結城昌治
振られた刑事
目 次
喪 服 の 仲
悪夢の明日
影の侵入者
依 命 殺 人
諦めない男
白い墓碑銘
悪 い 仲
教 え た 女
振られた刑事
喪 服 の 仲
1
電話で野々村の声を聞いたとき、木内はいやな気がした。学生時代からの友人で、ひところは家が近かったせいもあってかなり親しかったが、今は会いたい相手ではなかった。
「頼むから来てくれよ。どうしても会いたいんだ」
「用があるのか」
「もちろん、用があるから頼んでるんじゃないか」
「電話じゃ済まないのか」
「済まない。見て欲しいものがあるんだ」
「何だろう」
「それは見るまでのおたのしみだ。きっと驚くぜ」
「―――」
木内は首をひねった。思い当たるようなものはなかった。木内は古い洋楽のレコードを集めているが、野々村はそういう趣味がないし、木内のために珍しいレコードを見つけてくれたとは思えなかった。
それでも、もしやということがある。
「レコードか」
木内はきいてみた。
「いや」
野々村の首を振った顔が浮かんだ。眼の細い、神経質そうな顔だった。
「とにかく来ればわかるよ。決してがっかりさせない」
野々村の押しつけがましい声は、少し酔っているように聞こえた。
木内はまだためらっていた。同僚も助手も帰ったあとで、自分も帰ろうとしていたところだが、野々村に会うのは気がすすまなかった。
しかし、「きっと驚くぜ」と言われたのが気になった。
「それじゃ待ってるからな。急いでくれ」
野々村は勝手に決めてしまった。
そのとき、電話口のむこうで女の声が聞こえた。よく聞き取れなかったが、女の声だということは確かなようだった。
木内が返事をしないうちに、電話が切れた。
――康子がいるのか。
木内はますます厭な気がした。
だが、野々村の家に妻の康子がいるのは当たり前だった。彼女は女子短大で英語の講師をしているが、きょうは学校へ行く日ではないはずだし、木内と会う約束もなかった。
――野々村はおれと康子の仲に気づいたのだろうか。
木内は不安になった。康子とは週に一度か、多くても二度しか会っていない。それも細心の注意をして、かならず郊外のモーテルを利用し、会うときも別れるときも別行動をとるように気をつけていた。お互いに浮気だということがわかっているのだ。一回きりのつもりが数を重ねて、真剣になりかけた時期もあったが、最近は惰性的になっていた。康子が講師をしている女子短大と、木内が助教授をしている私立大学とは何のつながりもない。木内と野々村が友だちで、たまたま家が近かったことから移り気な恋がうまれ、それも終わりに近づいていたのである。木内はそう思っていたし、康子もそう思っているはずだった。
むろん、木内の妻の寿美子が気づいた様子はなかった。
しかし、
――野々村にバレたとしたら?
そう考えると、木内はやはり不安だった。野々村は気が小さいが、わがままなお坊ちゃん育ちで、狷介《けんかい》なところがあった。自尊心も虚栄心も強かった。いつも自分が仲間のトップにいないと面白くないらしく、多分そのせいで、木内が一足先に助教授に昇格すると、教授と喧嘩をして退職してしまった。それ以来木内との仲も疎遠になりがちで、康子に聞いた話によると、どこへ勤めても長つづきせず、自分で業界紙をやったりしたが、みんな失敗していた。世間はそれほど甘くないのだ。
――もし康子との仲がバレたら、近頃の彼は陰険でひがみっぽくなっているようだから、何をやるかわからない。責められれば、悪いのは確かにおれだし、弁解の余地はないだろう。そのときはどうすればいいのか。手をついて謝るしかないのか。謝っても、許してくれるかどうかわからない。
木内は経済学部の研究室をでた。
憂鬱《ゆううつ》だった。
しかし、まだバレたとわかったわけではない。悲観的に考えるのは早すぎるのではないか。バレていない可能性のほうが強い。
木内は気を取り直した。
助教授の給料はたかが知れているが、銀行や会社関係の研修に講師として招かれるアルバイト収入が多く、それに寿美子の実家からも金を出してもらってマンションを買い、現在は野々村夫妻のいるアパートより大分離れていた。
木内は自分の車を運転した。
不安はいっこうに消えなかった。
――おれに見て欲しいもの、おれが驚くようなものって何だろう。
木内は考えつづけた。
野々村夫妻のいるアパートは、しゃれた造りの二階建てだった。以前木内がいたアパートに較べるとはるかに上等である。
しかし、駐車場はついているが、来客用のスペースまではなかった。
それで、木内は二百メートルほど手前の、小さな公園の脇に車をとめ、それから歩いて野々村のアパートへ行った。
まず駐車場を見たが、いつも康子が運転している車は見えなかった。
――彼女は外出したのだろうか。
木内は少し不思議に思った。
野々村は運転できないはずだった。
戸別についている階段を二階へ上り、野々村の部屋のチャイムのボタンを押した。
室内でチャイムの鳴る音が聞こえた。
しかし、室内はしんとしているようで、返事がなかった。
木内はもう一度ボタンを押した。
やはり返事がない。
――野々村は康子といっしょに出かけたのか。出かける予定がありながら、わざわざおれを呼び出しておき、すっぽかして面白がろうというのか。
野々村なら、そういうことをしかねない男だった。他人に不快な思いをさせて、自分自身を不快な人間に仕立てる露悪的な癖があるのだ。ことさら嫌われるような真似をして、次つぎに友人をうしなっている。そして離れてゆく友人を、冷たくせせら笑っているようなところがあった。
木内は念のため、ドアのノブをまわしてみた。
錠がかかっていなかった。
木内はドアをあけた。
部屋は明りがついていた。
右手が割合広いダイニング・ルームで、その先の左手に、浴室へ通じるドアがあった。
そのドアにもたれるような恰好で、野々村の背中が見えた。上半身裸の背中だった。
「野々村」
木内は声をかけた。
相変わらず返事はなかった。
振り向きもしなかった。
康子はいないらしい。
――おかしい。
と木内は思った。
野々村の足もとに気がついたのは、そのときだった。割れたガラスが砕け散っていた。その破片の一部は血にまみれていた。
木内は部屋に上った。
浴室へ通じるガラスのドアに頭を突っ込んだようなかたちで背中をむけていたのだ。
木内はおそるおそる近づいてみた。
やや横向きになっている野々村の顔は、生きている者の顔ではなかった。割れたガラスの尖端《せんたん》が喉に突き刺さったらしく、頸動脈が切れたようで、おびただしい血が周囲に広がっていた。
木内は愕然《がくぜん》とした。
――いったい何が起こったのか。あやまって足を滑らせたのか。それにしても、康子がいないのはどういうわけか。
木内は後退した。
電話機が眼についた。
しかし、警察へ知らせる気になれなかった。もし、夫婦喧嘩の弾みで殺したとすれば、康子をかばってやりたいと思った。責任の一半は自分にあるかもしれないのだ。その自分が、警察に知らせるわけにいかない。
それに――、と木内は思った。ことによると、自分が疑われる危険もあるのではないか。康子との仲がわかれば、警察は当然おれを疑うだろう。野々村に電話で呼ばれ、行ってみたら死んでいた、と本当のことを言っても信じてくれるかどうかわからない。それを証明する第三者がいないのだ。研究室には誰もいなかったし、野々村がかけてきた電話は交換台を通らない直通だった。
ドアが開いていたので、木内は二間つづきの室内も覗いてみた。
ベッドが乱れていたが、康子の姿は見えなかった。
2
木内は帰宅した。
とうとう警察には知らせなかった。
「あら、早かったわね」
妻の寿美子が意外そうに言った。別に皮肉ではなかった。普通なら、経営顧問をしている会社の重役連中と週に一度の会食日で、それが会社側の都合で今週だけ取りやめになったのだ。
「ご飯は?」
「すませてきた」
木内は顔色を読まれないように、「明日までに書き上げなければならない原稿があるんだ」と言って書斎に入った。
部屋は三間だった。夫婦の寝室と居間、それに木内の書斎である。帰宅すると書斎にこもることが多く、ふだんでも寿美子とはあまり口をきかなかった。夫婦仲が冷たくなったわけではないが、結婚して五年あまり経ち、子供もなく、康子との関係より惰性的になっていることは確かだった。
木内は机にむかった。
しかし、不安はつのる一方だった。好きなレコードをかけても、音楽は耳に入らなかった。野々村の死顔が、いくら追い払おうとしても脳裡を離れなかった。
木内は息苦しくなってきた。考えれば考えるほど、悲観的なことばかり頭に浮かんだ。
――やはり警察に知らせたほうがよかったのではないか。
――いや、そんなことはない。あれでよかったのだ。ほかに方法はなかった。スキャンダルになったら、今までの努力が水の泡だ。もっと早く康子と手を切っておくべきだったが、もうそれも遅い。
木内は自問自答を繰り返した。そして、万一の場合を考えた。
寿美子は、居間でテーブル・クロスを編んでいるようだった。以前は刺繍《ししゆう》に凝っていたが、最近はレース編みだった。手先の細かい仕事が好きで、切紙細工に熱中していた時期もあった。
――万一警察に疑われたら、おれは寿美子を頼るほかないのではないか。
木内は真剣にそう考えた。アリバイさえあれば大丈夫なのだ。寿美子にだけは事実を話しておいて、万一に備えたほうがいい。他人に話しても信じてもらえるかどうかわからないが、寿美子なら信じてくれるだろう。それに、おれのスキャンダルは、妻にとってもスキャンダルなはずだ。こういうときに助け合えるのが夫婦ではないか。
木内はレコードを止め、居間に入って腰をおろした。
「コーヒーをいれましょうか」
寿美子がレース編みの手を休めて言った。
「うん」
木内は生《なま》返事をした。
寿美子は台所へ立った。
木内はそのうしろ姿を見て、やはり頼れるのは彼女しかいないと思った。コーヒーにしたって、おれの好みにぴったり合うようにいれるのは彼女しかいない。どこそこのコーヒーがうまいと聞いて飲みにいっても、彼女がいれてくれる味がいちばんだった。
やがて寿美子が戻った。
「どうかなさったの」
「どうかって?」
「心配ごとがあるみたいだわ」
「うむ」
木内はコーヒー・カップに、砂糖を自分でいれた。
「ほんとに、どうなさったのよ。帰りが早かったけれど、学校で何かあったのね」
寿美子は、自分も不安になったように言った。
「いや」
木内はまだ生返事だった。どう話を切り出せばいいか迷っていた。
「体の具合がわるいの」
「そうじゃない」
「だれかと喧嘩をしたの」
「ちがう。そんなことじゃない」
「なにかしら。あたしに言えないようなことなの」
「その反対さ。おまえにしか言えないことだ。ことによると、おまえにも迷惑をかけるかもしれない」
「なぜ」
「亭主が警察の厄介になれば、おまえだって平気でいられないだろう」
「あなたが警察に?」
「万一の場合だがね」
「冗談はいやよ」
「冗談でこんな話はしない」
「交通事故を起こしたの」
「いや、野々村が死んだ」
「野々村さん?」
「野々村徳男だよ」
木内は死体を見つけるまでのいきさつを話した。
寿美子はさすがに驚いたようだった。
「でも、なぜすぐに警察へ知らせなかったの」
「事件に巻き込まれたくなかったからだ。他殺か過失死かわからないが、もしぼくが疑われたらかなわないと思った。警察がぼくの言うことを信じてくれればいいけれど、疑われたら、疑われたというだけでも噂になる。ぼくと野々村は、以前のように仲がよくなかった。どっちかといえば、ぼくのほうで敬遠していた。ぼくが助教授になったときから、彼はぼくを妬《ねた》んでいた。このマンションを買ったことも嫉んでいたらしい。もともと異常性格のような男だったが、そんなやつと嫉まれながらつき合うなんて、友だちとしてやりきれない」
「康子さんはどこへ行ったのかしら」
「知らない」
「あなたに見て欲しいものというのは、何だったの」
「わからない。何もかもわからないんだ。電話で呼ばれたので、行ってみたら、死んでいたというだけだ」
「電話の声が、酔っているみたいだったと言ったわね」
「しかし、酔って足もとがくるったとしても、あんなふうに首を突っ込んで死ぬなんて考えられない。そんな薄っぺらなガラスでもないし、ぼくの見た感じでは、強い力で突き飛ばされたようだった。たぶん警察もそう考えるだろうと思う」
「それで、なぜあなたが疑われるの」
「疑われる理由はないと思っているが、彼の部屋へ行ったことは確かだし、出入りする姿を誰かに見られたかもしれない」
「怖いわ」
「まだ怖がることはないさ。ぼくは誰にも見られなかったつもりだ。だが、万一の場合を心配している。刑事が調べにきたときのことだ」
「どうすればいいの」
「学校からまっすぐ帰宅したことにすれば大丈夫だ。野々村の電話も聞かなかったことにする。彼の部屋に出入りする姿を見たという者があらわれても、外は暗かったし、絶対にぼくを見たと言い切れるはずがない。ぼくは飽くまでも否認する。おまえが証人になって、口うらを合わせてくれればいいんだ。校門を出るとき、ぼくは守衛に挨拶をされたが、それが大体六時ごろだった。それからまっすぐ帰れば、七時には家に着く」
「七時ごろ、あたしはひとりでご飯を食べていたわね。あなたがまっすぐ帰るとわかったら、食べないで待っていたわ」
「会食の中止を連絡してきたのが遅かったんだよ。おまえはもう夕食の支度をすませたあとだろうと思ったし、どこで飯を食って帰るかなんてぼんやり考えているうちに、野々村が電話をかけてきたんだ」
「それじゃ、ご飯はまだだったの」
「うん。さっきは済ませたと言ったが、本当は食欲がなかったんだ」
「いまは」
「少し出てきたかな」
「すぐに支度をするわ」
「寿司でもとればいいよ」
「駄目よ。こんな時間にお寿司なんかとって、もし警察で調べられたら、あたしたちがいっしょにご飯を食べたと言っても信用されないわ」
「そうか。うっかりしていたな」
「あなたのことなのに、あたしのほうが心配してるみたいだわ」
「うむ」
木内は苦笑した。寿美子が話を飲みこんでくれたので、ほっとした気持だった。
「まあほとんど心配ないけれどね」
木内は煙草に火をつけて言った。
しかし、一応は安心したものの、康子のことが心配だった。野々村の死が他殺とすれば、今のところ犯人は康子以外に考えられないのだ。もし彼女が逮捕され、犯行の動機として木内との関係を喋《しやべ》ったら、やはりスキャンダルは免《まぬか》れない。
そう思うと、木内は不安を消せなかった。
3
野々村が死んだ事件は、翌日の朝刊にでていた。昨夜十時過ぎ、外出していた康子が帰宅して死体を発見したと書いてあった。彼女を疑うような記事はなかったし、木内の名も載っていなかった。目撃者の談話もない。
しかし、事件は他殺として大きく扱われていた。
「やっぱり殺されてたのね」
寿美子はあらためて驚いたように言った。
「だれに殺されたのかしら」
「見当がつかないな。最近は全然会っていなかった」
「康子さんが可哀相だわ」
「うむ」
木内は口が重かった。
「今夜がお通夜かしら」
「そうだろうな。昨日の晩は、まさかお通夜どころじゃないだろう。とすると今夜が通夜で、明日が葬式かもしれない」
「お通夜には行くの」
「気がすすまないな」
「でも、行かないと変に思われないかしら」
「だったら、葬式だけ顔をだせばいいさ。それほど深くつき合っていたわけじゃない」
「あたしは」
「おまえこそ葬式だけでいいだろう。桜井に聞いてみて、彼に合わせよう」
桜井も学生時代からの友人だった。公認会計士の事務所をひらいているが、一時は木内より野々村と親しかった。
木内は大学へ行くと、すぐに桜井に電話をかけた。
桜井も新聞を見て知ったらしかった。
「驚いたな。ほんとにびっくりしたよ。さっき康子さんに電話をしたら、さんざん泣かれてしまった」
「犯人はわからないのか」
「わからないらしい。最近の彼は何をやっていたのだろう」
「さあ?」
木内は知らないふりをした。
しかし康子に聞いた話では、野々村は康子の収入に頼っていた。父親が遺してくれた郷里の土地を事業に失敗して食いつぶし、その後は株のブローカーのようなことをしてたまに金が入ることもあったようだが、康子にはいっさい金を渡さなかったという。
「通夜に行くのか」
木内は話を変えた。
「それが駄目なんだよ。これから大阪へ行く用があってね。でも、明日十一時からの葬式までには戻ってくるつもりだ」
「すると、通夜や葬式の世話はだれがやるんだ」
「それは親戚の者がやるだろう」
「友だちは」
「あんたがいるじゃないか」
「おれはそれほどつき合ってないよ。一年くらい会わなかった」
「おれも同じだな。ずいぶん会っていない」
「おれとあんたと、ほかにいないのか」
「どうかね。彼はみんなに嫌われたからな。わざと嫌われたみたいだった。おれもとうとう十万円貸したままで、康子さんには言わないけれど、タカられたような感じがしている」
遺族に、貸した金の催促はできないと、桜井は未練たらしく言った。
木内は電話を切った。
桜井に対し、康子が泣いたということが意外だった。
4
翌日、木内は寿美子といっしょにマンションをでた。
木内はダブルの黒いスーツ、寿美子も喪服用の黒いスーツだった。
野々村のアパートへ行くと、階段の上り口に花輪が数本立っていた。その花輪の贈り主の名札に、木内が知っている名前はなかった。
木内は寿美子の先に立って、階段を上った。
二間つづきの手前の部屋に簡素な祭壇がつくられ、野々村の遺影がかすかな笑いを浮かべていた。寂しそうな笑顔だった。
祭壇の左側に身寄りの者らしい人びとが並んでいたが、喪服を着た康子は、祭壇のいちばん近くに坐っていた。
木内は康子の前に膝をつき、両手をついて、形式的で他人行儀な弔問の挨拶をした。
康子も、木内をちらっと見ただけで視線をそらし、黙って頭をさげた。
木内はそれから祭壇の前にすすんだ。すでに読経が始まっていた。
型通りの焼香をして、玄関に戻った。
つづいて寿美子も戻ってきた。
本来なら、故人と親しかった友人として、しばらくその場に残るべきだとも思ったが、あまり長居したい気持ではなかった。
弔問客が、流れ作業のようにつぎつぎに出てゆくので、木内も寿美子を促して玄関を出た。
「木内――」
桜井に声をかけられたのは、階段を下りたときだった。
「帰っちまうのか」
桜井は寿美子と挨拶をかわし、霊柩車が駐《とま》っている近くまで歩いてから、木内にきいた。
「うん。部屋が狭いのに、残っていても邪魔なだけだろう」
「それじゃおれも帰るかな。出棺を見送るつもりだったけれど、遺体は昨日のうちに解剖して、火葬場へ直行しているそうだ」
「そんなこと、だれに聞いたんだ」
「新聞記者だ」
桜井は、花輪の周囲に七、八人集まっているほうを眼でしめした。
木内は桜井の視線をさりげなく追った。最初にきたときは、近所の者が世話役を買っているのだろうと思っていたが、新聞記者のほかに刑事もいるような気がした。刑事がいるとすれば、もちろん捜査のためで、弔問客の出入りを、観察しているに違いなかった。
「やはり野々村は殺されたのか」
木内はきいた。
「うん。殺されたらしいな。犯人は野々村とかなり親しかったやつだろう。野々村は上半身裸でいたそうだ。つまり、彼はそういう恰好で犯人と会っていたわけだ。そして、油断しているところを、あるいは喧嘩のはずみに突き飛ばされたんじゃないかな」
「相手は女だろうか」
「わからない」
「康子さんは留守だったようだけれど、どこへ行ってたんだ」
「おふくろの病気見舞をかねて、実家へ行っていたそうだ。そして帰ったら、野々村が死んでいたので、びっくりして警察へ届けたらしい」
「実家は板橋だったな」
「両親がふたりきりで暮らしているはずだ」
「夫婦の仲はよかったのか」
「べつに悪くもなかったんだろうね。康子さんは、おれの電話にむかってさんざん泣いたくらいだ」
「おれたちのほかに、むかしの仲間は見えないようだな」
「おれも誰かに会えると思ってきたんだが、どうもおれたちだけだね。彼に人徳がなかったといえばそれまでだが、寂しい葬式だよ。友だちもろくに来なくて、刑事と新聞記者に囲まれた葬式だ」
「うむ」
木内は野々村が可哀相な気がしてきた。野々村は妻にも愛されていなかったのだ。康子の涙に偽りはなかったとしても、彼女が野々村を裏切っていたことは事実だった。
桜井が帰るというので、木内も帰ることにした。
用心のため、木内は自分の車を使わないで地下鉄に乗ってきた。車できた桜井とはその場で別れ、木内は地下鉄の駅まで歩いてから寿美子とも別れて大学へいった。
――康子はほんとに実家へ帰っていたのだろうか。
木内は疑問に思った。康子が疑われたとしても、彼女のアリバイは両親がかばってくれるだろう。木内のアリバイつくりに寿美子が協力するのと同じだ。康子は木内との浮気がバレて、口論の末に野々村を突き飛ばしたのかもしれない。むろん殺す気はなかったろうから、野々村が死んだとわかって、慌てて実家へ行ったということは考えられる。そして両親に口うらを合わせるように頼み、それから帰宅して、初めて死体を見つけたふりをしたのかもしれない。
だが、彼女が犯人ではないなら、いったい誰が殺したのか。電話口のむこうに聞こえた女の声は、康子以外のだれだったのか。あるいは、あれはテレビかラジオの声だったのだろうか。
それに、野々村が木内に見せたいと言っていたものもわかっていない。
――いずれにしろ、おれが警察に届けなかったのは賢明だったはずだ。自分に対する疑いだけでなく、康子に対する疑いもそらしてやったことになる。何もかも知らんふりをしていればいい。
木内はそう思った。
5
それから二日経った。
康子からは何の連絡もなかったし、木内のほうからも連絡をしなかった。お互いにこのまま連絡をしないでいれば、不倫な関係も無事に終わりそうだった。
――それでいいのだ。野々村の死が、康子との仲に終止符を打ってくれたに過ぎない。
木内は無理にもそう考えようとした。
ところが、講義を終わって教室を出ると、刑事が木内を待っていた。
刑事というより、会社の重役のような感じの恰幅のいい男が、警察手帳を見せた。藤尾という部長刑事だった。
もう一人の若い刑事は、黙って立っていた。
「葬式のとき、お目にかかりましたね」
と部長刑事が言った。
しかし、木内は彼に見憶えがなかった。
「未亡人のうしろに坐っていたんです。お気づきになりませんでしたか」
「さあ?」
木内は首をかしげた。やはり憶えがなかった。
「早速ですが、ちょっと立話をさせて頂けますか。お時間はとらせません」
「どうぞ、ぼくは構いません」
「野々村さんとは、学生時代から親しかったそうですね」
「ええ、割合仲のいいほうだったと思います。でも、最近はほとんどつき合っていなかった。もう一年以上会わないでいたくらいです」
木内は、野々村との交友関係を率直に話した。
部長刑事と木内が話しているかたわらで、若い刑事はしきりにメモをとっていた。
「そうしますと──」部長刑事がいった。「野々村氏と絶交していたわけですか」
「いえ、そうじゃありません。家も遠くなったし、自然に会わなくなっただけです」
「なるほど。失礼なお尋ねかもしれませんが、その点はお許し願うとして、事件の当日のことをおっしゃって頂けないでしょうか。お宅には、何時ごろお帰りになりましたか」
「そうですね。あの日は会食が中止になったので夕食前に帰りました。七時くらいだったと思います」
木内は、自分が顧問をしている会社の定例の会食や、門を出るとき守衛に挨拶されたことを話した。
「帰宅した時間などは、夕食の支度をして待っていた女房のほうが正確に憶えているかもしれません。女房に聞いてくれればわかります。食事のあとは、レコードを聞きながらしばらく仕事をして、いつものように十二時ごろ寝たはずです。もし何かお疑いなら、とにかく女房に聞いてください」
「いや、念のため伺っているだけで、あなたを疑っているわけじゃありません。話は変わりますが、野々村徳男にはおくさん以外の女性はいなかったでしょうか。もちろん、相当深い仲の女性という意味です」
「聞いていません。先ほど言いましたように、最近は彼に会っていなかったんです」
「そうですか」
部長刑事は、期待がはずれたように、太い眉をしかめて呟《つぶや》いた。
刑事が二人とも帰った。
木内はじっとしていられなかった。警察手帳を見せられたときから、不安に押し倒されそうだった。刑事は木内を疑っていないと言ったが、それなら、なぜわざわざ訪ねてきたのか。刑事の質問は、明らかにアリバイ調べである。木内を疑っているのだ。
しかし、なぜ疑われたのか。
アパートに出入りする姿を見られたのか。
それとも、康子が何か喋ったのだろうか。
木内は、刑事が正門を出ていったので、自分は裏門を出て公衆電話のボックスに入り、自宅のダイヤルをまわした。
「刑事がいかなかったか」
木内は寿美子にきいた。
「きたわ。たった今帰ったところよ。野々村さんのことをいろいろ聞いて、あの晩、あなたが帰った時間などもしつこいほど聞いていったわ」
「実は、こっちも刑事が来た。疑われたのかもしれない」
「なぜかしら」
「わからないが、アリバイがあれば心配ない。その点はちゃんと答えてくれたろうね」
「大丈夫よ。七時前に帰って、いっしょにご飯を食べたと言ったわ」
「ありがとう。あとでゆっくり話すけれど、とにかく気をつけてくれ」
木内は受話器をおろした。
もはや、木内が疑われていることは間違いなさそうだった。口うらを合わせる余裕を与えないため、刑事は二手にわかれてアリバイを洗いにきたのだ。
木内はますます落着かなかった。
今度は康子に電話をかけた。
しかし、康子は木内の声を聞くと、
「あなたとはもうお会いしません。電話もしないでください」
つめたく電話を切ってしまった。
6
さらにまた二日経った。
木内にとっては、息が苦しくなるほど不安な二日間だった。警察があっさり引きさがったとは思えないし、神経戦を挑まれているような気がした。康子のようすを知りたかったが、何度電話をかけても、彼女は木内の声を聞くと、返事もしないで切ってしまった。
木内は我慢できなくなって、康子のアパートへ行った。
康子はドアを開きかけたが、木内の顔を見るなり慌てたように締めようとした。
しかし、木内は強引に玄関に入った。
「なぜぼくを避けるんだ。避けたい気持はわかるけど、電話で話すくらいはいいじゃないか。電話をしてもすぐ切られてしまうので、きょうは已《や》むを得ず押しかけてきたんだ。ぼくは警察に疑われている。きみをかばうために疑われているんだ」
「あたしをかばうために?」
「そうだよ。あの日、ぼくは電話で野々村に呼ばれた。要領を得ない電話だったが、ぜひ見せたいものがあるというので、気がすすまなかったけれど出かけてみた。そしたら、ガラスのドアに首を突っ込んで死んでいたのだ。ぼくはてっきりきみが殺《や》ったと思った。電話をうけたときは女の声が聞こえたのに、行ったときは、きみが車ごと消えていた。だから警察に届けないで、まっすぐ帰ったことにして、寿美子にも口うらを合わせてもらった。寿美子はぼくときみの仲を知らない。ぼくを信じて承知してくれた」
木内はひといきに言った。
「もう駄目だわ」
康子の顔は真っ青だった。
「なにが駄目なんだ」
「あなたよ。あたしが黙っていたのに、あなたがここに来たりして、刑事さんにみんな聞かれてしまったわ」
「刑事に?」
「おくの部屋に刑事さんが来てるわ」
「――?」
木内はまさかと思った。
おくの部屋の襖《ふすま》が開いた。
藤尾という部長刑事と、見憶えのある若い刑事が現れた。
「妙なことになったようですね。いまの話を、もう一度聞かせてくれませんか」
部長刑事が言った。
木内は愕然とした。しばらく口がきけなかった。
「あの日、学校からまっすぐ帰宅されたというのは、嘘だったんですか」
「―――」
木内はまだ答えられなかった。事態が飲みこめないのだ。
「なぜ嘘をついたんですか」
部長刑事は畳みこんできた。
「ほんとのことを言えば、康子さんが疑われると思ったからです」
「彼女が殺したと思ったわけですか」
「ほかに考えられなかった」
「意外ですね。あなたが康子さんをかばい、康子さんがあなたをかばっていたなんて、まったく想像もしなかった。あなたがたの関係については、おそらく野々村氏も知らなかったんじゃないかな。これでようやく読めてきましたよ。ちょっと失礼させてもらいます」
部長刑事は、若い刑事を促して、急ぐように出ていった。
「どういうわけだ」
木内は訳がわからなかった。
「知らないわ」
康子もわからないようだった。
「きみが実家に帰っていたというのは、ほんとなのか」
「ほんとよ。近所のひとが知ってるわ」
「すると、だれが殺ったんだろう」
「あなたじゃなかったの」
「絶対にぼくじゃない」
木内は見えない力に翻弄《ほんろう》され、騙《だま》されているようだった。
7
木内が帰宅すると、寿美子はいなかった。
そして、彼女が逮捕されたことを知ったのは、それから間もなくだった。
木内は警察に駆けつけて、部長刑事の藤尾に会った。
「おくさんは自白しましたよ。あなたが立ててくれたアリバイが崩れましたからね」
部長刑事は苦い顔をしていた。
「寿美子が野々村を殺したんですか」
木内は信じられなかった。
「そうです。警察では、あなたと野々村夫人の関係を知らなかった。だが、野々村とあなたのおくさんとの関係はわかっていたんです。しかし、おくさんにはアリバイがあった。ご主人のあなたがその証人だった。それで何か新しい手がかりを探すつもりで野々村夫人にいろいろ聞いていたら、そこへ偶然あなたがきて、おくさんのアリバイを破ってくれたというわけです。あなたのお蔭で、野々村があなたに電話をしたとき女がいたらしいこともわかったし、犯行の動機も見当がつきました」
「殺した理由を言いましたか」
「野々村があなたに見せたかったもの、それがおくさんだったんですよ。野々村が電話している声を聞いて、おくさんが慌てたのは当然でしょう。おくさんは逃げ帰ろうとしたらしい。ところが、野々村は許さなかった。酔っていたせいもあるでしょうが、とにかく、彼は自分とあなたのおくさんとの浮気の現場を、あなたに見せようとしたようです。それで揉み合っているうちに、おくさんが彼を突き飛ばし、殺す意思はなかったけれど、殺してしまった」
「しかし、彼はなぜそんな真似をしようとしたのだろう」
「それはわたしにもわかりません。ことによると、あなたがたの関係に気づいておくさんを誘惑し、復讐するチャンスを狙《ねら》っていたのかもしれない。あるいは、非常に強いコンプレックスをあなたに抱いていた男らしいから、せめてそんな真似でもして、あなたの自尊心を傷つけようとしたのかもしれない」
「寿美子は、ぼくと康子さんのことを知ってたんですか」
「いや、それは知らないようです。おそらく今でも知らんでしょう。あなたに合わせる顔がないから、会いたくないと言っていますよ」
部長刑事は、ますます苦り切ったような顔をしていた。
木内は悪夢を見ているような気がした。野々村がやろうとしたことは、いかにも彼のやりそうなことだった。
しかし木内は、自分には彼に抗議する資格がないと思った。寿美子を責める資格もないと思っていた。
悪夢の明日
1
大隈《おおくま》弁護士の法律事務所から出てきた男は、わたしと擦《す》れ違ってエレベーターのほうへ去った。年は五十前後、大会社の部長クラスというより、裸一貫で築いた中小企業の社長という感じだった。背は低いけれどがっしりした体格で、暗い眼つきが印象に残った。
もっとも、大隈弁護士に会って顔色が明るくなったという者は滅多にいない。
わたしはノックをして事務所に入った。
秘書兼タイピストの伊藤カスミは壁際のタイプに向かっていた。
事務員兼給仕兼運転手の田倉は、分厚い書類をめくって調べ物をさせられているようだった。
上等の客、つまり金になりそうな客なら伊藤カスミがお茶を運び、並の客のときは田倉がお茶を運ぶことになっているが、わたしはそのどちらでもなくて、黙っていると水も飲ませてもらえなかった。
「電話で呼ばれたんだけど」
わたしは田倉に言った。
「ええ、知ってます。どうぞ」
田倉は腰も上げないで、奥のほうへ眼をやった。
「お客さんは」
「いま帰ったところです。廊下で会いませんか」
「いや」
感想を求められると面倒だから、わたしは首を振った。
衝立《ついたて》で仕切った窓寄りに、大隈弁護士の大きな机と応接セットがあった。窓の眺めは九階だが、となりのビルの薄汚れた壁しか見えなかった。大隈弁護士は肘掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろしていた。ゴルフ焼けと称する精悍《せいかん》そうな角張った顔で、体も大きいから押出しは立派だが、弁護士としての腕はそれほどではなかった。金のためならかなり危ない橋も渡りかねないが、その割には儲からないらしく、いつも金のことでぼやいていた。
わたしは向かいのソファに腰を下ろした。
まだ用件を聞いていなかった。
「電話で言わなかったかね」
「聞きません」
「そうだったかな」
「急いでくるように言われただけです」
「残念だが、客は帰ってしまった」
「すると用なしですか」
「そうじゃない。あんたを紹介したかったのに、それが残念ということだ」
「何の依頼ですか」
「結婚調査だ。もちろん弁護士の仕事ではない。普通なら断るところだが、わたしが顧問をしている会社の社長だし、無下《むげ》に断れないで話を聞いているうちに、あんたのことを思い出したんだ」
依頼人の中内義造は照明器具専門のメーカーとして知られた会社を経営しているが、その長男の進一がスナックで知り合った女に惚れて、親の反対を押し切っても結婚する気らしいという。
「女の身元は一応わかっているが、スナックで知り合ったなんて、どんな女か知れたものじゃない。親にしてみれば心配するのが当たり前だ。妹が二人いるけれど、伜《せがれ》のほうは一人息子で、しかもまだ学生だ。そうじゃなくても結婚は早い」
「女の職業は」
「女も学生だよ。両親は花巻で旅館をやっているそうだが、小さな旅館らしい。中内氏の資産は十億以上だろう。ちょっと桁《けた》が違う。桁違いがわるいとは言わないが、それより女の素行を調べる必要がある。これがその女だ。二十歳になったばかりで、松尾ミヤ子という名前だがね」
大隈弁護士は、手札型の写真をわたしの前に置いた。
いかにも素人が写したようなカラー写真だが、鮮明に撮《と》れていた。明るい笑顔で、清潔な感じだった。やや細おもての美人である。洋裁学校へ通いながら、友だちに誘われて新宿のスナックでアルバイトをしているとき、たまたま客として現れた進一と知り合ったという。
「中内氏はたいへんな子煩悩《こぼんのう》で、伜が勉強に専念できるようにマンションまで借りてやった。伜も真面目に勉強して、在学中に司法試験に合格した。五回も落ちている田倉などとは頭の出来がちがう。来年大学を卒業したら司法修習生になって、それから検事になるか判事になるか弁護士になるか、とにかく親父さんは伜に期待して、将来は会社を継がせたい腹でいる。まあ司法試験に合格して気が緩んだのかもしれないが、ここで変な女に引っかかったら、親父さんは泣くに泣けないと言っている」
「中内氏は松尾ミヤ子に会ったんですか」
「写真しか見ていないそうだが、結婚させる気は全然ないらしい」
「しかし、伜が惚れたなら仕様がないでしょう」
「それで相談にきたのさ。伜の進一は真面目一方で、酒も煙草ものまない。麻雀もやらんし、もちろん女も知らなかったに違いない。それがいきなり女を知ったら、まず大抵はのぼせてしまう。親の意見など耳に入らない。気が狂ったようなものだ。気が狂ったような状態で結婚したら、一生取り返しがつかなくなる。水をぶっかけて正気づくなら、水をぶっかけてやりたいと思うのが親の情だ。わたしには中内氏の気持がよくわかる。あんたもそれくらいはわかるだろう」
