源氏鶏太
停年退職
目 次
停年待ち
ある停年退職者
おすし
課長
酒場
社員食堂
土曜日
趣味と実益
幸福について
ある結末
参事室勤務
夕陽を美しく
[#改ページ]
停年待ち
「君、血圧は?」
「ちょっと、高いんだよ」
「いくらあるんだね」
「上が百七十で、下が九十八。君は?」
「僕は、まァまァだよ。そのかわり、どうも胃の方が、近ごろ、重苦しいような気がして」
「癌じゃァないんだろうな」
「よしてくれよ、縁起でもない」
「もちろん。だが、それだったら早く診てもらっておいた方がいいよ」
「うん……」
「あのタコを覚えているだろう?」
「ああ、勉強の出来なかった奴。しょっちゅう教室で立たされていた?」
「そう。あの男が三年前に亡くなったのは、癌だったらしいんだ」
「そうか……」
矢沢章太郎は、聞いていて、
(俺には、血圧の心配はないし、それに、癌の心配だってないようだ)
と、思っていた。
別のところで、
「近ごろ、ゴルフを熱心にやっているという噂だが」
「あんな面白いものは、世の中にないからね」
「そんなに?」
「そう。酒よりも、女よりも。接待にも役立つし、第一、健康にいいからね」
「らしいな。ハンディは、いくつになった?」
「二十二だ」
「二十二というのは、うまいのかい?」
「でもないが、この年で、しかも、二年前から始めたんだから、相当なもんだよ。君も、始めたら?」
「始めたいんだが、金と暇がたいへんだろう?」
「なに、始めてみれば、なんとかなるもんだよ」
「では、近いうちに、君から手ほどきを受けようか」
「いいとも」
矢沢章太郎は、聞いていて、
(俺は、ゴルフどころではないんだぞ)
と、思っていた。
さらに、別のところで、
「僕ンとこの息子、来年大学を卒業するんだが、いいところがあったら世話してくれないだろうか」
「そうだなァ。それより、僕の娘は、もう二十三になるんだよ。いいお婿さんがあったらよろしく頼む」
「二十三にもなって、まだ、恋人がないのか」
「と、僕は、思っているんだが」
「案外、知らぬは親ばかりかもわからないな」
「かも知れない」
矢沢章太郎は、自分の子供たちのことを思い出していた。細君には、五年前に先立たれたのだが、のぼると章一の二人の子供がある。章一は、高校生だが、のぼるの方は、二年前に高校を卒業して、今では会社勤めをしている。しかし、のぼるに恋人があるかどうかは、章太郎は、まだ知っていなかった。
「あと一人、長岡君だけだなァ」
一人が、待ちくたびれたようにいうと、別の一人が、思い出したようにいった。
「そうそう、長岡君は、今日で、会社を停年退職になるんだといっていたよ」
どちらかといえば、それまでは、気楽な空気がこの部屋に流れていたのである。が、とたんに、さっと重苦しいものに一変したようであった。
(停年退職……)
矢沢章太郎は、それとなく唇を噛みしめた。他人事ではないのである。章太郎自身の停年退職の日が、半年後に迫っていた。ために、ここ二、三年は、停年退職という言葉を、しょっちゅう頭の上にのせているような生活をして来ていたのであった。さっきからだって、絶えずそのことを念頭におきながら、人々の話を聞いていたのだ。
しかし、そういう思いは、章太郎だけではなかったはずである。ここに集まっているおよそ十人のうちの過半数は、口にこそ出さなかったが、章太郎とおんなじであったに違いない。
新宿のすし屋の二階であった。会費千五百円で、同窓会が開かれようとしているのである。三十数年前に、北陸のT市の商業学校を卒業し、目下、在京している連中ばかりの集まりなのだ。数年前から年に一回は、開かれることになっていた。
こうやって集まってみると、たのしいには違いないが、同時に三十数年間という歳月は、なみたいていでなかったということが、あらためて考えさせられるような会であった。かつての秀才は、いまだに課長でいるのに、それほどでなかった男が、重役にまでのし上がっていたりしている。かと思えば、株屋の歩合外交員になっていたり、ブローカーになっていたり、している。顔つきだって、よく見れば、昔の面影を残しているが、しかし、重役になっている男には、それ相応の貫禄がしぜんにそなわり、課長は、やっぱり、課長顔で、ブローカーになっている男には、どうながめても、サラリーマンらしいところがない。
いったい、三十数年前に、だれが今日の結果を予想したろうか。しかし、ひるがえって思えば、それぞれが落ちつくところへ落ちついたようだともいえるのである。一人一人に、運不運がつきまとっていたであろうが、しかし、世の中とは、それほど不公平でなかったとの感慨もわいて来そうであった。
矢沢章太郎は、東亜化学工業株式会社の厚生課長なのである。T市の商業学校を卒業すると、同じT市の高等商業に入り、卒業後、直ちに東亜化学工業に入社し、今日に至っているのだった。
東亜化学工業は、資本金十億円で、従業員も千人を超している。その中での課長なのである。七年も前から課長をしているのであった。七年前に、この分では部長になれ、さらに、取締役部長にもなれるのではないか、との夢を見た。取締役になれたら、停年が五年間延長され、六十歳まで勤めていられるのである。が、その夢はすでに絶望と決っていた。あと半年間で、サラリーマン生活に終止符を打つべく運命づけられていた。
およそ十人のうち、さっきまで、血圧やゴルフのことを話していたうちの二人は、ともに重役になっているから、目下のところ、停年には無関心のようだ。そして、歩合外交員とブローカーになっている二人も。あとの六人ぐらいが、だいたい同じ年だし、停年ということに、最大の関心を寄せているに違いなかった。
「そうか、長岡君は、今日で、停年退職になるのか」
一人が感慨深げにいった。
「だから、ちょっとぐらい遅れるかもわからない、といっていた」
「では、先に始めていようか」
一人が腕時計を見て、
「まだ、六時十五分だ。半まで、待ってやろうじゃァないか」
だれにも、異議がないようだった。
しばらくたって、別の一人が、
「停年退職か……。それから第二の人生が始まるのだと思えばいいというけれども、とてもとてもそんな気になれないからな」
と、やや自嘲的にいうと、
「そうだよ。退職慰労金の千万円もくれるんなら別だが、僕の会社なんか、二百五十万円ぐらいなんだからな」
「それから税金を引かれる」
「いくらぐらい引かれる?」
「君の場合なら十万円ぐらいだろうな」
「残り二百四十万円か。僕ンとこは、三人の子供が、まだ一人前になっていないし、どうしても月に四万円いるんだ」
「六十カ月、五年間だな」
「そのあと、いったい、どうしてくれる?」
「そんなこと、僕にいったってしようがないよ」
「しかしね。僕は、停年退職のことを思うと、妙に人にからみつきたくなるんだよ。でなかったら、泣きたいほど憂鬱になってくる」
「君だけではないさ」
「すると、君も、か」
「そう」
「安心していていいわけか」
「何事も運命だと思って、な」
「こいつめ、いやに達観しているようなことをいうぞ」
「冗談いうなよ。達観どころか、焦躁の毎日を送っているんだ。一年ほど前から、仕事の方は、二の次にして、次の就職口をさがしまわったり、なんとか、一年でも停年を延期してもらいたいと、やたらと重役に頭をペコペコと下げてみたり、自分ながら情けないもんなんだよ」
「その結果は?」
「さっきもいった通り、何事も運命だと思え、ということだ」
「君でも、やっぱり、そうだったのか」
「だいたい、五十五歳なら働き盛りだよ。その五十五歳で停年というのは、不合理だ。いや、残酷だよ」
「近ごろ、一年延長したり、二、三年だけ、嘱託として残してくれる会社もふえて来ているようだが」
「しかし、ほんの一部だよ、そんな会社は」
「辞めたあと、年金をくれる会社も出来つつある」
「あれがもらえると、ありがたいんだが」
「僕の会社では、組合が動いてくれている。だが、今年の間に合いそうにもない」
「ここにいるうち、何人が今年中に、停年になるんだ」
五人が今年中にで、一人が来年ということがわかった。お互いに顔を見合わせて、苦笑した。
まるで、人生の敗残者たちのようだ。そんなはずがないし、あってもならないのだが、実際には、そういう劣等感を持て余しているのであった。
矢沢章太郎は、さっきからどちらかといえば、聞き役にまわっていた。といって、いいたいことがないわけでは、ない。いっぱいあるのだ。が、それをこの席でいってみたところで、どうにもなるものでないと知っているからであった。
章太郎の胸算用では、退職慰労金は、三百万円ぐらいもらえるはずであった。そのほかに、百万円ぐらいの貯金がしてある。合計四百万円。が、四百万円では、この先、何年生きるかわからないのだし、高校生の息子には、ぜひ大学を卒業させてやりたいし、あれこれ、心細いのだ。娘にだって、人並の嫁入り仕度がしてやりたい。母親のない娘だけに、いっそうのふびんがかかるのであった。
(あと三年といいたいのだが、せめて、あと一年でも働きたい)
あと一年間、収入があるということは、プラスマイナスで、ばかにならないのである。そして、その一年の間に、もっと必死になって、次の就職口をさがしてまわることなのだ。
章太郎が、この一年間、次の就職口さがしにそれほど熱心でなかった理由の一つは、もしかしたら、あと一、二年、今の会社に残れるかもわからぬというあてがあったからだった。めったにないことなのだが、しかし、そういう例が皆無ではなかった。昨年、停年になった男が、特に会社において必要な人物だとして、二年間だけ嘱託として残っている。
章太郎は、自分自身が、会社において特に必要な人物だ、といい切れる自信はなかった。そうのような気もするし、そうでないような気もする。しかし、二年間嘱託勤務を許された男にしたところで、似たようなものであったのだ。結局は、重役のハラ一つ、ということらしいのである。
(それなら、俺だって……)
章太郎は、そう思いたいのであった。そして、そう思う心の底には、同期に入りながら、今は、常務取締役としてときめいている相原安夫をあてにするものがなかったとはいい切れないであろう。
もっとも、章太郎は、そのことについて、一度も相原常務取締役に頭を下げていないのである。それとなく、ほのめかしたことはあるが。一方は、大学出、こちらは、高商出。そこにはじめから差がついていたけれども、一応は、出世を競った間柄なのである。結局、三十年の間に、常務と課長というような大差がついてしまったが、章太郎の方が普通で、相原は、抜群の出世をしたことになる。そのくせ、章太郎は、相原の実力については、どうしても認められないのであった。ただし、これは章太郎のひがみ心のせいであったかもわからない。
相原が、もし、自分のために強く発言してくれたら、あるいは、一、二年間の嘱託勤務も可能のような気がしていた。章太郎は、相原には、頭を下げたくなかったが、相原の方で、勝手にそのようにはからってくれないものかと、虫のいいことを考えているのだった。
しかし、今は、そんな虫のいいことを考えてばかりいられなくなっていた。何故なら、昨年、嘱託勤務を許された男に、その内示があったのは、停年の日の半カ年前だと聞いている。とすれば、章太郎にも、そろそろそういう内示があってもいいころなのである。
(近いうちに、相原君に頼んでみよう)
「どうも、遅くなって」
そういいながら、長岡常吉が入って来た。人々は、ヤァヤァといって迎えた。章太郎は、もしかしたら長岡が、半分めそついた顔で現われるのではないか、と思っていたのである。そういう顔を見るのは、辛いし、やりきれないとも。しかし、長岡の顔は、思いのほかに明るいようだった。
章太郎は、ほっとした。そして、自分だって、かりに相原との話がうまくいかなくても、あの程度の顔をしていなければならぬ、と自戒した。
ただちに、酒と料理が運ばれて来た。すし屋の二階での宴会なのだが、出る料理は、ありふれた日本料理であった。それまで、思い思いに散らばっていた人々は、テーブルを二つつなぎ合わした周囲に、勝手に集まった。同窓会だから身分の上下はないのである。ただし、長岡だけは、本日停年退職の故を以て、床の間を背にした真ん中の席をあたえられた。章太郎は、その横に座った。
「では、長岡君の停年を祝して、カンパイをしようか」
「いいね」
「おめでとう」
「おめでとう」
「どうも、有りがとう」
長岡は、軽く頭を下げて、
「しかし、あんまりおめでたくないな」
と、苦笑した。
「わかる。だが、明日はわが身なんだし、どうもご愁傷さま、というわけにもいかんじゃァないか」
「そう。まァ、長い間、ご苦労さま、というところだろうな」
「どうだね、今日の感想は?」
「一口にいえば、やっぱり、感慨無量というところだな。しかし、前々から思っていたほどでもなかったよ」
「と、いうと?」
「肩の荷が軽くなったような、そして、重役にだって、もうペコペコしなくてもいいんだというような一種の解放感」
「うんうん」
「殺人電車ともお別れだ」
「うんうん」
「実をいうと、僕が遅れたのは、特別の用事があったわけではないんだ。みんなが帰ったあとのガランとした事務室の、明日からは他人の机となるその机に向って、しみじみと別れを惜しんで来たんだよ」
章太郎には、そういう情景が見えてくるようだった。そして、あるいは、自分も、同じようなことをするかもわからない、とも。
「僕は、そこで入社以来のいろいろのことを思い出していたんだ。気がついたらね」
長岡は、人々の顔を見まわして、
「机の上をなぜながら、うっすらと涙ぐんでいたよ」
ちょっと、間をおいて、
「考えてみれば、バカな話だが。もう一つ、会社を出てから、何度も何度も、自分の席のあった窓のあたりを、振り返って見ていたな。心の中で、さようなら、さようなら、といいながら」
人々は、しーんとなった。歩合外交員をしている吉田光次が、その沈黙を破った。
「やっぱり、僕は、サラリーマンにならなくてよかったよ。だって、僕の商売には、停年なんてものがないからな」
すると、ブローカーをやっている室井忠雄も、
「全くだな。僕も、それをいおうとしていたところなんだ」
と、嬉しげにいった。
そこに、悪意のようなものがあるわけはなかった。しかし、歩合外交員も、ブローカーも、過去のこの会では、どちらかといえば、多少の職業的な肩身のせまさを感じていたらしいのである。それから解放される喜びが、ついそんな発言となったのであろう。
もちろん、誰も咎めたりしなかったし、二人も、それ以上のことをいわなかった。酒がまわったが、出ばなを挫かれたように、いつもほど、人々の気分が弾まないようであった。
「僕は、停年退職というと、思い出すことがあるんだよ」
同じく年内に停年になる岡藤藤吉が、人々の顔を見まわすようにしていった。
「どんなことだね」
すでに重役になっていて、当分の間、停年の心配のない山崎昭三が鷹揚にいった。
「今から十一、二年ぐらい前のことだと思ってくれたまえ」
「まだまだ、インフレの凄じかった頃だな」
一人が、当時を思い出したようにいった。
「そう。ある日、その三年程前に停年退職になったK氏が、ひょっこり会社へ現われたんだよ」
人々は、耳を傾けた。
「K氏は、課長にまでなった人なんだ。在職中、相当な人望もあったし、みんなが歓迎したんだ。しかし、そういう歓迎にも限度があるし、やがて、みんなは自分の席に戻った。K氏は、それなのにいつまでも、僕の横にいるんだよ。といって、特別の用事があるようでもなく、会社の前を通りあわしたから、ちょっと寄ってみただけだといっていたんだ」
「…………」
「…………」
「正直にいって、僕にだって仕事があるし、いつまでもK氏のお相手はしていられない。晩に一席をとも思ったのだが、生憎とその夜はふさがっていた」
「…………」
「…………」
「僕は、その頃になって、K氏がちっとも煙草を喫わないことに気がついた。在職中は、日に三、四十本を喫った人なのだ」
「…………」
「…………」
「ためしに、一本いかがですかとすすめてみると、どうも有りがとうといって、実にうまそうに喫うんだよ」
「…………」
「…………」
「煙草を切らしていたのだが、それをいい出しかねていたんだな。そして、僕は、あらためて、K氏の顔色が悪いし、洋服だって、すっかりくたびれていることに気がついたんだ」
「…………」
「…………」
「K氏には、子供さんがないのだ。奥さんと二人っきりなのだ。しかし、あの凄じいインフレの最中では、もらった退職慰労金なんか、あっという間に無くなったに違いない」
「…………」
「…………」
「僕は、どこかにお勤めですか、と聞いてみたんだよ。K氏は、年が年だしその後、身体の調子が悪いので、どこにも雇って貰えないのだ、といいながら、なおも懐かしそうに、人々の顔を見たり、かつての自分の机を見たりしているんだ」
「…………」
「…………」
「僕は、この分では、余っ程、生活が苦しいに違いない、と思った。といって、金一封を差し上げては、却って失礼になるのではないか、という気がしていた」
「…………」
「…………」
「一時間以上もK氏がいて、どうもお邪魔をした、悪く思わないでいてもらいたい、と立上がった」
「…………」
「…………」
「僕は、やれやれと思ったのだが、K氏の去って行くうしろ姿には、何んともいえぬ淋しさがにじみ出ていたんだよ。すこし残酷にいえば、老醜の、といっていえないことはなかった」
「…………」
「…………」
「僕は、たまらなくなって、廊下まで追って行き、二千円ぐらいをわたしたんだ。もちろん、はじめは、遠慮をしていられた。失礼ではないか、と憤られるのではないかと思っていたのだが、それは杞憂《きゆう》に過ぎなかった。結局は、その二千円を押し頂くように受取って、君、すまん、と涙ぐんでいられた」
「…………」
「…………」
「今でも、そのときのK氏の顔が、僕の目の底に残っている」
「…………」
「…………」
「それから一週間ほどたったと思ってくれたまえ」
「…………」
「…………」
「僕の課の男が、昼の休憩時間中に新聞を読んでいて、あっといい、Kさんが自殺した、と叫んだのだ」
「…………」
「…………」
「誰も本当にしなかった。が、その新聞の片隅には、K氏夫妻が熱海で、生活苦と病苦から自殺したと書いてあったのだ。心中というように書いてあったかもわからない」
「…………」
「…………」
「結局、K氏は、会社へ来たとき、すでにその覚悟を決めていて、それとなく、お別れをいいに来たわけなのだ。誰も、それに気がつかなかったのだが」
「…………」
「…………」
「あるいは、僕の差し上げた二千円で、熱海へ行ったのだろうか」
「…………」
「…………」
「みんな、しーんとなり、あの日のK氏の姿を思い出し、他人事でない、と思ったよ」
岡藤は、そこで話を打ち切るようにして、酒を飲んだ。
人々は、何ともやり切れぬ話を聞かされたように黙り込んでいた。こんどは、ブローカーも、歩合外交員も、神妙にしていた。矢沢章太郎は、半年後に迫った自分の停年の日を、それ以後の日々のことを、考えていた。
「ところでだよ」
岡藤は、あらためて、人々の顔を見まわして、
「このK氏の自殺のお陰で、会社の退職慰労金規程が、社員たちにいちだんと有利に変更になったんだ。というのは、当時、退職慰労金増額のことで、会社と組合とで折衝中だったんだよ。両方とも、なかなか譲らないので、交渉は、決裂寸前にあったのだが、K氏の自殺が、組合の立場を強硬にしたんだ。結局は、K氏は、自殺したかも知れないが、しかし、もうすこしましな退職慰労金を出していたら、それによって、何かの商売が出来たかもわからないし、かりに病気にかかっていたとしても、金の心配をそれほどしないで治療出来たであろう、と組合側が主張し、更に、このままだと、会社の停年退職者から第二第三のK氏が出る可能性がありますぞ、と。それで、とうとう会社側が折れたんだ」
「だったら、Kさんの墓へ、お礼に行くべきだな」
「うん」
「そうしたら、Kさんだって、自分の自殺が、ムダでなかったようだと、安心して眠れたろう」
しかし、岡藤は、もちろんのこと、誰もK氏の墓へお礼に行っていないらしかった。第一、どこに墓があるのかも知らないのである。
「いったい、退職慰労金は、どれくらいが標準なのだろうか」
一人がいい出した。別の一人が、
「差し詰め、長岡君は、いくら貰って来たんだ」
「たったの三百三十万円だ。それから税を二十万円ほど引かれた」
「手取三百十万円か」
「三十年以上勤めて、一年に十万円の割なんだ」
「しかし、それなら特別に悪いという方でもないよ」
別の一人がいって、
「僕は、以前に調べたことがあるんだが、それを手帖にメモしているから読み上げてみようか」
と、手帖を取出した。
人々は、聞き耳を立てた。
「これは、昭和三十五年に中央労働委員会が、全国の代表的な会社の中、資本金一億円以上、従業員千人以上の各産業の中、四百社について調査した結果の最高と最低の事例なんだ。それによると、勤続三十年以上として、旧制大学出の最高は六百八十一万円で、最低が二百十万円。高専出の場合は、最高が六百四十三万円で、最低が百五十七万円、旧制中学出の場合は、最高が五百九十五万円で、最低が七十一万円、高等小学校卒の場合は、最高が四百六十万円、最低が六十八万円となっているんだ」
その男は、手帖をしまって、
「だから、長岡君の三百三十万円というのは、一般の標準と見ていいと思うんだ」
長岡は、頷いて、
「だが、僕は、やっぱり、最高の六百八十一万円をもらいたかったよ」
と、残念そうにいった。
「まァ、そう欲張るなよ。まだまだ、下だってあるんだから」
すると歩合外交員の吉田が、
「あんまりめそめそしないことだ。僕のお得意で三百万円の退職慰労金を株で倍にふやして、悠々としている人だっている。それに気持一つで、結構明るい人生を送っている人もすくなくないよ」
と、慰め顔にいった。
「しかし、同じサラリーマンでありながら、不公平というか、あるいは、運不運というのか、一方が六百八十一万円をもらっているのに、一方が二百十万円で我慢しなければならないなんて、ちょっと考えさせられるなァ」
「だから、入社のときには、その会社の退職慰労金規程をよく調べてからにするんだな」
「今からでは遅いよ。いや、遅過ぎる!」
そのいい方には、妙に実感がこもっていたので、はじめて、人々は、笑った。が笑ったあと、却ってやり切れぬ思いに迫られたように、機嫌の悪い顔をした男もあった。矢沢章太郎も、その一人であったろうか。
「だいたい、入社のときには、停年退職のことなんか考えていないものな」
「そうなんだ。停年退職なんて、自分に関係のないことだぐらいに思っていた。そのくせ、停年退職していく人を、ちゃんと見ていてだよ」
「が、自分に関係のないと思っていた停年退職の日が、あっという間に来てしまった」
「全く、あっという間であったよ」
「だから、僕は、近頃の若い連中に、今から停年退職のことを考えておけ、といってやっているんだ。しかし、いくらいってやっても、薄ら笑いを浮かべているだけで、あっという間にくるものだとは思っていないらしいんだ」
「しかし、そうとばかりはいえないよ。近頃の若い社員の中には、入社早々から、自分が停年までに会社からもらえる月給、それに慰労金をちゃんと計算しているのがいるというから」
「感心な奴、といってやりたいのだが、そういう男に限って、理屈ばかりこねて、ロクに仕事をしないんだからな」
「そう。第一、責任感がない」
「それに敬老精神に欠けている」
「人生意気に感ずの心構えは、まるで持っていない」
「われわれの若いころには」
そこまでいってから、その男は、
「おい、こんな話は、もうよそう。第一、ここには、若い男は一人もいないのだ。かりにいたとしても、年寄の例のグチと見くびられるぐらいがオチなのだ」
と、苦笑しながらいった。
その通りなのである。人々は、思い直したように、酒を飲みはじめた。いつもなら、もう隠し芸の一つや二つは、出るところなのだが、誰も、そういう気持になれないらしかった。せっかく、サービスに来ている女中たちも、手持無沙汰のようだった。
「さっきのK氏の話ではないが、停年になったからといって、やたらに会社へ出かけない方がいいものらしいな」
一人が、話題を変えるようにいった。
「どうして?」
「お互いに身に覚えがあるじゃァないか。本人にしてみれば、毎日ヒマで困っているのだし、昔のことが懐かしいからくるのだろうが、こられる方にとっては、一度や二度は、お愛想をいうが、度重なっては、煩わしいだけだ」
「わかる」
「それに似た話なのだが、僕の会社の停年退職者が、退職後一年目に会社へ来て、受付で名と用件を聞かれたといって、くさっていたよ。その受付は、今年の採用者なんだから無理もないのだが、本人にしてみれば、三十年間勤めて、かつては自分の家のように思っていた会社の受付でのことだったから、相当応えたらしいね。要するに、これまた、昔の会社へ、あんまり出入するなという教訓になるんだな」
矢沢章太郎は、そういう話を耳の片隅に入れながら、
「君は、これからどうするんだね」
と、隣りの長岡常吉に酌をしてやりながらいった。
「まァ、当分は、遊びさ」
「当分というと?」
「三百十万円では、いつまでも遊んでいられないし、といって、商売を始めるがらでもないし、あちこちに頼んである口のうちの一つぐらい、何んとかなるような気がしているんだ」
「もし、そういう口のうちの、一つでも余ったのがあったら、僕に知らせてくれないか」
章太郎は、自分が卑屈になっているようだと感じつつ、いわずにはいられなかった。
「いいとも。しかし、あてにしないでいてくれよ」
「あてにはしないが、心だのみにしている」
「僕はね、この際、一週間ほど、女房を連れて、どこかへ旅行してこようと思っているんだ」
「ああ、いいことだな」
「子供たちも行ってこいといってくれている」
「君には、そういう奥さんがあって、幸せだな」
「年を取ると、たよりになるのは、結局、女房だよ。近頃になって、それを感じている」
「わかる」
章太郎は、五年前に亡くなった細君のことを思い出していた。生前には、うるさくいい過ぎるとも、面倒臭い奴だとも思ったりしたが、しかし、停年退職を目前に控えて、いちばん相談相手になってもらいたいのは、その細君であったと感じさせられていた。いや、停年退職の日以後にこそ、細君が必要なのである、とも。そういう点、子供たちでは、細君の代役がつとまらないのだ。章太郎は、何かひしひしと迫ってくるような寂しさを感じていた。
同窓会は、やっといつもの雰囲気を取戻しかけた頃になって、もう終りに近づいていた。
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ある停年退職者
矢沢章太郎は、新宿駅に向って、一人で歩いていた。
その目前に、色とりどりのネオンがきらきらしている。華やかな夜景なのだ。しかし、章太郎の目には、むなしくうつるだけで、その頭の中には、さっき、岡藤藤吉から聞かされたK氏の話が、しつっこくこびりついていた。
(もちろん、俺は、自殺なんかするはずがないし、また、その必要もないのだ)
何度も、自分の胸にいい聞かせていた。
しかし、世の停年退職者たちの大部分は、大なり小なり、K氏のようなことになるのではないか、との不安をいだいているに違いなかろう。
その意味では、章太郎もまた、例外ではなかったはずである。それが、今夜の章太郎を、いっそう憂鬱にしているようであった。
せっかく飲んだ酒も、うまく全身にまわらないで、酔いがかた寄っていた。頭の一部に、白々しく醒めているところがあって、章太郎は、自分でそれを持てあましていた。およそ、いつもの章太郎らしくない、ともいえた。ふだんの章太郎は、性格的にももっと明るく、課員たちにも人気のある方なのだ。
章太郎は、歩みをとめて、そこらを見まわすようにした。ついで、腕時計を見た。まだ、九時になっていなかった。あまりにもめそめそしている自分に反発を感じ、今夜は、もっと飲んでみようか、という気になった。
(そうだ、渋谷へ……)
章太郎の家は、恵比寿にあった。渋谷なら、ほんの寄り道である。そして、その渋谷には、章太郎を歓迎してくれる店があるのだ。バー「イエス」。章太郎は、その気になりかけたばかりでなく、こういう夜にこそ、その店の女、郡司道子によって、生理的な要求を満たすのも、あるいは、一策ではなかろうか、とも考えた。
章太郎は、細君に死なれてからの二、三年間は、その方の要求をおさえてくらした。しかし、三年目からは、なんといっても、そういう生活はふしぜんであるし、道子によって、月に一回ぐらいずつ、うまく処理出来るようにして来た。
ただし、章太郎は、そのために外泊したことはない。子供たちに、父親のそういう気配を、あくまで感じさせたくないとの思いやりからのつもりでいた。
章太郎は、タクシーをさがそうとして振り向いたとき、
「あっ、矢沢課長」
と、おどろいたような声で呼ばれた。
そこに、坂巻広太の見るからに若々しい笑顔があった。章太郎は、それを見ただけで、それまでの憂鬱さが半減出来たような気持になっていた。
「どうしたのだ」
「課長こそ、今ごろ、こんなところで、どうなさったのですか」
「僕は、同窓会の帰りなのだ。まだ、時間が早いし、どっかへ飲みに行こうかと思っていたところなんだ」
そして、章太郎は、この坂巻広太なら、渋谷へいっしょに連れて行ってもいいな、と思った。
ただし、坂巻広太は、章太郎の部下ではなく、総務課員なのである。が、仕事の関係で、しょっちゅう厚生課へやってくる。
一年ほど前、坂巻広太の持って来た書類にミスがあった。その日は、章太郎の虫の居所が特別に悪かったので、電話で呼びつけて、叱りとばしてやった。
そういう場合、近ごろの若い社員なら、たいていなんとか理屈をつけて、自己弁護をするか、でなかったら、ぷっとふくれて反抗的な気配をみせたりするか、なのである。が、坂巻広太は、
「参りました。私の間違いでした。すぐ、訂正いたします」
と、素直に頭を下げた。
素直であっただけでなしに、一種の爽やかさを漂わせていた。章太郎は、それが気に入り、その夜連れ出して、酒を飲ませてやったのだが、ちゃんと節度を知っている飲みっぷりのよさに、
(近ごろにしては、稀に見る好青年だな)
と、ますます気に入った記憶がある。
その後、二度ばかりいっしょに飲んだのだが、はじめの好印象は、裏切られてはいなかった。
「どうだ。つき合わないか」
章太郎がいった。
「喜んで」
坂巻広太が答えて、
「そんなら課長。ここから近いし、いっそ、田沢さんのお店へいらっしゃいませんか」
「田沢さんのお店?」
「いつか、お話したはずですが、お忘れになったんですか」
「…………」
「二年ほど前、停年でお辞めになった……」
「ああ、あの田沢さんのことか」
「じつは、私もこれからちょっと寄ってみようかと思っていたところだったんです」
「よし、行こう」
章太郎は、こういう気分の夜に、かつての総務課長田沢吉夫の店へ行くのも、何かのいんねんのような気がしていた。
「こちらですよ」
広太は、いちだんと張り切ったように、章太郎を花園神社の裏の方へ連れて行った。
「君は、今でも、田沢さんの店へ、ときどき行ったりしているのか」
「だいたい、金がなくなったとき」
「そうか」
「それに、田沢さんは、僕が行くと、とっても喜んで下さるんです」
「だろうな」
章太郎は、半年後に自分が辞めたあと、何人の課員が自分を訪ねて来てくれるだろうか、ということを考えたくなっていた。かりに、訪ねてくれる課員がいたところで、せいぜい一年ぐらいの間で、それが過ぎたら、だれもこず、そして、やがては、だれからも忘れられていくに違いなかろう。もちろん、K氏のようなことがあって思い出されるのは嫌だ。また、こちらから会社へ顔を出すのも、さっきの同窓会の席上での話では、なるべく遠慮をした方がいい、ということであった。
だったらどうすればいいのだ、といってみたところで、どうにもなるものでないことも、章太郎にわかっていた。
世間には、年に一度か二度、停年退職者を招待して、観劇をしたり、あるいは、パーティを開いたりしている会社があるように聞いている。そして、その日が近づくと、停年退職者たちは、もうそわそわしはじめるのだそうだ。
(無理もない)
しかし、章太郎の勤めている東亜化学工業には、まだそのような制度がなかった。結局、遠くから、自分の半生をささげた会社のことを思い出したりしながら味気なく暮す、ということになりそうである。
(それだって、いいではないか)
章太郎は、そうと決めておいて、
「田沢さんは、たしか二年前、君が入社した日に、ちょうど停年でお辞めになったんだったな」
「そうなんです。ですから、田沢さんの送別会と私の歓迎会とが、いっしょにおこなわれたのでした」
「そうか」
「その席で、私は、田沢さんから、君が入社出来たのは、自分が停年になったからのようなもんであり、いってみれば君は、サラリーマンとしてのわしの後継者なんだから、しっかりやりたまえ、といわれたのです」
「そういうふうにおっしゃった田沢さんの気持は、わしにもよくわかる」
広太は、ちらっと章太郎を見ておいて、
「ですから、今でも、ときどき、会社で困ったことがあったりすると、相談に行くようにしているんです」
「いいことだ。田沢さんは、歓迎して下さるだろう?」
「とっても」
「会社の連中で、田沢さんのお店へ行っている者が、他にいるのか」
「はじめのうちは……。しかし、今では、私だけです」
「だろうな」
しかし、そのようにいう章太郎だって、一度も行っていないのだから、他の連中を不人情だとも、薄情だともいう資格はないわけであった。
「田沢さんは、矢沢課長のことをおっしゃったことがあります」
「どういうふうに?」
「ちょっと、まずいな」
「悪口なのか」
「いえ」
「かまわんからいってみたまえ」
「矢沢君も、わしとおんなじに、やっぱり課長どまりで停年になるんだろうな、とです」
章太郎は、苦笑を洩らした。しかし、不愉快というのではなかった。それよりも、現在、自分が悩んでいることを、田沢が、二年前に同じく悩んでいたに違いないのだと思うと、今夜、その田沢に会ってみることが、極めて有意義なような気がしていた。それに、章太郎と田沢とは、同じ課長をしていた間柄の中では、比較的親しくしていた方なのである。
「全く、田沢さんのいう通りなんだよ。わしは、半年後には、停年で辞める」
「やっぱり、そうだったんですか」
広太は、口調を神妙にしていった。
「田沢さんのお店は、はやっているのか」
「特にはやっているというほどでもありませんが。でも、赤字ではないようです」
「だったら、結構なことだ」
「それよりも、田沢さんは、お会いになったらわかりますが、とってもお元気です。自分では、会社に勤めて、カミシモを着ていたころよりも、裸になった今の方が、余っ程、気楽でいいといっておられます」
「わかるような気がする」
「矢沢課長は、停年退職のあと、何かのあてがおありなんですか」
章太郎は、痛いところを衝かれた痛みを微笑に変えて、
「残念ながら、それがないのだ」
「だったら、思い切って、田沢さんのようなことをなさったら如何ですか」
「まさか」
「私は、いいと思いますが。そうしたら、私なんか、大いに利用させてもらいますよ」
「まさか」
章太郎は、同じ言葉を二度繰返しながら、
(しかし、あの道子に店を持たせてやれば、似たような結果になるのだ)
と、思っていた。
そこらには、客引きの女たちがうろうろしていたし、声をかける女もいた。が、二人は、見向きもしないで、歩いていた。
田沢吉夫が、新宿で、バーを経営するようになった経緯は、章太郎が、この坂巻広太から聞いたり、または、会社の噂話を耳にしたりしたところでは、次のようになっていた。
田沢には、章太郎とおなじに細君がなかった。高校へ通っている息子が一人あった。田沢は、在職中から新宿のバー「グリーン」の雇われマダム克子を、月に五千円で自分の女のようにしていたのである。
章太郎の場合と多少似ているが、しかし、章太郎は、渋谷のバー「イエス」の郡司道子を、自分の女にしているわけではなかった。その場その場の取引にしていた。といって、ただの取引だけで、そういう関係が三年間も続くとは考えられない。好かれているという自信と、それに応じる気持が重なってのことであったろう。
ところで、田沢は、かねてから停年退職の日にこそ、克子と別れるべきだ、と決心していたらしいのである。無収入となっては、たとえ月に五千円でも、自分の女を持つようなぜいたくな真似は許されないのだ、と。
しかし、克子という女は、よく出来ていて、それに、本気で田沢に惚れていたのか、
「今後は、お金を頂きませんから、今迄通りにしていて下さい」
と、いったのである。
克子にも、娘が一人あった。そして、克子は、お金よりも、今後の精神的な支えとして、田沢についていてほしいのだ、といった。
しかし、田沢は、はじめの決心を変えなかった。男として、タダでというような甘ったれた真似は出来るものでない、といったのである。
だからといって田沢に克子へのみれんがなくなっていたわけではなかった。いや、却って、みれんがつのってくるばかりである。つい、克子の店へ足が向くのだった。が、田沢は、あくまで客としての限度を越えないように努めていた。
ところが、三カ月ほどたって、恐るべきライバルが現われた。その男は、店の権利を買い、ついでに、雇われマダムの克子をも掌中におさめにかかったのである。
克子は、三十三歳の未亡人なのだが、田舎に預けてある子供もいっしょに住めるようにしてやるとの好条件であった。
それに対して、克子の気持がどの程度動いたかは不明である。が、それを耳にした田沢は、猛烈な嫉妬を感じたであろうことは、想像に難くない。
(負けるものか!)
もはや、恥も外聞もいってられなくなった。幸いにして、三百万円の退職慰労金は、まだそのままにしてある。その他にも、若干の貯金がある。田沢は、そのほとんどを投げ出して、バー「グリーン」の権利を買ってしまった。だけでなしに、以後、そこのマスターとなり、スタンドの中で、シェーカーを振るようになった。
章太郎は、それを聞いたとき、自分には、そういう真似はとうてい出来ないことだと思ったし、また、会社でも、
「物好きにも程がある」
と、嗤った男もいた。
もちろん、田沢の話を聞いたときの章太郎は、停年退職ということを、今夜ほど深刻には考えていなかった。が、今夜は、違っている。考えさせられるばかりではなく、いろいろと聞いてみたいことがいっぱいあるような気がしていた……。
黙り込んだようになっている章太郎に、
「どうか、なさったんですか」
と、坂巻広太がいった。
「別に……」
章太郎は、いっておいて、
「まだ、遠いのか」
「いえ、もうすぐです」
「君なんか、停年退職のことを考えているかね」
「私の、ですか」
「そうだ」
「どうも、そこまでは……」
「だろうな。しかし、一応、考えておくことだよ。無駄なことでは、決してないから」
「はい」
「君の目に、わしのような退職を目前に控えた人間が、どのようにうつる?」
「ご苦労さまでした」
「それだけか」
「とにかく、功なり名とげられたようなものですし」
「冗談じゃァない。そういうことは、社長とか重役になってから辞める人間に対していうことだ」
「すみません」
「詫びることはないのだ。が、わしは、近ごろになって思うことがある。会社のうちの何人かは、一日も早く、わしに辞めてもらいたい、と考えているだろう、と」
「私には、そういうことは、考えられないのですが」
「しかし、わしのあとを継いで課長になるつもりでいる人間がいたら、そう考えたとしてもおかしくはないだろう?」
「…………」
「わしの停年退職の日が、一カ月早ければ、それだけ早く課長になれるのだ」
「…………」
「もちろん、こういう考え方は、素直でないことぐらいわかっている。が、停年退職の日が近づいてくると、悲しいことだが、どうしてもひがみが出てくるのだ」
「そういうもんでしょうか」
「ああ、そういうもんだ。君だって、あと三十年もしたら嫌でも停年になるのだ。そのときに、あるいは、今わしがいったことを思い出すかもわからないよ」
しかし、その三十年後には、章太郎は、八十五歳になっているのである。恐らくは、生きてはいないだろう。どういう環境で、どういう死に方をするだろうか。考えているうちに、やり切れなくなってくる。だけでなしに、それは恐怖に通じていた。
章太郎は、一刻も早く、こういう話題から逃げた方がいいのだ、と思った。神妙に聞いていてくれるが、広太だって内心面白くないと感じているに違いない。にもかかわらず、章太郎の別の心は、そのことについて、もっともっと喋ってみたかった。喋ることによって、いくらか心が晴れるような気もしていたのだ。
「きっと思い出すでしょうね」
「君、こういう話、嫌だろう?」
「どうしてですか」
「嫌だったら、よしてもいいのだ」
「どうぞ、おっしゃって下さい。私の親父だって、田舎でサラリーマンをしているのですが、あと三年で停年なのです。ですから、お聞きしておいた方が」
「では、かならずしも他人事ではないわけだな」
「そうなんです」
「たとえばだよ」
「はい」
「さっきもいったように、わしが停年で辞めて、そのあと、誰かが課長になる。が、その課長になる人間が、君の課の課長であったりすると、君の課の新課長として、別の人がくるわけだ。そうなると、わしの停年退職ということが、君にも無関係でなくなる。一人の停年退職が、そのように社内に波紋をひろげるのだ、ということを覚えておくといい」
「…………」
「ところで、辞め去る人間は、自分の辞めたあとの事業計画を審議しながら、何んともいえぬ寂寥を感じているんだよ。もう、よそう」
「私は、かまいませんよ」
「要するに、自分の愚痴に、自分で嫌気がさして来たのだ。が、この愚痴を聞いてくれた君に感謝するよ」
「とんでもない」
「しかし、君が、どんなにいい青年であるかがよくわかった。今夜は、大いに飲もう」
「ええ、飲みましょう」
章太郎は、ふとこの広太と娘ののぼるを結婚させたら、と思った。
もちろん、それはとっさの思いつきだった。第一、のぼるには、すでに恋人があるかもわからないし、同じことが、この広太にもいえるわけなのである。
しかし、章太郎は、
(のぼるが、この男と結婚してくれたら……)
という考えを捨て切れなかった。このまま、捨て去るには、あまりにも惜しいような気がしていた。
この男なら、きっと、のぼるを幸せにしてくれそうだ。自分だって、喜んで婿と呼ぶことが出来そうである。一生の話相手になってくれそうである。そして、この場合、章太郎にとって重大なのは、この広太が、自分と同じ東亜化学工業の社員である、ということだった。広太を通じて、いつだって、その後の会社の業績とか、人事異動などについて聞くことが出来るに違いないのである。それは、今後も、東亜化学工業の近くにいられることにもなる。そして、他のどんな話題よりも、自分の心を充たしてくれるだろう。
そこまで考えて来て、
(何んという俺なんだろう!)
と、章太郎は、舌打ちをしたくなっていた。
特別に優遇されたわけでもないのだ。思い出せば、嫌だったこと、いまいましかったこと、いっそ、こんな会社を辞めてやろうか、と思ったことだってすくなくないのである。
しかし、今となると、そういう不愉快な思い出も、妙に懐かしいのだった。自分でも情無いのだが、しかし、どうにもならなかった。
やっぱり、みれんというのほかはないようだ。しかし、このみれんは、実際に経験したものでないとわからないのである。わかってくれたような顔をしていても、通りいっぺんの理解に過ぎない。結局、本人が一人で、胸の奥底で噛みしめていくのほかはないのである。
(女房が生きていてくれたらなァ)
子供たちには、こんな話をしても通じないだろうし、章太郎自身、いう気もなかった。
「妙なことを聞くけどね」
章太郎がいった。
「どういうことでしょうか」
広太が答えた。
「君に恋人とか、婚約した人があるのかね」
「婚約者はありません」
「すると、恋人は?」
「以前にあったのですが」
「今はないのか」
「失恋中といった方が」
「失恋したのか」
「残念ながら」
「どうして、失恋したのだ」
章太郎は、そういってからすぐに、
「失敬。そこまで聞くつもりはなかったのだ。近いうちに、もしよかったら、わしの家へ遊びにこないか」
「参ります」
いってから広太は、
「あそこですよ」
と、前方を指さした。
バー「グリーン」の看板が見えていた。
広太が先に立って、バー「グリーン」の扉を押し開き、中へ入って行った。章太郎は、それに続きながら、田沢に対して、どういう顔をすればいいのか、また、どういうふうに話しかければいいのか、というようなことを考えていた。
「いらっしゃいませ」
女の声が二人を迎えた。
カウンターの中で、白いバー・コートを着て、黒の蝶ネクタイを結んで立っているのは、まぎれもなくかつての東亜化学工業株式会社の総務課長田沢吉夫であった。
広太は、まっすぐにカウンターの方へ近寄って行く。田沢は、その広太に親愛の情のこもった笑顔を向けたのだが、うしろの章太郎に気がつくと、
「おお」
と、いった表情になり、
「矢沢君!」
と、他の客がびっくりするような大声でいった。
章太郎は、嬉しくなった。というよりも、安心した、といった方が当っていたろうか。何んのこだわりもないように迎えてくれた田沢の態度に、ぐっと気が楽になった。
「しばらく」
章太郎は、軽く頭を下げた。
「よく来てくれたな」
「もっと早く顔を出すべきであったのだが」
「とんでもない」
「さっき、そこで、偶然にこの坂巻君に会ったんだ。それで、誘われたもんだから」
「そうか。坂巻君、有りがとう」
「いえ……」
二人は、カウンターの前の脚の高い椅子に掛けた。
うしろの方で、
「マスター、おビールを頂戴」
と、女のいう声が聞えた。
「よっしゃ」
田沢は、景気のいい声で応じて、冷蔵庫からビールを取出して、瓶の外の汗をぬぐってからカウンターの上においた。女がそれを取りに来た。
「どうだね、矢沢君。僕のこのマスター振り、すっかり板についたろう?」
「感心しているんだよ」
「そのようにいってもらえると有りがたい。これでも、簡単なカクテルぐらいならつくれるんだよ」
「とにかく、以前よりも若くなった」
「自分でも、そう思っているんだ」
「血色もいい」
「気楽にやらしてもらっているから」
「らしいな。僕たちにもビールを」
「かしこまりました」
田沢は、そのときだけ、営業用の口調でいっておいて、ビールを出した。ポンと音を立てながら器用に栓を抜いて、
「どうぞ」
と、章太郎と広太のグラスに、これまた、器用に酌をしてから、
「とにかく、矢沢君。停年退職なんて、考え方次第だよ」
と、章太郎の心の底を見抜いているようないい方をした。
章太郎は苦笑しながら、
「君の顔を見て、そうらしいとわかりかけていたところだ」
「こんな顔でよかったら、よく見ておいてくれたまえ」
「これからも、ときどき、寄せてもらうよ」
「ぜひ」
「営業中でも、飲んでいいんだろう?」
章太郎は、自分のグラスを空けて、田沢の前においた。
「今夜は、特別ということにしておこう」
田沢は、章太郎の酌を受けながらいった。ついで、章太郎は、広太のグラスにも注いでやりながら、
「うんと飲んでいいんだよ」
「はい」
うしろの方から、女が、
「マスター、お愛想をお願いします」
「君、ちょっと失礼」
田沢は、飲みかけのグラスを下において、伝票を調べはじめた。
章太郎は、田沢のうしろの酒棚を見た。一応の洋酒がおいてある。しかし、出るのは、ビールがいちばん多いようだ。ついで、章太郎は、振り返って見た。テーブル席が三つあって、そのうちの二つに客がいた。女が四人いた。章太郎が、最も興味をもって探した克子という女には、すぐ見当がついた。三十五、六歳で、それほどの美人ではないが、しかし、ふっくらとした感じであった。その他の女は、二十五、六歳までのようだ。
ある意味では、田沢は、克子によって救われたのだ。こんなに元気でいるのは、何よりもの証拠であろう。
章太郎は、またしても、渋谷の女、郡司道子を思い出した。
(しかし、俺には、この田沢君のような真似は出来ない)
もうそうと決めておいて、間違いないところだ。だから、別に生きる道を考えなければならないのである。気が重くなりかけてくる。が、頭を軽く横に振って、自制した。
その間に、田沢の計算が出来上がって、
「有りがとうございます。八百五十円でございます」
と、客席に向って、大声でいった。
田沢は、飲みかけのビールを空けて、
「有りがとう」
と、グラスを章太郎に返した。
「はやっているらしいな」
章太郎がいった。
「でもないのだが、しかし、食べていくことだけは出来ている」
「結構じゃァないか」
「負惜しみでなく、今となって、この商売に踏み切ったことが成功であった、と思っている」
「しかし、よくその決心をしたな」
「そうなんだ。正直にいって、いろいろと悩んだのだ。恥や外聞ということも考えた」
「だろうな」
うしろから、
「いらっしゃいませ」
と、いう声が聞えて、振向くと、さっき、章太郎が、克子であろうと見当をつけた女であった。
「こちらは、わしのいた会社の矢沢章太郎さんだ。厚生課長だ」
田沢がいった。
「克子でございます。どうか、よろしく」
「いや、こちらこそ」
「矢沢君は、わしとこの女とのことは、知っているんだろう?」
「だいたいのことは」
「だったら、あらためて説明する必要もないわけだな」
「そう。が、ちゃんと結婚したのか」
「まだだ。子供の思惑もあるんでね。しかし、そのうちに、正式に結婚することになるだろう」
「いいことだ」
「そうなったら、この女は、もう店へ出さないよ」
田沢は、何んとなく意味ありげに笑ってから、
「君、あっちの客の方へ行っていていいよ」
「はい。どうぞ、ごゆっくり」
「有りがとう」
克子は、はなれて行った。新しいビールの栓が抜かれた。八百五十円を払った客が帰り、別の客が入って来た。その客に、ビールを出してやりながら、田沢は、
「矢沢君、僕は、これでも停年退職者の中では、成功者の一人ではないか、とうぬぼれているんだよ」
「と、僕も思う」
「でなかったら、やっていけないからな」
「僕は、今夜、大いに勉強になったよ」
「君の停年は?」
「あと半年だ」
「残れる見込みがあるのか」
「先ず、ないだろうな」
「そのあと、どうするつもりだ」
「それで、今、困っているのだ」
「僕も、あの頃がそうだった。とにかく、停年退職には、二つの問題がからんでいると思うんだよ」
「と、いうと?」
「何といっても、今後の生活の問題だ。それともう一つは、どうしてヒマをつぶしていくか、だ」
「…………」
「毎日、休んでいたんでは、退屈するだけだろうし、何かと肩身がせまいしな。それでは、人間が卑屈になり、早く死んでしまう」
「そこなんだよ」
「僕より更に二年前に停年退職した大野氏を覚えているだろう?」
「ああ、購買課長をしていた……」
「停年退職になったとたんに、家族から冷遇されるようになったとなげいていたよ」
「そんなバカな」
「もちろん、本人のひがみもあるだろうが、世間には、そのように思って、鬱々として日を送っている停年退職者の数は、決してすくなくないんだよ」
「あるいは、かも知れないなァ」
「君、何かの趣味があるのか」
「ないのだ。それだけ、会社の仕事に熱中して来たといったのでは、ちょっと大袈裟になるが」
「何んの趣味もないというのは、辛いらしいぞ」
いってから田沢は、黙ってビールを飲んでいる広太に、
「坂巻君、このことだけは、覚えておくといいぞ」
「はい」
「停年になっても、何かの趣味を持っていたら、それによって救われることがある」
「わかるような気がします」
「碁でも、将棋だっていいのだ。釣だって悪くないし、カメラ、そして、絵を描くこともいい。とにかく、一生を貫けるような趣味を一つでいいから持っておくことだ」
「はい」
「その趣味の世界で一流になれたらもうし分がないが、二流であっても、三流であってもかまわないわけだ」
「はい」
「停年退職のことばかりでなく、今だって、かりに会社でボロクソに叱られても、何んの趣味も持たぬ人間よりも、どこか応えかたが違ってくるはずだ」
「はい」
「ただし、酒好き、女好きというのは、趣味の中に入らないんだ」
章太郎は、田沢の話を聞きながら、そのことにどうしてもっと早く気がついていなかったろう、と後悔していた。もし、自分に余生をたのしむことが出来るような何かの趣味があったら、停年退職ということについて、今よりいくらかは気がらくでいられるかもわからないのである。しかし、今からでは遅過ぎるのだ。
(いや、そうと決めてかかるのは、どうであろうか)
たしかに、そうなのだ。しかし、現在の章太郎にとって、当面の問題は、何んといっても停年退職後の生計をどうしていくかであった。そのためにも、近日中に、常務の相原に頭を下げたいと思っていた。
(しかし、かりに二年間の延長を認められたとして……)
二年後には、やっぱり、同じ問題が待っているのである。もちろん、この際の二年間は大きい。しかし、停年が、それこそ、あっという間にやって来たように、二年間なんて、あっという間に過ぎてしまうだろう。章太郎は、あらためて、停年退職ということの残酷さを思い知らされた。
しかし、昨日も、今日も、そして、明日も、何百人、あるいは、何千人のサラリーマンが、停年退職のために、各職場から消え去っていきつつあるのだ。そして、最後の日には、何んとなく、こそこそと。
サラリーマンが転勤するときには、たいてい、たくさんの人々が駅へ見送りに来ている。よく見なれた風景なのだ。発車と同時に、拍手が巻起り、あるいは、バンザイが三唱される。
だが、転勤よりももっと重大な停年退職の際には、たれも会社の玄関まで送っていかないのは、何んとしたことであろうか。今日、停年退職になった長岡のように、会社の窓を見上げてさようなら、さようならといいながら、孤影悄然として去って行くのである。
「僕はね、矢沢君」
田沢は、口調を変えて、
「こうやっていても、ときどき、会社のことを思い出すことがあるんだよ」
「だろうな」
「いったい、サラリーマンとして、何をしたろうか」
「…………」
「結局、毎日を機械的に働いたに過ぎないではないか」
「…………」
「あの会社に、僕がいなくてもよかったのだ」
「…………」
「その証拠に、僕がいなくっても、あの会社はビクともしないで、今日もちゃんと続いている」
「僕の場合だって、そういうことになる」
「しかし、僕は、あの会社に三十年間勤めたことには間違いないんだ。叱られたりおだてられたりしながら。あるいは、笑ったり、憤ったりしながら。または、心にもないお世辞をいったり、いわれたりしながら」
「全く、僕とおんなじだ」
「そういう僕だが、時には、会社へ顔を出してみたくなる」
「うん」
「いっておくが、人に会いたいためではないのだ。こういう商売をしていると、やっぱり気が引けるんだな」
「そんなことはない。君は、立派にやっているんだから」
「有りがとう。が、僕が、会社へ行ってみたいのは、地下室の書庫なんだ」
「あんなカビ臭いところに?」
「そう。あんなカビ臭いところにだ。おかしいだろう?」
「どうも」
「が、やがて、君にもわかると思うのだが、あの書庫には、いろいろの古い帳簿や書類がしまってある」
「…………」
「僕が入社当時に記帳した帳簿も、それから課長になって決裁の判を捺した書類も、そのまま残っているだろう」
「…………」
「いってみれば、そこに、僕のサラリーマンとしての歴史が残っているのだ」
「そういう意味であったのか」
「だから、もし許されるなら、半日ぐらい書庫に入って、しみじみ昔をなつかしんでみたいのだよ」
「その気持ならよくわかるような気がする」
「だろう? いろいろの思い出が、わっと押し寄せてくるに違いない。それと同時に、それにまつわるいろいろの人のことも」
「うん」
「恐らく、思い出す人のうちの半分ぐらいは、とうに死んでいるかもわからない。たとえば、入社当時の課長も、部長、そして、社長のように」
「…………」
「そして、この坂巻君が停年になる頃には、君も僕も、もう思い出の人物となっているに違いない。矢沢君、要するに、これが人生なんだ。あんまり停年ということにこだわらない方がいいよ」
章太郎は、国電の恵比寿駅で降り、商店街を通り抜けて、自分の家の方へ歩いて行った。すっかり春めいていて、着ている合オーバーが重苦しく感じられるくらいであった。雲間に星が見えていた。
十時半を過ぎたばかりである。渋谷へ寄ってみたい気もしていたが、もはやさっきまでのように強くなく、寧ろ早く帰って、子供たちを安心させてやりたかった。
その章太郎の耳の底に、
「あんまり停年ということにこだわらない方がいいよ」
と、いった田沢の言葉がこびりついているようであった。
(たしかに、そうなのだ)
停年退職は、こだわるこだわらぬにかかわらず、半年後にはきっとやってくるのである。こだわるだけマイナスになり、日々の生活をよけい暗くすることになる。
(しかし、あれは、田沢君だからいえる言葉なのだ)
章太郎は、一方で、そのようにも考えているのだった。
田沢のように腹を決めてしまえば、恐いものなしであろう。しかし、章太郎に、田沢の真似の出来ないことは、誰よりも自分自身がいちばん知っているのである。
章太郎は、今後、自分の進むべき道として、三つあるような気がしていた。
いちばんいいのは、相原常務に頼んで、一年でも二年でも、嘱託として、会社に残してもらうことである。
次は、それとは別に、次の就職口を探すことだ。
第三には、何かの商売を始めるのである。
田沢は、この第三の方法で成功したことになるだろう。
(しかし、俺には、どういう商売が出来るだろうか)
資金としては、退職慰労金の三百万円と貯金の百万円、合計四百万円があるだけだ。章太郎は、思いつくままに、その程度で開業出来そうな商売を考えてみた。
本屋。
文房具店。
小間物店。
麻雀クラブ。
しかし、その何れにも自信がなかった。サラリーマンなんて、いってみれば、温室育ちなのである。いい加減に商売を始めたばかりに、せっかくの退職慰労金の元も子もなくしてしまったという悲惨な話を、よく耳にしている。二人の子供のことを考えても、そういう危い真似は出来ないのだ。
(結局、はじめの二つについて、必死になってみよう)
章太郎は、そうと決めた。今のところ、それ以外の方法は、考えられないのである。かりに、その両方に失敗したとしても、それはそのときのことなのだ。
それにしても、坂巻広太のような若い社員の間にまで、会社内の派閥の問題が影響していようとは思いがけなかった。広太が、田沢に今夜は、それについて相談したかったのである。
どんな会社にも、大なり小なりの派閥があるものだ。人間の集まるところでは、それは避けられないことなのかもわからない。そして、東亜化学工業も、その例外ではなかったのである。
福井専務派。
横山専務派。
福井専務は、技術者出身であり、横山専務は、事務屋上がりなのである。もちろん、その上に、手塚社長がいる。
東亜化学工業では、社員の停年は満五十五歳、平取締役は満六十歳、常務取締役以上は満六十五歳。ただし、社長だけは、その制限を受けないことになっていた。
社長は、在職七年で、すでに六十八歳なのである。そろそろ、誰かにバトンを引継いでいい頃なのだ。
ところが、そのバトンを受継ぐべく予想されている福井専務は六十四歳であり、横山専務は六十三歳なのである。二人にとっては、停年が目前に迫っているのだ。そこに問題があり、派閥の波が立ちはじめたのである。一つには、社長が、二人のうちの誰にバトンを引継ぐかの意志表示をしないところにも問題があったろう。
もし、社長が、このままあと二年間頑張ったら、両専務とも、社長になれないままで、退職していかなければならないことになる。そこにも、微妙な問題がはらんでいるわけだった。
東亜化学工業にとって、矢沢章太郎の停年なんか、その影響は、たかが知れている。しかし、両専務の停年退職による社内に及ぼす影響には、はかりしれないものがある。
しかし、だからといって、会社の内部が、二派にはっきりとわかれているというのではなかった。章太郎のように、そういうことに関係のない社員もすくなくなかった。もっとも、章太郎が七年も前に課長になりながら、ついに部長にも、部長代理にもしてもらえなかったのは、そこらへんに一つの原因があったかもわからない。
もし、章太郎が、どちらかの専務の前に、積極的に頭を下げ、忠勤を誓っていたら、あるいは、今頃は、相原のように常務取締役というのは無理でも、平取締役として、停年退職なんて、どこ吹く風という顔をしているということだって考えられないこともなかったろう。
現に、相原は、早くから横山専務の腰巾着のようになっていて、その抜擢によって、今日の地位を獲得したのだとの噂をされている。相原の他にも、そのようにいわれている抜擢組が、社内に何人かいた。そうなれば、たいていの人間は、冷静さを失い、どちらかの派閥に馳せ参じたくなるのが人情であろう。
章太郎が、今日まで、そのどちらの派にも属さないで来たのは、そういうことが嫌いであり、煩わしいからであったが、福井専務からも、そして、横山専務からも、特別に、目をかけてもらっているという自信がなかったからでもあった。
(しかし、今頃になって、こういう思いをするのだったら、三年ぐらい前から、どちらかにペコペコ頭を下げておいたほうが利口だったかも……)
今にして思うと、昨年、二年間だけ嘱託として会社に残された男は、停年の二年ぐらい前からしょっちゅう福井専務の部屋に出入していたようだ。どうして、そのことに早く、気がつかなかったのだろうか。
しかし、章太郎が、会社の派閥問題に特別に関心を寄せるようになったのは、さっき、坂巻広太の話を聞いたからであった。昨日までは、うかつにもそれほどのことはない、と思っていたのである。
「私は、今日、若手社員だけで、月に一度、横山専務の家へ行き、食事をしながら雑談する会に入らないか、と誘われたんです」
広太がいったのである。
「いいではないか」
章太郎が答えた。田沢は、黙って聞いていた。
「かまわないでしょうか」
「どうして?」
「福井専務の方にも、毎月福井会と称して、似たような会が開かれているんです」
「それは、知らなかったな」
「半年くらい前からだそうです。もっとも、秘密になっていたのですが、あることから最近になって横山専務の耳に入り、それではこちらでも開こうということになったのです」
「すべて、初耳だな」
「ただし、福井会に入っている人間は、横山会には加入させないというきまりなのです」
「すると、君が、横山会に加入すると、以後、横山専務派の社員ということになり、福井派から敵視されることになるわけか」
「らしいんです。で、どうしたもんであろうかと、今夜は、田沢さんに相談に来たんです」
広太は、そういって、田沢を見た。
「難しい問題だな」
田沢は、重い口調でいった。
「私も、そのように思ったもんですから」
「君が、どちらの派に属するかは、今後のサラリーマン生活に大きな影響を及ぼすよ。だろう、矢沢君」
「そう。あと半年で停年になる僕の場合とは比較にならないくらい」
「うっかり、横山会に入り、その親分が社長になれないままで退職し、あとに福井専務が社長に昇進することになったら、先ず、君は、当分の間、出世の見込みがない。そのかわり、逆のことだって、あり得るわけだ」
広太は、しんけんな顔で聞いていた。
「要するに賭けだよ」
「大きな賭けだな」
章太郎がいった。田沢が、
「君に、その度胸があるかね」
「私は、度胸というよりも、今日まで、そういうことに無関心で来たもんですから」
「いいことだったのだ。ただし、君が、本当に横山専務に心酔しているのなら、横山会に加入したって悪くなかろう。かりに、それが失敗に終ったとしても、それほど後悔しないですむはずだ」
「心酔にも何も、私は、横山専務のことも、福井専務のことも、それほど知りませんよ。知っていたのは、両専務とも、あと一、二年で停年になられるらしいということだけでした」
「だろうな」
いってから田沢は、
「矢沢君は、どちらの派なんだ」
「僕は、無色透明。どちらの派からも誘いかけられなかった。恐らく、たいして味方にしがいがないと思われていたのだろう。だから、課長どまりで停年退職になる」
「それでいて、課長までいったのだから、まァいいとしておくべきだ。課長になれないままで退職していく男の数の方が、遥かに多いのだから」
「田沢君は、どうだったのだ」
「やっぱり、無色透明。というのは、僕が勤めていた二年前までは、両専務の対抗意識がそれほどはっきりと表面に現われていなかったからな」
「僕にしたところで、今、自分のうかつさに気がついて、ガクゼンとしているんだよ」
「しかし、その方が却って幸いだったかも」
「そう」
「その点、坂巻君は、可哀そうだな。何が嫌だといっても、社内の派閥の波にホンロウされるほど不愉快なことはないらしいから。とにかく、人間の実力というものが、頭から無視されるのだ。そういう意味では、バーのマスターはいいぞ」
「僕は、今夜、ますます君が羨《うらや》ましくなって来たよ」
「だったら、一日も早く停年退職の日のくるように祈るんだな」
田沢は、笑いながらいった。
「ところが、とうてい、そういう心境になれない」
章太郎は、苦笑しながらいった。
「実のところ、僕だって、そうだった。あの頃のことを思い出すと、悪夢を見ていたような嫌な気分だ。何度も、たかが停年退職じゃァないか、と思おうと努めたのだが、思うにまかせなかったな」
いつの間にか、話題が停年退職のことに戻ったので、広太は、黙々として酒を飲みながら、自分の問題について、考え込んでいるようだった。それと気がついて、章太郎は、
「失敬」
「いえ……」
「どうするかね」
田沢がいった。
「どうしたらいいでしょうか」
「君自身の問題でないのか。自分で考えることだよ」
田沢は、わざと突っ放すようにいって、
「だろう?」
と、章太郎を見た。
「と、思うね」
「わかりました。さっきから、両先輩のいろいろの話を聞かせて頂いたのを参考にして、今夜一晩、よく考えてみます」
「ああ、そうしたまえ。いってみれば、今夜は、君自身の三十年後の姿を、矢沢さんによってまざまざと見せつけられたと同じなんだから」
田沢がそういって、その話題は、打ち切られたのであった……。
章太郎は、そのときのことを思い出しながら、何気なく前方を見て、おや、と歩みをとめた。
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おすし
(のぼるでは?)
章太郎は、とっさにそう思ったのであった。
大通りから横へそれた細い道であった。人通りが絶えて、街灯が点々と見えている。その五、六十メートル先に、じいっとうなだれたようにして動かぬ黒い人影があった。こちらに背を向けているようだ。そして、そのへんが、ちょうど章太郎の家の前あたりらしいのである。
章太郎は、なおも歩みをとめたまま、その人影を見つめていた。距離があるのと、薄暗いのとで、はっきりしたことはわからない。が、章太郎には、目をこらせばこらすほど、娘ののぼるのように思われてくるのであった。
(しかし、のぼるなら、あんなところに立っていないで、さっさと家の中へ入りそうなものなのだが)
たしかに、そうなのである。章太郎は、その人影を、のぼるだと断定したくなかった。何故なら、それは、決して幸せな人間のそれのようではなかったから。何かのことで思いあぐね、悩んでいる不幸な人間の姿のようであった。
(のぼるが、あんな格好をするはずがないのだ)
人影は、ときどき、空を見上げたり、あるいは、章太郎の家のあたりを見たりしながら、いぜんとして動かないのである。章太郎の方でも、動く気になれなかった。いや、それ以上に、その人影がこちらを振り向いた場合を恐れるように、目の前にある塀の方に、ぴったりと身体を寄せていた。
章太郎は、それでもまだ、のぼるなのだとは思いたくなかった。そうでありませんように、と祈っていた。
しかし、それから間もなく、章太郎の希望的な観測も、そして、祈りも、無惨に裏切られてしまった。その人影は、章太郎の家の中に吸い込まれるように消えて行ったのである。しかも、その前に、ハンド・バッグの中からハンカチを取出して、涙を拭ったらしい気配を残して……。
(ああ)
章太郎は、溜めていた息を大きく吐いた。
(のぼるであったのだ!)
章太郎の受けた衝撃は、大きかった。よろめくように塀のそばをはなれていた。娘の秘密をかいま見てしまったような、父親としての悲しみを感じていた。いや、悲しみというよりも、恐怖といった方が、あるいは、当っていたろうか。胸をえぐられる思いでもあった。
このときの章太郎は、半年後に迫った停年退職のために鬱々としていたサラリーマンから、一人の父親になっていた。
(しかし、のぼるが、どうしてあんな格好をしなければならないのだ)
章太郎は、そういいたいのであった。
章太郎の知っているのぼるは、いつだって明るく、素直で、適当に父親思いの娘なのである。特別に美人とはいえないかもわからないが、しかし、どこへ出しても恥ずかしくない娘だ、と信じていた。そして、章太郎の方でも、何んとかいい父親になってやろうと努めて来たつもりなのである。
かりに、のぼるの不幸をあげるとすれば、五年前に母親に亡くなられたことであろう。人生の最も大きい不幸の一つ、といっても過言ではあるまい。
しかし、近頃ののぼるは、その不幸にも漸くなれて、めったに母親のことを口にしないようになっていたのである。その点では、章太郎も気をゆるめていたのであった。
だが、年頃の娘なのだ。これから、ますます母親が必要となってくるのである。ときどき、母親を思い出して、ひそやかに涙を流していた、ということも考えられる。その点、どんなに完全な父親であっても、母親の代理はつとまらないのである。しかし、だからといって、こんな夜更けの、しかも、家の前で、亡くなった母親を慕って泣くということは、考えられないのである。
(とすれば、のぼるは、何んのことで、あんな悲しそうな格好をしていたのであろうか)
章太郎には、それが何んのことか、まるで見当がつかなかった。いつか、家の前に来ていた。さっきののぼるの姿が、まだ、目の底に残っていた。章太郎は、すぐ家の中へ入る気になれず、二階ののぼるの部屋を見上げた。
ちょうど、その部屋に灯が点いたところであった。カーテンに、のぼるの姿が大きく揺れた。章太郎は、逃げるように家の前をはなれてしまった。
章太郎は、すこし歩いてから、また引っ返した。煙草に火を点けて、それを喫おうとして、
(失恋?)
と、閃めくように思った。
章太郎は、胸をどきんとさせた。会社勤めをはじめるようになって、すでに二年を経ているのである。十分に、あり得ることなのだ。
かねてから章太郎は、のぼるが理想的な恋人を連れてくる場合を想像したりしていたことは事実である。しかし、それは何んとなくもっともっと先のことのような気がしていた。そのくせ、一方で、今夜会った坂巻広太とのぼるの結婚を考えたりしていたのだ。だからこそ、近いうちに遊びにくるように、ともいっておいたのである。
のぼるの悲しみの原因が、まだ失恋と決ったわけでもないのに、章太郎には、もうそうに間違いないように思われて来た。
(いったい、どういう男が、のぼるほどのいい娘を失恋させたのだ)
章太郎は、胸に憤りを覚えた。同時に、のぼるが、すでに一人前の娘になっていたのだ、ということをあらためて考えさせられた。
(可哀そうに……)
しかし、章太郎には、それとは別に、のぼるが、いつの間にか自分の家族以外の者のために、あのように悲しんだり、嘆いたりするようになっていたのだ、ということがひどくこたえた。章太郎は、その見知らぬ相手に、嫉妬に似た感情をいだいた。今日までは、自分一人の娘と信じ込んで来ただけに、そのショックも大きかったのである。
章太郎は、家の前を通り過ぎた。家へ入る前に、もっといろいろのことを考えてみたかったのである。さらにいえば、もっと気持を整理してから、のぼるの顔を見たかったのでもあったろうか。
章太郎は、二階ののぼるの部屋を見上げた。灯は点いているが、カーテンは閉ざされたままであった。机にもたれて、考えごとに耽っているのかもわからない。あるいは、壁にかけられた母の写真に、
(お母さん……)
と、訴えているのかも。
今ののぼるにとって、ほしいのは、父親でなく、母親なのであろうか。章太郎は、勝手にそうと決めて、
(父親の孤独)
と、いう言葉を思い出していた。
人間は、誰だって孤独なのだ、という説がある。一応、そうと決めておいて間違いないようだが、有りがたいことに、平常は家族や友人の中にあって、そういうことをあまり感じないで生きていられるのである。しかし、今夜の章太郎は、別であった。
(停年退職)
あと半年後には、いやでも応でもやってくるのだ。そしてその後に、淋しくて、退屈な日々が続くに違いないのである。いってみれば、孤独になるのだ。
(さらに、娘の結婚)
失恋したばかりの娘の結婚を考えるなんて、おかしなことであった。しかし、章太郎は、却って娘の結婚を考えさせられ、そのあとの自分の日々を考えさせられるようになっていた。もちろん、子供は、のぼるだけではなかった。長男で、高校生の章一がいる。
章太郎は、のぼるが嫁いだあと、華やかな色彩の消えてしまった家で、章一と二人で、食卓に向う姿を頭の中に描いていた。どんなに味気ないだろうか。時には、泣きたくなってくるかもわからない。
といって、いつまでものぼるを家においておくわけにいかないし、また、それでは困るのだ、ということもわかり過ぎるほどわかっているのだった。そして、いつかは章一だって、自分の許から去って行くに違いないのである。そのときこそ、章太郎は、本当に孤独な老人になってしまうのだ。朝から晩まで、じいっと庭を見つめているような老人に……。
今夜の章太郎は、停年退職ということだけでも持て余しているのである。その上、娘の失恋、結婚、そのあとに続く自分の老醜の姿をも考えさせられて、何んともやり切れなくなっていた。
(せめて、家内が生きていてくれたら)
そうなのだ。章太郎は、
(のぼるよ、お母さんに生きていてもらいたかったのは、お前だけではないんだ。このお父さんだって、そうなのだよ)
と、いってやりたかった。
章太郎は、ふたたび家の方へ引っ返そうとして、今夜は、何んのお土産も持っていないことに気がついた。こういう夜にこそ、それが必要なのである。
章太郎は、時計を見た。十一時を過ぎたばかりであった。
(おすしを持って帰ってやろう)
章太郎は、靴先を恵比寿駅前の方へ向けた。章一は、この時刻だと、まだ勉強しているはずなのである。あるいは、のぼるの方は、泣き寝入るように寝てしまっているかもわからないが、起してでも、親子三人で食べてみたかった。
章太郎は、それによって、のぼるの顔色を見、それとなくようすを探ってみたいのであった。もし、打ち明けてくれるようなら、どんな相談にでも乗ってやりたい。場合によっては、父親の自分が、のぼるのかわりに、相手の男に頭を下げてもいいのである。
(ただし、そのためには、相手が、俺の眼鏡にかなった男でなければならぬのだ)
章太郎は、またしても、坂巻広太を思い出した。理想は、のぼると広太を結婚させ、そして、庭の一隅に二人のために新居を建ててやることなのである。しかし、あくまで理想であって、あらゆる意味で、それは実現性がなかった。
章太郎は、駅前のすし屋に入って行った。
「へーい、いらっしゃい」
景気のいい声が、章太郎を迎えた。
「お土産を三人前、大至急つくってもらいたいのだ」
「かしこまりました」
「それから、僕にビールを一本」
章太郎は、入口に近い椅子に腰を下した。
カウンターの前は、ほとんどいっぱいであった。章太郎は、ビールを飲みながら、家へ帰ってからのことを考えていた。
(もし、のぼるが嫌がるようだったら、表で見たことを、当分の間、黙っていよう)
しかし、いつまでも放っておいて、万に一つ、取り返しのつかないことになったら大変である。すくなくとも、今後は、今まで以上に、のぼるの身辺に注意を払う必要がありそうだ。
「ねえ、君、聞いてくれよ」
そういう酔っぱらったような声が、すぐ近くの席から聞えてきた。
「聞いてるよ」
しかし、面倒臭そうな声でもあった。
「だいたい、あの課長ときたら、人を見る目がないんだよ」
「そうだな」
「あんな日立のようなゴマスリ野郎ばかりを可愛がって、僕のようなお世辞をいわぬ人間に対しては、およそ冷たいんだからな」
「うん」
「あの課長め、水田絹江と怪しいんだよ」
「ほんまかね」
「僕は、ちゃんとした証拠を握っているんだ。まさかという場合には、ぶちまけてやるつもりなんだ」
「ふーん」
「しかし、君、このことは、誰にも口外してくれるなよ。僕は、親友の君にだからいうんだけどね」
「わかっているよ」
「とにかく、僕は、面白くないんだ」
三十四、五歳のサラリーマン二人であった。
章太郎は、酒席で、そういう人の悪口をいったりすることを嫌う性分であった。いつもなら、眉を寄せ、それとなく睨みつけてやったかもわからない。
今夜だって、いい感じがしなかった。が、それ以上に、
(君たちは、羨ましいよ)
と、いいたかったのであった。
(何故なら、君たちには、すくなくとも、あと二十年間は、停年退職ということがないのだから)
そのとき、別の席から、
「課長、今夜は、大いに飲みましょう」
と、いう声が聞えて来た。
見ると、課長らしい四十歳前後の男と、二十七、八歳の男なのである。
「ああ、飲んでくれたまえ」
「僕は、こう見えても、課長のためになら、水火をも辞しませんよ」
「頼むよ、君」
「何んといっても、この人生は、意気に感ず、ですからね。僕は、課長の意気に感じましたよ」
「頼むよ、君」
「そのかわり、課長、まさかという場合には、この僕の骨を拾って下さいよ」
「もちろんだよ、君」
「僕は、それを聞いて安心しました。ああ、今夜は、痛快だ。課長、もっと痛飲したいですねえ」
「いいとも。飲ましてやるよ」
「しめた。流石は、僕の課長です。名課長ですよ。絶対に」
「僕だって、そのつもりでいるんだ」
「ところで、課長」
「何んだね」
「課長は、そろそろ部長代理におなりになってもいい頃ですね」
「しかし、部長代理が、ちゃんといるじゃァないか」
「いったい、あの部長代理は、いつ停年になるんですか」
何気なく聞いていた章太郎は、停年と聞いて、ビールを飲む手を休めた。
「再来年の三月だそうだ」
「ちえッ、まだ、二年もあるんですか」
「そうなんだ」
「すると、課長の部長代理昇進も、それまでお預けですか」
「と、いうことになるな」
「あんな能なしなんか、早く辞めればいいのに、ですね」
「まァ、そういうなよ。はッはッは」
章太郎は、いつか、無意識のうちにその二人を睨みつけていた。立って行って、その課長とやらに、
「何が、おかしいのだ」
と、呶鳴りつけてやりたいくらいだった。
しかし、そんなことをしたら気違い扱いにされるだけであろう。章太郎は、残りのビールを大急ぎで飲んだ。
「お待ちどおさま」
章太郎の前に、折詰がおかれた。章太郎は、憎しみを込めて、その二人をもう一度見てから外へ出た。
章太郎は、家の前まで来て、二階ののぼるの部屋の窓を見上げた。まだ、灯が点いていたので、ほっとした。章太郎は、通用口から入って行った。台所の戸を開くと、章一が立っていた。
「あッ、お帰りなさい」
「どうしたのだ、そんなところに」
「お腹が空いたんで、インスタント・ラーメンをつくろうと思っていたんです」
「おすしを買って来てやったよ」
章太郎は、折詰を目の高さに上げて見せた。とたんに、章一は、相好を崩して、
「わっ、しめた。どうも、有りがとう」
と、折詰を受取った。
「どうだい、いいお父さんだろう?」
「今夜は、最高だよ」
「今夜だけか」
「まァね」
「こら、そんなことをいったら罰が当るぞ」
章太郎は、わざと陽気にいいながらクツを脱いで上がり、
「お姉さんは?」
「一時間ほど前に帰って来たんだけど、頭が痛いとかいって、すぐ二階へ上がってしまったよ」
「頭が?」
「だから、僕は、自分で、インスタント・ラーメンをつくろうと」
「そうか」
「でも、おすしがあるといったら、きっと降りてくるよ。僕、呼んでこようか」
「待て。お父さんが呼んでみる。お前は、ガスで湯をわかしてくれ」
「O・K」
章太郎は、階段の下へ行って、
「のぼる、のぼる」
と、呼んでみた。
が、返辞がなかった。
「のぼる。もう、寝たのか」
「…………」
「おすしを買って来たんだが、いっしょに食べないか」
「はい……」
やっと、かぼそい返辞があった。
「くるのか、こないのか。無理にとはいわないが、せっかく買って来たんだから、一つでも食べてくれないか」
「……、すぐ、降りていきます」
「ああ、待ってるよ」
章太郎は、階段の下をはなれた。そして、自分の部屋に入り、着物に着換えた。
下が五間に、二階が一間の家であった。幸いだったのは、この家が、章太郎の所有であることだった。それに、もう一つ、幸いなのは、お手伝がいてくれることだろう。亡くなった妻の遠縁にあたっていて、妻が生きていたころからいてくれる。一度結婚をしているのだが、もう結婚はこりごりだといっていて、年も三十五、六歳のはずだった。もし、この民子がいてくれなかったら、のぼるを勤めに出すことは出来なかったろうし、章太郎の家庭の事情は、今とはよほど変っていたかもわからない。
民子は、朝が早いので、どんな場合でも、十時を過ぎたら寝ていいことにしてあった。高いイビキをかく癖があって、今も、それが聞えていた。
章太郎は、茶の間のチャブ台の前にあぐらをかいて、夕刊をひろげた。
のぼるが階段を降りてくる。章太郎は、緊張した。
「お帰りなさい、お父さん」
のぼるは、そういって、そのまま台所へ行きかけた。
「頭が痛いんだって?」
「ちょっと」
「今も、か」
「だいぶん、いいんです」
「何か、薬を飲んだのか」
「まだです」
「飲んでおいた方がいいよ」
「はい」
のぼるは、章太郎に顔を見せないようにしてしゃべり、そのまま、台所へ入って行った。章太郎には、横顔が見えただけだが、いつもより青いように思われた。
「章一さん。あとは、お姉さんがするから、あんた、もういいわよ」
「うん」
やがて、親子三人が、チャブ台を囲んだ。
「頂きます」
章一が、先ず箸を出した。
「うめえや」
「だったら、うんと食べろ」
「もちろん」
「のぼる。早く食べないと、章一が、みんなたいらげてしまうぞ」
「はい」
のぼるは、やっと、箸を出した。章太郎も食べた。
(もし、さっき、のぼるのあんな姿を見ていなかったら、俺は、いまごろ、自分をすくなくとも幸福な父親だと思っていられたのだ)
章太郎は、それとなくのぼるの顔を注意してみた。泣いたようなあとは、残っていなかった。章太郎の気のせいでか、今夜ののぼるは、いつもより大人びて見えるようだった。しかも、清純であった。
(しかし、その唇は、すでにどこかの男のそれに触れているかもわからないのだ)
章太郎は、のぼるについて、かつてそのようなことを考えたこともなかったのである。が、今夜は、それ以上のことすら考えたくなってくるのであった。
(まさか、のぼるに限って)
そう信じたかった。信じていなかったら、とてもじいっとしていられるものではないのである。
「のぼる」
「はい」
「元気がないようだな」
「頭痛のせいなんです」
「なら、いいんだが。今夜は、帰りが遅かったらしいな」
「お友達と映画を見たんです」
「お友達って、男の?」
のぼるは、ちらっと父親を見て、
「女です」
「のぼるには、比較的親しくしているような男友達は、まだないのか」
「ありません」
しかし、そのいい方に複雑な感情がこもっているように思われたのは、さっきののぼるのあんな姿を見ている章太郎の気のせいだったろうか。
のぼるは、おすしを食べているのだが、およそ食欲のないような食べ方であった。ふだんの章太郎なら、一言注意したであろうが、今夜は、それがいえなかった。それをいうかわりに、
「ちょっと、信じられんことだな」
と、わざと、冗談めかしていった。
「だって……」
「わしは、恋人というのは、まだ出来ていなくても、男友達ぐらいは出来ていそうな気がしていたんだよ」
「…………」
「すると、映画に誘ってくれるような男友達もないんだな」
「そうよ」
横から章一が、
「要するに、お姉さんには、男性から見て、まだそういう魅力がないということなんだな」
と、ませた口調でいった。
「そんなこと、あるもんですか」
のぼるは、章一を睨みつけて、
「お姉さんは、男なら誰でもいいというような安っぽい交際をしていないということよ」
「ああ、理想が高くいらっしゃるんだね」
「そんな嫌味ないい方は、よしてよ」
「はいはい」
章一は、ペロリと舌を出した。
「わしは、今のぼるがいった、男なら誰でもいいというような安っぽい交際をしないという説には、大賛成だな。父親として、ぜひ、そうあってもらいたいと思っている」
章太郎がいった。のぼるは、何んともいわなかった。
「といって、あんまり自重し過ぎるのも考えものだし、そのへんが難しいところなんだな」
「…………」
「わしはね、のぼる」
「はい」
「これで、こういうことを夢見ていたんだ。すなわち、いつかは、のぼるがわしの前に、一人の青年を連れてくるのだ」
「…………」
「その青年は、それほどの美男子でなくてもいいのだ」
「…………」
「また、お金持の息子でなくてもいいのだ」
「…………」
「ただし、真面目な青年であること」
「…………」
「この人生を誠実と熱情をもって生きようと考えていること」
「…………」
「そして、誰よりものぼるを愛してくれていて、その一生の幸福について、全責任を負おうと決心しているのだ」
「…………」
「お父さんが一目見て、ああ、この青年になら今日まで、掌中の珠玉として育てて来た娘を、安心してわたせる」
「…………」
「さすがに、のぼるに人を見る目があった」
「…………」
「そして、のぼるを選んだこの青年も、目が高いのだ」
のぼるは、うなだれたまま聞いていた。が、その横顔には、何かの感情に堪えているような気配がないでもなかった。章太郎は、それを横目で見ながら、
「いいかね、のぼる」
「はい」
「わしは、のぼるが、今いったような青年を連れて来て、お父さん、あたしは、この人と結婚したいのです、といい、青年の方でも、ぜひお嬢さんを僕に下さい、というようになるのではないか、いや、そうなってもらいたいものだ、と思っていたんだよ」
のぼるが答える前に、また、章一が、
「お姉さん、自信があるかね。ついでに、弟としての僕の希望をいわせてもらうと、大いに僕を可愛がってくれ、ときにはご馳走をしてくれたり、お小遣をくれたりして、僕が、心の底から、お義兄さんお義兄さん、といえるような人であってほしいね」
「章一は、もうしばらく、黙っていなさい」
「はい」
「のぼる。わしがさっきからいったことは、すべて理想論なのだよ。今ごろ、そんないい青年がいようとは、ちょっと考えられない」
「…………」
「が、わしの最小限度の希望は、二人が愛し合っていて、しかも、お父さんが、この青年となら、ときにはいっしょにお酒を飲んだりしたくなるだろうな、と思わせられることなんだよ」
「…………」
「ついでだからいっておくが、お父さんは、あと半年で、会社を停年退職する。このことは、前からいってあったはずだし、今さらことあたらしくいう必要もないのだが」
章一は、急に神妙になった。おすしは、腹いっぱい食べてしまったようだ。のぼるは、ちらっと父親を見たのだが、そこには、父親をいたわるような気持が流れていたようだった。章太郎には、それが感じられて、
(やっぱり、のぼるは、わしのことを心配してくれているのだ)
と、嬉しかった。
こういう娘であるだけに、よけい幸せにしてやりたいのであった。もし、心の中の何もかもをいってくれたら、どんな相談にも乗ってやるのに、と思っていた。しかし、さっきからののぼるを見ていると、たやすく口を開きそうになかった。が、章太郎は、いい機会なんだし、今夜は、娘の結婚について、平常から考えていたことをいってやるつもりでいた。
娘にとって、自分の親たちが、自分の結婚について、どのように考えているかを聞かされておくことは、決してムダではないはずである。いや、大いに必要なのだ。そのことが、娘の今後の行動に、ある指針をあたえるに違いないだろうから。
「停年後、どうするかは、まだ決めていない。が、遊んでいるわけにいかんことはたしかだ。もちろん、退職慰労金ももらえるのだし、わしが辞めたからといって、急に生活に大きな変化が起るわけではない。その点では、二人とも、ちっとも心配しなくていいんだよ」
二人は、うなずいた。
「章一は、大学へ行くこと。そのつもりで、大いに勉強すること」
「はーい」
「のぼるの結婚についても、身分相応の仕度をしてやるつもりでいる」
「はい」
「で、さっきのことに話を戻すと、お父さんは、これから老人になっていくばかりだし、要するに、この人生が淋しくなるわけだ」
「…………」
「お母さんが生きていてくれたらよかったのだが」
「…………」
「で、お父さんとしては、のぼるの結婚の相手として、そういうわしを理解してくれるような人であってもらいたいのだ」
「はい」
「いっておくが、わしは、そのために経済的な負担をかけたり、また、面倒なことを頼んだりしようとは、夢にも思っていないのだ」
「…………」
「しかし、わしが、このようにいったからといって、自分の結婚について、あんまりきゅうくつに考えてくれては困るのだ」
「…………」
「要は、のぼるが本当に幸せになってくれたら、お父さんは、それで満足なのだから」
「はい」
そこで、章太郎は、口調を変えて、
「どうも、さっきから話がいん気になり過ぎたようだな」
「いいえ、お父さん」
のぼるがいった。そのいい方には、さっきまでののぼるになかった、ある明るさが込められているようで、章太郎は、
(やっぱり、いっておいてよかったらしい)
と、思っていた。
「僕も、そう思いました」
章一がいって、
「僕、もう勉強しに行っていいですか」
「ああ、いいとも」
「ご馳走さまでした」
章一は、自分の部屋へはいって行った。おすしの三分の一ほどが残っていた。
「お父さん、もうお上がりになりませんの?」
のぼるがいった。
「わしは、結構。のぼるは?」
「あたしも十分です。ここ、片づけましょうか」
「それより、頭痛の方は?」
「だいぶん、いいようです」
「よかった。もし、眠くないのだったら、もうちょっとだけ、お父さんの話相手になってくれないか」
「はい」
のぼるは、浮かしかけた腰をおろした。
「また、さっきの話になるんだけどね」
「はい」
「今は、恋人がないとしても、そのうちに出来るかもわからない」
「はい」
「そのときには、なるべく早い目に、お父さんに見せてもらいたいのだ」
「はい」
「それとも、のぼるは、結婚の相手を、お父さんにまかせてくれるかね」
「まかせるって?」
「お父さんが探してくる」
「…………」
「じつをいうと、多少の心あたりがないわけでもないのだ」
「でも、お父さん」
「なに?」
「あたし、当分の間、結婚のことなんか、考えたくありません」
「どうしてだね」
「そんな気になれませんもの」
「そう、まだ、若いのだし、急ぐことはないのだ。せいてカスをつかんだりしては、一生の損だからな」
「そうよ、お父さん」
「だが、のぼる。あんまりのん気にしているのも考えものだよ。もちろん、わしは、いついつまでものぼるを手許においておきたいのだ。しかし、そういうことから婚期を遅らせるようなことがあっては、第一、亡くなったお母さんに申訳が立たぬ。冥土へ行ってから、あなたのせいですよ、とお母さんから叱られるかもわからぬ」
「まさか、お父さん」
「いやいや、わからんよ。生きている時だって、わしは、ずい分とお母さんに叱られた。死んでからまで、叱られたくないからな」
「でも、優しいお母さんだったわ」
のぼるは、その母親を思い出すような顔になっていた。
「のぼるは、今でも、お母さんが生きていてくれたらと思うだろう?」
「思うわ」
「わしだって。そして、わしにはのぼるや章一にとって、父親であると同時に、母親の役目もつとめなければならぬ義務があるわけなんだ。いいかね、のぼる」
「はい」
「これからいろいろの問題にぶっつかって、泣いたり、悩んだりしなければならぬことが、たくさんあるだろうと思うのだ」
のぼるの顔色が、かすかに変ったようであった。
「いってみれば、そういう年ごろなのだ。だから、もしそういうことが起ったら、お母さんにいうつもりで、お父さんにいってほしい。もちろん、お父さんにお母さんの代役はつとまらないだろうが、しかし、だからといって黙っていられては、お父さんとしては辛いし、心配になるばかりだ」
「はい」
「のぼる。今夜、何かあったのではないのか。どうも、お父さんには、そのように思われて仕方がないのだが」
のぼるは、ぎくっとしたように父親を見たのだが、じいっと自分を見つめている父親の目に気がつくと、あわててそらした。その横顔には、明らかに感情の動揺が現われていた。
(やっぱり、であったのだ)
章太郎は、下唇をかみしめたくなっていた。同時に、何んとしてでも、その内容を知りたいものだと思った。
「のぼる、どうして黙っているのだ」
「だって、別に……」
「別に?」
「何も、なかったんですもの」
「本当に?」
「はい」
「そうか」
章太郎は、ため息をつくようにいって、
「それなら、これ以上、聞かないことにしておこう。お父さんだって、無理に聞きたいわけではないのだ」
「…………」
「ただ、こんなことをいうのも、のぼるが可愛いからだよ。お母さんがいないので、いっそうのふびんがかかるのだ」
「…………」
「何んとか、幸せになってもらいたいし、してやりたいからだ」
「…………」
「そのためには、お父さんで役立つことなら、どんなことでもしてやりたい、と思っているのだ」
のぼるは、うなだれたままで、そっと目頭をおさえた。章太郎は、抱きしめてやりたいほどのいじらしさを覚えた。
「お父さんは、いつまでも生きているわけでない。まだまだ、二十年も三十年も生きていたいのだ。しかし、明日にも交通事故で亡くならんとも限らない」
「いやよ、お父さん、そんなこと」
「お父さんも、もちろんいやさ。が、いつだって、それぐらいのことを考えて、あとに残るのぼるや章一の今後を心配しているんだよ」
「はい」
「いいたくないのなら、いわなくてもいい。が、そのうちにいいたくなったら、お父さんにいってもらいたいのだ。叱りつけたりはしないつもりだから」
「はい」
「はっきり、いっておこう。お父さんが、今夜このようにしつっこくいうのは、のぼるが、さっき家の前で、泣いていたらしいのを遠くから見たからなんだよ」
のぼるは、口の中で、あっといったようであった。
「ただごとには、思われなかった。そのあと、お父さんは、何んにもお土産を持っていないことに気がついて、わざわざ駅前まで引っ返して、このおすしを買って来たのだ。要するに、のぼるが哀れで仕方がなかったからだ」
「お父さん、すみません」
「何もあやまることはないんだよ。もう遅くなった。明日の会社がある。とにかく、今夜は、このまま寝るとしよう」
「はい」
章太郎は、寝床の中でうつぶせになって、煙草を吹かしていた。
さっき、柱時計が一時を打った。章一も寝た。が、章太郎には、のぼるが二階で、まだ起きているように思われていた。そういう気配がしていた。
結局、章太郎は、のぼるから何も打ち明けてもらえなかった。そのことが、心残りであった。しかし、あれだけ、父親としていいたいことをいっておいたのだから、と思っていた。過去は仕方がないとしても、のぼるは、自分の今後の行動について、父親の思惑をいつも頭の中に入れておいてくれるだろう。
章太郎は、最後に念を押しておいた。
「のぼる。これだけは頼んでおくのだが、結婚前に間違いを起してくれるなよ」
「間違い?」
のぼるは、いぶかるように父親を見たのだが、すぐにその意味をさとったらしく、ぱっとあかくなって、
「あたしって、そんな娘だと思ってらしったんですか」
と、抗議するようにいった。
「いや、わしは、のぼるを信用しているんだが」
いいながら章太郎は、
(のぼるは、間違いを起していない!)
