ることになった。
「下のほうの子供たちは、お兄さんに学校にやってもらったようなもんだよ」
関係ない人間からみると、母の鑑のようなモモヨだったが、子供たちにとっては、うとましい部分もあったようだ。私の母は高校を卒業して就職した。彼女は家庭科の教師になりたいので、上の学校へ行かせてくれといったのだが、モモヨは、
「教師など、とんでもない」
といって許さなかった。いくら理由をたずねても、
「教師はダメ」
というばかりで、経済状態を考えるとそれを押し切る勇気もなく、母の望みは断たれてしまったのだ。未だに母は、
「どうしてあんなに、反対したのかわからない」
と首をかしげるが、きっとモモヨの心の中には、娘を教師にはしたくない何かがあったのだろう。母のすぐ下の妹も、受験か就職か悩む時期になっていた。教師になりたいといって許されなかった姉の姿を見ていたため、進路相談はモモヨにはしなかった。たとえ相談したとしても、
「それは許しません」
といわれたら、おしまいである。そしてまた別の進路の話をすると、
「このあいだいっていたことと、話が違う。そんなにふらふらした気持ちでどうするの」
と怒られるに決まっている。だから彼女は賢く、経済面の責任者であるタカシに、すべてを相談した。彼女は音楽をやりたかった。家庭科の教師でさえ許さなかったモモヨが、声楽をやりたいという自分のことなど許すわけがない、と、彼女はふんだのである。彼は、
「お前がやりたいのなら、そうすればいい」
と学費を出してくれると約束した。学校の先生にも、進学すると返事をしておき、すべて秘密裡に進学問題はすすめられたのだった。父兄面接の日、モモヨは何を疑うこともなく、学校に出むいた。担任の教師は、
「音楽科に進学ということで、よろしいですね」
といった。
「はあ?」
はじめてそんな話をきいたモモヨは、びっくり仰天して、口をあんぐりとあけたまま呆然としていた。
「お母さん、何も知りませんか」
「はあ……」
「そうですか」
教師は、音楽科に進学しても、全く問題がないだろうと、モモヨを説得した。成績も悪いわけではないし、推薦枠で入学できるから心配する必要はないと勇気づけてくれた。
「私の知らないうちに、みんな決まっていた」
モモヨはそういったらしいが、きっと少なからずショックだったのに違いない。大事な娘の進路問題で、ないがしろにされたのだから。でもこれが、ふつうの家族ではないだろうか。たしかに親としたらショックな出来事だが、親のいうなりにはならずに、子供が意思を持って、ちゃんと成長した証明でもある。教師やタカシの後押しのおかげで、彼女は上の学校で声楽を勉強することができたのだった。そこで喜んだのは、すでに就職していた私の母であった。男五人に女は彼女一人の職場で、彼女は今でいうセクハラを受けていた。いくら今は立派なおばさんでも、学校を卒業したてのころは、まだ初々しかっただろうから、毎日、おやじたちにからかわれていたらしいのだ。今でも母は、彼らのことを、
「あいつら」よばわりして、憎んでいるくらいである。暗い毎日をいやしてくれるのは、休みの日に妹にくっついて、NHKにいくときであった。彼女はNHKラジオで歌を歌うアルバイトをしていた。そのつきそいというか、マネージャー役を、私の母が務めていたのだ。もともと歌が大好きな母は、控え室で一緒に歌い出して、周囲の人に仰天されることもあった。
「うまく歌えると、きれいなハンカチとか、新しい楽譜とかを、ごほうびに買ってもらったよ」
叔母は私にそんな話をした。
「たまに間違えて、うまーくごまかしたと思っても、家に帰るとラジオを聞いていたお母さんに、『間違えちゃったね』っていわれたりしたね。他の人が全然、気がつかなかったのに」
とにかくあなどれないのが、モモヨという人なのである。