「わかりません」
「わからん?」
「親父さんは自分の都合がいいように考えて、自分の都合を親の愛情にすり替えているのかもしれない。水をぶっかけるより、女に会ってみるのが先決でしょう」
「あんたはいくつになったかね」
「三十です」
「若いな」
「三十で若いんですか」
「若いね。わたしより二十六も下じゃないか。まだ世の中がわかっていないから、そんなふうに考えるんだ。優秀な刑事だったのに、だから上役と喧嘩ばかりして辞《や》めてしまった」
「話をすすめてください」
「話はもう終わったよ。やる気があるなら、調査料は五日で五万円はずませた。わたしは仲介料をとっていない」
「中内義造は私立探偵に調べさせることを承知したわけですか」
「渋っていたが、わたしがあんたの人柄と能力を保証してようやく承知させた。根木刑事といえば、かつては警視庁管内随一の名刑事だった。そう言ってやったよ」
「その名刑事に対して、調査料が五万円ですか」
「五万なら多いほうじゃないか。いまのあんたは刑事じゃない。自分の事務所も持っていない私立探偵だ」
「自宅が事務所です」
「五万じゃ不足なのか」
「場合によります。資産十億以上の金持が、伜の結婚相手を調べるのに五万しか出さないというのは頷《うなず》けない。中内義造と直接交渉してかまいませんか」
「それは困る」
「なぜですか」
「せっかくわたしが保証したのに、悪質なゴロツキ探偵と間違えられる」
「それじゃやめときます。五万では上っつらな調査しかできない」
わたしは腰を上げた。
「待て――」
大隈弁護士はあわてたように言った。
わたしは立ったまま煙草をくわえ、時間がかかるだろうと思って火をつけた。
大隈弁護士は考え込んでしまった。仲介料をとっていないと言ったが、上前《うわまえ》をはねていることは確かだった。いつもの例なら同額か、ときには倍以上はねている。それくらいなら、仲介料をとらないなどと恩着せがましいことを言わなければいいのだ。そうすれば、わたしだって文句はいわない。金がなくて困っているのだ。
「調査料の件はわたしが交渉しよう。結果はあとで電話をする。たぶん値上げすると思う。その代わり、今度の仕事は伜の頭を冷やすのが目的だからな。女のいい点はどうでもいい。わるいところだけ嗅《か》ぎ集めるように、その辺をよく心得てくれ」
大隈弁護士はさんざん考えてから言った。
わたしは返事をしないで、煙草を揉《も》み消した。
2
大隈弁護士が電話をかけてきたのは、その晩の十時過ぎだった。調査料は倍額の十万円に値上げされた。こういう割のいい仕事は滅多になかった。わたしは大隈弁護士が中内義造からせしめた本当の額を知りたかったが、厭味を言わないで仕事を引き受けた。
翌日、わたしは区役所の出張所で松尾ミヤ子の住民票を調べてから、彼女が住んでいるアパートへ向かった。常套《じようとう》的だが、近所の評判から聞込《ききこ》みを始めるつもりだった。
ところがアパートの近くまで行くと、パトカーや赤ランプをつけた警察の車が数台駐っていた。
「何があったんですか」
わたしは、五、六人かたまって立話をしている近所の者らしい連中に聞いた。
「自殺ですよ」
髪の薄い、ジャンパーをきた老人が答えた。ありふれた出来事のような、あっさりした返事だった。
「あのアパートの人が自殺したんですか」
「ええ。まだ二十歳の娘だというのに、ガスで死んだらしい」
「何という名前ですか」
「知りません。二階の右端《みぎはし》の部屋で、顔はよく見かけてましたがね。きれいな、おとなしそうな娘さんだった」
「なぜ自殺したのだろう」
「なぜでしょうな。へんな男に引っかかって、振られたのかもしれない」
「男がいたんですか」
「いや、そんなことまでは知りません」
ほかの者に聞いても、ガス自殺ということしか知らなかった。
アパートの入口は、部外者の出入りを禁止するために張番の巡査が立っていた。
もちろん、わたしなどが入れてもらえるはずはなかった。
モルタル塗りの古ぼけたアパートで、その二階右端といえば松尾ミヤ子の部屋だった。
わたしは顔見知りの刑事に会うことを期待して、しばらく待ってみることにした。
ところが、それほど待たないうちに、新聞記者の与野がアパートの門から出てきた。警視庁の記者クラブに七年もいるヴェテランだった。
与野はわたしに気づかないで通り過ぎようとした。
「与野さん――」わたしは声をかけた。「自殺だって?」
「―――」
与野は驚いたように立ち止まって、曖昧《あいまい》に頷いた。
「自殺くらいで与野さんが現場にくるなんて、珍しいじゃないか」
「暇だったので、ちょっと覗きにきただけさ。根木さんこそ、どういうわけでここにいるんだい」
「ほんとうはアパートに入りたい。人に会いにきたんだ」
「だれ」
「松尾ミヤ子」
「自殺した女じゃないか」
「ふうん、やっぱりそうか」
「彼女を知ってたのか」
「いや、知ろうとしていたところだった」
「なぜだ。聞かせてくれ」
「しかし自殺だろう。それならおれは用がなくなった。与野さんだって、帰りかけていたはずじゃないか」
「でも、ことによると殺しかもしれない」
「どうして」
「根木さんの話を聞かせてくれ。そしたら話す」
「逆だな。与野さんの話が先だ。おれのほうは個人的な仕事で、話を聞いたからといって、ほかへ喋るような真似はしない」
「うむ」
与野は渋った。
わたしが刑事だった頃、彼とわたしはウマが合っていた。わたしを信頼してくれていたようだった。
しかし、刑事を辞めてからのわたしに対し、別の考えを持つようになったとしても当然だった。私立探偵などにろくなのはいない。わたし自身がかつてはそう思っていたのだ。
「遺書はなかったのか」
わたしは構わずにきいた。
「なかった」
「入口の錠は」
「しまっていた。窓の錠もしまっていたらしい」
「だれが死体を見つけたんだ」
「アパートの管理人だ。今朝の八時ごろ、となりの部屋の女がガスの匂いに気づいて管理人に知らせ、管理人が合鍵でドアをあけた。救急車を呼んだが、その前に死んでいたらしい。室内を整頓《せいとん》したあとがあって、覚悟の自殺のように見えたそうだ」
「鑑識の意見は」
「やはり自殺だね。ガス中毒の典型的な死体で、睡眠剤の瓶が転がっていたが、死因はガス中毒だろうといっている」
「それでも殺しの疑いがあるのか」
「妙な男が飛び込んできたんだ。松尾ミヤ子の婚約者で、彼女が自殺する理由は絶対にないと言い張るのさ。自殺されて頭がおかしくなったのかと思ったが、そうでもないらしいんだな。自殺でけりがつくはずだったのに、刑事たちは弱っている。殺しなら本部事件だ」
「その婚約者は、まだいるのか」
「いる。偶然彼女を訪ねてきたそうだが、さっきまでは大分興奮していた」
「そいつに会わせてもらえないか」
「なぜだ」
「中内進一という名前だったら、そいつは彼女に惚れていた。婚約といっても当人同士の口約束だろうが、おれは父親の依頼で松尾ミヤ子を調べかけていた」
「中内進一だよ。間違いない。刑事に学生証を見せていた」
「ますます会いたいね。ただし、おれが親父さんに雇われた探偵なんてことは内緒だ。記者仲間のふりをしよう」
「会ってどうするんだ」
「与野さんに聞いたことを、彼の口からも聞いておきたい」
「しかし、あんたの仕事は、彼女が死んだら終わりのはずじゃなかったのか」
「彼に会って終わりにする」
「何か考えてるな」
「いや」
わたしは首を振った。
3
与野はアパートの二階へ引き返すと、間もなく中内進一をつれて戻った。
「刑事なんてばかばかりだ。ぼくの言うことを全然信じない」
進一はいきなりいった。興奮がさめないようだった。やや神経質な感じだが、背の高い、真面目そうな青年だった。
「刑事はどうしても自殺だというんですか」
わたしは与野とならんで、記者仲間のふりをした。
「そうです。でも、ぼくは絶対にそう思わない。ドアに錠がかかっていたというけれど、合鍵を持っていた奴がいるかもしれないし、あんな安っぽい錠は、器用な奴なら簡単にあけられるかもしれない。犯人は彼女を睡眠剤で眠らせ、それからガス栓をひねり、ドアの錠をしめて逃げたに違いない」
「犯人の心当たりがありますか」
「特にないけれど、彼女はきれいだった」
「それだけじゃ理由にならない」
「もっと大きな、自殺じゃないという理由がありますよ。彼女はぼくと結婚する約束だった。こんなふうに言うと笑うかもしれないけれど、ぼくらは真剣に愛し合っていた。つい一昨日も会ったし、来週は南房州へ旅行する計画をたてていた。その彼女が自殺するなんて考えられない。ぼくらは大きな夢を描いて、希望でいっぱいだった」
「あんたと彼女の仲は、両親も認めていたんですか」
「いや、まだです。一応話したけれど、もし反対されたら、家を出ても結婚するつもりだった。ぼくは来年学校を卒業する。そしたら、共稼ぎをしても二人で暮らす。ぼくはそこまで決心していたし、もちろん彼女もその気でいた」
「そういう二人の仲を、ほかに知っている人がいますか」
「藤井伸子という女に聞けばいちばんわかります。彼女の親友で、彼女にスナックのアルバイトを誘った同級生です。住所は知らないけれど、今でもスナックに勤めている。新宿西口のラナタンという店で、六時過ぎには出勤しているはずです。ぼくの友だちでは、小杉と川本、佐山、この三人が知っている。学校の仲間で、彼女や藤井伸子たちといっしょにボウリングをやったこともある」
進一は手帳を開いて、三人の仲間の住所を教えた。
わたしは三人の住所をメモする気はなかったが、聞いた手前があるので、メモ帳に控えた。
「ところで」わたしは言った。「一昨日彼女に会ったとき、いつもと違った様子はなかったろうか」
「ありません。食事をして散歩をして、ぼくがこの部屋まで送って別れた。いつもと同じです」
「昨日は会いませんか」
「会いません」
「きょうは、ここで彼女と会う約束だったんですか」
「いえ。学校に電話をしたら欠席しているというので、気になったから来てみたんです。そしたら刑事たちがいて、彼女は死んでいた。彼女が死んだなんて、ぼくは死体を見せられても、まだ信じられない。一昨日まで元気で、将来を語り合っていたんです」
「失礼だけど、昨夜から今朝にかけて、あんたはどこにいましたか」
「ぼくを疑うんですか」
進一の顔色が変わった。
「あとで余計なことを考えないで済ませるためです」
「やはり疑っているんだな。新聞記者も刑事と同じだ。人を見れば疑う癖がついている。疑うなら何度でも言ってやる。ぼくは家にいた。夕方から一歩も外へ出なかった。そのことは母も妹たちも知っている。十一時ごろまでテレビ映画を見ていたが、そのあとこっそり脱《ぬ》け出したと思うなら、勝手にそう思えばいい。ぼくはもう、刑事とも新聞記者とも口をきかない。まじめに話しても損なだけだ」
進一はわたしと与野を睨《にら》みつけ、怒ったように行ってしまった。
「どうだったい」
与野がひやかすように言った。
「わからないね。おれはどうでもいいが、あんたのほうは仕事だろう」
「うん。殺しなら特ダネだが、まあ無理だろう。睡眠薬を飲ませたなんていうけれど、いったいどうやって飲ませたのか、それをやれる者は、差し当たり彼自身じゃないか。合鍵だって、彼なら型を採《と》るチャンスがあったにちがいない」
「すると彼が怪しいか」
「そうも思えないがね。せっかく自殺とみられているのに、それをわざわざぶち壊しにくる奴もいないだろう。根木さんが結婚調査を依頼されたというのは、彼の言うことに合っている」
「うむ」
わたしは頷いたが、釈然としないものが残っていた。覚悟の自殺らしく室内が整頓されているのに、遺書がないというのが納得できないのだ。
進一と松尾ミヤ子の仲が事実とすれば、その面からも自殺は納得できない。
「仏さんはどうせ解剖されるだろう。そのときは結果を教えてくれよ」
わたしはそう言って与野と別れた。
帰りかけていたはずの彼は、また死体のある二階へ戻っていった。
わたしは大隈弁護士に電話をして、ミヤ子が死んだことを告げた。
「そんなばかなことってあるのかい」
大隈弁護士は驚くより、失望したような声だった。
「残念ですが、調査料は受け取れませんね。まだ始めないうちに仕事が終わってしまった。調査料はそっくり依頼人に返してください」
「あと二日か三日でいいから、生きていたようにごまかせないか」
「駄目です。自殺の記事は夕刊に載るでしょう」
「新聞に載らないようにするんだ。自殺なんか、いちいち新聞に載せる必要はない」
「無理ですね。現場の近くで新聞記者に会いました」
「それじゃ、どうすればいいんだ」
「どうしようもありません」
「諦《あきら》めるのか」
「諦めます」
「しかし、せっかくの仕事だぞ」
「でも、仲介料をとっていないなら、どう転んでも大隈先生は関係ないでしょう。仕事をふいにしたのはわたしです」
「それはそうだが――」
大隈弁護士は未練そうだった。調査料の上前を相当はねているに違いなかった。
「女が息を吹き返す見込みはないのかね」
大隈弁護士はまだ言っていた。
わたしは答えないで電話を切った。
4
与野記者からの情報で、松尾ミヤ子の解剖結果がわかった。死因はやはりガス中毒だった。睡眠薬を飲んでいたが、命にかかわるほどの量ではなかった。外傷はなく、男と寝た形跡もない。死亡時刻は深夜から明方にかけてという推定だった。
松尾ミヤ子の遺体は、郷里の花巻から駆けつけた両親に引き取られた。
しかし、事件は自殺として一応処理されることになったが、遺書がなかったし、中内進一の供述も無視できないというので、所轄署で捜査を続行するらしいという話だった。
わたしは松尾ミヤ子を忘れることにした。おれはもう刑事ではない。彼女の死が自殺だろうと他殺だろうと、仕事の縁が切れれば、わたしの関知することではなかった。
ところが翌日の午後になって、大隈弁護士がまた電話をかけてきた。急いで来てくれという。
「新しい仕事ですか」
「そうじゃない。昨日のつづきだ」
「あれは終わったはずでしょう」
「いや、終わったようで終わっていない。中内さんがお見えになっているんだ。とにかく来てくれ」
大隈弁護士は一方的に電話を切ってしまった。
わたしは金に困っていたし、差し当たって急ぐ仕事もなかった。松尾ミヤ子のことも気にかかっていた。彼女の写真も預かったままだった。
わたしは大隈弁護士の事務所へ行った。
中内義造は、一昨日廊下で擦れ違った男だった。一昨日の印象より暗い感じだった。
しかし、大隈弁護士は難《むずか》しそうな顔をしているが、わざとそういう顔をしているので、本当は機嫌がよさそうだった。
「根木くんです。頭がいいし足も速い。人柄はわたしが保証します」
大隈弁護士が紹介した。そしてわたしに、昨日のことを中内義造に話すように言った。
わたしは進一に会ったことを省略して、新聞記者から聞いたという話をした。
「すると――」義造が言った。「自殺に間違いないんですか」
「わたしはそう聞きました。でも、自殺の原因がわかっていない」
「弱りました」
義造は溜息をついた。
「どうしてですか」
「伜は私を疑っている。結婚を諦めさせるために、私がその女を殺したと考えているらしい。まったく無茶なことを考えるやつです。怒鳴りつけてやったら、ぷいと出ていってしまった」
「それはいつですか」
「昨日の夕方です」
「彼女が死んだのは一昨日の夜なか過ぎだったらしい。しかしその晩は、家族全員お宅にいたんじゃないんですか」
「いや、私だけいなかった」
「旅行ですか」
「家の者にはそう言ってあった。仕事で大阪へ行ったことになっていた」
「実際はどこにいたんですか」
「家内にも子供らにも内緒の所です。正直に言ってしまえば、ある女性の部屋にいた」
「いざという場合には、それを証明できますか」
「もちろんできる。女に聞いてもらえばわかるが、それだけはあくまで内緒にしておきたい」
「息子さんに言えませんか」
「言えるくらいなら苦労しません。伜は私を信頼しているし、非常な母親思いだ。口が裂けても言うわけにいかない。家庭が滅茶滅茶《めちやめちや》に壊れてしまう。家内は我慢するかもしれないが、伜は駄目です。潔癖で、一本気で、妥協というものを知らない」
「お父さんを信頼している息子さんが、なぜ今度は恋人を殺したなんて疑うようになったんですか」
「私が結婚に反対して、かなり烈しい言い合いもしましたからね。私も頑固《がんこ》なせいで、絶対にあの女との結婚は許さんなんて言ってしまった。そのうち熱が冷めるだろうと思っていたんです」
「息子さんは家出をしても結婚する気だったらしい」
「ばかな伜です。世間知らずなんですよ。親の気持なんか全然わからない。すっかり松尾ミヤ子とかいう女にのぼせていた。その女に急に死なれたので、頭が混乱してしまったにちがいない。私を疑うなんて、頭がどうかした証拠です」
「中内さんとしては、彼女の自殺をどう考えますか」
「私は写真を見ただけで、直接会ったことはない。だから考えようがありませんけどね。たぶんうちの伜以外に好きな男がいたり、ほかにもいろんなことがあって、生きているのが厭になったんじゃないでしょうか。ほんとに伜と結婚するつもりだったら、自殺するはずがありません。結極、伜はあの女に騙されてたんですよ」
「息子さんは、いまどこにいますか」
「私に怒鳴られて出て行ったきりですが、勉強部屋にいると思います。私が借りてやった小さなマンションです。試験に合格したし、もう勉強部屋もいらないから、マンションは今月いっぱいで引き払うことになっています」
「それで、わたしにご用というのは何でしょう」
「あの女が自殺した理由を、はっきり突きとめて頂きたいんです。そうしないと、私も伜も落着きません。ばかな伜だが、私はやはり伜が可愛い。伜だって、あの女の正体がわかって冷静になれば、きっともとのような伜に戻る。こんなことで親子の仲に罅《ひび》を入れられたのではやりきれない」
「松尾ミヤ子は死んでしまったが、調査は続行ということですか」
「そうだよ」大隈弁護士は機敏に口をはさんだ。「条件もすべて従前どおりだ」
「調査料は」
「それはわたしとあんたの話だ。前と同じだが、お客さんの前では失礼になる。あとで話そう。それじゃ中内さん、任せていただけますか」
「よろしくお願いします」
「もう心配いりません。大船に乗った気持でいてください」
大隈弁護士はひとりで喋りまくり、二度とわたしに口を出させなかった。
中内義造が帰った。
大隈弁護士はほっとしたようだった。そして、一万円札を十枚数えてわたしの前に置いた。
一枚くらい足りないことがあるので、わたしは慎重に数えて受け取った。
5
空がどんより曇っていた。
進一の友だち三人のうち、まず小杉の自宅へ電話をかけた。
母親らしい女の声で、出かけているという返事だった。
「学校ですか」
「いえ。学校はもうひけたと思います。勉強部屋にいるかもしれません」
女の声は三楽荘というアパートの電話番号を教えてくれた。進一と同じように、小杉も勉強部屋を持っているのだ。
進一の話によると、小杉の父は食品会社の重役、川本の父はある公団の理事、佐山の父は広告会社に勤めていた。
わたしは三楽荘のダイヤルをまわした。
小杉は留守らしかった。
つづけて川本の自宅へ電話をした。
川本の声がでた。
わたしは刑事を装って、松尾ミヤ子について聞きたいことがあると言った。
「警察へ行くんですか」
「いや、お宅へ訪ねてもいいが、わたしはいま有楽町にいる。なるべくなら、ここから近いほうがいい」
川本の家は中野だった。
彼はしばらく間を置いたが、四谷の喫茶店の名をあげた。
わたしは約束の時間をきめて、電話を切り、引き続き佐山の家へダイヤルをまわした。
佐山も家にいたので、一時間ずらして同じ喫茶店で会うことにした。
わたしは地下鉄で四谷へ行った。
川本は十分ほど遅れてきた。小柄で、おとなしそうな男だった。ニキビをつぶした痕《あと》が、ところどころ赤く腫《は》れていた。
彼は新聞で松尾ミヤ子の自殺を知ったと言った。
「夕刊を見てびっくりしました。彼女が自殺するなんて、想像したこともなかった」
「なぜ自殺したのか、思い当たるようなことはありませんか」
「ありません。ぼくは五、六回しか会ってないけれど、いつも元気そうだった」
「どこで知り合ったんですか」
「新宿のラナタンというスナックです。彼女は週に二回か三回くらい、アルバイトにきていたんです。べつに面白い店でもないけれど、新しいロックのレコードを聞かせるので、たまに新宿へ行くと、たいていそこへ寄っていました」
「中内進一くんもその店の常連ですか」
「彼に会ったんですか」
「彼は松尾ミヤ子の自殺を信じないと言っている」
「なぜだろう」
「彼女と結婚する気でいたらしい」
「ほんとですか」
「ちがうのか」
「いえ。彼がそういうなら、そうかもしれない。仲がいいことは確かだった。ぼくなんかより、ぐっと気が合っているようだった。でも、結婚するなんてことまでは聞いていなかった」
「ほかの仲間も知らなかったろうか」
「知らなかったと思うな」
「小杉くんは」
「彼はぼくより中内と親しかったけれど、やはり知らなかったんじゃないかな。知っていたら、話題になったはずだ」
「佐山くんはどうだろう」
「知らなかったと思います。仲間といっても、みんな勉強に追われていて、いっしょに遊ぶようなことはほとんどなかった。ラナタンで会っても、レコードを聞きながらコーラかコーヒーを飲む程度です。中内は司法試験にパスしたからいいけれど、ぼくなんか女と遊ぶ気も起きない。遊んでもつまらないんです」
「きみたちの仲間で、試験にパスしたのは彼だけですか」
「そうですね。ラナタンにくる連中では、中内だけかもしれない」
「松尾ミヤ子に、いちばん最近会ったのはいつだろう」
「ずいぶん会わないな。二カ月くらい会いませんよ。最近はラナタンへ行っても、彼女はアルバイトしていないみたいだった」
「中内くんのほかに、彼女に惚れていた男はいないかな」
「それはいたと思うけれど、特にだれというふうには知りません。彼女は割合きれいだったし、みんなにモテていたようだった」
「彼女のほうが惚れていて、失恋したということはないのだろうか」
「知りません。ぼくはそれほどつき合っていなかった。夕刊を見て驚いて、佐山に電話をしたら彼もびっくりしていた」
「小杉くんは」
「彼も驚いてました」
「中内くんは」
「彼は家にも勉強部屋にもいなかった」
「その後彼に会いませんか」
「ええ。電話もかけてきません。彼は試験にパスしてから、あまり学校にもこなくなっている」
「藤井伸子を知ってるでしょう」
「知ってます。彼女はまだラナタンでアルバイトしてるはずです。ラナタンのマスターは、彼女の叔父さんだって聞いたことがある。それでアルバイトを頼まれてるんですよ」
「彼女には好きな男がいないのだろうか」
「さあ、聞かないな。彼女はそういうことに無関心みたいで、色気より食い気という感じです」
川本とわたしが話しているところへ、やがて、約束より三十分も早く佐山が現れた。ジーパンにポロシャツという恰好で、眼の細い太った男だった。体と同じように、神経も鈍重な感じだった。
しかし、彼は川本よりこまかい観察力があるようで、中内とミヤ子の仲がかなり深く進んでいることに気づいていた。
「中内に直接聞いたわけじゃないけど」佐山は言った。「中内は相当惚れていたし、彼女もまんざらじゃないみたいだった。ふたりの様子を見ていればわかりましたよ」
「すると、ことによったら、彼女は中内くんに振られて自殺したのだろうか」
「まさか――、ぼくはそんなふうに考えられると思って話したわけじゃない」
「例えばの話さ」
「ぼくはそう思わないな。三、四日前に会ったときは中内のほうが憂鬱そうで、彼が失恋したんじゃないかと思ったくらいです」
「彼女は」
「彼女にはしばらく会わなかった」
「とにかく、なぜ自殺したんだろう」
「わかりません。川本ともさんざん電話で話し合ったが、結局わからなかった。小杉も見当がつかないと言っていた」
「中内くんとも話しましたか」
「いや、電話をしたけど留守だった」
「彼は松尾ミヤ子の自殺を信じられないでいる。殺されたんじゃないかと疑っているらしい」
「彼にしてみれば、そう考えたいのかもしれない。でも、自殺ということは確かなんでしょ」
「自殺とは言い切れない。遺書がなかったんだ」
「自殺するものが、かならず遺書を書くとは限らないでしょう」
「それはそうだがね」
「もし殺されたとすれば、いったい誰に殺されたのだろう」
「心当たりはありませんか」
「ないですね。彼女はきれいだけれど、どっちかといえば目立たないほうで、派手に遊びまわる女じゃなかった。口数も少なかったし、化粧もしていなかった。といって、陰気な感じでもない。一種の魅力がありましたよ。勉強なんかでへばったとき、彼女といれば心が休まるような魅力だった」
「母性的な魅力ですか」
「母性的とも少し違ってました。うまく言えないけれど、男にとっていちばん欲しいような魅力があった。ぼくはそう思っていた」
「あんたも惚れましたか」
「ぼくは好きな女がほかにいますよ。そんな浮気じゃありません」
「話は違うけれど、中内くんのお父さんはどんな人ですか」
「うるさい親父さんだということは聞いたことがあります。でも、勉強部屋にマンションを借りてやったくらいだから、ぼくの親父なんかより話がわかるし、中内くんを信頼していたことは確かですね」
「あんたは勉強部屋を持っていないんですか」
「四畳半一間の安アパートでいいと言って頼んだけれど、問題にもされなかった」
「川本くんは」
「ぼくも駄目です。簡単に断られてしまった」
「そんなに勉強部屋がいいのかな」
「家にいると気が散るんですよ。気が散るというより、縛られている感じが厭なのかもしれない。勉強なんか放り出して、学校を辞めたくなることがある」
「ぼくもそうだな」佐山が言った。「世間に出てからの肩書なんかどうでもいい。もっとのんきに暮らしたいと思うことがある」
「小杉くんはどうだろう」
「彼はぼくなんかより真面目ですよ。迷わないで勉強している」
「彼にも会いたいんだが、電話をしたら留守らしかった。どこにいるのだろう」
「勉強部屋にいませんか」
「いなかった」
「昨日の夕方は勉強部屋にいましたけれどね。でも夜はもういなかったから、するとドライブかな。彼は車だけが唯一の趣味で、思い立つとかなり遠くまで飛ばすことがあるらしい。オースチンのミニクーパーを持っているんです」
「話が戻るけど、三、四日前に佐山くんが中内くんに会ったとき、憂鬱そうだった理由は何だろう」
「知りません。口もききたくないようなので、すぐに別れてしまった」
松尾ミヤ子が自殺した理由はわからない。
かりに殺されたと考えても、犯人の見当はつかないし、なぜ殺されたかもわからない。
話は堂々めぐりだった。
6
川本と佐山は喫茶店に残るというので、わたしだけ外へ出た。
日が暮れていた。
食事をしてから、新宿西口のラナタンへ行った。
割合広い店で、長いカウンターのほかに、テーブルも十卓くらいあった。レコードの音楽がうるさくない程度に流れていた。打楽器の多いラテンふうのロックだった。
ウェイトレスは三人いたが、藤井伸子の容貌は川本に聞いていたので、すぐにわかった。川本は色気がないように言っていたが、そうでもなかった。丸ぽちゃで、愛らしい顔立ちだった。体重は十キロか十五キロくらい減らしたほうがよさそうだが、どことなく沈んで見えるのは、親友のミヤ子が死んだせいかもしれない。
わたしは自分の職業を言って、彼女を店の外へ誘った。刑事のふりをするより、そのほうが正直に話してもらえると思ったのだ。
「ぼくは進一くんのお父さんに頼まれて、ミヤ子さんの身元などを調べることになっていた。ところが何も調べないうちに突然死なれて、お父さんも進一くんも落着けないでいる。つまり、事情をはっきり知りたいんです。忙しいのに済まないけれど、ちょっと時間をつくってくれませんか。立話でいい」
「それじゃ、マスターに断ってくるわ」
伸子は承知した。
わたしは店を出た。
間もなく伸子も出てきた。
筋向かいの不動産屋が白いカーテンを下ろしていた。
わたしたちはその店の前まで歩いた。
「進一くんから連絡はありませんか」
「ええ」
「彼は相当ショックを受けていると思うけれど、ミヤ子さんの自殺について、あんたはどう思いますか」
「信じられないわ。ミヤ子はとても幸福だったはずなのよ。あたしの何倍も幸福なはずだったわ。あたしに会うと、中内さんのことばかり話していた」
「彼とミヤ子さんが結婚する約束をしていたというのは、ほんとですか」
「ほんとです。中内さんからもミヤ子からも聞きました」
「しかし、彼の両親は反対していたらしい」
「そのことも聞きました。でも、だれに反対されても結婚するといって、中内さんはミヤ子を励ましていたわ」
「それなのに、なぜ自殺したんだろう」
「だから不思議なのよ。全然わからないわ」
「何か理由があったにちがいない」
「そうね。ミヤ子はあたしに隠していることがあった。どんなことか教えてくれなかったけれど、とにかく隠していることがあって、悩んでいたみたいだったわ」
「それはいつ頃からですか」
「十日くらい前だったかしら。あんまり暗い顔をしているので、中内さんと喧嘩したんじゃないかと思って聞いたことがあるの。でも、そうじゃないと言ってたわ」
「体の具合が悪かったのだろうか」
「そうでもなかったみたい」
「すると何だろう」
「聞いても、教えてくれなかったのよ」
「金に困っていたとか、与太者に脅《おど》されていたとか、そういうことはないのかな」
「そういうことなら、あたしに相談したはずだわ。それまでは何でも打明けてくれていたし、あたしもミヤ子には何でも話していた」
「きみにも相談できないようなことって、何があるだろう」
「死ぬ前の日に会ったときも悲しそうな顔をして、気になっていたのよ」
「中内進一のほかに、好きな男がいたということはないかな」
「それはなかったと思うわ。男といえば中内さんだけ、ほかの男なんか存在しないみたいで、中内さんと結婚できなかったら死ぬかもしれないと言ってたことがある。真剣に愛してたわ」
「佐山くんに聞いたが、最近、中内進一も憂鬱な顔をしていたらしい」
「なぜかしら」
「理由は彼も知らなかった」
「ミヤ子と愛し合って、試験は合格したし、お家は金持で、憂鬱なことは何もなかったはずよ」
「結婚を反対されて、気持がぐらついていたのだろうか」
「中内さんはそんないい加減な人じゃないわ。純粋よ。弱虫でもないわ」
「わからないことばかりだな」
「わけも教えてくれないで勝手に死ぬなんて、あたし、腹が立ってたまらないくらいよ」
「彼女は睡眠薬を常用してたんですか」
「知らなかったわ」
伸子はサンダル・シューズの踵《かかと》で、風に吹かれてきた紙屑を踏みにじった。
ミヤ子は暗い顔をしていたという。進一も憂鬱そうだったという。
なぜなのか。
ミヤ子のせいで進一は憂鬱になっていたのか。それとも、進一のせいでミヤ子の顔が暗かったのか。当たり前の感情を持っているなら、相手の信頼を裏切るときは自分も暗い顔になったり憂鬱な顔になったりするだろう。
現実に命を絶ったのはミヤ子である。
とすると、進一がミヤ子を裏切ったのか。
しかしそれなら、なぜ彼は死んだ女の部屋を訪ねてきて、自殺ではないと言って刑事たちを戸惑わせたのか。なぜそのような真似をする必要があったのか。放っておけば済むはずではなかったのか。
あるいは、自分のせいではないということを言いたかったのだろうか。
しかしそんな真似をしても、もし遺書があって、彼に裏切られたことが書いてあれば、彼の言い分は通らない。法律には触れないが、一人の女を死なせた責を免れることはできない。
進一の行為は矛盾《むじゆん》だらけだ。
「あたしは中内さんを信じるわ。ミヤ子は、中内さんにもあたしにも言えない訳があって死んだのよ。そう思うしかないわね」
伸子は寂しそうに俯《うつむ》いて言った。
7
伸子と別れて、小杉が勉強のために借りているアパート三楽荘へ電話をした。
やはり留守らしかった。
電話帳で調べると、三楽荘は阿佐谷だった。自宅の住所とそう離れていない。
わたしは念のため行ってみることにした。前金で十万円受け取ったので、無駄と思う仕事にも念が入っていた。
地下鉄を下りてから、三楽荘への道順は交番で聞いた。
静かな住宅地の一部で、高級そうなアパートだった。わたしが住んでいるアパートと格段にちがって、駐車場もついていた。
――帰ってきているのか。
わたしは駐車場を見てそう思った。オースチンのミニクーパーが駐っていた。
二階から下りてきた中年の女性に、小杉の部屋を聞いた。
一階の左から三番目、C号室だった。
C号室は明りがついていた。
ブザーを鳴らした。
返事がなかった。
ノックをしても同様だった。
ドアのノブをまわしてみると、錠がかかっていなかった。
わたしはドアをあけた。
入ったところが板の間のキッチン・ルームで、一段高くなった六畳間に男が倒れていた。頭を玄関のほうに向けて、右手が板の間に垂れていた。
わたしは腕時計をみた。
八時五分過ぎだった。
わたしは部屋に上った。
声をかける必要はなさそうだった。倒れている男は、顔も手も冷えきっていた。首を絞められた痕が歴然としていた。しかし、首を絞めた細紐《ほそひも》の類は残っていなかった。抵抗したらしく、喉に自分で掻《か》きむしったような爪痕があり、ピンク色の開襟《かいきん》シャツは右袖がちぎれていた。襖が破れ、灰皿がひっくり返っている。
机の上に電話機があった。
少し迷ったが、すでにわたしの姿は交番の巡査やアパートの住人に見られていた。わたしが小杉を探していたことは、川本や佐山たちも知っている。
わたしは一一○番のダイヤルをまわした。
厭な連中に会わなければならない。
わたしは気が重かった。
やがて、まずパトカーを先陣に、機動捜査隊から所轄署の刑事はもちろん、本庁の鑑識や捜査一課の刑事たちもぞくぞくと駆けつけてきた。
わたしはたちまち質問責めにあった。予期していたが、わたしを知っている刑事も少なくなかった。
いちばん会いたくなかった相手は馬場沢警部だった。かつてのわたしの上司だ。赤ら顔のずんぐりした男である。
「珍しいところで会ったじゃないか」
警部は獲物を見つけたように言った。わるい人物ではないが、わたしとは性《しよう》が合わなかった。
「お元気ですか」
「相変わらずさ。このとおりだよ。あんたも相変わらず痩《や》せてるじゃないか。飯を食ってるのかい」
「警察にいたころより食えるようになりました」
「口のほうも相変わらず減らんらしいな。ここに来たのはどういうわけだ」
「仕事です」
「何の仕事だ」
「調査です」
「まだけちな探偵をやってるのか。だれに頼まれたんだ」
「大隈弁護士です」
「依頼人の名前を言ってくれ」
「知りません。大隈弁護士に聞いてください」
「殺された男を調べにきたのか」
「さあ、どうですかね。わたしは殺された男の名前も知らない。初めて見る顔です」
「しかし、ここがだれの部屋か知って入ったはずだろう」
「小杉という男の部屋でしょう。ブザーを鳴らしても返事がないので、ドアをあけてみたらこの男が死んでいた。わたしが知っているのはそれだけです」
「被害者が小杉だということを知らないのか」
「初めて聞きました」
「おれをからかうつもりらしいな。管理人が死体を見て、そう言ってたじゃないか」
「知りませんね。ずっと質問責めで、他人の話を聞いている余裕がなかった」
「小杉に何を聞きにきたんだ」
「それも大隈弁護士に聞いてください。迂闊《うかつ》に喋ったら、飯の食いあげになる」
「警察に協力しないと言うのか」
