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斬(ざん)
綱淵謙錠
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1
志賀直哉の初期の短篇に「鳥尾の病気」という作品がある。そのなかに〈浅右衛門丸〉という薬の名が出てくる。
鵠沼《くげぬま》の東屋《あずまや》──この旅館は谷崎潤一郎、芥川龍之介、里見ク、宇野浩二、久保田万太郎、久米正雄といった、明治末期から大正にかけて文壇に登場した作家たちがよく利用した家として著名である──へ行くために、鳥尾と私(山本)とが新橋から汽車に、しかも三等客車に乗り込んだ。ところが、途中から乗ってきた六十ばかりの、まだ頭に小さな|まげ《ヽヽ》をつけた魚屋が、牡蠣《かき》の汁の滴りを一つ鳥尾の膝へ落したうえ、彼と背中合せの座席にすわった。神経衰弱に悩んでいた鳥尾は生臭《なまぐさ》さにむせ、脳貧血を起してしまう。すると乗り合せていた島木という同窓の華族がつれていた従者が、「此浅右衛門丸を上げて御覧なさい」といって、汚れた財布から渋紙へ包んだ小さな丸薬を十粒ばかり私の手の掌《ひら》へ落してくれたので、それを鳥尾の口へ含ませてやった、というのである。そしてこの〈浅右衛門丸〉には、〈あさゑむぐわん〉とルビがふってある。
この丸薬がどんな効能をもったくすりか明らかでないが、この作品が書かれた明治四十二年頃に庶民の間で用いられていた口中清涼剤の一種ででもあろうか。もっとも当時は口中清涼剤というよりは、〈気付け薬〉というふうにその効能を宣伝していたかもしれない。その〈アサエムガン〉という呼び方までが、いかにも庶民の口で呼びならされて訛ったという感じがする。
しかしここで取り上げようとしているのは、その薬の効能ではない。この薬につけられた〈浅右衛門〉なる人物の名前である。
およそ漢方における丸薬の名前は、六神丸・地黄《じおう》丸・六味丸といった原料・香辛性による名称とか、長命丸・救命丸・健脳丸といった処方部位による名称、あるいは奇応丸といった卓効性・即効性を謳った名称などが主であり(女性専門薬としての朔日《ついたち》丸、つまり〈月《つき》がまた始まる〉といった、語呂合せ的名称のものもあるが)、人名、とくに実在の人名を付した丸薬はめずらしいのではないだろうか。ベルツ水という、日本の幼児の臀に現われる〈蒙古斑〉の名付親であり、恙虫《つつがむし》病の研究その他でわが国の近代医学に大きな貢献をしたドイツの医学者の名を冠した薬があるが、洋方と漢方をチャンポンにした感じがあって、いかにも近代化途上にあった日本医学界の実情を反映した名称のような気がする。しかし、丸薬で人名を付したものは、寡聞《かぶん》にしてきいていない。
それならばこの〈あさゑむぐわん〉なる丸薬に付された〈浅右衛門〉なる人物はいかなる人物だったのであろうか。これは山田浅右衛門──つまり首斬り浅右衛門から取った名前である。江戸の元禄ごろから明治十四年七月二十四日の廃刑まで、死罪における斬首の刑を執行した山田浅右衛門(朝右衛門とも書く)である。
〈気付け薬〉と首斬り浅右衛門──はなはだ珍妙なとりあわせではある。しかも斬首の刑が廃止になってからほぼ三十年もたとうとしていた明治四十二年当時に、なおその名前を使って薬効を宣伝しようとしていたことは、一見、奇異な感じをまぬがれない。しかしそれはいかに〈首斬り浅右衛門〉という名が伝説的な、呪術《じゆじゆつ》的な迫力をもって明治の人の記憶にとどめられていたかの有力な証左といってよいだろう。
浅右衛門によって首を斬られることは絶対の死を意味する。この世からあの世への確実な通行証明書を得ることである。それならば、失神した者(つまり死の世界に一歩足を踏み込んだ人間)に浅右衛門の名を冠した薬をのませるならば、逆にあの世からこの世へもどってくるのは確実だ、という思想から命名されたものかもしれない。そうとすれば、これはなかなか健康な庶民のユーモアといえよう。
しかしこの命名の根拠は、どうもそんなユーモラスなものではないようである。山田浅右衛門には自分の処刑した罪人の生胆《いきぎも》を役得としてもらいうける権利があった。彼はその生胆から諸種の秘伝の薬を製造し市販していた形跡がある。
しかし彼の作っていたといわれる〈人丹〉という丸薬(幕末の名与力・佐久間|長敬《おさひろ》の著書には〈人胆丸〉とある)と、ここで言っている浅右衛門丸とが同じものであるかどうかはわからない。なぜなら、明治四十年代の浅右衛門丸の原料が〈人丹〉の原料といわれた人間の生胆でありうるはずが絶対にないからである。
この当時の山田家の売薬名は〈天寿慶心丸〉といった。七代目浅右衛門|吉利《よしとし》が明治十七年十二月二十九日に歿し、その戒名を〈天寿《ヽヽ》院|慶心《ヽヽ》和水居士〉といったが、山田家秘伝の製薬方法を吉利から受け継いだ遺族が、自分たちの作った丸薬(このときはすでに人間の生胆を使うことは法律で禁止されていたため、熊胆《くまのい》と同じように、動物の胆嚢《たんのう》を使用していたと思われる)に吉利の遺徳をしのんで天寿慶心丸と命名したものであろう。そしてこの天寿慶心丸を俗に世間では〈浅右衛門丸〉と称していたものか(山田家じしんが自家の製薬に〈浅右衛門丸〉とつけることは考えられない)、山田家とは関係のない人間が類似の丸薬に〈浅右衛門丸〉なる名前を詐称《さしよう》していたのかはわからない。いずれにしても、浅右衛門という名のもっている呪術性──人間の生胆への連想は、驚くほど大きな宣伝力となったはずであるから、後人が気付け薬の名前として浅右衛門の名を利用することはすぐれたアイディアであったといえよう。
たとえば里見クは大正六年四月号の「中央公論」に発表した「ひえもんとり」という小説で、「人間の『生胆』は、誰も知つてゐる通り、我が国では浅右衛門丸、支那では六神丸と呼ばれる、貴重な薬の原料である」と述べている。六神丸という漢方薬が、現在では麝香《じやこう》、牛黄《ごおう》、熊胆《ゆうたん》、蟾酥《せんそ》、沈香《じんこう》、人参《にんじん》の六種の精分からなる薬で、人間の生胆とはまったく無関係であることがはっきりしていると同じように、浅右衛門丸が名前からくる連想以外に人間の生胆とはなんらのかかわりあいがなかったであろうことは容易に考えられる。
しかし江戸時代から明治にかけての土俗医学における人間の生胆の卓効性にたいする信仰は、われわれ現代人の想像を絶するものがあった。これは勿論遠く中国から渡来した信仰であり、古代中国における帝王や相当の官職にある人間で|嗜好として《ヽヽヽヽヽ》人肉を食する者がいたこととは別に、|医薬として《ヽヽヽヽヽ》人肉を用いる風習があったことの流れである。人肉だけでなく、身体のあらゆる部分がそれぞれ薬効をもっていると信ぜられていた。とくに胆や血のもつ特効性への迷信的行為は、わが国の明治以後においても、種々の犯罪となってあらわれている。
一世を風靡した「ああ世は夢か幻か」の演歌で有名な〈臀肉《でんにく》斬り事件〉は明治三十五年三月二十七日の夜に起きた殺人事件であるが、犯人の野口|男三郎《おさぶろう》は十歳の少年印刷工の臀肉とともに生胆も取ったといわれる。恋人の兄・野口寧斎のハンセン病の薬としてである。男三郎は当時、外国語学校の露語科に通学していたが、それほどの有識階級の人間のなかにまで、まだこのような人肉ないし生胆にたいする信仰が根強く残っていたことは一驚に値いする。
この病の薬として妊娠五カ月で堕胎した胎児を買い取って料理したとか、母の眼病を治すために生胆の黒焼が効くというので妻を殺したとか、盲人が墓をあばいて卯年生れの人間の胆をえぐりとったとかいう現実に起きた事件にしても、歌舞伎の「妹背山」におけるお三輪の生血によって入鹿《いるか》の魔性が消滅するとか、「合邦《がつぽう》」で寅の年月日そろって生れた女の肝臓の生血を飲めば病がなおるとか、「朝顔日記」では眼病には生血・生胆が効くという仮説が芝居の前提となっている等々にしても、すべてこの人肉ないし生胆信仰の歴史的根強さを物語るものであろう。これが〈浅右衛門丸〉という奇妙な名をもった薬の背景をなしていたことは否定できない。
その後このような俗信は当然影をひそめ、同時に浅右衛門の名も全く廃《すた》れたが、現代においても、官公庁や企業の大量解雇問題のニュースなどで、経営者側の発言としてしばしば「浅右衛門の役はだれかが引き受けねばならないので、あえて私が引き受けた」というような表現にぶつかることがある。そうとすれば、浅右衛門の名は〈首斬り〉という彼の仕事のほうで現在もなお生きつづけているということになる。
2
松陰・吉田寅次郎が伝馬町の獄内にある刑場で斬首されたのは安政六年(一八五九)十月二十七日、死刑執行に当ったのは、山田浅右衛門七世吉利であった。
このとき死に臨んだ松陰の態度に古来二説がある。
一つは悠然として服装をただし、「鼻がかみたい」といって刑吏のさし出す紙で鼻をかみ、心静かに端坐瞑目して一閃《いつせん》の白刃を待ったという説であり、もう一つはそれまでの獄中における悠容せまらざる態度にも似ず、騒々しくあばれて、この世への未練を示したという説である。
そして前説を裏付けている証言の一つに、刑の執行人・山田浅右衛門吉利の言葉がある。吉利の三男|吉亮《よしふさ》の回顧談に、父吉利が「さすがに立派な往生であった」とつねに松陰の死に際を讃え、松陰の〈親思ふこゝろにまさる親ごゝろけふの音づれ何ときくらん〉の辞世の歌をよく口ずさんだ、という話が遺っているのである。それは必ずしも死者への儀礼的讃辞ではなかったようだ。なぜなら同じ吉亮の話のつづきで、松陰に先立つ同月七日に吉利の刀で処刑された頼三樹三郎(山田家の記録では〈三樹|八《ヽ》郎〉と記されているそうであり、現在の南千住駅前にある小塚原回向院《こづかツぱらえこういん》の彼の墓にも〈頼氏称三樹|八《ヽ》郎山城人〉とある)のばあいを「やや未練があった」と吉利が述べているからである。単なる死者への儀礼ならば、こんな区別はつけないはずだ。
吉利の口ずさんだ〈親思ふ〉云々の歌は、処刑の一週間前に松陰が父・杉百合之助と叔父・玉木文之進および家兄・杉梅太郎の三人連名宛に書いた〈永訣の書〉中にある歌で、はなはだ人口に膾炙《かいしや》した歌であったから、吉利も後年覚えたものであろう。松陰が死に臨んで高らかに吟誦したのは、「留魂録」のはじめにある〈身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも〉の歌と〈吾今為[#レ]国死、死不[#レ]負《ソムカ》[#二]君親[#一]、悠々天地事、鑑照在[#二]明神[#一]」の即席の五言絶句であったと言う。その場所柄をわきまえぬ(?)松陰の高吟に刑吏たちが狼狽して、これを押しとどめようとした騒ぎを獄内から聞いた者の証言が、死を恐れ生に未練を残したという後の説を生ぜしめる原因となったのではあるまいか。また世古格太郎の『唱義聞見録』で「死罪申附ると聞ゆるや否や白洲|騒敷《さわがしく》、一人の囚人を下袴|計《ばかり》にし、腕を捕《とらえ》、二、三人にて白洲口より押出し」て来たが、その囚人が松陰で、彼は「誠に気息荒く切歯し、口角泡を出す如く、実に無念の顔色なりき」というのは、評定所において寺社奉行・松平伯耆守から不当な死罪の判決を受けたときの態度であり、評定所から伝馬町の牢屋敷に帰ってののちは、平静にもどっていた。
なにも吉田松陰だからといって、死の、それこそ文字通り〈土壇場《どたんば》〉まで立派に生きたと讃美する必要はないだろう、聖人君子も死を恐れるのはわれわれ凡人と同じである、そして死を恐れたがゆえに松陰の最期はかえって人間的なものとなって真実性をもつではないか──と言いたくなるような魅力が後の説にはつきまとっている。しかしここで問題なのは松陰像をどう作り上げるかではなく、事実はどうであったのか、ということである。その意味では、自分の手で松陰の首を斬り、自分の目で松陰の最期を確かめている浅右衛門七世吉利の証言は、千鈞の重みがあるといってよい。
江戸行刑史における死刑執行人としての山田浅右衛門の名が一躍クローズアップされ、〈首斬り浅右衛門〉の異名で後世にまで知られるようになったのは、安政の大獄以後である。
江戸時代の行刑制度がそれまでの武断的・弾圧的な戦国の遺風から離れて、少くとも儒教という統一的な倫理体系をふまえた文化的・平和的な色彩をおびるに到ったのは、天草の乱とか由比正雪の慶安の乱といった、徳川幕府の本質にかかわる反幕的政治闘争が鎮圧されつくしたあと、つまり四代家綱・五代綱吉ごろからである。
山田家がこの行刑制度とかかわりをもつようになったのも、ほぼ元禄ごろからといわれているが、斬首の刑が廃止になる明治十四年までおおよそ二百年、その間に七代の世襲をおこなっている。しかし山田家が歴史にその存在を強く印象づけるのは、安政の大獄以後の約二十年、七世吉利の時代である。幕末の激動期に際会して、それまで静かによどんでいた歴史の釜が煮えたぎり、底に沈積していたものを表面に噴き上げたといってよいだろう。いうならば、鵜飼吉左衛門幸吉父子・頼三樹三郎・橋本左内・吉田松陰らの反幕分子を死刑にした井伊直弼の恐怖政治が、日本行刑史の表面に山田浅右衛門なる存在を押し出したのである。
それはちょうどギロチンという、その形式はすでに古くからあった首切機械が、あたかもフランス革命のときに作り出されたかのように誤伝されるほど、当時のフランスの恐怖政治によって名をあげたのと軌を一にしている。
一七八九年十二月一日、フランス国民議会において、憲法制定議会議員であった医師ジョゼフ・イニャス・ギヨタンは、この首切機械の採用を提議した。彼は首斬りのような残虐なことには人手を用うべきではない、意志をもたぬ機械におこなわせることこそ人道的ではないか、と提唱したのである。
「みなさん、この機械によって、わたくしはみなさんの首を一瞬のあいだに飛ばすことができるのです。しかもそのとき、みなさんは〈痛い〉とも〈痒《かゆ》い〉とも感ずるひまはないのであります」
全員は思わず笑いをこらえることができなかった。このユーモラスな発言に失笑した瞬間から、ギロチンという名の首切機械は歴史に不朽の名をとどめ、笑った人間は〈恐怖〉という贈物で復讐されることになる。
一七九二年三月二十日、一般人の死刑はギロチンで行われることが法令で定められた。たまたま機械いじりの好きなルイ十六世はこの首切機械に興味をもち、下向きにとがった三角形の刃を用いるのが最も効果的であることを提案した。このギロチンの改良命令が彼の最後の命令となったのは歴史の痛烈な皮肉である。一七九三年一月二十一日、彼自身まずその断頭台にのぼらされ、痛くも痒くも感ずるひまなく処刑されることで、その改良機械の優秀さを立証したからである。
一七九三年以後の恐怖政治によって、ギロチンは飽くことを知らずに、|人道的に《ヽヽヽヽ》人間の血を吸いつづけた。マリー・アントワネットをはじめ、ジロンド派の人たちから、ダントン、エベール、ついにはサン=ジュスト、ロベスピエールまでが、ルイ十六世が身をもって自分のアイディアの卓抜さを証明した機械の犠牲となった。
浅右衛門のばあい、最も人道的な斬首の方法とはどういうことか。いうまでもなく、被刑者になんらの苦痛もあたえず、一瞬のうちに正確にその首を打ち落すことである。被刑者の苦痛を最小限にとどめるためにギロチンが採用されたように、浅右衛門に要求されることは自分が精密な機械になることであった。もちろん人間が機械になることは人間であることを否定する行為である。至難の業《わざ》といってよい。それをあえて家職として担《にな》ったところに、山田家なる存在の不可思議さ、ユニークさがある。
また人間が単なる機械によって斬首されることは、おそらく当時の武士の美学として絶対に許容できないところであったはずだ。したがって自分が無限に機械に接近しつつも決して機械とはなりおおせないところに、浅右衛門のプライドと救いがあったであろう。こういう厳しい倫理をつねに自己に強制しつづけざるをえない職業をもって世襲とし、連綿七代もつづいたという事例が、はたして人間の歴史に、山田家以外、存在するのであろうか。
3
「それでは母上、行ってまいります」
折目正しい吉亮《よしふさ》の澄んだ声が玄関から聞えた。それに答える妻の声や、門弟たちの挨拶がひとしきりざわめいて、静寂がもどった。
吉利は茶碗のぬくもりを大事そうに手のひらにあたためて、朝の静けさに身をひたしていた。声はきこえないが、風向きの工合か、どこかの寺から朝の看経《かんきん》の木魚の単調な音が微かに流れてくる。栖岸院《せいがんいん》か常仙寺かも知れない。それとも心法寺であろうか。
襖《ふすま》があいて、妻の素伝《そで》が入って来た。
「吉亮が出かけました。さすがにすこし興奮しているようでございます」
ほのかに笑いを口元にただよわせながら、吉利のかたわらを通って、奥の仏間に行こうとした。新たに燈明をつけかえるのであろう。
「まだ子供だから致し方あるまい。むごい親かもしれぬな。……」
そう言って吉利は咽喉仏《のどぼとけ》の動きをみせて茶を喫してから、衣《きぬ》ずれの音を立てつつ裾を引いて通りすぎる素伝の、裾前から足首へ左手をすっと差し入れて、冷たいふくらはぎを軽く撫で上げて手をとめた。皮膚の白さが手のひらから直接脳裡に浮んだ。痙攣《けいれん》がちいさくふくらはぎに走って、歩みがはたと止ったが、
「はい」
と声にならぬうなずきが口を洩れて、素伝はそのまま隣りの間《ま》へ入って行った。素伝の残り香が微かに漂った。
〈子供よりも自分のほうが興奮しているようだ。年甲斐もない〉──と、吉利はにがい笑いを浮べた。きょうは三男の吉亮がはじめて死罪人の首を刎《は》ねるのである。まだ数えで十二歳。奉行所への届け出には十五歳と偽ってある。だが、吉亮の成長ぶりは、その偽りを皆に気づかしめないであろう。もちろん、奉行所の重立った人間には応分の付け届けをして挨拶はしてある。
吉利も山田流居合術の正統を継ぐ者として、幼少時代からその天稟《てんぴん》を謳われてきた。また多くのすぐれた武芸者の麒麟児と呼ばれた少年時代の剣の冴えもしばしば目撃してきた。そして、親の贔屓目《ひいきめ》を割引し、純粋に武芸者の立場から眺めて、吉亮のもっている剣の稟質《ひんしつ》は、自分もふくめたそれら多くの傑《すぐ》れた剣士たちにいささかも劣るものとは思えなかった。吉利は吉亮の太刀さばきのなかに、山田流居合術を継ぐものはこの子を措《お》いてはいないという確信を抱かせる何物かがあることをはっきりと見出していた。
「旦那さま、──」
と素伝が閾《しきい》の向うに膝をつき、わずかに襖をひらいて呼んだ。
「──お支度がととのいましてございます」
眼を伏せた素伝の襟足がほの白く浮んだ。白の長襦袢に着かえていた。寝姿である。
「うむ」
と答えて、吉利は縁側の障子の上の方を斜めに切っている陽の光をしばらく眺めていた。いつのまにか小鳥たちのさえずりがあたりをうずめているのに気づいた。
吉利はやおら立ち上ると、隣りの寝間へ入って行った。伽羅《きやら》のかおりがほのかに鼻をうった。素伝が奥の仏間に燈明をあげ、香を焚いてきたのであろう。この部屋は襖が閉めきっていて、まだ有明行燈《ありあけ》がともしてある。
吉利は新たに敷きのべられた布団のそばへ寄り、無造作に帯をといて裸になった。素伝がうしろから浴衣をかけようとするのを、
「よい」
とおしとどめた右手で素伝を抱くと、布団の上へともにくずれて行った。吉利の腕の力が強すぎたのか、ぐっと一と息呼吸をこらえた素伝の厚い胸はすでにあえいでいた。
それが吉利の癖であった。死罪人の首を斬ろうとする日の朝、理由のわからぬ興奮に駆られることがときどきあった。斬首の相手が名の通った政治犯であれ、極悪の兇賊であっても、いまさら心を騒がせる初心《うぶ》さはなかった。が、ふしぎに血がたかぶって抑えようのない日があった。しかもそれにつづいて、からだの芯《しん》がきりきりと疼《うず》くような、悲しみに似た感情が襲ってくるのである。その理由はわからない。また彼はそれを深くつきつめて考えようとはしなかった。つきつめてみたところで、どうなるものでもなかった。
ただその思いがけない血のさわぎを静めるだけだった。
そういうたかぶりをおぼえる朝は、吉利は出がけに素伝のからだを抱くのを常とした。そして、傍を通り過ぎる妻のふくらはぎに手を触れるのが合図であった。……
短いいとなみであった。
裏の井戸でつるべのきしる音がした。門人たちはもう道場の掃除も終ったはずである。吉利は素伝のからだから身を離すと、軽く浴衣をまとい、手なれたしぐさで帯を腰に巻きながら部屋を出た。廊下から庭に視線を投げると、植込みのつつじの花があざやかだった。
「そろそろ日中《につちゆう》は暑くなりそうだな」
だれに言うともなくつぶやくと、吉利は道場の裏手にある湯殿にはいって行った。湯殿にはまだ夜の名残りのように薄暗さがただよい、ひえひえとした空気が森閑とあたりを占めていた。吉利は湯船にはってある冷たい水を手桶で汲み出すと、何杯も何杯も心ゆくまでからだにかけた。
湯殿を出ると、三畳の控えの間で素伝がすっきりと着替えて待っていた。さきほどの寝間における乱れの名残りはどこにもなかった。水のしたたるまま吉利は素伝に背を向けた。素伝が糊のきいた浴衣をうしろから着せかけ、肩から脚まで柔らかく押えて水を吸わせた。素伝が浴衣を取り除くと、吉利は乱れ箱に用意してある新しい下帯をしめ、素伝の差し出す衣服を次々と身にまとって行った。
吉利は素伝の挙措《きよそ》に満足していた。死んだ佐和の後添いとして娶《めと》ってから、そろそろ一年になろうとしている。
吉利と先妻佐和のあいだには四人の子供があった。長男|吉豊《よしとよ》二十七歳、二男|在吉《ありよし》二十五歳、三男|吉亮《よしふさ》十二歳、四男|真吉《まさよし》九歳の男の子だけである。佐和は真吉を産んで死んだ。八年前の安政四年である。
今年──まだ慶応と改元して間もないが、吉利は五十三歳となっていた。そして後妻の素伝はまだ二十四歳である。二十九も年が違った。この素伝を吉利にめあわせたのは、海舟・勝麟太郎であった。
山田家と勝家の関係は文政十二年(一八二九)にはじまる。山田家ではこの年、五世|吉睦《よしむね》の跡を襲った養子の吉貞が離縁され、吉昌《よしまさ》が家を継いだが、当時麟太郎の父・勝小吉は貧乏御家人の糊口《ここう》の道の一つとして刀剣の鑑定をなりわいとし、刀の研ぎ、目利きから、刀剣講を催したりしてわずかに生計をたてていた。あばれ者で奇行に富んでいた小吉は、刀の目利きをするには実際に人を斬ってみる必要があるというので、「ある日千住(小塚原)へいって胴をためしたが、それから浅右衛門の弟子になって、土段(壇)切りをして遊んだ」と彼の自伝『夢酔独言』にもあるように、普通の武士が賤役として交際を嫌悪した〈首斬り浅右衛門〉とも、隔意なくつきあった。その反骨の血をついだ麟太郎は小吉の死後も山田家との交際を棄てず、
「親父《おやじ》は剣術屋だったから胴試《どうだめ》しもしたでしょうが、あっしゃあ学問屋だから、刀の目利きは浅右衛門《あさえむ》さんにお願いしますよ」
と、磊落《らいらく》な態度で、知り合いの大名とか大身の旗本から託された刀剣類の鑑定を依頼しがてら、よく山田家に遊びにきた。麟太郎は吉昌の跡を継いだ吉利より十歳年下だったので、叔父にでも対するように、くだけたつきあいをした。
そんなことから、佐和が死んで長いあいだ独身を通している吉利をみると、世話好きな麟太郎は、かつて子供の頃(それがちょうど小吉が浅右衛門とつきあいはじめた文政十二年である)、江戸城西の丸に召されて、十二代家慶の五男慶昌(幼名初之丞)のお付きとなった前歴もあるところから、大奥のことにも通暁していたので、吉利の後妻に素伝を紹介してきたのであった。
素伝は旗本・青山下総守の御祐筆|勝田《しようだ》鋼吉の娘で、武士の娘としての嗜《たしな》みは一通り教えこまれていた。とくに武芸については女の嗜み以上のものがあり、剣と薙刀《なぎなた》をよく使い、馬にもよく乗り、十九歳で大奥に奉公するまでは、力弥《りきや》姿に男装し、〈女武者修業〉と称していろいろな道場に腕だめしに歩いたこともあった。ついで十九から吉利と結婚した二十三までの四年間を大奥に勤め、「楓の局」といわれて相応に幅も利かしていた。
その素伝が〈首斬り浅右衛門〉と結婚するという報せは、素伝の親戚知人たちを驚かせた。二十九も年のちがう男に、しかも後妻としてである。御殿奉公にあがるまでは、女だてらに武術修業に身をうちこみ、親類縁者のもってくる縁談などには耳もかさず、うるさく言おうものなら取って投げ出されかねない有様に、いつとはなしに素伝の縁談といえば誰も手をひっこめてしまう状態になっていたとはいえ、いくらなんでもこの縁談はひどすぎるというので、周囲の者はすべて反対した。まして奥女中というれっきとしたお役目もいただき、いくら適齢期《としごろ》は過ぎたとはいえ、美貌のうえに身に箔《はく》もそなわった現在、素伝さえその気になれば〈何様《なにさま》〉といわれるようなところへでもかたづくことができようというのに、なにも好きこのんでそんな男に嫁入るなどとは、気が違ったとしか思われない。「あんな賤しい人斬り稼業の者に素伝をやるくらいなら、いっそ処女《むすめ》で通させたほうがまだましだ」と言い出す者さえいた。また「勝田の家は浅右衛門に娘をやらねばならぬなにか義理でもしょっているのか。人の血で汚《けが》れた金を借りているとでもいうのか。それならいっそ素伝を吉原に売って金を作ったほうがまだ世間様に顔向けができるというものだ」という者もいた。
ところが事実はその通りであった。素伝の父・鋼吉は山田浅右衛門から三千両という大金を秘かに借りていたのである。それはすべて主家青山家の経済的|逼迫《ひつぱく》のためであった。
嘉永六年、ペリーやプゥチャーチンの来航以来、時代は大きく動揺しだした。嘉永七年、日米・日英・日露と和親条約が結ばれるなかで安政と改元があって、いよいよ幕藩体制の屋台骨がすけてみえはじめた。攘夷・開港の二論は国論を真っ二つに割り、安政の大獄の第一次的結着は、安政七年三月、桜田門外の変によってもたらされると同時に、幕府の傾斜の意想外な大きさがあますところなく露呈された。万延と改元されたのも束の間、一年たらずで文久と改元され、いよいよ時代の物情は騒然として手のほどこしようがなくなってきた。そしてそれまで江戸を中心として動いていた国内政治がいつのまにか江戸と京都を中心とする二元運動を開始し、文久三年、三代家光以来二百三十年間たえてなかった〈将軍上洛〉という事態が──しかも家光のときの示威的上洛とは主客が完全に転倒した事態が発生するという忙しい時代を迎えたのである。
こうなってはいくら後生楽《ごしようらく》をきめこんでいた徳川家《とくせんけ》旗本の面々も、これ以上惰眠をむさぼっているわけにはいかなかった。江戸湾の防備だとか、家茂《いえもち》上洛の警護だとか、先祖代々の御恩顧にむくいるためには、なんらかの動きを誇示しなければならなかった。しかし銹《さ》びついた刀槍を研ぎに出すにも、家格に決められた家来下僕の頭数を揃えるにも、先立つものは金であった。しかもそれまでにすでに〈手許不如意〉は旗本の合言葉である。蔵前の札差たちにいくら泣きついても、もはやなにも出ない時代となっていた。利にさとい札差連中は、「いざ鎌倉」となった現在において打ち跨《また》がるべき痩馬一頭すらなく、伝来の鎧櫃《よろいびつ》の底をはたいても埃《ほこり》のほかにはなに一つ出て来ない旗本という存在が、これ以上彼らの利殖の対象たりうるはずがなく、すでに前借の積み重ねで、借金の抵当《かた》として考えられる遠い将来の知行米がやがて換金されるという時代がおそらくは永遠に来ないであろうという予感をはっきりともっていた。
歴史の転換期においていちばん最後まで取り残されるのは、人間関係の倫理観である。素伝の父・勝田鋼吉が主家青山家の金策に東奔西走の無理算段をしたのは、御祐筆という職掌柄ででもあるが、主従関係という身にしみついた倫理観からの当然の行為であった。しかし無理は無理であった。金策のめどは絶望的であった。そしてそれを救ってくれたのが知人・勝麟太郎の才覚であった。
当時、麟太郎は決して暇な人間ではなかった。いや、おそらく当時としては最高に多忙な人間の一人であったであろう。禄高四十一石余という小禄の御家人の家に生れた麟太郎をして、今日の多忙な人間たらしめたのも、転換期という時代のなせる所業《わざ》である。彼の日本不在中、大老井伊直弼が殺されるという大事件のあった万延元年五月、咸臨丸艦長としてアメリカから帰国した麟太郎は、ひきつづき幕府海軍の中枢として活躍し、文久二年には軍艦奉行|並《なみ》を命ぜられて江戸と京坂の間を軍艦で往復して寧日なかった。
鋼吉が金繰りに万策つきて麟太郎を赤坂元氷川下の勝邸に訪ねたのは、たまたま麟太郎が幕府軍艦順動丸で兵庫から江戸に帰り、これからふたたび大坂に行こうとしていた文久三年の正月|末《すえ》であった。
鋼吉の来意を聞いた麟太郎は、
「どのくらいあればよいのでしょうか」
と無造作に訊ねた。
「二千両もあればこのたびの御上洛にはなんとかしのげると思います」
「二千両ねエ……」
とちょっと考えてから、
「それでは三千両ということにしましょう。出費というものはおもわくをはるかに越えるのがつねですからね。この手紙を麹町八丁目の山田浅右衛門のところへ持って行ってごらんなさい」
そういって、手紙の筆を走らせた。
「山田浅右衛門というと……」
と確かめようとすると、
「そうです。首斬り浅右衛門です。信頼できる仁《じん》です」
といって、ニッコリ笑った。きょうまでの苦労が馬鹿げてみえるほどあっけない周旋ぶりであった。
鋼吉はその手紙を持って吉利に会った。半信半疑であった。ところが吉利はその手紙を読んだだけで、
「よろしうございます。あすにでも、御家中の方に取りに来ていただきましょうか。手配しておきます」
と、ただそれだけであった。鋼吉がその返事の意味を実感として理解し、
「はッ、これはこれは有難き仕合せ……」
とあわてて一礼するまでに、いささかの時間を要した。それまで心の片隅にわだかまっていた、いくら主家のためとはいえ首斬り風情に頭を下げねばならぬという抵抗感など、けむりのように消えていた。そしてどこを押しても茶の湯か俳諧の宗匠といった感じしか思い浮べられない吉利の顔を、ふしぎなものでも眺める思いで見とれていた。
素伝はこのことを知らない。彼女はすでに大奥にあってかなり名前も知られるようになっていた。
麟太郎が素伝の結婚話を鋼吉のところに持ってきたのは、翌元治元年五月の下旬である。この月十四日、大坂城で軍艦奉行を命ぜられ、即日作事奉行格諸大夫を仰せつけられて安房守に任ぜられた麟太郎は、将軍家茂の帰府にあたって翔鶴丸を督して江戸へもどってきたのである。一方において国家の大問題と取っ組んでいながら、片方でこんな個人的な世話まで焼くというのが、この男の不可思議なところであった。大きなことと小さなことを同時にしていなければ精神のバランスを失うといった感じである。とにかく|こまめに《ヽヽヽヽ》頭も肉体も動かしていなければ落ち着かない男であるらしい。
父からの急な呼び出しで宿下りを願って実家へ帰った素伝は、あまりにだしぬけな話なので、呆れるより先にふき出してしまった。そこへ訪ねてきた麟太郎は、開口一番、
「素伝さん、あんたのような利発なおひとには、もう大奥の生活というものがそれほど永続きしないことはおわかりでんしょう。将軍《だんな》が江戸と京都を往ったり来たりしている御時勢に、大奥がまだ昔のまんまの明け暮れでおるというのが、むしろおかしいとは思われませんかな」
と切り出した。
「ですが、安房守さま、……」
「おっと、待った。安房守さまはいけねえやな。ここは千代田《おしろ》城じゃござんせんし、四角張っちゃあ昔の素伝さんと話してる気がしませんや」
「はい、それでは勝のおじさま、……」
「ああ、それそれ。それでいい」
と、明るく二人で笑ってから、
「それとわたくしの嫁入り話と、どんなつながりがあるのですか」
と素伝が聞いた。
麟太郎はこの男にしてはめずらしく|しかつめ《ヽヽヽヽ》らしい顔になって、幕府がいままでに倹約令を出して財政の建て直しをはかったことが何度かあるが、それが大奥には一度も及んだことがなかったこと、そのために現在の大奥というものが幕府の経済にとっては想像以上の重荷になっていること、もう四、五年もたつと、一生奉公のつもりでいる御殿女中たちも千代田城を出ざるをえない時勢がくるであろうこと、そのときになってあわてても御殿下りの女たちが巷《ちまた》にあふれて稀少価値が失われること、したがってそろそろ身を堅めなければ一生独り身で過す羽目になるであろうことを説いた。
将軍の子を、しかも男の子を孕《はら》むというむくつけの欲望を主軸としてすべての生活が運行され、虚飾と暗闘の充ち満ちている倒錯した大奥という女の世界にいささかうんざりしていた素伝には、麟太郎の言葉がよく理解された。さらに、大奥生活というものが意外に出費がかさみ、実家からの相当の補助がなければ到底やってゆけぬことが、大奥の物のけじめがつくにつれてわかってきた。そのうえ父の鋼吉がこのごろはかなり逼迫していて、その補助のために辛い思いをしているらしいことも、素伝は暗々裡に気づいていた。
「そろそろお城から身をひく潮時かもしれないようですね」
と独り言めいた口調でいう素伝の言葉にかぶせて、麟太郎は語をついだ。
「素伝さんよ、あんたは変り者だ。だからわしはあんたが好きで、こんないらぬ世話まで買って出たくなるんだが、わしのすすめる縁談だ。だまされたと思って浅右衛門《あさえむ》さんの嫁になりなさい。そりゃあ、あんたには初めてのつれあいで、相手は二度目というんじゃ、いろいろ気のすすまぬこともあるでやんしょうが、これからは世の中が大きく変りやすよ。なまじっか旗本や御家人の奥方なんぞになったところで、しやあせにゃなれっこない。あんたも昔は道場荒らしまでしたのだから知ってるであんしょうが、昨今のちゃんとした剣術使いがどういう分際から成り上った者か考えてみたことがありやすかな。わしの本家の男谷《おだに》にしてからが、昔は越後の検校上り。お玉ヶ池の千葉周作の親父は馬医者だ。斎藤弥九郎は商家の丁稚上り。岡田十松も浅利又七郎も鍬を竹刀に持ちかえたものだ。歴《れつき》とした侍がいまでは刀のあつかい方さえ知らない御時勢だ。もはや家格や家柄の時代じゃないというわけさ。そりゃあ浅右衛門という人は首斬りなんぞをしてはいるが、人柄といい器量といい、このわしが保証する。なにも言わずにウンと言いなさい」
「ほんとにおじさまにかかっては有無をいわせないんだからかなわないわ」
ニッコリ笑ったのが素伝の承諾の返事であった。
麟太郎の胸中では、昨年、素伝の父の鋼吉が三千両の借金をしたときすでにそのかたとして素伝を吉利の妻にすることを計算していたのかもしれなかった。どうせ返却のできる金でないことは、旗本がふたたび昔日の勢威と財力をもつことはないと見ぬいている麟太郎がいちばんよく知っていた。そう考えると、彼が素伝の結婚に熱心なのは借金を棒引きにするための保証人としての策略だったのかもしれない。しかしそれが山田・勝田両家にとってそれぞれ好都合なことであるならば、その策略はむしろ歓迎すべきものであるはずだ。勝田鋼吉にしたところが、むしろ娘が山田家にとついでくれるほうが、借金の返済という頭の痛い問題がひょっとすると帳消しになる可能性が大きいのであるから、かえって麟太郎の才覚のぬけめなさに敬服するしかないはずであった。しかしこの借金の件については、麟太郎は一言も素伝には話さなかった。まして鋼吉から話すはずはない。
「よし、それできまった」
というと、麟太郎はもうパッと立ち上って座敷を出ていた。
麟太郎は勝田家を出るとその足で山田家を訪れた。そしてあまりにも唐突な話に苦笑しかできない吉利を、息子の吉亮の剣を完成させるためにはぜひとも素伝を後妻に迎える必要があるという理窟で説得するのに一刻《いつとき》とはかからなかった。
吉利と素伝の婚儀がととのって、内祝言《ないしゆうげん》がおこなわれたときには、麟太郎はすでに神戸へもどって、軍艦操練所で坂本龍馬や陸奥宗光たちと国事を論じていた。
それからそろそろ一年になる。……
吉利と素伝とのあいだは日一日とこまやかさを加えている。そしてそれまでは職業柄どうしても払いのけえなかった家のなかの陰惨な感じが消えて、ぽっとどこやらに|はなやぎ《ヽヽヽヽ》ともいうべきものが漂い、門人たちの顔にもいつとはなしに明るさがとりもどされていた。吉利にしても、ふたたび四十台の初めにもどったような、身体のすみずみにまで壮気といったものがみなぎってくる思いの毎日であった。
吉利は着替えが終ると湯殿から居間へもどって脇差を腰に帯び、すでにさきほどの寝具は片づけられて塵一つない寝間を通って、奥の仏間へ入った。素伝が大刀を袖で胸にかかえて後につづいた。
世間では山田家を、浪人の身でありながら一万石に匹敵する富裕さがあるとうわさしていたが、素伝が嫁してきて最初に驚いたのは、その仏間のすばらしさであった。
入って正面の幅三間、高さ一間半の壁面は、左右それぞれ三尺ずつを壁のまま残して、中央の残り二間を上から五尺、奥行一間の空間にしてぐっと壁の奥にしりぞかせ、その壁龕《へきがん》の底面全体を須弥壇にしつらえて仏壇とし、下の窪んでいない高さ四尺の部分は襖四枚をはめた袋棚としてある。仏壇の表面には観音開きの扉が左右それぞれ三枚折りになって両方にたたまれるようになり、内壁は金箔でぬりこめられ、中央に阿弥陀来迎図が掛けられ、安置されている仏像が三体。
中央は高さ四尺に余る不動明王像。迦楼羅《かるら》の火焔を光背とし、瑟瑟座《しつしつざ》に趺坐して左手に羂索《けんざく》を垂らし、右手に倶利迦羅《くりから》竜王の巻きついた降魔《ごうま》の利剣をかまえた忿怒《ふんぬ》の赤銅像は、破邪顕正の家業を象徴するとともに、その家業にたいするいわれなき社会的蔑視を不退転の意志ではねかえそうという山田家代々の心情を示すものであろうか。
向って右は阿弥陀如来像。左は弥勒《みろく》菩薩像。ともに高さは不動明王像よりやや低く、頭上に天蓋《てんがい》のさがった三尺七、八寸の金色《こんじき》像である。
元来、山田家の宗旨は曹洞宗であり、菩提寺《ぼだいじ》は豊島|郡《ごおり》巣鴨村池袋の瑞鳳山祥雲寺であるが、家業の性質から特に一つの宗派に限るということをしなかったらしく、この仏壇にかたどられているものは、顕密諸宗|混淆《こんこう》の、山田家独自──というよりは、各代の浅右衛門がそれぞれ勝手に衆生済度と自己救済の理窟づけを行なった永年の集積といった観がある。
さらに観察をこまかにしてみるならば、阿弥陀如来像と不動明王像のあいだには、幅五寸、高さ二尺ほどの位牌があり、黒漆地《くろうるしじ》に金泥で「山田家累代之霊位」と書かれてあり、その位牌のうしろには先祖代々の個人の位牌がぎっしりと並べられている。それと対称の位置、つまり不動明王像と弥勒菩薩像のあいだには、同じく幅五寸、高さ二尺ほどの「罪業消滅万霊供養」と書かれた位牌が立っており、その背後には、おそらく各代浅右衛門の手にかかった刑死人のうちの主だった人間、因縁深い人間たちのであろうが、小さな白木の位牌がひしめいている。安政の大獄で斬罪に処せられた松陰や左内の位牌なども吉利の手によってこのなかに加えられているのかもしれない。山田家累代の霊位は弥陀の誓願によって西方浄土に生れ変っているであろうのにたいし、刑死人の魂は釈尊の救いに洩れた衆生として、たとえ釈尊入滅後五十六億七千万年後であれ弥勒菩薩が兜率天《とそつてん》から下生《げしよう》して竜華三会《りゆうげさんね》の説法によって済度してくれるとしたものであろうか。
仏間に入った吉利は、閾《しきい》ぎわで立ちどまり、
「そうか、きょうの仏《ほとけ》は二人だったな」
と素伝をふりかえった。
「さようでございます」
きのう奉行所から同心が使いとして訪れ、「明朝、牢屋敷|四《よ》ツ刻《どき》(午前十時)揃《ぞろ》いにて、死罪の者二人御仕置申付候間、例之通御出役可有之候」という書付を置いて行ったのである。
山田家では死罪のおこなわれる日には、仏像の前にその日の刑死者の数だけ蝋燭をともすのを例としていた。刑死者が三人までの場合は三つの仏像の前にそれぞれ人数だけの蝋燭をともしたが、四人以上になるともっと大ぶりの蝋燭を仏壇全体に等間隔で刑死者の数だけつけた。十本以上ならぶことも珍しくはなかった。とくに年の暮になると、年を越して正月早々おこなうよりは年内に刑死人を片付けたほうがよいといってまとめて溜め斬りをするために、大《おお》晦日《みそか》だというのに三十本近い蝋燭が立ち並ぶこともあった。
「さて、きょうはどっちの蝋燭から消えてゆくかな?」
と、吉利は素伝の顔をのぞきこむようにして笑った。
「まあ、また御冗談を」
剃り跡もういういしい眉をひそめて上目づかいににらんだ素伝の笑顔を、吉利はいとしいと思った。鉄漿《おはぐろ》の漆黒も透明に光っている。
世間では〈浅右衛門の蝋燭〉と呼んで、怪談仕立ての噂を作り上げていた。刑場で刑死者の首が落ちるごとにこの仏壇に並べられた蝋燭が片端から一本ずつ消えてゆき、最後の一本が消えるとやがて浅右衛門たち一行が帰って来るというのである。
素伝は嫁いできてはじめてこの仏間に入ったとき、部屋の雰囲気に気圧《けお》されてか、うすら寒さを覚えながら、真顔でこの噂の真偽を吉利にたずねて大笑いされたことがあったのである。それからときどき吉利は、機嫌がよいときにその話をして素伝をからかった。
「衆生見劫尽《シユージヨーケンコージン》
大火所焼時《ダイカーシヨーシヨージー》
我此土安穏《ガーシードーアンノン》
天人常充満《テンニンジヨージユーマン》」
(衆生《しゆじよう》は劫尽《こうつ》きて
大火《だいか》に焼《や》かるると見《み》る時《とき》も、
我《わ》が此《こ》の土《ど》は安穏《あんのん》にして
天人常《てんにんつね》に充満《じゆうまん》せり。)
正面の不動明王像の前に立った吉利は「妙法蓮華経|如来寿量品偈《によらいじゆりようぼんげ》」中の一節を一と息にとなえて瞑目合掌した。ついで阿弥陀如来像、弥勒菩薩像の前でも同じ偈をとなえて瞑目合掌した。
吉利が父の六世|吉昌《よしまさ》から山田流居合術の奥儀を許されたとき、斬首の呼吸を教えられた。刑場へ出て罪人の首を刎ねようとするときに、心のうちで次の四句偈《しくげ》を誦えよ、というのであった。
諸行無常《しよぎようむじよう》
是生滅法《ぜしようめつぽう》
生滅滅已《しようめつめつい》
寂滅為楽《じやくめついらく》
いうまでもなく涅槃経《ねはんぎよう》の一節である。
罪人に進み寄って全身に念力がみなぎったとき、右手を刀の柄《つか》にかける。その右手の人差指が柄にかかったとき「諸行無常」と誦える。中指がかかったとき「是生滅法」、薬指がかかったとき「生滅滅已」、小指がかかって「寂滅為楽」と心に叫んだときには白刃が走って首を落している。すべて瞬時の呼吸である。父はそれを〈先祖伝来の秘伝〉だと言った。吉利は長子の吉豊に奥儀を伝えたとき、この四句偈をとなえる呼吸を伝えた。三男の吉亮《よしふさ》にも最近それを伝えた。おそらくきょう吉亮はこの四句偈を心でとなえて、初めての斬首を行うはずである。
吉利は先にこの涅槃経四句偈を吉豊に伝えたのち、自分独自の呼吸法を考え、そして寿量品偈の一節を探しあてて、その後常用しているのであった。そしてそれを斬首のときのみではなく、稽古で竹の入った巻き藁《わら》を斬るときも、仏前において合掌するさいにも、口の中でとなえるようになっていた。とくに「我此土安穏 天人常充満」の二句は、行住坐臥、心を静める必要のあるときはつねにとなえた。修験者や忍者が護身の秘呪としてとなえる「|臨兵 闘者皆陣列在前《りんぴようとうしやかいじんれつざいぜん》」の九字と同じ役割をもっていた。
吉利が素伝をしたがえて玄関に現われたときには、道場の師範代格の浜田鉄之進をはじめ十人ほどの門弟たちが待っていて、一斉に朝の挨拶をした。四男の真吉《まさよし》も式台に正坐して、
「お父上、おはようございます」
と元気よく手をついた。それに答えながら鼻緒のきつい革草履に趾《あしゆび》を通した吉利は、式台に片膝ついた素伝の差し出す大刀を受け取って腰に差し、
「平河町はもう出かけたかな」
と浜田にきいた。平河町というのは長男吉豊のことである。山田家は代々平河町一丁目の、いわゆる藁店《わらだな》に居住していたのであるが、吉利の代になって、吉豊が備後《びんご》・福山藩士後藤利義の妹かつを娶ったのを機に、この麹町八丁目(現在の五丁目)に新居を築き、吉豊夫婦と二男の在吉《ありよし》を平河町に残し、三男吉亮と四男真吉をつれて新居に引き移ったのである。それ以後、吉豊を〈平河町の先生〉、吉利を〈麹町の大《おお》先生〉と門弟たちは呼びならわしている。
「はッ、今朝ほど念のためにもう一度使いを出しておきましたので……」
「それは御苦労だった」
とねぎらって、
「それでは出かけるとしようか」
と、すっと足を進めた。門弟たちがぞろぞろと後につづいた。門の前で、浜田と門弟二人だけが吉利につきしたがい、残りの者たちが見送った。二人の門弟は唐草模様の風呂敷に包んだ細長い袋をそれぞれ一本ずつかかえていた。きょう吉利が試斬《ためしぎ》りをおこなう新刀である。玄関から「お父上、お早くお帰りください」と甲《かん》高く叫ぶ真吉の声が、清澄なあたりの空気をふるわして背後から追って来た。
4
|改 番所《あらためばんしよ》の方角から、検使与力が七寸半切紙《ななすんはんきりがみ》の科書《とがしよ》を読み上げるらしい声が流れてきた。前段は聞きとれなかったが、
「死罪のうえ獄門申し付ける」
と張りあげた声高の部分だけははっきりと聞えた。
「おありがとう」──とおそらく死罪人は答えたはずであるが、もちろんこれは聞えない。やがてざわざわと百姓牢の側を通る大勢の人間の気配がした。死罪人の足もとが萎《な》え乱れるのを繩取り非人どもが鼓舞叱責しているのであろう。牢内から名主代りがかける〈名残り〉の言葉もまじっている。やがて地獄門の傍で面紙《つらがみ》を額にかけられるはずである。
吉亮《よしふさ》はさきほどから死罪場の一隅に片膝をつき、軽く目をつぶって、頭のなかを走り出した一匹のねずみの跡を追いかけていた。あたりは耳の痛くなるほど静かである。巳《み》の刻を過ぎた太陽は力強く死罪場に照りつけているが、吉亮には暗いという意識しか浮ばない。ただ脳裡のねずみの足が停止するのを待つだけである。それだけが下腹部にきつく催してきた尿意を忘れさせてくれるよすがなのだ。
父・吉利の命令で、深夜、道場でねずみを斬る練習をさせられたのは、いつごろからであったろうか。はじめは羽目板の破れから首を出すねずみをじっと待っているのであった。穴の前におかれた目刺しとか鰹節をねらって出てくるのである。餌が舶来のシャボンに変ることもあった。吉利に依頼した刀剣鑑定の謝礼につけて、大名や大身の旗本からときどきシャボンが贈られることがあり、ねずみがこの香りに酔ったように寄り集って来るのを知ったのは、偶然とはいえ大きな発見だった。だが、道場のあちこちに立てた数本の燭台からまたたく蝋燭のゆらめきのなかで、じっと待つことに耐えねばならなかった。傍で吉利も待っている。
父がねずみを斬るのは、至極無造作にみえた。腰が開いて刀が穴の入口に達したとき、ちょうどねずみが首を出すようにしかみえなかった。また道場のなかを走り廻らせて、これを追い討ちに斬るのも、するすると無造作に近づいて刀を振り降ろすと、刀と床との狭い空間にねずみがみずから飛び込むようにしかみえなかった。
「見えてからでは遅い。見たときには斬っているのだ」
「ねずみを追うのではない。走る先を見切るのだ」
それは至難の業《わざ》であった。言葉の矛盾としか思えなかった。さすがに床に斬りつけることはなかったが、あぶなく自分の趾《あしゆび》を斬り落しそうになることもあった。そんなときは、
「腰だ。腰が割れていない」
父の声がすかさず飛んでくるのであった。
それが、ある晩、衝動的に全身を駈けぬけるものがあり、なかば無意識に壁の穴にむかって刀を振りおろした瞬間、切っ先に微かともいえないほどの抵抗を覚えた。
「それだ!」
父の叫びにはっと眼が醒めたとき、そこにねずみが転がっているのを発見した。どうもよくのみこめなかった。
「その呼吸を忘れるでないぞ」
そう言い残すと、父は道場を去って行った。まぐれとしか思えなかった。取り残された吉亮は、まぐれという不安感と「やった!」という歓びとの入りまじった複雑な心境で、ふたたび穴の前で待つことに耐えていた。同じ衝動が全身を走って刀を鞘走らせたとき、同じ結果がそこにあった。その後数度の結果をみて、身体がそれを納得したときは、すでに武者窓が白み、床も趾の凍るような冬の朝の訪れを伝えていた。
ふと気づくと、いつのまに来ていたのか、素伝が道場の奥入口にたたずんでいた。
「母上、できました」
吉亮が駈け寄り片膝をついて頭を下げると、素伝もいつになく鼻をつまらせて「おめでとう」をくりかえしていた。
その後、ねずみに道場を駈けまわらせての追い討ちで、ねずみとの間合《まやい》の見切りを身につけるのにほぼ一と月をついやした。そしていつのまにか、夢の中は勿論、目覚めているときでも、突然ねずみが頭のなかを走り出す幻想に襲われることがしばしばであった。いや、むしろ意識的に、いつでもそうしたくなると、ねずみに脳裡を駈けめぐらせるようになっていた。そしてそれが修業だと思うようになっていた。ふっと呼吸を正すと、ねずみが自然と停止して吉亮がそれに斬りつけるのか、あるいはねずみがみずから吉亮の刀の下にとびこんでくるのか、どちらともわからない状態をいつも頭の中でくりかえしているのであった。
「若先生」
かたわらに控えていた浜田鉄之進が声低く吉亮をうながした。深くうなずいた吉亮が目を開くと、半紙を二つに折った面紙《つらがみ》を下におろして目隠しされた科人《とがにん》が、三人の非人に引き立てられて近づいてくるのが見えた。足の力がぬけているらしく、両腕をかかえられ、「それそれ」「しっかりしろ」などと、絶えず非人どもに叱られながら、ようやく土壇場の前にしかれた空き俵にがっくりと膝をおろした。
非人の一人が九寸五分の小脇差をぬいて科人の首にかけてある咽輪《のどわ》の繩を切った。別の二人が科人の着物をぐっと脱ぎおろして、両手を押えた。咽輪を切った非人が後ろに廻って、科人の足の親指を引っぱった。科人の首が鵜のように前につきだした。
片膝立ちから立ち上った吉亮は死罪場の隅に植えられた五、六本の柳の枝の揺れを眺めながら大きく深呼吸をした。それから検視役として立会っている牢屋奉行の石出帯刀《いしでたてわき》、牢屋見廻、検使与力に一礼し、土壇場に近づいて刀を抜いた。刀身は陽の光を撥ねかえして、冷たくきらめいた。吉亮は傍の手桶から柄杓《ひしやく》で水を汲んで刀の柄《つか》から切っ先までスーッとかけ、一度その刀を振って水を切ると、ふたたび鞘におさめて科人の左に静かに立った。
吉亮がそこに見た科人は、色白の、どことなく体つきの華奢な、まだ十七、八としか思われない若者であった。それが全身を顫わせ、着物を脱がされた上半身全体に鳥肌を立てて、どうしても歯のしまらない下顎をガクガクさせながら、血の気の失せた唇でなにかを必死に呟いている。念仏をとなえているつもりなのかもしれない。自分とそれほど年の違わないこの少年が、いったいどんな罪を働いたというのであろうか。だが、いまはそれを考えている余裕はない。吉亮は足を開き、ぐっと腰を割ると、左手の親指で刀の鯉口を切って右手を柄にかけた。頭のなかをねずみがまた走り出した。
科人の足の親指を引っぱっていた非人が、もう一度あらためてぐっと引いた。同時に、押え役の非人が科人の首をのばしていた手をさっと引いた。頭の中のねずみがぴたりと停止した。声には出さずに四句偈をとなえた吉亮は、周囲におしよせた暗闇を一と思いに切り裂くように、腰をひねって刀を振りおろした。
「お見事!」
浜田鉄之進の声がひびいた。
ゴツンと重い音をたてて、首が血溜りの莚《むしろ》の上へ落ちた。血が一本の赤い管のように勢いよく噴き出して血溜りを越えて飛んで行くのを、押え役の非人が残された胴体をあわてて前に傾けて、血溜りの中にほとばしらせた。頸動脈が心臓の鼓動にあわせてピュッピュッと数回血を弾《はじ》き出し、だんだん勢いを弱めた。血の臭いが立ち昇ってきた。
吉亮が茫然自失のていで立ちつくしていると、浜田が寄ってきて、手桶の水を刀身にかけて血を洗い流し、手桶の柄《え》にかけてあった半紙を渡してくれた。我に帰った吉亮はそれで刀をぬぐって鞘におさめた。非人たちは血が早く出つくすように、首のない胴体を押しもんでいた。血の噴出もやみ、一升五合ほどの血が出つくすと、非人の一人が血溜りから髻《たぶさ》を握って首を拾い上げ、桶の水で血を洗って、検視役のほうに左側の頬を向けて差し出した。検視役が一斉にうなずいた。
吉亮が後ろをふり向いて、先き程まで控えていた場所にもどってゆくと、兄の吉豊が寄ってきて、
「よくやった」
とねぎらい、吉亮の袴の股立ちをとった隙間から急に手を入れて吉亮の陰嚢を下帯の上から握った。
「ほう、父上、亮《ふさ》はなかなかのしっかり者ですよ。ちっとも濡れていないし、ふぐりも垂れている。わしのときは小便《しよんべん》をもらしちゃったもんですがね」
吉豊は父の吉利にそう言うと、磊落に笑った。吉亮はなにか兄に答えようとして、はじめて咽喉がカラカラに乾いているのを知った。膝から力が脱けてゆきそうになるのも意識した。兄の磊落な態度がなんだか慎しみを欠いているように思われ、むしろうるさいものに感じられた。
吉亮は前と同じように片膝をついて、次に展開される儀式をただぼんやりと眺めていた。彼の斬った若者の屍骸が血溜りの脇に俯伏せにどけられ、首だけがその屍骸の先き程までつながっていた部分の傍に直立している。面紙《つらがみ》がとれているので、はじめてその顔をみた。細面《ほそおもて》の、なかなかの美男子であった。その死体の周囲に、どこから飛んでくるのか、もう蠅がむらがりはじめていた。
続いて引き立てられてきた科人を、吉豊が無造作に、しかし手際よく斬った。検視役たちが去って行った。すると非人たちはいま打ち首になった二個の死体から着物をすべて剥ぎ取った。これは彼らの役得である。そしていままで後見人の形で控えていた父の吉利が、いまは真っ裸にされた死体の傍に寄ってゆき、非人たちに命じて仰向きにさせ、脇差で一つ一つ臍の上を横に切った。血はもう流れなかった。吉利が七、八寸ほどの麻糸を渡すと、非人たちは死体の腹の中に手を突っ込み、その麻糸でなにかを縛って取り出すのが見えた。胆《きも》であった。非人たちはそれを用意してあった瓶《かめ》にしまい入れた。
次に非人たちはその二個の死体を、死罪場に隣接した御様場《おためしば》に運んだ。
「きょうは二つ胴でゆこう」
吉利の言葉で御様場の土壇の上に首のない裸の死体が二つ互い違いに重ねられた。下は俯伏せに、上は背中をこちらに向けて横向きに重ねられ、挾み竹で固定された。そろそろ死後硬直がはじまっていた。
門弟の一人が吉利に白鞘《しらさや》の刀を手渡した。吉利は切《き》り柄《づか》と鉛鐔《なまりつば》で重くなった刀を抜くと鞘を門弟にもどし、刀身に手桶の水をかけさせた。
さすがに吉利の胴試《どうだめ》しは見事であった。二つの胴体が下側の死体の土壇に密着した腹の皮一枚を残して、〈一の胴〉つまり鳩尾《みぞおち》の部分を存分に斬り下げられていた。
「もう一本」
と吉利が命じた。門弟が二人駈け寄り、いま斬った死体の胴をそれぞれ畳刺しの針と糸とで大急ぎで縫い合せはじめた。針に膩《あぶら》が付着して指がすべるせいか、ときどき針を舌で舐めては膩をおとし、ぷつぷつと手際よく縫ってゆくのであった。やがて縫い終った胴体で吉利がもう一本新刀を試し、それできょうの全行程が終ったのであった。
「ご苦労であった」
と吉利が言ったとき、吉亮はいままでこらえていた尿意にたまりかね、柳の根元に走って放尿した。しかもそのあとで強い吐き気に襲われた。浜田が背中をさすってくれながら、
「きょう一日はなにも咽喉に通りません。だがあすになれば大丈夫です。若先生だけではありません。だれでも始めてのときはそうなるのです。心配はいりません」
と慰めてくれた。吉亮は黄色い胃液が噴き出すたびに、それだけなにかが軽くなるような気持を感じながら嘔吐しつづけた。
5
元治《げんじ》二|乙丑年《きのとうし》(一八六五)四月十七日、家康歿後二百五十年忌の日光山御神忌が行われ、翌十八日、改元あって慶応となる。山田浅右衛門七世吉利の三男吉亮が、十二歳を十五歳と偽って奉行所に届け出で、その後十七年間に約三百人の首を刎ねた、その最初の斬首の刑を執行したのがこの年である。そのときの被刑者は江戸|浪花《なにわ》町|裏川岸住《うらがしずま》いの町医者村松英斎の息子で、英山《えいざん》という十七歳の少年であった。十二歳の少年が十七歳の少年を処刑したわけである。
この年は昨冬からひきつづき暖冬異変で雨が少く降雪もなかったが、三月もなかばを過ぎると雨降りが続き、晴天の日が少かった。三月十八日の浅草三社権現の祭礼の日も、各町内から山車《だし》|※[#「しんにゅう+黎」、unicode908c]物《ねりもの》が出て祭は賑ったが、前日は雨が降り、当日も半日雨にたたられた。
その雨が讖《しん》をなしたか、五月に将軍|家茂《いえもち》が第二次長州征伐ということで三度目の上洛に出発したあとは、江戸市中は文字通り火が消えたように活気を失った。閏《うるう》五月二十八日の両国の川開きにも例年の花火は打ち上げられず、六月十五日の赤坂永川明神の祭礼には神輿が渡されただけで恒例の騒ぎは遠慮された。九月十五日の神田明神の祭礼にいたっては、本社において仮の祭典が行われただけで、神輿も出ず、山車《だし》|※[#「しんにゅう+黎」、unicode908c]物《ねりもの》はもちろん停止された。これにはさすがに江戸っ子の気負いの名がすたると、産子《うぶこ》町々《まちまち》の職人衆や遊侠《やくざ》の親分たちが密議をこらし、山車数輛、伎踊《おどり》※[#「しんにゅう+黎」、unicode908c]物などを催して、十四日から町々を練り歩き、十五日には筋違《すじかい》御門の内に勢揃いして、お茶の水通りから本郷通り、本社の前を曳き渡したので、それに渇えていた江戸市民はわっと集り、神田明神の前は立錐の余地もないほどの大賑いとなった。しかし奉行所はこれを大目に見ることができず、即刻これを停止させて各町内に貲贖銭《あがないせん》を命ずる始末。すべて将軍の〈御進発御留守〉のゆえであった。
江戸市民が大公儀の前途に暗い予感をもったのは当然といえよう。じじつ将軍家茂はこのとき上洛したまま二度と江戸の土を踏むことなく、翌慶応二年七月、大坂城に客死する。そのうえ「去年より米穀|薪炭《しんたん》酒味噌油絹布の類、其の余諸物の価次第に登揚し、菜蔬《さいそ》魚類に至る迄其の価甚だ貴《たか》し」(『武江年表』)といった生活苦と、洪水・火事・落雷といった天災地変からくる社会不安は、「米価諸色高値に付き、同月(七月)より町会所《まちがいしよ》に於いて、市中の貧民へ御救の米銭を頒ち与へらる」(同上)という事態を招いた。芝泉岳寺門前の同寺持ち境内に異国人接遇所が建てられたり、各大名の銃隊調練がだんだん盛んになり、兵隊たちが西洋風のドラムを鳴らしてそれぞれの調練場に隊伍を組んで進む姿が見られるようになったことは、社会不安の陰翳《いんえい》をさらに濃くするものであった。
幕藩体制という一つの永久機関がその歴史的役割を終息しようとしていた。人智のすべてを傾け、崩壊のあらゆる可能性を考えぬいて構築されたと信じられていた一つの強固な建造物が、いまや崩れ去ろうとしていた。しかしその建造物を歴史の必然としてアプリオリに受け入れ、その中に短い生涯を託すことしか知らされていない人間にとっては、崩れてみなければその建造物の存在に気づかない。ただ部分的なひずみや亀裂をみて、理由がわからないままに、不安という形で受けとめるだけである。
吉亮によって処刑された英山という少年も、少年なるがゆえにその不安を遊蕩という形でしか表現できなかったのかもしれない。
当時の町医者の生活がどんなものであったかは一概に断定できないが、少くともその息子をいわゆる〈大の道楽者〉たらしむるに足るだけの余裕はあったのであろう。英山は吉原の遊女買いにうつつをぬかし、親もほとほと手を焼くという恰好で時代の閉塞性を表現した。とどのつまりが金につまり、所もあろうに隣家の魚屋に押し入った。時刻は早朝のしらしら明け。ちょうど主人《あるじ》は魚河岸に買出しに出ており、女房と子供はまだ雨戸もはずさぬ真っ暗な寝部屋のなか。狭い部屋の片隅に、十歳ほどの小僧も主人を送り出したあとの二度寝をしていた。あとはお定まりの「金を出せ」。どこで手に入れたのか、抜き身を寝ぼけまなこの女房の鼻先につきつけた。不幸なことに、こわいものみたさの好奇心が惨劇のもととなった。寝入りばなを起された小僧が恐さにふるえて布団を冠っていればいいものを、ひょいと顔を持ちあげて、雨戸の隙間から入ってくる微かな明け方の光の中に強盗の横顔をみて、
「あッ、お隣りの兄さんだ」
と、ホッと安心して叫んだ一と声が英山を狂わした。
手拭で頬冠りくらいはしていたであろうが、子供の無邪気な眼にあっては横顔の輪郭は嘘をいえない。どうせ足もふるえ、口もカラカラに乾いていたはずの英山である。悪戯《じようだん》の狂言芝居だと思った小僧の一言で度を失い、小僧をバッサリやってしまった。そうなると前後の見境《みさかい》がつかなくなる。つづいて悲鳴をあげて立ち上った女房と抱いていた子供をメッタ斬りにしてしまった。
この裁判の担当は北町奉行・池田播磨守頼方。江戸市中引廻しのうえ、浅草で獄門と決った。
はじめて人を斬ったということで、この英山の事件を吉亮は生涯の思い出とし、
「綺麗な男でしたがねえ」
と、むしろなつかしそうに話すのを常とした。
しかし考えてみると、斬られた十七歳の少年も可哀想だといえば確かに可哀想ではあるが、斬った十二歳の少年はどうであろうか。数え年十二歳といえば現在では小学校五年生の児童にすぎない。それがいくら天稟の才があるとはいえ、こんな年齢で人間の首を斬らされるということは、現代人の常識を超えた天職意識がなければ不可能であろう。
現在という時点からその歴史を眺めるならば、時代はそのような職業があと二十年たらずでこの世から消え去る運命に立ち到っており、なんのためにそんな苛酷な職業を子供にまで強いる必要があるのかと、大きな疑問と強い憤りを抱かせられるであろうが、その歴史のなかに棲息し、幕藩体制というものがこの世から消失するなどということは夢想だにできない人間にとっては、いままで七代もの家職として受け継いできた職業であってみれば、これからも半永久的に続くであろうことを疑うことはできなかったはずである。
しかも世の中は騒然として、死罪にあたいする犯罪はふえる一方であり、むしろその職業が山田家累代の歴史のうちで最も必要性を認められた時代であったといってよい。封建的階級制度の固い枠のなかで生きる基盤は、一つの職業を世襲として守りぬくことであり、職業選択の可能性をみずから拒否して、父祖からの職業に生きるのが個人の倫理として強制される時代であった。十二歳の少年に現実に斬首の体験を強制することは、後世の論議を超えた、時代性の一つのあらわれというほかあるまい。思うてここにいたると竦然《しようぜん》たるものがある。山田家の職業教育がいかに厳しいプロ意識に徹していたかがよくわかるのである。
ここで一つ余談を入れさせていただこう。
昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫が東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。そのさい三島と行をともにした楯の会会員四人のうち、森田|必勝《まさかつ》も、最後には古賀浩靖の手を借りたとはいえ、三島を介錯したのち割腹し、その森田の首をさらに古賀が刎ねた。いわゆる〈三島事件〉である。
この事件の経緯およびそれが持っている政治的・社会的・思想的あるいは文学的背景ならびに意味については本稿の関与するところではない。ただ〈斬首〉すなわち〈介錯〉という視点から眺めて、三島と森田の腹の切り方についていささかの感想を述べてみようというのである。
三島と森田の死は〈凄絶〉の一語に尽きるであろう。それは|生きている者《ヽヽヽヽヽヽ》の評言をすべて無に帰せしめる強い拒否力を持っている。「それならおまえが自分でやってみろ」といわれればそれで論議は停止してしまうていのものである。したがってここで言えることは、あらゆる価値観をぬきにした、切腹と斬首の相関関係についてのみである。
十一月二十六日付「朝日新聞」の報道によると、──
≪牛込署捜査本部は二十五日同夜二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。
短刀による傷はヘソの下四センチぐらいで、左から右へ十三センチも真一文字に切っていた。深さは約五センチ。腸が傷口から外へ飛出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三カ所、右肩に一カ所あった。
森田は腹に十センチの浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。
三島と森田は「楯の会」の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい〃六尺〃ふんどしをつけていた。
検視に立会った東大医学部講師内藤道興氏は「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。≫
もう一つ、十二月十三日付「毎日新聞」掲載の「解剖所見」を引用すると、──
≪◇三島由紀夫=十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院法医学解剖室、斎藤教授の執刀。
死因は頸部割創による離断。左右の頸動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頸部は三回は切りかけており、七センチ、六センチ、四センチ、三センチの切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる一一・五センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ五・五センチ、左へ八・五センチの切創、深さ四センチ、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長一六三センチ、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。
◇森田必勝(船生助教授執刀)
死因は頸部割創による切断離断、第三頸椎と第四頸椎の中間を一刀のもとに切落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七センチに深さ四センチのキズ、そこから右へ五・四センチの浅い切創、ヘソの右五センチに切創。右肩に〇・五センチの小さなキズ。身長一六七センチ。若いきれいな体をしていた。≫
古来、切腹には一定の型があるといわれている。しかしそんな型は、あるといえばあるし、ないといえばない。型があって切腹があるのではなく、切腹あっての型なのである。
武士はつねに〈見苦しくない〉死にかたを心がけていたといわれる。〈肉体の死〉をつねに前提としていなければならない人間なら、だれでもそうなるのではあるまいか。このばあい、〈見苦しくない〉というのは、単に〈潔《いさぎよ》い〉とか〈信念に殉ずる〉といった、精神的・主観的な面だけをいうのではない。むしろ死後の姿が他人になるべく嫌悪感をあたえない死に方を意味するのである。とくに切腹のばあいは、そもそもが反自然な、残酷な死に方なのであるから、どうすれば最も〈見苦しくない〉姿で死ねるかということははなはだ現実的な問題であって、いろいろな工夫がなされてきたと思われるのである。その工夫の歴史的な積み重ねを型といえばいえるであろうし、切腹美学と呼ぶこともできよう。その結果、切腹には多くのばあい介錯という斬首による補助手段が付け加えられるようになった。
三島の切腹で一つだけ奇異な感じを抱かせられたのは、あの腹の切り方は|一人で死ぬ場合《ヽヽヽヽヽヽヽ》の切り方であったということである。三島が作品「憂国」や「奔馬」で描き、映画「人斬り」でみずから田中新兵衛に扮してみせた切り方であって、介錯を予定した切り方ではない。
しかし三島はこの挙に出る前に、森田あるいは古賀が介錯することを打合せているのである。そうとすれば、他人による介錯、すなわち〈斬首〉ということを予定した腹の切り方をすべきではなかったか。
三島のように、あれほどの深さで真一文字に切った場合(これは常人のなしえざるところである)、肉体はどういう反応を示すのであろうか。「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕《かくやく》と昇った」(「奔馬」)と同時に、二つの倒れ方が想定される。それは切腹のさいの身体の角度による。瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により、膝の関節で折れ曲っていた両脚がぐっと一直線に伸びるためか、角度が深いときはガバとのめるように前へ倒れ、角度の浅いばあいはうしろへのけぞるのである。これは切腹なしの斬首のばあいも同様で、押え役がいるときは前へ倒れるように押えているからよいが、支えがないばあいの多くはうしろへ立ち上るようにして倒れ、そのために首打役もその介添人も血をあびることがある。(斬首のさい〈首の皮一枚を残して斬る〉とよくいわれるのは、押え役のいないばあい、そうすることで前にぶらさがった首が錘《おもり》となって身体を前へ倒れさせるからで、これは幕末の吟味方与力・佐久間|長敬《おさひろ》が『江戸町奉行事蹟問答』のなかではっきりと述べている。)
三島のばあい、どちらの倒れ方をしたかわからないが、いずれにしても腹から刀(このばあいは鎧通し)を抜く暇もなく失神状態に陥り、首は堅く肩にめりこみ、ひょっとしたら両眼はカッと見開かれ、歯は舌を堅く噛み、腹部の圧力で腸も一部はみ出すといった凄惨な場面が展開されたかもしれない。それは決して正規の介錯のできる状態ではなかったと思われるのである。
介錯人としての森田の立たされた悲劇的立場が思いやられる。なぜなら、介錯人というものは〈一刀のもとに〉首を刎ねるのが義務であり名誉であって、もしそれに失敗したとなれば、かつては〈末代までの恥〉と考えるくらい不名誉とされたからである。昔の首打役の不文律として、斬り損った場合、三太刀以上はくださないとされ、したがって二太刀まで失敗したときには、死罪人を俯伏せに倒して押し斬りにすることさえあった。死罪場においてちゃんと死罪人を押えて首をのばさせ、斬首のプロが斬るときでさえ失敗することがあるのである。まして三島のような場合には、一太刀で介錯することは不可能といってよかったのではあるまいか。
昭和四十六年四月十九日および六月二十一日の第二回と第六回の公判記録によると、右肩の傷は初太刀の失敗であった。おそらく最初三島はうしろへのけぞったものと思われる。森田は三島が前へ倒れるものとばかり思って打ち下ろしたとき、意外にも逆に頸部が眼の前に上がってきたため手許が狂い、右肩を叩きつける恰好になったのであろう。そのため前へ俯伏せに倒れた三島が額を床につけて前屈みに悶え動くので首の位置が定まらず、森田はそのまま三島の首に斬りつけたか、それとも三島の身体を抱き起して急いで斬らねばならなかったかはわからないが、いずれにしても介錯人には最悪の状態でさらに二太刀(斎藤教授の「解剖所見」によると三太刀か?)斬りつけ、結局は森田に代った古賀がもう一太刀ふるわねばならなかったのは、致し方なかったと思われる。最後はあるいは押し斬りに斬ったかもしれない。現場写真で三島の倒れていた部分の血溜りが、ほぼ九〇度のひらきで二方向に見えているのはその結果ではあるまいか。森田は自分の敬慕して已まない先生を一太刀で介錯できなかったことを恥じ、「先生、申し訳ありません」と泣く思いで刀をふるったことであろう。
しかしここで驚くべきは森田の精神力である。普通の介錯人は初太刀に斬り損じたばあい、それだけで気が顛倒し、二の太刀はさらにぶざまになるか、別な人間に代ってもらうものである。そのために介添人がいるのである。それほど斬首ということは極度の精神的緊張とエネルギーの消耗をともなう。それなのに三太刀(ないし四太刀)も斬りつけ、しかも介錯を完了しえなかった人間が、三島の握っている鎧通しを取ってつづいて自分の腹を切るということは、これまた常人の到底なしえないことなのである。しかも腹の皮を薄く切って、一太刀で自分の首を刎ねさせている。
腹の傷が浅いということでこれを「ためらい傷があった」と報じた新聞もあるが、それはあたらない。人間の腹はなかなか刃物の通りにくいもので、むしろこれをはじき返すようにできている。さらしでもきっちり巻いているなら別だが、直接皮膚に刃物を突き立てたのでは、相当の圧力がなければはじき返されるものである。森田の場合は初めから薄く切って介錯を見事にしてもらおうという考えであったと思われる。切腹する人間は首を斬られて死ぬのではなく、介錯人に首をうまく斬らせるのである。それが昔の武士たちが実際の経験の積み重ねから作り上げた一番〈見苦しくない〉切腹の美学であった。そういう意味では、森田のほうが昔の切腹の美学にかなっていたといえよう。さすがに三島が最も信頼した人物にふさわしい腹の切り方であったように思われる。
三島は生前、映画「憂国」を製作したさい、二・二六事件で決起に遅れて自宅で割腹自殺をとげた青島中尉(「憂国」のモデルといわれる)の割腹現場に駈けつけた軍医から、そのときの実見談を聴取していたといわれる。そして青島中尉が割腹後五、六時間たってもなお死にきれず、腹から腸をとびださせたまま意識を失い、のたうちまわっていた有様をよく知っていた。したがって介錯がなければ切腹が見苦しい死にざまを曝《さら》すおそれのあることを十分に認識しており、そのために介錯を予定したことは正しい計算であった。それなのにあえてあのような深い腹の切り方をしたのは、なぜなのであろうか。三島ほどの綿密な計算をする人にも、切腹後の肉体的変化までは計算しえなかった千慮の一失なのであろうか。〈奇異な感じを抱かせられた〉と述べたのはそのためである。
これはなにも三島の切腹を貶《おと》しめようとするものではない。三島はその文学においても、必ず自己を主張しなければやまぬ人間であった。そのエゴの強さ、抜きがたい自己顕示性からあの赫奕《かくやく》たる文学が生れたのである。そして切腹の場にいたるまでそのエゴを押し通したのである。古来積み上げてきた切腹の美学にたいし、三島は自己流の切腹の仕方を主張したともいえよう。ただそのために介錯人森田および古賀をして四太刀(ないし五太刀)をついやさせる結果を生じた。介錯のむずかしさを思いみるべきである。
またこのとき介錯に使われた日本刀は、「無銘だが鑑定書によると『関孫六兼元(後代)』で、時価百万円以下。刃こぼれ三カ所、介しゃくの衝撃で真ん中より先がS宇型に曲がっている」(「毎日新聞」同前)と報道されたが、斬り手が素人であるから致し方ないとしても、刀身が曲ったというのは使用された日本刀そのものの性能を物語っている。ある刀剣専門家は「現代刀の偽物であった」と言いきっている。斬首における斬る者、斬られる者、使用される刀という、三者の相関関係のむずかしさがよくわかるのである。
