筑摩eブックス
江戸川乱歩全短篇3 怪奇幻想
[#地から2字上げ]江戸川乱歩著
[#地から2字上げ]日下三蔵 編
目次
T
赤い部屋
人間椅子
芋虫
百面相役者
覆面の舞踏者
一人二役
お勢登場
木馬は廻る
U
毒草
白昼夢
火星の運河
空気男
悪霊
指
V
防空壕
押絵と旅する男
目羅博士
双生児
踊る一寸法師
人でなしの恋
鏡地獄
虫
著者による作品解説
編者あとがき 日下三蔵
T
赤い部屋
異常な興奮を求めて集まった、七人のしかつめらしい男が……私もその中の一人だった……わざわざそのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色のビロードで張った深い肘掛椅子にもたれこんで、今晩の話し手が、何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待ち構えていた。
七人のまん中には、これも緋色のビロードで覆われた一つの大きな丸いテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台にさされた三梃の太いロウソクが、ユラユラとかすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅の重々しい垂れ絹が豊かな|襞《ひだ》を作って懸けられていた。ロマンチックなロウソクの光が、その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした垂れ絹の表に、われわれ七人の異様に大きな影法師を投げていた。そして、その影法師は、ロウソクの焔につれて、幾つかの巨大な昆虫ででもあるかのように、垂れ絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら、這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、ちょうど途方もなく大きな生きものの心臓の中に坐ってでもいるような気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさをもって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられるように思えた。
誰も物を言わなかった。私はロウソクをすかして、向こう側に腰掛けた人たちの赤黒く見える影の多い顔を、なんということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面のように無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話し手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっとロウソクの火を見つめながら、次のように話しはじめた。私は、陰影の加減で骸骨のように見える彼の顎が、物を言うたびにガクガク物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの人形でも見るような気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気のつもりでいますし、人もまたそのように取り扱ってくれていますけれど、真実正気なのかどうかわかりません。狂人かもしれません。それほどでないとしても、一種の精神異常者というようなものかもしれません。とにかく、私という人間は、不思議なほどこの世の中がつまらないのです。生きているということが、もうもう退屈で退屈でしようがないのです。
はじめのあいだは、でも、人並みにいろいろの道楽に耽った時代もありましたけれど、それがなに一つ私の生れつきの退屈を慰めてくれないで、かえって、もうこれで世の中の面白いことはおしまいなのか、なあんだつまらない、という失望ばかりが残るのでした。で、だんだん、私は何かをやるのがおっくうになってきました。たとえば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にしてくれるだろうというような話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やってみようと乗り気になる代りに、まず頭の中でその面白さをいろいろと想像してみるのです。そして、さんざん想像を廻らした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびってしまうのです。
そんなふうで、或る期間、私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮らしていました。そして、頭の中だけでいろいろな空想をめぐらしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片っ端からけなしつけながら、死ぬよりもつらい、それでいて人目にはこの上もなく安易な生活を送っていたのです。
これが、私がその日その日のパンに追われるような境遇だったら、まだよかったのでしょう。たとえ強いられた労働にしろ、とにかく何かすることがあれば幸福です。それともまた、私が飛び切りの大金持ちででもあったら、もっとよかったかもしれません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君たちがやったようなすばらしい贅沢や、血なまぐさい遊戯や、その他さまざまの楽しみに耽ることができたのでありましょうが、もちろんそれもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、おとぎ話にある物臭太郎のように、いっそ死んでしまったほうがましなほど、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮らすほかはないのでした。
こんなふうに申し上げますと、皆さんはきっと、「そうだろう、しかし世の中の事柄に退屈しきっている点では、われわれだって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作ってなんとかして異常の興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、われわれの仲間へはいってきたのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今さら聞かなくてもよくわかっているのだ」とおっしゃるに違いありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方がそんなふうに、退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話ししようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入りしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人ともお心安く、ずっと前からこの「赤い部屋」の会のことを聞き知っていたばかりでなく、一再ならず入会することを勧められてさえいました。それにもかかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつきそうな退屈屋の私が、今まで入会しなかったのは、私が、失礼な申し分かもしれませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬほど退屈しきっていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術その他の心霊上のさまざまの実験ですか、Obscene Picture の映画や実演や、その他のセンシュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得るあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。と言いますのは、私は御主人からそのお話のあったころには、もうそういうありふれた刺戟には飽き飽きしていたばかりでなく、或る世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐ろしい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申し上げますと、皆さんはびっくりなさるかもしれませんが……人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今までに、百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的のためばかりに、奪ってきたのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟して、懺悔話をしようとしているのかと早合点なさるかもしれませんが、ところが決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ、なんということでしょう、私は近頃になって、その人殺しという血なまぐさい刺戟にすら、もう飽き飽きしてしまったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺すような事柄に、あの阿片の喫煙に耽りはじめたのです。さすがにこれだけは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をしてきたのですけれど、人殺しにさえあきはてては、もう自殺でももくろむほかに、刺戟の求めようがないではありませんか。私はやがてほどなく、阿片の毒のために命をとられてしまうでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話のできるあいだに、私は誰かに私のやってきたことを打ち明けておきたいのです。それには、この「赤い部屋」のかたがたがいちばんふさわしくはないでしょうか。
そういうわけで、私は実は皆さんのお仲間入りがしたいためではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いてもらいたいばっかりに、会員の一人に加えていただいたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に添うようなお話をしなければならぬ定めになっていましたので、こうして今晩、その私の望みを果たす機会をとらえることができた次第なのです。
それは今からざっと三年ばかり以前のことでした。そのころは今も申し上げましたように、あらゆる刺戟に飽きはてて、なんの生きがいもなく、ちょうど一匹の退屈という名前を持った動物ででもあるように、ノラリクラリと日を暮らしていたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから、多分二月の終りか三月のはじめごろだったのでしょう。ある夜、私はひとつの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとるようになったのは、実にその晩の出来事が動機をなしていたのです。
どこかで夜ふかしをした私は、もう一時頃でしたろうか、少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのに、ブラブラと車にも乗らないで家路を辿っていました。もうひとつ横町を曲がると一丁ばかりで私の家だという、その横町をなにげなくヒョイと曲がりますと、出会いがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で、急いでこちらへやってくるのに、バッタリぶつかりました。私も驚きましたが、男はいっそう驚いたとみえて、しばらくだまって突っ立っていましたが、おぼろげな街灯の光で私の姿をみとめると、いきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく聞いてみますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を……こんな夜中に一人でうろついていたところを見ると、多分浮浪の徒だったのでしょう……ひき倒して大怪我をさせたというのです。なるほど、見ればすぐ二、三間向こうに一台の自動車がとまっていて、そのそばに人らしいものが倒れて、ウーウーとかすかにうめいています。交番といっても遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさておき、先ず医者を探そうとしたのにちがいありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよくわきまえていましたので、早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二丁ばかり行くと左がわに赤い軒灯のついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起こしたらいいだろう」
すると運転手はすぐさま助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼らのうしろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係り合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って……私は独り者なんです……婆やの敷いてくれた床にはいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに寝入ってしまいました。
実際なんでもないことです。もし私がそのままその事件を忘れてしまいさえしたら、それっきりの話だったのです。ところが、翌日眼をさましたとき、私は前夜のちょっとした出来事をまだ覚えていました。そして、あの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考えはじめたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「や、おれは大へんな間違いをしてしまったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとはいえ、決して正気を失っていたわけではないのに、私としたことが、なんと思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎこませたのでしょう。
「ここを左のほうへ二丁ばかり行くと左がわに赤い軒灯のついた家がある……」
というその言葉もすっかり覚えています。なぜそのかわりに、
「ここを右のほうへ一丁ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と言わなかったのでしょう。私の教えたというのは評判の藪医者で、しかも外科の方はできるかどうかさえ疑わしかったのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近いところに、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。むろん私はそれをよく知っていたはずなのです。知っていたのになぜ間違ったことを教えたか、その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよくわかりませんが、おそらく胴忘れとでもいうのでしょうか。
私は少し気がかりになってきたものですから、婆やにそれとなく近所の噂などをさぐらせてみますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだらしいのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのはいやがるものです。まして夜中の一時というのですから無理もありませんが、M医院ではいくら戸を叩いても、なんのかんのといってなかなか開けてくれなかったといいます。さんざん暇どらせた挙句、やっと怪我人を担ぎこんだ時分には、もうよほど手遅れになっていたにちがいありません。でも、そのとき、もしM医院の医者が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも指図をしたなら、或いは怪我人は助かっていたのかもしれませんが、なんという無茶なことでしょう。彼は自からそのむずかしい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです。なんでも噂によりますと、M氏はうろたえてしまって、不当に長いあいだ怪我人をいじくりまわしていたということです。
私はそれを聞いて、なんだかこう変な気持になってしまいました。
この場合、可哀そうな老人を殺したものは果たして誰でしょうか? 自動車の運転手とM医師とにも、それぞれ責任のあることはいうまでもありません。そして、ここに法律上の処罰があるとすれば、それはおそらく運転手の過失に対して行なわれるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。もしその際、私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかもしれないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺したわけではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていたためにしくじったのですから、これもあながち咎めるところはありません。よしまた彼に責を負うべき点があったとしても、その元はといえば私が不適当なM医院を教えたのがわるいのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すこともできたわけなのです。それは怪我をさせたのはいかにも運転手でしょう。けれども、殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図がまったく偶然の過失だったと考えた場合ですが、もしそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、いったいどういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したのではありませんか。しかし法律はたとえ運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、おそらく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のないことがよくわかっているのですから。そして、たとえ疑いをかけられたとしても、私はただ外科病院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいのではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんはかつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件ではじめてそこへ気がついたのですが、考えてみますと、この世の中はなんというけんのんな場所なのでしょう。いつ私のような男がなんの理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取りとめることができた命を、不当に失ってしまうような目にあうか、わかったものではないのです。
これはその後、私が実際やってみて成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、むろんそこには電車ばかりでなく、自動車や自転車や馬車や人力車などが織るように行き違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているにちがいありません。その片足かけた刹那に、急行電車か何かが疾風のようにやってきて、お婆さんから二、三間のところまで迫まったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気づかないで、そのまま線路を横切ってしまえばなんのことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いっ」とどなりでもしようものなら、忽ちあわててしまって、そのままつっ切ろうか、一度あとへ引き返そうかと、しばらくまごつくに違いありません。そして、もしその電車があまり間近いために急停車もできなかったとしますと、「お婆さん危いっ」というたった一とことが、そのお婆さんに怪我をさせ、わるくすれば命までも奪ってしまわないとは限りません。さっきも申し上げました通り、私はある時この方法で、一人の田舎者をまんまと殺してしまったことがあるのですよ。(T氏はここでちょっと言葉を切って、気味わるく笑った)
この場合「危いっ」と声をかけた私は明きらかに殺人者です。しかし誰が私の殺意を疑いましょう。なんの恨みもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味のためばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いっ」という注意の言葉はどんなふうに解釈してみたって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ、決して恨まれる理由がないのです。皆さん、なんと安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必らず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚かにも安心しきっています。誰にしたって法律が人殺しを見のがそうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申し上げました二つの実例から類推できるような、少しも法律に触れる気づかいのない殺人法が、考えてみればいくらもあるではありませんか。私はこのことに気づいた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残しておいてくれた造物主の余裕を、この上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。なんとすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代に、この私だけは、いわば斬捨てご免も同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死にそうな退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることのできない人殺し、ああなんという申し分のない眠けざましでしょう。以来私は三年のあいだというもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません、私は戦国時代の豪傑のように、あの百人斬りを、むろん文字通り斬るわけではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人をやめないことを、私自身に誓ったのです。
今から|三《み》|月《つき》ばかり前です。私はちょうど九十九人だけすませました。そして、あと一人になったとき、先にも申し上げました通り、私はその人殺しにも、もう飽き飽きしてしまったのですが、それはともかく、ではその九十九人をどんなふうにして殺したか。もちろん九十九人のどの一人にも、少しだって恨みがあったわけではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方をくり返すようなことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのがまたひとつの楽しみだったのです。
しかし、この席で、私のやった九十九の違った殺人法をことごとくお話しする暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白するためではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈をまぬがれようとした、そしてまた、ついにはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話しして、皆さんのご判断を仰ぎたいためなのですから、その殺人方法については、ほんの二、三の実例を申し上げるにとどめておきたいと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人のめくらの按摩がいまして、それが片輪などによくあるひどい強情者でした。他人が親切からいろいろ注意などしてやりますと、かえって逆にとって、眼が見えないと思って人をばかにするな、それくらいのことはちゃんとおれだってわかっているわいという調子で、必らず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうしてなみなみの強情さではないのです。
或る日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向こうからその強情者の按摩がやってくるのに出会いました。彼は生意気にも杖を肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。ちょうどその町には、きのうから下水の工事がはじまっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来どめの立札など見えませんから、なんの気もつかず、その穴のすぐそばを呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ……よく療治を頼んでお互いに知り合っていたのです……「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
とどなりました。それをわざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へは寄らないで、わざと右へ寄るにちがいないと考えたからです。案の|定《じょう》、彼は、
「エヘヘヘ……ご冗談ばっかり」
などとこわいろめいた口返答をしながら、やにわに反対の右の方へ二た足三足寄ったものですから、たちまち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に、一丈もあるその底へ落ちこんでしまいました。私はさも驚いたふうを装って穴の縁へ駈けより、「うまく行ったかしら」と覗いて見ました。
彼はうち所でもわるかったのか、穴の底にぐったりと横たわって、穴のまわりに突き出ている鋭い石で突いたのでしょう、一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛み切ったとみえて、口や鼻からも同じように出血しています。顔色はもうまっ青で、うなり声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でも数時間は虫の息で生きていましたが、ついに絶命してしまったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃ひいきにしてよく呼んでいたくらいで、決して殺人の動機になるような恨みがあったわけではなく、それに、表面上は右に落とし穴のあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやったわけなのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉に、恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろうはずはないのです。
ああ、なんという恐ろしくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出したときの、おそらく芸術家のそれにも匹敵する歓喜、そのトリックを実行するときのワクワクした緊張、そして目的を果たしたときの言いしれぬ満足、それにまた、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず、血みどろになって狂い廻る断末魔の光景、最初のあいだ、それらが、どんなにまあ私を有頂天にしてくれたことでしょう。
あるときはこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう、十軒あまりの西洋館がまばらに立ち並んだところを歩いていました。そして、ちょうどその中でもいちばん立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかったときです。ふと妙なものが私の眼に止まりました。といいますのは、そのとき私の鼻先をかすめて勢いよく飛んで行った一羽の雀が、その家の屋根から地面へ引っ張ってあった太い針金にちょっと止まると、いきなりはね返されたように下へ落ちてきて、そのまま死んでしまったのです。
変なこともあるものだと思って、よく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った屋根の頂上の避雷針から出ていることがわかりました。むろん、針金には被覆が施されていましたけれど、いま雀の止まった部分は、どうしたことか、それがはがれていたのです。私は電気のことはよく知らないのですが、どうかして空中電気の作用とかで、避雷針の針金に強い電流が流れることがあると、どこかで聞いたのを覚えていて、さてはそれだなと気づきました。こんなことに出くわしたのははじめてだったものですから、珍らしいことに思って、私はしばらくそこに立ち止まって針金を眺めていたものです。
すると、そこへ、西洋館の横手から、兵隊ごっこかなにかして遊んでいるらしい子供の一団が、ガヤガヤ言いながら出てきましたが、その中の六つか七つの小さな男の子が、ほかの子供たちはさっさと向こうへ行ってしまったのに、一人あとに残って、何をするのかと見ていますと、今の避雷針の針金の手前の小高くなったところに立って、前をまくると、立ち小便をはじめました。それを見た私は、またもや一つの妙計を思いつきました。中学時代に水が電気の導体だということを習ったことがあります。いま子供が立っている小高いところから、その針金の被覆のとれた部分へ小便をしかけるのはわけのないことです。小便は水ですからやっぱり導体に違いありません。
そこで私はその子供に、こう声をかけました。
「おい坊や、その針金へ小便をかけてごらん。とどくかい」
すると子供は、
「なあにわけないや、見ててごらん」
そういったかと思うと、姿勢を変えて、いきなり針金の生地の現われた部分を目がけて小便をしかけました。そしてそれが針金に届くか届かないかに、恐ろしいものではありませんか、子供はピョンとひとつ踊るように飛び上がったかと思うと、そこへバッタリ倒れてしまいました。あとで聞けば、避雷針にこんな強い電流が流れるのは非常に珍らしいことなのだそうですが、このようにして、私は生れてはじめて、人間の感電して死ぬところを見たわけです。
この場合もむろん、私は少しだって疑いを受ける心配はありませんでした。ただ子供の死骸に取りすがって泣き入っている母親に、丁重な悔みの言葉を残して、その場を立ち去りさえすればよいのでした。
これもある夏のことでした。私はこの男をひとつ犠牲にしてやろうと目ざしていた或る友人、といっても、決してその男に恨みがあったわけではなく、長年のあいだ無二の親友としてつき合っていたほどの友だちなのですが、私にはかえってそういう仲のいい友だちなどを、なんにも言わないで、ニコニコしながら、アッという間に死骸にしてみたいという異常な望みがあったのです。その友だちといっしょに、房州のごく辺鄙な漁師町へ避暑に出かけたことがあります。むろん、海水浴場というほどの場所ではなく、海には、その部落の赤銅色の肌をした小わっぱどもが、バチャバチャやっているだけで、都会からの客といっては、私たち二人のほかには画学生らしい連中が数人、それも海へはいるというよりは、その辺の海岸をスケッチブック片手に歩き廻っているにすぎませんでした。
名の売れている海水浴場のように、都会の少女たちの優美な肉体が見られるわけではなく、宿といっても東京の木賃宿みたいなもので、それに食物も刺身のほかのものはまずくて口に合わず、ずいぶん淋しい不便なところではありましたが、その私の友だちというのが、私とはまるで違って、そうした鄙びた場所で孤独な生活を味わうのが好きなほうでしたのと、私は私で、どうかしてこの男をやっつける機会をつかもうとあせっていた際だったものですから、そんな漁師町に数日のあいだも、落ちついていることができたのです。
ある日、私はその友だちを、海岸の部落からずっと隔たった場所にある、ちょっと断崖みたいになった場所へ連れ出しました。そして「飛び込みをやるのには持ってこいの場所だ」などと言いながら、私は先に立って着物を脱いだものです。友だちもいくらか水泳の心得があったものですから、「なるほどこれはいい」と私にならって着物をぬぎました。
そこで私はその断崖のはしに立って、両手をまっ直ぐに頭の上に伸ばし、「一、二、三」と思いきりの声でどなっておいて、ピョンと飛び上がると、見事な弧をえがいて、さかしまに前の海面へと飛びこみました。
パチャンとからだが水についたときに、胸と腹の呼吸でスイと水を切って、僅か二、三尺もぐるだけで、飛び魚のように向こうの水面へからだを現わすのが「飛び込み」のコツなんですが、私は小さい時分から水泳が上手で、この「飛び込み」なんかも朝飯前の仕事だったのです。そうして、岸から十四、五間も離れた水面へ首を出した私は、立泳ぎというやつをやりながら、片手でブルッと顔の水をはらって、
「オーイ、飛びこんでみろ」
と友だちに呼びかけました。すると、友だちはむろんなんの気もつかないで、「よし」と言いながら、私と同じ姿勢をとり、勢いよく私のあとを追って、そこへ飛びこみました。
ところが、しぶきを立てて海へもぐったまま、彼はしばらくたっても再び姿を見せないではありませんか……私はそれを予期していました。その海の底には、水面から一間ぐらいのところに大きな岩があったのです。私は前もってそれをさぐっておき、友だちの腕前では「飛び込み」をやれば必らず一間以上もぐるにきまっている。従ってこの岩に頭をぶつけるに違いないと、見込みをつけてやった仕事なのです。御承知でもありましょうが、「飛び込み」のわざは、上手なものほど、この水をもぐる度が少ないので、私はそれには十分熟練していたものですから、海底の岩にぶつかる前に、うまく向こうへ浮き上がってしまったのですが、友だちは「飛び込み」にかけてはまだほんの素人だったので、まっさかさまに海底へ突き入って、いやというほど頭を岩へぶつけたに違いないのです。
はたして、しばらく待っていますと、彼はポッカリとマグロの死骸のように海面に浮き上がりました。そして波のまにまにただよっています。いうまでもなく彼は気絶しているのです。
私は彼を抱いて岸に泳ぎつき、そのまま部落へ駈け戻って、宿の者に急をつげました。そこで出漁を休んでいた漁師などがやってきて、友だちを介抱してくれましたが、ひどく脳を打ったためでしょう、もう蘇生の見込みはありませんでした。見ると、頭のてっぺんが五、六寸切れて、白い肉がむくれ上がり、その頭の置かれてあった地面には、おびただしい血潮が赤黒くかたまっていました。
あとにも、先にも、私が警察の取り調べを受けたのは、たった二度きりですが、そのひとつがこの場合でした。なにぶん人の見ていない所で起こった事件ですから、一応の取り調べを受けるのは当然です。しかし、私とその友だちとは親友の間柄で、それまでにいさかい一つしたこともないとわかっているのですし、また当時の事情としては、私も彼もその海底に岩のあるのを知らず、幸い私は水泳が上手だったために、あやういところをのがれたけれども、彼はそれが下手だったばっかりに、この不祥事を惹き起こしたのだ、ということが明白になったのですから、なんなく疑いは晴れ、私はかえって警察の人たちから「友だちをなくされてお気の毒です」と悔みの言葉までかけてもらう有様でした。
いや、こんなふうに一つ一つ実例を並べていたんでは際限がありません。もうこれだけ申し上げれば、皆さんも私のいわゆる絶対に法律に触れない殺人法を、大体おわかりくださったことと思います。すべてこの調子なんです。ある時はサーカスの見物人の中にまじっていて、突然、ここでお話しするのも恥かしいような途方もない変てこな姿勢を示して、高い所で綱渡りをしていた女芸人の注意を奪い、その女を墜落させてみたり、火事場でわが子を求めて半狂乱のようになっていたどこかの細君に、子供は家の中に寝かせてあるのだ、「ソラ泣いている声が聞こえるでしょう」などと暗示を与えて、その細君を猛火の中へ飛び込ませ、焼き殺してしまったり、或いはまた、今や身投げをしようとしている娘の背後から、突然「待った」と頓狂な声をかけて、そうでなければ、身投げを思いとどまったかもしれないその娘を、ハッとさせた拍子に水の中へ飛び込ませてしまったり、それはお話しすれば限りもないのですけれど、もう夜もふけたことですし、それに、皆さんもこのような残酷な話は、もうこれ以上お聞きになりたくないでしょうから、最後に少し風変わりなのをひとつだけお話しして、終りにすることにいたしましょう。
今までお話ししましたところでは、私はいつも一度にひとりの人間を殺しているように見えますが、そうでない場合もたびたびあったのです。でなければ、三年足らずのあいだに、しかも少しも法律にふれないような方法で、九十九人も人を殺すことはできません。その中でも多人数を一度に殺しましたのは、そうです、昨年の春のことでした。皆さんも当時の新聞できっとお読みになったことと思いますが、中央線の列車が顛覆して、多くの負傷者や死者を出したことがありますね。あれなんです。
なに、ばかばかしいほど造作もない方法だったのですが、それを実行する土地を探すのに可なり手間どりました。ただ最初から中央線の沿線というだけは見当をつけていました。というのは、この線は、私の計画には最も便利な山の中を通っているばかりでなく、列車が顛覆した場合にも、中央線には日頃から事故が多いのですから、ああまたかというくらいで、他の線ほど目立たない利益があったのです。
それにしても、注文通りの場所を見つけるのには、なかなか骨が折れました。結局M駅の近くの崖を使うことに決心するまでには、充分一週間はかかりました。M駅にはちょっとした温泉がありますので、私はそこの宿へ泊り込んで、湯にはいるあいまには付近を歩きまわったりして、いかにも長逗留の湯治客らしく見せかけようとしたのです。そのために十日あまりむだに過ごさねばなりませんでしたが、やがてもう大丈夫だという時を見計らって、ある日、私はいつものようにその辺の山の中を散歩しました。