行商をやめたモモヨも、ミシン内職はずっと続けていた。よろず屋の奥さんは、
「着物やセーターも作ってほしいんだけど」
と話を持ちかけてきた。
「着物はともかく、セーターは目数の計算が面倒でねぇ」
モモヨがそういうと、奥さんはその日の夕方、新聞紙にセーターの型紙を赤えんぴつで写しとったのを持ってきて、
「これにあわせて編んでくれればいいから、ね、お願いします」
それからモモヨは、ミシン内職のズロース縫い、着物の仕立て、セーター編みと、手内職に精を出す毎日を送っていた。そんなとき、タカシが結婚相手を連れてきた。見るからに働き者で元気そうな娘さんである。モモヨは、
「よかった、よかった」
と喜び、どうしてあの娘さんを選んだのかとたずねた。すると彼は、
「おひつの中のごはんを、こそげとるのが、とても上手だったから」
と答えた。それをきいたモモヨは、
「それは間違いがない」
と、タカシの眼力を誉めたたえた。そして、だんだん肩の荷が軽くなっていく、自分に気がついたのであった。
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あとがき
人は長生きして幸せかと考えたら、必ずしもそうではないような気がする。私自身は何歳まで生きたいとか、長生きしたい願望は特にない。ただ、ころっとあの世にいけたらいいなと思うだけである。たまに、税金を払ってるんだから、年寄りになって体が動かなくなったら、役所に電話して、面倒をかけられるだけかけてやろうと思ったりすることもあるが、やはり人に迷惑をかけないですむのならそうしたい。
うちの祖母みたいなタイプは、「子、孫孝行」だそうである。体も丈夫だし、一人であちらこちらに旅行もできる。
「こんなに迷惑をかけない、おばあさんもめずらしい」
と、近所の人はいっているそうだ。たしかに彼女と再会したとき、あまりの元気さに私はショックを受けた。
「これが九十年も生きてきた人間か」
という感じだったのだ。とても九十年使ってきたとは信じられない体。動作は敏捷だし、何よりも頭の回転が早い。しかしその分、口は悪く、テレビを見ていて気にくわない人が出てくると、
「なんじゃ、こいつは」
と吐き捨てるようにいい、機嫌が悪くなる。
一般的に、歳をとると「すべてを許す、神様のような人」になることを期待されたりする。世の中の人々に優しく、慈愛の心に満ちた人、どんな人とでも、にこにこと話ができる人である。なかには人格者で、そのような人もいるのだろうが、私は祖母の喜怒哀楽がはっきりしている姿を見て、
「これでなければいけない」
とうなずいてしまったのだ。
喜びも楽しさも素直に表わす。怒ったときは心底、ムッとした顔をする。哀の表情がほとんどないのもよかった。手前味噌かもしれないが、祖母のおかげで、「いつもにこにこしている人格者の老人」にはなりたいとは思わなくなった。気に入らない人は気に入らない、嫌なことははっきり嫌だといえる老人になれれば、このうえもなく幸せだと考えるようになったのである。
祖母は口には出さないけれど、長生きしたい欲があったのではないかと思う。
「長生きされて、よかったですね」
といわれても、
「どういうわけだか、こういうふうになってしまいまして」
と答えているのをきいたことがない。きっと予定通りに長生きをして、満足しているのだ。
私の友人のおばあさんは、七十歳で亡くなる予定で、人生設計をたてていたのだが、現在八十五歳である。
「ホントに十五年分予定が狂っちゃってねえ。何をやっていいんだかわかんないわ」
といいながら、元気で暮らしている。時折、家にいたずら電話がかかってくる。
「お、奥さん、奥さん、ぼくとお話ししませんか」
といやらしい声を出す若い男にむかって、
「はいはい。八十五歳のおばあちゃんでよければね。何でもお話ししてあげますよ」
