源氏鶏太
天上大風
目 次
娘と青年
ロボット
本日開店
旅路
転機
第一の波
嵐の中へ
波紋
昼と夜と
大株主
テエブル・スピーチ
敵味方
十字路
対決
雲の行方
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娘と青年
昨夜の雷雨で、どうやら、梅雨は、すっかり、上がったらしい。午前の太陽が、雲ひとつない、気の遠くなるような空に、ギラギラと、照りつけていた。
有楽町駅で下車した一人の娘が、その太陽を、まぶしそうに見上げてから、歩きはじめた。日劇の前を通るとき、チラッと看板の方を見たが、たいして興味もなさそうに、さっさと、数寄屋橋の方へ歩いていった。
しゃんと、胸を張っているのだが、しかし、よく見ると、そこに多少の「幼い虚勢」じみたものが感じられぬこともなかった。
二十一か二か……。
しかし、これもそばへ寄っていって、よく見れば、まだ、十八か九、というところだろう。眼尻が、すこし吊り上がっていて、負けず嫌いを想わせるが、しかし、その瞳は、張りのある美しさをたたえていた。
五尺二寸ぐらいの中肉、むき出した腕は、小麦色に焼けているが、色は白い方だった。その胸の隆起だけを見ても、この娘の肉体は、すっかり、一人前に成熟していることがわかる。
誰もが、ハッとして、振り返って見るほどのことはないとしても、先ずは十人並、そして、つき合っていても、すぐに飽きのくる顔立ちではないようだ。
数寄屋橋を渡りきった娘は、ちょうど、青の信号の出た横断歩道を、人波にもまれながら、向こう側に渡りついて、更に、そのまま、新橋駅の方へ、歩いていった。
その通りには、幾つものビルディングが立っていた。娘は、そのビルディングの一つ一つの前で、歩みをとめた。そして、いくつ目かの大きなビルディングの前に立ったとき、
「日吉ビルディング……。ああ、ここだわ。」と、軽く、叫ぶようにいった。
娘は、いったん、舗道の端まで下がって、そのビルディングを見上げるようにした。一階、二階、三階……、七階建であった。瞳を細くして見上げる娘の額には、汗がにじみ出ていた。
娘は、顔をもとの位置に戻した。一瞬、ためらいの表情を浮かべたが、それを、例の「幼い虚勢」で押し切ると、つかつかと、ビルディングの中に入っていった。
正面に、三台のエレベエタアが動いていた。その真ン中のエレベエタアが、ちょうど、降りてきて、客を吐き出しているところだった。
娘は、そのエレベエタアに乗り込んだ。
「日吉不動産は、何階でしょうか。」
「七階です。」
数人の客を乗せて、エレベエタアは、上昇を開始した。娘は、エレベエタア・ガールの仕事振りを、熱心に見つめていた。エレべエタアは、途中で何度も停った。
「七階です。」
「すみません。」
娘は、丁寧に頭を下げて、外へ出た。そのとき、エレベエタアに残っていたのは、娘と、もう一人、二十五、六歳の青年と、二人だけだった。
どっちへ行っていいのか、と迷っている娘に、その青年は、
「日吉不動産は、こっちだよ。」と、振り返るようにいった。
恐らく、その青年は、娘が、さっき、エレベエタア・ガールに質問したのを、聞いていたのだろう。娘も、その青年が、ずっと、自分の横にいたような気がした。
ひっそりした廊下を、娘は青年のあとからついて行った。
「ここだよ。」と、青年が、振り返って、いった。
目の前の硝子扉に、金文字で「日吉不動産株式会社」と書いてあった。そして、青年は、さっさと、その扉を押し開いて、中へ入っていってしまった。
(何アんだ、この会社の人だったのか)
娘は、何か、幸先のいいような気がして、微笑した。微笑すると、エクボの出る顔である。
娘も、その扉を押し開いて、中へ入った。廊下の静けさとは、別世界のように、たくさんの人人が、広い事務室の中で、いそがしそうに、働いていた。
娘は、今の青年が、どこにいるのか、探すような眼つきをしたのだが、みんな、似たような人ばかりで、わからなかった。すぐ目の前に、カウンターがあって「受付」の木の札が、立っていた。
「あのう……。」
雑誌を読んでいた給仕が、顔をあげた。
「社長さん、いらっしゃいましょうか。」
「まだです。」
娘は、壁の電気時計の方を見た。すでに、十時三十五分である。
「何時頃に、お見えになるのでしょうか。」
「さア……、わかりません。」
「でも、今日は、お見えになるのでしょう?」
「さア……、わかりません。」
「まア。」
娘は、困ったような顔になった。
「どういうご用でしょうか。」
「ちょっと……。」
そういってから、娘は、
「社長さんに、お目にかかりたいのです。」
「ですから、そのご用件をお聞きしているんです。」
「それは、社長さんに、直接、お目にかかってからでないと。」
給仕は、はじめて、ウサンくさげに、娘の方を見た。娘の方でも、そんな風に見られても仕方がない、と観念したらしかった。弱々しい顔になりかかったのだが、すぐそんな弱気を、振り切るようにして、
「じゃア、ここで、お待ちいたしますわ。いいでしょう。」
「どうぞ。」
娘は、そこの長椅子に、腰を下ろした。給仕は、ふたたび、雑誌を読みはじめた。
十分、二十分……。
娘は、しだいに、落ちつかない気分になって来た。
(――招かれざる客)
そんな言葉が、頭に、チラチラしはじめてくるのである。
「君、どうしたんだい?」
顔を上げると、さっき、廊下で案内してくれた青年が、カウンターの向こうから、覗き込むようにして、こっちを見ていた。
娘は、ホッと、救われたように微笑んで、
「社長さんを、お待ちしているんです。」
「社長を?」
青年は、ちょっと、意外だったらしい顔をしたが、
「すでに、十一時だな。この分では、今日も休みかも知れないよ。」
「そんなに、ちょいちょい、お休みになる社長さんですの?」
「そうなんだ。」
「社長さんのくせに――。」
娘は、思わず、そんな風にいってしまった。
青年にとって、娘の言葉は、意外だったらしい。
(ほう)
と、いうように、あらためて、娘の顔を見直した。
(悪くないな)
青年が、いった。
「そうなんだ。まったく、君のいう通り、社長さんのくせに、だよ。しかし、心配はご無用に願いたいな。何故なら、わが社には、人材が雲の如くに集まっているんだ。たとえ、社長が、しょっちゅう、欠勤したとしても、会社は、ビクともしないからね。」
「あら、そんな意味で、いったんではありません。」
「まあ、どういう意味でいったのかしらんが、あとは、社長に、直接、いってくれたまえ。そうしたら、社長も、すこしは改心するかも知れないよ。」
そういって、青年は、カウンターの前をはなれていった。そして、自分の席に腰かけると、娘の方を向いて、ニヤリと笑ってみせたのである。
向かい合った机が幾つも、縦に並んでいた。青年の席は、そのいちばん右側の、しかも、末席の方であった。恐らく、入社してから、そんなに年月が経っていないので、下ッ端なのであろう。
(もし、この会社に入れたら、あの青年と親しくなってもいいわ)
娘は、そんな風に思ったのだが、しかし、問題の社長が、出社してこないからには、どうにもならないのである。愚図々々していたら、じきに、お昼になってしまう。娘は、ジリジリしていた。
カウンターの上の扇風機は、娘の方を向いて、ゆっくり、頭を振っていた。なま温かい風が、定期的に、娘の顔に吹き寄せられてくる。
思えば、けさから、ずっと、緊張していた。そのあげくの睡魔が、彼女を襲って来たようであった。娘は、自分の膝を、つねって、その睡魔とたたかわねばならなかった。
青年が、ふと、顔を上げて、カウンターの方を見ると、娘は、コックリ、コックリ、と居眠りをしていた。しかし、それは決して、醜い寝顔でなく、むしろ、可愛げのある、清純な印象であった。青年は、微笑を浮かべて、それを見ていた。
すると、彼の周囲でも、娘に気づいて、クスクスと、笑う者が出て来た。
「いったい、何者だろうか。」
「社長に会いたい、といってるんだが。」
「じゃア、社長の内証のバーの借金取りかな。」
「まさか。あれは、絶対に、そんな女じゃアないな。」
最後に、青年が、断固として、否定した。
「君、君……。」と、肩を叩かれて、娘は、ハッと、眼を醒ました。
さっきの青年が、目の前に、立っていた。
「あら。」
娘は、顔をあからめて、
「あたし、嫌だわ。こんなところで、居眠りなんかして。」
「そうだよ。」
「ねえ、社長さん、まだですの?」
「まだだ。今、秘書に聞いて来たら、午後から出るそうだ。」
「まア、午後から?」
「そうなんだ。ところで、ちょうど、十二時だが、君、お昼ごはんをどうする?」
「どうするって?」と、娘は、聞き返した。
「よかったら、僕といっしょに、外へ食べにいかないか、という意味だよ。」
「でも、その間に、社長さん、出てこられないかしら?」
「大丈夫だ。午後二時だそうだ。」
「どうして、あたしに、ご飯を誘ってくださるの?」
「君の腹が、減ってるだろうと、思うからさ。」
「そりゃア、ペコペコよ。だけど……。」と、娘は、青年の顔を見上げて、「あたし、思った通りにいうわ。そんなの、まるで、不良青年みたいじゃアない?」
「ご冗談でしょう。不良青年になる程の甲斐性をほしい、と思っているくらいだよ。」
「じゃア、連れていって頂くわ。」
「勿論、割カンだよ。」
「いいわ、でも、百円以内でなくっちゃア、あたし、おことわりよ。」
「いいとも、五十円のライスカレー、どうだい。」
「結構だわ。」
二人は、連れだって、外へ出た。
外は、さっきより、いちだんと、暑くなっているようだった。
青年の連れていってくれた五十円のライスカレー屋は、近くのサラリーマンで、満員であった。そのため、二人は、席の空くまで、三分ほど、待たねばならなかった。
その間に、娘が、いった。
「ねえ、日吉不動産て、いい会社なんでしょう?」
「さあ、あんまり、よくないさ。月給だって、安いしな。」
「あなたの月給、いくら?」
「そんなことを聞いて、どうするんだ。」
「あたしも入りたいのよ。」
「君が?」
「そうよ。」
「おかしいな。今、欠員はないはずだが。」
「でも、社長さんは、エレベエタア・ガールに一人、欠員があるってことだったわ。」
「それも、すんだはずだ。きっと、社長は、知らないんだ。」
「まア、社長さんのくせに。」と、また、娘が、いった。
「そう、社長さんのくせに、だよ。だって、ウチの社長は、あんまり、実権がないんだ。」
「それじゃア、あたし、困るわ。」
娘は、いかにも、ガッカリしたようだった。
「君は、どうして、社長を知ってるんだい?」
「あたしじゃアなく、お姉さんが、知ってるのよ。」
「お姉さんが、どうして、社長を知ってるんだ。」
しかし、そういっている間も、青年は、絶えず、席の空くのに注意していたらしく、
「あッ、あそこが、空いたよ。」と、素速く、動いていって、二人分の席を取った。
青年と娘は、向かい合って、腰をかけた。周囲で、勝手々々に喋っているので、喧騒を極めている。しかし、そのため、こっちの話も、誰にも聞かれる心配はなかった。
「あたしのお姉さん、銀座のバーに、働いているのよ。」
何アんだ、というように、青年は、娘を見た。
「昨日も、社長さん、そのバーに、いらっしたんですって。」
「そのためだな、今日、社長が遅いのは。」
「どうして?」
「だって、秘書が、いっていたよ。また、宿酔いらしい、って。」
「社長さん、そんなに、お酒が好きなの?」
「好きらしい。しかし、本人は、会社が面白くないから、酒を飲んでいるつもりらしい。」
「どうして、面白くないの?」
「さっきもいったように、社長のくせに、実権がないからさ。」
「どうして、実権がないの?」
「若いんだ。やっと、三十一歳なんだ。要するに、金持ちのお坊っちゃん育ちで、その上、気が弱い、と来ている。気の弱い社長なんて、凡そ、意味ないんだよ。しかし、君は、こんなことを、僕がいったと、喋ってはならんぞ。」
「いわないわ。それに、あたしは、そんなお喋りじゃアなくってよ。第一、あなたの名前も、まだ、聞いてないんだもの。」
「僕は、総務課の大間修治だ。」
「あたし、白石厚子よ。」
そこへ、ライスカレーが、運ばれてきた。大間は、早速、一口たべて、
「どうだ、割合に、うまいだろう?」
「ええ、五十円にしては。ねえ、今の話の続きを、もっと、して頂戴。」
「今の話?」
「気の弱い社長さんの話よ。だって、あたし、これからお会いするんですもの、重大な関心を寄せるわ。」
「社長は、目下、独身なんだ。」
「まア、素敵ね。」
「よせやい。とにかく、僕の会社は、外から見ると、至極、円満にいっているようだが、中へ入ると、複雑怪奇なんだ。重役たちが、派閥争いをやっているんだからたまらんよ。」
「だって、重役さん同士の争いなら、下の方に、関係はないでしょう?」
「それが、大ありだから、困るんだよ。仕事さえ、一所懸命にやっていればいい、というのとは違うんだ。」
大間は、若い顔を、憂欝そうに、しかめさせた。
「要するに、今の社長が、もっと、しっかりするか、でなかったら、実力第一の人物が、社長になってくれたらいいんだ。僕なんか、社長なんてワンマンであってほしい、と思っている。」
「あたし、なんだか、心細くなって来たわ。でも、そんな会社でも、やっぱり、入社したいわ。ええ、絶対に。」
「いったい、君のお姉さんと社長とは、どういう関係なんだい?」
「どういう関係って、ただのお客さまよ。」
「ただのお客さまなのに、社長が、妹の君を採用してやるといったのかい?」
大間は、ちょっと、不愉快そうにいった。
「ええ、そうよ。お姉さんが、ゆうべ、頼んでみたんですって。そうしたら、エレベエタア・ガールでよかったら、とおっしゃったのよ。」
「しかし、僕たちにとっては、嫌だなア。社長ともあろうものが、酔っぱらって、そんな約束をしてくるなんて、なっとらん。」
「まア、ひどい。」
「だって、そうじゃアないか。」
大間は、上半身を、ぐっと、乗り出すようにしていった。
「何が、そうなのよ。」
厚子は、やり返した。
大間は、氷の入ったコップの水を、一口、ゴクンと飲んで、
「君のしようとしていることは、要するに、裏口入社ではないか。」
「そうよ。」
「僕は、そんなの、人間として、卑怯だ、と思うんだよ。何故、堂々と、正門から入社試験を受けて、就職しようとしないんだ。いいかね、世間には、立派な才能がありながら、裏口入社の連中の犠牲になっている――。」
「ちょっと、待って。あたし、学校にいる時から、何度も、あなたのいう正門からの入社試験を受けたわよ。」
「すると、みんな、ダメだったのか。」
「そうよ。でも、あたしは、あなたから、そんな軽蔑くさい顔で見られるの、心外だわ。」
「しかし――。」
「まア、聞いて頂戴。あたし、どこの会社へ行っても、学科試験には、たいてい、満点を取ったわ。」
「ほんとうかね。」
大間は、疑わしそうな顔をした。
しかし、こんどは、厚子の方が、身を乗り出すようにして、
「いつも、問題は、面接の時にあったのよ。重役さん、きっと、聞くわ、
――君、ご両親は?
――はい、戦災で、二人とも、亡くなりました。
――そいつは、お気の毒だね。すると、今は?
――姉とふたりでいます。
――じゃア、君の学費その他は、そのお姉さんが出しているんだね。
――はい。
――いいお姉さんだな。それで、お姉さんは、どっかにお勤め?
――はい。
――どこに?
――銀座のバーで、働いています。
――ほう……。
それで終りよ。中には、お姉さんに、どうか、よろしく、はッはッは、という人だってあったわ。ねえ、あたしが、いつも、落第してきた理由、わかったでしょう?」
「うん。大きな社会問題に関連しているよ。」
「だから、お姉さんは、お店へくる重役さんたちに、あたしのことを、一所懸命に頼んでくれるのよ。だって、こうなったら、裏門も表門も、いってられないわよ。」
「そうだな。」
「本当をいうと、あたし、今までに、二度、お姉さんの口添えで、よその会社へ行って来ているのよ。」
「そうしたら?」
「一度は、酒の上の冗談を、本気にして、こんなところまで、ノコノコと出てこられては困る、と苦い顔をされたわ。」
「ひどいもんだな。」
「もう一つの方は、そんな会社、なかったわ。ユウレイ重役だったのよ。」
「よし、わかったよ。こうなったら、僕は、君が、わが社に、めでたく入社出来ることを祈ってやるよ。」
「ありがとう。」
「しかし、その前に、五十円を出したまえ。ここのライスカレー代だ。」
大間は、厚子の前へ、手を出した。
その大間の手を、しばらく、眺めていてから、厚子は、ゆっくりと、ハンドバッグを開きかけた。けさ、出がけに、姉から二百円貰って来たのだが、その中から、電車賃を払っただけである。
さア、早く、というように、眼の前の手が、ヒラヒラしていた。
厚子は、十円玉を五個、その手の上に、のせてやろうとしたとき、うしろから、
「ストップ。」と、声がかかった。
おどろいて、厚子が振り向くと、女の笑顔があった。三十前後であろうか。
「何アんだ、正木さん、そんなところにいたのか。」と、大間が、ちょっと、てれながらいった。
「いたわよ。だけど、大間さんて、案外、ケチなのね。」
「ケチ? 冗談じゃアない。僕は、ケチなんて、大嫌いな男なんだぜ。」
「じゃア、女のひとを連れてきて、どうして、五十円のライスカレー代を取ったりするのよ。」
「だって、それは、はじめからの約束なんだ。」
「そこが、そもそも、ケチである証拠なのよ。」
「絶対に違うね。僕は、今日、はじめて、このひとに会ったんだ。」
「それも、ここで、聞いていたわ。大間さんも、なかなか、筋の通った立派な口を利く、と思っていたのよ。あれでも、流石は男の子だ、と感心しているところへ、五十円を出せ、ときたので、すっかり、幻滅を感じてしまったわよ。」
大間は、苦笑した。すると、女も笑った。
「要するにだね、正木さん。僕は、このひとにおごってもいい、と思ったんだ。」
「じゃア、おごってあげなさい。」
「しかし、はじめて会って、そんなことをすると、いかにも、僕が、女に甘い男のように思われそうな気がしたんだ。」
「女に甘い男は、大歓迎よ。ケチな男より、余ッ程、立派だわ。大間さんも、せいぜい、女に甘い男になるように修業しなさい。それくらいの度胸がなかったら、一人前の男になれないわよ。」
そういって、その女は、席を立っていってしまった。
「どなたなの?」と、厚子が、いった。
「会社随一のオールドミス、正木信子という女なんだ。」
「でも、ちっとも、オールドミスらしくないひとだったわ。」
「そうなんだ。そして、もし、君が、わが社に入社したら、あのひとの子分にならなければならんのだ。」
「あたし、なってもいいわ。」
「ただし、正木さんは、あれで、社長派だ。」
「まア、社員の中にも、いろいろの派があるの?」
「あるとも。ほかに、専務派、常務派、いろいろあるのだが、目下の処、社長派の勢力は、いちばん、弱いようだな。」
「じゃア、大間さんは、何派?」
「僕は、中立さ。しかし、いろいろ、悪口をいうが、社長の立場には、同情しているね。」
「じゃア、あたし、社長派になるわ。だって、もし入社出来たら、それは、社長さんのお陰なんですもの。」
そういって、厚子は、せっかく出した五十円を、大間の目の前で、ハンドバッグの中に戻してしまった。
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ロボット
日吉善太郎は、眼を醒ました。まぎれもなく、自分の家のベッドの上である。しかし、昨夜は、どうして、家へ帰ったか、よく覚えていなかった。
頭が、モウロウとしていて、吐気を感じる。明らかに、宿酔いの症状だった。
(また、飲み過ぎた……)
煙草に火を点けたが、すこしも、うまくなかった。立ちのぼる煙を見つめながら、近頃、酔えば、正体もなくなる自分を、
(意気地なし……)
と、責めていた。
酔うのは、いくら、酔ってもかまわぬ、と思っていた。正体がなくなってもいいのである。ただし、欝憤を晴らすために、そうなっている自分なのだ、と知っているだけに、嫌だった。
(名目だけの社長……)
それが、やり切れなかった。若い自尊心を傷つけられていた。
煙の間から専務の田所栄之助の顔が、浮かんで来た。
その田所が、昨日、いったのである。
「社長、いよいよ、地下室を東亜興業に、貸すことにきまりました。」
「東亜興業?」
善太郎には,初耳であった。
「そうですよ。」
五十五歳の田所から見れば、善太郎など、子供と同じであった。
しかし、彼は、あくまで、インギンなのである。決して、二代目、金持ちのお坊っちゃん、という顔では、見なかった。
「このビルの地下室を、キャバレエにするんだそうです。」
「冗談じゃアないよ。」
「えッ、どうしてですか。」
「だって、この日吉ビルには、カタギの会社ばかり入っているんだよ。それを、地下室にキャバレエなんかはじめられたんでは、早速、苦情が出るよ。」
「キャバレエたって、夜だけのことですし、入口も、別につけるんです。勿論、その工事費は、東亜興業で持つんですからね。」
「いや、困るよ。」
「困るって、今更、社長、もう追っつきませんよ。」
「第一、僕は、何も聞いていないよ。」
「おや、そうでしたかな。」と、田所は、空とぼけてみせて、「たしか、お話ししたと思ったんでしたがねえ。どうも、失礼しました。」
「…………。」
「そのかわり、坪あたり、七万円を出させます。したがって、千五百万円ぐらいが、ただで、ころげこんでくる勘定になります。時節柄、悪くない、と思うんですよ。」
「…………。」
「それに、この契約を破棄したら、相手が相手ですし、どんな難題を吹っかけてくるかわかりませんよ。まア、千五百万円を思って、ご承諾下さい。」
そういって、田所は、また、インギンに頭を下げて、社長室から出ていった。
なるほど、会社へは、千五百万円の金は、入るだろう。しかし、田所のふところへ、いったい、いくら入っているのだと、善太郎は、思うのであった。が、彼には、それを調べる術がなかった。みすみす、不正を見逃しているような割り切れぬ気がしてならなかった。
近頃、善太郎は、心の底から、田所を憎んでいる、といってもよかった。
そのくせ、彼の前へ出ると、身は社長でありながら、どうしても、強いことがいえないのである。性格のせいもあろうが、やはり、役者が違う、といった方があたっているかも知れない。
一方、善太郎は、田所の実力を、認めないわけにはいかなかった。
彼さえいてくれたら、日吉不動産は、ビクともしないだろう。善太郎は、毎日、遊んでいても、会社の業績には、差し支えがなかった。そのかわり、彼の横暴、そして、多分、犯しているのであろう不正行為を、見逃さねばならないのである。
社内には、田所の子分といっていい社員が、たくさんいるはずだ。しかし、善太郎には、腹心の部下は、ひとりもいないのである。
(要するに、僕は、社長だが、会社では、孤児なのだ)
ロボットとわかっていれば、毎日、出勤する張り合いもないのである。しかも、人は、結構なご身分だ、という――。
コツ、コツ、コツ……。
ノックの音が、聞えている。
「誰?」
「あ、た、く、し。」
扉が開かれて、妹の高子が、顔を覗かせた。
「まア、生きてらしったのね。」
「あたりまえさ。」
「あたりまえもないわよ。今、何時だ、と思ってらっしゃるの?」
「知らんよ。」
善太郎は面倒くさげにいった。
「もう、十一時に近いわ。ゆうべは、随分、酔ってらしったわね。」
「ふん、そうかね。」
高子は、兄の枕許の煙草を取ると、火を点けた。
「おや、お前、煙草をのむのか。」
「そうよ。女も、二十七歳になると、煙草ぐらいのむようになるわ。」
しかし、その煙草を持つ手つきは、いかにも、不器用であった。
(そうか、もう、二十七歳になっているのか)
あらためて、善太郎は、妹の顔を見直した。性格と同じに、眼鼻立ちも、はっきりした顔立ちなのである。背たけも、五尺三寸はあった。
近頃こそ、善太郎は、高子を連れて歩かなくなったが、三、四年前までは、よく、そうしたものである。すると、たいてい、何人かの男が、高子を振り返って見た。善太郎は、ひそかに、それを誇らしく思ったものだ。
その頃にくらべて、高子は、ますます、美しくなったようだった。
「高子……。」
「何?」
「そろそろ、お嫁にいったら、どうだね。」
「そろそろ、あたしが、邪魔になってきたの?」
「邪魔じゃアないが、高子にだって、好きな男の一人や二人、あってもいい、と思ったんだよ。」
「それがないのよ、お兄さん。」
「だらしがないぞ。」
「だらしがないのは、近頃の青年諸君よ。だって、たよりなくって、結婚しようと思うような男、一人もいないんですもの。」
「しかし、だらしのない男は、ここにも一人いるからな。」
「お兄さんの場合は、特別よ。」と、高子は、急いで、いった。
善太郎は、三年前に、一度、結婚したのである。結婚生活は、一年と続かなかった。別れた美和子の消息を、高子は、ちょいちょい、耳にしていた。
しかし、それは、いい消息ということは、出来なかった。
もし、今でも、兄が、美和子に多少の未練を残している、とすれば、それを聞かせることは、残酷なことに違いないのである。高子は、一切、聞かなかった振りをしていた。
しかし、善太郎が、自分をだらしのない男、といったのは、むしろロボット社長であることを思い出したからだった。
「そうそう。」
高子は、思い出したようにいった。
「佐登子姉さんが、お見えになっているのよ。」
「佐登子姉さんが?」
「ええ。何んだか、兄さんに、お話ししたいことがあるとかで、さっきから、茶の間で、お待ちになっているのよ。あたし、それで、お兄さんを、起しに来たんだったわ。」
「どうせ、ロクな用事で来たんではあるまいな。」
善太郎は顔をしかめた。
「ええ、多分……。どうも、そんな顔つきだったわ。」
そういって、高子は、窓際へ行って、カーテンを引き、窓を開いた。新しい風が、吹き込んで来て、部屋の中の濁った空気を追っ払った。善太郎は、空の色を眺めて、
「今日も、暑そうだなア。」
「そうよ。会社へ、いらっしゃるんでしょう?」
「さア……。」
「いらっしゃいよ。」
「よし行くよ。」
善太郎は、田所の顔を思い浮かべながら、それを踏みにじるような、強い口調でいった。
「何時頃? あたし、会社へ電話しといてあげてよ。」
「そうだな。佐登子姉さんが来てるんなら、午後二時頃になるだろう。」
「はい。」
高子が、先に、部屋から出ていった。
善太郎は、高子と話しているうちに、すこし、宿酔いの気分から、抜けられたように思った。
階下へ降りて、顔を洗ってから、茶の間へ入っていった。
母の常子と、何か、ヒソヒソと話していた佐登子は、善太郎を見上げて、
「相変らず、朝寝坊ねえ。」
「うん。」
常子が、
「あんた、朝ごはんは?」
「いりません。そうだ、ジュウスを一杯、貰いましょう。」
常子は、女中を呼んで、
「ジュウスを。あたしたちにも頂戴。」
「はい。」
女中が、去っていくと、そのあとに、沈黙が訪れて来た。やはり、佐登子の来訪の目的は、ロクな事でないのだと、善太郎にわかった。わざと、黙っていた。高子は、自分の部屋へ、引っ込んだらしく、姿を見せなかった。
「ねえ、善太郎さん。」
「何んですか。」
善太郎は、切口上で、答えた。
「毎度で悪いんだけど、十万円ほど、都合してよ。」
「十万円? そんな金、僕には、ありませんよ。」
「あんなことをいって。」
佐登子は、わざと、睨むように善太郎を見て、
「善太郎さんが、毎晩、飲む金を、すこし、ケンヤクしたら、それくらいの金、すぐに出るじゃありませんか。」
「それとこれとは、違いますよ。」
「まア。」
「先々月にも、五万円を差し上げたばかりではありませんか。」
佐登子は、いちばん上の姉で、その下に、もう一人、春子という姉があった。その春子にも、先月、五万円取られたばかりなのだと、善太郎は、思い出した。
揃って、恋愛結婚をしたのだが、揃って、ぐうたらな男を選んだものだ、といいたくなってくるほどだった。それも、いつでも、こっちが甘くて、結局、金を出してやるから、そんな風になったのかも知れないのである。
善太郎は、何かの反動のように、今日は、絶対に出すまい、と決心した。
「ねえ、善太郎さん。」と、佐登子は、下手に出た。「今日のは、ちょっと、違うのよ。」
「…………。」
「良一が、会社の金を持って歩いて、落したのよ。明日中に、入金しないと、大変なことになる、と青くなっているんだもの。あたし、可哀そうで見ていられないのよ。」
「それだったら、ピアノでも、お売りなさいよ。十万円ぐらいにはなるでしょう。」
「まア、ひどい。」
「お姉さんには、五年前に、お父さんが亡くなられた時ちゃんとした財産を分けてあげたはずですよ。」
「だって、あれで、今の家を買ったんだもの、残っていないわ。あとは、日吉不動産の株だけよ。」
「とにかく、今日は、ごめんです。」
横から、常子が、いつにない息子の強硬な態度に、たまりかねて、
「善太郎、こんどだけ、何んとかしてやれないかね。」
「ダメですよ、お母さん。」
佐登子が、
「じゃア、善太郎さんが、ダメなら、会社の田所さんに、あなたから、頼んでみてよ。」
「田所?」
善太郎は、眼を光らした。
「田所さんなら親切だし、それくらいのお金は、融通してくださるでしょう?」
「そんなバカな。」
「だって、うちの良一が、いつかバーか、どっかで、田所さんにお会いしたのよ。そのとき、もしお困りの時には、いつでも、いって来てください、といわれたんですって。」
「いけません。そんなことは、絶対に、いけませんよ。」
「あら、どうしてよ。せっかく、親切にいってくださるのに……。」と、佐登子は、不満そうにいった。
もし、田所が、本当に、そんなことをいっているのなら、いったい、その金を、どこから、どうして出すのであろうか。当然、何んらかの交換条件もあるに違いない。
(悪党めが――)
しかし、善太郎だって、毎月、きまった社長報酬のほかに、税金のかからぬ金で、十万円ずつ、田所から、貰っているのだった。
社長だから、と何気なく貰っていたが、しかし思えば、それは麻薬のような働きをしていたのではなかったろうか。
午後二時に出勤して来た善太郎に、
「お早うございます。」と、秘書の福井英一がいった。
「うん。」
善太郎は、不機嫌な顔で、席についた。
姉の佐登子の申し出を、きっぱり、断わって来たことが、彼の心を、やはり、重苦しくしていた。ここへくるまでの自動車の中ででも、
(金を落したなんて、嘘にきまっているのだ)
と、何度もいい、あんな無心を断わるのは、当然のことだ、と思い続けていたのである。
(でも、もし、本当に落したのだったら?)
(バカな。そんなことの尻ぬぐいまで、いちいち、こっちにさせられてたまるもんか)
ただ、彼の拒否が、良一と田所を結びつけることになるのでないか、と気になっていた。まさかと、否定する半面、良一なら、そんなことを、平気でするだろう、と思われるのだった。
「社長。」と、福井がいった。「お客が一人、午前から来て、お待ちしているんですが。」
「誰だね。」
「白石厚子さんです。」
「白石厚子? 知らんなあ。」
「二十歳ぐらいの娘なんですが、ぜひ、社長にお目にかかりたい、といってるんです。」
「用件は?」
「それは、社長にお目にかかってから申し上げる、といってるんです。」
「ふふむ。」
「社長は、今、お忙しいから、といって、断わってしまいましょうか。」
しかし、お忙しいどころか、目下の自分は、日本でも、最もヒマな社長さんの一人なのだ、と気がついた善太郎は、却って、いった。
「いや、会ってみよう。」
「えッ、お会いになるんですか。」
福井の顔には、はっきり、
(物好きだなア)
と、書いてあった。
「じゃア、応接室へ通しましょうか。」
「いや、それも面倒くさい。ここへ通してくれたまえ。」
「はい。」
福井が、社長室から出ていった。
いれかわりに、厚子が、緊張した面持で、入って来た。彼女は、すでに、大間から、予備知識を得ているのだが、それを別にしても、善太郎を一目見て、
(ああ、ハムレット型だわ)
と、ひそかに思った。
たしかに、美男だが、しかし、颯爽たる青年社長の風貌には、遠いようである。
「白石厚子でございます。」
厚子は、丁寧に、頭を下げた。
「僕が、社長の日吉です。」
「今日は、姉が、ぜひ、お伺いするように、といったものですから、厚かましいのを承知で参りました。」
「あなたの姉さんが?」
「はい。」
「しかし、僕は、あなたのお姉さんなんか、知りませんよ。」
「いえ、ゆうべ……。」
「ゆうべ?」
「まあ、覚えていらっしゃらないのでしょうか。」
「ええ。一向に……。」
善太郎は不安な顔をした。厚子は、心細くなってきた。
しかし、ここで心細くなっていてはいけないのだ、と厚子は、ひるむ心にムチを打って、
「でも、社長さんは、ゆうべ、並木通りのバー『けむり』へ、お出でになったでしょう?」と、善太郎の顔を見つめるようにしていった。
「たしか、行ったような気がしています。とにかく、何軒も、まわったから、あとの方は、はっきり、覚えとらん。」
「困りますわ、ちゃんと、覚えていてくださらないと。あたしの姉は、その『けむり』に働いているんです。」
「誰?」
「和子。」
「ああ、和ちゃんか。」
「よかったわ、知っていてくださって。」
厚子は、白い歯並を見せて笑った。エクボが出た。善太郎は、なかなか可愛い娘じゃアないか、と思った。そういえば、たしかに、あの和子に、似ているようだ。
しかし、和子にくらべたら、この娘の方は、何倍か、ハツラツとしている。もっとも、年だって、五ツぐらいは違うだろう。そして、和子のよさは、銀座のバーで働く女にしては、いかにも、おっとりしていることだった。
「で?」
善太郎は、あとを促すように、厚子を見た。
厚子は、あきれた。これだけいっても、まだ、姉との約束を思い出してくれぬ善太郎を、余ッ程、お酒にだらしがない男なのか、と思った。しかし、今は、そんなことをいっている時では、ないのである。
どんなことがあっても、就職しなければならぬ。このチャンスを失したら、いつまた、こんなチャンスが、めぐってくるか、わからないのである。
「ゆうべ、姉がお願いしたら、社長さんが、それでは、この会社へ採用してやろう、とおっしゃってくださったんですわ。」
「あなたを?」
「はい、履歴書も、書いてきました。」
厚子は、素速く、社長机の上に、封筒にいれた履歴書を置いた。
善太郎は、苦笑した。やっと、思い出したのであった。そして、彼は、当惑した。
酒の上で、そんな約束は、一切、しないことにして来ていたのだった。何度も、そんな依頼を受けたことがあったが、すべて、ていよく、断わって来たのである。
しかし、ゆうべの飲み方が、異常であったように、ついそんな約束をしてしまったのであろう。その底に、田所への怒りが、こもっていたに違いない。
善太郎は、あらためて、厚子を見つめた。そして、いった。
「エレベエタア・ガールですよ。」
「結構ですわ。」
善太郎は、しばらく、考えるようにしていてから、秘書の福井を呼んで、
「人事課長を呼んでくれたまえ。」
「はい。」
福井は、ジロッと厚子を流し見てから、社長室を出ていった。
厚子は、ホッとしていた。とにかく、ここまで、話がすすんだことは、大成功といわねばならない。しかし、大間の説によると、エレベエタア・ガールの欠員の補充は、すでに、すんでいるはずだった。そこに、厚子の一抹の不安が、まだ、残されていた。
人事課長の山形亮助が、社長室へ入ってきた。
「お呼びでしょうか。」
「ああ、山形君。たしか、エレベエタア・ガールに一人、欠員があったはずだな。」
「いいえ。あれは、もう、採用してしまいました。」
「いつ?」
「三日前にです。昨日から、出勤して来ています。」
「僕は、何も、聞いてないよ。」
「はい……。でも、たかが、エレベエタア・ガールのことですから、わざわざ、社長のお耳にいれるまでもない、と思いまして。」
「困るじゃアないか。」
「申しわけありません。そのかわり、田所専務にはご決裁を得てあります。」
「田所君に?」
善太郎は、不愉快になってきた。またしても、会社が、自分をはなれて、田所を中心に動いているところを見せつけられたような気がした。
「じゃア、事務員の方に、欠員はないのか。」
「はア、生憎と。」
山形は、はじめて、厚子の方を見た。厚子は、ハラハラしていた。こうなると、実権のない社長さんに頼んだことが、心細かった。
しかし、善太郎は、きっぱりいった。
「よし、いいから、このひとを、事務員に採用してやってくれたまえ。」
「しかし、社長。」
「かまわぬ。」
山形は、しばらく、黙っていてから、
「そうですか。では、一応、田所専務に話してみます。」
「どうして、田所君に話す必要があるのだ。」
「えッ?」
「社長のわしが、採用するといったら、黙って、その通りにすればいいんだ。」
いつにない善太郎の剣幕に、山形は、あきれたような顔をした。しかし、別に、それほど恐れているようでもなかった。彼にしてみれば、やはり、あらかじめ、田所専務の許可を得ておいた方が無難なのであった。
そこへ、その田所専務が、入って来た。
「あッ、専務。」と、山形が救われたようにいった。
善太郎は、黙っていた。
「何んだね。」
「社長が、この娘を、事務員に採用しろ、とおっしゃるんですが。」
「ほう。」
田所は、ゆっくりと、厚子の方を見た。そして無造作に、
「いいではないか。」
「でも、いま欠員がないのですが。」
「かまわん。社長がおっしゃるなら、別に、君が、文句をいうことはないはずだ。」
「はい。」
「すぐ、手続をしたまえ。」
山形は、勝手が違ったような顔をした。いや、勝手の違ったのは、善太郎とて、同じであった。もし、ここで、田所が、それは困ります、とでもいったら、善太郎は、開き直ってやるつもりだったのだ。しかし、見事に、肩すかしを、食ったのである。
「君、来たまえ。」と山形が、厚子にいった。
そして、厚子が、山形に連れ去られると、社長室は、善太郎と田所の二人だけになった。
善太郎は、黙っていた。田所も、黙っている。
正直にいって、善太郎は、田所と二人っきりになるのは、苦手であった。いつでも、圧迫感を覚え、息苦しさを感じる。
といって、田所は、善太郎を睨みつけているわけではない。あくまでインギンな態度を崩さないのである。
今も、そうであった。
たまりかねて、善太郎がいった。
「何か、用かね。」
もし、厚子のことを、問題にしているのだったら、逆に、斬り返してやろう、と思っていたのである。
しかし、田所は、別のことをいった。
「東亜興業のことですがね。今夜、契約の成立を機に、一席、もうけたい、といってるんですよ。」
「僕は、出ないよ。」
「先方では、ぜひ、社長にも、といってるんですがね。」
「僕は、出ないよ。」
「そうですか。じゃア、私が、代理で出席しときましょう。」
「…………。」
「明日から、工事をはじめるそうです。」
「田所君。」
「はア。」
「地下にキャバレエなんかをつくったら、きっと、ほかの会社から、文句をいってくるに違いないよ。」
「その方は、私が引受けます。別に、こちらは、賃貸契約に違反しているわけではありませんからね。」
「しかし。」
「まア、それで嫌なのなら、出て行って貰うだけです。借手なら、いくらでもありますからね。」
田所は、立ち上がって、
「すると、今夜は、やっぱり、お出になりませんね。あとで、面白いところへご案内する、といってたんですが、残念です。」
田所が、社長室から出ていったあと、善太郎は、唇を噛みしめるようにしていた。
未決の書類箱から、社長決裁の書類を取り出して、判を押していった。どうでもいいことばかりのような気がしてくる。そのくせ、いちばん、重要な書類は、ここまで、上がって来ていないような気がしてならないのであった。いつまでも、こんなことで、いいのだろうか。
善太郎は頭を、横に振ってみた。宿酔いは、もう、直っているらしい。
彼は、受話器を取り上げると、交換手に、
「青田病院。」と、命じた。
その青田病院が出ると、
「青田君を呼んで下さい。そう、院長でなしの、若い方の青田君です。こちらは日吉です。」
しばらくすると、青田英吉の元気な声が、聞えて来た。
「よう、社長さん、元気かい。」
「いや、あんまり、元気でない。」
「病気なら、俺ンとこへ入院してくれよ。」
「何をいってるんだ。どうだ、今夜、久し振りで、飲まないか。」
「いいとも。」
「じゃア……、そうだ、七時に、並木通りの『けむり』で待っている。」
田所専務の部屋へ、人事課長の山形が、呼びつけられていた。
「さっきの娘、どうした?」
「はア、今、健康診断にやってあります。」
「うん……。なかなか、よさそうな娘だったじゃアないか。」
「しかし、専務、困ると思うんですよ。」
「何が?」
「だって、いくら社長でも、いきなり、あんな娘を連れて来て採用しろ、なんて無茶苦茶ですよ。」
「いいではないか。たかが、女の子の一人ぐらい。」
「そうでしょうか。」
「だって、社長さんじゃアないか。あたりまえのことだ。ただし――。」
「えッ?」
「いきなり、変な男を連れて来て、今の人事課長を辞めさせろ、そのかわり、この男を人事課長にしろ、といわれるのだと、絶対に困るがね。君だって、困るだろう?」
「困りますとも。」
山形は、苦笑した。
「せっかく、入社以来二十年、一所懸命に働いて、やっと、人事課長にして頂いたんですからね。もっとも、これも、専務さんのお陰ですが。」
「バカなことをいう男だ。」
「いえ、本当に、そう思っているんです。」
「君は、あの娘と社長との関係を、聞いただろうな。」
「はい。それが、いよいよ、バカバカしい話なんです。あの娘の姉が、並木通りの『けむり』というバーの女給をしているんだそうです。」
「『けむり』だな。」
田所は、記憶にとどめておくようないいかたをした。
「はい。そこへ、社長が、昨夜出かけていって、採用してやる、といったんだそうですからね。」
あきれたもんですと、山形は、言外に匂わせながら、
「両親がなくて、姉が女給、ときたら、普通、ちゃんとした会社では、めったに採用しませんよ。」
「その姉の名は?」
「和子だそうです。」
「和子だな。」
これも、田所は、記憶にとどめるようないい方をしてから、何気ないように、
「社長とは、どんな仲なんだろう?」
「さア。」
田所は、黙っている。山形は、気がついて、
「それとなく、調べてみましょうか。」
「どうして、そんな必要があるんだね。」
田所は、わざと、とがめるようにいった。
しかし、それは、調べてみろ、との謎であることぐらい、山形は心得ていた。頭をかいてみせながら、
「いえ、人事課長としまして。」
そこへ、卓上電話のベルが鳴った。田所は、腕をのばして、受話器を取った。
「稲川良一さんからです。」
「ああ。」
稲川良一なら、社長の姉の佐登子の良人であり、日吉不動産の株主の一人である。そして、名目だけの取締役ででもあった。
田所は、受話器を耳にあてたまま、山形に、去れ、と眼顔で命じた。
やがて、稲川良一の声が、聞えてきた。
「やあ、田所さんですか。」
「そうですよ。」
「いつかは、銀座のバーで、失礼しました。はッはッは。」
「いや、こちらこそ。」
「ところで、今日は、折りいってのお願いがあるんですが、聞いてくれませんか。」
「どういうことでしょうか。」
「今日明日中に、二十万円ほど欲しいんですが、何んとか、なりませんかねえ。」
「二十万円? 大金じゃアありませんか。」
「何をおっしゃいますか。田所さんらしくもありませんよ。」
「どういたしまして。そんな、大金なら、社長にお話しになったら、いかがですか。」
「それが、ダメなんですよ。今日、家内をやったんですが、ケンもホロロだった、とプリプリして帰って来ました。」
「なるほど。」
「ねえ、何んとかしてくださいよ。勿論、くれというんじゃアありませんよ。そのうちに、きっと返します。田所さんのポケットマネエから、出してくださいよ。」
「とんでもない。私に、そんな大金が、あるもんですか。」
「あんなことをいって。本当に困ってるんですよ。善助親爺が、生きていたら、きっと、聞いてくれたと思うんです。ところが、二代目は、さっぱり、ですからね。薄情なもんです。こうなったら、僕としては、田所さんだけが、頼みなんですよ。」
「恐れいりますよ。」
「いや、お世辞じゃなく、本当ですよ。ねえ、田所さんの力で、会社から貸して貰えませんか。勿論、善太郎君には、内証にして貰いたいんです。」
「そりゃアダメですよ。取締役に対する貸金は、取締役会の決議を経なければならないんですからね。どうしても、知れます。」
「困ったなア。」
「ちょっと、待ってくださいよ。」
田所は、受話器を机の上に置いた。そのあと、腕を組んで、天井を仰いで、しばらく、考え込んでいた。
ふたたび、受話器を取り上げると、
「承知しました。」
「えッ、聞いてくれますか。」
「仕方がありません。でも、これは、私の知っている男から借りるんですよ。」
「結構です。」
「そのかわり、タンポをいれてくださいませんか。」
「タンポをいれるんですか。」
稲川は、ちょっと、アテが、はずれたようにいった。しかし、田所は、かまわずに、
「何、ほんの形式でいいんです。」
「何をいれるんですか。」
「日吉不動産の株を、どうでしょう? いえ、ほかに、何か、適当な物があれば、その方が、結構なのです。」
「ありませんな。」
「じゃア、やはり、日吉不動産の株、ということにして下さい。しかし、ご心配はいりません。最後の責任は、私が持ちますから。」
「たのみますよ、田所さん。」
「それから、このことは、やはり、社長には、内証にしておきますか。私としては、お耳にいれておいた方が――。」
「いや、やめて下さい。」
電話を切った田所の顔には、バカな男だ、という表情が現われていた。
厚子は、山形人事課長の机の前の丸椅子に、腰をかけさせられていた。山形は、回転椅子にふんぞり返るような姿勢で、
「とにかくだ。君が、たとえ、社長のお声がかりで入社したのであっても、僕は、人事課長として、他の社員たちと、一切、差別をつけぬからな。」
「はい。」
「公平、信賞必罰、これが、人事課長たる僕のモットウである。」
「はい。」
「わかったかね。」
「はい。」
厚子は、心の中でこれほど人事課長であることを、自ら売物にするようなら、たいした人物でないに違いない、と思っていた。
しかし、そんなことは、どうでもいいのであって、どうやら、採用ときまったらしいことが、嬉しかった。声を出して踊りたいくらいであった。
姉だって、きっと、よろこんでくれるだろう。早く帰って、知らしてやりたかった。すでに、午後四時に近い。しかし、山形は、ネチネチとした口調で、説教じみたことをいうかと思うと、ジロジロと、厚子の顔を眺めていて、なかなか、もう、帰ってよろしい、とはいってくれなかった。
「ついでに聞くが、君の姉さんの年は?」
「二十七歳です。」
「で、外泊は?」
「何んですって?」
「いや、たとえば、時に商売柄、外泊ぐらいすることがあるだろう、と聞いているのだ。」
厚子は、むっとして、黙りこんだ。どうして、そんなことを質問する心要があるのだろうか。姉は姉、自分は自分である。そのとき、厚子は、一種の屈辱感を覚え、こんな人事課長なんか、大嫌いになってやるワ、と思った。
「どうなんだね。」
「そんなことに、お答えする必要があるのでしょうか。」
何んとなく、ニヤニヤしていた山形は、厚子の逆襲に、ちょっと、たじろいだかたちだったが、すぐ、高飛車に、
「人事課長として、社員の家庭の事情に、通じておく必要から聞いているんだ。」
「では、お答えいたします。」
「いってみたまえ。」
「姉は、一切、外泊をしません。」
「本当かね。」
「もし、お疑いになるなら、社長さんに聞いて頂きたいわ。」
「何?」
「社長さんなら、ご存じかも知れません。姉が、どういう女かということを……。」
山形は、わッはッは、と笑ったが、その眼は、こいつめが、といっていた。
やっと、今日は、帰ってよろしい、明日から、正式に社員として採用する、ということになって、厚子は、立ち上がった。
廊下に出ると、うしろから、大間が、追って来た。
「採用されたかい?」
「されたわ。」
「そうか、それは、おめでとう。」
「ねえ、あの人事課長は、何派なの?」
「何派とは?」
「ほら、社長派とか、専務派とか。」
「ああ、あれは、専務派だね。」
「道理で……。あたし、やっぱり、断然、社長派になってみせるわ。」
大間は、せせら笑うように、
「何も、君なんか……。」
「いいえ、女の意地だわ。」
そういって、厚子は、はじめて、ニッコリと笑ってみせた。
もう、四時が過ぎているのに、妹は、まだ、帰ってこなかった。朝の九時過ぎに出たのだから、何んぼ何んでも、ヒマがかかり過ぎている。
しかし、こんなにヒマがかかるのは、ひょっとしたら、結果がよい証拠なのかも知れないと、和子は、思ったりしていた。
「もし、こんどもダメだったら、あたしお姉さんのように、バーに勤めることにするわ。」と、厚子が、けさの出がけに、いったのである。
「あんたに、お姉さんの真似をさせるくらいなら、あたしが、今日まで、こんなに苦労をしなかったはずよ。」
「わかってるわ。だって、こんなことが、度かさなってくると、だんだん、癪にさわってくるんだもの。ほんとうよ。」
「まあ、元気を出して、行ってらっしゃい。日吉さんて、とても、いい人なのよ。」と、いって、和子は、妹を送り出したのであった。
姉と妹は、大森のアパートの二階、四畳半の部屋に住んでいた。便所は、共同だけれども、台所は、各部屋についていて、ガスも水道も来ているから、便利だった。
とにかく、心配である。
近頃は、銀座のバーも不景気で、春ほどには、金が入らなかった。それでも、マダムは、和子を特別に可愛がってくれるのでたすかっているのだが、いつまでも、妹を遊ばせておくほどの余力は、もう、なくなっていた。何んとしてでも、就職してもらわないと、困るのである。
和子は、二十七歳。銀座のバーに働くようになって、あしかけ、六年になる。
はじめから『けむり』ばかりで、ほかのバーの経験は持っていなかった。そのことが、マダムに特別に可愛がられる所以でもあった。
今夜は、六時までに、出る日である。だから、そろそろ、お化粧にかからねばならない。しかし、厚子の結果が心配になって、その気にもなれないのである。
「気の利かない。ちょっと、電話でもしてくれたらいいのに。」と、腹が立ってくる。
隣の部屋は、朝から、物音ひとつしなかった。やはり、女給をしている銀子は、ゆうべ、とうとう、帰らなかったらしい。近頃、銀子の素行の荒れていることは、和子の眼にも余っていた。
あんな真似だけは、したくない、と思っていた。
勿論、和子の過去に、男が、なかったわけではない。しかし、金が目的であったことは、一度もないつもりだった。
四時半になった。
和子は、仕方なしに、鏡台の前に座った。
鏡にうつった化粧前の顔は、年よりも、二つ三つ、老けて見えることが、やはり、情けなかった。
「妹さえ、就職してくれたら……。」
いつまでも、女給商売は、嫌なのである。こんどこそ、ちゃんとした人を探して、結婚生活に入りたい、と思っていた。が、いったんその目的を達しながら、結局、また、元の世界へ戻ってくる女のすくなからぬことも、和子は、その眼で見て、知っていた。
階段を上がってくる靴音が、聞えてきた。
「厚子だわ。」
和子は、立ち上がった。元気のいい、廊下を駆けてくるような靴音が、部屋の前でとまった。
「お姉さん、お姉さん。」と、厚子は、声を弾ませながら、扉を開いて、「通ったわよ。採用になったわよ。」
「そう……。」
「あら、どうしたのよ。せっかく、採用になったのに、いやに、あっさりしてるのね。」
「そうじゃないのよ。あんまり嬉しくって、却って、ひょうし抜けしたみたい。」
「なら、いいんだけど、明日から、出勤していいんですって。それも、事務の方なの。」
「よかったわね、厚子ちゃん。」
「お姉さんのお陰だわ。」
「日吉さんのよ。こんど、お礼をいわなくっちゃア。」
「でも、何んだか、変な会社なのよ。」
「どうして?」
「ちょっと聞いただけなんだけど、まるで百鬼夜行、暗雲低迷、って感じの会社らしいわ。」
和子は、吹き出すように笑って、
「何をいってるのよ。まだ、入社もしない前から、そんなことが、あんたなんかに、わかるもんですか。」
「それが、わかるくらいだから、末が思いやられる、と思ったのよ。」
「まア、ナマをいって。とにかく、月給さえ貰えたら、今頃有難い、と思わなくっちゃアね。」
「でも、あたしは、もう、社長派になることに、きめてしまったわ。」
「社長派?」
「そうよ。」と、厚子は、ケロリとしていって、「お姉さん、もう、出かけるんでしょう?」
「ええ。」
「じゃア、あたし、駅まで、送っていくわ。」
「いいわよ。今日に限って、そんなことをしなくっても。」
「でも、送ったって、いいじゃアないの。」
いったん、こうといい出したら、めったに後へ引かぬ妹なのである。和子は、駅まで、厚子といっしょに、行くことにした。
アパートは、線路より海側にあって、駅まで歩いて、七、八分だった。
歩きながら、厚子が、
「お姉さん、ゆうべは、日吉さん、酔っぱらっていたんでしょう?」
「ええ、随分……。」
たしかに、善太郎は、へべれけに酔っていたようだ。『けむり』でも、善太郎は、古い客の一人なのだが、昔は、酔っても、無邪気に騒ぐことの方が、多かった。しかし、近頃は、すこし、荒れ気味だ、とは女たちの間で、噂をされていることだった。
「でも、それが、どうしたというの?」
「だって、ご出勤が、午後二時なんですもの、あきれ返るわ。あたし、それまで、待たされたのよ。」
そして、厚子は、その待たされている間の出来事を話した。更に、社長室へ通されてから、田所専務が現われて、やっと、採用ときまるまでのことも……。
和子は、聞いていて、昨夜の頼みを忘れていた、という善太郎に腹が立ったが、しかし、思い出してから、積極的になってくれたことが、やはり、嬉しかった。
それにしても、善太郎が、そんなにも実権のない社長であったとは、意外だった。
「すると、その田所さんとこへも、一度、お礼に上がった方がいいかも知れないわね。」
しかし、厚子は、はっきりした口調でいった。
「嫌よ、そんなの。」
「あら、どうして?」
「だって、その田所って、きっと、悪党なのよ。」
「そんなこと、あんたなんかに、わかるもんですか。」
「わかるわ。あたしのカンでわかる。それに、子分の人事課長って、とても嫌な奴だったわ。殴りつけてやりたいくらいよ。」
「嫌な奴って、何か、嫌なことでもいわれたの?」
厚子は、ちょっと、間をおいて、
「そうじゃアないけど……。要するに、あたしは、社長派よ。社長派が、敵方へ挨拶に行ったりしたら、おかしいわよ。」
厚子は、もう、一人前の社員になったような口を利いている。
昔から、人一倍、負けず嫌いな性分なのである。それを知っているだけに、和子は、妹のハリキリ方を、黙って、眺めていられなかった。行先が、不安だった。
「厚子ちゃん。あんたが、お勤めに出るのは、月給を貰うためなのよ。社長派とやらになるためではないはずよ。」
「わかってるわ。」
「だったら、おとなしく、誰からも可愛がられるように勤めるのが、いちばん、いいことなのよ。」
「そうよ。」
「だから、社長派だなんて、そんな口を利くのは、およしなさい。」
「…………。」
「わかったわね。おとなしく勤めてね。」
「嫌でございます。」
「まア。」
和子は、思わず、妹を見た。睨みつけてやるつもりだったのに、厚子の方は、ニヤリと笑って、
「お姉さん、行ってらっしゃアい。」と、踵をクルリと返して、さっさと、走っていった。
ところが、数メートルと歩かないうちに、また、振り返って、まだ、立っている和子に向かって、真顔で、
「今夜は、きっと、帰ってね。」
「えっ?」
「外泊は、いけません。」
それだけいって、こんどは、そのまま、歩いていってしまった。
和子は、軽く舌打ちをして、駅に向かった。しかし、電車に乗ってからも、妹が、今日に限って、どうして外泊のことをいったのか、と気にしていた。
和子が、バー『けむり』へ着いたのは、六時をちょっと、過ぎていた。スタンドに、客が一人いて、ビールを飲んでいたが、靴音に振り返って、
「こいつめ。客より遅くくるなんて、クビにするぞ。」と、笑いながらいった。
「まア、青田さん。今日は、バカに早くいらっしたのね。」
「そうさ。今夜は、社長さんのご馳走なんだから、早く来て、ウンと飲んでやるつもりなんだよ。」
「すると、社長さん、今夜も、いらしてくださるの?」
「今夜も? すると、あいつめ、昨日も来たのかい?」
「そうよ。」
「ふうむ。」と青田英吉は、大袈裟に唸ってみせて、「さては、社長さん、とうとう、和ッぺに、惚れたかな。」
「何をいってらっしゃるのよ。」
しかし、和子は、顔をあかくした。そんなはずがないのである。
「いや、あいつめ、お昼、わざわざ、電話をして来て、飲もう、というんだよ。」
「そうでしたの。」
「そりゃアいいさ。だけど、銀座には、もっと、マシなバーが、たくさんあるのに、よりによって、こんな小ぎたないバーで会おうなんて、どうも、おかしい、と思ってたんだ。」
スタンドの中にいたマダムが、
「小ぎたないバーで、すみませんでしたわね、青田さん。」と、睨んだ。
しかし、青田は、澄まし込んで、
「どういたしまして、マダム。」
「つまみ出して上げましょうか。」
「それには及びません。まア、ビールを一杯、いかがですか。」
「ビールぐらいでは、この胸が、おさまりませんよ。」
「よろしい、ハイボールをどうぞ。どうせ、社長さんの勘定です。」
「和ちゃんは?」
「あたしは、おビールを。」
「まア、いつまでたっても、商売気のないひとだこと。」
「何、マダム。和ッぺは、社長さん思いなんだよ。社長さんの勘定と聞いて、急に、貞女みたいな心境になったんだよ。とにかくだ、日吉が、二晩も続けて、わざわざ同じバーに通うなんて、今までに、なかったことだよ。」
「いいえ、今夜は、特別なんです。」
和子は、ベンカイするようにいってから、
「ママさん。妹が、日吉さんの会社に、採用して頂くことになりました。」
「まア、よかったわね。」
「ええ。」
「あんたも、長い間、妹さんのためには、苦労したからねえ。」
青田が、
「和ッぺの妹が、日吉の会社に採用されたって?」
「ゆうべ、お願いしたら、今日、採用してくださったんです。」
「こいつは、いよいよ、タダごとではありませんよ、マダム。」
しかし、和子は、それを聞き流して、いったん、奥へ入った。今夜、善太郎が現われる、ということが、何か、気になっていた。今までに、そんな気分になったことは、一度もなかったことなのである。
(とにかく、よく、お礼をいわなくては)
着換えをしながら、それを思っていた。同時に、妹のいっていた言葉が思い出されてならなかった。大恩があるのに、社長派になる、という妹をたしなめた自分は、ひょっとしたら、間違っていたのではあるまいか。
最後に、汗で流れたお化粧を直して、店へ出ていった。
別に、新しい客が二組、テーブル席に来ていた。和子の外に、四人の女がいるのだが、その二組についていた。和子は、青田の横へ近寄っていった。
青田は、一人で、さっきまでの気軽さとは、別人のように、何か、考え込んでいた。
そこへ、日吉善太郎が、憂欝そうな顔で、静かに入って来た。
「あら、いらっしゃい。」
和子のいう声に、青田は、振り向きながら、忽ち、明るさを取り戻して、
「よう、社長さん。」
「やア、ヤブさん。」
善太郎がいって、青田の横に、席を取った。
昔から仲のいい二人は、会うと、先ず、こんな風にいうのだ。ヤブは、ヤブ医者の略であることは、いうまでもないが、本人も、それを、あっさりと認めていた。
和子が、
「日吉さん。さっき、妹に聞きましたわ。」
「ああ。」
「本当に、ありがとうございました。」
「いや……。」と、善太郎は、軽く、受け流してから、ふっと、気がついたように、和子の顔を、まじまじと眺めた。
眺められて、和子は、眼のやり場に困ったが、しかし、今夜の善太郎が、いつもほどには元気のないことを、見逃していたわけではなかった。
「とても、勇敢な妹さんだった。」
「勇敢過ぎて、困るんですよ。」
「僕は、ゆうべのことを、すっかり、忘れていたんだ。それをとっちめられてしまって。」
「すみません。」
「まア、一所懸命に働いて貰えれば、いいんですよ。」
「お願いします。」と、和子は、頭を下げた。
青田は、黙って、聞いているだけだった。善太郎のいない時には、さては、惚れたな、といったような冗談を、口にしていたのだが、今は、何もいわないでいる。そして、その方が、和子にも、有難かったのだが、しかし、心の一部で、却って、それが物足りないような、おかしな気分を味わっていた。
「青田、今夜は、うんと、飲もうな。」
「いいとも。」
「どうも、面白くないんだ。」
「うん、さっきから、そんな顔をしている。」
「わかるか。」
「これでも、医者のはしくれだよ。」
わざと、威張ったようにいって、青田は、ビールをぐっとあけた。善太郎も、つられたように一気にのみほして、
「僕は、社長を辞めたくなったよ。」
「こいつ、ゼイタクをいってらア。しかし、辞めたかったら、辞めろよ。」
「しかし、いま、辞めるわけにはいかん。意地にでも、僕は、辞めないよ。」
「いうことが、何んだか、シリメツレツだな。」
「まア、聞いてくれ。そのうちに、君のお父さんが死んで、そのあとに、君が、青田病院の院長になったとするんだ。」
「よしてくれ。僕は、当分の間、親爺に生きていて貰うつもりだ。したがって、当分の間、院長なんて、あんな面倒くさいものは、真ッ平だよ。」
「しかし、僕を見ろよ。五年前に親爺が死んで、たった二十六歳で、社長になったんだ。」
「その点は、同情してやる。しかし、仕事は、すべて、何んとかいったな、専務の――。」
「田所栄之助だ。」
「そう、その田所氏が、何も彼も、やってくれるんで、僕は、遊んでいたらいいんだ、こんな気楽な商売はない、と以前は、よろこんでいたじゃアないか。」
「うん……。」
和子は、横にいて、つい、耳を傾けていた。
善太郎は、黙り込んだ。
青田にとって、善太郎から、こんな弱音を聞くのは、はじめてであった。
もっとも、英雄豪傑のような、気の強い男だ、とは思っていなかった。むしろ、神経の細い男なのだ。しかし、会っていれば、気楽な冗談口を叩く、都会の青年らしい明るい気性だったのである。
青田は、今夜も、そんな善太郎を期待して、出て来たのであった。
「いったい、どうしたんだ。何んだか、バカにメソメソしているじゃアないか。」
青田は、やっと、本気になって、聞いてやるように、善太郎を見た。
「その田所が、どうも、近頃、勝手な真似をして困るんだ。」
「しかし、田所氏は、もともと、君のお父さんには、信頼されていたんだろう?」
「そうなんだ。死ぬときに、息子を社長にして、その面倒を見てやってくれ、と僕のことを頼んでいったんだ。」
「それが、近頃になって、若い君をないがしろにするってワケなのか。」
「まア、そうなんだ。」
「それで、腹を立てているのか。」
「しかし、考えてみろ。さっき、僕がいったように、君が、青田病院の院長になった場合だ。たとえば、事務員とか、医者が、若い君のいうことを聞かないで、勝手な真似をしたら、腹が立つだろう?」
「僕なら、クビにしちまうさ。」
「それが、出来ないんだよ。」
「どうして、出来ないんだ。君は、社長じゃアないか。」
「いくら社長でも、あれほどの男をクビには、そうたやすくは出来ないよ。」
「気の弱い社長さんだな。」
「そう、僕は、たしかに、弱い方だ。」
善太郎は、苦笑を洩らして、
「それに、田所の手腕や力量、それから過去の功績は、やっぱり、認めてやらねばならぬ。辞めさせてくれ、といって、逆に、あの男から開き直られたら、今の僕には、収拾がつかんだろうな。」
「若い社長の悲哀だね。しっかりしろよ。」
「いちばん嫌なのは、会社の実体が、僕には、さっぱり、わからないんだ。」
「調べれば、いいじゃアないか。」
「調べようがないんだ。」
「どうして?」
「持ってくる数字が、ウワベだけのことに思えて、近頃、信用できないんだよ。」
「神経衰弱的な傾向だな。」
「かも知れんが、社員たちは、みんな、田所の目を恐れていて、僕を問題にしていないようなんだ。そんな気がする。」
「しかし、たくさんの社員の中には、一人ぐらい、社長の君に心服している奴もいるだろう?」
「いない。」
和子は、横から、余ッ程、
(いいえ、いますよ)
と、いいたかったが、しかし、それこそ、出しゃばりのような気がして、黙っていた。
ただ、厚子の言葉と思いあわせて、善太郎の社長としての地位が、どんなに哀れなものか、わかったように思った。
彼自身も、今日まで、ウカウカと過ごして来て、やっと、それに気がついたのだ。そこに、若い善太郎の悲劇がある、といえそうだ。青田にも、それがのみこめた。しかし、彼は、
「サラリーマンて、そんな意気地なしばかりなのかい?」
と、あきれたようにいった。
「いや、そうとも限らんさ。」
善太郎は、否定して、
「ただ、サラリーマンは、風にそよぐ葦のように、強い勢力の方へ傾いていくんだ。そういう風に、運命づけられているらしい。」
「それだったら、君が、その強い勢力になるようにすればいいではないか。」
「…………。」
「たとえば、この際、外部から、君の頼みになるような男を入社させるんだ。」
「そんな男が、どこにいるんだ。」
「探せば、一人ぐらい、いるだろう。そして、その男を、田所氏に噛みつかせてやれよ。面白いことになるぜ。」
「こいつ、ひとの会社のことだと思って、勝手なことをいってやがる。」
と、善太郎が、苦笑した時、扉が開いて、一人の男が、入って来た。
「いらっしゃいませ。」
和子の声に、その方を見た善太郎は、
「ああ、君か。」と、意外そうにいった。
しかし、山形の方は、もっと、おどろいていた。いきなり、こんな風に、善太郎と顔をあわせる羽目になろうとは、思ってもいなかったのである。
「これは、社長。」
そのあと、うしろ暗い山形は、へへへへ、と笑ってみせた。
しかし、善太郎は、却って、お昼、会社でのこの男の態度を思い出していた。ニコリともしないで、
「君は、時々、この店へ、くるのだったかね。」
「いえ。通りすがりに、ちょっと、しゃれたバーだ、と思ったんで、覗いてみたんです。」
さっきから、善太郎の顔色を見ていた青田が、
「マダム、よろこびたまえ。世間には、こんな殊勝な客もあったんだ。」
「いいえ、お目が高いんですよ。」
マダムは、笑顔を善太郎に向けて、
「日吉不動産のお方ですか。」
「そうなんだ、人事課長の山形さんだ。和ちゃん、君の妹さんは、この山形さんのお陰で、採用になったんだよ。よく、お礼をいっておいた方がいい。」
和子は、厚子から、すでに、この男のことは、聞いて知っていたが、
「まア、そうでございますか。あたくし、厚子の姉の和子です。本当に、ありがとうございました。」
「そうでしたか、ここに、お勤めだったんですか。」
「おや、知らなかったのかね。」
「いえ、あの……。」
「もし、知らなかったとしたら、君らしくもない手落ちになる。僕は、また、僕とあの娘の関係を、君のことだから、根掘り葉掘り聞いていることだ、と思っていた。どうだね、こっちへ来て、いっしょに飲まないか。」
「いえ、とんでもない。」
青田が、つと、立ち上がり、
「おい、場所を変えよう。マダム、しばらく、和ッぺを借りるよ。」
「しばらくですよ。」
「わかってる。さア、和ッぺ、お許しが出たんだ。社長さん、いこう。」
三人が、出ていったあとの席に、山形がついた。
「マダム。」
「はい。」
「うちの社長と和子との仲は、相当なもんらしいね。」
ニヤニヤしてみせる山形に、マダムは、
「とんでもない。ただの客と女給ですよ。」と、ピシャッとした口調でいった。
一人の看護婦が、ハッとして、歩みをとめた。早朝の青田病院は、まだ、しーんと寝静まっているのに、待合室の方から、イビキの声が、聞えて来たのである。
(今頃、待合室で、誰が、寝ているのかしら)
不思議に思って、近寄っていくと、長椅子の上に、一人の男が、横になっていた。
「まア、青田先生。」
しかも、青田は、いまにも、椅子からずり落ちそうな危い姿勢になっていた。周囲に、酒気が、ふんぷんとしている。
「先生、青田先生。」
しかし、青田は、相変らず、高イビキをかいている。
「あッ、落ちる――。」
看護婦が、腕をのばす前に、青田は、ドタッと、床の上に落ちてしまった。しかし、彼は、何か、口の中で、ムニャムニャといっていたが、すぐまた、イビキをかきはじめた。
青田は、院長の息子だし、独身だし、その上、一見、磊落な気性なので、看護婦の間に、人気があった。
看護婦は、しばらく、そんな青田の寝顔を見つめていた。無邪気な寝顔というには、顔に、アブラが浮いているし、洋服も、ドロンコである。看護婦は、思い切って、青田の肩に手をかけて、
「先生、青田先生。」
しかし、青田は、その手を振り払うようにして、
「うるさい、黙れ、無礼者……。」
そして、あとは、また、ムニャムニャと寝言みたいなことをいっている。
看護婦は、あきれ、ついで、途方に暮れた。そこへ、別の看護婦が、通りかかって、
「あら、どうしたの?」
「見てよ、青田先生が、こんなところで。」
「まア。」
二人は、顔を見あわせて、クスリと笑いあった。
「いったい、どうしたのかしら?」
「ゆうべ、お酒を飲み過ぎたのよ、きっと。」
「ああ、それで遅くなって、お家へ帰るのが、面倒くさくなったのね。」
「それだったら、宿直室で寝ればいいのに、こんなところで、ルンペンみたいだわ。」
「だって、宿直室より、ここの方が、ずっと、涼しいわよ。」
そこへまた、看護婦が二人やって来て、合計、四人となった。
「青田先生って、案外、ダラシがないのね。」
「ねえ、起さなくってもいいの?」
「だって、さっき、声をかけたら、うるさい、黙れ、無礼者、といわれたわよ。」
「口癖なのよ、青田先生の。」
「こうなったら、もうしばらく、このまま、寝かしといてあげましょうよ。そして、その間に、病人でない、健康な結婚適齢期の男性の寝顔というものを、ゆっくり、観察しましょう。めったにないチャンスだわ。」
「そう、結婚後の参考にもなるわ。」
「でも、青田先生、こんなにたくさんの看護婦に、寝顔を見られたとわかったら、あとで、きっと、ガッカリなさるわよ。」
しかし、あとでどころか、青田は、すでに、ガッカリしていたのである。看護婦たちの声に、眼が醒めていたのだった。これでは、起きようにも、起きられない。あくまで、狸寝をしていてやろう、と度胸をきめ込んだとき、
「あっ、婦長さんがいらしたわ。」と、いう声が、聞えた。
青田は、ギョッとなった。
竹中婦長は、青田病院に二十年以上も勤めていて、彼の子供の頃からを知っている。いってみれば、青田の頭の上がらぬ、苦手な一人なのであった。
(悪いところへ)
と、思ったが、いよいよ、窮地へ追い込まれたような辛い気分である。
よし、こうなったら、ジタバタするものかと、腹を決めていると、
「どうしたんですか。」と、落ちつきのある婦長の声が、聞えて来た。
「こんなところに、青田先生が。」
「えッ?」
「さっきから、いくら起しても、お起きにならないんです。」
答えたのは、健康な結婚適齢期の男性の寝顔を、ゆっくり、観察しましょう、と主張した看護婦に違いない。
(よーし、覚えてろ。あとで、とっちめてやるぞ)
婦長は、じいっと、自分の方を見ているようだと、青田にも感じられた。
「誰か、コップに水を入れて来なさい。」
「はい。」
青田は、有難い、と思った。婦長は、彼に酔い醒めの水を、先ず、用意してくれるつもりらしい。流石に、婦長ともなると、万事、心得たものだ、と感心していた。
「婦長さん、お水。」
「ありがとう。さア、あんたたちは、みんな、あっちへ行ってらっしゃい。」
「はい。」
看護婦の去っていく足音が、聞えた。青田は、ますます、婦長の思いやりを多とした。これで、安心して、眼をひらくことが出来る、と思ったとき、頭から、ザッと、水をぶっかけられたのである。
「わッ。」
青田は、思わず、ハネ起きて、
「竹中さん、ひどいよ。」と、頭から雫をたらしながら、やや、憤然としていった。
しかし、婦長は、ニコリともしないで、
「お眼が醒めましたか。」
「醒め過ぎたよ。しかし、何も、いきなり、水をかけなくても。」
「いいえ、本当は、ついでに、お尻をぶってあげたかったくらいですよ。」
「冗談じゃアない。」
「私も、冗談にいってるんではありません。」
「竹中さんは、いつまでも、僕を子供だ、と思ってるんだなア。」
「一人前の先生なら、こんな待合室の床の上で、寝たりしますか。」
「ゆうべは、暑かったんで、特別なんだよ。」
「とにかく、これから、もっと、注意してください。でなかったら、看護婦たちにも、バカにされます。」
「わかったよ。」
「そのかわり、院長先生には、ゆうべは、たしかに、病院の宿直室でおやすみになりました、といっておいてあげます。」
「たのみます。」
これだから、いつまでたっても、この婦長には、頭が上がらないのだと、青田は、心の中で苦笑していた。
「そうそう、ゆうべ、七時頃、お電話がありましたそうですよ。」
「誰から?」
「南雲龍太郎さんとか。」
「えッ、南雲が、東京へ出て来ているのか。」
青田は、叫ぶようにいった。
「何んでも、はじめ、お宅へ電話をなさったそうですが、まだ、帰っていらっしゃらないので、病院へ、お電話をくださったんだそうですよ。」
しかし、青田は、まだ、
「そうか、龍太郎が、東京へ来ているのか。」と、懐かしそうにいっていた。
「そんなに、親しい仲なんですか。」
「いちばんの親友なんだ。そう、日吉と三人、高等学校からの親友だった。ただ、あいつだけは九州の会社へ勤めることになって、別れ別れになってしまったんだ。」
「じゃア、なおさら、残念でしたね。」
「何が?」
「昨日のお電話では、久しぶりで、東京へ出張して来たのだが、急に、明日のツバメで、大阪へ行かなければならない……。」
「ツバメで?」
「だから、今夜のうちにぜひ、お会いしたかったのだが、ということでしたそうですよ。」
「そんなバカな。せっかく、東京へ来ながら、いっしょに飲まずに帰るなんて、そんな法があるもんか。」
青田は、地団駄を踏みたいほど、口惜しがった。
彼は、すぐ、善太郎に知らしてやらねばならぬ、と思った。しかし、善太郎は、果して、昨夜は家に帰っているであろうか。
あれから、三人で、バーを二、三軒まわったのである。和子は、店のことをしきりに気にしたのだが、酔っぱらった二人は、はなさなかった。いや、はなさなかったのは、むしろ、善太郎よりも、青田の方であったかも知れないのである。
「今夜の社長さんは、世にも可哀そうなんだ。それを思ったら、せめて今夜だけは、最後までつき合えよ。」
「でも、そんなことしたら、ママに悪いわ。あとで、叱られます。」
「よし、俺が、電話をしてやる。」
青田は『けむり』のマダムに電話で、酔っぱらいの強引さで、承諾を取ってしまった。
そして、気がついた時には、とうに十二時を過ぎていた。和子は、そんなに飲んでいないし、結局、二人のオモリをさせられたようなものであったが、妹の就職がきまったのだ、ということを思い出しては、心を軽くしていた。
「おい、これから、渋谷の待合へ行って、雑魚寝をしよう。」と、青田が、いい出した。
「あたし、嫌よ。」
「そうだ、俺だって、もう、帰る。」
「何をいうか。お前さん、いつまでも、そんな不徹底なことをいっているから、青二才と見られるんだ。」
「こら、よくも、いいたいことをいったな。」
「口惜しかったら、いっしょに、行ってみろ。」
「よし。」
「和ッぺも、行くんだ。」
「あたしは、ダメ。外泊をすると、妹に叱られるんです。」
「妹のくせに、生意気だぞ。日吉、そんな妹は、クビにしてしまえ。」
「よーし、クビだ。」
「どうだ、どうだ、和ッぺ。」
青田は、自分でタクシーを停めて、強引に、二人を渋谷の待合へ連れていったのであった。
しかし、青田は、雑魚寝もしないで病院へ帰ってしまったのであった。
芸者を呼んで、騒いでいるうちに、そんな気になったのだ。帰る時にも、二人に、それを知らせなかった。どうして、そんな気になったのか、自分でも、わからなかった。
(二人にチャンスをあたえてやるのだ)
そう思ったような気もする。
しかし、惚れたとまではいっていなかったかも知れぬが、和子を、先に好きになったのは、善太郎よりも、自分の方であったはずだった。
その心は、今でも、変っていなかった。それなのに、どうして、あんな真似をしたのだろうか。
青田は、ほろ苦い心で、善太郎の家へ、電話をしてみた。
「僕は、青田ですが、日吉君いませんか。」
しばらく待たされて、電話口へ出たのは、妹の高子であった。
「兄は、ゆうべ、帰らなかったんですよ。」
青田は、胸を、ドキンとさせた。
「でも、青田さんとごいっしょじゃアなかったんですの。昨日、四時過ぎに、そんな話があったんで、安心していましたのよ。」
「実は、十二時まではいっしょだったんですが、困ったなア。」
「こっちの方こそ、困りますわ、青田さん。」
「九州から、南雲が来ているんですよ。」
「ほんと?」
高子の声の調子が、変ったようであった。
「ところが、奴さん、けさのツバメで帰るんだそうです。」
「まア。」
「せめて、送ってやろう、と思いましてね。」
「じゃア、あたしが、参りますわ。」
「あなたが?」
「ええ、兄の代理で。ツバメですのね。」
そういって、高子は、電話を切った。
そのあとで、青田は、善太郎なら、まだ、渋谷の待合にいるはずだ、と思いついた。しかし、和子と二人でいるのだ、と思うと、何か、電話をする気になれなかった。
青田は、泥んこになった洋服に、よく、ブラシをかけた。ワイシャツの着換えは、病院においてあった。
病院を出るとき、廊下で、すれ違う看護婦は、
「青田先生、お早うございます。」というのだが、けさの事件を知っているような顔ばかりである。
恐らく、すでにして、病院中の看護婦たちに知れわたっていることだろう。青田は、ちょっと憂欝にならざるを得なかった。
青田が、東京駅についたのは、発車の二十分程前であった。
プラット・ホームへの階段を上がっていくと、うしろから、
「青田さん、青田さん。」と、高子が、声をかけた。
振り向くと、二十七歳になる娘の、人を振り返らせるような、冴え冴えとした、美しい顔があった。
「やア。」
「さきほどは。」
二人は、並んで、階段を上がっていった。高子の身辺から発散してくる朝の化粧の匂いは、宿酔い気味の青田にも、爽やかに感じられた。
「善太郎君、まだ、帰りませんか。」
「ええ、まだよ。」
しかし、プラット・ホームに出ると、高子は、兄のことなんか、もう、どうでもいいように、南雲龍太郎の姿を探し求めていた。
青田も、そこらの人混みの中を、キョロキョロと見ていた。
「あッ、あそこに。」
その高子の視線を追っていくと、昔ながらに、肩幅の広い、浅黒い顔が、こっちの方を見て、嬉しそうに笑っていた。
龍太郎は、大股で、こっちへ、近づいて来た。
「南雲。」
「わざわざ、来てくれたのか。すまんな。」
「明日の汽車にしろ。それをいいに来たのだよ。」
「それが、ダメなんだ。」
「何んとか、都合をつけろよ。」
「どうしても、ダメなんだ。仕事の都合で、そうなったんだ。」
そういってから、龍太郎は、はじめて、高子の方を見て、
「しばらく。」と、会釈をした。
それまで、熱心な眼つきで、龍太郎の横顔を見ていた高子は、ふっと、顔をあからめかけたのだが、すぐ、立ち直って、
「兄の代理で、お見送りにまいりましたのよ。」と、さりげなくいった。
「それはどうも。善太郎君、どうしていますか。」
「それが……。」
高子は、青田の方を見て、クスッと笑った。
「いや、ゆうべ、僕と、痛飲したんだよ。」
「道理で、電話をしても、いなかったんだな。」
「惜しいことをした。日吉だって、きっと、残念がるよ。」
「残念がるって、どこにいるんだ。」
「どっかで、沈没したんだ。」
「ほう。社長さん、なかなか、やるなア。」
「ところが、南雲。社長さんは、近頃、すっかり、憂欝になっているんだよ。」
「ゼイタク、いってらア、毎月、高給を貰って、遊んでいてもいいご身分のくせに。一度、僕のようなサラリーマンの味を知ってみるといいんだよ。」
「しかし、あの年で、社長になるのは、無理らしいんだ。」
「そんなことがあるもんか。三十一歳の社長なんて、世間には、ザラにあるよ。」
「ところが、日吉の場合、ほかの重役たちが、勝手な真似をするらしいんだ。」
「ふうむ。」
龍太郎は、眉をひそめるようにして、ちょっと、考え込んだ。
「しかも、社員の中には、日吉のために働こうという男は、一人もいないんだそうだ。」
「そいつは、可哀そうだな。」
「そうなんだ。それに、あの男、気が弱いから、困るんだよ。」
「気の弱い社長なんて、凡そ、意味ないからなア。」
「だから、しっかりした男を一人、つけてやるといいんだが。」
そこで、青田は、ふっと、思いついたように、
「南雲は、東京へ戻る気はないのか。」
「何んの話だ。」
「どうせ、サラリーマンなら、どこで勤めるのも、同じだろう? いっそ、日吉の会社へ入って、悪重役どもを退治してやらないか。」
「僕が?」
「君なら、最適任だよ。」
「冗談じゃアない。」
龍太郎は、一笑に付してから、
「僕は、今の会社に、一生、勤める決心でいるんだ。」
「こいつ、友達甲斐のない奴だな。」
「ほかのこととは、違うからな。そんな憎まれ役は、真ッ平だよ。」
「みすみす、日吉を、見殺しにする気か。」
「おい。変なインネンをつけてくれるな。」
「月給だって、今の倍ぐらいは、出してくれるだろう。」
「月給の問題ではないんだ。」
龍太郎は、笑って、相手にならなかった。
青田は、そんな龍太郎を、いまいましげに見て、
「こら、貴様は、すっかり、サラリーマンになり下がったぞ。人生、意気に感ず、の精神を忘れたのか。」
「それだけは、まだ、忘れていないつもりだが。」
龍太郎は、おだやかにいった。
そのおだやかさが、気負っていうよりも、自信に満ちているようにも見受けられた。
「いや、忘れている、ねえ、高子さん。」
高子は、さっきから、兄の話を聞いていて、胸を傷めていたのだった。凡その察しがついていたのだが、やはり、そうであったのか、とそんな兄が、可哀そうでならなかった。
もし、青田のいう通りに、龍太郎が、兄をたすけてくれたら、どんなに、嬉しいだろうか、とも思った。
しかし、彼女は、それをいうかわりに、
「こんどは、いつ、東京へ出ていらっしゃいますの。」
「さア。」と、龍太郎は、考えるようにして、「近いうちに、また、くることになると、思いますよ。」
高子の頬に、ひそやかなる歓びの色が、上がって来たようであった。
「お待ちしていますわ。」
そして、更に、いった。
「そのときには、ぜひ、兄にも会ってやってください。」
発車のベルが、鳴りはじめた。
――ちょうど、その頃、和子は、アパートの階段をのぼっていっていた。
やはり、渋谷の待合で、泊まってしまったのである。気分的には、ぐったり、疲れていた。しかし、特別な事が、起ったわけではなかった。
青田の姿が、見えなくなった、とわかると、善太郎は、「あいつめが。」と、苦笑したけれども、和子にたいして、何んの要求もしなかった。
雑魚寝をやめて、二人は、別々の部屋に、寝たのである。待合のおかみさんから笑われた時、
「このひとの妹が、明日から、僕の会社にくるんだよ。だから、まずいんだ。すくなくとも、今夜は。」と、いっていたようであった。「神妙な社長さんですこと。」と、いっていたが、しかし、和子には、その方が有難かった。
たとえ、要求されても、拒絶したかも知れない。
そのくせ、この際、借りた恩を返してしまいたい思いも、ないではなかったのである。
机の上に、厚子の字で、
「あんなにいったのに、とうとう、外泊をしたのね。三日間の絶交を宣言します。厚子。」と、書き残してあった。
部屋の中は、きちんと、掃除がしてある。
今日が、妹のはじめての出勤日なのに、それを見送ってやらなかったことを、和子は、後悔していた。
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本日開店
今日も、日吉善太郎の出勤は、午後一時に近かった。
いったん、面白くない、と思い出したら、そんな思いが、胸の中で、日々に重なっていくばかりである。会社へ出ることが、重荷になっていた。
しかし、善太郎は、めったに、休まなかった。休まないで、毎日、会社へ出ることが、田所にたいする彼の、せめてもの、そして、せいいっぱいのレジスタンスであったかもしれない。
勿論、そんな自分を、善太郎は、情けなく思っている。が、どうにもならないのだ。インギン無礼というよりほかはないような田所の顔を見ると、その頬っぺたを、殴ってやりたくなってくるくらいだった。
どんなに、痛快だろうか。
しかし、ただ、そんな風に思ってみるだけで、実行の勇気のないことは、誰よりも、自分でいちばんよく知っている。
今も、善太郎は、そんなことを思いながら、憂欝そうな顔つきで、自動車から降りたのだが、「あッ。」と、思わず、眼をみはった。
ビルディングの前に、花環が、ところせまいばかりに、並べてあった。
善太郎は、はじめて、気がついた。東亜興業に貸した地下室が、キャバレエ「トウキョウ」として、今日、開店するのだ。
あれから一カ月、突貫工事によって、完成したのであろう。
その間、噂を聞いて、ビルディングの中の幾つもの会社から、抗議が申し込まれて来た。中には、直接、善太郎へいって来た会社もあった。
「困りますよ。地下室に、キャバレエなんか開かれたんでは、会社の品格にも関係して来ますし、また、社員の教育上からもよろしくありません。殊に、女子社員に悪影響を及ぼします。」
善太郎としては、いちいち、もっともなことであった。何故なら、かねて、自分が思っていた通りのことを、相手方が、いって来たに過ぎないからである。
善太郎は、そういう抗議に対して、
「わかりました。一つ、田所君にいってくださいませんか。」と、いうのほかなかった。
凡そ、社長らしくない逃げ口上だった。しかし、善太郎は、そういう方法で、田所を困らしてやろう、と思ったのである。田所が、窮地に追い込まれる場面を、想像していた。
しかし、田所は、それらの抗議を、どう裁いたのか、結局、今日のキャバレエ開店日までに、このビルディングから出ていった会社は、一つもなかった。その後、善太郎へ、重ねて抗議を申し込んでくる会社もなかった。
善太郎は、ちょっと、アテが、はずれた。同時に、田所の手腕を認めないわけにはいかなかった。しかも、会社は、キャバレエ開店のお陰で、千五百万円の権利金を貰っているのである。
善太郎は、むっとした表情で歩きかけたのだが、
「おや。」と、歩みをとめた。
花環の一つに、日吉不動産株式会社から贈ったのがまじっていることに気がついたのである。
それも、家主としては、当然のことかも知れないが、善太郎には、不愉快だった。
もし、父が生きていたら、絶対、こんな真似は、させなかったろうし、田所だって、しないだろう。
そこらの空気が、何んとなく、お祭のように浮き上がっているのも、並べられた花環のせいだろうか。
これで、夜になると、ネオンの光を浴びて、客を送り出す女たちの嬌声が、聞えるようになるに違いないのである。
そんな夜の光景が、今から、見えるようであった。父から受け継いだこのビルディングが、日に日にけがされていくような思いがしてくる。
善太郎は、キャバレエの入口とは、反対側にある、ビルディングの玄関の方へ、歩いていった。エレベエタアの前で、誰かがピョコンと頭を下げた。善太郎も、機械的に、頭を下げたのだが、やっと、気がついて、
「ああ、君か。」
白石厚子は、もう一度、軽く、頭を下げて、
「お早うございます。」と、人怯じしない、明るい笑顔でいった。
「あんまり、お早うでもないが。」
善太郎は、苦笑を洩らしてから、
「たしか、君は、総務課だったね。」
「はい。」
「会社に、なれて来たかね。」
「はい。」
「仕事は、誰に、おしえて貰っている?」
「席が隣なので、大間修治さんにです。」
「ああ、大間君か。」
善太郎は、頷くようにいった。
そこへ、エレベエタアが、降りて来て、扉を開いた。乗り込んだのは、善太郎と、厚子の二人だけであった。エレベエタアは、すぐ、上昇を開始した。
善太郎は、黙っていた。厚子のことなど、すぐに忘れてしまって、別の思いに、ふけっているようだった。
そんな善太郎の横顔を、厚子は、ななめうしろから、密かに観察していた。
(相変らず、ハムレット型だわ)
うしろから、ドンと背中を叩いて、
(もっと元気を出しなさい。ちっとも、男らしくないわ)
と、いってやりたいくらいだった。
(でなかったら、社内の空気は、いよいよ、社長さんから離れていきますよ)
厚子も、近頃では、すこし、社内の空気になれて来ていた。かならずしも、社長のファンが、いないわけではない。しかし、そのことを、この社長が、果して、どの程度まで知っているか、あやしいものだった。
エレベエタアは、七階でとまった。
善太郎は、やはり、厚子のことを忘れてしまったのか、見向きもしないで、さっさと、出ていった。
そのうしろ姿を、しばらく、見送ってから、厚子も歩きはじめた。
厚子は、事務室に戻ると、大間に、
「いま、エレベエタアの中で、社長さんにお会いしたわ。」
「やっと、ご出勤か。で、何か、いったかい?」
「仕事は、誰におそわっているか、と聞かれたから、大間さんにです、といったら、ああ、あれはなかなかいい青年だ、ですって。」
「社長が、本当に、そういったのかい?」
「そうよ。」
「ちょっと、感激するなア。」
大間は、本当に、そんな顔をした。
「ちょっとぐらいじゃアダメよ。あたしは、うんと感激すべきだ、と思うわ。」
厚子は、真面目くさっていいながら、心の中で、大間の単純さが、面白かった。
しかし、その単純さが、大間のいいところでもあるのだと、厚子は、知っていた。
「よーし、モリモリ、働くからな。」
「ただ、働くだけではいけないわ。」
「じゃア、どうしろ、というんだ。」
「完全なる社長派になるのよ。」
厚子は、すこし、声をひくめながら、周囲に気をくばっていった。
「完全なる社長派?」
「そうよ。」
大間は、苦笑して、
「どうも、君は、たかが、新入女子職員のくせに、そういうことを意識しすぎるよ。」
「だって、そもそもは、大間さんが、あたしに、そんな意識を吹き込んだんじゃアありませんか。」
「じゃア、取り消すよ。」
「もう、今からでは遅いわ。」
「困ったお嬢さんだ。」
「大間さんの方が、男のくせに、意気地がないんだわ。」
「失敬な。」
「だったら、社長派になりなさい。」
「なって、どうするんだ。」
「同志を集めるのよ。」
「そして?」
「社内の悪者共を追放するのよ。」
「君のいうことは、昔のお家騒動的だな。」
「昔のじゃアないわ、現代のよ。」
「すると、社長は、お殿さまで、専務は、お家横領をたくらむ悪家老、というわけか。」
「そして、大間さんは、忠臣になるのよ。」
「そんなガラじゃアない。第一、下ッ端社員の僕には、そんな力がないよ。」
「力の問題より、正義感の問題だわ。」
「しかし、僕が、いくらその気になっても、社長自身がボンヤリしているんでは、ハリアイがないよ。」
「いいえ、社長さんは、ちっとも、ボンヤリなんかしていなさらないわ。心の中で、田所専務を憎んでいらっしゃるのよ。」
「まるで、千里眼みたいなことをいうではないか。」
「そうじゃアないのよ。」
厚子は、一カ月ほど前、善太郎が、『けむり』へ来て、青田にグチをいっていたことを、和子から聞いていた。それ以来、いっそう、善太郎に対して、一種の同情を寄せているのでもあった。
厚子は、姉から聞いた話の内容を、大間にいった。
「ふーん。」
大間は、ちょっと、意外の面持ちで、首を傾けた。
「だから、この際、たとえば、正木信子さんのような、社長派の人々と連絡を取って、社長さんを激励してあげることが必要よ。そうなったら、社長さんだって、元気が出るわ。」
「…………。」
「大間さんは、はじめて、あたしに会ったとき、いったでしょう? 今の社長が、もっと、しっかりするか、でなかったら、実力第一の人物が、社長になってくれたらいいんだ。この会社は、仕事さえ、一所懸命にやっていたらいい、というのとは違うから困るんだ、と。」
「たしかに、いったよ。」
大間は、思い出すようにいってから、更に、
「だって、その通りだからな。」
「それだったら、大間さんと同じ思いの人も、この会社にはたくさんいるでしょう。」
「そりゃアいるだろうな。」
「そんな人たちが、みんなで力をあわせて、この会社を、もっと、住みいいところにしたらどうなの?」
「理想論だよ、君のいうことは。」
「人間は、あくまで、理想に向かって、マイシンすべきだわ。」
大間は、あきれたように、厚子を見て、
「君って、恐ろしく、気の強い娘なんだなア。」
厚子は、ケロリとして、
「そうなのよ、昔からなのよ。」と、いって、ふっふっと、笑った。
笑うと、相変らず、可愛い顔になった。
(ひょっとしたら、僕は、この女に、惚れるかも知れないぞ)
大間は、それを警戒した。かりに惚れてしまって、結婚したとする。そのあげく、この気の強さで、ポンポンとやられたら、たまったものではないのである。
そのくせ、大間は、今日の会社の帰りにでも、厚子を誘って、映画を見に行きたいのであった。
そのとき、うしろから、
「大間君。」と、声が、かかった。
大間は、振り向いて、
「あッ、岩田さん。」
「いよいよ、今夜、大阪へ行くことになったからね。」
「そうですか。」
「長らく、いろいろと、有難う。」
「いえ、こちらこそ。奥さんたちも、ごいっしょですか。」
「いや、家がないんで、当分の間、下宿暮しさ。」
「そりゃア不自由ですね。」
「何、気楽でいいよ。」
しかし、岩田の顔は、かならずしも、気楽そうではなかった。
「何時の汽車ですか。」
「八時だが、見送りなら、無用にしてくれたまえ。」
「ええ。」
大間は、言葉を切ってから、
「先輩に、大阪へ行かれると、僕は、淋しくなるなア。」
「大間君、そんなことを、ウカツにいうなよ。僕みたいに、転勤させられるぞ。はッはッは。」
岩田は、自嘲的に笑ったのだが、しかし、憤懣の思いもこめられているようだった。
しかし、周囲の連中は、聞いて聞かぬ振りをしていた。
岩田は、自分の方を見つめている厚子にも会釈をしてから、去っていった。
「どなたなの?」
「この間まで、営業課長代理をしていたんだけど、急に、転勤になったんだ。しかも、こんどは、大阪支店の平社員に。」
「どうしてなの?」
大間は、周囲を見まわしてから、顔を寄せるようにして、低い声で、
「田所専務に、タテついたんだ。」
「まア、偉いじゃアないの。」
「偉いかも知れないが、そのあげくは、転勤だからなア。やっぱり、考えものだよ。」
「岩田さんは、田所専務に、何をタテついたの?」
「例の地下室のことさ。」
「地下室というと?」
「今まで、倉庫みたいになっていた地下室を、東亜興業に対して、キャバレエを開くために貸す、ときまりかけたとき、岩田さんが、真ッ先に、反対したんだよ。」
「どうして、反対したの?」
「要するに、このビルディングの品格に関する、というんだ。」
「あたし、同感だわ。だって、さっきも、ちょっと、表へ行ってみたんだけど、花環をデカデカと並べたりして、おかしかったわ。」
「うん。ところが、営業課長は、田所専務の命令だ、というんで、岩田さんの言葉を、取り上げなかったんだ。」
「まア、憎らしい。」
「それで、岩田さんは、田所専務に直訴に及んだんだよ。」
「そうしたら?」
厚子は、大間の方へ、身を乗り出すようにした。
この娘は、こういうことにも、すこし、興味を持ち過ぎているようだと、大間は、思いながら、
「あ、そう。」
「えッ?」
「要するに、あ、そう、と軽く聞き流されてしまったんだ。岩田さんにしてみれば、もともと、会社のためを思っていったことなんだが、もう、その事も忘れかけた頃になって、突然、大阪支店勤務を命ず、の辞令が出たんだよ。」
「ひどいわ。」
「しかも、一方のキャバレエが、本日開店という日に、岩田さんは、東京を離れていかねばならないのだ。」
「あたし、岩田さんに、同情するわ。」
「そんなことは、ウカツに口にしないことだ。」
「いっそ、社長さんにいえばいいのに。」
「いったって、いったん、辞令が出たんだもの、ダメさ。」
「ダメでも、いうべきよ。」
「だいたい、岩田さんは、一種の正義派なんで、煙たがられていたんだ。」
「じゃア、社長派?」
「そうときまっていたわけではない。しかし、強いて色分けすれば、社長派だな。」
「あたし、岩田さんの奥さんたちが、お気の毒だわ。」
「うん。」
「会社のためを思っていった一言も、主人が、勢力の弱い社長派に属していたために、忽ち、夫婦が別れ別れになって暮さなければならないなんて、ひどすぎゃアしない。」
「まア、そうだ。」
「大間さんは、今夜、東京駅へ行くんでしょう?」
「さア、どうしようかな。岩田さんは、くるなといったし。」
「あら、行くべきだわ。あたしも、いっしょに行くわ。」
「君が?」
「そうよ。」
「しかし、君なんか、岩田さんを送っていかねばならぬ義理は、一つもないんだぜ。」
「あたしは、義理で行くんではありません。同じ社長派の社員の一人として、見送ってあげたいんだわ。」
大間は、そんな厚子の顔を眺めて、しばらく、考えるようにしていてから、
「よし、行こう。」
そのとき、入口の扉が開かれて、派手な服装の女たちが、ぞろぞろと入って来た。
人々は、いっせいに、その女たちの方を見た。凡そ、こんな事務室には、不似合いな女たちであったのである。
しかし、そのため、事務室の一角に時ならぬ花々が、パッと咲き乱れたような、華やかな感じもないではなかった。
女たちは、何んとなく澄まし込み、そして、何んとなく媚びるようにしていた。
「何かしら?」と、厚子がいった。
「わからんなア。」と、大間が答えた。
女たちは、一人の三十五、六歳の男に、引率されているのである。その男は、女たちを受付に待たしておいて、自分だけが、事務室の中へ入って来た。
「おや、珍田君ではないのか。」
大間の横の加田が、おどろいたようにいった。
「へへへへ。そうなんですよ。どうも、しばらく。」
「いったい、どうしたんだ。」
「デモンストレーションに来たんですよ。」
「デモ?」
「どうぞ、よろしく。」
そういって、珍田の出した名刺には、キャバレエ・トウキョウのマネエジャアとなっていた。
その間に、あちらこちらの席から、
「珍田君、どうしたのだ。」と、社員たちが寄ってきた。
その一人々々に、珍田は、惜しげもなく、名刺を渡していた。
「ほう、地下のキャバレエのマネエジャアになったのか。」と、あきれている者もあったし、
「おい、いい商売だろう?」と、冷やかしている者もあった。
「いや、まったく、不思議な縁ですよ。自分から飛び出したビルディングに、こんどは、キャバレエのマネエジャアとして、また、働くようになったんですからね。」
「出世だよ。」
「こっちは、何年たっても、平社員だ。」
大間は、加田に、
「もと、この会社にいた人ですか。」
「そうなんだ。給仕から上がって、この総務課にいたんだが、終戦後、三年目かに、自分から辞めて、たしか、闇屋になった、と聞いていたんだ。」
「へええ。」
大間は、あらためて、珍田を眺めた。
そのとき、珍田は、ちょっと、口調をあらためて、
「ねえ、皆さん。あそこにいる女たちを見てくださいよ。」
人々は、いっせいに、珍田の言葉にしたがった。
「わがキャバレエ・トウキョウのナンバー・ワンばかりですよ。」
「ほう。ナンバー・ワンが、随分とたくさんいるじゃアないか。」
「へへへへ。その通りなんですよ。どうか、せいぜい、ヒイキにしてやってください。」
「冗談じゃアない。われわれの月給で、キャバレエなんかに、たやすく、行けるもんか。まア、おでん屋だ。」
「そうなんだ。珍田君、同じマネエジャアをするなら、おでん屋のマネエジャアになってくれたらよかったんだ。」
「違いない。」
しかし、珍田は、それらの声を聞き流すようにして、森村総務課長の席の方へ、近寄っていった。
「森村さん。どうも、しばらくでした。」
「よう。キャバレエ・トウキョウのマネエジャアになったんだって?」
「そうなんです。まア、どうぞ、よろしく。」
珍田は、また、名刺を出して、
「今までは、大阪にいたんですけどね。」
「大阪?」
「ええ、東亜興業は、東京、大阪のほかに、福岡、名古屋、札幌にも、キャバレエを持っているんです。」
「じゃア、なかなかの大会社なんだな。」
「やっと、東京に戻れたんです。」
「栄転なんだな。」
「そうでもありませんが、私としては、もといたビルディングの地下室、というのが、ミソでしてね。」
「この会社も、君がいなくなってから、だいぶん、ようすが変ったよ。当時の社長は、六年前に亡くなられて、今は、二代目が社長なんだ。」
「聞きました。ところで、田所専務は、いらっしゃいますか。」
「ああ、いられるよ。」
「今日は、開店の挨拶まわりなんです。何といっても、このビルディングの中の会社に可愛がって貰いたいですからね。それで、まっ先に、日吉不動産へ参上したんですよ。」
「しかし、この会社は、あんまり、キャバレエなんか、利用しないよ。」
「まア、そういわずに、せいぜい、利用してください。そのかわり……。」
森村は、珍田の顔を眺めた。珍田は、急に、真顔になり、声をひそめて、
「リベイトを出しますよ。」
「…………。」
「一割。」
「よそは、五分なんです。」
「…………。」
「いけませんか。」
しかし、森村は、イエスとも、ノウとも、答えなかった。それを、珍田は、了承と心得て、ニヤリと笑って、
「まア、よろしく。」
「田所専務に会いたいんだって?」
「ええ。ウチの社長が、日吉不動産へ行ったら、先ず、田所専務にご挨拶しておけ、といったんです。」
「社長は?」
「その次でいいでしょう。」
「まア、そうだろうな。」
森村は、軽く、流してから、立ち上がって、
「ちょっと、ご都合を聞いてくるから、しばらく、待っていてくれたまえ。」
「お願いします。」
珍田は、頭を下げた。
その間に、勇敢な社員は、受付にいる女たちのところへ近寄っていって、冷やかし半分の質問をしたりしていた。
やがて、森村は、戻って来た。
「お会いになるそうだ。」
「それはどうも。女たちも、連れていっていいですか。」
「それも伺ったら、ひとつ、眼の保養をさして貰おうか、と笑っていられたよ。」
「ありがたい。」
珍田は、女たちに、
「さア、おいで。」
そして、派手な女たちの一行は、ゾロゾロと、廊下を歩いていった。
森村総務課長を先頭に、珍田、そして、女たちの順で、賑やかに入って来るのを、田所は、
「ほう。」と、いうような笑顔で迎えた。「こりゃア凄い。今日は、思いがけぬ眼福の栄に預かる。」
「専務さん。」
珍田は、腰をひくくして、進んで出て、先ず、例の名刺を出した。
「覚えていてくださいますか。」
「勿論。その後、どうしているかと、時々、思い出していたんだ。」
横で、森村は、心の中で、苦笑していた。
さっき、珍田のことを報告すると、
「どんな男だったかな。」
田所は、首を傾けたのである。
森村に説明されて、やっと、
「ああ、給仕から上がった男、あれか。」と、いったのであった。
そのあとで、田所は、
「そうか、あの男が、マネエジャアになって来たのか。」
と、ふっと、考え込んだのであった。
森村は、気をつかって、
「何んでしたら、今、お忙しい、といって、ことわりましょうか。」
「いや……。」
田所は、頭を振ってから、何かの決心がついたように、
「通したまえ。」
「女たちは?」
「かまわぬ。」
しかし、今の田所は、さっきまでの気難かしさとは、打って変った上機嫌さで、
「うん、なかなか、綺麗なのを揃えているではないか。」
と、女たちの顔を眺めている。
「へッへッ。専務さん、どうか、ゴヒイキにお願いします。」
「わしは、キャバレエは、苦手でな。」
一人の女が、
「ひどいわ、専務さん。うんと、サービスをしましてよ。」
すると、ほかの女たちも、
「そうよ、専務さん。」
「決死的サービス、即ち、キャバレエ・トウキョウのモットウですのよ。」と、口々にいった。
「そう、その調子。」と、珍田が、いってから、「専務さん、今夜は、お出でくださるでしょうね。」
「今夜?」
「はい。招待日になっているんで、すでに、ご案内は、差し上げてあるはずですが。」
「ああ、そうだったな。しかし、タダほど高いものはない、というからな。」
「へッへッ。まア、どうか、ぜひ、いらしてください。森村さんも、どうぞ。そうだ、日吉不動産に限り、今夜は、人数を制限いたしません。」
田所は、それには、答えないで、
「君、今の社長を知っている?」
「ええ、昔、亡くなられた社長の用事で、お宅へうかがったことが、何度もありますから。でも、その頃は、まだ、学生でいらっしゃいました。」
「しかし、今では、立派な社長になられたよ。」
「たしか、その下に、高子さんという妹さんが……。」
珍田は、そこまでいってから、急に、口調を変えて、
「ねえ、専務さん。今夜は、お待ちしていますよ。」
「いっしょに来たまえ。」
「えッ?」
「社長にお会いしていくがいい。キャバレエなら、社長に向く。」
田所は、気軽そうにいって、立ち上がった。
社長室へ、岩田が、転勤の挨拶に来ていた。
「今夜、発ちますから。」
「そうか、ご苦労。ご家族は?」
「置いていきます。」
「どうして?」と、善太郎が、聞き返した。
岩田の胸に、いいたいことが、いっぱいあった。こんどの自分の転勤にしても、この若い社長は、ただの人事の交流と思っているのに違いあるまい。しかし、社内の大部分は、自分が、田所専務にタテついたための左遷なのだ、と、知っているのだ。
自分のことは、運が悪かったのだ、とあきらめてもいい。しかし、こんなことが、しょっちゅう、行われるとしたら、社員たちの心は、動揺していくばかりである。そのあげくは、いいたいこともいわなくなり、いや、いったら損になるのだ、という風習になっていくに違いない。
そうなったら、会社は、どうなっていくのか。
いや、会社のことは、ともかくとして、サラリーマンにとって、信頼するに足る、公平な上役を持たぬことほど、不幸なことは、ないのである。
そして、真に、信頼出来る公平な上役とは、結局、社長であらねばならぬ。
その社長がボンヤリしていて、その下の重役たちが、派閥をつくって、勝手な真似をしているとしたら、更に、その下の社員たちこそ、いい面の皮である。いや、社員だけでなしに、その家族にまで、影響するところ、極めて、大なのである。
現に、自分が、そのいい例ではないかと、岩田は、思うのであった。
勿論、世間には、そういう風習に便乗して、うまい汁を吸って、得々としているサラリーマンも、たくさん、いるに違いない。しかし、性格として、便乗出来ぬ人間もまた、たくさん、いるはずである。
便乗出来ぬ人間の不満は、いうまでもないことだが、便乗組にしても、それで、心から満足しているはずはないのだ。ヒイキの上役の変った場合の反動も、絶えず、恐れていなければならない。
誰もが、安心して、力の限り働ける会社、それが、理想だった。人間世界のことだし、たとえそんなことは無理だとしても、理想であることに、変りはなかった。
岩田は、どうせ、転勤ときまったのだし、この際、自分の心境を、この社長に、ブチまけてみようと、思った。
「社長。」
「うん?」
「すこし、お話ししたいことがあるんですが。」
岩田の顔色のただならぬのに気がついて、善太郎は、
「ああ、いいたまえ。」と、応じた。
一瞬、社長室に、緊張した空気が、流れたようであった。
しかし、そのとき、無造作に、扉が開かれて、ドヤドヤと、多勢の人々が入って来て、緊張した空気は、無残に破られてしまった。
「社長。」と、田所は、笑いながら、「キャバレエ・トウキョウ一座を、ご案内して来ましたよ。」
善太郎にも、それが、キャバレエの女たちであることが、一目でわかった。
「君、もう、用はすんだのだろう?」
田所は、岩田にいった。
「いえ、あの……。」
岩田は、アイマイに答えて、つい善太郎の方を見た。
しかし、善太郎は、もう、むっつりとして、黙り込んでいた。
(じゃア、あとで……)
岩田は、善太郎から、そんな返事を期待したのだが、所詮、無駄だとわかると、
(せっかくのチャンスは、失われた)
と、残念であった。
同時に、それは、この若い社長に対する、淡い失望にも通じる心であったろうか。
田所は、ちょっと、眼を光らせたようだったが、しかし、何気ないように、
「君、もし、まだ、用事が終っていないのだったら、遠慮なく続けていいんだよ。」
「いえ、すみました。」
きっぱりといって、社長室から出ていく岩田を、見返りもしないで、田所は、
「社長、珍田君ですよ。」
「珍田君?」
善太郎は、珍田の顔を見たが、とっさには、思い出せなかった。しかし、ずっと昔に、どっかで見たような顔なのだが――、とその程度の記憶はあるような気がした。
珍田は、腰をかがめて、進み出た。
「お忘れになりましたか。以前、この会社にいた珍田でございます。昔は、亡くなられた社長さんのご用で、よく、お宅へうかがったことが……。」
「ああ、そうだったな。」
「やっと、思い出してくださいましたか。有難うございます。ところで、今は、こういうことをしていますんで。」
珍田は、また、例の名刺を出して、
「どうぞ、よろしく。」
「キャバレエ・トウキョウのマネエジャアをしているのか。」
善太郎は、おどろいたようにいって、あらためて、珍田の顔を見た。
「へッへッ。どうも、とんだ商売替えをしてしまいまして。」
田所が、もとの笑顔になって、
「社長、珍田君が、わざわざ、こんな美人たちを連れて開店の挨拶に来てくれたんですよ。」
「それは、どうも。」
善太郎は、ニコリともしないでいった。
キャバレエ・トウキョウのこととなると、不愉快さが、こみ上げてくるのであった。
珍田は、女たちの方を見て、
「これ、社長さんに、ご挨拶をなさい。」
すると、女たちは、口々に、さっき、田所の部屋で、いったようなことをいったのだが、善太郎は、ただ、それを苦々しげに聞いているだけだった。
たまりかねたように、珍田が、
「社長さん、今夜は、ぜひ、いらっしてください。招待日になっているんです。」
「僕は、失敬する。」
「どうしてですか。日吉不動産の社長さんに来ていただかないと、せっかくの開店が、開店になりません。」
横から、田所が、やわらかく、
「社長。せっかく、珍田君も、あんなにいうんですから、ちょっと、顔を出しておやりになりませんか。勿論、そうなったら、私も、お供をしますが。」
「いや、僕は失敬する。」
善太郎は、強情にいい放った。
そのとき、入口の扉が開かれた。
人々は、いっせいに、そっちの方を見た。善太郎が、意外そうに、
「あっ、高子。」
しかし、高子の方でも、この場の意外な光景に、
「まア。」と、立ちすくんだのである。
高子には、ちゃんとした会社の社長室に、あるまじき光景に思えたのであった。
「これは、お嬢さん。」と、田所がいったが、流石に、彼の顔は、困惑の表情に近かった。
「どうなさったの、お兄さん。」
「今日が、地下室のキャバレエの開店日なんで、田所さんが、わざわざ、マネエジャアと女のひとたちを、連れて来てくださったんだよ。」
「そう……。」
しかし、高子には、兄の顔色で、それを不愉快に思っているのだ、と察しられた。高子は、何かしら、胸底から、憤りがこみあげてきた。
「田所さん。」
高子は、皮肉を利かして、
「随分、ご親切ですのね。でも、この上、兄をキャバレエなんかに、誘惑しないで頂戴。」
「はッはッは、失敗でしたかな。」
「困ります。」と、高子は、強くいった。
女たちは、この不意に出現した高子を、邪魔者を眺めるように見ていた。しかし、ナンバー・ワンばかり揃っているはずなのだが、高子の美しさに及ぶ女は、一人もいないようであった。
「お嬢さん。」と、珍田がいった。
彼は、さっき、高子が入って来た時から、その横顔を、じっと、見つめていたのである。
高子は、返事をしないで、珍田の方を見た。
「珍田でございます。」
「珍田さん?」
そこで、高子は、すぐ、思い出したように、
「あら、ほんと。」
「しばらくでございました。」
「どうなさったの?」
「実は……。」と、珍田は、また名刺を出して、「こういうことをやっていますので。」
「まア。じゃア、兄を誘惑に来た張本人なのね。」
「ご冗談を。」
「とにかく、ここから、出て行って頂戴。」
「そうですか。」
珍田は、たすけを求めるように、田所を見た。しかし、田所は、あっさりと、
「用事がすんだんだから、もう、帰りたまえ。」
「じゃア、今夜は、ぜひ、どうぞ。お待ちしています。」
しかし、田所は、黙っていた。
珍田は、もう一度、高子の方を見てから、
「さア。」と、女たちを促して、社長室から出ていった。
あとに、善太郎と高子と田所だけが残った。その田所も、
「では。」と、去っていきかけると、
「田所さん。」と、高子が呼びとめて、「あたし、お願いがあるんですけど。」
「どんなことでしょうか。」
「聞いてくださる?」
「私で、出来ますことなら。」
田所は、愛想よくいった。
「勿論、出来ることよ。あたしを、この会社に、採用して頂きたいのよ。」
「何をいい出すのだ。」と、善太郎がいった。
「ご冗談を。」と、田所がいった。
しかし、高子は、ニッコリ笑って、
「いいえ、あたしは、本気ですのよ。」
「高子。」
「いいじゃアありませんか、お兄さん。あたしは、ずっと前から、お勤めをしたいと、思っていたのよ。」
「それにしてもだ。」
善太郎は、ちょっと、不機嫌になっていたが、高子は、田所の方を向いて、
「ねえ。田所さん、いいでしょう?」
「いや、そればかりは、困りますよ、お嬢さん。」と、田所は、笑顔でいった。
彼は、まだ、高子の真意をはかりかねていた。二十七歳にもなりながら、この美貌で、まだ、結婚しようとせぬ高子は、田所の眼にも、変り者として、うつっていた。
しかし、変り者だけに、この会社へ、毎日、出てこられるとなると、それだけ、煙たい存在となる可能性があった。
「あら、どうして?」
「お嬢さんに向くような仕事は、この会社にありません。」
「だって、この会社にも、女事務員の方が、たくさん、いらっしゃるじゃアありませんか。」
「そりゃアいますが。」
「あたしは、そんな方たちと、同じ仕事をしたいんですわ。」
「しかし、それでは、周囲が困りますよ。社長の妹さんとあってはみんな、遠慮しなければなりませんからね。」
「そんな必要はないことよ。」
「いくら、そうおっしゃっても、そういうわけにはまいらんものですよ。会社員という者はね。」
田所は、あくまで、年長者が、年下の者に、やさしくいってやるような口調でいった。
「それに。」と、田所は、続けた。「お嬢さんは、そろばんが出来ますか。」
「出来ないわ。」
「そろばんの出来ない女事務員は、いけませんよ。採用するわけにはまいりません。」
「じゃア、そろばんが出来るようになったら、採用してくださいますか。」
「いや、困りますよ、やっぱり。」
「でも、どうしても、あたしは、お勤めがしたいのよ。」
高子は、真正面から、田所を見ていた。今は、笑っていなかった。
田所も、漸く、高子が、単なる思いつきでいっているのではないらしい、とわかって来た。しかも、高子の口調の底には、何か、挑戦的なものが、感じられるような気がしてならなかった。
(いったい、どうして、この娘は、こんなにも、この会社に勤めたがるのだ)