「そんなことは言っていない。自分の生活を守ろうとしているだけです」
「自分が刑事だったことを忘れたのか」
「忘れません。警部にはずいぶん世話になった。お蔭で警察を辞めましたからね」
「今度は厭味か」
「そう聞こえますか」
「聞こえる」
「それじゃそうかもしれない」
「うむ」
警部は唸《うな》った。いまにも食いつきそうな眼でわたしを睨んだ。
わたしは煙草に火をつけた。
煙草がうまかった。
「留置場《ぶたばこ》にぶち込まれないように気をつけろよ。そのときは可愛がってやるからな」
警部は捨《すて》台詞《ぜりふ》を吐いて背中を向けた。毎度お馴染《なじみ》の決まり文句だった。
わたしはようやく解放されて、ごった返しているC号室を出た。
すると、新聞記者の与野に会った。
現場保存線の縄は、弥次馬を防ぐために街路とアパート入口の二重に張ってあって、新聞記者もアパートの入口までしか入ることを許されていない。
ほかの新聞社や放送関係の記者もつめかけているので、わたしは保存線の外へ与野を誘った。
与野は、わたしに会ったのが意外そうだった。
わたしは死体を見つけたいきさつと、死体現場の模様を話してやった。昨日、中内進一に会わせてもらった返礼のつもりだった。
「話が込み入ってきたな」与野はしきりに首をかしげた。「小杉が殺されたのは、松尾ミヤ子の死に関係があるのだろうか」
「わからないね。意外な成り行きで、おれ自身が驚いている」
「いつごろ殺されたんだ」
「鑑識の話では昨夜らしい。死んでから大分経っている。ほとんど一昼夜だ」
「格闘した形跡があるなら、犯人は男だろうな」
「女だって、強いのがいる。おれは油断して投げ飛ばされたことがある。小杉は貧弱な体だった」
「女といえば、妙な話を聞いた。松尾ミヤ子を解剖した医者から流れてきた話だが、彼女は性病にかかっていたそうだ」
「性病?」
「うん。悪質な性病だったらしい」
「意外だな」
「おれも驚いたよ」
「すると、彼女は中内進一のほかに男がいたってことか」
「さもなければ、進一に病気をうつされたことになる」
「ということは進一に、彼女のほかに女がいたことになる」
「そう考えるのが当然だな」
「そうか」
「何かわかったのか」
「いや、わかったわけじゃない」
わたしはじっとしていられなくなってきた。
8
わたしはタクシーを拾った。
もう深夜だった。
進一の勉強部屋のマンションへ行った。小ぢんまりした四階建てのマンションの、三階の北側の隅が彼の部屋だった。
明りがついていることを確かめて、ブザーを鳴らした。
「だれですか」
「わたしです」
「わたしって?」
「名前を言っても知らないはずです。でも、顔を見れば知っている。昨日会ったばかりだ」
「だれかな」
進一は不機嫌そうに言って、ドアを細目にあけた。
そのドアの隙間《すきま》に、わたしは靴の先を突っ込んだ。ドアを締められないためだった。
進一はわたしを憶えていた。
しかし、ドアを締めようとして、
「帰ってくれませんか。ぼくは寝るところなんだ」
「寝ている場合じゃない。聞きたいことがある。ミヤ子さんのことだ」
「彼女は自殺したんだ。放っといてくれないか」
「彼女は自殺じゃない、殺されたと言ったのはきみだったはずだ」
「もうどっちでもいいんですよ」
「いや、どっちでもいいことはない」
わたしは強引に玄関に入った。
進一はムッとした顔をした。その顔と腕に、ミミズ腫れのような赤い線が浮き出ていた。
「ぼくは刑事じゃない。新聞記者でもない。自己紹介をしなかったが、きみのお父さんに頼まれて松尾ミヤ子の素行を調べかけていた男だ。そして昨日は、きみが偶然彼女の部屋へ行って自殺を知ったように、ぼくもやはり偶然だった。だが、その後の出来事は偶然ではない。ぼくは今夜、小杉のアパートへ行って死体を見つけた。彼は首を絞められていた。いま、彼の死体は刑事に囲まれている」
「それがどうしたんですか」
「どうもしないなら構わない。しかし、その顔や手の傷はどこでついたのか、ぼくに聞かれなくても刑事に聞かれる。刑事に聞かれてからでは遅いから言うんだ。猫にひっかかれたなんて弁解は通らない。警察を甘くみてはいけない。松尾ミヤ子が性病にかかっていたこともわかっている」
「嘘だ」
「嘘じゃない。きみはそれを知っているはずだ。昨日、彼女を訪ねたときは知らなかったろう。それから自宅に帰ったときも、まだ知らなかったにちがいない。だが、お父さんと口論をして、この部屋にきてから知ったはずだ。彼女の遺書が、郵便で届いていたにちがいない。きみはその遺書を読んで、初めて彼女が自殺した理由を知った。それで小杉を殺したのだ」
「―――」
進一は黙ってしまった。わたしを見つめたまま、眼をそらせないで、恐怖に襲われたような沈黙だった。
「断っておくけれど、ぼくはきみを捕えにきたんじゃない。警察に突き出すつもりもない。できるなら相談にのりたい。それだけだ。きみのやったことは、きみひとりの力で背負うには重過ぎる」
「―――」
「黙っていられると、ぼくが辛い。なにか言ってくれないか」
「―――」
「それじゃもう少しぼくが話そう。きみは彼女を愛していた。親に反対されても結婚する気でいた。彼女も同じ気持だった。きみと結婚できないなら、死ぬと言っていたくらいだった。ところが、佐山くんの話によると、最近のきみは憂鬱な顔をしていたらしい。また藤井伸子に聞いた話では、ミヤ子さんも暗い顔をしていた。ふたりの間に何かあったに違いない。その前に、彼女のほうにまず何かあったに違いない。しかし、きみにはその理由がわからなかった。だからきみは、彼女の様子が気になって、昨日は学校にまで電話をかけ、彼女が欠席していると聞いたのでアパートへ行った。おそらく、きみを愛していた彼女は、いくら苦しんで考えても、自殺以外の方法を考えつかなかった。自分の命を代償にしなければ、真相をきみに告白する勇気がなかったのだと思う。純粋で、潔癖すぎたんだ」
「―――」
進一の眼に涙が光った。
彼は唇を噛みしめ、下を向いた。
彼がゆっくり考えるように、わたしは煙草に火をつけて、玄関の壁に背中をもたれた。
やがて彼が話したことは、わたしの想像したとおりだった。進一とミヤ子が愛し合っていることを知りながら、小杉は彼女を強引に犯したのだ。帰りを送ると言って、車の中で犯したという。
小杉は、試験に合格した進一を妬んでいたのかもしれない。あるいは、小杉もミヤ子に惚れていたのかもしれない。
「小杉は、自分が病気にかかっていることを気づかなかったと言った。でも、ミヤ子の病気は小杉のせいだった。ぼくはそういうことがあったことを知らないで、冷たい態度を見せるようになった彼女を疑い、厭がったのに無理な真似をしてしまった。それで彼女は、ぼくに病気をうつしたと思って悲観したんです。手紙には、死んで詫《わ》びると書いてあった。本当のことを言ってくれれば死ななくてよかったのに、ミヤ子はそういう女だった。ぼくは彼女の気持がよくわかる。よくわかっただけに、なおさら小杉を許せなかった。殺しても飽き足りなかった」
「もうその話はやめよう。これから先のことを考えなければいけない」
「どうすればいいんですか」
「親父さんに相談するんだよ。何もかも打明けて相談するのさ。親父さんはきみを愛している。きっと相談にのってくれる」
「ぼくのことを、警察に黙っていてくれるんですか」
「ぼくは刑事じゃないと言ったはずだ。裁判官でも教育者でもない。けちな私立探偵の出る幕じゃないと思っているだけだ」
わたしはドアに手をかけた。
「もう帰るんですか」
「ここにいても仕様がない。きみも早く帰ったほうがいい」
わたしはドアを押した。
コンクリートの廊下は、病院の死体置場のように静まり返っていた。
わたしは、もっと進一といっしょにいてやるべきだった。楽観していたわけではないが、帰宅すれば、世間の裏側を知りぬいている父親が何らかの打開策を考えるだろうと期待していた。
しかし、進一はわたしと別れたきり帰宅しなかった。
翌日の新聞で、わたしは彼がガス自殺したことを知らされた。
影の侵入者
1
平山は邦子と別れるとき、手切金の額で大分悩んだ。
まず百万円という額が漠然と浮かんだ。一応すっきりした単位である。結婚適齢期の二十二歳から二十四歳にわたって彼女を独占したと考えれば、決して多いとは言えない。彼女は間もなく二十五歳になる。
しかし、平山はすぐに考えが動いた。彼女との仲はもともと金銭ずくではなかった。最初は平山が無理に犯したかたちだが、その後はお互いに愉しんだはずだった。平山だけが一方的に求めつづけたわけではない。もちろん平山に妻子がいることを承知の上で、いつか別れる日がくることも承知していたはずだった。
とすると、手切金をやる必要は全くないのではないか。そんな真似《まね》はかえって彼女の自尊心を傷つけるのではないか。
平山はそう思った。そう思う心の奥で、別れてしまう女に百万円もやるのは惜しいという気持があることも確かだが、といって全然金をやらないのも可哀相な気がした。別れると言いだしたのは平山のほうなのである。飽きてきたし、日を決めて会うのが面倒にもなった。この辺が別れる潮時で、ずるずる続けていると、一生彼女を背負うことになりかねないと思ったのだ。
とにかく百万円は多い。
平山は会社で経理部の次長だが、こういう方面の計算は初めてだった。
結局、彼は学生時代からの友人で弁護士をしている志村に相談した。しばらく会っていなかったが、会えば遠慮のない話ができる磊落《らいらく》な男だった。
平山は、笑うなよ、と言ってからありのままに話した。
しかし、志村は驚いたような顔をして聞いていたが、聞き終わると、太った体を揺するように笑った。
「笑うのか」
平山は不愉快だった。
「いや、笑ったわけじゃない」
「嘘をつけ。まだ笑ってるじゃないか。おれは真剣に話したんだぞ」
「わかった。もう笑わない。平山は堅い一方だと思ってたんでね。そういう女性がいたなら、バーなどで遊ばないのも当たり前だ。上役と部下の女子社員という関係は珍しくないらしいが、平山までとは意外だった」
「誤解しないでくれ。今は部下じゃない。知れるとまずいから、ほかの会社へ勤めをかえさせた」
「三年つづいたと言ったな」
「正味二年と九カ月だ」
「よくバレなかったな」
「彼女は口が堅いし、慎重にやっていた」
「おくさんは全然気づかないのか」
「気づかないね。仕事が忙しいと思っている。忙しいのは事実だし、出張で外泊することがあるのも事実だ」
「別れることになって、万事めでたしというわけか」
「そうでもないが、彼女も潮時がわかっていたらしい」
「しかし、三年もつづいたのに、よく別れ話を承知したな」
「おれもそれを心配したが、案ずるより産むが易しだった。これ以上つづけても、あとは惰性だ。利口な女だから、彼女にも女としての分別があったのだと思う。いずれ結婚する気なら、いつまでおれとつき合っていても仕様がない。小当たりに別れ話を出してみたら、すぐにおれの気持がわかったみたいだった」
「泣かれなかったかい」
「大丈夫だった。そういう点は気丈な女なんだ。あとで泣いたかもしれないが、おれの前では涙を見せなかった」
「それで、いつ手切金を渡すんだ」
「いつでも構わないが、こうなったら早いほうがいいと思う。感情がこじれると厄介だからな。今週中にケリをつけたい」
「未練はないのか」
「全然ないわけじゃないが、この辺がチャンスという感じだね。とにかく手切金の相場を教えてくれ」
「手切金の相場なんてないよ。離婚や婚約不履行の慰藉《いしや》料とは訳がちがう。法律ではそういう女性の存在そのものを認めていない。公序良俗に反するという見方で、その女性は家庭の破壊者だからな。法律的には何も要求する権利がない」
「しかし、ただで済ませるわけにもいかないだろう」
「それはケース・バイ・ケースさ。情とモラル、あるいは常識の問題だ。場合によっては一千万円でも二千万円でも安い」
「おどかすなよ。おれにそんな大金があるはずがない。それこそ常識で考えてくれ」
「女のほうからは要求していないのか」
「いない。金を欲しがるような女じゃないんだ。たまには小遣いをやっていたが、まとまった金はアパートを借りてやったときだけだ」
「まさに理想的な恋人だな」
「うむ」
平山は曖昧に頷いたが、彼自身もそう思っていた。初めの頃は夢中だった。離婚して、邦子といっしょになりたいと真剣に考えたこともあった。おそらく、子供さえいなければ、本当にそうしたかもしれなかった。会社なんか辞めてもいいと思ったほどなのだ。
しかし、邦子との仲が長びいてくると、平山は冷静を取り戻した。誰にも知られないなら、このままの関係がいちばん理想的だった。妻に未練はないが、子供と別れるのは辛かった。ようやく経理部次長になれたのに、そのポストを捨てるのも惜しかった。順調にいけば部長か地方の工場長クラスの椅子が待っているはずで、そうなれば重役の椅子がまわってこないとも限らない。
そう考えると、いずれ縁が切れるとわかっている女のために、将来を棒に振るのはいかにもばかばかしかった。
平山は四十六歳である。働きざかりだが、振り出しに戻って出直すには遅い。
それに較べれば、邦子はまだ二十四歳だ。容貌も十人なみ以上だし、これから結婚するという手が残っている。
別れるなら今のうちだ。
彼はそう思った。確かに理想的な恋人で、金がかからないのが何よりありがたいが、やはり別れるなら今のうちだと思いながら半年経ち、そしてようやく別れることになったのである。
「まあ三百万かな」
志村が言った。
「三百万?」
平山は思わず聞き返した。
「年に百万として、三年で三百万さ。二号を囲っていたと思えば安い」
「冗談じゃないよ。彼女は二号なんかではない。手切金など受け取らないかもしれないんだぜ。三百万は多過ぎる」
「それじゃ百万か」
志村は三分の一に下げた。
しかし、平山はそれでも多いと思った。
2
弁護士の志村は、相談相手としてあまり役に立たなかった。
結局、平山はいくら考えても妥当な手切金の額がわからないので、腕時計をプレゼントすることにした。
値段は十万円弱である。高価だが、手切金と思えば安い。
「素晴しい時計ね。でも、こんな高いものをいただいてはわるいわ」
邦子は遠慮した。もともと遠慮深い女だった。
「そう言わないで受け取ってくれよ。この三年近い間、きみにはずいぶん世話になった。その感謝のしるしなんだ。これっきりきみの前から消えてしまう男の、形見と思ってくれて構わない」
「もう会えないのね」
「そのほうがいいだろう。ぼくがいたのでは結婚の妨げになる」
「寂しくなるわ」
「寂しいのはぼくのほうさ。きみならすぐ結婚相手が見つかる。しかし、ぼくに残されているのは仕事だけだ。二度ときみのような女性にめぐり合えるとは考えられない」
「あなただって、あたしなんかより素敵な女のひとがすぐ見つかるわ」
「冗談じゃない。そんな気があるくらいなら、きみと別れたりしない」
「そうかしら」
「当たり前じゃないか」
平山はビールのグラスを傾け、邦子にもグラスをあけさせた。早く酔って、早く眠ってしまいたかった。今夜が最後なので、彼女の部屋に泊まることになっていた。別れを惜しむ気分ではなく、終わりの儀式を済ませる感じだった。とにかく明日の朝になれば、彼女ともこの部屋とも永遠にサヨナラである。
「寝ようか」
平山のほうから誘った。
邦子は黙ったまま立ち上り、明りを消した。
しかし、ベッドに入ったが、平山は思うようにいかなかった。
「どうも調子がでないな」
「いいのよ、無理をしなくて」
「飲み過ぎたのかな」
「そうね。あたしも少し飲み過ぎたみたいなの。でも、あたしはこうして抱いてもらっているだけで沢山《たくさん》。うれしいわ」
「飲み過ぎより、気が沈んでいるせいかもしれない」
平山はそう弁解したが、実は飲みすぎでも気が沈んでいるせいでもなく、もう彼女に未練がないせいだと思っていた。会う前から気が重くて憂鬱だったのである。
3
儀式的な行為は内容を伴わないままで、平山はいつの間にか眠った。
翌朝は七時半に起きて、トーストにコーヒーだけ飲んで彼女の部屋を出るのが今までの習慣だった。九時の出社時間に間に合えばいいのである。
ところがその翌朝、彼は六時前に肩を揺って起こされた。
「大変だわ」
邦子は怯《おび》えたように言った。いつもなら、先に起きた彼女は着替えを済ましているのに、ネグリジェのままだった。
「どうしたんだ」
平山は眠い眼をこすった。
「泥棒が入ったらしいのよ」
「泥棒が?」
「ええ」
「いつ?」
「知らないわ、眠ってたんですもの。ついさっき起きて、お勝手へ行こうとして気がついたのよ」
間取りは1DKにWC、浴室つきである。玄関を入るとダイニング・キッチンで、板張りの戸を隔てた向こうが居間兼寝室になっている。二階建てアパートの一階だが、新築だし、日当たりもわるくない。ただし安普請《やすぶしん》らしくて、となりのテレビの音や、二階の物音が聞こえたりする。
「お勝手へ行こうとしたら、戸があいていて、敷居がびっしょり濡れていたのよ」
「どういうわけだ」
「知らないわ。とにかく起きて、ごらんになってよ。気味がわるいわ」
平山は起きないわけにいかなかった。
確かに、寝室とダイニング・キッチンの間の敷居がびしょ濡れだった。水はキッチンのほうへはみ出て、ビニール・タイルの床に流れていた。
「寝るときは、ここの戸は締まっていたのよ」
「トイレに起きなかったのか」
「起きなかったわ」
「おれも起きなかったぞ」
敷居の水が泥棒の仕業とすれば、それは音を立てないで戸をあけるためだろう。ほかに考えられない。
とすると、泥棒は寝室に入り、平山と邦子が眠っている姿を見たにちがいない。
「玄関のドアは」
「錠が外れてたわ。でも、それは出て行くときあけたのね」
「それじゃ、どこから入ったんだ」
「浴室の窓よ。錠をしておいたけれど、窓ごとそっくり外されたらしいわ」
平山は浴室へいってみた。
明り取りと換気を兼ねた小さな窓だった。その窓ガラスが二枚とも外れて、窓の下の塀《へい》に立てかけてあった。頑丈そうな錠がついているが、窓ごと外れてしまうのでは役に立たない。
「二万円くらいしか入っていなかったけれど、あたしはお財布から現金を盗られたわ」
「それだけか」
「いただいた腕時計も見つからないわ」
昨夜眠るとき、腕時計はケースに入れたままで、整理|箪笥《たんす》の上に置いたはずだった。そのケースは残っていたが、腕時計はなかった。
平山は慌てた。
彼の財布も二万円ほど入っていたが、やはり現金だけ盗まれていた。ほかに盗まれた物はなさそうだった。
「現金だけ狙うなんて、本職の泥棒だな、時計も一つやられているけれど」
「すぐ警察に届けたほうがいいわね」
「いや、それはまずい」
「なぜ」
「当たり前じゃないか。ふたりで寝ているところを見られている」
「でも、泥棒はあたしたちの関係を知らないわ。夫婦ならいっしょに寝ていて当然じゃないかしら」
「泥棒が捕ったときにまずいよ。そのときは、きみも被害者として呼ばれるんだぜ。きみは独身なのに、泥棒の口から男と寝ていたことがわかったらまずいじゃないか」
「あたしは平気だわ」
「ぼくは平気じゃないね。ぼくまで警察へ呼ばれることになったら大迷惑だ。それくらいなら、現金を盗まれただけだし、放っておいたほうがいい。きみの分の二万円はぼくが立替える。腕時計も、もう一度買ってやる」
「口惜しいわ」
「仕様がないよ。本職の泥棒に狙われたのは不運だけれど、その割には被害が少なかった。そう思えば諦めがつく」
「全然気がつかなかったなんて、あたしたち、よく眠ってたのね」
「大分飲んだからな」
「おかしいわね」
「なにがおかしいんだ」
「なにがって、あたしたち最後の夜だったじゃないの。それなのに泥棒に入られるなんて、少しもロマンチックじゃないわ」
邦子は屈託《くつたく》のない声で笑った。
しかし、平山は笑う気になれなかった。
4
別れるとき、平山は邦子に泣かれることをいちばん恐れていた。
だが、泥棒のおかげで邦子の笑い声を聞いて別れることができた。邦子はよほどおかしかったようで、何度もおかしそうに笑った。あるいは、別れの辛さを隠すための笑いかもしれないが、とにかく深刻にならないで別れることができた。
その点、平山は泥棒に感謝したいくらいだった。
平常通り出勤して机に向かうと、心の底から安心感がこみ上げてきた。これで邦子との仲も無事に終わったという安心だった。もう一度腕時計を買ってやる羽目になったが、それにしても手切金と思えば安い。
彼は昼休みに銀座へ足を伸ばすと、もう邦子に会わないほうが無難な気がしたので、同じ腕時計を買って彼女の自宅へ配送してくれるように頼んだ。そのとき、一万円札二枚を封筒に入れ、腕時計のケースといっしょに包んでもらうことも忘れなかった。
それから四日経った。
平山は早くも邦子を忘れかけて、ほとんど思い出すこともなかった。
ところが、夕方近くなって見知らぬ女から電話がかかってきた。
「経理部次長の平山さんですか」
聞き憶えのない女の声だった。
「ええ、平山ですが」
「あたしがわかるかしら」
「さあ――?」
考えたが、見当がつかなかった。社用で料亭やクラブへ行くことはあるが、こんな馴れ馴れしい電話をかけてくる女はいないはずだった。
「失礼ですが、どなただったでしょう」
「当たったらえらいわ」
「難しいですね。どうも思い出せない」
「四、五日前に会ったばかりよ」
「四、五日前に?」
「場所は駒込だったわ」
平山の脳裡に不吉な想像が走った。
四、五日前といえば、最後に邦子と会った日に近い。
邦子のいるアパートが駒込である。
「駒込のどの辺ですか」
「青柳荘というアパートの一階よ」
いよいよ間違いなかった。邦子がいるアパートだ。
平山は胸を抑えつけられたような息苦しさを感じた。
「ご用件をおっしゃってください」
「会ってから話すわ」
「会わなければいけないんですか」
「そうね。あんたもあたしの顔を見たいんじゃないかしら。今、会社の近くの喫茶店にいるのよ。歩いて一分もかからないわ」
「わたしがそっちへ伺うんですか」
「あたしのほうから行ってもいいわ。そのほうがよさそうね。会社の応接室なら、まわりに誰もいなくて落着けるわ」
「お名前を言ってください」
「あたしの名前なんか知る必要ないわ」
「しかし、受付で名前を聞かれますよ。答えなかったら変に思われる」
「電話で連絡してあると言えばいいんじゃないかしら」
「いや、やはりおかしいと思われる」
「それじゃ飯野にするわ」
「飯野――?」
「いけないかしら」
「わかりました」
平山は電話を切った。
飯野というのは邦子の名字だった。もはや、電話をかけてきたのは邦子に関係のある女に間違いなかった。
しかし、いったいどういうわけなのか。邦子に何か言い含められてきたのか。
だが、いったい何を言い含められたのか。
平山はわからなかった。いらいらして、机に向かっていられない気持だった。
一階の受付から、来客の連絡をしてきたのは、それから間もなくだった。
「飯野さんという方がご面会です」
と受付嬢は言った。
平山は、正体の知れない女を応接室に通すのは気がすすまなかった。不安なのだ。それで、自分が下りてゆくことにした。
エレベーターで一階に下りた。
正面玄関の受付からやや離れて、各階の部課の配置を掲示してある案内板を見上げている女がいた。
若い女らしいが、背中を向けているので顔はわからなかった。裾の広いジーパンにサンダル・シューズを突っかけ、焦茶色の褪《あ》せたようなセーターを着て、染めたらしい栗色の髪が肩に流れていた。背は百六十センチぐらい、ほっそりした体つきである。
受付で聞くと、その女が面会人だった。
「お待たせしました」
平山は声をかけた。
女が振り返った。やはり若かった。二十三、四歳である。化粧をしていないが、鼻筋の整った美人だった。しかし、どことなく粗野な感じだ。眼がきつい。
「あいにく応接室がふさがっているんです。歩きながらお話を聞きます」
「歩きながらなんて、あまり大事なお客じゃないみたいね」
「そういうつもりではない」
平山は先に立って玄関を出た。
商社や銀行などが集まっているビル街で、人通りは少なかった。
「わたしの名前は誰に聞いたんですか」
「名刺を一枚頂戴したわ。手帳も見せてもらったし、ほかにもいろいろ見せてもらって面白かった。割合可愛い寝顔だったわ」
「―――」
平山はドキッとした。まったく想像外だった。
「この時計に憶えがないかしら」
女は左の腕を平山の前に出した。
平山が邦子にプレゼントした腕時計が光っていた。現金といっしょに盗まれた腕時計である。
平山はしばらく口がきけないで、足も自然にとまってしまった。
女はおもしろがっている様子で、腕時計と平山の顔を見較べていた。
「まだわからないの」
「すると、きみはあの晩の泥棒か」
「ようやくわかったらしいわね。あんたも飯野邦子という女も、とてもよく眠ってたわ。毛布なんかずり落ちちゃって、カメラを持っていたら記念に撮ってやりたいと思ったくらいよ。女の腰に貼りついたような恰好で、あんな恰好で熟睡できるなんて感心したわ」
「浴室の窓から入ったんだな」
「そうよ。ゴミ入れのポリバケツがちょうどいい踏台になったわ。ああいう安っぽい建物は、鍵などかけても駄目ね。大抵窓がそっくり外れるから、留金で外れないようにするとか、近所の金物屋で相談するといいわ。危険よ。あたしだからよかったけれど、たちの悪い泥棒だったら何をされるかわからないわ」
「以前からあの部屋を狙っていたのか」
「通りかかったら、何となく入りやすい気がして、つい入りたくなったのよ。もっと現金があると思ったのに、それだけは見込みちがいでがっかりしたわ」
「きみは泥棒が本職か」
「どうかしら」
「本職らしいな」
「そう思うなら、そう思われてもいいわ。光栄よ」
「しかし、ぼくにそんな話をして怖くないのかな。警察に引っ張ってゆくかもしれない」
「あんたにそれだけの勇気があるかしら」
「どういう意味だ」
「あたしは彼女の日記を見たのよ。全部読む時間がなくて残念だったけど、終わりのほうだけでもずいぶん面白かったわ。あんたみたいな狡い男に騙されるなんて、あの女も相当のばかね。玩具《おもちや》にされただけじゃないの」
「日記にそう書いてあったのか」
「日記にはそんなふうに書いてないわよ。呆れるほど純情で、騙されたことにも気がついてないわ」
「ぼくは騙したわけじゃない」
「あたしにそんなこと言っても駄目よ。あのばかな女とちがうわ。男の手口はみんな同じね。うまいこと言ってさんざん遊び相手にして、飽きたら紙屑みたいにポイと捨てる。あの女はおとなしく諦めてるようだけれど、あたしは許せないわ」
「許せないって、どうする気だ」
「罰金よ。というより手切金ね。あの女の代わりにあたしがもらうわ。年に百万円として、三年だから三百万ね」
女は弁護士の志村と同じ計算をした。冷笑するような口調である。
「それは筋がちがう。きみにお金をやるくらいなら、彼女にやる」
「あの女は放っとけばいいのよ。欲しがっていない女にやる必要はないわ」
「やれば喜ぶにきまっている」
「だったら彼女にもやることね。あたしはあたしでもらうわ」
「きみは泥棒だぜ」
「だからどうしたっていうの」
「泥棒が被害者を恐喝《きようかつ》するのか」
「そういうことになるかしら」
「なるじゃないか」
「そうね、認めてもいいわ。もし三百万出さないなら、あんたと彼女のことを会社じゅうの人につぎつぎ電話で知らせ、あんたのおくさんにもこまかく教えてやる。近所の人たちにも言い触らしてやるわ」
「冗談はいい加減にしてくれ。第一、三百万なんて大金を都合できるわけがない」
「無理しても都合するのよ。あんたは大会社の経理部で次長をしてるんじゃないの。ちょっと帳簿をいじくれば、三百万くらい何とかなるはずだわ。会社から借りてもいいし、貯金だってあるはずよ」
「いや、三百万は到底無理だ。きみは誤解しているが、次長というのは経理に直接タッチしない。むしろ部下の不正を監視する役なんだ。娘を私立の中学へ入れるために金がかかって、だから貯金も少ないし、会社から借りられる金もぎりぎりまで借りてしまっている」
「嘆言《なきごと》は聞きたくないわ。あたしは決心したら徹底的に実行するのよ。期限は一週間、三百万はもちろん現金ね」
「せめて五十万にしてくれないか」
「ずいぶん値切ったわね」
「五十万なら何とかできる」
「見損《みそこな》わないでよ。あたしは夜店の叩き売りじゃないわ」
「よし。きみがそう言うなら、おれだって覚悟をするぜ。警察に訴えるかもしれない」
「どうぞ、訴えられたって平気だわ。警察ならお馴染よ。前科がふえても、痛くも痒《かゆ》くもないわ」
「前科があるのか」
「前科なんか怖がっていたら、あたしたちの商売は食い上げよ。お利口な頭でよく考えることね。三、四日したら、また電話するわ」
女は踵《きびす》を返すと、からかうように「バイバイ」と手を振って行ってしまった。
平山は、呆然《ぼうぜん》として女のうしろ姿を見送るばかりだった。
5
平山は、憂鬱な毎日がつづいた。
その後、邦子からは腕時計が届いたとも何とも音沙汰がないが、彼女に相談したところでどうなるものではなかった。
しかし、そう思いながらやはり気がかりで、一度だけ彼女の帰宅した頃を見計らって電話してみた。
「腕時計は届いたかな」
「ええ、どうもありがとう。うれしかったわ。お礼を言わなければと思ったけれど、かえってご迷惑かと思って遠慮したのよ」
「迷惑ということはないさ。ほんとは会って直接渡したかったが、もう会わない約束だったからね。それでぼくのほうこそ遠慮して配達させたんだ」
「盗まれた二万円もいただいたわ」
「そういえば、泥棒はあれっきり現れないだろうな」
「もちろんあれっきりよ。怖いから、二度と入られないように工事してもらったわ」
「とにかく気をつけたほうがいい。きょうは腕時計が届いたかどうか気になっていたんでね、それでちょっと電話したんだ。これからはもう電話しないけれど、幸福を祈ってるよ。ぼくもきみに会えなくて寂しいが、何とか頑張っていく」
「あなたのことは忘れないわ」
「ぼくも忘れないよ」
話が湿っぽくなりそうだった。
「それじゃ――」
平山はそうそうに電話を切った。泥棒が彼女のところにも現れていないか知りたかっただけで、あとは用がなかった。恐喝のことで愚痴をこぼしても、彼女が役に立つわけではない。内心いい気味だと思われるかもしれないし、同情して中途半端な金を都合されたりしたらよりを戻すことにもなりかねない。
――三百万円か。
平山は何度も溜息をついた。会社の共済組合から百万は借りられる。妻に内緒の金も百万くらいならある。それに株を売れば、三百万円は都合できない額ではなかった。
しかし、相手が泥棒とわかっていながら、しかも縁の切れた女性関係のために三百万円も巻き上げられるのは、どう考えても納得できなかった。
――ばかばかしい。
彼は腹が立った。
泥棒女に会ってから四日目、彼女が予告どおり電話をかけてきた。内線電話ではなく、平山の机に置いてある直通電話だから交換手に聞かれる心配はないが、その電話番号は彼の名刺に刷ってあったのだ。
「お金の都合はどうかしら。あたしのほうは期限前でもいいのよ」
「それどころじゃない。目当てがつかなくて参っている」
「あと三日だわ」
「無茶を言わないでくれ」
「泣いてるみたいな声ね」
「真面目に答えてくれないか。半分ならどうにかなる」
「駄目よ。あたしは徹底的にやると言ったはずだわ」
「うむ」
平山は唸った。
唸っている間に、電話は一方的に切れてしまった。
そして、翌日も翌々日も、女は正午きっかりに電話をかけてきた。
「いよいよ明日ね。待ち遠しいわ」
女の声は弾んでいた。
「ぼくは蒸発したい心境だよ」
平山は周囲に聞こえないように、低い声で言った。
「明日の午後三時、この時間はただの脅しじゃなくて時限爆弾の針と同じよ。三時ちょうどに会社の入口で待ってるわ。そのとき、もし三百万持ってこなかったら爆発するという仕掛けね。猛烈な勢いで爆発させてやるわ」
「どうしても三百万か」
「まだそんなこと言ってるの」
「本当に苦しいんだ」
「往生際《おうじようぎわ》がわるいのね」
「少しは察してくれ」
「駄目よ」
またしても一方的に電話が切れた。
平山は頭を抱えた。
6
悩み抜いた平山は、ふたたび志村の法律事務所を訪ねた。
「ひどい目に遭ってるんだ。智恵を貸してくれ」
平山は恥を忍んで、洗い浚《ざら》い話した。
「それは災難だな」
今度は志村も笑わなかった。
「最後の晩が一日ずれていればよかったんだ。運がわるいとしか言えない」
「警察に訴えるのは、どうしても厭か」
「それが出来るくらいなら悩んだりしない」
「弱いな」
「弱いんだよ。泥棒はこっちの弱みを知っていて、だから強く出てるんだ」
「しかし、その女は泥棒じゃないぜ」
「泥棒じゃない?」
「おれの勘では彼女のうしろに黒幕の男がいる。その男が泥棒さ。浴室の窓を外したり、音がしないように敷居に水を流す手口は本職の泥棒だが、女にはちょっと無理な気がする。度胸もよすぎるよ。多分泥棒はその女の愛人か何かで、自分が表面に出たくないから、女を恐喝役に使ってるんじゃないかな」
「なぜ表面に出たくないのだろう」
「たとえば人相に特徴がありすぎるとか、その後病気で寝込んでしまったとか、いろいろ考えられる」
「すると、彼女は男の指図で動いているのか」
「かもしれない。だから、彼女の判断で三百万を半分にまける、なんてこともできないんじゃないかな」
「いったい、どうすればいいだろう」
「最初に弱みを見せたのが間違いだよ。あくまでも強気で突っ張ればよかったんだ。そういう相手に対しては、おとなしく金を払うか、警察に訴えるか、勝手にしろと言うか、この三つの方法しかないが、いちばんいいのは勝手にさせることだ」
「しかし、へんな噂をばらまかれるぜ」
「それくらいは覚悟しておくのさ。自分が蒔《ま》いた種だから仕様がない」
「会社の信用がガタ落ちで、家庭も滅茶滅茶になるんだぞ」
「已むを得ない」
「冷淡だな」
「冷淡なわけじゃない。おれは法律家として話している。これからでも遅くない。突っ返すか、訴えるか、さもなければ金を払う。まだ選択の余地は残っている」
「うむ」
平山は考え込んでしまった。
7
志村が教えた三つの方法は、ますます平山を混乱させたが、そのどれかを選ぶというより、泥棒だと思っていた女の背後に男がいて、そいつが本物の泥棒ではないかという意見が悩みをいっそう深刻にした。
その晩、平山はとうとう眠れないで朝を迎えた。
もはや絶望的な気持だった。
例の女を突っ返したら、黒幕の男がどんな手段に出てくるかわからない。女を警察へ突き出しても、それこそ黒幕の復讐が恐ろしい。
とすると、やはり三百万渡す以外にない。
彼はふらふらになった頭で、ようやく決心した。
いったん出勤してから、午前中に証券会社や銀行をまわって金策した。
午後三時。
彼は三百万円の札束を入れた大型の茶封筒を持って、エレベーターで一階に下りた。
玄関を出ると、例の女が舗道の端の並木に寄りかかっていた。初めて会ったときと同じジーパン・スタイルで、セーターも着古したような焦茶色だった。
「三時ぴったりね」
女は盗品の腕時計をみて言った。ほとんど無表情だが、それが却って緊張を示しているように見えた。
「少し歩こう」
平山は促して先に立った。
「お金は」
「都合したよ。百万円の札束が三つ、この封筒に入っている」
「これで、今夜から安心して眠れるわね」
「心配してたのか」
「あたしは心配なんかないわ。あんたのことを言ったのよ」
「ひどい目に遭ったぜ」
「少し同情してもいいわ」
「同情は沢山だ。それより、もう二度と現れない約束をしてくれ」
「もちろんこれで終わりよ。ご心配無用だわ」
「きみには黒幕がついている。そいつが気になるんだ」