そして、宿から半里ほどの或る小高い崖の頂上へ辿りつき、私はそこでじっと夕闇の迫まってくるのを待っていました。その崖の真下には汽車の線路がカーブを描いて走ってい、線路の向こう側は、こちらとは反対に、深い嶮しい谷になって、その底にちょっとした谷川が流れているのが、霞むほど遠く見えています。
しばらくすると、あらかじめ定めておいた時間になりました。私は誰も見ているものはなかったのですけれど、わざわざ、ちょっとつまずくような恰好をして、これもあらかじめ探し出しておいた一つの大きな石ころを蹴飛ばしました。それはちょっと蹴りさえすれば、きっと崖からちょうど線路の上あたりへころがり落ちるような位置にあったのです。私はもしやりそこなえば幾度でもほかの石ころでやり直すつもりだったのですが、見ればその石ころはうまいぐあいに一本のレールの上にのっかっています。
半時間の後には下り列車がそのレールを通るのです。その時分にはもうまっ暗になっているでしょうし、その石のある場所はカーブの向こう側なのですから、運転手が気づくはずはありません。それを見定めると、私は大急ぎでM駅へと引き返し……半里の山みちですから、それには三十分以上を費しました……そこの駅長室へはいって行って「大へんです」とさも慌てた調子で叫んだものです。
「私はここへ湯治にきているものですが、いま半里ばかり向こうの、線路に沿った崖の上へ散歩に行っていて、坂になった所を駈けおりようとする拍子に、ふと一つの石ころを崖から下の線路の上へ蹴落としてしまいました。もしもあそこを列車が通ればきっと脱線します。わるくすると谷間へ落ちるようなことがないとも限りません。私はその石をとりのけようと、いろいろ道を探したのですけれど、何分不案内の山のことですから、どうにもあの高い崖をおりる方法がないのです。ぐずぐずしているよりはと思って、ここへ駈けつけた次第ですが、どうでしょう、至急あれを取りのけていただくわけには行きませんか」
といかにも心配そうな顔をして申しました。
すると駅長は驚いて、
「それは大へんだ、いま下り列車が通過したところです。普通ならあの辺はもう通り過ぎてしまったころですが……」
というのです。これが私の思うつぼでした。そうした問答をくり返しているうちに、列車顛覆死傷数知らずという報告が、僅かに危地を脱して駈けつけた、その下り列車の車掌によってもたらされました。
私は行きがかり上、ひと晩Mの警察署へ引っぱられましたが、考えに考えてやった仕事です。手落ちのあろうはずはありません。むろん私は大へん叱られはしましたけれど、別に処罰を受けるほどのこともないのでした。あとで聞きますと、その時の私の行為は刑法第百二十条とかにさえ……それは五百円以下の罰金刑にすぎないのですが……あてはまらなかったのだそうです。そういうわけで、私は一つの石ころによって、少しも罰せられることなしに、エーとあれは、そうです、十七人でした。十七人の命を奪うことに成功したのでした。
皆さん、私はこんなふうにして九十九人の人命を奪った男なのです。そして、少しでも悔いるどころか、そんな血なまぐさい刺戟にすら、もう飽き飽きしてしまって、今度は自分自身の命を犠牲にしようとしている男なのです。皆さんは、あまりにも残酷な私の所行に、それ、そのように眉をしかめていらっしゃいます。そうです。これらは普通の人には想像もつかぬ極悪非道の行ないに違いありません。ですが、そういう大罪を犯してまで、のがれたいほどの、ひどいひどい退屈を感じなければならなかったこの私の心持も、少しはお察しが願いたいのです。私という男は、そんな悪事をでも企らむほかには、何ひとつこの人生に生きがいを発見することができなかったのです。皆さん、どうか御判断なすってください。私は狂人なのでしょうか。あの殺人狂という恐ろしい病人なのでしょうか。
かようにして今夜の話し手の、物凄くも奇怪きわまる身の上話は終った。彼は幾分血走った、そして白目勝ちにドロンとした狂人らしい眼で、私たち聴きての顔を一人一人見廻すのだった。しかし誰ひとりこれに答えて批判の口をひらくものはなかった。そこには、ただ薄気味わるくチロチロと瞬くロウソクの焔に照らし出された、七人の上気した顔が、微動さえしないで並んでいた。
ふと、ドアのあたりの垂れ絹の表に、チカリと光ったものがあった。見ていると、その銀色に光ったものが、だんだん大きくなっていた。それは銀色の丸いもので、ちょうど満月が密雲を破って現われるように、赤い垂れ絹のあいだから徐々に全き円形を作りながら現われているのであった。私は最初の瞬間から、それが給仕女の両手に捧げられた、われわれの飲み物を運ぶ大きな銀盆であることを知っていた。でも、不思議にも万象を夢幻化しないではおかぬこの「赤い部屋」の空気は、その世の常の銀盆を、何かサロメ劇の古井戸の中から、奴隷がヌッとつき出すところの、あの予言者の生首がのせられた銀盆のようにも幻想せしめるのであった。そして、銀盆が垂れ絹から出きってしまうと、そのあとから、青龍刀のような幅の広い、ギラギラとしたダンビラが、ニョイと出てくるのではないかとさえ思われるのであった。
だが、そこからは、唇の厚い半裸体の奴隷の代りに、いつもの美しい給仕女が現われた。そして、彼女がさも快活に七人の男のあいだを立ち廻って、飲物をくばりはじめると、その、世間とはまるでかけ離れた幻の部屋に、世間の風が吹き込んできたようで、なんとなく不調和な気がしだした。彼女は、この家の階下のレストランの、華やかな歌舞と乱酔と、キャアというような若い女のしだらない悲鳴などを、フワフワとその身辺にただよわせていた。
「そうら、うつよ」
突然Tが、今までの話し声と少しも違わない、落ち着いた調子で言って、右手をポケットに入れると、一つのキラキラ光る物体を取り出して、ヌーッと給仕女の方へさし向けた。
アッという私たちの声と、バン…………というピストルの音と、キャッとたまぎる女の叫びと、それがほとんど同時だった。
むろん私たちは一斉に席から立ち上がった。しかし、ああ、なんという仕合わせなことであったか、うたれた女は何事もなく、ただ、これのみは無残にも射ちくだかれた飲物のうつわを前にして、ボンヤリ立ちすくんでいるではないか。
「ワハハハハ……」Tが狂人のように笑い出した。「おもちゃだよ、おもちゃだよ。アハハハ……。花ちゃんまんまと一杯食ったね。ハハハハハ」
では、今なおTの右手に白煙を吐いているのは、おもちゃのピストルにすぎなかったのか。
「まあ、びっくりした……。それ、おもちゃなの?」
Tとは以前からおなじみらしい給仕女は、でも、まだ唇の色はなかったが、そういいながらTの方へ近づいた。
「どれ、貸してご覧なさいよ。まあ、ほんものそっくりだわね」
彼女はてれかくしのように、そのおもちゃだという六連発を手にとって、と見こう見していたが、やがて、
「くやしいから、じゃあ、あたしも、うってあげるわ」
いうかと思うと、彼女は左腕を曲げて、その上にピストルの筒口を置き、生気意な恰好でTの胸に狙いを定めた。
「君にうてるなら、うってごらん」
Tはニヤニヤ笑いながら、からかうように言った。
「うてなくってさ」
バン……前よりはいっそう鋭い銃声が部屋じゅうに鳴り響いた。
「ウ、ウ、ウ、ウ……」
なんともいえぬ気味のわるい唸り声がしたかと思うと、Tがヌッと椅子から立ち上がって、バッタリと床の上へ倒れた。そして、手足をバタバタやりながら、苦悶しはじめた。
冗談か、冗談にしてはあまりにも真に迫まったもがきようではないか。
私たちは思わず彼のまわりへ走りよった。隣席にいた一人が、卓上の燭台をとって苦悶者の上にさしつけた。見ると、Tはまっさおな顔を癲癇病みのように痙攣させて、ちょうど傷ついたミミズが、クネクネはね廻るようなぐあいに、からだじゅうの筋肉を伸ばしたり縮めたりしながら、夢中になってもがいていた。そしてだらしなくはだかったその胸の、黒く見える傷口からは、彼が動くたびに、タラリタラリと、まっかな血が、白いワイシャツを伝って流れていた。
おもちゃと見せた六連発の第二発目には、実弾が装填してあったのだ。
私たちは、長いあいだ、ボンヤリそこに立ったまま、誰一人身動きするものもなかった。奇怪な物語ののちのこの出来事は、私たちにあまりにも烈しい衝動を与えたのだ。それは時計の目盛りからいえば、ほんの僅かな時間だったかもしれない。けれども、少なくともそのときの私には、私たちがそうして何もしないで立っているあいだが、非常に長いように思われた。なぜならば、そのとっさの場合に、苦悶している負傷者を前にして、私の頭には次のような推理の働く余裕が、充分あったのだから。
「意外な出来事には違いない。しかし、よく考えてみると、これは最初からちゃんと、Tの今夜のプログラムに書いてあった計画なのではあるまいか。彼は九十九人までは、他人を殺したけれど、最後の百人目だけは自分自身のために残しておいたのではないだろうか。そして、そういうことには最もふさわしいこの「赤い部屋」を、最後の死に場所に選んだのではあるまいか。これは、この男の奇怪きわまる性質を考え合わせると、まんざら見当はずれの想像でもないのだ。そうだ。あの、ピストルをおもちゃだと信じさせておいて、給仕女に発射させた技巧などは、他の殺人の場合と共通の、彼独得のやり方ではないか。こうしておけば、下手人の給仕女は少しも罰せられる心配はない。そこには私たち六人もの証人があるのだ。つまり、Tは彼が他人に対してやったのと同じ方法を、加害者は少しも罪にならぬ方法を、彼自身の場合に応用したものではないか」
私のほかの人たちも、皆それぞれの感慨に耽っているように見えた。そして、それはおそらく私のものと同じだったかもしれない。実際、この場合、そうとよりほか考えかたがなかったのだから。
恐ろしい沈黙が一座を支配していた。そこには、うつぶした給仕女の、さも悲しげにすすり泣く声が、しめやかに聞こえているばかりだった。「赤い部屋」のロウソクの光に照らし出された、この一場の悲劇の場面は、この世の出来事としてはあまりにも夢幻的に見えた。
「ク、ク、ク、ク、ク……」
突如、女のすすり泣きのほかに、もうひとつの異様な声が聞こえてきた。それは、もはやもがくことをやめて、ぐったりと死人のように横たわっていたTの口から洩れるらしく感じられた。氷のような戦慄が私の背中を這い上がった。
「クックックックッ」
その声はみるみる大きくなって行った。そして、ハッと思うまに、瀕死のTのからだがヒョロヒョロと立ち上がった。立ち上がってもまだ「クックックックッ」という変な音はやまなかった。それは胸の底から絞り出される苦痛の唸り声のようでもあった。だが……もしや……おお、やっぱりそうだったのか。彼は意外にも、さいぜんから、たまらないおかしさをじっと噛み殺していたのだった。
「皆さん」彼はもう大声に笑い出しながら叫んだ。「皆さんわかりましたか、これが」
すると、ああ、これはまたどうしたことであろう。今の今まであのように泣き入っていた給仕女が、いきなり快活に立ち上がったかと思うと、もうもうたまらないというように、からだをくの字にして、これもまた笑いこけるのだった。
「これはね」やがてTは、あっけにとられた私たちの前に、ひとつの小さな円筒形のものを手の平にのせて、さし出しながら説明した。「牛の膀胱で作った弾丸なのですよ。中に赤インキが一杯入れてあって、命中すれば、それが流れ出す仕掛けです。それからね。この弾丸がにせ物だったと同じように、さっきからの私の身の上話というものもね、はじめからしまいまで、みんな作りごとなんですよ。でも、私はこれで、なかなかお芝居はうまいものでしょう……さて、退屈屋の皆さん、こんなことでは、皆さんが始終お求めなすっている、あの刺戟とやらにはなりませんでしょうかしら……」
彼がこう種明かしをしているあいだに、今まで彼の助手を勤めていた給仕女の気転で、階下のスイッチがひねられたのであろう、突如真昼のような電灯の光が、私たちの眼を眩惑させた。そして、その白く明かるい光線は、忽ちにして、部屋の中にただよっていた、あの夢幻的な空気を一掃してしまった。そこには、暴露された手品の種が、醜いむくろを曝していた。緋色の垂れ絹にしろ、緋色のジュウタンにしろ、同じテーブル掛けや肘掛椅子、はては、あのよしありげな銀の燭台までが、なんとみすぼらしく見えたことよ。「赤い部屋」の中には、どこの隅を探してみても、もはや、夢も幻も、影さえとどめていないのであった。
人間椅子
|佳《よし》|子《こ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。
美しい閨秀作家としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となく送られてきた。
けさとても、彼女は書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先ず、それらの未知の人々からの手紙に目を通さねばならなかった。
それはいずれも、極まりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心遣いから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともかくも、ひと通りは読んでみることにしていた。
簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきを見てしまうと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貫っていないけれど、そうして突然原稿を送ってくる例は、これまでにもよくあることだった。それは、多くの場合長々しく退屈きわまる代物であったけれど、彼女はともかくも、表題だけでも見ておこうと、封を切って、中の紙束を取り出してみた。
それは、思った通り、原稿用紙を綴じたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉ではじまっているのだった。はてな、では、やっぱり手紙なのかしら。そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行くうちに、彼女はそこから、なんとなく異常な、妙に気味わるいものを予感した。そして、持ち前の好奇心が、彼女をして、ぐんぐん先を読ませて行くのであった。
奥様、
奥様のほうでは、少しも御存じのない男から、突然、このようなぶしつけなお手紙を差し上げます罪を、幾重にもお許しくださいませ。
こんなことを申しあげますと、奥様は、さぞかしびっくりなさることでございましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯してきました世にも不思議な罪悪を告白しようとしているのでございます。
私は数カ月のあいだ、全く人間界から姿を隠して、ほんとうに悪魔のような生活を続けてまいりました。もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。もし、何事もなければ、私はそのまま永久に、人間界に立ち帰ることはなかったかもしれないのでございます。
ところが、近頃になりまして、私の心に或る不思議な変化が起こりました。そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔しないではいられなくなりました。ただ、かように申しましたばかりでは、いろいろ御不審におぼしめす点もございましょうが、どうか、ともかくも、この手紙を終りまでお読みくださいませ。そうすれば、なぜ、私がそんな気持になったのか、またなぜ、この告白を、殊さらに奥様に聞いていただかねばならぬのか、それらのことが、ことごとく明白になるでございましょう。
さて、何から書きはじめたらよいのか、あまりに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる手紙というような方法では、妙に面はゆくて、筆の鈍るのを覚えます。でも、迷っていても仕方がございません。ともかくも、ことの起こりから、順を追って、書いて行くことにいたしましょう。
私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。これをどうか、はっきりと、お覚えなすっておいてくださいませ。そうでないと、もしあなたが、このぶしつけな願いを容れて、私にお会いくださいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活のために、二た目と見られぬひどい姿になっているのを、なんの予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、たえがたいことでございます。
私という男は、なんと因果な生れつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈しい情熱を燃やしていたのでございます。私は、お化けのような顔をした、その上ごく貧乏な、一職人にすぎない私の現実を忘れて、身のほど知らぬ、甘美な、贅沢な、種々さまざまの「夢」にあこがれていたのでございます。
私がもし、もっと豊かな家に生れていましたら、金銭の力によって、いろいろの遊戯にふけり、醜貌のやるせなさを、まぎらすことができたでもありましょう。それともまた、私に、もっと芸術的な天分が与えられていましたなら、たとえば美しい詩歌によって、この世の味気なさを忘れることができたでもありましょう。しかし、不幸な私は、いずれの恵みにも浴することができず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、その日その日の暮らしを立てて行くほかはないのでございました。
私の専門は、さまざまの椅子を作ることでありました。私の作った椅子は、どんなむずかしい注文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物ばかりを、廻してくれておりました。そんな上物になりますと、凭れや肘掛けの彫りものに、いろいろむずかしい注文があったり、クッションのぐあい、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを造る者には、ちょっと素人の想像できないような苦心がいるのでございますが、でも、苦心をすればしただけ、できあがったときの嬉しさというものはありません。生意気を申すようですけれど、その心持は、芸術家が立派な作品を完成したときの喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。
ひとつの椅子ができあがると、私は先ず、自分でそれに腰かけて、坐りぐあいをためしてみます。そして、味気ない職人生活のうちにも、そのときばかりは、なんともいえぬ得意を感じるのでございます。そこへは、どのような高貴の方が、或いはどのような美しい方がおかけなさることか。こんな立派な椅子を注文なさるほどのお屋敷だから、そこには、きっとこの椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるのだろう。壁には定めし、有名な画家の油絵がかかり、天井からは、偉大な宝石のようなシャンデリヤが下がっているにちがいない。床には高価なジュウタンが敷きつめてあるだろう。そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒めるような西洋草花が、甘美な薫りを放って、咲き乱れていることであろう。そんな妄想に耽っていますと、なんだかこう、自分が、その立派な部屋のあるじにでもなったような気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、なんとも形容のできない、愉しい気持になるのでございます。
私のはかない妄想は、なお、とめどもなく増長してまいります。この私が、貧乏な、醜い、一職人にすぎないこの私が、妄想の世思では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に腰かけているのでございます。そして、そのかたわらには、いつも私の夢に出てくる、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞き入っております。そればかりではありません。私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言を、ささやき交わしさえするのでございます。
ところが、いつの場合にも、私のこのフーワリとした紫の夢は、たちまちにして、近所のおかみさんのかしましい話し声や、ヒステリーのように泣き叫ぶ、そのあたりの病児の声に妨げられて、私の前には、またしても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。現実に立ち帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い自分自身の姿を見出します。そして、いまの先、私にほほえみかけてくれたあの美しい人は……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、埃まみれになって遊んでいる、汚ならしい子守女でさえ、私なぞには、見向いてもくれはしないのでございます。ただひとつ、私の作った椅子だけが、今の夢の名残りのように、そこにポツネンと残っております。でも、その椅子は、やがて、いずことも知れぬ、私たちのとは全く別な世界へ、運び去られてしまうのではありませんか。
私は、そうして、ひとつひとつ椅子を仕上げるたびごとに、言い知れぬ味気なさに襲われるのでございます。その、なんとも形容のできない、いやあな、いやあな心持は、月日がたつに従って、だんだん、私には堪えきれないものになってまいりました。
「こんな、うじ虫のような生活をつづけて行くくらいなら、いっそのこと、死んでしまったほうがましだ」
私は、まじめに、そんなことを思います。仕事場で、コツコツと鑿を使いながら、釘を打ちながら、或いは、刺戟の強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、執拗に考えつづけるのでございます。
「だが、待てよ、死んでしまうくらいなら、それほどの決心ができるなら、もっとほかに、方法がないものであろうか。たとえば……」
そうして、私の考えは、だんだん恐ろしいほうへ、向いて行くのでありました。
ちょうどそのころ、私は、かつて手がけたことのない、大きな革張りの肘掛椅子の製作を頼まれておりました。この椅子は、同じY市で外人の経営している或るホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取り寄せるはずのを、私の雇われていた商館が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと注文をとったものでした。それだけに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。ほんとうに魂をこめて、夢中になってやったものでございます。
さて、できあがった椅子を見ますと、私はかつて覚えない満足を感じました。それは、われながら、見とれるほどの見事なできばえだったのです。私は例によって、四脚ひと組になっているその椅子のひとつを、日当りのよい板の間へ持ち出して、ゆったりと腰をおろしました。なんという坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬すぎず軟かすぎぬクッションのねばりぐあい、わざと染色を嫌って、灰色の生地のまま張りつけた、なめし革の肌ざわり、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えてくれる豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上がった両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保って、渾然として「安楽」という言葉を、そのまま形に現わしているように見えます。
私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。すると、私のくせとして、止めどもない妄想が、五色の虹のように、まばゆいばかりの色彩をもって、次から次へと湧き上がってくるのです。あれを幻というのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、目の前に浮かんできますので、私はもしや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなったほどでございます。
そうしていますうちに、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮かんでまいりました。悪魔の囁きというのは、多分ああしたことを指すのではありますまいか。それは、夢のように荒唐無稽で、無気味な事柄でした。でも、その無気味さが、言いしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。
最初は、ただただ、私の丹精こめた美しい椅子を、手放したくない、できることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい、そんな単純な願いでした。それが、うつらうつらと妄想の翼をひろげておりますうちに、いつの間にやら、その日頃、私の頭に醗酵しておりました、ある恐ろしい考えと結びついてしまったのでございます。そして、私はまあなんという気ちがいでございましょう。その奇怪きわまる妄想を、実際にやってみようと思い立ったのでありました。
私は大急ぎで、四つの内でいちばんよくできたと思う肘掛椅子を、バラバラに毀してしまいました。そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するのに、都合のよいように造り直しました。
それは、ごく大型のアームチェーアですから、掛ける部分は、床にすれすれまで革で張りつめてありますし、そのほか、凭れも肘掛けも、非常に部厚にできていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決してそとからわからないほどの、共通した大きな空洞があるのです。むろん、そこには頑丈な木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに適当な細工をほどこして、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、ちょうど椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられるほどの余裕を作ったのでございます。
そうした細工はお手のものですから、充分手際よく、便利に仕上げました。たとえば、呼吸をしたり、外部の物音を聞くために、革の一部に、そとから少しもわからぬような隙間をこしらえたり、凭れの内部の、ちょうど頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵できるようにしたり(ここへ水筒と軍隊用の堅パンとを詰めこみました)、ある用途のために大きなゴムの袋を備えつけたり、そのほかさまざまの考案をめぐらして、食料さえあれば、その中に二日三日はいりつづけていても、決して不便を感じないようにしつらえました。いわば、その椅子が、人間一人の部屋になったわけでございます。
私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口の蓋をあけて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。それは実に変てこな気持でございました。まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へはいったような、不思議な感じがいたします。考えてみれば、墓場にちがいありません。私は、椅子の中へはいると同時に、ちょうど隠れ簔でも着たように、この人間世界から、消滅してしまうわけなのですから。
間もなく、商会から使いのものが、四脚の肘掛け椅子を受け取るために、大きな荷車を持ってやってまいりました。私の内弟子が(私はその男と、たった二人暮らしだったのです)何も知らないで、使いのものと応対しております。車に積みこむ時、一人の人夫が「こいつはばかに重いぞ」とどなりましたので、椅子の中の私は、思わずハッとしましたが、いったい肘掛椅子そのものが非常に重いのですから、別段あやしまれることもなく、やがて、ガタガタという荷車の振動が、私のからだに一種異様の感触を伝えてまいりました。
非常に心配しましたけれど、結局何事もなく、その日の午後には、もう私のはいった肘掛椅子は、ホテルの一室に、どっかりと据えられておりました。あとでわかったのですが、それは、私室ではなくて、人を待ち合わせたり、新聞を読んだり、煙草をふかしたり、いろいろの人が頻繁に出入りする、ラウンジとでもいうような部屋でございました。
もうとっくにお気づきでございましょうが、私の、この奇妙な行いの第一の目的は、人のいない時を見すまして、椅子の中から抜け出し、ホテルの中をうろつき廻って、盗みを働くことでありました。椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんなばかばかしいことを、誰が想像いたしましょう。私は、影のように、自由自在に、部屋から部屋を荒し廻ることができます。そして、人々が騒ぎはじめる時分には、椅子の中の隠れ家へ逃げ帰って、息をひそめて、彼らの間抜けな捜索を、見物していればよいのです。あなたは、海岸の波打ち際などに、「やどかり」という一種の蟹のいるのを御存じでございましょう。大きな蜘蛛のような恰好をしていて、人がいないと、その辺を、わが物顔に、のさばり歩いていますが、ちょっとでも人の足音がしますと、恐ろしい速さで、貝殼の中へ逃げこみます。そして、気味のわるい毛むくじゃらの前足を、少しばかり覗かせて、敵の動静を伺っております。私はちょうどあの「やどかり」でございました。貝殼のかわりに椅子という隠れ家を持ち、海岸ではなく、ホテルの中を、わが物顔にのさばり歩くのでございます。
さて、この私の突飛な計画は、それが突飛であっただけ、人々の意表外に出て、見事に成功いたしました。ホテルに着いて三日目には、もう、たんまりと、ひと仕事すませていたほどでございます。いざ盗みをするというときの恐ろしくも楽しい心持、うまく成功したときの、なんとも形容しがたい嬉しさ、それから、人々が私のすぐ鼻の先で、あっちへ逃げた、こっちへ逃げたと、大騒ぎをやっているのを、じっと見ているおかしさ。それがまあ、どのような不思議な魅力をもって、私を楽しませたことでございましょう。
でも、私は今、残念ながら、それを詳しくお話ししている暇はありません。私はそこで、そんな盗みなどよりは、十倍も二十倍も、私を喜ばせたところの、奇怪きわまる快楽を発見したのでございます。そして、それについて、告白することが、実は、この手紙のほんとうの目的なのでございます。
お話を、前に戻して、私の椅子が、ホテルのラウンジに置かれた時のことから、はじめなければなりません。
椅子が着くと、ひとしきり、ホテルの主人たちが、その坐りぐあいを見廻って行きましたが、あとは、ひっそりとして、物音ひとついたしません。多分、部屋には誰もいないのでしょう。到着匆々、椅子から出ることなど、とても恐ろしくてできるものではありません。私は、非常に長いあいだ(ただそんなに感じたのかもしれませんが)少しの物音も聞き洩らすまいと、全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子をうかがっておりました。
そうして、しばらくしますと、多分廊下のほうからでしょう、コツコツと重くるしい足音が響いてきました。それが、二三間むこうまで近づくと、部屋に敷かれたジュウタンのために、ほとんど聞きとれぬほどの低い音に変りましたが、間もなく、荒々しい男の鼻息が聞こえ、ハッと思う間に、西洋人らしい大きなからだが、私の膝の上にドサリと落ちて、フカフカと二三度はずみました。私の太腿と、その男のガッシリした偉大な臀部とは、薄いなめし革一枚を隔てて、暖かみを感じるほども密接しています。幅の広い彼の肩は、ちょうど私の胸の所へ凭れかかり、重い両手は、革を隔てて私の手と重なり合っています。そして、男がシガーをくゆらしているのでしょう。男性的な豊かな薫りが、革の隙間を通して漂ってまいります。
奥様、仮りにあなたが、私の位置にあるものとして、その場の様子を想像してごらんなさいませ。それは、まあなんという、不思議千万な感覚でございましょう。私はもう、あまりの恐ろしさに、椅子の中の暗やみで、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷たい汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失ってしまって、ただもう、ボンヤリしていたことでございます。
その男を手はじめに、その日一日、私の膝の上には、いろいろな人が入りかわり立ちかわり、腰をおろしました。そして、誰も、私がそこにいることを――彼らが柔かいクッションだと信じきっているものが、実は私という人間の、血の通った太腿であるということを――少しも悟らなかったのでございます。
まっ暗で、身動きもできない革張りの中の天地。それがまあどれほど、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な生きものに感ぜられます。彼らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊にすぎないのでございます。私は、彼らのひとりひとりを、その容貌のかわりに、肌ざわりによって識別することができます。或るものは、デブデブと肥え太って、腐った肴のような感触を与えます。それとは正反対に、或るものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨のような感じがいたします。そのほか、脊骨の曲り方、肩胛骨のひらきぐあい、腕の長さ、太腿の太さ、あるいは尾てい[#「てい」は「抵」の「てへん」を「骨」にしたもの Unicode="#9AB6"]骨の長短など、それらのすべての点を綜合してみますと、どんなに似寄った背恰好の人でも、どこか違ったところがあります。人間というものは、容貌や指紋のほかに、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することができるにちがいありません。
異性についても、同じことが申されます。普通の場合は、主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものは、まるで問題外なのでございます。そこには、まるはだかの肉体と、声の調子と、匂いとがあるばかりでございます。
奥様、あまりにあからさまな私の記述に、どうか気をわるくしないでくださいまし。私はそこで、一人の女性の肉体に(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でありました)烈しい愛着を覚えたのでございます。
声によって想像すれば、それは、まだうら若い異国の乙女でございました。ちょうどその時、部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、小声で、不思議な歌を歌いながら、踊るような足どりで、そこへはいってまいりました。そして、私のひそんでいる肘掛椅子の前まできたかと思うと、いきなり、豊満な、それでいて、非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げかけました。しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚のように、ピチピチとはね廻るのでございます。
それから、ほとんど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、ときどき歌を歌いながら、その歌に調子を合わせでもするように、クネクネと、重いからだを動かしておりました。
これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地の大事件でございました。女は神聖なもの、いや、むしろ怖いものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。その私が今、見も知らぬ異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、薄いなめし革ひとえ隔てて、肌のぬくみを感じるほども密着しているのでございます。それにもかかわらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ねて、見る人のない気安さに、勝手気儘な姿態をいたしております。私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることもできます。革のうしろから、その豊かな首筋に接吻することもできます。そのほか、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。
この驚くべき発見をしてからというものは、私は、最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に惑溺してしまったのでございます。私は考えました。これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、ほんとうのすみかではないかと。私のような醜い、そして気の弱い男は、明かるい光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行くほかに、能のない身でございます。それが、ひとたび、住む世界をかえて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、明かるい世界では、口を利くことはもちろん、そばへよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き、肌に触れることもできるのでございます。
椅子の中の恋! それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へはいってみた人でなくては、わかるものではありません。それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅かの嗅覚のみの恋でございます。暗やみの世界の恋でございます。決してこの世のものではありません。これこそ、悪魔の国の愛欲なのではございますまいか。考えてみれば、この世界の、人目につかぬすみずみでは、どのように異形な、恐ろしい事柄が行なわれているか、ほんとうに想像のほかでございます。