田所は、善太郎の方を見た。善太郎は、無言のままで、煙草を吹かしていた。はじめは、あれほど、反対していたのに、今は、それを口にしないのは、どういうわけなのだろうか。
兄と妹が、あらかじめ相談の上で、こんなことをいい出したのだとは、田所にも、考えられなかった。
田所は、軽く、聞き流しておくテを思いついた。
「まア、よく、考えてみますよ、お嬢さん。」
「いやよ、今すぐ、採用ときめてくださらなくっちゃア。」
高子は、押し返すようにいった。
「困りましたなア。」
田所は、あくまで、この場を、冗談にして、逃げ切るつもりであったが、高子の方も、それと察したらしく、
「あたしを採用することが、どうして、そんなに、お困りになりますの。」
「そんな意味でいってるんではありませんよ。」
「じゃア、どういう意味ですの?」
「つまりですな。さっきも申し上げたように、他の社員たちが、遠慮するようになるから、まずいと思うんです。」
「ほかには?」
「と、おっしゃると?」
「それだけの理由で、困るとおっしゃるのですか、という意味ですわ。」
「勿論。それより、お嬢さんこそ、どうして、今頃になって、お勤めになりたいんですか。」
「あたし、家にいて、毎日、ブラブラしているの、もう、飽き飽きしたんですわ。」
「ご結婚なさいよ。それに限ります。」
「あたし、結婚なんて、当分、しないつもりよ。」
「どうして、また?」
「だって、相手がないもの。」
「お嬢さんになら、いくらでも、いい相手があるはずですが。」
「ところが、それが、ないんですからねえ。」
「いいのを探しましょうか。」
「もう結構よ。」と、高子は頭を横に振った。
善太郎は、さっきから聞いていて、田所に負けていない高子に、あきれもし、感心もしていた。自分では、田所に対して、とても、こういうようにはいかない。
(いっそ、高子の方が、自分のかわりに、社長になった方が、いいかも知れない)
そう思ったくらいだった。
田所は、この高子が、ちょっと、憎らしくなっていた。しかし、それを顔には出さないで、やはり、やんちゃ娘を持て余したように、
「しかしね、お嬢さん。あなたを採用するとなると、やはり、ほかの重役たちとも、一応、相談しませんと。」
「ほかの重役さん?」
「本間常務、あれで、なかなか、うるさいんですよ。」
「じゃア、本間さんをここへ呼んで頂戴。あたしから、お願いしてみるわ。」
田所は、苦笑した。
日吉不動産は、不動産の賃貸の外に、設計監督もしていた。そして、本間常務は、その方を担当しているのである。勿論、田所は、本間の上役であり、自分が、会社全体を掌中に握っているつもりだが、しかし、内心、本間には、一目をおいていた。
何故なら、設計監督のこととなると、本間の技術家としての専門知識がモノをいって、田所のヨウカイを許さないのである。
機会があったら、田所は、その本間を辞めさせたい、と考えていた。そして、本間の方でも、それを知っているに違いないのである。
「本間君は、今日は、留守ですよ。」
田所は、嘘をついた。
「田所さん。」
高子は、口調を変えて、
「この会社の人事の最終決定は、社長がするんでしょう?」
「勿論ですよ。」
「じゃア、ここに社長がいるんですから、すぐ決めて貰いましょう。」
高子は、兄の方を見た。
キャバレエ・トウキョウは、第一回目のストリップ・ショウを終ると、あちらこちらから、拍手が起った。
「いかがでしょうか。」と、早速、珍田が、寄って来ていった。
「やア、結構。」と、田所がいった。
田所を囲んで、人事課長の山形、総務課長の森村、営業課長の山上などがいた。更に、その間に、女たちが、まじっていた。
「ねえ、専務さん。」と、女が、いった。
「何んだね。」
「お昼、キャバレエは苦手だ、とおっしゃったけど、悪くないでしょう?」
「ああ、悪くないね。これで、若い連中のように、もてたら。」
「まア専務さんたら、何処へ行っても、MMKのくせに。」
「MMK?」
「そうよ。もてて、もてて、困る、の意味よ。」
「なるほど。」と、山形が、横からいった。
ほかの連中も、それを面白がって、口の中でいっていた。
田所が、
「いや、わしの場合は、もてなくて、もてなくて、困ります、の方だな。」
「うまい。」と、山形が、手を拍っていった。
どっと、笑いが起って、周囲の人々が、こちらを見たくらいだった。その笑いが、鎮まると、山上と、森村が、
「踊ろう。」と、女を連れて、ホールの方へ、歩いていった。
「専務。」
山形は、顔を寄せるようにして、いった。
「なんだね。」
「本当に、あすから、社長の妹が、会社へくるんですか。」
「ああ、くるよ。」
田所は、さっきから、上機嫌に飲んでいたのだが、この時も、それが変らなかった。
「困りますな。」
「どうして?」
「だって、社長の妹なんて、扱いにくくてしようがありませんよ。」
「いいではないか。」
「そうでしょうか。」
「そうだ。社長が、ウンといったのだから、われわれ風情は、文句をいうことはない。」
「しかし、これで、二度目ですからね。」
「二度目?」
「ええ。一カ月前にも、バーの女の妹を、いきなり、採用しろ、といって、無茶苦茶ですよ。二度あることは、三度ある、といいますし、こんな風に、社長自らが、人事の統制を乱していくようでは、やり切れません。」
それには、答えないで、田所は、ビールをぐっと飲んで、
「そのバーの女の妹、何んとかいったな。」
「白石厚子。」
「よく、働いているか。」
「その点は、まア、感心なんです。」
「で、姉は?」
「えッ?」
「まア、よろしい。」
そういわれて、山形は、やっと、田所の質問の意味に気がついて、
「社長とは、まだ、何んでもないらしいんです。ご報告、遅れましたが。しかし、あの調子では先のことは、わかりません。」
「いい女かね。」
「悪くないですよ、専務。一度、見にいらっしゃいませんか。」
そのとき、
「やア、田所さん。」と、だいぶん、酔っている声が、聞えて来た。
ホールの方から、踊り終っての戻りらしく、女と腕を組んだ、稲川良一であった。
「これは。」
田所は、立ち上がった。
「この前は、どうも。」
「どういたしまして。」
「あちらの席に、福間君も来ているんですよ。」
「ほう。すると、義兄弟仲良く、というところですな。」
稲川は、善太郎の姉、佐登子の良人であり、福間康吉は、その下の姉、春子の良人であった。どちらも、日吉不動産の株主で、また、名目だけの取締役にもしてあった。
「何、二人で、同病相哀れむのヤケ酒なんですよ。」
「ご冗談を。」
「いや、本当ですよ。」
しかし、流石に稲川は、周囲の社員たちに気をつかって、
「田所さん、僕たちの席へ、いらっしてくださいませんか。」
田所は、ただ、笑っている。
「また、お願いしたいこともあるんです。」
「困りますな。」
「ねえ、そういわないで、ちょっとでもいいから、顔を貸してくださいよ。」
「じゃア、ご挨拶にだけ、参りましょう。」
田所は、社員たちに、
「じきに戻るから。」と、いって、稲川に連れられていった。
「おーい、田所さんを掴まえて来たよ。」
稲川が、いうと、女の肩を抱えていた福間は、おお、と立ち上がって、
「田所さん、いいところで、お目にかかりました。さっきも、稲川君とお噂をしていたところですよ。」
「どうせ、悪い噂でしょう。」
「とんでもない。まア、いっぱい。」
「ありがとう。」
「ねえ、田所さん、稲川君と同じ流儀で、三十万円ほど、都合してくれませんか。」
「三十万円? 大金じゃアありませんか。」
「何をいってるんです、田所さんともあろう大人物が。」
「いやいや。そんな金は、やっぱり、社長にいっていただかないと。」
「昨日、春子を社長の家へやったんですよ。そうしたら、ケンもホロロだったんです。」
「どうしてですか。」
「善助親爺の遺産は、ちゃんと分けてあるんだから、いつまでも、こっちをアテにされては困る、というんです。」
「しかし、それは、社長のおっしゃる方が、正しいですよ。」
「あんなことをいって。とにかく、田所さん、三十万円、大至急に頼みます。日吉不動産の株を担保にいれますから。」
「私としては、株でない方がいいのですがねえ。」
「でも、稲川君には、株を担保にしてやったんでしょう?」
すると、稲川までが、横から、
「田所さん、ついでに、僕にも、二十万円ばかり、お願いします。」
「やっぱり、社長には、内証にですか。」
「ええ、第一、こうなったら、いう必要は、ありませんよ。」
「そうだとも。」
二人は、口を揃えて、いっている。そして、なおも、善太郎の不人情振りを攻撃しはじめた。
(ダメだな、この二人は)
しかし、田所は、
「社長の悪口は、困りますよ。」と、笑いながらいったのだが、ふっと、高子のことを思い出すと、その笑いも、消えていった。
バンドは、絶え間なく、続いていた。
並木通りのバー『けむり』。
「まア、青田さん。」と、和子がいった。
「やア。」
青田は、笑って、いつものように、スタンドに席を取った。
「随分、お久し振りなのね。そう、あの時以来だわ。」
青田は、わざと、ニヤリとして、
「どうだ、その後、社長さん、ちょいちょい、来ているかい?」
「いいえ、やっぱり、あれっきりなのよ。」
「あれっきり?」
「そうよ。どうしてらっしゃるか、と心配しているんだけど。もっとも、妹に聞くと、毎日、会社へは、出ていらっしゃるそうです。」
「しかし、おかしいなア。」
「どうして?」
「僕はまた、あれ以来、ここへ日参していることだ、と思って、わざと、遠慮していたんだ。」
「何を、遠慮なさるのよ。そうだわ。青田さんたら、あのときは、黙って、先に帰ったりして、失礼よ。」
「失礼なもんか。あれでも、気をつかってやったつもりなんだ。」
「それだったら、ますます、失礼よ。」
「どうだった?」
「何がよ。」
「こいつ、白っぱくれてらア。」
青田は、和子の頬を指先でついた。
和子は、そんな青田を睨みつけて、
「青田さんこそ、白っぱくれて。いいたいことは、はっきり、いって頂戴。」
「うん……。それにしても、社長さん、その後、ここへ姿を現わさない、というのは、どうもおかしいな。」
「どう、おかしいのよ。」
「さては、和ッぺ。あの晩、社長さんを怒らしたかな。」
「怒らすも、怒らさないも、そんなこと、何もなかったのよ。」
「え、本当かい?」
青田は、思わず、和子の顔を覗き込んだ。
しかし、和子の顔は、嘘をついている顔では、なかった。
青田は、嬉しくなった。
(やっぱり、俺は、この女が、好きらしい)
すると、それを知っていて、善太郎は、わざと、和子を避けたのだろうか。もし、そうだとしたら、あの夜の自分の行為は、鼻持ちのならぬ程、キザであった、といわねばならなくなってくる。
「おい、今夜は、飲むぞ。」
マダムが、向こうから、
「青田さん、飲むのは、大歓迎ですけど、また、和ちゃんを引っ張り出すのは、ごめんですよ。」
「わかってますよ。もし、引っ張り出すなら、この店が終ってからにしますよ。」
「ふん。その甲斐性もないくせに。」
「おっしゃいましたね、マダム。」
「ええ、申し上げましたよ。」
「ハイボールをいかがですか。」
「まア、よく、気のつく、青田先生ですこと。和ちゃんも、どうお?」
「あたしは、おビールを。」
「あんた、青田さんなんかに遠慮したら、この店の損なのよ。」
「あら、いらっしたわ。」
その和子の声に、青田が、振り向くと、善太郎だった。しかも、今夜は、珍しいことに、高子を連れていた。
「これは、社長さん。」
「やア、ヤブさん、来ていたのか。」
「あれ以来だな。」
「そう、あれ以来だ。」
善太郎と青田は、意味ありげにいいあった。それから、青田は、高子の方を見て、
「あなたとも、南雲を送っていった時以来ですね。」
「そうですわ。あの時は、有難うございました。」
「いや……。」
善太郎が、
「あの時は、僕もあとで聞いて、残念だったよ。どうして居所がわかっているのに、知らしてくれなかったんだ。」
「お邪魔をしては悪い、と思ってね。」
「何が、お邪魔なもんか。ねえ、和ちゃん。」
「そうよ。だから、今も青田さんを、とっちめていたところですのよ。罰金に、ハイボールとビールを、お出しになったところですわ。」
「よし、そんなら、僕も、その罰金で、今夜は、飲むことにする。」
「ひどいことになった。」
「高子も、遠慮するな。ここは、青田先生のおごりときまった。」
「じゃア、あたしは、ジンフィーズ。」
「勝手にしなさい。」
和子は、はじめて見る高子の美しさに、眼をみはっていた。育ちのせいか、身についた気品だけでも、あたりを払うようであった。
青田が、
「和ちゃん、紹介しよう。社長さんの妹の高子さんだ。」
「どうぞ、よろしく。」
「あたしこそ。社長さんに、妹を採用していただいたんです。」
「まア、そうでしたの。」
高子は、ちらッと、兄の方を見てから、
「実は、あたしも、日吉不動産に採用してもらったばかりなんですよ。」
「本当ですか。」と、青田が、おどろいていった。
「本当ですわ。社長秘書ですの。でね、今夜は、その仕事はじめに、社長さんがお歩きになっている夜の世界を、案内して頂いているんですわ。」
「おい、社長さん。そんなことをして、大丈夫なのか。」
「何、いくら秘書でも、差しさわりのあるようなところは、内証にしとくよ。」
「だろうな。」と、青田が、いってから、あらためて、高子を見て、「どうして、そんな気になったんですか。」
「ただ何んとなく。」
高子は、笑ってみせたのだが、しかし、青田には、その心の底が、わかるような気がしていた。
「しかし、あの田所とかいう専務、嫌な顔をしなかったですか。」
「なさいましたとも。でも、社長さんが最後の断を下してくださったんです。」
「このロボットさんが?」
「こら、言葉をつつしめ。」
「だって、この前、自分で、そういって、辞めたくなったとか、泣事をいっていたじゃアなかったのか。」
「まア、そうだったが。」
善太郎は、苦笑を洩らした。
高子は、そのときの社長室の模様を話してから、
「最後に、社長さんの断を待つことになったんですよ。」
「そうしたら?」と、青田は、身を乗り出すようにした。
和子も、耳を傾けていた。
「採用しよう、とおっしゃったんです。」
「偉い。」
青田は、スタンドの上を、トンと叩いてから、
「そうだ、今後は、万事、その調子で、行くべきだよ。」
「いや、実をいうとだな。」
善太郎は、ちょっと、てれながら、
「はじめは、高子の勤めたい、という意見に、僕も、反対だったんだ。」
「それで?」
「ところが、高子が、田所を相手に、すこしも負けていないんで、妹ながら、天ッ晴れだ、と思ったんだ。この妹がいつも、そばにいたら、僕だって、すこしはたすかるような気がして、思い切って、採用しよう、といってしまったんだ。」
「田所が、どんな顔をした?」
「あっさりしたもんだ。ああ、社長が、そうおっしゃるなら結構です、と。」
「やっぱり、狸親爺なんだな。しかし、日吉も、これですこしは、自信がついたろう?」
「さア、どうだか。」
「相変らず、たよりないことをいっている社長さんだ。しっかりしろよ。」
高子は、ジンフィーズに唇をつけてから、
「ねえ、社長さん。」
「こんなところまで、社長さんは、よしてくれ。」
「あら、いいじゃありませんか。もう一人、採用してほしいひとがあるんですけど。」
「もう、カンベンしてくれ。」
「ううん、一人だけ。」
「誰なんだ。」
「南雲さんよ。」
高子は、ズバリといった。しかし、そのあとで、高子の頬の染まったのは、酔いのせいばかりではなかったようだ。
「南雲?」
「そうよ。」
青田が、
「うん、南雲ならいい。」と叫ぶようにいったが、「しかし、あいつは、来てくれるかな。」
「あたしが、お願いしてみます。」
「高子さん、自信があるの?」
「自信なんて、ないんだけど。」
「社長さん。」
「何んだ。」
「実は、この前、東京駅で、君の会社の実情を話して、南雲に、そういってみたんだ。」
「そうしたら?」
「あいつめ、そんな憎まれ役は、真ッ平だと笑って、相手にしなかった。」
「だろうな。」
しかし、善太郎にも、もし、南雲龍太郎が、自分の会社へ来てくれたら、どんなにたすかるだろうか、と思えるのだった。そして、高子が、会社に勤めたい、といった真意が、そんなところにあったのか、とはじめてわかった。この妹の思いやりが、胸が、じいんとしてくるほど、嬉しかった。
「ねえ、兄さん、どうなの?」
「しかし、南雲が、果して、来てくれるかどうかも問題だし、それに、田所だって、そうなったら、こんどこそ、本気で反対するに違いない。」
「まだ、そんなことをいってらっしゃるの。」
高子は、どこまでも気の弱い兄を、じれったそうに見つめた。
田所が、キャバレエにいて、善太郎が『けむり』にいる頃、岩田は、東京駅のプラット・ホームから、発車直前の汽車の中にいた。窓から、顔を出して、見送人を眺めているのだが、ともすれば、その視線は、妻の康子と、二人の子供の方へ向くのだった。
十数人の見送人の中には、大間と厚子も、まじっていた。
「岩田さんの顔、何んだか、淋しそうね。」
「うん、栄転というのではなし、奥さんたちを残していくんだからなア。」
「ねえ。」と、厚子は、声をひそめて、「ここに来ている人たち、みんな、社長派なの?」
「まア、だいたい、そうだろうな。しかし、中には、スパイもいるかも知れない。」
「誰よ。」
「そんなこと、わかるもんか。」
「こんな場合、社長さんも、来てあげたらいいのに。」
「まさか。」
「でも、あたしが、社長さんだったら、くるわ。」
大間は、厚子の顔を見て、
「相変らず、君のいうことは、大袈裟だよ。」
「ふッふ。」
「しかし、社長にはなれないだろうが、社長夫人になら、なれるかも知れないよ。」
「それ、どういう意味?」
「だって、はじめて会った日に、社長は、目下独身だ、といったら、まア、素敵、といったじゃアないか。」
「まア、大間さん、そんなこと、覚えていたの?」
「覚えていたとも。」
「そして、こだわっているの?」
「よせやい。」
大間は、怒ったようにいった。
大間は、この厚子が、だんだん好きになっていくような気がしていた。今日も、会社を出てから、いっしょに映画を見て、冷し中華そばを食べて、この東京駅へやって来たのだった。
それも、割カンでなしに、大間が払ったのである。思えば、厚子には、そもそものライスカレーからして、おごらされてしまったし、どうやら、一生、そんなことになりそうな予感がしていた。
しかし、今夜だって、もし、厚子といっしょに映画を見られる、というたのしみがなかったら東京駅へはこずに、そのまま、帰ったかもしれないのである。
見送人たちの意気も、上がっていないようだった。岩田の顔を出している窓を遠巻きにしているだけである。
すると、その中から、社内随一のオールドミス、正木信子がゆっくり歩いて、岩田の方へ近寄っていった。
「はい、ご餞別。」
信子は、何かの小箱を、岩田に手渡した。
「やア、どうも、ありがとう。」
「元気を出しなさい。そして、出来るだけ、早く、奥さんたちを呼んであげてね。」
「さア、いつのことやら。」
「留守中のことは、及ばずながら、あたしが、ご面倒を見てあげます。」
「たのみますよ。」
岩田は、もう、眼頭を熱くしているようであった。
「何んですか、その顔は。」
信子は、叱りつけるようにいって、
「そのうちに、また、いいこともあります。」
そして、信子は、そのまま、踵を返すと、こんどは、遠慮して、前に出ない、康子と子供たちを、窓の下へ、連れていった。小学校四年と一年ぐらいで、上が女、下が男であった。
「可哀そうだわ。」と、厚子が、いった。
「うん。」
「奥さんの横顔、泣いてるみたいよ。」
「そりゃア、心の中では、泣いているかもしれない。」
「こうなると、田所さんが、いよいよ、憎らしくなるわ。それに、営業課長だって、見送りに来ていないし。」
その厚子の声が、ちょうど、こっちへ戻って来た信子の小耳に入ったらしい。厚子の顔を、見つめるようにした。
それと知って、厚子は、ペロリと舌を出した。しかし、信子は、何んとなく、微笑しただけで、すぐ、隣にいる大間に、
「大間さん、発車のベルが鳴ったらね。」
「え?」
「あんた、岩田さんのバンザイの音頭を取るのよ。」
「僕が?」
「そうよ。」
「てれるなア。」
「嫌なの?」
「嫌ではないんだけど。」
「じゃア、おやりなさい。それとも、あんたは、女のあたしに、音頭を取れ、というの?」
「いえ、やります。」
大間は、やけくそのようにいった。
「そう、それでこそ、男というもんだわ。」
信子がいったとき、発車のベルが、鳴りはじめた。
「さあ、大間さん。」
「ええ。」
大間は、ちょっと、ためらったが、
「岩田さん、バンザーイ。」と、大声でいった。
見送りの人々も、それに続いて、
「バンザーイ。」
「バンザーイ。」
岩田は、うなだれて聞いていたが、やがて、汽車が動きはじめると、きっと、顔を上げて、
「皆さん、どうも、ありがとう。」
やっと、いつもの岩田らしい顔と声になっていた。
その岩田の顔も、見る見る、遠ざかっていくと、人々は、ホッとしたように、散りはじめた。そんな誰彼に、康子は、
「ありがとうございました。」と、頭を下げていた。
――厚子は、国電の中で、ふっと、顔を上げると、すぐ前の席に、康子たちがいることに気がついた。
「あら。」と、その隣へ席を移して、聞いてみると、同じ大森の、しかも、数分の距離のところに住んでいることがわかった。
「あたし、遊びに行ってもいいでしょうか。」
「ええ、ぜひ。いつでも、どうぞ。」
「でも、今夜から、お淋しいですわね。」
「ええ。」
康子も、それを想ったのか、床の上に、眼を落した。厚子にも、主人のいない家庭の淋しさが、想像できた。二人ともそれぞれの思いに耽るように、しばらく、黙り込んでいた。
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旅路
特別急行列車「かもめ」は、間もなく、博多駅を発車しようとしていた。
その窓側の特二席に腰をかけて、南雲龍太郎は、何んとなく、プラット・ホームの人々を眺めていた。
会社の出張なのだし、龍太郎には、見送人は、ひとりもなかった。別に、淋しいとも思わない。しかし、これからの凡そ一週間、この博多を離れるのだ、と思うと、すでにして、龍太郎の胸に、旅愁の先ぶれといってもいい、一種の感情が、煙るともなく、煙っているのだった。
けれども、東京へ行けば、そこには、青田もいるし、日吉もいる。
この前の出張の時には、とうとう、いっしょに飲みまわるチャンスを逸したが、こんどこそ、一晩でも、二晩でも、飲みまわりたい、と思っていた。
もう、今から、その楽しさで、胸が、ムズムズしてくるくらいだった。
しかし、その楽しさも、この前、東京駅で、青田からいわれたことを思い出すと、ふっと、苦笑のわく思いである。
「冗談じゃアない。第一、僕には、そんな力があるもんか。」
本当をいうと、龍太郎は、東京を離れると同時に、青田のいったことを、綺麗に忘れていたのである。
日吉にいわれたわけでもないし、青田の、咄嗟の思いつきだったに違いない。
「しかし、もし、日吉の会社が、青田のいう通りになっているのだとしたら、ちょっと可哀そうだな。」
可哀そうなのは、社長の日吉もだが、そこの社員たちとその家族も、なのである。同じサラリーマンとして、そんな会社に勤めて、派閥の渦に巻き込まれたら、どんなことになるかは、彼も、知っていた。悲惨といっていい実例を、いくつも、聞いたり、見たりしていた。
しかし、幸いにして、龍太郎の会社には、それがなかった。全然、ないわけではないが、取るに足らない程度なのである。
だから、有難い、と思っている。有難いのは、派閥のないこともだが、三十一歳の若さで、経理課長にバッテキされていることについてでもあった。
勿論、世間には、もっと若い課長は、無数にあるだろう。しかし、彼の会社では、最年少の課長なのである。
正直にいうと、龍太郎は、近頃、仕事をすることが、面白くてならなかった。
勿論、時々、失敗もするが、成功する率の方が、ずっと、上である。彼は、自分の力量について、ひそかにだが、徐々に、自信を深めていたのである。そして、それは、彼の場合、今の会社を愛する心にも通じているのだった。
龍太郎は、煙草を取り出して、火を点けると、深々と吸った。
時計を見ると、十時の発車までに、あと、六分ほどあった。そして、途中、大阪で『月光』に乗換えて、東京駅へ到着するのは、明朝の九時二十四分なのである。
「とにかく、東京へ着いたら、こんどは、すぐに、日吉の会社へ寄ってみよう。」
そして、あらかじめ、夜の打合せもしておきたいのだった。
「青田と二人で、日吉を激励する会、というのを開いてやってもいい。」
すでに、龍太郎の心は、東京へ飛んでいるようだったが、
「南雲さん。」
その声に、忽ち、また、博多駅へ引き戻されたのである。
窓の下に、曽和沙恵子の白い顔が、微笑をふくんで、龍太郎を見上げていた。
「やア。」と、龍太郎はいった。
「何か、考えていらっしゃったのね。」
「どうしてですか。」
「だって、さっきから、ここに立っていたのに、ちっとも、気がついてくださらなかったわ。」
「そんなに、さっきから?」
「嘘、たった今、来たばかりですわ。」
「誰かのお見送りですか。」
「いいえ、南雲さんのよ。」
沙恵子は、澄まし込んで、
「父の代理で、お見送りにまいりました。どうぞ、ご無事で。」
沙恵子の父とは、龍太郎の直属上司で、総務部長であった。沙恵子は曽和家の長女なのである。
勿論、会社の出張に、曽和が、娘に見送りに行け、というはずがないから、これは、沙恵子の勝手の意志で、と思うべきだろう。
しかし、龍太郎は、そんな面倒くさいセンサクは、抜きにして、
「どうも、ありがとう。」
「こんどは、何日ぐらい、かかりますの?」
「さア、一週間の予定ですが。」
「一週間ね。」
沙恵子は、自分の胸に、いい聞かせるようにしてから、
「あたしも、東京へ行きたいわ。」
「あなただったら、その気になれば、いつでも、いらっしゃれるじゃありませんか。」
「南雲さん、連れて行ってくださる?」
「そりゃア、お父さんのお許しさえあったらね。」
龍太郎は、笑いながらいった。
「きっとよ。」と、沙恵子も、笑いながら、念を押して、「この次は、いつ頃、東京へご出張になります?」
「さア、わかりませんが、一カ月ぐらいたったら、また、行くことになりそうです。」
「じゃア、そのときに、連れて行って頂くわ、あたし。」
「しかし、僕のは、出張なんですよ。」
「大丈夫。あたしは、決して、ご迷惑をおかけしませんから。」
龍太郎は、冗談として、聞いていたのだが、この沙恵子なら、案外、本気で、それを実行するかも知れない、と思った。
そういう娘なのである。うわべは、いつでも、ニコニコしているのだが、芯の強さは、無類といってもよかった。
龍太郎は、この沙恵子といっしょに、東京まで、旅行することを空想した。心が弾む、というのではなかった。しかし、決して嫌な空想ではない、といえることはたしかであった。
発車のベルが、鳴りはじめた。
「これ。」と、沙恵子が、小さな風呂敷包みを差し出した。
「何んですか。」
「サンドイッチ。大急ぎでつくって来たので、うまくいかなかったのよ。汽車の中で、召し上がって頂戴。」
「どうもありがとう。」
「行ってらっしゃい。」
手を振る沙恵子の姿が、みるみる、後退していって、列車は、博多駅を離れた。
九月の、抜け上がるような、深い空の色だった。
列車が、大阪を離れると、龍太郎にも、すでに、半分は過ぎた、という安心感があった。あとは、寝ていれば、東京に着くことが出来るのである。
彼は、読んでいた雑誌を閉じて、そろそろ、寝ようかと思った。
「あら。」
そんな声に、顔を上げて、彼も、
「やア。」と、おどろいたようにいった。
「おひとり?」
「そうですよ。」
「その横の席、空いてます?」
「どうぞ。」
「じゃア、しばらく、お喋りをさせていただくわ。いいでしょう?」と、まるで、媚びるように、いうのである。
その媚びかたも、意識して、というのではなしに、営業的に、そう訓練されたもののように感じられた。服装も、化粧も、それに似合った派手さであった。
女は、三年前に、善太郎と結婚して、一年と続かないで別れた美和子だったのである。
別れた原因については、龍太郎も、詳しくは、知らなかった。
ただ、青田のいうところによると、美和子の性格の派手さが、善太郎の母親の常子の気に入らなかったらしい。といって、善太郎は、特別に、美和子をかばおうともしなかった。もともと、二人は、見合結婚をしたのである。善太郎も、母親にさからってまで、美和子をかばうほどの愛情は、まだ、持っていなかったのかもしれない。
たまりかねた美和子は、善太郎の意気地なさを罵倒して実家へ帰ってしまったのである。
しかし、せっかく、実家へ帰りながら、そこはすでに、兄の代と変っていて、出戻りの美和子にとって、安住の地とはならなかったようであった――。
龍太郎は、その程度にしか、知っていない。ただし、結婚式のときには、はるばる、九州から出て来ているし、その後も、二、三度、善太郎の家に泊まっていて、高子を加えた四人で、麻雀をしたこともあった。
「南雲さん、今でも、九州?」
「そうですよ。」
「じゃア、東京へご出張?」
「ええ。」
美和子は、足を組んで、シガレット・ケエスを開いて、その一本を、器用に口にくわえると、
「そんなら、ぜひ、あたしんとこへも、寄って頂戴。」
「あなたのとこ?」
「そうよ、これでも、銀座のバーのマダムですからね。」
「あなたが?」
龍太郎は、思いがけぬようにいったが、これで、美和子の変った理由がわかったと思った。
「すずらん通りの『ハイツ』。ちょっと、しゃれたバーのつもりよ。」
「もし、行けたら。」
「どうせ、善太郎にも、お会いになるんでしょう?」
「そのつもりです。」
「じゃア、いっしょに連れて来てよ。かまわないから。こうなったら商売よ。」
そういって、美和子は、立ち上がり、
「お待ちしてるわね。きっとよ。」と、例の媚びるような笑みを送って、去っていった。
龍太郎は、何気なく、その後を見送っていると、美和子に連れがあることがわかった。それも、五十年輩の紳士であった。
龍太郎は、その紳士の顔を、どこかで一度、それも、数年前に見たような気がしたが、思い出せなかった。
ひょっとしたら、美和子のパトロンにあたる人なのかもしれない。
善太郎は、美和子が、バーのマダムになっていることを、知っているのだろうか。しかし、知っていないのだとしたら、無理に知らせることはないのである。
龍太郎は、眼を閉じた。
三年前の、善太郎と美和子の結婚式のときの光景が、髣髴としてくる。披露宴は、大東京会館で開かれたのだが、随分とたくさんの人々が来ていた。新郎新婦の姿も、幸福そうであった。
あの美和子が、三年後には、バーのマダムとなって、パトロンらしい男と、いっしょに旅行するようになろうとは、いったい、誰が、想像したろうか。
また、あの頃の善太郎は、若い社長として、得意の絶頂にあったし、たとえば、重役たちに対しては、何んの不満も、何んの疑問も、持っていなかったのである。
そんなことを考えていると、龍太郎は、憂欝になってくる。歳月の有難さよりも、恐ろしさを痛感しないではいられなかった。自分にしてからが、三年後には、どうなっているか、わかったものではないのである。
(しかし、なるようになるのだ)
そう思い返して、いつか、龍太郎は、列車の動揺に身をまかせながら、健康な寝息を立てはじめていた。
龍太郎が、眼を醒ました時には、列車は、横浜駅を離れようとしていた。
何気なく、美和子たちの方を見たが、もう、その姿は見えなくなっていた。ゆうべのことは、夢の中のことであったような気がする。
しかし、龍太郎自身も、昨夜の感傷的になったことなど、ケロリと忘れていた。一昼夜にわたる汽車の旅にも、若い肉体は、それほどの疲労を感じていないようだった。
空は、すこし、曇り気味だが、雨の心配は、ないようだ。
そして、列車は、きちんと九時二十四分に、東京駅に到着した。
龍太郎は、自分の仕事は、午後からでいいので、予定通り、すぐ、善太郎の会社へ行ってみることにした。
八重洲口の名店街で、軽い朝食をとったあと、タクシーで、日吉不動産まで行った。途中のビルディング街の眺めが、やはり、なつかしかった。
彼は、タクシーから降りて、
「おや?」と、思った。
ビルディングの表の感じが、この前に来た時と、何んとなく、違っているのである。しかし、やがて、その違いは、もう一つ、別の入口が出来て、キャバレエになったせいだ、とわかると、
「どうして、キャバレエなんかに貸したんだろう。」と、苦々しく思わずには、いられなかった。
しかし、それも、ひょっとしたら、重役たちの勝手な仕事の一つかも知れないぞ、と思うと、それをおさえられぬ善太郎の憂欝さが、やっと、わかったような気がした。
「可哀そうに。」
龍太郎は、ボストン・バッグを下げて、ビルディングの中へ入っていった。
受付が、席にいなかった。
「お願いします。」
龍太郎の大声に、
「はい。」と、席を立って来たのは、厚子であった。
「社長にお会いしたいんですが。」
厚子は、ちょっと、困った顔で、
「社長は、まだ、ご出勤になっていないんですけど。」
「まだ?」
「はい。」
龍太郎は、腕時計をチラッと見て、
「もう、十時半ですよ。いつも、こうなんですか。」
「いえ、そうでもないんですけど……。」
そういって、厚子は、龍太郎の顔を見ると、眼で笑っているのである。何んとなく、安心して厚子は、正直に、
「たいてい、十一時過ぎでないと。」
「困った社長さんだ。」
「あら。」と、厚子も、つい、笑ってしまった。
「しばらく、ここで、待たして貰いますよ。いいでしょう?」
「どうぞ。でも、どなたさまでしょうか。」
「九州の南雲龍太郎です。」
厚子は、龍太郎が、ボストン・バッグを下げていることに気がついて、
「わざわざ、九州から、いらっしてくださったんでしょうか。」
「いや。」と、龍太郎は、軽く、打ち消してから、「日吉社長の友達なんですよ。」
「そんなら、秘書へ取次ぎましょうか。社長の妹さんが、秘書をしていらっしゃるんですけど。」
「高子さんが?」
龍太郎は、おどろいたようにいった。
「はい。」
「いつからですか、それは。」
「一カ月ぐらい前からですわ。」
「ちっとも、知らなかったなア。」
しかし、龍太郎は、高子が秘書になっている、ということに、ただごとでないものが、感じられたのである。本来なら、勤めになんか出るような娘では、決してないはずなのだ。
しかし、厚子の方は、ふっと、黙り込んだ龍太郎の顔を眺めながら、さっきの口の利き方から考えても、社長とは、余程、仲のいい友達に違いない、と思っていた、初対面であるけれど、何か、たのもしいものが感じられてくる。そして、こういうタイプの男性は、日吉不動産には、一人もいない、ということも密かに思った。
勿論、大間もいい男だけれども、しかし、目の前の龍太郎と比較すると、年齢の差以上の、人間としてのスケールの相違は、否めないのである。
「じゃア、高子さんに、僕が、ここに来ていることを、伝えてくれませんか。」
「それより、あたし、秘書室へ、ご案内しますわ。」
厚子は、もう、先に立って、事務室から出ていった。
廊下を歩きながら、龍太郎が、
「高子さんは、毎日、ちゃんと、出勤してくるんですか。」
「ええ。朝の九時には、きっと、いらっしゃいますわ。」
「すると、なかなか、精勤なんですね。」
「とっても。」
厚子は、嬉しそうに答えた。
「しかし、社長の方は、いかんね。十一時出勤なんて、ひどすぎる。」
「でも、これでも、近頃は、早くなられた方ですわ。」
「すると、以前は?」
龍太郎は、あきれたようにいった。
「たいてい、午後からでした。」
「なんぼなんでも、そりゃアひどすぎる。」
「そうなんです。」
厚子は、いってしまってから、ハッと気がついて、
「でも、こんなことを、あたしがいったと、いわないでください。」
「勿論、いわないよ。」
「きっとね。」
「うん。」
厚子は、やっと、安心したように、ニッコリして、
「だったら、ついでに、社長さんに、意見してあげてください。」
「もっと、早く、出勤するようにと?」
「はい。」
「よし、わかったよ。」
龍太郎は、面白いことをいう娘だ、というように微笑しながら、
「しかし、社長の出勤が遅かったら、たいていの社員たちは、気楽でいい、とよろこぶはずだが。」
「でも、中には、やっぱり、早く、出勤して頂いた方がいい、と思っている社員もいますわ。」
「ほんとうに、いるのかね、そんな社員が。」
「いますわ。」
厚子は、力んだようにいったのだが、
「たくさん?」
と、いわれると、急に、花がしぼむように、しょんぼりとして、頭を横に振った。
「じゃア、君は、その数すくないうちの一人なのかね。」
「はい。」
「君の名は、何んというの?」
「白石厚子です。」
厚子は、顔をあからめた。
「ここです。」
「どうも、ありがとう。」
しかし、龍太郎は、この部屋の中に、高子がいるのだ、と思うと、急に、息のつまるような感情に襲われたのである。これは、自分でも、思いがけないことだったし、足が釘づけになっていた。
が、厚子は、さっと、扉を開いて、
「九州の南雲龍太郎さんが、お見えになっています。」と、いってしまったのである。
机に向かっていた高子は、
「南雲さんが?」と、信じられぬようにいって、思わず、腰を浮かしたのだが、そのまま、こっちの方へ、急ぎ足で歩いて来て、
「まア、南雲さん!」
「やア。」
「いつ、いらっしたの?」
「さっき、東京駅へ着いたんですよ。」
「そうですか。でも、よく、来てくださいましたわ。さア、どうぞ。」
厚子は、高子の顔色が、ふだんより、明るくなっているのを、見逃しはしなかった。
(おや?)
と、思ったくらいである.
しかし、いつまでも、ここにいて見ているわけにはいかない。
「あたし、失礼します。」
と、去りかけると、うしろから、
「やア、どうも、ありがとう。」
と、龍太郎が、一種の親愛感のこもった口調でいったし、
高子も、
「ご苦労さま。」と、やさしい声をかけてくれた。
「さア、どうぞ、南雲さん。」
高子のすすめてくれる椅子に、龍太郎は、腰を下ろして、
「日吉君、まだだそうですね。」
「ええ。でも、もうすぐ、くるはずですわ。」
「しかし、あなたが秘書になっていられるとは、思いがけなかったですよ。」
「でしょう?」
高子は、笑ってみせて、
「こんどは、ゆっくり、なさいますの?」
「そう、五日間ぐらい。」
「じゃア、お宿は?」
「いつもの旅館へ行くつもりです。」
「ムダなことですわ。あたしの家へ、お泊まりになったら?」
「さア……。」
「ねえ、ぜひ、そうなさって頂戴。兄だって、きっと、よろこびましてよ。」
「しかし。」
「では、せめて、今夜だけでも。」
「実は、その今夜、青田と三人で、飲みたい、と思ってるんですよ。」
とっさに、高子は、いった。
「あたしも、いれてくださいません?」
「あなたを?」
「ええ、もし、お邪魔でなかったら。」
「邪魔じゃアありませんが。」
龍太郎は、いってから、ちょっと、考え込んで、
「そう、今夜は、日吉を激励する会のつもりですから、あなたにもはいって頂いた方が、いいかもわかりませんね。」
「お願いします。」
「じゃア、ご面倒でも、あとで、青田に連絡しておいて頂けませんか。」
「承知しました。」
高子は、嬉しそうにいってから、
「近頃、秘書になってから、そういうことは、うまくなりましたのよ。」
「名秘書ですか。」
「とても、そうは、まいりません。」
「しかし、いくら、秘書が、一所懸命にやっても、社長の出勤が、こう遅くては、困りますね。」
「そうなんですよ。」
高子は、美しい眉を寄せて、
「南雲さんからも、すこし、意見してやってくださいません?」
「ええ、今夜は、友達甲斐に、活をいれてやりましょう。そのつもりですよ。」
「ぜひ……。でないと、今のままでは、せっかく、父から受け継いだこの会社、ダメになりますわ。」
「しかし、本当に社長のことを心配している社員も、いるらしいじゃアありませんか。」
「そりゃアいることは、いるんですが。」
「さっきの娘、白石厚子とかいいましたが――、その一人らしい。」
「ええ。でも、あのひとは、兄が、採用したんですのよ。」
「あッ、道理で。」
「あのひとの姉が、銀座のバーで、働いているんです。」
「で、日吉君が、飲みに行って、頼まれた、というわけなんですか。」
「そうなんですのよ。」
「すると、日吉君は、そのバーの女が、好きなんですか。」
「それが、あたしにも、まだ、よく、わからないんです。いずれ、今夜、そのバーへ行くことになる、と思いますが、おとなしくて、感じのいいひとですけど。」
「そりゃアたのしみだな。」
龍太郎は、笑いながらいってから、
「実は、黙っていよう、と思っていたんですが。」
「どういうことでしょうか。」
流石に、高子の顔は、不安そうであった。
「昨夜、こっちへくる汽車の中で、僕は、美和子さんに、お会いしたんです。」
龍太郎は、美和子から、自分の経営するバーにくるように、と誘われたことを話した。
高子は、しばらく、黙っていてから、溜息をつくように、
「そのことなら、あたし、知っていました。」
「何アんだ。」
龍太郎は、苦笑を洩らして、
「それだったら、特別に、僕から申し上げる必要は、なかったわけですね。」
「いいえ、やっぱり、聞かせて頂いておいた方が……。」
「勿論、日吉君も、知っているんでしょう?」
「さア、どうですか。」
「と、いうと?」
「あれくらい、銀座で遊んだりしているんですから、多分、噂ぐらいは、聞いているだろう、と思うんですが、あたしには、何んにもいいません。でも、ひょっとしたら。」
高子は、言葉を切ってから、
「あたし、兄は、いまでも、美和子さんに未練があるんじゃアないか、と思っているんですよ。」
「そう思われるフシでもあるんですか。」
「だって、その後、結婚しようとしないんですもの。」
しかし、結婚しようとしないのは、自分もではないかと、高子は顔をあかくした。もし、そこを、龍太郎から衝かれたら、どうしようか、とうろたえたのだが、しかし、彼は、黙っている。高子は、ほッとしながら、物足らなさをも感じないではいられなかった。
龍太郎は、煙草に火を点けて、
「しかし、日吉君が、結婚しないのは、美和子さんでなしに、ほかに好きな女がいるからかもわかりませんよ。」
「ええ。」と、高子は、素直に頷いて、「それだといいんです。でも、かりに、兄が、今でも、美和子さんが、忘れられないでいるのだとしたら、あたしは、困ると思うんです。」
「お母さんが、反対だから?」
「いいえ。」
「じゃア、バーのマダムになっているからですか。」
「いいえ。」と、高子は、それにも、頭を横に振って、「汽車の中で、美和子さんは、ひとりで、いなさったでしょうか。」
「いや、連れがあったようです。」
「五十年輩の男のひとでしょう?」
「ええ。」
「その人が、会社の本間常務なんですよ。」
「本間常務?」
龍太郎は、聞き返したのだが、すぐに、
「ああ、思い出しましたよ。僕も、たしかに、どっかで見たような顔だが、と思ったんですが、今まで、思い出せなかったのです。本間常務なら、日吉君の結婚披露宴の時に来ていたでしょう。」
「ええ。」
「じゃア、間違いない。」
龍太郎は、断定するようにいった。
「その本間さんが、美和子さんのパトロンになっているんですよ。」
高子の顔に、憤りの色が、満ちて来たようであった。そして、そういうときの高子の美しさは、いちだんと冴えて、龍太郎ですら、ハッと、息をつめたくなってくるのだ。
「本当ですか。」
龍太郎は、信じられぬようにいった。
「間違いありませんわ。」
龍太郎は、心の中で、うーむ、と唸った。
「あたしのお友達のご主人が、ときどき、そのバーへいらっしゃるんで、あたしに、おしえてくださったんです。」
「無論、日吉君には、何んにも、話してないんでしょうね。」
「そんなこと、可哀そうで、あたし、いえませんわ。」
「そう。」
「でも、あたしは、本間さんも、あんまりだ、と思います。そりゃア、いったん、別れてしまえば、もう、赤の他人には、違いがありませんけれど、それだって、まるで、兄を踏みつけにした態度のように思われてなりません。」
「…………。」
「結局、本間さんは、社長を社長とも思っていらっしゃらないからだ、と思います。」
「…………。」
「あたし、それを知ったとき、口惜しくて、一晩中、ねむれませんでした。」
「わかりますよ、そのお気持。」
「あたしが、この会社へ入ろう、という気になったのは、それからですのよ。」
「…………。」
「すこしでも、兄の味方になってやりたかったのです。」
「…………。」
「入ってみて、兄が、どんなに無力な社長か、あたし、よく、わかりました。」
「…………。」
「気が弱いんです。心の中で思っていることが、口に出していえないんです。」
龍太郎は、頷いてみせた。
それに力を得たように、高子は、
「南雲さん、兄をたすけてやってくださいません?」
「というと?」
「あたしひとりでは、どうにもなりません。だから、南雲さんに、この会社へ来ていただいて、兄の片腕になって…….」
そのとき、扉が、開いた。二人が、その方を見ると、善太郎であった。
「あッ、南雲。」
善太郎は、嬉しそうにいった。
「こいつ、遅いぞ、もう十一時を過ぎたじゃアないか。」
「まア、いうな。いつ、出て来たんだ。」
「けさだ。」
「よく、来てくれたなア。青田も、きっと、よろこぶよ。」
そんな二人の姿を、高子は、しみじみとした瞳で、眺めていた。
厚子が、龍太郎を秘書室へ連れていって、もとの事務室へ戻ってくると、
「今のは、誰だい?」と、大間が、早速、顔を寄せて来た。
「南雲さん。社長さんのお友達なんですって。」
「ふーむ。しかし、ボストン・バッグを下げていたな。」
「だから、さっき、九州からいらっしゃったのよ。お嬢さんとも、お知り合いらしいようすだったわ。」
高子のことは、表向き、日吉と姓を呼んでいいことになっているのだが、陰では、お嬢さんという社員の方が、多かった。
「あたしが、案内していったら、とても、嬉しそうな顔をなさったわよ。」
「すると、お嬢さんの恋人か、許婚者にあたる人なのかな。」
「あら、どうして?」
「いやね、お嬢さんが、今日まで、結婚なさらないのは、七不思議の一つになっているんだよ。しかし、九州に、ちゃんと、そんな男がいたんなら、七不思議も六不思議になってしまうな。」
「何も、そうと、きまったわけじゃアないわよ。」
しかし、厚子にも、さっきの高子の顔色の明るさは、特別であったようだ、と思いあたるのだった。
いつも、冷静にかまえていて、めったに、そんな表情を見せたことのない高子なのである。
が、厚子には、もし、龍太郎と高子が、すでに、大間のいうような関係にあるのだ、とすれば、ちょっと、残念なような気もするのだ。
その厚子が、急に、
「ねえ、あたし、思いだしたわ。」
「何を?」
「いつか、あたし、姉に聞いたのよ。お嬢さんが、秘書におなりになった晩、社長さんといっしょに、姉のバーへいらっしゃったことは、前に話して上げたでしょう?」
「ああ、聞かしていただいたよ。」
「そのとき、お嬢さんが、もう一人、この会社に採用して貰いたい人がある、と社長さんに、おっしゃったのよ。」
「すると?」
「そうよ、その人の名は、たしか、南雲さん、というのだったわ。」
「間違いないか。」
「大丈夫よ。あたしって、とても、記憶力がいい方なんだから。」
「もし、そうだとしたら、ちょっと、面白くないなア。」
「何故?」
「どうせ、僕より上にくるんだろうからだ。」
「何をいっているのよ。そんなこと、きまってるわよ。」
「君は、簡単に、そんな風にいうけれど。」
「ちょっと、待って。あたし、もし、あの人が、この会社に入ってくださったら、きっと、社長派の勢力が、強くなると思うわ。」
「そう簡単にいくものか。」
「いくわよ。だって、あの人、九州男子よ。とても、たのもしい感じがしたわよ。きっと、有能の士だわ。」
厚子は、すこし、龍太郎を、ほめ過ぎるようだ。それが、大間の気に入らなかった。何んとなく、癪にさわってくるのである。
しかし、厚子は、そんなことに、おかまいなしに、
「あたし、あのひと、この会社に入るために、わざわざ、九州から、出て来たのに違いない、と思うわ。」
「そんなこと、わかるもんか。かりに、そうだとしても、こんどは、君なんかを採用するのと違って、田所専務だって、なかなか、うんと、いわないよ。」
「まア。」
厚子は、あきれてみせて、
「大間さんて、そういう人だったの?」
「何?」
「だって、あなたは、まるで、社長派の勢力の強まるのに、反対しているみたいだもの。」
「そんなこと、あるもんか。」
「ううん、そうよ。」
厚子は、断定するようにいって、
「そんな風だから、いつかのように、課長さんから、あんな皮肉をいわれたりするんだわ。」
その皮肉とは、こうなのである。
岩田が、大阪へ転勤になってから、一週間ぐらいたって、大間が、山形人事課長の席へ呼ばれたのである。
「君は、この間、岩田君を送って、わざわざ、東京駅へ行ったそうだね。」
「はい。」
「ご苦労であった。」
「いえ。」
「実は、僕も、行きたかったのだが、生憎、ほかに用事があってね。」
そういいながら、山形は、大間の身辺を、まるで、なめまわすように、皮肉な眼つきで、眺めているのだった。
大間は、もう、何んとなく、顔色を青くしていた。
「ところで。」
山形は、口調をあらためて、
「君は、岩田君のバンザイの音頭を取ったそうだね。」
「いけなかったんですか。」
大間は、すこし、反抗的にいった。
「いやいや、いけないどころか、いい度胸だ、といっているんだよ。」
「そうでしょうか。」
「そうだとも。まア、君は、どういう意味で、バンザイと怒鳴ったのか知らないが、近頃、バンザイは、あんまり、はやらないんだからね。」
そのあと、山形は、そこらに、聞えよがしに、わッはッは、と笑ってから、
「もう、帰ってよろしい。」と、顎をしゃくったのである。
尤も、この話には、後日談がある。数日後、オールドミスの正木信子は、山形の席へ行って、
「東京駅で、大間さんが、バンザイ、といったことですがね、山形さん。」と、切り出したのである。
山形にも、この女は、苦手らしかった。苦笑を洩らして、
「いや、あれは、大間君の度胸を、ほめてやったんだよ。」
「そんなら、張本人のあたしも、ほめて下さい。」
「あなたが、張本人だったんですか。」
「ええ、嫌がる大間さんに、無理矢理に、バンザイ、といわしたのは、あたしなんですよ。」
「いや、よく、わかりましたよ。」
「ほめてくださいますか。」
「ほめます。」
「かりに、そのため、ほかの人より、よけいに昇給するんでしたら、大間さんでなしに、あたしにしてくださいよ。」
「わかりました。」
流石に、山形は、不愉快そうな顔になっていた。しかし、信子は、逆に、ニッコリして、山形の席から、離れていったのである。
その後日談の方は、ともかくとして、大間は、山形から、皮肉をいわれた当座、
「バカにしてやがる。」と、いいながらも、すっかり、悄気ていたのである。
あんまり、悄気ているので、厚子は、一晩、大間につき合って、映画を見にいってやった。
珍しく、厚子が、払うといったけれども、結局、大間の方が、払ってしまったのであるが……。
厚子は、
「だから、この際、あんなことぐらいで、皮肉をいわれたりしないような社風にすべきだ、と思わない?」
「そりゃア思うよ。」
「だったら、南雲さんのような人が、この会社に入ってくることを、歓迎すべきじゃアない?」
「まア、そうだ。」
「まアだけ、よけいだ、とあたしは、思うけど。」
「しかし、あの人が、社長を訪ねて来た、というだけで、入社のためにやって来たのだ、と思うのは、ケイソツ過ぎる、と僕はいうんだよ。」と、大間も負けていなかった。
「それだったら、あたしたちで、運動を起したら?」
「運動?」
「そうよ、たとえば、社長さんとか、お嬢さんに、ぜひ、南雲さんに、入社して貰ってください、と申し出るのよ。」
「いったい、誰が、いいに行くのだ。」
「大間さん、どうお?」
「嫌だよ。」
「意気地なしねえ。」
「そんなこというんなら、いっそ、君がいいに行ったら、どうなんだ。」
「そうね、行ってもいいわ。」
「本気かい?」
「そうよ。」
厚子は、今にも、立ち上がらんばかりの気配をしめした。
「待て、待ちたまえ。」
却って、大間の方が、あわてて、それから、つくづく、厚子の顔を眺めながら、
「君って、変ってるなア。」
「そうでもないわよ。だって、本当は、正木さんに、相談しにいくつもりだったんだもの。」
厚子は、ニヤリとしてみせた。
大間は、腐ったように、チェッと、舌打ちをしたとき、給仕がやって来て、
「白石さん、人事課長さんが、呼んでいられます。」
大間と厚子は、思わず、顔を見あわした。さては、陰謀が、もう、バレたのか、とそんな気がしたのである。
しかし、厚子は、すぐ、席を立っていった。
「お呼びでしょうか。」
「ああ、君。」
山形は、厚子を見上げて、
「どうだね、バーのお姉さん、その後、お元気かね。」と、周囲に、聞えよがしにいった。
姉が、バーに勤めていることは、すでに、社内周知のことだった。それにしても、こんないい方は、ひどすぎる。厚子は、むっと、唇を噛みたいところだったが、逆に、
「あら、人事課長さんは、ときどき、いらっしゃってるんじゃアありませんの?」と、これまた、周囲に、聞えよがしに、答えたのである。
たしかに、これは、山形にとって、思いがけぬ逆襲であったようだ。
「何?」と、思わず、厚子を睨みつけたのである。
しかし、睨みつけられた厚子の方は、ケロリとして、むしろ、無邪気に、
「だって、姉が、いってましたわ。人事課長さんが、ときどき、来てくださるんで、とても、たすかるんですって。」
「…………。」
「ついでがあったら、あたしから、よろしくお伝えしてくれ、といわれてますのよ、課長さん。」
しかし、よろしく、というのは、嘘だった。厚子にしても、こんな風にまでいうつもりは、なかったのだが、山形の顔を見ているうちに、ムカムカとして来て、騎虎の勢いで、そういってしまったのである。
いったあとで、これは、いい過ぎたか、と後悔していた。
周囲が、仕事をしながら、聞き耳を立てていることは、明白であった。
山形にしても、自分が、社員の姉のいるバーへ、ちょいちょい、出入していると、知られることは、感心しなかった。目的は、別にあったとしても、それを喋るわけにはいかないのである。
山形は、厚子を、嫌な娘だ、と思った。一本、やり込めてやりたいところだが、そんなことをしたら、この上、何をいい出すか知れない。
「よしよし。」
山形は、わざと、薄笑いを浮かべながら、
「君のいいたいことは、それだけだね。」
「はい。」
「では、こっちから聞くが、さっき、受付へ来た人は、何んという男なんだ。」
「南雲龍太郎さんです。」
「南雲?」
山形は、どこかで、聞いたような名だ、と思った。
「はい。」
「誰を訪ねて来たんだ。」
「社長さんです。」
「でも、社長は、まだ、来ていないんだろう?」
「だから、秘書室へお通ししておきました。」
「そう、頼まれたのか。」
「いいえ、あの方、社長さんのお友達なんです。わざわざ、九州からいらっしゃったんです。お嬢さんが、社長秘書をしていられる、とあたしが申し上げたら、お会いしたい、とおっしゃったんですわ。」
そういいながら、厚子は、山形の表情の変化を、見つめるような瞳をしていた。
さっき、自分が感じたことを、この山形も、感じているのでなかろうか、と思ったのである。
果して、山形は、考えこんだ。厚子は、何んとなく、胸の高鳴ってくる思いだった。
「何の用事で、来たんだろう。」
山形は、つぶやくようにいったのだが、すぐ、厚子が、まだ、そこに立っていることに、気がついて、
「もう、いい。」
「はい。」
厚子は、頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
「何を、聞かれたんだ。」と、大間が、顔を寄せて来ていった。
「さっきの南雲さんのことよ。」
「南雲?」
「そうよ。敵は、どうやら、南雲さんのいらした理由を、感づいたらしいわ。」
と、いってから、更に、
「あたし、心配だわ。だって、そうなったら、敵だって、黙ってみていないに違いないもの。」
山形は、まだ、考え込んでいた。
そして、彼の心配していることは、やはり、
(あの男、ひょっとしたら、社長に呼ばれて、この会社に入ってくるために、来たのではあるまいか)
と、いうことだった。
何も、そうと断定すべき根拠が、あるわけではなかった。ただ、友達だから、ちょっと、寄ったのだと考えた方が、常識的なのである。
にもかかわらず、山形は、一種の胸騒ぎにも似た不安を、禁じ得ないのである。
(二度あることは、三度ある、というし)
一方では、彼は、
(誰が入ってこようが、いいではないか)
と、思うように努めてもみた。
しかし、現に、高子が入っただけで、仕事がやりにくくなったことは、たしかなのである。高子は、秘書だから、平常、そう直接には関係がない。
が、かりに、あの男が、自分の上役、たとえば、総務部長という名目ででも入って来たら、恐らく、手も足も出なくなるのではなかろうか。
いや、それだけでは、すまないかも知れぬ、逆に、従来、田所専務に可愛がられている連中の追い出しにでもかかられたら、それこそ、目もあてられないのである。
山形は、知っている。この会社は、田所専務派と、本間常務派と、そして、社長派にわかれていることを――。
前社長の生きていた頃には、決して、こうではなかったのである。むしろ、社長独裁といった方がよかった。
しかし、亡くなったあと、若い社長がくると、仕事をまかされた田所と本間が、相反発するようになった。それが、派閥をつくる原因となったのである。
社長の存在は、何んとなく、無視されてきた。無視されても仕方のないような勤務ぶりであったのだ。
そうなると、社員たちも、どちらかの勢力につかなければ、安心してはいられなくなって来たのである。それは、好むと好まざるとにかかわらず、保身上、必要なことであった。
そして、今日では、田所派の勢力が六、本間派が三、社長派が一、というようになっていた。
ところが、厄介なことに、近頃、社長が、自分こそ社長なのだ、と意識してきたらしいのである。
すでに遅すぎたのだ。今頃になって、ジタバタされたのでは、社内の空気が、動揺するばかりである、といいたいくらいだった。
せっかく、今日の築き得た地位を、そのため、他人に譲らなければならなくなるとしたら、我慢がならない、それは、正しいとか、正しくない、ということではなかった。ただ、保身のために、防衛することが必要なのである。すくなくとも、六、三、一の比率を、現状維持していかなければ、どんな目にあうかも知れないのである。
(これは、やはり、田所専務のお耳に、一応、おいれしておいた方が、いいのではあるまいか)
山形は、そう思うと、じいっとしていられなくなった。立ち上がりかけたとき、給仕がやって来て、
「課長さん、専務が呼んでいられます。」
「おお。」
山形は、急いで、事務室から出ていった。
山形は、田所専務の部屋へ入って、
「お呼びでしょうか。」と、丁寧にいった。
しかし、田所は、天井を見上げたまま、彼には、眼もくれず、
「ああ。」と、いっただけであった。
山形は、黙って立っているより仕方がない。そんな場合、二分でも、三分でも、そうしていなければならないのである。逆に、こっちから、何かいうと、ジロリと睨みつけられるのであった。
「……、君は。」
田所が、やっと、いったが、相変らず、天井を見上げたままである。
「はい。」
「銀座の『けむり』とかいうバーへ、その後、行っているのかね。」
山形は、その報告を怠っているではないか、と叱られたように、ちょっと、首をすくめて、
「はあ、二、三回。しかし、社長は、めったにこないようなのです。」
「なら、結構なことだ。ところで。」
田所は、はじめて、山形の方を見て、
「銀座のすずらん通りに『ハイツ』というバーがあるそうだが、知っているかね。」
「さあ。」
「あるはずだ。社長の前の奥さん、美和子さんがマダムだそうだ。」
「本当ですか。」
「そのバーは、本間君が設計したんだそうだ。」
「本間常務が?」
「噂なのだ。勿論、プライベートの仕事なんだろう。さっき、調べて貰ったんだが、設計料は、会社に入っていない。」
「そりゃア困りますね。いくら重役でも、内職はいけないことになっているんですからね。」
山形は、田所に、迎合するようにいった。
「まあ、いいではないか。」
田所は、軽くいって、
「本間君が、ちょいちょい、そこへ行っているらしい。」
「…………。」
「パトロンだ、ということだ。」
「えッ?」
「噂なんだ。」
「いちど、たしかめてみましょうか。」
「何んの必要があってだね。」
田所は、むしろ、不思議そうな顔をしてみせた。
しかし、これが、田所の癖であることぐらい、山形は、知っていた。
「いえ、人事課長としまして。」
「おや、人事課長は、重役の素行まで調査するのかね。こいつは油断がならんぞ。」
田所は、急に機嫌のいい顔になって、
「わしは、ただ、君のことだから、すでに、知っているか、と思っただけなんだよ。」
「いえ、ウカツでした。しかし、専務。もし、その噂が、本当だとすれば、本間常務も相当なもんですね。」
「どうして?」
「だって、そうじゃありませんか。もし、社長の耳に入ったらまずいことになる、と思うんです。」
「しかし、別れてしまえば、赤の他人ではないか。」
「そりゃアそうかも知れませんが。」と、いってから、山形は、口調をあらためて、「ちょっと、専務に、ご報告をしておきたいことがあるんですが。」
「どういうことなんだ。」
「ただ、何んとなく、気にかかるんで、申しあげるんです。」
「…………。」
「社長の友達に、南雲龍太郎という男がいるんです。」
「ああ、いる。」
「おや、ご存じだったんですか。」
「社長の結婚披露宴のとき、わざわざ、九州から来てくれたんだ。いい男だよ。」
「ああ、それで。私も、前に一度、そんな名を、見たか、聞いたか、したような気がしたんです。その南雲が、さっきから、社長のところへ来ているんです。」
「しかし、社長は、まだだろう?」
「それで、総務課の白石厚子が、秘書へ通したんです。」
「あたりまえのことだ。」
「はい。ただ、私としまして、前にも申し上げた、と思うんですが、二度あることは三度ある、といいますし。」
「…………。」
「もしかして、社長が、その南雲を、この会社へ入れるために、呼び寄せたのではないかと。」
田所は、ジロリと山形を見て、
「そう思われるフシでもあるのか。」
「いえ。ただ、そんな気がするもんですから。」
「それで?」
「もし、そうだ、としたら、絶対に困る、と思うんです。」
「何故?」
「しかし、専務。社長は、何んの必要があって、今頃、そんな真似をしなければならないんですか。」
「そんなこと、わしは、知らんよ。」
田所は、そっぽを向いた。
しかし、山形は、それだけいってしまえば、すでに、一応の目的は、達したのである。あとは、この専務にまかせておくだけだ。
「失礼します。」
「うん。」
山形が、部屋から出ていったあと、田所は、考え込んでいた。
田所は、南雲龍太郎のことを、それほど、はっきりと覚えているわけではなかった。しかし、三年前の印象では、社長とは比較にならぬ程、骨のある、しっかりした男であったようだ。
(かりに、あの男が、この会社へ入ってくるとしたら……)
それも、社長の招きに応じてくるのだ、としたら、相当、重要なポストを与えてやらねばなるまい。
(何も彼も、やり難くなってくる)
そう、何も彼も、なのである。
一例が、今は、かりに、本間常務という、目の上のコブのような男がいるにしても、田所は、勝手に振舞って、誰も、面と向かって文句をいわないのである。その独裁の優越感を半減されることは、我慢がならなかった。
いや、それよりも、彼の胸の奥に、もっと、遠大な計画が、秘められているのだった。
日吉不動産と東洋不動産とを合併し、それに君臨することなのである。そして、その計画は、着々と、実行に移されつつあった。その野心の達成のためには、多少の泥水ぐらい、平気で飲む覚悟をしていたし、すでに、飲んでもいるのだった。
今夜も、そのため、ある男と会うことになっていた。
「よし。」
田所は、立ち上がった。
「どうだ、今夜は、すこし遠いが、多摩川べりの鮎料理を食べにいかないか。」と、善太郎がいった。
「うん、鮎は、悪くないな。」と、龍太郎が答えた。
「じゃア、青田にも連絡をしておくから。」
「頼む。」
「高子。料理屋の方へも、今夜、行くからといっておいてくれ。」
「承知しましたわ、社長さん。」
「なるほど、名秘書だ。」
「いや、南雲。どうも、高子が来てから、不自由で困るんだ。」
「うん、わかる。」
「何をいってらっしゃるのよ。」
高子が、二人の男を、睨みつけるようにしたとき、田所が、入って来た。
そのため、せっかく、和やかになっていた社長室の空気が、忽ち、さっと、緊張したようであった。
しかし、田所は、そんなことにおかまいなしに、
「やア、南雲さん。」と、ニコニコしながらいったのである。
「田所です。覚えていてくださいますか。」
「覚えています。その節は。」
龍太郎は、立ち上がって、頭を下げた。
「こんどは、ご出張なんですか。」
「ええ。」
「九州の方で、バリバリとやってなさるそうですな。」
「とんでもない。」
「いや、お噂は、聞いていますよ。結構なことだ、と思っています。今後も、大いにやって下さい。どうです、今夜、もし、およろしかったら、お食事をごいっしょに。」
「せっかくですが、先約がありますから。」
「なるほど。すると、社長とですな。一つ、盛大にやってください。いえね、このビルディングの地下室をキャバレエに貸したりして、近頃、社長も、すっかり、ご機嫌が斜めなんですよ。勿論、感心しないことだ、とわかっています。しかし、この不景気な世の中を乗り切っていくことは、大変なことでしてね。南雲さんなら、そんなこと、十分に、ご承知でしょうが、この会社も、いろいろ、お金のいることがございましてね。まア、背に腹は換えられず、というわけなんですよ。」
田所は、一人で、喋りまくって、
「ですから、今夜は、親友のよしみで、社長のご機嫌を直すようにしてください。私からも、お願いしますよ、南雲さん。わッはッは。」
と、大声で笑って、
「いや、お邪魔をしました。失礼します。」と、社長室から出ていってしまった。
始終、むっつり、黙り込んでいた善太郎は、
「あいつ、狸親爺め。」と、いまいましげにいった。
それを聞くと、龍太郎は、急に、笑い出してしまった。
「こら、南雲。何が、おかしいんだ。」
「いや、あれは、狸も狸、大狸だよ、すっかり、いかれてしまった。」
「それみろ。社長としての僕の辛さが、やっと、わかっただろう?」
すると、龍太郎は、笑いを引っ込めて、
「何をいってるんだ。君が、あんな風にしてしまったんじゃアないか。」と、やり返した。
「いや、もともと、あんな男なんだ。」
「まだ、そんなことをいっている。たしかに、あの男は、われわれ、青二才より、役者が、数段、上だよ。しかし、悪いのは、君の方だな。」
「どうして?」
善太郎は、ちょっと、不満そうにいった。
「たとえば、今日の出勤時刻は、どうしたんだ。十一時だったじゃアないか。それでも、まだ、昔より、早くなった方だ、と聞いて、僕は、あきれたのだ。」
「いや、それは――。」
「まア、聞け。」
龍太郎は、おだやかに、おさえるようにいって、
「僕は、そんな社長なんか、いっそ、馘にしちまえ、と思ったよ。だから、田所氏が、勝手な真似をするとしても、それは、君の責任なのだ。今更、誰にも、文句をいうことはないさ。」
「ひどいことをいう奴だ。」
「何、こんなのは、まだまだ、序の口だ。今夜は、青田と二人で、君を、うんと、とっちめてやるつもりなんだから、あらかじめ、覚悟をしていろよ。」
「おい、僕は、今夜、行くのをよすよ。」
「ダメだ。こうなったら、首に縄をつけてでも、引っ張っていくからな。」
「そうよ。」と、横から、高子がいった。
「こら、秘書のくせに、黙っとれ。」
「秘書としてでなく、妹としていったのだわ。ねえ、南雲さん。」
「まア、そこは、適当に。じゃア。」
龍太郎は、立ち上がった。
龍太郎は、廊下へ出た。そして、エレベエタアを待っているとき、うしろから、
「南雲さん。」と、声をかけられた。
振り向くと、さっき、秘書室へ案内してくれた娘が、ニコニコしながら、立っていた。
「やア、さっきは、どうも。」
「社長さんに、お会いになれまして?」
「ええ、会いました。」
「じゃア、ついでに、社長さんに、意見してあげてくださいまして?」
「してやりましたとも。」
「そう。」
厚子は、満足そうな表情で、
「どうも、ありがとう。」
「いやいや、今夜も会いますから、もっともっと、意見してやりますよ。」
「あら、それじゃア、社長さんが、お気の毒だわ。」
「何、かまいませんよ。」
「ひょっとしたら、南雲さん、この会社にお入りになるんじゃアありません?」
「えッ?」
「あたし、そんな気がしていたんですけど。」
「違いますよ。」
「じゃア、あたし、ガッカリだわ。」
厚子は、本当に、ガッカリしたような顔をしてみせた。
エレベエタアが、昇って来たので、二人は、乗り込んだ。途中で、何度も停って、満員になった。
エレベエタアを降りたところで、厚子が、
「あら。」
そこに、一見、二十七、八歳の女が、立っていたのである。その女は、厚子に、軽く、会釈を残して、エレベエタアに乗り込んでいった。
「ねえ、今のひと、正木信子さんといって、社長派の大姐御さんですのよ。」
龍太郎は、えッ? と振り返ってみたが、すでに、エレベエタアは、昇っていったあとであった。
「そうか。そんなら、もっとよく、見ておくんだったな。」
龍太郎が、何気なく、そういうと、
「じゃア、あたし、お呼びして来ましょうか。」
厚子は、今にも、引っ返していきそうな素振りを見せた。
龍太郎は、あわてて、
「いや、そんな必要はないんだよ。」
「でも、とても、いいひとですわ。あたしなんかにも、随分と、気をつかってくださるんです。」
「同じ社長派だから?」
龍太郎は、笑いながらいった。
「ええ。」
厚子は、嬉しそうに頷いた。
気がつくと、二人とも、ビルディングの玄関で、立話をしているのだった。
「君は、どこまで行くの?」
「あら。」
「僕は、これから、丸の内の方へ行くんだが、方向がいっしょだったら、送ってあげるよ。」
「いいえ、違うんです。」
厚子は、きまり悪そうに、顔をあからめて、
「ただ、何んとなく、ついて来てしまったんです。」
「それは、すまなかったね。」
「あたし、失礼します。」
ピョコンと、頭を下げて、去りかける厚子に、龍太郎は、とっさに、
「ちょっと。」
「えッ?」
「もう、お昼だ。よかったら、そこらで、お昼ごはんを食べようか。」
これは、龍太郎にしては、珍しいことだった。彼は、はじめて会った女に、食事を誘うような芸当の出来る男ではないのである。恐らく、厚子のあけっぱなしな態度が、彼を、つい、そんな気持にしてしまったのに違いない。
それとも、龍太郎は、無意識のうちに、厚子から、この会社の内情を、もっと、知りたいと思うようになっていたのであろうか。
厚子は、パッと、顔色をかがやかして、
「まア、嬉しい。」
「しかし、今から出ても、かまわないんだろうな。」
「大丈夫です。」
「よし。どっか、この辺に、君の知っている店はない?」
「ありますわ。五十円で、ライスカレーを食べさせてくれるんです。」
「五十円?」
「ええ。」
「そりゃいい。そこへ行こう。」
龍太郎は、何んとなく愉快になった。昼食といったら、すぐ、五十円のライスカレーと答えたところが、気に入ったのである。これで、平常、めったに食べられぬ豪勢な料理を希望されたらきっと、幻滅を感じたであろう。
厚子は、いそいそと、寄り添うように、ついて来た。時々、龍太郎の腕に触れる厚子の肩の感じには、弾みがあって、健康と若さをあらわしているようだった。女の成熟直前を思わせた。
龍太郎は、ふっと、昨日、博多駅まで送ってくれた、曽和沙恵子の面影を描いた。しかし、ここは、東京の真ン中なのである。彼は、その距離をもどかしく思った。
五十円のライスカレー屋は、まだ、それほど、混んでいなかった。そして、厚子が、あそこがいいわ、と自分で選んだ席は、はじめて、この店へ、大間に連れられて来た時に腰をかけたそれであった。
その時、大間がかけた席に、今、龍太郎がかけているのである。
さっき、厚子が、龍太郎のことを、きっと、九州男子よ、たのもしい感じがしたわ、有能の士だわ、とほめちぎったので、大間は、不機嫌になっていたようだ。
だから、こんなところを、大間が見たら、何んというか知れないのである。怒って、二、三日、口を利かない、ということぐらいには、なりそうである。
(男なんて、女よりも、ヤキモチ焼きなんだわ、きっと)
厚子は、ペロリと、舌を出したくなった。
しかし、厚子は、やっぱり、日吉不動産に、南雲が来てくれたらと、思わずにはいられなかった。南雲が来てくれたら、何も彼も、解決するような錯覚におちいっていた。
彼女は、南雲が来て、たとえば、あの憎らしい人事課長を退治してくれたら、どんなに痛快だろうかと、思っているのだった。
それからまた、あの営業課長を辞めさせて、かわりに、大阪から、岩田を呼び戻してやったら、とも思っているのだった。もし、そうなったら、岩田の奥さんや子供たちは、どんなに、よろこぶだろうか。
「一カ月ほど前にね。」
厚子は、いいはじめた。
「営業課長代理をしていなさった岩田さんが、大阪へ転勤になったんですのよ。」
「うん。」
「それも、平社員に格下げなんです。」
「どうして、また。」
「ビルディングの地下室をキャバレエに貸すことに、反対なさったんです。それを、田所専務さんのところへ、直接、いいにいらっしたんです。ところが、専務さん、あ、そう、とおっしゃっただけで、一カ月目に、もう、転勤なんですのよ。」
「ひどいんだね。」
いいながら、龍太郎は、社長室での田所の言葉と態度を、思い出していた。
田所は、背に腹は換えられず、といっていたが、無論、龍太郎には、その真相は、わからなかった、しかし、地下室をキャバレエに貸した裏に、そういう出来事があったのか、と思うと、ふっと、田所への憤りにも似たものを感じるのである。
ライスカレーが運ばれて来た。
「ねえ、割合においしいでしょう?」
「うん、うまいよ。」と、龍太郎は、いってから、「ところで、今の話だけど、そういう場合、どうして、社長にいわないんだ。」
「いっても、ダメらしいんです。」
「ダメ?」
「だって、社長さんには、何んの実権もないんですって。みんな、そういってますわ。」
「…………。」
「岩田さんは、大阪には家がないので、単身赴任なさったんですけど、あとに残された奥さんや子供さんたちは、とても、可哀そうですわ。」
「…………。」
「あたしんところから近いので、時々、遊びに行ってあげるんですけど、奥さんは、毎日、何をする張り合いもない、といって、しょんぼりしてなさいますわ。そのうちに、馘になるかも知れない、と心配してなさいました。」
「そんなバカな。」
「だって、そんなことが、前にも、あったんですって。」
「組合が、あるんだろう?」
「ありますわ、ご用組合が。」
「しかし、サラリーマンの組合なんて、たいてい、ご用組合らしいよ。」
「でも、日吉不動産の組合は、専務さんのご用組合なんですのよ。だって、組合の幹部は、たいてい、田所派なんですもの。選挙のとき、どうしても、そうなってしまうんですよ。」
「じゃア、君のいう社長派は、組合の幹部に、一人も入っていないの?」
「いいえ、一人だけ。」
「誰?」
「正木信子さんです。」
「ああ、さっきの大姐御?」
「そうなんです。正木さんには、人事課長でも、ちょっと、頭が上がらないんです。」
「ほう、たのもしい人が、いるもんだな。」
「ええ。」
頷いてから、厚子は、大間が、岩田を見送りに行ったとき、バンザイの音頭を取って、あとで、人事課長から皮肉をいわれたけれども、それを正木信子が、逆に、その人事課長をやっつけた話をした。
「いよいよ、たのもしいんだね。」
龍太郎は、笑いながらいった。しかし、かならずしも、心の底から笑っていたわけではなかった。
田所もいけない。しかし、いちばんいけないのは、やはり、善太郎のようである。善太郎さえ、しっかりしていたら、社内は、そのように乱れなかったのではあるまいか。
いっそ、善太郎が、社長の地位から退いて、何も彼も、田所にまかした方が、もっと、うまくいくのでなかろうか、と思ったくらいだった。しかし、それは、せっかく、社長のため、と思っている人々を、見殺しにすることにもなるのだ。
田所のほかに、本間常務のいることも考えてみねばならない。別れたのだとはいえ、かつて、社長夫人であった女のパトロンになっているような男なら、一筋縄でいかないにきまっていよう。ある意味では、田所よりも悪党かも知れないのである。
龍太郎は、同じサラリーマンとして、そんな会社に勤める社員たちの辛さを思った。同時に、社長を社長とも思わぬ重役や社員たちの真ン中にいる善太郎を、自業自得とはいえ、やはり可哀そうだ、と思わずにはいられないような気がして来た。
高子が、秘書としてはいる気になったのも、妹として、見るに見かねてのことだったのかも知れない。
そして、その高子から、兄の片腕となるために入社してくれ、と頼まれたのだったと思い出していた。しかし、あの話は、善太郎が出社して来たので、そのまま、打ち切られてしまったのだった。
(どうも、みんなから、俺は、すこし、買いかぶられているらしい)
と、苦笑が、出かかった。
五十円のライスカレー屋は、混みはじめて来た。立って、席の空くのを待っている人もあった。
龍太郎は、外へ出ると、
「じゃア、失敬。」と、いって、タクシーを拾った。
そのタクシーを、厚子は、片手を振りながら、見送っていた。
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転機
「青田先生、もう、お帰りですか。」と、病院の玄関で、バッタリ会った竹中婦長にいわれた。
「ええ。」
「今夜は、まっすぐ、お宅へ?」
「実はね、竹中さん。」
青田は、楽しそうに、
「九州から、友達が上京して来たんです。」
「ああ、南雲さん?」
「おや、知ってるんですか。」
「何をいってらっしゃるんです、青田先生。この前、電話を取りついであげたじゃありませんか。」
「ああ、そうでしたね。その節は、どうも、いろいろお世話になりました。」
「どういたしまして。」
竹中婦長は、澄まし込んでいった。
しかし、横にいる看護婦は、青田が、そのとき、竹中婦長から、コップ一杯の水を、頭からかけられたのを知っているので、笑いをこらえるのに、一所懸命になっていた。
「すると、今夜は、帰りが遅くなりますね。」
「ええ、久し振りで会うんですから。」
「じゃア、今夜も、そこの長椅子の上で、おやすみになりますか。」
「とんでもない。今だったら、風邪をひきます。」
「何んでしたら、ちゃんと、毛布を用意しておきますけど。」
「いいえ、それには及びません。」
とうとう、ガマンし切れなくなって、看護婦は、プッと、吹き出してしまった。
「こら、何がおかしいんだ。」
青田は、叱りつけるようにいったのだが、自分からてれて、これまた、笑い出してしまった。
しかし、竹中婦長だけは、ニコリともしないで、
「行ってらっしゃい。」
「ええ。」
「今夜は、お宅へお帰りになった方が、ようございますよ。」
「わかっています。」
そういって、青田は、外へ出ていった。
(婦長は、いつまでも僕を子供のように、思ってるんだなア)
ちょっと、いまいましいが、しかし、どうせ、頭が上がらないのだ、と覚悟をすれば、気楽だった。むしろ、婦長の好意が、感じられるのである。
彼は、タクシーを拾って、
「銀座へ。」と、命じた。
昼過ぎに、高子から電話がかかって来たとき、
「どこで、落ち合いましょうか。」
と、いう言葉に、
「会社へ行くのも嫌だし、並木通りの『けむり』にしましょう。」と、青田の方からいったのである。
「今夜は、二子玉川へ、鮎料理を食べにいくんですけど。」
「結構ですよ。その前に、ちょっと、やっていった方が、却って、うまいと思うんです。」
「わかりましたわ。じゃア、六時に。」
「承知しました。しかし、南雲への連絡は、それでいいんですか。」
「ええ、四時頃に、こちらへ、お電話を下さることになっていますの。それから、今夜は、あたしも、お供をさせていただきますから。」
「どうぞ。」と、電話を切ったのである。
自分から『けむり』を希望したのは、和子の顔を見たかったからに違いなかった。一人のときは、そうでもないのだが、善太郎と二人でとなると『けむり』へ行ってみたくなるのだった。不思議に、心が弾むのである。
まだ、六時にすこし間があったので、青田は、並木通りの入口で、タクシーを降りた。ついでに、本屋へ寄った。
ひょいと、向こうを見ると、和子がいた。何かの本を、熱心に、立ち読みしているのである。青田は、しばらく、その横顔を眺めていた。そしてその横顔は、バーで見るときよりも、清潔だった。
青田は、ニヤリと笑ってから、人混みの間を縫って、和子の方へ近寄っていった。横に並んでも、まだ、和子は、気がつかずに、本に夢中になっている。
何を読んでいるのだと、青田は、そっと、覗き込むと、西洋料理の本だった。
「ふーむ。」
「あら。」
振り向いて、和子は、顔をあからめた。
「嫌だわ、青田さん。」
「案外、いいところがあるんだなア。」
「そうよ。」
和子は、その本を、元の場所に戻した。
「買わないのかい?」
「もう、覚えてしまいました。」
「チェッ、ちゃっかりしてるぞ。」
「だって……。」
「買ってやろうか。」
「いりません。青田さん、もう、ご用が、おすみになったの?」
「ちょっと、寄ってみただけなんだ。何んとなく、君が、タダ読みしていそうな気がしてね。」
「嘘おっしゃい。出ましょうか。」
「うん、出よう。」
二人は、外へ出た。
「お店へ寄ってくださる?」
「ああ、ちょっとね。今夜は、九州の南雲が来たんで、社長さんと飲むことにしたんだ。」
「お店で?」
「いや、君ンところは、ただ、集合場所なんだ。それから、二子玉川へ鮎料理を食べにいくんだ。」
「いいわねえ。」
「いっしょに、連れていってやろうか?」
「本当?」
和子は、瞳をかがやかしたのだが、すぐ、思い直して、
「でも、よすわ。ママさんに、悪いんですもの。」
「かまうもんか、僕からいってやるよ。」
「やっぱり、よしますわ、そのかわり、帰りに寄って頂戴。」
「寄れたらね。」
「南雲さんて、この前、高子さんが、日吉不動産においれしたい、といってらっしゃった方なのね。」
「そうなんだ。僕は、今夜こそ、あいつを口説き落してやるつもりなんだ。」
「ご成功を祈ります。」
「うん。」
「だって、そうなったら、その南雲さんも、どうせ、時々、お店へ来てくださるでしょう?」
「そういう魂胆であったのか。」
「そうよ、何事も商売第一。」
「こいつめ。」
青田は、そういってから、一抹の不安が、胸をよぎるのを覚えた。
(この女、僕よりも、南雲の方を好きになるんじゃアあるまいか)
そして、こんなことを考えるようでは、本当に惚れてしまったのだろうか、とも思わずにはいられなかった。
バー『けむり』はそこに見えていた。
二人で入って来たのを見て、マダムは、
「まア、いっしょだったの?」と、ちょっと、瞳を光らした。
「はい、マダム。ランデブーの帰りでございます。」
青田は、いいながら、気がつくと、龍太郎が、スタンドから、こっちの方を見て、笑っているのである。
「おお、来ていたのか。」
「十分ほど前に、いらっしゃったんですのよ。」と、マダムがいった。
「そうか、待たせて、すまなかったな。」
「青田先生。」
「何んだい、あらたまって。」
「だいぶん、腕をお上げになったようでございますな。」
「何、相変らずのヤブ医者さ。」
「いえ、その方ではなく、ご婦人の方。」
「こん畜生。」
青田は、龍太郎の背中を、どやしつけてから、スタンドに並んで、
「おい、よく来たなア。」
そういってから、まだ、そこに立っている和子の方を振り向いて、
「和ッぺ、これが、南雲龍太郎なんだ。」
「和子です。どうぞ、よろしく。」
「やア、よろしく。」と、龍太郎がいってから、「すると、あなたが、日吉不動産の白石厚子さんのお姉さんですか。」
「はい。」
「おや、もう、知っているのか。和ッぺ、気をつけろよ。南雲は、このように、ご婦人には――。」
「何んでございますか、青田先生。」
「先生はよせ。」
「じゃアヤブさん。」
「おお。」
「実は、このひとの妹さんに、社長室へ案内して貰ったんだよ。」
「まア、そうでございましたか。」
「その途中と帰りにも話してみたんだが、実に、面白いひとなんだ。いや、面白い、といってはあたらぬな。要するに、ありゃア忠臣だよ。」
「忠臣?」
「日吉不動産の社長派なんだ。」
和子は、当然の表情で、
「気が強くて、ガムシャラで、困るんです。家にいても、時々、そんなことを口にするんで、女事務員は女事務員らしくしなさい、といってるんですけど、ひとりでハリ切って、始末におえないんです。」
「そいつは、なかなか、頼もしいよ、なア、南雲。」
「青田、今夜は、日吉を、大いに激励してやろうじゃないか。」
「いいとも。」
「僕も、いろいろ、高子さんや、そのひとの妹さんから聞いたんだが、今のままでは、日吉不動産はいけないよ。日吉がいけない。」
「君も、そう思うか。」
「今日は、そう思ったな。」
「本当に、そう思ったんだな。」
「どうして、そんなに、念を押すんだ。」
青田は、ニヤリとして、和子の方を向き、
「和ッぺ。どうやら、お得意が一人、ふえそうだよ。」
そういいながら、これでは、この前、和子と善太郎を、わざと、渋谷の待合に残して来たときの自分と、すこしも変っていないではないか、と自己嫌悪に近い思いでいた。
「何んの話なのだ。」と、龍太郎がいったとき、扉が開いて、善太郎と高子が、入って来た。
「いらっしゃい。」と、和子がいった。
「やア。」
善太郎は、そのまま、スタンドに腰をかけて、
「マダム。僕に、ウイスキイを。」
「ハイボール?」
「いや、ストレートで飲むんだ。」
「まア、珍しいのね。」
しかし、善太郎は、むっつりとしているのである。高子は、静かに、龍太郎の横に腰をかけて、
「さきほどは。」と、いったのだが、その顔も、何かしら、緊張しているようだった。
青田が、善太郎に、
「おい。」
「うん。」
「ちょっと、興奮しているようだな。」
「そうなんだ。」
「何んだ、自分でわかっていれば、まア、たいしたことはないな。」
善太郎は、マダムの注いでくれたウイスキイを、一気に、口の中へ流し込んだ。誰も、ちょっと、あっけにとられていた。めったに、こういう飲み方をしない善太郎なのであった。
「何か、会社であったんですか。」
龍太郎が、高子にいった。
「ええ。」
すると、善太郎が、
「さア、行こうか。」と、もう、立っていた。
「おい、どうしたんだい、いったい。」と、青田がいった。
善太郎は、はじめて、青田の方を見て、
「後でいうよ。」
「今、いえないのか。だって、そんなに、むっとしていられては、こっちだって、気になるじゃアないか。」
「失敬。」
やっと、いつもの善太郎らしくなって、こんどは、坊っちゃんらしい気の弱さを、はっきり見せるような微笑を浮かべて、
「ここでは、カンベンしてくれ。あとでいうから。」
そんな兄の姿を、高子は、やはり、不安そうに眺めていたが、
「ねえ、参りません?」
「ああ、行きましょう。」と、龍太郎も立った。
青田だけは、ちょっと、面白くないようであったが、これも、気を取り直して、立ち上がり、
「どうだ、和ッぺ、いっしょにいかないか。」
「ダメですよ、青田さん。宵の口から、営業妨害をしては。」と、マダムの方が、先に答えた。
表に、善太郎の自動車が、待っていた。高子が、自分から、運転手の横の席に乗ったので、うしろは、男ばかりになった。
自動車が動き出しても、誰も、口を利かなかった。渋谷を走っているとき、青田が、
「ほう、渋谷も、賑やかになったなア。」と、いっただけであった。
自動車は、スピードを速めた。三軒茶屋を過ぎると、漸く、東京もヒナびてくるのである。自動車は、二子橋の手前で、左の坂道を下っていき、やがて、河岸に出た。
自動車は、その河岸を下っていった。
「よし、そこだ。」と、善太郎がいったのは、庭先に、樹齢二百年に及ぶだろう、と思われるケヤキの大木のある料亭の前であった。
四人が、自動車を降りた。その気配に、料亭の中から、二人の女中が出て来て、
「いらっしゃいませ。」と、愛想よくいった。
通されたのは、河に面した二階の部屋だった。三方の障子を取り払って、軒先に、いくつもの提灯が下げてあった。
「こりゃアいい。」と、青田がいった。
すでに、薄暗くなっているので、眺望はよく利かなかったが、空気の新鮮さが感じられた。龍太郎も、深く息を吸って、あちらこちらの夜釣りをしている人の姿を眺めていた。二子橋の上を、電車が通っていった。
龍太郎は、ふっと、いい匂いを感じて振り向くと、思いがけない程の近い位置に、高子が立っていた。提灯の光を受けて、今夜の高子は、なまめいてさえ見えた。
龍太郎は、ちょっと、狼狽しながら、
「いいところですね。」
「ええ。」
高子は、微笑を浮かべて、龍太郎と並んで、外を眺めた。
二人とも、黙っている。そして、黙っていることが、龍太郎に息苦しい思いをさせていた。
龍太郎は、善太郎が、何故あんなに興奮していたのか、聞いてみたい、と思った。それを聞けば、この息苦しい沈黙から逃げることが出来るのである。彼は、それを希望しながら、一方で、そうなることを惜しんでもいたのだった。
「南雲。」と、うしろから、青田がいった。
「何んだ。」
「こっちへこいよ。」
「うん。」
「今夜は、君が、床の間だ。」
「いや、そいつは困る。日吉、君に床の間を譲るよ。」
「僕は、ここでいい。」
善太郎は、立とうとはしなかった。
「じゃア。」
龍太郎は、空いていた床の間の席に座った。その真向かいに善太郎、左に高子、右に青田と席がきまった。
「南雲。床の間に座ったからには、それ相応の覚悟が、出来ているだろうな。」と、青田が、ニヤニヤしながらいった。
「何んの話なのだ。」
「まア、いいさ。」
「今夜は、日吉を激励する会、ということにしたいんだよ。」
「ああ、いいだろう。」
青田は、無造作に応じた。
しかし、善太郎は、黙り込んでいるのである。何か、考え込んでいるようだった。さっきの興奮が鎮まって、その反動が来ているようでもあった。
高子は、そんな兄の姿を、気づかわしそうに見ていた。
酒が運ばれて来た。四人が、それぞれ、盃をあげた。
「じゃア、カンパイ。」
「カンパイ。」
善太郎は、飲みほした盃を下に置くと、
「南雲、頼みがあるんだ。」
「頼み?」
龍太郎は、聞き返した。
「僕の会社、日吉不動産に来てくれないだろうか。」
「冗談じゃアない。」
「いや、本気なんだよ。」
「しかし。」
「頼む。」
横から、青田も、
「そうだ、南雲。日吉の会社へ入ってやれよ。それでこそ、友達というもんだよ。」
「困るんだ。」
「何も困ることはないじゃアないか。九州の会社を辞めて、さっさと、こっちへくればいいんだ。実に、簡単明瞭。それとも、君がいないと、九州の会社は、つぶれるとでもいうのかね。」
「まさか。」
「それみろ。」
青田は、盃を口にふくみながら、しかし、熱心な口調で、
「ところが、日吉の会社の方は、このままでは、ダメになってしまうのだ。」
「そんなことがあるもんか。要するに、日吉が、もっと、しゃんとすればいいんだ。」
「それみろ、ちゃんとわかってるじゃアないか。その日吉を、しゃんとさせるために、君のような男が、どうしても必要なんだ。」
「しかし、僕が入社したところで、何が、出来るもんか。」
「出来るか、出来ないか、やってみてからのことだ。その前に、つべこべと文句をいうのは、近頃の若い男の悪い癖だよ。」
「自分だけが年寄みたいな顔をするな。」
「僕は、医者だからな。」
「ヤブめが。」
「おお。まア、飲みねえ。」
さっきから、高子は、黙っている。しかし、高子の意見も、青田と同じであることは、いちいち、頷いていることでも、明白であった。
「こら、南雲。今夜は、ダテや酔興で、床の間の席に座らしてあるんではないんだぞ。」
「じゃア、僕は、この席から降りるよ。」
「いや、もう、遅い。こいつめ、男のくせに、往生際が悪いぞ。いい加減に、ウンといっちまえ。でなかったら、安心して、酒が飲めないよ。」
「…………。」
「それとも、みすみす、困っている友人を、見殺しにする気か。君は、そんなに友情心に薄い男であったのか。自分さえよければいい、というエゴイストであったのか。」
はじめは、冗談めかしていっていた青田だったのだが、そのうちに、だんだん、舌鋒が鋭くなってくる。そのくせ、まだ、誰も手をつけないでいる鮎の塩焼を、むしゃむしゃと食べているのだった。
龍太郎は、やり込められたように、苦笑していた。今日は、こんなはずではなかった。善太郎を被告にしてやるつもりであったのに、いつの間にか、自分が、被告席に立たされているのだった。
勿論、龍太郎には、青田のいうことが、よくわかるのである。かりに、自分が、青田の立場に立ったら、やはり、同じことをいうに違いあるまい。
しかし、そのことは、自分の一生を左右する重大なことなのだ、と思うと、軽々しく、決心はつかなかった。まして、このことは、単に、勤務先を変える、というような簡単な問題ではないのだ、とわかっていた。
龍太郎は、今、自分が重大な転機に立たされていることを、痛感していた。しかし、まだ、七三の比率で、青田の言葉を、心の中で拒否していたのである。
黙っていた善太郎が、顔を上げた。
「南雲。」
「…………。」
「僕は、君が、日吉不動産に入ってくれる、ということを、すでに、宣言してしまったんだよ。」
「誰に?」
「田所にさ。」
「いつのことなんだ。」
「さっき、会社を出るとき。」
青田が、手を拍って、
「そうか。そいつは、日吉にしては、大出来だった。そんなら、そのあと、あんなに興奮するのも無理じゃアないよ、なア、南雲。」
と、龍太郎を見て、
「こうなったら、もう、覚悟をしろよ。それとも、君は、これでもまだ、日吉を見殺しにする気なのか。」と、相変らず、出る料理を、片ッ端から平らげていた。
しかし、そのとき、龍太郎は、自分でも不思議なほど、冷静でいられた。
「日吉は、どうして、そんなことをいってしまったんだ。」
「まア、聞いてくれ。」
そして、善太郎の語るところによると、こうなのである。
山形人事課長が、社長室へ入って来て、その用事が終ってから、
「時に、社長。」と、口調をあらためていった。
「何んだね。」
善太郎は、面倒くさげに答えた。
この男が、田所の一の子分と知ってから、顔を見るのも嫌なのである。社長として、そういう好き嫌いは、いけないことだとわかっていながら、どうにもならないのだった。
「午前に、九州から、社長のお友達の南雲という人が、お見えになったそうですね。」
「それが、どうしたのだ。」
「いいえ、どうもしませんが、社員たちが、心配しているもんですから。」
「何を心配しているんだ。」
「二度あることは、三度ある、といいますからね。第一が、白石厚子、第二が、高子お嬢さん、それで、第三が、その南雲さんでないかとね。」
善太郎は、むっとした。かねて、考えていたことを、山形風情から衝かれたことも癪だったが、それよりも、山形のいい方には、社長を軽く見ているようなところがあって、気に食わなかった。
まさか、この男、田所の前では、こんな風なニヤニヤした口の利き方は、出来ないはずである。
だから、いってやった。
「もし、そうだとしたら?」
「困りますよ。」
「どうして、困るんだ。」
「だって、そう、次々に、社長が勝手に人を引っ張ってこられては、社内の人事が、めちゃめちゃになります。」
「かまわん。」
「ご冗談を。」
「いや、冗談ではないんだ。」
「すると、本当に、南雲氏を、この会社に、引っ張ってこられるんですか。」
「そうだ。」
善太郎は、そう、いってしまったのである。そこへ、いいあわしてでもいたように、田所が入って来た。
「あッ、専務。」
山形は、白々しくいってから、
「困るんですよ。」
「何がだね。」
「社長が、自分の友人を、この会社にいれる、とおっしゃるんですよ。」
「友人?」
田所は、善太郎の方を向いて、
「すると、南雲さんを?」
「そうなんだ。」
田所は、別に、おどろいた顔もしなかった。そのかわり、この前、厚子の時のように、いいではないか、社長がおっしゃるなら、君が別に文句をいうことはないはずだ、ともいわなかった。
しばらく、考えていてから、静かだが、おさえつけるように、
「社長、それは、おやめになった方がいい、と思いますよ。」
「何故?」
「社長が、そんな風に、自分の友達を引っ張っていらっしゃることは、社員たちがよろこびません。」
「かまわぬ。」
「そんな、子供のようなことをおっしゃっては困りますね。それに、そういうことは、いわゆる、側近をつくるようで、社員たちの勤労意欲をにぶらせますよ。」
それなら、田所に側近がいないというのかと、善太郎は、いい返してやりたかった。しかし、いえないのである。黙っていた。そして黙っていることが、善太郎として、せいいっぱいの反抗のつもりだった。
「それとも、南雲さんが、この会社にいれてほしい、とおっしゃったんですか。」
「いや……。」
「でしょうな。そんなら、なおさらですよ。かりに、社長として、この会社の人事を、もっと強化したい、とお思いなら、たとえば、ご親戚の稲川さんとか、福間さんを現役として迎えた方が、むしろ、しぜんだし、社員たちも、素直に、納得すると思います。」
これほどまでにいわれると、今までの善太郎なら、たいてい、面倒くさくなって、折れてしまうのである。しかし、折れなかったのは、いつの間にか、この部屋へ入って来ていた高子の瞳が、善太郎に対して、無言の激励を送っていたからであったかも知れない。
あくまで、沈黙をまもっている善太郎に、田所は、
「それに、私の観察では、南雲さんは、この会社へお入りにならない、と思いますよ。」
善太郎は、詰問するように、田所を見た。田所は、ふてぶてしい一面をキラリと見せるように、
「あの方は、好んで苦労しにこんな会社へ入っていらっしゃるような、バカではありませんよ。」
――善太郎は、熱心に聞いてくれている龍太郎の顔を見つめながら、
「いや、南雲は、きっと、来てくれると、僕は、いい切ったのだ。だから、もし、ここで、君から嫌だ、といわれると、いよいよ、僕の面目が、まるつぶれになるんだ。」
「そうだよ。こうなったら、南雲、もう、日吉も後へ引くわけにいかないよ。」と、青田がいった。
龍太郎は、黙って、立ち上がった。窓際から、川を眺めていた。しかし、暗くて、実際は、何も見えないのである。見えなくてもよかった。すこし、考えてみたかったのだ。川面を掠めた微風が、龍太郎の顔に吹きつけてくる。
うしろから、青田が寄って来て、龍太郎の肩に手をかけて、
「なア、田所が、君をバカではない、といったんだよ。そんなら、逆に、バカになってやれよ。」と、しみじみした口調でいった。
そのとき、龍太郎の決心がついた。彼は、振り返って、
「日吉。」
「うん。」
「君の会社に入れて貰うよ。」
「えッ、入ってくれるか。」
善太郎は、自分で頼みながら、信じられぬような顔をした。
高子の顔面に、パッと、喜色が現われた。
「偉いぞ、南雲。」
青田は、ポンと、龍太郎の背中を叩いて、
「それでこそ、男だ。」
「おだてるな。」
「まア、おだてられとけよ。さア、こうなったら、今夜は、うんと飲もうぜ。南雲、座ろう。」
「うん。」
二人は、元の位置に座った。
「さア、あらためて、カンパイだ。」
「カンパイ。」
「南雲さん、ありがとう。」
四人が、盃をあげた。その場の空気が、急に、活気を帯びて来たようであった。
青田が、
「南雲の月給は、いま、いくらだ?」
「そんなことを聞いて、どうするんだ。」
「いや、僕だって、君に、日吉の会社への入社をすすめた手前、多少の責任があるからな。」
「税込みで、二万八千円だ。」
「よし、じゃア日吉、今後は、五万円を出してやれるな。」
「いいとも。」
「いや、そんなにはいらぬ。」
「遠慮をするな。そのかわり、時々、僕が、たかってやる。」
「それより、日吉。」
「何んだ。」
「僕だって、君の会社に入って、どれくらい働けるか、まだ、自信がないんだ。」
「いや、南雲なら大丈夫だ。」
「ヤブは、しばらく、黙っていてくれ。」
「チェッ、嫌なことを、出しぬけにいう奴だ。こうなったら、僕は、大いに飲む。高子さん、お酌。」
「はい。」
高子は、くすっと笑って、青田にお酌をし、ついでに、龍太郎にも、お銚子を向けた。龍太郎は、それを無言で受けて、
「とにかく、日吉。僕の目的は、会社の業績を上げることよりも、誰もが、気持よく働ける会社にすることだ、と思ってくれ。」
「いいとも。まかせる。」
「まかせるじゃアダメなんだ。社長と雖も、遅くとも九時半に出勤すること。」
「十時にしてくれないか。」
「いや、いかんよ。先ず、社長の心構えを変えることが第一だ。それが嫌なら、社長を辞めるんだよ。」
「おい、それじゃア元も子もなくなるではないか。」
「そんなこと、あるもんか。社長を辞めて、単なる株主になってもいいんだよ。」
「すると、誰が、社長になるんだ。」
「僕だ。」
「本気か?」
「嘘だよ。ちょっと、君を脅かしたんだ。」
横から青田が、
「おい、そんな話は、あとで二人で、ゆっくりしろよ。今日は、前祝に銀座へ出よう。」と、心は、もう、銀座へ飛んでいるようであった。
キャバレエ・トウキョウへ、田所が、山形を連れて来ていた。二人が現われると、寄ってくる女も、いつか、きまったようになっていた。
その女の一人が、
「ねえ、専務さん。」と、肩を寄せながら、「この前、お話したMMKね。」
「もてなくて、もてなくて、困ります、のことか。」
「いえ、こんどのは違うんです。専務さんに、うってつけよ。」
「いってみたまえ。」
「もうかって、もうかって、困ります。いかが?」
「わしの場合は、もうからなくて、もうからなくて、困りますよ、だな。」
例によって、山形は、聞き耳を立てていて、横から、
「うまい!」と、手を拍った。
「また、やられたわ。」と、女も笑っている。
キャバレエ・トウキョウは、毎晩、客がよく入っているようだった。たいてい、社用族ばかりであるが、それにしても、これだけはやれば、成功というべきだろう。それも、マネエジャアの珍田の手腕であるかも知れない。その珍田は、さっき、田所の姿を見つけると、早速、挨拶に来たのである。
「専務。」と、山形が、田所の耳に口を寄せるようにしていった。
「うん?」
「あの南雲とかいう男、本当に、会社へ入ってくるでしょうかね。」
「社長がいうんだから、仕方があるまい。」
田所は、淡々といった。
しかし、心の中では、決して、淡々としていなかったのである。
(あんな若造に、何が、出来るものか)
そう思っていた。しかし、善太郎を、そんな心に追いやったことについては、やはり、失敗であったらしい、と認めぬわけにはいかなかった。
田所は、前々から、善太郎が、社長の器でない、と見くびっていた。社長の器でない男が、社長をしていることは、本人にとっては勿論のこと、社員たちにとっても、悲劇なのである。
その悲劇を、いくらかでも未然に防いだのは、自分の功績だ、と信じていた。
もし、日吉不動産に、自分という男がいなかったら、今頃、どうなっているか、わからないのである。そんな自分に、白い眼を向けはじめた善太郎を、可愛げがない、と見ているのであった。
(こうなったら、すこしも遠慮をすることはないのである)
田所は、だきかかえた女の乳のあたりを触りながら、そんなことを考えていた。女もはじめは、それを嫌がったのだが、珍田の大事にする客とわかってからは、避けないようになった。
「しかし、やっぱり、困りますよ。」と、山形がいった。
「何が?」
「南雲のことですよ。」
「まだ、いってるのか。」
「そうですよ。何んとか、ならんもんでしょうかね。」
「ならんだろうな。」
田所は、ひとりごとのように、あっさりいってから、
「しかし、面倒なのは、案外、組合かも知れないな。」
「組合?」
山形は、まるで、ある暗示をあたえられたように思った。
「そう、組合だ。組合が騒ぎ出すと、うるさいことになる。」
「そうですとも。」
「だから、君。組合の幹部に、変に騒がないように、あらかじめ、よく、注意しておいた方がいいかも知れんな。」
山形は、田所の言葉の意味を、反対に解釈した。
「承知しました。」
急に、拍手が起った。これから、ストリップ・ショウがはじまるのである。
「君。」
「はい。」
「わしは、まだ、これから人に会わねばならんのだ。先に、失敬する。」
「じゃア、私も。」
「君は、若いのだ。ゆっくりしていきたまえ。それから、ここの勘定は、これで。」
そういって、田所は、山形のポケットに、札タバをねじ込んだ。
「いえ、専務。まだ、この前、頂いた分が、残っていますから。」
「そんなはずはあるまい。まア、いろいろと、金がいるように出来ている世の中なんだ、遠慮はいらんよ。」
そういって、田所は、立ち上がった。
「あら、せっかくのショウを、ご覧になりませんの?」と、女がいった。
「いや、年寄には、却って、眼の毒なのだ。ただし、山形君は、残していくからな。」
田所は、笑いながらいって、出口の方へ歩いていった。
山形も、そのあとにしたがった。出口のところまで来て、
「じゃア、専務。」
「ああ、ご苦労。」
山形は、そのまま、すぐ席へは戻らずに、トイレットへ入った。幸いにして、誰もいない。早速、田所からポケットにねじ込まれた札タバを取り出した。素速く数えてみると、千円札で三十枚あった。
ここの勘定は、せいぜい、六七千円ですむはずである。あと、二万円以上残る。それで組合の幹部を買収しろとの謎なのであろうか。
しかし、組合の幹部になら、こんなキャバレエでなしに、おでん屋で結構なのである。山形は、ニヤリとした。
それにしても、こんな大金を、無造作に出してくれる田所は、いったい、いくらの金を持っているのだろうか。表向き、会社から出る報酬は、たかの知れたものなのである。しかも、新橋とか赤坂に、女を囲っているという噂があった。ただし、まだ、誰も、その女を見たことがないのである。
今夜だって、その女のところへ行ったに違いないと、山形は、睨んでいた。
山形は、田所の一の子分と自認している。親分がそうなら子分の自分も、という気にもなってくるのだった。
山形は、席へ戻った。ストリップ・ショウの真ッ最中であった。
キャバレエ・トウキョウを出た田所は、自動車を柳橋に向かって走らせていた。
窓の外を過ぎて行くネオンの光にも、何んの興味もなさそうに、彼は、眼を閉じている。五十五歳の、いわば、働き盛りの顔なのである。いかにも、重役らしい顔、そして、貫禄、といってもいいだろう。
しかし、田所の顔が、こんな風になったのも、ここ数年来のことなのである。すくなくとも、善太郎の父、善助社長が生きていた頃には、決して、こうではなかった。むしろ、お家大事と勤めるサラリーマン型、あるいは家老型といってもよかったのである。
もし、人間の自信、闘志、そして野望といったものが、その顔に変化をあたえていくものだとしたら、田所の顔なんか、最もいい例のひとつになるかも知れない。
窓の外の光が、自動車の進行につれて、その田所の顔の上で、音もなく、明滅しながら過ぎていった。しかし、彼は、相変らず、眼を閉じていて、まるで、眠っているようだった。
突然に、彼の唇が動いた。
「南雲龍太郎か……。」
運転手が、
「はア?」と、耳をこちらへよせて来た。
「何?」
田所は、眼を開いた。
「いえ、今、何か、おっしゃったような気がしたんです。」
「わしが?」
聞き咎めるようにいったが、すぐ、気がついて、
「いや、いいのだ。」
「はい。」
自動車は、小伝馬町の交差点のあたりを走っていた。田所は、こんどは、窓の外を眺めながら
(敵にするには、惜しい男だな)
と、声に出さないでいった。
しかし、敵にするには、恐ろしい男だ、とはいわないのであった。
そのくせ、あんな若造のことを、自分ほどの男が、こんなにこだわっているのを、心外に思ってもいるのである。
自動車は、柳橋を渡って「月光亭」の前に着いた。女中が、表まで、出迎えた。
「いらっしゃいませ。」
「星井君、来ているか。」
「はい。さきほどから、お待ちでございます。」
「そうか。」
田所は、鷹揚に頷いて、中へ入った。
星井は、二階の河べりの部屋で、彼を待っていた。そして、千世龍が、その相手をしていた。千世龍は、彼の顔を見ると、
「いらっしゃいませ。」と、美しい歯並を見せながら、笑顔でいった。
星井は、わざと、何も、気づかぬ顔をしているが、田所が、この女のパトロンであることぐらいは、とうに、見抜いていた。
二十二歳の千世龍の若さは、田所に、勿体ないくらいに思っていた。男の生甲斐に、一度は、自分もこんな女をモノにしたいのである。
その星井は、四十歳なのだが、定職らしいものは、持っていなかった。強いていえば、会社ゴロ、ということになるのだろうか。
「お待ちしていましたよ。」
星井は、ちょっと、凄味の利く顔でありながら、卑屈な態度でいった。
千世龍は、田所が、星井と会うときには、いつでも、密談があるのだ、と知っていた。しばらく、お相手をしてから、何気ないように、席を立った。
「星井君。」
田所は、星井に、盃をやりながら、
「例の件を、すこし、急いで貰った方がよさそうだ。」
「と、申しますと?」
「早くしないと、あるいは、面倒なことが起るかも知れないんだ。」
「面倒って?」
「うちの社長の友人が、会社へ入ることになるらしいんだ。」
「手ごわい奴ですか。」
「まア、たいしたことはあるまいが。」
田所は、さして、気にもしていないようにいった。
「すこし、脅かしてやったら?」
「脅かすって?」
「要するに、脅かしですよ。いのち知らずなら、何人も知っていますからね。」
「暴力なのか。」
「まアね。」
星井は、ニヤリとしてみせた。
田所は、苦笑して、
「当分、その必要はあるまい。それより、早く、株を集めてしまえば、文句はないんだ。」
「そりゃアそうですがね。」
「東洋不動産の株は、その後、どれくらい集まったかね。」
「一万株ですよ。」
「すると、合計で、八万株か。」
「そうなりますな。」
「やっと、それくらいでは、しようがない。せめて、三分の一の二十万株ぐらい集めとかんと、どうにも動けんからな。」
「これでも、一所懸命になっているんですよ、田所さん。」
「わかっている。勿論、東洋不動産の方では、まだ、気がついていないんだろうな。」
「勿論、知っているのは、例の総務課長だけですよ。」
「どういっている?」
「自分のようなのを獅子身中の虫、というんだろうな、と苦笑しています。」
「その通りだからな。」
田所は、ニコリともしないでいった。
「しかし、田所さん合併が、うまくいったら、せめて、あの男を部長ぐらいにはしてやってくださいよ。そういってあるんですからね。でないと、私の顔が、まるつぶれになります。」
「つぶれて困るような顔でなかったはずだが。」
「ご冗談を。」
星井は、ちょっと、むっとしたらしかったが、ここで喧嘩をするテはないと悟って、
「すぐ、小切手を書いてくださいますか。」
「百五十万円でいいんだな。」
「いえ、こんどは、百七十万円にしてください。」
「だんだん、上がるんだな。」
「そりゃアどうしても、そうなりますよ。」
「株券は?」
「ここにあります。」
「じゃア。」
田所は、小切手を書いた。
「やッ、どうも。」
星井は、押しいただいて、
「しかし、田所さん、日吉不動産の株の処理の方は、うまく、いっているんでしょうな。」
「まア……。」
田所が、アイマイにいった時、千世龍が、入って来た。
それからしばらくして、星井が、帰っていった。
「ねえ、今夜、泊まれないの?」
膝を寄せてくる千世龍の手を撫ぜながら、田所は、
「近く大阪へ行くつもりだ。そのとき、連れて行ってやろうな。」と、やさしくいった。
その夜、田所が、家へ帰ったのは、十一時に近かった。
「お帰りなさいませ。」
と、出迎えた女中に、
「奥さんは?」
「あの、お出かけになりましたけど。」
「何処へ?」
「急に、お友達の方からお電話がありまして、歌舞伎座とかへ、いらっしゃいました。」
「そうか。」
田所は、むっとしたように答えた。
近頃の妻の筆子の外出好きは、眼に余るものがあるようだ。殆んど、毎日のように、外出している。
たとえば、今日だって、歌舞伎座へ行くなら行ってもいいのである。何故、その前に、会社へ電話ぐらいかけてよこさないのか。
「昇平は?」
「まだです。」
「輝子は?」
「まだです。」
女中は、気の毒そうに、主人の顔を見た。
(せっかく、わしが帰って来ても、誰も、いないのだ)
こんなことなら、千世龍と、もっと、ゆっくりしてくればよかった。いや、泊まってやったら、どんなに、よろこんだろうか。
田所は、女中相手に、洋服を着物に、着換えながら、
(いったい、このままでは、この家は、どうなるのだ)
と、腹が立ってならなかった。
家族の一人々々が、勝手な行動をしている。しかし、そんな風になったのは、ここ三年ぐらい前からのことだった。そして、そうなったいちばんの原因は、彼に、女のあることがバレたからのようだ。しかし、その女は、千世龍ではなかった。
田所は、筆子に対して、女と別れる、といった。いや、誓わされたのだ。しかし、実際には、別れなかった。
筆子の外出好きが、その頃からはじまったとすれば、彼も、心の中で怒っていても、それを面と向かって、口に出すことは、出来ないのである。その方が、こっちだって、何をしようが勝手だし、面倒くさくなくていい、と思うこともあった。
しかし、今夜のように、せっかく、いつもより早い目に帰って来ても、誰もいないとなると、怒りのあとに、しんしんとした淋しさに襲われるのだった。
彼は、すぐ、自分の部屋へ入って、横になった。今日一日のことが、思い出されてくる。社長の反撃に、むしろ、闘志をあおられていた。そして、この家庭の淋しさを、事業欲によって満たすのだ、と思っていた。
そのくせ、彼は、会社で自由が利くようになってから、家庭が、こうなったのだ、ということを忘れているのである。
誰か、帰って来たらしい。
酔った声は、昇平であった。父の部屋も覗かずに、酔い醒ましの水を飲んで、すぐ、自分の寝室へ入ってしまった。
(まだ、高子のことを、忘れられないのだろうか)
昇平の意を汲んで、田所から、以前に、それとなく、高子の母へ、二人の結婚について、聞いてみたことがあった。しかし、問題にされなかったのである。その屈辱感が、田所の日吉家に対する心に、いちじるしい変化を与えたことは、否めないようだ。
妻も、娘の輝子も、まだ、帰ってこない。田所は、眼を閉じた。
龍太郎は、眼を醒ました。周囲のようすが、どうも、いつもと違っている。
(おや、僕は、何処で寝ているのだ)
そう思ってから、やっと、
(そうか、ここは、日吉の家であったんだな)
と、気がついた。
宿酔いの気味である。時計を見ると、六時だった。九州の会社は、午前八時出勤なので、いつでも、六時には起きていた。その癖が、昨夜は、あんなに飲んだのに、ちゃんと、失われずにいる!