と、信じることが出来た。
章太郎は、ほっとした。ある意味で、今夜は、そのことをいちばん聞きたかったのである。
(間違いさえ起していなかったら、何んとでも取返しがつく)
父親としての本音でもあったろうか。父親にとって、娘の精神も大事だが、肉体もそれに劣らぬくらい大事なのであった。ましてや、結婚前の娘なのである。がしかし、これがもし、章一のことであったら、肉体的なことについて、それほど心配しなかったであろう。こういう問題では、たいてい男は加害者であり、女は被害者なのだから。それに気がついて、章太郎は、
(人の親って、勝手なものだなァ)
と、苦笑をもらした。
章太郎は、煙草を灰ざらの中にもみ消すと、ついでに、まくら元の電気スタンドのスイッチをひねった。目を閉じると、新宿のすし屋の二階の同窓会以来のことが、いろいろと思い出されてくる。のぼるのことで、しばらく忘れていた停年退職のことが、またしても重荷になって来た。
(すべては、明日からのことにしよう)
章太郎は、そうと決めて、寝返りを打った。
階段を降りてくる足音が聞えて来た。のぼるに違いなかった。便所へでも行くのであろう。それにしては、忍ぶような足音であった。しかも、その足音が、章太郎の寝ている部屋のフスマの向うでとまったのである。
章太郎は、目を開き、外の気配をうかがった。のぼるも、内の気配をうかがっているらしいのだ。章太郎は、こちらから声をかけようとして、そのきっかけを失したような気持でいた。
「お父さん」
やがて、のぼるの低い声が聞えて来た。
章太郎がとっさに返辞出来ないでいると、
「お父さん、もうお休みになりましたの?」
と、のぼるは、重ねていった。
「のぼるか、どうしたのだ」
「ちょっと……」
「入っておいで」
「いいえ、外からでいいんです」
「…………」
「さっきは、いろいろとすみませんでした」
「お父さんは、わかってさえくれたら、それでいいんだよ」
「本当に、ごめんなさい」
「別にわびる必要はないのだ」
「これをあとでお読みになって下さい」
「これ?」
「これです」
のぼるは、フスマを細目に開いて、その間から何かを入れたようであった。
「ああ、いいとも」
「それから章一さんにはいわないで下さい」
「いわないよ」
フスマは、閉められた。
「お父さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。カゼを引かないように温かくして寝るんだよ」
「はい」
のぼるの足音が階段を上って行き、自分の部屋へ入って行った。章太郎は、それをたしかめてから、電気スタンドのスイッチをひねった。フスマのすその近くの畳の上に、一通の封筒がおいてあった。章太郎は、腕をのばして、それを取った。
封筒の表に、
「お父さま」
と、書いてあった。
裏に、
「のぼるより」
と、書いてあった。
それを見つめながら章太郎は、胸を騒がしていた。急いで、中身を取り出して、灯の方へ近寄せた。
「お父さま。
今夜は、ご心配おかけして、申訳ございません。
のぼるは、失恋してしまったのです。さっきは、どうしてもそのことをいえなかったのです。でも、お父さまからいろいろといって頂いて、本当によかったと思っております。
今は、まだ元気がありませんが、そのうちにきっと元気になります。
失恋の内容については、当分の間、お聞きにならないで下さい。元気になったら、きっともうし上げますから。口ではいえないので、こんなお手紙を書きました。では、おやすみなさい。
[#地付き]お父さまののぼるより
のぼるのお父さまへ」
読み終って、章太郎は、あらぬ方へ視線を投げた。しばらくそうしていてから、もう一度、繰返して読んだ。
章太郎は、その夜、のぼるの手紙をふところに抱きしめるようにして寝た。
[#改ページ]
課長
「お早うございます」
「お早うございます」
章太郎が厚生課の部屋に入って行くと、課員たちは、中腰になっていった。
「ああ、お早う」
章太郎は、窓を背にした課長席に着いた。窓の外には、よく晴れてさわやかな春の空が見えていた。
壁の電気時計は、九時五分前をしめしている。課員のほとんどの顔が揃っている。が、仕事をしている者はなかった。新聞を読んだり、お茶を飲んだり、煙草を喫っていたりして、目下待機中とでもいう格好である。女事務員が三人、重なり合うようにして、机の上の本をのぞき込んでいる。いつも見なれた眺めであった。
(しかし、こういう眺めとも、あと半年でお別れなのだ)
そして、この机とも……。
章太郎は、昨夜の同窓会の席上で、昨日停年になった長岡が、人々の帰ったあとのガランとした事務室で、明日からは他人の机となるその机をなぜて、うっすらと涙ぐみながら別れを惜しんだ、という言葉を思い出していた。
(きっと、俺だって、そうするだろう)
章太郎は、卓上カレンダーをめくって、九月一日を出した。そこへ、赤鉛筆で、
「停年退職」
と、書き、更に、八月一日のところに、
「停年退職一カ月前」
と、書いた。
七月一日のところには、停年退職二カ月前と書きたいくらいだったが、さすがにそれは思いとどまった。
(この八月一日のころには、停年退職後の方針について、何んとか決っているだろうなァ)
ぜひ、そうあってほしいのだった。そのころになっても、嘱託としての延長も認められず、次の就職口も決っていなかったら、悲惨である。あせっているだろう。そして、そういう自分を、課員たちは、どんな目で眺めるかわからないのだ。幸いにして、今のところはまだ、課員たちの章太郎を見る目に、特別の変化はないようだった。しかし、これからは日に日に微妙な変り方をしていくものと覚悟しておくべきだろう。
(だからといって、俺は、虚勢を張りたくないし、卑屈にもなりたくないぞ)
出来得るなら、淡々として、停年退職の日を迎えるようになりたいものであった。しかし、そのためにも、昨夜決心しておいたように、停年退職後の生活のために、一日も早く必死の工作をしておく必要があるのだ。
一口に五十五歳で停年退職というが、満五十四年と一日で停年になる会社もあれば、章太郎の会社のように、満五十五年いっぱいおいてくれる会社もある。
さらに、近ごろでは、たとえば、四月一日とか、あるいは、十二月三十一日とかの日を決めておいて、その前一カ年に五十五歳を迎えた者をいっせいに退職させる会社もすくなくない。そして、そういう場合、合同の送別会がおこなわれたりする。
その送別会には、社長以下が出席し、在職中のご苦労に対して謝意を表し、記念品を贈るのである。考えようによっては、あるいは、当然のことであろう。
何故なら、停年退職者とは、その会社にとっての恩人のはずなのである。そういう人たちの過去の努力があったればこそ、今日の会社があるのだから、といっていえないことはないのだ。その恩を、あだやおろそかに思うようでは罰があたる、とでもいっておこうか。停年退職者を大事にしないような会社は、結局、大発展はのぞまれないとも……。
ついでだから書いておくと、ある会社では停年退職者を次のように遇して、好評を博している。
すなわち、停年退職の日が近づくと、会社で過分の旅費を支給して、夫婦で、好きなところへ旅行させるのである。もっとも、部長クラスだと一週間、課長クラスで五日間、そして、それ以下だと、社員が引率して、十組ぐらいが集団で、三、四日、旅行することになっている。
これは、本人たちよりも、奥さん連中に喜ばれているらしい。夫婦で、そんな気楽な旅行をするなんて、新婚旅行以来、という人もすくなくない。
集団旅行の場合、晩の食事は、みんなが集まって、ということになる。酒が出る。奥さん連中も、つい飲むようにすすめられる。中には、酒を飲んで、すっかりはしゃいだ奥さんが、主人のとめるのもきかないで踊り出し、他の奥さんたちは、それに手拍子ではやし、男たちを閉口させた、というような微笑ましいエピソードも伝えられている。
そういう旅行があって、社員たちの停年退職の日を迎える腹が、しぜんに決ってくるようだ、ともいわれている。
ところで、章太郎の勤める東亜化学工業株式会社には、そういう制度はなかった。このまま、ずるずるべったりに停年退職の日を迎えなければならないのであった。
会社は、丸の内のKビルの三階と四階にあり、厚生課は、その三階なのである。課員は、およそ二十人。
章太郎は、課長になってから七年目なのだが、課長の中でも、古株になっていた。いっしょに課長になりながら、すでに取締役部長になっている男もいるというのに。
「お早うございます」
女事務員の小高秀子がお茶を持って来た。
「有りがとう」
章太郎は、卓上カレンダーが、停年退職一カ月前と朱記された八月一日のままになっていることに気がついて、あわててそれを今日の日に戻しながら、
「小高さんは、いつ入社したんだったっけ?」
と、秀子の顔を見た。
「二年前です」
「すると……」
章太郎は、あとの言葉をにごして、
(のぼるとおんなじなのだ)
と、思った。
昨夜、のぼるからもらった手紙は、章太郎の洋服の内ポケットに、貴重品のように大切にしまってあった。あとで、ゆっくりと読み返して、今後のことについて、考えてみるつもりでいた。
けさは、のぼるといっしょに朝ごはんを食べたのだが、いつもとそれほど変っていないようだった。しかし、何んとなく父親の目を避けたいふうであったし、昨夜の手紙のことに触れてもらいたくないようでもあった。
食事が終ると、のぼるは、
「ご馳走さま」
と、いうと早々に立った。
章太郎としては、せめて、
「読んだよ」
ぐらいのことを、いたわるようにいっておきたかったのだが、結局は、いえないで終ってしまった。
しかし、今となってみると、それをいわなかったことが、心残りにもなっていた。
(要するに、のぼるは、一人で失恋の痛手に堪え抜いていこうと、一所懸命になっているのだ)
けなげであるが、父親としては、可哀そうに、という感情の方が先に立つ。二度と、昨夜のような思いをさせたくなかったし、自分もしたくなかった。
(そのためにも、坂巻広太君を家に遊びにこさせた方がいいのだ)
坂巻広太も、失恋中といっていた。どういう失恋をしたのかは知るよしもないが、いまだに、その相手にみれんを残しているようでは困るけれども、昨夜の様子では、そうでもなさそうであった。
もし、失恋同士の間に、ほのぼのとした恋愛感情が芽生えて来たら、たとえば、快癒期の病人が、お互いにいたわり合うように、却ってうまくいくかもわからないのである。章太郎は、のぼるのためにも、ぜひそうあってほしいと思っていた。
のぼるは、章太郎よりも一足先に家を出た。そのあと、章太郎は、
「近頃ののぼるの態度に、何か変ったところがなかったかね」
と、お手伝の民子に聞いた。
「と、おっしゃいますと?」
民子は、いぶかるように章太郎を見た。七年もいるので、準家族のようになっていた。当分の間、辞めるとはいわないだろう。また、辞められては困るのだ。章太郎としては、そういう待遇をしているつもりだった。
民子は、背たけはふつうだが、顔がまずく肥っている。平常はいいのだが、月に一度ぐらいは荒れることがある。どしんどしんと家の中を歩き、戸のあけしめが乱暴になり、瀬戸物の一枚や二枚は割る。章太郎が言葉をかけても、ロクに返辞をしないことすらある。
矢沢家では、これを、
「民子さんの低気圧」
と、呼んでいた。
が、放っておけば、一日か二日で、ケロリと元の状態になる。よく働いてくれるし、何よりもいいのは、のぼるや章一に対して、親身であることだった。近ごろでは珍しい忠義者とでもいおうか。
「何んといっても、年ごろの娘だからね」
章太郎がいった。
「そうですとも」
民子がいった。
「たとえば、わしの留守中に、男から電話がかかって来たり、あるいは、男から手紙が来ていたり」
「いいえ」
「ならいいんだ。しかし、今後は、注意していてもらいたい」
「かしこまりました。ところで、この際ですから、旦那さまにお願いがあるんですが」
「何んのことだ」
「お嬢さんのお見合いの席には、ぜひ私も同席させていただきたいのです」
「どうしてだね」
「私は、これでも男には苦労しております。だから、男を見たら、この男がいい亭主になるか、悪い亭主になるか、たいがいの見当はつくつもりです」
「…………」
「お嬢さんに悪い男と結婚してもらいたくありません」
「そうなんだよ」
「ですから、私の意見も大いに参考にしていただきたいのです」
「わかったよ。しかし、お見合いの席に、お手伝を連れていくという例が、世間にあるだろうか」
章太郎は、笑顔でいった。が、民子は、大真面目に、
「あってもなくても。私からもお嬢さんにお願いしますよ」
「まァ、その節は、よろしく頼む」
「もっとも、フスマの隙間から、そっとのぞかせていただいてもいいんですよ」
「しかし、のぼるが、見合結婚でなく、恋愛結婚をするのであったら?」
「私は、その相手を首実検いたします。そして、ダメな男とわかったら、お嬢さんに意見して上げます」
「そんなことをしたら、のぼるにきらわれるかもわからないぞ」
「いくらきらわれても、お嬢さんの一生の幸せにはかえられませんからね」
いぜんとして、民子は、大真面目であった。もし、この民子に、のぼるが失恋をしたのだ、といったら、血相を変えるかもわからない。しかし、のぼるは、章一にも内緒にしておいてくれ、といっていたのだ。
「そういう意味からも、今後ののぼるの身辺に、それとなく注意していてもらいたいのだ」
「はい」
「そして、すこしでも変だと思われるところがあったら、のぼるにではなく、直接このわしにいってもらいたいのだよ」
「わかりました」
民子は、ごきげんだった。重大なことを頼まれたようで、うれしかったのであろう。章太郎にしたところで、家に民子がいてくれることが、心強くもあり、有りがたいのであった。
「あの、何か……」
小高秀子がいった。
章太郎は、秀子を前に立たせたままで、勝手にのぼるのことを考えていた自分に気がついた。
「失敬」
「いえ……」
章太郎は、あらためて、秀子を見た。それほどの美人ではなかった。ほんのすこしだが、そばかすもある。美しいという点では、あるいは、のぼるの方が上かもわからない。そのかわり、秀子の方が大柄で、のぼるよりも大人びている。すっかり、一人前の娘になっているようだ。しかし、のぼるだって、会社では、同じく一人前の娘としてながめられているかもわからないのだ。
とにかく、この年ごろだと、実が熟するように、日に日に、成熟していくのである。目の前の秀子にしたところで、二年前に入社したころには、およそアカぬけせず、色も黒かったし、固いつぼみのような感じであったのだ。章太郎は、そのことをまるで昨日のように記憶していた。
「妙なことを聞くけどね」
章太郎は、つくり笑顔でいった。
「はい」
「もう恋人があってもおかしくない年ごろだ、と思うのだが」
「あら」
秀子の顔に、ぱっと朱の色が散った。ために、おもわぬ色気のようなものが感じられて、章太郎は、とまどったくらいであった。
「どうやら、図星らしいね」
「だって……」
秀子は、うわ目で章太郎を見た。
「いいんだよ。ただしね」
そこで章太郎は、一呼吸を入れて、
「ご両親に心配をかけるような恋愛だけはしないことだよ」
「…………」
が、秀子の顔が、とたんにくもったようであった。だけでなしに、下唇をかみしめたのである。
(おや?)
章太郎は、そう感じさせられたのである。悪い予感、といってもいいものだった。
(ここにも、不幸な娘が一人いるのではなかろうか)
すくなくとも、そうなる可能性のある恋愛をしているようだ。とすれば、このまま放っておいていいものかどうか。みすみす、不幸になるとわかっているのなら、話を聞いて、何んとかしてやりたかった。
章太郎は、あとで秀子を別室へ呼んで、という気になりかけたのだが、
(しかし、おれは、課長に過ぎないのだ。しかも、半年後には、停年退職者として、この席から去って行かねばならぬ……)
と、思い直した。
正直にいって、今は、のぼる一人のことで、せいいっぱいなのである。とても、他人の娘のことにまでは、かまっていられない。また、自分の娘のことを放っておいて、他人の娘のことに口を出したりしたら、お節介に過ぎるとわらわれるだけだろう。
秀子にしたところで、そういうことを全く期待していないだろうし、却って迷惑に思うに違いないのである。
「どうか、気を悪くしないでもらいたい」
「…………」
「じつは、僕にも、君と同じ年ごろで、やはり勤めに出ている娘があるので、つい、老婆心からいいたくなったのだから」
「はい」
秀子は、神妙に頭を下げて、引っ返して行った。そのうしろ姿には、かならずしも平静でないものが漂っているようであった。
章太郎は、秀子の持って来てくれたお茶をすすった。すでに、九時になっていて、課員たちは、仕事にかかりはじめていた。九時になるのを待っていたように、電話がかかってくる。こちらからもかけている。人の出入りも多くなってくる。事務室の空気は、徐々に騒々しくなり、活気を帯びていくようであった。
(会社は生きているのだ)
これは、いつだって、章太郎が感じさせられることだった。そして、厚生課においては、あくまで、章太郎が中心なのである。課長席にいると、そういうプライドを感じさせられるのだ。
章太郎の机の上の未決|函《ばこ》の中に、書類が運ばれてくる。章太郎は、その決裁をあとにまわして、課員の一人一人の顔をながめていった。今日は、いつもよりも念を入れていた。そういう心境になっていたのである。
課員のうちの約半数は、この七年間、章太郎の部下として通して来た連中なのだ。それだけに、情がうつるというものであろう。
が、同じ部下の中でも、可愛いと思う者と、そうでない者とがあった。相手の態度にもよるが、人間の好ききらいというものは、どうにも仕方のないものである。しかし、章太郎としては、努めて、そういう個人的な感情を外に現わさないようにして来たつもりであった。
結核のために長期欠勤をしている畑田の席は、今日も空席になっていて、その机の上に、古経済雑誌などが積み重ねてある。当分の間、出勤してこないものと、人々から思い込まれている証拠であろう。
章太郎は、秀子を見た。ちょうど秀子が、章太郎の方を盗むように見ていたところだった。あわてて、視線をそらした。それは、あたかも、不幸な恋愛の内容を、章太郎に知られているのではなかろうか、と気にしているからのようであった。
章太郎の目は、最後に課長代理の平山要一の横顔にとまった。
平山要一は、課長代理三年目で、四十九歳だった。章太郎は、そのころには、すでに課長になっていた。だから、平山は、一日も早く、課長になりたがっているに違いなかろう。その意味では、章太郎の停年退職の日を、だれよりも心待ちにしている男、ということになりそうである。そして、平山が課長になったら、次の課長代理になる可能性のある寺島深二も。
しかし、二人が、そのように順当に昇進するためには、昨夜、坂巻広太がいっていた社内の派閥ということも、頭に入れておく必要がありそうである。
章太郎は、その過去、社内の派閥ということに、どちらかといえば無関心に過して来たせいもあって、課員たちをそういう目で眺めたことは、ほとんどなかった。
しかし、坂巻広太の言葉をそのまま信用すれば、課員の中に、すでに福井派か、横山派に属していて、その家へ伺候したりしている者もいるかもわからないのである。そしてまた、平山は、章太郎のあとの課長になることをより確実にしておくために、どちらかの派に働きかけている、ということも考えられるのだ。同じことが、寺島についてもいえそうである。
(要するに、俺は、派閥については、ツンボサジキにおかれていたことになるらしい)
特別の不満はなかったが、多少淋しくないこともなかった。何故なら、どちらからもそういう呼びかけがなかったということは、最早会社では無用な人間として眺められていることになりそうだから。
(坂巻君は、どのように決心したろうか)
それも気になっていた。もしかしたら、のぼると結婚することになるのだ。とすれば、無関心でいられなくなってくる。坂巻広太の一生は、そのまま、のぼるの一生に密接な関係が出来てくるのである。
章太郎は、洋服の内ポケットにしまってある昨夜ののぼるの手紙を取出した。読み返しているうちに、あらためてのぼるが可哀そうで仕方がなくなってきた。
(いまごろ、どうしているだろうか)
のぼるは、虎の門の赤倉商事株式会社に勤めているのだった。
(せめて、人前だけでも、めそめそとしないで、はきはきと仕事をしていてくれたらいいのだが)
章太郎は、そのことを電話でいってやりたいくらいだった。しかし、そんなことをしたら、却って嫌われそうである。やはり、本人の希望したように、当分の間、黙っていてやる方がいちばんいいようだ。
章太郎は、のぼるの手紙を、鍵のかかる曳出しの中にしまった。その曳出しの中には、会社の重要書類のほかに、ちょっと家へ持って帰られぬようないろいろの私物が入っている。たとえば、写真とか、手紙とか……。
もっとも、今の章太郎は、妻に亡くなられているので、何を家へ持って帰ろうが平気だが、かつては、やはり妻の目を恐れなければならなかった。その意味では、会社の曳出しとは、まことに重宝であった。これは、世のすべてのサラリーマンが認めていることであろう。その証拠に、ある停年退職者が、
「明日からいよいよ月給をもらえぬのだと思うと、ぞうと寒気がした」
と、いったほかに、
「会社の机の曳出しがなくなるということが、実に不自由だし、残念だよ。もっとも、これを機に、生活を改めよ、ということになるかもわからないのだが」
と、実感をこめて述べている。
机の曳出しのほかに電話も、といっておくべきであろう。
「課長」
課長代理の平山が寄ってきていった。
「なんだね」
章太郎は、平山を見上げながらいった。
「ちょっと、応接室までお越し下さいませんか」
「応接室へ?」
「お耳に入れておきたいことがあるんです」
章太郎は、うなずいた。事務室でははばかるような話は、応接室ですることになっていた。たいてい、いい話ではないのである。
「先に行っていてくれないか。僕は、この書類を片づけて、すぐに行くから」
「では、二号応接室で、お待ちしております」
「わかった」
平山は、そのまま事務室から出て行った。章太郎は、未決函の中から、書類を取出した。簡単な問題ばかりだったので、すぐに決裁が出来た。
章太郎は、煙草を持って、廊下に出た。向うから坂巻広太が歩いてくる。広太は、ぴょこんと頭を下げて、
「お早うございます。ゆうべは、どうもご馳走さまでした」
「いいよ。どうだ、近いうちに、またいっしょに飲まないか」
「喜んで」
「ところで」
章太郎は、周囲を見まわして、人目のないことをたしかめてから、
「君が昨夜いっていた横山会に誘われたという話、どうした?」
広太は、とたんに憂鬱そうな苦笑をもらして、
「いろいろ考えたんですが、まだ結論が出ていないんです」
「だろうなァ」
「もうちょっと考えてから返辞をするつもりです」
「その方がいいだろう。一生にかかわる問題になりかねない」
「結論が出たら、ご相談に上がりたいのですがかまいませんか」
「僕でよかったら」
「お願いします」
広太は、頭を下げて、章太郎からはなれて行った。章太郎は、それをしばらく見送っておいて、二号応接室の方に向った。
(いい青年だな)
一日も早く、のぼるに会わせたかった。のぼるが、どういう事情で、どういう男に失恋したのかはわからないが、広太以上の男であろうとは思われない。その意味でも、広太のような男のいることを、のぼるに知らせておいてやりたいのであった。
もっとも、こういうのは、父親の愛情、というよりもエゴイズムということになるのかもわからない。また、章太郎が、いくら広太を気に入っていても、のぼるの好みに反していたら、これまた、問題にならないのである。章太郎にしても、好みに反している男を押しつけようとの気は、毛頭なかった。
章太郎は、二号応接室のドアにノックしてから入った。平山は、煙草を吹かしながら待っていたのだが、章太郎を見ると、
「どうも」
と、頭を下げた。
章太郎は、平山の前の椅子に掛けて、
「いったい、どうしたんだね」
「お耳に入れないでおこうかとも思ったんですが」
「なんのことなのだ」
「さっき、課長が、小高秀子に、もう恋人があってもおかしくない年ごろだ、というようなことをおっしゃっていたでしょう?」
「いった」
「あのことについてなんです」
「というと?」
「あんまりいい話ではないのです。ですから、停年にお近い課長には、黙っていた方がいいとも思ったんですが」
停年に近い、という言葉が、章太郎の胸に強く応えた。平山にすれば、当然のことだし、何気なくいったのであろうが、章太郎には残酷な言葉に聞えた。
(この男は、やっぱり、俺が一日も早く停年退職することを待っているんだな)
そのようにひがみたくなってくる。しかし、章太郎は、そのひがみを、微笑に変えながら、
「そう、僕は、あと半年で、たしかに停年になる。しかし、それまでは、課長なのだ。課長である間は、課員たちのことについて、何も彼も知っておきたいし、またその義務があるように思っている」
そこで、章太郎は、煙草に火を点けて、
「小高秀子が、どうかしたのかね」
「さっき、課長は、どのようにお感じになりましたか」
「ご両親に心配をかけるような恋愛だけはしないことだよ、といったら、僕の気のせいか、あの娘の顔色がくもったように感じられたな」
「それなんですよ」
「どういう意味だね」
「要するに、結婚の見込みのない恋愛をしているんです」
「相手は?」
「妻子があるんです」
「そりゃァいかん」
章太郎は、眉を寄せた。同時に、
(まさか、のぼるも、そんな相手と恋愛していたわけではあるまいな)
と、思った。
のぼるに関する限り、そんなバカな恋愛をするとは思わなかった。しかし、不安だった。それだけに、小高秀子の恋愛についても、放っておかれないような気がするのだった。
「いけないですとも。が、小高秀子は、すっかり夢中らしいんです。どうやら、いっしょにホテルへ行ったりしているようなんです」
「ホテルへ?」
「しかも、遊びではなく、本気で結婚する気でいるらしいんです」
「しかし、相手には、妻子があるんだろう?」
「ところが、相手は、そのうちに妻子と別れるといっているらしいんです」
「実に悪質な男だな」
章太郎は、憤りを込めていって、
「どこの男なんだ。会社の内部の男か、外部の男か。どちらにしても、許せない」
平山は、章太郎の剣幕の荒さに、ちょっとびっくりしたようであった。あるいは、
(困ったもんだな)
ぐらいのことで、逃げてしまうのではないか、と思っていたのである。とかく、停年退職の日が近くなると、たいていの者は、その日その日を事なかれと過したがるのだ。この会社にも、そういう前例がたくさんあった。しかし、章太郎は、違っているようだ。たのもしいかもしれないが、年がいもなく多少血の気が多すぎるとでもいおうか。
平山は、自分からこの話を章太郎の耳に入れたのであったことを忘れたように、そんなことを思いながら、
「外部の人間です」
「外部か……」
章太郎は、一応のところ、ほっとした。この会社に、そういう不届きな男がいなかったのだと安心した。
しかし、この問題の処理には、内部の人間が相手であるよりも、外部の人間が相手であった場合の方が、却って困難がともなうようだ。あらかじめ、そのことを覚悟しておくべきであろう。
「このまま、放っておいてもいいのでしょうが」
平山がいった。
「いや、放っておくわけにいかんだろう」
章太郎は、押し返すようにいった。
「と、おっしゃいますと?」
「要するに、このままにしておいてはいかんということだ」
「…………」
「君に、年ごろのお嬢さんがあったっけ?」
「いえ、男の子ばかりです」
「ところが、僕には、小高秀子と同じ年ごろの娘があるのだ」
「存じています」
「もしもだよ、万に一つだよ」
「はい」
「その娘が、小高秀子と同じようなことをしているとしたら、僕は、黙って見逃すわけにいかん」
「そりゃァわかりますが」
「恐らく、小高秀子の両親は、何んにも知っていないだろう」
「と、思います」
「とすれば、この際、課長である僕が乗り出すより仕方がないじゃァないか」
「…………」
「こういう僕の考え方は、おかしいかね」
「いえ……」
「自分の部下が、みすみす不幸になるとわかっているのを知っていて放っておくということは、僕には出来ないのだ」
「…………」
「君たちは、どう思っているか知らないが、過去の僕は、課員たちのプライベイトの問題については、なるべく触れないようにして来たつもりなのだ」
「それは、認めます」
「しかし、小高秀子の問題については違う、と思うのだ。どこがどう違うかは、自分にもうまく説明出来ないのだが、いってみれば、僕の心の声が、放っておいてはいかん、とささやいているのかもわからない」
まるで、何かにつかれたようにしゃべる章太郎を、平山は、持て余し気味で見ていた。もちろん、章太郎には、それが感じられていた。そして、心の中で、
(今日の俺は、すこし異常かも……)
と、思っているのだった。
もし、昨夜、のぼるのことで、あんな思いをしなかったら、章太郎は、こんなにムキにならなかったに違いない。が、章太郎は、のぼるを失恋させた男が憎らしいように、小高秀子に甘言をろうしてだましている男が、憎らしくて仕方がないのであった。
あと半年で停年退職になるのだし、聞かなかったことにして放っておけばいいのだ、と思わぬでなかった。いや、大いに思っているのだ。が、別の声は、
(いや、あと半年だからこそ、部下の幸せのために、大いに働いておくべきなのだ)
と、いっているのだった。
それこそ、人間としての正しい生き方であるとも……。
「しかし、放っておけないとおっしゃいますと、どういうふうに?」
「問題は、そこだな」
章太郎は、すこし冷静になったように苦笑をもらして、
「相手は、どういう男なのだ」
「東銀座にある塩野建築設計会社の技師で、井筒雅晴というんです。三十五歳とか……」
「娘ごころをそそるような職業なんだな」
「そうなんです」
「しかし、その話は、間違いないんだろうね」
「間違いありません。小高秀子が若松成子にしゃべったんです」
若松成子というのは、同じく厚生課勤務なのである。
「どうして、そんなことをしゃべったんだろう」
「二人がホテルから出てくるところを、見られたんです」
「悪いところを見られてしまったんだな」
「で、若松成子が、冷やかし半分に非難したら、本人は、どうせ結婚する気でいるんだから、と」
「結婚か」
「若松成子が、寺島君にいったんです」
「寺島君から君に?」
「いえ、その前に、寺島君が心配して、小高秀子を別室に呼んで、それとなく意見したら、逆に放っておいてもらいたい、と開き直られてしまったらしいんです」
「開き直ったのか」
「そんなことをいうのは、プライバシイの侵害であるとかいって」
「プライバシイか」
章太郎は、渋い声でいった。
「それで、寺島君は、頭をかいて引下がったというんですが、そのとき、小高秀子が、私からさっき申し上げたようなことをしゃべったんですから間違いありません」
「それを、君が寺島君から聞いたというわけだな」
「そうなんです。寺島君は、近ごろの娘にはかなわんといっておりました」
話を聞いているうちに章太郎のせっかく気負っていた気持に、水をさされたことはたしかであった。面倒臭いような気分になっていた。こんなことなら、さっき、平山にあんな偉そうな口を利かなければよかったのである。
しかし、一方で、そういうことなら、ますます放っておくわけにいかん、という気の強くなっていることもたしかであった。
章太郎は、ふっと十年後の自分を想った。
そのころは、昨夜も思い描いたように、のぼるは嫁ぎ、章一もまた、自分の許から去って、独立の生計を営み、自分は、朝から晩まで、じいっと庭を見つめているような孤独な老人になっているかもわからないのである。恐らく、思うことは、過去のことばかりであろう。
(おれは、六十五歳になる今日まで、いったい何をして来たろうか)
そういう疑問もわいてくるに違いない。そして、そのとき、今日のことを思い出すのである。
(もし、このまま放っておいて、そのため、小高秀子が不幸になったとしたら……)
きっと、胸に痛みを覚えるに違いないのである。
(ちょっとした労を惜しんだばかりに……)
そうも思って後悔するだろう。
もちろん、このまま放っておいて、小高秀子が不幸になるとは決っていない。案外、相手の井筒雅晴も真剣でいて、そのため、大きな幸せをつかむ場合だって、考えられるのである。しかし、常識として、そういうことは、百に一つの例でしかあり得ないはずなのだ。あとの九十九は、不幸な結末に終る。
もっとも、世間には、そういう不幸な結末を活かし、より大きな幸せをつかんだ、という例だってありそうだ。しかし、だからといって、小高秀子がそうなるとの断定は出来ないのである。
章太郎は、あれを思いこれを思いしているうちに、やっぱりこのまま放っておくべきでないと思った。そして、十年後に、
(俺は、会社の仕事では、たいしたことが出来なかった。しかし、あのとき、小高秀子のために骨を折ってやった。そのため、彼女からはいちじは恨まれたが、結局は、感謝された。彼女は、その後、幸福な家庭生活に入ることが出来た。俺のしたたった一つのいいことだった……)
と、思うようになりたいのである。
あるとき、銀座かどっかで、ひょっこり小高秀子に会うのだ。その横に、良人《おつと》がいる。もちろん、井筒雅晴なんかではない。そして、秀子は、子供の手をひいている。父親似のかわいい子供なのだ。
秀子は、章太郎を見ると、
「あなた、あたしが勤めていたころに、とってもお世話になった課長さんですよ」
と、良人に紹介する。
「やァ、よろしく。お幸せそうで、何よりです」
さりげなくいって、章太郎は、別れてくる。ついでに、
「とってもかわいい」
と、子供の頭をなぜてやってもいいのだ。
章太郎の決心はきまった。今のところ、具体的にどのように動くべきかの案は、まだ出ていなかった。しかし、何んとかしてみよう、と思っているのだった。
「どうなさいますか」
黙り込んだ章太郎の顔を見ながら平山がいった。章太郎は、それを見返して、
「とにかく、この問題は、僕にまかせておいてもらおう」
「それは、もう……」
「そして、このことがこれ以上、社内の噂のタネにならないようにしてもらいたいのだ」
「かしこまりました」
平山は、ほっとしたようにいった。
「ところで、話は、違うのだが」
章太郎は、口調を変えて、
「さっきもいったように僕は、あと半年で停年になる」
「そのことで、課員たちで話し合っているのですが」
「どういうふうに?」
「お別れに、みんなで一泊旅行でもしたらどうであろうか、と」
「そりゃァ有りがたいね」
章太郎は、笑顔でいったが、内心ちょっとガッカリしていたのである。あるいは、課員たちの間で、章太郎の停年退職を惜しむ気があって、二、三年間の嘱託勤務が出来るような運動でもしてくれるのか、と期待していたのである。しかし、そういう気配は、みじんもないらしい。章太郎の停年退職を既成の事実として眺めているのだ。思えば、当然のことであって、そういう期待を、たとえカケラほどでもいだくことが、そもそも虫がよすぎるのである。
「しかし、まだ急ぐことはあるまい。それよりも、僕として気にかかるのは、僕の後任のことなのだ」
平山は、緊張したようだ。
「もちろん、順序からいって、君だ」
「…………」
「そして、君のあとに寺島君が」
「はい」
「そのことが、いちばん素直な人事だと思っているし、そのうちにチャンスを見て、部長にもそういっておくつもりでいる」
「有りがとうございます」
平山は頭を下げた。
「お礼をいわれると困るのだが、僕自身だって、たまに会社へ遊びに来たくなるかもわからない」
「ぜひ……」
「そういうときには、結局、厚生課にくると思うんだ。その厚生課に、君が課長としていてくれた方が、何んといっても気がらくだからね」
「歓迎しますよ」
「そういってもらえるだけでもうれしい。とにかく、停年後に会社へ顔を出すのは、何んとなく気がひけるものらしいから」
「そういうもんでしょうか」
「この道の先輩が何人もいっていたから間違いないだろう。ただ、僕が君を後任としてすいせんするについて、すこし気になっているのは、社内の派閥の問題なんだよ」
「派閥……」
平山は、そういって、口をつぐんだ。かまわずに章太郎は、
「この会社には、福井専務派と横山専務派と二つの流れがある。知っているだろう?」
平山は、あいまいにだがうなずいた。
「正直にいうと、僕は、つい最近まで、そのあらそいが相当に激しいものであることを知らなかったのだ」
「…………」
「ということは、僕に対して、どちらの派からも誘いがなかったのだ」
「…………」
「しかし、聞くところによると、若い連中にまで、誘いの手が延びているらしい」
「…………」
「厚生課にも、そういう誘いを受けている男がいないのか」
「よく知りませんが、岩城君なんか」
「岩城君が?」
「月に一度、横山専務の家へ行って、食事をご馳走になっているようです」
章太郎は、坂巻広太が昨夜いっていたのも、横山会への加入であった。と思い出していた。岩城英吉は、入社四年目で、有能な課員の一人なのである。
「それから……」
「まだ、あるのか」
「橋田君は、福井専務の家に、のようです」
「ふーむ」
「ですから、近ごろ、岩城君と橋田君は、あんまり仲がよくないようです」
「以前には、仲がよかったのだろう?」
橋田良一は、入社三年目で、これまた、有能な課員の一人だったのである。一年ほど前、章太郎は、この二人を飲みに連れて行ってやったことがあった。そのときには、二人とも元気いっぱいで、橋田が岩城のことを、
「ねえ、先輩」
と、呼ぶと、岩城の方でも、
「おい、後輩」
と、呼んだりしていて、章太郎は、それを微笑みながら聞いていたのである。
もちろん、そういう二人から派閥の臭いのようなものは、全く感じられなかったし、はつらつたる青年サラリーマンになっていたのだ。
「しかし、今は、お互いに警戒し合っているようです。いっしょに飲みに行くことも、あんまりないようです」
「そうか」
「他の課員たちだって、二人の前では、めったなことをしゃべらないようにしています」
「何故?」
「うかつにしゃべったことが、二人を通じて、両専務の耳に入ったりしたら、困りますからね」
「なるほど、そういうことになっていたのか」
章太郎は、あらためて、派閥というもののいやらしさを痛感させられていた。その点、派閥に無関心でこられた自分が幸せであったということが出来そうである。しかし、何か割り切れぬカスのような思いが、胸の底に残っていることもたしかであった。
「そうすると、横山会といい、福井会といい、ある意味で、社内の情報を両専務に知らせることも、一つの目的になっているんだね」
「あるいは……」
「それじゃァ社内に、スパイを横行させているようなものではないか」
章太郎は、腹立たしそうにいった。放っておいたら、その弊害は、はかり知れないようだ。といって、問題は、小高秀子の恋愛事件とは違うのである。章太郎がどう逆立ちしたところで、手に負える問題ではなかった。黙って見ているのほかはない。いや、もし章太郎に、どちらかの派閥に属したら、二、三年の停年延期を認めてやるといわれたら、あるいはよろめいたかもわからないのである。章太郎は、そういう自分を軽蔑したくなっていた。が、一方で、そういう誘いを受ける心配がないのだ、とも思っているのだった。
「ところで、君は、いったい、どっちの派なのだ」
章太郎は、思い切って、いってみた。
「いえ、私は……」
「無所属?」
「のつもりでいるんです」
しかし、そのいい方には、あいまいなところがあった。
「では、寺島君は?」
「さァ……」
「やっぱり、無所属か」
「だと思いますが、しかし、岩城君を非常に可愛がっているようですから」
「すると、間接的な横山派か」
「あるいは……」
「まァ、いいとしておこう。僕が、今ごろになって、こんなことを聞くのは、後任として君たちをすいせんするために、知っておきたかったのだ」
「…………」
「寺島君が横山派であることを知らずに、福井専務に頼んでもムダだからね」
「わかります」
「しかし、こうなったら、僕としては、通りいっぺんに部長に頼んでおこう」
「部長は、福井派ですよ」
平山は、はっきりといった。
「それは、知らなかったな」
章太郎は、初耳のようにいったが、それくらいのことは、感じていたのである。
総務部の中には、総務課と厚生課があって、その部長は、黒山俊夫であった。その黒山を、福井専務が可愛がっていた。しかし、章太郎は、それを派閥と結びつけて考えたのは、今日がはじめてであった。
章太郎は、考えているうちに、面倒臭くなって来た。ますます、自分の手に負えない問題のような気がして来た。今ごろになって、そういうことに神経をつかいたくなかった。
「失敬」
章太郎は、立上がると、
「とにかく、君のことは、部長によく頼んでおこう。いいね」
「お願いします」
平山は、頭を下げた。それで、自分が、寺島とは反対の福井派であることを認めたようなものであったろう。
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酒場
矢沢章太郎は、国電の渋谷駅で下車した。残業をしたので、午後八時半を過ぎていた。昨夜、寄るつもりでいて、坂巻広太に会ったりしたため、結局、寄ることの出来なかったバー「イエス」に寄るつもりでいた。
正直にいうと、昨夜のことがあり、のぼるが気になって、早く家へ帰りたかったのであった。ところが、午後三時ごろに、郡司道子から電話がかかって来たのである。
「しばらくお見えになりませんので、お身体でも悪いのかと心配していますのよ」
郡司道子がいった。
「お陰で、身体の方だけは丈夫だ」
章太郎は、答えた。
「まァ、お陰だなんて」
「だって、そうだろう?」
「そういう意味でしたら、あたしの方でも、矢沢さんにお礼をいわなくちゃァ」
「すると、お互い様ということか」
「今後とも、どうかよろしく」
「まかせておいてもらおう、といいたいところなんだが」
章太郎は、あとをにごした。
停年退職後、新宿のバー「グリーン」のマスターになった田沢吉夫は、停年退職の日にこそ、女と別れるべきだ、と決心していた、という。無収入になっては、自分の女を持つようなぜいたくな真似は許されないのだ、と。
章太郎にも、そういう思いがなかったとはいい切れないのだ。もっとも、章太郎と道子の仲は、その場その場の取引だった。しかし、そういう関係が三年間も続いているのである。そして、章太郎は、道子を相手にする場合、何んの心配もしないでいられた。これは、有りがたいことだった。それに道子には、章太郎以外の男と浮気のようなことをしている気配がなかった。要するに道子は、章太郎の女ではないが、それに準じるような女になっていたのである。
「どうなさいましたの?」
「いや、どうもしない」
「だって、今のおっしゃり方、気になるわ」
「取越苦労は、しないことだ」
「今夜、いらっして下さいません?」
「今夜か……」
章太郎は、渋った。
「いけませんの?」
「でもないんだが」
「お顔が見たいし、ちょっとご相談したいことがあるんですの」
「相談?」
「はい」
「どういうことなんだ」
「ですから、それを今夜……」
「明日では、いけないのか」
「なるべく、あたしとしては早い方が」
「…………」
「いえ、ご無理でしたら明日の晩でもかまいませんの」
「わかった。もし、行けたら今夜行く」
「すみません。遅くなっても、お待ちしていますから」
そういって、道子は、電話を切ったのである。
章太郎は、仕事をしながら、
(道子は、何んの相談をしたいというのだろうか)
と、気になっていた。
見当がつかないが、自分にとって、あんまりいい話でないような予感がしていた。そうなると、明日とはいわないで、今夜のうちに聞いてしまいたくなってくる。
章太郎は、六時ごろに家へ電話をした。民子が出た。
「今夜は、残業で遅くなる」
「はい」
「子供たちは、帰っているか」
「章一さんは早くに、のぼるさんは、さっき、お帰りになりました」
「そこに子供がいるのか」
「いいえ」
「のぼるに、何か変った様子がないかね」
「別に……。お呼びしましょうか」
「そうだな」
そこまでいってから、章太郎は、思い直したように、
「いや、いいよ。そのかわり、よく面倒を見てやってくれ」
「そりゃァ」
民子は、自信ありげにいった。
「わしは、晩ごはんをいっしょに食べてやれないが、そのかわり、何かお土産を持って帰ってやるといっていた、と」
「かしこまりました」
「では、頼んだよ」
「はい」
章太郎は、電話を切った。渋谷へ寄る決心がついたのである。ただし、どんなに遅くなっても、十一時前には帰るつもりでいた。道子とのあの方の関係は、ここ一カ月ぐらい絶えている。そろそろ、その時期が来ているのだ。しかし、章太郎は、今夜は我慢しよう、と思っていた。でないと、帰宅が午前一時を過ぎてしまうことになる。
章太郎は、渋谷のネオンの下の人混みの中を歩いて行った。が、いつもほど気持が弾まないのは、シラフでいるせいもあろうが、やっぱり、のぼるのことが気になっているからであろう。それに、会社で聞かされた小高秀子のこと、派閥のこと……。
章太郎は、小高秀子の問題については、
(とにかく、この問題は、僕にまかせておいてもらおう)
と、課長代理の平山に、いい切ったのである。
しかし、今となって、多少重荷になっていることもたしかであった。面倒くさくもある。第一、どのようにはからったらいいのかの見当がつかないのだ。下手に動いたら、却って、小高秀子を不幸にしないとも限らない。その恐れは、たしかにある。もし、そういう結果になったら、本人にはもとより、その両親に対しても申訳がないのだ。
その小高秀子は、今日一日、しょっちゅう章太郎を気にしていたようであった。退社時刻の五時になると、逃げるように帰って行ってしまった。
章太郎は、立ちどまって、煙草に火を点けた。バー「イエス」までは、あとわずかなのである。章太郎は、ふたたび歩きはじめて、その頭の中で、社内の派閥について、一応の整理をこころみていた。
横山専務――相原常務――今田営業部長――寺島深二――岩城英吉
福井専務――鳩田常務――黒山総務部長――平山要一――橋田良一
だいたい、こういうことになるらしいのだ。もちろん、これは、章太郎の身辺に深い関係があると思われる流れだけで、社内全般の派閥関係については、ちょっと見当がつかない。しかし、これだけ知っていれば十分だろうし、それ以上のことは、あんまり考えたくなかった。
章太郎が、昨夜考えたのは、同期に入った相原常務に頼んで、一、二年の停年延長をしてもらうことだった。停年延期が無理なら、相原の顔で、どこかに就職のあっせんをしてもらいたいのである。
本来なら、こういうことで、頭を下げたくなかった。屈辱の思いをますだけであろう。が、それを我慢するつもりで、秘書課へ入って行ったのである。
「今日、相原常務は?」
「ゴルフです」
秘書課長の谷口銀造が答えた。
章太郎は、
(日曜日でもないのに、いい気なもんだな)
と、思ったのだが、
「今日なんか天気がいいし、ゴルフをやったら気持がいいだろうなァ」
「しかも、川奈へ一泊でなんだから」
「一人で?」
「S産業の招待なんです。で、横山専務と相原常務と、それに今田営業部長の三人で」
「なるほど」
「矢沢さんも、ゴルフをやっていればよかったのに」
「とんでもない。しかし、ゴルフをやっていたら、今日のような場合、誘ってもらえたかもわからないね」
「そうですよ」
「一つ、今から始めようかな」
同じ頼みごとをするにも、会社でするよりも、広々としたゴルフ場で、折を見て、何気なく頼む方が、きっと頼みやすいに違いないだろう。
「はじめなさいよ」
「いや、冗談だよ。第一、今からでは遅過ぎる」
「そんなことないでしょう。横山専務がお始めになったのは、三年前の六十歳からですよ」
「年からいえば、たしかにそうだが、残念ながら僕の場合、停年までに、あと半年しかない」
「ああ、そうでしたね」
秘書課長は、あっさりといって、
「ゴルフって、よほどの天才か、でなかったら本職をおろそかにしない限り、半年ぐらいではモノにならんものらしいですね」
と、章太郎の停年退職のことよりも、ゴルフに重点をおいていった。
章太郎は、バー「イエス」の前に来ていた。喫《す》いさしの煙草を捨て、それをクツで踏みにじってから中へ入って行った。
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし」
女たちの声が、章太郎を迎えた。
珍しく混んでいて、テーブル席は、いっぱいだった。スタンドの席だけが空いていた。章太郎は、その席についた。
顔なじみになっているバーテンダーが、
「ようこそ」
と、笑顔を向けた。
「やァ……」
章太郎は、そういっておいて、
「今夜は、たいした商売繁昌なんだな」
と、うしろを見まわした。
いちばん奥の席についていた郡司道子は、すでに章太郎の現われたことに気がついていて、軽いが意味のあるウインクをしてよこした。章太郎は、それに応じておいて、視線をゆっくり前に戻した。
「ビールを、ね」
「かしこまりました」
渋谷でも高級というほどの酒場ではなかった。さして、広くもない。が、営業の方針にあくどさがないので、章太郎は、安心してこられるのであった。もっとも、この店に郡司道子がいなかったら、章太郎の足は、もっと遠のいていたであろうが。
章太郎の前にグラスがおかれた。
「どうぞ」
「有りがとう」
章太郎は、バーテンダーの酌を受けて、その半分ほどをうまそうに飲んだ。
「今夜は、お酔いになっていませんね」
「今まで、残業をしていたんだ」
「お忙しいんですか」
「まァ……」
章太郎は、グラスに残ったビールを飲みほして、こんどは自分で注ぎ、
「いくら忙しいといったところで、あと半年なんだから」
「あと半年?」
「君には、まだいってなかったかしら。僕はね、あと半年で停年になるんだよ」
「停年というと?」
「五十五歳」
「矢沢さんは、もうそんなお年であったんですか」
バーテンダーは、章太郎を見直すようにした。
「お世辞にもしろ、そんなふうにいってもらえるとうれしいよ」
「私は、まだ五十そこそこか、と」
「飲みねえよ」
章太郎は、冗談めかしていいながら、自分のグラスを空けて、バーテンダーの前においた。
「いただきます」
バーテンダーは、章太郎の酌を受けながら、
「矢沢さんぐらいのお元気なら、まだまだ働き盛りですのにね」
「と、自分では思っているんだが、会社の規則だからどうしようもないんだよ」
「改正しておもらいになったら?」
「無理だろうね」
バーテンダーは、グラスを空けて、章太郎に返した。
「やっぱり、そういうことは、無理なもんですかね」
「ただし、僕が社長だったら、即刻六十歳まで延期のことに改正するんだが、残念ながら僕は、一課長に過ぎないんだ」
「しかし、私は、よく知りませんが、新聞なんかで読みますと、最近停年が延長になっている会社がふえているとか」
「たしかに、そういう傾向にあるし、僕は、それを当然のことだと思っている。ただ、会社側にいわせると、こういうことになるらしいんだ」
「…………」
「かりに、停年を三年間延期するとなると、その三年間で、一人一人の退職慰労金がベラ棒に高いものになるんだ」
「と、おっしゃると?」
「だいたい、退職慰労金というものは、辞めるときの月給と、それまでの勤続年数が基準になる。だから三年間といえども、バカに出来ない」
「なるほど」
「しかもだよ。退職慰労金を計算するときの勤続年数の計算には、いろいろの方法があって、たとえば、入社して十年間ぐらいは、一年はあくまで一年として計算するのだが、十一年目からは、一年を一年三カ月とするとか」
「よくわかりませんが」
「二十年勤めた男には、はじめの十年と、あとの十年には、その十年のほかに、一年について三カ月だから三十カ月の割増がつけられるのだ」
「すると、合計で二十二年六カ月になるんですか」
「そう、なかなか、物わかりが早いな」
「これでも、小学校では、副級長をしていたんですから」
「恐れ入った。で、今いったような計算で、かりに三十年間勤めた場合でも、退職慰労金の規定の上での勤続年数は、四十年になったり、四十五年になったりするのだ。というのは、割増の率は、勤続年限が長ければ長いほどよくなるからだ。それに、役付の割増というのもある」
「…………」
「しかも、基準になる月給は、一年毎に上がってくる」
「…………」
「僕の場合は、まだ詳しく計算してもらっていないが、一年延期になっただけで、十五万円以上も違ってくるような気がしている」
「それでは、会社の方でも、停年延期に尻込みするわけですね」
「だからだよ。停年延期などといわないで、五十五歳で、一応辞めさせる。そこで、退職慰労金も払ってしまう」
「…………」
「そのあとは、二年なり三年なり、嘱託としておいてくれたらいいんだ」
「…………」
「嘱託だから退職慰労金は、払わない。また、月給だって、今までの七割ぐらいだっていいんだ。しかも、仕事の方は過去の経験を生かして、ちゃんと一人前以上にするんだから、会社にとっては、それほどのマイナスにならないはずなんだよ」
「そんないい方法があるんなら、矢沢さんは、どうして社長におっしゃらないんですか」
「しかし、自分に直接関係があることだと、どうもいいにくいもんだよ」
「では、みすみす、あと半年で?」
「まァ、そういうことになるな」
章太郎は、苦笑を洩らし、
「ビールを」
と、お代りを注文した。
バーテンダーは、冷蔵庫から新しいビールを取出して、ぽんと景気よくセンをぬいて、
「どうぞ」
「有りがとう」
「もし、矢沢さんが、そのことを社長におっしゃって、規則が改正されるきっかけになったら、これから停年になる人たちは、大喜びするでしょうね」
「そりゃァ」
「思い切って、おやりになったら?」
「さァ……」
「それで社長から叱られたって、もともとじゃァありませんか。どうせ半年で辞めるんだし」
「君は、なかなかいうんだな」
「正直にいえば、他人のことだからですよ。もう一つは、この店へいらっしゃるお客さまの中にも、停年と同時にバッタリお見えにならないお方があって、ときどき、あの方は、今ごろ、どうしていらっしゃるだろうか、と思うことがあるからです」
「あのお方は、今ごろ、どうしていらっしゃるだろうか、か」
「かりにいらっして下さっても、今までは、派手に飲んでいたのに、こんどは肩身がせまそうにビールを一本ぐらいでお帰りになって、こっちが慰めて上げたくなります」
「僕のときは、よろしく頼むよ」
「矢沢さんには、特別サービスをさせて頂きます」
「うれしいね。もう一杯、どうだね」
「いえ、もう十二分に頂きましたから。それよりお酌をいたしましょう」
「ああ」
「そうだ。矢沢さん。名案がありますよ」
「名案?」
「近ごろの重役さんは、組合に対して弱いというじゃありませんか」
「そういう点も、なきにしも非ず、だろうな」
「ですから、その組合に、そういう運動を起させるんですよ」
「ああ、そうか」
「名案でしょう?」
「ところがだよ。だいたい、組合の幹部というのは、若い連中に多いんだ。したがって、停年ということに対して、どちらかといえば関心が薄いんだ」
「しかし、いつかは、自分たちにも停年がくるんでしょう?」
「そうなんだ。停年なんて、僕の感じからいうと、あっという間にくるのに、若い連中は、まだまだ遠い遠い先のように思っている。だから、停年のことよりも、目先の賃上げに躍起になっている。もっとも、われわれだって、それに便乗して、今の月給をもらえるようになったのだから、あんまり偉そうなことはいえないのだが」
章太郎の右隣に、三十五、六歳の男が二人で飲んでいるのだった。これは、ビールでなく、ハイボールを飲んでいた。
章太郎の左隣の席が空いていた。
郡司道子は、
「いらっしゃい」
と寄って来て、章太郎の肩にやんわりと手をかけ、別の手でお酌をして、
「向うの席、じきに空きますから」
「いや、僕は、一人なんだし、ここだっていいんだよ。それにさっきからバーテン君と、世にも深刻な問題について、語り合っていたところなんだ」
「世にも深刻な問題って?」
「僕の停年退職のことについてだ」
郡司道子の顔は、ちょっとくもったようであった。二十九歳なのである。特別の美人ではないが、色が白くて、肌がやわらかだ。中肉中背。いつだって、和服で通していた。それがまた、よく似合っていた。本人もそれを意識しているようだった。一度、結婚の経験があった。
郡司道子は、何かいいたそうであったが、思い直したように、
「あとで、あたしの相談にも乗って下さいね」
「そのつもりなんだ。ただし、今夜は、十一時までに帰りたいんだよ」
「あら、どうして?」
郡司道子の表情には、失望の色が現われた。当然、今夜はホテルへ行くものと思い込んでいたらしいようだった。
「子供のことで、すこし気になることがあるから」
「だったら、しようがないわね」
「頼みがあるんだが」
「おっしゃって」
「子供には、お土産を買って帰る約束になっているんだ」
「どういうものがいいんですの?」
「ケーキがいいだろう」
「じゃァお店がしまわないうちに、買っておきましょうか」
「そうしてもらえると有りがたいのだが」
「どれくらい?」
「十個もあったらよかろう」
章太郎が金を出しかけると、
「いいわ、立替えておきますから」
郡司道子は、そういうと、もう一度、章太郎に酌をしてから、その横をはなれて行った。
(あの女とも、あと半年ということになるかも……)
そして、その相談ということも気になっていた。
章太郎は、煙草を取出した。それを喫いながら、さっき、バーテンがいった、
(あのお方は、今ごろ、どうしていらっしゃるだろうか)
と、いう言葉を思い出していた。
これを別ないい方をすれば、
(停年退職者は、その後、どうしているだろうか)
と、いうことになるのである。
章太郎にとって、他人事でなくなりつつあることだった。
章太郎が黙り込んだので、バーテンダーは、別の客の相手になったりしていた。
しかし、そのとき、章太郎は、あの同窓会の夜に聞かされたK氏のことを思い出していたのであった。それとなく会社へ別れを惜しみに来て、数日後、熱海で夫婦自殺をしたという……。
(あれは極端な例だが……)
章太郎の会社には、昨年一年で五人の停年退職者があった。一昨年は、八人であった。今年に入ってからもすでに二人が、そのために職場を去っている。
(あの人たちは、その後、どうしているだろうか)
もちろん、章太郎が、その後の消息を知っている人もいた。しかし、全然消息のわからぬ人もいた。殊に、五年前、十年前に辞めた人たちの消息となると、大半がわかっていないのである。
(あの人たちは、その後、どうしているだろうか)
章太郎は、同じ言葉を胸の中で繰り返した。ますます、他人事でないように思われてくるのだった。
章太郎の前の課長、山代幸一郎。
喧嘩早くて、ついに課長にもしてもらえなかった雪村兵助。
やたらに人にお世辞をいってまわったために、却って出世の出来なかった大沢三郎。
部長昇進を目前にしながら部下が費い込みをしていたことがわかり、その責任を問われて、参事という名の閑職で終った武田文兵衛。
前社長の腰巾着のようになりながら社長がかわったとたんに大阪支店に左遷され、そのままで停年になった人吉覚造。
自称恐妻家のくせに、いつだって女に不自由をしなかった和田良造。もっとも、その中の女の一人から結婚を迫られて困り切っていたりしたが。
酒くせが悪くて、酔えば重役にでも突っかかり、醒めてからは前非を悔いる罪人のように悄然としていた後藤安次。
仕事が出来なかったが、世話好きで、宴会や慰安旅行なんかには重宝がられていた楠本康文。
不平ばかりいっていた瀬川宏一。
会社の女に手をつけて、それがばれたため重役からにらまれて、係長で終った梅谷滋。
そして、あの人、この人……。
章太郎の頭の中に、そういう人たちの面影が、次々に浮かんでは消えたりしていた。もちろん、今は、会社にとって、無縁の人たちなのである。しかし、そういう人たちの過去の努力があってこそ今日の会社があるのだという理屈からすれば、せめて、その後の消息を知っておく、ということも悪くないはずなのだ。いや、必要なことかも。
もし、そういう人たちの中で、非常に生活に困っている人があったら、会社でどうのこうのということは出来ないとしても、社員の中の有志で、何んとか出来そうである。一人が百円ずつ出しても、百人で一万円になる。
(そうだ、このことを、あの坂巻広太君に話してみよう)
何故なら、坂巻広太は、東亜化学工業株式会社の社内報「東亜社報」の編集の仕事もしているのだから。
「東亜社報」は、月刊なのである。とかく、社内報というと無味乾燥になり勝ちなのだが、「東亜社報」には、そういうところがすくなく、割合社員たちに喜ばれている。現に、章太郎にしても、その愛読者の一人であった。
もちろん、社長の訓辞とか、重役たちの営業方針といったようなものも、毎月掲載されている。が、そのほかに、くだけた記事が多いのだ。
たとえば、リレー随筆。今月は、東京の本社の男が書いているかと思うと、翌月は、大阪支店の女事務員が書いたりしている。自分の趣味について、あるいは、自慢話、失敗話、旅行記、といったようなもの。
また、「あの人はアレが得意」という欄がある。これは、本人にでなく、そのことを知っている第三者に書かせるのだ。たとえば、「日曜画家のS氏」とか「将棋の名人が社内にいた」とか「いつも笑っているKさん」というように、それによって、社内の人々は、その人に対する認識を新しくすることが多い。もちろん、仕事についても書かれる。「そろばんなら彼」というのがあったし、「得意先を笑わせるコツならBさんに聞け」というのも。
それからまた、「うちのパパとママ」という欄があって、その子供たちに書かせたりしている。
社外のその道の有名人の原稿ものっていたりする。
このように、社員に喜ばれる記事の多くなったのは、ここ一年ぐらい前からの傾向なのである。そして、その一年ぐらい前から、坂巻広太が、編集の仕事をするようになったのだから、彼の案が大いにまじっているものと考えてよさそうである。
が、当然のことながら、社内報は、あくまで現職の社員たちを対象としていて、すでに停年退職して去って行った人たちのことは、全く忘れられている。そして、そのことについて、だれもおかしいと思っていないのだ。章太郎にしても、そうであった。
しかし、社内報の中に、たった一ページでも、
「あの人は、その後、どうしているでしょうか」
という欄をもうけて、停年退職者のその後のことを書くようにしたら、きっと読まれるのではあるまいか。
考え方によっては、大変な労力を要する仕事かもわからない。いちいち訪問して書かねばならないのだ。しかし、それだけに有意義なはずである。現職の社員たちは、かつての先輩たちのその後の消息を知り得るだけでなしに、自分たちの停年後の生き方についても、あらかじめ、いろいろと考えさせられて、自分なりに老後にそなえる気になるのではなかろうか。
そして、社内報を今後は、停年退職者たちにも送ってやるようにすればいいのだ。きっと、喜んで読まれるに違いない。そのための費用なんて、たいしたことはないはずなのである。
章太郎は、この思いつきに満足した。
一人の客が、章太郎の横の空いた席についた。
その客は、
「ビールを」
と、バーテンダーにいった。
章太郎は、何気なくその人を見た。その人も、章太郎を見た。
「やァ」
「やァ」
二人は、会釈《えしやく》をかわした。
といって、章太郎は、その人の名を知っているわけではなかった。ただし、何回か、この店で、顔を合わせていた。章太郎よりも、五、六歳年長のようである。洋服を着ているのだが、ネクタイはしめていなかった。
バーテンダーが、その客の前にビールをおいてから、ふと思いついたように、
「矢沢さん、この久保さんは、会社を停年でお辞めになってから、碁会所を開いていられるんですよ」
といってから、
「そうでしたね」
と、久保にいった。
「ほう」
章太郎は、久保を見た。久保は、見返して、
「ここから近いんです。もし、お好きでしたら、一度お寄り下さい」
と、笑顔でいった。
「有りがとう。私には、その方の趣味がないんですが、そのうちに寄せて頂くかもわかりません」
「ぜひ。何んでしたら、手ほどきをして上げますよ」
「じつは、そういう意味でなく」
「と、おっしゃると?」
横からバーテンダーが、
「久保さん。この矢沢さんは、あと半年で、会社が停年になられるんです」
「あなたが?」
久保は、あらためて、章太郎を見て、
「もう、そういうお年ですか」
「五十五歳です」
「お若く見えるのに」
「が、正真正銘の五十五歳です」
「で、その後のご方針は?」
「まだ、決めていないんです。といって、遊んでいるわけにもいかんし、正直なところ、毎日がゆううつでして」
「よくわかりますよ、そのお気持。まァ、いっぱい如何ですか」
久保は、自分のビールを章太郎に向けた。
「どうも」
「私の場合は、二年間の嘱託勤務を許されたんです」
「そりゃァ幸運でしたね」
こんどは、章太郎が自分のビールを久保に注いでやった。久保は、それを受けて、
「一応は、ね」
「一応は、ですか」
「あなたの会社には、そういう制度はないですか」
「皆無ではないんですが」
「私の場合も、まァ例外として、二年間の嘱託勤務を許されたんです。そのかわり、重役の家へミツギ物を持って行ったり、やたらにペコペコしたりしましたがね」
「しかし、そのために二年間の月給が保証されたんですから」
「そうですよ。文句をいったら罰があたります。ところが……」
「ところが?」
「およそ、面白くない二年間でしたね」
「どうしてですか」
「だからといって、あなたが嘱託としてお残りになることに反対しているわけではありませんよ。もちろん、そういうことをいう筋合でもないし、会社には、それぞれ社風というものがありますからね」
章太郎は、うなずいた。
「私の場合は、月給は、それまでの七割ということになったんです」
章太郎の月給は、およそ八万円なのである。その七割なら五万六千円なのだ。文句のいいようのない金額である。二年間で、百三十四万四千円になる。これだけの金額が入ると入らないとでは、たいへんな違いなのだ。
「地位は、総務課長でした」
「私は、厚生課長なんです」
「じゃァ私と似たようなもんですな。が、ついでだからいっておきますが、停年退職後、もし次の就職口を求めるのなら、せいぜい課長ぐらいまでが、いちばん有利なんですよ」
「どうしてでしょうか」
「かりに重役をしていたとなったら、よその会社では、どうしても敬遠します。そういう意味では、あんまり出世をしておかないことですな」
「すると、私なんか、ちょうどよかったわけですか」
「と、思いますね。が、たとえば、銀行なんかのように、関係先が多く、たいてい横すべりで入っていけるようなところは、別ですよ。私の知っている銀行の部長だった男は、今では、ちいさな会社の重役になって、却っていい生活をしていますからね」
「しかし、そんなのは、例外でしょう、世間一般からみれば」
「こういう例もありますよ。相当大きな会社の部長をしていた男が、停年の後、もっとちいさな会社に嘱託として入ったのです。ところが、本人には、かつて、大会社の部長であったという思い上がりがあって、それがどうしても態度に現われるのです」
「人間のあさはかなところですね」
「結局、総すかんを食って、辞めてしまいました。で、今では、もっともっとちいさな会社で、ちいさくなって働いています」
「なるほど」
「しかし、そうなると不思議なもので、かつてあれほどの大会社の部長をしていたのに、というので奥床しく思われ、みんなから同情されています」
「いったん、停年退職したら生れ変われ、ということなんですか」
「そう。ところで、私の話なんですが」
そこへ、郡司道子が寄って来て、
「向うの席、空きましたけど」
章太郎は、振り向いて、
「今、この久保さんにいいお話を伺っているところだから、あとしばらく、このままの方がいいんだ」
「そうですか」
郡司道子は、さからわないで、
「さっきおっしゃったお土産、買っておきましたから」
「有りがとう」
「なるべく、ゆっくりしていってね」
「わかったよ」
章太郎は、腕時計を見た。まだ、九時半になっていなかった。郡司道子は、二人に酌をし、さらに、章太郎の右隣の二人組の相手をしばらくしてから、ボックス席の方へ去って行った。
章太郎が入って来たころには、割合に静かだったのである。が、この時間になると客の飲んだアルコールの量もふえて来ているせいか、だいぶん騒々しくなっていた。客の調子に合せる女たちの嬌声も聞えるようになっていた。
「どうか、さっきの話の続きを聞かせて下さい」
章太郎は、こういうチャンスを逃がしたくないのであった。いろいろの話を聞いて、今後の方針の参考にしたかった。あるいは、今夜聞いたことが、今後の自分の生活に、大きく影響することになるかもわからないのである。
「結局、私のグチのようなもんですが」
「それをお聞きしておきたいんです」
「嘱託としての私の仕事は、調査ということだったんですが、要するに雑用係だったんです」
「なるほど」
「面白くありませんでしたね」
「仕事が?」
「そして、社員たちの私に対する態度が」
「…………」
「課長をしていたころには、久保さんと呼んでいたのに、嘱託になったとたんに、久保君と呼ぶ社員が多くなりましたね」
「ひどいもんですね」
「別室にいたんですが、部屋の掃除も、お茶くみも、自分でやらされました」
「…………」
「大勢が集まる席では、いつも末席です。そして、いつだって、自分は、この会社の正式の社員でないという肩身のせまさ」
「…………」
「どんなに一所懸命に働いたって、もう出世する気づかいのないという情なさ」
「わかりますね」
「もちろん、あなたがさっきおっしゃったように、いったん停年になったからには、生れ変わるべきであったのです」
「…………」
「が、よその会社へ就職したのならともかく、自分が三十年も勤めた会社ですから、なかなか思うようにはいかんもんです」
「…………」
「おしまいには、自分から辞めようとは思わなかったが、二年間の期限の切れるのを待つようになりました。ぜいたくな話かもわかりませんが」
「いえ……」
「もっとも、その二年間に、今の商売を始める準備をいたしましたから、文句をいったら罰が当ります」
「碁会所をお開きとか」
「碁が好きだったんです。で、そういう結果になったんですよ」
「趣味が活かされたわけですね」
しかし、章太郎には、残念ながら、生活に役立つような趣味は、何一つとしてないのであった。
「まァ。が、そう決める前に、いろいろのことを考えましたね」
「…………」
「別の会社に勤めることも考えたのですが、特別に世話をしてくれる人もなかったし、私自身、二年間の嘱託勤務で、勤めるということに、つくづく嫌気がさしていたんです」
「でしょうねえ」
「しかし、あなたの場合は、別ですよ」
「わかっております」
「あなたは、かりに今の会社に残れないとしたら、どこかよその会社にご就職なさるおつもりですか」
「出来たら……」
「あてがあるんですか」
「今のところは、別に……」
「だれか、世話してくれる人は、いないんですか」
「正直にいうと、それほど、本気で頼んでいないんです。これから頼んでまわるつもりではおりますが」
「平常が大事ですよ、矢沢さん」
久保は、ちょっと口調をあらたにした。すでに、ビールを二本空けていて、酔いがその顔に現われていた。同じことが、章太郎にもいえたのであろう。
「平常が大事、とおっしゃいますと?」
「これは、私自身の反省にもなるのですが」
「…………」
「停年後の再就職について、停年の間際になってじたばたするようでは遅い、ということです」
「…………」
「私の見ているところでは、再就職のうまくいっている人は、たいてい平常から人の世話なんか、よくしていますね」
「…………」
「部下の面倒をよく見るとか、上役によく仕えるとか」
「…………」
「友人を大事にしているとか」
「…………」
「友人の世話というのが、案外、多いんですよ」
「…………」
「結局、世間とは、いい人を放っておかないということになるんでしょうね」
「だから、平常が大事、になるんですか」
「中でも、経理に詳しいとか、そろばんがうまいとかいうような人は、どうしたって有利ですよ」
「すると、再就職のためには、平常が大事であること、何かの特技を身につけておくこと、さらに、あんまり偉くなっておかぬこと、ということになるんですね」
「と、私は思いましたね。そして、私の場合は、あんまり偉くなっておかなかったことだけに成功したんですよ。だから、碁会所のオヤジになったようなもんです」
「しかし、碁会所の方は、うまくいっているんでしょう?」
「お陰さまで」
「だったら、結構じゃァありませんか」
「が、碁会所を始める前に、いろいろの商売を考えてみたんです」
「…………」
「慰労金は、三百万円足らずでした。サラリーマンなんて、どうしたって温室育ちですし、うかつに商売を始めて、それが失敗したら、それこそ元も子もありませんからね」
「…………」
「たちまち、一家心中ですよ」
「…………」
「だから、しんけんでした」
「…………」
「三百万円でアパートを買って、その部屋代で食っていく方法」
「…………」
「簡易酒場を開く方法」
章太郎は、新宿のバー「グリーン」のマスターになっている田沢吉夫を思い出した。しかし、あれなんか、例外中の例外と思うべきであろう。
「洋品店を開くこと」
「…………」
「マージャン屋、玉突屋、喫茶店、ピンポン遊技場、特価本の店、古本屋」
「…………」
「女性相手の趣味の店、というのも考えてみましたね」
「…………」
「それから、どこかのビルの一部を借りて売店を開くとか」
「…………」
「まだ、ありますよ。最後には、裸になって、屋台のおでん屋か、焼イモ屋を開業しようかと思いました」
「…………」
「が、結局、家内とも相談しまして、今の商売に決めたんです。何んといっても、商売となると、サラリーマン時代と違って、家内の協力が、いちばん大事ですからね」
「そうですとも」
「矢沢さんも、かりに何かのご商売をお始めになる気なら、よく奥さんとご相談なさった方がいいですよ」
「ところが、残念なことに、その家内は、五年前に亡くなったんです」
「そりゃァお気の毒に」
「でも、子供が二人おりますから」
章太郎は、のぼるを思い出した。
(今ごろ、どうしているだろうか)
いつまでも、こんなところでうろうろしていないで、早く帰ってやりたかった。しかし、このあと、まだ郡司道子の相談とやらがあるのだ。それにしても、章太郎にとって、今夜この久保に会って、いろいろの話を聞いたことは、大収穫であった。
やがて、久保は、
「どうも、今夜は調子に乗って、つまらんことをベラベラしゃべりましたな。どうか、お気を悪くしないで下さいよ」
と、いって帰って行った。
章太郎は、一人になった。あらためて、さっき、久保にいわれたことを思い出していた。
(結論としては、俺に、商売を始めることは危険だ、ということだな)
自分に、そのような才能と度胸があるとは思われなかった。また、章太郎は、サラリーマン上がりが、退職慰労金で商売を始めて、無惨な失敗をした話をいくつか聞いていた。二人の子供のためにも、そういうことになりたくなかった。
(とすれば、一応、嘱託として残してもらうか、はじめからそれをあきらめて、別の就職口を探すか、だ)
別の就職口を探すについて、久保は、
(平常が大事だ)
と、繰り返していっていた。
(果して、俺の平常は、立派であったろうか)
残念ながら、イエスといい切れる自信がなかった。しかし、そう悪かったとも思いたくないのである。
(すくなくとも、俺は、今日まで意識して、人を裏切ったり、だましたりしたことはないつもりだ)
これだけは、はっきりといえそうな気がしていた。結局は、だれもがいうように、
(お陰さまで、今日まで、大過なく勤めさせて頂きました)
と、いって会社を去って行くことになりそうである。
しかし、思えば、大過なく、ということは大変なことなのである。あとの半年も、何んとか、大過なく過したいものであった。
章太郎は、そんなことを思いながら、三本目のビールを、ほとんど飲みつくしていた。その右隣には、相変らず、中年の男が二人いて、盛んに飲んでいた。章太郎は、特別に注意したわけでなかったが、二人の話題は、会社のだれかれのうわさ話に終始していたようであった。うわさ話というよりも悪口、といった方が当っていたろうか。
しかし、サラリーマンなら、たいていの者がやることなのである。ましてや、酒を飲んでいるのだ。半分は本気で、あとの半分は、酒の上の誇張の場合が多いのである。要するに、酒のサカナなのだ。
「ところで、君、あの女をどうするつもりだね」
二人のうちの肥った方の男がいった。
「あの女?」
やせ気味の男がいった。この方は、章太郎のすぐ横にいるのだった。飲みながら、ときどきヒザのあたりを貧乏ゆすりをさせていた。それが章太郎にも感じられて、さっきからちょっと気になっていたのである。
「白っぱくれるなよ」
「しかし、僕には、いわゆるあの女が何人もいるんだから」
「この色魔めが」
「うらやましいか」
「ちぇッ」
肥った方の男は、舌打ちしておいて、
「いつか、代々木のホテルへ連れ込んだといっていた女さ」
「ああ、小高秀子のことか」
章太郎は、思わず、その男の方を見た。その男の方でもそれが感じられたのか、章太郎を見返し、ついで、得意気にニヤリと笑った。
なかなかの美男子だった。もっとも、こういう顔は、章太郎の趣味に合っていない。味わいがなく、軽薄に見えるだけだ。いけないのは、本人が、その美貌を意識しているらしいことである。恐らく三十五、六歳であろうが、その年齢で、そういうことでは、人間として出来ていない証拠、ともいえそうである。
ニヤリと笑った顔が、章太郎に卑しいものに見えた。しかし、問題は、その男のいった小高秀子が、章太郎の部下である小高秀子と同一人であるかどうか、ということなのである。
その男は、すぐ視線を元に戻して、
「じつをいうと、今日だって、会社へ電話して来たんだよ」
「ふーん」
肥った男がいった。
「今夜、ぜひ会ってくれ、というんだ」
「会ってやればよかったのに」
「そろそろ、わずらわしくなって来たんだよ」
「ゼイタクをいっていやがる」
「しかし、一年以上もつき合っていたら、どうしたって、鼻についてくる」
「もう一年以上にもなるのか」
「ホテルへ行くようになってからは一年間だが」
「彼女にとって、君がはじめての男性であったのか」
「間違いないね」
「可哀そうに」
「そんなこと、あるもんか。あの女だって、僕によって、随分といい思いをしているんだよ」
「自信があるのか」
「嘘だと思ったら、あの女に聞いてみろよ」
「何んというだろうか」
「好きで好きで、死ぬほど好きだ、というだろう」
「今夜の勘定は、君だよ」
「それでは、約束が違う」
「ケチな男だな。僕だったら、それほどいい思いをしていて、それほどののろけをいった以上、ここの勘定ぐらい払うよ」
「はッはッは」
やせた男は、うれしそうに笑った。何故、そのように笑うのか、章太郎にはわからなかった。そういうことよりも、章太郎がさっきから耳にしていることは、ほとんど聞くにたえないことばかりであった。ふだんの章太郎なら、ジロリと睨みつけて、その場をはなれたであろう。
しかし、この男のいっている小高秀子は、部下の小高秀子と同一人なのかも知れないのだと思うと、もっともっと聞いておきたいのであった。それによって、この男が、秀子に対して、どういう考えを持っているかがわかり、今後の対策のたてようも、おのずから違ってくることになる。
肥った男は、ちょっと面白くなさそうに、
「すると、君は、そのうちに彼女を捨てる気でいるんだな」
「そうさ」
やせた男は、平然といっておいて、
「しかし、すぐにではないさ。まァ、あと半年ぐらい、ときどき、愉しんだり、愉しませたりしたあとで、と思っている。でないと、もったいないもの」
「もったいない、か」
「一人別口が出来かかっているんだ」
「あきれた奴だな」
「その方がモノに出来るようになるまで、と思っている。もっとも、しばらくは、両手に花、ということになるだろうが」
「ひどい奴だな」
「そうでもないさ」
「しかし、別れぎわが難しいんだろう?」
「そこが腕の見せどころさ」
「どうするのだ」
「泣いてみせるんだ」
「泣く?」
「そう」
「男の君が、か」
「そう」
「いったい、泣けるものなのか」
「僕の特技だろうな。もっともらしい理屈を並べて、ぽろぽろと涙を流すんだよ」
「出るのか、そういう涙が」
「出るね」
「どうやら君は、天性の色魔に出来ているんだな」
「とにかく、僕は、過去そういう別れ方をして、そのあと、女に恨まれたことは一度もないんだ」
「信じられんくらいだ」
「そりゃァ君の勝手だが、そのためには、一つのコツがあるんだ」
「参考のために、おしえてもらいたいね」
「かんたんなんだ。女に、嫌いになったから別れるんでなしに、好きで好きで仕方がないのだが、女房に知れたとか、会社の上役から叱られたとか、というんだ」
「女って、そんなに甘いもんか」
「甘くって、うぬぼれが強いんだよ。そこを利用すれば、なんでもない。そのためには、別れたくなったら、今まで以上にひんぱんに会っておく必要がある」
「僕もまねてみるかな」
「あと半年後でよかったら、小高秀子を譲ってもいいよ」
「君のお古なんて、ごめんだ」
「バカだな。結婚するわけじゃァなし、この人生を愉しくするために、それくらいのことは割切るんだ」
「まァ、考えておこう」
「ただし、あの女は、君に抱かれながら、僕のことを思い出しているかもわからない。あの方は、今でもあたしを愛していて下さるに違いない、と」
「あほらしい。そんなの、よしたよ」
「はッはッは」
やせた男は、もう一度、軽薄に笑って、
「今夜はことわったんだし、明日の晩ぐらい、あの女をホテルへ連れて行ってやるかな」
と、色男の代表のようないい方をした。
章太郎は、聞いていて、あきれ果てていた。もちろん、こういう男に引っかかる女も悪いが、引っかける男の方がもっと悪いのだ。いってみれば、女性の敵であるよりも、むしろ、男性の敵、なのだ。男の面よごしだ、ともいいたいくらいだった。
だからといって、章太郎は、自分自身を聖人君子だなどと思っているのではなかった。結婚してから妻に亡くなられるまで、妻以外の女を知らなかったというような嘘をつく気はない。が、素人女に手を出したことだけは、一度もなかった。そういうチャンスはあったのだが、あくまで、自戒して来たのである。そのかわり、金で解決のつく玄人女となら何人も経験ずみであった。
素人女に手を出して、悪いという理由がないのである。それが恋愛感情にもとづくものであれば、どうにも仕方がないことはあり得る。しかし、この男のように、はじめからだますつもりで、というのは、どう考えても感心出来ない。まして、いくら酔余とはいいながら、そのことをとくとくとして友人にしゃべるなんて、もってのほか、というべきであろう。品性の下劣さを裏書きするものだ。
(もし、のぼるが、こんな男を相手にしていたのであったら……)
章太郎は、ぞうっとした。恐らく、どうにも我慢がならず、決闘でもする気でどなり込んで行きたくなるだろう。そして、こんな男にもてあそばれている小高秀子の両親だって、もし真相を知ったら絶対に許さないに違いない。それが親というものなのだ。
この男の年齢からして、まだ年ごろの娘があるとは考えられない。しかし、あと十数年たって、自分の娘が、かつて自分が、他人の娘にしたようなことを、こんどは他人からされたとなったら、ということを考えたことがあるのだろうか。もし、そういうことをすこしでも考えていたら、かりそめにも嫁入り前の人様の娘に手を出すなんてことは出来ないはずなのである。
章太郎は、面と向ってそのことをいってやりたいくらいだった。ついでに、その男の名を聞きたかった。
郡司道子が寄って来て、
「向うの席、空きましたけど」
と、章太郎の背中に手をおいた。
「そうか」
章太郎は、二人のうちの、特に憎らしいやせた男の横顔に、憎しみの一べつを送ってからそこをはなれた。
章太郎が案内されたのは奥のテーブルであった。郡司道子は、章太郎の飲みさしのビールやグラスを運んで来て、並んで腰を下した。
「どうぞ」
「ああ」
「あんな脚の高いイスに長らくいらっしたので、お疲れになったでしょう?」
「そうでもない」
「どうなさったの、何んだか、いやにご機嫌が悪いようだけど」
「そうなんだ」
「あたしが無理をいって来て頂いたからなのね」
「違う。いやな話を耳にしたからだ。そうだ、君に聞いたら、あの男の名がわかるだろう?」
「どの人のこと?」
「あのカウンターのところにいる男だ。さっきまで、僕が隣にいた男だ」
章太郎は、カウンターの方をにらみつけた。郡司道子は、その視線を追って行き、
「ああ、井筒さんよ」
「井筒……」
章太郎は、呼吸をのみ込むようにしていった。
「たしか、井筒雅晴さんといったはずだわ」
「会社は?」
「東銀座の塩野建築設計株式会社。あたし、以前に集金に行ったことがありますから」
「そうか」
章太郎は、うなるようにいった。
(最早、間違いない!)