と平然といって、相手をびびらせたこともあった。予定を十五年オーバーしたからといって、彼女もやることがないと、家の中にひきこもったり、内へ内へととじこもって、いじけたりするタイプではない。ふとどきな青年をおちょくって楽しむ余裕がある。その男にまじめくさって説教なんかしないところが、またいいのだ。
「私はあと五十年は生きる」
そう祖母はいっている。
「みんなが先にあの世にいって、私ひとりが残るのだ」
といって、うれしそうに笑うのである。最近、話題のきんさん、ぎんさんをテレビで見たとき、いちばん最初に頭に浮かんだのが、
「不思議」
であったという。祖母が小さいときも、何組か双子はいたが、二人揃って百歳をむかえたのは、とにかく「不思議」としかいいようがないし、二人がちんまりと置き物のように並んで座っているのを見ても、「不思議」なのだそうだ。祖母の口からは、
「長生きして、おめでたいことだねえ」
などという言葉は一切、聞けなかった。私たちは、きんさん、ぎんさんを見て、「おめでたい」という。しかし十歳年下ではあるが、祖母にしてみたら、
「めでたいことばかりじゃないさ」
といいたいところなのではないだろうか。自分が生き残るということはたくさんの人を見送ってきたということだ。私は自分が亡くなるよりも、そのほうが辛いだろうと思うことがある。しかしそういった出来事、ひとつひとつにケリをつけて、前向きに日々を暮らしている。いつも、
「自分がしたいこと」
がある。それが、「健康ランド」に行くことであってもだ。祖母は私に、
「あんたと私は性格が似てる」
といったが、私は祖母の歳になって、あのようにさばさばと生きていけるか自信がない。彼女は長谷川町子のマンガ「いじわるバアさん」のようなタイプであるが、あのように生きていけたら、どんなにいいだろうと、孫ながら憧れているのである。
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文庫版あとがきにかえて
九十二歳のモモヨ
「おばあちゃんがね、入院したんだよ」
私の母が暗い声で電話をしてきたのは、五月の中旬だった。去年の年末から今年のはじめにかけて、ふだんは風邪すらひかない祖母モモヨが、インフルエンザで何日も寝込んでしまった。このときも伯父からは、
「いつ、何があってもあわてないように」
という電話があった。
「大丈夫かしら」
と親戚一同は見守っていたのであるが、なんとか回復した。そのときにモモヨは、伯父夫婦に、
「もう、死ぬかと思った」
といっていたという話を、聞いた矢先だったのだ。
モモヨは八十二歳のときに、骨折で入院した以外、病院とは無縁の生活を送っていた。その彼女が自分から体調がよくないといい出したというのは、こういっちゃなんだが、
「とうとうきたか」
という思いであった。風邪が治って床をあげても、彼女は元気がなかった、鍼に通っても、「疲れた」を連発する。おかしいなと伯父夫婦が思っていると、今度は、食べ物をもどしたりするようになった。そこであわてて彼らは祖母を病院につれていき、入院ということになったのである。
母は早速、何かあったらいけないというので、五日間、伯父夫婦の家に泊まり、毎日モモヨを見舞った。帰ってきた母は、
「おばあちゃん、ずっと寝たままなのよ」
と前にもまして暗い声でいった。食道が細くなっているので、固形物は禁止。流動食ばかりである。いつも元気に歩きまわっているモモヨの姿しか見ていない母は、
「これは相当にまずい」
と感じた。しかし、それ以上に、モモヨがまずいと感じているらしく、母は「形見分け」と表書きした、お金が入った封筒を
「いつ何があるかわからないから」
と渡されたというのだった。
「おねえちゃんも、見舞いに行っておいたほうがいいわよ。葬式に出たってしょうがないよ。生きているうちに会ってあげなきゃ」