家の中は、まだ、寝静まっていた。
龍太郎は、腹ばいになって、枕許の煙草に火を点けた。その煙の行方を、ぼんやりと見送りながら、
(とうとう、東京の日吉の会社に勤めることになってしまったのだ)
九州を発つときには、まさか、こんな羽目になろうとは、夢にも、思っていなかった。善太郎を激励する会のつもりが、却って、ミイラ取りが、ミイラになってしまったようなものである。
龍太郎の胸に、後悔の思いがないとはいえなかった。しかし、いったん、約束してしまった以上は、それを実行するだけである。そのことが、自分の一生を幸せにするか、それとも、不幸にするか、考えないことだった。
ただ、九州の会社の曽和部長に、このことを打ち明けることが、ちょっと、辛かった、曽和なら、龍太郎の心を、理解してくれるだろう。しかし、その曽和は、彼にたいして、全幅の信頼を寄せてくれていたのである。こんどのことは、その信頼にそむくようなものでもあるのだ。
龍太郎は、また、あの沙恵子ともこれ限りになるのだ、と思った。わざわざ、博多駅まで、手製のサンドイッチを持って来てくれた時の面影が、髣髴としてくる。
龍太郎は、二本目の煙草に火を点けた。
昨夜帰ったのは、たしか、十二時を過ぎていたはずである。
鮎料理を食べてから、青田が、しきりと、
「銀座へ出よう。」と、いい出したのだ。
高子は、
「じゃア、あとは、男のひとたちだけで飲んで頂戴。あたしは、先に帰っていますから。」
善太郎は、すっかり、浮き浮きして、
「うん、話せるぞ。」
「南雲さん。」
「何んですか。」
「このボストン・バッグ、あたし、お預かりしときますわね。」
「いや、いいですよ。」
「でも、そうしておかないと、今夜は、あたしの家で、泊まってくださらないでしょう?」
高子は、笑った。
龍太郎は、苦笑して、
「人質でなくて、鞄質というわけですか。」
「そうなのよ。」
「大丈夫です。こうなったら、僕だって、大威張りで、お宅で泊めていただきますよ。」
「どうぞ。それからね、兄や青田さんたちは、ひょっとしたら、渋谷の待合どまりになるかも知れませんから、ご用心なさった方が、ようございますよ。」
「うるさいぞ、高子。」と、善太郎がいった。
青田は、ニヤニヤしているだけだった。しかし、銀座へ出たけれど、渋谷へは行かずに、それぞれ、家へ帰ったのである。
そんな時刻まで、高子は、まだ、起きて待っていてくれた。
龍太郎は、煙草を灰皿にもみ消すと、起き上がった。階下へ、降りていった。
「お早うございます。」と、女中がいった。
「やア、お早う。」
「お風呂が沸いておりますから、どうぞ。」
「それは、有難いな。わざわざ、沸かしてくれたんですか。」
「はい。ゆうべ、お嬢さまが、そうおっしゃって、お休みになったんです。」
龍太郎は、脱衣場で、着物を脱ぎ捨てた。五尺七寸、二十貫の身体は、肉がしまって、きんせいが取れていた。
湯の溢れる浴槽につかっているうちに彼は、やっと九州からの旅塵を洗い落すことができたような爽快さを覚えた。風呂から上がった時には、宿酔いの気分も、すっかり取れていた。
まだ、七時になっていなかった。今日も、九州の会社の用事のために、駆けまわらねばならないのである。それも、最後の仕事になるのだ、と思うと、出来るだけ、いい仕事にしておきたかった。
しかし、それだって、九時にここを出れば、足りるのだった。
善太郎も高子も、まだ、寝ているようだ。
龍太郎は、庭下駄をつっかけて、広い庭に出た。しっとりと朝露を含んだ芝生の上は、歩いていても、気持がよかった。
ふと、向こうを見ると、善太郎の母の常子が、こちらに背を向けて、菊の花を切り取っていた。もう、五十七、八歳のはずだが、この二、三年、すこしも、年を取っていないように見える。
龍太郎は、近寄っていった。
「お早うございます。」
振り向いて、常子も、
「あッ、お早うございます。」
「ゆうべは、ご厄介になりました。」
「どういたしまして。起きて、お待ちしましょう、と思ったんですが、高子が、何時になるかわからないから、先に休め、というもんですので、失礼してしまいました。」
「いや、先に、休んでいて頂いて、こっちがたすかりましたよ。だいぶん、酔っていましたからね。」
「ほッほ。」
常子は、軽く、笑ってから、
「そうそう、高子がいってましたが、南雲さんは、日吉不動産にお入りになるそうで。」
「はア、よろしく、お願いします。」
「こちらこそ。」
しかし、常子の口調には、龍太郎が、どういう目的で入社するのか、すこしも、わかっていないようだった。
「ねえ南雲さん。あたくし、お願いがあるんですけどね。」
「どういうことでしょうか。」
「いえね、善太郎と高子の結婚のことなんですよ。」
「…………。」
「あたくし、そのことを思うと、夜も、ロクロク、眠れないことがあります。まア、善太郎の方は、前に一度、失敗していますが、男のことですから、それほど、気にはしていないんですけど、高子は、もう、二十七歳ですからねえ。あたくし、世間様にも、肩身がせまい思いで、暮していますよ。」
常子は、溜息まじりにいった。いつか、菊を切る手の方は、お留守になっていた。
「いえね、今だって、大会社の社長さんとか、お金持ちの家とかから、しょっちゅう、縁談があるんですけどね。」
常子は、ちょっと誇らしいようにいった。
そういう常子を見ていると、龍太郎には、このひとの考えている結婚とは、どういうものなのか、わかるような気がした。
せっかくの戦争も、常子には、何んの影響も、あたえていないようである。近頃の若い連中が、自分の結婚をどのように考えているか、思ってもみたことがないに違いなかろう。そして、それが、善太郎と美和子の仲を割く一端の原因となったのかも知れないのである。
龍太郎は、苦笑まじりに、
「そうでしょうとも。お嬢さんのように美しくて、家柄も良ければね。」
皮肉をまじえていったつもりなのだが、常子は、真ともに受けて、
「そうなんですよ。それなのに、高子は、てんで、頭から問題にしないんです。」
「なるほど。」
「あたくし、すこし、我慢する気なら、田所さんとこの昇平さんなんかでも、よかったと思うんですよ。まだ、独身でいらっしゃるそうですし。」
「田所さんて、あの専務の?」
龍太郎の眼が、光ったようである。
「そうですよ。」
「正式に、そういう話が、あったんですか。」
「正式というほどでもないんですけど。」
「お嬢さんは、どうおっしゃったんです?」
「田所さんの息子なんか、顔を見るのも嫌だ、とそんなひどいことをいうんですからね。」
「余っ程、嫌いなんですね。」
「まあ、それも、嫌いなら嫌いで、いいんですけど、こんどは、会社に勤めたり、これでは、いよいよ、婚期が遅れます。会社勤めをした娘なんか、いいお家では、どうしても、敬遠されるから、とあたくしも、随分と反対したんですけどね。」
「近頃は、そうでもないでしょう?」
「いいえ、やっぱり、そうですよ。それに、そんな会社勤めをしたりして、そこらの安サラリーマンでも好きになられては、困りますからね。」
「安サラリーマンねえ。」
龍太郎は、いよいよ、あきれて、感に堪えぬように、いってから、
「いったい、高子さんには、今までに、好きな人が、一人もなかったんですか。」
「それがわからないから、あたくしも、こんなに困っているんですよ。それで、南雲さんから高子の本心を聞いて頂きたいんですよ。」
「僕がですか。」
「はい。あの娘は、どういうものか、あたくしの眼には、あなたを信用しているように見えるんです。」
「光栄ですな。」
「まア、昔から、よく知っていて、気心がわかっているせいでしょうけど。」
「ますます、光栄ですよ。」
「いえ、冗談でなく、本当に、お願いしますよ。」
そのとき、うしろの方から、
「南雲さーん。」と、呼ぶ声が聞えた。
振り向くまでもなく、高子の声であった。そして、その声は、けさの空のように、爽やかであった。
龍太郎は、常子の横から離れて、高子の方へ、近寄っていった。
「お早う。」
「お早うございます。お茶が入ってますわ。」
「ありがとう。」
龍太郎と高子は、ベランダのテーブルに、向かい合って、腰をかけた。
すでに、朝の化粧をすました高子の美しさは、匂うばかりであった。
「南雲さん、随分早く、お起きになりましたのね。」
「僕はあなたのような朝寝坊じゃアありませんよ。」
「あら、あたしだって、南雲さんが、お風呂にお入りになっている頃には、もう、起きていましたわ。」
「そりゃア感心。しかし、今日だけでしょう?」
「ふッふ。かも知れないわ。」
「善太郎君は?」
「いま、あたし、強引に起して参りましたから、間もなくここへくると思いますわ。」
「可哀そうに。」
龍太郎は、笑った。
「ねえ、さっき、母と、何を話してらっしゃいましたの?」
「あなたのことですよ。」
「まあ、あたしのこと?」
「ええ、早く、結婚して貰わないと、行先が心配で、夜も、ロクに眠られないんですって。」
「そんなことをいいましたの?」
「そうですよ。ねえ、お母さんを安心させるために、いい加減に結婚なさったら、いかがですか。」
「結婚は、母を安心させるためにするもんではないでしょう?」
「参りました。勿論、そうですよ。」
「南雲さんこそ、どうして、結婚なさいませんの?」
「僕は……。」
龍太郎は、つまった。
その頭の中を、ふっと、曽和沙恵子の面影が、よぎったようであった。
龍太郎は、いった。
「そのうちに、僕だって、結婚しますよ。」
「あたしだって、そのうちに、結婚しますわ。」
「困ったなア。実は、僕、あなたのお母さんから、頼まれたんですよ。」
「…………?」
「お母さんとしては、安サラリーマン相手の結婚は、お困りのようです。」
「まア、そんなことをいいましたの?」
高子は、憤然としていった。
「しかし、お母さんとしては、それは、当然ですよ。それより、お母さんは、あなたに、本当に好きなひとがあるかないのか、僕に、聞いてくれとおっしゃるんですよ。」
「まア。」
「いったい、どうなんですか。」
「おわかりになりません?」
高子は、静かだが、はっきりした口調でいった。
「だって、僕は、いつも、九州にいるんですし、そんなこと、わかるはずがないじゃアありませんか。」
「本当に、おわかりになりません?」
高子は、重ねていった。
「わかりませんよ。」
一瞬、高子は、強い瞳で、龍太郎を見た。そして、
「そう……。」と、いうと、庭の方を向いてしまった。
そこへ、善太郎が、入って来た。
「やア、お早う。」
「お早う。」
龍太郎は、善太郎の方を向いて、
「どうだ、眠いだろう?」
「うん、猛烈に眠いよ。高子、僕にも、お茶をくれないか。」
「はい。」
高子は、顔を上げたが、もう、いつもの表情になっていた。
善太郎は、高子のいれてくれたお茶をすすりながら、
「南雲は、いつから、来てくれる?」
「まア、事務の引継ぎもあるし、半カ月ほど、待ってくれないか。」
「いいとも。」
「じゃア、当分の間、この家から通勤なさったら?」
「まさか。」
「いいえ、その方が、兄だって、今日のように、毎朝、早く起きますし、監督が、よく、いき届くと思うんですよ。」
「おい、高子。あんまり、今のうちから、監督々々というなよ。それだと、どっちが、本当の社長だか、わからなくなるではないか。」
善太郎は、本気とも、冗談ともつかぬようにいった。
しかし、そこに、善太郎の本音のあることも、たしかであったろう。
そんな善太郎を見ていると、龍太郎は、友人としては、いい男だし、大好きだが、果して、社長として、適しているかどうかの疑問を、あらためて、感じないではいられないのである。
善太郎は、もし、金を持っていないで、一介のサラリーマンから出発したとしたら、恐らく、一生、社長どころか、平取締役にもなれないのではなかろうか。
それを、父の遺産を継いだばかりに、いきなり、社長の職につくことが出来たのである。そこに、善太郎の悲劇がある、と断定しても、過言ではなさそうだ。
そして、そういう男を、社長として盛り立てていかねばならぬところに、今後の龍太郎の悲劇が予感される、ともいえそうだ。
すくなくとも、そのとき、龍太郎は、それを感じた。
「念のために聞いときたいんだが、会社の資本金は、いくらなんだ。」
「五千万円。」
「案外、すくないんだな。」
「そのかわり、再評価積立金が、二億とか、三億とか、あるはずなんだ。」
「二億と三億では、一億円も違うよ。」
「よく知らないんだよ。」
善太郎は、頭をかいた。
「勉強が足りんぞ。」
「わかったよ。」
「その五千万円の資本金は、全部、君の所有だろうな。」
「いや、うち、三千万円だけを、日吉の身内で持っているんだ。即ち、二千二百万円が、僕と母と高子のもんで、あとの八百万円は、二人の姉にやってあるんだ。」
「残りの二千万円は?」
「遺産相続のとき、手放したんだ。」
「上場は?」
「されていない。まア、五千万円のうち三千万円こっちが持っていれば、絶対に安心だからね。」
果して、絶対に安心だろうか。理屈は、まさに、その通りだろうが、何かしら龍太郎は、一抹の不安を感じないではいられなかった。
高子は、耳を傾けていた。
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第一の波
空模様が、急に、すこし、怪しくなってきた。
「傘を持っていったら?」
と、姉の和子がいったのだが、厚子は、
「大丈夫よ。」と、雨具の用意なしで、アパートを出たのである。
今朝は、いつもより、十分ぐらい、早く出たのは、駅までの途中で、岩田の留守宅へ寄ってみるためであった。
昨夜、厚子は、留守宅慰問ぐらいの軽い気持で、岩田の家へ行ってみたのである。ところが、小学一年の男の子が、熱を出している真ッ最中であった。
康子は、もう、おろおろしていた。医者の診断は、大腸カタルということであった。厚子は、二時間ほど、手伝ったりして帰ったのだが、
「主人がいてくれないと、こんなとき、本当に心細いんですよ。」と、康子は、いった。
「まだ、大阪に、家が見つかりませんの?」
「らしいんです。」
「会社の方で、もっと、積極的に面倒を見るべきなのね。」
「そうして貰えるといいんですけど。」
康子は、溜息をついて、
「手頃な家があっても、権利金がいりますし、その権利金を、会社からお借りしよう、と思っても、ちょっと待てということなんだそうです。」
「まア、ひどい。」
「ひょっとしたら、馘になるのではないでしょうか。」
「そんなこと、あるもんですか。」
厚子は、強く、否定したけれども、自信があってのことではなかった。そういう前例が、何度かあったように聞いていた。
厚子は、昨夜、寝床に入ってからも、主人の不在中に、子供に病気になられた家の中の不幸さが、眼の先にちらついて、なかなか、寝つかれなかった。
だからこそ、けさも、ぜひ、寄ってやりたい、と思ったのである。
「ごめんください。」
奥から、康子が、出て来た。恐らく、昨夜は、一睡もしなかったのであろう。そんな疲れ切った顔だった。
「ああ、厚子さん。」
「いかがですの?」
「相変らずなんです。」
「困ったわねえ。いっそ、岩田さんを、大阪から、お呼びになったら?」
「そんなことをしたら、ますます、会社のウケが悪くなるでしょう?」
「そんなことを気にしている場合じゃアない、と思うわ。それに年に二十日は、お休みが貰えることになっているんですもの。それを貰って来たら、平気なはずよ。」
「そうですわねえ。」
「ねえ、ぜひ、そうなさいよ。あたしから、電報を打っておいてあげましょうか。」
「まア、今日一日、ようすをみてみます。」
「そうですか。じゃア、お大事にね。」
「ええ、どうも、ありがとう。」
厚子は、岩田の家を出た。何んとなく、憂欝であった。電車に乗ってからも、気が重かった。
厚子は、有楽町駅で下車した。いつか、雨になっていた。こんなことなら、姉のいう通りに、傘を持ってくればよかった、と怨めしそうに空を見上げて、いよいよ、憂欝になっていった。
しかし、いつまで、空を見上げていても、雨脚は、烈しくなっていくばかりである。
厚子と同じに、傘を持たないで出て来た人々の中には、勇敢に、雨の中へ駆け出していく者もあった。
そして、厚子もまた、断腸の思いで、濡れていこう、と決心した。
厚子が、ほんの数歩、雨の中に出たとき、うしろから、ひょいと、傘をかぶせられた。
「あら。」
振り向くと、大間が、
「お早う。」と、澄ましていた。
厚子は、嬉しげに、
「たすかったわ、大間さん。」
「えッへん。」
「あら、何よ。急に、そんな威張ったような咳払いをしたりして。」
「有難い、と思うか。」
「そりゃア思うわ。」
「よろしい。実をいうと、僕は、さっきから、君が、どうするだろうか、と思って見ていたんだ。」
「まア、どこで?」
「君のじきうしろでさ。」
「意地悪ね。あきれたわ。」
「何、あきれたのは、こっちだよ。こんな雨の中を、傘なしで飛び出すんだもの。」
「だって、なければ、仕方がないわ。」
「そもそも、こういう日に、傘を持ってこないなんて、不用心だよ」
「大間さんの方が、用心が深すぎるんだわ。」
「いったな。」
「だって、そうなんですもの。大間さんて、男のくせに、たしかに、そういうところがあってよ。」
大間は、すこし、むくれて、
「よーし。」
「何よ。」
「もう、この傘にいれてやらん。」
「そう。」
厚子は、チラッと、大間の顔を見上げて、
「じゃア、いいわ。」と、傘の下から、飛び出した。
とたんに、却って、大間の方が、あわてた。急いで、厚子の後を追って、
「おい、無理をするなよ。」
「すこしぐらい無理をしても、変に威張られたりするよりましだわ。」
「もう、わかったよ。」
「なら、いいんだけど。」
厚子は、ニヤリと笑った。
大間は、いまいましくなった。こんな娘、雨の中へ放り出してやればよかったのだ。しかし、今となっては、すでに、遅いのである。
そして、遅い、といえば、自分が、この娘を、すっかり、好きになってしまったらしいことについても、同じことがいえそうだ。
大間は、苦笑しながら、
「君は、だんだん、生地を出して、強情な娘になっていくようだな。」
「あら、そんなことあるもんですか。あたしって、本当は、とても、素直で、可愛いところのある娘なのよ。」
厚子は、ちょっと、ムキになって、抗議をしてから、
「けさだって、岩田さんの留守宅へ寄って来たのよ。」
「岩田さん?」
厚子は、昨夜からのことを話した。大間は、黙って聞いていてから、
「岩田さんは、そのうちに、東京へ呼び戻されることになるかも知れんよ。」
「えッ?」
厚子は、聞き返した。
そのとき、数寄屋橋のゴウ・ストップの信号が、青に変った。傘の波が、いっせいに、向こう側へ動きはじめた。
その向こう側へ渡り切ったところで、
「ねえ、岩田さんが、本当に、こっちへ転勤になるらしいの?」
「そういう噂なんだ。」
「もし、そうなったら、きっと、奥さんたち、およろこびになると思うわ。あたし、帰りに知らしてあげようかしら。」
厚子は、さっきまでの憂欝さを忘れたように、浮き浮きしていったが、
「でも、あんな事情で転勤になったのに、こんなに早く、戻して貰えるかしら?」と、疑わしそうに、大間を見た。
「だからさ、その前に、南雲龍太郎氏が、会社へ入ってくるんだ。」
「まア、南雲さんが?」
「そうなんだ。」
「ねえ、それは、たしかなことなの?」
急に、熱心になりはじめた厚子とは逆に、大間は、口重く、
「みんな、そういっているんだ。」
「まア、素敵! やっぱり、あたしのいってた通りになったのね。」
「…………。」
「ねえ、いつから、いらっしゃるの?」
「知らんよ。」
「重役におなりになるの?」
「いきなり、重役になんか、なれるもんか。多分、総務部長ということになるだろう、という噂だ。」
「総務部長なら、あたしたちの課の上役なのね。ますます素敵だわ。」
「しかし、僕は、恐らく、この話は、実現しない、と思うよ。」
「まア、どうしてなのよ。」
「組合が、反対してるんだ。」
「何さ、ご用組合が。」
厚子は、急に、機嫌を悪くして、吐き出すようにいった。
「いくら、ご用組合でも、組合は、やっぱり、組合だからな。組合が、反対したら、いくら、南雲氏を入社させようとしても、ダメだよ。僕は、そう思うな。」
「でも、あたしは、組合員だけど、大賛成だわ。」
「君ひとりぐらい賛成しても、問題にならんよ。」
「あら、大間さんは?」
「…………。」
「ねえ、どっちなのよ。」
厚子は、なじるようにいった。
大間は、心の中で、
(もし、君が、絶対に、南雲を好きにならないと、誓うなら、僕は、賛成するよ)
と、思っているのだが、口に出しては、いえなかった。
「反対なの? 大間さんは、社長派になると約束したのではなかったの?」
返事をしない大間に、厚子は、ふくれて、
「いいわよ、もし、大間さんが、反対なのなら、あたしは、たった今から、絶交するわ。」
「絶交?」
「そうよ。そして、こんな傘にも、もう、いれて貰わないわ。」
厚子は、またしても、傘の下から、出ていきそうになった。
雨は、ますます、烈しくなっていた。
「勿論、僕は、賛成だよ。」
大間は、そういわざるを得なくなってしまった。
「よかった、これで、二人だわ。」
厚子は、ニッコリとした。しかし、大間は、わざと、無愛想に、
「たった二人ぐらいで、どうなるもんか。」
「まだ、正木信子さんがいらっしてよ。」
「たった三人だ。」
「でも、正木さんは、組合の委員だから、きっと、反対派の人たちをおさえてくださる、と思うわ。」
「そんなに簡単にいくもんか。組合の決議は、すべて、数によって、決定するんだ。正木さんがいくら女傑であったとしても、一人では、どうにもならんだろうな。」
「そうかしら?」
厚子は、心細い声を出した。
「そうだよ。」
「でも、社内には、ほかにも、社長派になってもいい、と思っている人は、あるでしょう?」
「そりゃアすこしは、あるだろう。」
「そんな人たちは、南雲さんが入ってくる、とわかったら、きっと、元気になって、動きはじめると思うわ。」
「しかし、今は、まだ、それ以前の問題なんだよ。」
会社の玄関についた。
「ありがとう、たすかったわ。大間さん。」
「うん。もし、帰りにも降っていたら、駅まで、送ってやるよ。」
「ええ、お願い。」
厚子は、机に向かってからも、大間のいったことが、気になってならなかった。仕事だけは、一所懸命にやっているつもりだが、頭の方は、岩田の病気の子供のことや、龍太郎のことで、しめられていた。
誰かが、向こうの方で、
「……、南雲龍太郎。」と、いったようだ。
厚子は、ハッとして、顔をあげた。誰が、そういったのか、わからなかった。しかし、昨日までは、なかったことなのである。今や、龍太郎のことが、それだけ、社員の間で問題になっている証拠であろう。
その龍太郎に、自分は、五十円のライスカレーをおごって貰ったのだ、と思うと、厚子は、密かに、誇らしいような気持になってくるのだった。誰にも、いっていない。無論、大間にも、まだ、内証にしてあった。
お昼すぎに、厚子は、化粧室の鏡の前に立っていた。鏡にうつった自分の顔を、しげしげと眺めながら、
(あたしって、美人かしら?)
と、考えているとき、扉が開いて、正木信子が入って来て、彼女と並んだ。
厚子は、この信子が、大好きなのである。はじめて、この会社へ来た日に、大間に、近くのライスカレー屋へ案内されたが、まさに、五十円の代金を払おうとしたとき、うしろから、
「ストップ。」と、声をかけてくれて、五十円がたすかった。以来、好きなのである。
その後、この信子が、社長派と知ってから、自分では、まるで同志のように思っているのだが、しかし、親しく話したことは、一度もなかった。
何んといっても、社内、随一のオールドミスなのである。しかし、オールドミスといったのでは、罰があたりそうなほど、三十女の魅力をそなえている。しかも、人事課長を相手にして、一歩も後へ退かぬのだから、その貫禄も十分だった。
昨日や今日、入社したばかりの厚子では、ちょっと、近寄り難かったのである。
厚子は、胸を、ドキドキ、させていた。この信子に、聞いて貰いたいことが、いっぱいあるような気がしている。そのくせ、大間に対するように、手軽なワケには、いかないのである。
厚子は、鏡の中の信子の顔を、それとなく、見ていた。すると、信子も、彼女の方を見てくれた。そして、更に、
(お元気?)
と、いうように、微笑みかけてくれたのである。
とたんに、厚子は、嬉しくなって、すらすらということが出来た。
「正木さん、岩田さんとこの坊っちゃん、ご病気なんですけど。」
「えッ?」
「大腸カタルなんだそうです。」
信子は、眉を寄せた。厚子が、昨日からのことを話すと、信子の眉間に、いよいよ、憂いの色が、濃くなっていた。
「やっぱり、ご主人がいらっしゃらないと、こんなとき、心細いらしいんですわ。」
「そりゃアそうですよ。」
厚子は、周囲を見まわした。そして、ほかに誰もいないことをたしかめてから、
「もし、南雲さんが、この会社へお入りになったら、岩田さんが、東京へ戻れるかも知れないって、本当ですの?」
「誰にお聞きになったの?」
「大間さんからです。そして、組合が、南雲さんの入社に反対しているとか。」
「まだ、そうときまったわけではありませんよ。あとから、そのことで組合の会議があることになっています。」
「じゃア、正木さんも、ご出席なさるんでしょう?」
「ええ。」
「お願い。どうか、組合が、そんな決議をしないようにして下さい。そして、岩田さんが、東京へ戻れるようにして上げて下さい。でなかったら、奥さんたち、可哀そうです。」
しかし、信子は、すぐには、答えなかった。しばらく、厚子の顔を、やはり、鏡の中で見ていてから、
「さア、どうなりますかねえ。」と、いって、化粧室から出ていってしまったのである。
信子のいった組合の代議員会が開かれたのは、その日の午後三時からであった。
犬丸委員長以下十名が、すでに席についていた。
犬丸は、一同の顔を見まわして、
「あと、正木さんだけだな。」
と、いうと、副委員長の中津が、
「どうも、女には、時間励行の観念がなくて困りますな。」と、応じた。
そこで、犬丸と中津は、顔を見あわせて、何んとなく、ニヤリとした。二人とも、山形人事課長から、一晩、ご馳走になっているのであった。
もっとも、ご馳走になるのは、こんどに限ったわけではなかった。たとえば、賃上げ要求の場合でも、事前に打合せ会を開いてから、そのあと、何食わぬ顔で、団体交渉の席に出ることにしていた。そして、そのことが、交渉を、最も円滑に運ぶ方法だ、と信じているのであった。
犬丸は、山形にいったのだ。
「大丈夫ですよ。今こそ、組合の力をお目にかけてごらんに入れます。」
そして、犬丸には、この問題に関する限り、その自信があった。
扉が開いて、信子が、入って来た。
「どうも、遅くなりました。」
彼女は、そういって、静かに着席した。
犬丸が、口を切った。
「ただ今より、臨時代議員会を開きます。本日、急に、皆さんにご参集を願ったのは、すでに、噂でご存じと思いますが、近く、社長の友人である南雲龍太郎なる人物が、当社の総務部長として入社してくることについてであります。
ご承知の通り、当社には、総務部長なる職制は、ございません。したがって、これは、南雲龍太郎なる人物のために、新設されるものと思います。
総務部長であるからには、人事、経理、及び、庶務事項を掌握することになる、と思われます。即ち、組合関係の問題は、すべて、この総務部長に握られることになるので、組合としては、重大なる関心を寄せざるを得ないのであります。」
中津が、
「委員長。その噂は、間違いがないんでしょうね。かりに、根も葉もない、単なる噂に過ぎないのであったら、それを、組合が、真ともから取り上げた場合、物笑いの種になりますよ。」と、白々しくいった。
そのくせ、龍太郎入社の噂をバラまいた張本人は、この中津なのであった。
「ごもっともであります。実は、私も、その点について、山形人事課長に、直接、質問をしたのであります。すると、山形人事課長は、嫌な顔をして、もう、組合で知っているのか、しかし、こんどの場合は、直接、社長のお声がかりによるものだから、どうか、聞いて聞かぬ振りをしてくれ、ということでした。」
「じゃア、やっぱり、間違いないんだね。」
中津は、念を押してから、
「バカにしてやがる、ねえ、諸君。」と、周囲を見まわした。
「そうだよ。要するに、平常から、組合を軽く見ている証拠だよ。」
「どこの馬の骨かわからん男を、いきなり、総務部長だなんて、とんでもない話だ。」
「僕は、絶対、反対だよ。」
「これを黙認しておいたら、今後、癖になるよ。」
「そうだよ。二十年も、一所懸命に働いて、まだ、平社員のままでいる者が、たくさんいるのに、いきなり、総務部長で入ってくるなんて、もってのほかだよ。」
「そう、社員の勤労意欲を喪失させるだけだ。」
「百害あって、一利なし。」
「社長は、社内に、側近をつくろうとしているんだ。」
「だいたい、近頃の社長は、けしからんよ。バーの女の妹を、酒の上で、入社させる、と約束したあげく、とうとう、入社させてしまったり。」
「そう、妹を秘書にしたり。」
「だから、ここらで、組合が、断固たる態度に出ない限り、末が思いやられるよ。」
そんなことを、口々にいい出した。そして、この問題では、いつもは仲の悪い田所派も本間派も、意見が、一致しているようであった。
「いったい、田所専務のご意見は、どうなんだ。」
田所派の坂井がいった。
「本間常務のご意見は、どうなんだ。」
本間派の木下がいった。
たった一人の社長派、ともいうべき、正木信子は、終始、沈黙をまもっていた。
「田所専務は、社長に、じきじき、反対されたそうだよ。」
と、一人が、いうと、
「それでも、社長は、聞かないのか。」
と、別の一人が、あきれたようにいった。
「本間常務だって、反対だそうだ。」
と、一人が、いうと、これまた、
「へええ、それでも、社長は、聞かないのか。」
と、別の一人が、負けずに、いよいよ、あきれたようにいった。
「じゃア、組合だけでなしに、要するに、社長以外は、全部、反対しているわけだな。」
「こうなったら、もう、問題でないよ。」
犬丸は、満足そうに聞いていた。
「諸君。」
彼は、周囲を見まわして、
「ただ今、諸君の発言されたことは、委員長としても、ことごとく、同感であります。したがって、南雲龍太郎なる人物が、当社へ入ってくることは、満場一致を以て、反対決議されたことにしたいのであります。」
「賛成。」
「社長には、口頭でなく、決議文をつきつけた方が、効果的だよ。」
「賛成。」
「異議なし。」
そのとき、正木信子が、
「委員長。」と、片手をあげた。
「何んですか、正木さん。」
「私は、反対します。」
「反対ですって?」
犬丸は、顔色を変えた。実は、さっきから、わざと、黙殺するようにしていたのだが、心の中では、いちばん、煙たい存在として、彼女を警戒していたのである。
「ええ、反対です。」
一同は、信子の方を注視した。しかし、信子の表情は、ふだんと、あまり変っていないようであった。
「理由をいってください。」
「申し上げますわ。この中で、どなたか、南雲龍太郎さんにお会いになったお方が、あるのでしょうか。」
一同は、顔を見あわせたが、誰も、いないことがわかった。
「実は、私も、どういうお方か、知りません。しかし、社長が、ごすいせんなさる程の人ですから、相当なお方に違いないだろう、と信じます。」
「わかるもんですか、そんなこと。」
「だから、反対するなら、その仕事振りを見てからの方が、組合として、穏当だと思います。まして、総務部長は、組合員ではありません。組合員でない人のことで、組合が、今から反対決議をしたりするのは、行き過ぎだ、と思います。」
「しかし、いったん、入社させてしまってからでは、もう、遅いのです。だから、今のうちに――。」
「それが、行き過ぎだ、と申しているのです。それよりも、組合として、もっと、なすべきことが、ほかにも、たくさんある、と思いますわ。」
「おや、正木さんは、委員長の僕が、怠慢である、とでも、おっしゃるのですか。」
犬丸は、開き直った。
「怠慢だ、とは申していませんよ。しかし、私には、犬丸さんの委員長としての方針について、お聞きしてみたいことがあります。」
「どんなことですか。いってください。」
「たとえば、岩田さんのことです。」
「岩田君が、どうしたというんですか。」
「大阪へ転勤になりましたね。」
「大阪に支店がある以上、転勤のあることも当然ですよ。」
「ところが、本店の営業課長代理であったのに、支店へ行って平社員なんですよ。」
「そりゃア岩田君の成績が悪いからでしょう。組合としては、そこまで――。」
犬丸は、そっぽを向いた。
「ちょっと、お待ちください。岩田さんの左遷の理由について、あれは、某重役にタテついたからだ、という噂が飛んでいますよ。」
「某重役って、誰ですか。」
「要するに、某重役ですわ。」
「しかし、噂は、噂ですよ。」
「それが、委員長としてのご方針でしょうか。某重役に、タテついたために、辞めさせられた人も、過去にあります。そういう嫌な社風に眼をふさいで、それも、噂は噂、として、今日まで放任されたのですね。」
「正木さん、あんまり、からんだようないい方は、よしてください。」
「では、もっと、具体的な問題について、申し上げましょう。岩田さんは、まだ、家族を引きまとめていらっしゃいません。」
「自分で、早く、家を探せばいいじゃアありませんか。」
「ところが、探して来ても、その権利金を、会社で貸して下さらないんですよ。」
「何故ですか。」
「だから、それを組合で調べて、至急、善処していただきたいのです。しかも、岩田さんの坊ちゃんは、大腸カタルになっているんです。主人とはなれて暮していて、子供に、そんな病気になられた場合を、考えてごらんなさい。ひとごとではないはずですわ。」
「いや、わかりました。」
「どうぞお願いします。」
信子は、頭を下げた。龍太郎の問題には、ちょっと水を浴びせかけられたようになった。
中津が、それを見てとって、
「委員長、南雲龍太郎なる人物の問題は、どうするんですか。僕は正木さんの意見は、意見として、やはり、多数決で、決定すべきだ、と思うんです。」
「勿論だよ。」
「ちょっと、おうかがいしますが。」と、信子が、また、いった。「もし、この決議について、社長が反対なさったら、組合の面目は、どうなるんですか。」
「面目?」
「そう、まさか、こんな問題で、ストライキも出来ないでしょうからね。」
「ストライキ?」
誰も、そこまでは、考えていなかったようだ。顔を見あわした。
「何、大丈夫だよ。あの社長に、われわれの決議に、反対する勇気があるもんか。とにかく、つきつけてやればいいんだ。」
「そうだ。それだけでも、効果がある。」
「じゃア、採決。賛成の方は、手を上げてください。」
信子以外は、全部、手をあげた。
「絶対多数決で採決されました。明日、決議文にして、社長につきつけます。文案は、委員長と副委員長に一任してくださいますか。」
「賛成。」
「異議なし。」
散会した。信子は、ゆっくり、廊下を歩いていた。彼女としては、予想の結果であったのである。向こうから、厚子が、歩いて来て、立ちどまった。どうでしたの、といいたげな瞳であった。
信子は、いつもの口調で、
「反対の決議が通りましたよ。しかし、南雲さんは、きっと、この会社へいらっしゃるでしょう。」と、いって、通り過ぎていってしまった。
善太郎と高子は、いっしょに、会社を出た。いつか雨は上がっていた。すでに、外は暗くなっていて、ネオンの色も、刻一刻、華やいで見えていくようだった。
善太郎は、歩みをとめた。
「どうなさったの?」と、高子が、兄の顔を見上げた。
「いや、また、虫が起って来たんだよ。」
「嫌なお兄さん。」
「そういうなよ。どうせ、家へ帰っても、おふくろの顔を見るだけだ。その上、グチでも聞かせられては、たまらんからな。それより、どっかで、ちょっと、やっていかないか。」
「あたしは、ごめんだわ。」
「妹のくせに、不人情だぞ。」
「嘘おっしゃい。本当は、あたしがついていかない方が、嬉しいくせに。」
「はッはッは。」
「あんまり遅くなると、お母さんが、ご心配なさるわよ。」
「うん、わかっている。じゃア、失敬。」
「行ってらっしゃい。」
兄と妹は、右と左に、わかれた。
善太郎は、銀座の方へ歩いていった。しかし、どこへ行こう、というアテがあるわけではなかった。こんなことなら、青田でも誘えばよかったのである。
善太郎は、腕時計を見た。まだ、六時になっていないのである。とにかく、青田病院へ電話をしてみよう、と思った。
すぐ、眼の先の煙草屋の店先に、赤電話があった。三十前後の女が、電話をかけていた。善太郎は、そのうしろに立ったとき、気配で、その女が、振り返った。
「あら。」
「何んだ、正木さんじゃアないか。」
しかし、善太郎は、街で見る正木信子がこんな美しい女であったか、と新発見でもしたような気持だった。
会社では、それほど、注意してみなかったせいもあるだろう。が、目の前の信子には、成熟した女の魅力があふれていた。
信子は、急いで、電話を切ってしまった。
「どうぞ。」
「いいの。」
「はい。」
しかし、善太郎の心は、すでに、変っていた。
「いや、僕もいいのだ。」
「どうなさいましたの?」
「友達を呼び出してやろう、と思ったんだが、正木さんの顔を見ているうちに、気が変ってしまったよ。」
「まア。」
「正木さん、帰りを急ぐの?」
「いいえ。」
「どっかで、晩ごはんを食べようか。」
信子は、信じられぬことをいわれたように、善太郎の顔を見つめた。
「いやかね。」
「いいえ。」
「それとも、社長が、女子社員といっしょに歩いたり、ごはんを食べたりしては、まずいかな。」
「そんなこと。」
信子は、打ち消すようにいってから、
「あたし、お供をしますわ。」と、こみ上げてくるよろこびを、包み切れぬようすだった。
信子は、いよいよ、華やいでくる夜の西銀座を、善太郎と並んで歩きながら、そのこと自体が、信じられぬ出来事のような気分を、噛みしめていた。
そのくせ、いつかは、自分に、こういう夜のありそうな予感を、胸の奥底に秘めていたような思いもしているのだった。ただ、そのチャンスが、思いのほかに早く到来したのである。
いつもは、毒々しいと眺めたネオンの色も、却って、美しいものに思われた。
こんなところを、会社の誰かに見つけられたら、ということも、すこしも、気にならなかった。
「何を食べる?」
善太郎が、振り向くようにしていった。
「何んでも。」
信子は、見返しながら答えた。
「何が好き?」
「嫌いなものはありません。」
そのとき、信子は、うなぎを思い出した。昔から、あれだけは、どうにも、好きになれない。そして、この歳になっても、それが変らなかった。しかし、今夜は、そのうなぎだって、食べてみよう、と思っていた。
「肉は?」
「大好きです。」
「よし。」
善太郎は、歩き出した。こんどは、行先がきまったような、しっかりした歩きかただった。
「ここへ入ろう。」
そして、通された奥座敷で、善太郎は、
「今夜は、くつろごう。そんなに、きっちり座っていたら、窮屈だよ。膝を崩して座りたまえ。」と、いって、自分から、アグラをかいた。
「ええ。」
信子は、いわれた通りに、ちょっと、膝を崩す真似をした。
あちらこちらの部屋に、お客があるらしく、賑やかな声が聞えていた。それに耳を傾けていると、信子の心も、何か、浮き立つ思いだった。
しかし、会社での組合の決議のことを思うと、それを善太郎にいう辛さが、先に立ってくるのである。いわずに、今夜は、ただ楽しく過ごすことも考えないではなかったが、いうとしたら、やはり、今夜だった。明日、組合の決議をつきつけられてからでは、もう、遅いかも知れないのである。
「正木さん、ここの肉はね。」
「ええ。」
「松阪の牛肉なんだ。とても、うまいはずなんだ。」
やがて、女中が、その松阪の肉を運んで来た。それは、見事な、といってもいいほど、鮮やかな霜降をしていた。厚さ五分、二寸に三寸ほどに大きく切ってあった。それを、炭火の上の鉄板で焼くのである。
「どうぞ。」
女中は、善太郎にお酌をしてから、信子に銚子を向けた。
「はい。」
信子は、盃を持った。
「正木さん、飲めるの?」
「ええ、すこしなら。」
「ほう、そいつは、たのもしいや。じゃア。」
「いただきます。」
最初の盃を、二人は、カンパイするように、眼の位置まであげた。
鉄板の上で、肉を焼くジュジュッというような音が聞えていたが、やがて、うまそうな匂いがひろがってきた。その肉を、八分焼きぐらいのところで、しょうが醤油で食べるのである。
「どう、うまいだろう?」
「ええ、とっても、おいしいわ。」
口の中にいれると、舌の上で、とろけていきそうだった。同じ肉でありながら、信子が、平常食べている肉とは、まるで、別のもののようである。
「たくさん、お上りよ。」
「ええ。」
実際、信子は、いくらでも、食べられそうであった。そして、いくら食べても、腹にもたれることも、なさそうである。
信子は、すすめられる盃を、素直に受けていた。すでに、三四杯は、飲んだろうか。顔がほてっていた。両頬に手をやると、燃えるように熱かった。しかし、今夜は、いくらでも、飲めそうな気がする。
そんな信子が、善太郎の眼に、商売女にも、そしてまた、サラリーガールにも見られぬ、別の美しさに見えていた。商売女の不清潔、サラリーガールの青臭さが、すこしも、感じられなかった。
勿論、信子も、いわゆる、サラリーガールには違いないのだが、その歳になっていると、もうサラリーガールを越えた三十娘なのである。
(この女、まだ、生娘なのかしら)
そして、また、
(どうして、この歳まで、結婚しないんだろう)
しかし、善太郎が、信子について、こんなことを考えてみるのは、はじめてのことだった。そして、今夜の信子には、そう考えさせるだけの値打ちがありそうなのである。
彼女をご飯に誘ったのは、ほんの気まぐれであったが、すこしも、後悔していなかった。
女中は、忙しいらしく、何度も、部屋を出たり、入ったりしている。
「何んでしたら、あたしが、しましょうか。」
「してくださいますか。」
「ええ。もう、だいたいの要領を覚えましたから。」
「すみません、お願いします。」
女中が、部屋から、出ていったあと、信子には、こんどこそ、二人っきりになれた、という感じだった。
信子は、肉を裏返しながら、何気ないように、
「社長さん、今日、会社で、組合の代議員会がありましたのよ。」
「ふーん。」
善太郎は、それほどの関心をよせていないらしい返事をした。
「あたしも、代議員ですから、出席をしたんです。」
「それで?」
「決議がありました。明日、その決議文が、社長さんのところへ、届けられるはずですわ。」
「いったい、何んの決議をしたんだ。」
「南雲さんのことです。」
「南雲?」
善太郎は、飲みかけていた盃を、テエブルの上に戻すと、
「南雲が、いったい、どうした、というんだ。」
「近く、南雲さんが、総務部長として、ご入社になるんでしょう。」
「そうだよ。」
「組合が、それについて、絶対反対の決議をしたんです。」
そういって、信子は、善太郎の顔を見上げるようにした。
果して、善太郎の顔色は、みるみる、変っていった。彼は、憤りをこめて、
「組合と南雲とは、何んの関係も、ないじゃアないか。」
「ええ。」
「そんなことにまで、僕は、組合の干渉を許さんよ。」
そういって、善太郎は、さっき、テエブルの上に戻した盃を取り上げて、ぐっと、飲みほした。更に、もう一杯、手酌で飲んだ。その指先は、異常な興奮のために、小刻みに、ふるえているようだった。
信子は、この善太郎に、組合の決議ぐらいに、ビクともしないような大胆さを与えてやりたかった。
ちょうど、焼けた肉を、
「どうぞ。」と、善太郎の皿の上にのせてやったが、
「いや、僕は、もう、いらんよ。」と、手をつけなくて、また、盃を取り上げた。
こんどは、信子が、お酌をしてやった。
「で、正木さんも、その決議に賛成したのかね。」
「いいえ、あたしは、反対をしました。」
信子は、その後も、時々、善太郎の盃に、酒を満たしてやりながら、代議員会の模様を話していった。
聞き終った善太郎の顔から、さっきまでの興奮が消え失せて、逆に、いかにも、憂欝そうな、途方に暮れたような表情が現われていた。
「正木さん、ありがとう。」
「いいえ。」
「しかし、面倒くさいことになったな。」
「決議文なんか、黙殺なさいませよ。」
「うん。」
「だって、組合の方が、間違っているんですもの。」
「そうなんだ。しかし……。」
「え?」
「いや、僕はね、白状するが、そんなことがあると、だんだん、社長としての自信をなくしてくるよ。」
「いけませんわ、そんな気の弱いことでは。」
「そうなんだ。まア、正木さん、もっと、飲もう。」
「ええ。」
「僕は、会社で、そんなに信望がないのかなア。」
「そんなことありませんわ、たとえば、社長さんがおいれになった白石厚子さんなんか、とても、社長さん思いですよ。」
「たった一人か。」
「大間修治さんも、社長さんのことを思っていましてよ。」
「それで、二人だ。」
「まだ、あります。」
「誰?」
ちょっと、間をおいて、信子は、
「正木信子。」
「ああ、そうだったね。」
「それから、岩田さん。ほかにも、何人か、ありますわ。もし、社長さんが、その気におなりになったら、いくらでも、ふえて来ますわ。現に、南雲さんがいらっしゃる、という噂だけでも、何んとなく、社内に、今までとは違った動きが感じられます。」
「わかったよ、正木さん。とにかく、南雲に、一日も早く、来て貰うことだな。」
「そうですわ。」
「正木さん、頼みがあるんだが。」
そういって、こんどは、善太郎が、信子の顔を、じいっと、見つめるようにした。
見つめられて、信子は、頬のあからむ思いがした。しかし、それを意識しないように努めながら、
「何んでしょうか。」
「ときどき、そうだ、すくなくとも、月に一度は、今夜のように、二人っきりで、会って貰いたいのだよ。」
「えッ?」
信子は、自分の耳を疑った。
「嫌かね。」
「いいえ。」
信子は、顔を横に振った。
「頼むよ。そして、社員たちの動きを、そのつど、僕に、知らせてほしいんだよ。」
信子のアテが、完全に、はずれた。しかし、今は、それでもかまわぬ、と思った。
「スパイになりますのね。」
「スパイ?」
善太郎は、苦笑を洩らした。
「そういうつもりでは。」
「でも、あたしは、よろこんで、スパイになりますわ。」
信子は、晴れ晴れとした笑顔で答えた。
しばらくたって、二人は、外へ出た。もう、そこらには、酔っぱらいが歩いている。その酔っぱらいに、花売娘が、しつこく、まつわりついていた。九時に、すこし、間があった。
信子は、自分から、失礼すべきであろうか、と迷っていた。そのくせ、今夜は、もっと、善太郎といっしょにいたかった。酒の入った血が、しきりに、騒いでいるようだった。信子は、そんな自分を、三十娘のいやらしさであろうか、と眉を寄せていた。
善太郎は、歩みをとめた。ライターを取り出して、煙草に火を点けようとしていたのだが、吹きつけてくる強い風のため、思うにまかせないのである。
信子は、風上に立ってやった。ついでに両手を壁にして、ライターをおおうようにした。ライターから、焔が上がって、煙草を近づける善太郎の顔を、暗がりに明るく浮かび上がらせた。
「ありがとう。」
「いいえ。」
信子には、すこしでも、善太郎の役に立ったことが、嬉しかった。たったこれだけでも、こんなに嬉しいのである。この分では、自分のスパイ活動も、ただ、しぜんに、耳に入ったことを報告する、というだけでなしに、もっと、積極的になっていくのであるまいかと、ちょっと、空恐ろしかった。
「正木さん、もう一軒、つきあってくれないか。」
「ええ。」
「バーでも、かまわない?」
「かまいません。」
「行ったことある?」
「ありませんわ。」
「さっき、話題になった白石厚子ね。あの娘の姉の勤めているバーなんだよ。」
「ああ、社長さんが、よく、いらっしゃるんだそうですね。」
「よくでもないが、とにかく、気楽なバーなんだ。」
「あたし、お供をしましてよ。」
一度は、厚子の姉なる女の顔を見たい、と思っていたのである。
「すぐ、そこなんだ。」
やがて、バー『けむり』の前に来た。信子は、何んとなく、緊張していた。表情が、硬くなりそうであった。
「ここだよ。」
善太郎のあとから、信子が、入っていった。バーの中は、混んでいて、煙草の煙がもうもうと立ちこめていた。
「いらっしゃい。」
マダムは、スタンドの中から、客の頭越しに、笑顔でいった。
そのくせ、女連れであると知ると、一瞬品定めをするような瞳をするのだった。
「やア。」と、善太郎はいった。
どの席も、満員らしいのである。すると、奥の方から、
「おーい、日吉、日吉。」と、青田の声が聞えた。
見ると、こっちへ向かって、手を振っていた。別の手で、和子の肩をだいている。和子が立ち上がろうとするのを、わざと、そうしているようだった。
「よう。」
善太郎は、そういってから、信子の方を振り返って、
「僕の親友の一人なんだ。とても、いい奴ですから、あそこへ行きましょう。」
「ええ。」
近寄っていくと、青田は、
「どうも、今夜あたり、来そうな気がしたんで、ここでアミをはっていたんだ。」
「僕も、多分、そうだろう、と思ったから、やって来たんだ。」
「おい、紹介しろ。」
青田は、信子の方を見た。
今夜の青田は、だいぶん、酔っているようである。至極、上機嫌だった。
「僕の会社の正木信子さんだ。」
「よろしく。」
信子は、いつもの物怯じしない態度で、会釈をすると、さっきから、じいっと見ていた和子が、
「あら。」と、おどろきの声を放った。
「そうだ、紹介しよう。このひとが、さっきいった和ちゃん。」
横から青田が、
「別名、和ッぺ。」
和子は、青田の腕を解きながら、立ち上がった。
「白石厚子の姉でございます。いつも、妹が、お世話になっております。」
「いいえ、こちらこそ。」
「お名前は、しょっちゅう、妹から、聞いていますのよ。」
「えッ?」
「いえ、妹は、大変な正木さんのファンらしいんです。」
「困りますわ、ファンだなんて。」
しかし、平常の厚子の自分に対する眼つきを考えると、それも、嘘ではないかも知れぬ、と思われた。
青田が、立ち上がった。
「正木さん、僕は、青田英吉です。」
こんどは、和子が、
「別名、ヤブさん。」
「こら、黙れ。」
「ヤブさんでございますか。」
「いえね、正木さん、青田は、医者なんだよ。これでも、青田病院の跡取息子なんだけど、根っからその方の腕が未熟なもんだから、ヤブを以て、自認しているんだ。」
「まア、よろしく。ご病気のときには、ぜひ、青田病院をご利用ください。そのかわり、僕は、診ないことにしますから。」
「ほッほッほ。」
青田は、調子の出た軽口の自制が利かないらしく、
「日吉の会社に、こんなひとがいるとは、思わなかったな。こんなことなら、南雲のかわりに、僕が、入ることにすればよかったよ。」と、善太郎の顔を見ながら、ニヤリとした。
「その南雲のことだが。」と、善太郎がいった。
「南雲が、どうしたのだ。」
「組合が、南雲のことを知って、騒ぎ出したんだ。」
「組合が、騒ぎ出した?」
青田は、急に、真面目になった。
和子が、遠慮勝ちに、
「あの、お飲物は?」
「僕は、いつものハイボール。そうだ、正木さんには、ジンフィーズがいいだろう。」
「あら、あたしは、もう、お酒は。」
「まア、いっぱいぐらい、いいでしょう。今夜は、飲もう。」
「はい。」
信子は、さからわなかった。それに、さっきは、盃に七、八杯、飲んだような気がしているが、すこしも、苦しくはなかった。むしろ、いい気分だった。まだ、すこしぐらいなら、飲めそうである。
信子の両親は、早く、亡くなっていた。ひとりぼっちなのである。それが、彼女の婚期を遅らせた一端の原因でもあろう。
過去に、好きな男がなかったといったら、嘘になる。しかし、信子は、今夜から、淋しかった自分の人生に、ある華やかさが加わることになりそうな気がしていた。
見事な花が咲く、とまでは、思っていない。まして、その花が実を結ぶとは、期待していなかった。
にもかかわらず、信子は、今夜以後を、一途に生き抜こう、と思っているのだった。
和子の運んで来てくれたジンフィーズは、思いのほかに、口あたりがよかった。肉を食べたあとなので、よけいに、そんな気がした。
更に、信子に嬉しかったのは、どうやら、和子を、当面の敵と思わないでもいいらしいことだった。
「……、勿論、こうなったら、僕は、組合の決議なんか、黙殺するつもりだ。」
「よし、その意気。」
「幸いに、正木さんが、僕の味方になって、今後、いろいろの情報を提供してくれることになったんだ。」
「そうか。」
青田は、チラッと信子の方を見て、
「正木さん、頼みますよ。僕たちは、これで、日吉のために、一所懸命になっているんですからね。」
「はい。」
「しかし、こんなに早く、組合が騒ぎ出すのは、うしろで、誰か、糸を引いているんじゃないですか。」
「田所専務さんだ、と思います。」
「ああ、やっぱりねえ。とにかく、食えぬ奴だな。」
「こうなったら、一日も早く、南雲に来て貰った方がいい、と思うんだよ。」
「そうだよ。」
青田は、頷いて、
「しかし、南雲も、ちょっと、可哀そうだな。九州の会社にいれば、そのうちに、重役になれるだろうに、わざわざ、東京へ苦労をしにくるようなもんだからな。いきなり、組合から、ボイコットを食うとまでは、夢にも考えていないだろうな。」
「それを思うと、僕も、辛いんだ。」
「だが、今更、後へ引くわけにもいくまいよ。まア、僕にも責任のあることだが、南雲にばかり、苦労をさせるなよ、日吉。」
そういって、青田は、立ち上がった。
その青田は、なかなか、席に戻ってこなかった。
さっきまで、あれほど混んでいたのに、バーの中は、いつか、客の数が、半分になっていた。和子も、やっと、日吉の席に、落ちつけることになった。
「青田は?」
「お帰りになりました。」
善太郎は、おどろいて、
「いつ?」
「さっき。」
そして、和子は、くすっと笑って、
「気を利かして、黙って、帰ってやる。そのかわり、僕の飲んだビール二本代は、日吉の勘定だよ、とおっしゃって。」
「あいつが!」
わざと、そんないい方をしたが、しかし、善太郎は、別に、腹を立てているわけでなかった。ただ、気を利かせる、という言葉は、口実にしろ、あてはまらぬことなのに、と思った。
「あたし、もう、帰りますわ。」と、信子が、立ち上がった。
急に、酔いが出て、ほんのちょっと、ふらっとした。
「危いわ。」と、口の中でいって、和子が、素早く、それをささえた。
「もう、大丈夫ですわ。」
信子は、自分で、立った。周囲の人が、こっちを見たようで、恥かしかった。
「よし、僕も、帰るよ。」
「いえ、どうぞ、社長さんは、ごゆっくりなさって。」
「いいんだよ。」
二人は、外へ出た。
「どうぞ、お気をつけになって。」と、うしろから、和子が、いってくれた。
「正木さんは、どこ?」
「渋谷なんです。」
「じゃア、送ろう。」
ひとりで、帰れますから、というつもりだった。しかし、信子は、
「まア、送ってくださいます?」と、いってしまっていた。
タクシーに乗ってからも信子には、今日一日のことが、何も彼も、夢のようであった。しかし、夢でない証拠に、善太郎が、横にいてくれるのである。
夜のタクシーは、猛烈なスピードで走っていた。またたく間に、虎の門を過ぎて、アメリカ大使館前を通り、六本木へ出た。
(速すぎるわ)
そんな思いだった。
「もう、気分は、悪くないかね。」
「ええ。」
「ちょっと、心配したよ。」
「すみません。これから、気をつけますわ。」
「何、いいんだ。そのうちに、強くなる。その素質があるらしい。」
「あら。」
もう、渋谷の灯が、見えて来た。それが、夜空に、明るく映えていた。
タクシーは、右に折れて、更に、左へ曲った。ひっそりしたところに出た。
「そこで。」
タクシーは、停った。
「このアパートですのよ。ひとりですから、ちょっと上がって、お茶でも召し上がってくださいません?」
善太郎は、自動車の窓から、そのアパートを見上げて、どんな部屋にどんな風に暮しているのか、覗いてみたい誘惑を覚えた。しかし、それをおさえて、
「また、この次にしよう。」と、いった。
善太郎のタクシーが、見えなくなっても、信子は、まだ、そこに立っていた。
翌日、高子が、秘書室で机に向かっていると、組合の委員長犬丸と、副委員長の中津の二人が、やや、緊張した面持ちで、入って来た。
(来たわ――)
高子は、そう思った。
昨夜、おそく帰って来た兄から、すでに、組合の決議のことは、聞かされていたので、心の準備は、出来ていた。
高子も、兄から、そのことを聞かされたときは、一時、途方に暮れる思いだったのである。
しかし、ここで、これを押し返さなかったら、日吉不動産は、いよいよ、ダメになっていくに違いない。龍太郎だって、すでに、九州の会社で、退職の手続を取っているはずなのである。
「どうなさる?」
高子は、善太郎に聞いた。
「勿論、僕は黙殺するつもりだ。」
善太郎は、答えた。
弱気な兄にしては、珍しい決意なのである。高子は、嬉しかった。これでこそ、龍太郎に来て貰う甲斐があるのだと、この兄を、ちょっと、見直した。
犬丸が、
「社長、おられますか。」
「はい。でも、田所専務が、入っていられますが。」
犬丸と中津が、顔を見あわせた。
「どうする?」
「却って、都合がいいじゃアないか。」
「そうだな。」
そして、犬丸が、
「じゃア、お二人揃っていられるところで、組合として、申し上げたいことがある、とお伝えください。」
「かしこまりました。」
高子は、社長室へ入っていった。
田所が、
「では、近々中に、ちょっと、大阪支店へ行って参りますからね。」
「どうぞ。」と、答えて、善太郎は、高子の方を見た。
「組合の方が、お目にかかりたい、といっていられますが。」
しかし、善太郎より先に、田所の方が、
「何、組合が?」と、眉を寄せた。
「はい。はじめ、社長に、ということだったのですが、専務もいらっしゃる、といいますと、では、お二人が揃っていられるところで、ということなんです。」
「何んだろうな。」
田所は、考えるようにしてから、
「社長。もし、面倒なことだと、いけませんから、私が一人で、会いましょうか。その方が、無難だ、と思いますが。」
「いや、僕が、会いましょう。」
「しかし。」
「日吉君。」
善太郎は、名でなしに、姓をいって、
「ここへ、通してくれたまえ。」
「はい。」
善太郎は、田所の方を向いて、
「何んでしたら、僕が、一人で処理しますから、どうぞ、お引取りになってください。」
田所は、心の中で、意外に思っていた。いつも、組合のことだと、自分から逃げる社長であったのだ。この善太郎の変りようが田所にとって、不安でもあったし、生意気な、とも思わせた。
犬丸と中津が、社長室へ入って来た。
「どうしたのだ。」と、田所がいった。
「社長へ、決議文を持って来たのです。」と、犬丸が答えた。
「決議文なんて、おだやかでないな。」
「組合員の総意なのです。」
「見せたまえ。」
「いえ、社長に。」
「わしでは、いけないのかね。」
「とにかく、先に、社長に、お渡しいたします。」
そういってから、犬丸は、善太郎の方を向いて、
「社長、これです。」と、一通の封筒を、善太郎の机の上にのせた。
善太郎は、ジロリと、それを見ただけで、手に取らなかった。
「社長、どうぞ。」
「預かっとくよ。」
「いえ、ここで、読んでいただきたいのです。そして、ご返事を、うけたまわりたいのです。」
善太郎は、しばらく、黙っていた。心の中は、煮えくり返るようであった。
「社長、どうぞ。」
犬丸は、重ねて、いった。
横で、田所は、黙って見ている。が、そのうちに、いった。
「社長、組合としての正式の文書ですから、お読みになったら?」
善太郎は、やっと、封筒を取り上げた。彼は、三人の視線が、まるで、圧迫するように、自分の顔に注がれているのを感じた。いや、もう一人、高子が入口に立っていて、やはり、自分の方を見ていてくれるのだ。
重苦しい空気が、社長室を満たしているようであった。
善太郎は、封筒の中から、決議文を取り出した。それには、委員長の名で、社長宛に、こう書いてあった。
[#1字下げ]社長の友人、南雲龍太郎氏を、当社の総務部長として入社させることは、われら職員の勤労意欲を喪失させ、且、社内に側近をつくる恐れありと認めて、ここに反対の決議をする。
善太郎は、それを二度、繰返して読んだ。そして、それを、封筒の中に、戻した。
昨夜から、覚悟をしていたことであったが、現実に、決議文をつきつけられてみると、いいようのない憤りを覚えるのだった。
同時に組合を相手に、真ッ向からたたかわねばならぬことに、鼻の白むような恐れを感じずには、いられなかった。
咽喉の奥が、カラカラにかわいていた。ここで落ちつかねばと、善太郎は、煙草に火を点けた。
田所が、
「社長、読んでもいいですか。」
「どうぞ。」
善太郎は、机の上の封筒を、田所の方へ、押しやった。
田所はそれを、読みはじめた。
「社長、ご返事をお聞きしたいのですが。」と、犬丸が、詰めよるようにいった。
善太郎は、答えた。
「残念だが、おことわりする。」
「社長!」
犬丸は、一歩、踏み出すようにしていった。
善太郎は、そんな犬丸を、見返した。
「これは、組合員の総意なのですよ。」
「残念だが、僕としては、おことわりするのほかはない。」
善太郎は、同じ言葉を、繰返した。
「どうしてですか。」
「僕は、南雲君に来て貰うのは、側近をつくるためではない。社長としてその必要を感じたからだ。」
「しかし、そのため、社員の勤労意欲が、衰えるのですよ。」
「何故?」
「いきなり、よそから上役が入ってこられては、社員たちは、先の希望を失います。」
「念のために聞くが、諸君の勤労精神は、その程度のことであったのか。」
「社長のその言葉は、社員たちを、侮辱していますぞ。」
「いや、ただ、聞いているのだ。」
「そういう質問が出るところに、社長の、社員に対する理解の不足が出ています。」
「そうかね。」
「そうですとも。」
「しかし、僕は、そうは思わぬ。そして、社長として、既定の方針を貫くよ。」
「どうしてもですか。」
「そうだ。」
「組合員の意向を、まるで、無視なさるのですね。」
「仕方がない。」
「では、ここで、はっきり、申し上げます。この結果、どういう事態が起ろうとも、それは、社長の責任ですぞ。」
「たとえば?」
犬丸と中津は、相談するように、顔を見あわした。そこまでは、考えていなかったのである。こんな決議をつきつけたら、恐らく、一も二もなく、ふるえあがるだろう、と思っていたのだ。
が、社長の態度は、思いのほかに、強硬だった。
こうなると、ウカツな返事は、出来ないのである。
「待ちたまえ。」と、田所が、口を出した。
二人は、田所の方を見た。
「組合のいうところは、よく、わかったよ。だが、ここは、このまま、一応、引き取ってくれないか。」
「しかし、専務。」
「まア、いいではないか。君たちが、これほどいうのに、社長は、まるまる、無視されることもあるまい。とにかく、今日は、これまでにしよう。」
「では。」
二人が、社長室から、出ていった。あとに、社長と田所の二人が、向かい合うように残った。
高子は、自分もまた、秘書室へ戻るべきであるかも知れない、と思ったが、あとのことが気にかかって、出ていく気にはなれなかったのである。
さっきからのこと、兄にしては、よく、がんばった、と思った。同時に、あんなにいわなければならぬ、社長としての立場の弱さを、今更のように、感じないではいられなかった。
田所は、黙っている。したがって、善太郎も、黙っていた。三分、五分、……。
田所は、ちらッと、高子の方を見た。そして、何気ないように、
「本間常務を呼んでいただきましょう。」と、いった。
本間常務の部屋は、秘書室の向かいに、田所の部屋と並んでいた。
その部屋へ、いわゆる本間派の木下が、来ていた。
「いま、そこで、委員長の犬丸君に会ったんです。」
「うん、それで?」
「社長が、組合の決議を蹴ったそうですよ。」
「ほう。」
本間は、面白そうに、
「社長も、こんどは、なかなか、やるんだな。たのもしいぞ。」
「すると、常務は、南雲のくることに、賛成だったんですか。」
木下は、意外そうな顔をした。
「まあ、賛成でもあり、不賛成でもある。」
「と、いうと?」
「要するに、複雑怪奇なんだな。はッはッは。」
ノックの音が聞えた。
本間にかわって、木下が、
「はい。」
扉が開かれて、高子が、姿を現わした。それを見ると、木下は、
「では、失礼します。いずれ、また、ご報告に上がりますから。」
「ああ。」
木下が出ていくと、本間は、椅子から立って、
「やア、お嬢さん。」と、愛想よくいった。
本間は、いつでも、こうなのである。社長秘書としては扱わず、社長の妹として接しようとしている。そういう点は、田所とは違っているのだが、しかし、高子には、それが、却って、迷惑だった。
まして、この本間が、兄の別れた妻、美和子のパトロンになっているのだと思うと、顔を見るたびに、不愉快さが、こみあげてくるのである。
「恐れいりますが、社長室まで、お越し頂きたいのです。」
「承知しました。」
「田所専務も、いらっしています。」
「そうですか、すぐ、参りましょう。」
「お願いします。」
社長室では、まだ、さっきの沈黙が、続けられていた。その沈黙が、善太郎にとっては、やはり、息苦しかった。何か、田所から、無言の圧迫を受けているようだった。
一言でも喋れば、この息苦しさから、救われるに違いない。しかし、それは、敗北を意味するものだと、善太郎は、その沈黙に、じいっと、堪えていた。
「お待たせしました。」
本間が、入って来た。
田所は、これを、というように、組合の決議文を、無言のままで、本間にわたした。
本間は黙読してから、
「なるほどねえ。」と、感心したようにいった。
「あなたのご意見を、聞かして頂きましょう。」と、田所が、本間にいった。
「それより、社長は、どういう返事をなさったんですか。」
「社長は、組合に、真ッ向から、反対されました。」
「組合は、それで、おとなしく、引きさがりましたか。」
「いや、どういう事態が起ろうと、すべて、社長の責任だ、というのです。」
善太郎は、相変らず、沈黙をまもっていた。
「いったい、どういう事が、起りますかな。」
「それは、わかりません。」
田所は、ちょっと、ピシャッとやっつけるような口調でいってから、
「社長。」
「…………。」
「本間常務の意見は、知りませんが、私としては、もう一度、考え直された方がいい、と思いますよ。」
「しかし。」と、本間がいった。「社長には、何かのお考えがあってのことでしょうから。」
「勿論。ただ、ここでいっておきたいことは、組合が、こう騒いで、せっかく、南雲君に来て貰っても、却って、ご迷惑をかけることになるのでなかろうか、ということです。恐らく、南雲君だって、仕事らしい仕事をすることは出来ますまい。」
「そりゃアそうだろうな。」
「それでも、社長は、南雲君に来て貰った方がいいと思われますか。」
「思う。」
「わかりました。それほどのご決心なら、思う通りに、やって頂きましょう。私は、もう、反対しません。本間常務のご意見は?」
「反対しませんよ。だって、したって、しかたが無いんでしょう?」
「そう。そこで、私から、本間常務にも、特に、お願いしたいのは、今後、組合の動きに対して出来るだけ、細心の注意を払って貰いたいのです。それを、お願いするため、ここへ、来て頂いたのです。では。」
そういって、田所は、もう、立ち上がってしまった。
本間は、田所から、まるで、バカにされたような思いがした。
田所が、社長室を出ていったあと、本間は、善太郎に、
「社長、御心配いりませんよ。組合に、何が出来るもんですか。」と、いって、これまた、出ていった。
そのあとへ、高子が、入って来た。
「お兄さん。」
善太郎は、苦笑しながら、
「ひどい目にあったよ。」
「でも、よく、がんばりなさったわ。」
「だって、仕方がないではないか。」
「そうよ。こうなったら、南雲さんに、電報を打って、一日でも早く、来て頂くようにしたら?」
「僕も、今、それを考えていたんだ。打っておいてくれないか。」
「ええ。」
高子は、秘書室へ戻った。そして、龍太郎宛ての電文を考えているとき、信子が、入って来た。
高子は、微笑みながら、信子を迎えた。
「ちょっと、お耳にいれておきたいことがございまして。」
「社長に?」
「いいえ、お嬢さんからいっておいて頂ければいいんです。」
「どういうことでしょうか。」
「組合が、南雲さん宛に、電報を打つことになりました。」
「電報?」
「はい。」
信子の声が、社長室まで、聞えたのか、善太郎が、顔を出した。
信子は、善太郎に会釈した。その顔が、あからんだように、高子は、感じた。
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嵐の中へ
龍太郎の依願解雇の辞令は、まだ、出ていなかった。東京から帰って、すぐ、曽和部長まで、退職願を出したのだが、握りつぶされているのだった。
しかし、龍太郎は、いつでも、事務の引継ぎが出来るように、準備をしていた。机の引出しの中も、綺麗に片づけていた。
毎日のように、
「まだ、辞令を出して貰えませんか。」と、曽和部長まで申し出るのだが、
「まア、あわてることはあるまい。」と、相手にならず、
「ゆっくり、秋の博多情緒を味わっていきたまえ。」
曽和部長は、はじめから、龍太郎の東京行には、反対だった。
「君の気持は、わかるし、また、いかにも、君らしい行動だ、と思うよ。」
と、いって、また、
「しかし、よした方がいい。好んで、苦労をしに行くことはない。そんなに苦労がしたいんなら、この会社で、もっと、苦労をしたまえ。」とも、いうのだった。
「でも、もう、約束してしまったことですから。」
「だから、わしが、その日吉君の方へ、ことわり状を出してやってもいい。」
「困ります。」
「困ることはあるまい。わしの責任にするのだから。」
「やっぱり、困りますよ。」
「困った男だな。まア、もう、ちょっと考えてみたまえ。わしも、考えてみるから。」
曽和部長は、日がたてば、龍太郎の興奮も鎮まるかも知れない、と思っているようだった。
事実、龍太郎にも、その気分が、ないとはいえなかった。しかし、彼は、一方で、善太郎や青田に、一生、顔をあわせられぬような男には、なりたくないと思っていた。だからこそ、一日も早く、東京へ行きたいのである。でなかったら、一日たてば、それだけ、東京へ行くことが、苦しくなっていくに違いないだろう。
ある日、彼が、会社から戻ってくると、下宿の小母さんが、
「南雲さん。電報が来ていますよ。」と、二通の電報をわたしてくれた。
「ありがとう。」
龍太郎は、最初に開いた電報を、
「至急、ご上京を待つ、切に待つ、日吉。」と、声に出して読んだ。
そして、次の電報を開いた。読んでいくうちに、龍太郎は、緊張した。
「貴下の当社への入社に絶対反対す。日吉不動産職員組合。」
龍太郎は、その二つの電報を机の上に並べて、腕を組んだ。善太郎からの電報は、一度読めばよかった。しかし、職員組合からの電報は、再読、三読した。
読んでいくうちに、自分のことで、日吉不動産が、今、どのように動いているか、わかってくるような気がした。
龍太郎は、いきなり、組合の反対にあおうとまでは、考えていなかったのである。
善太郎の顔、田所の顔、高子の顔、そして、あの厚子の顔が、龍太郎の瞼の裏で、点滅していた。
「そうだ。」
龍太郎は、眼を開いた。そして、その二通の電報をポケットにいれると、春吉町の下宿を出た。
曽和部長の家は、荒戸町にあった。
龍太郎が、その家の近くまで来たとき、うしろから、
「南雲さーん。」と、呼びかけられて、振り向いた。
曽和沙恵子であった。龍太郎は、そのまま、歩みをとめて、駆けてくる沙恵子を待っていた。
二人は、肩を並べて、歩きはじめた。沙恵子は、ちょっと、呼吸を荒くしていたが、
「あたしの家へ来てくださいますの?」
「ええ。お父さん、いらっしゃいますでしょう?」
「さア、どうですか。あたし、お茶のお稽古の帰りですのよ。」
「そうでしたか。」
「父がいないと、いけませんの?」
「今夜は、ちょっと、ご相談したいことがあるんです。」
「南雲さんは、やっぱり、東京へいらっしゃいますの?」
「そのつもりです。」
「そう……。」
そのあと、もっと、何か、いいたげであったが、しかし、家の前まで来ていることに気がつくと、沙恵子は、そのまま、黙ってしまった。
曽和部長は、家にいて、
「よう。」と、上機嫌で、龍太郎を迎えた。
龍太郎は、いつものように、茶の間へ通された。
「君、めしは?」
「まだなんです。急に、下宿を飛び出して来たもんですから。」
「じゃア、いっしょに食べよう。すき焼にしよう、と思っていたところなんだ。」
「すみません。」
曽和部長には、三人の子供があって、沙恵子が長女で、下二人が、男だった。龍太郎は、この家庭の温かい雰囲気が好きで、遊びにくるごとに、自分も将来、こんな家庭を築きたい、と思ったりしたものだ。
しかし、東京へ行ってしまえば、恐らく、二度と、この家を訪れるチャンスはなくなるだろう。龍太郎は、ポケットに手を入れて、二通の電報の所在をたしかめた。
一つのテエブルを囲んで、賑やかな食事が、はじめられた。
「さア、飲みたまえ。」
「いただきます。」
「沙恵子、お酌をしてあげなさい。」
「はい。」
龍太郎は、沙恵子の銚子を持った指先を、この上もなく綺麗だ、と思った。そしてまた、今夜は、自分の送別会のようなものだ、とも思った。
「南雲さん、お肉が煮えていますよ。」
夫人の泰子がいった。
この泰子は、いつでも、龍太郎に、何かと、気をつかってくれる。この前、龍太郎が東京へ発つとき、沙恵子が、手製のサンドイッチを持って、駅まで、駆けつけてくれたが、思えば、それもこの泰子の差金であったかも知れないのである。
両親の亡い龍太郎に、この泰子のやさしさが、母親を感じさせるのだった。
食事が、終った。
曽和部長が、
「南雲君、ちょっと。」と、自分から先に立って、龍太郎を、応接室に連れていった。
曽和部長は、煙草を吸いながら、龍太郎の発言を待っていた。その前へ、龍太郎は二通の電報を並べた。
「部長、どうか、お読み下さい。」
「東京からきたのか。」
「そうなんです。」
曽和部長が、先に取り上げたのは、善太郎からの電報であった。
無言で読んで、次に、組合からの電報を読んだ。
「なるほど。」
そういって、曽和部長は、龍太郎の顔を、真正面に見た。
「どうするかね。」
「至急に、行ってやりたい、と思います。」
「組合から、こんな電報が来ているのに?」
「はい。」
「無茶だよ、南雲君。これでは、まるで嵐の中へ、自分から飛び込んで行くようなものだよ。やめた方がいい。」
「いえ、だからこそ、却って、行ってやりたい、と思っているんです。」
「君は、そういう男なんだな。」
曽和部長は、溜息をつくようにいって、
「わしは、反対する。組合にそっぽを向かれたら、いったい、何が、出来るというのだ。」
「その組合を動かしているのが、田所専務なんです。ますます、日吉が可哀そうになりました。」
「しかし。」
「いえ、部長。」
「そうか、どうしても、行くのか。」
「やらしてください。」
しばらく、黙っていてから、
「よし、行きたまえ。わしは、もう、とめないよ、南雲君。」
曽和部長は、しみじみした口調でいった。
「せっかくのご好意にそむいて、申し訳ありません。」
「そんなことはいいのだ。至急に、辞令を出すようにしよう。」
「お願いします。」
「行ったからには、せいいっぱい、働きたまえ。」
「はい。」
「ただ、はじめから、我武者羅にならぬことだろうな。最初のうちは、すこし、甘く見られるくらいのところで、ちょうど、いいのだよ。功をあせらぬこと。じっくり、腰を落ちつけて、一生の仕事のつもりでな。」
「わかりました。」
龍太郎は、頭を下げた。曽和部長の好意が、今更のように、ヒシヒシと、胸に感じられた。この世で、いったい、誰が、この人のようにいってくれるだろうか。それを思うと、その膝下をはなれて、わざわざ、苦労するために、日吉不動産へ飛び込んで行く自分が、身の程を知らぬ愚かな男のように、思われてくるのだった。
しかし、今更、後へ引くわけにはいかないのである。
「娘が……。」
「えッ?」
「いや。」
曽和部長は、思い直したように打ち消して、
「南雲君、万一、失敗したら、とにかく、一応、わしのところへ帰ってきたまえ。そのときまでわしが、今の会社にいたら、悪いようにはしないつもりだ。」
「有難うございます。」
しかし、龍太郎は、これで、却って、曽和部長の許へは、帰ることは出来ない、と思った。
「では、これで、失礼します。」
龍太郎は、立ち上がった。
「ああ。発つまでに、一席、ゆっくり、やることにしよう。」と曽和部長がいった。
玄関へ出ると、一家が、総出で、見送ってくれた。
曽和部長が、泰子に、
「とうとう、南雲君を、東京へやることにしたよ。」
泰子は、顔色を曇らして、龍太郎を見た。
「やっぱり、いらっしゃるんですか。」
「ええ。長い間お世話になりましたが。」
「そんなこと。」
泰子は、チラッと、沙恵子の方を見た。すると、沙恵子は、
「お母さん、あたし、そこまで、南雲さんをお送りしていいでしょう?」
「そこまでなら。」
曽和部長が、
「何、そこまでなんていわずに、東中洲まで、いっしょに歩いてくるさ。」と、笑いながらいった。
「嬉しいわ。」
龍太郎と沙恵子は、三十分ほどかかって、東中洲まで歩いた。
途中で、平和台球場のナイターの灯が、煌々と点っているのが見えた。歓声が、聞えてくる。
「随分、いっしょに、野球に行きましたのにね。」
「そう。いよいよ、お別れです。」
「でも、あたし、南雲さんが、東京へいらっしゃることには、はじめから、賛成でしたのよ。」
「あなたが?」
「家中で、あたしだけでしたわ。」
「それは、ありがとう。」
「だって、男らしいわ。父のように、一生、地道に勤めるのも、決して、悪いこととは、あたし、思っていませんことよ。」
「そりゃアそうです。」
「でも、かりに、あたしが、南雲さんの立場に置かれたら、きっと、同じようにすると思うわ。せっかく、男と生まれたからには、そういうチャンスを生かしてみるのも、あたしは、いいことだと思うわ。」
「僕は、あなたが味方だ、と思うと、勇気が出ますよ。」
「本当に?」
沙恵子は、念を押すようにいってから、
「よかった。」と、明るく笑った。
龍太郎もまた、沙恵子と話していると、いつでも、心が明るくなるのだった。
しかし、この沙恵子とも、もう、お別れなのだ、と思うと、多少の感慨がないとは、いえないのである。
東京では、苦しいことばかりが予想されている。そんなとき、ふっと、この沙恵子といっしょに、夜道を歩いたことを、思い出すこともあるのではなかろうか。
東中洲で、喫茶店に入った。
「南雲さんは、東京では、下宿なさるの?」
「こんどは、アパートにしよう、と思っているんです。友達に探して貰ってあるんです。」
「あたしね。」
沙恵子は、コーヒーを飲むのをやめて、
「そのうちに、ひょっとしたら、東京へ行けることになるかも知れませんのよ。」と、楽しそうにいった。
大阪の梅田新道の『北村』は、田所の常宿になっていた。
田所は、千世龍を連れて、ここへ着いたばかりであった。早速、千世龍といっしょに、檜の香のする朝風呂に入った。
田所は、千世龍に背中を洗わせながら、陶然となっていた。しかし、別のことを考えているのである。
やがて、田所は、ふっと、気がついて、
「ああ、いい気持だよ。どうだ、お前の背中も、流してやろうか。」
「結構よ。」
「まア、遠慮をするな。あっちを向きな。」
「じゃア、軽くね。」
「よしよし。」
千世龍は、ちょっと、はにかむようにしてから、背中を田所に向けた。着物を着ている時には、そうも感じられないのだが、裸になると、思いのほかに、肉がついている。肌も綺麗だった。
田所は、すべすべする千世龍の背中に、両手で石鹸の泡を、まんべんにひろげてやっていた。飽かずに、そんな動作を繰返していると、両手を通じて、千世龍の若さが、自分の体内に、吸収されてくるような気がする。いわば、田所の健康法の一つであった。
「今日は、どうする?」
「お友達がいるから、呼び出して、何んとかします。」
「うん。そうしてくれるといい。」
千世龍のことは、まだ、会社の誰にも、知られていないはずだった。この宿へ連れてくるのも、ちょっと、気がひけたのだが、着くとすぐ、口止めをしておいた。
いつもは、会社の自動車が、大阪駅まで、出迎えに出るのだが、こんどは、その必要がない、といっておいた。
勿論、千世龍のことは、知れてもかまわぬ、と思っている。しかし、当分の間、内証に出来たら、やはり、その方がいいのである。
「そのかわり、帰りには、熱海で、一泊することにしよう。」
「たのしみだわ。」
「明日は、その友達を連れて、京都へ行ってくるといい。」
「相談してみます。」
「さア、終ったぞ。」
「すみません。」
田所は、千世龍より一足先に、部屋へ戻った。煙草に火を点けると、すぐ、電話のダイヤルをまわしにかかった。
「ああ、持田さんのお宅ですか。こちらは、東京の田所です。ご主人、いらっしゃいますでしょうか。」
しばらく、待たされてから、
「ああ、持田さん。田所ですよ。お早うございます。今、東京から、こちらへ着いたんですよ。そう、ちょっと、お耳にいれたいことがありましてね。え、午後二時? 承知しました。では、その節に。」
その電話を切ると、田所は、また、別の電話をかけた。
千世龍が、風呂から上がって来た時は、三つ目の電話を終ったところだった。
「おい、ちょっと、ここへおいで。」
「なアに?」
千世龍が、近寄って来た。
「綺麗な顔をしているぞ。」
田所は、千世龍の湯上がりで血色のいい頬を、両手で撫ぜた。
「嫌だわ。」
しかし、千世龍は、されるにまかしていた。
「はッはッは。」
田所は、次の電話にかかった。
大阪の日吉ビルディングは、御堂筋にあった。東京のビルディングは、七階建だが、こちらの方は、それよりも小さくて、五階建である。その五階に、日吉不動産大阪支店があった。
その支店長室で、支店長の有川が、新聞を読んでいた。
ノックの音がして、岩田が、入って来た。
「お早うございます。」
「ああ、君か。」
「けさ、帰ってまいりました。」
「子供さんの病気、どうだったかね。」
「お陰さまで、危機を脱しました。」
「そうか、そいつはよかった。」
有川は、ちょっと、言葉を切ってから、
「どうだね、本店へ寄って来たかね。」
「いいえ、こんどは、それどころではありませんでした。」
「そうだろうな。」
「すこし、お願いがあるんですが。」
有川は、黙って、岩田の顔を見た。
「前にも、申し上げましたが、こういうことがあると、いっそう、親子が、東京と大阪に別れて暮すことが、不安になります。」
有川は、またか、というように、嫌な顔をした。
「家を借りたいのですが、権利金として、七万円ほどいるんです。」
「どんな家だね。」
「十三にある長屋なんです。四畳半と六畳の二間の家なんですが、アパートよりは、ましだろう、と思っています。」
そのとき、ノックもなしで、扉が開かれた。有川は、そっちへ顔を向けたが、
「あッ、専務。」と、急いで、椅子を立った。
岩田も、振り返った。一瞬、強く光る眼で、田所を見たのだが、すぐ、丁寧に頭を下げた。
「やア。」
田所の機嫌は、悪くないようだった。しかし、岩田には、眼もくれないのである。
「君、あとで。」と、有川が、顎をしゃくるように、岩田にいった。
岩田は、黙って、支店長室を出ていった。そのうしろ姿を、田所は冷たく見送ってから、
「どうだね、今の男。」
「はい。」
有川は、どう答えていいか、迷っている。
「神妙に働いているか、ということなんだ。」
「ええ、まア。」
「ふん。」
「子供が、大腸カタルをしたとかで、休暇を取って、三、四日、東京へ戻っていて、今日から出勤して来たんです。」
「東京へ行っていたのか。」
「はい。気が利かない男で、そんなら、ついでに、どうして、本店へ顔を出さなかったんだ、と叱りつけていたところなんです。」
「そんなことは、あの男の勝手だな。」
「そのくせ、虫がいいんです。家族を引きまとめたいから、家の権利金を貸してくれ、というんです。」
「いくらだ。」
「七万円なんです。」
「もうしばらく、放っときたまえ。」
「そのつもりなんですが。」
有川は、そういってから、こんどは、声をひそめて、
「専務。変な噂が、社員の間に拡がっているようですが。」
「変な噂?」
田所は、有川の顔を見た。
「はい。近く、総務部長として、社長の友人の南雲とかいう男が、入社するそうじゃアありませんか。」
「そんなら、別に、変な噂でもあるまい。」
「じゃア、本当なんですか。」
「誰が、いったんだ。」
「岸山が、いって来たんです。本店の男から、連絡があったんだそうです。」
「支店の連中、みんな、知っているのか。」
「らしいです。」
「どういっている?」
「近く、社内に、大異動があるのではないか、と心配しているんです。」
「バカな。」
田所は、吐き出すようにいって、
「わしの眼の玉の黒いうちは、そんな勝手な真似をさせぬ。」
「そりゃアもう。」
「君も、心配していた組の一人か。」
田所の口調に、皮肉がこもっていた。
「いえ、そんなことは、決して。」
有川は、媚びるようにいった。
「安心していたまえ。ただし。」
「は?」
「社員の中で、必要以上に、動揺する男がいたら、チェックしときたまえ。」
「承知しました。」
「さっきの岩田なんか、特にだ。」
「心得ております。」
田所は、支店長室の隣の特別室へ入った。本店の重役が出張してくると、いつでも、ここに陣取ることにしてあった。
田所は、給仕の持って来たお茶をすすりながら、南雲の噂が、もう支店でも、こんなに問題になっているのか、とおどろかずにはいられなかった。
しかも、南雲が入社する、という噂だけで、社員たちは、敏感に、社長が、いよいよ、社内の改革に乗り出したのだ、と感づいているようだ。
すでに、動揺のきざしが、見えている。支店でも、こうなのだから、本店では、もっと、ひどいだろう。
田所は、社内の大半の勢力を、ガッチリ、手中におさめて、確固不動の地位を、築き上げているつもりだった。しかし、こうなると、サラリーマンなんて、まるで、浮草のように、いかに、たよりないものであるか、と思わせられる。
(まア、いいさ。動揺したい奴は、いくらでも、動揺したがいい)
そのかわり、あとで、そのごホウビがいくだけである。
田所は、唇をゆがめるようにして、薄気味の悪い笑みを浮かべている。
有川が、入って来た。
「専務、こんどは、三十万円ですが。」
「よし。」
「五万円のギフトチェック、六枚にしときました。」
「結構。」
「ほかに、先日、お電話しましたように、社長のご親戚の稲川良一さんに、十万円、こちらでお渡ししときました。これが、その領収証です。」
「うん。」
「ですから、これで、四十万円、お渡ししたことになります。」
その四十万円は、有川が苦労してつくった、帳簿に載らぬ金なのであった。
田所は、稲川の領収証を眺めながら、この男に融通した金は、すでに百万円に近いのだ、と思った。
岩田は、自分の席へ帰った。かつては、本店の営業課長代理まで勤めた男が、ここでは、ただの平社員なのである。そして、その原因は、田所専務にタテついたため、ということは、支店でも、みんな知っていた。
支店の連中にしてみれば、おとなしくしていないと、どんな結果になるかの標本を、毎日、見せつけられているようなものであった。同情はするが、一方で、バカな真似をしたものだ、というように、岩田を眺めているのである。
しかし、岩田は、黙々として、仕事を続けていた。
秋山が、
「田所専務が、来たんだって?」と、岩田にいった。
「そう、今、支店長室で会った。」
岩田は、静かに答えた。
「何か、いわれたか。」
「僕に?」
「そうだよ。」
「いいや、何んにも。」
「じゃア、完全なる黙殺、というわけか。」
秋山が、同情するようにいったが、しかし、それを面白がっているようでもあった。
「まア、悲観するなよ。」
すると、別の男が、
「そうだよ。そのうちに、却って、君なんか、出世する時代がくるかも知れない。」
そのあと、さっきから、話題にしていたらしい、南雲龍太郎の問題に、戻っていった。
「その南雲という男は、社長と違って、相当、度胸があるらしいんだ。」
「そりゃアそうだろう。いわば、田所専務と、喧嘩する気で、入ってくるんだからな。」
「しかし、組合が、早速、入社反対の決議をしたらしいから、南雲だって、どうにもならんだろうな。」
「それに、田所専務だって、黙っていられんだろうよ。」
「あたりまえさ。何んといっても、日吉不動産を、今日にいたらしめたのは、田所専務だよ。」
「待て。本間常務の功績だって、決して、無視できないよ。」
「そりゃア認める。だが、その間、社長は、何をした、というんだ。」
「毎日、遊んでいた。」
「はッはッはッは。」
岩田は、黙って、聞いていた。誰も、口では、強くいっているが、心の中では、龍太郎の入社が、社内の人事に、どのような影響をあたえるかの不安を、隠しきれないようであった。
それは、投じられた一石の波紋が、しだいに、ひろがっていくようであった。岩田は、本店の波紋が、これ以上であることも、すでに、知っていた。
岩田自身、この波紋を、よろこんでいた。すくなくとも、自分に不利であろうとは、思えなかった。しかし、同時に、このように、重役の動きが、直接、社員たちの身辺に、大きな波紋をあたえることについて、悲しいことだ、と思わずにはいられなかった。自分が、逆境にいるだけに、それが、肝に銘じて、考えさせられるのだった。
目の前の卓上電話のベルが鳴った。岩田が、受話器を取り上げた。
「岩田さんでしょうか。」と、相手が、丁寧な口調でいった。
「そうです。」と、岩田がいうと、相手は、重ねて、
「最近に、東京からご転勤になった岩田さんですね。」と、念を押した。
「そうですよ。」
「失礼しました。僕は、南雲龍太郎という者ですが。」
「えッ?」
岩田は、自分の耳を疑った。急いで、周囲を見まわしたが、誰も、こっちに、注意をしていないようである。
それにしても、さっき、話題にしていた龍太郎が、この大阪に来ていようとは、意外だった。まして、自分に、電話をかけてこようとは、信じられぬことだった。
「まだ、僕のことを、ご存じでないかも知れませんが。」
「いいえ、知ってますよ。」
「そうでしたか。」
龍太郎は、ほッとしたらしい口調で、
「ちょっと、あなたに、ご相談したいことがあるんですが、会っていただけないでしょうか。」
「お会いしましょう。」
「いつがいいですか。」
「今、どこに、いらっしゃるんですか。」
龍太郎が答えたのは、淀屋橋の近く、中之島の見える喫茶店の名であった。
「知っています。」
そう答えてから、岩田は、時計を見て、
「あと三十分ほどで、お昼になります。それまで、待っていただけませんか。」
「待ちましょう。」
龍太郎は、歯切れのよい口調で答えてから、
「これは、愚念かも知れませんが、僕のことは、どなたにも、おっしゃらないで頂きたいのですが。」
「わかっています。」
岩田は、電話を切った。そのあと、しばらく、じいっとしていたが、何か、心の底から、燃え上がってくるものがあるような思いだった。龍太郎の声が、まだ、耳の底にこびりついていた。
「誰からだい?」と、秋山がいった。
「いや、ちょっと。」
岩田は、アイマイにいって、相手にならなかった。そのまま、仕事を続けたが、三十分が待ち遠しく、仕事に、念が入らなかった。
岩田は、勿論、龍太郎が、どういう目的で、自分に会いたい、というのかはわからなかった。しかし、わからないままに、漠然と、予想がつかぬでもなかったのである。
(東京へ行って来ていて、よかった!)