以上は新聞報道──しかもその一部の報道にもとづいた感想であって、事実とのズレがあるかもしれない。ただ本稿では〈斬首〉という視点から三島事件を眺め、そのことで山田浅右衛門の家業というものがいかに専門的修練と厳しいプロ意識を要請される性質のものであったかに、側面からスポット・ライトをあてたかったのである。
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現在、東京都豊島区池袋三─一五七一の曹洞宗瑞鳳山祥雲寺に「浅右衛門之碑」なるものがある。これは、昭和十三年十二月二十九日、山田家の菩提寺である祥雲寺で山田家関係者および浅右衛門研究家たちによって建碑除幕式がおこなわれ、篠田鉱造の『明治開化奇談』に紹介されて有名になった顕彰碑である。(もっとも昭和四十六年一月五日、消え残りの雪を踏んで筆者《わたくし》の訪れたときは、「浅右衛門之碑」とそれに隣接する|髻 塚《もとどりづか》は、その周囲に朽ちた材木が積み重ねられ、古墓石やコンクリートの角柱などの置場となっているらしく、それらを蔽って大きなトタン板が雪をかぶって打ち捨てられていて、いかにも世間に見捨てられた感じが強かった。「これでは〈掃苔《そうたい》〉ではなく〈掃雪〉だな」などと考えながら、私は靴ににじんでくる残雪の冷たいしめりけを感じつつ、写真を撮ったり碑文の文字跡を指でまさぐった。)
その碑の銘文によれば──
〈表面〉
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山田氏の先は六孫王源|経基《つねもと》に出づ始祖貞武資性|※[#「にんべん+周」、unicode501c]儻不覊《てきとうふき》武を好み山野氏に従て刀術を修め其妙を極む江戸平河に住し浅右衛門と称す子孫之を其家号となす二世吉時徳川家の御腰物|御様《おためし》御用を勤め傍《かたわら》首打同心の代役を兼ぬ後《のち》世職となり三世吉継四世吉寛相|承《う》け五世吉睦山田流据物刀法を大成し又刀剣鑑定家として名声|籍甚《せきじん》たり六世吉昌七世吉利八世吉豊皆能く箕裘《ききゆう》の業を紹恢《しようかい》し敢て家声を堕さず以て明治維新に至る今や継嗣絶え墳墓亦殆ど壊滅に帰せり仍《よつ》て同志|胥謀《あいはか》り世系事蹟を石に勒《ろく》し祥雲寺の境内に建て且|髻 塚《もとどりづか》を修造し以て後に貽《のこ》すと云爾《しかいう》
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昭和十三年十月九日
[#地付き]東皐《とうこう》 鴇田《ときた》恵吉撰
〈裏面〉
始祖 孤峻院冬雲常雪居士
[#地付き]享保元年十二月十八日歿
二世 慈仙院即往直心居士
[#地付き]延享元年四月十九日歿
三世 恵空院竹庵源松居士
[#地付き]明和七年五月二十二日歿
辞世 一ふりの枕刀や時鳥
四世 清徳院鉄巌宗心居士
[#地付き]天明六年九月十七日歿
辞世 |※[#「虫+車」、unicode86fc]《こおろぎ》や地獄をめぐる油皿
五世 英照院仁岳大道居士
[#地付き]文政六年二月九日歿
辞世 蓮の露集まれば影やどるべし
六世 万昌院輪山松翁居士
[#地付き]嘉永五年六月十七日歿
辞世 怠らぬ日頃見えけり大矢数
七世 天寿院慶心和水居士
[#地付き]明治十七年十二月二十九日歿
辞世 風のある内ばかりなり奴凧
八世 性善院秀様吉豊居士
昭和十三年十一月十七日
造立
瑞鳳山三十世篤仙頼応代
[#地付き]明治十五年八月十三日歿
[#地付き]西沢頼応 山田素伝
[#地付き]鴇田恵吉 古藤文子
[#地付き]玉林 繁 篠田鉱造
[#地付き]永島孫一 望月 茂
[#地付き]旭洲 佐藤武三郎書 鈴木金次|鐫《せん》
この碑文の基礎資料となったものは『山田|家譜《かふ》』(当時上野帝国図書館・現国会図書館蔵)『山田家歴世名譜』(旧岩崎男爵家・静嘉堂文庫蔵)などの山田家旧蔵資料と、篠田鉱造著『明治百話』巻頭の「首斬り朝右衛門」──すなわち明治四十一年、当時報知新聞記者であった篠田鉱造が山田吉亮から「報酬二十金(二十円)を支払っ」(同書・武田鶯塘序文)て入手した文献に加筆したもの──であると推定される。
現在、山田家の系譜についてはほぼ二説があり、一つは浪人説、もう一つはいわゆる〈賤民〉説であるが、この碑文の説はいうまでもなく山田家浪人説に立っている。『明治百話』の吉亮の回顧談その他を援用してもう少し敷衍《ふえん》するならば──
山田家はもと六孫王(清和天皇第六皇子貞純親王の王子の意である)源経基の子孫で、はじめて浅右衛門を名乗ったのは貞武である。貞武ははじめ徳川家御腰物奉行支配《とくせんけおこしものぶぎよう》・山野加右衛門|尉 永久《のじようながひさ》について居合術を学び、その妙を極めた。吉亮の回顧談によれば、貞武は「武道の大熱心家で、とりわけ|据物試 斬《すえものためしぎ》りの名人であり」、「徳川家《とくせんけ》の御佩刀御試御用役《ごはいとうおためしごようやく》をつとめて、かの赤穂義士不破数右衛門|正種《まさたね》、堀部安兵衛|武庸《たけつね》なぞとは武道の親友」だったが、「その頃、奉行所に『首斬《くびきり》同心』というものがあり」、「山田が死屍《むくろ》を試すなら、いっそ斬り手もやってもらいたいというような話が出て、ついに兼務のようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬りの始め」であるという。
不破数右衛門とか堀部安兵衛と親交があったかどうか、真偽のほどは確かめえないが、篠田鉱造が七世吉利と後妻|素伝《そで》との間に生れた娘|いさ《ヽヽ》から聴取したと推定される聞書によると、吉利は堀部安兵衛の剣道を継いでいたので、安兵衛の作った煙草入れが遺っていたと言い、さらに吉利は泉岳寺には毎月お詣りして安兵衛の墓に香華を絶やさなかったと述べているのをみると、山田家の家伝としてそういう関係が代々言い継がれていたのかもしれない。
また吉亮の言では、徳川家御佩刀御試御用役をつとめ、かたわら首斬同心の代役を兼ねたのは初代貞武の時となっており、祥雲寺の碑文によれば二世吉時の代となっているが、これは後者が正しいようである。
なお、この碑文にある〈|髻 塚《もとどりづか》〉というのは、六世吉昌がわが手にかけた死罪人の菩提を弔うため、彼らの髻(もとどり・たぶさ)を切ってその台石のなかに納めた供養塔をいい(毛塚ともいう)、はじめ浄福寺にあったが、浄福寺が廃寺となったため、その親寺である祥雲寺に移されたものである。そのさい祥雲寺には台石を待って来なかったため、刑死者の遺髪を納める穴はなくなっているが、むかしは台石の背後にある蓋を取って、そこから穴に投げ入れるようになっていたという。参考までに碑銘を掲げておく。
(正面)
[#地付き]菩薩清凉月遊於畢竟空
南無阿弥陀仏
[#地付き]衆生心水浄菩提影現中
(左) 銘曰
生死海中無頼客 漂流随浪幾沈淪
幾沈淪又靡心出 十界依正不着塵
(裏面) ※[#「山+百」]天保第三歳次
[#地付き]現住霊活謹識
壬辰三月十七日
(右)
功徳主 山田氏六世※[#「系+子」]源吉昌建焉
正面〈南無阿弥陀仏〉の下の文章は〈ぼさつしょうりょうのつきはひっきょうくうにあそび/しゅじょうのこころみずきよければぼだいのかげはなかにげんず〉、左側面は「銘に曰《いわ》く、生死《しようじ》海中無頼の客、流れに漂い浪に随って幾沈淪、幾沈淪せば又靡心出でん、十界の依正《えしよう》は塵を着《とど》めず、と」とでも読むのであろうか。〈※[#「山+百」]〉は〈時〉の古字、〈※[#「系+子」]〉は〈孫〉と同字、「建焉」は〈これを建つ〉と訓む。
次に山田家〈賤民〉説の基礎となっているのは「弾左衛門|由緒書《ゆいしよがき》」とか「弾左衛門|書上《かきあげ》」といった、長吏(穢多頭《えたがしら》)弾左衛門から江戸町奉行所に提出された報告書である。これらの報告書中に、弾左衛門家の「組頭(一書に与頭)」とか「手代」の一人として〈浅右衛門〉なる人物が出てくる。この〈浅右衛門〉こそ山田浅右衛門だ、というのである。とすると、浅右衛門は弾左衛門と同じく〈社会外の社会〉の人間、つまり〈賤民〉であったとも考えられるのである。
〈社会外の社会〉の人間を〈穢多非人〉という呼称でいわれもなく賤民視したのは、不条理きわまるものではあるが江戸時代までのわが国の政治的・社会的現実であった。とくに徳川幕府はこれらの〈賤民〉を封建支配における身分的分割統治の道具として、懐柔と弾圧の使い分けによって十二分に利用した。
徳川家康は江戸に入るにあたり、鎌倉幕府開設のさい、関東長吏の首領として配下二十八坐(長吏《ちようり》・座頭《ざとう》・舞々《まいまい》・猿楽《さるがく》・陰陽師《おんようじ》・壁塗《かべぬり》・土偶作《でくつくり》〈土鍋師と書いたものもある〉・鋳物師《いものし》・辻目暗《つじめくら》・猿曳《さるひき》・鉢叩《はちたたき》・弦差《つるさし》〈餌指ともあり〉・石切《いしきり》・土器師《かわらけし》・放下師《ほうかし》・笠縫《かさぬい》・渡守《わたしもり》・山守《やまもり》・青屋《あおや》・坪立《つぼたて》・筆結《ふでゆい》・墨師《すみし》・関守《せきもり》・鉦打《かねうち》・獅子舞《ししまい》・蓑作《みのつくり》〈箕作ともあり〉・傀儡師《かいらいし》・傾城屋《けいせいや》)を統一し、天下の|丐 頭《かたいがしら》(乞食の棟梁)たることを頼朝から命ぜられたと自称する旧家・弾左衛門家に江戸の穢多頭を任命した。その後、幕府は〈賤民〉にたいしては穢多頭のもとにいわゆる穢多仕置法を認めて或る程度自治を行わしめるとともに、御尋者《おたずねもの》御用・牢屋番・斃馬《へいば》取片付・棒突人足・御仕置人御改・囚人用諸色買上などの行刑制度の末端的役割をになわせた。「弾左衛門由緒書」に「御仕置もの御役は晒《さらし》もの磔《はりつけ》火罪獄門鋸挽文字彫耳鼻そぎ切支丹釣し問《どい》等御座候」とあり、慶安の乱で丸橋忠弥が品川(鈴ヶ森)で磔にされたとき刑場の監督をしたのは弾左衛門である。
山田家をこの弾左衛門の支配下にある〈賤民〉の出であると考えることは十分理のあるところである。たとえば大坂落城ののち、家康は豊臣秀頼の幼児国松を京都・六条河原で処刑したが、そのとき斬罪役を命ぜられたのは〈青屋《あおや》〉と呼ばれる穢多であり、これは中世末以来、穢多非人の職種の一つに皮剥《かわはぎ》・死穢《しわい》の処理、あるいは牢屋敷・刑場の管理といった仕事があったからである。したがって浅右衛門は穢多頭・弾左衛門支配下の組頭あるいは手代として斬罪役の責任者の地位を保ち、奉行所への出仕には羽織と帯刀を認められていたとも考えられるのである。
以上、二説について略述したが、前者の浪人説については、これらのほとんどが山田家側の発言に基いたものであり、客観性に乏しいことは認めざるをえない。しかし、後者の〈賤民〉説もまだ十分に説得性を持ちえないうらみがある。なぜならば、そもそも首斬役というのは徳川幕府の行刑制度上の公けの役職であり、町奉行所および火付盗賊改の同心が行う仕事であって(これを〈首斬同心〉という)、山田浅右衛門の正業ではない。むしろ八丁堀与力および同心こそ、かつては〈賤民〉扱いさるべき集団の出身であり、たまたま徳川幕府の行刑制度を執行する地位に立ったゆえに表面的には社会的蔑視を受けずにすんだのではあるまいか。〈不浄役人〉という言葉はそういう文脈で考えるべきものではあるまいか。
『明治百話』所収の「首斬り朝右衛門」のなかで、吉亮が「山田家は家業が家業でしたから世間の誤解が多い」とか、徳川家の御佩刀御試御用役が本業で首斬りは「兼務」だと力説している主意は、自分の家が弾左衛門のような〈賤民〉ではないことを社会的に認めてほしいという願望のあらわれであろう。
前述した幕末の吟味方与力・佐久間|長敬《おさひろ》の『江戸町奉行事蹟問答』には「山田浅右衛門は麹町に住して町奉行支配浪人なり。徳川家刀剣類|御様《おためし》御用相勤候職分にて、罪人の首打役には無之候」とあり、吉亮の言を裏書きしている。
山田家の系譜関係の資料で最も確実なものの一つは、旧麹町区役所除籍簿第五十八号にあった山田家の戸籍であろう。これは明治五年三月八日に全国一斉に実施されたいわゆる壬申《じんしん》戸籍から始まったものである。ただし、この除籍簿そのものは第二次大戦で戦災に遭い、現在の千代田区役所には存在しない。
この戸籍によれば、戸籍筆頭人の「東京府囚獄掛斬役 山田吉豊」の身分は「平民」となっている。この〈平民〉という身分は、壬申戸籍作製の前年、明治四年八月二十八日、太政官布告をもって〈穢多非人〉の称を廃し、これら〈賤民〉を新たに〈平民〉に加えた結果としての〈平民〉ではなく(もっとも幕府瓦解の直前、慶応四年一月に幕府は〈賤民〉懐柔策として弾左衛門の身分を平人に引上げ、翌二月、さらに弾左衛門直属の手下《てか》六十五人にも身分還元を認めてはいるが)、明治二年十二月二日の禄制による身分制度の再編成の結果による〈平民〉であると考えられる。
明浩二年、旧大名や公卿は華族、旧藩士の平侍《ひらざむらい》以上は士族と呼ぶことになり、奉行所与力は士族に属し、同心は農工商の平民と士族との中間にあたる卒族に入れられたが、山田家は旧幕時代から身分は浪人だったので、帯刀はしていたが〈平民〉に入れられたのであろう。
さらに同戸籍によると、戸主・吉豊の妻かつは深津県士族の出身であり、「父隠居山田和水」(七世吉利)の妻で吉豊の「継母そで」が旧幕臣の出身となっている事実は重大である。なぜならば、当時の〈賤民〉には〈通婚同火の禁〉という堅いタブーがあったのであるから、もし山田家が〈賤民〉であったとするなら、こんな結婚は不可能だったはずである。そうすれば、山田家〈賤民〉説はそのまま肯定するわけにはゆかず、浪人説を取らざるをえないこととなる。
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はじめて〈浅右衛門〉を名乗った貞武以前の山田家の系譜については『山田家譜』に詳しいが、天保七年(一八三六、将軍家斉)、六世吉昌のときに作製されたこの系図は、いわゆる〈系図屋〉の手になるもので、信を置きかねる|ふし《ヽヽ》が多い。もちろん「山田氏の先は六孫王源経基に出づ」というのも系図つくりの常套句で、なんの根拠もないと考えてよいが、とにかく山田家としては自分の家を源氏の流れであるとし、貞武の父貞俊のときにはすでに江戸へ出て浪人暮しをしていたというくらいに考えておこう。
江戸に出た貞俊の浪人生活が決して楽なものではなかったであろうことは容易に想像されよう。家康から三代家光にいたるまでに、多くの大名が取潰しに会い、浪人が巷にあふれていた。関ヶ原の役(一六〇〇)から慶安三年(一六五〇)までの五十年間に約四十万人、そのうち加封された大名に吸収された分を差引いても二十三万五千人の浪人がいたといわれる。由比正雪・丸橋忠弥の慶安の乱(一六五一)で象徴されるように、幕府はこれらの浪人対策に頭をなやまし、弾圧策をとっていた。いわば浪人にとっては暗い日々の時代であった。そういった生きにくい世にあって、糊口の道をなにに求めるかということは浪人の必死の問題であり、貞俊もそれに悩んだはずである。
貞武に天稟の才を発見し、当時のもっとも有名な試刀家・山野加右衛門永久に就いて居合術、ひいては試斬り(様斬《ためしぎ》りとも書く)を修得させたのは、父貞俊の才覚だったか、それとも貞武自身の着想であったかはわからない。それがいずれであれ、浪人暮しの生活苦を克服するために試刀家の道を選んだということは、なみの人間のなかなか考え及ばないアイディアであり、相当目はしのきいた人間ではなかったかと思われる。
元来、戦国の世にあっては、あらゆる大名豪族が実戦に役立つ武器を常備しておくために、家臣の中の腕の立つ者に命じてつねに武器の利鈍を試させていたであろうことは容易に想像がつく。それが戦国の末期に近づくにつれて、ちょうど多くの武芸の天才たちがそれぞれ独自の流派を編み出して剣技の道にプロ化して行ったのと軌を一にして、刀の利鈍をためす、いわゆる試刀術のプロも現れるようになった。そしてこれらの試刀家ははじめは各大名豪族の扶持を受けていたのであるが、元和偃武《げんなえんぶ》の世も過ぎ、島原の乱も終って泰平が続くと、次第に試刀家として独立するようになった。しかも幕府とか大名に召抱えられている武士たちは、生活は保証され、戦場というものは現実性をもたない架空ばなしにすぎない時代となったのであるから、いまさら刀槍の道にはげむ必要はなかったために、試刀術を生計の業としたのは多くは仕官の道をとざされた民間の浪人たちであった。
そういった試刀家のなかで、三代家光・四代家綱のころにかけて最も有名だったのが山野加右衛門永久である。彼は民間試刀家の最高の栄誉と最も確実な肩書ともいうべき〈徳川家御佩刀御試御用〉を仰せつかって、一生のあいだに六千数百人を斬ったといわれ、多くの逸話を遺しているが、その門下には鵜飼十郎右衛門、根津三郎兵衛、松本長大夫、倉持安左衛門などの一流の試刀家がいた。貞武もそれらの高弟たちと肩を並べて浅右衛門を称し、江戸麹町平河町一丁目のいわゆる〈藁店《わらだな》〉の付近に一戸を構えたのは元禄年間といわれる。
江戸も元禄となると、兵乱の時代からはますます遠ざかり、世は挙げて泰平ムードに酔い、武士の表道具である刀剣も全く実戦的な性格を失って、華美な装飾性を帯びてきた。外装だけでなく、刀身までが細身の華奢なものが喜ばれた。
しかし幕藩体制というものはそもそもが軍事体制を本質とするものであるから、いつでも臨戦態勢にあるのを建て前としていた。とくに元禄の時代は五代綱吉の儒教の奨励とも相俟って官僚的な〈建て前〉主義が重んぜられる風潮が強かった。平和が続けば〈常在戦場〉が叫ばれ、〈文武両道〉が唱道されるのは昔も今も変らない。八代吉宗も十一代家斉の執政・松平定信も名刀の保護とすぐれた新刀の鍛造を奨励して、試刀術の黄金時代を招いたのはそのためである。したがって現実には将軍や大名みずからが戦場で刀をふるうなどということはありえなくなったとしても、将軍や大名の佩刀が常に実戦に役立つ保証を求められ、将軍への献上品とか大名間の贈答品、あるいは個人の所蔵品としても、治にいて乱を忘れざる心構えの象徴である斬れ味のよい刀が、時代の趨勢に逆行しながらも尊重されたわけである。そこに試刀家という職業が戦争を忘れた厚い泰平ムードのなかにも存立しうる理由があったのである。
浅右衛門一世貞武は試刀家としての最高の地位ともいうべき将軍家御試御用役には生涯なれなかったようである。同門の先輩・松本長太夫が老衰を理由に将軍家御試御用を拝辞して隠退し、倉持安左衛門と山田浅右衛門が並んでその役に昇格したのは享保七年(一七二二)五月といわれる。とすれば、貞武の死が享保元年十二月十八日であるから、このときの浅右衛門は二世吉時でなければならない。享保二十一年、四月改元あって元文《げんぶん》元年九月、倉持安左衛門が病歿すると、二世吉時は息子の源蔵(三世吉継)を安左衛門の後任として申請し許可され、ここに将軍家御試御用を山田家が独占することとなった。
しかし遡《さかのぼ》って考えてみると、戦場というものが存在しなくなり、社会の治安も確立してうかつに辻斬りなどできない世ともなったとすれば、なにによって刀の斬れ味を試すことができるのであろうか。刀とは人間《ヽヽ》を斬る道具である。犬や猫を殺す道具ではない。とすれば、本当の斬れ味というものは人間《ヽヽ》の身体を斬ってみるしか試しようがないのではないか。それならばその斬らるべき人間《ヽヽ》はどこに存在するのか。論理の行きつく先はもはや説明を要しないであろう。いうまでもなく死刑囚の肉体である。
また、しかし、である。死刑というものはある犯罪への刑罰である。法的制裁として死刑は存在するのである。試斬りのためにあるのではない。これは法治国家の建て前として厳然と守られねばならない筋道である。したがって死刑執行人は絶対に政府(幕府)の役人でなければならない。町奉行所なり火付盗賊改の同心がこれにあたらねばならぬのである。そして試刀家が試斬りに使う人間の肉体は、首斬同心が刑罰の対象として生身《なまみ》の人間を処刑したあとの、屍《しかばね》となった肉体だった。
この屍を管理していたのが、前述した穢多頭・弾左衛門である。したがって試斬りに使用する屍は弾左衛門との交渉がなければ入手できなかった。ここに山田家と弾左衛門家との密接な関係が生じるのである。
一方、佐久間長敬がその『事蹟問答』で述べているように、「首打役は町奉行の番方同心新参ものの本職にて、町同心は勤《つとめ》に出ると必ず首を切らざれば胆力据らずとて打首の稽古する」ということになっていた。人間の首がそんなに簡単に斬れるものではない。相当の修業を積んだ者でも打ち損ずることは珍しくない。まして享保頃まで時代が下ってからの年若な町同心などに容易にできるものではない。死刑囚が恐怖で首を縮めたりすると、頭に斬りつけたり、肩の肉を削《そ》いだりして、その結果囚人が暴れ出し、押え役の非人たちの手をふりほどいて、血まみれになって転げ廻るというようなことも起りえた。したがって若同心たちにとってはこの首打役は忌避したい苦役《くえき》であった。
また奉行所としても、このような不手際がくりかえされたのでは公儀の威信にもかかわるので、町同心たちには常に斬首の稽古をさせてはいたが、一方において山田浅右衛門の据物試斬りの手練に頼ろうとするのは自然の成行きであった。
山田家としては死体がほしい。奉行所としては浅右衛門の手練がほしい。両者の利害は完全に一致したのである。しかし元来山田家は試刀家として幕府の御腰物奉行の支配下にあった。これを管轄違いの町奉行所に派遣するのは筋違いということになる。官僚的〈建て前〉論のうるさかった当時としては、実利的には有無相通じさせようとしても、形式的にはなんらかの屁理窟を考え出さねばならなかった。そこで考え出された名案が、町奉行所にたいしては浅右衛門を弾左衛門支配下の組頭(あるいは手代)の一人という形式にすることだったのではないだろうか。この形式にすると町奉行所と浅右衛門とは直接の従属関係がなくなるし、また山田家としても試刀用の死体を自由に入手できる。山田家としては穢多頭の手下《てか》という形式にはこだわったであろうが、実利をとることとし、弾左衛門の〈客分〉といった形でそれに甘んじたのかもしれない。それが山田家〈賤民〉説の原因となったのではあるまいか。
こうして山田家は試刀家としては御腰物奉行の、首打役としては弾左衛門というワン・クッションをおいて町奉行の、両方の支配下に立つことになったが、その両棲類的地位は山田家の両奉行所にたいする付け届けなどの実態を克明に書きしるした山田家の日記類にはっきりと現れている。そして一般庶民との関係において、試刀家としての面は忘れられ、〈首斬り浅右衛門〉という面で後世に名を遺すことになった。その〈首斬り浅右衛門〉という面での伝説的エピソードをいくつか紹介してみよう。伝説であるがゆえに、浅右衛門何世のだれのエピソード、などという客観性は当然失われている。
○浅右衛門の腕の冴えはいろいろな挿話となっているが、囚人の頸に張りつけた小豆を真二つに切って、しかも皮膚にかすり傷さえ負わせなかった。しかしあるとき、正装して斬られたいと願い出て許された吉原の花魁《おいらん》の首を斬ったときだけは、女の美しさに心に迷いを生じ、手許が狂ったといわれる。
○幕末から維新にかけての有名な絵師である河鍋暁斎《かわなべぎようさい》は奇矯な振舞いが多く、卒塔婆《そとば》小町のノタレ死の有様を死骸が腐ってシャレコウベになるまで克明に絵巻物に作るなど、酷《むごたら》しい変態画が好きであった。あるとき画の仕事で首斬り浅右衛門を紹介してもらい、浅右衛門と同じ扮装《なり》をして刑場に臨んで、首斬りの現場をしかと見届けた。その後、親しい人に会うと、「名士の首や、度胸のすわった人の首を、浅右衛門がみごと斬って棄てると、その血はサッと勢いよく飛び散るが、臆病な、弱い奴の首を刎ねたときは、血までが跳ねないで、ドロドロと|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》出方をする」と、笑って話した。
○「手前共の麹町区平河町一丁目の邸に幽霊が出ると世間での評判は道理《もつとも》千万、手前にした所で年齢《とし》十二歳から幕府《かみ》の届出を十五歳と披露して斬始めた、されば三百有余人の怨霊《をんりやう》取付くものなら今日まで命が幾つあつても足りる訳のものではありますまい、(中略)唯だ茲《ここ》に手前共へ幽霊の化《で》る為|徹夜《よどほし》酒興《しゆきよう》を催し騒ぐといふ世間評《せけんひやう》の濫觴《おこり》といふのが一つあります、ソレは手前共で手前や弟子が多くの人を斬つて帰ると身体《からだ》はグツタリします、加之《おまけに》血に酔ふといふものか顔がホーツとする、疲労は言ふ迄もありませんから、父より其日は徹夜《よどほし》騒ぐこと許されましたので、若い弟子達は底を抜いて騒いだものです、之《これ》を世間は曲解して朝右衛門は怨霊が出て寝られないから徹夜《よどほし》騒ぐのだと申し伝へたのでありませう」(明治四十一年七月十日「報知新聞」夕刊「首斬朝右衛門」より。これは吉亮の談話である)
○ある日、浅右衛門が死罪人の首を斬ろうとすると、そこに「東照大権現」と文身《ほりもの》がしてあった。浅右衛門は刀を振りおろすのを止めて、牢屋奉行の石出《いしで》帯刀《たてわき》にその旨を報告して指示を求めた。家康公の名前に斬りつけるわけにはいかない、というのである。帯刀は、憎い奴だが致し方あるまい、一命は助けてやれ、といってその囚人を遠島の刑にした。ところがこのうわさを聞いてほかの悪党どもは大喜び、われもわれもと「東照大権現」の彫り物をしだした。そこで浅右衛門はそれらの首を斬るときに、彫り物のしてあるところだけ細長く皮膚を切り取って、それからゆっくり首を刎ねたので、悪党たちは首の皮をそがれるだけ痛い目をみて損だと、このブームは一ペんに消えてしまった。
○「徳川家《とくせんけ》の頃罪人の首斬で名高い浅右衛門が或時賊を処置場へ引出だせしに其賊は浅右衛門に向ひ汝《てめい》は己等《おれたち》の社会《なかま》の為めには讎敵《かたき》なれば此儘死すとも怨恨《うらみ》は汝に崇《たた》つて報ひをなさんと宛《あたか》も恨めし気に述べたるゆゑ浅右衛門は打笑ひて其方《そのほう》如き鼠賊が怨を報《むく》ふ抔《など》とは小癪《こしやく》なり美事|崇碍《たたり》をなさんと思ふほどの精神ならば今拙者が首を斬たる後《のち》笑つて見せよと嘲弄《あざけり》しに該《かの》罪人は益々憤りオヽ斬れたる後笑つて見せんとゆふうち晃《ひらめ》く電光忽ち首は落ちたるが其首両眼を開き浅右衛門を見て笑ひし故傍に在りし者は大《おほい》に駭《おどろ》き彼奴《かやつ》中々執念深き者なれば注意すべしと告げたるに浅右衛門は冷笑して渠奴《こいつ》吾を怨む事甚だしけれど斬られし後笑ふべしと云ひし一心にて最早吾を怨むの念は消滅したり人間最後の一念により生《しやう》を引くといへば吾等の如き職業は平生に心得あるべき事なりと語りしよし云々」(明治十六年十二月二十一日「開化新聞」)
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四月に閏《うるう》があった五月の梅雨《つゆ》なのだからもう上がってもよいはずなのに、きょうも雨はやみそうにない。夜が白みかけたころからやや小降りになったとはいえ、いつやむともなく笠と蓑をたたきつづけている。ときどき松の枝にたまった大粒の雨だれが落ちてきて、重く笠に音をたてた。
「酒はもう切れたかな?」
吉亮が浜田鉄之進をふりかえった。先き程までは暗闇に気配しかわからなかった浜田の顔が、いまははっきりと見分けられた。笠の下の鼻の頭が白く透きとおっている。
「常吉、どうかな?」
と、二、三歩うしろにうずくまって茣蓙《ござ》をまとい、笠はかぶっていないためにばさばさに散らした髪がべったりと頭にへばりついている常吉と定吉のほうをふりかえった浜田の吐く息が、うっすらと白くみえた。
「申し訳ございません」
常吉がふってみせた瓢箪には反応がなかった。
ゆうべ、といっても真夜中の|子の下刻《ここのつはん》(午前一時)ごろ、家を出がけに五合枡でグッとあおってきた冷や酒も、その後、ときどき浜田からすすめられて口に流しこんだ、家から携えてきた瓢箪の酒も、もう身体のほてりとしてはすっかり消え失せていた。この上野寛永寺境内寒松院の傍《かたわら》の松林のなかに佇《たたず》んでから一刻半《いつときはん》にもなろうとしている。
それにしても、この山内のなんという静けさであろう。しかもこの寒松院は彰義隊の本営だというのに、いまだに物音一つなく寝静まっている。眼前、松林に裾を隠した五重の塔も、低く垂れこめた雨雲の空にただ黙然と黒く聳え立っているだけである。
「薩長の総攻撃はやはりあさっての十七日だったのかな?」
「いや、そんなことはないでしょう。うわさによると、きのう輪王寺宮《りんのうじのみや》様の御執当・覚王院義観殿に大総督府から討伐の通達があったというし、それに筋違《すじかい》御門の厳重な警戒ぶりは、先き程見てきたばかりじゃございませんか」
「それはそうなんだが……」
吉亮の語尾が曖昧に口の中でつぶれた。
きのうの夕刻、麹町の浅右衛門宅に、いよいよあす官軍が上野の山を総攻撃すると知らせてきたのは、斬首の刑の押え役をしている非人の仙吉・常吉・定吉の三人であった。しかも彼らの仲間が、夕方急に官軍方の命令で人足に駆り出され、昌平橋、筋違橋などに土俵を積んで土手を築く仕事をさせられるし、見張りも厳重を極めている、というのである。
じじつ、吉亮・浜田・仙吉・常吉・定吉の一行が真夜中に家を出て筋違橋にさしかかったとき、前方にはからずも目撃した一つの光景があった。あかあかと篝火を燃やした筋違御門大番所の手前に一梃の駕籠が置かれ、足が悪いのか、杖にすがった一人の武士が駕籠から出て、周囲を取りかこんだ警護の藤堂藩兵どもとなにやら声高に交渉しているのであった。
その武士は「旧|韮山《にらやま》代官江川太郎左衛門の家来、雨宮新平が弟新六」と名乗っていた。あす上野の賊徒御追討の挙があり、大総督府の鑑札がなければこの御門を通行することはできないことはよく承知しているが、ただいま主人・江川太郎左衛門英敏は朝廷《おかみ》の御用で京都にあり、その主人の老母が本郷のさる所できょう俄の病気になり、しかも危篤だという報らせがあったので、とるものもとりあえず駈けつけた者である、なにとぞ情状酌量のうえ通過を許されたい、と、再三頼んでいるのであった。だが藤堂藩の兵士たちはその言葉には耳もかさず、「鑑札がなければ通過はまかりならん」とはねつけるだけだった。たまたまそこへ肥後藩の巡邏の一隊が現れた。その雨宮新六と名乗る男は喜色を浮べ、肥後藩には江川の門弟も多いことだから、その隊長に会わせてほしいと言い、肥後藩兵と折衝をつづけていたが、結局|埒《らち》があかず、駕籠|舁《か》きの足並みも力無く暗闇に去って行った。
吉亮たち一行はその光景を眺めて、これではとてもまともには上野の山へたどりつけないと見きわめをつけ、闇にまぎれて舟で神田川を横切るしかないと覚悟した。
おそらく佐久間町二丁目あたりに住む仲間たちの助力をえたのであろう、吉亮と浜田が物蔭にかくれて、四半刻《しはんとき》ほど待っていると、小舟を一艘どこからか都合をつけてきた。一行は柳原の土手に沿ってくだり、柳森稲荷《やなぎもりいなり》の下あたりの、妖怪でも出そうな暗がりからひそかに小舟を神田川に乗り入れた。そして水音を消すために仙吉たち三人は雨の中を裸かになって水にとびこみ、片手泳ぎに舟を押し進めて、川の流れに身を委せながら、対岸の佐久間河岸の荷揚げ場付近にたどりつくことができた。
仙吉には舟の始末を命じてそこで別れ、四人となった一行は、土地に慣れない官軍の警戒線の隙を縫い、泥水を這い、雨に濡れた藪や木立の中をくぐりぬけて上野の山へ潜入できたのは、|丑の下刻《やつはん》(午前三時)ごろであった。神田川を渡るとき、
「さっきのおさむらいは、仲間の話だと、どうも彰義隊頭取の本多敏三郎さまだったらしい」
と常吉が水の中からささやいた。
吉亮たち一行が夜半からここへ来たのは、一つには官軍の夜襲戦に備えてであった。大総督府軍防事務局判事・大村益次郎の戦術家としての名声は、いまでは偶像化されていた。第二次長州征伐における彼の作戦のみごとさは、戦争というものにたいして家康以来の概念しかもちあわせていなかった幕軍諸藩に新しい発明品をみるような驚きを与えた。その大村が総指揮をとっているのである。なんらかの奇謀がめぐらされているにちがいなかった。しかし夜襲戦はなかった。それでは払暁戦でやってくるのか。それも行われなかった。それでは正々堂々の白昼戦か。白昼戦なら何刻《なんどき》ごろ仕掛けてくるのか。
吉亮はいらいらしはじめる心のたかぶりを必死に押し鎮めていた。自分たちのような戦《いく》さの素人でさえも夜襲戦や払暁戦に備えようと心構えているというのに、肝腎の彰義隊はいったいなにを考えているのか。敵をどうみているのか。
「母上、これがあなたのおっしゃる彰義隊なのですか」
吉亮は昨夜、素伝が自分に頬ずりをしてじっと見つめた美しい瞳を思い浮べて、胸のなかでつぶやいた。鳩尾《みぞおち》にカーッとくる熱い衝動を覚えた。義母にたいする恋情であった。
慶応四年(一八六八)──すでに幕府は瓦解していた。しかし三月十三、十四日の再度にわたる西郷・勝の会見で江戸城総攻撃の危機は回避され、四月十一日、前将軍慶喜が寛永寺大慈院から水戸に立ち退き、江戸城に官軍が無血入城してから閏四月、五月と二月《ふたつき》が過ぎるあいだに、彰義隊は判官《ほうがん》贔屓《びいき》の江戸市民の人気を背景として、薩長方に〈弱い官軍〉のレッテルを貼るのに成功していた。彰義隊と官軍とのあいだに起きた数度の殺傷事件にしても、高姿勢なのは彰義隊であり、いつも涙をのむのは官軍側であった。吉原での遊女の張合いでも、市中巡察でのぶつかりあいにおいても、江戸市民の眼前での意地くらべではつねに彰義隊が優位に立ったし、また江戸っ子たちはそれに手を貸した。錦切《きんぎ》れとりがはやったのも江戸市民のやんやの快哉がそれを助長したのであり、また柳川春三、福地源一郎といった幕臣インテリ派の創刊になる多くの新聞や落首落書のたぐいが、執拗に官軍を揶揄《やゆ》し佐幕熱をあおっていた。
しかしそれが敵を見くびってよいということになるのだろうか。黒門口から忍川《しのぶがわ》の三橋《みはし》にかけて小さな台場をきずき、畳を積み重ねて防壁とはしているが、そんなものがどれだけの役に立つのか。もちろん彰義隊自身がそれに頼ってはいないはずだ。ただ白兵戦の斬込みに徳川家御恩顧三百年の意気地を示して、天下に義を彰《あきら》かにすれば足りるとしているのであろう。それにしてもなんという無防備ぶりなのか。
半刻ほど前であった。隊長格らしい三人の武士が馬に乗って黒門口の方向に出てゆくのがみえた。陣羽織の上に青蓑を着け、右肩から左へ元込七発炮をかけて、裁着袴《たてつけばかま》の左腰には大小と革の弾薬入れ、右腰には二尺の紐つき拳銃、右手に大身の長槍といったいでたちであった。
「あれが総大将格の天野八郎どのです」
中央の人物を指して浜田が教えてくれた。さすが重厚な感じだった。おそらく巡察に出かけたのであろう。だが一軍の総指揮官ともいうべき人物が、きょうというきょうに平日と同じく巡察に出かけるというのは、なにか一抹の不安を覚えさせた。きょうの総攻撃をまだ半信半疑でおる現れではないのだろうか。必ず攻めてくるという確信があるならば、指揮官が本営を出てみずから東叡山八門および山外の見廻りに出るなどということはありえないはずだ。
吉亮は十日ほど前に、彰義隊入隊を志願してこの寒松院を訪れたときのことを思い浮べた。そのときの屈辱の思いがまた身体を熱くした。
その日も雨が降っていた。番傘に朴歯の高下駄姿で、三橋《みはし》の傍の監視所に入隊志願の旨を申し出ると、そこの長らしい男が気軽に本営の寒松院へ吉亮を案内してくれた。そして薄暗い広間の一隅で応募係らしい髭面の武士と小さな机を挾んで手続きが進められた。
姓名──山田吉亮
住所──江戸麹町八丁目・山田吉利寄食
年齢──十九歳
「ほう、まだお若いですな」
髭武者は追従《ついしよう》の笑いを浮べながら筆を進めた。もちろん本当の歳は十五であるが、吉亮の肉体は二十台で通るはずである。そこまでは良かった。だがそのあとが良くなかった。
「ところでお仕事は? まだ部屋住みですかな?」
「浪人です」
「浪人? 小普請《こぶしん》にでも入っておられるという意味ですかな」
髭武者の顔がはじめて笑いを消した。しかしそれはまだ軽い疑問をもう一度聞きなおそうというだけの表情であった。
「いいえ、父祖代々まったくの浪人暮しです」
「とおっしゃるのは、この山田吉利という御仁《ごじん》が御尊父で、浪人をしているというわけですな」
髭武者が首を傾《かし》げて微かな困惑の色を浮べた。
「ご存じのように、彰義隊は一橋家《ひとつばしけ》ゆかりの者と、旗本・御家人を中心とする幕臣および佐幕藩脱藩の士だけの集りです。徳川家の扶持をもらっていない人には隊の趣旨としてお引きとり願っているのです」
「いや、わたくしの家は代々江戸ずまいの浪人で、徳川家には深い恩義を感じているものです。その恩義に報いて一片の赤心を披瀝したいのです」
「おこころざしは有難い。しかしわが隊はどこまでも幕臣としての赤誠から出たもので、失礼ながら、一介の浪人の手を借りたとあっては隊名にかかわるのです」
髭武者の顔がだんだん依怙地《いこじ》にこわばってゆくのがわかった。吉亮も興奮してゆく自分を意識した。ここで失敗したら元も子もなくなるという気持があせりとなって現れた。そしてついうっかり父の名を出したのが決定的だった。
「わたくしの父は山田浅右衛門といって、御腰物奉行御支配の御試御用《おためしごよう》役をしておる者です。されば幕臣といってよいと思います」
髭武者の顔が驚きに変った。
「山田浅右衛門というと、あの首打役の浅右衛門ですか」
「そうです」
髭武者の顔がついに峻拒の表情となった。
「それはなおさらお断わりしたい。われわれ彰義隊は汚れなき赤心をもって慶喜公の朝敵の汚名を雪《そそ》ごうとしているものです。そのために首打役のような不浄な刀まで借りたとあっては、彰義隊の一分《いちぶん》がたたない」
「これはまた異なことを。不浄とはどういうことですか。科人《とがにん》の首を斬ることは町奉行所のりっぱなお役目。それを不浄よばわりするのは、幕府《おかみ》を冒涜するものでしょう」
吉亮の声が大きくなった。髭武者の言葉で突き刺さってくるのは、吉亮が斬首執行にたずさわるようになってからつねに意識させられる屈辱感であった。
「幕府《おかみ》を冒涜するとは聞き捨てになりませんな。それに町奉行所がどうしたというのですか。だいたい奉行所の不浄役人どもは七分積金《しちぶつみきん》や欠所金をうなるほど持っているのに、それをわれわれ将軍《おかみ》を守護しようとする者たちの軍資金に廻そうともせず、おめおめ薩長の|いも《ヽヽ》や|きつね《ヽヽヽ》どもに尻尾《しつぽ》をふって、まるごとやつらに差し出そうとしているではないか。それこそ不浄役人の名にふさわしい腐った根性というものだ」
「奉行所の与力同心がたがどんな考えでおられるか、それはわたくしに関わりのないことです。もしあなたのおっしゃることが正しいとするなら、せめてわたくし一人くらいは義に殉じさせてくれてもよろしいではありませんか。それをなぜおしとどめるのです」
髭武者の興奮はもはやとめどがなくなっていた。吉亮も顔を蒼褪めさせていた。
二人の声が高くなり、同じ広間にいた隊士たちが聞きつけて二人の周囲に集りかけたとき、廊下を通りかかった青年武士がひとり、
「なにを騒いどるか」
と怒鳴りながら入ってきた。
「あっ、春日どの」
髭武者は飛び上って武士のほうに駈け寄り、パッと上体を折って敬礼して、小声で状況を説明していた。やがてその武士は大きくうなずくと、吉亮の坐っている机の前につかつかと寄ってきて、上から見おろしたまま、
「わたしは彰義隊|頭並《かしらなみ》の春日左衛門です。貴君の気持はわかりました。だが、先き程から係の者が説明しているとおり、駄目なものは駄目なのです。しかもこの山内は、霊場として不浄を忌むところ、即刻お引き取り願いたい。もし徳川家のために戦おうというなら、戦場はここ以外にもたくさんあるでしょう」
と一気にしゃべり終え、「では御免」といって背を向けた。二十四、五ででもあろうか、若年で重責を負った者の気負いが衒気となってあふれ、端麗な容貌がかえって心の冷たさを感じさせた。
吉亮は自分がどういうふうに寒松院を飛び出したか記憶がない。ただ玄関を出るとき、高下駄の鼻緒がきつくてなかなか趾《あしゆび》に通らず、しかもその高下駄が二、三度転って彼の激昂に油をそそいだのを覚えているだけである。黒門口を出て、先き程の監視所の前を素通りし、町並に入って全身のずぶ濡れを意識したとき、はじめて番傘を寒松院に忘れてきたことを思い出した。
あの日の屈辱感はまだ消えてはいない。
「母上、こんな彰義隊ではとても駄目です。勝てようはずがありません」
吉亮はふたたび素伝の顔を思い浮べた。素伝の必死な願いがなければ、昨夜来の馬鹿げた苦労の末に、屈辱をしのんでまで、こんな場所にこんな恰好で佇んでいたりはしないのだ。おそらくきょうは官軍方の総攻撃は取止めとなったのかもしれない。またきのうと同じ一日という時間が流れてゆくのであろう。
「浜田、引き揚げようか」
「はい……」
「引き揚げるのも難しいぞ。そうと決まったら、人に気づかれないうちに、さっさと引き揚げよう」
吉亮がまだ未練のあるらしい浜田にそう促したとき、突然、大仏の黒門寄りにある時の鐘が明け六つを告げて吉亮たちを驚かした。あまりの身近な音の響きは音色《ねいろ》を楽しむ余裕を与えなかった。しかし吉亮たちは引き揚げの気持を一時忘れて、鐘の音をかぞえるようにたたずんでいた。ふと、先き程、天野八郎と馬を並べて駈けて行った武士の一人は、あの春日左衛門であることを吉亮は思い浮べた。
鐘が鳴り終って余韻も雨の中に吸い込まれたころ、遠くで妙に腹にひびく重い音が聞えた。それが二発、三発とつづいた。吉亮がふりかえって松林の奥のほうへ引き揚げの足を二、三歩あゆんだとき、頭上をものすごい唸りをたてて通り過ぎた砲弾が、十間ほど先の松の大木を一本ふきとばした。
「やった!」
常吉と定吉が叫んだ。
9
すべてにおいて彰義隊側は立ち遅れていた。三橋の傍にある監視所から開戦合図の狼煙《のろし》が二発三発とあがったのも、なんとなく間が抜けた感じがした。そのときにはすでに黒門口のほうからは銃声が煮え沸《たぎ》ったように聞えてきていたからだ。寒松院のなかから飛び出した隊士たちは、どちらへ走ったらよいのかわからないままに、右往左往しているだけであった。騎馬伝令が駈けつけ、斥候に出ていたらしい二人の隊士が、一人は血まみれになって背負われてもどってきた。
吉亮はその有様を、子供のころ庭の隅で見つけた蜂の巣をいたずらしたときの騒ぎを思い出しながら眺めていた。
「まだ出てはなりませんよ」
浜田は吉亮にそう言ってから、常吉と定吉のほうをふりかえり、
「おまえたちは絶対に出てはならんぞ。藪の中にかくれているんだ。茣蓙をかぶってじっとしているのだぞ。なにか連絡するときは口笛を吹くから、そのときにはすぐ駈けつけろ」
と指示を与えた。
天野八郎が単身、馬腹を蹴ってもどってきた。砲弾があちこちで破裂しだした。
「うろたえるな。まず法螺貝を鳴らせ。それから勝鬨《かちどき》だ」
出陣の法螺貝が間のびのした尾をひいて鳴りわたった。
「えい、えい、オーッ」
三度の勝鬨で隊士たちの動揺がようやくしずまった。
「きょうの主戦場は黒門口だ。本営付はここを動くな。八番隊はあとに続け」
そう叫ぶと天野八郎は馬首を立てなおして黒門口の方向に駈け出した。四十人ほどの隊士がそれを追って走った。雨脚がまた強くなり出した。
「若先生、あのあとに続きましょう」
浜田の声とともに二人は笠と蓑をぱっと脱ぎ捨てた。額に金具をつけた鉢巻をし、ゆうべの泥水で汚れてはいるが、白の稽古着に黒の革胴をつけた凛々しい姿があらわれた。
「さあ、母上、吉亮は死んでみせます。きっと死んでみせますよ」
吉亮は心の中でそう叫びながら八番隊について走り、ゆうべ義母の素伝と過した一時《いつとき》のことを考えていた。
「吉亮さん、あなたはほんとうのお母さまを覚えておりますか」
素伝にともなわれて仏間に入り、先祖代々の霊位に合掌してから、素伝の部屋につれてゆかれた。行燈《あんどん》が暗く部屋の中央を浮き出させていた。
「いいえ、覚えておりません」
吉亮の実母・佐和は、吉亮の四つのとき、弟の真吉《まさよし》を産んで死んだ。吉亮にはほとんど佐和の記憶がなかった。素伝が山田家に来てから、吉亮は素伝の顔、素伝の物腰、素伝の匂いを通じて佐和の記憶を復元しようとしていた。しかしその努力はかえって素伝をほんとうの母親だと思いこむ方向に自分をしむけるだけであった。佐和という女もこの素伝と同じ美しい女であってほしいと願う心が強くなるだけであった。
「吉亮さん」とふたたび素伝は名を呼んだ。素伝の心になにかのためらいがあるのかもしれなかった。「──それではわたしを実の母親だと思ってくれますか」
「はい」
と答えたが、吉亮は自分の声が急に乾燥して上ずったのを意識した。
「でも、情《じよう》のない母だと怨んでおるでしょうね」
「母上、なにをおっしゃいます。怨むなんて……」
「いいえ、継母《ままはは》のわたしが、自分の望みをむりやりおしつけて、継子《ままこ》のあなたに上野の山で死んでくださいと頼むのですもの。怨むのが当然です」
「母上、吉亮も武士の子です。上野の山で戦うことを誇りに思っております。山田家としても、だれかが出陣しなくては義理がたたないことは、すでに話し合ったことではありませんか」
そうだ、このことは山田家として、すでに話し合って決めたことなのだ。
幕府が瓦解し、薩長土肥の軍隊が江戸へ入るということは、吉田松陰・橋本左内など、いわゆる勤王派の先覚者たちの首を多数刎ねた山田家としては、生死につながるかもしれない重大事であった。もちろん、斬った責任は幕府という政治体制であって、浅右衛門はたんなる首斬りの機械でしかなかった。なんらの責任を負うべき筋合のものではない。しかし、〈首斬り浅右衛門〉の名は官軍側にもすでに有名になっている。血にはやる西国武士のなかに、その辺のけじめがつかずに、先輩の霊を慰めることを口実にして、山田家を血祭りにあげようとする者がないとはいえなかった。
山田家としてはそれについての善後策を何度も話合った。父の吉利は、万一最悪のばあいでも、自分ひとりが責任をとればよいのであるからと言って、家族の者ならびに門弟たちには軽挙妄動をいましめた。そしてすべて町奉行所の指示に従うことに決めた。そのため吉利は、毎日のように数寄屋橋内の南町奉行所へ足を運んだ。ときには吉亮をつれてゆくこともあった。
もっとも、奉行所に行くといっても、表門の脇の小門を入ってすぐ左手にある牢屋同心の詰所でじっと待っているだけであった。与力同心と今後の問題を話合いするなどは勿論、こちらから指示をもとめることもできないのである。ただその詰所にときどき奥から現れる、斬首執行の当番になるといつも「首打役を代ってくれ」と頼みに来るので顔見知りとなっている若同心たちが、奥でいまどんなことが話合われているかを雑談の形で教えてくれるのを聞くだけなのである。
ところが奉行所自身がみずからの態度を決めかねて困りはてていた。
そのころ町奉行所の与力同心たちは、大坂城から逃げ帰った慶喜が二月十二日、さらに江戸城を出て上野寛永寺大慈院に引き籠り、謹慎して罪を待つ姿勢をとったのに呼応して、徳川家から謹慎を命ぜられていた。しかし仕事の性質上、全員組屋敷に籠っているわけにもゆかず、いままで通り奉行所に出仕はしていたが、形だけは謹慎の姿勢を示すために、日髪日剃《ひがみひぞり》といって毎日床屋にあたらせていた月代《さかやき》や髭ものばしっぱなしにし、着る物も粗服にして、〈八丁堀の旦那衆〉といわれて肩で風を切って歩いたきのうまでの颯爽ぶりを遠慮していた。
そこには、相撲取り、火消頭とともに〈江戸の三男《さんおとこ》〉ともてはやされ、毎朝、奉行所に出勤するときには、「そら、旦那方の御出勤だ」と、奉行所門内の玄関、当番所、物書き同心の詰所、さらに牢屋敷から呼出しになって連れて来られた囚人は勿論、門外に立ち並ぶ待合茶屋、縁台、腰掛けの公事人《くじにん》出訴人、はては往来の人々まで立ち止まって見物したといわれる与力の派手やかな面影もなければ、三つ紋付の黒羽織に着流しで、帯は博多に雪駄ばき、小《こ》銀杏《いちよう》に結って八丁堀独得の髪かたちをひけらかして歩いた同心の粋な姿もすでに失われていた。そして眼だけをぎょろぎょろ光らせながら、今後の進退去就について一日中はてしない評定をくりかえしていた。
とくに江戸城明渡し以後は、町奉行所の機能は「しばらく旧慣によるべし」という大総督府からの指令により旧来通り存続を認められていたが、内部的には恭順派と徹底抗戦派とに分れて、意見がまとまらなかった。
「そもそもわれわれ与力同心の身分は、徳川家の譜代の臣ではなく、抱席《かかえせき》として町奉行所に雇われたものである。したがってわれわれは扶持こそ受けておれ、徳川家に属するものでもなければ、まして官軍に属するものでもない。いうならば、この大江戸の町民の世話役である。慶喜公が絶対恭順を言い出され、勝・西郷の会見によって幕府が恭順の姿勢を指令し、しかもそれが江戸町民の幸福とつながることがはっきりしている現在、われわれはこのまま町奉行所を官軍に引き渡すべきである」
と恭順派がいえば、
「なるほどわれわれは抱席の身分ではあるが、現実的にはほとんど世襲のかたちで父祖以来この仕事にたずさわってきた。それを徳川家の恩顧と考えないのは忘恩の徒である。まして現在の江戸町民が薩長の輩《やから》を目して〈いも侍〉と呼び、この江戸を田舎者の支配にゆだねるくらいなら焦土と化したほうがまだましだと決意している。さればわれわれは七分積金や向柳原・深川大橋向・小菅などの籾蔵に眠っているお囲《かこ》い米《まい》、金座銀座にしまってある金塊銀塊、その他欠所金なども放出して、これを彰義隊および幕軍の軍資金にまわし、われらも彰義隊に同調することによって、起死回生の一戦を行うべきである。まして奉行所の雑収入ともいうべき欠所金は、いわばわれわれの役得余徳なのであるから、これをむざむざ薩長にくれてやるなど、烏滸《おこ》の沙汰というべきである」
と抗戦派は反駁する。それが毎日のように繰返されていた。
五月初旬の、これも雨の降る日であった。吉亮は父に連れられて南町奉行所にゆき、牢屋同心詰所の櫺子窓《れんじまど》越しに、軒を伝って落ちる雨だれを眺めながら、あてのない奉行所の結論を待っていた。そしていつのまにかその雨だれを頭の中で刀を抜いて次々と斬っていた。払い胴、釣り胴、大袈裟、小袈裟、割り竹、鉢巻と、小さな雨だれの落下のさいの伸びぐあいに反射して、いろいろな斬り方を試していた。はじめは退屈しのぎで始めたのに、思わず熱中して時のたつのを忘れた。
雨だれの光がだんだん輝きを失い、鈍く黒ずんで夕闇が近づいたころ、どやどやと牢屋同心が三人、詰所へ入ってきた。
「浅右衛門《あさえむ》さん、おや亮《ふさ》さんも一緒ですか。ようやく決りましたよ、ようやく」
と一人がいままでの興奮を吐き出すように言った声のはずみが、吉亮をわれに返らせた。
結局、町奉行所としては絶対恭順の姿勢をくずさず、いつなんどき官軍側から要求があってもうろたえることなく、奉行所も管轄しているすべての財産も綺麗さっぱり明渡すことに基本線がきまった、というのである。
「江戸っ子の気風《きつぷ》を田舎侍どもに見せてやるんだ、と大見得をきった佐久間旦那の一と睨みで、衆議一決さ。さすがは鬼佐久間の貫禄だったよ」
この佐久間は当時の南町奉行・佐久間鐇五郎信義ではなく、吟味方与力から最近町奉行支配調役兼与力となった佐久間長敬のことである。長敬は通称弥太吉と言い、鍵三郎あるいは健三郎とも称した。佐久間家は町方与力創設以来の家柄で、弥太吉の弟弥三郎は同じ与力の原家に養子に入って胤昭《たねあき》と称した。長敬はこのとき町奉行、町奉行支配組頭・関口|艮輔《こんすけ》につぐ地位にあり、実質的には与力同心の全実権を握っていた。
「へッ、あのおっかないおじさんか」
吉亮は佐久間弥太吉の炯々《けいけい》とした眼と鷲鼻に特徴のある、陽焼けした馬面を思い浮べて苦笑した。佐久間は父|長興《ながおき》の跡と〈鬼佐久間〉のあだ名を受け継いで、奉行所の与力同心たちが柔弱に堕して幕末風雲の厳しい時勢に物の役に立たないことを憂え、吟味方としては秋霜烈日のごとき硬骨ぶりを示して、囚人はもちろん後輩までをも顫えあがらせた。とくに近年首斬同心たちの意気地がなくなり、討損じが多く、首打役をすべて山田浅右衛門に委せっきりで、しかも一首二分《ひとくびにぶ》(一両の半分)という欠所金から支出する首打手当は浅右衛門からちゃっかり着服するいった綱紀の頽廃ぶりを嘆いて、若同心たちの当番の日には、詰所内で刃挽きの刀を使って斬首の稽古をさせた。
その練習には畳を使うのである。はじめは畳を干すときの要領で二枚を互いに立て掛けさせ、畳の縁《へり》で出来る小さな三角形の谷間をめがけて刀を下ろさせる。これは人間の首の第三頸椎と第四頸椎のあいだをスパッと斬るのが斬首の秘訣で、プロは死罪人の首を見ただけでその位置がわかるのであるが、そこに正確に斬込む練習なのである。立て掛けた畳の練習が終ると、畳を三、四枚ずつ積み重ねてぴったり二列に並べ、平面になった畳の合せ目に気合もろとも斬込ませる。
若同心たちはこのハード・トレーニングにうんざりし、佐久間と同じ当番日になるのを嫌がった。まして実際の斬首執行にあたって佐久間が検使|出役《でやく》に来たときは、浅右衛門に依頼することもかなわず、佐久間の眼がこわいためにますますびくびくして、かえって討損じがふえるという有様であった。
「そうだ、あれもきょうのように雨のひどい日だったな」
吉亮は、囚人の首を斬りはじめてその手練が奉行所内で評判になり、若同心たちが父の吉利よりも気軽に頼めるというのでわれもわれもと吉亮に頼んでくるようになったころの、佐久間弥太吉との一場面を思い出した。
佐久間は首斬同心たちの腑甲斐のなさを嘆くとともに、その腹立ちを浅右衛門にむけ、たかが痩浪人の業前《わざまえ》くらいに直参の与力同心どもが頭を下げるとは不覚の至りであると考えたらしく、ある雨の日、一人の侍を死罪場に連れてきた。〈後藤|査《しらぶ》という新参の町同心だ〉と紹介して、吉亮が斬る手筈になっていた死罪人を次々と三人まで斬らせた。
後藤という同心の腕前は見事であった。普通、雨天のさいは、首打役の介添人がうしろから雨傘をさしかけ、首打役が刀をふりあげたときに傘を引く。したがって首打役はどうしても多少雨に濡れるのである。(雨天のときは検使以下全員雨具は用いず、それぞれ手傘をさすのが例となっている)それをこの後藤という男は左手に傘を持ち、すっくと立ったまま抜打ちに死罪人の首を刎ねて、衣服も刀も雨に濡らさなかった。
これは佐久間の山田父子にたいする挑戦であった。浅右衛門吉利は淡々とそれを眺めていたが、若年の吉亮には我慢がならなかった。傘を左手に持って斬場に近づき、
「佐久間さま、残りの一人はわたくしに斬らせていただけませんか」
と挑戦に応じた。
「よかろう」
佐久間の承諾をえた吉亮は、最後の死罪人の右側に立った。その場に居合せた人々のあいだに微かなどよめきが湧いた。斬首のばあい、首打役は死罪人の左側に立つのが常識である。それを右側に立ったことからの動揺であった。
吉亮にはわかっていたのである。その後藤の手練の秘密は、大刀《だいとう》を使わずに脇差を用いたことなのであった。それを超えるには、普段のように大刀を使って見事にしとげてみせるしかない。
「みんな、いつもと同じつもりで、しっかり頼むぞ」
吉亮は自分がいつもと違う位置に立ったことでちょっとためらいをみせた押え役の仙吉常吉定吉の三人に声をかけた。さすがは慣れたもので、呼吸もかよいあった間柄である。
「ようがす」
と、ふだんと変らない落着きをみせて、吉亮の念力の高まりを待った。
一瞬、死罪場全体を静寂が占領した。吉亮が左手にささえている傘を叩いて流れ落ちる雨の音が、急に高く聞えた。
紫電一閃。しかも死罪人の首が飛んだときには刀が鞘におさまっており、傘のしずくにはなんの動揺も見えなかった。おそらくそのときの吉亮の刀の使い方をはっきり認識したのは吉利ひとりであっただろう。後藤にもあるいはわかったかもしれない。仙吉が血溜りから首を拾って検視役たちのほうに差し向けると、佐久間はウムとうなずいて、吉亮のほうをあの鋭い眼でギロリと睨んだ。吉亮は傘を握ったまま一礼した。佐久間たちは引き揚げて行った。
吉亮はそのとき大刀を逆手《さかて》に抜いて、死罪人の右下から斬り上げる形で斬ったのであった。この斬り方は押え役にははなはだ危険な方法なので、その後、吉亮以外の門弟たちには仙吉たちのほうから断わって逆手は用いさせなかった。
この事件以後、吉亮の評判は一層高まったが、佐久間弥太吉と山田家のあいだには、なんとなくしこりが残った。新参の同心だと紹介されたわけだが、後藤はその後奉行所にもあらわれず、佐久間自身、死罪人の検視役には出なくなった。後藤という男はそのときだけ雇われた浪人だったのかもしれない。しかし吉亮は生涯において後藤ほどの腕の冴えた人にはめったに会えないのではないかと評価した。
奉行所の基本線が決った晩、山田家では家族会議が開かれた。吉利・吉豊・在吉《ありよし》・吉亮、それに素伝と、門人代表として浜田鉄之進が加わった。
もちろん山田家として奉行所の恭順路線を守ることは即座に決った。初代貞武以来、山田家は浪人として家職をまもってきたのであり、将軍家御佩刀御試御用にしても首斬同心の代役にしても、なにも徳川家からの扶持をもらっていたわけではない。すべてプロ試刀家としての技術にたいする報酬によって七代二百年の家名をつないできたのである。将軍家のために最後の御奉公をしなかったからといって、世間の非難を受けるべき義理合いはないといってよかった。まして吉利・素伝の結婚のなかだちをした勝海舟が、いまや幕閣の中心人物として恭順主義を打ち出しているのである。勝海舟の趣旨に沿うのが最も自然な態度であった。
ところがこの基本線は全面的に認めるが、ただそれだけではどうしても気が済まないと言い出したのが、素伝であった。そしていつもの素伝とは思えないほど、言葉に熱をこめて自説を主張した。素伝の言うところはこうである。──
わたくしは女であるから、時勢の移り変りなどという難しいことはわからない。しかし由緒ある徳川家が将軍職を投げ出し、幕府が瓦解したのは、すべて一橋慶喜公の陰謀によるものである。幕府をつぶしたのは誰でもない、あの慶喜公である。あの方は単なる能弁のお人にすぎず、自分をつねに芝居の立役者にしていなければ満足できない方なのだ。しかも|受ける《ヽヽヽ》とわかっている芝居しか打たない。そういう意味ではたいへんお利口な方だ。そして|受ける《ヽヽヽ》はずだった芝居が失敗すると、その責任はすべて御家来のせいになさる。その〈逃げ口上〉のうまさは天才的といってよい。あの人のこわさは、自分の芝居を自分で楽しむという癖《へき》のあることで、天下の御政道を芝居のつもりで楽しまれたのではたまったものではない。そのためにどれだけの人が死んだか。ご覧なさい、中根長十郎さま、平岡円四郎さま、原市之進さまと、あの方の御側用人がつぎつぎと三人も暗殺されたではないか。それがみなご自分の芝居の犠牲だということにあの方は気がつかれない。勝さまにたいするあの方のあしらいかたもそうではないか。自分が窮地に立つと呼び出して難題を解いてくれと頼んでおきながら、それを解決しようと勝さまが骨身をけずる苦労をしているときに突然梯子をはずしてしまう。大坂城を逃げ出したときのあの方の卑怯さは絶対に許せるものではない。鳥羽伏見の戦いに敗れてきた御家来がたに、これからご自分みずから出陣するといって感激させておきながら、その隙に自分だけ軍艦で江戸へ逃げもどるなんて。そして泣きついた先が勝のおじさまではないか。とどのつまりが、もうどうしようもないとわかると、こんどは上野の山に引き籠って謹慎だ謹慎だと騒ぎたてる。わたくしたちが大奥にいたころに、あの方を〈豚一《ぶたいち》さま〉とか〈二心どの〉と蔭で呼んだのも、あの方の表面《うわべ》の智略縦横・豪胆不敵さとはうらはらに、ほんとうは腹のすわらない臆病な方だということを言わず語らずのあいだに見抜いていたからかもしれない。したがってわたくしがここでなにかすべきだというのは、決して慶喜公のためではない。わたくしにとっては、あの方が謹慎してどんなにおやつれになろうが、水戸に引退なさろうが、まったく関わりのないことである。ただ一つ、どうしてもそのまま見過せないのは、あの方につけられた〈朝敵〉の汚名《おめい》である。この汚名はあの方だけにつけられたものならかまわないが、東照神君さま以来の徳川家全体に着せられたものとすると、どうしても気が済まないのである。先代の家茂《いえもち》公はあれほど朝廷と親密であらせられた。その家茂公にまで〈朝敵〉の汚名が及ぶのはどうしても我慢がならない。またわたくし自身、大奥に長いあいだご奉公させていただき、家茂公の御恩を受けている。しかもわたくしがお暇をいただいたあとで、大坂でお亡くなりになったため、なんの御恩報じもまだしていない。その意味でこのたびはなんらかの御恩報じをしたいのである。それに後に残された静寛院宮さまの御心労を思うと、いてもたってもいられない思いである。これは山田家としての問題ではなく、まったくわたくしの我儘から出たことなので、できればわたくしみずから上野の山へ籠って薩長軍に徳川家の本意を訴えたいのだが、それもかなわぬこととすれば、なにかよい方法を教えていただきたいものである。どうかわたくしの我儘を許していただきたい。
──素伝の訴えには具体的な妙案がなかなか出なかった。そしてそれに反対したのは吉豊であった。どんな形であれ、官軍に不利益な行為をし、それがわかったばあい、うっかりすると山田家を滅ぼすもととなりかねない、というのである。その反対には在吉も同調した。
「たとえば山田家のだれかが上野に立て籠って、彰義隊とともに薩長と戦ったとします。しかし山田家の人間は世間に顔を知られている。万一、彰義隊が敗れたばあい、彰義隊の生き残りの探索が厳しくなるのは明かで、必ず山田家はつきとめられるに決っています。それにたいして申し開きができなければ、山田家はどうなるかわかりません。ここは慎重に静観すべきです」
吉豊と在吉の反対は全く筋が通っていた。反論の余地がなかった。しかしそのとき素伝の側に立ったのは吉亮であった。
「兄上たちのおっしゃることは全くその通りだと思います。しかし母上のお気持もわかってあげなければいけません。いま在吉さんが彰義隊のお話を出されましたが、いかがでしょう、わたくし一人だけ彰義隊に加わって徳川家のために戦うというのは。さいわい、わたくしはまだ若くて、顔をあまり見知られていません。せいぜい奉行所の人たちくらいです。わたくしが力いっぱい戦えば、母上のお気持もそれでいくぶんかは晴れるのではないでしょうか」
吉亮の意見について吉豊と在吉から反論が出たが、結局、吉利が最後の断をくだし、山田家としては徳川家にも官軍にも手を貸さない、しかし吉亮が彰義隊に参加するかどうかは素伝と吉亮だけの問題として二人で考えよ、その結果については一家の主人としての責任は負ってやるが、黙認という形で、一切関知しないこととする、という結論を出した。そのとき、
「僣越ですが、若先生の相談相手としてわたくしを付け人にしていただけませんか。彰義隊に入るにも、なにをするにも、わたくしが一緒におともしたいと思います」
と浜田が申し出た。吉利はそれを許可した。素伝が「ありがとう」と声をつまらせ、涙をかくしに隣りの部屋へ立って行った。それで家族会議は終った。
吉亮が彰義隊へ入隊を希望しに行って断わられたのはその翌日であった。吉亮は心にどうしようもない傷をうけたが、素伝の気持を思いやって、とにかく彰義隊と官軍とが衡突したばあい、彰義隊の側に立って戦うという覚悟を決めていた。
そしてゆうべ仙吉たちが、かねての手筈どおり、いよいよあす総攻撃があると知らせて来たとき、素伝と吉亮は二人だけで出陣の準備を進めたのであった。吉利は早くから自分の部屋に籠って、顔も見せなかった。
「吉亮さん、わたしを許してくださるでしょうね」
素伝は何度目かの同じ問いを繰返した。吉亮はもうなにも返事ができなかった。そこにいるのはいつもの素伝ではなかった。ある戦《おのの》きを与える|なにか《ヽヽヽ》であった。しかし恐怖というにしては甘美すぎる戦きであった。知ってはいけないが、それを知らねば大人《おとな》になれないかもしれない戦きのようであった。
屋根瓦をたたく雨の音が胸が苦しくなるような静寂を持ちこんだ。どこから流れてくるのか、香《こう》の空薫《そらだき》が、これだけは嗅ぎなれた素伝のあたたかみを伝えて、ふしぎな安堵感を吉亮に与えた。
「おや、蛙の声が聞えますね。あすは雨の中の戦《いく》さなのかしら。さ、もう少しこちらへ寄ってちょうだい」
と言って、素伝が自分からにじり寄ってきた。
「手を貸して。わたしに吉亮さんの手を握らせてちょうだい」
反射的にひっこめようとした吉亮の手を素伝がふわりと握った。素伝の手のあたたかさとふくよかさが、吉亮にはふしぎな感じがした。
「死んでください、というのではないのですよ。死なないでほしいの。でも、戦さというものは酷《むご》いものなのだから……。わたしはいまになって自分の酷さに気づいて後悔しています。やめさせたいとも思っているのです。もう一度聞かせて。遠慮なく答えてほしいの。彰義隊といっしょに戦ってくれますか」
「母上、もうおやめください。わたくしは必ず戦ってみせます」
「ありがとう。お礼を言います。そしてなにより一番のお願いは、輪王寺宮さまを守護してほしいのです。徳川家が朝敵の汚名をまぬがれるたった一つの道なのですから」
素伝は吉亮の顔を両手ではさんで引きよせると軽く頬ずりをし、顔を離して吉亮の眼をふかぶかと眺めてからまた頬ずりした。
「吉亮さん、わたしはあなたがほんとうに好きなの」
吉亮はなぜか泣き出したい衝動に駆られた。恐怖なのか歓喜なのかわからなかった。素伝の鬢《びん》つけの匂いが鼻を打った。こんなに近々《ちかぢか》と嗅いだことのない強い匂いに、あやうく噎《む》せそうになった。しかしその匂いが死んだ母の佐和を、一瞬、思い浮べさせた。あっ、と驚く思いであった。はじめは頭が痛くなるような異臭が、じっとしているうちにいままで経験したことのない甘美な心のたかぶりを誘った。頬ずりの姿勢のまま素伝が言った。
「吉亮さん、もう一度言います。無理に死なないでちょうだいね。いいえ、必ず生きて帰ってくださいよ。これがほんとうのわたしの気持なのです。わたしは吉亮さんの好意にむくいうるものを何一つ持ちあわせていないのよ。悲しいわ。だけどたった一つ、あなたをほんとうのお母さまに会わせてあげたいと思うの」
まったくの惑乱状態にあった吉亮が素伝の言葉の意外さに身じろぎしかけたのを、素伝は頬ずりを強めて動かさせなかった。
「あなたがわたしのからだに入ったとき、あなたはほんとうのお母さまに会えるのよ」
耳もとの素伝の息づかいが微妙にふるえるのを吉亮は感じた。素伝の体温が吉亮の全身にひろがってゆく。
「こちらへいらっしゃい。そしてほんとうのお母さまに会ってちょうだい」
素伝が立ち上って吉亮の手を引きながら隣室の襖をあけた。吉亮は足が萎《な》えて、膝でにじりながらあわあわと従った。伽羅《きやら》の匂いがその部屋から溢れてきた。先き程の空薫《そらだき》の源はここだったのかと、吉亮はそんなことに感心していた。
吉亮はそこに延べられていた床の中で、素伝に背を向けて、帯も解かずに身を固くしていた。そうしなければ歯がカチカチと身体の顫えを暴露してしまうからだった。
キュッ、キュッと、素伝の帯としごきを解く音があたりを支配した。そのたびに伽羅の匂いが揺れた。
やがて枕行燈を吹き消す気配とともに、吉亮のとじていた瞼に闇がおしよせ、あたたかい風がするりと背中に入ってくるのを感じた。それが女の匂いというものなのであろう、いままで体験したことのない芳香が爽かに部屋を満たした。はたしてほんとうの母上に会えるのだろうか。……蛙の声と雨の音がまだつづいている。
10
吉亮と浜田が天野八郎にひきいられた彰義隊八番隊の後について駈け付けたとき、黒門と御成門は低くたゆたう硝煙に包まれ、雨ににじんで立っていた。左手の将軍専用の御成門は閉じられたまま、右側の黒門だけが開かれて、そこを通り抜けて三橋のほうへ泥濘の中を駈け下りる。そのときはすでに三橋の傍の監視所は放棄され、黒門と三橋のちょうど中間で薩軍の先鋒隊と彰義隊とが小競合いの最中であった。黒のシャグマをかぶったダンブクロ姿の薩軍将校が印象的であった。
吉亮たち新手の一団がワーッとなだれこんでゆくと、薩軍は無理にあらがおうとはせず、潮の引くように引き揚げて行った。
「追うな!」
黒門口の隊長らしい男がどなった。
引き揚げて行った陸軍の先鋒隊が本隊のうしろに入ると同時に、小銃隊が前面にあらわれて、膝射ちと立射ちで一斉に火蓋をきった。彰義隊側は黒門前のところどころに積み重ねた畳の台場の蔭に隠れて、銃でこれに応じた。これらの畳は付近の町家から一戸一枚ずつ持って来させたものである。
銃を持っている隊士の数は少かった。畳台場からはみ出た銃を持たない隊士は、畳を縦にして二、三枚ずつ互いに立てかけ、これを盾として斬込みの好機を待った。畳を横に立てかけたのでは、地面が泥水なので伏せるわけにゆかず、つい首が銃弾にさらされることになる。
三橋の向う袂や松坂屋の前から薩軍の砲弾が飛来しだした。彰義隊側は黒門前や山王台に据えた三、四門の四斤砲・臼砲でこれに答えた。一発射つたびに隊士たちは喚声をあげ、拍手喝采した。
「若先生、これでは弾丸《たま》がとおって危い。あそこの松林に隠れましょう」
立てかけた畳の蔭に入ったとき、浜田が吉亮にささやいた。二人は走って松林の中に避難した。
浜田の言葉は正しかった。雨に濡れて引締まっているとはいっても、畳の盾はほとんど物の用にたたなかった。薩軍の銃弾は弓の矢が的を貫くように畳を打抜き、蔭にひそむ隊士たちを倒した。薩軍ははじめは黒門口全体を万遍なく射っていたが、畳の盾のもろさを知ると、その盾を片端から順々に集中的に狙ってきた。畳の盾が次々と泥水をはね上げて倒れ、負傷者の数がふえてきた。ときにはその畳に砲弾が命中して、畳と人間が飛び上ることもあった。
「畜生、かかって来い! 射ち合いなんかやめて、武士らしく刀で斬り合うんだ」
と叫んで畳の盾から飛び出そうとする者を他の隊士が引きとめる光景が、あちこちで見られるようになった。なかには同僚の手をふりきって飛び出し、十歩ほど進んで倒れる者もいた。泥が飛び跳ねる。
銃を持たぬ吉亮と浜田は歯噛みしていた。一度退いた薩軍は、銃砲戦に切り換えたらしく、なかなか攻めてはこなかった。畳の盾を失った隊士たちが、吉亮と浜田のいる松林の中に集ってきた。しかし二人を見とがめる者はひとりもいなかった。隊士でないということがわかったところで、この期《ご》におよんでそれに目くじらたてる者はないであろう。
薩軍は松林に砲火を浴びせてきた。大きな枝がめりめりと音をたてて、雨水といっしょにどさと頭上に落ちてくるようになった。隊士たちはそのたびにうろうろと位置を変えねばならなかった。そのうえ、薩軍は榴霰弾を使いはじめたらしく、林の中に落下してくる弾丸に跳ね上がるようにして倒れる者が吉亮の周囲に続出した。ときには霰弾に打ちちぎられた肉塊が老樹の幹にばしっと貼りついて、血が飛び散ることもあった。その血を雨がすぐに消してしまう。
「こんな戦《いく》さってあるものか」
負傷者の泥まみれになってはいずり廻る呻き声と砲弾の耳を聾する破裂音につつまれて、吉亮は大声で叫びたかった。
そこには吉亮が頭のなかで想像し、期待していた颯爽たる合戦図は存在しなかった。敵味方入り乱れ、〈剣戟相摩する〉といった斬合いの姿はなかった。銃砲の性能と数量がすべてを支配する冷厳な現実があるだけであった。このまま時間が推移すれば、黒門口を守る最後の隊士が砲弾に跳ね飛ばされたとき、おのずと薩軍は山内に躍り込むことになるとしか思われなかった。戦争というものの内容が変ったのであった。
彰義隊はよく耐えた。それは銃砲弾との戦いであると同時に、押し寄せる絶望感との闘いででもあった。そして時間は一刻、二刻と立ってゆく。
こちらの銃砲火が威力を失ったと思われるころ、黒シャグマの群れを中心とした薩軍先鋒隊が吶喊《とつかん》の声をあげて押し寄せてきた。それははなはだ威嚇的なものであった。彰義隊側は薩軍を十分にひきつけて、銃砲隊がうしろから援護射撃のできない至近距離に入ったとき、いままで耐え忍んでいた全エネルギーを白刃にこめて突っ込んで行った。
薩軍としては、彰義隊側の戦闘人員がまだどれくらい残っているかを試してみるための突撃だったかもしれない。それが意想外に強力な抵抗に会って一瞬たじろぎを見せたが、さすがは精強をもって鳴る薩摩隼人であった。八双に構えて怒濤のように襲いかかる示現《じげん》流の気魄はすさまじいものがあった。黒門口は鋭い金属音と喚声でうずまった。
「若先生、離れてはいけませんよ」
浜田の跡を追って吉亮も走った。泥水が顔に跳ね上がった。二人はまだ刀を抜いていない。右手を柄《つか》にあて、腰を落してするすると走り寄って行く。
浜田の眼前にシャグマが現れた。浜田がそのシャグマの間合《まやい》に入った瞬間、
「チェストー!」
と正確な反応を示して、示現流一刀必殺の白刃が振りおろされた。だがそのときには、すでに浜田は斜め右に飛んで、シャグマの左脇をスッと通り抜けていた。目的物を失ったシャグマの刀は呼子のような刃風の音をたてて、雨脚を空しく斬っていた。その伸び切ったシャグマの右腕を、吉亮が走りながらあやまたずに斬ってシャグマの右脇に駈け抜けた。抜いた刀はすでに鞘におさまっていた。シャグマの斬られた右手は瞬時左手に支えられていたが、ぶらりと垂れ下ったとき、握った刀といっしょに左手から離れて泥水のなかに飛んで行った。残った右腕の円筒から血が噴き出した。その腕をかかえこむようにしてシャグマが頭から毬のように転った。
次のシャグマには吉亮が先に進み、やはり相手の間合に入った瞬間右へ抜けて、彼に続いた浜田がこれを袈裟に斬った。一瞬、あたりがシーンとするような見事な連携動作であった。
「引き揚げ!」
薩軍はさっと引き揚げた。これを逃がしてはまた先き程の銃砲戦であろうと思うと、彰義隊側は引き揚げを必死にはばもうと背後から追い討ちをかけた。だが薩軍の逃げ足は早く、僚友の死体をそのままにして引き揚げて行った。深追いは危険であった。彰義隊側は負傷者を黒門内の文殊楼《もんじゆろう》に退らせ、つぎの銃砲戦に備えた。
そのころから彰義隊側に戦意喪失の様相が見えはじめた。いまの斬込み戦は確実に彰義隊側の勝ちであった。しかしそのことがかえって今までの心の緊張をゆるめたようであった。やれるだけはやったんだ、という自己満足が心のひるみを誘ったらしい。それに隊士たちの会話から、頭取並《とうどりなみ》で剣客の名の高かった酒井宰輔は銃弾のまととなり、全身蜂の巣のようになって戦死したとか、同じく頭取並の近藤武雄は腹に貫通銃創、九番隊長・大谷内龍五郎は両腕を撃ち貫《ぬ》かれたというような、指揮官たちの被害状況が吉亮の耳にも入るようになっていた。