母はそういった。モモヨは、
「あの子はどうしているのかねえ」
と私のことをとても心配していた。あんまりばたばたあわてていくと、モモヨは、
「おかしい」
と疑うはずだからと、母と私は相談して、仕事のついでに寄ったということにしようと、口裏をあわせ、私は五月の末にモモヨの入院している病院にむかったのである。
最寄りのJRの駅前のホテルの花屋さんで、年寄りむけのお見舞いの花籠をと頼むと、若い女性が大き目の手作りの籠に、薄紫色の薔薇や蘭をきれいに盛りあわせてくれた。モモヨがいるはずの、六人部屋の病室をのぞいたら、そこには誰もいなかった。モモヨが寝ているはずのベッドもからっぽである。
「もしや……」
私の頭にすぐ浮かんだのは、病院もののテレビドラマの、「見舞い客がすんでのところで間に合わなかった」というシーンである。
(まさか、そんなことが……)
あわてた私は看護婦さんに、
「どうしたんでしょうか。祖母の姿が見えないんですが」
とたずねると、若い看護婦さんは、
「ああ、おばあちゃんはね、今の時間はお散歩」
と、屋上にいるはずだと教えてくれた。
屋上にいってみると、そこに四人の年配の女性がいた。そのなかにモモヨはいた。寝間着の上にベストをはおり、
「そうだ、これをここに置けばいいね」
といいながら、そばにあったベンチを、ぐいぐいとひっぱって移動させていた。
「おばあちゃん」
声をかけると、モモヨはしばらく私のほうをみて、
「あら……」
といったまま、ぼーっとしていた。
「東京にいる孫なんですよ」
と同じ病室の人に紹介してくれたあと、
「ずいぶん、来るのが早かったねえ」
といった。まさか、母に、危ないみたいだから急いでいけといわれたとはいえないので、
「仕事の都合でね」
といっておいた。モモヨの顔色はとても病人とは思えなかった。ほっぺたはピンク色だし、肌の色艶もいい。同じ病室の女性たちは、モモヨよりははるかに年下ではあったが、
「おばあちゃんが、いちばん元気がいいんですよ」
という。しかし、モモヨはまだ流動食しか許されていなかった。
「どうしてここにいなきゃならないのか、わからないんだよ」
モモヨは不満そうにいった。
「そうだよね、顔色がいいもん」
「早く御飯が食べたいんだけどねえ」
私もどうしてモモヨが、入院していなきゃならないのかわからなかった。
「六月十日にレントゲンを撮って、今後のことがわかるんだけど。今はそれがいちばん楽しみなんだ」
母に聞いていた、寝たきりのモモヨとはずいぶん違っていた。ほっとしたものの、もしも六月十日に退院の許可がもらえなかったら、どんなにがっくりするだろうかと思うと、何ともいえない気持ちになった。
一時間ほど屋上で外の空気を吸ったあと、私たちは病室に戻った。他の女性たちはみんなひと固まりになって、ささえあってよろよろと歩いているのに、モモヨはひとりだけ、すたすたと歩いている。病室に戻ると彼女たちはしんどそうに、体を横にしてみんなすぐ眠った。寝ていいよというのに、モモヨはベッドの上に座り、
「いいの、いいの。今はお相撲がないから、三時から六時までは退屈なんだよ」
と電源を切ったままのテレビのチャンネルを、かちゃかちゃと動かした。一人に一台ずつテレビが設置してあった。
「これ、お花なんだけど」
モモヨに花籠を見せると、
「まあ、なんてきれいなんだろう。気を遣ってもらって悪かったねえ」
と目を輝かせ、自分の頭上の棚の上に花籠を置こうとした。万が一、花籠が寝ているモモヨの脳天に落ちたら大変なので、
「明日、伯母さんが病院にきたら、ちゃんとしてもらって」
といって、花籠を床に置いた。彼女は花を眺めながら、
「六月十日が楽しみなんだよ」
と何度も繰り返した。
「また退院したら、東京に来てね」
そういうとモモヨはしばらく黙っていた。
「もう、体は元に戻らないかもしれない」