そう思った。
岩田は、十二時すこし前に、会社を出た。そこから、龍太郎のいった喫茶店までは、歩いて、十分ぐらいなのである。
秋の太陽が、御堂筋を明るくしていた。銀杏の並木道を、急ぎ足で歩いていきながら、岩田は、龍太郎の風貌を、あれこれと空想していた。
さっきの電話の模様では、田所と喧嘩が目的だけで入ってくるような、粗野な人間ではないようだった。それが、嬉しかった。
岩田は、喫茶店に入っていった。喫茶店は、混んでいた。しかし、この中から、未知の龍太郎を探すのに、どうしたらいいのだ、と岩田は、ちょっと、困惑を覚えた。
岩田は、喫茶店の入口に立って、中を見まわした。そして、窓側のテエブルについている一人の男の横顔を注視した。
その男は、両眼を閉じて、何か、考え込んでいる。その風貌は、岩田が空想していたそれに、酷似していた。
(あれだ)
岩田は、確信をもって、近づいていった。
岩田は、その男の前に立って、もう一度、その風貌を、見つめるようにした。
気配でわかったのか、その男は、眼を開いた。そして、岩田を見上げた。
「岩田さん、でしょう?」と、その男の方からいった。
「そうですよ、南雲さん。」と、岩田がいった。
龍太郎の顔に、安堵の微笑みがひろがったのは、彼もまた、岩田が、自分の予想していた通りの男に感じられたからであったろうか。
「どうぞ、おかけになってください。」
「ええ。」
「突然に電話をしたり、また、来て頂いたり、申し訳ありません。」
龍太郎は、頭を下げた。
「いえ。ちょうど、会社で、あなたのことが、話題になっていたところなんです。」
「じゃあ、僕のことは、だいたい、ご存じなんですね。」
「存じています。」
「実は、九州から東京へ直行するつもりで、汽車に乗ったんですが、急に、あなたの名を思い出して、降りる気になったんです。」
「私の名を、知っていられたんですか。」
「それは、この前、東京で、日吉不動産を訪ねたとき、白石厚子というひとに聞いたんですよ。」
「ああ、白石厚子さん。」
龍太郎は、厚子と、五十円のライスカレーを食べるようになった経緯を、簡単に話してから、
「彼女は、あなたの転勤が、田所専務にタテついたためだ、とひどく憤慨していました。」
「そうでしたか。」
岩田は、嬉しかった。自分のために、憤慨してくれているひとが、ひとりでもあることは、有難かったのである。
「ところで、僕は、九州で、こんな電報を受け取ったんですよ。」
龍太郎は、ポケットから、二通の電報を出した。岩田は、それを黙読して、
「私は、知っていました。」
「社長が、こんな電報を打ったことも?」
「ええ。」
「すると、こういうことも、もう、社員の間に、知られているんですか。」
「いえ、社長の電報のことは、知られていません。」
岩田は、打ち消してから、
「私は、子供が病気になりましてね。三、四日、休暇を貰って、東京へ帰っていたんです。けさ、こちらへ戻って来たばかりなんです。」
「それで、子供さんの病気は?」
「何んとか、危機を切り抜けました。」
「そりゃよかったですね。」
「おかげさまで、勿論、本店へなんか、寄らなかったんです。ところが、さっき、あなたのおっしゃった白石厚子さんと、もう一人、正木信子というひとが、見舞いに来てくれました。」
「正木信子さんのことなら、僕は、知っていますよ。社内随一のオールドミス、そして、社長派――。もっとも、これだって、白石厚子さんから、聞いたことなんですが。」
「その通りなんです。その夜、私は、正木さんから、その電報のことを、聞かされたんです。」
「正木さんが、社長の電報のことも、知っていたんですか。」
「ええ。高子お嬢さんから、打ち明けられたんだそうです。」
「と、いうことは?」
龍太郎は、そういって、岩田の顔を見た。
岩田には、すぐ、龍太郎の質問の意味が、飲み込めた。
「そうなんです。組合の動きに対抗して、高子お嬢さんや正木さん、そして、さっきいった白石厚子さんなんかが、緊密な連絡を取って、動きはじめたんです。」
「なるほど。」と、龍太郎はいってから、「すると、今のところ、その三人ですか。」
「いや、大間修治君も、それに加わるでしょう。私の学校の後輩ですが、いい男です。」
「大間修治君。」
龍太郎は、記憶にとどめておくようないい方をした。
「そのほかにも、きっと、出てくる、と、思いますよ。心当りが、二、三ありますから。ただし……。」
「えッ?」
「そのためには、社長が、仕事にたいして、はっきりした熱意と、断固たる決意をしめす必要があります。」
「勿論です。」
「念のために、お聞きしたいんですが。」
「どうぞ。」
「南雲さんは、組合から、こんな電報をつきつけられても、やっぱり、ご入社なさる決心ですか。」
龍太郎は、一種の決意を、眉と眉の間に、閃めかせながら、
「だからこそ、出て来たんです。ただ、その前に、あなたのお知恵が、拝借したかったんです。」
「僕に出来ることなら、どんなことでもしますよ。」
「ただし、僕の最終の目的は、いわゆる社長派の勢力を強くすることではなく、そんな派閥のない会社にしたいんです。すべての社員が、安心して働ける会社にしたい、と思っています。結局、それが、日吉不動産を、よくすることですからね。」
「ぜひそうして下さい。」
「ただ、そのためには、多少、田所氏の抵抗も受ける覚悟でいます。」
「田所氏は、今、大阪へ来ていますよ。」
「来ているんですか。」
「けさ、ついたんです。二、三日は滞在すると、思います。」
「すると、僕は、その留守中に、乗り込むわけですな。」
「何、田所のことだから、あなたのいらっしゃることを計算にいれて、こっちへ出て来ているかも知れません。」
「田所氏は、時々、出張してくるんですか。」
「ええ。もっとも、支店にばかりいるのではなく、いろいろの人に会うんです。」
「商売のことで?」
「それもありますが、大株主にも、会っていくようです。」
「大阪に、大株主がいるんですか。」
「います。持田産業なんか、十万株近くも、持っているはずです。」
「十万株!」
龍太郎は、ちょっと、考え込んだ。十万株なら、日吉不動産の総株数の十分の一にあたる。かりに、田所が、そういう大株主たちと気脈を通じているとしたら、彼の地位は、思いのほかに強固なものであるかも知れない。ただのサラリーマン重役として、軽く見ていたら、とんでもない逆襲を食うことになりそうだ。
善太郎は、果して、そこまで、考えているのだろうか。龍太郎は、前途の多難について、今更のように、思いをあらたにせずには、いられなかった。
土佐堀川に、昼休みのサラリーマンらしいアベックを乗せた何艘ものボートが、浮かんでいるのが、窓から見えていた。
持田産業株式会社は、本町二丁目にあった。その前に横づけになった自動車から、田所が降りた。腕時計で、二時に三分前であることをたしかめてから、彼は、会社の中へ、入っていった。
田所は、社長応接室へ通された。
「すぐ、社長が参りますから。」
秘書が、部屋から出ていったあと、田所は、これからの交渉について考えていた。
田所は、東洋不動産を日吉不動産に合併するについても、結局は、ある程度、持田産業の財力を借りなければならない、と思っていた。
いや、東洋不動産の合併より先に、日吉不動産における自分の地位を、固めておく必要がある。そのためにも、あくまで、持田産業を、自分の味方にしておかなければならなかった。
もっとも、田所と、持田産業の社長、持田剣之助とは、すでに、過去にインネンがあって、全然の他人ではなかったのである。
扉が、開かれて、持田が、姿を現わした。五尺一、二寸の小男なのだが、その財力と手腕は、関西財界の一部で、高く評価されているし、恐れられてもいた。恐れられているのは、泥水を飲むことぐらい、平気な男だからでもあった。
田所は、立ち上がった。
「けさほどは。」
「いや、よう、来てくれはったなア。まア、座っとくなはれ。」
そう柔かくいって、持田は、腰を下ろした。田所も、それにしたがった。
「社長はん、元気でやってはりますか。」
「そのことで、ご報告かたがた。」
「何んです?」
「こんど、自分の友達を、総務部長として、入社させる、といい出しましてね。」
「総務部長やったら、会社の総元締めでんな。」
「そうなんです。急に、そんなことを、いい出したりするもんですから。」
「急にでっか。」
「相変らずのお坊っちゃんなんですよ。」
だから、困りますと、田所の顔に書いてあった。
「そんなら、いっそう、あんたなんかに、しっかりして貰わんと困りますな。」
と、いってから、持田は、更に、「こんどくるのは、どんな男ですか。」
「社長と同じ年なんです。いきなり、総務部長だなんて、以てのほかだ、と組合も騒いでいます。」
「組合がでっか。」
「組合に対しては、極力、私からなだめているんですが。」
「聞きませんか。」
「逆に、こういうんですよ。社長は、専務を追い出しにかかっているんだ、だから、われわれは、いっそう、黙っていられない、とね。」
「はッはッは。」
持田は、肩をゆさぶって、笑い出した。
「感心な組合やな。それに今、あんたを追い出したら、日吉不動産は、つぶれまんが。」
「まア、そうでもないでしょうが。」
「第一、株主として、わしが、黙っていまへん。」
「実は、持田さん。そのお言葉が聞きたくて、東京から、わざわざ、大阪まで、やって来たんですよ。」
「わかってます。」
持田は、何も彼も、飲み込んでいるようにいった。
「有難うございます。これで、こっちへ来た甲斐がありましたよ。」
「そうでっか。」
「ところで、お願いがあるんですけれどね。」
「何んです?」
「まア、私としては、今まで株主のために、と思って、一所懸命にやって来たつもりです。」
「あたりまえや。」
「ここらで、はっきり、利益代表としての重役、ということにして頂けたら、と思うんですが。」
「…………。」
「総会の委任状を、今後、私宛に頂戴したい、と思うんです。」
「そら、ほしいといわれるんなら、差し上げんこともありませんで。」
「ぜひ、お願いします。」
田所は、頭を下げた。それを見ながら、持田は、ズバリといった。
「いくら、出してくれはります?」
「一株について一円、と考えてるんですが。」
「安いな。」
「出来れば、この際、五千か一万程度の株を、私に分譲して頂きたいんですよ。」
「いくらで?」
「二百円で、いかがでしょうか。」
「安過ぎまんな。」
「じゃア、もう十円、出します。」
「三百円でも、安過ぎまっせ。」
「三百円!」
田所は、わざと、おどろいたようにいったが、心の中で、流石は持田だ、いいところを衝いてくる、と思っていた。
「そう、三百円。」
「わかりました。そのかわり、東洋不動産の株を、すこし、買っていただけますか。」
「東洋不動産?」
「ご存じでしょう?」
「知ってますよ。」
「二万株ほど、あるんです。」
「いくら?」
「二百五十円。」
しかし、田所が、会社ゴロの星井をつかって入手した株価は、最高で、百七十円なのである。
「高いな。」
「いいえ、そのうちに、もっと、高くなりますよ。」
「さア、どうかな。」
「大丈夫ですよ。」
自信ありげにいう田所の顔を、持田は、じいっと、見つめていたが、
「あそこには、ロクな重役が、いませんでしたな。」
「そうなんです。」
「もう、なんぼぐらい、集めなはった?」
「まだ、それほどでもないんですよ。」
「一口、乗ってもええな。」
「ぜひ。」
「二百円で、二万株。」
「二百五十円でないと。」
「じゃア、二百十円。」
こんどは、田所も、譲らなかった。結局、押し合って、二百三十円で、二万株、ということにきまった。これだけで、田所の儲けは、百二十万円以上になった。
そして、この会談で、田所は、日吉不動産の株を一万株入手しただけでなく、持田の持株、九万株についても、発言力を有することになったのである。
ばかりか、持田は、今後の協力をも約束してくれた。
田所は、会心の笑みを浮かべながら、持田産業を出て、待たしてあった自動車に乗り込んだ。
その夜、田所が、宗右衛門町のお茶屋での宴会を終ったのは、午後九時頃であった。そのあと、こんどは、客の大泉の案内で、彼の行きつけのバーに寄ったりして、十一時頃に、帰路についた。
自動車は、御堂筋を北に向かって、走っている。田所は、今夜は、煙草を飲み過ぎた、と思いつつ、一種の満ち足りた気分で、新しい煙草に火を点けた。
(とにかく、今日のところは、うまくいった)
恐らく、明日も、この調子で、行くだろう。
大泉は、やはり、大株主の一人であったが、持株は、持田より、ややすくなくて、五万株なのである。
田所は、大泉には、持田に対するような取引は避けて、善太郎の無能ぶりを宣伝したし、龍太郎の悪口もいった。大泉は、結局、田所を、自分の利益代表ということに、認めてくれた。しかし、それは、田所の手腕を買い、その立場に同情してのことではなく、一株につき一円、という条件が、気に入ったからであるに違いなかった。
が、田所にとっては、どちらでもよかった。彼が、現在の位置に、とどまっていられることによって得ることの出来る莫大な利益を考えると、一株一円の金額なんか、まるで問題にならないのである。
自動車は、梅田新道を東に折れた。そして、田所は、やっと、千世龍のことを思い出した。
(そうだ、帰ったら、もう一度、いっしょに、風呂へ入ろう)
宿の女中が、
「お帰りやす。」と、出迎えてから、「支店長さんが、お待ちになってはります。」
「有川君が?」
「はい、十時頃から。」
「どこで、待たしてある?」
「お部屋では、いけしまへんのですやろ。」
女中は、意味ありげに笑って、
「別の部屋に、待って貰ってあります。」
「よしよし。」
田所が、その別の部屋へ入っていくと、有川は、煙草をもみ消して、あわてて座り直した。
「どうしたのだ。」
「いえね、急に、お耳にいれておいた方がいい、と思ったことが、あったもんですから。」
「うん。」
「秋山が、さっき、電話をかけて来たんです。今夜、彼が、東京へ行く親戚の者を見送りに、大阪駅へ行ったんだそうです。そこで、岩田に会ったんですが、彼も、三十前後の男を見送りに来ていた、というんです。」
「三十前後? どんな男なのだ。」
「背の高い、ガッチリした感じの。」
「で?」
「秋山が、あとで、誰だ、と聞いたら、岩田は、いや、何んでもないんだよ、とアイマイにいっただけだそうです。」
「それだけのことか。」
「それだけなんです。でも、秋山のいうには、ひょっとしたら、あの男が、南雲でないか、と思ったんだそうです。」
「南雲?」
田所の眼が、底光りをした。
三十前後、背の高い、ガッチリした男。南雲龍太郎が、そうであった。しかも、すでに、東京行の汽車に乗った、という。
「しかし、それだけで、秋山が、どうして、その男を南雲でないか、と思ったんだ。」
「それは、本人も、ただ、ふっと、そんな気がしたのだ、とベンカイしていました。もっとも、お昼ちょっと前に、岩田のところへ、誰かから、電話があったそうです。誰からだ、と聞いたら、いや、ちょっと、とアイマイに答えて、お昼には外出した、というんです。」
「…………。」
「岩田には、営業以外のことで、電話をかけてくる男は、まだ、この大阪にいないはずだと、秋山が、いうんです。そこで、二つの事を関連させて、ひょっとしたら、と思ったんだそうです。」
「…………。」
「もっとも、秋山は、そういうセンサクの好きな男なんです。彼のいうには、南雲が、九州から上京する前に、岩田に会っておく、ということは、十分にあり得ることだ、と。」
「しかし、南雲は、どうして、岩田を知っているのだ。」
「それも、秋山にいわせると、社内には、すでに、通じている者があるのではないか、と。」
田所は、黙り込んだ。
それを見て、有川が、
「却って、つまらんことをお耳にいれたかも知れませんが。」
「いや。」
「どうせ、明日になったら、わかることなんですが。」
「そうだ。」
「私も、秋山の電話を聞いているうちに、急に、心配になったもんですから。」
「何が?」
「いえ、南雲のことが。」
「だから、どう、心配しているんだ。」
有川は、しどろもどろになって、
「心配は、していませんが、ただ、お耳にいれておいた方がいいのではないか、と。」
「ご苦労。」
田所は、龍太郎が、岩田に会った、ということよりも、そういうことを、すぐ、支店長に電話で知らせる秋山、そして、それを、こんな夜更けに、わざわざ、報告にくる有川の態度の方が、不愉快であった。
「専務、失礼します。」
「そうか。」
「岩田を、どうしましょうか。」
「放っときたまえ。そのうちに、クビにしていい男だ。」
「わかりました。」
有川は、部屋を出ていった。
そのあと、しばらく、田所は、じいっと、何かを考え込んでいたが、これまた、自分の部屋の方へ引き上げていった。
部屋には、すでに、布団が、敷いてあった。
「お帰りなさい。」と、千世龍がいった。
田所は、千世龍に手伝わせながら、洋服を脱いだ。千世龍は、媚びるように、
「お風呂は?」
「いや、その前に、ちょっと、電話をする。」
田所は、手帳に控えてある東京の山形人事課長の家の電話番号を探し出して、申し込んだ。
その電話の出る僅かな時間を、彼は、千世龍を横に引き寄せ、その手を弄んでいた。そして、電話が通じてからも、彼は、左の手で、千世龍の手を、弄びつづけていた。
「ああ、山形君か。わしだ、田所だ。多分、明日、南雲が会社へ顔を出すはずだよ。うん、そうなんだ……。」
翌朝、龍太郎は、東京駅で下車した。そして、人波にもまれながら、朝食を取るため、八重洲口の名店街の方へと歩いていった。
(とうとう、東京へ出て来たのだ)
今、その第一歩を踏んだような緊張を覚えていた。
長い旅のあとのせいか、熱いコーヒーは、ひとしおうまいものに思われた。
そのとき、一人の男が、彼の前を、通り過ぎようとして、
「南雲!」と、叫ぶようにいって、立ちどまった。
「青田。」
龍太郎は、眼で笑った。
「いつ、出て来たのだ。」
「たった、今。」
「そうか、よく、出て来てくれた。毎日、待っていたんだ。」
青田は、そういってから、彼の前の椅子に腰を下ろし、寄って来た給仕に、
「コーヒー。」
そして、もう一度、龍太郎の顔を覗き込むように眺めて、
「おい。」
「うん。」
「よく、来たなア。実は、本当に来てくれるかどうか、心配していたんだ。」
「何をいう。僕を、引っ張り出した張本人は、君じゃアないか。」
「違いない。」
こんどは、青田が、笑った。それから、周囲を見まわして、
「日吉は?」
「いや、今日、着くということは、知らしてないんだ。」
「どうして、知らせなかったんだ。」
「別に、理由なんかない。」
「おかしな奴だな、で、これから、どうする?」
「とにかく、会社へ出てみる。」
「そうか。」
青田は、ちょっと、言葉を切ってから、
「覚悟をしていけよ。組合が、君のことで、だいぶん、騒いでいるらしい。」
「知っている。」
「知っているのか。」
「だって、組合から、入社反対の電報を貰っているくらいだ。」
「そうか。ひとつ、頑張ってくれ。実は、僕は、これから名古屋へ行くんだ。二、三日、向こうにいる。今夜、歓迎会をしてやりたいんだが、帰ってからにしよう。」
「ああ、いいとも。」
「しかし、よく、来てくれたよ。」
青田は、同じ言葉を繰返してから、
「これで、日吉も、安心するだろう。」
乗車の時刻が来て、青田は、
「じゃア、失敬。」と、出ていった。
そのあと、龍太郎は、煙草をもう一本、こんどは、ゆっくりとのんでから、立ち上がった。タクシーで、日吉不動産の前まで行った。しかし、彼は、すぐには、ビルディングの中へ入っていかず、広い車道をへだてた反対側に立った。
龍太郎は、その七階建のビルディングの窓々を眺めながら、その中で、今後、起るであろうことを思った。
しかし、龍太郎は、長くは、そこに立っていなかった。
(なるようになるのだ)
思いを決したように、大マタで、車道を横切って、ビルディングの中へ入っていった。
龍太郎を乗せたエレベエタアは、七階でとまった。
彼は、エレベエタアから降りると、すでに、勝手を知っている、社長室の方へ歩いていった。
出勤時刻の九時を過ぎたばかりなので、何んとなく、そこらが、ざわめいているようだった。
事務室の前を通った。扉が開いて、厚子が出て来た。
「やア。」と、龍太郎の方から、声をかけた。
殆んど、それと同時に、厚子が、
「まア、総務部長さん。」
「総務部長?」
「そうですわ。だって、今日から、総務部長さんに、おなりになるんでしょう?」
「なるほど。しかし、辞令を貰ってからでないと。」
そのとき、二人の男が、こっちへ近づいて来た。それを見て、厚子は、顔色を変えた。急いで龍太郎に、何か、ささやきかけようとしたのだが、その前に、
「南雲さんですね。」と、一人が、声をかけた。
もう一人の方は、黙って、龍太郎を見ている。龍太郎は、その二人の眼が、自分に対して、敵意に満ちているのを、見て取った。
(いよいよ、おいでなさったな)
しかし、龍太郎は、何気ないように、
「そうですよ。」と、二人の方に、向きを変えた。
「ちょっと、お話したいことがあるんです。」
「どなたでしょうか。」
「日吉不動産の職員組合の者です。」
「ああ。電報は、拝見しましたよ。」
先を越されたように、二人は、顔を見あわせたが、すぐ、一人が、
「だから、それについて。」
「しかし、僕は、これから、社長室へ行きたいんですよ。」
「社長は、まだ、来ていません。」
「秘書は?」
「とにかく、われわれとしては、その前に、あなたと話をつけたいんですよ。」
「なるほど。」
龍太郎は、ゆっくりといった。
気がつくと、相手は、いつの間にか、四人にふえていた。ひとしく、龍太郎を睨みつけるようにしていた、中には、腕を組んでいる者もあった。
あらかじめ、今日の龍太郎の上京を知っていて、ここで、待ち構えていたようである。
(どうして、わかったのだろうか)
しかし、今となって、龍太郎には、そんなことは、どうでも、いいことだった。
厚子は、龍太郎の横で、ハラハラしていた。ただ、龍太郎が、こんな風に、組合の幹部から取り囲まれているのに、顔色ひとつ、変えていないことが、たのもしかった。
その厚子に、一人が、
「君は、あっちへ、行っていたまえ。」
「あら、どうしてですの。」
厚子は、負けていなかった。
「邪魔になるのだ。」
こんどは、別の男が、叱りつけるようにいった。
龍太郎の腹が、きまった。
「お話を伺いましょう。」
「よし。」と、一人が、気負ったようにいって、「こっちへ来て頂きましょう。」
龍太郎は、頷いた。
四人に連れられていく龍太郎を、厚子は、地団駄を踏みたいほどの思いで、見送っていた。
龍太郎が、連れ込まれた部屋には、大円卓があって、会議室らしかった。すでに、四人の男が、そこに待っていて、結局、彼は、八人に取り囲まれるような格好で、腰をかけた。
しかも、壁には、
[#1字下げ]  南雲龍太郎氏に告ぐ
[#1字下げ] 君は即刻九州へ帰り給え
[#1字下げ]     日吉不動産職員組合
と、書いたビラが、貼ってあった。
その墨の色が、まだ、かわききっていないようであるから、さっき、大急ぎで、これを書いたのに違いあるまい。そして、この部屋へ、龍太郎を通すことも、あらかじめ、計画をたててあったことのようである。
龍太郎は、それを読んで、流石に心の中が、おだやかでなかった。憤りと反発心が、こみ上げてくるのである。
(どうして、組合が、これほどまでに、反対するのか)
たしかに、行き過ぎである。しかし、その行き過ぎは、裏で、田所専務が糸を引いているからだ、と思えば、却って、その糸にあやつられている人々が、哀れになってくるのだった。
サラリーマンとして、それこそ、最も、自主性のない、不明朗な生き方ではないのか。勿論、龍太郎には、そうならざるを得ない彼等の弱い立場が、わからぬではなかった。いや、わかり過ぎる程、わかっていればこそ、もっと、明朗な会社にしたい、と思って、入社の決心をしたのである。
龍太郎は、あらためて、田所を憎いと思った。
が、自分を睨みつけている一人一人の顔を見ていくと、この連中との妥協もまた、容易なことではない、と痛感させられた。
「僕は、南雲龍太郎です。お話を聞く前に、皆さんのお名前を、教えていただきたいですよ。」
ほんの一瞬であったが、人々の間に動揺の翳が、掠めたようであった。
しかし、真正面の一人が、
「委員長の犬丸五平。」
続いて、その右隣の男が、
「副委員長の中津三郎。」
この二人が、さっき、廊下で、龍太郎を、待っていたのである。
そのあと、六人が、それぞれ、名をいった。龍太郎は、それを記憶にとどめておくように、そのつど、相手の顔を、じいっと、見つめた。中には、見つめられて、顔をそむけるようにする男も、一、二はあった。
「ところで。」
犬丸は、ぐっと、身を乗り出すようにして、
「われわれは、あなたの入社について、社長宛に、こんな決議文を出してあるんです。読みますから、聞いて下さい。」
「どうぞ。」
「社長の友人、南雲龍太郎氏を、当社の総務部長として入社させることは、われら職員の勤労意欲を喪失させ、且、社内に側近をつくる恐れありと認めて、ここに反対の決議をする。」
読み上げてから、犬丸は、
「おわかりになりましたか。」
「わかりました。」
「じゃア、このまま、入社をあきらめて、九州へお帰りになりますか。」
「いや。」
龍太郎は、頭を横に振った。
この場の空気が、さっと、緊張の度を加えた。
「すると、どうしても、入社する、というんですか。」
犬丸は、声を荒げるようにいった。
「そうですよ。」
「組合がこれほど反対しているのに?」
「その前に、こちらから、お聞きしたいことがありますよ。」
龍太郎は、一呼吸いれてから、
「僕が、入社する、ということが、どうして、皆さんの勤労意欲を喪失させるんですか。」
「そんなこと、わかっているじゃアないか。」
「それが、僕に、わからないんですよ。」
「あなたは、幾つですか。」
「三十一歳。」
「たったの三十一歳で、いきなり、総務部長だなんて、厚かましい、と思いませんか。ここにいる者の中にだって、四十歳を越しているのに、まだ、平社員のままのがいるんですよ。課長になっている人だって、勿論、四十歳を越している。」
「なるほど。」
「それを、ただ、社長の友人である、というだけの理由で、総務部長となり、長年、営々として勤めた者が、その下にコキ使われることになったら、我慢が出来る、と思いますか。」
これは、龍太郎にとって、痛いところだった。仮に、彼が、逆の立場に置かれたら、やはり、不愉快に思ったに違いなかろう。
「ごもっともです。」
龍太郎は、素直に認めて、
「すると、僕が、総務部長としてではなしに、かりに、平社員として入ってくるのであったら、組合としては、一切、文句がない、ということになるんですか。」
こんどは、中津が、
「やっぱり、反対だ。」
「理由は?」
「だいたい、近頃の社長は、どうかしている。バーの女の妹を入社させたり、自分の妹を秘書にしたり、その上、君を入社させようとするんだから、社内に、閥をつくろうとしているに違いない。」
「しかし、僕には、勿論、そんな意志はないし、社長もまた、閥をつくろう、としていようとは、思えませんよ。」
「じゃア、必要もないのに、どうして、君を入社させようとするんだ。」
「そうだよ、田所専務がいられるし。」
「本間常務だっていられる。」
「この会社は、それだけで、十分なんだ。」
「今更、総務部長なんか、いらないよ。」と、口々にいいはじめた。
龍太郎は、その声の鎮まるのを待って、
「しかし、社長が、その必要を認めているんですよ。」
「組合は、認めない。」
「そういうことは、組合の行動として、行き過ぎじゃアないですか。」
「行き過ぎではない。」
「僕は、ここで、はっきり、誓っていい。諸君の勤労意欲を喪失させたり、側近をつくったりするような真似は、絶対にしない。」
「信じられるもんか。」
「すると、あくまで、僕の入社に反対する、というんですね。」
「組合の決議だ。気の毒だが、九州へ帰って貰うよ。」
「念のためにお聞きするが、その組合の決議というのは、総会の決議ですか。」
「いや、代議員会だ。」
「全員一致ですか。」
そのとき、扉が、開いた。正木信子が、静かに入って来た。
人々は、いっせいに、信子の方を見た。そして、まるで、邪魔者が入って来た、というように、顔を見あわせた。
勿論、龍太郎だけは、別だった。彼は、信子の顔を覚えていた。今、信子が姿を現わしてくれたことは、龍太郎にとって、救いであった。
たとえ、信子が姿を現わさなかったとしても、龍太郎の決心は、変らなかったろう。しかし、信子の出現は、彼に、ある勇気をあたえたことは、たしかであった。
信子は、無言のままで、着席した。そして、壁のビラを黙読した。
龍太郎は、重ねて、いった。
「全員一致だったのですか。」
犬丸は、チラッと、信子の方を見てから、
「そうだ。」
すると、信子が、
「何んのことですの。」と、口をはさんだ。
龍太郎は、信子の方を向いて、
「僕は、南雲龍太郎ですが、あなたは?」
「正木信子です。」
「やはり、組合の代議員ですか。」
「ええ。」
「じゃア、あなたも、僕の入社に、反対なさったのですか。」
横から、犬丸が、
「そんなこと、僕が、今、いった通りなんだ。」と、いらだたしそうにいった。
しかし、信子は、そんな犬丸を黙殺するように、
「あたしは、反対しませんでしたわ。」
「すると、僕が、この会社に入ることに、賛成してくださったんですか。」
「ええ。」
「君。」
龍太郎は、犬丸に、わざと、微笑みかけながら、
「すこし、話が違うようだね。」
「しかし、絶対多数決で、反対決議されたんだよ。」
「だが、君がいったように、全員一致ではなかったらしい。」
「要するに、われわれは、あなたに、その壁の紙に書いてあるように、さっさと、九州へ帰って貰いたいんだよ。」
「では、お答えしよう。残念ながら――。」
「何?」
「僕は、今日から、この会社の総務部長に就任する。」
「じゃア、君は、これだけいっても、組合に対して、真ッ向から、挑戦するつもりか。」
「違う。」
「いや、そうだ。」
「僕は、組合の意志を尊重する。しかし、その中に、フェアでないものがあるような気がする。そのフェアでないものが、僕の入社に反対したのだ、と思う。だから、そのフェアでないものの挑戦には、応じていい。それはここで、はっきり、いっておく。」
龍太郎は、立ち上がった。それにつられて、犬丸をはじめ、三、四人が、同じく、立ち上がった。龍太郎は、それを見返してから、扉の方へ歩いていった。
「覚えていたまえ。」
「あとで、きっと、後悔するぞ。」
しかし、龍太郎は、振り向きもしなかった。廊下へ出た。冷たい風に触れて、冷静になろうと努めていたにもかかわらず、だいぶん、興奮していたらしい、とわかった。龍太郎は、苦笑した。
ひどく、後味が悪かった。しかし、仕方がなかったのである。そう、思った。
廊下の向こうに、厚子がいる。そして、厚子と並んで、高子が、じいっと、こっちを見ていた。
龍太郎は、近寄っていって、
「やア。」と、高子にいってから、こんどは、厚子に視線を向けて、やさしく、「君だね、僕のことを、正木さんに知らしてくれたのは。」
厚子は、顔をあからめながら、
「だって、心配だったんですもの。」
「有難う。お陰で、たすかったよ。」
高子が、
「組合が、どういいましたの?」
「正面衝突ですよ。あとで、ゆっくり、話しますが、社長は?」
「さっき、家へ電話したら、もう、出たそうですから、間もなく、こちらへ着くと思います。」
「じゃア、しばらく、あなたの部屋で、休まして下さい。」
「どうぞ。」
高子が、先に立って、歩きはじめた。それを見て、厚子が、
「失礼します。」と、二人から、はなれていった。
秘書室へ入ると、高子が、あらたまった口調で、
「本当に、よく、来てくださいましたわ。」
「だって、あんな催促の電報をいただいては、仕方がありませんよ。」
「組合の方からも、電報を打ったんだそうですのね。」
「ええ。さっきも、君は、即刻、九州へ帰り給え、といわれたんですよ。」
「それで?」
「断わりましたよ。だって、九州の会社は、辞めてしまったんです。それなのに、こっちの会社でも断わられては、完全に失業です。失業は、困りますよ。だから、どうあっても、採用して貰わなくちゃアね。」
龍太郎は、笑った。
「あら、あたし、お茶も差し上げなくて。」
高子は、いそいそと、お茶の支度にかかった。そのうしろ姿に、心のよろこびが、現われているようだった。
「あたし、何んだか、夢みたいだわ。」
「何が?」
「だって、南雲さんが、本当に、この会社へ来てくださるなんて。」
「僕だって、そうですよ。一カ月前までは、まさか、こんなことになろうとは、思っていなかったな。」
「でしょうね。」
「しかし、こうなったら、乗りかかった船ですよ。」
「どうぞ。」
高子は、龍太郎の前に、紅茶を差し出しながら、
「さっき、あたしは、自分で、組合の人たちのいる部屋へ、入っていこうか、と思ったくらいですよ。」
「ほう。」
龍太郎が、高子の顔を見た。高子は、顔をそむけないで、
「心配でしたから。」
「いや、僕としては、いきなり、組合の人たちに会えて、却って、よかったですよ。」
「でも、やっぱり、びっくりなさったでしょう?」
「そりゃアね。でも、僕は、大阪で、岩田君に会って来たんですよ。」
「まア、岩田さんに?」
「だから、そんなには、おどろかなかったな。しかし、これからが、やっぱり、大変ですよ。思いやられる。」
そういって、龍太郎は、考え込んだ。
善太郎が、出勤して来たのは、それから、十五分程たってであった。
彼は、龍太郎の顔を見ると、
「おお。」と、叫ぶようにいって、つかつかと、近寄って来た。
「来てくれたか。」
「うん、来たよ。」
善太郎は、龍太郎の手を握って、強く、それを振った。
「毎日、待っていたんだよ。」
「そうか。まア、よろしく、頼むよ。」
「お兄さん、南雲さんは、もう組合の人たちと、お会いになったのよ。」
「何?」
善太郎は、顔色を変えた。
龍太郎は、笑いながら、さっきのことを話した。
「あいつらが! なア、南雲。こうなったら、そんな連中は、みんな、馘にしてしまおうじゃアないか。」
「まア、待て。もう、ちょっと、僕に、ようすを見させてくれ。」
龍太郎は、ひとりで気負っている善太郎に、話題を変えた。
「けさ、東京駅で、青田に会ったよ。」
「そうか。」
「二、三日、名古屋へ行く、といっていた。帰ってから、盛大な歓迎会をしてくれるそうだ。」
「勿論。しかし、今夜も、飲もう。」
「飲むのもいいが、その前に、辞令が貰えないか。でないと、どうも、落ちつけないよ。」
「わかった。高子、山形君を呼んでくれ。」
「はい。」
やがて、山形人事課長が、社長室へ入って来た。
「君、南雲君が来たんだ。辞令の用意は、してあるだろうな。」
「いえ、まだです。」
「まだ? 前に、用意するように、いっておいたではないか。」
「しかし、田所専務が、大阪へご出張になっているので、ご決裁を受けていないんです。」
「かまわぬ。」
「えッ?」
「かまわんから、すぐ、辞令を出したまえ。」
「でも。」
「君は、社長である僕の言葉に、したがわんのかね。」
山形は、黙り込んだ。強情な表情であった。それにくらべると、善太郎の方が、もう、いらいらしていた。
龍太郎は、山形が、田所の一の子分であることを、岩田から聞いて、すでに、知っていた。すると、自分にとって、当面の敵は、この山形ということになるかも知れない、とあらためて、見直していた。
とにかく、社長の前で、これだけの強情を張れるのは、たとえ、敵としても、たのもしい男、といってもよさそうだ。
そして、山形だけでなしに、こういう男が、ほかにも何人かいるに違いなかろう。これでは、今日まで、善太郎が、社長でありながら、ロボットとならざるを得なかった理由が、わかりそうである。言葉を換えれば、田所が、それだけ、社員の間に、大きな勢力を持っていることにもなるのだ。
山形が、やっと、いった。
「承知しました。」
龍太郎と高子を乗せた自動車が、青山に向かって走っていた。車内には、高子のつけている香料のいい匂いが、満ちていた。
「今日一日だけで、あんまりいろんなことがあったので、ウンザリ、なさったでしょう?」と、高子が、いたわるようにいった。
「そう……。」
龍太郎は、頷いて、
「しかし、そのうちに、何んとかなるでしょう。」
「社員の人たち、どんな顔をしていまして?」
山形が、龍太郎の辞令を持って来たのは、あれから一時間程後であった。
善太郎は、龍太郎を、先ず、自分で本間常務の部屋へ連れていった。
「本間さん、南雲君ですよ。」
本間は、椅子から立って、
「やア、よろしく。」と、にこやかにいった。
「よろしく、お願い致します。」
龍太郎は、丁寧に頭を下げながら、いつか、汽車の中で、美和子といっしょにいたのは、やはり、この男であった、と思い出していた。
しかし、本間の方でも、美和子の口から、龍太郎のことを聞いているはずなのに、何食わぬ顔をしていた。
本間の部屋を出たあと、善太郎は、ふたたび、山形を呼んで、新総務部長を社員たちに紹介してあげろ、と命じたのである。
こんどは、山形も、さからわなかった。
「どうぞ。」と、龍太郎を連れて、事務室へ行った。
彼は、各課毎に、先ず、課長に、龍太郎を紹介し、次に、課員全部に対して、
「こんどお見えになった総務部長の南雲龍太郎氏だ。」と、大声でいってまわった。
龍太郎は、高子に、
「するとね、みんな、一応、席を立ってくれましたよ。しかし、その顔は、千差万別でしたね。ぐっと、睨みつけるようにする男もあれば、何んとなく、笑いかけてくれる者もありましたね。」
たとえば、厚子なんか、真ッ先に、笑顔を見せた方だった。
ただ、龍太郎に思いがけなかったのは、会議室で会った組合の代議員をしている男のうちの一人が、微笑みかけてくれたことであった。
「何人ぐらい、笑ってくれまして?」
「さア、ぜんたいの一割ぐらいかな。」
「すると、すくなくとも、その一割は、南雲さんのご入社を、歓迎していることになりますのね。」
「だといいんですが。」
一割を二割にすることは、容易であるかもしれない。しかし、比率を今の逆にするためには、一割を九割にする必要があった。そして、そこまでいかなければ、龍太郎入社の目的が達成せられたとは、いえないのである。
果して、そこまで、頑張り通せるかどうか。龍太郎には、まだ、その自信も、見通しもなかった。
「そこを、右に曲って。」と、高子がいった。
自動車は、それからすこし進んだところで停った。
「ここですのよ。」
二人は、自動車から降りた。新築したばかりのアパートの前であった。
「なかなか、よさそうじゃアないですか。」
「お気に召すと、いいんですけど。」
二人は、アパートの中へ、入っていった。
龍太郎が、東京へくる、ときまったとき、高子は当分の間、自分の家から通勤したら、とすすめた。しかし、龍太郎は、アパートの方が気楽でいい、といって帰ったのである。
このアパートは、高子が、一所懸命になって、自分で探し出したのであった。
二階の、いちばん奥で、六畳の洋室だった。カーテンで仕切って、炊事場もついていた。
ベッドの上には、新しい布団が置いてあり、白いカバーが、かけてあった。洋服ダンスは、はめ込みになっていた。テエブルと椅子の外に、安楽椅子がそなえつけられていた。
「ほう。」
龍太郎は、感心して、更に、炊事場を覗くと、ガス台の上に、湯沸し、戸棚の中には、湯呑とか、食器の類までが入れてあった。
「素晴らしいじゃないですか。」
「そうお?」
「しかし、流石は、東京のアパートだな。必要な物を、一切、そなえて貸すんですね。」
高子は、くすっと、笑った。
「しかし、そのかわり、高いんでしょうな。」
「部屋代が、七千円ですのよ。」
「権利金は?」
「いりませんの。そのかわり、敷金が、五カ月分です。」
「借りましょう。」
「あら、もう、借りてありますわ。」
「あなたが、立て替えてくださったんですか。」
「ええ。」
「そいつは、どうも。じゃア、すぐ、払います。」
「今でなくとも。」
「いや、これでも、九州の会社で、退職慰労金を貰っているので、ちょっとしたブルジョワなんですよ。」
「じゃア、頂きますわ。」
龍太郎は、敷金と部屋代一カ月分の四万二千円を、高子に払った。
龍太郎は、今は、自分の部屋となった周囲を、あらためて、見まわして、
「おや、この画は?」と、壁にかけてある十号の風景画に注目した。
「覚えてなさる?」
「たしか、お宅にかかっていた?」
「ええ。前に、好きだ、とおっしゃったでしょう? だから、ここへ、持って来たんですのよ。」
「そりゃア、どうも。」
龍太郎は、頭を下げた。
「当分、拝借しますよ。いいでしょう?」
「どうぞ。」
「この部屋なら、僕は、落ちつけそうですよ。それにしても、安いな。布団の損料なんか、いらないんですか。」
「いりませんのよ。」
高子は、またしても、くすっと、笑った。いかにも、楽しそうであった。
「どうか、なさったんですか。」
「黙っていよう、と思ってたんですけど。」
「えッ?」
「どうせ、わかることですから、申し上げておきますわ。」
龍太郎は、ちょっと、不安そうな顔をした。
「本当は、このお布団は、こっちで運んだのですのよ。」
龍太郎は、おどろいて、
「じゃア、この安楽椅子も?」
高子は、頷いた。
「すると、あの食器類もですか。」
「ええ。」
「道理で、七千円の部屋代は、安過ぎると思いましたよ。」
「どうか、遠慮なしに、使っていただきたいんですの。」
「このことは、社長が、知っているんですか。」
「さア、どうですか。」
「じゃア、まだ、いってはないんですか。」
「はい。でも、あたしは、せっかく、南雲さんに九州から来ていただくのに、これくらいのこと、あたりまえだ、と思いましたのよ。」
「しかし、こんなにして頂いては。」
「あの、お茶をいれますわね。」
そういって、高子は、炊事場の方へ、立っていった。
お茶も、買ってあるらしかった。何から何まで、行き届いているようである。いや、行き届き過ぎているくらいだ。
「ここにあるものは、みんな、あなたが、買いに行ってくださったんですか。」
龍太郎は、高子の背中に、話しかけた。
「そうですわ。」
「じゃア、茶碗やなんかも?」
「ええ。」
「おどろいたなア。」
「あら、どうしてですの?」
「だって、あなたは、生れてから、そんなことを、なさったことは、一度も、ないでしょう?」
「ええ。だけど、とっても、たのしかったですわ。」
「あなたでも?」
「まア。」
高子は、振り向いて、睨むように、
「失礼だわ、南雲さん。」
「しかし。」
「まるで、あたしを、女でないように、思っていらっしゃいますのね。」
「そんなことは、ありませんよ。」
「じゃア、どうして、そんなひどいことを、おっしゃいますの?」
「ひどい?」
龍太郎は、苦笑した。高子が、自分のいった意味を、すこし、誤解しているように思われた。しかし、そのとき、龍太郎は、却って、九州の曽和沙恵子の面影を、脳裏に描いていた。
「どうぞ。」
高子が、お盆の上に、湯呑茶碗をふたつのせて、彼の前に立った。それを、テエブルの上におくと、自分も、腰を下ろした。
お茶は、上等の物であったし、湯呑茶碗の模様もしゃれていて、そこらに売っている安物でないことは、一目でわかった。
「本当は、あたし、あんな家に住むより、こんなアパートで暮してみたいんですのよ。」
高子は、周囲を見まわした。
「そんなことをいったら、お母さんに、叱られますよ。」
「まア。」
「第一、あなたには、こんなアパート暮しなんか、不似合いですよ。」
「今日の南雲さんは、どうして、そんな嫌なことばかり、おっしゃいますの?」
「だって、あなたを見ていると、そんな気がするんですよ。」
「また!」
高子は、口惜しそうにいった。
その夜、龍太郎は、九州の曽和宛に、手紙を書いた。書きながら、その手紙を、沙恵子も読むに違いない、と思っていた。
窓から、深々とした美しい星が見えていた。
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波紋
龍太郎の席は、はじめ、別室に設けてあったのだが、彼は、それでは、社員たちとの連絡が悪くなるから、と主張して、結局、事務室の中に、移った。
勿論、それでは、ますます、煙たがられるのだが、龍太郎は、意に介さなかった。
もっとも、厚子なんか、その方を、よろこんでいた。そのためかどうか、彼女の出勤は、今までよりも、十分ぐらい、早くなった。龍太郎は、たいてい、定刻の九時に五分前に、自分の席に腰をかける。待っていたように、厚子が、お茶を持っていく。
「お早うございます。」
「やア、お早う。」
その一言が、厚子に嬉しかった。それから、お昼までに一度、午後に一度、更に、すこし遅くまで仕事をしている時には、もう一度お茶を持っていくのである。
この厚子の特別サービスは、人目を引かぬはずはなかった。しかし、厚子は、平気であった。
大間が、気を悪くして、
「そんなに部長のところへばかり、お茶を持っていかないで、たまには、僕にも、サービスをしたらどうだね。」と、いったことがある。
「あら、忘れていたわ。」
厚子は、ケロリとして答えた。
しかし、厚子は、相変らず、龍太郎には、お茶の特別サービスを続けるが、大間のことは、とかく、忘れ勝ちである。
大間は、ときどき、腹が立ってくるのだ。そのくせ、大間もまた、龍太郎が好きなのである。
好きになった直接の動機は、いつかエレベエタアの中で、龍太郎と二人きりになった時、龍太郎の方から、
「大間君は、大阪支店の岩田君の後輩なんだそうだね。」
と、親しそうに、声をかけてくれたからである。
大間は、ちょっと、固くなりながら、
「そうです。」
「とてもいい男ですよと、岩田君が、君のことをほめていたよ。」
新総務部長が、自分の名を知っていてくれるだけでも、嬉しいのである。その上、何んとなくほめられたような気がする。
これで、厚子が、どうやら、龍太郎を好きらしい、ということでなかったら、もっと、好意をいだいたかも知れない。
気がつくと、厚子が、じいっと、龍太郎の方を見ていた。つられて、大間も、そっちを見た。
龍太郎は、熱心に仕事をしていた。起案を読んでいるらしいのだが、その横顔には、男らしさが、満ちていた。
また、煙草に火を点けて、ふっと、考え込むところなど、仕事に打ち込んでいる男の魅力を漂わせていた。
事実、龍太郎の謙虚な仕事振りは、一部の社員の間には、いい印象をあたえているようだった。
龍太郎は、とにもかくにも、先ず、仕事を覚えようとしていた。不動産業については、未経験だが、計数については、明敏を極めていた。その点では、経理担当の社員が、
「こんどの総務部長には、ウカツな説明は出来ないよ。」
と、舌を巻いていたくらいである。
大間は、気がついた。厚子は、まだ、龍太郎の横顔に、見惚れている。
大間は、そんな厚子が、憎らしくなった。鉛筆で、厚子の手の甲を、コツンと叩いた。
「あら、何よ。」
厚子は、ハッと、夢から醒めたようにいったが、しかし、自分が、龍太郎に見惚れていたところを見られたのだと、知ると、却って、むきになって、
「失礼ね。いきなり、ひとの手を叩いたり。」
「だって、その仕事は、急ぐんだよ。」
「わかってるわ。帰るまでにすりゃアいいんでしょう?」
「そうさ。」
「へっちゃらよ。」
大間は、しばらく、黙っていたが、
「君、例の噂を知っている?」と、声をひそめながらいった。
「例の噂って?」
「知らないのかい?」
「だから、何んの噂なのよ。」
「高子お嬢さんと……。」
「高子お嬢さんが、どうなさったのよ。」
「おや、本当に知らないんだね。そんならいいんだよ。」
大間は、わざと、気をもませるようにいった。
それが、厚子の癪にさわった。聞いてやるもんか、と思う。しかし、やっぱり、聞かずにはいられなかった。
「どういう噂なのよ。はっきり、いって。」
「高子お嬢さんと、南雲さんのことさ。」
「それが、どうしたのよ。」
しかし、もう、厚子の胸は、ドキドキしていた。
「二人は、結婚するんだそうだ。」
「結婚?」
「やっぱり、知らなかったんだね。」
お気の毒に、と大間は、言外に匂わせた。
「あら、知ってたわよ。」
「本当かい?」
「勿論よ。そして、そのうちに、南雲さんが、重役におなりになるのよ。」
しかし、重役になる、というのは、厚子の咄嗟の創作であった。
「そうか、重役になるのか。」
「そうよ、大間さんの方こそ、何んにも知らないのね。」
厚子は、威張ったようにいったが、気持が、みるみる沈んでいった。
三時になっていた。いつも、龍太郎にお茶を持っていってやる時刻である。何んだか、張り合いが抜けたような気分だったが、しかし、やっぱり、持っていかずにはいられなかった。
「ありがとう。」
龍太郎は、チラッと、厚子の顔を見ていった。眼顔で、笑っていた。
(本当に、高子お嬢さんと、結婚なさいますの?)
厚子は、思い切って、聞いてみたいくらいだった。しかし、それを聞くかわりに、大間にも、お茶をいれてやった。
「はい。」
「やア、すまん。」
大間は、嬉しそうにいった。噂の効果が。こうも、テキメンに現われようとは、意外であった。
龍太郎は、厚子のいれてくれたお茶を、うまそうに、飲んでいた。
そこへ、卓上の電話のベルが鳴った。龍太郎は、受話器を取り上げた。
「ああ、青田か。」
龍太郎の表情が、パッと、明るくなった。
「どうだ、その後、元気でやっているかね。」
「やっている。」
「今夜、空いているか。」
「ああ、空いている。」
「じゃア、僕の家へこないか。」
「君の家?」
「そうだよ。何だか知らんが、おふくろが一度、君をよびたいんだそうだ。」
「君のお母さんにも、随分と会わんからなア。お元気か。」
「元気だよ。来てくれるな。」
「社長は?」
「問題は、君らしいんだ。しかし、いっしょに来てくれて、結構だよ。」
「わかった。連れていけたら、行くからね。」
「待っているよ。」
電話が切れた。
そのあと、龍太郎は、ほのぼのと楽しい顔をしていた。彼にとって、善太郎の母は、どうも、苦手だが、青田の母は、なつかしいひとである。
学生時代に、よく遊びに行ったが、いつでも、歓迎してくれた。その歓迎振りも、形式的ではなく、まるで、わが子に対するようであった。
龍太郎は、すぐ、席を立って、社長室へ入っていった。
「社長。」
龍太郎は、そう、いった。この年来の友人を、社長と呼ぶことに、はじめは、心にこだわりを感じないではなかったが、今では、なれて来ていた。
むしろ、いまだに、こだわっているのは、善太郎の方であった。
「二人っきりのときだけでも、昔のように、日吉と呼んでくれ。」と、いうのだった。
「いや、これでも、月給を貰っているんだからね。」と、龍太郎は、答えた。
龍太郎は、立ったままで、
「エレベエタア修理の起案が、まわりましたか。」
「ああ、見たよ。」
「実はね、専務までの決裁にしてあったんですが、百万円からの工事を、社長が知らんのはおかしい、といって、社長決裁に訂正さしたんですよ。」
「らしいな。とにかく、君が来てくれてから、決裁書類が、三倍ぐらいになったよ。」
「まア、我慢しなさい。」
「うん、そのかわり、会社のことが、よくわかるようになった。今までは、まるで、ツンボ桟敷にいたようなもんで、会社は、今、どうなっているのか、さっぱり、わからなかったんだ。ただ、月給を貰いに来ていたようなもんだったから、仕事にも励みがつかなかった。」
「その月給のことだが。」
「何?」
「毎月、田所氏から、税金のかからぬ金で、別に十万円ずつ、貰っていられるそうですね。」
「そう。」
「近いうちに、それをなしにして頂くかもわかりませんよ。」
「君、そんな殺生な。」
善太郎は、悲鳴をあげた。しかし、龍太郎は、平然として、
「いろいろ、調べたんだが、今のところ、その金の出どころが、よくわかりません。」
「そりゃア、田所が、うまくやってくれているんだろう。とにかく、なしにされるのは、困るよ、君。」
「しかしね、社長。田所氏が、そんなことを、誰にもわからぬように、うまくやっているとしたら、臭いとお思いになりませんか。」
「そりゃアまア、そうだが。」
「だから、なくしたいんです。社長が、そんな金を取っている以上、田所氏だって、取って、いるに違いありませんよ。」
「…………。」
「しかし、こういう問題は、ウカツにいえませんから、そのうちに、よく、証拠をとらえてからにします。」
「わかった。しかし、十万円の減収は、辛いなア。」
「それだけ、表の勘定から出せば、いいでしょう?」
「でも、税金がかかると、ちっとも、有難くないよ。」
「それも、考えてみましょう。」
「頼むよ、君。」
龍太郎は、心の中で、苦笑していた。その十万円がなくとも、別に、役員賞与、更に、配当金があるのだ。それほどまでに、こだわる必要が、ないような気がするのだが、それも、あるいは、こちらが、貧乏人のせいだろうか、と思いたくなってくる。
まして、サラリーマン重役、というのではなし、資本家重役なのである。自分の会社なのだ、との思いに徹していたら、そんな裏金なんか、即刻にでも辞退してくれるべきでなかろうかと、龍太郎は、思うのだった。
しかし、今は、それをいってはならぬようだ。が、ひょっとしたら、こういう考え方の違いが、自分と善太郎の仲を、将来、むつかしいものにしていくのであるまいか。龍太郎は、それを恐れた。
「青田から、電話が、かかって来ましたよ。」
「青田が?」
「今夜、青田の家へ、遊びにこないか、というんです。」
「今夜?」
善太郎は、困った顔になった。
「都合が、悪いんですか。」
「うん、ちょっと。」
善太郎は、アイマイにいった。
「じゃア、僕だけ、行って来ます。」
「うん、そうしてくれ。そのかわり、近いうちに、三人で飲もう。」
「そうですな。」
龍太郎は、自分の席へ帰った。善太郎の断わり方が、気になっていた。
まさか、十万円のことで、気を悪くしたとは、思えなかった。
しかし、今までの善太郎なら、断わるにしても、たいてい、その理由を、ハッキリ、いったはずである。あのような、アイマイな断わり方は、めったにしなかった。
(何か、隠しているらしい)
そんな気がした。
しかし、それにこだわる必要は、ないのである。自分もまた、善太郎とは友人なのだ、ということを忘れて、ただの社長と総務部長という仲なのだ、との思いに徹すべきなのでなかろうか。しかし、龍太郎にとって、それは、淋しいことでもあった。
それだけに、今夜、青田と会えることが、楽しみだった。
退社の時刻を、こんなに待ちかねたことは、龍太郎にとって、珍しいことであった。
「よく来てくれた、待っていたんだよ。」
青田は、そんないい方で、龍太郎を迎えてから、
「日吉は?」
「何か、ちょっと、用があるそうだ。そのかわり、近いうちに、三人で飲もう、ということだったよ。」
「そうか。君と二人も、また、楽しだ、よ。今夜は、ゆっくり、していってくれ。」
「ああ。」
龍太郎は、答えながら、善太郎をいれての三人は、昔からの仲良しであったが、しかし、善太郎には、金持ちの坊っちゃん気質が隠せぬところがあって、その点、青田の方が、いつでも、明けっ放しで、より気楽な友人であったようだ、と思い出していた。
龍太郎は、青田の部屋へ通された。
(この部屋へくるのも、何年振りだろうか)
しかし、当時にくらべて、書棚の本が、おどろくほどふえているのは、ヤブと自称しながら、勉強を怠っていない証拠なのだろう。龍太郎は、微笑を禁じ得なかった。
お昼だと、広い庭が見えるのだが、すでに、暗くなっていて、何も、見えなかった。
「まア、座れよ。」
青田は、龍太郎に、椅子をすすめながら、
「どうだ、会社の方、うまくいっているか。」
「いや、なかなか、大変だよ。」
「うん、そうだろうな。まア、五年、十年はかかるつもりで、ゆっくり、やるんだな。」
「そのつもりだが、しかし、あんまりゆっくりしていたら、取り返しのつかぬ事が、起りそうな気がしているんだ。」
「たとえば?」
「会社の支配権の問題だ。」
「その点なら、日吉が、殆んどの株を持っているから、問題がないんだろう?」
「いや。違うんだよ。資本金は、五千万円なんだが、日吉の一族で持っているのは、うち三千万円なんだ。」
「それでも、絶対、過半数ではないか。」
「しかし、三千万円のうち、日吉と高子さんの持分は、二千二百万円だけだ。」
「あとは?」
「親戚の者が持っているんだが、どうやら、日吉とは、仲が良くないらしい。僕が、入社したことに対しても、反感を持っているそうだから。」
「放っとけよ。」
「しかし、五千万円のうち、絶対、動かぬ株が二千二百万円だけだ、ということは、やはり、問題だよ。」
「問題になるのか。」
「なるね。残りの二千八百万円の株主が、田所氏を信任するとしたら、日吉は、社長でいられなくなる。」
「すると、そんな心配があるのか。」
「ないとはいえぬ。」
「大変なことじゃアないのか。」
「そうだ。」
「日吉が、そこまで、知っているのか。」
「僕からは、まだ、話してない。しかし、そのうちに、話すつもりだが。」
「もし、そうだとしたら、社員たちが、田所につくのも、ちゃんと、それを感じているんだな。」
「かも知れぬ。それに、田所氏って、あれで、なかなか、一種の魅力があるからな。」
「こいつ、敵をほめるのは、よせよ。」
青田は、笑ってから、
「ところで、僕の方にも、問題があるんだよ。」と、真面目な顔になった。
「何んだ。」
「この前、僕は、名古屋へ行く、といっていたろう?」
「うん、いってた。」
「表面の理由は、二、三日、名古屋にある岩井病院を見学してこい、という親父の命令だったんだ。院長の岩井博士は、親父とは、クラス・メートなんだ。」
「で、ちゃんと、見学して来たんだろう。」
「うん、僕は、そのつもりだったんだ。ところが、名古屋へ行ったら、文句なしに、岩井博士の家へ泊められてしまった。」
「有難いことじゃアないか。」
「ところが、岩井博士に、節子さんという娘がいたんだ。」
「知らずに行ったのか。」
「そう。」
「いくつなんだ。」
「二十二歳。」
「そして、美人だろう?」
「まア、美人というよりも、育ちのいい、品のあるお嬢さんだ。しかし、相当物事をハッキリいうひとだ。」
「申し分がないな。」
「えッ、何が?」
「要するに、君は、見合いをさせられたんだろう?」
「そうなんだよ。後で、それと気がついたら、癪に触ってね。だって、こっちは、子供じゃアあるまいし、バカにしているよ。」
「そんないい方こそ、まだ、子供だな。」
「こいつ。」
青田は、龍太郎を、睨みつけた。しかし、龍太郎は、むしろ、面白そうに、煙草を吹かしていた。
「それで、どうしたのだ。」
「どうやら、僕は、気に入られたらしい。」
「それは、おめでとう。」
「待て。僕の方は、気に入ったわけじゃアないんだ。」
「嘘だろう? 君のさっきからのいい方には、気に入ったことが、ちゃんと、出ている。」
「いや、本当をいうと、僕に、もう一人、別に、好きな女があるんだ。」
「誰だ。」
「君の知っている女性なんだ。」
「僕の知っている?」
龍太郎は、青田の顔を見た。青田は、苦笑しながら、横を向いた。
「わからぬか。」
「高子さんか。」
「冗談じゃアない。高子さんは。」
そのあと、君に惚れているよ、といいたかったのだが、途中で、気が変って、
「僕じゃアない。」
「すると、いったい、誰なんだ。」
「本当に、わからないのか。」
「うん。」
「このボンクラめ。『けむり』の和ッぺだよ。和ッぺなら、あんな商売をしているが、いい女だろう?」
「うん、いい女だ。それに、妹ってのも、なかなか、いい娘だよ。」
「すると、君は、賛成してくれるな。」
「本当に、和ッぺと、結婚する気か。」
「そうなんだよ。出来ることなら、今夜、僕のおふくろに、それとなしに、そのことをいってくれないか。」
「今夜、僕をそういう気で呼んだのか。」
「いや、おふくろが、君に会いたい、といったんだ。どうやら、僕に、さっきいったお嬢さんと結婚させたくて、君からも何んとか、いって貰いたいらしいようすだった。だから、こっちは、その逆手を使いたいんだ。」
そこへ、青田の母親の保子が、入って来た。保子は、満面に笑みを浮かべながら、
「南雲さん、よく、いらっしてくださいました。」
龍太郎は、立ち上がって、
「お邪魔をしています。」
「いえ。前から、一度来て頂こう、と思いながら、つい、のびのびにしていまして。」
「とんでもない。」
「何んにもございませんが、どうぞ、食堂の方へ。」
「はい。」
「おい、行こう。」
と、青田は、立ち上がって、ついでに、
(さっきのこと、頼んだぞ)
と、眼顔でいった。
龍太郎にとって、青田家の食堂も、なつかしいもののひとつであった。学生時代は、すくなくとも、月に一度は、ここで、たらふく、ご馳走になったものだ。
「今夜は、主人も出るはずでしたが、急用が出来まして。そのかわり、くれぐれも、よろしく、と申して居りました。」
「どうも、恐れいります。」
ビールの栓が、抜かれた。保子が、先ず、龍太郎のコップに注いで、
「では、南雲さんのご上京を祝して。」
「有難うございます。」
三人は、コップをあげた。
保子の今夜の招待が、その魂胆は、別のところにあるとしても、一応、そんな風にいって貰えることが、龍太郎にとって、嬉しいことだった。
「でも、日吉さんの会社も、大変なんだそうですね。」
「大変です。実は、ちょっと、困っているところなんです。」
「まア、あんまり、ご無理をなさらないように。」
「でも、奥さん。僕を、東京へ引っ張り出した張本人は、この青田君なんですよ。」
「そうでございましたの。」
保子は、息子の方を見て、
「南雲さんは、ご迷惑をなさってるらしいじゃありませんか。」
「何、大丈夫。南雲なら、きっと、やりとげるよ。男の行く道だ。」
「ひとのことだと思って。」
「お母さんには、男の友情とは、どんなものか、よく、わからないんだよ。」
「じゃア、その友情ついでに、お母さんからも、南雲さんに、ひとつ、お願いしたいことがあるんですけどね。」
「チェッ、老獪だなア。」
「そうですよ。五十五歳ですからね。」
和洋とりまぜた料理が、次々に、運ばれてくる。龍太郎は、盛んな食欲を見せながら、しかし、心の中で、青田の頼みを、どうさばいたものか、と思い迷っていた。
「実はね、南雲さん。」
保子は、身を乗り出すようにして、
「英吉にも、そろそろ、嫁をと思っているんですよ。いえ、そろそろ、どころか、もう、随分と前から、いろいろと、いって来たんですけどね。この写真のお嬢さんなんですよ。」
そういって、保子は、ふところから、一枚の写真を出した。
「拝見します。」
龍太郎は、その写真を、取り上げた。それは、たしかに、飛びぬけた美人というほどでもなかったが、いかにも、良家の娘らしい、清潔さに満ちていた。
龍太郎は、眼を閉じた。その瞼の裏で、この節子という娘と、あの和子を、比較しているのだった。
(どちらが、将来、青田病院の院長夫人たるにふさわしいだろうか)
それなら、文句なしに、この節子の方に、軍配が上がるだろう。
龍太郎は、自分の一言が、この結婚の成否に、決定的な威力を持っているとは、思わなかった。しかし、一方で人間が人間を批判することの恐ろしさを、痛感しないではいられなかった。
龍太郎は、眼を開いた。
「お会いしないとわかりませんが。」
「会った感じも、この通りなんです。」
「じゃア、僕は、賛成します。」
とたんに、テエブルの下の青田の足先が、龍太郎の向こう脛を、蹴上げた。龍太郎は、顔をしかめた。青田は、睨みつけている。
「どうか、なさいましたの?」と、保子が龍太郎にいった。
「いえ、僕は、このお嬢さんを、なかなか、いいと思います。」
龍太郎は、重ねて、いった。
すると、またしても、青田の足先が、飛んできた。龍太郎は、ひょいと、自分の脛をひいた。青田の足先は、むなしく、空を蹴っただけだった。青田は、口惜しそうに、もう一度、龍太郎を睨んだ。こんどは、龍太郎は、澄まし込んでいた。
「それ、ごらんなさい。南雲さんだって、やっぱり、賛成してくださったじゃアありませんか。」
「しかし、僕には。」
「青田。僕は、やっぱり、このひとがいい、と思うよ。」
それから一時間ほどして、青田と龍太郎は、タクシーを、銀座に向かって、走らせていた。青田の方から、
「銀座へ出よう。」と、いい出したのである。
保子は、こんな時刻から、といったが、強く、反対もしなかった。
青田は、プリプリ、怒っている。
「実際、君って、友達甲斐のない奴だな。」
「そうでもないよ。」
「じゃア、どうして、反対してくれなかったんだ。」
「思った通り、いったんだ。」
「それじゃア、こっちが、あんなに頼んだ意味がなくなる。」
「君は、そんなに、和子が好きか。」
「好きだねえ。」
「よし、そんなら、万難を排して、結婚したまえ。」
「今になって、遅いよ。」
「それみろ。結局、君には、最後の決心が、ついていないから、そんな風にいうんだ。本当に結婚する意志があったら、どんな反対でも押し切るだけの熱意があるはずだ。」
「ある。」
「あるもんか。なア、青田、あんまり、無理をするな。君って、磊落に見えるけど、根は、神経のこまかい男だよ。だから、医者にもなれたんだろうが。」
「どうせ、ヤブだよ。」
「ヤブでも、やっぱり、医者のはしくれだ。将来、院長夫人が、昔女給をしていた、と噂をされたら、君なら、きっと、悩むに違いない。後悔もするだろう。君は、そういう男なんだ。だから、僕は、反対したんだ。」
「とにかく、今夜は『けむり』へ行こう。」
「いいとも。」
龍太郎は、反対をしなかった。
入って来た二人を見て、和子は、
「いらっしゃい。」と、笑顔で寄って来た。
「さっき、社長さんが、お帰りになったところですのよ。」
「日吉が?」と、青田は、聞き返して、「ひとりで?」
「いいえ、会社の正木さんとごいっしょでした。」
「また、あの女といっしょなのか。」
そういって、青田は、意味ありげに、龍太郎を見た。
「日吉は、あの女が、好きらしいな。」
「さア。」
龍太郎は、生返事をしたが、やはり、ひょっとしたら、と思わずにはいられなかった。お昼、龍太郎が、いっしょに、青田の家へ行かないか、と誘ったとき、ちょっと、とアイマイにいって断わったのは、そういう先約があってのことだったのかと、やっとわかった。
それなら、別に、隠さずに、正直にいってくれたらよさそうなものだ。隠したいような事情でも、あってのことなのか。
和子は、龍太郎に、
「いつも、妹が、お世話になっています。」と、丁寧にいった。
「いや、こちらこそ。」
龍太郎は、そういいながら、この和子が、もしかしたら、玉のコシに乗れたかも知れないのに、それに反対して来たのだ、と心苦しかった。
しかし、和子だって、そんな玉のコシに乗ったら、先々で、人一倍の苦労をしなければならないに違いなかろう。
ビールが来た。
「和ッぺ。日吉は、今夜、酔っていたかい?」
「ええ、ちょっと。」
「こら、南雲。」
「何んだ。」
「かりに、日吉が、正木女史と結婚したい、といったら、どうする?」
「そんなことをいい出したら、あそこのお母さんは、卒倒するかも知れない。」
「いや、総務部長として、どうする、といっているんだ。」
「仕方がないよ。」
「何?」
「社長さんのなさることに、総務部長が反対しても、しようがあるまい。」
「こいつめ。じゃア、どうして、僕の場合だけ、反対するんだ。」
「何んの話なんですの。」
龍太郎が、
「いやね、青田も、近いうちに、結婚することになったんだ。」
「まア、おめでとう。あたし、何を、お祝いしようかしら?」
「こら、和ッぺ。僕が、結婚する、というのに、そんな平気な顔をしていていいのか。」
「じゃア、どんな顔をすればいいの?」
「泣くか、怒るかしろ。」
「それから?」
「どうして、あたしと結婚してくださらないの、というんだ。」
「わかったわ。どうして、あたしと結婚してくださらないの。」
「南雲が、反対したんだ。」
「まア、南雲さん、ほんと?」
「そうだ。」
一瞬、黙り込んでから、和子は、
「よかった。」
「よかった?」と、青田は、聞き返してから、「何が、よかったんだ。」
「だって、あたしは、この間から、もしかして、青田さんから結婚の申し込みを受けたら、どうしても、断わらなければならないし、お気の毒だわ、と思っていたのよ。」
横で、龍太郎が、笑い出した。そのくせ、彼は、和子の言葉を、そのまま、信用していたわけではなかった。
「南雲。笑うな。」
「だって、和ちゃんの話を聞いていると、君の一人角力であったことになる。」
「いや、そんなはずがない。和ッぺ、嘘をつくな。今からでも、まだ、間に合うんだぞ。」
「でも、あたし、やっぱり、よすわ。」
「どうして、よすんだ。」
「青田さんは、無論、いいひとよ。でも、世間には、ほかにもたくさんいいひとがあるってことが、わかってきたからよ。」
「この浮気者めが。」
「ふッふッふ。ねえ、ビールをご馳走して。」
「いいとも。」
龍太郎が、自分のコップを空けて、和子にやった。和子は、一気にのみほして、
「ああ、おいしかった。」と、そのコップを、龍太郎でなしに、青田の方に、
「はい。」と、差し出した。
青田は、ちょっと、不機嫌になって、それを受けた。
「青田さん、おめでとう。」
和子は、青田にお酌をすると、さりげなく、席を立っていった。
龍太郎が、
「青田、やっぱり、あきらめろ。しかし、いい女だな。」
「そんないい女を、どうして、あきらめろ、というんだ。」
「そんなこと、自分の心に、聞いてみろ。君には、ちゃんと、わかっているはずだ。」
「いや、わからんよ。」
しかし、そのあと、青田は、沈み込んでしまった。
ひとしきり、減っていた客が、また、混んで来た。が、和子の姿は、どこにも見当らなかった。
「おい、出ようか。」と、龍太郎がいった。
「うん、出よう。」
青田も、立ち上がった。
マダムが、それに気がついて、
「あら、もうお帰りですか。」
「そう。こんなサービスの悪い店には、二度と来ません。」
「失礼ね、青田さん。あら、和子さんは?」
マダムは、そこらを見まわして、和子の姿の見えないことに、気がついた。ほかの女が、ひくい声で、
「お二階で、鏡の前に、座っていたわ。」
「どうしたの?」
「何んだか、泣きそうな顔で……。」
マダムが、青田の方を向いて、
「青田さん。あんた、和子さんを、いじめたんでしょう?」
「どういたしまして。いじめられたのは、こっちの方ですよ。」
二人は、外へ出た。
「どうする?」
「もっと、飲むか。」
「いや、もう、今夜は、帰ろう。」
しかし、そのあとも、二人は、夜の町を、黙って、歩き続けていた。
龍太郎が、青田と別れて、アパートへ戻ったのは、十一時を過ぎていた。
妙に、後味の悪い思いが、胸の底に、残っていた。しかし、青田のためには、結局、あの方がいいのだ、と思っていた。
階段を上がっていきながら、鏡の前で、泣きそうな顔で、座っていたという和子の姿が、見えてきそうな気がしていた。
龍太郎が、扉の鍵をあけていると、その音に、隣室の奥さんが、顔を出した。
「南雲さん、お帰りなさい。」
「はい。」
「さっきまで、お客さまが、お待ちになっていました。」
「そうですか。」
「受付にいって、お部屋へ上がって貰っていたのですが、あんまり遅くなるといけない、とおっしゃって、お帰りになりました。九州からいらっしたとか。」
「えッ、九州?」
「とても、綺麗なお嬢さんでした。」
お礼をいって、龍太郎は、急いで、部屋に入った。
(沙恵子さんが来てくれたのだ!)
何故、もっと、早く帰らなかったのだ、と残念でならなかった。部屋の中には、香料の匂いが、仄かに、漂うているようだ。そして、それは、沙恵子が、九州にいるときからつけていた匂いに違いがなかった。
彼は、この部屋で、じいっと待っていてくれた沙恵子の姿を、あれこれ、頭に描いた。
テエブルの上に、お土産の「鶴の子」の箱が置いてあり、更に、その上に、何か紙きれがおいてある。取り上げて見ると、手帳をちぎって書いた、沙恵子の置手紙であった。
「南雲さん、お元気ですか。
さっき、こちらへ着きました。急に、お会いしたくなって、東京駅から、すぐここへ参ったのですが、お留守で、残念でした。
近く、お目にかからせて頂きたいと存じます。沙恵子」
更に、電話番号を書き添えて、ここは叔父の家で、当分の間、ここにいます、とあった。
龍太郎は、繰返して、それを読んだ。
(沙恵子さんが、上京して来たのだ)
しかも、東京駅から、すぐ、ここへ来てくれたのである。龍太郎は、時計を見た。すでに、十一時半であった。しかし、明日までは、とても、待っていられないような気がした。
龍太郎は、下へ降りていった。その廊下に、電話があるのだが、わざと、外へ出た。一丁ほど行くと、大通りの角に、公衆電話のボックスがあるのである。
龍太郎は、そこから、電話をかけた。
「夜分に恐れいりますが、そちらに、九州の曽和沙恵子さんが、いらっしゃるはずなんですが。」
「ちょっと、お待ちください。」
そのあと、すぐに、
「ああ、南雲さん。あたし、沙恵子です。」
沙恵子の晴れ晴れとした声が、聞えて来た。
「よく、いらっしゃいましたね。」
「あたしね、きっと、南雲さんからお電話があるだろうと、寝ずに、待っていましたのよ。お元気ですの。」
「ええ。お父さんや、お母さんも、お元気ですか。」
「ええ、くれぐれも、よろしくって、いっていました。」
龍太郎が、電話ボックスから出たとき、一台のタクシーが、渋谷の方へ、疾走していった。
そのタクシーの中に、善太郎と信子が、乗っていたのである。
善太郎は、いつもより、酔っているようだ。信子の肩にもたれながら、彼は、眼を閉じたままで、
「どこ?」
「もう、すぐ、渋谷ですわ。」
信子は、やさしくいって、善太郎の身体を抱くようにしてやっていた。
「僕はね、正木さん。」
「ええ。」
「こうやっているときが、いちばん、幸せのような気がする。」
「そうお。」
「会社のことなんか、もう、どうなってもいいような気分だよ。」
「いけません。」
「いけない? じゃア、こうやって、いっしょに自動車に乗っていることも?」
「それだけは、別です。」
「安心したよ。」
そういって、善太郎は、更に、信子の方へ身体を押しつけていった。信子は、すこしも、さからわなかった。その身体は、柔かで、そしてまた、燃えているようだった。
「正木さん、組合が、本当に、賃上げの要求をしそうなのかい?」
「ええ。」
「今だって、そう、悪くないつもりだが。正木さんは、いくら、貰っている?」
「一万四千円ですわ。」
「やっていける?」
「大丈夫です。」
「もし、足りぬようだったら、僕からも出してあげてもいいよ。」
「いりませんわ。」
「遠慮は、いらないんだよ。」
「遠慮なんか……。そのかわり、月に一度ぐらい、こんな風に、会っていただきたいわ。」
「そりゃ勿論。組合の情報を、知らして貰いたいからね。」
信子は、ちょっと淋しかった。
(スパイ……)
ただ、そのために、会ってくれるのか、と聞き返したいくらいだった。しかし、それならそれでもいいのである。それ以上のことを求めるのはよそう、と思っていた。それ以上のことを求めれば、却って、苦しくなるばかりだと、彼女は、知っていた。
「それで、さっきの賃上げの話だが、もし、こっちが蹴ったら?」
「ストライキにまで、持っていきたい、といってました。」
「バカな。」
「結局は、そういうことで、南雲さんを失脚させよう、とたくらんでいるらしいんです。」
「南雲の評判は、どうだね。」
「だんだん、良くなりつつある、と思いますけど。」
「すると、そのうちに、僕より、良くなるかも知れないね。」
善太郎は、冗談めかしていったが、あるいは、多少の本音が、まじっていたかもしれない。
「あッ、そこで。」
タクシーは、停った。
「社長さん、ちょっと、お茶でも召し上がっていらっしゃいません?」
善太郎は、この前のときにも、同じ誘いを受けたのだが、断わったのである。
「そうだなア。」
「社長さんに見ていただくのは、お恥かしいんですけど。」
「よし。」
善太郎は、タクシーから降りた。
その六畳の和室を、善太郎は、物珍しそうに、眺めていた。
「そんなに、ジロジロと、ご覧にならないで。」
「いや、僕は、こんな女のひとのひとりで住んでいる部屋を見るのが、はじめてなんだ。しかし、随分と綺麗にして、住んでいるんだね。」
「そうでもありませんわ。どうぞ、お座りになって。」
「うん。」
「すぐ、お茶をいれますから。」
信子は、いそいそと、お茶の用意にかかった。
善太郎は、部屋の真ン中の餉台の前に、アグラをかいて座った。壁にかかっている着物を見ていると、まぎれもなく、ここは、女の部屋なのだ、と思わせられる。その他、鏡台、整理ダンスなどがあるが、ゼイタクな物は、一つもないようだ。タンスの上の人形ケースの中に、こけし人形が、十ばかり、いれてあった。
「灰皿、ない?」
「あら、困ったわ。これで、間にあわしてくださいね。」
信子は、紅茶茶碗の受皿を出して来た。
善太郎は、こんな部屋で一人で住む、三十娘の生活を思った。
「正木さん。」
善太郎は、信子の背中へ、
「こんなところに一人でいて、淋しくない?」
「だって、仕方がありませんわ。」
「ご両親は?」
「亡くなりました。」
「兄弟もないの?」
「ええ、ひとりぼっちなのです。」
「そうか、可哀そうに。」
しかし、善太郎は、却って、何んとなく、安心していた。
彼は、ふっと、別れた美和子のことを思い出した。あの美和子に、この信子の優しさの、せめて、半分でもあったら、別れずにすんだかも知れないのである。
「どうぞ。」
信子は、レモンティをいれて来た。一口、飲んでから、善太郎は、
「うまい。正木さんは、お料理が、上手かね。」
「下手。でも、つくることは、大好きです。」
「じゃア、こんど、チャンスがあったら、ご馳走になるかな。」
「まア、本当?」
「そうさ、この部屋で。」
信子は、信じられぬことをいわれたような顔をした。
「嫌かね。」
「いいえ、嫌だなんて。ねえ、いつですの?」
「だから、この次、チャンスがあったら。」
「あたし、そうなったら、一所懸命につくりますわ。」
「たのしみだな。」
善太郎は、そういってから、腕時計を見て、立ち上がった。
「お帰りになりますの?」
「泊めてくれるかい?」
「まア。」
信子は、顔をあからめた。善太郎は、一歩、近寄って、信子の肩を抱きしめた。
「ねえ、いいだろう?」
彼は、そういいながら、信子の唇を求めた。信子は、一応、それを避けようとした。
「嫌なの?」
信子は、両眼を閉じたまま、頭を横に振った。
そのとき、アパート全体は、物音一つしないような静けさに包まれていた。
土曜日。会社は、お昼までである。
厚子は、大間に誘われて、日比谷へ映画を見に行った。例によって、大間が、払ってくれた。
「いつも、悪いわね。」
「何、いいさ。」
「じゃア、映画のあとで、あたし、中華そばをおごるわ。」
「本当かい?」
「そうよ。」
「珍しいこともあるもんだ。」
「失礼ね。あたしって、ただ、自分のお金を大事にするだけよ。」
「じゃア、ひとの金は?」
「バカねえ。ひとのお金のことなんか、心配していたら、こっちが、損をするだけじゃアないの。」
「なるほど、君は、立派だよ。」
「やっと、わかったの?」
「何んだか、せっかく、中華そばをご馳走になる約束をしたけど、気の毒みたいだ。」
しかし、大間は、それでは、厚子も、自分のために、そんな風に気をつかってくれるようになったのか、と嬉しかった。
とにかく、大間にとって、厚子が、可愛くて仕方がないときと、つねってやりたい程、憎らしいことがあった。
日に一度は、こんな女、今のうちに、さっぱり、あきらめようと思う。しかし、そのあとで、ちょっと、やさしい声をかけられたりすると、忽ちにして、厚子こそ、世界中で、いちばん、可愛い女のような気がしてくるのである。
大間は、そんな自分を、男性として、まことに不甲斐ない、と残念でたまらなかった。
しかし、たしかなことは、そういう思いを、日々に繰返しながら、徐々に、厚子への関心を、深めていっていることだった。
「ふッふッふ。」と、厚子が、ふくみ笑った。
「どうしたんだ。」
「本当は、あたし、お姉さんに、いわれたのよ。いつも、大間さんにばかりおごらせては悪いって。」
「何んだ、そうだったのか。」
大間は、苦笑したが、しかし、不愉快ではなかった。
二人は、並んで席についた。ちょうど、幕間であった。周囲が、ざわついている。
「君のお姉さんて、きっと、いいひとだね。」
「そうよ。」
「僕は、一度、会いたいよ。」
「いつでも、会えるわ。銀座のバーに出てるんですもの。」
「冗談じゃアない。僕たちの身分で、あんなバーなんかに、いけるもんか。一度で、破産しちまうよ。」
「そうね。大間さんなんか、あんなところへ、行かない方がよくってよ。」
そういいながら、厚子は、ふっと、黙り込んだ。この二、三日、和子が、どうも元気がないようだった、と思い出したのである。頭が痛い、といって、朝、厚子が出勤するときになっても、起きてこないこともあった。今までに、めったに、そういうことが、なかったのである。
(何か、あったのかしら?)
厚子は、白いスクリーンの方を眺めながら、姉の白い顔を思い出していた。
「どうかしたの?」
大間が、顔を寄せて来た。
「ううん。」
厚子は、頭を横に振った。
開幕のベルが、場内に、鳴りひびいた。
二人が、日比谷の映画館を出たのは、もう、五時に近い頃であったので、薄暗くなっていた。そこから、銀座の方へ、歩いていった。
約束通り、厚子が、中華そばをおごってくれることになった。
「おごって貰うと、いつもよりうまいよ。」と、大間がいった。
「あたしは逆だわ。」と、厚子が、真面目な顔で答えた。
「どうだ、もう、いっぱい、食べようか。」
「まア、おごってくれるの?」
「そうさ、何んだか、気の毒なような気がするんだ。」
「あたし、よろこんで、ご馳走になるわ。」
「しかし、食べられるかい?」
「へっちゃらよ。」
「よし。」
大間は、中華そばを二つ、追加注文した。その中華そばを食べると、流石に、二人とも、お腹がいっぱいになって、ちょっと、動くのも、喋るのも、大儀になった。
厚子は、何か、遠くを見つめるような瞳をしていた。そのうちに、
「あのひと、素敵ねえ。」と、ひとりごとのようにいった。
「うん、素敵だったよ。」
「大間さんも、そう、思う?」
厚子は、同じ姿勢のままでいった。
「今の映画のことだろう?」
「ううん、南雲さんのことよ。」
「南雲?」
「そうよ。何んとなく、男らしいわ。」
「チェッ、いい加減にしてくれよ。」
「あら、憤ったの?」
「憤らんさ。しかし、何も、ここで、あのひとのことなんか、いい出さなくてもいいじゃアないか。」
「だって、思い出したんですもの。」
大間は、ますます、不愉快そうに、煙草を吹かしながら、
「もう、帰ろうよ。」
「ううん、もう、ちょっと。」
厚子は、腰を上げなかった。
そうなると、大間にも、ひとりで席を立って去る勇気は、なかった。
「大間さんだって、南雲さんのことを、素敵だと思うでしょう?」
「…………。」
「あんな風なひとになりたい、と思わない?」
「思わんよ。」
「そう。」
厚子は、チラッと、大間の顔を見て、
「なら、いいわ。」
「そうとも。」
「でも、あたしには、断然あこがれよ。」
「いくら、あこがれても、ダメだよ。」
「高子お嬢さんのこと?」
「そうさ。」
「平気よ。」
「それに、会社にだって、長くいられないかも知れないよ。」
「まア、どうして?」
「組合で、賃上げの要求を出して、通らなかったら、ストライキをするんだそうだ。そして、ついでに、南雲さんの退職を要求するんだそうだ。」
「ひどいわ。ひどいわ。」
「仕方がないよ。」
「だって、賃上げの要求と、南雲さんと、何んの関係もないじゃアありませんか。」
「しかし、組合が、そういう要求を出す、というんだから、仕方がないよ。」
「大間さんだって、組合員でしょう?」
「あたりまえだ。」
「じゃア、どうして、反対しないの?」
「僕が、ひとりぐらい反対したって、ダメだよ。」
「ダメでも、反対すべきよ。勿論、あたしも反対するわ。」
「しかし、組合の行動は、すべて、多数決できまるんだからな。」
「こうなったら、社長派が団結して、組合にあたるべきだわ。」
「今からでは、もう、遅いよ。」
「社長派だけで、一度、集まろうって話は、どうなったの? その席に、南雲さんにも来て貰うといいんだわ。」
「そうしたら、君は、出るかい?」
「勿論、真ッ先に。大間さんは?」
「……出るよ。」
「それごらんなさい。大間さんだって、南雲さんが、好きなんじゃアありませんか。」
「いや、僕の好きなのは、社長だ。」
「あたしは、社長さんよりも、南雲さんよ。」
「恩知らず。」
「まア。」
「だって、君は、社長のお陰で、入社出来たんじゃアないか。」
「そうよ。だから、社員としては、社長派よ。でも、一個の女性としては。」
「南雲さんに、あこがれか。」
「そうなのよ。」
「おい、もう、出よう。」
「ええ。」
こんどは、厚子も、素直に、立ち上がった。そして、二人が、中華料理店を一歩、外へ出たとき、
「やア。」と、いわれたのである。
龍太郎の顔が、笑っていた。
「まア、総務部長さん。」
厚子は、思わず、近づいていこうとしたのだが、急にそれをやめたのは、龍太郎が若い女性を連れていたからであった。
厚子は、顔色を変えまいと努めているのだが、どうにもならなかった。
しかし、龍太郎は、それには、すこしも気がつかないように、いつもの口調で、
「散歩かね。」と、二人の顔を、等分に見た。
龍太郎の眼に、好意が、こもっていた。
大間は、黙って、頭を下げた。しかし、厚子は、一歩進み出た。
「総務部長さんも、散歩ですの。」
「そうなんだ。」
龍太郎は、そういってから、厚子の視線の行方に気がついて、連れの女性を振り返り、
「そうだ、ご紹介しとこう。この二人は、会社の大間修治君と、白石厚子さん。そして、こちらは、曽和沙恵子さん。僕が、九州の会社にいた頃の部長のお嬢さんだ。」
三人は、頭を下げた。
「ひょっとしたら、そのうちに、友達になって貰えるかも知れない。じゃア、失敬。」
龍太郎は、沙恵子を促して、去って行った。その後姿を見送っている厚子の耳許に、大間がささやいた。
「ひょっとしたら、南雲さんの恋人かも知れないよ。」
厚子は、しばらく、黙っていてから、
「そんなら、高子お嬢さんは、どうなるのかしら?」
「それより、君のあこがれは、どうなるんだ。」
「バカねえ、あこがれと恋とは、違うのよ。」
しかし、厚子は、残念そうだった。
「あの二人はね。」と、龍太郎がいった。「会社でも、机を並べて、仕事をしているんですよ。」
沙恵子は、ちょっと、振り返って見たが、人混みにかき消されて、二人の姿は、見えなくなっていた。
「じゃア、恋人同士ですの。」
「そう、多分……。だから、僕はあの二人が結婚したら、とても、いいご夫婦が出来そうな気がしているんですよ。」
「そうね。」
「ちょっと、お茶でも、飲みますか。」
「ええ。」
二人は、そこにあった喫茶店に入った。
「南雲さんの会社、どうですの。」
「やっぱり、むつかしいですよ。」
「父も、今頃、南雲さんが、苦労をしていなさるに違いない、といってましてよ。」
「ところが、本当の苦労は、これからなんですよ。」
龍太郎は、笑いながらいった。
彼は、善太郎から、組合が、近く、賃上げの闘争を開始するらしい、という話を、信子からの情報として、聞かされていた。(ただし、善太郎は、その情報を信子から、どのようにして得たかは、いわなかった)
龍太郎は、組合の要求を、かならずしも、恐れているわけではなかった。要求が妥当なら、善太郎を説いて、通してやってもいい、と思っている。そして、そういうチャンスを捉えて、組合の幹部と腹の底を割った話し合いをしてみたいとも考えていた。
でなかったら今のままでは、いつまでも、組合と睨み合いのままである。
彼は、いわゆる社長派の社員たちだけとでも、話し合ってみたらと思わぬでもなかった。現に、高子から、そういう提案が、あったのである。
「しかし、そういうことをすると、組合から、それみろ、やっぱり、社内に閥をつくろう、としているじゃないか、といわれる恐れがありますから、もうしばらく、自重しましょう。」と、龍太郎は、答えたのである。
しかし、ここで、龍太郎が、最も心配しているのは、善太郎が、組合の要求に対して、その内容もわからぬ先に、「絶対に、蹴ろう。」と、強硬に主張していることだった。
善太郎は、龍太郎の入社のことで組合から決議文をつきつけられたことが、余ッ程、癪に触ったらしく、非常に嫌っていた。そして、善太郎は、近頃、社長としての自信を、持ちはじめているようだった。が、龍太郎のように、一流会社の一流の社長に仕えた経験をもってすると、善太郎の自信は、まだ早過ぎるのである。……
龍太郎は、それらのことを、この沙恵子に、いってみたい、と思った。いったところで、何んの助言も得られないかも知れない。しかし、胸の中が、すこしは、軽くなるのでなかろうか。そして、この沙恵子になら、それがいえそうな気がしたし、また、親身になって、聞いてくれそうな気がしていた。
しかし、龍太郎は、それをいうかわりに、
「どうです、東京の感想は?」といったのだった。
「大好きよ。」
「余ッ程、気にいったんですね。」
沙恵子は、何気ないような、おおらかな微笑を浮かべながら、
「だって、東京には、南雲さんが、いらっしゃいますもの。」
「どうも、ありがとう。」
龍太郎は、頭を下げながらいった。
「で、当分、こっちに、いらっしゃるつもりですか。」
「ええ。」
「しかし、そんなこと、お父さんやお母さんが、お許しになりますか。」
「あたしね、一生のうち、一度ぐらい、東京で生活してみるのもいいことだから、といったんですのよ。」
「なるほど。」
「すると、父が、うん、それもそうだなと、案外、あっさり、許してくれました。」
「しかし、お母さんの方は?」
「ちょっと、反対されました。」
「でしょうな。」
「でも、結局は、うんと、いってくれましたのよ。」
「すると、こっちでは、やっぱり、お花とかお茶のお稽古に通うんですか。」
「それより、あたし、お勤めに出るかもわかりません。」
「どっか、アテがあるんですか。」
「叔父が、世話をしてくれそうなんです。」
「どこの会社?」
「東洋不動産とか。」
「じゃア、僕と同業ですな。」
「叔父が、そこの会社の重役さんとお友達なんだそうです。で、叔父から、話してくれることになっていますのよ。」
「いいじゃアありませんか。」
「あたし、空想していますのよ。同じ不動産会社でしょう? だから、あたし、何かの用事で、南雲さんの会社へ行くのよ。そうしたら、南雲さんが、やア、ご苦労、と席を立って来て、ついでに、コーヒーをご馳走してくださるかも知れない、と。」
「執務中は、いけませんよ。」
「じゃア、お昼の休憩時間に行きます。」
「だったら、お昼ごはんをご馳走します。」
「まア、嬉しい。」
「ただし、五十円のライスカレーですよ。」
「五十円?」
「そう、しかし、案外、うまいんです。」
「じゃア、たのしみだわ。」
沙恵子は、いかにも、楽しそうな顔をした。しぜん、龍太郎も、楽しくなっていた。思えば、近頃、こんなとりとめもない話をしたこともなかったし、また、こんな楽しい空想をしたこともなかった。すべて、沙恵子の人柄のせいであろうか。
「もうちょっと、歩きませんか。」
「ええ。」
二人は外へ出た。
「今日は、何時頃までに帰ればいいんですか。」
「九時頃までに帰る、といってあります。」
「あと、二時間あるな。」
「そうですわ。」
「叔父さんて、いいひとですか。」
「ええ、そのかわり、とても、酒飲み。毎晩、十二時過ぎに帰るんですもの。」
「豪傑ですね。僕も、一度、お会いしたい。」
「ぜひ。叔父も、そういってますの。」
気がつくと、バー『けむり』の前であった。龍太郎は、この前の和子の顔を思い出した。
(和子は、やっぱり、青田に惚れていたらしい)
龍太郎は、胸に、息苦しさを覚えた。彼には、まだ本当に、人を愛した経験はなかった。しかし、今や、そうなる予感がしている。それを思い、和子の悲しさを考えると、やはり、自分が責められてくるのだった。
高子は、洋服の仮縫いを終って、外へ出ようとしたが、急に、足を釘づけにしてしまった。
「おや、どうか、なさいましたか。」と、そこのマダムがいった。
「いいえ、ちょっと……。」
マダムが、高子の視線を追っていくと、ショウ・ウィンドウを覗き込んでいる、若い男女の姿につきあたった。
その二人は、笑いながら、ショウ・ウィンドウの中の物を指さして、何か、話し合っていたが、やがて、そこから、離れていった。
「お知りあいの方ですか。」
マダムは、高子の顔を見た。そのとき、高子の表情は、マダムもおどろいた程、こわばっていた。
「いいえ、人違いでしたわ。」
高子は、そういって、表へ出ていった。彼女は、そこから、去って行った二人の方へ、もう一度、強い視線を投げかけた。しかし、そのまま、くるりと、踵を返してしまったのである。
(南雲さんが、若い女のひとと、いっしょに歩いていた)
高子の胸に受けた衝撃は、決して、ちいさくはなかった。かつて想像もしたことはなかったことなのである。
(誰だろうか)
無論、見当もつかなかった。
高子は、もう一度、連れの女性の顔を、頭に描いた。胸に灼きつけられているので、すぐ、その顔が、浮かび上がってくる。
美しさにおいて、自分の方が、ヒケを取るとは、思わなかった。その自信はあった。しかし、若さという点では、高子の自信は、脆くも、崩れてくるのである。
(二十七歳……)
高子は、自分の年齢を、こんなに痛切に感じたことは、近頃、ないことだった。まだまだ、若いと思っていた。しかし、さっきの娘の若々しさの前には、どう逆立ちしても及ばぬアセリを覚えずにはいられなかった。
高子は、そこらの物が、何も、眼に入らぬような歩き方をしていた。いっそ、さっきの二人の後から、つけて行ってみたいくらいだった。が、そういうことは、絶対に出来ない性分の自分だと、高子は、知っていた。そして、この性分のために、今日まで、どれほど、人知れず、苦しんで来たか知れないのである。
「あら、お嬢さま。」
真正面から、そう呼びかけられて顔を上げると、厚子だった。その横に、ちょっと、てれくさそうに大間がいて、頭を下げた。
高子は、こわばった表情を、はじめて、やわらげた。
「映画を見に行って来ましたのよ。」
「そう……。」
そのあと、高子は、二人にお茶を誘った。その喫茶店の席につくや、厚子は、
「さっき、総務部長さんにお会いしました。」と、まるで、待ちかねていたようにいった。
高子は、黙っている。
「それがね、お嬢さま。綺麗な女のひとと、歩いていなさいましたわ。」
「そうお。」
「総務部長さんが、九州にいなさった頃の部長さんの娘さんなんですって。」
高子は、心の中で、
(そうであったのか)
と叫んでいた。
(かりに、そのひとが、南雲さんの恋人であるにしろ、ないにしろ、あたしは結婚をあきらめないわ)
そうも思っていた。唇を噛みしめるような思いであった。
[#改ページ]
昼と夜と
田所は、深々と椅子にかけて、沈思黙考に耽っていた。
五分、十分……。その姿勢を崩さないのである。
田所は、こういうポーズが、好きなのだ。日に一度は、これをしないと、何か、忘れものをしたような気分になる。
だからといって、そういうポーズのとき、いつも、重大なことを考えている、ときまったわけではなかった。
時には、千世龍のことを、彼女の若い肌のなめらかさを、思い出していることもあるのだ。
しかし、今は、違う。自分が、人生の途上において、一つの岐点に立っているような気がしていた。
けさの出がけに、妻の筆子から、
「あなた、昇平と高子お嬢さんのこと、何んとか、ならないものでしょうか。」と、いわれたのである。
田所の胸に、ギクンとくるものがあった。しかし、彼は、わざと思いがけないことを聞いたように、
「まだ、そんなことをいっているのか。」
「はい。」
「あのことなら、はっきり、断わられた、といったではないか。」
「でも、昇平は、どうしても、忘れられないらしいんです。毎晩、酔って帰るのも、そのせいらしいんです。」
「女々しい奴だ。」
「この間の夜も、あたしに、そういいましたよ。涙を流しているんです。」
「涙を?」
田所は、吐き出すようにいったが、そんな昇平の顔が、眼に見えてくるようで、やはり、辛かった。
「酔っていたんだろう?」
「ええ。」
「あいつ、泣上戸になったんだ。バカな奴だ。もう、いい加減にしとけ、といっときなさい。」
しかし、筆子は、引きさがらなかった。もう一度、話すだけは話して貰えないか、と懇願するようにいった。
田所は、それには答えずに、自動車に乗ってしまった。彼は、その車中でも、昇平のことを、何度も、
(女々しい奴だ)
と、苦々しく、思い出していた。
田所には、かつて、その話を、善太郎の母の常子に、それとなく匂わせて、鼻であしらわれた時の屈辱感を、今でも、忘れることは出来ないのである。彼の日吉家への反感と、日吉不動産への野望は、そのときにはじまった、といっても、過言ではなかった。
田所には、もう一度、自分の口から、常子に対して、昇平と高子のことを切り出してみる勇気はなかった。
しかし、と思うのだった。
(かりに、誰かに頼んだとして、二人の話が、うまく結ばれるようだったら、今の自分の考え方を、多少、訂正してもいい)
田所は、今は、そこまで、思っていた。
日吉不動産と東洋不動産を合併し、そこへ自分が君臨することこそ、田所の夢であったはずである。
そして、大株主たちの信任を得て、日吉不動産における自分の地位を、すでに、不動のものにしたことだけは、たしかである。
また、東洋不動産の株の買収の方も、秘密のうちに、着々と進められていた。
田所は、自分の夢の実現を、そう遠いことではあるまい、と思っていた。
が、ただ一つ、田所にとって、南雲龍太郎の入社を、阻止出来なかったことが、今にして思えば、違算であったようだ。
(あんな若造の一人や二人……)
そう腹の底では思っているのだが、どうやら、龍太郎が、案外骨のある男らしいと、認めぬわけにはいかなかった。
といって、龍太郎は、入社以来田所に対して、一度も敵対して来たわけではなかった。それだけに、田所にすれば、自分のすることを、黙って、見られているような薄気味の悪さがあった。いったい、何を考えているのか、わからぬところもある。
山形人事課長の話では、徐々にだが、社員の間に、龍太郎の人気が出かかっているそうだ。
事実、田所にとっても、日吉不動産の社員の中に、龍太郎に匹敵する人物は、一人もいないように思われた。
(そうだ、昇平の話を、南雲からさせてみよう)
この思いつきは、自分でも、意外なことだった。
そして、万一、この話が、うまくいったら、日吉不動産の社長は、善太郎のままとして、自分は、あくまで、東洋不動産を狙う、ということにしてもいい。
ただし、拒否されたら、初一念を通すだけである。
(何、かまうものか)
そんな気持であった。
いずれにしても、あの南雲を、一度は、窮地に追い込んでみるのだ。
ノックの音が、聞えていた。
田所は、眼を開いた。入って来たのは、山形であった。
「例の組合の賃上げの要求の件ですが。」
「うん。」
「昨晩、組合の幹部たちと話し合ったんです。まア、いっぱい、飲ましながらですが。」
「…………。」
「この際、五割の増額といきたい、といってるんですが。」
「五割か。」
「それで、総務部長まで、すぐ、要求を出したい、と。」
「すぐ?」
「はい。」
「もう、しばらく、待たせろ。」
「すると、いつまで?」
「それは、あらためて、わしからいう。」
田所は、命令するようにいった。そのあと、
「昨夜は、いくら、つかった。」
「いえ、いいんです。新橋のおでん屋の二階でやったんですから。」
「五千円で足りるか。」
「そんなには、いりません。」
田所は、無造作に一万円を取り出して、山形に握らした。
「このあと、まだ、いるだろうから。」
「ありがとうございます。すると、組合には、しばらく、延期するようにいっときます。」
「ああ。それから、南雲君を呼んでくれんか。」
「南雲をですか。」
「そうだ。」
山形は、何か、聞きたいらしい顔をしたが、田所が、もう、そっぽを向いて、相手になってくれぬ、とわかると、そのまま、部屋から出ていった。
龍太郎が、姿を現わしたのは、それから、数分の後であった。
その夜、田所は、龍太郎を、築地の料亭へ連れて行った。
「どうぞ、あなたは、床の間へ。」
「しかし。」
「いや、今夜は、あなたが、私のお客さまですからね。」
「では。」
龍太郎は、悪辞退をやめて、あっさりと、床の間に座った。
田所が、彼の歓迎会をしてやる、といったのだった。しかし、龍太郎には、これが、ただの歓迎会であろうとは、思えなかった。彼のことだから、何か、胸の中に、一物あってのこと、と睨んでいた。
が、それならそれでいいのである。龍太郎は、度胸をきめて、田所の申し出を受けた。
あとで、そのことを、善太郎に報告すると、彼は、
「そりゃア、君を、田所が、買収にかかろうとしているんだよ。」
「まさか。」
「いや、そうに違いない。」
「たかが、一席のご馳走ぐらいでは、買収されませんよ。」
龍太郎は、笑ってから、
「ただし、田所氏が、この会社を辞めるから、とでもいったら買収されてもいいですな。」
「早く、辞めさせたいな。」
「急には、無理でしょうな。」
「どうして?」
「その前に、大株主の意向を聞いてみる必要があります。」
「しかし、僕が、いちばんの大株主だよ。」
「まア、そうですが、過半数を持っているのとは違いますからね。」
「大丈夫だろう?」
「だと思うんですが、油断がなりません。そのうちに、一度、大株主に挨拶まわりをしたいんです。」
「君が?」
「いえ、社長のお供で。大阪に、大株主が多いから、ぜひ、いっしょに行って頂きたいのです。」
「大阪か……。久し振りで、行ってみたいな。」
すると、横で、黙って聞いていた高子が、
「大阪なら、あたしも、いっしょに、行きたいわ。」と、いい出したのである。
「女連れは困るよ。不自由でいかん。」
善太郎は、わざと、顔をしかめるようにしていった。
「あら、どうして、困るのよ。あたしは、忠実な秘書でありたいわ。ねえ、連れてって、南雲さん、いいでしょう?」
龍太郎としては、
「どうぞ。」と、いわざるを得なかった。
「とにかく、南雲。今夜の模様を、早く聞きたいし、僕は、『けむり』で、待っているよ。」
「しかし、話の具合では、遅くなる可能性がありますよ。」
「かまわんよ。」
――田所が、
「いやね、南雲さん。前から、歓迎会をさして頂こう、と思いながら、つい、今日まで、のびのびになってしまったんですよ。」と、何んのわだかまりもないようにいった。
「恐れいります。」
「まア、今夜は、気楽にいきましょう。固苦しい話は、一切、抜きにして。」
「お願いします。」
龍太郎は、軽く、頭を下げた。芸者が入って来て、座が、急に、賑やかになって来た。
しばらくは、何気ない応対が、続けられていた。田所は、酒が強い。龍太郎も決して、弱い方ではなかった。
田所は、上機嫌で、芸者の三味線で、小唄を二つ三つ、唄ったが、なかなか、上手らしかった。
芸者も、
「とても、お上手だわ。」と、ほめてから、こんどは、龍太郎の方を向いて、「こんどはお兄さんの番よ。」
「いや、僕は、ダメなんだ。」
「そんなの、卑怯よ。」
「じゃあ、博多節を。」
龍太郎は、座り直して、唄いはじめた。
「うまい。」と、先ず、田所が、ほめてくれた。
そのあと、また、酒になった。田所が、龍太郎に、盃をくれながら、
「南雲さんは、うちのビルの地下室のキャバレエに、お入りになったことがありますか。」
「いいえ、まだです。」
「そりゃいけませんな。職務怠慢ですよ。」
田所は、笑いながらいった。
龍太郎が、地下室のキャバレエに行かないのは、そんなチャンスのなかったせいもあるが、一つには、善太郎に気をつかってのことでもあった。
善太郎は、今でも、絶対に、地下室のキャバレエには、行こうとはしなかった。いや、地下室がキャバレエになっていることを見るたびに、せっかく、父の建てた日吉ビルが、まるで、穢されているような気になる、といっている。そのつど、田所への憎しみが、増すばかりだ、ともいっていた。
「そうでしょうか。」
「そうですよ。ここを出たら、ちょっと、寄ってみませんか。」
龍太郎は、しばらく、考えてから、
「お供をします。」
「ぜひ。しかしね、南雲さん。私が、地下室をキャバレエに貸してから、すっかり、社長に憎まれましてね。」
「…………。」
「しかし、権利金として、千五百万円を取っているんですよ。ほかに、家賃だって、毎月、四十万円近く入って来ています。」
龍太郎は、頷いた。
「ところが、それまで、地下室は、物置のようになっていたんですよ。一文にもならなかったんです。それを、今いったほど稼ぐようにして、社長から憎まれては、全く、そろばんに合いませんよ。」
その限りにおいては、田所のいう通りであったろう。しかし、田所は、それを独断専行したところに、善太郎の憤りを買っているのだとは、いわないのである。
かりに、自分が、その相談を受けたとしても、やはり、反対したろうと、龍太郎は、ひそかに考えていた。地下室をキャバレエにしたために、日吉ビルディングが、どれほど、品を下げたかは、明白であった。ただ、儲けさえすればいいのだとは、龍太郎も、考えていなかった。
しかし、今は、それを田所にいう時では、なさそうである。
「機会があったらあなたから、社長に、私が、今、いったことを伝えておいて頂きたいですな。」
「承知しました。」
龍太郎は、そう答えながら、今夜の田所は、いかにも殊勝だ、と思っていた。いや、殊勝に過ぎるようだ。
二人は、その料亭に、二時間ばかりいて、外へ出た。田所は、自動車の運転手に、
「数寄屋橋へ。」と、命じた。
やはり、本当に、地下室のキャバレエへ行くつもりのようだ。龍太郎は『けむり』で待っている善太郎のことを思い出したが、しかし、こうなったら、乗りかかった船だ、と腹を決めていた。
「実はね、南雲さん。あなたに、折り入ってのお願いがあるんですよ。」
田所は、運転手には聞えぬように、声をひくくしていった。
「どういうことでしょうか。」
「私に、昇平という息子があるんです。今年、二十九歳ですが、関東物産に勤めているんです。」
「…………。」
「どうやら、社長の妹さんを、好きらしいんです。」
「高子さんを?」
龍太郎は、思い出した。高子は、昇平のことを、顔を見るのも嫌だ、といっていたのである。
「ええ。親としては、そんなに好きなら、希望通りにしてやりたい、と思いましてな。ねえ、そういうもんでしょう?」
「ええ。」
「それとも、私の息子が、高子さんとの結婚を望むのは、身分違いでしょうか。」
「そんな……。」
「そう、思ってくれますか。」
「ええ。」
龍太郎は、一歩一歩、田所の術中に落ちていくような気がしながら、しかし、そんな風にいわれると、頷くより仕方がないのである。
「ありがとう、あなたに、そういって頂いて、安心しました。」
そして、田所は、本当に、安心した、というように、シガレット・ケースを取り出し、龍太郎にも、
「どうぞ。」と、すすめた。
ついでに、田所は、火も点けてくれた。
田所は、煙草を吹かしながら、窓の外を過ぎ去っていく、夜の街を眺めていた。それは、いかにも、子のために思いまどっている親の姿のようであった。
「でね。」
「えッ?」
「あなたから、社長や高子さんの意向を、聞いて頂きたい、と思うんですよ。」
「私から?」
「そう。私は、目下の処、残念ながら、社長から、あまりよく思われていません。そんな私からいったのでは、せっかく、出来る話も、こわれてしまいます。それより、あなたなら、社長の親友だし、また、私が、さっきからいったことで、だいたい、私の本当の気持も、わかっていただけただろう、と思うんです。」
「しかし。」
「まア、聞いてください。正直なところ、私は、昇平の気持は勿論のことですが、社長とご親戚になれたら、万事、うまくいくと思うんですがねえ。」
「…………。」
「かりに、そうなったら、まア、今すぐには無理でも、そのうちに、会社の方は、私が、平取締役か、相談役ということになって、あとは、あなたにも重役になって貰い、若い人たちだけで、会社をやって頂いたら、と思っているんですよ。」
龍太郎は、心の中で、苦笑していた。田所の胸の奥が、見え透いている。
(僕は、重役になんかなりたくありません)
そういってやりたいくらいだった。
しかし、考えようでは、田所が、妥協を申し込んで来ていることにもなる。
田所ほどの男でも、息子のことになると、こうも気が弱くなるものなのか。が、これは、気が弱い、というよりも、逆にいえば、一種の脅迫にもなりそうである。
しかし、妥協であろうと、脅迫であろうと、この際、田所が、おとなしくなってくれたら、こんな有難いことはないのである。
が、あの高子が、田所の息子との結婚を、たやすく、承諾するとは思えなかった。
「いかがでしょうか。」
「さア……。」
「一つ、あたるだけは、あたってくださいませんか。」
田所は、頭を下げた。
龍太郎は、これは、とんでもないことを頼まれてしまった、と思った。といって、ここで、それを断わる理由も見つからなかった。今にして、田所の今夜の招宴の魂胆を、知らされた思いだった。
「話すだけは、話してみます。」
「ええ、ぜひ。」
龍太郎には、すでにして、この話を聞いたときの高子の憤った顔が見えてくるようだった。
自動車は、日吉ビルの前に、横づけになった。キャバレエ・トウキョウのネオンの色もけばけばしく、お昼とは、まるで、感じが違っていた。
客を送り出した女が、その客と、もつれるようにしていた。客が、女に、何かしたらしく、きゃッきゃッと、笑っている。
龍太郎は、顔をそむけるようにして、ビルの上の方を眺めた。なかに、数カ所、灯をつけているが、大部分の窓は、暗くなっていた。七階の日吉不動産の窓も、無論、暗かったが、龍太郎には、ふっと、懐かしい感じがした。
「さア、まいりましょう。」
「ええ。」
龍太郎は、田所の後から、階段を下りて行った。
「いらっしゃいませ。」
ボーイは、田所の顔を覚えていて、すぐ、案内に立った。
別世界のような華やかさであった。客は、八分ぐらい、入っていた。バンドにあわせて、踊っている客も、相当にある。
龍太郎としては、別に、おどろくほどの眺めではなかった。しかし、自分の勤めている会社の地下で、毎夜、このような世界が繰り展げられているのかと思うと、やはり、割りきれぬような妙な気分だった。
数人の女が、すぐ、集まって来た。その態度で、田所が、しょっちゅう、ここへ来ているらしいと、龍太郎にも察しがついた。
「ねえ、専務さん。」と、一人の女が、田所に寄りかかりながら、
「さっきまで、山形さんが、お見えになっていましたのよ。」
「ふん、そうか。」
「犬丸さんと、ごいっしょでしたわ。」
「ふん、そうか。」
田所は、鷹揚に、聞き流していた。
しかし、龍太郎には、聞き流せなかった。勿論、気のつかぬ顔をしていたが、山形とは、人事課長で、犬丸とは、組合の委員長をしているあの男に違いなかろう、と思っていた。
近く、組合は、賃上げの要求を出すそうだが、その裏で、人事課長と委員長が、こんなキャバレエに来ているのである。
会社を一歩外へ出れば、人事課長と委員長は、個人の資格で、何をしようが、勝手であった。
また、会社として、そういう方法で、組合と非公式の交渉をさせることもある。
が、こんどの場合、龍太郎には、もっと、違った意味が、そこに含まれているような気がした。それとなく、田所の顔を見ずには、いられなかった。
田所は、あくまで、平然としている。が、
「おい、飲まないか。」
と、女にコップを持たしたのは、その女の口を封じるためのようであった。
「こちら、どなたですの?」と、その女が、龍太郎の方を見た。
「会社の総務部長さんだ。」
「まア。どうぞよろしく。」
「やッ、よろしく。」
「踊ってくださいません?」
「よし、踊ろう。」
龍太郎は、立ち上がった。別に、踊りたいわけではなかった。しかし、この口の軽そうな女から、もうちょっと、聞いてみたいのであった。
龍太郎は、ホールに出て、女と腕を組んだ。踊りはじめると、女は、
「お上手だわ。」と、媚びるようにいって、胸を押しつけて来た。
女の身体は、しなやかだった。それは、龍太郎の若さを、刺激せずにはおかなかった。見れば、顔立ちも悪くない。
「君の名は、何んというの?」
「暁子。総務部長さんは?」
「南雲。」
「あたし、南雲さんみたいなタイプ、大好きよ。」
「ありがとう。」
「お電話をしてもいい?」
「そんなことをしたら、山形君や犬丸君に、叱られないか。」
「大丈夫よ。」
「あの二人、しょっちゅう、くるのかい?」
「でもないけど。あッ、思い出したわ。」
「何を?」
「南雲さんは、九州からいらっしたんでしょう?」
「よく、知ってるね。」
「だって、山形さんが、あなたのことをいってるの、あたし、聞いたことありますわ。」
「どうせ、悪い噂だろう?」
「ふっふっふ。」
暁子は、笑ってから、もう一度、龍太郎の顔を眺めて、
「だから、もっと、嫌な男か、と思っていたわ。どうして、仲が悪いの?」
「僕の方は、別に、仲を悪くしていないつもりだが。」
「でも、犬丸さんだって、さっき、あんな男、絶対に追い出してみせますよ、といってたわよ。」
「困ったな。」
龍太郎は、本当に、困ったようにいった。
バンドが終った。
龍太郎が、席へ帰ろうとすると暁子は、媚びるように、
「もう一曲。」と、せがんで、彼の胸から、はなれようとしなかった。
次の曲が、はじまった。龍太郎の知らぬ曲だったが、彼は、気楽にステップを踏みながら、
「僕の会社の連中、よく、くるのかい?」
「森村さんが、ときどき。」
「総務課長の?」
「ええ。それから、営業課長の山上さんやなんかも。でも、社長さんだけは、一度も、いらっしゃらないわ。」
「そうかね。」
「社長さんて、ちょっと、変ってるんでしょう?」
「どうして?」
「だって、このビルの地下室をキャバレエにした、といって、怒ってるんだって噂よ。」
「誰が、そんなことをいった?」
「噂よ。」
「そうか、噂か。」
「そのくせ、権利金として、二千万円も取ったんだから、ちゃっかりしてるわ。」
「二千万円。」
「凄いわねえ。」