「おかしなことを言うのね。何のことかしら」
「きみは操り人形に過ぎない。泥棒もきみの仕業ではない。そうだろう」
「おもしろい話だわ」
「ちがうというのか」
「どうかしら」
「ここまでくれば、本物の泥棒が誰だろうと同じだがね。とにかく、二度ときみの顔を見たくないし、こんな苦労もごめんだ。それだけは承知しておいてもらう。もし、まだ甘い汁を吸えると思って現れたら、おれは仕事も家庭も投げ出して君たちと戦う。きみの亭主か恋人か知らないが、そいつにもそう伝えてくれ」
「わかったわ」
「ほんとだな」
「ほんとよ」
「それじゃ三百万円だ。中味は数えなくても間違いない」
平山は封筒を渡した。
女は封筒を覗いて手を入れたが、指先の感触で札束を確かめたらしく、数えないまま、肩にさげていたザックに押し込んだ。
「名残り惜しいわね」
「きみのような女は、きっとろくな死に方をしないぞ」
「死ぬ時より、生きている間が大切だわ」
「生意気なことを言うな」
「サヨナラをしていいかしら」
「さっさと消えてくれ」
「それじゃバイバイ――」
女は折から吹いてきた風に乗るように、手を振ると、足取りも軽く去っていった。
8
泥棒に恐喝されて以来、平山は何をやってもうまくいかなかった。仕事ばかりではなく、体のほうもギックリ腰になるし、そのうち部下の横領事件が発覚して、平山は監督不行届ということで子会社へ左遷された。しかも課長に格下げで、その子会社の課長は本社の係長より低いポストだった。
恐喝事件から一年ほど経った。
平山は仕事で名古屋へ行き、その帰りの新幹線の車中、ビュッフェで邦子に会った。偶然だった。
邦子は友だちらしい女とコーヒーを飲んでいた。
平山はその女に見憶えがあった。服装も髪の色もちがうが、三百万円恐喝した泥棒に間違いなかった。
どういうわけだ。
平山はいきなり頭を殴られたような衝撃を感じた。最初は別人かと思ったが、やはりあの女に間違いない。
「お久しぶり――」
邦子が平山に気づき、近づいてきて言った。
「お元気だった?」
「まあね。きみも元気らしいな」
「おかげさまよ。前より元気になったと言われるわ」
「きみのとなりにいた女性、彼女は友だちかい」
「ええ、中学も高校もいっしょで、いちばんの親友なの。まだ有名じゃないけれど、お芝居をやってるわ。ご紹介していいかしら」
「いや、紹介されなくても、ぼくは彼女を知っている。きみと別れる最後の晩、きみの部屋に入った泥棒だ。ぼくから三百万円巻き上げた女だ」
「あら、そうだったわね」
「なんだ、知ってたのか」
「彼女に聞いたわ」
「彼女が喋った?」
「へんね。もうあなたも気がついてると思ってたわ」
「何を気がついたんだ」
「泥棒のことよ」
「どうもわからないな」
「あの晩、泥棒なんか入らなかったわ。あれはあたしの作り話よ」
「そんなばかな――」
平山は唖然《あぜん》とした。
邦子は、芝居をやっている友だちの入れ智恵で一芝居うったのだ。そして、その筋書を友だちが終幕まで演じ通したのである。
「まだ何も気づかないなんて、あなたはやはり鈍感な人だったのね。鈍感でケチで、自分のことしか考えないエゴイストよ。あたしは騙されていると言って何度も友だちに忠告されたけれど、あなたを信じきっていた。だから急に別れると言われたときは、悲しくて死のうと思ったくらいだわ。そんなあたしを見て、友だちは同情したのよ。それで考えたお芝居だったわ」
「しかし、きみは少しも悲しそうな顔をしなかった。泣きもしなかったじゃないか」
「泣いたら自分が惨めになるわ」
「とにかく驚いたな。呆れたよ。あれは恐喝というより詐欺だ」
「そうかもしれないわね。あたしは成功しないと思ったけれど、友だちは成功するほうに賭けてたわ」
「訴えられたら、どうする気だったんだ」
「それは平気よ。臆病なあなたが訴えるはずないわ」
「三百万はきみが受け取ったのか」
「彼女と山分けね。だからさっき、おかげさま、と言ったじゃないの」
邦子は愉しそうだった。
依 命 殺 人
1
瓜生は宴会が嫌いだった。たとえ下手でもみんなの前で平気で歌えるならいいが、彼は子供の頃から人前で歌うのが苦手だった。べつに音痴ではないし、車を運転しながら、あるいはひとりで飲んでいるときなど、ふっと流行歌を口ずさむことがあった。
しかし他人を意識すると、どうしても恥ずかしくて歌えなかった。三十歳にもなって、仕事は結構図太くやれるくせに、歌だけは恥ずかしいという気持が抜けなかった。
「勘弁してくれよ。ひどい音痴なんだ」
彼はいつもそう言って手を振る。さもなければ、指名されないうちに席を外してしまう。
社用の宴会や大きな宴会なら大抵それで済む。
だが、無礼講の忘年会ではそうもいかなかった。課員わずか十二、三人で、自分だけ歌わないのは気がひけた。課長の遠山が先頭に立って歌うほうだし、女子社員までひやかされながら歌う。音痴だといえばかえって面白がられ、それでも断れば自分自身が白けてしまうとわかっていた。
「なんだ、瓜生。照れる柄じゃないだろう」
そんなふうに言われることもわかっていた。
だから今夜の忘年会で、彼は自分の番がまわってくると、手を振ったりしないで古い流行歌を歌った。
後味がわるかった。歌っても歌わなくても不愉快な気分が残った。仕事のためなら辛いことも我慢できるが、こういう不快さは耐え難かった。それは理窟《りくつ》ではなくて、生まれついての性分だった。
自分がサラリーマンに向かないと思い、勤めを辞めたいと思うようになったのは、そういうことが積み重なったせいかもしれない。
しかし、とにかく一曲歌えば、あとは黙って飲んでいられた。
おれはつき合いがわるい。
彼は自分でもそう思っていた。
課長が秋田の出身なので、忘年会の場所も秋田料理の店だった。しょっつるやキリタンポの鍋を突っつきながら、そして調子のいい奴はしきりに「おこさ節」や「秋田おばこ」を歌って課長の機嫌をとり、浮かれて踊り出す者もいた。
課長の遠山は部下に対しても如才のない小太りな男だが、切れ者という評判で、来年春の人事異動では間違いなく部長に昇格すると言われていた。営業部に課長が四人いるうちの最右翼である。
会社は機械工具専門の商社で、課長の下に主任とか係長とかいう職制はない。平社員からいきなり課長で、そして部長、つぎは取締役だった。同業者の競争も烈しいが、同僚の間の競争も烈しかった。
瓜生自身はそういう競争にも向かないと思っていた。迂闊だが、入社してから不向きな自分に気がついたのだ。
会は九時半頃おひらきになった。
瓜生は手洗いに行き、いったん戻ってから席を立った。
まだ課長と、その取巻きが残っていた。
大衆的な料理屋で、上り口の土間いっぱいに靴がならんでいた。座敷ごとにまとめてあるのが女中にはわかっているらしく、
「どれかしら」
靴ベラを手にした中年の女中が、瓜生の顔を見て言った。
「――ないな」
瓜生は呟いた。
ほかのほうを見たが、やはり見当たらなかった。
「藤の間のお客さんでしょ」
「うん」
その女中が瓜生たちのいた部屋の係だった。お互いに顔を憶えている。
「色は」
「黒だ」
「紐は」
「ない」
「これじゃないんですか」
「いや、似てるけれどね」
瓜生は履《は》いてみた。少しきつかった。
「ちがうな」
「おかしいわね」
女中は土間の脇の下足棚から、黒靴を一足一足取り出してみせた。
やはり瓜生の靴はなかった。
「どなたか間違えて、先に履いていっちゃったのかしら」
「そうかもしれない、その靴が似てるよ」
「それじゃ、同じ会社の方が間違えたんですもの、これをお履きになっていったら」
「しかし、そうとも限らない。この靴の持主がまだいるかもしれないからな。ちょっと聞いてきてくれ」
瓜生は女中に頼んだ。
女中は間違えて残ったらしい黒靴を持って去った。
そして間もなく戻った。
その黒靴の持主はいないという返事だった。
「誰だろう、そそっかしい奴は。こっちのほうが上等じゃないか」
結局、瓜生は残っていた靴を履いて帰るしかなかった。
忘年会の出席者は十二人で、瓜生が帰るとき、課長のほかにまだ四人飲んでいた。先に帰った六人のうち、二人は女だし、もう二人も瓜生より体が大きくて足も大きそうだから、とすると間違えた奴は保坂か松井のどっちかということになる。
いずれにせよ、明日明後日は休みだが、出勤すればわかることだった。
2
瓜生は寝不足だったので、寄り道をしないで帰宅した。
六畳と四畳半のアパートに独り住まいで、誰が待っているわけでもなかった。好きな女がいたが、ほかの男と結婚してしまった。最近も好きになりかかった女がいたが、その女は無断で消えて行方がわからなかった。
おれは女に縁がない。
彼はそう思うようになっていた。
急いで結婚したいという気持もないから、張合いはないが気楽な生活だった。
ところが、帰宅すると入口の近くに左千子が待っていた。遠山課長の妻である。同じ社宅にいたことがあり、麻雀に誘われたことなどもある仲だが、それ以上に深くなってはいなかった。
しかし、彼女が瓜生のアパートを訪ねたのは今度で四回だった。電話は始終かかってきている。
「割合早かったわね」
左千子はコートの襟を立てていた。それほど寒くないというより、十二月にしては珍しいくらい暖かい晩だった。
「どうしたの、こんな時間に」
「家にいてもつまらないのよ」
「しかし、ここはまずいよ」
「なぜかしら」
「きみは課長のおくさんじゃないか」
「まだそんなふうに言うのね。冷たいわ」
左千子は寂しそうに声を落とした。
瓜生は迷惑だったが、こんなところを人に見られたくなかった。
「きみもわがままだな。大胆すぎるよ」
瓜生は已むを得ず部屋に入れた。
「今夜は忘年会じゃなかったの」
「うん、例によって例の如しさ。面白くも何ともなかった」
「二次会はなかったのね」
「いや、ぼくは先に出てしまったけれど、遠山さんたちは残っていた。どこかへいったんじゃないかな」
「それじゃあの店に行ったんだわ」
ジュリアンというバーだった。左千子によれば、遠山はその店のマダムに入れあげていた。興信所の調査員に調べさせたのだから間違いないという。
といって、左千子は離婚する気もないようだった。
瓜生はジュリアンへいったことがない。混血のような美人だというマダムにも会っていなかった。
瓜生はコーヒーをいれた。
「ブランデーを垂らして頂戴。多いほうがいいわ」
「駄目だよ、きみはすぐ酔うから」
「大丈夫よ。今夜、遠山は帰らないわ」
「帰らないと言ったのか」
「言わなくても、この頃は平気で泊まってくるわ」
「よくわからないな。きみたちは愛し合ってたはずじゃないか。のろけを聞かされたことも憶えている。社宅にいた頃の遠山さんときみは、羨ましいくらい仲がよかった」
「それは外見だけよ。遠山はすぐあたしに飽きてしまった。あの人の頭の中は仕事のことだけだった。仕事が好きなわけではなくて、出世したいいっしんね。そして思い通りに課長になれたら、今度は浮気という順番よ。あとは部長になって、それから重役かしら。あたしなんか相手にされてないわ。家政婦と同じね」
「とにかくぼくにはわからない」
左千子の繰り言は何度も聞かされていた。
遠山と左千子の間には可愛い娘がいた。その娘が心臓病で亡くなってから、夫婦の仲が急速に冷えたようだった。郊外に家を建てて転居したのがその頃で、病気の娘に対して遠山が冷淡だったと左千子は言うが、遠山にしてみれば仕事をなおざりにできなかったのだろうし、左千子に責められることも面白くなかったにちがいない。そして娘を亡くした悲しみを忘れるために仕事に没頭し、夫婦間の溝を深めてしまったのかもしれない。ジュリアンのマダムとの関係はその副産物である。
瓜生はそう考えていた。
しかし、左千子はそう考えなかった。遠山とジュリアンのマダムはもっと古い仲で、左千子は実家の資産目当てに騙されて結婚したのだという。確かに新居の建築資金の大部分は左千子の実家から出ているらしいが、遠山とジュリアンのマダムの仲がそんなに古いかどうかについては何の根拠もなかった。
左千子はすでに遠山を愛していない。離婚を言い出せば遠山を喜ばせるだけだから、意地でも離婚しないのだという。
「つまらない意地だな」
「つまらなくてもいいのよ。今夜はもう帰りたくないわ。泊めていただけるかしら」
「それは困る」
「遠山が怖いのね」
「そうじゃない。いずれ会社は辞めるつもりなんだ。ぼくより問題はきみだよ。ここに泊まったなんてことが知れたら、きみは意地を張れなくなる。離婚請求されても仕様がないぜ」
「あたしは浮気もできないの」
「そうは言わない。遠山さんが浮気してるなら、きみが浮気したって構わないさ。おとな同士が勝手にやることで、ぼくが口を出す理由はない。でも、浮気の相手はごめんだな」
「ずいぶん堅いのね」
「面倒に巻き込まれたくないんだ」
「浮気じゃなくて、本気ならどうかしら」
左千子は瓜生がついでやったブランデーでは足りなくて、半分ほどコーヒーを飲むと、そのあとにブランデーをなみなみとついで、すぐに飲み干してしまった。顔が紅潮して、酔ったような眼になっている。
瓜生は彼女が嫌いなわけではなかった。きれいだと思っているし、ベッドに誘いたいという欲望が動くこともあった。
しかし、同じ社にいる者の妻だと思うと、抑制する気持のほうがはたらいた。遠山が上役ではなく、同僚だったとしても多分同じである。
だが、こうして彼女に誘惑されていることが独身生活の刺戟になっていることは確かで、その点はわざわざコーヒーをいれてやったことでも否定できない。すぐに追い帰しては彼女が可哀相というより、彼自身何となく心残りなのである。ことによると、それは彼にも浮気したい気持があるということかもしれなかった。
「本気なら泊めてくれるの」
左千子は返事を迫った。
「浮気から本気に方向転換か」
瓜生はわざと笑って言った。今までの成り行きをすべて冗談にしてしまいたかった。
「お願いだわ、真面目に聞いて――。あたしは社宅にいた頃から瓜生さんが好きだった。嘘じゃない、本当よ。でも、あたしはもう娘がいたし、だから諦めていた。諦めるように自分を馴らしてきたわ。どう仕様もないことですものね。あなたが早く結婚してくれれば諦めがつくと思っていたのよ。それなのにあなたはとうとう結婚しないで、あたしは娘に死なれ、遠山とも他人のようになってしまった。厚かましいと思われるのも承知で、あたしがここにくるのは決して浮気なんかのつもりじゃない。初めから本気だったわ。でも、やはりご迷惑ね」
「―――」
瓜生は返事ができなかった。浮気なら、ほかに相手がいるはずだった。わざわざ夫の部下の瓜生を選ぶ必要はない。もっと安全な相手を見つければいいのだ。
しかし、あらためて本気だと言われると、かえって浮気でいてくれたほうが気持だけでも助かるという気がした。
「遠山さんと別れられるのか」
「もちろん別れるわ。あたしと遠山はもうおしまいよ。あなたに振られても、あたしは離婚するわ」
「よく考えたほうがいいんじゃないかな。ぼくも考えるけどね」
瓜生は曖昧に答えるしかなかった。
3
左千子が帰ったのは夜なかの十二時近かった。帰りたがらない彼女を無理に帰したのである。
瓜生はウィスキーを飲んでぐっすり眠った。仕事が忙しくて寝不足がつづいたので、思いきり寝坊するつもりだった。
ところが、翌朝はブザーの音で七時前に起こされてしまった。来訪者は男ばかり四人で、いちばん年かさの男が警察手帳を見せた。
遠山と左千子がいる町の所轄署の刑事だった。
「何があったんですか」
瓜生はパジャマにガウンを羽織って彼らを迎えた。
「ちょっとお尋ねしたいことがあります。署までご足労願えませんか」
「すぐですか」
「ええ、わたしらが一緒に行きます」
「理由を聞かせてください」
「新聞を見ませんか」
「とってないんです」
新聞はいつも通勤の途中、駅の売店で買う習慣だった。休みの日は大抵近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら読む。
「事情は署にいってからお話しします」
言葉はていねいだが、刑事の表情は厳しかった。
そして、瓜生が服に着替えるため奥の部屋へゆくと、刑事たちは上れとも言われないのに部屋に入り、険しい眼つきで部屋を見まわした。
瓜生は刑事の視線を浴びながら服を着た。左千子に何かあったにちがいない――、瓜生は警察手帳を見たときからそう思っていた。ほかに刑事の来訪を受ける理由は思いつかなかった。
しかし、なぜおれのところへきたのか。
瓜生は不安だった。
昨夜間違えられた靴は爪先がきついので、チョコレート色の靴を履いて廊下へでた。
玄関に警察の車が待っていた。パトカーではなく、外見は普通の乗用車と変わらない黒塗りの車だった。
瓜生は刑事に両脇を挟まれる恰好で後部席に乗った。
あと二人の刑事はついてこなかった。
車がスタートした。
おれが疑われている。
瓜生は初めてそう思った。左千子のことを心配していたが、自分が事件に巻き込まれていると思わざるを得なかった。
さもなければ、朝から四人も刑事がくるわけがない。
しかし、いったい何を疑われているのか。
「全然知らないんですか」
「知りません」
「見当もつきませんか」
「つきませんよ。寝ているところをいきなり起こされたんです」
「昨日は忘年会だったそうですね」
「ええ、秋田料理を看板にしている店で、去年も同じ店でした」
「そういえば、課長の遠山さんが秋田でしたな。あなたは」
「埼玉県の熊谷です」
「ご家族は」
「両親と兄夫婦が熊谷にいますが、ぼくは独りです」
「独身とは羨ましいが、食事などが不自由でしょう」
「そんなことはありません。学生時代から馴れています」
「忘年会は何時頃終わりましたか」
「九時半頃だったと思います」
「それから二次会ですか」
「いいえ、ぼくはまっすぐ帰りました」
「ほう」
刑事はわざとらしく驚いたような嘆声を発した。
遠巻きにした輪をじりじり狭めてくるような質問の仕方だった。
「帰ったのは何時頃でしょう」
「十時半になっていなかったと思います。忘年会は池袋ですから、アパートまで一時間はかかりません」
国電を新宿で乗り換えて、三鷹で下りてから歩いて七、八分の距離だった。
「帰宅して、そのあとすぐ眠ってしまったんですか」
「すぐでもありません。しばらく本を読んだりしてました。眠ったのは十二時すぎかもしれない」
「―――」
刑事はまたわざとらしく、今度は首をひねった。
「いったい何があったのか、教えてくれませんか」
瓜生はきいた。
しかし、刑事はそれっきり黙ってしまった。
車は警察の裏門についた。
相変わらず二人の刑事に両脇を挟まれる恰好で、ぬかっている中庭を突っ切り、裏口から庁舎に入った。
「あいにく調べ室がみんなふさがってましてね、宿直室でお話を伺います」
部長刑事はいったん廊下に瓜生を待たせ、間もなく戻ってくると、そう言って奥のガラス戸をあけた。
狭い土間に障子が立っていた。
その向こうが六畳の畳の部屋だった。
きれいに片づいているが、殺風景な部屋で、壁際に坐り机が二つと、ガス・ストーブがあるきりだった。
「どうぞ」
部長刑事が先に上って、ストーブに火をつけた。
瓜生につづいて、もう一人の若い刑事も上って障子をしめた。
「寒いですな」
部長刑事はしきりに手をこすって、ストーブのそばにあぐらをかいた。
瓜生もあぐらをかき、煙草をくわえた。
若いほうの刑事が部長と瓜生の間に灰皿を置いた。
「遠山さんが殺されたんですよ」
部長刑事はふいに、瓜生の隙を衝くように話を切り出した。
「―――」
瓜生は思わず部長を見返した。まだ「遠山さん」と言われただけで、課長か左千子かわからなかった。
「ご存じなかったんですか」
「知りません。課長が殺されたんですか」
「そう、ご主人のほうです。おくさんだと思いましたか」
「いえ、そんなことは思いません」
「それじゃご主人と思ったわけですか」
「べつにどっちとも思いません。びっくりしました」
「遠山さん夫婦は仲がわるかったようですな」
「知りません」
「知らんことはないでしょう」
「なぜですか」
「警察はもう調べてあるんですよ。あなたのこともちゃんと調べてある。だから来てもらったんだ」
「ぼくの何を調べたんですか」
「そうとぼけられちゃ困るな。警察を甘くみてはいけない。正直に答えてくれないか。遠山夫人との仲だよ」
部長刑事の言葉遣いが乱暴になってきた。
「―――」
瓜生は喋っていいのかいけないのか、突然のことで判断に迷った。部長刑事の狙いがわからなかった。
「答えられないのか」
「ちょっと待ってください。犯人はまだ捕まらないんですか」
「捕まえていればあんたを呼ばないよ。あんたが犯人じゃなければいいと思ってるんだ」
「冗談じゃない。なぜぼくが遠山さんを殺すんですか」
「あんたと遠山左千子は普通の仲じゃなかった。遠山氏に内緒で何度も会っている」
「それは誤解だ」
「会ったことがないというのかね」
「―――」
瓜生はまた返事につまった。
「ゆっくり考えるんだな。時間はたっぷりある」
部長刑事はそう言うと、瓜生と若い刑事を残して出て行ってしまった。
「遠山さんは本当に殺されたんですか」
瓜生は若い刑事にきいた。
「それは本当でしょ。わたしは死体を見てないけどね」
若い刑事は退屈そうに煙草をふかしていた。
「いつ頃殺されたんだろう」
「そこまでは言えないな。わたしの権限じゃない」
「事件のことで、呼ばれてるのはぼくだけですか」
「さあね。やっぱり言えないな」
若い刑事はあくびをした。
瓜生は一時間以上待たされた。
「どうした。考えたかい」
部長刑事が不機嫌な顔で戻ってきた。食事をしたらしく、小指の爪で歯をほじくっていた。
「昨日の晩、忘年会が九時半ごろ終わったことはわかっている。聞きたいのはそのあとだよ。ほんとに真っすぐ帰ったのか」
「帰りました」
「それから外出しなかったのかね」
「しません」
「誰にも会わなかったのか」
「―――」
「言えないらしいな」
「そうじゃない。誤解されたら相手に迷惑がかかる」
「誤解はしないつもりだがね」
「さっき誤解されたばかりです」
「遠山氏のおくさんのことか」
「そうです」
隠せば疑いを深めるばかりだった。警察がすでに瓜生と左千子の仲を知っているということは、左千子が話したせいに違いなかった。ほかに二人の仲を知っている者はいないはずである。
「誤解されやすいことは認めます。でも、ぼくとおくさんは変な眼で見られるような仲ではなかった。おくさんは遠山さんとうまくいかなくて悩んでいた。ぼくはその相談相手になっていただけです」
「昨夜も相談に乗っていたのかね」
「相談相手というより、ただの聞き役といったほうが正確です。昨夜、帰ったらおくさんが玄関の近くで待っていた」
「それが十時半頃か」
「ええ」
「帰ったのは」
「十二時近かったと思います」
「一時間半も話してたことになるな」
「どうせ忘年会の帰りで、遠山さんの帰りも遅くなると思ってたようです」
「何を話してたのかな」
「特に内容のある話じゃありません。強いていえば、ご主人に構われないというようなことです」
「しかし、なぜあんたを聞き役に選んだのだろう」
「以前同じ社宅にいたし、何となく話しやすかったのかもしれない」
「そんなふうに会った回数は」
「二、三回です」
瓜生は回数を減らした。
「それを遠山氏は気づかなかったのかな」
「気づいていなかったと思います。そういうことはおくさんに聞いたほうがわかりませんか。もうおくさんに聞いたはずでしょう」
「夫婦仲の冷たくなった妻と独身の男が夜遅くひっそり会って、それで誤解するなと言われても困るんだがね」
「しかし事実です。ぼくは正直に喋っている」
「はじめは正直に喋らなかった」
「おくさんが迷惑すると思ったからです」
「なかなかやさしいじゃないか」
「やさしくてはいけないんですか」
「ひとの女房にはね」
「不愉快だな。ぼくは帰らしてもらう」
「どうぞ、帰ってもらおうと思ってたところなんだ。しかし断っておくが、あんたの容疑は消えたわけじゃない。それだけは念を押しておく」
「ぼくが殺したというんですか」
「恥も外聞もなくして、おくさんと共謀すればどんなアリバイでも立つ。だが、そんなアリバイは簡単に崩れるんだ。わたしらも道楽で刑事をやってるんじゃない。それを忘れないことだな」
刑事は先に腰を上げて、瓜生に帰りを促した。
4
瓜生は警察をでた。
遠山家に寄って左千子から事情を聞こうと思ったが、誤解をふやすだけだと思って考えを変えた。
駅の売店で朝刊を買った。
遠山が殺された記事がでていた。事件が起きたのは昨夜十一時半頃で、場所は自宅近くの路上、瓜生も新築祝いに呼ばれたとき通ったことがあるが、新開地の寂しい場所だった。死体は通行人によってすぐ見つかり、その通行人が犯人らしい男の逃げる姿を見ていた。
死因は絞殺、犯行動機は捜査中となっている。
瓜生は喫茶店に入り、トーストとコーヒーで遅い朝食を済ませてから帰宅した。
遠山はなぜ殺されたのか。
警察は瓜生を疑っているが、殺された時刻が昨夜十一時半頃というなら、瓜生にはアリバイがあった。その点は左千子も同じで、やはり疑われたから瓜生のアパートにいたことを告白したのだろう。そうでなければ喋るはずがなかった。犯行動機の疑いを深めることによってしかアリバイが立たなかったのだ。
瓜生と左千子の仲が誤解を招いたとしても已むを得ない。
だが瓜生は、已むを得ないという気持になれなかった。アリバイについても左千子との共謀を疑われているのだ。
遠山は仕事では切れ者だった。人当たりはいいが、仕事に関する限り義理も人情もないと言われていた。能率のわるい部下はすぐ上司に報告して左遷するし、競争相手の同業者はもちろん、課長同士の間でも彼を憎んでいる者がいるはずだった。それくらいだから部長候補のトップに挙げられているので、ジュリアンのマダムとの仲は当てにならなかった。どんな興信所に調査を頼んだか知らないが、興信所の報告は往々にしていい加減である。夫婦仲が冷たくなっているのは事実としても、彼が妻以外の女に溺れるとは思えなかった。現在の彼は女より仕事のほうが大切なはずなのだ。
とすると、事件は痴情関係ではない。
瓜生は同僚の松井に電話をしてみた。
彼は事件のことを新聞で知って驚いていた。まだ警察の調べはないという。
「ところで、忘年会のあと靴を間違えていかなかったか」
「靴を?」
「うん。おれの靴を履いていった奴がいる」
「おれは間違えないよ。無理をして買ったイタリア製の靴だ。間違えるわけがない」
「この頃はみんな無理をしてるぜ。残っていた靴もイタリア製だった。おれのはそうじゃない」
「色は」
「黒だ」
「それじゃやっぱり違うな。おれのは茶だよ」
「昨日の晩、あれから何処かへ寄ったのか」
「モアナへ行った。彼女はいなかったけれどね」
「彼女って」
「由香公さ。瓜生も大分惚れてたじゃないか」
「おれはそれほどじゃない」
しかし多少は惚れていた。会社の近くのバーにいたホステスで、割合安く飲ませる店だが、由香はその店の人気者だった。純情で世間知らずのように見えるが、案外食わせ者かもしれないという感じもあり、二カ月ほど前から無断で店を休んでいた。
「彼女はやっぱりモアナを辞めたんだよ。でも、田舎へ帰ったんじゃないかという噂は違っていた。パトロンができて店を持たしてもらったらしい。おれたちの知らない客だが、その客が偶然阿佐谷で会ったそうだ。彼女の名前と同じ由香という店で、しゃれた感じのスタンド・バーだってさ」
「その店には寄らなかったのか」
「寄っても仕様がないだろう。おれたちは用なしだよ。開店の挨拶状も寄越さないなんて、来なくていいと言われたようなものだ」
松井はむくれたように言った。
彼も由香に惚れていたのである。真剣ではなかったにしても、彼女を目当てに通っていた常連の一人だった。
瓜生は保坂にも電話をした。保坂は独身の瓜生や松井とちがって妻がいるが、やはりそういう常連の一人だった。
しかし、彼は由香がいなくなってからモアナへも行かないので、由香が店を持ったことも初耳だと言った。
「どんなパトロンだろうな」
保坂が聞き返した。
「知らないがね。おれたちより金を持っていることは確かだろう」
「仕様がねえな。相手が瓜生や松井だったら口惜しいが、全然知らない相手なら諦めやすい」
「話はちがうけれど、忘年会の帰りに靴を間違えていかなかったか。黒い靴だ」
「なんだ、瓜生の靴だったのか。どうも少しゆるいと思って、家に帰ってから気がついた。おれの靴のほうが上等だぞ」
「何を勝手なこと言ってるんだ。間違えたのはそっちじゃないか。爪先がきつくて痛くなってしまった。とにかく元通りに取り替えよう。遠山さんのことで聞きたいこともある」
「課長はどうして殺されたんだ」
「おれは警察に呼ばれたよ」
「なぜだ」
「会ってから話す」
保坂は夕方まで来客があるというので、夜の八時にモアナで落ち合うことにした。
5
土曜日だが、たぶん年末で休まない会社が多いせいか、モアナは客が入っていた。
瓜生が行くと、保坂が先にきてカウンターの端に坐っていた。
「込んでるな。由香の店へ行ってみようか」
瓜生は靴を取り替えてから、立ったまま言った。
「ここでいいじゃないか。開店の挨拶状も寄越さなかったのに、わざわざ阿佐谷まで行ってやることはない。それより、どういうわけで瓜生が警察に呼ばれたんだ」
「疑われたのさ。詳しいことは由香の店で話す」
「ここでいいよ。動くのが面倒だ」
「タクシー代はおれが持つ」
「気がすすまないな」
「なぜだ」
「振られた女に会っても始まらない」
「おれはそう思わないんだ。由香が急に姿を消して開店の挨拶状も寄越さなかったのは、彼女がおれたちを敬遠したせいじゃない。敬遠する理由なんか少しもないからな。せっかく自分の店を持ったんだ。一人でも客が欲しいに決まっている。挨拶状のほかに、電話をかけてきてもおかしくない。しかし、彼女はそれをしなかった。世話になっていたモアナのマスターにも連絡しなかった。まるで悪いことをして逃げたみたいだが、開店資金を出した男にそうしろと言われたせいに違いない。つまりそのパトロンは、おれたちをよく知っている奴で、パトロンになったことをおれたちに知られたくない奴だ」
「いったい誰だろう」
「保坂、おまえだよ。由香の店へ行けば、それがバレてしまう。だから行きたがらないんだ」
「へんな理窟を考えたな。冗談じゃないぜ」
「それじゃ由香の店へ行こう」
「―――」
保坂は顔をそらして黙ってしまった。
「おれはこのまま疑われていてもいい。だが、いずれ警察は事実をつきとめる。おまえは靴を間違えた。それが失敗だった」
警察は犯行現場に残された靴跡を採っているに違いなかった。だから左千子の供述で瓜生を疑うと同時に、瓜生の靴を調べたのだ。調べ室がふさがっていると言って宿直室に上げたが、それも靴を脱がせて現場の靴跡と照合するためで、二人の刑事が残ったのもやはり靴を調べる目的だったにちがいない。そしてどの靴も現場の靴跡に合わなかったから釈放したのである。昨夜は暖かで地面もゆるみ、靴の跡が残りやすくなっていたのだ。
「おれが靴を間違えられたことは、忘年会で残っていた連中が知っているし、女中も知っている。警察はかならず靴を追いかけてくる」
「そうか――」
保坂の唇から低い吐息が洩れた。
「由香のために、おれは売掛金を一千万近く使い込んだ。それが課長にバレて、内緒で始末してやる代わりにおくさんを殺せと言われた。さもなければ業務上横領で告発すると脅されたんだ。課長の命令で殺すしかなかった」
「しかし、被害者はおくさんじゃない」
「おれの気が変わったんだ。行ってみたらおくさんが留守で、そのうち、どうせなら課長を殺したほうがあとくされがないと思った。おくさんに怨みはないが、課長は厭な奴だった」
モアナの中はクリスマスのレコードが鳴りつづけていた。
あとでわかったことだが、課長の遠山もジュリアンのマダムに会社の金をつぎこんでいて、その穴埋めのために、左千子にかけていた二千万円の保険金が欲しかったのである。
「もうクリスマスか」
瓜生は話を変えようとして呟いた。 しかし保坂は俯いたきりで、どんな話に変えていいかわからなかった。
諦めない男
1
化粧を直して席へ戻ると、陽子は退社時間前の暇をもてあますふりをして、退屈そうに左手を眺めた。街頭の易者に言われた結婚線を見るためだった。陽子は手相など信じていないが、友だちにつき合って一度だけ見てもらったことがあり、「すばらしい結婚相手に恵まれる」といわれたのである。
――あの易者のおじいさん、とてもよく当たるって評判なのよ。あなたの性格なんかもぴったしだったじゃないの。羨ましいわ、結婚運がいいなんて。
いっしょに見てもらった友だちはそう言った。
しかし、
――そうかしら。
陽子は軽く聞き流した。易者の言葉は当てにならないと思っていた。易者は陽子のことを「引っ込み思案で気が弱く、おひとよしで騙されやすいから気をつけないといけませんね」と言ったが、彼女自身の考えはその反対だった。もし友人もそのように見ているとすれば、陽子が滅多に本心をあらわさないせいだった。
易者も友だちもわかっていない。
だが、日が経つにつれて陽子は結婚線のことだけは信じたい気持になってきた。性格については見当ちがいだが、過去に大病をしたというのは事実だし、だからことによると、結婚線も当たっているかもしれない。
陽子はそう思いたがっている自分に気づき、するとどうしても岡田のことを考えないわけにはいかなかった。岡田は妻子と別れると言っているが、法律上の問題が難しいようで、それこそ当てにならないのだ。
陽子は二十三歳だった。岡田との関係はすでに一年近くつづいている。手相が示している「すばらしい結婚相手」が岡田なのかどうか。陽子は首をかしげざるを得ない。
といって、その相手が村越であるとは到底思えなかった。押しの強い彼は、このところ連日のようにデイトを求めていた。
電話のベルが鳴った。
陽子は不快な予感がした。
「いっしょに帰らないか」
果たして村越の声だった。無神経なのか図太いのか、何度も断られれば陽子の気持がわかるはずなのに、いっこうに諦める様子がなかった。
「都合がわるいのよ」
陽子はわざとつめたく言った。
「でも、いっしょに帰るくらいいいじゃないか。どうせ方角が同じなんだ」
「友だちと約束があって、きょうはほかへまわるわ」
「残念だな」
「―――」
陽子は答えなかった
「外は寒いから、風邪をひかないようにな」
村越はやさしい言葉を残して、電話を切った。
陽子はほっとした。やさしい言葉も、相手が村越では嬉しくなかった。岡田とは毎週金曜に会う習慣で、待ち合わせるホテルもきまっていた。
しかし、きょうはまだ火曜だった。岡田となら毎晩でも会いたいが、彼は仕事が忙しくて、せっかくの金曜日も十時過ぎにようやくあらわれることが多かった。
そんなとき、陽子はホテルの一室で待っているのである。
だが、彼がかならず来るとわかっていれば、陽子は待っている時間も大して苦にならなかった。苦しいのは、金曜以外は妻子のいる家へ帰ってしまうことだった。やむを得ないと知りながら、彼が妻子に囲まれている姿を想像すると、ひとりぼっちでアパートにいる自分が哀れになって、適当な相手がいたら結婚してしまおうと考えることもないではなかった。
しかし、村越では適当な相手と思えない。頑張り屋で仕事はよくできるようだし、そのうち先輩の岡田を追い越して課長になるのではないかなどという陰口も耳にしているが、何となく神経が鈍い感じで好きになれないのである。顎《あご》のエラが張ったような顔や、ずんぐりした体つきも好きになれない理由だった。
陽子は定時に会社を出た。
2
通勤はいつも地下鉄だった。中野坂上で下りれば、ゆっくり歩いても五分くらいでアパートに着く。
陽子はコートの襟を立てて改札口をでた。まっすぐ帰るつもりだった。
「陽子さん――」