「そんなことないよ、顔色だってとてもいいじゃない」
びっくりして私がそういうと、モモヨは黙って笑っていた。
「ディズニーランドも楽しかったね。おばあちゃんの原宿で、モンスラも買ったねえ」
彼女は三年前に東京に来たときの話を、つぶやくように話していた。
モモヨから母のところに電話があったのは、六月十二日のことだった。
「家に泊まったときに、わざわざシャンプーを買ったんだって? そんなことをしないで、風呂場に置いてあるリジョイは私のなんだから、あれを使えばよかったのに」
モモヨの第一声はこれだった。母が驚いて、どこにいるのかと尋ねると、
「ふふふ、退院して家にいるよ」
と笑っていたという。
「このままじゃ、本当に百五十歳までいくかもしれないわ」
母は真顔でそういった。今、モモヨは、
「ずっと寝ていたから、足がすっかりなまってしまったわい」
と文句をいいながら、毎日、二時間、散歩をして、伯父夫婦をはらはらさせているそうである。
[#地付き](『PR誌ちくま』一九九三年十月号より転載)
[#改ページ]
モモヨ、まだ九十五歳
一九九五年、相変わらずモモヨは元気である。これまでの月に一度の旅行はひかえるようになったが、毎日、二時間の散歩は欠かさない。まあ、つつがなく暮らしているという感じだ。そのつつがなく暮らしている日々に、最近、ちょっとした変化があった。彼女の家にファクスが導入されたのである。
商売をしている家ならば別だが、一般家庭ではそれほどファクスを頻繁に使うわけではない。ところが新し物好きの彼女は、文章を瞬時にして送ることができる機械が気になって仕方がなかった。ああだこうだと考えたあげく、やはりファクスの魅力には勝てずに、買ってしまったのであった。
まずモモヨから、私の母の家に電話が入り、うちのファクス番号を教えてくれという。少し前に私はモモヨにある品物を送った。そのお礼をいいたいので、番号を教えてくれという。
「それなら電話でいえばいいじゃないの」
そういう母にむかって、彼女は、
「いーや、ファクスを送るの! ファクスでなきゃ、だめ」
といい放ったのだった。
私は話を聞いて、ファクスがいつ来るか、いつ来るかと期待していた。ところが二日たち、三日たってもモモヨからのファクスは来ない。いくら機械に興味があっても、九十五歳の年寄りだから、変にいじくりまわして、わけがわからなくなったか、全然、関係ない家に送信して、その家の家族のド肝を抜いたんじゃないかとか、ちょっと心配していた。
母に番号を聞いてから一週間後、モモヨからのファクスは到着した。ほとんどファクスの役目は果たしてないのだが、大きな文字で、
「プレゼント、ありがとう」
と書いてあった。送信するときにわからなければ、まわりにいくらでも教えてくれる人がいる。しかし彼女は自分で送ってみたかった。説明書をひっくりかえし、何度も何度も確認しているうちに、一週間たってしまったのに違いない。
そこには彼女の家のファクス番号も書いてあり、
「うちにも送って下さい」
と書いてあった。彼女は毎日、ファクスを気にしているようだ。ぷりぷりと音をたてて紙が出てきたら、その前に正座までしちゃうかもしれない。新しいおもちゃができて、彼女はますます楽しいだろうと、想像しているのである。
一九九五年七月
群ようこ(むれ・ようこ)
一九五四年、東京に生まれる。日本大学芸術学部卒業後、いくつかの仕事を経て七八年に本の雑誌社に入社。その間に書いたエッセイが人気を呼ぶ。八四年に『午前零時の玄米パン』を刊行したのをきっかけに作家として独立。幅広いファンを持つ。主な著書に『ビーの話』『オトナも子供も大嫌い』『無印OL物語』『おやじ丼』『一葉の口紅 曙のリボン』ほか多数。
本作品は一九九二年五月、筑摩書房より刊行され、一九九五年九月、ちくま文庫に収録された。