龍太郎は、千五百万円なんだ、といいかけて、口をつぐんだ。勿論、こんな女のいうことなんか、いちいち、真に受けるわけにはいかない。しかし、二千万円と千五百万円の差額は、どうなったのだろうか、と思いたくなっていた。
龍太郎は、踊りながら、女の肩越しに田所の方を見た。そのとき田所は、龍太郎の見知らぬ男と、話していた。その男は、立ったままで、田所に対して、丁重な態度を取っていた。
バンドが終ったので、龍太郎は席へ戻った。
田所が、笑顔で、龍太郎を迎えて、
「ご紹介しましょう。ここのマネエジャアの珍田君ですよ。」
「よろしく。」
龍太郎が、軽く、頭を下げると珍田は、
「どうか、よろしく。前から、一度、いらっして頂きたい、と思っていました。いかがでしょうか。」
「何が?」
「いえ、専務さんから、あんまり、品を悪くするな、といつもいわれているんです。」
横から、田所が、
「珍田君は、昔、日吉不動産に勤めていたんですよ。」
「ああ、そうでしたか。」
「へへへへへ。とんだ、商売替えをしてしまいまして。」
珍田は、頭をかいてみせながら、
「先代の社長さんには、随分と可愛がって頂きました。今の社長さんにも、一度、ぜひ、お越し頂きたい、と思っているんですけど、一向に、来て頂けなくて。」
それから、わざと、思い出したように、
「あッ、高子お嬢さまにも、どうか、よろしくおっしゃってください。」
「承知しました。」
「どうぞ、ごゆっくりと。」
珍田が去ってゆくと、田所が、それを見送りながら、
「会社にいた時は、つまらん男だ、と思っていたんですが、こんな商売をさせると、なかなか、たいしたもんらしいんですよ。」
龍太郎は、頷きながら、あの珍田と仲良くするテはないものか、と考えていた。その龍太郎の手を、暁子が、熱っぽく握っていた。
そのキャバレエを出たのは、九時過ぎであった。
暁子が、龍太郎の耳に唇を寄せて、
「近いうちに、また来てくださいね。」
「うん。」
「きっとよ。」
歩き出してから、田所が、
「だいぶん、もてましたな。」と、笑いながらいった。
そんな田所は、龍太郎に対して、ある程度、気を許しているようだった。しかし、それも、高子の返事を聞くまでであろう。その返事が、ノウであったら、この男は、猛然と、反撃してくるに違いないのである。
龍太郎は、夜空を見上げて、やはり、この男を相手にして闘うことは、容易なことではないのだ、と思わずにはいられなかった。まして、勝利はいつの日か、見当もつかなかった。何か、田所の背後に、とてつもない大きな力が、隠されているような気がしてならなかった。
それだけに、一方で、若い龍太郎には、全身を以て、ぶっつかっていける相手なのだ、とふるいたつものもないではなかった。
「どうです、もう一軒、つきあってくれませんか。」
「あんまり、ご迷惑をかけては。」
「いいじゃありませんか。今夜は、私も、愉快なんです。」
「お供をしましょう。」
龍太郎は、ハッキリした口調でいった。
あるいは、今後、田所とこんな風にして、飲んだり、歩いたりするチャンスは、ないかも知れないのである。またしても『けむり』で待っている善太郎のことが、気にならないではなかったが、このチャンスは、逃がしたくなかった。とことんまでつきあって、田所という男を、もっとよく、見てやりたかった。
「私も、まだ、行ったことのない店なんですよ。」
田所は、そう、念を押すようにいってから、
「覚えていられるでしょう? 社長の前の奥さんのこと。」
「覚えています。」
「あの美和子さんが、すずらん通りで、バーを開いていられるんです。」
「そのことなら、私も、知っています。いつか、汽車の中で、お会いしたんです。そのとき、ぜひ、来てくれるように、といわれたんですが、まだ行っていません。」
「じゃア、ちょうどいい。私も、山形君から聞いているんです。」
その山形をつかって、本間常務が、美和子のパトロンであることも、田所は、すでに、たしかめているのだった。
しかし、龍太郎には、田所が、どういう気持から、自分を美和子のバーへ連れて行こうとするのか、わからなかった。
二人は、すずらん通りを歩いていった。『ハイツ』の看板を、田所が先に見つけて、
「ああ、ここですな。」と、気軽に、中へ、入って行った。
万事、山小屋風に出来ていた。本間の設計の特徴を知っている田所には、一目で、これは、本間の仕事だ、とわかった。
客は、混んでいた。
スタンドの中から、美和子が、
「まア、お珍しい。」と、大声でいった。
その声に、美和子と向かい合っていた客が、こっちを振り向いた。本間であった。
一瞬、本間の眼が、光ったようであった。しかし、彼は、すぐ、明るい笑顔になって、
「これは、これは。」と、酔った口調で、大袈裟に二人を迎えるようにいった。
「これは、これは。」と、田所も、いかにも、意外だった、という顔つきをした。
「よく、来てくださいましたわ、専務さん。」
美和子は、笑顔を、龍太郎にも向けて、
「その節は。今夜、社長さんは?」
田所が、その返事を自分から買って出て、
「社長には、内証です。」
「あら、いいのよ。あたしの方は、平気なんだから。」
「それより、本間君も、ここへ来ているとは、知らなかった。」
「だって、パトロンだもの。」
本間は、先手を打つようにいったが、田所は、平気で、
「そりゃア羨ましい。」と、受けてから、美和子に、「パトロンとしての本間君は、立派ですか。」
「冗談ですよ、専務さん。」
「そうかね、本間君。」
「あたりまえだよ。」
「じゃア、つまらん。南雲君、本間君のパトロン説は、冗談だそうですよ、念のため。はッはッは。」
龍太郎は、黙って、笑っていたが、しかし、心の中で、田所も、本間が、美和子のパトロンであることを、知っているに違いない、と思った。
あるいは、それを龍太郎に知らせるために、ここへ連れて来たのであろうか。
更に、臆測を逞しくすれば、田所と本間は、犬猿の仲なのである。田所は、善太郎との妥協が成立した暁は、この本間を、追い出しにかかるかも知れない。その際、善太郎にとって、この本間が、たとえ、いったんは、別れた妻であっても、その女のパトロンになっている男とわかれば、いい感じを以て眺めはしないだろう。田所の進言をいれて、善太郎は、本間に、辞任を強要することも考えられる。その際、株主層をバックに持っていない本間には、それを拒否する力がないに違いない。
また、かりに、そうなったら、今は、本間の子分のようになっている社員たちは、どうなるか。
龍太郎は、そこまで考えて、田所が、いかに権謀術数にたけているか、驚嘆せずにはいられなかった。
「何を、召し上がります?」と、美和子がいった。
二人は、ハイボールを貰った。龍太郎は、周囲を眺めた。客種は、いいようだ。すくなくとも『けむり』よりは、高級だし、それだけに、気取ったところがある。そして、美和子は、すっかり、バーのマダムに、なり切っているようだった。
そんな美和子の姿を見たら、善太郎は、どう思うだろうか。すでに、美和子に対して、何んの未練もなかったとしても、嫌な思いをするに違いなかろう。
龍太郎は、やはり、今夜、ここへ来たことだけは、しばらく、善太郎にいうまい、と思った。それが、せめてもの、友人としてのいたわりなのである。
「じゃア、失敬。」
やがて、本間が、そういうと、立ち上がった。
「もう、帰るのか。」
「そうなんだ。南雲君、こんどは、僕が、歓迎会をしますよ、盛大にね。」
「お願いします。」
本間が出て行くと、田所も時計を見ていった。
「じゃア、僕たちも帰りますか。」
「帰りましょう。」
龍太郎も、立ち上がった。
龍太郎が、『けむり』へ入って行くと、
「やあ、来た来た。」と、先ず、いったのは、青田であった。
青田のほかに、善太郎と、そして、高子もいた。
「遅くなったろう?」
龍太郎がいうと、善太郎は、
「うん、しかし、ちょうど、青田が来てくれたので、退屈しなかったよ。」
「そうか。会社の地下室のキャバレエへ、二次会に連れていかれたんだ。」
「行ったのか。」
善太郎は、ちょっと、機嫌を悪くして、
「しかし、僕は、絶対に行かぬ。」
「珍田って、マネエジャアが、ぜひ、社長さんにも来て頂きたい、といっていたよ。」
「誰が、いくもんか。」
「しかし、あの珍田は、利用価値がありそうだな。」
「やたらに、ペコペコ頭を下げて嫌な奴だよ。」
「うん、ところが。」
龍太郎は、声をひくくして、
「妙な噂を、あそこの女から聞いたよ。あの地下室の権利金は、たしか、千五百万円だったろう?」
「そうさ。」
「ところが、二千万円出した、ということになっているらしい。」
「本当か。」
善太郎は、半身を乗り出して来て、
「じゃア、差額の五百万円は、田所が、ふところへいれたのか。」
「さア、そいつは、わからんよ。二千万円というのも、ただ、女の話だからね。」
「しかし、田所なら、やりかねないよ。」
「だが、証拠があるわけじゃないからね。」
「向こうの会社へ、聞いてみたら?」
「いや、真正面から聞いたのでは、恐らく、千五百万円、というだろう。そのへんのところは、田所に抜かりはない、と思う。うかつに聞いて、そのことが、田所の耳に入ったら、逆ネジを食うよ。」
「じゃア、みすみす、見逃がすのか。」
「だから、僕は、あの珍田を利用したら、と思うんだよ。」
「そうだ、やってくれ。」
「やってくれって、そう、簡単にはいかんよ。珍田だって、固く、口どめされているだろうし。」
「南雲。」と、青田が、横からいった。「その珍田氏と近づきになるために、キャバレエ・トウキョウへしげしげと出入するなら、僕は、いつでも、つき合うよ。」
「君は、ダメだよ。」
「どうしてだい?」
「そんなことをしたら、君のお母さんに怨まれる。」
「そんなこと、あるもんか。」
「それより、例の名古屋の女性は、どうしたのだ。」
「ああ、あれは、だいたい、きめたよ。」
青田は、ちょっと、てれながらいった。
「そうか、おめでとう。」
龍太郎は、周囲を見まわして、
「おや、和ちゃんいないようだが。」
「今夜は、休んでいるんだそうだ。」
「そうか。」
善太郎が、
「それで、田所が、今夜、何か、特別のことをいわなかったのか。」
「いった。」
そして、龍太郎は、高子の方を向いて、
「実は、あなたに関することなんですよ。」
「あたしのこと?」
高子は、龍太郎の顔を見返すようにしていった。さっきから飲んだすこしの酒に、その頬のあたりが、ほんのりと染まっていた。そのせいか、今夜の彼女の美しさは、いちだんと冴えているようだった。
「そうなんですよ。」
龍太郎は、こんどは、善太郎の方へ視線を向けて、
「田所氏に、昇平君という息子が、あるそうだね。」
「いるよ。」
「その昇平君が、高子さんと、結婚したがっているんだそうだ。」
「あいつ、まだ、そんなことをいっているのか。」
善太郎は、腹立たしそうにいった。
「田所氏は、どうも、自分は、社長から誤解されているようだが、しかし、これでも、会社のために、一所懸命にやっているつもりだ、といっていた。」
「嘘つけえ。」
「で、自分から話したんでは、出来る話も、こわれる恐れがあるから、僕から頼んでみてくれないか、というんだ。」
「勿論、君は、断ってくれたろう?」
「いや。こんな重大な問題は、僕の独断では、返事が出来ないよ。とにかく、いうだけは、いってみましょう、と答えておいた。」
「問題にならんよ。」
そう吐き出すようにいってから、善太郎は、高子の方を向いて、
「なア、高子、そうだろう?」
しかし、高子は、それに答えないで、龍太郎の横顔を、さっきから見つづけていた瞳の光を、いちだんと強くしただけだった。
それを感じながら、龍太郎は、
「田所氏は、こうもいっていた。もし、この縁談が成立したら、そのうちに自分は、平取締役にでもなって、あとは、若い人たちだけで、会社を経営していって頂きましょう、とだ。」
青田が、笑いながら、
「田所って、政略結婚みたいなことをいうんだな。古い、古い。しかし、それだって、南雲が入社して来たので、多少、恐れをなしたのかも知れない。」
龍太郎が、真面目にいった。
「いや、田所って、そんな男じゃアない。あれは、とてつもない男らしいぞ。」
「そうかなア。」
やっと、高子が、口を開いた。
「南雲さんは、どう、お思いになりまして?」
「どう思うって、これは、あなたご自身のことですからね。」
「じゃア、かりに、あたしが行く、といったら、賛成してくださいますか。」
高子は、おだやかな口調でいっているのだが、しかし、その底に、一種の迫るようなものが流れていた。
青田は、横で、ニヤニヤしている。
(南雲め、まるで、口説かれているようだ)
善太郎が、
「高子、田所なんかのところへ、お嫁に行くのはよせ。」
「いいえ、あたしは、ただ、南雲さんに、賛成か、不賛成か、お聞きしているのよ。」
「南雲、どうして、答えないんだ。」と、青田がいった。
龍太郎は、苦笑した。そして、何か、いいかけようとすると、その前に、高子が、きっぱりといった。
「あたし、田所さんのとこへは、絶対に参りません。」
翌日、龍太郎は、いつものように、九時十分ぐらい前に、出勤した。待ち構えていたように、厚子が、お茶を持って来た。
「お早うございます。」
「やア、お早う。」と、龍太郎がいってから、声をひくくして、「お姉さん、ご病気?」
「どうしてですの。」
「実は、昨夜、ちょっと、銀座へ寄ったんだけど、お休みだったから。」
「ああ。それは、途中まで行ったんだけど、急に、お店へ行くのが嫌になって、映画を見て帰ったんだそうです。」
「そうだったのか。近頃、お姉さん、お元気?」
「ええ、でも……。」
「でも、どうしたの?」
「ときどき、憂欝そうな顔をしています。」
「そう……。」
龍太郎は、やっぱり、和子は、青田が好きであったのに違いない、と思った。ひとりで映画を見て、そのあと、夜道をあてもなく歩いたであろう和子の姿が、見えてくるようだった。
「どうしたのか、あたしにもわかりません。」
龍太郎は、頷いてから、
「そうだ、田所専務が、出てこられたら、知らしてほしいんだ。」
「はい。」
厚子は、自分の席へ、戻っていった。
龍太郎は、今日は田所に、昨日の返事をしなければならぬのだ、と思うと、憂欝であった。
卓上電話のベルが、鳴っている。送受話器を取り上げると、交換手が、
「東洋不動産からです。」
「東洋不動産?」
「おつなぎしましょうか。」
「うん。」
しばらく、待たされて、
「モシモシ、南雲さん? あたし、曽和沙恵子です。」
「ああ。」
「お早うございます。あたしね、いよいよ、東洋不動産に勤めることになりましたのよ。」
「それは、おめでとう。」
「ええ、ありがとう。だから、早速、お知らせしたくなって。」
「何課?」
「総務課ですの。」
「じゃア、僕と似ていますね。」
「だから、よけいに嬉しくって。」
「近いうちに、祝盃をあげましょう。」
「ええ、ぜひ。たのしみにしていますわ。」
電話を切ったあとも、龍太郎の心は、ほのぼのとしていた。何か、たのしかった。沙恵子と会ったり、また、その声を聞いたりしたあと、いつでも、こうなのである。
そのあと、龍太郎は、高子に、昨夜、追いつめられたときのことを思いだした。あの激しさは、ただごとでなかったような気がする。『けむり』を出てから、青田が、
「さっきは、君、ちょっと、醜態だったよ。」と、ささやいたのである。
「醜態?」
「そう、君は、高子さんに、惚れられているんだ。」
「まさか。」
「今まで、気がつかなかったとしたら、大変なボンクラだよ。」
「…………。」
「しっかりしろ。」
青田は、龍太郎の背中を、どやしつけたのである。
田所が出勤して来たのは、十時頃であった。それから間もなく龍太郎が、その部屋へ入って来た。
「お早うございます。」
「やあ、お早う。」
「昨夜は、いろいろと、ご馳走になりました。」
「いや。」
「実は、昨日、お話のあった件ですが。」
田所は、龍太郎の顔を見た。
「あれから、早速、社長の家へ行って、話してみたんです。」
「…………。」
「せっかくですが、高子さんは、当分、結婚なんかしたくない、とおっしゃるんですよ。」
「当分ですか。」
「ええ。」
田所は、黙り込んだ。しばらくたって、
「いや、わかりました。この縁談は、あきらめます。」と、あっさりいった。
龍太郎としては、いいにくいことを、ただ、事務的に話そう、と努めていたのである。しかし、こうもあっさりと出られると、却って、不気味でもあった。
「どうも、お役に立たなくて。」
「どういたしまして、南雲さん。どうか、この話は、はじめからなかったことにしてください。私も、忘れますから、社長にも、そうおっしゃってください。」
「承知しました。」
「どうか、お引取り下さい。」
その最後の言葉は、龍太郎にとって、まるで、田所の宣戦布告のように思われた。
龍太郎が、部屋から出ていったあと、田所は、唇を噛みしめるようにしていたが、すぐ、電話を取り上げて、自分で、ダイヤルをまわした。
「ああ、星井君か、田所だよ。」
「お早うございます。」
「例の東洋不動産の株、その後、集まっているかね。」
「ええ、更に、一万株あまり。」
「そうか、ご苦労。どうだろう、そのうちに一度、東洋不動産の総務課長に、わしが会ってみてもいいが。」
「会ってくださいますか。」
「向こうの会社の内情も、聞いておきたいし。」
「ぜひ。」
「勿論、ほかの者は、まだ、何も、気がついていないんだろうな。」
「ええ、株式の名義は、それぞれ、うまくしてありますから。」
「じゃア、君が、ひとつ、お膳立てをしてくれないか。」
「承知しました。」
その電話を切ったところへ、山形が、入って来た。
「お早うございます。昨日、お話があったように、組合には、もうしばらく、自重するように、よくいっておきました。」
「いや、もう、その必要はないよ。」
「えッ?」
「早速、要求を出してよろしい。」
「いいんですか。」
「ただし、あらかじめいっとくが、目的は、大げさに騒ぐことだ、五割の賃上げが通るとは思わぬこと。最後の妥結は、あくまで、わしの言葉にしたがうことだ。」
「はい。」
山形は、わかったような、わからぬような顔で、出ていった。そのあと、田所は、まるで、猛獣のように、部屋の中を、行ったり、来たりしていた。
組合の委員長犬丸と副委員長の中津が、龍太郎の席の前に立った。
龍太郎は、顔を上げた。来たな、と思ったが、おだやかに、
「何か、用かね。」
「これを、どうぞ。」
二人とも、ニコリともしなかった。
「何?」
「組合の要求です。」
龍太郎は、それを黙読して、
「五割かね。」
「そうです。」
「すこし、常識を越えているような気がするが。」
「ご冗談でしょう。」
犬丸は、もう、はじめから喧嘩腰で、
「われわれ組合員は、今日まで、我慢に我慢を重ねて来たんです。もう、これ以上は、我慢が出来なくなったんです。」
「あなたのように、いきなり、五万円の高給で入社して来た人には、われわれの苦労は、わかりませんよ。」
「わかった。僕のことは、特例として、認めて貰いたい。」
「認められませんね。」
犬丸は、うそぶくようにいった。
「認められなければ、まア、仕方がないとして、この会社の平均給与は、いくらになっているか、無論、知ってるだろう?」
「一万八千円です。」
「そう。しかし、残業手当やなんかをいれたら、二万円だ。それを五割も上げたら、平均三万円になるよ。」
「ちょうど、いいじゃアないですか。」
「平均三万円という会社は、めったにない、と思うんだが、まして、不動産会社ともなれば、一般に、そう高くはないもんだ。第一、会社は、それでは、やっていけない。」
「いいや、やれますよ。会社は、半期に、二千五百万円からの純益を上げているんですから、やれないはずがありません。」
「しかし、平均五割を上げると、千五百万円になってしまう。それでは、税金を払ったあと、今まで通りの配当は、むつかしくなる。」
「配当を下げればいいじゃアありませんか。」
「それでは、株主に対して、申しわけがなくなる。」
「株主といったところで、いちばんの大株主は、社長です。社長さえ、ウンといったら、文句はないはずです。」
「ほかにも、大株主がいるよ。」
「あなたには、それくらいの工作が、出来ないのですか。」
「かりに、僕が大株主だったら、平均給与五割の引上げのため、配当金が急に減ったりしたら、文句をいうね。」
「それをいわせないのが、総務部長の腕です。もし、あなたが、そういう意味で、組合の要求を不当だというのであったら、われわれは、ついでに、あなたの辞任を要求しますよ。」
「僕は、辞めないよ。」
「じゃア、組合の要求を、通してくれますか。」
「五割は無理だろうね。」
「しかし、われわれは、あくまで、五割を要求します。」
「もうすこし、考え直してくれないかね。」
「もう、その余地は、ありません。」
「わかった。一つ、重役とも、ご相談してみよう。」
「明日までに、返事をいただけますか。」
「明日? そりゃア無理だな。まア、三日ほど、待って貰いたい。」
「三日ですね。」
念を押してから、二人は、帰っていった。
そのあと、龍太郎は、考え込んだ。今のやりとりが、近くの社員たちに、聞えぬはずはなかった。仕事をする振りをしながら、龍太郎の様子を、うかがっているようである。
(五割とは、どう考えても、無茶だ)
結局、この要求の裏に、田所がいることは、明白であった。
一度は、妥協の手を差しのべて来たのだが、高子と昇平との結婚のことが蹴られると、忽ち、牙をむいて来たのに違いない。
(負けられぬ)
龍太郎は、思った。
出来れば、このチャンスを利用して、田所の裏をかいてやりたかった。
ただ、田所は、どういうことをたくらんで、こんなことをするのか、わからないのである。単に、社内で、自分の勢力を確保するためだけだとしたら、もっと、別の方法が、ありそうなものだ。
龍太郎は、組合の要求書を持って、立ち上がった。彼は、秘書室で、高子に、
「社長、いられますか。」
「いま、正木さんが、入っていられます。」
「じゃア、ちょうどいい。あなたも、いっしょに来てくださいませんか。」
「何か、ありましたの?」
「組合から、賃上げの要求が来たんです。」
「いくらですの?」
「それが、五割なんです。」
「まア、五割も?」
高子は、あきれたようにいった。それから、却って、笑い出して、
「ちょっと、無茶ですわね。」
龍太郎も、笑って、
「そうなんですよ。」
龍太郎と高子が、社長室へ入って行くと、善太郎が、
「おい、南雲。組合が、いよいよ、五割の賃上げの要求をすることに、きまったそうだ。」と、やや興奮した面持でいった。
信子は、二人に、軽く、会釈をして、
「では、あたし。」
と、出ていきかけたが、龍太郎から、
「いや、あなたも、ここにいてください。」と、いわれて、そのまま、とどまった。
「その要求書を、今、つきつけられたばかりなんだ。これですよ。」
それを読んで、善太郎は、
「実に、怪しからんよ。組合は、すこし、増長しすぎている。」
龍太郎は、さっきの経緯を話して、
「相当に強硬らしい。」
「こうなったら、僕は、社長として、そして、大株主として、絶対に認めないよ。」
「二割ぐらいなら、いいのじゃアないですか。」
「困る。嫌だね。」
高子が、信子に、
「組合は、どこまで、本気なんですの?」
「それが、近頃、あたし、何んとなく、敬遠されているようで、よく、わからないんですけど、いずれ、団体交渉に入り、あげくは、ストをも辞せず、と騒いでいるんです。」
「南雲、どうする?」
「それについて、僕は、前から考えているんだが、大阪の岩田君を、こっちへ転勤させてほしいんですよ。」
「岩田?」
「岩田君なら、僕の相談相手になってくれるような気がする。」
信子が、
「そりゃアなれますわ。」と、いってから、「もし、そうなったら、奥さまたちも、どんなに、およろこびになるか、わかりません。」
社長室へ、田所、本間、森村、山形、そして、龍太郎が集合を命ぜられたのは、それから、三十分ほど、たってからであった。
善太郎が、
「皆さんに、急に、お集まりを願ったのは、こんど、組合が賃上げの要求を出したについて、その対策を練りたいからであります。」
「ほう、出しましたか。」と、本間がいった。
しかし、田所は、冷然とかまえているだけだった。
「南雲君。君から、説明してくれないか。」
「では。」
龍太郎は、先ず、要求書を読み上げ、更に、三日後に、回答を要求されている旨をつけ加えた。
「五割ですか。そいつは、無茶だな。」
また、本間がいうと、森村と山形が、
「そうですよ。」
「すこし、増長していますな。」と、口々にいった。
「田所専務のご意見は、如何でしょうか。」と、龍太郎がいった。
「僕より、社長のご意見を聞いてくれたまえ。」
「僕は、無論、反対だ。」
「じゃア、私も反対です。」
龍太郎が、
「私としましては、この際、二割程度は、やむを得ないのではないか、と思うんです。その程度でしたら、会社の経理上、そう無理でもない、と考えています。」
「社長のご意見は?」と、田所がいった。
「僕は、賃上げの必要はない、と思っている。」
「じゃア、私も、社長の説に賛成します。」
「しかし、そうなると、組合の面目が、まるつぶれになって、ストライキということにもなりかねない、と思います。」
「社長のご意見は?」
三度、田所が、同じことをいった。
善太郎は、むっとしたように、
「かまわん。」
「じゃア、私も、一向にかまいません。」
田所は、そういってから、龍太郎に、
「南雲君。こうなったら、後は、君の腕次第だ。せっかく、社長も、あんな風に強情を張っていられるんだから、せいぜいうまく、処理してくれたまえ。」
「しかし。」
「君は、こういうときのためにこそ、この会社に入って来たのではなかったのか。」
「わかりました。」
「では。」
田所は、もう、立ちかけている。
「ちょっと、お待ちください。」と、龍太郎がいった。
人々は、いっせいに、龍太郎を見た。
「私は、この際、総務部長として、皆さんのご了解を得たいのです。大阪の岩田君を、本店の総務課長代理として、転勤させていただきますから。」
「何?」
田所の眼が光って、何か、いいかけた。龍太郎は、その機先を制するように、
「社長のご意見は?」
「いいと思う。」
「では、早速、そういうことにさしていただきます。」
龍太郎は、いい切った。
龍太郎は、自分の席にもどった。さすがに、自分でも、興奮しているとわかった。落ちつかねば、と煙草に火を点けたのだが、その指先が、すこし、ふるえているようである。
昨夜と打って変った田所の態度だった。しかし、今までのように、猫撫声でモノをいわれるよりも、その方が、むしろ、気持がいいのである。こっちも、その気になって、真正面から、向かって行くことが出来る。
「どうぞ。」
厚子が、お茶を持って来てくれたのだ。彼女は、心配そうに、龍太郎を見ていた。会議のあったことを知っていて、その内容を察しての心づかいであったろうか。
「ありがとう。」
龍太郎は、そのお茶を飲んだ。適当な熱さであり、かわき切った咽喉に、とても、うまいものに感じられた。
「部長。」と、森村が、立って来た。
「何んだね。」
「さっきの岩田の件ですが、すこし、どうかと思うんです。」
「何故?」
「つい、この間、転勤させたばかりの男を、また、引き戻すなんて、いかにも、無定見のような気がしますよ。」
「かまわぬ。」
「しかし。」
「君、社長が、賛成されたんだよ。」
龍太郎は、強くいった。周囲の社員たちが、耳を澄ましていることを承知の上で、龍太郎がわざと、そのようにいったのである。
果して、社員たちの間に、目に見えぬ動揺の波のようなものが、ひろがっていったようであった。
森村は、龍太郎の強い剣幕に、苦笑しながら、引き下った。
龍太郎は、すぐ、電話を取り上げて、
「大阪支店へ。」と、交換手に命じた。
その電話が出るまでの間、龍太郎は、腕を組み、眼を閉じていた。
ベルが鳴った。
「ああ、大阪支店だね。こちらは、本店の南雲、支店長を呼んでくれたまえ。」
しばらく、待たされてから、
「有川さんですか。僕は、南雲です。突然ですが、そちらの岩田君を、急に、本店に転勤させることになりましたから。」
「岩田君をですか。」
「そう。辞令は、こちらでわたしますから、すぐ、本人にそういって下さい。」
「それは、田所専務も、御承知なんですか。」
「社長のご決裁を得てあります。」
有川は、黙り込んだ。龍太郎は、押しまくるように、
「そうだ、この電話を岩田君に、切り換えてください。」
有川は、返事をしないで、引っ込んだ。やがて、
「岩田ですが。」と、いう声が、聞えて来た。
「ああ、岩田君。僕は、本店の南雲です。」
「あッ、部長ですか。」
岩田の声が、弾んだようである。
「君、急に、こっちへ転勤して貰いたいんだが、どうだろうか。」
「本当ですか。」
「そう、総務課長代理になってほしいんだ。それで、君にも、いろいろの都合があるだろうが、大至急、赴任してくれないか。」
岩田は、ちょっと、考えるようにしてから、
「承知しました。明後日の朝、立ちます。」
退社時刻を一時間も過ぎると、大方の社員たちが帰っていって、事務室は、ガランとしてくる。
龍太郎は、まだ、残っていた。彼は、こんどの問題で、組合を相手に、どう動いていいのか、思案しているのだった。
龍太郎の性分として、今や、一歩も後へ引けぬ気分なのである。しかし、組合を相手にすることは、彼の本意ではなかった。出来ることなら、組合の意志を尊重したかった。が、その組合をあやつっているのが、田所である以上、その田所を憎まねばならぬと、龍太郎は、今も、思っているのだった。
労資の対立、という問題からすでに離れて、組合は曲った方向に進みつつある。それも、結局は、一部の組合幹部のせいなのだ。そんな一部の幹部に引きずられている社員たちこそ、いい迷惑ではないのか。
曲った方向に進みつつある組合を、正常な道に戻すためには、この際、真ッ正面からの闘争もやむを得ないのである。そして、そのことは、田所と闘うことを意味する。
ここに思いいたって、龍太郎は、
(やろう)
と、腹が決まった。
大阪の岩田が来てくれることが、何よりも心強いのである。万事は、岩田と相談して、と思った。彼なら、自分の片腕として、きっと、うまく、動いてくれるだろう。
扉が開いた。
「やっぱり、まだ、いらっしゃいましたのね。」
そういいながら、高子が、笑顔で入って来た。
「社長は?」
「さっき、帰りましたのよ。南雲さんは、まだ、お帰りになりませんの?」
「今、帰ろうと思っていたところです。」
「じゃア、そこまで、ごいっしょに帰りません?」
「帰りましょう。」
龍太郎は、すぐ、机上の整理をして、立ち上がった。
二人は、廊下に出た。ひっそりとしていて、石畳の上を歩く二人の靴音が、そこらにこだましていた。
エレベエタアの中でも、二人は、黙っていた。それは、話すことのないための沈黙ではなく、むしろ、その逆のようだった。だから、外へ出たとき、高子の方から、
「そこらで、お茶でも飲みません?」
と、誘ったとき、龍太郎は、即座に、
「飲みましょう。」と、応じたのである。
二人は、喫茶店のテエブルをはさんで、向かい合った。
「とうとう大変なことになりましたのね。」
高子の方から、早速、口を切った。
「そうですよ。こうなったら、仕方がありません。やるだけ、やってみます。それに、大阪の岩田君も、明後日には、こちらへ来てくれることになりましたから。」
高子は、頷いてから、
「あたし、思うんだけど。」
「えッ?」
「兄が、賃上げを、全然、認めない、といっていたでしょう?」
「そう。」
「でも、それだったら、南雲さんは、やりにくいんじゃありません?」
「そりゃアやりにくいですよ。」
「どうなさいます?」
「だから、正直なところ、困っているんですよ。」
龍太郎は、苦笑を洩らして、
「せめて、二割ぐらいの増額が認めて貰えると、非常にやりやすいんです。それを、全然、認めない、というのでは、組合だって、引っ込みがつきませんからね。そして、僕は、会社の経営状態からいって、二割の増額は、妥当なのではないか、と思っています。」
「じゃア、その二割ということで交渉をなさったら?」
「しかし、社長が。」
「そのことでしたら、南雲さん、あたしが、責任を持って、兄を説き伏せますわ。」
高子は、何んの苦もないようにいった。
「説き伏せてくれますか。」
「ええ。」
「有難う。そうなると、非常にやりやすくなりますよ。」
龍太郎の顔が、晴れ晴れとして来た。
彼は、高子なら、善太郎を説き伏せることが出来るに違いない、と思った。
「僕はね、高子さん。そうなったら、組合の連中と、じっくり、話し合ってみますよ、組合も、今のままでは、まるで、田所のロボットですからね。すこしも、自主性がありませんよ。それじゃア、結局、組合自身が不幸になりますよ。」
「みんな、兄の不徳のいたすところですわ。」
「いや、そういう意味で、いったんではありませんよ。」
「いいえ、あたしにだって、それくらいのことは、わかります。田所さんだけが、悪いのではありませんわ。」
「その田所のことですが、僕は、この間の晩、わざと、黙っていたけれども、いっしょに、銀座の『ハイツ』へ行ったんですよ。」
「美和子さんのバー?」
「そうですよ。ちょうど、本間常務も来ていました。」
「そう……。」
高子は、黙り込んだ。
「社長は、もう、美和子さんのことを、何んとも思っていないんですか。」
「だと思います。」
「じゃア、いい。僕も、その方が賛成です。」
龍太郎は、安心したようにいってから、
「社長は、今日は、まっすぐに、家へ帰ったんですか。」
「いいえ。」
「じゃア、どこかへ寄り道をして帰るんですね。」
「あたしね、兄は、今夜、正木信子さんといっしょじゃアないか、と思うんですよ。」
高子は、眉を寄せるようにしていった。
龍太郎は、この前、青田のところへ行こうと誘ったときにも、善太郎は、ちょっと、とアイマイに断ってから、信子といっしょに『けむり』へ現われたりしていたことを思い出した。
そのとき、信子なら、組合の情報を提供してくれたりしているのだし、自分にまで、内証にする必要はあるまい、と不満に思ったことがある。
「そのことを、あなたにもいわずに?」
「ええ。もっとも、あたしの臆測なんですのよ、それは。」
「しかし、秘書のあなたに内証の行動を取るのは、社長は、怪しからんですな。」
龍太郎は、わざと、笑いながらいった。
「だって、兄にとって、正木さんとのことは、今は、プライベイトのことなんですもの。」
「プライベイト?」
「そうですわ、プライベイト。」
高子は、ゆっくりした口調でいってから、
「出ません?」と、立ち上がった。
「出ましょう。」
龍太郎も、立ち上がった。そこの勘定を払って、龍太郎が外へ出ると、霧の立ち込めるような夜になっていた。その霧の中で、高子は、影絵のように、彼を待っていた。
「もうすこし、歩いてくださいません?」
「いいです。」
二人は、新橋の方へ、歩きはじめた。
しばらくたって、高子が、
「さっきの正木さんの話、あたし、兄は、正木さんを好きなんじゃアないか、と思いますのよ。」
「そんな気配があるんですか。」
「ええ。正木さんが、社長室へ入ってくると、兄の顔が、パッと、明るくなります。」
「なるほど。」
「それに、近頃、兄は、正木さんとのことを、あたしに隠したがっているんです。」
「だから、プライベイトということになるんですね。しかし、正木さんは、いいひとですよ。」
「ええ。そして、正木さんは、兄を愛していなさいますわ。」
「わかりますか。」
「そりゃア。」
「実は、僕も、そうじゃアないか、という気がしていたんです。」
龍太郎は、いってから、ズバリと、
「いけませんか。」
「いいえ、いけないなんて。でも……。」
「でも。」
「兄は、どこまで本気か、あたしには、わからないんです。世間によくある、社長と女事務員、あんな風な関係ですますだけなら、あたしは、嫌なんです。」
「すると、あなたは、かりに、二人が愛し合っているとして、結婚する、といい出したら、賛成なさいますか。」
「あたし、反対しませんわ。だって、あたしは、正木さんを好きなんですもの。」
「じゃア、いいじゃアありませんか。」
「しかし、兄に、その勇気がありますかしら? 母だって、真ッ先に反対しますわ。」
「…………。」
「その勇気もなくて、あんな秘密な関係を続けるの、あたし、賛成出来ませんわ。」
「秘密といったところで、組合の情報を正木さんから貰うために――。」
「本当をいうと、あたし、それが、嫌なんです。自分の好きな女に、スパイの真似をさせるなんて、あたし、嫌いだわ。」
その点なら、龍太郎も、同感であった。が、二人の関係は、今や、スパイということをはなれて、しかし、それを口実に、急速に接近しつつあるようだ。龍太郎は、それならそれでいい、と思っている。しかし、その結果、二人の関係が、のっぴきならないところまで進んだら、どうするつもりか。善太郎は、そこまで、考えているだろうか。
二人は、しばらく、黙って、歩いていた。龍太郎は、今頃、どこかで会っているだろう善太郎と信子の姿を、頭に描いた。
新橋駅前の雑踏が、夜霧の中に、ボンヤリと見えていた。
信子のアパートから、渋谷の駅前までは、直線距離にすれば、眼と鼻の先ぐらいのものだった。信子の部屋にいると、その雑踏の音が、聞えてくるようだ。ネオンの色も、夜空に映えていた。
その信子の部屋へ、善太郎が来ていた。
今夜は、かねての約束通り、この部屋で、信子の手料理を食べるのである。
「ねえ、お洋服では、窮屈でしょう? 着換えてくださいません?」と、信子がいった。
「着換えるって?」
「あたし、丹前をつくっておいたんですけど……。」
「丹前?」
「着てくださいます?」
信子は、はにかんだようにいった。
「わざわざ、僕のために、つくってくれたのかい?」
「ええ。でも、あんまり、上等のではありません。それに、自分で縫ったんですもの、うまく、お身体に合うかどうか、心配ですわ。」
善太郎は、ちょっと、唸りたくなっていた。それでは、たった一度の接吻で、信子の気持が、これほどまでに進んでしまったのか、とあわててもいた。
しかし、心の一方で、いったい、自分の過去に、これほどまでに心をつくしてくれた女が、一人でもあったろうか、と思わずにはいられなかった。
ここで、丹前に着換える、ということは、考えようによっては重大な意味を含んでいる。信子は、それを承知で、そして、覚悟の上でのことであろうか。
善太郎は、信子の顔を見た。信子は、顔をあからめた。三十になっていながら、その姿に、初初しさが溢れていた。善太郎は、その頬を、両の手ではさみ、引き寄せてやりたくなった。
しかし、それをするかわりに、
「着換えるよ。」と、いった。
信子が出して来たお召の丹前には、まだ、しつけ糸がしてあった。兵古帯も、新しく買ったものに違いなかった。
着換える善太郎に、信子は、甲斐々々しく、手伝った。彼の脱いだものを、いちいちハンガーにかけて、自分の洋服ダンスの中にしまった。
着換えると、善太郎の心は、すっかり、落ちついた。度胸がきまった、といってもよかろう。
「似合う?」
「ええ、とっても。」
「しかし、よく、寸法が、きっちり合っているね。」
「だいたいの見当で、縫ったんです。」
「正木さんに、こんな仕事が出来るとは、思わなかったな。」
「失礼ね、社長さん。」
「はッはッは。しかし、正木さん、この着物や帯、高いんだろう?」
「そんなこと……。」
「僕が、払ってあげるよ。」
「嫌だわ。いりません。」
「しかし。」
「これ以上、そんなことをおっしゃるなら、追い出してあげますよ。」
「そりゃア困る。」
「だったら、黙って、あたしの好きなようにさしておいて。」
信子は、心から、今夜を楽しんでいるようだった。
しかし、善太郎には、お昼の組合の要求のことを思うと、何か、心の一点に、落ちつかぬものがあった。
(今夜は、何も彼も、忘れて過ごそう)
と、思いつつも、夕刊を読みながら、ふっと、その方へ、思いが走ったりする。
信子は、むしタオルを出してくれた。更に、紅茶をいれてくれて、
「じきに用意をしますから、しばらく、お待ちになってね。」
信子は、洗い立てのエプロンを身につけていた。そんな信子の姿は、いつも、会社で見るのとは、まるで、別の女のようであった。新世帯の新妻を連想させた。
「簡単な物でいいんだよ。」
「ええ。」
「何か、手伝ってやろうか。」
「とんでもない。そこに、じいっとしていてくださるだけで、嬉しいんです。」
そういって、信子は、いそいそと、台所に立った。
善太郎は、ふたたび、新聞に眼を落した。この前はなかった灰皿も、今夜は、用意がしてあった。善太郎は、煙草に火を点けながら、自分のこんな姿を、高子が見たら、何んというだろうか、と思った。ついで、母のことを思った。
しぜんに、思いは、別れた妻の美和子に走っていた。
別れた当座は、美和子に、多少の未練がなかった、とはいい切れないのである。彼が、よく、酒を飲むようになったのも、そのせいであった。美和子が、バーのマダムになっていることも、善太郎は、知っていた。知っているが、誰にも、いったことはない。酔いにまかせて、美和子のバーへ、行ってやろうか、と思ったことが、何度もあったがそれを実行する勇気に欠けていた。
しかし、今、信子を知って、善太郎には、美和子は、完全に、過去の人間になった、と思われるのであった。
まだ、信子のすべてを知ったわけではない。しかし、美和子に欠けていた女らしさが、信子にそなわっているような気がしてならないのである。
「ご退屈?」と、信子が、台所から、声をかけた。
「いや、ちっとも。」
「もう、すぐですから。」
「いいよ。僕は、さっきから、新婚の夫婦のような気がしているんだ。」
「まア。」
「とても、楽しいんだ。」
「ほんと?」
「ほんとだよ。」
楽しいことは、本当だった。しかし、この先、どういうことが起るか、と思うと、善太郎にも、一抹の不安がないではなかった。胸のときめく思いでもあった。
やがて、信子は、餉台の上に、つくった物を並べはじめた。
カニとハムの野菜サラダ。
合鴨のバタ焼に、玉ネギのケチャップ和え。
ブリの塩焼。
茶碗むし。
大根と葉っぱの一夜漬けに、カブラのぬか漬け。
「お待たせしました。お腹、お空きになったでしょう?」
「いや。凄いご馳走だなア。」
善太郎は、眼をみはった。別に、お酒の用意もしてあった。
「どうぞ。」
信子は、お銚子を取り上げた。
「うん。」
善太郎は、それを盃に受けてから、
「正木さんも、どうお?」
「はい。」
信子は、素直に盃を出した。
「さあ。」
善太郎は、カンパイするように、盃を上げた。信子も、それにならった。
善太郎は、合鴨を食べて、
「うまい。」
「そうお? よかったわ。」
「正木さんが、こんなに料理がうまいとは、思わなかったよ。」
「すこし、見直してくださった?」
「すこしどころか、大いにだ。」
「あたし、何んだか、夢みたい。」
「どうして?」
「だって、社長さんが、あたしの部屋で、こんな風にしてくださるなんて、考えたこともなかったんですもの。」
「要するに、正木さんが、僕のために、つくしてくれたからだよ。」
信子は、その間も、ときどき、善太郎に、お酌をしてやっていた。そして、逆に、注がれると、つつましく、受けるようにしていた。
酔いが、たちまち、信子の頬を染めた。全身の血が、音を立てて、流れているようだった。
信子は、善太郎とたった二人で、食事をしたり、酒を飲んだりすることの意味を、知らぬわけではなかった。まして、ここは、男子禁制のようにして来た自分の部屋なのである。しかし、信子は、心の奥底で、
(だって、あたしは、社長さんが、好きなんですもの)
と、何度も、弁解するようにいっていた。
「会社のことなんですけど。」
「うん。」
「本当に、組合の要求を、全面的に、お蹴りになりますの?」
「勿論。でなかったら、ますます、増長するからな。」
「南雲さん、うまく、交渉してくださるかしら?」
「南雲なら、やるだろう。」
「結局、田所専務が、糸を引いてなさるのね。」
「そうなんだ。だから、僕は、こんどの総会は、ちょうど、役員の改選期に当っているから、田所の辞任を要求するつもりだ。」
「まア、そんなことが、出来ますの?」
「正木さん、僕は、社長なんだよ。」
「ええ。」
「しかも、いちばんの大株主なんだよ、やれぬはずはないんだ。」
そういって、善太郎は、ぐっと、盃をほして、その盃を、信子にやって、
「正木さん、今夜は、飲もう。」
「はい。」
「会社のことなんか、今夜は、忘れるんだ。」
「ええ。」
二人で、銚子を三本も空けて、やっと、ごはんにした。善太郎は、カブのぬか漬けを、うまいとほめてくれた。
「正木さん、僕は、すっかり、酔ったよ。」
「あたしも。」
「何んだか、ねむくなったようだ。今、何時?」
「八時ですわ。ねえ、しばらく、横になって、おやすみになったら?」
「そうだなア。」
善太郎は、アイマイな返事をした。
しかし、心が動いていることは、たしかであった。それを見て、信子は、膝を進めるようにして、
「ねえ、そうなさいませよ。一時間ほどしたら、あたし、起してあげますわ。」
「よし。」
信子は、すぐ、餉台を隅の方へ押しやって、布団を敷きにかかった。その上に、洗たくしたてのシーツを敷いた。
「あたしの枕で、ごめんなさい。」
信子は、その枕に、新しいタオルを巻きつけながらいった。
「いいとも。」
善太郎は、横になった。信子は、布団の上から、善太郎の背中をおさえるようにしながら、
「寒くありません?」
「いや、いい気持だ。この布団、フカフカしてるね。」
「日曜日毎に、お陽さまで乾しますのよ。」
「道理で……。でも。」
「えッ?」
「何んとなく、正木さんの匂いがしている。」
「嫌よ、そんなことおっしゃるの。」
「ごめんごめん。いい匂いだといってるんだよ。」
善太郎は、眼を閉じた。思いのほかに酔っているらしい胸の動悸が、烈しくなっていた。しかし、間もなく、寝息を立てはじめた。
信子は、大急ぎで、餉台の上の物を、台所に運んだ。戻って来て、善太郎の枕許に座ると、彼は、軽いイビキを立てていた。信子は、しばらく、その寝顔を見ていたが、部屋が明る過ぎるようだ、と気がついて、電灯を消した。かわりに、スタンドを点けた。
信子は、飽かずに、善太郎の寝顔を見つめていた。そっと、彼の横へ、入っていきたいような気さえしてくる。そんな自分を、
(あたしって、ふしだらな女なのかしら?)
と、反省もしていた。
善太郎は、相変らず、イビキをかいている。しかし、信子には、それが、すこしも、嫌ではなかった。彼女は、そっと、手をのばして、善太郎の髪の毛に触ってみた。
アパートのあちらこちらで、ラジオの音が聞えていた。しかし、ここだけは、別の世界なのである。秘密の世界――、そんな気さえしていた。出来ることなら、明日の朝まで、こうしていたかった。
善太郎の顔が動いて、パッと、眼を醒ました。彼は、一瞬、ここがどこなのか、とまどった風であったが、枕許に座っている信子の姿に気がつくと、
「ああ。」と、安心したようにいってから、
「何時?」
「まだ、九時前ですわ。」
「そう。お水が、飲みたいんだけど。」
「はい。」
信子は、コップに、水をいれて来た。
「どうぞ。」
「嫌だよ。」
「え?」
「口うつしに飲ましてほしいんだ。」
「あら、いけませんわ、そんなこと。」
「じゃア、いらぬ。」
「あたし、困りますわ。」
「では、いらぬ。」
「そんなら、眼を閉じていてくださいね。」
「うん。」
信子は、コップの水を口にふくんで、善太郎の顔に、近寄せていった。
善太郎が、信子のアパートを出たのは、それから、一時間ほど、たってからであった。信子は、黙ってついてくる。
霧が、立ちこめていた。その間を、二人は、無言のままで、歩いていた。
「ごめん。」と、善太郎がいった。
信子は、おどろいたように、
「あら、どうして、そんなことをおっしゃいますの?」
「だって、黙っているから、怒ってるのか、と思ったんだ。」
「怒るなんて……。」
信子は、ひくい声で、
「嬉しいんです。」
「ほんとうに?」
「ええ。」
信子は、善太郎の指先を求めて来た。善太郎が、握り返してやると、更に、握り返してくるのである。
「会社では、絶対、内証だよ。」
「そんなこと、大丈夫ですわ。」と、いってから、信子は、「ときどき、会ってくださいます?」
「うん。」
「こんどは、いつ?」
「四、五日中に。」
「お待ちしていますわ。」
「でも、今夜のように、ご馳走をつくる必要はないよ。」
「だって、あたし、その方が、楽しいんですもの。」
「勿論、金は、僕が、払うけど。」
「いりません。」
「しかし、丹前やなんかで、随分、お金をつかったろう?」
「でも、いりません。ときどき、会ってさえくださったら、嬉しいんです。」
「しかし、僕は、男だよ。それに社長だ、そんなわけにいかん。」
「いいえ、なくなったら、頂くことにします。それまで、一切、気をつかわないで頂戴。」
「じゃア、今、何か、ほしいものはない?」
「ありません。ほしいのは、社長さんのお心だけです。」
「心だけかい?」
「嫌よ、こんなところで、そんなことおっしゃるの。」
そういいながら、信子は、善太郎に、ぐっと、寄り添うようにした。
霧の向こうに、渋谷のネオンの色が、ぼうとかすんで見えて来た。ヘッド・ライトをうるませたタクシーが、徐行していた。
「お茶でも飲む?」
「もうすこし、このまま、歩いてくださいません? 何んだか、明るいところで、人に顔を見られるの、嫌なんです。」
善太郎が、タクシーに乗ったのは、それから、二十分後であった。彼は、煙草を吹かしながら、七分の満足感と、三分の後悔心を、噛みしめるようにしていた。ゆっくり走っているタクシーの中で、彼は、もう一度、さっきのことを思い出していた、やたらに鳴らす警笛も、彼には、耳ざわりではなかった。
しかし、家が近づいてくるにつれて、何んとなく、気が咎めて来た。殊に、高子の眼が、恐かった。当分の間は、高子にも、龍太郎にも、知られたくなかった。勿論、ほかの社員たちには、絶対に、知られたくはないのである。
タクシーは、彼の家の前で、停った。
善太郎は、すぐ、自分の部屋へ通った。洋服を着物に着換えていると、扉の外で、ノックの音が聞えた。
「はい。」
扉を開いて、高子が、お盆の上に、ジュウスをのせて入って来た。
「やア、すまん。」
「お帰りなさい。」
善太郎は、高子の眼を避けるようにして、煙草に火をつけた。
「お母さんは?」
「夕方、佐登子姉さんがいらっして、急にごいっしょに、歌舞伎座へいらっしゃったそうよ。」
「へええ、珍しいこともあるもんだな。」
「佐登子姉さんの方で、切符の用意なさったんですって。」
「ますます、珍しい。しかし、どうせ、エビタイの口だろう。」
「そうね、多分。」
「しばらく、無心にこなかったようだが、今夜あたり、お母さん、きっと、口説かれているよ。」
「だったら、どうなさる?」
「勿論、ことわる。絶対に、おことわりだ。」
「随分、強気なのね。」
高子は、笑ってみせた。
「あたりまえだ。」
善太郎は、威張ったようにいった。
高子は、何気ないように、
「お兄さん、今夜は、どなたとごいっしょ?」
善太郎は、内心、ギクリとしたけれども、
「そんなこと、どうでもいいじゃアないか。」
「あたし、ひょっとしたら、正木さんとごいっしょか、と思っていたのよ。」
「どうして?」
「ただ、何んとなく。」
「違うよ。」
「なら、いいんです。」
「正木さんといっしょだったら、いけないのかい?」
「いけなかないけど……。」
「どうしたんだ。はっきり、いってくれよ。」
「あたしね、お兄さん。正木さんが、お兄さんを好きなんじゃアないか、と思うのよ。」
「バカな。」
「そして、お兄さんだって、正木さんを、お好きなんじゃアありません?」
「冗談じゃアない。僕は、正木さんを、ただ、利用しているだけなんだ。」
「だったら、正木さんが、可哀そうね。」
「そんな話は、もう、よしてくれ。」
「よしますわ。でも、お兄さんは、今が、大事な時なのよ。会社の女事務員と、変な関係になったりして、組合から、突っ込まれたりしないようにしてよ。」
「組合?」
「そうよ。そんなことで、お兄さんが、突っ込まれたりしては、せっかく、一所懸命になっていなさる南雲さんに、お気の毒だわ。」
「大丈夫だ。僕は、組合に突っ込まれるような真似は、何ひとつ、していない。」
そういいながら、善太郎は、急に、不安になって来た。
今夜、あんなことがあって、帰ってくる早々に、高子から、こんな意見めいたことをいわれるのは、何か、不吉な予感がする。
(しかし、二人だけの秘密にしとけば、絶対に、わかるはずがないのだ)
そう思いつつ、不安は、去らなかった。そして、今夜の信子のことを考えると、明日にも、また、あの部屋を訪れたいのだった。
しばらく、兄と妹は、黙っていた。
善太郎は、早く、高子が、この部屋から出ていってくれないか、と思っていた。そのあと、もう一度、信子とのことを、ゆっくり、思い返してみたいのだった。
そのくせ、善太郎には、信子のことを、高子に、打ち明ける勇気はなかった。まるで、うしろ暗いことをして来たような思いでいた。何故、うしろ暗く思わねばならぬのか。善太郎は、そこまで深く、自分の心の底を、まだ、つきとめてはいないのだった。
高子は、善太郎のうしろを通って、窓際に寄っていった。カーテンを開いて、
「今夜は、ひどい霧ね。」と、つぶやくようにいった。
その霧の中を、龍太郎と、新橋駅まで歩いたのである。
ひょっとしたら、龍太郎の方から、晩ごはんを誘ってくれるか、と心待ちしていたのだが、彼は、ついに、誘ってくれなかった。
高子は、余ッ程、自分から誘ってみようかと、その言葉が、口の先まで出かかったのだが、とうとう、いえないで、別れてしまったのである。
「さようなら。」と、高子がいうと、龍太郎は、
「さようなら。」と、あっさり、応じて霧の彼方へ、去っていってしまった。
そのうしろ姿は、まるで、高子に対して、何んの未練もないようであった。
高子は、一人になってから、夜霧の街を、しばらく、歩き続けた。彼女は、歩きながら、自分が、どんなに、龍太郎を愛しているかを、今更のように、思い知らされた。
(こんなに愛していながら、晩ごはんを誘うことが出来ないなんて……)
高子は、情なかった。それは、高子の場合、弱気というよりも、むしろ、強気のさせる業であったかも知れない。
(もっと、素直にならねば)
そう思いつつ、高子には、いつか、銀座で、龍太郎がいっしょに歩いていた娘の面影を忘れることが、出来ないのであった。
それを思うと、高子の胸が、切なくなってくる。高子は、兄の方を振り向いた。
「お兄さん。あたし、今夜、会社を出てから、しばらく、南雲さんといっしょに歩きましたのよ。」
「ほう。」
「で、あたし、南雲さんに、約束をしましたのよ。」
「結婚の?」
「バカね、お兄さん。」
しかし、高子は、狼狽の色を、隠すことが出来ないでいた。
「しかし、高子は、南雲が、好きなんだろう?」
「まァ、どうして、そんなことを、おっしゃるの?」
「僕は、前から、そうだ、と睨んでいた。高子が、会社へ、南雲を入れることをすすめたときから、もしや、と思っていたんだ。どうだ、兄の眼に狂いは、あるまい?」
善太郎は、わざと、威張ったようにいった。しかし、高子は、黙って、その兄の顔を見返していた。そして、イエスとも、ノウともいわないで、霧の方に視線を向けて、
「今夜の約束というのは、別のことなんですのよ。」
「じゃア、どういう約束をしたんだ。」
「お兄さんを説き伏せることよ。」
「僕を? 僕は、いったい、何を説き伏せられるんだね。」
「組合の賃上げ五割の要求に対して、お兄さんは、全面的に拒否なさったでしょう?」
「そうさ。あたりまえじゃアないか。」
「でも、それでは、交渉なさる南雲さんが、お気の毒よ。」
「だから、どうだ、というんだ。」
「せめて、二割ぐらいまで譲歩してあげてください。」
「嫌だよ。」
「でも、あたしは、二割まで、兄を譲歩させますと、南雲さんに、お約束して来ましたのよ。」
善太郎は、ちょっと、不愉快そうに、
「南雲が、高子に、そのように頼んだのか。」
「いいえ、逆よ。あたしから、そういってあげたのよ。」
「困るじゃアないか。」
「だって、その方が、結局、お兄さんのためになる、と思ったのよ。」
「そんなことがあるもんか。賃上げをすれば、それだけ、会社の成績が落ちて、株主が損をする。そして、僕が、いちばんの大株主だよ。」
「お兄さんは、そんな風に、考えてらっしゃるの?」
「しかし、理屈は、まさに、その通りだろう?」
「でも、あたしは、そういう考え方に、反対だわ。」
「そうかね。」
「そうよ。それに、そんな余裕のない交渉にあたらねばならぬ南雲さんの立場も、考えてあげなくちゃア。」
「しかし、南雲には、そのために、来て貰ったんだよ。」
「お兄さん。」
高子は、すこし、きっとなって、
「南雲さんに来て貰った時のことを、お忘れになったの? 南雲さんは、嫌だ、とおっしゃったのよ。それを、お兄さんと青田さんとで、とうとう、ウンといわせたんじゃアありませんか。もし、南雲さんが、いらっしゃらなかったら、今頃、お兄さんの立場は、どうなっていまして?」
「やっぱり、社長だろうな。」
「そのかわり、毎日が、憂欝で憂欝で仕方がなかったはずよ。」
「うん……。」
「それだったら、お兄さんも、すこしは、南雲さんが、仕事をしやすいようにしてあげるのが本当のはずよ。まして、こんどは、南雲さんも、このチャンスを利用して、組合と、ゆっくり、話し合ってみる、とおっしゃっているんだわ。お土産がなくては、通る話も通りません。それに、会社の経理状態からいっても、この際、二割ぐらいは、何んでもないらしいわ。」
高子は、鋭く、いい寄った。善太郎は、苦笑した。
「わかったよ。」
「じゃア、二割のこと、いいのね。」
「いいさ。」
「よかった。お兄さん、どうも、ありがとう。」
高子は、頭を下げた。これで、龍太郎にもよろこんで貰えると思うと、嬉しかった。その高子の顔を見ながら、善太郎は、やっぱり、妹は、龍太郎を好きなんだな、と思っていた。
龍太郎は、東京駅のプラット・ホームに立っていた。間もなく、特急『つばめ』が、入ってくる。そして、その汽車に、大阪からくる岩田が乗っているはずだった。
そこらに、出迎えの人が、たくさんいた。すこしはなれて、龍太郎は、煙草を吹かしながら、今後のことを考えていた。
とにかく、岩田が来てくれることは、ありがたかった。が、岩田が来たからといって、何も彼も、解決するわけではない。当分の間、ますます、社内は、混乱していくだろう。
(それも、いいさ)
今は、龍太郎も、その覚悟をきめていた。
今日は、組合に対して、回答をする日であった。龍太郎は、犬丸と中津に対して、
「残念ながら、五割というような賃上げは、会社として、認めるわけにいかないよ。」と、回答書を差し出したのである。
彼は、すでに、善太郎から二割ぐらいまでなら譲歩してもいい、と聞かされていた。これは、高子の努力によるものだと、龍太郎には、すぐ、察しがついた。しかし、組合に対しては、わざと、それをいわなかったのである。
「どうしてもですか。」
犬丸は、押し返すようにいった。
「そう……。とにかく、五割では、話にならぬ。」
それから、龍太郎は、口調を変えて、
「どうだろう、もうすこし、考えなおしてくれないか。」
「いえ、五割は、最低の線です。」
「そこを、もう一度、君たちから、組合の諸君とも話し合って貰いたいのだが。」
「しかし、これは、代議員会の決議なんですよ。」
「だから、代議員会ではなしに、総会にかけてみてくれないか。」
「組合のことに関しては、あなたの指図は、受けません。」
「指図をしているのではないよ。」
「じゃア、どうしても、ダメなんですね。」
「そうだ。」
「わかりました。では、われわれは、直ちに、闘争態勢に入ります。いずれ、書面で、そのことは、会社側に通知しますが。」
「仕方がない。」
「団体交渉の日時についても、早急に、申し入れをします。」
「うん、よかろう。」
二人は、肩を怒らせて、去っていった。
そのあと、龍太郎は、憂欝になった。いったい、組合員のうちのどの程度の者が、本気で、この案を支持しているのか。しかし、組合の正式の案として持ってこられたからには、こちらも、本気で相手にするより仕方がないのである。
龍太郎が帰ろうとして、廊下へ出ると、組合の幹部の二人が、壁に、何かを貼っていた。何気なく、立ちどまってみると、
一致団結、要求貫徹!
五割の賃上げ
日吉不動産職員組合
と、書いたビラであった。
組合の幹部は、わざと、龍太郎を黙殺するようにしていた。
龍太郎は、静かにいった。
「これは、ほかの場所にも貼るのかね。」
「貼りますとも。社長室の前にも、事務室の中にも。」
「そうか。貼りたまえ。」
そういって、龍太郎は、踵を返して来たのであった。
『つばめ』は、猛然として、入って来た。
汽車から降りた岩田は、笑顔で近づいてくる龍太郎に気がついて、
「あッ、部長。」と、おどろいたようにいった。
「よく来てくれた。」
「じゃア、僕を迎えに来てくださったんですか。」
「そうだよ。」
「すみません。」
「何、こちらこそ、すみません、といわねばならんのだ。君、家へ帰るのを急ぐ?」
「いえ、まだ、知らしてないんです。」
「どうして?」
こんどは、龍太郎が、おどろいたようにいった。
「どうっていうことはないんですが。」
岩田は、急の転任なので、事務の引継ぎや何んやで、多忙を極めたことは事実であった。しかし、今日帰ることは、家へ電報で知らせることぐらいは出来たのである。しかし、それをわざとしなかったのは、不意に帰って、家族の者たちを驚喜させてやろうとの、子供らしい魂胆からでもあった。
「じゃア晩ごはんをつき合って貰えないか。明日よりも、今日のうちに、すこし、打ち合わしておいた方がいいと、思うんだ。」
「承知しました。」
そんなことを話しながら、二人は、出口の方へ歩いていった。タクシーを拾って、
「日本橋へ。」と、龍太郎がいった。
自動車が動きはじめると、岩田は、懐かしそうに外を眺めて、
「やっぱり、東京は、いいですよ。」
「しかし、その東京には、苦労が待っている。」
「しかし、東京でなら、苦労のしがいがあります。」
「まア、頼む。」
「部長の評判は、大阪にも伝わっています。」
「どんな?」
「いいんですよ。」
「その反対だ、と思っていたが。」
「いえ。やっぱり、わかる人間にはわかるんですよ。相当、骨があるらしい、といってますし、どうやら、社長も、こんどは、本気で仕事をする気になったらしい、というのです。」
「社長のことは、その通りだが。」
「今まで、会社では、田所専務派でなかったら、人に非ず、というふうに思われていたんです。そのいちばんいい例が、僕の転勤でした。」
「うん。」
「ところが、こんど、僕が、東京へ帰り咲くことになって、支店の連中も、内心、おどろいたらしいんです、先ず、田所専務がいるのに、そういうことが出来るのか、ということです。かつては、想像もつかぬ社内の空気でしたからね。」
「じゃア、君を転勤さしたことはその意味でも、よかったんだな。」
「私は、そうだ、と思っています。だから、今迄、田所一辺倒であった連中も、何んとなく、動揺しています。本店だって、きっとそうに違いない、と思います。」
「しかし、本店には、田所氏が、直接、眼を光らしているからね。」
「それにしても、だいぶん、社員たちの考え方が、変って来ているはずですよ。何んといっても、会社では、社長がいちばん偉いのだ、という当然のことに気がついたに違いありません。」
「そうだ、社長が、いちばん、偉いのだ。しかし、その社長の偉さには、名と実がともなう必要があるんだ。更にいえば、いつまで、社長が、いちばん偉いひとでいられるか、ということなんだな。」
「と、おっしゃると?」
「田所氏が、今の社長を、名実共に社長だとは、思っていないような気がする。実力は、無論、自分の方が上だし、資本関係においても、かならずしも、社長が、過半数を握っているわけじゃアない。となれば、ある種の野心の起ってくるのは、人情であるわけだ。」
「…………。」
「社員だって、それを無意識のうちに意識しているかも知れない。」
「そうですなア。」
「だから、君も、今後に、その含みで、働いてほしいんだよ。」
「承知しました。」
「あッ、そこを左に曲って。」
間もなく、自動車は、目ざすてんぷら屋の前に停った。
二人は、表の腰掛に席を取った。酒がくると、
「じゃア、ご苦労さま。」と、龍太郎が、盃を上げた。
「ご馳走になります。」と、岩田も、盃を上げた。
龍太郎は、静かに、最近の会社の情勢を話し、今日、組合の要求を蹴ったばかりだ、といった。
「そうでしたか。」
岩田は、考えるようにいった。
「恐らく、明日、会社へ行ってみたら、組合のビラが、あちらこちらに貼ってあるだろう。」
「で、部長の腹は?」
「僕は、この際、多少の混乱は、仕方がない、と思っている。ただ、この機会に、組合との睨みあいのかたちを、すこしでも、解消したいんだよ。だから、そのため、社長の了解を得て、二割の譲歩を考えている。」
「二割ですね。」
「そうなんだ。どうだろう?」
「二割なら、上等だと思いますが。」
「僕も、そう思っているんだ。」
「要するに、犬丸と中津が、いけないんですよ。あの二人は、田所専務の紹介で入社した男なんです。」
「そうであったのか。」
「だから、この際、あの二人を説き伏せることは困難だ、と思いますが、しかし、あの二人を、組合から宙に浮かせてしまうことなら出来そうな気がします。」
「出来るか。」
「やってみます。そういう仕事は、すべて、私がやりましょう。だから、部長は、じっとしていてください。そして、僕が、お願いしたら、いつでも、組合員に会って頂きたいのですが。」
「いいとも。」
龍太郎は、やはり、岩田を呼び戻してよかった、と思った。何か、力を得た感じであった。
が、田所が、次に、どんなテを考えているかと思うと、何か、不安がこみあげてくるのである。
しばらく、二人は、それぞれの思いに耽るように、黙々と、てんぷらを食べていた。
そのとき、二階から降りて来た客が、
「あら。」と、龍太郎を見ていった。
龍太郎も、何気なく、顔を上げて、
「やア。」
曽和沙恵子であった。
沙恵子は、満面に笑みをたたえながら、近寄って来た。
「南雲さん、いいところで、お会いできましたわ。叔父ですのよ。」
沙恵子は、連れの男を振り返った。そして、その五十歳を越したと思われる格幅のいい紳士に、
「南雲龍太郎さんよ。」
「ああ。」
紳士は、にこやかに近寄って来て、
「沙恵子の叔父、曽和伸作です。」
龍太郎も立ち上がって、
「南雲龍太郎です。」と、頭を下げた。
「あなたのことは、しょっちゅう、沙恵子からうけたまわっています。」
「どうぞ、よろしく。」
「一度、お遊びにいらしてください。」
「有難うございます。」
そんな二人のやりとりを、沙恵子は、嬉しそうに見ていた。
「では、失礼します。」
沙恵子は、このまま、龍太郎といっしょに残りたかったが、そうもならず、
「またね。」と、龍太郎にいって、岩田には、会釈を残して、叔父の後からついていった。
龍太郎は、何んとなく、眼の前の盃をほさずにはいられぬ気持だった。そのほした盃を岩田にやりながら、
(当分は、沙恵子どころではないのだ)
と、思っていた。
ただ、過去に於て、龍太郎に、何か苦しいことがあると、沙恵子が電話をかけて来てくれたり、また、今夜のように、ひょっこり、会ったりする。それは、偶然にしても、龍太郎にとって、ホッとするような思いをさせることだった。そして、沙恵子の声を聞いたり、顔を見たりすると、龍太郎の心は、不思議なほど、和やかになってくる。
これは、いったい、どういうことなのだろうか。
そんなことを考えていると、岩田は、受けた盃を、龍太郎に返してよこして、
「いいお嬢さんですね。」
「僕が、九州の会社にいた時の部長の娘さんなんだ。」
「今、東京にいられるんですか。」
「そう……。そして、東洋不動産に勤めているんだ。」
「東洋不動産、同業ですね。」
「そうなんだ。」
「あそこの株が、近頃、値上りをしている、という噂を耳にしましたが。」
「そうかね。」
「特に、景気がいい、というわけでもないのに、ちょっと、おかしいんです。」
「すると、誰か、買占めているのかな。」
「そりゃアわかりませんが。」
しかし、その話は、そのままで、打ち切られてしまった。
岩田は、もう一度、
「いいお嬢さんですね。」と、いってから、「社長のお妹さん、お元気ですか。」
「ああ。こんどの二割増額も、はじめ、社長は、反対だったのだが、高子さんの努力で、社長が、折れてくれたんだよ。」
「そうですか。」
岩田は、龍太郎が、高子と結婚して、日吉不動産の重役になった方が、いちばん、いいのではないか、と思っていた。が、もし、そうなったら、今の娘は、どうなるのだ。
岩田が、家へ帰ったのは、八時過ぎであった。彼は、玄関の戸をあけるなり、
「おーイ、帰ったぞう。」と、大声でいった。
すると、奥から、ドヤドヤと人の足音がして、
「お父ちゃん、お帰りなさい。」
「あなた、お帰りなさい。」
康子や子供たちが、迎えに出た。
そのほかに、厚子も来ていて、
「岩田さん、お帰りなさい。」と、笑顔でいった。
「おお、君、来ていたのか。」
「ええ。」
妻の康子が、
「お留守中は、厚子さんに、しょっちゅう、お世話になりましたのよ。」
「そうか、すまなかったな。」
「今夜、お帰りになることも、厚子さんが、知らしてくださったのよ。」
「何んだ、そうだったのか。」
道理で、家族の者は、急に帰ったのに、一向に、びっくりしないのだな、と思った。しかし、靴を脱いで上がった岩田の両手に、二人の子供は、もう、ブラ下るようにしていたし、康子もまた、瞳をうるませるようにしながら、良人を眺めていた。
一家の主人が帰ると、家の中が、急に、こうも明るくなるものなのか。康子は、それを思った。岩田もまた、家の中を、なつかしそうに、しみじみ、見まわしていた。
「あたし、帰りますわね。」と、厚子がいった。
「まだ、いいじゃアありませんか。」
「だって、お邪魔でしょう?」
「こら、何を、生意気なことをいう。お茶ぐらい、飲んでいけよ。」
「はい。」
「じゃア、お紅茶でもいれますわね。」
康子は、いそいそと、台所に立った。その間に、岩田は、子供を次々に抱き上げて、
「うーむ、重くなったぞう。」
ついでに、頬ずりをしてやった。子供たちは、ヒゲを痛がって、きゃッきゃッといっていた。厚子は、それを羨ましそうに見ていた。
康子は、台所から、紅茶をいれて、持って来た。
「どうだね、大間君、元気でやっているか。」
「ええ。」
岩田は、何となく、ニヤリとして、
「僕は、君たち、もう、そろそろ、婚約ぐらいしたんではないか、と思っていたんだ。」
「嫌だわア。」
しかし、厚子は、顔をあからめている。
そんな厚子を、岩田は、しばらく見ぬうちに、すっかり、娘らしくなった、と思っているのだった。
「しかし、大間って、いい男だよ。」
「でも、あれで、案外、ヤキモチ焼きなのよ。」
「ほう、そうかね。たとえば?」
「あたしが、総務部長さんのところへ、お茶を持っていきすぎる、といって、文句をいうんですもの。」
「やっぱり、君を、大好きなんだね。」
「ええ、そうらしいわ。」
厚子は、ケロリとしていった。康子は、あきれて、
「まア、厚子さん。」
「で、君の方は、どうなんだ。」
「目下、思案中よ。」
「そうか、思案中か。」
岩田は、厚子の顔を見ながら、楽しそうに笑った。
「オールドミス、正木信子さんも、元気でいるかね。」
「ええ、でも……。」と、厚子は、ちょっと、いいよどんだ。
「でも?」
「近頃、ちょいちょい、社長さんといっしょに、歩いてなさるらしいわ。」
「そんな噂が、飛んでいるのか。」
「ええ。」
厚子は、頷いてから、
「正木さんのアパートから、いっしょに出てくるところを見た、というひとがありますのよ。」
「そうか……。」
岩田は、しばらく、考えていてから、
「かまわんじゃアないか。」
「ただね、社長なら、もっと、社長らしくしてほしい、というひとがあるのよ。」
「社長が、社員のアパートへ行っては、いけないのかね。」
「あたしは、そう思わないんだけど……。ただ、社長は、正木さんを、自分のスパイに利用しているに違いない、といいふらしているのよ。」
岩田は、東京へ帰ったら、先ず、信子を相談相手にしよう、と思っていたのであった。しかし、信子にスパイという噂が飛んでいるようでは、それも、考え直した方がいいかもしれないのである。
「でも、あたしは、きっと、社長さんは、本当に、正木さんをお好きなんだ、と思いますわ。だから、結婚なさったらいいのにね。」
「結婚?」
「そうよ。」
康子が、横から、
「そんなこと、出来ますの?」
「そりゃア出来るだろう。その気になったらね。」
しかし、あの社長に、果して、その勇気があるだろうか。あれば、いいのである。が、なかったとしたら、単に、女事務員を誘惑したように宣伝されて、ますます、信用を失っていくのではあるまいか。
岩田は、それを、あの社長のために、惜しいことだ、と思わずにはいられなかった。
岩田は、会社では、社長派のようにいわれて来ていた。だといって、あの社長には、いろいろの欠点の多いことも、知らぬわけではなかった。また、社長の器でない、といえるところもある。にもかかわらず、彼が、田所にタテつく気になったのは、一種の正義感からであった。そして、サラリーマンにとって、この正義感が、どんなに損であるか、すでに、身を以て、体験しているのである。
「あたし、そろそろ、失礼しますわ。」と、厚子が、立ち上がった。
「そうか。どうも、いろいろと有難う。」
一家の者は、厚子を玄関まで、送って出た。厚子は、靴をはきながら、
「会社で、岩田さんが戻ってこられること、大評判になっていますわ。」
「そうかね。」
「さようなら。」
厚子が、帰っていったあと、康子は、良人の顔を見ながら、あらためて、
「あなた、お帰りなさい。」
「うん。」
「お風呂へいってらしったら? その間に、家の中を、片づけときますから。」
「うん、子供たちを連れていこう。」
岩田は、風呂で、子供たちの身体を、隅から隅まで、洗ってやった。外へ出ると、二人の子供は、両側から、寄り添うようにしてついて来た。
「どうだ、お父さんがいなくて、淋しかったろう?」
上の小学四年生の女の子が、
「うん。」
と、いったが、下の小学校一年生の男の子は、
「淋しくなかったい。」と、負け惜しみをいった。
そのくせ、風呂の中でも、こまごまと、父親の手伝いをしたのは、この下の子供であったのである。
「何か、歌おうか。」
「うん。」
「じゃア、ちいちい、ぱッぱ、ちい、ぱッぱ……。」
岩田が歌いだすと、子供たちも、歌い出した。見上げると、夜空に、星が、チカチカとまばたいていた。三人の歌声が、吸い込まれていくようだ。岩田は、ふっと、胸を熱くした。
(サラリーマンの幸福……)
そんなことを、思ったのである。しかし、明日からのことを考えると、この幸福が、いつまで続くか、自信がなかった。
「どうだ、支那そばを食べようか。」
「わッ、嬉しい。」
「じゃア、家で食べることにしようね。でないと、お母さんが、可哀そうだからね。」
「うん。」
岩田は、途中で、支那そばを四つ注文して、家に帰った。
親子四人が、支那そばを食べている。それを眺めながら、岩田は、はじめて、自分が家に帰って来たような気分になれた。
その夜、夫婦が、床を並べて寝た。うつぶせになって、煙草を吹かしている良人に、康子が、
「あなた、明日から、やっぱり、社長派とかになって、運動なさるんですか。」
「そうだよ。」
「もし、気にいらなかったら、ごめんなさい。」
「何んのことだ。」
「もう、そんな社長派とかに、なって頂きたくないのです。」
「どうして?」
「また、転勤になったりしては、あたしたち、淋しすぎます。毎日、泣きたいほど、淋しい思いでした。」
「うん。」
「それでも、クビにならないだけマシだ、と思って、我慢していたんです。こんど、もし、クビにでもなったら、あたしたち、どうなるんでしょう。ねえ、子供たちのことを思って、もう、社長派とか、専務派などといわないで、おだやかに暮していけるようにしてくださいません? そのため、出世をしなくても、いいじゃアありませんか。」
岩田は、しばらく、黙っていてから、
「お前の気持は、よく、わかるよ。本当に、苦労をかけた。」
「いえ。」
「だけど、こんど、僕が、こっちへ帰れたのは、総務部長のお陰なんだ。その総務部長は、社内の閥をなくしたい、といってるんだよ。誰でもが、気持よく働ける会社にしたい、といってるんだよ。」
「…………。」
「僕のように、いきなり、左遷されて、家族の引きまとめも許さないような会社でなしにしたい、といってるんだよ、自分が、どんなに辛かったか、それを思ったら、同じ思いを、ひとにもさせたくない、という気になってほしいんだ、ねえ、わかってくれよ。」
「はい……。」
康子は、溜息をつくようにいった。静かな夜であった。
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大株主
新橋のおでん屋『安兵衛』の二階に、日吉不動産の社員が十人ほど集まっていた。岩田は勿論のこと、大間も、厚子もまじっていた。これは、岩田が、一人一人を口説いて、今夜集まって貰ったものであった。
名目は、東京へ帰参の自祝のため、というのであったが、しかし、集まった人々の胸の中には、今夜の集合の目的が、概ね、察しられていた。そして、どちらかといえば、従来、社長派と目されて、不遇をかこっていた連中ばかりであった。
だから、厚子が、大間の耳に、
「まるで、幕末の勤王の志士の集まりみたいね。」と、ささやいたくらいである。
岩田が、一同の顔を見まわしながら、
「どうか、今夜は、遠慮なしに飲んでほしいんだよ。」
すると、坂本が、
「飲むのはいいが、あとで、割カンというのは嫌だぜ。」
と、笑いながらいった。
「大丈夫だ。実をいうと、というよりも、何も彼も、ざっくばらんに打ち明けるが、今夜の僕には、スポンサアがついているんだよ。」
「誰だ。」
「南雲総務部長だ。」
「総務部長は、どうして、君のスポンサアなのだ。」
「その前に、僕から聞きたいんだが、君たちの中に、南雲さんに対して、反感とまではいかなくても、いい感じを持っていない人があったら、あらかじめ、いってほしいんだ。」
打ち返すように、厚子が、
「あたし、大好きよ。」
二、三人が、笑った。しかし、大間だけは、とたんに嫌な顔をした。それを見て、厚子が、
「でも、誤解しないでね。あたしが、大好きだ、といっても、変な意味じゃアないのよ。」
「では、どういう意味なのだ。」と、荒川がいった。
「あのひと、人間として、立派だという意味よ。その点、とても、男性的で、魅力的だわ。」
また、何人かが、笑った。こんどは大間は、むつっとした顔になった。それを見ると、厚子は、すこし、あわて気味になって、
「でも、誤解しないでね。あたしは、ただ、お兄さんのような気がするから、大好きだ、といってるのよ。それだけのことだわ。」
そういってから、お銚子を取り上げて、
「はい、お酌。」と、大間にいった。
「うん。」
大間は、わざと、むつかしい顔で、盃を取り上げたが、心のよろこびを、隠し切れぬようだった。
「なるほどねえ。」
また、荒川が、感に堪えぬようにいったので、人々は、またまた、笑った。岩田も、微笑しながら見ていた。
この厚子の発言のおかげで、この場の空気が、なごやかになった。
「僕も、嫌いじゃアない。」
「総務部長としては、上等だよ。」
「僕は、白紙だが。」
そんなことを口々にいってから、坂本が、
「いったい、岩田君は、どうなんだ。」
人々は、いっせいに、岩田の方を見た。
「勿論、僕は、あのひとが好きなんだ。これから、その理由をいって、諸君のご了解を得たい、と思う。」
岩田は、眼の前の盃を口にふくみ、一呼吸いれてから、
「君たちも、飲みながら、聞いてほしいんだよ。」
「ああ、ご馳走になるよ。」
「僕は、この前、大阪へ転勤になった。その理由については、敢えて、ここで述べないが、向こうへ着いてから、何度、家族を引きまとめたい、といっても、聞きいれて貰えなかった。」
「却って、よかったじゃアないか、こんなに早く戻れて。」
「まア、そうだ。そして、こちらへ戻れたのは、南雲総務部長のお陰なんだ。」
「だから、好きなのか。」
「それもある。しかし、ほかに、もっと大きな理由があるんだ。君たちも知っての通り、あの人は、社長の友人だ。社長の求めに応じて、九州の会社を棒に振って、日吉不動産へ入社して来たんだ。」
「要するに、社長の勢力が、あんまり貧弱なので、その社長をたすけるためなんだろう?」
「そうだ。しかし、あの人の最後の目的は、社内の派閥をなくするところにあるんだ。」
「ということは、社員すべてを、社長の派にしてしまうことか。」
「似ていて、違うんだよ。」
「どう、違うんだ。」
「あの人は、サラリーマンの幸不幸は、上役如何による、ということをよく知っているんだ。上役のエコヒイキが、下の社員たちに、そして、その家族の上にまで、どんなに大きく響くかを知っているんだ。要するに、田所派とか本間派とか、または、社長派とか、そういう区別なしに、安心して働ける社風にしたい、といっているんだ。」
「理想論だな。」
「理想論かも知れないが、実現が不可能ではなかろう。」
「よし、わかった。話をすすめてくれ。」
どの顔にも、すでに、酒の酔いが、あらわれていた。厚子も、二、三杯はのんだらしく、頬をほんのりと染め、瞳をうるませているようだった。
「諸君も知ってる通り、会社の廊下にも、事務室の中にも、五割賃上げの闘争ビラが、やたらに貼ってある。いったい、五割もの賃上げ要求は、妥当かどうか、ということなんだよ。」
「五割の要求をしたら、二割ぐらい通るだろう。はじめから二割の要求をしたんでは、一割も危いよ。」
「そこで、僕は、諸君に聞きたいのは、かりに、会社が二割まで譲歩したら、満足するか。」
「勿論、多いに越したことはないが、二割なら、僕は、我慢できるな。」
「うん、二割か、すると、僕は、月に四千円違うんだから、たすかるよ。」
「本当だ、僕は、四千四百円だ、それを、へそくったら、月に、三、四回は、豪遊できることになる。」
「じゃア、だいたい、二割ならいいんだな。」
「そんなことをいって、会社は、本当に、二割まで、譲歩してくれるのかい?」
「僕は、今夜は、何も彼も、隠さずにいうよ。はじめ、社長は、全面的に反対だったんだが、南雲さんの努力で、二割までなら、ということになったんだ。」
「しめた。」
一人がいったので、ほかの連中がどっと笑った。
「そうなんだ、僕も、二割ならいいじゃアないか、と思っているんだよ。」と、岩田がいって、「ところが、現在の組合の幹部は、あくまで、五割を獲得する、といっているんだ。そのためには、ストをも辞せず、といってる。」
「ストか。」
「ストに入る前に、各課毎に、定例休暇戦術をとるともいっている。」
「しかし、それで、五割が通るんなら、ちょっと、面白いな。」
「面白いかも知れんが、五割とは、非常識だと思わないか。」
「おい、岩田君、まるで、会社側のようなことをいうではないか。」
「その点は、今夜、聞き流してくれ。ただ、ストライキとか、何んとかいって騒ぐ目的は、結局、南雲さんを追い出すための手段のような気がしている。」
「そりゃアどういう意味だ。」
「田所氏にとって、南雲さんは、邪魔者なんだな。」
「そりゃアわかる。」
「だろう? そして、組合の委員長と副委員長は、田所氏の紹介で、入社したんだ。」
「ああ、そうだったな。」
「散々、騒いだあげく、株主が動き出し、二割で呑もう、そのかわり、南雲さんを追い出せ、ということになりかねない。」
「ふーむ。」
「そうなったら、田所氏の思う壺だよ。」
「証拠があるのか。」
「ない。これは、あくまで、僕の臆測なんだ。しかし、その可能性はある、と思っている。いいかね、かりに、そうなったら、組合は、完全に、田所氏によって動かされていることになる。それでは、あんまり、自主性がなさすぎる、と思わないか。だから、僕は、特に、諸君に、お願いしたいのは、明日から、団体交渉がはじまるが、それを冷静に眺めていてほしいんだよ。さっきいった理由で、日吉不動産から、南雲さんを失うことは、惜しいことだよ。損失だ。かりに、組合が、そういう動きを見せたら、諸君の力で、反対してほしいんだ。」
岩田の口調には、熱が、こもっていた。それは、聞く人の心を、引きつけるだけの力があった。
荒川が、
「しかし、たったこれだけの人数では、どうにもならんじゃアないか。」
「だから、われわれが、自分の周囲の人間を、説き伏せて、十人を二十人にし、更に、四十人にしていくんだ。」
「しかし。」
「まア、聞いてくれ。僕のいいたいのは、組合が自主性を持つことだ。その点では、諸君にも、異存はない、と思うが。」
「わかったよ。で、今夜の飲み代を、南雲氏が出したのは、どういう理由なんだ。」
「僕に金がないからさ。ただし、あの人には、そのため、自分の子分をつくろう、というようなケチな根性は、すこしもない。」
「今夜のこと、田所氏に知られたら、早速、左遷になるぞ。」と、一人が、心配そうにいった。
「だからこそ、南雲さんを残しておく必要があるんじゃないか。」
「よし、わかった。こうなったら、今夜は、大いに飲もう。」
急に、盃のやりとりが、ひんぱんになった。
龍太郎は、『けむり』で、ひとり、酒を飲んでいた。今夜は、岩田が、味方になってくれるだろう、と思われる社員たちを集めて、相談しているはずだった。その結果を持って、ここへ来てくれることになっているのである。
いよいよ、明日から、団体交渉が、開かれることになっていた。龍太郎の最大の関心事は、田所が、どういう態度に出るか、ということだった。
善太郎が、今日も、彼にいったのである。
「僕は、こんどの総会で、田所氏を辞めさせよう、と思うんだよ。」
「辞めさせる?」
「組合が、こんなに騒ぐのも、田所が、うしろで、糸を引いているからだよ。実に、怪しからん。あのビラを見たまえ。この会社はじまって以来のことだ。」
「しかし、田所氏は、そう簡単に辞めますかな。」
「だから、辞めさせるんだよ。田所の持株は、たった、一万株なんだ。問題じゃアない、と思っている。」
「そりゃアそうですが、ほかの株主の思惑も考えてみないと。」
「大丈夫だよ。何んといっても、僕は、いちばんの大株主だよ。要するに、一刀両断なんだ。」
善太郎は、自信ありげにいった。以前の善太郎には見られなかったことである。しかし、龍太郎には、その自信が、まだ、早過ぎるような気がしてならなかった。が、いくら友人でも、今は社長と総務部長という関係になっているので、それを口にすることは、やはり、はばかられるのである。
もう一つ、龍太郎は、善太郎に、信子のことでも、自重を促したいのであったが、それも、軽軽しくは、いえないような気がしていた。
和子が、寄って来た。
「何を、考えていらっしゃるの?」
「いや、何んでもないんだ。」
龍太郎は、和子の顔を見るたびに、心が、痛んだ。和子と青田との結婚に反対したときのことが、思い出されてくるのである。
逆に、龍太郎の方から、
「元気?」
「とても。」
和子は、そういって、しかし、淋しく、笑ってみせた。
「その後、青田、くる?」
「ときどき。」
「悪かったよ。」
「あら、何んのこと?」
和子は、いったが、すぐ、思いあたったらしかったが、しかし、自分の方から話題を変えて、
「妹、よく、働いているでしょうか。」
「ああ、なかなか、感心だよ。評判もいいようだ。」
「よろしく、お願いします。」
そういって、和子は、黙り込んだ。龍太郎も、黙っている。黙っていながら、厚子を、あの大間と結婚さしたら、と思っていた。しかし、それだと、妹の方が、先に、結婚することになって、ますます、この和子が、可哀そうになってくる。
(ひょっとしたら、自分は、間違っていたかも知れない)
しかし、自分が、かりに賛成したところで、あの青田は、果して、この女と結婚したろうか。それは、疑問だった。
龍太郎は、時計を見た。
「どなたか、いらっしゃいますの?」
「会社の岩田君が、くることになっているんだ。」
そういったとき、扉が開いて、岩田が、入って来た。大間を連れていた。
「よう。」
笑顔で、龍太郎は、二人を迎えた。
「部長、大間君も連れて来ましたよ。」と、岩田がいった。
その顔は、晴れ晴れとしているようだった。
(うまくいったのだな)
龍太郎は、察して、安心した。そして、丁寧に頭を下げる大間に、
「よく、来てくれたな。」
と、いってから、和子に、
「そうだ、このひとが、大間君といって……。」
そこまでいうと、和子は、
「まア、大間さんでしたの。」と、まじまじと眺めてから、「お噂は、しょっちゅう、妹からうけたまわっております。」と、にっこり、笑った。
「いや……。」
「本当に、いつも、ご親切にしていただきまして。」
「いや……。」
「どうか、よろしく、お願いします。」
「はい。」
こういう場所になれぬ大間は、すっかり、てれているようだ。しかし、それが、却って、和子の瞳に、好ましい青年、としてうつったに違いない。
岩田は、笑いながら、
「妹さんは、そんなに、大間君のことを、家でいってますか。」
「はい。」
「大間君はこれで、なかなか、いい青年なんです。」
「なんでも、最初の日から、ライスカレーをご馳走していただいたとか。」
「でも、五十円なんです。」
大間は、弁解するようにいった。しかし、彼は、厚子が、自分のことを、しょっちゅう、この姉にいっていることがわかって、嬉しかった。バーの女、というから、どんなアバズレか、と心配していたのだが、どうして、ちゃんとした女である。この女なら、将来、自分の義姉と呼んでもいい、とひそかに考えていた。
ビールが、新しく来た二人の客のコップに注がれた。
「どうだった?」と、龍太郎がいった。
「だいたい、みんな、私のいうことに賛成してくれました。」
「そうか、どうも、ありがとう。」
「しかし、今日の会合のことは、明日中に、田所氏の耳に入るもの、と思うべきでしょうな。中には、一人ぐらい、そんな男が出ますよ。」
「うむ。」
「が、みんなは、一応、派閥のない会社にするという理想には、賛成してくれましたよ。ですから、部長も、その含みで、お願いします。」
「ということは、負けられぬ、ということなんだな。」
「そうですよ。でなかったら、今日の連中は、みんな、私の二の舞を演じなければなりません。」
「わかっている。僕だって、その覚悟で、乗り出したんだからね。」
龍太郎は、強い口調でいった。
はじめ、龍太郎は、まかり間違ったら、自分一人が辞めたら、それで、もともとだ、というようにも考えていた。しかし、こうなると、そんなことではすまされないのである。今は、自分に共鳴してくれる人々の運命をも背負っているような気持であった。
翌日、午前十一時から、第一回団体交渉が、会議室で開かれた。会社側が七人、組合側が七人である。真ン中の席に善太郎が腰を掛け、それに向かい合って、委員長の犬丸がいた。
「……、さっきから、何度もいうように、会社としては、五割などという非常識な賃上げの要求には、絶対に応じるわけにはいかない。」と、善太郎がいった。
「しかし、われわれとしては、あくまで、五割を要求します。しかも、この五割という数字は、決して、非常識ではありません。社会情勢、そして、会社の経理状態を考えた上の要求ですよ。」と、犬丸闘争委員長が、落ちつき払っていった。
そのいい方が、善太郎の癇に触ってならないのである。団体交渉の席上では、労資の身分は、対等であることは、彼も知っていた。知っていたが、わざとのように、そんないい方をされると、いらいらさせられるのだった。
「非常識ではありませんよ。あなた方のような高給を取って、毎晩、銀座を飲みまわっている人には、われわれ、サラリーマンの苦しい生活が、わからないんです。」
「だから、さっきもいった通り、二割だけ、特別に認める、といってるんだよ。」
「しかし、われわれの要求しているのは五割ですよ。」
「二割でも十分過ぎるぐらいだ。」
「絶対に五割です。」
龍太郎は、さっきから、黙って聞いていた。田所もまた、一言も喋らないのである。しかし、龍太郎は、犬丸が、ときどき、チラッチラッと、田所の顔色を見ていることに、気がついていた。
善太郎は、不機嫌になって、煙草を吹かしはじめた。
「だいたい、近頃の社長は、われわれ組合の意向を、ことごとに軽視される傾向にありますよ。」
「何んのことだ。」
「酒に酔ったあげく、バーの女と約束して、その妹を採用したり、また、われわれの反対を押し切って、不必要な人間を採用したり。」
「何?」
「ここにいられる総務部長なんか、わが社としては、不必要なひとです。社員たちが、みんな、そういう不平をいだいています。そういう不必要な人間を採用するから、社員の待遇は、しぜん、悪くなるんです。すこし、考え直されたら、いかがですか。」
「黙りたまえ。」
「黙れとは、何んですか。あなたは、いつでもそうだから、社員たちから信頼されないんですよ。」
「失敬な。」
若い善太郎は、とうとう、癇をたててしまった。しかし、犬丸は、却って、落ちつき払って、
「総務部長、何か、ご意見がありませんか。」
「ないね。僕は、社長のご意見に、全面的に賛成なんだ。」
「ないはずはないでしょう。組合は、あなたを、この会社に、不必要な人間だ、といってるんですよ。」
「そうかね。」
「自分でわかりませんか。」
「わからんね。ただ、念のためにいっとくが、僕は、この会社を、絶対に辞めないからね。」
龍太郎は、そう笑顔でいってから、
「じゃア、第一回の団体交渉は、この辺にして、いずれ、第二回を開くことにしたらいかがですか。」
第一回の団体交渉は、それで、打ち切られることになった。最後に、犬丸は、
「われわれとしては、あくまで、五割の線を譲りませんからね。そのため、不祥の事態に立ちいたったら、それは、会社側の責任ですよ。」と、いって、他の委員たちといっしょに、会議室から出ていった。
会社側の者は、一応、社長室へ引きあげた。善太郎は、まだ、興奮していた。
本間が、
「社長、あくまで、二割の線で、押されるんでしょうね。」
「勿論だ。僕は、今となって、二割でも、多過ぎる、と思っている。」
すると、田所が、
「そんなら、いっそう、全面的に、お蹴りになったら?」と、ゆっくりした口調でいった。
「そうなんだ。そうしたいくらいだ。」
「だったら、そうなさったら、いかがですか。」
「しかし、いったん、二割といった以上は。」
「何、かまうもんですか。組合の連中が、あんな無礼な口をきくんですからね。言語道断ですよ。」
「うん。」
「あんなことを口にするのは、社長を尊敬していない証拠ですよ。」
もし、本当に、そう思っているのなら、あの席上で、それについての発言があっていいはずだった。田所になら、それが出来るのである。にもかかわらず、今頃になって、それをいうのは、この若い社長を口車に乗せて、いよいよ、窮地におとし入れようとの魂胆だとは、龍太郎に見え透いていた。
果して、興奮している善太郎は、
「そうだなア。」と、その気になりかけた。
龍太郎は、強くいった。
「社長、それはいけません。」
「どうしてだ。田所さんだって、賛成していられるよ。」
「しかし、いったん、二割といった以上は、それを急に引っ込めると、ますます、組合をシゲキしますよ。」
「かまうもんか。」
「いや、いけません。」
「南雲君。」と、田所がいった。「案外、君って男は、弱腰なんだな。」
「かも知れません。」
「それでは、せっかく、この会社へ入って来た甲斐がないようだよ。」
「そうですよ。」と、山形人事課長がいった。「しかし、度胸だけは、満点だな。」
「どういう意味ですか。」
「いやね、組合の連中から、まるで、無用の人間のようにいわれても、平然としていられるからですよ。僕なら、男の意地として、早速、辞表を出しますな。」
龍太郎は、唇を噛んだ。しかし、ここで怒っては、それこそ、善太郎と同様、敵の口車に乗ることになる。わざと、微笑を浮かべながら、
「僕には、とても、君のような真似は出来ないよ。」
そのとき、扉が開いて、高子が、入って来た。人々は、いっせいに、彼女の方を見た。
「大阪の持田剣之助さんが、お見えになっています。」
「持田さんが?」と、善太郎がいった。
持田剣之助は、日吉不動産の大株主なのである。しかし、今日、会社へくる、という前ぶれはなかった。
「応接室へ通してくれ。」
すると、田所が、
「いっそ、ここへ、通っていただいたら、いかがですか。」
「しかし。」
「持田さんに、こんどの組合の要求に対するご意見を聞いてみるのもいいかも知れませんよ。大株主ですからね。」と、いってから、田所は、高子に、「ここへ、案内してください。」
「はい。」
高子は、社長室から出ていった。
いれかわりに、持田が、入って来た。
「やア、皆さん、お揃いですな。」
人々は、立ち上がって、彼を迎えた。龍太郎は、持田の顔を見るのは、はじめてであった。かねてから、大株主に対する挨拶まわりをしなければならぬ、と思いながら、果さないで来たことを、今になって、後悔していた。そして、彼は、一目で、持田という男は、ニコニコしているが、相当な人物に違いない、と思った。
「社長、紹介してくださいませんか。」
「持田さん。総務部長の南雲龍太郎です。」
「どうか、よろしく、お願いします。」
持田は、おどろいたように、
「ほう。この会社に、総務部長が、出来たんですか。」
田所が、
「社長の友人でしてね。」
「友達をいれなはったんか、社長さん。」
「はい。」
「さよか。」
持田は、あっさり、いってから、
「さっき、廊下を通ったら、えらいモンが、ベタベタと貼ってありますなア。」
「そのことで、今、みんなで、相談しているところなんです。」
「しかし、五割なんて、問題になりまへんやろ。」
「だから、二割ぐらいなら、と思っているんです。」
「二割も?」
持田は、大袈裟な表情で、
「二割も、上げますんか。」
「組合は、それでも、なかなか、うんといわないんですよ。」
「増長してまんのやな。そんなこと、聞いてやったら、あけしまへんで。癖になります。」
「やっぱり、持田さんのご意見も、そうですか。」と、田所がいった。
「あたりまえですが。」
「ところが、ここにいる南雲君だけは、どうしても、二割あげるべきだ、といってるんですよ。」
「南雲さん、二割なんて、いけません。あげるとしても、せいぜい、一割でんな。」
「しかし、もう、二割なら、と発表してしまったんです。」
「株主が反対している、といって、訂正したらよろしいが。なア、そうしなはれ。それが総務部長の役目でっせ。」
「残念ながら、そういうことは、出来ません。」
龍太郎は、きっぱりといった。
「どうして、出来まへんのや。」
持田は、ちょっと、開き直ったような顔をした。
「会社として、いったん、発表してしまったことを訂正することは、今後に、いろいろの悪影響を残します。」
「しかし、株主が反対だ、といったら、文句がおまへんやろ。それで、文句をいう社員があったら、わしのところへ寄越しなはれ。意見してやります。」
「二割上げても、配当金は、今のまま続けます。」
「勿論でんが。社員の給与を上げるため、配当金を減らされたら、たまりまへん。」
「まア、いろいろ、ご不満もおありでしょうが、こんどだけは、ご了解を願います。そのかわり、絶対、二割の線で、食いとめます。」
「あたりまえや。もし、二割の線で、食いとめられなかったら、どないしはります?」
「…………。」
「責任をとって、辞めなはるか。」
「…………。」
「どうでんね。ここは、男らしく、返事をしなはったら、どうです。」
「辞めます。」
「間違いおまへんな。」
「誓います。」
「よろしい。」
そういってから、持田は、わッはッは、と笑った。龍太郎も苦笑した。ただ、不満だったのは、善太郎が、一言の援助もしてくれなかったことだった。
気の弱い、金持ちの息子だ、とは知っていた。また、持田とくらべて、人間としてのスケールが、まるで違うこともわかる。それにしても、自分が、現在、社長の位置にある以上は、こうまで、龍太郎の追いつめられるのを、見捨てておくべきではなかろう。
このとき、龍太郎は、善太郎への不満よりも、二人の仲が、将来どうなっていくか、ということに、強い不安を覚えたのであった。あるいは、自分の今の必死の努力が、いつの日にか、すべて、水泡に帰することがあるのでなかろうか。そんな予感さえ覚えるのであった。
田所は、何んとなく、会心の笑みを浮かべながら、
「南雲君、大変なことを誓わされたなア、大丈夫かね。」
「大丈夫です。」
「しかし、今のうちだったら、訂正がきくよ。ねえ、持田さん。」
「いや、いったん、誓ったのですから。」
「そうか。立派だよ。流石は、社長のお眼鏡にかなっただけのことはある。ねえ、社長。」
「うん。」
善太郎は、苦笑している。
「じゃア、私は、これで失礼します。」
龍太郎は、立ち上がった。一人で、社長室を出ると、高子が、じいっと、彼の方を見ていた。恐らく、今のやりとりが、聞えていたのであろう。近寄って来て、
「ご苦労ばかりかけて……。」
「いや。」
龍太郎は、廊下へ出た。そこに、組合のビラが、貼ってあった。その前に立ちながら、
(いったい、俺は、誰のために、こんな苦労をするのだろうか)
と、思っていた。
ふっと、彼は、そのビラを、引きはがしたい衝動を感じた。しかし、それを我慢しながら、事務室の方へ、戻っていった。
その夜、田所と持田は、柳橋の『月光亭』で、会っていた。千世龍も、その席に、はべっていた。
やがて、田所が、千世龍に、
「ちょっと、向こうへ行っていてくれ。」
「はい。」
千世龍が、出ていくと、持田は、そのうしろ姿を見送りながら、
「なかなか、ええ女でんな。」
「そうですか。」
「あれ、何んとか、なりまへんのか。」
「いや、あれだけは、いけません。」
「どうして?」
持田は、田所の顔を見た。田所は、どう答えたものか、困っている。持田は、わッはッはと笑って、
「いや、わかってます。あの女、あんたのこれでっしゃろ?」と、小指を出した。
田所は、苦笑いしながら、
「わかりますか。」
「それくらいのこと、わかりませいでか。しかし、ええ女でんな。」
「そんなにお気に召したんなら、譲りましょうか。」
「譲ってくれはりますか。」
「それは、これからの話次第で。」
持田は、もう一度、わッはッはと笑って、
「さア、商売の話をしましょうか。」
「しかし、今日は、ちょうど、いいところへ来て貰いましたよ。」
「何をいうてはる。こっちは、あんたのいわれた時刻に行ったまでです。しかし、南雲とかいいましたな、総務部長。」
「ええ。」
「あれ、ちょっとした男ですな。何んとか、味方に出来ませんのか。」
「あの男だけは、無理です。」
「じゃア、やっぱり、辞めさせますか。」
「そうですよ。」
「しかし、組合の方は、大丈夫なんでしょうな。途中から、腰くだけになるのんと、違いますか。」
「いや、その方でしたら、心配ないはずです。」
そう田所はいったが、しかし、心配がない、といい切れぬものが、胸の奥に、くすぶっていた。
すでに、彼の耳に、岩田が、南雲の旨を受けて動き出している、ということが、山形を通じて入っていた。その動きを、極力、おさえるようにとの指示も、すでに、出してはあるのだった。
「しかし、あの若い社長は、いけませんな。」
「そうなんです。要するに、社長の器では、ありませんよ、だから、南雲さえ辞めさせたら、社長なんか、問題でありません。」
「やっぱり、田所さん、あんたに社長になって貰わんと、いけませんな。」
「恐れいります。」
田所は、神妙にいった。
「何も恐れいらんでよろしい。しかし、今のままでは、あの社長を辞めさせるわけにはいけませんな。」
「だから、早く、東洋不動産を合併してしまうんです。」
「東洋不動産の資本金は、三千万円でしたな。」
「ええ。」
「すると、日吉不動産が五千万円で、合計八千万円か。そのうち、日吉の今の社長の持分は、二千二百万円でんな。そうなったら、社長を辞めさせられますな。」
持田は、淡々として、ひとりごとのようにいっていた。
この持田の構想は、そのまま、田所の構想とも一致していた。日吉と東洋を合併し、善太郎の持株率を、ぐっと、減らし、その上で、自分が君臨しようと考えているのであった。
そのため、東洋不動産の株を、内々で買収して来たのだが、しかし、彼の資金にも限度があり、結局、持田と手を組むより仕方がなくなったのである。持田の資金は、無尽蔵といってもよかった。ここにいたって、田所が、秘かに恐れているのは、最後のドタン場になって、すべてうまい汁を、トンビにアブラゲをさらわれるように、持田に持っていかれるのでなかろうか、ということだった。
持田がいった。
「東洋不動産の株を、どれほど、集めなはった?」
「六万株ぐらいです。」
田所は、答えたが、実際は、もうすこし、上まわっていた。
「六万株か。わしの方は、五万株です。」
「こんどの株主総会までには、合併は、ちょっと、無理ですな。」
「何、そのうちに、何んとかしますよ。ところで、東洋不動産の株、近頃、値上がりして来てますが、気づかれたのと、違いますか。」
「その点で、今夜、東洋不動産の総務課長を、ここに呼んでありますから、一度、ご紹介しとこうとも思いまして。」
「ほう、来ますのか。」
「いけませんか。」
「いや、かめしまへんで。」
そのとき、女中が、顔を出して、
「大野さんというお方が見えていますが。」
「ああ、すぐ、ここへ通してくれ。」
やがて、大野が、姿を現わした。田所は、会社ゴロの星井の紹介で、すでに、二度、彼と会っているのだった。
「どうも、遅くなりまして。」
「やア、ご苦労。こっちへ来たまえ。」
大野は、テエブルに近づいて来た。持田は、じいっと、それを見ている。そして、彼は、いわば、会社の裏切者ともいうべき大野を、まるで、犬か猫でも眺めるような眼つきをしているのだった。
「こちらが、いつか話した大阪の持田剣之助さんだ。」
「大野でございます。」
「ああ、よろしく。こうなったら、あんたを、たよりにしてまっせ。はッはッは。」
「恐れいります。」
「まア、いっぱい、飲みなはれ。」
「はい。」
大野は、うやうやしく飲んで、
「ご返盃。」
「ああ。」
田所が、
「大野君。その後、会社の方で、まだ、何も、気がついていないのかね。」
「それがでございます。」
大野は、膝をすすめて、
「どうも、おかしい、といっているんです。そのことで、今日も、重役会議を開いていたようです。」
田所は、持田の顔を見た。しかし、持田は、平然として、
「今から、重役会議を開いたかて、もう、遅いですわ。心配しなはるな。あとは、この持田にまかしときなはれ。」
そういいながら、持田は、今の持株を、そのまま、東洋不動産へ持ち込んでも、相当なもうけになると、考えているのだった。そのことは、田所への裏切りとなるが、しかし、そんなことは、持田として、問題でなかった。
同じ夜――。
信子の部屋へ、善太郎が来ていた。二人の前に、白菜鍋が、くつくつと、音を立てて煮えている。
「はい。」
信子は、善太郎にお酌をしてやった。
「うん。」
善太郎は、それを受けて、ぐっと、飲んだ。今夜の善太郎は、すでに、だいぶん酔っていた。何かしら、興奮しているようである。
「君も、飲みたまえ。」
「でも、随分、いただきましたわ。」
信子は、自分の頬を、両手ではさんだ。燃えるように熱く感じられた。
「いいじゃアないか。今夜は、僕も、飲みたいんだ。」
「そんなにお飲みになったら、帰れなくなりますよ。」
「そうしたら、今夜は、ここへ泊まる。」
「ほんとう?」
「いけないのか。」
「いけないなんて。もし、そうなったら、どんなに嬉しいでしょう、と前から思っていましたのよ。」
「そうだ、いっそ、二人で、二、三日、どこかへ旅行しようか。」
「あたし、何んだか、夢みたいですわ。こうやって、いっしょに、お食事が出来るだけでも、まるで、夢みたいですのに、その上、どこかへ連れて行ってくださるなんて。」
信子は、それこそ、夢を見ているような表情でいった。
「僕はね、癪にさわって、しようがないんだよ。」
「組合のこと?」
「そうだよ。実際、あの連中は、失礼だよ。今日の団体交渉の席上で、僕に、何んといったと思う?」
「…………。」
「社長として、社員から信頼されていない、というんだよ。僕は、そんなにいわれてまで、社長なんかしていたくないよ。」
「そんなことを、おっしゃるもんじゃありませんわ。」
「君まで、そんなことをいうのか。」
「いいえ、社長さんを尊敬している人だって、たくさん、ありますわ。」
「いるもんか。」
酔いのせいもあったろう。善太郎は、まるで、男のヒステリーのような口調でいった。
「いますわ。第一にあたし。」
そういいながら、信子は、善太郎が、社長として立派かどうかについては、疑問だと思わぬわけにいかなかった。
たしかに、好きなのである。まして、三十にして、はじめて知った男性なのである。そのことを思うと、いつでも、身内に、カッと燃え上がってくるものがあった。
しかし、だからといって、社長としての善太郎に対して、冷静な批判がないわけはなかった。信子の善太郎への関心は、その社長としての立場が、田所に無視されていることへの同情からはじまったのだが、このように、ヒステリックになられたりすると、もっと、堂々としてほしい、とも思うのである。
が、そのようにヒステリックになって、ものがいえるのは、相手が、自分だからで、それだけ、心を許してくれているからだ、と思うと、いとしさがいやましてくる。どんなにしてでも、このひとを慰めてあげたい、と思われてくるのであった。悲しいほどの思いであった。
「しかし、君だけだ。」と、善太郎がいった。
「いいえ、ほかに、岩田さん、白石厚子さん。そして、南雲龍太郎さんが、いらっしゃいますわ。」
「南雲か……。」
「南雲さんは、社長さんのために、それこそ、本当に、一所懸命になっていらっしゃいますわ。」
「その南雲のことだが。」
そういって、善太郎は、口をつぐんだ。
「どうか、なさいましたの。」
「…………。」
「ねえ、いって。あたしにだけは、心の中で思っていることを、何も彼も、おっしゃって頂戴。そうすると、きっと、胸の中が、すうっとすると思いますわ。」
外には、寒い風が吹いている。しかし、この部屋の中は、鍋から上がる湯気で、硝子がくもるほどの温かさであった。
「僕はね、近頃、南雲のやりかたに、疑問を持っているんだ。たとえば、こんどの組合の賃上げに対しても、僕は、はじめから、全面的に拒否したかった。ところが、南雲が、どうしても、二割は認めなければ、というので、うんといったんだよ。」
「社員の間にも、そういう噂が、ひろがっていますわ。」
「だろう? だとしたら、僕だけが悪者になって、南雲の方に人気が集まる。」
「そんなことありませんわ。」
「いや、そうだよ。それはいいとしても、今日、大阪の大株主の持田氏が、突然にやって来て、二割なんて、もってのほかだ、といいだしたんだよ。だから、はじめから、僕のいう通りにしとけばよかったんだ。」
「でも、それだったら、組合が、うんといわないでしょう?」
「それをおさえつけるのが、総務部長の腕だよ。結局、南雲は、もし、二割で、組合をおさえられなかったら、辞めるということになったのだ。」
「辞めるなんて……。せっかく、九州から来ていただいたのに。」
「しかし、持田氏の前で、彼は、自分で、そう誓ってしまったんだからね。そうなったら、僕だって、仕方がないよ。」
「何んとかなりませんの?」
「ならんね。」
信子は、もっと、龍太郎のために、弁護をしてやりたかった、しかし、今、それをいったら、この場のせっかくの楽しい雰囲気が、たちまち、崩れていく恐れがあった。黙っていた。黙っていながら、龍太郎の努力を、素直に認めぬことは、善太郎にとって、不幸なことになるような予感を覚えていた。
善太郎は、盃をあけて、
「だから、僕は、近頃、会社へ行くことが、また、あんまり、面白くなくなったんだ。二、三日、旅行したいんだ。」
「でも、今、社長さんがいられなくなると、会社は、困るでしょう?」
「困るもんか。ねえ、行かないか。」
「そりゃア、連れていってくださるなら、あたし、よろこんで、参りますわ。」
「よし、じゃア、きめた。どうだ、そろそろ、ここを片づけないか。」
「はい。ねえ、本当に、今夜、泊まってくださるの?」
「そうだよ。」
「お家の方、かまいません?」
「かまうもんか。ねえ、こっちへおいでよ。」
そういって、善太郎は、信子の肩を抱き寄せた。信子は、眼を閉じた。
翌朝、善太郎が遅く出勤すると、高子が、すぐに、
「お兄さん。ゆんべは、どこへ、お泊まりになったの? お母さん、とても、心配していらっしたわ。」と、咎めるようにいった。
「どこでもいいじゃアないか。」
善太郎は、面倒くさそうに答えて、
「それより、僕は、明日から二、三日、旅行するからね。」
「出張?」
「違うんだ。何んだか、組合の問題やなんかで、気持が、ムシャクシャして仕方がない。このままだと、ノイローゼになりそうな気がする。」
「でも、今、会社をあけるのは、困るんじゃアありません?」
「困るもんか。あとは、南雲が、責任を持ってやってくれる。」
「そんなこと、南雲さんに悪いわ。」
「いや、却って、俺が、会社にいない方がいいかも知れないよ。」
高子は、黙り込んだ。こんどこそ、つくづく、この兄に、愛想がつきた思いだった。結局は、この兄に、社長としての資格がないのでなかろうか。社長の資格のない男が、社長でいることは、本人にとっても悲劇だが、同時に、社員たちにとっても、悲劇ということになる。
「どうしても、いらっしゃるの?」
「そうだ。」
「ひとりで?」
善太郎は、内心、ギクッとしたらしかったが、それを隠して、
「もちろんだ。」
「ならいいんですけど。」
「とにかく、南雲を、ここへ呼んでくれ。」
「はい。」
高子は、そういって、部屋から出ていった。高子は、組合のビラの貼ってある廊下を通って、事務室へ入っていった。
「南雲さん。」
龍太郎は、顔を上げて、
「何か、ご用ですか。」
「すみませんが、ちょっと、社長室まで、来てくださいません?」
「社長が、呼んでいるんですか。」
「はい。」
「すぐ、行きます。」
「どうぞ。」
高子は、それだけいって、事務室を出た。しかし、彼女は、そのまま、そこに立って、龍太郎の出てくるのを待っていた。そして、待っている間に、ふっと、
(いっそ、兄のかわりに、南雲さんに、社長になって貰ったら?)