嫌な銃砲戦がまたながながと続いた。しかも薩軍側は料理屋・雁鍋《がんなべ》の二階から簾越しに山王台や黒門口の臼砲・四斤砲を狙い撃ちにしだし、ついに彰義隊側の黒門口方面の砲火を全部沈黙させてしまった。
黒門内に退き、門を固く鎖した彰義隊士の士気をさらに沮喪させたのは、黒門わきの番小屋が砲弾で粉砕されたことであった。一度ひるんだ心は二度とは燃え上がらなかった。
彰義隊はついに黒門口を棄てた。それが勝敗の転機であった。そのときには既に背後の文殊楼が薩軍側の砲火で炎上しはじめていた。|大明 院 宮《だいみよういんのみや》 公弁法親王《こうべんほうしんのう》の筆になる〈吉祥閣〉の額を掲げ、〈山門〉と呼びならわされていた文殊楼が、文殊菩薩像を安置する楼上から黒煙を上げているのであった。それは黒門口を死守する彰義隊士に絶望感との闘いに終止符を打たせるものであった。
先き程まで彰義隊がその蔭に凭《よ》って山内側から銃を射っていた黒門にとりついて、こんどは反対側から薩摩・肥後・因州および藤堂藩の連合軍が山内に向って射ち込んでいた。
やがて今まで鎖されていた御成門と黒門が開かれて、連合軍がなだれこんだ。それを待ち構えていたように、彰義隊側の大砲が一発射ち込まれ、四、五人の負傷者が出た。連合軍は一度は黒門外に出て硝煙の晴れるのを待ったが、すぐにふたたびなだれこんだ。
門内に入って左右に散開した連合軍はまたもや銃砲戦を展開した。彰義隊側は丸竹を並べて二枚折屏風のように作った盾でこれを防いだ。盾は七、八個、それぞれの蔭に五人ほど入ることができた。銃弾は丸竹にあたって横にそれたが、所詮、その盾も蟷螂の斧でしかなかった。その蔭から躍り出て斬込んでゆくものは、銃弾のふすまに会って次々と泥濘の中に倒れた。
文殊楼の黒煙が真っ赤な炎に変った。法華《ほつけ》・|常 行《じようぎよう》の二《ふた》つ堂《どう》からも火の手があがった。本郷加賀邸、その後湯島切通しの榊原屋敷から射ち出される肥前藩のアームストロング砲二門が、彰義隊への弔砲として山内を震憾させはじめた。もう午《うま》の刻《こく》を過ぎようとしていた。
そのころ、吉亮と浜田は天野八郎の跡を追っていた。彰義隊の運命を双肩に担った天野は、ときには馬を駆り、ときには駈け足で、広い山内を走り廻っていた。山王台でみずから臼砲を操作したり、本営寒松院に走って援兵の指令を発したり、阿修羅の働きといってよかった。吉亮たちは天野の跡を追っていれば、必ず激戦の場に立ち会うことができると考えたのであった。
しかしそのころになると、吉亮の耳の中でかわるがわるこだまする二つの声があった。
「母上、吉亮は必ず死んでみせます」
という吉亮自身の心の叫びと、
「吉亮さん、必ず生きて帰ってくださいよ」
と訴える素伝《そで》の声とであった。
それは吉亮の気持がいつのまにか戦闘そのものに馬鹿らしさを感じ始めている証拠であった。勝利の見通しのないことから来る絶望感というのではなかった。なぜ自分だけがこんなに頑張らなければならないのかという、白けきった気持であった。
そのきっかけとなったのは、先き程、天野の跡を追って文殊楼の裏へ廻ったとき、そこで四、五人の隊士に囲まれて一人の指揮官らしい男が酒を飲んでいるのを見たことであった。大きな薦被《こもかぶ》りを中に置いて、柄杓《ひしやく》で汲みながら呷《あお》っている。きょうのために準備した酒である。気付けのためなら言うことはない。しかしその場の高笑いといい、呷り方といい、すでに酩酊していることは疑いなかった。さすがに天野も足を停めたが、
「よう、天野氏、御苦労ですな」
と中央の武士が声をかけたのに機先を制せられ、ぷいと無言で寒松院の方向へ駈け出して行った。
その男はまぎれもなく春日左衛門であった。自分を〈不浄〉とののしって彰義隊入隊を拒否したあの武士が、いまや黒門口が敵の手に落ちようとしているこのときに、なにを肴として酒に酔い痴れているのか。怒りが吉亮の身を焼いた。
「春日どの!」
と叫んで走り寄ろうとするのを、浜田がさえぎって、言葉をつないだ。
「この山門にもすでに敵が襲ってきました。匆々《そうそう》に御本坊へお引きとりを。敵は生命知らずゆえ、御身ご大切に」
その皮肉は通じないらしかったが、二人の声の勢いに押されて、春日はポイと柄杓を薦被りの中に捨てると、そそくさとその場を離れて行った。他の者たちもそれに従った。足取りは乱れていた。泥に足をすべらせて転倒する者もいた。
吉亮は今朝、春日が天野と馬に乗って巡視に出てから、一度もその姿を見ていなかった。おそらく山内をただうろうろして時間をかせいでいたのであろう。もちろん、吉亮が自分とどんな関係にあった人間であるかなど、春日には識別しうるはずもなかった。
「あれが彰義隊の頭並《かしらなみ》か」
吉亮はその言葉をつばきとともに泥の上に吐き棄てたとき、急に全身から気合いがぬけてゆくのを意識した。いままでの行動がすべて滑稽に見えた。
吉亮の気落ちを敏感に察した浜田が、
「若先生、これで斬合いはやめにしましょう。しかし気を抜いてはいけませんよ。山を下りるまでは何が起るかわかりませんから」
と、軽くたしなめた。
「うん、まだまだやるさ。それに天野さんがいるんだから」
吉亮はいつもながらの浜田の心づかいを嬉しく思った。そしてふたたび戦列に入るべく、天野の跡を追ったのであった。
彰義隊の最後の血戦は根本《こんぽん》中堂脇で行われた。そのころには周囲の堂塔伽藍が次々と燃え、その火が松林に移って、全山火に蔽われたかと思われた。火が雨を呼ぶのか、雨がかえって火勢をあおるのか、風が大きく動き出していた。
天野が馬を駆って御本坊まえへやってきた。そのとき黒門口・文殊楼を棄てた隊士百余人が、負傷者を助けつつ中堂脇へ泥まみれの一団となってなだれこんできた。天野が鞍坪に立って叫んだ。
「静まれ、静まれ。諸君、ここは輪王寺宮さまのおいでになる御本坊まえである。しかもわが徳川家累代の御宗廟も近い。またわれわれが警衛してきた主家代々の重器も目前にある。ここ以外にわれわれの死場所はない。われわれはいまや最後の力をふりしぼってこれを護り、いさぎよく死花を咲かせようではないか」
その叫びに応ずるように、五十がらみの、大身《たいしん》の旗本らしい武士が一人、東照宮の旗を押し立てて、
「大久保紀伊守、東照大権現の御旗《おんはた》のもとに先陣つかまつる。われに続け!」
と駈け出した。天野も馬を下り、それに続いた。浮足立っていた隊士たちも、もう一度気をとりなおしてそれに従った。銃砲弾が東照宮の旗に集中した。
吉亮と浜田がそれを追って十歩ほど走ったとき、
「ぐわッ!」
という声がして、その老武士が大手をひろげて仰向けに倒れた。泥が飛び、東照宮の旗と彼のかぶっていた陣笠がふっとんだ勢いが、命中した弾丸の威力を物語っていた。途端に、あとに従っていた百余名の隊士たちがパッと逃げ散って、残されたのは天野と頭取並の新井鐐太郎、それに老武士の馬丁の三人だけであった。吉亮と浜田は波の引いた水際に取り残された二匹の蟹のように、一瞬、唖然として立っていた。隊士たちの逃げ足の速さは見事というしかなかった。
二人が駈け寄ってみると、老武士の真額《まびたい》に直径三寸ほどの孔がざくろのように破裂し、眼窩から飛び出した眼球がカッと空《くう》を睨んでいた。当った弾丸は砲弾らしかった。
それが虫の息というのであろう。まだ息のある老武士の体を新井と馬丁が抱きかかえて、御本坊に走った。吉亮と浜田はうしろを守るようにして付き従った。天野たちは御本坊の門番所にその老武士を収容すると、いま入った小門を固く鎖《とざ》した。
外に残された吉亮と浜田が、もはやこれまで、と御本坊の門前を離れたとき、ワーッという喚声とともに、逃げ遅れた五、六人の彰義隊士を追って十人ほどの薩軍が殺到してきた。小銃隊らしく、一人の黒シャグマに率いられた兵隊はみな剣付鉄砲を構えていた。
「逃げるな!」
と叫んで吉亮と浜田が立ち向ってゆくと、彰義隊士も背後をふりむいて、窮鼠の勢いで薩兵に躍りかかって行った。
薩兵は射撃の構えをとる余裕を失い、逃げ出そうとした。浜田の攻撃はあまりにも速すぎた。もう少し遅ければ薩兵はうしろを向いて逃げえたであろうが、浜田の急襲に身動きを失い、一人がこちらを向いて腰だめのまま引金をひいた。銃は装填されていた。轟然たる発射音がひびいたとき、浜田の動作が一瞬ぴたと止まった。だが、次の瞬間、浜田の刀はそれを受けようとした薩兵の銃床ごと脳天から鼻筋まで斬下げていた。薩兵は恐怖の眼をそのままに尻餅をついてから転った。浜田もその場に倒れた。
「浜田、どうした!」
吉亮は浜田がやられたのを知るといっぺんに逆上した。「畜生!」と叫ぶと、薩兵のなかに躍りこんでゆき、「浜田をやったな! 浜田をやったな!」と泣きながら刀をふるった。剣は冴えていた。二、三人の薩兵が斬り捨てられた。その勢いに完全におじけづいた薩兵は、シャグマをはじめ、全員わっと逃げ散った。なかには銃をほうりだして逃げる者もいた。
吉亮が浜田の傍へ駈け寄ったときには、いままでいた彰義隊士は一人もいなかった。
浜田は右の太股をやられていた。血と泥にぐっしょり濡れた袴の裂け目をひろげてみると、肉がえぐられて血が盛り上るように流れていた。
「浜田、死んじゃならんぞ」
と、まだ泣き声で叫んでいる吉亮に、
「若光生、落ち着くんです。こんな傷では人間死にやしません」
と浜田が叱った。そして黒胴の下に巻いている両刀をはさんでいた白い帯をはずし、脚の付け根を吉亮にきつく縛らせた。それを縛るために右手から刀を離そうとすると、いまの斬合いで口惜しさのあまりよほど固く握ったとみえて、指がなかなか離れなかった。
「肩を貸してください」
吉亮が左肩を浜田の腕の下に入れようとしたとき、いままでどこに潜んでいたのか、常吉と定吉が飛んできた。
「若先生、わたしたちがやります」
二人ともずぶ濡れ。はだしである。浜田を定吉が背負い、両刀を常吉が持った。
「さ、急がなきゃなりません。山にはわれわれだけです。薩長も引き揚げにかかっています。逃げ口は谷中口、林光院裏手の二段を下るしかありません。それからは、千住を廻って山谷《さんや》の頭《かしら》の家へ」
というと、常吉が先頭に立って歩いた。
「宮様はどうした?」
吉亮はゆうべの素伝との約束を思い出して訊ねた。
「御無事です。半刻ほど前に御本坊をおたちになりました。とにかく早くこの場を逃げなくちゃ、火にまかれてしまいます」
全山、三十万坪の聖域が、いまや猛火につつまれていた。寒松院も燃えた。根本中堂も燃えた。御本坊も周囲の廊門から燃えはじめていた。一つの時代を焼き尽す劫火とも思われた。
火が雨と風を空中に吸い上げて、ごうごうと鳴っている。火の燃え移った鬱蒼たる松林の老樹たちが、緑から白に変り、たちまち黒となって燃え上がり、爪先で大地にしがみついて天に昇るのをいやいやするように身をよじっている。
四人は濡れた衣服が乾きそうな熱気を感じながら、ひた走りに坂を下りて行く。
11
翌日、長かった梅雨《つゆ》があがった。
吉亮はきのうに変る五月晴れを、浅草|山谷《さんや》の五郎兵衛の家から眺めていた。負傷した浜田は近くの角次郎の家にあずけた。五郎兵衛も角次郎も、ともに伝馬町の手伝い人足をしている非人である。五郎兵衛はいわゆる谷《や》の者の支配頭・長兵衛の手下《てか》で、山谷の小屋頭をしている。角次郎はその小頭《こがしら》である。
抜けるような青空を見上げていると、きのうの戦いが嘘のようにしか思われなかった。いったいなんのための戦いだったのであろうか。三河武士の意地だとか、朝敵の汚名を雪《そそ》ぐだとか、きのうまではあれほど現実性をもった、確乎不抜の実体と感じられていたものが、きょうはまたなんとはかない幻影としてしか心に甦《よみがえ》らないのであろう。すべては火に焼かれ、雨に流されて、なにひとつ残ってはいない。
きのう雨の中を上野の山内から逃れ出て、根岸から千住街道を走りながら、吉亮のただ一つの心残りは、素伝との約束である輪王寺宮の安否であった。
いちばん遅れて山を下りたせいか、はじめはあまり敗残の彰義隊士の影を見かけなかったが、やがてだんだんとその数が増えてきた。「残念だ、無念だ」のことばも言い疲れ、三々五々、首うなだれて歩いてゆく。自分も全身泥と血にまみれて負傷者に肩を貸す者もあれば、抜身を右手にさげたまま一人茫然と夢遊病者のように歩いている者もあった。
春日左衛門もいた。天野八郎もいた。その他、きょう一日で顔だけは見知ったが、名も知らない多くの隊士たちがいた。敗亡の悲しさが全員にみなぎっていた。前途を失った人間の弱さがぬかるみを歩く足もとの不確かさに重くにじみ出ていた。
春日を見たのは、浜田の渇を癒してやろうと、水をもらいに立ち寄った一軒の農家においてであった。春日はその家の縁側に腰をおろして、吉亮より前にそこに立ち寄った彰義隊の同僚になにか声高に話していた。
「われわれの武運もこれまでだ。このまま薩長のやつばらに捕われて生恥をさらすよりは、むしろあなたといっしょにここで腹を切って果てたい」
いまさらなにを悲壮がっているのか。相手は春日の性癖をよく心得ているのか、彼の言葉にはとりあわず、
「それはいけません。一度挫折したからといって死に急ぐのは、あなたのような大丈夫のすることではありませんよ」
とたしなめて、その場を離れて行った。吉亮にはもう春日に腹を立てる気持は失われていた。だが春日とは顔を合わせる気になれず、水をもらうのをやめて、その農家を出た。
天野八郎を見受けたのは、それから間もなくであった。ちょうど墨染の衣をきた僧侶の一行と話しているところであった。とくにその中央の年若な学生《がくしよう》風の僧にたいしては、うやうやしく再拝参拝しているのが雨をとおしてうかがわれた。
天野ほどの人間がそれほどの敬意を表するとは、どんな人間なのか。吉亮は驚きの目でその若僧を眺めた。白木綿の単衣に白羽二重《しろはぶたえ》の袷、上に墨染の麻の法衣を着け、手甲脚絆《てつこうきやはん》、白足袋に草鞋ばき、頭には網代笠を冠り、左手に念珠、右手を老僧にあずけている。
「待て、常吉」
吉亮は先導役の常吉が先を急ごうとするのをとどめた。ひょっとしたらあれが上野の宮様ではないのだろうか。物腰といい、気品といい、見まがいようがないと思った。おそらくここを歩いている隊士のだれ一人、天野八郎でさえきょうまで顔を拝んだこともない宮様が、しかもそのお方を守護するためにこそこの敗戦を味わされた当の御本人が、あんなお姿で難を避けようとしておられる。
「母上、宮様はたしかに御無事でございました。しかし、こんな御難儀をおかけするとは、吉亮の非力が口惜しくてなりません」
吉亮は心の中で素伝に詫びてから、浜田たちに上野の宮様に違いないことを告げた。四人は泥の中にひれ伏してこれを拝んでから、道を右に折れて迂回し、小塚原の仕置場を通って山谷へ入った。
(輪王寺宮公現法親王。伏見宮|一品《いつぽん》邦家親王の第九子。十二歳で日光山門主・輪王寺宮慈性法親王の法嗣となり、諱《いみな》を能久と賜わる。昨慶応三年五月二十四日、慈性法親王の老齢による退隠のあとを承けて輪王寺宮十三代目を襲職したばかりである。今年二十二歳。宮はこののち榎本武揚の指揮下にある幕府軍艦長鯨で江戸湾脱出。平潟に上陸して会津、仙台と転々し、十一月四日、すでに東京と改称された江戸へ帰る。同十九日、京都に入って屏居。明治五年、北白川宮を継ぐ。明治二十八年十月二十八日、いわゆる台湾征伐の陣中にて病歿。その数奇な生涯はこの上野戦争から始ったといってよい。ただしこの時点ではその運命を予言できる者のいないことは論を俟《ま》たない。)
山谷の小屋頭・五郎兵衛の家に着いたのはすでに暮六つ(午後六時)を過ぎるころであった。そこですぐに行なったことは、五郎兵衛みずからに、近くの新町に住む穢多頭・弾左衛門と新吉原の裏手に住む非人頭・車善七のもとに挨拶に行ってもらったことである。
これはすでに仙吉・常吉・定吉を上野で戦端が開かれたばあい借り受けることを頼んだときに一応の話はついていた。弾左衛門も車善七も「浅右衛門《あさえむ》さんのところの若先生のことなら、いつでもお引き受けいたしやしょう」と快諾してくれていた。
おそらく江戸時代にあって官軍側から身を隠すのに、この二人の庇護のもとに入ることほど安全確実なものはなかったであろう。それは大総督府の西郷の懐《ふとこ》ろに入る以上に安全だったといってよいかもしれない。吉亮は安全なる〈治外法権〉の中に身を委ねたのである。それができたのは〈御試御用役〉とか〈首打役〉といった特殊な職業にたずさわっている山田家の一員なればこそであった。
五郎兵衛が帰ってきた。
「若先生と浜田さんのお身柄はたしかにおあずかりしました。どうぞお気兼ねなく、ほとぼりのさめるまで、ゆっくりなすっててください」
と、弾左衛門・善七両人の口上を五郎兵衛が伝えた。ようやく全身の疲労がやわらぐ思いがした。
ちなみに、このときの車善七は弾左衛門の息子が〈車善七〉の名跡を継いでいたのである。
非人頭の車善七家は代々穢多頭・弾左衛門家の手下としてその支配下にあったが、穢多と非人は違うという論拠に立って、弾左衛門の支配から脱しようと、享保年間から執拗かつ深刻な争いを展開していた。その公事《くじ》のむずかしさは歴代の町奉行所の頭痛の種となっていたが、このときの二年前、つまり慶応二年にまたもや大きな係争となって、当時の南町奉行・山口駿河守直毅を悩ました。
善七の出訴の趣旨は、弾左衛門の手許に町奉行所や牢屋敷関係の公用として善七のほうから差し出す人足の手当が、物価騰貴の折柄であるのに昔のままの宛行《あてが》いで少しも上げてくれない、世の中もだんだん開けてきたのに弾左衛門のいうような圧制ではいけない、もっと待遇を改善し、なんとか自分を弾左衛門の支配から独立させてほしい、というのである。これにたいして弾左衛門は、この待遇問題は東照宮様御入国以来のしきたりであり、これがいま自分の手を離れて独立するようでは自分の職掌が勤まらないから、関八州の穢多非人の総取締である穢多頭は御奉行様御自身になってもらいたい、といって動かなかった。
裁判が思うように捗《はかど》らないので業《ごう》をにやした善七は、檄文を飛ばして非人たちを浅草の本願寺に集め、連署血判をして気勢をあげたり、町奉行の登場を待ち伏せしてこれを取りひしごうと善七みずから数寄屋橋の下に潜んでいたりしたため、裁判の内容よりは彼の行動のほうを咎められ、御法度の檄文をばらまいたこと、本願寺に押入って清浄の地をけがしたこと、町奉行にたいして手向いを謀ったことを理由に服罪させられた。一方、町奉行所としては善七の言い分も認め、弾左衛門に善七の配下の待遇改善を申し渡し、この一件は落着をみたが、弾左衛門は善七の身柄をあずかってこれを野州かどこかに押し込め、自分の子を善七家の相続人として奉行所に願い出て許されたのである。弾左衛門の勢威はいまや絶対であった。幕府自身が弾左衛門の懐柔策として、慶応四年一月、彼を〈平人〉に引き上げていた。吉亮が彼の庇護の下に入ったのは賢明な策であった。
弾左衛門と車善七の返事を聞いた吉亮は、はじめて食事と着換えをし、角次郎のもとにあずけた浜田を見舞って医者の手配を依頼して帰ると、常吉には輪王寺宮のその後を見まもらせに、定吉には麹町の家へその日の出来事の報告に走らせた。そうしてようやく泥のような眠りに入って行った。
翌日からの仙吉・常吉・定吉三人の諜報活動はめざましいものがあった。輪王寺宮はいまどこにおられるか。彰義隊の残党狩りに官軍側がいかに血まなこになっているか。また、戦争のあったその日の夕方から、もう物見高い江戸市民たちが黒門口へ押しかけて、両軍の死体や焼け跡を見物していること。彰義隊の戦死者は死顔がきれいで、官軍の死体は血まみれが多い、それは前者が銃弾で死んでおり、死体がズタズタに斬られていても死後の傷だから血が出ないのにたいして、後者は刀でやられているから出血が多いのだ、と見物人が言っていること。見物人のなかの若い男は有無をいわさず官軍に徴発され、官軍側の死体運びをさせられていること。その他いろいろな市井のうわさ話を聞きこんできてはつぎつぎと報告した。
山田家に報告に行った定吉は、吉亮と浜田の当座の金子に添えて、着換えと家伝の傷薬を持って帰ってきた。
父の吉利は顔を見せなかったが、素伝が目をうるませて定吉の報告を聞き、
「吉亮さんと浜田さんに、素伝が心から〈ありがとう〉と言っていたと伝えてくださいよ」
と言って、定吉たち三人分として過分の心付けをくれたとのことであった。
吉亮は素伝をもう母とは考えられなくなっていた。どうしようもない恋愛感情の爆発を意識せざるをえなかった。
日が一日二日とたって行った。
「彰義隊の残党は三日間は切捨御免だ」といううわさが流れていたが、寺や神社の縁の下や農家の秣《まぐさ》小屋、その他いろいろなところに潜伏していた隊士たちも、日がたつにつれて空腹には勝てず、だんだん自分の家や親類、なかには品川沖に碇泊中の幕府艦隊をたよって姿をあらわすようになり、そのため捕縛されたり、反抗して斬殺される者がふえてきた。
そんな話を伝えに来た定吉が、きょう麹町へ御機嫌うかがいに参りましたら、御新造様のお話では、彰義隊の戦《いく》さのあった晩、元氷川の勝さまのお邸に長州のお侍たちが押し込み、乱暴狼籍を働き、床の間の刀や脇差、槍、それに御拝領の金蒔絵《きんまきえ》の筥《はこ》や銀ごしらえの置物、香炉などを奪って行ったが、さいわい勝さまは御不在のため難を免れられたそうです、という話につづいて、こんどはなんでも江戸鎮台府とかを置いて、町奉行所、寺社奉行所、勘定奉行所を廃《や》めるそうです、ちょうどきょうの十九日にお達しがあったとかで、御奉行所はたいへんの騒ぎだそうです、と教えてくれた。
これは大きなニュースであった。吉亮は驚いて、
「それで父上はどうなさっておられたか?」
と畳みこむようにきいたが、定吉では不得要領な答えしかできなかった。
「よし、それではあすから毎日、わしが紙に聞きたいことを書いてやるから、母上からその返事を書いてもらって来るようにしよう」
定吉はいままでの報告で吉亮がこれほど身を入れて聞いたことがなかったのにびっくりして、なにか自分が大きな失態をおかしたのではないかと、心配そうな表情を浮べた。
翌日から吉亮と素伝の手紙による質疑応答がはじまった。素伝の美しい筆蹟は吉亮の心をはずませたが、手紙の内容は全く客観的叙述であり、情感のこもった部分は少しもみられなかった。吉亮はそれがかえって彼を窒息させるような苦しみを与えることにいらだっていた。
五月十九日、新政府は三奉行所を廃して、それぞれ市政裁判所、社寺裁判所、民政裁判所とした。しかも町奉行所にたいして、幕府若年寄を通して建物の接収、書類帳簿のたぐいから、町会所《まちがいしよ》積金、籾蔵、金座銀座などの金銭米穀一切の引渡しを翌二十日にせよ、という強い要求であった。
奉行所側としては、すでにその覚悟はして諸記録簿の引渡し準備もできていたが、さすがにその事態に直面すると、今後の身のふり方を思って、与力同心たちの心は動揺せざるをえなかった。
鎮台府の都合で実際の引渡しは北町奉行所は二十一日、南町奉行所は二十二日に行われ、それぞれ北市政裁判所、南市政裁判所となった。同時に小伝馬町牢屋敷、品川浅草の両|溜《ため》、石川島(佃島)の人足寄場も鎮台府の管轄下に入った。
与力同心たちの動揺をおさえたのは、翌二十三日に出された「禄高組支配従前の通り」という辞令であった。これにたいして北町奉行所の与力同心は、将軍家の城地禄高の決定をみないうちに自分たちだけ食禄を受けるわけにいかないと全員連署して辞退したが、翌二十四日、徳川|家達《いえさと》を駿府に封じ七十万石を下賜する旨の令達があったので、大部分の者がそのまま新政府の市政裁判所に勤めることとなった。これによって山田家の首打役としての家職も保証されたことになる。
山田家は勿論、いまはまだ帰宅を許されない吉亮も、この朗報に愁眉をひらいた。
この町奉行所廃止問題に並行して、常吉からは毎日のように輪王寺宮の動静がもたらされていた。素伝の手紙を読んで心の平静さを失うたびごとに、吉亮の胸に浮ぶのは輪王寺宮を護るという素伝との約束であった。
どこで区切りをつけるべきなのか。どれだけ実行したならば約束を果したといえるのか。そのふんぎりのつかなさが、素伝にたいする恋慕の情のいらだちと一緒になって、吉亮の胸をたえずさいなんでいた。
どうも今夜、宮様は品川沖の長鯨艦に乗られるらしい、という報告を常吉がもってきたのは、町奉行所問題の落着をみた翌日、二十五日の昼頃であった。吉亮は、こんな山谷の小屋頭の家にいても、時代の潮は滔々と音たてて流れているということを、いまさらのように感ぜざるをえなかった。
あの日、三河島村に向われる輪王寺宮を拝んで別れてから、十日たっていた。
あの後、宮様は三河島村から上|尾久《おぐ》村、下尾久村と百姓家を逃げ歩かれ、翌十六日の暮六つ刻、浅草合羽橋にある薬王山東光院で一泊。十七日朝四つ刻(午前十時)、宮の顔を知るはずのない官軍の意表をついて上野の坂本通りから山下へ抜け、黒門口を右に見て、まだ血と泥にまみれたまま転っている彰義隊士の死骸に合掌しながら本郷に向う。それから小石川水戸邸前を過ぎ、外濠に沿って市ヶ谷の自証院へ入られた。ここでゆっくりと一週間を過される。
どういう諜報組織によってわかるのか、吉亮にはただ不思議という言葉しかなかったが、常吉は物に憑かれたように輪王寺宮の跡を追っていた。そしてきょう宮様は小笠原壱岐守様の御手医者・本町三丁目の西川玄仲の代診といういでたちで鉄砲洲船松町二丁目の廻船問屋・松坂屋という家におなりになり、夜になってから榎本差し向けのバッテーラで長鯨艦へ乗り込まれる、という詳細な報告をもたらしたのである。
吉亮はなんとかして輪王寺宮を見送りたかった。それは輪王寺宮への敬慕というよりは、素伝にたいする献身の気持であった。この十日間、押えれば押えるほど慕る慕情であった。
「鉄砲洲までは遠いな。なにかよい方法はないか」
吉亮の問いに答えて、
「舟はいかがです」
と常吉が言った。
「できるのか?」
「できます。そのときのことを考えて、山《ほ》谷|堀《り》の船頭に頼んできました」
「そうか。それは有難い。品川でアナゴの夜釣りということにしよう」
二人は早速準備にかかった。吉亮は髪を町人髷に変え、どこかの料理屋の板前といったいでたちにして、短刀をふところに呑んだ。
山谷堀から大川を漕ぎ下って、永代橋をくぐり、佃島を左に眺めながら鉄砲洲に着いたときは、夕日がまさに浜御殿の松の向う、甲州の山並みの彼方に沈もうとしていた。富士が黒々と眺められた。夕凪が海面を占領して、波打際にもほとんど波が立っていなかった。
遠く御台場の沖に榎本武揚の率いる幕府艦隊が八隻、落日を照り返して堂々と浮んでいる。彰義隊の騒ぎも少し下火になり、榎本もそれに応ずる気配がみえないので、官軍の監視はここのところ幾分ゆるんだようである。
舟を明石町寄りの石垣の下につけて船頭を待たせた吉亮と常吉は、陸に上って松坂屋の近くで見張っていた。
常吉の言葉に嘘はなかった。夕日が沈み、西本願寺の暮六つの鐘が鳴り終って間もなく、二、三人の従者をつれた輪王寺宮があらわれた。帷子《かたびら》羽織に角帯を締め、木刀を一本差して茶筌髷《ちやせんまげ》、白足袋に雪駄を穿いた姿は、だれが見ても医者の代診としか鑑定しえないであろう。
吉亮と常吉は遠くから合掌したのち浜辺へ出て、積んである材木に腰をおろし夜の来るのを待っていた。
星の降るような夜が訪れた。浜風も少し出て、磯の香を運んできた。寄せ波が単調にひびいている。沖合の軍艦の姿はみえないが、カンテラの灯が船のあり場所を示していた。
闇の海から微かにオールの波を切る音が聞えてきたのは五つ刻(午後八時)ころであったろうか。白いバッテーラが石垣から海に張り出された小さな桟橋に横づけされた。
松坂屋の裏手に提灯が二つ三つ揺れて、人の気配がつたわってきた。
桟橋の上で挨拶をかわす人声がしたと思うと、ふたたびオールの水を掻く音がし、それもやがて暗い海に吸い込まれるように消えて行った。波の音だけが単調に同じリズムを繰り返していた。
吉亮と常吉は材木に腰をおろしたまま、じっと小半刻も動かずにいた。なにかが吉亮のなかで音たてて崩れてゆくようであった。もはや輪王寺宮の行手の安全を祈る気持もなかった。彰義隊の思い出もはるか昔のことでしかなかった。すべていまのバッテーラに積んで闇の海に押し流してしまったのであった。あとに残ったのはただ一つ、義母の素伝にたいする、このどうしようもない心のたかぶりだけである。
「母上──」
吉亮は星空と黒い海に向って、一と声力いっぱいに叫んだ。北の空に星が一つ流れた。
12
題しらず
[#地付き]よみ人しらず
[#地付き]つれ/″\に語る友がき袖ぬらす
[#地付き]しのぶが丘の五月雨のそら
[#地付き](「内外新報」第四十九号
[#地付き]慶応四年五月二十九日)
万が一にも三日はもつだろうといわれていた彰義隊がたった一日で総崩れとなったあとの江戸市民は、途端に官軍贔屓となった。いうならば〈東京市民〉化へのスタートを切ったわけである。
きのうまでの佐幕熱はいっぺんに消えて、われもわれもと御一新風に衣替えする変り身の速さは見事というしかなかった。徳川《くぼう》さまへの義理は〈彰義隊〉という|いけにえ《ヽヽヽヽ》を捧げることで、上野の山の劫火といっしょに燃え失せさせたのである。
江戸っ子が口が裂けても歌うものかと気負っていた「トコトンヤレ節」も、だれかが一と声酒席で歌い出すと、もう止めどもなく江戸じゅうに流行していった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
宮さん/\御馬の前にひら/\するのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ
音に聞こえし関東侍どっちゃへ逃げたと問うたれば トコトンヤレトンヤレナ
城も器械も捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレトンヤレナ
雨のふるように鉄砲の玉の来る中を トコトンヤレトンヤレナ
命惜しまず進み行くのもみんな御主の為じゃもの トコトンヤレトンヤレナ
[#ここで字下げ終わり]
大村益次郎が西洋の軍歌に擬して品川弥二郎に作らせたといわれるトコトンヤレのメロディーは、京都祇園新地・島村屋の抱え芸妓中西君尾が三味線の糸にのせて作ったのにふさわしく、砲煙弾雨の戦場や隊伍整々の行進のなかで歌うよりは、杯盤狼藉の酒席で、時代の流れに|やけ《ヽヽ》になった三絃の狂騒にあわせて歌ってこそその場所を得たものであっただろう。
おそらく、六月八日、この数年間絶えて打上げを見なかった両国川開きの花火に浮かれて隅田川を埋めつくした屋根船のなかからも、十一月、築地の外国人居留地に隣接して作られた新島原遊廓の妓楼からも、かまびすしくひびいた絃歌のヒット・メロディーは、このトコトンヤレ節であったかもしれない。
もはや江戸市民の意識には、北越や奥羽の戦雲の嶮しさなどは無縁な存在であった。
七月十三日、彰義隊頭並・天野八郎は潜伏中の本所石原町・鉄砲師炭屋文次郎方で朝食中を官軍に急襲され、一刀をつかんで庭から屋上に逃げたが、官軍の乱射する銃弾を額に受けてめくるめき、庭先へ転落して捕縛され、十一月八日、「北にのみ稲妻ありて月暗し」の辞世を遺して大下馬《おおげば》の元会津屋敷糺問所で三十八年の生涯を終ったが、そんなことはもう江戸市民のだれの関心をもひくものではなかった。
七月十七日、次の詔書が発布される。
[#この行1字下げ]朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫《すいぶ》ス江戸ハ東国第一ノ大鎮四方|輻湊《ふくそう》ノ地宜シク親臨以テ其|政《まつりごと》ヲ視ルヘシ因テ|自今江戸ヲ称シテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》東京《とうけい》|トセン《ヽヽヽ》是朕ノ海内一家東西同視スル所以《ゆえん》ナリ衆庶此意ヲ体セヨ
この詔書とともに東京府知事に烏九光徳が任命され、江戸鎮台府は東京鎮将府となった。尤もこれはまだ東西二京併置案であった。
時代の浪は遠慮会釈なく江戸を〈東京化〉してゆく。
〈豚肉食べる一橋殿〉といって前将軍慶喜を〈豚一どの〉とあだ名した江戸市民も、もう肉食を嘲笑の対象とみなす時代ではなくなっていた。まだ薬用という口実のもとに〈薬喰い〉と称してはいたが、〈御養生牛肉〉と看板に朱書した牛鍋店が現れたとか、風月堂が薩摩藩の兵食としてパンを納入したといった巷のうわさは、市民の日常生活に洋化の萌芽がみえはじめたことを物語っていた。
「もしほぐさ」という横浜居留地から発刊された新聞の第十八篇(慶応四年七月二十八日発行)に「八月中旬|発開《はつかい》のよし」として〈築地ホテル館之図〉が掲載されている。「間口四十二間、奥行四十間、高九丈四尺」の、清水喜助の設計になる最初の洋館は八月十日に竣工をみた。
東京はどこへ行っても御一新の寄せ波の音が耳につく町となっていた。そして引き波に乗って去ってゆくのは、色褪せた旧幕の面影であった。
すでに七月頃から下谷御徒士町、本所深川、番町辺では、家禄を奉還した小身の旗本・御家人たちや、昔は幕府と固くつながって利権の上にあぐらをかいていた元御用達商人どもが、新たに商売をはじめる姿が続出した。
もっとも多いのが骨董屋であった。先祖伝来の家宝の書画骨董類を二束三文にたたき売るしか商売を知らないのである。その他、貨食舗《りようりや》、酒肆《さかや》、茶店、汁粉、蕎麦、鮓《すし》、漬物、紙類、煙草、蝋燭、乾魚など、どれをとってみても下級武士の妻や娘、お店《たな》の御新造さんやお嬢さんが生計を維持しようと必死になっている姿がちらつく商売ばかりであった。しかしいずれもすぐに店を閉じていた。番町、三崎町辺、その他の武家邸の密集地でも、みずから邸宅をこわして新政府に上知《じようち》する者が多かった。
八月に入ると連日雨が降り続いたが、稀に雨が晴れ、雲の切れ間から夜空がのぞくと、異星が巳《み》の方角(東南)に現れて、妖光を放っていた。
八月五日、深夜、大雨があり、盆を覆すという形容そのままの土砂降りであった。その雨に流されるように、九日、まだ六歳の徳川亀之助(家達《いえさと》)が新領地の駿府へ発って行った。前将軍慶喜は、七月下旬、すでに水戸から駿府に移っている。
江戸の〈東京化〉に裏から拍車をかけるものは、旧幕臣たちの多くが慶喜や亀之助の跡を慕って駿府へ無禄移住する流れであった。陸を行く者もあれば、海路をとる者もいた。
江戸が東京と変っては生きる|めど《ヽヽ》を持てない人の群れが、連日、陸続と駿府へ下《くだ》ってゆくのである。べつだん駿府に開かるべき新天地が予約されているわけではなかった。徳川家八百万石が十分の一以下の七十万石に減収したという額面だけの目の子勘定でさえ、幕臣とその家族たちを食べさせてゆくことのできないことは、誰でもがよく知っていた。ただ徳用《くぼう》さまのお膝元でしか生きてゆけないと思い決した、二百六十年間の執念の終着駅なのであった。
八月十六日、会津領塩沢村で長岡藩家老、河井継之助が病歿した。このことは北越戦争の事実上の終幕を告げるものであった。
これよりさき、五月十九日に長岡城は一度官軍の手に帰したのであるが、継之助の統率よろしきを得た長岡勢は、七月二十五日、これを奪回。四日後の二十九日、ふたたび落城の悲運をみる。この落城のさい受けた負傷が悪化し、継之助はついに立たなかったのである。
八月十九日夜、榎本武揚が軍艦八隻をひきいて品川沖を脱走。奥羽越同盟に幕勢挽回の夢をつないで一路北へと針路をとったのであった。これは幕臣みずから最後の旧幕臭を東京から一掃した行動であったといってよいであろう。
○江戸政府よりの触書《ふれがき》
ヘラルド新聞より抄訳す
[#ここから1字下げ]
榎本釜次郎並に附属のものども、去る十九日夜、徳川亀之助軍艦運送船八艘え乗込み、品川沖より出帆脱走せし段、亀之助重役共より申出候。右船々之儀は先々より品川沖出帆いたし候事も有之候得ども、先主人慶喜恭順の意を体|認 い《じんママ》たし不都合之儀は致す間敷旨、亀之助重役ども聢《たしか》に請合候、然に右船々俄に脱走いたし其上書置之面、天朝え対し悖慢不礼《ばうまんぶれい》之至り、実に叛賊の所業にて、主人の意に戻り、謂なく脱走せしは、終に海賊とも可相成候、右に付亀之助重役え申達し諸外国公使えも其筋の役人より相通じ、若し右船々、開港場え襲ひ来り、外国人え対し悪業相働候節は、如何様取扱候ても差構無之、且つ海上にて、外国政府は右船々と決して附合申間敷、右之所置は、日本と外国との交際を破らざる為に候。
[#ここで字下げ終わり]
右船々の名
開《かい》 陽《やう》 回《くわい》 天《てん》
蟠《はん》 竜《りゆう》 千代田《ちよだ》
長《ちやう》 鯨《げい》 三加保《みかほ》
神《しん》 速《そく》 咸《かん》 臨《りん》
八月廿二日
[#地付き](「もしほぐさ」第廿四篇 九月廿日)
この大事件も、当時の東京市民にどの程度のショックを与えたか疑問である。「『もしほ草』といへる板本に、俳優沢村田之助、去る卯《う》九月|脱疽《だつそ》を患ひて、亜米利加の名医|平文《ヘボン》先生に療治を乞ひしに、右の脚を股の所より切取りて跡に薬を施したり。其の時田之助が頼みにて、平文が国|許《もと》へ彼の国製の脚を注文せしが、壬《みずのえ》四月の頃|誂《あつらえ》の足一本を送り越したりと云々。此の足を継ぎて芸をなすに、更にかはる事なしとぞ」と、「もしほぐさ」第二篇(慶応四年閏四月十七日刊)所収の記事を転載している『武江年表』(斎藤|月岑《げつしん》著)にすら、この榎本艦隊の記載は見当らない。
彰義隊や幕府軍艦にたいする関心度の衰退に反比例して、御一新意識は見事に深まって行くのである。
新政府側もまたつぎつぎと手を打って、御一新の宣伝に大童であった。
八月二十七日、京都で天皇即位式が行われた。ついで九月八日、慶応を明治と改元、一世一元の制を立てる。
さらに九月二十二日、約一千年を遡る第四十九代光仁天皇の旧制にのっとり、この日の天皇誕生日を〈天長節〉と定め、これを内外に布告、百官に|※[#「酉+甫」、unicode917a]宴《ほえん》を賜い、刑戮《けいりく》停止を令した。(のち陽暦を採用するにあたって、十一月三日となった。)この日、奥羽では会津鶴ヶ城が戦死者二千余人、うち婦女子二百三十余名の犠牲のはてについに陥落したが、東京市民はそれにも風馬牛であった。
御一新運動の最高潮をなしたものは、東京遷都という一大デモンストレーションであった。
九月二十日辰の刻(午前八時)、天皇の輦輿《れんよ》は京都御所の正門である建礼門より出御。輔相岩倉具視、議定中山忠能、外国官知事伊達宗城、参与木戸孝允、大木喬任らがこれに供奉《ぐぶ》し、長州、土州、岡山、大洲四藩の兵隊が前後を警衛した。供奉の人員は官人、駕輿丁、雇、小者の末に至るまで加えると二千人を越え、これに警衛の兵士を合すると三千三百人にも達する物々しさであった。
その後、鳳輦《ほうれん》は、大津、石部、土山、関、四日市、桑名、熱田、鳴海、岡崎、吉田、新居、浜松、掛川、藤枝、江尻、吉原、三島、小田原、神奈川、品川の各駅を通過。十月十三日|未《ひつじ》の刻(午後二時)、東京城西の丸に着輦。大総督有栖川宮|熾仁《たるひと》親王、鎮将三条|実美《さねとみ》、東京府知事烏丸光徳らは品川駅まで出迎え、在東京の諸藩主および五等官以上は坂下門外に奉迎した。
ちなみに、このときの千代田城は過去数度の火災に遭い、とくに明暦三年、安政六年、文久三年、慶応三年の火事によって本丸も二の丸、三の丸も焼失し、わずかに西の丸だけが再建されて新政府に明渡されていた。したがって西の丸を宮城と定め、西の丸大手門(二重橋)を正門とした。
この日この行列に扈従した親王公卿諸侯は衣冠帯剣、徴士も直垂《ひたたれ》に帯剣して、全員馬に乗っていた。また、この日、その異様ないでたちで最も人目をひいたのは、錦旗捧持役をつとめた力士たちの姿であったという。鳳輦の前駆をうけたまわった彼らは、菊の紋のついた陣羽織を着、ダンブクロと称するズボンに太い脚をつっこみ、腰には刀を邪魔そうに帯びていた。
鳳輦は品川から芝増上寺に赴き、ここで行列を整え、現在の銀座通りから京橋通りを過ぎて日本橋|通 町筋《とおりちようすじ》に入り、一丁目と二丁目の間から西へ呉服町通りへ出、呉服橋を渡って丸の内へ。和田倉門に入ると伶人道楽を奏して前導した。
この一大デモンストレーションに天候まで加勢したか、この日は朝から快晴に恵まれ、物見高い江戸っ子は、老若男女、沿道を埋めつくしてこの行列を拝んだ。なかにはお賽銭を投げて合掌する老婆もあれば、感涙にむせんで拝跪《はいき》する武士もいた。
しかしこの二日前の十一日早暁、旧幕府の実際的代表者として終戦処理に苦心してきた元陸軍総裁勝安房が、徳川家最後の引揚げの一員として、三百二十三噸の老朽船千歳丸で海路駿府へ船出していたことを知る人間はほとんどいなかったであろう。潔《いさぎよ》い幕臣総退場の一幕であった。
十一月四日、新政府は最後の仕上げとして、東京の各町内へお祝い酒を振舞った。
この日も快晴だった。
各町内の惣代、地主、家主に名主が付添って、朝の六時から東京府へ呼び出され、今回の御東行御祝儀として御酒《ごしゆ》を賜わった。その品目は、各町内には鯣《するめ》一連と三方《さんぽう》に載せた素焼の盃一枚、名主一人ごとに酒の入った瓶子《へいし》二つずつ、瓶子総数二百二十一|対《つい》であった。
このことはすでに十月二十七日に「賜酒」のお触《ふ》れが廻り、東京中の金持ちたちに寄付させた二千五百六十三樽の酒を各町内一乃至二樽ずつ、千五百九十二町に分配していたので、各町内では顔役、鳶の者などがそれらの酒樽を積み込んだ大八車を準備し、全員赤と黄の手拭をねじり鉢巻にして、「天酒頂戴」とか「御酒頂戴」と書いた旗や幟、吹流しなどを先頭に押し立てて、名主たちの出てくるのを待っていた。
やがて名主たちが現れると、御下賜の品目を酒樽の上に供え、鉦や太鼓をドンチャカ鳴らしながら、賑々しくそれぞれの町内へ引揚げて行った。途中からは、待ち受けていた町内の男女どもが合流して、「天盃《てんぱい》頂戴、ワッショイワッショイ」と車の前後に群がりつづいた。
明けて五日から三日間、〈頂戴の御酒《ごしゆ》びらき〉というので、各町内は商売を休み、店先に提灯を飾って山車《だし》伎踊《おどり》などを催し、昼夜ぶっとおしで酒と踊りに狂った。文字通りのお祭さわぎであった。あるいはこのときも、トコトンヤレのメロディーが皿や小鉢を叩く箸のリズムにのって、東の空が白むまで歌われたのかもしれない。
三日間、酔いつぶれ、踊りほうけた江戸っ子の頭には、旧幕府の記憶は昼間の幽霊のように薄れ去り、〈天子様はありがたい〉という観念だけがはっきりと形象化されていた。
十二月八日、天皇はいったん京都へ還幸し(京都着二十二日)、同二十八日、一条|忠香《ただよし》の第三女・美子《はるこ》を皇后に冊立。翌二年三月二十八日、ふたたび東京へもどって、ここを都と奠《さだ》めた。京都はまんまと西京の資格を奪われた。
御一新運動における明治初年度の営みは、混迷と難問を包蔵しながらも表面的には一応の成功を見、新政府の水も洩らさぬ演出に乗って、次年度の山場である〈版籍奉還〉へとめまぐるしく移ってゆく。
13
吉亮が父吉利から帰宅の許可をもらったのは、明治二年の八月に入ってからであった。
これはこの八月に〈山田浅右衛門〉にたいして新政府から正式に〈首打役〉の辞令が下りたからであった。
このことは山田家にとっては大きな(根本的な、といってよいかもしれない)変革であった。初代貞武以来、山田家は一度も幕府の役人となったことはなく、むしろ一介の浪人という立場の有効性を十分に生かして、民間試刀家という家職を襲《つ》いできたのである。それが明治となってはじめて政府の役人の地位につくということは、いわば祖法の変更であった。七代目吉利としては重大な決断をくだしたことになる。
この辞令を吉利が家門の名誉として歓迎したかどうかは即断できない。〈徳川家御佩刀御試御用役《とくせんけごはいとうおためしごようやく》〉という民間試刀家の最高の栄誉を担い、〈首打役〉は単なる兼務にすぎなかった地位からみれば、たとえ政府の役人ではあれ一介の〈首打役〉に自分を局限することは、山田流抜刀術の伝統に生きる者としては忸怩《じくじ》たるものがあったであろうと考えられるからである。しかし時代の変化はそういった精神の傲《おご》りを許さなかったであろう。
将軍家でさえ一片の木の葉のように波浪に呑まれて駿河の海へ打ち寄せられる時代である。その木の葉にしがみつく一匹の虫けらほどの重さもない山田家が、いまさらそんな贅沢がいえる境遇ではなかった。すべての人間が新しい職業を求めて右往左往していた。しかも〈武士の商法〉で没落してゆく人間の悲劇は毎日のように目撃するところである。実際のところ、〈徳川家御佩刀御試御用〉なる仕事は、もうどこへ行ったのか、この世に存在しなくなっているではないか。
そのうえ、この五月十八日、榎本武揚の降伏により箱館・五稜郭が開城したことは、戊辰の戦いがすべて終り、全国的に干戈《かんか》が治まったことを意味する。いまさら刀剣の試斬りを依頼する大名旗本がいるはずもない。とすれば〈試刀業〉というものは今後どうなってゆくのか。
かつて元禄という一大変革の世にあって、先祖の貞俊・貞武父子が〈試刀業〉という職業をえらぶことで活路を見出し、その後二百年にわたる安定した家業を伝えることができた。それは繁栄への道といってよかった。いま明治という転換の時代に際会して、この〈試刀業〉という伝来の職業にしがみついてゆくのが賢明なのか、全く新しい職業を選択するのが先祖に応える正しい道なのか。その竿頭に立たされているという自覚だけはあるが、活路の方向は漠としてつかみえないのが実情である。
残るのは、かつては兼務として副次的地位しか与えていなかった〈首打役〉という仕事だけである。しかしこれはそもそもが町奉行所の首斬同心の仕事であった。山田家はその代役にすぎない。しかも〈試斬り〉という前提があったればこそ、首打手当や多くの付け届けを奉行所関係の上司や与力同心たちへばらまいて引き受けていた仕事である。
昨年五月、三奉行所が廃止になり、町奉行所が南・北市政裁判所となったとき、「禄高組支配従前の通り」という辞令があって新政府によって保証されたのは、与力同心たちの地位であって、山田家の保証ではなかった。そのときはまだ新政府といっても、単にいままでの徳川家の支配を薩長政府がとって代るだけで、すべての行政機構はほとんどそのまま存続するにすぎない、したがって町奉行所の名称は変っても、与力同心の仕事から行刑制度の末端にいたるまですべて従来通りで、山田家もその驥尾《きび》に付して新しい時代にもぐりこめると愁眉をひらいたのであったが、どうもそれは甘い見通しでしかなかったようである。その後の一年間に、あまりにも多くのものが変りすぎるのである。
そしてその変化の跡をたどってみると、どうもそれは単なる政治上行政上の変化だけではなく、もっと本質的に時代は変ったのだ、うまくもぐりこむなどという生易しい考えではやって行けない、もっと根源的な人間のあり方を問いかける何物かがその底流にひそんでいる、恐ろしい時代がやってきたらしい、という実感がひしひしと感ぜられるのであった。そしてその問いかけに応える職業をもたなければ、すべては時代の底に埋没し、時流の引き潮にさらわれてしまうらしい、というおぼろな予感が追ってくるのであった。
慶応四年五月二十二日付「市政日誌」によると、──
≪廿二日、南裁判所(旧南町奉行所)におゐて、西紺屋町名主坂部六左衛門へ申渡。
〔組々世話掛り名主共へ〕
今般江戸鎮台被[#二]差置[#一]候に付町奉行は被[#レ]為[#レ]廃候へども、市政裁判所へ相結候役々の儀は是迄与力同心并支配向、当分之内徳川家臣之儘にて事務取扱可[#レ]申旨被[#二]仰出[#一]候間、右之趣組々番外迄洩ざる様可[#二]申通[#一]候事。
但差紙之儀別紙雛形之通り相改め候間、其旨可[#二]相心得[#一]候。≫
とあり、町奉行所が市政裁判所に変っても与力同心たちが当分のあいだ徳川家の家臣のままで勤めたことがわかる。
これと同じ日に、日本橋小伝馬町の牢屋敷はどうなったかというと、この牢屋敷を〈囚獄〉と改称し、総坪数二千六百十八坪七合六|夕《せき》(そのうち四百八十坪は石出帯刀の住居)──一書に云う、総坪数二千六百七十七坪余。内三百八十六坪余石出帯刀宅。内五百六十二坪半建坪、と。──の敷地を鎮台府の所轄とした。(のち鎮将府、東京府と管轄が転々とする。)そして旧牢屋奉行は〈司獄〉となり、石出帯刀や牢屋同心らにたいしては「鎮台府市政裁判所附仰付、禄高組支配従前の通り」の辞令が交付された。
七月十七日、江戸府が東京府となったとき、鎮台府を廃して鎮将府を置き、寺社奉行所の後身である社寺裁判所を廃止した。(鎮将府は十月十八日に廃止となる。)
八月二十日、「東京府御裁判所、呉服橋内、鍛冶橋内の二ヶ所(元町御奉行所)を廃して幸橋御門の内松平時之助殿(柳沢侯)藩邸へ移され、一箇所と成る。」(『武江年表』)
つまり南北町奉行所の後身である東京南北市政裁判所が一つになって東京府庁ができたわけである。
そして同じく(明治元年)十月三十日、行政官布達第九百十六号をもって〈仮刑律〉の趣旨が宣示された。この仮刑律(仮律ともいわれる)は文字通り暫定的刑律で、一般に公布されたものではなく、新政府が維新当初直接に管轄しえた旧幕府天領の一部に原則として行われたものにすぎないが、その後作られた諸刑律の先駆として国内の一部に約二年半ほど行われた事実は見のがしえない意味がある。明治初年における刑法関係──つまりは本篇における山田家との関係──で最も重大な事件と看做しうるので、その煩をいとわずにこの行政官布達を引用しておきたい。
[#ここから1字下げ]
王政復古、凡百之事追々御改正ニ相成、就中刑律ハ兆民生死之所[#レ]係、速ニ御|釐正可《りせいあら》[#レ]被《せ》[#レ]為《らる》[#レ]在《べき》之処、春来兵馬倥偬《ヽヽヽヽヽヽ》、国事多端《ヽヽヽヽ》、|未タ釐正ニ暇アラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。依[#レ]之新律御布令迄ハ、故幕府へ御委任之刑律ニ仍《よ》リ、其中|磔刑《たくけい》ハ君父ヲ弑スル大逆ニ限リ、其他重罪及|焚刑《ふんけい》ハ梟首ニ換へ、追放、所払ハ徒刑ニ換へ、流刑ハ蝦夷地ニ限リ、且盗竊百両以下、罪|不《しに》[#レ]至《いたら》[#レ]死様《ざるよう》、略《ほぼ》御決定ニ相成候。尤死刑ハ勅裁ヲ経候条、府藩県共、刑法官へ可[#二]伺出[#一]。「|且総テ《ヽヽヽ》粗忽《そこつ》之刑律《ヽヽヽ》有[#レ]之間敷事《これあるまじきこと》。
一 流刑ハ蝦夷地ニ限リ候得共、彼地御制度相立候迄ハ、先旧ニ仍リ取計置可[#レ]申事。
一 徒刑ハ土地之便宜ニヨリ、各制ヲ可[#レ]立事ニ付、府藩県共其見込ニ従ヒ、当分取計置可[#レ]申。追々御布令|可《あら》[#レ]被《せ》[#レ]為《らる》[#レ]在事《べきこと》。
右之通被[#二]仰出[#一]候条、御旨趣堅相守、猶|不《けつ》[#レ]決之廉《せざるのかど》有[#レ]之候ハバ、刑法官へ可[#二]伺出[#一]候事。
[#ここで字下げ終わり]
新政府がはじめて官制を整えたのは慶応四年一月十三日、〈太政官代《だじようかんだい》〉を宮廷にもうけ、いわゆる三職(総裁・議定・参与)七科(神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度)の制を組織した同十七日からである。この七科のうちの司法機関として刑法事務科が設けられた。その後、刑法事務科は翌二月三日には刑法事務局、閏四月二十一日の大改革で刑法官と改組されるめまぐるしさであったが、この〈仮刑律〉の布達は刑法官から翌明治二年七月八日の刑部省設置までのあいだの出来事である。
この仮刑律は明治三年の「新律綱領」、明治六年の「改定律例」等、明治初期における一連の東洋系刑法の前駆であり、新政府最初の編纂刑法典と考えることができる。そしてその編纂は前述した刑法事務科、刑法事務局時代という新政府発足直後に、主として肥後藩出身者の手によってなされたと推定されている。
維新のスローガンが〈王政復古〉であったことと関連して、この仮刑律の典拠となったものは、明《みん》律・清《しん》律といったいわゆる唐律とわが国の大宝律・養老律、徳川幕府の公事方御定書《くじかたおさだめがき》などであるが、その他に肥後藩の「刑法草書」があげられるのがその特長である。
徳川時代においては、幕府法としての公事方御定書に準拠したとはいえ、各藩が独自の藩法を有しており、それにのっとって行刑制度を運用していた。しかも各藩はその法律を一般に公布することはなく、対外的には一切秘密としていたため、司法関係の役人たちは法律に関することは親兄弟といえども話さないという誓いを立てたうえでその内容を知らされたのである。維新以後各藩の法律を集めようとしたが、わずか十種ぐらいしか集まらなかったという。そういう中にあって肥後藩の「刑法草書」は明律を典拠とし、藩独自の立場から編纂されたもので、徳川時代の藩刑法の白眉と、高く評価されていた。
仮刑律の趣旨は前掲の布達に徴して明らかであるが、それに一貫しているものは、「盗竊百両以下、罪不[#レ]至[#レ]死様」とあるように、旧幕府時代の〈十両盗めば死罪〉にたいして一躍十倍の百両にしたことや、死刑は勅裁を必要とするといった、酷刑にたいする寛刑主義、濫用にたいする慎刑主義であった。
このような寛刑主義はこの年の三月一日に発布された大赦令にも一貫しているが、これは幕末以来高まってきていた現実的な世論に従ったと考えるべきであろう。もっとも大赦令のばあいは、すべて新政府というものはその成立にあたっては大赦を行い、寛典を施して人心の収攬につとめるのが常套手段であるから、仮刑律のばあいよりはもう少し明治新政府の演出の姿勢が濃厚である。
さて、この仮刑律において、山田家と最も深い関係にあるべき〈死刑〉について略述しておこう。
仮刑律では死刑の種類を刎《ふん》、斬《ざん》、磔《たく》、焚《ふん》、梟首《きようしゆ》の五種に規定している。たとえば──
○左道邪術を以て衆を惑はし財を図るものは刎首《ヽヽ》。
○官私より盗み取りたる牛馬は勿論、自己の牛馬と雖も生皮を剥ぐもの斬《ヽ》。
○謀反及び大逆を謀りたる者は既遂未遂を問はず首謀者、従犯者を問わず磔《ヽ》。
(註、謀反とは国家を危くすることを謀るを言ひ、大逆とは山陵及び宮闕を毀《こぼ》たんと謀るをいふ。)
○故意を以て放火し人の房室を焼くものは焚殺《ヽヽ》、未遂に終り又は情状の軽きものは斬《ヽ》。
○家来が主人を殴つものは首従を分たす斬《ヽ》の上|梟首《ヽヽ》。
[#この行3字下げ](以上の引例は仮刑律本文の引用ではなく、内容説明を行なっている布施弥平治『日本死刑史』からの引用である──。綱淵註)
右の引用で気がつくのは〈刎首〉と〈斬〉との使いわけである。とくに〈斬〉とあって〈斬首〉となっていないことである。これは仮刑律においては〈刎〉は「身首処を異にす」で、〈斬〉は「袈裟斬」だからである。元来「律」における〈斬〉は「身首異処」の意なのであるが、仮刑律ではそれを〈刎首〉という表現をとっているわけである。
以上述べた仮刑律は、前述のように、一般に公布されたものではなかったが、その発展形態として新政府がはじめて具体的な犯罪処刑方針を全国に指示したのは、同じ(明治元年)十一月十三日に出した太政官|達《たつし》である。
太政官はこの達で各府藩県にたいし「新律御治定迄《ヽヽヽヽヽヽ》別紙四刑各三等ヲ以テ|仮ニ《ヽヽ》軽重ヲ配当シ当節左ノ通処置イタシ候事」と指令し、死・流・徒・笞の四刑名を定め、死刑は梟首・刎首・絞首、流刑は七年・五年・三年、徒刑は二年・一年半・一年、笞刑は百・五十・二十の各三等に区分した。
この達は仮刑律の延長線上にあるものであるから、火刑の廃止とか大逆罪以外の磔刑《たくけい》の廃止(全面的廃止は明治三年の新律綱領の施行による)など注目すべきことは多々あるが、本篇の筆者として特に強調しておきたいことは、死刑の種類として〈絞首〉という項目が入ってきたことである。
この達では〈絞首〉は秋季に至り一時に之を刑し、自然、御大礼等にて赦令あるときはこれをゆるさるべき事、となっているが、やがてこの死刑の方法が山田浅右衛門家の首を絞めてゆく運命にあることについて、ここで注意を喚起しておきたいのである。
明治二年となった。六月十七日、新政府は先に諸藩から出ていた〈版籍奉還〉の奏請を聴許し、未請の諸藩に奉還を命じた勢いを駆って、七月八日、王政復古という維新のスローガンを実現すべく官制の大改革を行った。それは〈祭政一致〉という古代復帰の理念に立ち、神祇・太政の二宮を設け、太政官に民部・大蔵・兵部《ひようぶ》・刑部《ぎようぶ》・宮内《くない》・外務の六省を置いた。刑法官が刑部省と改称されたわけである。この日、刑部卿(長官)に任ぜられたのは正親町《おおぎまち》三条《さんじよう》実愛《さねなる》であり、刑部|大輔《たゆう》(次官)に任ぜられたのは佐々木高行であった。
山田浅右衛門が新政府から〈首打役〉の辞令を受けたのは、この官制改革による刑部省設置の余波であろう。
「小伝馬町囚獄行刑一斑」によると、同牢獄の死刑執行数は、明治元年が一九〇人(刎首・男九二人、梟示・男九五人、磔・男三人)、二年が一二八人(刎首・男九〇人、梟示・男三七人、女一人)、三年が八七人(刎首・男五八人、梟示・男二八人、磔・女一人)であったという。元年の分には新政府が同牢屋敷を接収した五月二十二日以前の処刑数も含まれているのであろう。
このうちのどれだけを山田家関係の者が執行したか不明であるが、おそらくその大部分を手にかけたのではあるまいか。その実績があったればこそ、新政府は従来の町奉行所所属の首斬同心という制度を廃して、実質的|※[#「會+りっとう」、unicode528A]手《かいしゆ》である山田浅右衛門個人(この時の山田家代表者は吉利である)に〈首打役〉を委嘱したのではあるまいか。
吉利にはその役を引き受けることに、多分のためらいがあったようである。このままずるずるとこの仕事をしていてよいのであろうか。いっそこの〈御一新〉という転換期を契機として、人間のどす黒い血にいろどられた二百年の家職と手を切るのが正しいのではあるまいか。
それは簡単には答の出しにくい問題であった。答が出ないとすれば、時流の先を静観して時を稼ぎつつ現実の死刑囚をさばいてゆかねばなるまい。小伝馬町囚獄の死刑囚の数を現実に眺めるなら、この仕事が一朝一夕にこの世から無くなるなどという考えは妄想としか思われないであろう。また、もし自分ら山田家がそれから手を引いたとしても、だれかが同じ仕事をしなければならぬとすれば、斬首の刑が廃刑とならぬかぎり、この長い歴史をかけて積み上げてきた技術を他人の拙《つた》ない技《わざ》に取って代られることは、山田家の誇りが許さない。いずれにしても今の段階ではこの役目を引き受けるしか選択の余地はないであろう。
結局、吉利はその仕事を引き受けたのであるが、彼の心のなかのためらいは、その年いっぱいで、つまり四カ月の在職でこれを長男の吉豊に譲るという形で具体化されている。もっともこれは本稿のこの時点では後日譚に入ることとなる。
14
八月というにしては肌寒い日であった。雨が降ったり止んだりして、雲が太陽を厚く蔽っている。
「今年はほんとうに日照りが少いですね。五月、六月、七月と、からっとした日がほとんどないのだから、うんざりしてしまいますよ。それにこの寒さですからね」
番傘を並べて歩いている浜田の、問わず語りなのか対話を求める問いかけなのか、一向にはっきりしない言葉には敢えて沈黙を守って、吉亮《よしふさ》は自分の心のなかの孤独な世界に沈みながら足を進めていた。
父吉利からの「帰宅せよ」という命令を門弟が届けてきてから三日たっていた。雨の日が続き、晴れ間を待っていたのも遅延の一因ではあったが、その命令を歓迎するにしては吉亮の心に複雑な陰翳が鬱積しすぎていた。気持がすすまぬままに三日がたっていた。
浜田がそれを心配した。麹町の大《おお》先生の命令に逆らう理由はなにもないはずだ、と抗議した。たしかに逆らう理由はなかった。帰りましょう、と浜田がさわやかに促した。浜田のさわやかな口調の奥に、郷愁に似た情感が流れていた。それにかこつけて吉亮はようやく重い腰をあげた。
山谷の小屋頭五郎兵衛の許に身を寄せてから、すでに一年と三カ月という歳月が流れている。そのあいだに、時代は大きく変って行った。しかも吉亮とは無縁に、である。
はじめ吉亮は自分にたいしてかなりの悲壮感をいだいていた。彰義隊の生き残りとして、悲劇の主人公に自らを擬しているところがあった。そのために、日中は大川に舟を浮べて、釣人の形で官軍の探索をのがれる姿も演じてみた。昼は押入れの布団のなかで眠り、夜になると起き出して行燈の光で刀身の手入れをするという生活もしてみた。
だが、それは単なる独り芝居にすぎないということがだんだんわかってきた。御一新という|めくらまし《ヽヽヽヽヽ》にあれよあれよとあわてふためいている東京の人間にとっては、彰義隊の残党などは田舎芝居の気取った二枚目にたいするほどの興味もない存在にすぎないらしかった。時代は全く吉亮を無視して流れていた。
それがわかると吉亮は、今度はこちらが時代を無視する態度に出た。定吉たちが持って来る巷のうわさとか実見談にたいして、全然関心のない恰好を示すようになった。とくに彰義隊の後日譚──たとえば上野の山で官軍が自分たちの側の戦死者の死体だけをとりかたづけて、彰義隊士の二百をこえる屍骸はそのまま暑熱に曝して腐爛にまかせているのを、三幸《さんこう》こと三河屋幸三郎という神田旅籠町一丁目の飾職問屋の主人と箕輪円通寺の住職仏磨とが相謀り、これらを山王台に集めて、そのうちの一部を火葬にし、他はことごとく山王台の塵溜に埋葬し、火葬に付した分の遺骨は円通寺に収めたという話などには、横を向いて故意に聞えない態度を示すのであった。
もっとも、さすがに天野八郎が獄死したという話をつたえたときは、吉亮の顔に或る感情の横切るのを認めえたが、その四日前に輪王寺宮が奥羽の戦乱を離れて東京へ護送され、いよいよ京都へ向うというときに、会津征討越後口総督として凱旋してきた兄宮の伏見宮嘉彰親王と〈敵味方〉として十年ぶりに再会したという話になると、また無関心な表情にもどるのであった。
さっきも上野の山下一帯の焼け野原を眺めながら黒門口を通ったとき、
「ちょっと焼跡をのぞいて、戦死者の魂に回向《えこう》してまいりましょうか」
と浜田が気をひいてみたが、吉亮はかぶりをふって拒否した。
九段の坂下まできたときも、
「あ、あれがこんど建った招魂社ですな。勝てば官軍、というわけですかね」
と、また浜田が気をひくように声を大きくしたが、吉亮はそれにも乗らなかった。
その招魂社というのは、九段の坂上馬場の跡に、去年の戊辰戦争で官軍側として戦って戦死した人々の亡魂を慰めるために造営された神社で、まだ仮建築ではあるが、この六月二十九日に初めての祭典を行い、東京名物の一つとなりつつあった。
ここまでくればもう家も近い。
吉亮は今朝山谷を出てからずっと追い続けていた想念──また素伝と同じ屋根の下で暮すのはつらすぎるという思いから、なんとか脱却したいともがいていた。
あれほど恋いこがれていた素伝にたいして、どうしてこんな思いをいだくようになったのか。吉亮はまたもや暗い心の深淵をのぞきこむのである。
それはあの日からだ。あの日の偶然がなかったならば、自分はまだ素直な気持で母上にあこがれておれたはずだ。
去年の十月の半ば頃、夜明けに浅草寺の衆徒・医王院の門前から火が出て、南馬道まで焼けたことがあった。吉亮はつれづれを慰めるために、上野の戦いで負った傷もほとんど癒えて外歩きもできるようになっていた浜田を誘って、焼け跡見物に出かけた。四つ(午前十時)を少し廻るころであった。
焼け跡を見たのち、浅草寺へ入ってみた。境内の様相は一変していた。
「これが御一新というものかね」
と吉亮は皮肉な嘆声をもらした。
浅草寺の境内はいまや神社の移動の最中で、雑然とした光景しかなかったのである。
それはその三月、新政府の出した神仏混淆を厳禁するというお触れの結果であった。
これはわが国の神道と仏教の共存をはかるために奈良・平安初期のころから始まった本地垂迹説を、明治維新の美名に凭《もた》れて一挙に覆そうとした急進的政策である。政府は諸神社に命じて、仏教僧侶が社務に従うのを禁止し、かれらをことごとく還俗《げんぞく》させ、僧位・僧官を返上させた。この神仏分離令は、平田派国学者や神職が推進力となって全国的に厳しく実行されたので、廃仏毀釈運動となって大きな紛争を捲き起した。政府はその行き過ぎにあわてて、神仏分離は廃仏毀釈ではない、僧侶の還俗を強制してはならないとたびたび訓告を発したが、その紛争はなかなかやまなかった。
この日、吉亮たちが浅草寺でみたのも、その一つの現れであった。浅草寺の境内はことに神祠仏堂が多かったので、これを整理するのは大変な金と労力を必要としたが、浅草寺としては神社の大かたを三社神社の境内に移したのである。吉亮たちはその移転の最中を目撃したのであった。
「これじゃあ観音様を拝む気にもなりませんな」
と浜田も相槌をうってそこを離れた。
二人は仁王門をくぐってぶらぶらと雷門へ出てみた。もっとも雷門は慶応元年十二月中旬、夜中の四つ半刻(午後十一時)、田原町一丁目から出た火事が折からの強い北風に煽られて思いがけない大火事となったさい焼失して、まだ再建されてはいない。
「あの火事のとき、風神雷神は無事に取り出したそうではありませんか」
と浜田がいうと、
「ふしぎに仁王門から内側は焼けなかったそうだね」
と吉亮が答え、強くなり出した陽射しを浴びながら、広小路を横切ろうとしたときであった。深編笠をかぶった一人の武士が門弟らしい二人の男をつれてこちらに歩いてくるのにぶつかった。
はじめは何の気もなしに通り過ぎようとしたが、その武士の挙措の確かさにはっとした瞬間、
「兄上!」
と吉亮は、相手の顔もみずに叫んでいた。
間違いなく兄の吉豊であった。どこかからの朝帰りなのかもしれなかった。
「おう、亮《ふさ》ではないか」
吉豊が編笠を脱ぐ暇も与えず、吉亮は兄の手を固く握っていた。
「あッ、若先生に浜田先生!」
門弟たちも寄ってきて、一団となって久闊を叙し合った。
この辺は吉原も近いせいか、早朝から料理屋が店を開いている。赤襷をかけた女たちの呼び声に迎えられて、一軒の料理屋に入り、浜田には二人の門弟と一室をとらせ、吉豊と吉亮は別室に入って酒を注文した。
二人の話は尽きなかった。磊落だがまた感激性の強い吉豊は、顔に似合わずときどき涙声になることもあった。吉亮もめずらしく饒舌になって、盛んに銚子をすすめながら彰義隊以後の話をした。
だが、ふしぎなことに、麹町の家の話はどちらからも出なかった。なにかこだわりがあるのだろうか。吉亮は自分のこだわりの理由ははっきりしているので、むしろ吉豊が麹町の家のことにふれないことになにか異様なものを感じていた。もっとも吉豊のほうは吉豊のほうで、吉亮のそういう態度をふしぎがっているのかもしれなかった。
「麹町はこのごろどうですか」
と吉亮が口を切ったのは、七つ(午後四時)もすぎて、外の賑わいもちょっと途切れる頃であった。円窓に射す陽の光も西に廻っていた。
「別にどう変ったということもないがね」
吉豊が口調だけは軽く答えた。
そういえば町奉行所の廃止問題で素伝と手紙による質疑応答をしてから、もうそろそろ五カ月になる。輪王寺宮が鉄砲洲から夜の品川沖へ消えてゆくのを見送り、その結果を報告したときから、その手紙の往復はやめたのであった。なにという理由はなかった。素伝のことを考えるのがあまりにも苦しすぎたからである。また素伝の返事があまりにも事務的であることが、なにかこちらの手紙を無言のうちに拒絶しているような気配がして、あの夜──彰義隊の戦いの前の晩、素伝に抱かれながら約束した輪王寺宮守護の件はその日で全部果たし終えたという形にして、文通を打止めにしたのであった。
「真吉《まさよし》は元気ですか」
「ああ、お前の子供のころにそっくりで、いつも真《まさ》の顔をみると、皆でお前の話が出るんだよ」
その〈皆〉という中には素伝も入ってくれているのであろうか。
「わたしもいつになったら戻れるのでしょうか」
「うん、それはわしにもわからんな。親父の気持一つだからな。ま、急ぐこともあるまいよ。そのうちわしからも話しておこう。鎮将府にたいしてお前のことを遠慮しているのかもしれんが、どうせお前のことは薩長側にはわかっていないのだから、早く帰らせたらよいとわしも思っていたのだ。親父もこの頃はいささか老いの影がみえてきたようだ。年齢《とし》も年齢《とし》だが、時代も変ったからなア。親父のあの絶妙剣も円熟して枯れたといえばいえるが、なにか昔の覇気というか|つや《ヽヽ》というか、内からほとばしる閃きみたいなものがなくなったようだよ」
すべてが空転しているようであった。なにか肝腎なものを空白のままにおいて、その周囲をいたずらに空廻《からまわ》りしているにちがいなかった。もう盃の献酬も止まっている。
「じつはお前には黙っていようと思ったのだが……」
吉豊が視線をはずして欄間の雲形を眺めながら呟いた。ついに来るものが来たか。
「なにか……」
吉亮は兄の横顔を凝視した。鬚の剃りあとの濃い、目の大きな兄の顔は、吉亮の好きな顔であった。鼻筋も通っている。ただ眉間の竪じわがその顔にいささかの険相を与えているのが欠点であった。酒が入ると蒼白く冴える顔がその険相をさらに強めるのであった。
「じつは素伝さんのことなのだが……」
「母上がなにか……」
「いや、素伝さんというよりもお前のことといったほうがよいのかな。……お前の姿が最近家にみえないことから出た、つまらぬ噂にすぎないのだが、継母《ままはは》の素伝さんが継子《ままこ》のお前をいびり出し、しかも彰義隊で戦死させたという噂が流れているんだ」
「そんな馬鹿な……」
「もちろんそれは馬鹿な噂にすぎないんだが、その真相を話して廻るわけにもいかんことだしね。それにもっと嫌な噂もある」
「というと?」
吉豊は冷えた盃の酒をぐっと口にふくむと、思い切りよく、といったように言葉をつないだ。
「お前と素伝さんのあいだになにかがあったというのだ。素伝さんはお前を戦場に追いやって殺すために、お前を籠絡したというのだ」
吉亮は周囲のすべてが安定を失って、物のあやめが崩れてゆく幻想にとらわれた。咽喉に入れた酒も味が感じられなかった。
「素伝さんは美しすぎるからなア。いろいろ厄介な噂があって、あの人も気苦労が絶えんだろう。わしのとこの|かつ《ヽヽ》は、わしと素伝さんのあいだを疑っている」
|かつ《ヽヽ》とは吉豊の妻の名である。吉豊の顔に翳りが走ったのを吉亮は見逃さなかった。それは西日の翳りとみるにしては、走り方が速すぎた。淋しい翳りだった。
「いずれにしても、素伝さんという人は恐い人だよ」
と、半分冗談めかすように言い切って、吉豊は盃を伏せた。
兄も母上を愛しているのだ。その直感が吉亮の全身を戦慄となって通り抜けた。
浜田と門弟を呼んで外へ出たときは、吉豊はいつもの磊落な人間にもどっていた。吉亮は浜田がいぶかしそうな表情を浮べるまで、兄の去って行った方向を眺めて佇んでいた。夕焼けが鰯雲を真赤に染めていた。
──その日から吉亮の生活は変った。はじめのうちはどこと自分でもわからなかったが、少しずつの変化が日がたつにつれて積み重なってみると、かつての吉亮には考えられない変りようであった。
酒の味も覚えた。深川|櫓下《やぐらした》辺での遊び方も覚えた。山谷堀辺の船宿の利用のしかたも覚えた。ときには本所二ツ目辺の暗闇の底に張られた葭簀の蔭に身を隠すこともあった。
酒が全身にまわると、頭の芯が氷のように冷くなって、そこから流れ出る兇暴な血みたいなものが身体を衝き動かすのを知った。そんなときは、女はもう二度と吉亮に抱かれまいと思うほどの恐怖をいだかされた。
吉亮は自分に酒乱の癖《へき》があることをはっきりと知った。酒乱の底で女に求めているのは、素伝の顔であり肢体であることを自覚した。まだ十六歳ではないか、と自分を戒めることもないわけではなかった。しかしそんな自戒は酒乱の自己弁護でしかなかった。
雨がまだだらだらとしまりなく降っていた。暮六つ刻、吉亮と浜田は麹町の邸へ着いた。山田家は全員を挙げての歓待をしてくれた。父も機嫌がよかった。平河町の吉豊と在吉も酒宴に加わった。吉亮は素伝と目を合せるのを恐れて、一目散に酔いに走った。だがふしぎに酒乱の癖は出なかった。素伝は昔と同じ笑みをたたえて何度も酒をついでくれた。吉亮はいままで頑なに抱いていた心のしこりが消え失せてゆくのがなぜか口惜しかった。悲しいといったほうが当っているかもしれなかった。
吉利は酒宴が終ったとき、今夜から吉亮は平河町で寝泊りすることを命じた。
「吉亮ももう一人前になったのだから」
というのがその理由であった。吉亮は一瞬、酔いの醒めるのを覚えた。だがどこかでほっとしている自分を意識してもいた。
宴が果てたあと、兄二人と肩を並べて平河町へ歩いてゆく吉亮の足許を、彼のさげている提灯が淡く照らしていた。提灯の光のとどく範囲に浮きあがる雨脚は、もう秋のおとずれを伝えていた。暗澹とした夜の底は探りようもなく深い。
15
平河町の兄の家とはいえ、ふたたびもとの生活にもどった吉亮は、一年三カ月の空白で失われた〈勘〉をとりもどすといって、毎日朝早くから麹町の家の道場へ通った。
門弟たちとの普通の立稽古で軽く汗をかいたあと、居合いの練習に没頭するのである。はじめのうちは小伝馬町囚獄での斬首執行には出向かず、だれもいない道場で夕闇の迫るまで繰返し居合いの型を行なったり、ときには庭に出て、竹を芯にした巻藁を斬ったりした。その練習には少年時代とは違った異常な熱気がこもっていた。
〈勘〉はすぐにとりもどすことができた。というよりは、〈勘〉は少しも衰えてはいなかった、といったほうがよいであろう。むしろ彰義隊における実戦の経験と、長い間刀を離れていたことが、かえって心に余裕を与え、かつては針の先のようにピリピリと鋭く磨ぎすまされていた反射神経がいつとはなしに|まろみ《ヽヽヽ》を帯び、門弟たちも「若先生の太刀さばきは大《おお》先生に似てきた。どことなくあたたかみが感じられる」とささやきあうようになっていた。
上手とは手もなきように切るものを
下手よりこれをなにとなく見る
といったような、父の吉利から教わったその道の古歌の意味を味ってみる心のゆとりも出てきたようであった。
さらに吉亮に起った新しい現象は、夜になると平河町の家の彼に与えられた部屋にこもって読書に熱中するようになったことである。もちろん子供の頃から、四書五経にはじまる武士の嗜みとしての一般的教養は父から十分に仕込まれていた。筆蹟の筋も悪くなかった。素伝が父のもとに嫁してきてからは、さらに仮名文字の素養も教えこまれた。こんどみずから読もうと心に決めたのは、それらに加えて山田家に伝わる刀剣関係の専門的な文書であった。
そもそも山田家は単なる武辺一点張りの家系ではなかった。〈将軍家御佩刀御試御用〉をつとめる民間のプロ試刀家として、それにふさわしい刀剣に関する専門的知識はもちろん、情操面においても当時の武士一般の水準にはいささかの|ひけ《ヽヽ》をもとらぬことを心がけていた。職業からくる社会的劣等意識を脱却する意図もふくまれていたかもしれない。
「初代貞武から吉時、吉継の代までは武道一点張りで、時勢も之を許して居りましたが、三代の吉継は|斬首前に辞世を詠む人などあれど文字が分らなかつたり意味が通じない事があつたりして大いに面目を傷つける《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》所からコレは風流の心懸けを為《せ》ねばならぬと俳諧門に入つて代々宗匠の資格を求めることになりました」(明治四十一年七月十日「報知新聞」夕刊)