それにしても、この奇遇を何んと解釈すべきであろうか。
(天の配剤……)
そういう言葉が、章太郎の頭の中に浮かんでいた。
章太郎は、課長代理の平山からその話を聞いたとき、とにかく、この問題は、僕にまかせておいてもらおう、といい切ったのである。また、停年退職の日までに、一つぐらい善根をほどこしておくべきだ、とも思ったのである。が、その後、しだいに面倒臭いように思われて来たし、それこそ無用の出しゃばりになるのではないかと、億劫になっていたこともたしかであった。
しかし、その相手の男の横に腰を下し、いっさいを聞いてしまったのである。どうして、放っておかれようか。神さまが放っておいてはならぬ、といっていられるようなものだ。もし、これを放っておいたら卑怯者ということになる。もちろん、人にいわなければ、この場はこれですむ。しかし、それでは、章太郎は、今後ときどき今夜のことを思い出しては、
(おれは、卑怯者であった)
とも、また、
(部下に対して、真の愛情に欠けていた課長であった)
と、自分を責められるに違いないのである。
そして、こういう思いは、停年退職を機に、いわゆる第二の人生を踏み出そうとしている章太郎にとって、たいへんなマイナスになりそうだ。自信の喪失からこの人生への積極さを失い、早く老け込み、死期を早めるだろう。いやなことだった。
章太郎の決心がついた。
「どうなさったのよ」
郡司道子がいった。
「僕は、あの井筒という男に、ちょっと話したいことがあるのだ」
「話したいことって?」
「あの男は、僕の部下の小高秀子をおもちゃにしていることがわかったのだ」
「おもちゃって?」
「男が女をおもちゃにしているといえば、たいていわかるだろう?」
「…………」
「あの男は、この店にとって、大切な客なのか」
「でもないわ」
「ならいい。ただし、ケンカはしないつもりだが」
「まァ、ケンカ?」
郡司道子は、マユを寄せるようにしていった。あくまで、章太郎にそういう危い真似は、避けてもらいたいようだった。
「おだやかに話し合うことが理想なのだ。しかし、相手の出方しだいでは、どうなるかわからぬ」
「それはそうでしょうけど」
「あの男は、酒癖は?」
「ふつうよ」
「女癖は?」
「いいとは、思われません」
「そのはずだ。あの男の隣にいる男は、同じ会社なのか」
「違う会社。月に一度ぐらい井筒さんといっしょにいらっしゃるだけなんです。たしか、勝畑正造さんといったわ」
「酒癖は?」
「いい方よ」
「女癖は?」
「口ではいろいろおっしゃるけど、比較的真面目な方なんじゃァないか知ら?」
「有りがとう。それだけ、聞いておけばたくさんだ」
章太郎は、立上がりかけた。
「本当にいらっしゃるの?」
郡司道子は、不安そうにいった。
「そうだよ」
「だったら、あたしもいっしょに行って上げます」
「僕一人で、たくさんだ」
「ダメ」
郡司道子は、優しくたしなめておいて、
「矢沢さんて、平常は温厚だけど、カッとなると恐いところがありますから」
章太郎は、図星を指されたように苦笑をもらした。
「あたし、矢沢さんのことなら、たいていのこと、わかっているつもりよ。だって、好きなんですもの」
「好きは、お互いさま、としておこう」
「そうよ、ね」
郡司道子は、自分に安心させるようにいっておいて、
「だから、あたしを連れていらっしたほうが間違いなくってよ。だって、味方がいた方が安心でしょう?」
「まァ……」
「どういう話をなさるおつもりか、あたしに聞かせておいて」
「面倒臭いことをいう」
「いいじゃァありませんか」
章太郎は、浮かした腰を下して、ごくかいつまんで、会社で小高秀子の話を聞いたこと、そして、その相手の井筒雅晴が、偶然にもさっき章太郎の隣にいて、しかも、小高秀子のことについて、聞くにたえないようなことをしゃべっていたのを耳にしたいきさつを話した。
郡司道子は、黙って聞いていた。が、章太郎が話し終ると、
「矢沢さんが、井筒さんに抗議をなさりたいお気持、よくわかったわ。当然のことよ」
と、一種の感動のこもったいい方をした。
「だろう?」
章太郎は、威張ったようないい方をした。
「でも、やっぱり、お一人でというのはよくないわ、あたしがいっしょでないと。だって、向うは、二人でいるのよ」
「わかっているさ」
「まさか、という場合には、あたしがついていて、うまくして上げます」
「たのもしいことをいってくれるんだな」
「そうよ。だって、矢沢さんは、あたしにとって、大切なお人なんですもの」
「まァ、よろしく頼むよ」
「まかせておいて」
こんどは、郡司道子が威張ったようないい方をした。章太郎は、笑った。郡司道子も笑った。そこには、過去三年間の実績が、モノをいっているようであった。
郡司道子は、章太郎のことを、大切な人、といってくれた。その意味では、章太郎にとって、郡司道子は、必要な人、といえたろうか。しかし、この必要な人とも、あと半年で縁切れになる公算が大なのである。
(この女は、おれに、何んの相談がしたい、というのであろうか)
章太郎は、あらためてそのことが気になって来た。早く聞いてみたかった。が、その前に、小高秀子の問題を片づけてしまわなければならないのである。
「行きましょうか」
郡司道子が立上がった。
「行こう」
章太郎も立上がった。
章太郎は、テーブルの間を郡司道子の後からついて行きながら、緊張していた。何かの試合にのぞむ直前のようであった。しかし、郡司道子がいっしょだ、ということがなんとしても心強かった。結果は、どういうようになるかわからないが、郡司道子がこれほどたのもしい女に思われたことは、はじめてであった。
スタンドの井筒と勝畑は、そろそろ帰りかけていたところだった。そして、二人とも、だいぶん酔っているらしかった。
「井筒さん」
郡司道子がいった。
井筒は、振り向いて、
「何んだね。しかし、この店は、どうも、サービスが悪いぞ」
「すみません」
「女たちが、さっぱり寄ってこないじゃァないか」
「だって、井筒さんなんか、もう女には食傷していらっしゃるんでしょう? ですから、たまにはご清潔な方がいいかと思って」
「バカにするな」
「いいえ、ご尊敬いたしておりますのよ」
「よく口のまわる女だな」
井筒は、そういってから郡司道子のうしろで、じいっと自分を見つめている章太郎に気がついた。何んだ、とアゴをしゃくるように郡司道子を見た。
「井筒さん、このお方が、あなたにご紹介してもらいたい、とおっしゃってますのよ」
井筒は、あらためて章太郎を見てから、
「さっきまで、僕の横にいた人なんだろう?」
「そうですわ」
郡司道子は、いっておいて、章太郎に、
「お名刺、差し上げになったら?」
章太郎は、名刺を井筒の前において、
「こういう者です」
井筒は、面倒臭さそうに、その名刺を手に取った。勝畑は、横からのぞき込んでいる。
「東亜化学工業株式会社、厚生課……」
井筒は、声に出して読んで、はっと顔色を変えたようであった。ちらっと章太郎を見て、また名刺の上に視線を落し、唇をゆがめた。章太郎は、強い目つきで、それを見ていた。郡司道子は、
「矢沢さん、お隣へお掛けになったら?」
「そうだな」
章太郎がその通りにしようとすると、
「いや、その必要がない」
と、井筒がふきげんにいった。
「あら、どうしてよ。せっかく、名刺まで出して、ご紹介してくれ、とおっしゃっているのに」
「僕たちは、帰るところなんだ」
「そんなに長く、お手間は取らせないつもりですが」
そういいながら、章太郎は、強引に井筒の横に腰を掛けてしまった。何ごとか、と見ているバーテンダーに、郡司道子が、
「矢沢さんに、おビールを上げて」
「かしこまりました」
「それから井筒さんと勝畑さんには、お代りを」
「僕たちは、いらん」
「いいえ、矢沢さんが差し上げたいといっていらっしゃるんですよ」
「そんな酒なんか、ごめんだ」
「井筒さん、せっかくのご好意なんだし、気持よくお受けになったら?」
「いやだよ」
「ねえ、ちょっと往生際が悪いんじゃァない?」
「何んだと?」
井筒は、郡司道子をにらみつけた。
「ごめんなさい。いつもの軽口が出ただけなんです」
郡司道子は、笑顔で受け流しておいて、
「早く、よ」
と、バーテンダーにいった。
「いったい、どうしたんだね」
勝畑が横からいった。
「そうね、この話、勝畑さんにも聞いておいてもらった方がいいんじゃァないか知ら?」
「ぜひ」
章太郎がいった。
「よけいなことだ」
井筒がいった。
勝畑は、わかったようなわからぬような顔で、
「君、あんなにいうんだから、聞いて上げたら?」
と、井筒にいった。
「どうせ、ロクでもない話に決っているんだよ」
「そう、あなたにとっては。しかし、僕にとっては、絶対に必要な話なんです」
章太郎は、重い口調でいった。章太郎の前にビールが、井筒と勝畑の前にハイボールがおかれた。
「どうぞ」
章太郎は、自分のグラスを持った。しかし、井筒は、苦り切っているだけだった。井筒がそうなので、勝畑は、出しかけた手をまよわせていた。
「どうぞ」
章太郎は、重ねていった。
「お飲みになりませんの?」
郡司道子は、井筒の顔をのぞき込むようにしていった。
「いらんとさっきいったじゃないか」
井筒は、憤ったようにいった。が、そこに虚勢が感じられた。一つには、章太郎の重厚な態度に威圧を覚え、そういう自分に自分でいまいましくなっているのでもあったろうか。
「だったら勝畑さんだけでも、お飲みになりません?」
「では……」
「君、よしておきたまえ」
「僕には、何んのことやらさっぱりわからんのだが」
「帰ろう」
「井筒さん」
郡司道子は、イスから降りかける井筒の背中をおさえて、
「こうなったら、男らしく、受けてお立ちになることですよ」
「男らしく、だと?」
「だって、女らしくなんてのは、失礼でしょう?」
「君は、いったいこの男の何んなのだ」
「ご想像におまかせいたしますわ」
郡司道子は、ニコニコしながらいって、
「これでも、あなたのためを思って、いって上げてるつもりなんですけど」
「うそをつけえ」
「そりゃァこんな商売をしている以上、時には、ご愛敬にうそをつくことだってありますけど、今は、正真正銘の本気でしてよ」
井筒は、そっぽを向いた。が、このまま帰ることだけは、あきらめたようであった。
「早く、おっしゃったら?」
郡司道子は、章太郎にいっておいて、
「勝畑さん、いっしょに聞いてね」
「いいよ」
章太郎は、ビールを軽く飲んでから、
「井筒さん、あらためていうまでもないと思いますが、勝畑さんにもわかっていただけるように、僕の立場をいいますよ」
「…………」
「…………」
「僕は、さっき、あなたがたがここで話していらっしゃった小高秀子の直属の上司である厚生課長なんですよ」
井筒は、マユ毛一つ動かさなかった。が、勝畑は、あっという顔で、
「あなたが?」
と、章太郎を見た。
章太郎は、見返して、
「そうなんですよ。別に、特別注意して聞く気はなかったんですが、小高秀子という名が出たので、つい耳を傾けてしまったんです。そして、井筒さんが、小高秀子に対して、どういう考えを持っていられるか、はっきり知ることが出来ました」
勝畑は、井筒の顔を見た。しかし、井筒は、ふきげんに黙っているだけであった。章太郎は、こうなったら勝畑を相手にしゃべろうと思った。結局、そのことは、井筒にしゃべることと同じ結果になる。また、章太郎の感じからいうと、井筒よりも勝畑の方が、いくらか人間がまともなような気がしていたのである。
「勝畑さん、これを放っといていいものでしょうか」
「さァ……」
「じつをいうと、僕は、今日はじめて、小高秀子に妻子のある恋人があることを知ったのです」
「なるほど」
「本人の口からでなく、僕の課の男からなんです」
「…………」
「ということは、そのことが相当社内の噂になっているのです」
「…………」
「その噂がさらにひろまると、将来、本人に縁談が起った場合、当然支障を来たすことになるでしょう」
「…………」
「僕は、課長として、今もいったようにこのまま放っておくわけにいかんと思ったんですよ」
「…………」
「というのは、僕にも同じ年ごろの娘があり、他人事に思えないからです」
「…………」
「そのうちに相手の男に、どういう料簡なのか、と直接聞きに行くつもりでおりました」
「…………」
「しかし、今夜、ここで偶然に隣合せになり、その手数がはぶけました」
「…………」
「小高秀子は、その妻子ある男と結婚する気でいるんです」
「結婚ですか」
「と、本人が友達にいっているのです」
「…………」
「しかし、その男にその気の全くないことは、さっきから聞いていて、わかりました」
「…………」
「当然のことですよ。が、許せないのは、計画的におもちゃにしていたことです」
「…………」
「その男に、娘があるかどうかは知りませんが、かりにあったとして、将来、自分の娘が、そういう悪質な男にだまされる場合を考えたことがあるのでしょうか」
「…………」
「恐らく、そんなこと、考えたこともないでしょう。だとしたら、あらためて、考えてもらいたいのです」
「…………」
「さらにいいたいのは、その男は、第二第三の小高秀子をつくろうとしていることです。僕は、絶対に許せない、と思いますよ」
章太郎は、あくまで冷静にいい続けた。勝畑は、章太郎の絶対に許せない、といった言葉に、かすかにうなずいてみせた。
井筒は、そっぽを向いたままで、
「課長さんのいいたいのは、それだけかね」
と、横柄にいった。
「なに?」
章太郎は、思わず、井筒をにらみつけた。が、井筒は、ふてくされたように、
「出しゃばり好きな課長さんのいいたいことは、それだけかね、といっているんだよ」
「そうだ。だから、こんどは、君の意見を聞きたいのだ」
「別に、ないね」
「ないとはいわさぬ」
「では、いおう。近ごろでは、そういう出しゃばりは、全くはやらないんだよ」
「あら、あたしは、そのように思わないけど」
横から郡司道子がいって、
「だって、矢沢さんのおっしゃること、なかなか筋が通っていて、立派なんですもの」
「口先だけはね」
「すると、井筒さんの方は、中身がご立派なの?」
井筒は、ぐっと詰ったようだったが、
「要するに、僕は、私生活に関しては、放っておいてもらいたいのだ」
「それを放っておかれない、とおっしゃってるんですよ」
「迷惑至極だ」
「そんな迷惑ぐらい、我慢しなさいよ」
「うるさいな」
「これでも、女のはしくれですから」
「殴るぞ」
「かんにん。あたしって、暴力には弱いのよ」
横から勝畑が、井筒に、
「君、こうなったら、もっと真面目に話し合ったら?」
「君まで、そんなことをいうのか」
井筒は、不愉快そうにいった。そして、いつの間にか勝畑が、章太郎の出したハイボールを飲んでいることに気がつくと、いっそう不愉快そうに、
「君は、そんな酒ぐらいで、友人を裏切る気なのか」
「まさか」
「だったら、飲むな」
「しかし、飲んでしまったんだから」
「そうよ。何んでしたらお代りをどうぞ、勝畑さん」
「いや、これ一杯で十分」
「井筒さんも、その酒をぐっと飲んで、お互いに今後のことについて、気持よくお話し合いになったら?」
「いやだね。だいたい、この課長のいい方が気に入らぬ」
「あらどうして?」
「はじめから人を罪人扱いだ」
「似たようなもんでしょう?」
「失敬な」
「だけど、小高秀子さんのご両親がお聞きになったら、失敬な、ぐらいではすまないんじゃァないかしら?」
「…………」
「娘ドロボウめが、とどなり込まれるわよ」
「そうしたら、僕は、いってやる」
「どういうふうに?」
「誘惑されたのは、むしろ僕の方だ、と」
「一人前の男が、そんなふうにいっていいものなの?」
郡司道子は、さもあきれました、というようないい方をした。
章太郎は、聞いていて、痛快だった。郡司道子は、井筒にすこしも負けていないだけでなく、章太郎のいいたいと思っているようなセリフを、ズバリズバリといってくれるのである。あらためて、この女のよさを見直したくなっていた。
同時に、この井筒を、ますます、軽蔑していた。もう人間として、最低と断じて、間違いないようだ。
「僕が、一人前の男でないとでもいうのか」
「いいえ。一人前の男になっていただきたいのよ」
「結局、一人前の男でない、ということでないか」
「そうね」
郡司道子があっさり同調したので、勝畑は、くすっと笑った。章太郎も、笑った。
「笑うな」
井筒は、ヤケクソのようにいって、
「別れてくれというんなら、あんな女と、いつだって別れてやるよ。こっちだって、ちょうど飽きが来ていたところなんだ」
「よかったじゃァありませんか」
「そのかわり、あの女に恨まれても、僕の責任じゃないぞ」
「では、だれの責任?」
「そこの出しゃばり課長のだ」
「おかしないい方をなさるのね」
「当然だよ。僕は、あの女にいうさ。君の課長に頼まれたから、涙をのんで別れるのだ、と」
「ぽろぽろと出る涙を流して?」
「だから恨むんなら、あくまで君の課長を恨め、と」
「それこそ、筋が違ってません?」
「そんなこと、こっちの知ったことか」
「いいわ。そのかわり、井筒さんが、小高秀子さんについて、ここでおっしゃってたこと、矢沢さんからいってもらえば、きっと、わかってくれると思うわ」
「ところが、あの女は、僕のいうことなら、絶対に信用するんだ」
「井筒さんは、そういうことで平気?」
「もちろんだ。どうだね、課長さん。君は、そのために、一生あの女から恨まれるよ。見れば、そろそろ、会社も停年に近いらしいが、何を好んで、そういう無理な真似をするんだね」
勝畑が、
「矢沢さんは、停年がお近いんですか」
「あと、半年です」
章太郎は、悪びれずにいった。
「そうでしたか」
勝畑は、章太郎を見直すようにした。
「どうだね、課長さん。女の恨みって恐いよ。それよりも、今夜のことは、何もなかったことにしておいた方が、身のためじゃないのかね」
「断る」
章太郎は、きっぱりといって、
「僕は、たとえ一時的にあの娘に恨まれてもかまわぬ。それよりも、君という男の正体がわかった以上、あくまで別れてもらいたい。何故なら、その方が、あの娘の幸せになると信じるからだ」
いいながら、いつか、章太郎は、自分でも思いがけないほど、しんけんな気持になっていた。もはや、一歩も後へ退けないのである。それに、相手が悪過ぎる。およそ、可愛げがない。
もともと、こういう男に可愛げを求めようなんて、無理な話なのだ。しかし、こうまで追い詰められたら、多少の神妙さがあっていいはずのものである。窮鼠猫を噛むのたぐいかもわからないが、章太郎には、この男の程度の低さが見えてくるばかりであった。こういう男にうつつをぬかしている小高秀子に対しても、
(バカな娘だよ、お前さんは)
と、いいたくなっていた。
もっとも、のぼるだって、どういう恋愛をしているかわからないのだし、他人の娘である小高秀子に対してだけ、あんまり偉そうな口が利けないのだが。
「立派だよ、課長さん」
井筒がせせら笑うようにいった。章太郎は、その皮肉を承知の上で、
「そう、僕は、立派な課長になりたいと思っている」
「おめでたいんだな」
横から郡司道子が、
「あたし、おめでたいといわれるような人、大好きよ」
「君は、こんな男に惚れているのか」
「今まで、そのように見えませんでした?」
「停年間際の男に、物好きにもほどがある」
「あたしって、物好きな女なのよ」
「うるさいな、ああいえばこういう」
「そして、こういえばああいう、でしょう?」
「おい、勝畑君、帰ろう。そして、こんな不愉快なバーに、二度と来てやるもんか」
「あたし、それをいわれると弱いのよ」
「それみろ」
「でも、我慢するわ」
「我慢?」
「二度と来て頂かなくても結構です、ということ。ただし、勝畑さんは、いらっしてね。大歓迎するわ」
勝畑は、苦笑した。さっきから、はっきり口に出さないが、井筒の態度に、友人でありながらいい感じを持っていないようであった。それが、章太郎にも感じられていた。そこにも、井筒とは、人間としての出来の違いを見るような気がしていた。
「君は、そんなことをいって、あとで、マダムに叱られるぞ」
「幸いに、ママさんは、今夜、おやすみ」
「すると、誰がマダム代理なのだ」
「あたしです」
「…………」
「井筒さん、今夜は、ついてないわね。お気の毒みたい」
「放っといてくれ」
「だけど、小高秀子さんのこと、どうなさるの」
「こうなったら、僕は、意地にでも別れてやらぬ。その覚悟をしておいてもらいたい」
井筒は、ヤケクソのようにいった。
なにかいいかける章太郎をおさえて、
「いいことよ」
と、郡司道子がいった。
「いいんだな」
井筒は、念を押すようにしていった。
「だって、井筒さんが、どうしてもいやだとおっしゃるんなら、はたからいくらいってもダメなんでしょう」
「そうだよ。おい、そこの立派で、おめでたい課長さん、おわかりかね」
井筒は、したり顔でいった。
章太郎は、もうむかむかしているのであった。これでも、ずっと昔は、けんかのきらいな方でなかった。せめて十年若かったら、
(表へ出ろ)
ぐらいのセリフをいうところなのだ。
それにしても、郡司道子が、こうあっさり妥協するとは思わなかった。これでは、章太郎が、なんのためにさきほどから、あのようにムキになっていったのか、わからないことになる。
バーテンダーは、気づかわしげに見ていた。そして、うしろの客席の方でも、こちらのもめごとらしい気配に気がついて、それとなく注意している客があった。
「勝畑君、帰ろう」
「うん」
勝畑は、踏ん切り悪くいった。
「小泉さん、お勘定して上げて。この前のもいっしょに、よ」
郡司道子は、バーテンダーにいった。
「いいんですか」
バーテンダーがいった。
「当然のことよ、商売ですもの」
「勘定だったら、会社へ取りに来てくれ」
「今夜にして」
「いつだって、会社に取りに来ているじゃないか」
「営業方針の変更ですから、あしからず」
「そんなこと、僕は、認めんよ」
「どうか、お認めのほどを」
「いやだね」
「小泉さん、いくらになってます?」
「今までの分が、七千八百円で、今夜の分が二千三百円です」
「合計一万百円ね。井筒さん、一万円で結構です」
「今夜は、払わんといっているのがわからんのか」
「払って下さい、といっているのに、おわかりになりませんの?」
井筒は、憎らしげに郡司道子を睨みつけた。が、郡司道子は、平然と見返して、
「一万円ぐらい、お持ちなんでしょう?」
「もちろん、持っているさ」
「だったら」
「しかし、このバーに払う金は、持っておらんというのだ」
たまりかねたように勝畑が、
「君、あんなにいうんだから、払ってやれよ。そのかわり、今夜の分は、僕が払う」
「それごらんなさい。勝畑さんの方が、余っ程、話がおわかりになるわ」
井筒は、しぶしぶ七千八百円を払い、残りを勝畑が払った。
「さァ、払ったら文句があるまい」
「ないわ」
「帰るぞ」
「ちょっと、お待ちになって」
「まだ、なにか用があるのか」
「そうよ」
「早く、いえ」
「お勘定をいただいたから、もう五分と五分だわね」
「…………」
「あたし、これからいいたいことをいわせて頂きますよ」
「勝手にするさ。こっちは、聞いてやらないから」
「ご随意に」
いっておいて、郡司道子は、章太郎の前のビールで、軽く口をうるおし、ついで、章太郎をちらっと見たのだが、
(こうなったら。何も彼も、あたしにまかせておいて)
と、目顔でいっているようだった。
もちろん、章太郎は、もはや自分が出る幕でないようだ、と思っていた。それにしても、今夜の郡司道子を、ますます見直したくなっていた。口も達者、度胸も満点、のようだ。ただのバーの女にしておくのは、惜しいくらいである。
章太郎は、ふっと、
(この女と結婚できたら……)
と、いうことを頭に描いた。
今日まで、そういうことは、考えたこともなかったのである。郡司道子とだけでなしに、どんな女との再婚も、空想したことがなかった。のぼるや章一にあたえる影響を思えば、実際問題として、不可能でもある。
にもかかわらず、章太郎は、郡司道子との再婚を夢見たのだ。一つには、この女との別れの日が近づきつつあるとの先入観念のせいだったろうか。
(要するに、おれは、自分で想っていた何倍か、この女に惚れていたんだな)
そして、郡司道子の方でも、といいたいのだった。
章太郎は、昨日今日、殊に停年退職後の自分のあり方について、考えさせられている。中でも、いちばん辛いのは、のぼるが嫁ぎ、章一が独立の生計を営むようになったあと、じいっと庭を眺めながら終日を暮すような孤独な老人になるのではないか、という想像であった。想うだけでも、やり切れなくなってくる。いっそ、死んだ方がましかも、といいたいくらいなのだ。
が、しかし、そういう場合、もし、自分の横に、郡司道子がいてくれたら、どんなに救われるだろうか。どんなに心が温まるだろうか。ために、淋しく、やるせないだろう自分の老後が、思いがけないほど、豊かなものになってくるに違いないのである。
この一瞬の想像に、章太郎が気持を弾ませたことは、たしかであった。
(そのためにも、おれは、停年退職後の就職について、もっと、しんけんにならなければならんのだ)
何んといっても、経済力が問題なのである。経済力がともなわなかったら、どんな名案も、画に描いたボタモチにひとしい。
またしても、章太郎は、郡司道子の相談というのは何んであろうと思い、ついで、のぼるや章一の思惑を考えれば、結局、空想は空想で終るのだ、とあきらめた。
「さっき、井筒さんは、小高秀子さんとは、意地にでも別れてやらぬ、とおっしゃったわね」
「ああ、いったとも」
「その気持、今でも、お変りにならない?」
「変るもんか」
「念のため、もう一度」
「くどいではないか」
「ごめんなさい」
「帰るぞ」
「どうぞ。でも、最後に一言」
「なんだ」
「そうなったら、あたしにだって、考えがあります、ということ」
「考え?」
「そうよ」
「君は、いったい、何をたくらんでいるのだ」
「ご想像におまかせします」
「君は、まさか、僕の女房に、そのことを知らせるというのではあるまいな」
「でも、名案でしょう?」
「おい、する気か」
井筒は、詰め寄るようにいったが、顔色を変えていた。
「だって、そちらが勝手なら、こっちだって勝手でしょう?」
「…………」
「五分と五分だわ」
「…………」
「別の名案だってあるわ」
「僕の会社の重役にいうとでもいうのか」
「図星よ、井筒さん」
「バカな」
「でしょうか」
「第一、そんな真似は卑怯だよ」
「見解の相違ね」
「そんなこと、僕が許さぬ」
「どうぞ」
「どうしても、やる気か」
「今は、ね。だけど、思い違いをしないでね。この案、あたしの考えで、実行するのも、あたしよ。矢沢さんには、何んの関係もありません」
「嘘をつけえ。二人は、はじめからグルになって、僕を脅迫する気でいたんだ」
「そういうご想像は、お人柄にかかわりましてよ」
「君には、何んの関係もないじゃァないか」
「でも、人間として」
「…………」
「あたしって、ちょっと、立派でしょう? もっとも、多少出しゃばりのきらいはあるかもわかりませんが」
「そこの課長。黙っていないで、何んとかいったらどうなんだ」
「別に、いうことはないな」
章太郎は、そっぽを向いた。井筒は、さっきまでの横柄な態度とは打って変り、すっかり狼狽していた。醜態だった。勝畑は、黙って見ているだけである。
井筒は、いきなり、カウンターの上のハイボールのいっぱい入ったグラスをわしづかみにした。
「よしたまえ、井筒君」
うしろから勝畑が、その井筒の手をおさえた。
「いいや、こんな女は」
井筒は、勝畑に抵抗している。ために、グラスの酒が、そこらにこぼれた。
そうなると、章太郎は、放っておかれないのである。
「どうやら、僕の出番が来たらしいから」
章太郎は、郡司道子をかばうようにイスからおりた。
「大丈夫よ」
郡司道子は、すこしも恐れていないようであった。バーテンダーも、カウンター越しに、井筒の手をおさえている。
テーブル席の客は、みんなこっちを見ていた。
いくら血迷っていたとはいえ、井筒は、本気でなかったのであろう。割合にあっさりと勝畑にグラスをもぎ取られていて、
「おい、帰ろう」
と、勝畑にいった。
「ああ、帰ろう」
勝畑は、答えた。
テーブル席の客たちは、ほっとしたようであった。が、さげすむように井筒を見ていた。
「いいかね」
井筒は、わざとふてくされたように、章太郎と郡司道子を見て、
「もし、さっきいったような真似をしてみろ。僕は、ただでおかないから」
「だけど、それは、井筒さんしだいということになるんでしょう?」
なおもなにかいいかける井筒に、勝畑が、
「とにかく、ここを出ようよ」
と、その腕を引っぱった。
「おぼえてろよ」
「はい」
井筒は、勝畑に背中を押されながら出て行った。が、よっぽど口惜しかったのか、出しなに扉をクツ先でけるという景品をつけた。
「なんだい、あの男」
「酒癖が悪いんだよ」
「酒乱かもわからないな」
そういう客席の声が、章太郎と郡司道子にも聞えてくる。
「ごめんなさいね、出しゃばって」
郡司道子は、きまり悪そうにいった。
「いや、たすかったんだよ」
「そう思って下さる?」
「思う。しかし……」
「なに?」
「問題は、一向に解決出来なかった」
「そうね」
「どうしたもんであろうか」
「もう一度、向うのお席へ行きましょうよ」
さっきまで、章太郎がいた席は、まだそのままになっていた。二人は、その席にもどった。
「明日からの小高秀子の態度が思いやられるな」
「でも、仕方がないわよ、本人のためと思ってしたことなんですもの」
「そうなんだ」
「あたしだって、今後は一役買いましてよ」
「君が?」
「乗りかかった舟ですもの、いいでしょう?」
郡司道子は、章太郎の目の奥をのぞき込むようにしていった。
「だけど、君は、まさか、さっきいったように、あの男の奥さんにいいに行くわけではないだろう?」
「もちろん、おどしよ。だけど、あのおどし、相当利いたはずだと思うわ」
「そりゃァ利いている」
「そのうちに一度、小高秀子さんを、ここへ連れていらっしゃらない?」
「どうしてなんだ」
「あたしからよくいって上げるわ。あたしって、若い娘に説教するの、割合にうまいのよ」
「だろうな」
「認めて下さるの?」
「認める。そして、今夜は、君を大いに見直したよ」
「さすがは、僕の惚れた女である、というように?」
「別の問題だよ」
「あーら、つまんないの」
章太郎は、苦笑しながら、
(昨夜ののぼるのことを、この女に相談してみたら……)
と、いうことをひらめくように考えたのであった。
なにかと、いい智恵を貸してくれるのではあるまいか。しかし、そこまでの決心は、つかなかった。
「それよりも、君の相談というのを聞こうじゃァないか」
「今夜でなくってもいいのよ」
「あんなに急いでいたくせに」
「本当は、こんな場所でなく、もっと二人っきりの落ちついたところでと思っていたんです。どうしても、早く帰らないといけませんの?」
「そう。さっきもいったように、子供たちと約束がしてあるんだ」
章太郎は、腕時計を見た。十時を過ぎたところであった。
「いいお父さんなのね」
「と、自分では思っているのだが、あるいは、見当はずれのことを、子供たちのためと思ってやっているかもわからない」
「そんなことないと思うわ。あたしが保証するんですもの。間違いがありません」
「有りがとう」
「でもね、矢沢さん、あと十年もしたら、一人ぽっちになるわよ」
「いやなことをいう」
「だけど、現実の問題よ」
「わかっているんだ。だから、今のうちに、そういうことになっても、あんまりめそめそしないように覚悟をしておこうと、一所懸命になっているんだ」
「自信がありまして?」
「ないのだ、正直にいって」
「わかるわ、あたしに。だから、あたし、そのときのために、素敵な名案を一つ、考えているんだけど」
「名案?」
「いっそあたしを奥さんにしてしまうのよ」
「君を?」
「あたしは、名案だと思ってるんだけど、おかしいかしら、やっぱり」
郡司道子は、てれたようにいった。が、冗談をいっているのではなく、本気でいるようだ。
章太郎は、さっき、そういう空想をしたばかりである。しかし、子供たちの思惑を考えれば、あくまで、空想のままで終るであろう、と。
が、そのことを、郡司道子の口から聞かされようとは、思いがけなかった。
「別に、おかしくはないだろうが」
「だったら、しんけんに考えてみてくださらない?」
「…………」
「あたし、これでも、しんけんなのよ」
「…………」
「もっとも、バーにいた女なんて困るとおっしゃるんなら、あたし、明日からでもここをよして、別の勤め口を探してもいいわ」
「…………」
「これだけは、信じて。あたし、三年前に矢沢さんとああいうことがあってから、一度も浮気をしていないことよ」
「…………」
「人さまからうしろ指をさされるような真似も」
「そりゃァ信じる」
「それでも、ダメ?」
「僕は、半年後には、停年退職になる人間なんだよ」
「わかっているわ」
「さっきの井筒君だって、物好きにもほどがある、といっていた」
「そして、あたし、物好きな女です、と答えたでしょう?」
「かりに、僕がその気になっても、子供たちは、うんといわないだろうな」
「では、子供さんたちが、うんとおっしゃったら、いいんですの?」
「うんというはずがないよ」
「あたし、うまくしてみせるわ」
「どういうように?」
「ときどき、お会いして、お父さんにはこの人が必要らしいと思わせるのよ」
「あの子供たちが、そういうように思うなんて、考えられないことだ」
「だけど、やってみないことには?」
「まァ、無理だろうなァ」
「ということは、矢沢さんに、そういう気がないのね」
「正直にいえば、あるんだよ」
「だったら……」
郡司道子は、上半身を乗り出すようにしていった。
「しかし……」
「いいのよ。あたしに、そういう期待だけを持たせておいて。五年後でも、十年後でもかまわないんです、それが実現するのは」
「十年後……」
「矢沢さんが六十五歳で、あたし、三十九歳になっているわ」
バーテンダーが、向うからいった。
「矢沢さん、お電話です」
「電話?」
章太郎は、立上がった。だれからの電話か、見当がつかなかった。今夜、自分がここへ来ていることは、だれにもいってないのである。
「ちょっと、失敬」
章太郎は、郡司道子にそういっておいて、カウンターの上のすみにある電話の方へ近寄って行った。が、だれからの電話であろうか、ということよりも、
(郡司道子は、五年後でも、十年後でもいいから結婚してやる、といってくれたのだ)
と、いうことの方が頭にあった。
半年後には別れなければならぬ、と思っていた章太郎にとって、これは夢のような幸せ、といってもよさそうだ。
(しかし……)
やっぱり、そういう反省が、先に立つのである。結婚するとなれば、何んといっても、経済の裏付けがなくてはいけないのだ。それ以上に、子供たちの思惑が。
郡司道子は、経済の裏付けについては、一言も触れていない。あるいは、うんと退職慰労金をもらうもの、と思い込んでいるのだろうか。だとしたら、見当違いもはなはだしいのである。
子供たちの思惑については、多少の自信があるようにいっていたが、章太郎には、考えられないことだった。もちろん、強行する方法もある。が、そういう真似は、章太郎に出来ないのだ。
章太郎は、電話口に出た。
「矢沢ですが」
「ああ、矢沢さん。僕、勝畑です」
「さきほどは、どうも失礼しました」
「いえ、こちらこそ」
「今、どちらから」
「近くの公衆電話からです」
「井筒君は?」
「どこかへ、もう一軒飲みに行くといってましたから別れたんです」
「なるほど」
「じつは、お願いがあるんですが」
「どういうことでしょうか」
「僕は、友人として、井筒君の非は認めます。そして、今夜のあなたに、あらためて敬意を表します」
「そんなにいわれると……」
「いえ。で、お願いというのは、あのこと、井筒君の奥さんにいったり、会社の重役にいったりするのだけは、どうか、かんべんしてやってくださいませんか」
「あなたは、そのことを井筒君に頼まれたんですか」
「違います。僕だけの考えで、お願いしているんです」
「信じましょう、あなたって、そういうお人らしいから」
「有りがとうございます。そのかわり、僕は、井筒君に対して、何んとか小高秀子さんと別れるようにいい聞かせます」
「…………」
「なるべくなら、小高秀子さんの心も傷つけないような方法で」
「そんなこと、出来るでしょうか」
章太郎は、やや強い口調でいった。
「出来ないかもわかりませんが、しかし、その努力だけはいたしてみるつもりです」
「ぜひ……」
「すると、こちらのお願い、ご承諾下さるんですね」
「承諾するにもしないにも、要は、井筒君が小高秀子と別れてくれることなんです。しかも、なるべく、今あなたがおっしゃったように、小高秀子の心を傷つけないように。それさえうまくいったら、僕としては、なんにもいうことはないんですから」
「早速、承諾して下さって、どうも」
「しかし、井筒君は、あなたのような友人を持って幸せですね」
「ですが、本人は、かならずしも、そうは思っていないでしょうね。さっきだって、そこの店を出てから、君がよけいな真似をしたからうんぬんといって、ぷんぷん怒ってましたから」
「あの男なら」
「ですが、根は、気のちいさい男なんです」
「しかし、善良ではありませんよ」
「女のこと以外では、そうでもないんですが」
「僕には、かるがるしく信じられませんな」
「まァ、どうかよろしく」
「いや、あなたにまで、ご面倒をおかけいたしまして」
「とんでもない。ところで、ちょっと、余談になりますが」
「どういうことです?」
「さっき、あなたのためにシシふんじんの働きをした女性」
「…………」
「なかなか、いいじゃァありませんか」
「君、年寄りを冷やかしては困るね」
「冷やかしでなく」
「電話を切りますよ」
「あッ、ちょっと、お待ち下さい。さっき、私の名刺を差し上げませんでしたが、勝畑正造といいまして、東部製薬株式会社の総務課に勤めております」
「東部製薬ですね」
「こちらからも連絡いたしますが、井筒君のことで、何かありましたら、私にお電話をいただきたいのです。早速、善処いたします」
「わかりました」
「私はね、矢沢さん」
「…………」
「あなたのようなお方と、一度ゆっくりお話してみたいと思っているんですよ」
「どうしてですか」
「自分でもよくわかりませんが、きっと、好きなんでしょうね」
「どうも、有りがとう。それなら、僕もいいますが、あなたをきらいじゃァありませんよ。すくなくとも、あの井筒君よりも何倍かいいと思ったと申し上げておきましょう」
「うれしいな、そんなにいっていただくと」
「そのうちに、チャンスをつくりましょう」
「ぜひ」
章太郎は、電話を切った。口もとに微笑を浮かべていた。ほめられたのだから、有りがたいのだ。が、それ以上に、勝畑正造のような若い男と交際していけそうだ、ということがうれしいのだった。それによって、今後の章太郎の人生に幅が出来てくることになるだろうし、そして、あるいは、深味も。
席へ戻った章太郎に、
「いいお電話だったらしいわね」
と、郡司道子がいった。
「どうして、わかる」
章太郎がいった。
「だって、お顔が明るいんですもの」
章太郎は、
(この女は、俺のそういうこまかいところにまで気がついていてくれるのか)
と、うれしいような、恐いような思いで、
「じつは、そうなんだ」
「よかったわね」
「勝畑君からだったのだ」
「まァ、勝畑さんから?」
章太郎は、勝畑からの電話の内容のあらましを話して、
「だから、僕は、そのうちに、勝畑君とは友人になれるかもわからないのだ」
「いいことだわ」
「と、思ってくれる?」
「だって、勝畑さんて、ちゃんとした人なんですもの」
「僕も、そう思ったのだ」
「勝畑さんは、今夜で、矢沢さんが好きになったのね」
「さァ、そこまで考えていいか、どうか」
「あたし、間違いないと思うわ」
「では、そういうことにしておこうか」
章太郎は、満更でないいい方をしておいて、
「だから、井筒君のことは、当分の間、勝畑君にまかせておいて、こちらは、小高秀子の今後の動静について、それとなく注意していることにしよう」
「そうね。そして、あたしでお役に立ちそうなことがあったら、いつでもおっしゃって」
「その節は、よろしく、頼む」
章太郎は、軽く頭を下げた。そんな章太郎を、郡司道子は、しみじみとながめて、
「結局、矢沢さんて、明治の生れ、ね」
「いまさら、何をいい出すのだ」
「大正生れならともかくとして、昭和生れの課長さんでは、矢沢さんのようにはなさらないでしょうね、ということ」
「こっとう品だ、ということでもあるんだな」
「違います」
「わかっている。が、あと十年で、六十五歳になるのだ」
「そして、あたしが三十九歳」
二人の話題は、しぜんに、勝畑が電話をかけてくる以前に戻った。
「ところで、君の相談というのは?」
「さっきからいってるじゃァありませんか」
「すべて、本気だったのか」
「冗談や思いつきだとでも思ってらしったんですの?」
「でもないんだが」
「あたし、ね」
そのあと、郡司道子は、しばらくためらっていてから、
「今、二つの問題に引っかかっているのよ」
「二つの?」
「一つは、ここのマダム、といったところで、雇われなんだけど、それにならないかといわれているんです」
「あとの一つは?」
「……、結婚」
章太郎は、自分でも、顔から血の気の引いていくのがわかるような気がしていた。しかし、それを郡司道子にさとられたくなかった。ビールを飲むことで、それをかくそうとしながら、落ちつきを失いかけていた。
「結婚……、するのか」
「矢沢さんのご返辞によっては」
「いやないい方だよ、それは」
「ごめんなさい。ちょっと、からかってみたかったんです」
「…………」
「二つの話は、ほとんど同時に持ち上がったのよ」
「…………」
「ここのママさん、もう四十五歳なんです」
「僕は、まだ三十七、八かと思っていた」
「だって、大学にお入りになる息子さんがおありですよ」
「そうだったのか」
「もちろん、パトロンは、おありよ」
「当然のことだろうな」
「ところで、ママさんとしては、あと五年ぐらい今のままで、と思ってらしったんですけど、息子さんが、この商売をいやがるんですって」
「わかる」
「やめてくれ、というんですって」
「それも、わかる」
「で、パトロンさんとも相談して、やめる決心をなさったんです」
「いいことだ」
「このお店、今売るとなれば千万円で軽いはずなのよ」
「そういうものなのか」
「しかし、ママさんにすれば、千万円の現金だけでは心細いらしいのね」
「千万円で?」
章太郎は、目をむいた。自分の退職慰労金が三百万円ぐらいであることを思い出したのである。
「と、おっしゃるのよ。銀行預金にしておいても、年に六十万円足らずにしかなりません。ママさんは、自分の生活費だけでも、月に五万円はいるし、そのほか、パトロンさんに、ときどきお小遣を上げなければならないし」
「もらうんだろう?」
「昔のことよ、それは」
「すると、今は?」
「上げる方。だって、パトロンさんは、会社の重役をしていらっしたんだけれど、三年前に停年退職になって」
「停年退職……」
「いやなことをいってしまったらしいわね」
「かまわない。参考になるから話してもらいたい」
「遊んでらっしゃるのよ」
「…………」
「退職慰労金は、相当にあったらしいんだけど、奥さんがガッチリと預っているので、どうにもならないらしいのね」
「…………」
「だから、お小遣にも不自由勝ちなんですって。ママさんとしては、可哀そうで、放っておくわけにいかないらしいのよ」
章太郎は、聞いていて、世の中には、いろいろの停年退職者があるものだ、ということをあらためて考えさせられていた。
新宿のバー「グリーン」のマスターになった田沢吉夫。
碁会所を開いた久保。
ここのパトロン。
(そして、おれは、どういうことになるのだろうか)
章太郎は、みじめな気持になりかけた。が、その底には、郡司道子に結婚の話が起っている、ということが引っかかっているようであった。
「ママさんは、月に二万円ぐらいは、上げたいらしいのよ」
「近ごろ、殊勝な心がけだね。もちろん、皮肉でいっているのではないよ」
「お小遣をもらうんじゃァなく、あげるパトロンなんて、世間にあんまりないでしょうね。ママさんにすれば、そういう不満もあるんでしょうが、十年も続いた仲だし、いまさら不人情な真似も出来ない、とおっしゃるのよ」
「…………」
「一つには、ママさんは、パトロンさんが好きなのよ。好きというよりも、心の支えとして、ついていてもらいたいらしいんだわ」
「…………」
「あたし、よくわかるわ、ママさんのお気持」
郡司道子はちらっと章太郎の顔を見ておいて、
「ママさんは、これからのことを考えれば千万円の現金は減らしたくないし、月に十万円はほしいし、というので、いろいろ考えたあげく、あたしに、この店をやってみないか、ということになったのよ」
「条件は?」
「月に十万円払ってくれたらいいと」
「そんなこと、出来るのか」
「やれます」
郡司道子は、自信ありげにいって、
「矢沢さんには、今まで、月に一万円ぐらい頂いてましたけど、これからは、それくらいなら差し上げられましてよ」
「僕が、君からそんな金をもらうと思っているのか」
「怒らないで」
「怒ってるわけじゃァないが」
「たとえばの話なんです。だけど、好きな人にお小遣を上げられるなんて、うれしいとお思いになりません?」
「思うが、僕は、いやだ。これでも、明治の生れだからね」
「ここのパトロンさんだって、明治のお生れよ」
「明治生れにも、いろいろあるということだ」
「上等もあれば、中等、下等も。矢沢さんは、中でも上等の方ね」
「で、君は、うんといったのか」
「うんという前に、矢沢さんに相談しないといけないでしょう?」
「結婚の話というのは?」
「母が持って来た話なんです。四十歳で、子供さんが二人あるんです」
「四十歳なら、僕よりも十五も若いわけだな」
いいながら章太郎は、自分の五十五歳という年齢を思い出させられた。
郡司道子は、二十二歳で結婚したのだが、相手の男が女性関係だけでなく、金銭関係にもだらしなく、どうにも我慢がならなくなって、三年で別れて来たのである。
両親は、あるのだが、すでに兄の世代になっていた。出戻り娘で、嫂の手前も、何んとなく肩身がせまく、といって、結婚にはこりているので、この世界に入ったのである。今では、両親の家を出て、四谷の月一万のアパートに住んでいるのだった。
章太郎は、たった一度だが、そのアパートに行ったことがある、きれいに暮していた。それだけで、この女の性質がわかるような気がした。きっと、いい奥さんになるだろう、とも思った。が、その後、郡司道子との仲が深くなるにつれて、いい奥さんになるかわりに、悪い奥さんになる可能性もあるようだ、とも思い直した。要するに、相手次第なのである。そのことは、さっきの井筒への態度にも、よく現われていたといってもよかろう。
「そうよ、たった十五だけ」
「たったではなかろう」
「いいえ」
「君は、その男と会ったことがあるのか」
「兄の会社の人なんです。兄に連れられて、ここへ来たこともあります」
「僕が見ている?」
「いらっしゃいません」
「気に入ってるの?」
郡司道子は、ちょっと考えて、
「そうね。あたし、もし、矢沢さんとこうなっていなかったら、一応、本気になって考えたかも」
「面白くないね」
章太郎は、冗談めかしていったが、本心でもあった。
「本当に、そう思って下さる?」
「思うとも」
「安心したわ。あたし、この話、断ります」
「困るよ」
「別に、お困りになることないでしょう?」
「僕の責任になる」
「そんなこといってません」
「でも、やっぱり……」
「すると、矢沢さんは、この際、あたしがその男と結婚してもいいのね」
「…………」
「あたしって女、それほど、必要でないのね」
「怒ったのか?」
「はい」
「仕方がない」
「さっきもいいましたが、矢沢さんには、これからこそ、あたしが必要だ、と思っていましたのよ」
「わかっている」
「だったら、どうして、結婚しろなんておっしゃるのよ」
「しかし、僕には、君の今後について、責任を持てる自信がないのだ」
「だれが、責任を持って下さい、ともうし上げました。あたしのいってもらいたいのは、自分の今後には、お前が必要なのだ、だから、どこへも行くな、いつまでも僕のそばからはなれないでいてくれと、いうことなんですよ」
章太郎は、有りがたかったし、うれしかった。郡司道子からこれほど、自分の今後のことについて心配していてもらえようとは、思いもよらなかったのである。
(男冥利につきる……)
たしかに、そうなのだ。
(しかし、俺という男に、それほどの値打があるのだろうか)
残念ながら、その自信がないのである。
停年まで勤めて、課長にしかなれなかった男。特別に魅力ある風采をしているわけでもない。子供が二人ある。財産といえば、いま住んでいる家と百万円ぐらいの貯金、それに、やがてもらえるだろう三百万円の退職慰労金だけなのだ。
どう考えても、二十九歳の女盛りの郡司道子が選ぶ男としては、およそ不似合いであり、本人の章太郎以上に第三者が見たら、そのように感じるに違いなかろう。
(この女に、何かの魂胆があって……)
しかし、そこまで考えては、こちらの人間が卑しくなってくるばかりである。
(結局、捨てる神あれば、拾う神もある、ということなのだろうか)
そう割切っておいた方がかんたんなようだが、そうなればなるほど、章太郎として、
(では、頼むよ)
と、いえないのであった。
「あたしでは、いけませんの?」
郡司道子は、ちょっと恨めしそうにいった。
「そんなことはない」
「それでしたら、どうしてすぐに、いいよ、とおっしゃって下さいませんの?」
「いいたいのは、やまやまなんだが、僕は、男として」
「あたしは、女としてもうし上げているんですよ」
「どうも、わからんのだ」
「なにがですの?」
「君ほどの女が、僕に、そのようにいってくれるわけが」
「好きだからよ。惚れているからよ」
「有りがとう」
「いやだわァ、そんないい方をされると、あたし、あかくなるじゃァありませんか」
「僕の方は、胸をドキドキさせているんだよ、さっきから」
「あたし、ね」
「なんだ」
「矢沢さんにとって、あたしって女、必要だといってもらいたいといったけど、あたしにとっても、なのよ」
「…………」
「こういったら、おわかりになるでしょう?」
「ますます、わからなくなってくる」
「じれったいわ」
そういっておいて、郡司道子は、
「でも、そこがまた、矢沢さんのいいところなのね。とにかく、あたし、結婚は、いたしませんから」
「…………」
「そして、この店の雇われマダムになりますから」
「…………」
「覚悟をしていてね」
それから十分ほどして、章太郎は、そのバーを出た。タクシーが拾えるところまで、郡司道子が送って来た。その手には、さっき章太郎が頼んで買ってもらった子供たちへの土産のケーキの入った箱が下げられていた。
「近いうちに、チャンスをつくってね」
チャンスの意味は、章太郎にわかっていた。
「そのつもりだ」
「きっと、よ」
「ああ」
「指きりをしたいところだけど」
「いいとも」
章太郎は、自分の指を出した。郡司道子は、すばやくあたりを見まわしておいて、自分の指を章太郎のそれにしっとりからませた。
「安心したわ」
郡司道子の目が媚びをふくんで、章太郎に笑いかけて来た。章太郎は、郡司道子のやわらかな指の感触をたのしんでいた。
空タクシーが来た。郡司道子は、自分でそのトビラを開き、
「どうぞ」
章太郎が中へ入ると、
「お元気でね」
「君も」
「あたしは、大丈夫よ。はい」
郡司道子は、章太郎のヒザの上に菓子箱をおくと、トビラを閉めた。
「恵比寿へやってくれないか」
タクシーは、動き出した。章太郎が振り向くと、郡司道子は、まだ見送っていた。
十一時近くになっていた。昨夜の帰りも、こんな時刻であったのである。
(明日は、もっと早く帰ってやろう)
やっぱり、のぼるのことが心配だった。会社の机の曳出しの中にしまっておいたのぼるの手紙のことが思い出されてくる。
(のぼるは、失恋してしまったのです……)
その言葉が、章太郎の胸に、刻み込まれていた。当分の間、消えることはないだろう。すくなくとも、のぼるが、新しい恋人を得て、日々に、明るく充実した生活を送るようになるまでは。
しかし、そうなったらそうなったで、章太郎は、あらためて、
(父親の孤独…………)
と、いうようなことを考えさせられて、時には、寂しくなるに違いないのだ。
(だが、俺には、郡司道子がついていてくれる)
せめて、そう思っていたかった。
さっき、郡司道子は、
「覚悟をしていてね」
と、いったのだが、章太郎は、いいとも、いやだともいわなかった。
うかつな返辞は、禁物だった。しかし、今夜、郡司道子の気持がわかり、今後に希望のようなものが持てたことは、章太郎にとって、幸せであった。
恐らく二人は、結婚出来ないだろう。出来なくてもいいのである。章太郎にとって、この世に、自分のことを一所懸命に思ってくれている人間が一人でもいてくれると信じることによって、勇気が感じられるのだった。この勇気を明日からも失いたくなかった。
章太郎は、大通りでタクシーから降りた。そこから横へそれた細い道の方へ入って行った。
「お父さん」
のぼるが立っていた。
「おっ、どうした?」
章太郎は、小走るように娘の方へ近寄って行った。一瞬だが、また、昨夜のように、半泣きになって、夜更けの街をうろついていたのか、と思ったのである。
しかし、近くの街灯の光の中に浮び上がっているのぼるの顔には、そのような気配は感じられなかった。といって、元気ハツラツとしているのとは違っていた。
「そろそろ、お帰りのころだろうと思ったので、何んとなくここへ来ていたんです」
「そうか、すまなかったな。随分と待ったのか」
「三十分ぐらい」
その三十分前には、まだ、郡司道子と会っていたのであった。
「悪かったな。途中で、ちょっとお酒を飲んだりしたもんだから」
「いいのよ、お父さん」
父親と娘は、肩を並べて、家の方へ歩きはじめた。
「章一は?」
「勉強をしています」
「お土産のケーキを買って来てやったから」
「よかった。章一さん、それをアテにしてました」
のぼるは、父親の手から菓子箱を受取っておいて、
「お父さん、昨夜は、すみませんでした」
「いいんだ。お父さんは、あの手紙、何度も読んだよ」
「…………」
「すこしは、元気になれたかね」
「まだですけど……」
「無理もないが」
「…………」
「お父さんで役に立つことがあったら、何んでもいってくれ」
「はい」
「今は、まだ、どういうことでそうなったのか、いう気になれないんだな」
「はい」
のぼるは、うなだれた。章太郎は、そんな娘がいだきしめてやりたいほど、哀れなのであった。同時に、のぼるが、わざわざ自分を迎えるために、こんな夜更けに三十分も立っていた気持がわかるような気がした。
(こののぼるに、俺が、郡司道子と結婚するといったら、何んというだろうか)
しかし、章太郎は、それをいうかわりに、
「のぼる。何かの本で読んだのだが、金を失うことは、ちいさく失うことである。名誉を失うことは、大きく失うことである。ただし、勇気を失うことは、すべてを失うことである、というよ」
「勇気……」
「そう、勇気なのだ。お父さんも、これからあくまで勇気を失いたくないと思っている。だから、のぼるも」
「勇気……」
のぼるは、自分の胸にいい聞かせるように繰返していった。
[#改ページ]
社員食堂
丸の内のKビルディングには、大小いくつかの会社が入っていて、その地下室は、各社共通の社員食堂になっている。もっとも、セルフ・サービスなのだが、いちどに四百人ぐらいが食事出来るようになっていた。和食あり、洋食あり、中華あり、別に、コーヒーを飲めるところもあった。
ただし、この社員食堂を利用するのは、せいぜい課長どまりで、それ以上となると、もっと高級な外の食堂へ食べに出かけるか、自分の部屋へ取寄せるか、している。
矢沢章太郎は、この社員食堂の常連の一人であった。今日は、カレーライスと決めて、行列のあとに並んでいた。いい年をして、昨日や今日入社したような若い連中のうしろに立って順番を待つなんて、あんまりいい格好とは思われない。そういうとき、ふっと自分より後輩でありながら、部長や重役になっていて、毎日のように外へ食事に出かける誰彼のことを思い出させられるのだ。
(サラリーマンになったからには、出世をしておくもんだな)
近ごろ、出世主義について、とかくの論議があるようだが、停年退職を目前にしての、章太郎のいつわりのない心境であった。
しかし、上を見ればキリがないように、下を見れば、これまた、キリがないのである。章太郎は、なるべくそう割切るようにしていた。
(それにしても、社員食堂の眺めも変ったものだ)
このKビルディングが出来たのは、今から七年前で、東亜化学工業は、そのときからここに移って来たのである。その前は、飯田橋にあった。そして、七年前といえば、章太郎が厚生課長になった年でもあった。
章太郎が思い出しているのは、その飯田橋時代の、それも戦前の社員食堂風景なのである。男子食堂と女子食堂とは、はっきり区別されていて、おかずも決っていて、今のように好みによる選択は許されなかった。味気ないといえば、およそ、味気ないものであった。しかし、それでも社員食堂があるだけで、それのない会社の連中からは、うらやましがられたものである。
が、今は、まるで違う。おかずは、十種類ぐらいのうちから勝手に選べるし、男女の区別がないのだ。恋人同士は、公然と席を並べて食べている。はなやかなものだ。殊に、このKビルのような、いくつかの会社の社員たちの集まる食堂は、それじたいが、一つの社交場の役目を果すこともありうる。しぜん、恋愛の発生するチャンスもすくなくないようだ。
章太郎は、そういう思いをこめて、広いだけに騒然としている社員食堂の中を見ていた。
隅の方に、小高秀子が一人で、ひっそりラーメンを食べていた。
あれから三日過ぎている。もちろん、章太郎は、彼女のことで、井筒とやり合ったことは、一言もいってない。ただ、小高秀子のその後の動静について、それとない注意を怠っていなかった。こちらの気のせいか、多少元気がないようだが、しかし、特別に心配するほどのことはなさそうだった。だからといって、油断は禁物なのである。章太郎は、小高秀子の今後について、自分に大きな責任がある、と思っていた。
章太郎の順番が来て、食券と引換えに、カレーライスの皿を受取った。ちょうどラッシュ時なので、どこもいっぱいのようだ。章太郎は、歩きながら空席を探すように、そこらを見まわしていると、向うから手を上げた者があった。
坂巻広太なのである。若々しい笑顔で、自分の横に空席のあることをしめしていた。
章太郎は、うなずいて、近寄って行った。
「どうぞ」
坂巻広太は、章太郎のためにイスをどけて、お茶までくんでくれた。
「すまんな」
「先日は、どうも有りがとうございました」
「いいんだよ。もしよかったら近いうちに、またつき合ってくれないか」
章太郎は、そのとき坂巻広太を郡司道子の店へ連れて行くことを考えていたのであった。
郡司道子は、あれで男を見る目は、相当のもののようだ。
(とにかく、おれほどの男に惚れたくらいだから)
ただし、章太郎自身、自分に自信があるわけではない。そういう意味からすれば、郡司道子の目も、あんまり信用出来ない、ということになるのだが。
しかし、それはともかくとして、章太郎は、一応、郡司道子に坂巻広太を見せて、
(いいじゃァありませんか)
と、いうようだったら、積極的にのぼるにあわせる考えでいた。
坂巻広太もカレーライスであった。まだ、半分ぐらいしか食べていなかった。
「よろこんで」
坂巻広太は、いっておいて、
「そのかわり、私たちの行く安い飲屋へも、つき合って下さいませんか」
「それこそ、よろこんで、だな」
章太郎は、そこで口調を変えて、
「いつかの夜、君が話していた横山会へ入らないかと誘われたという件、もう返辞をしたのかね」
「今日、このあとで、ビルの屋上で返辞をすることになっているんです」
「ちょっとものものしいんだな」
「きっと横山会とか、福井会とかそのものが、ものものしいからでしょうよ」
「で、決心がついたのか」
「だいたい」
「どうするつもりなんだね」
「…………」
「いや、無理に聞かなくてもいいんだよ」
「聞いていただきたいんです」
「…………」
「これでも、いろいろと真剣に考えたのですが、考えているうちに、そういうことに真剣になっている自分自身が、バカらしく思われて来たんです」
「わかる、わかる」
「だから、断りますよ」
坂巻広太は、胸を張るようにしていって、
「それにね、断るにうまい理屈を見つけたんです」
と、ニヤリとして見せた。
「うまい理屈?」
章太郎は、坂巻広太を見た。
「と、自分では思っているんですがねえ。ご承知の通り、私は、東亜社報の編集をやらされているでしょう?」
「それについて、僕は、すこし考えていることがあるんだが、あとで聞いてくれないか」
「聞かせていただきます。ところで、東亜社報というのは、右にも左にも偏してはいかんと思うんですよ」
「当然のことだ」
「ましてや、社内にあるかもわからぬ閥のようなものに影響されてはいけません」
「そうだよ」
「しかし、かりに私が横山会に入ったとしたら、どうしても横山派の人々の発言をよけいにのせたり、または、横山専務のちょうちん持ちのような記事が多くなる可能性がある、と思うんです」
「うん」
「それでは、福井派の人々にとって、面白くないに違いありません」
「そりゃァ」
「どっちにもつかぬ矢沢さんのような中立派の人々にとっては、苦々しい限りでしょう?」
「もちろん」
「とすれば、社内報の編集者たるものは、いつの場合でも冷静で、あくまで公平であらねばなりません」
「そう」
「私が横山会に入ったといううわさだけで、福井派の人々から色眼鏡で見られます」
「恐らくは」
「私は、それをいって断るつもりにしているんですが、おかしいでしょうか」
「いや、すこしもおかしくない。君の理論は、正しいし、僕は、賛成するな」
「有りがとうございます。これで、最後の決心がつきました」
「しかし、君は、うまい理屈を考えたな、全く」
「結局、自分自身が可愛いからですよ」
「だれだって、自分がいちばん可愛いのさ。その最たる者は、派閥の頭になっている横山専務であり、福井専務なんだ」
「でしょうねえ」
「しかし、両専務は、自分だけでは自信がないんだよ」
「矢沢さん、なかなか、おっしゃいますね」
すでに、食事が終っている広太は、煙草を吹かしながらうれしそうにいった。
「停年が近くなれば、これくらいのことはいいたくなるさ。もっとも、両専務の前で、じかにいうだけの度胸はないが」
「おっしゃったら、どういうことになるでしょうか」
「鼻であしらわれて、あげく、退職慰労金に影響するだろう」
「退職慰労金に?」
「もちろん、規定の額はもらえるよ。そのほかに、課長をしていたり、または、在職中に特に会社のために功績のあった者には、割増のつく場合があるんだ」
いいながら章太郎は、
(あとで、人事課長のところへ行き、退職慰労金について、計算しておいてもらおう)
と、思っていた。
今のところ、停年退職後、何かの商売を始めようとの気はない。しかし、どういうキッカケからそういうことにならんとも限らないし、そうならなくとも、一応、はっきりした数字を知っておくことは、何かにつけて、大切なのである。それによって、今後の心がまえも、しぜんと違ってくるに違いないのだ。
今の章太郎にとって、いちばん必要なことは、停年退職後の方針について、はっきり決めてしまうことである。
「ほう、そういうもんなんですか」
「そう。だから、今は、せいぜいおとなしく、今まで以上に、重役のごきげんを損じないようにしておくべきなんだ」
「わかりました」
「わかればよろしい」
章太郎は、食事を終っていて、
「屋上へ行くのに、まだ時間があるか」
広太は、時計を見て、
「あと二十分は、大丈夫です」
「だったら、向うへ行って、お茶でも飲みながら、さっき僕が話したいといったこと、聞いてくれないか」
「参りましょう」
二人は、立上がった。
章太郎は、小高秀子の方を見たが、そこには、すでに別の娘がいて、同じくラーメンを食べていた。
社員食堂のすみの一郭は、衝立で仕切って、喫茶室のようになっていた。そして、ここだけは、セルフ・サービスでなく、給仕がいるのだ。
あいにくと、どのテーブルにも人がいた。たった一人で、一つのテーブルを占領しているのは、参事室の青井孝平であった。何かのもの思いにふけっているようであり、近よりがたいものを感じさせる。他のテーブルは、それぞれ愉しそうに談笑しているのに、青井の周囲だけは、ポッカリと穴があいたように空虚であった。それで、人々も、何んとなく敬遠しているのであろうか。
章太郎は、青井孝平とは、特別に親しいわけではないが、仲が悪いというわけでもなかった。それに、この男の不幸な過去について、多少知っていた。そういう意味からは、自分勝手に一種の親近感をいだいていた、といってもいいのだった。
「君、あそこへ行って、いっしょに腰を掛けさせてもらおうよ」
章太郎は、青井の方を指さしていった。
青井は、自分の前に立った二人を、ジロッとした目で見上げたのだが、
「青井さん、ごいっしょさして下さいよ」
と、章太郎からいわれると、
「どうぞ」
と、今までとは別人のような人懐っこい表情になっていった。
が、すぐそのあと、怒ったような口調でいった。
「矢沢君、僕は、明日で停年になるんだよ」
「そうでしたか」
章太郎は、青井を見直すようにした。広太が、青井を見、ついで、その視線を章太郎に向けたのは、先日、章太郎から停年退職についてのグチを聞かされたことを、思い出したからであろう。
「三十一年と二カ月、だ」
青井は、不機嫌な口調を変えないでいった。といって、章太郎や広太に対して腹を立てているのでないことは、明白である。
「僕だって、あと半年で、停年になるんですよ」
「ではお互いさま、というところか」
「と、いうことになりますよ」
給仕が注文を聞きに来た。
「青井さん、もう一杯コーヒーをいかがですか」
「頂こう」
章太郎は、コーヒーとケーキ三人分を頼んでおいて、
「停年退職の前の日の気分って、嫌なもんでしょう?」
と、青井にいった。
「さっきからここで、その気分を噛みしめていたんだよ」
「恐らく、僕だって、そうするでしょうね」
「よした方がいい」
「何故ですか」
「自分がみじめになるだけだ。もっとも、僕は、意地になって、そのみじめさに堪えようとしているようなもんなのだが」
「意地に?」
「とにもかくにも、君は、課長になったのだ。そして、課長として、停年退職の日を迎えることが出来るのだ。おめでたい、というべきだろう?」
「まァ……」
「しかし、僕の場合は、いったん課長になりながら、参事室という姥捨部屋へ追いやられたのだ。面白いはずがなかろう?」
「わかりますが」
「坂巻君」
青井は、広太の方を向いて、
「僕が、どういう理由で、営業課長から参事室勤務にさせられたか知っているかね」
「いいえ、存じません」
「聞かせておいてやろうか」
「はい」
広太は、神妙にいった。
コーヒーとケーキが来た。
「およそ、十年も前のことだ。僕も、まだ若かった。大阪支店から転勤して来て、すぐ課長になったのだから、出世の遅い方ではなかったろう。将来は、部長ぐらいにはなれるだろう、と信じていた」
章太郎は、うなずいてみせた。自分よりも三年も早く課長になった青井をうらやましいと思った記憶が残っていた。
「課長になって間もなくだが、新橋で、得意先の招待宴を開いたんだよ。芸者も、七、八人来ていた」
「…………」
「中に一人、どうにも目にあまる芸者がいた」
「…………」
「だいたい、接待というものは、こちらが遊ぶのでなく、先様に気持よく面白くして頂くことだろう?」
「はい」
「ところが、その芸者めは、先様の相手をしないで、うちの横山常務、当時は常務だったんだが、のそばにばかりへばりついていた」
「…………」
「僕は、それだっていいさ、と思っていたんだよ」
「…………」
「それに横山常務は、それでご機嫌になっているようだったし」
「…………」
「そのうちに、その芸者がやっと横山常務の前をはなれて、僕の前へ来たので、僕は、小声で、僕たちの方はいいから、お客様にサービスしてくれ、と低い声でいったのだが、とたんに、僕を睨みつけたよ。まるで、自尊心を傷つけられたように、だ」
「…………」
「僕は、こいつめ、と思ったが、そのときには我慢したんだ」
「…………」
「しかしそのうちに、どうにも我慢が出来かねることが起ったんだよ」
「…………」
「その芸者が立上がって、廊下へ出て行こうとしたのだ。お客様のうちの一人、若い社員だったが、何かを頼んだのだ。が、明らかにわざとわかる態度で、それを無視して、廊下へ出て行ってしまった。その若い社員は、不愉快そうに顔色を変えている。それから僕の方を見て、苦笑した。どうして放っておかれようか」
「…………」
「僕は、すぐ立上がって、その芸者の後を追って、廊下へ出た。芸者は、廊下で一休みしていた。僕は、詰問してやったのだ」
「…………」
「すぐお座敷へ戻って、あのお客様のご用をうけたまわって来い、ともいってやった」
「…………」
「しかし、その芸者めは、白々しい顔で、僕の顔を見ているだけなんだ」
「…………」
「もちろん、僕は、酔っていた。だから、多少いつもの冷静さを失っていたかもわからぬ。が、もともと、気の強い方なのだ」
「…………」
「殴りつけてやりたいほどに思ったが、そのかわり、バカ野郎ッ、と怒鳴りつけてやった。芸者は、泣き出した」
「…………」
「僕は、君のような芸者は、もう帰ってくれ、そして、二度とわが社の宴会には呼んでやらぬから、といって、元のお座敷へ引返したのだ」
「…………」
「僕は、それですんだものと思っていた。が、三カ月ほどたって、部下のちょっとしたミスの責任を大きく問われて、僕は、参事室勤務ということにされてしまったんだ」
「…………」
「あとでわかったのだが、その芸者は、そのときに接待した社長の二号であったのだ」
「…………」
「僕は、大阪から来たばかりだし、だれもそれを知らせてくれなかった」
「…………」
「僕としては、会社のためと思ってやったことなのだが、結果は、逆であったのだ」
「…………」
「その社長は、芸者に泣きつかれたらしく、しぜん横山常務の耳にも入ったに違いない」
「…………」
「そして、横山常務は、その社長への義理を立てて、僕を参事室勤務にしたのに違いない、と思っている」
「…………」
「もし、参事室勤務になるとき、そのことをいってくれたら、僕だって、何んとか弁解したろうが、そのことには触れないで、ただの人事異動の中に織込まれてしまったのだ」
「…………」
「しかし、僕は、今でも、真相は、あの芸者のためだ、と信じている」
「…………」
「だから面白くないのだ。あんなことのためで、せっかくの出世を棒に振ったのだと思うと、泣き切れぬ思いだった。その思いが、今日まで続いているんだよ。わかってくれるかね、この気持」
「わかります」
広太がいった。
「矢沢君だって、知っていたろう?」
「そう詳しくではなかったが、だいたいを」
「その意味では、君の方が、僕より遥かに幸せだよ」
「と、思うね」
「以後、僕は、何んとなくこの人生を白眼視するようになった。すね者のように振るまって来た」
章太郎は、うなずいてみせて、
「退職後は?」
「当分は、遊びだな。十年も参事室にいたような男は、なかなか雇ってくれない。しかし、そのうちに何んとかなるだろうよ」
そういうと青井は、立上がって、
「どうも、有りがとう。聞いてもらえただけで、すこし胸が軽くなったよ。だれかに聞いてもらいたかったのだ。まるで送別会をしてもらったような気分でもある」
そういうと、喫茶室から出て行った。それを見送って、広太は、
「お気の毒なんですね」
「そう、左遷の原因は、かならずしも、芸者の一件だけではなかったかもわからないが、本人がそう信じているのだから。要するに、胸に一物も二物もいだいて、会社を去って行くということだ」
「しかし、重役連中は、そういうことをすこしも考えていないだろう。せいぜいで、今日も一人の停年退職者があったかぐらいに。そして、挨拶に行くと、そうか、君とも今日でお別れか、ながい間ご苦労さん、今後は、健康に気をつけて、元気でやってくれたまえ、といってはくれるだろうが、十分も立たぬうちに、その男のことなんか忘れてしまうだろう、三十年も勤めたその男のことを」
章太郎は、冷たくなったコーヒーを飲んで、
「君、屋上に行くのに、まだ、時間があるかね」
広太は、腕時計を見て、
「あと五分ぐらい」
「では、いっておこう。君がやっている東亜社報についての僕の思いつきなんだが」
「どうぞ」
「今までは、停年退職者のことについては、ほとんど触れていなかったろう?」
「そうおっしゃられると……」
「それでもいいのだが、僕は、自分の番が近づいてくると、もっと触れてもらった方がいいような気がして来たんだ」
「どういうふうにでしょうか」
「停年退職者のために、たとえば、長い間ご苦労さまでした、とか、あるいは、これからもお元気で、というような欄をもうけて、何かを書かせてやるのだよ」
「なるほど」
「そうなれば、僕だって、いろいろと書いてみたいこともあるんだよ。いや、僕だけでなく、たいていの停年退職者が。さっきの青井君だって、恐らくそうに違いないだろう」
「でしょうね」
「それからもう一つ、停年退職者のその後の動静を調べて書いてもらいたいのだ」
「と、おっしゃると?」
「これは、あの人のその後、というような欄にしてもいいのだが、停年退職者を訪ねて、今どういう環境にいるか、そして、どういう気持でいるか、または、自分の半生をささげた会社にどういう感じを持っているかを書くのだ」
「…………」
「停年退職者なんて、いってみれば、会社にとっての恩人だろう?」
「はい」
「そういう人たちが、その後、どうなっているかということは、一応、知っておいてもいいはずだ」
「はい」
「そして、困っている人があったら、たとえ僅かずつでも出し合って、援けてあげるのだ」
「はい」
「また、きっと、こういう声も聞えてくるに違いない。会社で、停年退職者を一回か二回、どこかに集めて、一日を愉しく過すような会を開くようにしてもらいたい、と」
「はい」
「これは、すでによその会社ではやっていることなんだ」
「はい」
「そういう声を、停年退職者たちの切実なものとして東亜社報にのせたら、会社でだって、大いに考えるだろう、と思うんだよ」
「そうですね」
「今は、他人事のように思っているだろうが、やがては、君自身のためでもあるんだ」
「矢沢さん、たいへんいいことを聞かせて頂きました。課長とも相談して、早速、実行に移すようにいたします」
「頼む」
章太郎は、頭を下げた。
坂巻広太は、社員食堂で章太郎に別れて、エレベーターの方へ歩いていった。
(好きだな)
広太は、章太郎のことを、そのように思った。
一年ほど前、仕事のことで電話で呼びつけられ、頭ごなしに叱り飛ばされたときには、なんて嫌味な課長なんだろう、こんな課長の下でいつも働くのでなくてよかったぐらいに思ったのである。
が、その夜、叱られっぷりがたいへんよかったとほめて、その上、酒まで飲ませてくれた。それで、案外いい人らしい、とも感じさせられたのである。といって、以後それほどの深い関心を寄せて来たわけではなかったのだ。
ところが、あの夜、偶然に新宿で出会い、そのあと、いっしょに田沢吉夫のやっているバー「グリーン」に行き、いろいろの話を聞いたりしているうちに、大いに見直した。見直したというよりも、好意を持つようになった、のである。
広太は、章太郎の、別の言葉でいえば、停年退職の日を目前にした老サラリーマンの心に、じかに触れた思いだった。それこそ、どんなサラリーマンも、サラリーマンである限り、一度は味わってみなければならぬ心境なのである。
もちろん、広太が停年になる三十年後には、時代も今とすっかり変っているだろうし、だから、広太もまた、そういう心境になるとはきまっていないのだ。その上、個人差というものがある。
しかし、広太は、他人事でない、と思ったことはたしかなのであった。
その上、今日は、参事室勤務の青井孝平の口からかならずしも愉快でない話を聞かされた。真相は、果して本人のいっている通りであるかどうかは疑問であろう。しかし、本人は、そうと信じ切っているのである。そして、そうと信じ切って、会社を去って行く気持は、他人には想像も出来ないくらい腹立たしく、また、やり切れないに違いない。しかも、今となっては、どう逆立ちしてもやり直しが不可能なのである。
あれやこれやで、広太の心が、にわかに停年退職者の上に走るようになった。だからこそ、章太郎の提案に賛成してしまったのである。意義のある仕事だ、と信じていた。
(しかし、俺の場合は、なるべくみじめな思いで、停年退職の日を迎えたくないな)
そのためには、横山会に入会しておいた方がよかった、ということにならんとも限らないのである。広太は、いったん決めたことなのに、また、迷いかけて来た。だが、入会しなかったのでよかったのだ、ということだって起り得るのだ。
(迷うのは、よそう。矢沢さんにも約束したのだし)
広太は、だれにも軽蔑されたくなかったが、殊に章太郎からは軽蔑されたくなかった。好きだと思ったからであろうか。半年後に停年になるような人にどう思われようがかまわないようなものだが、広太には、章太郎に関しては、そう思われたくないのであった。
広太は、エレベーターで、屋上に出た。
雲のない空から落ちてくるまぶしいくらい明るい光の中で、人々は、バドミントンをしたり、ピンポンをしたりしていた。また、コーラスの一団があったり、数人で談笑していたり、かと思うと、手すりにもたれてはじいっと物思いにふけっている人もいた。
(この屋上だけにも、いろいろの人生があるわけだな)
そして、あと四十年もしたら、恐らく一人の例外もなく、ここから姿を消しているだろう。が、このビルディングは、四十年や五十年では、ビクともしないはずなのだ。もちろん、戦争がなければのことだが。そして、その四十年後には、同じこの屋上で、全く別の人々が、全く別の人生模様を描いているに違いないのだ。
(そのころ、俺は、どこにどうしているだろうか)
四十年後なら六十八歳である。孫があってもおかしくない。が、今は、孫どころか、妻もないのである。
(そろそろ結婚してもいいな)
一年ほど前に、失恋している。相手は、同じビルディングの中の別の会社の女であった。社員食堂で顔を合わせているうちに好きになり、いっしょに映画を見に行ったりしていたのだが、そのうちに、その女には、何人ものそういう相手があることがわかって来た。
広太は、そういう連中と競争をしてもいいくらいに思っていたのだが、女の方は、それらとは全然別の、しかも金持の家の息子と、さっさと結婚してしまった。
「あたし、はじめからあなたと結婚しようなんて、考えてなかったのよ」
女は、広太にそういい、更に、
「だけど、坂巻さんだって、あたしのお陰で、いろいろと愉しい思いが出来たでしょう?」
と、恩着せがましくいった。
広太は、苦笑した。この場に及んで、めめしくふるまうわけにもいかなかった。
「本当に、そうだったな」
「そうよ。さようなら」
「ああ、さようなら」
女は、振返りもしないで、去って行った。
笑っていたが、広太の受けたショックは、自分でも思いがけないほど、大きかったのである。一カ月ぐらいは、元気がなかった。仕事にも熱が入らなかった。仕事のミスで、章太郎に叱りつけられたのも、そのころであった。
しかし、今では、その女のことを思い出しても、たいして苦痛を感じなくなっていた。いや、それどころか、
(あんな女と結婚しなくてよかった)
と、思っているし、また、
(あの女のどこがあんなによく思われたのだろうか)
と、いうような気にもなっているのだった。
今、そろそろ結婚してもいいな、と考えたことは、すなわち、その女から完全に卒業出来たことを意味しているようだ。広太は、安心したし、うれしかった。
「坂巻さん」
うしろから、女の声で、呼ばれた。
広太は、振返った。厚生課の小高秀子であった。さっきから手すりにもたれて、物思いにふけっていたうちの一人のようだ。
「何んだね」
広太は、歩みをとめていった。たいして親しいわけではなかった。もっとも、仕事の上での交渉ならあった。
「坂巻さんは、さっき食堂で、矢沢課長さんといっしょでしたわね」
「そうだよ。そして、僕は、あの課長が好きなんだ」
「でも、あたし、きらいだわ」
小高秀子は、ニコリともしないでいった。
「あんないい課長が?」
「いいもんですか」
「そうかなァ」
「そうよ」
「そりゃァ君の勝手だが」
「さっき、何か、あたしのことを聞かなかった?」
「いや、全然」
「なら、いいんだけど」
小高秀子は、横を向いた。憤ったような顔になっていた。
「何か、あったのか」
「…………」
「とにかく、あと半年で停年になる人なんだし、大事にして上げた方がいいと思うな」
「あたし、あんな課長さんなんか、一日も早く停年になった方がいいと思っているわ」
「君のいい方、どうもおだやかでないな」
「だって、あの課長さん、出しゃばりなんですもの」
「出しゃばり?」
「ひどいのよ」
「何んのことか、僕には、さっぱりわからんが」
「いいえ、そのうちにわかるわ。だから、あんな人とは、あんまりつき合わない方がよくってよ」
「そういうことで、僕は、君からの指図を受けたくない」
広太は、きっぱりといった。それが、小高秀子に面白くなかったようだ。
「だったら、勝手にしなさい」
「もちろん」
広太の方でも、面白くなかったのである。だから、そのまま、ケンカ別れのようなかたちで歩きかけたのだが、やっぱり、気になって、
「いったい。どうしたのだね」
と、言葉をおだやかにしていった。
「どうもしないわ。だけど、あの課長さん、人の私生活にまで口を出すんですもの」
「私生活に?」
「あたしが憤ってたといってもらってもかまわないことよ」
そういうと、小高秀子は、自分から向うの方へ去って行ってしまった。結局、広太には、何んのことかわからなかった。が、小高秀子は、章太郎をひどく恨んでいることだけはたしかなようだ。広太にとって、あの章太郎が部下から恨まれたりするなんて、考えられないのだった。
「遅いじゃァないか」
うしろからとがめるようにいわれた。広太は、振返って、そこに経理課の光石和彦の不機嫌な顔を見た。
「失敬、失敬」
広太は、軽く頭を下げた。
「みんな、向うで待っているよ」
光石の視線を追って行くと、東南のすみの方に営業部の成田守弘と人事課の淀川栄一、それに資材課の大熊勝敏の姿が見えていた。中でも、大熊勝敏は、入社八年目で、若手では、有能な社員のようにいわれていた。
広太に、横山会へ入らないかと誘いに来たのは、光石和彦であったが、それは大熊の意を伝えて来たのであって、その大熊は、横山会のリーダー格になっているように聞かされていた。
広太は、光石といっしょに三人の方へ近寄って行きながら、
(俺一人のために四人も集まっているなんて、大ゲサなんだな)
と、思っていた。
しかし、すでに断る決心でいるのだし、一人であろうが、四人であろうが、一向にかまわないのである。人数の多い方が、却って張り合いがあるのだ、とも。
「どうも、遅くなって」
広太がいった。
「時間を励行してもらわないと困るよ」
大熊がいってから、
「ところで、横山会の件だが、君のことは、横山専務のお耳に入れておいた。よかろう、ということだったよ」
と、まるで、広太が横山会に加入することに決めてしまってあって、光栄に思え、というようないい方をした。
(横山専務の耳に、俺のことが入っているのか。それだと、ちょっと、まずいな)
広太は、そう思ったが、しかし、だからといって、いまさら気持を変えるわけにはいかないのである。
「で、明日の晩、君の入会の歓迎会をかねて、横山専務のお宅で、月例会を開くことに決ったよ」
「その話、せっかくだが」
「何?」
「僕は、辞退させてもらうよ」
大熊は、顔色を変えた。他の三人も、同様であったろう。
「本気かね、君」
「いろいろと考えた結果なんだ」
「それでは、せっかく多数の社員の中から、特に君を選んですいせんした僕の顔を、つぶすようなもんじゃァないか」
大熊は、詰寄るようにいった。気がつくと、他の三人は、広太を取囲むようにしていた。
「とんでもない。そんな気は、すこしもないんだ」
「では、横山専務に対して、君は、不満を持っているのか。そして、福井会に加入する気なのか」
「いや、僕は、両方の会に入りたくないんだよ」
「何故だね。理由を聞かせてもらおうじゃァないか」
「理由って、特別にないんだよ」
広太は、軽い口調でいった。そして、この場は、軽くすましてしまいたいのであった。
「そうはいわさないよ」
大熊は、追究のテをゆるめなかった。
「困ったなァ」
「困るのは、僕の方だ。それも、横山専務にいう前ならともかく、いったあとなのだ」
「しかし、それは、僕の責任ではなかろう?」
「なに?」
「僕は、あの話があったとき、光石君に、二、三日、考えさせてくれ、としかいわなかったはずだ」
広太は、光石の方を見た。光石は、当惑げに、
「だって、あのとき、君は、だいたい承諾したようないい方をしたではないか」
「そんなことはない」
「しかし、僕は、そう感じたんだ」
「感じだけで、勝手に解釈されては迷惑至極だな」
大熊は、いらいらするように、
「今となって、そんな理論は、どうだっていいんだ。僕の聞きたいのは、君は、どういう理由で、横山会への入会を拒絶するか、ということなんだ」
「…………」
「僕としては、そのことを横山専務にご報告する義務があるんだ」
「義務だなんて、ちょっと大ゲサじゃァないのか」
「僕にとっては、重大な問題なのだ」
広太は、
(君は、そんなにまでして、横山専務のご機嫌が取結びたいのか)
と、皮肉の一言もいってやりたかったのだが、しかし、大熊の身になって考えてやれば、当然のことでもあろう。
広太だって、横山専務のご機嫌を損じたくなかった。だからこそ、一所懸命に頭をひねって、あんな理屈を考え出したのである。その点、この大熊をわらうわけにはいかないのだ。
「わかった。君が、それほどまでにいうんなら、僕が、横山会にも福井会にも入りたくない理由をいおう」
「当然のことだ」
「君も知っているだろうが、僕は、東亜社報の編集の仕事もやらされている」
「それが、どうしたというのだ」
「その僕が、横山会に入ったことがわかると、僕自身はもちろんのこと、東亜社報そのものが色眼鏡で見られると思うんだよ」
「そんなことあるもんか」
「見解の相違だね。僕としては、あくまで、厳正な中立というよりも、だれの目からも無色透明と思われる立場で編集していきたいんだよ」
「すると、君は、東亜社報の仕事をやめさせてもらえたら横山会に入るというのか」
「いや。そのときには、あらためて考えさせてもらうよ」
「君の今いったこと、そのまま、横山専務にもうし上げてもいいんだな」
大熊は、念を押すようにいった。
「そりゃァかまわん」
そういうと、広太は、その場をはなれた。
うしろで、四人が何かいっているようだったが、広太は、振り向かなかった。
自分のいったことが、どの程度、そのまま横山専務の耳に入るかわからないのである。
場合によっては、ひどく横山専務のご機嫌を損じることも考えられる。いやだったが、しかし、今は、それまでの取越苦労はよしておこう、と考えていた。
昼の休憩時間が終りかけているせいか、屋上の人は、まばらになっていた。小高秀子の姿も消えていた。
(さっき、あの女のいっていたこと、矢沢さんにいっておいた方がいいかもわからないな)
広太は、そんなことを思いながら総務課の部屋に戻った。
課長の後藤真人は、回転椅子を窓の方に向けていた。両腕を胸で組んで、冥想にふけっているようである。が、課員たちは、みんな知っていた。後藤真人は、いつでもそういう姿勢で、食後の十分か二十分を昼寝するのである。ときどき、イビキをかくので、どうにも隠しようがないのだ。