と、思ったのであった。
龍太郎を、いつまでも、総務部長にしておかないで、いずれは、重役になって貰ったらとは、今日までに、何度も考えたことなのである。
しかし、兄のかわりに、龍太郎を社長に、とまで考えたことは、一度もなかった。
南雲の人望が、社員の間に、徐々にひろまりつつあることは、高子も知っていた。しかし、社長としての兄が、その後、人望を得たようには聞いていなかった。
なるほど、龍太郎が来てくれてから、善太郎の出勤は早くなった。一応、仕事も熱心にしているらしく見える。が、それだけのことであって、結局は、金持ちの二代目的な性質に、すこしも変りがないようだ。こんな時に、旅行に出る、といい出すのは、何よりも、その証拠ではないのか。
しかし、と高子は、また、思うのだった。
かりに、龍太郎が社長になるとしたら、自分はどうなるのだ。やっぱり、秘書をしていることにするか。龍太郎の秘書になら、よろこんでなってもいい。
が、高子は、自分の心の秘密を覗くように、つぶやいた。
(あたしは、社長秘書よりも、社長夫人になりたいわ)
そのとき、扉が開いて、龍太郎が、姿を現わした。
「おや、待っていてくださったんですか。」
「ええ。」
「なら、そうおっしゃってくださればよかったのに。」
高子は、龍太郎と並んで歩きながら、
「昨夜、兄は、外泊しましたのよ。」
「ほう。」
「それはいいんですが、急に、二、三日、旅行したい、といい出したんですよ。」
「どうしてまた、急に?」
「何んですか、組合の問題で、気分が、むしゃくしゃしてならないんですって。」
「わかりますな。」
「じゃア、旅行してもいいんですの。」
「いや、それは、困りますよ。今が、大事ですからね。」
「でしょう? あたしからも、とめたんですが、どうしても、いうことをきかないんです。だから、南雲さんから、はっきり、それはいけない、といってくださいません?」
「承知しました。いいましょう。」
高子は、秘書室に残り、龍太郎だけが、社長室へ入っていった。
「お呼びですか。」
「やア、南雲君。」
善太郎は、つくったような笑みを浮かべながら、
「その後、組合の動きは、どうかね。」
「岩田君に頼んで、二割で承知するよう、極力、工作していますから。」
「頼むよ。とにかく、君は、持田氏にあんなことを誓ってしまったんだからね。」
「覚悟をしています。」
「しかし、僕としては、今、君に辞められるのは困るからね。」
「…………。」
「それに、せっかく、前の会社を辞めて来て貰ったんだし。」
「そんなこと……。」
「ところで、僕に、三、四日、ヒマをくれないか。何んだか、気分が、むしゃくしゃするので、一人で旅行して来たいんだ。」
「社長。それだけは、もうしばらく、我慢してください。」
龍太郎は、きっぱりといった。
「どうしてだい?」
善太郎の顔に、不満の色が、露骨に現われた。
「だって、今は、会社として、いってみれば、負けるか、勝つかの瀬戸際ですよ。そういうとき、社長にいて貰わないと困ります。」
「その点なら、すでに、会社の方針は、はっきりしているんだし、後は、君に、まかせるよ。」
「しかし、いつ、急に、ご相談したいことが起るかも知れませんよ。」
「いいじゃアないか、とにかく、三、四日したら帰ってくる。社長にだって、たまには、休息が必要だよ。」
龍太郎は、そんな善太郎の顔を見ながら、むしろ、休息のほしいのは、自分の方かも知れない、と思っていた。
龍太郎は、自分の席へ帰った。何も彼も、面白くない。どうとも、勝手にしろ、といいたいような気分だった。
ふっと、沙恵子に会いたいなア、と思った。あの沙恵子なら、母性的な愛情で、今の自分を、やんわり包んでくれるのでなかろうか。そして、今、龍太郎が、最も欲しているのは、そういう種類の愛情であった。
卓上電話のベルが鳴った。龍太郎は、面倒くさそうに、送受話器を取り上げた。
「東洋不動産からです。」と、いう交換手の声に続いて、「モシモシ、南雲さん。沙恵子です。」
「ああ。」
龍太郎は、思わず感動的な声を出した。
ちょうど、会いたい、と思っていた時に、沙恵子が、電話をかけて来てくれたのであった。龍太郎に、この偶然が、この上もなく嬉しかった。
「その後、お元気ですか。」
電話を通じてくる沙恵子の声は、可憐そのもののようであった。
「元気ですよ。」
「よかった。何んとなく、お声が聞きたくなって、電話をしたんですのよ。」
「今夜、お会いしたいなア。」
つい、そういってしまってから、龍太郎は、うしろに、人の気配を感じた。振り返ると、高子が立っていた。しかも、彼女は、身をひるがえすようにして、立ち去ろうとしていた。
龍太郎は、電話口へ、
「ちょっと、待ってください。」と、いってから、高子へ、「何か、ご用だったんですか。」
高子は、振り返って、
「いいえ、何んでもないんです。」
しかし、その表情に、こわばるものがあった。そのまま、高子は、足早に事務室から、出ていってしまった。
社員の中に、そんな高子を、不思議そうに見ている者もあった。厚子も、その一人であった。
龍太郎は、ふたたび、電話口へ口を寄せて、
「どうも、失礼しました。」
「いいえ。お忙しいんですの。」
「いや、大丈夫ですよ。」
ちょっと、間を置いて、沙恵子が、
「ねえ、本当に、今夜、会ってくださいます?」
「ええ。あなたの方は、かまいませんか。」
「かまいませんとも。いっそ、今夜は、叔父に、何か、ご馳走をさせましょうか。」
「いや、僕が、ご馳走しますよ。」
「じゃア、二人っきりでね。」
「そう。いいでしょう?」
「あたし、バンザイですわ。」
そのあと、時間と場所を打ち合わして、龍太郎は、電話を切った。
さっきまでの憂欝さが、どこかへ吹っ飛んでいた。その現金さに、自分ながら、あきれるくらいだった。
社長は社長として、自分は、自分の出来る範囲で、全力をつくそう、と思った。それが、今の自分にとって、最善の道である。
岩田が、近寄って来た。彼は、声をひそめるようにして、
「だいたい、順調にいっていますから。」
「そうか、有難う。」
自分の味方になってくれている社員たちのためにも、負けてはならぬと、龍太郎は、強く思った。
龍太郎は、五時過ぎに会社を出た。出てしまってから、お昼の高子のことを思いだしたのである。
(何か、用があったのだろうか)
あるいは、こちらから秘書室まで、それを聞きにいくべきであったかも知れない。しかし、彼は、忘れていた。忘れていた、というよりも、今夜、これから会う沙恵子のことに、頭を奪われてしまっていたのである。
あのあと、岩田が、
「明後日の晩、部長に、何かお差し支えがありますか。」
「いや、別に。」
「じゃア、明後日、第二回目の例の会合をするんですが、ご出席いただけますか。」
「出るとも。しかし、僕が、出てもいいのかい?」
「みんな、そういっているんです。やはり、部長から、直接、話をして貰った方が、安心らしいんです。」
「よし、わかった。」
「それに、僕は、何も彼も隠さずに、ざっくばらんにいってありますから。」
「たとえば?」
「飲み代は、部長に貰ってあること。更に、部長は、派閥のない会社にすることを理想としていられること。特に、あとのことは、もう一度、部長の口から、はっきり、いってやってください。」
「いうよ。その通りなんだから。」
「お願いします。」
そういって、岩田は、席へ戻っていった。
そのことも、龍太郎が、高子のことを忘れる一つの原因になっていたかも知れなかろう。
龍太郎は、明後日の晩、よろこんで出席するつもりでいる。しかし、そのことは、出席しない社員たちの眼には、派閥のない会社にする、といいながら、自分からそれを破っているように見えるかも知れない。が、一方で、ここしばらくは、それも、已むを得ないのだ、とも思っているのだった。
ただ、龍太郎は、こんな時に、急に、旅行したい、というようなわがままな善太郎に、将来、果して、この自分の理想が理解されるかどうか、不安だった。
勿論、入社の条件として、龍太郎は、それをいったし、善太郎も、それを理解したのである。が、その理解は、今になってみれば、苦しまぎれの、そして、言葉の上でだけの納得に過ぎなかったような気もする。
田所にしても、このまま、引っ込むとは、考えられなかった。次は、どういうテを打ってくるか。
龍太郎は、立ちどまって、銀座の夜景を眺めた。こんなにも美しい。が、その美しい夜の銀座には、人世のいろいろの闘争が行われているに違いないのである。
その闘争を、ある人は、生甲斐としているのかも知れない。しかし、別の人は、それを呪い、嫌悪しているだろう。そういう人々の声が、龍太郎の耳に、聞えてくるようであった。
(そして、自分もまた、そういう渦巻の中に巻き込まれた人間の一人なのである)
九州の会社に、あのままいたら、こんなこともなかったのに、とも思った。しかし、今、それをいうのは愚痴なのである。そうと気づいて、
(そうだ、今夜は、何も彼も忘れて、楽しく過ごそう)
龍太郎は、沙恵子の待っている喫茶店へ急いだ。
龍太郎が、その喫茶店に入っていくと、隅の席から、沙恵子が、片手を上げて合図をした。ニコニコと笑っているが、龍太郎には、まるで、花が開いたような鮮やかな印象だった。
沙恵子は、東京へ来てから、更に、垢抜けしたとでもいうのか、いちだんとその美しさを増していた。
龍太郎は、沙恵子の顔を見た瞬間から、自分の胸の中に、爽やかな風が、さっと、吹き抜けていったような気がしていた。
「待たせたらしいね。」
「ほんの五分ぐらい。」
「お元気?」
龍太郎は、沙恵子の顔を、覗き込むようにしていった。
「ええ、とっても。」
龍太郎は、寄って来た給仕に、
「コーヒー。」と、いってから、沙恵子のコーヒー茶碗が、すでに、空になっているのに気がついて、「沙恵子さんは?」
「あたしも、コーヒー。」
「だって、今、コーヒーを飲んだばかりでしょう?」
「でも、やっぱり、コーヒー。」
「じゃア、コーヒーを二つ。」
「はい。」
給仕が去っていくと、龍太郎は、
「九州のご両親は、お元気ですか。僕は、すっかり、ご無沙汰しちゃって。」
「元気ですわ。この間、日本橋のてんぷら屋で、お会いしたでしょう? あのことを、早速、九州へ知らしてやったんです。そうしたら、昨日、返事が来ました。」
「そう……。」
「きっと、南雲さんは、ご苦労をなさっているに違いないから、ときどき、あたしが行って、慰めてあげなさい、って。」
「じゃア、今夜は、僕を、慰めてくださるんですか。」
「これでも、そのつもりなんですけど。」
そういって、沙恵子は、明るく笑った。
「そりゃアどうも、有難う。」
龍太郎も、笑った。
「会社の方、うまく、いってますの。」
「なかなか、思う通りには、いきませんよ。」
「やっぱり?」
「ここ十日間ぐらいが、一つのヤマです。」
「大事な時なのね。」
「そのあとにも、いくつものヤマがありそうです。」
「まア、大変。」
「失敗したら、辞めなければならないんですよ。」
「お辞めになりますの?」
「そういうことになってしまったんです。」
「お辞めになったら、どうなさいますの。」
「まだ、そこまでは、考えていませんが、今更、九州へも帰れないし。」
「あら、いいじゃアありませんか。父だって、いつでも、帰っておいで、といったんでしょう?」
「だから、なおさら、帰るわけにまいらないんですよ。」
「いいわ。そうなったら、あたし、南雲さんを強引に連れて帰るから。」
「あなたがですか。」
「ええ。あたしだって、いっしょに、九州へ帰りますわ。」
沙恵子の頬に、染まるものがあった。
それを見ると、龍太郎の胸も、ときめいてくるのである。
(ひょっとしたら、この沙恵子は、自分を愛してくれているのであるまいか)
龍太郎には、それを口に出してみる勇気は、まだ、なかった。しかし、このときから、龍太郎自身の胸に、沙恵子をいとしく思う気持が、ぐっと、強くなったようであった。
彼は、会社での闘争に破れて、その傷心を、阿蘇山を見上げて癒やしている自分の姿を、脳裏に描いた。しかも、その彼の横に、この沙恵子が、ひっそりとして、つき添ってくれているのである……。
コーヒーが、運ばれて来た。
「どうなさったの?」と、沙恵子がいった。
「いや、何んでもないんですよ。」
そういいながら、彼は、今の空想を、沙恵子に話してみたい欲望を感じた。が、それをおさえて、
「沙恵子さんは、会社の仕事に、もう、馴れましたか。」
「まだ、だめよ。だって、しょっちゅう、ヘマをやっています。」
「はじめは、誰でも、そうですよ。」
「月給をいただくってことは、大変なことだ、ということが、よくわかりましたわ。」
「それだけわかったら、たいしたものだ。」
「今日もね、会社で、重役さんたちが、会議を開いて、心配していらっしたらしいわ。」
「何か、あったんですか。」
「あたしにはよくわかりませんけど、東洋不動産の株が、近頃、値上りをしているんですって。」
「ふーむ。」
そのことなら、龍太郎は、岩田からも聞いた。
「それで、もしかしたら、誰かが、買占めているんじゃアないかと。」
「なるほど。」
「株の値が上がるって、そんな心配がありますの?」
「ええ。特別の理由がなくて、どんどん、上がっていくとすれば、一応、調べてみる必要がありますね。」
「南雲さんの会社は、大丈夫ですの?」
「大丈夫だ、と思いますが。」
しかし、龍太郎には、そういい切れる自信がなかった。ただ、日吉不動産の株は、上場されていないのと、株主の数がすくないので、そうしょっちゅう、異動があるわけではなかった。最近、株主名簿の書換えも、大口なものは、ひとつもないのである。だからといって、安心は出来ない。総会の間近になって、どかんと、大量の書換えの請求がくるかも知れないのである。そうなってしまってからでは、すでに遅い。善太郎の社長としての地位に、先ず、心配はないとしても、新しい大株主から、重役としていれてくれ、といわれても、拒否出来ない場合も起り得る。
龍太郎が、密かに恐れているのは、田所が、そういう計画に荷担しているのではあるまいか、ということだった。
が、善太郎の方は、そんな田所を、今期限りで辞めさせたい、といっているのである。
そんなことを考えていると、龍太郎は、ますます、自分の前途の多難さを、痛感しないではいられなかった。
(そうだ、今夜は、何も、考えないことにしていたのだ)
そのとき、若い娘を連れて、新しい客が、入って来た。
その男は、龍太郎の後姿を見ると、
(おや?)
と、いうように、眼を光らしたのだが、ニヤリと笑ってから、つかつかと、近寄って来た。
「おい。」
龍太郎は、振り返って、
「おお、君か。」
青田だったのである。彼は、沙恵子の方を、ちらッちらッと見ながら、
「しばらく、会わなかったな。」
「うん。」
「紹介しろよ。」
「ああ、そうだ。こちらは、僕が、九州の会社にいた時の部長のお嬢さんで、曽和沙恵子さんだ。今は、東京に来ていられるんだが。」
沙恵子は、立ち上がって、
「どうか、よろしく。」と、丁寧に頭を下げた。
「いや、こちらこそ。南雲の親友でしてね。青田英吉というヤブ医者です。」
「まア、座れよ。」
「いや、実は、こちらにも、紹介したい人があるんだ。」
「えッ?」
龍太郎は、もう一度、振り返った。そして、そこに、つつましく立っている娘を見ると、すぐに、
(ああ、名古屋の病院長の娘だな)
と、わかった。
前に、写真で見せられたときよりも、実物の方が、綺麗であった。こんな風に、いっしょに歩いているようでは、青田も、いよいよ、結婚する気になったんだなと、龍太郎は、思った。
その龍太郎の脳裏を、和子の姿が、掠め去った。
「節子さん。」
青田は、その娘を呼び寄せて、
「いつかも話した親友の南雲龍太郎です。こちらが、名古屋の岩井節子さん。」
「やア、よろしく。」
「どうか、よろしく。」
そのあと、龍太郎は、
「どうだ、よかったら、ここで、いっしょに座らないか。」
「うん。」
四人が、一つのテエブルを囲んだ。あらためて、女同士が紹介された。
「一度、会いたい、と思っていたんだ。」と、青田がいった。
「僕もだ。」
「どうだね、その後、社長さん、一所懸命に、ガンバッテいるか。」
「うん、そのことで、一つ、君にも相談したいんだよ。」
「何んのことだ。」
「今でなくてもいいんだ。」
「しかし、気になるな。おい、ちょっと、こっちへこいよ。」
青田は、立ち上がり、二人の娘に、
「すみませんが、そこで、しばらく、話していてください。」と、ことわってから、苦笑している龍太郎を、強引に、空いたテエブルの方へ、引っ張っていった。
「おい、あの九州の女性、なかなか、いいじゃアないか。こいつ、けしからんぞ。今まで、あんないい女性がありながら、黙っているなんて。」
「おい、思い違いをするな。」
「思い違い?」
青田は、わざと、龍太郎を睨みつけるようにして、
「俺の眼を、フシ穴だと、思っているのか。」
「どうせ、ヤブさんじゃアないか。たいした眼とは、はじめから、思っとらん。それより、あの名古屋の女性は、君に過ぎてるくらいだよ。」
「冗談をいうな。」
「しかし、結婚するんだろう?」
「うん、どうしても、結婚してくれ、と頼まれるんで、仕方がないんだ。」
「仕方なしにか。」
「そうだ。」
「じゃア、やめろよ。」
「なに?」
「何も、君が、仕方なしに結婚することなんか、なかろう? 君からいいにくいようだったら、僕が、お母さんにいってやるよ。」
「君に、そんな面倒なことを頼むのは、悪いからな。」
「遠慮をするな。一生の問題だよ。僕は、こういってやる。英吉には、和子という銀座のバーの女性がついています。大好きなんです。どうか、二人の結婚を許してやってください。」
「もういいよ。」
「何んだったら、あの名古屋の女性にも、そういって、あんな男は、今のうちにあきらめた方が無難ですよ、といってやろうか。」
「おい、あやまる。」
「本当に、あやまるのか。」
「本当だ。」
「よしよし。」
「どうも、君は、近頃、人が悪くなったようだぞ。」
「だって、組合から、随分、いじめられているから、しぜん、悪くもなるよ。」
「そんなに、いじめられているのか。」
「ああ。」
「で、社長さんは、どうしている?」
「このままだと、ノイローゼになりそうだから、旅行したい、といっている。」
「ゼイタクいってる。」
「ところが、いくらとめても、聞かないんだよ。」
龍太郎は、簡単に、最近の会社の内情を話した。青田は、黙って聞いていたが、みるみる、顔に憤りを現わして、
「そいつは、けしからん。それじゃア、まるで、君ひとりに、骨を折らしているようなもんじゃアないか。よし、僕が、一度、意見してやる。」
「恐らく、聞くまいな。」
「いや、聞かせてやる。もし、聞かなかったら、君は、辞めてしまえ。そうしたら、すこしは、懲りるだろう。」
「だから、君を、ヤブさんだ、というんだよ。」
「失敬だぞ。」
「だって、考えてみろ。僕が、今、辞めたら、どこへ勤めるんだ。」
「僕の病院で引き取ってやる。」
「もう、友人の会社へ勤めるのは、真ッ平だよ。それに、今、僕が辞めると、僕のために動いてくれている社員たちが、そのあと、どんな目にあうかもわからない。」
「そうか。」
「わかったかね、ヤブさん。」
「わかりましたよ。」
青田は、素直に、頷いて、
「しかし、近いうちに、一度、僕から、日吉にいうだけはいってやるよ。」
二人が、もとの席へ戻ると、沙恵子と節子は、その間に、すっかり、打ち融けたように、話し合っていた。
「お嬢さま、お嬢さま。」と、女中が、呼んでいる。
これで、二度目なのである。しかし、高子は、どうにも起きる気になれなかった。
「七時二十分でございますが。」
いつもは、七時に起きて、八時十五分に、家を出るのであった。
「わかってるわ。もう十分、寝かして。」
「……はい。」
女中が、去っていった。
高子は、ゆうべは、よく、ねむれなかった。だから、けさは、ねむくてしようがないのである。そのくせ、心の一点は、すこしもねむっていなかった。むしろ、刃物のように、とがっている、といった方が、当っているかも知れない。
今日は、いっそ、会社を休みたかった。兄も、昨日から、旅に出てしまっている。だから秘書として、その間だけ、休んでもいいようなものなのだが、しかし、休むことが、また、淋しいのであった。
(会社へ行けば、とにかく、南雲さんの顔が見られる)
が、その龍太郎には、自分の方から、
「今夜、お会いしたいなア。」と、いうような相手があるのだ。
ゆうべ、よく、ねむれなかったのは、龍太郎が、そんな電話をかけているのを、聞いてしまったからであった。
高子は、その相手を、いつか、銀座で見た九州から来た娘に違いない、と直感したのである。
高子は、そのときのことを思い出しながら、唇を噛みしめるようにしていた。
龍太郎を愛することでは、誰にも負けるとは思っていなかった。
しかし、高子は、一人の女として、龍太郎の胸に、裸でぶっつかっていくことが出来ないのである。男にあまえることが出来ない性分だった。今となって、この性分が、悲しかった。そして、この性分が、自分の一生を不幸せにしていくような気がしてならなかった。
「お嬢さま。」と、女中が、また、起しに来た。
「わかってる、といっているのに。」
「はい……。奥様が、お食事をしないで、お待ちになっています。」
「先に、食べて貰って。あたしはいらないわ。お紅茶でいいわ。」
「はい。」
女中の足音が、消えていった。
何んだか、今日は、母親の顔を見るのも、嫌なのである。四人の兄妹の中で、いちばん、母親の性格を継いでいるのは、自分のような気がしていた。そして、高子はかねてから、そんな母親の性格を嫌っていた。似ないように、と努めて来たのである。
高子は、亡くなった父親に、あまえている母の姿を、見たことはなかった。そういう意味では、母親を不幸な女、といえるかもしれないのである。
しかし、今の自分は、母親と同じに、不幸な女になる可能性が、十分にある。高子は、それを思って、ぞうっとした。
(いいわ。今日こそ、南雲さんに晩ごはんを誘って、うんと、あまえてやるわ)
その決心がついて、高子は、やっと、すこし、元気になった。
高子は、テラスで、紅茶を飲みながら、霜柱の立つ、冬の庭を眺めていた。
母親の常子が、彼女の前の椅子に、腰を下ろした。
「けさは、随分、朝寝坊だったね。」
「ゆうべは、よく、眠れなかったのよ。」
「どうしてなの?」
「どうしてだか、わからないわ。」
高子は、すこし、投げ出すような口調でいった。
「今日は、会社へ行くのかい。」
「もちろんよ。」
「善太郎がいないんだし、たまには、休んだらどうなの。」
「そうは、いかないわ。」
「あたしはね、高子。あんたに、早く、会社をやめて貰いたいんだよ。」
また、はじまった、というように、高子は、返事をしなかった。
「そして、一日も早く、お嫁にいって、ほしいんだよ。」
「お邪魔?」
「なにをいってるんです。あんたは、いったい、幾つだと思ってるの?」
「数え年で二十八歳よ。」
「もう、いい加減に、お嫁にいったら、どうなの。」
「だって、相手がなかったら、しようがないわ。」
「相手は、いくらでもありますよ。この間、佐登子が持って来た話なんか、家柄といい、財産といい、あたしは、申し分がない、と思うんだよ。」
「あたしは、真ッ平。」
「そんなことをいっていたら、いつまでたっても、お嫁にいかれませんよ。」
「いかれなかったら、いかないだけよ。」
「まア、この娘は。」と、常子は、あきれてみせて、「善太郎といい、あんたといい、いったい、どういう気なんだろうね。お母さんには、さっぱり、わかりませんよ。」
「だいたい、お母さんが、いけないのよ。縁談といえば、先ず、家柄、財産を問題にするんだもの。」
「だって、そうじゃアありませんか。」
「もっと、大事なものがあるわ。」
「なにが、そんなに大事なのかね。」
「愛情よ。」
「そんなことぐらい、お母さんにだって、わかってますよ。」
「いいえ、わかっていない。」
高子は、わざと、断言するようにいってから、
「じゃア、かりに、お兄さんが、会社の女事務員のひとと結婚したい、といったら、うんとおいいになる?」
常子は、顔色を変えた。
「そんな心配でもあるのかい?」
「さア……。」
「ねえ、はっきり、いっておくれよ。」
「もし、お兄さんに、そんなひとがあったら、お母さんは、お許しになる?」
「冗談もいい加減にしなさい。社長が、女事務員なんかと結婚したら、いったい、世間態が、どうなりますか。」
「ほら、お母さんは、すぐ、世間態とおっしゃるんですもの。だから、ダメなのよ。」
「いいえ、いけません。」と、いってから、常子は、ますます、不安がまして来たように、「善太郎は、旅行する、といったけど、どこへ、行ったの。」
「知らないわ、あたし。」
高子は、そっけなく答えた。
本当に、知らないのであった。聞いたのだが、善太郎は、
「わかるもんか。要するに、気の向くままに、旅行をしたいんだから。」
と、答えただけであった。
(何か、隠している――)
高子は、そう直感した。
そして、善太郎は、切符の手配も、自分でしたいらしいのであった。だから、疑えば、いっそう、疑えるわけなのである――。
「本当に知らないのかい?」
「そうよ。」
「だって、あんたは、秘書をしているんだろう? その秘書が知らないなんて……。」
「だって、本当に、知らないんですもの。」
常子は、溜息をついた。
「とにかく、あたしは、善太郎が、会社の女事務員と結婚するなんて、絶対に許しませんよ。いい恥さらしになります。」
「お母さん。」
高子は、やや、鋭い口調で、
「そんなことをいったら、お兄さんだって、もう、子供じゃアないんだし、怒って、この家から、出るかも知れませんよ。」
「まア。」
「そんなことになったら、結局、不幸になるのは、お母さんの方よ。」
「…………。」
「あらかじめいっときますが、あたしだって、そのうちに、自分で、好きなひとを選んでくるかもわかりませんことよ。」
常子は、もう、口もきけないようだった。そうなると、けさの高子は、いよいよ意地にならずにいられなかった。何か、つっかかっていくようないい方で、
「そのときになって、たとえ、お母さんが反対なさっても、あたしは、聞きませんからね。」
しかし、その好きな男性には、別に、好きなひとがいるのだ、と思うと、高子の心は、急に、沈んでいくのであった。
が、更に、いわずにはいられなかった。
「そうなったら、この家には、お母さん、ひとりぽっちになりますよ。」
高子は、ぷっと、立ち上がった。出勤の用意をしながら、流石に、いい過ぎたかも知れぬ、と気が咎めてならなかった。鏡の前でも、いつもほど、うまく、化粧が出来なかった。そして、鏡にうつった自分の顔を眺めて、
(二十八歳なんだわ)
と、しみじみ、思わずにはいられなかった。
今後の自分に、龍太郎ほど、好きな男が、現われようとは思えなかった。龍太郎以外の男と結婚することを考えると、身の毛もよだつような気がする。
龍太郎を好きだ、と思ったのは、彼が、まだ、学生だった頃、盛んに、家へ遊びに来ている頃からだった。十年の歳月を経た今日でも、その思いは、すこしも変っていない。いや、ますます、つのるばかりである。そして、今後、その思いは、いよいよ、深く、激しくなっていくのではあるまいか。
高子は、いい加減のところで、お化粧をあきらめて、立ち上がった。
玄関に立ったが、見送りに出たのは、女中だけだった。いつも、見送りに出る母親が、それをしないのは、さっきの高子の言葉が、よっぽど、応えたのだろうか。それとも、腹を立てているのか。
高子は、会社へ出てからも、けさのことが、頭にこびりついていて、なんとなく、気が落ちつかなかった。
うんと仕事でもあれば、それを忘れられるのだが、社長が留守なので、いつもの三分の一もなかった。
気がつくと、机の上に頬杖をついて、知らず識らずに、行末のことを考えていた。
厚子が、入って来た。この娘は、近頃、めっきり、美しくなったようだ。彼女は、
「これを、社長さんに。」と、いってから、急に、思いついて、「あら、お休みだったのね。」
「そうよ。急ぐの?」
「いいえ。お帰りになってからで、結構ですわ。」
「じゃア、預っておきますから。」
「お願いします。」
そういって帰りかける厚子に、高子は、何気ないように、
「今日は、正木さん、出勤していらっしゃる?」
「いいえ、昨日から、お休みです。」
「昨日から?」
「はい。風邪気味だから、三、四日、お休みになるそうです。」
「そうだったの。」
しかし、高子は、心の中で、
(やっぱり!)
と、思っていた。
善太郎は、ひとりで行ったのではない。きっと、信子を連れて、旅に出たのに違いあるまい。
高子は、迷った。迷ったけれども、思い切って、職員録に書いてある信子のアパートへ電話をした。しかし、そのときは、まだ、半信半疑で、もし、本当に、病気で休んでいるのだったら、お見舞に行ってやってもいい、と思っていたのである。
「恐れいりますが、正木信子さんに、お願いしたいんですが。」
「正木さんは、昨日から、お留守ですよ。」
高子は、善太郎が信子といっしょに行ったことは、最早、疑う余地がないような気がした。
けさの母の言葉が、思い出された。
同時に、会社の、いわば非常時に、女事務員を連れて旅行に出る兄の根性を、情ないと思わずにはいられなかった。
もし、こんなことを龍太郎が知ったら、どんなに不愉快に思うかわからないのである。
そこへ、龍太郎が、入って来た。
「やア。まるで、ネズミに引かれそうですな。」
「そうですのよ。」
「まア、二、三日、のんびりしたらいいですよ。」
「ところが、のんびりどころか、却って、退屈ですわ。」
高子は、急いで、立ち上がり、
「お紅茶をいれますわ。」
「有難いですな。」
高子は、珍しく、媚びるような口調で、
「ねえ、今夜、どっかで、晩ごはんをいっしょに食べません?」
「今夜ですか。」
「なにか、お差し支えがあるんですの。」
「実は、今夜、岩田君のアッセンで、組合の人たち、十数人と会うことになっているんです。そのことを、ちょっと、申し上げておこう、と思って来たんですよ。」
その夜、新橋のおでん屋『安兵衛』の二階に集まった社員は、十六人であった。この前は、十人だったから、六人ふえたわけである。実質的には、二人減って、八人ふえたのである。一部屋ではせまいので、襖をはずして、二部屋をぶっ通して使った。
大間も来ていた。その横に、厚子が座っていた。しかし、厚子の眼は、ともすれば、中央の龍太郎の方へ、そそがれ勝ちであった。大間は、それを気にしている。が、口に出してはいえないのである。
龍太郎は、酒を飲みながら、静かに、一人々々の顔を眺めていった。
(すくなくとも、ここにいる人たちだけは、自分の意見を、聞いてくれようとしているのだ)
素直に、有難いことだ、と思っていた。同時に、この人たちの期待にそむいてはならぬ、と自分をいましめていた。
岩田は、ひと通り、酒がまわったところで、
「じゃア、部長から、ひとつ、お話ししてくださいませんか。」
龍太郎は、頷いて、立ち上がった。
厚子が、真ッ先に、拍手をした。つられて、ほかの人々も、それにならった。その拍手が鎮まったところで、龍太郎は、
「本夕は、皆さん、お忙しいところを来て頂いて、恐縮です。お礼を申し上げます。」
隅の方から、
「いや、どういたしまして。」と、いう声が起ったので、数人が、どっと笑った。
しかし、龍太郎の言葉を、真面目に聞こうとして、眼を光らしている者もあった。
「私は、社長とは友人であり、その友人である、というだけのおかげで、こんな若輩でありながら、総務部長という要職を占めています。その点、皆さんの中には、不愉快にお思いのお方もあると思うのですが、ご了承を得たいのであります。」
そこで、龍太郎は、ちょっと、言葉を切って、
「どうか、皆さん。飲みながら、聞いていてください。」
と、いったが、しかし、誰一人として、盃を手にする者はなかった。
「私が、日吉不動産に入社したのは、社長から、目下の処、社内は、いわゆる社長派、専務派、そして、常務派というようにわかれていて、非常に困る、ひとつ、片腕になってくれないか、といわれたからであります。勿論、私は、当時、別の会社に勤めていましたし、そんな実力もないからと、再三にわたって断ったのですが、結局、承諾をせざるを得ない羽目になったのであります。
そのかわり、私は、条件をつけました。入社する以上は、会社の業績を上げることも、必要であるが、それ以上に、社内の派閥をなくすることに全力をそそぎたい。換言すると、誰もが、気持よく働ける会社にしたい、その家族も安心していられるようにしたい、ということなのです。
社長は、了承してくれました。したがって、私は、今も、その目的に向かって、全力をそそいでいるつもりであり、今後も、その方針を絶対に変えない決心でおります。」
数人が、また、拍手をした。
「以上の点は、ここにいる岩田君を通じて、すでに、皆さんのお耳にいれてあると思うのですが、私は、ここで、あらためて、自分の口から、はっきり、申し上げておきます。」
龍太郎は、そこで一呼吸をいれてから、更に、言葉を続けた。
「ところで、こんど、組合から、五割の賃上げの要求が出ました、それについて、会社の方では、すでにご承知の通り二割までは譲歩したのであります。この二割という線については、私も、いろいろ、検討した結果、この辺が、いちばん、妥当であろう、と思っております。
しかし、組合の方では、あくまで、五割と主張して、譲らないのであります。」
この辺から、龍太郎の口調に、熱が帯びて来たようであった。
「このままでは、交渉が、決裂になる恐れがあります。私は、この決裂を、かならずしも、恐れていません。しかし、出来ることなら、皆さんの良識によって、この際、二割で呑んでいただけたら、と思うのであります。その方が、結局は、会社のためにも、また、皆さんのためにもいいのではないか、とも思っております。ここにいられる皆さんが、二割案を賛成してくださったら、組合の幹部諸君も、反省してくれるのではないか、と思って居ります。ただ、私は、特に、念を押しておきたいのは、組合が分裂したり、また、ご用組合になってほしい、と申し上げているのではなく、組合は、あくまで、皆さんの組合として、厳存していてほしいことであります。自主性を持っていてほしいのであります。」
そういって、龍太郎は、着席した。どこからともなく、溜息が洩れた。こんどもまた、厚子が、真ッ先に、拍手をしたので、ほかの人々も、それに和した。
次に、岩田が、立ち上がった。
「以上、部長のお言葉で、私が、先の会合でいったことが、嘘でなかったことが、確認されたろう、と思います。」
一人が、叫ぶようにいった。
「確認したよ。」
「どうも、有難う。ところで、私から、部長が、わざと自分で、おっしゃらなかった新事実について、申し上げます。私は、第一回の会合で組合が、散々、騒いだあげく、株主が動き出し、二割で呑もう、そのかわり、部長を追い出せ、ということになるかも知れない、といいましたが、どうやら、そういうキザシが見えて来たのであります。」
人々の面上に、緊張の色が走った。殊に、厚子は、まア、というように、龍太郎の方を見た。岩田も、多少、興奮した口調になって、
「この間、大阪の大株主持田氏が、突然に、会社へやって来たんだ。そして、二割なんて、以てのほかだ、といったんだ。それを、部長が、すでに、会社としては公表したことだから、と頑として譲られなかったんだ。そうしたら、諸君、持田氏は、なんといったと思う?」
誰も、答える者はなかった。話の途中から、盃を手にしていた者もあったのだが、それもやめて、岩田の次の言葉を待った。
「持田氏は、こういったんだ。よろしい、二割で我慢しましょう。そのかわり、もし、二割で、妥結しなかったら、あんたは辞めなはれ、とだ。そして、南雲部長は、辞めます、とおっしゃったのだ。」
重苦しい空気が、その場を流れた。一人がいった。
「もし、南雲部長が辞められたら、ここにいる者たちは、いったい、どうなるんだ。」
「そこなんだ。」
岩田は、力をこめていった。
「僕は、ここでは、体裁のいいことばかりはいわないよ。思った通りにいうよ。もし、今、南雲部長に辞められたら、われわれは、どんな冷遇を受けることになるか知れない。しかし、いったん、こんな会議を開いてしまった以上、もう仕方がない。だから、自衛上からも、南雲部長にいて貰わねばならぬ。」
「そうだ。」
「僕は、持田氏が動いたのは、偶然ではない、と思う。南雲部長の存在を、いちばん、嫌がっている社内の人物の陰謀だ、と思っている。そして、その人物は、組合の幹部を、あやつっているのだ。以上、なんの証拠もない。すべて、僕の想像だ。だが、この想像に、狂いがない、と思うんだ。」
そういって、岩田は、一同を見まわした。その中に、当惑している顔もないではなかった。しかし大半は、岩田の熱情に、押しまくられているようだった。そのうちの一人がいった。
「先を続けてくれ。」
「僕の見込みでは、その人物が、次に打ってくるテは、やはり、組合を使って、あくまで、会社案に反対させることだ。いや、五割の線は、一応、引っ込めるだろう。が、絶対、二割の線までは下げぬ。その中間を主張し、あくまで、闘争を続けて、結局、会社に譲歩させる。ということは、南雲部長を辞めさせることになるのだ。
だから、組合の幹部が、そういう方向に動いたら、そのときこそ、われわれは、本当に動くべきだ、と思うんだ。」
「方法は?」
「総会の開催を要求し、その席上で、堂々と論じあうのだ。」
「それでも、幹部が、聞かなかったら。」
「多数決による、現闘争委員の不信任案といく。」
「多数決で勝てるか。」
「それは、今日、ただ今からの、われわれの熱情如何による。」
「しかし、そんなことをしたら、われわれは、会社の手先のように思われないか。」
「一応は思われるだろう。しかし、さっきもいったように、自衛上、保身上、絶対、必要なことだ。更に、さっき、われわれは、南雲部長の信念を聞いたばかりだ。安心して、支持できると思う。」
結局、岩田の熱情が、この場の空気を、完全に、一つの方向に動かしたようであった。いろいろの意見が出たが、最後には、岩田にまかせ、その岩田の主張にしたがう、ということにきまった。
龍太郎は、さっきから、黙って聞いていたのだが、もし、岩田を大阪から呼ばなかったら、自分一人の力では、どうにもならなかったろう、と痛感しないではいられなかった。
そのあと、酒になった。座は、陽気になった。陽気だが、底に、一種の悲壮感が、流れているようだった。
「部長。」と、一人がいった。「社長は、昨日からお休みですね。どうか、されたんですか。」
「うん、ちょっと。」
「変な噂が、拡がっていますよ。オールドミスの正木さんも、昨日から休んでいるんです。いっしょに、どこかへ行ったんじゃアないか、というんです。こんな時にね。ご存じありませんか。」
人々は、いっせいに龍太郎の方を見た。
「いや、知らんね。そんなことはないはずだ。」
そういいながら、龍太郎は、社員たちの善太郎への不信を、まざまざと、見せつけられたような気がした。
喫茶店で、高子は、龍太郎の現われるのを待っていた。
すでに、八時を過ぎていた。しかし、高子は、九時、いや、十時まででも、ここで待っているつもりだった。
会社で、龍太郎に晩ごはんを誘ったとき、今夜は、会合があるからと、断わられたのである。しかし、その会合の目的を聞かされると、高子としても、その結果に、無関心ではいられなかった。一刻も早く、結果を聞きたいからと、ここで、八時に落ち合う約束をして貰ったのである。
勿論、それは、嘘ではなかった。しかし、高子の心の底にあるものは、今夜こそ、思い切って、龍太郎に甘えてみたかったのである。過去に、一度だって、そういうことをした覚えはなかった。そういうことのしたくなるような男性にめぐりあわなかったことも、一つの原因であろう。が、今は、龍太郎になら、それが出来そうな気がしていた。いや、しなければならぬと、さっきから何度も、自分の胸にいい聞かせているのであった。
高子が、ここへ来てから、すでに、三十分以上になる。その間に、いれかわり、立ちかわり、客が出入していた。多くは、アベックなのである。いかにも、睦まじそうに入って来て、顔を寄せ合って語り合い、時には、眼と眼で笑い合って、そして、寄り添うようにして出ていく。
高子は、羨ましかった。しかし、そういうアベックの中に、女の方はともかくとして、龍太郎ほどの男は、一人もいない、と思っているのだった。
龍太郎が、入って来た。すこし、酔ったような顔だが、歩きかたは、しっかりしていた。彼は、高子のテエブルの前にくると、
「どうも、お待たせしました。」といって、椅子に腰を下ろした。
「終りましたの?」
高子は、笑顔でいった。
「ええ、たった今。」
龍太郎は、寄って来た給仕に、
「レモンティ。それから、水を。」と、いってから、高子に、「あなたは?」
「あたしも、レモンティ。そして、お水を。」
「じゃア、おんなじだ。」
給仕が、去っていくと、高子は、やさしい口調で、
「お疲れになったでしょう?」
「いや、そうでもないですよ。なかなか、愉快な会でした。」
「じゃア、結果は、よかったんですのね。」
「ええ。」
龍太郎は、簡単に、今夜の会合の模様を話した。
「だから、後は、田所氏が、どう出るか、ということなんですよ。」
「大丈夫でしょうか。」
「そりゃアわかりません。」
「あたし、何んだか、心配になって来ましたわ。だって、南雲さんが、お辞めにならなければならないかも知れないんでしょう?」
「そう。」
龍太郎は、唇を噛んだ。
「あたし、そんなの、嫌ですわ。」
高子は、せいいっぱいの感情を込めていったつもりなのだが、龍太郎は、
「それより、変な噂を耳にしたんですが。」と、話題を変えるようにしていった。
「変な噂って?」と、高子は、聞き返した。
「社長が、正木さんといっしょに、旅行に出た、というんですよ。」
高子は、顔色を変えた。
「誰が、そんなことをいうんでしょうか。」
「今日、集まった社員の中に、そういう噂がひろがっていると、いう者があったんです。それで、僕は、知らん、そんなことはないはずだ、といっておいたんですがね。」
「…………。」
「正木さんも、昨日から休んでいることは、たしかなんです。しかし、僕は、それは偶然の一致であろう、と思っていたんですよ。」
「…………。」
「が、かりに、本当に、いっしょに、どっかへ行ったんだとしたら、ちょっと、困りますね。勿論、そんなことは、プライベイトの問題だから、放っとけばいいようなものの、それでは、社員たちが、承知しません。」
「…………。」
「これで、明日にでも、正木さんが、ひょっこり、出勤して来てくれると、いいんですがねえ。それに、正木さんは、あれで、相当、理性の勝ったひとですし、まさか、とは思っているんです。」
高子は、黙って、聞いていたのだが、ついに、いわずにはいられなくなった。
「正木さんだって、結局は、女ですわ。」
「と、おっしゃると?」
「兄に誘われたら、嫌とはいえなかったのだろう、と思いますの。」
「すると、あなたまで、社長が、正木さんといっしょだと思っていらっしゃるんですか。」
「はい。」
高子は、頷いて、
「あたし、ちょっと、気になることがあって、正木さんのアパートへ、お電話をしたんですのよ。」
「そうしたら?」
「昨日から、お留守なんです。」
「ふーむ。」
「恐らく、いっしょに行ったのに、間違いない、と思います。」
「だったら、困る。」
龍太郎は、不愉快そうにいった。
「ごめんなさい。」
「いや、何も、あなたにあやまられることはないですよ。」
「でも……。」
龍太郎は、高子の顔を見た。そんな龍太郎には、高子が、あまえていく隙が、まるで、ないようだった。高子は、かろうじていった。
「あなたにばかり、ご苦労をかけているんですもの。」
「そんなことは、いいんです。しかし、社長も、すこし、考え直して貰いたいな。」
「あたしから、一度、強くいってみますわ。」
「ええ。でないと、社員の心が、社長からはなれていきますよ。僕は、こうなったら、はっきり、いいますが、日吉不動産へ入社するまでは、一途に、田所氏が怪しからん、と思っていたんですよ。しかし、近頃は、すこし、考えが変りましたよ。田所もいけないが、社長もいけないんだと。」
「結局、兄には、社長になる資格がないんですのね。」
「いや、そんな意味でいったんではありません。」
「いいえ、あたしには、よく、わかってますの。」
「出ましょう。」
龍太郎は、立ち上がった。
二人は、外へ出た。新橋駅のガードの上を、窓々を明るくした汽車が、西へ向かって通っていった。それを見ると、高子は、兄と信子が、今頃、どこでどうしているだろうか、と思われてくるのだった。
そんな兄が、憎らしかった。が、結局は、あの兄は、信子によって、幸福を掴むのかも知れない、という気もした。
かりに、自分が、龍太郎から、このまま、どこか遠くへ行こう、と誘われたら、と思った。恐らく、何も彼も、打ち捨てて、行くのであるまいか。
だとしたら、信子を責めるわけにはいかないのである。高子は、そんな信子を羨ましいとさえ思った。
龍太郎は、歩みをとめて、
「すぐ、お帰りになるんでしょう?」
「南雲さんは?」
「勿論、帰りますよ。あなたは、タクシーでしょう? 拾ってあげましょう。」
龍太郎は、近寄って来る空のタクシーに、手を上げた。そして、自分で、扉を開いて、
「さア、どうぞ。」
高子は、乗らぬわけにはいかなかった。
「南雲さんも、お乗りになりません?」
「いや、僕は、電車で帰ります。」
「どうせ、たいしたまわり道じゃアないんですから、あたし、お送りしますわ。」
龍太郎は、ためらっている。高子は、重ねていった。
「ねえ、どうぞ。」
「じゃア、お願いします。」
龍太郎は、乗り込んで来た。
「青山へ。」と、高子がいった。
タクシーが動き出すと、龍太郎は、すぐ、煙草に火を点けた。せっかく、同じ車に乗りながら、彼には、高子との間に、一線を、わざと置いているようなところがあった。
それが、高子に感じられるだけに、情なかった。何んとかして、このひとの胸を、叩く方法がないものであろうか。
龍太郎の吐く煙草の煙が、高子の方へも、なびいてくる。しかし、彼女は、すこしも嫌ではなかった。むしろ、ひそかに、それを吸っているのだった。
「さっきの社長と正木さんの件ですがね。」
「ええ。」
「もし、本当に好きなのなら、隠れて遊ぶようなことはしないで、いっそ、正式に結婚してしまったらどうでしょうね。」
「そうなんですのよ。でも、恐らく、母は、許さないと思いますわ。」
龍太郎は、いつか、善太郎の家で泊まった朝のことを思い出した。そのとき、庭に出て、善太郎の母と、ほんのしばらく話したのだが、それだけで、救い難いひとだ、と思ったのである。
「しかし、社長だって、もう一人前の男ですよ。いつまでも、お母さんのいう通りになっていなくてもいいでしょう?」
「あたしも、そう、思います。」
「あなたが、味方なら、社長だって、千人力ですよ。」
「さア、どうですか。結局は、兄の決心しだいなんですから。」
「そりゃアそうですよ。」
タクシーは、龍太郎のアパートに近づいていた。あと一分もかからない。今夜は、このまま、別れてしまわねばならぬのだろうか。
高子は、思い切っていった。
「あたしね、ときどき、南雲さんを、今のアパートへご案内したときのことを、思いだしますのよ。」
「ああ、あの時は、本当に、びっくりしましたよ。あらためて、お礼を申し上げます。」
龍太郎は、軽く、頭を下げた。
「あら、お礼だなんて、嫌ですわ。そんな意味でいったんじゃアありませんわ。」
「しかし、お陰で、随分、たすかっていますよ。」
「あたし、もう一度、お部屋を見たい、と思いますわ。」
龍太郎は、答えなかった。
「ねえ、見せてくださいません?」
「お見せしますよ、もっとも、だいぶん、よごしてしまいましたが。」
「今夜、これから、いけません?」
「今夜?」
と、いってから、龍太郎は、運転手に、「おい、ストップ。」と、命じた。
タクシーは、きしみながら、停った。龍太郎は、扉を開いた。高子は、重ねて、いった。
「ねえ、今夜、いけませんの?」
「今夜は、いけません。」
「あら、どうしてですの? ほんのちょっと、お茶をいっぱい飲むだけ。」
「僕は、独身者ですよ。」
龍太郎は、笑いながら振り返って、
「独身者の部屋へ、こんな時刻に、レディが一人で訪ねてくるもんじゃありませんよ。」
「まア。」
「こんどは、お昼に来てください。」
そういって、龍太郎は、タクシーから降りた。
「じゃア、お別れの握手。」
高子は、手を出した。
「ほう、握手をするんですか。」
「そうよ。」
「では、握手。」
龍太郎は、高子の手に触れた。高子は、その龍太郎の手を、握り返そうとした。しかしその前に、龍太郎の手はするりと抜けていってしまった。
「おやすみなさい。」
龍太郎は、扉を、バタンと閉めた。
「おやすみなさい。」
タクシーは、動き出した。高子は、振り返ってみた。しかし、龍太郎は、さっさと、アパートの中へ、入っていってしまった。もしかしたら、見送ってくれているか、と思っていたのである。
高子は、両眼を閉じた。今、龍太郎に触られた手を、いつくしむように、胸に置いて、その上から、別の手を重ねた。
しかし、龍太郎の握手には、何んの情熱も込められていなかったことを、彼女は、知っているのだった。辛い思いが、こみあげてくる。いっそ、握手なんか、求めなければよかったのである。
(あたしって、そんなに魅力のない女なのかしら)
じいんと、涙のにじみ出てくる思いだった。
どんなにいわれてもいいから、このまま、タクシーを戻して、龍太郎のアパートへ行ってみたかった。そうしたら、まさか、龍太郎は、そのまま追い返すようなことはしないだろう。
タクシーは、そんな思いの高子を乗せて、夜の町を疾走していった。
善太郎と信子を乗せた汽車は、あと三十分で東京駅に到着する。
「楽しかったわ。」と、信子がいった。
「うん……。」と、善太郎は、頷いたが、すこし、疲れているようだった。
三、四日の予定が、結局、六日間の旅行になってしまったのである。はじめは、熱海で滞在するつもりだったのが、急に、気が変って、翌日は、名古屋に行き、更に、京都、大阪、奈良へと足をのばしてしまった。
眼を閉じると、その土地々々のことが、信子に、はっきり、思い出されてくる。自分の生涯に、そのような旅をすることがあろうとは、かつて、思ってもみなかったことである。ひょっとしたら、今が、一生のうちで、いちばん、幸せな時なのではあるまいか。
それだけに、信子は、過ぎ去っていく一刻々々が、惜しまれてくるのだった。
東京へ着いてしまえば、また、人眼を避けるようにしなければならない。しかし、旅先では、そんな気づかいは、一切、無用であったのである。ただ、大阪でだけは、支店の人に会わないかと、ちょっと、心配をした。
夜、御堂筋を歩きながら、
「あのビルが、うちの大阪支店なんだ。」と、善太郎が、おしえてくれた。
「そう……。」
信子は、五階建のビルを見上げて、
「支店は、何階ですの。」
「五階だ。」
「じゃア、あの灯のついているところが、支店ですの。」
「うん、残業をしているらしい。」
「まア、残業をしていらっしゃるんですの。」
信子は、足をとめた。残業をしている人たちもいるのに、自分は、遊んでまわっているのだ、と思うと、胸の中が、ほろ苦くなってくる。
同じ思いが、善太郎にもあったのか、
「行こう。」と、足早に、そこからはなれていった。
そのときのことが、信子に、妙に印象深く残っていた。
が、そのことさえ忘れたら、信子にとって、楽しいことばかりだった。信子は、もう一度、
「とても、楽しかったわ。」と、あまえるようにいった。
「うん。」
善太郎は、何か、別のことを考えているようだった。
「どうかなさいましたの。」
「いやね、明日から、また、会社へ出なければならん、と思うと、憂欝になってくるんだよ。」
「いけませんわ。こんどこそ、元気を出して、うんと、お働きにならないと。」
「わかっている。しかし、組合のことを思うと、面倒になってくるんだ。」
善太郎は、しんから面倒くさそうにいった。旅に出ているときでも、留守中のことは、気になっていた。しかし、今は、それを思うまい、と努めて来たのである。が、東京へ帰れば、嫌でも、組合の問題に直面しなければならない。
信子にも、善太郎の気持が、わかっていた。そして、善太郎の苦しみは、そのまま、自分の胸に、ひびいてくる思いだった。
汽車は、夜の新橋駅を通り抜けた。
二人は、八重洲口からタクシーに乗った。そして、東京のネオンは、やはり、どこよりも美しいようだった。
黙っている善太郎に、信子が、
「まっすぐ、お帰りになる?」
「そうだなア。」
信子は、このまま、善太郎を家へ帰すべきだ、と知っていた。しかし、一方で、離れたくなかった。いけない、と知りつつ、いつまでも、いっしょにいたかった。
信子は、そんな自分に、あきれてもいた。
(あたしって、昔は、もっと、きりっとした女であったはずなのに……)
善太郎を知ってから、このように、変ったのである。そして、このような変りかたは、かならずしも、善太郎のためにならないのだ、とわかっていた、本当に、善太郎のためを思うならば、ある場合には、思い切り、つっ放すことも必要なのである。これこそ、本当の愛情のあり方なのでなかろうか。
が、信子には、それが出来なかった。もし、わざとつっ放して、永遠にそのまま別れることになってしまったら、という思いの方が、いつでも、先に立ってくるのであった。
「ちょっと、アパートへ寄って、お茶を飲んでからお帰りになりません?」
「そうだなア。」
善太郎は、迷っている。
「ほんの十分か二十分だけ。」
「よし、そうするよ。」
「嬉しいわ。」
信子は、善太郎の指を求めた。善太郎は、すぐ、握り返して来た。しかし、それは、ただ、機械的にそうしただけであって、心は、別の方向で、さまよっているようであった。
一週間ぶりで戻ったアパートの部屋は、むっとして、カビ臭かった。信子は、すぐ、窓を開いて、新しい空気をいれた。
「寒いな。」
「ほんのしばらく。すぐ、しめますから。」
信子は、ガスストウブに火を点けた。
「どうぞ、お座りになっていて。」
「うん。」
信子は、お茶の用意にかかった。
その間、善太郎は、煙草を吹かしていた。ついで、自分で立って、窓を閉めた。
「すみません。」
台所から、信子がいった。
「いいよ。」
「すぐですから。」
「急がなくてもいいさ。」
善太郎は、座布団を二つに折り曲げ、それを枕にして、仰向けになった。
善太郎の眼の先に、母親と高子の顔が、ちらついていた。母親は、ともかくとして、高子の眼が恐ろしかった。
「遅くなりました。」
信子は、紅茶をいれて持って来た。
「うん。」
「どうなさったの。ねえ、元気を出してよ。でないと、あたしの方が、辛くなるんですもの。」
「君は、何んにも心配しなくていいんだ。」
「だって、そうは参りませんわ。」
「何時?」
「九時半ですわ。」
「九時半か。」
善太郎は、眼を閉じた。しばらくたってから、
「僕は、今夜、ここで泊まるよ。そして、明日の朝、ここから会社へ行くよ。」
翌日、善太郎が出勤すると、高子は、
「まア、お兄さん。」と、立ち上がって、「随分、長いご旅行でしたのね。」
「そうかね。」
「だって、一週間よ。三、四日とおっしゃっていらしたので、どうなさったのかと、とても、心配していましたのよ。」
「子供じゃアあるまいし、何も、心配することなんかないんだ。」
「いったい、どこへ、行ってらっしゃったの?」
「関西方面だ。」
「おひとりで?」
「きまってるじゃアないか。さっき、東京駅へ着いたばかりなんだ。」
「お母さんだって、心配していらっしたわ。すぐ、電話をしてあげて。」
「面倒くさいな。高子から、しといてくれよ。」
そういって、善太郎は、社長椅子に腰をかけた。善太郎は、自分の身辺を、何か、探るように見つめている高子の瞳が、まぶしくてならなかった。
「お兄さん。」
高子は、すこし、口調をあらためた。
「何んだい?」
「正木信子さんも、お兄さんが、お立ちになった日から欠勤していられます。」
「それが、どうしたというのだ。」
「だから、あたし、ひょっとしたら、ごいっしょだったのではないか、と思っていましたのよ。」
「バ、バカな。」
「でも、社内には、そういう噂が、ひろがっていますのよ。」
「けしからん。」
しかし、善太郎は、心の中で、ギクッとしていた。高子は、重ねて、念を押すように、
「本当に、おひとりでしたのね。」
「高子まで、僕を、疑ぐっているのか。」
「いいえ、おひとりだったのなら、それでいいんです。」
「じゃア、それで、いいではないか。」
「でも、お兄さんは、正木さんを、お好きなんでしょう?」
「いや。好きでも、嫌いでもないさ。」
「好きでも、嫌いでもないひとと、どうして、いっしょに歩いたりなさったの。」
「昔のことだ、それも、あの女が、僕に、いろいろ、組合の情報を提供してくれたから、ただ、利用したんだ。」
「今は?」
「無関係だ。」
「あたしには、そうは、思われないんだけど。」
「高子の思い違いだ。」
善太郎は、あくまで、シラを切るつもりでいた。が、帰ってくる早々、高子に鋭く詰め寄られて、スネに傷を持つだけに、面白くなかった。怒ったように、
「もう、そんな話はよせ。」
「よします。でも、お兄さんが、万一、かりに、正木さんをお好きなのなら、今後は、隠れて遊んだりしないで、もっと、堂々とした行動を取ってください。」
「それは、どういう意味だ。」
「結婚なさるのよ。」
「結婚?」
善太郎は、思いがけないことを聞かされたような気がした。実は、そこまで考えたことは、一度もなかったのである。咄嗟に、
「バカバカしい。」と、いったとき、龍太郎が、社長室へ入って来た。
「お帰りなさい。」と、龍太郎がいった。
「よう。」
善太郎は、わざと、明るく答えてから、
「今ね、高子から、意見をされていたところなんだ。」
「ほう。」
「旅行が、長過ぎた、というんだ。」
「それなら、私も同感ですよ。毎日、お待ちしていました。」
「君まで、そんなことをいうのか。」
「それ、ご覧なさい。」
「高子は、もう、黙っていてくれ。」
「早速ですが、すこし、お話ししたいことがあるんです。」
「もう、仕事の話かい?」
善太郎は、眉を寄せるような嫌な顔をした。しかし、龍太郎は、かまわずに、
「例の組合との問題なんですが。」
「その方の問題なら、君にまかせるよ。よろしく頼む。」
「まア、聞いていただきましょう。いよいよ、微妙なところに立ちいたったのです。」
「…………。」
「今日、組合の臨時総会が、開かれることになりました。その総会の席上で、あらためて、社員たちの意見も聞いて、最後的な態度を決定しようというのです。」
「最後的な態度とは?」
「会社案を呑むかどうか、ということです。」
「まだ、そんなことをいってるのかね。」
「しかし、ここまで漕ぎつけるのに、大変だったんですよ。岩田君が、社員の間を説いてまわり、その上で、組合の幹部たちのところへ行って、総会の開催を要求したんです。」
「…………。」
「委員長は、はじめは、そんな必要がない、といって反対したんだそうです。君は、われわれ闘争委員を信頼できないのか、と怒鳴ったそうです。岩田君も負けていずに、大激論になり、あげく、やっと、総会を開く、というところまで漕ぎつけたんです。」
「すると、君は、岩田を買収したのかい?」
「買収?」
なんという嫌な言葉を使うのだと、龍太郎は、不愉快だった。すこし、強い眼で、善太郎を見返した。
善太郎は、ちょっと、あわてて、
「まア、言葉は、悪かったかしれないが。」
「そうですよ。そういういい方をされたんでは、僕は、ともかくとして、岩田君が、可哀そうですよ。」
「わかったよ。」
「岩田君は、会社のため、そして、そのことは、自分たち、社員のためにもなると思って、一所懸命になっているんですよ。」
「わかったよ。しかし、もし、総会で、組合が、会社案をそのまま呑むことに反対する、ときまったら、どうなるんだね。」
「今後の団体交渉は、その線で、行われることになりましょうし、あるいはストということになるかもしれません。」
「面倒くさいなア。」
「仕方がありませんよ。」
「何んとかならないのかね。」
「ここまで来たら、闘うだけです。すべては、今日の総会の結果を見てから、ということにしましょう。」
「もし、会社側が、いくらかでも譲歩せざるを得ない羽目になったら?」
「私は、辞めなければなりません。」
そういって、龍太郎は、ついでに、高子にも黙礼を残して、社長室から出ていった。
組合の総会が、大会議室で開かれようとしていた。数十人の社員たちが、緊張した面持で、続続と集まってくる。
厚子は、大間の横で、胸をドキドキさせていた。
「ねえ、大丈夫かしら?」
「さア……。」
「もし、ここで、岩田さんの主張が通らなかったら、総務部長さんは、お辞めにならなければならないんでしょう?」
「そうだ。」
「あたし、そんなの嫌だわ。」
厚子は、身をもむようにいって、
「第一、せっかく、九州からいらっしたのに、そんなことになっては、可哀そうだわ。」
「うん。」
「だから、大間さんも、がんばってね。」
大間は、心の中で、苦笑していた。
彼には、まだ、この厚子の心の中が、よく、わからないのである。
いつか、厚子は、あこがれと恋とは、違うのだ、といったことがある。それは、彼女の場合、龍太郎に対して、あこがれてはいるが、恋しているのではない、という意味であった。
果して、本当にそうなのか。が、かりに、本当にそうであったとしても、だからといって、厚子が、大間を好きだ、ということにはならないのである。
大間は、厚子が、好きでたまらなかった。もみくしゃにしてやりたいほど、好きになっていた。結婚したい、と思っている。しかし、大間には、まだ、それを口にする自信は、なかった。
いっそ、龍太郎がいなくなったら、厚子の心が、ぐっと、自分の方へ傾いてくれるのであるまいか――。
返事をしない大間に、厚子が、重ねて、
「ねえ、がんばってね。」
「わかってるよ。」
「あら、正木さんも、見えているわ。」
「どこに?」
「ほら、あそこに。」
厚子の指さす方向を見ると、信子は、腕を組むようにして、立っていた。そういう信子の姿には、社内随一のオールドミスの貫禄が、十分にそなわっているようだ。そして、近頃の信子には、なんともいえぬ、一種のみずみずしさが現われて来たようである。社員の誰彼が、信子の方を盗み見していた。
「あの噂、本当かしら?」
「社長とのことかい?」
「そうよ。だって、社長さんも、今日からご出勤なのよ。」
「ひょっとしたら、本当かも知れないね。」
「本当だったら、大変だわね。」
厚子は、本当に、大変のような顔をしてみせた。が、そこには、女の嫉妬にも似た心が、動いているようでもあった。
こちらの気配を感じたのか、信子は、二人の方を見た。そして、静かに、微笑んでみせた。厚子は、ピョコンと頭を下げた。
信子は、組合の代議員ではあったが、闘争委員からは、のぞかれていた。
開会の時刻が、迫っていた。
あちらこちらで、私語が、行われていた。岩田たちの動きは、すでに、社内周知のことだった。だから、今日の総会は、荒れるに違いない、と予想されていた。
その岩田は、両眼を閉じ、唇を噛みしめるようにして、開会を待っていた。
一角から拍手が起り、それが、全員の拍手と化していった。
開会が宣せられた。
一同が、固唾を飲んでいる中に、委員長の犬丸が、登壇した。彼は、先ず、ニッコリ笑ってみせてから、
「先日来、われわれは、会社に対して、五割の賃上げの要求をして来たことは、すでに、皆さんのご承知の通りであり、また、それに対して、会社側が、たった二割なら認める、と回答して来たことも、ご承知の通りであります。しかしながら、五割に対して二割では、問題にならん、と思うのであります。」
誰かが、そうだ、と叫んだ。犬丸は、すぐ、その言葉を引き取って、
「本当に、そうだ、その通り、であります。」
数人が、笑った。しかし、大部分は、耳を傾けている。
「それで、われわれは、第一回の団体交渉の席上で、この点につき、会社側に対して、鋭く詰め寄ったのですが、どうしても、聞きいれないのであります。その態度たるや、われわれ、社員の生活に対する無理解さを露出し、まことに、頑冥そのものでありました。しかし、われわれは、あくまで、五割の要求を通すつもりでありました。何故なら、これが、最低の要求であったからであります。」
そういって、犬丸は、人々の顔を見まわした。
「委員長、先を続けてくれ。」
「続けます。ところが、近頃になって、実に遺憾なことが起って参りました。即ち、われわれの団結を破壊せんとする動きであります。察するに、この動きは、会社側の策動によるものに違いありません。」
「誰だ。裏切者の名をいってくれ。」
「それは、この席では、申し上げられませんが、要するに、そういう裏切者がいる、ということだけは、はっきり、申し上げておきます。」
そういって、犬丸は、岩田の方を、ジロリと見た。しかし、岩田は、相変らず、眼を閉じたままで、眉毛ひとつ、動かさなかった。
「そんな裏切者を出した、ということは、即ち、われわれ、闘争委員の不徳のいたすところでして、深く、お詫び申し上げます。が、私の信念は、以前とすこしも変らないのであります。裏切者が出たため、却って、会社側への闘志をそそられた、といってもいいのであります。」
「委員長、たのもしいぞ。」
「これから、ますます、たのもしくなるつもりであります。さて、本論に入ります。私は、この席上で、あらためて、皆さんの真意をたしかめたいのであります。即ち、万難を排して、あくまで、五割の線で押し通すか、それとも、解決を早めるために、多少の譲歩をするか、ということであります。先にもいったように、私は、五割で押しまくりたいのです。それにはストをも覚悟しなければなりません。ストを恐れていては、われわれの生活の向上は、永遠に望めません。しかし私は、皆さんの意志を、尊重します。では、五割の線をあくまで、死守する、という意見のお方は、手を上げてください。」
「五割だ。」と、いって手を上げたのは、たった二人であった。その男たちは、さっきから、しきりに、犬丸を激励していたのである。
流石に、犬丸も、苦笑していた。同時に、彼は、うっかりすると、岩田の主張する二割説が、この場の勝ちを制することになるかも知れないと、それを恐れずには、いられなかった。彼は、戦術を変えて、一気に、結論を急ぐことにした。
「よし、諸君の気持は、だいたいわかった。じゃア、後は、私にまかして貰いたい、決して、悪いようにはしない。」
岩田が、鋭い口調でいった。
「委員長。」
「何んだね。」
犬丸は、わざと、面倒くさそうに答えた。
「さっき、委員長がいった裏切者というのは、恐らく、この僕のことであろう、と思うが、その僕から、申し上げたいことがある。」
「すると、君は、自ら、裏切者であることを認めるのか。」
「認めるとか、認めぬとか、そういうことでなしに、要するに、見解の相違だ、と思う。さっき、委員長は、後は、自分にまかして貰いたい、といったが、いったい、どうまかして貰いたいのか、もっと、具体的にいって貰いたい。」
「君は、僕が、信頼できない、というのか。」
「信頼できない。たとえば、さっき、君が、あんなに強く主張した五割説を支持した者は、これだけの人数の中で、たった二人ではないか。ということは、委員長としての君の足が、宙に浮いていたことになる。」
「失敬な。」
犬丸は、憤然としていったが、急所を衝かれたように、あわててもいた。
「僕は、もっと、具体案を聞かない限り、まかせるわけにはいかない。」
岩田は、冷静にいってから、周囲を見まわすようにして、
「諸君、どうであろうか。」
緊張していたその場の空気が、急に、乱れて、
「そうだ、具体案が聞きたい。」
「いや。あくまで、委員長にまかせろ。」
と、いう声が、あちらこちらで起った。
しかし、具体案が聞きたい、という声の方が、圧倒的だった。
犬丸は、蒼白になっていた。
「よし、わかった。諸君、鎮まってくれ。勿論、僕に、具体案があるのだ。しかし、ここで、それをいうことは、会社側に対して、不利だと思ったから、わざと、まかして貰いたい、といったのである。僕は、まかして貰ったら、きっと、諸君に有利なように解決してみせる自信がある。」
「いや、僕としては、あくまで、具体案が聞きたい。」
と、岩田は、食い下がった。
犬丸は、憎々しげに、岩田を見て、
「だから、君は、裏切者なのだ。」
「しかし、君には、さっきの具体案を聞きたい、といった声が、圧倒的に多かったことは、無視できないはずだよ。組合員の大多数が、そういう意見なら、委員長は、それにしたがう義務がある。」
「よし、仕方がない。」
と、いってから、犬丸は、一同の方を見て、
「諸君、僕は、戦術の不利だが、敢えて、ここでいうことにする。僕は、譲歩の限度を二割五分だ、と思っているのだ。本当は、先ず、四割まで譲歩する。と切り出して、二割五分で、妥協するつもりだった。」
あちらこちらで、
「二割五分、二割五分……。」と、いう声が聞えた。
犬丸は、一段と声を張り上げて、
「諸君。僕は、こうなったら、いきなり、二割五分、ということで、会社に交渉する。しかし、この線こそ、最低であると信じている。会社としては、たった五分の譲歩だ。しかし、組合にとっては、二割五分もの譲歩だ、僕は、非常に残念である。僕は、今、五割は無理だったとしても、ひょっとしたら、三割、あるいは、四割の賃上げが獲得できたかも知れぬ貴重なチャンスを、飛んでもない、そしてまるで、思慮のない発言によって、みすみす、失ってしまったことを、悲しいと思っている。」
そこで、犬丸は、ちょっと、思いいれをしてみせてから、
「しかし、諸君。二割五分の線だけは、あくまで、死守しようではないか。僕は、組合の面目にかけても、これだけは、死守すべきだと思う。」
そのとき、
「反対だ。」と、叫んだ者があった。
人々は、いっせいに、その方を見た。
大間であったのである。彼は、人々に見られて、ちょっと、てれたようであったが、しかし、横の厚子から、
「大間さん、しっかり。」
と、いわれると、重ねて、
「僕は、反対だ。」と、叫んだのである。
「理由をいえ。」と、犬丸が、憎らしげにいった。
「僕は、もし、こんどの賃上げが、二割で妥結しなかったら、南雲総務部長が、その責任を負って、辞めなければならない、ということを聞いている。」
「バカ。君は、いったい、会社側なのか、組合員なのか、よく、考えてみろ。そんなことは、われわれに、無関係なんだぞ。」
しかし、大間は、ひるまなかった。
「でも、僕は、南雲さんは、この会社に、絶対、必要な人だ、と思っている。あの人は、社内から派閥をなくそうと努力しているんだ。日吉不動産から、南雲さんを失うことは、僕たちが、ここで、たった五分の賃上げの権利を失うよりも、もっともっと、重大な損失だ、と信じている。」
「血迷ったのか。やめろ。」
「いや、僕は、いうよ。南雲さんは、大株主が、二割の賃上げですら反対したのを、強引に押し切ってくれたのである。僕は、あくまで、南雲さんを支持する。」
厚子は、そんな大間を、あきれたように見ている。が、その瞳には、かつて現わしたことのないような、うっとりするような感情が漂うていた。
岩田もまた、大間が、これほど、勇敢に発言してくれようとは思わなかったのである。岩田は、近寄っていって、よくいってくれた、と肩を叩いてやりたいほどの気持であった。
正木信子も、大間の方へ、感謝の瞳を送っている。
大間は、まだ、興奮しているようである。が、その大間の発言は人々に、大きな影響をあたえたようであった。それを素速く見てとった岩田は、
「委員長。二割か、二割五分か。多数決によって、決めて貰いたい。」
龍太郎は、自分の席で、組合の総会の終るのを待っていた。
何か自分の運命の、決せられる瞬間が、刻々に近づいてくるような不安を、覚えていた。
が、一方で、組合が、どうしても、二割で承知しない、といったとしても、あくまで、その線で、押しまくってみるつもりだった。それで、ストにまで発展しても、仕方がない、と思っていた。
しかし、ストに入った場合、田所が、どのように動くかが、心配でもあった。
近頃の田所は、うわべは、何食わぬ顔をしているのである。が、裏へまわって、組合の犬丸や中津をあやつっているに違いなかった。自分が、直接、犬丸や中津に指示をあたえることはないとしても、山形人事課長に、それをやらせているのだ。龍太郎は、そう見ていた。
扉が開いて、岩田が、小走るように入って来た。その顔は、笑っていた。
「部長、勝ちました。」
「じゃア?」
「たった今、組合は、二割の線で呑もう、ということにきまったのです。尤も、僅かな差でしたが、とにかく、勝ちました。」
「そうか、ありがとう。」
龍太郎は、思わず、岩田の手を取った。岩田は、すぐ、握り返して来た。
「いえ、私よりも、大間君が、大変な発言をしてくれましてね。」
岩田は、簡単に、大間の発言の内容を話した。
「そんなことまでいったのか。」
「ええ、それがよかったんです。ということは、部長が、社員たちから、それだけ、信頼されている証拠だ、と思うんです。」
果して、自分は、それほど、信頼されるに足る人間であろうか、という反省が、龍太郎の胸を掠めた。
が、龍太郎は、すぐ、立ち上がって、
「ちょっと、ここで、待っていてくれたまえ。社長が、心配していられるはずだから、僕は、すぐ、報告してくる。」
「どうぞ。」
龍太郎は、事務室から、出ていった。廊下には、相変らず、賃上げ要求のビラが、貼ってあった。龍太郎は、それを横眼で見ながら、秘書室へ急いだ。今は、そのビラも、過去のこととして、眺められるのであった。
秘書室には、高子がいた。
「社長は?」
「それがねえ。」と、高子は、顔をしかめて、「たった今、帰ったんですよ。」
「帰った?」
「ええ、旅行の疲れか、頭痛がするから、というんですよ。」
「では、組合の決議も聞かないで?」
「ええ、何んだか、まだまだ、長びくようだから、先に帰るけど、わかったら、すぐ、知らしてくれ、といって。」
龍太郎は、むっと、黙り込んだ。
「すみません。」
「いや……。」
「で、決議は、どうなりましたの?」
「どうか、お帰りになったら、いってあげてください。岩田君や大間君の努力で、組合は、二割の案を呑むことに決定しました。」
「まア、よかった。」
「じゃア、僕は、岩田君を待たしてありますから、これで、失礼します。」
そういって、龍太郎は、さっさと、秘書室から出て行ってしまった。
大間と厚子は、夜の町を歩いていた。
総会が終ってから、厚子が、
「ねえ、晩ごはんを食べましょうよ。今夜は、あたしがおごるわ。」と、いったのである。
「本当かい?」
「勿論よ。だって、今日の大間さん、とても、立派だったんですもの。あたし、すっかり、見直したわ。」
「見直したか。」
大間は、威張ったようにいった。
「ええ。」
厚子は、素直に頷いた。厚子が、大間に対して、こんなにも素直になることは、めったにないことなのである。
「よし、行こう。」
それから、二人は、銀座へ出た。いつもの中華そばでなく、今夜は、とんかつを食べたのである。大間は、気の毒がって、
「やっぱり、僕が、払うよ。」
「いいわよ。今夜は、あたしが払う。そのかわり、今夜だけよ。」
そのあと、二人は、また銀座を歩いたのだが、いつか、暗い方へ、暗い方へと歩いていた。
気がつくと、二人は、日比谷公園のベンチに腰をかけていた。夏とは違って、あたりに、人影がすくなかった。表通りを走る自動車の警笛の音が、しょっちゅう、聞えてくるのだが、しかし、二人にとっては、すこしも、気にならなかった。恐いとも思わなかった。
「ねえ、どうして、今日の総会で、あんな発言をする気になったの?」
「本当をいうと、君に、がんばれ、といわれていたし、岩田さんが、一人で奮闘しているのを見ているうちに、僕も、何か、いいたくなったんだ。」
「偉いわ。素晴らしかったわ。」
「それに……。」
「それに、どうしたの?」
「君は、南雲さんを好きなんだろう?」
「そうよ。」
「僕も、好きなんだ。その好きな南雲さんを、あんなことで辞めさせてはいかん、と思ったんだ。」
「わかるわ、その気持。」
月はなかった。星が、いちめんに光っている。二人は、寒いとも思わなかった。いつの間にか、二人の距離は、ちぢめられていた。
大間は、ときどき、生ツバを、厚子に聞えないように、ゴクンと飲み込んでいた。この厚子にたいしては、かねてから、聞いてみたいことがある。今夜なら、それを聞くことが出来そうな気がしてきた。が、さてとなると、やっぱり、ためらわれるのである。
(そうだ。今日、組合の総会で発言したときのような元気を出せばいいんだ)
大間は、思い切っていった。
「君は、南雲さんを好きなんだろう?」
「さっき、そうよ、といったばかりじゃアないの。」
「じゃア、僕は?」
「……好きよ。」
「南雲さんと、どっちが、よけいに好きなんだ。」
厚子は、ハッとしたように、黙り込んだ。大間は、心配になって来た。膝を寄せるようにしていった。
「ねえ、はっきり、いってくれ。僕は、それで、決心するよ。」
「…………。」
「僕は、君が、大好きなんだ。」
しばらくしてから、厚子は、やさしい口調でいった。
「あたしもよ。大好き……。」
二人が、最初の接吻をしたのは、それから、数分の後であった。
田所は、柳橋の『月光亭』の前で、自動車から降りた。出迎えに出た女中に、
「会社の山形君、来ているかね。」
「はい、さっきから、お待ちになっています。ほかに、お二人様がごいっしょに。」
「二人?」
田所は、聞き返したが、すぐ、その二人とは、組合の委員長と副委員長であろう、と察しがついた。
田所は、用事があって、午後から、会社を出たのである。が、組合の臨時総会の結果が、やはり、気になっていた。
山形人事課長は、
「大丈夫ですよ。とにかく、ちゃんと、手を打ってあるんですから、お言葉通り、二割五分で呑もう、ということになるはずです。」と、楽観的にいったのである。
田所は、例によって、感情を顔に出さないで、
「二割五分だな。」
「それで、南雲を辞めさすことが、出来るんでしょう?」
「…………。」
「絶対、大丈夫ですよ。」
「とにかく、今夜、わしは、柳橋の『月光亭』に行く。八時頃になる、と思うが、結果を聞かせに来てくれ。」
「承知しました。祝盃ということになりますな。」
山形は、ニヤリとしていった。
だから、田所には、山形が一人で来ている、というのなら話がわかるが、犬丸と中津までがいっしょなのは、その理由がわからなかった。もっとも、山形からは、前に、
「あの二人には、相当、無理な苦労をさせていますから、そのうちに、慰労をしてやって、いただけませんでしょうか。」と、いわれている。
「慰労の方なら、そのつど、君から、十分にしてやってあるはずだが。」
「そうなんです。でも、やっぱり、一度は、専務からじきじきの方が、それだけ、効果がありますから。今後のこともありますし。」
「考えとこう。」
田所は、そのときのことを思い出し、それでは、今夜、その慰労をしてやってくれ、という意味なのだろうか、と考えた。
ふっと、そういう山形の独断が、苦々しく感じられた。しかし、そのあとで、
「まア、勝手に飲ましとけばいいんだ。とにかく、これで、南雲を辞めさすきっかけが出来たとしたら、会社のことは、以後、わしの思うがままだ。あんな社長は、問題でない。」
そして、また、
「この機会に、社内の大異動をやることにしよう。岩田は、辞めさせる。新橋のおでん屋に集まったという連中には、それぞれ、思い知らせてやろう。それくらいのことをしておかないと、今後、くせになるからな。」
田所は、そんなことを考えながら、長い廊下を歩いていった。
先に立っていた女中が、襖を開いた。その気配に、中の三人は、さっと、座り直したようであった。そして、田所が、入っていくと、山形が、ハッと、畳の上に、両手をついた。そして、山形よりすこしさがって、犬丸と中津が、これまた、同じ姿勢を取ったのである。
「どうしたのだ。」
田所は、床の間の席に座りながらいった。しかし、三人とも、顔を上げようとはしなかった。
「どうしたのだッ。」
田所は、語調を強くした。
別の部屋から、三味線の音が聞えていた。
山形は、いちだんと、頭をひくくしながら、しぼり出すような声で、
「専務、申しわけありません。」
「なに?」
流石に、田所の顔色が、変りかけた。しかし、彼は、それをぐっとおさえて、
「もっと詳しく、いってみたまえ。」
「二割、二割ということに……。」
「二割にきまったのか。」
「はい。」
一瞬、田所は、呼吸をつめるようにしてから、
「よし、わかった。」
山形は、田所のいい方が、思いのほかに、淡々としているので、ホッとしたらしく、やっと、顔を上げた。
「それで。」
「…………。」
「それで、私だけでは、説明が不十分なので、この二人をいっしょに連れて来たのであります。」
そういってから、山形は、叱りつけるように、
「犬丸君。君から、今日の総会の模様を、専務に、詳しくご報告申し上げたまえ。君の責任だぞ。」
「はい、実は……。」
犬丸は、蒼白になっていた。もう、冷汗を流しているようである。
「総会の方は、はじめのうち、うまくいきかけていたのですが、急に、岩田が――。」
「よしたまえ。」
犬丸は、口をつぐんで、不安そうに、田所を見た。
「それ以上、わしは、聞く必要がないのだ。もう、帰ってよろしい。」
田所は、つっ放すようにいった。
「えッ?」
「帰りたまえ。」
「はい。」
二人は、悄然と、腰を上げた。
「山形君。」
「はい。」
「君も、いっしょに、帰りたまえ。」
「あの、私もですか。」
「それとも、なにか、わしに、別な用があるのか。」
「いえ。」
「じゃア、帰りたまえ。これから、わしは、ほかに用があるのだ。」
「はい……。失礼します。」
「ご苦労。」
帰りかけた三人に、田所が、
「山形君。キャバレエ・トウキョウで、わしの勘定で、飲んでゆきたまえ。」
「よろしいんでしょうか。」
山形の顔に、安堵の色が、現われた。しかし、田所は、もう、別のことを考えているように、返事もしなかった。
三人が、その部屋から出て行ったあとも、田所は、唇を噛みしめるように、考え続けていた。三人に、いれかわるように、千世龍が、入ってきた。
田所は、すぐ、大阪へ電話をかけさせた。やがて、その電話が出ると、片腕で、千世龍の肩を抱きながら、
「持田さんですか。こちらは、東京の田所です。恐れいりますが、ご主人に、ちょっと、電話口まで、お願いしたいんです。」
しばらく、待たされてから、
「ああ、持田さん、夜分に、どうも。田所です。今、家から電話をしているんですが、例の賃上げの件、組合が、二割で呑むことになりました。そうなんです。南雲を辞めさせるわけにはいかなくなりました。はッはッは。でね、こうなったら、やはり、例の方針で進むより仕方がない、と思うんですが、ひとつ、ご協力を願いますよ。ええ、そうなんです……。」
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テエブル・スピーチ
T会館で、青田の結婚披露宴が、華やかに行われていた。
来客が、百名に及んでいるのは、青田、岩井両家の社会的地位と名声を、雄弁に物語るものであろう。友人として、龍太郎、善太郎、そして、高子も招かれて来ていた。
男二人は、会社からすぐ来たので、平服のままだが、高子は、いったん、家に帰って、黒のアフターヌーンに着換えて来ていた。真珠の首飾をつけて、よく、似合っている。それは、人々の注目を集めるに足る美しさであった。
三人とも、同じテエブルについていた。花婿の青田の席から、それほど、遠くはない。彼は、龍太郎の方を見て、ニヤリと笑ってみせた。龍太郎もまた、ニヤリと笑い返してやった。
(おめでとう)
と、いうようにである。
花嫁の節子は、いかにも、幸せそうであった。
龍太郎は、ふっと、和子のことを思い出した。チクリと、胸に痛みを覚える。青田と和子との結婚に反対したのだった、ということが、いつまでも、彼の胸に、しこりのように残っていた。
が、青田も、あの和子と結婚したのであったら、こうも華やかな披露宴をもうけることが、出来なかったかもしれないのである。
龍太郎は、豪華な天井のシャンデリヤを眺めながら、
(しかし、披露宴の華やかさなど、一時的のものだ)
と、思ってみるのだった。
いい例が、横にいる善太郎である。彼が、三年前に美和子と結婚したときの披露宴は、今日よりも、もっと、華やかであった。しかし、結果は、一年にして、破局を招いているのである。
大切なのは、披露宴の華やかさよりも、相互の愛情と理解なのだ。
龍太郎は、青田のために、その結婚生活が、幸せにいくように、と思わずにはいられなかった。そして、青田と節子なら、きっと、うまくいくに違いなかろう。
「何を考えているのだ。」と、善太郎がいった。
龍太郎は、夢から醒めたように、
「僕の結婚式には、こういう晴れがましい披露宴は、苦手だな、と考えていたところなんだ。勿論、そんな金もないし、来てくれる人もないから、その心配はないのだが。」
「そんなことを考えるようでは、君も、そろそろ、結婚するのか。」
「当分、それどころではないな。」
「どうしてだ。」
「仕事第一だよ。」
龍太郎は、笑いながらいった。しかし、善太郎は、すこし、顔色を変えた。
「君、そんないい方は、不愉快だよ。」
「不愉快?」
「そうだよ。君は、仕事のために、わざと、自分の結婚も延期しているように聞えるよ。それでは、社長としての僕が、どうも、申しわけありません、といわねばならなくなるじゃアないか。」
「とんでもない。そんな気は、毛頭もないんだ。」
「しかし、僕には、そういうように聞えるよ。」
善太郎は、からみつくようにいい続けた。
それまで、黙って聞いていた高子は、たまりかねたように、
「お兄さん、そんないい方は、南雲さんに対して、失礼よ。」
「お前は、黙っていろ。」
いつになく、善太郎は、強硬だった。
善太郎は、高子の心を、知っていた。一時は、高子と龍太郎を結婚さしたら、と思ったこともあった。
しかし、今は、むしろ、そうなることを、彼は、恐れていた。
かりに、そうなったとしたら、日吉不動産株のうち、高子の名義になっている十万株は、龍太郎の所有ということになる。当然、龍太郎を、重役の一人に加えねばならないだろう。それが、嫌だった。今でさえ、社内に於ける龍太郎の人気が、自分とは、比較にならぬほど、大きいのである。その龍太郎が、重役陣に加わったら、自分の地位は、いったい、どうなるのか。
善太郎は、そんなことを考える自分を、女々しいとも、また嫉妬深いのでなかろうか、とも思わぬではなかった。が、どうにもならないのである。今や、彼は、龍太郎でなしに、もっと別の男を、入社さした方がよかったかも知れない、とさえ思っているのだった。
高子は、兄の剣幕に、ちょっと、たじろいだようだったが、すぐ、立ち直って、
「こんな場所で、そんな話、いけませんわ。」
「しかし、南雲から、いい出したことだよ。」
「いや、悪かった。」
龍太郎は、不愉快さをこらえながらいった。ただ、誰も、こちらの方に、注意していないらしいことが、せめてもの幸いであった。
「ついでだから、僕は、いっとくが。」と、善太郎がいった。
「どうぞ。」
「僕は、いよいよ、明日にも、田所に、今期限りで、辞めて貰うようにいうよ。」
「えッ?」
「僕からいう。」
「しかし、それは、もっと、ようすを見て、慎重にした方が、いいんじゃアないですか。」
「どうしてなんだ。僕は、社長だし、その権利がある。」
恐らく、善太郎は、組合との問題で、田所に勝ったので、もう、安心だ、と思っているのだろう。しかし、龍太郎は、田所を、そんなことぐらいで、退散する男だとは、思っていなかった。だからこそ、今日まで、黙って、彼の出方を、見ていたのである。
「こんどは、君の手を借りぬから、安心していてくれたまえ。」
「そりゃアいいんですが、どうしても、今期限りで、辞めさせるんですか。」
「そうだよ。あの男が、日吉不動産にいる限り、社内の平和を保つことは出来ないんだ。」
「その点では、私も、同感ですが、しかし――。」
「だから、こんどは、君は、黙って、見ていてくれたらいいんだ。」
「わかりました。」
龍太郎としては、そういうより、仕方がなかった。しかし、その結果、何か、取り返しのつかぬことが起りそうな予感がしてならなかった。
そのとき、周囲で、拍手が起った。
「南雲さん、あなたよ。」と、高子がいった。
いつの間にか、テエブル・スピーチが、はじまっていて、龍太郎が、指名されたのである。
龍太郎は、立ち上がった。ただ、テエブル・スピーチをするにふさわしい心境でないことが、残念であった。
人々は、彼の方を見ている。龍太郎は、一呼吸をいれてから、喋りはじめた。
「新郎の青田君は、私の学生時代からの友人であります。私は、彼を、文句なしにいい男だ、と信じて居ります。私は、彼が大好きです。しかし、われわれの間では、彼を、ヤブさん、と呼んでいるのであります。」
笑い声が、起った。龍太郎は、チラッと、青田の方を見た。青田は、
(こら、変なことを喋ったら、承知せんぞ)
と、いうように、彼の方を見ていた。
が、龍太郎は、そのあとを続けた。
「もっとも、青田は、ヤブさん、と呼ばれても、一向に怒りません。これは、彼が、大人物である、というよりも、自らを知るせいだ、と思って居ります。その証拠に、彼は、すこし、自分で都合が悪いことがあると、どうせ、僕は、ヤブさんですからね、というのであります。まことに、愛すべき友人なのであります。」
拍手が起った。
「しかし、このヤブさんも、こんど、良縁を得て、結婚したからには、一人前になって貰わねばなりません。いつまでも、ヤブさんでは、周囲が迷惑をします。そして、私は、青田なら、きっと、一人前の人間になるに違いない、と思っています。医者として、良人として、そして、友人として、どうか、一日も早く、ヤブさんでなくなるよう、私は、心から祈って居ります。」
そこで、龍太郎は、ちょっと、言葉を切ってから、
「この際、花嫁さんにも、ちょっと、申し上げたいのであります。青田が、こんどの縁談が起ったとき、私に、花嫁さんのお写真を見せて、どうであろうか、といいました。そのとき、私は、一目で、賛成しました。それが原因で、この婚約が成立したかどうか、そこまでは、私も、よく知りませんが、すくなくとも、今後、私が、遊びに行った場合には、花嫁さんは、嫌な顔をしないで、大歓迎してくださるに違いない、と今から楽しみにして居ります。」
また、拍手が、起った。龍太郎は、ここらで、テエブル・スピーチをやめるべきだ、と思ったが、しかし、青田のために、もっと、喋ってやりたい気持のままに、
「最後に、もう、一言。私にとって、青田のお父さんは、どっちかといえば、恐いひとでした。しかし、お母さんは、昔から、実に、優しくて、いくらでも甘えられるし、また、甘えさせてくださるひとでした。だから、花嫁さんも、せいぜい、お甘えになった方がいいのではないか、と思って居ります。その方が、結局、花嫁さんのお幸せになるだろう、と信じております……。」
龍太郎は、着席した。満場、割れるような拍手であった。
「なかなか、面白かったわ。」と、高子も、いってくれた。
しかし、龍太郎は、てれくさくなっていた。喋り過ぎたような、落ちつかぬ気分で、眼の前のコップに手をかけたとき、それまで、黙っていた善太郎が、
「おい。」
「うん?」
「君のテエブル・スピーチは、まるで、僕に対する皮肉を並べているようだったよ。」
善太郎の顔色は、冗談にそういっているのではなく、本当に、そう思っているようであった。
披露宴が終って、三人は、外へ出た。すでに、夜暗が漂うていた。
「じゃア、失敬。」と、善太郎が、龍太郎にいって、「高子、帰ろう。」
「あら。」
高子は、思いがけぬ顔をした。
彼女は、披露宴が終ったあと、恐らく、三人で、いっしょにお茶を飲むか、それとも、バーへ行くことになるのではないか、とひそかにたのしみにしていたのである。
しかし、龍太郎もまた、あっさりと、
「失礼します。」と、いって、さっさと、向こうの方へ歩いていってしまった。
その龍太郎の後姿は、何か、淋しげであり、同時に、憤りをこらえているようだった。
(無理もないわ)
高子は、龍太郎に同情していた。
「高子、行こう。」
善太郎は、すこし、きびしい口調で、高子を促して、空車のマークをつけて停っているタクシーの方へ歩いていった。
自動車が動き出すと、善太郎は、足を組んで、煙草に火を点けた。そして、じいっと、前方を見つめているのである。
「お兄さん、いけないわよ。」
「なにが?」
「南雲さんに、あんな風にいったりしては、失礼よ。」
「失礼なもんか。南雲こそ、部長のくせに、あんないい方は、社長に対して、失礼だよ。」
「あたし、お兄さんは、ひがんでいらっしゃるのだ、と思うわ。」
「僕は、ひがんでなんかいるもんか。南雲は、近頃、増長しているんだ。だから、一度は、あんな風にいっとかないと、癖になる。」
「あきれた。お兄さんは、南雲さんが、嫌だ、とおっしゃるのに、無理に九州から来て頂いたのだ、ということを、お忘れになったの?」
「忘れるもんか。しかし、それとこれとは、別の問題だ。」
「南雲さんは、ちっとも、増長していなさらないことよ。それこそ、会社のために、一所懸命よ。お兄さんこそ、ノドもと過ぎれば、熱さを忘れるで、南雲さんが、まだ、会社へいらっしゃらなかった頃のことを、お忘れになっているのよ。」
「忘れるもんか。」
「いいえ、お忘れになっているわ。南雲さんがいらっしゃったからこそ、こんどの組合の問題でも、有利に解決したんじゃありませんか。」
「だから、南雲が、増長しはじめたんだ。今日のテエブル・スピーチ、あれは、何んだ。僕に対する皮肉ばかりではないか。」
「だから、お兄さんが、ひがんでいらっしゃる、というのよ。南雲さんだって、そんな意識は、すこしもなかった、といってらしったし、あたしだって、聞いていて、とても、面白かったわ。」
「高子。」
善太郎は、睨みつけるように見た。その顔は、すっかり、興奮しているようだった。
「お前は、この兄よりも、南雲のヒイキをするのか。」
「この場合は、そうよ。」
「お前は、眼がくらんでいるのだ。」
「くらんでいないわ。」
「この際、はっきり、いっとくが、南雲なんか、絶対に好きになるな。兄の命令だ。」
高子は、呼吸を呑んだ。そんな、高子に、善太郎は、重ねて、
「いいか、兄の命令だぞ。」
「あたし、そんなことでは、お兄さんの命令なんか、受けないことよ。」
「じゃア、南雲が、好きなのか。」
「好きよ。」
高子は、はっきりといった。いったあと、胸の動悸が、高鳴って来た。そうなると、更に、いわずにはいられなかった。
「大好きよ。」
「僕が、許さぬ。」
「あたし、自分の感情までは、お兄さんの指図を受けないことよ。」
「バカ。」
「バカは、お兄さんの方よ。」
「よくも、兄に、バカといったな。」
「だって、その通りなんですもの。ねえ、お兄さん、もっと、冷静になってよ。あたし、こんなところで、兄妹喧嘩をするなんて、嫌だわ。家へ帰ってから、ゆっくり、お話しましょうよ。」
「嫌だ。」
「まア。」
「おい、停めろ。自動車を停めろ。」
タクシーは、急停車をした。善太郎は、扉を開きかけた。
「どこへ、いらっしゃるのよ。」
「どこへでも、いいじゃアないか。」
「今晩は、お帰りになるんでしょうね。」
「わからん。ひょっとしたら、帰らんかも知れん。」
「お兄さん。」
高子は、口調を酷しくして、
「また、正木信子さんのところへ、いらっしゃるんでしょう?」
「なに?」
善太郎の顔色が、変った。
「この間から、よく外泊なさるけど、いつも、正木さんのところへ行ってなさるんでしょう? いけませんわ。」
「どうして、いけないんだ。」
「だって、社長が、女事務員のアパートにいりびたりになるなんて、とんでもないことよ。社員の方たちに対しても、悪いわ。」
「社長だって人間だ。プライベイトのことでは、社員たちの干渉を受けぬ。」
「社長だからこそ、プライベイトのことでも、恥かしくないような行動が必要なのよ。」
「社長が女事務員を好きになることが、恥かしいことなのか。」
「そうじゃアないのよ。好きなら、隠れて遊んだりしないで、堂々と結婚なさい、といってるのよ。」
「うるさい。」
怒鳴りつけるようにいって、善太郎は、自動車から、飛び出していった。そして、振り向きもしないで、さっさと、向こうへ歩いていく。
「動いてもいいですか。」と、運転手がいった。
「ええ。」
タクシーが、動き出すと、高子は、思わず、大きな溜息をついた。
兄妹喧嘩を、他人の運転手に聞かれたことが、恥かしかった。
(あんな兄だとは、思わなかったわ)
高子は、善太郎に、はっきり、絶望を感じた。今後、会社が、そして、龍太郎と兄との仲が、どうなっていくのだ、と思うと、何か、いても立ってもいられぬ気持だった。
やがて、高子は、深くクッションにもたれて、涙を流している自分に気がついたのだった。
「まア、社長さん。」と、信子は、おどろいて、「急に、どうなさったの?」
「急に来ては、いけないのかね。」
「ううん、嬉しいのよ。でも、今日は、いらっしてくださらない、と思っていたので、何んにも、用意がしてないんですけど。」
「いいよ。」
善太郎は、信子の部屋へ上がった。近頃買ったばかりの安楽椅子に、ぐったり、と腰を下ろして、
「疲れたよ。」と、ひとりごとのようにいった。
たしかに、疲れていた。龍太郎と口論し、高子と喧嘩をした後味の悪さが、今、善太郎を、ひどく、疲れさせていた。
(俺も、すこし、逆上していたかも知れぬ)
信子が、すぐ、蒸しタオルを持って来てくれた。彼は、それで顔をふくと、
「今夜、泊めて貰うよ。」
「まア、泊まってくださるの?」
「いけないのかい?」
「また!」
信子は、わざと、睨みつけて、
「あたしが、こんなによろこんでいることが、おわかりにならないの?」
「ならいいんだ。」
「なんだか、今日の社長さん、ちょっと、変ね。」
「うん、変なんだよ。」
「元気を出してね。」
「今日の青田の結婚式、盛大だったよ。」
「でしょうね。」
ふっと、善太郎は、さっき、高子が、隠れ遊びなんかしないで、堂々と結婚をしなさい、といった言葉を思い出した。
(いっそ、この女と、結婚するか……)
しかし、先ず、母の反対が、頭に上ぼった。近頃、外泊の多い彼に対して、母は、顔をあわせても、ロクに口をきかないのである。ここで、会社の女事務員と結婚する、といい出したら、それこそ、半狂乱になって、反対するのでなかろうか。
また、正木信子と結婚する、といったら、社員たちが、どんな陰口をきくか、知れたものではなかろう。
世間体ということもある。
やはり、結婚は結婚として、この女は、あくまで、陰の女として置いておくに限るようだ。そして、この女は、それで、十分に、満足しているのである。
「ちょっと、ここへおいでよ。」
「今、お茶を。」
「お茶は、後でいい。相談があるんだ。」
「相談?」
信子は、不安そうに、近寄って来て、善太郎の前に座った。
「君、会社を辞《や》めてくれないか。」
「えッ?」
「どうやら、社員たちが、変な噂を立てているらしいんだ。」
信子は、力なくうなずいた。そのことなら、彼女は、知っていた。そして、肩身のせまいような思いに堪えて来ていたのである。
「しかし、君さえ、会社を辞めたら、僕は、誰からも、文句をいわれないよ。」
「…………。」
「勿論、今後の生活費一切は、僕が持つから、心配はいらないんだ。」
「…………。」
「頼むから、そうしてくれ。」
しかし、信子は、急には、答えられなかった。
会社を辞めたら、ということは、今までに、何度も、考えて来たことなのである。が、辞める、ということは、完全に、善太郎の二号的存在になることを意味する。
信子は、二号という言葉が、好きではなかった。単なる言葉の違いかも知れないが、自分を社長の愛人だ、と思っていた。出来るだけ、善太郎から、金を貰わないようにして来たのも、そのせいだった。そこに、ひそやかな、彼女の誇りがあった。
更に、彼女は、働くよろこびを失うことが、残念だったのである。毎日、会社へ行けることが、生甲斐の一つでもあった。
しかし、会社を辞めてしまったら、朝から晩まで、この部屋にいて、善太郎の来てくれるのを、じいっと、待っていなければならない。このアパートにも、そういう女が、何人かいて、自堕落に暮している。しかし、自分だけは、あんな悲しい女にはなりたくない、と思って来たのである。
この瞬間においても、その思いは、変らなかった。
「嫌なのか。」
善太郎の声が、すこし、とがって来た。
「いいえ、嫌じゃアないんですけど。」
「じゃア、どうだ、というんだ。」
「…………。」
「君は、僕が、こんなに頼んでいるのに、うんといわないのか。僕が、そのため、迷惑をしても、かまわない、というのか。」
「あら、そんなこと。」
「じゃア、辞めたまえ。僕の命令だ。」
「はい。」
「辞めてくれるな。」
「明日、辞表を出しますわ。」
信子は、うなだれた。悲しみが、胸の奥から、こみ上げてくる。
「よしよし、それでこそ、僕の信子だよ。」
善太郎は、すぐ、上機嫌になった。
「そのかわり、ときどき、お顔を見せてくださいね。」
「いいとも。泊まってもやるよ。」
「あたしね、泊まってくださるの、とても、嬉しいんですけど、お宅の方、大丈夫ですの?」
「かまうもんか。僕だって、もう、子供じゃアないんだ。僕は、これから、社長として、もっと、自信を持って、仕事をするつもりだよ。」
「そうよ。あたしだって、その方が嬉しいわ。」
「さっきも、南雲に、ちょっと、説教してやったんだ。」
「また、説教を?」
「そうだよ。南雲は、僕の友人であった、というので、近頃、増長しているんだ。」
「あら、そうかしら?」
「君まで、そんなことをいうのか。」
善太郎は、不愉快そうにいった。信子にとって、善太郎に、不愉快になられることが、いちばん、辛かった。あわてて、
「ごめんなさい。あたしには、よく、わからないんです。でも、高子お嬢さんは、南雲さんが、お好きなんでしょう? 社員の間でも、お二人が結婚なさったらいいのだ、という者がありましてよ。」
「バカな。そんなこと、僕は、絶対に許さんよ。」
善太郎の顔に、青筋が立って来た。信子は、そんな善太郎に、ただ、おろおろしていた。
龍太郎は、善太郎と高子に別れて、一人で、銀座の方へ歩いていった。
銀座のネオンの光を眺めても、今夜の彼の心は、すこしも、弾まなかった。むしろ、しんしんとした淋しさを、噛みしめていた。
善太郎を怒らしてしまったことが、何んとしても、後味が悪くてしかたがない。怒らせる気持は、毛頭もなかったのである。
(僕は、増長しているだろうか)
一応、そう、反省してみた。
(いや)
即座に、彼は、それを強く打ち消した。しかし、善太郎に、そのように思われているとしたら、やはり、無意識のうちに、そんな振舞いをしていたのだろうか。
増長しているとまで思われながら、会社のために、一所懸命に、働く必要はないのである。
(いっそ、辞めようか)
が、今、あの会社を辞めたら、自分についてくれている社員たちが、どうなるのだ。それを思うと、軽々しく、辞めるわけにはいかないのである。
すくなくとも、当分の間は、辞められぬ。しかし、いつかは、辞めねばならぬだろう。龍太郎は、それを予感した。そして、その思いの中には善太郎への絶望があった。今夜こそ、それを痛感した、といってもいいのである。結局は、やはり、社長の器ではない、とわかったのである。
社長の器でない男が、社長でいることは、本人にとっても悲劇だが、社員にとっては、もっと、悲劇である。これは、かねてからの龍太郎の持論だが、最早、善太郎に対して、希望が持てぬ、としたら、いったい、どうしたらいいのだろうか。
(田所のような癖の多い男も困る)
だから、辞めさせるのに異存はないが、同時に、善太郎にも辞めて貰ったらいいのだ。しかし、その後に、誰を社長に持ってくるか、となると、龍太郎にもわからぬのである。
(いっそ、高子さんを……)
すくなくとも、善太郎を社長のままで置いておくより、その方がましかも知れない。
(女社長か)
しかし、世間には、いくらも例のあることだ。が、いちばんいいのは、高子に、社長に価するような人と結婚して貰うことなのである。
そこまで考えて来て、龍太郎は、苦笑した。
(だから、僕は、増長している、といわれるんだな)
気がつくと、彼は、いつもの習慣で、並木通りを歩いていた。バー『けむり』は、すぐ眼の先にあった。
「酒でも飲むか。」
しかし、『けむり』には、和子がいる。勿論、今夜は、青田の結婚式があった、と知っているはずだった。その披露宴の帰りに、和子と顔をあわせるのは、彼女への皮肉ともなりそうな気がした。と、いって、龍太郎は、ほかに、飲みに行く場所を知らなかった。美和子のバーのことも、頭の中に、チラッと浮かんだが、気がすすまなかった。
「まア、いいだろう。」
龍太郎は、バー『けむり』の扉を押し開いて、はいっていった。
まだ、時刻が早いせいか、ガランとしていた。いちはやく、和子が、彼の姿を見つけて、近寄って来た。
「いらっしゃい。」と、和子がいった。
龍太郎は、いつものように、スタンドに腰を掛けてから、ハイボールを貰った。それから、和子の方を向いて、
「元気?」
「ええ。」
「今、青田の結婚披露宴が、終っての帰りなんだ。」
「そう……。」
ちょっと、和子は、黙り込んでから、何かをゴクンと飲み込むようにして、
「よかったわねえ。」
「うん。」
「新婚旅行は、どこ?」
「関西方面だそうだ。」
「いいわねえ。」
和子は、遠くを眺めるような瞳をした。すこしも、とり乱してはいないのである。こういう落ちつきかたは、この女の、昔からの癖のようなものだが、しかし、こうなるまでに、和子は和子なりに、苦しみ、そして、悲しい思いをしたに違いなかろう。龍太郎は、それを考えながら、静かに、ハイボールを飲んでいる。
龍太郎は、一方で、善太郎を怒らして来た自分だった、と思い出していた。そして、自分もまた、とり乱してはならぬ、と思っているのだった。
やがて、和子がいった。
「南雲さん、今夜、お急ぎになる?」
「いや、別に。」
「すこし、ご相談したいことがあるんですけど。」
「いいとも。どんなこと?」
「妹のこと。そして、あたしのこと。」
「二人分かい?」
「そうなの。多分、今夜ぐらい、来てくださるだろうと、お待ちしていたんです。」
「それで?」
「ここを出てくださる?」
「ここじゃアいえないことなのか。」
「いいえ、ちょっと、見ていただきたい物があるんです。」
「なにを?」
「後でいいます。じゃア、あたし、用意して来ますから。」
「いいよ。」
和子が、はなれていった。かわりに、マダムが、寄って来た。
「今夜は、おひとりですか。」
「ああ。」
「そうそう、青田さんの結婚式は、今夜でしたわね。」
「そうなんだ。」
「なにか、お祝いをしてあげなくちゃアと思っていたんですけど。」
「口ばかりではいけませんな。」
「まア、憎らしい。」
そこへ、和子が、オーバアを着て、戻って来た。
「ママさん、南雲さんに、あそこを見ていただきますから。」
「ええ、行ってらっしゃい。」
話がわかっているのか、マダムは、笑顔で許した。
「じゃア、南雲さん。」
二人は、外へ出た。並木通りは、今、なにか、さんざめくように人通りがふえていた。
「どちら?」
「新橋の方。近いから、歩いてくださる?」
「そう、歩こう。」
しばらく、黙って歩いてから、和子が、
「会社の大間さんて、いいひとなんでしょう?」
「ああ、なかなか、いい男だよ。」
「妹が、大間さんを好きらしいんです。」
「だろうな。僕は、前から、そう睨んでいた。勿論、大間君の方も、君の妹さんを大好きなのに違いないよ。」
「妹も、そういってました。はじめは、大間さんの方から、好きになってくださったんですって。」
「かも知れぬ。」
「なんでも、就職のことで、会社へ行った日に、大間さんから、五十円のライスカレーを、ご馳走になったんだそうです。そのときから、妹は、ひょっとしたら、そういう結果になるんじゃないか、という予感がしていたんだそうです。」
「なるほど。」
「でも、まだ、自分の方からは、好きになるほどではなかった、といってました。それが、急に、好きになったのは、この前、会社で、組合の総会があったとき、大間さんが、堂々と発言したからですって。」
「その発言のことなら、僕も、岩田君から聞いている。有難い、と思っているんだ。」
「とても、男らしくて、魅力的だった、といってました。」
「それで、ぐっと、惹かれた、というわけだな。」
「そうなんです。その夜は、二人とも、すっかり、興奮してしまって、夜の街を、遅くまで、歩きまわったらしいんです。」
「わかるな。」
そんな情景を頭に描いて、龍太郎は、微笑した。和子も、微笑しながら、
「あたしね、二人が、そんなに好き合っているんなら、結婚さしてやったら、と思ったんです。」
「うん。」
「この間も、大間さんの家へ、妹が遊びに行って、ご両親とも会っているんです。」
「君の妹さんなら、気にいられたろう?」
「本人は、そういってるんです。その後、大間さんから、正式に結婚の申し込みを受けた、というんですから、間違いはない、と思うんですよ。」
「君の妹さんは、いくつだった?」
「十九歳ですわ。」
「ちょっと、早いんじゃアないか。」
「あたしも、それを考えたんですが、でも、結婚のチャンスなんて、いくらでもありそうで、さてとなると、なかなか、ないもんですから、すこし早くてもかまわない、と思ったんですよ。」