むろんはじめの予定では、盗みの目的を果たしさえすれば、すぐにもホテルを逃げ出すつもりでいたのですが、この、世にも奇怪な喜びに夢中になった私は、逃げ出すどころか、いつまでも、椅子の中を永住のすみかにして、その生活を続けていたのでございます。
|夜《よる》|々《よる》の外出には、注意に注意を加えて、少しも物音を立てず、また人目に触れないようにしていましたので、当然、危険はありませんでしたが、それにしても、数カ月という長い月日を、そうして少しも見つからず、椅子の中に暮らしていたというのは、我ながら実に驚くべきことでございました。
ほとんど一日じゅう、ひどく窮屈な場所で、腕を曲げ、膝を折っているために、からだじゅうが痺れたようになって、完全に直立することができず、しまいには、料理場や化粧室への往復を、|躄《いざり》のように這って行ったほどでございます。私という男は、なんという気ちがいでありましょう。それほどの苦しみを忍んでも、不思議な感触の世界を見捨てる気にはなれなかったのでございます。
中には、一カ月も二カ月も、そこを住居のようにして、泊まりつづけている人もありましたけれど、元来ホテルのことですから、絶えず客の出入りがあります。従って私の奇妙な恋も、時とともに相手が変って行くのを、どうすることもできませんでした。そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、普通の場合のように、その容貌によってではなく、主としてからだの恰好によって、私の心に刻みつけられているのでございます。
或るものは、仔馬のように精悍で、すらりと引き締まった肉体を持ち、或るものは、蛇のように妖艶で、クネクネと自在に動く肉体を持ち、或るものは、ゴム鞠のように肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、また或るものは、ギリシャの彫刻のように、ガッシリと力強く、円満に発達した肉体を持っておりました。そのほか、どの女の肉体にも、ひとりひとり、それぞれの特徴があり、魅力があったのでございます。
そうして、女から女へと移って行くあいだに、私はまた、それとは別な、不思議な経験をも味わいました。
そのひとつは、ある時、欧洲の或る強国の大使が(日本人のボーイの噂話によって知ったのですが)その偉大な体躯を、私の膝の上にのせたことでございます。それは、政治家としてよりも、世界的な詩人として、いっそうよく知られていた人ですが、それだけに、私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくするほども誇らしく思われたのでございます。彼は私の上で、二三人の同国人を相手に、十分ばかり話をすると、そのまま立ち去ってしまいました。むろん、何を言っていたのか、私にはさっぱりわかりませんけれど、ジェスチュアをするたびに、ムクムクと動く、常人よりも暖かいと思われる肉体の、くすぐるような感触が、私に一種名状すべからざる刺戟を与えたのでございます。
その時、私はふとこんなことを想像しました。もし! この革のうしろから、鋭いナイフで、彼の心臓を目がけて、グサリとひと突きしたなら、どんな結果を惹き起こすであろう。むろん、それは彼に再び起つことのできぬ致命傷を与えるにちがいない。彼の本国はもとより、日本の政治界は、そのために、どんな大騒ぎを演じることであろう。新聞は、どんな激情的な記事を掲げることであろう。
それは、日本と彼の本国との外交関係にも大きな影響を与えようし、また芸術の立場から見ても、彼の死は世界の一大損失にちがいない。そんな大事件が、自分の一挙手によって、やすやすと実現できるのだ。それを思うと、私は不思議な得意を感じないではいられませんでした。
もうひとつは、有名な或る国のダンサーが来朝した時、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、私の椅子に腰かけたことでございます。その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私に、かつて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えてくれました。私はそのあまりの美しさに、卑しい考えなどは起こす暇もなく、ただもう、芸術品に対するときのような敬虔な気持で、彼女を讃美したことでございます。
そのほか、私はまだいろいろと、珍らしい、不思議な、或いは気味わるい、数々の経験をいたしましたが、それらをここに細叙することは、この手紙の目的でありませんし、それに大分長くもなりましたから、急いで、肝腎の点にお話を進めることにいたしましょう。
さて、私がホテルへまいりましてから、何カ月かの後、私の身の上にひとつの変化が起こったのでございます。と言いますのは、ホテルの経営者が、何かの都合で帰国することになり、あとを居抜きのまま、ある日本人の会社に譲り渡したのであります。すると、日本人の会社は、従来の贅沢な営業方針を改め、もっと一般向きの旅館として、有利な経営を目論むことになりました。そのため不用になった調度などは、或る大きな家具商に委託して、競売させたのでありますが、その競売目録のうちに、私の椅子も加わっていたのでございます。
私はそれを知ると、一時はガッカリいたしました。そして、それを機として、もう一度娑婆へ立ち帰り、新しい生活をはじめようかと思ったほどでございます。その時分には、盗みためた金が相当の額になっていましたから、たとえ世の中へ出ても、以前のように、みじめな暮らしをすることはないのでした。が、また思い返してみますと、外人のホテルを出たということは、一方においては、大きな失望でありましたけれど、他方においては、ひとつの新しい希望を意味するものでございました。と言いますのは、私は数カ月のあいだも、それほどいろいろの異性を愛したにもかかわらず、相手がすべて異国人であったために、それがどんな立派な、好もしい肉体の持ち主であっても、精神的な妙な物足りなさを感じないわけには行きませんでした。やっぱり、日本人は同じ日本人に対してでなければ、ほんとうの恋を感じることができないのではあるまいか。私はだんだん、そんなふうに考えていたのでございます。そこへ、ちょうど私の椅子が競売に出たのであります。今度は、ひょっとすると、日本人に買いとられるかもしれない。そして、日本の家庭に置かれるかもしれない。それが、私の新しい希望でございました。私は、ともかくも、もう少し椅子の中の生活を続けてみることにいたしました。
道具屋の店先で、二三日のあいだ、非常に苦しい思いをしましたが、でも、競売がはじまると、仕合わせなことには、私の椅子は早速買手がつきました。古くなっても、充分に人目を引くほど、立派な椅子だったからでございましょう。
買手はY市から程遠からぬ、大都会に住んでいた或る官吏でありました。道具屋の店先から、その人の邸まで、何里かの道を、非常に震動のはげしいトラックで運ばれた時には、私は椅子の中で死ぬほどの苦しみを|嘗《な》めましたが、でも、そんなことは、買手が、私の望み通り日本人であったという喜びに比べては、物の数でもございません。
買手のお役人は、可なり立派な屋敷の持ち主で、私の椅子は、そこの洋館の広い書斎に置かれましたが、私にとって非常に満足であったことには、その書斎は、主人よりは、むしろ、その家の若くて美しい夫人が使用されるものだったのでございます。それ以来、約一カ月間、私は絶えず、夫人とともにおりました。夫人の食事と、就寝の時間を除いては、夫人のしなやかなからだは、いつも私の上にありました。それというのが、夫人は、そのあいだ、書斎につめきって、ある著作に没頭していられたからでございます。
私がどんなに彼女を愛したか、それは、ここにくだくだしく申しあげるまでもありますまい。彼女は、私のはじめて接した日本人で、しかも充分美しい肉体の持ち主でありました。私は、そこにはじめて、ほんとうの恋を感じました。それに比べては、ホテルでの、数多い経験などは、決して恋と名づくべきものではございません。その証拠には、これまで一度も、そんなことを感じなかったのに、その夫人に対してだけ、私は、ただ秘密の愛撫を楽しむのみではあきたらず、どうかして、私の存在を知らせようと、いろいろ苦心したのでも明らかでございましょう。
私は、できるならば、夫人のほうでも、椅子の中の私を意識してほしかったのでございます。そして、虫のいい話ですが、私を愛してもらいたく思ったのでございます。でも、それをどうして合図いたしましょう。もし、そこに人間が隠れているということを、あからさまに知らせたなら、彼女はきっと、驚きのあまり、主人や家のものに、そのことを告げるにちがいありません。それではすべて駄目になってしまうばかりか、私は、恐ろしい罪名を着て、法律上の刑罰をさえ受けなければなりません。
そこで、私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起こさせようと努めました。芸術家である彼女は、きっと常人以上の微妙な感覚を備えているにちがいありません。もし彼女が、私の椅子に生命を感じてくれたなら、ただの物質としてではなく、ひとつの生きものとして愛着を覚えてくれたなら、それだけでも、私は充分満足なのでございます。
私は、彼女が私の上に身を投げた時には、できるだけフーワリと優しく受けるように心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、わからぬほどにソロソロと膝を動かして、彼女のからだの位置を変えるようにいたしました。そして、彼女が、ウトウトと居眠りをはじめるような場合には、私は、ごくごく幽かに膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、夫人は、なんとなく私の椅子を愛しているように思われます。彼女は、ちょうど嬰児が母親の懐に抱かれるときのような、または、乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、からだを動かす様子までが、さも懐かしげにみえるのでございます。
かようにして、私の情熱は、日々に烈しく燃えて行くのでした。そして、ついには、アア、奥様、ついには、私の身のほどもわきまえぬ、大それた願いを抱くようになったのでございます。たったひと目、私の恋人の顔を見て、そして、言葉を交わすことができたなら、そのまま死んでもよいとまで、思いつめたのでございます。
奥様、あなたは、むろん、とっくにお悟りでございましょう。その私の恋人と申しますのは、あまりの失礼をお許しくださいませ、実は、あなたなのでございます。あなたの御主人が、あのY市の道具店で、私の椅子をお買い取りになって以来、私はあなたに及ばぬ恋をささげていた、哀れな男でございます。
奥様、一生のお願いでございます。たった一度、私にお逢いくださるわけにはまいらぬでございましょうか。そして、ひとことでも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけくださるわけにはまいらぬでございましょうか。私は決してそれ以上を望むものではありません。そんなことを望むにはあまりに醜く、汚れ果てた私でございます。どうぞ、どうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いをお聞き届けくださいませ。
私はゆうべ、この手紙を書くために、お屋敷を抜け出しました。面と向かって、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、かつ私にはとてもできないことでございます。
そして、いま、あなたがこの手紙をお読みなさる時分には、私は心配のために青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻っております。
もし、この、世にもぶしつけな願いをお聞き届けくださいますなら、どうか書斎の窓の撫子の鉢植えに、あなたのハンカチをおかけくださいまし。それを合図に、私は、何気なき一人の訪問者として、お邸の玄関を訪れるでございましょう。
そして、この不思議な手紙は、ある熱烈な祈りの言葉をもって結ばれていた。
佳子は、手紙の半ばほどまで読んだとき、すでに恐ろしい予感のために、まっ青になってしまった。
そして無意識に立ち上がると、気味のわるい肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間のほうへきていた。手紙のあとのほうは、いっそ読まないで破り棄ててしまおうかと思ったけれど、どうやら気掛りなままに、居間の小机の上で、ともかくも、読みつづけた。
彼女の予感はやっぱり当たっていた。
これはまあ、なんという恐ろしい事実であろう。彼女が毎日腰かけていたあの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男がはいっていたのであるか。
「おお、気味のわるい」
彼女は、背中から冷水をあびせられたような悪寒を覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。
彼女は、あまりのことに、ボンヤリしてしまって、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る? どうしてどうして、そんな気味のわるいことができるものか。そこには、たとえもう人間がいなくとも、食べ物その他の、彼に附属した汚ないものが、まだ残されているにちがいないのだ。
「奥様お手紙でございます」
ハッとして、振り向くと、、それは、一人の女中が、いま届いたらしい封書を持ってきたのだった。
佳子は、無意識にそれを受け取って、開封しようとしたが、ふと、その上書きを見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとしたほども、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖をもって、彼女の宛名が書かれてあったのだ。
彼女は、長いあいだ、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう最後にそれを破って、ビクビクしながら中味を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせたような、奇妙な文句が記されてあった。
突然御手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。御一覧の上、御批評がいただけますれば、この上の幸いはございません。或る理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。如何でございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
原稿には、わざと省いておきましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
では、失礼を顧みず、お願いまで。
芋虫
時子は、母屋にいとまを告げて、もう薄暗くなった、雑草のしげるにまかせ、荒れはてた広い庭を、彼女たち夫婦の住まいである離れ座敷の方へ歩きながら、いましがたも、母屋の主人の予備少将から言われた、いつものきまりきった褒め言葉を、まことに変てこな気持で、彼女のいちばん嫌いな茄子の|鴫《しぎ》|焼《やき》を、ぐにゃりと噛んだあとの味で、思い出していた。
「須永中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような癈兵を、滑稽にも、昔のいかめしい肩書で呼ぶのである)、須永中尉の忠烈は、いうまでもなくわが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡っておることだ。だが、お前さんの貞節、あの癈人を三年の年月、少しだって厭な顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房として当たり前のことだと言ってしまえば、それまでじゃが、できないことだ。わしは、まったく感心していますよ。今の世の美談だと思っていますよ。だが、まだまだ先の長い話じゃ。どうか気を変えないで面倒を見て上げてくださいよ」
鷲尾老少将は、顔を合わせるたびごとに、それをちょっとでも言わないでは気がすまぬというように、きまりきって、彼の昔の部下であった、そして今では彼の厄介者であるところの、須永癈中尉とその妻を褒めちぎるのであった。時子は、それを聞くのが、今言った茄子の鴫焼の味だものだから、なるべく主人の老少将に会わぬよう、留守をうかがっては、それでも終日物も言わぬ不具者と差向かいでばかりいることもできぬので、奥さんや娘さんの所へ、話し込みに行き行きするのであった。
もっとも、この褒め言葉も、最初のあいだは、彼女の犠牲的精神、彼女の稀なる貞節にふさわしく、いうにいわれぬ誇らしい快感をもって、時子の心臓をくすぐったのであるが、このごろでは、それを以前のように素直には受け容れかねた。というよりは、この褒め言葉が恐ろしくさえなっていた。それをいわれるたびに、彼女は「お前は貞節の美名に隠れて、世にも恐ろしい罪悪を犯しているのだ」と、真向から人差指を突きつけて、責められてでもいるように、ゾッと恐ろしくなるのであった。
考えてみると、われながらこうも人間の気持が変わるものかと思うほど、ひどい変わりかたであった。はじめのほどは、世間知らずで、内気者で、文字どおり貞節な妻でしかなかった彼女が、今では、外見はともあれ、心のうちには、身の毛もよだつ情欲の鬼が巣を食って、哀れな片輪者(片輪者という言葉では不充分なほどの無残な片輪者であった)の亭主を――かつては忠勇なる国家の干城であった人物を、何か彼女の情欲を満たすだけのために、飼ってあるけだものででもあるように、或いは一種の道具ででもあるように、思いなすほどに変わり果てているのだ。
このみだらがましい鬼めは、全体どこから来たものであろう。あの黄色い肉のかたまりの、不可思議な魅力がさせるわざか(事実彼女の夫の須永中尉は、ひとかたまりの黄色い肉塊でしかなかった。そして、それは畸形なコマのように、彼女の情欲をそそるものでしかなかった)、それとも、三十歳の彼女の肉体に満ちあふれた、えたいの知れぬ力のさせるわざであったか。おそらくその両方であったのかもしれないのだが。
鷲尾老人から何かいわれるたびに、時子はこのごろめっきり脂ぎってきた彼女の肉体なり、他人にもおそらく感じられるであろう彼女の体臭なりを、はなはだうしろめたく思わないではいられなかった。
「私はまあ、どうしてこうも、まるでばかかなんぞのようにデブデブ肥え太るのだろう」
その癖、顔色なんかいやに青ざめているのだけれど。老少将は、彼の例の褒め言葉を並べながら、いつも、ややいぶかしげに彼女のデブデブと脂ぎったからだつきを眺めるのを常としたが、もしかすると、時子が老少将をいとう最大の原因は、この点にあったのかもしれないのである。
片田舎のことで、母屋と離れ座敷のあいだは、ほとんど半丁も隔たっていた。そのあいだは、道もないひどい草原で、ともすればガサガサと音を立てて青大将が這い出してきたり、少し足を踏み違えると、草に履われた古井戸が危なかったりした。広い屋敷のまわりには、形ばかりの不揃いな生垣がめぐらしてあって、そのそとは田や畑が打ちつづき、遠くの八幡神社の森を背景にして、彼女らの住まいである二階建ての離れ家が、そこに、黒く、ぽつんと立っていた。
空には一つ二つ星がまたたきはじめていた。もう部屋の中は、まっ暗になっていることであろう。彼女がつけてやらねば、彼女の夫にはランプをつける力もないのだから、かの肉塊は、闇の中で、坐椅子にもたれて、或いは椅子からずっこけて、畳の上にころがりながら、眼ばかりパチパチ瞬いていることであろう。可哀そうに、それを考えると、いまわしさ、みじめさ、悲しさが、しかし、どこかに幾分センシュアルな感情をまじえて、ゾッと彼女の背筋を襲うのであった。
近づくにしたがって、二階の窓の障子が、何かを象徴しているふうで、ポッカリとまっ黒な口をあいているのが見え、そこから、トントントンと、例の畳を叩く鈍い音が聞こえてきた。「ああ、またやっている」と思うと、彼女は瞼が熱くなるほど、可哀そうな気がした。それは不自由な彼女の夫が、仰向きに寝ころがって、普通の人間が手を叩いて人を呼ぶ仕草の代りに、頭でトントントンと畳を叩いて、彼の唯一の伴侶である時子を、せっかちに呼び立てていたのである。
「いま行きますよ。おなかがすいたのでしょう」
時子は、相手に聞こえぬことはわかっていても、いつもの癖で、そんなことを言いながら、あわてて台所口に駈け込み、すぐそこの梯子段を上がって行った。
六畳ひと間の二階に、形ばかりの床の間がついていて、そこの隅に台ランプとマッチが置いてある。彼女はちょうど母親が乳呑み児に言う調子で、絶えず「待ち遠だったでしょうね。すまなかったわね」だとか「今よ、今よ、そんなにいっても、まっ暗でどうすることもできやしないわ。今ランプをつけますからね。もう少しよ。もう少しよ」だとか、いろんな独り言を言いながら(というのは、彼女の夫は少しも耳が聞こえなかったので)、ランプをともして、それを部屋の一方の机のそばへ運ぶのであった。
その机の前には、メリンス友禅の蒲団をくくりつけた、新案特許なんとか式坐椅子というものが置いてあったが、その上は空っぽで、そこからずっと離れた畳の上に、一種異様の物体がころがっていた。その物は、古びた大島銘仙の着物を着ているにはちがいないのだが、それは、着ているというよりも、包まれているといった方が、或いはそこに大島銘仙の大きな風呂敷包みがほうり出してあるといった方が当たっているような、まことに変てこな感じのものであった。そして、その風呂敷包みの隅から、にゅっと人間の首が突き出ていて、それが、米搗きばったみたいに、或いは奇妙な自動器械のように、トントン、トントンと畳を叩いているのだ。叩くにしたがって、大きな風呂敷包みが、反動で、少しずつ位置を変えているのだ。
「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、なんですのよ? これ?」
時子は、そう言って、手でご飯をたべるまねをして見せた。
「そうでもないの。じゃあ、これ?」
彼女はもうひとつの或る恰好をして見せた。しかし、口の利けない彼女の夫は、一々首を横に振って、またしても、やけにトントン、トントンと畳に頭をぶっつけている。砲弾の破片のために、顔全体が見る影もなくそこなわれていた。左の耳たぶはまるでとれてしまって、小さな黒い穴が、わずかにその痕跡を残しているにすぎず、同じく左の口辺から頬の上を斜めに眼の下のところまで、縫い合わせたような大きなひっつりができている。右のこめかみから頭部にかけて、醜い傷痕が這い上がっている。喉のところがグイと抉ったように窪んで、鼻も口も元の形をとどめてはいない。そのまるでお化けみたいな顔面のうちで、わずかに完全なのは、周囲の醜さに引きかえて、こればかりは無心の子供のそれのように、涼しくつぶらな両眼であったが、それが今、パチパチといらだたしく瞬いているのであった。
「じゃあ、話があるのね。待ってらっしゃいね」
彼女は机の引出しから雑記帳と鉛筆を取り出し、鉛筆を片輪者のゆがんだ口にくわえさせ、そのそばへひらいた雑記帳を持って行った。彼女の夫は口を利くこともできなければ、筆を持つ手足もなかったからである。
「オレガイヤニナッタカ」
癈人は、ちょうど大道の因果者がするように、女房の差し出す雑記帳の上に、口で文字を書いた。長いあいだかかって、非常に判りにくい片仮名を並べた。
「ホホホホホ、またやいているのね。そうじゃない。そうじゃない」
彼女は笑いながら強く首を振って見せた。
だが癈人は、またせっかちに頭を畳にぶっつけはじめたので、時子は彼の意を察して、もう一度雑記帳を相手の口の所へ持って行った。すると、鉛筆がおぼつかなく動いて、
「ドコニイタ」
としるされた。それを見るやいなや、時子は邪慳に癈人の口から鉛筆を引ったくって、帳面の余白へ「鷲尾サンノトコロ」と書いて、相手の眼の先へ、押しつけるようにした。
「わかっているじゃないの。ほかに行くところがあるもんですか」
癈人はさらに雑記帳を要求して、
「三ジカン」
と書いた。
「三時間も独りぼっちで待っていたというの。わるかったわね」彼女はそこですまぬような表情になってお辞儀をして見せ、「もう行かない。もう行かない」と言いながら手を振って見せた。
風呂敷包みのような須永癈中尉は、むろんまだ言い足りぬ様子であったが、口書きの芸当が面倒くさくなったとみえて、ぐったりと頭を動かさなくなった。そのかわりに、大きな両眼に、あらゆる意味をこめて、まじまじと時子の顔を見つめているのだ。
時子は、こういう場合、夫の機嫌をなおす唯一の方法をわきまえていた。言葉が通じないのだから、細かい言いわけをすることはできなかったし、言葉のほかではもっとも雄弁に心中を語っているはずの、微妙な眼の色などは、いくらか頭の鈍くなった夫には通用しなかった。そこで、いつもこうした奇妙な痴話喧嘩の末には、お互にもどかしくなってしまって、もっとも手っ取り早い和解の手段をとることになっていた。
彼女はいきなり夫の上にかがみ込んで、ゆがんだ口の、ぬめぬめと光沢のある大きなひっつりの上に、接吻の雨をそそぐのであった。すると、癈人の眼にやっと安堵の色が現われ、ゆがんだ口辺に、泣いているかと思われる醜い笑いが浮かんだ。時子は、いつもの癖で、それを見ても、彼女の物狂わしい接吻をやめなかった。それは、ひとつには相手の醜さを忘れて、彼女自身を無理から甘い興奮に誘うためでもあったけれど、またひとつには、このまったく起ち居の自由を失った哀れな片輪者を、勝手気ままにいじめつけてやりたいという、不思議な気持も手伝っていた。
だが、癈人の方では、彼女の過分の好意に面くらって、息もつけぬ苦しさに、身をもだえ、醜い顔を不思議にゆがめて、苦悶している。それを見ると、時子は、いつもの通り、ある感情がウズウズと、身内に湧き起こってくるのを感じるのだった。
彼女は、狂気のようになって、癈人にいどみかかって行き、大島銘仙の風呂敷包みを、引きちぎるように剥ぎとってしまった。すると、その中から、なんともえたいの知れぬ肉塊がころがり出してきた。
このような姿になって、どうして命をとり止めることができたかと、当時医学界を騒がせ、新聞が未曾有の奇談として書き立てたとおり、須永癈中尉のからだは、まるで手足のもげた人形みたいに、これ以上毀れようがないほど、無残に、無気味に傷つけられていた。両手両足は、ほとんど根もとから切断され、わずかにふくれ上がった肉塊となって、その痕跡を留めているにすぎないし、その胴体ばかりの化物のような全身にも、顔面をはじめとして大小無数の傷あとが光っているのだ。
まことに無残なことであったが、彼のからだはそんなになっても、不思議と栄養がよく、かたわなりに健康を保っていた(鷲尾老少将は、それを時子の親身の介抱の功に帰して、例の褒め言葉のうちにも、そのことを加えるのを忘れなかった)。ほかに楽しみとてはなく、食欲の烈しいせいか、腹部が艶々とはち切れそうにふくれ上がって、胴体ばかりの全身のうちでも殊にその部分が目立っていた。
それはまるで、大きな黄色の芋虫であった。或いは時子がいつも心の中で形容していたように、いとも奇怪な、畸形な肉ゴマであった。それは、ある場合には、手足の名残の四つの肉のかたまりを(それらの尖端には、ちょうど手提袋のように、四方から表皮が引き締められて、深い皺を作り、その中心にぽっつりと、無気味な小さい窪みができているのだが)、その肉の突起物を、まるで芋虫の足のように、異様に震わせて、臀部を中心にして、頭と肩とで、ほんとうにコマと同じに、畳の上をクルクルと廻るのであったから。
今、時子のためにはだかにむかれた癈人は、それには別段抵抗するのではなく、何事かを予期しているもののように、じっと上眼使いに、彼の頭のところにうずくまっている時子の、餌物を狙うけだもののような、異様に細められた眼と、やや堅くなった、きめのこまかい二重顎を、眺めていた。
時子は、片輪者の、その眼つきの意味を読むことができた。それは今のような場合には、彼女がもう一歩進めば、なくなってしまうものであったが、たとえば彼女が彼のそばで針仕事をしていると、片輪者が所在なさに、じっとひとつ空間を見つめているような時、この眼色はいっそう深みを加えて、ある苦悶を現わすのであった。
視覚と触覚のほかの五官をことごとく失ってしまった癈人は、生来読書欲など持ち合わせなかった猪武者であったが、それが衝撃のために頭が鈍くなってからは、いっそう文字と絶縁してしまって、今はただ、動物と同様に物質的な欲望のほかにはなんの慰さむるところもない身の上であった。だが、そのまるで暗黒地獄のようなドロドロの生活のうちにも、ふと、常人であったころ教え込まれた軍隊式な倫理観が、彼の鈍い頭をもかすめ通ることがあって、それと、片輪者であるがゆえにいっそう敏感になった情欲とが、彼の心中でたたかい、彼の眼に不思議な苦悶の影をやどすものに違いない。時子はそんなふうに解釈していた。
時子は、無力な者の眼に浮かぶ、おどおどした苦悶の表情を見ることは、そんなに嫌いではなかった。彼女は一方ではひどい泣き虫の癖に、妙に弱い者いじめの嗜好を持っていたのだ。それに、この哀れな片輪者の苦悶は、彼女の飽くことのない刺戟物でさえあった。今も彼女は相手の心持をいたわるどころではなく、反対に、のしかかるように、異常に敏感になっている不具者の情欲に迫まって行くのであった。
えたいのしれぬ悪夢にうなされて、ひどい叫び声を立てたかと思うと、時子はびっしょり寝汗をかいて眼をさました。
枕元のランプのホヤに妙な形の油煙がたまって、細めた芯がジジジジジジと鳴いていた。部屋の中が、天井も壁も変に橙色に霞んで見え、隣に寝ている夫の顔が、ひっつりのところが灯影に反射して、やっぱり橙色にテラテラと光っている。今の唸り声が聞こえたはずもないのだけれど、彼の両眼はパッチリとひらいて、じっと天井を見つめていた。机の上の枕時計を見ると、一時を少し過ぎていた。
おそらくそれが悪夢の原因をなしたのであろうけれど、時子は眼がさめるとすぐ、からだに或る不快をおぼえたが、やや寝ぼけた形で、その不快をはっきり感じる前に、なんだか変だとは思いながら、ふと、別の事を、さいぜんの異様な遊戯の有様を幻のように眼に浮かべていた。そこには、キリキリと廻る、生きたコマのような肉塊があった。そして、肥え太って、脂ぎった三十女のぶざまなからだがあった。それがまるで地獄絵みたいに、もつれ合っているのだ。なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほかの対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしびれさせる力をもっていようとは、三十年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところである。
「アーア、アーア」
時子はじっと彼女の胸を抱きしめながら、咏嘆ともうめきともつかぬ声を立てて、毀れかかった人形のような、夫の寝姿を眺めるのであった。
この時、彼女ははじめて、眼ざめてからの肉体的な不快の原因を悟った。そして「いつもとは少し早過ぎるようだ」と思いながら、床を出て、梯子段を降りて行った。
再び床にはいって、夫の顔を眺めると、彼は依然として、彼女の方をふり向きもしないで、天井を見入っているのだ。
「また考えているのだわ」
眼のほかには、なんの意志を発表する器官をも持たない一人の人間が、じっとひとつ所を見据えている様子は、こんな真夜中などには、ふと彼女に無気味な感じを与えた。どうせ鈍くなった頭だとは思いながらも、このような極端な不具者の頭の中には、彼女たちとは違った、もっと別の世界がひらけてきているのかもしれない。彼は、今その別世界を、ああしてさまよっているのかもしれない、などと考えると、ぞっとした。
彼女は眼がさえて眠れなかった。頭の芯に、ドドドドドと音を立てて、焔が渦まいているような感じがしていた。そして、無闇と、いろいろな妄想が浮かんでは消えた。その中には、彼女の生活をこのように一変させてしまったところの、三年以前の出来事が織り混ぜられていた。
夫が負傷して内地に送り帰されるという報知を受け取った時には、先ず戦死でなくてよかったと思った。その頃はまだつき合っていた同僚の奥様たちから、あなたはお仕合わせだとうらやまれさえした。間もなく新聞に夫の華々しい戦功が書き立てられた。同時に、彼の負傷の程度が可なり甚だしいものであることを知ったけれど、むろんこれほどのこととは想像もしていなかった。
彼女は|衛《えい》|戍《じゅ》病院へ夫に会いに行った時のことを、おそらく一生涯忘れないであろう。まっ白なシーツの中から、無残に傷ついた夫の顔が、ボンヤリと彼女の方を眺めていた。医員に、むずかしい術語のまじった言葉で、負傷のために耳が聞こえなくなり、発声機能に妙な故障を生じて、口さえきけなくなっていると聞かされた時、すでに彼女は眼をまっ赤にして、しきりに鼻をかんでいた。そのあとに、どんな恐ろしいものが待ち構えているかも知らないで。
いかめしい医員であったが、さすがに気の毒そうな顔をして「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、包帯のために丸くなった胴体ばかりが無気味に横たわっていた。それはまるで生命のない石膏細工の胸像をベッドに横たえた感じであった。
彼女はクラクラッと目まいのようなものを感じて、ベッドの脚のところへうずくまってしまった。
ほんとうに悲しくなって、人目もかまわず、声を上げて泣き出したのは、医員や看護婦に別室へ連れてこられてからであった。彼女はそこの薄よごれたテーブルの上に、長いあいだ泣き伏していた。
「ほんとうに奇蹟ですよ。両手両足を失った負傷者は須永中尉ばかりではありませんが、みな生命を取りとめることはできなかったのです。実に奇蹟です。これはまったく軍医正殿と北村博士の驚くべき技術の結果なのですよ、おそらくどの国の衛戍病院にも、こんな実例はありますまいよ」
医員は、泣き伏した時子の耳元で、慰さめるように、そんなことを言っていた。「奇蹟」という喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない言葉が、幾度も幾度も繰り返された。
新聞紙が須永鬼中尉の赫々たる武勲はもちろん、この外科医術上の奇蹟的事実について書き立てたことは言うまでもなかった。
夢のまに半年ばかり過ぎ去ってしまった。上官や同僚の軍人たちがつき添って、須永の生きたむくろが家に運ばれると、ほとんど同時ぐらいに、彼の四肢の代償として、功五級の金鵄勲章が授けられた。時子が不具者の介抱に涙を流している時、世の中は凱旋祝いで大騒ぎをやっていた。彼女のところへも、親戚や知人や町内の人々から、名誉、名誉という言葉が、雨のように降り込んできた。
間もなく、わずかの年金では暮らしのおぼつかなかった彼女たちは、戦地での上長官であった鷲尾少将の好意にあまえて、その邸内の離れ座敷を無賃で貸してもらって住むことになった。田舎にひっこんだせいもあったけれど、その頃から、彼女たちの生活はガラリと淋しいものになってしまった。凱旋騒ぎの熱がさめて、世間も淋しくなっていた。もう誰も以前のようには彼女たちを見舞わなくなった。月日がたつにつれて、戦捷の興奮もしずまり、それにつれて、戦争の功労者たちへの感謝の情もうすらいで行った。須永中尉のことなど、もう誰も口にするものはなかった。
夫の親戚たちも、不具者を気味わるがってか、物質的な援助を恐れてか、ほとんど、彼女の家に足踏みしなくなった。彼女のがわにも、両親はなく、兄妹たちは皆薄情者であった。哀れな不具者とその貞節な妻は、世間から切り離されたように、田舎の一軒家でポッツリと生存していた。そこの二階の六畳は、二人にとって唯一の世界であった。しかも、その一人は耳も聞こえず、口もきけず、起ち居もまったく不自由な土人形のような人間であったのだ。
癈人は、別世界の人類が突然この世にほうり出されたように、まるで違ってしまった生活様式に面くらっているらしく、健康を回復してからでも、しばらくのあいだは、ボンヤリしたまま身動きもせず仰臥していた。そして時をかまわず、ウトウトと睡っていた。
時子の思いつきで、鉛筆の口書きによる会話を取りかわすようになった時、先ず第一に、癈人がそこに書いた言葉は「シンブン」「クンショウ」の二つであった。「シンブン」というのは、彼の武勲を大きく書き立てた戦争当時の新聞記事の切抜きのことで、「クンショウ」というのは言うまでもなく例の金鵄勲章のことであった。彼が意識を取り戻した時、鷲尾少将が第一番に彼の眼の先につきつけたものは、その二た品であったが、癈人はそれをよく覚えていたのだ。
癈人はたびたび同じ言葉を書いて、その二た品を要求し、時子がそれを彼の前で持っていてやると、いつまでもいつまでも、眺めつくしていた。彼が新聞記事を繰り返し読む時などは、時子は手のしびれてくるのを我慢しながら、なんだかばかばかしいような気持で、夫のさも満足そうな眼つきを眺めていた。
だが、彼女が「名誉」を軽蔑しはじめたよりはずいぶん遅れてではあったけれど、癈人もまた「名誉」に飽き飽きしてしまったように見えた。彼はもう以前みたいに、かの二た品を要求しなくなった。そして、あとに残ったものは、不具者なるが故に病的に烈しい、肉体上の欲望ばかりであった。彼は回復期の胃腸病患者みたいに、ガツガツと食物を要求し、時を選ばず彼女の肉体を要求した。時子がそれに応じない時には、彼は偉大なる肉ゴマとなって気ちがいのように畳の上を這いまわった。
時子は最初のあいだ、それがなんだか空恐ろしく、いとわしかったが、やがて、月日がたつにしたがって、彼女もまた、徐々に肉欲の餓鬼となりはてて行った。野中の一軒家にとじこめられ、行末になんの望みも失った、ほとんど無智と言ってもよかった二人の男女にとっては、それが生活のすべてであった。動物園の檻の中で一生を暮らす二匹のけだもののように。
そんなふうであったから、時子が彼女の夫を、思うがままに自由自在にもてあそぶことのできる、一個の大きな玩具と見なすに至ったのは、まことに当然であった。また、不具者の恥知らずな行為に感化された彼女が、常人に比べてさえ丈夫丈夫していた彼女が、今では不具者を困らせるほども、飽くなきものとなり果てたのも、至極当たり前のことであった。
彼女は時々気ちがいになるのではないかと思った。自分のどこに、こんないまわしい感情がひそんでいたのかと、あきれ果てて身ぶるいすることがあった。
物もいえないし、こちらの言葉も聞こえない、自分では自由に動くことさえできない、この|奇《く》しく哀れな一個の道具が、決して木や土でできたものではなく、喜怒哀楽を持った生きものであるという点が、限りなき魅力となった。その上、たったひとつの表情器官であるつぶらな両眼が、彼女の飽くなき要求に対して、或る時はさも悲しげに、或る時はさも腹立たしげに物をいう。しかも、いくら悲しくとも、涙を流すほかには、なんのすべもなく、いくら腹立たしくとも、彼女を威嚇する腕力もなく、ついには彼女の圧倒的な誘惑に耐えかねて、彼もまた異常な病的興奮におちいってしまうのだが、このまったく無力な生きものを、相手の意にさからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もうこの上もない愉悦とさえなっていたのである。