と晩年の吉亮は語っているが、死刑の直接的執行人が死刑囚の辞世が理解できるか否かを自問するということは、相当の知的訓練を経た証拠といってよいであろう。
山田家が代々俳人としての素養を持っていたことは、池袋・祥雲寺の「浅右衛門之碑」裏面に彫られている、三世吉継以降各代の辞世の句を見ても理解できよう。
また五世|吉睦《よしむね》の著といわれる『懐宝剣尺《かいほうけんじやく》』なる本がある。これは主として慶長以降のいわゆる〈新刀〉(それ以前の〈古刀〉も相当数入っている)を、その斬れ味によって最上大|業物《わざもの》・大業物・良業物・業物の四階級に分けた業物一覧表であり、初心者のためのいわば刀剣ハンドブックといったものである。これを撰したのは柘植《つげ》平助|方理《まさのり》であるが、分類基準はすべて山田家の試刀の実績にもとづいたもので、元禄以降はじめて実戦用の刀剣の必要に迫られた幕末刀剣界のベストセラーともいうべき本であった。
さらに同じく五世吉睦の著といわれているものに、刀剣百科事典ともいうべき『古今鍛冶備考』全七巻がある。実際の著者は柘植平助であるが、柘植にはそれを自費出版するだけの資力がなく、吉睦の財力に頼ったものである。もちろん吉睦もその資料提出者の有力な一人であった。
これらに加えて山田家には、試斬りのために諸方面の依頼主からあずかった刀剣の主なるものを拓本にした、二十数冊にのぼる「刀剣押形」が残されていた。これは五世吉睦と六世吉昌とのあいだにあって、山田家から養子を離縁されたために六代目を名乗りえなかった、閏六世ともいうべき吉貞が先鞭をつけたものである。
その他、家伝の試斬り秘伝書・鑑定書・記録類、『山田家譜』といった系図類が、山のようにあった。それらを吉亮は父の書斎から借り出しては、夢中に、時には夜を徹して読むのであった。〈物に憑かれたように〉という形容が当るかもしれない。前夜から一睡もせずにそのまま道場へ出かけるということも珍しくなかった。
この時期の吉亮の文武両道への没入は、抑圧された情熱が禁欲という方向に屈折して自己表現を見出そうとする、青年期の一般的異常現象であろう。しかし一般的現象とはいっても、生理的発育現象とは違い、個人的心理条件によって左右され、しかも〈ある日突然に〉といった突発性をともなって起るのが、いかにも個別的現象のように見える。その契機と触媒になるものは、恋愛とか思想的挫折といった、欲望の直進的充足が得られない場合に起りがちである。とすれば、吉亮のばあい、その契機と触媒をなしているものは、素伝への強い思慕であったといえるかもしれない。したがって、その思慕が強ければ強いほど自虐となって禁欲的修業に身を苦しめる結果になったと思われる。
素伝の態度が冷たかったわけではない。昼食も彼女が心配してくれたし、汗をふくための濡手拭を持ってきてくれることもあり、吉亮をみる目に微笑を絶やしたことはなかった。しかし、その即かず離れずの態度こそ、かえって吉亮には堪えがたい心理的距離なのであった。彰義隊出陣前夜の、たまゆらの合歓がまったく存在しなかったという態度である。素伝のあの夜の|たかぶり《ヽヽヽヽ》が単なる吉亮の幻想の世界だけの痴夢にすぎなかったというのか。あの夜の甘美な戦《おのの》きがまぼろしにすぎぬとすれば、この世に生きているということは何によって証《あか》しできるのか。素伝のあの夜の真意が那辺《なへん》にあったかという疑問が、紙魚《しみ》のように吉亮の胸を喰い破るのである。
吉亮は、素伝の微笑を拒否するように終日無言でおることもあれば、逆にむやみに饒舌を弄する日もあった。そして翻弄される苦しみをどこかで自ら楽しんでいるのかもしれないと意識したときには、吉亮は自分がけがらわしい存在に思えて、あすからは麹町へゆくのはよそうと決意する日もあったが、夜が明けるといそいそと麹町へ出かけてゆく自分をおさえることができなかった。素伝が近くにいるという意識からくるあまい安堵感は、あらがいようのない魅惑であった。
吉亮にとって麹町へ行くもう一つの楽しみは、弟の真吉《まさよし》に稽古をつけてやることであった。吉亮と三つちがいの真吉は十三歳になっていた。吉亮の十三歳のときほどの肉体的発達はしていなかったが、しばらく見ないうちに驚くほど成長した真吉は、色白の、眼の涼しい少年となっていた。十三歳といえば吉亮はすでに斬首執行の経験をもっていたが、真吉にはまだ斬首の手伝いはさせていない。その仕事はせめて真吉だけには経験させないですましたい、と父の吉利は考えているのかもしれなかった。
自分のその年頃によく似たといわれる真吉を、吉亮は可愛くてたまらぬというようによく面倒をみた。真吉も「亮《ふさ》兄さん」といってよくなつき、吉亮の言うことは素直に受け入れた。居合いの練習も吉亮といっしょのときは、とくに熱心であった。
吉亮は真吉に、腹をいっぱいにして稽古をしてはいけない、水も飲みすぎてはいけないとか、稽古で汗をかいたら必ずよく拭いてから着替えをせよ、稽古着はよく乾かし、次に着るときに絶対に湿り気のあるものを着てはいけない、しかもそれを乾かすのに門弟の手をわずらわすべきでない、などといった、初歩的なことまで細かく注意した。
稽古に飽いたときは真吉をつれて、栖岸院の境内とか常仙寺の寅《とら》薬師堂付近をぶらついたり、清水谷から紀伊・尾張両藩邸と井伊家中屋敷のあいだを通って喰違《くいちがい》へ足をのばすこともあった。
途すがら吉亮が、
「打ちつくる」
と唱えると、それにならって真吉が、
「打ちつくる」
と、甲《かん》高い声をはり上げて繰返す。
「太刀は柳の枝なれや」
「太刀は柳の枝なれや」
「すえにおもりのあるとしるべし」
「すえにおもりのあるとしるべし」
「よし、独りで言ってみな」
「はい」
と真吉が試斬り秘伝の歌を諳誦する。
「両車《もろぐるま》きれというとも辞退せよ
千に一つも切れる太刀なし」
口うつしで教えたいろいろな秘伝歌を誦み上げる真吉の澄んだ声をききながら、清水谷の柳《やなぎ》の井《い》から湧き出る冷たい水を掌にうけて飲むのもいつか吉亮の習慣となっていた。
吉利から、首打役を吉豊にゆずり(ということは家督をゆずる意であるが)、自分は隠居したいという意向が洩らされたのは、この年(明治二年)の十二月に入って間もなくであった。理由は老齢(といっても五十七歳であるが)で小伝馬町まで通うのがわずらわしいし、斬首をおこなうにしては仏心が強くなりすぎたこと、それに吉豊もすでに三十一歳、伎倆といい、当然山田家を代表すべき時期にきていること、などであった。ただし、家督はゆずるが、山田流居合術の正統はまだ吉利が保留しておくという条件がついていた。つまり〈浅右衛門〉を名乗ることはまだ許されないということであった。
吉豊にとっては、山田流八世の正統を譲ってもらえないことはいささかの不満ではあったが、隠居とはいっても父もまだ矍鑠《かくしやく》たるものであり、家督をつぐことはいずれはおのずと流儀の相続にもつながることであると考えて、その不満をおさえた。山田家一同としても、もちろんこの吉利の意志に異議をとなえる者はいなかった。
吉利が刑部当局に家督相続の願い書を提出し、同時に吉亮にたいしてそろそろ斬首執行の手伝いをせよという指令を出したのは、十二月の半ばであった。吉亮は次の斬首執行の日から出向するといってこれを承諾した。
吉利は刑部省囚獄掛という〈役人〉になってからは、斬首の刑の有無にかかわらず、毎日小伝馬町へ通っていた。そして実際に刑の執行がおこなわれるときは、吉豊や在吉《ありよし》、ときには浜田が代ってこれを執行し、吉利自身はほとんど手を汚《よご》すことがなかったが、吉亮がそれに加わるとすれば、おそらく斬り手の中心は吉亮になるであろう。吉亮はそれが嬉しくないことはなかったが、ただ一つ、胸のうちにぽっかりと|うつろ《ヽヽヽ》なものを感じたのは、真吉への愛情もさることながら、これから毎日囚獄へ通うために素伝を近くに感じる時間──たとえそれが短い時間であれ──を失うという物足りなさであった。
冬にはめずらしくおだやかな昼下りであった。
さきほど糸のぐあいをみてやった真吉の凧であろうか、近くの空地から揚げているのか、道場の真上あたりから|うなり《ヽヽヽ》が微かに聞えてくる。
森閑とした道場でひとり刀を使って居合いの型を練習し終えた吉亮は、死刑囚十人ほどの溜め斬りがあるということでいよいよあすから小伝馬町へ通う挨拶をすべく、素伝がいるはずの居間へ行った。
たいていの日は、その時刻になると素伝が道場へ現れて、
「吉亮さん、お茶が入りましたよ」
と知らせてくれ、吉亮は庭を通って居間の前の縁側に腰をおろして茶を喫するのであったが、その日はなぜか素伝の姿がみえなかった。
吉亮はそのことをべつに気にしていたわけではない。ひょっとしたら素伝はいまその茶を支度しているのかもしれなかった。
道場から廊下を折れて、居間の前の縁側に出たとき、吉亮は縁側の中央に、着物の裾をわずかに引き、右手を帯に添え、左手は自然に垂れたままで佇んでいる素伝の姿をみた。
弱い冬日を浴びて静まりかえっている庭前の老梅や枯れ草をぼんやりと眺めている素伝の姿は、吉亮にとってははじめて見るものであった。国貞の一枚絵にでもありそうな立姿ではあったが、なにかいつもとは違った雰囲気が吉亮には感じられた。どこといって乱れているわけではない。いつもの整った素伝の身じまいであった。しかしその身じまいが包んでいる肉体はなにかの陶酔の余韻にまださざなみだっているという気配だった。しかも吉亮の近づくのにまだ気づかないという放心状態は、少くとも吉亮からみれば、いままでの素伝にはありえない姿であった。
「母上、いかがなされました」
吉亮が声をかけた瞬間、素伝はその無心の状態からさっと防禦の姿勢に身を転じていた。いや、それはただ動作としては顔をこちらに向けたにすぎなかったが、その変り身の凄じさは武芸者が隙を襲われたときに反応する気魄に似ていた。まなじりがきっと締まり、瞳が真正面からこちらを射抜いた。一瞬、吉亮もそれに応じて一歩足をひき、すっと腰をおろして自護体をとったほどであった。
「あらッ、吉亮さん」
次の瞬間、素伝の全身は直前の気魄を消して、顔はほころんでいた。
「ごめんなさい、ぼんやりなどしていて」
白日夢の内容《なかみ》を盗み見されたようにポっと顔を赤らめた素伝は、それから狼狽したしぐさに移り、
「お茶の時刻でしたね」
と障子を両側に広々と開けて、吉亮を居間に招じた。
きょうの素伝には何があったのであろうか。さきほどの振り返りざまの気魄にみちたまなざしといい、その狼狽ぶりといい、何かがあったのに違いない。しかし、いま、この居間に入った瞬間からは、もういつもの素伝しかうかがいようがなくなっている。
いつもとはちがって、きょうは素伝が即席ながら抹茶を立ててくれるらしかった。吉亮は縁側の閾《しきい》ぎわに坐って、その点前《てまえ》ぶりを眺めていた。
「なかへお入りなさいな。そんなところにかしこまったりして、いつもの吉亮さんらしくもない……」
「母上、いよいよあすからまた小伝馬町へ通うことになりました」
「それはご苦労さま。しっかりやってくださいね」
素伝が吉亮の坐るべき位置の前に茶碗をおいた。素伝の愛用している天目形のものである。吉亮はまだ縁側にいる。
「母上」と吉亮はまた繰返した。「きょうは母上に率直におうかがいしたいことがございます」
袱紗を畳んで俯向いていた素伝の顔がかげったが、すぐに笑顔に変ってこちらを向いた。
「なんですか、あらたまって」
「母上はわたしをどう思っておられるのですか」
「どうって?………」
吉亮の必死さが両肩にあらわれていた。はじめは吉亮の|あお《ヽヽ》若さとして冗談に流そうと思ったらしい素伝も、吉亮のつきつめた表情にそれはならぬと思い返したらしく、きっぱりと言った。
「吉亮さん、わたしは吉亮さんが大好きですよ」
「ただ大好きだけなのですか」
「吉亮さん、いけません。そういう言い方をなすってはいけないのです」
「いいえ、母上、吉亮は母上のことで一日じゅう頭がいっぱいなのです。|あの晩《ヽヽヽ》のことが頭から離れません。それなのに山谷から帰ってみると、母上はそんなことはすっかり忘れたみたいに……」
「待ってください、吉亮さん。わたしの言うことをよくきいてください」
「|あの晩《ヽヽヽ》のことは忘れろというのですか」
「あなたはまだお若いのです。これからのお人です。小さなことにかかずらわっていてはいけません」
「小さなことですか。あれが小さなことなのですか。それではやはり、母上はわたくしを籠絡して、上野の山で殺そうとなさったのですね」
「なんということを。言葉が過ぎます。なんでわたしが吉亮さんを殺さねばならぬのですか」
「継子《ままこ》だからです」
蒼白んだ素伝の顔に嶮しさが浮んだ。それはさきほどの縁側でふりむいたときの気魄を思い出させた。
「おやめなさい」
素伝の声はきびしかった。吉亮もさすがに声をのんだ。
「なんという女々しいことを。吉亮さんがそんな女々しい人とは思いませんでした。吉亮さん、たしかにあなたとわたしとは継子継母の間柄です。生さぬ仲というものがうまくいかないことは、世間でよくあること。わたしたちのあいだも世間からそう思われるのは致し方ないかもしれません。しかし、それをあなたの口から言われるというのは……」
素伝の口調が途端に湿《しめ》って途切れた。吉亮が眼をあげると、素伝の詰《な》じるような眼が吉亮の眼をしっかととらえて、眼尻からスーッと涙が流れ落ちた。吉亮はその顔を美しいと思った。凄艶といってよい美しさであった。そう思ったとき、吉亮の後頭部が冷たくなり、それが小さな塊りとなって背筋を流れ落ち、同時に股間を冷たい風が吹き抜ける感じに襲われた。
吉亮はわっと泣き伏した。
「お許しください。母上、お許しください」
吉亮は自分がなぜ突然泣き出したのかよくわからず、それに驚いている自分を意識していた。閾越しに泣き伏している鼻先の畳の青臭い匂いを意識している自分にも気づいていた。しかし全身に襲ってくるこのしゃくりあげは何なのか。
「母上、吉亮は好きなのです。母上が好きでどうしようもないのです」
そういったとき、また自分の言葉に感動して新しい涙が溢れてきた。
素伝が立ち上って吉亮の傍へ膝をついた。両手が吉亮の肩にかかった。
「さ、おやめなさい、泣くのは。だれかに見られてはいけません」
吉亮は素伝の体温を身近に感じた。なつかしい匂いも素伝のものであった。それにしても、なんというこの心のなごみようなのであろう。肩にある素伝の手の重みが、いつまでもそのままに残っていてほしい。
「さ、顔をおあげなさい」
吉亮が素直に顔をあげた。素伝は袖口から襦袢の袖をひきだして、吉亮の濡れた顔を丹念に拭いてやった。吉亮は軽く目をつぶっている。そこには十六歳の少年しかなかった。意識も肉体も二十歳を過ぎたはずの吉亮ではあるが、素伝の前では年齢だけの男の子にすぎなかった。吉亮の肩がまだ残っているしゃくり上げにときどきぴくっぴくっと上下した。
真吉はもう凧揚げに飽いたのだろうか。さっきまであたりの空気を微かにふるわせていた|うなり《ヽヽヽ》がいつのまにか消えて、静寂がもどっていた。
素伝がささやくような──というよりは、自問自答するような低い声で言った。
「吉亮さん、許していただくのはわたしかもしれませんね。わたしは吉亮さんが大好きです。吉亮さんがもう五年早く生れ、わたしがもう五年遅く生れていたら、どんなめぐりあわせになっていたことかしら。吉亮さんの望むような間柄になっていたかもしれませんね。でも、いまの二人は|こういう《ヽヽヽヽ》間柄なのです。それが人と人とのめぐりあいというものでしょうよ。ただひとつ、わたしは吉亮さんにたいしては、継母《ヽヽ》にだけはなりたくなかった。好きだからよ。ほんとうの母親になりたかったの。そのためにほんとうの母親と子供の結びつきを願ったのです。そしてほんとうの子を戦さにやるいとおしさが知りたくて、あなたを身体で感じたかった。だが、それはやはり間違っていたようです。生娘《きむすめ》の夢みたいなことを考えていたようね。恐ろしい罪をつくったと思っているのです」
吉亮はなぜか急に恐くなった。素伝に言わせてはならぬことを自分が無理に言わせてしまった悔いが襲ってきた。
「母上、わかりました。もうおやめください」
沈黙が流れた。それを破るように、
「吉亮さん、茶を立てなおしましょう」
と素伝が部屋の中へもどった。
「有難うございます。ですが、わたくしはこのまま帰ります。そろそろ父上たちも帰るころですから」
吉亮は自分がいまふと口にした〈父上〉という言葉をこのときほど複雑な気持で意識したことはなかった。自分の犯そうとしていることの重大さをはじめて知った思いであった。微かな恐怖感もまじっていた。
吉亮は一礼してその場を離れた。素伝もべつにとめようとはしなかった。
素伝と一緒にいた時間はそれほど長い時間ではなかった。しかし吉亮は疲れていた。全身が熱くなったり冷くなったりした。だれにたいしてということでなく、ひたすらに恥しかった。
門を出ようとしたとき、片手に凧をさげた真吉が帰ってきた。
「亮《ふさ》兄さん、お帰りですか」
「ああ、凧はよく揚ったか」
「はい」
さすがに今は真吉ともあまり話したくはなかった。真吉の前髪立てに結った頭に軽く手をやって通り過ぎようとしたとき、
「さっき、吉豊兄さんがうちから出て行きましたよ」
と真吉が言った。
一、二歩進んだ吉亮の足がはたと止った。
「兄上が?……ほんとか」
「はい、真吉があそこの空地で凧を揚げているとき、平河町のほうへ歩いて行くのを見たんです」
「いつごろ? いま?」
「いいえ、もう四半刻くらい前かな。凧がいちばん高く揚っていたときだから。それで挨拶ができなくて……」
吉亮はほっとした。いまの素伝との場面をみられたのではないかというショックが大きかったからである。ほっとしたとき、ふと、それでは兄が麹町のこの家で、だれと会っていたのか、という疑問にまたショックを受けた。吉亮は語調を変えて言った。
「なあ、真吉、この亮兄《ふさあに》と一つ約束してくれないか」
「なんですか」
「吉豊兄さんを見たってことはだれにも言わないって。母上にもだよ。それから吉豊兄さんにもだ」
「なぜ?」
「なぜって言われると困るんだが、ちょっとこっちの都合があるんだよ」
「亮兄さんが困ること?」
「そうなんだ」
「いいです。亮兄さんが困ることなら、だれにも言いません」
「そうか、男の約束だよ」
「はい、わかりました」
「じゃ、早く母上のところへ帰りな。これから手習いがあるんじゃなかったか」
「そうです。では失礼します」
真吉が門内へ走って行った。吉亮は真吉を見送ると、ほっと溜息をついて、うしろをむいて歩き出した。
急に胸の動悸が高鳴るのをおぼえた。耳にしてはいけないことを聞いてしまったような恐怖感がだんだん高まってきた。兄の吉豊が先刻まで麹町の家にいたという事実と、素伝のさきほどの姿とになにかの関連づけを求めようとしている自分を叱りつけながら、しかもそれにこだわっている自分に眼の前が暗くなるような気の重さを感じた。ときどき膝がかくっかくっと折れて歩行を困難にした。
翌日、吉亮が小伝馬町囚獄の死罪場で斬ったのは、梟し首になるべき女囚であった。吉亮が女の首を斬るのはこれがはじめてであった。
女は神田相生町・指物師善三郎の娘お辰といい、父の後妻に入った継母が父と一緒になる前に関係のあった情夫といまも密通していると誤解し、継母を絞殺し、情夫の家に放火した罪で梟示《ヽヽ》の刑となったものである。御一新前なら焚刑となるべきであったろうが、明治元年十月三十日の行政官布達で「焚刑ハ梟首ニ換」えられ、明治二年八月五日に磔を磔罪に、梟首を梟示に、刎首を斬罪にと、それぞれ刑名が改められた。
首打役は女の首を斬るのを嫌がった。理由はいろいろあるようだが、第一の理由は女の肉体的条件にある。
女は皮膚と骨のあいだに膏《あぶら》が多く、首の第三頸椎と第四頸椎の位置がわかりにくいため、なかなかすぱっと行きにくいし、また膏のために斬れ味が鈍るからである。
第二の理由は女の生物的条件である。
男は〈死〉というものにたいしてはなはだ観念的であり、死に際をきれいにしなければ恥だといった|みえ《ヽヽ》が最後まであるらしく、恐怖で全身をふるわせていながらも、その恐怖を恥しがる意識があるのであるが、女のばあいはそういった意識は皆無といってよく、即物的に動物本能に立ちもどって肉体的恐怖を全身で表現し、文字通り〈恥も外聞もなく〉泣きわめいて首をふり、最後の最後まで斬られまいと必死に狂いまわることが多いので、斬損じの率が高い。
第三の理由は斬り手の心理的条件である。
相当の熟練者でも女の首を斬るときは、やはり相手を〈女〉と意識するためか、綺麗に薄化粧をしていたり、首筋を広げるために押え役の非人が着物をぐっと脱ぎおろしたときに現れる項《うなじ》や胸元の肌の白さを目撃したり、膝元が乱れて太腿が奥まであらわに見えたりすると、どうも心理的な乱れを生ずるものらしいのである。
死刑囚十人の溜め斬りというので、吉豊・在吉・浜田の他に門弟たちがそれぞれ一人二人ずつ首を刎ねて、残った女囚一人だけが吉亮の割り当てであった。女囚を割り当てられたのは、吉亮が一人前の大人となったことを認められたからであろう。
斬り場にひき出されたお辰はすでに錯乱ぎみであった。
「いや。殺されるのはいや」と小鼻をふくらませてその場に坐りこもうとしたり、「助けて。お父さん、助けて」と叫んで走り出そうとしたり、瞬時もだまっていることなく、しまいには足を折ってぶら下ったため、押え役の定吉たちは左右からがっしりと持ち上げて、足が地面を離れたままつれてきた。格子縞のこざっぱりした着物を着せられているが、裾前はすっかり乱れていた。
面紙《つらがみ》で顔は見えないが、年の頃は二十三、四であろうか。父と二人ぐらしが長かったのであろう、どうも男を知らない身体つきであった。吉亮はさすがに哀れをもよおした。そしてその憐憫の情が斬損じにつながるのだなと考えた。
「殺さないでください。お願いです。殺さないでください」
とお辰は足をちぢめてぶら下ったまま泣きじゃくっていたが、いよいよ土壇場の俵の上に置かれると、身をよじって定吉たちをてこずらした。常吉が手慣れたしぐさで着物の膝前をきちっと合わせてやった。するとさすがに少し静かになって、泣きじゃくりに身をまかせていた。
吉亮は、この十二月、新しく囚獄権正に任ぜられた小原重哉のほうへ一礼を送り、土壇場へ近づいた。斬り慣れていたとはいえ、さすがに長い間の空白で、いささかの緊張を強いられた。手桶から柄杓で水をくんで刀にかけ、一振りして水を切ったのち鞘におさめて、お腹の左脇に静かに立った。
すると、その気配を敏感に察したお辰は急にまた死物狂いに騒ぎたてた。定吉たち三人が、「静かにするんだ」と怒鳴りながら押えたが、ヒステリー症状をきたしたお辰は激しく首を振ったため髪形《かみがた》がくずれ、|石 橋《しやつきよう》の獅子のように髪が乱れ散って、面紙がはずれた。顔があらわれた。眼と口を固くとじて、いちずに首を振っている。美人というのではあるまい。しかし、どうして土壇場に追いこまれたときの女の顔はこうも美しいのであろう。そこにはぎりぎり偽りのない女のほんとうの表情が現れるからであろうか。吉亮は生命の最後の燃焼を賭けている女の顔に感動した。
突然、お辰の首振り運動がとまった。そして吉亮を振りあおぐと、
「浅右衛門《あさえむ》先生、お願いです、斬らないでください」
と叫んで、吉亮をじっと見た。その哀訴するような、難詰するようなひたむきな眼をみたとき、吉亮はあやうく声を出すところであった。
まなじりを決し、瞳を両眼の左隅に寄せて斜に見上げながら、ひたと吉亮の面上にすえた蒼白な顔──それはきのうの素伝の顔であった。吉亮はあたりが暗転するのを覚えた。
「よし、わかった。安心するがよい」
そういうと吉亮は眼をとじて、自分の殺気を消した。一瞬、空白の時間が流れて、お辰が前を向き、乱れた髪が首の両側に垂れたとき、吉亮はすっと刀を抜いて、刃《やいば》の平《ひら》をお辰の首筋にピタとおしつけた。
「ヒッ」
と声が洩れて首筋が硬直した。後れ毛が風に揺らいでいた。吉亮はためらわず首を斬り落した。勿論、斬ったあと晒される首なのであるから、晒し台に据わりのよいように斬ることも忘れてはいなかった。
首に刃をおしあてたときのショックで軽い心臓麻痺を起したせいか、血は思ったほど勢いがなかった。それでも二、三度ピュッピュッとほとばしってから、勢いを弱めた。定吉たちが血溜りにむけてお辰の身体をおしもんだ。全身の筋肉が収縮し、斬り口から白い頸骨がぴょんと飛び出していた。
その晩、吉亮は寝苦しい一夜を過した。
斬首執行のあった晩は、とくにきょうのように数多くの首を斬った晩は、門弟一同が平河町の家へ集って、夜通し酒を飲んで騒ぐのが恒例となっていた。
斬首ということは無機物を機械的に斬るのではなく、人間が人間を斬るのであるから、斬る人間と斬られる人間とのあいだに一つ一つの場合でそれぞれ異なった心理的触れ合いが生じるのである。したがってつねに偶発性をともなって斬り手の心理なり感覚を揺り動かす事件が絶えない。それにたいする抵抗素がいくらできていたとしても、その衝撃はいつまでも尾を曳いて残るものであり、そもそもが人間としての反自然的行為なのであるから疲労となって神経を昂ぶらせる。とくに多量の血を見ることは本能の最も奥深いところにあるものを刺戟するらしく、生臭い血の匂いに触発されて、斬り手の全身を酩酊させる。それを〈血に酔う〉と言っている。
その血に酔った状態を最も短時間で醒ます方法は、酒に酔うことである。しかも泥酔することである。そして酒の酔いが醒めるのといっしょに血の酔いも消失する。一つの代償行為なのであろう。斬首専門家の、必要上会得した生活の知恵なのかもしれない。
吉亮もその酒宴に酔った。久し振りの斬首執行の疲れで、酔いが全身にしみわたった。
部屋に引き揚げたのは|子の刻《ここのつ》(午前零時)ごろであったろうか。いつはてるともない門弟たちの騒ぎを遠くにききながら、行燈の灯を消して臥床《ふしど》に横になると、すぐに眠りにおちた。
しかし眠りは浅いようであった。一度深く眠ったのちに醒めかけたのか、はじめから浅かったのかわからない。闇のなかにいるために、すっかり眼が醒めているのか、夢のなかの暗闇なのか、けじめがつかなくなった。
後頭部が妙にほてって息苦しかった。あれだけの酔いならば、いつもなら朝まで熟睡できるはずであった。それなのに後頭部のほてりが眠りをさまたげているらしかった。このまま眠るともう醒めることがないような不安がそれに伴なっていた。眠りにおちこもうとする前額部と、眠るまいとする後頭部の亀裂から大きな頭痛が生じて吉亮を苦しめている。
その頭痛が胸苦しい夢を誘うらしかった。胸苦しさと同時にどこか逸楽的な甘美さもあるらしかった。そして全身が金縛りにあったような重苦しさのなかで同じ夢を繰返し見ていた。
紅蓮の焔につつまれた上野の山が背景をなしているようであったが、暗黒の洞窟のなかにいるような気もした。大きな釜のなかを覗きこんでいるらしい感じもした。釜のなかには湯が煮え沸っており、熱湯といっしょにぐるぐると何かが浮んだり沈んだりしている。それは多くの生首であった。親しい人間の首もあれば、記憶にない首もあった。
吉亮はだれか女の首を打とうとしているらしかった。頭のどこかで、それは実の母親の佐和なのだと考えていた。しかし佐和の顔は現れては来なかった。自分が斬ろうとしているのはお辰の首なのだと、何度も自分に言いきかせている自分を意識してもいた。いろいろな悲鳴や呻き声がきこえていた。それらの声のなかから、
「浅右衛門《あさえむ》先生、お願いです、斬らないでください」
と一際高く叫ぶ声があった。まぎれもなくお辰の声だと認識した。
その首を刎ねた。われながら見事な太刀さばきであった。お辰の血のしぶいた血溜りからその首を取り上げてみせたのは父の吉利であった。そして首は素伝であった。
「母上!」
と叫んだが、声が咽喉につかえて出なかった。素伝はまなじりを引き締め、詰《な》じるような眼で吉亮を睨んでいた。首の斬り口から血がポトリポトリと落ちていた。そのポトリポトリという断続的な音が耳いっぱいに広がって、ぽっかりと眼が覚めた。
あたりは深沈とした暗闇であった。その暗闇は夢のなかの暗闇なのだと思い直してみた。すると、また眠りが襲ってきて、同じ夢をはじめから繰返すのであった。そして最後は必ず素伝の首からしたたる血の断続的な音が耳のなかにこだまして眼を覚ますのであった。
その夢を繰返しているうちに、頭が割れるように痛み、全身が硬直して、このまま息が絶えるのではないかという恐怖が襲ってきた。とにかく身体を動かすことができればこの金縛り状態から脱け出ることができるのだ、と必死に考えていた。満身の力をこめて足を動かしてみた。それが少しずつ動きはじめるにつれて、呪縛状態も薄らいでくるようであった。
「いまだ!」
と寝返りをうったとき、一時に呪縛がとけて、ほんとうに眼が覚めた。寝汗と呼吸を意識することでまごうことなく眼覚めたことを確認した。ただ後頭部が疼痛をともなってほてっているのが夢のつづきのようであった。
さきほどの門弟たちの騒ぎはもうきこえなかった。家じゅうの者が寝静まっていた。戸外からも風の音さえ聞えなかった。
そのとき、障子の外でポタリとなにかがしたたる音がした。それに続いてまたポタリとしたたった。夢のなかで素伝の首からしたたり落ちた血の音がそれであることに気がついた。そのしたたりは一個所だけではなかった。軒端から落ちる雨だれのように、幾筋にも前後の順序なくしたたっていた。音そのものは微かではあるが、確実な重さが感じられた。そのしたたりを五十まで数えてから、吉亮は床の上に身を起した。
もう吉亮には自分を苦しめていた断続音の正体がわかっていた。吉亮は枕許の手燭に西洋付《マツチ》木で灯をともし、厠に立った。ふと、無性に素伝が恋しいと思った。
障子をあけると、雨戸を閉めた真っ暗な廊下に、きょうの処刑で取ってきた十個の生胆《いきぎも》がずらりと一列に並んでぶら下っているのが手燭の光で浮き上がった。断続音の正体はそれらの生胆からしたたる膏《あぶら》の音なのであった。大きなあわび貝を受け皿として溜められた膏は、やがて小さな貝殻に分けられて、山田家の財源である売薬の一つとして市販されるはずである。
吉亮が通り過ぎたあとの廊下には、胆からしたたり落ちる膏の音が、深夜の暗黒としじまのなかで、いつまでも単調にひびいていた。
16
明治三年──
革命にたいする反革命の嵐がすでに昨年から吹き荒れている。参議・横井小楠暗殺され、兵部大輔・大村益次郎また兇刃に倒れる。中弁・江藤新平もまた刺客に襲われた。
三年に入って屠蘇気分もまだぬけない一月十日、吉亮たちの通っている小伝馬町囚獄からあまり遠くない浜町にあった品川県仮事務所に、品川県に属していた北多摩郡小金井地方の農民が凶荒備蓄のための積立米代納割当が苛酷だとして強訴におよぶ事件があって吉亮たちをびっくりさせた。すでに農民一揆は全国的な現象となりつつあった。それに続いて、大楽源太郎を中心とする長州脱隊兵騒動がもちあがる。七月に入ると〈帰順部曲点検所〉の雲井龍雄による政府顛覆の陰謀が発覚する。
政府は政府で、大村益次郎暗殺犯人の死刑執行をめぐって薩長藩閥政府の呉越同舟的実体を遺憾なく暴露していた。
こういった騒々しいなかで、ただ一つ確実に進んでいるのは欧化万能・西欧近代化という歩みであった。
山田家は昨年十二月末、吉利の提出した願い書の筋が聞き届けられて、吉豊が家督を継ぎ、吉利は隠居して和水と号した。いうならば、山田家としては幕末維新の荒波を辛うじて乗り越えて、ここに一応の安定を得たといってよいであろう。吉利としてはこの二年間で、すっかり老け込んでしまった。それだけの心労を要求されたのである。しかし初代貞武以来の家職を、はなはだ歪められた形ではあれ、曲りなりにも新しい時代に繋ぎえた七代目としての満足感はあったはずである。
その吉利にしても、この山田家の安定を底から突き崩す一人の〈|侵入者〉《インヴエーダー》の存在をどれだけ認識していたかは疑問である。それは〈西欧近代化〉というインヴェーダーであった。そしてそれは行刑制度の西欧化という形をとって山田家に侵入してくるのである。
手許の簡単な行刑史を繙いてみよう。
明治二年十二月二日、新政府は刑部省に囚獄司を置き、正一名、権正一名、大佑二名、権大佑二名、少佑三名、権少佑四名、大令史五名、少令史七名の四等官および使部、門番、小舎人等の雑任の官員を設けた。この囚獄司こそ明治新政府がはじめて置いた行刑事務専管の官司であり、新政府による行刑制度がようやく緒に就いたといってよい。
囚獄司の設置とともに庁舎が小伝馬町に設けられ、小原重哉が囚獄権正に任ぜられてここに居ることになった。旧牢屋敷時代の牢屋奉行・石出帯刀は二年二月に職を免ぜられ、その跡をうけついだ囚獄長・匝瑳《そうさ》卿輔も十二月二日の囚獄司設置で解任となった。昔の牢屋同心および牢屋下男たちはずっと職務をおこなってきたが、ここで希望者だけを少令史および使部として残した。この少令史・使部がやがて典獄・看守長・看守となってゆくのである。
新たに囚獄権正に任ぜられた小原重哉(囚獄正は欠官のままであった)は、幕末において獄中生活の経験があり、牢名主の横暴ぶりや牢内衛生の不完全さに苦しんだ体験者であったので、就任後ただちに牢内弊風の一掃に着手し、三年二月、小伝馬町牢屋敷の揚り座敷を廃して囚人の病監とし、牢屋敷各牢に毎月一回大掃除を行わしめ、寝具の類を日光消毒させるなど、牢生活の面目を一新させた。とくに同年三月、牢名主および役付の制を廃したことは大きな功績だったといえよう。
小原はその後、香港やシンガポールに差遣されて英国の監獄制度を視察し、監獄制度の近代的改善に力を致し、監獄学の権威として明治三十五年五月、従三位勲三等貴族院議員となって逝去するのであるが、本稿としては山田家との関わりにおいて、明治三年段階でわが国の獄制というものがどちらに向いて動きつつあったかを知ってもらえば引例の用は果たしえたといってよい。
以上のような時の流れのなかで、次の〈様斬《ためしぎ》りの禁止〉が令達されたのは自然の成り行きであったといえよう。
従前刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ノ利鈍ヲ試来候右ハ残酷ノ事ニ候間厳禁取締可致其他人胆或ハ霊天蓋陰茎等密売致ス哉ニ候処其功験無之事ニ付是又厳禁取締可致候事
明治三年四月十五日付であった。
この禁令が山田家にとって大きな打撃であったことはいうまでもない。
いままで絶えず触れてきたことではあるが、山田家の本業は試刀家として「刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ノ利鈍ヲ試」すことであった。これを「厳禁取締」られては本業の拠棄しかない。吉利の壮年期、時代の要請によって巨利を博しえた幕末動乱のころほどの試刀の需要はもちろんなかったにしても、まだ刀剣は実戦用としての意味を十分に持っており、したがって試斬りという仕事はまだ存在理由を失ってはいなかった。それを一片の令達で禁止されたことは、山田家の家職の根本を否定されたことであった。
いうまでもないことだが、家職を試刀業としているのは、試斬りによる刀剣の鑑定料がその報酬として入ることを予定しているのである。初代貞武の師であった山野加右衛門永久の時代で一|口《ふり》につき十両ぐらいとっていたという。当時の米価をだいたい一石二両と考えると、鑑定料が相当の高額であったことがわかる。これを現代の通貨に換算することは専門的にはいろいろとむずかしい問題があるであろうが、かりに米価を一升三百円としてみると、一石二両から一両一万五千円とはじき出される。しかし米価と他の物価、あるいは生活感覚との比較も考慮しなければならぬとすれば、だいたい一両の生活感覚における重みは現在の二万円くらいに相当するであろうか。学者によっては一両三万円と概算する人もある。
徳川初期でこうであるが、末期になって小判の価値は下落したとしても、七代にわたって〈将軍家御佩刀御試御用〉をつとめた〈山田浅右衛門〉の鑑定書のランクはおそらく山野加右衛門のそれとは較べものにならなかったであろうから、〈浅右衛門〉の鑑定料は一口三十万円以上の相場はあったのではないかと考えられる。
これだけの収入があることを考えるなら、首斬同心の代役として斬首執行の手当をそっくり首斬同心にくれてやったり、奉行所関係者に相当の贈り届けをしてもさして痛痒を感じなかったであろうことは類推できよう。
山田家の試断りが〈表芸〉とするならば、その〈裏芸〉は、これも何度も触れたことであるが、〈人胆〉を原料とした売薬からくる収益であった。
人間の生胆《いきぎも》を起死回生の妙薬とする俗信があったことについては、すでに本稿の冒頭第一章で述べたが、平田篤胤の「志都能石屋」に次のような一節がある。
「胃袋の右の側に当つて。肝の蔵と云《いう》が有て。これには苦き水を蓄へてをる物でござる。さて又この肝の蔵の中《ちゆう》に懸つて。胆と云が有る。これは人に依て。大きいと小さいとがあれども。大抵は。鶏の玉子ぐらゐの袋で。是が彼の謂ゆる人胆で。牢屋の浅右衛門薬とか云て。労証になど用ひるは此れでござる」
労証《ろうしよう》とは癆咳《ろうがい》ともいい、肺結核のことである。
また海音寺潮五郎の「西南戦争遺聞」という随筆にも、里見クの「ひえもんとり」に触れて、自分の少年時代の思い出のなかにある罪人の胆とりにまつわる挿話が描かれている。
「こうして取り得た胆は、陰干しにして干しかためて、その家に所蔵し、アサヤマ丸《がん》と称し(多分浅右衛門丸のサツマナマリであろう)、もう助からぬというほどの重病にかかった時、少しずつ削って服用した。ぼくの少年時代までは、ぼくの家にもそれがあった。」
明治二十八年のいわゆる台湾征伐のさい、台湾人がある時点から急に抵抗の度を強めたのは、日本軍の兵士たちが台湾人の生胆を取って食べるという残虐行為をおこなったためである、という話を耳にしたこともある。
その他、これに類する生胆信仰の話はたくさんあるが、現代医学および倫理観からみて当然否定さるべき俗信でも、当時にあってはどれほど生胆が貴重視されていたか想像以上のものがあろう。
文政九年四月、山田家閏六代目吉貞から当時の南町奉行・筒井伊賀守に出された嘆願書がある。
その趣旨は──先祖以来山田家は「御取捨てに相成り候死骸|下置《くだしお》かれ候|者《わば》、稽古|様《ため》しニ仕り、且つ人胆製薬《ヽヽヽヽ》の助成を以て、御用向き滞り無く相勤め申し度き旨、願ひ奉り候」ところ、早速お許しいただきました。ところが、近年に至って牢屋敷関係の役人衆のうちで人胆を所望する者が年々増えて、たいへん困っております。同心のうち首打ち役を勤めている方は、御仕置き場の掛りであるから所望通り人胆をお上げしておりますが、だんだんそれ以外の方々からも所望する数が多くなり、なかにはこれを「売薬に仕り候ものもこれ有り候|哉《や》に風聞承り及び申し候」。このようになっては「私助成の製薬、自然衰微仕り、無禄の義に御座候得ば、家名相続も出来兼ね候様相成り候ては、御用向き相勤め仕り難き義に相成り申す可しと、深く痛心歎息仕り候」。したがって「牢屋向き右様|猥《みだ》りに相成らざる様、御取締り筋の義、極内々御賢慮成り下され候様、伏して願上げ奉り候」というわけである。
先祖以来の大きな利権を守ろうと必死になっている吉貞の姿が彷彿する。
この製薬業による利益も莫大なものがあったであろう。人胆から抽出された膏と、膏をぬいたあとの人胆を加工して丸薬にしたものと、二通りあったようである。
そしてこの〈裏芸〉もまた試斬りと同時に禁止されたわけである。「人胆或ハ霊天蓋陰茎等」が当時密売されていた実態はよくわからないが、「是又厳禁取締」られるに到っては、泣き面に蜂のたとえがもろに当てはまるような打撃であった。ちなみに「霊天蓋」とは「頭蓋骨」のことであろう。おそらくその中の脳味噌を食べる俗信があったと思われる。
山田家としては人胆を失うということは製薬業として一番大きな宣伝効果を失うことであるから、なんとかしてその補充を考え、ヤミで入手しようとまでするのであるが、年を逐って取締りが厳しくなり、人間の生胆を諦めて動物の胆を使うこととなるのである。
17
肥後藩士、小楠・横井平四郎が暗殺されたのは京都においてであった。
明治二年(一八六九)正月五日、未《ひつじ》の下刻(午後三時)すぎ、御所から退出して、宿所にほど近い寺町通丸太町にさしかかったときのことである。
当時の「太政官日誌」によると、
正月五日丁丑
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千秋万歳○披露始○参与横井平四郎退 朝ノ砌リ途中ニ於テ危難《キナン》ニ遇候趣達[#二] 天|聴《チヨウニ》[#一]候処深ク御|驚愕被《キヤウガクあら》[#レ]為《せら》[#レ]在即剋《れそつこく》侍臣長谷少納言ヲ以テ左ノ通被[#二] 仰下[#一]
[#地付き]横 井 平 四 郎
今日退 朝之途中ニ於テ危難ニ遇候趣達[#二] 天聴[#一]御驚愕被[#レ]為[#レ]在不[#二]取敢[#一]侍臣ヲ以テ御尋被下候事
横井平四郎門人届書写
[#地付き]横 井 平 四 郎
今日退 朝ノ途中寺町通丸太町下ル所ニテ覆《フク》面頭巾ヲ被《カム》リ候者六人短銃一発打懸直ニ抜《バツ》刀駕ニ切込平四郎駕ヨリ出テ立上リ候処ヲ横合ヨリ殺害ニ及ヒ終相果《ついにハテ》申候其節門人横山助之丞下津鹿之助并若党両人相戦四人共深手ヲ負ヒ相手モ両人|許《バカリ》手負ヒ候得共|逃《ニゲ》去行衛相分リ不[#レ]申候委細之儀ハ猶可[#二]申上[#一]候得共不[#二]取敢[#一]此段御届仕候以上
正月五日
[#地付き]横井平四郎門人共
[#ここで字下げ終わり]
というわけである。
小楠は襲われると同時に烏帽子《えぼし》直垂の正装のまま脇差を抜いて駕籠からとび出し、刺客と渡り合ったが、横合から首を刎ねられて絶命。
警護の横山・下津および若党二人は他の刺客に遮られて駕籠脇に近づくことができず、みすみす小楠の首を持ち去られるのを追い留めることができなかった。
たまたま旅宿で小楠の帰りを待っていた若党の一人吉尾|七五三之助《しめのすけ》は、変事を聞いて現場に駈付ける途中、小楠の首を持った刺客と遭遇し、抜刀してこれを追いかけ、富小路夷川下ル所でようやく追いつめたが、刺客がその首を七五三之助に向って投げつけたため、それを拾おうとしているうちに逃走されてしまった。
下手人は、即日召捕りになった十津川郷士・益田二郎の他に、同月十四日、太政官布告に掲げられた〈人相書〉によると、元備前藩・上田立男(立夫とも書く)、〈生所不[#レ]分〉土屋信男(信夫とも延雄とも書く)、十津川郷士・中井刀禰尾、同・前岡力雄、〈元尾州産ノ僧ニテ一時大坂ニ住居其後京地檀王法林寺|塔頭《たつちゆう》清光寺ニ住職当時無宿〉の鹿嶋又之允であった。
ところがこの下手人たちの処刑が意外に手間どることになった。
はじめ新政府は布告書で「徴《チヨウ》士横井平四郎ヲ殺害ニ及ヒ候儀 朝|憲《ケン》ヲ不[#レ]憚《ハゞカラ》以之外之事《もつてのほかのこと》」であるとし、こういう徒輩が「暗ニ天下之是非ヲ制シ 朝廷之|典刑《テンケイ》ヲ乱リ候様ニテハ何ヲ以綱紀ヲ張リ 皇国ヲ維持スルヲ得ンヤト深ク 宸怒《シンド》被[#レ]為[#レ]在候」と、天皇まで引合いに出して「厳重|探索《タンサク》」を命じたが、全員の逮捕後、彼らの暗殺の動機を支持する者が、民間のみならず新政府内部にもおり、とくに弾正台は建議書まで提出して助命を主張する始末であった。
「刺客らを寛典に処し、死一等を減ぜよ」といった助命願が各方面から殺到し、それらの世論に動かされて、政府は一応横井の事蹟や行動を調査したうえで刺客たちの言い分の是非を決め、その結果に従って処断することにした。
勿論、小楠の真意とは駈違ったものではあるが、刺客の一人上田立男はその口供書のなかで犯行の動機を「横井平四郎殿儀ハ兼《かね》テ博学多才之由ニ御座候処、別《わけ》テ洋説ニ沈溺シ、終《つい》ニ耶蘇教ヲ弘張之志|有之哉《これあるや》ニ巷説承リ、痛恨之|至《いたりに》御座候」と、小楠の洋学崇拝とキリスト教鼓吹の志にたいする怒りからであることを述べている。
小楠の開明性は当時の攘夷派からは危険思想の最たるものに看做され、彼の説くところの窮極は廃帝論であり、共和制を布こうとするものだと忌憚されていた。さらに小楠の人柄を不人気にする事件が過去にあった。
この時を遡る七年前、といっても丸六年と一カ月ほどであるが、文久三年二月十九日の夜、当時福井藩の招聘に応じて江戸にいた小楠を、日本橋の檜物町にあった、同じ肥後藩・吉田平之助の妾宅の二階で、吉田および同藩の都築四郎と酒盃を傾けての談論風発の最中に襲った者がある。刺客は三人であった。小楠は手早く燭台を倒してあたりを暗くし、床の間の刀もとらずにすっと部屋を脱け出た。階段を下りるとき、ちょうど昇ってきた刺客の一人とすれ違った。
「待て」
と刺客が呼びとめると、
「御免下さいまし」
と、無刀を利用して下僕の恰好で袖の下をくぐりぬけ、そのまま戸外へ逃れた。
部屋では吉田と都築が刺客たちと必死に斬結び、相手にも手傷は与えたが、二人とも重傷を負って倒れ、吉田はその傷がもとで後に死んだ。
刺客は同藩の堤松左衛門らで、堤はその後京都へ逃れ、自裁して死んだ。
当然、小楠にたいする非難が集中した。暗殺の目標は吉田や都築ではなく、横井小楠その人である。それなのに同志を見殺しにして自分だけ逃げるとは〈士道忘却〉だ、というのである。当時の武士の一般的感情としては当然の非難だったかもしれない。それに常々、己れのみ独り高しとし、時流を見くだしたような傲岸な小楠の態度を快からず思っていた同藩の士たちが雷同したため、肥後藩としては彼を国詰にし、知行を没収して沼山津へ謹慎させた。これにたいして小楠は、
「吉田は勇士で、あの場合を戦うべき場合だと見て戦ったのであるが、自分はその必要を認めず、遁れる隙があったから遁れたまでのこと。志ある侍は命を惜しむものである」
といって、藩士たちの非難と藩の命令を少しも意に介さなかった。
彼のこういった合理主義は彼の高邁な意見とともに、むしろ当時の武士、とくに攘夷派には不人気の原因となっていた。
明治二年八月、政府が西国巡視の名目で熊本に派遣した大巡察・古賀十郎が、熊本の阿蘇神宮の祠官から『天道覚明論』という、国体を冒涜し、共和制を主張している横井小楠の著書を入手したといって届けてきたのも、こういった小楠の前科(?)が背景にあったからであろう。そのうえ古賀は元来柳川藩の攘夷派のリーダー格であり、熊本敬神党(のちに神風連の乱を起こす)の領袖・大田黒伴雄とも親交があったので、敬神党の反対派である小楠に不利な証拠を集めたのかもしれない。
さらに宮中でも、冊立後日も浅い皇后がまだ入内以前に漢学を教わった若江薫子《わかえにおこ》が、小楠を廃帝論者として糺弾し、暗殺者こそ忠義の士だという意見書を岩倉具視に出したといわれる。
結局政府はこのような重大な国事犯処罰の決断をくだすことができず、『天道覚明論』が小楠の著書か偽書かも証明されないまま、次の大村益次郎暗殺事件を迎えるのである。そしてその処刑が行われたのは、大村事件のごたごたが済んだのちの、明治三年十月十日であった。
兵部大輔・大村益次郎が刺客に襲われたのも京都においてであった。
明治二年八月中旬から、大村は京都三条木屋町二番路地の旅宿に滞在していた。彼の今回の京都出張の目的は、器機局(兵器製造所)と兵学寮(軍事専門学校)とを京坂地方に設けるためであった。
当時新政府のかかえていた難問題は、政府直属の常備軍を設置することにより兵力の中央集権化をはかることであった。そのため、徴兵制による四民皆兵を主張する木戸・大村を中心とした長州派と、薩長土三藩の兵力の一部を割いた士族兵をもって政府軍を編成しようという大久保を中心とした薩摩派とが対立していた。
しかし器機局と兵学寮の設置についてはいずれの側も異論はなく、器機局は土地が決ってもすぐに着手はできないが、兵学寮のほうは土地の決り次第仮校舎を急設して、一日もはやく授業を開始する予定であった。したがって、大村の入洛に先立って、原田一道に引率された、第一期生たるべき児玉源太郎、小川又次、乃木希典ら三十数名のものが京都へ乗込み、仮校舎の設立を待ち望んでいる情況だった。
九月四日夕刻、大村は部下の大隊司令試補・静間彦太郎と兵学寮英学教授・安達幸之助とともに兵学寮の場所について協議しながら、夕食をとっている最中であった。団伸二郎、伊藤源助、五十嵐伊織、金輪五郎ら刺客の一団がその旅宿を襲った。
刺客の一人団伸二郎はまず取次に出た若党の山田善次郎を二階にある大村の部屋の閾際で斬り斃し、つづいて大村に斬りかかった。大村は不意をうたれて刀をとるひまもなく、眉間と左の指の関節を斬られ、立上ろうとした右膝をざくりとやられた。が、大村は後ろの襖とともに階段を転げ下り、そこで刺客の金輪五郎と衝突して短刀で渡り合い、腕に傷を受けて縁側から中庭に転落。金輪はそれが大村であることを知らずに階段を駈け上って行った。大村は縁側の突当りにある湯殿にとびこんで、眉間や膝頭から流れる血を洗って医師としての止血処置を施し、まだ生ぬるい湯の残っている風呂桶のなかに身を沈め、蓋をして、じっと息をひそめていた。
静間と安達も行燈の消えた暗い部屋で防戦し、
「曲者だ、出会え、出会え」
と叫びながら、河原へ飛び降りた。
これを待ち構えていたのが暗殺団の首領・神代直人《こうじろなおんど》他数名の者であった。神代は幕末名うての刺客で、安達は神代に、静間は五十嵐伊織にそれぞれ無造作に斬り捨てられた。
刺客たちが安達の顔を大村と誤認し、
「やった、やった」
と歓声をあげているところへ、兵部省作事取締・吉富音之助(大村の東京からの随行者)と屋内で斬り合って重傷を負った宮和田進が逃れてきたが、瀕死の状態だったので五十嵐がその首を斬って、全員引揚げて行った。
遺棄されていた宮和田の死体の懐中に「斬奸状」があった。それによると、刺客たちは大村を目して、「此者任職以来内外本末之分を|不 弁専《わきまえずもつぱら》洋風を模擬し神州之国体を汚し 朝憲を蔑《ないがしろに》し漫《みだり》に蛮夷之俗に変し万民塗炭之疾苦を醸成」したとし、したがって天神地祇が彼ら「有志之徒」の手を借りて「加天誅致梟首後鑑となさしむる者也」という次第であった。
辛うじて虎口を脱れたとはいえ、風呂桶の汚れた湯につかっていたために、大村の傷は悪化した。当時はまだ西洋医学界でも細菌学というジャンルがなく、医師としての大村も現代医学から見ると誤った処置をしていたかもしれない。河原町の長州藩邸に移された大村の傷は、大村の元気さにひきかえ、案外重かった。そこで東京政府の指揮を仰いだ結果、京都には気の利いた外科医がいないので、当時名医の名が高かった蘭医ボードウィンを大坂から呼ぼうとしたが、「由来京都は王城の地、夷狄禽獣の徒を立ち入らしむことはまかりならん」という苦情が入ったため、十月二日、止むをえず担架に載せ(京都青年兵学寮生徒の児玉源太郎、長谷川好道、寺内正毅らが担いだ)、高瀬川を船で伏見に出、直ちに淀船に移乗させて、一日がかりで大坂まで運ばざるをえなかった。
ところがまたまた支障が起った。
ボードウィンは大村の傷を見るや、敗血症の心配があるといって、ただちに切断手術を主張した。すると係の者は、高官の切断手術には東京政府を通じて勅許を得なければならぬと言い張り、その手続きに時間がかかって、勅許がおりたのは十月二十七日であった。
ボードウィンは早速切断手術を行なったが、すでに手遅れとなっており、十一月五日、大村は死去した。
大村遭難の報に接した政府は、九月十四日、留守官(当時太政官は東京にあったので、大村の京都出張中留守官を置いていた)より布告し、横井小楠のときと同じく、この変報は「|達 天 聴深《てんちようにたつしふか》ク 御宸怒《ごしんど》被為在《あらせられ》」、「厳密遂探索候様被 仰出候間管轄中至急取糺シ当官へ可届出候事」と厳達した。
その後追々一味は捕縛されたが、神代直人のみは兇行後一時豊後の姫島に遁れ、さらに追手を避けて潜伏していた郷里の周防|小郡《おごおり》大道村の一旗亭で捕えられた。
神代は追手の近づくのを知ると、海を見下す二階で腹を切り、その上からもとどおりに肌着を直して端坐していた。神代の手練を知っている捕吏たちは、どっと部屋に押入ったが側に寄るのをこわがり、恐る恐る捕縛したときには、すでに神代の息は絶えていたといわれる。
神代と宮和田を除いた団伸二郎以下六人の犯人にたいして、翕然《きゆうぜん》と同情が集ったのも、横井小楠の場合と似ていた。とくに内外の非違を糺弾すべきはずの弾正台の内部に助命論をなす者がいたのは不思議ともいうべきことであった。しかも十二月二十日、京都粟田口の刑場において、まさに斬首の刀がおりようとする寸前に処刑差止めという椿事が出来《しゆつたい》した。
この年五月二十二日に設けられた弾正台は、上は太政大臣から下は属僚に至るまで、内外の非違を糺弾し、風俗を粛正することを掌《つかさど》ったが、このとき京都の出張所の主任をしていたのは、弾正大忠・海江田信義であった。海江田は前名を有村俊斎という薩摩隼人で、生麦事件の被疑者の一人でもあった。また彰義隊討伐当時の征東軍参謀で、それ以来大村とは犬猿の仲であり、大村暗殺を使嗾《しそう》していたとさえいわれている。
海江田が十二月二十日の死刑執行が大村暗殺事件の犯人であることを知ったのは、当日の朝であった。弾正台の職務の一つに死刑執行への立会いがあるが、このときも二十日に死刑執行ありとの通告はあったが、何事件とも内容については知らされてなかったので、普通の事件ぐらいにしか考えていなかったのである。それが大村事件の犯人だと知って驚いた海江田は、時刻が移っては取返しがつかないというので、部下に早馬を出させ、粟田口へ駈付けさせた。
「その処刑待て──」
と叫んで駈付けたときは、まさに刀が振下ろされようとしているときであった。
海江田の考えとしては、そもそもこの事件の犯人は、私心から大村を殺したのではなく、国家のためと思い込んでの所業であるから、斬首とはもってのほか、助命はむずかしいとしても武士の名誉刑である切腹をもって報いるべきだ、という持論があった。それに通知手続きに不備があり、刑部省からも東京の弾正台本台からもなんの通知もきていない。切腹が至当なのに斬首を行なったというのでは、天下の非違を糺弾すべき弾正台として見過すわけにいかぬ、というのが海江田の死刑差止めの理窟であった。
当然、京都府と弾正台とのあいだで大議論となった。
京都府大参事・松田道之は、東京本台から通知がなかったといっても、それは弾正台の内部事情であり、死刑執行を掌る京都府とは無関係のこと、そのために処刑を中止するわけにいかぬと主張したが、海江田は自説を固執してゆずらず、結局、一先ず囚人は帰牢させることとなった。
衆人環視の場で死刑の中止という椿事は、止めるほうも、またこれを容れるほうも、ともに大失態であるということで、京都府側からは長谷知事、松田大参事、槇村権大参事が太政官に待罪書を出し、弾正台側からは海江田大忠、門脇大忠が待罪書を出した。
これで一番憤慨したのは兵部省の連中であった。いやしくも兵部大輔という国家の重要人物を暗殺した犯人に同情の余地があるものか、犯人は速かに処刑して、天裁を経て執行する死刑を差止めるような、思い上った弾正台の連中も処分すべきだ、といきまいた。また太政官からも「以ての外の振舞いだ。速かに処刑すべし」という達しがあり、ついに二十九日に刑を執行した。
翌明治三年一月二十日から、この止刑事件に関して、京都府からは知事と大参事、弾正台からは両大忠が東京の弾正台本台に召喚されて、審問を受けることとなった。
その後、いろいろな経緯を経て、結局、海江田は本官被免、位記返上を仰せつけられ、京都府庁その他の関係者もそれぞれ微罰に処せられたのは、三年五月であった。
この事件の底を割ってみれば、新政府内部における薩長の感情的衝突であったといえよう。すでに新政府内部は、維新劈頭当時の名分を失い、藩閥政府としての弱体をさらけ出しはじめていた。とくに薩摩と長州との対立はことごとに顕在化し、新政府の前途多難なるを思わせた。
しかしここで注目すべきは、横井・大村両事件が起きたのは京都であったということである。そしてこの両事件をもって京都は暗殺事件の舞台を終えたのである。
文久二、三年頃をピークとして、幕末暗殺史の中心舞台は京都であった。それがこの両事件を最後として京都は暗殺事件から手が切れるのである。つまり政治都市としての終幕を意味する。
横井小楠の場合は、ちょうど天皇が一度東京へ行幸し、まだ東西両京併立という名義で東京遷都反対論に気をつかい、一たび西還して京都市民をはじめ宮家、公卿衆、大名たちの顔色を窺っていた段階であった。つまり京都市民の知らないうちに、政治都市としての実質を京都から東京に移しつつあったときである。
大村益次郎の場合は、すでに東京遷都が実行されたあとであったが、大村がわざわざ京都付近に器機局や兵学寮を設置しようとした意図の一つに、新政府の巧妙な策略によって帝都の実を東京に盗まれた京都市民の怒りを慰撫する意図もあったはずである。そして大村は京都市民のこの怨みを自らの血をもって贖《あが》わねばならなかった。
大村事件以後、謀叛計画とか高官暗殺の舞台は当然東京へ移った。それはとりもなおさず、国事犯の多くを山田吉亮が処刑するという事態が招来されたことを意味する。そして吉亮の手がけた国事犯第一号は雲井龍雄であった。
18
明治三年十二月二十八日、この日も小伝馬町囚獄で大量の斬首執行があった。
この年の二月、刑部省からの達しで、「断刑刻限之儀梟示斬罪ハ卯ノ半刻(午前七時)笞罪ハ午半刻(午後一時)」と決められていたので、吉亮たちが平河町の家を出たのは、まだ日の昇らない七ツ半(午前五時)頃であった。吉亮は浜田鉄之進と門弟三人をつれていた。吉豊、在吉たちは半刻ほど遅れて来るはずである。
皆の吐く息が夜明け前の暗がりのなかに白く見えた。それでも霜柱を踏む足音は、凜烈たる朝の空気に快くひびいた。寒雀の囀りが心をなごませた。ときどき明烏の群が、サワサワと翼の音を残して飛び過ぎて行く。
「年の暮だというのに、お前たちも御苦労なことだ。もっとも今年はおそらくきょうが斬り納めになるだろうがね」
と吉亮がねぎらいを込めていうと、
「とんでもございません。われわれよりも若先生こそ御苦労なことです」
と門弟たちが異口同音に答えた。
お堀のまだ薄暗く静まりかえった冷たい水面を左に眺めながら、桜田門から日比谷を過ぎ、日本橋通りまで来た頃は、日も昇って、すがすがしい冬の朝が訪れていた。
早朝とはいえ、さすがに歳末の街頭はなんとなく賑々しく、新年を迎える準備に活気づいていた。家並の軒ごとに門松がすえられ、あちこちの町内から賃餅を搗《つ》く杵《きね》の音と、威勢のよい掛声が流れてくる。
「きょうは薬研堀《やげんぼり》のお不動様の年の市ではなかったかな」
と吉亮がふりかえると、門弟の一人が、
「さようでございます。それに今晩は才蔵市《さいぞういち》があります」
と答えた。
「才蔵って、あの三河|万歳《まんざい》のか?」
「はい。合棟《ごうむね》仁太夫が毎年、歳の暮の二十八日の晩、日本橋の四日市にお正月の才蔵のできる人間を集めて、雇い口を周旋してやるわけです。そもそもは三河の国から来たわけですが、そんな遠くから呼ぶのでは物入りが大変だというので、近くの安房、上総、下総、武蔵で才蔵のやれる者を集め、とくに下総の古河の連中はいちばん技に長じているということです」
「売れ口はいいのかな」
「はい。それが毎年百十人から二十人くらいだそうで」
「それで儲けはどのくらい?」
「才蔵の相場はお正月三十日間で、上等は二貫四百文、下等は一貫五、六百文といったところでしょう。万歳の連中どもは、おもいおもいに四日市に出かけて行って、雇い口を決め、その約束がきまったところでまず半金をもらい、残りの半金は満期渡しということで、その約束給金の一割を仁太夫が周旋料として受取る。その代り雇われ口で才蔵が不都合を働いたときに、その責任は仁太夫が負うというわけです」
「フーム、お前はなかなかの物知りだね」
「いいえ、以前、才蔵をやってみようと思ったことがありますので」
皆が一緒に笑った。吉亮は御一新以来、山田家の門弟どもも櫛の歯のかけるように辞めてゆき、新たに入る者も筋の通った身分の者は全くといってよいくらいにいなくなったことを思った。それが時勢というものであろうか。
吉亮の右前を歩いていた浜田が、
「年の暮ですか」と感慨深げに言った。「年が明ければ、若先生も十八ですな」
「鬼も十八、番茶も出花、か」
吉亮のまぜっかえしで、また一同が笑った。
「そういえば、きょうわしが手がける雲井龍雄という人は、まだ二十七だというではないか」
「そうです。若先生とは十ちがいです」
「二十七であれだけのことをやろうとしたなんて、大した人物ではないか」
「相当の熱血漢らしいですな」
と浜田が答えた。
普通、囚獄内で斬首を行う場合、斬役には執行通知はあっても、その死刑囚の名前とか素姓、犯行などについては知らせないのが慣例となっていた。しかし今回の雲井龍雄事件は、その性質上、朝野を沸かした事件だったので、吉亮たちも裁判の経過に注目していたため、執行通知があったとき、すぐにそれと悟った。そして兄の吉豊は、事件の中心人物である雲井龍雄の斬首執行を吉亮に命じたのである。それは吉亮にとって大きな名誉ともいうべきことであった。
吉亮がきょうまで斬った首の数は、数だけとしては他人にひけを取るものではないであろう。しかし年少のせいもあり、山田家内の序列もあって、いわゆる〈名士首〉というものはあまり手がけさせてはもらえなかった。それがきょうはじめて、世間の話題を賑わした人間の首を斬ることを許されたのである。そういう人間の処刑は天下の耳目が集中している。したがってその処刑の出来不出来は、死刑執行人の評価となって返ってくる。いささかの失敗も許されないのである。万一失敗した場合、それは単に吉亮の不名誉となるだけではない。きょうまで積み重ねてきた〈山田浅右衛門〉家の不名誉として喧伝されることになるわけだ。そういう意味で、〈雲井龍雄〉という名前は、吉亮にとって生涯の記念すべき名前となるはずである。
また吉亮にとっては、政治犯として死刑に処せられる人間は凡人とは別世界の人間のような思いがないわけではなかった。父の吉利から、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎といった、安政の大獄における多くの志士の、死罪場に臨んでからの逸話を子供のころから聞いて育ったせいであろうか。いうならば、吉亮は人生の終着点からその人間の暦を逆にめくってゆく人間観察の方法を、幼児期から習練させられていたために、死にざまの立派であった人間だけが傑いのだという人間評価法が身についていた。
最後の土壇場に据えられたとき、そこでは人間の罪も罰ももはや問題ではない。ましてどういう役職にあったか、どれだけの権勢を誇りえたか、などといった相対的問題はなんの意味ももちえない。あるのはただ首を斬られて死ぬという現実だけである。そのときに到ってもなお、その人間が立派な死にざまをしたかしなかったかなどと、|生きている人間《ヽヽヽヽヽヽヽ》が問いかけるのは残酷にすぎる、いや、傲慢というものかもしれない。じじつ、吉亮たちは、死ぬのを嫌がったり、恐がって、生に未練を残すのを人間の常態と考えている。それだからこそ、いろいろと工夫をして、死ぬ前の苦痛をなるべく短くし、和らげてやるのを斬り手の心得としている。
ところがその常識を破る場合が多いのは、父の吉利からの話では、志士という存在であった。彼らは一見〈喜んで死んだ〉としか言いようのない状況で生から離れてゆく。こちらの斬りいいように斬られてくれるのが、なんとも不思議というしかない、というのである。こちらが戸惑いを感じるくらいだ、という。だからその戸惑いのために斬り手の心が乱れ、斬り損じが生ずる場合がある。それを他人は、斬られる者の〈偉大さ〉に打たれて斬り手の刀が萎縮した、と見る。そして実際、こちらにその戸惑いを与えるくらいの人間こそ、掛値なしの大人物なのだ、というのが吉利の人間観であった。だから志士という存在は、いちばん斬りやすくていちばん斬りにくい。つまり斬る者と斬られる者の心の戦いが生じるからだ、という。
自分にそういった志士というものが斬れるのであろうか。志士の与える戸惑いとはどんなものなのであろうか。──吉亮はいささかの不安と期待を胸の中に感じた。
いつのまにか無言になって足先をみつめながら歩いている吉亮を、浜田たちはあえて干渉しなかった。
突然、「せきぞろござれや」という高声が騒がしい往来を圧してひびいた。
「サッサ、節季候《せきぞろ》、毎|年《ねん》毎|歳《とし》、旦那のお蔵へ、金銀お宝、飛び込め、舞い込め」
三人一組となった節季候が一軒の店先で祝言を謳いぞよめいていた。
手にした四つ竹のカチャカチャいうリズムにあわせて、雀踊りのように着物の臀の辺をちょっとつまんで端折り、麻裏草履に赤鼻緒、茜《あかね》木綿の手甲脚絆《てつこうきやはん》、韮山形の藺笠《いがさ》の下には、これも同じく茜木綿で顔を包み、両眼だけを光らせて歌い踊っている。
吉亮はその節季候をみたとき、ふと「母上はどうしておられるか」と、素伝のことを思った。なんの脈絡もない思い付きであった。赤い鼻緒の印象からだったのだろうか。それとも、彼らの覆面からのぞいた眼のせいだったのだろうか。
吉亮たちの通り過ぎた背後から、カチャカチャという四つ竹の音がいつまでも追って来た。
雲井龍雄。本名小島龍三郎。諱《いみな》を中島|守善《もりよし》という。米沢藩・貨物蔵役頭《かしものぐらやくがしら》・中島総右衛門の第二子。十八歳のとき小島才助の養子となる。
出生時の名は豹吉(兄は虎吉)、幼年時代には猪吉《いきち》、少年時代は権六。慶応二年頃の手紙ではいつも熊蔵と自署。遠山|翠《みどり》、小嶋|行正《ゆきまさ》などの変名も使った。雅号を枕月居士、渾名《あだな》を居貞《きよてい》、晩年(といっても歿年は二十七歳であるが)には桂|香逸《こういつ》の変名を用い、明治元年から雲井龍雄を名乗る。天保十五年(十二月十三日、弘化と改元)三月二十五日、辰年、辰の月、辰の日、辰の刻に生れたというので〈龍《ヽ》三郎〉と名付けられ、その後いろいろ名を変えてみたが、最後にまた〈龍《ヽ》雄〉にもどったといわれる。
子供の頃から病的といってよいほどに負けじ魂が強く、人の頭に立たねば承知できない性質だったらしい。
八歳で学に就いたが、生来の負けじ魂で、子供のくせに徹夜して勉強することもめずらしくなかった。
武術を習ったのが十五歳。小柄に似ず膂力に勝れていたので腕前も上達し、真槍で厚い板塀をブスブス突抜いたとか、刀を鞭のように振廻すので、その空気を切る音がヒューヒューと鳴って見る者を驚かしたといった逸話が遺っている。
しかし何といっても、彼の生涯をくっきりと彩るものは、彼の天賦の詩才であったといえよう。詩人革命家というイメージがなければ、彼の生涯は、やることなすことに蹉跌《さてつ》をきたした、単なる非行青年の一生に過ぎまい。革命運動家の熱情と苦悩を歌い上げ、「棄児行」のような人口に膾炙した詩を遺すことによって(この詩のほんとうの作者については異論があるが、当時は一般に龍雄の作と信じられていた)、幕末維新の風雲の徒にその名を慕われ、後世からも〈和製バイロン〉の異名を与えられた。
文久三年、養父の死により小島家を襲ぐ。時に龍雄二十歳。翌元治元年、妻を迎える。二つ年上の姉様女房だった。
結婚の翌年(慶応元年)、幕府から江戸警衛の任が諸藩にくだり、米沢藩から派遣された一員として、正月、龍雄は欣然として江戸へ向った。
江戸に入った龍雄は、匆々に市ヶ谷御門の近くの土手三番町にある儒者・安井息軒の三計塾に入門した。ここでまた猛烈に勉強した。一晩で「春秋左氏伝」三十巻を読破したというエピソードもある。
しかしこの江戸詰の勤務はその年の七月で終った。米沢からは帰国の催促が矢のように来たが、金だけを送らせて帰国せず、江戸に残って勉学につとめた。だが帰国催促はますます厳しく、妻からの催促は叱りとばして平気でおったが、養母からの催促はさすがに断りかねて帰国した。
慶応三年正月、家老・千坂高雅に従って京都に出る。ここで革命運動家としての生活が始まる。遠山翠と変名していた。
慶応四年一月十七日、新政府は三職七科と徴士・貢士《こうし》の制を組織した。徴士とは諸藩士および農工商平民のうちから人材を抜擢して朝臣としたもので、地位は参与に準じ、「下の議事所」の議員とされたもの。貢士は各藩から藩主が推挙して藩論を代表させ、同じく「下の議事所」の議員として差出したものである。
龍雄は米沢藩の貢士として新政協賛の一員となったが、徳川慶喜が賊名を被せられて征討されることになったのを憤慨し、「討薩檄」を作成して東北各藩に送達した。たまたま彰義隊が敗れて輪王寺宮が東北地方に逃れるや、脱藩して宮のもとに奔り、これに供奉《ぐぶ》して東北各藩を説いて廻った。
新政府軍が東北へ進攻すると、米沢藩は新政府軍側につき、龍雄を謹慎させて藩校興譲館の教師という閑職を与えた。
明治二年、版籍奉還につづいて、七月、公議所が集議院と改称された。龍雄は上京してその議員となった。しかしこの段階における集議院は、〈公議与論〉を名目とはしていたが、その権限は縮小され、各藩にたいする朝命伝達機関に化していた。
そんな場所に安住しておれる龍雄ではない。しばしば時勢につき建白するところがあったが、つねに斥けられた。戊辰戦争の賊将だったという前歴もひびいたのかもしれない。口を開けば新政府の方針を非難攻撃するために、同僚たちからも敬遠排斥され、ついに退院を命ぜられた。一夜、彼は集議院の壁に達筆をもって一詩を書きなぐり、飄然と去った。
明治二年十月、芝二本榎の上行寺と円心寺を借り受けた龍雄は、門柱に「帰順部曲点検所」という大看板を掲げ、盛んに有能な浪士を狩り集めた。この看板の意味は、各藩脱籍の徒がまだ帰順しないで多数府内を徘徊しているから、これらを点検し慰撫して、完全に新政府に帰順させるのを目的とする、というものである。
これは一見、いかにも時宜を得た措置で、新政府としても正面から文句をつけるわけにいかなかったが、内情は政府顛覆を目指す同志の糺合所であった。
龍雄をはじめ、同志のうちの参謀格である原直鉄、三木勝、大忍坊、簗瀬《やなせ》勝吉、浄月坊といった幹部たちは、当時数寄屋橋外にあった稲家という船宿に密会し、侠気に富んだ女将およしの心遣いのもとで、暗々裡に計画を練っていた。
彼らの計画は新政府を倒して徳川幕府の昔に返そうという極めて反動的なものであったが、龍雄の本心は現在の癌となっている薩長系を排除して新政府をあらためて樹立しようということで、封建制度の復活ということは全国の不平士族に訴えるための擬装であったともいわれる。
たまたま西国諸藩の動静を探って帰京した浄月坊の報告で、新政府の施政にたいして西国筋では不平分子が多く、長州のごときは内乱がまさに起きようとしているというので、いまこそ東西呼応の時機であるとして、急遽兵を挙げて政府の大官を斃し、一気に政府を乗っ取る計画を樹てて、部署まで決めた。すなわち日光、庚申山、奥羽、東海道、甲府の各要所へ同志を伏せ、龍雄自身は東京にあって総軍の指揮をとる、というものである。
明治三年七月、この陰謀が発覚した。というよりも、永年幕府の弾圧のもとに非合法運動を続けてきた薩長出身者たちは、東北人である龍雄たちの計画の裏を見すかすくらいは朝飯前といったところであったろう。帰順部曲点検所内にはすでに密偵網が張りめぐらされていたのである。
薩長系の連中は芸が細かい。雲井龍雄不穏の実態を知った政府は、これを一挙に逮捕するよりは米沢藩にまかせたほうが得策であるとし、米沢藩に命じてあの大看板をはずさせ、龍雄を藩邸に拘禁させた。
しばらく藩邸に謹慎させられた龍雄は、やがて国許で謹慎せよという藩公の命を受けた。ところが国許へ帰ってまもなく、その後の探索の結果、予想外に重大な謀叛計画であるのを知った新政府は、米沢藩に龍雄の引渡しを要求してきた。
八月五日、妻や肉親・友人たちに見送られ、龍雄を乗せた檻車は米沢を出発。八月十四日、着京して小伝馬町の囚獄に繋がれた。
取調べにたいする龍雄の態度は終始堂々たるもので、士をもって遇する係官にたいしては言語柔かく従順に答えたが、少しでも役人風を吹かして高圧的な態度に出ると、勃然と怒りを発し、どんなひどい拷問にかけられようと口を緘して一言も発しなかったという。
また加盟者の名簿には一万名にのぼる名が書かれていたといわれるが(一千人ともいう)、発覚直前に焼捨て、しかも全身満足な皮膚を残さぬほどの拷問を受けても、ついに同志の名を言わなかったという。
このようなことがまた彼の人気を高める原因となったであろう。
明治三年十二月、結審となって判決が下された。主謀者の龍雄は斬罪のうえ梟首。原直鉄以下幹部十一人は斬罪。その他、八人が准流《じゆんる》十年、九人が徒刑三年、二十八人が杖七十等であった。
公 判 書
[#地付き]米沢藩士族 雲井 龍雄
[#地付き]二十七歳
[#ここから1字下げ]
其方儀去ル辰年順逆ヲ誤リ官軍ニ抗シ謝罪ノ上寛典ニ被処ル上ハ速ニ自新ノ効ヲ奏シ可申候処却テ宿怨ヲ抱キ挽回可致ト動静相伺居ル折柄京摂以西騒然タル趣浄月坊ヲ以テ探求ニ及ヒ機会到来ノ秋ト躍起致シ依テハ兵力ヲ得ル事急務ト存シ陽ニ一昨年諸藩脱籍ノ徒共未タ反側自危罷在ルニ付鎮撫ヲ遂ケ帰順為致度旨出願致シ右願意御差許無之以前芝二本榎上行寺円心寺ニ於テ私ニ帰順部曲点検所ノ札ヲ掲ケ同志ノ藩士并浮浪輩相集陰ニ政廷ヲ欺罔シ願意御裁可ヲ蒙リ天兵ノ員ニ加ハル上ハ公然右名称ヲ鳴シ一挙積憤ヲ可晴ト原直鉄其外同盟ノ者共屡集会密議致シ手配相定置候処歎願ノ趣御採用無之本藩へ預ケ相成ル身分藩邸内森三郎宅ニ於テ城野至ニ面会致ス砌同盟ノ徒ハ瓦解難斗迚兼テ約ノ如ク何レモ確守罷在ル様其内自在ノ身ト相成ラハ再ヒ宿志ヲ遂ケ可申旨書付ヲ以テ示シ置尤無名ノ挙ハ自斃ヲ招ク処ト前顕ノ通リ事端相伺居同盟配置ノモノ一時ニ蜂起致シ奸徒討伐ノ名義ヲ仮ルナラハ私党ノ一揆暴発ト雖モ一時御追伐ヲ免レ四方自ラ響ニ可応其上当今郡県ノ御制度ヲ説破致シ若シ不服ノ徒有之節ハ兵力ヲ以テ仮令在朝ノ高官タリ共一々芟除シ 大城へ押迫リ御政体ヲ一変シ封建ノ御旧制ニ復シ宿志ノ如ク主家并徳川家恢復ヲ可遂ト魁首ト相成不容易企相謀候段右始末重々不届至極ニ付梟首申付ル
[#ここで字下げ終わり]
卯半刻《むつはん》(午前七時)をかなり過ぎたころ、雲井龍雄事件に関する一連の処刑が開始された。最初は主謀者・雲井龍雄からであった。
科書《とがしよ》が読み上げられて死罪場に現れた龍雄をみたとき、吉亮が意外な驚きに打たれたのは、龍雄が予想よりもはるかに小柄な男であったことである。あれだけの大事件を企てた男ということで、六尺ゆたかな偉丈夫を想像していたが、そこに現れたのは五尺そこそこの小男でしかなかった。
しかし、その全身から溢れる精悍の気は、取調べにさいしての苛酷な拷問に耐えてきたのもさこそと思わせるものがあった。全身の鍛えぬかれた筋肉は刀をすらはじきかえすような気魄があった。
勿論、士分としての斬罪であるから、目隠しはしていない。衣服の上から染繩で羽がい締めに縛ってあるが、文字通り足が地についた、落着きはらった歩きぶりを見ていると、その掛繩はもちろん、左右から腕をとらえた定吉・常吉も、後ろから繩を取っている仙吉も、全く形式的な添えものとしか映らなかった。龍雄ははっきりと土壇場を見据えて、急ぎも遅れもせずに悠々と歩いてくる。〈神色自若〉を画にかいた姿であった。
吉亮は胸の中がかっと熱くなる感激を覚えた。これが父の言っていた〈志士〉というものの姿なのか。死をみること帰するがごとし、という姿なのであろうか。