いきなり声をかけられた。
村越だった。
陽子は会社で大抵「山根さん」という姓で呼ばれている。「山根さん」か「山根くん」である。岡田は二人きりになると「陽子」と呼びつけにするが、会社ではやはり「山根さん」だった。男子社員のなかで村越だけが馴れ馴れしく「陽子さん」と呼んでいる。
「同じ電車に乗ってたんだ。気をわるくされると思ったけれど、どうしても会って話したいことがあった。コーヒーでも飲まないか。飯でもかまわない。もちろんぼくに奢《おご》らせてもらう」
「あたし、友だちと約束があるのよ。電話で言ったはずだわ」
「憶えてるさ。しかしあれは、ぼくの誘いを断る口実だったんじゃないかな。その証拠に、きみはほかへまわるといったが、ちゃんと中野坂上で下りた。ぼくはきみが考えているほど鈍感ではない。きみの気持はわかっているつもりなんだ。きみに嫌われていることもわかっている」
「お話ってどんなことかしら」
「この前と同じですよ。ぼくは陽子さんと結婚したい。結婚してくれないか」
「そのお話ならお断りしたわ」
「しかしぼくは諦めていない。いったん決心したことは絶対に諦めないんだ。進学のときも、会社に入るときもそうだった。仕事でも同じだ。いくら難しい仕事でも、かならずやり遂げている」
「仕事と結婚をいっしょに考えられてはかなわないわ。全然別じゃないの」
「いや、ぼくはそう思わない。きみはまだぼくという男がわかっていないんだ。おそらく半分もわかっていない。だから毛嫌いしているのだろうが、いつかきっと理解して好きになる。ぼくには確信がある」
「わるいけれど、考えられないわね。好きでも嫌いでもなくて、ただ結婚はしたくないだけなの。そう思っていただくしかないわ」
「ほかに好きな男がいるのか」
「いないわ」
「それじゃ結婚してくれてもいいじゃないか。ぼくは本気で愛している。きみのためなら、何だってやってみせる」
「そう言われても困るわよ。結婚はそんな簡単にきめられるものじゃないわ」
「しかしぼくは諦めないぜ。いくら冷たくされたって諦めない」
「迷惑ね」
「迷惑も承知している。でも諦めないんだ。とにかく立話じゃ寒くて仕様がない。レストランか喫茶店へ入らないか」
「―――」
陽子は返事をしなかった。返事は態度で示したつもりだった。
ところが、そのうち桜井のことがふっと頭に浮かんだ。岡田や村越の部屋は所属がちがうので五階だから、一日じゅう顔が合わないことも珍しくなかった。しかし桜井は同じ部で、出勤すれば否応なしに顔が合ってしまう。陽子はその桜井にも求婚されているのだ。村越とちがって痩せぎすなほうだが、やはり何となく好意を持てない男だった。それで即座に断り、その後も何度か求婚され、そのたびに断っていた。村越のように強引ではないからいくらかましだが、顔が合うと依然未練たらしい様子だった。
そうだわ。このさい桜井さんに一役買ってもらおうかしら。
「あたし、桜井さんのことがあるのよ」
陽子は思いついたまま言った。
「桜井って」
村越は聞き返した。
「あたしと同じ課の桜井さんよ」
「ふうん、あいつがどうしたんだい」
「何も知らないの」
「知らないな」
「それじゃ喫茶店で話すわ」
陽子は先に立って近くの喫茶店へ入った。岡田との仲を秘密にしておく代わりに、桜井を村越のライバルに仕立てようと思ったのだ。村越と桜井がいがみ合ったところで、陽子のほうは平気だった。村越に諦めをつけさせればいいのである。
「あたし、桜井さんにもプロポーズされてるのよ。桜井さんはあたしが承知したつもりでいるかもしれないわ」
陽子はコーヒーを注文してから言った。
「なぜだ」
村越は顔色こそ変えなかったが、かなり動揺したことは言葉づかいの烈しさでわかった。
「あたしが曖昧な態度をとったのがいけないのね。可哀そうになって、はっきり断れなかったわ」
「それくらいじゃ承知したことにならない」
「でも、どう思われても仕方がない面もあるのよ。反省してるわ」
「そんなばかな話があるもんか。一生の問題じゃないか」
「仕様がないわ、どうせ誰かと結婚するんですもの」
「冗談言っちゃいけない。これからでも、はっきり断ればいい」
「もう無理よ」
「なぜ」
「―――」
陽子は口を噤《つぐ》んだ。
「なぜ無理なのか、わけを言ってくれ」
「―――」
陽子はわざと黙っていた。
しばらく、村越も考え込むように天井を眺めていた。
「こうなったら率直にわけを聞かせてもらう。陽子さん、ぼくは口が堅いし、寛大な男だと自認している。だから隠さずに答えてくれないか。きみは桜井に体をゆるしてしまったのか」
「―――」
陽子は依然沈黙をつづけた。村越の憶測は注文どおりだった。
「わかった。その点については、もう何も聞かない。要するに、きみは気がやさしくて彼を拒みきれなかったんだ。しかしだぜ、それくらいのことで結婚を決めちまうというのはおかしい。きみは彼がどんな奴か知らないんだ。ろくに仕事もできないくせに、酒が好きでギャンブルが好きで、そのうえ女に手が早いという噂もある。将来性なんかゼロよりひどい。そんなのと結婚したら、せっかくの一生を棒に振るようなものだ。あいつが陽子さんを好きになった気持はわからないでもないが、ぼくは絶対反対だね。みすみす不幸になることがわかってるんだ。あんな奴に同情する必要はない。同情を買うように仕向けるのも桜井のような奴の手なんだから、きっぱり断ってやればいい。横っつらを張り飛ばしてやってもいいくらいだが、それよりぼくと結婚しないか。ぼくならきっときみを幸福にできる。というより、きみを幸福にできる男はぼくしかいないという自信があるんだ。桜井と関係があったなんてことは全然気にならないし、むしろ正直に話してもらえて嬉しかった。あらためて結婚を申し込むよ。ウンと言ってくれないか」
村越は勝手な解釈をして、ひとりで喋りまくった。
陽子にしてみれば計算ちがいだった。桜井との関係に暗示をかけたら、村越が諦めてくれると思っていたのだ。もっと桜井に好意的な言い方をすればよかったが、今さら言い直しは難しかった。桜井との関係を認めたわけでもないのに、陽子の沈黙を正直に話したと思い込み、それでも結婚したいというのである。
「弱るわ」
「どうして――。なにも弱ることなどないじゃないか。今はまだぼくを嫌ってるかもしれないが、いずれ必ず好きになる。ぼくという人間を理解すれば好きになるはずなんだ。ぼくは運命を信じているが、運命がきみを妻として選んだんだ。ぼくは決して諦めない。どんなことがあろうと諦めない」
「―――」
陽子はますます困ってきた。
「桜井のことが気になるのか」
「それもあるわ」
「だったら任せてもらう。相当しつこい奴らしいけど、きれいに手を引かせてやる」
「乱暴なんかしちゃ厭よ」
「わかってる」
村越は自信たっぷりに頷いた。
3
それから三日後の金曜日、陽子はいつものホテルで岡田と会った。珍しく岡田が先に来ていて、すぐベッドに入った。大抵は陽子が先に着いてシャワーを浴びたりして待つことになるが、岡田は妻に気づかれるのを恐れているのか決してシャワーを浴びるというようなことはしない。
陽子は岡田に隠しごとをしない約束を守っているので、さっそく村越に会ったときのことを話した。
「ふうん、そいつは面白いな」
岡田は陽子の乳房を弄《もてあそ》びながら、毛深い脚をからませて言った。平社員の村越や桜井より入社は三年早いだけだが、とんとん拍子の出世コースで課長補佐になっている。結婚も早かったので、子供が二人いた。初めてホテルを利用したとき誘ったのは岡田だが、それは陽子が誘われたい素振りを見せたせいだった。彼に妻子がいることを承知で好きになってしまったのである。男らしい顔立ちで背が高く、陽子の好きなタイプだった。
「村越さんと桜井さん、喧嘩にならないかしら」
「なったって構わないじゃないか。振られた同士の妙な喧嘩だが、とにかくどっちかが負けて、きみは片方の荷がおりる」
「負けるとすれば桜井さんのほうで、ちょっと気の毒な感じね。あなたとの仲をカムフラージュするためで、喧嘩までさせる気はなかったわ」
「もし喧嘩になって村越が勝ったら、彼はいよいよ君に熱を上げる。諦めないぜ」
「どうすればいいのかしら」
「村越と結婚する気にはならないのか」
「考える気にもならないわ」
「しかし陽子も二十三だ。誕生日がくれば二十四歳になる。彼がそれほど愛しているというなら、きみも考えたほうがいいんじゃないかな」
「結婚しろって言うの」
「そう強くすすめるわけじゃないが、人生には転機というものがある。今なら君も若いと言える。美しい盛りかもしれない。しかしいずれは年をとるんだ。あっという間に三十で、四十になればすぐに五十だ。どんな美人でも婆さんになる。婆さんになってから、失敗《しま》ったと思っても遅い」
「へんなことを言うのね。それくらいは、言われなくても考えてるわ」
「きみを不幸にしたくないんだよ。チャンスがあったら、ぼくに遠慮などいらないということを言いたいんだ。もちろん、きみと別れるのは死ぬほど辛いが、ぼくにはきみを縛りつけておく権利がない。女房がいるし、子供もいる。このままの状態をいつまでつづけられるか、きみを幸福にする自信がなくなってきたんだ」
「あたしは今のままで幸福よ」
「今はそうかもしれない。問題はこれから先のことさ」
「離婚の話はどうなったの」
「うむ」
「弱ってるみたいね」
「女房だけなら強引に別れてしまう。だが、子供のことを考えるとそうもいかないんだ。父親としての責任がある」
「あなたもずいぶん変わったわ。以前はそんなふうに言わなかった。黙ってついてこい、そうすればきっと幸福にしてやる、と言ってくれた。もう、あたしなんか飽きたってことかしら」
「そうじゃないよ。誤解されちゃ困る。離婚の方法もまだいろいろと考えているし、きみといっしょに暮らせたらという気持は少しも変わっていない。ただ、村越や桜井の話を聞いたので、きみのためを考えたんだ。きみとの関係はこの辺が潮どきかなってね。結婚なんてものは、してみなければわからない。うまくいくかどうか、ぼく自身は失敗の見本だが、案外という例も少なくない。だからことによると、きみが易者に言われたという結婚相手、すばらしい相手は村越かもしれないという気がしたのさ。その可能性は誰も否定できない。彼なら仕事もできるし、もちろん独身で、きみにすっかり参ってるんだ。男っぷりだってそう悪いわけじゃない」
「あたしは嫌いね。ああいうタイプの顔は好きになれないわ」
「しかし、いっしょに暮らしていれば顔なんか気にならなくなる」
「やっぱり村越さんと結婚させたいらしいわね。わかったわ」
陽子は背中をむけた。急に泣きたくなったが、泣き顔を見られるのは厭だった。
岡田の様子は一と月ほど前から少しずつ変わってきて、陽子はいつか別れ話がでるのではないかという不安をおぼえていた。しかしそれはまだ先のことで、こんなに早いとは思っていなかった。易者が「――騙されやすい」と言ったのは本当だったかもしれない。
「どうしたんだい、黙ってしまって」
岡田の指が耳のうしろに触れた。
いつもなら、いちばん感じやすい部分だった。
しかし、陽子は毛布の端《はじ》を噛みしめていた。感じる部分が何も感じないでいる。
「怒ったのか」
「―――」
「ばかだな、陽子も。ためしに言ってみただけじゃないか」
岡田が肩を抱き寄せてきた。
陽子は抵抗しなかったが、自分から体を動かす気は起きなかった。
4
会社は週休二日制だから、翌日の土曜は休みだった。陽子は前の晩岡田と別れたあとアパートへ帰ったが、明け方になっても眠れなくて、たまにしか飲まない睡眠剤を普通の量の倍も飲んでようやく眠った。
そのせいで、眼をさますと窓の外が暗くなりかかっていた。べッドから下りても頭がふらふらしているようだったが、とにかく顔を洗って、コーヒーを沸かし、サンドイッチをつくった。
そこへ夕刊が放りこまれた。
陽子はサンドイッチをつまみながら、何気なく夕刊をひらいた。料理の欄以外は見出しを見る程度で、大きな事件がなければすぐに押入れへ片づけてしまう。きれい好きな彼女は、新聞紙一枚でも部屋に散らかっていると気になるほうだった。
ところが、この日は社会面をひらいた途端にびくっとした。村越の小さな顔写真が載っていたのだ。
村越重一、二十九歳。
住所も勤務先も間違いなく彼だった。今朝早く多摩川べりの川原で発見された彼の遺体は、後頭部に鈍器のような物で殴られた痕があったという。
犯人はわかっていないらしい。
殺された理由もわかっていないらしい。
陽子は繰り返し記事を読んだ。コーヒーを飲むことも忘れていた。読んでいる間に、村越より桜井の顔が浮かんだり消えたりした。
まさか――。
陽子は中野坂上の喫茶店で村越に会ったときのことを思い出していた。あれ以来村越から電話一本なくて、不思議な気がしていたのである。ことによると桜井との深い仲をほのめかしたので、陽子の思惑どおり村越は諦めてくれたのかと考えていたのだ。
しかし、かりに村越が桜井に喧嘩を吹っかけたとしても、体力的にみて遥《はる》かに村越のほうが強いはずだった。殴られたら、桜井のほうは一発でダウンしてしまう感じである。
いったい、なぜ村越が殺されたのか。
陽子はまさか自分が原因ではないと思いながら、自分まで誰かに殺されそうな恐怖を感じた。
そこへ電話のベルが鳴った。
「夕刊を見たかい」
桜井の声だった。落着いた声だ。
「ええ」
陽子は声が震えそうだった。
「おどろいたろう」
「ええ」
「おれもびっくりしちまった。酔っ払って喧嘩でもしたのかな」
「でも、村越さんはお酒を飲まなかったはずよ」
「そうか。そういえば、あいつとは一度も飲んだことがない。仕事の虫みたいな男で、仕事以外でつき合っていた友だちもいなかったと思うね。おれなんか同期入社だが、全然相手にされない感じだった」
「最後に会ったのはいつかしら」
「廊下で擦れちがう程度なら、毎日のように会っていた。昨日もエレベーターでいっしょになったが、話はしなかった。ぼくは三階で下りてしまったし、彼は五階だからな」
「同じ社のひとが殺されたなんて、気味がわるいわ」
「犯人の心当たりはないのか」
「そんなの、あるわけないじゃないの」
陽子はいらいらして、突っかかるような口調になった。
「ぼくはあるんだけどな」
「ほんと?」
「うん」
「誰かしら」
「電話じゃ話せない。ちょっと出てこないか。中野坂上の喫茶店で会おう。近くまで来ているんだ」
桜井は店の名を言った。
そこは、火曜日に陽子が村越と会った喫茶店だった。
なぜ桜井はその店の名を知っているのか。
「―――」
陽子は怖くなり、返事ができなかった。
「それじゃ、多分ぼくのほうが先に行って待っている」
桜井は勝手に決めて、電話を切ってしまった。
5
陽子は迷ったが、いくら考えても怖くなるばかりで、結論は出なかった。
とにかく桜井に会ってみればわかる。自分で犯人の心当たりがあると言うくらいだから、彼が犯人ということはないだろう。
陽子はそう思って喫茶店へ行った。
がらんとした店の奥で桜井がコーヒーを飲んでいた。その腰を下ろしている席は、火曜日に村越がいた席と同じだった。会社で机に向かっている桜井と全くイメージがちがって、皮のジャンパーに派手な格子縞のマフラーを巻いていた。やくざっぽい感じだが、結構似合っている。
「来ないかと思っていた」
桜井は機嫌がよさそうな笑顔で迎えた。
「なぜかしら」
「きみはいつだってぼくに冷たいからさ。ぼくは振られることに馴れてしまった」
「犯人の心当たりがあると言ったわね。誰のことかしら」
陽子は早く安心したくて聞いた。
「あれは嘘だよ」
「嘘――?」
「嘘にきまっているじゃないか。あんな嘘でもつかない限り、きみは出て来ないと思ったんだ」
「ひどいわ」
「嘘をついたのは悪かった。謝るよ。でも、村越の話をしたかったのは本当だ。彼はなぜ殺されたのか、その理由を考える前に、ぼくがなぜこの店を知っていたか不思議だと思わないかな」
「お馴染みなの」
「そうじゃない。ぼくの住所は足立区だ。まるっきり方向がちがう。しかしこの店に入ったのは二度目になる」
「一度目は」
「今週の火曜、きみは村越と来て、この席に坐っていた。気づかなかったらしいが、ぼくは変装が得意なんだ。といっても大した変装じゃない。つけひげと野球帽とサングラス、それにネクタイをスカーフに替えたりすれば大抵うまくいく。初めは遊びのつもりだったが、そのうちきみの跡を尾《つ》けだしたら面白くてやめられなくなった。いや面白いというより真剣な気持だな。だから怒られることを覚悟で言うけれど、ぼくはきみの私生活をほとんど知っている。手相を見てもらったなんてことも知っているし、もちろん岡田さんとの関係も知っている。会うのは毎週金曜の夜、ホテルは赤坂で、きみたちは別々に入り、出てくるときも別々だ」
「―――」
陽子は呆然《ぼうぜん》とした。しばらく口がきけなかった。
「どうして、あたしを尾けまわすの」
陽子はようやく言った。
「それは決ってるよ。愛してるからじゃないか。ぼくは君に何度も振られた。でも、いったん決心したことは絶対に諦めないんだ。いくら振られても諦めない。いつか、かならず結婚して、きっときみを幸福にする。自信があるんだ。村越のやつもそう言ってたらしいけどね。ばかなやつさ、ぼくがきみを諦めると思ってたんだからな。彼はぼくを甘く見過ぎていた」
「―――」
陽子はますます呆然とした。もはや、村越を殺した犯人は桜井以外に考えられなかった。おそらく、村越は桜井を諦めさせようとして、逆に不意をつかれたにちがいない。桜井は車を持っているのだ。殺した場所はわからないが、村越の遺体は車で運ばれたと思えば間違いないだろう。
しかし、桜井がそのような犯行を自分から話すはずはなかった。
それより、陽子は昨夜の岡田のことを考えた。言を左右していたが、陽子から離れようとしている様子が明らかだった。
「あなたの気持はわかったわ。でも、あなたも知っている通り、あたしは岡田さんの愛人よ。別れられないわ」
「いや、いつか別れる」
「無理よ。あたしが別れたいと言っても、岡田さんは一生あたしにつきまとって離れない。すごい焼餅やきで、すぐに暴力をふるうし、もし別れるなんて言ったら、どんな目に遭わされるかわからないわ」
「怖いのか」
「―――」
陽子は怯えるように無言で頷いた。村越に桜井のことを話したときは思いつきだったが、今度は岡田に復讐してやるつもりだった。
「よし、それじゃ任せてもらう」
桜井は自信たっぷりに言った。
6
それから三日経った。
陽子にとっては不安でたまらない一日一日だった。
ところが四日目の深夜、陽子は桜井が絞殺されたことをテレビのニュースで知った。帰宅の途中を何者かに襲われたらしく、犯人はわかっていなかった。
画面は簡単なテロップを流してコマーシャルに移ったが、陽子は膝をかかえたまま全身が震えてきた。
そこへ悪い予感が的中したように電話のベルが鳴った。
「明後日の金曜、また会ってくれるだろうね。この前はつまらないことを言って済まなかったと思ってるんだ。きみの将来を考えて諦めようとしたが、どうしても諦められないことがわかった。ぼくは一生きみを放さない。むろん女房とは別れるように頑張る。そしてきっときみを幸福にする。ぼくは愛しているんだ。本当に愛している。きみを諦められるわけがない」
岡田の声はそう言っただけで切れた。
陽子は震えが止まらなかった。
白い墓碑銘
1
関根が帰宅すると、机にメモが置いてあった。十時半頃カオルから電話があり、小森を探しているらしいという内容だった。妻の字だが、妻は幼稚園へいっている娘の送り迎えがあるので、関根の帰りが遅いと、こんなふうに仕事などのメモをのこして先に寝てしまう習慣になっていた。
関根は時計をみた。
間もなく午前一時だった。
もうカオルも寝てしまったかもしれない。
関根は坐椅子に寄りかかって、煙草に火をつけた。
カオルは小森と同棲している女だった。いっしょに暮らすようになって三年くらい経つが、なぜか結婚しないままで、したがって籍も入っていないと関根は聞いていた。しかし、そういうことを知らない連中は彼らを夫婦だと思っているし、カオルが「おくさん」と呼ばれてもおかしくなかった。
「お帰りなさい」
寝室から妻の利江の声が聞こえた。2DKのアパート住まいである。
「なんだ、起きてたのか」
「眠れないのよ。寝そびれちゃったみたい」
襖をあけて、利江が起きてきた。関根のパジャマを着ていたが、体が小さいのでピエロ服のようにだぶだぶだった。
「メモをみたけど、カオルさんに電話してやったほうがいいかな」
「小森さんのいるところを知ってるの」
「いや、きょうは全然会わなかった」
「それじゃ仕様がないわ、もう帰ったかもしれないし」
「まだ帰らなくても、小森の仕事はおれと同じなんだ、遅くなるくらい馴れてるはずだろう。探してる理由を言わなかったのか」
「ええ。あなたに聞けばわかると思ってるようだったわ」
「そんなふうに思われたって困る。いつもいっしょに仕事してるわけじゃない。おれは相変わらずだが、この頃の小森は小説のほうに一所けんめいらしいからな」
関根も小森もルポライターだった。月刊誌や週刊誌の注文でテレビ・スターなどに会い、その取材をもとにして読者がよろこびそうな記事にまとめる。ほとんど無署名だが、そればかりでは食っていけないから、映画批評でも新刊書の紹介でも、ときにはゴースト・ライターになって政治家の自伝まで引き受けていた。
しかし、関根はそのような仕事に飽き飽きしていた。先が見えているし、もう三十五歳だった。将来のことを真剣に考えなければならなかった。
そこで、最近は仲間たちとグループを組み、大手の出版社が出そうとしている新しい雑誌の企画に加わって、その編集を請負うという組織づくりにとりかかっていた。仲間の多くは編集者出身の一匹狼的な男たちだが、ひとりではできないことをグループの力でやるわけである。資本を借りて、自分たちの雑誌を持つのだ。もちろん金だけが目当てではないが、成功すれば生活が安定するし、将来の展望もひらけるという目算だった。
しかし、小森は関根の誘いに乗らなかった。彼もいまの仕事に不満な点は同じで、関根の考えを否定したわけでもないが、ひとりの仕事のほうが自分に向いていると言った。小説を書いてゆくつもりらしく、すでに何回か新人賞に応募していたのである。そして最終予選に残ったこともあるようで、たぶん小説に力をかたむけているせいだろうが、最近の彼は麻雀の誘いなどにも応じないことが多かった。
「気になるから、電話してみよう」
「そうね、まだ帰らないとすれば、カオルさんも眠れないでいると思うわ」
「もし帰ったら、帰ったという電話を寄越すはずだもんな」
関根は受話器をとった。
小森の電話番号はおぼえていた。
ベルが一回鳴っただけで、カオルの声がでた。元気のない声だった。
小森は帰っていなかった。午後三時ごろ、煙草を買いに出たきりだという。
「それじゃ、すぐ帰るはずだな。煙草なら、近所に自動販売機もあるでしょう」
「でも、煙草はたいていパチンコで取ってくるんです」
目黒駅の周辺にパチンコ屋が何軒かあった。それで、カオルは帰りの遅い小森をパチンコ屋に寄っているものと思った。連絡をしないまま映画館に入ってしまうこともあるし、カオルはそういう小森の気まぐれに馴らされていた。
しかし、
「中川さんから電話があって、四時に会う約束だったというんです。小森はずぼらなところもありますけれど、大事な約束はちゃんとメモしておいて、忘れたなんて聞いたことがありません」
「大事な約束だったんですか」
「と思います、相手が中川さんですから」
中川は「小説世界」という月刊誌の編集者だった。関根も仕事の関係で彼を知っているが、小森は「小説世界」の新人賞に応募していたのだ。
「すると、約束というのは新人賞のことだろうか」
「わかりませんが、電話のたびに原稿を催促されているみたいでした」
「催促といっても、それは仕事のほうじゃないな。小説の原稿でしょう」
「そうかしら」
「聞いてないんですか」
「話してくれないんです。お仕事や小説のことは、あまり話してくれません」
「ぼくだって、家では仕事の話なんかしませんよ。小説だったら尚さらかもしれない。まあ心配しないで、今夜はやすんだほうがいい。どこかで飲んでいるか、麻雀でもやっているのかもしれない」
もし麻雀なら、徹夜になることが珍しくなかった。
関根は気休めを言って、電話を切った。
「変ね、煙草を買いに出たきり帰らないなんて」
利江は納得がいかない顔をしていた。
「小森はもともと変なやつさ。つまらないことに怒ったり、気が小さいのかと思っていると、やたらに大胆だったりする。性格がアンバランスなんだ。よくわからないよ」
関根は考えないことにした。それより、早く眠りたかった。体がくたくたに疲れていた。一日じゅう忙しかったせいもあるが、どちらかといえば酒を飲み過ぎたせいだった。
2
翌朝、関根は九時に眼をさました。せかされていた仕事は昨日で一段落したが、見なければならない映画の試写が十時半からだった。それで利江に起こしてもらったのだ。
「小森さん、帰ったかしら」
利江がきいた。
「どうかな」
関根は胃のあたりが重苦しい感じで、食欲がなかった。
それでも、利江が娘をつれて幼稚園へいったあと、サンドイッチをつまんでから家を出た。
映画会社の狭い試写室は珍しいくらい人が入っていた。若い新人監督の野心作という前評判のためらしいが、見ているうちに腹が立ってきたほど古めかしい駄作だった。
「ひどいね。あれじゃ批評する気にもならない」
試写室でいっしょになった仕事仲間の須藤が言った。関根がつくろうとしているグループの一人で、小森とも仲がいい男だった。ひげのせいで関根より年上に見られることがあるが、小森と同年生まれの三十二歳である。もっとも、小森もひげを生やしているが、彼のほうはそれほどふけて見えなかった。小柄で痩せぎすな小森とちがって、須藤は大きいせいかもしれなかった。
関根は通りがかりの喫茶店へ須藤を誘った。
しばらく試写を見たばかりの映画の悪口を言い合ったが、
「小森に会わないか。探してるんだ」
関根は話を変えた。
「会わないけれど、昨夜フリックで飲んでいたら、カオルさんが電話をかけてきて、やはり探してるようだった」
「どこへ行ったのかな。おれも須藤も会ってないとすると、麻雀じゃないだろう」
「ちがうね。昨夜は麻雀の仲間がみんなフリックに集まっていた。飲んでいる途中で、雀荘へ行こうかなんて話がでたくらいだった。それに金がなかったら、小森はおれたちを誘いにくいと思うんだ」
「なぜだい」
「おれは三万円だが、もっと貸しているやつがいる。この頃の彼は全然ツイていない。自分でもこぼしていたけれど、やるたびに金が足りなくて紙(借用書)を書いていた。たしか、関根さんも彼の紙を持ってるんじゃないかな」
「うん」
関根は額を言わなかったが、須藤の言うとおりだった。四万と五万と一万、合計十万円の貸しになっていた。麻雀仲間の暗黙の了解があって、借りた金は次にやるとき返すことになっている。それを小森が知らないわけはないし、新人賞の賞金が入ったら一度に返すなどと笑いながら言っていたこともあるが、そんなことを当てにする者はいなかった。
関根は彼への貸しが気になってきた。大した額ではないが、少ない額でもなかった。関根が借りたときは、ほかから借金してもきちんと清算しているのだ。
「ちょっと電話してみよう。帰ってるかもしれない」
関根は席を立った。
出入口の近くに電話機があった。
ダイヤルをまわしながら、小森が帰っているような予感がした。
しかし、小森は帰宅していなかった。カオルの声は昨日より心配そうで、昨夜は一睡もできなかったという。
「全然連絡がないんですか」
「ええ、さっき中川さんからも電話をもらいましたけれど、やはり連絡がないそうです」
「おかしいな。喧嘩でもしたんじゃないの」
「そんなことありません。麻雀で徹夜をしても、たいてい朝のうちに帰ってきます。小森は体が弱いから、みなさんのように二日つづけて徹夜をするなんて元気はないんです。自分でそう言ってました」
「どこか心当たりがあれば、ぼくが探してみてもいい。そういう所がありますか」
「いえ、お仕事の知り合いは多かったでしょうが、友だちらしい友だちは関根さんや須藤さんたちだけじゃないかと思います。人見知りをするので、友だちが少ないんです。関根さんのことは兄貴分と言ってました」
「―――」
関根はやや憮然《ぶぜん》とした。年上にはちがいないが、兄貴分と言われては貸した金を催促できない感じだった。このまま放っておくこともできない感じである。
関根は席へ戻った。
須藤に電話の模様を話すと、彼も「おかしい」と言って首をひねった。
「まるで誘拐されたみたいじゃないか」
「誘拐されるような年齢じゃないよ」
「誘拐したって、彼じゃ身代金を取れる当てもないだろう。とすると蒸発か」
「しかし原因がわからない」
「でも、たった一晩帰らないくらいで探しまわるのは大げさな気もするな。おれなんか三日も帰らなくても、女房は平気な顔でいる」
「あんたと小森はいっしょにならない。それに、家を出たときの様子が普通とちがう。煙草を買いに出たんだぜ。女の線は考えられないかな」
「―――」
須藤は太い腕をくんだ。
関根が知っている限り、小森の女性関係はカオルしかいなかった。浮気したなどという話は聞いたことがない。
しかし、三年も同棲しながら、カオルを入籍しないというのが気になった。あまり気にしないでいたが、気にしだすといろいろな場合を想像して、関根が書いたことのあるルポの筋をなぞるなら、カオルのほかに戸籍上の妻子がいるということも考えられた。
「おれはカオルさんに会ってみる」
関根はそう言って腰を上げた。
喫茶店は冷房がきいていたが、外はかんかん照りの暑さだった。
3
カオルはアパートにいた。関根がいるアパートと似たような造りの二階建てで、狭いダイニング・ルームに二間つづきの二部屋きりという間取りまで似ていた。
小森については依然消息がないという。
「こんなこと、初めてです」
カオルは一睡もできないでいるせいか、頬のあたりがやつれて見えた。髪を短く切って男っぽい感じだが、背が高く、顔立ちも整っていた。小森といっしょになる前の彼女は広告会社のPR誌編集部につとめ、小森に仕事をまわす側だったのである。
だから、関根も仕事の関係で以前から彼女を知っていた。
「ぼくも少し心配になってきてね、あとで小説世界の中川にも会うつもりだが、例の小説のほうはどうなってるんだろう」
「わかりません。昨夜も電話で言いましたけれど、そういう話はしてくれないんです」
「しかし、書いてはいたわけでしょう」
「でも、どのくらい出来ていたかわかりません。原稿は読んじゃいけないと言われてるし、書き損じなどは神経質すぎるほどこまかに破いてました」
「その気持はわかりますよ。ぼくなんか、活字になったものでも女房に読ませない。もっとも無署名記事ばかりだから、気づかずに読んでるってことはあるらしいけれどね。昨日、出かけるときはどんな様子だったの」
「変わった様子はなかったと思います。あたしが買物から戻ったら、小森はちょうどアパートを出たところだったんです。それで出かけるのって聞いたら、煙草を買ってくると言って、駅のほうへ行きました」
「服装は」
「ジーパンに赤いTシャツです」
「手ぶらですか」
「茶封筒をさげてました。週刊誌が入るくらいの封筒です」
「ことによると、封筒の中身は小説の原稿じゃないかな」
「それなら、なぜそう言わなかったのかしら」
「わからないが、中川に会う約束というのは、原稿を届ける約束だったのかもしれない」
「でも、原稿ができたとすれば、あたしに黙ってるなんておかしいわ。小森はそれほど水くさくないし、あたしが早く原稿ができるように待っていることも知ってました。そしてもし入選したら、もちろん読んでもいいと言ってたんです。あたしは小森の才能を信じてるの。小説のほうは読んだことないけれど、きっと素晴しい小説を書いて、みんなをびっくりさせるわ」
「ぼくも彼の才能は認める。だが、いなくなっちゃ困るよ。今度のことで気がついたが、ぼくは彼を知ってるようで知らないんだな。仕事ぶりはよく知っている。遊ぶほうも仲間だから、そっちのほうもよく知っている。しかし、それ以外に何を知ってるかと聞かれたら、きみのことと、去年の秋親父さんが亡くなったことくらいしか知らない。親父さんのことだって、大分経ってから聞いたんだ。それまでは父親がいることさえ知らないでいた。親がいるのは当たり前だが、ぼくも聞こうとしなかったし、彼も喋ろうとしなかった。お互いに、聞かないのが礼儀のような感じでいた。そういう感じは今でも変わらないが、水くさいとも違うんだ」
「お父さんは老人ホームで亡くなったのよ」
「それも初耳だな」
「四つ年上のお姉さんがいることはご存じかしら」
「いや」
「お姉さんといっても義理の姉ね。あたし、お父さんのお葬式で初めて紹介されたわ。きれいなひとで、眼の感じが小森に似てると思ったけど、二度目のおくさんの連れ子だから血のつながりはないんですって」
父の再婚は小森が五歳のときで、生みの母は一年前に亡くなっていたという。当時の父は株の仲買人で景気がよかったらしく、再婚後も裕福な生活がつづいたが、小森が大学生のときに投機に失敗して、たちまち家を追い払われるほどの貧乏になったという話だった。
「小森が大学を中退したのはそのせいなんです。でも、お姉さんはその前に結婚していたので、姉弟でも随分差がついてしまったなんて小森は笑ってました。お父さんが入っていた老人ホームの費用も、ずっとお姉さんが仕送りをしていたそうです。銀行の支店長をしているというお姉さんのご主人もお葬式に来てましたが、とても腰が低くて、親戚代表の挨拶をしていました」
「親戚代表は、長男の小森じゃないのか」
「小森が遠慮したんです。自分は代表の資格がないって断ってました」
「しかしそんなふうでは、小森も姉に頭が上らないな」
「というより、ほとんど無関係じゃないかしら。お葬式で会ったのが久しぶりみたいでした。血のつながりがなければ他人と同じですものね。小森もそう言ってました」
「小森の義母、つまり親父さんの後妻は健在なのだろうか」
「いえ、とうに亡くなっています。お父さんはそのひとと二人きりの暮らしが長くて、そのひとが亡くなったので老人ホームへ入ったそうです。そのひとは柳橋の芸者だったということも小森に聞きました」
「義理の母や姉は別として、小森は一人っ子なのかな」
「三つちがいの妹がいたけれど、自殺してしまったそうです」
「その話はチラッと耳にしたことがある」
「まだ中学の一年生で、小森はとても可愛がっていたらしいんです」
「なぜ自殺なんかしたのだろう」
「知りません。小森もわからないと言っていました。でも、本当はわかっているのかもしれない。あたしの勘ですが、今度の小説は妹さんのことを書いているような気がして仕様がないんです」
カオルの顔色がふっと暗くなった。
意外な話ばかりだった。関根は余計なことを聞き過ぎたような気がした。
カオルも話し過ぎたと思ったのか、きょうの話は内緒にして欲しいと言った。
「もちろんそうしよう。ぼくもそのほうが気楽になる。きみは小森のことが心配で、何か喋らなくてはいられなかったんだ。ぼくはそう解釈している。だから、きみは壁にむかって呟いたと思えばいい。小森が帰ってくれば、いま喋ったことなんかきれいに忘れてしまうさ」
関根は重い腰を上げた。
「あたし、また一人ぼっちになるのかしら」
カオルは放心したように、関根のほうを見ないで言った。
「なにを言ってるんだ。きみらしくないな。すぐに小森が帰るじゃないか」
「もう帰らないような気がするわ。籍も入ってないし、義理のお姉さんより他人よ。あたしは捨てられたのかもしれない」