時子のふさいだまぶたの中には、それらの三年間の出来事が、激情的な場面だけが、切れぎれに、次から次と二重にも三重にもなって、現われては消えて行くのだった。この切れぎれの記憶が、非常な鮮やかさで、まぶたの内がわに映画のように現われたり消えたりするのは、彼女のからだに異状があるごとに、必ず起こる現象であった。そして、この現象が起こる時には、きっと、彼女の野性がいっそうあらあらしくなり、気の毒な不具者を責めさいなむことがいっそう烈しくなるのを常とした。彼女自身それを意識さえしているのだけれど、身内に湧き上がる兇暴な力は、彼女の意志をもってしては、どうすることもできないのであった。
ふと気がつくと、部屋の中が、ちょうど彼女の幻と同じに、もやに包まれたように暗くなって行く感じがした。幻のそとに、もうひとつ幻があって、そのそとの方の幻が、今消えて行こうとしているような気持であった。それが神経のたかぶった彼女を怖がらせ、ハッと胸の鼓動が烈しくなった。だが、よく考えてみると、なんでもないことだった。彼女は蒲団から乗り出して、枕もとのランプの芯をひねった。さっき細めておいた芯が尽きて、ともし火が消えかかっていたのである。
部屋の中がパッと明かるくなった。だが、それがやっぱり橙色にかすんでいるのが、少しばかり変な感じであった。時子はその光線で、思い出したように夫の寝顔を覗いて見た。彼は依然として、少しも形を変えないで、天井の同じ所を見つめている。
「まあ、いつまで考えごとをしているのだろう」
彼女はいくらか、無気味でもあったが、それよりも、見る影もない片輪者のくせに、ひとりで仔細らしく物思いに耽っている様子が、ひどく憎々しく思われた。そして、またしても、むず痒く、例の残虐性が彼女の身内に湧き起こってくるのだった。
彼女は、非常に突然、夫の蒲団の上に飛びかかって行った。そしていきなり、相手の肩を抱いて、烈しくゆすぶりはじめた。
あまりにそれが唐突であったものだから、癈人はからだ全体で、ピクンと驚いた。そして、その次には、強い叱責のまなざしで、彼女を睨みつけるのであった。
「怒ったの? なんだい、その眼」
時子はそんなことをどなりながら、夫にいどみかかって行った。わざと相手の眼を見ないようにして、いつもの遊戯を求めて行った。
「怒ったってだめよ。あんたは、私の思うままなんだもの」
だが、彼女がどんな手段をつくしても、その時に限って、癈人はいつものように彼の方から妥協してくる様子はなかった。さっきから、じっと天井を見つめて考えていたことがそれであったのか、または単に女房のえて勝手な振舞いが癇にさわったのか、いつまでもいつまでも、大きな眼を飛び出すばかりにいからして、刺すように時子の顔を見据えていた。
「なんだい、こんな眼」
彼女は叫びながら、両手を、相手の眼に当てがった。そして、「なんだい」「なんだい」と気ちがいみたいに叫びつづけた。病的な興奮が、彼女を無感覚にした。両手の指にどれほどの力が加わったかさえ、ほとんど意識していなかった。
ハッと夢からさめたように、気がつくと、彼女の下で、癈人が躍り狂っていた。胴体だけとはいえ、非常な力で、死にもの狂いに躍るものだから、重い彼女がはね飛ばされたほどであった。不思議なことには、癈人の両眼からまっ赤な血が吹き出して、ひっつりの顔全体が、ゆでだこみたいに上気していた。
時子はその時、すべてをハッキリ意識した。彼女は無残にも、彼女の夫のたったひとつ残っていた、外界への窓を、夢中に傷つけてしまったのである。
だが、それは決して夢中の過失とは言いきれなかった。彼女自身それを知っていた。いちばんハッキリしているのは、彼女は夫の物言う両眼を、彼らが安易なけだものになりきるのに、はなはだしく邪魔っけだと感じていたことだ。時たまそこに浮かび上がってくる正義の観念ともいうべきものを、憎々しく感じていたことだ。のみならず、その眼のうちには、憎々しく邪魔っけであるばかりでなく、もっと別なもの、もっと無気味で恐ろしい何物かさえ感じられたのである。
しかし、それは嘘だ。彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの生きた屍にしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化してしまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の飽くなき残虐性を、真底から満足させたかったのではないか。不具者の全身のうちで、眼だけがわずかに人間のおもかげをとどめていた。それが残っていては、何かしら完全でないような気がしたのだ。ほんとうの彼女の肉ゴマではないような気がしたのだ。
このような考えが、一秒間に、時子の頭の中を通り過ぎた。「ギャッ」というような叫び声を立てたかと思うと、躍り狂っている肉塊をそのままにして、ころがるように階段を駈けおり、はだしのまま暗やみのそとへ走り出した。彼女は悪夢の中で恐ろしいものに追っ駈けられてでもいる感じで、夢中に走りつづけた。裏門を出て、村道を右手へ、でも、行く先が三丁ほど隔たった医者の家であることは意識していた。
頼みに頼んでやっと医者をひっぱって来た時にも、肉塊はさっきと同じ烈しさで躍り狂っていた。村の医者は、噂には聞いたけれど、まだ実物を見たことがなかったので、片輪者の無気味さに胆をつぶしてしまって、時子が物のはずみでこんな椿事を惹き起こした旨を、くどくど弁解するのも、よくは耳にはいらぬ様子であった。彼は痛み止めの注射と、傷の手当てをしてしまうと、大急ぎで帰って行った。
負傷者がやっと藻掻きやんだ頃、しらじらと、夜があけた。
時子は負傷者の胸をさすってやりながら、ボロボロと涙をこぼし、「すみません」「すみません」と言いつづけていた。肉塊は負傷のために発熱したらしく、顔が赤くはれ上がって、胸は烈しく鼓動していた。
時子は終日病人のそばを離れなかった。食事さえしなかった。そして、病人の頭と胸に当てた濡れタオルを、ひっきりなしに絞り換えたり、気ちがいめいた長たらしい詫び言をつぶやいてみたり、病人の胸に指先で「ユルシテ」と幾度も幾度も書いてみたり、悲しさと罪の意識に、時間のたつのを忘れてしまっていた。
夕方になって、病人はいくらか熱もひき、息づかいも楽になった。時子は、病人の意識がもう常態に復したに違いないと思ったので、あらためて、彼の胸の皮膚の上に、一字一字ハッキリと「ユルシテ」と書いて、反応を見た。だが、肉塊は、なんの返事もしなかった。眼を失ったとはいえ、首を振るとか、笑顔を作るとか、何かの方法で彼女の文字に答えられぬはずはなかったのに、肉塊は身動きもせず、表情も変えないのだ。息づかいの様子では眠っているとも考えられなかった。皮膚に書いた文字を理解する力さえ失ったのか、それとも、憤怒のあまり、沈黙をつづけているのか、まるでわからない。それは今や、一個のフワフワした、暖かい物質でしかなかったのだ。
時子はそのなんとも形容のできぬ静止の肉塊を見つめているうちに、生れてからかつて経験したことのない、真底からの恐ろしさに、ワナワナと震え出さないではいられなかった。
そこに横たわっているものは一個の生きものに違いなかった。彼は肺臓も胃袋も持っているのだ。それだのに、彼は物を見ることができない。音を聞くことができない。一とことも口がきけない。何かを掴むべき手もなく、立ち上がるべき足もない。彼にとってはこの世界は永遠の静止であり、不断の沈黙であり、果てしなき暗やみである。かつてなにびとがかかる恐怖の世界を想像し得たであろう。そこに住む者の心持は何に比べることができるであろう。彼は定めし「助けてくれえ」と声を限りに呼ばわりたいであろう。どんな薄明かりでもかまわぬ、物の姿を見たいであろう。どんなかすかな音でもかまわぬ、物の響きを聞きたいであろう。何物かにすがり、何物かを、ひしと掴みたいであろう。だが、彼にはそのどれもが、まったく不可能なのである。
時子は、いきなりワッと声を立てて泣き出した。そして、取り返しのつかぬ罪業と、救われぬ悲愁に、子供のようにすすり上げながら、ただ人が見たくて、世の常の姿を備えた人間が見たくて、哀れな夫を置き去りに、母屋の鷲尾家へ駈けつけたのであった。
烈しい嗚咽のために聞き取りにくい、長々しい彼女の懺悔を、だまって聞き終った鷲尾老少将は、あまりのことにしばらくは言葉も出なかったが、
「ともかく、須永中尉をお見舞いしよう」
やがて彼は憮然として言った。
もう夜にはいっていたので、老人のために提灯が用意された。二人は、暗やみの草原を、おのおのの物思いに沈みながら、だまり返って離れ座敷へたどった。
「誰もいないよ。どうしたのじゃ」
先になってそこの二階に上がって行った老人が、びっくりして言った。
「いいえ、その床の中でございますの」
時子は、老人を追い越して、さっきまで夫の横たわっていた蒲団のところへ行ってみた。だが、実に変てこなことが起こったのだ。そこはもぬけの殼になっていた。
「まあ……」
と言ったきり、彼女は茫然と立ちつくしていた。
「あの不自由なからだで、まさかこの家を出ることはできまい。家の中を探してみなくては」
やっとしてから、老少将が促がすように言った。二人は階上階下を隈なく探しまわった。だが、不具者の影はどこにも見えなかったばかりか、かえってそのかわりに、ある恐ろしいものが発見されたのだ。
「まあ、これ、なんでございましょう?」
時子は、さっきまで不具者の寝ていた枕もとの柱を見つめていた。
そこには鉛筆で、よほど考えないでは読めぬような、子供のいたずら書きみたいなものが、おぼつかなげにしるされていたのだ。
「ユルス」
時子はそれを「許す」と読み得た時、ハッとすべての事情がわかってしまったように思った。不具者は、動かぬからだを引きずって、机の上の鉛筆を口で探して、彼にしてはそれがどれほどの苦心であったか、わずか片仮名三字の書置きを残すことができたのである。
「自殺をしたのかもしれませんわ」
彼女はオドオドと老人の顔を眺めて、色を失った唇を震わせながら言った。
鷲尾家に急が報ぜられ、召使いたちが手に手に提灯を持って、母屋と離れ座敷のあいだの雑草の庭に集まった。
そして、手分けをして庭内のあちこちと、闇夜の捜索がはじめられた。
時子は、鷲尾老人のあとについて、彼の振りかざす提灯の淡い光をたよりに、ひどい胸騒ぎを感じながら歩いていた。あの柱には「許す」と書いてあった。あれは彼女が先に不具者の胸に「ユルシテ」と書いた言葉の返事に違いない。彼は「私は死ぬ。けれど、お前の行為に立腹してではないのだよ。安心おし」と言っているのだ。
この寛大さがいっそう彼女の胸を痛くした。彼女は、あの手足のない不具者が、まともに降りることはできないで、全身で梯子段を一段一段ころがり落ちなければならなかったことを思うと、悲しさと怖ろしさに、総毛立つようであった。
しばらく歩いているうちに、彼女はふと或ることに思い当たった。そして、ソッと老人にささやいた。
「この少し先に、古井戸がございましたわね」
「ウン」
老将軍はただ肯いたばかりで、その方へ進んで行った。
提灯の光は、空漠たる闇の中の、方一間ほどを薄ぼんやりと明かるくするにすぎなかった。
「古井戸はこの辺にあったが」
鷲尾老人は独り言を言いながら、提灯を振りかざし、できるだけ遠くの方を見きわめようとした。
その時、時子はふと何かの予感に襲われて、立ち止まった。耳をすますと、どこやらで、蛇が草を分けて走っているような、かすかな音がしていた。
彼女も老人も、ほとんど同時にそれを見た。そして、彼女はもちろん、老将軍さえもが、あまりの恐ろしさに、釘づけにされたように、そこに立ちすくんでしまった。
提灯の火がやっと届くか届かぬかの、薄くらがりに、生い茂る雑草のあいだを、まっ黒な一物が、のろのろとうごめいていた。その物は、無気味な爬虫類の恰好で、かま首をもたげて、じっと前方をうかがい、押しだまって、胴体を波のようにうねらせ、胴体の四隅についた瘤みたいな突起物で、もがくように地面を掻きながら、極度にあせっているのだけれど、気持ばかりでからだがいうことを聞かぬといった感じで、ジリリジリリと前進していた。
やがて、もたげていた鎌首が、突然ガクンと下がって、眼界から消えた。今までよりは、やや烈しい葉擦れの音がしたかと思うと、からだ全体が、さかとんぼを打って、ズルズルと地面の中へ、引き入れられるように、見えなくなってしまった。そして、遙かの地の底から、トボンと、鈍い水音が聞こえてきた。
そこに、草に隠れて、古井戸の口がひらいていたのである。
二人はそれを見届けても、急にはそこへ駈け寄る元気もなく、放心したように、いつまでも立ちつくしていた。
まことに変なことだけれど、そのあわただしい刹那に、時子は、闇夜に一匹の芋虫が、何かの木の枯枝を這っていて、枝の先端のところへくると、不自由なわが身の重みで、ポトリと、下のまっくろな空間へ、底知れず落ちて行く光景を、ふと幻に描いていた。
百面相役者
一
僕の書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。
その頃、僕は中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時僕の地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、僕は小学教員をかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、その頃は、そんなのがめずらしくはなかったよ。何しろ給料にくらべて物価の方がずっと安い時代だからね。
話というのは、僕がその小学教員を稼いでいたあいだに起こったことだ(起こったというほど大げさな事件でもないがね)。ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンと曇った春先の或る日曜日だった。僕は、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のことだがね)新聞社の編集部に勤めているRという男をたずねた。当時、日曜になると、この男をたずねるのが僕の一つの楽しみだったのだ。というのは、彼はなかなか物識りでね、それも非常にかたよった、ふうがわりなことを、実によく調べているのだ。万事がそうだけれど、たとえば文学などでいうと、こう怪奇的な、変に秘密がかった、そうだね、日本でいえば平田篤胤だとか、上田秋成だとか、外国でいえば、スエデンボルグだとかウイリアム・ブレークだとか、例の、君のよくいうポーなども、先生大すきだった。市井の出来事でも、一つは新聞記者という職業上からでもあろうが、人の知らないような、変てこなことをばかにくわしく調べていて、驚かされることがしばしばあった。
彼の人となりを説明するのがこの話の目的ではないから、別に深入りはしないが、たとえば上田秋成の「雨月物語」のうちで、どんなものを彼が好んだかということを一言すれば、彼の人物がよくわかる。したがって、彼の感化を受けていた僕の心持もわかるだろう。
彼は「雨月物語」は全篇どれもこれも好きだった。あの夢のような散文詩と、それから紙背にうごめく、一種の変てこな味が、たまらなくいいというのだ。その中でも「蛇性の淫」と「青頭巾」なんか、よく声を出して、僕に読み聞かせたものだ。
下野の国のある里の法師が、十二、三歳の童児を寵愛していたところ、その童児が病のために死んでしまったので「あまりに歎かせたまふままに、火に焼きて土にはうむることもせで、顔に顔をもたせ、手に手をとりくみて日を経たまふが、つひに心みだれ、生きてある日に違はずたはふれつつも、その肉の腐りただるををしみて、肉を吸ひ骨をなめ、はた|啖《くら》ひつくしぬ」というところなどは、今でも僕の記憶に残っている。流行の言葉でいえば変態性慾だね。Rはこんなところがばかにすきなのだ、今から考えると、先生自身が、その変態性慾の持ち主だったかもしれない。
少し話が傍路にそれたが、僕がRを訪問したのは、今いった日曜日の、ちょうどひる頃だった。先生あいかわらず机にもたれて、何かの書物をひもどいていた。そこへ僕がはいって行くと、たいへん喜んで、
「やあ、いいところへ来た。今日は一つ、ぜひ君に見せたいものがある。そりゃ実に面白いものだ」
彼はいきなりこんなことをいうのだ。僕はまた例の珍本でも掘り出したのかと思って、
「ぜひ拝見したいものです」
と答えると、驚いたことには、先生立ち上がって、サッサと外出の用意をはじめるのだ。そしていうには、
「そとだよ。××観音までつきあいたまえ。君に見せたいものは、あすこにあるのだよ」
そこで、僕は、一体××観音に何があるのかと聞いてみたが、先生のくせでね、行ってみればわかるといわぬばかりに、何も教えない。仕方がないので、僕はRのあとから、だまってついて行った。
さっきもいった通り、雷でも鳴り出しそうな、いやにどんよりした空模様だ。その頃電車はないので、半里ばかりの道を、テクテク歩いていると、からだじゅうジットリと汗ばんでくる。町の通りなども、天候と同様に、変にしずまり返っている。時々Rが後をふり向いて話しかける声が、一丁も先からのように聞こえる。狂気になるのは、こんな日じゃないかと思われた。
××観音は、東京でいえばまあ浅草といったところで、境内にいろいろな見世物小屋がある。劇場もある。それが田舎だけに、いっそう廃頽的で、グロテスクなのだ。|今《いま》|時《どき》そんなことはないが、当時僕の勤めていた学校は、教師に芝居を見ることさえ禁じていた。芝居ずきの僕は困ったがね。でも首になるのが恐ろしいので、なるべく禁令を守って、この××観音なぞへはめったに足を向けなかった。したがって、そこにどんな芝居がかかっているか、見世物が出ているか、ちっとも知らなかった(当時は芝居の新聞広告なんてほとんどなかった)。で、Rがこれだといって、ある劇場の看板をゆびさした時には、非常にめずらしい気がしたものだよ。その看板がまたかわっているのだ。
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新帰朝百面相役者××丈出演
探偵奇聞『怪美人』五幕
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涙香小史のほん案小説に「怪美人」というのがあるが、見物してみるとあれではない、もっともっと荒唐無稽で、奇怪至極の筋だった。でもどっか、涙香小史を思わせるところがないでもない。今でも貸本屋などには残っているようだが、涙香のあの改版にならない前の菊判の安っぽい本があるだろう。君はあれのさし絵を見たことがあるかね。今見なおすと、実になんともいえぬ味のあるものだ。この××丈出演の芝居は、まあ、あの挿絵が生きて動いているといった感じのものだったよ。
実にきたない劇場だった。黒い土蔵みたいな感じの壁が、なかばはげ落ちて、そのすぐ前を、蓋のない泥溝が、変な臭気を発散して流れている。そこへきたない洟垂れ小僧が立ちならんで看板を見上げている。まあそういった景色だ。だが看板だけはさすがに新らしかった。それがまた実に珍なものでね。普通の芝居の看板書きが、西洋流のまねをして書いたのだろう、足がまがった紅毛碧眼の紳士や、からだじゅう|襞《ひだ》だらけで、ばかに尻のふくれあがった洋装美人が、さまざまの恰好で、日本流の見えを切っているのだ。あんなものが今残っていたら、素敵な歴史的美術品だね。
湯屋の番台のような恰好をした、無蓋の札売り場で、大きな板の通り札を買うと、僕らはその中へはいっていった(僕はとうとう禁令をおかしたわけだ)。中も外部に劣らずきたない。土間には仕切りもなく、一面に薄よごれたアンペラが敷いてあるきりだ。しかもそこには、紙屑だとかミカンや南京豆の皮などが、いっぱいにちらばっていて、うっかり歩いていると、気味のわるいものが、べったり足の裏にくっつく。ひどい有様だ。だが、当時はそれが普通だったかもしれない。現にこの劇場なぞは町でも二、三番目に数えられていたのだからね。
はいってみるともう芝居ははじまっていた。看板通りの異国情調に富んだ舞台面で、出てくる人物も、皆西洋人くさい扮装をしていた。僕は思った、「これはすてきだ、さすがにRはいいものを見せてくれた」とね。なぜといって、それは当時の僕たちの趣味にピッタリあてはまるような代物だったからね……僕は単にそう考えていた。ところが、後になってわかったのだが、Rの真意はもっともっと深いところにあった。僕に芝居を見せるというよりは、そこへ出てくる一人の人物、すなわち看板の百面相役者なるものを観察させるためであった。
芝居の筋もなかなか面白かったように思うが、よく覚えていないし、それにこの話には大して関係もないから略するけれど、神出鬼没の怪美人を主人公とする、非常に変化に富んだ一種の探偵劇だった。近頃はいっこうはやらないが、探偵劇というものも悪くないね。この怪美人には|座頭《ざがしら》の百面相役者が扮していた。怪美人は警官その他の追跡者をまくために、目まぐるしく変装する。男にも、女にも、老人にも、若人にも、貴族にも、賤民にも、あらゆる者に化ける。そこが百面相役者たるゆえんなのであろうが、その変装は実に手に入ったもので、舞台の警官などよりは、見物の方がすっかりだまされてしまうのだ。あんなのを技神に入るとでもいうのだろうね。
僕がうしろの方にしようというのに、Rはなぜか、土間のかぶりつきのところへ席をとったので、僕たちの眼と舞台の役者の顔とは、近くなった時には、ほとんど一間ぐらいしか隔たっていないのだ。だから、こまかいところまでよくわかる。ところが、そんなに近くにいても、百面相役者の変装は、ちっとも見分けられない。女なら女、老人なら老人に、なり切っているのだ。たとえば、顔のしわだね。普通の役者だと、絵具で書いているので、横から見ればすぐばけの皮がはげる。ふっくらとした頬に、やたらに黒いものをなすってあるのが、滑稽に見える。それがこの百面相役者のは、どうしてあんなことができるのか、ほんとうの肉に、ちゃんと皺がきざまれているのだ。そればかりではない。変装するごとに、顔形がまるでかわってしまう。不思議でたまらなかったのは、時によって、丸顔になったり、細面になったりする。眼や口が大きくなったり小さくなったりするのは、まだいいとして、鼻や耳の恰好さえひどくかわるのだ。僕の錯覚だったのか、それとも何かの秘術であんなことができるのか、いまだに疑問がとけない。
そんなふうだから、舞台に出てきても、これが百面相役者ということは、想像もつかない。ただ番付を見て、わずかにあれだなと悟るくらいのものだ。あんまり不思議なので、僕はそっとRに聞いてみた。
「あれはほんとうに同一人なのでしょうか。もしや、百面相役者というのは一人ではなくて、大勢の替玉を引っくるめての名称で、それがかわるがわる現われているのではないでしょうか」
実際僕はそう思ったものだ。
「いやそうではない。よく注意してあの声を聞いてごらん。声の方は変装のようにはいかぬかして、たくみにかえてはいるが、みな同一音調だよ。あんなに音調の似た人間がいく人もあるはずはないよ」
なるほど、そう聞けば、どうやら同一人物らしくもあった。
「僕にしたって、何も知らずにこれを見たら、きっとそんな不審を起こしたに違いない」Rが説明した。「ところが、僕にはちゃんと予備知識があるんだ。というのは、この芝居が蓋をあける前にね、百面相役者の××が、僕の新聞社を訪問したのだよ。そして、実際僕らの面前で、あの変装をやって見せたのだ。ほかの連中は、そんなことにあまり興味がなさそうだったけれど、僕は実に驚嘆した。世の中には、こんな不思議な術もあるものかと思ってね。その時の××の気焔がまた、なかなか聞きものだったよ。まず欧米における変装術の歴史をのべ、現在それがいかに完成の域に達しているかを紹介し、だが、われわれ日本人には、皮膚や頭髪のぐあいでそのまままねられない点が多いので、それについていかに苦心したか、そして、結局、どれほどたくみにそれをものにしたか、というようなことを実に雄弁にしゃべるのだ。団十郎だろうが菊五郎だろうが日本広しといえどもおれにまさる役者はないという鼻息だ。なんでもこの町を振り出しに、近く東京の檜舞台を踏んで、その妙技を天下に紹介するということだった(彼はこの町のうまれなのだよ)。その意気や愛すべしだが、可哀そうに、先生芸というものを、とんだはき違えて解釈している。何よりもたくみに化けることが、俳優の第一条件だと信じてきっている。そして、かくのごとく化けることの上手な自分は、いうまでもなく天下一の名優だと心得ている。田舎から生れる芸にはよくこの|類《たぐい》のがあるものだがね。近くでいえば、熱田の神楽獅子などがそれだよ。それはそれとして、存在するだけの値うちはあるのだけれどね……」
このRのくわしい註釈を聞いてから舞台を見ると、そこにはまたいっそうの味わいがあった。そうして見れば見るほど、ますます百面相役者の妙技に感じた。こんな男がもしほんとうの泥棒になったら、きっと、永久に警察の眼をのがれることができるだろうとさえ思われた。
やがて、芝居は型のごとくクライマックスに達し、カタストロフィに落ちて、惜しい大団円を結んだ。時間のたつのを忘れて、舞台に引きつけられていた僕は、最後の幕がおりきってしまうと、思わずハーッと深い溜め息をついたことだ。
二
劇場を出たのは、もう十時頃だった。空はあいかわらず曇って、ソヨとの風もなく、妙にあたりがかすんで見えた。二人とも黙々として家路についた。Rがなぜだまっていたかは、想像の限りでないが、少なくとも僕だけは、あんまり不思議なものを見たために、頭がボーッとしてしまって、ものをいう元気もなかったのだ。それほど、感銘を受けたものだ。さて、銘々の家への分れ道にくると、
「きょうはいつにない愉快な日曜でした。どうもありがとう」
僕はそういって、Rに別れようとした。すると、意外にもRは僕を呼び止めて、
「いや、ついでにもう少しつきあってくれたまえ。実はまだ君に見せたいものがあるのだ」
という。それがもう十一時時分だよ。Rはこの夜ふけに、わざわざ僕を引っぱって行って、一体全体何を見せようというのだろう。僕は不審でたまらなかったけれど、その時のRの口調が妙に厳粛に聞こえたのと、それに当時、僕はRのいうことには、なんでもハイハイと従う習慣になっていたものだから、それからまたRの家まで、テクテクとついて行ったことだ。
いわれるままに、Rの部屋へはいって、そこで、吊りランプの下で、彼の顔を見ると、僕はハッと驚いた。彼はまっさおになって、ブルブル震えてさえいるのだ。何がそうさせたのか、彼が極度に興奮していることは一と目でわかる。
「どうしたんです。どっか悪いのじゃありませんか」
僕が心配して聞くと、彼はそれには答えないで、押入れの中から古い新聞の綴じ込みを探し出してきて、一所懸命にくっていたが、やがて、ある記事を見つけ出すと、震える手でそれをさし示しながら、
「ともかく、この記事を読んでみたまえ」
というのだ。それは彼の勤めている社の新聞で、日付を見ると、ちょうど一年ばかり以前のものだった。僕は何がなんだか、まるで狐につままれたようで、少しもわけがわからなかったけれど、とりあえずそれを読んでみることにした。
見出しは「又しても首泥棒」というので、三面の最上段に、二段抜きで載せてあった。その記事の切抜きは、記念のために保存してあるがね、見たまえこれだ。
[#ここから2字下げ]
近来諸方の寺院頻々として死体発掘の厄にあうも、いまだ該犯人の捕縛を見るにいたらざるは時節がらまことになげかわしき次第なるが、ここにまたもやいまわしき死体盗難事件あり。その次第をしるさんに、去る×月×日午後十一時頃×県×郡×村字×所在××寺の寺男×某(五〇)が、同寺住職の言いつけにて付近の檀家へ使いに行き、帰途同寺境内の墓地を通過せる折から、雲間を出でし月影に一名の曲者が鍬を振って|新仏《にいぼとけ》の土饅頭を発掘せる有様を認め、腰を抜かさんばかりに打驚き、泥棒泥棒と呼ばわりければ、曲者もびっくり仰天雲を霞とにげ失せたり。届け出により時を移さず×警察×分署長××氏は二名の刑事を従え現場に出張し取調べたるところ、発掘されしは去る×月×日埋葬せる×村字××番屋敷××××の新墓地なること判明せるが、曲者は同人の棺桶を破壊し死体の頭部を鋭利なる刃物をもって切断しいずこにか持去れるもののごとく、無残なる首なし胴体のみ土にまみれて残りおれり。一方急報により×裁判所××検事は現場に急行し、×署楼上に捜査本部を設け百方手を尽して犯人捜査につとめたるも、いまだなんらの手掛りを発見せずと。該事件のやり口を見るに従来諸方の寺院を荒し廻りたる曲者のやり口と符節を合わすがごとく、おそらく同一人の仕業なるべく、曲者は脳髄の黒焼が万病にきき目ありという古来の迷信により、かかる挙に出でしものならんか。さるにても世にはむごたらしき人鬼もあればあるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
そして終りに「|因《ちな》みに」とあって、当時までの被害寺院と首を盗まれた死人の姓名とが、五つ六つ列記してある。
僕はその日、頭がよほど変になっていた。天候がそんなだったせいもあり、一つは奇怪な芝居を見たからでもあろうが、なんとなくものにおびえやすくなっていた。で、このいまわしい新聞記事を読むと、Rがなぜこんなものを僕に読ませたのか、その意味は少しもわからなかったけれど、妙に感動してしまって、この世界が何かこうドロドロした血みどろのもので充たされているような気がし出したものだ。
「ずいぶんひどいですね。一人でこんなにたくさん首を盗んで、黒焼屋にでも売り込むのでしょうかね」
Rは僕が新聞を読んでいるあいだに、やっぱり押入れから、大きな手文庫を出してきて、その中をかき廻していたが、僕が顔を上げてこう話しかけると、
「そんなことかもしれない。だが、ちょっとこの写真を見てごらん。これはね、僕の遠い親戚にあたるものだが、この老人も首をとられた一人なんだよ。そこの『因みに』というところに××××という名前があるだろう、これはその××××老人の写真なんだ」
そういって一葉の古ぼけた手札形の写真を示した。見ると、裏には間違いなく新聞のと同じ名前が、下手な手蹟でしたためてある。なるほどそれでこの新聞記事を読ませたのだな。僕は一応合点することができた。しかしよく考えてみると、こんな一年も前の出来事をなにゆえ今頃になって、しかもよる夜中、わざわざ僕に知らせるのか、その点がどうも解せない。それに、さっきからRがいやに興奮している様子も、おかしいのだ。僕はさも不思議そうにRの顔を見つめていたに違いない。すると彼は、
「君はまだ気がつかぬようだね。もういちどその写真を見てごらん。よく注意して……それを見て何か思いあたることはないかね」
というのだ。僕はいわれるままに、そのしらが頭の、しわだらけの田舎ばあさんの顔を、さらにつくづくながめたことだ。すると君、僕はあぶなくアッと叫ぶところだったよ。そのばあさんの顔がね、さっきの百面相役者の変装の一つと、もう寸分違わないのだ。皺のより方、鼻や口の恰好、見れば見るほどまるで生きうつしなんだ。僕は生涯のうちで、あんな変な気持を味わったことは、二度とないね。考えてみたまえ、一年前に死んで、墓場へうずめられて、おまけに首まで切られた老婆が、少なくとも彼女と一分一厘違わない或る他の人間が(そんなものはこの世にいるはずがない)××観音の芝居小屋で活躍しているのだ。こんな不思議なことがあり得るものだろうか。
「あの役者が、どんなに変装がうまいとしてもだ、見も知らぬ実在の人物と、こうも完全に一致することができると思うかね」
Rはそういって、意味ありげに僕の顔をながめた。
「いつか新聞であれを見た時には、僕は自分の眼がどうかしているのだと思って、別段深くも考えなかった。が、日がたつにしたがって、どうもなんとなく不安でたまらない。そこで、きょうは幸い君のくるのがわかっていたものだから、君にも見くらべてもらって、僕の疑念をはらそうと思ったのだ。ところが、これじゃあ疑いがはれるどころか、ますます僕の想像が確実になってきた。もう、そうでも考えるほかには、この不思議な事実を解釈する方法がないのだ」
そこでRは一段と声をひくめ、非常に緊張した面持になって、
「この想像は非常に突飛なようだがね。しかしまんざら不可能なことではない。先ず当時の首泥棒ときょうの百面相役者とが同一人物だと仮定するのだ(あの犯人はその後捕縛されてはいないのだから、これはあり得ることだ)。で、最初は、あるいは死体の脳味噌をとるのが目的だったかもしれない。だが、そうしてたくさんの首を集めた時、彼が、それらの首の脳味噌以外の部分の利用法を、考えなかったと断定することはできない。一般に犯罪者というものは、異常な名誉心を持っているものだ。それに、あの役者は、さっきも話した通り、うまく化けることが俳優の第一条件で、それさえできれば、日本一の名声を博するものと、信じきっている。なおその上に、首泥棒が偶然芝居好きででもあったと仮定すれば、この想像説はますます確実性をおびてくるのだ。君、僕の考えはあまり突飛過ぎるだろうか。彼がぬすんだ首からさまざまの人肉の面を製造したという、この考えは……」
おお、「人肉の面」! なんという奇怪な、犯罪者の独創であろう。なるほど、それは不可能なことではない。たくみに顔の皮をはいで、剥製にして、その上から化粧をほどこせば、立派な「人肉の面」が出来上がるに違いない。では、あの百面相役者の、その名にふさわしい幾多の変装姿は、それぞれに、かつてこの世に実在した人物だったのか。
僕は、あまりのことに、自分の判断力を疑った。その時の、Rや僕の理論に、どこか非常な錯誤があるのではないかと疑った。いったい「人肉の面」をかぶって、平気で芝居を演じ得るようなそんな残酷な人鬼が、この世に存在するであろうか。だが、考えるにしたがって、どうしても、そのほかには想像のつけようがないことがわかってきた。僕は一時間前に、現にこの眼で見たのだ。そして、それと寸分違わぬ人物が、ここに写真の中にいるのだ。またRにしても、彼は日頃冷静をほこっている男だ。よもやこんな重大な事実を、誤まって判断することはあるまい。
「もしこの想像があたっているとすると(実際このほかに考えようがないのだが)、捨てておくわけにはいかぬ。だが、今すぐこれを警察に届けたところで相手にしてくれないだろう。もっと確証を握る必要がある。たとえば百面相役者のつづらの中から、『人肉の面』そのものを探し出すというような。ところで、幸い僕は新聞記者だし、あの役者に面識もある。これは一つ、探偵のまねをして、この秘密をあばいてやろうかな……そうだ。僕はあすからそれに着手しよう。もしうまくいけば親戚の老婆の供養にもなることだし、また社に対しても非常な手柄だからね」
ついには、Rは決然として、こういう意味のことをいった。僕もそれに賛意を表した。二人はその晩二時頃までも、非常に興奮して語りつづけた。
さあそれからというものは、僕の頭はこの奇怪な「人肉の面」でいっぱいだ。学校で授業をしていても、家で本を読んでいても、ふと気がつくと、いつの間にかそれを考えている。Rは今頃どうしているだろう。うまくあの役者にちかづくことができたかしら。そんなことを想像すると、もう一刻もじっとしていられない。そこで、たしか芝居を見た翌々日だったかに、僕はまたRを訪問した。
行ってみると、Rはランプの下で熱心に読書していた。本は例によって、篤胤の「鬼神論」とか「古今妖魅考」とかいう種類のものだった。
「や、このあいだは失敬した」
僕があいさつすると、彼は非常におちついてこう答えた。僕はもう、ゆっくり話の順序など考えている余裕はない。すぐさま問題をきり出した。
「あれはどうでした。少しは手がかりがつきましたか」
Rはけげんそうな顔で、
「あれとは?」
「ソラ、例の『人肉の面』の一件ですよ。百面相役者の」
僕が声を落としてさも一大事という調子で、こう聞くとね。驚いたことには、Rの顔が妙にゆがみ出したものだ。そして、今にも爆発しようとする笑い声を、一所懸命かみ殺している声音で、
「ああ『人肉の面』か、あれはなかなか面白かったね」
というのだ。僕はなんだか様子が変だと思ったけれど、まだわからないのでボンヤリ彼の顔を見つめていた。すると、Rにはその表情がよほど間が抜けて見えたに違いない。彼はもうたまらないという様子で、やにわにゲラゲラ笑い出したものだ。
「ハハハハハ、あれは君、空想だよ。そんな事実があったら、さぞ愉快だろうという僕の空想にすぎないのだよ……なるほど、百面相役者は実際珍らしい芸人だが、まさか『人肉の面』をつけるわけでもなかろう。それから、首泥棒の方は、これは、僕の担当した事件で、よく知っているが、その後ちゃんと犯人があがっている。だからね、この二つの事実のあいだには、なんの連絡もないのさ。僕が、それをちょっと空想でつなぎ合わせてみたばかりなのだ。ハハハハ。ああ、例の老婆の写真かい。僕にあんな親戚なぞあるものか。あれはね、実は新聞社でうつした、百面相役者自身の変装姿なのだよ。それを古い台紙にはりつけて、手品の種に使ったというわけさ。種明かしをしてしまえばなんでもないが、でもほんとうだとおもっているあいだは面白かっただろう。この退屈きわまる人生もね、こうして、自分の頭で創作した筋を楽しんで行けば、相当愉快に暮らせようというものだよ。ハハハハ」
これで、この話はおしまいだ。百面相役者はその後どうしたのか、いっこううわさを聞かない。おそらく、旅から旅をさすらって、どこかの田舎で朽ちはててしまったのでもあろうか。
覆面の舞踏者
一
私がその不思議なクラブの存在を知ったのは、私の友人の井上次郎によってでありました。井上次郎という男は、世間にはそうした男が|間《ま》|々《ま》あるものですが、妙にいろいろな暗黒面に通じていて、たとえば、どこそこの女優なら、どこそこのうちへ行けば話がつくとか、オブシーン・ピクチュアを見せる遊廓はどこそこにあるとか、東京における第一流の賭場は、どこそこの外国人街にあるとか、そのほか、私たちの好奇心を満足させるような、種々さまざまの知識を、きわめて豊富に持ち合わせているのでした。その井上次郎が、ある日のこと私のうちへやってきて、さて改まって言うことには、
「むろん君なぞは知るまいが、僕たちの仲間に|二《は》|十《つ》|日《か》会という一種のクラブがあるのだ。実に変わったクラブなんだ。いわば秘密結社なんだが、会員は皆、この世のあらゆる遊戯や道楽に飽き果てた、まあ上流階級だろうな、金には不自由のない連中なんだ。それが、何かこう世の常と変わった、へんてこな刺戟を求めようという会なんだ。非常に秘密にしていて、めったに新らしい会員をこしらえないのだが、今度一人欠員ができたので……その会には定員があるわけだ……一人だけ入会することができる。そこで、友だちがいに、君のところへ話しにきたんだが、どうだい、はいっちゃ」
例によって、井上次郎の話は、はなはだ好奇的なのです。言うまでもなく、私はさっそく挑発されたものであります。
「そのクラブでは、一体どういうことをやるのだい」
私が尋ねますと、彼は待ってましたとばかり、その説明をはじめるのでした。
「君は小説を読むかい。外国の小説によくある、風変わりなクラブ、たとえば自殺クラブだ。あれなんか少し風変わりすぎるけれど、まあ、ああいった強烈な刺戟を求める一種の結社だね。そこでいろいろな催しをやる。毎月二十日に集まるんだが、一度ごとにあっと言わせるような事をやる。今どきこの日本で、決闘が行なわれると言ったら、君なんかほんとうにしないだろうが、二十日会では、こっそりと決闘のまねごとさえやる。もっとも命がけの決闘ではないけれどね。或る時は、当番に当たった会員が、たとえば人を殺したなんて、まことしやかに話したりする。それが真に迫まっているもんだから、誰しも胆をひやすよ。また或る時は、非常にエロチックな遊戯をやることもある。ともかく、そうしたさまざまの珍らしい催しをやって、普通の道楽なんかでは得られない、強烈な刺戟を味わうのだ。そして喜んでいるのだ。どうだい面白いだろう」
といった調子なのです。