土壇場の前の蓆の上に龍雄の位置がきまったとき、傍に近づいた吉亮はいつものように刀身に水をかけて鞘におさめ、龍雄の左うしろに、右膝をつき左膝を立てた〈折敷《おりしき》〉の姿勢をとって控えた。
それは武士の切腹のさいの介錯人の作法であった。きょうの罪囚にたいしては必要のないことであった。
しかし吉亮はあえてそれをした。雲井龍雄という人間にたいする自分の敬意を、土壇場における態度の立派さにたいする尊敬の念を、なんらかの形で表現したかったのである。
処刑場では形式を重んずる。咽輪《のどわ》の切り方から手桶にかけた半紙の折り方まで、いちいち作法と理窟をもって決められていた。しかしそれは幕末、牢屋敷時代までのこと。囚獄と名の変った現在、立会検視にあたっている新政府の役人どもに、そんな故実のわかろうはずもない。たとえあとでその作法が分に過ぎたと叱りをうけようとも、それについてはいくらでも言い抜ける知識はもっている。
吉亮は繩取りの仙吉に向って、
「掛繩を切って差上げなさい」
と言った。押え役の三人がびっくりしてこちらを振向いた。
「いいのだ。掛繩をはずしておあげなさい」
仙吉が咽輪を切るために持っている九寸五分の小脇差で、パラリと掛繩を切った。
手の自由になった龍雄が吉亮をふりむいてにっこりと笑った。眼の大きく澄んだ、笑顔の優しい人だと思った。
「忝《かたじ》けない。拙者は雲井龍雄と申す者。冥途の土産に御尊名をうけたまわりたい」
「山田浅右衛門吉利が三男、同苗《どうみよう》吉亮、当年十七歳にございます」
「おお、お若いのになかなかの御挨拶。ご造作《ぞうさ》をおかけする」
「なにか言い遺されるお言葉でも……」
「いや、いまさらありません。ただ、お差支えなければきょうの刀の銘を……」
「備前岡山の住人、|東多門兵 衛尉 藤原正次《とうたもんひようえのじようふじわらまさつぐ》、二尺一寸五分をたずさえて参りました」
「さすがでござる。そこまでのお心づかい、重ねがさね痛み入ります。では、見事、お願いつかまつる」
「かしこまりました。お心置きなく」
龍雄が莞爾《かんじ》として正面を向き、みずから首を差延べた。押え役の三人が手を出そうとするのを右手で軽く抑える合図をして立ち上った吉亮は、目を半眼にとじて「諸行無常 是生滅法 生滅滅已」と涅槃経の四句偈を心に唱え、最後の「寂滅為楽」と結んだとき、龍雄の首を斬っていた。
首は皮一枚を残して斬られた。カクンと前に垂れた首の重さで、のけぞりかかった身体が前へ傾いた。そこを常吉と定吉が両側から押えて、血溜りへ血を噴き出させた。
熱血児の異名にふさわしく、血は何度も勢いよく、薄い湯気をたててほとばしった。仙吉が頃合をみて首を引立てると、吉亮が血刀で残皮を切断した。
顔は綺麗で洗う必要もなかった。仙吉がまだ温かみのある首の左頬を検視のほうへ向けて差出した。顔は笑っているように安らかであった。
19
明治四年一月一日、新年早々だというのに、刑部省囚獄司からの呼出しで、山田家三兄弟と浜田は小伝馬町囚獄へ出かけて行った。
そこには刑部省および囚獄司の重立った役人はもちろん、民部省、弾正台、東京府庁などの高級官僚たちも顔をみせていた。この日、今度新たに死刑囚処刑のために採用される〈絞柱〉の実験が行われるからであった。
つい三日前、雲井龍雄一味を処刑したばかりであったが、それに先立つ十二月二十日、太政官は次の上諭を付して「新律綱領」を発表し、二十七日付をもって全国の三府四十三県二百五十六藩に頒布していた。
上 諭
[#この行1字下げ]朕刑部ニ勅シテ律書ヲ改撰セシム乃《すなわ》チ綱領六巻ヲ奏進ス朕在廷諸臣ト議シ以テ頒布ヲ允《ゆる》ス内外有司其之ヲ遵守セヨ
明治三年庚午十二月
いままでにも触れてきたところであるが、新政府としては、明治元年十月に〈仮刑律〉を布達したときも「刑律ハ兆民生死之所[#レ]係、速ニ御|釐正可《りせいあら》[#レ]被《せら》[#レ]為《る》[#レ]在《べき》之処、春来兵馬倥偬、国事多端、未タ釐正ニ暇アラス」といい、同じく十一月の太政官|達《たつし》でも「新律御治定迄《ヽヽヽヽヽヽ》(中略)|仮ニ《ヽヽ》軽重ヲ配当シ当節左ノ通処置イタシ候事」と断わってあったように、永世の基本則ともいうべき新刑律の編纂を急いでいたのである。それが今回、ようやく「新律綱領」となって完成した。したがってこれは明治新政府が制定した最初の完成刑法典といってよい。この「新律綱領」は藩によって若干の時間的ズレをもって施行されたが、明治六年の「改定律例」との並用を経て、明治十四年十二月三十一日まで実施されることになる。そしてこの日はわが国の刑法典から〈斬首〉の刑が完全に消滅するときである。
「新律綱領」は〈仮刑律〉と同じく範を明清の律に採り、その条文は通計百九十二条、唐律を模した大宝・養老の律の約四倍の条数であったが、用語に見慣れない漢語が多く、仮名交り文とはいえ、すこぶる難解な法典である。
ここで定められている刑罰は、大宝・養老の律と同様、笞杖徒流死の五刑二十等であり、死刑は〈絞〉と〈斬〉の二種類とされた。この他に兇残甚だしき者の処刑として、〈斬〉の延長というべき〈梟示〉がある。なお、前述した明治元年十一月十三日の太政官|達《たつし》にあった〈絞首〉は、この「新律綱領」において具体的に実現をみたわけである。
ちなみに、「新律綱領」における〈絞〉は大宝・養老律の〈絞〉と内容が異なっていることを断わっておきたい。律の絞刑は受刑者を縛って坐らせ、二本の綱で頸をはさみ、その綱を両方から轆轤《ろくろ》で巻き上げて、綱をよじらせて絞める。文字通りの〈絞首〉であったが、明治に復活したときは方法が変り、現在と同じく|〈首 吊 り《デス・バイ・ハンギング》〉である。したがって正しくは〈縊死刑〉というべきかもしれない。
この絞首の機械は〈絞柱〉と呼ばれた。
「新律綱領」の〈獄具図〉によって説明すると、──
「凡絞柱ハ。欅木ヲ以テ之ヲ為ル。方一尺。長サ一丈。地ニ入ル縦横二尺。地ヲ出ル縦横八尺。銅板ニテ柱頭ヲ冒覆シ」云々と、漢語調で説明されているが、これをくだいて続けると、表面、地上六尺のところに木枕をつけ、その中に穴をうがって背面に通し、その中に轆轤をつけて、絞繩を通すようにする。腰の当る部分に腰繩をしめる鉄の環をつけ、足の部分に鉄鐐《あしかね》を設けて足をおさえるようにする。
次に絞繩は麻製で長さ六尺。咽喉下のあたる処約八寸を白い布で包み、白いなめし革でその外をくるみ、ぐるっと輪にして、繩の端に鉄の環をつける。この鉄の環には懸垂《おもり》をひっかけるのである。
次に懸垂は鉄で作る。大小二つあり、大は鉄の鎖と合せて重さ十三貫。小は七貫。ともに鎖の頭に鉤がついていて、絞繩の環にひっかけるようにする。
次に蹈石は長さ二尺、博さ一尺五寸、厚さ三寸。
次に蹈板は欅木《けやき》で作り、長さ一尺六寸、博さ一尺、厚さ三寸。これを四枚備え、囚人の背の長短によって置いたり外したりする。
さて囚人を絞するには、両手を背に縛り、紙で顔を隠し、絞場につれて行って、まず柱の前に蹈石と蹈板を重ね、囚人を柱に寄せ、襟首を木枕に当て、板の上に立たせる。次に腰繩を結び、次に足を鐐《あしかね》でおさえ、次に絞繩を咽喉の下にかけ、次に大懸錘を繩の環にひっかけ、次に蹈板を外し、次に小懸錘をひっかけ、「|懸 空 凡《チウニカクルオヨソ》三|分時《ミニユート》。死相ヲ験シテ。解下《トキオロ》ス」というわけである。──
吉亮たちは、きょうここにわざわざ呼出されたのが、この〈絞柱〉の実験を参観するためだときいて、唖然とした。ついで憤然とした。
「われわれが〈首吊り〉を見てどんな御利益《ごりやく》があるというのか」
と在吉が憤慨すると、
「われわれの修業を嘲笑するつもりなのか」
と吉亮も怒鳴った。
少くともこれは〈斬〉にくらべて、表面はいかにも文明開化の産物にみえるが、はたしてどうか。実はかえって囚人を苦しめるものではないのか。〈斬首〉という処刑法は、昔は知らず、現在の西洋では、フランスのギロチンのように、たとえその制度を採用していても、それは機械にさせていて、人間の手を濡らしているところはない、だからそれを見倣わねば西洋に立ち遅れるというが、結局それは日本人ほどの斬首の技術に長じた人間がいないからではないのか。またもしこの絞柱の実験が成功したとすれは、政府は将来、われわれが生涯をかけて錬磨してきた〈斬〉という死刑法を廃止にもちこむ下心があるのかもしれない。もしそうだとすれば、われわれを呼びつけてこれを見せるというのは、侮辱も甚だしい。
在吉と吉亮がかんかんになって控所からそのまま帰宅しようとするのを、さすがに山田家当主としての吉豊はおさえて、
「とにかく、後学のために一見して損はないだろう。人間がそんなに簡単に、しかもすっぱりと殺せるものじゃない」
と説得し、浜田もこれに唱和した。
自宅同様の囚獄である。実験場は死罪場の隣りの、以前試斬りを行なった御様場《おためしば》跡であった。四人そろって死罪場へ出てみると、御様場跡の中央に絞柱が立てられ、四、五人の牢番たちが準備に大童であった。
そのなかに牢番たちを指図している大工姿の男がいた。それがこの絞柱第一号を試作した大工らしかった。まだ年も若いらしく、きびきびした動作で指図はしているが、どうも自分の試作品を内心恥じているらしく、参観者が絞柱を指さしながら質問すると、きまり悪そうに説明していた。
同好史談会編『漫談明治初年』(現在は『史話明治初年』と改題)によると、この男は野村という大工である。
彼ははじめ絞首台を造る時、内務省(と彼はいっているが、内務省は明治七年の設置であるから、刑部省の誤りであろう)から方々の大工と一緒に呼び出された。それは政府が前述の〈絞柱〉の設計図に従って大工たちに試作品を、しかも入札で作らせるためだった。だいたいこんな簡単な獄具である。原価はいくらしたって二十五円くらいしかかかるものではない。だが、すべての大工が当然これを嫌がった。しかし政府《おかみ》の仕事である。結局、入札値をできるだけ高く付けるしか逃げようがない。そこで野村も法外な百二、三十円にして入札した。いくらなんでもこれなら落ちないだろうと安心していたら、なんと彼のが一番|下札《げさつ》だったので、作らなければならない羽目になった。他の大工は百五十円から、なかには三百円も付けたものがいた。
「その頃私はまだ若い頃で、絞首台を一台造ると一両小遣が貰えるので、一晩遊びにゆくのが楽しみで造ったものです」と野村は正直に話している。そして「全国六十余大名に一つ宛造ってやった」というから、儲けの莫大だったことも推測される。
いよいよ〈絞柱〉の実験が始められた。
一人の柔術家らしい、身体のがっしりした、総髪髭面の男が稽古着をつけて、門弟を四、五名引連れて現れた。吉亮が傍を通った顔見知りの牢番にきくと、神田お玉ヶ池に道場を開いている磯又右衛門という柔術の先生で、天神真揚流の達人とのことであった。
磯先生は門弟たちとエイッ、エイッと気合をかけながら準備体操をしたのち、「それでは」といって自ら絞柱の前の蹈板に登った。そして輪繩を咽喉下にかけると、牢番が柱の背面にある絞繩の端の鉄環に大懸錘をひっかけた。ぐっと重みを感じたらしい磯先生は、首を二、三度振って位置を正してから、大きく息を一つ吸込み、
「よし」
と叫んだ。足もとで待っていた牢番が二人で蹈板をさっと外すと、先の牢番がこんどは小懸錘の鉤をひっかけた。
磯先生の身体が宙に浮いた。顔面が紅潮し、先生は両手を咽喉のところへ持って行こうとしたが、それは半ばでとまって、やがてダラリとぶら下がった。肩の力が脱けて、全身がぐったりとした。すると門弟たちがわっと寄って、先生の足を持ち上げ、首から輪繩をはずした。
地面に横たえられた磯先生は鼻をフガフガと鳴らしながら全身を顫《ふる》わせていた。門弟の一人が上半身を起し、膝を背中に当てて活を入れた。先生の痙攣がとまって正気づいた。瞬時ぼんやりとあたりを見廻していた先生は、ふとわれにかえって、
「フーム、これなら大丈夫だ、どんな者でも生きかえりはしない」
と、絞柱を見上げながら言った。
吉亮はあやうく笑い出すところであった。吉豊たちも苦笑いを浮べていた。磯先生の生真面目さを嘲笑する気持はなかった。だが、とにかく滑稽な感じだった。
柱の背面で懸錘をかけていた牢番が、なにか製作者の大工にささやいた。すると大工が磯先生となにか打合せ、やがて磯先生がもう一度絞柱に近づいて行った。ふたたび実験を試みるらしかった。十五貫目の大懸錘では重すぎて取扱いに不便なので、十三貫目のものに変えてみてはどうかということらしかった。
吉豊ら一行は全部見ずに囚獄を出た。
「馬鹿馬鹿しい」
と在吉が地面に唾を吐いた。皆が噴き上げるように笑った。
「ほんとうに、新年早々とんだ眼福《がんぷく》をえたというもんだ」
と吉亮がいうと、また皆で高く笑った。
家路をたどりながら、はじめのうちはだれかが一と言しゃべると皆で大笑いをしていたが、そのうちにだんだん皆の顔に不機嫌な表情が浮んできた。そして沈黙の支配する時間が多くなった。在吉だけが、やたらに路上に唾を吐いていた。
「あんな玩具《おもちや》みたいな器械とおれたちの修業とを秤《はかり》にかけられるなんて。おれはもう斬役という仕事がいやになった」
と、吉豊がぽつりと言ったが、だれももうそれに応じる者はなかった。
「時世時節《ときよじせつ》というものですかな」
浜田がしばらくして呟いた。
アリャヨ、アリャヨとこのごろ流行りだした人力車が四人の傍を駈抜けて行った。
「ようし、今晩は親父のところへ行って〈首吊り〉の一件を報告し、腰の抜けるまで酒を飲もうか」
と吉豊が叫んだ。他の三人も「そうしよう」と心では承知したが、だれも声には出さなかった。
町は小僧に風呂敷を背負わせた年始廻りのお店《たな》の番頭たちや、威勢のよい臥煙《がえん》ども、初詣での帰りらしい若夫婦などで混雑していた。路地の奥から若々しい嬌声と羽根つきの音がきこえ、獅子舞のひょうげた笛の音も流れてくる。
しかし吉亮にはすべてが実体を失った、白ちゃけた幻影の群れとしか見えなかった。そしてあたりに漂いはじめた夕闇のように、彼らの意識しないところから這い寄ってくる黒い影をぼんやりと意識していた。
20
明治四年の正月は、参議・広沢|真臣《さねおみ》の暗殺で平和な眠りをやぶられた。
広沢兵助真臣は前名波多野金吾、長州藩士で、木戸孝允とともに長州の代表的人物と目されていた。維新の功により明治二年七月、参議に任ぜられ、
「何人も君の容姿に接せば、先づその魁偉磊々たるに驚かざるものなかるべし、手を垂るれば膝を過ぎ、足袋は十六文を着けり、室内を歩するに、頭額高く鴨居を抽《ぬき》んづ、恰も仁王像の楼門より闊歩し来るが如し、体躯斯く長大なるも決して空膨にあらず、真に堅太りなり、骨組太く肉附堅く、体重量三十六貫目にして、銅像的大人なり」
といわれ、その風貌からいっても、人物からいっても、薩摩の西郷隆盛に比肩する偉材であった。明治二年九月、復古功臣賞典禄として木戸・大久保と並んで千八百石を賜わっている(西郷はすでに六月に鳥羽伏見及奥羽役賞典禄として二千石、大村益次郎は千五百石をもらっている)ことからも、広沢の当時の新政府における地位の重さが類推されるであろう。
この広沢が、一月九日の早暁、昨年の暮、居を構えたばかりの麹町富士見町二丁目二十九番地の自宅で、何者かによって刺殺された。
急報に接した弾正台は、大忠・渡辺昇、巡察属・大井安親らに医師・福井順三を付してこれを臨検させた。広沢は全身に十三個所の傷を負って斃れており、そのうち咽喉に三個所の突き傷があった。二回突き損じて、三回目にようやく止めを刺したものらしい。さらに庭の板塀のところに足跡があり、その型を造って足袋屋に計らせたら九文七分であった。
そこで家人全員を拘引し取調べの結果、第一の嫌疑者として、同じ部屋に寝ており、しかも惨事と同時に告訴もせずに逃走したというのでますます疑いを深められた妾の福井かねが挙げられた。
|かね《ヽヽ》は鬢のところに二、三寸の傷を負っており、彼女の言うところによれば、自分が物音に驚いて起き上ったところ、覆面の賊が抜刀して立っており、声を立てると殺すぞというので思わず打伏して慄えていると、賊は自分を縛り、そのあとで旦那様を殺し、そして自分の縛めを解いて金を出せというから金を出したら、それを受取って去った、というのである。
この陳述は、その後刑部省での取調べのさい、すべてが偽りである、いっしょに居りながら知らぬといえばどんなお咎めを受けるかしれないと思って拵えたもので、じつは、恐怖のあまり起き上り、一目見て打伏したまま、後の事は覚えなかった、と変更された。
いずれにしても広沢と同所に寝ていながら僅かの傷しか受けておらず、またその言うことが辻褄があわないというので、四月に、その母の|せい《ヽヽ》と共に第一大区役所(当時の区役所というのは警察署のこと)に拘留された。
当時|かね《ヽヽ》は妊娠中であったが、単純傲岸な安藤則命の取調べを受け、分娩後七十五日経たないうちに苛酷な拷問にあい、ついに広沢家の家令・起田正一と私通していたことを白状した。そのため、翌五年三月に起田は逮捕された。
どうも|かね《ヽヽ》は広沢暗殺の晩、起田と密かに会っていたようである。それが明るみに出るのを恐れた起田は、|かね《ヽヽ》に微傷を負わせ、板塀のところに足跡をつけたものらしく、それが却って不利益の証拠となって二人の疑いを深める原因となった。
この事件が当時の政府に与えた衝撃は想像以上のものがあった。横井小楠、大村益次郎のばあいと同様に「達 天聴深ク 御宸怒|被為在《あらせられ》」、「厳密遂探索捕縛可致旨」の御汰沙があった。しかも二月二十五日には、
[#この行1字下げ]故参議広沢真臣ノ変ニ遭《あう》ヤ朕既ニ大臣ヲ保庇スルコト能ハス又其賊ヲ逃逸ス抑《そもそも》維新ヨリ以来大臣ノ害ニ罹ル者三人ニ及ヘリ是朕カ不逮ニシテ朝憲ノ立タス綱紀ノ粛ナラサルノ所致朕甚タ焉《これ》ヲ憾ム其天下ニ令シ厳ニ捜索セシメ賊ヲ必獲ニ期セヨ
という詔書まで出された。犯罪捜査に関して詔書が出たというのは恐らく空前絶後のことであろう。右大臣三条実美はこの詔書に添えて、
[#この行1字下げ]詔書之通被仰出候今日朝憲ノ不立綱紀ノ不粛ハ全ク実美等其職ヲ不尽ニ由レリ苟モ大臣ヲ殺害ニ及候賊徒ヲ逸シ既ニ五旬ニ及ヒ未タ捕獲ニ不至実ニ恐懼ノ事ニ候条篤ク詔書ノ旨ヲ体シ厳密捜索ヲ遂ケ速ニ捕獲シ可奉安宸襟様尽力可致候也
辛末二月
[#地付き]右大臣 実 美
と激励したのであるが、犯人は挙らなかった。弾正台の職員一同はその責を負って進退伺を出す始末。もちろんこの進退伺は却下されて、一層勉励すべしと尻を叩かれた。
この事件につき前後取調べを受けたもの八十余名に上ったといわれるが、いずれも真犯人と確定することができなかった。そして福井かね、起田正一の二人も結局証拠不十分で、明治八年七月十三日付で無罪放免となった。
その後、明治十年十一月に、中村六蔵というものが嫌疑者として捕縛された。しかしこれは沢田衛守殺害事件の犯人で、どうせ処刑されるならこんなケチな事件の犯人というよりは、かねて聞き覚えの広沢参議暗殺事件の真犯人として処刑されるほうが恰好が良いと思って嘘の自白をしたということがわかったので、広沢事件のほうとしては無罪となった。
広沢真臣暗殺事件はついに犯人を挙げることができず、迷宮入りとなって今日に及んでいる。
この事件と並行して、一つの小さな毒殺事件が発生した。内容は一人の妾が恋人と添いとげるために旦那に殺鼠剤を飲ませて殺したという、市井の痴情事件にすぎない。そして広沢暗殺事件は当時の警察力のすべてを機動したがついに真犯人はあがらなかったのにたいし、こちらの旦那殺しは「天には口はなけれども、世の人々にいわしむる噂」という形で警察当局の追究するところとなって、犯人の原田キヌが逮捕された。
広沢事件の犯人が逮捕されたならばおそらくその処刑は山田家の手によって、とすれば吉亮の手によって執行されたであろう。一方の旦那毒殺事件の犯人・原田キヌはやがて吉亮によって斬首されることになる。
明治五年二月二十日、小塚原に女の首が一つ晒された。その捨札には次のようにあった。
捨 札
[#地付き]東ケイ府貫ゾク小林金ペイ妾
[#地付き]ニテ浅草駒形チヤウ四番借店
[#地付き]原 田 キ ヌ
[#地付き] 歳二十九
[#この行1字下げ]此者儀妾ノ身分ニテ嵐璃鶴トミツツウノ上主人金ペイヲ毒殺ニ及ブ段不届至極ニ付浅草ニオイテケウボクニオコナフ者也
高利貸・小林金平の妾として猿若町《さるわかちよう》一丁目に囲われていたお絹は、旦那の目を盗んで〈役者買い〉にうつつをぬかし、市川団蔵、助高星高助、尾上菊五郎、市川|女寅《めとら》、坂東|家橘《かきつ》といった当時売出しの歌舞伎役者と関係をもっていたが、大阪上りの嵐|璃鶴《りかく》を知ってからは璃鶴の魅力のとりことなり、夫婦約束をかわす仲となった。そこで邪魔になったのが旦那の金平である。そのうえお絹の浮気に嫉妬した金平は、外出のできぬようにと、お絹の髪を根もとからバッサリと切ってしまった。
恋人に逢えなくなったお絹は一層金平を憎み、一度は殺鼠剤のマチン(蕃木鼈)を四、五粒粉にして、これを煮染めのなかに入れて金平に食べさせたが、こんな苦い煮染めは口に入らないと吐き出されて、毒殺に失敗。
明治四年の正月、三ガ日だというのに病気に臥していた金平の看病をしながら、こんどは岩見銀山ねずみとりを二袋買って、まず一袋を道明寺に白湯《さゆ》でかきまぜて飲ませた。その晩、真夜中から吐くやくだすの悩乱ぶりで、この調子なら二、三日中には死ぬだろうと様子をみていたが、七、八日たっても死なない。そこで残りの一服を医者の高貴薬だといってのこらず咽喉へはたきこみ、白湯で腹のなかへ流しこんでやった。その晩、金平は悶死した。
死人の内葬もすまし、三七日《みなぬか》の過ぎるまでじっとしていたが、忌明けを迎えると飛び立つ思いで璃鶴のもとへ走ったお絹は、旦那毒殺の一件を打ち明けて結婚を迫った。臆病な璃鶴は胆をつぶしたが、それほどまでに私のような者を慕ってくださるかと溜息をつき、もしも世間にその事が知れたら、あなたは主ころし、つながる縁の自分も同罪、いずれ二人は偕老同穴の契りを結ぶのだから、末を思えば互いにしばらくは会わないほうがよいと諭したので、お絹も四月のはじめ駒形町四番地へ移って、ほとぼりの覚めるのを待っていた。
しかしだんだんと旦那殺しの噂がたち、それを第五大区の探索方が耳にして極秘裡に探索したところ、お絹は主殺しに相違ないという証拠をもって訴え出る者もあって、七月十日、浅草寺にある第五大区の屯所《たむろ》に召喚された。そしてついに璃鶴との姦通から金平の湯灌のさいの紫色に変っていた死骸のことまで証人が現れ、岩見銀山ねずみとりの入手経路も露見してしまった。探索方はただちに猿若町二丁目の守田座で芝居の最中であった嵐璃鶴も逮捕した。
結局、金平を毒殺したのはお絹の単独犯行とわかったが、璃鶴はそれを知りながら訴えもしなかった点に罪ありとされ、お絹は斬罪の上、小塚原で梟首、璃鶴は徒刑三年を言い渡された。
ところがお絹は璃鶴の子を孕んでいることがわかり、刑の執行は延期された。十一月八日夜、お絹は男の子を分娩。璃鶴の店請人《たなうけにん》某がその子を引取り、璃鶴の〈リ〉とキヌの〈キ〉を取って力松と名づけ、千住竹の塚の商家に里子に預けたといわれる。
産後百日は手当をさせるという獄則の期限も過ぎた翌五年二月二十日、お絹の死刑執行が吉亮の手でおこなわれた。前年七月二日に法規の改正があり、「梟示者の行刑場は武蔵小塚原」と定められていたので、お絹のばあいも小塚原の刑場で行われることになった。
この日、お絹がいよいよ小伝馬町の牢を出るとき、娑婆にあってはおそらく〈夜叉〉と呼ばれ〈蝮〉と嫌われたのであろう他の女囚どももさすがに別れを惜しみ、
「お絹さん、未練を残さず立派に成仏してくださいよ。これはわたしたちのほんの|寸 志《こころざし》だけど……あの世にいっしょに持って行ってくださいな」
と数珠を渡してくれた。
それは彼女たちに与えられた|もっそう《ヽヽヽヽ》の飯粒を丸く堅めて、百八つの煩悩に形どって百八粒の珠をつくり、それに紙小撚りを通した見事な数珠であった。細紐で両手を背中にしばられているお絹は、ふかぶかと頭を下げて礼をいうと、小塚原送りの人足頭・岡本長次郎がその数珠を受け取って、お絹の首へ懸けてやった。
|寝※[#「竹/便」、unicode7baf]輿《ねあんだ》という糸立《いとだて》で外部を包んだ平たい竹輿《たけごし》に乗せられたお絹は、千住の小塚原へ人足どもに護送されたが、この日はいわゆる〈追っ立て〉の疾駆もなく、普通の足どりで刑場へ運ばれ、着くとすぐに藁繩で縛り替えられた。
吉亮はこの日、白昼公衆の面前で斬るというので、使用する刀にも気を配り、濃州|関 住人《せきのじゆうにん》孫六初代|兼元《かねもと》二尺三寸五分、幅一寸三分、反《そり》は六分半の最上大業物を持参した。目貫《めぬき》は金無垢に網に鳩の図柄が彫ってあり、彫師は奈良|利寿《としひさ》。鍔は鉄丸形に正阿弥政徳《しようあみまさのり》の金象嵌。手慣れた愛刀である。
やがて面紙《つらがみ》で目隠しをされたお絹が引き出されて、荒蓆の上に坐らされた。お絹は女にしては珍しく静かで、そのしおらしさが年に似合わず可憐であった。
「璃鶴さんはどうしましたか」
とお絹が繩取りの仙吉に消えるような声で聞いた。お絹は璃鶴の刑名を知らず、自分が妊娠のため処刑が永びいたので死に遅れていると思い込んでいたのであろう。仙吉はちょっと口ごもって考えていたが、達者で生きているというのがどうにも言えなかったのであろう、
「もうあの世で蓮《はす》の台《うてな》に坐り、半座を空けてお前を待っているだろうよ」
と嘘を言った。
「ほんに可哀そうなことをしましたね」
お絹はそういうと前を向いて首を差延べた。面紙の下から頬を伝って落ちる涙が見えた。
吉亮が首を斬り落すと、首といっしょにバサリと飯粒で作った数珠が血溜りの茣蓙の上に落ちた。そのうえに鮮血が勢いよく、茣蓙に音たててしぶいた。飯粒が血を吸って赤い珠のつながりとなった。
仙吉がお絹の顔を洗い、古式に従って右側の頬を検視役の松岡康毅のほうに向けて差出した。吉亮はお絹の細面の死顔をみて、予想していたほど飛び抜けた美人だとは思わなかった。そしてちょっとがっかりしたのは、自分でも不謹慎だと思った。
そのとき、正午を告げる午砲《ドン》が微かに聞えてきた。それは去年の九月九日から、東京城旧本丸で毎日正午を報らせることになった大砲の音である。
「ほう、ここまで聞えるんですな」
と、誰かが驚きを洩らすと、いままで固唾をのんで静まりかえっていた公衆が、呪縛から解き放されたように騒めき、人混みの環が解けはじめた。
吉亮はこのお絹の処刑のさいの飯粒の数珠と終ったさいの午砲の記憶を生涯の語り草とした。
ここで原田キヌ事件の後日譚ともいうべき余談を入れさせていただこう。──
徒刑三年を言い渡された嵐璃鶴は石川島の獄に繋がれ、明治七年八月十六日、満期出獄した。そして市川団十郎にひろいあげられて市川権十郎と改名し、再興したばかりの河原崎座へ出演するようになった。権十郎とお絹の問題は当時の世間の耳目をあつめた事件だったので、歌舞伎を見るほどの人間でそれを知らぬ者はなく、それが評判をとって権十郎の人気はあがったという。
また権十郎と同じ石川島の獄に入っていた老人の話で、さすがの役者の璃鶴も当時は外役のため陽に焼けて真っ黒こげ、これでは来年出獄しても舞台に出られないと嘆くので、同獄の者どもから嘆願して、病監付にしてやった、病監には風呂があり、役付は入れるので、璃鶴はセッセと磨いて出獄し、権十郎となって、殿様役者で栄えた、という回顧談が残っている。
明治十一年、岡本勘造という人の『夜嵐阿鬼怒花廼婀娜夢《よあらしおきぬはなのあだゆめ》』が出版された。この題は同小説中にお絹の辞世として載っている「夜嵐にさめてあとなし花の夢」から採ったものであるが、勿論お絹がそんな辞世を口ずさんだとは考えられない。これ以後〈夜嵐お絹〉の名が当時ベストセラーとなった〈毒婦物〉のスターの一人となり、〈高橋お伝〉や〈鳥追お松〉と肩を並べるようになった。明治四年に時を同じくして起きた広沢真臣暗殺事件の広沢真臣を知らない人でも、夜嵐お絹の名だけは知っている者が多いのはそのためである。
明治二十年二月二十七日付「絵入自由新聞」の雑報欄に「不思議の輪廻」と題して次のような話がある。
ある日、浅草今戸にある市川権十郎の宅へ十五、六歳の男の子が訪ねて来て、「ぜひ親方に会いたい」という。権十郎の妻が「親方は浅草西鳥越の中村座に出演中で、いまは留守だが、何用か」と訊ねると、「私は親方さんと血を分けた本当の親子でございます」といって、お絹が獄中で産み落した男の子が自分であるといい、千住南組の何某方の養子となって育ったけれど、実の子が生れたため継母が邪慳となり、それが辛くて居たたまれず、四、五日前に家出してきたのだ、という話であった。権十郎の妻は「親方が帰られたら話して、どうかしてやろう」と一旦帰し、権十郎の帰宅後この話をすると、権十郎は「いつも心にかかっていたのはその子の行衛であった」というので、妻は翌日さっそく南千住へ尋ねて、近所でその養子のようすをきいてみると、「あの家は一家むつまじく、養子も可愛がられている」という。「さてはきのうの子供は騙《かた》りだったか」といまさらのように驚き、帰ってこの話を権十郎に告げて、その話はそのままになった。油断も隙もならぬ話ではあるが、お蔭で実子の所在《ありか》が知れた奇遇である、という記事である。
21
明治四年七月九日、政府は刑部省と弾正台を廃し、司法省を置いた。したがって囚獄司は司法省に属することとなった。
七月十四日、廃藩置県の詔が下り、三府七十二県の区劃を定め、府に知事を、県に県令を置いて地方の長官たらしめ、従来の郡区町村を廃して大区小区に分ち、世襲又は公選の庄屋、名主、年寄に代って官選の区長戸長を置き、維新当時七、八万の町村は、七千足らずの区に縮減した。
七月二十九日以降、政府は太政官制の大改革を行う。これによって天皇制官僚機構が確立し、中央集権制が固められてゆく。
八月十八日、司法省管轄下の囚獄司を廃止し、囚獄(旧牢屋敷)をふたたび東京府の管理に帰せしめた。そのため山田吉豊は「東京府囚獄掛斬役」の辞令をもらうこととなった。
八月二十八日、「穢多」「非人」の称を廃し、身分職業等を平民同様とした。当時の穢多は二十八万三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等賤業者七万九千九十五人、計三十八万二千八百八十六人であった。
十月二十三日、邏卒《ポリス》三千人を東京府下に置き、日夜市中を巡査せしめて人民の保護にあたらせた。
十一月十二日、右大臣岩倉具視を特命全権大使、参議木戸孝允・同大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口|尚芳《なおよし》を副使とした訪米欧使節団四十八名がアメリカ汽船に乗って横浜を出港した。
時代は流れてゆく。まるで時間というものに一つの意志があるように、何かに向って流れてゆく。しかし吉亮たち山田家の者にとっては、それがどちらに向って流れてゆくのか、知りえようはずもない。
御一新のときはまだよかった。当時の不安はたしかに今よりは大きかった。しかし、これから先にどんな時代が来るかわからないにしても、「えーッ」と目を瞑《つぶ》って飛び込めば、とにかく〈新しい時代〉がそこにあるのだという安心感がどこかにあった。その〈新しい時代〉というものが漠としてわからなかったおかげで、かえって飛び込むことができたのだ。
ところがその〈新しい時代〉の流れのなかに入ってみたとき、それはあまりにも急流であり奔湍であった。だれが船の行先を知っているのだろうか。眼の前に現れる岩や浅瀬を避けることだけに気をとられて、そこをぐるっと廻った先になにがあるのか。それを知っている人間がいるというのか。〈文明開化〉だという。それもたいへん結構である。しかしその〈文明開化〉のために、こんなにまで多くのものを船の外へ投げ捨てなければ船が沈んでしまうというのか。
山田家としてはどうなのか。〈文明開化〉とは〈朝令暮改〉なのかと思われるほど絶えず官制が変り、囚獄関係の法規が次々と改正されるたびごとに、なにかが失われてゆくようでならなかった。それがなにかときかれても、これと指摘するのはむずかしいが、絶えず喪失感がまとわりついていた。
その目に見えない喪失感が、兄の吉豊と在吉の生活を乱しているのだ、と吉亮はときどき考える。二人の兄の小伝馬町へ通う態度は日一日と気紛れになっていた。罪囚の首を斬る日にさえ、ゆうべの酒の饐《す》えた臭いを発散させて斬り場に出ることも珍しくなかったし、内藤新宿あたりで流連《いつづけ》し、そのまま顔を見せないことすらあった。勿論、そういうときには小伝馬町のほうは吉亮と浜田が二人で支障なく取り仕切るのであったが、しかし吉亮は兄たちの放恣ぶりを咎める気にはなれなかった。時代の流れにたいする抵抗を、喪失感にたいする心のとまどいを、そういう形でしか表現できないのだと思った。むしろ自分よりは兄たちのほうが時代の流れに敏感で、先の先まで見通しているために、生きて行くのが辛くなっているのだ、と考えるのであった。
時代は流れて明治五年を迎える。この年の元旦は快晴に恵まれたが、寒気は厳しかった。その寒気が続いて、五日には雪を見た。
寒さが続くと火事が多いのも、江戸と呼ばれた頃とたいして変らなかった。
一月十日の早朝、吉亮は「火事だ!」という声で目を覚ました。バリバリと板の燃える音と障子を赤く染めた色模様から、火は近いと悟った。
寝巻のまま庭へ飛び降りた。浜田がすでに身支度を整えて、門人たちを指揮していた。
火元は吉亮たちの家から道を一本距てたすぐ裏通りの、平河町二丁目の空家だという。
「寒さに堪りかねた浮浪者《やどなし》が入りこんで、煖を採ろうとしたのかもしれません。まさか炊出し食べたさの一念で、放火《つけび》したとは考えられませんからな」
浜田はそういうと、「火たたきだ! 屋根に水を上げろ!」と叫んで、その場を離れて行った。
吉亮は部屋にもどってすぐ身繕いすると、吉豊の妻の|かつ《ヽヽ》には彼らの長男松次郎と次男又次郎を、在吉の妻の|せん《ヽヽ》には娘の|なを《ヽヽ》をそれぞれ監督させて、みずからは屋根に昇って門人たちと防火の準備を整えた。はじめは火の粉がこちらへ飛んできたが、さいわい風が変って平河天神社のほうへ向った。明け方だったので町内の人々も起き出すのが早かったが、それでも四丁ほど焼いて、天神社まで類焼してしまった。
麹町の家から火事見舞に来た真吉《まさよし》にまで手伝わせて、家族全員で炊出しの握り飯を作って罹災者に届けたが、この日も吉豊と在吉は昨夜から家を不在にして、朝になっても帰って来なかった。
「父上はどうなさったの?」
と質問する子供たちをなだめすかしている二人の嫂たちの苦しい胸のうちが、襖越しながら吉亮には突き剌さるように迫って堪えがたかった。山田家はもう崩壊しているのではないかという不安が、突然吉亮をとらえた。
二月二十六日、また火事があった。こんどの火事は吉亮とは直接関係はなかったが、もっと遙かに大きなものであった。この日は風が強かった。未《ひつじ》半刻(午後三時)、和田倉御門内の元会津侯屋敷、当時兵部省添屋敷から出火。日比谷・銀座・京橋一帯を焼き、さらに三十間堀から築地まで町数四十一町、五千戸、二十九万坪を焼失して、亥の刻(午後十時)鎮火。西本願寺や築地ホテル館も烏有に帰した。丸の内馬場先門前に新築された精養軒などは、開業したこの日に類焼してしまった。
これも余談になるが、この火事が銀座煉瓦街の産みの親となる。焼跡に欧米なみの不燃性市街を造ろうとして、まず作ったのが新橋・京橋間の日本最初の十五間道路であった。そしてその費用の捻出にあたってとりあえず利用したのが、江戸町民が凶荒備蓄用として積み立ててあり、御一新のとき町奉行所からそのまま新政府に移管した七分積金である。また煉瓦街をつくるには厖大な量の煉瓦が必要である。ところが煉瓦など作ったことのある職人は一人もいない。瓦職人だけである。そこでこの建設事業の主任技師であるウォータースがみずから乗り出して、これも町奉行所の管轄下にあった小菅の旧|町会所《まちがいしよ》の籾蔵あとに煉瓦をやく窯を築いて指導したという。江戸町民の遺産が東京市民のなかに生きつづけたわけである。
時代の流れは相変らず目まぐるしい。
二月二十八日、兵部省を廃止、陸軍省と海軍省を置く。
三月一日、東京府下一日三度郵便を配達することになる。
三月八日、壬申戸籍が作成された。
このように年表を並べては|きり《ヽヽ》がないであろう。明治五年はこのあとに、七月から始まるマリア・ルーズ号事件、八月の〈学制頒布〉、九月の〈新橋・横浜間鉄道開通〉、マリア・ルーズ号事件から派生した十月の〈人身売買禁止令〉、十一月の〈徴兵令制定の詔書発布〉、そして十二月三日をもって明治六年一月一日とする〈太陽暦採用〉と、西欧近代化路線の通らねばならぬ関門が目白押しに並んでいる。
こういった流れのなかで、吉亮の記憶に一生涯強い印象を残すことになる、不思議な事件が持ち上った。
〈不思議な〉というのは、現職の司法官が職務上見当違いの怨みをうけ、訴訟関係人から斬りつけられるという〈珍しい〉事件が起きた、という意味である。
明治五年八月十日、のちに初代大審院長となり、〈今大岡〉と称せられた玉乃世履《たまのせいり》が、神田橋の上で暴漢に斬られるという事件が起きた。当時彼は司法|権大判事《ごんだいはんじ》という役職にあり、犯人は第一大区十六小区大川端町五番地借地に住む代言人・服部喜平治という男であった。
この日、朝十時頃、玉乃は司法省に出勤するため人力車に乗って駿河台の自邸を出た。いつもなら供の者が付添っているのであるが、このときは何か用事があって先に司法省へ行かせてあった。
車が神田橋の中央へさしかかったとき、何者かが右の肩先を棒で打ったような感じがした。
「さてはだれかに刺されたな」
と肩を見たところが、流血がおびただしく服を染めていたので、すぐに人力車を飛びおり、
「狼藉者、待てッ」
と叫んで追いかけた。
兇漢は六、七間先を短刀片手にバタバタと駈けてゆく。その足どりは若者のものではなかった。
「ポリス、ポリス」
と、玉乃は追跡しながら警官を呼んだ。(当時は警官とか巡査を原語のまま呼ぶのが普通だった。玉乃の西洋好みのせいではない。)
さいわい、一町ほど追ったとき、巡回中のポリスが現れ、即座に取押えた。そこへ玉乃が追いついて、すぐに屯所(交番)へ連行した。屯所で落着いてよくみると、その兇漢はかつて自分が審理したことのある服部喜平治(五十一歳)であるのを知って、玉乃は改めてびっくりした。
玉乃は服部喜平治に関して訴訟を扱ったことが前後三回あった。
明治二年、民部官設置のさい、当時まだ玉乃東平と名乗っていた世履が聴訟権正としてそこに勤めていたときに、第一回の関係が生じた。民部官というのはのちの内務省の前身であり、農林・通産・郵政の事務の一部も掌り、かつ民事の裁判権を持っていた。聴訟権正とは民事課長次席とでもいった裁判官である。玉乃は岩国藩の人材として認められ、新政府に採用されてこの地位にあった。
喜平治は上総国生れの百姓上りで、二十年前に江戸へ出、深川松井町で炭と油の問屋を営んでいたが、この年、新治《にいはり》県(現在の茨城県)西楢戸村組頭・百姓与左衛門という者とのあいだに訴訟があって、玉乃がこれを担当した。
ところが吟味の結果、喜平治が謀書(私書偽造)をやったことが明白になったので、旧律にのっとり喜平治を百日の手鎖《てぐさり》に処した。
「その事件を遺恨としたのがこんどの発端だ」と喜平治は白状しているが、逆恨み以外の何物でもあるまい。
第二の関係は去年(明治四年)のことである。当時、東京府で民部権大丞と東京府権大判事とを兼務していた玉乃の扱った事件で、喜平治が深川八名川町の谷川平十郎外二名と訴訟をなし、三百六十両請求の訴訟であったが、これは喜平治が勝訴となって二百両手に入ったのであるから、恨む筋合は全くない。
さて、最後は今年(明治五年)のことである。玉乃は現在では司法権大判事として全国の裁判を総括する第一等裁判所の司法裁判所と、東京府中の裁判を司る第二等裁判所の東京裁判所との二局を総括していた。
この東京裁判所のほうに喜平治が訴えられていたのである。訴えたのは去年の訴訟相手だった谷川平十郎の忰卯八郎で、内容は去年の事件の後始末において喜平治の側に不都合ありというものであった。とにかく喜平治という男は相当にあくどい商法の綱渡りをしていたようである。
この訴訟の担当は権少判事・児島惟謙であった。児島は伊予宇和島の出身で、のちに大津におけるロシア皇太子遭難事件のさい、大審院長として司法権の独立を守りぬいた硬骨漢である。この児島権少判事の炯眼にかかってはいかな訴訟狂の喜平治も歯が立たず、聴訟中に喜平治の悪事がだんだんばれてきて、ギュウギュウの目に遭わされる羽目に立ち到った。
いまや絶体絶命の喜平治がふと考えついたのは玉乃権大判事のことである。自分がこんなに追い詰められたのは玉乃が司法権大判事として背後にいて児島に指令を発しているからに違いないと邪推し、これを暗殺して恨みを晴らそうと決心した。そして八月五日頃から毎日のように玉乃の隙をねらっていたが、ようやくこの十日にその機会をとらえることができ、しかも見事に失敗したのであった。
喜平治を屯所に引渡してから人力車に乗ろうとしたとき、玉乃ははじめて右肩の痛みを意識した。
五丁ばかり車を走らせて帰宅し、マンテルを脱いだところ、白のシャツ襦袢が右の肩から腕先まで血まみれになっており、これを見た妻と子供はびっくりして泣き出したが、冷水で決ってみたら疵は一カ所で長さ一寸ほどの浅傷《あさで》であった。
喜平治の取調べは司法省で行われた。当時は司法省と裁判所とに区別が無かった。その結果、九月二十七日、
「勅任官ヲ殺サント謀り傷シテ死ニ至ラズ」
という罪名で斬罪に処せられることとなった。
死罪場に引き出された喜平治の姿を見たとき、
「あ、これはいけない」
と吉亮は思った。喜平治の暴れ方が尋常一様のものではなかったのである。
繩取りの仙吉や押え役の常吉・定吉と、文字通りくんずほぐれつの取っ組みようなのである。面紙がどこかへ飛んでいたのはいうまでもない。後ろ手にしばられているとはいえ、自分のほうから仙吉たちに体当りをくらわせ、隙あらばそのまま小伝馬町の囚獄から脱走しようとする気配であった。
目は吊り上り、瞳は拡散して、狂人以外のなにものでもない。足で押え役たちを蹴上げると、褌がはずれて陽物が飛出すし、押え役たちが乱暴狼藉を静めるために張り手をくらわすと、逆にその手に噛みついてゆく。
「出て来い、玉乃め。きさまを殺さぬうちは、服部喜平治は絶対に死なんのだ。面《つら》を見せろ、国賊め。掠り傷一つでどうしてわしが死罪になるのだ。おーい、わしに死刑を宣告した吉本判事はいないのか。きさまも生かしては置かんゾ」
大狂乱、大叫喚。さすがの仙吉たちも持て余しぎみである。
ついに常吉が足搦《あしがら》をかけて、土壇場の前の蓆の上に喜平治を転がした。跳ね起きようとするところに、三人が上からおっかぶさるように重なって押えつけた。するとこんどは頭を左右に振る。元結《もとゆい》が切れて髪がバサバサと乱れた。
吉亮ははじめて女の首を斬ったときのお辰の頭の振り方を思い出した。|石 橋《しやつきよう》の獅子、しかもこちらは雄獅子のような迫力がある。検視の役人どももただ唖然としているだけであった。
吉亮が傍へ寄ると、ますます狂い出し、
「きさまが首斬り浅右衛門か。斬ってはならんぞ。斬ったが最後、化けて出て取殺してやる」
と、三人を払い除けようと、全身で跳ね上る。斬れといっても斬れるものではない。
「若先生、このまま斬《や》ってください」
「どうしようもありません。体だけは押えてますから、首を押し斬りにやってください」
定吉たちもいまは息をはあはあ乱しながら叫んでいる。
「よし、放してしまえ」
吉亮が命じた。
「えッ? 放すんですか」
「かまわん。大丈夫だから野放しにしてしまえ」
三人が、
「ようがすか。放してもようがすか」
と危ぶんで念を押した。
「よろしい」
と吉亮がもう一度答えると、三人が互いに呼吸をはかってさっと身を引いた。
途端に跳ね起きた喜平治は、後ろ手に縛られていながらも驚くほど敏捷に、血溜りを飛び越えて駈け出そうとした。吉亮は抜く手もみせずに背後から喜平治の右肩に峰打ちを一つくらわした。
「グッ!」
と息を洩らした喜平治は二、三歩よろめいてから一瞬立ち止まったが、振返りざまに、
「ウォーン」
というような唸り声をあげると、吉亮に向って迫ってきた。両眼も鼻孔も口も、これ以上大きくならないほど開かれていた。
喜平治が間合に入ったとき、吉亮は躊躇なく刀を横に水平に払った。首が吉亮の頭上すれすれに飛び越えてうしろに落ち、刀身を洗う手桶にぶつかってこれを倒した。
手桶の水のザーッとこぼれる音と重なって、吉亮の顔のまともに喜平治の頸動脈から血が噴きつけた。血溜りを間において、首のない屍《むくろ》を吉亮が両手で支えている恰好になっていた。頸動脈の斬り口が笛になって、ピーッピーッと微かな音をたてるたびに、塩っぱい、同時に咽せるような異臭をもった熱湯が、遠慮会釈もなしに吉亮の眼や鼻や口にぶつかってきた。
吉亮の羽織っている絹紬《けんちゆう》の紋付から、小紋を散らした袷まで、全身|蘇芳《すおう》色にぐっしょりと濡れていた。首なし死体の膝がカクッと折れたとき、それまで呆気にとられて手が出せなかった定吉たちが走り寄って、死体の頸部を血溜りに向けて押し揉んだが、血はもうほとんど残ってはいなかった。
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「旧麹町区役所除籍簿」にあった山田家の戸籍によると、戸主山田吉豊には一人の妹がある。名前は|いさ《ヽヽ》と言い、「明治六年十一月出生」となっている。日付は不明である。
この|いさ《ヽヽ》というのは、吉豊・在吉・吉亮・真吉四人兄弟の父である浅右衛門七世、当時隠居して和水と号していた吉利と、その後妻素伝とのあいだにできた娘である。このとき和水は六十一歳、素伝は三十二歳であった。
さらにこの戸籍の記載をたどると、翌明治七年二月十二日、戸主の吉豊は「職務被差免」となっている。つまりそれまで山田家の代表として小伝馬町囚獄で斬首の刑の執行にあたっていた長男吉豊が、〈東京府囚獄掛斬役〉の職務を辞めたのである。そのあとは三男の吉亮が引き継いだ。
つづいて三月九日、和水、素伝、|いさ《ヽヽ》の三人が「第三大区五小区市ヶ谷八幡町送籍致ス」とあり、六月十八日には「第三大区弐小区麹町八丁目十四番地へ在吉、せん、なを家族別戸致ス」とある。つまり次男在吉の一家がそれまで同居していた〈麹町区平河町壱丁目拾壱番屋敷〉の吉豊の家から、それまで和水たちのいた麹町の家へ引越したという意味である。
以上を総合してみると、父吉利と素伝の間に|いさ《ヽヽ》が生れた明治六年の末から七年六月までの約七カ月のあいだに、山田家に大きな変化が生じたということである。
御一新以後、めまぐるしい時代の変化の中にあって、山田家の内部は表面的には変化をみせず、なんとか持ちこたえてきたのであったが、七世吉利と後妻素伝とのあいだに子供が、しかも女の子が一人生れたということで、紐を抜かれた操り人形のように、いっぺんにガラガラと変化してしまったのである。そしてその変化というのは、その後の歴史をたどってみると、崩壊への道を音をたてて転り出したという変化であった。
勿論、|いさ《ヽヽ》が生れたという内部事情だけのせいではないであろう。前述した服部喜平治の処刑(明治五年九月二十七日)以後にも、時勢の浪は依然として大きく山田家の外周《そとまわ》りを浸蝕していた。それは欧米法の継受という、安政の不平等条約を改正するためにわが国が被《かぶ》らねばならなかった西欧近代化の浪である。治外法権を撤廃し、条約国の国民をわが国の法権に服せしめるためには、欧米式の法典を定め、刑獄の制度も欧米風に改めねばならないという必須条件が前提されていた。
まず明治五年十一月二十九日、監獄則および監獄図式が府藩県に頒布された。
これは小原重哉がイギリスの監獄制度を参酌して作ったもので、当時としては画期的な法典であった。もっともそれはあまりにも理想に走りすぎ、たとえばヨーロッパ風の石造煉瓦塀の堂々たる監獄をただちに建造しようとする小原の熱意はかえって当時の政府の財政に脅威を与え、大蔵省の猛反対をうけて、翌六年四月に全面的施行を停止されるにいたったが、その精神は明治三年十二月の「新律綱領」と明治六年六月の「改定律例」とを繋ぐものとして意味があるし、やがて明治八年五月、設備の悪い小伝馬町囚獄が市ヶ谷に新築された獄舎に移転する契機ともなった。
次に明治六年二月二十日、太政官布告をもって〈絞罪器械〉が改正されている。
これは「新律綱領」制定のさい、絞首の器械として採用された〈絞柱〉が実際に使用してみると受刑者の苦痛がはげしく、「臨刑ノ状ヲ聞クニ囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際腹肚起張血耳鼻ヨリ出テ其ノ苦痛言フ可ラス」(明治五年十月・鹿児島県伺)といった状態であり、そのうえ制定後二年のうちに、二、三の蘇生事件が起きて、その不完全さが証明された結果の改正であった。
この絞柱の不備であったことは司法省も認め、明治五年八月、次のような伺《うかがい》を太政官正院に提出している。
[#この行1字下げ]新律綱領獄具図中絞罪器械ノ儀ハ実用ニ於テ絶命ニ至ル迄ノ時間モ掛リ罪人ノ苦痛モ有之候ニ付今般西洋器械ヲ模倣シ別紙ノ通リ製造致シ候間従前ノ器械ハ被廃止候様仕度此段相伺候也
ここで〈西洋器械〉といっているのは、イギリス式のものである。前述した小原重哉が、明治四年、香港やシンガポールに出張してイギリスの監獄制度を視察したさい、同地で実見した図解を待ち帰って絞柱の改正意見を具申したからである。小原の回顧談に次のような一節がある。
「新律綱領にて定められた絞罪器械の製方が未だ完全ならず、死刑者の苦悩惨状に於て実に名状すべからず。加之、死体検査の後、其屍の下附を受けし親属の家にて蘇生せし者さえ全国にて三人許りもありたるに付私が嘗て実物を写生し致しておきました英国器具の絞合を軌範にして自ら数個の模形を造り、日本橋区鍛冶職吉田辰蔵に示し、実物六十分一に当る改正の様本を製し、絞罪器械改正の意見を上《たてまつ》りました。」
こうして出来たのが〈絞架〉である。
これは高さ九尺(階段を八段昇る)で、八尺四寸に一丈の広さの台を作り、その台の中央部にさらに八尺の高さで鳥居のように二本の柱を設け、その横木から絞繩がさがっている。台上中央部に八尺に六尺の踏板があって下に開くようになっていて、その開落は台の側面にあるハンドルで行う。
この〈絞架〉によると「機車ノ柄ヲ挽ケバ踏板忽チ開落シテ囚身(地ヲ離ル凡一尺)空ニ懸ル凡二分時。死相ヲ験シテ解下ス」ということで、前の〈絞柱〉が「空ニ懸ル凡三分時」であったのにくらべて、一分間の時間短縮となったわけだ。
(〈絞架〉となってから蘇生者は絶無《ヽヽ》となったかどうかは疑問の節もないではないが、その基本形式は現在もほとんど変っていないといわれる。一書によれば、「当初は絞首台上に階子段《はしごだん》によりて登ることとせしを改め、明治十五年以来、平板上を歩むのみに止め、地平面上に於ける台の転回によりて絞首せらるることとせられたり。是れ死に当面しては、多くは恐怖或は狂乱して、従容として登段するもの極めて少く、取扱上甚しき不便ありしを以てなり」とある。また昭和二十二年、「アサヒグラフ」に紹介された広島刑務所の絞首台の写真によると、絞架そのものに立派な屋根が冠せられ、階段にあたる部分はゆるやかなコンクリートの道になっており、したがって台の高さは地平面からほんの少し出ているだけで、床が下方に開いて地下室に吊り下がるようになっている。)
当時の司法省は「絞架ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其絞柱ニ優ル所以ハ器械ノ施用極テ簡便、殊ニ罪人ノ断命速疾ニシテ最モ苦悩少ク実験上其效不[#レ]少」と自負している。
この司法省の自負こそ山田家にとっては最大の致命傷ともなるべきものであった。簡便な器械で囚人の苦痛を最も少くし、確実に絶命させうるなら、斬首という執行法の存続については一考を要するとなることは、自然の帰趨であろう。この〈絞架〉の出現はやがて山田家からその家業を奪うこととなる。
第三番目に押し寄せた西欧近代化の浪は、前にも少し触れた「改定律例」の公布である。明治六年六月十三日であった。これは「新律綱領」と並び行われたが、新律綱領が東洋系刑法典の集大成であるのにたいして、改定律例は欧米法による修正だったので、下駄と靴を左右に穿くような、ちぐはぐな結果を産んだ。しかしこれはやがて「旧刑法」(明治十五年刑法)へと発展して、〈斬首〉の刑を廃止することになる。
こうみてくると、明治六年末から七年にかけて山田家を襲った大きな変化は、すでに外部からほとんど完全に準備されており、起るべくして起きたといってよいかもしれない。山田家の者たちがそれを意識していたかどうかはわからないにしても、山田家の将来というものがすでに袋小路に入って脱出の場所を失っていたのである。|いさ《ヽヽ》の出生は単なるきっかけを与えたにすぎない。しかし山田家の人間として主観的な立場から考えるならば、父の後妻に娘ができたということは、大きな衝撃であったことは否めないであろう。
素伝が身重らしいという話が平河町の吉亮たちの耳に入ったのは、明治六年も半ばを過ぎる頃であった。
はじめは誰もすぐにはその話に信を置く者はいなかった。素伝が後妻として父吉利の許へとついできてから、足かけ十年にもなっていた。なるほど素伝の年齢はまだ三十二歳であり、身重になるのに不思議はないが、父はすでに隠居して和水と号し、しかも六十一歳にもなっているのである。還暦の祝いもこの正月に行なったばかりであった。いままで一度も身ごもる気配もなしに過ごしてきて、いまごろになって急に懐妊するというのが、どうもにわかには信じられないのである。
同時に、先妻の子としての平河町の三兄弟にとっては、後妻に子供ができることは望ましいことではなかった。世間によくあるように、山田家内部に風波の立つ原因となることも予想されるからである。
素伝に子供ができることに一番いきりたったのは在吉《ありよし》であった。
「女狐め、ついに本性を現わしたか」
とまで言った。
もともと在吉は素伝と馴染《なじ》もうとはせず、素伝があれだけの教養と美貌に恵まれていながらこんな山田家のような世間から兎角の目で見られる家に後妻に入ったのには必ずや黒い下心があるにちがいなく、山田家の財産目当て以外の何物でもないと頭から決めてかかって、それにたいする警戒の念をゆるめることはなかった。したがって兄の吉豊にしても、弟の吉亮にしても、素伝に親しみをもっているような言動なり態度を示すと、それに対して露骨に嫌悪の情を現わした。
今回の素伝懐妊のうわさにたいしても、
「われわれ三人で親父に会い、その事実を確めたうえ、もしそれが事実なら、さっそく|中 条《ちゆうじよう》の医者にやって腹の子を処置させるべきだ。このまま見過しておいて、万一子供が生れたとなっては、山田家崩壊の憂えさえ起りかねない」
と、在吉は興奮して吉豊と吉亮に言った。
「なにもそこまでしなくても」
と吉豊がなだめにかかると、
「兄さん、それがいけないんだ。兄さんも亮《ふさ》も、あの女《おんな》にたいしては甘すぎていかん」
と、在吉はすぐに反撥した。
在吉の反論は次のようなことである。──
自分はなにもことさらに素伝を悪くいうものではない。彼女がいままで山田家にとって不利益になるようなことを働いた事実は全くないことは、自分もはっきり認めている。
しかし自分が素伝にたいして厳しいのは、彼女の山田家における位置というものをもっと警戒すべきだということである。
彼女が単に親父の夜の伽《とぎ》をするだけの分際にとどまっておるなら、妾と同じことなのだから、彼女の存在はむしろ親父だけでなく山田家としても有難い存在だといえるだろう。しかし、あのような頭の働く女が、ただ妾同様のつもりで後妻に入ったと考えるのは甘いし、またわれわれとしてもそう考えるべきではない。後妻はあくまでも後妻であって、妾ではないのである。そうとすれば、山田家として後妻にふさわしい待遇をしなければならぬことは当然である。
勿論、自分も、彼女一人くらいの食扶持や、親父が死んだあとの彼女の生活の保証くらいにまでケチケチするものではない。問題は親父がこの山田家の財産をどう処分するか、そのとき誰がその裏で糸をひくか、ということである。
まあ、考えてもみるべきである。御一新以後、この山田家がどんな財産を新たに増やしたというのか。なにもないではないか。徳川《くぼう》様時代に作った財産を居食いしているにすぎない。しかも兄さんは家督をついだといっても、役所の仕事を受け継いだだけで、財産のほとんどは親父が握ったまま離さない。この平河町の家計にしたところで、兄さんの月々の給料のほかに、わしたちみんながそれぞれ輪番で罪人の首を斬るたびにもらう、一と首当り二円の手当でまかなっているだけではないか。二円といえば米が一石買える金だ。決して安いという手当ではない。しかし、収入の道はそれしかないのである。しかも現在は試斬りも禁止されたし、斬首は少しずつあの首吊り器械にとってかわられつつある現状だ。このままで行ったばあい、山田家の将来は決して明るいとは言えないはずである。
そんな不安な状態にあるとき、あの女だけでなく、それに子供ができて、親父のあの甘さから、その子に財産を全部やる、などという事態が生じることを考えてみるべきである。われわれはどうやって食べてゆけるのか。
兄さんには役所からの月給がある。しかもこの平河町の屋敷がある。亮《ふさ》はまだ独り者だ。これからどうにでもなろう。それに較べて、家内や子供まであるわしの身にもなってほしい。親父からはなんの保証もされていないではないか。
──在吉の話はだんだん自己本位の泣き言に変ってきたが、そこにある将来にたいする不安は吉豊にしても吉亮にしても決して無縁のものでないことははっきりしていた。素伝の存在にたいして在吉ほど神経質に警戒する気持はないにしても、山田家の行く末に漠然とした不安を持っていることは、在吉と本質的に違うものではなかった。
「いいさ、兄さんも亮も気が進まぬなら、わしひとりで親父と会って、親父の胸のうちをとっくりと聞いてやろう。そして絶対にあの女に子供は産ませはしないぞ」
といきりたつ在吉を吉豊と吉亮は極力なだめすかして、結局、いちばん差障りのない吉亮が麹町の家へ行って、それとなく素伝の妊娠の事実を確め、そのうえで父和水の今後にたいする意向を三人揃って聞きに行く、ということでその日の話は終えることとした。
「亮兄さん、この更紗《さらさ》は他のよりは耳が長いでしょう。しかもぴんと立っている。これは高直《こうじき》なんですよ。一羽五十円もしちゃった」
そういいながら、真吉《まさよし》は皿に盛った豆腐の|おから《ヽヽヽ》を耳の長い兎の箱に入れてやった。五十円といえば大金である。
「また母上にねだったのだな」
「いいえ、兎市場《うさぎいちば》へ行って、前に飼っていた色変りの二羽と交換してきたんです」
いま真吉が飼っている兎は全部で五羽である。いつもは台所口の隅に飼育箱を五つ重ねておくが、晴れた昼間には日光浴をさせるために箱を日向に出し、糞《ふん》や小便で濡れた寝藁を替えてやったり、小さな櫛で毛並みを梳いてやったりして、大切に育てていた。
眼の赤い兎どもはいかにも臆病そうにおどおどしながら、口先だけをモグモク動かして|おから《ヽヽヽ》を食べている。それを無心に眺めている真吉は、ときどき飼育箱の櫺子《れんじ》の間から車前草《おおばこ》の葉を差入れてやった。すると兎は|おから《ヽヽヽ》を食べる口を車前草のほうに向けて、それを同じように口先でかじった。
油蝉が近くの樹立ちから真夏の暑気をジージーと絞り出している静寂の中で、陽にさらされて蒸発する兎どもの小便の臭気を鼻に感じながら、吉亮は、こんな光景は生れてから見たことがあっただろうか、と考えていた。〈首斬り浅右衛門〉の家の者が、兎を飼って育てている。……
吉亮には驚きであった。なんとも辻褄のあわせようのない|とまどい《ヽヽヽヽ》であった。〈時代が変った〉という言葉は、いままでに何度使ったことであろう。小伝馬町の囚獄でも、街を歩いているときでも、なにかにつけて〈時代が変った〉と詠嘆し、〈時代が変った〉と憤慨した。もうこのごろでは〈時代が変った〉という言葉すら風化して、老人の愚痴として以外には響かなくなっている。しかし真吉が兎を飼っている姿は、それにたいする反撥とか肯定とかいう吉亮の反応や理解力を超えた時代《ヽヽ》がそこに現前しているとしか言いようがなかった。
もう山田家は終りを迎えようとしているらしい。──吉亮は漠然とそんなことを考えていた。それにしても不思議なものが流行したものである。
去年(明治五年)の秋口からはやり出し、みるみる東京一円から、やがて大阪をはじめ大都市およびその周辺へと拡がって行った。兎といってもその皮を剥いだり、肉を食べたりというのではない。純粋に愛玩用なのである。
はじめは小鳥と同じように、ただ純粋にこれを飼育し観賞するにとどまっていたが、それがだんだん優劣を競うようになって、市場を開いたり同好会を催したりして、兎の品評会が盛んとなり、一種の賭博じみた道楽の様相を帯びてきた。
それが道楽にとどまっているうちはまだよかったが、さらに昂じて投機性を帯びてきた。これに拍車をかけたのが、築地の居留地に住む、〈治外法権〉を盾にとった一部の不良外人どもであった。香港や上海あたりからいろいろな兎を輸入し、「うさぎ販売所」といった看板を出したりして、やれ色変りだ、耳変りだ、などと珍種をもてはやして、法外な値段で売買しだした。
これに乗っかったのが旧大名や公卿などのいわゆる華族連中と、貿易などでしこたま儲けた利にさとい新興成金どもである。こうなるとどうしようもない。兎の値段はみるみる暴騰し、大耳とか垂れ耳とかいった珍種競争となり、とくに〈更紗種〉と名づけられる兎は一羽が二百円、三百円という驚くべき高値を呼ぶ始末となった。
当時いちばん生活の不安を感じていた貧乏士族たちがこれに飛びつかぬはずはなかった。一方では政府内を紛糾させている征韓論に同調することで失業救済の道と将来の生活の保証を得ようとすると同時に、もう一方では、塵紙にひとしい秩禄公債を質に入れてでも兎の相場に頭をつっこみ、値上りによる目前の利鞘をかせごうと必死となった。
また兎の売買の仲介をして口銭をとる才取《さいとり》をはじめる者もたくさん現れた。都会と田舎のあいだを人力車に乗って仲買いしてあるく才取の姿も珍しくなかった。元手いらずのボロ儲けに浮身をやつすブローカーの群れであった。
兎の持ち運びには籐を編んで作った、一見茶道具や煙草盆のような提げ籠が流行し、八さんも熊さんもそれをぶらさげて右往左往し、店先でその提げ籠から兎の耳を持ち上げて取引する光景があちこちで見られた。
こうなると悪徳業者の出てくるのも自然の勢いである。
普通の白兎に変った色を塗って珍種だとごまかして高く売りつけたり(とくに外人は西洋絵具を用いて巧妙に珍種をつくった)、牡よりは牝のほうが何層倍も高く売れるので、牡兎の陰茎を切って牝に見せかけたりするのは、ごくあたりまえの手口となった。
なかには兎と猫をつるませてできた三毛《みけ》の子兎だ、こんな珍種はいないだろうというのに騙されて大枚百円で買った男が、ある兎会の席で自慢たらたら提げ籠からとり出したら、その兎がニャーンと鳴いたので大立ち廻りが演ぜられたとか、あるイギリス人が耳の長さ一尺二寸、浅黄|サラ毛《ヽヽヽ》で目方が二貫七百目もあり、しかも人間の言葉がわかって呼べば寄って来る兎を輸入したという話をきいて、娘を売ってその兎を買おうとした男も現れるなど、うさぎ熱は伝染病のようにとどまるところを知らなかった。
そういった騒ぎを吉亮も知らぬわけではなかった。しかし自分の弟がそういう流行をすでに取り入れているということが、なにか自分の虚を突かれた思いなのであった。
「真吉、お前はいくつになった」
「十七です。亮兄さんと三つちがいじゃありませんか」
「ああ、そうだったな。ところでこの頃は居合いのほうはどうしてる?」
「亮兄さんが伝馬町へ行くようになってからは、だれも教えてくれないし、それに今更習ってみてもはじまらんでしょう」
真吉は相変らず兎の箱をのぞいた姿勢のまま、額の汗も気にならぬらしい。かつて吉亮といっしょに修練に打ち込んだあの真吉の姿をそこに見出すことは不可能であろう。
「このあいだ、浅草の左衛門河岸に行って、榊原鍵吉先生の撃剣会を見てきました」
と、真吉のほうから話をつないだ。それは講武所師範役として剣客の名の高かった榊原鍵吉がこの四月から始めたもので、錚々たる剣士の試合がみられるというので、武士の試合など見たことのない庶民たちが群れをなして押掛け、連日満員の大評判であった。それに刺戟されて、あちこちで撃剣会が流行しだしていた。割ってみれば、食いつめた武士階級の悲しい身すぎ稼業であった。
「どうだった?」
「どうということもありません。撃剣も見世物になる時代なんです」
確かにそのとおりなのだ。「散髪及び脱刀の如きも自今勝手たるべし」という布告が出たのは、一昨年(明治四年)の八月であった。おそらく真吉はそれ以後、刀を腰に差したことはないであろう。すでに髪もザンギリにしている。
今年の三月二十日、天皇が断髪し、皇太后、皇后がまゆずみやおはぐろをやめた。それを見ならって、それまで頑固に丁髷《ちよんまげ》を守ってきた男も、眉を剃り歯を黒くそめていた女房たちも、〈因循姑息〉の昔の夢に別れを告げた。まして官員とよばれる役人たちは、こぞって断髪した。だが平河町の三兄弟と浜田たち門人は、上司に願い書を出してまだ髷を残し、昔の羽織姿で首打役を勤めている。
「お前のなりたいものはなんだ?」
と吉亮が聞いた。真吉は車前草《おおばこ》の葉を隣の箱の兎に移して、しばらく黙っていた。兎が箱の中で身動きする音がカサコソときこえた。油蝉が数をふやして、ますます自分を焼きこがす競争に狂っていた。傍の車井戸の轆轤に一匹とまっているらしく、それがいちばん暑苦しい音をたてて他を圧している。
「わかりません。なにになるにも、もう遅すぎるんです」
「遅すぎる?」
「ええ。うちの仕事をこれからやろうとしても、もう間に合わんでしょう。亮兄さんのような素質があるわけでもないし、これからうまくなれる|めど《ヽヽ》もありません。そうかといって、官員になるためにこれから西洋の学問とやらを勉強したところで、他人に追いつけるはずもありません」
「馬鹿をいえ」と吉亮は否定したが、その言葉にそれほど力が入っているとは自分でも思わなかった。「もしお前にその気があるなら、伝馬町へ連れて行くのは一向に構いはしないのだぞ。もっとも、伝馬町の仕事はお前のような心の|うぶ《ヽヽ》な人間に向くかどうか。わしはあまりすすめんけどな」
「いいんです。|ぼく《ヽヽ》(と真吉は自分をそう呼んだ)はどっちみち生れるのが遅すぎたんです。もう三年早ければ亮兄さんと同じ道を歩けたかもしれませんが、なんだか世の中が変っちゃって、どうしてよいのか、ちっともわからないし……。中途はんぱなときに生れちゃったのがいけないんです。こんな兎でも飼って、ぼんやり生きておれれば、それ以上のことは望みません」
それが真吉のいちばん素直な気持かもしれなかった。いまの青年にどんな夢があるというのか。昔の可憐な少年だった真吉がすくすく育てば、今の御時勢ではこのような青年になるのかもしれなかった。
吉亮は黙って車井戸に近づくと、つるべの綱を握った。蝉が驚いて逃げて行った。轆轤のキリキリ鳴る音が涼感を誘った。
「相変らずここの水は真夏でも冷たいな」
と、懐からとり出した手拭で額の汗と口の端を拭いながら吉亮は真吉の傍へもどった。
「ところで父上はお元気かな」
「ええ。このごろはときどき勝先生や黒田先生、ときには大久保先生などもみえて、刀の鑑定《めきき》を頼んでいるようです」
勝海舟は昨年(明治五年)の春、静岡から赤坂氷川町四番地に居を移し、明治政府に仕えて海軍大輔に任ぜられていた。黒田清隆、大久保一翁も刀剣の話を好んだので、暇をみては和水を訪れていた。
「それに父上は、このごろは至って上機嫌なのです」
「なにか嬉しいことでもあるのか」
「母上が身重になられたというので、眼を細めて喜んでいるのです。勝先生などはあの調子でひやかすのですが、父上はただもうエビス顔で、からだの鍛えが違いますからなあ、とかなんとか、自分からのろける始末です」
「ああ、それは何よりだ。母上はいつごろ身二つになられるのかな」
「十一月ごろとかいってました」
「いずれにしても、近いうちに吉豊兄さんたちと挨拶に来なくちゃならないが、きょうは用事があるから、このまま失礼する。父上や母上によしなに」
「承知しました。亮兄さんもときどき麹町へ顔を出してください。|ぼく《ヽヽ》が退屈しておりますから」
「そうだな。なるべく来るようにしよう」
真吉に別れて昼下りの往還に出た吉亮は、照りつける日の光のなかながら、心は重く暗かった。素伝の妊娠は確実であった。吉亮にとってはもう遠い存在になっていたはずの素伝ではあるが、女としての生ま身の証《あか》しをつきつけられると、やはり心がおぼろになったときめきの記憶をゆすられるのをどうしようもなかった。自分の好きだった女は母上ひとりだったのか。
しかし吉亮の心を暗くしているのは、素伝にたいする彼の慕情のせいではなかった。いま素伝の腹のなかに生きている子供は、父・和水の子かそれとも兄・吉豊の子か、という疑惑のせいであった。思考の順序としては、それ以外の別な第三者の子ということもありうるところであった。しかしそれは絶対にありえないというのが吉亮の確信であった。そして、吉亮の重い心は、兄・吉豊の子ではあるまいか、という暗い疑惑の周囲を堂々めぐりする心の重さであった。
勿論、吉豊の子だという証拠を握っているわけではなかった。しかし吉亮には素伝懐妊のうわさを耳にしたときから、それは吉豊の子だという直観があった。そしてむしろその直観を打消すために懐妊のうわさが誤報であることを願っていたのである。もし吉豊の子だとすると、その事実を胸に秘めたうえで父の妻として振舞いうる素伝という女は、いったいどういう女なのであろうか。それが吉亮には最も恐しい疑問となるからであった。
「素伝さんという人は恐い人だよ」
突然、吉亮は五年前、彰義隊の戦さのあとで浅草|山谷《さんや》の五郎兵衛宅に身を寄せていたとき、浅草寺の付近で兄の吉豊と偶然に遭った、あの日の兄の言葉を思い浮べて、よろめいた。
あのとき自分はそれをただ兄も素伝を愛して悩んでいるというだけのこととしてしか理解していなかったが、実はそれ以上に吉豊には素伝の心の暗い深淵をのぞきこんだ事実があり、兄はその事実を身をもって知っていたのではあるまいか。そしてそれから逃れようともがきつつきょうに及んでいるのではあるまいか。素伝の腹の子を自分の子であると、いちばん知っているのは吉豊兄さん自身ではないのか。
そういう視点からいままでの素伝を中心とした山田家の人間関係を考え直してみると、それはそれなりにすべての辻褄があってくるのが吉亮には恐しかった。素伝対和水、素伝対吉豊、そして素伝対吉亮。もっとも、父や兄が描く素伝との愛欲の世界というものは、吉亮には想像すらできなかった。ただそのような大人の世界の暗さにくらべるなら、素伝にたいする自分の慕情などというものはあまりにも小さすぎる問題でしかない。母上はやはり在吉兄さんの罵るような、あるいはもっとそれ以上に恐しい心のおひとなのか。
まさか、と驚く妄想の影が、吉亮の歩む往還に群がり湧いて来る思いがした。あのことは、このことは、一つ一つ脳裡に刻まれていた情景が、「まさか」という枕詞づきで回想された。軒を並べる町家の看板の一つ一つに「まさか」と書かれてある錯覚までともなって──。
かつて真吉と稽古のあとで覗き見した、近くの浄土宗・栖岸院の極彩色の六道輪廻図《ろくどうりんねず》が浮んで来る。そのなかの地獄・餓鬼・畜生の三悪道《さんなくどう》にまろびもだえるのが、山田家全員のいまの姿なのであろうか。この暑い日盛りの往還をたどる吉亮自身は、焦熱地獄で紅蓮の炎にあぶられる小さな亡者の一人でしかない。
吉亮は小伝馬町の牢屋敷で罪囚の首を斬り、返り血をあびても、いままで一度も自分を恐しい無間《むげん》地獄に堕ちた人間と意識したことはなかった。しかし、素伝懐妊という厳しい現実から導き出される山田家の将来図を思うと、いまだかつて経験したことのない心の戦慄をともなって恐怖を予感するのであった。
「母上が子供を産んでは山田家が崩壊する」
吉亮ははっきりとそれを意識に刻んだ。
23
平河町三兄弟の強い反対にもかかわらず、|いさ《ヽヽ》は生れた。いうまでもなく、父の和水が三人の申し出を頑固に拒否したからである。
三人の反対論は二つの柱から成り立っていた。一つは血筋論であり、もう一つは財産分配問題である。そして三人が異論なく一致しているのは財産分配問題のほうであり、それは煎じつめれば、万一父が死んだばあい、その全遺産は先妻佐和の子四人が受け継ぐべきだというのである。
現在、東京国立博物館に保管され、国宝に指定されている〈小竜景光〉という刀がある。備前|長船《おさふね》の刀工・景光の作で、鍔元に小さな竜の彫刻が施されているのでそう呼ばれた。刀身はもと二尺七寸ぐらいあったものを磨り上げて二尺四寸三分としたため、その竜が|※[#「金+示+且」、unicode93ba]《はばき》の下に隠れ、ちょっと覗いているので〈覗き竜景光〉とも称された。これは明治六年四月、山田家から当時の東京府知事・大久保一翁の手を経て宮内省に献上されたものである。したがって明治天皇の軍刀とされたという話もある。
この刀は楠正成の佩刀だったという伝説があるくらいの名刀で、後年の|いさ《ヽヽ》の回顧談に「宅に伝来の楠正成のお太刀がありました。菊水の紋ぢらしで、時価五万両といつたものでしたが、後年宮内省へ献上いたしました」(『幕末明治女百話』)とある。明治六年という時点でこれだけの名刀をポンと献上できるのは、山田家の富裕さを物語るものであろう。財産をどう分配するかが真剣味を帯びるのは、その富裕さのためであった。
もう一つの血筋論はニュアンスが複雑であった。一番はっきりしているのは在吉で、彼は素伝の孕んでいる子は絶対に山田家には無縁な第三者の子であるという前提に立っているらしく、「生れる子の親がだれかわかるものか」とまで言って和水を激怒させた。そして後妻に子が生れると必ずその家には亀裂が生じるのは古今の鉄則だから、たとえ父上の子であっても、山田家としてはこれを産むべきではないと言った。
これにたいして吉豊と吉亮は、少くとも表面上は素伝の子は当然和水の子だという前提に立っているので、血筋問題では出生に積極的な反対はしなかった。いや、できなかった。
吉亮としては、素伝の子は吉豊の子であるという直観的確信をもってはいたが、吉豊がみずからそのことを公言しないかぎりは口が裂けても言うべき筋合のものではなかった。実際のところ、それがだれの子かは素伝以外にはわからないのである。おそらく吉豊にしても、その子が自分の子であるという確信を素伝から持たされていないはずである。そうすれば、吉豊が素伝の子は父の子だという現在の前提をくつがえすはずはないのだから、吉亮としては血筋論では消極的にしかなりえなかった。したがって吉豊と吉亮は「生れるのが父上の子なら、その出生にまで反対するのはわれわれ子供の採るべき道ではない」と後退せざるをえなかった。
「それでは兄さんも亮も、子供は産ませろというのか」