「そりゃアそうだが。」と、いってから、龍太郎は、口をつぐんだ。
妹を結婚させるのはいい。しかし、そうなったら、君は、どうするんだ、といいたかったのである。
二人は、並木通りを抜けて、新橋駅の方へ歩いていった。
「大間さんは、次男だから、ご両親と別居する、というんですよ。あたしだって、その方が結構ですし、賛成なんですが、当分の間、共稼ぎをしたい、といってるんですけど、日吉不動産では、そんなこと、いけないんですか。」
「すくなくとも、夫婦で勤める、という前例は、あまりないようだな。」
「じゃア、いけませんの?」
「いや、いけない、ときまったわけじゃアないが、夫婦で、というのは、やはり、感心しないだろうな。」
「そうですわね。」
「すくなくとも、今のように、二人の席を並べておくのは困る。」
「だったら、妹を、ほかの係に変えてくださって、結構ですのよ。」
「ひとつ、考えてみよう。」
「ぜひ、お願いします。それから、仲人は、岩田さんに頼んだら、といってましたけど。」
「岩田君ならいい。」
「これで、あたし、ほっとしましたわ。」
「君も、妹さんのために、今日まで苦労して来たようなもんだからな。」
「そうでもありません。でも、これで、妹さえ、ちゃんとした結婚をしてくれたら、死んだ両親も、地下で、よろこんでくれるだろう、と思うんですよ。」
「そうだよ。」
「なんだか、肩の荷をおろしたような気がします。」
「しかし。」
「えッ。」
和子は、龍太郎の顔を見た。
「いやね、順序からいったら、君の方が、先に結婚する、とよかったんだがな。」
「あたしなんか、まともな結婚、出来そうにありませんわ。」
それをいう和子の頭の中には、青田のことがあったに違いない。龍太郎も、それを感じながら、
「いや、そういったものでもなかろう。」
「妹の方も、あたしのことを心配してくれて、結婚は、もっと先にする、といったんですが、あたしは、その必要がないから、といってやりました。」
「君は、偉いな。」
「冷やかさないで。」
「いや、本当だよ。いつも、君には、感心しているんだ。」
「ところが、こんど、あたしは、酒場のマダムになる決心をしたんですよ。」
「えッ?」
「びっくり、なさったでしょう?」
「そこまでは、気がつかなかったな。」
「本当は、これから、新しく開くお店を、南雲さんに、見ていただきたかったのです。」
「そうだったのか。おめでとう。」
「ちっとも、おめでたくはないんですけど。」
「だって、出世だからな。」
龍太郎は、冗談めかしていった。
「出世?」
ちょっと、間をおいて、和子は、
「出世といっていいのかしら? でも、実際は、その反対かも知れませんことよ。」
二人は、新橋駅のガード下を通り抜けた。やがて、飲み屋ばかりの並んでいる通りに出た。近くには、酔っぱらいが、うようよしている。
「ここですのよ。」
それは、間口一間半ほどの店であった。周囲の店が、賑やかに営業しているのに、その店だけは、電灯を消している。
「ちょっと、鍵を借りて来ますから。」
そういって、和子は、すこし先にある、おでん屋へ入っていった。
銀座辺にくらべたら、やはり、ガラが落ちる、といってもよかろう。龍太郎は、何んとなく浮かぬ思いで、そこらを見まわしていた。
やがて、和子が、戻って来た。
「お待たせしました。」
「いや……。」
和子は、鍵穴に鍵を差し込んで、扉を開いた。自分が先に入って、すぐ横のスイッチをひねった。薄暗い電灯が点いて、中のようすが、浮かび上がって来た。
(せまい)
龍太郎は、そう思った。
せいぜいで、三坪ぐらいだろう。五、六人腰をかけたらいっぱいになるカウンターのほかに、テエブル席が一つあるだけである。酒棚には、ウィスキイ瓶が、いくつか並んでいるが、どれも空であった。壁もよごれている。何か、ガランとしていた。いかにも、寒々としている。
「あんまり、ひどいんで、びっくりなさったでしょう?」
「そうでもない。これで、壁なんかを綺麗にして、お客が入ったら、結構、よくなるだろうよ。」
和子は、椅子のホコリを、ハンケチで払って、
「おかけになりません?」
「有難う。」
「ちょっと、お待ちになってね。」
和子は、また、出ていった。
ひとりで残された龍太郎は、煙草に火を点けた。そして、そのカウンターの中で、マダムとなって働く和子の姿を、頭に描いた。
こんなところでも、マダムとなれば、一国一城の主なのである。銀座の、いわゆる高級バーの女給をしているよりは、どんなにましかも知れなかろう。
にもかかわらず、龍太郎には、それに対して、おめでとう、といえないような気がしていた。
右隣の飲み屋から、流しのバンドにあわせて歌うドラ声が聞えてくる。かと思うと、左隣の家からは、客が、悪ふざけでもしているのか、女の、キャッキャッという声が聞えてくる。
龍太郎は、眼を閉じた。
(今頃、新婚旅行に出た青田は、どうしているだろうか)
それを思うと、いっそう、この店が、みじめに感じられてくるのである。
(自分さえ、一所懸命になってやったら、和子は、青田と結婚できていたかも知れないのだ)
とすれば、和子だって、今頃、こんなところで、うろうろしている必要がなかったのである。
龍太郎の胸に、ほろ苦いものが、忍び寄って来た。
扉が、開いた。
「すみません、お待たせして。」
そういいながら、和子は、ビール瓶とコップを持って来た。
「そんな物、いらなかったのに。」
「だって、せっかく、来ていただいたのに、悪いんですもの。」
和子は、別に、オーバアのポケットから、南京豆を出した。
「どうぞ。」
「じゃア。」
「あたしも、すこし、頂くわ。」
二人は、ビールを飲んだ。右隣のドラ声は、チャッチャッチャから、勝ってくるぞと勇ましくの軍歌に変った。
和子は、ちょっと、眉を寄せるように苦笑した。
「この店、権利金は、どれくらい?」
「八十五万円ですのよ。」
「八十五万円!」
龍太郎は、あらためて、周囲を見まわした。
「ほかに、修繕費だって、五万円ぐらい、いりますのよ。」
「そりゃア、いるだろうな。」
「ウィスキイを買ったり、コップを買ったり、何んやかやで、百万円は、どうしても、いるんです。」
「百万円か。」
龍太郎は、唸るようにいった。
「そうよ、百万円。だから、だいたいの想像が、おつきになったでしょう?」
「えッ?」
「南雲さんには、なにもかも、隠さずに申し上げますけど、百万円を出してくれるひとがありますのよ。」
そういって、和子は、龍太郎から、瞳をそらすようにした。
(やっぱり、そうであったのか)
と、龍太郎は、思った。
「前から、いわれていたんですけど、こんど、やっと、その決心がついたんです。」
「うん。」
「ママさんも、賛成してくれたんです。」
「そのひとを、君は、好きなの?」
「そうね、嫌じゃアないでしょうね。」
「じゃア、いいじゃアないか。」
「それとも、あたしが、そんなひとから百万円も出して貰わないで、いつまでも、女給をしていた方がいい?」
「僕には、もう、何んともいえない。」
「そうね。」
「どういうひと?」
「北海道のひとなんです。札幌にお店があるんですけど、月のうち、十日はこちらへお見えになるんですのよ。」
「いくつ?」
「四十五歳。」
「勿論、奥さんがあるんだろう?」
「三年前に、亡くなられたんです。ねえ、もっと、お飲みになって。」
和子は、ビール瓶を取り上げた。龍太郎は、それをコップに受けながら、
「じゃア、いっそ、結婚して貰ったら?」
「ところが、十八歳と十五歳のお子さんがあるんです。子供たちのてまえ、再婚はしたくない、とおっしゃるんです。」
「君の妹さんは、そのことを知ってるの?」
「雇われマダムになるかも知れない、とはいってあるんですけど。」
「しかし、そのうちには、わかるだろうな、本当のことが。」
「そのときは、そのときのことと、思っています。」
そういって、和子は、すこし、ビールを飲んだ。
「そうだ、そのときは、そのときのことだな。人間は、あまり、先々のことを考えない方が、よさそうだ。」
「ええ。」
和子は、頷いて、
「このお店、どうかしら? 五万円の手金だけは、打ってありますのよ。もっと、いいお店と思っても、あのひとの出せる限度が、百万円ですので、どうしても、この程度になるのです。」
「綺麗にしたら、よくなるだろう。」
「開店したら、来てくださる?」
「くるとも。何か、お祝いをするよ。」
「それを聞いて、安心したわ。せっかく開いても、皆さんに来て頂かないと、困りますものね。」
そのとき、扉が開いて、中年の紳士が、入って来た。
その人を見て、和子は、
「あら。」と、腰を上げた。
紳士は、磊落な口調で、
「やっぱり、ここにいたんだな。今、『けむり』へ行ったら、マダムが、おしえてくれたんだよ。」
「すみません。」
「いや、いいんだ、いいんだ。」
龍太郎には、すでに、この人物が誰か、想像がついていた。もっと、嫌らしい、好色的な男に思っていたが、どうして、ちゃんとした紳士である。
「どなた。」と、紳士がいった。
「妹が、お世話になっている会社の総務部長の南雲さん。」
「ああ、そうですか。私は、札幌の岡と申します。」
「どうか、よろしく。」
「今ね、南雲さんに、ここを、見て頂いていましたのよ。だって、開店してから、こんなガラの悪いところへくるのはごめんだ、といわれると、困るんですもの。」
「そうとも。南雲さん、どうか、ヒイキにしてやってください。」
「ええ、出来るだけ。」
龍太郎は、微笑みながら答えた。この岡なら、和子の相手として、反対する必要はなさそうだ、と思っていた。それが、龍太郎の態度に現われて来た。その気持が、しぜん、岡にも通じたのか、気軽に、
「では、私も、ここで、ビールをご馳走になるかな。」
「じゃア、もうすこし、持って来ますわ。」
「ああ、そうしてくれないか。」
「はい。」
和子は、外へ出ていった、そのうしろ姿を見送ってから、岡は、
「どうも、あの女とも、不思議な縁でしてね。」と、笑いながらいった。
「いいひとですよ。」
「そう。だが、こうなるまでに、二年、かかりました。」
「幸せにしてやってください。」
「そのつもりです。子供たちが、もっと、大きくなって、それぞれ、独立してくれたら、正式に結婚してやりたい、と思っているんですが。」
「ぜひ。」
「南雲さんは、失礼ですが、まだ、おひとりで?」
「ええ。」
「会社はどこですか。」
「日吉不動産です。」
「日吉不動産?」
岡は、おどろいたようにいった。
「ご存じですか。」
「ご存じですかは、ひどいですよ。これでも、大株主ですよ。」
「えッ?」
こんどは、龍太郎の方が、おどろいて、
「じゃア、五万株お持ちの札幌の岡達夫さんですか。」
「そうですよ。」
「これは、どうも。知らなかったものですから、大変、失礼してしまいました。」
「いや……。」と、いってから、岡は、もう一度、龍太郎を眺めて、「そうでしたか。あなたが、総務部長の南雲さんだったんですか。」と、いった。
「私のことを、ご存じでしたか。」
「ええ、ちょっと。」
岡のいい方には、何か、アイマイなものがあった。
龍太郎は、あらためて、立ち上がって、
「一度、ご挨拶に上がらねば、と思いながら、それもしないでいて、申しわけありません。」
「そんなこと、まア、よろしいが、日吉社長のご友人だそうですね。」
「はい。」
しかし、龍太郎の胸に、ふっと、疑惑の影が、掠めたのである。
(この岡が、どうして、そんなことまで、知っているのだろうか)
そこへ、和子が、戻って来た。
「やア、ご苦労。」
和子が、岡のコップに、ビールを注いだ。
「さア、カンパイといきますか。」
「はい。」
岡は、ぐっと、飲みほしてから、和子の方を振り返って、
「おどろいたよ。この南雲さんの会社の株を、僕が、持っていたんだ。」
「まア、そうでしたの。」
「しかも、大株主だったんだ。」と、龍太郎がいった。
「世の中って、広いようで、せまいものね。」
「まったくだ。うっかり、悪いことは、出来ないよ。はッはッは。」
岡は、気楽そうに笑ってから、
「会社、ストライキをやりかけたらしいですな。」
「そんなことまで、ご存じですか。」
「なんでも、知ってますよ。」
またしても、龍太郎の胸に、さっきと同じ疑惑が、掠めたのである。
「でも、お陰さまで、無事に、おさまりました。もっとも、そのために、この和子さんの妹と結婚するはずの大間君なんか、いろいろと、私の味方になってくれたんです。」
「ほう。」
「しかし、一時は、どうなることか、と思いました。大阪の大株主、持田さんからも、二割の賃上げなど、以てのほかだ、と叱られたあげく、もし、二割を超えて妥結したら、私は、辞めなければならぬところでした。」
「そこまでは、知らなかったな。まア、よろしい。今夜は、飲みましょう。」
三人で、結局、ビールを四本飲んで外へ出た。
「これから、どうなさいますか。」と、岡がいった。
「私は、ここで、失礼します。大変、ご馳走になりました。」
「いや。」
「どうか、一度、会社へも、お越しください。」
「伺いましょう。」
和子は、ちょっと、名残惜しそうだったが、龍太郎は、そのまま二人に会釈を残して去りかけた。
「あッ、ちょっと。」と、岡が、呼びとめた。
龍太郎が、振り返ると、岡は、
「すこし、注意した方がよろしいな。」
「と、申しますと?」
「最近、会社のことで、株主のところへ、怪文書がまわっていますぞ。」
龍太郎は、顔色を変えた。しかし、岡は、
「じゃア、失敬。おい、行こう。」と、和子を促して、去って行ってしまった。
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敵味方
龍太郎は、会社の机に向かいながら、昨夜、岡のいったことを考え続けていた。
社内の問題が、一応、おさまった、と安心している間に、社外において、暗雲が低迷しはじめていたのである。
その暗雲は、いつ、雨を呼び、嵐と化すかも知れない。龍太郎は、じいっとしていられないようなアセリを覚えた。
早速、善太郎の耳にいれねば、とも思った。しかし、十時になるのに、彼は、まだ、出勤していなかった。更にいえば、龍太郎は、今日、善太郎の顔を見るのも嫌になっていた。口を利く気がしないのである。が、とにかく、高子には、社長が出勤されたら、すぐ、知らして下さい、と頼んでおいた。
信子が、近寄って来た。青い顔をしていた。彼女は、龍太郎の前で、静かに、深く、頭を下げてから、
「お願いします。」といって、白い封筒を差し出した。
「何んですか。」
「こんど、退職させて頂きたい、と思いまして。」
「退職?」
龍太郎は、おどろいて、信子の顔を見上げた。
封筒の中には、退職願が入っていた。理由としては、自分の都合により、となっているだけだった。
それを読んで、龍太郎は、もう一度、信子の顔を見上げた。
「どうか、お願いいたします。」
「いったい、どう、されたんですか。」
信子は、淋しげな微笑を、口許に浮かべた。かつては、社内随一のオールドミスといわれ、男を男とも思わぬ勝気さで、若い男たちから恐れられていたのである。山形人事課長を相手に、堂堂と一騎討ちをしたこともあった。冷静な、理性の勝った女のようにも思われていた。
が、目前の信子には、そのような面影は、まるで、失われているようだった。たしかに、美しくなった。しかし、いかにも弱々しい、古風な女になって見えるのである。
「あたしも、もう、三十歳ですし、そろそろ、辞めた方がいい、と思ったんです。」
「三十歳だなんて、今頃、気にすることはありませんよ。本当です。この会社の女子の停年は、四十五歳、ということになっているんですし、ただ、それだけの理由でなら、お辞めになる必要がありませんよ。」
「有難うございます。でも、やっぱり、辞めさせていただきますわ。」
「どうしても?」
「はい。」
「で、今後は、どうされるおつもりですか。」
「まだ、そこまでは、考えていません。」
龍太郎は、ちょっと、考えてから、声をひくくして、
「僕からこんなことをいうのは、おかしいんですが、実際は、どうでもかまいませんから、辞める理由を、結婚のため、と書いてください。その方が、退職慰労金の計算上、ずっと、有利ですよ。」
「あたし、結婚のために辞めるのではございませんから。」
「真正面から、そういわれると、困るんだがなア。」
「どうぞ、よろしく、お願いいたします。」
信子は、静かに、龍太郎の前からはなれていった。
龍太郎は、もう一度、信子の退職願を取り上げて見た。半紙に筆で書いてあるのだが、なかなか、達筆であった。どんな思いで、これを書いたろうか、と思っているうちに、
(そうだ、この自分だって、やがては、これと同じ文句を使って、退職願を書かねばならんかも知れんぞ)
と、いう気になった。
そこへ、岩田が、寄って来た。
「部長、ちょっと、いいですか。」
「いいとも。その前に、これを見たまえ。」
岩田は、退職願を読んで、
「ふーむ。」と、唸るようにいってから、
「どうしたんでしょうね。」
「特別な理由は、ないのだそうだ。ただ、もう、三十歳になったから、というんだよ。一応、とめたんだけど。」
岩田は、声をひそめるようにして、
「社長との噂が、社内にひろまったので、嫌気がさしたんじゃありませんか。」
「僕も、それを考えたんだが、口に出してはいいにくかったんで、わざと、触れなかった。」
「近頃、社長が、彼女のアパートから出勤してくるんだ、という噂もあるんです。」
「困ったことだな。」
龍太郎は、溜息をつくようにいってから、
「そうだ、昨夜、ちょっと、銀座の『けむり』へ寄って、白石君のお姉さんに会ったんだ。そうしたら、大間君と白石君が、結婚したい、といってるそうだが、知っている?」
「非常に、仲良くなっているとは、気がついたんですが。しかし、結構な話じゃありませんか。」
「そうなんだ。で、君に、仲人を頼みたいらしい。」
「苦手だな。」
「やってやれよ。」
「そうですな。しかし、妹の方が、先に、結婚するんですか。」
「姉の方が、早く、妹を結婚さしたがっているんだから、それでいいだろう。でね、二人は、当分の間、共稼ぎをしたい、といってるらしいが、そういう前例がないかね。」
「ないこともありません。五年ばかり前ですが、営業の森吉君の奥さんが、そうですよ。もっとも、一年ぐらいで、辞めましたが。」
「じゃア、いいんだな。しかし、二人を並べておくのはよそう。」
「そうですよ。でなかったら、こっちが、あてられて困ります。」
「だろうな。ただね、白石君の家庭の事情が、あんな風だから、その点について、後で、問題が起らぬよう、よく、大間君にいっておいてくれないか。」
「承知しました。」
「それから、正木さんのことは、しばらく、内証にしてくれ。」
「ええ。ところで、こんどは、私の方の問題ですが、ひょっとしたら、近いうちに、私と部長は、敵味方にならねばなりません。」
「おどかすなよ。」
「いえ、近く、組合の役員の改選があるんです。賃上げ問題の失敗で、現役員は、全部かわります。その後、私が、委員長候補に上ぼっているんです。」
「そうか。すると、こんどは、君が相手か。」
「そうなったら、いいたいことは、はっきり、申し上げますからね。」
「いいとも。」
その日、善太郎が出勤して来たのは、十時半頃であった。昨夜の外泊のことで、何かいいかける高子に、彼は、先手を打つように、
「すぐ、田所氏を呼んでくれ。」
「はい。すこし前に、南雲さんが、至急、ご相談したいことがある、といってらっしゃいましたけど。」
「南雲のことは、後まわしだ。」
善太郎は、何か、気負っているようであった。そんな兄の姿が、高子に不安だった。
「お兄さん。」
「何んだ。」
「田所さんを呼んで、どうなさいますの。」
「辞めて貰うのだ。」
「それだったら、昨夜も南雲さんがいってらしったように、もうちょっと、ようすを見て、慎重になさった方が、いいんじゃアありません?」
「いや、僕は、決心したのだ。南雲の手を借りなくても、あんな男ぐらい、僕は、辞めさせてみせる。」
「あたし、反対だわ。」
「何?」
善太郎は、高子を睨みつけて、
「高子まで、僕をバカにするのか。」
「バカだなんて……。あたしだって、これで、一所懸命に会社のことを思っているのよ。だからなのよ。」
「高子なんかに、何が、わかるもんか。とにかく、呼んでくればいいんだ、早く!」
善太郎は、叱りつけるようにいった。高子は、しばらく、兄の顔を見ていたが、あきらめたように、社長室から出ていった。
そのあと、善太郎は、腕を組んで、天井の一角を睨んでいたが、どうにも、胸の高鳴りを禁じ得ぬらしく、立ち上がった。部屋の中を、グルグルと歩きまわりはじめた。ときどき、ふん、というように肩をそびやかしたり、
「僕は、社長なんだ。」と、いってみたりしていた。
扉の外で、人の気配がした。善太郎は、あわてて、社長椅子に戻った。
高子が、顔を出して、
「すぐ、お見えになります。」
「よし。」
「ねえ、もう一度、考え直してくださらない?」
「まだ、そんなことをいっているのか。」
高子は、顔を横に振るようにしたが、そのまま、姿を消してしまった。
善太郎は、煙草に火を点けた。二、三服、吸ったとき、田所が、入って来た。善太郎は、急いで、煙草を灰皿の中に捨てた。
「お呼びですか。」
田所は、笑顔でいった。善太郎は、田所を真ともから見上げようとした。しかし、彼と視線が合うと、いつもの習慣で、つい、横へそらしてしまった。善太郎は、そんな自分が、いまいましくてならなかった。が、どうにもならないのである。
田所は、相変らず、微笑を含んだ眼で、善太郎を見おろしていた。
その眼は、善太郎の心の中を、まるで、見透しているようだった。
善太郎は、ナマツバをゴクンと飲んでから、
「早速ですが。」
ここまでいったが、後の言葉が、うまく続かないのである。
「どうか、なさったんですか。」
田所は、善太郎の顔を、覗き込むようにした。
「今期限りで、あなたに、辞めていただきたいのです。」
「辞める?」
「そうです。」
田所は、黙り込んだ。じいっと、善太郎を見つめている。しかし、別に、顔色を変えているわけではなかった。
この沈黙が、善太郎を不安にした。いわずにはいられなくなって、念を押すように、
「辞めてくれますな。」
田所は、答えるかわりに、社長机の前の椅子に、腰を下ろした。そして、もう一度、善太郎の顔を、ゆっくり、覗き込むようにした。
善太郎は、三たび、同じ意味の言葉を繰返した。
「辞めて貰いたいのです。」
「理由を伺いましょう。」
「理由?」
善太郎は、つまった。田所を辞めさせることは、かねてからの念願であった。理由は、いくらでもありそうに思っていた。が、このように反問されると、彼は、それを具体的に述べる用意を怠っていたことに気がついた。
「理由なんか、どうでもいいでしょう。」
「それでは、困ります。」
田所は、落ちつき払いながらいった。それが、善太郎にとって、癪にさわってならなかった。
「僕は、社長ですよ。」
「知っています。」
「そして、大株主です。」
「知っています。」
「その僕が、辞めて貰いたい、というのですよ。」
「だから、その理由を、お聞きしたいのです。」
「そんなこと、自分でお考えになったら、わかるはずです。」
「わかりませんな。」
「要するに、あなたに、この会社にいて貰いたくなくなったのです。」
「それが、理由ですか。この会社に、三十年近くも勤めた私を辞めさせる理由なのですか。」
「そうです。」
「なるほど。」
「じゃア、辞めてくれますな。」
「ひとつ、ゆっくりと、考えてみましょう。」
「考える?」
「そうですよ。株主総会までに、まだ、二週間はあります。その間に、よく、考えてみます。」
善太郎は、むっとしたように、
「僕が、こんなにいってるんですから、考える余地なんか、もう、ないじゃアありませんか。」
「しかし、この会社の株主は、あなただけではありませんよ。ほかにも、大株主がいらっしゃることですし。」
「だから、どうだ、というのですか。」
「要するに、考えてみましょう。なるべく、お言葉にしたがいたいのですが、さア、どうなりますかな。じゃア、失礼します。」
田所は、そういって、立ち上がった。そして、落ちつき払った足どりで、社長室から出て行った。
善太郎は、唇を噛んでいた。一も二もなく、強引に辞めることを承知させてやるつもりだったのに、田所は、まるで、謎のような不敵な言葉を残して行ってしまった。
善太郎の胸底から、何か、不安に満ちたものがこみあげて来た。
龍太郎が、社長室へ入って来たのは、それから間もなくであった。
「昨夜は、どうも、失礼しました。」
彼は、腹の虫をおさえながら、一応、そのようにいった。
「いいよ。」
「さっき、正木信子さんが来て、辞めたい、というんです。」
「そうかね。」
善太郎は、何んの感じもないようにいった。
「理由は、自分も、もう三十歳になったから、というんです。一応、とめたんですけどね。」
「辞めたい、というんなら、辞めさせたらいいではないか。それを別に、君がとめることはあるまい。」
「わかりました。」
「そうだよ。」
「それから、近く、組合の役員の改選があって、こんどは、岩田君が、委員長候補に上ぼっているそうです。」
「すると、犬丸が、組合の役員でなくなるんだな。」
「多分。」
「あいつ、辞めさせよう。」
「どうしてですか。」
「実に、無礼な奴だからだ。いつかの団体交渉のときに、僕に、何んといったか、君は、覚えているかね。」
「覚えています。すこし、言葉が過ぎたようでしたが、しかし、ああいうときは、お互いに興奮していますから。」
「いくら興奮していたにしても、僕のことを、社員たちから信頼されていない、というような男には、この会社にいて貰いたくない。ほかの社員への見せしめにもなる。」
「それは、いけませんよ。そんなことを、組合が、承認するはずはありません。」
「新委員長の岩田が、うんといったら、いいんだろう? あの男は、わざわざ、大阪から呼び寄せてやったんだし、それくらいのことをしてもいい義理があるはずだ。」
「しかし、それは、すこし、話の筋が違いますよ。」
「違わない。僕は、こうなったら、役員でも、社員でも、この会社にとってマイナスと思う人間には、どんどん、辞めて貰うつもりだ。」
「そんなことは、実際問題としては、不可能ですよ。」
「不可能なもんか。現に、僕は、さっき、田所に辞めろ、といったんだ。」
「もう、おっしゃったんですか。」
「いってやった。」
「で、田所氏は、おとなしく、辞めるといいましたか。」
「考えさせてくれ、といっていた。」
「それは、どういう意味なんですか。」
「知らん。」
善太郎は、不機嫌にいってから、
「しかし、僕は、いったん、こうといい出した以上、絶対に辞めさせる。」
「おとなしく辞めてくれるといいんですが。」
「それこそ、どういう意味なんだ。」
「実は、昨夜、あれから『けむり』へ行ったんですよ。」
龍太郎は、和子に連れられて、新橋へ行き、そこで、偶然、大株主の岡に紹介されたときのことを話して、
「最近、会社のことで、株主のところへ、怪文書がまわっている、というんですよ。」
「怪文書だって?」
善太郎は、顔色を変えた。
「そうなんです。」
「いったい、どういうことが書いてあるんだ。」
「わかりません。ただ、岡さんは、組合との問題のことも、すでに知っていましたし、最後に、すこし、注意した方がよろしい、といってくれましたから、会社にとって、有利なことではないことだけは、たしかなようです。」
「怪しからん。きっと、田所の仕業に違いない。」
「私も、そう、思ったんです。だから、田所を辞めさせるにしても、ちゃんとした尻っぽを掴んでから、と考えていたんですよ。」
しかし、善太郎は、龍太郎のいうことも耳に入らぬように、
「だから、あいつめ、この会社の大株主は、ほかにもありますからね、といったんだな。」
「そんなことをいいましたか。」
「そうなんだ。」
「じゃア、田所は、すでに、大株主たちの間に、何んらかの連絡を取っているに違いありません。だとしたら、こんどは、辞めさせるわけにはいかないかもわかりませんよ。」
「…………。」
「社長が、いくら、辞めさせる、とおっしゃっても、ほかの株主たちが、その必要はない、といいだしたら、こんどこそ、田所氏だって、開き直ってくるでしょうし。」
「しかし、僕は、いちばんの大株主だよ。」
「そりゃアそうですが、たとえば、大阪の持田さんのような人から、田所氏を辞めさせては困る、といわれたら、無視するわけにはいきませんからね。」
「そうなったら、僕が持田さんにいうよ。」
「勿論、そうしていただかないといけませんが。」
しかし、龍太郎には、善太郎が、持田を説得できようとは考えられなかった。
龍太郎は、自分の席へ帰った。
何んとしても、善太郎が、すこし、早まったように思われてならなかった。が、今となっては、どうにもしようがないのである。
(このまま、黙って、田所氏の出方を待ってみるか)
(それとも、こっちから、積極的に株主に働きかけてみるか)
勿論、後者の方がいいにきまっていよう。しかし、働きかけるにしても、それ相当の材料がいる。まして怪文書によって、株主の気持が動揺しているとしたら、却って、善太郎の地位に不利を来たす恐れすら予想できるのである。
龍太郎は、田所を辞めさせるのに、君の手を借りぬと、いった善太郎の言葉を思い出した。
だから、この際、放っておけばいいのである。すこし、善太郎も、自分で苦しんでみればいいのだ。
そうは思うのだが、怪文書を出したりするような田所がいる限り、この会社に、真の平和がこないのだ。と考えると、やはり、放っとかれないような気がするのだった。
卓上電話のベルが鳴っている。出てみると、東洋不動産からだった。
「南雲さん? 沙恵子ですのよ。」
「やア。」
龍太郎は、思わず、明るい声を出した。
「叔父が、あなたにお会いしたいといってるんですけど、今夜、ご都合がつきません?」
「いいですよ。」
龍太郎は、即答した。
その夜、龍太郎は、沙恵子の指定した築地の料亭へ出かけて行った。が、彼女の叔父が、どういう用件で自分に会いたいというのか、見当がつかなかった。歩きながら、
(ひょっとしたら……)
と、彼は、胸を弾ませていた。
沙恵子の顔が、微笑みかけるように、眼の前に浮かんでくる。九州時代の沙恵子、そして、東京へ来てからの沙恵子……。
そのとき、彼は、結婚するなら、彼女よりほかにない、とさえ思った。すると、その思いをさえぎるように、高子の顔が、現われて来た。
龍太郎は、高子が、自分を愛してくれている、と知らぬわけではなかった。知っていればこそ、わざと、今日まで、避けるようにして来たのである。
高子の美貌、理性は、あるいは、沙恵子にまさっているかも知れない。しかし、彼は、高子のそばにいると、いつでも、ある窮屈さを覚えるのである。その点、沙恵子だと、まるで、母親のそばにいるような、心の安らぎが感じられる。結局は、沙恵子は、自分と同じ庶民の中に育って来ているが、高子の方は、いわゆる上流の出であるからであろうと、彼は、思っているのだった。
(しかし、当分は、結婚どころではないのだ)
いつ、会社を辞めなければならないかも知れないのである。沙恵子を失業者の妻にしたくなかった。
「ここだな。」
龍太郎は、料亭の中へ入っていった。出迎えた女中に、
「曽和さん、お見えになっているでしょうか。」
「どうぞ。お待ちになっていらっしゃいます。」
彼は、女中の後から、長い廊下を歩いていった。すぐ、沙恵子に会えるのだ、と思うと、胸がときめいてくるようだった。
女中が、襖を開いて、
「お連れさまが、いらっしゃいました。」
すると、中から、さっと、人の立ってくる気配がして、
「南雲さん。」と、沙恵子が、顔を見せた。
彼女は、龍太郎の顔を見ると、いかにも嬉しそうに、にっこりと笑った。
龍太郎も笑った。
が、部屋の中には、沙恵子の叔父の伸作のほかに、もう一人、見知らぬ五十年輩の紳士がいた。
龍太郎は、畳の上に、軽く座って、
「どうも、遅くなりまして。」
「いや、お忙しいところを、急に、お呼びしたりして、申しわけありません。さア、どうぞ。」と、伸作がいった。
見ると、床の間の席が空いている。伸作は、その席を、彼にすすめているのである。
「あんな高い席は、困ります。」
「しかし、今夜は、わざわざ、来ていただいたんですし、ぜひ、あそこに座って貰わねばならない訳があるんですよ。」
「では、失礼します。」
龍太郎が、その席につくと、伸作は、
「ご紹介しましょう。東洋不動産の専務取締役、矢部弘二さんです。」
「南雲龍太郎です。どうか、よろしく。」
「いや、こちらこそ。」
しばらく、何気ない雑談が続けられたあとで、伸作が、
「日吉不動産に、田所栄之助という人がいらっしゃるでしょう?」
「専務です。」
龍太郎は、答えた。
(やっぱり)
と、いうように、伸作と矢部が、顔を見あわした。
その二人のようすに、何か、ただならぬものがあった。それを見て、龍太郎は、自分がここへくるまで考えていたことが、まるで、見当はずれであったらしい、と気がついた。チラッと、沙恵子の方を見ると、つつましく控えているが、一種の緊張感をその顔に漂わしていた。
「田所専務が、どうかしたんですか。」
「いや……。」と、伸作が、ちょっと、いいよどんでから、「どういうひとですか。」
「どういうって、まア、日吉不動産を一人で、切りまわしているんです。」
「なるほど。もし、間違っていたら、お許しを願うとして、この沙恵子から聞いたことがあるんですが、南雲さんが、九州から、わざわざ、東京へいらっしたのは、その田所さんの独裁をおさえるためではなかったのでしょうか。」
「実は、そうなんです。しかし、なかなか、思うようには参らぬので、困っているところなんです。」
「しかし、今でも、そうしよう、と思っていらっしゃるんでしょう?」
「ええ。」
「じゃア、今夜は、何も彼も、ざっくばらんに申し上げますから、私の兄とは、昔からお知り合いであった、というよしみで、内輪のつもりで聞いていただけませんか。」
「聞きましょう。」
「実は、東洋不動産の株の値段が、最近、値上りしているので、その理由を調べてみたんです。すると、誰かが、買い集めていることがわかったんです。」
「なるほど。」
「で、更に、いろいろのテを使って調べてみますと、その一人が、田所さんであるらしいことがわかったんです。」
「田所専務が?」
「そうなんです。もう一人、ほかにあるんですが、それは、大阪の持田剣之助という男なんです。」
「持田氏が?」
龍太郎は、思わず、声を大きくした。
「ご存じですか。」
「日吉不動産の大株主ですよ。」
「えッ?」
こんどは、伸作の方が、声を大きくした。
「しかも、その持田氏と田所専務とは、何か、特別な関係にあるらしいんです。」
「そうでしたか。」
矢部は、唸るようにいった。
しかし、龍太郎もまた、唸りたくなっていた。持田と田所が、こんなところでも、手を組んでいようとは、考えもしなかったことなのである。この調子だと、日吉不動産についても、あの二人は、何を考えているか知れないのだ。
重苦しい空気が、この席に満ちて来た。誰も、酒を飲もうとはしなかった。沙恵子まで、料理に手をつけずに、心配そうに聞いている。
「すると、こんどの買占めは、その二人の合作と見ていいですね。」
「と、思います。」
龍太郎は、はっきりと答えた。
伸作は、矢部の方を見て、
「こうなると、いよいよ、一大事らしいよ。」
「そうなんだ。」
「実は、南雲さん。私が、矢部君とは、昔からの友達なんで、相談を受けたんです。それで、日吉不動産の田所と聞いて、あなたのことを思い出した。というわけなんです。」
「しかし、私も、聞かして頂いて、よかったですよ。」
「勿論、日吉不動産からは、こんどのことのために、金は出ていないんでしょうね。」
「出ていません。」
「すると、田所って、そんなに金があるんですか。」
「普通なら、そんなに、あるはずがないんですが。」
が、龍太郎は、そのとき、いつか、田所に連れられて、日吉ビルの地下室のキャバレエに行ったときのことを思い出していた。女給の暁子が、権利金として二千万円も取ったようにいっていたが、実際、会社へ入っているのは、千五百万円であったのである。たかが、女給のいうことなんか、いちいち、真にうけるわけにはいかないが、しかし、疑えば怪しいともいえる。
また、田所は、毎月、善太郎に、税金のかからぬ金で、十万円ずつ渡している。その金の出所が、いまだ、龍太郎に、わからぬのであった。一度は、つっこんで聞いてみるつもりでいながら、いまだ、そのチャンスを得ていなかった。
営業課長を、田所が、完全に掌握していることが、何んとしても、日吉不動産における龍太郎の力を弱いものにしているのだった。
(しかし、田所を辞めさせるとしたら、この方から衝いていくよりほかにテはないのだ)
龍太郎は、そう思いながら、
「いったい、何株、買占められているんですか。」
「はっきりは、わかりませんが、持田が十三万株で、田所が八万株ぐらいなんです。」
「お宅の資本金は?」
「三千万円ですが、そのうち、絶対の安定株は千万円の二十万株だけです。」
「すると、二人の株をあわせると、その安定株よりも二人の方が多くなりますね。」
「だから、困っているんです。」
伸作が、
「要するに、重役が間抜けなんだ。」
「一言もない。」
矢部は、苦笑しながら、頭をかいた。
龍太郎は、じいっと、考え込んだ。矢部が、
「あなたから、田所氏に何んとか、買戻しに応じてくれるようにいって貰えないでしょうか。」
「そりゃダメでしょう。私の考えでは、むしろ、そういう話は、大阪商人の持田氏の方に、条件によっては、通るかも知れませんよ。」
「すると、田所氏の方は?」
「持田氏が投げ出したら、田所氏の方は、問題でなくなるんじゃありませんか。いや、持田氏が崩れたら、田所氏だって、きっと、崩れてくるでしょう。」
「なるほど。」
「私は、さっきから考えているんですが、持田氏と田所氏は、先ず、お宅の会社を乗っ取ってから、日吉不動産と合併しようとしているんじゃないか、ということです。」
「合併ですって?」
矢部は、ますます、恐ろしいことを聞かされたような顔をした。
伸作が、
「そう思われる節でもあるんですか。」
「いや。単なる、私の想像ですよ。しかし、田所氏は、日吉不動産の今の社長に対して、好意を持っていないことは、たしかなんです。これには、いろいろの原因がありますが、要するに、社長に反感をいだいている以上、その社長の位置に、自分が座りたくなるのが、人情だと思うんですよ。」
「わかる。」
「が、今のままでは、日吉不動産の株の過半数は、日吉の一族で握っているから、まア、どうにもなりません。しかし、東洋不動産を合併してしまえば、日吉一族の持株率は、ぐっと、下がりますからね。そこで、他の株主たちとうまく連絡を取ったら、田所氏が、社長になって、現社長を蹴落すことも出来る、ということになります。もっとも、田所氏が、本当にそこまで、考えているかどうかわかりませんが、一応そう考えて、対策を練った方が、安全だと思うんです。」
「そうだな。じゃア、南雲さんの方でも、一つ、協力してくれますか。」
「しますよ。実をいうと、今日、社長から、田所氏に、今期限りで辞めてくれ、といったんです。」
「すると?」
「考えてみる、というんです。ほかにも、株主がありますからねえ、と謎のような言葉を残して去ったそうです。」
「ほかにも、株主がある、というのは、持田のことですね。」
「いや、持田氏だけではないらしいんです。そのほかにも、気脈を通じている株主が、何人か、いるようなんです。だから――。」
龍太郎は、言葉を切った。
沙恵子は、龍太郎の言葉に、耳を傾けていたのだが、そこで、ひょいと、彼の顔を見ると、さっきまでの暗さが消えて、一種の闘志とでもいいたいような精気が溢れていた。
「だから?」
伸作もまた、龍太郎の顔を見ながら、あとの言葉を促した。
「僕は、何んとしても、田所氏には辞めて貰うつもりです。」
「方法があるんですか。」
「いま、考えていることがあります。それで、こうなったら、あなたがたの方でも、持田氏に呼びかけて、極力、田所氏を孤立させるようにして貰いたいのです。」
「わかりました。やってみましょう。」
「ぜひ。」
伸作は、ホッとしたように、沙恵子を振り返って、
「やっぱり、今夜は、南雲さんに来ていただいて、よかったな。」
「でしょう?」
沙恵子は、嬉しそうにいった。
「南雲さんに、お酌をしてあげなさい。」
「はい。」
「ありがとう。」
酒は、すっかり、冷えていた。しかし、龍太郎には、興奮した後のせいか、ひとしおうまいものに思われた。
一時間ほどして、四人は、その料亭を出た。十三夜ぐらいの月が、冴え冴えとした光を放っていた。沙恵子は、つと、龍太郎に寄り添うようにして、
「いいお月様ね。」
「そう。」
「九州で、ごいっしょに歩いた夜のことを思い出していますのよ。」
「僕も……。」
同じ月を、田所は、向島に向かって走る自動車の中から眺めていた。しかし、彼の心の中は、月の静けさには程遠く、憤りに燃えているのだった。
「あの若造めが。」
何度、口に出して、そういったか知れない。そして、そのつど、善太郎の顔が浮かび上がって来て、ますます、憤りが強くなってくるのである。
「今に見ていろ。きっと、吠え面をかかしてやるから。」
先に、善太郎の方から攻撃に出て来たことで、却って、田所の決心がかたまったのである。こうなったら、遠慮をすることはない。はっきり、敵としての態度を取ってやろう、と思っていた。その方が、やりやすいのである。
「だいたい、あの男には、社長としての資格が、はじめから欠けていたのだ。」
それを今日まで、とにかく、社長としていられたのは、自分がいたからだと、田所は、信じていた。
「もし、おとなしくしていたら、俺だって、手荒な真似をしなかったろう。」
田所は、すべてを、善太郎のせいにしてしまわないと、気がすまなかった。彼には、まだ、
(俺は、悪党なのだ)
と、いい切るだけの度胸は、ないようだった。
田所は、会社を出ると、すぐ、二人の株主を訪れたのである。一人の株主は、留守だったが、一人の株主は、会ってくれた。野口という一万株の株主だった。
「かねて、お願いしてあった通り、こんどの総会の委任状を、私に頂戴したいのです。」
「すると、一株について一円、出してくださるんでしょうな。」
「その一万円を、ここへ持って参りました。」
「それはどうも。」
「とにかく、あの社長には困ります。近頃は、女事務員のアパートに、いりびたっているんですからね。今や、社員たちから、総スカンを食っています。」
「ほう。」
「それに、やたらに金をほしがって、しようがないんです。まるで、日吉不動産を、自分個人の会社のように思っているんですからね。」
「そりゃア困る。」
「だから、意見したんです。そうしたら、逆に、私に辞めろ、というんです。」
「辞めろ?」
「そうなんです。しかし、私が、今、ここで辞めたら、日吉不動産は、それこそ、めちゃくちゃになります。株主にも申し訳ないし、社員たちも可哀そうです。だから、この際、どうしても、私宛に委任状を頂きたいんです。」
「しかし。」
野口は、田所の顔を見て、
「田所さんも、その委任状のために一万円もお払いになったんでは、損ではないんですか。」
田所の痛いところだった。しかし、彼は、わざと、真面目な顔で、
「私だって、こうなったら、意地ですよ。自分の家を担保にいれる覚悟をしました。損得の問題ではないんです。」
結局、野口は、一万円と引換えに、委任状に判を押してくれたのである。その委任状が、彼のポケットにおさめられていた。このほかに、自分の所有株が二万株ある。もっとも、そのうちの一万株は、持田から譲渡を受けたまま、わざと、名義の書換えをしてなかった。更に、持田と大泉が、委任状をくれるはずだから、それだけでも十七万株になる。
田所は、はじめて、ニヤリと笑った。
恐らく、十七万株の委任状があれば、取締役に選任されることは間違いあるまい。しかし、田所は、もし、出来得たら、この際、善太郎を蹴落して、いっきに、自分が社長になりたい、と思っているのであった。
ほかにも、委任状をくれる株主があるはずだし、これからも、大いに運動してまわるつもりである。すでに、その下工作はしてある。
が、何んといっても、善太郎の姉たちの良人、稲川と福間の名義になっている十六万株を、こちらがわにまわせば、ぐっと、有利になるのである。
かりに、二人が、こちらがわにつけば、善太郎の持株は、四十四万株で、半数には達していないのだから、今後の田所の運動しだいで、善太郎の持株より多くの株数を集められるかも知れないのだ。
今夜、これから行く向島の待合に、二人を呼んであるのも、そのためだった。
二人を、その待合へ連れて行ったのは、田所が、はじめであった。以来、二人は、しょっちゅう、そこへ行っているのである。すでに二人に、きまった女が出来ていた。そして、そういう金は、結局、田所からの借金によって、まかなわれて来たのだった。
田所は、そこまで考えて、もう一度、窓から月を見あげた。そして、今度は、ゆっくり、観賞出来たのである。自動車は、白鬚橋の上を走っていた。月影が、隅田川の上で、波にゆられていた。
田所が、二人のいる部屋へ入っていくと、二人とも、それぞれの女を近寄せて、相当、いいご機嫌になっていた。
「やア、田所さん。お先に、やっていますよ。」
「さア、田所さんも、まず、一杯。」
二人は、口々にいった。
稲川の女が、すぐ、お銚子を取り上げて、
「どうぞ。」
「うん。」
田所が、それを飲みほすと、福間が、
「いかん、いかん。駆けつけ三杯。」
「ねえ、田所さん、今夜は、痛飲しましょうよ。いいでしょう?」
「おい、こら。たよりにしてまっせ、と田所さんにいわんか。」
稲川は、女にいった。
「ほッほ。たよりにしてまっせ。」
「そうだ、その調子。」
二人は、すっかり、浮かれている。今夜は、ここへ泊まるつもりであろう。
田所は、さされるがままに、盃をほしていた。そして、心の中で、こんな二人を、軽蔑しているのだった。いや、この二人を軽蔑しだしたのは、ずっと、以前からのことである。軽蔑しながら、利用することを考えていたのであった。
「おい、三味線を持ってこい。一つ、陽気に歌うんだ。」
「ええ。」と、女が、立ち上がりかけた。
「ちょっと、待ちたまえ。」
田所が、女を見つめて、
「すこし、相談したいことがあるから、君たちは、しばらく、下がっていてくれたまえ。」
女たちは、それぞれの相手の顔を見たが、しかし、そのまま、部屋から出ていってしまった。後に残された二人は、ちょっと、ひょうしぬけの格好であったが、田所が、真面目な顔でいることに気がついて、何んとなく、座り直した。
「どうかされたんですか。」と、稲川がいった。
それには答えないで、田所はチョッキのポケットから、手帳を取り出した。そして、ゆっくり、ページをくりながら、静かな口調で、
「今日までに、稲川さんに融資した金は、百六十五万円です。」
「そんなになっていますか。」
稲川は、おどろいたようにいった。
「福間さんの方は、百七十三万円です。」
「百七十三万円?」
これまた、思いがけないようにいった。
「いつでも、借用証をお見せしますよ。」
「いえ、そんな意味ではないんですが。」
「今いった金額に、利息を加えて、お二人とも、まア、二百万円と思っていただいていい、と思うんです。」
「二百万円!」
二人とも、酔いも醒めて来たような顔になっていた。しかし、田所は、あくまで、静かな口調で、
「この際、その二百万円を、返していただきたいんです。」
「返すんですか。」
「さよう。」
「無茶な。そんな金、今の僕たちにあるはずがないじゃアありませんか。」
「しかし、お貸しした金ですよ。差し上げたんではありませんよ。」
「そりゃアわかっていますが。」
「だったら、返していただきましょう。」
二人は、青くなっていた。
「それに、あの金は、私のではありません。私に、あんな大金があるはずがありません。特別に、あなたがたのために私が、ひとから借りてあげたのです。」
「僕は、また、田所さんのポケットマネーからだとばかり思っていましたよ。」
「僕も。」
「バカな。あんな大金が、ポケットマネーから出せますか。かりに、ポケットマネーであったとしても、借りたものは借りたものですよ。」
「いったい、いつまでに返せばいいんですか。」
「大至急。明日中にも。」
「そんな無茶な。」
「しかし、中に入った私も、矢の催促を受けて、困っているんですよ。何んでしたら、その男を、直接、お宅の方へ、差し向けてもいいんです。」
「家へ?」
二人とも、ギョッとなっている。
「そうです。いけませんか。」
「困りますよ。女房には、内証にしてあるんですからね。」
「僕だって。」
田所は、黙り込んだ。ほかの二人も、ただ、溜息をついているばかりだった。遠くの部屋から、ドンチャン騒ぎの音が聞えてくるが、しかし、この部屋の空気は重苦しくて、死んでいるように動かなかった。
やがて、福間は、顔を上げて、
「ねえ、田所さん、何んとかなりませんか。」
「…………。」
「たすけると思って、何んとかしてくださいよ。」
「お願いします。」
二人は、哀願の眼を、田所に向けた。
田所は、なおも、黙っている。そんなときの彼の眼は、ぞうっとするような冷たい光を放っていた。
福間は、進退きわまったように、
「田所さん、これ、この通りですよ。」と、畳の上に両手をついた。
それを見て、稲川は、あわてて、福間の真似をした。
「よろしい。」と、田所が、やっと、口を開いた。
「それでは、もうすこし、待ってくださるんですか。」
「有難うございます。たすかりました。」
「しかし、条件がある。」
二人は、不安そうに、田所を見上げた。
「わしは、今日、社長から、退任を要求された。」
「えッ?」
「どうしてですか。」
「そんなことは、あのバカ社長に聞いてみたまえ。しかし、わしは、絶対に辞めぬ。今、わしが辞めたら、あの会社は、どうなるのだ。」
「そうですとも。」
「大阪の大株主持田さんや、ほかの大株主たちも、わしを支持していてくださる。」
「当然ですよ。」
「そこでだ、こんどの株主総会で、君たちの持っている株主権の行使を、わしに、まかせて貰いたい。」
流石に、二人は、顔を見あわせた。
「嫌なのか。」
「いえ。」
「嫌なのなら、この際、金を返して貰おう。何故なら、わしを通じて、君たちに金を融資した人が、そういっていられるからだ。ただし、わしが、会社に残れば、早晩、あの社長は、辞めることになるはずだ。」
「すると、後は、田所さんが?」
「そうだ。そうなった場合、君たちには、日吉不動産に来て貰うことにしてもいい。今のような単なる名目だけの取締役ではなしに、ちゃんとした現職のある取締役にしてやってもいい。」
「本当ですか、田所さん。」
「わしは、嘘をいわぬ。勿論、君たちの収入は、今よりも、ずっと、ふえることになるだろう。」
「有難いですなア。」
福間は、いったが、稲川の方は、ちょっと、心配そうに、
「しかし、そんなことをしたら、善太郎君が、怒るだろうな。」
「君は、まだ、そんなことをいっているのか。」
田所は、声を強めて、
「早晩、辞める社長に、何んの遠慮がいるんだ。それよりも、自分の将来を考えた方が、余ッ程、有利ではないのか。」
「そうだよ、稲川君。だいたい、善太郎君は、われわれに対して、不人情過ぎるんだ。だから、こういう結果になったのじゃアないか。僕は、こうなったら、田所さんのおっしゃる通りにするよ。」
しかし、稲川は、まだ、最後の決心が、つかぬようであった。田所が、
「稲川君。じゃア、君だけは、明日中に、二百万円を返してくれるんだな。家の方へ、人を差し向けてもいいんだな。」
「いえ。」
「いったい、どっちなんだ。」
「わかりました。おまかせします。」
田所は、二人を向島に残して、先に、帰った。恐らく、あの二人は、今夜、向島で泊まるだろう。
(バカな奴だ)
と、思うのである。
(あんなバカ者どもを、どうして、現職のある取締役に出来るものか)
総会が終ったら、あの二人の持株を、徐々に取り上げていってやろう。二百万円の貸金をタテに、強引に実行するつもりだった。
これで、十七万株のほかに十六万株が加わって、三十三万株になったのである。あと、大阪の寺田の五万株は、先ず、間違いあるまい。更に、北海道の岡の五万株も、可能性があるはずだ。合計、四十三万株である。善太郎の四十四万株との差は、一万株に過ぎない。しかし、これから総会までの間に工作すれば、まだ二万株や三万株の委任状は、集められるだろう。本間を脅かしてもいい。そうなったら、完全に、善太郎をおさえることが出来るのだ。
(われ、勝てり、だな)
田所は、会心の笑みを洩らしている。
あとは、東洋不動産との合併だが、これまた、着々と、準備がすすめられていた。
田所は、自動車の動揺に身をまかせながら、満ち足りた思いで、両眼を閉じていた。
(日吉の次は、南雲を辞めさせることだ)
そうしない限り、社員の動向を、自分一辺倒にすることは、出来ないのだと、田所は、知っていた。
(しかし、辞めさせるには、ちょっと、惜しい男だな)
田所は、家へ着いた。出迎えた女中に、
「奥様は?」
「映画を見に行くとおっしゃって、夕方から、お出かけになりました。」
「そうか。」
田所は、不機嫌になった。妻の外出好きは、一向に、あらたまっていない。こうなったら、こっちも、勝手な事をするだけだ、と思うのである。が、やはり、淋しかった。二人の子供も、まだ、帰っていないと知ると、いっそう、淋しさが押し寄せてくるのである。
田所は、その淋しさを忘れるためのように、すぐ自分の書斎から、大阪の持田へ電話をかけた。
持田が、電話口に出た。
「ああ、持田さん。早速ですが、今日、日吉社長から、退任を要求されたんですよ。」
「ほう。」
「もうすこし、仕事熱心になってくれ、と苦言を呈したらなんですよ。」
「それで?」
「考えときましょう、といっておいたんです。この会社には、ほかにも大株主がいますからね、といってやりました。」
「その通りや。」
「それで、さっき、例の稲川と福間の二人を、こっちがわにつけました。貸金がしてあるんで、問題でありませんでした。」
「そらアめでたい。」
「で、この際、例の条件で、持田さんの委任状を、私にいただきたいのですが。」
「…………。」
「大泉さんの五万株も、貰えるはずなんです。」
「なるほど。」
「会社から委任状を送りましたら、早速、ご捺印の上、私あてにご返送してくださいませんでしょうか。」
「送ってもええが……。そうだ、総会には、わしが、東京へ参りまっさ。」
龍太郎は、出来ることなら、ここ二、三日、善太郎と顔をあわしたくなかった。が、東洋不動産株の買占めに、田所だけでなしに、大阪の持田までが関係しているとわかった以上、一応、耳にいれておかなければならない。
(ここがサラリーマンの辛いところなんだな)
月給を貰っている以上、わがままはいっていられないのだ、と自分をいましめながら、彼は、秘書室へ入っていった。
「社長、いられますか。」
「ええ。」と、高子が答えた。
龍太郎と善太郎との仲が、近頃、うまくいっていないことを、誰よりも心配しているのは、高子であったろう。彼女は、その不和の責任が、すべて、兄にあることを知っていた。ここで、龍太郎を怒らせたら、この先、日吉不動産は、どうなっていくか、ということを考えていると、空恐ろしくさえなってくるのである。今や、龍太郎が、この会社にとって、絶対に必要な人物であることを、彼女は、日々に痛感していた。
その龍太郎が、とにもかくにも、笑顔で、社長の在否を聞きに来てくれたのだから、高子は、嬉しかった。同時に、兄にくらべて、龍太郎の方が、人間として、格段に上である、とも思わずにはいられなかった。
(が、このひとには、九州から来た沙恵子さんがついているのだ)
それを考えると、せっかくのよろこびも、みるみる、沈んでいくようであった。
「じゃア。」
龍太郎は、社長室への扉を開きかけてから、
「そうだ、あなたにも、ごいっしょに聞いていただきましょう。」と、高子の方を振り向いていった。
「あたしも?」
「ええ、その方が、いいと思うんです。」
二人の姿を見て、善太郎は、むっとした顔をしていた。
「社長、ちょっと、お耳にいれておきたいことがあるんですが、いいですか。」
「いいよ。」
「実は、僕が、九州の会社にいたときの部長のお嬢さん、曽和沙恵子というんですが、そのひとは、東洋不動産に勤めているんです。」
善太郎は、それがどうした、という顔をしている。が、高子の方は、
(そうであったのか)
と、思い、そのあと、
(ひょっとしたら、南雲さんは、その沙恵子さんと結婚することになった、とおっしゃるのでなかろうか)
と、胸をふるえさせていた。
「昨日、その沙恵子さんから電話があって……。」
龍太郎は、東洋不動産の重役矢部と会ったときの経緯を話した。
高子は、龍太郎の結婚の話でなかったので、ホッと安心した。同時に、日吉不動産の前途について、あらたなる不安を感じないではいられなかった。
「日吉不動産と東洋不動産を合併しようとたくらんでいるのではないか、というのは、勿論、私の想像です。しかし、田所氏と持田氏が、そのように腕を組んでいる、とすれば、これは、大いに考えてみる必要がある、と思うんですよ。」
「何を、考えてみる必要があるのだ。」と、善太郎がいった。
「えッ?」
龍太郎が、ちょっと、あきれて善太郎の顔を見た。彼は、相変らず、不機嫌のままで、
「田所には、今期限りで辞めて貰うのだ。辞めさせてしまえば、後は、彼が、何をしようが、勝手ではないか。勿論、東洋不動産との合併なんか、それこそ、夢みたいな話だ。」
「お兄さん、違ってよ。」
高子が、たまりかねたようにいった。
「何?」
「南雲さんのおっしゃるのは、田所さんが、持田さんと腕を組んでいなさるとすれば、今期限りで辞めさせようにも、辞めさせるわけにいかないだろう、ということなのよ。ねえ、南雲さん、そうなんでしょう?」
「そうなんです。」
善太郎は、やり込められたように、
「そんなことは、僕にだって、わかっている。だから、そのことなら、僕から、持田氏に話す、と前にもいったはずだ。」
「でも、持田さんが、嫌だ、とおっしゃったら?」
「僕は、いちばんの大株主だよ。」
「でも、百パーセントの株を持っているんじゃアないから、ほかの株主たちの意向を無視することは出来なくってよ。」
「うるさいな、高子、女のくせに黙っていろ。」
「だって、あたし、黙っていられないわ。」
横で聞いていて、龍太郎は、善太郎よりも高子の方が、余ッ程、立派である、と思っていた。すくなくとも、高子の方が株式組織ということについて、正確な意見を持っている。
「社長。」と、龍太郎が、そのあとをいいかけると、善太郎は、不機嫌に、
「何んだ。君も、高子と同じ意見なんだろう? しかし、僕だって、これで、ちゃんと、考えているんだ。」
「と、おっしゃると?」
「君の意見をいいたまえ。」
「僕としては、この際、田所氏を辞めさせることには、大賛成なんです。ただ、それには、それ相応の、すくなくとも、株主たちを納得させる理由が、必要です。で、いつかもお話しました通り、田所氏は、毎月、社長に、税金のかからぬ金を十万円ずつ、渡しているそうですが、その金の出どころを追究してみたいんです。」
「と、いうことは、今後、あの十万円は、やめになるのか。」
「仕方がありません。」
「困る。絶対に困る。」
しかし、龍太郎は、それには答えないで、
「ところが、前にも申し上げたように、あの金は、帳簿にのっていません。そういう金の出し方は、会社の経理を混乱させる原因になります。社長に十万円はいいとしても、田所氏だって、それ相応の金を取っているに違いありません。一方で、田所氏が、東洋不動産の株を買占めている、というのも、そんな金があるからです。普通に考えて、田所氏に、そんな金があるはずがありません。僕の想像では、田所氏が、何かのカラクリをしている、と思われるのです。」
「そうよ、きっと、そうよ。」
高子がいったが、善太郎は黙り込んでいた。
「だから、この際、社長から田所氏に、毎月の十万円を、どうして捻出したか、聞いていただきたいんですよ。」
「そんなことを、僕に聞け、というのか。」
「どうか、お願いします。」
「嫌だ。」
善太郎は、そっぽを向いた。
「しかし。」
「嫌だッ。」
「社長。」
龍太郎は、一歩、踏み込むようにしていった。
善太郎は、ジロリと、龍太郎を見返しながら、
「そんなに聞きたかったら、君が、自分で聞きに行ったらいいではないか。とにかく、僕は、もう、田所の顔を見るのも嫌なんだ。一切、口を利かないことにしているんだ。」
「でも、このことは、社長から聞いて頂いた方が、いちばん、いいと思うんですが。」
「君には、僕のいってることが、まだ、わからないのか。」
善太郎は、怒鳴りつけるようにいった。
「わかりました。」
龍太郎は、煮えくりかえってくるような腹の虫をおさえながら、むしろ、静かな口調でいった。
「わかったら、この部屋から、出て行ってくれたまえ。」
「お兄さん。」と、高子がたまりかねたようにいったが、これまた、善太郎から、
「うるさい。女のくせに、つべこべと口を出すな。」と、ヒステリックにいわれてしまった。
龍太郎は、黙礼すると、社長室を出た。すぐ後ろから、高子が、追って来て、
「ごめんなさい。」
「いいんですよ。」
龍太郎は、淋しげに笑ってみせた。彼としては、もう、何もいうことがない、といった気持だった。
(要するに、こんな会社へ入って来たことが、自分の失敗であったのだ)
そんな思いだった。
「兄は、どうかしているんですわ。」
「しかし、社長は社長ですからねえ。」
高子は、一瞬、ためらった後、思い切ったように、
「いっそ、南雲さんに、この会社の社長になって頂くといいんですけど。」
「僕が?」
龍太郎は、思わず、高子を見返して、
「ご冗談をおっしゃっては困ります。」
「いいえ、あたしは、本気ですのよ。ゆうべも、そのことを、真剣になって、考えていましたのよ。」
「僕は、この会社の株を、一株だって、持っていないんですよ。」
「そんなこと、どうにでもなるんじゃアございません? あたしの名義になるはずの株を、お譲りしてもよろしいわ。」
「僕に、そんな金は、ありませんよ。」
「お金は、すぐにでなくても、結構ですのよ。」
高子は、そのとき、もし、二人が結婚することが出来たら、そんな問題も、しぜんに解決するのだと思っていた。しかし、それはまだ口に出せることではなかった。
龍太郎は、わざと、笑いながら、
「かりに僕が、社長になるとしたら、善太郎君は、いったいどうなるんですか。」
「ただの大株主、ということでいいんじゃアございません?」
「そんなことをいったら、善太郎君は、それこそ、本気になって怒りますよ。」
「だって、仕方がありませんわ。兄には、社長になる資格のないことが、いよいよ、はっきりわかって来たんですもの。資本家が社長であることが、いちばん、いいことかも知れませんけど、その資本家に、経営者としての能力がないとしたら、よそから経営の能力のある人を求め、本人は、ただの大株主になる、ということが、そういう場合の最も妥当な手段じゃアございません?」
「そりゃアそうです。」と、いいながら、龍太郎は、女の高子が、そこまで考えていたのか、と心の中で感心していた。
「だったら、南雲さん、社長になってくださいます?」
「ところが、残念ながら、僕には、社長になる資格も能力もありませんよ。」
「ありましてよ。もし、その気になってくださるんなら、あたし、どんなことをしてでも、兄を説得してみせますわ。勿論、ほかの株主たちも、賛成してくださる、と思います。」
「それなら、いっそ、あなたが社長におなりなさいよ。」
「まア、あたしが?」
「そうですよ。僕は、あなたなら、きっと、社長がつとまる、と思います。」
「ご冗談ばっかり。」
「いや、本当ですよ。僕は、前から、そう思っていました。」
「あたし、女社長なんて、嫌ですわ。」
気がつくと、二人とも、廊下で、立話をしているのであった。
龍太郎は、事務室へ戻った。高子と、しばらく話をしたお陰で、善太郎の部屋での不愉快さが、多少、消えていた。
厚子が、お茶を持って来てくれた。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
そういって、龍太郎は、厚子の顔を見上げた。彼女は、ちょっと、羞じらうように微笑んだ。が、その顔は、美しかった。近頃、ますます、美しくなったようだ。恋をすると、女の顔は、こんなにもいきいきとしてくるものなのか。
龍太郎は、声をひそめて、
「君と大間君とのこと、お姉さんから聞いたよ。」
「あら。」
「おめでとう。」
厚子は、逃げるように、去っていった。しかし、席につくと、すぐ、大間に何かささやいている。大間は、ちらッと、龍太郎の方を見た。龍太郎は、大間へも、おめでとう、というように、頷いてやった。大間は、ペコリと頭を下げた。
龍太郎は、社長室で、不愉快な思いをさせられているので、却って、部下の社員たちに、親切にしてやりたくなっていた。
彼は、未決箱の中から、書類を取り出した。中に、大阪支店の先月末のバランスシートが入っていた。じいっと見ていくと、旅費だけで、一カ月に二十万円も使っているのである。毎月、大阪支店から、何人かの社員が出張して来ていることはたしかだが、しかし、二十万円は、どう考えても、多すぎるようだ。
龍太郎は、岩田を呼んだ。
「大阪支店で、毎月、二十万円もの旅費がいるのかね。」
「そんなにはいらんと思いますよ。せいぜいで、七、八万円ぐらいだ、と思っていましたが。」
龍太郎は、考え込んだ、それを見て、岩田が、
「どうかなさったんですか。」
「いやね、大阪支店の経費が、すこし、かかり過ぎているような気がするんだ。たとえば旅費だけで、一カ月に二十万円だし、接待費にしても三十万円からつかっている。そんなにいるはずがない、と思うんだがね。」
「そのことなら、僕も、前から感じていたんですが、大阪支店の経理を、すこし、調べてみる必要がありますよ。」
「と、いうと?」
「あそこの経理は、支店長と岸山君とでやっているようなもんなのです。ほかの社員には、何んにも知らされていないんです。もっとも、田所専務が、ときどき出張して、よく、事情を聞いていられるようですが。」
「支店長の有川君は、田所専務のお気に入りなのか。」
「はっきりいえば、腰巾着のようなものなのです。」
「そうか、ありがとう。」
岩田を帰してから、龍太郎は、更に、考え込んだ。田所が金を持っている原因の一つとして、大阪支店の経理にカラクリがある、ということも想像出来るのである。としたら、いよいよ、放っとかれないような気がする。
龍太郎は、立ち上がった。すぐ、事務室を出て、田所の部屋の扉をノックした。
中から返事があって、扉を開くと、山形人事課長と山上営業課長が来ていた。二人は、まるで、敵を見るような眼つきで、龍太郎を見た。
しかし、田所は、平然として、
「何か、用かね。」
「ちょっと、ご相談したいことがあるんですが。」
「そうか。いいだろう。」
と、いってから、田所は、二人の課長に、
「じゃア、後でまた。」と、アゴをしゃくるようにした。
二人の課長が、部屋から出ていった。
龍太郎は、田所の前へ進んだ。
「何か、面倒な相談かね。だったら、カンベンして貰いたいな。何故なら、わしは、社長に、今期限りで辞めろ、といわれているんだからね。」
「すると、やっぱり、お辞めになるんですか。」
「さア、どういうことになるかね。はッはッは。」
「実は、すこし、お聞きしたいことがあるんです。」
「何んだ、相談ではなく、質問なのか。まア、いいだろう。」
「毎月、社長に、正式の役員報酬のほかに、税金のかからぬ金で十万円ずつ出ていますが……。」
「ほう、そうかね。」
「いえ、それは、田所専務から、毎月、お渡しになっている、と聞いているんです。」
「おや、そうだったかな。」
「その金は、どういう風にしてお出しになっているのか、おしえていただきたいのです。」
「聞いてどうするのだ。」
「総務部長として、それが、帳簿上に、どのように記帳されているのか、一応、知っておきたいのです。」
「さア、よく、覚えとらんな。人間、年をとると、忘れっぽくなって困るよ。」
田所は、あくまで、シラを切るつもりらしく、まるで、龍太郎を小バカにしたようないい方をした。
龍太郎は、むっとしたが、それを我慢しながら、
「どうか、思い出していただけないでしょうか。」
「困ったな。」
「お願いします。」
「社長が、君に、聞いてこい、といったのかね。」
「いえ、さっきも申し上げたように、総務部長として、知っておきたいのです。」
「いらんことだな。」
「どうしてでしょうか。」
「そんなことは、総務部長風情が知っておく必要があるまい。」
「いえ、総務部長だからこそ、その必要があると、思うんです。」
「見解の相違だな。」
「私は、知りたいのです。」
「南雲君。」
田所の口調が、急に、酷しくなった。
「君は、たかが部長だ。わしは、専務なのだ。その部長と専務に、見解の相違があったら、どちらにしたがうべきか、君にわからないのか。」
「私は、この場合、問題が違う、と思うんです。」
「黙りたまえ。そんなことは、専務たるわしにまかしておいたらいいのだ。もし、どうしても、知りたかったら、社長をここへ呼んで来たまえ。わしから、社長に、とくと説明してやる。」
「…………。」
「君は、いったい、この会社へ来てから、何カ月になるのだ。しかし、わしは、すでに、三十年近くもいるのだ。昨日や今日、ひょっこり現われた若造に、いったい、何が、わかるというのだ、あんまり増長すると、却って、ためにならないぞ。」
そういう田所の眼には、憎悪の色が、満ちていた。
龍太郎は、黙って、立っていた。最早、こうなったら、問答無用、というのほかはないようである。
「帰りたまえ。」
「どうも、失礼しました。」
龍太郎は、頭を下げて、専務室の外へ出た。すぐ、前が秘書室であり、そこから、社長室へ通じているのである。
田所が、社長を呼んで来たら、とくと説明してやる、といっていた。だから、善太郎にそう報告して、彼から、質問さしてやった方がいいのである。しかし、さっきの模様では、善太郎は、やはり、嫌というのに違いなかろう。善太郎は、田所の顔を見るのも嫌だ、といっていたが、本音は、田所が恐ろしいのだ。恐ろしいのだ、といって悪ければ、田所が苦手なのだ。一言いったら、逆に、二言やり込められる自分だ、と知っているのだろう。
「よう、どうしたんだね。」
顔をあげると、本間が、笑顔で立っていた。
「いえ、何んでもないんです。」
「どうだね、そのうちに、いっぱい、やらないか。」
「お願いします。」
そういって、龍太郎は、本間の前をはなれた。
(社長の妻だった女を二号にしているような男も困る)
しかし、それよりも、何んといっても、田所の問題の方が、急を要する。
(よし、こうなったら、一つ、徹底的に調べてやろう)
龍太郎は、眉を上げるように、そう決心した。
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十字路
龍太郎は、会社を出ると、その足で、地下室のキャバレエへ入って行った。まだ、時間が早いので、客の数も、まばらであった。せっかくのバンドも、何か、間がぬけたように聞えている。
いちはやく、暁子が、彼の姿を見つけて、ニコニコしながら、近寄って来た。
「いらっしゃい。」
「よう。」
「あんまりお見えにならないんで、お電話をしよう、と思っていたのよ。でも、よく来てくださったわ。」
暁子は、龍太郎に寄り添うようにして、腰を掛けた。ボーイが、むしタオルを持って来た。
「ビール。」
「かしこまりました。」
龍太郎は、タオルで顔を拭きながら、
「うちの会社の連中、くるかね。」
「ええ、ゆんべも、山形さんと山上さんが、お見えになりましたわ。」
「田所さんは?」
「ちょっと見えたけど、すぐ、お帰りになりました。」
「三人が、いっしょに来たのか。」
「そうよ。」
暁子は、じいっと、龍太郎の顔を見つめながら、
「南雲さん、近いうちに、会社をお辞めになるの?」
「どうして?」
「だって、ゆんべ、お酒に酔って山形さんと山上さんが……。」
「そんなことをいっていたか。」
「ええ、あたし、黙って、横で聞いていたんだけど、本当なの?」
「そうだな。ひょっとしたら、辞めるかも知れない。」
龍太郎は、ビールを口にふくみながらいった。しかし、辞めるとしても、それは、山形や山上のいうのとは、違った意味で、そうなるのだ、と思っていた。
ただ、こんな場所で、二人が、そんなことをいっているようでは、相変らず、田所について、何かのたくらみをしているに違いない、と察しられた。
こうなると、かりに、うまく、田所を辞めさせることに成功したとしても、二人のような田所の子分たちの処置が、問題になってくるのである。しかし、その連中をも、田所と同罪として、いっしょに辞めさせてしまったら、恐らくそのあと、会社の経営に支障を来たすだろう。
が、龍太郎は、すべての禍根は、あくまで、田所一人にある、と思っていた。だから、田所さえ辞めさせてしまえば、恐らく、しぜんに波風がおさまるように、社内の平和がくるような気がしていた。考え方として、すこし、甘いかも知れない。が、そのために、そんな連中と、膝をつきあわすように話し合ってもいい、と思っていた。
もともと、入社するときには、誰も、一応、白紙で入って来たのである。派閥の波に乗らなかったら出世が出来ぬ、と知って、仕方なしに、その波に乗ったのに違いない。しかし、理想は、あくまで情実のない世界なのである。それをつくることが、龍太郎を日吉不動産に入社の決心をさせた最も大きな原因の一つでもあったはずだ。
が、龍太郎も、こんな場所で、自分の悪口をいわれている、と知ることは、やはり、愉快ではなかった。今にみていろ、と思いたくなってくるのである。
暁子が、あまえるように、
「あたしにも、ビールを飲ましてね。」
「いいとも。」
「会社を辞めて、どうなさるの?」
「まだ、わからんさ。」
「でも、辞めてからも、ここへ来てくださるでしょう?」
「辞めたら、こんなところへこれなくなる。」
「まア、意地悪ね。あたし……。」
「なんだ。」
「南雲さんを、ちょっと、好きなのよ。」
「ちょっとか。」
「じゃア、大好きになってもいいの?」
「そりゃア困るな。」
「あら、どうしてなのよ。」
暁子は、鼻を鳴らすようにいって、
「ねえ、今夜は、ゆっくりしてってくださるんでしょう?」
「よしよし。」
「帰りに送ってくださらない?」
「ダメだね。」
「まア、弱虫なのね。」
「それより、マネエジャアの珍田君を呼んでくれないか。」
「何か、ご用なの?」
「そうさ、君が、今いったことを、全部、いいつけてやる。」
「嫌よ。」
「嘘だ。実は、今夜、珍田君に会う用事があって来たんだよ。」
「あら、あたしには?」
「勿論、君にもだ。」
「じゃア、呼んで来てあげるわ。」
暁子は、龍太郎の手を、ぐっと握りしめてから、席を立って行った。そのあと、龍太郎は、静かにビールを飲んでいた。客の数が、すこし、ふえて来た。
珍田が、笑顔で、近寄って来た。
「これはこれは、総務部長さん。ようこそ、いらっしてくださいました。」
「やア。」
「めったに来てくださらないので、ここが、お気に召さないのかと、心配していたんですよ。」
「なかなか、はやってるんだってね。」
「はア、お陰さまで。実は、うちの社長も、よろこんで居ります。したがって、私の鼻も高い、というわけです。」
「そりゃア結構。まア、いっぱい、飲まないか。」
「頂戴します。」
暁子は、珍田に酌をしてやりながら、
「ねえ、マネエジャア。あたし、総務部長さんを好きになってもいいでしょう?」
「勿論。しかし、君で、お気に召すかな。」
「まア、失礼ね。」
「はッはッは。」
「珍田君。」
龍太郎は、口調をあらためて、
「すこし、相談したいことがあるんだ。」
「と、申しますと?」
「真面目な話なのだ。」
珍田は、龍太郎の顔を見直してから、
「ここでは、いけませんか。」
「なるべくなら、二人っきりのところで、話がしたいのだ。」
「じゃア、いっそ、狭苦しいですが、私の部屋へ来ていただけますか。」
「そうしてくれたまえ。」
珍田の部屋は、一坪半ぐらいしかなかった。そこへ、テエブルと椅子が置いてあるので、龍太郎は、珍田と鼻を突きあわせるようにして向かいあわねばならなかった。
二百に近いと思われる女給の名を書いた名札が、一方の壁に、四段に分けてかけてある。赤字で出ている凡そ五分の一は、休んでいるのらしかった。
「ビールでも、とりましょう。」
「いや、いい。」
部屋を閉め切ってあるのだが、バンドの音や、外の騒々しい気配が、なんとなく、ここまで感じられた。
「で、ご相談というのは?」
「実は、これはまだ、誰にも内証にしておいて貰いたいのだが、今度の総会限りで、田所専務は、辞められることになった。」
珍田は、意外らしい顔で、
「本当ですか。」
「こんなこと、嘘がいえるもんか。」
「いったい、どうしてですか。」
「要するに、社の経営方針についても、社長と田所専務とは、根本的に違うのだ。たとえば、この地下室をキャバレエにするについても、社長は、はじめから反対であったのだ。」
「それは、私も聞いています。」
「だろう? だから、社長が、田所専務に辞めて頂く決心をされたのだ。」
「すると、この地下室の賃貸契約は、どうなるんですか。」
「勿論、契約の三年間は、仕方がない、と思っている。しかし、その三年間が過ぎたら、立退いて貰わねばならぬ。今夜は、それを君にいいたかったのだよ。」
「そんなの、困りますよ。」
「しかし、契約は契約だからな。」
「そりゃア表向きは、そうですよ。しかし、私が、うちの社長から聞いているのでは、たとえ、その三年が過ぎても、契約が延長できることに、田所さんと了解が出来ているそうですよ。」
「知らんね。」
「だって、そのために、わざわざ、高い権利金を払ってあるんですよ。」
「いくらだったかな。」
「二千……。」と、いいかけてから、珍田は、あわてて、「千五百万円です。」
「二千万円だろう?」
「いえ、千五百万円です。」
「しかし、別に、田所専務に五百万円を払ってあるはずだ。」
「おや、そうですか。」
「知らないのか。」
「ええ、一向に。」
「じゃア、千五百万円で三年間の契約だな。」
「そうなんです。」
「わかった。ただ、僕は、もし、田所専務に、別に五百万円を払ってあるんなら、三年では気の毒だから、この際、五年の契約に直してもいい、と思っていたんだ。」
「…………。」
「しかし、そうでないなら、こちらとしても、三年で打ち切るだけだ。かりに、田所専務との間に、何かの了解事項があったとしても、正式の文書にはなっていないから、問題にならんよ。まして、田所専務には、近く、辞めて貰うのだ。いったん、辞めてしまえば、何んの発言権もない。ねえ、そうだろう、珍田君。」
そういって、龍太郎は、珍田の顔を、真ともから見つめた。
龍太郎は、すでに、田所が、別に五百万円を貰っているに違いない、と感じていた。後は、この珍田の口からそれをいわせることである。珍田の顔に、ためらいの色が現われていた。龍太郎は、ここまで追いつめたからには、とことんまで追いつめてやらねば、と思いながら、言葉を続けた。
「どうなんだね、珍田君。こうなったら、僕だって、ざっくばらんにいうが、田所に五百万円を渡しているとしても、それで、どうこうという問題を起そうとは思っていないんだ。ただ、君の方で、それを隠したために、せっかく、三年の契約を五年に延長のチャンスを、永遠に逸することになるんだよ。」
「…………。」
「君の方だって、こんな水商売をしているんだ。田所専務が、辞めさせられるのだ、とはっきりしている以上、どっちについた方が損か得か、考えてみる必要があるんじゃないのかね。」
「その答えは、今夜でないといけませんか。」
「勿論、今夜、聞きたいんだ。要するに、君が、知っている通りを喋ってくれたらいいのだ。」
「しかし、社長にも、一応、相談しないと。」
「その必要があるのか。」
「南雲さん。私だって、使われている身分なんですよ。一存で、うかつな返事は、出来ません。」
「社長の居所は、わかっているのか。」
「だいたいの見当は、ついているんです。」
龍太郎は、ちょっと、考えてから、
「じゃア、電話で聞いてくれてもいい。ただし、珍田君、君の聞き方ひとつで、契約が二年延長になるかどうかがきまるんだよ、いい換えれば、君の功績になるか、ミスになるか、ということだ。そこんとこをよく考えて、電話をしてくれよ。」
「わかっています。じゃア、ここで、ちょっと、お待ちになってください。」
「いいとも。」
珍田は、出て行った。目の前に、卓上電話があるのだが、電話の内容を、龍太郎に聞かれたくなくて、外の電話で、話をしにいったのだろう。
龍太郎は、煙草に火を点けた。待つ間が、ちょっと、胸のふるえるような気持であった。珍田は、なかなか、戻ってこなかった。龍太郎は、一本の煙草を吸いつくした。
扉が開かれた。珍田が、ニヤニヤしながら入って来た。
「聞いてくれたか。」
「ええ。うちの社長も、相当なもんですよ。」
「で?」
「辞めるときまった男に、今更、義理もヘチマもあるまい、というんです。」
「すると、田所専務に、五百万円を渡した、というんだな。」
龍太郎は、胸を躍らせながらいった。
「ええ、ちゃんと、領収証も貰ってあるそうです。」
「よし。」
龍太郎は、立ち上がった。
「おや、もう、お帰りになるんですか。」
「そう、帰る。」
「契約の方の延長は、間違いないでしょうね。」
「わかっている。」
いい捨てて、龍太郎は、珍田の部屋を出た。
龍太郎は外へ出ると、薄曇りの夜空を見上げながら、
(やっと、田所を辞めさせるメドがついた)
と、会心の笑みを浮かべた。
あとは、株主たちに、うまく、工作することである。しかし、田所のことだから、陰へまわって、何をしているかわからないのである。
龍太郎は、明日から、株主たちを訪ねてまわろう、と思った。こうなったら、善太郎の力をあてにしないで、自分一人で、やってのけよう、とも思った。善太郎のことを考えると、癪にさわってくるだけだ。だから、彼のことは忘れて、男の意地と、不正を憎む正義感だけで動きまわるのである。恐らく、そういう彼の行動は、却って、善太郎を不機嫌にするだろう。自分の無能振りをタナに上げて、越権行為だ、と罵るかも知れない。
(しかし、かまうもんか)
龍太郎は、気負い立つように、そう思った。
彼は、銀座の方へ歩いて行きながら、札幌の岡のことを思い出した。まだ、東京にいるかも知れない。先ず、彼に会って、田所を辞めさせることについての了解を得ておくことである。
もし、彼が、まだ、東京にいるとしたら、その居所を、和子が知っているに違いない。龍太郎は、その足で、『けむり』に向かった。
龍太郎は『けむり』の扉を開くと、すぐ、和子の姿を探した。和子の方でも、彼の姿を見つけて、近寄って来た。
「この間は、どうも、すみませんでした。」
「それより、至急に岡さんにお会いしたいんだけど、まだ、東京にいられる?」
「岡さんでしたら、今夜の飛行機で、大阪へお立ちになるのよ。」
「何時?」
「八時半とか聞いていましたけど。」
龍太郎は、時計を見た。まだ、七時二十分である。
「じゃア、今からすぐ羽田へ行ったら、会えるね。」
「ええ、そのはずよ。」
「よし。」
「いらっしゃるの、羽田へ。」
「そうなんだ。どうしても、会っておきたいんだ。」
「そんなら、あたしも、行こうかしら?」
「君が、いっしょに行ってくれると、たすかる。」
「行くわ。すぐ、用意をして来ますから。」
「たのむ。」
龍太郎は、表へ出た。二分と待たせないで、和子が、オーバアを引っかけて現われた。
「お待ち遠さま。」
二人は、タクシーを拾った。タクシーは、夜の町を、速いスピードで、走りはじめた。
「いったい、どうなさったの?」
龍太郎は、今までの経緯を簡単に話して、
「だから、この際、どうしても、岡さんに味方になって貰いたいんだ。」
「岡さんなら、きっと、大丈夫よ。だって、この間の晩、あとで、あなたのことを、とてもほめてらっしゃいましたもの。何んとなく、たのもしくって、信頼のおける人物らしい、と。」
「すこし、買いかぶられたかな。」
「だから、あたしも、妹から聞いていることを話して、うんとほめたのよ、あなたのことを。そうしたら、もうたくさんだ、といわれたわ。ふッふッふ。」
タクシーは、第一京浜国道に出て、更に、スピードを速めた。羽田街道の方へ折れて、やがて、向こうに、煌々と灯をつけた空港の建物が見えて来た。地上に、無数にばらまかれた紫がかった灯が、この上もなく美しかった。
二人は、広々とした白い待合室へ入って行った。まだ、八時になっていなかった。十数人の出迎えの人らしいのがいるだけだった。
岡の姿は、見当らなかった。
「どうしたんだろう?」
「日航のバスでいらっしゃるのかも知れないわ。」
「あッ、そうか。」
福岡からの飛行機が到着した。二人は、並んでそれを見ていると、うしろから、
「どうしたんだね。」と、岡にいわれた。
岡は、笑っていた。
「わざわざ、見送りに来てくださったんですか。」
「いえ、会社のことで、急に、お願いしたいことがあったもんですから。」
「と、いうと?」
「あと、何分ぐらい、余裕がありますか。」
「まア、十分ぐらいなら、大丈夫でしょう。」
龍太郎は、ここへ来た理由を、口早く、説明した。
「ふーむ、五百万円もね。」
「そうなんです。それで、田所氏を辞めさせることに、ぜひ、ご賛成をいただきたいんですが。」
「すると、後任は?」
「まだ、そこまでは、考えていません。」
「南雲さん、いっそ、あなた、なりませんか。」
「とんでもない。」
岡は、ちょっと、考えていてから、
「どうです、南雲さん。あなた、このまま、大阪へ行きませんか。」
「えッ?」
「田所のことは、私だけが賛成しても、効果が薄いですよ。ほかの株主たちにも、了解を得ないと、いけません。」
「勿論、そのつもりですが。」
「田所は、相当、悪どい宣伝をしています。だから、先ず、大阪の持田さんのような大株主をも納得させる必要があります。」
「持田さんには、私も、ぜひ、お会いしたいのです。」
「だったら、なおさらですよ。明日、私がいっしょに行ってあげてもよろしい。」
「行ってくださいますか。」
「こうなったら、私も、乗りかかった船ですよ。田所のような男は、いけませんな。辞めさせましょう。」
「しかし、これから行くにしても、飛行機の切符があるでしょうか。」
「そりゃア聞いてみないとわからんが。」と、いってから、岡は、和子の方を向いて、「どうだ、あんたも、行かないか。」
「あら、あたし、そんなつもりでは……。それに、何んの用意もしていませんし。」
「いるものは、何んでも、向こうで買ったらよろしい。」
和子は、迷いながら、
「南雲さん、いらっしゃいますの?」
すでに、龍太郎の決心は、ついていた。
「参りますよ。」
「じゃア、あたしも、思い切って、行ってみようかしら?」
「よし、きめた。」
岡は、上機嫌になって、すぐ、カウンターへ、切符の交渉に行ってくれた。切符はあった。すぐ、手続をすませて、三人は、飛行機に乗り込んだ。
薄曇りの空に、半月が、ぼんやりと見えていた。
その夜、三人が、岡の常宿にしている大阪の曽根崎の旅館へ落ちついたのは、十一時過ぎであった。すぐ、風呂へ入ったりしているうちに、十二時になってしまった。
「持田さんには、明朝、私から面会を申し込みましょう。」
と、岡がいった。
「お願いします。」
「持田さんさえ、うん、といったら、あとの株主は、たいてい、大丈夫でしょう。」
「だといいんですが。」
「今夜は、何んにも心配せずに、ゆっくりと、お休みになったらよろしいですよ。」
そこへ、いちばん後から風呂に入った和子が、部屋へ入って来た。湯上がりで、頬もつやつやとしていた。その何んともいえぬ成熟したなまめかしさを、岡は、好もしそうに見ながら、やさしく、
「どうだ、いいお風呂だったろう?」
「ええ。」
「やっぱり、思い切って、来てよかったな。」
「でも……。」
和子は、鏡台の前に座りながら、
「妹が、心配しているだろう、と思うんですのよ。」
「アパートには、電話がないんですか。」と、龍太郎がいった。
「ええ。」
「じゃア、僕は、どうせ、明朝、社長へ連絡をとりますから、そのとき、あなたのことを、妹さんにいうように頼んでおきましょう。」
「お願いしますわ。」
龍太郎は、そろそろ、自分の部屋へ退散すべき時だ、と腰を浮かしながら、
「僕は、これで、失礼します。」
「そうですか。お休みなさい。」
和子は、鏡の中の龍太郎に、ちょっと、羞にかんだような微笑を向けて、
「お休みなさい……。」
龍太郎は、自分の部屋へ戻った。すでに、布団が敷いてあった。
ここが大阪なのだ、と思うと、何んだか、夢のような気がしてくる。まだ、銀座のネオンの色が、瞼の裏に残っているようだ。
龍太郎は、岡と知りあったことを幸せであった、と思っていた。そして、それも、和子につらなる縁であった、と考えていると、岡は、いい男のようだし、和子が、その岡の世話になることが、彼女にとって、決して、不幸せではないように思われた。
青田は、もう、新婚旅行から帰っているだろう。彼は彼で、幸福を掴んだ、といってもいいようだ。そして、厚子と大間も……。
(それなら、自分は?)
そう、思いたくなってくる。
彼は、沙恵子の顔を、思い浮かべた。その沙恵子の顔が、高子に変って、彼の胸に、ほろ苦いものが、こみあげてくるのだった。
近頃の高子は、事毎に、兄に楯ついて、龍太郎の味方になってくれる。それは、会社のことを思うが故に、であることに違いはないのだが、しかし、その底に、それ以上の感情が含まれていることも、龍太郎は、感じていた。が、龍太郎には、そういう感情が、却って、迷惑でもあった。
(が、しかし、もし、自分が、あの沙恵子を知らなかったら?)
あるいは、高子を、今とは、別の眺め方をしていたかもしれなかったろう。しかし、兄の善太郎のことを考えると、そういう気持も崩れてくる。あれほど、仲の良かった間柄であったのに、今は、まるで、犬猿の仲のようになってしまった。
その犬猿の仲の男のために、自分が、わざわざ、大阪まで来たのだ、と思うと、龍太郎には、何か、割り切れぬ気がしてくるのであった。
(当分は、何も思うまい、あたえられた道を進むだけだ)
と、彼は、自分にいい聞かせながら、しかし、善太郎こそ、最も不幸せな男なのであるまいか、と思った。
善太郎を、かりに、不幸な男だとしたら、それは、自分で自分を不幸にしているのだ、といっても差し支えがないようである。しかし、彼の場合、自分だけでなしに、その周囲の人間までをも不幸にしている。それが困るのだと、龍太郎は、いいたいのだった。
中庭をはさんだ向こうの岡と和子のいる部屋の灯が、消された……。
龍太郎は、布団の中にもぐり込んだ。枕許の電気スタンドを消したが、明日からのことをあれこれ思っていると、頭が冴えて来て、なかなか寝つかれなかった。
翌朝、龍太郎が眼をさましたのは、七時頃であった。彼は、すぐ、東京の善太郎の家へ電話をした。
電話口に出たのは、高子であった。
「今、大阪へ来ているんです。」
「まア、大阪へ?」と、高子は、おどろいて、「どうなさったの?」
「急に、思いつきましてね。社長にお話したいことがあるんですが。」
「それがねえ。」
高子は、ちょっと、いいよどんでから、
「ゆうべ、帰らなかったんですよ。」
それでは、また、信子のアパートで泊まったのであろう、と眉をひそめながら、龍太郎は、
「じゃァ、あなたから、話しておいてくださいませんか。」
「はい。」
龍太郎は、昨夜、珍田に会ったことから、羽田へ駆けつけ、岡に誘われて、大阪まで来てしまった経緯を話した。
「そうでございましたの。」
「また、勝手な真似をしたと、社長から叱られるかも知れませんが、あなたから、そこをうまくいっておいてください。」
「承知しました。本当に、ご苦労をおかけして。」
「いや。」
「そんなことなら、あたしも、ごいっしょに行けばよかったわ。」
龍太郎が、一言、じゃア、今からでも来てください、といえば、すぐ飛んで来そうな口ぶりであった。
もし、善太郎に、高子ほどの積極さがあったらと、龍太郎は思った。
しかし、高子は、そのあとで、弁解するように、
「だって、兄は、あんな風だし、南雲さんにばかり、嫌な役目をおしつけてるようで、悪いんですもの。」
「そんなことは、もう、いいんですよ、ただね、白石厚子君が、心配している、と思うんです、だから、あなたから、お姉さんもいっしょに来て貰っている、といっておいていただきたいのです。」
「わかりましたわ。」
「それから、僕が、こっちへ来ていることを、会社の連中には、わからないようにしておいてください。」
「はい。すると、いつ頃、お帰りになります?」
「まア、二、三日は、かかると思うんです。この際、持田さんだけでなしに、ほかの株主たちにも、お会いしたいですし。」
「そうですわね。」
「じゃア。」
龍太郎が、電話を切りかけると、高子は、急いで、
「モシモシ」
と、呼びとめてから、
「くれぐれも、お大事になさってね。」と、しみじみ、いたわるようにいった。
岡が、持田に電話をしてくれた。
「やア、岡さんか。いつ、出て来なはった?」
「昨夜なんです。実は、ちょっと、ご相談したいことがあるんです。」
「何んです?」
「日吉不動産のことなんですが。」
「日吉不動産?」
持田は、しばらく、言葉を切っていてから、
「お会いしましょう。」
「今日、会っていただけますか。」
「そうでんな、晩に、時間を空けときます。」
「それでしたら、久し振りで一献差し上げたいんですが。」
「結構でんな。」
時間と場所を打ちあわせて、岡は、電話を切った。
岡は、龍太郎を振り返って、
「晩に、会ってくれるそうですよ。」
「有難うございます。」
「それまで、どうされますか。」
「大阪支店へ参りたい、と思います。支店の経費が、すこし、かかり過ぎているんで、それを調べたいんです。」
「いいでしょう。」
岡には、別に用があるので、その方へ出かけることになった。和子は、
「そんなら、あたしの友達が、住吉にいますから、訪ねて行ってみますわ。」
「それがいい。」
龍太郎は、九時になると、御堂筋の大阪支店へ行った。彼は、いきなり、支店長室へ入って行ったが、支店長の有川は、まだ、出勤していなかった。
龍太郎が、支店へ顔を出すのは、はじめてであったが、支店の社員の中には、東京の本店へ出張して、龍太郎の顔を知っている者が、何人かあった。
支店の社員たちは、本店の総務部長が、突然に姿を現わしたので、怪訝の面持ちをしていた。何んとなく、動揺しているようでもある。
お茶を持って来た給仕に、龍太郎が、
「支店長は、いつも、何時頃に、出勤されるのかね。」
「たいてい、十時頃です。」
「そうか。」
龍太郎は、静かに、お茶をすすっていた。社員の一人が入って来て、
「支店長のお宅へ電話をしたら、さっき、出られたそうです。」
その社員は、ちょっと、いいよどんでから、
「何か、急用でも起ったのでしょうか。」
「いや、何んでもないんだよ。」
龍太郎は、微笑みながら答えた。
しかし、龍太郎は、微笑みながら、これからのことを考えていた。何か、敵地にでも乗り込んで来たような思いであった。
もし、大阪支店の経理に、不正を見つけ出すことが出来、更に、それに田所が関係している、とわかったら、今夜の持田との交渉を、有利に持って行くことが出来るに違いないのである。
が、果して、その不正を、龍太郎一人の力で、見つけ出すことが出来るかどうか。
社員は、割り切れぬ顔で、支店長室から出て行った。
一人になると、龍太郎は、立ち上がって、ゆっくり、窓際へ近寄って行った。御堂筋を、無数の自動車が疾走している。
扉が開いた。振り返ると、有川支店長であった。
「いったい、急に、どうされたんですか。」と、有川がいった。
が、その顔は、龍太郎から、何かを探り出そうとしているようだった。
「いや、急に、支店の皆さんに、お会いしたくなってね。」
「そんなら、あらかじめ知らしてくださったら、駅まで、誰かを迎いに出すんでしたのに。」
「何、その必要はないよ。それに、昨夜、飛行機で来たんだ。」
「そうでしたか。で、お宿は?」
「知っている旅館が、曽根崎にあるんで、そこへ泊まった。」
「いい旅館ですか。」
「まアね。」と、いってから、龍太郎は、「ところで、早速だが、ついでに、大阪支店のことを、すこし、聞いておきたいんだ。」
「と、おっしゃると?」
「僕は、新米の総務部長なんで、ただ、バランスシートを見ただけでは、よく、事情がわからないんだ。こんなことでは、こんどの株主総会に、株主から質問でも受けた場合、大恥をかくからね。」
「株主から、大阪支店のことで、質問なんかありますかな。」
「そりゃわからん。要するに、万全を期しておきたいんだ。よろしく、頼むよ。」
「大阪支店のことなら、田所専務が、よく、知っていられます。」
「専務は専務。僕は、総務部長だからね。それに、田所専務は、今期限りで、お辞めになるかも知れない。」
「えッ、本当ですか。」
有川の顔色が、さっと、変った。それでは、田所は、まだ、この有川へまで、その連絡をしていなかったらしいと、龍太郎は、何んでもないことのように、
「そうなんだよ。」
「しかし、僕には、信じられません。」
「それは、君の勝手だが。」
「いったい、何を、お聞きになりたいんですか。」
「そうだなア、はじめに、バランスシートを見せて頂こう。」
「バランスシートなら、毎月、ちゃんと、本店に送っておりますよ。」
「勿論、僕は、見ている。が、やはり、現場へ来て、それを見ながら説明を聞いた方が、いちばん、早わかりするような気がするんだ。」
「本当に、田所専務が、お辞めになるんですか。」
「社長から、そういう話があったんだよ。それが、どうかしたのかね。」
「いえ……。」
有川は、まだ、信じられぬように、龍太郎の顔を見ていた。が、その表情には、苦悶にも似た翳が、深く刻み込まれていた。
「先月分のバランスシートを出してくれないか。」
「その前に、私は、東京へ電話をして、田所専務に、たしかめてみます。」
「何をたしかめるのだ。」
「本当にお辞めになるのかどうかです。」
「有川君。」
龍太郎は、強い口調になって、
「それをたしかめない限り、僕に、バランスシートを見せるわけにいかん、というのかね。君は、田所専務から、そういう命令を受けているのか。」
有川は、答えなかった。
龍太郎は、有川が、バランスシートを見せたがらないところが、やはり臭いのだ、と思いながら、なおも、押しまくるように、
「どうなんだね。」
「…………。」
「もっとも、君が、どうしても嫌だ、というのなら仕方がない。僕は、勝手に事務室へ入って行って、調べさせて貰うよ。」
「わかりました。バランスシートだけでいいんですね。」
有川は、念を押すようにいってから、給仕を呼んで、
「岸山君に、先月のバランスシートを持ってくるようにいいたまえ。」
「はい。」
給仕が、去っていった。
龍太郎は、煙草に火を点けた。それにならって、有川も、煙草を吸いはじめたのだが、その指先は、かすかに、ふるえているようだった。
二人とも、黙っている。その沈黙が、この支店長室を、息苦しいものにしているようであった。
岸山が、入って来た。
「やア、ご苦労。」
龍太郎は、岸山の差し出すバランスシートを、自分で受け取りながら、
「ついでに、先月分の伝票と確証も、持って来てくれたまえ。」
岸山は、不安そうに、有川の顔を見た。有川は、憤ったように、
「どうして、伝票や確証まで、ご覧になるんですか。」
「見てはいけないのかね。それとも、田所専務から、バランスシートならいいが、伝票と確証はいけない、と命令されているのかね。」
「そんなバカな。」
「じゃア、見せて貰おう。」
「岸山君、持って来たまえ。」
有川は、ふてくされたようにいった。
岸山が出て行くと、ふたたび、この部屋に、重苦しい沈黙が訪れて来た。龍太郎は、バランスシートを睨みつけるように見ていた。彼が、もといた九州の会社のバランスシートにくらべたら、この大阪支店のそれは、問題にならないくらい簡単なのである。
岸山は、伝票と確証を持って入って来た。
「すまんが、君も、そこにいてくれないか。」
「私もですか。」
「そうだ。支店長だけでは、詳しいことはわかるまい。君からも説明を聞きたいのだ。」
「はい。」
岸山は、もう一度、不安そうに、有川の方を見てから、渋々、そこに腰をかけた。
龍太郎は、伝票と確証を、いちいち照合していった。その手許を、二人は、じいっと、見つめている。龍太郎は、ときどき、何かをメモしていた。
一カ月分の伝票と確証の照合に、小一時間はかかった。
龍太郎は、メモを眺めながら、
「支店長は、先月、何回、東京へ出張されましたか。」
「そんなことは、確証を見たらわかるでしょう?」
「いや、僕の質問の仕方が悪かった。五回、出張していられることになっているが、このうち、架空の出張は、何回でしたか、と聞いているんですよ。」
有川の顔が、いちだんと、青ざめていった。
「お忘れになったんですか。」
「…………。」
「じゃア、岸山君。君は、覚えているだろう?」
「いえ、私は。」
「では、君に聞くが、君は、先月、東京の本社へは、一度も顔を出していないはずだ。にもかかわらず、二回、出張していることになっている。こりゃア、どういうわけなんだね。」
「そ、それは……。」
「それは?」
岸山は、有川の顔を、ちらッと見た。顔から、冷汗を流しているようである。
「もし、答えられないのなら、君は、架空の出張書をつくって、その旅費を、着服したのだ、と思わなければならなくなるが、それでもいいんだね。」
「こ、困りますよ。」
「しかし、弁解が出来ない、としたら、やはり、着服したもの、と認めて、辞めて貰わねばならん。」
岸山は、哀願するように、
「支店長、何んとか、おっしゃってくださいよ。」
「すると、すべては、支店長の指図であった、というんだな。それならそれでいいんだよ。支店長の指図によってしたことには、君の責任がない。勿論、その金は、支店長に渡してあるんだろう?」
「そうです。」
「よし、わかった。君は、もう、帰ってよろしい。」
「はい。」
岸山は、よろめくように、支店長室から出ていった。
「支店長、嫌なことだが、僕が、今、岸山君にいった同じことを、君にもいわねばならんよ。」
「…………。」
「君の手許に、別勘定の帳面があるはずだが、出して貰いたい。それを見れば、過去のことも、全部、わかるはずだ。」
「そんなものはない。」
有川は、そっぽを向いた。が、龍太郎は、かまわずに、
「しかし、何か、証拠になるものがあるはずだ。でなかったら、あくまで、君の責任は、追究されるよ。」
「…………。」
「出して貰いたいんだ。」
「…………。」
「僕には、君が、会社の勘定で、私腹をこやすような男とは、どうしても、思えないんだ。」
「あたりまえです。」
「だろう? だとしたら、やはり、その金の行方が、問題になる。」
それでも、有川は、黙っている。
「よし、もう、聞くまい。そのかわり、いずれ、君の進退が問題になる、と思っていてくれたまえ。」
「そ、そんなバカな。」
それを聞き流して、龍太郎は、立ち上がった。有川は、唇を噛みしめるようにしていたが、龍太郎が、部屋から出ていきかけると、
「南雲さん。」と、追いすがって来た。
「まだ、何か用かね。」
「本当に、田所さんが、お辞めになるんですか。」
「そうだ。あの人が、困ったことをしていることがわかったんだ。それが、株主たちの耳にも入ってしまったんだ。だから、辞めて貰うことになったんだ。」
有川は、それでも、まだ、迷っているようだったが、
「じゃア、何も彼も申し上げます。」
そういったあと、ガックリと、うなだれてしまった。
高子は、いつもの時刻に出勤した。勿論、善太郎は、まだ、姿を見せていなかった。
高子は、近頃の兄を見ていると、まるで、ヤケになっているようにしか思われなかった。一週間に二日は、外泊をしている。そのことで、母とも、しょっちゅう、口論をしていた。ために、近頃の家の空気は、険悪化するばかりだった。母は、善太郎への不平不満を、高子に口癖のようにいうのである。
高子は、兄もいけないが、しかし、母も、反省すべきだ、と思っていた。母は、昔からのおごり高い性格を、すこしも、あらためようとはしないのである。
かりに、高子が、龍太郎と結婚したい、といったら、それこそ、口を極めて、反対するに違いない。母は、龍太郎を、息子の友人としてよりも、使用人ぐらいにしか思っていないのである。すくなくとも、今は、そうだ、と思っている。母にとって、日吉家の娘が、使用人と結婚するなんて、それこそ、世間に顔向けがならないことなのである。
だから、母が、高子へ持ってくる縁談は、ことごとく、世間に知られた家の息子が相手であった。
勿論、高子は、そんな話には、見向きもしなかった。あげく、母は、高子に自分の年を考えなさいといい、
「うちの子供たちは、どうして、こんなに親不孝なんだろう。」と、泣きくどき、自分ほど不幸な母は、世間には一人もないようなことをいうのであった。
高子は、いっそ、こんな家を出たい、と思う。一人で暮してみたかった。兄が、しょっちゅう、外泊する気持もわかるような思いがする。しかし、兄のいちばんいけない点は、信子との結婚を考えずに、あくまで、当分の遊び相手と思っているらしいことなのである。
高子は、そのことで、兄と何度、いい合いをしたか知れない。が、いつでも、結果は、同じであった。
「僕のことは、放っといて貰おう。それより、お前こそ、早く、結婚したらどうなのだ。」
「あたしのことこそ、放っといて頂きたいわ。」
「しかし、いっとくが、南雲とだけは、絶対にいかんぞ。」
善太郎から、そういわれても、
「いいえ、あたしは、南雲さんと結婚します。」と、高子にいい切れないのは、龍太郎の心が、すこしも、自分に向いていない、と知る悲しさのせいだった。
近頃になって、高子は、母と兄は、毎日のように睨み合っているが、しかし、性格的には、二人は、似すぎるほど似ているのだ、と思わずにはいられなくなっていた。そこに、日吉一家の悲劇がある、といっても過言ではなさそうである。
高子が、そんなことを思っているとき、厚子が、秘書室へ入って来た。
「お早うございます。」
「ああ、いま、あなたに、お電話をしよう、と思っていたところなのよ。」
「何んでしょうか。」
「ゆうべ、お姉さま、お帰りにならなかったでしょう?」
「ええ。でも、どうして、ご存じなのでしょうか。」
高子は、けさ、龍太郎から電話のあったことを話した。
「まア、そうでしたの。」
厚子の顔に、安堵の色が現われた。
「会社のためなんですから、三、四日、我慢してくださいね。」
「はい。」
「それから、このことは、誰にもおっしゃらないように。」
「わかってますわ。」と、厚子が、利口そうな眼つきで頷いてみせて、秘書室から出ていった。
高子は、そのあと、また、考え込んだ。考えているうちに、ふっと、沙恵子に電話をしようか、という気になったのである。
一度、沙恵子に会って、それとなく、彼女の心の底をたしかめてみたいとは、かねてから、考えていたことだった。が、今までは、そのチャンスがなかった。しかし、今日は、龍太郎の大阪行を知らせる、という立派な口実がある。ついでに、一度、お会いしたい、といえばいいのだ。
が、沙恵子と会って、かりに、彼女と龍太郎が婚約でもしている、とわかったら、それこそ、本当に絶望の底に落ちいらねばならなくなる。そのときの苦しみを思うと、高子の心に、迷いがうまれてくるのであった。
しかし、高子は、やはり、電話をかけずにはいられなかった。受話器を取り上げると、
「東洋不動産へかけて頂戴。」と、交換手にいった。
すぐ、東洋不動産が出た。
「曽和沙恵子さんにお願いします。」
「どなたさまでしょうか。」
「日吉でございます。」
しばらく待たされてから、ちょっと、いぶかるような口調で、
「曽和でございますが。」
その声の、あまりの可憐さに、高子は、ふっと、ねたましさを覚えた。恐らく、龍太郎は、この電話の声を、何度も聞いているだろう。そのつど、沙恵子をいとしいと思ったかも知れないのである。
自分の声では、とても、あのように可憐には聞えないだろうと、高子は、二十七歳という自分の年齢を、胸の底で噛みしめるようにしながら、
「ああ、曽和さん。あたし、日吉不動産の秘書をしている日吉高子ですの。」
「あら。」
「あたくしのことを、ご存じくださいまして?」
「はい、南雲さんから……。」
「その南雲さんが、昨夜、急に、大阪へいらっしゃいましたのよ。」
「まア。」と、沙恵子は、心配そうな声を出した。
「会社の用事でなんですけど、そのことを、あなたにお知らせしてあげよう、と思いましたのよ。」
「すみません。あの……。」
沙恵子は、ちょっと、ためらうようにしてから、
「南雲さんが、あたしに知らせるように、とおっしゃったのでしょうか。」
「そうとは、おっしゃらなかったんですけど、本当は、あたし、こういうチャンスに、あなたとお友達になりたい、と思ったんですわ。ねえ、なってくださいます?」
「よろこんで、ならせていただきますわ。だって、あたし、東京には、ほかに、お友達、あんまりないんですもの。」
「嬉しいわ。ねえ、今夜、お会いしません?」
「ええ、ぜひ。」
沙恵子は、声を弾ませた。
約束の時間は、六時であったが、高子は、それよりも十分ぐらい早く、そのレストランの二階へ行った。
沙恵子は、まだ、来ていなかった。
高子は、階段を上がってくる沙恵子の姿が、すぐ見える場所にある待合せ用の椅子に腰をかけた。
(南雲さん、今頃、大阪で、どうしていらっしゃるかしら?)