「だが、そんな小説めいたクラブなんか、今どき実際にあるのかい」
私が半信半疑で聞き返しますと、
「だから君はだめだよ。世の中の隅々を知らないのだよ。こんなクラブなんかお茶の子さ。この東京には、まだまだもっとひどいものだってあるよ。世の中というものは、君たち君子が考えているほど単純ではないさ。早い話が、ある貴族的な集会所でオブシーン・ピクチュアの映画をやったなんてことは、世間周知の事実だが、あれを考えてみたまえ。あれなんか都会の暗黒面の一片鱗にすぎないのだよ。もっともっとドエライものが、その辺の隅々に、ゴロゴロしているのだ」
で、結局、私は井上次郎に説伏されて、その秘密結社へはいってしまったのです。さてはいってみますと、彼の言葉にウソはなく、いやそれどころか、多分こうしたものだろうと想像していたよりもずっとずっと面白い、面白いというだけでは当たりません、蠱惑的という言葉がありますが、あれですね。一度その会にはいったら、病みつきです。どうしたって、会員をよそうなんて気にはなれないのです。会員の数は十七人でしたが、その中でまあ会長といった位置にいるのは、日本橋の呉服屋の主人公で、これがおとなしい商売がらに似合わず、非常にアブノーマルな男で、いろいろな催しも、主としてこの呉服屋さんの頭からしぼり出されるというわけでした。おそらく、あの男は、そうした事柄にかけては天才だったのでありましょう。その発案が一つ一つ、奇想天外で、奇絶怪絶で、間違いもなく会員を喜ばせるのでした。
この会長格の呉服屋さんのほかの十六人の会員も、それぞれ一風変わった人々でした。職業分けにしてみますと、商人が一ばん多く、新聞記者、小説家……それは皆相当名のある人たちでした……そして貴族の若様も一人加わっているのです。かく言う私と井上次郎とは、同じ商事会社の社員にすぎないのですが、ふたりとも金持ちのおやじを持っているので、そうした贅沢な会にはいっても、別段苦痛を感じないのでした。申し忘れましたが、二十日会の会費というのは少々高く、たった一と晩の会合のために、月々五十円〔註、今の二万円ほど〕ずつ徴収せられるほかに、催しによってはその倍も三倍もの臨時費が要るのでした。これはただの腰弁にはちょっと手痛い金額です。
私は五カ月のあいだ二十日会の会員でありました。つまり五度だけ会合に出たわけです。先にも言う通り、一度はいったら一生やめられないほどの面白い会を、たった五カ月でよしてしまったというのは、いかにも変です。が、それにはわけがあるのです。そして、その、私が二十日会を脱退するに至ったいきさつをお話しするのが、実はこの物語の目的なのであります。で、お話は、私が入会以来第五回目の集まりのことからはじまるのです。これまでの四回の集まりについても、もし暇があればお話ししたく思うのですが、そして、お話しすればきっとあなたの好奇心を満足させることができると信じますが、残念ながら紙数に制限もあることですから、ここには省くことにいたします。
ある日のこと会長格の呉服屋さんが……井関さんと言いました……私のうちを訪ねてきました。そうして会員たちのうちを訪問して、個人個人の会員と親しみ、その性質を会得して、種々の催しを計画するのが、井関さんのやり口でした。そこではじめて会員たちの満足するような催しができるというものです。井関さんは、そんな普通でない嗜好を持っていたにもかかわらず、なかなか快活な人物で、私の家内なども、かなり好意を持って、井関さんの噂をするほどになっていました。それに、井関さんの細君というのがまた非常な交際家で、私の家内のみならず、会員たちの細君たちと大変親しくしていまして、お互に訪問をし合うようなあいだがらになっていたのです。秘密結社といっても、別に悪事を企らむわけではありませんから、会のことは、会員の細君たちにも、言わず語らずのあいだに知れ渡っているわけです。それがどういう種類の会であるかはわからなくとも、ともかく、井関さんを中心にして月に一度ずつ集会を催すということだけは、細君たちも知っていたのです。
いつものことで、井関さんは、薄くなった頭を掻きながら、恵比須さまのようにニコニコして、客間へはいってきました。彼はデップリ太った五十男で、そんな子供らしい会などにはまるで縁がなさそうな様子をしているのです。それが、いかにも行儀よく、キチンと座蒲団の上に坐って、さて、あたりをキョロキョロ見廻しながら、声を低めて、会の用談にとりかかるのでした。
「今度の二十日の打ち合わせですがね。一つ、今までとは、がらりと風の変わったことをやろうと思うのですよ。というのは、仮面舞踏会なのです。十七人の会員に対して、同じ人数の婦人を招きまして、お互に相手の顔を知らずに、男女が組んで踊ろうというのです。ヘヘヘヘ、どうです。ちょっと面白うがしょう。で、男も女も、精々仮装をこらしていただいて、できるだけ、あれがあの人だとわからないようにするのです。そして、わからないなりに、私の方でお渡ししたくじによって踊りの組を作る、つまり、この相手が何者だかわからないというところが、味噌なんです。仮面は前もってお渡しいたしますけれど、変装の方も、できるだけうまくやっていただきたい。一つはまあ、変装の競技会といった形なのですから」
一応面白そうな計画ですから、私はむろん賛意を表しました。が、ただ心配なのは相手の婦人がどういう種類のものであるかという点です。
「その相手の女というのは、どこから招かれるわけですか」
「ヘヘヘヘヘ」すると井関さんは、くせの、気味のわるい笑い方をして、「それはまあ、私に任せておいてください。決してつまらない者は呼びません。商売人だとか、それに類似の者でないことだけはここで断言しておきます。ともかく、皆さんをアッと言わせる趣向ですから、そいつを明かしてしまっては興がない。まあまあ、女の方は私に任せておいてください」
そんな問答を繰り返しているところへ、折悪しく私の家内がお茶を運んできました。井関さんはハッとしたように、居ずまいを正して、例の無気味な笑い方で、やにわにヘラヘラと笑いだすのでした。
「大へんお話がはずんでおりますこと」
家内は意味ありげに、そんなことを言いながらお茶を入れはじめました。
「ヘヘヘヘヘ、少しばかり商売上のお話がありましてね」
井関さんは、取ってつけたように、弁解めいたことを言いました。いつも、そんな調子なのです。そして、ともかく、一と通り打ち合わせをすませた上、井関さんは帰りました。むろん、場所や、時間などもすっかりきまっていたのでした。
二
さて当日になりますと、生れてはじめての経験です、私は命ぜられた通り、せいぜい念入りに変装して、あらかじめ渡されたマスクを用意して、指定の場所へ出かけました。
変装ということが、どんなに面白い遊戯であるかを、私はその時はじめて知ることができました。そのためにわざわざ、知り合いの美術家のところへ行って、美術家特有の変てこな洋服を借り出したり、長髪のかつらを買い求めたり、それほどにする必要もなかったのでしょうが、家内の白粉などを盗み出して、化粧をしたり、そして、それらの変装を、家の者たちに少しも悟られないように、こっそりとやっている気持が、また堪らなく愉快なのです。鏡の前で、まるでサーカスの道化役者ででもあるように、顔にベタベタ白粉を塗りつける心持、あれは実際、一種異様の不思議な魅力を持っているものです。私ははじめて、女が鏡台の前で長い時間を浪費する気持が、わかったように思いました。
ともかくも変装をすませた私は、異形の風体を人力車の幌に隠して、午後八時という指定に間に合うように、秘密の集会場へと出かけました。
集会場は山の手のある富豪の邸宅に設けられてありました。車がその邸宅の門に着くと、私はかねて教えられていた通り、門番小屋に見張り番を勤めている男に、或る合図をして、長い敷石道を玄関へとさしかかりました。アーク灯の光が、私の不思議な恰好を長々と、白い敷石道に映し出していました。
玄関には一人のボーイらしい男が立っていて、これはむろん会が雇ったものなのでしょう、私の風体を怪しむ様子もなく、無言で内部へ案内してくれました。長い廊下を過ぎて、洋風の大広間にはいると、そこにはもう、三々五々会員らしい人々や、その相手を勤める婦人たちが、立っていたり、歩いていたり、長椅子に沈んでいたりしました。おぼろにぼかした灯光が、広くて、立派な部屋を夢のように照らしていました。
私は、入口に近い長椅子に腰をおろして、知人を探し出すべく、部屋の中を見渡しました。しかし彼らはまあ、なんという巧みな変装者たちなのでしょう。確かに会員に違いない十人近くの男たちは、まるではじめて逢った人たちのように、背恰好から、歩き振りから、少しも見覚えがないのです。言うまでもなく顔面は、一様の黒いマスクに隠されて、見分けるべくもありません。
ほかの人はともかく、古くからの友だちの井上次郎だけはいかにうまく変装したからといって、見分けられぬはずはあるまいと、瞳をこらして物色するのですが、私のあとから次々に部屋にはいってきた人たちのうちにも、それらしいのが見当たりません。それはまあ、なんという不思議な晩であったことでしょう。いぶし銀のようにくすんだ色の広間の中に、鈍く光った寄木細工の床の上に、種々さまざまの変装をこらし、お揃いのマスクをはめた十七人の男と、十七人の女が、ムッツリとだまり込んだまま、今にも何事か奇怪な出来事の起こるのを待ち設けでもするように、或る者は静止し、或る者はうごめいているのです。
こんなふうに申しますと、読者諸君は、西洋の仮装舞踏会を連想されるかもしれませんが、決してそうではないのです。部屋は洋室であり、人々は大体洋装をしていましたけれど、その部屋が日本人の邸宅の洋室であり、その人々が洋装をした日本人であるように、全体の調子が非常に日本的で、西洋の仮装舞踏会などとはまるで違った感じのものでありました。
彼らの変装は、正体をくらます点においてきわめて巧みではありましたけれど、みなあまりに地味な、或いはあまりに粗暴な、仮装舞踏会という名称にはふさわしからぬものばかりでした。それに、婦人たちの妙に物おじをした様子で、なよなよと歩く風情は、あの活溌な西洋女の様子とは、似ても似つかぬものでありました。
正面の大時計を見ますと、もはや指定の時間も過ぎ、会員だけの人数も揃いました。この中に井上次郎がいないはずはないのだがと、私はもう一度目を見はって、みんなの異様な姿を調べてゆきました。ところが、やっぱり、疑わしいのが二、三見当たりましたけれど、これが井上だと言いきることのできる姿はないのです。荒い碁盤縞の服を着て同じハンチングをかぶった男の肩の恰好が、それらしくも見えます。また、赤黒い色のシナ服を着て、シナの帽子をかむり、わざと長い弁髪を垂れた男が、どうやら井上らしく見えます。そうかと思うと、ピッタリ身についた黒の肉じばんを着て、黒絹で頭を包んだ男の歩きっぷりが、あの男らしくも思われるのです。
おぼろな部屋の様子が影響したのでもありましょう。或いはまた、先にも言った通り、彼らの変装が揃いも揃って巧妙をきわめていたからでもありましょう。が、それらのいずれよりも、覆面というものが人を見分けにくくする力は恐ろしいほどでありました。一枚の黒布の覆面、それがこの不可思議な、また無気味な光景を、かもし出す第一の要素となったことは申すまでもないのです。
やがて、お互がお互をさぐり合い、疑い合って、奇妙なだんまりを演じているその場へ、さきほど玄関に立っていたボーイがはいってきました。そして、何か暗誦でもするような口調で、次のような口上を述べるのでありました。
「みなさま、長らくお待たせいたしましたが、もはや規定の時間でもございますし、御人数もお揃いのようでございますから、これからプログラムの第一にきめました、ダンスをはじめていただくことにいたします。ダンスのお相手をきめますために、あらかじめお渡し申しました番号札を、私までお手渡しを願い、私がそれを呼び上げますから、同じ番号のお方がおひと組におなりくださいますよう。それから、はなはだ失礼でございますが、中にはダンスというものを御案内のないお方様がおいでになりますので、今夜は、どなた様も、ダンスを踊るというおつもりでなく、ただ音楽に合わせまして、手をとり合って歩き廻るくらいのお考えで、御案内のないお方様も、少しも御遠慮なく、御愉快をお尽しくださいますよう。なお、組み合わせがきまりましたならば、お興を添えますために、この部屋の電灯をすっかり消すことになっておりますから、これもお含みおきくださいますようお願いいたします」
これはたぶん井関さんが命じたままを復唱したものにすぎないのですが、それにしてもなんという変てこな申し渡しでありましょう。いずれは気ちがいめいた|二《は》|十《つ》|日《か》会の催しのことですけれど、ちと薬が利きすぎはしないでしょうか。私は、それを聞くと、なんとなく身のすくむ思いがしたことであります。
さて、ボーイが番号を読み上げるに従って、私たち三十四人の男女は、ちょうど小学生のように、そこへ何列かに並びました。そして、十七|対《つい》の男女の組み合わせが出来上がったわけです。男同士でさえ、誰が誰だかわからないのですから、まして相手ときまった女が何者であるか、知れよう道理はありません。それぞれの男女は、おぼろげな灯光のもとに互に覆面を見かわして、もじもじと相手の様子をうかがっています。さすがに奇を好む二十日会の会員たちも、いささか立ちすくみの形でありました。
同じ番号の縁で私の前に立った婦人は、黒っぽい洋装をして、昔流の濃い覆面をつけ、その上から御丁寧にマスクをかけていました。一見したところ、こうした場所にはふさわしくない、しとやかな様子をしていましたけれど、さて、それが何者であるか、専門のダンサーなのか、女優なのか、或いはまた堅気の娘さんなのか、井関さんのせんだっての口振りでは、まさか芸者などではありますまいが、なにしろ、まったく見当がつかないのです。
が、だんだん見ていますうちに、相手の女のからだつきに、何か見覚えのあるような気がしてきました。気の迷いかもしれませんけれど、その恰好は、どこやらで見たことがあるのです。私がそうして彼女をジロジロ眺めているあいだに、先方でも同じ心と見えまして、長髪画家に変装した私の姿を熱心に検査し、思いわずらっている様子でした。
あの時、蓄音器の廻転しはじめるのがもう少しおそく、電灯の消えるのがちょっとでも遅れたなら、或いは私は、後に私をあのように驚かせ恐れさせたところの相手を、すでに見破っていたかもしれないのですが、惜しいことには、もう少しというところで、一時に広間が暗黒になってしまったのです。
パッと暗闇になったものですから、仕方なく、或いはやっと勇気づいて、私は相手の女の手を取りました。相手のほうでも、そのしなやかな手頸を私にゆだねました。気の利いた司会者は、テンポののろい、静かな絃楽合奏のレコードをかけましたので、ダンスを知った人も、知らない人も、それに合わせて、暗闇の中を廻りはじめました。もしそこに僅かの光でもあろうものなら、気がさして、とても踊ることはできなかったでしょうが、司会者の心遣いで、幸い暗闇になっていたものですから、男も女も、案外活溌に、おしまいには、コツコツというたくさんの足音が、それから、あらい息使いが、天井に響き渡るほども、勢いよく踊り出したものであります。
私と相手の女も、はじめのあいだは、遠方から手先を握り合って、遠慮勝ちに歩いていたのが、だんだんと、接近して、彼女の顎が私の肩に、私の腕が、彼女の腰に、密接して、夢中になって踊りはじめたのであります。
三
私は生れてから、あのような妙な気持を味わったことがありません。それは、まっくらな部屋の中です。そこの、寄木細工の滑らかな床の上を、樹の肌を叩いている無数のキツツキのように、コツコツと不思議なリズムをなして、私たちの靴音が走っています。そして、ダンス伴奏にはふさわしくない、むしろ陰惨な、絃楽またはピアノのレコードが、地の底からのように響いています。眼が闇になれるに従って、高い天井の広間の中を、暗いため一そう数多く見える、たくさんの人の頭がうごめいているのが、おぼろげに見えます。それが、広間のところどころに巨人のように屹立した、数本の太い円柱をめぐって、チラチラと入り乱れている有様は、地獄の饗宴とでも形容したいような、世にも奇怪な感じのものでありました。
私は、この不思議な情景の中で、どことなく見覚えのある、しかしそれが誰であるかは、どうしても思い出せないひとりの婦人と、手を執り合って踊っているのです。そしてそれが夢でも幻でもないのです。私の心臓は恐怖とも歓喜ともつかぬ一種異様の感じをもって、はげしく躍るのでありました。私は相手の婦人に対して、どんな態度を示すべきかに迷いました。もし、それが売女のたぐいであるなれば、どのような不作法も許されるでありましょう。が、まさかそうした種類の婦人とも見えません。では、それを|生《なり》|業《わい》にしている|踊女《おどりめ》のたぐいででもありましょうか。いやいや、そんなものにしては、彼女はあまりにしとやかで、且つ舞踏の作法さえ不案内のように見えるではありませんか。それなら、彼女は堅気の娘、或いはどこかの細君ででもありましょうか。もしそうだとすると、井関さんの今度のやり方は、あまりにご念の入った、むしろ罪深いわざと言わねばなりません。
私はそんなことを忙しく考えながら、ともかくも皆と一緒に廻り歩いておりました。すると、ハッと私を驚かせたことは、そうして歩いているあいだに、相手の婦人の一方の腕が、驚くべき大胆さをもって、スルスルと私の|頸《くび》に巻きついてきたではありませんか。しかもそれは、決して媚を売る女のやり方ではなく、といって、若い娘が恋人に対する感じでもなく、少しもぎこちなさを見せないで、さもなれなれしく、当然のことのように行なわれたのであります。
まぢかく寄った、彼女の覆面からは、軽くにおやかな呼吸が、私の顔をかすめます。滑らかな彼女の絹服が、なよなよと、不思議な感触をもって、私のびろうどの服にふれ合います。このような彼女の態度は俄かに私を大胆にさせました。そして、私たちは、まるで恋人同士のように、無言の舞踏を踊りつづけたことであります。
もう一つ私を驚かせたのは、闇をすかしてほかの踊り手たちを見ますと、彼らもまた、私たちと同じように或いは一そう大胆に、決して初対面の男女とは思えないような踊り方をしていることでありました。いったいまあ、これはなんという気違い沙汰でありましょう。そうしたことに慣れぬ私は、見も知らぬ相手と暗闇の中を踊り狂っている自分が、ふと空恐ろしくなるのでした。
やがて、ちょうど皆が踊り疲れたころに、蓄音器の奏楽がハタと止って、先程のボーイの声が聞こえました。
「皆さま、次の部屋に飲み物の用意ができましてございます。しばらくあちらで御休息くださいますようお願いいたします」
声につれて境のドアが左右にひらかれ、まぶしい光線がパッと私たちの眼をうちました。
踊り手たちは司会者の万遺漏なき心くばりを感じながら、しかし無言のまま、一対ずつ手をとり合って、その部屋へはいるのでした。広間には比ぶべくもありませんが、でも相当広い部屋に、十七箇の小食卓が、純白のクロースに覆われて、配置よく並んでいました。ボーイの案内につれて、私と私の婦人とは、隅の方のテーブルにつきました。見ると、給仕人はなくて、おのおののテーブルの上に二つのグラスと二本の洋酒の瓶が置かれてあります。一本はボルドウの白葡萄酒、他の一本はスコッチのウイスキーでありました。
やがて、奇怪な酒宴がひらかれました。かたく言葉を発することを禁じられた私たちは、まるで|唖《お》|者《し》のように黙々として、杯を満たしては飲みました。婦人たちも勇敢に葡萄酒のグラスをとるのでした。
間もなく私は烈しい酔いをおぼえました。相手の婦人に、葡萄酒をついでやる私の手が震えて、グラスの縁がカチカチと鳴りました。私は思わず変なことをどなりそうになっては、あわてて口をつぐみました。私の前の覆面の女は、口までも覆った黒布を片手で少し持ち上げて、つつましく杯をかさねました。そして、彼女も酔ったのでしょう。覆面をはずれた美しい皮膚は、もうまっ赤になっておりました。
そうして、彼女を見ているうちに、私はふと私のよく知っている、或る人を思い浮かべました。彼女の頸から肩の線が、見れば見るほど、その人に似ているのです。しかし、その私の知っている人が、まさかこんな場所へくるはずはありません。最初から、なんとなく見たようなと感じたのは、おそらく私の気の迷いにすぎなかったのでしょう。世の中には、顔でさえも瓜二つの人があるくらいです。姿勢が似ていたからとて、迂闊に判断をくだすことはできません。
それはともかく、無言の酒宴は、今やたけなわと見えました。言葉を発するものこそありませんけれど、室内はグラスの触れ合う響き、衣ずれの音、言葉をなさぬ人声などで、異様にどよめいてきました。誰も彼も、非常に酔っているように見えました。もしあの時、ボーイの口上が少しでもおくれたなら、誰かが叫び出したかもしれません。或いは誰かが立ちあがって踊り出したかもしれません。が、さすがは井関さんの指図です。もっとも適当な時機にボーイが現われました。
「皆さま、お酒がすみましたら、どうか踊り場の方へお引き上げを願います。あちらではもう、音楽がはじまっております」
耳をすますと、隣の広間からは、酔客たちの心をそそるように、前とはガラリと変わった快活な、むしろ騒々しい管絃楽が響いてきました。人々は、その音楽にさそわれるようにゾロゾロと広間に帰りました。そして、以前に数倍した物狂わしき舞踏がはじまるのでした。
あの夜の光景をなんと形容したらよいのでしょう。耳も聾せんばかりの騒音、闇の中に火花が散るかと見える無数の乱舞、そして意味のない怒号、私の筆では到底、ここにその光景を描き出すことはできません。のみならず、私自身も、四肢の運動につれて発した、極度の酔いに正気を失って、人々が、また私自身が、どのような狂態を演じたかを、ほとんど記憶しないのであります。
四
焼けるような喉の乾きをおぼえて、私はふと眼を覚ますと、私は、私の寝ていた部屋が、いつもの自分の寝室でないことに気づきました。さてはゆうべ踊り倒れて、こんな家へ担ぎ込まれたのかな。それにしても、この家は一体全体どこだろう。見ると、枕もとの手の届くところに、ベルの紐が延びています。私はともかく、人を呼んで聞いてみようと思い、その方へ手を伸ばしかけて、ふと気がつくと、そこのタバコ盆のわきに、一と束の半紙が置かれ、その一ばん上の紙に何か鉛筆の走り書きがしてあるのです。好奇心のまま、読みにくい仮名文字を、なにげなく拾ってみますと、それは次のような文章でありました。
「あなたはずいぶんひどい方です。お酒の上とはいえ、あんな乱暴な人とは知りませんでした。しかし今さら言ってもしようがありません。私はあれは夢であったと思って忘れます。あなたも忘れてください。そして、このことは井上には絶対に秘密を守ってください。お互のためです。私はもう帰ります。春子」
それを読んで行くうちに、寝ぼけていた頭が、一度にハッキリして、私は何もかも悟ることができました。
「あれは、私の相手を勤めた婦人は、井上の細君だったのか」そして、言いがたき悔恨の情が、私の心臓をうつろにするかと怪しまれました。
泥酔していたとはいえ、夢のように覚えています。ゆうべ闇の乱舞が絶頂に達したころ、例のボーイが、そっと私たちのそばへきてささやきました。
「お車の用意ができましてございます。御案内いたしましょう」
私は婦人の手をとって、ボーイのあとにつづきました(どうしてあの時、彼女はあんなに従順に、私に手を引かれていたのでしょう。彼女もまた酔っていたのでしょうか)。玄関には一台の自動車が横づけになっていました。私たちはそれに乗ってしまうと、ボーイは運転手の耳に口をつけて、
「十一号だよ」とささやきました。それが私たちの組み合わせの番号だったのです。
そして、多分この家へ運ばれたのです。その後のことは一そうぼんやりして、よくわかりませんけれど、部屋へはいるなり、私は自分の覆面をとったようです。すると相手の婦人はアッと叫んでいきなり逃げ出そうとしました。それを夢のように思い出すことができます。でもまだ、酔いしれた私は、相手が何者であるかを推察することができなかったのです。すべて泥酔のさせたわざです。そして、今この置き手紙を見るまで、私は彼女が友人の細君であったことを少しも気づかなかったのです。私はなんという馬鹿者でありましょう。
私は夜の明けるのを恐れました。もはや世間に顔出しもできない気がします。私はこの次、どういう態度で井上次郎に会えばいいのでしょう。また|当《とう》の春子さんに会えばいいのでしょう。私は青くなって、とつおいつ返らぬ悔恨にふけりました。そういえば、私は最初から相手の婦人に或る疑いを持っていたのです。覆面と変装とに被われていたとはいえ、あの姿は、どうしても春子さんに違いなかったのです。私はなぜもっと疑ってみなかったのでしょう。相手の顔を見分けられぬほども泥酔する前に、なぜ彼女の正体を悟り得なかったのでしょう。
それにしても、井関さんの今度のいたずらは、彼が井上と私との親密な関係を、よく知らなかったとはいえ、ほとんど常軌を逸していると言わねばなりません。たとえ私の相手が、他の婦人であったにしても、許すべからざる計画です。彼はまあ、どういう気で、こんなひどい悪企みをもくろんだのでありましょう。それにまた、春子さんも春子さんです。井上という夫のある身が、知らぬ男と暗闇で踊るさえあるに、このような場所へ運ばれるまで、だまっているとは。私は彼女がそれほど不倫な女だとは、今の今まで知りませんでした。だが、それはみな私の得手勝手というものでしょう。私さえあのように泥酔しなかったら、こんな、世間に顔向けもできないような、不愉快な結果を招かずともすんだのですから。
その時の、なんともいえぬ不愉快な感じは、いくら書いても足りません。ともかく、私は夜の明けるのを待ちかねて、その家を出ました。そして、まるで罪人ででもあるように、おしろいこそ落としましたけれど、ほとんどゆうべのままの姿を車の幌に深く隠して、家路についたことであります。
五
家に帰っても、私の悔恨は深まりこそすれ、決して薄らぐはずはありません。そこへ持ってきて私の女房は、彼女にしてみれば無理もないことでしょうが、病気と称して一と間にとじこもったきり、顔も見せないのです。私は女中の給仕でまずい食事をしながら、悔恨の情をさらに倍加したことであります。
私は、会社へは電話で断わっておいて、机の前に坐ったまま、長いあいだぼんやりしていました。眠くはあるのですが、とても寝る気にはなれません。そうかといって、本を読むことも、そのほかの仕事をすることも、むろんだめです。ただぼんやりと、取り返しのつかぬ失策を、思いわずらっているのでした。
そうして、思いに耽っているうちに、私の頭にふと一つの懸念が浮かんできました。
「だが待てよ」私は考えるのでした。「一体全体こんなばかばかしいことがありうるものだろうか。あの井関さんがゆうべのような不倫な計画を立てるというのも変だし、それにいくら泥酔していたとはいえ、朝になるまで相手の婦人を知らないでいるなんて、少しおかしくはないか。そこには、私をして強いてそう信じさせるような、技巧が弄せられてはいなかったか。第一、井上の春子さんが、あのおとなしい細君が、舞踏会に出席するというのも信じがたいことだ。問題はあの婦人の姿なんだ。殊に頸から肩にかけての線なんだ。あれが井関さんの巧妙なトリックではなかったのか、遊里の巷から覆面をさせれば春子さんと見違うような女を探し出すのは、さほど困難ではないだろう。おれはそうした影武者のために、まんまと一杯食わされたのではないか。そして、この手にかかったのは、おれだけではないかもしれない。人の悪い井関さんは、意味ありげな暗闇の舞踏会で、会員のひとりひとりをおれと同じような目にあわせ、あとで大笑いをするつもりだったのではないか。そうだ、もうそれにきまった」
考えれば考えるほど、すべての事情が私の推察を裏書きしていました。私はもうくよくよすることをやめ、さきほどとは打って変わって、ニヤニヤと気味のわるい独り笑いを洩らしさえするのでした。
私はもう一度外出の支度をととのえました。井関さんのところへ押しかけようというのです。私は彼に私がどんなに平気でいるかということを見せつけて、ゆうべの仕返しをしなければなりません。
「オイ、タクシイを呼ぶんだ」
私は大声で女中に命じました。
井関さんの住居までは、さして遠い道のりではありません、やがて車は彼の家の玄関に着きました。ひょっと店の方へ出ていはしないかと案じましたが、幸い在宅だというので、私はすぐさま客間に通されました。見ると、これはどうしたというのでしょう。そこには、井関さんのほかに|二《は》|十《つ》|日《か》会の会員が三人も顔を揃えて談笑していたではありませんか。では、もう、種明かしがすんだのかしら、それとも、この連中だけは、私のような目にもあわなかったのかしら、私は不審に思いながら、しかしさも愉快そうな表情を忘れないで、設けられた席につきました。
「やあ、ゆうべはお楽しみ」
会員のひとりが、からかうように声をかけました。
「なあに、僕なんざだめですよ。君こそお楽しみでしたろう」
私は、顎を撫でながら、さも平然と答えました。「どうだ驚いたか」という腹です。ところが、それにはいっこう反響がなくて、相手から返ってきた言葉は、実に奇妙なものでありました。
「だって、君のところのはわれわれのうちで一ばん新らしいんじゃありませんか。お楽しみでないはずはないや。ねえ、井関さん」
すると、井関さんは、それに答えるかわりに、アハアハと笑っているのです。どうも様子が変なのです。彼らは私の表情などには、いっこうお構いなく、ガヤガヤと話をつづけるのです。
「だが、ゆうべの趣向は確かに秀逸だったね。まさか、あの覆面の女が、てんでんの女房たあ気がつかないやね」
「あけてくやしき玉手箱か」
そして、彼らは声を揃えて笑うのです。
「むろん、最初札を渡す時に夫妻同一番号にしておいたんだろうが、それにしても、あれだけの人数がよく間違わなかったね」
「間違ったら大変ですよ。だから、その点は充分気をつけてやりました」
井関さんが答えるのです。
「井関さんがあらかじめむねを含めてあったとはいえ、女房連、よくやってきたね。あれが自分の亭主だからいいようなものの、味を占めてほかの男にあの調子でやられちゃ、たまらないね」
そして、またもや笑い声が起こりました。
それらの会話を聞くうちに、私はもはやじっと坐っているに耐えなくなりました。たぶん私の顔はまっ青であったことでしょう。これですっかり事情がわかりました。井関さんは、あんなに、自信のあるようなことを言っていますが、どうかした都合で、私だけ相手が間違ったのです。自分の女房のかわりに春子さんと組み合ったのです。私は運わるくも、偶然、恐ろしい間違いに陥ってしまったのです。「だが」私はふと、もう一つの恐ろしい事実に気づきました。冷たいものが、私の腋の下をタラタラと流れました。「それでは、井上次郎はいったい誰と組んだのであろう?」
言うまでもないことです。私が彼の妻と踊ったように、彼は私の妻と踊ったのです。おお、私の女房が、あの井上次郎と? 私は目まいのために倒れそうになるのをやっとこらえました。
それにしても、これはまた、なんという恐ろしい錯誤でありましょう。挨拶もそこそこに、井関さんの家をのがれだした私は、車の中で、ガンガンいう耳を押さえながら、どこかにまだ一縷の望みがあるような気がして、いろいろと考え廻すのでありました。
そして、車がうちにつくころ、やっと気がついたのは、例の番号札のことでした。私は、車を降りるとうちの中へ駈け込み、書斎にあった変装用の服のポケットから、その番号札を探し出しました。見ると、そこには横文字で十七としるされています。ところで、ゆうべの私たちの番号は、私ははっきり覚えていました。それは、十一なのです。わかりました。それは井関さんの罪でも、誰の罪でもないのです。私自身の取り返しのつかぬ失策なのです。私は井関さんから前もってその札を渡された時、間違わぬようにと、くれぐれも注意があったにもかかわらず、よくも見ておかないで、あの会場の激情的な空気の中で、そぞろ心に札を見たのです。そして1と7とを間違えて、十一番と呼ばれた時に返事をしたのです。でも、ただ番号の間違いくらいから、こんな大事を惹き起こそうとは、誰が想像しましょう。私は二十日会などという気まぐれなクラブに加入したことを、今更ら後悔しないではいられませんでした。
それにしても、井上までがその番号を間違えたというのは、どこまでいたずらな運命でしょう。おそらく彼は、私が十一番の時に答えたため、自分の札を十七番と誤信してしまったのでしょう。それに井関さんの数字は、7を1と間違え易いような書体だったのです。
井上次郎と、私の妻のことは、私自身の場合に引き比べて、推察に難くありません。私の変装については、妻は少しも知らないのですし、彼らもまた、私同様、気ちがいのように酔っぱらっていたのですから。そして何よりの証拠は、一と間にとじこもって私に顔を見せようともせぬ妻のそぶりです。もう疑うところはありません。
私はじっと書斎に立ちつくしていました。私にはもはやものを考える力もありませんでした。ただ焼きつくように私の頭を襲うものは、おそらく一生涯消え去る時のない、私の妻に対する、井上次郎に対する、その妻、春子に対する、唾棄すべき感情のみでありました。
一人二役
人間は退屈すると、何をはじめるか知れたものではないね。
僕の知人にTという男があった。型のごとく無職の遊民だ。たいして金があるわけではないが、まず食うには困らない。ピアノと、蓄音器と、ダンスと、芝居と、映画と、そして遊里の巷、その辺をグルグル廻って暮らしているような男だった。
ところで、不幸なことに、この男、細君があった。そうした種類の人間に、宿の妻というやつは、笑いごとじゃない、正に不幸というべきだよ。いや、まったく。
別に嫌っていたというほどではないが、といって、むろん女房だけで満足しているTではない。あちらこちら、箸まめにあさり歩く。いうまでもなく、女房は焼くね。それが又、Tにはちょっと捨て難い、おつな楽しみでもあったのだ。いったいTの女房というのが、なかなかどうして、Tなんかにはもったいないような美人でね。その女房に満足しないほどのTだから、その辺にざらにある売女などに、これはという相手の見つかろうはずもないのだが、そこがそれ、退屈だ。精力の過剰に困っているのでもなければ、恋を求めるわけでもない。ただ退屈だ。次々と違った女に接して行けば、そこにいくらか変った味がある。また、どうした拍子で、非常な掘出しものがないでもあるまい。Tの遊びは大体そんなような意味合いのものだった。
さて、そのTがね、変なことをはじめた話だよ。それが実に奇想天外なんだ。遊戯もここまでくると、ちょっとすごくなるね。
誰しも感じることだろうが、自分の女房がね、自分以外の男に、つまり間男にだね、接する時の様子をすき見したら、さぞ変な味がするだろう……いや、実際にやられてはたまらないが、ただふっとそんな好奇心の起こることがある。Tのあの奇行の動機も、おそらく大部分はそうした好奇心だったに違いない。T自身では、彼の放蕩三昧に対する細君の嫉妬を封ずる手段だと称していたがね。
で、彼は何をしたかというと、ある夜のこと、頭から足の先まで、すっかりそとでととのえた新しい服装で、鼻の下へつけひげまでして、つまり手軽な変装をしたんだね。そして、自分のでない、でたらめのイニシアルを彫らせた銀のシガレット・ケースを袂にしのばせて、なにげないふうで自宅へ帰ったものだ。
細君は、Tがいつもの通り、どっかで夜ふかしをして帰宅したのだと信じきっている。いや、それは当然のことだが、つまりTの変装に少しも気がつかなかった。夜ふけに寝ぼけまなこで見たのだからそれも無理ではない。Tの方でも充分用心をして、新しい着物の縞柄なども、以前からあるのとまぎらわしいようなものを選んでいたし、つけひげは床にはいるまで、手の平や、ハンカチなどで隠すようにした。で、結局、Tのこの奇妙な計画はまんまと成功したんだ。
床の中でね、彼らは電燈を消して寝る習慣だったから、まっ暗な床の中でね、Tはやっとひげを押さえていた手を離した。で、つまり、当然だね、その異様な感触が、細君を驚かせた。
「あら……」
細君が、かわいらしい悲鳴を上げたのは、こりゃ決して無理はない。同時にTとしては、ここがもっともむずかしいところだ。彼は細君がひげの存在を認めたことがわかると、早速向きを変えて、二度とひげにさわらせないように布団をかぶって、グウグウ空鼾をかき出したものだ。
ここで、細君があやしんで、あくまでせんさくをしようものなら、Tの計画は、すっかりオジャンだ。空鼾をかきながら、Tはもうビクビクものだったというね。ところが、細君案外暢気なもので、何か勘違いしたとでも思ったのか、そのままじっとしている。しばらく待っていると、スウスウとやさしい寝息が聞こえてきた。もうしめたものだ。
そこで、Tは、細君が充分寝込んだ折を見すまして、ソッと床からはい出した。手早く着物を着ると、例の銀のシガレット・ケースだけを枕もとへ残して、音のしないように、家から抜け出した。それも、まともな入口からではなくて庭の塀をのり越したのだ。もうその時分車なんかありゃしない、テクテクと十何丁を、行きつけの待合まで歩いた。酔狂な男もあったものだ。
さて、翌朝だ。細君、眼をさましてみると、いっしょに寝ていたはずの夫が、もぬけのからだから、少なからず驚いた。家中探してみたが、どこにもいない。寝坊の夫が、この早朝外出するはずもなし、妙だなと思いながら、ふっと気がついたのは、枕もとのシガレット・ケースだ。いっこう見なれぬ品だ。夫が始終持っているのとは違う。で、手にとって調べてみると、まるで心当たりのないイニシアルが刻んである。中の巻煙草まで、夫の常用のものとは違っている。夫がどこかで取り違えてきたのかとも考えてみたが、さて、なんとやら腑に落ちぬ。と、思い出すのは、ゆうべのひげの一件だ。さあ、細君どれほど心配したことであろう。
そこへ、Tが、ゆうべ家を明けたのがきまりが悪いというような、殊勝気な顔つきで帰ってきた。むろん服装は、前日家を出た時のと着かえているし、つけひげもとってある。いつもなら、細君、ただはおかないのだけれど、きょうはそれどころではない。彼女の方にも途方もない心配があるのだ。妙なぐあいで、だんまりで、Tは茶の間へ通る、細君は青い顔をしてあとからついてくる。
しばらくすると、細君がおずおずしながら聞くんだね。
「この煙草入れ、どっかで取りかえていらっしたのじゃなくって」
いうまでもなく、例の銀製のシガレット・ケース。
「いいえ。それ、どうかしたのかい」
と、Tがとぼけてみせると、
「だって」と少しあまえて、「ゆうべ、あなたがもってお帰りなすったのじゃありませんか」
「へええ」とさらにとぼけて、「だが、僕のはちゃんと、これ、ここに持っているよ。それに、第一僕がゆうべ帰ったって?」ここで少し調子を高める。この一ことで、細君をハッとさせるわけだね。
などと、落語家みたいに、会話入りでやってちゃ、際限がないから、それはよすとして、よろしく一問一答をくりかえしたのち、とど、細君がゆうべのいちぶしじゅうを、打ちあけてしまうところまでこぎつけた。
そこで、Tはさも不思議そうな顔をして見せ、そんなばかなことのあろう道理がない。自分はゆうべ××|家《や》で、なんの誰とひと晩呑み明かしたのだから、なんならあの男に聞いてみるがいい、とこれがつまり、探偵小説の言葉でいえばアリバイだね。それは前もってちゃんと頼み込んであるのだ。え、お前がそのアリバイを勤めたのかって、いや、違う違う。
お前、夢でも見たのではないか。いいえ、決して夢ではありません。夢でなかった証拠には、ちゃんと煙草入れが残っているのだ。はてな、昔の書物に、離魂病というのが書いてあるが、まさか今の時節、そんなこともあるまい。その離魂病というのはね、一人の人間の姿が二つに分かれて、同時に、違った場所で、違った行ないをするというのだ。などと、ちょっと怪談めいてみせたり、お前そんなことをいって、実はソッとどこかの男を引き入れているのではないか、などとおどしつけてみたり、それが又、Tには、なんとも愉快でたまらないというのだから、因果さ。