四十二歳の課長だから、この会社では、出世の早い方である。が、仕事について、いちいちうるさくいわないで、まかせっきりにしてくれるので部下の人気は悪くなかった。この課長の下で、広太は、いつも安心して仕事をしていられた。
突然に、ががっという事務室中にひびきわたるような音が聞えた。いわずと知れた課長のイビキなのだ。なれていても、課員たちは思わず顔を見合わせる。女事務員たちは、くすくすと笑った。
どうやら課長は、自分のイビキで、目がさめたらしいのだ。背中に、そういう気配が現われていた。もちろん、女事務員たちの笑い声が聞えているに違いない。
にもかかわらず、冥想の姿勢を崩さないのは、てれているのであろう。こちらへ向きをかえるキッカケに困っているようだ。すでに、一時五分になっていた。
広太は、立って行って、
「課長」
と、呼んだ。
課長は、振り向いて、
「何んだ」
と、寝起きの顔でいった。
しかし、この課長は、寝起きだからといって、特別に不機嫌になることはなかった。
「すこしご相談したいことがあるんですが」
「よかろう。そこへ掛けたまえ」
「はい」
広太は課長机の前の丸椅子に腰を下すと、
「今の僕のイビキ、ひどかったか?」
と、課長は、低い声でいった。
「カミナリのようでした」
「そんなに?」
「と、私には、感じられましたが」
「困ったもんだな」
課長は、他人事のようにいっておいてから、
「相談というのは?」
広太は、横山会に加入を拒否した件について、この課長の耳に入れておいた方がいいのではないか、と思った。これは、今まで考えていなかったことなのである。だから、あらかじめの相談もしなかったのだ。それに、この課長は、横山専務系かもわからないし、そうでなく、福井専務系かもわからないのである。
しかし、広太は、章太郎の言葉を東亜社報の上に反映させていくためには、当分の間、その編集の仕事を続けたかった。あるいは、横山会に加入を拒否したため、横山専務からこの課長になにかの指示がこないとも限らない。そのときのためにも、あらかじめ知っておいてもらった方がいいのだ。
「ご相談に入る前に、ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが」
「どういうことだ」
広太は、横山会に加入しなかったことを話した。課長は、黙って聞いていたが、横山会とか福井会について、すでに知っていたようであった。
「よし、わかった」
そのいい方だけでは、この課長が、どちらの派に属しているのか、広太には、わからなかった。あるいは、無所属なのかも、と考えられた。
「私は、間違っていたでしょうか」
「そんなことはないだろう。僕にいわせれば、君ぐらいの若さで、そんな派閥に関係するなんていいことじゃァない。派閥のことを考えるのは、僕ぐらいの年になってからでたくさんだ」
「すると、課長は?」
「僕は、社長派だ」
「では、私も社長派になります。ただし、厳正中立という意味で」
「若僧のくせに、生意気な口を利くな」
課長は、笑顔でいってから、
「相談というのは?」
「社内報のことなんです」
「いやになったとでもいうのか」
「いえ、当分の間、続けさせてもらいたいのです」
「僕は、そのつもりでいる」
「有りがとうございます。それについて、新企画として、停年退職者のことに触れてみたいのです」
「停年退職者?」
「近ごろ、私は、厚生課長の矢沢さんと話し合う機会が多いのです」
「ああ、矢沢さんは、そろそろ停年のはずだったな」
「あと半年だそうです」
「そうか」
課長は、そこでゆっくりと煙草に火を点けて、
「どうだ、一本」
と、ピースの箱を広太の前に出した。
「頂きます」
広太は、その一本を取った。
「停年か……」
課長は、そのあと、ちょっと間をおいて、
「僕だって、自分の停年について、しんけんに考えてみる必要があるんだな」
と、実感のこもったいい方をした。
「そして、矢沢さんは、私に、今からでも考えておいた方がいいくらいだ、とおっしゃいました」
「かも知れんなァ」
「といって、本気では考えられませんが」
「当然のことだ。しかし、僕ぐらいの年では、一日も早く、しんけんになって考えておかなければならんのだな」
そういうと課長は、指を折って、何かの計算をはじめた。
「どうなさったのですか」
「僕が停年になるころ、子供たちがいくつになっているだろうか、と」
「おいくつになられるんですか」
「長女が二十五だから、まァお嫁に行っているだろう。が、次男と三男は、まだ学校だよ。こりゃァうかうかしておれんわい、ということだな」
「いちど、矢沢さんとゆっくりお会いになったらいかがですか」
「そうだな。僕は、あの人がきらいではない」
「きっと、ご参考になる話が聞かれると思います」
「だろうと思う」
「私からそのことを矢沢さんに話しておきましょうか」
「一夕、君もまじえて、三人で飲もうか」
「光栄ですよ」
「話を本題に戻そう」
広太は、章太郎から聞かされた「長い間ご苦労さまでした」と、「あの人のその後」という欄を設けることを話した。
課長は、しばらく考えていてから、
「悪くないようだな」
「やらせて下さいますか」
「ただ、あの人のその後、という方は、人選も大変だが、君だって、実際に足を運ぶ必要があるし、もっと大変だぞ」
「かまいません」
「さしずめ、だれを選ぶかだ」
「課長に適当な心当りがございませんか」
「そりゃァいろいろとあるが」
「そのうちの一人を、私にやらせて下さい」
「考えておこう。が、あんまりみじめな話はのせたくないし」
「ですから、はじめは、明るい話になる方がいいと思うんです」
「そう。が、君は、だいぶん矢沢さんの影響を受けたな」
「らしいんです」
「しかし、いいことだよ。近ごろの青年にいちばん欠けているのは敬老精神だ。これは、目に余る。が、その中では、まァまァな方だろう」
「でもないんですが」
「たしか、矢沢さんに年ごろの娘があったはずだが」
「…………」
「もらってあげたらどうだね」
「そんなこと、考えたこともありませんよ」
いいながら広太は、章太郎から、そのうちに家へ遊びにこないか、といわれたのであったと思い出していた。章太郎の娘ならどんな娘か、見ておきたいような気がしていた。だからといって、そのことと自分の結婚とを結びつけるなんて、考えられなかった。
章太郎は、人事課の部屋へ入って行った。人事課長の由利行一郎は、課員と何か相談していた。章太郎は、そばへ寄って行き、話の終るのを待っていた。
由利人事課長は、それに気がついて、
「僕に?」
と、章太郎にいった。
「そう。だが、急がないから」
自分の退職慰労金の計算を頼みに来たのだと思うと、多少気が引けるのである。
「すぐすませてしまうよ」
「いや、ゆっくりやってくれたまえ」
章太郎は、そういっておいて、課長代理の山梨啓一のそばへ行った。山梨は、
「どうぞ」
と、イスをすすめた。
「有りがとう」
章太郎は、そのイスに腰を下して、煙草を取り出した。しばらく雑談したあとで、山梨が声を低くして、
「あんたとこの小高秀子のことですがねえ」
「小高秀子が、どうかしたのか」
「最近、だいぶん発展しているというウワサですよ」
「発展?」
「妻子のある男と、ホテルへ行っているとか……」
「まさか、君」
章太郎は、打消しながら、あのウワサが人事課にまで聞えているのか、胸をどきんとさせていた。
「ご存じないんですか」
「知らんね。また、あの娘が、そんなことをするとは考えられない」
「しかし……」
「いや、デマだよ、そりゃァ」
「ならいいんですが」
山梨は、かならずしも釈然としない顔で、
「もし、本当だったら困りますよ」
「何故?」
「何故って、他の娘たちにいい影響をあたえませんからね」
「だからといって、そういうことは個人の自由なんだし、僕は、人事課の立場からは、とやかくいってもらいたくないな」
「今のところは、そういうつもりはありませんが」
「もし、何かいうつもりだったら、僕からいわせてもらいたい」
「かしこまりました」
「しかし、今後は僕もそれとなく注意してながめるようにしておこう。他人の大切な娘を預かっているのだし、万一のことがあっては、親に対してもうしわけがないからね」
「そうなんです」
章太郎は、あと二、三日待って、勝畑正造に電話をしてみよう、と思っていた。あれから何んの音沙汰もないのである。しかし、あのときは、わざわざあとから電話をくれたのだし、放ったままにしていようとは考えられなかった。章太郎は、勝畑をたよりになる人物のように感じていたのである。
が、何れにしても、小高秀子の悪いウワサが、人事課にまで聞えているのは、まずいのだ。もし、将来、小高秀子に縁談が起り、その人柄についての照会が、先ず人事課へ来たような場合には、よけいまずいことになる。
「どうも、失敬」
由利課長は、課員との用談が終って、章太郎にいった。
「君、今のこと、よろしく頼むよ」
章太郎は、山梨にいっておいて、由利課長の前へ行った。それとほとんど同時に、はなやかに着飾った娘が、由利課長の席へ来て、
「課長さん、長い間、お世話になりました」
と、あいさつをした。
章太郎も顔だけは知っている人事課に勤めていた娘であった。
「いや、こちらこそ」
由利課長は、中腰になっていってから、
「矢沢さん、この人は、こんど結婚のために辞めるんだよ」
「それは、おめでとう」
「有りがとうございます」
娘は、頬をあかくしながらいった。
「いつ、結婚?」
「再来月です」
「よかったね」
「はい、厚生課長さんにも、いろいろお世話になりました」
「いやいや」
章太郎は、微笑して、
「恋愛結婚?」
「いいえ、父が紹介してくれた人なんです」
「そして、あんたも気に入ったんだね」
「はい」
娘は、もう一度、あかくなったが、いかにも幸せそうであった。
「では、両方によかったわけだね」
「さァ……」
「どうして?」
「でも、父が……」
「どういうこと? 僕にだって、年ごろの娘があって、妙な男を好きになったといって、いきなり連れてこられるよりも、先ず僕の眼鏡にかなった男を好きになってもらいたい、と思っているんだが」
「父もそのつもりであったらしいんですけど、近ごろになって、あたしをお嫁にやるのが淋しくなったらしいんです」
「わかる」
いいながら章太郎は、自分の場合も、きっとそうなるに違いない、と思っていた。
「ですから、ときどき、ひどく機嫌が悪くなったりして、母に叱られています」
「あんた、それでも、お嫁に行きたい?」
「だって……」
「だろうなァ」
「母は、上機嫌なんですけど」
とすれば、章太郎の場合、その母親の役も勤めなければならないことになる。今から、そのときの苦労が思いやられた。といって、いつまでものぼるを手許においておくわけにはいかないのである。
いや、のぼるの場合は、まだ、立直りつつあるらしいのだが、小高秀子の場合は、目下泥沼の中にもがいているのだ。その秀子は、こういう結婚のために、円満に退職して行く同僚を見て、何んと思っているだろうか。すこしは、反省してもらいたいのである。章太郎は、秀子のためによりも、その秀子を苦労して育てた両親のために、それを祈りたかった。
やがて、その娘は、他の課員たちの方へ挨拶するために、二人のそばからはなれて行った。
それを見送って、章太郎は、
「いい奥さんになり、いい家庭を持ち、そして、幸せな一生を送るように感じられる娘だね」
「そうなんだ。気立てだって、悪くなかったし」
「しかし、僕には、あの娘がいっていた父親の不機嫌というの、よくわかるような気がするよ」
「たいていの家庭では、娘の結婚のときには父親が、息子の結婚のときには、母親の方が、より深刻になるらしいね」
「君んとこ、子供さんは?」
「娘が二人に、息子が一人なんだ」
「それなら娘さんの方が、どちらかといえば父親思いで、息子さんは、母親思いだろう?」
「そうだな。娘は、僕に甘えやすいらしいんだ。そして、息子は、母親に。たとえば、僕が出張中に、母親が病気をしたりすると、娘以上に、息子が心配したり、看護をするらしい。その点、娘なんて冷淡なんだ、となげいていたから」
「そのかわり、父親が病気をしたりすると、息子の方は、ケロリとしている」
「どこでも、そういうもんらしい」
「僕は、家内に亡くなられてから、なるべくそういう区別をしないように努めているのだが、息子と娘のうちのどちらが可愛いかとなると、同じ子供にそういう区別をつけてはいけないのだが、娘の方が、ということになりそうだな」
「僕も、だいたい、そうだな。そして、母親は、息子の方らしい」
「どうしてだろうか」
「結局、世の中って、男には女が、女には男が、ということになり、それが親子の間でも通用するのだろうか」
「もちろん、それもあるだろうが、僕の場合をいわせてもらうと、僕は、自分の息子に、自分の短所が、全部見えてくるような気がして、ときどき、やり切れなくなるんだ」
「…………」
「自分には、性格上にこういう弱点があり、そのために随分悩んだとする。将来、この息子も、恐らく同じく悩むだろうと思うと、哀れだが、目をそむけたくなる。同じ男だから、よけいにわかるんだ。ところが、娘の場合だと、それが不思議にそれほど感じられないんだよ」
「…………」
「家内から見ると、息子によりも、娘に、僕が今いったようなことが感じられて、ときどき、はんぱつを覚えるらしい」
「そういわれると、僕も、何んとなく思い当ってくるな」
「だろう?」
章太郎は、いっておいて、
「だから、世間に、母親の嫁いじめというのがあっても、父親の嫁いじめというのは、あんまり聞かないよ」
「なるほど、原因は、そういうところにもあったわけか」
「だと、僕は、思っているんだ」
そこで、章太郎は、煙草に火をつけると、由利課長も、同じく煙草を取出した。二人の父親は、あらためて顔を見合わせて、妙に甘酸っぱいような顔をした。
「とにかく、せっかく苦労して育てた娘を、むざむざと他人にくれてやるんだからね」
章太郎がいった。
「だが、もらうことだってあるんだから、世の中って割合に公平に出来ているんだよ」
「そう思って、あきらめることだな」
「ただね」
「何んのこと?」
「ああいう二十一か二の娘が結婚のために辞めていくと、二十五を過ぎても、まだお嫁にいかぬ娘たちが、妙に動揺したり、ヒステリックになったりして困るんだよ。もっとも、しばらくの間だけだけれども、見ている方が辛いね」
「そう。僕も過去三十何年間、いろいろとそういう光景を見て来たな。しかし、今と比較して、昔は、もっとひどかった。昔にくらべると、近ごろの娘たちは、他人は他人、自分は自分として、ちゃんと割切っているようだ」
「それでこそ、いいんだよね」
「だが、こうやって眺めていると、みんなそれぞれ、結局、何んとかおさまるところへおさまって行っているね」
「ところで、何か、ご用?」
「僕も、あと半年で、おさまるところへおさまらなければならなくなった」
「停年のこと?」
由利課長は、章太郎の顔をのぞき込むようにしていった。
「そうなんだ」
章太郎は、顔をくしゃくしゃにするようにして答えて、
「で、退職慰労金の計算をしてもらいに来たんだよ。だいたいの見当ならついているんだが」
「わかった」
由利課長は、課員の方を見て、
「神田君」
と、呼んだ。
神田は、立って来て、
「お呼びでしょうか」
「矢沢さんの退職慰労金の計算をしてあげてくれないか。もちろん、一応、規程通りの金額でいいから」
「かしこまりました。今、すぐにですか」
「いや、今日でなくていいんだ。数日のうちにで結構」
章太郎がいった。
「では、数日のうちに計算しておきますから」
神田は、自分の席へ戻って行った。
由利課長も、神田も、章太郎の退職慰労金の計算について、当然のことと思っている。しかし、章太郎には、その当然のことと思われていることが、やっぱり淋しいのであった。
「停年の後は?」
由利課長がいった。
「今のところ、別にアテがないんだよ。もっとも、あと二、三年、嘱託としてでも残してもらえたら有りがたいんだが」
「さァ……」
「僕には、そういう見込みがないかね」
「僕からは、何んともいえないんだよ。ひとつ、重役に君から頼んでみたら?」
「それも考えたんだが、ちょっと億劫でね」
「そんな気の弱いことをいっていたんじゃァしようがないよ。ほら、昨年、二年間だけ嘱託勤務を許された本多君」
「本多君が、どうかしたのか」
「ここだけの話にしてもらいたいのだが」
「いいとも」
「福井専務に泣きついたらしいんだ」
「やっぱり、そうだったのか」
「奥さんなんか、数年前からしょっちゅう福井専務邸へ出入りしていたらしい」
「…………」
「大掃除があったりすると、奥さんは、かならず行っていたというし、夫人の買物のお供をよくしていたらしい」
「それほどまでにしないと、嘱託にしてもらえないのか」
「僕に、そう開き直られると困るんだが」
「いや、君に開き直っているわけではないんだよ。それに、僕には、そういう重役夫人にサービスをするような細君はいないんだから」
「…………」
「しかし、かりにあったとしても、そういうみじめな真似はさせたくないな」
「だが、生きていくためには」
「生きていくためには、か」
「すこし大げさないい方をしたようだが、しかし、僕は、本多君は、きっとそういう気であったに違いないと思っている。だから、あの人の顔を見ても、軽蔑する気にはなれないんだ」
「もちろん、僕だって、軽蔑しようとは思っていないさ。が、だいたい、この会社の停年が五十五歳なんて、早過ぎるんだよ。僕は、こうなったら人事課長である君に、正式に抗議を申込みたいね」
「しかし、そこには、いろいろの問題があるからね」
「君が、そう消極的では困るよ。君の停年は、いつなんだ」
「あと五年ある」
「五年前には、僕だって、自分の停年のことを、今の三分の一も深刻に考えていなかったからな」
「しかし、僕は、重役にそのことをいったことがあるんだよ」
「停年延期のこと?」
「そう。が、重役は、いやな顔をして、よけいなことをいうな、といったよ」
「よけいなことを、か」
「が、組合では、考えているらしい」
「そりゃァ耳よりの話だな」
「しかし、考えているだけで、あと半年やそこらでは間に合わないんじゃァないかな」
「残念」
章太郎がいったとき、頭の上で、
「君」
と、威張ったような口調でいった男があった。
由利課長は、その男を見ると、さっと立上がった。章太郎は、振向いて、それが相原常務取締役であることに気がつくと、これまた、無意識に立上がっていた。
章太郎は、この相原常務とは、いっしょに入社したのである。一方は、大学出。こちらは高商出。そこにはじめから差があったけれども、三十年の間に、こんな大差がついてしまったのだ。
章太郎は、かねてから自分が嘱託として残るとすれば、この相原常務に頼むことだ、と思って来たのであった。相原常務が同期生のよしみで、自分のために強く発言してくれたら、そのことが可能のような気がしていたのである。
章太郎は、相原常務に頭を下げた。相原常務は、それに軽く応じておいて、由利課長に、
「君、昨日の書類、出来ているかね」
「はッ」
由利課長は、いっておいて、自分の机の曳出しの中から大きなハトロン封筒に入ったものを取出した。封筒の上には、秘の判がおしてあった。
「ご苦労」
相原常務は、それを受取ってから帰りかけて、ふと気が変ったように、
「どうだね、近ごろは」
と、章太郎に話しかけて来た。
「あんまり元気でもありません」
「どうしてなんだ」
「今も、ここへ退職慰労金の計算をしてもらいに来ていたんです」
「退職慰労金?」
「私のです」
「ああ、君も、そろそろ停年か」
「あと半年で」
「そうか、あと半年でか」
「いよいよ、お別れです」
章太郎としては、このようにいえば、相原常務の方で、
(そのあと、どうするつもりなんだ)
ぐらいのことをいってくれるか、と期待したのである。そして、そういってくれたら、それについて、お願いがあるんですが、といってもいいつもりだった。
しかし、相原常務は、
「そういうことになるな。規則だからな」
と、いっただけで、さっさと人事課の部屋から出て行ってしまった。
章太郎は、苦笑した。もう相原常務に頼もうという気持を失っていた。かりに、勇気を出して頼んだところで、
(まァ、考えておこう)
といわれるだけで、なんの効果も期待出来ないに違いなかろう。それなら、卑屈な思いをするだけ、みじめな思いをするだけ、損なのだ。
しかし、これで章太郎は、嘱託として残してもらおうとの助平心に、はっきりと終止符を打つことが出来たのである。
章太郎は、人事課を出て、自分の部屋の方へ歩きながら、明日といわず、今日から、停年後の就職について、もっとしんけんになろう、ということをあらためて強く考えていた。
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土曜日
「まァ考えておこう」
「ぜひ……」
章太郎は、頭を下げた。ここへ来てから、何度頭を下げたろうか。一言しゃべるたびに、頭を下げていたような気がする。
「しかし、あんまりアテにしてもらいたくないな」
「はァ……」
章太郎は、また、頭を下げた。そのつど、相手は胸を張り、頭が高くなっていくようにさえ感じられていた。
「では、今日はこれで失敬する」
相手は、立上がった。章太郎も立上がって、
「どうも、お忙しいところを」
「いや、そうでもないんだが、今日は、土曜日だろう。これから箱根の仙石原へ一泊の予定で、ゴルフに行くことになっているんだ」
「それはそれは」
「君、ゴルフは?」
「とんでもない」
「まァ、そうだろうな」
「どうか、よろしくお願いいたします」
章太郎は、これを最後と決めて、深く頭を下げた。相手は、その頭の先をかすめるようにして、応接室から出て行った。章太郎は、そのトビラのしまる音が聞えるまで、同じ姿勢を続けていた。
もちろん、そんな必要はなかったのである。それを承知の上で、さっきからあんまり卑屈になっている自分自身に腹を立て、もっとそんな自分自身をいじめてやりたくなったのであった。
章太郎は、やっと頭を上げると、
「やれやれ」
と、苦笑いを浮べながら、
「人に物を頼むって、こんなにも嫌なものとは思わなかったな」
と、ぐったり疲れたように、もう一度、イスに腰を下した。
相手は、章太郎と同郷の男だった。この会社の重役をしていた。もう十数年前のことだが、章太郎は、その男の息子の就職の世話をしてやっているのだった。停年退職後の就職口について、ここへ頼みに来たのは、章太郎としては、そのときのことがあったからだが、相手は、そのときのことなんか、すっかり忘れているようだった。
あるいは、意識して、忘れたふりをしているのかもわからないが、そうなれば、章太郎だって、自分の口からそれをいうわけにいかなかった。
いや、いってもいいのだが、それではますます自分を卑しくしそうで、我慢したのである。そして、結果としては、ハナであしらわれたも同然に終った。
(しかし、これからはもっともっと嫌な思いをしなければならんだろうな)
十の口をかけておいて、うちの一つでもうまくいったら大成功と思うべきなのである。章太郎は、あらためてここでその覚悟をつけておくために煙草を取出して、火をつけた。
応接室のトビラが開いた。
「おや、まだ、いたんですか」
給仕らしいのが、うさん臭げにいった。
「どうも、失敬。今、帰りかけていたところだ」
章太郎は、火をつけたばかりの煙草を、灰皿の中にもみ消して、大急ぎで立上がった。給仕は、そんな章太郎を白い目で、見ているだけだった。
章太郎は、まるで追い立てられるように、会社を出た。そのあと、京橋から銀座に向って、歩きはじめた。
(しかし、今日は、土曜日なのだ)
章太郎は、自分をはげますようにいった。何故なら、今日の土曜日から、郡司道子が渋谷のバーで、雇われマダムとして出発するのである。バーの名を「イエス」から「ぐんじ」に変えたといっていた。そこに郡司道子の並ならぬ決意が現われているようだった。
「開店の日には、ぜひ、来て頂戴」
郡司道子からそういう電話をもらっている。もちろん、章太郎は、行くつもりだった。また、郡司道子の過去の好意を思えば、行ってやらねば義理が悪いのだ。
章太郎が就職運動の第一日に今日を選んだのも、郡司道子に負けていられぬという思いと、かりにそのために嫌な思いをしても、夜には、郡司道子に会えるという愉しみがあるから、と自分にいい聞かせてのことであった。結果は、その通りになった。
ちょうど、廊下で、坂巻広太に会ったので、
「どうだ、今夜、つきあわないか」
と、いってやると、
「僕も、そろそろ、お願いしようと思っていたところなんです」
と、答えてくれた。
「ちょうど、よかったな」
「それに、お耳に入れておきたいこともあったんです」
「どういうこと?」
「それも、今夜、お話いたしましょう」
「よかろう」
章太郎は、郡司道子のバーの所在をくわしくおしえておいて、
「僕は、その前に、停年後の就職運動にまわるから、君は先に行って、僕の名で飲んでくれていていい」
「かしこまりました」
「遅くとも、七時ごろまでには行くつもりだから」
「はい、ご成功をお祈りしております」
「ご成功?」
「就職運動の、です」
「ああ、そうか。どうも、有りがとう」
そして、今夜は、同じ「ぐんじ」で、もう一人と会うことになっていた。勝畑正造となのである。章太郎が帰りかけているとき、勝畑から電話があって、
「例の件でのご報告、たいへん遅れていましたが、じつは、あれから間もなく、出張していたもんですから」
章太郎は、それなら、今夜、渋谷で、と答えておいたのであった。もし、勝畑と広太が気が合うようだったら、二人を友達にしてもいい、と思っていたのである。そのことが、今後の二人にとって、きっと、プラスになるだろうから。
「おい、矢沢君だろう?」
すれ違った男が、引っ返して来ていった。
章太郎は顔を上げて、
「武田さんじゃァありませんか」
と、懐かしそうにいった。
数年前、部長昇進を目前にしながら部下が費い込みをしていたことがわかり、その責任を問われて、参事という名の閑職に終った武田文兵衛であった。
「そうだよ。いったい、どうしたのだ?」
武田文兵衛は、章太郎の顔をのぞき込むようにしていった。
「何んのことですか」
「全然、元気がないじゃァないか。まるで、幽霊のように歩いていたぞ」
「そんなふうに見えましたか」
章太郎は、苦笑をもらしながら、
(あるいは、他人の目には、そのように見えたかも……)
と、思っていた。
「見えたね。およそ、僕の知っている君らしくないので、はじめ人違いかと思ったくらいなんだ」
「すこし、事情がございましてね」
「女に振られでもしたのか」
「その方でしたら、どうか、ご心配なく」
「なかなかいうじゃァないか」
「もっと、深刻な問題なんです」
「仕事のことで、失敗でもしたのか」
「私は、この九月一日で、停年退職になるんです」
「停年退職……」
武田文兵衛は、あらためて章太郎の顔を見て、
「それで、憂鬱になっていたのか。もっとも、僕にだって、思いあたるが」
しかし、目前の武田は、元気であった。参事室で世をすねたようにしていたころにくらべると、却って若返っているようにすら感じられる。血色もいいし、表情も明るい。それが、章太郎に不思議だった。
「今も、停年退職後の就職について、ある人に頼みに行ったのですが」
「断られたのか」
「そうなんです」
「で幽霊みたいに歩いていたんだな」
「ということになります」
「どうだね、そこらでお茶でも飲まないか」
「いいんですか」
「久し振りで会ったんだし、二十分ぐらいならいいさ」
二人は、すぐ近くの喫茶店に入った。コーヒーを頼んでから、武田は、
「そうだ、僕の名刺をわたしておこう」
武田の出してくれた名刺は、
「有限会社武田清掃社、社長武田文兵衛」
となっていた。
「社長さんですか」
「そうさ。こう見えても社長さんなのだ。在職中は、部長にもなれなかったが、今や、れっきとした社長さんだよ」
「お見それいたしました」
「ここのコーヒーは、おごるからね」
「恐れ入ります」
「もっとも、資本金は十五万円なんだが」
「この武田清掃社というのは、何をする会社なんですか」
「ビルの清掃をやる会社なんだよ」
「ああ、あれですか」
「会社へも、入っているだろう?」
「四年ぐらい前から」
「あんとき、僕は、昔のよしみで頼みに行こうと思ったんだが、断られたらシャクなので、我慢したんだよ」
コーヒーが来た。
「しかし、よくこんな商売をはじめられましたね」
「ところが、これをはじめるまでが並たいていではなかった」
「でしょうねえ」
「僕も、今の君と同様に、停年退職後の就職について、いろいろと奔走したんだよ」
「…………」
「が、結局は、ダメだった」
「…………」
「自動車のセールスマンをやったり、保険の外交員をやったりしたが、性に合っていなかったのか、失敗に終った」
「…………」
「退職慰労金は、目に見えて減ってくる。心細かったなァ」
武田は、そのころを思い出すような顔でコーヒーを飲み、
「そこで思いついたのは、この清掃会社なんだ」
「…………」
「幸いだったのは、僕の先輩が、八重洲口にビルを持っていて、その掃除に困っていたんだ」
「…………」
「そこへ僕が就職を頼みに行ったら、一つ、裸になった気持で、清掃会社をやってみないか、といわれたんだよ」
「…………」
「いくら落ちぶれても、掃除屋にはなりたくない、と思ったんだが、すぐ思い返したんだ」
「…………」
「それからは、いろいろの苦労をしたな」
「でしょうね」
「はじめのうちは、僕が六十ヅラを下げて若い連中といっしょになって、掃除してまわった」
「…………」
「先方の小使とか使丁からよく文句をいわれたが、我慢したよ。が、やめようかと思ったことは、何度あったか」
「わかります」
「が、君、石の上にも三年だったよ、今では、従業員が二十人、もっともそのうちの半分は、アルバイト学生だが、今では、長期契約を結んでいるビルが七つある」
「…………」
「月の水揚げが九十万円くらいあるから、何んとかやっていけるようになった」
「よかったじゃァありませんか」
「そう。が、近ごろ、この商売も同業者がふえて来てね。あくまで、油断がならん」
「…………」
「それに、どこのビルでも、そこの社員が帰った後の仕事だから、信用第一なんだ」
「…………」
「あと長期契約のビルを、もう三つぐらいほしいと思っているんだよ」
そういうと、武田は、残ったコーヒーを飲みほした。
「いいお話を聞かせていただきました」
「だろう?」
「勇気が出て来たようです」
「それでいいんだよ」
「何か、僕にも出来る商売があるといいんですが」
「そう。が、商売となると、やっぱり、危険だな。僕なんか、運よく成功したからよかったが、もし、失敗していたら、今ごろは、親子心中をしていたかもわからない」
「すると、私の場合は、やっぱり適当な就職口を見つけた方が無難でしょうか」
「五十五歳までは、人に使われたんだから、その後は、独立して、人を使うようになりたいだろうが、しかし、あんまり無理をしないことだな」
「よくわかりました」
「しかし、卑屈になることはないのだ。僕は、こういうふうに思うべきだ、と考えているよ」
「…………」
「老人のための場所をあけるために、若くて役に立たない連中を追放しろ、とね」
「いい言葉ですね」
「君、これくらいの気概がなかったら、これからの停年退職者は、再出発出来ないよ」
「私も、そう思います」
「僕ンとこの会社、もっと規模が大きいのだったら、君一人ぐらい雇ってやってもいいのだが」
じつをいうと、章太郎は、さっきからそれをいってみたかったのである。しかし、これでは、先手を打って、断られたようなものであった。が、ここで武田に会えたことは、有りがたかった。今後のあり方に、大いに参考になった。
「あなたの会社でなくってもいいのですが、もし、私のような者でも雇ってくれそうなところがあったら、おしえて頂けませんか」
「そうだな。考えておこう」
章太郎は、カバンの中から封筒に入ったものを出して、
「これは、履歴書なんですが、ご面倒でも預かっておいて頂けませんか」
章太郎のカバンの中には、まだ、三通の履歴書が入っていた。
昨夜、遅くまでかかって書いたのである。書きながら、なんとも情けない気分を味わっていた。
そこへ、のぼるが紅茶を持って来て、
「お父さん、たいへんなのね」
と、いたわってくれた。
「何、そうでもないさ。働かざる者は、食うべからず、というからな」
章太郎は冗談めかしていったが、心の中を酸っぱくしていたのである……。
「とにかく、預かってだけおこう」
武田は、受取ってくれた。そのあと十分ぐらい、武田は、会社の誰彼のことを聞いたりして、
「では、出ようか」
「どうも、ご馳走さまでした」
章太郎は、武田に別れてから、時計を見た。三時を過ぎたばかりであった。もう一人に頼むために、都電に乗った。
「ああ、ここだな」
坂巻広太は、歩みをとめていった。
バー「ぐんじ」。そして、表には、いくつかの開店祝の花環が飾ってあった。今日、開店するバーなのだ、ということは章太郎から聞かされていた。そして、気楽にしていい店なんだから、ということも。ただし、どういうわけで、気楽にしていいのかの理由は、聞かされなかった。もっとも、広太は、そこまで気にしたわけではない。
章太郎ほどの年になれば、そういう店の二軒や三軒を知っていてもおかしくない。また、息抜のためにも、なかったらやり切れないだろうし、困るだろう。広太は、章太郎にそういう店のあったことを喜びたかった。ただし、気楽にといったところで、いろいろの意味がある。本人だけがそううぬぼれていて、相手の方で、鼻つまみに思っていた、ということだってあり得る。
広太は、過去にいくたびか、
「俺のいちばんもてる家へ連れてってやる」
と、先輩から自慢げにいわれて、その気になってついて行ってみたら、話がまるで逆であった、という経験をしている。
ために、自分だって、肩身のせまい思いをさせられた。広太は、だから、
(今夜は、そういうことではありませんように)
と、自分のためによりも、章太郎のために祈りたいくらいだった。
六時半を過ぎたばかりであった。章太郎は、遅くとも七時までに行くつもりだから、といっていたのだ。
広太は、扉を押し開いて、中へ入って行った。
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし」
女たちの声が、広太を迎えた。が、はじめての客なので、とまどっているようでもあった。
まだ、時間がはやいせいか、一組の客がいるだけだった。
「東亜化学の矢沢さん、まだ、お見えになっていませんか」
広太は、近寄って来た女にいった。
「まだですけど」
女が答えた。すると、今の広太の言葉が聞えたらしく、客の相手をしていた三十前後の着物を着た女が、すっと立上がって来て、
「いらっしゃいまし」
と笑顔でいっておいて、
「矢沢さんでしたら、あとで、きっといらっして下さいますよ」
「僕は、同じ会社の坂巻広太ですが、矢沢さんが、今夜ここで飲もうとおっしゃったもんですから」
「どうぞどうぞ」
その女は、広太を客席へ案内しようとした。
「僕は、一人ですし、矢沢さんがいらっしゃるまで、スタンドで結構ですよ」
「ご遠慮?」
「その方が、気楽なような気がするんです」
「では、そうなさっていてね」
広太は、スタンドの前の椅子に掛けた。その女は、スタンドの中に入って、広太と向い合った。
「僕に、ビールを下さい」
「はい」
「今日は、開店日なんですね」
「ですから、あとで、ほんの粗品ですけど、差上げます」
「嬉しいな。ところで、ここのマダムさんは?」
「あたしですの」
女は、ちょっとはにかんだようにいって、広太の前に名刺をおいた。
「郡司道子さん、とおっしゃるんですね」
広太は、その名刺を取っていった。
「どうか、よろしく」
「いや、僕の方こそ」
広太の前に、ビールがおかれた。
「マダムもいかがですか」
「いただきます」
二人のグラスに、ビールが満たされると、広太は、
「ご開店、おめでとうございます」
と、目の高さにグラスを上げた。
「有りがとうございます」
郡司道子も、同じく自分のグラスを目の高さに上げた。
「矢沢さん、ときどき、いらっしゃるんですか」
「この店が、イエスといっていたころから。もっとも、そのころのあたしは、マダムではなく、ただの女給でしたのよ」
「では、出世をなさったわけですね」
「ところが、残念ながら、雇われですの」
「雇われにしたところで、マダムはマダムですからね」
「ほっほっほ。そういってもらえると、自分でも偉くなったみたい」
「そのかわり、責任重大ですね」
「ですから、ときどき、矢沢さんを誘っていらっして」
「マダムは、矢沢さんをどうお思いですか」
「どう思うって?」
「僕は、矢沢さんとは、近ごろのつき合いなんですが、好きですよ」
「そう……」
郡司道子は、満ち足りたように広太を見た。
「とってもいい人ですよ」
「そう……」
「マダムは、そうお思いになりませんか」
「思いましてよ。ですから、うちでは、大事なお客さまにしているんです」
「僕は、安心しました。じつをいうと、矢沢さんが、ここのことを、気楽に飲める店だからっておっしゃったんです」
「気楽に?」
「ここへ来て、そして、あなたにお会いして、その通りなんで、僕は、矢沢さんのためにカンパイしたいくらいですよ」
「では、カンパイしましょうよ」
こんどは、マダムからグラスを上げた。広太は、
「カンパイ」
と、いいながら、郡司道子の打てば響くような応答ぶりに、
(なんて商売上手な女なんだろう)
と、思ったくらいだった。
「矢沢さんが、今年の九月一日で、会社を停年退職になることをご存じですか」
しばらくたって、広太がいった。
「そのようにおっしゃっていましたから」
郡司道子は、ちょっと眉を寄せるようにして答えた。
「今日は、その後の就職運動のために、どこかへ行っていられるはずですよ」
「そうでしたか」
「ですから、僕は、ご成功をお祈りいたしますといっておいたんです」
「あたしも、ご成功を祈りたいわ」
「あれほどの人ですから、雇った方は、きっとトクをすると思うんですけどねえ」
「そうですとも」
「これでも、僕は僕なりに、矢沢さんの就職口について、心がけているつもりなんですよ」
「すみません」
「マダムからお礼をいわれるなんて、思いませんでしたよ」
「あら、だって……」
広太は、郡司道子の顔が、すこしあかくなったような気がした。
「だって?」
「いいえ、なんでもありませんのよ」
「しかし、おかしいなァ」
「なにがですの」
郡司道子は、まぶしそうに広太を見た。そこへ新しい客の一団が賑やかに入って来たので、
「ごめんなさい」
と、郡司道子は、広太にことわって、スタンドの中からその客の方へ出て行った。
「マダム、おめでとう」
「やァ、おめでとう」
客たちは、口々にいっている。それに郡司道子は、
「有りがとうございます。これからもよろしくね」
と、陽気に応えている。
広太は、すでにビール一本を空けていた。追加をもらいながら、
(あのマダムは、矢沢さんが好きなんだな)
と、思っていた。
章太郎のことを、よほど親身になって思っていなかったら、さっきのように、すぐ、
(すみません)
と、いうような言葉は、口から出てこないはずである。
広太は、これで、章太郎のいった気楽にしていい店の意味が、飲み込めたような気がした。そして、そのことを章太郎のために祝福してやりたかった。しかし、当の章太郎は、まだ、就職運動のために駆けずりまわっているのだ。きっと、いやな思いもしているに違いないのである。
広太は、新宿のバー「グリーン」のマスターになった田沢吉夫のことを思い出した。どちらも停年退職者であり、奥さんがいないのである。しかし、章太郎には、田沢の真似は出来ないだろう。広太は、そんなことを思っているうちに、客は、次々にふえて、開店日らしいにぎやかさをしめして来た。広太の横にも一人の客が来て、
「今夜、東亜化学の矢沢さんは、まだ?」
と、バーテンダーにいった。
広太は、思わずその男の方を見た。バーテンダーが、
「勝畑さん、このお方は、東亜化学にお勤めで、やはり矢沢さんをお待ちになっているんですよ」
「そうでしたか。そりゃァ奇遇でしたね。僕は、こういう者です」
勝畑は、名刺を出した。同じく名刺を出しながら、広太は、
「どうぞ、よろしく」
「こちらこそ。僕は、今夜ここで、矢沢さんにお会いする約束になっているんです」
「じつは、私も。もっとも、私の方は、ご馳走になるんですが」
「それでしたら、矢沢さんがお見えになるまで、いっしょに飲みましょう」
「いいですね」
広太は、新しいグラスをもらい、勝畑に酌をしてやった。
「矢沢さんは、今日停年後の就職運動にまわっていられるんですよ」
「そりゃァたいへんだな」
「どこか、矢沢さんに向くような就職口がないもんですかね」
「さァ……」
「もし、あるようでしたら、矢沢さんのために骨を折って上げて下さいませんか」
「あなたって、矢沢さん思いなんですね」
「何んとなく、好きなんですよ」
「わかりますね。僕だって、あの人、好きですよ」
「どうも、有りがとう」
広太は、頭を下げた。それが、勝畑の微笑を誘ったようであった。
郡司道子が寄って来て、
「勝畑さん、いらっしゃい」
「今日からマダムだそうで。ご開店、おめでとう」
「有りがとうございます。これからも、ときどきいらっしてね。ただし、井筒さんは、お断りですよ」
「今夜、そのことで、矢沢さんとここでお会いして、ご報告しようと思っているんです。そうしたら、この坂巻君も矢沢さんを待っていることがわかって、二人は、矢沢さんのことで、いま意気投合しかかっているところだったんです」
「それでしたら大いに意気投合して頂戴」
「その中に、マダムも入りませんか」
広太がいった。
「あたし、喜んで、小泉さん、ビールを出して上げて」
郡司道子は、バーテンダーにいった。新しいビールで、三人は、
「では、矢沢さんのために」
と、カンパイした。
「それにしても、もう七時をとっくに過ぎてるわ。きっと、就職運動の方、あんまりうまくいってないのね。可哀そうに」
郡司道子がいったとき、入口のトビラが開いて、章太郎が疲れたような顔で入って来た。
章太郎は、勝畑と広太がいっしょにいるのを見ると、一瞬、
(おや?)
と、思ったらしいのだが、たちまち、明るい表情になって、
「どうも失敬失敬。約束した時間よりも遅くなって」
と、いっておいてから、
「今夜は、おめでとう」
と、郡司道子にいった。
「有りがとうございます」
「これ……」
章太郎は、包装紙に包んだ箱を差出した。
「何んですの?」
「お祝なんだ。ほんの気持だけの」
「あたしに下さいますの?」
郡司道子は、思いがけないという顔で、章太郎を見た。章太郎は、てれたように、
「そうだよ」
「うれしいわ、すみません」
郡司道子は、押しいただくように受取った。
「そんなにいわれるほどの物じゃァないんだ。気に入るかどうかわからんが、ハンド・バッグなんだ」
「きっと、気に入ると思いますわ。だって、矢沢さんがお見たてて下さったんでしょう?」
「そう」
「だったら、気に入るに間違いありませんわ」
郡司道子は、自信ありげにいった。そんな二人のやりとりを、広太と勝畑は、微笑みながら見ていた。殊に、広太は、自分がさっきこの二人について感じたことに間違いがなかったようだ、と思っていた。あらためて、章太郎のために祝福してやりたくなっていた。似た思いが、勝畑の表情にも現われているようであった。
郡司道子は、ハンド・バッグの入った箱をバーテンダーに預けてから、広太と勝畑がいっしょにいる理由をかんたんに話した。
「道理で。しかし、はじめ、びっくりしたよ」
章太郎がいって、
「今夜、二人に友達になってもらいたいと思っていたんだよ」
と、二人の顔を見た。
「その点でしたら、今マダムも加えた三人で、意気投合しかかっていたところですから」
広太がいった。
「そうなんですよ」
勝畑がいった。
「そりゃァよかった」
「あちらの席の方へいらっしゃいませんか?」
郡司道子がいった。
「そうだな、すこし疲れているし」
三人は、ボックス席に移って、飲みはじめた。郡司道子もいっしょだった。
「就職運動の方、いかがでしたか」
広太がいった。
「うーむ」
章太郎は、うなっておいて、
「たいへんだよ。今日は、郷里の先輩と、学校友達と、もう一人、サラリーマンになってから関係の出来た人と、この三人をまわったのだ。みんな、まァ、考えておこうとはいってくれるのだが、手応えは、さっぱりなんだよ」
と、ちょっと憮然とした表情でいった。
しかし、章太郎は、すぐ思い直したように、
「今夜は、せっかくの開店日なんだし、そういう憂鬱になるような話はよして、愉快にのむことにしよう。それに、まだ停年の日までに、半年近くもあるんだし」
「だけど、半年ぐらい、すぐたちましてよ」
郡司道子がいった。
「なに、物は考えようさ」
章太郎は、明るくいって、
「君、例の横山会に入会の件は、どうなった?」
と、広太にいった。
「はっきり、断りました」
「素直に聞いてくれたか」
「理由は、社内報を色眼鏡で見られないために、といったんです。そうしたら、私のいったことをそのまま横山専務に報告する、ということでした。ですから、私は、どうぞ、といっておいたんです」
「よく、いったな」
「そのあと、後藤課長に、社内報に停年退職者のページをつくることをいって、了解してもらいました」
「そりゃァよかった」
「もっとも、その前に、課長に横山会を断ったこともいっておいたんです」
「後藤君の意見は?」
「ほめられましたよ」
「ほめられた?」
「私ぐらいの若さで、そんな派閥に関係するなんて賛成出来ない、と。派閥のことを考えるのは、自分ぐらいの年になってからでたくさんだそうです」
「後藤君は、なかなかいいことをいうな」
「社内報に停年退職者のページをつくるのも矢沢さんの案なのだ、といっておいたんです」
「そうしたら?」
「矢沢さんも、あと半年で停年か。それなら自分だって、停年について、今のうちからしんけんに考えてみる必要があるようだと、ちょっと深刻になっていられました」
「いいことだよ。僕にいわせれば、いくら早く考えておいても、早過ぎるということはないのだから」
「それについて、課長は、そのうちに私もまじえてですが、一夕飲みたいようにいっておられました」
「僕は、いつだってかまわない。喜んでいたと君からもいっておいてくれたまえ」
「かしこまりました」
広太は、さらに後藤課長から冗談めかしてではあるが、章太郎の娘をもらって上げたら、といわれたのであったと思い出していた。が、それだけは、口にする気になれなかった。
「ところで、君は、あの人のその後について、だれを取上げるか決めたのか」
「課長が考えていて下さっているはずなんです」
「だったら、こういう人もいるから参考にしたまえ」
章太郎は、武田清掃社の社長武田文兵衛の名刺を出して、その武田に会ったときのことを話した。
「いい話ですね。早速、課長ともよく相談してみます」
章太郎は、それまで黙って聞いてくれていた勝畑に、
「どうも、内輪の話ばかりしていて失敬」
「いや、いいんですよ。同じサラリーマンとして、私にもいろいろと参考になりました」
「そう思ってくれると、こっちも気が軽くなる。では、例の話、聞かせてもらいましょうか」
が、章太郎は、すぐ広太に向って、
「これからこの勝畑君とする話は、君も知っている女性の一身上の問題のことなんだが、絶対に口外をつつしんでくれたまえ」
と、厳しい口調でいった。
「はい」
広太は、真面目な顔で答えた。
「あたしは、いてもいいんでしょう?」
郡司道子がいった。
「そりゃァいてもらった方がいいですよ。とにかく、あなたのあの言葉が、井筒君にいちばん応えたんですよ」
勝畑が、章太郎よりも先にいって、
「私は、あの翌日、もう一度、井筒君に会って、いろいろと話し合ったんです」
「素直に聞いてくれましたか」
「はじめのうちは、矢沢さんのことを出しゃばりだとか、マダムのことを生意気だとかいってましたが、結局は、別れるといってくれたんです」
「当然のことだわ」
「ところが、昨夜、また井筒君に会って聞いたら、女の方で別れるくらいなら死んだ方がましだ、といっているんだそうです」
「死んだ方が?」
「と、井筒君がいってるんです」
「井筒君は、どういって別れ話を持ち出したんですか」
「はじめのうちは、いつまでもこういう関係は不自然だからといったらしいんです」
「たしかに不自然ですよ」
「が、女は、それでは約束が違う、と」
「約束が?」
「井筒君は、今の奥さんと別れて、そのうちに結婚してやるぐらいのことをいっていたらしいんです」
「そのことなら、本人も、同僚にいっていたようです」
「で、井筒君は、困って、といって、それは自業自得のことなんですが、あなたに会っていわれたことをしゃべったらしいんです」
「…………」
「私は、男として、それをいうべきではなかったな、といってやったんですが」
「いや、僕は、かまいませんよ」
「ですから、恨むなら君の課長を恨んだらいいだろう、と」
「僕は、たとえ恨まれても、それで、あの娘の生活が正常に戻ってくれるのなら、別に気にしません」
「その後、あの娘から電話がかかって来ても、井筒君は、電話口に出ないようにしているのだ、といっておりました。そのかわり」
「そのかわり?」
「あの娘に、万一のことがあっても、自分の責任ではないからと、そういうことをいうのです」
「万一のこと?」
章太郎は、不安そうに郡司道子を見た。郡司道子は、見返して、
「大丈夫でしょう?」
「しかし、本当に万一のことがあったら困るな。それこそ、こっちが出しゃばったばかりに、元も子もなくしたことになるし、ご両親に対してももうし訳がない」
「ですから、そうなる前に、一度、ここへ連れていらっしゃらない?」
「果して、本人がその気になってくれるかどうか」
「とにかく、おっしゃってごらんになったら?」
「そうだな」
「お話中ですが」
横から広太がいった。三人は、いっせいに広太を見た。
「もしかしたら、今話題になっているのは、厚生課の小高秀子のことなんじゃァありませんか」
「君まで、あの娘についての噂を耳にしていたのか」
「いえ。私は、そういうことは、すこしも聞いておりません。ただ、先日、会社の屋上で、あの娘からいわれたことがあるんです。お昼、お耳に入れておきたいことがあるといったのも、それであったのです」
「どういうことだ」
「要するに、小高君は、矢沢さんをひどく恨んでいるようでした」
「そうか」
「人の私生活にまで口を出すのだから、と。自分が怒っていたといってもらってもかまわない、とも」
章太郎は、苦笑をもらして、
「こりゃァいよいよ僕の形勢は、不利になって来たようだな」
と、辛そうにいった。
「といって、いまさら後へ退くわけにもいかないでしょう?」
郡司道子がいった。
「それだよ。しかし、どうしたらいちばんあの娘のためになるだろうか」
「いっそ、あの娘の両親を呼んで話したらどうでしょうか」
勝畑がいった。
「それも考えているのだが」
章太郎には、その決心がつかないのであった。それがいちばんいい方法のような気もするのだが、そのために、小高秀子がどんなに叱られるだろうかと考えると、可哀そうになってくるのだった。
そのくせ、もしのぼるにそういうことがあるようだったら、一日も早く、自分の耳に入れてもらいたいものだ、と思っているのだった。が、幸いにして、のぼるは、泥沼にまで入らないで、引返して来ているらしいのだ。といって、その傷口は、ふさがったわけではないのだ。いまだに、開いたままでいるようなのである。
「とにかく、井筒君には、あくまで今の態度を続けていてもらいたいな」
章太郎は、しばらくたっていった。
「わかりました。私からあらためて、そのことをいっておきます」
勝畑が答えた。
「これは、よけいなことかもわかりませんが」
広太がいったので、三人は、広太に視線を集めた。
「さっき、このマダムが、本人を一度ここへ連れて来たら、とおっしゃったことについてですが、私、その役目を引受けましょうか」
「君が?」
章太郎がいった。
「私の感じからいうと、小高秀子は、矢沢さんを、いってみれば逆恨みしているんですし、おいそれということをきかないと思うんですよ」
「うん」
「しかし、私ならさっきいったようなことをいわれているので、誘いやすいし、彼女だって、それに応じやすいと思うんです」
「うん」
「そこで、このマダムから彼女に、うまくいってもらったらいかがでしょうか」
「名案だわ」
郡司道子がいった。
「僕も、賛成ですね、その案に」
勝畑がいった。
章太郎は、しばらく考えていてから、
「では、そういうことにしてもらおうか」
「そうよ。そして、矢沢さんは、当分の間、そういうことによりも、停年後の就職運動に熱中なさった方がいいと思うわ」
「そうなさいよ、矢沢さん。そのときは、及ばずながら、僕だって、マダムや坂巻君のために協力します」
「みんなにご迷惑をかけてもうし訳ないが、よろしく頼む」
章太郎は、三人に頭を下げた。
「まかせておいてね」
郡司道子は、胸をポンと叩くようにいっておいて、
「さァ、これで話が決りました。あとは、愉快にゆっくり飲んで頂戴」
「有りがとう」
郡司道子は、他の客の相手をするために、席を立って行った。
開店一日目の景気は、いいようであった。郡司道子のマダム振りも板についているし、お客たちから親しまれ、頼もしがられているようだ。
(この分なら、うまくいきそうだ)
章太郎は、安心した。同時に、そういう郡司道子に好かれている自分に、一種の誇らしさを感じてもいた。
この店には、章太郎なんかよりも、風采や社会的地位において、比較にならぬくらいまさっている客がたくさん来ているはずなのである。それなのに、郡司道子は、それらの客をさしおいて、結婚したいとさえいってくれたのだ。もちろん、結婚なんて、とうてい考えられないが、その好意は、あだやおろそかに思ってはならないのである。有りがたかった。が、そのためにも、停年後、完全な失業者にはなりたくないのであった。
しかし、停年後の就職については、今日一日の経験だが、まことに前途多難なのだ。明日からが思いやられていた。
それから三人は、三十分ほどいたのだが、客の数は、ますますふえてくるようだった。これ以上いたのでは、商売の邪魔になりかねない。
「出ようか」
章太郎がいった。
これでは、今夜いくらねばっていても、郡司道子とホテルへ行くわけにはいかないだろう。章太郎は、その方はあっさりあきらめた。あきらめた以上は、早く子供たちのところへ帰ってやりたくなった。
「出ましょう」
広太がいい、勝畑も、腰を上げた。それを見て、郡司道子が近寄って来て、
「もうお帰りですの?」
と、残り惜しそうにいった。
「近いうちに、また、ゆっくりくるからね」
「きっと、ね」
そのあと、郡司道子は、広太と勝畑に、
「今夜は、ゴタゴタしていて、ごめんなさい。だけど、これに懲りないで、ときどきいらっしてね」
「来ますよ」
「僕も」
「これ、ほんの粗品ですけど」
郡司道子は、三人にちいさな小箱をわたした。
「どうも」
「それから、これは、お子さんたちのお土産になさって」
郡司道子は、章太郎にいった。
「何?」
「お菓子ですの。だって、坊っちゃんは、毎晩遅くまで、ご勉強なんでしょう?」
「悪いなァ」
「あら、どういたしまして」
三人は、外へ出た。郡司道子は、送りに出た。そして、
「ちょっと、矢沢さん」
と、章太郎だけを呼び戻して、
「近々のうちに、チャンスをつくってね」
と、すこしあかくなりながらいった。
「僕も、そのつもりでいるんだ」
「お願いよ。でないと、あたし、困るんですもの」
「僕だって」
「ほんとう?」
郡司道子の目が章太郎の目をのぞき込んで来た。章太郎は、この女と過したホテルでのいくつかのシーンを思い出し、血を熱くしながら今夜にも、それを実行したいくらいだった。
「もちろん。ところで」
「なに?」
章太郎は、数メートル先で、こちらに背を向けて立っている広太の方を見てから、
「君は、あの坂巻君をどう思った?」
「とってもいいじゃァありませんか」
「これは、僕の思いつきなんだけど、娘をもらってくれないだろうか」
「賛成だわ、あたし。だけど、お嬢さんに、好きな人は、まだありませんの?」
「あったらしいのだが、最近、失恋しているんだよ」
「まァ失恋?」
郡司道子は、眉を寄せた。
「くわしいことは、本人も、まだいいたがらないのだが、失恋したことには間違いがないんだ」
「可哀そうに」
「そういう失恋したばかりの娘を坂巻君にどうかと思うのは、間違っているかもわからないのだが」
「いいえ。却って、そういうことが必要であるかも……」
「とにかく、君は、坂巻君については、太鼓判を押してくれるんだね」
「押します。それに、坂巻さんて、とっても矢沢さんが好きらしいわ」
「僕だって、あの青年が好きなんだ。彼になら娘をやってもいい、と思っている」
「あたし、一度、お嬢さんにお目にかかりたいわ」
「うん」
「無理にとは、いいませんけど」
「しぜんに、そういうチャンスが出来てくると思っているんだよ」
「そうね」
「それに、娘を結婚させるとなったら、僕としては、結局、君にいろいろの相談にのってもらわなければ、と思っているんだよ」
「あたしに出来ることなら、どんなことでもいたしましてよ」
「頼む」
「ねえ、いつまでもあたしをたよりにしていてね」
「僕はそのつもりでいるんだから」
「うれしい」
章太郎は、二人の方へ戻った。
「どうも、失敬」
「いいんですよ」
勝畑がいった。
「今も、この勝畑さんと話していたんですが、本当にいいマダムですね」
広太がいった。
「ところが、あのマダムも、君のことを近ごろまれに見るいい青年だ、といっていたよ」
「すこし買いかぶられたらしいな」
「そんなことはないだろう。僕だって、そう思っているんだから」
「僕も今夜は、坂巻君とはじめてですが、今の矢沢さんの説に賛成しますね」
「あんまりほめないで下さい。でないと、窮屈で、手も足も出なくなります」
「でもなかろう?」
「本来の私って、負けず嫌いで、時にはケンカもするし、適当に不良でもあり、決して模範青年じゃァないんです」
「それでいいんだ。模範青年なんて、つまらん」
「それを聞いて、安心しました」
三人は、章太郎を真ん中にして、渋谷のネオン街を歩いていた。九時を過ぎたばかりなので、人の出盛りである。
「私は、ちょっと用があるので、ここで失礼します。いずれ、もっとゆっくり飲みたいと思っています」
勝畑がいった。
「井筒君のこと、お願いしますよ」
章太郎がいった。
「承知しました」
勝畑の去って行くうしろ姿を見送りながら広太が、
「矢沢さん、これから私につき合って下さいませんか」
「そうだな」
「どうせ、私たちの行くところですから、あんまり上品じゃァありませんが」
「僕も、ぜひそういう店へ行きたいのだが、別の日にしてもらえないか」
「何か、今夜は、ご用がおありなんですか」
「さっき、あのマダムから子供たちへのお菓子をもらった。早く帰って、食べさせてやりたいのだ」
「そういうことなら決して無理にとはいいません」
「そのかわり、もしよかったら、これからいっしょに僕の家へ寄らないか」
「ご迷惑でしょう?」
「そんなことはない。家にだって、ビールはある。それに……」
「それに、とおっしゃいますと?」
「停年間近い男の、細君がいなくて、お手伝と子供二人とで暮している生活とはどんなものか、ちょっと見ておくのも何かの参考になるかもわからんよ」
広太は、しばらく考えてから、
「では、ほんのしばらくお邪魔しましょうか」
「ああ、そうしてくれたまえ。めったに客のない家だし、子供たちも喜ぶだろう」
やがて、二人は、タクシーに乗った。渋谷から恵比寿なのだから、目と鼻の距離なのである。が、章太郎としては、こうなると、帰りを急ぐのであった。
(のぼるは、きちんとした身なりをしていてくれるといいのだが)
そのためには、あらかじめ、広太を連れて戻ることを電話ぐらいしておくべきであったと、章太郎は、後悔していた。
広太は、さっき、「ぐんじ」でもらった小箱を開いた。ゴルフのボールの形をした寒暖計であった。
「これはいいものをもらいましたね」
章太郎も、自分の小箱を開いて、
「これなら、いつも机の上においておける」
そうすれば、いつだって、郡司道子を思い出していられるのである。今の章太郎にとって、以前とは比較にならぬくらい郡司道子がたのもしい女であり、たよりになる女になっていた。
「あのマダム、なかなかセンスがあるんですね」
「らしい」
「そして、矢沢さん思いですね」
「そうかね」
「ねえ、矢沢さん」
「何んだね」
「矢沢さんには奥さんがないんですし、いっそ、あのマダムと結婚なさったらいかがですか」
「ム、無茶をいうなよ」
章太郎は、自分でもみっともないくらい狼狽しながら、
「第一、そんなこと、かりにあの女が承諾しても、子供たちがうんというはずがないからね」
「そうでしょうか」
「それはもうそうに決っている」
章太郎は、断定するようにいった。
「しかし、私は、かならずしもそうとは思いませんけどね」
「どういう意味だ」
広太は、食い下がるようにいった。
「矢沢さんのお子さんの年は?」
「娘が二十二歳で、息子の方は、高校三年生なのだ」
「父親の再婚については、いちばん難しい年ごろかもわかりませんね」
「そうなんだよ、坂巻君」
章太郎は、あきらめたようにいった。
「でも、矢沢さん。いきなり、この女の人と結婚するからなんていったら、そりゃァたいへんでしょうが、そうでなく、その前に、うまく事前運動をしておいたらいいんじゃァありませんでしょうか」
「事前運動?」
「ときどき、子供さんたちに、何気なくあの郡司道子さんをお見せしておくんですよ」
「…………」
「そして、そういうことから、自分の父親には、どうしてもこの人が必要らしいと思わせるようにするんです」
「…………」
「悪くない案だ、と思うんですが」
「じつをいうと……」
「と、おっしゃると?」
「先に、あの女からも、そういうような意味のことをいわれたことがあるんだよ」
章太郎は、てれたようにいった。
「素晴らしいじゃァありませんか」
広太は、声を弾ませながらいった。
「だが、僕は、問題にならぬようにいっておいたのだ」
「しかし、矢沢さんには、子供さんたちさえ了解してくれたら、結婚の意志は、おありなんでしょう?」
「ない、といったら嘘になるだろうな」
「だったら、やってみましょうよ」
「やる?」
「さっきいった事前運動を、ですよ」
「僕は、子供たちにとって、あくまでいい父親でありたいと思っているんだから」
「再婚なさったら、もっといい父親になれるかもわかりませんよ」
「…………」
「またまた、出しゃばるようですが、及ばずながら私に、その片棒をかつがせて下さいませんか」
「君は、何をしようというのだ」
「それとなく、子供さんたちの意中をたしかめたり、あるいは、郡司さんと二人で、お宅へ行き、子供さんたちに郡司さんをお見せするのです」
章太郎は、返辞をしなかった。といって、広太の言葉に反対なのでもなかった。有りがたいことだ、と思っていた。が、それよりも、そういうことから、広太とのぼるが結ばれるようになってくれないものだろうか、と考えていたのである。今や、そのことの方が、父親として、より重大であるとも。
「そこで」
自動車は、きしみながら停った。
二人は、自動車から降りると、章太郎の家のある横丁へ入って行った。章太郎は、いまだにここへくるたびに、もしかしたらのぼるが、いつかの夜のように、家の前でうなだれたりしているのではないかと、思わせられるのであった。あのときののぼるの姿は、当分の間、忘れることが出来ないだろう。
そして、今も、会社のカギのかかる曳出しの中にしまってある、
(お父さま。
のぼるは、失恋してしまったのです……)
と、書いてあるのぼるの手紙のこともまた……。
今は、思い出しても、胸が痛くなるだけなのだ。早く、忘れられるようになりたかった。忘れられる、ということは、のぼるが幸せになったことを意味するであろうから。いや、忘れられなくてもいいのである。思い出しても、胸に痛みを感じないですむようにさえなれば、これまた、のぼるが幸せになったことを意味するであろうから。
章太郎は、一日も早く、そういう日が来てほしいのであった。
章太郎が、家の近くまで来て、先ず二階ののぼるの部屋の窓を見るようになったのも、あの夜からのクセであった。明るい灯がついていると、何んとなく安心するのである。
今夜は、その灯がついていた。
「あの二階が、娘の部屋なのだ」
章太郎がいった。
「そうですか」
広太は、その二階の窓の方を見ながら、
(どんな娘だろうか)
と、思っていたのである。
広太が、章太郎の家へくる気になった理由の一つに、年ごろの娘がいる、ということがなかったとはいい切れないのである。ましてや、課長から冗談にもしろ、もらって上げたら、といわれているのであった。
そういう問題は別としても、広太は、章太郎と郡司道子を結婚させるために、章太郎の娘と親しくなっておく必要があるのだ、と思っていた。
章太郎は、呼リンを押した。
やがて、玄関の戸が開き、門に近づいてくる足音が聞えて来た。
「お父さん?」
のぼるの声であった。
広太は、その声から、素直で、父親思いの娘を頭に描いた。
「そうだよ」
「お帰りなさい」
「お客さまをお連れしたから」
「あら」
のぼるは、ちょっととまどったようであった。あるいは、頭髪の格好ぐらい直しているのであったろうか。
門が開かれた。
「いらっしゃいませ」
のぼるがいった。
広太は、そこに、父親似には違いないが、それ以上に母親似ででもあるのか、想像していた以上に美しい娘の姿を見た。美しいというよりも、清潔で、可愛いといった方が当っていたかもわからない。
「夜分に、お邪魔をいたします」
広太がいった。
「いいえ。ようこそ、いらっして下さいました」
のぼるは、すこしあかくなりながらいった。訪問客が、若い男性であったので、思いがけなかったのである。父親が、こういう若い男性を連れて帰るなんて、かつてなかったことなのだ。
章太郎は、のぼるの服装もきちんとしているし、お化粧も崩れていないのをたしかめて、安心した。
(もし、将来二人が結婚してくれることになったら、今夜の出会いは、運命的ということになるのだ)
章太郎は、閃めくようにそんなことを思いながら、
「のぼる。会社の坂巻広太君だよ」
「どうか、よろしく」
「のぼるです。父が、いつもお世話になっております」
「とんでもない。こちらこそ、ですよ。今夜だって、ご馳走になったんですから、それで、すこし酔っております」
「父も、お酒が好きですから」
のぼるは、章太郎をちらっと見て、微笑んだ。きれいな白い歯並が見えた。
「そのかわり、のぼるの好きなお菓子を持って来てやったよ」
「うれしいわ」
「章一は?」
「お勉強です」
「そうか、そうか。さァ、坂巻君、入ってくれたまえ」
「はい」
「のぼる。坂巻君を応接室へご案内して」
「どうぞ」
章太郎は、広太をのぼるにまかせて、自分は、着換えるために奥へ入った。
「お帰りなさい」
章一が出て来ていった。
「ああ。お菓子を買って来てやったから」
「サンキュウ」
「それから、お父さんの会社の坂巻君をお連れして来たから、あとでちょっとご挨拶に出るんだぞ」
「面倒臭いんだなァ」
「そういうことをいうもんではない」
章太郎は、すこし口調を強くしていった。
「はいはい。わかりましたよ」
章一が引っこむと、お手伝の民子が出て来て、
「お客様ですか」
「そうなんだ。ビールがあったろう?」
「ございます」
「出してもらいたいのだ。それに、チーズとか、カンヅメのイワシでもあったら」
「よろしゅうございます。お客様は、お年寄ですか」
「いや、三十前のピチピチした青年だよ」
「すると?」
「何んのことですか」
「おムコさんの候補なんですか」
民子は、声を低くしていった。
「そこまでは、考えていないのだが」
「でも、考えたっていいんでしょう?」
「そりゃァ考えて考えられないこともないだろうな」
「それでしたら、私に、ぜひ首実検をさせて下さい」
「首実検は、大ゲサだな」
章太郎は、苦笑した。しかし、この民子の娘思いは、有りがたいのであった。今は、この家になくてはならぬ存在になっていた。
「いいえ、こういうことは、いくら大ゲサにしても、過ぎるということがありません」
「わかったよ。あとで、ビールを持って、挨拶に出てくれ」
「そして、すこしぐらい質問しても、ようございますか」
「質問?」
「たとえば、月給とか」
「そんなことは、質問しなくても会社で調べればわかる」
「家柄とか……」
「それは、わしも知らんな」
「恋人のあるなしは?」
「ないはずなのだ。もっとも、以前に失恋しているそうだが」
「まァ、前科があるんですか」
民子は、顔をしかめた。
「しかし、過去のことは、仕方がないではないか」
「でも、過去にもいろいろありますからね。問題は、その内容でございます」
章太郎は、この民子に、のぼるの失恋のことをいったら、どういう顔をするだろうか、と思った。あるいは、相手に談判に行くことだって、考えられるのである。
「そうだよ。しかしね、今夜は、そういうことには、一切タッチしないで、ただ顔を見る程度にしておいてもらいたいのだ。第一、のぼるにそういう気が起るかどうかも、わかっていないのだし」
「ああ、それもそうでしたね」
民子は、あっさりいって、台所へ引上げて行った。
のぼるが戻ってきて、
「お通ししておきました」
「ちょっと、時間がかかったな」
「お父さんのことをおっしゃったんです」
「どういうふうに?」
「あのお方、お父さんに対して、好意を持ってらっしゃいますのね」
「そうかね」
「とっても、いい課長さんだ、と」
「その通りなんだから」
「お父さんは、今日、停年後の就職運動におまわりになったの?」
「そんなことまで、あの男、いったのか」
「あたしが、いい課長さんだとおっしゃって下さったので、でも、あとしばらくで停年になります、といったからですの」
「就職運動にまわったのは、本当なのだ」
「いかがでした?」
のぼるは、じいっと、父親を見た。章太郎は、その視線を避けながら、
「たいへんだが、何んとかなるだろう。のぼるは、そんなことに気を遣う必要がないのだよ。それよりも、のぼる自身の問題で、一日も早く元気になってもらいたいのだ」
坂巻広太は、応接室で煙草を吹かしながら章太郎の現われるのを待っていた。
それにしても、広太にとって、さっきちょっと話しただけだが、のぼるの印象は、悪くなかったのである。悪くなかったというよりも、想っていたよりも、ずっとよかったような気がしていた。
二十二歳だというが、これからいよいよ娘ざかりに入ろうとしているところのようだ。先のたのしみを感じさせられる娘であった。軽薄なところがなかった。しつけというものを、身につけていたようだ。母親が亡いというのに、ああいうふうにしつけを身につけているのは、結局、父親の教育のせいであろう。しかも、その娘は、相当な父親思いらしいのである。広太は、そのことを章太郎のために喜んでやりたかった。
(しかし、どことなく淋しそうなところもあったのでは……)
あるいは、これは広太の気のせいだったろうか。しかし、この家には、いちばんかんじんな母親がいないのだから、そういう淋しさを身辺にただよわせていたとしてもあたりまえなのである。
ふつうなら、父親が帰ってくると、母親が出迎え、さらに、にぎやかに子供たちも、ということになるのだ。広太の郷里の家ではそうであった。それを、のぼるが、その両方を兼ねているのである。これでは、迎えられる方にも、迎える方にも、物足りぬところがあるに違いなかろう。その物足りなさが、この家のスキ間風になっているようだった。
広太は、さっき、章太郎がいった、
(停年に間近い男の、細君がいなくて、お手伝と子供二人とで暮している生活とはどんなものか、ちょっと見ておくのも、何かの参考になるかもわからんよ)
と、いう言葉を、あらためて思い出していた。広太は、すでにして、それを見たような気がしていた。見たというよりも、感じたといった方が当っていたかもわからない。
もっとも、広太は、息子の方はまだ見ていないのだ。お手伝のことは、問題にする必要がなかろう。
(やっぱり、矢沢さんは、あのマダムと結婚した方がいいのだな)
しかし、広太は、のぼるを見て、その説得役を引受けたことについて、後悔したくなっていた。あんな父親思いの娘に、父親の再婚の話を持出したら、とたんに不機嫌になり、以後口をきいてくれなくなりそうである。だけでなしに、父親に、そんな相手があったのかと、父親をまで、冷たい目でながめるようにならんとも限らない。それでは、困るのである。
しかし、だからといって、広太は、章太郎の気持がわかっているだけに、このままで引込みたくなかった。
(そうだ、名案があるぞ)
すなわち、自分がのぼると結婚して、しかる後に、のぼるの良人として、章太郎の再婚をすすめるのである。それならば、その発言力は強力であり、われながら名案のような気がした。
(しかし……)
広太は、すぐ苦笑してしまった。自分の軽率さに気がついたのである。たった一目で、結婚しようと思ったり、それよりも、のぼるに恋人があるかもわからないのだ。あれほどの娘になら、きっと、いい寄っている男の一人や、二人は、あるだろう。
もちろん、広太は、しんけんにのぼるとの結婚を考えたわけではない。とっさの思いつきなのだ。それも、章太郎をあの郡司道子と結婚させるための方便に。
しかし、とっさの思いつきであったとしても、そこに広太の、のぼるへの気持はいくらかは現われていた、と考えてもよさそうであった。
ノックの音が聞えてから、章太郎が入って来た。
「どうも、長い間、放っておいて」
「いや、いいんですよ」
そういいながら、広太は、章太郎の和服姿をもの珍しそうに見ていた。課長さんでなしに、のぼるのお父さんになっていた。
「どうしたんだね」
「着物を着ていられる矢沢さんをはじめて見ましたから」
「おじいさんくさくなって見えるか」
「そうでもありません。着物もいいもんだな、と思っているんです」
「君は、アパートでは、着物?」
「私は、着物なんか、一枚も持っていませんよ。ただし、寝巻きは、別ですが」
「着物を着てみたいと思わないか」
「着物なんか、面倒臭くて」
「僕なんかと、年が違う証拠だな。こちらは、家へ帰っても、着物に着かえないと、どうにも落ちつかないんだよ。もっとも、息子なんか、全然着物を着たがらないね」
「お嬢さんは?」
「あれも、洋服だ。が、よそ行きの着物を何枚か持っているんだ。しかし、そういうことになると、父親って、苦手でね」
「わかります」
「幸いにして、七年も続いているお手伝がいてくれるんだ。これは、たいへんな娘思いで、いろいろとそういう点にまで、気を遣ってくれているのでたすかっているよ」
「忠義もんなんですね」
「そう。今や、わが家の準家族のようなもんなんだ」
そこへ、忠義もんであり、準家族である民子が入って来た。お盆の上に、ビールやチーズの類をのせていた。
「いらっしゃいませ」
民子は、ニコリともしないでいった。顔はまずいが、まるまると肥っているのである。
広太は、立上がって、
「夜分にお邪魔をいたしております」
「いいえ」
民子は、あっさりといって、テーブルの上に盆の上のものをおいた。
「坂巻君、お手伝の民子さんだよ」
「坂巻広太です。どうかよろしく。今、あなたのことを、この家の忠義もんであり、準家族だと聞かされたばかりなんです」
「あら」
とたんに、民子の固かった表情が崩れた。
広太としては、お世辞をいったつもりはなかった。多少酔っているせいもあって、章太郎から聞いた通りを、ついそのまましゃべったのである。が、そのことは、民子を喜ばせたようであった。
(きっと、いい人に違いない)
民子は、ビールのセンを抜くと、
「さァ、どうぞ」
と、ニコニコしながらいった。
「頂きます」
「どうか、今夜は、ごゆっくりしていって下さい」
「そうもしていられません。しかし、これからは、ちょいちょい、来るつもりですから、よろしくお願いいたしますよ」
「よろしゅうございますとも」
民子は、章太郎にもお酌をして、
「旦那さま。しばらくここにいて、サービスをさせて頂いてもかまわないでしょう?」
「いいだろう」
「では、お嬢さまがお見えになるまで」
民子は、空いたイスに、大きなおしりをのせて、
「坂巻さん、ぐっと飲んで下さいよ」
「そんなには……」
「お酒お嫌いなんですか」
「好きですよ」
「だったら……。まだ、何本も冷蔵庫の中にありますから」
「すみません」
「坂巻さん、ご郷里は?」
「福岡です」
「すると、お家族は、みんな、福岡に?」
「両親と、妹と弟が一人ずつ、福岡にいるんです」
「お父さまは、何か、ご商売を?」
「いや、サラリーマンなんです。あと三年で停年になるので、今や、この矢沢さんのことが、他人事に思われなくなっているんです」
「そうですとも。うちの旦那さまは、あと半年だそうですから、大いに同情して上げて下さい」
「同情だなんて……。しかし、あなたは、やっぱり、この家の忠義もんですね」
「これでも、そのつもりでいるんですよ」
民子は、ちらっと章太郎を見た。
「全く、その通りだよ。もし、この家に民子さんがいなかったらと思うと、僕は、ときどき肌寒くなることがあるよ」
「でも、あたしは、当分の間、やめませんからね」
「それを聞いて、僕は、安心したよ」
広太は、
「私も……」
と、いいながら、
(矢沢さんと郡司道子を結婚させるためには、この女にもうんといわせる必要がありそうだな)
と、思っていた。
民子は、ただのお手伝とは違うのだ。準家族なのだ。一応、その意向は、無視出来ないだろう。無視して出来ないことはないが、それよりも味方にしておいた方が、何かにつけて便利であり、たすかりそうである。
「あなたは、ビールをお飲みにならないんですか」
広太は、民子にいった。
「これでも、すこしぐらいなら」
「だったら、私のグラスを受けて下さいませんか」
広太は、民子にグラスを差出した。
「でも、そういうことは、旦那さまのお許しがないと」
民子は、章太郎の方を見ていった。
「一杯ぐらいならいいだろう」
章太郎がいった。
「そら、お許しが出ましたよ」
広太がいうと、民子は、
「では、お言葉に甘えまして」
と、嬉しそうに、広太のグラスを受けた。
広太は、お酌をしてやった。民子は、その三分の一ほどをうまそうに飲んで、
「ところで、さっきの話に戻りますけど」
「さっきの話?」
「あなたの家庭の事情のことですよ」
「何んだか、身上調査をされてるみたいだな」
「私、人のそういう話を聞くの、大好きなんですよ」
いいながら、民子は、残りの半分ほどを飲んで、
「でも、嫌だったら、よしますよ」
「いや、どうか聞いておいて下さい。私は、今後あなたと仲良しになっておいた方が、この家に出入りしやすいようだし、そのためには、私のこと、何んでも知っておいてもらった方が気楽です」
「そうですとも」
「ついでですから、月給ももうし上げましょうか」
「いえ、その方でしたら、旦那さまに聞けばわかります」
「私からいっておきましょう。年は、二十八歳で、二万五千円です」
「二万五千円なら、そろそろ結婚していいですね」
「自分では、そのつもりでいるんですが」
「相手は、もうおありなんですか」
「目下のところ、ありません」
「すると、過去に……、ということになりそうですが、それは聞かないことにいたしておきましょうね」
「有りがたいですよ、その方が。あの……」
「何んですの?」
「ビールが飲みたくなったのです。そのグラス、空けて下さいませんか」
「あらあら。これは、うっかりしておりましたわ」
民子は、残りのビールを飲んで、グラスを広太に返し、お酌をした。
「さらに、質問を続けても、よろしゅうございますか」
「どうぞ」
章太郎が、横から、
「民子さん、いい加減にしておいたら?」
と、たしなめるようにいった。
しかし、章太郎自身、広太のことについて、もっともっと知っておきたいと思っているのだった。のぼるとの結婚の可能性のある男なのだと思えば、あくまで事を慎重に運んでおきたいのである。
「あなた、かまいませんわね」
民子は、広太にいった。
「ええ、かまいません。こうなったら、爼上の鯉のつもりになりますから」
「男らしいことをおっしゃいますのね」
「有りがとうございます」
広太は、民子が、自分について、こんなにも関心を持つのは、あるいは、章太郎の意向を受けてなのではあるまいか、と思ったほどであった。ということは、章太郎に、のぼると自分を結婚させる意志があるから、となりそうである。しかし、広太は、そこまで考えるのは、考え過ぎになりそうだと反省した。そういうふうに考えていたのでは、とかく間違いのもとになる。この際は、民子が自分でいった通り、そういうことが好きなのであろうと決めた。
広太としては、のぼるとのことは、あくまで自主的に考えたくなっていた。何んといっても、自分の一生の運命を左右する結婚のことなのである。軽はずみなことをして、後々まで、悔いを残すような真似はしたくなかった。
ところで、いちばんかんじんなのぼるは、一向に姿を現わさないのである。そのことが、広太にとって、物足りなかった。
「坂巻さんのご結婚については、ご両親は、どういうふうにお考えですか」
「いつか、郷里の娘さんをもらえといわれたんですが、そのとき、私は、自分の結婚の相手は、自分で見つけてくるから、といっておきました」
「それで、ご両親は?」
「渋い顔をしていました。ですが、そうなら仕方がないが、自分たちとしては、あくまでお前を信頼しているから、と」
「そんなふうにいわれると、あんまり妙な女とも結婚出来ませんわね」
「そうなんですよ」
「最後に、もう一つ」
「どうぞ、一つでも、二つでも」
「結婚なさったら、ご両親と同居なさいますか」
「恐らく、そうはならないでしょう。何故なら、両親には、東京へ出てくる気がないようですし、私だって、今の会社を辞めて、郷里へ帰る気がありませんから」
「それを聞いて、安心いたしました」
「安心?」
「いいえ、こっちのことですよ」
民子は、立上がると、
「では、私、そろそろ退散いたします」
「もっと、いらっしたら?」
「あとは、お嬢さまと交替しましょう。それに、ビールもなくなりましたし」
「そうですか」
「いろいろとよけいなことをお聞きいたしまして、お気を悪くなさりませんでした?」
「ちっとも。それどころか、私は、あれだけしゃべった以上、今後、大威張りでこの家へ出入り出来そうな気がして来ているんですよ」
「どうぞどうぞ。ねえ、旦那さま」
「そうだとも、坂巻君。いつでも気が向いたらやって来てくれたまえ」
「有りがとうございます」
民子は、ビールの空ビンを持って、上機嫌に応接室から出て行った。
「いろいろと失礼なことを聞いたかも知れないが、どうか気を悪くしないでくれたまえ」
いいながら、しかし、章太郎は、民子に感謝したくなっているのであった。民子は、章太郎の口からは、軽々しく聞けないようなことまで、ズバリズバリと聞いてくれたのである。ために、大いに参考になった。だけでなしに、坂巻広太という男を、ますますのぼるの結婚の相手として適当なのではなかろうか、と思いはじめていた。
「そんなことはありませんよ。私は、ああ率直に身上調査をされて、却って気持がいいくらいでした」
広太は、笑顔でいって、
「しかし、近ごろ希れに見るようないいお手伝さんですね」
「たしかに。だが、月に一度だけ、わが家でいう民子さんの低気圧≠ェ起るんだよ」
「それは、どういうことですか」
「荒れるんだ。どしんどしんとあの大きな身体で、家の中を歩きまわり、呼んでも返辞をしなかったり、瀬戸物の一枚や二枚は、景気よく割るね」
「なるほど、そういう意味だったんですか」
「放っておけば、一日か二日でおさまるのだが」
「もし、それでおさまらないようだったら、私を呼んで下さい」
「君を?」
「私が、その低気圧のお相手をします」
「いやいや。君は、そういうときの女の恐さをよく知らないから、かんたんにいうんだ。男という者は、だいたいにおいて、そういうときには、君子危きに近寄らずで逃げておく方が無難としたものだ」
「では、私も、今のお言葉にしたがうことにします」
そのとき、トビラにノックの音が聞えた。
「お入り」
章太郎がいった。のぼるに違いないのだと、広太は、ちょっと緊張した。
のぼるは、おボンの上に、新しいビール瓶を二本のせて、入って来た。そして、その洋服は、さっきのと違っているように、広太に思われた。
「お待たせいたしました」
のぼるは、広太の方を見ないようにしていった。
そののぼるは、さっき、台所で、
「お嬢さん、坂巻さんて、なかなかいい青年ですよ」
と、民子にいわれて来たのであった。
「そうね……」
のぼるは、軽く受流したのだが、民子は、さらに、
「私は、かねてからああいう青年を、お嬢さんのおムコさんに、と思っていたんですよ」
「まァ、嫌だ。あたしは、当分の間、結婚なんかしないことよ」
「何故でございますか」
「何故でもよ!」
のぼるは、憤ったようにいった。
「でも、お父さんだって、あるいは、その気でお連れになったのかもわかりませんよ」
「そんなこと、絶対にないはずよ」
「私には、そのように思われませんけど」
民子は、自分の主張をあらためなかった。自信ありげないい方でもあった。しかし、のぼるは、頭を横に振って、もう相手にならない意志を示した。
のぼるには、自分の失恋を知っている父親が、そんな残酷な真似をしようとは、どうしても思われないのだった。
「とにかく、お嬢さん。よく坂巻さんを観察していらっしゃいね」
のぼるは、民子の言葉を聞き流して来たのだが、しかし、民子のいったことにこだわりが残り、さっきのように無心には、広太の顔を見られないような気がしていた。
「のぼる。坂巻君に、お酌をして上げなさい」
章太郎がいった。
「どうぞ」
のぼるは、ビール瓶を、広太に向けた。
「やッ、恐縮です」
広太の差出すグラスに、のぼるは、無器用にお酌をした。ときどき、父のためにお酌をしてやっているくらいで、無器用なのは当然なのである。が、広太には、その無器用さが、いかにもしつけよく育てられた娘のように、好もしく感じられたのであった。
「お父さんにも」
「はい」
「のぼる。しばらく、ここで話していかないか」
「はい」
のぼるは腰を下した。
「章一は?」
「今、お菓子をいただいております。それが終ったら、ご挨拶にくるといっておりました」
「そうかそうか」
広太は、親子の話を聞きながら、
(もし、そのお菓子が、父親に結婚の意志のある女からもらって来たのだということがわかったら、果して素直に食べるだろうか)
と、思っていた。
「お嬢さんは、ビールをお飲みにならないんですか」
「飲みません」
「そうでしょうね。しかし、私の会社の女たちは、飲んでますよ」
「そうですか」
「女たちだけで、ビヤホールに行って来たなんて、会社で話しております」
「君、それは、ほんとかね」
「ほんとですよ」
「時代が変ったのだね」
「もっとも、女たちだけで、バーへ行ったなんて、まだ、聞いておりませんが」
「のぼるの会社の女たちでも、ビヤホールへ行ったりしているかね」
「あたしは、聞いておりませんけど」
「すると、のぼるの会社よりも、わしの会社の方が、ガラが悪いのかな。いや、進歩的なのかな」
「矢沢さん、進歩的ということにしておきましょうよ」
「そうだな」
「お嬢さんは、どこへお勤めですか」
「虎の門の赤倉商事です」
「赤倉商事だったんですか」
広太は、おどろいたようにいった。
「君は、赤倉商事を知っていたのか」
章太郎がいった。
「そこに、私のクラス・メートが勤めているんですよ」
「何んだ、そうだったのか」
のぼるは、不安そうに、広太を見た。広太は、見返して、
「営業部に青島謙吾というのがいるでしょう?」
「はい」
しかし、その瞬間、のぼるの顔色が、さっと青ざめたようであった。それが、広太にも感じられて、
(おや?)