「ばかなこと考えちゃいけない。ここに帰らなかったら、どこに帰るところがあるんだ。そんなところはどこにもない」
「それじゃなぜ籍を入れてくれないの。小森は面倒くさいって言うだけ、あたしは面倒くさいなんて思わないわ。あのひとは自由でいたかったのよ。そうじゃないかしら」
「―――」
関根はうまい返事が浮かばなかった。
「あたしは前にも捨てられたことがある。きっと、捨てられやすいのね」
カオルはぽつんと言った。
4
電話をしておいたので、中川は小説世界社の近くの喫茶店で待っていた。
ふたりともコーヒーを注文したが、関根は腹がすいたのでサンドイッチも頼んだ。
「小森さん、どこへ行っちゃったんだろ」
中川は心配より好奇心の強そうな眼で言った。ずんぐりしているので鈍感に見えるが、頭の切れる男だった。関根と同年輩で、「小説世界」の副編集長である。
「昨日会う約束だったというのは、応募原稿のことかい」
「そうだけれどね。催促はしていたが、期限を切ってたわけじゃない。締切まで、まだ半月以上ある」
「入選の見込みはどうなんだろう。絶対に口外しないし、あんただけの考えでいい。聞かせてくれないか」
「何とも言えないな。前回の応募作は、編集部内でかなりいい線までいっていた。候補作に推す声も強かった。しかし、おれは反対だった。確実に入選する見込みがあればいいが、佳作で名前だけ発表されても始まらないし、佳作にもなれなかったら気の毒だと思った。いや、気の毒というより残念という気持だな。書き直せばもっとよくなる作品を、そんなふうに終わらせたくなかった。当落は選考委員が決めることでその場になってみないとおれたちにもわからないが、かりに入選するとしても、おれは応募原稿のままでは不満だった。テーマも素材もいいし、あのまま活字になったら本人も後悔するようになると思った。応募して、入選すればいいってものじゃない。ほかの雑誌からも注文が殺到して、作家として自立できるようになってくれなければ意味がない。おれの意見が通ったので小森さんはおれに任されたかたちになってしまったが、とにかく期待している」
「それじゃ彼も張り切っていたはずだな」
「ぼつぼつ出来上っていい頃で、おれのほうはなるたけ早く原稿をもらって、もう一度くらい手を入れる余裕が欲しいんだ。昨日の約束も、ことによったらそのとき原稿を持ってくるかと思っていた」
「原稿の進み具合はどの程度だったのだろう」
「大分難航しているらしかったが、十日ほど前に聞いたら、半分は越えたと言っていた」
応募規定は四百字詰の原稿用紙七十枚以内だが、小森の予定枚数は五十枚前後だという。
「できた分の原稿は読んだのか」
「いや、全部できるまで待ってくれと言われている。タイトルは白い墓碑銘≠ニいうんだがね。初めは黒い墓碑銘≠ナ、いつの間にか黒が白に変わってしまった。墓碑銘に黒じゃイメージがツキすぎると思ったのかもしれない」
「テーマは」
「それは内緒にさせてもらう。いくら関根さんでも、そこまでは言えない。まだ部内選考の段階だからな」
「おれの勘だが――」
関根は、カオルの勘を自分にすり替えて言った。
「テーマは妹のことじゃないのか。妹は子供のころ自殺したらしい」
「そんな話、だれに聞いたんだ」
「小森が酔っ払って喋った。珍しくべろべろに酔って、夢で魘《うな》されているようだった。だから彼自身は、喋ったことを憶えていないかもしれない。よく聞き取れなかったし、自殺した妹がいるらしいとわかっただけだ」
「いつ頃のことだろう」
「一と月くらい前になる」
「すると、書けなくていちばん苦しんでいた頃だな。むずかしくて書けないと言っていた」
「やはり妹のことを書いているのか」
「まあね。想像に任せるよ。深刻なテーマで暗い話だが、書き方次第では相当の傑作になる。話題を呼ぶことも間違いない。しかし前に読んだ印象では突っ込みが足りなくて、肝心な部分が書けていなかった。書けていないというより、わざと曖昧にぼかしている惑じだった。何のために書いたのかよくわからないんだ。それで、これじゃ駄目だと言ってやった。事実なんかどうでもかまわない。小説というのは作るものなんだ。とにかく主人公の内面をもっと掘り下げるように、大分ハッパをかけてやった。そしたら、彼も納得したようだった」
「主人公は小森か」
「またおれに言わせようとする」
「それとも妹かな」
「知らないよ。いずれ入選すれば雑誌に発表される。本屋で買ってくれ」
「しかし、当の作者が行方不明じゃないか。カオルさんは、もう帰らない気がすると言って心配している」
「そんなことあるもんか。家にいては落着いて書けないので、旅館にでもこもっているのさ」
中川はむきになったように言った。
そのとき、会社から使いの者が呼びにきた。
急ぎの用事らしかった。
「ちょっと失敬する」
中川は出ていった。
5
中川は十分ほどで戻った。
しかし難しい顔をして腰かけたきりで、しばらく口をきかなかった。冷えてしまったコーヒーの残りを飲み干し、煙草ばかりふかしている。
「どうしたんだ。仕事があるなら、おれは帰る」
関根は立とうとした。
「待ってくれ。大変なことになってしまった」
「なにが――」
「電話はカオルさんからだった。関根さんがぼくのところへまわると言っていたので、関根さんに連絡するつもりで電話してきたらしい。ぼくが代わりに聞いてしまったが、伝言をたのまれた。彼女は水上警察へいった」
「小森は警察の厄介になっていたのか」
「うむ」
「喧嘩でもしたのか」
「いや、海に飛びこんだらしい。芝浦の海岸で死体が見つかった」
「冗談じゃないぜ。もっと詳しく話してくれ」
「詳しいことはわからない。カオルさんが警察へ呼ばれたのは死体を確認するためだろう。彼女も詳しいことはわからないと言っていた」
「伝言はそれだけか」
「うん。心細いので、だれかに言い残して行きたかったんじゃないかな。そういう口ぶりだった」
「飛びこんだというと、自殺か」
「だろうな」
「しかし、飛びこむところを見た者がいるわけじゃないだろう」
「うむ」
「おれは警察へいってみる」
「おれも行くよ」
ふたりは喫茶店をでた。
すぐにタクシーを拾った。
「かりに自殺とした場合、原因は何だろう」
関根が聞いた。
「おれの責任かもしれない」
「なぜだ」
「おれはハッパをかけすぎた。傑作を書けばたちまち有名になる。賞金なんか問題じゃない。つぎつぎに注文がきて、書きたいことをいくらでも書ける。新人は処女作がいちばん大事なんだ。作品さえよかったら恥も外聞もない。むしろ恥をさらすつもりで、どんなに書きにくいことでも思い切って書け。中途半端な作品は中途半端にも通用しない。そう言ってハッパをかけた。もちろん彼は張り切っていた。しかし、なかなか書けなくて苦しんでいることも、おれにはわかっていた。会うたびに、彼の辛さは手にとるようにわかった。だが、おれは甘い顔を見せなかった。彼の才能に期待していたし、小説雑誌の編集者なんて有望な新人を見つけて傑作を書かせるのが愉しみなんだ。そんなおれの自分勝手が彼を追いつめてしまったのかもしれない」
「しかし、死ななくてもよかったじゃないか。小説なんか書かなくたって、彼は立派に生きてゆける」
「それは関根さんの考えだ。彼は意外なほど脆《もろ》い面があった」
「おれは強い面を知っている」
「彼の強さは虚勢だった。おれは、その虚勢を利用するつもりでハッパをかけていた」
「そうかな」
「そう思う」
「それじゃ計算ちがいということになる」
「だから責任を感じている」
「もう教えてくれてもいいだろうが、彼の小説のテーマは、やはり妹の自殺か」
「うん」
「肝心な部分が書けていないと言ったが、その意味も教えてくれないか」
「主人公と妹の関係が曖昧だった。性的な関係があったように匂わしているが、彼の書き方では妹の自殺した理由が納得できなかった」
確かに深刻な内容だった。その小説がもし事実に近いとすれば、妹の自殺は中学一年のときで、小森は高校一年のときだ。彼が書き悩んでいたのも無理ではなかった。また反対に、どうしても書きたいことだったのかもしれない。
「とすると、妹を死なせたのは自分だと思っていたのだろうか」
「うん」
「はっきりとそう言ったのか」
「言った。自分を責めているようだった」
「しかし、随分むかしの話じゃないか」
「いくら月日が経っても遠くならない思い出もある。彼にとっては、つい昨日のような出来事かもしれないんだ。彼が正式な結婚をためらっているのも、多分にその影響があるらしかった。おれには結婚をする資格がないとか、女を仕合わせにしてやる自信がないなんて言っていた」
「罪な話だな。カオルさんはそんなこと知らないでいる」
「彼が妹を死なせたとすれば、今度はおれが彼を死なせたようなものだ。無理に書かせるような題材じゃなかった」
「止せよ、つまらないこと考えるのは。まだ原因がわかったわけじゃない」
「―――」
中川は黙ってしまった。
6
車の流れがスムーズで、タクシーは割合早く警察に着いた。
しかし、関根と中川が代わる代わる掛け合ったが、刑事はカオルに会わせてくれなかった。よほど胡散《うさん》くさく思われたのか、水死体が小森に間違いないかどうかも教えてくれなかった。
ふたりはいったん外へでた。
そこへ、顔見知りの新聞記者が玄関を出てきた。
関根が事情を説明した。
「仏さんのおくさんは調べ室にいますよ。遺体の確認は済んだようだから、じき出てくるんじゃないかな」
記者はたいして興味がなさそうに答えた。
「死体はいつ見つかったんですか」
「けさの六時半頃、水上署のランチが見つけたらしい。身元不明で困っていたが、指紋照会でわかったようなことを聞いた。四年くらい前に交通事故を起こして、そのとき指紋をとられてたんだ。それがなかったら、所持品がないのでまだ身元がわからなかったかもしれない。まあ自殺らしいけどね」
「他殺の疑いはないのか」
「それは解剖してみないと断定できない。遺書は見つかっていないが、もう検視は済んで、首を絞められた痕とか殴られた痕などはなかったというけれど、遺体は監察医務院で解剖される」
自然死以外の変死体は、死因を明らかにするためすべて解剖されることになっていた。
記者は急ぐ用があると言って行ってしまった。
「中川さんはここでカオルさんを待っていてやってくれないか。相当ショックを受けていると思うんだ。おれは小森の姉に会ってくる。義理の姉でつき合いはなかったらしいが、一応知らせてやる必要がある。あとは、カオルさんが帰っていればそっちへまわるし、さもなければフリックで落ち合おう」
関根は中川と別れた。
興信所に勤めている友人に電話をかけて調べてもらうと、小森の義姉の夫の住所は簡単にわかった。渋谷区神泉だった。
夫の鶴見正英は市中銀行の支店長である。義姉の名は晴子、夫婦ともに一流の大学をでているが、子供はいないようだった。
関根はまたタクシーを拾った。
西の空が夕焼けていた。
タクシーは夕焼けの空へむかって走った。
タクシーを下りて、静かな住宅地を五分ほど歩いた。
鶴見夫婦の家は門構えの立派な、洋風の凝った造りだった。垣根のバラがいっぱいに咲き乱れ、ガレージはシャッターがしまっていた。
関根はインターフォンのボタンを押した。
「はい――」
女の返事がした。
関根は自己紹介をして、小森について知らせたいことがあると言った。
「どういうことでしょう」
「お目にかかってお話しします」
「―――」
しばらく応答がなかった。
やがて玄関をあけて、クリーム色のスラックスにブルーのシャツを着た女があらわれた。小森の義姉の晴子だった。ほっそりして、色白のきれいな女だった。顔立ちは小森とちがうが、カオルに聞いていたせいか、眼もとが似ていると思った。品のいい山の手のおくさんという感じである。
「小森康男くんが亡くなりました」
関根は鉄柵のような低い扉越しに言った。
「―――」
晴子は何を言われたのかわからない様子で、聞き返すように関根を見た。そして、
「病気だったんですか」
「いえ、自殺したらしいんです」
「自殺?」
「まだ、はっきりしたわけではありません。遺書もないようだし、原因がよくわからない。それで、お知らせかたがたお話を伺いたいと思ってきました」
「わたくしはずっと会っていなかったんですけれど」
「お父さんの葬式以来ですか」
「ええ」
「恐縮ですが――」
関根は門の扉をあけてもらった。扉越しに立ったままでは落着いて話せない。
「申しわけございません。うっかりしておりました」
晴子は門をあけ、先に立った。
玄関を入ると、すぐ左手が応接間だった。オリーブ色の絨毯《じゆうたん》を敷きつめた広い部屋で、趣味のいい高価そうな家具がそろっていた。
関根は花模様のソファに腰をおろした。
晴子は明りをつけ、カーテンをしめてから関根に向かい合った。
「あなたが義理のお姉さんということは聞いています。彼の生い立ちも聞きました。ご両親が亡くなってしまえば、まったくの他人同様だったかもしれない。そう考えていいでしょうか」
「そのとおりです。つめたいようですが、康男は子供の頃からわたくしに馴染んでくれません。大学を中退するときも、わたくしに相談なしできめてしまいました。わたくしのほうは主人が理解してくれていますし、学費くらいは出してやりたかったのですが、康男はわたくしに面倒をみられるのが厭だったらしいんです。義理の仲とはいえ、縁のうすい姉弟になっておりました」
「それじゃ、彼が小説を書いていたこともご存じないでしょうね」
「存じません」
「ある新人賞の有力な候補になるはずで、第一作のテーマは妹のことだった。中学一年のとき自殺した妹のことです」
「葉子のことかしら」
「名前は知りません。妹が中学一年というと、小森くんは高校一年、あなたは大学生でしょう。そのときのことを憶えていらっしゃいますか」
「はい。わたくしはテニスの試合にいっておりましたが、電話で呼び戻され、家へ帰ってから知りました。康男の勉強部屋で、首を吊っていたそうです」
「なぜ自殺したんでしょう」
「知りません」
「想像もつきませんか」
「はい。遺書もなかったようですし、とても明るい子でした」
「しかし、小森くんは妹のことで悩みつづけていたらしい。十年経っても十五年経っても、消えるような悩みではなかったんですね。それで彼は小説を書く気になった。忌わしい過去を清算するため、たぶん贖罪《しよくざい》のつもりでしょう。告白的な作品にはそういう浄化作用がある。だからその小説が完成すれば、それはおそらく妹への墓碑銘になるはずだった。そう思いませんか」
「難しくて、よくわかりませんわ」
「彼はその墓碑銘を書き上げないうちは、人間として失格だと思ってたんです」
「なぜかしら」
「妹を死なせたからです。その負い目が彼を苦しめていた」
「それはあなたのご想像ね」
「想像ですが、そう間違っていないと思う。彼は編集者に励まされ、彼自身も一生懸命に書こうとしていた。しかし、彼はどうしても書けなかった。そして才能に絶望してしまった」
「だから死んだとおっしゃるの」
「ほかに考えられない」
「でも、なぜ妹を死なせたなんて思い込んだのかしら」
「わかりません。実は、その点を伺いたくてお邪魔したんです」
「そうおっしゃられても、わたくしにはわかりませんわ」
「いや、あなたなら知っていると思う。というより、あなたしか知らないと思う」
関根は晴子を見つめた。
晴子は視線をそらした。その一瞬の眼つきに特徴があった。小森康男にそっくりだった。
関根は間を置かなかった。
「初め、小説のタイトルは黒い墓碑銘≠セった。それがいつの間にか白い墓碑銘≠ノ変わった。黒から白へ、それは彼の絶望を示している。白は白紙の白です。彼の原稿用紙は白紙のままで、とうとう書き上げることができなかったんだ。そして、タイトルを変えたときから、別のことを考えるようになった。昨日、彼はここへ来たはずです。大型の茶封筒に白紙のままの原稿用紙を入れ、しかし原稿ができたふりをして来たはずです」
「なぜそんな真似をして来る必要があるのかしら」
「あなたを脅迫するためですよ。むかしのことを小説に書かれてご主人に読まれたら、大変なことになる。友だちにも読まれたくないでしょう。そこで彼は小説をあきらめる代わりに、あなたから金を巻き上げることにしたんだ。彼が昨日こちらへ来たのは突然ではないと思う。何度か金銭上の交渉をして、それが決裂した結果にちがいない。彼は金に困っていた」
「ひどいことを言うのね。呆れたわ」
「ぼく自身も呆れている。あなたに会う前は、こんなことまで考えなかった。彼の小説は妹との性的関係を匂わしていた。しかし妹は中学一年で、しかも肉親の兄妹です。そういう関係もないとは言えないが、少しでも彼を知っているぼくからみれば、どうしても不自然な感じを否めない。あなたのほうが遥かに自然なんだ。あなたは二度目のおくさんの連れ子で、小森とは血のつながりがないと聞いた。しかしそれも嘘だと思う。小森の父は、最初の妻が生きている頃から、あなたのお母さんと関係があった。芸者をしていた女を愛人にして、あなたという娘まで生ませていた。だから妻が死んで一年後には、あなたといっしょに二度目の妻を迎えたんじゃないだろうか。こんな例はざらにある話で、べつにとやかく言うことじゃない。しかし、あなたと小森の父親が同じで、ふたりが深い関係になったとすれば話がちがってくる。どっちが誘惑したか知らないし、ふたり同時に愛し合ったのかもしれない。いずれにしても、ふたりとも初めは血のつながりを知らなかったろうが、いつか気づくときがきたにちがいない。そして小森は捨てられ、あなたは仕合わせな結婚をした」
「たいへんな想像力ね」
「ぼくは三流のルポライターで、記事に想像が入りすぎると悪く言われている」
「帰っていただくわ」
「まだ話が残っている。妹が自殺した理由です。傷つきやすい年ごろの妹は、あなたと小森の関係を知ってすごいショックを受けたんじゃないかな。きっと普通の兄妹以上に小森を愛していて、だから小森の部屋で首を吊った。それは小森に対する抗議だった。妹は、あなたと小森が同じベッドにいるところを見てしまったのかもしれない」
「帰っていただけないかしら。あんまりばかばかしくて、聞いていられないわ」
「それじゃ黙ります」
小森は口を噤んだ。
晴子は笑おうとしたようだが、唇がゆがんだだけだった。
「帰って、と言ったのよ」
「考えているんです。あなたがどうやって彼を芝浦の海へ運んだのか考えている」
「帰らないなら、警察を呼ぶわ」
「どうぞ、呼んでくれたほうがいい。あとはぼくの手に負えないから、警察で調べてもらう。原稿用紙が入った封筒が見つかるかもしれないし、あなたが運転免許証を持っているなら、車に手がかりが残っているかもしれない。ご主人は留守だったと思うが、あなたのアリバイも徹底的に洗ってもらう。それに遺体を解剖すれば、睡眠薬を飲まされていたかどうかもわかる。血液型によって、あなたと小森の血のつながりもわかるにちがいない」
「―――」
今度は晴子が黙ってしまった。
「警察を呼ばないんですか」
関根は言った。
しかし、自分でパトカーを呼ぶ気はしなかった。同情する理由はないはずだが、眼の前にいる女が可哀そうに思えて仕方がなかった。
悪 い 仲
1
椎野は酔っているようだった。時刻も夜の十二時を過ぎていた。
「大分お酒を飲んだようね。匂うわ」
妻の美千子は明るい顔で言った。無理につくった明るさだった。
椎野は答えないで上着を脱ぎ、
「水をくれ」
と言って腰をおろした。
「お仕事が忙しいことはわかってるわ。帰りに飲みたい気持もわかるつもりよ。でも、あたしはあなたの体が心配なの。きょうは、平山さんに診《み》てもらったはずじゃないかしら」
「うむ」
椎野は暗い顔をそむけ、煙草に火をつけた。
家はマンションの六階で、投資のもくろみもあって椎野が父の遺産で買った。しかし、結婚して五年になるが、子供に恵まれていなかった。もちろん恋愛結婚である。
美千子は水に氷をいれてきた。
「それで、結果はどうだったの」
「―――」
椎野は眉をしかめて水を飲んだ。返事をそらしている感じだった。
「何でもなかったんでしょ」
美千子は椎野の顔を覗いた。
顔色がよくなかった。
「まあね」
「まあねじゃわからないわ」
「レントゲンを撮られて、またバリウムを飲まされた」
バリウムはX線造影剤で、消化器のX線検査に用いる。どろどろした液体で、飲みやすいように甘くしてあるが、決してうまいとはいえなかった。椎野の場合は飲んだあと三日間も下痢がつづいて、五十六キロの体重が四キロも減ってしまった。ようやく元気を取り戻したところである。
「辛いわね」
「仕方がないさ。薬をもらってきた。きみなら、どういう薬かわかるだろう」
椎野は薬を袋ごと美千子の前に置いた。平山が内科の医長をしている病院の薬袋だった。
「胃の薬かしら」
美千子は薬をみて言った。白い錠剤が十錠ずつカプセルに入っていた。彼女は大学病院の看護婦をしていたことがあり、当時は平山も同じ病院の内科医だったので、吐血した椎野が平山を頼って入院し、それが椎野と美千子の愛をつなぐ機縁だった。そのとき椎野は急性胃炎と診断されて、二十日くらいで退院した。
「胃の薬にはちがいないだろうが、ただの胃薬じゃない」
「―――」
美千子は薬を見つめたまま、細い首をかたむけた。
「見憶えがないのか」
「わからないわ」
「それじゃわからなくていい」
「あなたは知ってるの」
「白い錠剤なんて珍しくない。ただの胃薬かもしれないんだ。余計なことを言ったが、忘れてくれ」
「厭よ、そんなこと。何か隠してるわね」
「何も隠しちゃいないさ。今夜はもう遅い。先に寝てくれ。ぼくはシャワーを浴びる」
「この頃のあなた、とても変よ。顔色がわるいし、毎晩こんなに遅くまで飲んでくることもなかった。絶対に何か隠してると思うわ。どうしてもあたしに話せないことって、何かしら。前から気になってたわ」
「きみが気にするほどのことじゃない」
「ずいぶん水くさいのね。というより、あたしが眠れないほど心配してるのに、ひどすぎるわ。まるで、あたしなんかどうでも構わないみたい」
「そうじゃないよ。きみの反応を試したんだ」
「嘘――。これでも、あたしはあなたの妻よ。あなたが悩んでいるくらいわかるわ。食欲だって全然ないじゃないの」
「そんなふうに言われても困る。仕事のストレスがたまっていたし、平山は胃酸過多だろうと言っていた」
「それじゃ、この薬のことを聞いたのはなぜかしら。あたしを試したというけれど、ただの胃薬じゃないと思ってる言い方だったわ」
「―――」
椎野は黙ってしまった。ますます暗い表情で、残りの水を飲み干すと、煙草に火をつけた。
「あなたが言ってくれないなら、あたし、平山さんに聞くわ」
「彼に聞いたって、どうせ本当のことは教えやしない。かりに教えてもらったとしても、今度はきみが話さないだろう。ひとりで苦しむばかりだ」
「どういう意味かしら」
「―――」
椎野はまた沈黙した。まずそうに煙草をふかし、美千子のほうを見ないようにしている。
美千子はいらいらして、執拗に問いただそうとした。
その美千子の可憐な様子が、椎野の気持を動かしたようだった。
「おどろかないで聞いてくれるかな」
椎野は口ごもるように言った。
美千子は緊張しきっているのが、自分でもわかるくらいだった。
「この薬、見憶えがあるんだ」
「どこで」
「きみも知ってるように、ぼくの親父は三年前に亡くなった。ガンじゃないといわれていたので、父は死ぬまでほかの病気だと思っていたらしい。しかし、一人っ子のおれはガンだと聞かされていた。父には知らせるなという条件でね。もし知ったら、それだけで闘病意欲をうしなって、自分から死期を早めてしまう例が多いというんだ。もう手術は手遅れだったし、ぼくは毎日会社の帰りに病院へ寄って、近づいてくる父の死を待つしかなかった。その父が、入院する前に飲んでいたのがこの薬だった。抗ガン剤だったんだ」
「嘘だわ」
美千子はヒステリックに叫んだ。
しかし椎野は落着いていた。
「ぼくも嘘だと思いたい。平山もガンだなんて言わなかった。だが、ぼくは彼の態度で気がついた。彼は優秀な医者だ。高校時代からクラスいちばんの秀才で、ぼくなんか自信がないから医学部を受けようとも考えなかったが、彼は一発で医学部に合格した。先輩に引っぱられて今の病院へ移ったけれど、大学に残っていれば助教授くらいにはなっている男だ。しかし、欠点もないわけじゃない。患者に対して芝居ができないんだな。相手が見ず知らずの患者なら結構うまくやってるのかもしれないが、ぼくを騙すほどの演技力はなかった。心配することはないなどと言いながら、ぼくのほうを真っすぐ見られないでいた。この前も、きょうもそうだった。気が小さいから、下手な芝居を見透かされるのが怖かったんだ」
「それはあなたの考え過ぎよ」
「いや、この薬が何よりの証拠さ。平山も去年の春ガンで妻を亡くしているが、この薬を飲ませていたとすれば、たいして効かないことがわかっているはずだ」
「あなたと平山さんのおくさんは全然ちがうわ。さっき顔色がわるいなんて言ったけれど、あなたの場合はお仕事とお酒のせいじゃないの。このお薬が気になるなら、よそのお医者さんに確かめてもらったらどうかしら。きっと普通の胃薬だって言われるわ」
「無駄だね。会社の診療所へ持っていっても、抗ガン剤だなんて教えるわけがない。またバリウムを飲まされるのが落ちさ。ガンは遺伝じゃないというが、ガン体質というものは否定されていない。父は胃ガンで、父の姉もガンでやられた」
「でも、お父さんがガンで亡くなったといっても七十三歳じゃないの。伯母さんも七十を越えていたというし、七十過ぎまでお元気だったなら、何病で亡くなっても同じじゃないかしら。気にしたら、きりがないわ」
「しかし、この頃は三十代四十代でもガンがふえていると新聞にでていた。つい先日も肝臓ガンで死んだ社員がいるが、ぼくより一つ下の三十四歳だった」
「とにかく明日、あたしは平山さんの話を聞いてきます。あなたは神経質なほうだから、これ以上考えないことが大切よ。胃の調子が少しおかしい程度なのに、神経で参ってしまうわ」
「すまなかった。余計な心配をさせるつもりじゃなかったんだ。きみが言うように、悲観的に考え過ぎているのかもしれない」
椎野はそう言って浴室へむかった。
しかし、依然元気がなさそうで、美千子の言葉に安心した様子はなかった。
2
翌日、美千子は電話で都合を聞いてから、平山が勤めている病院へ行った。私立病院だが、まだ新しい四階建てで、内科医長の平山は四階に個室を与えられていた。
美千子はエレベーターで四階へ上った。病院をたずねるのは初めてだし、医長室も初めてだった。
長い廊下のはずれに「内科医長」というプレートがでていた。
平山は大きな机にむかっていたが、待ちかねていたらしく、応接用のソファへ美千子をかけさせた。
「すてきなお部屋ね」
美千子は明治神宮の森が見える窓の外を眺め、腰を下ろして言った。
「すてきというほどじゃないだろう。それより、きみの着物すがたのほうがすてきだ」
「そうかしら」
「うん、きみはもともと着物が似合っていた。看護婦のユニホームもよかったがね」
平山はワイシャツの袖を無造作にまくりあげていた。細い紺縞の、おしゃれなワイシャツだった。何を着ても野暮ったくみえる椎野に較べると、服装のセンスがまず違っていた。広い額がいかにも知的な感じで、ひところの彼は看護婦たちの憧れの的だった。知的な感じを冷たいという者もいたが、美千子はその冷たい感じが好きだったのである。
もっとも、入院生活に退屈した患者たちの人気投票で美千子も「ミス看護婦」に選ばれたことがあるから、人気があったという点では平山と同格だった。
「それで、彼の様子は?」
平山がきいた。
「少し可哀そうな感じね。ほんとにガンだと思ってるらしいわ」
「きみにそう喋ったのか」
「薬で気づいたのよ」
美千子は昨夜のことをそのまま話した。
「あの薬、抗ガン剤なの」
「もちろんさ。ほかの医者のところへ持っていかれて、消化剤だなんて言われたら意味がない」
「効くのかしら」
「初期のガンには相当効くというデータが報告されている。しかし、彼はガンじゃないんだぜ。あの薬を飲んだって、副作用があるだけだ」
「どんな副作用があるの」
「食欲がなくなるとか吐き気がするとか、ろくなことはない」
「でも、椎野は前から胃の具合がわるいと言ってたわ」
「それはストレスのせいだな。課長になったばかりで、やたら仕事が忙しいらしい。酒を飲む機会もふえたし、人間関係も面倒だと言っていた。仕事はできるのだろうが、管理職には向かない男なんだ。無理をすればストレスがたまるにきまっている。昨日のレントゲンに影が写っていたが、それはバリウムの残りだから心配ない。下剤を飲めば消えるはずだ」
「昨夜みたいな様子がつづいたら、椎野は自殺するかもしれないわ」
「ガンではないが、ガン・ノイローゼだな。きみの思いどおりじゃないか」
「あたしだけ悪いみたいね」
「いや、今のは言い方が間違っていた。ぼくたち二人と言い直すよ」
「それじゃ許してあげる」
「きみも怖いな。そう怖い顔をしないでくれ」
「あたしは真剣なのよ。もう、椎野といっしょにいるなんて本当に我慢できないわ。あのひとは確かに真面目だし、好人物にちがいない。でも、それだけって感じ。趣味も何にもなくて、退屈でたまらないわ。あのひとをそんなふうに思わせたのは、あなたよ」
「今度はぼくが悪者か」
「あたしには悪者じゃないわ。いえ、ちょっと悪者かしら」
「ちょっとくらいならいい。ぼくたちは悪者同士だから気が合うんだ。しかし、彼は自殺するだろうか」
「あたしは、すると思うわ。椎野はとても臆病で、ほんのかすり傷でも、血がでたら子供みたいに大さわぎね。注射も大きらいだし、とにかく痛がりなのよ。お父さんが苦しんでいた姿を毎晩のように見ていたから、なおさらガンが恐ろしいんじゃないかしら。あんなに苦しむなら、体が自由に動くうちに自殺したほうがましだと言ったことがあるわ」
「今後の方針だが、手術をすすめてみようか。手術といっても、腹を切って閉じるだけだけれどな。心理的効果があるかもしれない」
「あなたも悪いこと考えるわね」
「いや、冗談さ。ぼくだってそこまで悪党じゃない。しかし、このまま放っておいてうまくいけばいいが、ほかの医者にかかって元気になられたらどう仕様もないぜ」
「その点は大丈夫、椎野はあなたを信頼しているし、昨日の薬だけで相当参っているから、きっと自殺するわよ」
「とにかく、様子をみるか」
「そうね。焦っても仕方がないわ」
「しかし不思議だな。きみとこんなふうに縒《より》を戻すなんて考えていなかった」
「あなたがいけないのよ、誘惑したんですもの」
「きみは結婚してから特にきれいになった。椎野に取られたみたいで、ずっと焼餅を焼いていた」
「でも、あたしが結婚したときは、ほっとしたんじゃないかしら」
「そんなことはない。あの頃は女房が生きていたし、きみの将来を考えたら、黙って見ているしかなかった」
「あの頃はあたしも幼稚だったわ。椎野を好きになったわけじゃなく、あなたを忘れたくて結婚したのよ。すぐに後悔したけれど、あきらめていたわ」
美千子は結婚当時のことを思い出した。どうしても平山を忘れきれなくて、椎野に抱かれながら、死んでしまいたいと思ったことが何度もあったのである。
しかし平山が誘いの電話をかけてくるまでは、いつしか椎野との生活に馴れて、早く子供が欲しいなどと思うようになっていた。椎野はやさしくしてくれるし、たいして不満のない毎日だったのだ。
「今度はいつ会えるかな」
「昼間なら、あたしはいつでも平気よ」
「それじゃ明日の二時、例のホテルで。部屋はぼくが予約しておく」
ふたりが落ち合うホテルは決まっていた。週に一度の割で会っているが、大抵平山が先に着いて待っている習慣だった。もちろん別れるときもべつで、帰りは美千子が先にホテルを出ることになっていた。
3
それから半月ほど経った。
椎野は酒を飲まなくなり、煙草もきっぱりとやめたが、日に日に痩せてきたようだった。顔色がわるく、食欲もなかった。
美千子はあくまでも心配するふりを装ったが、時おり胃がさしこむように痛いと言って鎮痛剤を飲んでいる姿をみると、さすがに気がとがめて、可哀そうになった。
「あのお薬、まだ飲んでるの」
美千子は抗ガン剤のことをきいた。その薬が、いつも彼の鞄に入っていることは知っていた。
「うん、あれがいちばん効くというんだ。平山が言うんだから間違いない」
「しばらく会社を休んだらどうかしら。すこし痩せたみたいよ」
「心配をかけて済まないが、いまは大事な仕事の最中で、休むわけにいかないんだ」
「どんなに大事な仕事でも、体には換えられないわ」
「わかっている」
「体よりお仕事のほうが大事なの」
「そうじゃないさ。しかし、もしガンなら、どうせ助からない。きみのことも考えているが、仕事もきちんとしておきたいんだ」
「すぐそんなふうに言うのね。あたしは平山さんに聞いたのよ、ガンじゃないって」
「いや、きみは本当のことを聞きながら、隠している。それが患者を身内に持った者の常識だ。ぼくも親父のときは隠し通した」
「あたしは隠さないわ」
「と言って隠すんだ」
「疑い深いのね」
「症状がだんだん親父に似てきた」
「気のせいよ。かりにガンとしても、かならず死ぬとは限らないわ。まるでノイローゼみたいじゃないの」
「確かにノイローゼかもしれないが、ふっと死にたくなることがある。今なら苦しまないで死ねると思ったりする」
「厭よ、あなたが死ぬなんて。考えるだけでぞっとするわ。万一あなたが死んだら、あたしはどうなるの」
「きみはまだ若いじゃないか。いくらでも立ち直るチャンスがある。再婚すればいい」
「ひどいことを言うのね。あなたが死んで、あたしが再婚なんかすると思うの」
「ぼくは無神論者で、仏教も信じていない。死んだら火葬場で灰になるだけだと思っている。死んだあとのことは死んでみなければわからないが、灰に遠慮する必要はない。生きている間幸福なら十分で、ぼくは十分に幸福だった。きみに感謝している」
「やめていただくわ、そういう冗談は。怒るわよ。あなたが死んだら、あたしだって生きているわけがないじゃないの。あたしこそ仕合わせになれたのはあなたのお蔭よ。もし死なれたら、あたしも死ぬわ」
「そう言ってくれると嬉しいけどね」
椎野は寂しそうな笑いを浮かべた。
それからさらに半月ほど経った。
椎野は頬の肉がげっそり落ちて、ますます痩せてしまった。仕事は一段落したようだが、もはや完全にノイローゼ気味だった。病気についてはあまり話さなくなったが、その代わり夜なかに魘《うな》されて起きたり、ぶつぶつひとりごとを言うようになった。
「気味がわるいわ」
美千子はホテルで平山に会ったとき、椎野の様子を話した。
「しかし、今さら仕様がないだろう。いくらガンじゃないと説明しても、彼のほうは逆に解釈する。ノイローゼになると、わるいほうにばかり解釈するんだ。この頃は薬も取りにこないが、もう少しの辛抱じゃないかな」
「あなたはのんきそうで羨ましいわ。椎野といっしょにいる、あたしの身にもなってみてよ」
「のんきなものか。昨日も彼が自殺する夢をみてしまった」
「どんな夢かしら」
「マンションの六階から飛びおりた夢さ。彼の死体まで、はっきりと見た」
「あら、あたしと同じだわ」
美千子は思わず手を叩いた。ふたりが見た夢は彼らの期待そのものだった。そのために、美千子は暑くて寝苦しい夜でも、クーラーをつけなかった。椎野が飛びおりやすいように、ベランダに面した六階のドアをあけておくのである。クーラーは体によくないし、夜は涼しい風が入るという口実だった。
椎野が久しぶりに酔って帰宅したのは、平山とそんな会話をかわした翌日だった。めずらしく機嫌がよくて、顔色は相変わらずだが、何となくさっぱりした感じだった。
「何かあったの」
美千子は気になってきいた。
「送別会でね、課の連中と飲んできた」