が、ともかくも、その日はうやむやですんでしまった。むろん、一度ぐらいではだめだ。Tの計画では、幾度も幾度もそれをつづけてやってみるつもりだった。
二回目は少々心配した。細君、前に懲りているから、うっかり変装して行こうものなら、騒ぎ出しやしないかというのだ。で、今度は、家にはいる時には、変装もせず、ひげもつけずに行って、さて電燈を消して床につき、細君がもう寝入るというころを見はからって、夢うつつのあいだに、ほんの瞬間、例のひげの感触を与え、そして、寝入ってしまったのを見すまして、やっぱり前の通り、イニシアルを縫いつけたハンカチを残して、家を抜け出す手筈にしたが、なんと、それが再びうまく成功したではないか。翌朝の模様は、前の時と似たり寄ったりで、ただ、細君の顔が一層青ざめ、Tの狂言嫉妬がさらに手ごわくなったくらいの違いだった。
そうして、三度となり、四度とかさなって行くにしたがって、Tのお芝居はますます上達し、今では、細君にとっては、煙草入れや、ハンカチのイニシアルの男が、はっきりした実在の人物になってきたが、それと同時に、ここに妙な事が起こってきたのだ。これまでのところはね、まあいわば笑い話にすぎないけれど、これから先は、話が少し固くなってくるのだよ。人間の心が、いかにたよりない、そして又、不思議なものだかといったふうの、ちょっと考えさせられるものを含んでいるのだよ。
第一に起こった変化は、細君のがわにあった。その貞女をもって聞こえた細君がね、女なんて実際わからないものだ。変装した方のTにたいして、明らかにTのほかの男だと信じつつ、ある好意を見せはじめたのだ。この辺の心理はかなり不思議なものだが、しかし、昔の物の本などによく例がある。つまり、それは、なにびとともわからぬ男との夜ごとの逢瀬は、おそらく彼女にとって、一つのおとぎ話だったのでもあろうか。
一方において、彼女は、変装のTがそのつど残していく証拠品を、夫であるTに隠すようになった。そればかりか、他の一方においては、変装のTに対して、夫とは別人であると意識した上の、罪のささやきをささやくようになった。「あなたが、どこのなんというお方だか、その見知らぬあなたが、どうしてあたしのところへ通よってくださるのか、あたしには少しもわからない。でも、あなたのご親切が、今ではもう、あたしには忘れがたいものになってしまった。あなたのお出でなさらぬ夜が淋しく感じられさえする。この次は、いつきてくださるのでしょうか」そうした細君の変心(というには少し変だけれど)を知った時の、Tの心持は、実際なんとも形容のできない変てこなものであったに違いない。
一方から見れば、これは、Tの最初の目論見が完全にはたされたわけであった。こうして、細君の方に大きな弱味ができてしまえば、彼の放蕩は五分五分だ。決して細君に対して引け目を感じる必要はない。だから、彼の計画からいえば、この辺で、この妙な遊戯を打ち切って、変装した彼自身を、永久にこの世から葬ってしまえばよいのだ。そうすれば、もともと実在しない人物のことだから、あとにわずらいの残るはずはないとTは考えていた。
ところが、今彼の心は、最初は全然予想しなかった、極度の混乱に陥ってしまったのだ。たとえ仮想の人物にもせよ、細君が彼以外の男を愛しはじめたという、この恐ろしい事実が彼をうった。はじめは狂言であった嫉妬が、真剣なものに変ってきた。もし、こういう心持が嫉妬といえるならばだ。そこには相手がないのだ。一体全体、誰に向かって嫉妬をするのだ。細君は決してT以外の男に肌身を許したわけではない。つまり、彼の恋敵は、とりも直さず彼自身にほかならぬのだ。
さあ、そうなると、以前はさほどでもなかった細君が、この世に二人とないものに思われてくる。その細君を、他人に(正しくいえば自分自身にだが)奪われたかと思うと、くやしさはひと通りではない。細君がぼんやり物思いにふけっている。ああ彼女は今、もう一人の男のことを思っているのだな。そう考えると、もうたまらない。Tは実に取り返しのつかぬことをやってしまったのだ。彼は自分自身の仕掛けた罠にかかったのだ。
あわてて、仮装を中止してみたところで、今さらなんの甲斐もなかった。夫婦のあいだには、いつの間にか妙な隔意を生じていた。細君はともすれば憂鬱になった。おそらく彼女は、姿を見せぬ男のことを諦めかねているのに違いない。Tはそれを見るのがつらかった。と同時に、それほど心にかけている男というのが、実はもう一人の自分であることを考えると、それはまんざら嬉しくないこともなかった。
いっそいちぶしじゅうを打ちあけてしまおうか、だが、そうすることはなんとなくいやだった。一つはあまりにばかばかしい自分の行為が恥かしくもあったし、それに、もう一つは、実にこれが最大の原因なのだが、生れてはじめて経験した忍ぶ恋路の身も世もあらぬ楽しさを、Tはどうにも忘れかねた。彼は、そこに、ほんとうの恋を見出したように思った。本来のTに対しては、世間なみの女房にすぎなかった彼女が、その心の奥底にあのような情熱を隠していようとは。Tは全く意外であった。そして逢瀬が重なれば重なるほど、そのことは明らかになって行った。今さら、あれは狂言だったなどと、どうしていえるものか。
しかし、この二重生活をいつまでもつづけることは、わずらわしいばかりでなく、細君に真相を悟られるおそれがあった。これまでは、いつも夜ふけを選んで、暗い電燈の下や、多くはその電燈さえもない、闇の中で会っていたのだし、一方明白なアイバイが用意してあったから、まず安全であったけれど、そんな異常な会合がそうそうつづけられるものではない。とすると、そこには三つの方法しかない。第一に仮想の人物を葬ってしまうこと、第二にトリックのいちぶしじゅうを打ちあけること、そして第三は、実に変なことだけれど、彼が、細君に愛想をつかされた、いわばこの世に用のないTという人物を辞職して、そのかわりに一方の仮想の男になりきってしまうこと。
今もいう通り、仮想の人物としての、細君との、いわば初恋を発見した彼は、どうにも、第一第二の道を選ぶ気にはなれなかった。そこで非常にむずかしいことだとは思ったが、ついに第三の方法をとることに決心した。つまり、Tという男が、ABの二役を勤め、それから今度は、はじめのAをすてて、まるで違ったBの方に化けてしまうのだ。かつてこの世に存在しなかった一人の人間をこしらえるのだ。
そう決心すると、Tはまず旅行と称して、一カ月ばかり家をあけ、そのあいだに、できるだけ顔形を変えようとした。頭髪の刈り方を違え、口ひげをはやし、目がねをかけ、医者の手術を受けて、ひとえ瞼を二重にし、その上、顔面の一部に小さい傷さえこしらえた。そして、ひげが伸びたころに、わざわざ九州の方まで出掛けて行って、そこから、細君のところへ一通の絶縁状を送ったものだ。
細君は途方に暮れた。相談を持ち込む親戚とてもないのだ。幸い夫が多額の金を残して行ったので、その方の不自由は感じなかったが、そうかといって、じっとしているわけにはいかぬ、こんな時、あの方がきてくだすったら、きっと彼女はそう思ったに違いない。ちょうどそこへ、仮想の男になりすましたTがヒョッコリやってきた。最初は、細君その男をTだといって聞かなかったが、Tの友人がたずねてきても、まるで話が合わなかったり(それはTがあらかじめ頼んだこの芝居の脇役なのだ)、仮想の男の身許が明かになったりしたので(これもTがこしらえておいたのだ)、つい、彼らがまったく別人であることを信ずるようになった。これが、何かそうする理由でもあったのなら、いくらなんでもだまされはしないだろうが、T自身の心持をほかにしては、まるで理由というものがないのだ。まさか、こんなばかばかしいお芝居が演じられようとは、誰にしたって思いもよらないからね。Tの細君が案外やすやすとだまされたのも無理はないよ。
間もなく、彼らは住所をかえて同棲することになった。むろん名前もTではなくなった。お蔭で、僕らTの友人はかたくお出入りをさし止められたものだ。聞くところによると、その後Tはふっつり遊ばなくなったそうだ。そして、この喜劇にもひとしいお芝居が、案外効果をおさめて、彼らの仲は、引きつづき非常に睦まじくいっているという噂だ。世の中には変った男もあるものだね。
ところで、お話はまだ少しあるんだよ。それは、つい最近のことだが、あるところで、僕はふと昔Tであった男に出会った。見ると彼は例の細君を同伴している。で僕は、言葉をかけてはわるいのだろうと思い、なにげないふうをよそおって、彼らの前を通り過ぎようとすると、意外にもTの方から僕の名前を呼びかけた。そして、
「いや、そのご配慮には及びませんよ」
と、昔から見ると、ずっと快活な声でTがいった。僕たちはそこにあった椅子に腰かけて、久しぶりで語り合った。
「なにね、もうすっかり手品の種がわかっているのですよ。家内をうまく担いだつもりでいた私の方が、実はすっかり、あべこべに担がれていたのです。家内は私のいたずらを、最初から気づいていたんだそうです。でも、別に害のあることでもなし、それで家庭が円満に行くようにでもなれば、これに越したことはないと思い、つい、だまされたようなふうをよそおっていたのだといいます。道理でうまく運び過ぎると思いましたよ。ハハハハハハ。女なんて魔物ですね」
それを聞くと、かたわらに立っていた、相変らず美しいTの細君は恥かしそうにほほえんで見せたものだ。
僕も、最初からそんなことではあるまいかと、いくらか疑いを抱いていたので、さして驚きはしなかったが、Tにはそれが自慢であるらしく、幾度も同じことを繰り返して、自分で驚いてみせていた。この調子なら、先生やっぱり仲睦まじくやっているな。そこで僕はひそかに、御両人を祝福したことであった。
お勢登場
一
肺病やみの格太郎は、きょうもまた細君においてけぼりを食って、ぼんやりと留守を守っていなければならなかった。最初のほどは、いかなお人よしの彼も、激憤を感じ、それを種に離別を目論んだことさえあったのだけれど、病という弱味がだんだん彼をあきらめっぽくしてしまった。先の短い自分のこと、可愛い子供のことなど考えると、乱暴なまねはできなかった。その点では、第三者であるだけ、弟の格二郎などの方がテキパキした考えを持っていた。彼は兄の弱味を歯がゆがって、時々意見めいた口をきくこともあった。
「なぜ兄さんはそうなんだろう。僕だったらとっくに離縁にしているんだがなあ。あんな人に憐れみをかけるところがあるんだろうか」
だが、格太郎にとっては、単に憐れみというようなことばかりではなかった。なるほど、今お|勢《せい》を離別すれば、文なしの書生ぽに違いない彼女の相手と共に、たちまちその日にも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐れみもさることながら、彼にはもっとほかの理由があったのだ。子供の行末もむろん案じられたし、それに、恥かしくて弟などには打ち明けられもしないけれど、彼にはそんなにされても、まだお勢をあきらめかねるところがあった。それ故、彼女が彼から離れきってしまうのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ遠慮しているほどなのであった。
お勢の方では、この格太郎の心持を、知り過ぎるほど知っていた。大げさにいえば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。彼女は隠し男と遊戯の暇には、その余力をもって格太郎を愛撫することを忘れないのだった。格太郎にしてみれば、この彼女のわずかばかりのおなさけに、腑甲斐なくも満足しているほかはない気持だった。
「でも、子供のことを考えるとね。そう一概なことはできないよ。この先一年もつか二年もつか知れないが、おれの寿命はきまっているのだし、そこへもってきて母親までなくしては、あんまり子供が可哀そうだからね。まあもうちっと我慢をしてみるつもりだ。なあに、そのうちにはお勢だって、きっと考えなおす時がくるだろうよ」
格太郎はそう答えて、一そう弟を歯がゆがらせるのを常とした。
だが、格太郎の|仏心《ほとけごころ》に引きかえて、お勢は考えなおすどころか、一日一日と、不倫の恋に溺れていった。それには、窮迫して、長病いで寝たきりの彼女の父親がだしに使われた。彼女は父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあげず家をそとにした。果たして彼女が|里《さと》へ帰っているかどうかを調べるのは、むろんわけのないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかった。妙な心持である。彼は自分自身に対してさえ、お勢を庇うような態度を取った。
きょうもお勢は、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出掛けて行った。
「里へ帰るのに、お化粧はいらないじゃないか」
そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっとこらえていた。此のごろでは、そうして言いたいことも言わないでいる自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえおぼえるようになっていた。
細君が出て行ってしまうと、彼は所在なさに、趣味を持ち出した盆栽いじりをはじめるのだった。はだしで庭へおりて、土にまみれてみると、それでも、いくらか心持が楽になった。また一つには、そうして趣味に夢中になっている様をよそおうことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。おひる時分になると、女中がご飯を知らせにきた。
「あの、おひるの用意ができましたのですが、もうちっと後になさいますか」
女中さえ、遠慮勝ちに、いたいたしそうな眼で自分を見るのが、格太郎にはつらかった。
「ああ、もうそんな時分かい。じゃあ、おひるとしようか。坊やを呼んでくるといい」
彼は虚勢を張って、快活らしく答えるのであった。此の頃では、なんにつけても虚勢が彼の習慣になっていた。
そういう日に限って、女中たちの心づくしか、食膳にはいつもよりご馳走が並ぶのであった。でも格太郎はこの一と月ばかりというもの、おいしいご飯をたべたことがなかった。子供の正一も家の冷たい空気に当たると、そとの餓鬼大将が俄かにしおしおしてしまうのだった。
「ママどこへ行ったの」
彼はある答えを予期しながら、でも聞いてみないでは安心しないのである。
「おじいさまの所へいらっしゃいましたの」
女中が答えると、彼は七歳の子供に似合わぬ冷笑のようなものを浮かべて、「フン」と言ったきり、ご飯をかき込むのであった。子供ながら、それ以上質問をつづけることは、父親に遠慮するらしく見えた。それに彼にはまた彼だけの虚勢があるのだ。
「パパ、お友だちを呼んできてもいい」
ご飯がすんでしまうと、正一は甘えるように父親の顔を覗き込んだ。格太郎は、それがいたいけな子供の精一ぱいの追従のような気がして、涙ぐましいいじらしさと、同時に、自分自身に対する不快とを感じないではいられなかった。でも、彼の口をついて出た返事は、いつもの虚勢以外のものではないのだった。
「ああ、呼んできてもいいがね。おとなしく遊ぶんだよ」
父親の許しを受けると、これもまた子供の虚勢かも知れないのだが、正一は「嬉しい嬉しい」と叫びながら、さも快活に表の方へ飛び出して行って、間もなく三、四人の遊び仲間を引っぱってきた。そして、格太郎がお膳の前で楊枝を使っているところへ、子供部屋の方から、もうドタンバタンという物音が聞こえはじめた。
二
子供たちは、いつまでも子供部屋の中にじっとしていなかった。鬼ごっこか何かをはじめたとみえて、部屋から部屋へと走りまわる物音や、女中がそれを制する声などが、格太郎の部屋まで聞こえてきた。中には戸惑いをして、彼のうしろの襖をあける子供さえあった。
「あ、おじさんがいらあ」
彼らは格太郎の顔を見ると、きまりわるそうにそんなことを叫んで、向こうへ逃げて行った。しまいには正一までが彼の部屋へ闖入した。そして、「ここへ隠れるんだ」などと言いながら、父親の机の下へ身をひそめたりした。
それらの光景を見ていると、格太郎はたのもしい感じで心が一ぱいになった。そして、ふと、きょうは植木いじりをよして、子供らの仲間入りをして遊んでみようかという気になった。
「坊や、そんなにあばれるのはよしにして、パパが面白いお話をして上げるからみな呼んどいで」
「やあ、嬉しい」
それを聞くと、正一はいきなり机の下から飛び出して、駈け出して行った。
「パパは、とてもお話が上手なんだよ」
やがて正一は、そんなこまっちゃくれた紹介をしながら、同勢を引きつれた恰好で、格太郎の部屋へはいってきた。
「さあ、お話ししとくれ。恐いお話がいいんだよ」
子供たちは、目白押しにそこへ坐って、好奇の眼を輝かしながら、あるものは恥かしそうに、おずおずして、格太郎の顔を眺めるのであった。彼らは格太郎の病気のことなど知らなかったし、知っていても子供のことだから、おとなの訪問客のように、いやに用心深い態度など見せなかった。格太郎にはそれが嬉しいのである。
彼はそこで、このごろになく元気づいて、子供たちの喜びそうなお話を思い出しながら、「昔或る国に慾の深い王様があったのだよ」とはじめるのであった。一つのお話を終っても、子供たちは、「もっと、もっと」といってきかなかった。彼は望まれるままに、二つ三つとお話の数を重ねて行った。そうして子供たちと一緒におとぎ話の世界をさまよっているうちに、彼はますます上機嫌になってくるのだった。
「じゃあ、お話はよして、今度は隠れん坊をして遊ぼうか。おじさんもはいるのだよ」
しまいに、彼はそんなことを言い出した。
「ウン、隠れん坊がいいや」
子供たちはわが意を得たと言わぬばかりに、立ちどころに賛成した。
「じゃね、ここの家じゅうで隠れるのだよ。いいかい。さあ、ジャンケン」
ジャンケンポンと、彼は子供のようにはしゃぎはじめるのだった。それは病気のさせるわざであったかもしれない。それとも又、細君の不行跡に対する、それとなき虚勢であったかもしれない。いずれにしろ、彼の挙動に、一種の|自《や》|棄《け》|気《ぎ》|味《み》のまじっていたことは事実だった。
最初二、三度は、彼はわざと鬼になって、子供たちの無邪気な隠れ場所を探しまわった。それにあきると、隠れるがわになって、子供たちと一緒に押入れの中だとか、机の下だとかへ、大きなからだを隠そうと骨折った。
「もういいかい」「まあだだよ」という掛け声が、家じゅうに気ちがいめいて響き渡った。
格太郎はたった一人で、彼の部屋の暗い押入れの中に隠れていた。鬼になった子供が「何々ちゃん、めっけた」と叫びながら、部屋から部屋を廻っているのが、かすかに聞こえた。中には「ワーッ」とどなって隠れ場所から飛び出す子供などもあった。やがて、めいめい発見されて、あとは彼一人になったらしく、子供たちは一緒になって、部屋部屋を探し歩いている気配がした。
「おじさんどこへ隠れたんだろう」
「おじさん、もう出ておいでよ」
など口々にしゃべるのが聞こえて、彼らはだんだん押入れの前へ近づいてきた。
「ウフフ、パパはきっと押入れの中にいるよ」
正一の声で、すぐ戸の前で囁くのが聞こえた。格太郎は見つかりそうになると、もう少しじらしてやれという気で、押入れの中にあった古い長持の蓋をそっとひらいて、その中へ忍び、元の通り蓋をして、息をこらした。中にはフワフワした夜具かなんかがはいっていて、ちょうど寝台にでも寝たようで、居心地がわるくなかった。
彼が長持の蓋を閉めると引きちがいに、ガラッと重い板戸があく音がして、
「おじさん、めっけた」
という叫び声が聞こえた。
「あらっ、いないよ」
「だって、さっき音がしていたよ、ねえ何々ちゃん」
「あれは、きっと鼠だよ」
子供たちはひそひそ声で無邪気な問答をくり返していたが(それが密閉された長持の中では、非常に遠くからのように聞こえた)、いつまでたっても、薄暗い押入れの中は、ヒッソリして人のけはいもないので、
「おばけだあ」
と誰かが叫ぶと、ワーッと言って逃げ出してしまった。そして、遠くの部屋で、
「おじさん、出ておいでよう」
と口々に叫ぶ声がかすかに聞こえた。まだその辺の押入れなどをあけて、探している様子だった。
三
まっ暗な、樟脳臭い長持の中は、妙に居心地がよかった。格太郎は少年時代の懐かしい思い出に、ふと涙ぐましくなっていた。この古い長持は、死んだ母親の嫁入り道具の一つだった。彼はそれを舟になぞらえて、よく中へはいって遊んだことを覚えていた。そうしていると、やさしかった母親の顔が、闇の中へ幻のように浮かんでくるような気がした。
だが、気がついてみると、子供たちの方は、探しあぐんでか、ヒッソリしてしまった様子だった。しばらく耳をすましていると、
「つまんないなあ、表へ行って遊ばない」
どこの子供だか、興ざめ顔に、そんなことを言うのが、ごくかすかに聞こえてきた。
「パパちゃん」
正一の声であった。それを最後に、彼も表へ出て行くけはいだった。
格太郎は、それを聞くと、やっと長持を出る気になった。飛び出して行って、じれきった子供たちを、ウンと驚かせてやろうと思った。そこで勢い込んで長持の蓋を持ち上げようとすると、どうしたことか、蓋は密閉されたままビクとも動かないのだった。でも、最初は別段なんでもないことのつもりで、何度もそれを押し試みていたが、そのうちに恐ろしい事実がわかってきた。彼は偶然にも長持の中へとじ込められてしまったのだ。
長持の蓋には穴のあいた蝶番の金具がついていて、それが下に突き出した金具にはまる仕掛けなのだが、さっき蓋をしめた時、上に上げてあったその金具が、偶然おちて、錠前をおろしたのと同じ形になってしまったのだ。昔物の長持は堅い板の隅々に鉄板をうちつけた、いやというほど巌丈な代物だし、金具も同様に堅牢にできているのだから、病身の格太郎には、とても打ち破ることなどできそうもなかった。
彼は大声を上げて正一の名を呼びながら、ガタガタと蓋の裏を叩いてみた。だが、子供たちは、あきらめて表へ遊びに出てしまったのか、なんの答えもない。そこで、彼は今度は女中たちの名前を連呼して、できるだけの力をふりしぼって、長持の中であばれてみた。ところが、運のわるい時には仕方のないもので、女中どもはまた井戸端で油を売っているのか、それとも女中部屋にいても聞こえぬのか、これも返事がないのだ。
その押入れのある彼の部屋というのが、最も奥まった位置な上に、ピッタリ密閉された箱の中で叫ぶのでは、二た間三間向こうまで、声が通るかどうかも疑問だった。それに、女中部屋となると、一ばん遠い台所のそばにあるのだから、殊さら耳でもすましていない限り、先ず聞こえそうもないのだ。
格太郎は、だんだん|上《うわ》ずった声を出しながら、このまま誰もこないで、長持の中で死んでしまうのではないかと考えた。ばかばかしい、そんなことがあるものかと、一方ではむしろふき出したいほど滑稽な感じもするのだけれど、それがあながち滑稽でないようにも思われる。気がつくと、空気に敏感な病気の彼には、なんだかそれが乏しくなったようで、もがいたためばかりでなく、一種の息苦しさが感じられる。昔出来の丹念なこしらえなので、密閉された長持には、おそらく息の通よう隙間もないのに違いなかった。
彼はそれを思うと、さいぜんからの過激な運動に、尽きてしまったかと見える力を更らにふりしぼって、叩いたり蹴ったり、死にもの狂いにあばれてみた。彼がもし健全なからだの持ち主だったら、それほどもがけば、長持のどこかへ、一カ所ぐらいの隙間を作るのはわけのないことであったかもしれぬけれど、弱りきった心臓と痩せ細った手足では、到底そのような力をふるうことはできない上に、空気の欠乏による息苦しさは刻々と迫ってくる。疲労と恐怖のために、喉は呼吸をするのも痛いほど、カサカサに乾いてくる。彼のその時の気持を、なんと形容すればよいのであろうか。
もしこれが、もう少しどうかした場所へとじ込められたのなら、病のために遅かれ早かれ死なねばならぬ身の格太郎は、きっとあきらめてしまったに違いない。だが自家の押入れの長持の中で窒息するなどは、どう考えて見ても、ありそうにもない滑稽至極なことなので、もろくも、そのような喜劇じみた死に方をするのはいやだった。こうしているうちにも、女中がこちらへやってこないものでもない。そうすれば彼は夢のように助かることができるのだ。この苦しみを一場の笑い話としてすましてしまうことができるのだ。助かる可能性が多いだけに、彼は諦めかねた。そして、怖さ苦しさも、それに伴なって大きかった。
彼はもがきながら、かすれた声で罪もない女中どもを呪った。息子の正一をさえ呪った。距離にすればおそらく二十間と隔っていない彼らの悪意ない無関心が、悪意なきがゆえになおさらうらめしく思われた。
闇の中で、息苦しさは刻一刻とつのって行った。もはや声も出なかった。引く息ばかり妙な音を立てて、陸に上がった魚のようにつづいた。口が大きくひらいて行った。そして骸骨のような上下の白歯が歯ぐきの根まで現われてきた。
そんなことをしたところで、なんの甲斐もないと知りつつ、両手の爪は夢中に蓋の裏を、ガリガリと引っ掻いた。爪のはがれることなど、彼はもう意識さえしていなかった。断末魔の苦しみであった。しかし、その際になっても、まだ救いのくることを一縷の望みに、死をあきらめかねていた彼の身の上は、言おうようもない残酷なものであった。それは、どのような業病に死んだ者も、或いは死刑囚さえもが、味わったことのない大苦痛といわねばならなかった。
四
不倫の妻お勢が、恋人との逢う瀬から帰ってきたのは、その日の午後三時ごろ、ちょうど格太郎が長持の中で、執念深くも最後の望みを捨てかねて、もはや虫の息で、断末魔の苦しみをもがいている時だった。
家を出るときは、ほとんど夢中で、夫の心持など顧みる暇もないのだけれど、彼女とても帰ったときには、さすがにやましい気がしないではなかった。いつになくあけ放された玄関などの様子を見ると、日頃ビクビクもので気づかっていた破綻が、きょうこそきたのではないかと、もう心臓が躍り出すのだった。
「ただ今」
女中の答えを予期しながら、呼んでみたけれど、誰も出迎えなかった。あけ放された部屋部屋には人影もなかった。だいいち、あの出不精な夫の姿の見えないのがいぶかしかった。
「誰もいないのかい」
茶の間へくると、甲高い声でもう一度呼んでみた。すると、女中部屋の方から、
「はい、はい」
と頓狂な返事がして、うたた寝でもしていたのか、一人の女中が腫れぼったい顔をして出てきた。
「お前一人なの」
お勢は癖の癇が起こってくるのを、じっとこらえながら聞いた。
「あのう、お竹さんは裏で洗濯をしているのでございます」
「で、旦那さまは」
「お部屋でございましょう」
「だって、いらっしゃらないじゃないか」
「あら、そうでございますか」
「なんだね。お前きっと昼寝をしていたんでしょう。困るじゃないか。そして、坊やは?」
「さあ、さいぜんまで、おうちで遊んでいらしったのですが、あのう、旦那さまもごいっしょで、隠れん坊をなすっていたのでございますよ」
「まあ、旦那さまが、しようがないわね」
それを聞くと彼女はやっと日頃の自分を取り返しながら、
「じゃあ、きっと旦那さまも表なのだよ。お前、探しといで、いらっしゃればそれでいいんだから、お呼びしないでもいいからね」
とげとげしく命令をくだしておいて、彼女は自分の居間へはいると、ちょっと鏡の前に立って見てから、さて、着更えをはじめるのであった。
そして、いま帯をときにかかろうとした時であった。ふと耳をすますと、隣の夫の部屋から、ガリガリという妙な物音が聞こえてきた。虫が知らせるのか、それがどうも鼠などの音ではないように思われた。それに、よく聞くと、なんだかかすれた人の声さえするような気がした。
彼女は帯をとくのをやめて、気味のわるいのを辛抱しながら、あいだの襖をあけてみた。すると、さっきは気づかなかった押入れの板戸のひらいていることがわかった。物音は、どうやらその中から聞こえてくるらしく思われるのだ。
「助けてくれ、おれだ」
かすかなかすかな、あるかなきかのふくみ声ではあったが、それが異様にハッキリとお勢の耳を打った。まぎれもない夫の声なのだ。
「まあ、あなた、そんな長持の中なんかに、いったいどうなすったんですの」
彼女はさすがに驚いて長持のそばへ走り寄った。そして、掛け金をはずしながら、
「ああ、隠れんぼうをなすっていたのですね。ほんとうに、つまらないいたずらをなさるものだから……でも、どうしてこれがかかってしまったのでしょうか」
もしお勢が生れつきの悪女であるとしたら、その本質は、人妻の身で隠し男をこしらえることなどよりも、おそらくこうした悪事を思い立つことの、すばやさというようなところにあったのではあるまいか。彼女は掛け金をはずして、ちょっと蓋を持ち上げようとしただけで、何を思ったのか、また元々通りグッと押えつけて、再び掛け金をかけてしまった。その時、中から格太郎が、多分それが精一ぱいであったのだろう、しかしお勢の感じでは、ごく弱々しい力で、持ち上げる手ごたえがあった。それを押しつぶすように、彼女は蓋を閉じてしまったのだ。後に至って、無慙な夫殺しのことを思い出すたびごとに、最もお勢を悩ましたのは、ほかの何事よりも、この長持を閉じた時の、夫の弱々しい手ごたえの記憶だった。彼女にとっては、それが血みどろでもがきまわる断末魔の光景などよりは、幾層倍も恐ろしいものに思われたことである。
それはともかく、長持を元々通りにすると、ビッシャリと板戸を閉めて、彼女は大急ぎで自分の部屋に帰った。そして、さすがに着更えをするほどの大胆さはなく、まっ青になって、箪笥の前に坐ると、隣の部屋からの物音を消すためでもあるように、用もない箪笥の引出しを、あけたり閉めたりするのだった。
「こんなことをして、果たして自分の身が安全かしら」
それが物狂わしいまで気にかかった。でも、この際ゆっくり考えて見る余裕などあろうはずもなく、ある場合には物を思うことすら、どんなに不可能だかということを痛感しながら、立ったり坐ったりするばかりであった。とはいうものの、あとになって考えたところによっても、彼女のその咄嗟の場合の考えには、少しの粗漏もあったわけではなかった。掛け金はひとりでにしまることはわかっているのだし、格太郎が子供たちと隠れんぼうをしていて、誤まって長持の中へとじ込められたであろうことも、子供たちや女中どもが充分証言してくれるに違いはなく、長持の中の物音や叫び声が聞こえなかったという点も、広い建物のことで、気づかなかったといえばそれまでなのだ。現に女中どもでさえ何も知らずにいたほどではないか。
そんなふうに深く考えたわけではなかったけれど、お勢の悪に鋭い直覚が、理由を考えるまでもなく、「大丈夫だ、大丈夫だ」とささやいてくれるのだった。
子供を探しにやった女中はまだ戻らなかった。裏で洗濯をしている女中も、うちの中へはいってきたけはいはない。今のうちに、夫のうなり声や物音が止まってくれればいい。そればかりが彼女の頭一ぱいの願いだった。だが、押入れの中の、執念深い物音は、ほとんど聞き取れぬほどに衰えてはいたけれど、まるで意地のわるいゼンマイ仕掛けのように、絶えそうになっては続いた。気のせいではないかと思って、押入れの板戸に耳をつけて(それをひらくことはどうしてもできなかった)聞いてみても、やっぱり物凄い摩擦音はやんでいなかった。そればかりか、おそらく乾ききってコチコチになっている舌で、ほとんど意味をなさぬ世迷言をつぶやくけはいさえ感じられた。それがお勢に対する恐ろしい呪いであることは、疑うまでもなかった。彼女は余りの恐ろしさに、危く決心をひるがえして長持をひらこうとまで思ったが、しかし、そんなことをすれば、一そう彼女の立場が取り返しのつかぬものになることはわかりきっていた。一たん殺意を悟られてしまった今さら、どうして彼を助けることができよう。
それにしても、長持の中の格太郎の心持はどのようであったろう。加害者の彼女すら決心をひるがえそうかと迷ったほどである。しかし彼女の想像などは、当人の世にも稀なる大苦悶に比して、千分一、万分一にも足らぬものであったに違いない。一たんあきらめかけたところへ、思いがけぬ、たとえ奸婦であるとはいえ、自分の女房が現われて、掛け金をはずしさえしたのである。その時の格太郎の大歓喜は、何に比べるものもなかったであろう。日頃恨んでいたお勢が、この上二重三重の不倫を犯したとしても、まだおつりがくるほどありがたく、かたじけなく思われたに違いない。いかに病弱の身とはいえ、死の間際を味わった者にとって、命はそれほど惜しいものだ。だが、その束の間の歓喜から、彼は更らに、絶望などという言葉では言い尽くせぬほどの、無間地獄へつきおとされてしまったのである。もし救いの手がこないで、あのまま死んでしまったとしても、その苦痛は決してこの世のものではなかったのに、更らに更らに、幾層倍、幾十層倍の、言うばかりなき大苦悶は、奸婦の手によって彼の上に加えられたのである。
お勢は、それほどの苦悶を想像しようはずはなかったけれど、彼女の考え得た範囲だけでも、夫の悶死を憐れみ、彼女の残虐を悔いないわけにはいかなかった。でも、悪女の運命的な不倫の心持は、悪女自身にもどうしようもなかった。彼女は、いつのまにか静まり返ってしまった押入れの前に立って、犠牲者の死を弔う代りに、懐かしい恋人のおもかげを描いているのだった。一生遊んで暮らせる以上の夫の遺産、恋人との誰はばからぬ楽しい生活、それを想像するだけで、死者に対するさばかりの憐れみの情を忘れるのには充分なのだ。
彼女はこうして取り返した、常人には想像することはできぬ平静をもって、次の間に退くと、唇の隅に冷たい苦笑をさえ浮かべて、さて、帯をときはじめるのであった。
五
その夜八時ごろになると、お勢によって巧みにも仕組まれた、死体発見の場面が演じられ、北村家は上を下への大騒ぎとなった。親戚、出入りの者、医師、警察官、急を聞いてはせつけたそれらの人々で、広い屋敷が一ぱいになった。検死の形式を略するわけにはいかず、わざと長持の中にそのままにしてあった格太郎の死体のまわりには、やがて係り官たちが立ち並んだ。真底から歎き悲しんでいる弟の格二郎、いつわりの涙に顔を汚したお勢、係り官にまじってその席に列なったこの二人が、局外者からは少しの甲乙もなく、どのように愁傷らしく見えたことであろう。
長持は座敷のまん中に持ち出され、一警官の手によって、無造作に蓋がひらかれた。五十燭光の電燈が、醜くゆがんだ、格太郎の苦悶の姿を照らし出した。日頃綺麗になでつけた頭髪が、逆立つばかりに乱れたさま、断末魔そのものの如き手足のひっつり、飛び出した眼球、これ以上にひらきようのないほどひらいた口、もしお勢の身内に、悪魔そのものがひそんででもいない限り、一と眼この姿を見たならば、立ちどころに悔悟自白すべきはずである。それにもかかわらず、彼女はさすがにそれを正視することができない様子であったが、なんの自白もしなかったばかりか、白々しい嘘八百を、涙にぬれて申し立てるのだった。彼女自身でさえ、どうしてこうも落ちつくことができたのか、たとえ人一人殺した上のくそ度胸とはいえ、不思議に思うほどであった。数時間前、不義の外出から帰って、玄関にさしかかった時、あのように胸騒がせた彼女とは(その時もすでに充分悪女であったに違いないのだが)、われながら別人の観があった。これを見ると、彼女の身内には、生れながらに、世にも恐るべき悪魔が巣くっていて、今その正体を現わしはじめたものであろうか。これは、後ほど彼女が出会ったある危機における、想像を絶した冷静さに徴しても、ほかに判断の下し方はないように見えるのだ。
やがて検死の手つづきは、別段の故障もなく終り、死体は親族の者の手によって、長持の中から他の場所へ移された。そして、その時、少しばかりの余裕を取り返した彼らは、はじめて長持の蓋の裏の掻き傷に注意を向けることができたのである。
もしなんの事情も知らず、格太郎の惨死体を目撃せぬ人が見たとしても、その掻き傷は異様に物凄いものに違いなかった。そこには死人の恐るべき妄執が、如何なる名画も及ばぬ鮮かさをもって刻まれていたのだ。なにびとも一と眼見て顔をそむけ、二度と眼をそこへやろうとはしないほどであった。
その中で、掻き傷の画面から、ある驚くべきものを発見したのは、|当《とう》のお勢と格二郎の二人だけであった。彼らは死体と一緒に別間に去った人々のあとに残って、長持の両端から、蓋の裏に現われた影のようなものに異様な凝視をつづけていた。おお、そこにはいったい何があったのであるか。
それは影のようにおぼろげに、狂者の筆のようにたどたどしいものであったけれど、よく見れば、無数の掻き傷の上を覆って、一字は大きく、一字は小さく、あるものは斜めに、あるものはやっと判読できるほどの歪み方で、まざまざと「オセイ」の三文字が現われているのであった。
「姉さんのことですね」
格二郎は凝視の眼を、そのままお勢に向けて、低い声で言った。
「そうですわね」
ああ、このように冷静な言葉が、この際のお勢の口をついて出たことは、なんと驚くべき事実であったか。むろん、彼女がその文字の意味を知らぬはずはないのだ。瀕死の格太郎が、命の限りを尽くして、やっと書くことのできた、お勢に対する呪いの言葉、最後の「イ」に至って、その一線を画すると同時に悶死をとげた彼の妄執、彼はそれにつづけて、お勢こそ下手人である旨を、いかほどか書きたかったであろうに、不幸そのものの如き格太郎は、それさえ得せずして、千秋の遺恨を抱いて、ほし固まってしまったのである。
しかし、格二郎にしては、彼自身善人であるだけに、そこまで疑念を抱くことはできなかった。単なる「オセイ」の三字が何を意味するか、それが下手人を指し示すものであろうとは、想像のほかであった。彼がそこから得た感じは、お勢に対する漠然たる疑惑と、兄が未練にも、死にぎわまで彼女のことを忘れず、苦悶の指先にその名を書き止めた無残の気持ばかりであった。
「まあ、それほど私のことを心配してくだすったのでしょうか」
しばらくしてから、言外に相手がすでに感づいているであろう不倫を悔いた意味をこめて、お勢はしみじみと歎いた。そして、いきなりハンカチを顔にあてて(どんな名優だって、これほど、空涙をこぼし得るものはないであろう)、さめざめと泣くのであった。
六
格太郎の葬式をすませると、第一にお勢の演じた芝居は、むろん上べだけであるが、不義の恋人と切れることであった。そして、たぐいなき技巧をもって、格二郎の疑念をはらすことに専念した。しかも、それはある程度まで成功した。たとえ一時だったとはいえ、格二郎はまんまと妖婦の演技にあざむかれたのである。
かくて、お勢は予期以上の分配金にあずかり、息子の正一と共に、住みなれた屋敷を売って、次から次と住所を変え、得意のお芝居の助けをかりて、いつとも知れず、親類たちの監視から遠ざかって行くのだった。
問題の長持は、お勢が、強いて貰い受けて、彼女からひそかに古道具屋に売り払われた。その長持は今なにびとの手に納められていることであろう。あの掻き傷と無気味な仮名文字とが、新しい持ち主の好奇心を刺戟するようなことはなかったであろうか。彼は掻き傷にこもる恐ろしい妄執にふと心おののくことはなかったか。そして又、「オセイ」という不可思議なる三字に、彼は果たして如何なる女性を想像したであろうか。
木馬は廻る
「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」
ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、廻転木馬は廻るのだ。