と、思ったくらいだった。
章太郎にも、のぼるの一瞬の変化が感じられて、なにかどきんとさせられた。
「元気でいますか、彼」
広太がいった。
「のようですわ」
のぼるが答えた。そのころには、のぼるの表情は、普通になっていた。
「では、ついでがあったら、よろしくいっておいて下さい」
「はい」
「彼は、私なんかと違って、秀才だったんです」
「…………」
「ですから、どうも、肌が合わなくて、あんまり親しくなかったんですよ」
「…………」
「しかし、会社では、きっと、出世の早い方でしょうね。そういうタイプでしたから」
「のぼる」
「はい」
「その青島謙吾とかいう人のことを、よく知っているのかね」
「いいえ」
のぼるは、父親の目を避けるようにしていった。そのことが、いっそう章太郎の胸を不安にした。
(もしかしたら、のぼるが失恋したのは、その青島謙吾なのではあるまいか)
かりに、そうだとしたら、そのクラス・メートである坂巻広太とのぼるの結婚は、考えられないことになる。かりに、考えられるにしても、そういうことがわかったら、広太の方で逃げるに違いなかろう。
広太とのぼるの結婚を考えて、せっかく明るくなりかけていた章太郎の気持が、にわかに暗くなって来た。
(どうか、のぼるの失恋の相手が、青島謙吾でありませんように)
章太郎は、そう神に祈りたいくらいであった。
広太は、手酌でビールを飲んだ。のぼるは、黙ってそれを見ているだけであった。
トビラが開いて、
「今日は」
と、いいながら章一が入ってきた。
「やァ、今日は」
広太が答えた。
それっきり、話題は、青島謙吾からはなれて、章一の来年の大学受験のことに移っていった。
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趣味と実益
坂巻広太は、国電の中野駅で下車した。これから訪ねる西田尚次の家のだいたいの見当は、会社で聞いて来ている。広太は、南口のにぎやかな商店街を抜けて、住宅街に入って行った。
すなわち、今日は、社内報にのせる「あの人のその後」のための、広太の初仕事でもあったのである。
西田尚次は、十年前に会社を停年退職したのだから、今六十五歳のはずなのだ。辞めるときの地位は、総務課長であった。
第一回目に西田を選んだのは、広太の課長である後藤真人であった。
「僕の前々課長なんだよ。もちろん、君なんか入社する前に辞められたんだから、その名も知らんだろうが」
後藤課長がいった。
「いつか、古い書類を調べているとき、総務課長の下に、西田という判がおしてありましたから、昔そういう課長がいられたんだな、と思ったことがあります」
「そうか」
「ダ円形の中に西田とほってある大きな判のようでしたが」
「そうなんだ。僕も、思い出した。あれは、水晶の判であったんだ」
そういうと、後藤課長は、自分がたった今、決裁の判を押した書類を手に取ってながめ、
「サラリーマンの仕事なんて、後に何んにも残らんと思っていたが、この書類が残っている限り、この判も残るわけなんだな」
「そうですよ」
「そして、僕が辞めたあと、君のような若い男が古い書類を見て、ああ昔後藤という課長がいたんだな、と思ってくれるかもわからない」
「あり得ることですよ」
「そのころの僕は、果して、どういう生活を送っているだろうか」
「…………」
「すでに、死んでしまっているかもわからないし」
「課長、あんまり心細いことをいわないで下さいよ」
「何、こういうことのいえるのも、現に自分が元気で働いていられるからさ」
「そんならわかりますが」
「しかし、平穏無事、そして、生きガイのある余生を送っていたいもんだな」
後藤課長は、実感のこもったいい方をした。広太は、章太郎を思い出した。後藤課長が、こういういい方をするようになったのも、広太が章太郎のことを伝えたからであろう。そして、章太郎もまた、生きガイのある余生を送りたがっているに違いないのである。
しかし、五十五歳で停年では、生きガイのある余生なんて、ゼイタクなのである。まだまだ、自分にムチ打って、働き続けなければならないのだ。
(矢沢さんの就職運動は、その後、どうなっているだろうか)
広太が、章太郎の家を訪ねてから一週間ほどたっていた。もし、その後、うまくいったのだったら、当然そのことを知らせてくれるだろうが、そういうことはなかった。
「西田さんという人は、課長としても評判のよかった人だったな」
後藤課長がいった。
「そうですか」
「停年退職後、どこかに勤めていられたはずだが、もう十年もたっている。恐らく、勤めはよしておられるだろう」
「と、思いますね」
「君が会って、その後の心境やなんかを聞いて来てもらいたいのだ」
「かしこまりました」
「第一回目なんだし、あんまり悲惨な話はのせたくないのだ」
「私も」
「おいおい、困った話や、会社としても反省すべき話なんかものせるとして」
「はい」
「僕としては、出来たら、われわれ現職のサラリーマンの将来に、勇気と希望のわくような話をのせていきたいんだよ」
「…………」
「といって、決して、暗い現実に目をつぶろうというのではないが」
「わかりました。とにかく、行って参ります」
「頼む。古い社報の何冊かと、会社からとして、千円程度のお菓子でも持って行ってくれないか」
「かしこまりました」
だから広太は、千円のカステラと社報の過去半年分をいれたフロ敷包を下げているのだった。
広太が、それを持って会社を出ようとするとき、玄関で、小高秀子に会った。
「その後、元気かね」
広太は、声をかけた。
「元気なもんですか」
秀子は、憤ったようにいって、
「あんた、先日、あたしがいったこと、矢沢さんにいってくれた?」
「ああ、いったよ」
秀子は、目をキラリとさせて、
「そうしたら?」
「困っていられたな」
「ウソでしょう? もし本当にあたしに対して悪いことをしたと思っているんなら、一言ぐらいあやまるべきだわ」
「そうだろうか」
「そうに決っているわ。それなのに、まるで知らん顔をして、あたし、シャクにさわってならないのよ」
「僕は、その原因について、知っているんだよ」
「矢沢さんに聞いたんでしょう?」
「そう」
「あの人ったら、そういうおしゃべりなんだから」
「しかし、君の言葉を伝えたら、当然そうなるよ」
「…………」
「どうだね、いやでなかったら、僕と晩ごはんでも食べないか」
「あなたと?」
「そうさ」
「おごって下さるの?」
「僕から誘ったんだから、もちろんおごらせてもらうよ」
「いつ?」
「いつでもいいよ。そうだ、なるべく早い方がいいし、君さえ都合がよかったら、今夜だっていいよ」
「今夜……」
さっき、秀子は、井筒に電話をしたのである。今夜、会ってもらいたい、といったのだ。しかし、井筒からは、
「悪いけど、今夜は、都合が悪いんでね」
と、あっさり断られてしまったのである。
「では、明日なら?」
秀子は、すがりつくようにいった。が、井筒は、
「明日も、明後日も」
と、いって電話を切ってしまった。
秀子は、それだって矢沢課長のせいだ、と信じていた。もし、矢沢課長が出しゃばった真似さえしてくれなかったら、と思っていた。さらに、秀子は、井筒が今でも、自分を誰よりも愛してくれているに違いないのだ、と信じているのだった。
(あんな課長なんか、死んでしまえばいいんだわ)
そうも、思った。
しかし、死ななくても、あと五カ月ぐらいで停年退職になるのである。いい気味なのだ。そして、矢沢課長さえ辞めてしまったら、井筒の方でも安心して、ふたたび、ホテルへ連れて行ってくれたりするだろう。
(あと五カ月の辛抱なんだわ)
しかし、その五カ月の間に、井筒の気持が変ったり、別の恋人が出来たりする場合を考えると、秀子は、じいっとしていられなくなるのだった。だからこそ、毎日のように、電話をかけたりしているのだが、そのつど断られると、ますます、井筒へのみれんがつのってくるのである。
どうせ、坂巻広太が、その間の事情を知っているのなら、思い切り、矢沢課長への憤懣をたたきつけてやりたかった。そして、そのことが、そのまま矢沢課長へ伝えられてもかまわない、と思っていた。いや、その方がいいのである。さすがに、自分で直接、矢沢課長に文句をいう勇気はないが、間接になら、いくらでもいえそうな気がしていた。
「あたし、今夜だっていいわ」
秀子がいった。
「では、今夜。ただし、僕は、これから社用で、出かけるのだ。恐らく、会社へは帰らないだろうから、どっかで会おう」
「いいわ」
「渋谷へ出ないか」
「渋谷? 銀座の方がいいのに」
「もちろん、銀座だっていいのだが、渋谷には、僕の顔の利くバーがあるんだよ。あとで、そこへ案内してやろうと思ったんだ」
「バー?」
「そういうとこ、きらいかね」
「きらいじゃァないわ」
「だったら渋谷で。午後六時に、ハチ公の銅像の前に来ていてくれないか」
「待たせちゃァいやよ」
「大丈夫のつもりだ」
「だったら、いいわ」
だから広太は、今夜六時までに、渋谷へ出かけなければならないのだった。
広太は、歩きながら、一応、そのことを章太郎に連絡しておいた方がいいのではないか、と思った。また、せっかく秀子を、バー「ぐんじ」へ連れて行っても、かんじんの郡司道子が休んでいたりしたら困るのである。
ちょうどすぐ前に煙草屋があって、そこに赤電話がおいてある。広太は、その電話で、会社へ電話をかけた。
章太郎が電話口に出た。
「矢沢さん、私、坂巻です」
「おお、どうしたんだね」
「今、中野からお電話しているんですよ」
「中野から?」
「例の社内報にのせる『あの人のその後』のために、昔総務課長をやっていられた西田尚次さんを、これからお訪ねするところなんです」
「ああ、西田さんか」
章太郎は、懐かしそうにいった。
「ご存じでしょう?」
「もちろん、僕からも、くれぐれもよろしくといっておいてくれないか」
「かしこまりました。ところで、小高秀子のことですがね」
「うん」
章太郎の口調は、重くなったようだ。
「さっき、会社を出るとき、玄関で会ったんです」
「それで?」
「今夜、いっしょに晩ごはんを食べる約束をいたしました」
「そうか」
「で、そのあと、例のマダムのところへ連れて行って、いろいろと話してもらうつもりなんです」
「ああ、ぜひそうしてやってくれたまえ」
「ただ、万一マダムがお休みだと困るんですが、矢沢さんからマダムにそのことを連絡しておいて下さいませんか」
「いいとも」
「連絡の方法があるんでしょう?」
「そんなこと、当然だろう?」
「よけいなことをいって、すみません」
「君にあやまられると、こちらが恐縮するじゃァないか」
章太郎は、冗談めかしていってから、
「とにかく、一人の娘が、救われるかどうかという大問題なんだから、面倒だろうがよろしく頼むよ」
と、真面目な口調になっていった。
「とにかく、やってみます」
「そのかわり、今夜の食事代一切は、僕が払わしてもらうよ」
「食事代は、いいですよ。ただし、バーの方だけは、お願いいたします」
「もちろん、うんと飲んでくれていいんだよ」
「それを聞いて、安心しました」
「重ねていうが、よろしく頼む」
広太は、電話を切ってから、
(なんて、いい人なんだろう)
と、思った。
同時に、その娘であるのぼるのことを思い出した。
広太は、途中で人に聞いたりして、やっと、西田尚次の標札の出ている家の前に来た。門構えのある二階建の家であった。恐らく、六間ぐらいはあるだろう。それほど立派ではないが、といってみすぼらしくもなかった。恵比寿の章太郎の家と、その点、似ているようだった。
(だいたい、課長になると、この程度の家に住めるらしいな)
広太は、自分の停年までに、せめて部長ぐらいになりたい、と思っているのだった。したがって、部長ならもっと大きな家に住めるようになっているはずなのである。
しかし、せめて部長に、と軽々しくいうが、その部長になることがいかに大変かは、近ごろになってわかりかけて来ていた。
会社が発展しつつあることは、たしからしいのだ。したがって、毎年の採用者もふえている。しかし、その割には、課長とか部長のイスはふえていないのである。ということは、今後、ますます競争率が高くなるのだ。並たいていのことでは、部長どころか、課長にもなれないで終る公算が大である。
(やっぱり、一か八かで、どっちかの派閥に入っておいた方がよかったのでは……)
広太は、そういう気になりかけていた。
その後、横山会の大熊とか光石たちからは、なんにもいってこない。廊下で顔を合わせても、知らん顔をしている。といって、反対側の福井会から誘いがかかって来ているわけでもなかった。その点、広太としては、せいせいしていいわけだが、時には、物足りぬ思いをさせられているのだった。
(いい若者が、そんなことでくよくよするのはよそう)
広太は、自分にそういい聞かせておいて、開いたままになっている門の中へ入って行った。
玄関の戸を開き、
「ごめんなさい」
と、いったのだが、いきなり十人ぐらいの女のクツやぞうりが目についた。
(こりゃァたいへんなお客さまらしいぞ)
まずいときに来たようだ。そういえば、奥の方が、何んとなくざわめいているようである。広太は、出直してくる気で、もう一度、
「ごめんなさい」
と、大声でいった。
「はーい、ただ今」
奥からそういう応答があった。
やがて、広太の前に現われたのは、洋装の二十二、三の娘であった。
「東亜化学の坂巻という者ですが」
と、いいながら広太は、名刺を出して、
「ご主人さま、ご在宅でしょうか」
娘は、名刺を受取って、
「いらっしゃいますが」
「それでしたら、三十分ほど、お話をうかがいに上がったのですが、とおっしゃって下さいませんでしょうか」
「しばらく、お待ち下さいませ」
娘は、引っ込んだ。相変わらず、奥の方がざわめいているようだ。が、一分もたたない間に、六十歳前後という感じの男が、姿を現わした。
「わしが西田だが」
「突然に、お邪魔をいたしまして」
「そんなことは、どうでもいいのだが、もう十年も縁切れになっている東亜化学から人がくるなんて、いったい何ごとが起ったんだね」
「さっきももうし上げたんですが、いろいろとお話をうかがいたくて」
「話? このわしから?」
「じつは……」
「まァ、いいよ。とにかく上がりたまえ」
「かまわないんでしょうか、お客さまがずい分と多いようですが」
「ああ、かまわないんだ。うちにお客さまの多いのは、商売なんだから」
「ご商売?」
「そう」
いってから西田尚次は、奥に向って、
「おーい、誰か、手の空いている人がいないかね」
「はーい」
こんどは、さっきとは別の若い娘が出て来た。
「ああ、笹川さんか。あんた、悪いけど、お客さまを応接室へご案内してくれないか」
「かしこまりました」
「君、上がってくれたまえ」
「はい」
広太は、隅の方にクツを脱いだ。
「どうぞ、こちらでございます」
娘がいって、広太を応接間へ案内した。
「先生、すぐにいらっしゃいますから」
「先生? 西田さんは、何かの先生なんですか」
「はい、お習字の」
娘は、ニッコリと笑って、応接室から出て行った。
(そうか。西田さんは、お習字の先生をしているのか)
それで、奥の方が、あんなにざわついていたのだ。広太は、煙草を吹かしながら、
(お習字の先生とは、停年退職後の商売として、悪くないだろうな)
と、思っていた。
せっかく、ここへ訪ねて来た値打があったようだ。もちろん、お習字の先生なんて、誰にも出来ることではない。しかし、停年退職者の一つの生き方として、大いに参考になるのである。
広太にとって、何よりも有りがたかったのは、西田尚次が、元気でいてくれたことであった。頭髪こそ、すっかり薄くなっていたが、適当にやせていて、血色もよかったようだ。六十五歳にしては、若い感じである。
広太がひそかに恐れていたのは、西田が病気をしていたり、あるいは、生活の苦労についてのグチを聞かされるのではないか、ということだった。もちろん、そういうことも大いに必要だが、しかし、出来ることなら幸せでいてもらいたかったのである。
応接室のトビラが開いて、西田が入って来た。
「やァ、お待たせしたな」
「とんでもない。これ……」
広太は、フロ敷包の中から千円のカステラを出して、
「会社からでございます」
西田は、思いがけないという顔で、
「会社から、このわしにくれるのかね」
「はい。ほんの気持ちでございます」
「ふーん。とにかく、くれるというんなら有りがたく頂戴しておくよ」
西田は、カステラを受取って、
「いったい、どういうことなんだね」
「西田さんがご在職中には、こういう社内報はなかったでしょうが」
広太は、持ってきた数冊の社内報をテーブルの上においた。
「そんなものはなかったね」
西田は、その一冊を手に取って、パラパラッとめくり、懐かしそうに、
「ほう、あの後藤君が、いま総務課長をやっているのかね」
「はい。私の課長でして、なんでも、西田さんの次の次とのことでした」
「わしの次の課長は、木村君だったんだから。木村君は、どうしている?」
「たしか、一昨年、停年でお辞めになりました」
「そうか、もうそういう年になっていたのか。考えてみれば、わしだって、もう六十五歳なんだからな」
「しかし、お若く見えますよ」
「気楽にしているからだろう」
「さっき、ここへご案内して頂いた娘さんの話ですと、お習字の先生をしていらっしゃるとか」
「そうなんだ。そして、家内は、お茶とお花をおしえているんだ」
「ああ、そうだったんですか」
トビラをノックする音が聞えた。
「どうぞ」
西田がいうと、さっきとはまた別の娘が、紅茶とケーキを持って、しとやかに入って来た。
「ああ、友田さんか。どうも、ご苦労さん」
「いいえ」
その娘は、紅茶とケーキを並べると、そのまま、出て行こうとした。
「ちょっと」
西田は、呼びとめておいて、
「君は、独身かね」
と、広太にいった。
「はい」
「それだったら、うちに年ごろの娘さんがたくさん出入りしている。一人、どうだね。みんな美人だし、人物、家柄は、わしが保証するよ。ねえ、友田さん」
「いやですわ、先生」
その娘は、顔をあからめて、早々に応接室を出て行ったのだが、とたんに、笑い声が聞えて来た。恐らく、笑いをこらえていたのが、外へ出たとたんにバクハツしたのであろう。小走りに去って行った。
「あれだからね」
西田は、満足そうにいってから、
「ただし、今のは冗談ではないんだよ。君がその気なら、しんけんに考えてやる」
「恐れ入ります。あるいは、そのうちにお願いするかもわかりませんが、その前に、今日お訪ねしたわけをもうし上げたいのですが」
「よかろう」
広太は、あらためてここへ来た理由について話した。西田は、煙草を吹かしながら、黙って聞いていた。ときどき、うなずくようにしているのは、広太の話を不愉快には思わなかったからであろう。
「そういうわけで、会社をお辞めになってから今日までのこと、もちろん、お差支えのない程度で結構ですが、それから最近のご心境なり、会社への要望といったようなものを聞かせていただけると、たいへん有りがたいのですが」
「いいとも」
「それからもし出来ましたら現在のお写真、それもなるべくご家族といっしょのがありましたら、しばらく拝借いたしたいのですが」
「孫たちといっしょに写したのがあるはずだから」
「お願いいたします」
「しかし、会社も変ったもんだなァ、停年退職者のことを考えるようになったなんて」
「じつをいうと、この案の提出者は、今厚生課長をやっていられる矢沢章太郎さんなのです」
「矢沢章太郎君なら覚えているよ」
「あのお方は、この九月で停年におなりになるので、ついそういうことをお考えになったらしいのです」
「なるほど」
「もうし遅れていましたが、矢沢さんは、私が今日西田さんをお訪ねすることを知っていて、くれぐれもよろしく、ということでしたから」
「そうかそうか。僕からもよろしくいっていたと伝えてくれたまえ」
「かしこまりました」
「矢沢君は、停年退職後、どうするつもりなんだね」
「よく知りませんが、就職運動をなさっているようです。しかし、まだ決っていないようです」
「だろうな。しかし、あれは嫌なもんだよ。僕にも経験があるが、どうしても人間が卑屈になる」
「でしょうねえ」
「口先だけでいい返辞をしてくれても、たいていそれっ切りだからね。といって、それに対して、憤るわけにもいかんし」
「わかります」
「僕は、頼みにしていた相手から冷たく断られての帰り途、真っ赤な夕空を眺めて、しみじみ情けないと思ったことがあった。泣きたいような、わめきたいような」
広太には、西田のではなく、章太郎のそういう姿が見えてくるようであった。
「そんなときだよ。うしろからタクシーが来て、追い越していきながら運転手が、おっさん、道の真ン中でぼやぼやしてたらあかんやないか、しっかりしてえや、とどなりつけたんだ」
「ひどい奴ですね」
「いや、運転手にしたら当然のことであったろう。僕は、はっとしたんだ。そして、思ったのだ。そうだ、ぼやぼやしてたらあかんのだ、もっとしっかりしよう、と」
西田は、運転手の言葉に刺激されて、いっそう就職運動に熱を入れて、退職後二カ月目に、やっとちいさな会社に勤めることが出来るようになったのである。が、そこも三年の契約だったので、以後は、辞めてしまった。
「そのころには、息子の方は、就職していたし、二人の娘も、それぞれ結婚していた。一応、親としての任務を終っていたわけだ」
「よかったですね」
「といって、遊んでいられる身分でもなかったな。僕の退職慰労金といったところで、十年前だから二百万円ぐらいだった。多少の貯金は、もちろんしていた。しかし、娘の結婚のためやなんかで、当時、手許に残っていたのは、百万円ぐらいだったろうか」
「なるほど」
「これから何年生きられるかわからんが、心細かったね。出来るだけ、息子の世話になりたくないし」
「それで、今のお仕事をおはじめになったんですか」
「家内がいい出したことなんだ」
「…………」
「家内は、お茶とお花の免状を持っていた。で、今までは、あなたにうんと働いてもらいましたから、これからは私が働いてみましょう、とね」
「…………」
「家内は、以前から近所の娘さんたちに頼まれて、おしえていたことがあったりしたのだ。もっとも、二人か三人で、お礼なんて、ロクにもらっていなかった」
「…………」
「しかし、今後は、商売としてするのなら、そうもいかんということで、週に二回として、月に千円と決めてはじめてみたんだ」
「…………」
「君、それが幸いにして、当ったんだよ。一つには、家内のおしえ方もうまかったのだろうが」
「よかったですねえ」
「月に二万円程度の収入があるようになって、そうなったら僕は、楽隠居なんだ」
「しかし、西田さんは、お習字をおしえていられるんでしょう?」
「そう先を急ぐなよ」
「どうも、すみません」
「僕は、これでも昔から筆の字がうまかったんだ。自分でも練習をしたことがあるし、多少の自信があった」
「…………」
「僕が、ある日、つれづれのままに、習字をしていたんだよ。すると、家内の弟子の一人が、偶然に見つけて、習いたいといい出したんだ」
「…………」
「どうせ、ヒマな身体だし、その娘におしえてやると、私も私もといい出す娘が出て来て、こうなったら僕だって月謝を取って、という気になったんだよ」
「…………」
「家内も賛成してくれたし、今では、僕だけでも五千円から八千円ぐらいをかせぐんだ。家内のと合わせて三万円弱。もう、安心だよ」
「まさに、趣味と実益を兼ねたわけですね」
「そういうわけだ」
西田は満ち足りたようにいって、
「お習字の方なら、あと五年や十年は、平気でやれるからね」
「そうですとも」
「しかし、サラリーマンの時代には、老後まさか習字が役に立つとは思わなかったな」
「たいへんいいお話を聞かせていただきました。そのまま社内報にのせさせてもらいます」
「いいとも。家内ともいっているんだよ。こうなったらお互いにせいぜい元気で永生きしていきましょうよ、とね」
広太は、またしても、章太郎を思い出した。章太郎には、そういうようにいい合い、いたわり合う細君がいないのである。本人は、そのことを口に出さないが、きっと残念に思っているに違いなかろう。しかし、ものは、思いようなのである。細君がいないかわりに、郡司道子のような女から、あれほど好意を持たれているのだ。
「一年に二回、夫婦で旅行したりしている。もっとも、そういうとき、つい口ゲンカをしたりすることもあるけどね」
「それだって、愉しいことでしょう?」
「まァ、愉しいと思えば愉しいし、そうでない場合だってあるさ。しかし、僕は、自分では、幸福な方だ、と思っているよ」
「ご子息は、家にいられるのですか」
「いや、二年前に結婚したのだが、住井不動産の大阪支店に勤めているんだ」
「すると、今は、この家でご夫婦だけなんですか」
「そう」
「お嬢さん方は?」
「これは二人とも、東京にいる。二人とも、孫が出来ていて、ときどき遊びに来てくれる。君、孫って、じつに可愛いもんだよ」
西田は、目を細くしていった。
「よく、そういう話を聞きますね」
「その理由をよく考えてみたら、孫に対しては、こちらは直接の責任がないからだね。もう一つ、ありゃァ一種のおもちゃだよ」
「おもちゃ?」
「そう、おもちゃなんだ。何んの抵抗も感じないで可愛がってやれる。年を取ってからの息子や娘では、そういうわけにはいかんからな」
トビラを開いて、六十歳ぐらいの女が、おボンの上にお茶をのせて入って来た。
「いらっしゃいませ」
その女が笑顔でいった。
「家内だよ」
西田は、広太にいってから細君に、
「会社の坂巻君なんだ」
広太は、立上がって、
「お邪魔をいたしております」
「いいえ、ようこそ。あなた」
細君は、西田の方を向いて、おかしそうに、
「皆さん、たいへんなんですよ」
「何が?」
西田は、いぶかるような顔をした。細君は、自分もそこに腰を下してから、
「坂巻さん、どうぞ、お掛けになって」
と、広太にいって、
「この家に珍しく、若い男のお客さまがあったといって」
「ああ、そういう意味か」
「さっき、友田さんがお茶を持って来たでしょう?」
「うん」
「あれだって、自分が自分がといい出したので、みんなでジャンケンで決めた結果なんですよ」
「そうだったのか」
「あなたは、友田さんの前で、この家のお弟子さんの中からお嫁さんをもらわないか、とおっしゃったんでしょう?」
「いった」
「それで、また、大騒ぎになって……。このお茶だって、持って行く希望者が多くて困ったくらいですよ。というのは、友田さんが、坂巻さんのことを、とっても感じのいい人だ、といったもんですから」
聞いていて、広太は、てれ臭いばかりであった。同時に、この細君の人柄からして、娘たちの集まってくる理由もわかるような気がしていた。
「坂巻君、お聞きの通りだよ」
西田がいった。
「どうも……」
広太は、頭に手をやった。
「さっきいった通り、ほんとうに結婚のこと、考えてみないか」
「どうも……」
「それとも、婚約者とか、恋人がもうあるのかね」
「ございません」
広太は、のぼるの顔を頭に描いた。
(あののぼるに恋人がないのだろうか)
そして、また、
(青島謙吾の名をいったとき、のぼるが顔色を変えたように思われたが、あれは、気のせいだったのだろうか)
とも。
「だったら、あなた」
細君は、急に積極的になり、
「さっきの友田優子さんなんか、いいんじゃァありませんか。会社の重役のお嬢さんで、二十二歳で、あの通りの美人で、ほがらかですし。じつは、いい人があったらお世話してくれと頼まれているんですよ」
「そうだよ、君」
西田までが、細君の尻馬に乗っていいはじめた。
広太は、苦笑しながら、
「有りがとうございます。その話でしたら、よく考えさせて頂きますが、その前に、今日の用件を片づけてしまいたいのですが」
「そうだったな」
西田は、広太が来たわけを簡単に細君に話した。
「それはそれは、どうも、ご苦労さま」
「奥さま。ご主人が停年におなりになってから今日までについて、何かおっしゃって下さいませんでしょうか」
「ああ、そういうことでございますか」
細君は、真面目な顔になって、西田の意向をうかがうように見た。
「いいんだよ、こうなったら何をしゃべってくれたって。ただし、あんまり亭主の面目がつぶれるような話は、かんべんしてもらいたいな」
「そんなことをいやァしませんよ」
細君は、広太の方を向いて、
「先日も、クラス会があったんでございますよ」
「はい」
「女ばかり七、八人が集まったんですが、皆さんからあたしがいちばん幸せのようにいわれましたよ」
「でしょうね」
「人のお世話にならないで生きておりますし、子供たちも、人並にやっておりますし」
「はい」
「集まっている人の中には、一生二号さんで暮した人もいるんですよ。若いころは、それでもよかったでしょうが、この年になって、しかも、旦那さまの方に経済的能力がなくなってと、つくづく後悔してらっしゃいました」
「わかりますね」
「かと思うと、十年前にご主人に先立たれて、苦労して育てた息子が、嫁をもらうと、とたんに人が変ったように自分に冷たくなった、と」
「ひがみだろう?」
「かも知れませんが。それから、重役夫人としてすごく羽振りのよかった奥さんで、いつのクラス会にも、そのことを鼻にかけていた人が、ご主人が重役を辞めて、その後、家でブラブラしていることが不満で仕方がないらしいんですよ」
「…………」
「クラス会も十年も二十年も続けていると、そのうつりかわりで、女の幸せって、全く男しだいだという気がしますね」
「しかし、男の幸せだって、女房しだいといえるな」
「認めますよ。あたしなんか、クラス会に出ても、そう劣等感をいだかないでこられた方でしょうね。とにかく、主人は、課長にまでなってくれたんですから」
「…………」
「そりゃァ上を見れば、キリがありませんよ。さっきもうし上げた重役夫人なんか、いつだって会社の車で乗りつけて……。そういうときには、うらやましいとも。でも、会社の車をそういうことに使うなんて、公私混同していると、みんなで、陰でいい合ったりしたもんですよ」
「…………」
「正直にいって、あたしは、主人が停年で辞めても、そのあと勤めてくれるのが当然だぐらいに思っていたんですよ」
「…………」
「ですが、辞めても、次の就職口が決らないで、いらいらしていたり、妙に沈み込んでいたりすると、しだいに可哀そうになりましてね」
「ほんまかいな」
「そうですよ、口には出しませんでしたが。やっと、口が見つかったのは、嘱託でしょう。それまでは、曲りなりにも課長でしたのに、嘱託というので、若い社員からアゴで使われたり、嫌味をいわれたり……。そのことで、情ないとよくグチをいうようになったんですよ」
「そんなことをいったかな」
「おっしゃいましたよ。もうお忘れになったんでしょうが、ときどき、出がけに、今日は休みたいなァとか、五十五歳まで働いて、まだ働きに出なければならないなんて、なんと運が悪いんだろうな、とか」
「そりゃァそれくらいのことをいうだろうよ、ほんとうのことなんだから」
「だけど、聞く方は、辛うございましたよ」
「しかし、それくらいのことは、我慢してもらわないと」
「我慢して上げたつもりですよ。で、あたしは、これでもしんけんになって、あなたに働かせないで、何んとか食べていかれる方法がないものかと考えはじめたんです」
「…………」
「幸いにして、あたしは、お茶とお花の免状を持っておりました。もちろん、将来、それで食べていこうという気で取ったのではありません。ただ、好きでしたから」
「…………」
「で、この免状を生かしたらと思いはじめたんです」
「…………」
「主人が嘱託として、勤めていた三年間、あたしは、あらためて勉強をいたしたんです」
「…………」
「そして、主人の勤めが終ると、こんどは、あたしがかわりに働き出したんですよ」
「…………」
「それが、うまくいったんでしょうね。運がよくて」
「…………」
「さらに運のいいことに、主人のお習字までが役に立ちまして」
「…………」
「まァ、こういうわけなんですよ」
「よくわかりました。どうも、有りがとうございました」
広太は、頭を下げた。
「なんだか、キレイごとばかりを並べたようですけど」
「そんなことはございません」
「今は、この人が大事ですし、この人と結婚してよかったと思ってますけど、昔は、そうでないこともあったんですよ」
「信じられないことですが」
「いいえ、あなた。夫婦なんて、一生の間に、いろいろの問題があるもんでして。年を取っての語り草も、若いころには、死ぬか生きるかの……」
西田は、細君の目の前に手を振りながら、
「おいおい、もうそのへんでよろしい」
と、苦笑した。
「わかってますよ。あたしは、ただ、若い坂巻さんのご参考にと思って」
「大いに参考になりました」
広太がいった。
「お前は、もう下ってくれていいよ」
「すこし、お邪魔になって来たようですね」
「そうなんだ」
細君は、立上がると、
「坂巻さん、どうかごゆっくりして行って下さいね」
「有りがとうございます」
「それから、さっきもうし上げた友田優子さんのことも、頭の中に入れておいて下さい」
「かしこまりました」
細君は、応接室から出て行った。それを見送っておいて、西田は、
「よくしゃべるだろう?」
「そんなことは、ありませんよ。とってもいいお話でしたよ」
「あとの方でいった年を取っての語り草も、若いころには、死ぬか、生きるかという話」
「はい」
「僕の浮気が、バレかかったんだよ」
「…………」
「そんときは、もう半狂乱だったね。恐かったよ。いつ自殺するやらわからんし」
「…………」
「僕は、それにこりて、以後浮気をつつしむようになったんだ」
「…………」
「もし、そのときにこりないで、その後も浮気をしていたら、あるいは、夫婦別れをしていたかもわからない」
「…………」
「そうなったら、僕は、今とは全く違った道を歩いていたろうな」
「でしょうねえ」
「まァ、今となって、夫婦の仲って、十年よりも二十年の方が、二十年よりも三十年の方が、味があると達観しているがね。あるいは、諦観といった方がいいか」
「諦観ですか」
「君、男なんて、そういうもんだよ。君が、さっきからいっている停年退職も、ある意味で、諦念退職というべきかもわからない」
「諦念退職……」
「あきらめることだよ、自分の現在の地位に。それから再出発することがかんじんだな。でないと、グチが出るばかりだ。グチをいって、いちばん損をするのは、結局、自分自身だからね」
「わかるような気がします」
「今からそんなことがわかり過ぎても困りものだが、一応考えておくことだな」
「はい。ところで、今後、この社報は、毎月お送りするようにいたしますが」
「そりゃァ有りがたいな。いくつになっても、昔のことが気にかかるもんだ。その点、嘱託として勤めた会社の方には、年限が短かったせいもあろうが、ほとんど無関心だからね」
「停年退職者として、何か、会社への希望のようなものはございませんでしょうか」
「そりゃァあるさ。しかし、そんなことをいってみたって仕方がないだろう?」
「仕方がないかもわかりませんが、そういう声を社報にのせると、会社の方でも、考えるのではないでしょうか」
「そんならいうが、今、あちらこちらの会社でやっているように停年退職者を、年に一度か二度、どこかへ集めてくれることだよ」
「はい」
「そうすれば、昔懐かしい連中に会うことだって出来るし、また、たれ彼の噂を聞くことだって出来るのだ」
「…………」
「それからクラブのようなものをつくって、そこへ停年退職者も気楽に出入り出来るようにしてもらいたいのだ」
「…………」
「停年退職者の名簿をつくって、送ってもらいたいな。学校にだって、同窓会名簿というようなものがあるのだし」
「ほんとうに、そうですね」
「さしずめ、その程度だろうな」
「わかりました。今、おっしゃったこと、社内報にのせるようにいたします」
「頼む。僕は、きっと同感してくれる人が多い、と思うんだよ」
「でしょうねえ」
「今、思い出したのだが、僕とおんなじころに停年退職になった会計課長の綿井君は、ガンでS病院に入院しているという噂を聞いている」
「ガンですか」
「僕もそのうちお見舞に行くつもりだが、会社でもどうかね」
「帰って、早速、相談してみます」
「綿井君は、不幸な男でね。長男を戦争で亡くしているんだ」
「戦争で……」
「それも、一人息子であったのだ」
「…………」
「恐らく、病院の費用にだって困っているのではなかろうか」
「矢沢さんの意見では、そういう場合、会社の有志で、いくらかのお見舞金を集めたら、ということでした」
「僕も、それをいいたかったのだ。そして、エンギでもない話だが、亡くなったら会社名義で、花環の一つぐらい飾ってほしいな。それくらいのことをしても、会社としては罰が当らないと思うんだ」
「そのことも、西田さんのご意見として、社内報にのせます」
そのあと広太は、写真をもらったりして、三十分ほどいた。その間、西田は、最近の社内の人事のことを聞いたり、それにまつわる思い出話なども聞かせてくれたりした。広太は、やっぱり来てよかった、と思った。
広太が帰ることにして、玄関でクツをはいていると、細君が見送りに出た。が、その細君のうしろに、十人ぐらいの若い娘たちが花が咲きそろったようにニコニコしながら並んだのである。広太は、圧倒されそうになった。
「失礼します」
広太があかくなりながらいうと、娘たちは、
「さようなら」
「さようなら」
と、明るい声でいっせいにいった。
広太は、その娘たちの中に、友田優子の顔を見た。
[#改ページ]
幸福について
広太は、渋谷の忠犬ハチ公の銅像の前に来ていた。ちょうど、小高秀子と約束をした午後六時になっていた。そこらには、たくさんの人たちが、人待ち顔で立ったり、ベンチに腰を掛けたりしている。が、秀子の姿は、見あたらぬようであった。
広太は、煙草に火をつけた。
(西田さんを訪ねたことは収穫であったようだ)
今日の訪問記を原稿用紙にして四枚ぐらいにまとめるつもりにしていた。恐らく、相当な反響を呼び起すであろう。それも、いい意味での反響となるだろう。
広太は、西田から預って来た写真を取出して見た。老夫婦が三人の子供と、二人の孫に囲まれているのである。幸福という題をつけたいような写真であった。
(しかし、こうなるまでに、あの夫婦は、人並以上の苦労を重ねたことを忘れてはならないのだ)
そうなると、広太には、またしても章太郎のことが思い出されてくるのであった。章太郎が幸せになるためには、停年後の就職に成功し、のぼるを嫁がせ、章一を社会に出し、そのあと、郡司道子のような女と結婚することなのである。
(郡司道子は、それまで、待っていてくれるだろうか)
広太は、もしチャンスがあったら、今夜そのことを郡司道子にいってみたいような気持になっていた。
広太は、西田の写真を洋服のポケットの中に大切にしまった。そのあと、あらためてそこらをみまわしたが、小高秀子の姿は、まだ見えないようだった。六時十分過ぎになっていた。
(あいつめ、自分で待たせちゃァいやよ、といったくせに……)
広太は、苦笑した。どうせ、そういう女なのである。だから、妻子のある男にうつつを抜かしたりしているのだ、ともいいたいのであった。しかし、今日のところは、どちらかといえば、こっちで頼んだのである。十分や二十分待たされても、文句がいえないのだ。
それにしても、この銅像を中心にして人待ち顔で立っている人の数は、びっくりするほど多いのである。百人をくだるまい。それも広太のような若い者だけでなしに、中年から老年にいたっているのである。
(人生って、複雑に出来ているんだなァ)
ここに立っている一人一人が、違った人生を背負っているのだ。その当然のことを、広太は、実感として思わせられていた。
広太は、二本目の煙草に火をつけて、西田の家で会った友田優子の顔を思い出した。玄関で、別れの挨拶をしたとき、友田優子の目が、広太に笑いかけていたようであった。
(どっかの重役の娘だ、ということだったが……)
もし、広太が、その気になったら、あるいは結婚出来るかもわからないのである。顔だって悪くなかったし、気立てもよさそうであった。しかし、そんなことを思いつつ、広太は、一方で、のぼるを思い出しているのであった。その広太は、何気なく地下道への出入口の方を見て、
「おや?」
と、目を光らした。
地下道からのぼるが出て来たのである。ちょっとうつ向き加減に、百貨店の方へ歩いて行く。たった一度会ったきりだが、のぼるに間違いないような気がした。
広太は、急いで、そのあとを追った。
「のぼるさん」
のぼるは、振り向いて、一瞬とまどったようであったが、
「いつかお訪ねした坂巻ですよ」
と、広太からいわれると、
「あら」
と、笑顔になった。
(悪くない)
広太の頭の中から友田優子の姿が、きれいに消えていた。
「先日はどうも……」
広太がいった。
「いいえ、こちらこそ」
「今、お帰りですか」
「はい。そして、ちょっと買物があったもんですから」
「そうですか。お父さんにいっておいて下さいませんか、西田さんをお訪ねしたことが大成功のようでした、と」
「はい」
「お茶ぐらいいっしょに飲みたいんですが、人と約束していますから、今日は、失礼いたします」
「はい」
「そのかわり、近いうちにお誘いの電話をいたしますが、かまいませんか」
「…………」
「もちろん、お父さんのお許しを得るつもりですが」
「…………」
「いけませんかね」
広太は、てれたように頭に手をやった。
「いいえ、そういう意味でなく」
「では、いいんですか」
「困りましたわ」
「困る?」
「あたし、失礼いたします」
「残念だなァ」
「どうしてでしょうか」
「約束をして頂けなくてですよ」
「ごめんなさい」
「あなたにあやまられたりしては、却ってこっちが恐縮しますよ。もともと、厚かましく思われるのを承知の上で、あんなことをいったんですから」
「…………」
「では、厚かましいついでに、もう一つ」
「…………」
「僕に、あなたといっしょにお茶を飲みたい意志のあることだけは覚えておいて下さい」
「はい」
「そして、あなたからこのこと、お父さんにいっておいて下さいませんか」
「はい」
「それでもし、お父さんから僕が叱られたらあきらめます」
「失礼いたします」
「それから、民子さんにどうかよろしく」
「はい」
ていねいに頭を下げて、のぼるは、去って行った。そのうしろ姿を見送りながら、広太は、まるで冷汗をかいたような気持になっていた。
広太は、自分でも、どうしてあんなに積極的にいったのか、よくわからないのであった。
(相当な不良と思われたかも知れんなァ)
広太は、くさりたくなっていた。しかし、積極的にいったことについては、すこしも後悔していなかった。自分でも不思議なほど、そういう気持が起らなかった。
(すこしぐらい好きになったのだろうか)
しかし、のぼるのさっきの様子では、脈がないようである。それなら、今のうちにあきらめておいた方が無難なようだ。ふたたび、広太の頭の中に、友田優子の顔が浮んで来た。
うしろからポンと肩をたたかれた。振り向くと、小高秀子が冷笑するような顔で、
「今のは、だれ?」
「見ていたのか」
「そうよ。やたらにペコペコしていたわね」
「嘘をつけえ」
「だって、そのように見えたわよ」
あるいは、そうであったかもわからないのである。広太は、苦笑をもらして、
「君に関係のないことだよ」
「関係があってもなくっても、だれだかおしえてくれたっていいじゃァないの」
「面倒臭いことをいう女だなァ」
「そうよ。恋人でもなさそうだし、片思い?」
「あるいは……」
「へええ」
秀子は、大ゲサな表情で、
「坂巻さんは、ああいうタイプが好きなの?」
「らしいね」
「物好きね」
「放っておいてもらいたいな」
「なんでしたら、あたしからうまくいって上げましょうか」
「その必要がない。今、自分の口からそのことをいったばかりだから」
「で、断られたの?」
「まァ……」
「お気の毒」
「でもないさ」
「負け惜しみ?」
「でもないさ」
「はっきりしない人ね、男のくせに」
「あんまり威張った口を利いてくれるなよ。これでも、僕は、男なんだぞ。女の君からそんな口を利かれたら、腹が立ってくるじゃァないか」
「あたしは、平気よ。井筒さんのことさえ何んとかしてもらえたら」
「勝手な女だな」
「あら、どういたしまして。それよりも、今夜は何をご馳走して下さるの? あたし、もう腹ペコなのよ」
「何が食べたいんだ」
「洋食がいいわ」
「よし、わかった。とにかく、地下道をくぐって、向う側へ出よう」
二人は、地下道へ入って行った。
歩きながら広太は、
(あののぼるが、矢沢さんの娘であるといったら、この女は、なんというだろうか)
と、思っていた。
恐らく顔色を変えて、のぼるの悪口をいうに違いあるまい。
広太としては、それが嫌だったのである。こんな女からのぼるの悪口を聞きたくなかった。そういうことから、ますますこの女を軽蔑したくなるかもわからないのである。いくら軽蔑したってかまわないようなものだが、あの章太郎が、この女のために、あんなに親身になっているのだと思うと、やっぱりそういうことは避けた方がいいのだ。
(それにしても、あののぼると比較したのでは、雲泥の差があるようだな)
しかも、秀子の方には、すこしの反省の色もないらしいのだ。どうやら、意地になっているようである。広太は、あらためて、この女を説得することの難しさを感じさせられていた。しかし、そのことは、あの郡司道子にまかせておけばいいのだ。自分なんかより何倍かうまく説得してくれるだろう。
二人は、地下道を出て、大映通りの方へ歩いて行った。さっきまでは、勝手放題をしゃべっていた秀子も、今は、無口になっている。何んとなく考え込んでいるようなのは、井筒のことを思ってのことだろうか。そうなると、広太は、この女への反感とは別に、可哀そうにも思われてくるのだった。
やがて、広太は、歩みをとめて、
「ここだが」
そこは、細い階段を上って行く二階のレストランであった。広太は、いぜんに一度来たことがある。比較的上品だし、そう高くもなく、うまいようだった。
「いいわよ」
秀子は、投げやるようにいった。さっきは腹ペコだなんていっていたが、井筒のことを考えているうちに、食欲のことなんか、どうでもよくなって来たのかもわからない。かりにそうだとしたら、広太としても、今夜この女の扱い方を、よほど慎重にしなければならないように思われてくるのであった。
二人は、ラセン形の階段を上って行った。食事時であったので、混んでいた。が、幸いにして、窓際の客が帰りかけているところだった。二分ほど待って、二人は、その席に向い合って腰を下した。
「ビールを飲ましてよ」
秀子がいった。
「ビールが好きなのか」
「何んだか、飲みたくなって来たのよ」
「よかろう。僕だって、そのつもりだったんだ。何を食べる?」
「何んだっていいわ」
「そういわずに、好きな物を注文してくれよ。せっかくご馳走するんだから」
「では、エビフライ」
「じゃァ僕も」
広太は、ビールとエビフライを注文した。それがくるまでの間、秀子は、窓の方に顔を向けて、じっと外の方を見ていた。広太は、それとなくその横顔を眺めながら、
(この女は、妻子のある男と、何度もホテルへ行ったりしているのだ)
と、いうことを思っていた。
気のせいか、秀子の身辺から不潔感が漂うてくるようであった。すくなくとも、この女には、たとえば、さっきののぼるに感じられたような娘の清純さを感じられないことだけは、たしかなようである。
ビールが先に来た。広太は、ビールびんを持って、
「さァ……」
秀子は、それを受けてから、広太にお酌をしようとした。
「僕は、自分でつぐから」
広太は、自分のグラスにビールを満たしてから、
「では、カンパイしよう。お互いが幸せになるために」
「幸せ……」
秀子は、独り言のようにいってからビールを飲んだ。広太も飲んだ。
「ねえ、幸せって、いったい、何よ」
秀子は、急に突っかかるようにいった。
「要するに幸せは幸せじゃァないか」
「だったら、あたしの幸せを破壊したのは、矢沢課長だわ」
秀子は、腹が立ってたまらぬようないい方をして、またビールを飲んだ。
「しかし、僕は、そう思わないね」
「いいえ、そうよ」
「まァ、僕のいうことも聞きたまえ。矢沢さんは、本当に君のためを思っていられるんだよ」
「もし、本当にあたしのためを思っていて下さるんなら、あたし、放っておいてもらいたいわ。その方が、あたしにとって、ずっと幸せなんですもの」
「しかし、君の幸せというのは、絶対に永続きしない性質のもんだよ」
「そんなことを、だれが決めるのよ」
「だれがって、世間の常識がそうなんだ」
「あたし、そんな世間の常識なんか、相手にしないことよ」
「そういうのは、若気のアヤマチというんだな、きっと」
「そうであっても、あたし、かまわないことよ。あたしにとって、先の幸せよりも、今の幸せの方がもっともっと大事なんだわ。第一、人間は、いくつまで生きられるかわからないじゃァありませんか。あと五十年生きられるかもわからないし、一年で死んでしまうかも。そんなアテにならない寿命のことなんか考えて、現在の幸福を犠牲にするなんて、あたしには、バカげているだけだわ」
「もちろん、そういう理論だってあり得る、と思うよ。しかし、僕は、人間ならやっぱり二十年後、三十年後の幸せのために、今からその努力をしておくべきだと思うな。そして、現在その努力をすることが、すなわち、現在の幸福でもあるんだ」
「要するに、見解の相違ね」
「だとしたら、僕は、この際、君に僕の意見にしたがってもらいたいんだよ」
「ごめんだわ。あたしは、あくまで、あたしの道を行きますから。矢沢課長にも、あなたからそういっておいて頂戴」
「そりゃァいってもいいが、君の相手は、すでに君から逃げ腰なんだろう?」
「逃げ腰なもんですか。矢沢課長が、よけいな出しゃばりをしたからで、本心は、昔とちっとも変っていないんだわ」
エビフライが来た。
「まァ、食べながら話そうよ」
広太がいった。
秀子は、黙ってソースびんを取ると、じゃぶじゃぶとかけた。まるで、ヤケクソになっているようだった。広太は、それを見ながらこの女を説得することの難しさを、またしても痛感させられていた。
(やっぱり、一刻も早くバトンを郡司道子にわたした方が無難らしいな)
広太にとってうまいエビフライも、今夜の秀子には、そうでないらしかった。まずそうに口に運んでいるだけである。そうなると広太は、こんなにも一人の娘の心を奪ってしまっている井筒という男には、そんなに魅力があるのだろうか、と思わせられるのであった。
(いったい、男の魅力とは、何んなのであろうか)
美貌。地位。金持。職業。……
しかし、それ以上に、
勇気。誠実。寛大。……
と、いったようなものが大切なのでなかろうか。
(それなら、井筒は、どれに該当するのだ)
もちろん、井筒に会ったことのない広太には、見当がつかなかった。しかし、妻子がありながら結婚前の娘をホテルへ連れ込んだりしている男に、勇気も、誠実も、寛大もあろうとは考えられないのである。また、地位、金持、職業といったことからくる魅力でもなさそうだ。結局、美貌ということなのか。
(いや、美貌である以上に、いわゆるてれんてくだがうまいに違いない)
そして、女たちは、そのてれんてくだに乗せられていることが多いらしいのだ。
(それなら俺は?)
たいした美貌でないことはもちろんである。地位、金持、誠実、寛大の方でも、自信があるとはいい切れない。てれんてくだとなると、いっそう自信がないのである。
(こういうふうに考えてくると、俺って、女にとって、あんまり魅力のない男、ということになるらしいぞ)
広太は、心の中で苦笑していた。だからといって、それほど、落胆しているわけでなかった。まだ、若いのである。その若さが武器なのだ。もう、そう思っておくことであった。
すでに、ビールびんがからになっていたので、広太は、追加を注文した。秀子は、黙って、それを見ているだけであった。新しいビールびんが来ても、お酌をしてやろうともいわなかった。どうやらさっきからの広太の言葉に、すこし腹を立てているようだ。
広太としては、そんなこと、痛くもかゆくもないのだが、このあと、「ぐんじ」へ連れて行かなければならないのである。これ以上憤らせて、
(帰ります)
と、席を蹴るように立たれても困るのだ。
「君がそれほど信頼している井筒という人は、そんなにいいのかね」
広太がいうと、打てばひびくように、秀子は、答えた。
「そうよ、日本一だわ」
「日本一は、ちょっとオーバーだな」
広太は、苦笑しながらいった。
「いいえ、あたしにとっては、絶対に日本一なんだわ、あの人」
秀子は、ムキになっていって、
「あたしの幸福は、あの人ひとりにかかっているんだわ。それなのに、矢沢課長は」
「矢沢さんの話は、よしておこうよ」
「だけど、あたしがさっきからいったこと、伝えておいてよ」
「わかった」
「あたし、どんなことがあっても、井筒さんをあきらめないわ」
「あきらめないって、井筒さんには、奥さんも子供さんもあるんだろう?」
秀子は、痛いところをつかれた顔になったが、すぐ立ち直って、
「だけど、井筒さんは、奥さんなんか、すこしも愛していないのよ」
「と、本人がいったのか」
「そうよ、何度も、何度も」
「しかし、僕にいわせると、そういうことをいう男って、あんまり信用出来ないんだが」
「井筒さんの悪口をいわないで頂戴」
「これは、どうも失礼いたしました」
「そうよ。井筒さんは、そのうちに奥さんと別れて、あたしと結婚して下さるはずなのよ」
「それも、本人がいったのか」
「そうよ、何度も、何度も」
「もう、井筒さんの悪口をいわないよ」
「当りまえだわ」
「しかし、奥さんと別れたあと、子供は、どうなるんだね」
「あたしが育てるわ」
「なるほど、そういう手はずになっていたのか」
「やっと、おわかり?」
「話としては、よく出来ているが、実行不可能なんじゃないかな」
「そんなこと、あるもんですか。あたしの意志次第なんだわ」
「君のご両親は、賛成して下さるだろうか」
「…………」
「問題は、そこにあると思うんだがな」
「それだって、要するに、あたしの意志次第なんだわ。それに……」
「それに?」
「井筒さんが、そのことで、そのうちあたしの両親に会って下さる約束になっているのよ」
「井筒さんて、なかなか立派なんだね」
「日本一なんですもの」
「ただし、口先だけなんだろう?」
「また!」
秀子は、広太をにらみつけて、
「もし、これ以上、井筒さんの悪口をいうんなら、あたし、承知しないことよ」
「では、もう一言だけ。ただし、悪口でなく、質問なのだ。というのは、僕だって、まだ若いのだし、将来のために、いろいろ参考にしておきたいのだ」
「どういうことよ」
「君が、それほどまでに愛している井筒さんが、矢沢さんに意見されただけで、どうして急に君に対して、消極的になったんだろうかね」
「…………」
「僕にいわせると、井筒さんは、それを利用したのだ」
「利用?」
「かねてから、そろそろ、君と別れたい、と思っていた」
何かいいかける秀子に、広太は、
「黙って、終りまで聞きたまえ」
と、すこし強い口調でいっておいて、
「そこへ、矢沢さんからそういう話があった。そりゃァ多少の心残りはあったろうが、内心しめたと思ったに違いない。何故なら、そうなれば、すべての責任は、矢沢さんに転嫁出来るわけだ。しかも、君からは恨まれないですむ。まさに、一石二鳥ではないか」
「…………」
「矢沢さんは、そういう貧乏クジを自分がつかむことを覚悟の上で、乗り出したんだと思うな」
「…………」
「それだって、可愛い部下の一生の幸せのために」
「…………」
「僕は、むしろ君は、矢沢さんに感謝すべきだと思うよ」
「…………」
「そして、井筒さんのことは、悪夢を見ていたと思って、この際、多少は辛いだろうが、これまた、一生の幸せのために、きれいさっぱりとあきらめるんだな」
「…………」
「僕は、君のために、心底からそれをすすめるよ」
広太は、これでいいたいことをいったというように、ぐっとビールを飲んだ。秀子は、それを見ながら、
「坂巻さんのおっしゃりたいことは、それだけ?」
と、冷たい口調でいった。
「まァ、ね」
「だったら、あたしの決心をいって上げるわね」
「決心?」
「あたしは、死ぬほど、井筒さんを愛しているんだわ」
「死ぬほど?」
「井筒さんと別れるくらいなら死んでしまいます」
かならずしも、冗談でいっているようではない。広太は、薄気味悪いくらいだったが、それを笑顔でゴマ化して、
「おいおい、一つしかないいのちなんだぜ。お互いにもっと大切にしようよ」
「あんたには、関係ないことだわ」
「しかし、同じ人間同士として」
「放っといて」
「ことがいのちにかかわってくると、放っとけないよ」
「だったら、あなたから矢沢課長に、今後一切の口出しをしないようにいっておいて。あたしは、もう会社なんか辞めてもいい、と思っているのよ。また、井筒さんとの結婚に、あたしの両親が反対するようだったら、家から飛出すことも考えているのよ。あたしの決心は、そこまで深くなっているんだわ」
そういうと、秀子は、自分で、自分の言葉に感動したように、目にうっすらと涙をためていた。
広太は、目をそむけた。今までは、どちらかといえば、秀子を軽く見ていた。つまらん女だ、とも思っていた。が、このような姿を見せつけられると、
(この女は、心の底から井筒を愛しているのだ)
と、いうことをあらためて思わせられるのであった。
どう考えても、秀子は、間違っているのである。しかし、間違っているにしても、その愛情は、しんけんなのだ。だから困るのだが、広太に、この女が、急に哀れに思われて来たこともたしかであった。
それにこの分だと、井筒との結果によっては、軽々しくいのちを断つような真似をしないとも限らないのである。それでは、一切がぶちこわしになる。そのため、章太郎だって、一生寝ざめの悪い思いをしなければならないだろう。幸福のために、と思ってしたことが、却って最大の不幸な結果を招くようになったら、人間の善意というものが、無価値にひとしいことになる。いや、無価値どころか大きなマイナスになるのだ。広太は、空恐ろしくなっていた。
広太は、エビフライとご飯を食べ終り、二本目のビールもからにしていた。が、秀子の方は、エビフライだけを食べて、ご飯を半分ほど残していた。井筒のことで胸がいっぱいで、食欲を感じないのであろう。
「そろそろ、出ようか」
広太がいった。
「ええ、出ましょう」
秀子は、おとなしくいうと、ハンド・バッグの中をのぞき込むようにして、お化粧を直しはじめた。広太は、その間に、勘定を払った。八百四十円であった。広太にとって、多少痛くないこともない出費である。章太郎にいえば払ってくれるだろうが、そのことはすでに辞退ずみであり、また、払ってもらう気もなかった。人のためになることをしようと思ったら、あらかじめそういうものと覚悟をしておくべきなのだ。
二人は、ラセン形の階段を降りて、外へ出た。午後七時半を過ぎていた。人出は、今や絶頂のようである。ネオンのきらめきも、はなやかであった。そのネオンを、ぼんやりした表情で眺めている秀子に、
「帰りを急ぐかね」
と、広太がいった。
「でもないわ」
秀子は、どうでもいいようにいった。
「だったら、お昼ちょっといった僕の顔の利くバーに寄ってみないか」
「いいわ」
「こっちだ」
広太は、人混みの中を先に立って歩くようにしながら、
「ただし、これから行くバーについて、あらかじめ断っておきたいことがある」
「どういうこと?」
「僕は、矢沢さんに連れられて行ったバーなんだ」
「矢沢課長に?」
秀子の表情は、たちまち、けわしくなってくるのであった。
「それだったら、嫌かね」
「決ってるじゃァありませんか」
「そんなら仕方がないが、井筒さんと矢沢さんが会ったのは、そのバーなんだよ」
「まァ、そうだったの」
「だから、そのバーのマダムに聞けば、そんときの模様なんかも、多少わかるんじゃァないかな」
「…………」
「とってもいいマダムなんだ。これは、信頼おけると思っている」
「…………」
「いっておくが、僕は、もう君に意見しようなんて思っていない。考えてみれば、そのガラでもないからな、僕って」
「…………」
「ただ、君の気のすむようにした方がいい、と思っていることだけはいっておこう」
「…………」
「そのかわり、すべては、君自身の責任においてだ」
「連れてって」
「かまわないんだな」
「そうよ、そして、あたし、もし矢沢課長がいたら、いいたいことをいってやるわ」
「あんまりやぶれかぶれになってくれるなよ。はたが迷惑することもある」
「だったら、あんた、先に帰っていいわ。そのかわり、あたし、一人で行くわ。場所と名前をおしえて」
「いや、こうなったら、はじめの約束通りお供をさせて頂くことにする」
二人は、バー「ぐんじ」の前へ来た。
「ここなんだが」
広太がいうと、秀子は、看板とか構えをじろじろ見ていてから、
「いいわ」
と、何かの決心がついたようにいった。
広太が先に立って、中へ入って行った。まだ時間が早いせいか、二組の客がいるだけだった。
郡司道子は、カウンターの中にいて、一人の客と向い合っていたのだが、広太を見ると、
「いらっしゃい」
と、笑顔でいった。
が、その目は、むしろ、広太のうしろにいる秀子に注がれているようであった。
「やァ、今晩は」
広太は、近寄って行きながらいった。広太は、目顔で、
(矢沢さんから連絡があったはずですが)
と、いうと、郡司道子は、これまた目顔で、
(わかっているわ、まかせておいて)
と、たのもしいところを見せてから、
「いらっしゃい」
と、秀子にやさしくいった。
秀子は、黙って、頭を下げた。緊張しているようだ。
「坂巻さんの恋人?」
「とんでもない。違いますよ。そんなことをいったら、この人に叱られます」
「ご紹介して」
「僕の会社の小高秀子さんです」
「まァ、あなたが、小高秀子さんだったの?」
それまで、前を見たままでいた先客が、はじめて二人の方を見た。勝畑正造であった。
「何んだ、勝畑さんだったんですか」
広太は、おどろきながらいった。同時に、
(マダムは、今夜のために、わざわざ、勝畑さんを呼んでくれたのに違いない)
と、思っていた。
とすれば、準備は万全、といってよさそうだ。あとは、この二人にまかせておけばいいのである。
勝畑は、ニコッと笑って、
「今夜は、何んとなく君が現われそうな予感がしたので、ここでアミを張っていたんだ」
「そうでしたか。私も、あなたにお会い出来て、嬉しいですよ」
「君は、いつでも僕を喜ばせるようなことをいってくれる。要するに、若いが、隅におけぬ男だよ」
「ほめられているのかな」
「決っているじゃないか」
「安心しました」
二人は、あらためて、笑い合った。そんな二人の様子を、秀子は、自分が無視されていると感じたらしく、不満そうに見ていた。郡司道子の目は、その秀子の横顔に注がれたままになっていた。
「ところで」
勝畑は、口調を変えて、
「この人が、小高秀子さんだって?」
と、秀子の方を見た。
「そうですよ」
広太がいった。
「そんなら僕は、一度お目にかかりたいと思っていたんだよ。坂巻君、紹介してくれないか」
「小高君、この方が、東部製薬株式会社にお勤めの勝畑正造さんだ」
「勝畑です。どうか、よろしく」
「小高秀子です。よろしく」
秀子は、頭を下げてから、
「でも、どうして、あたしの名を知っていたり、そして、会いたいと思っていたなんておっしゃいましたの?」
「わけがあるんですよ」
「わけ?」
「井筒雅晴の友人なんですよ、僕は」
「まァ」
秀子の顔色が変った。それから、あわてて、郡司道子と広太の方を見た。
「そうなんですよ、小高さん」
マダムがいった。
「間違いないんだ」
広太がいった。
「僕は、井筒君からあなたの名を聞いていたもんですから」
「井筒さんは、あたしのことを、どういうようにおっしゃってまして?」
「そりゃァいろいろと」
「こうなったら、はっきりとおっしゃって」
「だけど、もうお別れになったんでしょう。だったら、今更……」
「いいえ、そんなことありませんわ」
「おかしいな。彼は、僕にそのようにいってましたが。すっかり清算したのだ、と」
「あたし、そんなこと、絶対に信じませんことよ」
さけぶようにいった秀子の顔は、土色になっていた。
「すると、井筒君は、僕に嘘をいったのかな」
勝畑は、横目で秀子を見ながら、とぼけたようにいった。
秀子は、下唇を噛みしめるようにして、黙っていた。
「ひどい男だよ。僕にまで、そんな嘘をつくなんて」
「それだって、きっと、あたしを愛していて下さるからだわ」
秀子は、憤ったようにいった。
「愛しているかどうか、とにかく、いっしょにホテルへ行っていることなんかは、隠さずにしゃべってくれたんですよ」
「まァ、そんなことまで?」
「そうですよ、女と別れるときには、泣いてみせることが、恨まれないコツであるとも」
「…………」
「あの男、こういっては悪いが、そういう経験が、何度もあるんでね」
「…………」
「ただし、それだって、僕に嘘をついていたのかもわからないが」
「…………」
「あなたにだって、矢沢課長から横槍が出たから別れるのだといって、涙を流してみせるのだ、といってましたがねえ」
いったんは戻っていた秀子の顔色は、ふたたび血の気を失ったようになっていた。
「そういうことが、ありませんでしたか」
「あるもんですか!」
「だったら、あいつめ、いよいよ、嘘をついたことになる。こんど会ったら、とっちめてやらにゃァ」
「あたし、放っておいてほしいわ」
「しかし、これは、僕と井筒君の友情に関わることですからね」
「要するに、いちばん悪いのは、矢沢課長なんだわ」
広太は、ちらっと郡司道子を見た。郡司道子は、見返して、苦笑を洩らした。が、ふたたび、秀子を見た目は、むしろ哀れんでいるようであった。
「その矢沢課長に、ここで偶然に、お会いしたんですよ。井筒君といっしょのとき」
「そんとき、矢沢課長が井筒さんに、よけいなことをいったんでしょう?」
「よけいなことというよりも、僕の感じからいうと、あれは、必要なことでしたね」
「そんなこと、あるもんですか」
「まァ、お聞きなさい」
勝畑は、たしなめるようにいってから、
「おや、坂巻君の前に、酒がないよ」
「あらあら、ごめんなさい。あたし、すっかり商売のことを忘れていたわ。こんなことでは、マダム失格ね」
郡司道子は、てれたようにいってから、
「坂巻さんは、おビール?」
「はい」
「小高さんは?」
「いりません」
「いや、この人だって、ビールを飲むんだ」
「わかりましたわ。話が混みいって来たらしいから、向うのボックス席にいらっしたら?」
「そうしましょう」
勝畑がいった。
郡司道子をまじえた四人は、あらためて、隅の方のボックス席に着いた。広太と勝畑が並び、その向う側に、郡司道子と秀子が。四人の前に、ビールがおかれてあった。
「僕は、あなたの味方でもないし、敵でもありませんよ。しかし、あなたが、あの矢沢さんをひどく恨んでいるようだから、そんときの情況を、かんたんに話しておきたいんです」
勝畑は、ビールを飲みながらいった。
「聞きたくないわ」
秀子は、そっぽを向くようにしていった。
「いやいや。聞いておくべきですよ。世の中に、誤解ほど恐ろしいことはないですからね」
「…………」
「いいですか。かりに、あなたに妹があるとして、その妹のことについて、ある男が、そろそろ飽きて来たんだが、まァ次の口が見つかるまでつないでおくつもりだ、とか」
「…………」
「次の口が見つかったら、当分の間、両手に花でいこうとか」
「…………」
「あるいは、その男が、いっしょにいる男に、なんだったら、僕のお古だがゆずってやってもいいとか」
「…………」
「そういうひどいことをいっているのを、偶然に横にいて聞いたら、黙っていられますか」
「…………」
「僕なら、絶対に黙っていられませんね。なぐりつけたかも」
「…………」
「要するに、矢沢課長のあのときの立場は、そうであったんですよ」
「あたし、そんなこと、信じませんわ」
「信じなさいよ、あなた自身の一生の幸せのために」
「あたしの幸せは、井筒さんと結婚することだわ」
「結婚?」
勝畑は、あきれたようにいった。
「そうよ」
「井筒君には、妻子がありますよ」
「ですから、奥さんと別れて、あたしと」
「井筒君が、そういったんですか」
「おっしゃったわ」
「そして、あなたは、そのまま、それを信じているの?」
「当然でしょう、お互いに愛し合っているんですもの」
秀子は、胸を張るようにしていったが、それは、誰の目にも、明らかに虚勢であった。勝畑の言葉に、大きなショックを受けていることは、たしかであった。そのことが、秀子の自信をぐらつかせはじめているのに違いない。
広太は、勝畑の話しぶりを聞きながら感心していた。よく出来た人だ、と思っていた。広太では、このようにしゃべることは出来ないのである。しかし、それだって、あらかじめ、郡司道子とよく打合せの上のことであるかもわからなかった。
その郡司道子は、相変らず、黙って聞いているだけであった。そして、郡司道子が同席しているというだけで、この場の空気を柔らげているようであった。
もっとも、それは、広太だけが感じていることで、秀子にとっては、それどころではなかったろう。
心の中で、阿鼻叫喚したくなっていたかもわからないのである。
「しかし、愛し合っていても、結婚出来ない場合だって、世間にいくらでもありますよ。たとえば井筒君とあなたの場合」
「井筒さんは、出来るとおっしゃったのよ」
「しかし、そうは口にいっても、恐らく実行不可能でしょう。何故なら、井筒君の奥さんというのは、重役の娘さんなのです。いってみれば、彼は、あの美貌を見込まれて、その重役の娘さんと結婚したんです」
「…………」
「すくなくとも、その重役のにらみが利いている間は、離婚出来ないでしょうし、かりに離婚するとしたら、即刻クビになるでしょうね」
「…………」
「僕は、断言しますが、出世欲に燃えている彼が、クビになることを覚悟の上で、あなたと結婚しようなんて、ハナクソほども考えていませんよ」
「すると、あたしは、どうなるんですか」
「だから、井筒君は、あなたのことは清算した、といっていたともうし上げたでしょう。僕は、よかったなァ、といってやったんですよ」
「ちっとも、よくないわ」
秀子は、叩きつけるようにいった。
「僕のいったのは、男の立場としてですよ」
「卑怯よ」
「だれがですか」
秀子は、ぐっと詰った。
「井筒君は、今夜、奥さんと子供さんを連れて、のうのうと映画を見にいっているはずですよ。僕が電話をしたら、そういっていましたから」
秀子に、そういう情景が見えてくるようであった。しかも今日の昼、井筒に電話をしたら、
「悪いけど、今夜は都合が悪いんだ」
と、あっさり断られているのだ。
「では、明日なら?」
すがりつくようにいったら、
「明日も、明後日も」
と、いわれているのである。
今夜、都合が悪いといったのは、奥さんや子供たちと映画を見に行くためであったのだ。口では、
(あんな女房なんか…………)
と、鼻であしらい、時には、
(女房は、僕の世話なんか、ちっともしてくれないんだよ)
と、不満をたらたら述べていたりしたのである。
(奥さんたちと映画を見に行くために、あたしを振ったんだわ)
そのことが、秀子にいちばん応えた。そして、さっきから勝畑のしゃべったことは、みんな胸に応えていた。しかし、まだ、いちるののぞみのようなものを捨てていなかったのである。そのために、いちずに矢沢課長を恨み、悪者に仕立てて来たのであった。
もちろん、秀子は、井筒の心がわりを感じていなかったわけでない。感じられればこそ、いっそう、そうでありませんようにと、あせって来たのであった。そのあせりが、矢沢課長を恨み、罵倒させたのである。
が、最早、井筒の心がわりは、決定的のようだ。
(でも、勝畑さんが、嘘をついているのでは?)
しかし、そうと決めてしまうには、勝畑の言葉に、いちいち、思い当るふしが多過ぎるのである。
(あたしは、騙されていたのだろうか)
そうなると、井筒と過した時のあれこれが、悪夢のように思い出されてくるのであった。騙されているとも気がつかないで、井筒のどんな要求にも応じて来たのである。恥かしかった。いや、口惜しかった。しかし、だからといって、井筒へのみれんが、器用に断ち切れるわけではなかった。
もし、ここへ井筒が現われて、
「さァ、行こうよ」
と、いってくれたら、犬が尾を振るようにして、ホテルへ出かけていきそうである。
秀子は、そういう自分が、うとましかった。哀れであった。もはや、生きているかいのない人間のように思われてくる。
(いっそ、死んでしまおうか)
井筒と別れるくらいなら死んだ方がましだ、と思ったことはあった。しかし、今は、面当てに、死んでやりたいのであった。井筒を恨む遺書を残して、死んでやるのである。
気がつくと、三人の目が、自分に注がれていた。秀子は、その目にはんぱつするように、目前のグラスを取ると、ビールをがぶがぶと飲んだ。
郡司道子が、その手をやさしくおさえて、
「そんなにいっ気に飲んだら、悪酔いするわよ」
「そうだよ」
広太がいった。
「放っといてもらいたいのよ」
秀子は、毒づくようにいった。
「可哀そうなのね、あんたって」
郡司道子がいった。
「ちっとも、可哀そうじゃないわ」
秀子は、いい返した。
「だけど、あたしの目には、あんたのようないい人を騙すなんて、井筒さんがよくないわよ」
「…………」
「井筒さんて、あたしも知っているけど、感心出来なかったわ」
「…………」
「こんなことをいうと、また、あなたが気を悪くするかもわからないけど、あなたのいう矢沢課長の出しゃばりには、いつかは感謝するときがくると思うのよ」
「くるもんですか。そもそもの原因は矢沢課長にあるんですもの」
「そりゃァ違うね」
広太がいった。
「違うもんですか。あたし、帰ります」
秀子は、立上がりかけた。郡司道子は、
「まァ、もうしばらく、いなさいね」
と、その肩を抱くようにおさえた。
「そうだよ。帰るんなら、僕が送って行ってやるよ」
広太がいった。
「そんな必要はないわ」
秀子は、広太をにらみつけるようにいったが、しかし、浮かした腰を下していた。
郡司道子は、秀子の肩に手をおいたままで、
「あたしにも、失恋の経験があるのよ」
と、独り言のようにいって、
「そんなときは、つらかったわ。悲しかったわ。いっそ、死んでやろうかと思ったわ。だから、今の小高さんだって、そうじゃァないかと……」
「マダムにも、そんなことがあったんですかねえ」
勝畑がいった。
「そうよ、これでも人間のはしくれですものね。それとも、あたしには、そんな資格がないとでも思っていらっしゃるの?」
「いや、マダムほどの人に、と思ったんですよ。第一、そういう翳のようなものが、ちっとも感じられませんから」
「かりに、そうだとしたら歳月のお陰よ。歳月って、ほんとうに有りがたいものよ」
「すると、ずっと昔?」
「数年前のこと」
「どうして、失恋なさったんですか」
「結局、騙されていたのね。だけど、今になって、騙したんじゃァなく、騙されていたのでよかった、と思っているわ。だって、人を騙して、相手に苦しい思いをさせたなんて、一生後味が悪いでしょう?」
「もっとも、世間には、そういうことをすこしも反省しないで、とくとくとして生きている人もあるらしいけど。でも、そういう人は、ダメね。人間の屑みたいなものよ」
「わかります」
「それに、失恋にだって、クドクというものがありますよ」
「クドク?」
「失恋のおかげで、この人生を眺める目に、深味が出来るんじゃァないか、ということ。これは、あたしにとって、一生のトク。お金では買えないもんです」
「すると、人間は、失恋しておくべきですか」
「そういってもいいくらいに思ってるわ。あたしみたいな女でも、こうやってまがりなりにも、バーのマダムがやっていけるのは、失恋したお陰だと思っているわ。毎日、いろいろの男の人とお会いしているけど、もうめったなことでは騙されませんからね」
郡司道子は、そこで、ちらっと広太を見てから、
「どの人が宝石で、どの人がただの石ころかの見わけがついているつもりですよ」
と、いったのは、章太郎こそ宝石である、といいたかったのであろう。
「恐いな、あなたの前に立つのは」
勝畑がいった。
「大丈夫よ。勝畑さんなんか、立派だわ。そして、坂巻さんも、よ」
「すると、お互いに自信を持っていいのかな」
勝畑は、広太を見ていった。
「マダムの太鼓判なら」
広太は、安心したようにいった。
「また、さっきの話に戻るけど」
郡司道子は、いっておいて、
「一口に、騙したとか、騙されたとかいうけど、これは、主観の問題ですからね。騙すつもりでなく、騙してしまったような結果になる場合だってあるでしょうし、逆の場合だって」
「そうですね」
勝畑がいった。
「井筒さんだって、はじめは、本気だったかもわかりませんよ。小高さん、そう思っておきなさいね」
秀子は、うなだれたままでいた。
「要するに運が悪かったのよ。あたしの場合、いろいろ悩んだけど、最後には、そう思ってあきらめたわ」
「…………」
「それに、この世の中には、もっともっと、運の悪い人だってあるんだし」
「…………」
「世の中には、たくさんの不幸があるわ。その中で、失恋の不幸なんて、まだましな方よ。とにかく、いのちには別条がないんだから」
「…………」
「そりゃァ失恋自殺する人もあるけど」
「…………」
「小高さんには、ご両親がおありなんでしょう?」
秀子は、うなずいた。
「あたしのいって上げられることは、もうご両親に心配をかけないことね」
「…………」
「それがいちばん大切」
「…………」
「何んといっても、あなたのことをだれよりも心配していられるのは、ご両親ですからね」
「…………」
「そのことは、やがて、自分の子供を持ってみると、よくわかりますよ」
「あたし、結婚なんかしませんわ」
「バカねえ。たかが失恋ぐらいで、結婚しないなんて、もっと気を大きくお持ちなさい」
「…………」
「あたし、失恋して、あまりの悲しさと苦しさに死にたくなったとき、両親のことを思ったら、どうしても死ねなかったわ」
「…………」
「そのあたしが、今は、死ななくてよかったと思っているんですよ。ケロリとして、失恋のクドクを説いたりしているんですからね」
「…………」
「人間は、生きてさえいれば、また、いいことがありますよ」
「…………」
「あたしの今が、そう」
郡司道子は、また、広太をちらっと見てから、
「ねえ、小高さん、元気をお出しなさいね。そして、何も彼も忘れるのよ。そうかんたんに忘れられないでしょうけど、その努力をするって、かんじんなことよ」
「…………」
「だれにだって、幸福になる権利があるんだし、そのためには、勇気を出して、努力をすることだと思いなさいね」
章太郎の晩酌は、ビール一本と決めていた。時には、二本にすることもあるが、だいたい一本で、陶然となれるのであった。
今も、そのビールを飲みながら、それとなくのぼると章一の顔を眺めて、
(よく今日まで、育ってくれたな)
と思っているのであった。
細君に亡くなられてから五年になる。いちじは、どうなることかと途方に暮れたが、しかし、何んとか堪えてこれたのである。それも、民子という忠義もんがいてくれたからであろうが、章太郎自身も、人にいえぬ苦労をして来たのである。
(もう、大丈夫だろう)
そう思いたいのであった。たしかに、二人の子供の前で、一本のビールをたのしんでいる父親の姿は、不幸とはいえないのである。これで、母親がいてくれたらもうし分がないのだが、欲をいったらキリがないのだ。この程度で、満足しておくべきであろう。
(しかし……)
章太郎の停年退職後の就職口は、まだ決まっていないのだった。昨日も、その運動にまわったのだが、成果を得ることが出来なかった。それどころか、以前に頼んでおいた、ある有望視していた口が、今日になって、ダメということがはっきりしてしまった。
この分だと、停年退職の後も、しばらく遊んでいなければならないかもわからない。一カ月や二カ月は、それでもかまわないようなものだが、しかし、出来ることなら引続いて勤めたいのであった。
先に、人事課長に計算してもらうように頼んでおいた退職慰労金は、今日はっきりしたことがわかった。七年間課長をしていた特別手当三十五万円を加えて、税引き三百六十三万円ということになる、だいたい章太郎の予想していた通りであった。在職中、特に功労があった場合には、特別に割増がつけられることになっているが、章太郎にはそれが期待出来なかった。
(三百六十三万円……)
一応、大金ではあるが、しかし、すこし油断したら、あっという間に消えていく金額である。その中から、のぼるの結婚費用を出してやらなければならないし、章一に大学を卒業させてやらねばならないのだ。
章太郎の理想は、せめてあと五年間、六十歳まで働いて、その報酬で、日々の生活を賄っていくことであった。その間には勿論のこと、そのあとにでも、金のかかる長期の大病でもしたら、目もあてられぬ結果になる。そういうときのためにも、章太郎は、一日も早く、停年退職後の就職口を決めておきたかった。
(まだ、五カ月ぐらいあるのだから)
そう思ってみるのだが、日に日に、自分があせっていくような気がして、時には、やり切れなくなってくるのであった。
(とにかく、この一家が、幸せになるためには、俺の次の就職口を早く決めてしまうことなのだ)
それが、一家の主であり、父親である章太郎の責任であり、義務のようになっていた。
あの郡司道子との問題にしても、次の就職口が決まらなかったらお話にならないのである。郡司道子は、今後一円も頂きませぬ、といっていたが、章太郎は、男として、
(では、お言葉に甘えまして……)
とはいえないのであった。
その郡司道子には、しばらく会っていなかった。ふと、会いたいと思った。それとなく子供たちの顔を眺めて、
(まさか、こんな父親だとは、夢にも思っていないだろうな)
と、苦笑したくなっていた。
坂巻広太は、郡司道子との結婚をすすめたが、子供たちの思惑を考えると、先ずその見込みはなさそうである。章太郎は、結婚出来れば、それに越したことはないと思っているのだが、それに固執する気はなかった。せめて、今の関係を続けていきたいのであった。それが出来たら満足すべきだ、と思っていた。
(そのためにも、次の就職口を早く決めておく必要がある)
結局、そこに問題が戻ってくるのである。まことに、うっとうしいことだ。が、あくまで、現実の問題なのである。生きていくために、どうしても避けることが出来ないのだ。
「どうなさったの、お父さん」
のぼるが言った。
「何んのことだね」
章太郎は、聞き返した。
「だって、おビールが、まだ残っているのに考え込んだりして」
「ああ、そうだったな」
「お酌して上げましょうか」
のぼるは、ビールびんを持った。
「すまんな」
章太郎は、のぼるの無器用だが可愛いお酌を受けながら、
(のぼる、いつかの失恋問題は、その後、どうなったかね)
と、口に出したくなっていた。
が、章一の前でもあり、うかつにいってはいけないのだ。章太郎は、今日も、会社のカギのかかる曳出しの中から、のぼるの手紙を出して読んだのである。読むつど、胸をえぐられる思いであった。
その後、のぼるは、徐々にではあるが、あの当時にくらべて、元気になっていることはたしからしいのである。恐らく、本人は、そのために必死になっているのであろう。章太郎には、そういうのぼるの姿が、哀れで仕方がなかった。
(この一家が幸せになるために、俺の次の就職口の決ることが先決問題なのだが、しかし、のぼるが理想的な青年と結婚してくれないことには……)
章太郎は、坂巻広太を思い出した。その広太は、今夜、小高秀子を連れて、郡司道子の店へ行っているはずなのだ。
(あの娘も一日も早く迷いの夢から醒めてくれるといいのだが)
自分の娘が、そういうことになっているとも知らないでいる秀子の両親が気の毒であった。
(一応、耳に入れておくべきではなかろうか)
しかし、章太郎には、その決心がつかなかった。万事は、明日にでも、広太から今夜の結果を聞いた上で、と思った。
「今夜のお父さん、おかしいわよ」
のぼるがいった。
「どうしてだね」
「考え込んでばかりいらっしゃるんですもの」
「そうだったな。しかし、もう大丈夫だ」
「なら、いいんですけど」
「が、大丈夫になったところで、ビールがなくなったよ」
「もう一本、お上がりになります?」
「出来ることなら、そういうことにしてもらいたいな」
横から章一が、
「賛成。そして、出来ることなら、僕にも一杯だけ、おすそわけしてもらいたいね」
章一は、グラス一杯ぐらいなら飲めるのである。
「章一さんは、まだ未成年だからダメ」
「ケチ」
「いいわよ、ケチで。この間、お小遣を五百円上げたのに」
「おっ、そうだった。うっかり、忘れていた。決して、ケチなお姉さんではございません。つつしんで訂正いたします。そのかわりね、お姉さん」
「もう、わかったわよ」
「わかってもらえればよろしい」
のぼるは、台所に向って、
「民子さん、民子さん」
と、呼んだ。
「何んですか」
民子の声が聞えて来た。
「お父さんに、ビールをもう一本、差上げて」
「かしこまりました」
「それから新しいグラスも一つ」
「はい」
やがて、民子は、ビールびんとグラスを持って、現われた。
「どうぞ」
「有りがとう」
「グラスは、坊っちゃんですか」
「やっぱり、民子さんは、察しがいいよ。だから、大好きさ」
「当りまえですよ」
「これで、いつも、僕の前にもグラスがおいてあると、もっと好きになるんだけど」
「それは、いけません」
「どうして?」
「坊っちゃんは、まだ、学生の身分じゃァありませんか。たまにならようございますが、毎日では、身分不相応です」
「だけど、僕の友達の中には」
「よそは、よそ。うちはうちです。ねえ、旦那さま」
「まァ、そうだな」
「坊っちゃん、おわかりになりましたね」
「よくわかりましたよ」
「だから、あたしは、坊っちゃんが大好き。これでも、毎朝、坊っちゃんが、大学の試験に合格なさいますようにと、お祈りしているんですよ」
「うーむ。それをいわれると、僕は、弱いんだ」
「そんな気の弱いことで、どうしますか。そもそも、男というものは」
「いかなる場合でも、雨風に堪えていく精神がなければいかん、というんだろう?」
「その通りですよ」
「考えてみると、僕は、すくなくとも月に一度は、民子さんからそういう説教を聞かされているよ」
「そんなでもないでしょう?」
「いや、そうだよ」
「私に、そういうことをいわせる坊っちゃんがいけないんですよ」
「あーあ、ビール一杯のために、こんなにまでいわれようとは思わなかったよ」
章一は、わざと溜息をつくようにいった。しかし、民子を嫌っているのではなかった。章一だけでなしに、のぼるも、そして、章太郎も、この民子をたよりにしているのであった。そのかわり、ある程度のわがままも聞いてやり、大事にしてやっているつもりなのである。
章太郎は、ビールびんのせんを抜いて、
「さァ、章一」
と、お酌をしてやりながら、
「民子さんのいう通りなんだし、有りがたいと思って聞くんだよ」
「わかってますよ、お父さん。こんどは、僕がお酌をしましょう」
「そうかそうか」
「そうそう」
のぼるは、思い出したようにいって、
「あたし、今日、渋谷の忠犬ハチ公の銅像のところで、お父さんの会社の坂巻さんにお会いしたわ」
「ほう」
章太郎がいった。
「まァ、坂巻さんにですか」
民子は、大きい膝を乗出すようにしていった。
「坂巻さんは、民子さんに、くれぐれもよろしく、とおっしゃってたわよ」
「すると、坂巻さんは、ちゃんと私のことを覚えていて下さったんですね」
民子は、満足そうにいった。
「らしいわよ」
「じゃァ、こんどお会いになったら、私からもくれぐれもよろしく、とおっしゃっておいて下さい」
「そういうことは、お父さんにいってよ。だって、あたし、めったにお会いすることなんかないんですもの」
「わかった。いっておこう」
「だけど、旦那さま」
「何んだね」
「坂巻さんて、いい青年ですね」
「そうなんだ」
「女中の私にまでよろしくなんて、なかなかいえないことですよ」
「そう」
「私は、はじめていらっしたときから、お嬢さんと坂巻さんが結婚なさったらと思ったんですよ」
「嫌よ、民子さん」
「おや、どうしてですか」
「どうしてでも!」
のぼるは、強い口調でいった。
「僕は、お姉さんと坂巻さんとの結婚なら賛成してもいいな」
章一が横からいった。
「章一さんまで!」
のぼるは、章一をにらみつけた。
「だって、坂巻さんて、なかなかいいじゃァないか。お姉さんには、もったいないくらいだ。僕は、大好きだな」
「でも、あたし、嫌いだわ」
「そうか。のぼるは、坂巻君のような青年が嫌いだったのか」
章太郎がいった。
「嫌いというよりも……」
そこで、のぼるは、口調を低くして、
「当分の間、だれとも結婚したくないのです」
「ああ、そういう意味か」
章太郎には、のぼるの気持がわかっているのである。
(やっぱり、いまだに失恋の痛手から立上がれないでいるのだ)
可哀そうだが、どうにもしてやれないのである。
「そうよ、お父さん」
「わかったよ。無理をすることはないんだから」
「ですから、あたし、坂巻さんに、そのうちにお茶に誘いたいのだがといわれたけど、断っておいたわ」
「坂巻君が、そういうことをいったのか」
「何んでも、今夜は、人にお会いなさるので、それが出来ないけど、別の日に、と」
「そうか」
「ただし、坂巻さんは、あたしにお茶を誘う前に、お父さんのお許しを得るつもりだといってらしったわ」
「そうか」
「ですから、もし、坂巻さんからそういうお話があったら、お断りしておいて」
「そりゃァ断ってもいいが、お茶を飲むぐらい、いいのではないかね」
「嫌なんです、今は」
「だったら、しようがない。坂巻君は、きっと、ガッカリするだろうが」
「そうですよ。そして、あたしだって、ガッカリですよ、お嬢さん」
そういうと、民子は、立上がって、台所の方へ去って行った。
これで、章太郎の、のぼると広太を結婚させようとの夢が崩れたも同然であった。章太郎は、あらためて、こんなにものぼるの心に痛手をあたえた男を憎みたくなっていた。
「しかしね、のぼる」
「はい」
「お父さんは、のぼるが坂巻君と結婚してくれたらと思ったことがある、というだけは覚えておいてもらいたいのだ」
のぼるは、それが聞えなかったように、
「それから坂巻さんは、何んでも西田さんをお訪ねしたことが大成功であったと、お父さんにいっておいてもらいたいといってらしったわ」
「そうか」
坂巻広太の話は、それで打切られた。章太郎は、二本目のビールをすでに飲み終っていた。
翌日、始業時刻である午前九時を過ぎても、小高秀子は、事務室に姿を現わさなかった。もっとも、早く出勤していても、化粧室でおしゃべりをしていたりして、十分も二十分も遅れて席に着く、というようなことは、今までにも、しばしばあった。
しかし、昨日の今日なのである。章太郎は、広太から、その昨夜のことについて、まだ何んの報告も聞いていない。秀子の姿が見えないことが、いつもより気になっていた。それでも、九時三十分ごろまでは、黙っていたのだが、やはり放っておけなくなって、
「今日、小高君は、欠勤なのかね」
と、課長代理の平山要一にいった。
「さァ……」
平山は、章太郎の席の方へ立って来て、
「若松さん」
と、呼んだ。
若松成子は、こっちの方を見た。平常は、あんまり目立たぬ娘なのだが、しんがしっかりしていた。章太郎は、成子のことをそのように見ていた。派手な恋愛をするようなタイプではないが、やがては、自分にふさわしい相手を選び、結婚し、着実な家庭を築き、幸せな生涯を送るであろう、というようなことを感じさせられていた。
この成子は、秀子と親しくしていたのである。秀子が、成子から井筒のことで冷やかされて、
(結婚する気でいるんですから)
と、答えているのだ。
そのことが、結局、章太郎の耳に入って、バー「ぐんじ」での一件となったのである。
「小高さんは、まだ、来ていないの?」
平山がいった。
「まだのようですけど」
成子が答えた。
「昨日、休むようにいってなかった?」
「あたしは、何んにも聞いておりません」
「そうか」
平山は、章太郎の方を見て、
「この分だと、今日は、休むのかもわかりませんね」
章太郎は、うなずいてから、声を低くして、
「君には、まだ、報告をしてなかったが」
「はい」
「例の相手の井筒という男に、僕は、偶然に渋谷のバーで会ったんだよ」
「ほう」
「で、僕は、いいたいことをいってやったんだ」
「そうでしたか」
「いずれ、くわしくいうけど、とにかく、井筒って、悪い奴なんだ。小高君と結婚なんて、はじめから考えていないで、遊びの相手にしていたことに間違いない」
「でしょうねえ」
「この問題について、総務課の坂巻広太君がいろいろと骨を折ってくれているんだよ」
「坂巻君が?」
平山は、思いがけない顔で、章太郎を見た。
章太郎は、見返して、
「小高君が、坂巻君に、僕の悪口をいったりしたので、しぜんにそういう結果になったんだ」
平山は、小高秀子の問題について、章太郎が、よその課の坂巻広太を相棒に選んでいることに、軽い不満を感じたようであったが、それでも、
「坂巻君なら、若いけれどもなかなかしっかりしているようですから」
と、さからわなかった。
「そうなんだ。昨夜だって、そのことで動いてくれているはずなんだ」
「…………」
「だから、今後の小高秀子の動静について、十分に注意してもらいたいのだよ」
「かしこまりました」
「何んといっても、よそさまの大事な娘をお預かりしているんだからね」
「はい」
そのあと、平山は、
「あの……」
と、ちょっと、いい迷っていてから、
「いつか、お話のあった課長の後任のことについてですが」
「…………」
「私のこと、もう部長に頼んで下さいましたでしょうか」
「失敬。そのうちにと思いながら、まだそのままになっているんだよ」
「そうでしたか?」
平山は、落胆したようであった。
「じつは……」
「なに?」
平山は、ちらっと寺島深二の方を見てから、
「寺島君が岩城君を連れて、横山専務のお宅へ行ったりしているという噂を聞いているもんですから」
「そうか」
「で、私としても、心配なもんですから」
「わかった。君の心配は、当然のことだ。しかし、僕としては、僕の後任に、あくまで、君を推薦するつもりでいる」
「お願いいたします」
「早急に、部長にそのことをいっておこう」
「ぜひ」
平山は、頭を下げて、自分の席に戻って行った。平山にしてみれば、小高秀子のことよりも、果して自分が、次の厚生課長になれるかどうか、ということの方が、大問題であったに違いない。
章太郎にしても、そのことを気にしていないわけではなかった。しかし、ことは、自分の停年退職後の問題なのである。ましてや、五カ月先のことなのだ。それほど、急ぐことはなかろう、と思っていたのだった。一つには、自分の停年退職後のことについて、自分から騒ぎ立てるのは、いやだったのである。なるべくなら、人からも、そうっとしておいてもらいたかったのだ。
しかし、平山にしてみれば、章太郎が、五カ月先に会社を辞めることは既定の事実なのだし、一日も早く、安心したかったのであろう。ましてや、自分のすぐ下の寺島が、盛んに派閥の波の中を泳ぎまわっているらしいと聞かされては、じっとしていられなくなったに違いないのである。
章太郎は、あらためて、この会社にはびこっている派閥について、考えさせられていた。
章太郎の前の卓上電話のベルが鳴りはじめた。章太郎は、腕をのばして、受話器をとった。
「矢沢課長ですか」
「そうだが」
「坂巻です。お早うございます」
「ああ、お早う」
「昨夜、彼女を連れて、ぐんじ≠ヨ行ったんです」
「ご苦労さま」
「そのことについて、いろいろとご報告に行きたいのですが、かまいませんか」
「いいとも。彼女、今日は、まだ出勤して来ていないんだよ」
「へええ」
「だから、心配していたところなんだ」
「とにかく、これからおうかがいいたします」
「事務室ではまずいかも知れないから、一階の喫茶店では?」
「結構です」
「じゃァ、僕は、これからすぐ行くつもりだから」
「お願いいたします」
章太郎は、電話を切ると、平山に、