「いや、そうではない。子供を産まないでほしい気持はお前と同じだ。しかし、それは父上の意志にまかせるべきだというのだ。わしと亮の意見は、たとえ父上が素伝さんに子供を産ませたとしても、その子には財産は分配しないという確約を父上にしてもらいたいということなのだ」
「そんなことができるか。いまここで子供を産ませてしまっては、われわれの主張が全部御破算になることなのだ。絶対に産ませてはいけないのだ」
在吉の声は絶叫に近かった。しかしこのことは反対論にひびが入ったことであった。この統一戦線の乱れが結局三兄弟側のマイナスとなって、和水を全面的に説得できなくなった。
この会談は、和水の次のような結論で終止符を打った。
「いずれにしても、生れる子はわしの子であるから、これは絶対に素伝に産んでもらう。そのかわり、その出生をみたらなるべく速かに、というのは|わしの生きているうちに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》山田家の全財産をお前たちに、真吉もふくめて、分配しよう。そしてその子が男であれ女であれ、その子への分け前としてではなく、わしと素伝とその子のこれからの食扶持として、財産のうちの幾分かを取ることにする。わしもお前たちの父親である。決して素伝への愛に溺れているものではない。いずれはそうしようと思っていたことが、思いがけなくお前たちからの申し出となったにすぎない。そうだ、それまでには子供も生れているはずだから、来年の正月、元日の祝いの席で具体的な内容を話そう。そのときまたお前たちの意見もきくことにする」
生前譲渡ということが和水の決め手であった。三兄弟側は、きょうの会談の主旨がやがて父が死んだばあいの遺言を恐れてのことだったのであるから、生前、しかももう数カ月後という、目前に迫った時期を提示されたことで、納得せざるをえなかった。
明治六年十月二十四日、征韓論に敗れた西郷隆盛が参議および近衛都督を辞職。翌二十五日、続いて副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の四参議が連袂辞職をした。政府は即刻新参議として伊藤博文・勝安芳・寺島宗則を任命し、二十九日、大久保利通が新設の内務卿を兼任した。敗れた西郷派では陸軍少将・桐野利秋、同篠原国幹ら多数の士官も相次いで辞表を出し、文官武官の辞職して鹿児島に帰国するもの六百余人にのぼった。明治新政府が迎えた最大の政変であった。
土佐藩関係では板垣が極力士官の鎮撫につとめたが、武市《たけち》熊吉ら四十余人の近衛士官が辞職した。近衛兵は潰滅の危機に瀕したといってよい。
十一月十日、内務省が設置され、従来、司法省に属していた警保寮は内務省の管轄下に入り、東京には警視庁が鍛冶橋内の元津山藩邸に創設された。明治七年一月十五日のことである。当時府下の警察力は旧来の邏卒三千余人、新募の邏卒二千人、および番人千百余人、計六千余人であった。つづいて二月五日、邏卒を巡査と改称、番人制度を廃止した。
このような大きな時代的転換の騒音を背中に聞きながら、山田家では六年十一月、|いさ《ヽヽ》の誕生を迎え、七年元旦の家族会議を迎えたのである。
山田家のお正月は床の間正面に鏡餅を据え、その左右に家代々の名刀を幾|口《ふり》か飾り、これらの大小には輪飾りをかける。暮の二十八日が煤払い、二十九日が床の間の飾りで、この飾りはすべて和水の手で行なった。大《おお》晦日《みそか》には花を活ける。これは素伝の仕事である。正月の式には門人一同にも本膳が出る。山田家の本膳の特徴は、そこに盛られた|なます《ヽヽヽ》であった。こまかく切った白身の魚肉に、人参をちょっとあしらった大根おろしを添える。この大根おろしは二見ヶ浦の夫婦岩《めおといわ》のように盛上げられ、それぞれへ大小の|ごまめ《ヽヽヽ》を挿す。これは男女をかたどったもので、山田家の者はその|なます《ヽヽヽ》を食べてはじめて正月を迎えた気分がすると皆で言い合った。
家族会議はその正月の式の前に行われた。出席者は和水・吉豊・在吉・吉亮・真吉、それに素伝の六人であった。家族会議の主題は財産分配の件であった。
和水から提案された分配の内容は次のようなものであった。──
長男吉豊には従来通り平河町の邸と、現在山田家の保有している金高の半分を与える。
次男在吉には現在和水たちが住んでいるこの麹町八丁目の邸と、吉豊の分を差引いた残り半分の金高のうちの三分の一を与える。
和水は麹町のこの家を在吉に譲り、なるべく早く新しい家を探して別居する。そして和水の取る金高は在吉と同じく、吉豊が取った残りの三分の一。それで和水・素伝・|いさ《ヽヽ》の三人が生活する。
吉亮と真吉の取り分は、残った三分の一を折半する。但し吉亮はいままでどおり吉豊の家に同居し、真吉は和水の新しい家へ同居する。
勿論、山田家の正業としての〈東京府囚獄掛斬役〉の仕事は、従来通り吉豊を中心として、在吉・吉亮がこれに助力してゆくこと。
真吉の将来については、今後和水が相談役となって一緒に考える。
最後に副業としての人胆丸(当時は〈人丹〉と呼んでいた)その他の製薬業については、現在手持ちの薬は吉豊・在吉・和水で三等分する。その処理は各自自由とする。ただしその製法の処方および今後の製造の権利は、すべて和水に帰属する。
──以上が和水の提案の骨子であった。
それは予想以上に兄弟たちを優遇した提案であった。だれも反対のしようがなかった。和水の決断がズバリとこちらの腹にひびく思いがした。とくに在吉は麹町の大きな邸が全部自分の所有になるということで、十分に満足していた。
そのとき吉豊から、自分としてはこれで満足であるが、それに付け加えて少々希望がある旨の申し出があった。
それは現在自分が代表者となっている〈斬役〉の仕事を辞めたいということであった。今後なにをするかはまだ考えていないが、自分としては率直に言って〈斬役〉という仕事に飽いてしまった。囚獄の掟も次から次へと変るし、首吊り器械まで採用される御時勢についてゆくのが煩しくて、もうこれ以上付き合う気持にはなれない。ついては、もし自分の跡を在吉がやりたいというのならそれでかまわないが、自分の気持としては、いままでの苦労へのねぎらいの気持もあり、できれば吉亮に継がせたい。それには二つの意味を自分は考えている。いま父上から頂いた財産だけで勿論吉亮は満足していると思うが、自分や在吉にくらべるといささかわびしい気持もするので、自分の跡を継いで役所からの給料が入れば、もっと安心して仕事ができるであろうことが一つ。いま一つは〈徴兵逃れ〉である。去年からはじまった徴兵令で、寅歳生れがまず徴兵にとられることになった。たまたま吉亮は安政元年の甲寅《きのえとら》で、検査も受けた。だからこのままでは今年は東京鎮台へ入らねばならぬだろう。それを逃れるためにも〈斬役〉になったほうがいい。在吉の率直な意見がききたい。──
これにたいして在吉は全面的に賛成した。そして自分も兄さんと同じように〈斬役〉に嫌気がさしてきている、といった。詳しいことは知らないが、ブスケとかボアソナードといった外国人が新しい刑罰の法を考えているときいたが、今後この仕事がいつまで続くかもわからない。こんなことをいうと吉亮に悪いが、いずれにしても自分も兄さんと同時にこの仕事から手を洗いたいと思っていたところだ。吉亮が〈斬役〉になることには大賛成である。──
すべてがトントンと運んだ。和水も吉亮の〈斬役〉就任は歓迎した。家族会議は予想していなかったほど和やかな雰囲気をもたらした。その気分がそのあとのお正月の式にも反映し、酒宴は夜まで浮き浮きとつづいた。
吉亮も酔った。そして、|いさ《ヽヽ》を産んで一層|肌理《きめ》のつややかさを増した素伝を眺めているうちに、きのうまで抱いていたいろいろな疑惑が何も知らなかった昔のように消えてゆくのを、どうしようもなかった。吉亮にとっては、このような|はなやぎ《ヽヽヽヽ》に輝いている女の背後に不倫と背徳にみちたどす黒い沼が横たわっていようなどとは、いくら想像力の翼を拡げてみても考え及ばないことであった。しかし酒にしびれた頭のどこかで、ひょっとしたらこれが山田家の楽しい正月の最後になるかもしれんな、と考えていた。
山田家が新しい変化に踏み出そうとしていた矢先、またもや大きな暗殺事件が起きた。もっともこのときの暗殺は未遂にとどまったが、被害者が右大臣・岩倉具視という大物であったため、朝野に大きなショックを与えた。
明治七年一月十四日、岩倉が宮中で御陪食を賜わり、当時仮皇居となっていた赤坂離宮を出て表霞ヶ関の自邸へ向ったのは、午後八時を廻っていた。乗っていたのは二頭曳きの馬車であった。
余談であるが、当時皇居が赤坂離宮にあったのは、昨六年五月五日午前一時二十分、皇居であった旧西丸御殿が火事で全焼し、天皇と皇后は五年三月に離宮となったばかりの赤坂離宮に避難し、即日そこを仮皇居とする旨を布告したからである。そして同月十八日に太政大臣・三条実美に勅諭を下して、今や国用夥多の時であるから、急いで造築する必要はないと命じたので、その後永い間、赤坂離宮が皇居になっていた。焼跡に新しい洋風の宮殿が立ったのは明治二十一年十一月で、翌二十二年正月、天皇と皇后は新宮殿に移り、二月十一日の大日本帝国憲法発布の儀式をこの新宮殿で行なった。これが、昭和二十年五月二十四日、第二次大戦の戦火でふたたび焼失した。
馬車が赤坂|喰違《くいちがい》にさしかかったとき、一団の壮士が真っ暗な樹蔭から飛び出して抜力し、いきなり馬車をめがけて殺到してきた。
刺客の一人が馬のくつわを取ろうとするのに驚いた馭者の谷直幸が一振り鞭で打つと、刺客は谷の太股に斬りつけ、つづいて馬の前脚を斬った。転落した谷は傷に屈せず、そのまままっすぐ今出てきた赤坂離宮へ急を知らせに駈けつけた。
刺客たちが扉ごしに車内に刀を突き刺したり、馬車の背後から母衣《ほろ》を二突き三突きした。それらの刺突で薄手を負った岩倉は羽織を冠り、馭者台から飛び下りようとしたとき、さらに一刀を浴びせられた。岩倉は和服に博多帯を締め、腰に短刀を佩びていたため、鞘が盾となって傷は浅かった。そして飛び下りた勢いあまって、土堤から真田濠のなかへ転げ落ち、溺れまいと必死に両手をもがいていたが、たまたま水中にあった岩に腰かけ、石崖に張りついてジッと息を殺していた。
刺客の一行は通りがかりの者から提灯を奪い、それをかかげて草を薙ぎながら土堤を探したが岩倉を発見できず、濠へ落ちたのであろう、それなら溺死するしかあるまい、といって引揚げて行った。
馭者の報らせに驚いた宮内省の仕人たちが現場に駈けつけてみると、脚を斬られた馬が路上に倒れてもがいており、馬車は顛覆して、しかも肝腎の岩倉が見えない。さては身体ごと刺客に持ち去られたかと蒼くなったが、提灯をかかげて土堤の草むらから水ぎわを照らして捜し廻ると、濠の中から人声がかすかにきこえるので、それといって駈け降り、岩倉を助け上げた。そして濡れ鼠となって気息奄々たる岩倉を土堤の上に引き上げ、馬車を捜したが姿が見えなかった。先刻倒れている馬と馬車を起してみると、さいわい馬の脚は二頭とも骨が切断されておらず、馬車が倒れたため起き上れずにいたことがわかった。そのとき岩倉発見の報が聞えたので、全員そちらに駈けつけると、興奮した馬は馭者なしで馬車をひいたまま駈け去ったらしい。そこで淵川親則が岩倉を背負い、大急ぎで宮内省へかつぎこんだ。
大侍医・岩佐純の診察によると──
[#ここから1字下げ]
一月十四日午後第九時二十分診察候処、全身水冷殆ド点温ナキガ如ク、脈搏将ニ絶セント欲シ、音微々聴クコトヲ得ベシ、百方興奮回陽ノ所置ヲ行フ後、已ニ一時ヲ過グルニ及デ、漸ク回温ノ機力を得ルニ至ル、而シテ後創所ノ治療ヲ施スコト左ノ如シ。
右腰部切創一ケ所、長サ二寸五分、深サ一寸|許《ばかり》、三鍼《みはり》ヲ縫合シ、絆創膏ヲ以テ固封シ繃帯ヲ施ス。
右肩臂突創一ケ所、長サ一寸許、深サ六七分、絆創膏ヲ以テ接合シ繃帯ヲ施ス。
[#ここで字下げ終わり]
その後の騒ぎを『岩倉公実記』を引用すると──
「変報四方ニ達ス三条実美、大久保利通、大木喬任、勝安芳、寺島宗則等先後相継キ宮内省ニ詣リ具視ヲ存問ス具視カ本邸未タ此変アルヲ知ラス馬車空虚ニシテ馭者ナク車音殷※[#「車+隣のつくり」、unicode8F54]トシテ帰リ来ルヲ見テ始テ之ヲ愕ク具綱等宮内省ノ急報ヲ接受シ直ニ其庁ニ上リ之ヲ看護ス具視宮内省ノ庁ニ在テ創傷ヲ療ス聖上皇后宮親ク臥褥ノ傍ニ臨ミ屡之ヲ慰問シ給フ太政官令ヲ使府県ニ布キ兇徒ヲ捜索セシム未タ之ヲ獲ス十七日上実美利通喬任ヲ召見シ勅問シ給フテ曰ク右大臣ノ遭難ハ国憲ノ軽重ニ関シ朕深ク憂歎ス而シテ未タ其兇徒ヲ拿捕スルヲ聞カス捜索ノ状如何実美対テ曰ク右大臣カ遭難ノ日ヲ距ル既ニ四日ニ及フ而シテ未タ兇徒ノ踪跡ヲ得ス臣等責アリ日夜痛心ス利通略ホ捜索ノ状ヲ奏陳ス」とある。
司法省は下手人の行方をきびしく追及し、当夜、喰違から新島原跡の築地新富町まで人力車を一円で雇っていった者があるという情報を得た。一円といえば車代としては大金である。そこで築地新富町界隈に眼《がん》をつけた。
また警視庁は事件現場で、まだ新しい、買いたてらしい下駄の片方と手拭一筋を押収していた。これを手がかりとして角袖(刑事)たちが八方に飛び、市内の下駄屋を虱つぶしに調べて歩くうち、築地新富町の下駄屋が数日前に下女風の女に売り渡したものであることが判明した。
俄然色めきだった捜査当局は、おそらく下宿人が下宿の女中に買わしたものにちがいないと見込みをつけ、築地付近の下宿屋について取調べを開始し、一月十七日、漸くにして犯人たちの下宿先をつきとめ、所在を確めたうえ大勢で踏み込んで、大乱闘のすえ、武市熊吉、山崎則雄、武市喜久馬、島崎直方、下村義明らを逮捕した。つづいて十八日、岩田正彦、十九日、沢田悦弥太、中山泰道を逮捕。この事件に関連して捕縛されたもの数十名に及んだ。
結局、真犯人は次の九名にしぼられた。
陸 軍 少 佐
[#地付き]武 市 熊 吉
陸 軍 曹 長
[#地付き]岩 田 正 彦
陸 軍 少 尉
[#地付き]下 村 義 明
[#地付き]山 崎 則 雄
陸 軍 曹 長
[#地付き]中 山 泰 道
[#地付き]武 市 喜久馬
[#地付き]島 崎 直 方
海軍提督府警吏
[#地付き]中 西 茂 樹
監 部 御 用
[#地付き]沢 田 悦弥太
彼らはこのたびの政変で板垣に殉じて辞職した土佐派の軍人たちであった。今回の征韓派の敗れたのは大奸岩倉の権謀術数によるものである、巨魁岩倉を斃し、一挙に征韓派内閣組織の機運を醸成すべきだと、京橋五郎兵衛町三河屋なる武市熊吉方に会合し、その機をうかがっていたが、一月十四日の午後四時頃、中西茂樹と中山泰道が岩倉の馬車を外桜田で見かけたので、人力車を傭って追掛けたところ、岩倉は赤坂離宮の仮皇居へ参内したのを確めた。好機到来と、中山はその場にとどまって見張りをし、中西は帰ってこれを報じたから、一同は踊躍して三河屋を出、山下町から、霞ヶ関を越え、永田町一丁目にあったドイツ公使館付近から二つに分れて、一隊は麹町表通り、一隊は麹町の裏通りを通って喰違に到った。
当時の喰違は樹木が生い繁り、子供たちが野草をつみに来る程度の人気のない場所で、一行はそこの首くくりの二本松と呼ばれるあたりに身を潜めて退出を待っていた。
午後八時過ぎ、一輛の人力車が紀伊国坂を上り、四谷見附に向って走ってゆくのをみて、ひょっとして岩倉かもしれぬと、中山泰道と山崎則雄の二人がこれを追跡した。そのあとに岩倉を乗せた二頭立て馬車がやってきたのである。
兇行後一行は二手に別れて芝増上寺で落合い、刀を纏めて京橋木挽町一丁目の板垣退助宅へ投げこんで下宿へ帰った。この刀は翌日同志の黒岩成存という者が一纏めにして上野公園内現竜院に持って行って埋めたが、このことは裁判中にはついに知れずじまいになったという。
武市熊吉ら逮捕の翌十八日から司法省臨時裁判所が開かれ、権中判事早川景矩、権中判事大島景敏、権少判事石井忠恭、中検事小原重哉、大解部《だいときべ》滝弥太郎、中解部曾根誠蔵を掛りとして訊問に着手した。
当時はまだ拷問を用いるのを当然とした時代であり、一方被告たちは国士をもって任じている者であるから容易に自白しないため、拷問も酸鼻を極めた。被告の一人岩田正彦の手紙に「二十二日より拷問せられ、毎日算板の上に居り、ひざの上に十貫目|斗《ばかり》の石を三枚或は五枚被載候処二日一日より呼出し無之休みに相成」云々とあり、また記録にも、
拷問一度 武 市 熊 吉
拷問三度 武 市 喜久馬
拷問七度 山 崎 則 雄
拷問九度 下 村 義 明
拷問九度 岩 田 正 彦
拷問一度 中 山 泰 道
と記されている。
そのため身体の所々に傷を受け、傷口が化膿して蛆がわく惨状を呈し、ついには法廷に出るにも歩くことができぬため箱車や畚《もつこ》で運び出されてなおも痛めつけられたが、死を決している被告たちは頑として口を開かなかった。
これに手を焼いた裁判所側は大審院から小畑判事が出張し、諄々と道理を説き、もし自白するならば必ず被告たちの面目のたつようにはからうと諭したので、ついに武市らも心を許し、われわれは士族であるから士分として待遇し、切腹を許されるなら白状しようと言い出した。小畑は切腹が望みとあらば希望のかなうように尽力すると約束した。そこで武市以下全員が事件の一切を自供した。
こうして取調べは終了したが、被告たちの罪をどんな罰に擬律するかで問題が起きた。というのは当時の刑法である「新律綱領」および「改定律例」には、国事犯やのちの治安維持法のような罰条がなかったからである。
そこで臨時裁判所は「凡ソ大臣ヲ要殺シ廟議ヲ動サント欲スル者ハ|律ニ明文ナク《ヽヽヽヽヽヽ》、唯律例中、謀殺勅任官ノ条有之候へ共、従是比較スレバ其情理頗ル不穏当、依テ偏ク各国ノ法ニ参酌シ権衡ヲ新律綱領及ビ改定律例ニ取候ヘバ、右首従ノ別アレバ、首ハ斬、従ハ終身禁獄ニ可処者ニ候ヘ共、今般暴挙ノ如キハ、首従ノ別無之上ハ、皆斬ニ処シテ可然哉《しかるべきや》」という伺書を太政官に出した。
このたびの事件は殺人を目的とはしているが未遂に終ったものであるにもかかわらす、太政官からは〈斬〉の指令があった。しかも自白強要の際の小畑判事と武市らの約束は、一判事と被告人の口約束をもって国法を曲げるわけにいかないとして簡単に蹂躙され、士分待遇としての〈切腹〉は許されなかった。小畑判事の心事はどうであれ、結果的には武市らは法の番人である裁判官にペテンにかけられたといってよいであろう。
明治七年七月九日、被告九名にたいして次の判決が下りた。
[#この行1字下げ]其方共義征韓ノ議行ハレザルヲ不平ニ存スルヨリ岩倉右大臣ヲ殺害シテ廟議ヲ動サント欲シ同志九人申合当一月十四日夜喰違ニ於テ刺傷スル科ニ依リ|除族ノ上《ヽヽヽヽ》斬罪申付候事
この事件の犯人検挙に従事したものにはそれぞれ賞与が出たといわれる。司法省十等出仕・吉田希賢は二百円、警視庁では大警部・中川祐順三百円、以下巡査は三十円宛、町用係は二十円宛、合計三千三百八十五円という、当時としては莫大な支出であった。明治四年の広沢参議暗殺犯人が未検挙のままであったことにたいする督励の意味もあったのかもしれない。
またこの事件に連坐して拘引されたもののなかに、後の衆議院議長・片岡健吉がおり、武市らと志を同じくする者のうちに、平井直次郎のちの警視総監・西山|志澄《ゆきずみ》がいた。
山田家は分散した。表面は穏かに財産を分配したとはいえ、腹の底にある互いの不信感は蔽うべくもなかった。父和水はおそらく先妻の子供たちの将来に見切りをつけ、自分の死後に遺産相続の醜い争いの起ることを恐れて、生前にその芽を苅りとっておこうとしたものであろう。
じじつ、財産分配後の吉豊と在吉の放蕩生活はその乱れぶりが一層ひどくなった。内藤新宿の宿場女郎にうつつを抜かし、ほとんど家に寄りつかなくなっていた。手に入った巨額の金を費消しつくすまで遊びほうけようとしているとしか思われなかった。
山田家全体を蔽う黒い雲は、吉亮の心まで暗澹とさせていた。一度抱いた素伝にたいする疑惑の念は、いままでの慕情と綯《な》いまぜになって、一層心をすさませるらしかった。そのため兄に替って〈東京府囚獄掛斬役〉を拝命し、斬首責任者として身をうちこんではいるが、その太刀先きにはいままでとは違った、陰惨さとまではいかぬが、凄絶な気魄が感じられるようになったし、また吉亮自身も酒に親しむようになっていた。内藤新宿で二人の兄といっしょに泥酔して暴れることもあった。
明治七年七月九日、小伝馬町囚獄で吉亮は武市以下九人の首を斬った。これだけ多数となると、普通なら浜田や門人たちと分担して、〈斬役〉名義人としての吉亮はそれら罪囚のうちの首領分の首を刎ねるにとどめるのであるが、この日は吉亮が自分ひとりで全員を斬ると言い出した。
「若先生が手をくだすほどの人間でない者もまじってますが……」
と浜田が婉曲にたしなめたが、珍しくこの日の吉亮は浜田の言葉にも耳を貸さなかった。吉亮の内部になにか鬱屈しているものがあり、それが噴出口を求めているらしかった。自分のみならす、兄の吉豊まで暗い情欲の底なし沼にひきずりこんでいるらしい素伝への怨憎かもしれなかった。それから派生するであろう山田家の崩壊を予感しての苛立ちかもしれなかった。
最初に武市熊吉の首を刎ねると、いままでくすぶっていた可燃物にいっぺんに火がついたように性急さを増し、吉亮は次々に引き出される面々を、バサリバサリと無造作に斬り捨てて行った。そして一人斬るごとに「次!」「次!」と叫んで押え役たちを急《せ》かせ、同時に門人たちのほうをふりむいて新しい刀を要求した。
罪囚の取扱いに慣れ切った常吉たち押え役も、吉亮の無言の迫力に鬼気を覚え、だんだん顔面を蒼白にして必死に罪人の肩を押し、首が落ちるとろくに洗いもせずに検視役に見せ、大急ぎで血溜りの周囲に首と胴体を片端から並べて行った。血溜りは砂が血を吸う暇もなく次々と奔出する罪囚たちの血で溢れ、首が落ちてくるたびに赤い飛沫をあたりに撥ね散らした。
さすがの浜田も唖然として吉亮を眺めていた。正気の沙汰とは思えなかった。吉亮には無意識の行為だったかもしれないが、そこには吉亮の荒廃の深さが物語られていた。音もなく近づいてくる山田家の崩壊を一刻でも先へ延ばそうという、絶望的な抗《あらが》いかもしれなかった。
後日、このときの吉亮の執刀ぶりは〈九人斬り〉といわれて有名になったが、押え役の常吉たちはその日の吉亮の恐さを思い出すたびに「あのときはほんとに|きんたま《ヽヽヽヽ》がちぢみあがったよ」と首をすくめるのを常とした。
24
明治八年五月二十七日、東京府|達《たつし》第二十九号により、小伝馬町囚獄が廃止された。
[#この行1字下げ]当府囚獄市ヶ谷谷町へ新築落成ニ付従前小伝馬町囚獄相廃止明二十八日右新獄へ移転候条此旨相達候事
ここにおいて、「伝馬町の牢屋敷」と呼ばれて江戸市民にこわがられながらもある種の親近感を持たれ、御一新後も引きつづき東京市民の生活のなかに融けこんでいた由緒ある行刑施設が、翌二十八日から早速解体撤去されることになった。
この〈牢屋敷〉は天正年間(一五七三−一五九一)に常盤橋御門外、のちに奈良屋市右衛門と後藤庄三郎の屋敷となったところ(現在の日本銀行の北隣)に始めて設けられたのであるが、慶長年中(一五九六−一六一四)に小伝馬町に移されたもののようである。というのは、この牢屋敷の由来を述べている唯一の確実な資料は、享保十年(一七二五)八月に町奉行所へ呈出された牢屋奉行・石出帯刀の由緒書であり、それによると、「其節(小伝馬町移転のとき)之控帳面等一切無[#二]御座[#一]、尤絵図も無[#二]御座[#一]候」となっているからである。
徳川家康が征夷大将軍となったのは慶長八年(一六〇三)であるから、この〈伝馬町牢屋敷〉は、いわば〈中央刑務所〉として、江戸幕府創設以来約二百七十年間、連綿と存続してきたのである。
初代浅右衛門・貞武が江戸の行刑制度とかかわりをもちはじめたのが元禄年間とするならば、伝馬町牢屋敷ができてから八、九十年のちとなるが、その後の二百年近い牢屋敷との深い関係を思えば、山田家にとっては小伝馬町囚獄が廃止されたことは、大きな感慨を催させるもととなったであろう。
まして石出氏も辞め、囚獄関係の与力・同心もほとんど新政府を去ったいまとなっては、ただ山田家のみが過去の遺物然として細々と〈牢屋敷〉時代の残喘《ざんぜん》を保っているのである。その〈牢屋敷〉がこの世から消え失せることは、ある意味では山田家のきょうまでの歴史が消滅することであった。
しかし吉亮はむしろそれを新しい出発と考えることにした。山田家としてではなく、吉亮自身の御一新なのだと思うことにした。五月二十八日、囚獄が市ヶ谷谷町九十三番地の新囚獄に移ると同時に、髷も断《き》り落した。羽織姿もやめて、巡査や他の囚獄吏と同じように官服を身につけた。
「若先生の官服姿もなかなか似合いますな」
と浜田は親しみのこもったひやかしを言った。じっさい、目元涼しく鼻筋が通り、口元がきりりと締った、色の小白い吉亮は、なにを着てもよく似合った。むしろ男ぶりのよい、凛とした顔立ちであっただけに、斬首の刀を持つと一層物凄い感じを与えたのかもしれない。
浜田はまだ吉亮を〈若先生〉と呼んでいた。今年二十二歳とはいえ、吉亮はすでに山田家の代表として斬役の職務を遂行しているのである。いまさら〈若先生〉でもなかったが、浜田にはそれ以外の呼びようがもうできなかったし、吉亮も浜田だけにはそう呼ぶのを許していた。
もっとも、弟子たちは市ヶ谷移転にあたって、全部やめて行った。時代は斬罪の廃止の遠くないことが明瞭となっていたし、後継者の養成など必要もなかった。むしろ吉亮のほうから五、六人残っていた弟子たちに暇を出したのである。はっきり廃刑となるまで置いてほしい、と嘆願する弟子もいたが、いま別な人生の道を切り開かなければ、一生の悔いを残すことになると諭し、あとは浜田と二人でやって行くから、一日も早く新しい正業に就け、といって、弟子たちの申し出を拒否した。
もちろん浜田にも辞めることをすすめた。しかし浜田は、ニコッと笑っただけで、全然それに耳を貸そうとしなかった。
「この仕事をやめて、他になんの|つぶし《ヽヽヽ》がきくというのですか」
と、吉亮の熱心な離職のすすめをきいたあとで、ポツリと浜田が言った。それ以上話は進まなかった。
「若先生がおやめになるならやめます。いまのところ、若先生という名人がいらっしゃるから斬罪がつづけられているのですから、若先生がおやめになれば即日斬罪も廃止になるでしょう。そうしたら、いくら浜田がやめたくないといっても、やめざるをえないのです。それまでは私の飯の種を取上げないでくださいまし」
そんなことを浜田が言った。
「そうか、それじゃあ、政府がいらないという日まで、吉亮と一緒にやっててもらおうか」
「そうですとも。一蓮托生ですよ」
そういって浜田が笑った。吉亮も笑った。まぶたの裏が熱くなるのを覚えた。
浜田は「他になんのつぶしがきくのか」と言った。そうなのだ。江戸が東京に変り、御一新の風が強く吹いたとき、新しい時代の浪に乗り移るために、すべての人間が必死になった。いままでの職業を新時代にどのように適応させるか、ということであった。
そしてつぶしのきく者は、どんどん新しい職業に転じて行った。──しかし、と吉亮は考える。この山田家の家職が何につぶしがきくというのか。〈斬首〉という職業の本質をいくら鋳つぶしてみても、地金として残るのは何なのか。これほどつぶしのきかぬ仕事はないであろう。そうとすれば、行くところまで行くしかあるまい。その先のことは、廃刑の日を迎えてから考えても遅くはないだろう。
吉亮には〈つぶし〉のきかない先の予想ははっきりみえていた。それは二人の兄の姿であった。男の生きざがりを〈首斬り〉に捧げ、転業するにしてはもうすべてが遅すぎ、つぶしの全くきかない状態に追い込まれたいまとなっては、先行きの短い男ざかりを、さいわい父から譲られた少からざる金を浪費して、酒と女の肌の上とに、せめて〈放蕩〉という仇花《あだはな》として狂い咲かしてみせようとしているのが二人の兄なのかもしれない。
おそらく二人の兄たちは、〈斬役〉から足を洗い、山田家の外部の人間の眼でわが家の職業を眺めたとき、それがいかに陰気な重苦しいものであったかに気づいたかもしれない。まして柳暗花明の巷に遊びほうけて、いままで|山田家の人間として《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》結び上げてきた心の中のかずかずの結び玉を全部解きほぐしてしまったいまとなっては、わが家の背負いこんでいた家職というものを〈おぞましい〉とさえ感じているにちがいない。そうとなっては、もうふたたび旧にもどって、斬首の刀を持つことは不可能であろう。つぶしもきかず、もどりもできない。とすれば、まっすぐこのまま〈放蕩三昧〉の忘我の世界に突き進むしかあるまい。それが地獄か極楽か、いまは問うところではない。
二人の兄の追い込まれた世界が、この頃の吉亮には〈悲しさ〉として理解された。しかしその放蕩も、いまある財産を使いはたしたはてにはどうなるのか。そしてその時期は決して遠くはないであろう。その破滅の瞬間を思うと、吉亮は慄然たらざるをえなかった。
時代の浪は滔々として西南戦争に向って流れている。
江藤新平の佐賀の乱と西郷従道の台湾征討で暮れた明治七年のあとをうけて、いまや明治政府は大久保利通の独裁体制で固められつつあった。しかし征韓論で西郷隆盛の下野をみ、台湾征討問題で木戸孝允に山口へ引き籠られた大久保政権は、一面孤立無援の様相を呈していた。かつて西郷隆盛に「三井の番頭さん」とひやかされ、江藤新平と衝突して大蔵大輔を辞職させられていた井上馨が、ここでふたたび顔を出してくる。
当時井上は三井の資本による大阪先収会社というのを経営していたが、彼が音頭をとって、大久保・木戸・板垣を大阪で会談させるべく働きかけた。
明治八年一月中旬、板垣退助は小室信夫と古沢滋をともなって、高知へ帰るべく大阪に立ち寄った。このとき大久保はいまや唯一の腹心となった伊藤博文と東京から、木戸は山口からすでに大阪に来ていた。井上はこの四者のあいだをとりもって、ついに二月十一日、大久保・木戸・板垣・井上・伊藤の五者会談が実現した。いわゆる〈大阪会議〉である。
三月八日、木戸が参議に復し、十二日、板垣もまた参議となり、木戸・大久保・伊藤・板垣の四参議が委員となって制度取調に従事し、四月十四日、〈立憲政体ノ詔書〉なるものが発布された。大久保を中心とした〈内治派〉の再編成が緒についたわけである。
この詔書により「元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ」「大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏《かた》クシ」「地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ」「漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ」ることとなった。
元老院は旧来の左院に代わるものだったので左院を廃止し、同時に以前から有名無実となっていた右院も廃止した。そして議官として勝安芳・山口尚芳・後藤象二郎ら十四人を特撰した。(ただし勝安芳・副島種臣・福岡孝悌の三人は拝辞した。)このなかに議長と副議長が任命されていなかったのは、いままで空席であった左大臣にこのたび就任した島津久光を元老院の議長に充てようという内議があったからである。(大審院長には右大臣岩倉具視が充てられていた。)そして四月二十七日、各議官の公撰投票により後藤象二郎が副議長となった。その後、七月二日、有栖川宮|熾仁《たるひと》親王以下十人の元老院議官の追撰があり、七月五日、元老院の開院式が行われた。
西郷という磁力の強い星に頭を向けてひしめいている全国の反政府的批判分子から政府を守るために木戸・板垣を廟堂にひきこむことに成功した大久保は、さらにその内務卿としての路線を押し進めて、六月二十八日、太政官布告第百十号および第百十一号をもって〈讒謗律《ざんぼうりつ》〉と〈新聞紙条例〉を、ついで九月三日には同じく第百三十五号をもって〈出版条例〉を発布して、言論出版にたいする未曾有の厳しい取締りを開始した。
讒謗律の大要を示すならば──
「人ノ栄誉ヲ害スヘキ行事ヲ摘発公布スル者之ヲ讒《○》毀トシ、人ノ行事ヲ挙クルニ非スシテ悪名ヲ人ニ加へ公布スル者之ヲ誹|謗《○》トス著作文書画図肖像ヲ用ヒ展観シ発売シ貼布シテ人ヲ讒毀誹謗スル者ハ罪ヲ科ス」
「乗輿、皇族ヲ犯スニ渉ル者、官吏ノ職務ニ関シ又華士族平民ニ対シ、讒毀シ誹謗スル者ハ夫々罰ス」
これは当然官吏について、その公私両生活に関する一切の批判を封ずる意図から出たものである。
新聞紙条例の大要は──
「新聞紙雑誌雑報ヲ発行セントスル者ハ其ノ府県庁ヲ経由|内務省ニ捧ゲ《ヽヽヽヽヽヽ》允准《いんじゆん》ヲ得ル事、允准ヲ得スシテ発行シタル者、官准ノ名ヲ冒ス者ハ発行ヲ禁止シ罰金ヲ科シ、印刷器ヲ没収ス」
「人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者、政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆スルノ論ヲ載セ騒乱ヲ煽起セントスル者、成法ヲ誹毀シテ国民法ニ遵フノ義ヲ乱リ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ曲庇スルノ論ヲナス者、裁判所ノ断獄、下調ニ係リ未タ公判ニ付セラレサル者及裁判官審判ノ議事ヲ載スル者、院省使庁ノ許可ヲ経スシテ上書建白ヲ載スル者ハ自第十二条至第十三条ニ依リ夫々罰セラル」
このねらいは勿論自由民権論や反政府的言論の徹底的弾圧である。
さらに出版条例は「図書ヲ著作シ、外国ノ図書ヲ翻訳シテ出版スル者ハ|出版ノ前以テ内務省ニ届出ル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》事」とし、従来は出版後に文部省に届け出ればよかったのを改めて、内務省の検閲を受けさせることにしたものである。
これらの法令は大久保の命を受けて尾崎三良と井上|毅《こわし》が研究・作製のうえ公布されたもので、このため「東京|曙《あけぼの》新聞」記者・末広鉄腸をはじめ「采風《さいふう》新聞」編集長・加藤九郎など、多くの新聞・雑誌記者が処刑され、旧幕時代にさえ見られなかった言論の〈恐怖時代〉が現出した。
こうなるとさすがの板垣も大久保と妥協して入閣したことを後悔せざるをえず、十月二十七日、参議を辞して政府を去った。同日、左大臣という飴玉をしゃぶらされて実権はなにもないことに憤慨した島津久光も辞職した。久光を左大臣という重職に飾ったのは、西郷の旧主であるという重みを利用するためだけだったのであるから、大久保の手の内がわかってしまってはその地位に安坐できる久光ではなかったであろう。
明治九年三月二十八日、太政官から次の布告が出された。
布 告(太政官布告第三十八号)
[#ここから1字下げ]
自今大礼服著用並ニ軍人及ヒ警察官吏等制規アル服着用ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁候条此旨布告候事
但違犯ノ者ハ其刀可取上事
[#ここで字下げ終わり]
いわゆる〈廃刀令〉である。
この布告の直接の動機となったのは、昨八年十二月七日、陸軍卿・山県有朋から出された廃刀上申書である。明治四年八月に出された「散髪及び脱刀の如きも自今勝手たるべし」という布告のときでさえも士族の反感を買ったのが、いま〈帯刀〉を禁ずることは〈武士の魂〉を奪うことであるとして、士族の不満は憤激となって爆発した。
なかには〈帯刀〉だけが禁ぜられたのだとして、刀を袋に入れたり、手に提げたりして歩く者もあれば、刀でなけりゃよいのだろうと、鉄砲を持ち歩く物騒な者も出たりした。腰が淋しいといって丸い棒や木刀を差して歩く〈可憐型〉もいた。
じっさい司法省でも「第三拾八号布告は一切の刀剣を|佩帯するのみを禁じたるなり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》懐中|若《もし》くは嚢懐に蔵包し及び其余の兵器を携帯するが如きは此限にあらず」という指令を発し、跳ね返りの強さをなんとか防ごうとしている。
また内務省では、岡山県から「刀剣を杖に仕込んで持ち歩く者がいるが、これは帯刀とは異なるが実際は帯刀同様だから、その刀は取り揚げてよいか」という伺いが出たのにたいして、「取り揚げるに及ばず」と返事している。ところが大阪府からの伺いで「相撲興行のさい行司というものが従来脇差を帯用していたが、帯刀禁止の御規則なので登場の節だけ木刀を使いたいと申し出ている。これは畢竟遊芸の一部であって、劇場で帯刀しているのと格別異ならないのであるから、許可してよろしいか」というのにたいして、「木刀と雖も佩帯の儀は相成らん」と指令した。仕込杖ならかまわないが、木刀はいけないというのだから珍妙というしかない。
いずれにしてもこの廃刀令が反政府的士族に与えた衝撃は多大なものがあった。(ちなみに、この廃刀令の出た三月二十八日、持論の容れられない不満と病気を理由に、木戸孝允は参議を罷《や》め、内閣顧問という閑職についている。)政府は廃刀令に追打ちをかけるように、八月五日、金禄公債を発行して、華士族以下の家禄・賞典禄を強制的に廃止してしまった。このとき華族は四百八十四人、士族は四十万八千八百余人であった。
士族の怒りはついに火を噴いた。
十月二十四日、大田黒伴雄を中心とした熊本敬神党の神風連《じんぷうれん》の乱が起きる。
同じく十月二十七日、神風連に呼応して旧秋月藩士宮崎車之助・今村百八郎・益田静方ら四百余人が蜂起。秋月の乱である。
同じく十月二十八日、前原一誠の萩の乱が起こる。
同じく十月二十九日、旧|斗南《となみ》(会津)藩士永岡久茂を中心とした一団が、前原一誠の挙兵に呼応すべく、千葉県庁襲撃の目的で、東京小網町の思案橋から乗船しようとして警官と衝突。いわゆる思案橋事件である。
これら不平士族の蜂起に並行して、地租改正に端を発した農民一揆が全国的に起きていた。そのため政府は、明治十年一月四日、〈地租軽減ノ詔書〉を出し、「曩《さき》ニ旧税法ヲ改正シテ地価百分ノ三」としたのを、いままた更に「税額ヲ減シテ地価百分ノ弐分五厘」とし、その付加税を正租の三分の一以内から五分の一以下に切下げ、ついで地方の諸庁費および庁舎の建築または修繕費を国民に賦課することを止めて官途から支出することとするなど、大きな譲歩をすることでようやく危機を切り抜けた。
このような騒然たる天下の形勢は、明治十年二月十五日、ついに西南戦争の勃発を迎えた。西欧近代化の道を選んだわが国の避けられない一大関門だったといえよう。
政府軍の兵員総計六万八百三十一人、うち死傷総計一万五千八百一人(戦死六千二百七十八人、負傷九千五百二十三人)。薩摩軍の総兵力四万余人、うち死傷総計二万余人、戦後処刑された者二千七百六十四人(うち斬二十二人)。
九月二十四日、政府軍は城山の岩崎谷に総攻撃をおこなった。西郷はそれまで起居していた洞穴を出、桐野利秋・村田新八・別府晋介ら幹部と谷を下って島津応吉邸の前にさしかかったとき、一発の流れ弾が飛来して西郷の右の大腿から左腸骨部を貫通。どっと倒れた西郷はかたわらの別府晋介をかえりみ、「晋どん、もうここらでよか」と微笑して短刀を腹にあてた。別府晋介が介錯して、西郷の五十年の生涯を断った。
これに先立つ四カ月前、すでに薩摩軍の敗色濃くなった五月二十六日、天皇の大和および京都行幸に扈従してきていた木戸孝允が、
「西郷、もういい加減にせんか」
と譫語《うわごと》を残して、京都の旅宿で死んだ。病気は肝臓肥大症。四十四歳であった。
時代の大きな運行のもとを、無数のちぎれ雲が流れる。しかもめまぐるしい速さである。それらの雲が山田家という渺《びよう》たる存在の上に落す影は、あるときはあわく、あるときは翳《かげ》濃く、山田家を揺り動かしつづける。
政府の大久保体制・内務省強化路線は、囚獄の市ヶ谷移転後、司法行刑関係にも波及するのは当然であった。
明治八年十二月十八日、内務省達乙第百六十七号をもって東京府囚獄懲役事務は今後警視庁の取扱うところとなった。そして翌九年二月三日には、司法省所轄の諸監倉を内務省に属し、警視庁および各府県に管理させた。つづいて二月二十七日、市ヶ谷懲役場ならびに囚獄所はそれぞれ懲役署・囚獄署と改称され、さらに西南戦争の最中の明治十年七月二十八日、囚獄署を廃し、懲役署を監獄署と改称、そのため市ヶ谷は市ヶ谷監獄署、石川島は石川島監獄署などと呼ばれることとなってゆく。
乙第二十二号
[#地付き]区長 戸長
今般懲役署ヲ監獄署ト改称シ懲及ヒ|既決囚ニ関スル一切ノ事務《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》同所ニ於テ管理候条此旨為心得相達候事
明治十年八月八日
[#地付き]大警視 川 路 利《とし》 良《よし》
(ちなみに|未決囚に関する《ヽヽヽヽヽヽヽ》事務は鍛冶橋監倉署で行われた。ここは数次の改称を経て、のちに市ヶ谷富久町の東京監獄となる。)
〈大警視〉とはのちの〈警視総監〉に当り、すでにこの年(明治十年)一月十六日、東京府下の警察事務が内務省《ヽヽヽ》大警視に直轄されることになっていた。
西南戦争に向って流れる時代の潮は、なんといっても重苦しく、息がつまるようである。明治九年三月十八日の「東京曙新聞」は、この三月十二日に布令があり、いままでの官庁の休暇が一の日と六の日であったのを止めて日曜日を休暇日、土曜日を午後〈放衙《ほうが》〉とし、四月一日から施行することになったのに関して、次のような記事をのせている。
「来月よりは日曜日を休暇になし替へられ土曜日は午後よりの休暇と御定めになりました早速四月一日は土曜日にて半休暇二日は日曜日三日は神武天皇の御祭日にて都合二日半の休暇になるから随分ゆつくり愉快な遊びが出来やうと今から待つてをりますと或る官チヤンの御咄しなりとぞ其頃は彼岸桜は盛りなり向島辺も段々咲くか知れませんから何所も彼所も嘸《さぞ》賑やかなことでござりませう。」
〈連休〉第一号であるが、はたしてこの〈官チャン〉は花見に浮れることができたかどうか。三月二十八日の〈廃刀令〉、同じ四月一日の〈自今満二十歳を以て丁年と定む〉という布令の出る時代相を考えるなら、必ずしも天下泰平の〈連休〉を喜んではおれなかったであろう。
明治九年七月九日、元老院上申書の「死刑は絞に止むべきものとなす」という意見が元老院会議の全会一致で可決されたという噂を耳にした吉亮の驚きは、たとえ覚悟の前とは言っても、決して小さなものではなかったであろう。
[#ここから1字下げ]
謹テ案スルニ刑ノ死ヲ以テ之ヲ貴重ノ性命ノ上ニ加フルモノハ蓋シ止ヲ得サレバ也。何ヲカ止ムヲ得ズト謂フ。夫レ兇残ノ甚シキ者ハ之ヲ罰スルニ痛懲ヲ以テスルモ猶ホ其改心覚悟スルナキヲ恐ル、於[#レ]是之ヲ刑スルニ死ヲ以テス。是悪ヲ社会ニ勦《ツク》シ併テ他ノ不良心ヲ抱クモノヲシテ之ヲ未発ニ消尽セシメ以テ社会ノ安寧倖福ヲ維持スル所以ナリ。然則止ムヲ得サルニ非ズヤ。然レドモ今ノ死刑タルモノ其種二アリ。曰ク絞、曰ク斬是也。其レ絞ト云ヒ斬ト云フモ均シク是一死ナルトキハ之ヲ止ムヲ得サルノ者ニ施スニ於テ焉《なん》ソ其二ノ多キヲ用ヒン。唯其一ヲ存シテ可ナリ。然テ其一ヲ存スルヤ必ズ其酷ナル者ヲ去テ其寛ナル者ニ就カザルヲ得ズ。今夫斬ノ事タル身首処ヲ異ニシ、鮮血刑場ニ迸ル所謂刑ノ酷ナルモノナリ。彼ノ絞ノ如キハ肢体ヲ完全ニシ敢テ鮮血ノ惨然タルヲ視ズ。之ヲ斬ニ比スルニ稍《やや》寛ナリト謂フベシ。矧《イハ》ンヤ梟首ノ如キニ至テハ惨ノ又惨ナルヲ以テ観ル者ヲシテ其罪犯憎ム可キヲ忘テ却テ之ヲ憫ムノ心ヲ興起セシムルニ至ル。是斬梟ノ刑ヲ廃シ絞罪ニ止メンコトヲ欲スル所以ノ意ナリ。若シ此意ヲシテ貫通セシメバ法律ノ精神ヲ維持スルニ於テ聊カ見ルベキ者アラン。依テ別紙五刑条例ヲ草シ謹テ裁可ヲ乞フ。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、これは、吉亮にとって幸か不幸か、実現せずに終った。まだ時代は〈刑ノ酷ナルモノ〉を要求する時代であった。〈惨ノ又惨ナル〉梟示の刑が廃されるのは、西南戦争の跡片づけも済んだ明治十二年一月四日である。これは前年六月十四日、元老院から梟示の刑を廃するの意見書を上申して勅裁を仰いだ結果である。しかし「凡梟示ノ刑ヲ廃シ其罪梟示ニ該《あた》ル者ハ一ニ斬ニ処ス」とあるように、斬首の刑は存続し、すでに何度も述べたように、明治十五年一月一日施行の旧刑法をもって廃刑となる。
この当時、東京において梟示の刑に処せられた(とすれば吉亮の手にかかった)事件を若干挙げてみると、──
新律綱領、改定律例に定められた梟示に該当する罪は次の五つである。
一、祖父母、父母、伯叔父、姑、兄、姉、もしくは外祖父母、夫、夫の祖父母、父母を|謀殺する《モクロミコロス》。
二、奴婢、家長を謀殺する。
三、妻妾、姦に因り同謀して本夫を殺す。
四、謀故殺放火行盗して一家三人以上を殺し、もしくは人を支解(両手両足の四支をバラバラに切解)する者。
五、妻妾、夫および夫の祖父母父母を|故 殺 す る《デキコヽロニテコロス》。妾、正妻を故殺する。弟妹、兄姉を故殺する。子孫、祖父母父母を故殺する。
明治八年三月三十日の夜、武蔵国豊島郡小石川原町八番地借店・東京府士族鈴木定次郎長男・長之助(二十九年)が、庖丁で実父定次郎の頸部を刺して殺害。長之助は自分が長男でありながら、父母が弟の久次郎のみを偏愛し、しかもわずか五十円を商売の資本にせよと与えて彼を別居させた仕打ちを恨んでいた。ところがその商売にも失敗し、そのうえ妻の|たつ《ヽヽ》が彼を見限って実家に逃げ帰って離縁を求めてきたのに逆上して、父を殺したのであった。東京裁判所長・松岡康毅は、同年五月十七日、司法卿・大木喬任の許可を仰いで、「除族ノ上梟示」の判決をくだした。
おそらくこれが、|小伝馬町囚獄における《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》吉亮の最後の斬首執行だったかもしれない。
市ヶ谷囚獄に移ってからは──
武蔵国葛飾郡中郷村八軒町・平民煉瓦石職・深沢忠兵衛の妻|こう《ヽヽ》(四十一年六カ月)が、夫忠兵衛と一坐して飲食するを嫌い、夫を謀殺したという廉《かど》で、明治九年八月に梟示されている。
明治十年九月十二日、東京第九大区六小区袋村四十九番地・平民田辺七右衛門二男・幸次郎(四十四年)にたいし、東京上等裁判所判事・寺島直は、大審院長代理・玉乃世履の認可を得て、人命律殺一家三人条によって梟示の言渡しを行なった。
幸次郎は下目黒村の百姓の子として生れたが、安政年間から家出し、御一新のさいも何の手続きもしなかったので無籍者になっていた。明治八年二月、下目黒村の百姓・島村作之助の姉|きく《ヽヽ》と夫婦になり、小作百姓をしていたが、妻の|きく《ヽヽ》が男をつくって逃げたので、その後は仕事をせず、同九年六月十二日の夜、脇差をもって作之助方へ忍びこみ、|きく《ヽヽ》および彼女と同衾中の男、|きく《ヽヽ》の母親、作之助を斬って、|きく《ヽヽ》以外の三人を絶命させた罪によるものであった。
次の明治十一年の例は、女にとってはちょっと気の毒な判決である。
東京第五大区十一小区浅草田町二丁目十五番地・平民佐藤金五郎の養女ハツ(十七年)を、東京上等裁判所は大審院の許可をうけて、養母を謀殺した罪で梟示にした。
ハツは麻布谷町八百屋源次郎の娘で、新吉原揚屋町松橋屋の娼妓で初音と名乗っていたが、明治五年の娼妓解放令で自由の身となった。しかしそれは形式だけのことで、抱え主側がそんなに簡単に前借を棒引きにするはずがない。父母も死んで身寄りのないハツは、浅草田町二丁目十五番地の女衒《ぜげん》・佐藤金五郎にわずか三円の身代金で買われて妾にされた。金五郎には妻|まち《ヽヽ》がいたので、妻として入籍できないため養女として入籍した。ところがハツは金五郎のところに四カ月いただけで、宇都宮の谷屋という貸座敷に売られ、まもなく東京の新富町・大和屋に鞍替えしてきた。そのころ本妻の|まち《ヽヽ》は病気で寝たきりだったので、金五郎とハツは相談のうえ、明治八年三月三十一日、ハツが手拭で|まち《ヽヽ》を絞殺し、|まち《ヽヽ》が長のわずらいを苦にして自殺したように見せかけるため、脇差で|まち《ヽヽ》の咽喉を突いた。しかし死後、時間がたっていたため血が出ない。あわてて腹や心臓を突いて血を出そうとして傷をつけたため、他殺であることがすぐに露顕して逮捕された。
〈毒婦物〉を地でゆくような話であるが(〈斑猫《はんみよう》お初〉の原資料かもしれない)、ここで面白いのはその判決である。責任は当然金五郎にあるが、彼は単に妻を殺したにすぎない。それにくらべると、ハツは妾であり、正妻を殺し、しかも養女として入籍していたのであるから、母を殺したことにもなり、梟示はまぬがれなかったのである。金五郎がどんな罪になったか不明であるが、新律綱領では夫が妻を故殺したときは〈絞〉であり、同謀殺人の「原謀者《ホツトウニン》ハ。共ニ殴ト否ヲ問ハス。流三等」というから、流刑二年くらいでおさまったか、それとも改定律例で〈懲役終身〉くらいは科せられたであろうか。
25
閑話休題──
西南戦争の山田家に落した影のもう一つは、市ヶ谷八幡町にある父・和水の隠宅で、父、継母素伝、腹ちがいの妹|いさ《ヽヽ》三人と一緒に暮している四男真吉の徴兵問題であった。
安政四年(一八五七)五月十四日生れの真吉は明治十年(一八七七)が満二十歳に当っていた。前述のように、明治九年四月一日の布令で満二十歳が丁年と定められていたし、九年十月における各地の不平士族の叛乱と薩摩の動向にたいする不安を反映して、政府は同じく十二月十八日には、徴兵名簿に記載されている壮丁に限り今年の十二月から来年の四月まで官吏採用を停止する、という布令も出していた。これは兵役免除条項の一つとして〈官公吏〉が入っていたからであり、その採用を停止して徴兵に廻そうとしたのである。
真吉自身は徴兵に関して、どうでもよい、という姿勢をとっていた。兵隊にとられるもよし、とられざるもよし、どうせぶらぶらとしか生きておれぬ人生なら、どっちに転んでも同じだ、という気持であった。
父の和水も真吉まかせという態度であったが、山田家として一人くらいは兵役に応じて政府のお役に立つのも悪くない、という気持はもっていた。じじつ、そのころの政府は、全国的な徴兵忌避の風潮に頭を痛め、明治十年二月一日、人民の兵役を忌避し四肢を毀傷する者が多いということで、わざわざ地方官に布告して、これを懇諭せしめる状態であった。したがって、御一新以後、明治政府につかえて今日まで家職をつなぎえた山田家としては、せめて真吉だけでも兵隊にやることでそのお礼ごころを表現したほうが将来にたいして得策かもしれない、と和水が考えたとしても無理からぬところであったろう。
ところがこれに反対したのは素伝であった。平和な時代ならともかく、いつ西郷さんが攻めて来ないともかぎらない御時勢に、真吉さんを兵隊にやるということは殺しにやるようなものである。あんなおとなしい真吉さんが鉄砲かついで薩摩兵と戦うなんて、とても無理なことだし、考えただけでも可哀想である。絶対に兵隊にやるべきではない。それにわたくしの身にもなってほしい。御一新のとき、吉亮さんに彰義隊で戦ってもらったさいも、継母だから継子を戦場に追いやって殺そうとしたと、あらぬ非難まで受けた辛さがいまも忘れられない。こんども真吉さんを兵隊にやっては、みすみす同じ蔭口をたたかれることは明かである。まして|いさ《ヽヽ》という妹ができたいまである。腹を痛めた子が可愛いため、先妻の子に邪慳にあたって死地に追いやったと、うるさい世間の口がさらに針をふくむことは目に見えている。だからわたくしのためにも真吉さんは兵隊にやらないでほしい。
そういう素伝の懇望にたいしては、和水もこれを拒むわけにはいかなかった。もともと真吉を徴兵に応じさせることにそれほど積極的でもなかったのであるから、とにかく素伝の懇望を容れて兵役を逃れるとすれば、さしあたって考えられることは、真吉をどこかの養子にやることであった。もう一つ、代人料として二百七十円を政府に納める方法もあった。それだけの金額なら今の和水に払えないことはなかった。しかし昔の山田家ならともかく、息子たち全部に財産分割を行なった現在としては、和水の持っているだけの財産からでは、二百七十円という金額はいささか負担でないこともなかった。
素伝は養子説に賛成した。そして養子口に関しては自分にまかせてほしいといった。和水もそれを諒承した。
薩摩の情勢はすでに過熱し、西郷の立ち上がるのももはや時間の問題だ、といううわさに尻をたたかれながら、素伝があちこち奔走した結果、和水も納得し、真吉も諒承して(もっとも真吉は養子の件についても初めから、和水と素伝のいいように、という態度であった)、養子先が決ったのは、明治十年の二月七日であった。
この日、吉亮は市ヶ谷囚獄署で、思案橋事件の犯人三名の首を刎ねた。
この事件の首謀者は永岡久茂であるが、永岡は取調中、明治十年一月、鍛冶橋監倉署で負傷が悪化して獄死したため、次の三人が斬罪となったのである。
申 渡
東京府第三大区八小区赤坂新町三丁目
三十六番地青森県士族永岡久茂方寄留
[#地付き]岩手県士族
[#地付き]井《いの》 口《くち》 慎次郎
[#この行1字下げ]其方儀永岡久茂陰謀ヲ前原一誠等へ通ジ政府ヲ顛覆シ 朝憲ヲ紊乱セントノ企ニ同意シ先ヅ千葉県ヲ襲ヒ令参事ヲ殺シ官金ヲ奪ヒ若松ニ赴キ大挙スベキノ計策ヲ賛成シ総州へ出発セント出船ノ際小網町船場ニ於テ警部補寺本義久巡査河合好直ニ致命傷ヲ負ハシムルニ至ル科《とが》除族ノ上斬罪申付候事
[#地付き]青森県士族
[#地付き]竹 村 俊 秀
[#この行1字下げ]其方儀政府ヲ顛覆シ 朝憲ヲ紊乱センコトヲ企テ四方ニ奔走シ前原一誠永岡久茂其他ノ賊類ト陰謀ヲ通ジ計画ヲ主《つかさど》ル科除族ノ上斬罪申付候事
[#地付き]青森県士族当時脱籍
[#地付き]中 原 成 業
[#この行1字下げ]其方儀政府ヲ顛覆シ 朝憲ヲ紊乱センコトヲ企テ永岡久茂ガ前原一誠等ト相通ズル陰謀ニ同意シ先ヅ千葉県ヲ襲ヒ令参事ヲ殺シ官金ヲ奪ヒ若松ニ赴キ大挙セント総州へ出発ノ際小網町船場ニ於テ警部補寺本義久ニ致命傷ヲ負ハシムルニ至ル科除族ノ上斬罪申付候事
思案橋というのは当時東堀留川が日本橋川に注ぐところ、小網町一丁目から二丁目に通ずる小さな橋で、事件のあった昨年(明治九年)十月二十九日の夕方、永岡ら一行は小網町通運会社で登戸行の船を雇い、思案橋から乗船した。そしてこれに疑念をいだいた船宿の主人木村又七が第一方面第五分署(日本橋警察署)に密告して警官の出動となったのである。思案橋は関東大震災後は小網橋と改称されたが、現在は存在しない。
この日も吉亮は、岩倉具視を襲った武市熊吉ら九人を斬ったときと同じく、井口慎次郎ら三人を自分一人で斬った。
一方、真吉が養子先の牛込赤城下町八十一番地・士族・町田|路《ろ》く方へ〈入夫送籍〉されたのは、それから一週間後の二月十四日であった。この日は、西郷が桐野利秋・篠原国幹らと兵一万五千を率いて鹿児島を出発した前日に当る。
三月、徴兵検査を受けた真吉は、もちろん合格はしたが、養子として一家の主人となったのであるから兵役免除を言い渡された。
真吉が入婿となった町田|路く《ヽヽ》という女は、かつて素伝がまだ山田家へ縁づく前、大奥で「楓《かえで》の局」と呼ばれていたころ、八千代と名乗って素伝のお小姓を勤めていた女性であった。素伝が和水(吉利)のもとへ嫁いだのが元治元年の夏、数えで二十三歳のときであったが、そのとき|路く《ヽヽ》はまだ十五歳であった。したがって今年は数えで二十八歳、真吉より七つ年上である。
|路く《ヽヽ》は素伝が大奥から暇をとったのちもずっと勤めており、御一新後に大奥を下《さが》ったのであるが、両親を次々と失ったせいもあってかふしぎに縁談に恵まれず、そのまま現在まで独身を通してきた。いまは付近の妙齢《としごろ》の女の子たちに茶の湯や活け花を教え、〈お師匠さま〉と呼ばれて気楽な生活を送っていた。
|路く《ヽヽ》は大奥を下ったのちも、むかし自分を可愛がってくれた素伝を慕って、よく山田家を訪ねてきた。色白で、ほっそりと小柄な|路く《ヽヽ》は、年齢よりは遙かに若く見えた。素伝は真吉との話が起る前から、|路く《ヽヽ》の顔を見るたびに結婚をすすめていたが、|路く《ヽヽ》は「どうせ大奥で一生奉公のつもりでいたんですもの」といって、婚期を逸したことをべつに悔んでもいない風情で、明るく笑っていた。そして素伝といっしょに過した大奥時代の思い出話をなつかしそうに話して、それに熱中するとつい「旦那さま」とお局《つぼね》時代と同じに呼びかけて素伝を苦笑させたりして、屈託なく帰って行った。
二人が思い出話になると、必ず出てくるのが〈岩藤《いわふじ》退治〉の話であった。
素伝が「楓の局」と呼ばれていたころの話である。局になると、年に一度、〈御代参〉といって、将軍に代って神社仏閣にお参りする仕事があった。このときは葵の紋のついた裲襠《うちかけ》を着るので、その間はたいへんな権威を持つことができ、したがってそれだけ重い役目でもあった。
素伝が大奥をやめる三月ほど前、その〈御代参〉が命ぜられた。そうなると前の晩から、〈寝梳《ねす》き〉といって寝る前によく髪を梳かせ、翌朝早く化粧の湯が間に合うように火鉢に火をいけて湯を沸かしておくことが必要なので、素伝はお小姓の寿《ことぶき》と、|路く《ヽヽ》の八千代の二人によく言いつけて臥所《ふしど》に横になった。素伝が寝《やす》んで間もなく、〈お火の番〉が廻って来た。江戸城はよく火事に遭ったので、火の用心ははなはだ厳しかった。したがって〈お火の番〉に当った女中はまたひじょうに権威をもたせられていた。
彼女は長い廊下を渡ってきて、局ごとに、
「お火の番」
と言う。すると部屋の中からお小姓が、
「よろしうございます」
と答える。普通の〈お火の番〉だとそのまま通り過ぎるのであるが、意地の悪い女中になると部屋へ入ってきて火鉢のなかをかきまわし、火種の有無を点検する。うっかり火種が残ってでもいると、女特有の執念深さで、並のお小姓などは泣き出してしまうほど|ねっちり《ヽヽヽヽ》としぼられる。
その晩は、選りに選って、意地の悪いことで評判な女中だった。彼女は当然楓の局が明朝〈御代参〉に出かけることを知っていたはずである。いや、それを知っていたからこそ、火鉢に火が埋《い》けてあることも知っていたのだ。彼女はつかつかと部屋に入ってくると、御守殿火鉢を火箸でかきまわした。
勿論、灰の下には炭火が赤々とおきていた。するとその〈お火の番〉は、そこにあった湯沸しを取上げ、無言で火鉢のなかへ湯をかけた。もうもうたる灰神楽《はいかぐら》がたったのはいうまでもない。そして彼女は寿と八千代が泣き出しそうな顔をしているのを尻目に、ニヤリと笑って部屋を出て行った。
座敷も、衣桁にかけてあった裲襠《うちかけ》も、せっかく梳いた素伝の髪までが灰だらけとなった。抗議している暇などあるものではない。明朝早く〈御代参〉に出なければならないのである。口惜し涙にしゃくりあげている寿と八千代を励ましながら、素伝が率先して三人で拭き掃除をする、着物の灰を払う、髪を洗い直す、といった騒ぎで夜を明かしてしまった。
翌朝、〈御代参〉役となって葵の裲襠を着ると、さすがにわれながら威厳あたりを払うばかりなのに素伝は驚いた。しずしずと長局《ながつぼね》を歩きながら、あの意地悪女中はどこにいるかとそれとなく目を配ると、ちょうど廊下の曲り角にうずくまって、神妙に頭を下げていた。ゆっくりと傍に寄った素伝は、急に裲襠をその女中のあたまの笄《こうがい》へ引っかけて、グイと胸元へ引寄せた。長い鼈甲《べつこう》の笄がピシッと音たてて折れた。
これが問題となった。「あの楓の局があんな怒り方をしたのには、なにか仔細があるにちがいない」ということで詮議になり、一部始終が明るみに出て、その女中はついに城を下《さが》った。──
素伝と|路く《ヽヽ》はその女中を「鏡山」の岩藤になぞらえ、〈岩藤退治〉といって、そのときの口惜し涙と痛快さをいつでも話し合っていた。
姉さま女房の入婿となった真吉の新婚の夢がどの程度甘かったかはわからない。しかし、彼が〈養子〉という免役条項を盾にして背を向けた西南戦争は、予想どおり、あるいはそれ以上に、熊本城の攻防をめぐって熾烈の度を加えていた。政府は全兵力をたたきこんでも勝たねばならなかった。その死に物狂いの闘いが一度背を向けた兵役にもう一度真吉を呼びもどした。
六月四日、政府は本年の補充兵および免役の壮丁を徴集することに踏みきったのである。その結果、真吉は東京鎮台へ入隊した。
幸い、九月二十四日の西郷の死をもって、西南戦争は終幕を迎え、真吉は九州へ出征せずに済んだ。十月一日、西南の賊徒平定につき、征討に関する布告、達を廃止するという布告が出、召集兵および後備軍の動員が解除された。そして真吉が常備軍後備役に編入されて除隊してきたのは、翌明治十一年の一月中旬であった。
まずはめでたかった。|路く《ヽヽ》はもちろん、和水も素伝も安堵の胸を撫ではした。しかしこの丸七カ月の軍隊生活は真吉に大きな影響を与え、彼の性格を奇妙に歪んだものにしているらしかった。
真吉が|路く《ヽヽ》の家に寄りつかなくなったのである。市ヶ谷八幡町の和水の家へいりびたって、以前自分の使っていた部屋をふたたび占領し、鎮台でいっしょだったという男と二人でひきこもって、|路く《ヽヽ》の家には帰ろうとしなかった。
|路く《ヽヽ》が心配して素伝を訪ねてきても、真吉はべつに|路く《ヽヽ》に会おうとはしなかった。素伝がむりに会わせて、|路く《ヽヽ》が涙ながらに赤城下へもどろうといっても、全然耳を貸さなかった。あまりしつこくせまると、
「|ぼく《ヽヽ》は兵隊のがれのためにあなたといっしょになったのです。いや、いっしょにさせられたのだ。それが、どうだ、|ぼく《ヽヽ》はちゃんと兵隊に行ってきたじゃありませんか。もう徴兵なんてこわくないのです。それならなにもあなたと一つ家に住んでる必要はないでしょう」
正確このうえない論理であった。この論理の前には、さすがの素伝も一言もなかった。まして|路く《ヽヽ》にとっては苛酷すぎる理窟といってよかった。素伝に「よろしく頼みます」といって、肩を落して帰ってゆく|路く《ヽヽ》の姿がいじらしかった。二十九という女の年齢と大奥づとめをしたという誇りからみると、|路く《ヽヽ》はまだ子供としか思えなかった。だがそれが彼女の魅力なのだ、と素伝は考える。
素伝には責任があった。お茶菓子をもって真吉の部屋をたずね、いりびたりの友達(岩田梅夫と名乗っていた)の前もかまわずに、赤城下へ帰ることをうながすと、夕方二人で出てはゆくが、はたして|路く《ヽヽ》のところへ帰ったのかどうかは疑わしかった。
二、三日たつと、ふらりと二人で帰ってきて、以前のことなど忘れたように、また自分の部屋に居ついてしまうのであった。
しかも、ふしぎなことには、あのすべてに無関心派だった真吉が、〈戦友〉と称するその男といっしょにいるときだけは、へんにいきいきとし、眼にもかがやきを帯び、ときには彼の動作にびっくりするような媚態がこぼれることもあった。
手にあまると思った素伝は、ついに和水に相談した。和水は真吉を呼んで強く叱責した。そしてその友達とも絶交せよ、と命じた。真吉は一言も答えず、家を出て行った。
その晩、十時頃、雨のなかを|路く《ヽヽ》が訪ねてきた。全身濡れ鼠となり、髷はがっくりと崩れて、乱れた髪が蒼白い顔にへばりつき、しかも足袋はだしであった。
驚いた素伝はさっそく|路く《ヽヽ》を部屋にかかえ上げ、自分の着物を出して、肌着から湯文字まで着換えさせ、|路く《ヽヽ》の興奮の覚めるのを待って事情を聞き訊してみると、──
和水に叱責されたあと間もなくらしいが、真吉が夕刻ふらりと入ってきた。さすがに嬉しさを隠しきれず、|路く《ヽヽ》がいそいそと夕餉の支度をしていると、いつもの岩田梅夫が訪ねてきた。
ところが訪ねてきたのは岩田一人だけではなかった。次々と五、六人の男がやってきて、全員奥の間に引籠って、なにか重要な相談でもあるらしく、暫くはしんとしていたが、やがて真吉が|路く《ヽヽ》に酒を買って来させ、一とさわぎサッと騒ぐと、岩田を残して、折りから降り出した雨の中を全員また散りぢりに帰って行った。
酒席の跡片づけをして、ふと気づくと、もう九時を廻っている。家じゅうがいやにシンとしているので、真吉たちもまた出かけたのかなと、さすがに悲しい気持で寝間をあけると、ランプをあかあかと点けた下で、しかも真吉と自分のために敷いておいた|ま《ヽ》新しい布団のうえで、真吉と岩田が一糸もまとわずに抱きあっていた。
あっと驚いて襖を締め、居間へもどって気を静めようとしたが、恥しさと口惜しさがこみあげて押えようがなく、むかし大奥時代に素伝からもらった懐剣をとりだし、それを持ってふたたび寝間へ行った。しかし、
「おやめください」
と、|路く《ヽヽ》が声を荒らげたが、二人は一向平気で、そこで見物しておれ、といわんばかりに〈チューチューと口まで吸いあって〉いた。
|路く《ヽヽ》はあまりの屈辱感に逆上し、持っていた懐剣を抜くと逆手に持ち直して、
「わたしは死にます」
と自分の心臓めがけて突き立てようとしたら、真吉が裸かのままぱっと起き上って|路く《ヽヽ》の利き腕を握り、懐剣をはたき落した。途端に何がなんだかわからなくなり、そのまま家を飛び出してここに駈けつけたのである、ということであった。
|路く《ヽヽ》はしゃべりおえると、幾分気が静まったらしく、素伝の前なので気をゆるしたせいか、町娘のように膝をくずしてしゃくり上げていたが、ときどきそのあいまに、
「チューチューと口まで吸いあってさ」
と呟いているのが、滑稽でもあったがまたいじらしくもあった。
素伝としては言うべき言葉もなかった。とにかく|路く《ヽヽ》の気が落ち着くまで、素伝の家にとどめておくことにした。
素伝は真吉のことを思うと同時に、このごろ内藤新宿の妓楼からときどき吉豊や在吉《ありよし》、ときには吉亮も同行しているらしいが、真吉の兄たちの言いつけで、使いのものが金をもらいに来るようになっていることを思い出していた。
それが兄弟たちのいやがらせであることは知っていた。しかし、素伝はそのたびに金を工面して渡してやっていた。勿論、和水には黙っていた。あれだけの財産ももうそろそろ底をつき出したというのであろうか。そうなればどうなるのか。|いさ《ヽヽ》に分けた(と兄弟たちは考えているのであろう)財産をもどせ、ということになるのは明らかである。やがてそれが、山田家のなかの血で血を洗うような争いにならなければよいが、というのが、このごろの素伝の胸にわだかまっている重苦しい不安であった。
あの真吉までが得体のしれない人生を歩み出そうとしている。それが単に西南戦争という大事件から負った小さな傷であり、一時的現象であってくれれば、という気持が強かった。だが、素伝のような政治とは無関係な人間にも、御一新のあとの世の中の変りようを思えば、こんどの西南戦争のあとがまたどんなにか変ってゆくことであろうという予測はつけられた。あの兄弟たちがその中でどう生きてゆくのであろうか。そう考えると素伝はなんの自信ももてず、ただこれから起るであろう山田家のいろいろな紛糾が、空恐しく身に迫るのであった。
明治十一年五月十四日、参議兼内務卿・大久保利通が赤坂紀尾井町一丁目の通称紀尾井坂、清水谷あたりで島田一郎他五名によって暗殺された。昨年八月十五日、太政官が旧江戸城から赤坂仮皇居内に移転されており、四の日と九の日が参議が太政官に出仕して閣議を行う日となっていたが、この日の閣議では、地方官の|黜 陟《ちゆつちよく》、府県の廃合、その他内務省所管の重要問題を議定することになっていた。大久保の管掌事項である。
この日、午前六時、福島県令・山吉盛典が大久保を訪ねてきて話し込み、大久保が裏霞ヶ関三年町の自宅を出たのが午前八時であった。
大久保の乗っている二頭立ての馬車が、紀尾井町一番地の北白川宮邸と華族|壬生《みぶ》邸の間にさしかかったとき、車内の大久保は書類を披見していた。この辺は両側に小高い土塀がつづき、塀の中には人の背をかくすほどの高い夏草が生い茂り、日中でも人通りのまれなところである。まして早朝、しかもいまにも雨の降りそうな空模様である。むしろそこに二人の書生風の男が手に花をもってたたずんでいるのをこそ異常な光景だと考えるべきであった。
先を払う馬丁の小高芳吉は、
「はいはい、ご免よ」
と、別に警戒もせずに通りぬけ、そのあとを馭者の中村太郎が馬に鞭うって駈けぬけた。そのとき、左前方の板囲いをした街厠《せつちん》(公衆便所)の蔭から四人の壮漢が現れ、手に手に刀を抜いて襲ってきた。うしろの二人も花を捨てて抜刀し、馬車に駈け寄ってきた。刺客の一人が左の馬の前脚を横なぎに斬り、馬が一と声いなないてがくっと脚を折って倒れると、さらに右の馬の腹に刀を突き刺した。
馭者の中村が、
「狼藉者!」
と叫んで鞭で一打ちし、手綱をはなして飛びおりたところを、その刺客が一太刀で肩先から乳の下まで斬りさげた。即死であった。
物音に驚いた大久保が手早く書類を袱紗に包んで、
「待て!」
と叫んで左の扉から飛び出ようとしたところを、刺客の一人が真正面から大上段に斬り下げた。その一刀は、それを防ごうと額の前にかざした大久保の左手と一緒に眉間《みけん》を眼の際まで存分に割っていた。大久保は車のなかにドスンと尻餅をついた。
あとは眼を蔽う修羅場となった。刺客たちは意識を失った大久保を路上にひきずり出し、めった斬りにした。
馬丁の小高は威勢よく先駈けしていたので、うしろの物音に気づいてふりむいたときは、すでに紀尾井坂を登り切っていた。突発事件に仰天した小高は、そのまま一目散に宮内省の表門へ駈けつけ、門衛の兵卒に大事を告げると、さらに赤坂御門外にある警視第三方面第二分署へあえぎあえぎ駈けこんで急を知らせた。報告しながら小高は手放しで泣いていた。
分署に詰めていた警部巡査たちが遭難現場へ駈けつけてみると、死体はよほど引きずり廻されたらしく、一間ほどずつ間隔をおいて三カ所におびただしい血だまりができており、全身五十数カ所の傷を負っていた。しかも見るも無慚だったのは、路上に仰向けに倒れている大久保の首に大刀一本、脇差三本が鍔元までズブリと突き立てられ、刺客たちの大久保にたいする恨みの深さを物語っていたことである。勿論、すでに絶命し、ただ飛び出した脳漿だけがピクリピクリと動いているのみであった。
大久保の遺体は変を聞いて宮内省の馬車で駈けつけた香川敬三が花氈《けつと》に包み、馬車に扶け載せて自ら遺体の側に坐乗して永田町に向った。たまたま西郷従道が馬車を駆って来るのに遇ったので、香川は席を西郷にゆずり、自分は馭者台に移って、裏霞ヶ関の大久保の邸に届けた。
馬丁の注進で四方の門に近衛兵を配し、固めを厳重にしていた宮内省の表門に、麹町の方から、近づいてくる六人の男があった。
「何者だ」
と衛兵が誰何《すいか》すると、そのうちのリーダーとおぼしい二人が近寄ってきて、自分たちはいま大久保参議を殺害してきた者である、宜しくこの旨を通じて相当の処分をされよ、という。そこで衛兵は早速警察へ引渡し、腰繩をうって車で警視本署へ連行した。
自首してきたのは石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、同県平民・脇田巧一、島根県士族・浅井寿篤の六人であった。
この変報に朝野は震憾した。天皇は〈震悼《しんとう》〉し、岩倉具視は〈慟哭《どうこく》〉した。
島田らは懐中に斬奸趣意書を持っていた。その大意を述べると、──
「石川県士族島田一郎等、叩頭昧死、仰て 天皇陛下に奏し、俯して三千有余万の人衆に普告す、一郎等方今皇国の時状を熟察するに、凡《およそ》政令法度、上《かみ》 天皇陛下の聖旨に出るに非す、下《しも》衆庶人民の公議に由るに非す、独り要路官吏数人、臆断専決する所に在り」とし、それら要路者の罪悪を条挙して、
「曰く公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する、其罪一なり」
「曰く法令漫施、請託公行、恣《ほしいまま》に威福を張る、其罪二なり」
「曰く不急の土功を興し、無用の修飾を主とし、国財を徒費する、其罪三なり」
「曰く慷慨忠節の士を疎斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する、其罪四なり」
「曰く外国交際の道を誤り、国権を失墜する、其罪五なり」
「西郷・桐野の世に在るに当りては、奸吏輩大に畏怖する所あり、未た其私曲を極むるを得す、今彼の徒既に逝くを以て、奸吏輩|復《また》顧慮する所なし、是を以て更に其暴悍を肆《ほしいまま》にし、転々其奸兇を逞《たくましく》し、内は以て天下を玩物視し、人民を奴隷使し、外は外国に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て皇統の推移、国家の哀頽、生民の塗炭を致すや、照々乎として掌を指すか如し、一郎等一念此に至る、未た嘗て流涕痛息せすんばあらす」
「因て当時奸魁の斬《きる》へき者を数ふ、曰く木戸孝允、大久保利通、岩倉具視是れ其巨魁たる者、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如きは、又許すべからさる者、其他三条実美等数名の奸吏に至りては、|斗※[#「竹/肖」、unicode7b72]《とそう》の輩数ふるに足らす、其根本を斬滅せは、枝葉随て枯落せん」
「故に先つ孝允・利通両魁中其一を除かんと欲し、而して孝允図からす病を以て死す、蓋《けだし》、皇天其大奸を悪《にく》み、既に其一を宣誅し、又一郎等をして、其一を斬戮せしめ、以て二兇を併せ亡さすなり、故に一郎等今天意を奉し、民望に随ひ、利刃を振て以て大奸利通を斃す」
「臣一郎等頓首、仰て 天皇陛下に白《まお》し、俯して闔国《こうこく》人士に告く」
「願くは明治一新の御誓文に基き、八年四月の詔旨に由り、有司専制の弊害を改め、速に民会を起し公議を取り、以て皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致すべし、一郎等区々の微衷、以て貫徹するを得は、死して瞑す、故に決死の際、上下に俯仰して聊か卑意を陳し、併せて奸吏の罪悪を状し、聖断に質《ただ》し、而して公許を取る、一郎等感激懣迫の至りに堪へず、叩頭昧死謹言」──というものであった。
大久保の歿したとき、年四十九歳。葬式は神葬式をもって青山墓地に葬られた。死の三日後の五月十七日であった。
当時はまだ国葬の制はなかったが、葬礼の事務はすべて宮内省が取扱い、会葬者はみな大礼服着用。儀杖兵として歩騎砲工の諸隊列をなし、皇族以下、高官、華族、外国公使、その他会葬するもの数千人、のちの国葬の端を開いたものである。馭者の中村太郎は大久保の墓側に、愛馬は墓後に埋葬された。
司法省は臨時裁判所を開き、判事・玉乃世履を裁判長として彼らを取調べたが、同年七月二十七日、島田一郎以下六人は「除族ノ上斬罪」を申渡された(ただし脇田巧一は平民なので「斬罪」のみ)。その他連累者は十六人が禁獄以下に処され、五人が無罪だった。
斬罪の執行は、同日そのまま本繩を打たれ、駕籠で市ヶ谷監獄署へ移されて、吉亮の手でおこなわれた。
島田一郎、このとき三十一歳。未決囚として鍛冶橋の監倉署(昨年十二月二十六日付で監獄第一支署と改称されていた)の獄内におったときは、すこぶる豪放磊落、非常な慷慨家であるという噂を吉亮は耳にしていた。
市ヶ谷の監獄署(第二支署と改称されていた)に移され、いよいよ刑場へ引き出されるべく名前を呼ばれたとき、島田は獄中すっくと立ち上り、
「では、愛国の諸君、お先へ」
と、大声で怒鳴った。別な監房に入れられている同志へ聞えるように別れの言葉を言ったのである。これは目かくしをされ(除族されて平民扱いになっていたからである)、それに同じ事件の連累者は同日同所で斬首するというしきたりを知らなかったからである。