今年五十幾歳の格二郎は、好きからなったラッパ吹きで、昔はそれでも、郷里の町の映画館の花形音楽師だったのが、やがてはやり出した管絃楽というものにけおされて、「ここはお国」や「風と波と」では、いっこう雇い手がなく、ついには|披《ひ》|露《ろ》|目《め》|屋《や》の徒歩楽隊となり下がって、十幾年の長い年月を、荒い浮世の波風に洗われながら、日にち毎日、道行く人の嘲笑の的となって、でも、好きなラッパが離されず、たとえ離そうと思ったところで、ほかにたつきの道とてはなく、一つは好きの道、一つは仕様ことなしの、楽隊暮らしをつづけているのだった。
それが、去年の末、披露目屋からさし向けられて、この木馬館へやってきたのが縁となり、今では常雇いの形で、ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、廻る木馬のまん中の、一段高い台の上で、台には紅白の幔幕を張りめぐらし、彼らの頭の上からは四方に万国旗がのびている、そのけばけばしい装飾台の上で、金モールの制服に、赤ラシャの楽隊帽、朝から晩まで、五分ごとに、監督さんの合図の笛がピリピリと鳴り響くごとに、「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」と、彼の自慢のラッパをば、声はり上げて吹きならすのだ。
世の中には、妙な商売もあったものだな。一年三百六十五日、手垢で光った十三匹の木馬と、クッションの利かなくなった五台の自動車と、三台の三輪車と、背広服の監督さんと、二人の女切符切りと、それが、廻り舞台のような板の台の上でうまずたゆまず廻っている。すると、嬢っちゃんや坊っちゃんが、お父さんやお母さんの手を引っぱって、おとなは自動車、子供は木馬、赤ちゃんは三輪車、そして、五分間のピクニックをば、なんとまあ楽しそうに乗り廻していることか。藪入りの小僧さん、学校帰りの腕白、中には色気ざかりの若い衆までが「ここはお国を何百里」と、喜び勇んでお馬の背中で躍るのだ。
すると、それを見ているラッパ吹きも、太鼓叩きも、よくもまあ、あんな仏頂面がしていられたものだと、よそ目には滑稽にさえ見えているのだけれど、彼らとしては、そうして思い切り頬をふくらしてラッパを吹きながら、撥を上げて太鼓を叩きながら、いつの間にやら、お客様といっしょになって、木馬の首を振る通りに楽隊を合わせ、無我夢中でメリイ、メリイ、ゴー、ラウンドと、彼らの心も廻るのだ。廻れ、廻れ、時計の針のように、絶えまもなく、お前が廻っているあいだは、貧乏のことも、古い女房のことも、鼻たれ小僧の泣き声も、南京米のお弁当のことも、梅干一つのお|菜《さい》のことも、一切がっさい忘れている。この世は楽しい木馬の世界だ。そうしてきょうも暮れるのだ。あすも、あさっても暮れるのだ。
毎朝六時がうつと、長屋の共同水道で顔を洗って、ポンポンと、よく響く拍手で、|今《こん》|日《にち》様を礼拝して、今年十二歳の、学校行きの姉娘が、まだ台所でごてごてしている時分に、格二郎は、古女房が作ってくれた弁当箱をさげて、いそいそと木馬館へ出勤する。姉娘がお小遣をねだったり、癇持ちの六歳の弟息子が泣きわめいたり、なんということだ、彼にはその下にまだ三歳の小せがれさえあって、それが古女房の背中で鼻をならしたり、そこへもってきて、|当《とう》の古女房までが、頼母子講の月掛けが払えないといってはヒステリィを起こしたり……そういうもので充たされた、裏長屋の九尺二間をのがれて、木馬館の別天地へ出勤することは、彼にはどんなにか楽しいものであったのだ。そして、その上に、あの青いペンキ塗りの、バラック建ての木馬館には、「ここはお国を何百里」と日ねもす廻る木馬のほかに、吹きなれたラッパのほかに、もう一つ、彼を慰めるものが待っていさえしたのである。
木馬館では、入口に切符売場がなくて、お客様は、勝手に木馬に乗ればよいのだ。そして半分ほども木馬や自動車がふさがってしまうと、監督さんが笛を吹く、ドンガラガッガと木馬が廻る、すると二人の青い布の洋服みたいなものを着た女たちが、肩から車掌のような鞄をさげて、お客様のあいだを廻り歩き、お金と引換えに切符を切って渡すのだ。その女車掌の一方は、もう三十をだいぶすぎた、彼の仲間の太鼓叩きの女房で、おさんどんが洋服を着た恰好なのだが、もう一方のは十八歳の小娘で、むろん木馬館へ雇われるほどの娘だから、とてもカフェの女給のように美しくはないけれど、でも女の十八といえば、やっぱり、どことなく人を惹きつけるところがあるものだ。青い木綿の洋服が、しっくり身について、それの小皺の一つ一つにさえ豊かな肉体のうねりが、なまめかしく現われているのだし、青春の肌の薫りが、木綿を通してムッと男の鼻をくすぐるのだし、そして、器量はといえば、美しくはないけれど、どことなくいとしげで、時々は、おとなの客が切符を買いながら、からかってみることもあり、そんな場合には、娘の方でも、ガクンガクンと首を振る、木馬のたてがみに手をかけて、いくらか嬉しそうにからかわれていたのである。名はお冬といって、それが格二郎の、日ごとの出勤を楽しくさせたところの、実をいえば最も主要な原因であったのだ。
としがひどく違っている上に、彼の方にはチャンとした女房があり、三人の子供までできている、それを思えば、「色恋」の沙汰はあまりに恥かしく、事実また、そのような感情からではなかったのかもしれないけれど、格二郎は、毎朝、わずらわしい家庭をのがれて、木馬館に出勤して、お冬の顔を一と眼見ると、妙に気持がはればれしくなり、口を利き合えば、青年のように胸が躍って、年にも似合わず臆病になって、それゆえに一そう嬉しく、もし彼女が欠勤でもすれば、どんなに意気込んでラッパを吹いても、何かこう気が抜けたようで、あの賑やかな木馬館が、妙にうそ寒く物淋しく思われるのであった。
どちらかといえばみすぼらしい、貧乏娘のお冬を、彼がそんなふうに思うようになったのは、一つは己れの年齢を顧みて、そのみすぼらしいところが、かえって気安く、ふさわしく感じられもしたのであろうが、又一つには、偶然にも、彼とお冬とが同じ方角に家を持っていて、館がはねて帰る時には、いつも道連れになり、口を利き合う機会が多く、お冬の方でも、なついてくれば、彼の方でも、そんな小娘と仲よくすることを、そう不自然に感じなくてすむというわけであった。
「じゃあ、またあしたね」
そして、ある四つ辻で別れるときには、お冬はきまったように、少し首をかしげて、多少甘ったるい口調で、このような挨拶をしたのである。
「ああ、あしたね」
すると格二郎もちょっと子供になって、「あばよ、しばよ」というようなわけで、弁当箱をガチャガチャいわせて、手をふりながら挨拶するのだ。そして、お冬のうしろ姿を、それが決して美しいわけではないのだが、むしろみすぼらしくさえあるのだが、眺め眺め、かすかに甘い気持になるのであった。
お冬の家の貧乏も、彼の家のと、大差のないことは、彼女が館から帰るときに、例の青木綿の洋服をぬいで、着換えをする着物からでも、充分に想像することができるのだし、また彼と道づれになって、露店の前などを通るとき、彼女が眼を光らせて、さも欲しそうに覗いている装身具の類を見ても、「あれ、いいわねえ」などと、往来の町家の娘たちの身なりを羨望する言葉を聞いても、可哀そうに彼女のお里はすぐに知れてしまうのであった。
だから、格二郎にとって、彼女の歓心を買うことは、彼の軽い財布をもってしても、ある程度まではむずかしいわけでもないのだ。一本の花かんざし、一杯のおしるこ、そんなものにでも、彼女は充分、彼のために可憐な笑顔を見せてくれるのであった。
「これ、だめでしょ」彼女はあるとき、彼女の肩にかかっている流行おくれのショールを、指先でもてあそびながら言ったものである。だから、むろんそれはもう寒くなりはじめた頃なのだが、「おととしのですもの、みっともないわね。あたしあんなのを買うんだわ。ね、あれいいでしょ。あれがことしのはやりなのよ」彼女はそういって、ある洋品店の、ショウウインドウの中の立派なのではなくて、軒の下に下がっている値の安い方を指さしながら、「アーア、早く月給日がこないかな」とため息をついたものである。
なるほど、これが今年の流行だな。格二郎ははじめてそれに気がついて、お冬の身にしては、さぞ欲しいことであろう。もし安いものなら財布をはたいて買ってやってもいい、そうすれば彼女はまあどんな顔をして喜ぶだろう。と軒下へ近づいて、正札を見たのだが、金七円何十銭〔今の三、四千円〕というのに、とても彼の手に合わないことを悟ると同時に、彼自身の十二歳の娘のことなどが思い出されて、今さらながら、この世が淋しくなるのであった。
そのころから、彼女はショールのことを口にせぬ日がないほどに、それを彼女自身のものにするのを、つまり月給を貰う日を待ちかねていたものだ。ところが、それにもかかわらず、さて月給日がきて二十幾円かの袋を手にして、帰りみちで買うのかと思っていると、そうではなくて、彼女の収入は、一度全部母親に手渡さなければならないらしく、そのまま例の四つ辻で、彼と別れたのだが、それからきょうは新らしいショールをしてくるか、あすは、かけてくるかと、格二郎にしても、わがことのように待っていたのだけれど、いっこうその様子がなく、やがて半月ほどにもなるのに、妙なことには、彼女はその後少しもショールのことを口にしなくなり、あきらめ果てたかのように、例の流行おくれの品を肩にかけて、でも、しょっちゅう、つつましやかな笑顔を忘れないで、木馬館への通勤を怠らぬのであった。
その可憐な様子を見ると、格二郎は、彼自身の貧乏については嘗つて抱いたこともない、ある憤りのようなものを感じぬわけにはいかなかった。僅か七円何十銭のおあしが、そうかといって、彼にもままにならぬことを思うと、一そうむしゃくしゃしないではいられなかった。
「やけに、鳴らすね」
彼の隣に席をしめた若い太鼓叩きが、ニヤニヤしながら彼の顔を見たほども、彼は、めちゃくちゃにラッパを吹いてみた。
「どうにでもなれ」というやけくそな気持だった。いつもは、クラリネットに合わせて、それが節を変えるまでは、同じ唱歌を吹いていたのだが、その規則を破って、彼のラッパの方からドシドシ節を変えて行った。
「金比羅舟々、おいてに帆かけて、しゅらしゅしゅら」
と彼は首をふりふり、吹き立てた。
「やっこさん。どうかしてるぜ」
ほかの三人の楽師たちが、思わず眼を見合わせて、この老ラッパ手の狂躁を、いぶかしがったほどである。
それは、ただ一枚のショールの問題にはとどまらなかった。日頃のあらゆる憤怒が、ヒステリィの女房のこと、やくざな子供たちのこと、貧乏のこと、老後の不安のこと、もはや帰らぬ青春のこと、それらが、金比羅舟々の節廻しをもって、やけにラッパを鳴らすのであった。
そして、その晩もまた、公園をさまよう若者たちが「木馬館のラッパが、ばかによく響くではないか、あのラッパ吹きめ、きっと嬉しいことでもあるんだよ」と笑いかわすほども、それゆえに、格二郎は、彼とお冬との歎きをこめて、いやいや、そればかりではないのだ、この世のありとあらゆる歎きの数々を一管のラッパに託して、公園の隅から隅まで響けとばかり、吹き鳴らしていたのである。
無神経の木馬どもは、相変らず時計の針のように、格二郎たちを心棒にして、絶え間もなく廻っていた。それに乗るお客たちも、それを取りまく見物たちも、彼らもまた、あの胸の底には、数々の苦労を秘めているのであろうか。でも、上辺はさも楽しそうに、木馬と一緒に首をふり、楽隊の調子に合わせて足を踏み、「風と波とに送られて……」と、しばし浮世の波風を、忘れ果てたさまである。
だが、その晩は、このなんの変化もない、子供と酔っぱらいのお伽の国に、というよりは、老ラッパ手格二郎の心の中に、少しばかりの風波をもたらすものがあったのである。
あれは、公園雑沓の最高潮に達する、夜の八時から九時のあいだであったかしら。そのころは木馬を取りまく見物も、大げさにいえば黒山のようで、そんなときに限って、生酔いの職人などが、木馬の上で妙な格好をしてみせて、見物のあいだになだれのような笑い声が起こるのだが、そのどよめきをかき分けて、決して生酔いではない、一人の若者が、ちょうど止まった木馬台の上へヒョイと飛びのったものである。
たとえ、その若者の顔が少しばかり青ざめていようと、そぶりがそわそわしていようと、雑沓の中で、だれ気づく者もなかったが、ただ一人、装飾台の上の格二郎だけは、若者の乗った木馬がちょうど彼の眼の前にあったのと、乗るがいなや、待ちかねたように、お冬がそこへ駈けつけて、切符を切ったのとで、つまり半ばねたみ心から、若者の一挙一動を、ラッパを吹きながら正面を切った、その眼界の及ぶ限り、いわば見張っていたのである。どうしたわけか切符を切って、もう用事はすんだはずなのに、お冬は若者のそばから立ち去らず、そのすぐ前の自動車のもたれに手をかけて、思わせぶりにからだをくねらせて、じっとしているのが、彼にしては、一そう気にかかりもしたのであろうか。
が、その彼の見張りが決してむだでなかったことには、やがて木馬が二た廻りもしないあいだに、木馬の上で、妙な格好で片方の手をふところに入れていた若者が、その手をスルスルと抜き出して、眼は何食わぬ顔でそとの方を見ながら、前に立っているお冬の洋服の、お尻のポケットへ、何か白いものを、それが格二郎には、確かに封筒だと思われたのだが、手早くおし込んで、元の姿勢に帰ると、ホッと安心のため息を洩らしたように見えたのだ。
「つけ文かな」
ハッと息を呑んで、ラッパを休んで、格二郎の眼は、お冬のお尻へ、そこのポケットから封筒らしいものの端が、糸のように見えているのだが、それに釘づけにされた形であった。もし彼が、以前のように冷静であったなら、その若者の、顔は綺麗だが、いやに落ちつきのない眼の光だとか、異様にそわそわした様子だとか、それから又、見物の群集にまじって、若者の方を意味ありげに睨んでいる、顔なじみの刑事の姿などに気づいたでもあろうけれど、彼の心はもっとほかの物で充たされていたものだから、それどころではなく、ただもうねたましさと、いい知れぬ淋しさで、胸が一ぱいなのだ。だから若者のつもりでは、刑事の眼をくらまそうとして、さも平気らしく、そばのお冬に声をかけてみたり、からかったりしているのが、格二郎には一層腹立たしくて、悲しくて、それに又、あのお冬めいい気になって、いくらか嬉しそうにさえして、からかわれている様子はない。ああ、おれは、どこに取柄があってあんな恥知らずの、貧乏娘と仲よしになったのだろう。ばかめ、ばかめ、お前は、あのすべために、もしできれば、七円何十銭のショールを、買ってやろうとさえしたではないか。ええ、どいつもこいつも、くたばってしまえ。
「赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」
そして、彼のラッパはますます威勢よく、ますます快活に鳴り渡るのである。
さて、しばらくして、ふと見ると、もう若者はどこへ行ったか影もなく、お冬はほかの客のそばに立って、なにげなく、彼女の勤めの切符切りにいそしんでいる。そしてそのお尻のポケットには、やっぱり糸のような封筒の端が見えているのだ。彼女はつけ文されたことなど少しも知らないでいるらしい。それを見ると、格二郎は又しても、未練がましく、やっぱり無邪気に見える彼女の様子がいとしくて、あの綺麗な若者と競争をして、打ち勝つ自信などは毛頭ないのだけれど、できることなら、せめて一日でも二日でも、彼女との間柄を、今まで通り混り気のないものにしておきたいと思うのである。
もしお冬がつけ文を読んだなら、そこには、どうせ歯の浮くような殺し文句が並べてあるのだろうが、世間知らずの彼女にしては、おそらく生れてはじめての恋文であろうし、それに相手があの若者であってみれば(その時分ほかに若い男のお客なぞはなく、ほとんど子供と女ばかりだったので、つけ文の主は立どころにわかるはずだ)、どんなにか胸躍らせて、甘い気持になることであろう、それからは、定めし物思い勝ちになって、彼とも以前のようには口を利いてもくれなかろう。ああ、そうだ、いっそのこと、折を見て、彼女があのつけ文を読まない先に、そっとポケットから引き抜いて、破り捨ててしまおうかしら。むろん、そのような姑息な手段で、若い男女のあいだを裂き得ようとも思わぬけれど、でも、たった今宵一よさでも、これを名残りに、元のままの清い彼女と言葉をかわしておきたかった。
それから、やがて十時頃でもあったろうか。映画館がひけたかして、一としきり館の前の人通りが賑やかになったあとは、一時にひっそりとしてしまって、見物たちも、公園生え抜きのチンピラどものほかは、たいてい帰ってしまい、お客様も二、三人きたかと思うと、あとが途絶えるようになった。そうなると、館員たちは帰りを急いで、中には、そっと板囲いの中の洗面所へ、帰り支度の手を洗いにはいったりするのである。格二郎も、お客の隙を見て、楽隊台を降りて、別に手を洗うつもりはなかったけれど、お冬の姿が見えぬので、もしや洗面所ではないかと、その板囲いの中にはいってみた。すると、偶然にも、ちょうどお冬が洗面台に向こうむきになって、一所懸命顔を洗っている、そのムックリとふくらんだお尻のところに、さいぜんのつけ文が半分ばかりもはみ出して、今にも落ちそうに見えるのだ。格二郎は、最初からその気できたのではなかったけれど、それを見るとふと抜き取る心になって、
「お冬坊、手廻しがいいね」
と言いながら、なにげなく彼女の背後に近寄り、手早く封筒を引き抜くと、自分のポケットへ落とし込んだ。
「あら、びっくりしたわ。ああ、おじさんなの、あたしゃまた、誰かと思った」
すると彼女は、何か彼がいたずらでもしたのではないかと気を廻して、お尻を撫で廻しながら、ぬれた顔をふり向けるのであった。
「まあ、たんと、おめかしをするがいい」
彼はそう言い捨てて、板囲いを出ると、その隣の機械場の隅に隠れて、抜き取った封筒をポケットから取り出して見た。そのとき、ふと気がついたのだが、手紙にしてはなんだか少し重味が違うように思われるのだ。で、急いで封筒の表を見たが、宛名は、妙なことにはお冬ではなくて、四角な文字で、むずかしい男名前がしるされ、裏はと見ると、どうしてこれが恋文なものか、活版刷りでどこかの会社の名前が、所番地、電話番号までも、こまごまと印刷されてあるのだった。そして、中味は、手の切れるような十円札が、ふるえる指先で勘定してみると、ちょうど十枚、ほかでもない、それは誰かの月給袋なのであった。
一瞬間、夢でも見ているのか、何か飛んでもない間違いを仕出来した感じで、ハッとうろたえたけれど、よくよく考えてみれば、一途につけ文だと思い込んだのが彼の誤りで、さっきの若者は、多分スリででもあったのか。そして、刑事に睨まれて、逃げ場に困り、呑気そうに木馬に乗ってごまかそうとしたのだけれど、まだ不安なので、スリ取ったこの月給袋を、ちょうど前にいたお冬のポケットにそっと入れておいたものに違いない、ということがわかってきた。
すると、その次の瞬間には、彼はなんだか大儲けをしたような気持になってくるのであった。名前が書いてあるのだから、スラれた人はわかっているけれど、どうせ当人はあきらめているだろうし、スリの方にしても、自分のからだの危ないことだから、まさか、あれはおれのだといって、取り返しにくることもなかろう。もしきたところで、知らぬといえば、なんの証拠もないことだ。それに本人のお冬は実際少しも知らないのだから、結局うやむやに終ってしまうのはしれている。とすると、この金はおれの自由に使ってもいいわけだな。
だが、それでは、|今《こん》|日《にち》さまにすむまいぞ。勝手な言いわけをつけてみたところで、結局は|盗《ぬす》|人《びと》の上前をはねることだ。今日さまは見通しだ。どうしてそのまますむものか。だがお前は、そうしてお人好しにビクビクしていたばっかりに、きょうが日まで、このみじめな有様をつづけているのではないか。天から授かったこのお金を、むざむざ捨てることがあるものか。すむすまぬは第二として、これだけの金があれば、あの可哀そうな、いじらしいお冬のために、思う存分の買物がしてやれるのだ。いつか見たショウウインドウの高い方のショールや、あの子の好きな臙脂色の半襟や、ヘヤピンや、それから帯だって、着物だって、倹約をすれば一と通りは買い揃えることができるのだ。
そうして、お冬の喜ぶ顔を見て、真から感謝をされて、いっしょに御飯でもたべたら……ああ、今おれには、ただ決心さえすれば、それがなんなくできるのだ。ああ、どうしよう、どうしよう。
と、格二郎は、その月給袋を胸のポケットに深く納めて、その辺をうろうろと行ったりきたりするのであった。
「あら、いやなおじさん。こんな所でなにをまごまごしてるのよ」
それがたとえ安白粉にもせよ。のびがわるくて顔がまだらに見えるにもせよ。ともかく、お冬が化粧をして、洗面所から出てきたのを見ると、そして、彼にしては胸の奥をくすぐられるようなその声を聞くと、ハッと妙な気になって、夢のように、彼はとんでもないことを口走ったのである。
「おお、お冬坊、きょうは帰りに、あのショールを買ってやるぞ。おれは、ちゃんと、そのお金を用意してきているのだ。どうだ。驚いたか」
だが、それを言ってしまうと、ほかの誰にも聞こえぬほどの小声ではあったものの、思わずハッとして、口を蓋したい気持だった。
「あら、そうお、どうもありがとう」
ところが、可憐なお冬坊は、ほかの娘だったら、なんとか常談口の一つも利いて、からかい面をしようものを、すぐまに受けて、真から嬉しそうに、少しはにかんで、小腰をかがめさえしたものだ。となると、格二郎も今さらあとへは引かれぬわけである。
「いいとも、館がはねたら、いつもの店で、お前のすきなのを買ってやるよ」
でも、格二郎は、さも浮き浮きと、そんなことを受合いながらも、一つには、いい年をした爺さんが、こうして、十八の小娘に夢中になっているかと思うと、消えてしまいたいほど恥かしく、一とこと物を言ったあとでは、なんとも形容のできぬ、胸のわるくなるような、はかないような、寂しいような、変てこな気持に襲われるのと、もう一つは、その恥かしい快楽を、自分の金でもあることか、泥棒のうわ前をはねた、不正の金によって得ようとしている浅ましさ、みじめさが、じっとしていられぬほどに心を責め、お冬のいとしい姿の向こうには、古女房のヒステリィ|面《づら》、十二をかしらに三人の子供たちのおもかげ、そんなものが、頭の中をまんじ巴とかけめぐって、もはや物事を判断する気力もなく、ままよ、なるようになれとばかり、彼は突如として大声に叫び出すのであった。
「器械場のお父つぁん、一つ景気よく馬を廻しておくんなさい。おらあ一度こいつに乗ってみたくなった。お冬坊、手がすいているなら、お前も乗んな、そっちのおばさん、いや失敬失敬、お梅さんも、乗んなさい。やあ、楽隊屋さん、一つラッパ抜きで、やっつけてもらおうかね」
「ばかばかしい。お止しよ。それよか、もう早く片づけて帰ることにしようじゃないか」
お梅という年増の切符切りが、仏頂面をして応じた。
「いや、なに、きょうはちっとばかり、心嬉しいことがあるんだよ。やあ、皆さん、あとで一杯ずつおごりますよ。どうです。一つ廻してくれませんか」
「ヒヤヒヤ、よかろう。お父つぁん、一と廻し廻してやんな。監督さん、合図の笛を願いますぜ」
太鼓叩きが、お調子にのってどなり返した。
「ラッパさん、きょうはどうかしているね。だが、あまり騒がないように頼みますぜ」
監督さんがにが笑いをした。
で結局、木馬は廻り出したものだ。
「さあ、一と廻り、それから、きょうはおれがおごりだよ。お冬坊も、お梅さんも、監督さんも、木馬に乗った、乗った」
酔っぱらいのようになった格二郎の前を、背景の、山や川や海や、木立ちや、洋館の遠見なぞが、ちょうど汽車の窓から見るように、うしろへ、うしろへと走り過ぎた。
「バンザーイ」
たまらなくなって、格二郎は木馬の上で両手をひろげると、万歳を連呼した。ラッパ抜きの変妙な楽隊が、それに和して鳴り響いた。
「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」
そして、ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、廻転木馬は廻りつづけるのであった。
U
毒草
よく晴れた秋の一日であった。仲のよい友だちが訪ねてきて、一としきり話がはずんだあとで、「気持のいい天気じゃないか。どうだ、そこいらを少し歩こうか」ということになって、私とその友だちとは、私の家は場末にあったので、近くの広っぱへと散歩に出掛けたことであった。
雑草の生い茂った広っぱには、昼間でも秋の虫がチロチロと鳴いていた。草の中を三尺ばかりの小川が流れていたりした。所々には小高い丘もあった。私たちはとある丘の中腹に腰をおろして、一点の雲もなくすみ渡っている空を眺めたり、或いは又、すぐ足の下に流れている、溝のような小川や、その岸に生えているさまざまの、見れば見るほど無数の種類の、小さな雑草を眺めたり、そして「ああ秋だなあ」とため息をついてみたり、長いあいだ一つ所にじっとしていたものである。
すると、ふと私は、やはり小川の岸のじめじめした所に生えていた、一と|叢《むら》の或る植物に気がついたのである。
「君、あれ、なんだか知っているか」
そう友だちに聞いてみると、彼は、一体自然の風物などには興味を持たぬ男だったので、無愛想に、
「知らない」
と、答えたばかりであった。が、いかに草花の嫌いな彼も、この植物だけには、きっと興味を持つに違いないわけがあった。いや、自然を顧みないような男に限って、この植物の持つ、ある凄味には、一層惹きつけられるはずだった。そこで、私は、私の珍らしい知識を誇る意味もあってその植物の用途について説明をはじめたものである。
「それは××××といってね、どこにでも生えているものだ。別に烈しい毒草というわけでもない。普通の人は、ただこうした草花だと思っている。注意もしない。ところが、この植物は堕胎の妙薬なんだよ。今のようにいろいろな薬品のない時分の堕胎薬といえば、もうこれに極まっていたものだ。よく昔の産婆なんかが、秘法のおろし薬として用いたのは、つまりこの草なんだよ」
それを聞くと、私の友だちは果たして大いに好奇心を起こしたものである。そして、一体全体、それはどういう方法で用いるのだと、はなはだ熱心に聞きただすのであった。私は「さては、早速入用があると見えるね」などとからかいながら、おしゃべりにも、その詳しい方法を説明したのである。
「これをね、手の平の幅だけ折り取るのだ。そして皮をむいて、そいつを……」
と、身振り入りで、そういう秘密がかったことは、話す方でも又面白いものだ、フンフンと感心して聞いている友だちの顔を眺め眺め、こまごまと説明したのである。
それから、その堕胎談がきっかけになって、私たちの話は産児制限問題に移って行った。その点では友だちも私も、近頃の若い者のことだ、むろん話が合った。制限論者なのだ。ただそれが誤用されて、不必要な有産階級に行なわれ、無産社会には、そんな運動の起こっているのを知らぬ者が多い。現にこの近所には貧民窟のような長屋があるのだが、そこではどの家も必要以上に子福者ばかりだ、というようなことを大いに論じたものである。
それを論じながら、計らずも私の頭に浮かんできたのは、私の家のすぐ裏に住んでいる老郵便配達夫一家であった。そこの主人はこの町の三等郵便局に十何年勤続して、月給僅かに五十円〔今の二万円ほど〕、盆暮れの手当てが二十円に充たないという身の上であった。その中で晩酌を欠かした事のない酒好きではあったけれど、きわめて律義者で、十何年という長の月日を、おそらく一日も欠勤せずに通したような男であった。それで年は五十を越しているらしいのだが、結婚がおそかったものとみえて、十二歳を上に六人の子宝があるのだ。家賃だって十円は払わねばなるまい。
それをまあどうして暮らして行こうというのだ。夕方になると、十二歳の長女が大切そうに五合瓶を抱えて、老父の晩酌を買いに行く。私の家の二階から、その哀れな姿が毎日眺められるのだ。夜は、乳離れの三歳になる男の子が、病的な(おそらく嬰児のヒステリイであろうか)力のない声で一晩じゅう泣きつづける。五歳になるその上の女の子は、頭から顔から腫物ができて、夜になるとそれが痛いのか痒いのか、これも又ヒステリイのように泣き叫ぶのだ。四十歳の彼らの母親は、それをまあどんな気持で眺めているのであろう。しかも彼女の腹には、もう又、五つ|月《つき》の子が宿っているのだ。だが、これは私の裏の郵便配達夫の家に限ったことではない。その隣にも、その裏にも、似たような子福者がいくらもある。そして、広い世間には、もっともっと、郵便配達夫の十層倍も不幸な家庭がたくさんあることであろう。
そんなことを、取止めもなく話し合っているうちに、短い秋の日がもう暮れそめたのである。青かった空が薄墨色になり、近所の家々には白茶けた燈火が点じられ、そうして土の上に腰をおろしているのが、妙にうそ寒くなってきた。そこで、私たちは立ち上がって、私は私の家に、友だちは彼の家に、帰ることにしたのであるが、その時、つと立ち上がった私は、今迄背中を向けていた丘の上に、何かのけはいを感じて、なにげなく振り向くと、そこには、夕暗の空を背景にして、木像のように一人の女が突っ立っていたではないか。一刹那、私の眼には、背景が空ばかりだったためか、それが、非常に大きな異形のものに見えた。しかし、次の刹那には、それは、物の|怪《け》などよりはもっと恐ろしいものであることがわかった。というのは、そこに化石したように、突っ立っていたのは、今いった私の裏の哀れな郵便配達夫のはらみ女房だったからである。
私は顔の筋肉が硬ばったようになって、むろん挨拶なんかできなかった。先方でも、空洞のようなまなざしで、あらぬ方を見つめていて、私の方など見向きもしなかった。この無智な四十女は、いうまでもなく、さっきからの私たちの話を、すっかり聞いていたのだ。
私たちは逃げるようにして家に向かった。私も友だちも妙にだまり込んで、別れの言葉もろくろく交さなかった。二人は、殊に私は、思わぬ女の立ち聞きに、そしてその結果の想像に、すっかりおびやかされていた。
いったん家に帰った私は、考えれば考えるほど、あの女房の様子が気になり出した。彼女はきっとはじめから、例の植物の用途の説明のところから聞いていたに違いない。私はあの時、その植物を用いる時は、どんなにやすやすと、少しの苦痛もなく堕胎を行なうことができるかについて、かなり誇張的な説明をしたはずである。それを聞いて、子福者のはらみ女は、そもそも何を考えるのが自然であるか。その子供を産むためには、苦しい中から|幾《いく》|干《ばく》かの費用を支出しなければならぬ。もう老境に近い年で、生れた子供を懐に、三歳の子を背中に、そうして洗濯をし炊事を働かねばならぬ。今でさえ毎晩きまったようにどなり散らす亭主は、余計にどなるようになるだろう。五歳の娘は、ますますヒステリイをひどくするだろう。それらの数々の苦痛がたった一本の名もない植物によって、少しの危険もなく除かれるとしたら……彼女はそんなふうに考えないであろうか。
何が怖いのだ。お前は産児制限論者ではなかったのか。あの女房がお前の教えに従って、不用な一人の命を、闇から闇へ葬ったとて、それがどうして罪悪になるのだ。私は理窟ではそんなふうに考えることができた。しかし、理窟で、この身震いがどう止まるものぞ。私はただ、恐ろしい殺人罪でも犯したように無性に怖いのであった。
なんだかじっとしていては悪いような気がして、私は家の中をソワソワと歩き廻った。二階へ上がって、あの広っぱの見える縁側から、薄暗い丘の辺をすかしてみたり(その時、郵便配達夫の女房はもうそこにはいなかった)、なんの必要もないのに、階段を駈けおりて、二、三段も踏みはずし、ばかばかしく騒がしい物音を立てて見たり、そそくさと下駄を引かけて、表口の格子を開けてみたり、又しめてみたり、そんなことをくり返したあとで、結局もう一度丘の下まで行ってみないではいられなくなったのである。
私は、もう一|間《けん》先は見えないほどの、夕闇の中を、誰か見ていはしないかと、身のすくむ気持で、うしろの方を振り向き振り向き、例の丘の所までたどりついた。灰色のもやの中に、三尺の小川の黒い水が、チロチロと流れていた。一間ばかり向こうの草の中で、なんの虫だか妙にさえた|音《ね》で鳴きしきっていた。私は、堅くなってあの植物を探した。それは、あたりの低い雑草の中に、化物のように太い茎と、厚ぼったい丸い葉を、ヌッとつき出しているので、すぐにわかったが、見ると、その一本の茎が、なかばからポッキリ折り取られて、まるで片腕なくした不具者のように、変に淋しい姿をしているのだ。
私は、ほとんど暮れきった闇の中で、うそ寒く立ちつくしていた。醜い顔に、いつも狂者のように髪の毛を振り乱している、あの四十女の女房が、さっき私たちの立ち去ったあとで、恐ろしい決心のために頬を引つらせながらノソノソと丘を下り、四つん這いになってその植物を折り取っている有様が、気味わるく私の眼に浮かんでくる。それは、なんという滑稽な、しかしながら又、なんという厳粛な、一つの光景であったろう。私はあまりの怖さに、ワッと叫んで、いきなり走り出したいような気持になったことである。
そして、それから数日のちのこと、そのあいだ私は、可哀そうな裏の女房のことは、気にかかりながらしいて忘れるようにしていた。家人の噂話などもなるべく聞くまいとした。私は朝から家を出ては、友だちの所を遊び廻ったり、芝居を見たり、寄席にはいったり、なるべくそとで夜をふかしていた。だが、とうとうある日、私は家の横の細い路地でヒョッコリと、裏の女房に出会ってしまったのである。
彼女は私を見ると、幾ぶん恥かしそうにニヤニヤ笑いながら(そのえがおが私にはなんと物凄く見えたことであろう)、挨拶をした。乱れた髪の毛の中から、病後のようにやつれた、血の気の失せた彼女の顔が、すさまじく覗いていた。私の眼は、見まいとすればするほど、彼女の帯の辺に行った。そして、そこには、予期していたことながら、しかし矢張り私をハッとさせないではおかなかったところの、餓えた痩せ犬のように、二つに折れはしないかと思われるほどの、ペチャンコのお腹があったのである。
そして、この話にはもう少しつづきがあるのだ。それから又一と月ばかりたった或る日のこと、私はふと通りすがりに、一と間のうちで私の祖母と女中とが妙な話をしているのを、小耳にはさんだのである。
「流れ月なんだね。きっと」これは祖母の声である。
「まあ、御隠居さまが、ホホホホホ」むろん彼女の笑い声はこんなによくはないのだが、これは女中の声である。
「だってお前、お前がそういったじゃないか。まず郵便屋のお上さん」そう言って祖母は指をくるらしいのだ。「それから北村のお兼さん、それから駄菓子屋の、なんといったっけね、そうそう、お類さん、そらね、この一町内で三人もあったじゃないか。だから、流れ月なんだよ、今月は」
それを聞いた私の心臓はどんなに軽くなったことであろう。一刹那、この世の中が、まるで違った変てこなものに思われてきた。
「これが人生というものであったか」なんのことだかわからない、そんな言葉が私の頭に浮かんだ。
私は、その足で玄関をおりると、もう一度例の丘の所へ行ってみないではいられなかった。
その日もよく晴れた、小春日和であった。奥底のしれない青空を、何鳥であろう。伸々と円を描いて飛んでいた。私は少しもまごつかずに、例の植物を探し出すことができた。だが、これはまあ、なんということだ。その植物は、どの茎もどの茎も、皆半分くらいの所から折り取られて、見るも無残なむくろをさらしていたではないか。
それは近所のいたずら小僧どもの仕業であったかもしれない。又、そうでなかったかもしれない。私はいまだその何れであるかを知らないのである。
白昼夢
あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
晩春の生暖かい風が、オドロオドロと、ほてった頬に感ぜられる、むし暑い日の午後であった。
用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、私は、ある場末の、見るかぎりどこまでも、どこまでも、まっすぐにつづいている、広い、ほこりっぽい大通りを歩いていた。
洗いざらした|単衣《ひ と え》|物《もの》のように白茶けた商家が、だまって軒を並べていた。三尺のショーウインドーに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤のように仕切った薄っぺらな木箱の中に、赤や黄や白や茶色などの、砂のような|種《たね》|物《もの》を入れたのが、店一杯に並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格子戸の奥にすすけた御神燈の下がった二階家が、そんなに両方から押しつけちゃ厭だわという恰好をして、ボロンボロンと猥褻な三味線の音を洩らしていたりした。
「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」
お下げを埃でお化粧した女の子たちが、道のまん中に輪を作って歌っていた。アッパッパアアアア……という涙ぐましい旋律が、霞んだ春の空へのんびりと蒸発して行った。
男の子らは繩飛びをして遊んでいた。長い繩のつるが、ねばり強く地をたたいては、空に上がった。田舎縞の前をはだけた一人の子が、ピョイピョイと飛んでいた。その光景は、高速度撮影の映画のように、いかにも悠長に見えた。
時々、重い荷馬車がゴロゴロと、道路や家々を震動させて私を追い越した。
ふと私は、行く手に当たって何かが起こっているのを知った。十四、五人のおとなや子供が、道ばたに不規則な半円を描いて立ち止まっていた。
それらの人々の顔には、みな一種の笑いが浮かんでいた。笑劇を見ている人の笑いが浮かんでいた。ある者は大口をあいてゲラゲラ笑っていた。
好奇心が、私をそこへ近づかせた。
近づくにしたがって、大勢の笑顔と際立った対照を示している一つのまじめくさった顔を発見した。その青ざめた顔は、口をとがらせて、何事か熱心に弁じ立てていた。|香具《や》|師《し》の口上にしてはあまりに熱心すぎた。宗教家の辻説法にしては見物の態度が不謹慎だった。いったい、これは何事がはじまっているのだ。
私は知らず知らず半円の群集にまじって、聴聞者の一人となっていた。
演説者は、青っぽいくすんだ色のセルに、黄色の角帯をキチンと締めた、風采のよい、見たところ相当教養もありそうな四十男であった。かつらのように綺麗に光らせた頭髪の下に、中高のらっきょう形の青ざめた顔、細い眼、立派な口ひげで隈どったまっ赤な唇、その唇が不作法につばきを飛ばしてパクパク動いているのだ。汗をかいた高い鼻、そして、着物の裾からは、砂ほこりにまみれたはだしの足が覗いていた。
「……おれはどんなにおれの女房を愛していたか」
演説は今や高調に達しているらしく見えた。男は無量の感慨をこめてこう言ったまま、しばらく見物たちの顔から顔を見まわしていたが、やがて、自問に答えるようにつづけた。
「殺すほど愛していたのだ!」
「……悲しいかな、あの女は浮気者だった」
ドッと見物のあいだに笑い声が起こったので、その次の「いつほかの男とくッつくかもしれなかった」という言葉はあぶなく聞き洩らすところだった。
「いや、もうとっくにくッついていたかもしれないのだ」
そこで又、前にもました高笑いが起こった。
「おれは心配で心配で」彼はそういって歌舞伎役者のように首を振って、「商売も手につかなんだ。おれは毎晩寝床の中で女房に頼んだ。手をあわせて頼んだ」笑い声、「どうか誓ってくれ。おれよりほかの男には心を移さないと誓ってくれ……しかし、あの女はどうしても私の頼みを聞いてはくれない。まるで商売人のような巧みな嬌態で、手練手管で、その場その場をごまかすばかりです。だが、それが、その手練手管が、どんなに私を惹きつけたか……」
誰かが「ようよう、ご馳走さまっ」と叫んだ。そして、笑い声。
「みなさん」男はそんな半畳などを無視してつづけた。「あなた方が、もし私の境遇にあったら、いったいどうしますか。これが殺さないでいられましょうか!