「僕は、一階の喫茶店へ行っているから、何か用があったら、そこへ知らせに来てもらいたい」
「かしこまりました」
章太郎は、廊下へ出た。エレベーターで下へ降りて行きながら、昨夜、坂巻広太のことで、のぼるのいったことを思い出していた。のぼるに、広太と結婚しようとの気のないことは、はっきりしたようなものだ。のぼると広太を結婚させることによって、章太郎は、自分の停年退職後の生活について、いろいろの夢を描いていたのだが、その夢の実現性は、ゼロにひとしくなってしまったのである。
(世の中って、なかなか思うようにいかないもんだな)
もっとも、何も彼も、思うようになったところで、人間としての不満がなくなるものではなかろう。そうとわかっているつもりなのだが、章太郎としては、一日も早く、次の就職口が決ることと、のぼるが昔のように元気になってくれること、せめてこの二つだけは、なんとかかなえてもらいたいのであった。
次の就職口についても、もうゼイタクをいう気はなくなっていた。場合によっては、守衛のような役でもいい、と思っていた。そのことで、人が何んといおうが、かまわないのである。要するに、自分のことなのだ。自分と、自分の子供たちが幸福になるため、なのである。
章太郎は、喫茶店へ入って行った。広太よりも、章太郎の方が早かったようだ。章太郎は、窓ぎわの席に着いて、煙草に火をつけたとき、入口に広太が姿を現わした。にこっとしてから、近寄ってくる広太には、相変らず若々しさがあふれているようだった。
章太郎は、微笑をもって広太を迎えながら、自分の過去の、そのころのことを思い出していた。
(しかし、この青年だって、いつかは、確実に、俺と同じ年齢になるのだ)
そのことが、章太郎の慰めであると同時に、悲しみでもあった。
「どうも、お待たせいたしました」
「いや。僕だって、たった今、来たところなんだから」
広太は章太郎の前の席に着いた。
「コーヒーでいい?」
「結構です」
章太郎は、給仕にコーヒーを二つ注文した。それを終るのを待っていたように、広太は、
「昨夜、渋谷の忠犬ハチ公の銅像のところで、小高秀子を待っているとき、お嬢さんにお会いしました」
「聞いた」
「そのことで、いろいろと弁明のようなことをさせて頂きたいのですが、それはあとまわしにして、先に、西田さんをお訪ねしたときからのことをお話しておきたいのですが」
「いいとも」
「西田さんは、たいへん喜んで下さいまして……。これも忘れないうちにいっておきますが、西田さんは、矢沢さんの伝言を聞いて、くれぐれもよろしくとのことでした」
「すると、西田さんは、お元気なんだな」
「そして、とってもお幸せそうでした」
章太郎は、広太の話を聞きながら、
(よかった、よかった……)
と、心の中で、思っていた。
西田のような生き方こそ、停年退職者として、理想的なのではなかろうか。
(それにくらべて、この自分は……)
すぐ、そのように思われてくるのだった。
「で、さっきまで、課長にその話をしていたんです。課長も、それではわざわざ行った甲斐があったな、といってくれまして、次号の東亜社報に、その訪問記をのせることになりました」
「いいことだよ」
「これも、矢沢さんのお陰です」
「まァ、そう思ってくれると、僕だって、嬉しいよ」
「ところで、そのとき、西田さんから聞いたんですが、昔会計課長をなさっていた綿井さんが、ガンでS病院へ入院していられるんですって」
「ガン……」
章太郎の顔色がくもった。
「何んでも、一人息子を戦争で亡くなさっているとか」
「だったかも知れぬ」
「病院の費用にもお困りのようなんです」
「うむ」
「ですから、社の有志で、お見舞金をお贈りしたらと思うんですが」
「いいことだ。僕は、すくないかも知れぬが五千円出させてもらうよ」
とっさに章太郎がいった。二人の前に、コーヒーがおかれた。
「五千円……、ですか」
広太は目をまるくするようにしていった。
「五千円では、すくな過ぎるだろうか」
章太郎は、コーヒーを飲みながらいった。同じくコーヒーを飲みながら広太は、
「すくな過ぎるどころか、あんまり多いので、びっくりしたんですよ」
「もし、そういう意味でいってくれたんなら五千円ということにしておいてもらいたい。僕にとっては、他人事でない気がするし、また、僕が五千円を出すことによって、それに右へならえをしてくれる人間が、一人でも多く出てくれるかもしれないし」
「よく、わかりました」
「君が世話人になってくれるね」
「課長ともよく相談して、善処いたします」
「頼むよ」
「ところで」
と、広太は、口調を変えて、
「彼女、まだ、出勤していないそうですね」
「そうなんだ」
「欠勤届も?」
「出していない。昨日の今日であり、心配していたところなんだ」
「昨夜の模様では、流石の彼女も、最後には納得したらしく見えたんですが」
広太は、小高秀子をレストランに連れて行き、さらに「ぐんじ」へ行ったところ、勝畑正造が来ていて、極めて好都合であったこと、最後に、郡司道子が、
「だれにだって、幸福になる権利はあるんだし、そのためには、勇気を出して、努力することだと思いなさいね」
と、やさしくいい聞かせたことを話した。
聞いていて、章太郎は、広太も、勝畑も、そして郡司道子も、それぞれが秀子の現在と将来のためを思って、一所懸命になってやっているのだ、ということをあらためて感じさせられた。それだって、章太郎自身が口を切ったからなのである。章太郎は、有りがたいことだと思った。何も彼もが円満に落着いたら、この三人のために一席をもうけてもいいような気がしていた。
「すると、彼女は、わかってくれたんだな」
「いえ、わかったとはいいませんでしたが、あたしがバカだったんです、といってましたから」
「そのときの容子《ようす》は?」
「すっかり悄気《しよげ》てしまって、それこそ、はじめの元気はどこへやらというところでした。何んとなく、遠《と》うくを見つめるような目つきをしていましたが」
「遠うくを?」
「私には、そんなふうに感じられました」
章太郎は、黙り込んだ。章太郎には、そのときの秀子の姿が見えてくるようであった。
(いったい、何を考えていたのであろうか)
もちろん、そんなことはわかるはずがなかったが、そのとき、章太郎は、何んとなく悪い予感のようなものを感じていたのであった。
(自殺……)
しかし、すぐに、
(まさか……。今ごろの若い娘が、たかが失恋ぐらいで)
と、打ち消した。
しかし、同じ失恋であっても、秀子の受けたショックは、極めて大きかったに違いないのだ。そして、被害も。現に章太郎は、のぼるの失恋状態を目のあたりに見ているのだが、そして、のぼるの失恋の内容は、いまだにわかっていないのだが、想像では、秀子の場合は、のぼるの比ではないような気がしていた。もっとも、これは、親の欲目というやつであったかもわからないが。
しかし、とにかく、現在ののぼるには、自殺をはかるような心配はなさそうだ。これは、章太郎にとって、何よりも有りがたいことであった。が、秀子に関しては、どうにも不吉な予感を制し得ないのである。ましてや、今日は、無断欠勤しているのだ。
黙り込んだままでいる章太郎に、
「どうか、なさったんですか」
と、広太がいった。
「いや、別に……」
章太郎は、そういっておいて、
「そのほかに、彼女の容子で、変ったところがなかったかね」
「そのあと、すぐに帰って行きました」
「一人で?」
「ママさんが送って上げましょうか、とおっしゃったんですが、その必要はありませんからといって」
「そうか」
「帰りしなに、皆さんにはいろいろとご迷惑をおかけいたしましてと、いやに神妙でした。それこそ、気味が悪いくらい」
「気味が悪いくらいとは?」
「と、私には、感じられたんです」
「マダムは、何かいってたかね」
「可哀そうに、と」
「勝畑君は?」
「自分は、明日から二日ほど出張するけど、帰って来たら今日のことを井筒君の耳に入れて、大いに反省を促すつもりだ、と」
「そうか、わかった。明日にでも彼女が出勤したら、僕からもよくいっておこう」
「その方がいいかもわかりませんね。彼女、今では、矢沢さんを恨むどころか、むしろ恩に感じているに違いありませんよ」
「さァ、どうだか」
「しかし、もし、これでまだ恨んでいるとしたら、あの女、人間じゃァありませんよ」
「そんないい方をしては、彼女が可哀そうだよ」
たしなめるようにいわれて、広太は、頭をかいた。しかし、だからといって、章太郎のいい分に納得したのではなかった。広太にとって、小高秀子は、いぜんとして同情に値いしない女のように思われていた。井筒のような男にだまされたのも、結局は自業自得なのだ、との思いを捨て切れないでいた。
「ところで、昨夜、お嬢さんにお会いしたときのことなんですが」
「…………」
「矢沢さんには、あとでご諒解を得ることにして、近くお茶に誘いたいのですがともうし上げたんです」
「…………」
「しかし、残念ながら、物の見事に断られてしまいました」
広太は、いかにもガッカリしたような、てれくさいような表情でいった。
「そのことなら、のぼるからきいたよ」
「私は、よくよくお嬢さんに嫌われているらしいですね」
「そんなことはないと思うが」
「でなければ、相当の不良と思われているのかな」
「娘が、君のことを不良と思うはずがない。現に、君からのよろしくという伝言を聞いた民子は、大上機嫌で、君のことをしきりにほめていたくらいだから」
「しかし、いくら民子さんにほめられても」
「それに、僕だって、君のことを、好青年といってある」
「すると、それでもなおかつ断られたところを見ると、お嬢さんには、別に恋人でもあるのかな」
章太郎は、胸の奥をギクッとさせながら、
「さァ……」
と、わざとアイマイにいったが、同時に、カギのかかる会社の机の曳出しの中にしまってあるのぼるの手紙を思い出していた。
(いっそ、あの手紙を、この男に見せてやろうか)
それによって、広太は、自分の誘いを断られた理由をわかってくれるだろう。しかし、あの手紙は、そういうことを全く予想しないで書かれたものなのだ。もし、何かのキッカケからあの手紙を、父親が広太に見せたことがのぼるにわかったら、どんなに恨まれるかもわからないのである。
いや、それ以上に、章太郎は、広太にのぼるが失恋したことを知られたくないのであった。ということは、まだ、のぼると広太との結婚に、いちるののぞみをつないでいるからであろうか。
「そういうことだったんなら、しようがありませんが」
「はっきり、いっておこう」
「どういうことでしょうか」
「僕は、これでも、娘と君との結婚を夢見たことがあるんだよ」
「ほんとですか」
「こういうことでは、嘘をいわぬ。しかし、娘は、当分の間、誰とも結婚しない、というのだよ」
「誰ともですか」
「そう。そして、その理由を聞いても、娘は、はっきりしたことをいわないのだ。そうなれば、いくら親でも、娘の口を無理に割らせるわけにいかんだろう?」
「そりゃァそうですとも」
そのあと、広太は、ちょっと考えてから、
「どうでしょうか、こういうことをお許し下さいませんでしょうか」
「こうなったら何んでも、いってみたまえ」
「僕は、今後、お嬢さんに積極的に接近することを、親として、認めていただきたいのです」
「…………」
「もちろん、目的は、結婚にあります。ただし、あらかじめお誓いしておきますが、男として卑怯であったり、恥かしい行為は絶対にいたしません」
「…………」
「あくまで、正々堂々と押し進みます」
章太郎は、正々堂々というのは、いかにも広太らしいいい方だと思った。そこに、すこしのキザさも、また、嘘も感じられないのは、広太の人柄のせいでもあったろう。ますます、のぼるは、この広太のような男と結婚した方が幸せになるのだとの思いを強くしていた。
黙っている章太郎に、
「やっぱり、そういうことはいけませんかね」
と、広太は、てれたようにいった。
「いや、いけないなんて、いってないよ。それどころか、あんな娘に、そのようにいってくれる君の気持を有りがたいと思っているのだ」
「すると、お許しいただけるのですか」
広太は、表情を明るくしていった。
「さっきもいったように、娘は、当分の間、誰とも結婚しないといっているので」
「だからといって、一生結婚なさらないわけでもないでしょう?」
「そりゃァそうだろう。でないと、父親の僕が困る」
「とにかく、お許しだけいただけませんか」
「君は、どういう方法で、娘に接近するつもりでいるんだ」
「具体的にはまだ……。しかし、要するに、正々堂々と考えているんです」
章太郎は、しばらくたってから、
「いいだろう。僕は、君の意見に賛成する」
と、決心がついたようにいった。
広太は、さっと立上がると、
「どうも、有りがとうございます」
と、頭を下げた。
「いや、お礼をいうのは、こっちの方だよ。それに、かえって、君を失望させたりするようなことが起らんとも限らない」
「そのことなら、あらかじめ覚悟をしてかかります」
「まァ、よろしく頼むよ。あんな娘だが、僕は、あれでなかなかいいところがあるような気がしているんだ」
「そうですとも」
「しかし、欠点だって、たくさんある」
「そりゃァ人間ですから」
「出ようか」
「ええ、出ましょう」
章太郎は、伝票を掴んで、立上がった。
勘定を払って、外へ出ると、広太は、待っていてくれた。二人は、肩を並べて、エレベーターの方へ歩いて行った。歩きながら、章太郎は、広太が、すでに自分の娘婿になったような錯覚を感じていた。
「私はね、矢沢さん」
「なんだね」
「昨夜ぐんじ≠フママさんを、あらためていい人だ、と思いましたよ」
「そうかね」
「絶対に結婚なさるべきですよ」
「しかし、無理だろうな」
「どうしてですか」
「第一、僕には、その前に決めておくべき停年退職後の就職問題さえ、まだ、解決していないんだから」
章太郎は、憮然としたいい方をした。二人は、エレベーターの前へ来ていた。
二人は、エレベーターに乗りこんだ。他にも三人ほど、いっしょになった。
「三階」
広太は、そういってから、
「たいへんなんですね」
と、同情するようにいった。
「しかし、そのうちに何んとかなるだろうよ。案ずるよりも産むがやすしって言葉もあるから」
章太郎は、わざと明るくいった。
エレベーターは、三階で停った。二人は、外へ出た。
「どうもいろいろ有りがとう」
あらためて、章太郎がいった。
「どういたしまして」
広太がいった。
章太郎は、厚生課の部屋へ入って行った。が、いぜんとして、小高秀子の席は、空席のままになっていた。
「小高君から、まだ、何んの連絡もなかったかね」
章太郎は、平山要一にいった。
「ありません」
「あの娘の家に、電話は?」
「ないんです」
「そうか……」
「もし、明日も無断欠勤をするようだったら、誰かをやってみましょうか」
「あるいはその方がいいかも……」
章太郎の前の卓上電話のベルが鳴りはじめた。郡司道子からであった。
「お元気ですの?」
章太郎は、その声を聞いただけで、ほっとした気分になった。
「ああ、元気だよ」
「よかったわ」
「さっき、坂巻君に聞いた。昨夜は、いろいろとお世話になったそうで」
「お世話だなんて、とんでもない」
「ところが彼女、今日は、無断欠勤しているんだよ」
「無断欠勤ですの?」
郡司道子は、眉を寄せたようだ。
「で、心配していたところなんだ。昨夜の彼女の容子では、何も彼も、わかってくれたようだったかね」
「あたしも、そのことが気になって、お電話をしたんですよ」
「というと?」
「一応、理屈ではわかったらしいけど、感情的には、まだまだ、ですよ。で、このあと、もう一波乱ぐらい起るんじゃァないかと」
「一波乱?」
「あの娘が、本当に幸せになるためには、ということなんですけど」
「やっぱり、そうか」
「ねえ、今夜ぐらい、いらっして下さいません?」
「行ってもいい」
「そしてね」
そのあと、郡司道子は、ちょっといい迷ってから、
「すこし遅くなるつもりで、よ。いいでしょう?」
「わかった。僕だって、そろそろ、だったんだから」
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ある結末
井筒雅晴の勤めている塩野建築設計株式会社は、東銀座にあった。小高秀子が、その玄関から車道をへだてた人道に姿を現わしたのは、今日の昼過ぎである。今や、五時を過ぎようとしていた。忍耐強く、そして、飽きもしないで、絶えず玄関の人の出入りに注意を払いながら、そこらを往ったり来たりしているのであった。
昨夜、郡司道子から、
「だれにだって、幸福になる権利があるんだし……」
と、いわれたことが、秀子の頭の中に、強く残っていた。
「だから、あたしにだって、当然幸福になる権利があるんだわ」
秀子は、その言葉を噛みしめるように何度も何度も繰返しているのであった。が、そのためには、どうしても井筒に会って、話をつける必要があるのだ。
秀子が、けさ、家を出たときには、会社へ行くつもりでいたのである。が、途中で、気が変った。一つには、矢沢課長の顔を見ることが辛かったのだが、それ以上に、昨夜、勝畑正造から聞かされたことの真偽について、一刻も早く、井筒にたしかめてみたかったのである。
秀子は、九十パーセントまで、勝畑のいったことに間違いなかろう、と思っていた。しかし、あとの十パーセントで、井筒にしがみついているのであった。自分でも、あまりにもみれんたらしいとわかっていた。が、わかっていて、そのみれんをどうにも断ち切れないでいるのであった。そんな自分が情なく、哀れで仕方がなかった。
秀子は、公衆電話から井筒に電話をした。
が、しばらく待たされてから、
「今日は、お休みです」
と、交換手がいった。
秀子は、とっさに、嘘だ、と感じた。腹が立って来た。三十分ほどして、こんどは、昨夜の勝畑の名を使って電話をした。
電話口に、井筒が出たのである。
「あたしですの。秀子ですの」
「…………」
井筒は、ギョッとしたらしかった。しばらくは、返辞をしなかった。
「モシモシ、聞えていますの」
「…………」
「あたし、どうしても、今日中に会って、お話したいことがあるんですけど」
「今日は、ダメなんだ」
「お昼の休憩時間中にでもいいんですのよ」
「ダメだね」
「では、明日は?」
「僕はね、もう君と会わないことにしたんだよ」
「どうしてですの?」
「前にもいったじゃァないか。君のとこの課長の矢沢が、あんまりうるさくいうからさ。だから、恨むんならあいつを恨んだ方がいい」
「では、あたし、会社を辞めてしまいます。それだったら、いいでしょう」
「バカなことを」
「いいえ、あたしは、本気ですのよ」
「とにかく、困るんだ」
「いったい、何をそんなにお困りになってらっしゃいますの?」
「…………」
「ねえ、おっしゃって」
「…………」
「あたしは、今日まで、あなたのおっしゃることなら、何んでも肯いて来たつもりですのよ」
「…………」
「ですから、これからだって」
「要するに、僕たちは、すでに赤の他人に戻ったんだからね」
「そんなこと、一方的にいわれて、あたしが、うんというとでも思ってらっしゃいますの?」
「あんまり面倒臭いことをいってくれるなよ。とにかく、僕は、矢沢課長と約束したんだし、もう君と会うことが出来ないんだ。わかったね」
「ちょっともわかりませんわ、あたし」
「どうして、そう察しが悪いんだ」
「まァ」
「いい加減に察したらどうなんだ」
そういうと、井筒は、勝手に電話を切ってしまった。秀子は、呆然として、その受話器を眺めていた。
最早、井筒の心変りは、決定的のようだ。しかし、そうなったらそうで、このままというのは嫌だった。何んとしても、井筒に会って、話をつけたかった。しかし、それだって、みれんに違いないのである。
秀子は、もう五時間も、立っているのであった。足が棒のようになってしまっている。自分の全身が、ホコリまみれになったようだ。泣きたくなっていた。そういう思いの中で、秀子は、母親を思い出し、父親を思い出していた。
(まさか、このあたしが、会社へも行かないで、今ごろ、こんなところにうろうろしていようとは、夢にも思っていないだろう)
秀子は、唇をゆがめるようにして、自嘲の笑みを浮べた。自分なんか、生きている甲斐のない女のようにすら思われてくるのであった。
五時半になろうとしていた。
塩野建築設計株式会社の退社時刻は、午後五時なのである。玄関から退社していく社員の姿が、目立って、ふえて来たようであった。秀子は、その中にまじっているだろう井筒の姿を見逃がすまいと、目を皿のようにしていた。
退社していく社員たちは、それぞれ、いかにも解放されたような顔で出てくる。うーんとばかりに背伸びをする者もいた。中にたくさんのビジネス・ガールがまじっているが、しかし、一つとして、秀子のように憂鬱になっている顔がないようであった。のんびり幸せそうだ。同じビジネス・ガールの一人として、秀子は、自分がこの世の不幸を一身に背負っているような情ない気分になっていた。
(でも、あたしだって、一カ月前には……)
たしかに、あのころには、幸せの絶頂にいたようだ。しかし、その幸せも、井筒にだまされていたからだと思うと、燃えるような憤りが胸底から噴き上げてくるのであった。
秀子の目が、急に光を帯びて来た。玄関から出て来た井筒の姿を見つけたのである。
井筒は、素速い目つきで、そこらを眺めているようだ。あるいは、秀子の姿を警戒したのであろうか。が、とっさに、車道をへだてた人道の電柱の陰に身をひそめるようにした秀子には、気がつかなかったようであった。何んとなくほっとしたようにうなずき、煙草に火を点《つ》けてから銀座の方へ歩きはじめた。
秀子は、そのあとを追った。四ツ角にくると、交通信号が青になるのを待ちかねたように小走りでわたり、井筒のうしろにまわった。井筒とはおよそ十メートルの距離をおいて、秀子は、つけていた。その目は、周囲を無視し、井筒の背中に釘づけのようになっていた。愛怨の二つに光る目であった。もし、第三者が、その目に気がついたら、ぞうっとして、目をそむけたかもわからない。それほど、異常であったのだ。
しかし、秀子自身は、あくまで冷静でいるつもりだった。ただ、井筒に声をかけるきっかけをさがしているのだ。
井筒は、一度も振り向かなかった。そのことが、秀子にとって、物足りなくもあったが、安心でもあった。振り向かれて、秀子に気がつき、さっと逃げられてしまったのでは、五時間以上も足を棒のようにし、全身をホコリまみれにして我慢していたことが、ムダになってしまうのだ。
井筒は、喫っていた煙草をポンと捨てた。それを靴底で、踏みにじっている。
(今だわ)
秀子は、小走りに近寄って行くと、
「井筒さん」
と、声をかけた。
井筒は、振り向いたが、秀子だと気がつくと、さっと顔色を変えて、逃げ腰になっていた。秀子は、そのことを予期していたように、するりと井筒の前にまわり、まるで、通せんぼうをするように、両手をひろげながら、
「お会い出来てよかったわ」
と、わざとニコニコしながらいった。
井筒は、何もいわないで、してやられたように下唇を噛みしめているだけであった。その顔を秀子は、かつては日本一の美男のように感じていたのである。が、今は、妙に薄手な顔に思われるだけであった。
「いろいろとお話したいことがありますのよ」
「…………」
「どこかへ連れてって」
「…………」
「あたし、ホテルへだって、かまいませんことよ」
井筒は、唇許《くちもと》をゆがめた。そこには、秀子への愛情のかけらも残っていないようだった。秀子は、絶望的になっていた。しかし、だからといって、このまま踵を返して、さっさと去って行く気にもならないのであった。これまたみれんであることはたしかだが、しかし、それ以上に、井筒の口から聞きたいことが、たくさんあるような気がしているのだった。
人通りが多いのである。まだ、両手をひろげたままでいる秀子と、その前で、不機嫌になっている井筒とを、ジロジロと見て行く人もすくなくなかった。
「ねえ、いつものようにホテルへよ」
秀子は、一歩を踏み出すようにしていった。
「冗談いうなよ」
井筒は、吐き出すようにいった。
「あたしは、もちろん、本気ですのよ。そして、うんと可愛がって」
「…………」
「あたしが泣きたくなるほど」
「…………」
「そのかわり、あたしだって、あなたのおっしゃる通りに、どんなことでもいたしましてよ」
「…………」
「ねッ、いいでしょう?」
秀子は、さらに、一歩を踏み出した。井筒は、二歩後退して、
「断る」
「そんなことをおっしゃらないで。あたし、ほんの一時間でもかまいませんのよ」
「断る」
「水くさいのね」
「そうなんだ」
「どうしてですの?」
「何度もいったじゃァないか、恨むんなら君のとこの課長を恨め、と」
「もう恨んでいるわ。しかし、それとこれとは、あくまで、別の問題でしょう?」
「いや、いっしょの問題なんだ、僕にとっては」
「あたしには、そこんとこがよくわからないんですけど」
「とにかく、その手をおろしてくれよ。みっともないじゃァないか」
「ごめんなさい」
秀子は、ひろげていた両手をおろした。そのかわり、更に、井筒の方へ近寄って行った。こんどは、井筒も後退しなかった。ために、二人の距離は、一メートルにまでちぢめられた。
「ホテルは、どうしてもダメ?」
「ダメに決っている」
「あたし、せっかく期待して来たのに、残念だわ」
「…………」
「では、せめて、どっかでお茶だけでも飲んで」
「僕は、今日は忙しいんだよ」
「三十分ぐらい、何んとかなりません?」
「ならん、ね。だから、失敬するよ」
井筒は、歩きはじめた。秀子は、同じく歩きながら、
「すると、明日も、お忙しいんですの?」
「そう、当分の間」
「当分の間って?」
「要するに、当分の間さ」
「じゃァ、その間、あたし、おとなしく待っていればいいんですのね」
「君には、僕のいっていることが、何んにもわかっていないんだなァ」
井筒は、いらいらするようにいった。
「きっと、頭が悪いんでしょうね。だから、もっとわかるようにおっしゃって」
「矢沢課長」
あとをいわせないで、秀子は、
「その話ならわかってますのよ。あたし、もっと別の話を聞きたいんだわ。ねえ、今夜にでも、お宅へお伺いしてかまいません?」
「うちへだって?」
井筒は、もう一度、顔色を変えた。が、秀子の方は、顔色も変えないで、
「そうよ、お宅へ」
「僕は、今夜、帰りが遅くなるんだ」
「何時ごろ?」
「そんなこと、わかるもんか」
「それでしたら、あたし、八時ごろにお伺いして、あなたがお帰りになるまで、奥さまとお話をしていることにするわ」
「…………」
「いいでしょう?」
「…………」
「では、そういうことに決めましたから」
いうと、秀子は、くるりと井筒に背中を見せて、歩きはじめた。
「待て」
うしろから井筒の声が聞えて来たが、秀子は、振り向かないで、却って、歩調を速くした。井筒は、そんな秀子の背中を憎らしげに見ていた。しかし、どうにも我慢が出来なくなって、小走りに追いつくと、
「待てといっているのに、どうして待たないんだ」
と、いいながら、秀子の腕をワシ掴みにした。
「痛いわよ」
「君が、待たないからさ」
「とにかく、この手をはなしてよ。こんな人中で、みっともないじゃァありませんか」
「もう、逃げないな」
井筒は、やっと手をはなした。
「それは、こっちのいうセリフなんじゃァないか知ら?」
「君は、僕を脅迫する気なのか」
「あら、どういたしまして」
「それだったら、何故、さっきのようなことをいうんだ」
「あなたが、外でゆっくり会って下さらないからよ」
「それにしてもだ。僕は、君のことを女房に聞かれたら、何んといえばいいんだ」
「正直におっしゃったら?」
「…………」
「自分は、この女と結婚する気でいるんだから、とよ」
「…………」
「あなたは、たしか、以前にそうおっしゃって下さったわね」
「…………」
「あたし、忘れていませんことよ」
「…………」
「どうせ、別れる奥さんなら、いいチャンスだし、早くおっしゃった方がいいわよ」
「…………」
「二人が結婚する以上、矢沢課長だって、一言の文句もいえないはずよ」
「…………」
「もっとも、あなたの今の奥さんは、重役の娘さんだというから」
「君は、だれにそんなことを聞いたんだ」
「勝畑正造さんに、よ」
「君は、勝畑を知っているのか」
「昨夜、渋谷のぐんじ≠ニいうバーで、お会いしたのよ」
「そうか」
井筒は、唸《うな》るようにいった。もう処置なし、という哀れな顔になっていた。
秀子は、そんな井筒の顔を横目に見ながら、
「あたしと結婚したら、クビになるかもわかりませんわね」
「…………」
「だけど、そうなったら、あたし、バーの女給さんにでもなって、あなたの次の就職口が見つかるまで、食べさせて上げるわよ」
「…………」
「あの渋谷のバーなんか、どうか知ら?」
井筒は、何かいいかけたのだが、思いとどまったようであった。
「あそこのママさんて、とっても親切な人らしいし」
「…………」
「ねえ、名案でしょう? そして、あたしって、貞女でしょう?」
「何が名案なもんか。何で貞女なもんか。そんないい方は、こっちが迷惑するだけだ」
「見解の相違、ということなのね」
「とにかく、今夜、僕の家へくるのは困る。絶対に困る」
「それでしたら、あたしから、あなたの会社の重役さんに、こういう事情です、ともうし上げて、二人のためにうまくはからってもらいましょうか」
「…………」
「こちらの愛情と誠意がわかったら、きっと、味方になって下さると思うんですけど」
「おい」
「なーに?」
「とにかく、この喫茶店へ入ろうじゃァないか」
井筒は、目の前にある喫茶店を指さしながらいった。
「でも、今夜のあなたは、お忙しいんでしょう?」
「そうさ。が、特別に、だ」
「悪いわね」
秀子は、皮肉な口調でいった。
「嫌だというのか」
「とんでもない。あたし、あなたとだったら、地獄へでも行くつもりでいるのよ。あなたって、こんなに惚れられていて、幸せでしょう?」
「ああ、幸せだよ」
「よかったわ、そういって下さって」
「あんまり幸せ過ぎて、泣きたいくらいに思っているんだ」
「もう、あなたの涙は、結構よ。あたし、男の泣顔なんか、あんまり見たくないわ。だって、みっともないだけなんですもの」
「この喫茶店へ入るのか、入らないのか」
「もちろん、入りますわ。その間だけでも、あなたといっしょにいられるんですもの。もっとも、あたし、ホテルの方が、もっと嬉しいんだけど、今夜は、いけないんでしょう?」
それには答えないで、井筒は、目の前の喫茶店のトビラを押し開いて、中へ入って行った。秀子は、そのあとに続いた。二階もある喫茶店だった。井筒は、その二階を選んだ。二階は、階下に比較して、空いていた。
二人は歩道の見下ろせる窓際の席に向い合って、腰を下した。
「君は、何んにする?」
井筒はいった。
「あなたは?」
秀子は、井筒の顔を見ながらいった。その顔には、苦渋の色が、ありありと出ていた。それだけでも、井筒の心の底が見えてくるようで、秀子は、このまま、席を蹴って、立ちたいくらいであった。しかし、問題をここまで、追い詰めたのである。最早、中途半端なことで引っ返してはいけないのだ。
「僕は、コーヒーだ」
「だったら、あたしも」
井筒は、給仕にコーヒーを注文してから、煙草を取出した。秀子は、素早くマッチを取って、
「あたし、つけてあげるわ」
「いいよ、そんなこと」
井筒は、ポケットから舶来のガス・ライターを出して、火をつけた。
「つまんないの。いぜんには、喜んでつけさせたのに」
井筒は、答えなかった。これからどう話を切出そうかと迷っているようであった。
秀子は、すこしはなれた席で、額を寄せ合うようにして話している二人組の方を、それとなく見ていた。
男は、中年で、課長クラスのようだ。
女はビジネス・ガールのようだ。
その二人の仲が、ただの仲でないらしいことは、秀子にも容易に察しられた。
(かつては、あたしたちも、あのようにしていたんだわ)
秀子の胸がきゅっと痛くなってくる。女の肩を叩いて、忠告してやりたいくらいだった。どういう結末になるか、ここにいい見本がありますよ、といって……。
コーヒーが来た。
「お砂糖入れて上げるわね」
井筒は、答えなかった。秀子は、勝手に砂糖を入れ、更に、ミルクも入れてやった。しかし、井筒は、すぐに口をつけようとはしなかった。
「お飲みになりませんの?」
「飲むさ」
井筒は、一口飲んで、
「君は、どうして、渋谷のあのバーへなんか行ったんだ」
「会社の坂巻さんに連れられてよ」
「その坂巻とかって、若い男か」
「そうよ」
「独身なのか」
「そうよ」
「すると、君は、そういう独身の青年に連れられて、しょっちゅうバーへなんか、出入りしているのか」
「しょっちゅうだなんて、失礼よ。たったいっぺんだけだわ。それだって、矢沢課長にいいふくめられて、あたしに、あなたとのことを説教するためだったらしいのよ」
「わかるもんか、そんなこと」
「お信じにならないの?」
「そうさ」
「ああ、わかったわ。あなたのおっしゃりたいのは、それだけでもあたしに、あなたと結婚する資格がないということなんでしょう?」
「ああ、そうなんだ」
井筒は、ヤケクソのように言った。秀子は、ジロリと見て、
「そんないい方は、お人柄にかかわりましてよ」
「ご親切に」
「あたしのいっていることが嘘か本当か、勝畑さんにお聞きになったら、わかりましてよ」
「勝畑か……」
井筒は、心の中で、
(よけいなおしゃべりをしやがって……)
と、舌打ちをしたくなっていた。
しかし、その勝畑に、井筒が郡司道子から皮肉まじりに脅かされたとき、何んとかしてくれよと頭をさげたのである。
「ご親友なんですってね」
「親友なもんか。ただの通りいっぺんの友達だ。それに、あの男はときどきデタラメをいって、人を困らしては喜んでいる悪い癖があるんだ」
「すると、昨夜は、あたしの誘いを断って、奥さんたちと映画にいらっしたことも?」
「そうさ」
「奥さんが、重役の娘さんであることも?」
「…………」
「勝畑さんは、あたしの名を聞いて、あなたのことなら井筒君からときどき聞いているとおっしゃったわよ。そして、あなたが、もうあたしと別れたいのだ、とおっしゃったということも?」
「…………」
「あたしには、そろそろ飽きが来た。次の口が見つかったら、当分の間、両手に花でいこうとおっしゃったことも?」
「…………」
「何んだったら、僕のお古だが、君にゆずってやってもいいとおっしゃったことも?」
「…………」
「そうね。いくらなんでも、そんなこと、嘘に決っているわね。あたし、うかつだったのよ。ごめんなさい」
秀子は、頭を下げておいて、
「いつだって、あんな女房なんかと鼻であしらい、僕の世話なんかちっともしてくれない女房だと不満を述べて、僕は、どんなことがあっても、君と結婚するつもりなのだといいながらあたしを可愛がって下さったあなたが、かりそめにも、そんなバカなことをおっしゃるはずがありませんわね」
「…………」
「あたしが悪かったんだわ」
「…………」
「つい、人の口車に乗って、すっかり取乱したりして、恥かしいわ」
「…………」
「ねえ、そうでしょう?」
「…………」
「そうだといって」
「…………」
「そうしたら、あたし、おとなしくします。勿論、今夜お宅に伺ったり、それから、あなたの会社の重役さんに会いに行ったりはしませんわ」
「…………」
「そして、待てとおっしゃるんなら、このまま一年でも二年でも、じっとして待っています。だって、あたしにとって、あなたって、いのち同様なんですもの」
「…………」
「ねえ、あたしにばかりしゃべらせないで、何んとかおっしゃって」
「…………」
「ああ、わかったわ。矢沢課長のことを気にしてなさるんでしょう?」
「…………」
「それだったら、絶対に大丈夫よ。勿論、あたしは、明日にでも会社で、いとも神妙な顔をして、矢沢課長に、あたしが悪うございましたぐらいのことをいって、うまくゴマ化しておくわ」
「…………」
「それに、あの課長、あと五カ月足らずで停年になるのよ」
「…………」
「会社にいなくなってしまったら、もうしめたものでしょう? あたしたちのことについて、とやかくいう権利も資格もなくなってしまうんだし」
それでも黙っている井筒に、秀子は、必死の哀願をこころみるような顔で、
「こんなにあたしがお願いしてもダメなの? 二度と可愛がって下さらないの?」
「…………」
「そりゃァあたし、さっきから随分と取乱して、無茶苦茶をいったかもわからないけれど、結局は、あなたを愛しているからなんだわ。いのちがけで、愛しているからだわ」
「そりゃァ僕だって」
やっと、井筒は、口を利いた。とにかく、井筒にとって、今夜、この女に家へこられたりしては困るのである。それこそ、身の破滅になりかねない。この女のことが、妻の父親である重役の耳に入ったら、そんな男に大事な娘をまかせておかれないといって、強制的に別れさせることだって考えられる。とにかく、気の強い父親なのだ。その結果として、自分の出世がとまるばかりか、やがては、会社にいられなくなりそうだ。
しかし、井筒は、さっきからこの女に対して、最早何んのみれんも感じていないことを、骨身にしみるほど、思い知らされていた。顔を見るのも嫌なくらいになっていた。
井筒は、これでも女と別れることにかけては、自慢していたのである。泣いてみせたらわけはないのだと思っていた。更に、別れた女からは、恨まれたことがないとも……。
しかし、秀子だけは、例外だったようだ。いや、例外になろうとしている。うかつに扱えないのだ。井筒は、そんな秀子に憎しみをすら感じはじめていた。
(とんでもない女に、手を出してしまった!)
しかし、この女は、まだ自分に惚れ抜いているのだ。だから、そこをうまく利用してやることである。
「ほんとう?」
秀子は、目をかがやかして、井筒の顔を見た。
「そうさ」
「ねえ、もう一度、おっしゃって?」
「くどいよ、君は」
「ごめんなさい。だって、嬉しいことは、二度でも、三度でも、聞いておきたいんですもの」
「君は、さっき、このまま二年でも三年でも、じいっとおとなしく待っている、といったね」
井筒は、秀子の目の奥を覗きこむようにしていった。井筒の得意の表情なのである。井筒からこういうふうにして眺められると、たいていの女は、一コロになる。すくなくとも、井筒自身は、過去の実績からして、そのようにうぬぼれていた。
秀子は、その井筒の目をまぶしそうに見返しながら、コックリとうなずいた。
(効果があった……)
井筒は、心の中でニヤリとしていたが、うわべは、あくまで深刻ぶって、
「僕としては、今は、そういう方法しかないと思っているんだよ」
「もっと、わかりやすくおっしゃって」
「要するに、矢沢が停年退職するまでは、お互いに自重して、会わないんだ」
「辛いわ、そんなの」
「勿論、電話もかけない」
「辛いわ、そんなの」
「そこを我慢してくれなきゃァ。辛いのは、僕だって、おんなじなんだ」
「…………」
「僕が、矢沢からうるさくいわれたとき、君と別れることも考えてみたんだ」
「嫌よ」
「黙って、聞きたまえ」
「はい」
「が、そのことが、どんなに悲しいことか、骨身に徹するくらいわかったんだよ」
「あたしとおんなじなのね」
「二人がしんけんに愛し合っているということなんだよ。その二人が結婚するためには、いろいろの準備が必要だ。僕だって、今の会社をいつ辞めても、次の就職口がすぐ見つかるようにしておかなければならないし……」
「…………」
「大好きな君を、どうしてバーになんか勤めさせられようか」
「…………」
「そんなことになったら、僕は、ヤキモチを焼いて、死にたくなるだろうよ」
「…………」
「二人の結婚の目標を、二年先において、すくなくともここ半年間は、周囲の目をゴマ化すために、完全に赤の他人になっておくのだよ」
「…………」
「しかし、いくら赤の他人になっていたからといって、いつも心が通じ合っているんだ。そこに何んの心配もいらんと思うんだ」
「…………」
「どうだね、僕の案に賛成してくれる?」
「…………」
「賛成してくれるね。そして、今夜、僕の家へ行くなんて、そんなバカなことをいわないね」
「…………」
「どうして、黙っているんだ」
「…………」
「何んとか、いったらどうなのだ」
井筒は、いらいらするようにいった。
しかし、秀子は、黙って井筒を見ているだけであった。いつの間にか、さっきまでのまぶしそうに井筒を見ていた目が、冷たくなっていた。唇許《くちもと》に、皮肉めいた微笑が漂っていた。
それに気がついて、井筒は、顔色をかえた。せっかくの自信を根底からぐらつかせられたように狼狽していた。
「あなたのおっしゃりたいのはそれだけ?」
「何んだと?」
井筒は、狼狽から開き直ったように態度を変えた。
「同じことを、何度もいわせないでよ」
「失敬な」
「それは、こっちのセリフのように思いますけど」
「君は、いったい、何を思い違いしているんだ」
「思い違いとは?」
「うるさい」
「ついでに、黙れ、とおっしゃったら?」
秀子は、負けていなかった。憤りとも悲しみともつかぬものが、胸の中で、ドロドロになって渦をまいていた。
こちらの荒い気配に、さっきからいるアベックは、おどろいたようにこっちを見た。女の方は、
(嫌あねえ)
と、いうように、媚びた目で男を見ると、
(そうだよ)
と、男の目が、うなずき返していた。
勿論、井筒も、秀子も、そこまでに気を遣う余裕を失っていた。
「よーし、黙れ、といってやろうか」
「だけど、もうあなたの自由にはなりませんからね」
「すると今夜は、僕の家へ行く、というのか」
「そのことが、いちばん心配なのでしょう?」
「…………」
「そして、そのために、あと半年間は、赤の他人でいようとおっしゃりたかったんでしょう?」
「…………」
「嫌いになったんなら、はじめから男らしくおっしゃるべきなんだわ。それなのに、あなたは、この上まだ、あたしを騙そうとなさるのね。自分だけ、いい子になりたいのね。あたしって、そんなにバカな女に見えまして?」
「…………」
「一度は騙されても、二度は騙されませんことよ」
「…………」
「はっきり、わかったわ。あんたって、人間の誠実というものをカケラほども持合わさぬクズのような男であることが」
秀子は、立上がった。井筒は、怯えたように見ていた。
「安心してらっしゃい。あたし、あんたの家へなんか行きませんから。そのかわり」
「そのかわり?」
「あんたなんかに、関係のないことよ」
叩きつけるようにいうと、秀子は、靴音も荒く階段を降りて行った。
翌日、矢沢章太郎は、出勤すると、先ず見たのは、小高秀子の席であった。が、姿は見えないのである。何んとなく、胸をドキンとさせられた。
「お早うございます」
課長代理の平山要一は、そういいながら寄って来た。
「お早う」
章太郎は、答えておいて、
「今日は、小高君は、まだ?」
「そのことでなんですが」
平山は、課長机の前の丸イスに腰を下して、
「さっき、若松成子さんがいいに来ました」
「何んと?」
章太郎は、成子の方を見た。成子も、こちらの気配で、何かを察したらしく、ちらっと課長席の方を見たところだった。
「昨夜、小高秀子が、若松さんの家へやって来たそうです」
「それで?」
「風邪を引いたから四、五日、会社を休みたいといったそうです」
「四、五日も?」
章太郎は、眉を寄せた。悪い予感のようなものが、しきりに胸の中を動いていた。
「もっとも、早く癒《なお》ったら、もっと早く出勤するといっていたというんですが」
「そうか」
章太郎は、平山の口からでなく、直接若松成子の口から、そのときの秀子の容子を詳しく聞いておく必要を感じた。
「困ったもんですね」
平山がいった。
「とにかく欠勤届を出しておいてやってくれないか」
「かしこまりました」
平山は、秀子について、もっと話したそうであったが、章太郎の方で、その気がないらしいと感じて、自分の席に戻った。
章太郎は、煙草に火を点けた。昨夜は、郡司道子と、久しぶりにホテルへ行ったので、身体が軽くなったような気がしていた。いや、章太郎よりも、郡司道子の方が、よりそうであったらしく、
「どうも、有りがとうございました。これで、明日から当分の間、ヒスなんか起さないで、店の女たちを可愛がってやれますよ」
と、冗談めかしてではあるがいっていた。
ホテルにいたのは、十一時半頃から午前一時頃までであった。したがって、章太郎の帰宅は、午前一時半になってしまった。のぼると民子は、すでに寝ていて、章一も、そろそろ寝ようとしていたところであった。
「お帰りなさい」
章一がいった。父親が、外で、そういうことをして来たとは、夢にも考えていなかったろう。
「風邪をひかないようにしておやすみよ」
章太郎は、早々に自分の部屋へ引きあげたのだが、
(俺は、悪い父なのでは……)
と、良心の呵責《かしやく》のようなものを感じていた。
だからといって、章太郎には、郡司道子と別れる気はなかった。今では、自分にとって必要な女なのだ、と思うようになっていた。
その必要な女、郡司道子から、章太郎は、その夜の小高秀子のことについて、あらためて詳しく聞いたのであった。
「結局は、あきらめるでしょうが、何んといっても、とても気の強い娘ですから、あたしは、このままではすみそうにない気がしたんですよ」
郡司道子がいった。
「というと?」
「たとえば、もう一度、井筒さんに会いに行くとか」
「うん」
「あるいは、ヤケクソになって、井筒さんの奥さんに会いに行くとか」
「そんなことをしたら、井筒が困るだろう」
「だって、自業自得じゃァありませんか」
「それはそうだろうが、結果として、小高秀子の方が傷を深くするだけだからね」
「しかし、本人にしてみれば、そんなことをいってられないんじゃァないか知ら?」
「とにかく、明日出勤して来たら、もう一度、僕からよく話してみよう」
「そうね」
「しかし、明日も無断欠勤というのだったら、このまま、放っておけないと思うんだよ」
「そうよ」
「僕は、場合によっては、あの娘の家へ行ってみてもいい、と思っているんだ。とにかく、僕は、課長として、あの娘の秘密を知っていながら、そのことで、両親に一言もいってない。それが間違いでなかったかというような気がしているんだ」
「でも、悪意があってのことではありませんから」
「そういう意味からでなく、自分の思慮不足のために、一人の娘の一生をめちゃめちゃにしてしまうことになったのではないかと、それを恐れているんだ」
「そこまで深く、お考えにならない方がいいんじゃァない?」
「ところが、性分のせいか、考えぬわけにいかんのだ」
「そこがまた、矢沢さんのいいところね。あたしが、こんなに好きになるのも、無理ではないでしょう?」
「おおきに」
「どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
郡司道子は、ピョコンと頭を下げた。
「いや、それは、こちらのいうセリフのようだよ」
章太郎の方でも、笑顔で頭を下げた。
郡司道子は、坂巻広太から、章太郎と結婚すべきだ、といわれたことを思い出していた。それを、章太郎にいってみたいくらいだった。が、いうかわりに、
「あの坂巻広太さんて、近ごろまれに見るような好青年ね」
「そうなんだ」
章太郎は、深くうなずいてみせて、
「僕は、これでも、娘ののぼると、あの男との結婚を夢見たことがあるんだよ」
「いいじゃァありませんか」
「しかも、坂巻君からその意志があるから、のぼるとの交際を許してくれ、とまでいわれたんだよ」
「ますます、いいじゃァありませんか」
「ところが……」
「ところがって?」
郡司道子は、章太郎の眉が寄せられていることに気がついた。いかにも、憂鬱そうなのだ。憂鬱というよりも、悲しそうだ、といった方が当っていたろうか。郡司道子の知っている章太郎は、めったにこういう顔を見せない男なのである。
「娘の方に、その意志がない、というのだ」
「どうしてか知ら? あんないい青年なのに。お嬢さんは、坂巻さんとお会いになっているんでしょう?」
「そう、二度」
章太郎は、その二度のいわれを話してから、溜息をつくようにして、
「結局、娘は、先日、ちょっと話したように最近に失恋しているからなんだよ」
「その気持わかるけど」
「そうなんだ」
「可哀そうに。で、その相手は、どういう人?」
「それが、僕にもいわないんだよ。しかし、小高秀子のような間違いだけはおかしていないようだ」
「小高さんのようなのは、例外ですよ。でも、親としては、それだけでも安心ね」
「僕が、もし、小高秀子の父親であったら、井筒のところへ怒鳴り込んで行ったかもわからない」
「わかります」
「娘は、坂巻君とだけでなく、誰とも当分の間、結婚したくないといってるんだ」
「失恋したばかりなら、当然のことね。だけど、お嬢さんから、矢沢さんに、自分の失恋の話をなさいましたの?」
「じつは、それについて、世にも涙ぐましい話があるんだが、聞いてくれる?」
「聞かせて」
「一カ月ほど前、すこし遅くなって、家の近くまで来たら、家の前で、じいっとうなだれている人がいたんだ」
「それが、お嬢さんでしたのね」
「そう」
章太郎は、そのときのことを思い出しているような顔でうなずいて、のぼるから手紙をもらうまでにいたった経緯を話した。郡司道子は、神妙に聞いていた。
「何んといっても、母親のない娘だし、いっそうふびんがかかるんだよ」
郡司道子は、
(あたしでは、その母親の役は、出来ないでしょうか)
と、いいたいのを我慢して、
「で、そのお嬢さんからのお手紙は、今でも、会社のカギのかかる机の曳出しの中に、しまってありますの?」
「そのうちに、破り棄てようとは思っているのだが」
「どういうことが書いてありますの?」
「その通りを、ここでいってみようか。何度も読み返しているので、もう暗記してしまっている」
「もし、お差支えがなかったら聞かせて」
章太郎は、目を閉じると、のぼるの手紙の文章をいいはじめた。
「お父さま。
今夜は、ご心配をおかけして、申訳ございません。
のぼるは、失恋してしまったのです。さっきは、どうしてもそのことをいえなかったのです。でもお父さまからいろいろといって頂いて、本当によかったと思っております。今は、まだ元気がありませんが、そのうちにきっと元気になります。
失恋の内容については、当分の間、お聞きにならないで下さい。元気になったら、きっともうし上げますから。口ではいえないので、こんなお手紙を書きました。
では、おやすみなさい。
[#地付き]お父さまののぼるより
のぼるのお父さまへ」
いい終っても、章太郎は、まだ目を閉じたままでいた。そして、その目には、うっすらと涙がにじみ出ているようであった。
郡司道子は、聞いていただけで、のぼるとはどういう娘か、わかるような気がしていた。失恋の痛手に、けなげに堪えようとしていることが感じられて、哀れであった。母親のないことが可哀そうだが、しかし、こういう手紙を書ける父親がいるということは、幸せだというべきであろう。父と娘が、相寄り添っている姿が、はっきりと感じられて、自分なんかの入り込む余地がないように思わせられていた。
(しかし、のぼるさんだって、いつかは、お嫁に行ってしまうんだわ)
そして、更に、章一も結婚するのだ。そのあと、章太郎は、ひとりぼっちになるのである。
(そのときこそ、この人にとって、あたしが必要なんだわ)
郡司道子は、それまで、五年でも、十年でも、待とうという気になっていた。いいかえれば、自分に、そう思うことの出来る相手のあることは、これまた、一つの幸せなのである。
郡司道子は、ハンケチを取り出すと、
「はい」
と、章太郎の前に差出した。
章太郎は、目を開いて、
「ああ、そうか」
と、その香水の匂いのかすかにするハンカチで、軽く目頭をおさえておいて、
「泣いたりして、おかしいか」
「いいえ、ちっとも」
郡司道子は、急いで、頭を横に振り、
「あたしですら、泣けて来そうでしたもの」
「有りがとう」
「で、近頃のお嬢さまは?」
「だいぶん、元気にはなっているが、まだ、失恋のいわれについて話すところにまではいたっていないようなんだ」
「坂巻さんと交際していたら、しぜんに前の痛手を忘れられるようになるかもわかりませんのに、ね」
「僕も、そう思ったので、坂巻君には、娘に接近することを許しておいた。娘からは、断ってくれといわれたのだが」
「それで、いいんじゃァありませんか」
「娘から叱られるかもわからないが。ただ、坂巻君は、あくまで、正々堂々と接近するといっていたから」
「坂巻さんなら、きっと、そうですよ」
「が、僕として、一つだけ、気にかかっていることがあるんだよ」
「どういうこと?」
「娘が失恋したばかりであるという事実を、坂巻君に打明けてないんだ」
「そんなこと、おっしゃる必要がないでしょう?」
「もっとも、坂巻君だって、かつて、失恋したことがあるようにいっていたが」
「問題は、失恋の内容によるけど、坂巻さんなら、大丈夫でしょう」
「と、思うんだが、しかし、あとで、坂巻君から、そんなことなら、あらかじめいっておいてもらいたかった、と恨まれても困るし」
「もし、そうなったら、坂巻さんを、あたしの方にまわして。あたしから、うまくいって上げます」
「頼む」
「まかせておいて」
「どうも、何から何まで、君のお世話になるようだが」
「あたしは、その方が、嬉しいんですから」
「小高秀子のことについても、今後、また頼むことがあるかもわからないが」
「いいわ」
郡司道子は、親分のようないい方をしてから笑ってみせたのである……。
章太郎は、そのときのことを思い出したりしながら、たまっている未決の書類を、片づけていた。それが終ってから、立上がると、若松成子のうしろへ行き、
「若松さん、ちょっと……」
と、いっておいて、廊下へ出た。
成子は、章太郎のあとから出て来た。
「すこし、あんたに話を聞きたいことがあったんだ」
「はい」
「今、十分ぐらいならかまわない?」
「はい」
「だったら」
章太郎は、先に立って、歩きはじめた。二号の応接室が空いていたので、そこに入った。成子は、硬くなっているようだった。
「じつは、小高秀子さんのことで、あんたに聞きたかったのだよ」
「はい」
「あんた、小高秀子さんが、男とホテルから出てくるところを見たんだって?」
成子は、あかくなりながら、
「千駄ケ谷に、あたしの親戚がありますので、そこへ行った帰りに……」
「そういうことは、どうでもいいんだ。また、そのことで、小高秀子さんを叱ろうと思っているのでもない。ただ、相手の男が悪いので、心配しているのだ」
「はい」
「小高秀子さんが、昨夜、あんたの家へ行ったって?」
「はい、夜の八時頃に」
「そのときのこと、詳しく話してくれない?」
昨夜、若松成子が、近所にある風呂から帰ってくると、家の前に、誰かが立っていた。近寄って見ると、小高秀子であった。
「まァ、どうなさったのよ」
成子がいうと、
「別に、どうもしないわ」
と、秀子は、ぼんやりした表情でいった。
しかし、成子には、秀子の容子《ようす》が、ただごとに思われなかった。何か、特別の理由があって、わざわざ訪ねて来たのに違いない。それに成子は、近頃、秀子が、井筒のことで悩んでいるのを知っていた。本人が、成子にそう喋《しやべ》ったのではないが、井筒に電話をかけたあと、妙に沈み込んでいたり、腹をたてそうにしていたことから、そうと察していたのである。二人の机がとなり合っているので、それくらいのことは、すぐにわかるのであった。以前の秀子は、井筒に電話したあと、ランデブウの約束が出来ると、いかにも幸せそうに、成子の方へウインクをしてよこしたりしたものだ。
「しばらく、そこらを歩いてくれない?」
秀子がいった。
「そりゃァかまわないけど、いっそ、あたしの家へ入らない?」
「あたしは、外の方がいいの。それに、あなたの家の人に、なるべく顔を見られたくないのよ」
「じゃァちょっと待ってて。金ダライを家においてくるから」
成子は、そういっておいて、家の中へ入って行った。
「さっき、会社の小高さんがお見えになったよ」
母親がいった。
「そこで、お会いしたわ」
「あんたがお風呂だといったら、あとでまたくるからといって。上がってお待ちになったらといったんだけど、いいんですといって、早々に出て行ったんだよ」
「そう」
「何んとなく、そわそわしていたようだったけど」
「何か、あたしに話したいことがあるらしいんです」
「それだったら、会社で話したらいいのに、ね」
「だって、急な話かも知れないし」
成子は、秀子の情事については、家の者に喋っていなかった。何故なら、そういう話は、きっと、家の者にいい感じをあたえないだろうし、その上、自分の行動にまで、無用の神経を費わせることになるだろう、と思ったからであった。
「それはそうかもわからないけど」
「小高さんは、外でお待ちになっているのよ。あたし、しばらくいっしょに歩いてくるわ」
「大丈夫かい?」
「何んのことよ」
母親は、成子の詰問口調に折れて、
「とにかく、あんまり遅くならないようにするのよ」
「わかっているわ」
成子は、いったん自分の部屋に入り、万一の用意のために、財布を持って外へ出た。
秀子は、成子の家から二十メートルぐらい先にある電柱に背をもたれさせて、向うの方を見ていた。成子が近寄って行っても、振向かなかった。何か、深刻に考え込んでいるか、放心状態になっているか、どっちかのようであった。
成子は、薄気味悪くなっていた。いよいよただごとでないように思われてくる。しばらく、声をかけそびれていたが、やがて、思い切って、
「お待ち遠うさま」
秀子は、ゆっくり成子の方を見てから、黙って歩きはじめた。成子は、ちょっと面白くなかったが、口に出していうほどのことでもないと、そのまま、秀子と並んで歩いた。
午後八時を過ぎたばかりの住宅街には、人通りがすくなかった。しかし、三百メートルほど先には、商店街があって、そこは明るく、たくさんの人が歩いているのが見えていた。二人は、その商店街に向っていた。
「ねえ、話って、何よ」
たまりかねて、成子がいった。
「たいした話でもなかったのよ」
秀子は、物憂そうに答えた。
「で?」
「…………」
「あんた、今日、会社をお休みになったわね」
「…………」
「あたし、今日は、休暇届を出しておいたけど、課長さん、心配してらしったわよ」
「そう」
「明日は、出勤するでしょう?」
「休むつもりよ」
「どうして?」
「休みたいから」
「明日だけ?」
「いいえ、明日も、明後日も」
「…………」
「あたしの休暇、まだ、十日ほど残っているはずなのよ。だから、四、五日は、大威張りで休めるんだわ」
「わかったわ」
成子は、サジを投げたようにいった。
「明日、四、五日、風邪引きで休むということにして、休暇届を出しておいてくれない?」
「いいわよ」
「もっとも、もっと早く出るようになるかわからないけれど」
「そのようにいっておくわ」
「風邪で、三十九度からの熱が出ているっていっておいてもらってもいいのよ」
「そこまで、嘘をつくの、あたし、ごめんだわ。だって、あなたは、そのようにピンピンしてらっしゃるじゃありませんか」
「では、適当にいっておいて」
「あなたが、あたしんとこへいらっしたといってもいい?」
「適当にいっておいて」
「いっそあなたから平山さんにでも、そのようにお電話をなさったら?」
「それが嫌だから、わざわざこうやって、あなたに頼みに来てるんじゃァありませんか」
秀子は、不機嫌になっていった。
「あたしには、それが嫌だから、とおっしゃる理由がわからないのよ」
成子は、負けていずに、いい返した。
「あんた、憤ったの?」
秀子は、急に、成子のご機嫌を取るようにいった。
「あら、どういたしまして」
成子は、わざと冷たくいっておいて、
「あなたの話ってのは、それだけだったのね。とにかく、明日、休暇届を出すことだけは引受けたわ」
「お願いね」
「あたし、ここで失礼してよ」
「あら、もう帰るの?」
「だって、話は、終ったんでしょう?」
「終ったけど、もうしばらくいっしょにいてくれてもいいじゃァありませんか」
「そりゃァいてもいいけど、今夜のあなた、素直な感じがしないから、あたし、嫌いよ」
「ひどいことをいうのね」
「あたしは、当りまえのことをいっているつもりだわ」
「とにかく、どこかで、お茶でも飲まない?」
「そりゃァ飲んでもいいけど」
「あたし、おごるわよ」
「あたし、割カンで結構」
ことごとに高飛車に出てくる成子に、秀子は、圧倒されているようだった。こんなはずではなかったのである。いつもだと、たいてい、自分の方が、うわてであったのだ。一段と高いところから、成子を見下していたつもりであったのだ。そういう成子に威張られて、つい下手に出てしまう自分を、
(結局、井筒さんに、あんな目にあわされて、自信を失っているからなんだわ)
と、口惜しかった。
あの井筒の態度やいい草を思い出すと、胸の中が煮えくり返ってくるようであった。殺してやりたいくらいだった。といって、みれんがないわけでなかった。
秀子は、ここへくるまでに、三十分以上も、井筒の家の前をウロウロしていたのである。何度か、呼リンを押しかけたくらいだった。井筒の奥さんの顔を見てやりたかった。ついでに、自分と井筒のことを喋ってやりたかった。
しかし、流石に、その決心がつかなかった。却って、奥さんから叱り飛ばされるかもわからないのである。そのうちに、いつまでもウロウロしている秀子を、ウサン臭そうに見る人が現われて来た。それに気がついて、秀子は、逃げるように、そこをはなれて来たのであった。そういう自分が、泣きたくなるほど、みじめに思われた。
二人は、商店街に出て、喫茶店に入った。
「あなた、何んになさる?」
秀子がいった。
「あたしは、紅茶」
「ビールを飲んでみない?」
「まァ、ビールを?」
「この店にだって、ビールはあるでしょう?」
「そりゃァあるでしょうけど」
「あたし、ビールが飲みたくなったのよ」
「だったら、あなた、どうぞ、あたしは、紅茶で結構」
「つき合いの悪い人ね」
秀子は、恨めしげにいってから、ビールと紅茶を注文した。
先にビールが来て、二人の前に、グラスがおかれた。
「どうぞ、すこしだけ」
秀子は、ビール瓶を成子に向けながらいった。
「あたしは、飲めないし、飲んでみたいとも思いませんから」
成子は、グラスの上に手をおきながらいった。
「こんなおいしい物が飲めないなんて、そして、飲みたいとも思わないなんて、あんたって、不幸ね」
「あたしが、そう思っていないからいいでしょう?」
成子の紅茶が来た。
秀子は、自分でビールを注いで、
「では、カンパイしましょう」
と、いったんグラスを目の高さに上げてから、ぐぐっと半分ほどを飲んでしまった。
「とってもおいしいわよ」
「あたしの目には、まるで、ヤケ酒のように見えるわ」
「ヤケ酒ですって?」
「ズバリいって上げましょうか」
「何を、よ」
秀子は、不安そうに、成子を見た。成子は、見返して、
「あんた、井筒さんに振られてしまったんでしょう?」
「そ、そんなこと、あるもんですか」
秀子は、あわて気味に否定したが、その顔色は、変っていた。
「図星でしょう?」
「違う、といってるのに」
「さァ、どうだか」
「絶対に違います」
「では、そういうことにしておきましょう」
「あんた、信じないのね」
「信じるにも、信じないにも、あたしには、無関係のことですから。だけど、友達としていわせてもらうと、あたし、井筒さんなんかと別れることには、大賛成よ」
「…………」
「もし、そのための祝盃《しゆくはい》であったら、あたし、この紅茶で、カンパイして上げてもいいくらいに思ってるわ」
「…………」
「奥さんや子供さんのある人を好きになって、いっしょにホテルへ行くなんて、あたし、愚劣だと思っていたわ」
「…………」
「あんたが夢中のようだったから、わざと黙っていたけど」
「…………」
「あんたは、井筒さんと、結婚するつもりのようだったけど、そんなこと、不可能に決っているし」
「…………」
「ねえ、別れたんでしょう? こうなったら、正直におっしゃいよ」
真青になっていた秀子の顔色は、いつか元に戻っていた。ばかりか、唇許に微笑を漂わせていた。
「こうなったら正直にいうわ」
「そうよ」
「残念ながら、あなたの思い違いです」
「ところが、残念ながら、あたしには、そう思われないわ」
「証拠があるわ」
「証拠?」
「ほんとうは、誰にもいわないつもりだったんだけれど」
「…………」
「明日から四、五日、休むというの、あれは、井筒さんと旅行することになっているからなのよ」
「どこへよ」
「まだ、決めてないけど、明日、井筒さんが決めて下さるはずなのよ」
「…………」
「あたし……」
秀子は、ちょっと考えてから、
「信州の松原湖へ、もう一度、いっしょに行ってみたいと思ってるのよ」
「もう一度?」
「あたしと井筒さんとが、はじめて結ばれたのは、昨年の夏、二人で、松原湖へ行ったときなのよ」
「…………」
「あのときは、人がたくさん来ていて賑やかだったけど、今だったら、きっと人も来ていなくて、とっても静かだろうと思うわ」
「…………」
「誰も来ていないような晩春の松原湖畔を、井筒さんと歩いてみたり、ボートを漕いでみたりしながら、昨年の夏の思い出を語るなんて、素晴しいことと思わない?」
「…………」
「あたしって、今、幸せの絶頂にあるのよ」
「…………」
「あんまり幸せ過ぎて、死んでしまいたいくらい」
「死んでしまいたい?」
「あんたには、こういう気持、わからない?」
「わからないわ、あたし」
「お気の毒だわ」
「あら、どういたしまして」
「だけど、今いったこと、誰にも喋らないでね」
「喋るもんですか」
「もし、また、あの矢沢課長の耳に入りでもしたら、きっと、うるさくいうに決っているから」
「それだって、あなたのことを心配していて下さるからでしょう?」
「要するに、出しゃばりなんだわ」
そういうと、秀子は、二杯目のビールを飲みほした。うまそうに飲んでいるつもりのようだが、成子には、無理をしているとしか思われなかった。そして、秀子のいっていることが、何も彼も、嘘に違いない、とも。
「ほんとうに、旅行するつもり?」
「もちろんよ。何か、お土産を買って来てあげましょうか」
「いりません。だけど、家へは、どういって、そんな旅行に出るの?」
「会社の出張だといえばいいでしょう?」
「そんなことで、家で、信じてもらえる?」
「大丈夫、あたしの家では」
秀子は、自信ありげにいった。
「そうだったのか」
章太郎は、唸るようにいった。成子の話を聞いていて、小高秀子という女は、最早どうにも救いようがないように思われて来たのであった。
(もう放っておこうか)
しかし、放っておくにしても、
(一応、秀子の両親に、このことをいっておくべきではなかろうか)
それにしても、井筒と四、五日の旅に出るというのは、果して、本当だろうか、という疑問が、章太郎の頭に残っていた。
「で、あんたの感じからいうと、小高秀子さんは、井筒君と旅行するに間違いないように思われた?」
「いいえ」
成子は、頭を横に振って、
「あたしは、小高さんの顔を見たときから、この人は嘘をついていると感じたんです」
「と、いうと?」
「井筒さんと別れたんじゃァないでしょうか。あたしには、そんな気がしました。その悲しみを忘れるために、旅行に出るのではないだろうか、と」
「しかし、そういう一人旅であったら、ますます、このまま放っておけないことになってくるね」
「はい」
「たとえば、旅先で、自殺をはかるというような気配は、感じられなかった?」
「自殺だなんて……。あたしには、そんなふうには感じられませんでした」
「それならいいんだが」
「でも、旅に出たことだけは、間違いないと思います」
「どうして?」
「あとで、あたしに、旅費の一部にするのだから五千円ほど貸してくれないか、とおっしゃったんです」
「五千円……。あんた、貸したの?」
「いいえ、ちょうど、財布の中に入っていた三千円だけ。あたし、お貸しする前に、井筒さんといっしょに行くんなら、そんなお金はいらないでしょう、といってみたんです。そうしたら、自分たちは、旅行をする場合、いつも割カンにしているのだから、と」
「ふーん」
「自分だって、ある程度のお金は用意しているんだが、万一のときのためにお借りしておきたいのだ、とも」
「万一のときのため、か」
「お貸ししたお金は、こんどの月給日にきっと返すとおっしゃってました」
「そうか、よくわかった。いろいろと、どうも有りがとう」
「もう、帰ってもいいでしょうか」
「ああ。どうも、ご苦労さん、それから今のこと、誰にもいわないようにしてもらいたいのだ」
「かしこまりました」
「くれぐれもいっておくが、あんたは、大丈夫と思うが、間違っても、小高さんのような真似はしてほしくないのだよ」
「はい」
成子は自信ありげに答えると、応接室から出て行った。
章太郎は、一人になると、深く考え込んだ。秀子のことで、不吉な予感のようなものがしてならなかった。
(とにかく、一人で旅に出たのか、井筒といっしょか、それをたしかめてみる必要がある)
そして、それをたしかめるためには、あの勝畑正造に頼むことが、最善の策のように思われた。勝畑は、バー「ぐんじ」で、坂巻広太といっしょに秀子に会っているのである。そのときの秀子の容子やなんかを井筒に伝えて、大いにその反省を促すつもりだ、といっていたのだ。が、明日から二日ほど出張するといっていたから、今日ぐらいは帰っているとしても、まだ、井筒に会っていないかもわからない。とにかく、章太郎は、勝畑に電話をしてみて、まだ出張中であったら、自分で直接、井筒に電話をしてみようと、思った。
章太郎は、応接室の電話で、東部製薬へかけた。
「東部製薬でございます」
「そちらに、勝畑正造さんというお方がいらっしゃるはずですが」
「総務課におります。あなたさまは?」
「東亜化学の矢沢です」
「しばらく、お待ち下さいませ」
交換手は、そういって、引っ込んだ。章太郎は、受話器を耳にあてたまま、
(社員教育のよく出来ている会社のようだ)
と、思っていた。
何故なら、近ごろの会社で、こちらから電話をしても、名を聞かないで取次いだり、ひどいのになると、電話をかけて来て、自分の方の名をいわなかったりする交換手が多いのである。その点、東部製薬の交換手の応対は、行き届いているし、事務的で、気持がいい。東部製薬という会社を信用していいような気がしてくる。
(勝畑君は、総務課勤務だそうだが、あるいは、彼なんか、交換手にやかましくいっているのかもわからない)
三十秒ほど待たされて、
「たしかに出勤して来ているのですが、今、席におりません。捜しておりますから、あとしばらく、このまま、お待ち下さいますでしょうか」
と、交換手の声が聞えて来た。
「どうぞ。お願いいたします」
章太郎は、答えた。ますます、東部製薬を信用していい気がして来た。この分なら、東部製薬の製品にも信用がおけそうだ、とも。
一分ほどして、
「モシモシ、勝畑です。たいへん、お待たせいたしました」
と、勝畑の声が聞えて来た。
「ああ、勝畑君。僕は、東亜化学の矢沢章太郎です」
「ああ、その節は」
「いや、こちらこそ。ところで、先日、渋谷のバーで、うちの小高秀子のことで、いろいろとお世話になったそうで」
「お世話だなんて、とんでもない」
「で、君から井筒君に、何か、いってくれた?」
「まだなんです。じつは、さっき、出張から帰って来たばかりなもんですから」
「それだったら、お忙しいところを恐縮だが、井筒君が、今日、出勤しているかどうか、調べてもらえないだろうか」
「と、おっしゃいますと」
「小高秀子が、昨日から無断欠勤しているんだよ」
「無断欠勤……」
「ところが、彼女、昨夜、やはりうちの会社に勤める友達のところへ現われて、四、五日、井筒君といっしょに旅をするのだといって、金を借りているんです」
「井筒君とですって?」
「本人が、そういっていたというのです。しかし、その友達の感じからいうと、どうやらそれは嘘で、一人旅に出たらしいんです」
「若い女の一人旅なんて、おだやかでありませんね」
「で、僕も心配しているんですよ」
「わかりました。早速、井筒君に電話をして、彼が会社にいるかどうか、確かめてみましょう」
「頼む」
「どうも、井筒君のために、いろいろご心配をおかけして、もうしわけありません」
「勝畑君、それは、こっちのいうセリフなんだよ。君にまで、とんだ迷惑をおかけして」
「いいえ。私の迷惑なんか、物の数ではありませんよ。では」
勝畑は、電話を切った。
章太郎は、応接室を出て、自分の席に戻った。いぜんとして、秀子の席は、空いたままになっていた。そのことが、章太郎にとって、目ざわりでしかたがなかった。目ざわりであるというよりも、このまま永遠に、その席に、小高秀子が戻ってこないのではなかろうか、という不安の方が先に立っていた。
給仕が前へ来て、
「矢沢さん、こういうお方がご面会です」
と、一枚の名刺を章太郎の前においた。
章太郎は、その名刺を手に取って、
「柳田工業株式会社庶務課 小高秀夫」
と、読んだ。
秀子の父親なのだ。章太郎は、何か、とうとうくるものが来た、という気がした。場合によっては、こちらから会いに行くつもりでいたのである。それを、先方から来てくれたのだから、それだけ手数がはぶけることになる。が、秀子の不品行を知っていて黙っていただけに、その父親の顔を見ることが辛かった。
「応接室へお通ししておいてくれないか」
「三号応接室が空いておりますから」
「わかった」
給仕は、去って行った。
が、章太郎は、すぐに席を立とうとはしなかった。秀子の父親に会う前に、勝畑からの電話を聞いておきたいのであった。その上で、秀子の父親に、何も彼も話すつもりでいた。事態は、そうしなければ、章太郎一人の手に負えないところに来ているのである。
章太郎の前の電話のベルが鳴った。勝畑からであった。
「矢沢さん。井筒君は、ちゃんと会社におりましたよ」
「そうか……」
章太郎は、あらためて、不吉な予感を覚えた。
「しかも、井筒君は、昨日、小高さんと会っているんです」
「いったい、どこで?」
「昼のうちに、小高さんから会いたいという電話があったんですが、彼は、われわれとの約束通り、断ったといっているんです」
「で?」
「ところが、会社が退いて外へ出たら、彼女、待ち伏せしていたんだそうです」
「で?」
「彼は、自分たちは、もう別れたんだからと口を酸っぱくしていったんだが、彼女の方は、なかなか納得しないで困ったそうです。すべて、これは、彼のいった通りをそのままお伝えしているんですから、果して、事実その通りであったかどうかは、保証の限りでありませんよ」
「わかっております」
「あげく、彼女は、彼の奥さんに、何も彼もいいに行くとか、重役に真相をバラすとか、一種の脅迫的な態度に出たというんです」
「…………」
「が、彼は、それでも別れることを主張したら、ひどく憤って帰って行ったというんです」
「彼は、彼女の無断欠勤というよりも、旅に出たらしいことについて、何か、心当りがないのですか」
「ない、というんです。それどころか、迷惑至極だというんです」
「迷惑至極?」
章太郎は、口調を強くした。
「私も、それはどういう意味だ、といってやりましたら、そもそもは、二人の問題について、周囲が騒ぎ過ぎるからこういうことになったのだ、と。放っておいてくれたら、何も彼も、円満に、そして、しぜんに解決出来たのだと」
「怪しからん。じつに、怪しからん男だ」
章太郎は、つい剣幕を荒くした。ために、何人かの課員が、章太郎の方を見たほどであった。
「もうしわけありません」
勝畑がいった。章太郎は、声を低くして、
「いや、あなたに詫びられることはないのですよ。しかし、彼女が、旅先で、ふっと妙な気分でも起したら、どうしますか」
「それなんです、私のいってやったのも。彼は、そんなバカなことが、といってましたが、急に、不安になったらしく、もしそんなことになって、自分の名が出たりしたら身の破滅となるといって、おろおろしていましたよ」
「それこそ、自業自得ですよ」
「しかしね、矢沢さん。僕は、井筒の友人として」
「いや、あなたのお気持は、よくわかっております。じつは、彼女の父親が、私を訪ねて来ているのです。これから会うのですが、その結果によっては、あなたに、またご協力を仰ぐことになるかもわかりませんが」
「かしこまりました。私で出来ることなら、どういうことでもいたします」
「お願いします」
章太郎は、電話を切って、ふっと大きな溜息《ためいき》を洩らした。一分ほど、じいっとしていてから、秀子の父親に会うために、事務室を出た。
三号応接室へ向う章太郎の足は、重かった。重役の部屋へ叱られに行くときに似ていて、もっと嫌な気分であった。
(井筒が、周囲が騒ぎ過ぎるからこういうことになったのだ、といっていたそうだが、あるいは、そういうふうにいえるかもわからない)
そして、その周囲というのは、結局、章太郎が、ということになる。妙な正義感と、停年退職までに、一つぐらい思い出になるようないいことをしておきたいとの助平心を起したばっかりに、こういう羽目になったのだ。逆に、停年退職の日が近いのだからと、頬かむりをしておいたら、あるいは、こういう結果にならなかったろう。何んとしても、後味の悪いことになってしまったものである。
(秀子の父親には、そのことをいって、詫びておく必要がある)
しかし、秀子に万一のことがあったら、詫びただけではすまないのだ。すくなくとも、秀子の父親は、そういって恨むに違いないのである。かりに、のぼるにそういうことがあったら、章太郎は、その課長に、
(よけいなことをして下さいましたな)
と、口には出さなくても、心の中でいいそうである。
章太郎は、三号応接室の扉をノックした。中から応答があったようだ。扉を開くと、こちらに背を向けていた男が、喫っていた煙草をあわてて灰皿の中にもみ消して立上がった。
一目で、秀子の父親とわかるような男であった。年は、章太郎とそう変らないらしい。が、いわゆる風采の方は、遥かに章太郎の方が上のようだ。同じサラリーマンとして、章太郎は、直感的に、
(あまり上等でも有能でもないらしいな)
と、感じたし、また、
(したがって、会社でも、優遇されていないようだ)
とも感じた。
そういえば、さっきの名刺には、庶務課勤務となっていて、肩書きがついていなかったようである。
「どうも、たいへんお待たせいたしました。私が、厚生課長の矢沢章太郎でございます」
章太郎は、自分の名刺を出しながらいった。小高秀夫は、それを押しいただくように受取りながら、
「小高秀子の父親でございます。娘が、いつもお世話になっております」
「いや、こちらこそ。まァ、お掛け下さい」
「有りがとうございます」
小高秀夫は、腰を下すと、
「早速でございますが」
と、上半身を乗出すようにしていった。
「どういうことでしょうか」
「娘が、本当に出張を命ぜられて、四、五日、大阪支店の方へ参ったのでしょうか」
「出張ですって?」
「と、娘がいって、けさ早く旅仕度をして、家を出たもんですから」
しかし、いいながら小高秀夫の顔色は、すでに変っていた。落着きを失いかけていた。章太郎の反問に、娘の嘘に気付いたのであろう。
「お嬢さんは、昨日も今日も、会社を休んでおられます」
「昨日もですか」
「無断欠勤でした」
小高秀夫の顔色は、土色になっていた。
「昨日は、たしかに会社に出て、出張準備のために残業をしたとかいって、夜の十時頃帰って来たのですが」
「それは、嘘です」
「嘘……」
「ついでにもうし上げますが、私の会社では、女子職員に一泊以上の出張を命じることはありません。どうしても、その必要のあるときには、親権者のご承認を得るため、そのつど、ご印をいただくことにしております」
章太郎は、これからいわなければならぬことの辛さから、むしろ事務的に話をすすめるようにしていた。
「すると、娘に対して、過去に一度も、出張をご命じになったことは?」
「ございません」
小高秀夫は、口の中で、何かいうと、頭をかかえ込むようにした。恐らく、秀子が、出張を口実に、ちょいちょい外泊しているし、こんどの場合は、四、五日という長期間なので、どうにもたまりかねて、その真偽をたしかめに来たのであろう。
章太郎は、目をそむけたくなっていた。
給仕が、お茶を持って入って来た。それでも、頭をかかえ込んだ姿勢のままでいる小高秀夫を、妙な顔で見ていた。うすら笑いをうかべている。が、章太郎のきびしい目に気がつくと、あわてて出て行った。
「じつは、あなたに、今日にもお嬢さんのことで、お話に行こうと思っていたところなんです」
「…………」
「たいへん悪い話になるのですが、お嬢さんは、妻子のある男と恋愛をしていられたのです」
「娘が……」
そこまでいってから、小高秀夫は、顔を上げると、
「いったい、それは、どこの誰ですか」
と、詰問口調でいった。
「塩野建築設計株式会社の井筒雅晴という男です」
「塩野建築設計……。井筒雅晴……」
「たしか、年は、三十五、六で、子供が二人ある男です」
「娘が、そんな男と……。すると、今までに、ときどき出張といって帰ってこなかったのも?」
「その男といっしょであった、と思って間違いないでしょうね」
「そ、そんなバカな」
小高秀夫は、叫ぶようにいったのだが、すぐに、
「ああ、何んという娘なんでしょう。私には、あの娘が、そんな大それたことをしていたなんて、どうしても信じられません」
と、絶望的な口調でいった。
「わかります。私も、最近になって、その事実を知ったのです」
「それならそうと、私に知らせてもらいたかったですよ」
「その点では、深くお詫びいたします。たしかに、おっしゃる通りでした。ただ、私としましては、あなたにそのようなことでご心配をおかけしないうちに、うまく解決してしまおうと思ったことが失敗だったのです」
「失敗?」
「どうか、びっくりなさらないで下さいよ」
「まだ、この上、何か、びっくりすることがあるんですか」
「お嬢さんは、井筒君といっしょではなしに、一人で旅に出られたらしいのです」
「一人で?」
「井筒君と別れて」
「すると、娘は、井筒君とは、手を切ってくれたんですか」
「井筒君の方は、そのつもりなんですが、お嬢さんの方は、それが辛くて、のようなんです」
「もっと、くわしくおっしゃって下さいませんでしょうか」
章太郎は、秀子と井筒のことを知って以来、自分が打った手について話しはじめた。小高秀夫は、黙って聞いているが、ふるえているようであった。秀子の出張について、疑惑をもって訪ねて来たのだが、まさか、こういうことになっていようとは、思っていなかったのであろう。ときどき、放心状態になりかけたり、発作的に、章太郎の話を中断させて、何かいいたそうであったりした。
「こういうわけで、私も、けさからお嬢さんの行方について、心配していたところなんです」
「…………」
「いちばん気になるのは、旅先で、万一のことがある場合です」
「万一、ですって?」
小高秀夫は、ギョッとしたようにいった。
「もちろん、こんなことは、私の取越苦労だとは思うんですが」
「…………」
「もっとも、明日にも、ひょっこり元気になって戻ってくるかもわかりませんが」
「今の私には、そのように思われません」
「…………」
「ほんとうに、万一のことが起って来そうな気がして来ましたよ」
小高秀夫は、もういても立ってもいられぬ容子《ようす》で、
「もし、そんなことになったら、私は、亡くなった家内に、もうしわけが立ちません」
と、半泣きの顔でいった。
「亡くなった家内って、奥さんは、いらっしゃらなかったのですか」
「おりますが、今のは二度目でして。秀子は、先の家内の娘なんです」
「そうでしたか」
「あれが、十五のときに先の家内が亡くなりまして、一年たって、私は、今の家内をもらったのです」
小高秀夫は、ザンゲするようにいった。章太郎は、うなずいてみせた。
「年も三十でしたから、秀子にとっては、姉のような母親であったわけです」
「…………」
「ところが、今の家内と秀子とは、どうも折合いが悪くて」
「…………」
「どっちも気の強いところがありまして」
「…………」
「今の家内に、子供が出来ますと、ますます仲が悪くなって、私も、間に入って、随分と困りました」
「…………」
「そういうことから、私は、娘の平常についても、あんまり強いことはいえませんでしたし、今の家内だって、知らん顔をしていましたし」
章太郎が、細君に亡くなられたのは、五年前であった。が、子供たちへの悪影響を考えて、再婚しないで来たのである。そのため、随分と苦しい思いもして来たが、しかし、小高秀夫の話を聞いていると、再婚しなくてよかったのだ、とも思われてくるのであった。
「娘が、そんな妻子のある年上の男とそういう仲になったのも、あるいは、私の家庭がうまくいっていなかったことに、一つの原因があるかもわかりません」
章太郎としては、何んとも答えようがなかった。しかし、小高秀夫のいい分に肯定したくなっていたことはたしかなのである。とにかく、秀子の気の強さには、無理なところがあり、それも結局は、家庭がうまくいっていなかったからのようだ。
「今日、ここへお伺いしたのも、私の一存でして、家内とは、相談しておりません」
「どうしてなんですか」
「そういう雰囲気ではないのです。今、ここでお聞きしたことも、家に帰って話しても、恐らく、放っときなさい、というでしょう」
「まさか」
「いいえ、そういう家内なんですよ。家内にとって、秀子が憎らしい存在になっているんですから」
「しかし、このまま、放っておくわけにいかんと思うんですよ」
「どうしたらいいもんでしょうかね」
小高秀夫は、途方に暮れたようにいった。そんないい方をされては、章太郎の方が、途方に暮れてくるのである。
「お嬢さんが、平常から慕っているような叔父さんとか、叔母さんという人がないんですか」
「大阪に、亡くなった家内の妹がおりまして、この叔母が、ときどき、秀子に小遣を送ってくれていたようです」
「すると、お嬢さんは、その大阪の叔母さんをたよって行くということも考えられますね」
「さァ、どうでしょうか」
「そこに、電話がないんですか」
「ありますが」
「今すぐに、ここからお電話をなさっておいたらいかがでしょうか」
「…………」
「もし、お嬢さんが、そこへ行けば、こちらの事情をいって、叔母さんに、お嬢さんのことを、あらかじめよく頼んでおくことは、いいことだと思うんですよ」
「…………」
「行かなかったら、別のところを捜してみるとか」
「では、ここの電話を拝借して、大阪の叔母のところへかけてみましょうか」
「ぜひ。ダイヤルの9をまわすと、交換手が出ますから、三号応接室からだといって、大阪の電話番号をいって下さい」
小高秀夫は、隅にある電話で、章太郎からいわれた通りにした。やがて、相手が出た。
「モシモシ、広田さんですか。東京の小高ですよ。どうも、御無沙汰していまして」
「…………」
「ところで、そちらに秀子が行くかもわかりませんが」
「…………」
「じつは、ちょっと困ったことが起りましてね」
「…………」
「会社の出張だなんて、嘘をついて、四、五日、旅に出たらしいんです」
「…………」
「いやいや。家内とケンカしたわけじゃァないんです。ほんとうですよ」
「…………」
「いずれ、くわしいことをもうし上げますが、要するに、失恋なんです。もし、娘がそちらへ行くようでしたら、よろしく頼みます」
「…………」
「こちらは、万一のことを心配しているんですから」
「…………」
「お願いします」
小高秀夫は、電話を切ると、章太郎の前へ戻って来て、
「よく頼んでおきましたから」
「もし、今日中に大阪の叔母さんのところに現われなかったら、別のところを捜してみましょう」
「お願いいたします」
「お願いいたしますって、あなたが先頭に立って下さらないと」
「そのつもりですが、そういうことになると、家内が……」
「この場に及んで、奥さんに遠慮なさるなんて、おかしいんじゃァないですか」
「ごもっともです。しかし、娘は四、五日したら、何食わぬ顔で帰ってくるかもわかりませんしね」
「…………」
「そのときには、家内の手前、会社の出張ということにしてやっておいた方が、娘のためにはいいと思うんですよ」
「そりゃァそうかも知れませんが、私には、今はそんなのん気なことをいっている場合じゃァないように思われるんです」
「おっしゃる通りです」
「私は、お嬢さんが若松成子に行ってみたいといっていたという松原湖というのを捜してみようか、と思っているんですよ」
「松原湖というと?」
「信州にあるんです。私は、行ったことがありませんが、冬は、スケート場として有名らしいですよ」
章太郎は、いいながら、もし、松原湖へ行くのなら、郡司道子といっしょに、と思っていた。自分一人では、秀子を説得する自信がなかった。そういう点、郡司道子は、うまいらしいのだ。それに秀子は、章太郎に対しては、いまだに反感をいだいているに違いないのである。
「そのときは、私も行くべきでしょうか」
「無理にとはいいませんが」
「どうか、よろしくお願いいたします。とにかく、困った娘でして」
「しかし、お嬢さんの身になってみれば」
「私は、その井筒という男が憎らしくってしょうがないんですよ」
「わかります」
「このまま、放っておいていいものでしょうか」
「そういうことになると、私には、何んともいえません。が、すべては、お嬢さんを捜し出して、その上でのことになさった方がいいのではありませんか」
「では、そういうことに」
「大阪から連絡があったら、すぐお知らせ下さい」
「かしこまりました。娘のことで、ほんとうにご迷惑をおかけして」
「いや。私自身、よけいなことをしたようだと一端の責任を感じているんですから」
「とんでもない。私も、会社を停年間際になって、娘からこんな思いをさせられようとは思いませんでしたよ」
「あなたも、近く停年になるんですか」
「そうですよ、あと半年ぐらいで」
「じつは、私も、近く……」
二人は、顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑を洩らし合った。章太郎は、さっきから、秀子の行方を捜すことにあまり熱心でないらしい小高秀夫に対して、反感とまではいかなくても、いい感じを持っていなかったのである。
(あなたがそういう料簡《りようけん》なら、こちらは放っときますよ)
そうもいいたかったのであった。
しかし、今は、二人とも、停年を目前にした同士ということで、妙に親近感のようなものを感じていた。
「で、そのあとは?」
小高秀夫がいった。
「就職口を捜しているんですが、どうもなくて困っているんですよ」
「私も……。そのことで、家内からやいのやいのといわれているんですよ」
「そりゃァお気の毒だ」
「あなたは?」
「そういうことをいう家内がいないんですよ」
「うらやましいですよ」
二人は、もう一度、顔を見合わせて、ほろ苦く笑った。
渡辺公平氏著「信濃の旅」の中に、松原湖のことを、次のように書いてある。
「小海線の中でも松原湖という駅は小さい寒駅に属する。それでも登山・ハイキング・キャンピング・スケートのシーズンともなれば結構乗客がある。いうならば元気な若人の駅、青春の駅だ。
夏はキャンプ、バンガローなどで湖畔は相当賑わうが、秋や晩春は思ったよりぐっと静寂で、湖畔のそぞろ歩きも楽しいし、北八ガ岳へのハイキングも、高原情緒たっぷりで思い出深いものとなる。
松原湖畔の小学校の分校で、かつて子供たちを教えていた井出八井という歌人は生涯この湖を愛した人だそうだが、その人の作品にこんなのがある。
みずうみの氷の上に積める雪
水色なして冬の雨降る
晩秋から冬にかけての松原湖は、その背景となる八ガ岳、北八ガ岳連峰がプラチナのように光って実に美しい。そして驚くほど静かな日がある。春から初夏にかけても同じだ。キャンピングやスケートシーズンの喧騒さは別世界のように思われる。
湖畔の宿もそんな季節なら落ちついて憩うことができる。もえぎ色に煙る落葉松の林の彼方に怪異なスカイラインを描く硫黄岳や天狗岳の残雪におおわれた姿……」
小高秀子は、今、その松原湖畔に立っているのであった。
井筒雅晴に誘われて、ここへ来たのは、昨年の夏であったが、今は、晩春なのである。湖面は、あくまで静まり返っていて、そこらに人影が見えないのである。
しかし、昨年の夏には、バンガローにも、旅館にも、キャンプ場にも、人が溢れるようにいっぱいであった。ボートを漕ぐ人々も、数知れぬくらいであった。そして、夜になると、キャンプ・ファイアが赤々と燃えて、それが湖面にうつり、青春の唄声が、夜更けまで聞えていたのである。
その唄声を聞きながら、井筒と結ばれたのであった。しかも、二坪あまりのバンガローの中で。
はじめは旅館に泊るつもりであったのだ。が、井筒は、その旅館を予約することを忘れていた。行けば、何んとかなるだろうぐらいに思っていたらしいのである。しかし、三軒の旅館で、満員だからと断られてしまった。途方に暮れている二人に、
「バンガローなら空いていますが」
と、宿の番頭がいってくれたのである。
井筒は、ためらったようであった。が、秀子は、
「却って、その方が面白くて、愉しいわよ」
と、いったので、井筒も、その気になったのである。
二人で、こういう旅に出る以上、その結果は、どういうことになるか、もとより、秀子は、覚悟の上であった。息づまるように狭苦しいバンガローの中も、秀子には、旅館のような遠慮はいらないし、二人だけの天国のように思われた。粗末な貸ブトンも、気にならなかった。すべてが、一生を通じてのいい思い出になるに違いないと有頂天になっていた。
秀子は、その思い出のバンガローの前に立っているのであった。
どうして、こんなところへ来てしまったのか、自分でもよくわからない。が、若松成子に金を借りに行ったとき、とっさの思いつきで、
「信州の松原湖へ、もう一度、いっしょに行ってみたいと思ってるのよ」
と、いったのだが、そのときから、この松原湖畔のバンガローのことが、頭の中にしつっこくからみついていて、はなれなくなっていたのであった。
そんなところへ行ってみたところで、悲しいだけなのだ。胸を切なくするだけなのだ。そうとわかっていて、来てみなくてはいられなかったのである。
秀子は、昨日の午後おそく、ここへ着いたのであった。旅館では、女の一人客を警戒したようだったが、秀子は、あくまで明るい表情で、
「明日か明後日に、もう一人、連れの人がくるんですの。ですから、なるべく大きいお部屋をお願いします」
と、ニコニコしながらいった。
結局、旅館では、泊めてくれた。客といえば、秀子のほかに、一人あるだけらしかった。秀子の通された部屋は、二間続きに、ベランダのあるゼイタクなものであった。
秀子は、自分の貯金をおろして来た一万円のほかに、成子から借りた三千円を持っているので、心配はしなかった。
窓の外に、カラ松、トド松、紅葉などがあって、その間から湖が見えていた。秀子は、すぐにも、思い出のバンガローの前に行ってみたかったのだが、そろそろ暗くなりかけていたし、明日のことにした。
広い旅館の中の広い部屋で一人で寝る淋しさは、特別であった。寝つかれなかった。寝つかれないままに、井筒のことを思っていた。殺してやりたいほど、憎らしいのである。しかし、それも、裏を返せば、みれんに違いなかった。夜中に、涙を流しながら、父のことよりも、十五のときに亡くなった母のことを思い出していた。
「お母さーん」
「お母さーん」
口に出していっていると、いよいよ、涙が溢れてくるのである。秀子は、声を忍んで、泣き続けた。
(あたしって、ほんとうにバカな女だったんだわ)
しかし、そのバカな女は、いったい、これからどうして生きていけばいいのであろうか。今まで通り、会社勤めをしながら、過去のことは、ケロリと忘れたようにしていければいいのだろうが、その自信もなかった。また、あの矢沢課長から、何かいわれそうである。
(全く、出しゃばりな課長だわ)
しかし、その矢沢課長の出しゃばりのお陰で、井筒という男の正体が早くわかったのである。早くわかっただけ、秀子の不幸が、早く来たことになる。不幸なんて、一日でも遅い方がよかったのだ。そうすれば、今夜だって、こんなところでなしに、東京のホテルで井筒といっしょにいられたかも……。
秀子は、あれこれと思っているうちに、生きていることが、面倒臭いように思われてきた。
(いっそ、死んでやろうか知ら?)