そう思った。同時に、けさの電話のとき、
「そんなことなら、あたしも、ごいっしょに行けばよかったわ。」と、こちらからいったのに、何んとも答えてくれなかった龍太郎の心根が、怨めしくもあった。
もし、じゃア、来てください、といってくれたら、すぐ飛行機で飛び、今頃は、大阪で龍太郎といっしょにいられるはずなのである。
今日、善太郎が出勤して来たのは、十一時に近くなってからであった。高子は、早速、龍太郎のことを報告した。
「どうして、南雲は、そんな勝手な真似をするんだ。」
善太郎は、不愉快そうにいった。
「そんなら、お兄さんも、これから大阪へいらっしゃいよ。」
「嫌だ。」
「あたし、お兄さんには、この会社が、今、どういう状態におかれているか、おわかりになっていないような気がするわ。」
「僕には、わかっている。要するに、南雲が、勝手に取越苦労をしているんだ。それも、人気取りの自分のテガラにしたいからだ。」
「あきれた。」
「高子、よく、考えてみろ。日吉不動産の株は、日吉一族で、六〇パーセントを握っているんだよ。絶対過半数だ。僕は、誰にも文句をいわせぬ。」
「でも、残りの四〇パーセントの株主の意向は、無視出来ないことよ。」
「出来ないといったところで、たいしたことはない。何んといっても、僕の発言が、絶対なんだ。」
善太郎は、ムキになって、いっている。しかし、ムキになればなるほど、高子には、それは善太郎の自信のなさを現わしているように思われるのだった。
「かりに、残りの四〇パーセントの株主が、全部、田所さんを支持する、とおっしゃったら、どうなさるのよ。」
「そんなバカなことがあるもんか。すでに、田所が、五百万円もの大金を着服している、とわかった以上、誰が、あんな男を支持するもんか。」
「その五百万円の事がわかったのは、結局、南雲さんのお陰よ。南雲さんがいらっしゃらなかったら、わからなかったはずよ。」
善太郎は、つまった。
「だから、こんどの総会で、もし、田所さんを辞めさせることが出来たら、かわりに、南雲さんを専務にしてお上げになるといいんだわ。」
「嫌だ。総務部長でたくさんだ。」
善太郎は、そっぽを向いてしまった。高子は、溜息をつくより仕方がなかった。
階段を急ぎ足で上がってくる沙恵子の姿が見えて来た。高子は、手を振ってやりながら、やはり、このひとは、電話で聞いた声のように可憐な美しさをそなえている、と思った。
沙恵子は、頬を上気させながら、こちらへ近づいて来た。
「日吉高子さんでございますか。」と、沙恵子がいった。
「そうですわ。そして、あなた、曽和沙恵子さんでしょう?」
「はい。」
「さア、あちらのお席へまいりましょう。」
高子は、立ち上がった。
二人は、向かい合って、腰をかけた。ボーイが、近寄って来た。
「定食でよろしい?」
「ええ。」
ボーイが去って行くと、沙恵子は、つと、立ち上がって、
「どうぞ、よろしく。」と、頭を下げた。
「あら、こちらこそ。」
高子も、笑いながら、それに応えた。
「あたし、まだ、お目にかかったことがないし、すぐ、わかるかしら、と心配して来ましたのよ。ところが、手を振ってくださったでしょう? びっくりしましたわ。」
「だって、あたしは、前に、あなたをお見かけしているんですのよ。」
「あら。」
沙恵子は、おどろいたように、高子の顔を見つめた。
「だいぶん前ですが、銀座で。」
それから、ちょっと、間をおいて、
「そのとき、あなたは、南雲さんとごいっしょでしたわ。」
沙恵子は、頬をあからめて、
「すこしも知りませんでしたわ。」と、いってから、「でも、そのとき、お声をかけてくださったら、もっと早く、お友達になることが出来ましたのにね。」
「ほんと。残念なことをしたわ。」
しかし、そのとき、高子は、わざと、自分から二人を避けるようにしたのだった。
料理が、運ばれて来た。その食事が、終りに近くなってから、高子は、何気ないようにいった。
「ねえ、南雲さんて、とても、いいひとだとお思いにならない?」
「思いますわ。」
「お好きなんでしょう?」
「はい。」と、沙恵子の顔は、羞にかんだ。
高子は、思い切っていった。
「あたしもよ。」
羞にかんだ沙恵子の顔が、ふと、青ざめたようであった。高子は、かまわずに、
「だって、あんないいひとって、世界中を探してもない、とお思いにならない。」
「思いますわ。」
「結婚なさいますの?」
「結婚だなんて。」
「あら、まだ、そんなお約束はしてなかったんですの?」
「ええ。」
「あたしは、また、そうだ、とばかり思っていましたのよ。」
「だって……。」
「だって?」
「南雲さん、そんなこと、一度も、おっしゃってくださいませんもの。」
「どうしてかしら。」
高子は、わざと、とぼけたようにいいながら、
「それとも、南雲さんに、別に、好きなひとでもあるのかしら?」
沙恵子の顔が、いよいよ、青ざめて来た。それを見つめながら、高子は、ひとりごとのように、
「あたしだって……。」と、謎めいたことをいった。
そのレストランを出て、二人は、銀座を歩いた。しかし、さっきから、沙恵子は、何んとなく、無口になっているようだった。高子には、その原因が、わかるような気がしていた。結局は、自分の策戦が効を奏し、沙恵子の心を、不安にしているのに違いないのだ。
一方で、高子は、そんな策戦を弄したりする自分を嫌だ、と思わずにはいられなかった。軽蔑したくなっていた。しかし、これをきっかけに、沙恵子が、龍太郎をあきらめて、九州へ帰るようにならんとも限らないのである。そうなったら、龍太郎も、しぜんに、沙恵子のことを忘れて、自分の方へ、心を向けてくれるかも知れないのだ。それを思うと、高子の心は、一瞬、弾みを覚えてくるのだが、しかし、自分の言葉が、逆に、沙恵子を刺激して、こんどは、今までよりも積極的に、龍太郎に働きかけんとも限らない、と考えてくると、せっかく、弾みかけた心も、みるみる、沈んでいくのであった。
二人は、しばらく、黙って、歩いていた。
沙恵子が、足をとめた。
「どうなさったの?」と、高子がいった。
「あたし、そろそろ、失礼しようかしら。」
「あら、まだ、早いわ。せっかく、お友達になったばかりですもの、もうしばらく、いっしょにいましょうよ。」
「はい。」
沙恵子は、頷いた。そして、歩きはじめた。二人は、四丁目から、新橋の方へ、引き返した。
沙恵子は、この高子も、龍太郎を愛しているのだ、とはっきり感じていた。今までに、そんなことは考えたこともなかった。
(今夜は、高子さんと、お会いしなければよかった……)
せっかくの夢が、高子によって、無残に崩されてしまったのである。
何んの確証があったわけではないが、今日までの沙恵子は、龍太郎から愛されているような気がしていた。しかし、思えば、愛の言葉をささやかれたことは、一度もないのである。が、そのうちには、きっと、それをささやいて貰えるような気がしていた。それが、沙恵子の生甲斐であったし、そのために、わざわざ、九州から東京へ出て来たのであった。
しかし、今となってみると、何も彼も、自分のうぬ惚れであったような気がしてくるのである。まして、高子の方は、自分と違って、日々に、龍太郎と接しているのだ。龍太郎が、自分に対して、愛の言葉をささやいてくれなかったのは、この高子がいたからであったかも知れない。そんな風に思ってくると、沙恵子の気持は、いよいよみじめになってくる。
いっそ、今からすぐ、大阪へ行って、龍太郎の胸の底を、たしかめてみたいくらいだった。九州から出て来た時のことを思うと、それくらいのことは、出来そうである。
が、龍太郎の居所がわからないし、それを、高子に聞くのも嫌だった。まして、彼は、今、大事な仕事に熱中しているのだ。そんなところへ、のこのこと出かけて行ったりしたら、却って、軽蔑されそうである。
銀座八丁目まで来た。引っ返そうとする高子に、沙恵子は、
「あたし、やっぱり、ここで、失礼させていただきますわ。」
「そう。じゃア、また、お会いしましょうね。」
沙恵子は、新橋駅の方へ去って行った。その肩を落したような後姿を、高子は、しばらく、見送っていた。
はじめのうちは、黙々として、龍太郎の説明を聞いていた持田も、田所が、五百万円の賄賂を取っている、と聞かされたときには、
「何、五百万円?」と、流石に、おどろいたようだった。
しかし、すぐ、そのあとで、
「あの男なら、それくらいのことは、やりかねんやろうな。わしは、はじめから、何か、やっているに違いない、と睨んでいた。わッはッは。」と、笑ったのである。
岡が、持田に酌をしてやりながら、
「相当な悪党ですな。」
「そりゃア。あの男は、悪党や。まア、その点は、わしと、よう似とる。」
持田は、けろりとしていった。
「ですから、この際、やっぱり、辞めさせましょう。」
「辞めさせまんのか。」
「当然でしょう?」
岡は、ちょっと、食いさがるようにいった。
持田も、こうなったら、田所を辞めさせるより仕方があるまい、と思っているのだった。しかし、田所を辞めさせると、二人で計画をした東洋不動産と日吉不動産を合併するという野望に、支障を来たすことになる。それが惜しかった。
昨日から、東洋不動産の重役が、持田のところへ来て、持田が買占めた十三万株の買戻しに応じてくれ、と哀願しているのだった。そのことで、ここへくる前にも、東洋不動産の重役と会っていた。しかし、持田は、鼻であしらい続けてきたのだ。
「いずれ、わしが、重役として、乗り込みますから、覚悟をしてなはれ。」と脅かしてやった。
「どうか、そうおっしゃらずに、よろしく、お願いいたします。」
「そんなら、いくらで、買戻してくれはりますか。」
「どれくらいなら、譲ってくださるでしょうか。」
「そうでんな、一株、二千円でなら。」
「二千円?」
「さよう。十三万株で、二億六千万円。安いもんや。」
東洋不動産の株価は、現在でも、五百円前後である。持田が、十三万株を集めるのに、平均三百五十円ぐらいしか、出していないはずだった。かりに、これを二千円で買戻しに応じさせるとなったら二億円からの利益になるのである。勿論、持田も、二千円とは無茶だ、と知っていた。しかし、こういう場合、その無茶が、よく通るのだから、買占めの面白さが、忘れられないのである。
「とても、そんなには、出せません。」
「じゃア、談判決裂や。いずれ、株主総会で、事をきめましょう。」
「せめて、五百円で。」
「阿呆な。それに、これは、わし一人の仕事やおまへん。ちゃんとした相棒がおまんのや。まア、今日は、帰って貰いましょう。」
「じゃア、明日、また、参りますから。」
東洋不動産の重役は、悄然として帰って行ったのである。
持田は、そのことを思い出しながら、田所が、そんな馬脚を現わしたからには、これ以上、彼と手をつないでいたのでは損かもしれない、と考えていた。もともと、田所とのつながりは、損得だけがもとであったのである。
「しかし、辞めさせるには、ちょっと、惜しい男でんな。」
持田は、わざと、そのようないい方をした。
「あの男がいたればこそ、日吉不動産は、今日まで、何んとか、持ちこたえられていたようなもんだ。あの社長、あれは、ダメですな。」
「しかし、何んといっても、いちばんの大株主ですからな。」
「そりゃア無論、そうだが、しかしでんな、社長の家の親戚になっている稲川と福間の二人が、田所の味方になっているのでっせ。」
「ほんとですか。」と、龍太郎がいった。
「嘘はいいまへん。田所は、二人に金を貸して、日吉不動産の株を担保に取ってまんのや。今度の総会でも、二人の持っている十六万株が、田所を選任することになってます。結局、親戚から、裏切者が出るということは、社長に人望がない証拠です。」
龍太郎も、そこまでは、考えていなかったのである。東京へ帰ったら早速、対策を講じる必要がある、と思っていると、持田は、更に、
「田所は、わしにも、委任状をくれというてました。そのかわり、一株について、一円をくれますのや。ええ話や。そのテで、あいつめ、大泉さんの五万株を貰う、というてました。ほかの株主にも、そういう結構な話を持ちかけてるよってに、こんどの株主総会では、ひょっとしたら、今の社長のかわりに、田所が、社長になったかも知れんところでしたな。」
龍太郎は、慄然としていた。もし、黙って放っておいたら、本当に持田のいうようになったかも知れないのである。やはり、岡といっしょに、大阪へ来て、よかったのだ。
「実は、田所は、ほかにも、困ったことをしているんです。」
「ほかにも?」
「ええ。今日、大阪支店の経理を調べたんですが、田所の命令で、相当な架空の経費支出があることがわかりました。その金は、凡そ、四百万円です。その全部を、田所が着服しているとは思われませんが――。」
龍太郎は、わざと、善太郎が、毎月、田所から貰っている十万円には触れないで、
「ある程度は、やはり、田所が、たとえば、東洋不動産株の買占めなどに使っているに違いない、と思われるんです。」
「東洋不動産?」と、持田が、ギロリと眼を光らして、「あんた、それを、知ってなはるのか。」
「はい。凡そ、八万株ぐらい。」
「はッはッは。」と、持田は、大声で笑って、「こらア油断がならん。南雲さん、あんたは、相当の曲者でんな。」
「とんでもない。」
「それやったら、どうせ、わしのことも知ってはるのやろ?」
「存じてます。」
「こらア負けたわい。」
持田は、もう一度、笑ってから、銚子を取り上げて、
「まア、飲みなはれ。」
「いただきます。」
「さア、岡さんも。」
「いただきましょう。」
その盃をほしてから、岡は、
「田所を辞めさせることに、異存は、ございませんな。」と、念を押すようにいった。
「辞めさせましょう。」
持田は、あっさり、同意してから、
「こう、何も彼も、こっちがわの手のうちを喋ってしもたら、もう、辞めさせるより仕方がおまへんやろ。あの男も、悪いことをした酬いやな。」
「有難うございます。」
龍太郎は、テエブルの上に、両手をつきながらいった。
彼の胸に、一種の感動が流れたようだった。これで、苦労の仕甲斐があった、と思った。たとえ、この苦労は、善太郎から素直に認められなくてもかまわないのである。自分の進むべき道を進んだのだ、というだけで満足すべきだと考えていた。
岡は、微笑みながら、
「君の功績だよ。」
「いえ。」
すると、持田も、今は、打ちとけた態度で、
「そうや。本当はな、岡さん。わしは、田所と手を組んで、東洋不動産と日吉不動産を合併してやろ、と思うてましたのや。」
「そうだったんですか。すこしも、知りませんでした。」
「しかし、もう、やめました。」
「じゃア、東洋不動産へ、株の買戻しに応じて、おやりになるんですか。」と、龍太郎がいった。
「こうなったら、その方が、得らしいですからな。」
「実は、私、そのことで、東洋不動産から、相談を持ちかけられたことがあるんです。」
「なるほど、そうだったのか。」
「で、それは、田所さんに頼むより、持田さんに頼んだ方がいいだろう、といったんです。ひとつ、よろしく、お願いします。」
「まア、まかしておきなはれ。」
「ところで、持田さん。」
岡は、口調をあらためて、
「田所を辞めさせると、そのあとが、問題ですな。」
「そうや。」
「私は、さっきから考えていたんですが、いっそ、この南雲君を、田所の後任にしたらどうでしょう。」
「とんでもない。私なんか。」
「いや、君なら、大丈夫だよ。」
「いえ、それでは、第一、社長が、承知しません。」
「しかし、友達なんでしょう?」
「ええ、以前は、友達でしたが、今では、ただの社長と社員です。むしろ、私は、高子お嬢さんを取締役の一員として加えた方がいい、と思ってるくらいです。なかなか、しっかりしていらっしゃるんです。」
「女の取締役か。それも、面白いな。」と、持田がいってから、「まア、そのことなら、わしから、社長に相談してみましょう。なア、岡さん。」
「そうですな。それから、田所へ引導をわたすのも、持田さんの方が、いちばん、適任だ、と思うんですよ。」
「よろしい。こうなったら、わしも、責任上、放っとくわけにいかん。まア、ほかの株主たちの意向もたしかめて、うまいようにしましょう。」
「お願いします。」
そのあと、三人は、しばらく、その料亭にいてから、外へ出た。心斎橋筋が、すぐ、その眼と鼻の先にあった。
「じゃア。」と、持田が、自動車に乗って、去っていった。
「よかったですな。」と、岡がいった。
「すべて、岡さんのお陰です。」
「いやいや。どうです、どっか、そこらで、あらためて、祝盃をあげませんか。」
「しかし、和子さんが、宿で待っているんでしょう?」
「なに、呼んでやれば、よろこんで来ますよ。」
そういって、岡は、龍太郎を、三津寺筋のバーへつれて行った。岡は、何度も来ているらしく、笑顔で迎えられた。
岡は、すぐ、宿へ電話をした。間もなく、龍太郎の横へ戻って来て、
「すぐ、くるそうですよ。」
「そうですか。」
和子が、そのバーへ姿を現わしたのは、それから、三十分ほどたってからであった。
「やア。」
「うまくいったんですの?」
「大成功だったよ。」
「まア、おめでとう。」
「いや、結局は、岡さんのお陰だし、岡さんとお知合いになったことが、その原因です。だから、そういう意味で、僕は、あなたにもお礼をいわなくちゃアと、思っているんですよ。」
「お礼だなんて、嫌ですわ。」
和子は、笑いながらいった。
そんな和子を見ていると、青田から受けた胸の古傷も、すでに、癒っているようであった。龍太郎は、青田に会いたい、と思った。先ず、報告すべき善太郎によりも、青田に会いたくなることの異常さが、却って、彼の胸をほろ苦くしていた。
「ねえ、祝盃を上げましょうよ。」と、和子がいった。
「そうだ、祝盃だ、おめでとう。」
「どうも、有難うございます。」
三人のコップが、触れあわされた。
「ひょっとしたら、こんど、南雲さんが、重役になられるかも知れないよ。」
「ほんと?」
「いや、違いますよ。」
「あら、おなりになるといいのよ。あたし、厚子から聞いてますけど、近頃では、社長さんよりも南雲さんの評判が、ずっといいっていってますわ。」
「そんなことはありませんよ。とにかく、僕は、重役になんか、絶対になりません。その資格もないし、正直なところ、僕は、この際、会社を辞めたい、と思ってるくらいなんです。」
「辞めたい?」
「ええ。」
「どうしてなのだ。何か、ほかに、いい仕事でもあるのかね。」
「いいえ、そんなアテは、全然、ないんですが、近頃、社長と僕との仲が、かならずしも、うまくいってないような気がするんです。」
「理由は?」
「結局は、僕の不徳のいたすところでしょうが、お互いが、友人であった、ということも、いけなかったんですよ。」
「なるほど。しかし、男は、そんなことぐらいで、やたらに辞めたりしてはいかんですよ。」
岡は、いってから、
「やっぱり、君は、日吉不動産にいるべきだよ。僕は、君を信任する。僕は、明日、もう一度、持田さんに会う予定だが、持田さんだって、君を信任していたようだ。そうなったら、君にいて貰わないと、僕たちは、安心できないのだ。」
「そうよ。それに、社員の方だって、その方をよろこぶわ。」
二人に激励されながら、龍太郎の心は、却って、沈んでいくようであった。その彼の頭の中に、自分を信頼してくれていた社員たちの顔が、点滅していた。
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対決
龍太郎は、翌日の『つばめ』で東京へ帰った。すぐ、会社へ行ってみたが、善太郎も高子も、すでに、帰ったあとであった。
岩田が残業をしていた。
「部長、大阪へいらっしたそうですね。」
「どうして、知っているんだ。」
「大阪支店から、ちゃんと、情報が入っているんです。」
「なるほど、そうか。」
龍太郎は、苦笑しながら、
「それについて、社員たちは、何んとか、いっていなかったか。」
「何か、山形や山上が、ひどく、あわてていたようでしたよ。田所専務の部屋へ、何度も出入して、それから、大阪へも電話していました。」
「実は、田所専務に、今期限りで、辞めて貰うことになったんだ。」
「本当ですか。」
「だいたい、ほかの大株主たちの了解も得たんだ。」
「そりゃアよかったですねえ。」
「君にも、随分と骨を折って貰ったが、どうやら、その甲斐があったんだ。どうも、有難う。」
「とんでもない。私こそ、部長のお陰で、危く馘になるところを、大阪支店から呼び戻して貰ったんですからね。ところで、部長。」
岩田は、ちょっと、口調を変えてから、
「とうとう、私が、委員長にされてしまいましたよ。」
「そうか、おめでとう。」
「嫌な役だ、と思っているんですが。」
「いいじゃアないか。君なら、最適任だよ。ただね、この際、君に、お願いしときたいことがあるんだ。」
「どういうことでしょうか。」
「過去の組合は、いわば、田所専務の私物のようになって動いていた。」
「そうなんですよ。」
「だから、この際、組合は組合らしく、あくまで、正常に動いてほしいんだ。僕は、労資は、あくまで、協調して、この会社をもり立てて行くべきだ、と思っているが、しかし、ご用組合にだけはなってほしくないな。」
「わかってますよ、部長。僕も、委員長に就任の挨拶に、それを強調したんですよ。みんな、大拍手をしてくれました。」
「そうか、よかったな。」
「と、いうことは、社員たちが、心の底で、過去の組合活動にたいして、如何に不満をいだいていたか、を物語っているように思えたんです。」
「そうなんだ。いつでも、組合は、組合員全体の利益のために動かなくちゃアね。でなかったら、却って、害毒を流すだけだ。自分で、自分の首をしめるようなことになりかねない。」
「この会社も、田所専務が辞められると、大分、空気が違ってくるでしょうね。」
「違って貰わないと困るんだ。」
「田所の子分だった連中は、どうするでしょうか。」
「僕としては、過去は問わないつもりだ。すべて、今後にある。派閥のない、明朗な会社にしたい、と思っている。その努力だけは、続けるつもりだ。君だって、派閥の波に苦しめられたんだし、過去を問わぬ、という僕の気持が、わかってくれるだろう?」
「わかりますよ。まア、よろしく。」
そういって、岩田は、明るい表情で、自分の席へ戻っていった。
龍太郎は、善太郎への報告を、やはり、今夜中にしておくべきだ、と思いながら、電話をかけた。
「南雲ですが、社長か、お嬢さんに、お願いいたします。」
しばらく、待たされてから、
「ああ、南雲さんですか。」と、高子の声が聞えて来た。
「今、どこにいらっしゃいますの?」
「さっき、大阪から戻りまして、会社にいるんです。大阪のことを、ご報告申し上げたいんですが、社長は、いらっしゃいますか。」
「ええ。今日は、いましてよ。じゃア、すぐ、来てくださいます。」
「行ってもいいんですが、その前に、ちょっと、社長のご都合を聞いていただけませんか。」
「ええ。それで、結果は、どうでしたの?」
「だいたい、うまくいったんですが、ぜひ、お耳にいれておきたいこともあるんです。」
「ちょっと、お待ちくださいましね。」
「はい。」
しばらく待たされてから、ふたたび、高子の声で、
「南雲さん。どうぞ、いらしってください。」
「承知しました。これから、すぐ、まいります。」
「お待ちしていますわ。それから、お食事は、まだでしょう? うちでなさってね。」
「いや、汽車の中で、さっき、すましたばかりですから。」
そういって、龍太郎は、電話を切った。
ひょっとしたら、冷淡に、明日、会社で聞く、といわれるかも知れない、と思っていただけに、龍太郎は、善太郎も、やはり、心配してくれていたんだな、とすこしは酬いられたような気がした。
立ち上がりかけると、電話のベルが鳴った。送受話器を取り上げると、青田からだった。
「よう、どうしたい?」
「昨夜、新婚旅行から帰って来たんだよ。」
「そうか。で、万事、うまく行ったんだな。」
龍太郎も、青田が相手だと、こんな軽口が、すらすらと出るのである。
いや、以前には、善太郎に対しても、そうであったのだ。しかし、今は、それも遠い遠い過去のことのような気がしている。
「あたりまえさ。」
「じゃあ、おめでとう。」
「じゃアとは、何んだ。素直に、おめでとう、というもんだ。ところで、いっぺん、新家庭を見せつけてやりたい、と思っているんだよ。愚妻も、ぜひ、といってるんだ。」
「愚妻が、そういってるのなら、行ってやってもいい。」
「失敬だぞ。何も、君まで、愚妻ということはあるまい。」
「はッはッは。」
「いつがいい? 日吉もいっしょがいいと思っているんだよ。」
「よし、わかった。僕は、これから、社長邸へ伺候するんで、ご都合を聞いとくよ。」
「どうして、今頃から出かけるんだ。」
「ちょっと、問題でね。」
「問題って、田所のことか。あいつ、まだ辞めさせないのか。」
「そろそろ、大詰めに来ているんだよ。」
「じゃア、社長さん、ご機嫌だろう?」
「でもない。いずれ、ゆっくり話すよ。僕だって、君に話したいことが、胸の中にいっぱいあるんだ。」
「よし、聞いてやる。」
龍太郎は、会社の前から、すぐ、タクシーに乗った。そのタクシーの中で、もう一晩、大阪に残った和子のことを、ふっと、思い出した。
日吉邸で、龍太郎は、すぐ、応接室へ通された。
高子が、先に、姿を現わして、
「南雲さん、どうも、ご苦労さま。」
「いや……。」
「いま、兄が、参りますわ。」と、いってから、高子は、思い出したように、「そうそう、あたし、昨夜、曽和沙恵子さんにお会いしましたのよ。」
「沙恵子さんに?」
「ええ、とっても、綺麗なお方ね。」
龍太郎は、高子の真意をはかりかねて、黙っていた。
「あたしから、お電話をしましたのよ。」
「どうしてまた?」
「あなたが、大阪へいらっしたことを、知らしてあげましたのよ。」
「それは、どうも。」
「それから、二人で、晩にお会いしましたのよ。」
「へええ。」
「すっかり、お友達になりましたわ。いいでしょう?」
「そんなこと、僕から、とやかくいうことはありませんよ。」
「そしてね、二人で、いろいろと、南雲さんのお噂をしましたわ。」
「どうせ悪口でしょう?」
「まるで、反対。世界中で、南雲さんみたいにいい人はないって結論になりましたのよ。」
「それこそ、まるで、反対でしょう。」
「違いますわ。だって、二人とも、南雲さんが大好きだ、ということになってしまったんですもの。」
龍太郎は、苦笑した。
「あら、ご迷惑?」
高子は、相変らず、冗談めかしていっている。しかし、その瞳は、すこしも、笑っていないようだった。
「迷惑ですよ。」
「まア、ひどい。」
高子は、大袈裟に怨んでみせた。
高子は、ここで、
(どっちか、ひとりが好きになるんならいいんですのね)
と、聞いてみたかったのだ。
しかし、流石に、それをいう勇気はなく、
「でも、仕方がありませんわ。二人の結論が、そうなってしまったんですものね。」と、いってしまった。
龍太郎は、黙っていた。が、高子の心の底が、わからぬわけではなかった。だからこそ、黙っているのだ、といってもよかった。同時に、あの沙恵子が、この高子の心を、どのように受け取ったかが、気になっていた。彼の心は、昔から、一筋に、沙恵子に傾いているのだ。ただ、今日まで、それを一度も口にしなかったのは、いつかは、実が、しぜんに熟するように結ばれるに違いない、という期待があったからだった。
しかし、一方に、あるいは、そのうちに日吉不動産を辞めなければならなくなるかも知れぬ、という不安から、彼女を失業者の妻にしたくないとのいたわりが、彼を、ある程度、引っ込み思案にしていたことも事実だった。
龍太郎は、沙恵子に会いたい、と思った。切ないくらい、そう思った。
「ねえ、どうなさったの?」
「いや、何んでもありませんよ。」
「だって、急に、黙り込んだりなさって、あたし、心配だわ。あたし、いけないことをしたのかしら?」
そのとき、善太郎が、入って来た。
龍太郎は、すぐ、立ち上がって、
「どうも、夜分に伺いまして。」
「いや、いいんだよ。大阪へ行ってくれたんだって?」
善太郎の機嫌は、そう悪くないようだった。龍太郎も、これなら、今夜は素直に話が出来るだろう、と安心しながら、
「ええ、急に、岡さんに誘われたもんですから。」
「いや、ご苦労。」
しかし、善太郎のそういう口調には、かつての友人関係の片鱗もなく、あくまで、自分は社長なのだ、と思い知らそうとの心根が、はっきり、現われていた。
「で?」と、善太郎は、後を促した。
龍太郎は、あらためて、珍田に会ったことから、大阪支店へまわり、更に、持田と面接したときの経緯を話していった。
「そうか、田所って、そんな奴だったのか。大阪支店で、そんなことをしているようでは、本店でも、相当なことをやっていたに違いない。」
善太郎は、憤然としていってから、
「しかし、まア、僕は、だいたい、そういうこともあろうか、と睨んでいたんだ。だからこそ、辞めさせる決心をしたんだ。」
「ただね、そんな金の一部は、社長への毎月の十万円になっていたことも、思ってやらないと可哀そうですよ。」
「無論だ。しかし、南雲君。僕は、今後も、あの十万円は、出して貰いたい。でないと、困るんだ。」
龍太郎は、ここで、善太郎と口論をしたくなかったので、
「一つ、その方法を、考えてみましょう。」
「ぜひ。しかし、持田氏だって、田所を辞めさせることには、文句はなかったろう?」
「いや、はじめは、そうでもありませんでした。あとで、持田氏が、白状したところによると、田所氏と手を組んで、先ず、東洋不動産を乗っ取り、その上で、日吉不動産と合併しようと、たくらんでいたらしいんです。」
「そんなバカなことが、出来るもんか。第一、社長の僕が、うんといわないよ。」
「それに、田所氏は、持田氏以外の大株主からも、今度の総会の委任状を貰うように運動していたらしいんです。いや、すでに、いくらか、貰っているようです。」
「しかし、問題になるまい。」
「持田氏と岡さんが、田所を辞めさせよう、といってくださったんで、たすかりました。持田氏から、田所氏に引導をわたしてくださるそうです。ところが、本当は、すこし、危かったんです。これは、社長から、ぜひいって貰いたいのですが。」
「誰に?」
「稲川さんと福間さんにです。」
「あの二人が、どうかしたのか。」
「田所氏から、日吉不動産の株を担保に金を借りているんだそうです。それで、こんどの総会には、田所氏に委任状を渡すことになっているらしいんです。」
「君、それは、本当のことか。」
善太郎は、顔色を変えた。高子も、あきれたように、
「じゃア、やっぱり、放っといたら、大変なことになったのね。だって、あの二人の十六万株が、田所さんの方にまわったら、こちらが負けていたかも知れないところね。」
「まア、そうです。」
「だから、お兄さん、あたし、かねてからいったでしょう? お兄さんは、すこし、楽観しすぎるって。」
「お前は、黙っていろ。」
善太郎は、怒鳴りつけるようにいった。
「だって、そうじゃアありませんか。結局は、南雲さんのお陰よ。」
「また!」
善太郎は、高子を睨みつけた。
彼は、稲川と福間に裏切られていた、と知って、すっかり、興奮してしまったようだ。
「高子、すぐ、お母さんを呼んでこい。」
「はい。」
高子は、応接室から出て行った。
「君、今の話は、嘘ではないんだろうな。」
「持田氏が、そういっていたんです。だから、今のうちに、対策を講じておく必要がある、と思います。」
「実に、怪しからん。」
善太郎は、壁の一点を、睨みつけていた。
母の常子が、高子といっしょに入って来た。龍太郎は、立ち上がって、挨拶をした。常子は、軽く、それを受けて、
「いったい、どうしたというの?」と、まだ、壁を睨みつけている善太郎を見た。
善太郎は、こんどは、常子を睨みつけるようにして、
「どうもこうもありませんよ。稲川と福間の二人が、私を裏切っているんです。いったい、この始末を、お母さんは、どうしてくれるんですか。」
「裏切るって、何んのことなの?」
「僕は、こんど、田所を辞めさせることにしたんです。あいつは、会社を毒する大悪党であることがわかったんです。ところがですよ、稲川と福間が、その田所とグルになっていたんです。」
「グルって?」
「要するにですな。」
善太郎は、歯痒がって、よけいに、いらいらしていた。
高子が、そんな善太郎に代って、常子にもわかるように説明した。
「そんなこと、本当かしら?」
常子は、まだ信じられぬような顔で、
「だって、親戚じゃアないの。親戚といっても、娘の婿ですよ。その婿たちが、そんなことをするなんて、あたしには、信じられませんよ。」
「田所氏から、金を借りているというんです。そのためだそうです。」と、龍太郎がいった。
「いくらですか。」
「そりゃアわかりませんが。」
「恐らく、たいしたことはない、と思いますよ。前に、佐登子と春子が、金を借りに来たとき、あんたが断ったからですよ。」
「あたりまえです。あの連中には、渡すものは、ちゃんと、渡してあるんです。とにかく、お母さんが、いけないんです。あんな男たちを、娘の婿にしたことが、いけないんです。こりゃア、お母さんにも責任がありますよ。ねえ、そうじゃアありませんか。」
「今更、そんなことをいったって。とにかく、あの二人に、ここへ来て貰ったら?」
「無論、呼びつけてやります。高子、すぐ、電話をかけろ。もし、家に居なかったら、何んとしてでも居所を捜して、今夜中にくるようにいってくれ。」
「はい。」
高子が、また、応接室から出ていった。
福間と稲川は、珍しく、こんな時刻に、家へ帰っていた。二人とも、すぐ、ここへくることになった。
龍太郎が、
「じゃア、私は、これで失礼します。」
と、立ちかけると、善太郎が、
「いや、君もいてくれたまえ。何んといっても、君が、持田氏から聞いて来た証人なんだからな。」
「そうですか。」
龍太郎は、腰を下ろした。
誰も、黙り込んでいる。龍太郎は、これから自分の目前でひろげられるだろうイザコザを思うと、うんざりしてくる。しかし、こうなったら、どんな場面になろうと、それを冷静に眺めていよう、と度胸をきめていた。
「高子、ウィスキイを持って来てくれ。」
「お酒を飲むのかい?」と、常子が、心配そうにいった。
「これが、飲まずにいられますか。高子、早く。」
「ええ。」
高子が、ウィスキイを取りに行っている間に、龍太郎は、すこしでも、善太郎の気持を柔げてやろう、と思って、
「さっき、青田から電話がありましたよ。」
「青田?」
「新婚旅行から帰って来たんだそうです。」
「…………。」
「一度、新家庭を見に来てくれ、といってましたが。」
「君、今の僕は、そんなのん気なことをいってられる場合じゃアないんだよ。」
「わかりました。」
「行きたかったら、君ひとりで、行って来てくれたまえ。僕に遠慮はいらないよ。」
龍太郎は、苦笑しながら聞き流すより仕方がなかった。
高子が、ウィスキイと水とチーズを運んで来た。善太郎は、自分で、それをコップについで、ぐっと、飲みこんだ。
「南雲さんも、どうぞ。」
「ええ、いただきます。」
高子のついでくれたウィスキイを、龍太郎は、ただ、なめるようにしていた。
常子が、席を立ちかけると、
「お母さん、どこへ、行くんです。」
「ちょっと……。」
「ここにいてください。」
「そうかねえ。」
こうなったら、流石の常子も、善太郎には、手がつけられないようである。ただ、息子の大荒れに、おろおろしていた。
「お母さん、あの二人が来ても、横からいらんことを、一切、いわないでくださいよ。僕が、とっちめてやるんですから。」
「わかってますよ。」
一時間ほどして、稲川が、女中に、案内されて、入って来た。
「やア、ご馳走が出てますなア。僕も、早速、一杯、頂戴しようかな。」
「いかん。」
稲川は、おどろいて、善太郎の顔を見た。
「飲んでは、いけないんですか。」
「そうだよ。」
稲川は、むっとなって、
「じゃア、飲みませんよ。しかし、こんな時間に、急に、呼び出したりして、いったい、何んの用があるんですか。」
「後でいう。」
「後で?」
「そうだ。もう一人、福間君が来てから、いっしょにいう。」
稲川の顔色が、一変した。
福間が入って来たのは、それから、五分ほどたってからであった。彼も、
「ほう、賑やかですなア。」
と、いったのだが、善太郎から、
「そこへ、腰をかけてくれたまえ。」と、叱りつけるようにいわれて、ハッとしたらしかった。
稲川と福間は、並んで、腰をかけた。二人は、ちらッと顔を見あわせたが、落ちつきを失っているようだ。
善太郎は、すでに、三、四杯のウィスキイを飲んでいるので、酔いが、顔に現われていた。彼は、二人を睨みすえながら、
「君たちは、僕に対して、後暗いことをしているだろう。白状したまえ。」と、罪人に命令するような口調でいった。
「いったい、何んのことですか。」
稲川は、むっとしたようにいった。
「まだ――。君たちは、田所から、金を借りているそうじゃアないか。」
「ええ、借りていますよ。しかし、それが、どうかしたんですか。」
こんどは福間が、ふてくされたようにいった。
「そうですよ。そんなこと、僕たちの勝手じゃアありませんか。」
稲川も、福間と同じ態度をとった。
そういう二人の態度が、いよいよ、善太郎をいらだたせた。
「よくも、そんな口がきけるな。」
「だって、あなたが貸してくれないからですよ。」
「そうだよ。だから、仕方がなかったんだな。」
「しかし、日吉不動産の株を担保にいれてるそうじゃアないか。実に、けしからん。」
「どうしてですか。金を借りた以上、担保は、当然ですよ。しかも、あの株は、僕たちの物ですよ。どう処分しようが、勝手なはずですからね。」
「あなたから、そのことで、文句をいわれる筋は、ひとつもありませんよ。」
「いや、あの株は、そんな意味でやったのではない。一生、持っているように、といって渡したはずだ。」
「覚えていませんな。」
「僕も。それに、担保にいれただけで、まだ、処分したわけじゃアないしね。」
「しかし、こんどの総会で、田所に委任状をわたす、と約束したろう?」
「ええ、しましたよ。」
「だって、田所さんには、恩がありますからね。」
二人の態度は、ますます、開き直ってくる。常子は、こんな婿であったのか、というように呆然としていた。善太郎は、いらいらするばかりで、うまく、思うことがいえないようだ。
横から、高子が、
「いったい、いくら、お借りになりましたの?」
「二百万円ぐらいですよ。」
「僕もそのくらいだな。」
「まア、二百万円。」
常子は、思わず、口を出して、
「そんな金を、何んに費ったんですか。」
「何んや彼やですな。」
「佐登子や春子は、知ってるんですか。」
「知っているのもあれば、知らんのもあるでしょうな。」
「あんたたちは、何んというひとたちなんでしょう。あたし、見そこなっていましたわ。」
常子は、ヒステリックな声でいった。灰皿の中で煙っていた煙草の煙が、すうと消えた。
龍太郎は、口を出さずにはいられなくなった。
「田所さんとお二人のことを、社長に申し上げたのは、私なんです。だから、この際、私からも、すこし、お二人に申し上げておきたいことがあります。」
二人は、ふん、というように、龍太郎を見た。
「こんどの総会限りで、田所さんは、お辞めになります。」
「さア、どうかねえ。」
「そうだよ、田所さんには、ほかの大株主がついていられるらしいからね。」
「ところが、ほかの大株主たちの間でも、そういうことに、決まったのです。」
「まさか、君。」
「君なんか、まだ、何んにも、知らないんだよ。」
「しかし、私は、昨日、大阪で、持田さんにお会いして、その了解を得て来たんですよ。」
二人の顔に、不安の色が走った。
「あなたがたのことも、持田さんから聞かして頂いたのです。近く、持田さんが上京されて、田所さんに、はっきり、引導をわたされるはずなんです。と、いうのは、田所さんは、いろいろと困ったことをなさっていることが、判ったのです。」
「本当かね、君。」
「だから、お二人が、田所さんに委任状をお渡しになる、ということも、今は、全くの無意味だ、と思うんです。」
二人は、顔を見あわせた。田所が辞めさせられるとなれば、自分たちが、現職の重役にして貰える、という約束も、空手形となってしまう、と気がついた。
「だから、この際、田所さんからの借金を、一日も早くお返しになって、従来通り、社長のためにおつくしになった方が、得策でないでしょうか。」
「しかし、僕たちには、そんな金はない。」
「そうだよ。」
「社長。」
龍太郎は、善太郎の方を向いて、
「お二人のために、二百万円ずつ、お立替になっては、如何でしょうか。」
「嫌だ、バカバカしい。誰が、こんな連中のために、四百万円も出してやるもんか。」
善太郎は、吐き出すようにいった。
「ごもっともです。では、その四百万円に相当する株を、お二人から買戻す、というのだったら、如何でしょうか。」
「買戻す?」
「それなら、社長もご損がいきませんし、ある意味で、日吉不動産における社長の地位を、更に強化させるに役立ちます。」
「そうよ、それがいいわ、お兄さん。」と、高子がいった。
善太郎は、考え込んだ。常子が、
「そうしておやりよ。」
稲川と福間は、すっかり、打ちしおれてしまっている。
龍太郎は、立ち上がった。
「じゃア、私は、これで失礼します。」
高子が、送って出て、
「本当に、何から何まで、すみません。」
「いや。」
龍太郎は、外へ出た。ひっそりした夜道を歩きながら、あのあと、もう一騒動が起るだろうし、また、福間と稲川の両家でも、猛烈な家庭争議がはじまるだろう、と思った。しかし、そんなことは、自分の知ったことではないのである。ただ、彼は、ひどい疲労を覚えていた。アパートへ帰って、ぐっすりと眠りたかった。
田所は、龍太郎が、大阪支店へ不意に現われて、何も彼も調べていったことは、すでに、知っていた。
しかし、彼は、まだ、この会社に残ろう、という気持を捨てないでいた。四百万円の使途についての申し開きが出来るように準備をすすめていた。
龍太郎が、それを聞きに来ても、一切、相手にしない。あくまで、善太郎と対決する。彼に対して、毎月、十万円の金が渡してある。それが、田所のつけ目であった。
しかし、龍太郎も善太郎も、彼に対して、そのことについて、一言もいわないのである。それが、田所にとって、不気味でもあった。
が、田所は、あくまで、強気でいこう、と思っていた。持田が、自分の味方だ、と信じているのだった。その持田へは、毎日のように電話をかけているのだが、いつも、留守だった。しかし、持田は、総会の日に、大阪から来てくれる約束になっているのだ。
総会までに、あと、数日である。すでに、田所が、確実に手許へ集めた委任状は、六万株になっている。稲川と福間も、間違いない。その他、持田、大泉、寺田などの委任状が貰えたら、総会で、善太郎を蹴落すこともあるいは、可能なのである。田所は、その最後の仕上げのため、今夜、大阪へ立ち、持田、大泉、寺田などの大株主に会うつもりだった。札幌の岡に対しても、懇請の手紙が出してあった。
卓上電話のベルが鳴った。それは、思いがけなく、持田からだった。
「ああ、持田さん。」
「大阪から出て来てますのや。」
「そうですか。実は、この間から、何度もお電話をしたんですが、いつも、お留守なので、今夜、大阪へ行こうと思っていたんですよ。」
「なら、いってもムダですわ。」
「いろいろと、ご相談したいことが、あるんです。」
「わしの方にも、たくさん、おますのや。今夜、会うてくれはりますか。」
「ええ、ぜひ。こちらで、席をもうけます。」
「いや、そんなにして貰わんでもよろしい。わしの宿に来てもろたらええ。」
「承知しました。」
「じゃア、今夜、七時。新橋の浜村です。」
「ええ、きっと。」
電話を切ったあと、田所は、会心の笑みを洩らした。持田が、わざわざ、大阪から出て来てくれたのである。彼は、千万人の味方を得たにも似た満足感を覚えていた。
田所は、その夜、七時に、持田の旅館へ訪ねていった。ところが、持田の部屋に、思いがけなく、岡もいっしょにいた。彼は、岡もいっしょなら、却って、二つの手数が、一つ、はぶけると思った。
「これはお揃いで。」
「まア、こっちへ来て、座りなはれ。」
持田は、笑顔でいった。
岡も、笑っている。
「田所さん、あんた、その後、東洋不動産の株を、だいぶん、集めなはったか。」
田所は、岡の前で、こんな話は、まずいのではないか、と思ったが、しかし、岡もまた、同じ穴の中のムジナになっているのかも知れない、と思い直して、
「八万五千株ぐらいです。」
「ほう、そらア凄い。」
「持田さんの方は?」
「一株も持ってしまへん。」
田所は、自分の耳を疑がった。すると、持田は、ケロリとして、重ねていった。
「一株も持ってしまへんで。」
「いったい、それは、どういうことなんですか。」
「要するに、売ってしまいましたんや。」
「誰に、お売りになったんですか。」
「東洋不動産から人が来て、やかましいいましたんで、面倒くそうなりましてな。」
「そんならそうと、私にも一言、先に、おっしゃっていただきたかったですな。」
「さよか。」
「いくらでお売りになったんですか。」
「五百二十円です。」
しかし、持田が、実際に売った価格は、六百五十円であったのである。そして、彼は、その際、田所には、五百二十円でという、と約束しているのだった。
「五百二十円……。」
「あんたも、それで売りなはったら、どうです。」
「持田さんと私の分もいっしょにだったら、もっともっと、高く売りつけられましたのになア。」
「そらア、えらい、あんたに悪いことをしましたなア。」
「いえ、そういう意味では……。しかし、残念だなア。」
「すんまへん。」
いくらあやまられても、田所の腹の虫が、おさまらなかった。まして、そのあやまりかたは、口先だけなのである。もし、相手が、持田でなかったら、田所は、怒鳴りつけたに違いない。
岡は、終始、無言のまま、煙草を吹かしている。
「ところでな、田所さん。」
持田は、何んでもないことのような口調で、
「こんどの総会限りで、あんたに、日吉不動産を辞めて貰いまっさ。」
「何んですって?」
「辞めて貰いますのや。ほんまに長いこと、ご苦労さんでした。」
「持田さん。」
田所は、開き直るように、
「それは、本気ですか。」
「こんな大事なこと、嘘や冗談に、いわれまへんで。」
「理由を聞きましょう?」
「そんなこと、どうでも、よろしいやろ。株主が辞めてくれ、いうてますのやで。」
「しかし、私を、信任してくれている株主が、ほかにも、たくさん、いるんです。」
「たとえば?」
「福間とか稲川とか。」
「あれは、もう、あきまへん。すっかり改心してしまいましたんや。」
「しかし、あの二人には、私は、大金を貸してあるんですよ。」
「その大金は、どこから、お出しになりましたんや。」
「わかった。持田さんは、大阪支店の経理のことをいってられるんでしょう? あれはですな、毎月、社長に別に十万円ずつ、渡すためですよ。」
「そら、初耳や。」と、いってから、持田は、「そんなら、地下室をキャバレエに貸すとき、別に、あんたが受取った五百万円は、どないしはったんや。」
田所の顔が、一瞬、さっと、青ざめた。
持田は、そんな田所を、ジロリと見て、
「何も彼も、わかってまんのや。あんたも男やろ。あっさり、この際、辞めなはれ。」
「…………。」
「それに、あんたのことは、ほかの株主たちとも、もう、相談ずみや。そのかわり、この際、あっさり、辞めなはったら、過去のことは、一切、帳消しにします。」
田所は、顔を上げた。唇を噛みしめている。やがて、その唇を、ぐっと、ゆるめると、
「辞めます。」
「そうしなはれ。それから、退職慰労金は、出しまへんで。」
「…………。」
「稲川さんと福間さんに貸しなはった金も、ついでに、帳消しにして貰いまっさ。」
「しかし、あれは。」
「まア、ええやおまへんか。あんたは、東洋不動産の株を、八万五千株も持ってはるのや、どえらい大金持ちや。たかが、日吉不動産の重役で、ようまア、そんな大金持ちにならはりましたなア。」
「…………。」
「もう、帰ってくれはってよろしい。」
「帰ります。」
田所は、立ち上がった。落ちつこうと、一歩一歩を、踏みしめるようにして歩いているが、しかし、その後姿には、一瞬にして、天から地に叩き落された男のみじめさが、にじみ出ていた。
田所の姿が、襖の外に消えると、持田は、岡を振り返って、
「あれで、よろしいな。」
「結構でした。」
「そんなら次やな。」
彼は、襖越しの隣室へ向かって、
「さァ、出て来なはれや。」
襖が、開かれた。そこに、善太郎、高子、本間、稲川、福間、そして、龍太郎の六人がいた。その六人が、ぞろぞろと、こっちの部屋へ入って来て座った。
「みんな、聞えましたやろうな。」
「聞えました。」と、善太郎がいった。「いろいろお世話になりました。」
「まァええ。ところでな、社長さん、田所を辞めさせた後のことですが、どないにしはります?」
「まだ、そこまでは、考えていないんです。しかし、田所が辞めたあとは、そのままでもいいのではないか、と思ったりしていたんです。」
「そんなら、こっちの意見をいわして貰いますよ。」
「どうぞ。」
「これは、ここにいられる岡さんや、そのほかの大株主たちとも、だいたい相談した結果です。」
「…………?」
「社長は、どうしても、あんたやな。いちばんの大株主様だから、これは、変更するわけにはいかん。もっとも、田所がいうてた十万円とかは、あんなこと、感心しまへんな。間違いのもとです。まア、せいぜい、一所懸命に働いとくなはれ。頼みます。」
「承知しました。」
「次に、福間さんと稲川さんには、残念ですが、こんどで、取締役を辞めて貰います。」
二人とも、青くなった。
「勿論、退職慰労金は、払いまへん。そのかわり、田所からの借金が、帳消しになったんやから、却って、大もうけや。社長さんも、それでよろしおますな。」
善太郎は、二人の方を、ちらっと見てから、
「承知しました。」
「本間さんは、今のままでええとして、この次からが問題や。」
そこで、持田は、ちょっと、言葉を切ってから、
「高子お嬢さん、あんたも、取締役になりなはらんか。」
「あら、あたしなんか。」
「いやいや、ここにいなさる南雲さんの話では、なかなか、しっかりしてなはるそうや。ひとつ、取締役になって、せいぜい、社長さんをたすけてあげなさったらよろしい。」
「でも……。」
高子は、ちらっと、龍太郎の方を見た。
「おなりなさいよ。適任ですよ。」
龍太郎は、力をこめていってから、善太郎に、
「社長、いいでしょう?」
「まア、いいだろう。」
善太郎は、苦笑しながらいった。
「よし、きまった。ところが、社長さん、こうなると、取締役の三人とも、社長さん方やな、社長さん以外のその他の株主の代表が、一人も入ってしまへん。困りますな。でな、わしと、この岡さんも、平取締役として、いれて貰いたいんです。」
「お二人を?」
「さよう。いけまへんか。」
「いえ、そういうわけではないんですが。」
「じゃア、どういうわけです?」
「結構です。」
善太郎は、仕方なしに、そう答えた。
「ところが、この二人は、東京にいてしまへん。ときどき、東京へ出てくるが、取締役会のつど、わざわざ、そのために出てくるというのもしんどいことですから、かわりに、もう一人、現職の重役をいれさせて貰いたいんですよ。」
「現職の重役を?」
善太郎は、不安そうな顔をした。
「ここにいる南雲さんです。」
「南雲君を?」と、善太郎がいったのと、
「とんでもない。絶対に、おことわりします。」と、龍太郎が、叫ぶようにいったのと、殆んど、同時であった。
しかし、持田は、かまわずに、
「南雲さんには、その他の株主、即ちわれわれの代表、ということで入って貰うが、しかし、いうてみれば、社長さん方でもあるようなもんだ。」
「僕は、おことわりします。」
「社長、どうですか。」
「しかし、南雲君が、嫌だ、といってるんですからね。」
「そんなら、われわれとしては、もっと、別の人間を、現職の重役として、いれて貰いとうなりますよ。」
「別の人間?」
すると、今まで、黙っていた岡が、
「さよう。でないと、われわれは、株主として、安心できません。こんどのことが、いい例です。田所みたいな男に、勝手な真似をさせた、というのも、社長さん、あなたの責任だし、また、ほかの取締役達の責任でもありますぞ。」と、鋭い口調でいった。
「その通りや。」
持田は、それを受けてから、龍太郎の方を向いて、
「あんた、ひとつ、頼みまっせ。」
「しかし。」
「社長さん。それで、よろしおますな。もっとも、嫌だ、といわれても、こんどの総会で、そのように投票したら、いっしょです。それとも、もっと別の人間を、こっちで、探して来ましょうか。」
「わかりましたよ。」
「じゃア、きまった。南雲さん、あんたは、常務取締役になりなはれ。それがええ。ああ、しんどかった、なア、岡さん。」
「でも、よかったですよ。」
二人は、顔を見あわせて意味ありげに笑った。
それから三十分ほどたって、六人は、外へ出た。
善太郎は、むっとした顔をしていた。福間と稲川は、すっかり、打ちしおれている。
高子が、
「南雲さん、おめでとう。」と、寄り添うようにしていった。
「いや、僕は、正直なところ、困っているんですよ。」
「あら、何んにも、お困りになること、ないじゃアありませんか。」
「いや、やっぱり、困りますよ。」
「それより、あたしこそ、困ってますのよ。女の取締役だなんて、あたし、嫌だわ。ねえ、南雲さん、よろしく、お願いしますわ。」
善太郎が、そんな高子を、ジロリと見て、
「高子。」と、怒ったようにいった。
高子には、兄の不機嫌な原因がわかっていた。恐らく、龍太郎が、重役になったことを、彼が、陰へまわって自分で運動した、と思っているに違いないのである。兄と龍太郎の仲を、昔に戻すことこそ、これからの自分のつとめのような気がしていた。そして、そのことが、結局、自分自身をも幸せにすることのように思われた。
「何よ、お兄さん。」
「帰ろう。」
「あら、せっかく、こんなおめでたい日に、まっすぐに、お帰りになるの?」
「何が、おめでたいもんか。持田と岡のような男が、新しく、取締役として入ってくるんだよ。」
善太郎は、わざと、龍太郎の名をいれないで、
「僕は、断然、不愉快だよ。」
「そんなに不愉快なのなら、どうして、さっき、はっきりと、そうおっしゃらなかったのよ。」
「いえば、喧嘩になるからさ。」
「だって、不愉快な思いをなさるくらいなら、むしろ、その場で男らしく、喧嘩をなさった方がよかったのよ。」
「お前は、兄に意見する気か。」
「違うわ。あたし、お兄さんに、機嫌を直して貰いたいのよ。そして、これから、会社の仕事を一所懸命にしていただきたいのよ。」
「仕事は、南雲にやって貰え。」
「何んということをおっしゃるのよ、お兄さん。」
「とにかく、帰る。お前も、帰れ。」
「そりゃア、帰るけど。」
走って来た空のタクシーを、善太郎がとめた。自分から先に乗り込んで、
「早く。」と、高子を促した。
高子は、龍太郎の方を見て、淋しげに笑ってから、車中の人となった。タクシーは、すぐ、走りはじめた。テールランプが、みるみる、遠のいていった。
「僕たちも、失礼しよう。」
そういって、稲川と福間は、別の方向へ、去っていった。
後に、本間と龍太郎が残された。
「まるで、ヒステリイですな。」と、本間がいった。
龍太郎は、黙っていた。
「どこかへ、飲みにいきましょう。」
「『ハイツ』ですか。」
「いや。」
本間は、首を横に振って、
「あの女とは、もう、別れましたよ。」
「そりゃアよかった。」
そういいながら、龍太郎は、静かに空を見上げた。星をちりばめた空が、美しいだけに、却って、何か悲しいものに眺められた。
株主総会は、無事に終了した。すべて、予定通りに、事が運んだのである。龍太郎は、取締役に選任され、総会のあとの取締役会によって、本間と並んで、常務取締役ということになった。
ひょっとしたら、田所が、総会の席上で、何かのたくらみをするのではないか、と心配されていたが、彼は、終始、沈黙をまもっていた。勿論、同じく総会に出席していた持田や岡の眼が光っていたからでもあろうが、しかし、彼は、見せかけにしろ、すこしも悪びれた顔をしていなかったのである。
龍太郎は、田所の横顔を眺めながら、あらためて、
「悪い奴だが、しかし、相当な人物だな。」と、思わずにはいられなかった。
同時に、日吉不動産に入社以来、田所を辞めさせるために、自分が今日までにして来たことを振り返ってみて、やはり、感慨無量にならざるを得なかった。
もし、何もしないで放っておいたら、あるいは、今日の総会で、この田所が社長ということになったかも知れないのである。
とにもかくにも、彼は、田所を辞めさせることに成功し、しかも、重役になれたのである。よそめには、大変な出世という風に見えるに違いない。が、龍太郎の心は、すこしも、晴れやかではなかった。今後の善太郎のことを思うと、逆に、憂欝になってくるばかりであった。
彼は、総会のあとの取締役会が終ってから、あらためて、善太郎の部屋へ、挨拶に行った。
「どうか、よろしく、お願いいたします。」
善太郎は、ジロリと彼を見て、
「ああ。」と、いっただけだった。
「何か、お聞きしておくことはありませんでしょうか。」
「この会社のことは、僕よりも、君の方が、よけいに知っているんだろう?」
「とんでもない。」
「下手なケンソンはしない方がいいよ。とにかくだ、君は、持田や岡たちの代表なんだからな。」
龍太郎は、黙って、善太郎の顔を見つめた。善太郎は、顔をそむけるようにして、
「まア、仕事の方は、君にまかせる。僕は、しばらく、ゆっくりさせて貰うよ。」
そのあと、善太郎は、龍太郎の相手になりたくない、という態度を露骨にあらわした。龍太郎は、善太郎の部屋を出た。
高子が、秘書室にいた。
「南雲さん。これから、あたし、どうすればいいんですの?」
「取締役ですから、今までのように秘書というわけにはまいりません。月に二回か三回、取締役会の時にだけ、来て貰えればいいんです。」
「そんなの、嫌ですわ。やっぱり、今までのように、毎日出て来たいわ。」
「困りますな。」
「あら、お邪魔?」
「いえ、そういう意味ではありません。じゃア、とにかく、あなたのお部屋をつくりましょう。いつでも、気の向いたときに、その部屋へ出て来てくださっていいんですから。」
「ぜひ、そうして頂戴。」
「承知しました。」
龍太郎は、秘書室を出た。事務室の方へ歩きかけて、そこが、田所の部屋であることに気がついた。
田所は、まだ、その部屋にいるはずだった。龍太郎は、一応、ためらったけれども、思い切って、ノックをした。
中からの返事を待って、彼は、扉を開いた。
田所は、椅子に深く掛けて、両腕を組んでいた。眼を閉じて、何かの瞑想に耽っているようである。
たたかいに敗れて、今日限りで、この部屋を去らねばならぬ自分の過去を、振り返っているのであろうか。
龍太郎は、入口に立ったまま、わざと、声をかけないでいた。
田所は、やっと、眼を開いて、
「ああ、君だったのか。」と、思いがけないようにいった。
しかし、そのあと、視線を強くして、
「何か、用があるのか。」
龍太郎は、近づいて行って、
「いえ、何んとなく、お話がしたくなったんですよ。」
「話が?」
「しばらく、かまいませんか。」
「いいだろう。そこへ、かけたまえ。」
「ええ。」
龍太郎は、腰をかけた。田所は、そんな龍太郎を、じっと、見つめていたが、
「そうだ、おめでとう。」
「いえ。」
「明日から、君が、この部屋を占領するんだろう?」
「まだ、きめていません。多分、高子さんの部屋になる、と思います。」
「そうか。そんなことは、まア、わしには無関係だ。とにかく、わしは、君に負けたんだからな。」
「どうか、悪く思わないでください。」
「これが、悪く思わないでいられるか。」
そのあと、田所は、口調を変えて、
「しかし、君は、いい男だよ。」
「とんでもない。」
「が、これから、苦労をするぞ。」
「覚悟をしています。」
「すこしは、わしの今までの苦労もわかるだろう。ところで、頼みがあるんだが、聞いてくれないか。」
「どういうことでしょうか。」
「山形と山上のことだ、まア、あの二人は、今日まで、わしの子分のようになっていた。」
「知っています。」
「で、わしが辞める以上、自分たちも辞める、といってるんだよ。わしに殉じる、という気持と、もう一つは、どっちにしろ、辞めさせられるだろう、といってるんだ。それで、わしも、ちょっと、困っているんだ。辞めさせては、そのあと始末を、わしがしてやらんならん。ところが、わしは、明日から浪人なんだ。そこで、君に頼みたいのは、あの二人を、そのままにしておいてやってくれないか、ということだ。」
「承知しました。はじめから、そのつもりでいたんです。この際、過去のことは、一切、白紙に戻したい、というのが、私の方針なんですから。」
「そうか、まア、そうしてやってくれたまえ。こんなこと、君に頼むのは、どうも、おかしな話なんだが、しかし、頼むとなったら、やっぱり、この会社では、君だよ。社長では、問題にならん。」
「そんなことは、ありませんよ。」
そういいながら、龍太郎は、田所に、ある親しみを感じないではいられなかった。今の善太郎に対しては、こういう感じは、全然、いだけないのである。龍太郎が、この部屋に入ってくる気になったのも、また、田所に何人かの子分が出来たのも、一つには、彼にそういう魅力があってのことのようであった。
「じゃア、わしは、これで帰る。城を明けわたすよ。」
田所は、立ち上がった。彼は、部屋を出るとき、もう一度、振り返るようにして、自分の机のあたりを見たが、すぐ、廊下へ出た。龍太郎は、田所を送って、ビルの玄関まで行った。
普通なら、役員も社員も、総出で、見送ってやるべきであったかも知れない。が、田所もそれを要求しなかったし、龍太郎も、気のつかぬ顔をした。
やがては、社員たちの間に、田所の辞めさせられた理由について、いろいろの噂が飛ぶに違いないのである。そういう噂のある男を、円満に退任した役員と同様に扱っては、社員たちに信賞必罰の精神を忘れさせる恐れがある。龍太郎は、そのように考えたのであった。
「では。」と、田所が、龍太郎にいった。
「どうぞ、お身体をお大事に。」
「ありがとう。それから、さっきのこと、頼んだよ。」
「承知しました。」
田所は、去って行った。今までなら、会社の自動車を使うところであろう。が、今日は、自分の足で歩いて行かねばならぬのである。そのうしろ姿には、龍太郎の眼を意識しての虚勢が出ていた。しかし、龍太郎には、却って、それが哀れに見えた。
龍太郎が、事務室へ戻った。社員たちが、寄って来て、口々にいった。
「常務、おめでとうございます。」
はじめて、常務、と呼ばれたのである。龍太郎は、くすぐったい思いだった。おめでとう、といってくれる社員のすべてが、心からそう思っているとは考えられない。が、そのうちの何人か、何十人かは、自分の常務就任をよろこんでくれているに違いない、と思いたかった。
「早速ですが、常務。」と、総務課長の森村がいった。「社員たちに、常務ご就任の挨拶をしていただきたいんですが。」
「そんなことは、回覧でいいだろう?」
「いえ、今まで、そういう習慣になっているんです。」
「じゃア、本間常務もされるのか。」
「本間常務は、前になさっていますから。」
横から、岩田も、すすめた。
龍太郎は、ちょっと、考えていてから、
「わかった。何か、話そう。」
「今日、四時過ぎからでいいですか。」
「いいとも。」
「じゃア、会議室に、みんなを集めておきます。」
その日、四時二十分頃に、森村が、龍太郎を呼びに来た。龍太郎は、会議室へ出かけて行った。大勢の社員が、集まっていた。彼が入っていくと、真ッ先に、大間と厚子が拍手をした。その拍手は、やがて、全員にひろがって行った。
龍太郎は、演壇に立った。そのすぐ前に、山上と山形がいた。二人とも、睨みつけるように、龍太郎を見上げていた。しかし、その二人も、龍太郎が、就任の挨拶の後で、この際、過去のことは、一切、白紙に戻して、派閥のない会社に、そして、上役に貢物を持っていく必要のない会社にしたい、換言すると、役員も社員も協力して、この日吉不動産に勤めていられることが幸せだ、いや、社員だけでなしに、その家族も、そう思えるような会社にしたい、ということに言及していくと、いつか、頭を下げて、神妙に聞くようになっていた。
龍太郎の演説は、何度か、社員たちの拍手を以て迎えられた。
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雲の行方
今日は、新橋の和子の店の開店日であった。新しい店の名を『泉』とつけた。
龍太郎は、青田と二人の名で、天井からスタンドの上へぶらさげる硝子製の花瓶を贈った。青田には、そのことを、電話で了解を求めておいた。ついでに、開店の夜、『泉』へ出てこないか、というと、
「ああ、行くよ。」
と、答えたのである。が、そのあとで、
「しかし、ちょっと、怨まれるだろうな。」
「ご冗談でしょう。」
「何?」
「うぬ惚れなさんな、といってるんだよ。」
「もう一度、いってみろ。」
「いうとも。彼女は、もう君のことなんか、とうに忘れてるよ。君より、何倍か立派なパトロンがついてるんだ。」
「本当か。」
「だからこそ、こんどの店が、開くことが出来たんじゃアないか。」
「僕は、また、せいぜい、雇われマダムぐらいだ、と思っていたんだ。」
「だから、君は、ヤブさんといわれるんだよ。」
「こら、もう、その言葉はよせ。」
「とにかく、出てくるな。」
「行くよ。日吉は、どうするんだ。」
「今日も、お休みだ。」
「今日も?」
「そうさ。総会が終ってから、もう、十日近くになるんだが、ちっとも、出てこないんだよ。」
「ひどいもんだなア。」
「そうだよ。まア、詳しいことは、会って話すが、だから、二人で、君の新家庭を拝見に行くのは、当分、延期にしてくれ。」
「だったら、君ひとりでもこいよ。」
「しかし、まア、それもこんど会ってからにしよう。」
「よしよし。」
青田は、電話を切った。
三日前のことなのである。が、しかし、善太郎は、その後も、やはり、出社してこなかった。高子だけは、一日に一度、顔を出していた。そして、彼女の報告によると、善太郎は、殆んど、家へ帰らないのだそうである。聞いても、返事をしない。恐らく、信子のアパートにいりびたっているに違いない、というのであった。
龍太郎は、善太郎が出社してこないのは、自分がいるからだ、と思わぬわけにはいかなかった。そんなに嫌われてまで、この会社にいたくない、といいたいのである。が、一方で、いつか、岡からいわれた、
「男は、そんなことぐらいで、やたらに辞めたりしてはいかんですよ。」と、いう言葉が、忘れられなかった。
更にいえば、田所が辞めて以来、会社の空気が、目立って、良くなったようなのである。社員たちの顔色も、明るくなって来たように思われた。山形や山上も、神妙に働いている。だから、今、自分が、ここで辞めたら、せっかく、好転しかけたそれらのものが、また、元に戻るかも知れない、という気がしていた。
今が、最後のガンバリだ、と思っていた。そのうちには、善太郎も、自分の本当の気持が、わかってくれるかも知れないのである。何んといっても、もとは、友人同士であったのだ。それが、今の龍太郎にとって、唯一の頼みの綱であった。
ノックの音がして、高子が入って来た。
「昨日から、兄が、家へ帰っていますのよ。」と、高子がいった。
「で、今日は、会社へ出てくださるんですか。」
「ところが、頭痛がするんですって。」
「僕から、出社してくださるように、頼みに参りましょうか。」
「もうちょっと、そのままにしておいてくださいませんか? あたし、そのうちに、きっと、兄に出社させてみせますから。」
「お願いします。社員たちには、社長は、ご病気ということにしてあるんですが、しかし、そういう嘘は、やっぱり、まずいですからね。」
まずいどころか、すでに、とかくの噂が立っていることを、龍太郎は、聞いているのだった。
「あたしね、今日、ここへくる前に、思い切って、正木さんのアパートへ行って来ましたのよ。」
「で?」
龍太郎は、高子の顔を見た。
「正木さんは、あたしを見て、ハッとなさったらしいわ。」
「でしょうな。」
「兄は、やっぱり、正木さんのお部屋で、泊まっていたんだそうです。あのひと、何も隠さずに、おっしゃってくださいましたわ。」
「いいひとですからね。」
「ほんと。それでね、あたし、どうか、兄が出社するように、あなたからもすすめてください、と頼んで来ましたのよ。」
「正木さんは、承知してくれましたか。」
「ええ、そのことなら、前からもいってくださっているんですって。」
高子は、龍太郎にはいわなかったが、そういう場合、信子に対する善太郎の返事は、
「いやだ。南雲のいる限り、僕は、出社しないつもりだ。」と、いうことだったのである。
「でも、南雲さんて、いいお方じゃアありませんか。とても、会社思いですわ。」と、信子がいうと、
「君まで、そんなことをいうのか。あの男は、僕を裏切って、持田とか岡の味方になったんだ。そのお陰で、重役になったんだ。そんな男の顔、僕は、見るのも嫌だ。もう、友達だとは思っていない。」
そして、信子が、それ以上いうと、
「君は、僕よりも、南雲の方が大事なのか。そんなら、いつでも、別れてやる。」
今は、善太郎とは、絶対に別れられぬ信子にとって、それは、完全に口を封じられることになるのであった。
高子は、信子に、龍太郎が、決して、善太郎を裏切ったりしていないことを話して、
「もし、あなたが、本当に、兄を愛してやっていてくださるなら、これからも、兄が出社するように、いってくださいましね。」
「はい。」
「今のままでは、兄は、ダメになってしまいますわ。」
「わかりました。一所懸命に、おすすめしてみます。」
「あたし、あなたに、兄と結婚していただきたい、と思っていますのよ。」
「まア、結婚だなんて。」
信子は、思いもよらぬことを聞かされたような顔をした。そのあと、すぐ、うなだれた。しばらく、その姿勢を続けていたが、やがて、膝の上に、ポトッと涙の玉を落したのである。
その日、五時頃になって、龍太郎は、そろそろ、退社しよう、と思っているとき、岩田が入って来た。彼にしては、珍しく、興奮した顔をしていた。そして、いきなり、いったのである。
「常務。うちの社長は、実に、怪しからんですぞ。」
新橋の『泉』は、見違えるように綺麗になっていた。壁も塗りかえられていた。酒棚には、新しい洋酒瓶が、ずらりと並んでいる。龍太郎と青田で贈った硝子製の臙脂色の花瓶には、花が活けられてあった。
今日から、マダムとなった和子のほかに、女が二人いた。
三人組の客が来ていた。そのほかに、青田もいる。彼は、スタンドで、ハイボールを飲みながら、和子と話していた。
「しかし、よかったよ。」と、青田がいった。
「お陰さまで。」と、和子が微笑んだ。
かつて、この青田が好きであった、ということも、今は、遠い過去の出来事であったような思いでいられた。彼女は、岡の世話になるようになったことを、すこしも、後悔していなかった。日吉不動産の、いわば、お家騒動に対する岡の働き振りを見たり、聞いたりして、彼への信頼感を深めた、といってもよかった。
そして、青田もまた、和子に対して、淡々と話しているのである。そんな青田を見ていると、彼女は、彼が幸せでいるのに違いない、と思われるのであった。
青田は、腕時計を見て、
「七時だ。南雲、遅いなア。」
「きっと、いらっしゃいますわ。会社が、お忙しいんでしょう。」
「らしいね。それに、社長との仲が、うまくいかないんで、どうも、面白くないらしい。こうなると、南雲を九州から引っ張り出した責任上、僕としても、放っとけないと思っているんだ。」
「そうよ。妹の厚子なんか、南雲さんが、お気の毒だ、と口癖のようにいってますわ。」
「社員たちまで、そんなことをいってるのか。」
「ええ。」
扉が開いて、龍太郎が入って来た。
「あら、いらっしたわ。」
「こらッ、遅いぞ。罰金に、今夜は、君の持ちだ。」
「いいとも。」
龍太郎は、バーの中を見まわしながら、
「よくなったなア。マダム、おめでとう。」
「有難うございます。」
「ハイボールをくれませんか。」
「はい。」
そのハイボールを一口飲んでから、龍太郎は、
「青田。僕は、明日、九州へ帰るよ。」
「帰る?」
青田は、おどろいたように、龍太郎を見た。
和子も、ハッとしたようだ。
「そうだ、帰る。」
「帰って、どうするんだ。」
「わからん。しかし、とにかく、僕は、日吉不動産を辞める決心をしたんだ。」
「おい、もっと、詳しい事情をいってみろ。」
龍太郎は、過去のあらましを喋った。青田は、じっと、聞いていたが、
「そうだったのか。あの、日吉って男は、相当以上のバカだったんだな。よし、僕が、明日、日吉に意見してやる。なア、だから、もうちょっと、我慢してくれ。九州へ帰るのは、その結果を見てからでもいいじゃアないか。」
「嫌だ。僕は、これでも、我慢に我慢を重ねて来たんだ。しかし、さっき、どうしても、我慢が出来ないことを、耳にしてしまったんだよ。」
「何を、耳にしたんだ。」
「組合の委員長をしている岩田君が、僕の部屋へ入って来て、うちの社長は、実に、怪しからんですぞ、というんだよ。で、どうしたんだ、と聞くと、彼は、今日、社長邸へ呼びつけられたんだそうだ。」
善太郎は、岩田を応接室へ通して、
「僕は、社長として、この際、社内の沈滞した空気を一掃したい。」
「と、おっしゃると?」
岩田は、善太郎に聞き返した。
「僕は、先ず、君を営業課長にしよう、と思っているんだ。君なら、営業課長として、絶対に大丈夫だ、と信頼している。」
「有難うございます。」
「しかし、そのためには、今の山上を辞めさせねばならん。」
「辞めさせるんですか。」
「そうだ。山上も山形も、そして、そのほか、田所の子分であった有川や犬丸や中津なんかも辞めさせる。殊に、犬丸は、団体交渉の席上で、僕が、社員から信頼されていない、というような、実に、言語道断な暴言を吐いた。それだけでも、辞めさせる値打ちがある。」
「しかし。」
「黙って、聞きたまえ。僕は、君が、委員長として、僕の方針に協力してくれるに違いない、と信じている。更に、僕は、この十日ほど、会社を休んで、今後の会社のことについて、いろいろと考えてみたんだ。そして、この際、南雲も辞めさせるべきだ、と決心したんだ。」
「常務を?」
「そうだ。今や、南雲の存在が、すべてのガンになっていることは、明白である。しかも、南雲は、持田とか岡のような悪質の大株主と気脈を通じて、最大の大株主である僕を、追い出しにかかっているんだ。」
「信じられません。」
「ちゃんと、証拠があるんだ。だから、この際、組合として、南雲の排斥運動を起して貰いたいんだ。そうすれば、持田や岡も、眼がさめるに違いない。いいか、わかったな。」
「おことわりします。」
「何?」
「固く、おことわりします。」
「君は、社長の命令にしたがわないのか。」
「私は、委員長として、したがうわけにはいきません。」
「そんなら、君も馘だ。」
「社長。」
岩田は、つめよるように、
「現在、社内の空気は、すこしも、沈滞していませんよ。沈滞していられるのは、社長ご自身じゃありませんか。」
「君は、社長に対して、そんなことがいえるのか。失敬だぞ。」
「いえ、こうなったら、申し上げます。社長こそ、この際、大反省をなさるべきです。この二週間近く、社長は、殆んど、会社へ出てこられません。しかも、その間、正木信子さんのアパートにいりびたっていられます。」
「そんなこと、誰が、いったんだ。」
「ちゃんと、わかっているんです。そんなことで、社長としての信頼を、社員から得ることは出来ません。もっと、真面目になってください。もっと、仕事をしてください。これが、社員一同の要望です。」
そういって、岩田は、憤然として、帰って来たのである。
龍太郎は、青田の顔を見ながら、
「岩田が、僕にいうんだ。こうなったら、組合は、断然、あんな社長の排斥運動を起してやります、とだ。勿論、僕は、一応、とめておいたが。」
「そうか!」
青田は、唸るようにいって、
「日吉って、想像していたより百倍ぐらい、バカな男だったんだ。」
「僕としても、日吉が、組合に僕の排斥運動を起せ、といっていると聞かされては、もう、忍耐にも限度がある、と思ったんだ。」
「そうだよ。」
「僕にも、彼を怒らせるような至らぬ点もあったんだ、と思うよ。しかし、とにかく、一所懸命に働いたつもりだ。が、もう、嫌になった。本当に、心の底から嫌になった。」
「しかし、君がいなくなると、あと、困るだろうな。」
「それも考えた。しかし、それだって、僕のうぬ惚れかも知れないし、後のことは、どうでもいい、という気になったんだ。とにかく、僕は、辞める。東京にいるのが嫌になったんだ。あとから辞任届を郵送することにして、明日、九州へ帰る。」
「よし、辞めろ。こうなったら、僕だって、君の辞めることに、もう、反対しないよ。だからといって、何も、九州へ行かなくてもいいじゃアないか。東京にいろ。」
「いや、僕には、九州がいいんだ。阿蘇へでも登って、ゆっくり、考えてみたいんだ。」
「そうか、よかろう。しかし、すこし、落ちついたら、また東京へ戻ってこいよ。」
「わからん。」と、いってから、龍太郎は、和子の方を向いて、「と、いうわけでしてね。おめでたい開店日に、こんな嫌な話を聞かせたりして、申しわけありません。」
「あら、そんなこと。でも、本当に、九州へお帰りになりますの?」
「帰りますよ。」
「あたし、お名残惜しいわ。」
「ありがとう。そうだ、岡さんが、今夜あたり、ここへお見えになりませんか。」
「いえ、明後日でないと……。」
「残念だなア。ちょっと、お会いしたかったんだけど。まア、あなたから、よろしく、おっしゃってください。」
「承知しました。」
龍太郎は、明日の準備があるので、その夜は、九時半頃に、アパートへ帰った。
彼は、あらためて、部屋の中を、見まわした。壁の画も、布団も、食器類も、殆んどが、高子が運んでくれたものなのである。
はじめて、高子に、この部屋へ案内されて来たときのことが、思い出されてくる。それ以後、ずっと、高子の心を避けて来たのであった。が、九州へ帰ってしまえば、何も彼も、終りになるのだ。
(それでいいのだ……)
何か、哀愁の思いが、胸底から煙を上げてくるようであった。しかし、すぐ、その思いを振り切るように、廊下へ出た。
彼は、沙恵子へ電話をした。
「まア、南雲さん!」と、沙恵子の可憐な声が弾んだ。
「実はね、僕、明日、九州へ帰ります。」
「九州へ?」
「会社を辞める決心をしたんです。やっぱり、失敗でした。」
「じゃア、あたしの家へ行ってくださいます?」
「勿論、参りますが、前にいた春吉町の下宿が、まだ、空いているようですから、一応、そこへ落ちつくつもりです。」
「あたしも、帰ろうかしら……。」
翌日、厚子が出勤すると、
「大変なことになったわよ。」と、大間にいった。
大間は、厚子の説明を聞いて、すぐ、岩田を廊下へ呼び出した。
「岩田さん、大変なことになりましたよ。」
「おどかすなよ、朝っぱらから。」
「いえ、本当の大変なんですよ。南雲常務が、会社をお辞めになるそうです。」
「誰に聞いた?」
「白石君です。ゆうべ、南雲常務が、白石君のお姉さんの店へ来て、青田とかいうお友達に、この会社を辞めて九州へ帰るとおっしゃっていたそうです。それも、今日だそうです。」
「今日?」
岩田は、唇を噛みしめた。
予測出来なかったことではない。しかし、龍太郎に、最後の決心をさせたのは、昨日、自分が社長に呼ばれたときの模様を報告したからであったに違いない。
あれほど、責任感の強い人が、何も彼も、打ち捨てるようにして、この会社を去るというのは、よくよくのことと思うべきであろう。自分にも、事前に知らしてくれなかったのは、恐らく、いえばとめられる、とわかっていたからだと、岩田は、解釈した。
かりに、自分が、龍太郎の立場に立たされたら、恐らく同じ行動を取ったであろう。それだけに、龍太郎の胸の中を思い、傷ましい気がしてならなかった。
あれほどの人なのである。今後、どこの会社へ勤めるようになったとしても、日吉不動産にいるよりも、苦労をしないですむに違いない。
しかし、今や、この会社には、絶対に必要な人なのである。社員のほとんどが、その気になっている。
黙って、考え込んでいる岩田に、大間は、
「ねえ、すぐ、とめに行ってください。今からだったら、まだ、間に合う、と思うんです。お願いします。」
「よし。」
岩田は、その気になりかけたのだが、そのとき、別の考えが閃いたのである。
このまま、龍太郎をとめに行って、かりに、それが成功したとしても、それでは、結局、彼を今迄と同じ苦しい立場に追い込むだけである。それよりも、彼を、もっと、働きやすい状態にして、それから迎えに行っても、遅くはないだろう。
(あの人だって、疲れている。九州で、しばらく、休養をした方がいいのだ)
その間には、今の興奮も、多少は、鎮まってくるかも知れない。
今こそ、組合として、立つべきときなのである。岩田は、そう信じた。
「ねえ、いらっしゃらないんですか。」
「まア、待て。僕に、まかせておけ。」
その日の、昼の休憩時間に、岩田は、臨時に代議員会を招集した。すでに、龍太郎が辞めて九州へ帰った、という噂が、社員の間にひろまっていた。その動揺が、集まった代議員たちの面上にも、はっきり、現われていた。
岩田は、昨日、社長からいわれた通りを、隠さずに話した。代議員たちは、口々に、憤りをこめて、善太郎を非難した。
「僕は、社長は、最大の大株主だが、経営者としての資格がない、と断定したいんだ。」
「その通り。」
「そして、あくまで、南雲常務を、もう一度、この会社に戻したい。」
「賛成。」
「僕は、その線で動く。まかせて貰えるか。」
全員が、岩田に拍手を送った。岩田は、チラッと時計を見た。十二時三十五分だ、鹿児島行の『きりしま』の発車時刻である。ひょっとしたら、龍太郎は、その汽車で、東京を発ったかも知れない、と思った。
高子が出勤して来たのは、午後一時半頃であった。善太郎は、今日も、欠勤するらしかった。岩田は、あらかじめ、給仕に頼んでおいたので、高子の出勤を、すぐ、知らして貰えた。
岩田は、もと、田所がいて、今は、高子の部屋となっている扉をノックして、入っていった。
「ちょっと、お話したいことがあるんですが、かまいませんか。」
「どうぞ。今日は、南雲常務、お休みですの?」
「そのことで、ご相談に上がったんです。」
高子は、不安そうに、岩田を見た。
「南雲常務は、九州へお帰りになったそうですよ。」
「まア、九州へ?」
「この会社を、お辞めになるんだそうです。」
「それ、ほんとうですの?」
高子の顔色が、一変した。
岩田は、昨日、善太郎からいわれたことを、そのまま話した。高子は、信じられぬような気がした。しかし、あの兄なら、それくらいのことはやりかねないかも知れない。
(何んという下劣なお兄さんなんだろう!)
高子は、それほどの兄とは、思っていなかったのである。
「南雲常務が、お辞めになったのは、社長のそんな心が、わかったからだ、と思います。何んでも、辞任届は、あとから郵送なさるそうです。」
「そう……。」
高子は、もう、これで、何も彼も終りだ、と思った。泣くにも、泣けぬ思いだった。心の中で、
(お兄さんのバカ、バカ!)
と、叫んでいた。
岩田は、そこで、口調をあらためて、
「これからが、組合の委員長として、申し上げます。」
「いいわ。何んでもおっしゃって。」
「組合としては、あくまで、南雲常務に、この会社にいて貰いたいのです。」
「あたしだって、そうよ。」
「そのためには、南雲常務を敵視なさる現社長に、辞めて貰いたいのです。私たちは、現社長に、経営者としての資格も能力もない、と断定したいのです。」
「…………。」
「こういう申し出は、組合として、あるいは、正常行為でないかも知れませんが、しかし、日吉不動産は、すでに、一つの企業体として、社会的に存在しているものです。決して、日吉社長個人のものではありません。私たちは、この事業をまもり、同時に、私たちの生活をもまもって行きたいのです。」
「わかります。」
「この目的をつらぬくため、私たちは、場合によっては、ストライキをするかも知れません。また、外部の大株主に呼びかけてみる覚悟でいます。」
「…………。」
「いずれ、社長には、以上のことを、文書を以て要求するつもりですが、取敢えず、あなたにこれだけのことを申し上げておきます。」
高子は、黙っていた。しばらくたって、
「もし、兄が、社長を辞めたら、南雲さんは、この会社に戻ってくださるでしょうか。」
「そりゃア、わかりません。しかし、そうなったら、私は、組合を代表して、九州まで行って、極力懇請してみます。」
「あたしも、行くわ。」
「えッ?」
「こうなったら、あたしは、組合の申し分に、全面的に賛成します。どんなにでも、協力しますわ。」
高子は、何かを踏み切るように、きっぱりといった。
龍太郎から、善太郎宛に、辞任届が送られて来たのは、三日後であった。ただ、辞任届だけが、封入してあって、よけいなことは、一言も書いてなかった。
同じ日に、高子と岩田にも、龍太郎の手紙が届いた。彼の住所は、やはり、前にいた下宿で、福岡の春吉町となっていた。
高子宛の文面は、在勤中の好意を謝し、高子からの借物を、アパートにそのまま残して来た非礼を深く詫びてあった。
岩田に対しては、急に辞めることになった心境を述べ、せっかく、好転しかけた社内の空気を中途半端で投げだすことの無責任さについて、恥じていた。今後は、君が中心になって、自分の志を継いでほしい、とも書いてあった。
善太郎は、昨日から出勤していた。そして、早速、岩田から退陣を要求されて、すっかり、腹を立てていた。
「みんな、馘にしてやるぞ。」
と、いったし、それでも、一歩も引かぬ岩田に、
「そんなことをいうんなら、僕は、この会社を解散する。覚悟をしていたまえ。」
「その一言だけでも、私たちは、あなたに、社長としての資格がない、と断定せざるを得ないんですよ。」
「失敬な。帰りたまえ。」
「とにかく、私たちは、一週間以内に、社長の回答を要求します。」
岩田は、そういって、社長室を出たのであった。
善太郎は、絶対に辞めるものか、と思っていた。辞めなければならぬ理由が、一つもないのである。が、組合に対して、どういう切り崩し策を講じていいか、まるで、見当がつかないのであった。相談する相手がないのである。高子ですら、冷淡に、
「お辞めになった方がいい、と思いますわ。」と、いい出す始末なのである。
善太郎は、今や、自分が、社長でありながら、全社員から白眼視され、完全に孤立しているような気がしてならなかった。
田所が、権力をふるっていたときでも、これほどの孤立感を味わったことはなかったのである。
「すべて、南雲のせいなんだ。あの男の陰謀なんだ。負けるもんか。」
善太郎は、こうなったら、いったんは辞めさせよう、と思った山形や山上のような、かつての田所の子分たちに恩を着せ、逆に、利用することによって、組合の内部崩壊をはかってやったら、とさえ考えはじめた。
そこへ、龍太郎から辞任届が、送られて来たのである。これさえあったら、もう、しめたものだ。明日の取締役会に報告して、いっきに解任してしまえばいいのである。解任してしまったら、組合だって、すこしは、折れてくるだろう。自分の味方になる男がきっと、現われてくるに違いない。また、持田や岡にしたところで、本人が辞めるといっているのだ、とわかったら、文句のいいようがないはずである。
電話が、かかって来た。
「僕だよ、青田だよ。」
「なんだ、君か。」
「元気かね。」
「でもないよ。」
「どうだ、久し振りで飲まないか。」
善太郎は、考えた。こんな場合、青田なら、友達甲斐にいい知恵を貸してくれるかも知れないのである。
「よし、飲もう。」
善太郎は、そう答えた。
善太郎が、新橋の『泉』へ入って行くと、すでに、青田が来ていた。
和子が、
「社長さん、しばらくでございました。」
「なかなか、いい店じゃアないか。」
「そうでもありませんのよ。」
青田は、ニヤニヤしながら、
「日吉、南雲が九州へ帰ったそうじゃアないか。」
「知っていたのか。」
「何んでも知っている。そして、君が、組合から、ボイコットを食っていることも。」
「それなんだ。実際、南雲って奴は、けしからん奴だよ。すべて、あの男の差金なんだ。」
「そうでもあるまい。」
「いや、そうだよ。僕は、まるで、飼犬に手を噛まれたような気がしている。しかし、あの男も、こんど、辞表を出して来たよ。やっと、自分が悪い、とわかったらしい。」
「君は、本当に、そう思っているのか。」
「勿論。僕は、今にして思うんだが、南雲を入社させるよりも、田所をそのままにしておいた方が、むしろ、よかったかも知れない、とだ。」
「すると、僕にも責任があるわけだな。」
「そうだよ。」
「悪かったな。」
「君にあやまられても、しようがない。」
「いや、あやまるよ。」
そういって、青田は、善太郎の顔を見つめた。
「どうしたんだ。」
「社長さん、そんなことではいかんな。」
「何?」
「顔でも洗えよ。」
そういったかと思うと、青田は、コップのビールを、善太郎の顔に、さっと、浴びせかけた。よけるひまもなく、善太郎の顔から肩にかけて、ビールびたしになった。
「何をするんだ!」
善太郎は叫ぶようにいった。
「まだ、わからんのか。だから、顔を洗え、といってやったじゃアないか。もう一杯、どうだ。」
「おい、いくら友達でも、僕は、我慢できないよ。」
「友達? 冗談いうねえ、僕は、もう、君なんか、友達とは思っていない。僕と南雲は、友達だ。その南雲が、どんな思いで、九州へ帰ったか、と思うと、僕は、どうにも、我慢できないんだ。今日は、君に、意見してやるつもりだったが、もう、意見しても無駄な男だ、ということがわかった。」
「失敬な。僕は、帰る。」
「帰れ。そして、組合から、散々、やっつけられろ。それが、君の分相応というもんだ。」
「青田、覚えていろ。」
善太郎は、憤然として、帰りかけた。そのとき、入口の扉が開いて、持田と岡が、入って来た。
「おッ、これは、社長さん。ちょうど、ええとこで、お会いしましたなア。ちょっと、話がおまんのや。そこへ、座りなはれ。」と、持田がいった。
善太郎は、渋々、腰を下ろした。
「どないしはったんや、その顔。水びたしでんが。」
善太郎は、苦笑しながら、あらためて、ハンケチで顔をふいた。
「明日が取締役会なんで、今日、大阪から出て来ましたんや。そうしたら、組合の人が、話がある、といいましてな。今まで、岡さんと二人で、その話を聞いてましたのや。」
そういって、持田は、善太郎の顔を見た。善太郎は、唇を噛みしめて、むっとしていた。青田は、耳を傾けている。持田がいった。
「社長さんは、社員にちょっとも、人望がおまへんのやなア。」
午後十一時を過ぎたところであった。ひょっとしたら、と思っていた善太郎も、今夜は、来てくれそうになかった。信子は、寝床へ入った。
彼女は、近頃の善太郎のことを考えると、何か、心配でならなかった。社長として、あんなことでいいのだろうか、と思うのである。しかし、その一端の罪が、自分にもあるような気がして、苦しかった。
自分がついているから、善太郎が、仕事をおろそかにしているのだ、とは思わなかった。ただ、本当に愛しているのなら、もっともっと熱心に、善太郎に忠告をすべきなのだ、と反省していた。
そのことは、高子からもいわれた。が、あまりそのことを強くいうと、善太郎は、怒り出すのである。いつでも、別れてやる、というのである。それが、信子に恐ろしかった。
人間としても、社長としても、善太郎が、欠点だらけの男だと、信子は、知っていた。が、好きなのである。どうしても、別れる気になれないのである。同時に、彼女は、この世で、善太郎という男を、いちばん愛しているのは自分なのだ、と信じていた。
(結婚……)
高子も、それをいった。が、信子は、それをあきらめていた。一生、陰の人物でいいのである。はなれたくなかった。
扉の前で、靴音がとまった。
(あのひとだ!)
信子は、直感し、胸を弾ませた。
続いて、ノックの音がした。いつものひっそりした叩き方でなく、乱暴な叩き方であった。
(酔っているんだわ)
信子は、寝巻の上から、急いで羽織を引っかけた。扉を開くと、善太郎が、崩れるように入って来た。
「危いわ。」
信子は、急いで、善太郎を抱きかかえた。熟柿くさい酒の臭いが、むっと、鼻をついて来た。
「どうなさったのよ、こんなにお酔いになって。」
「これが、酔わずにいられるかってんだ。どいつも、こいつも、みんな、寄ってたかって、俺をバカにしてやがる。」
信子は、善太郎の靴を脱がして、部屋の中へ、かかえあげた。洋服の上衣を取ってやった。善太郎は、それ以上、立っていられなくなったように、布団の上に、ドタッと仰向けになった。
「水をくれ。」
「はい。」
その水を、いっきに飲みほすと、善太郎は、
「信子。俺は、社長を辞めるよ。」
「ほんと?」
「そうなんだ。俺に、社長としての資格がない、というんだ。組合も、岡や持田もそういうんだ。あとから、呼びつけられた高子まで、それに賛成するんだ。」
「まア、高子お嬢さんまで?」
「そうなんだ。あいつは、南雲に惚れているんだ。バカな奴め。」
「ねえ、もっと、詳しく話してよ。」
「詳しく? 詳しくいったって、今更、何んになる。今夜、俺は詰腹を切らされてしまったんだ。社長でなく、取締役会長になれ、というんだ。いいか、代表権のない取締役会長だ。そのあと、南雲を呼び戻して、高子が、社長になるんだそうだ。」
「まア。」
「信子。こっちへ来い。お前だけだ、俺の味方は。なア、そうだろう? そうだろう?」
善太郎は、信子にしがみつき、その胸に顔を埋めて、泣き声でいっていた。
翌日の午前十一時発の飛行機で、高子と岩田は、福岡に向かった。高子は、株主の代表として、岩田は、組合の委員長として、もう一度、龍太郎を連れ戻す交渉をするためであることは、いうまでもない。
二人は、翼に近い席に、並んで腰をかけていた。高子は、窓から外を見ていた。羽田をたってすぐの海の色は、どんよりと濁っていたが、空の色は明るかった。白い雲が、まばゆいほどの光をはらんでいた。遥かに見えていた雲の峰も、飛行機が高度をあげるにつれて、眼の位置よりも下に見えて来た。やがて、海の色も澄んで来て、まるで、煙のような航跡が残っていたりする。
ほとんど、動揺の感じられぬ、快適な空の旅であった。しかし、高子の心の中は、決して、明るくはなかったのである。いわば、兄を裏切っての、こんどの旅行なのだ。それが高子の心を苦しめていた。
六千呎の高さからでは、人家が、まるで、豆粒の集まりのようにしか見えないのである。その豆粒ほどの中に、無数の人生の喜怒哀楽があるのだ、とわかっているが、しかし、一方、この高さから見ていると、その喜怒哀楽が、いかにも空しいことのように思われてくるのだった。しかし、豆粒ほどの人生を、すこしでもよくするように努めることが、豆粒ほどの人間のつとめでもあるのだと、高子は、思いながら、
「南雲さん、果して、帰ってくださるでしょうか。」と、岩田にいった。
「私は、こうなったら、首に縄をつけてでも、東京へ連れ戻す決心でいるんですよ。でなかったら、せっかく、激励してくれた組合の人たちに、顔向けがなりませんからね。」
「あたしだって、南雲さんが帰ってくださらないんなら、社長なんて、おことわりだわ。」
「大丈夫ですよ。」
飛行機は、伊丹には寄らず、福岡へ直行した。やがて、瀬戸内海の上空を飛んで、福岡が近くなると、急に、眼下に緑の山の層の重なりが見えて来た。板付の飛行場へ着陸したのは、午後二時四十分であった。
バスで、博多駅前まで行った。そこから、タクシーに乗り、
「春吉町六番丁。」
と、岩田がいった。
(もうすぐ、南雲さんに会えるのだ)
そう思うと、高子の胸は、ふるえてくるようだった。
タクシーは、住吉神社の鳥居をくぐり、那珂川にかけられた住吉橋を渡ってから、右へ折れて、大通りへ出た。菓子屋の前で、タクシーがとまった。
「この横へ入ると、六番丁です。」
「どうも、ありがとう。」
それは二間幅ぐらいのひっそりとした通りであった。恐らく、戦災を受けなかったのであろう。岩田が、先に立って、番地を見ながら歩いた。
「あッ、ここですよ。」
それは黒ずんだ煉瓦塀のある二階建の家であった。その二階に、龍太郎がいるに違いない。しかし、その二階の窓は、カーテンで閉められていた。
「私が、先に入って、聞いてみましょう。」
岩田は、そういって、その家の中へ入っていったが、しばらくしてから、失望したような顔で戻って来た。
「留守だそうです。昨日から、二、三日、旅行する、といって出かけられたそうです。」
「まア、二、三日も?」
その二、三日を、高子は、じいっと待っているのが辛かった。
「行先が、わかりませんの?」
「いわずに、出られたそうです。」
「困ったわね。」
「とにかく、二、三日したら、また、おうかがいするから、と伝えて貰うように頼んでおきました。」
「ねえ、南雲さんのいらっしゃりそうなとこ、あなたに見当がつきません?」
「私は、ひょっとしたら、阿蘇じゃアないか、と思うんですよ。」
「阿蘇?」
「ええ。いつか、九州へ帰ったら、阿蘇の煙でも眺めながら、ゆっくりと考えてみたい、といっていられたような気がするんです。」
「じゃア、あたしたちも、阿蘇へ行ってみましょう。阿蘇へ行っても、うまく、お会い出来ないかも知れないけど、このままここで、ぼんやりとしているよりもましでしょう?」
「そうですな。」
岩田は、ちょっと、考えていてから、
「参りましょう。それに、阿蘇なら、私は、前に一度、行ったことがありますから、ご案内出来る、と思います。」
「今から、すぐ行けません?」
しかし、汽車の時間表を調べたりして、結局、その夜は、博多で一泊することにした。
宿は、東京で紹介されていた南公園畔の旅館にした。
夜中に、高子は、雨の音を聞いたように思った。しかし、朝になってみると、雲のかけらもない青空になっていた。
「お早うございます。」
そういって、岩田が、高子の部屋へ入って来た。彼は、昨夜のうちに、今日のスケジュウルを組んでくれていた。
「今日の空模様なら、きっと、阿蘇は素晴らしいと思いますよ。」
「南雲さんに、お会い出来るといいんだけど。」
高子は、その方を気にしていた。
「もし、会えたら、しめたもんですね。いくら南雲さんでも、はるばる阿蘇まで連れ戻しに来た、とわかったら、折れてくださるでしょう。」
「だといいんだけど。」
二人は、十一時過ぎ発の急行列車『きりしま』に乗った。二等車は満員だったが、高子だけが、かろうじて、腰をかけることが出来た。
熊本につくと、同じホームの反対側に、快速列車『火の山』が、すでに入っていた。一両のうちの半分だけが二等車になっていたが、こんどは、二人とも席が取れた。八分の混み方であった。
列車が、瀬田を過ぎる頃から、阿蘇の外輪山の外側のなだらかな傾斜が、見えて来た。それが立野駅に近づくと、南側の窓へ、ぐっと迫ってくる感じだった。
「外輪山のうちで、この立野駅のあるあたりだけが、切れ目になっているんです。」と、岩田が説明した。
立野駅を過ぎて、列車は、スイッチバックしながら、漸く急となった傾斜をのぼって行く。さっきの立野駅が、遥か、下の方に見えていた。トンネルを通り抜けると、列車は、すでに、阿蘇盆地の中へ入っていた。屏風のように立つ外輪山の内側が見え、殆んど樹木のない阿蘇の山々が視野に入って来た。
そして、内ノ牧駅に近づくと、山と山の間に、阿蘇の煙が、はじめて見えて来た。澄み切った青空に、白い煙が、まるで夢のように、ゆっくりとのぼっているのであった。
二人は、坊中駅で下車した。
快晴なので、登山客が多いらしく、駅前は賑わっていた。すでに、バスが出たあとであったので、そのバスを追いかけるように、タクシーで行くことにした。
タクシーが、森林地帯をはなれると、にわかに眺望がひらけてきた。根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳、いわゆる阿蘇の五岳が正面にそびえ立っていた。その五岳を、外輪山が大きく囲み、五岳と外輪山の中間が盆地になっていて、点々と人家が見えていた。
「あの煙を上げているのが、中岳なんです。」と、岩田がいった。
その中岳の煙は、タクシーの位置によって、あるときは、大きく見え、あるときは、ほんの僅かしか見えなかったりした。
途中、何台ものバスとすれ違った。そのつど、高子は、そのバスの中を覗き見るようにした。もしかして、龍太郎の顔でも見えないか、と思ってのことだった。そして、ここまで龍太郎を追って来た自分を、高子は、ふっと、いじらしくなるのである。
龍太郎を、もう一度、日吉不動産へ連れ戻すために、というのは表向きの理由であった。しかし、高子は、知っていた。彼への恋慕の情こそが、彼女をここまで来させた最大の理由であることを――。
途中、牛や馬が、放し飼いにしてある。その背中に、所有者の名らしいものが書いてあった。
道は悪かった。しかし、景色の雄大さに、高子は、慰められていた。タクシーは、往生、杵島岳の斜面を縫うようにして登って行く。切通しをぬけると、草千里に出た。いちめんの草原なのである。そして、ここまでくると、噴煙が、すぐ、近くに見えてくる。そこから、道はダラダラ下がりになっていて、やっと、山上駅に到着することが出来た。
何台ものバスが停っていた。しかし、そこにも、龍太郎の姿は、見えなかった。
「お疲れになったでしょう。」
「大丈夫。」
「ここから先は、歩くんですが。」
高子は、瞳を上げた。樹は、一本も生えていなかった。どす黒い溶岩ばかりであった。
「馬もあるんですが、二十分ぐらいで歩いて行けます。」
「歩きましょう。」
岩田は、傾斜のゆるい道の方を選んだ。左の山かげから、白い煙が見えていた。二人の前後を、何人もの登山客が歩いていた。下りてくる者もあった。荒涼とした感じの砂千里を右に眺めて第四火口に到着した。ここは、すでに活動を停止しているのだが、覗きこむと、眼がくらむように深かった。すぐ近くの第一火口からは、盛んに煙を噴き上げているのに、ここは、死んだように静まり返っていて、却って、不気味であった。底に、濁った水がたまっていて、そこから、かすかに煙を上げていた。
二人は、更に、第一火口の方へ歩いて行った。亜硫酸ガスの臭気が、鼻をついてくる。そして、二人が火口壁の上に立ったとき、思わず足のすくむような気がした。
煙が、凄じい勢で、噴き上げていた。底からだけでなしに、東西の絶壁の岩の裂目々々からも、煙が上がっていた。こちらにもにごった水がたまっていた。風に煙が揺れると、ずっと、底の方まで見えるが、一瞬にして、また、消えて行く。それは、まるで、地獄を覗くようであった。この世に、こういうところが、まだ、あったのか、と身の毛のよだつ思いがあった。
「凄いですなア。」
岩田が、そういって、高子を見ると、彼女の瞳は、火口を見ずに、別の方向に注がれていた。
岩田は、高子の視線を追って行った。
「あッ、南雲さんだ。」
「そうよ。」
高子は、静かに答えたが、しかし、動こうとはしなかった。
龍太郎の横に、沙恵子がいたのである。二人は、昭和八年の大噴火の際に噴き上げられたという大溶岩の横で、寄り添うようにして立っていた。龍太郎が、腕をあげて、何か、説明してやっている。沙恵子は、頷きながら聞いている。その姿は、誰が見ても、完全な恋人同士であった。
「……あたしの負けだわ。」
一瞬、高子は、このまま、身を躍らせて、この煙の底へ飛び込みたい、とさえ思った。ここへくるまで、沙恵子は、まだ、東京にいるものとばかり思い込んでいたのである。あまりにもウカツだった。もし、横に誰もいなかったら、高子は、声を上げて泣いたかも知れない。
「参りましょう。」と、岩田がいった。
しかし、彼もまた、沙恵子をかねて噂に聞いていたあの娘に違いない、と直感していた。岩田は、高子の心を知っていた。今、高子が、どういう思いでいるか、わかるような気がしていた。
「もうちょっと、待って。」
そういって、高子は、噴き上げる煙を、じいっと眺めていた。辛かった。本当に辛いのだ。その辛さを、何んとか克服して、平静な態度で、龍太郎と沙恵子の前に立ちたい、と必死の努力を続けているのであった。
「いいわ、さア、参りましょう。」
高子は、歩きはじめた。岩田は、そのあとにしたがった。
「南雲さん。」
高子は、うしろから声をかけた。
龍太郎は、振り返って、あッ、といった。しばらくは、次の言葉も出ないようであった。
沙恵子は、顔をあからめながら、高子に頭を下げた。高子は、微笑を返した。
「いったい、どうされたんですか。」
龍太郎は、二人の顔を見ながらいった。
「あなたをお迎えにあがりましたのよ。」
「迎えに?」
「ええ。」
「しかし、僕は、すっかり、決心してしまったんですよ。」
「常務。」と、岩田が、一歩を踏み出すようにして、「どうか、もう一度、日吉不動産へ戻ってください。私は、組合の総意を代表してやって来たんです。」
「ありがとう。しかし――。」
「いえ、常務。こんど、他の大株主たちの意向もあって、社長は辞められることになったんです。代表権のない取締役会長ということになったんです。」
「すると、社長は?」
「あたしがすることになりました。それで、あなたには、今まで通りの常務ということで、たすけていただきたいのです。」
「そのために、わざわざ、東京から来てくださったんですか。」
流石に、龍太郎の面上に、深い感動の色が現われていた。彼は、沙恵子を見返した。彼女も、彼を深い瞳で見上げていた。高子は、その二人から、視線をそらして、空を見上げた。あくまで青い空に、一片の雲が浮かんでいた。
噴火口の底から、地鳴りの音が聞えていた。