ところが自分のあとにつづいて長連豪以下の名が呼ばれ、全員一緒に処刑されることを知った島田は大いに喜んで、
「東京も最早今生の見納め、各々の眼かくしを取ってはいただけないか」
と警護の巡査に申し入れた。巡査たちも彼らの心中を察し、上官に伺いをたてたうえ、全員の眼かくしをとってやった。久振りで対面する全員は、手は縛られているので、たがいに眼に万感をこめて死出の別れを交しあった。
刑場に引き出された島田は、黒紋付の単《ひと》え物を着、三カ月の牢獄生活で髭は茫々。ただ眼光だけが炯々として、なるほど一人物だ、と吉亮をうなずかせるものがあった。しかし吉亮もすでに二十五歳。しかも多くの名士首を斬っている。一と目見ればどの程度の人物かは自然とわかる境地にあった。吉亮は島田の面貌をみて、一と癖ある面魂だと思った程度で、あまり感動を催さなかった。
土壇場に据えられたとき、吉亮が、
「何か申し遺すことでもおありならば」
と鄭重に問いかけると、
「いや、この期《ご》に及んで申し遺すことはない」
と、そっけなく島田が答えた。
吉亮もそっけなく無造作に首を斬った。
島田に較べて長連豪(二十三歳)は、まだ若年ながら、吉亮の感動を呼ぶものがあった。島田よりは人物が上だな、と吉亮は思った。吉亮は長連豪が西郷隆盛のもとで感化をうけ、西南戦争勃発の前、西郷の愛犬をもらいうけて帰国したという話を耳にしたことがある。長の落ち着いた挙措動作をながめているうちに、しみじみと「西郷さんてやはり偉い人だったのだなあ」と感嘆している自分に気づき、場ちがいだと知って心中苦笑を浮べた。
「何か申し遺すことでもおありならば」
と、吉亮が島田にしたと同じ質問をすると、長は軽く会釈をして、
「北はどちらでしょうか」
と問うてきた。吉亮がその方角を指で知らせると、そちらに向って三拝九拝しながら口に何事かをつぶやいていた。拝し終ると、
「北はわたくしの故郷で、いまなお母上が存生《ぞんしよう》なものですから……」
と説明し、
「ご配慮かたじけのうござった。では」
と正面に向って、血溜りに首を差延べた。
吉亮は首打役をしてはじめて、「刀の錆にするのが惜しい」という気持を味わった。
脇田巧一(二十九歳)杉本乙菊(三十歳)杉村文一(十八歳)浅井寿篤(二十六歳)もそれぞれ見事に斬られた。
26
うだるような夕暮の火照《ほて》りもようやく消えて、風が少し出ていた。その風のなかに微かに馬糞の匂いもまじっている。見上げると、黒い襖に金砂子《きんすなご》を撒いたような夏の夜空に天の河がいつのまにか大きく移動して、しらじらと北から南へ橋を懸け渡していた。
吉亮は四谷の大木戸を通り過ぎると、内藤新宿の街並みに向って足を速めた。足もとからまっすぐ西に延びた街道が濃い闇の中に没している。きょうは陰暦の六月二十八日、空に月はない。草履が|かかと《ヽヽヽ》でハタハタと孤独感をはたき出している。叢の虫の音がかまびすしかった。ことしの秋の訪れは意外に早いのかもしれない。
きょう、大久保を暗殺した六人の首を斬り、帰宅後、夕餉の膳で浜田とさしむかいで盃をかさねたが、吉亮の心は晴ればれとしなかった。打ち水はしてあるが、縁先からの風がちっとも動かず、からだにまつわりついて汗を呼んだ。
きょうのように大量の斬首執行のあった晩は、かつては大勢の門弟たちと夜遅くまで酔い痴れるのを恒例としていたが、門弟のいなくなった現在では、ただ習慣的に浜田と慰労の酒を酌むにすぎない。一度に何人もの首を刎ねたからといって、いまさら血に酔う二人ではなかった。
吉亮の気が晴れないのは、斬首とは関係のない理由からであった。
きのうの朝早く、市ヶ谷八幡町の父から使いがあり、「会いたい」と言ってきた。兄の吉豊や在吉にならわかるが、自分に会いたいとはふしぎなこともあるものだと、夕刻、監獄署からの帰りに父の家を訪れた。
話は真吉のことであった。真吉を|路く《ヽヽ》と離縁させる、というのである。それに異議をとなえる筋合は吉亮にはなかった。ところが、その替りとして吉亮に|路く《ヽヽ》と結婚せよというのであった。素伝も傍からそれを懇願した。しかしあまりにもだしぬけな話なので、返事は保留して帰ってきた。それが心にわだかまりとなって酒を陽気にさせないのであった。
それでも嫂《あによめ》の|かつ《ヽヽ》が運んでくれる銚子がかなり並んだ。
|かつ《ヽヽ》は吉亮より十歳年上であるから、数えで三十五のはずである。きょうも兄の吉豊は家にいない。毎晩のように孤閨を守って一と言の愚痴もいわず、三人の男の子を育てている|かつ《ヽヽ》の姿をみるのは、吉亮にはなんとなく辛かった。しかも吉亮としては、兄の吉豊が今夜もどこでだれに酒をつがせているかを知りながら、嫂に自分の晩酌の世話をさせているのが、ある種のうしろめたささえ誘うのである。
「義姉上《あねうえ》、台所の一升徳利をここへ置いてください。わたしたち自分で冷酒《ひや》でやりますから」
「いえいえ、どうせ退屈しているのですから」
|かつ《ヽヽ》の言葉にはかすかな自嘲があった。しかしそれが針となってだれをも刺さないのが彼女のいいところなのであろう。妻とはそういうものだとあきらめきっているのかもしれなかった。それが吉亮にはかえっていたましいのである。
|かつ《ヽヽ》も決して不美人ではない。昔は丸顔の、笑うと|えくぼ《ヽヽヽ》の出る可愛い女であったが、いまは面窶《おもやつ》れで細面《ほそおもて》に変った。うっすらと化粧をして後れ毛一本見せずに吉亮と浜田の相手をしているのが、むしろ女としてのわずかな心の慰めなのかもしれない。
吉豊はおそらくきょうも内藤新宿のなじみの妓楼にいるであろう。吉亮には四十を過ぎた男の放蕩ということがよくわからない。しかし家をかえりみず遊蕩に身をもちくずす兄を責める気はふしぎに起きなかった。|かつ《ヽヽ》も気の毒だ、しかし兄の辛さもわかる、といった気持であった。それが明治という時代が山田家に投げた陰翳というものであろう。
吉亮は吉豊に会ってみたいと思った。ひょっとしたら在吉も内藤新宿にいるかもしれない。二人の兄に昨夜の父からの話を相談してみようという気持が動いた。同時に、酒にしたたか酔ってみたいという気持も強かった。
|かつ《ヽヽ》が座をはずしたとき、浜田に同行を誘ったが、
「いや、わたしは早く寝床に入りたいので」
と、浜田は辞退した。そうと決まると、吉亮はそそくさと夕食をすませ、着流しに仕込杖を一本たずさえて家を出たのであった。
引《ひ》け刻《どき》間近の内藤新宿は、街全体がざわざわと荒い呼吸を夜風に伝えてきた。麹町から四谷御門を抜け、まっすぐ麹町十一丁目に入って箪笥町から荒木町にぶつかり、大きく左へ曲って四谷の大通りへ出て、忍《おし》町、塩町と、いままで星あかりにたどってきた街並みは、どこもすでに大戸をおろして、ひっそりと静まりかえっていた。それが、大木戸で左手に感じた玉川上水の流れとも離れて、内藤新宿の一丁目に足を踏み入れただけで、吉亮は心の|ぞめき《ヽヽヽ》を覚えた。
遠く二丁目、三丁目を見はるかした道の両側に、昔の宿場の面影をとどめた旅籠屋《はたごや》づくりの家並みが、夜空にくっきりと二階建ての屋根の線を描いて続いている。暖簾の下から街道に洩れるあかりと、軒先の屋号を書いた石油ランプのほかげの中に素見客《ひやかし》の濁《だ》み声と遣手たちの嬌声が交錯する。左手の闇の奥には、旧内藤家下屋敷がいまは勧農局試験場となって、鬱蒼とした樹木の気配が表通りの賑わいを引き立たせていた。どこかの茶屋からであろうか、三味の遠音も流れてきた。
右手に六地蔵と閻魔様《えんまさま》で有名な太宗寺《たいそうじ》のこんもりとした暗闇を眺め、その真向いの豊倉屋と書いた浅黄木綿の暖簾をくぐった吉亮は、すでに顔なじみとなっている遣手に、兄の吉豊が登楼《あが》っているかどうかを確めた。胸の悪くなるような追従笑いを残して遣手が消えると、ふっくらと色白な女将《おかみ》が顔を出し、
「おやおや、吉亮先生、ようこそ。吉豊先生はおみえになってますから、ちょっとお待ちくださいまし。よかったら、ちらかってますが、内所《ないしよ》のほうで|煎 茶《あがりばな》でも……」
と挨拶するのに礼を言って辞退し、しばらく土間に立って待っていた。
やがてさきほどの遣手がもどってきて、二階のいちばん奥の、廊下のつきあたりにある部屋へ吉亮を案内した。ほのかな脂粉の香りのただよう長い廊下の左右には、まだあかりのともっている部屋もあれば、暗く静まりかえっている部屋もあった。吉亮はその前を通りながら、すべての部屋から洩れてくる圧縮された男女の気配を感じて、なんとなく足音をしのばせ、遣手がお愛想のつもりか声高に話しかけてくる無神経ぶりにどぎまぎしていた。
「亮《ふさ》か。よく来た。さあ、入んな」
浴衣の胸前をひろげた吉豊が、パタパタと気ぜわしく団扇《うちわ》を使いながら声をかけた。
「夜分、申し訳ありません。ちょっとご相談がありまして……」
と兄に挨拶する吉亮から、
「ようこそ。お暑いところを……」
と言って敵娼《あいかた》の幻《まぼろし》が仕込杖を受け取り、吉豊の背後にある、達磨《だるま》の墨絵のさがった形ばかりの床の間の片隅に、吉豊の仕込杖と並べて立てかけた。|ふり《ヽヽ》の客であると、刀はもちろん禁止されており、棒や杖などを持って部屋へあがるのにたいしても妓楼《みせ》側は極度に神経質になり、内所のほうであずかるのが普通であったが、吉豊兄弟に関しては、その素姓もよく知っているので、何も言わなかった。
床の間の前に両膝をつき、上半身をのばして仕込杖を立てかけようとしている幻の、両足の親指を立てて白い蹠《あなうら》を見せているうしろ姿の、左右の|かかと《ヽヽヽ》の間がからだのねじりで幾分広く開いてできた暗い空間のなかに白い腓《ふくらはぎ》が隠れてゆくさまから眼をそらしながら、
「きょうは在吉兄さんは麹町でしょうか」
と吉亮がきいた。
「いや、来ている。使いをやろう」
と答えて吉豊が、
「おい、|ぼろ《ヽヽ》よ、まず酒だ。そのあいだに手紙を書くから、あとで相模屋に使いを出しとくれ」
と首をねじってふりかえるのに、
「はい」
と返事をし、達磨の掛軸の前に置かれた硯箱と巻紙をとって手渡しながら、幻がチラリと吉亮に視線を移してにっこりと笑った。
〈ぼろ〉というのは、|まぼろし《ヽヽヽヽ》という源氏名が呼びにくいというので、真ん中の二字をとって吉豊が付けた彼女の愛称である。はじめのうちは彼女も「そんな呼び方はいや※[#小さな「ン」]」と鼻にかけた甘え声で抗議していたが、このごろでは〈ぼろ〉と呼ばれると、またですよ、というように吉亮たちのほうへ救いを求める視線を投げてから、にっこり笑ってみせる程度にあきらめていた。吉亮は、御一新までは〈食売女《めしもり》〉と呼ばれていた名もない宿場女郎と兄とのあいだに生れた愛情が、その愛称とそれへの彼女の反応ぶりからみて、いまでは強い連帯感をともなっていることをはっきりと知らされた。
そのうえ、幻はどことなく素伝に似ていた。もちろん、素伝の教養と美貌に比較すべくもない田舎娘にすぎなかったが、眼から鼻筋にかけての線とか、ある瞬間の顔の動きとかが、びっくりするほど素伝を髣髴させることがあった。いまも、派手な長襦袢の上から、吉亮の突然の来訪に着替える暇がなかった申し訳にというように、地味な羽織をはおって、三兄弟の酒席の膳を運んでこまめに部屋を出入りしている彼女の顔は、部屋の中央に置かれた燈明台のランプに明暗をつくって、ときどき吉亮に素伝の顔を思い出させた。
筆の先を噛みくだいて硯の海に残っていた墨で巻紙に筆を走らせている吉豊を眺めているうちに、素伝への恋情を抑え、その面影に似た田舎女郎への愛に心のやすらぎを得ているのかもしれない兄の姿に、吉亮は悲しみに似た感動を呼び起されるのであった。
「亮のなじみは相模屋の薄雲《うすぐも》だったな」
突然、吉豊が大きな声で言って、書き終えた筆を口にくわえて巻紙を切った。あわてている吉亮に、幻と目を見合わせて笑った吉豊が、
「いいわさ。どうせ今夜はゆっくり飲んで、相模屋に泊ってゆくがいい。手紙のなかにその旨在吉に言いつけて、薄雲に口をかけておくようにさせたからな」
といって、幻に手紙を渡した。幻が使いの者に手紙を託しに部屋を出てゆくと、
「さ、とにかく一杯いこう」
と、吉豊が銚子を吉亮に差出した。
その晩の三兄弟の話題の中心は、なんといっても真吉の離縁問題であった。
まずこの話は、きのうの吉亮にとっては|寝耳に水《ヽヽヽヽ》であったが、吉豊と在吉にとっては|ちんぷんかん《ヽヽヽヽヽヽ》な事件であった。
元来、吉豊・在吉の兄二人と吉亮・真吉の弟二人のあいだには大きな年齢のへだたりがあり(在吉と吉亮のあいだでさえ十三年の開きがあり、吉豊と真吉のあいだには十八年の差があった)、上の兄二人は真吉にたいしては比較的関心が薄かった。とくに平河町と麹町とに別れて生活していたし、真吉は吉亮と違って首打役としての修業ともほとんど無縁だったので、ある意味では二人の関心の薄さも致し方のないことであった。その間をわずかにつないでいたのが吉亮である。
したがって、真吉が|路く《ヽヽ》の家に養子縁組をしたということにしても、三人の兄たちになんの相談もなかったことは彼らにとってたしかに大きな不満ではあったが、財産分配後の山田家の状況がそれまでの父子の疎遠ぶりにさらに輪をかけたものなのであるから、「ああそうか」くらいで、少くとも吉豊と在吉は聞き流していたというのが実情である。
そのために吉豊と在吉は、真吉と|路く《ヽヽ》の縁組のそもそもの理由からして詳しいことは知らなかったし、真吉が東京鎮台へ入隊して今年(明治十一年)の一月に除隊してきたということも、吉亮からの報告でそのつど耳にしてはいたが、ほとんど風馬牛的態度しかとっていなかった。
したがって今回突然真吉と|路く《ヽヽ》との離縁問題が起きたとしても、吉豊と在吉にとっては赤の他人の問題同様に、見知らぬふりもできたかもしれないのである。しかしそれに吉亮の後釜問題がからんでいるとなると、話は別になってくる。真吉にくらべると、吉亮は|身近な《ヽヽヽ》、|ほんとの《ヽヽヽヽ》弟なのである。二人の関心も強くならざるをえなかった。
ところがその関心を深めるにしては、いままでの事情をあまりにも知らなすぎた。真吉と|路く《ヽヽ》の離縁ということさえよくわからないのに、それを主張しているのが養家先の|路く《ヽヽ》ではなく、父の和水のほうであるとなっては、|ちんぷんかん《ヽヽヽヽヽヽ》以外の何物でもない。ましてその穴埋めに吉亮を養子にやるという問題になると、さらに|ちんぷんかんぷん《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と言葉を強めるしかないというのが正直なところであった。
となると、吉亮がこれまでの問題の経緯を、彼じしんにしてからがそれほど立ち入って知っているわけではなかったが、とにかくわかりやすく二人の兄に説明し、さらにゆうべの和水と素伝の持ち出した吉亮にたいする提案の意図を通訳して、そのうえで吉亮自身の進退について兄たちの意見を求めるしかないという、はなはだ複雑な手順を必要とする議論となった。
──昨年(明治十年)二月、兵役のがれの意味を含めて真吉は|路く《ヽヽ》の入婿となったが、西南戦争の激化にともない免役条項が効を失ったため、六月、東京鎮台に入営しなければならなかった。そして今年の一月、除隊した。
ところがその軍隊生活のあいだに、真吉は衆道《しゆどう》の喜びを覚え、除隊後も〈戦友〉だった岩田梅夫と名乗る男と念友の契りを続けて、|路く《ヽヽ》をかえりみなかった。
そのうえ、二月の中旬になって、というのは、|路く《ヽヽ》が真吉と岩田の同衾の現場を目撃した翌日であるが、真吉の姿が赤城下町の|路く《ヽヽ》の家からも、市ヶ谷八幡町の父の家からも、消えてしまったのである。
それまでも気のむくままに岩田とどこかへ泊ってくることは珍しくなかったので、心配なことは心配であったが、はじめのうちは大して気にもかけず、一日もはやくつまらぬ病気《ヽヽ》から解放されてほしいと祈りながら、|路く《ヽヽ》も素伝のもとから自宅へ帰って、真吉の帰宅を心待ちにしていた。
しかし、一と月たち、二た月たっても、なんの音沙汰もなかった。もちろん、平河町の吉豊の家にも、麹町の在吉の家にも立ち寄る様子はなかった。
三カ月たった五月になると、さすがにこれは意識的な〈家出〉だと考えざるをえなくなった。ある日、素伝のすすめをうけた|路く《ヽヽ》が市ヶ谷監獄署に吉亮をたずね、いままでの事情を話し、真吉の行くえを探すなにかよい手段はないでしょうかと、相談を持ちこんできた。
吉亮にしても、即座に妙案の浮ぶはずはなかった。しかし|路く《ヽヽ》の話を聞いていて一つ感じたことは、|路く《ヽヽ》をはじめ和水や素伝たちは真吉の〈家出〉の真意(それが何かは吉亮もわからないのだが)を間違って認識しているのではないか、ということであった。彼らはそれを単に真吉が念友の岩田と衆道の道行をしているだけだと看做し、二人でいまもどこかで男色の逸楽に酔い痴れていると考えているが、あの真吉がそれだけで〈家出〉をするような愚か者ではない。岩田とかいう男との顰蹙《ひんしゆく》すべき関係は事実としても、それは一つの陽動作戦であり、それによって家族の目をごまかし、もっと別な目的のために出奔したのではあるまいか。そしてその目的というのが必ずしも山田家にとって歓迎すべきものではないがゆえに、わざと男色を表面に押し出して世間の目をくらまし、山田家ないし町田家に彼との縁を切らせる口実を与えたのではあるまいか。
そう考えるほうが真吉らしかった。そしてひょっとしたら、最近、青年たちのあいだに滲透しつつある自由民権思想にかぶれ、多くの不穏分子と徒党を組んで、反政府的運動にたずさわっているのではあるまいか、という疑念を吉亮はいだいた。
しかしそれは根拠のない、どこまでも吉亮一個のいだいた疑念であり、推測であった。|路く《ヽヽ》に説明しても致し方のないものであった。吉亮は|路く《ヽヽ》を慰め、自分としてのできるだけのことはするから、といって|路く《ヽヽ》を帰した。
吉亮にしても、自分の可愛がっていた真吉のことである、なおざりにする気持はなかった。あちこち心当りをたずね、また、たまたま大久保利通の暗殺事件が起きたので、もしやそれに加担してはいまいかと、警視本署(明治七年一月にできた東京警視庁は十年一月に内務省警視局と東京警視本署とに分れ、警視局はのちの警保局、警視本署はのちの警視庁となってゆく)の懇意な警部補に頼んで、連累関係のみならず、その周辺の不穏分子と目されている政治結社グループなどに真吉らしい人物がいないかどうかをそれとなく調べてもらったりしたが、全然該当する者は浮んで来なかった。
その警部補の報告を聞いて、吉亮は半面、安堵の吐息をついたのであるが、それによって真吉の行くえが皆目わからなくなった思いがして、一層不安の増す結果ともなった。そのおり警部補が「地方に出ているのではないか」とふと洩らしていたが、確かに東京にいるらしい気配は感じられなかった。
そしてその後また糸の切れた凧よろしく、吉亮たちの手をほどこすすべがないままに、六月、七月と過ぎてしまった。
ところが、──と吉亮はゆうべ和水と素伝からきいた話に移った。
四、五日前のことである。警視局の刑事が二人、|路く《ヽヽ》の家を訪ねてきて、
「町田|真吉《しんきち》さんのお宅ですね」
「町田|真吉《まさよし》ですが」
と答えると、
「あ、これは失礼しました。読み違えです」
というようなことで、玄関の上《あが》り框《かまち》にすわりこみ、御主人におめにかかりたい、という。
「主人はいま留守ですが」
と、急に不安をおぼえて恐る恐る返事をすると、
「いや、べつに御主人についてのことではないのです」
とことわって、最近、巌尾竹次郎なる人物がお宅に立ち寄ったことはないか、ときいてきた。
ホッと胸をなでおろした|路く《ヽヽ》が、そういう方が見えたことはないし、また、その方の名前もはじめて聞くものである、と答えると、そうですか、と残念そうな顔をし、玄関に四、五足並んでいる若い女用の派手な草履や、下駄箱の上の活け花などを職業的な目くばりで眺め廻していた。
|路く《ヽヽ》はふと気がついて奥座敷に向い、茶の湯を習いにきている弟子の一人を呼んで茶をたてさせ、しずしずと眼の高さにささげて持って来させた。
「粗茶ですが」
とすすめると、刑事たちは気をよくして|路く《ヽヽ》の職業にお世辞を言い、「さすがは|お師匠さま《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれるだけある」と彼女の容貌や挙措の美しさをほめたりしてから、年上らしい刑事がきょうの訪問の理由をおもむろに述べた。
「じつは今年の二月の末に、三重県の松坂で、強盗事件がありましてな。川辺という医者の家ですが、犯人はまずそこの土蔵に忍び入り、刀を二本盗み出してから母屋に押入って、抜身で家人をおどして百円を強奪したのです。犯人は二人組で、覆面をしていたので正体はわからなかった。その後、同じ手口の事件が三重県下のあちこちで起ったが、最近その犯人どもが東京へ移ったらしいふしもあるというので調べて歩いているわけです。というのは犯人の一人は、どうも同じ松坂出身の、いま申し上げた巌尾竹次郎だという密告《たれこみ》があったのです。確証はまだありませんが、もし巌尾だとすれば、この男は去年の西郷さんの戦《いく》さのとき、わざわざ三重県から志願して東京鎮台に入隊した男でして、ひょっとしたら当時同じ鎮台にいた戦友たちを頼って逃げ廻っているのではないかと、片端から当時の鎮台兵の家を訊ねて歩いているわけです。こやつは歌舞伎役者みたいな美男子でして、年は数えで二十五歳。お宅の御主人は二十二におなりでしたな。まあ、そういうことはないと思いますが、御主人がお帰りになったらお伝えいただいて、万一、巌尾らしい人物が立ち廻りましたら、警視局のほうへぜひ御一報ください」
そう言い残して刑事たちは引揚げて行った。|路く《ヽヽ》は刑事たちと話していたとき、最初彼らの訪問の意図が真吉の身の上に関することではないと知って安心したが、うっかり真吉が家を留守にしているのはきょうだけだという恰好になってしまい、その嘘を見抜かれはしまいかと〈御主人〉という言葉が出るたびにヒヤヒヤしていたので、それ以上のことに頭が廻らなかったが、座敷へもどって弟子たちに点前《てまえ》の指導をしている最中、ふと、あの巌尾というのは岩田梅夫のことではないのだろうか、という想念が天啓のように脳裡にひらめいて、あやうく茶碗を取落すところであった。
その想念は、|幻 術《めくらまし》の暗示のように、固く|路く《ヽヽ》を呪縛してしまった。もしその男が岩田だとすれば、二人組の一人は真吉にちがいない。幸い、刑事は共犯者のほうにはまだ重点を置いて考えていないが、あのような虱つぶしの探索網を絞ってゆけば、いずれは真吉が浮んで来るのではあるまいか。
そう考え出すと、|路く《ヽヽ》は襲ってくる不安に堪えられず、その日のお稽古は早々に打切って、市ヶ谷八幡町へ飛んで行き、和水と素伝に逐一報告した。
和水と素伝の驚きも大きかった。しかし二人はこの|路く《ヽヽ》の思い込みを極力否定した。少しでもそれを認めることは|路く《ヽヽ》の悲しみや不安をそれだけ助長することであったからである。なんといっても、真吉との養子縁組でいちばん不幸な目にあったのは|路く《ヽヽ》なのである。しかもそれは|路く《ヽヽ》から望んだ結婚ではなかった。まったく山田家の都合で夫婦《めおと》になってもらい、そのために|路く《ヽヽ》の一生はもう半ば滅茶滅茶になっている。その責任はすべて和水と素伝の負うべきものであり、それを思えば、|路く《ヽヽ》の思い込みが単なる妄想に過ぎないと納得させることで彼女を慰めるしかなかった。
じじつ、|路く《ヽヽ》の思い込みの根拠はあまりにも薄弱に過ぎた。巌尾竹次郎と岩田梅夫とが同一人物であるという前提がまず第一の思い込みである。それがはたして確実かどうかは何の証拠もない。しかもその三重県下の強盗事件の主犯が巌尾だという確証すらないのである。すべてが不確実な妄想の上に築かれた不安にすぎない。和水と素伝は、
「|路く《ヽヽ》さんの真吉の身の上を心配する気持はよくわかるし、われわれとしても有難いと思っている。だが、真吉がそんな強盗の一味だというようなことはすっぱりと忘れてほしい。またわれわれとしても|路く《ヽヽ》さんにほんとうに済まないと思って考えるところがあるから、きょうのところは涙をふいて帰ってほしい」
と極力なだめて、|路く《ヽヽ》を帰宅させた。
|路く《ヽヽ》が帰ったあと、和水と素伝は善後策を話し合った。そこで生れたのが真吉を|路く《ヽヽ》と離縁させるということであった。
もともと真吉が岩田と契《ちぎ》っているということで、和水はかんかんに怒っていた。それだけで|路く《ヽヽ》に済まないと思って離縁も考えたのであるが、|路く《ヽヽ》がけなげにも、真吉さんはいずれはあの病気《ヽヽ》もなおってわたしのところへもどって来るでしょうから、それまではじっとお待ちしています、と訴えるのにかまけて、その後ズルズルと真吉の家出をまで見過しにしてきてしまった。
ところがいままた出奔後の真吉のことを考えると、たとえきょうの|路く《ヽヽ》の持ちこんだ話が事実でないとしても、決して色恋といったような単純な動機からの家出ではないような気がしてきた。もし実際に真吉が強盗まがいの馬鹿げた行動をして刑事沙汰になり、世間の指弾を招くようなことをしでかしたら、|路く《ヽヽ》にたいしてどんな顔向けができるというのか。とすれば、そういう可能性が現実にならぬうちに、町田家の籍から真吉の名を抜いて、万一なにかが起きても、|路く《ヽヽ》には何の影響もないようにしておくべきではないか。それがせめてもの|路く《ヽヽ》へのお詫びのしるしである。
こうして真吉の離縁はきまった。
同時に和水は、このさい真吉を勘当し、親子の縁を切って、ひょっとして真吉が巻き起すかもしれないいざこざから山田家を守ろうと考えた。うっかり山田家から刑事犯を出して系図を汚すようなことがあっては先祖にたいして申し訳ないというのである。そして真吉に分与しておいた財産を取り上げて、できれば山田家の系図から彼の名を除いてしまおうというのであった。
和水と素伝のあいだで話し合われた善後策の第三は、吉亮と|路く《ヽヽ》の縁組のことであった。つまり真吉の後を吉亮で埋めようというのである。
「これは確かに真吉を離縁したあとの|路く《ヽヽ》さんにたいするつぐないの意味があることはわしも認める」と、ゆうべ和水は吉亮に説明した。「とにかく真吉の件では、|路く《ヽヽ》さんにたいして甚だ申し訳ないことをしてしまったので、山田家としては、あんなぐうたらな真吉の代りに一番しっかりしたおまえを養子にやることで、こちらの誠意を示したいのである。死んだ兄の嫁を弟とめあわせるというのは世間でよくあることだが、兄を弟の後釜に据えるというのは、いわば逆縁みたいなもので、おまえも不満はあるだろう。しかしここで考えてもらわねばならぬことがある。おまえももう二十五、しかも警視局監獄署のれっきとした官吏である。すでに一家を構えていなければならぬ年ごろだ。わたしたちもおまえにふさわしい嫁の口をいままで探さなかったわけではない。いろいろと口をかけてきた。だが、時代が変った。吉豊や在吉が嫁をもらったのはまだ将軍《くぼう》さまの時代であり、まだこの山田家が、浪人とはいえ試刀家として生きていた。いや、試刀家として生きるために、あえて浪人の境涯を誇りとして選んでいたのだ。首打役は副業にすぎなかった。ところが御一新以後は、おまえも知っての通り、試刀家という職業はなくなった。そして結局山田家としては、かつての副業であった首打役を正業としなければならぬ羽目になった。おまえがわしのあとを受けてよくその仕事を果してくれていることにはつねづね感謝している。しかし、こと嫁を迎えるとなると、時代が変ってかえってむずかしくなった。世間は山田家を単に〈首斬り〉としか見なくなっている。ま、その辺の事情はおまえもよくわかるはずだ。だれもが山田家の職業にこだわって、嫁に来手《きて》がなくなった。それが実状なのだ。それやこれやを考えて、わしはこのさい、おまえが|路く《ヽヽ》さんと夫婦《めおと》になることが一番素直な、面倒のない筋道だと思うのだ。たしかに真吉の後釜だ。気がすすまないのも当然かもしれない。しかしはじめから真吉がいなかったと考えたらどうか。|路く《ヽヽ》さんはあのように気立ても顔立ちもよい。女としてのたしなみも備わっている。おまえより年上だということと、養子口だというのが、しいて挙げれば難点だが、それはたいして問題にはなるまい。わしは決して|路く《ヽヽ》さんにたいするつぐないという意味だけでなく、おまえにとってこれ以上の良縁はないと信ずるからすすめるのだ。これはわしと素伝のお願いだと考えてもらってよい。町田家に養子に行ってくれんか」
一応の筋は通っていた。父や素伝のつらい立場もわからぬではなかった。しかし、いずれにしてもあまりに唐突であった。返事のしようがなかった。勿論、和水たちも即答を要求してはいなかったので、「考えさせてほしい」といって吉亮は帰ってきた。──
「それがゆうべの父上との話し合いなのです」
と、幻のついだ盃をぐっと飲み干した吉亮は、長話を終えて吉豊と在吉を見た。
三人はすでに酔っていた。吉亮の説明は一と息になされたものではなく、そのあいだに兄たちからの質疑が入ったり、盃の献酬があったり、ときには自分たちの予想もできない事態がこの山田家のなかで持ち上っているのに嘆息を洩らし、逆にそれがおかしさを誘って全員爆笑したり、酒席は賑かに進んでいたのである。
もっとも、吉豊はこのごろ酒を飲むと翌日下痢と腹痛に見舞われるというので、はじめのうちは警戒してあまり盃を重ねなかったが、それでもだんだん調子づいてくると、
「下痢どめに自家製の秘蔵薬を服用しながら酒を飲むなんて、いやはや老齢《とし》だね」
と言いながら、幻から渡された丸薬を十粒ほど酒で咽喉に流し込んでやり、結構気焔をあげていた。
吉亮の話が終ってややたってから、突然在吉が、
「くだらん、すべてが|おためごかし《ヽヽヽヽヽヽ》だ」
と吐き出すように言った。和水と素伝にたいする非難であった。一と言非難の声が口をついて出ると、慷慨居士の在吉は急に饒舌になり、和水と素伝、とくに素伝にたいする攻撃の言葉が堰を切ったように止めどなく吐き出された。非難がやがて罵倒になった。たまたまそうなる鬱憤が溜っており、酔いに触発されて飛び出したのであった。
三日前のことである。吉豊と在吉はそれぞれの溜った登楼代を支払うべく、またもや妓夫太郎を素伝のところに使いに出したのである。いまでは毎回というわけではないが、三度に一度ぐらいの割で素伝に無心《たか》っており、しかもいままで一度も断わられたことはなかったので、今回も当然金は届けられるものと|たか《ヽヽ》をくくっていた。
ところがそれが運悪く、妓夫太郎が素伝から金を受取って勝手口から出ようとしたところを、外出から帰ってきた和水に見咎められ、いままでの無心もバレたうえ、きょうの分も全部取上げられてしまった。蒼くなった妓夫太郎は「お宅へうかがった証《あか》しとしてせめて半金なりとも」と懇願したが、結局は一銭ももらえずに、しかも「おまえの客とかに伝えておけ、いまさら渡す金子《きんす》はないが、どうしてもという※[#ちいさな「ン」]なら、自分みずから受取りに来い、とな」と、伝えにくい伝言を背負わされたうえ、「二度と来たら斬《き》っぱらうぞ」とすごまれて、ちぢみあがって逃げ帰ってきた。二人にとっては妓夫太郎や妓楼にたいして面子《メンツ》をつぶされたという思いだけが強く意識された。そしてそれが和水にたいする恨みと、それをとりなそうともせず知らん顔をしていた素伝にたいする怒りとなって残った。
その苦《にが》い|しこり《ヽヽヽ》がきょうの吉亮の話と重なって、その晩の酒席は乱れ、吉亮の進退などどこかへ飛んでしまって、市ヶ谷八幡町の家にたいする復讐を誓う場となってしまった。吉亮もいまさら|路く《ヽヽ》との縁組などどうでもよくなり、したたかに酔って、意味もないことをわめきつづけていた。
妓夫太郎に送られて吉亮が在吉と二人で相模屋へ移ったのは、真夜中を過ぎていた。敵娼《あいかた》の薄雲がようやく|まわし《ヽヽヽ》を終えていそいそと吉亮の部屋へ廻ってみると、吉亮は着換えもせずに蚊帳のなかの布団にもぐりこみ、前後もなく眠っていた。
27
明治十一年八月四日、きょうも油で揚げられるようだった昼の暑さの名残りが夕映えのほの明るさといっしょにまだ漂っている宵の口、牛込区市ヶ谷八幡町の山田和水宅を実子の吉豊・在吉・吉亮の三兄弟が抜刀して襲った。この瞬間、いままでどうにか持ちこたえてきた山田家の人間関係全体に大きな亀裂が網の目に走ったのである。あとはただ巨巌の崩れるように、時間の経過とともにぼろぼろと片端から潰え去るだけであろう。
名目は和水の後妻素伝の子|いさ《ヽヽ》(当時数え年六歳)を殺せ、ということであった。
理由は放蕩三昧に身をもちくずした三兄弟が、父の和水から分与された財産を使いはたし、後妻の産んだ|いさ《ヽヽ》に与えられた財産を、彼女を殺すことによって自分たちの分け前にしようと考えた、といわれる。
しかしいくらなんでも、この理由は法治国家では通用しない理窟である。おそらく|いさ《ヽヽ》を殺すという名目で義母の素伝を脅《おど》し、彼女のにぎっている和水および和水の死後その相続人となるはずの|いさ《ヽヽ》の財産から金を引き出すために打った芝居であろう。あるいは短絡型感情家の在吉だけは実際に|いさ《ヽヽ》(あるいは素伝)殺害をもくろんでいたかもしれないが、少くとも吉豊と吉亮がまじめにそんなことを考えていたとは考えられない。
むしろ、素伝を後妻に迎えたのちの父・和水があまりにも素伝の言いなりになり、先妻の子である男の兄弟たちの立場を無視しすぎるという不満が溜っていたのが、たまたま真吉の離縁およびそれに付随した問題(それらはすべて素伝の面子と利益につながっている、と兄弟たちは考えたであろう)を契機として、いまは腑ぬけと化した父を操っている素伝の専横ぶりをたたくためにとった非常手段である、と考えたほうが事実に近いと思われる。
じっさい、八月|四日《ヽヽ》という日を選んだのも、その日は和水が不在であることを予め知っていたからである。というのは、山田家は初代貞武が堀部安兵衛|武庸《たけつね》と深い交わりを結んでいたという言い伝えを代々守って、和水も毎月四日(元禄十六年二月四日、赤穂浪士四十六人が切腹した)と十五日(いうまでもなく元禄十五年十二月十四日夜に討入り、翌朝本懐を遂げた)には必ず芝高輪の泉岳寺へ参詣して、安兵衛の墓に香華を手向けるのを慣例としていたからである。この日もおそらく和水の帰る時刻を考慮に入れて、その前に襲ったもので、|いさ《ヽヽ》の殺害は単なる名目で、素伝個人にたいする示威を目的としたと思われる。
「|いさ《ヽヽ》を出せッ」
と口々に叫んで、三人は玄関から押し入り(三人とも玄関に草履をきちんと脱いでいた。この襲撃が狂言であったことの一つの証左であろう)、すぐ三手に別れて、右へは在吉が和水の書斎や仏間のほうへ、真ん中は吉豊が居間から奥座敷のほうへ、左は吉亮が廊下からまっすぐ台所へと、それぞれ仕込杖の刀を抜いて、障子や襖をなるべく音高く鳴らして開けながら、進んで行った。
吉亮が味噌汁や焼き魚の匂いのただよう台所へ突進してみると、片隅に和水の帰りを待つようにそれぞれの食膳が白い布巾をかけられて並べてあり、乳母のお兼《かね》が流しの付近を雑巾で拭いていた。
「|いさ《ヽヽ》はいないか」
吉亮の声にびっくりしたお兼は、抜き身を見るとその場へへたへたと腰をぬかし、口だけをパクパク動かしていた。
取って返した吉亮が奥座敷にいるはずの吉豊の跡を追ってゆくと、ちょうど素伝が寝間に床をとろうとしていたらしく、彼女にまつわりながら押入れから枕を運んでいた|いさ《ヽヽ》に向って、吉豊が刀をふりかざしたところであった。すると素伝が咄嵯に吉豊と|いさ《ヽヽ》のあいだに転るように割って入り、左脇に|いさ《ヽヽ》を庇いながら右手を下から吉豊のほうへ延ばして、
「いけません、吉豊さま。あなただけは|いさ《ヽヽ》を斬ってはいけないのです。あなただけは」
と叫んだ。薄闇で素伝の表情は吉亮からははっきりみえなかった。しかし声の必死さが表情の真剣味を浮き上らせた感じがした。
吉豊の姿勢が一瞬その場に凍結した。途端に吉亮の胸の奥で、パチンと何かが音たてて破れた。虚脱感が襲って|ひかがみ《ヽヽヽヽ》の力を抜き、膝ががっくり折れそうになった。
吉豊が慣れた手つきで刀を杖におさめると、くるりとうしろを向いて、
「きょうはこれまで」
と言った。そこへ在吉が入ってきた。吉亮も刀をおさめた。
「さ、引揚げよう」
吉豊が玄関に向って足ばやに歩いて行った。在吉が不得要領な面持ちで、
「いずれまた来よう」
と捨て台辞を残して吉豊に続いた。そのあとを吉亮が追って玄関へ出たとき、
「吉亮さん、ちょっと待って」
と素伝が呼んだ。ふりかえると小走りに寄ってきて、細長い真田紐らしいものを一本、吉亮の手に握らせた。
「些少ですが、これを」
ずしりと重かった。吉亮がためらっていると、在吉が引返してきて、
「もらっておきな」
と言った。吉亮は無言でそれを受取って玄関を出た。外は夕映えも消えて夜が迫っていた。
その晩三人は内藤新宿で泥酔した。とくに吉豊は幻が気づかうほど飲んだ。そして翌朝、真っ黒な血を吐いた。
素伝が手渡したのは武芸に使う真田紐のなかへ小粒を封じこんだものであった。小粒を全部|しごき《ヽヽヽ》出してみると、一分金が五十つぶころがり出た。
一方、和水宅のほうでは、三兄弟の声や足音、また襖・障子の開《あ》け閉《た》てのいたずらな大きさに比して、刀による被害はなにもなかった。帰宅してこの事件を聞いた和水は(素伝も秘密にしておくわけにはいかなかった)、激怒して三兄弟を罵ったが、刀をふるった跡がなにもないことから〈狂言〉であることはすぐ見抜いた。ただ一カ所、在吉が和水の書斎の床の間にあった盆栽の松の幹を、ほれぼれする斬り口をみせて切り落していた。和水はこの行為を根にもって、在吉にたいしてだけは心のなかで許さなかった。
この山田家内部の事件から二十日ほどたった明治十一年八月二十三日深夜、皇居のすぐ傍の竹橋兵営内で、近衛砲兵大隊の兵士約二百六十名が暴動を起した。いわゆる〈竹橋騒動〉である。
翌二十四日、太政官より号外をもって各省院使ならびに東京府へ、次のように達せられた。
[#この行1字下げ]近衛砲兵ノ内暴挙ノ義ニ付別紙ノ通リ陸軍卿ヨリ届出候条此旨為心得相達候事
明治十一年八月二十四日
[#地付き]太政大臣 三 条 実 美
(別紙)
[#この行1字下げ]今午後十一時近衛砲兵隊卒ノ内徒党ヲ企テ兵営ヲ毀チ聊カ発砲致シ候者有之候ニ付|直様《すぐさま》討留且脱走ノ者ハ大抵捕縛致シ鎮定ニ及ビ候然ルニ爆発ノ原因未ダ確然致シ難ク取調中ニハ候得ドモ右ハ全ク兵卒共ノ暴挙ニテ下士ニ於テハ暴挙ノ者無之候|不取《とりあえず》敢此段御届申候也
明治十一年八月二十三日
[#地付き] 陸軍卿 山 県 有 朋
太政大臣三条実美殿
近衛砲兵大隊長・宇都宮茂敏少佐をはじめ、週番士官・深沢大尉(砲兵大隊付)、坂本少尉(近衛歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊)が殺され、砲兵大隊では池田少尉外下士三名、歩兵聯隊では田中少尉、野津中尉、中村軍曹といった、多数の将校下士官の負傷者を出すに至ったほどの騒動に〈聊カ発砲致シ候〉もないものだが、極力事件の真相を隠蔽しようとする陸軍部内の意図にもかかわらず、この騒動は各種新聞に大々的に報道されて、東京市民を驚かした。
昨年の西南戦争における働きにたいし下士兵卒に論功行賞がなかった不平と、それまで近衛兵は他の諸兵より給金が多かったのに折柄の陸軍財政緊縮案により給与を削減された不満が爆発したのであるが、この叛乱が一人の士官ないし下士官もまじえず、すべて兵卒だけのあいだで企画され実行されたところにこの事件の特異性があった。
主諜者は三添卯之助であったが、彼は砲兵大隊の兵卒ではなく、近衛歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊兵卒である。三添の慫慂に呼応して近衛砲兵大隊から首唱者となったのは同大隊第二小隊馭卒の長島竹四郎と小島万助であった。彼らは自分の隊内および東京鎮台予備砲兵隊などに同志を募り、三、四月頃から各隊首脳部で会合をもち、作戦を練った。スローガンとか暗号、旗章などまで作られた、はなはだ組織的なものであったようである。ちなみに、この暗号とか旗章の発案者といわれる大久保忠八は、この騒動のさい、闕下に嘆願の趣意を申し述べようと赤坂離宮の仮皇居表門に整列した叛乱兵九十三名のうちにおり、西少佐に指揮された皇居護衛の近衛歩兵一個中隊に包囲され武装解除を命ぜられたとき、「万事休す」とみて、銃口を腹におしあて自ら発砲して死んだ。
翌二十四日夜八時から陸軍裁判所において、逮捕された叛乱兵の審問が開始された。裁判掛りは坂本少佐、岡本大主理、恩地中録事、安藤中録事、石原少主理の五名であった。
[#ここから1字下げ]
近衛砲兵等不平ヲ賞典ノ遅キニ懐キ憤怨ヲ俸給ノ減殺ニ含ミ陰ニ諸隊ヲ慫唆シ密ニ夥党ヲ結ビ其力ヲ恃ミテ以テ強請スル所アラント企テ明治十一年八月二十三日ノ夜半ニ於テ兵営ヲ毀チ其|秣舎《まつしや》ヲ焼キ其長官ヲ殺シ其兵器ヲ弄シ遂ニ禁闕ニ迫ル而ルニ近衛及ビ鎮台ノ歩兵等勇戦善ク戦ヒタルニ依リ兇徒其意ヲ逞ウスルコト能ハズ勢窮シ力尽キ即夜ミナ縛ニ就キ陸軍裁判所ノ法衙ニ審糾セラルヽ四旬茲ニ十月十五日ヲ以テ其獄ヲ決シ乃《すなわ》チ軍律ニ依リ死五十三人、准流百十八人、徒六十八人、戒役十七人、杖一人、錮六人、総計二百六十三人ナリトス。(明治十一年十月十六日「東京日日新聞」)
[#ここで字下げ終わり]
死刑五十三人の中には主謀者三添卯之助、長島竹四郎、小島万助をはじめ、この叛乱の企図に参画した広瀬喜一郎以下十一名、宇都宮少佐を殺害した堤熊吉・田島森助、深沢大尉斬殺の小川弥蔵・羽成常助・門井藤七・辻亀吉(辻はそれを否認したが所持した軍刀の血痕および下士の証言により認定された)、大砲発射の山中繁蔵、秣舎放火の中沢章次、就縛の際士官に抵抗した今井政十郎などが含まれている。
判決言渡しが終ると、即日、刑を執行した。死刑は銃殺をもって行われた。
前日(十四日)の午後六時頃、陸軍裁判所から、千住、板橋、内藤新宿、品川のいわゆる四宿の区務所を通じて、宿駕籠《しゆくかご》に、十一梃ないし十五梃の駕籠を差出せ、という達しがあった。宿駕籠では何のためかわからないまま、とにかく駕籠を集めようとしたが、明治もこのころになると乗物は人力車全盛時代であり、命ぜられた数の半分くらいしか駕籠が集らなかったので、のこりは人力車で勘弁してもらうこととし、翌朝まだ暗いうちから愛宕下の仮監倉に行って、駕籠や人力車を渡した。
駕籠舁きや車夫どもが門前で寒さにふるえながら待っていると、午前三時半頃、構内へ入れ、という。何が何だかわからずに構内へ入って、とにかく何か駕籠や人力車に積み込まれてあるものを運び出した。どうもその形から推して、乗せているのは早桶らしいと思っていたが、命令通り走っていると、往来の者どもが「そら、竹橋騒動の連中が越中島刑場へ連れて行かれるぞ」と騒ぐので、はじめて自分たちの乗せているものの正体が生きたまま早桶に押し込まれた叛乱兵たちであることがわかった、という話が遺っている。
この日、吉亮と浜田は上司に頼んで、銃殺刑の現場を見学させてもらった。警視局監獄署の斬役として、銃殺刑なるものを知っておきたかったのである。
いまにも雨が降りそうな空であった。
二人が越中島練兵場のはずれに仮設された刑場へとどいたころは、いつ日が昇ったともわからぬうちにしらしらと夜が明けはなたれ、細かな雨が降り出していた。
刑場には十字架が五本ずつ三組建てられ、一度に十五名ずつ殺されることになっていた。その十字架の列を眺めているとき、吉亮はふと真吉の顔を脳裡に思い浮べた。
こんどの騒動では、兵卒たちの口が堅く、どんな拷問にも連累者の名前は言わなかったと聞いている。そのため組織の黒幕ともいうべき人間が、主謀者の三添たちの他にいるのかいないのか、はっきりしないまま今回の判決を見たのである。いま銃殺されようとしている兵卒たちの他に、藩閥専制と高官汚職によって腐敗しきっている現在の政府を顛覆しようという計画をめぐらした者たちがいたのではあるまいか。ひょっとしたら、あの岩田梅夫らと一緒に真吉も加担しているのではないだろうか。そんな取りとめのないことを考えているうちに、吉亮は家出以後杳として消息を絶っている真吉の身の上がしのばれ、兄としての愛情が胸の中いっぱいに悲しくひろがるのを覚えた。
雨が強くなった。
午前五時、銃殺が始まったときには、雨が土砂降りとなっていた。
雨に濡れた叛乱兵たちが、列をつくって次々と刑場に引き出された。みな、恐れる気色もなく、中には詩を吟じたり、都々逸を唄っている者さえいた。
やがて主謀者たちを含んだ十五名の者が三班に分けられ、十字架の前に手をひろげて立たされた。執行側の兵隊が死刑囚の両手を横木に固く縛りつけ、足は縦木に足首と膝との二カ所をくくりつけた。
その有様を眺めていて、吉亮ははっとするものがあった。
「これは張付《はりつけ》じゃあないか」
「ええ、わたしもいまそれを感じたところです」
と浜田が答えた。
磔刑《たくけい》は維新直後の〈仮刑律〉まで存在し、謀叛および大逆を謀った者に擬律されていた。そして明治三年の〈新律綱領〉によって廃刑となったが、その磔刑を今回の叛乱兵に適用しようとしているのではないか。昔の非人が使った槍を鉄砲に代えたにすぎないのだ。近衛砲兵大隊の兵卒たちが大隊長以下の上官を殺したことを主殺しと同罪とし、謀叛と看做したのである。
去年の西南戦争ではこれらの兵卒たちの働きで慓悍無比といわれた薩摩の士族兵に勝つことができ、互いに骨肉の愛情を誓い合ったはずなのに、上下関係をみだしたということで五十三名もの大量の死刑者を出し、しかも現行の刑法では酷刑であるとして行われなくなっている磔刑まがいの銃殺刑をもって臨んだということは、陸軍首脳部がこの叛乱にたいしていかに恐怖感を抱いたかの証拠であろう。山県有朋を頂点とした陸軍首脳部はこの銃殺刑を全軍への見せしめとし、やがては冷酷な奴隷の服従を兵卒たちに要求するようになるであろう。
一組五本の柱に十人ずつ射手が正対し、総計三十人の射手が一列横隊に並んでいる。
まず一番左の班が立射ちの姿勢をとった。
「射て!」
隊長の号令で十の銃口が火を噴いた。
銃声が雨に煙る広い刑場にこだまして空中に拡散し、煙硝の匂いが流れてきた。
ほとんどの者が一発でがくっと頭を垂れて息が絶えた。ほっとした雰囲気が射手側に流れた。そのとき、
「まだ死んでいないぞ。左の耳をかすっただけだ」
と叫ぶ者がいた。小島万助であった。
「こんどは見事に撃ってくれよ」
銃声が一発ひびいた。弾丸は見事に眉間を貫いていた。そこから噴き出す血を、雨が消してくれた。医師らしい男が十字架へ走り、一人一人の絶息を確めてから、完了の合図をした。
次に真ん中の班が五人の叛乱兵を射殺した。つづいて右の班に移り、一列十五人の処刑が終ると死体の取片づけが行われた。
死体は市ヶ谷監獄署で斬首や絞首のさい死刑人取扱いをしている、千住北組の五人の頭分の手下《てか》三十人が、手際よく棺桶に入れて取片づけた。それが終ると次の十五人が十字架の前へ立たされた。
砲兵大隊第一小隊の馭卒で木村円解という僧侶あがりの兵隊がいた。彼の場合は弾丸がみな急所をはずれた。そのたびに、
「まだ死ねないぞ」
「まだまだ」
と叫びつづけて、五発目でようやく声が絶えた。
午前九時に終了した。死体は青山陸軍墓地に埋葬されるという。
吉亮と浜田が市ヶ谷の監獄署にもどったころも、力は弱まったが雨は相変らず降りつづいていた。しんしんと身に沁む秋の雨であった。二人とも終日黙りこくって窓から雨脚を眺めていた。銃殺刑がはたしてどれだけ斬首の刑よりすぐれているのかはわからなかった。ただ、時代の変遷ということだけが思われてならなかった。
その晩、二人は監獄署の近くの居酒屋で、静かな雨の音を肴に遅くまで酒を飲んだ。まっすぐ家へ帰る気持になれなかったし、内藤新宿へ出るのも億劫であった。
そして吉亮と浜田がしんみりと酒を飲んでいるころ、程遠くない市ヶ谷八幡町の和水の家で、兄の在吉が和水に斬殺されるという事件が起きていた。
28
その日、吉亮と浜田が越中島や市ヶ谷監獄署で眺めていた冷い秋の雨を、在吉は内藤新宿の相模屋の窓から眺めていた。
一昨夜から流連《いつづけ》の濁った頭と弛緩しきった身体には、雨を呼ぶ晩秋の寒さは悔恨に似た感傷となって身に沁みた。あるいはもっと強く、絶望といってよかったかもしれない。あと、この世ですることになにが残っているというのか。いまの在吉には、放蕩もしつくしたという無気力感だけしか残っていない。
兄の吉豊は、あの、三兄弟で父の家を襲った晩、泥酔のはてに吐血した。胃潰瘍であった。医者に絶対安静を命ぜられた吉豊は、いまでは平河町の自宅にとじこもって静養につとめている。ただひとり夕暮れてゆく妓楼の一室に取残され、飲み飽きた酒を形ばかり前に置いて、黙然として脳裡に思い浮べることは、どうしようもない虚無感との戯れだけであった。
じっさい、在吉は一つの行きづまりへ来ていた。明治七年の正月、山田家の財産分配があって少からぬ資産をもった在吉も、それからそろそろ五年になろうというきょうまでのあいだに、現金はほとんど費いはたしていた。あとは土地を切り売りするしかないであろう。
吉豊にしても、在吉にしても、囚獄掛を辞めてから、ひたすら無為徒食を心がけていたわけではない。なにかをしなければ、という焦噪感につねに追いかけられていたことは確かである。
しかし〈商《あきな》い〉のできる育てられかたはしていなかった。また、御一新以後、新興商人どもの生き馬の目をぬくような利益追求慾の過熱ぶりは、兄弟にとってははじめからその道に足をふみこむことを躊躇させるものがあった。なにもみずから商売に手を染める必要はない、あなたがたの持っている金を一時廻してくれさえすれば相当の利息をつけてお返しする、といってくれる人間もいたが、そこまで他人を信用することが兄弟にはできなかった。
明治九年二月二十九日、それまで各区の扱《あつかい》所といっていたところが区務所と改められ、町用掛が廃されて書記を置くことになり、在吉はある人のすすめで、麹町区務所の雇上《やといあげ》書記となったこともある。月給十円、宿直料一晩七銭という報酬で、一日じっと坐っているうちに、夕刻の退衙時近くになると、頭がガンガン鳴り出し、全身の血が騒いでいまにも心臓が咽喉から飛び出しそうな焦噪感に襲われ、三日で辞めてしまった。
警視庁の巡査になろうと考えたこともあった。しかし旧佐幕藩の禄を失った武士たちが殺到し、薩長出身の幹部どもに平身低頭している姿をみると、それくらいなら囚獄掛を辞めはしなかったという気持が先に立って、この就職口も断念した。
吉豊と二人で、ある撃剣会に就職をたのみに行ったこともある。ところがこちらの素姓をあかすと、
「動かない人間を斬る剣術とはわけがちがうぞ」
と応対に出た男にあざけられ、またその同僚に、
「松井源水といっしょに独楽でも廻していたほうがよいのではないか」
とひやかされた。
腹に据えかねた在吉は「それでは」と試合を申込み、面《めん》の咽喉当てに穴があくほどの痛烈な突きを一本くらわせてやった。ひっくりかえって気絶している仲間《なかま》の醜態に顔色を失った同僚を尻目に、吉豊と在吉はそのまま掛小屋を出た。
かれらもおそらく旧幕臣の、名の通った使い手だったであろうが、自分たち自身が剣術を見世物にせざるをえない時代になったというのに、いまだに昔の階級的優越感から脱けきれず、在吉たちを「たかが首斬り風情が」と冷笑しているのが、どうしても許せなかったのである。往来へ出た二人は、
「あれでは、少くとも三日があいだは、|めし《ヽヽ》が咽喉を通らんぞ」
と腹を抱えて笑った。そして撃剣会への望みはすっぱりと捨てた。
なまじっか金があるのがいけなかったのかもしれない。在吉は和水に財産を分配され、斬役も辞めて一家の主人として独立した当座は、このまま居食いしていたのではやがて破滅を迎えるしかないという不安で、いろいろと仕事を探しもしてみたが、与えられた財産の重みに頼る気持がどこかにあったのであろう、結局は「ま、あせることもあるまい」「いま、時代の波が一と波引いたあとには、適当な仕事にありつくこともできるだろう」と、じっと波待ち作戦に沈潜した。
確かに時代の波は変りつつあるようであった。しかし御一新以後の時代風潮と自分とのあいだのどうしても埋めることのできなかった齟齬感は広がりこそすれ、一向に狭ばまる気配はなかった。そしていつのまにか五年近くの歳月は流れ、いまでは単なる一介の遊冶郎《ゆうやろう》にすぎない存在となっている。|そのとき《ヽヽヽヽ》が来ればなんとか打開の道もひらけるだろうさ、と一日延ばしにしていた〈そのとき〉が来たようであった。
このごろでは、妻の|せん《ヽヽ》が麹町の家の近所にある大和屋という質屋の暖簾《のれん》を、人目をしのんで始終くぐっているのに在吉は気づいていた。
この大和屋というのは、浅古半兵衛という武州北足立郡草加在の豪商の三代目が宝暦元年(一七五一)江戸の〈糀町《こうじまち》八丁目〉に開いた質屋で、代々支配人制度をとって栄えてきた。天保の大飢饉のさい、失業職人の救済のために築いたといわれる大きな土蔵三棟があり、それらは〈天保の飢饉倉《ききんぐら》〉とか〈お救い倉〉と呼ばれて評判であった。鼠小僧次郎吉がその土蔵に忍び入ったが、要所要所にドンデン返しなど巧妙な仕掛けができていて、なにも取らずに逃げたという伝説もある。
その大和屋に|せん《ヽヽ》が持参する質草は、かつて山田家が死罪人の生胆からとった丸薬の人丹であるとか、貝殻につめた|膏 薬《あぶらぐすり》、ときには陰干しにした胆そのものであった。これらの秘伝薬も財産分配のさいに在吉に与えられたものである。大和屋でも、明治三年以降ほんものの人胆は禁止されているが、山田家のものだけは正真正銘の人胆であることを知っているので、質草としては貴重なものと踏んで、相当の金額を貸してくれた。
在吉は|せん《ヽヽ》の質屋がよいにたいしては知らないふりをしていた。それを咎める資格のないことは、かれ自身いちばんよく知っていた。ただ自分の放蕩のはてがついにここまで来たか、という感慨が胸を咬むだけであった。
──いつのまにか、部屋のなかは夜の闇に満たされていた。先き程まで仄白かった窓の障子も、すっかり色を失っていた。窓の外の雨の音だけは小止みもなくつづいている。街道にときどきひびいていた荷馬車の鈴の音も、いまは聞えない。
「あらあら、ご免なさい。ランプもつけずに……」
敵娼の松風が小走りに入ってきて、燈明台の上のランプに灯をともした。真鍮のネジを指で廻して芯《しん》の出工合を二、三度調節し、綺麗に掃除したガラスの火屋《ほや》をかぶせると、油煙の立ち昇って揺れていた焔がぱっと安定して、あたりを明るく浮き出させた。かるく眼を細めて焔の工合を見つめている松風の顔は、風呂に入って夕化粧をしてきたらしく、湯上りの若い肌がランプの光を照り返して輝いている。在吉はその顔を美しいと思った。
松風は仲居を呼んで冷えた酒の膳を下げさせ、
「お湯《ゆう》に入ってらっしゃいまし」と在吉にすすめた。「そのあいだに夕餉の膳を調えておきますわ」
在吉はいままでの暗い物思いから覚めるのが心残りのような面持ちであったが、冷えきった部屋に松風のかすかなぬくもりの流れるのを感じた喜びも嬉しいらしく、しばらくはどっちつかずの放心状態に漂っていたが、
「うん、熱いのを一ッ風呂《ぷろ》あびてくるか」
と、突然陽気な声を出し、松風に渡された手拭を受取って部屋を出て行った。
在吉が部屋を出てから、松風はいつもの在吉とは雰囲気がちがうのを感じて、「おや?」と、瞬間、部屋の跡片付けの手をとめて、階段を下りてゆく在吉の足音を、それが一番下までとどくのを確めるように、しばらく聞き耳をたてていた。
在吉の死後数日たって、吉亮が在吉在世中の借金を清算するために相模屋を訪ねたときの松風の証言によると、その晩、在吉は珍しく陽気であったという。
風呂からあがって、四、五本銚子をあけると、松風をうながして床に入り(と話しながら、商売女としては珍しく松風はちょっと顔をあからめた)、自分だけ満足するとすぐ起き上って人力車を手配させ、
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※[#歌記号、unicode303d]いっちくたっちく竹橋の、赤いシャッポの兵隊さん、なに喰う、お芋喰う、サツマ芋喰って、プップップー
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と、いつもこれだけは手離したことのない仕込杖をさげて、鼻唄まじりで階段を下りて行ったという。
「金を調達してくる」とはいっていたが、在吉のいつもとは違った異様な陽気さにかえって胸騒ぎをおぼえ、松風は在吉のあとを追って玄関まで走った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]いっちくたっちく高崎の、黄色いシャッポの兵隊が、西郷に追われて、トテチテトー
[#ここで字下げ終わり]
「先生!」
と松風がうしろから呼びかけたのにもふり向かずに、在吉は雪駄《せつた》をつっかけ、暖簾《のれん》をくぐって人力車の待つ玄関先の闇に消えて行った。最後の〈トテチテトー〉の半分は幌のなかに消えて、あとは雨が車夫の掛声と在吉の残像をひとしなみに黒く塗りつぶした。きものの裾から覗いている松風の爪先に、湿り気を帯びた冷い風が戸外《おもて》から吹きつけた。言いようのない不安が松風をしばらくその場に釘づけにしていた。
人力車に揺られながら在吉兄さんはなにを考えていたのだろう──と吉亮は考えてみる。ほんとうに|金の調達《ヽヽヽヽ》のために市ヶ谷八幡町の父上の家を訪ねたのであろうか。
たしかにこの日は十月|十五日《ヽヽヽ》、例月ならば父上は堀部安兵衛の墓参りに芝高輪の泉岳寺へ出かけて、帰りは夜に入ってからのはずであっただろう。したがってその留守に兄上が母上に掛合って(あるいは「|いさ《ヽヽ》を殺すぞ」と強請《ゆす》って)金を出させようとしたと考えるならば、|金の調達《ヽヽヽヽ》のためという理由は一応の辻褄があっているといえよう。
しかし、それにしては市ヶ谷八幡町の家を訪ねる時間がちょっと遅すぎたのではあるまいか。父上がすでに帰宅しているかもしれない時刻だったからである。(だから二た月前に襲った時刻は|たそがれ《ヽヽヽヽ》時であった。)それに気づかぬ兄上ではない。とすれば、兄上は父上が在宅であってもかまわない、という腹だったのであろうか。
そして事実、父上は在宅していたのである。しかも、待ち構えていたといってよい。父上は二た月前のわれわれの狼藉《ろうぜき》後、自分の留守にまたもやそんな不埓なことの起きるのを恐れて、例月の泉岳寺参りを一時中止し、普通の日もなるべく外出を避け、四日と十五日はとくに警戒を厳しくしていたのである。その結果、あの惨劇が起きた。
ここで吉亮はさらに考える。──
父上が在宅していてもかまわない、と兄上が考えていたとすると、兄上は父上との衝突の起きることを予定していた、ということである。とすれば、これは金の調達ではない。いくら兄上が金の窮乏を訴えたところで、父上がそれに応ずるはずもないし、また兄上の気性として、いままでの自分の生活をかえりみて、そんな泣き言を父上に訴えるはずもない。もっと別な理由があったにちがいない。それはなにか。
父上への諫言か。現在の山田家の不和をすべて後妻である母上のせいとし、山田家の将来のためには即刻母上を離縁すべきだ、と直言しようとしたのであろうか。
しかしただそれだけなら、なにもあの晩、ああいう切羽つまった形をとる必要はなかったはずである。いくら直情径行の兄上でも、それが児戯に類するものであることくらいはわきまえている。まして、単なる父上への諫言なら、|いさ《ヽヽ》や母上に刃《やいば》を向ける必要はなかったはずだ。
それでは山田家の禍根を断つために、|いさ《ヽヽ》および母上の殺害そのものが目的だったのか。
これはいままでの兄上の言動から推して、いちばんありそうな理由かもしれない。この理由に立つならば、|いさ《ヽヽ》と母上を殺そうとして市ヶ谷八幡町の家を襲った兄上は、たまたま在宅していた父上のためにその目的が果せず、逆に怒った父上に斬殺されたのだ、と説明できるであろう。しかしそれならなぜ父上の不在をねらって襲わなかったかが疑問として残るかもしれないが、|いさ《ヽヽ》と母上を殺したとなれば、これは殺人罪を構成するから、その結果は自分自身の死をも意味する。したがって法律上の死刑を迎えるよりは父上の刃にかかって死んだほうがましだと、むしろ父上の在宅を予期し、死を覚悟のうえで襲ったのだ、と説明を重ねることもできよう。──
いろいろと考えたすえ、この理由がいちばん筋が通っているようにみえた。すべてが万遍なく説明できるように思われた。しかし吉亮には、この理由もまだどこかでぴったりしないものがあった。そのまま素直にうなずけなかった。
まず、在吉が山田家の繁栄のために自己を犠牲にして奸婦母子を殺そうとするなどとは、あまりにも大時代すぎた。理由が|立派すぎる《ヽヽヽヽヽ》のである。しかもこの理由の決定的な弱点は、|いさ《ヽヽ》も素伝も結局かすり傷一つ負っていないという事実である。たとえ父の和水に邪魔されたとしても、在吉ほどの使い手が、目的を果そうとしてそんな|へま《ヽヽ》をするはずがなかった。在吉にははじめから|いさ《ヽヽ》と素伝を殺害する気持など微塵もなかったのである。
そこまで押し詰めると、吉亮にとって残る理由はただ一つしか考えられなかった。しかしそれはあまり意識にのぼせたくない理由であった。その理由だと、あまりにも兄があわれに思われるからであった。
確かに在吉はいままで素伝と親しまず、和水にたいしても反感を抱いているような言辞を弄してきた。また|いさ《ヽヽ》への財産分配を喜ばず、後妻の子としての|いさ《ヽヽ》の存在を抹殺しようと考えたこともあったかもしれない。しかしそれらの感情は、あの晩、在吉が父の家を襲った直接の動機ではない。──と吉亮は考えるのである。理由はもっと在吉の内部にあった。在吉はもうこれ以上自分の生きてゆく意味がないと思い、突然死にたくなっただけなのである。兄はただ死にに行ったのである。父に殺されに行ったのである。いうならば、その〈自殺〉の方法として、|いさ《ヽヽ》と素伝を殺害するふりをして、和水に自分を殺さざるをえなく仕向けたのである。
そう考えてはじめて吉亮は兄の在吉が父の家を襲った理由がぴったりと無理なく自分の心に納得できるのを知った。それ以外に理由のあるはずがないと思った。
父に殺してもらいにゆく兄は雨の中をひた走る人力車のなかでなにを考えていたのであろうか。真っ暗な幌のなかの片隅に靠《もた》れて、|ぼろきれ《ヽヽヽヽ》のように車の振動に身をまかせながら、兄はもう「いっちくたっちく」を唄うのもやめ、ただ押し黙って涙を流していたのではあるまいか。
吉亮はその晩の内藤新宿から市ヶ谷八幡町に向う在吉の姿をようやく思い描くことができて、兄の死後はじめて泣いた。兄のあわれさが身にしみた。
明治十一年十月十五日夜、山田和水が次男在吉を斬殺したときの様相については、当然のことながら、徴すべき資料がほとんどない。ただ『幕末明治女百話』(篠田鉱造著)のなかに、和水と後妻素伝とのあいだにできた娘|いさ《ヽヽ》の、晩年における回顧談が収録されており、その一節に、事件当夜、当時数え年六歳であった|いさ《ヽヽ》が受けた印象を反映しているのではないかと思わせる部分がある。回顧談、とくに幼年時代の印象記というものが、ある瞬間については正確鮮明にとらえているが、その瞬間の位置さるべき時間的(あるいは時代的)前後関係、またその瞬間が発生した事件そのものの全体的脈絡についてははなはだ曖昧であり、ときには大きな誤りを犯していがちなものであることは、われわれの等しく経験するところである。この|いさ《ヽヽ》の回顧談もその弊を免れているとは言えないようである。しかし次の引用は、この事件当夜の在吉の姿を推測するのに、一つの手がかりを与えてくれるのではあるまいか。
≪二番目の兄は、酒乱で乱暴で、手古摺《てこず》りました。酔払って来たとなったら、乳母は母の吩咐《いいつけ》で、私を焚木《たきぎ》の中へ咄嵯《とつさ》に隠させてしまいましたが、そうそうは母も貢《みつ》げませんから、意見も加えますと、十八番《おはこ》の乱暴狼藉、隠し持ったる白刃《しらは》を抜放って、私を殺すと暴れ廻り、とうとう焚木に眼をつけ、ブスリ突貫《つきとお》し、私の肩の先で、尖先《きつさき》が蛇の舌のように、血|なめずり《ヽヽヽヽ》をしましたが、私も十二歳(話者の記憶ちがいか、編著者の校訂が誤っていたものと考えられる。)でしたし、母に仕込まれていましたから、キャッともスッとも言いませんで、ジッと恐さを噛締《かみし》めていましたら、外《ほか》へ飛んで往ってしまい、髪の毛ほどの隙で助かりました。|すんで《ヽヽヽ》のこと、彼《あ》の時は斬られたと思いましたが、私も仕合《しあわせ》兄も仕合せ、神明の御加護と存じました。
乳母が隠してくれました時、「阿母《おかあ》さまを見てあげて、私はしっかり隠れているから」と、母の上を頼みましたが、母も無事で、親子あとで抱きついて泣きました。≫
父和水の家へ人力車で乗りつけた在吉は、車夫に命じて、
「デンポー、デンポー」
と叫ばせ、鎖されていた小さな門を内から開けさせると、スッと無言で玄関口へ入った。
「いけません。どなたですか。どなたですか」
と、門をあけた乳母のお兼が雨の降るくらがりから追ってきた。
居間には|あやとり《ヽヽヽヽ》でもして遊んでいたらしく、素伝と|いさ《ヽヽ》がいた。
「素伝さん、金をもらいにきました」
あまりの出し抜けさに挨拶もできず、ただ大きく目を見張っていた素伝は、在吉を追ってきたお兼に目くばせして|いさ《ヽヽ》を台所のほうへ連れ去らせた。
「前におあげしたので最後です。もうわたくしの才覚では……」
という素伝の言葉を途中で遮るように、
「駄目だというんですな。それでは|いさ《ヽヽ》の命をもらいます」
というなり、在吉は仕込杖から刀を抜くと、台所へ行った。
台所には三分芯《さんぶしん》の小さな吊りランプがまたたいているだけで、全体が暗黒に蔽われていた。
「|いさ《ヽヽ》はどこだ。どこに隠れている」
と叫びながら、在吉は戸棚をあけたり、土間におりて竃《へつつい》の蔭をのぞいたりした。刀がときどきランプの光をうけて、鈍く光った。お兼はただ呆然と立ちすくんでいるだけであった。
「これだな」
ランプの光のほとんど届かない土間の片隅に、荒繩で手頃な量に束《たば》ねられた薪が積み上げられて、小さな山を作っていた。
在吉はその薪の山に近づくと、あちこちと刀を突き刺した。
「あッ!」
と叫んだお兼が、気を失って倒れた。
薪のなかに隠れていた|いさ《ヽヽ》を危うく突き刺しそうになった刀を抜いて居間にもどった在吉は、お兼の悲鳴にたまりかねて居間から台所へ出てみようとした素伝と向い合った。そこで真正面から素伝に斬りつけた。素伝の厚い帯がズバッと両断され、剣の心得のある素伝もあまりの咄嵯なので身を引く暇を持たず、みずからの裾を踏んでその場に倒れた。
そこへ物音を聞きつけた和水が、書斎から大刀を鷲づかみにして現れた。
「馬鹿者! 早まるでない」
和水の大喝がひびいた。
和水がこのとき素伝の倒れたのを目撃して、一瞬、彼女がほんとうに在吉に斬り殺されたのだと思い込んだのが、あるいは次の惨劇を産むきっかけとなったのかもしれない。和水ほどの名人である、もう少し時間的余裕があったなら、事態を冷静に判断しえたかもしれない。しかし在吉は故意《わざ》と和水にその余裕を与えなかった。素伝の帯を斬った残心から刀をひるがえすと、即座に和水に向って構えた。
まさか実子に刀を向けられるとは、和水も予期していなかったらしい。それが和水の虚となった。しかしさすがに和水である。そこでいささかでもためらうことは自分の死に直結することを身体で知り尽しているのである。和水は心の動揺をそのまま身体の運動として始動させ(心の動揺を立て直してそれから、といった迂遠な余裕など達人同士の立会いには存在しない)、すぐに左手に下げていた刀の鯉口を切り、右手で刀を抜くと鞘を部屋の隅に抛り投げるという一連の動作を起して、在吉の構えに応じていた。(逆にいえば、自分を殺すところまで父をひっぱって来なければならない在吉としては、父のこの条件反射的反応を示すであろう修練の境地まで計算に入れていたといえよう。)
一瞬、相正眼に構えて静止した二人の影を、ランプの焔が壁に大きく揺らめかせた。もはや肉親の情とか心理的駈引きなどの入りこむ余地のない、物理法則にも似た、純粋な生殺の場の論理に従って、二人の動作が流れるだけであった。波の寄せ合うようにスーッと寄った二本の刀は、そのまま鍔|迫合《ぜりあ》いとなって盛り上った。
その鍔迫合いの時間は、傍から身動きもできずに見上げている素伝にとっては、永遠を感じさせるほどの永い時間に思われたが、ほんの数秒のあいだであったろう。和水の刀は拵えのしっかりした、鉄鍔のある厚身の大刀である。それにたいして在吉のは杖に仕込んだ細身の刀で、しかも鍔がない。「在吉は死にに来たな」という想念がはじめて和水の脳裡を横切った。しかし睨み合った在吉の両眼は、和水の眼をとらえて離さず、和水の想念を拒否する殺気がこもっていた。「負けた!」と和水は思った。在吉にすべて先手を取られ、在吉の望むままの形にひきこまれて、それから脱け出られない自分を悟った。和水は鍔迫合いのまま満身の力をこめて刀を押し下げるしかなかった。和水の刀身は在吉の刀身に沿って鉄の焼ける匂いをかすかに漂わしながら、ズズッ、ズズッ、とずり落ちてゆき、それを防ぐ鍔のないまま柄《つか》を握りしめている在吉の右手の指をバラバラと切り落しつつ、在吉の左肩に食い込んで行った。
在吉の悲鳴のように、血が天井に噴き上げた。それを見たとき、素伝は気を失った。
在吉の血が弱まり、欄間から襖へと音たてて噴き下がったとき、在吉の刀が切先《きつさき》から落ちてズブリと畳に突き立った。和水は刀が在吉の肉体に食い込んでいるために、上に持ちあげて抜くわけにいかなかった。斬り下げるように手もとに引くしかなかった。刀を引き抜いたとき、在吉は見事な袈裟に斬られていた。
まだ在吉は息があった。よろよろと縁側へ出ると、雨戸に靠《もた》れるように倒れた。雨戸が倒れて、縁側と庭とに斜めに橋を渡した。その戸板の上に、在吉が頭を下にして仰向けに転った。雨が全身に叩きしぶいた。
刀を捨てた和水が走り寄って足袋はだしのまま庭に下り、在吉の頭を抱え起した。重い頭であった。
「在吉! しっかりしろ」
と揺り動かす和水の声が通じたらしく、在吉はちょっと身じろぎをみせ、
「これでいいのです。ホッとしました」
と微かに言って、カクッとこときれた。
「バカめ!」
和水の両眼からどっと涙が溢れた。
我見諸衆生《ガーケンシヨーシユージヨー》
没在於苦海《モツザイオークーカイ》
故不為現身《コーフーイーゲンシン》
令其生渇仰《リヨーゴーシヨーカツゴー》
因其心恋慕《インゴーシンレンボー》
及出為説法《ナイシユツイーセツポー》
神通力如是《ジンヅーリキニヨーゼー》
於阿僧祇劫《オーアーソーギーコー》
常在霊鷲山《ジヨーザイリヨージユーセン》
及余諸住処《ギユーヨーシヨージユーシヨー》
衆生見劫尽《シユージヨーケンコージン》
大火所焼時《ダイカーシヨーシヨージー》
我此土安穏《ガーシードーアンノン》
天人常充満《テンニンジヨージユーマン》
園林諸堂閣《オンリンシヨードーカク》
種種宝荘厳《シユージユーホーシヨーゴン》
宝樹多花果《ホージユーターケーカー》
衆生所遊楽《シユージヨーシヨーユーラク》
諸天撃天鼓《シヨーテンギヤクテンクー》
常作衆伎楽《ジヨーサーシユーギーガク》
雨曼陀羅華《ウーマンダーラーケー》
散仏及大衆《サンブツギユーダイシユー》
(我《わ》れ諸《もろもろ》の|衆 生《しゆじよう》を見るに
苦海《くかい》に没在《もつざい》せり、
故《ゆえ》に為《ため》に身《み》を現《げん》ぜず
其《それ》をして渇仰《かつごう》を生《しよう》ぜしむ。
其《そ》の心《こころ》の恋慕《れんぼ》するに因《よ》りて、
及《すなわ》ち出でて為《ため》に法《ほう》を説《と》く。
神通《じんづう》の力是《ちからかく》の如《ごと》し、
阿僧祇劫《あそうぎこう》に於《お》いて、
常《つね》に霊鷲山及《りようじゆせんおよ》び
余《よ》の諸《もろもろ》の住処《じゆうしよ》に在《あ》り。
衆生《しゆじよう》は劫尽《こうつ》きて
大火《だいか》に焼《や》かるると見《み》る時《とき》も、
我《わ》が此《こ》の土《ど》は安穏《あんのん》にして
天人常《てんにんつね》に充満《じゆうまん》せり。
園林諸《おんりんもろもろ》の堂閣《どうかく》、
種種《しゆじゆ》の宝《たから》を以《もつ》て荘厳《しようごん》し、
宝樹《ほうじゆ》、花果多《かかおお》くして、
衆生《しゆじよう》の遊楽《ゆうらく》する所《ところ》なり。
諸天《しよてん》、天鼓《てんく》を撃《う》ちて
常《つね》に衆《もろもろ》の伎楽《ぎがく》を作《な》し、
曼陀羅華《まんだらげ》を雨《ふ》らして、
仏及《ほとけおよ》び大衆《だいしゆう》に散《さん》ず。)
和水はいとおしげに在吉を抱き、頭が高くなるように戸板の上で位置を変えたのち、両掌《りようて》を固く握り合わせて、「寿量品偈《じゆりようぼんげ》」を唱えつづけた。滝に打たれる行者のような野太《のぶと》い和水の声は、降りしきる雨の音と融け合って、いつまでもどこまでも暗い空間に拡ってゆく。
29
明治十二年の正月を、吉亮は町田|路く《ヽヽ》の家で迎えた。
在吉斬殺事件の跡片づけもようやく済んだ去年の十一月十八日、和水と素伝の希望に添って、真吉の後釜として|路く《ヽヽ》の許に入夫したのである。
在吉死亡の翌朝まだ暗いうちに、吉豊と吉亮、および在吉の妻の|せん《ヽヽ》が市ヶ谷八幡町の和水の家へ呼ばれた。和水は昨夜の事件をつつまず話して、三人の諒解を求めたうえ、〈在吉急病死〉の線で喪を発表することにした。三人の衝撃は大きく、ことに|せん《ヽヽ》の驚きと悲しみは傍《はた》で見るのも気の毒なくらいであった。|せん《ヽヽ》は和水から事件の真相を告げられたときと、じっさいに在吉の死顔を見たときと、二度失神した。
死体は即刻、出入りの俥屋を呼び、急病人を移すという体裁にして車夫の目をごまかし、麹町八丁目の在吉の家へ運んだ。死亡証明は市ヶ谷監獄署の死刑囚掛りの医者に事情を話し、急病死としてもらい、その他、しかるべき関係に手を廻して、あとあとの面倒の起きないようにした。
これらの手続きはすべて和水と吉亮の手で行なった。実父殺しならともかく、父が実子を殺さざるをえなかったということで、すべての人が同情的であったし、和水の人徳と吉亮の地位が事件の揉消しに大いに役立った。
葬式後、骨は山田家の菩提寺である祥雲寺の〈山田家累代之墓〉に埋めた。享年三十八歳であった。
葬式が済んだことで跡始末が終ったわけではなかった。和水一家が市ヶ谷八幡町の家を処分して、ふたたび昔の麹町八丁目の家へ移ることになったのである。
勿論、惨劇のあった居間は、天井の羽目板から欄間、畳まで全部取り替えて、在吉の流した血の痕はまったく残ってはいなかったし、和水じしんとしても、在吉の供養のため当分そこに住んで朝晩冥福を祈ってやりたい気持はあったらしいが、|いさ《ヽヽ》のその晩受けたショックが思ったより大きく、さいわい在吉斬殺の現場は目撃していなかったが、非常に神経質になって夜も夢でうなされたりするので、転居したほうがよいという結論が出ていた。