かりに、死んでやるのだとしたら、井筒への恨みの数々を書いた遺書を残しておくのだ。きっと、それによって、十分な復讐をとげることが出来るに違いない。
そのかわり、秀子の自殺のことが新聞に出るだろう。その場合、世間は、同情するよりも、秀子を嗤《わら》いそうである。
(バカバカしい、死ぬなんて)
すぐ、そう思い返した。思い返しはしたが、明日からの自分の生き方に、なんの希望も持てないでいた。そのことが、情なかった。またしても、亡くなった母が、慕われてくるのであった。
それでも、いつか、眠ったらしいのである。目がさめたのは、午前九時頃であった。湖面に、朝日がキラキラと光っていた。
秀子は、ベランダのイスに腰を掛けながら、今日一日をどうしようか、と思っていた。思い出のバンガローを見に行くことが、何か物憂くなっていた。といって、ほかに何もすることがないのである。
(井筒さんを電報で呼出してやろうか)
恐らく、月並な電文ではこないだろう。
(キュウヨウアリ スグ オイデ ヲマツ)
それでは、十分でない。
(スグ オイデ ヲマツ オイデ ナケレバ ジ ュウダ イケツイヲナス)
これくらいの電報を打ったら、あわてふためいて、飛んでくるのではなかろうか。しかし、飛んで来てもらったところで、すでに、自分から心のはなれている男なのだ。ますます、嫌われるだけだろう。秀子は、自分をそこまで、みじめな女にしたくなかった。今だけで、みじめ過ぎるくらいみじめなのである。これ以上、自分をみじめにすることは、ごめんだった。
(でも……)
やっぱり、井筒へのみれんを断ち切れないでいるのである。一刻も早く、このみれんを断ち切りたかった。昔の小高秀子に戻りたかった。何んにも知らなかった頃の小高秀子に。
女中が入って来た。一時間に一度ぐらいの割で、たいした用もないのに顔を出すのは、女の一人客なので、万一のことを心配しているらしいのである。それが、秀子にわかるだけに、辛かった。といって、今更、どこへ行くというアテもなかった。すぐ、東京へ戻る気にもなれなかった。こういう辛い思いに耐えながら、自分という存在について、じっくりと考えてみたい、とも思っているのであった。
「ご退屈でしょう?」
女中がいった。
「そうでもないわ」
秀子は、あくまで明るく、笑顔でいった。
「お連れさまは、いついらっしゃるんですか」
「多分、明日。でなければ、明後日になるかも……」
「恋人ですの?」
「ご想像におまかせするわ」
「早くいらっしゃればいいのにね」
「遅くたってかまわないのよ」
「嘘でございましょう?」
「いいえ、ほんと。たまには、こうやって一人でいるのも、いいもんですよ」
「そりゃァそうでしょうが。そこらをご散歩でもなさいましたら?」
「そうね」
「夏と違って、淋しいくらい静かでございますから」
「では、一時間ほど、そこらを歩いてくるわ」
「そうなさいませ」
秀子は、女中にすすめられて、旅館を出た。
松原湖は、それほど大きい湖でない。湖畔を一周出来るようになっていた。昨年の夏、井筒とまわったとき、小一時間かかったのである。
湖畔の道は、石が多く、デコボコしていて、歩きにくかった。昨年の夏、ラーメンを食べた食堂も、今は、戸を閉めたままになっていた。落葉林の向うに見えている残雪の八ガ岳が、湖面にもうつっていた。
秀子は、のろのろと思い出のバンガローに近づいて行きながら、思いがけぬ胸の高鳴りを覚えていた。胸苦しいくらいであった。逃出したくなっていた。しかし、秀子の歩みは、確実にバンガローの方に進んでいた。
そこらには、いくつものバンガローが並んでいた。左から二番目なのだ。秀子は、その前に立ったとき、思わず、
「ああ……」
と、声に出していった。
あまりにも、安っぽく見えたのである。すこし強い風が吹いたら、倒れそうであった。屋根の赤ペンキもはげている。隙間だらけである。もとよりバンガローなのだし、そんなに立派であろうはずがない。しかし、昨年の夏は、井筒といっしょであるということで有頂天になっていて、その安っぽさをたいして気にしなかったのだ。その後、このバンガローのことを、ときどき思い出して来たが、その思い出の中で、適当に美化されていたようであった。
(あたしのいちばん大事なものを、こんな小屋の中で失ってしまったんだわ)
あるいは、そのときから、今日の結果を予想出来たのではなかろうか。
(今のあたしは、このバンガローのように、傷だらけなんだわ)
そのようにも思われてくるのだった。
秀子は、ためしに、バンガローの入口の扉に手をかけてみた。苦もなく開いた。中は、ゴミだらけであった。秀子は、ためらったあと、中へ入った。息が詰まりそうに狭いのである。クモの巣がはっていた。
湖に面して、小窓があった。かつて、その小窓から井筒と二人で、湖面の月を眺めたのであった。今も、そのときのことが、はっきりと思い出されてくるようだ。
キャンプ・ファイアの方から聞えてくる唄声を聞きながら、
「今夜が、僕たちの結婚式になるんだね」
と、井筒は、秀子の耳許に唇を寄せていったのである。
秀子は、どう答えていいかわからず困っていると、井筒は、更に、
「いいだろう?」
と、念を押して来た。
秀子はうなずいた。
「ほんとうに、いいんだね」
「はい」
「そのかわり、僕は、君の一生について、全責任を持つよ」
「…………」
「好きなんだ。ほんとうに好きなんだ」
「…………」
「今までに、君ほど好きになった女は、一人もいないよ」
「だって、奥さんが……」
「あんな女……」
井筒は、吐き出すようにいって、
「ちっとも、僕の面倒を見てくれぬ女、ヒスで、わがままな女」
「そんなに?」
「そうなんだ。だから、僕は、自分の結婚を完全に失敗だと思っている」
「…………」
「別れたいと思っているくらいなんだ」
「…………」
「君なら、僕をもっと大事にしてくれるだろう?」
「そりゃァ」
「わがままをいわないだろう?」
「はい」
「可愛いよ、君は」
「ほんと?」
「僕は、君と結婚すりゃァよかったのだ」
「あたしも、井筒さんと結婚したかったわ」
「そのうちに、二人は、本当に結婚出来るかもわからないよ」
「どういうこと?」
「僕は、そのうちに、今の細君と別れて、君と結婚するよ」
「まァ」
「たった今、僕は、そう決心したんだ」
「いけないわ、そんなこと」
「どうして? それとも、君は、それほど、僕が好きじゃァないのかい?」
「いいえ、好きよ。大好きだわ。あなたのためなら、いのちも惜しくないくらいに思ってるわ」
「有りがとう。君は、やっぱり、いい女だよ。僕の思っていた通りの女だった」
そういうと、井筒は、秀子に接吻してくれたのであった。
秀子は、そのときのことを、あざやかに思い出していた。井筒の口調までが思い出されて、現に、その言葉が、秀子の耳許でささやかれているようであった。一瞬、秀子の顔は、夢を見ているようになっていた。
しかし、その夢見心地は、湖の上を飛んで行く何かの鳥の声に、たちまち、破られた。気がつくと、秀子は、いぜんとして、こわれかかったようなバンガローの中にいたのである。
秀子は、苦笑した。が、その苦笑は、しだいに、泣き笑いの表情に変っていった。あらためて、井筒への憤りを感じた。こんな思いをするために、わざわざここまでやって来た自分が、哀れであった。哀れというよりも、情なかった。救いようのない女にさえ思われて来た。
秀子は、バンガローから飛出した。
秀子は、今こそ、自分が本当にひとりぼっちになってしまったのだ、ということを感じていた。そうなると、この松原湖周辺の沈み込んでいくような寂しさは、よけいにしんしんとして迫ってくるのである。過去に、こういう淋しい思いをしたことは、一度もないように思われてくる。母が亡くなったときですら、これほどではなかったようだ。
秀子は、湖畔の道を歩きながら、わァわァと声を出して、泣きたいような気持になっていた。泣いたって、わめいたって、誰からもとがめられないだろう。耳を傾けてもくれないだろう。
(いいえ、この湖だけは、あたしを見ていてくれるんだわ)
秀子は、そういう思いで、あらためて湖を眺めた。
(そして、この湖は、昨年の夏のことを知っているんだわ)
羞《はず》かしくなってくる。湖から嗤われているような気すらしてくる。
いつか、秀子は、歩みをとめていた。湖の岸辺に、ボートがつないであった。そのボートに、昨年の夏は、井筒といっしょに乗ったのである。ふっと、一人で乗ってみたいと思った。そんなことをしたら、湖に飛込みたくなるかもわからない。恐ろしいことであった。が、一方で、
(かまうものか)
と、いうようなすてばちに近い気持にもなっていた。
自分でも、あきれるような気持の変化であった。しかし、別の心は、自分は、決して、湖へなんか飛込んだりしないだろうと、思っているのであった。飛込んでみたいと思ったとしても、実行する勇気がないだろう、と思っているのだった。
(これからのあたしは、どうすればいいのだろうか)
こんな身体では、結婚ということも考えさせられる。うまく過去をゴマ化して、結婚することに成功したとしても、そのうちに、そのことがバレでもしたら、たいへんな結果になりそうである。といって、一生結婚しないわけにもいかないのだ。
あれを思い、これを思いしているうちに、秀子は、ますます自分が、みじめに思われて来た。生きている甲斐のない女でありながら、死ぬ勇気もない女なのである。どうしていいか、わからなくなってくる。わかっていることは、いつまでも、こんなところに立っていてはならぬ、ということだけであった。
秀子は、ふっと大阪の叔母さんを思い出した。自分を可愛がってくれて、ときどき、小遣をくれたりしたのだ。その大阪の叔母さんを思い出すことによって、秀子は、それまで、真っ暗であった自分の心の中に、一条の光が射し込んで来たような気がした。
(明日、大阪の叔母さんとこへ行ってみようか知ら?)
大阪の叔母さんの顔を見たら、すこしは元気になれそうである。この思いつきが、秀子の表情をほのかに明るくした。
誰かが、自分の名を呼んだようであった。
秀子は、空耳かと思ったのである。が、重ねて、
「秀子さーん」
と、呼ぶ女の声を聞いたような気がして、声の方を見た。
湖畔の道を誰かが駈けてくる。手を振りながら、
「秀子さーん」
と、また、呼んだ。
(宿の女中さん?)
はじめは、そう思った。が、近寄って来るその女が、あの東京の渋谷のバー「ぐんじ」のマダム、郡司道子であると知ったとき、秀子は、あまりの思いがけなさに、逃げ腰になった。ばかりでなく、駈け出していた。どうして、そういう気持になったのか、自分でもわからなかった。それ以上に、ここへ郡司道子が姿を現わした理由がわからないのであった。
「秀子さーん」
郡司道子の声が、なおも追ってくる。それと同時に、その足音までが、聞えてくるようになった。
秀子は、観念したように歩みを止めた。が、郡司道子に背中を見せたままの姿勢で、じいっとしていた。郡司道子の足音は、ますます近づいてくる。数メートルの距離になっても、秀子は、強情に振り向こうとはしなかった。
「秀子さん」
郡司道子は、呼吸をはずませているようだ。が、秀子の横までくると、その肩に手をおいて、
「お会い出来て、よかったわァ」
と、親身な声でいった。
しかし、秀子は、黙っていた。郡司道子の顔を見ようともしなかった。
「ねえ、帰りましょう」
「…………」
「それとも、もうしばらく、ここにいる?」
「…………」
「こうなったら、あんたの好きなようにしてあげるわよ」
「…………」
「旅館に、矢沢さんもお見えになっていらっしゃるのよ」
章太郎の名を聞いて、秀子の肩がピクリと動いたようであった。それが、郡司道子にも感じられたらしく、
「あんたは、矢沢さんのこと、大嫌いのようだけど」
「大嫌いです」
秀子は、はじめて、口を利いた。憤ったようないい方であった。
「それでもいいのよ。矢沢さんの方でも、ちゃんとそれを知ってられるんですから」
「…………」
「いくら嫌いでもかまわないけど、矢沢さんが、あんたのことを、とても心配していられるんだということだけは、覚えておいてね」
「…………」
「こんどだって、あなたに万一のことがあってはと、それを心配して、わざわざここまで捜しにいらっしたんですよ」
「万一のことって、いったい、どういうことですの?」
「気を悪くしないでね。どうやら、あたしたちの思い過しであったらしいわ」
「…………」
「あたしたちがここへ来たのは、あなたが、会社の若松成子さんに、ここへ行きたいとおっしゃっていたと聞いたからなの」
「…………」
「矢沢さんは、自分一人で行くといいんだが、どうも、自分は嫌われているようだから、あたしにもいっしょに行ってくれないか、とおっしゃったのよ」
「…………」
「だから、あたし、喜んで、ついて来たんです。だって、あたし、あなたが大好きなんですもの、嘘じゃァないわ」
「…………」
「それに、お父さまだって、とっても心配してらっしゃるんですよ」
「父が? そんなはずがありませんわ。父には、あたし、会社の出張といって……」
「ところが、そのお父さんが、あなたのおっしゃった会社の出張というのに疑問をお持ちになって、自分から矢沢さんに会いにいらっしたんですよ」
秀子は、口の中で、何かいったようであった。郡司道子は、かまわずに、
「で、矢沢さんは、何も彼も、本当のことをおっしゃったんです」
「お喋りだわ」
「そうね」
と、郡司道子は、さからわないで、
「そして、あなたが、井筒さんとはお別れになったことも」
「いいえ、あたしは……」
「秀子さん。そんな嘘は、通らないのよ。だって、勝畑さんが井筒さんに電話をして、あなたが、井筒さんに会いに行ったときからのことを、みんな聞いて、それを矢沢さんに知らせて下さっているんですよ」
「そう」
秀子は、唇を噛みしめるようにしていった。
「だから、矢沢さんが、心配のあまり……」
「…………」
「あたしたちは、さっき、旅館に着いたばかりなのよ。旅館が三軒あるそうだけど、はじめに入って聞いた旅館に、あなたらしい人が昨日から泊まっていなさるとわかって、正直にいって、ほっとしたのよ」
「…………」
「で、あたし、すぐここへやって来たのよ」
「…………」
「旅館へ帰りましょう」
「…………」
「でも、矢沢さんのお顔を見るのが嫌だったら、会わなくってもいいのよ。矢沢さんには、別室にいてもらいますから」
「…………」
「ただし、これだけは覚えておいて。矢沢さんが、あなたのことを心配なさるのは、課長さんとしてよりも、自分にも年ごろの娘があって、その娘さんが、最近に失恋していることがわかり、そういうことから、あなたが可哀そうでならないからなのよ。あなたのおっしゃる出しゃばりも、結局は、あなたのためを思うからだったのよ」
秀子は、やっと、郡司道子の方を見た。
郡司道子は、見返して、
「とにかく、旅館に帰りましょうね」
と、妹にでもいうような口調でいった。
秀子は、うなずいた。
「よかったわァ」
郡司道子は、ほっとしたようにいって、
「これで、あたしも矢沢さんに頼まれて、ここまできた甲斐があったことになるわ」
「すみません」
秀子は、頭を下げた。郡司道子には、それが本当に素直に、心からそうしたように思われた。郡司道子の知っている秀子は、めったにこういう素直さを見せない娘のはずなのである。恐らく、さっきまでは、一人でいて、すっかり参っていたのであろう。郡司道子は、いいときに来てよかった、と思った。もう心配のないような気がした。
よかったといえば、郡司道子にとって、章太郎といっしょに旅に出られたということが、たいへんよかったのである。当分、そういうチャンスにめぐまれないだろうと思っていたのだ。それが、突然に、章太郎から電話がかかって来たのである。郡司道子は、二つ返辞で、承諾した。
章太郎と二人の旅は、愉しかった。もちろん、これから行く先に、秀子がいてくれるだろうか、また、無事でいてくれるだろうか、という心配はあった。章太郎とも、主にそのことを話題にして来た。しかし、別の心は、こういうまたとないチャンスをあたえてくれた秀子に、ひそかに感謝していたのである。
章太郎のために、弁当を買ってやったり、飲物の世話をしてやったりすることが、郡司道子には、嬉しくてならなかった。
これで、今夜は、二人だけで旅館の部屋で過すことが出来たらもうし分がないのだが、秀子の容子からして、それだけはあきらめなければならないようだ。しかし、旅行の目的が目的なのだし、欲をいってはきりがないのである。
郡司道子と秀子は、湖畔の道を、旅館に向って歩いていた。相変らず、二人のほかに、人影がないようだった。夏のことを知らぬ郡司道子には、その夏、ここがどんなに賑やかになるかは、見当がつかなかった。今は淋しいだけである。しかし、この淋しいだけのところに、章太郎と二人で、数日を過せたらと思っていたのである。
「さっき、おっしゃった……」
秀子がいった。さっきから、何か、考え込んでいたらしいのである。
「さっき?」
「課長さんのお嬢さんが、最近に失恋なさったということ」
「そうよ」
「本当のことですの?」
「あたし、矢沢さんからじかに聞いたんですから」
「どうして、課長さんに、そのことがわかりましたの?」
「お嬢さんが、妙に沈み込んでいなさるので、矢沢さんが心配して、お聞きになったらしいのよ。そうしたら、お嬢さんが、矢沢さんに、お手紙を下さったんですって」
「お手紙?」
「そうよ、お手紙」
「親娘の間で?」
「といっても、郵便切手を貼って出すお手紙でなく、口ではいいにくいので、紙に書いて、ということなのよ」
「そう」
「あんたも知ってるでしょうけど、矢沢さんの奥さんは、五年前にお亡くなりになって、その後、再婚なさっていないのよ」
「ところが、あたしの父は、母が、あたしの十五のときに亡くなって、一年たって、もう再婚してしまいましたわ」
秀子の口調は、そういう父親を責めているようだった。
「嫌だったの?」
「決ってるでしょう?」
「そうね」
郡司道子の胸の底には、章太郎と結婚出来たらという夢が、ないわけではないのだ。が、秀子から、こうはっきりと娘としての意見をいわれると、
(やっぱり、あきらめておくべきなんだわ)
と、弱気になってくるのであった。
「だから、あたし、義母が嫌い。でも、父の方が、もっと嫌い」
「わかりますよ。だけど、お父さんとしては、あなたたちをかかえて、どうしても再婚しないわけにはいかなかったんでしょう?」
「あたしにだって、それくらいのこと、わかっております。あたしのお友達の中に、父が再婚してくれたので、自分たちが幸せになれたのだといっている人もあります」
「そりゃァ世間には、そういう家庭が、たくさんありますよ」
「あたしのいいたいのは、父が、あんな女と再婚したことなのよ」
「あんな女って?」
「…………」
「嫌なことを聞いて、ごめんなさい」
「いいのよ。それより、さっきのお手紙の話を、もっと聞かせて」
「ああ、そうだったわね。こんな話、あなたにいったとわかったら、あとで、矢沢さんに叱られるかもわからないけど、あなたに、矢沢さんという人を知ってもらうために、いって上げておいた方がよさそうだから」
「…………」
「矢沢さんは、自分は父親だが、子供たちに対しては、母親の役目もつとめてやらなければならないのだと、いつもおっしゃってるんですよ」
郡司道子は、章太郎が、のぼるから手紙をもらった経緯について、話しはじめた。秀子は、うつ向いたまま、熱心に聞いているのであった。同じ失恋同士として、無関心でいられなかったのかもわからない。
「で、そのお手紙には、どういうことが書いてありましたの?」
「あたしは、うろ覚えだけど、矢沢さんは、何度も読み返しているとかで、全部暗記していられるんですよ。その大要はね」
郡司道子は、うろ覚えのままに、のぼるの手紙の内容をいって聞かせた。聞き終ってから、秀子は、ため息をつくように、
「のぼるさんて、幸せなのね」
「幸せ?」
「だって、そういうお手紙を書けるお父さんがあるんですもの」
「そうね」
「あたしなんか……」
「あなたのお父さんだって、口にこそお出しにならなくても、いつも、あなたのことを心配していらっしゃったに違いありませんよ」
「どうだか」
「いいえ、そうですよ。だからこそ、わざわざ、会社へあなたのことを聞きにいらっしたりなさったんですよ」
「でも、あたし、あんな父、嫌いだわ」
「だけど、矢沢さんて、いい人であることは、おわかりになったでしょう?」
秀子は、黙っていた。しかし、否定したわけではないのである。さっきなら、はっきりと否定したであろう。郡司道子は、それだけ、秀子の気持が折れて来たからだ、と思った。この分だと、あと一押しで、章太郎に会ってもいい気持になるのではあるまいか。
旅館が近くなっていた。郡司道子は、何気なく、その二階の窓を見て、章太郎がこっちを見ていることに気がついた。恐らく、心配のあまり、さっきからそうしていたのであろう。しかし、秀子は、まだ、それには気がついてはいないようであった。
郡司道子は、秀子にわからないように、先ず、章太郎へ首をタテに振って見せた。そのあと、横に振って見せた。
それだけで、章太郎にわかるところがあったのか、窓から顔を引っ込めた。
「矢沢さんは、のぼるさんの失恋の姿を見ているので、いっそう、あなたの恋愛について、無関心でいられなかったんですよ」
「…………」
「もっとも、ここへくる汽車の中でも、自分のやり方が間違っていたかもわからないと、大いに反省してらっしゃいましたけど」
「いいえ」
「どういう意味?」
「課長さんは、ちっとも間違ってなんか、いらっしゃいませんでした」
「ねえ、それは、どういう意味?」
「だって、間違っていたのは、はじめからあたしの方だったんですもの」
「まァ……」
郡司道子は、こんなに早く秀子の口から章太郎を肯定する言葉が聞けようとは思っていなかったので、嬉しさのあまり、
「よかったわァ」
と、秀子の手を握ってしまった。
秀子は、握られたまま、
「あたし、いつだって、課長さんのおっしゃることが正しいのだぐらいのこと、わかってましたわ。だけど……」
「だけど?」
「それを認めたら、あたし、井筒さんと別れなければならなくなるじゃァありませんか」
「そうね」
「それが、嫌だったんです。でも……」
「でも?」
「今は、決心しました。あんな男のことなんか、忘れてしまいます」
章太郎は、旅館の部屋で、郡司道子の現われるのを待っていた。
とにかく、小高秀子が、無事でいてくれたことだけは、はっきりしたのである。さっき、その姿を、窓からこの目で見た。これで、ここまで来た第一の目的が達しられたようなものであった。
(よかった……)
あとは、何んとか東京へ連れもどすことである。しかし、そこまで秀子が、素直に納得するかどうか、疑問であった。
秀子は、自分を嫌っているのである。あるいは、それ以上に、憎んでいるかも……。そういう自分の言葉に対して、ますます、反抗してくる恐れがある。それでは、困るのだ。それどころか、秀子は、自分に会うのを嫌だ、というかもわからないのである。
(そうなったら、何も彼も、郡司道子にまかせておこう)
やっぱり、郡司道子を連れて来たことが、よかったことになる。そして、章太郎にとっても、郡司道子とここまでの旅は、愉しかったのである。一生、この女とはなれたくないな、と思った。結婚ということが不可能であっても、あくまで、今の関係を続けて行きたいのであった。
(しかし、そのためには、一日も早く、停年退職後の就職先を見つけておかないと……)
それが決らない限り、郡司道子と今の関係を続けていくなんて、問題にならないようだ。
郡司道子には、月に一万円をわたしてある。その後、いらないからといわれたのだが、章太郎は、男として、そういうわけにいかない、と思っているのであった。今や、二人の関係は、客とバーのマダムとの間柄を越えているのである。そのことは、章太郎も認めていた。だからこそ、こんどのような問題が起ると、早速いっしょに来てもらったりしたのだ。
しかし、だからといって、章太郎は、タダで、というのはいかんと思っているのであった。男のコケンにかかわってくる。そういう考え方は、古臭いといわれようが、章太郎は、やっぱり嫌だった。
そのくせ、もし、停年退職後浪人をしなければならなかったとして、郡司道子と縁を切る勇気があるのかといわれたら、返答に窮したに違いないのである。淋しさのあまり、退屈のあまり、ますます郡司道子の顔が見たくなりそうであった。
が、その後、章太郎の必死の就職運動にもかかわらず、いい結果を得ることが出来ないでいた。いくつかの脈のありそうな話も、つぎつぎにこわれてくるのである。そのため、もう人に頼んで歩くことが嫌になっていた。しかし、嫌になっても、自分で足を運んで、頭を下げ続けなければならないのだ。屈辱の思いを繰返さなければならないのだ。
そろそろ、郡司道子と秀子が、旅館へ戻った頃である。秀子の部屋は、同じ廊下に面しているが、すこしはなれていた。やがて、その廊下に足音がして、郡司道子が入って来た。
「ご苦労さん。どうだった?」
章太郎は、せき込むようにいった。
「とにかく、部屋へ入れて来ましたから」
「一人でおいておいて、大丈夫かい?」
「万一のこと?」
「そう」
「その点なら、大丈夫のようですわ」
「よかったよ」
章太郎は、ほっとしたようにいった。
「ほんと。たしかに、ここまで来た甲斐があったようですよ」
「君のお陰だな」
「いいえ、あたしだけではダメ。やっぱり、あなたに来て頂かないと」
「しかし、あの娘、今でも、僕をうらんでいるんだろう?」
「そうでもありませんよ。その証拠に、あとで、あなたにお会いするといっておりましたから」
「そうか」
「いろいろと話しているうちに、だいぶん心境の変化を来たしているようです」
「有りがたいことだ。無事でいることだけでも、あの娘の父親に電報で知らせてやっておこうか」
「それをあたしがいったら、家でなく、お父さんの会社宛にしてくれ、というんです」
「しかし、今から電報を打ったんでは、本人は、もう会社にいないだろう?」
「ところが、あの娘は、母親の耳に入ることが、どうしても嫌らしいんです」
「今夜一晩、父親を心配させることになるんだが」
「でも、本人が、そういうんですから」
「では、そういうことにしておこう」
「今のうちに、お風呂へお入りになっておいたら?」
「あの娘に、いつ会わせて貰えるんだ」
「食事のときでいいでしょう? ただし、あなたからは、もう意見がましいことは、何んにもおっしゃらないで」
「いわないよ。人様の娘に意見するのは懲《こ》り懲りしている」
いいながら、章太郎は、のぼるのことを思い出していた。のぼるには、会社の出張といって来ているのである。そののぼるは、近頃、徐々にではあるが、失恋の責苦から脱け出しつつあるようなのだ。笑顔を見せるようになっていた。あとは、章太郎として、坂巻広太の正々堂々たる接近に期待するだけであった。が、今のところ、坂巻広太が、それを実行したらしい気配はなかった。
郡司道子は、旅行鞄の中から章太郎の洗面道具を出してやって、
「どうぞ。お風呂は、この廊下の突き当りを左にまわったところにあるそうですから」
「君は?」
「あとにします。だって、あの娘に……。あたし、今夜だって、あの娘の部屋で、いっしょに寝てやるつもりでいるんですよ」
「残念だな」
「正直にいって、あたしも。だけど、仕方がないでしょう? ゆっくり、お風呂にお入りになっていて。その間に、お食事の用意をしてもらっておきます」
「頼むよ」
章太郎は、郡司道子がわたしてくれた洗面道具を持って、廊下へ出た。突き当った左に風呂があった。せいぜい、三人ぐらいしか入れないような風呂であった。もちろん、他の客はいなかった。
浴槽につかりながら、湖が見えるようになっていた。しかし、外は、そろそろ暗くなりかけていたし、湖は、その薄闇の中に、沈み込んでいきつつあった。今から、夜の静けさと淋しさが思いやられた。
郡司道子は、秀子について、もう万一のことが起る心配のないようにいっていた。しかし、この淋しさと静けさの中に、失意の思いに堪えながらたった一人でいたら、発作的にどういう気分にならんとも限らないのである。どんな人間にも、そういう脆《もろ》い一面があるものだ。
(危いところであったのかも……)
そして、また、
(やっぱり、来てやって、よかったのだ)
章太郎は、わざわざ、高い旅費をつかって、ここまで郡司道子と来たことがムダでなかった、と思いたいのであった。
そもそも、章太郎が、停年退職の間際であるにもかかわらず、秀子の問題に口を出そうと決心したのは、自分の在職中に、一つぐらい人のためになるようないいことをしておきたい、と思ったからであった。
そして、次のような場面を、思い描いたのだ。
あるとき、銀座かどっかで、ひょっこり小高秀子に会うのである。その横に、良人がいる。もちろん、井筒雅晴なんかではない。そして、秀子は、子供の手をひいている。父親似のかわいい子供なのである。
秀子は、章太郎を見ると、
「あなた、あたしが勤めていたころに、とってもお世話になった課長さんですよ」
と、良人に紹介する。
良人は、何んとかいうだろう。誠実そうな人物なのである。
「やァ、よろしく、お幸せそうで、何よりです」
さりげなくいって、章太郎は、別れてくる。ついでに、
「とっても、かわいい」
と、子供の頭をなぜてやってもいいのである……。
章太郎は、自分のしたことが間違っていたとは、思いたくなかった。といって、自分が絶対正しかった、といい切れる自信もなかった。
(要は、今後の小高秀子が、幸せになれるかどうかにかかっているようなものだ)
そうなると、そのことも、自分の責任のように思われてくる。でなかったら、仏をつくって魂を入れず、ということになってくる。しかし、章太郎には、そこまでの面倒をみる気はなかった。また、思っても、出来ない相談なのである。
(結局は、人のお節介をするな、ということになりそうだな)
章太郎は、自嘲的な苦笑を洩らした。五十五歳にもなって、こういうことがはじめてわかったのかと、自分を責めたいくらいであった。
すでに、食卓の上には、三人分の食事が並べられてあった。ビールの用意もしてある。あとは、章太郎の入ってくるのを待つだけであった。
郡司道子は、章太郎を呼びに行って、戻って来たところなのである。
「すぐ、いらっしゃるそうですよ」
郡司道子は、ベランダのイスに掛けている秀子にいった。秀子は、真ッ暗になった湖の方を見ていたのだが、振り向いて、
「あたし、課長さんに、何んといえばいいのでしょうか」
そのいい方に、素直さが出ているようであった。郡司道子は、そんな秀子を可愛い、と思った。二人で、この部屋に来てからの小一時間、郡司道子は、いろいろといってやったのである。意見するような口調になることを避けて、女としての立場から、寧《むし》ろ、秀子に同情するように……。そのことが、効果があったらしいのである。ほんのすこしだが、表情にも明るさを加えて来たように感じられた。
「そうね。そこに、きちんと坐って、課長さん、いろいろとすみませんでした、といったら?」
「それだけで、いいでしょうか」
「もう、大丈夫でございます、といって上げたら、きっと、安心なさるでしょうし、お喜びになるかも」
「では、あたし、そのようにいいます」
「いいことだわ」
廊下で、スリッパの音が聞えて来て、部屋の前でとまった。
「入ってもいいだろうか」
章太郎の声であった。
秀子は、ちょっと緊張したようであった。すぐ、イスから立って、畳の上に、きちんと坐った。
「どうぞ」
郡司道子がいった。
戸が開かれて、ドテラ姿の章太郎が入って来た。
「やァ……」
章太郎の方が、てれ臭げにいった。秀子は、畳の上に両手を突いて、
「課長さん、いろいろとご心配をおかけして、どうもすみませんでした」
章太郎は、あわてて、これまた畳の上に坐ると、
「いやいや、無事でいてくれたんで、何よりであったよ」
「もう、大丈夫でございますから」
「そうか、そうか。これでも、心配していたんだよ」
「もうしわけございません」
「そのようにいわれると、僕の方で、恐れ入るんだ。じつをいうと、さっきもお風呂に入りながら、君に対して、悪いことをして来たようで、大いに反省していたんだよ」
「いいえ」
「どうか、悪く思わないでもらいたいのだ。僕の方からも、この通り、頭を下げておくよ」
いうと、章太郎は、膝の上に両手をおいて、ピョコンと頭を下げた。
章太郎は、冗談に、頭を下げたのでないことは、明白であった。見ていて、郡司道子は、
(なんていい人なんだろう)
と、思ったし、
(あたしは、この人と、どうしてもはなれることが出来ないわ)
頭を下げられた秀子は、
「課長さん、困ります」
「どうしてだね」
「わざわざ、お忙しいのに、郡司さんとお二人で東京から来て頂いたのに、その上、そのようにされては」
「そう、思ってくれるかね」
「思います。今は骨身にしみるほど、それを感じております」
「そうか……」
章太郎は、あらためて、秀子の顔を見た。秀子は、見返したのだが、その目は、濡れてくるようであった。そうなると、章太郎の方が、目のやり場に困ってくるのである。救いを求めるように、郡司道子の方を見た。郡司道子は、それを待っていたように、
「さァ、それで話は終りにして、お席にお着きになったら」
「そうさせてもらおうか。正直なところ、お腹が減っているし、ビールを見ていると、一刻も早く、と思っていたところなんだ」
「だろうと思っておりました。あなたは、床の間の席ですよ」
「しかし、今夜は、小高君に、その席を譲ろう」
「いけませんよ、そんなこと。ねえ、小高さん」
「はい。でないと、あたし、ごはんがノドを通りません」
秀子は、笑顔でいった。それを章太郎は、
「では、お言葉に甘えて」
と、いいながら立上がって、床の間の席に着いた。
「小高さんは、ここに」
郡司道子は、秀子を章太郎と向い合った席に坐らせると、自分は、横の席に着き、早速、ビールびんのせんをぬいた。
「はじめだけ、あたしにお酌をさせて」
秀子は、郡司道子からビールびんを受取ると、
「課長さん、どうぞ」
「そうか、すまんな」
「課長さん、本当にすみませんでした」
「もう、そんなことをいう必要がないんだよ」
秀子は、次に、郡司道子に、
「どうぞ」
「頂くわ」
「ママさんにも、お世話になりました」
「あら、いいのよ。こんどは、あたしがお酌をして上げます」
「すみません」
章太郎は、秀子のグラスが満たされたのを見てから、
「では、小高秀子君の将来の幸せを祈って、カンパイといくか」
「そうよ、さんせい」
章太郎と郡司道子は、それぞれ、ビールを飲んだ。しかし、秀子だけは、飲まないで、グラスをテーブルの上においた。
章太郎と郡司道子は、顔を見合わせた。
「どうして、お飲みにならないの?」
郡司道子がいった。
「だって……」
秀子は、うなだれたままでいった。
「だってって?」
「いいえ、いいんです」
「ちっとも、よくありませんよ。何んでも、思ったことは、はっきりおっしゃい。その方がいいのよ」
「今、課長さんが、あたしの将来の幸せを祈って、とおっしゃったでしょう。そうしたら、急に、悲しくなって来たんです」
「別に、悲しがる必要はないはずよ。課長さんは、心からそう思って下さっているんですから。あたしだって、そうよ。だからこそ、東京から来て上げたんじゃァありませんか。いいえ、これは、恩に着せるためにいってるんじゃァありませんよ」
「そうだよ、小高君。僕は、さっきもお風呂へ入りながら、僕が君のためと思ってして来たことについて、大いに反省していたんだ。そして、得た結論は、君が将来、幸せになってくれたら、僕の出しゃばりも、ムダでなかった、ということになる。反対になったら、僕は、たいへんな間違いをおかしてしまったことになる、と。だから、あのようにいったのだ。そういう意味でも、僕は、君に、ぜひ幸せになってもらいたいんだ」
「あたしなんか、幸せになれっこありませんわ」
「どうして、そんなことをいうんだね」
「だって、こんな身体になってしまって」
「…………」
「もちろん、自業自得のことなんですけど」
「…………」
「かりに、将来、誰かと結婚しないかとすすめられても、あたし、自分の過去を思うと恐ろしくって、出来ませんわ」
「そんなバカな」
章太郎は、そういったが、とっさには、後の言葉が続かなかった。
「そのことについてだったら、お食事をしながら、ゆっくり話し合いましょうよ」
いいながら、郡司道子は、章太郎にお酌をしてやって、
「あたし、小高さんの今おっしゃったこと、よくわかりますよ。だけど、すこし思い過しているようよ」
「…………」
「はっきりいって、あなたの過去は、決してほめられません。しかし、問題は、将来にあるんじゃァないか知ら?」
「…………」
「いい換えると、あなたの気の持ちよう一つで、どうにでも解決の出来ることのはずよ」
「…………」
「井筒さんとのことなんか、狂犬に噛みつかれたくらいに思うのよ」
「…………」
「あたし、こんどでわかったんだけど、あんたには、たくさんのいいところがあってよ。気が強そうでいて、とってもやさしいし、素直であるし、美しいんだし」
「…………」
「それを誇りに思い、自信を持って生きていくのよ」
「そんなこと、あたしには……」
「まァ、黙って、お聞きなさい」
「はい」
「今のあなたは、精神的にも、肉体的にも、自分が傷物になってしまったように思ってるんでしょう?」
「…………」
「肉体的な傷なんて、ほんのカスリ傷ぐらいに思っておけばいいのよ」
「…………」
「大切なのは、寧ろ、精神的な方だと思うのよ」
「…………」
「今、井筒さんのこと、どう思っている?」
「…………」
「今でも、愛している?」
秀子は、頭を横に振った。
「それで、いいのよ。もちろん、尊敬なんかしていないでしょう?」
「はい」
「憎んでいるくらいでしょう?」
「はい」
「一日も早く、あんな男のことなんか、忘れてしまいたいと思っていない?」
「思ってます」
「だったら、上等よ。文句がないわ」
「…………」
「あの男のことが忘れられる日がきたら、忘れなくても、思い出しても、痛くも痒くもなくなる日が来たら、そのときこそ、あなたは、完全に立直ったことになるのよ」
「…………」
「精神的だけでなしに、肉体的にも」
「…………」
「すこしも卑屈になる必要がないし、また、なってはダメ」
「…………」
「そこが、いちばんかんじんなところよ」
「…………」
「あんたの場合、自分で自分を卑屈にしているきらいがあってよ」
「…………」
「それでは、損」
「…………」
「損になるような人生なんて真っ平だ、と自分で思わなきゃァ」
「…………」
「強く、たくましく、よ。そして、勇気を出して、過去のことなんか、ケロリと忘れたように生きていきなさい」
「…………」
「そうすれば、周囲の人たちも、あなたをそのような人と思うようになるわ」
「そうでしょうか」
「ほら、その半信半疑が、いちばんいけないんですよ」
「はい」
「このあたしをごらんなさい」
「ママさんを?」
「ここだけの話よ」
そういって、郡司道子は、ちらっと章太郎の方を見た。二人の関係について、話してもいいかと聞いているようだった。
章太郎としては、あんまり人に喋ってもらいたくないことなのである。しかし、さっきから、郡司道子の説得ぶりに感心していたし、自分たちの関係を話すことによって、絶望的になっている一人の娘が救われるのならかまわない、と思った。
章太郎は、うなずいてみせた。
「あんた、この矢沢さんとあたしの仲を、どのように思っているの?」
秀子は、郡司道子を見、ついで章太郎を見た。
「ここまで二人でくるくらいなんですもの、もちろん、ただの仲だとは思っていないでしょう?」
「はい」
「その通りなのよ。しかも、三年前から」
「まァ、三年も?」
「三年ぐらいで、そんなにびっくりしないで、あたしは、一生、この人からはなれたくない、と思ってるくらいなんですから」
「…………」
「矢沢さんには、奥さんがないんだし、結婚したいくらいに思ってるのよ」
「なさったらいいのに。あたし、きっと、お似合いだ、と思うわ」
「有りがとう。あたし、あなたがますます好きになったわ。ところが、結婚となると、いろいろ問題がからんでくるから、当分の間は無理。でも、あたしは、あきらめていませんよ」
郡司道子は、ちらっと章太郎を見ておいて、
「あたしが、矢沢さんから、一生、はなれたくないと思っているのは、もちろん、大好きだからだこそだけど、その他に、矢沢さんの老後に、あたしって女が必要だと信じているからよ」
「まァ」
「たいへんなうぬぼれに思われるでしょう?」
「いいえ」
「思ったって、かまわないのよ。そして、あたしにとって、矢沢さんて人、絶対に必要なのよ」
「わかりますわ、あたし」
「人生において、この必要ということと自信ということが、いかに大切か、おわかりでしょう?」
「はい」
「矢沢さん、あたしのいったことに、異議がございまして?」
「いや、ございません。全く、おっしゃる通りですよ」
「ほら」
郡司道子は、嬉しそうに笑って、
「いってみれば、あたしの自信と必要の勝利でしょう?」
「はい」
「だから、あなたも、よ」
「はい」
「過去の嫌なことなんかケロリと忘れて、自信を持って、生きていきなさい。そして、あなたが必要とし、また、あなたを必要とする人を見つけて、一日も早く、幸せな結婚生活に入ることよ。きっと、そういう日が来ます」
秀子は、しばらく黙り込んでいたが、やがて、目の前のビールのグラスを持って、
「あたしも、今夜は、頂きます」
「そうよ、そうよ。こうなったら、あたしだって、大いに飲むわ」
郡司道子がいうと、
「もちろん、僕だって」
と、章太郎は、ほっとしたようにいった。
とにかく、章太郎にとって、肩の荷をおろしたような思いであった。ビールが、うまくなって来た。郡司道子も、うまそうに飲んでいる。秀子の表情も、ビールのせいもあってか、目に見えて、明るくなって来たようであった。
ここが、東京を遠くはなれた松原湖畔の宿の一室であることを、三人とも、忘れているようであった。しかし、三人の胸底に、それぞれの思いがあって、ここがどこだということを、決して忘れていなかったに違いない。
やがて、秀子は、思いつめたような口調で、
「課長さん、あたし、会社を辞めましょうか」
「どうしてだね」
「何んだか、嫌になったんです」
「僕のような課長がいるからかね」
「違います。課長さんのようないい人が、もうじき停年で、いられなくなるからです」
「せっかく忘れていたのに、停年退職のことを思い出させたな」
「ごめんなさい」
「いいさ。忘れていたって、くることには間違いがないんだから」
「あたしね」
「なに?」
「しばらく、大阪の叔母さんとこへ行っていたいんです」
「ああ、賛成だ。大阪の叔母さんは、とっても君を可愛がって下さっているんだってね」
「はい」
「このママさんから聞いたろうが、大阪の叔母さんも、君の行方について、心配していられるんだ。あとで、電話で、無事でいることを知らせて上げた方がいいよ」
「はい」
「大阪の叔母さんとこへ行くのはいいが、そのために、会社を辞める必要はないだろう?」
「しばらく、東京をはなれていたいんです」
「そういう意味でなら賛成だな」
「あたしも」
「井筒君のことは、どうする?」
「もう、どうでもよくなりました。本当に、脅迫の電報ぐらい打ってやろうと思っていたんですが、やめます。そんなこと、無意味ですもの」
「そうだよ、その方が、利口だ。でないと、却って、自分の傷を深くするばかりだ」
「そのかわりね、課長さん」
「ああ、こうなったら、何でもいってごらんよ」
「お嬢さんを幸せにして上げて」
「僕の娘のこと?」
「失恋なさったんでしょう?」
「ごめんなさい。あたし、あなたって人を知ってもらうために、喋ったんです」
「そして、それを聞いてから、あたし、課長さんて、本当にいい人なんだな、と思うようになったんです」
「そうか」
「ですから幸せにして上げて。あたしのようなことにならないように」
「有りがとう。ぜひ、そうしてやりたい、と思っているんだよ」
章太郎の思いは、東京ののぼるの上に走っていた。
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参事室勤務
矢沢章太郎の机の上の卓上カレンダーが、六月一日の日付になっていた。章太郎の停年退職の日は、九月一日であるから、あと三カ月ということになる。
章太郎は、その日付を見つめながら、いいようのないほどのあせりを覚えていた。あと三カ月しか、この会社にいられぬのだ、ということよりも、いまだに、次の就職先が決っていない、ということの方が、重大な問題になっていた。
(俺って、余っ程、運が悪いんだな)
自分で、そうなげきたい程、就職運動は、うまくいっていなかった。八分通り間違いない、と思っていた話がこわれたり、本当か嘘かわからないが、
「君、残念だったよ。昨日、来てくれたらよかったのだ。実は、手頃な口が一つあったのだが、さっき、決めてしまったんだ。本当に、惜しいことをしたな」
と、いわれたりした。
そういわれては、章太郎としても、返す言葉がないのであった。
「もし、別の口があったら、そのときには、ぜひお願いします。もちろん、勤務の条件とか、月給とかについては、一切おまかせいたしますから」
「わかった、心がけておこう」
しかし、アテに出来ないことは、過去いくたびかの経験で、はっきりしていた。はっきりしていながら、万に一つの期待から、必要以上に深く頭を下げている自分が哀れになってくる。それ以上に、嫌になってくる。しかし、どうにもならなかった。
この苦しさは、郡司道子にだけはいってあった。子供たちには、いうわけにいかないのである。
「わかるわ。あんまり、あせらないことよ」
郡司道子は、そういうのだ。
「しかし、あせらずにはいられないのだ」
「まかり間違ったら、あたしが雇ってあげましてよ」
「君が?」
「いつかいってらしった新宿の何んとかいうバー」
「ああ、田沢君のやっているグリーン≠フことか」
「そう、グリーン=Bそこのように、度胸をきめて、ここで二人で働いたって、いいじゃァありませんか」
「まさか……」
章太郎は、苦笑した。どんなことでもする気でいて、そこまでする決心がついていないのであった。
もちろん、郡司道子だって、本気でいっているわけでなかろう。しかし、章太郎としては、そういってもらえるだけでも、嬉しいのであった。殊に、郡司道子に対しては、小高秀子のことで松原湖へ行って来て以来、いっそう信頼する気持が深くなっていた。自分の老後に必要な女、と思うようになっていた。
(もし、今の俺に、郡司道子がついていてくれなかったら……)
どんなに淋しいかわからないのである。自分でも、そう思っていた。
章太郎や郡司道子に、さんざん世話を焼かせた小高秀子は、あの後、会社を辞めた。今は、大阪の叔母さんのところへ行っているはずだった。
「課長さん、本当にいろいろと有りがとうございました」
秀子は、章太郎の前に来ていった。
「お元気でな」
「課長さんも」
「有りがとう。そうだ、そのうちに結婚するだろうが、そのときには、葉書の一枚もくれないか」
秀子は、しばらく黙っていてから、
「はい」
と、答えた。
「そういう日の一日も早くくることを、僕は、祈っているよ」
「渋谷のママさんには、課長さんからよろしくいっておいて下さい」
「わかったよ」
「あたし、お二人が、一日も早く」
秀子は、そこまでいって、それ以上は、いわでものことと思ったらしく、何んとなく笑顔を見せて、章太郎の前からはなれて行った。章太郎は、その笑顔を、
(悪くないな)
と、思った。
ああいう笑顔が出来るようなら、井筒のことも、やがては忘れ去ることが出来るに違いなかろう。それでこそ、自分たちが努力してやっただけの甲斐があった、ということになるのだ。
一週間ほど前、バー「ぐんじ」で、勝畑に聞いたところによると、井筒が、その後つき合うようになった女を連れて歩いていて、ぐれんたいのような男にからまれ、女の手前、反抗的に出たため、ひどく殴られたことがあったそうだ。みっともない顔になって、三日ほど会社を休んだ。そういうことから、細君に平常の素行を疑われて、困っているそうだ。
「僕は、それこそ、天罰だ、といってやったんですよ」
勝畑がいった。
横で聞いていた郡司道子は、
「あら、それくらいの天罰なんて、軽過ぎるわよ」
と、不満そうにいった。
「すると、君は、小高秀子のその後のことを、井筒君にいってやったのかね」
章太郎がいった。
「いってやりましたよ。まさに、自殺寸前であったのだ、というように」
「そうしたら?」
「嘘だろうと、青くなってました。そのうちに、君の家へ乗り込んでいくかもわからないから、あらかじめ覚悟をしておいた方がいい、ともいってやったんです」
「そうだ。あの男には、それくらいのことをいってやってよかったのだ」
「井筒は、困ってました。何んとかしてくれと両掌を合せておりました。しかし、僕は、もう知らんとつっ放しておきました」
「当然のことよ。もっといじめてやるべきだわ」
郡司道子は、強い口調でいった。こういう問題になると、男よりも女の方が残酷ないい方をするようだ。
その秀子がいた席には、若松成子が移っていた。そして、若松成子のいた席には、新しく入社して来た、まだ、ロクにお化粧の方法も知らぬような女子職員が。しかし、そういう女も、三カ月もしないうちに、すっかり変ってくるのである。章太郎は、何度も、そういう女たちの変りようを見て来ている。あの小高秀子だって、入社の当時は、一向に垢抜けのしない娘であったのだ。
しかし、今では、秀子のことを噂にする人も、いなくなったようである。それでいいのであろう。章太郎にしたところで、近ごろでは、秀子のことを思い出すことが、すくなくなっていた。あの松原湖へ行って来た日から、すでに数カ月たったような気がしているのだった。
章太郎が、あと三カ月で、この机から姿を消したら、当然のことながらその翌日、もう次の課長が、この席にくる。しばらくは、新旧課長の比較のようなことが、話題になるだろう。しかし、二カ月もしたら新しい課長になれて、誰も、章太郎のことなんか、口にしなくなるに違いない。
停年退職者は、日々に忘れられていく。それについてグチをいうのは、当らないことになりそうだ。
しかし、先月の中旬に出た東亜社報に「あの人のその後」として、停年退職者西田尚次のことを掲載したことは、社内に、停年退職者への関心を深めるに、大いに役立ったようであった。
社員食堂でも、そのことが話題になっていた。もっとも、その大部分は、中年以上のサラリーマンの間でのことであって、若いサラリーマンにとっては、それほどでないようであった。
坂巻広太は、
「お陰で、何人かの人からいい企画だとほめられました」
と、章太郎の席へお礼に来た。
「よかったな」
「来月は、清掃会社をやっていられる武田文兵衛さんにするつもりです」
「いいではないか」
「私としては、新宿のバーグリーン≠フ田沢さんにしたかったのですが、課長が、ちょっと待てというもんですから」
「重役連中からの反響はないのか」
「それが、うんともすんともなんです。課長がいってましたが、読んでいるに違いないようなのだが、何んにもいいたくないらしいんですね」
「要するに、重役連中は、停年ということに薄情なんだな」
「どうやら、そういう結論になりそうです」
「残念だよ。もっとも、いくら同情されても、僕の場合には、もう間に合わないだろうが」
章太郎は、自嘲的にいった。
広太は、そのまま、章太郎の前からはなれて行った。章太郎は、呼びとめて、
(その後、君の、のぼるへの正々堂々たる接近の件は、どうなったんだね)
と、聞いてみたかったのだが、聞けなかった。
その日、退社時刻に近くなって、
「課長さん、総務部長さんがお呼びです」
と、給仕がいいに来た。
「よし、わかった」
章太郎は、そう答えながら、直感的に、
(あのことについてに違いない)
と、思っていた。
すなわち、章太郎は、かねてから自分の後任について、黒山総務部長に、平山要一を推薦して来たのである。平山は、課長代理であった。そして、平山の課長昇進のあとに、寺島深二を課長代理にしてもらいたい、と。
もちろん、章太郎は、自分の後任について、何んの発言権もないことを知っていた。しかし、そのことは、以前から平山に頼まれていたし、また、そういう人事がいちばん妥当であろう、と信じていた。どうせ辞めていくのだが、そのあと、自分の直属の部下たちが、すこしでも有利になるように、と思ってのことであったのである。
一つには、章太郎が自分の後任について、積極的に発言をしておく気になったのは、この会社に流れる二つの派閥を心配したからであった。
横山専務派と福井専務派は、相変らず、暗闘を繰返しているらしいのである。そして、黒山総務部長は、福井派に属し、平山もその流れの中に泳いでいる気配がある。ところが、平山にいわせると、寺島は、横山派だそうだ。それならその二人を、それぞれ昇進させることが、両派にとって、プラスマイナスなしである。派閥の波に流されて、妙な人事をやってもらいたくなかった。黒山総務部長が福井派であったとしても、それくらいのことがわかってくれるに違いなかろう。章太郎は、黒山総務部長に対して、それを期待した。
「平山を次の課長にか」
黒山総務部長は、別に嫌な顔をしなかったのだが、
「そして、平山君のあとに、寺島君をということにして頂きたいのです」
と、章太郎がいうと、
「寺島を?」
と、眉を寄せるようにしていった。
「私としましては、ぜひ、そういうようにお考え頂きたいのですが」
「まァ、考えておこう」
「お願いします」
章太郎が、黒山総務部長にそれを頼んだのは、一カ月前であった。その後、返辞がなかったので、一週間前に、それとなく催促すると、
「近いうちに、何とか結論が出るはずだ」
と、いうことであったのである。
章太郎は、席を立った。そんな章太郎を、平山が気になるように見たのは、彼もまた、黒山総務部長が章太郎を呼んだのは、自分に無関係ではないらしい、と察したからであったろうか。
章太郎は、黒山総務部長に頼んだことも、その後、催促したことも、平山にいってあった。平山は、そのつど、
「どうか、よろしくお願いいたします」
と、いっていたのである。
章太郎は、総務部長室へ入っていった。
「お呼びでございましょうか」
「ああ、君」
黒山総務部長は、珍しく上機嫌にいって、
「まァ、そこへ掛けたまえ」
と、応接用のイスを指さし、ついで、卓上の呼リンで給仕をよぶと、
「紅茶を二つ」
章太郎は珍しいこともあるものだ、と思った。今までに、こんな待遇を受けたことは、一度もないのである。薄気味悪いくらいであった。しかし、相手は、上機嫌のようなのだし、悪い気がしなかった。
「この書類を片づけてしまうから、しばらく待っていてくれたまえ」
「どうぞどうぞ」
章太郎は、応接用のイスに掛けた。黒山総務部長の用事のすむのを、煙草を吹かしながら待っていた。
給仕が入って来て、テーブルの上に紅茶をおいた。
「君、冷めないうちに飲んでいてくれたまえ」
「有りがとうございます。部長のに、砂糖を入れておきましょうか」
「頼む」
章太郎は、黒山総務部長の茶碗の中に砂糖を入れ、ついで、自分のにも入れた。何か、これからいいことが起るような気がして、近頃になくうまい紅茶のようにも思われた。
「さァ、すんだ」
黒山総務部長は、そういうと、章太郎の前に来て、紅茶をガブと一口飲んで、
「時に、君の停年退職の日は、いつだったかね」
「九月一日でございます」
「すると、あと三カ月か」
「はい」
黒山総務部長は、黙り込んだ。
章太郎には、今頃になって、何故そういうわかり切ったことを聞かれるのか、理由が飲みこめなかった。自分の停年退職の日が九月一日であることは、一カ月前にも、そして、一週間前にも、はっきりといってあるのだ。
しばらくたって、黒山総務部長は、
「で、そのあと、どうするつもりなんだね」
「とても遊んでいられる身分ではありませんし、どっかに勤めたいと思っています」
黒山総務部長は、うなずいてみせて、
「で、もう次の就職先が決ったのかね」
「それが、どうも……」
「まだなのか」
「困っているんです」
「そりゃァ困るだろう。わしにだって、君の今の心境がどんなであるか、わからんではない」
黒山総務部長のいい方には、しんじつ味がこもっているようであった。章太郎は、嬉しかった。有りがたかった。とにかく、自分の停年退職後のことについて、上役からはじめて、こういう親身ないい方をされたのである。章太郎と同期に入りながら、今は常務になっている相原は、
「ああ、君も、そろそろ停年か」
と、いい、章太郎が、
「いよいよ、お別れです」
と、いうと、
「そういうことになるな。規則だからな」
と、じつに冷淡であったのである。
(そのあと、どうするつもりなんだ)
ぐらいのことを、章太郎は、せめて、口先だけででも、いってもらいたかったのだった。以来、会社の嘱託として残る希望も捨てて、就職運動に奔走して来たのである。
黒山総務部長は、ふたたび黙り込んだ。章太郎は、その沈黙を自分の有利なように解釈した。いや、解釈したかったのだ。それこそ、ワラにもすがる思いだった。
(部長は、俺の停年退職後の就職先について、何か、考えてくれるのではあるまいか)
そういう期待を持った。章太郎なんかとは、比較にならぬくらい世間に顔のひろい黒山総務部長なのである。その顔と、現在の地位で、章太郎のために力をかしてくれたら、停年退職後の就職口を見つけることは、それほど難しくはないはずなのである。
(それとも、嘱託として残してくれるのであろうか)
章太郎は、そうも思った。それだって、文句がなかった。いや、願ったりかなったりなのである。
黒山総務部長は、思い出したように煙草を取出した。章太郎は、急いで、マッチをつけてやった。いつもなら、決してそんな真似をしないのだが。
「やァ、すまん」
黒山総務部長は、深く喫ってから、
「しかし、在職中に、何んとか決めておかんと落ちつかないだろう?」
「そうなんです。正直にいって、毎日、あせっているんです」
「当然だよ」
「…………」
「僕だって、心当りをあたってみよう」
「ぜひ……。お願いします」
章太郎は、深く頭を下げた。
「しかし、何んといっても、君自身のことなんだから、君自身で捜してまわらなくっちゃァ」
「わかっております」
「今まで、どういうふうに捜していたんだ」
「いろいろの人に頼んだり」
「しかし、頼むといったところで、仕事があるし、思うにまかせないだろう?」
「ですから、昼の休憩時間中に出かけたり、会社が退けてから出かけたり」
「君、そんな中途半端のことじゃァダメだよ」
「と、おっしゃいますと?」
「会社の今の仕事なんか放り出して、捜しまわらなくっちゃァ。君、そういうもんだよ」
「もちろん、そうしたいのはやまやまなんですが、厚生課長として月給を頂いている以上、そういうわけにもいきません」
「君、そんなこと、かまわんよ。遠慮をすることはないんだ」
黒山総務部長は、こともなげにいった。
「しかし、部長」
「わかっているよ、君のいいたいことが。だから、僕は、これでも君が、今後の就職運動のためにすこしでも有利になるように、いろいろと考えてやったんだよ」
「有りがとうございます」
「君には、近いうちに厚生課長を辞めるようにして上げよう」
「私が厚生課長を辞めるのですか」
「そして、参事室勤務ということにして上げよう」
章太郎の顔から血の気が、すうっと退いていった。それを見て見ないように、黒山総務部長は、言葉を続けた。
「参事室勤務といったところで、特別に仕事があるわけでない」
「…………」
「毎日、遊んでいてくれたっていいんだよ」
「…………」
「が、その遊んでいられる時間を、僕としては、停年退職後の就職運動のために費やしてもらいたいんだよ」
「…………」
「もちろん、月給は、今まで通り出る」
「…………」
「もし、明日にも、次の就職口が見つかったら、そのあと、停年退職の日まで、悠々としていてくれていいんだ」
「…………」
「三十年以上も会社のために、一所懸命に働いてくれたんだし、ここらで骨休めをしておくことはいいことだし、また、必要なことだと思うんだよ」
「…………」
「会社だって、それくらいのことをしてもいいはずなんだ」
「…………」
「君、わかってくれたね」
そういうと、黒山総務部長は、もうこちらの用事が終ったとでもいいたげに立上がりかけた。
「ちょっと、部長」
章太郎は、重い口調でいった。
「何んだね」
黒山総務部長は、浮かしかけた腰を戻した。
「せっかくですが……」
「せっかくですが?」
「私といたしましては、このまま、停年退職の九月一日まで、現職の厚生課長として仕事をさせてもらいたいのです」
「どうしてだね、君。そんなことをしていたら、次の就職運動が出来なくなってしまうじゃァないか」
「それであっても、かまいません」
「…………」
「お気持は、本当に有りがたいのですが」
「…………」
「私は、厚生課長として、停年の日を迎えたいのです」
黒山総務部長は、さっきまでの上機嫌さはどこかへ追いやったような顔で、
「僕には、君のいうことが一向にわからないな。僕としては、これでも、君のためを思って、特別にはからったことなんだよ」
「その点は、有りがたいと思っております。が、私は、これでも厚生課長であったことに、ささやかながら誇りを感じておりました。この誇りを持ったままで、この会社を去って行きたいのです」
「誇りをねえ」
黒山総務部長のいい方には、冷たさが加わって来たようだ。
「部長からご覧になれば、お笑い草でしょうが」
「しかし、とにかく、決ってしまったことなんだから」
「決ってしまったんですか」
章太郎の口調は、絶望的になっていた。
「そう。数日中に、辞令が出る」
「すると、私の後任は?」
「君の希望を容れて、平山を課長にする」
「課長代理は?」
「当分の間、おかない」
「寺島君にしてやってもらえないでしょうか」
「あれは営業へ出す。営業部長が、ぜひにというんでね」
「何か、役が付くのでしょうか」
「課長代理に」
「安心しました」
「だから、僕としては、君の希望通りにしてやったつもりだよ」
「有りがとうございます」
章太郎は、頭を下げておいて、
「その人事を、九月一日まで、何んとかお待ち下さるわけにいかないんでしょうか」
「いかんね」
「…………」
「その他にも、この際、いろいろの人事異動がおこなわれることになっているんだよ」
「いろいろのというと?」
「人に喋られては困るんだが、相当の大幅の、だ」
「…………」
「その中に、君の参事室勤務もすでに入っている」
「…………」
「それを、ここで妙にガン張られると、会社としても考えている人事異動が出来なくなって、困るんだよ。いくら君だって、永年サラリーマンのめしを食って来たんだし、それくらいのことは、わかるだろう?」
章太郎は、うなだれていた。黒山総務部長は、さっきからいろいろと章太郎のためを思って、というようなことをいっていたが、要するに、社内の人事異動のために、章太郎に、停年退職の日まで、厚生課長のままでいられては邪魔になる、ということであったのだ。章太郎は、屈辱を感じた。更に、その人事異動とは、社内の派閥の波にしたがっておこなわれることは、明白のようだ。寺島は、横山派であり、今田営業部長は、その派に属しているのである。フタをあけてみないとわからないが、次の人事異動は、すべて、そういう線でおこなわれるに違いなかろう。
章太郎は、どの派にも属していないのであった。そういう社員は、結局、こういう憂目を見なければならないのであろうか。章太郎は、憤りを感じはじめていた。
「君、わかってくれたね」
黒山総務部長は、高圧的ないい方をした。章太郎は、その黒山総務部長を見返した。黒山総務部長は、目をそらした。
「わかりました」
章太郎は、静かな口調でいった。そして、立上がると、そのまま、部長室を出た。
章太郎は、廊下を歩きながら、いつか、停年退職の前日に、社員食堂で会った青井孝平のことを思い出していた。
「とにもかくにも、君は、課長になったのだ。そして、課長として、停年退職の日を迎えることが出来るのだ。おめでたい、というべきだろう?」
そして、また、
「しかし、僕の場合は、いったん課長になりながら、参事室という姥捨室へ追いやられたのだ。面白いはずがなかろう?」
と、憤懣やるかたのない表情でいっていたのである。
しかし、章太郎自身も、ついに、参事室へ追いやられることになってしまったのである。しかも、その理由は、
(停年退職の日までいられては、次の人事異動の邪魔になるから)
ということであり、しかも、その人事異動とは、派閥人事異動なのである。
(バカにするな)
章太郎は、そう叫びたいくらいだった。こんなひどい仕打って、いったい、あっていいものだろうか、といいたいのであった。しかし、誰にいってみたところで、どうにもならないに決っている。親分を持たぬ悲しさ、であったろうか。
章太郎は、厚生課の部屋へ戻った。平山だけが、まだ席に残っていた。しかし、章太郎が、ひどく不機嫌らしいと知ってか、寄ってこなかった。
(俺が、平山君や寺島君のために特別に発言しなかったら、どうなっていたろうか)
しかし、恐らく、結果は、おんなじであったろう。会社の人事とは、そういうものなのだ。
「平山君」
章太郎がいった。平山は、立って来た。章太郎は、その顔を見ないようにして、
「君にだけいっておくが、近く、大人事異動があるようだ」
「そうですか」
「僕は、参事室勤務ということになる。そして、君が課長に」
「私が、でしょうか」
平山の声は、うわずって来た。章太郎の参事室勤務ということによりも、自分のことに夢中になってしまっているようだ。
「そう、君が、だ。寺島君は、営業へ行く、課長代理として」
「そうでしたか」
「君のためには、よかったわけだ」
「これも、課長のお陰です」
「いや、お礼なら、黒山総務部長にいった方がよさそうだ」
「はい」
そのあと、平山は、やっと気がついたように、
「しかし、課長が参事室勤務というのは?」
「毎日、遊んでいてよろしい、ということなのだ」
「すると、特別の仕事は、ないんですか」
「ないというよりも、させられないということなんだ。毎日、就職運動のために歩いてよろしい、ということなんだ」
「それなら、結構じゃァありませんか」
「と、君は、思うかね」
章太郎は、ジロリと平山を見たのだが、この男を恨んだりするのは見当違いであると気がついて、
「失敬」
「いえ……」
「とにかく、僕は、停年の前に、この席を去ることになった」
「では、早速、送別会の手配をいたしましょう」
「送別会なんて、ごめんだな。今の心境は、そうなんだ」
「しかし、課員たちとしては」
「そうか……」
「ぜひ、やらして下さい」
「では、君のと、寺島君のと、そして、僕のと三人の分を、いっしょにやろう」
「はい」
「費用は僕が持つ」
「そんなになさることはございませんよ」
「僕は、前から思っていたのだ、停年退職のときの送別会の費用は、全部自分で持とう、と。勿論、派手なことは出来ないが」
「はい」
「しかし、参事室勤務になったら、一人ぼっちみたいなもんだ。停年退職の日が来ても、誰からも送別会をしてもらえないだろう」
「私がいたします」
「有りがとう。しかし、その必要はないんだ」
「でも……」
「考えてみれば、僕は、入社のときも一人で入って来たのだ。だから、停年退職の日にも、一人で去って行くよ」
「…………」
「君、もう用事がないんなら帰っていいよ」
「はい」
「事務の引継は、辞令が出てからにしよう」
「お願いします」
やがて、平山は、帰って行き、あとは、章太郎一人になった。章太郎は、じいっと目を閉じていた。この机とも、椅子とも、あと数日なのである。そして、停年の間際に、参事室勤務にさせられた章太郎を、社員たちは、憐憫の目をもって眺めるだろう。しかし、堪えていかなければならないのである。
章太郎は、郡司道子を思い出した。恐らく、まだ、アパートにいるだろう。その声を聞いてみたくなった。章太郎は、受話器を取上げると、ダイヤルをまわしはじめた。
(やっぱり、郡司道子は、俺にとって、どうしても必要な女なのだ)
やがて、電話が通じて、郡司道子の声が聞えて来た。
坂巻広太は、虎の門にある赤倉商事の前をうろうろしながら、
(あの小高秀子が、東銀座の塩野建築設計の前で、井筒を待伏せしていたという話と似ているな)
と、苦笑していた。
同時に、
(これが、矢沢さんに宣言したのぼるさんへの正々堂々たる接近ということになるのか)
と、自嘲的になりたくなっていた。
しかし、だからといって、この場を立去る気にはなれなかった。多少不良のように思われることを覚悟の上で、赤倉商事から出てくるのぼるを掴まえたいのであった。いっしょにお茶ぐらい飲みたい。出来ることなら、食事を共にしたかった。
広太は、昨日も今日も、のぼるに電話をしたのである。しかし、
「せっかくですが……」
と、断られてしまった。
断られると、ますますみれんがつのってくるのは、人情であろう。広太も例外でなかった。
(よーし、こうなったら)
と、ここに立ったのであった。
広太が、急にこのようにのぼるに対して積極的になったのは、前から章太郎との約束であったが、それ以上に、章太郎が停年退職間際に参事室勤務というようなひどい目に会ったことへの同情にも無関係ではなかったであろう。
「まァ、仕方がないよ」
章太郎は、あきらめたようにいっているが、しんじつ淋しそうであった。口には出さないが、腹を立てているに違いないのである。それが、広太にはっきりと感じられた。
参事室には、仕事のミスがあって、三年前からそこへ入れられた金山末夫という五十歳ぐらいの男と二人っきりでいるのである。もちろん、給仕なんかおいてない。部屋の掃除だけは、総務課の女事務員が交替ですることになっているのだが、あとは、すべてセルフ・サービスである。お茶が飲みたかったら、自分で淹《い》れなければならない。経済雑誌が読みたくなったら、よその課へ自分でのこのこと借りに出かけなければならない。
とにかく、課長として、十数人の部下を指揮して来た章太郎にとって、事毎に世の無情を感じさせられているに違いなかった。一種のサラリーマン残酷物語とでもいうべきであったろうか。
それに、同室の金山末夫は、無口な男で、世にすねたようなところがあって、章太郎とは性分が合わないようだ。一日いっしょにいて、ロクに口を利かぬ日もあるらしい。もっとも、章太郎は、就職運動のために、ときどき出歩いているらしいのだが。
広太は、日に一度は、ほんのちょっとでも、参事室へ顔を出すようにしていた。章太郎のおよそつまらなそうな顔が、広太の顔を見ると、とたんに嬉しそうになってくるのだ。
「よく来てくれた」
そういって、自分でお茶を淹れようとさえしてくれる。もちろん、そういうとき、広太は、自分でその役をすることにしていた。
あるとき、章太郎は、
「僕は、以前に、君に悪いことをいったような気がしているんだ」
と、広太にいった。
「何んのことでしょうか」
「派閥のことで」
「派閥……」
「それについて、君から相談を受けたとき、僕は、君の意志にまかせるようなことをいいながら、そのじつ、派閥に与することに反対するようないい方をしたような気がしている」
「そんなことはありませんよ」
「しかし、こんどの人事異動を見ていると、どちらかの派閥に属していたような連中が、それぞれ昇進していて、そうでない人間は、だいたい取残されている」
「たしかに、そういうところがありますね」
「僕なんか、今頃になって、こういうことになったのも、親分を持っていなかったからだよ」
「…………」
「誰にもすがっていけない」
「…………」
「みじめなもんだ」
「わかります」
「君、今からでも遅くない。どちらかの派に頭を下げて、入れてもらったら?」
「正直にいって、私も、そのことを考えてみたのです」
「で、決心がついたのか」
「よすことに」
「何故?」
「だって、今更……。それに矢沢さん。おごる平家は久しからず、というじゃァありませんか」
広太は、白い歯を見せて、明るく笑って、
「いつかは、今の派閥に与していなかったために、却って、陽の目を見るということだってあり得るでしょう?」
「そりゃァないとはいえぬ」
「ですから、私は、それに決めました。第一、その方が、面倒でないですよ。もっとも、そのうちに、派閥というのではなしに、本当に心服したくなるような上役が出来たら、私は、喜んでその人の子分にしてもらいますよ」
章太郎は、そんな広太をたのもしげに眺めて、
「君が、それほどの気持でいるなら、僕は、大賛成だよ。あとは、君についた運の問題だろうから」
「そうなんです。願わくば、いい運がつきますように、と思っております。ところで」
広太は、口調を変えて、
「その後、就職運動の方は?」
「ダメだね」
「お困りでしょう?」
「しかし、何んとかなるだろうよ。今は、そう思って、度胸を決めている」
「お嬢さんたちには、参事室勤務のことはおっしゃったんですか」
「いえないね、いくら親子でも。そのかわり、ぐんじ≠フマダムにだけはいった。そして、大いに慰めてもらったよ」
「いいマダムですからね」
「そうなんだ」
「私は、結局、矢沢さんは、あのマダムと結婚なさるべきだと思いますよ」
「僕だって、今は、そういう気持になりかけている。しかし……」
「しかし?」
「問題は、子供たちの思惑だ」
「…………」
「僕の今考えていることは、先ず、のぼるを結婚させて、そのあと、章一も、一人前の社会人にしてやってからだよ」
「…………」
「あと四、五年の辛抱だ、と思っている。ただし、その間に、あの女の気持が変ってしまったり、あるいは、僕の身辺に思いがけぬことが起ったりしたら別だがね」
「お嬢さんや坊ちゃんは、その後、お元気ですか」
「元気だよ」
「民子さんも?」
「ああ。近頃、またすこし肥ったようだとなげいているが」
「しかし、忠義もんですね」
「その点、僕は、近頃得がたいお手伝だと思って、たよりにしているんだ」
「わかりますね」
「民子が、のぼるの結婚のことで、気をもんでいるんだが……」
章太郎は、ちらっと広太を見たが、しかし、それ以上のことはいわなかった。広太も、黙っていた。が、内心期するところがあって、思い切って、のぼるに電話をしたのである。そして、結果は、断られたのであった。
広太は、赤倉商事の前に来てから二十分ほどたっていた。ここへ来てすぐに受付で聞いてもらったら、まだ会社にいるのだが、席を立っているということであったのである。だから、裏口からでも出ない限り、会社にいるに違いないのだ。
(残業かも……)
そうなると、あと一時間や二時間待たされる可能性がある。それくらいのことは我慢する気でいるのだが、しかし、待たされたあげく、広太の顔を見ただけで、
(何んというしつっこい男なんだろう)
と、いうような顔をされたのではやり切れない。
広太は、それを恐れていた。が、一方で、かまうものか、と思っていた。好きだ、と思った女と結婚するためには、それくらいのことに平気にならなければならないのである。
(しかし、僕は、本当にのぼるさんが好きなんだろうか)
今日までに、二度会っただけなのである。二度とも、印象がよかった。こういう娘と結婚出来たらと思ったことはたしかだ。そして、二度目の、渋谷駅前で会ったときには、一応こちらの意思表示がしてある。だからといって、広太は、あくまでのぼると結婚したいと思っているわけでなかった。幸いにして、のぼると交際することが出来るようになり、しかし、その上で、あんまり感心しないとわかったらよしておこう、と思っているのであった。広太の恋は、目下のところ、その程度であった。
「おい、何をしているんだね」
うしろから声をかけられた。
広太は、振向いて、それがクラス・メートの青島謙吾であることを知ると、まるで悪いところを見つけられたように苦笑してしまった。
「何んだ、君か」
広太は、てれたようにいった。
「そうだ、僕だよ」
「久し振りだな」
「学校を卒業して以来だろう」
「かも知れんな」
「ところで、今頃、君は、こんなところで、何をしているんだ」
「ちょっと……」
「ちょっとって?」
青島謙吾は、何気なくいったのだろうが、広太には、意地の悪い質問のように思われた。もともと秀才的であり、広太とは、肌が合わなかったのだ。だから、学校を卒業後も、つき合おうとは思わないで来た。
その青島のことを思い出したのは、章太郎の家で、のぼるからのぼるが、虎の門の赤倉商事に勤めていると聞いて、それなら青島もたしかそうであった、と思ったからであった。
しかし、広太が、青島のことを口にしたとき、のぼるの顔色が、さっと青ざめたような気がして、
(おや?)
と、思ったのである。
が、章太郎から、
「その青島謙吾とかいう人のことをよく知っているのか」
と、聞かれて、のぼるは、
「いいえ」
と、否定した。
そして、その否定の仕方が、父親の目を避けるようでもあったのだ。
もちろん、すべては、広太の気のせいであったかもわからない。が、その後、のぼるに積極的に接近しようと思いかけては、そのときのことが、ふっと心に引っかかったりしたのだ。
もし、広太は、青島と仲がよかったら、彼を呼出して、
「矢沢のぼるって、どういう娘だね」
ぐらいのことを聞いたろうし、また、
「結婚の目的で、しばらくつき合ってみたいのだが、君、うまいチャンスをつくってくれないだろうか」
と、いうようなこともいえたろう。
しかし、広太は、その気にならなかったばかりか、のぼるとの接近についても、青島に知られたくないような気がしていたのである。
今日だって、この会社の前をウロウロしながら、青島に会うことを恐れていた。会いたくなかった。それなのに、青島の方から声をかけられてしまったのである。
(ついてないな、俺は)
しかし、だからといって、広太は、こんな男の前で卑屈になったりする必要はないのだ、と思っていた。ぐっと、胸を張るようにして、
「君に関係のないことでだよ」
「なら、いいさ。が、ここが、僕の会社の前であることは、知っていたんだろう?」
「いや、忘れていたよ」
「水臭い奴だな」
「そうでもないさ」
「結婚したかね」
「まだだ。君は?」
「恐らく、近いうちに……」
「そりゃァおめでとう」
「まァ、ね」
「君のことだから、さぞかし美人で、家柄がよくて、持参金もたんまり持ってくるような娘と結婚するんだろう?」
広太は、多少の皮肉を利かしていった。が、青島の方は、その皮肉を感じつつ、金持はケンカせず的な鷹揚さで、
「ということになるかもわからない」
「重ねて、おめでとう」
「しかし、見込まれて、たってと所望されたら、そういう結婚をすることは、ちっともおかしくないだろう?」
「そうだとも。そして、ということは、君の結婚が、そうなのだというんだな」
「とにかく、相手の娘が、僕と結婚出来なかったら死ぬの生きるの、というんだよ」
「僕は、そういう娘の顔を拝んでみたいな」
いいながら広太は、赤倉商事の玄関の方に、絶えず、注意を払っていた。出来ることなら、青島と話しているときに、のぼるに出て来てもらいたくなかった。青島の方でも、広太がそわそわしていることに、気がついているに違いなかった。それには触れないで、わざと落ちつき払いながら、
「拝ませてやってもいいよ」
「本気でいったわけじゃァないんだ」
「遠慮をすることはないさ。僕の結婚式のときに来てくれたらいいんだ」
「結婚式か……」
「多分、Tホテルで、ということになるだろう」
「凄いじゃァないか」
「三百人ぐらいの客を招くことになりそうなんだ」
「三百人!」
広太は、たまげたようにいった。だからといって、そのことを羨ましいと思ったわけではない。そんな結婚式なんて、さぞかし、しんどいことであろう、と思っていたのである。
(俺なんか、そんなの、真ッ平だな)
もっとも、広太の場合、そういう心配をする必要は、なさそうである。かりに、あののぼると結婚するにしても、せいぜい、四、五十人を招いて、ということになるだろう。結婚式とは、その程度でいいのである。お義理で、たくさんの人に来てもらったところで、お互いに迷惑するだけなのだ……。
「場合によっては、四百人になるかも」
青島は、得意そうにいった。
「おいおい、あんまり脅《おど》かしてくれるなよ」
「気のちいさい男だな。どうだね、度胸だめしに、そういう結婚式に一度出て見ては?」
「すると、君が、招いてくれるのか」
「そう、友人の一人として。そうすれば、僕の花嫁だって拝むことが出来る」
「悪いが、あんまり興味がないな。失敬するよ、これで」
そういって、広太が、青島の前をはなれようとしたとき、赤倉商事の玄関からのぼるが姿を現わした。
広太は、ちょっと、進退きわまったような思いだった。しかし、すぐに、かまうものか、と思い返した。青島のことなんか、あくまで無視してやればいいのである。
「のぼるさん」
広太は、近寄って行っていった。のぼるは、広太を見て、あっと思ったらしいのだが、それでも微笑みかけた。が、その広太のうしろに、青島がいて、しかも、ニヤニヤ顔でいることに気がつくと、顔色を青くして、棒立ちのようになってしまった。
広太にも、それが、はっきりと感じられた。かつて覚えた悪い予感のようなものが、思い出させられた。しかし、その思いを踏みにじるように、
「じつは、お待ちしていたんですよ」
「困りますわ、あたし」
のぼるは、ちらっと青島の方を見ていった。広太は、そののぼるの視線を追って、青島を振向いてみたかったのだが、それを我慢して、
「どうしてですか」
「どうしてでも」
「しかし、いっしょにお茶ぐらいなら飲んで下さるでしょう?」
「あたし、今日は、失礼いたします」
「では、そこまで、いっしょに歩いてくれませんか」
「困りますわ、やっぱり」
「いっておきますが、僕は、それほどの不良ではありませんよ」
「わかっております」
「だったら、いっしょに歩いて下さるぐらいかまわないでしょう?」
「…………」
「もちろん、お父さんには、僕が今日のような態度に出るかもしれぬことについて、以前にいってあります」
「父に?」
「そうですよ」
「あたし、何んにも聞いておりません」
「それでしたら、今夜、お帰りになったら聞いて下さい。僕は、嘘はもうしません」
「かりに、そうであっても、父には関係のないことですから」
「そんなに、僕のような男は、お嫌いですか」
「いいえ、そういう意味でなく」
「では、その意味というのを、聞かせて下さい」
「………」
「お願いします」
広太は、頭を下げた。が、すこしも嫌味がなかった。堂々としていた。しかし、そのことが、却って、のぼるを困らせているようであった。
「お願いしますよ、のぼるさん」
広太は、重ねて、頭を下げた。そこらを通る人々は、けげんそうに見て行く。広太は、悪びれていなかった。うしろに目を光らせているだろう青島も、眼中にないようであった。
「これでも、僕は、あなたと結婚出来たら、と思っているんですよ」
「結婚……」
のぼるの頬に血の色がのぼって来たが、すぐに散って、前よりいっそう青くなった。
「そう、あなたとの結婚を、ですよ」
広太は、一歩踏み込むようにしていった。
「せっかくですが」
のぼるは、広太を見返して、今は、表情にきびしさを加えながら、
「あたし、あなたとは、結婚出来ません」
「何故ですか」
「あなたとだけでなしに、だれとも」
「そんなバカな」
「…………」
「その理由を聞かせて下さい。でなかったら、僕は、あきらめませんよ」
「…………」
うしろから青島が近寄って来て、
「おい、何をもめているんだね」
広太は、振向かないで、
「君に関係のないことだから放っておいてくれ」
のぼるは、強い、いどむような視線を青島に向けると、
「いいえ、関係がございますのよ、坂巻さん。でも、そのことは、あたしの口からはいえません。もし、どうしてもお聞きになりたかったら、青島さんにお聞きになって下さい」
「青島君、本当なのか」
広太は、青島を見た。これまた、強い目になっていた。
「いったい、何んのことをいっているのだ」
青島の目は、のぼると広太の強い目を、それほど、恐れていなかった。むしろ、優越感を現わしているようであった。
「僕が、こののぼるさんと結婚したいと思ってるんだ」
「君が?」
「おかしいか」
「別に……。しかし、君は、どうして、この矢沢君を知っているのだ」
「この人は、僕の会社の矢沢厚生課長のお嬢さんなのだ」
「ああ、そうだったのか」
「そういうことで、僕は、のぼるさんに二度ばかりお目にかかっているんだ」
「で、好きになった、というわけか」
「そうさ」
「たった二度、会っただけで?」
「そんなことで、君の口出しを許さないよ、僕は」
「恐いんだな」
「それだけ、僕がしんけんである証拠だと思ってくれ」
「わかったよ、それで、何もかも、ね」
「すると、君は、のぼるさんが、僕と結婚出来ないという理由を知っているんだな」
「まァ、ね」
「話してもらおうか」
「矢沢君、いいのかい?」
「どうぞ」
のぼるは、冷たくいうと、
「坂巻さん、あたし、ご好意は、本当に有りがたいし、嬉しいと思っております。でも、あなたとは、結婚出来ませんの。ことに、青島さんとお友達のあなたとは。その理由は、青島さんからお聞きになって」
のぼるは、そのまま、振向きもしないで、さっさと去って行ってしまった。
広太は、そのうしろ姿を見送っていた。のぼるが、何をいおうとしたのか、おおよその察しがついていた。かねて、恐れていた予感が当ったようだ。しかも、最悪に近い状態において……。
広太は、なかば、絶望的になりかけていた。一方で、矢沢章太郎を思い出していた。
(矢沢さんは、のぼるさんの失恋を知っているのだろうか)
まだ、失恋と決ったわけではない。しかし、広太は、心の中で、もうそのように決めていた。そう決めた上で、これから青島と対決するつもりでいた。
厚生課長の席にいた頃の章太郎には、温厚ながら元気なところがあった。しかし、参事室勤務になってからは、当然のことだろうが、さっぱり元気がないのである。自分で自分を卑下している気配がないでもない。広太は、そういう章太郎に、
「停年退職について」
と、いったような文章を、東亜社報に書いてもらいたいと思っていた。
きっと、人々の胸を打つようなものを書いてくれるだろう。広太は、章太郎にそれを期待していた。
しかし、その章太郎だって、停年退職後の就職先さえ決ったら、きっと、また元気になるに違いないのである。広太は、広太なりに、心当りに当ってみたりしているのだが、思うにまかせなかった。
(もし、矢沢さんが、のぼるさんの失恋を知ったら?)