「どなたか転勤になったの」
「いや」
「それじゃ退職かしら」
「うん、退職願は書いたが、まだ出してはいない。だから今夜の送別会も、送別会のつもりでいたのはぼく一人で、ほかの連中は知らないでいる」
「不思議な会みたいね。わからないわ」
「ゆっくり話すよ。その前にグラスを二つ持ってきてくれ。このブドウ酒、みやげにもらったんだ。うまいから、きみと飲もうと思って残りをもらってきた」
椎野はブドウ酒の瓶をテーブルに置いた。
残りと言ったが、わずかしか減っていなかった。フランス産の赤ブドウ酒である。
美千子がグラスを持ってくると、椎野は二個のグラスになみなみとついで、自分がまず一口飲んだ。
「きみも飲みなよ。ちょっと苦味《にがみ》があるが、口あたりはわるくない」
「ええ」
美千子も一口飲んだ。口あたりがいいとは言えなかった。
「もっと一息に、ぐっと飲まなければ駄目だ。喉へ流し込むように飲むんだ」
「あなたは」
「あとから飲む」
「なぜ」
「やることがある」
「何かしら」
「決心したんだよ。ずいぶん悩んだが、ようやく決心がついた。どうせぼくの命は助からない。薬で寿命をのばしたところで、それは苦痛をのばすようなものだ。ぼくが苦しみ、きみにまで苦しい思いをさせる。それくらいなら、やはり今のうちに死んだほうがどんなにいいかしれない。このブドウ酒には睡眠剤が入っている。きみが眠ったら、もちろんぼくもきれいに飲み干す。そして戸締まりをして、ガス栓をあけるんだ。そうすれば、ぼくたちは全然苦しまないで眠ったまま死ねる」
「―――」
美千子はびっくりして口がきけなかった。
「いろいろ考えたが、ぼくが死んだらきみも死ぬと言ってくれた。あのときの嬉しさがぼくの決心を鈍らせていた。でも、それほど愛してくれるきみを残して死ぬなんて、ぼくだって耐えられない。再婚してもいいと言ったが、あれは虚勢だった。愛しているから虚勢を張ったんだ。再婚されるなんて、本当は想像もしたくなかった。ぼくこそきみを愛している」
椎野はしんみりと言った。
美干子はまだ口がきけなかった。体じゅうがほてるように熱かった。
「きみも決心してくれ。急な話で驚いたかもしれないが、覚悟はできていたはずだ。いっしょに仲よく死のう。そのブドウ酒を飲めば、すぐ楽になる」
「でも、あなたはガンじゃないのよ。自分でそう思っているだけだわ」
「いや、その話なら何度も繰り返している。ガンに間違いない」
「嘘よ。たいへんな誤解をしてるわ」
「誤解でもいい。もう決めたんだ。ぼくは死ぬ。きみが眠るのを見届けてから死ぬ」
「あたしは――」
美千子はあとの声が出なかった。頭が混乱して、気が狂いそうだった。
4
椎野のマンションに平山がやってきたのは、それから二時間ほど後だった。
「どうしたんだい、こんな真夜中に呼び出すなんて。美千子さんと喧嘩でもしたのか」
平山はいかにも不機嫌で、部屋のなかを見まわして腰をおろした。
「まあブドウ酒でも飲めよ。美千子はベッドで眠っている。大分酔ったらしい」
「なんだ、酔っ払いの介抱に呼んだのか。もっと重要なことかと思って来たんだぞ」
平山はグラスを半分ほどあけた。
「美千子が白状したよ。まさかとは思ったがね」
椎野は笑いながら言った。
「何のことだ」
「きさまのことさ。おれはもう少しで死ぬところだった。ほんとにガンだと思いこんでいたからな。きさまも美千子も芝居がうまい。ガンじゃないと言いながら、ちゃんとガンだと思わせてくれた。もっとも、美千子は芝居をやりすぎた。稽古不十分か、きさまの演出が抜けていたか、どっちかだろうな。おれが死んだら、自分も死ぬなんて言わなければよかった。おかげで、おれはひとりで死ぬつもりだったのに、あいつと心中することに決めてしまった。あいつは相当びっくりしたらしい。しばらく口もきけないくらいだった」
「何を言ってるのか全然わからないな。椎野がガンだなんて、勝手に思いこんでいただけじゃないか」
「おれの勝手か」
「当たり前さ。よく考えてみろ」
「それじゃ勝手ついでに話を変えよう。水かけ論をやっても始まらない。きさまは美千子とホテルで会っていた。真っ昼間、おれが出勤中に週一度の割だったらしいな」
椎野はホテルの名をあげた。
平山はぎくっとしたようで、視線をそらした。美千子に聞かなければ、椎野が知っているはずがなかった。
「もうとぼけても駄目だ。美千子が全部喋ったんだ。きさまは大学病院にいる頃から美千子を浮気相手にしていた。その頃はまだおくさんが元気だったし、美千子との仲は同僚や看護婦たちに知られても困る。そこへ入院してきたばかがおれだった。おれは本気で美千子に惚れてしまった。きさまにとっては渡りに舟で、美千子をもてあましていたにちがいない。だから、いそいそとして結婚式の仲人役まで買ってくれた。ところが、そのうちおくさんが死ぬと、また美千子に手を出した。未練が残っていたのか、惚れ直したのか知らないがね。おれも迂闊だったが、きさまならやりそうなことかもしれない。そして、このマンションに眼をつけたのもきさまだった。親父の金で買ったマンションだが、ここなら一億円以上で売れる。つまり開業資金になるってわけだ。頭のいい奴には敵わないよ。おれが死んだら美千子といっしょになって、たちまち医院開業だな。わるい夢じゃないね。その夢のためなら、友だちを自殺に追いこむくらい何でもなかった。おれの胃の調子がおかしいのも薬のせいとわかったが、レントゲンを撮ったり薬をくれたり、むしろ愉しんでたんじゃないかな」
「―――」
平山はむっつり押し黙って、顔をそむけたままブドウ酒を飲み干した。
椎野は返事を聞く必要がなかった。
やがて、平山の体がぐらっと揺れた。
どうやら眠ったようだった。
椎野はゆっくり腰をあげた。
寝室を覗くと、美千子もよく眠っているようだ。きれいな寝顔だが、もう未練はなかった。
戸締まりをして、換気扇もふさいだ。
ガスの栓をひねり、匂いを確かめた。
玄関のドアは自動錠になっている。
椎野は指紋に気をつけて、玄関を出た。
エレベーターでは誰にも会わなかった。
外はいちめんの星空だった。
おれがばかだったのか、美千子がばかだったのか、それとも平山がばかだったのか。
椎野は星空を仰いでふっと考えた。
しかしどっちでもいいことに思えた。
それより、胃が軽くなったようで、駆け出したい気分だった。
教 え た 女
1
シャワーの音がかすかに聞こえていた。都心から離れた安っぽいホテルだが、野村が初めて祐子を誘ったときと同じホテルだった。おそらく、利用者は他人に知られたくないという仲の男女に限られている。
野村は服を着ると、忘れ物がないかどうか確かめた。余計な物は持ってこなかったはずだが、何事にも慎重な彼の習慣だった。
ベッドは乱れたままである。
野村は眼をそらし、椅子に腰をおろした。これっきり祐子に会えなくなると思うと寂しいが、ぜいたくな寂しさだということは自分でもよくわかっていた。きょうの成り行きさえ予測外で、結婚式が二週間後に迫っているのに、祐子のほうからもう一度会いたいと電話をしてきたのだ。大胆というのか怖いもの知らずというのか、野村のほうが返事をためらったくらいだった。そして食事だけで別れるつもりが、ホテルへ行くほうが自然なような成り行きになってしまった。
といって、野村は後悔などしていないし、まだ未練が残っていることを知らされた感じだった。もとは札幌へ出張した帰りの機内で隣合わせの席に坐ったという程度の縁だが、そのころの祐子は女子大の学生で、たまたま彼女のクラスで英語の講師をしていた松崎が野村の友人だったところから話が弾み、つぎに偶然会ったとき以来ホテルを利用する仲に発展して、間もなく彼女が卒業したあとも二人の仲はつづいていた。
ただし、野村は妻がいたから、結婚という言葉はタブーになっていた。
ところが、卒業後の祐子は松崎の翻訳を手伝っていたが、松崎に求婚され、祐子もその気になったのである。
もちろん、松崎は野村と祐子の仲を知らないでいる。
「あたしは二十二歳、もうすぐ二十三ですもの」
と祐子は言った。
野村は反対する言葉が見つからなかった。
「松崎はいいやつだよ。学者としても優秀らしい。樫の木みたいに堅い男だが、彼のような男のほうがきみに合っているかもしれない。いずれ彼は教授になると見られているが、そうなればきみも教授夫人だな。生まれる子供も頭がいいにちがいない。こころから祝福するよ」
野村は未練をかくして、そう言ってやった。
だが、一つだけ気になることがあった。祐子は野村によって男を知った。それがどのような快楽をもたらすかも知っている。しかし、松崎にとっては祐子が初めての女ではないのか。いつか欧米におけるフリー・セックスを話題にしたら、むきになってそのような風潮をこきおろした男なのだ。そんな彼がもし結婚そうそう祐子が処女《バージン》ではないと知ったら、ただで済むとは思えなかった。
「その点は大丈夫よ。うまくやるわ」
祐子はけろっとした顔で答えた。
それが半月ほど前で、ほんとうならそのときが最後のデートのはずだった。きょうの成り行きで、野村は祐子の気持がわからなくなっている。
シャワーの音がやんだ。
やがて、祐子も浴室から出てきた。バスタオルを胸に巻いていたが、見馴れたしぐさで身づくろいをすませ、髪のかたちをととのえて野村の向かいに腰をおろした。
「これで、いよいよサヨナラだな」
野村は煙草に火をつけて言った。
「そうね。野村さんには教えていただくことばかりだった。お礼を言うわ」
「なにを言ってるんだよ。からかっちゃいけない。それより、きょうはどういうつもりで会ったのか聞かせてくれ。あとで話すという約束だった」
「気がつかなかったかしら」
「なんのことだろう」
「あたし、感じなかったわ」
「―――」
野村は無言でうなずいた。気づかないわけがなかった。きょうの祐子は人形のようで、以前のような反応をまったく示さなかった。
「その気でいれば感じないでいられるとわかって、安心したわ」
「ふうん。とすると、ぼくを新婚初夜のテスト用にしたわけか」
「ごめんなさい」
「あやまることはないけれどさ。そう聞けば話がわかる。ぼくだって安心した。まさかきみが松崎と結婚するなんて考えないでいたが、すこし教えすぎたというより、きみが知りすぎたかもしれない。もしぼくたちのことがバレたら、おたがいに不幸になる。気をつけてくれよな」
「もちろん気をつけるわ。あたしはキスをしたこともないことになってるんですもの」
「松崎ともキスをしないままか」
「ええ」
「そういうやつだよ、彼は。婚前交渉なんて論外なんだ。おれなどとは学生時代から人間がちがっていた」
「そのくせ、仲がいいのね」
「サッカー部でいっしょだったからな。その頃の友情がつづいてるんだ。妙な関係になったけど、彼が大事な友人であることに変わりはない」
「だったら、なぜスピーチを断ったの」
「いくらなんでも、それほど心臓が強くない」
「あたしは心臓が強いみたいね」
「そういう意味じゃない」
野村はあわてて否定した。
松崎の友人代表として結婚披露宴のスピーチを頼まれ、断ったのは事実だった。祐子のことがなければ、当然祝辞をのべる立場である。
しかし、野村にも一片の良心があった。松崎の新婦と関係がありながら、しらじらしく祝辞をのべることはやましかった。祐子に未練もあるし、祝辞をのべられるわけがないのである。サッカー部の仲間だった森田に代わってもらったのは当然だった。森田も松崎と仲がよくて、翻訳の同業者としてもつき合いがつづいている。
「あたしは野村さんの祝辞をいただきたかったわ」
「冗談じゃないよ。ぼくは披露宴に出るだけで精いっぱいだ」
「あたしの花嫁すがたを見たくないの」
「見たい気持が半分、見ていられないだろうという気持が半分かな。とにかく、ぼくは今夜限り今までのきみを忘れる」
「あたしも忘れるわ」
「それなら、それで言うことないじゃないか。過去は過去さ。きみはいいおくさんになれる」
「そうかしら。あたしは松崎さんのプロポーズがあんまり熱心で、熱意に負けたみたいなのよ」
「まだ彼を愛してないのか」
「わからないわ」
「いっしょになればうまくいくさ。きっとうまくいく。問題は、ぼくとの関係がバレないように気をつけること、それだけだな」
「その点は心配ないわね。きょうの予習で、自信がついたわ」
「無事に予習が終わったというわけか」
「だから、お礼を言いたいの」
「そういう意味のお礼なら、素直に受け取るよ。複雑な気持だがね」
野村は腰を上げた。
ホテルを出ると、ふたりはすぐに別れ、べつべつにタクシーを拾った。
2
二週間経った。
その間、祐子から野村に電話一本なかったが、野村は落着かない気持で結婚披露宴の当日を迎えた。
会場は都心の一流ホテルである。野村は妻と同伴で出席するほどの間柄ではないので、ひとりでホテルへ行った。式は身内の者だけで済ませ、新郎新婦の友人たちは披露宴に出席すればいいことになっている。
媒酌《ばいしやく》人は松崎が勤めている大学の教授夫妻だった。
金屏風《きんびようぶ》の前に新郎新婦、その両脇に媒酌人夫妻が腰をおろし、新郎の松崎はモーニングを着て、新婦の祐子は白無垢の花嫁衣裳で角かくしをした日本髪が似合っていた。
司会者は松崎の同僚である。
野村たち大学のサッカー部以来の友人は、適当に配置されたテーブルのひとつにかたまっていたが、
「ばかばかしいな」
野村のとなりにいた森田が言った。
「なにが――?」
野村は聞き返した。
「この披露宴さ。ほかの披露宴も似たようなものだが、ホテル側が用意したプログラムをそのとおりなぞってるみたいじゃないか。型にはまっているだけだ」
媒酌人の挨拶は式が無事に終わったことを報告し、それから松崎と祐子の家柄がいかに由緒正しいかを語り、ついで新郎新婦の経歴を紹介した。新郎は頭脳明晰で学界のホープ、新婦は英文学や音楽に造詣の深い才媛で料理もうまい美人、かならずや琴瑟《きんしつ》相和して素晴しい家庭をつくるであろうということをながながとしゃべった。
野村はうんざりした。
ところが、乾杯の音頭をとる来賓の祝辞もつづいて立った来賓の祝辞も、みんな似たり寄ったりだった。へたな駄じゃれで笑わせようとする者もいたが、野村はしらけた気分で「ばかばかしい」という森田の意見に同感だった。
退屈できまりきった祝辞はつぎつぎにつづいている。
松崎はへたな駄じゃれにも照れくさそうな笑いを浮かべていた。幸福の絶頂で、なにを言われても嬉しくてたまらない感じである。
しかし、祐子の表情はちがっていた。顔色が青いようで、少しも嬉しそうではなかった。
祝辞が一段落して、
「それでは、ここでちょっとお休みをいただきまして、新婦はお色直しのためいったん退場いたします。みなさん、拍手をもってお送りください」
司会者が言った。
いっせいに拍手が起こった。野村も拍手をしたが、森田はおもしろくなさそうな顔をしていて手を叩かなかった。彼は学生時代からヘソまがりで、会社の人間関係や勤務時間にしばられるのが厭だと言って、卒業のときも就職試験を受けないできた男だった。気はわるくないが、自分勝手なのである。
そんな森田に較べると、松崎のほうが何倍も好人物でつき合いやすかった。松崎なら祐子を幸福にできるにちがいない。野村はそう思って、祐子が松崎と結婚するという話に賛成してやった。もし相手が森田だったら、反対したかもしれなかった。もちろん反対する権利などはないけれど――。
祐子は媒酌人の教授夫人に手をとられ、さかんな拍手に送られて会場を出ていった。
「松崎もくっついていったが、あいつも着替えてくるのかな」
森田が言った。
「どうかね。このごろは新郎のお色直しもはやっている」
半年ほど前に野村が出席した披露宴では、新婦は裲襠《うちかけ》すがたの花嫁衣裳からイブニング・ドレスに着替え、さらに新婚旅行用のスーツに着替えて宴席にあらわれた。新郎のほうもそれにならって、モーニングからタキシードに、そして普通のスーツに着替えていた。挙式は神前で神主のお祓《はら》いをうけ、ウェディング・ケーキにナイフを入れるのは欧米の物真似である。新郎も新婦も和洋の神を信じているわけではなく、すべてホテル側のお膳立てで、新婚旅行を終えて出勤した友人をひやかしてやったら、親孝行のためという苦笑しながらの返事だった。
「つまり、式も披露も親の道楽か」
森田が聞き返した。
「ということになるが、金を出してくれる親がいればの話さ。おれなんか式も披露もやらなかった。会費制のパーティーでごまかした感じだった」
「あれはよかったよ。すぐに見習ったやつがいたじゃないか。あれっきり会わないが、おくさんは元気なのか」
「まあね」
「子供は」
「まだだ」
「早く生ませろよ」
「おれのことより、おまえこそいい加減に結婚しろよ」
「うん、考えている」
「相手が決まってるのか」
「いや、決まっていたら結婚するさ」
ふたりは勝手なことを言い合った。
おたがいに遊び好きで、野村は学生時代にガール・フレンドと結婚したが、いまだに独身でいる森田のほうが遊び上手なのかもしれなかった。
新郎新婦が会場から去ったあとは来賓の祝辞もひと休みで、各テーブルに料理が運ばれ、雑談とともにナイフやフォークをつかう音がにぎやかになった。
「ちょっと、松崎のようすを見てくるかな。スピーチのネタを仕入れてくる」
森田が思いついたように席を立った。
野村は松崎より祐子のようすを覗いてみたかったが、うっかり顔を出せる立場ではなかった。二週間前に別れて以来、電話もしない約束だった。
野村は残された連中の雑談をうつろな気持で聞き流していた。同じテーブルの六人はサッカー部でいっしょだった者ばかりで、森田は祐子を紹介されたことがあると言っていたが、ほかの者はきょうが初めてのようで、祐子が美人なので驚いていた。松崎にはもったいないと言う者までいて、みんなやっかみ半分で堅い一方だった松崎を話題にした。
「松崎のやつ、あれじゃ女房の尻に敷かれるぞ」
「敷かれたっていいじゃないか。彼女ならぜひ敷かれてみたい」
「しかし、亭主を尻に敷くような女じゃないね。貞淑で、きっといい女房になる。色気もあるしな。あいつ、ほんとにうまくやったよ。おれなんか、結婚を急ぎすぎた」
「さんざん惚れて結婚したくせに、何を言ってるんだよ」
そんな会話も飛びかっていた。
遅いな。
野村はふっと思った。色直しの時間が長びいて、会場の空気がだらけてきた気がした。
そこへ、森田が戻ってきて眼くばせをした。
内緒の話があるという合図らしかった。
野村は森田について廊下へ出た。
「おかしなことになったらしい」
森田がむずかしそうな顔で言った。
「どうしたんだ」
「祐子さんが吐いたんだ。急に吐き気がしたらしくて、着つけをすませたばかりのイブニングを汚してしまった。朝からろくに食べていないというけれど、純白のドレスだぜ」
「具合がわるくなったのか」
「具合なんて生《なま》やさしいもんじゃないよ。食欲がないというのが第一の疑問だ。会場では眼の前に鯛の丸焼きが出ていた。吐き気の原因だな」
「なぜ」
「まだわからないのか」
「わからない」
「悪阻《つわり》だよ」
「悪阻?」
野村はどきっとした。
「うん、妊娠初期の徴候だね。彼女は気がつかなかったんだろうが、披露宴で吐くなんて運がわるい」
「まさか――」
野村は絶句してしまった。
「松崎が相手ならかまわないが、松崎ということはちょっと考えられない。とすると、ほかに相手がいたことになる。いくら良家の令嬢でも、いまの若い女なんてわからないからな。結構遊んでいたのかもしれない。祐子さんくらいの美人なら、避けようとしても男が寄ってくる。祐子さんにしてみれば、松崎が手も握らないような男だから、欲求不満だったということも考えられる。おれの知ってる女で、結婚前に遊べるだけ遊んでおくという女もいた。結婚したらピタッと遊びをやめたらしいがね」
「祐子さんが吐いたこと、松崎に知られたのか」
「隠しておくわけにはいかないだろう。祐子さんの色直しに合わせて、松崎はタキシードに着替えることになっていたそうだ」
「イブニングの汚れは落とせないのか」
「無理みたいだな。胸にべっとり吐いちまったんだ。祐子さんは真っ青な顔をしている」
「たいへんじゃないか」
「もちろんたいへんさ。へたをすれば結婚取り消しになる。披露宴がとんだ恥さらしになってしまう。しかし、全然救いがないわけでもない。ホテルで雇っている医者がいて、吐き止めの注射を射ってくれたんだ。さすがにこういうホテルの医者だと思って感心したが、悪阻なんてことは知らんふりで、式と披露宴で緊張したせいだろうと言ってくれたって聞いた」
「そんなこと、松崎が信じるだろうか」
「あいつのことだから、信じるんじゃないかな。とにかく祐子さんは横になって、吐き気は止まったらしい。イブニングのお色直しはやめて、祐子さんも松崎も普通のスーツにするんじゃないかな。司会者がそう言っていた」
「それで済めばいいが、彼女を妊娠させたのはどんなやつだろう」
「そこまではおれも知らない」
当然だった。知っているのは、野村自身のほかにいないはずだった。野村は祐子にピルを飲ませていたが、祐子は時おり飲み忘れることがあったようで、そう思うと、自分が妊娠させたのではないという自信はなかった。妊娠が事実なら、適当な時期に堕《お》ろすべきで、それは祐子が考える問題だった。
野村と森田はテーブルに戻った。
やがて、
「お待たせいたしました。新婚旅行へ出発の時間の都合によりお色直しは略させていただきまして、新郎新婦がふたたび来場されます。どうぞ盛大な拍手をもってお迎えください」
司会者が言った。
と同時に、「金襴緞子《きんらんどんす》の帯しめながら」という『花嫁人形』の曲がオルガンの演奏にのって流れた。
間もなく、媒酌人夫妻の先導で、松崎と祐子が手をつないであらわれた。それぞれ火をともしたキャンドルを片手に持っていた。キャンドル・サービスである。各テーブルの中央に置かれているキャンドルに火を移しながら席へ戻るのだ。
やがて、二人は野村たちのテーブルにまわってきた。
「おめでとう」
「うまくやれよ」
仲間たちは口ぐちに短い言葉で祝福した。
松崎は明るい紺縞のスーツで、照れくさそうに笑っていた。祐子はベージュ色のスーツで胸にバラの花をさして、恥ずかしそうに微笑を返していた。
野村は祐子と眼が合ったが、彼女の表情は少しも変わらなかった。
しかし、顔色がよくないことはひとめでわかり、野村のほうが不安にかられたくらいだった。司会者は新婚旅行の都合と言ったが、そんな都合があるはずはなく、彼らは国際空港近くのホテルへハイヤーで行って一泊、翌日の便でニューヨークへ発つ予定だった。その予定は祐子に聞いていたし、松崎にも聞かされていた。
新婚旅行が無事に済むかどうか。
野村は不安がつのるばかりだった。
3
祐子が吐いたことは多くの参会者に知られないままで、どうやらプログラム通りにすすんだ。祐子はほとんどうつむいたきりで食事に手をつけなかったようだが、松崎は幸福でいっぱいという表情で森田たちの祝辞に応えていた。祐子が吐いた原因を疑うようすはなかった。緊張のせいだという医者のことばを信じたにちがいない。
野村は一応ほっとした。
披露宴のラスト・コースは新郎新婦による両親への花束贈呈で、またおきまりのオルガン演奏で『かあさんの歌』がセンチメンタルなムードをそそるように流れ、松崎の両親も祐子の両親も涙を浮かべ、さすがに松崎は照れくさそうにしていたが、祐子はポロポロと涙をこぼしていた。
「どういう心境なのかな、彼女は」
森田は憮然としたようにつぶやいた。
野村もしらけた気分だが、先のことを考えると心配でたまらなかったし、祐子の気持は理解できなかった。ことによると彼女自身も緊張のせいで吐いたと思っているのか、さもなければ相当な図太さだった。
「おれたちが気にすることはないよ。彼女は本当に緊張しすぎたのかもしれない」
野村は披露宴が終わってから、ホテルのコーヒー・ショップで森田と二人きりになって言った。
「おれはそう思わないな。彼女は間違いなく妊娠している」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
「姉が妊娠したとき、同じ症状だった。食欲がなくて、天ぷらや焼魚の匂いを嗅ぐと吐き気がしていた。祐子さんもどうかしてるよ。もっと早く気がついて、堕ろしておけばよかったんだ。きょうは医者のおかげでごまかせたらしいが、旅行先でまた吐いて青い顔をしていたら、いくら鈍感な松崎でも怪しいと思うぜ」
「それじゃ、どうすればいいんだ」
「どうしようもないね。松崎は気の毒だが、彼女のほうは自業自得だもんな。新婚旅行から帰ったら、ただちに離婚ということも考えられる。松崎は潔癖なやつだから、世間体を気にしてあいまいに済ますなんてことはしないだろう」
森田はおもしろがっているように言った。
もちろん、野村はおもしろいどころではなかった。
4
四日経った。
松崎と祐子の新婚旅行はニューヨークに三泊して、それからロンドン、パリをまわって七日後に帰国する予定だった。
この四日間、野村はいても立ってもいられない気持だった。仕事が手につかず、飲みに行っても家へ帰っても、頭のなかは祐子のことでいっぱいだった。
もし祐子の妊娠が事実で、松崎に問いつめられた彼女が野村との仲を告白したらどういうことになるか。森田が言っていたように、まず離婚は避けられないだろう。野村の自宅か会社へ、松崎が怒鳴りこんでくることも考えられる。そうなれば社内の信用もめちゃめちゃで、妻も気が狂ったようになりかねない。友だちにも笑われるのがオチだ。
いったい、今ごろ祐子と松崎はどのようにしているのか。ふたりが仲よく抱き合っている姿を想像するのも妬ましいが、喧嘩別れして途中から松崎ひとりで帰ってくるような事態よりはましである。
しかし、彼らが無事に旅行しているとすれば、ニューヨークで大竹を訪ねたはずだった。大竹は野村が勤めている会社のニューヨーク支店勤務で、野村は彼あての紹介状を松崎に渡していた。彼が市内を案内し、劇場の切符なども手配してくれることになっている。ニューヨーク在勤が長びいてくさっているが、世話好きで信頼のおける男だった。
野村は時計をみた。
東京とニューヨークの時差は十四時間だから、東京の夜はニューヨークの昼間である。
大竹がオフィスにいる時間だった。会社では勤務時間が食い違っているので、ほとんどテレックスを利用している。
野村はダイヤルをまわして国際通話を申し込んだ。妻がまだ起きていたが、松崎のようすを聞く程度なら、妻に聞かれてもかまわなかった。通話料金が相当な額になるが、それもやむをえない。
電話はすぐに通じて、大竹の元気そうな声がでた。
野村は挨拶ぬきで話をしぼった。
「うん、一昨日来たよ、きみの名刺を持ってね。でも、亭主だけだった。おくさんは体の調子がわるいと言っていた」
「病気なのか」
「それほどでもないらしい。よくわからないが、飛行機や時差の関係で疲れたんじゃないかな。ミュージカルを見る予定だったというけれど、そんなふうじゃ仕方がない。おくさんが元気になったら出直してくると言って、海苔缶をみやげにもらった」
「その後連絡はないのか」
「ない。明日ロンドンへ行くと言ってたから、もう来ないと思うな。心配なら、ホテルに電話して聞いてやろうか」
「いや、その必要はない。ふたりとも子供じゃないんだ。適当にやってるさ」
野村は手短に電話を切った。通話料金がかさむことより、聞き耳を立てているような妻の横顔が気になっていた。自宅から国際電話をかけることは初めてだった。
「松崎さんがどうかしたの」
妻が読みかけていた雑誌から顔を上げて言った。
「松崎じゃなくて、おくさんが体調をこわしたらしい。たぶん旅行疲れだな」
「旅行疲れなんて、まだ行ったばかりじゃないの」
「馴れない飛行機に十何時間も乗っていると、そういう人が割合いるんだよ。一日休めば大抵は直る。おれは松崎を紹介した責任上、ちょっと聞いてみただけさ。放っておいても、十日で帰ってくるんだ」
「あなたも親切なのね」
妻はふたたび雑誌のほうへ眼を戻した。
野村は妻のことばが皮肉のように聞こえた。彼は新婚旅行をしなかったし、妻を外国へつれていったこともなかった。
「もう遅いぞ。おれは明日の朝ゴルフで早起きしなければならないから、先に寝る」
野村は話をそらして、ベッドにもぐった。
しかし、眠ろうとしてもなかなか眠れなかった。祐子の吐き気が披露宴のときだけなら緊張のせいと考えてもいい。だが、ニューヨークでも体の調子がおかしいとすれば、やはり妊娠初期の悪阻ではないのか。
いったい、おれはいつ祐子を妊娠させたのだろう。
野村は考えているうちに、自分の頭がおかしくなりそうだった。
5
野村は不安が消えないままで十日間を過ごした。
ところがその翌日、松崎が会社に電話をかけてきた。野村はびくっとしたが、旅行から帰った報告と披露宴に出席した礼、それに大竹を紹介した礼だった。
「せっかくいい人を紹介してもらったのに、祐子がちょっと体をこわしてね。もうすっかりよくなったが、大竹さんには顔を出しただけで失礼してしまった」
松崎のほうからそう言った。いつもの声と変わらなかった。
几帳面な彼はまだあちこちに電話をかけるようすで、忙しそうに電話を切った。
野村は多少ほっとしたが、安心するのは早すぎると思った。
祐子の妊娠に松崎は気づいていないようだ。
しかし、祐子自身はどうなのか。
野村は不安な気持をさらに数日我慢して、松崎が大学へ行っていることを確かめてから、彼の自宅へダイヤルをまわした。
「心配してるんだよ。披露宴のとき吐いたりして、ニューヨークでも具合がわるかったそうじゃないか」
野村は電話にでた祐子に言った。
「あら、なぜあなたが心配してくださるの」
祐子の声は冷たかった。
「心配しなくていいのかい」
「もちろん結構よ」
「吐いたのは妊娠のせいじゃなかったのか」
「十月になればわかるわ」
「なにがわかるんだ」
「赤ちゃんが生まれるのよ」
「だれの」
「あたしの赤ちゃんにきまってるわ」
「しかし、相手は」
「あなたもへんなひとね。結婚したあたしに、そんなこと聞くもんじゃないわ」
「まさか、ぼくの子じゃないだろうな」
「あたしはあなたにいろいろと教えていただいた。そういうヘマはしないはずじゃなかったかしら」
「すると、最後に会ったとき予習と言ったのはどういう意味なんだ」
「あれは冗談よ。ちょっと試したいことがあっただけね。あなたに教えていただいたことを、あたしはきれいに忘れてたじゃないの。それだけの意味よ。もう二度と電話なんかしないでいただくわ」
祐子の声は突き放すようで、受話器を置く音が耳の奥へひびいた。
野村はしばらく呆然とした。
祐子が妊娠したことは間違いない。
しかし胎内の子の父親は松崎で、祐子はそのことを自信を持っているのだ。さもなければ生むはずがない。
野村は安心するより、狐につままれたような気待だった。
6
やがて十月になった。
野村はほとんど松崎とつき合わないようになっていたが、森田からの電話で、祐子が女の子を生んだということを知った。
それからまた半年ほど経って、今度は松崎と祐子が離婚した話を聞いた。その話を知らせてくれたのは、披露宴のとき同じテーブルにいた友人だった。
「松崎も可哀そうなやつだよ。赤ん坊が自分に似ていなくて、それくらいならいいが、眼や口もとが森田にそっくりだというんだ。それで女房に白状させたらしい。ところが森田のほうは逃げまわっているというからおかしい。おれは森田に会ったが、自分の子とは信じられないけど本当かもしれないと言ってた。たぶん、祐子さんも似たような気持じゃないのかな。松崎の子と信じきって生んだにちがいない。女は自分の子がわかると言われているが、そんなのはうぬぼれだね」
「それじゃ離婚のあと、祐子さんは森田と再婚するのか」
「そうはいかない。森田は好きな女と婚約したばかりで、だから弱って逃げまわってるんだ」
友人はおかしそうに笑った。
野村はすこしもおかしくなかった。
振られた刑事
1
客もホステスもバーテンも帰ったあとで、店にはマスターの堀川しか残っていなかった。マスターといっても店の所有者《オーナー》ではなくて、オーナーの金融業者はほとんど店にあらわれないらしい。二十八歳の木塚より五つ六つ年上のはずだが、薄い口ひげに子供じみた愛嬌があって、木塚はそれほど年齢の差を感じなかった。
「話してくれないかな、頼むよ」
木塚は煙草をくわえたまま、火をつけないで言った。
堀川のほうは、さっきから煙をふかしつづけている。
「そう言われても弱ってしまう。ぼくはなにも知らないんですよ。昨日も今日も刑事さんが入れかわり立ちかわりで、警察へも呼ばれていったし、木塚さんがくるなんて考えていなかった」
「なぜだい。おれだって刑事だけれどな。しかも所轄署の捜査係だ」
「それはわかってますけれど――」
「おれが来てはおかしいのか」
「そういう意味じゃありません」
「いや、気をつかうことはないさ。おれは捜査本部のメンバーから外された。たぶん、理由はあんたも見当がついている。興味がないかもしれないが、あんたが話してくれないから、おれのほうから先に話す。笑われてもかまわない。おれは鈴江に惚れていた。鈴江の部屋へいったことはないが、鈴江がおれの部屋にきたことはある。おれは本気で結婚するつもりだった。ところが、そう思っていたのはおれの一人合点だった。まったく、まぬけな話さ。鈴江はおれのサラリーが不満だったらしい。あたしは贅沢が好きな女だから、もう電話もかけないでくれと言われた。それっきりサヨナラだ。おれについては、あんたも鈴江に聞いてたんじゃないかな」
「ぼくはほんの少し、ちょいと聞いたていどです。木塚さんが店まで来たので、立場上ぼくも知らん顔というわけにはいかなかった。でも、鈴江さんはもともと無口だった。無愛想というのではないけれど、客に合わせてふざけるようなことはできなかったらしい。水商売にむかなかったみたいですね。木塚さんのことも、コーヒーを飲んだことがあるだけだと言っていた」
「惚れていた客はいなかったのかな」
「さあ、どうなんでしょう。店にいる間はぼくの責任で、たいていのことはわかっているつもりですが、店をひけたら、法律に触れるようなことでもしない限りぼくの出る幕じゃありません。それぞれ複雑な生活を背負っている者が多いようだし、木塚さんと鈴江さんのことも全然知らなかったくらいです」
「―――」
木塚は皮肉を言われたような気がした。
木塚が鈴江を知ったのはごくありふれた偶然だが、それ以前に、堀川がいるルルーという店のホステスが客と無理心中を図った事件があって、木塚がその事件を担当した。ガスによる心中は女が仕掛けたもので、発見が早かったので男女ともに命は助かった。木塚は三回ほど堀川に会って事情を聞き、ルルーへも一度だけ行った。もちろん捜査のためだから、ルルーでは酒を飲まなかった。客の大半が社用族だという高級そうな店で、刑事のサラリーで飲める店ではないことはひとめで知れたし、事件が片づけば無縁な店だった。
ところが、それから三カ月くらい経って、木塚は深夜の盛り場でチンピラにからまれている女を助けた。二人組のチンピラは木塚の顔を知っていて、木塚を見るなり逃げるように姿を消した。よくあることだった。女は何度も礼を言ったが、木塚は名前も聞かないで帰らせた。
そして、そんなことはすぐに忘れた。
しかしその翌日、自宅近くのマーケットで彼女に声をかけられたときは、ただの偶然と思えなかった。ただの偶然でなければ、縁という言葉に置き換えることができる。昨夜の印象も水商売の女に見えなかったが、今度はジーパンにレンガ色のセーターという軽装で、まだ学生のような感じだった。挨拶されなかったら、木塚は気づかなかったにちがいない。
だが、彼女は木塚を憶えていた。
――お住まいはこの近所ですか。
――消防署の裏のほうです。
彼女は小さなマンションの名を言った。