一方、麹町八丁目の広い家に取残された|せん《ヽヽ》は、十三歳になった娘の|なを《ヽヽ》と女中の三人暮しとなり、在吉の生きていたころは毎晩のように家をあけていたので表面上はいまも同じ生活のつづきだといえるかもしれぬが、やはり一家の柱がいるといないとではその淋しさもまったく違うのであるから、在吉のいなくなったいまとなっては、夜など淋しくて女三人が一緒にかたまって寝る始末で、できれば適当な同宿人を入れたいという希望を持っていた。
葬式が終って半月ほどたったころ、|せん《ヽヽ》はそのことを相談しに、和水の許を訪ねた。渡りに船であった。話はとんとん拍子に進んで、これからの|せん《ヽヽ》たちの生活費は一切和水が責任をもつこととし、早速同居することに話が決った。
事件の跡始末、転居の手伝いと、吉亮は心身ともに疲れ果てていた。兄の死という大きなショックは身体にまでこたえたし、以前から予感し恐れていた山田家の崩壊がここからはっきりと現実化しだしたのだという気持にとらわれ、自分の無力感に捨鉢な気分も生れていた。したがってふたたび和水から|路く《ヽヽ》との結婚話がきたときは、どうにでもなれ、という気持であった。最近は小康を得ているとはいえ、寝たり起きたりの鬱屈した状態にある吉豊に、かつて豊倉屋でしたと同じ相談を、いまさら持ち込む気にはなれなかった。吉亮は即座に承諾の返事をした。しかも在吉の葬式を出したばかりだというのに、どうせ行くならなるべく早くしてほしいと、こちらから縁組を急ぐことを要求した。そして十一月十八日に身一つで牛込赤城下町の|路く《ヽヽ》の家へ移った。
それより少し前、吉亮と|路く《ヽヽ》の養子縁組が決ったとき、連日暗い気持にとじこめられていた吉亮の心をいくぶん朗かにしてくれる小事件が持ち上った。浜田が平河町の家を出させてほしいというのである。びっくりした吉亮がその理由を問いただすと、
「若先生が身を固めるのですから、わたしもその跡を追いたいと思いまして」
と、浜田は照れくさそうに笑った。
「じゃ、お前も所帯を持つのか?」
「へ、へッ。ま、そういうことです」
と、浜田はさらに照れた。
「大《おお》先生(和水)から若先生のお守《も》り役を命ぜられたとき、若先生が御新造さんをもらって一本立ちなさるまでと心に決めたのですが、若先生は一本立ちはなさってもなかなか嫁さんをもらってくれなかったものですから、ついきょうまで……」
と、あとはまた笑いにごまかしてしまった。
吉亮は浜田という人間の義理固さにいまさらのように驚いた。同時に、胸の中が熱くなるような感激を覚えた。
照れくさがる浜田を問いつめてきいてみると、十年ほど前、ある事件に巻きこまれて困っている女を助けてやり、知り合いの水茶屋に仕事口を紹介してやったが、仕事ぶりの実直さが気に入って将来を誓い合った。その後互いに年は老けてきたが、吉亮の結婚まで待とうと約束しあっていたので、結局きょうまで来てしまったのである、という。浜田は死んだ在吉と同年の三十八歳である。女は五つちがいの三十三歳だという。
「それじゃあ、わしがまだ結婚しなかったら、いつまでも待っていたというのか」
と吉亮がなじるようにいうと、
「へ、へッ。ま、そういうことです」
と、さっきと同じ返事をした。
吉亮は浜田とは兄たち以上に寝食を共にし、苦楽をわかちあってやってきた。浜田への感謝と愛情は肉親にたいするよりも大きいといってよい。そんな浜田に、知らぬこととはいえ、結婚のような人生の大事をきょうまで延び延びにさせていたということは、申し訳ないではすまされないような気がするのであった。
この知らせを聞いた和水も吉豊も、びっくりすると同時に、心から祝福した。とくに和水は、浜田に吉亮の付人を命じっぱなしで、それを解除することを忘れていたのを慚愧《ざんき》した。和水・吉豊・吉亮の三人は、山田家の名前で出来るだけの祝儀を包み、浜田の別居を祝った。
「若先生、住まいは別になっても、市ヶ谷には通わせてもらいますよ」
そういって浜田は相好を崩し、はじめて吉亮たちに紹介した女にあとを押させ、荷物を積んだ大八車をひっぱって引越して行った。──
浜田は外神田佐久間町で女に小料理屋をやらせ、そこに所帯を持つといっていた。この十年間、不平を言わずに黙って浜田との結婚を待っていた女である。おそらく二人の結婚はうまく行くであろう。またそうあってほしい、と吉亮は心から思うのである。
それに引き較べて、自分と|路く《ヽヽ》とのあいだは、はたしていつまでもつであろう。
たしかに|路く《ヽヽ》は愛嬌があって気立てがよく、そういう意味では申し分のない女房であった。とくに現在のように、心身ともに疲れはてている吉亮にとっては、|路く《ヽヽ》のやわらかな心と肌に埋もれていることは、大きな救いであった。
いまも、在吉の喪で年賀をつつしんでいるため訪れる人もない静かな正月の午後を、|路く《ヽヽ》が昔から可愛がっていた猫のタマと並んで、縁側に片肘ついて寝そべって、うつらうつらと日向ぼっこに過している吉亮の頭を、いつのまに傍へきて坐ったのか、|路く《ヽヽ》が横坐りにした自分の膝の上に静かに移して、吉亮の耳垢をとってくれている。吉亮は、思ったより厚みと弾力のある|路く《ヽヽ》の膝の感触に陶然としている。
この優しさ──それがいまの自分には救いであるが、やがて自分がもとの活力をとりもどしたとき、その優しさが煩わしく重荷になるのではないだろうか。優しすぎることがこの女の不幸なのだ。頭も利発だ。身だしなみもよい。だが、この女には|恐さ《ヽヽ》がない。
いい気なもんだ。──吉亮は、自分がいまいちばん必要としている女の優しさを与えてくれているのが|路く《ヽヽ》であり、尻の穴のこそばゆくなるような新所帯の甘さに首まで漬かって心の傷を癒しておれるのも|路く《ヽヽ》のおかげなのに、その当の|路く《ヽヽ》にケチをつけている自分の身勝手さに苦笑した。
「あら、なにがおかしいの?」
「うん? いや、耳がくすぐったいのでね」
とごまかして、吉亮は澄んだ冬空に目をやった。塀の外を走ってゆく四、五人の女の子の華やいだおしゃべりと足音がした。どこかで凧のうなりがきこえる。遠くから琴の音も流れてきた。
「こんどはこちらを向いて」
吉亮は寝返りをうって反対側の耳を向け、呼吸のたびに微かに起伏する|路く《ヽヽ》の帯の辺を眺めていた。そしてふと、在吉兄さんは母上が好きだったのではないか、と考えた。
在吉が素伝をののしり、素伝につらくあたったのも、自分だけが疎外されている悲しさの、ゆがんだ表現だったのではないだろうか。あの晩、在吉が素伝の帯を両断したのも、その愛情の最後の訴えかけだったのかもしれない。
吉亮は素伝という女の|恐さ《ヽヽ》を思った。
吉豊が血を吐いたのは、|いさ《ヽヽ》が自分の子であることを素伝に知らされた衝撃の結果である。真吉が家出し、いうならば彼の人生の道筋が狂ったきっかけは、素伝にすすめられた|路く《ヽヽ》との結婚だったといってよいだろう。そして在吉の死までが素伝への愛の屈折したものだったとするならば……。
たった一人の女が山田家に入ったばかりに、山田家が分裂し崩壊してゆくのであろうか。この自分にしたところで、素伝の魔手から脱れえているとはいえないであろう。いや、彰義隊出陣の夜以来、この十二年のあいた、結局は素伝という魔性の女の周囲をぐるぐると廻っていたに過ぎないのだ。火を慕う蛾のように……。
素伝じしんが残酷な女かどうかはわからない。また、いまはそれを問う必要はない。ただ、素伝をめぐって山田家の男たちが、いかにも呪われた一家であるかのごとく、次々と死んだり家出したり病気に倒れてゆく。しかもそれがこれからどう発展するかも測りしれない。素伝の夫である和水じしんが〈実子殺し〉の悲運に泣いているのである。このままでゆけば、〈首斬り〉稼業の悪業の崇《たた》りだ、と世間がうわさする恐れもないとはいえないであろう。それが素伝の|恐さ《ヽヽ》なのだ。そしてそういう|恐さ《ヽヽ》をどこかに秘めているのが、ほんとうの美女の蠱惑《こわく》なのかもしれない。
吉亮は素伝の恐さを思いながら、いつのまにか素伝の面影を、まだ見ぬ一人の女の罪囚に重ね合せていた。
その女は高橋|でん《ヽヽ》という殺人犯であった。
「そろそろお伝の判決もおりるらしい」
と、市ヶ谷監獄署で最近うわさの的になっている女である。
ぞっとするほどの美人だという。色が抜けるほど白く、切れ長の眼が凄艶な潤《うるお》いをふくみ、漆黒の髪を無造作に櫛巻にしているのがなんとも粋で、ふるいつきたいような女だとか、面長な顔が長い獄中生活でいささか窶れをみせ、それがかえって憂えを帯びて男心をそそるとか、いろいろと騒ぎたてられていた。
事件は三年前にさかのぼる。──
明治九年八月二十六日の午後七時頃、浅草蔵前片町の旅籠《はたご》屋「丸竹《まるたけ》」事大谷三四郎方へ泊りこんだ夫婦者があった。宿帳には〈武州大里郡熊谷新宿・茶舗・内山仙之助(三十八)・同妻まつ(二十五)〉と記入し、その夜は酒食して十時頃、二階の一室に蚊帳を釣って寝に就いたが、翌二十七日、下女が寝床と蚊帳を片づけにいったところ、女のいうには「けさは二人とも食当りをしたらしく、加減が悪いからそのままにしておいとくれ」といって朝飯も食わずにいた。
午後二時頃、下女が蚊帳をしまう時に見ると、男は熟睡のていであったが、女だけは次の間で食事をとり、七時頃、「ちょっと近所まで行ってくるが、うちの亭主は短気者で、ことにきょうは気分が悪いのだから、決して構わないで、あのまま寝かしておいてちょうだい。わたしの帰りが遅くなるようならば、蚊帳だけは釣っておくれ」と言って、女はそそくさと出て行った。
その晩、八時過ぎに下女が二階に上って行って食事などをたずねたが、男からはなんの返事もないので、「よく寝る人だ」とつぶやきながら蚊帳を釣って下りてきたが、二十八日の朝になっても起きて来ず、女も出て行ったきり帰って来ないので、不審に思って部屋へ行って寝床をあらためてみると、男は朱《あけ》に染まって死んでいた。
検視の結果、男は剃刀で咽喉部甲状軟骨右側よりS字形に、右頸動脈および気管を切除され、長さ三寸三分、深さ胃管に達する傷であった。しかも枕もとに|まつ《ヽヽ》の書置があった。折れ釘流の拙ない文字であった。
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此ものに五年いらいあねをころされ其上わたくしまでひどふのふるまいうけ候はせんかたなく候まま今日までむねんの月日をくらしたヾいまあねのかたきを打ち候也いまひとたびあねのはかへまいりその上すみやかになのり出候也けしてにげかくれひきよふはこれなく候
此むね御たむろへ御とゞけ下され候
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かわごいうまれにて
[#地付き]ま つ
御丁寧に拇印まで押してあった。
男は日本橋檜物町で古着屋をやっている後藤吉蔵(四十八歳)であることが判った。女は新富町三丁目三番地・行川やす方同居人宍倉佐太郎方に情夫の小川市太郎と止宿している高橋|でん《ヽヽ》であり、翌二十九日に逮捕された。
兇行は二十七日の午前十一時頃、吉蔵の熟睡しているのを見すまし、剃刀で咽喉を切ったが、声を揚げようとする吉蔵の口を布団で塞ぎ、息の絶えたのを見定めると、死体に枕をさせ、布団をかぶせて熟睡のていを装ったものである。
金に詰まっての兇行であったが、このとき吉蔵から奪った二十六円ほどの金は、十円は止宿先の宍倉へ、一円は丸竹旅館へ支払い、残り十五円は帰りの人力車代、情夫・市太郎との飲食代、自分の丸髷を結うためなどにつかって、逮捕時には十円ちょっとの金が残っていたらしい。
〈姉の敵討ち〉という〈書置〉の趣旨はまったくの出鱈目であった。しかしこの趣旨を貫徹するために|でん《ヽヽ》の供述は嘘で固められた。ついには吉蔵が|でん《ヽヽ》をだまして丸竹旅館に連れこみ、種々戯れかかり、「終《つい》に自分を組伏せ、口へ手拭を当てるや否や、九寸許りの短刀を抜放し、自分へ打掛る勢いに付き、驚愕し、其手を打払い候際、同人の頸筋へ刃先当り、自分は其儘次の間へ逃退き候処、同人儀|最早是切《もはやこれきり》と言いながら、自ら咽喉を切りたる故、大いに驚き、同人|側《そば》に立寄候処、其儘|相果《あいはて》候」と、吉蔵自殺説まで述べたてる始末であった。
その嘘の嘘であることを立証するために、取調べ側は苦労した。そのため取調べに時間がかかり、そのうえ西南戦争の勃発で多くの政治事件が続出し、|でん《ヽヽ》一人にかかりあっている暇がなくなるなどで、裁判が延び延びになっていた。それがようやく結審が間近いという話が、去年(十一年)の十月頃からうわさされ出したのである。──
もしこのお伝が斬首の刑を宣告されたとすると、その首を刎ねるのは自分である。美人であると同時に、相当のしたたか者だともいわれている。見事、斬れるであろうか。
吉亮は素伝の顔をお伝の首にすげて考えているうちに、素伝の首を斬ろうとしている自分を夢みていた。なんど斬り落しても、素伝の首はすぐ胴につながった。それでも吉亮は根気よくいつまでも斬りつづけていた。
いつのまにか吉亮は軽い|いびき《ヽヽヽ》を立てながら眠っていた。|路く《ヽヽ》は傍の座布団を二つに折って枕とし、静かに膝を抜いて押入れから掻巻を持ってくると、吉亮の上に掛けてやった。日は少し西に傾いていた。
明治十二年一月三十日、市ヶ谷監獄署の処刑場で、三人の斬首執行があった。男一人、女二人である。
男の名は安川巳之助、女の名は浅子|なか《ヽヽ》と高橋|でん《ヽヽ》。ただし巳之助と|なか《ヽヽ》は同じ事件の共犯者である。
執刀者は|なか《ヽヽ》には浜田が当り、巳之助と|でん《ヽヽ》には吉亮が当った。
市ヶ谷の処刑場は監獄署の裏手にあり、鬱蒼とした杉林の中で、方五十間ばかりの黒塀で囲まれた地域であった。その囲いのなかの一方に絞首台が聳え立ち、その台の下に首打場がある。
小伝馬町囚獄の処刑場は、広大な牢屋敷の東北隅で、塀の側に柳が五、六本植わっている程度の、割合にひろびろとした、青空も眺められる、明るい場所であったが、市ヶ谷監獄署の場合は、日も射さぬほどの杉の森の、しかも黒塀のなかであるから、見るからに暗鬱で、凄惨の気の人に迫るものがあった。
首打場は、土壇の前に畳一畳ほどの広さで深さ一尺の血溜りが掘られ、漆喰《しつくい》で固められて、その周囲は頑丈な木材で框《かまち》が嵌められている。しかも罪囚の据えられる土壇がわの框の縁《へり》は、首を斬った刀の勢いが余って切りつけるらしく、三日月形にえぐられている。漆喰で固められた血溜りは、首を打ち落すたびに洗うのであるが、それでも血痕が点々と黒く残って、血腥い、一種異様な臭気を漂わしていたという。
最初に刑の執行された浅子|なか《ヽヽ》と安川巳之助の罪状は次のようなものであった。
東京第五大区八小区浅草南馬道新町十三番地で商業を営んでいた平民・浅子市右衛門方に雇われていた東京第五大区七小区上野町一丁目居住の安川巳之助(三十年二カ月)という男が、市右衛門の妻|なか《ヽヽ》(四十八年四カ月)と通じ、共謀して主人の市右衛門を毒殺した。使用した毒薬は医師・鹿倉道伯から貰い受けたものである。巳之助は主人・市右衛門を毒殺した罪により、人命律殺死姦夫条の適用をうけて斬罪のうえ梟示。|なか《ヽヽ》は私通のうえ毒殺の罪で同じく梟示の判決を受けた。しかしこの判決は刑執行にあたり、少しく修正された。というのは、この十二年一月四日に梟示の刑が廃止となり、〈其罪梟示ニ該《あた》ル者ハ一ニ斬ニ処ス〉と決められていたため、斬首のみで梟示にはされなかったからである。
このことは斬首ないし梟示の判決があってから刑の執行まで相当の時間が経過していたことを意味し、さらにこのころになると斬首の刑の数が減り、死刑は主として絞首刑を用いるように変ってきて、斬首刑は数件の罪囚を溜め斬りにしていたためと思われる。
のちに(明治三十五年・第七回議会以降)熊本県代議士となった高田露という人が西南戦争で西郷軍に与《くみ》した廉で五カ年の禁錮を食い、当時、市ヶ谷監獄署に囚えられていたが、その人の獄中回顧談によると、「あさ子といふ廿二三の女の斬られるのを見たが、此奴は胆の坐つた女と見え、一しよに斬らるゝ筈になつてた男に、では私は一歩先に参りますよと笑談をいつてゐた」と語っている。
高田のいう〈あさ子〉とは〈浅子《ヽヽ》なか〉の苗字を名前と思い違いしたもので、また彼女を二十二、三の女と見たのは、五十近い婆さんがあまり度胸がすわっているのに感心し、その讃美の情が二十数年後には若い婦人のイメージにすり変っていたものであろう。もっとも安川巳之助という三十男に主人殺しまで行わせるほどの魅力のあった婆さんであるから、あるいは皮膚なども餅肌の、若い女性と見まごうつややかさをもった女だったのかもしれない。
|なか《ヽヽ》が浜田の手で首を刎ねられたあと、つづいて引き出されたのは安川巳之助であった。かれに関しては吉亮が次のように回顧談で証言している。
≪其時おでんの前に何の犯罪か知りませぬが、安川巳之助《やすがはみのすけ》といふのを斬りました。所が此奴はブル/\もので、斬首の前に顫慄《ふるへ》が止らないのを、高橋おでんはセヽラ笑ひ、「お前さんも臆病だね、此期《このご》に及んで男の癖に。妾《わたし》を御覧よ、女ぢやァないかね」と励してゐました。≫
こうしてみると、巳之助と|なか《ヽヽ》の事件は、|なか《ヽヽ》が主犯のように思われてくる。おそらく夫・市右衛門の、商売を後生大事に守るのみで男性的魅力の一とかけらもない、しなびた姿に|うんざり《ヽヽヽヽ》した|なか《ヽヽ》は(ひょっとしたら|なか《ヽヽ》は家付きの娘で、市右衛門は婿養子だったかもしれない)、雇人のなかに揉上げの剃りあとも青々しい、きびきびした男前の巳之助を発見し、自分のほうから巳之助を口説きおとして男めかけにし、情痴の果てには夫の市右衛門が邪魔になるというお定まりのコースをたどって、びくびくしている巳之助の尻をたたいて夫を殺させたのかもしれない。そうすると、|なか《ヽヽ》のほうが高橋|でん《ヽヽ》よりも毒婦性に富んでいたといえるかもしれない。死にざまも立派である。
最後に引き出されたのが〈群馬県上野国利根郡下牧村四十四番地・平民・九右衛門養女・禅宗・高橋でん〉で、年齢は二十六歳と五カ月であった。
30
最近吉亮は、斬首執刀のさい、ときどき脳裡をかすめる幻覚があるのを知っていた。ねずみの駈け廻る幻覚である。
それはある意味ではなつかしい幻覚であった。自分がはじめて父から山田流居合術の秘伝をつたえられたころ、毎晩道場でねずみを切る練習をし、それがやがては自分の脳裡の幻想中にねずみを駈け廻らせて切る習慣となって身についていたからである。その幻想は彰義隊の戦さののち、一年三カ月ほど浅草|山谷《さんや》に身を潜めていたあいだにいつのまにか脳裡から薄れ、ふたたび家に帰って斬首にたずさわるようになったころには、すっかり影をひそめていたのであるが、このごろそれがまたときどき現れるのであった。
しかしこのごろの幻覚は少年時代のとは違うところが一つあった。
少年時代の修業中に体験した幻覚は、つねに自分の意志によって描かれていた。ねずみを走らせようと思うことによってはじめてその幻想が湧くのであった。それがこのごろでは、こちらがそんなことを考えもしないときに脳中をよぎるのである。しかも斬首のさいの、無心になっているときに不意によぎるのである。そのため、|たまに《ヽヽヽ》ではあるが、吉亮ほどの使い手が、首を斬った刀の勢いが余って、血溜りの框に切りつけることもあった。吉亮はそれを自分の未熟として恥じた。
幻覚の出現の気紛れさがかえって吉亮を困らせた。いつ出るかわからないという不安がつねに心につきまとって、吉亮を無駄に疲労させた。
吉亮がはじめて斬首にたずさわってから、足かけ十五年にもなろうとしていた。その長年の疲労の積み重なりが幻覚を誘うのだと考えた。とくに泥酔した翌日に起きることが多かった。そのたびに、やはり疲れがたまっているのだ、と吉亮は考えた。そしてときどき、心も病んでいるのではないか、と不安を覚えた。
吉亮は心の奥底で斬首に自信を失いつつある自分を意識していた。そしてそれが山田家が崩壊してゆくという意識とどこかで微妙なつながりがあるのではないか、と考えることもあった。廃刀令以後、天下公認で刀を使えるのは自分ひとりだということにひそかな自負を抱いたこともあったが、このごろではそれがかえって山田家の悪業《あくごう》のような気がしてならなかった。とくに、在吉が父に斬殺されたことから受けた大きな衝撃は、もうこの仕事をつづけることは不可能だと思うくらい、心と体にこたえた。斬役をつづけているあいだは、山田家になにか不吉な影がさすような気さえするのであった。
吉亮は自分がこの仕事に厭気がさしていることを認めざるをえなかった。こんな気持ではいつ大きな失敗をしでかすかしれない、という恐怖に似た不安が心のどこかにわだかまっているのである。その失敗によって、いままで築きあげてきた〈首斬りの天才〉という名声がいっぺんに瓦解してしまいそうな不安である。
いまも安川巳之助の首を斬ったとき、打ち下した刀にみだれがあった。おそらく浜田以外には気づかれはしなかったであろうが、斬首直後の刀が決まらず、あやうく血溜りの框に切りつけようとしたのである。幻覚がよぎったからではなかった。よぎるのではないかという不安が吉亮を無心にさせなかったのである。
「若先生、疲れがまだ抜けていませんな。次はわたしが代りましょうか」
浜田が寄ってきて吉亮が巳之助を斬った刀身に水をかけて血糊を流してやりながら、声を低めて聞いた。浜田なればこそ遠慮なく言ってくれるのである。浜田の心づかいに感謝こそすれ、気を悪くする吉亮ではなかった。
「いや、だいじょうぶだ」
吉亮は手桶の柄にかかっている紙で刀身を拭いて鞘におさめると、声だけは明るく答えた。
吉亮は自分の気力の衰えを知っていた。その気の弱り目からいろいろな不安や恐れが生れて来るのであることも知っていた。吉亮は次の高橋|でん《ヽヽ》の斬首できょうの処刑が終ったなら、当分のあいだ、斬首執行は休ませてもらおうと思っていた。昔日の颯爽とした自分をとりもどすためには、まだ時間が必要だと思った。
高橋|でん《ヽヽ》は昨二十九日、斬罪と決定した。東京裁判所の判決書に拠ると、
人を謀殺し財を取る者
人命律謀殺第五項に照し
斬
[#地付き]高 橋 で ん
とあり、「被害者の死は自死にして己れの所為にあらず」などという彼女の申立ては、取調べの結果「他殺に係る証状明白と言ふべし」という結論が出、彼女が自分の実父は沼田城主土岐氏(三万五千石)の家老・広瀬半右衛門だと言い、腹違いの姉の仇討ちのため後藤吉蔵を殺したなど、いろいろなことを言っているが、その異母姉の生所身分調べなどをしてみても一つもその証の拠るべきものがないから、「畢竟名を復讐に仮り、只管《ひたすら》賊名を掩はむ為の遁辞と言はざるべからず」、したがって彼女は艶情をもって被害者を欺き、しばしば金を奪おうとしたが意のごとくならないため、準備しておいた剃刀で殺害し、財を得たものと認められるので、当裁判所としてはこのように決定した、という報告にたいして、大審院もそれを〈可〉としたのである。
安川巳之助の顫えているのをせせら笑ったお伝であるから、自分がいよいよ面紙《つらがみ》で眼隠しされ、土壇場の莚のうえに後ろ手に縛られてひき出されたときも落ち着いていた。木綿ながらこざっぱりとした縦縞の袷が小股の切れ上った身体にぴったりと纏いつき、襟の黒襦子が顔の白さによく映《うつ》っている。
さすがに|したたか《ヽヽヽヽ》者だといわれただけある。大胆不敵な女だ。これなら安心して首も打ち落せよう。──そう思った安堵感がかえって吉亮の心に隙《すき》をつくっていたのかもしれない。
すべてが順調にすすんでいた。押え役の常吉と定吉が左右からお伝の肩を押え、仙吉がいつものようにうしろからお伝の足の親指を握って、吉亮の念力の盛り上りを待っている。処刑場全体が一瞬の閃光を待って寂《しん》と静まった。厳しい冬の朝で、空は曇っているがそろそろ霜も消えようとしている。全員の吐く息がわずかに白く見えた。
吉亮が四句偈《しくげ》を心にとなえて、無銘ながら直江志津、刃渡り二尺三寸の愛刀を鞘走らせようとしたとき、
「待ってください」
と突然、お伝が叫んだ。
偶然とはいえ、お伝の叫びはあまりにも見事に吉亮の虚を突いた。吉亮は刀に手をかけたままグッと腰を下ろし、あやうく一瞬の差でフーッと呼吸を抜いたが、心はリズムを失った。
「どうした!」
と常吉が叫んで肩を押えた。
「お願いがございます。市太郎さんに会わせてください」
「なにをいうか。静かにしろ」
お伝は猛然と首を振りはじめた。
「お願い、お願ーい。市《いち》さんに会わせて──」
叫びながらお伝はキーキーと泣き出した。評判だった髪の櫛巻もほどけ、面紙もとれた。
「市太郎ってだれだ!」
こんどは定吉が叫んだ。
「|うち《ヽヽ》の人です。きょう会いに来ることになっているんです。一と目、一と目だけ会わせてください。お願いします」
「ばかをいえ、そんなことができるか」
「観念するんだ」
常吉と定吉が口々に怒鳴りながら肩を押えて、お伝の鵜首を血溜りのほうへ押し出そうとした。すると、お伝は「市太郎さーん」と呼びつづけ、尺取りの虫のように全身の屈伸運動をはじめた。趾《あしゆび》を握っていた仙吉が蹴とばされて、あやうく転りそうになったが、すぐに真白な膝に抱きついてお伝の自由を奪おうとした。膝前はあられもなく乱れた。
「よし、わかった。市太郎に会わせよう」
吉亮が叫んだ。瞬間、お伝も、押え役たちも、ハッと運動を停止させた。
「その市太郎とやらに会わせてやるから、静かにするんだ」
「ありがとうございます。浅右衛門《あさえむ》先生、ありがとうございます」
全身の緊張を解いたお伝が、おいおいと泣き出した。吉亮はその肩をふるわせて泣いている姿に女のあわれさを感じた。
お伝がようやく身体を起して莚の上に坐り直したとき、吉亮は仙吉たちに目くばせして、すっと傍に寄った。途端にお伝が危険を察した|けもの《ヽヽヽ》のように、
「うそつき!」
と叫ぶと、自分から転るように横ざまに倒れた。押え役たちがまた怒鳴り声をあげて身体を起そうとした。
吉亮は、到底これでは斬れないと、検視役の大警部・監獄署長・安村|治孝《はるたか》のほうを眺めて、指示を求めるように目で問いかけた。安村は首をふって、そのままやってしまえ、という合図を送ってきた。
いまはどうしようもなくなった押え役たちは地面に膝をついて、丸太※[#小さな「ン」]棒を抱えるようにお伝を抱き、その首だけが血溜りの上に突き出るように必死に頑張っていた。吉亮は心を静めるように半眼を瞑《と》じて、「うそつき! うそつき!」と叫び狂っているお伝の首振り運動の軌跡を眺めていた。桃色に染まった皮膚の下に血管がはちきれそうに怒張したお伝の細首がちょうど血溜りの上へさしかかったとき、吉亮は刀を鞘走らせた。その瞬間、あの幻覚が、ねずみの幻覚が頭の中をよぎった。
コツ!
という音が響いた。途端に「キェーッ!」というお伝の悲鳴があたりの空気を引き裂いた。
斬り損じであった。吉亮の刀は手許が狂って、お伝の後頭部にあたり、骨を斬りつけたのであった。しかも押え役たちがお伝の身体を空中に抱え上げる恰好になっていたため、上から振り下ろされた刀の衝撃に対抗する下からの圧力が少なく、刀は骨に食いこむことができず、そのうえ押え役たちの両手がしびれてお伝の身体をドサと取り落す結果になった。お伝は狂ったように、いや実際にもがき狂って、後頭部から血を噴き出し、ヒーッ、ヒーッと悲鳴をあげながら、血溜りの漆喰で固めた三和土《たたき》のなかに這いずりこんで、刀から逃れようとした。
当然、吉亮は心のバランスを全く失っていた。お伝を追って血溜りに入るや、吉亮は大きく刀を振りかぶった。そのとき、「助けて!」と叫んだお伝が、血に濡れた顔で吉亮をふり仰いだ。気は上ずり、目は吊上って、凄艶なひとみがこちらを凝視していた。素伝《そで》であった。そこにいるのは間違いなく素伝であった。吉亮の頭の中を尻尾の長いねずみが滅茶滅茶に走り廻った。そして素伝の眼が睨んでいた。
吉亮は文字通り顫えあがった。恐怖に戦慄した。生れてはじめての恐怖感であった。吉亮は刀を振り下ろした。
それも斬り損じであった。お伝が刀を避けようと横を向いて倒れたため、顎を斬りつけただけであった。刀は流れて、切先が三和土の漆喰を跳ね飛ばした。
そのとき押え役の三人が血溜りのなかに殺到して、お伝の両肩両脚を俯伏せのまま押え込んだ。吉亮はお伝の上に屈みこむと、刀を彼女の項《うなじ》にあて、
「母上《ヽヽ》、ご免!」
と無言の絶叫をふりしぼり、全身の重みを託すように刀を向うに押しやって、押し斬りにした。
刀が襟首にあてられたと知るや、お伝はもう逃れられないと観念したらしく、
「南無阿弥陀仏」
と唱えた。二度唱えたとき、首が胴から離れていた。
「斬れたか! 斬れたか!」
はじめて口から出た吉亮の声は上ずっていた。吉亮は首が離れてからも二、三度刀をゴシゴシと三和土の上でしごいていた。
転った首を押し流すように、お伝の胴体から血が噴出し、白い三和土の上をすべって行って、框にあたって赤いしぶきとなって跳ね返った。それから血溜りのなか一帯に拡った。
浜田が駈け寄ってきて、
「若先生!」
と叫ぶや、吉亮の腕を抱えこんで血溜りの外へ引き上げた。
「母上を斬《や》った。母上を斬《や》った」
吉亮は血刀を下げたままつぶやいていた。焦点のないつぶやきであった。顔全体に膏汗が噴き出していた。
浜田は咄嵯に刀を洗う手桶を持ち上げると、吉亮の頭上からザブリと水を懸けた。意識をとりもどした吉亮の手から刀が落ちて地面に突き立った。ガクッと膝を折りそうになった吉亮の腕を肩にかついだ浜田は、
「しっかりしてください」
と吉亮を叱りつけながら、処刑場を去って行った。検視役の安村署長をはじめ、居合わせた監獄署関係の全員は、あまりに凄惨な場面を目撃して、呪縛に会ったようにしばらくはその場を立ち去りかねていた。
高橋お伝・余談二つ、三つ──
お伝には辞世の歌がいくつかある。
なき夫《つま》の為に待ちゐし時なれば
手向《たむけ》に咲きし花とこそ知れ
嬉しきも憂きも夢なり現《うつつ》なり
さめては獄屋《ひとや》寝ては故里
子を思ふ親の心を汲む水に
ぬるる袂の干《ひ》る隙《ひま》もなし
しばらくも望みなき世にあらんより
渡し急げや三途《みつ》の河守
後藤吉蔵殺害現場に残されていたお伝の〈書置〉なるものが、折れ釘流の、しかも仮名ちがいの多い、拙《つたな》い文章であったのに、辞世となるとこのように流暢な歌ができるというのは、ふしぎというしかない。勿論、これらの辞世はすべて他人の創作である。前の三首は当時の「朝野新聞」の記者の手になるものであろうし、あとの一首は高橋|でん《ヽヽ》なる女性をわが国毒婦伝中の代表的人物に祭り上げるのに多大な功績のあった元兇の一人、仮名垣魯文の作である。
明治の犯罪史上において、犯人が嘘の自供を創作し、嘘と真実との境界線が曖昧になってかえって一般に流布される結果になった事件が三つあるという。その主人公の名を事件の年代順にあげると、後藤吉蔵殺害事件の高橋でん、相馬事件の錦織《にしごり》剛清、臀肉切り事件の野口男三郎の三人である。
なるほど、確かに彼らは処刑されて事件の結末はついている。決して迷宮入り事件ではない。しかしそれは判決書に申渡された事実についての結末だけであって、刑の言渡しには含まれていない蔭の部分、取調べ側で彼らの自供の真偽を最後までは糺明しえなかった事実については、なにも断は下されていないのである。その断の下されていない部分が物語に仕組まれて、世間の好奇心に油をそそいでいるわけである。
お伝のばあいは、処刑のあった明治十二年に岡本勘造著『其名も高橋毒婦の小伝・東京《とうけい》奇聞』と仮名垣魯文著『高橋|阿伝夜叉譚《おでんやしやものがたり》』が出版されて、当時のベストセラーとなったし、同年五月には、新富町の新富座で河竹新七(黙阿弥)の構想脚色で「綴合於伝仮名書《とじあわせおでんのかなぶみ》」という新狂言が上演された。このときは五代目菊五郎が玉《ヽ》橋お伝に扮し(初代左団次が佐藤七蔵、九代目団十郎が裁判長・民尾諭《たみおさとす》の役)、凝り性の音羽屋が狂言のなかの裁判所場面の参考として実際の裁判所公判廷の見学を願い出て許された、というようなことが新聞種となったりした。
これらの物語は、お伝が嘘に嘘を積み重ねてデッチ上げた一世一代のノンフィクション(?)ともいうべき彼女の口供書を、さらに羽根を拡げ、枝葉を咲かせて創作したものであるから、事実とは無縁な物語であるが、多くの創作家の想像力をそのようにかきたてる口供書をつくったということは、お伝じしんも稀代の創作家であったといえるかもしれない。
現在、谷中天王寺境内にあるお伝の墓は、明治十四年一月、お伝の三回忌に仮名垣魯文が世話人となって建てたもので、協力者の多くは新聞社とか芝居関係者であり、いうならばお伝を飯の種にした人々の謝罪の意がこめられてあるといってよいだろう。魯文が自分の代作した辞世をこの墓に残しているのは、謝罪のつもりにしてはすこし厚かましすぎる感がないでもない。
さて、〈身首|処《ところ》を異《こと》に〉したお伝の肉体はどうなったであろうか。
仮名垣魯文の『夜叉譚』によれば「斯《かゝ》る大胆なる女なれバその亡骸《なきがら》を浅草なる警視第五病院に差送《さしおく》られ本年二月一日より四日間細密に解剖※[#「てへん+檢のつくり」、unicode64bf]査されしに脳漿《なうみそ》並びに脂膏《あぶら》多く情欲深きも知られしとぞお伝は親族《みより》ある者ながら其死体を引取者絶《ひきとるものたへ》てなきゆゑ病院にて埋葬の義を取扱かハれ」たとある。
この時の解剖の執刀にあたったのは小山内薫の父の小山内健であり、立会人は小泉親正、江口譲(作家・江口渙の父)、高田忠良の諸氏であった。
解剖にあたって世人がもっとも関心を寄せた一つは局部についてであったが、「小陰唇の異常肥厚及び肥大、陰梃部の発達、腟口・腟内腔の拡大」という特長を持っており、この部分は切除されてアルコール漬にして保存された。(筆者《わたくし》は昭和三十七年頃、東京大学法医学教室で見た記憶があるが、現在はどうなっているか?)
篠田鉱造著『明治開化綺談』によると、「昭和十一年七月、軍医学校五十年記念会に上京した現存高田忠良翁は、其実話に局部解剖は別段学術上資料といつた意義のあることではなく、多情の女ゆゑホツプがあるかどうかといつた位の意味で、序《つい》でに演《や》つたに過ぎずと語つてゐた」という。
次にお伝の首の行方であるが、篠田鉱造の同書によると、お伝の首は浄化され、髑髏《どくろ》となって浅草区田町一丁目の宮田|清《きよし》という漢方医のもとに蔵されていたという。「想ふに、これは仙吉、定吉の手に処分され、阿伝《おでん》の首だから、彼等の仲間にある浄化法によって髑髏と姿を変へ、奇しくも宮田家へ購《あがな》はれたものと思はれる。」
お伝が処刑されて十年たった明治二十二年の三月、一人の旅僧が宮田医師を訪ねてきて、拙僧は俗名小川市太郎といい、高橋お伝が情夫のなれのはてである、御当家にあるときくお伝の髑髏に一と目逢いたくて、はるばる越後路からやってきた、という。
宮田医師が、当家に髑髏のあることをどうして識ったか、と問うと、拙僧はお伝と共犯ではないかと一時入牢させられたが、犯罪とは開係のないことが明かとなって放免され、その後、山岡鉄舟居士の許に参禅してお伝の後世《ごせ》を弔っているうちに、居士から夢幻という名をもらい、越後の鉄舟寺に参って修行をしていたとき、湯島切通の月輪瑞章という法師から貴殿のお手許にお伝の髑髏のあることを聞いた、という。
宮田医師も、その人ならかねての知合いであると納得したが、じつはお伝の首は他処に行っていて、現在手許にないので、一両日中にもう一度おいでいただきたい、というと、小川市太郎の夢幻法師は淋しそうに帰って行った。
お伝が最期《いまわ》のきわまでその名を呼んでいた情夫・市太郎とお伝の髑髏との対面は、その一両日後におこなわれた。
数珠をつまぐりながらお伝の「在りし姿に似もつかぬ白骨の、眼穴|陥《お》ちて空を描き、艶けし毛も残らぬ頭蓋骨」と対面した市太郎は、しばらく無言で髑髏を撫でて眼に涙を浮べていたが、経を誦《ず》し終ると、お伝処刑前後の昔語りをした。
その話によると、お伝の養父の九右衛門と市太郎とが最後の面会にお伝を訪ねたとき、お伝は近くこの世を去るだろうという覚悟はしていたが、刑場の露と消える日には必ずお二人とも一と目この世の見納めをさせてください、と涙とともに言ったので、養父も市太郎も、その日にはお上《かみ》にお願いして必ず面会しようと約束してきた。ところが処刑の日取りを一日間違って、駈けつけたときは前日刑の執行があったという。がっかりして死体の引取り方を願い出たが、それもすでに警視第五病院へ御下付後とのことであった。聞くところによると、はたして身寄りに逢わしてくれといって首斬り浅右衛門に首を打振って刃を近寄せず、初太刀は後頭部に斬付けて仕損じたとのこと。この髑髏の後頭部にある斬傷の痕こそそのときの名残りで、まごう方ないお伝のものの証拠と思うにつけ、その情《じよう》の不憫さが胸板を貫く心地がする、とのことであった。
そこで宮田医師は、世に毒婦と謳《うた》われても、遺骸は医学上に貢献し、髑髏も医術の研究に遺っているのだから、死んでののちは善良な婦人といっても恥しくない、どうか貴僧はせいぜい後世を弔ってやってください、と慰めると、夢幻法師は厚く礼を言って、ふたたび頭陀袋を胸にかけ、別れを告げて立ち去った。──高橋お伝後日譚の一節である。
31
高橋お伝の斬首に仕損じをしたのちの吉亮は、牛込赤城下の家へとじこもって、半病人のような暮しをしていた。こんなときこそ、優しい|路く《ヽヽ》の世話がひとしお身にしみて有難かった。
はじめのうちは、毎日のように頭に血がのぼり、悪寒発熱に見舞われた。〈首斬りの天才〉といわれて秘かに誇っていた斬首の冴えが、たった一度の失敗で塵あくたのなかによごれ去ったという屈辱感が、熱の|ふけさめ《ヽヽヽヽ》の原因らしかった。
ときどき見舞ってくれる浜田は、そんな馬鹿な話はない、あのときの斬り損じは若先生の罪ではなく、全くあのお伝の暴れ方に原因があった、それを若先生は不当に気に病みすぎる、とたしなめたが、他人が自分の才能について昔と変らぬ評価をしていてくれたとしても、自分で自分が許せない恥辱感はどうしようもなかった。浜田はそれを気鬱病だといい、原因は長い間の仕事の疲れと、猫の目のように変るご時勢をじっと我慢していた緊張の積み重ねが、在吉先生が急に亡くなられたためにいっぺんに外へ出たせいだから、気ままな時間と女の情愛でしか癒《いや》してやれない病気だ、したがってくれぐれも優しくいたわってやってほしいと、見舞いに来るたびに|路く《ヽヽ》にくりかえし頼んで帰って行った。
吉亮としては、二度と斬首の刀を執る意志を失っていた。監獄署のほうへは賜暇願を出し、ひたすら昔の英気をとりもどすことに専念した。そして監獄署のほうは浜田がいるので仕事に差支えることはなかったが、現実的には斬首執行は高橋お伝以後全くなくなっていた。お伝斬首のさいの惨状にふるえあがった安村治孝あたりが、斬罪が〈刑ノ酷ナルモノ〉であることを上司に具陳し、なるべく絞罪をもって死刑囚を処理すべしと主張したのかもしれなかった。
じっさい西南戦争の平定後は、竹橋騒動のような余震はあったとしても、世の中も次第に落ち着きをえ、政府の中央集権化の大勢はほとんど動かすことのできない状況となっていたので、かつての不平士族たちの反政府運動もいままでのような〈武力〉をもってする直接行動方式は可能性の範囲から遠ざかり、〈言論〉を唯一の武器とする傾向が強くなってきていた。したがって政権を争うの道は〈国会開設〉に焦点が絞られ、政治結社を背景として〈自由民権〉の旗印のもとに、政府攻撃と民衆啓蒙のために新聞創刊の機運が燃え、演説会が流行しはじめていた。
もう〈刀〉の時代ではなくなっていた。明治九年七月段階では「死刑は絞に止むべきものとなす」という元老院上申書にたいしてさえ、まだ〈斬〉の廃止を〈時機尚早〉とみていたのに、明治十二年段階では斬刑廃止はすでに現実問題として迫っていた。
なぜか。西南戦争という最大の士族叛乱が終って、〈刀〉の幻影が消え去ったからである。武士と刀の相即不離という伝統的イメージが熊本士族(神風連)から薩摩士族(私学校党)の敗退によって崩壊したのである。それはとりもなおさず〈斬〉もすでに〈時代遅れ〉の様相を帯びたことであった。そしてもし高橋お伝処刑の惨状が斬罪廃止の口実となったとするなら、それは単なる|きっかけ《ヽヽヽヽ》であったにすぎない。そういう意味では、むしろ吉亮のような天才的斬首家がこの段階において斬り損じをしたという事実のほうが、時代の趨勢を象徴しているといえよう。じじつ、政府はボアソナードに命じて刑法改正の準備を押し進めていた。時代は西欧近代化のレールの上を着々と走っていたのである。
高橋お伝の処刑をもってわが国の斬首刑は終ったという説がある。通説といってよい。しかしその後、もう一度だけ斬首執行があったらしい形跡がある。なぜなら、山田吉亮じしんがその回顧談で、それから二年半たった明治十四年七月二十四日に二人の罪囚を斬り、「この日は刑法上に記念すべき斬首刑廃止の時であります」と言い遺しているからである。
この最後の斬首執行は、吉亮にとっては予期しないものだったように思われる。というのは、明治十四年五月四日の「朝野新聞」に次の記事が載っている。
≪麹町にて有名の山田浅右衛門《〇〇〇〇〇〇》は旧幕の頃数多の死刑人を取扱ひたるに付、其の霊魂を祭るため 一社を建立せんと、今般伝馬町旧牢屋跡地所の内百坪払下げの儀を其筋へ出願せし由。≫
この山田浅右衛門《〇〇〇〇〇〇》が吉亮か父の和水かにわかには決めがたいが、おそらく和水であろうとしても、小伝馬町の旧牢屋敷跡(〈牢屋の原〉と呼ばれていた)に刑死人の慰霊のために小祠を作ろうという発願は、当時の山田家がすでに斬罪は廃止となったという意識をはっきりと抱いていた証拠である。
それもまた当然なのである。
すでに明治十二年七月十四日、内務省に監獄局が設置され、監獄制度改善の意図が政府によって明かにされていたし、同年一月に大警視・川路利良のヨーロッパ視察に随行して西欧の監獄制度の調査研究に派遣されていた一等警視補・小野田|元※[#「冫+熙」、unicode51de]《もとひろ》が明治十三年九月に帰朝して、「欧州各国監獄視察復命書」を提出するなど、監獄則改正の機運が高まっていた。
さらに山田家にとってもっと重大なことは、明治十三年七月十七日、太政官布告第三十六号をもって刑法が改定公布され、同布告第三十七号をもって治罪法(明治二十三年公布の「刑事訴訟法」の前身)が創定公布されたことである。なぜならば、このいわゆる旧刑法によって斬罪は廃止され、死刑の執行は絞首のみに限定されたからである。
明治六年、江藤新平が征韓論に敗れて下野したあとをうけた司法卿・大木喬任は、司法省に民法編纂課とともに刑法編纂課をおき、フランスの法学者・パリ大学教授のギュスターヴ・エミール・ボアソナードを日本政府の法制顧問として招聘し、刑法・治罪法の起草に当らせた。明治十年、司法省に治罪法取調係をおき、十二年に同法草案上程、同年、太政官に治罪法審査委員会が設けられ、十三年七月十七日に刑法・治罪法が同時に公布されたのである。
刑法はすべて四編四百三十条、治罪法は六編四百八十条より成り、その性格は一八一〇年のナポレオン刑法典に則ったもので、刑法第二条にある「法律ニ正条ナキモノハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス」という、いわば罪刑法定主義を宣明し、刑罰を緩和して死刑執行は絞首にのみ限定し、身分に因る刑罰の不平等を撤廃した。したがって国家訴追主義を廃して検事が原告の地位に立って公訴し、被告は弁護人を用いることを許され、これまでの悪弊であった拷問や口供甘結などの糺問主義を廃して証拠法を定め、これによって裁断することとなった。
明治十四年七月八日、従来の新律綱領・改定律例を廃し、刑法・治罪法を明治十五年一月一日から施行する旨の太政官布告が出された。もうここまで来れば、内務省監獄局市ヶ谷監獄署斬役としての山田家の職務は終焉を迎えたも同然であった。したがってそれから二週間もたってから、最後の斬首執行があると連絡されたことは、吉亮を驚かすに十分であった。
高橋お伝の斬首執行以後、三月ほど監獄署を休んだ吉亮は、|路く《ヽヽ》との新婚生活に身を埋没することで、ようやくかつての元気をとりもどすことができた。そしてふたたび監獄署へ出勤してみると、上司のはからいで、斬首執行のあるとき以外は出退勤勝手たるべしという|気まま勤め《ヽヽヽヽヽ》を許され、ときどき出勤しては、仕事のないまま、書記代りに書類の整理を手伝ったりして、無聊《ぶりよう》を過していた。
それから最後の斬首執行を迎えるまでの二年間は、吉亮の生涯でもっとものんびりとした、幸福な時期であったといえよう。もう斬首の刀を持つまいと決意した身にとっては、法律が次々と斬刑廃止の線を固めてくれることは、将来の失職の不安はあるとしても、心に言いしれぬ|やすらぎ《ヽヽヽヽ》を与え、いままでの心の傷跡を知らず識らずのうちに癒してくれる効果があった。しかも廃刑までは、当分生活も保証されている。幸福な、としか言いようのない日々の連続だった。
さらにもう一つふしぎなことは、あれほど吉亮を甘苦《あまぐる》しく縛っていた素伝への慕情が、きれいに拭い去られたことであった。お伝の首を押し斬りにしたとき、吉亮は素伝の首を斬ったのであった。|おこり《ヽヽヽ》が落ちたとはこのことであろうか。もう素伝の面影をいくら描いても平気であった。かつては素伝の名を聞いただけでつねに胸の中をさざなみ立てて湧き出てきた、あらがいようのないあの感情が、その水源が枯渇したらしく、いまではまったく影をひそめてしまった。それも幸福といってよかったであろう。
心を痛め、暗くする事件がなかったというのではない。山田家が一歩一歩崩壊の淵に近づきつつあるのだという不安は、〈山田家は呪われているのではないか〉という恐怖感となって、表面には出ないとしても、吉亮の心の奥処《おくが》で絶えず微かなこだまをひびかせているものであった。兄の吉豊の隠居事件というのも、崩壊への一つの里程標だったといえよう。
旧麹町区役所除籍簿にあった山田家の戸籍には、吉豊の欄に「(明治)十二年十月十六日隠居」と記載され、吉豊の長男松次郎の欄に「十二年十月十六日相続」とある。つまりこの日に吉豊は長男松次郎に家督を譲ったのである。
このとき吉豊は数え年四十一歳。男の大厄まえの壮年である。普通なら隠居などする年ではない。理由は吉豊が内藤新宿豊倉屋の遊女・幻《まぼろし》を落籍して、向島・三囲《みめぐり》稲荷の近くにあった山田家の寮に囲ったからであった。
吉豊は胃潰瘍の養生に平河町の家で|ぶらぶら暮し《ヽヽヽヽヽヽ》をしていたが、ついに妻の|かつ《ヽヽ》とは馴染《なじ》むことができず、在吉の惨死後はいっそう自棄的になり、小康を得たことをいいことにしてまたもや内藤新宿に通いはじめた。しかしそれは病気をぶりかえすため以外のなにものでもなかった。一と月ほどでまた血を吐いた吉豊はもう自宅へ帰って病気をなおす気にはなれなかった。結局、幻を身請けし、彼女と所帯をもって、彼女に看病してもらうことを決意した。そしていままで溜っていた豊倉屋の借金と幻の身請け代をつくるために、平河町の広い屋敷地の一部を売り払った。
夫のこの処置に驚いた|かつ《ヽヽ》は、たかが宿場の安女郎に見変えられた妻としての怒りはそれとして、このままでは松次郎・又次郎・元次郎の三人の子供の将来の保証が失われることを心配して、和水と素伝に相談した。
激怒した和水は吉豊を呼んで翻意を迫った。しかし吉豊は、どうせ自分は廃人同様の身である、あと寿命も二、三年しかもたないであろう、とすればすべてを捨ててでも好きな女に看取《みと》られて死を待ちたい、と言って、和水が半ば威嚇のつもりで言った「家督を松次郎に譲れ」という提案に異議を挾まなかった。
そこで吉豊の翻意をあきらめた和水は、吉豊を隠居させ、それにしても吉豊は山田家の当主だった手前も考えて、向島の寮と若干の手切金をくれてやるかわりに、今後、平河町および麹町の家とは一切縁を絶つことを命じた。吉豊はよろこんでそれを受け入れ、いまは|きよ《ヽヽ》という実名にもどった幻と向島に新所帯を持ち、悪化した病気の養生に専念することにした。
麹町の素伝のところへ時候の挨拶に行った|路く《ヽヽ》が、帰宅してその話を吉亮に伝えた。驚いた吉亮は翌朝早く、人力車を駆って向島の寮へ行った。
ちょうど吉豊と|きよ《ヽヽ》が朝餉の膳に向っているところであった。吉豊は丹前姿で|かゆ《ヽヽ》をすすっていた。朝食でもあるから決して賑かな食膳ではなかったが、それでも吉豊の病気にたいする|きよ《ヽヽ》の心づくしが汲みとられた。しかも|きよ《ヽヽ》は吉豊に相伴するかたちで同じ|かゆ《ヽヽ》をすすっているのが吉亮の心を打った。炊事の手間をはぶく物臭さからではなく(食事をすすめられた吉亮は出がけに食べてきたので断わったが、もしかれが所望したなら、|きよ《ヽヽ》は喜んですぐに固い飯を炊いてくれたにちがいない)、吉豊と同じものを食べることで一日も早く吉豊の病気が回復するのを祈る心からであることが、無言のうちに伝わってくるのであった。そこにはたがいの愛情に自足している|やすらぎ《ヽヽヽヽ》があった。
食事が終ると吉豊は隣りの部屋にのべてあった床に横になった。|きよ《ヽヽ》は吉豊に土瓶に入った煎じ薬をのませると、吉亮には茶をすすめ、すぐ裏口へ出て足の短い秋の陽を少しでもたくさん利用しようと洗濯に余念がないらしかった。そこにはかつての客商売の垢はどこにも見られない、|きよ《ヽヽ》と呼ぶ清楚な一人の御新造さんがいるだけであった。
吉亮は兄の枕許に坐って四方山話をした。吉亮にはもうなにもいうことがなかった。二十《はたち》前後の男女が新所帯の喜びにわくわくしているような吉豊と|きよ《ヽヽ》のういういしさをみると、驚いて駈けつけた自分が愚かしくさえ感じられるのであった。いっしょに兄の隠居を悲憤し、山田家の将来を慷慨しようと思って来たのに、みごと肩すかしを食ったような、つましいながらも明るい生活がそこにあった。素伝という父の後妻との暗い愛欲を断ち切り、兄はようやく心の落ち着きを得たのだと思った。山田家の当主として肩で風を切るよりは、勘当同様の日蔭に生きている現在のほうがはるかに好もしい生活であることははっきりしていた。
帰途、静かな秋の陽射しのなかを俥に揺られて大川橋を渡り、墨田川の流れを見はるかしたとき、兄がなぜ|かつ《ヽヽ》を捨てて|きよ《ヽヽ》に自分の最後の身柄を託したかがわかるような気がした。|かつ《ヽヽ》が悪いというのではなかった。ただ旧深津県士族(福山藩士)後藤利義という|れっき《ヽヽヽ》とした武士の妹として育った|かつ《ヽヽ》は、男が順境にあるときの女のあり方はよく知っているが、逆境に立たされたり、心に深い傷を負った男にたいしては|ひた《ヽヽ》と寄り添う方法を知らないのであった。弱くなった男の吐く息を自分もいっしょに呼吸する|すべ《ヽヽ》を武士の娘は教わっていないのである。|きよ《ヽヽ》の傍にいるときの吉豊の心の|やすらぎ《ヽヽヽヽ》は、所詮|かつ《ヽヽ》には理解の外にある、無縁な幸福感だったのであろう。
それにしても自分たち山田家の四人兄弟は、いまやまったく離ればなれに散ってしまったのだ──と吉亮は考える。長兄は日蔭者として病床に臥し、次兄は実父に惨殺され、末弟は家出して行方知れず。この自分にしたところで、他家に婿養子に入って、しかも山田家伝来の家職を近く失おうとしている。ついに山田家も瓦解寸前に追いこまれたようである。吉亮は弟の真吉がこの澄んだ秋空の下でどこを彷徨《さまよ》い歩いているのかを思ったとき、不意に目蓋を突き上げるように涙があふれてきたのを知って狼狽した。
明治十四年、市ヶ谷監獄署は正月早々から署内囚人中にコレラが発生し、その狽獗ぶりに手を焼く大騒ぎとなった。囚人はもちろん、コレラ患者の介抱とか消毒中に感染して死ぬ監獄職員も多数出た。このときの殉職職員は、一月一人、二月六人、三月八人、四月二人、五月三人と記録され、看守、副看守、監獄書記、獄丁取締、獄丁、押丁と、直接囚人に接触する職員たちがバタバタと倒れて行った。吉亮が斬首にたずさわるようになってからずうっと押え役として手際よく手伝ってくれていた常吉も、このコレラに感染して急死した。
これは当時の獄舎がいかに非衛生的であったかを如実に物語るものであり、同年九月十九日、太政官|達《たつし》第八十一号をもって〈改正監獄則〉が公布され、刑法・治罪法と同じく翌十五年一月から施行されるようになったのも、この騒ぎが獄内生活の改善を急がせたからであろう。
コレラ騒ぎも鎮まった七月二十三日、吉亮のところへ監獄署から、明日午前七時に斬首執行があるから出勤せよ、という連絡があった。連絡にきた書記の話によると、罪囚は二人だという。罪囚の犯した事件の内容についてはその書記も詳しくは知らないらしかったが、いまごろどうして斬首を行うのかな、という吉亮の疑問にたいしては、
「どうせ自分たちは死刑になるのだろうから、処刑には斬首を用いてくれるなら犯行を包まず話す、ということで、罪囚みずから首を斬られるのを希望していたのだそうです」
と答えた。
「変った奴もいるものだな」
とつぶやいた吉亮は、おそらくこれが本当に首の斬り納めになるにちがいないと思い、
「浜田のほうにも連絡してもらっただろうか」
と訊ねた。
「はい、使いを出しておきました」と答えたのち、「いよいよあすが最後の斬首執行でしょうな」
と感慨ぶかげに言い残して、その書記は帰って行った。
たしかに吉亮はもう二度と斬首の刀を持ちたくないという気持は強かった。しかし半面では、高橋お伝の斬り損じをもって首打役としての歴史を終えることがいかにも残念でならなかった。お伝のときは勿論あれで斬首の刑が終るなどとは考えてもいなかった。もしそれがわかっていたなら、もっとそれにふさわしい心の準備もあっただろうし、したがって斬り損じというような|へま《ヽヽ》な事件もなかったであろう。そう思うと、斬罪廃止は歓迎しながらも、自分の名誉を回復しないままに斬首家としての生涯を閉じることには大きな心残りがあった。そういう意味で、この日、斬首執行の機会がもう一度与えられたことは、吉亮にとってはこのうえない喜びであった,吉亮は山田家二百年の伝統の最後を、先祖には勿論、後世にも恥じない見事な〈斬り納め〉で飾りたいと願った。そのためには刀もよく吟味し、永年苦楽を共にしてきた浜田とこの儀式の厳粛さを頒ち合おうと考えた。
七月二十四日、快晴。
その爽かさがかえって午後の日照りの激しさを思わせる早朝、吉亮が市ヶ谷監獄署へ出てみると、すでに浜田も元気な顔を見せていた。吉亮が浜田ときょうの打合せをしているところへ、きのう連絡にきた書記が顔をみせ、
「先生、きょうの罪囚は本郷の駅逓局員殺しの犯人で、巌尾竹次郎と川口国蔵という、強盗十四カ所の強《したた》か者だそうです」
と教えてくれた。吉亮は巌尾という名前を以前どこかで聞いたことがあるなと、ちらと思ったが、記憶に浮んでは来なかった。
「二人の言うには、自分たちはいまは平民だが、先祖は|れっき《ヽヽヽ》とした武士である、武士の死罪は切腹か斬罪だ、絞首刑のような|めめしい《ヽヽヽヽ》死にざまは見せたくない、斬罪の廃止は来年一月一日からなのだから、まだ存続しているはずだ、廃止になったものを無理に執行せよというのではない、山田浅右衛門の刀で死花を咲かせたいのだ、と頑強に言い張ったので、裁判所側もその言い分を認め、斬罪を宣告したのだそうです」
「いや、ご面倒をおかけしました。では期待通り見事に斬ってあげましょう」
吉亮はそう言うと浜田をふりかえってにっこり笑った。吉亮には高橋お伝処刑のさいの、心身ともに疲れ切っているといった暗い感じが全くないのを知って、浜田は安心した。
この年三月六日午前二時ごろ、本郷金助町六十六番地に住む静岡県士族(旧幕臣)で、現在駅逓局の三等属を勤めている高橋為之方に抜身を下げた二人組の賊が押入り、就寝中の妻おきく、二女おまき、三男寛三郎の三人を縛り上げ、為之に金銭を強要した。妻子の危険を慮《おもんぱか》った為之がすなおに別間に案内し、腕に覚えのあるまま、金品に気をとられている賊の隙をねらって部屋の隅にあった樫の木刀で打ち据えると、賊の一人は相当の腕前らしく、軽くかわして為之を背後から袈裟に斬り捨てた。即死であった。その後、賊は悠々と多額の金品を強奪し、妻子三人の縛り目を確め、さらに三人を一緒にぐるぐる巻きにしたうえで逃走した。
たまたま下女が七歳になる三女のお浜をかかえて戸棚の中に隠れており、賊が逃げ去るとすぐに警察へ届け出た。
警察署では直ちに非常手配をし、厳重な捜索を行なったところ、付近の湯屋の傍の泥溝《どぶ》から反古紙に柄《つか》を包んだ血刀が一本発見された。ところがその反古紙が根津の貸座敷「清《きよ》常磐《ときわ》」の受取書だったので係員をその遊女屋に急派し、そこに登楼していた二人の賊を難なく逮捕することができた。
賊は同じ金助町に住む高橋家出入りの人力車夫・寺田吉蔵と本郷元町一丁目に住む同業の兼吉《かねきち》と称する者であったが、取調べの結果いずれも偽名であることがわかった。
寺田は三重県飯高郡松坂町新座町百四十四番地・巌尾竹次郎といい、兼吉は同県鈴鹿郡亀山駅東町二百五十番地・川口国蔵というのが本名であった。
二人は明治十一年二月、松坂町医業川辺某方土蔵に忍び入り、刀二本を盗み、面部を包んで抜刀して家人を威迫し、金百円を強奪。その後、三重県下から大阪、東京と荒らし廻り、同じような強盗を他に十三カ所で働き、総額数千円にのぼる金品を奪っていた。ただし殺人を行なったのは高橋為之一人だけで、高橋を斬ったのは川口のほうであった。「高橋はかなりの使い手だったので、たとえ木刀でも真剣に変らない凄さをもっていた。それで已むなく斬り殺したが、他の例からもわかるように、自分たちはもともと金品だけが目的で、絶対に殺人は犯さないつもりでいた」というのが川口の弁明であった。
またこの二人のほかに、下谷御徒町の故買屋《けいずかい》の古谷というものが犯行に加わる予定であったが、約束を破って加わらなかったことが二人の自白によって判明したので、翌七日、古谷も逮捕された。
巌尾と川口は同月十八日、東京裁判所へ訊問のため護送中、人混みにまぎれて手錠腰繩のまま逃走するという騒ぎもあったが、その月のうちにふたたび捕縛された。
二人の取調べで裁判所がいちばん神経質になったのは、主犯と目される巌尾が、西南戦争当時、東京鎮台の兵卒であったということと、数千円にものぼる多額の盗金の使途が明瞭でないという二点であった。つまり二人は竹橋騒動のさい、兵営外部にあってこれを教唆煽動し、その後も自由民権を標榜するなんらかの反政府的秘密結社に属して、その資金集めのために強盗を働いていたのではないかという疑いが持たれたのである。
しかし、他のことは隠し立てなく自白したのに、この点になると二人は頑としてそれを否定した。「まったく身に覚えがない」「自分らみたいな車夫ふぜいに、そんな立派なことなぞできるものか」「とんだ買いかぶりの濡れ衣だ」と言い張った。その強い否定のしかたがかえって臭い、他の件の自白の流暢さはいちばん知られたくない問題をはぐらかすためのトリックだ、などと、取調べ側の勘繰りは一層深まったが、結局それを立証しうる証拠も提出できないまま、〈持兇器強盗殺人〉という罪名で斬刑を宣告された。取調べ側としては、いずれにしろ二人を殺してしまえば、それだけ反政府運動に打撃を与えることになるだろう、ということであった。
吉亮はいままでの労に酬いる意もこめて、最初に引き出された主犯の巌尾竹次郎の首を浜田に譲った。浜田は下総古河城主|土井大炊守《どいおおいのかみ》家来・阿武隈川一《あぶくまがわはじめ》こと泰龍斎|宗寛《むねひろ》の鍛えた刀で、見事に巌尾の首を刎ねた。
吉亮の刀は越前|鯖江《さばえ》藩主|間部《まなべ》下総守家来・固山《こやま》源次郎こと雲龍斎|義次《よしつぐ》であった。きょうの処刑が終ったなら、吉亮はこれら二本の刀を廃刑記念として市ヶ谷監獄署に献納する心づもりである。
吉亮が刀を腰に帯びて、次に引き出された川口国蔵に近づいて行ったとき、処刑場全体がふたたび静寂に化した。
処刑場の風景はいままでと同じであった。きょうが最後だという、あらたまった吉亮の眼にも、昔と同じ仕置場の姿であった。ただ、コレラで死んだ押え役の常吉に代って、安吉が国蔵の肩を押えているのが違うだけであった。
吉亮は浜田の差出す柄杓の水を刀身にかけさせると、ふたたび鞘におさめて、静かに国蔵の左脇に立った。心を静めるために上をふり仰ぐと、周囲の杉|樹立《こだち》で四角く区切られた青空が抜けるように澄んでいた。
だれかが呼んでいた。だれかが低声《こごえ》で吉亮の名を呼んでいるのに気づいた。
「兄さん、亮《ふさ》兄さんですね」
空耳《そらみみ》かと思った。しかし幻聴ではなかった。吉亮は声の出場所がどこかわからず、あたりを見廻した。
「ぼくです。真吉です」
吉亮はその微かなつぶやきが足もとの血溜りに首を差伸べている国蔵の面紙《つらがみ》の下から洩れて来るのを聞きつけ、同時に、その声の意味を理解して、踵から背中全体に氷をあてられたような驚きによろめいた。
「定吉、面紙だ。面紙をはずしてやりな」
吉亮の声は狼狽を隠せなかった。
定吉がはずした面紙の下から現れたのは、まぎれもなく弟の真吉の顔であった。蒼白いが、微かに笑いを浮べているようであった。吉亮は口がどもって、真吉の名を呼べなかった。するとそれに気づいた真吉が吉亮をふり仰いで、
「兄さん、静かに。ぼくは川口国蔵です」
と言った。吉亮は咄嵯に真吉のいう意味を悟った。検視官たちの眼の前で、罪囚が実の弟であることを気取《けど》られるわけにはいかなかった。自分に都合が悪いというのではない。真吉がなんで他人になりすましているのか、その真意はわからないが、とにかく真吉を川口国蔵という兇悪犯として扱ってやるのが一番よいのだということだけが閃いた。
しかしそれにしても、自分のいま立たされている立場はいったい何なのか。吉亮は頭が混乱して身の処置にとまどった。微かに目がくらむのを覚えた。
「どうしてこんなことに……」
吉亮がつぶやくと、
「馬鹿な真似をして申し訳ありません。お許しください。どうせ死ぬなら、亮兄さんの手にかかって死にたかったのです」
と真吉が詫びた。
「どうしてこんなことに……」
吉亮は同じ言葉を繰返すしかなかった。もうなにを聞くにも時間はなさすぎるのであった。
「あ、兄さん、時が移ってはなりません。なにも言わずに斬ってください。ぼくはそれがかえって嬉しいのです」
二人のやりとりが少し異常ではないかと感じたらしく、検視官たちのあいだにかすかな動揺の気配が流れた。吉亮はこれ以上真吉との話を永びかすわけにいかなかった。
「それでは、兄さん、さようなら」
そういうと真吉は自分から首を鵜首に差延べて、血溜りの上に身を屈めた。そして最後に一と言付け加えた。
「|路く《ヽヽ》にも詫びておいてください」
吉亮はくるりとうしろをふり向いて、手桶のところへもどった。少し離れたところに片膝をついて控えていた浜田が寄ってきた。吉亮は、来るに及ばない、という合図を頭でうなずき送って、抜いた刀にもう一度柄杓で水をかけた。水が刀身を伝って清冽に走り流れた。古亮は丹念に三度水をかけた。
土壇場にもどった吉亮は、心を落ち着け、無念無想になるべく、心の中で涅槃経《ねはんぎよう》の四句偈《しくげ》を唱えた。いつもなら一度唱えれば、そこで斬首は終っていた。だが、きょうは手が動かなかった。二度唱えた。三度唱えた。どうしても手が動かなかった。吉亮は生れてはじめて四句偈を大きな声に出して唱えた。
諸行無常《しよぎようむじよう》
右手の人差指が刀の柄《つか》にかかった。
是生滅法《ぜしようめつぼう》
中指がかかった。
生滅滅已《しようめつめつい》
薬指がかかった。
寂滅為楽《じやくめついらく》
絶叫であった。刃《やいば》が走って真吉の首を斬り落していた。斬った残心もバランスがとれ、傍目《はため》にも見事な斬首の冴えであった。
真吉の血は勢いよく血溜りに飛んだ。普通の人間よりもはるかに永い時間、噴きつづけていた。
押え役の安吉が真吉の首を洗って、検視官たちのほうへ左頬を向けて差出した。
吉亮は手桶の傍にたたずみ、
「お見事でした」
と近寄ってきた浜田に向って、
「呪いだ。山田家は呪われている」
とつぶやきながら、顔はそむけたまま、左手で定吉の差出している首を指差していた。指の先を眼で追ってざんぎり頭の首の主《ぬし》を注視していた浜田の全身が、凝然《ぎようぜん》と凍結してゆくのがわかった。
[#地付き]〈了〉
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あ と が き
[#地付き]綱 淵 謙 錠
チーン、チン、と鈴《れい》(ふりがね)と鉦《しよう》(たたきがね)の、澄んだ、しかし単調な音が交互に薄闇のなかを流れて来た。しかも十人ほどの合奏で。〈御詠歌〉であった。
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※[#歌記号、unicode303d]ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ
※[#歌記号、unicode303d]ちちははの めぐみもふかき こかはでら ほとけのちかひ たのもしのみや
[#ここで字下げ終わり]
そんな歌詞が遠い潮騒《しおさい》の合間を縫って、途切れ途切れに聞えてきた。
決してきれいな合唱ではない。音階もばらばらならば、メロディーも不統一である。しかしその女声コーラスの眠くなるようなスロー・テンポとモノトーンとが、かえってどうしようもない哀切の情を伝えてくるようであった。
わたくしの隣家の漁船が、昨夜、|いわし《ヽヽヽ》を獲る流し網に沖へ出ていて、通りがかりの汽船に乗り上げられ、船体を真ッ二つに割られて、乗り組んでいたその家の息子をはじめ数人の漁夫が死んだ通夜である。集った漁師のかみさんたちが死んだ漁夫たちの霊を慰めようと、へたな御詠歌をうなっているのであった。おそらくわたくしの母はその真ん中に坐って、一座の音頭をとっているのであろう。
日の暮れようの遅い極北・樺太の夏の夜も、そろそろ物の文目《あやめ》もくずれ、蝙蝠の羽音が微かに空中を舞っている。わたくしたち子供は隣家の不幸に遠慮することもなく、長い釣竿を暗い夜空にヒューヒューと振って、その音に寄って来る蝙蝠を打ち落そうと余念がなかった。そして御詠歌と鉦の音はいつはてるともなく続いている。──
思えば四十年も昔のことである。その時間と空間を超えて、子供のころ樺太で聞き慣れた御詠歌と鉦の音が、いまもときどきわたくしの耳を打つ。
これといった娯楽のあるはずもない樺太の漁村である。母は御詠歌を習い、人にも教えることで、一日一日の単調さを救っていたようである。
盂蘭盆などには、村はずれの墓地にある小さな地蔵堂で(わたくしの村は寺もないささやかな部落であった)、村じゅうのかみさん連中が寄り合って、御詠歌の練習に夜を過した。そういうときの母は、いそいそと出かけて行った。
そんな母から子供のとき教わった〈おまじない〉の言葉があった。夜道を歩いていて、狐にだまされそうな不安を覚えたら、これを三べん唱えよ、というのであった。母はそれを「ガストーアンノン テンニンジョージューマン」と教えた。意味はわからなかった。とにかくそれを唱えれば、どんな危険からも救われる、仏さまが救ってくださる、というのであった。わたくしはとにかく頭からそれを暗記した。
わたくしは中学に入ると、汽車通学をした。柔道の練習などで遅くなり、最終列車で帰るようなことがあると、いつのまにか眠ってしまい、よく終点まで乗り越した。終点の町はわたくしの村の次の駅であった。わたくしはその町からわたくしの村まで、約四キロの夜道を一人でひきかえした。
左手は山がすぐ海に迫った断崖であり、右手は空漠とした韃靼《だつたん》の海である。そのあいだの狭い空間を鉄道が走っている。
犬の子一匹通らない真暗な夜道を、レール沿いにとぼとぼ歩いていると、左手の断崖の上ではときどき夜鳥の鳴き声がけたたましく闇を裂き、右手の雲の垂れこめた暗い海からは白い波頭の連なりが|とうとう《ヽヽヽヽ》と現れてきて、護岸工事をしたコンクリートの壁に砕けた。海鳴りの音が雲にかくれた沖合からごうごうとたえず響いていた。わたくしは北溟の天地間に充満している魑魅魍魎《ちみもうりよう》の眠りを妨げまいと、息を殺し、靴音をしのばせながら、急ぎ足に歩いた。そして「ガストーアンノン テンニンショージューマン」と、繰返しつぶやきつづけた。
わたくしはこの言葉の意味を永いあいだわからずに過した。本も読み、仏教大学の先生をした経験のある知人にもきいたが判明しなかった。
昭和四十年七月三十日、谷崎潤一郎先生が亡くなられた。その初七日の法要が、先生と由縁《ゆかり》の深かった東京・虎ノ門の〈福田家〉で執行《しゆぎよう》された。その法要の座に合掌して、天台宗の僧侶たちの読誦《とくじゆ》する経文に耳を傾けていたとき、一瞬、わたくしは背筋に氷の走るような戦慄を覚えた。次の瞬間、それは感動であることを知った。あの言葉だ!〈おまじない〉の文句だ。土俗信仰の域を出ないような樺太の仏教環境で身についた言葉が、いま、この立派な法要の場で、天台僧侶によって読み上げられている経文のなかに、さっと姿を現わして消えたのである。
経文は「妙法蓮華経|如来寿量品偈《によらいじゆりようぼんげ》」であった。〈おまじない〉の文句は〈|我此土安穏天人 常 充満《がしどあんのんてんにんじようじゆうまん》〉であった。いささか感傷めくが、そのときわたくしは、谷崎先生が歿後もなおわたくしに大きな啓示を垂れてくださったという感激にうたれて、温顔に微笑をたたえた祭壇上の遺影にふかぶかと叩頭したのであった。そして、これで書ける、と、わたくしははじめて「斬(ざん)」の枠組ができた確信にふるえた。
それから七年がたとうとしている。そして昨年三月、わたくしは長い編集者生活を廃めた。そしてこの一年間、わたくしの生活の大部分は、この「斬(ざん)」という一作に費されたといってよい。その間、教示、激励、その他、多くの方々から有形無形の御厚意をいただいたことはいうまでもない。この作品が世に出る直接の動機を与えてくださった雑誌「新評」(昭和四十六年二月号から四十七年二月号まで連載)の当時の編集長・吉岡達夫氏をはじめ、ここに列記して謝意を表さねばならぬ多数の方々がおられる。この作品はそれらの方々にたいする、この一年間のわたくしのレポートでもある。それらの方々のお名前はあえて割愛させていただいた。形式に堕して、自分の謝意をうすめてしまいそうな危惧をいだくからである。
わたくしはこの作品を、血を見るを好むだけの人に読んでもらいたくはない。わたくしが嗜虐的な異常性を求めて書いたのでないことは、読んでもらえばわかっていただけよう。わたくしはなにかにじっと必死に耐えている人々に読んでいただきたいのである。
わたくしの父は、終戦後、樺太で死んだ。その遺骨の一部を抱いて引揚げてきた母も、五年前に死んだ。そしてわたくしは、父母の遺骨をまだどこにも埋めることができずに、陋屋の小さな仏壇に納めたままに過している。故郷を失った流民だからである。そういう意味では、わたくしも耐えている。なにかに耐えている。
わたくしはそういう方々にこの本を読んでいただきたい。国家に傷つき、社会に傷つき、隣人に傷つき、友人に傷つき、父母に、子供に、恋人に傷つき、それでもなおなにかを信じてじっと耐え忍んでいる方々である。その耐え忍びのために心《しん》の臓からしたたり落ちる一筋の血の色が、この作品のなかの血のいろどりと重なり合って同じ色であることがわかっていただけたなら、わたくしのこの作品を書いた意図は十分に酬われたといえるであろう。
昭和四十七年三月中澣
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文庫版あとがき
[#地付き]綱 淵 謙 錠
作家自身がどの作品を自分の処女作と呼ぶかは、世間の見方とはまた違った視点もあろうかと思われるが、「斬(ざん)」はわたくしの処女作といってよい。もちろん、この作品の以前に活字になった作品がないわけではない。しかしこの作品の発表を契機として、わたくしははっきりと自分を〈作家〉という枠組みにはめこんで眺めるようになった。その意味でわたくしは、この作品を処女作と呼ぶことにいささかのためらいもない。
どんな作家も自分の処女作を世に問うさいには、その作品の発表をめぐって、|きおい《ヽヽヽ》とか|ためらい《ヽヽヽヽ》といった、なんらかの内的ドラマが演ぜられたらしいことは、かれら自身の著作とか、かれらに関する伝記類によって垣間見《かいまみ》ることができる。わたくしの場合、それは永い編集者生活からの離脱、つまり〈書かせる〉立場から〈書く〉立場への転換というドラマが心のなかで進められていたようである。昭和四十六年一月、わたくしが自分の|本名をはっきりと出して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》この作品を雑誌に連載しはじめたのも(雑誌の月号《がつごう》としては二月号であった)、それまで十八年間働きつづけてきた職場への執着を、このさいきっぱりと断ち切ろうという意図があったからである。同年三月で、わたくしは編集者生活をやめた。
しかしわたくしの思考のパターンや生活のリズムは、編集者時代のそれからなかなか抜け出ることができなかった。急停止した機関車が過去十八年間ひた走りの惰性をブレーキにきしませて、火花を散らす思いがした。わたくしはその火花と化したエネルギーの全量を、この一作に吸収凝固させたいと願った。そして翌四十七年一月に、ようやく雑誌連載を終えることができた,
そのころ、故川端康成氏から日本ペンクラブの事務局長就任を要請された。川端先生には「作家になるのを一年だけ延ばしなさい」といわれた。わたくしのペンクラブ事務局長としての生活は、作家《ヽヽ》としてよりはやはり編集者《ヽヽヽ》としてのリズムの上に営まれていた。そして「日本文化研究国際会議」の準備半ばの、川端先生の急死された直後に、わたくしも病気に倒れた。
それからの二ヵ月間、わたくしは病院のベッドの上で、点滴と絶対安静の日々を送った。当然、事務局長も辞職した。いまにして思えば、その二ヵ月間で、わたくしの〈編集者〉から〈作家〉への百八十度の転換が、心身ともに完了されたといえよう。その病気によって、ようやくわたくしの人生は新しいサイクルを開始することができたのである。そしてその間に、この作品も単行本として上梓されていた。そういう意味では、この作品はわたくしの処女作であると同時に、前半生の総決算の書であるともいえるのである。したがって、わたくしのこの作品に寄せる愛着も強い。
最近、色紙に揮毫《きごう》を頼まれると、わたくしは「斬夢一閃」と書くことがある。わたくしの勝手な造語である。〈斬〉がこの作品にちなんだものであることはいうまでもないが、〈夢〉に何を仮託するかは、読む人各自の自由にまかせている。ただわたくしとしては、ひそかにその〈夢〉を人間の抱く〈執着〉とか〈未練〉という気持につなげて考えている。そしてそれまで自分なりに営々と築いてきた前半生への未練をスパッと断ち切って、この「斬」という作品を発表したときの〈初心〉を忘れまいとして、この四文字を書いているのである。
昭和五十年七月
〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十一月二十五日刊