それこそ、ただでさえ元気のない章太郎を、ますます悲しい男にしてしまうかもわからない。広太は、青島から話を聞いても、そのことを章太郎にいうのは考えものだ、と思った。しかし、あの郡司道子には知らせておいた方がいいかも……。
「おい、聞くかね」
青島がいった。
「もちろん」
しかし広太は、
(聞かないでおいた方がいいのではなかろうか)
と、弱気になりかけていたのである。
聞かされたら、広太だって、いい気持がしないに違いない。広太の胸の中では、のぼると結婚しようという気持は、失われかかっていた。しかし、そのかわり、のぼるを哀れむ気持が深くなりつつあるようだった。
「しかし、立話も出来ないな」
「では、どうすればいいんだ」
「久振りなんだし、どっかでいっぱい飲みながらどうだね」
「いいとも」
「僕の行きつけのバーでもいいかい?」
「かまわん」
「そのかわり、僕ばかり持てても知らんぞ」
「かまわん」
「近いんだが、タクシーで行こうよ。近頃、僕は、電車なんか、まどろこしくって乗れなくなっているんだよ」
「それも持参金をたくさん持ってくるお嫁さんをもらうせいだな」
「そんな、皮肉はよしてくれよ」
渋谷のバー「ぐんじ」は、今夜もはやっていた。郡司道子の雇われマダムは、どうやら成功したようである。この分なら先の心配は、なさそうであった。
勝畑正造は、一人で来ていて、カウンターで飲んでいた。
テーブル席をひとまわりして来た郡司道子は、そのカウンターの中に入ると、
「放っておいて、ごめんなさいね」
と、勝畑にいった。
「いや、僕ならいいですよ。別に、色気を求めて、ここへくるわけじゃないんですから」
「それでしたら、ここは、全く色気のないバーということになるではありませんか」
「僕にとっては」
「相すみません。そのかわり、お安くしておきますから」
「その方がたすかりますよ。ところで、近頃、矢沢さんは、いらっしゃらないんですか」
「ええ、ここしばらく」
「お元気なんでしょうね」
「それが、あんまりお元気じゃァないんですのよ」
「どうしてですか」
「こんなこと、勝畑さんにいったというと、あとで、あの人に叱られるかもわかりませんけど」
「何か、困ったことでも起ったんですか」
「こんど、参事室勤務ということにされたんですよ」
「参事室勤務……」
「別に、仕事をしなくってもいいんですって」
「しかし、あの人は、この九月一日で、停年退職になるはずだったんでしょう?」
「そうですよ」
「それなのに、今頃になって、そんな辞令が出たんですか」
「あたしなんか、その間、骨休めが出来ていいじゃァありませんか、というんですけど」
「いや、それは違うでしょうね」
勝畑は、断定するようにいって、
「サラリーマンて、そんなもんではありませんよ。有終の美を飾りたいもんですよ」
「やっぱり?」
「僕なら、そうだな」
「矢沢さんも、そういう意味のことをいってらしったわ」
「当然ですよ。僕には、そのため、矢沢さんが元気がないというのは、よくわかりますよ。しかし、ひどい会社ですねえ」
勝畑は、自分のことのように憤慨してみせた。郡司道子は、章太郎が派閥人事の犠牲になったらしい経緯をかんたんに話して、
「だから、仕方がなかったんですよ」
「しかし、そうなると、矢沢さんにとって、ますます面白くないわけですね」
「らしいのよ。といって、誰にも文句のいって行きようがないのね。自分一人で、我慢しているのよ。だから、あたし、お気の毒で」
「あんないい人が、そんな目に会うなんて……。嫌な世の中だなァ。僕は、慰安会をしてあげたいくらいですよ」
「して上げて、きっと、お喜びになると思いますよ」
「考えてみますよ。で、矢沢さんは、停年退職後の就職先、もうお決りになったんですか」
「それが、まだ決らないから、なおいけないのよ。近頃は、すこしいらいららしいの」
「でしょうねえ」
「あたしだって、お店へ来て下さるお客さまに、それとなく頼んでみたりしているんですけど、どなたも口先ばかりで、しんけんに考えて下さる人ってありません」
「でしょうねえ」
「勝畑さんも、決して無理にとはいいませんが、一応、頭の中に入れておいて頂けません?」
「わかりました」
「もし、勝畑さんがお世話をして下さったら、そうねえ、あたし、一カ月間の勝畑さんのここの払い、かんべんして上げましてよ」
「そうなったら、僕は、毎日でも来ますよ」
勝畑は、あらためて、郡司道子の顔をしみじみと眺めて、
「マダムは、本当に矢沢さんが好きなんですね」
「ここだけの話ですけど」
郡司道子は、勝畑の方へ顔を寄せて、
「好きだなんて、そんななまやさしいもんじゃァないんですよ」
「…………」
「惚れているんですよ」
「…………」
「いのちがけで」
勝畑は、笑い出した。
「あら、何がおかしいのよ。笑うなんて、失礼よ、勝畑さん」
郡司道子は、てれたように睨んだ。
「いや、つくづく恐れ入りましたよ」
「冷やかし?」
「とんでもない」
「では、どうして、お笑いになったの? その理由をおっしゃらない限り、今夜はこれ以上、お酒を差上げませんよ」
「思わず、嬉しくなって、ですよ」
「あら、ほんと?」
「もちろん。世の中には、捨てる神あれば、拾う神もありで、僕は、割合にうまく出来てるもんだと感心したんです。そして、その拾う神の方が、実にいいですからね」
「ほめて下さってるの?」
「素直に聞いて頂きたいんです。あなたがついていられる以上、矢沢さんは、決して不幸ではありません」
「嬉しいことをおっしゃって下さるのね。だけどね、勝畑さん。今の矢沢さんに必要なのは、あたしよりも、次の就職先なのよ」
「マダムって、まるで、貞女のようなことをいうんですね」
「貞女のようなって、あたしは、これでも貞女ズバリのつもりでいるんですよ」
「ますます、恐れ入りましたよ」
「ビールのおかわり、いかが?」
「そのように、商売もお上手ですし。ところで、いつか、ここで会った矢沢さんの会社の気持のいい青年」
「ああ、坂巻広太さんのこと?」
「そうそう、その坂巻広太君。近頃、ここへ現われないんですか」
「あれ以来よ」
「もし、こんど来たらよろしくいっておいて下さい。そのうちに、一度飲まないかといっていたと」
「いいわ」
「あの青年も、たしか、矢沢さん思いのようでしたね」
「そうよ。そして、矢沢さんは、内心、お嬢さんののぼるさんを、坂巻さんにもらってほしいと思ってらっしゃるんです」
「いいじゃァありませんか。それとも、坂巻君の方で、気がすすまないとでもいうんですか」
「いいえ、坂巻さんの方に、その気がないわけでもないらしいんだけど」
「すると、お嬢さんの方に難色があるんですか」
「そこんとこに微妙な問題がひそんでいて、矢沢さんもお困りになっているんです」
「微妙な問題?」
「いくらあたしがおしゃべりでも、そこまでは……」
「どうも、失礼」
客が入って来たようである。郡司道子は、そちらの方へ視線を送って、
「あら、噂の本人が現われたわよ」
と、嬉しそうにいった。
勝畑も振返って、
「おーい、坂巻君。こっちへこないか」
と、これまた、嬉しそうにいった。
「やァ、勝畑さん」
広太は、近寄ってくると、勝畑の横のイスに掛けて、
「どうも、しばらくでした」
と、折目正しくいった。
「今、君の噂をしていたところなんだよ」
「そうですか。マダム、僕に、ビールを下さい」
「先に、これを飲めよ。マダム、グラスを」
勝畑は、自分の前のビールびんを取上げていった。広太は、勝畑の酌を受けると、ぐいぐいと飲みほして、
「すみませんが、もう一杯」
「いいとも。しかし、凄い元気だな」
「違うんです。ヤケ酒みたいなもんなんですよ」
「らしいわね」
郡司道子がいった。
「マダムにわかりますか」
「だって、あなたの入っていらっしたときの顔ったらなかったわよ」
「そうかなァ」
「むっとしたような、悲しいような、とにかく、およそいつもの坂巻さんらしくなかったんですもの」
「そうだったかも知れません」
「何か、あったのね」
「ありました、悲しいことと、腹の立つことが」
「可哀いそうに」
広太は、二杯目のビールを、これまた、ぐいぐいと飲みほすと、
「僕は、人を殴って来たんですよ」
郡司道子と勝畑は、思わず、広太の顔をのぞき込むようにした。
「それも、かつてのクラス・メートをなんです」
広太は、沈痛な表情でいった。
「坂巻さんが、そんなことをなさろうとは、あたしには信じられないけど」
「しかし、事実なんです。だから、今夜は、ヤケ酒を飲みたいんですよ」
「いいわよ、坂巻さん。ヤケ酒、結構。大いに飲みなさい」
「有りがとう。マダム。ただし、勘定の方は、次の月給日まで、待って下さい」
「バカねえ。そんなことを気にしていたんでは、せっかくのヤケ酒が、ヤケ酒にならないじゃァありませんか」
「そうだよ、坂巻君。君の今夜の飲み代ぐらい、僕が払ってやる」
「ほんとですか、勝畑さん」
「だから、安心して飲むんだな」
「しかし、悪いなァ」
「何故?」
「人におごってもらうヤケ酒なんて、どうも肩身がせまくって」
「では、自前で飲むか」
「いいや、やっぱり、ご馳走になりますよ。だって、せっかくのご好意なんですからね」
「こいつめが……。しかし、それだけの口を利けるようなら、ヤケ酒といったところで、たいしたことはなかろう」
「そんなに安心していて、あとで、しまったと思っても知りませんよ」
「わかった。さァ、飲みな、飲みな」
「頂きます」
広太は、三杯目の半分ほどを飲んだ。ここへ来て、この二人にいたわられて、何んとなく気が楽になったようであった。しかし、心の底で、
(のぼるさんが、こともあろうに、あんな男に失恋していたのだ!)
との憤懣を、どうにも持て余していた。その意味では、青島謙吾を殴って来たことをすこしも後悔していなかった。広太のヤケ酒は、のぼるとは結婚出来ないのだ、というところに主な原因があった。
しばらくたってから郡司道子は、
「ねえ、今夜、どういうことがあったのか、話してみない?」
と、いたわるようにいった。
広太は、考え込むように黙っていた。
「もちろん、無理にとはいわないわよ。だけど、不愉快なことって、自分一人の胸の中にしまっておくよりも、思い切って外へ吐き出してしまった方が、胸がすうっとするものなのよ」
「僕もその説に賛成だな」
「せっかくこの店へ、ヤケ酒を飲みに来て下さったんですもの、あたし、悪いようにはしないつもりよ。あたしで出来ることなら、どんなことでもして上げてよ」
「こんなにいって下さるんだ。坂巻君、有りがたいと思うべきだよ」
「思います。嬉しいんです。マダムも、勝畑さんも聞いて下さい。問題は、矢沢さんのお嬢さんに、関係のあることなんです」
「まァ、のぼるさんに?」
郡司道子は、勝畑を見た。勝畑は、見返した。たった今、そののぼると広太の結婚について、話していたのである。
「ただし、この話、矢沢さんのお耳に入れていいかどうか、僕は、自分にもよくわからないんですよ」
「とにかく、おっしゃって」
「僕は、のぼるさんに、今まで二度お目にかかって、結婚出来たらと思ったんですよ。もちろん、その意志のあることを、あらかじめ矢沢さんのご諒解が得てあるんです」
広太は、そのあと、何んとなくのぼるに敬遠されているらしいと感じたこと、しかし、今日は、敢《あえ》て、のぼるの会社の前に立ったことから、クラス・メートの青島謙吾に会ったことを話した。
二人は、熱心に聞いてくれている。
「で、僕は、そのあと、青島に連れられて、銀座裏のちいさいバーに行ったんです。彼の自慢するだけあって、女たちから持てていたようです。しかし、僕にとって、そんなことは、どうでもよかったんです。早く、君とのぼるさんの関係をおしえてくれ、といったんですよ」
「そうしたら?」
郡司道子は、いつか、章太郎から聞かされたのぼるの手紙のことを思い出していた。それについて語るとき、章太郎は、うっすらと涙ぐんでいたようであった。しかし、その章太郎にしたところで、のぼるの失恋の内容については、何んにも知らされていなかったのである。どうやら、そのことを広太が聞いて来たらしいのだ。これでは、かねてから章太郎が望んでいた広太とのぼるの結婚ということは、ますます実現性が薄くなってくるに違いない。結果としては、章太郎に更に悲しみを背負わせることになりそうである。郡司道子にとって、それが辛かった。
「青島の奴、まァあわてるなとか何んとかいいながら、女とふざけているんですよ。僕は、癪にさわって来たので、もう聞きたくないから帰る、と立上がりかけたら、あいつめ、はじめて、君は、あの矢沢のぼると結婚したいのか、といい出したんです。僕は、そうだといってやったら、あいつは、僕を憐れむように見て、よしておいた方がいいぜ、というんです」
――広太は、
「だから、その理由を聞かせてもらいたい、といっているんだよ」
しかし、青島は、ニヤニヤ顔で、
「それは聞かない方が、君のためになるんじゃァないかな」
「理由をいわないで、そんないい方は面白くないぞ」
「そんなに、聞きたいのか」
「聞きたいとも」
「だったらいってやろう。あれは、僕の捨てた女なんだ」
「捨てた?」
「そうさ」
「捨てたとは、いったい、どういうことなんだ」
広太は、詰め寄るようにいった。
「捨てたといったら捨てたことなんだ」
「君、捨てたなんていい方は、おだやかでないぞ。それは、のぼるさんを傷つけることになる。もっと、別のいい方が出来ないのか」
「たとえば?」
「別れたとか」
「では、そういうことにしておこう」
「何故、別れたんだ」
「嫌になったからさ」
「何故、嫌になったんだ」
「うるさいなァ。そんないい方は、いくら友達でも、失礼ではないか」
青島は、聞耳を立てているらしい女たちの手前、開き直ったようにいった。
「失礼なもんか」
「ではそういうことにしておくさ」
「君は、のぼるさんと結婚の約束をしていたのか」
「まさか……。しかし、あの女は、すっかりそのつもりでいたらしいが」
「ということは、君は、のぼるさんのそういう気持を知っていて、交際していたんだな」
「頼まれたら嫌とはいえないじゃァないか、男として」
「男?」
「そうさ」
「君は、それでも、男のつもりか」
「坂巻、いくらなんでも、言葉が過ぎやァしないか」
「過ぎるもんか。君のいい分を聞いていると、のぼるさんをペテンにかけていたことになる」
「ふん、何とでもいうさ」
青島は、鼻であしらうようないい方をした。広太は、むっとしたのだが、それを我慢して、
「ああ、いってやるとも。君は、はじめは、のぼるさんと結婚する気でいたに違いない」
「まるで千里眼のようなことをいうじゃァないか」
「黙って聞け。ところが、その後、持参金をたんまり持ってくる娘との縁談が起ったのだ」
「…………」
「で、急に、そっちの方へ肩代りをしてしまったのだ」
「…………」
「どうだ、図星だろうが」
広太は、きめつけるようにいった。しかし、青島は、ケロリとして、
「さァ、そろそろ帰ろうかな」
と、腰を浮かした。
「待て」
「僕は、君なんかを相手にしているヒマはないんだよ」
「あってもなくても、これから僕のいうことに答えろ」
「もし、嫌だといったら?」
「首をしめてでも答えさせる」
「暴力をふるう気か」
「君の出方しだいだ。いいか、心して答えろよ」
女たちは、じいっとこのなりゆきを見まもっていた。といって、仲に入ってとめようとしないのは、広太の剣幕の凄じさが、それを許さなかったからでもあろうか。
「君は、今の持参金をたんまり持ってくる娘との結婚をやめて、もう一度、のぼるさんと昔の仲に、戻る意志がないのか」
「ないね」
「間違いないな」
「くどいよ、君」
「我慢しろ。では、もう一つ」
「…………」
「君に、のぼるさんの期待を裏切ったことについて、良心の呵責《かしやく》を感じていないのか」
「要するに、あの女の方で、勝手にお熱をあげていたんだから。それだけの話なんだよ」
「…………」
「どうやら、君は、よくよくあの女に参っているらしいね」
「…………」
「結婚してやれよ、いい功徳《くどく》になるぜ」
「…………」
「もっとも、あの女の方で、うんというかどうか、わからないがね」
「…………」
「かりにうんといったところが、これだけのことは、あらかじめ覚悟をしておくんだな」
「…………」
「あの女は、いまだに僕が忘れられないらしいんだ。だから、君と結婚しても、しょっちゅう僕のことを思っているかも……」
「…………」
「そんなの辛いぞ」
「…………」
「だから、僕は、友達甲斐にいってやる。あの女との結婚はやめておくことだ」
「…………」
「いつまでも黙っていないで、何んとかいったらどうなんだ」
「…………」
「僕のいってることが、わかっているのか」
青島は、勝ち誇ったようにいった。黙り込んでいる広太を、やり込められて、口が利けぬと思ったらしいのである。女たちの方を見て、ニヤリと笑った。
「そう、わかったよ」
広太は、静かな口調でいった。
「わかればよろしい。さァ、そろそろ、帰るかな」
「わかったというのは、君は、どんなにつまらん男かということなんだ」
「何んとでもいうさ」
「君なんか、人間の屑だ」
「おい、もう一度、いってみろ」
「何度でもいう。君は、人間の屑だ。自分のことしか考えていないエゴイストだ。覚悟は、いいだろうな」
「覚悟?」
「僕は、たった今、決心したんだ。君のような男は、殴ってやるに限る、と」
「殴るだと?」
青島は、ギョッとしたようだ。身構える姿勢になっていた。
「そう、殴る。僕は、絶対に殴る」
広太は、立上がった。次の瞬間、青島は、頬をおさえながら悲鳴を上げていた。しかし、最初の一撃で、抵抗する意志を完全に失ってしまったようであった。広太は、しばらくそれを見下してから、その店を出た。誰もそんな広太をとめなかった。
広太は、話し終ると、ビールをぐっと飲んで、
「僕は、あんな男、殴ったってかまわん、と思っていますよ。しかし、一方で、今や、猛烈な自己嫌悪におちいっているんです」
「わかる」
勝畑がいって、
「しかし、君は、よく殴ったなァ。ほめてやりたいくらいだ」
「勝畑さん、冷やかさないで下さいよ」
広太は、苦笑しながら悲しげにいった。
「冷やかしではない。立派だよ、君は。僕は、君を大いに見直した」
「そうかなァ。僕は、暴力をふるったのはいかん、といわれるかと思ってました」
「たしかに、暴力はいかんさ。しかし、君の場合は、正義の鉄拳なんだ。必要な腕力であったのだ」
「そのようにいわれると、すこし気がラクになって来ました」
「しかし、君は、たった一撃で、その友達をやっつけるほど、強かったのか」
「ケンカなら、ちょっと自信があるんです。もっとも、この一年ほどは、はなばなしいのをやったことはありませんが」
「たのもしい奴だな」
「そうでもありませんよ」
「僕なんか、ケンカには自信がないので、いつだって損をしている」
「では必要なとき、僕を呼んで下さい。いつでも、馳せ参じますよ」
「今夜の酒代を持ってやることが、ムダでなくなって来たようだな」
「しかしね、勝畑さん」
「何んだ」
「そして、マダム」
「なに?」
郡司道子は、いたわるように目を広太に向けた。
「のぼるさんほどの娘が、どうして、あんな青島のような男を好きになったりしたんでしょうね」
広太は、残念そうにいった。のぼるの面影を、目の奥で、思い描いているようだ。
「あたしは、どちらも見ていないから何んともいえないけど」
「矢沢さんは、恐らく、このことをご存じないでしょうね」
「…………」
「…………」
「あの小高秀子のために、あんなに一所懸命になっていた矢沢さんが、現に自分の娘が、そんな目に合わされていると知ったら、どんな思いをされるでしょう」
「…………」
「…………」
「ですから、今夜のこと、僕は、黙っているつもりですよ」
「…………」
「…………」
「停年の間際に、こんなことを知らせるなんて、あんまり酷ですからね。僕は、あの人が好きだし、人間として偉いと思っているし、なるべく、今後は、おだやかに過させて上げたいんですよ」
広太の口調には、実感がこもっていた。
「有りがとう、坂巻さん」
郡司道子は、神妙にいって、頭を下げた。勝畑は、ますます広太が気に入ったように見ている。
「僕にお礼をいわれたって……」
広太は、てれたようにいって、
「それより、マダムこそ、末永く矢沢さんを大事にして上げて下さいよ」
「その方は、引き受けたわ。そのかわり、坂巻さんは、のぼるさんと結婚して上げて」
「…………」
「友達に失恋したばかりの女なんて、嫌なの?」
「…………」
「矢沢さんは、のぼるさんの失恋のこと、もう知ってらっしゃるのよ」
「ほんとですか」
「親子ですもの。いっしょの家に住んでいたら、それくらいのことは、たいていわかるんですよ」
「でしょうねえ」
「ただし、失恋の内容については、まだのはずよ」
「…………」
「でも、今夜ぐらい、あるいは、のぼるさんが自分で、矢沢さんにお話になっているかもわかりません」
「…………」
「というのは、のぼるさんは、かねてから自分の気持の整理がすんだら、そのときこそ、何も彼もいうという約束だったんですから」
「…………」
「あたしのカンからいうと、坂巻さんは、のぼるさんの前で、青島さんにお会いになったんですし、今夜が……」
「…………」
「のぼるさんは、矢沢さんに手紙を書いてらっしゃるのよ。その話を聞いて」
郡司道子は、章太郎がのぼるの失恋に感づいたときのことから、のぼるの手紙が、今も、章太郎の机の曳出しの中にしまってあるはずだといって、
「その手紙の文句というのはね」
と、うろおぼえながら、いって聞かせた。
広太は、酒を飲むことを忘れたように、頭をたれながら聞いていた。勝畑もおんなじであった。そして、しゃべっている郡司道子自身が、うっすらと涙ぐんでいるようであった。
「泣きたくなるようないい話じゃァありませんか」
勝畑がいった。しかし、広太は、黙っていた。
「そうなのよ。だから、矢沢さんとしては、坂巻さんに、のぼるさんをもらってほしかったんだけど、失恋のこともあり、遠慮していなさったんです」
「矢沢さんらしいなァ。坂巻君、のぼるさんと結婚したら?」
「しかし、のぼるさんの方で……」
「だから、のぼるさんが、うんといったらだよ」
「…………」
「やっぱり、失恋したばかりの女ということにこだわっているのか」
「…………」
矢沢章太郎は、自分の部屋で、ぼんやりしていた。
今日は、午後二時頃に会社を出て、就職運動にまわったのである。友人に紹介された会社の専務に会いに行くつもりだったのだ。その会社は、新宿にあった。一カ月前に訪ねたときには、あと二週間ほどして、もう一度来てくれ、といわれたのである。が、二週間目に訪ねたが、外出しているとかで、会えなかった。翌日、もう一度、行ってみると、受付で、
「今、重要会議中だから、別の日にしてもらいたい」
と、いわれたのである。
そして、三日前に訪ねたら、専務に会うことが出来たが、
「目下、考慮中ですから」
と、二分間で追い返されるような結果になり、それでも章太郎は、勇気を出して、
「今後、ときどき、お訪ねしていいでしょうか」
と、いってみたところ、
「どうぞ、かまいませんよ」
と、いわれたのである。
十中の八九は、脈がないものと思うべきであろう。しかし、章太郎は、ワラにもすがる思いで、とにかく、今日も出かけて行ったのであった。
しかし、その会社の前に立ったとき、急に気が変ってしまった。
(ムダな真似はよそう)
相手に迷惑をかけるだけでなしに、屈辱の思いを、ますます深めるに違いないのである。そういう思いを重ねるのは、
(もう、たくさんだ!)
と、叫びたいくらいになっていた。
章太郎は、その会社の前を素通りしてしまった。しかし、そうなると、行先に困るのであった。今更、会社へ帰る気にもなれない。
(郡司道子のアパートへ……)
そうも思った。ためしに、アパートへ電話してみたのだが、郡司道子は、留守だった。こうなると、これから晩までの時間を持て余すばかりである。
章太郎は、結局、映画館に入った。こんな時間なのに、相当数の客が入っていた。
(いったい、どういう人が来ているのだろうか)
章太郎は、画面を眺めるよりも、周囲の客の方を気にしていた。
(きっと、この中には、失業中の人もいるだろうし、俺のような、失業寸前の人もいるだろう)
だからといって、心が慰められるわけではなかった。みじめになってくるだけであった。映画館を出たのは、午後六時頃だった。章太郎は、まっすぐに家へ帰った。子供たちのことを思ったからだった。子供たちといっしょに食事をしたかったからである。
晩酌にビールを一本飲んだ。その酔いが、いまだにかすかに体内に残っているようである。
「お父さん」
襖《ふすま》の外で、のぼるの声が聞えた。
「おお、どうしたんだね」
「入っていいでしょうか」
「いいとも」
のぼるは、襖を開いて、入って来た。ひどく緊張しているようである。章太郎は、一目見て、
(何か、重大なことをいう気だな)
と、思った。
夕食のときから、どちらかといえば無口でいたのである。
のぼるは、章太郎の前に来て坐った。章太郎も、何んとなく坐り直した。
「あたし、お父さんにお話したいことがあるんです」
「何んでも聞くよ」
「今日、会社を出ようとしたら、坂巻さんが立ってらっしゃいました」
「そのことでいうのを忘れていたが、前に、坂巻君からのぼるに接近したいが、という話があったんだ。で、気を悪くしたとでもいうのか」
「違います。あたしもいうのを忘れていましたが、その前から何度も、坂巻さんにお電話を頂いたりしていたのです」
「どういう電話?」
「いっしょにお茶を飲みたい、というような。でも、あたし、いつも、お断りしておりました」
「どうして?」
「…………」
「悪かった。で?」
「ところが、坂巻さんは、あたしを待っていて、その前に、会社の青島さんにお会いになっていたんです」
「青島というと、坂巻君のクラス・メートであるという?」
「はい」
「で?」
「坂巻さんは、青島さんの前で、あたしと結婚したいようなことをおっしゃったんです」
「あの男って、そんなにせっかちだったのかな」
章太郎は、笑いかけたのだが、のぼるの目が、すこしも笑っていないのに気がつくと、
「で?」
と、真顔になって、あとを促した。
「あたし、せっかくですが、とお断りいたしました」
「断ったのか……。しかし、坂巻君って、あれは、ほんとうにいい青年なんだよ」
「わかっております。あたし、以前から、そうだと思っておりました」
「それなら、のぼる」
「坂巻さんは、結婚出来ない理由を聞かせてほしいとおっしゃいました」
「当然だろうな」
「あたし、それはいえないともうし上げたのです。そうしたら、青島さんが近寄って来て、その理由なら自分が知っている、と」
「青島君が、か」
「あたし、坂巻さんに、当分、誰とも結婚しないつもりですが、ことに、青島さんとお友達であるあなたとは結婚出来ません。その理由は、青島さんに聞いて下さい、といって帰って来てしまいました」
章太郎は、じいっとのぼるの顔を見つめながら、
「ということは、のぼるが失恋した理由を、その青島君が知っているからなんだな」
「青島さんがあたしの失恋の相手であったからです」
のぼるは、はっきりとした口調でいった。よくよくの決心がついていて、この部屋へ入って来たに違いない。
「そうだったのか」
章太郎は、唸《うな》るようにいった。
(よりによって、のぼるが、坂巻君のクラス・メートに失恋していようとは!)
最早、のぼると広太との結婚は見込みなし、と思って間違いないようだ。あらかじめ、そう腹を決めておこうと思った。
「ですから、今夜、坂巻さんは、あたしと青島さんのこと、聞いていらっしゃるに違いありません」
「だろうな」
「…………」
「のぼるとして、坂巻君に聞かれて、困るようなことがあるのか」
「青島さんが、正直にいって下さったら、別に……」
「だったら、いいではないか」
「でも、今のあたしは、青島さんて、信用しておりません。あの人は、嘘つきですし、信頼が出来ません」
「のぼる。今の言葉は、信用していていいんだね」
「はい」
「お父さんは、のぼるが、その青島君のことを完全に卒業した、と思っていいんだね」
「…………」
「はっきりいっておいてもらいたいのだ」
「九十パーセントは」
「すると、あとの十パーセントは?」
「もう時間の問題だ、と思っております」
「よしよし」
章太郎は、ほっとしたようにいって、
「よかった、のぼる。よく、そこまで、立直ってくれた。お父さんは、うれしいよ」
「あたし、バカだったんです」
「ついでだから聞いておきたいんだが、どうして失恋したんだ」
「はじめは、青島さんの方から積極的に、でした。で、あたし、つい……。でも、そのうちに、青島さんに、別にいいところのお嬢さんとの縁談が起ったんで」
「そうか、わかった。お父さんとしては、それ以上のことを聞かないでおこう。それに、以前に、間違いは起していない、といっていたな」
「はい」
「あれも、信じていいんだな」
「はい」
「もう一つだけ。のぼるは、坂巻君とは、嫌かね」
「今は……」
「しかし、そのうちに、ということは考えられないか」
「考えられるにしても、坂巻さんの方で」
「そうだな」
そのあと、父と娘は、しばらく黙ったままでいた。その沈黙が、二人の心を、ますます寄り添わせていくようであった。
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夕陽を美しく
矢沢章太郎は、いつものように出勤すると、先ず卓上カレンダーを一枚めくった。いきなり、目に飛び込んで来たのは、
「停年退職一カ月前」
と赤鉛筆で書いた字であった。
すなわち、今日が、八月一日なのである。章太郎は、思わず、
「ああ……」
と、嘆声を洩らした。
同室の金山末夫は、ちらっと章太郎の方を見たが、何んにもいわなかった。章太郎にとっても、その方がたすかるのであった。
(あと一カ月……)
胸の底から重苦しいものが込み上げてくるようだ。赤鉛筆でこれを書いたのは五カ月前であり、厚生課長をしていた時であった。当時、まさか、こんな参事室勤務にされようとは、夢にも思っていなかったし、また、
(この八月一日のころには、停年退職後の方針について、何んとか決っているだろうなァ)
と、思っていたのである。
そのころになっても、嘱託としての延長を認められず、次の就職口も決っていなかったら、悲劇である。あせっているだろう。そのように思った記憶がある。
しかし、今や、章太郎は、まさしくその悲惨な状態にあり、あせっているのであった。その章太郎にとって、せめてもの慰めは、のぼるがすっかり元気になってくれたらしいことであった。もう一つ、欲をいわせてもらえば、坂巻広太と婚約してほしかったのである。
しかし、広太には、どうやらその気がないようであった。相変らず、ときどき、この参事室へ顔を見せるのだが、のぼるのことに関しては、一切触れようとしなかった。とすれば、章太郎の方からそれを口にするわけにもいかないのである。
章太郎は、郡司道子を通じて、広太が知ったというのぼるの失恋の内容を聞かされていた。そのことで、あらためて、のぼるにたしかめたわけではないのだが、そのまま信じて間違いあるまい、と思っていた。
章太郎は、のぼるが、青島謙吾のような男に失恋してくれたことを、神さまに感謝したいくらいに感じていた。そのような男と結婚して、のぼるの生涯が幸せになろうとは考えられなかった。よくこそ、失恋してくれた、といいたいくらいだった。
しかし、広太にとっては、一度は、自分のクラス・メートに心を移した女なのである。理性で割切れるところがあっても、感情的には割切れないものがあるに違いない。結婚を避けた方が無難だ、と思ったとしても、それは当然のことであって、責めるわけにいかないのだ。
郡司道子と勝畑の二人は、広太に、のぼるとの結婚をすすめたそうだが、しかし、広太は、
「しばらく、考えさせて下さい」
としか、答えなかったそうだ。
以来、一カ月余を経ているが、広太は、その後、郡司道子の店へも姿を現わさないそうだ。
もはや、広太は、のぼるとの結婚を完全にあきらめた、と思ってもよさそうである。また、かりに、広太の方に、多少のみれんがあるものとしても、こんどは、のぼるの方に難色があるかもわからない。のぼるもまた、自分の方から広太のことを口にすることはなかった。
ただ、お手伝の民子は、
「旦那さま、いつかいらっした坂巻さんは、お元気ですか」
と、聞いたりする。
昨夜も、民子は、食事のときに、
「私は、お嬢さんとあの坂巻さんがご結婚なさったら、いちばんいいのにと思っているんですけどねえ」
と、のぼるの気を引くようないい方をしたのだ。
「賛成」
章一が即座にいった。
しかし、のぼるは、聞えなかったように、黙々と食事をしていた。
「お嬢さん」
民子がいった。
「何よ」
のぼるは、答えた。
「あたしの今いったこと、聞えなかったんですか」
「聞えたけど」
「では、何んとか、おっしゃって下さいよ。でないと、張合いがありませんから」
「あたしね、当分の間、誰とも結婚しないのよ」
しかし、そういうのぼるの表情には、かつてのような暗さはないようだった。
「どうしてですの」
「何んとなく……」
「お嬢さん、そんなことをいっていたら、売残りになってしまいますよ」
「かまわないわ」
「かまわないって、それでは、私が困りますからね」
「民子さんが?」
のぼるは、いぶかるように民子を見た。民子は、見返して、
「私は、これでも一日も早く、お嬢さんの花嫁姿が見たいし、また、赤ちゃんを抱っこしてみたいと思ってるんですよ」
「まァ、嫌だ」
「真面目な話ですよ、ねえ、旦那さま」
「のぼるの結婚の話は、それくらいでよかろう」
「ということは、旦那さまは、お嬢さんの赤ちゃんを抱っこしたくないんですか」
「いや、抱いてみたい。しかし、そうなると、わしは、おじいちゃんということになるんだな」
「そうですよ。旦那さまなら、きっと、いいおじいちゃんになられますよ」
「いいおじいちゃんか……」
章太郎は、のぼるの子供を抱く自分の姿を頭に描いた。ちょっと、甘酸っぱいような、嬉しいような、複雑な気分だった。そして、その頃に、あの郡司道子と結婚していられたら、どんなに幸せであろうか、とも。
「もし、そうなったら、私は、ときどき、お嬢さんとこへも出かけて行って、手伝って上げましてよ」
民子は、調子に乗って、しゃべってくる。ほんとうにそう思っているのに違いない。章太郎は、有りがたいことだ、と思った。しかし、そのとき、のぼるが辛そうな顔をしていることに気がついた。
「民子さん、やっぱり、そういう話はおしまいにしておこう」
「どうしてですか」
「わしは、当分の間、おじいちゃんになりたくないのだ」
「そんなことをいったって、旦那さま」
「わかった、わかった」
章太郎は、その話題を打切るように手を振った。民子は、ちょっと不満そうだったが、後をいわなかった。のぼるも、ほっとしたようであった。
章太郎は、そんなことを思い出しながら、煙草を吹かし、新聞を読んでいた。今日も、午後から就職運動にまわるつもりなのだが、気がすすまなかった。停年退職の日までに、次の就職口を決めておくことに、もはや絶望的になりかけていた。
(なるようにしかならないのだ)
そのように居すわりたくなっていた。そして、その方が気がらくなのである。しかし、居すわりにも限界があって、結局は、くよくよしたり、あせったりするのであった。
一人の老人が入って来た。
章太郎は、その顔を見ると、
「やァ、西田さんじゃァありませんか」
と、懐かしそうにいった。
西田尚次の方でも、懐かしそうに、
「どうも、ご無沙汰」
と、章太郎の方へ近寄って来た。
同室の金山末夫は、西田に軽く会釈しただけであった。西田の方でも、同じく軽く応じておいて、章太郎の席の横の丸イスに腰を下した。
「十年振りだよ、この会社へくるのは」
「そんなになりますかね」
「停年退職後、はじめてだからね」
「そうそう、坂巻広太君が東亜社報に書いたあなたの訪問記事、読みましたよ」
「実は、あの通りなんだ。家内は、お茶とお花を、わしは、お習字を」
「結構じゃァありませんか」
「そう。それに、あの訪問記は、よく出来ていたな」
「坂巻君は、なかなか優秀ですからね」
「らしい。その坂巻君がいっていたが、君は、近く停年になるんだって?」
「あと一カ月で」
「しかし、坂巻君の話では、厚生課長をしていたようにいっていた。だから、厚生課へ行ったんだよ」
「ところが、このように二カ月前から参事室勤務ということに……」
「辛いだろう?」
「宮仕えの辛さを、こんどこそ、痛感しましたよ」
「わかるわかる、よく、わかるよ、君。ところで、停年退職後の就職口、もう決ったのかね」
「それが、まだなんですよ」
「とすれば、ますます、辛いわけだな。わしにも経験がある。あんな嫌なものはない。人間が、どうしても卑屈になる」
「そうなんですよ、西田さん。どこかいい口があったら、紹介して頂けませんか」
「わしには、どうも……」
「でしょうねえ」
そこで章太郎は、話題を変えるように、
「十年振りに会社へいらっして、ご感想は、いかがですか」
「すっかり、変ってしまっているからね。さっきも、そこの廊下で、相原君に会ったんだよ」
「相原常務に?」
「へええ、あんな男が常務をしているのか。わしが頭を下げたのに、どこの馬の骨か、というような顔をしていたな」
「西田さんということに、気がつかなかったんでしょう?」
「あるいは……。しかし、気がついていたところで、あの調子だと、たいして変らんだろう?」
「かも知れません」
「いっぺんに気を悪くしたな。二度とくるものかと思ったよ」
「わかりますね」
いいながら章太郎は、自分もまた、停年退職後同じ心境になるのではなかろうか、と思っていた。厚生課長として終るのと、参事室勤務で終るのとでは、それくらいの差が出来てくるのである。しかし、会社にとっては、そんなことは、痛くも痒《かゆ》くもないに違いないのだ。
「ところで、今日、ここへ来たのは、総務課長の後藤君に会いたかったのだ」
「お会いになりましたか」
「昨日から出張しているんだそうだ。で、君のことを思い出したのだ。一つ、頼まれてくれないだろうか」
「と、おっしゃいますと?」
「坂巻広太君のことについてだよ」
「坂巻君の?」
「縁談なんだ」
「縁談……」
章太郎は、自分でも、顔から血の気の引いていくのがわかるような気がしていた。
「坂巻君って、わしの見たところ、なかなかの好青年のような気がしたんだが」
「それでしたら、私は、太鼓判をおしてもいいですよ」
「もっとも、坂巻君に、別に恋人があったりしたら困るが」
「…………」
「もし、そういう相手がいないのだったら、ぜひ、まとめたいのだ」
「…………」
「相手というのは、友田優子といって、うちへ来ている娘なんだ。坂巻君のところへお茶を運んだりしたから、覚えているだろうが、念のために、写真を持って来た」
西田は、章太郎の前に、写真をおいた。章太郎は、それを手に取った。見るからに育ちのよさそうな、しかも、美しい娘であった。章太郎は、それを見ながら、のぼるを思い出していた。
「なかなかいい娘だろう?」
西田は、章太郎の持った写真を覗きこみながらいった。
「と、思いますね」
章太郎は、写真を机の上に戻した。
「二十二歳で、学校は、A短大。K金属工業の常務の娘なんだ」
「ほう」
「両親は揃っているし、上の兄が二人いて、それぞれ結婚している。二人とも、ちゃんとした人物だし、妹思いでもある」
「なるほど」
「まず、どこへ出しても恥かしくない家庭なのだ。もちろん、血統上の不安もない」
「でしょうねえ」
「娘の性格等については、わしが保証する」
「…………」
「娘が、わしんとこで坂巻君を見て、気に入ったらしいんだ。家に帰って、坂巻君のことを話したことから、この話がはじまったんだよ」
「…………」
「で、それとなく、坂巻君の家庭のことを調べたり、また、両親や兄たちが、坂巻君を見てたり、しているんだ」
「…………」
「その結果、坂巻君ならということになったんだよ」
「当然でしょうねえ、坂巻君なら」
「友田家では、もし、坂巻君がうんといってくれたら、相当のことをする気でいるようだ」
「相当のことって?」
「月に一万五千円程度のアパートを借りてやるとか」
「夢のようないい話ですね」
「そう。で、わしも、大いに乗気になって、今日出てきたんだ。はじめに、課長の後藤君に会い、後藤君から坂巻君の意向をたしかめてもらうつもりで」
「…………」
「もし、君が、坂巻君と親しくしているんなら、君から坂巻君に話してみてくれないだろうか」
「…………」
「当分の間は、とにかく、二人を交際させてみることにしたいんだが」
章太郎は、さっきから西田の話を聞いていて、無意識のうちに広太がのぼると結婚する場合とを比較していたのであった。
(あらゆる意味で、雲泥の相違がある)
どんな男だって、のぼるよりも、優子の方を選ぶだろう。まして、のぼるには、クラス・メートに失恋したばかりという大きなハンディキャップがある。
章太郎は、今こそ、のぼると広太を結婚させたいとの夢をあきらめるべきだ、と思った。残念だが、どうにも仕方がない。しかし、そのことは、ある意味で、のぼるのために、そして、広太のために、ということにもなりそうである。そう思っておくことであった。
(それにしても、よりによって、嫌な役をたのまれてしまったものだ)
章太郎は、苦笑したくなっていた。しかし、たのまれたからには嫌とはいえないのである。積極的に骨を折ってやるべきだ、と思いはじめていた。
「どうだろうか」
西田がいった。
「私は、いいと思いますよ」
章太郎は、答えた。
「坂巻君に恋人があるというような話、君は、聞いていない?」
「いませんね」
「だったら、さっきもいったように君から一つ、坂巻君に話してくれないだろうか」
「かしこまりました」
「頼む。この写真をおいて行くからね」
「数日中に、ご返事が出来ると思います」
「待っているよ」
西田は、ほっとしたようにいって、そのあと十分ほど雑談をしてから帰って行った。
章太郎は、あらためて、友田優子の写真を手に取って見た。見合いのために、特別に撮った写真でないのも気持がよかった。恐らくは、自宅の庭であろう広い芝生の上で、微笑みながら立っているのである。幸せに育ち、そして、幸せな生涯を送るであろうというように感じられる娘であった。
(のぼるにだって、幸せになる権利があるのだし、親として、そのために、あらゆる努力をしてやるべきなのだ)
章太郎は、のぼると広太との結婚をあきらめたつもりで、結局は、あきらめられないでいるのであった。いや、それ以上に、広太と結婚してこそ、のぼるが本当に幸せになれるのだ、というような気持にすらなりかけていた。
(のぼると坂巻君を結婚させるためには、今日の話を、握りつぶすわけにはいかんが、いい加減に扱っておけばいいのだ)
そして、のぼるの幸せは、そのまま、自分の幸せにもなってくるのである。
章太郎は、ダイヤルをまわして、広太を呼出した。
「坂巻君。矢沢だけど、ちょっと話したいことがあるんだが、今、忙しいかね」
「十分ほどしたら手が空きます」
「では、僕は、その頃に一階の喫茶店にいるから来てもらえないだろうか」
「かしこまりました」
章太郎は、友田優子の写真をポケットに入れて、一階の喫茶店へ入って行った。喫茶店は、午前中であり空いていた。章太郎は、自分のコーヒーを注文してから煙草に火をつけた。
章太郎は、ポケットから友田優子の写真を取出して、あらためて眺めた。
(この娘の一生の幸せの鍵を、俺は、握っているようなものなのだ)
そのように考えるのは、すこし大袈裟に過ぎるかもわからない。しかし、章太郎が、のぼるの幸せをしんけんに祈っているように、優子の両親もまた、そうに違いないのである。かつて、章太郎は、同じ思いから小高秀子のために、あれこれと骨を折ってやったのだ。とすれば、こんどだって、妙な動き方をしないで、優子のためにつくしてやるべきであろう。そして、のぼるには、別な幸せの道をひらいてやることなのだ。
章太郎は、そのように考えて来て、さっきからの重苦しいような気分から解放された。本来の自分に戻ったような思いでもあった。
コーヒーがきた。章太郎は、それを一口飲んだとき、入口に、坂巻広太が姿を現わした。笑顔で、まっすぐにこっちへ近寄ってくる。
「どうも、お待たせいたしました」
広太は、章太郎の向いのイスに掛けながらいった。
「いや、お仕事中、すまなかったな」
「とんでもない。ちょうど、さぼりたいなと思っていたところだったんです」
「君もコーヒーでいいか」
「はい」
章太郎は、広太のためにコーヒーを注文してから、
「君、この写真の人を覚えているかね」
と、広太の前に、写真をおいた。
広太は、その写真を手に取って、
「さァ……」
と、首をかしげながら、
「たしか、どっかで見たような気もするんですが」
「その程度かね」
「どうも……」
「しかし、美人だろう?」
「そうですね」
「名は、友田優子というんだよ」
「友田優子……」
「まだ思い出せないか」
「聞いたような気もするんですが」
「では、一つヒントをあたえよう。君は、いつか、西田尚次さんのお宅へ行っただろう。そのとき――」
「あっ、思い出しましたよ、矢沢さん。たしか、あの家で、紅茶を運んで来てくれた娘さんです」
「その通り」
広太のコーヒーが来た。広太は、それを飲みながら、あの日、たくさんの娘を見たが、今となって思い出せるのは、この娘だけだ、と思っていた。そして、西田の細君から、広太の結婚の相手としてどうか、といわれたのであった。
広太は、この優子からは、悪い印象を受けていなかった。明るい娘であったようだ。帰ることになって、玄関で別れの挨拶をしたとき、見送りに出た娘たちの中でも、優子の目が、広太に笑いかけていた。広太は、そういうことまで、思い出していた。
「しかし、どうして、この写真が矢沢さんのお手許にあるんですか」
「さっき、西田さんが持って来て下さったんだ。君の結婚の相手としてどうであろうか、といって」
「私の?」
広太は、章太郎を見た。が、章太郎は、その広太の目を無視するようにして、
「はじめは、君の課長の後藤君に話すつもりだったらしいのだが、昨日から出張なんだって?」
「ええ」
「それで、お鉢が僕の方にまわって来たんだよ」
章太郎は、西田から聞いた通りを話して、
「僕は、全面的に賛成だ、といっておいた」
「…………」
「君という人間については、僕は、太鼓判を押していいと思っているし、西田さんから聞いた限りでは、もうし分のない話だという気がしているんだ」
「…………」
「とにかく、交際してみたらどうかね」
「…………」
「その上で、気に入らなかったら断ればいいんだし」
「…………」
「西田さんには、数日中にご返事をするようにいってあるんだ。今すぐにでなくてもいいから考えてみてくれないか」
「わかりました。よく考えてみましょう」
広太は、すこし硬い口調でいってから、
「すると、矢沢さんには、私にのぼるさんを下さるご意志はないんですか」
章太郎に、広太のこの単刀直入な質問は思いがけなかった。というよりも、嬉しかったといってもいいのである。
「しかし、君、のぼるは、君のクラス・メートと……」
「私は、そういうことを別にして、考えて頂きたいのです」
「正直にいって、僕は、君にのぼるをもらってほしいと思ったこともあった」
「今は?」
「のぼるは、当分の間、誰とも結婚したくないといっているんだ」
「しかし、それはあくまで、当分の間、でしょう?」
「そうだよ。でなかったら、僕だって困る」
「だったら、私も、当分の間、誰とも結婚しません」
「ということは、のぼるの気が変るのを待ってくれるのか」
「そうなんです」
「坂巻君、有りがとう。しかし、僕は、その言葉だけで十分だ。やっぱり、君は、この友田さんと交際した方がいいよ」
「どうしてですか」
「その方が、君のためになると思うからだ」
「しかし、私には、そのように思われません。いいですか、矢沢さん。もし、私がここで、この友田さんと交際をはじめたら、あの青島とおんなじ程度の人間になってしまいますよ。人間の屑のようにいって殴ってやった青島と。そういう意味で、友田さんの話は、私の心にある刺激をあたえてくれました」
「しかし」
「いいえ」
広太は、強く否定して、
「とにかく、私は私なりに、先日来のぼるさんのことで悩んでいるのです。だからといって、あきらめたのではありません」
「おい、どうしたんだね。今夜の君は、あまり元気がないようだぞ」
カウンターの中で、白いバー・コートを着て、黒の蝶ネクタイを結んだマスターがいった。
新宿のバー「グリーン」。そして、マスターは、かつての東亜化学工業株式会社の総務課長田沢吉夫であった。その後のマスター振りは、ますます板について来ているようだ。
この店は、いつ来ても、それほどはやっているようでなかった。渋谷の郡司道子の店と比較すると、だいぶん落ちる。客ダネについても、同じことがいえそうである。
しかし、田沢は、そのことを一向に苦にしていないようであった。とにかく、収支はつぐなっているし、それで食べていられるのだ。その上、好きな女克子と、いつだっていっしょにいられるのである。更にいえば、この商売をやっている限り、停年というものがないのだ。
「そうでもないんですがねえ」
坂巻広太がいった。
「ならいいんだが。とにかく、今夜の勘定のことは気にしないで、もっと飲めよ」
「頂きます」
「わしが会社を停年で辞める日に、君が、サラリーマンとして入社して来たのだ。いってみれば、君は、サラリーマンとして、わしの後継者なのだ。その意味でも、大いにやってもらいたいのだ」
「はい」
「わしは、課長どまりであった。が、せめて君には、部長くらいになってもらいたいと思っている」
「部長……」
「部長ぐらいでは、不満なのか」
「いいえ、逆ですよ。部長になるって、たいへんだなァと思っているんですよ」
「今からそんな弱気で、どうするんだよ。ダメじゃァないか。といいたいところだが、わしが入社した頃よりも、社員の数がふえているんだし、部長どころか、課長になることだって、たいへんだよな」
「そうなんです」
「それに、あの会社には、派閥というものがある」
「ええ」
「君は、今でも、どっちつかず、か」
「どっちからも誘いがかかりません」
「まさか、そのことで弱気になっているんじゃァあるまいな」
「違います」
「ならよろしい。とにかく、この人生を大きな目で眺めることは、いつの場合だって必要だよ」
「はい」
「サラリーマンには、サラリーマンの目がある。バーの親父には、バーの親父としての目がある。ということは、いつだって、そういう特定の眼鏡で、この人生を見ていることなんだ。それはそれなりに、間違っていないかも知れないが、何んとしても視野がせまい。一人合点におちいりやすい。大局に目がとどかない。人間は、ときどき、この点について、反省すべきなんだ」
「ほんとうに、そうですね」
「そうだ、わしは、バーの親父になっても、まだ、これくらい立派なことがいえるんだぞ」
「恐れ入りました」
「恐れ入ったついでに、今夜の憂鬱の原因というのを話してみないか」
「…………」
「無理にとはいわん」
「…………」
「しかし、今夜の君は、およそ、いつもの君らしくない」
「そうなんです」
「とにかく、もっと飲みたまえ」
田沢は、新しいビールのせんをぬいて、広太のグラスに注ぎ、
「わしも飲む」
と、自分のグラスを出した。
広太は、それにお酌をした。
「じつはね、田沢さん」
「うん」
「私は、今、恋愛の問題で悩んでいるんですよ」
「一人前になったんだな」
「かも知れません。相手は、矢沢章太郎さんのお嬢さんなんです」
「矢沢君の?」
田沢は、ちらっと広太を見ておいて、
「その後、矢沢君は、元気かね」
「この前にもうし上げた通り、参事室勤務になってから、あんまり……」
「だろうな。あれは、ある意味で、本人にとっては、屈辱的な人事だからね」
「でも、うわべだけは、割合に平然としていられます」
「そこが、あの男の偉いところだ。で、停年退職後の就職口は、見つかったのか」
「まだのようです」
「そりゃァ気の毒だ。よっぽど、運が悪いんだな。あれほどの男だから、どっかありそうなものだが。また、雇った方でも、損をしない」
「もし、田沢さんに、思いあたる口があったら、おしえて上げて下さい」
「心がけておこう。わしにも覚えがあるし、矢沢君が、毎日どんな心境でいるか、よくわかる」
しかし、その章太郎にも、この田沢に克子がいたように、郡司道子がついているのである。広太は、そのことをいおうと思ったが、すぐに無用のことと思いなおした。
「ところで、君の恋愛問題について、話を戻そうではないか」
広太は、のぼるが好きになったことから、そののぼるが、クラス・メートの青島に失恋していること、更に、友田優子から好条件で話があったことなどをいった。
田沢は、黙って、聞いていた。
「わかったよ。で、君の悩みというのは、どの点にあるんだ」
「それが、もやもやしていて、自分にもはっきりしないところがあるんです」
「では、雑音から整理していくことにしよう。先ず、その友田さんの縁談だ。とってもいい話だと思うよ、わしは。君だって、そう思っているのだろう?」
広太は、うなずいた。
「とにかく、このまま捨てるには惜しいような話であることに間違いない。もし、君が、矢沢君の娘を好きになっているのでなかったら、一応、交際してみる気になったろう?」
「はい」
「どうだね、そんなトラブルの多い矢沢君の娘のことなんか、きれいさっぱりとあきらめて、友田さんの話に乗っては?」
「…………」
「その方が、君の将来のためにもなる」
「…………」
「いってみれば、男の玉の輿のようなもんだ。今頃、そういうことにこだわっていたらおかしい」
「…………」
「そうなれば、矢沢君の娘のことなんか、じきに忘れられる。やがては、やっぱり、友田さんと結婚してよかった、と思うようになるだろう」
広太は、目を閉じて聞いていた。
「わしが、さっき、この人生を大きな目で眺めることが必要だ、といったのは、この場合にだって、あてはまると思うんだよ」
「…………」
「とにかく、二兎を追うなんてよくない」
「…………」
「わしは、どっちの娘も見ていない。が、あの矢沢君の娘なら、間違いないだろうと思うが、そういう過去があっては、どうもねえ」
「…………」
「ある意味では、君は、今、一生の幸せの岐れ目に立っているんだな」
「…………」
「君が友田さんと結婚したら、どういうプラスがあるか、そして、矢沢君の娘と結婚したら、どういうマイナスがあるか、ここらで、じっくり考えてみる必要があるわけだ」
「…………」
「そして、最後の決は、自分できめることだ。結局は、自分自身のことなんだから」
それでも、広太は、目を閉じたまま、黙っていた。田沢は、それを見て、あとは、広太の考えにまかせるように、口を閉ざした。
バーの中は、割合に静かだった。客が一組いるのだが、これは、おだやかに飲んでいるのである。その客の相手をしている克子は、ときどき、気になるようにカウンターの方を見るのだが、田沢に目くばせされて、わかったようなわからぬような顔でいた。
広太は、相変らず、考え込んでいた。田沢は、それを見ながらビールを飲んだ。広太のグラスのビールが、半分ほどに減っていることに気がついて、それに注ぎ足してやった。
新しい客が入って来た。これは、賑やかな三人組だった。
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし」
この三人組で、店の中は、急に騒々しくなった。広太は、目を開いた。そして、目の前のビールを飲みほすと、
「田沢さん、やっと、僕の決心が決りましたよ」
と、微笑みながらいった。
さっきまでとは別人のような、明るい表情になっていた。
「ほう、決ったのか」
「決りました。いろいろとすみませんでした」
「いや、いいんだよ」
「考えてみれば、何んにも迷ったりすることはなかったんです。でも、田沢さんにいって頂いたお陰で、自分の本当の気持が、はっきりとわかったのです。もう、絶対に迷ったりはしません」
「友田さんに?」
「いいえ、私は、やっぱり、のぼるさんに決めました」
「そうか!」
田沢は、すこし声を大きくして、
「よく、その気になったな」
と、むしろ満足そうにいった。
「要するに、私は、のぼるさんを好きなのです。青島を殴った瞬間から、そのことが、私の心の中で、決定的になっていたはずなのです」
「うむ」
「友田さんの話によって、私は、却って、のぼるさん一本ヤリで進むべきだとの決心がついたようなものです」
「しかし、のぼるさんが、果して君のいうことを肯いてくれるだろうか」
「そこなんです。が、その前に、私自身で迷っていたのでは、それこそ、問題にならないでしょう? さっき、おっしゃった二兎を追う者は、になってしまいます」
「そう」
「あとは、私の努力しだいだと思います」
田沢は、広太を見つめて、
「坂巻君、よくいったよ。じつをいうと、わしは、さっき、あのようにいってはいたが、君からは、今のような回答を期待していたんだよ」
「私も、何んとなく、そんな気が……」
「さすがは、わしのサラリーマンとしての後継者だけのことはあるよ。玉の輿だって、結構。悪くない。しかし、この人生とは、結局自分自身の手で、自分にふさわしい幸せを築き上げていくことが、いちばんいいのだ。それこそ、本当の幸せというもんだ。現在のわしだって、そうだ」
「有りがとうございます。勇気が出て来ました」
「で、これから、どうする?」
「まだ八時前ですし、今からすぐに、のぼるさんに会いに行きます」
「そりゃァまた気がはやいな」
「でも、こうなったら、善は急げ、です。一刻もじっとしていられません」
「のぼるさんは、今夜、家にいるのか」
「わかりません。しかし、とにかく、行ってみます」
「よかろう。こうなったら坂巻君。堂々と胸を張って行くんだぞ」
「はい」
「のぼるさんの顔を真正面から見つめて、いいたいことをいうんだぞ」
「はい」
「では、君の門出を祝して、あらためてカンパイといこう」
「有りがとうございます」
「カンパイ」
「カンパイ」
「そこで……」
広太がいうと、タクシーは、きしみながらとまった。広太は、料金を払うと、
「ご苦労さま」
と、いって降りた。
広太は、大通りから横へそれた細い道へ入って行った。やがて、章太郎の家が見えて来た。
広太は、ここまでは、もう何んにも考えないで、まっしぐらに来たつもりだった。しかし、これからがたいへんなのだと思うと、歩みものろくなってくるのであった。
(どうしても嫌だ、といわれたら……)
そういう弱気になってくる。いってみれば、男の恥、ということにもなりそうだ。
(恥をかくくらいのことに平気にならなければ)
広太は、自分にいい聞かせた。また、恥といったところで、いわゆる破廉恥の恥とは違っているのである。かりに、笑う奴がいたら笑わしておけばいいのだ。広太は、そうと決めておいて、呼リンを押した。
しばらくして、玄関の戸が開き、誰かの出てくる足音が聞えてきた。広太は、いちだんと緊張した。
「どなたさまでしょうか」
民子の声であった。
「僕、会社の坂巻広太です」
「まァ、坂巻さん」
民子は、懐かしそうにいって、すぐ門を開いてくれた。この前よりも、さらにふとったようである。が、その細い目は、広太に対して、好意的に笑いかけているようであった。広太は、ぐっと気が楽になったし、幸先がいいような気持になった。
「夜分にお邪魔をして、もうしわけありません」
広太は、ピョコンと頭を下げた。
「いいえ、そんなことございませんよ」
「矢沢さん、いらっしゃいますか」
「まだ、お帰りになっておりません」
「のぼるさんは」
「いらっしゃいます」
「お目にかかりたいんですが」
「お嬢さんに?」
「じつは、のぼるさんにお話したいことがあって参ったのです」
「そのこと、旦那さまは、ご存じなんですか」
「いえ、話してはありません。さっきまで、新宿でお酒を飲んでいたものですから、すこし酔っております」
「そんなには、見えませんよ」
「有りがとう。お酒を飲んでいるうちに、のぼるさんにお会いしたくなったのです。お会いして、話したいことがあるのです。お取次ぎして頂けないでしょうか」
「そりゃァかまいませんけど」
民子は、そこまでいってから、広太の顔をじっと見つめて、
「どういう話かわかりませんが、もし、真面目な話だったら、お酔いになっていないときの方がいいんじゃァありませんか」
「一言もありません。しかし、僕としては、とても明日までは、待っていられないのです。ぜひ、今夜中に話しておきたいのです」
「そんなに重大なことなんですか」
「僕にとっては、一世一代の」
民子は、広太の要件を察したようであった。もとより、広太とのぼるとの結婚に賛成している民子にとって、それは願ってもないことなのである。
「どうぞ」
民子は、笑顔でいった。
「かまいませんか」
「ええ、かまいませんとも。私からお嬢さまにもうしますから、とにかく、お入りになって下さい」
「民子さん、恩に着ますよ」
「あら、どういたしまして」
広太は応接室へ通された。この家のどこかにのぼるがいるのだと思うと、やっぱり緊張させられるのであった。
応接室の扉が開いた。入って来たのは、民子であった。盆の上に濡れたタオルと水の入ったコップをのせていた。
「さァ、これでお顔をふいて、そのあと、冷たい水を飲んで、すこしでも酔いを醒ましておいて下さい」
「どうも、すみません」
広太は、タオルで汗ばんだ顔や腕を拭い、そのあと、よく冷えた水をいっきに飲んだ。
「お陰さまで、さっぱりしましたよ。ところで、のぼるさんに僕の来たこと、いって下さいましたか」
「いえ、これからです」
「会って下さいますでしょうか」
「それは、いってみないことには。でも、恐らく大丈夫でしょう」
「だといいんですが」
「坂巻さん、こういっちゃァ何んですが、私は、お嬢さまのご結婚については、とっても関心を持っているんですよ」
「よくわかります。矢沢さんも、あなたのことを、家族の一員のように思っていられるようですから」
民子は、そうなのだとばかりにうなずいておいて、
「で、今夜のお話というのは?」
「僕は、民子さんになら、何も彼もいっていいと思ってるんですが、のぼるさんと結婚したいのです」
「もちろん、本気でしょうね」
「本気です。それについて、民子さんの意見を聞かせて下さい」
「私は、前からあなたとのぼるさんなら、とってもお似合いだ、と思っていたんですよ」
「僕は、前から民子さんが大好きでした。まさかって場合は、僕の味方になって下さるような気がしていました」
「お世辞にしても、そんなふうにいってもらえると嬉しいですよ」
「よろしく、お願いします」
「だけど、坂巻さんは、一生のぼるさんと仲良くしていけます?」
「いけます」
「途中で裏切るような真似をなさいませんか」
「しません」
「私に誓えますか」
「誓いますよ」
正直にいって、広太は、苦笑したいような妙な気分になっていた。
(俺は、お手伝から、どうしてこんな質問を受けたり、誓わせられたりしなければならないのだろう)
しかし、だからといって、かならずしも不愉快でいるのではなかった。そこには、民子ののぼるの一生の幸せを祈る心情が、露骨なくらいに現われていた。逆にいえば、のぼるには、民子からそのように思われるよさがあるのだ。
「それから、もう一つ」
「どうぞどうぞ。もう一つでも、二つでも。とにかく、僕は、民子さんから及第点をもらわないと、のぼるさんと結婚できないと思っているんですから」
「そうでもありませんけどね」
民子は、まんざらでもなさそうにいってから、
「ご結婚なさっても、旦那さまや坊っちゃまを大事にして上げて下さいますでしょうか」
「それも誓います」
「では、お言葉に甘えて、もう一つだけ」
「はい」
「私は、お嬢さまがご結婚なさったら、ときどきお訪ねして、家のことを手伝ってあげるつもりでした。ですから、私が顔を出しても、嫌な顔をしたり、邪魔者を追い払うように、早く帰れ、というような顔はなさいませんでしょうね」
「そんなことは、絶対にございません。僕は、民子さんならいつだって、大歓迎いたしますよ」
「有りがとう、坂巻さん」
民子は、ニコッと笑って、
「私に関する限り、坂巻さんは、満点の合格です」
「安心しました」
「あとは、坂巻さんの、のぼるさんへの熱意の問題です。とにかく、お嬢さんは、どういうわけか、私にもよくわからないのですが、当分の間、誰とも結婚しないといっていられるんですから」
「わかりました。民子さんのお力添えで、のぼるさんに会えるようにして下さいよ」
「かしこまりました」
民子は、濡れタオルとコップを盆の上にのせて、応接室を出た。
(坂巻さんて、感じのいい人だわ。坂巻さんと結婚なさったら、お嬢さんだって、きっと幸せになれるわ)
民子は、その上、自分の条件までのんでくれた広太を、以前にもまして、好きになっていた。何んとしても、のぼるに結婚してもらいたかった。章太郎だって、きっと喜ぶに違いなかろう。自分の留守中に、若い二人を会わせたからといって、まさか叱られることはあるまい。
午後九時になろうとしていた。章太郎から今夜のご飯はいらないという電話が、四時頃にあったのである。そして、そういうときの章太郎の帰宅は、たいてい十一時過ぎになるのであった。そういうことが、一週間に一度ぐらいあり、午前一時頃になることが、月に一度ぐらいあった。
民子は、二階へ上がって行った。ふとっているので、いくら静かに上がって行っても、階段が大きな音を立てる。まして、今は、心が弾んでいるので、どしんどしんと鳴りひびくようである。
「民子さん?」
襖の中から、のぼるがいった。
「ええ、私ですよ。入ってもようございますか」
「どうぞ」
民子は、襖を開いた。
のぼるは、机に向って、日記をつけていたところらしかった。振向いて、
「どなたか、いらっしたらしいわね」
「会社の坂巻さんが」
民子は、のぼるの前に来て坐った。
「まァ、坂巻さんが?」
のぼるは、かすかに眉を寄せた。しかし、だからといって、表情まで暗くしたのではなかった。
「はい。で、応接室へお通ししておきました」
「だって、お父さん、まだなんでしょう?」
「坂巻さんは、お嬢さんにお会いになりたいんだそうです」
「あたしに?」
のぼるは、民子から視線をそらした。
「お話したいことがあっていらっしたんです。すぐ、行って上げて下さい」
「ほんとうは、あたし、お会いしたくないのよ。民子さん、悪いけど、頭が痛いからとか何んとかいって、帰ってもらって下さらない?」
「それはいけませんよ」
「あら、どうしてよ」
「坂巻さんは、お嬢さまと結婚したいといって来ていられるんですよ」
のぼるの表情に動くものがあった。
「ですから、お嬢さま」
「坂巻さんは、そんなことを民子さんに、ぺらぺらとおしゃべりになったの?」
「いいえ、私が、しつこく聞いたんです。ほんのすこしですが、お酒を飲んでいられるようです。旦那さまのお留守中に、お嬢さまに会わせるとなると、あくまで慎重を要しますからね」
「そうしたら、坂巻さんが、あたしと結婚したいのだとおっしゃったの?」
「そうですよ。そのほかにも、いろいろ、と」
「いろいろとって?」
「私としましては、やっぱり、心配ですからね。だから、質問をしたのです」
「質問?」
「第一に、一生、お嬢さまを大事にし、仲良くしていきますか、と。第二に、途中で、裏切るような真似はしませんか、と」
「民子さん。そんな質問は、ちょっと行き過ぎよ」
「それを承知の上で。すみませんでした」
民子は、頭を下げておいて、
「坂巻さんは、誓うとおっしゃいました」
「…………」
「結婚したら、旦那さまや、坊っちゃまを大事にすることも」
「誰でも、口先でだけなら、何んでもいえるもんよ」
「いいえ、口先だけではありませんよ。坂巻さんの場合は」
「どうして、そんなことが、民子さんにわかるの?」
「私の直感です。坂巻さんは、人をだましたりなさるようなお方ではありません。それからね、お嬢さま」
「…………」
「私は、もし、お嬢さまと結婚なさった場合、ときどき行くつもりだがかまいませんね、といったら、民子さんなら大歓迎するといって下さいました」
「…………」
「とにかく、お嬢さま、あんまり待たせては悪いですよ」
「あたし、やっぱり、お会いしたくないわ」
「そんなこと、せっかく来て下さった坂巻さんに対して、失礼ですよ」
「…………」
「もし、私が、お嬢さまの母親であったら、そういうわがままは許しませんね」
「…………」
「結婚する意志がないんなら、そのこと、自分の口からはっきりおっしゃい、といいますよ」
「…………」
「亡くなられたお母さまだって、きっと、私とおんなじことをおっしゃると思います」
「亡くなったお母さん……」
「お母さんは、どこかからお嬢さまを見てらっしゃいますよ。そして、のぼるさん、坂巻さんていい人だよ、結婚したらきっと幸せになれるよ、といってられるに違いありません」
「わかったわ、民子さん」
「お会いになりますか」
「お会いして、自分の口からお断りすることにするわ」
「お断りになるんですか」
「そうよ」
「惜しいですよ、あんないい人を断るなんて」
「だって、結婚するのは、あたしよ」
「それはそうですよ。でも、長い間、お嬢さまの面倒を見させて頂いて来た私には、私なりの夢がありましたからね」
「夢……」
「私は、これでも町を歩いているとき、年頃の男を見ると、この人ならお嬢さまのおムコさんにどうであろうか、と考える癖がついてしまっているんです」
「…………」
「たいていは、落第でした。不潔であったり、人が悪そうであったり、きりっとしているところがなかったり、色男ぶっていたり、浮気をしそうであったり」
「…………」
「私は、その点、坂巻さんを一目見たときから、この人こそ、と思ったんですよ」
「…………」
「それに、旦那さまもお気に入りのようでしたし、坊っちゃまだって」
「…………」
「お嬢さま。私は、悪いことをいいません。お会いになって、うんといって上げて。一生の問題ですよ」
民子が出て行ってから十分以上たつのに、まだのぼるが現われないのである。広太は、しだいに不安になって来た。
(やっぱり、招かれざる客であったようだな)
情なくなって、くるのではなかった、という弱気が頭を持上げてくるのであった。このまま、黙って帰ろうか、とも。
(俺って、のぼるさんにとって、そんなに魅力のない男なのであろうか)
ひとりでに、自嘲の笑みが浮かんで来そうであった。
広太は、立上がりかけた。が、そのとき、扉の向うで、足音が聞えて来た。
(のぼるさんなのだ!)
広太は、浮かしかけた腰を下すと、ヘソの下に力を入れた。自分の生涯にとっての決定的な瞬間が近づいて来たような気がした。
ノックの音が聞えた。続いて、扉が開かれて、のぼるが、すこし青ざめたような顔をして入って来た。
「たいへんお待たせいたしましてすみません」
のぼるは、低いが、はっきりした口調でいった。
「いえ……。僕こそ、こんな夜分に、突然お邪魔をいたしまして」
のぼるは、イスに掛けて、
「お話は、今、民子さんから聞きました。あたしのような女に、ほんとうに有りがたいんですけど、あたし、やっぱり、お断りいたします」
それをいうと、のぼるの顔色は、更に青くなったようであった。
「どうしても、ダメですか」
広太は、失望の色を隠そうとはしなかった。
「悪いんですけど」
「いや、そんなことはありませんよ。あくまで、あなたのご意志が大切なんですから」
そこで、広太は、一呼吸を入れてから、
「しかしね、のぼるさん」
「はい」
「僕が、こんな夜、急にここへくる気になったのは、さっき、新宿の会社の先輩のやっていられるバーで飲んでいて、僕が、どんなにあなたが好きであるか、ということが、それこそ、胸が痛くなるほど感じられたからですよ」
「…………」
「今は、その酔いも醒めてしまいましたが、気持には変りがありません」
「…………」
「ご存じでしょうか、僕があの夜、青島君を殴ったことを」
「いいえ」
のぼるは、おどろいたように広太を見た。
「もちろん、暴力はいかんことは、わかっております。しかし、僕は、殴らずにはいられなかったのです。何故なら……」
「…………」
「僕は、あの男とあなたのことで話しているうちに、この男こそ、人間の屑であり、自分のことしか考えていないエゴイストだ、とわかったからです」
「でも、そういう人と、一度は結婚を考えたあたしなんですのよ」
「僕は、その点について、残念に思ったことがありますよ。あなたほどのお方が、どうして、あんな男をと、不思議なくらいでした。しかし、今は、あんな男のことなんか、何んとも思ってらっしゃらないでしょう?」
「はい」
「人間の屑であるという僕の意見に、賛成なさいませんか」
「あたし、そこまではいいたくありません」
「いいですよ。しかし、くどいようですが、今や、あの男のことなんか、何んとも思ってらっしゃらないんでしょう?」
「それなら、はっきり、はい、とお答え出来ます」
「有りがたい。それでいいんですよ。こうなったら、私の経験をもうし上げます」
「…………」
「四年ほど前、僕は、ある女を好きになりかけたんです。結婚してもいいくらいに」
のぼるは、ちらっと広太を見たが、すぐ顔をふせた。
「ところが、その女は、僕なんかよりも遥かに金持の男と、さっさと結婚してしまいました」
「…………」
「僕は、まァ失恋したわけです。正直にいって、いちじは苦しかったんです。が、一年もしないうちに、あんな女と結婚しなくてよかった、と思うようになりました。今は、思い出しても、それこそ、痛くも痒くもありません。自分でもあきれるくらい」
「…………」
「僕は、男と女の違いがありますが、あなたと青島の場合だって、結局は、僕の場合とおんなじであろうと思うんですよ」
「…………」
「僕は、自分の経験からして、あなたと青島のことについてこだわったりすることは、絶対になかろう、と思っております。僕は、それほど女々しい男ではないつもりです」
「…………」
「それに、もう一つ。最近、お父さまを通じて、僕に、別の縁談があったのです」
のぼるは、おどろいたように広太を見た。
「お聞きではありませんか」
「あたし、何んにも……」
「僕は、一応、考えさせて下さい、といっておいたんです。が、今夜、それを断る決心をしました。そういう縁談が起って、僕は、ますますあなたが好きであったことがわかったからです」
「…………」
「もし、ここで、あなたに断られても、僕は、その縁談を辞退するつもりです」
「どうしてですの?」
「あくまで、あなたのことがあきらめられないからです」
さっきまで青かったのぼるの顔色は、今は、あかくなっていた。広太のひたむきないい方が、のぼるの血を騒がせているのであろうか。
「せめて、ここで約束をして下さいよ」
「…………」
「結婚するしないは別として、一週間に一度ぐらいは、僕といっしょに食事をしたり、映画を見に行ったりしてもいい、と」
のぼるは、しばらく黙っていてから、
「でも、そういうことだと、父にも相談しませんと」
広太は、しめた、と思った。はじめて、のぼるは、折れて出たのである。今までは、せっかくですが、の一点張りであったのだ。
「もちろん。しかし、その前にあなたの意志を聞かせてもらいたいんです」
「…………」
「その上で、僕からもお父さんにお願いしてみます」
「…………」
「のぼるさん、僕って男は、自分でいうのもおかしいですが、そんなに悪くないつもりですよ」
「いいえ、悪いどころか、あたしには、勿体ないくらいに……」
「ほんとですか」
広太は、声を弾ませた。のぼるは、はにかむようにうなずいたが、その顔に、パッと血の色が散ったようであった。それは、広太がはじめて見るのぼるの新鮮さであり、初々しさであった。そのことは、のぼるの胸の中に、過去に絶縁した新しい感情が芽生えつつあることを物語っているようであった。
「信じていていいんですね」
「あたし、坂巻さんが、あたしって女を買いかぶっていて下さるような気がして、恐いんです」
「そんなことは、ありません。正しく評価しているつもりです」
「あとで、きっと、後悔なさいましてよ」
のぼるの口調から、硬さがとれて来た。
「いや、後悔しませんよ。かりに、将来、あなたが僕にとって悪妻になろうとも、僕は、自分の選んだ女なんだからとあきらめていきます」
「まァ、悪妻だなんて」
「失言でした。しかし、これで、とにかく、話は決ったんです。いいですね」
「はい」
「よかった。やっぱり、僕は今夜ここへ来てよかったんです」
「あたしにとっても」
のぼるの唇許がほころんだ。
「民子さんだって、きっと、喜んでくれますよ」
その広太の言葉の終り切らないうちに、民子が入って来た。二人は、顔を見合わせた。民子は、そんな二人を心配そうに見ている。
「話が決りましたか?」
「民子さん、残念ながら」
広太は、真面目くさっていった。
「残念ながら?」
「そうなんです」
「嘘おっしゃい。話がうまくいったように、ちゃんとお顔に書いてありますよ」
「じつは、そうなんです。民子さんにもいろいろとお世話になったからです。あらためて、お礼をいいます」
「そして、あたしからも」
広太とのぼるは、立上がって、頭を下げた。民子は、面くらっている。
「いやですよ、そんな他人行儀なことを」
民子は、顔をくしゃくしゃにしていった。涙ぐんでいるようであった。
それを見ていると、のぼるもまた、涙ぐみたくなってくるのであった。が、すぐ、気を取りなおして、
「民子さん、坂巻さんに、お茶を差上げて」
「でも、坂巻さんには、お茶よりも、おビールの方がいいんじゃァありません?」
「いや、今夜はお茶でがまんしておきますよ」
「ご遠慮?」
「お嬢さん、かまわないでしょう?」
「あたしは、かまいませんことよ。そのうちに、父も帰ってくるでしょうし、今夜は、それまで、いて下さいます?」
「お邪魔でなかったら。僕だって、一刻も早く、お父さんに正式のお許しを得たいですから」
「では、ビールと決りましたね。私はね、お話がうまくいっていたらおビール、うまくいかなかったらお茶をと、両面作戦を立てていたんですよ」
「とにかく、よろしくお願いいたします」
民子は、応接室から出て行った。
「父が早く帰って来てくれるといいんですけど」
「僕だったら、何時になってもかまいませんよ。僕に、今夜お父さんがいられそうなところ、心当りがあるんですよ」
「どこですの?」
「渋谷のバーなんです」
「じゃァ、ぐんじ≠ナしょう?」
「ご存じでしたか」
「だって、父は、しょっちゅうぐんじ≠フマッチを持っておりますもの」
のぼるは、別に嫌そうな顔もしないでいった。広太は、その「ぐんじ」のマダム、郡司道子が、どんなにいい女で、そして、どんなに章太郎思いであるか、いってみたくなった。が、すぐ、時期尚早のようだ、と思い直した。
「そこへ電話してみましょうか」
「そんなことをして、かまわないでしょうか」
「さァ……」
「でも、かけてみて下さらない? あたしだって、今夜は、早く父に帰ってもらいたいし」
「わかりました」
「電話は、廊下にありますから」
のぼるは、電話のあるところへ、広太を連れて行った。広太は、手帖を出して、「ぐんじ」の電話番号を調べて、ダイヤルをまわした。
「モシモシ、ぐんじ≠ナしょうか」
「はい、さようでございます」
郡司道子の声のようであった。いっしょに陽気な人の声もつたわってくる。
「ママさんですか」
「はい」
「僕、坂巻広太です」
「まァ、坂巻さん。近頃、ちっともいらっして下さいませんのね」
「どうも、すみません。ところで、そちらに矢沢さんがいらっしゃいませんか」
「いらっしゃいましてよ」
「しめた。すみませんが、電話口まで出てもらえないでしょうか。緊急に、お話したいことが出来たんです」
「ちょっと、お待ちになってね」
勝畑正造は、章太郎にビールを注ぎながら、
「とにかく、矢沢さん。お元気を出しなさいよ。そのうちに、いいことがあるに違いありませんから」
といって、前の席の小倉良太郎の顔をちらっと見た。
小倉良太郎は、勝畑の勤める東部製薬株式会社の重役なのである。六十歳で、温厚ながら、どこかに精悍な感じのする人物であった。そして、小倉は、勝畑を可愛がっているらしいのだ。章太郎にもそれが感じられて、勝畑なら当然のことだ、と思っていた。こういう重役が勝畑についていたら、勝畑の将来は、洋々たるものに違いなかろう。
今夜、いっしょに飲みませんか、といって来たのは、勝畑の方からであったのである。もとより、章太郎に異存がなかった。むしろ嬉しいくらいであった。
銀座で、軽い食事をすましてから、この「ぐんじ」へ来たのである。その「ぐんじ」に、小倉がいたのであった。小倉は、今までに勝畑に連れられて、ここへ二度ほど来ていた。したがって、郡司道子とも顔なじみになっていたし、彼女の考えでは、今後、この店の上客の一人になってくれるはずだった。
勝畑は、章太郎を小倉に紹介した。
「よかったら、ごいっしょにいかがですか」
と、小倉の方から誘った。
話題は、章太郎の参事室勤務のことになり、勝畑から激励されたのであった。
「今は、そのつもりでおりますよ」
章太郎は、淡々として答えた。あせってもしようがないのだ、と思っていた。
「ところで、例の小高秀子、その後、どうなったんでしょうか」
「そうそう、あの娘のことについては、とってもいいニュースがあるんですよ」
章太郎は、顔色を明るくして、横の郡司道子に、
「君にも聞いてもらいたいのだ」
「どういうことですか?」
「こんど、あの娘は、結婚することになったのだ」
「まァ、よかったこと」
郡司道子がほっとしたようにいうと、勝畑は、
「結局は、矢沢さんと、このママさんの努力が実を結んだことになるんですね」
そのあと、勝畑は、小倉に、秀子のことをかんたんに話した。小倉は、うなずきながら聞いていたが、しかし、くわしいことは、以前に勝畑から聞いて知っているような素振りでもあった。
「今日の午後、会社へあの娘の父親がやって来ましてね。お陰さまで、秀子が近く結婚することになりました、といわれたときには、私も、びっくりしましたよ。だって、あのことがあってから、まだ、半年もたっていないんですからね」
「でも、あたしは、あなたとごいっしょに、松原湖まで、あの娘を捜しに行ってから、もう一年ぐらい過ぎたような気がしていましてよ」
郡司道子は、そのときのことを思い出しているような顔でいった。
「僕だって、そうなんだが」
章太郎は、いっておいて、
「小高秀子の相手というのは、大阪の叔母さんの紹介による男性だそうですよ。あの娘は、その後、ずっと大阪にいたらしいんです」
「すると、その相手は、小高秀子のあの事件を知っているのでしょうか」
勝畑がいった。
「そこまでは、聞きませんでした。多少、気になったんですが、しかし、ちゃんと結婚することに決ったというのに、そんな質問は、無用のことですからね」
「わかります」
「とにかく、私は、心からおめでとうといっておきました。すると、あの娘の父親が、こういうことになったのも、私や、このマダムのお陰です、というんで、却って恐縮しましたね」
「いや、全く、お二人のお陰ですよ。私も、あの問題について、一役を買っているんで、これで安心しました。矢沢さんだって、そうでしょう?」
「そうなんです。その後、特に気にしていたわけでもないんですが、やっぱり、肩の荷をおろしたような」
「当然ですよ」
「結婚式は、九月一日だそうです」
「では、あなたの停年退職の日じゃァありませんか」
郡司道子がいった。
「そうなんだ。偶然の一致になるんだが、その結婚式の日に、私に出てくれないか、というんだよ」
「いいことだわ。出てお上げになるんでしょう?」
「そして、君にも、だよ」
「まァ、あたくしにまで?」
「これは、小高秀子の希望なんだそうだ」
「あの娘、あたしのこと、ちっとも恨んでいないのね」
「いや、感謝しているというんだ。で、何んとか二人で出てもらいたい、と。もちろん、派手な披露宴をするわけでなく、三十人ぐらい集って、という程度らしい。場所も、新宿のT会館なんだそうだ」
「あなた、いらっしゃいます?」
「行くつもりだ」
「あたし、どうしましょうか」
横から勝畑が、
「そりゃァ当然、いらっしゃるべきですよ。お二人、ご夫婦のように揃って」
「嫌な勝畑さん」
郡司道子は、あかくなった。
「失礼しました」
「とにかく、行くことにしたら?」
「はい。そうなったら、あたし、誰かから着物を借りなきゃァ。でも、何んとかなりますわ」
「矢沢さんは、停年退職した足で、結婚式場に向われるわけですね」
勝畑がいった。
「そういうことになりますね。悲しいことのあとにおめでたいことが続くわけです。しかし、停年退職だって、考えてみれば、おめでたいことなんですよ、ね。とにかく、三十何年間、無事に勤められたんですから」
その後、郡司道子が席を立ち、そして、坂巻広太からの電話を聞いたのであった。
章太郎は、電話口に出た。
「矢沢だが」
「ああ、矢沢さん。坂巻です。急に、電話なんかして、もうしわけありません」
「そんなこと、どうでもいいんだが、今、どこにいるんだね」
「お宅に来ているんです」
「わしの?」
「そして、さっきからのぼるさんといろいろと話合ったのです」
「…………」
「お留守中に、勝手な真似《まね》をしてしまって、お詫びいたします。しかし、私は、あれこれと考えているうちに、どうしても明日まで待てなくなってしまったんです」
「…………」
「結論から先にいいますと、のぼるさんは、結婚を前提として、今後、私と交際してもいいといって下さったんです」
「のぼるが?」
「ただし、お父さんのお許しがあったら、という条件づきなんです」
「のぼるが、うんといったんだね」
「はじめは、会うのも嫌だ、とおっしゃってたんですが、民子さんのお口添えで、やっとお会い出来たんです」
「で?」
「なかなか、うんといってもらえなかったんですが、やっと……」
「そうか!」
「お許しいただけるでしょうか」
「僕としては、許すも許さないもない。のぼるしだいなんだから」
「有りがとうございます」
広太は、電話口で、ピョコンと頭を下げたようだ。
「坂巻君、そこに、のぼるがいるのかね」
「いらっしゃいます」
「ちょっと、かわってくれないか」
「はい」
やがて、のぼるの、
「お父さん、のぼるです」
という羞じらっているようなかれんな声が聞えて来た。
「ああ、のぼる。今、坂巻君のいったことに間違いがないんだね」
「はい……。いけなかったでしょうか」
「いや、お父さんは、喜んでいるんだよ。前から、そうなってもらいたいと思っていたんだ。これで、お父さんも、やっと、安心出来る」
章太郎は、不覚にも、目頭を熱くしていた。
「いろいろとすみませんでした」
「あやまることは、何もないのだ。今夜は、早いめに帰る」
「それまで、坂巻さんがお待ちになっているそうです」
「よし、わかった」
「あの……」
「なに?」
「坂巻さんに、おビールを出して上げてもいいでしょうか」
「いいとも、そして、お父さんも帰ったらいっしょに飲もう、といっておいてくれ。だから、それまでに酔ってしまわないように、と」
「はい」
章太郎は、電話を切った。微笑がこみ上げてくるようであった。が、心のどこかに、一片の淋しさが漂うているようでもあった。そして、この淋しさは、のぼると広太の交際が深まるにつれて、ますます、深くなっていくに違いなかろう。今から、それが思いやられた。
(しかし、今夜、そんなことを考えるのはよそう)
郡司道子が寄って来て、
「どういう電話でしたの?」
と、心配そうに聞いた。
「いい電話であったのだ。坂巻君と娘とが、結婚することになりそうなんだ」
「まァ、よかったじゃァありませんか」
郡司道子は、自分のことのように喜んだ。
「そうなんだ」
章太郎は、元の席へ行くと、郡司道子もついて来た。
小倉と勝畑は、何か話合っているところであった。
「勝畑君、君にも、喜んでもらいたいことが起ったんだ」
章太郎がいった。
「と、おっしゃいますと?」
勝畑は、章太郎を見た。章太郎の表情は、さっきまでとは別人のように明るくなっていた。
「君も知っている坂巻君」
「彼は、どうかしたんですか」
「今、彼は、僕の家に来ているんだが、娘ののぼると、結婚を前提とする交際をはじめることにしましたから、というんだよ」
「それは、素晴らしいじゃァありませんか」
勝畑は、声を大きくして、
「坂巻君なら、もうし分がありませんよ」
「君も、そう思ってくれるかね」
「思いますとも。そうだ、お二人の結婚式には、どうか、私にも出席させて下さいませんか」
「ぜひ。これは、こちらからお願いしたいくらいに思っていたところだ」
「しかし、矢沢さん、よかったですねえ。今日は、いいことが二つありましたよ」
「二つあることは、三つあるといいますけどね」
郡司道子がいった。
「欲をいったらキリがない。今夜は、このへんで十分なんだ」
「しかし、矢沢さんとしては、あと、気がかりなのは、停年退職後の就職問題だけでしょう?」
とたんに、章太郎の表情は、暗くなった。しかし、すぐその暗さを払いのけるように、
「いや、そのうちに、それだって、何んとかなるでしょうよ」
「アテがあるんですか」
「残念ながら……」
「ないんですか」
「そう」
「就職について、何かの条件をお考えなんですか」
「今は、どんな仕事だっていいと思っていますよ。とにかく、働かせてさえもらえれば」
勝畑は、小倉の顔を見た。
小倉は、勝畑に、うなずき返すようにしてから、
「矢沢さんは、会社のクラブの管理人のような仕事をやってみる気はありませんか」
「と、おっしゃいますと」
章太郎は、膝をすすめるようにしていった。
「じつは、私の会社のクラブが、目黒にあるんです。社員の社交場として利用しているんですが、時には、歓迎会や送別会をやったり、また、社員の結婚式場につかわれることだってあります」
「…………」
「したがって、そこの管理人となると、物わかりのいい、しかも、世話好きな人でないと困るのです」
「…………」
「いいかえれば、時には、社員から相談相手になってもらいたくなるような人」
「…………」
「といって、甘やかすだけでは困るのです。厳格にすべきところは、あくまで厳格にしてもらわないと」
「…………」
「今の管理人が、家庭の事情で、近く田舎へ引っ込むので、代りが必要なわけです」
「…………」
「何人かの候補者があるのですが、この勝畑君から、ぜひあなたに会ってくれと頼まれて。今夜、私がここへ来たのも、その目的なんです」
「…………」
「あなたの過去のことは、いろいろと勝畑君から聞いていますし、今夜の印象も、失礼ながらもうし分がないのです」
章太郎は、聞いていて、夢のような気がしていた。あれほど、奔走してまわった口が、一つ一つダメになり、頼みもしなかった方から、こういういい話が舞込んで来たのである。世の中のことは、だいたい、そうしたものであろうか。しかし、別な考え方をすれば、章太郎が、あの小高秀子のために努力してやったことが勝畑の胸を打ち、そして、こういう結果になったのである。過去の善根の一つが、やっと芽を出したのだ、といっていえないこともなさそうだ。
「今、いくらおもらいになっているか知りませんが、もし、私の方へ来て下さるんなら、手取りで、だいたい五万円ぐらいになると思っていて下さい」
「…………」
「期限は、一応、五年間」
「…………」
「本来なら、他の関係者と相談して決めるべきなんですが、もし、今夜ここで、うんといって下さったら、私の責任において決めてしまいます。もちろん、もっとこまかいことは、後でご相談いたすことにして、いかがでしょうか」
章太郎は、うなだれて聞いていた。胸が迫って来て、泣きたくなるような思いでいた。勝畑も、郡司道子も、章太郎の答えるのを待っている。
「ぜひ、お願いいたします」
章太郎は、テーブルの上に両手をついていった。その耳許で、勝畑が明るい声でいった。
「やっぱり、今夜は、いいことが三つ、ありましたね」
九月一日。
卓上カレンダーの上に「停年退職」と赤鉛筆で書いてある。それを眺める章太郎の胸に、入社以来今日までのことが、あれこれと浮かんでいた。思えば、入社の日から今日を目標にして歩いて来たようなものである。そして、とうとうその日が来たのだ。
口惜しいこと、悲しいこと、そして、嬉しいこと……。いろいろのことがあった。しかし、すべては、過去の波の中に消えて行ってしまった。それでいいのである。明日から、章太郎の再出発が始るのだ。
しかし、もし、章太郎の次の就職口が決っていなかったら、今日を迎える心境に、また別なものがあったに違いない。とにかく、今日の章太郎は、多少感傷的になっているとしても、めそめそはしていなかった。
退職慰労金は貰った。規程通りの三百六十三万円であった。在職中に、特別の功労のあった者には、割増のつく規程なのだが、章太郎は、それに該当しなかったようだ。
午前中に、社内の挨拶まわりをすました。
「お大事に」
「お元気でね」
「ときどき、会社へお顔を見せて下さいよ」
各人各様にいってくれた。その誰にも、章太郎は、
「有りがとう、有りがとう」
と、答えておいた。
相原常務は、不在だった。だから挨拶が出来なかった。しかし、章太郎としては、別に心残りではなかった。この会社の派閥争いが、徐々に険悪の相を呈しつつあるようなのだ。しかし、もはや、章太郎には関係のないことであった。
章太郎は、さっき、社員食堂で、最後の昼めしをすまして来たところなのである。ライス・カレーを食べた。
同室の金山末夫は、章太郎の停年退職に、特別の関心を示すようでもなく、黙々と新聞を読んでいる。
午後二時に、小高秀子の結婚披露宴に出席のため、郡司道子と一階の喫茶店で落合うことになっていた。章太郎が、モーニングを着ているのは、そのためであった。人々の中には、それを停年退職の挨拶まわりのためか、と思った人もあるようだ。しかし、考えてみれば、モーニングを着てくるだけの値打のある日のようでもある。
章太郎の机の曳出しの中の物は、すでに整理がすんでいた。たった一つ、のぼるの手紙だけがそのままになっている。章太郎は、それを読み直してから、迷ったあげく、破ってしまった。今や、こんな物を残しておく必要がなくなったのである。
(大過なく、とにかく、大過なくであった……)
章太郎は、それとなく机の上を撫でながら、最後の別れを惜しんでいた。これからも、大過なく生きていきたいのであった。
午後二時になった。
章太郎は、一切のみれんを振り捨てるようにして立上がった。「停年退職」と朱書したカレンダーは、そのまま、残されてあった。