――それじゃ近いな。ぼくは消防署の通りの反対側だけれど、前にもここで会っているかもしれない。
――あたしもそう思いました。あたし、いつもここで買物をしています。
会話が自然にほぐれていた。
彼女の買物籠には野菜がのぞき、木塚の買物籠は缶詰ばかりだった。
――よかったらコーヒーでも飲みませんか。非番だから暇なんです。
木塚は大胆になっている自分を意識しながら言った。いつもの彼らしくない誘いだった。このまま別れるのが惜しいという思いが先に立って、彼女の勤め先までは考えがまわらなかった。ルルーのホステスをしていると聞いたのは喫茶店に入ってからだった。
木塚は偶然の重なりにおどろいたが、心中未遂事件にまつわる噂が会話を打ちとけたものにしたし、おたがいの出身地が同じ県だということもわかった。
二人の仲はそれ以来だった。木塚がマーケットにゆくときはつねに彼女に会えることを期待していた。刑事の仕事はいつも追いまくられているように忙しい。大きな事件にぶつかったら三日も四日も帰宅できない。会いたくてもなかなか会えないのだ。
それで、会う時間がつくれるときは木塚のほうから電話をするようにした。
会えば喫茶店で愉しい時を過ごし、やがて木塚の部屋で会うようになった。
そうなれば、もはや恋人同士だった。
刑事という職業柄、木塚はそのようなロマンスは起こり得ないとあきらめていただけに、ほとんど夢中になったといってもいい。
森田鈴江。
彼女は妻になる女だ。だから水商売をやめさせて、結婚するときは高校時代の友人の紹介で知り合ったことにするつもりだった。刑事といえども結婚は自由だが、一般論として警察には水商売への偏見が根強く、知られたら反対されることがわかっていた。異性関係が乱れていたり、やくざにつながりのある女も少なくない。鈴江はそんな女たちとちがうと言っても通用しないのだ。
木塚は鈴江とのデートに慎重に気をくばった。
しかし、それは意外に早く上司に知られてしまった。
――ちょっと耳にしたんだが、バーの女とつき合ってるそうじゃないか。ほんとうなのか。
直属上司の戸根部長刑事に言われた。
――だれに聞いたんですか。
――だれに聞こうと同じさ。事実なら気をつけてもらおうと思ってな。
――事実です。いずれお話しするつもりでした。結婚を考えています。
――彼女の気持も同じなのか。
――同じだと思います。
――おどろいたな。きみらしくないね。ルルーという店は、いつか心中を仕掛けた女がいたバーだろう。あのときの捜査で知り合ったのか。
――いえ。初めはちょっとした偶然でした。
木塚はこれまでのいきさつを話し、鈴江が気だてのやさしいまじめな女で、誤解されがちな勤めを辞めさせてから部長にも紹介するつもりでいたと言った。木塚と鈴江の仲はルルーでも誰ひとり知らないはずだし、鈴江が水商売に入ったのは病身の妹に金がかかるためで、そのたった一人の妹も去年の暮に亡くなっていた。両親はとうに死んで、ふたりきりの姉妹だった。
とすれば、結婚のさまたげになるのはホステスという職業、あるいは刑事という職業だけだ。
――しかし、きみの考えは甘くないかな。係長も心配している。
――係長も知ってるんですか。
――おれより係長が先に知っていた。ルルーの持主は、高利貸しの間でも名うての倉林だ。法律の抜け穴にくわしい顧問弁護士がいてボロを出さないが、あまり評判のいいやつじゃない。貸金の取立てにやくざを使ったりしている。
――でも、ルルーはやくざなんか出入りしていないし、倉林も滅多にあらわれないと聞いてます。
――それはそうかもしれんよ。だが、倉林はルルーと同じような店を四軒も持っている。店の儲けだけが目当てじゃないね。金貸し商売にもつながりがあると見て間違いない。会社関係の情報を手に入れるとか、債務者に余計な金をつかわせるとか、利用法はいくらでも考えられる。
――しかし、彼女は今月限りで店をやめます。
――これからじゃ遅いな。どうしても結婚するなら、やむをえない。その代わり、出歩かないですむ仕事にまわってもらう。わかっているだろうが、これは決まりきったことだ。
――わかっています。
刑事ばかりが警察官ではない。職員の給料や出張旅費を計算したり、備品や消耗品を購入している者もれっきとした警察官だった。
――ま、女と話し合って、将来のこともよく考えてくれ。楽な仕事にまわって、昇任試験の勉強をしたほうが利口かもしれない。おれみたいな万年デカ長は時代おくれだからな。無理は言わんよ。
戸根部長は五十歳を越えている。あと数年で退職を勧告されるはずだった。
その日も翌日も木塚は仕事に追われ、何度か鈴江に電話はしてみたが、呼出しのベルが聞こえるばかりだった。そして三日目にようやく電話が通じた。
しかし、鈴江の声はいつもと違っていた。冷たくて、まるで別人のようだった。
――あたしたち、もう会わないほうがいいわ。
――なぜだ。
――あたしは飽きっぽいのよ。ごめんなさいね、からかったみたいで。
――ぼくはいま駅の近くにいる。会ってゆっくり話したい。
――あたしは会いたくないわ。
――なぜなのか、もっとはっきりわけを言ってくれ。
――あたしは贅沢が好きなのよ。自分でもつくづくわかったの。刑事さんじゃ無理ね。だからもう電話もかけないでいただくわ。
――とにかくそっちへ行って話す。
木塚は電話を切った。鈴江の言ったことが信じられなかった。結婚について話し合ったのがつい一週間前だった。店をやめてくれと言うと、鈴江は素直にうなずいた。ルルーの客に較べれば木塚のサラリーは安いだろうが、一般のサラリーマンに較べれば安いほうではない。危険を伴うにしても、生活はむしろ安定している。贅沢は望めないが、それに将来有望とも言えないが、仕合わせな家庭をつくることはできる。
木塚は恵まれなかったらしい鈴江を幸福にしてやれると思ったし、部長刑事に忠告されたときは左遷される覚悟を決めた。なりたくてなった刑事だが、鈴江のためなら諦めるしかなかった。
鈴江の冷淡な心変わりは、彼女の本心ではなく、捜査係長か部長刑事に余計なことを言われたせいにちがいない。
木塚はそう思って鈴江のアパートへ行った。
しかし、いくらチャイムを鳴らしても返事がなかった。木塚の来訪を避け、出かけてしまったのだ。
木塚は茫然とした。
それ以来いくら電話をしても鈴江は留守で、そのうち転居したことがわかった。
転居先は不明だった。
木塚は悶々《もんもん》として数日間過ごし、とうとう我慢しきれなくなってルルーへ行った。あきらめるにしても、鈴江に会ってみなければ心のけりがつかなかった。
ところが、ルルーのカウンターにむかって腰をかけ、マスターの堀川に鈴江を呼んでくれと頼んだら、堀川は恐縮そうな顔で戻ってきて、会いたくないという返事を伝えた。
木塚は腰をあげるほかなかった。酔っていたが、自制心をうしなうほどではなかった。返事を聞いて、火がついていない煙草のフィルターを噛みしめただけだった。
そして、いまもまたフィルターを噛みしめている。煙草をくわえたままいつまで火をつけないでいられるかという鈴江の冗談に対し、木塚はその場で禁煙を誓い、それから一と月あまり経っていた。いまでも火をつけないでいるのは、習慣というより、鈴江への未練かもしれなかった。
しかし、その鈴江はもうこの世にいない。死んだ女への未練が捨て切れないのだ。
「とにかく鈴江は殺された。遺体は見せてもらえなかったが、首を絞められた痕があったらしい。昨日の真っ昼間、鈴江のアパートへ行ったやつがいることは確かなんだ。心当たりがあってもいいはずだけどな」
「―――」
堀川は困ったような顔で煙草をふかすばかりだった。
2
堀川は木塚のくわえ煙草に気がついて、ライターをつけた。
しかし、木塚は煙草をくわえたまま首を振って話を変えた。
「おれが疑われていると思わないか」
「なぜ木塚さんが疑われるんですか」
「おれは鈴江に振られた男だ。未練がましくこの店にきたこともある。だが、その後はすっぱり忘れるつもりで、鈴江の転居先さえ知らないでいた。おかしな夢を見たと思うことにしたんだ。振られてから一カ月くらい経つが、もちろん一度も会っていない。しかし、ほかに異性関係がなかったとすれば、まず疑われるのがおれということになる」
一昨日は非番だった。遅い朝食のあと、寝不足がつづいていたので、アパートに戻るとすぐにまた眠ってしまった。そこへ非常呼集の電話がかかった。被害者の名前を聞き、まさかと思いながら現場へ急いだ。
現場附近はすでに立入禁止のロープを張って、検視が始まっていた。
鈴江の部屋は四階建てのマンションの二階だった。
木塚は弥次馬の間を縫ってマンションへむかった。
すると、玄関先に戸根部長がいた。木塚を待っていた感じだった。
――聞きたいことがある。
部長は植え込みの蔭へ木塚をみちびいて言った。不機嫌な、険しい表情だった。
――例の女が殺された。まだルルーに勤めていたらしい。
――森田鈴江ですか。
――うん。きみは彼女と切れたはずだったな。
――部長に注意されてから会っていません。切れたというより、切られたんです。
木塚は複雑な意味をこめて言った。自然に切れたのではなく、鈴江の本当の意思でもないという思いが残っていた。
――今までどこにいたんだ。
――自分の部屋です。
――出かけなかったのか。
――出かけません。眠ってたんです。
――それじゃ、きょうはこのまま帰ってもらう。くどいことは言いたくない。おれの言うとおりにしてくれ。きみが来たことは係長に伝えておく。
木塚はこのとき容疑者の一人にされていることを自覚した。だから、捜査本部のメンバーから外されたときも意外ではなかった。
「教えてくれよ、マスター。鈴江が惚れていた男、あるいは鈴江に惚れていた男がいるにちがいない」
木塚は話を戻した。
「何度聞かれても同じです。ぼくはほんとに何も知らなかった」
「戸根部長あたりに口止めされているのか」
「そんなことありません。部長さんにも知らないと答えました」
「さすがに水商売だな。口が堅い。それとも、あんたが鈴江の男だったということはないのか」
「冗談言っちゃ困ります。ぼくは四回目の結婚をしたばかりで、まだ懲《こ》りないのかって友だちにからかわれてるくらいです。そうじゃなくても、店の女の子には手を出しませんよ」
堀川は気分を害したように言ったが、木塚は機嫌をとるつもりなどなかった。
「友だちといえば、鈴江と親しかったのは誰だろう」
「彼女には仲のいい友だちなんかいなかったんじゃないかな。たまに仲がよさそうなのがいても、たいてい長つづきしない。すぐに辞めてしまうのが多いし、ホステス同士は商売の競争相手ですからね。とくに彼女は妙に堅い面があって、客の評判はよかったけれど、友だちはできないみたいだった。好きな客がいたとしても、内緒にしてたと思いますよ。とにかくぼくはびっくりしてるだけです」
「鈴江はこの店に三年近くいた。たぶん長いほうだろう。それなのに、マスターのあんたが一から十まで知らぬ存ぜぬか」
「―――」
堀川はためらうように黙った。
そしてようやく口をひらいた。
「少し古い話でよかったら、まだ部長さんにも話してないことがあります」
「聞かせてくれ」
「南風会の西尾って男を知りませんか」
「知っている。ごついつらをしているが、たいした野郎じゃない。チンピラに毛が生えたていどだ」
南風会はテキ屋くずれの組織暴力団で、チンピラはいっぱしのやくざを気取っているが、それほど有力な組織ではなかった。
「でも、ひところは南風会の幹部だった。いまは足を洗って、錦糸町でトンカツ屋をやってると聞いてますがね」
「そいつと鈴江がどうかしたのか」
「短い期間ですが、同棲してたことがあるらしいんです。もう二年くらい前になります。ふたりがいっしょに歩いてる姿を見かけたので、余計なことだと思ったけれど、鈴江さんに気をつけたほうがいいと言ってやりました。そしてしばらくしたら鈴江さんのようすが変なので、西尾に会ったとき直接聞いてみた。そしたら西尾は笑ってました。ただの遊びだったというんです。そのころの西尾はほかにも何人か女がいたみたいで、つまり鈴江さんは騙されたというのか、オモチャにされたってわけです。鈴江さんが男に用心深くなったのは、そんなことも原因かもしれない」
「西尾とはそれっきりか」
「と思いますよ。足を洗った噂を聞いてから、全然見かけません」
「あんたは西尾とつき合ってたのか」
「いえ、マージャン屋で知り合っただけです。ぼくも西尾も競馬が好きで、マージャン屋のおやじに頼んでおくと、馬券を買っておいてくれるんです。マージャンより競馬で知り合ったようなものだけれど、そのマージャン屋もつぶれてしまって、いまはラーメン屋になっている」
「西尾のトンカツ屋は錦糸町のどの辺だろう」
「知りません。駅前の交番で聞けばわかるんじゃないんですか」
そのとおりかもしれなかった。
木塚はルルーを出た。
ネオンがつぎつぎに消えて、街は夜らしい夜を取り戻そうとしていた。
人びとは帰りを急いでいるようだった。
しかし、木塚はどこへも帰りたくなかった。署へ戻っても、同僚はみんな捜査のため出払っているにちがいなかった。
木塚は煙草のフィルターを噛みしめた。
振られた女に、振られた刑事か――。
ふっとつぶやいた。やりきれない気持だった。
3
木塚は西尾を逮捕したことがあった。やくざ同士の酔った上の喧嘩で、相手の傷は軽かったし、すぐに示談が成立したので罰金だけで釈放になった。それまで、人相のよくない西尾をおよそ女にモテないタイプだと思っていたが、つぎつぎに差入れにあらわれる女がどれも美人なので驚いたものだった。
彼が足を洗って郷里の札幌へ帰ったという噂を聞いたのは、それから間もなくである。
しかし、堀川の話によれば錦糸町でトンカツ屋をやっているらしい。
翌日、木塚は錦糸町へ行った。捜査本部のメンバーから外された彼は、宝石店に押入った強盗事件の捜査を命じられ、盗難品の洗い出しを担当することになっていた。それで、質屋をまわってくるという口実で署を出たのだ。
西尾のトンカツ屋は割合簡単に見つかった。雑居ビルの地階の奥まった一隅で、カウンターとテーブル席が三卓という小さな店だった。
客は一人もいなかった。昼食時と夕方からが忙しいというが、西尾は大分ふとったようで、いかにもトンカツ屋の店主らしく白衣が似合っていた。
時計の針は午後の二時半。
西尾は愛想よく迎えてテーブル席の椅子をすすめたが、木塚の来訪に戸惑っているようすだった。
「札幌へ帰ったんじゃなかったのか」
「ええ、帰ったことは帰ったんですが、どうも落着かなくてね。店を世話してくれるひとがいたので舞い戻ったんです。この辺なら以前のわたしを知ってる者もいないし、店を始めて丸一年になります」
「しかし、トンカツ屋とは意外だな」
「わたしはトンカツ屋で働いてたことがあるんですよ。もちろんグレる前ですが」
「おかみさんは」
「アパートへ帰ってます。娘を近所に預けているんで、暇なときは帰るようにしてるんです」
「ふうん、娘さんがいるとは知らなかった」
「娘といっても、まだヨチヨチ歩きです。実を言うと、わたしが足を洗う気になったのも娘が生まれたせいで、それまではそんなこと考えもしなかったのに、赤ん坊の顔を見たら、急にそんなことを考え出した。酒に博打に競馬に女、とにかく滅茶苦茶でしたけれど、いつまでもばかな真似をしちゃいられないってね、考え出したら一本道だ。すんなり足を洗えたわけじゃなかったけれど、このとおり指をつめたりして、酒も煙草もやめてしまった。女房のほうがびっくりしたほどです。忘れやしません。指をつめたのが、わたしのちょうど三十の誕生日だった」
「そのとき、遊び相手の女たちとも切れたってわけか」
「ま、そういうことになります」
「森田鈴江もそのうちの一人か」
「鈴江を知ってるんですか」
「知っているもいないもない。新聞を読まなかったのか」
「読みました。やっぱり、あの鈴江ですか」
「ほかにも鈴江という女を知ってるのか」
「そういう意味じゃありません。新聞の写真がぼやけていたし、店の名も載っていなかった。まさかと思ってたんです」
「ルルーにいた鈴江が殺されたのさ。かつてはあんたの女だったろう」
「それは少しちがう。いや、少しじゃなくて、大ちがいだな。誤解されちゃ困るからはっきり言いますが、あのころの鈴江は妹に死なれて寂しいみたいだった。それでね、わたしがつき合っていた女の友だちなのに、わたしともつき合うようになった。ちょっと自棄《やけ》になっている感じで、かなり酒も飲んでいました」
「酒より男女の仲を話してくれ」
「それは成り行きですからね。夢中になったわけじゃないけれど、鈴江の部屋に泊まりきりで一週間くらい帰らなかったこともあります。でも、無理にそうしたんじゃありませんよ。わたしの好きなタイプでしたが、そういう女ならほかにもいました」
「あんたがモテることはよく知っている。鈴江の友だちというのは、どこにいるのかな」
「その頃はルルーにいました。玉井エリ子という名前ですが、とうに水商売をやめて、荻窪のほうで喫茶店をやっているって聞いたことがあります。パトロンができて、店を出してもらったのかもしれない。気立てのいい、まじめな女だった」
「足を洗ってから、その女とも会ってないのか」
「もちろんです。女たちも、南風会の仲間たちも、全部ぷっつりです」
「あんたと鈴江の仲を、エリ子は知ってたのだろうか」
「知らなかったと思います。わたしはおしゃべりな女が嫌いだし、鈴江も内緒にしたがっていた。だから、木塚さんが知ってたなんてふしぎで仕方がない。だれに聞いたんですか」
「おしゃべりな女は嫌いだというが、おしゃべりな男はどうなのかな」
「―――」
西尾は黙ってしまった。
「あんたに会ったことは、だれにも言わないでおくよ」
木塚は腰を上げた。
4
木塚は、電話帳で玉井エリ子の名前を見つけた。つづいて職業別電話帳の喫茶店のページをひらくと、同じ住所で絵梨という名が載っていた。
傷害罪で西尾を逮捕したとき、差入れにきた女たちのなかに玉井エリ子という女がいたかどうか憶えがなかった。
ただ、鈴江がいなかったことは確かだ。
木塚は国電で荻窪へ行った。
絵梨はしゃれた造りの小さな店だった。観葉植物がクーラーの風に吹かれ、男同士と女同士の客が一組ずつ入っていた。
木塚は隅のほうの席をえらび、ウェイトレスにアイス・コーヒーを注文した。かんかん照りのなかを歩きまわったので、喉が乾いていた。
玉井エリ子らしい女はカウンターの脇に立っていたが、年齢は二十六、七、地味なワンピースを着て、細おもてのきれいな女だった。水商売をしていたような匂いはない。
木塚はアイス・コーヒーを飲み終わってから、眼で彼女を呼んだ。
「玉井エリ子さんですか」
木塚は警察手帳を見せて言った。
「はい」
エリ子は不審そうな顔をしたが、鈴江のことで来たとわかると、すぐに納得したようすで向かい側に腰を下ろした。気軽に話してくれる感じだった。
「あなたがルルーをやめたのは、いつごろでしょうか」
「一年半くらい前になります。この店を始めたのがその少しあとですから」
「鈴江さんと親しかったと聞いています」
「それはどうかしら。あたしのほうが三つ年上ですけれど、おたがいにいちばん気が合うと思ってました。でも、鈴江さんは自分のことをほとんど話さないひとで、水くさいと思ったことが何度もあります。あたしはどんなことでも隠さないのに、鈴江さんは聞いてるだけでした」
「無口で、控え目な性格なのかな」
「そうかもしれませんが、あたしがこの店を出しても、開店祝いの日しか来てくれなかったわね。ですから、それっきり会っていないんです。新聞をみてびっくりしました」
「異性関係が原因だと思うけど、心当たりはありませんか」
「わかりません。鈴江さんはお客さんに食事を誘われてもなかなかウンと言わなくて、どうしても行かないとまずいようなときは、かならずあたしをいっしょにしてました。あたしは用心棒というわけね。そんなときのあたしは邪魔者あつかいで、ずいぶん嫌われたと思います」
「ばかに堅かったんだな」
「でも、お客さんの人気はあったみたいです」
「しかし、それは一年半も前の話でしょう。最近のことは聞いてませんか」
「聞きません。ルルーのころの友だちはすっかり遠くなりました。もう、一人もおつき合いしている人はいません。あたしもお店がありますし、鈴江さんのこともほとんど忘れていました。マスターの堀川さんに聞けば、なにか知ってるんじゃないかしら」
「いや、彼は知らないと言っていた」
「それじゃ誰も知らないのね。鈴江さんらしいわ」
「殺されたこともですか」
「それは別よ。鈴江さんらしくないわ。もしかすると、まじめ過ぎて殺されたということはないのかしら」
「どういうことですか」
「たとえばの話、鈴江さんに夢中なお客さんがいて、いくら熱心にルルーへ通っても思いどおりにならなかったら、怨むようになるかもしれない。可愛さ余って憎さ百倍ね。あたしがルルーにいたころは気がつかなかったけれど、そういうお客さんがいてもふしぎじゃないわ。おとなしくて、きれいだし、とても恥ずかしがり屋で、水商売に入ったばかりという感じだった。それがお芝居じゃなくて、自然なのね。ほかの人達と違ってたわ」
「それで客の人気があったとすれば、ホステス同士の間で妬まれませんか」
「普通ならそうでしょうけれど、鈴江さんは友だちのお客さんを取るような真似はしなかった。呼ばれた席へいって、静かに坐ってるだけですもの。わざと鈴江さんの顔が赤くなるような冗談を言っておもしろがるお客さんがいたし、そんなときは笑いの中心だったわ」
「彼女は贅沢でしたか」
「反対ね。あたしもつましいほうだったけど、鈴江さんのほうがつましかったみたい。いっしょにご飯を食べるときはたいてい一品料理で、服なんかもあまり高いものは着てなかったわ」
「好きな男はいない。贅沢もしなかった。水商売が肌に合ってたわけでもないらしい。とすると、なんのために働いてたのかな。もちろん生活のためが第一だと思うが、それだけじゃ味気ない」
「女には結婚という夢があるわ」
「彼女と結婚について話したことがありますか」
「あります。いい人が見つかったら、鈴江さんはきっとすてきなおくさんになったと思うわ」
「話を変えましょう。警察では彼女がそれほどまじめだったと見ていません。西尾という男をごぞんじですね。南風会の組員だった男です」
木塚は調べあげてきたような言い方をした。
「―――」
エリ子は眼をそらした。ふいに西尾の名がでたので、どきっとしたようだった。
しかし、木塚は彼とエリ子の仲を聞く気はなかった。鈴江の本当のすがたを知りたいのだ。そうしなければ、彼女を殺した犯人のすがたもつかみようがない。
「ごぞんじなんですね」
「はい」
「彼は鈴江さんと関係があったらしい。知りませんでしたか」
西尾と鈴江の関係は、エリ子に傷口を残しているかもしれなかった。エリ子が二人の関係に気づかないでいたとすれば、鈴江の裏切りを告げることになる。しかし、やむをえなかった。
「知っていました」
エリ子は考えるように間を置いてから言った。
「鈴江さんに聞いたんですか」
「いえ、鈴江さんはなにも言いません。西尾さんもそういうことは喋らない人です。でも、あたしは勘でわかりました。わかっても仕方のないことですから、あたしも知らん顔でいました」
「どの程度の仲だったのだろう」
「そこまでは知りませんが、そう深い仲じゃなかったと思います。西尾さんは頼られやすいんです。やくざですが、女を食いものにするような人じゃありません。とてもやさしいところがあって、女のほうから寄っていくみたいでした。あたしはそういう女のひとを何人か知っています。みんな水商売で、泣きたいときに男の胸が欲しいひとばかりでした。鈴江さんも泣きたいことがあったのかもしれません。あたしはそう思っていました。でも、あたしが二人の仲に気づいてから間もなく、西尾さんは札幌へ帰ったはずです。札幌へ帰るという前に偶然会いましたが、赤ちゃんが生まれたので、堅気になるんだと言ってました」
「今、西尾がどこにいるか知ってますか」
「札幌じゃないんですか」
「その後音沙汰なしですか」
「はい」
「それじゃ札幌にいるんでしょう」
木塚はとぼけた。錦糸町でトンカツ屋をやっているなどと教えるのは余計だった。
「鈴江さんのことで、西尾さんが疑われてるんですか」
「いや、彼女の異性関係を聞き歩いているだけです」
木塚は煙草をくわえ、火をつけないで腰を上げた。
5
それから六日経った。
木塚は焦るばかりだった。捜査本部の連中はほとんど部屋にいない。みんな猟犬のように動きまわっているのだ。そして夕方戻ってくると捜査会議をひらき、また獲物を求めて飛び出してゆく。
しかし、木塚はどこへも行きようがなかった。現場検証に加われなかったし、捜査本部からも外された。捜査会議のようすを聞くこともできない。うっかり新聞記者の話を聞くわけにもいかなかった。やむをえないのだろうが、いっしょに酒を飲んでいた同僚たちもなんとなく木塚を避けているようだ。
木塚は捜査の手がかりを与えられないまま、完全に孤立した。
しかし、じっとしてはいられなかった。
「話がある」
木塚は戸根部長に呼び止められた。出かけようとして腰を浮かしたところだった。
「なんですか」
木塚はぶっきらぼうに聞き返した。思わずそういう声になっていた。
「ここじゃ人の出入りがうるさい。調べ室へいこう」
部長が先に立って部屋を出た。
廊下を隔てて取調べ室がならんでいた。
机をはさんで向かい合うまで、部長も木塚も無言だった。
「よく我慢してくれているな」
部長は煙草に火をつけて言った。無精ひげが伸びて、頬のあたりが痩せたようだった。
木塚は返事をしなかった。
「松沼司郎という男を知らないか」
「松沼司郎?」
聞き憶えがなかった。
「ある商事会社の取締役だがね。まだ四十代のなかばで、出世の早いほうらしい。女房と子供が二人いる」
「そいつがどうかしたんですか」
「ルルーの客だった」
「知りません。名前も聞かなかった」
「昨日、きみは宿直だったな」
「ええ」
「ほっとしたよ」
「どういうことですか」
「松沼が殺された。荒川の河川敷で見つかったが、車の中で胸を一突きに刺されていた。車は松沼自身の国産車だった。まさか走っている最中に刺すばかはいないだろうから、いったん車を止めさせて、助手席にいたやつがいきなり刺したにちがいない」
「森田鈴江の事件と関係があるんですか」
「あると思うから話している。今さら言っても遅いが、強引に引っ張っておけばよかった」
「臭かったんですか」
「一応は調べていた。ルルーの常連は虱《しらみ》つぶしさ。アリバイに曖昧なところがあって臭いといえば臭かったが、その程度ならほかに何人もいる。令状を取れるだけのネタがなかった」
「ぼくなら令状が出ますね。それこそアリバイが曖昧だし、殺す動機も十分にある」
「それだけわかっていればいい。もうしばらくおとなしくしていてもらおう」
「まだ疑ってるんですか」
「おれは信じているが、本庁の連中がどう思っているかわからない」
「それじゃ無理を言いません。でも、このまま放っておかれるのはかなわない。部長の判断で、話せることがあったら話してください」
「なにを知りたいんだ」
「鈴江は松沼の愛人だったんですか」
「だろうな。ほかに考えようがあるなら、おれのほうで教えてもらいたい。ルルーの客の間で、彼女を悪く言う者は一人もいなかった。ホステスの間でも堅いという評判だった。しかし、堅いだけじゃ金が溜らないだろう。彼女は一千万近い預金を持っていた。ホステスの給料が刑事なんかより多いことは確かだが、そのぶん支出も多いようだし、けちけち溜めたとしても、三年勤めたくらいで一千万は溜らない。しかも銀行の通帳をみると、収入のほうが平均していない。どかっと百万も入ったなんて日がある。つまりパトロンがいて、気前よくもらった証拠だな。こっそり郊外のモテルなどを利用して会えば、滅多なことでは他人に知られないで済む。鈴江のいたマンションとは別に、逢い引き用のマンションを借りてやっても同じだがね。松沼は経理担当の常務で、大きな金を動かせる立場だったらしい」
「しかしその松沼が、なぜ殺されたんですか」
「わからんよ。まだ捜査にかかったばかりだ。犯人は男か女かもわからない。わかっているのは、死体を運転席の下に転がして、荒川の河川敷まで運転していったことくらいかな。遺留品はなかったし、指紋を残すようなヘマもしていない」
「鈴江を殺したやつと、松沼を殺したやつは同一人でしょうか」
「どうかな。おれは、これからまた志村署へ行かなければならない。すまんが、暇がないんだ」
松沼の死体が見つかった場所が志村署の管内だった。
部長は昨夜から一睡もしていないような顔で出ていった。
しかし、ろくに睡っていないのは木塚も同様だった。昨夜は宿直で今日は非番になるが、午後になっても帰る気になれないでいたのだ。
6
木塚は戸根部長のあとを追うように街へ出た。
六時半だが、まだ空は明るく、日中の暑さがつづいていた。
足が自然にルルーへ向かった。繁華街の雑踏で何度も通行人にぶつかり、「ばか野郎、気をつけろ」と怒鳴られても真っすぐ歩いていった。
ルルーは店をあけたばかりのようで、客はいなかったが、マスターの堀川もバーテンやホステスたちも出勤していた。
「うちの署の者が来なかったかな」
木塚は堀川にきいた。
「いえ、お見えになりませんが、警察のほうへくるようにという電話をもらいました。係長さんからです」
「時間は」
「なるたけ早くと言われました。犯人がわかったんですか」
「なにも知らないのか」
「なにもって?」
「ここじゃ話しにくいな。廊下へ出ようか」
「廊下は暑いですよ」
「暑くてもかまわない」
「ぼくは暑いのが苦手なんです」
「おれだって汗なんか掻きたくない」
「それじゃ屋上へ行きましょうか。風が涼しいかもしれない」
エレベーターで七階の屋上へ出た。
確かに風が涼しかった。
「松沼司郎という客について聞きたいんだ。商事会社の重役で、ルルーの常連だということはわかっている」
木塚は無意識のうちに煙草をくわえて言った。
「松沼さんが疑われてるんですか」
「あんたは質問しないでくれ。答えるだけにしてもらう。松沼はどんな客だったのか知りたい」
「そうですね、お店にいらっしゃっても騒ぐようなことはしないし、お勘定のほうもきちんとしています。もちろん個人ではなくて会社から送金していただくんですが、うちとしてはありがたいお客さんです。でも、お見えになるといっても月に一度くらいで、派手に遊ぶという方じゃありません」
「女のほうはどうなのだろう」
「うちのホステスとですか」
「うん」
「それはないと思いますけれど」
「そうかな。おれはあったと思っている」
「相手の名前を知ってるんですか」
「森田鈴江」
「まさか――」
堀川は信じられないというように口をあけ、顎を引いた。
「まさかじゃない」
「だれに聞いたんですか」
「自分の頭で考えた。ふっと考えたんだ。そしたら妙なことに気がついた。おれはとんでもない考え違いをしていたらしい。この前会ったとき、あんたは西尾のことを教えてくれた。もとは南風会のやくざ、いまはトンカツ屋をやっている」
「ええ、憶えています」
「おれは錦糸町へ行って西尾に会った。しかし二年も前のことで、役に立つような話はひとつも聞けなかった」
「ぼくもそう思ってました。だから部長さんには話さないでいたんです」
「そんな役に立たないとわかっている話を、なぜおれにだけ教えてくれたのかな」
「木塚さんが気の毒になったからです。それと、マスターのくせに一から十まで知らぬ存ぜぬかと言われたせいもあります」
「おれはそう思わない。あんたは話す前にためらっていた。よく考えて、もう話してもかまわないと思ったからしゃべったんだ。おれにサービスするふりをしていたが、鈴江が死ななければ話さなかったはずだ」
「もちろん死んだから話したんです。こう見えても口が堅いつもりです。生きていたら絶対にしゃべりません」
「そんなことを言ってるんじゃない。あんたは鈴江の秘密を握っていたということだ」
「おかしなことを言いますね。わけがわからない」
「それじゃ今度はおれが教えてやる。おれが鈴江に振られたことはあんたに話したとおりだ。鈴江との仲は係長や部長にも知られていた。おれは部長に注意されたあとだったから、振られた理由を係長か部長のせいにしていた。鈴江はホステスと刑事が結婚する難しさを係長か部長に言われ、それで逃げるように姿を消したんだと思った。そう思わなければ、急につめたくなった鈴江の態度が理解できなかった。ばかだったとしか言いようがない。おれは部長たちを怨むばかりで、その前に考えなければならない大事なことを忘れていた。なぜ係長や部長は鈴江との仲を知ったのか。おれはいっしょにいるところを誰かに見られたのだろうと思ったが、そうじゃないな。係長に密告したやつがいるにちがいない。そいつは、鈴江に結婚するから店をやめたいと聞いて、彼女の過去を脅しのネタにつかった。西尾との関係をおれにバラすと言えば、鈴江はあきらめるほかなかったのだろう。そいつにとって、鈴江はやくざの資金源のような女だった。だからそう簡単に店をやめられちゃ困るわけさ。大金を吐き出しそうな客に鈴江をとりもって、やがて鈴江に恐喝まがいのことまでやらせ、そのたびに分け前を絞り取っていたんだ」
「まるで、ぼくのことを言ってるみたいですね」
「ちがったかな」
「すると、鈴江を殺したのもぼくだというんですか」
「いや、利口なあんたが資金源の女を殺すはずがない」
「それじゃ誰が殺したんです」
「松沼司郎さ。おそらく、彼は鈴江に金をせびられつづけ、殺すほかないと思うところまで追いつめられたのだろう。ただし、鈴江のうしろにきさまがいることは知らなかったんじゃないかな。だから鈴江との仲を秘密にしてくれときさまに頼み、きさまはその頼みを聞いて警察にしゃべらなかった。鈴江が死んでも、代わりの資金源を得たことになる」
「松沼さんがそう言ったんですか」
「とぼけるのはいい加減にしろよ。松沼は胸を刺されて見つかった。気が弱い野郎で、自首しようとしたのかもしれない。たぶん、きさまの恐喝に怯えたせいだな。それで、きさまは彼の口をふさがざるを得なくなった。車の中で、心臓を一突きにねらったらしい」
「ぼくが殺したという証拠がありますか」
「警察を甘くみてはいけない。今のところは鈴江の男関係を中心に洗っている。だから四回目の結婚をしたばかりだというきさまは、容疑者のリストから洩れているかもしれない。しかしいったん容疑をしぼったら、徹底的に調べあげる。昨日のアリバイだけでも用意したほうがいい。いくら用意しても無駄だが、言えるものならまずおれに言ってみろ。昨日はどこにいた。朝から深夜まで言ってもらう」
「―――」
「言えないのか」
「―――」
堀川は黙ってしまった。
木塚は煙草をくわえたまま、フィルターを食いちぎるように噛みしめていた。
堀川が殴りかかってくる可能性は計算済みだった。
しかし、彼は意外な行動をした。ビルの防護壁を乗り越え、次の瞬間には姿が消えていた。となりのビルへ飛び移ろうとしたらしいが、即死したことは確かめるまでもなかった。
〈了〉
初出誌
喪服の仲
週刊小説/昭和四十八年七月二十日号
悪夢の明日
小説現代/昭和四十八年十月号
影の侵入者
週刊小説/昭和五十年九月十九日号
依命殺人
小説推理/昭和五十二年二月号
諦めない男
週刊小説/昭和五十五年二月二十二日号
白い墓碑銘
中央公論・夏期臨時増刊号/昭和五十五年七月
悪い仲
オール讀物/昭和五十五年九月号
教えた女
週刊小説/昭和五十七年二月二十六日号
振られた刑事
オール讀物/昭和五十七年九月号
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
底 本 文春文庫 昭和五十八年十月二十五日刊