……あの女は耳隠しがよく似合いました。自分で上手に|結《ゆ》うのです……鏡台の前に坐っていました。結い上げたところです。綺麗にお化粧した顔が私の方をふり向いて、赤い唇でニッコリ笑いました」
男はここで一つ肩をゆすり上げて見えを切った。濃い眉が両方から迫って凄い表情に変った。赤い唇が気味わるくヒン曲った。
「……おれは今だと思った。この好もしい姿を永久におれのものにしてしまうのは今だと思った。
用意していた千枚通しを、あの女の匂やかな襟足へ力まかせにたたき込んだ。笑顔の消えぬうちに、大きい糸切歯が唇から覗いたまんま……死んでしまった」
にぎやかな広告の楽隊が通り過ぎた。大ラッパが頓狂な音を出した。「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の」子供らが節に合わせて歌いながら、ゾロゾロとついて行った。
「諸君、あれはおれのことを触れまわっているのだ。真柄太郎は人殺しだ、人殺しだ、そういって触れまわっているのだ」
また笑い声が起こった。楽隊の太鼓の音だけが、男の演説の伴奏ででもあるように、いつまでも、いつまでも聞こえていた。
「……おれは女房の死骸を五つに切り離した。いいかね、胴が一つ、手が二本、足が二本、これでつまり五つだ………惜しかったけれど仕方がない………よく肥ったまっ白な足だ………あなた方はあの水の音を聞かなかったですか」男は俄かに声を低めて言った。首を前につき出し眼をキョロキョロさせながら、さも一大事を打ち明けるのだといわぬばかりに、「三七二十一日のあいだ、私の家の水道はザーザーとあけっぱなしにしてあったのですよ。五つに切った女房の死体をね、四斗樽の中へ入れて、冷していたのですよ。これがね、みなさん」
ここで彼の声は聞こえないくらいに低められた。
「秘訣なんだよ。秘訣なんだよ。死骸を腐らせない………屍蝋というものになるんだ」
「屍蝋……」。ある医書の「屍蝋」の項が、私の眼の前にその著者の黴くさい絵姿と共に浮かんできた。一体全体、この男は何を言おうとしているのだ。なんともしれぬ恐怖が、私の心臓を風船玉のように軽くした。
「……女房の脂ぎった白い胴体や手足が、可愛い蝋細工になってしまった」
「ハハハハハ、おきまりをいってらあ。お前それを、きのうから何度おさらいするんだい」
誰かが不作法に呶鳴った。
「オイ、諸君」男の調子がいきなり大声に変った。「おれがこれほどいうのがわからんのか。君たちはおれの女房は家出をした家出をしたと信じきっているだろう。ところがな、オイ、よく聞け、あの女はこのおれが殺したんだぞ。どうだ、びっくりしたか。ワハハハハハ」
……断ち切ったように笑い声がやんだかと思うと、一瞬間もとのきまじめな顔が戻ってきた。男はまた、ささやき声ではじめた。
「それでもう、女はほんとうに私のものになりきってしまったのです。ちっとも心配はいらないのです。キッスのしたい時にキッスができます。抱きしめたい時には抱きしめることもできます。私はもう、これで本望ですよ。………だがね、用心しないとあぶない。私は人殺しなんだからね。いつおまわりに見つかるかもしれない。そこで、おれはうまいことを考えてあったのだよ。隠し場所をね………おまわりだろうが刑事だろうが、こいつにはお気がつくまい。ほら、君、見てごらん。その死骸はちゃんとおれの店先に飾ってあるのだよ」
男の眼が私を見た。私はハッとして後を振り向いた。今の今まで気のつかなかったすぐ鼻の先に、白いズックの日覆い……「ドラッグ」……「請合薬」……見覚えのある丸ゴシックの書体、そして、その奥のガラス張りの中の人体模型、その男は、何々ドラッグという商号を持った、薬屋の主人であった。
「ね、いるでしょう。もっとよく私の可愛い女を見てやってください」
何がそうさせたのか。私はいつの間にか日覆いの中へはいっていた。
私の眼の前のガラス箱の中に女の顔があった。彼女は糸切歯をむき出してニッコリ笑っていた。いまわしい蝋細工の腫物の奥に、真実の人間の皮膚が黒ずんで見えた。作り物でない証拠には、一面にうぶ毛がはえていた。
スーッと心臓が喉のところへ飛び上がった。私は倒れそうになるからだを、危うくささえて日覆いからのがれ出した。そして、男に見つからないように注意しながら、群集のそばを離れた。
……ふり返って見ると、群集のうしろに一人の警官が立っていた。彼もまた、他の人たちと同じようにニコニコ笑いながら、男の演説を聞いていた。
「何を笑っているのです。君は職務の手前それでいいのですか。あの男のいっていることがわかりませんか。嘘だと思うなら、その日覆いの中へはいってごらんなさい。東京の町のまん中で、人間の死骸がさらしものになっているじゃありませんか」
無神経な警官の肩をたたいて、こう告げてやろうかと思った。けれど、私にはそれを実行するだけの気力がなかった。私は眩暈を感じながらヒョロヒョロと歩き出した。
行く手には、どこまでもどこまでも果てしのない、白い大道がつづいていた。|陽炎《かげろう》が、立ち並ぶ電柱を海草のようにゆすっていた。
火星の運河
又あそこへきたなという、寒いような魅力が私をおののかせた。にぶ色の闇が私の全世界をおおいつくしていた。おそらくは音も、匂いも、触覚さえもが私のからだから蒸発してしまって、煉羊羹のこまやかに澱んだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。
頭の上には夕立雲のように、まっくらに層をなした木の葉が、音もなくしずまり返って、そこから巨大な黒褐色の樹幹が、滝をなして地上に降り注ぎ、観兵式の兵列のように、眼も遙かに四方にうちつづいて、末は奥知れぬ闇の中に消えていた。
幾層の木の葉の闇のその上には、どのようなうららかな日が照っているか、あるいは、どのような冷たい風が吹きすさんでいるか、私には少しもわからなかった。ただわかっていることは、私が今、果てしも知らぬ大森林の下闇を、行方定めず歩きつづけている、その単調な事実だけであった。歩いても、歩いても、幾抱えの大木の幹を、次から次へと、迎え見送るばかりで、景色は少しも変らなかった。足の下には、この森ができて以来、幾百年の落葉が、湿気に充ちたクッションをなして、歩くたびに、ジクジクと、音を立てているに違いなかった。
聴覚のない薄闇の世界は、この世からあらゆる生物が死滅したことを感じさせた。あるいは又、無気味にも、森全体がめしいたる魑魅魍魎に充ち満ちているようにも、思われないではなかった。くちなわのような山蛭が、まっくらな天井から、雨垂をなして、私の襟くびに降りそそいでいるのが想像された。私の眼界には一物の動くものとてはなかったけれど、背後には、くらげの如きあやしの生きものが、ウヨウヨと身をすり合わせて、声なき笑いを合唱しているのかも知れなかった。
でも、暗闇と、暗闇の中に住むものとが、私を怖がらせたのはいうまでもないけれど、それらにもまして、いつもながら、この森の無限が、奥底の知れぬ恐怖をもって、私に迫った。それは、生れたばかりの嬰児が、広々とした空間に畏怖して、手足をちぢめ、恐れおののくような感じであった。
私は「かあさん、怖いよう」と叫びそうになるのを、やっとこらえながら、一刻も早く、闇の世界をのがれだそうとあせった。
しかし、あがけばあがくほど、森の下闇は、ますます暗さをまして行った。何年のあいだ、あるいは何十年のあいだ、私はそこを歩きつづけたことだろう! そこには時というものがなかった。日暮れも夜明けもなかった。歩きはじめたのがきのうであったか、何十年の昔であったか、それさえ曖昧な感じであった。
私はふと、未来永劫この森の中に、大きな大きな円を描いて歩きつづけているのではないかと疑いはじめた。外界の何物よりも私自身の歩幅の不確実がおそろしかった。私はかつて、右足と左足との歩きぐせに、たった一インチの相違があったために、沙漠の中を円を描いて歩きつづけた旅人の話を聞いていた。沙漠には雲がはれて、日も出よう、星もまたたこう。しかし、暗闇の森の中には、いつまで待っても、なんの目印も現われてはくれないのだ。世にためしなき恐れであった。私はそのときの、|心《しん》の髄からのおののきを、なんと形容すればよいのであろう。
私は生れてから、この同じ恐れを、幾たびと知れず味わった。しかし、ひとたびごとに、いい知れぬ恐怖の念は、そして、それに伴なうあるとしもなき懐かしさは、共に増しこそすれ、決して減じはしなかった。そのようにたびたびのことながら、どの場合にも、不思議なことには、いつどこから森にはいって、いつ又どこから森を抜け出すことができたのやら、少しも記憶していなかった。一度ずつ、まったく新たなる恐怖が私の魂をおし縮めた。巨大なる死の薄闇を、豆つぶのような私という人間が、息を切り汗を流して、いつまでも歩いていた。
ふと気がつくと、私の周囲には異様な薄明りが漂いはじめていた。それは例えば、幕に映った幻燈の光のように、この世のほかの明るさであったけれど、でも、歩くにしたがって闇はしりえに退いて行った。
「なんだ、これが森の出口だったのか」
私はそれをどうして忘れていたのであろう。そして、まるで永久にそこにとじ込められた人のように、おじ恐れていたのであろう。
私は水中を駈けるに似た抵抗を感じながら、でも次第に光の方へ近づいて行った。近づくにしたがって、森の切れ目が現われ、懐かしき大空が見えはじめた。しかしあの空の色は、あれが私たちの空であったのだろうか。そして、その向こうに見えるものは? ああ、私はやっぱりまだ森を出ることができないのだった。森の果てとばかり思い込んでいたところは、その実、森のまん中であったのだ。
そこには、直径一丁ばかりの丸い沼があった。沼のまわりは、少しの余地も残さず、直ちに森が囲んでいた。そのどちらの方角を見渡しても、末はあやめも知れぬ闇となり、今まで私の歩いてきたのより浅い森はないように見えた。
たびたび森をさまよいながら、私はこんな沼のあることを少しも知らなかった。それ故、パッと森を出離れて、沼の岸に立った時、そこの景色の美しさに、私はめまいを覚えた。万華鏡を一転して、ふと幻怪な花を発見した感じである。しかし、そこには万華鏡のような華やかな色彩があるわけではなく、空も森も水も、空はこの世のものならぬいぶし銀、森は黒ずんだ緑と茶、そして水は、それらの単調な色どりを映しているにすぎないのだ。それにもかかわらず、この美しさは何物のわざであろう。|銀《ぎん》|鼠《ねず》の空の色か。巨大な蜘蛛がいまえものをめがけて飛びかかろうとしているような、奇怪なる樹木たちの枝ぶりか。固体のようにおしだまって、無限の底に空を映した沼の景色か。それもそうだ。しかしもっとほかにある。えたいの知れないものがある。
音もなく、匂いもなく、肌触りさえない世界の故か。そして、それらの聴覚、嗅覚、触覚が、たった一つの視覚に集められているためか。それもそうだ。しかしもっとほかにある。空も森も水も、何者かを待ち望んで、はち切れそうに見えるではないか。彼らの貪婪きわまりなき慾情が、いぶきとなってふき出しているではないか。しかし、それが、なぜなればかくも私の心をそそるのか。
私はなにげなく、眼を外界から私自身の、いぶかしくも全裸のからだに移した。そして、そこに、男のではなくて、豊満なる乙女の肉体を見出したとき、私が男であったことをうち忘れて、さも当然のようにほほえんだ。ああこの肉体だ! 私は余りの嬉しさに、心臓が喉の辺まで飛び上がるのを感じた。
私の肉体は不思議にも、私の恋人のそれと、そっくり生きうつしなのだが、なんというすばらしい美しさだったろう。ぬれかつらの如く、豊かにたくましき黒髪、アラビヤ馬に似て、精悍にはりきった五体、蛇の腹のようにつややかに青白き皮膚の色、この肉体をもって、私は幾人の男子を征服してきたか、私という女王の前に、彼らがどのような有様でひれ俯したか。
今こそ、なにもかも明白になった。私は不思議な沼の美しさを、ようやく悟ることができたのだ。
「おお、お前たちはどんなに私を待ちこがれていたことであろう。幾千年、幾万年、お前たち、空も、森も、水も、ただこの一刹那のために生き永らえていたのではないか。お待ち遠さま! さあ、今、私はお前たちの烈しい願いをかなえて上げるのだよ」
この景色の美しさは、それ自身完全なものではなかった。何かの背景としてそうであったのだ。そして今、この私が、世にもすばらしい俳優として彼らの前に現われたのだ。
闇の森に囲まれた底なし沼の、深くこまやかな灰色の世界に、私の雪白の肌が、いかに調和よく、いかに輝かしく見えたことであろう。なんという大芝居だ。なんという奥底知れぬ美しさだ。
私は一歩沼の中に足を踏み入れた。そして、黒い水の中央に、同じ黒さで浮かんでいる、一つの岩をめがけて、静かに泳ぎはじめた。水は冷たくも暖かくもなかった。油のようにトロリとして、手と足を動かすにつれてその部分だけ波立つけれど、音もしなければ、抵抗も感じない。私は胸のあたりに、ふた筋三筋の静かな波紋を描いて、ちょうどまっ白な水鳥が、風なき水面をすべるように、音もなく進んで行った。やがて、中心に達すると、黒くヌルヌルした岩の上に這い上がる。そのさまは、例えば夕凪の海に踊る人魚のようにも見えたであろうか。
今、私はその岩の上にスックと立ち上がった。おお、なんという美しさだ。私は顔を空ざまにして、あらん限りの肺臓の力をもって、花火のような一と声をあげた。胸と喉の筋肉が無限のように伸びて、一点のようにちぢんだ。
それから、極端な筋肉の運動がはじめられた。それがまあ、どんなにすばらしいものであったか。青大将がまっ二つにちぎれて、のたうち廻るのだ。尺取虫と、芋虫と、ミミズの断末魔だ。無限の快楽に、あるいは無限の痛苦にもがくけだものだ。
踊り疲れると、私は喉をうるおすために、黒い水中に飛び込んだ。そして、胃の腑の受け容れるだけ、水銀のように重い水を飲んだ。
そうして踊り狂いながらも、私はなにか物足りなかった。私ばかりでなく、周囲の背景たちも不思議に緊張をゆるめなかった。彼らはこの上に、まだ何事を待ち望んでいるのであろう。
「そうだ、|紅《くれない》の一と色だ」
私は、ハッとそこに気がついた。このすばらしい画面には、たった一つ、紅の色が欠けている。もしそれをうることができたならば、蛇の目が生きるのだ。奥底知れぬ灰色と、光り輝く雪の肌と、そして紅の一点、そこで、何物にもまして美しい蛇の目が生きるのだ。
したが、私はどこにその絵の具を求めよう。この森の果てから果てをさがしたとて、一輪の椿さえ咲いてはいないのだ。立ちならぶあの蜘蛛の木のほかに木はないのだ。
「待ちたまえ、それ、そこに、すばらしい絵の具があるではないか。心臓というシボリ出し、こんな鮮かな紅を、どこの絵の具屋が売っている」
私は薄い鋭い爪をもって、全身に、縦横無尽のかき傷をこしらえた。豊かなる乳房、ふくよかな腹部、肉つきのよい肩、はりきった太腿、そして美しい顔にさえも。傷口からしたたる血のりが川をなして、私のからだはまっ赤なほりものに覆われた。血潮の網シャツを着たようだ。
それが沼の水面に映っている。火星の運河! 私のからだはちょうどあの気味わるい火星の運河だ。そこには水の代りに赤い血のりが流れている。
そして、私はまた狂暴なる舞踊をはじめた。キリキリ廻れば、紅白だんだら染めの|独《こ》|楽《ま》だ。のたうち廻れば、今度は断末魔の長虫だ。あるときは胸と足をうしろに引いて、極度に腰を張り、ムクムクと上がってくる太腿の筋肉のかたまりを、できる限り上へ引きつけてみたり、あるときは岩の上に仰臥して、肩と足とで弓のようにそり返り、尺取虫が這うように、その辺を歩きまわったり、あるときは、股をひろげ、そのあいだに首をはさんで、芋虫のようにゴロゴロと転がってみたり、または切られたミミズをまねて、岩の上をピンピンとはねまわって、腕といわず肩といわず、腹といわず腰といわず、所きらわず、力を入れたり抜いたりして、私はありとあらゆる曲線表情を演じた。命の限り、このすばらしい大芝居のはれの役目を勤めたのだ。
「あなた、あなた、あなた」
遠くの方で誰かが呼んでいる。その声が一とことごとに近くなる。地震のようにからだがゆれる。
「あなた。なにをうなされていらっしゃるの」
ボンヤリと眼をひらくと、異様に大きな恋人の顔が、私の鼻先に動いていた。
「夢を見た」
私は何気なくつぶやいて、相手の顔を眺めた。
「まあ、びっしょり、汗だわ……怖い夢だったの」
「怖い夢だった」
彼女の頬は、入日時の山脈のように、くっきりと蔭と日向に分れて、その分れ目を、白髪のような長いむく毛が、銀色に縁取っていた。小鼻の脇に、綺麗な|脂《あぶら》の玉が光って、それを吹き出した毛穴どもが、まるでほら穴のように、いとも艶めかしく息づいていた。そして、その彼女の頬は、なにか巨大な天体ででもあるように、徐々に徐々に、私の眼界を覆いつくして行くのだった。
空気男
一
北村五郎と柴野金十とが、始めてお互の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程変っているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。
それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを|口《くち》|吟《ずさ》んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の|節《ふし》ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のことだ、|平常《ふ だ ん》の内気者にも似合わず、大胆にこんなことをいったものである。
「お隣のお方、何かお話でもしようじゃありませんか。僕も退屈して弱っているのですよ」
すると、隣の部屋では、パッタリと歌声が止って、しばらくはこちらの様子をうかがっている塩梅であったが、やがて、
「僕ですか」
と、それがやっぱり、北村と同じ、青年らしい声なのである。
「エエ、君ですよ。こんな所から失敬ですが、何かこう、変った話でもありませんか」
「ハハハハハハ、君もさびしがっているんですね。だが、こいつは|一寸《ちょっと》乙な考えですね。壁を隔てて、欄間から、話をやりとりするというのは」
そうして、二人は近づきになったのである。
「どうも、こういう家は駄目ですね、僕は始めてなんだが、僕の所は、今夜あたり臨検があり|相《そう》だからとか、何とか、うまい口実で逃げられてしまいましたよ」と柴野金十がこぼすのである。
「僕もですよ。僕もですよ」北村はそれをうけて、「不愉快ですね。帰るには夜が更けている、といって、妙に目がさえてしまって眠る訳にも行かず。この気持はありませんね」
「どうです、僕の部屋へ来ませんか。それとも僕の方からそちらへ行きましょうか」
「そうですね、じゃこちらへいらっしゃい。お茶でも入れますよ。僕の部屋には、まだ火がありますから」
そこで、ドテラ姿の柴野金十が、片手に敷島の袋を持って、北村の部屋へやって来たのである。見ると、二人は顔形から年かっ[#「かっ」に傍点]好まで、お互が「似ているなあ」と感じる程、そっくりなのだ。彼等はその相似を意識し合った|丈《だ》けで、すっかり好意を感じてしまった。
突然の邂逅にも拘らず、彼等の間にはスラスラと会話が進んだ。そして、ちょとの間に、お互がお互を理解し合うことが出来たのである。
北村が、そして恐らく柴野も同様であったに相違ないが、何よりも愉快に思ったのは、相手が自分と同じ様に、エクセントリックなことであった、いや、エクセントリックよりは、むしろアブノルマルといった方が適当かも知れない。彼等はそろいもそろって、浅草がすきであった。浅草の中でも、六区の江川一座の玉乗りがすきであった。場末の縁日に出るのぞきからくりがすきであった。地獄極楽の生人形がすきであった。「八幡のヤブ知らず」がすきであった。そして、彼等は声をそろえていうのである。
「何よりも活動写真ですよ。それもあたり前のじゃいけない。ジゴマ、ジゴマ、それから、ファントマ、プロテア!」
「君も随分変ってますね」やがて柴野金十が我が意を得たという調子で、「耽異者とでもいいますか、これは僕が勝手にこしらえた言葉ですが、異に耽るですね、異常なことを探しまわって、そいつに耽るのですね。こんな家へ来るというのも、やっぱりそれですよ。この汚らわしい、殺風景な部屋で、ひがみきった商売女と遊ぶというのも。エ、そうではありませんか」
「なる程、なる程、耽異者とはいい言葉ですね。第一字面が気に入りました」北村五郎はしきりに首を振って、「じゃ、じゃ君はきっと、探偵小説がすきだと思いますが。どうです。当りませんか」
「当りました」柴野はもううれしさに相好をくずしながら、「そうですよ。僕は探偵小説気違いですよ。サア・アーサア・コーナン・ドイル、エドガア・アラン・ポオ、デュパン、ホームズ、ソーンダイク、そして、ルコック先生ですか。君も無論あれがおすきでしょうね」
「すきどころですか、僕は自分が作って見たことさえありますよ」
「それは妙だ。僕も書いて見たことがあります。そして、君のは、どっかへ発表しましたか」
「それがね、送るには送って見たのですけれど、駄目ですね、日本の編輯者なんて、てんで探偵小説を知らないんですからね。音沙汰なしです。原稿も返してはくれません。彼等は、自動車、ピストル、覆面、そんなものが出てこないと探偵小説でないと思っているのでしょう。まるで問題になりませんよ」
「僕はどこへも送りませんが、送った所で、無論採用しないでしょう。一度君のお作が見たいものですね」
そして、彼等の間には探偵小説談の花がさいたのである。フランスやイギリスやアメリカの十数人の有名な作家達が、彼等のヤリ玉に上った。ルコックはあまりに鈍物であり、デュパンはあまりにペダンティックであり、彼等を非難したホームズ自身も、|若《も》しワトソンという白痴が側にいなかったら、どれ程見劣りがしたことであろうなどと、まるでそれ等の人々が、歴史上の実在の人物ででもある様に、彼等は口角あわを飛ばして論じたことである。
二
その夜のことがあってから、二人は、十年の知己の如く、親しい間柄になってしまった。お互に、まだ独身者で、貧乏で、北川の方はこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロしているし、柴野は柴野で、夜間丈け働くこうもり[#「こうもり」に傍点]の様な仕事を、それも怠け怠け勤めながら、ある場末の荒物屋の二階に間借している身の上であったが、この境遇の類似が、更に彼等を近づけたものに相違ない。
ほとんど毎日の様に訪問した。そして、ある時は、ドストエフスキーを論じ、アンドレーフを批評し合っているかと思うと、アーア、金がほしいな。ここに百万円あったらなあ、「アルンハイムの地所」だとか、「ランドアの屋敷」だとか、あるいはまた、「金色の死」だとか、あれまでには行かずとも、せめてあの百分の一のぜい[#「ぜい」に傍点]沢でも出来るのだがなあ。いっそ思い切って、大泥棒になるか。ジゴマの様な、あるいはリュパンの様な。
「だれかが調べた所によると、警察沙汰になるものは、実際行われている犯罪の五パーセントに過ぎないというじゃないか。しかも、その警察沙汰になったものの内、幾割かは、うまく逃げて、永久に処刑を免れているのだからね。我々が考えに考えてやった犯罪なら、滅多に見つかるはずはないよ」
それには、どうして、こうしてと、その詳細な計画まで立てて見るのである。だが、所詮彼等は善人である。あるいは臆病者といった方が当っているかも知れない。机の前に寝転んで、煎餅をかじりながら、恐ろしい計画を立てること丈けは、実際の泥棒以上なのだけれど、さて実行となると、無論出来っこないのは知れているのだ。(少くとも、当時はそうであった。なぜといって、この物語りの終りは、彼等の内の一人か、あるいは二人共、必ずしも善人でなかったことになっているのだから)そんな悪だくみにふけるかと思うと、彼等はまた、普通の人から見れば、まるで小学生の様な無邪気な遊戯に、夢中になっていることもあった。
顔を見さえすれば、彼等は口ぐせの様にいうのだ。
「退屈だ退屈だ。何とまあ生甲斐のない人生だろう。何か変ったことはないのか。お前はそれでよくも生きていられたものだな。オイ柴野金十」
すると柴野が、それと同じ文句の終りへ「北村五郎」とつけて、それを相手に返上するのである。
そんなことをいいながらも、退屈な時間のありあまる彼等は、何かしないではいられなかった。そこで、選ばれた遊戯というのが、こんな風の物なのである。
花合せも、トランプも、さし[#「さし」に傍点]では一向面白くない。碁将棋は、柴野の方が段違いに強くて、二局は続かず、そうかといって、職業当て(一種の当もの遊戯)の遊びも、発見した当座は興がったけれど、なれてはこれもつまらない。そこで、結局落ちて行ったのが、「ごみ[#「ごみ」に傍点]隠し」と称する遊戯であった。北村はそれを、小学校の一二年の頃、学校の遊戯場の土の上で、よくやったものである。二人の子供がジャンケンをして、負た方が鬼になり、目を隠してまっていると、もう一人の子供が、定められた区劃の土の中へ、定められた小さな木切れなどを、隠すのである。そして「もういいよ」という合図と共に、鬼がそれをさがすのである。その地面は平たんなものではなくて、草などが生えているし、定められたごみ[#「ごみ」に傍点]以外に色々類似のものが落ているので、さがすのになかなか骨が折れる。機智のある子供は、それをわざと土中に隠さないで、最も目につきやすい場所へほうり出しておいて、土の一部を掘返して、さもそこへ隠したかの様な偽証を作ったりするので、|益《ます》|々《ます》面白くなる。まあ一種の探偵ごっこなのだ、それを北村の地方では、「ごみ[#「ごみ」に傍点]隠し」と呼んでいた。
ある日、北村は、その子供の時分の遊びを、ふと思出したのである。そして、少し方法を変えて、柴野と二人で、二十幾歳の彼等が、その子供の遊びをやって見ることにしたのである。地面の代りに机の上が隠し場所と定められた。隠す品は一枚の葉書で、それを、机の上にある硯だとか、筆立てだとか、インキつぼだとか、本だとか、時計だとか、敷島の箱だとか、煙草の灰皿だとかの間へ隠すのである。柴野が目を閉じていると、その間に北村は、葉書を丸めて、巻煙草の芯を抜いた跡へ隠して見たり、筆の穂先をもいで、竹の軸の中へ丸めた葉書を押込み、また先の様に穂先をさいて置いたり、あるいは葉書に一面に墨をぬって、黒い机の表面に、見分けのつかぬ様に張つけて見たり、その他様々のトリックを弄するのである。すると、柴野は、それぞれ、灰皿の中に新しい煙草の芯が落ち散っているのや、筆立ての筆の位置の少しばかり変っていることや、硯の中の筆がぬれていることなどを、手掛りにして、一度一度葉書の隠し場所をさがし出すのである。馬鹿馬鹿しいことなのである。
だが、このやくざな遊びが、彼等を甚だ喜ばせたものだ。そして、類似の室内探偵遊戯が、様々の変った方法によって続けられたのである。
知らぬ人の持物を借て来て、その持主の性別、年齢、職業等を当っこしたり、あるいはまた、後年ポール・モーランの有名な小説によって紹介せられた、「各自の長所と欠点の表に自分で自分の点数をつける」あの遊戯さえも、彼等は、已に試みていたものである。たとえば、柴野が北村の「変態」の項に、八〇点を与える。すると北村は、そこへ一〇〇点と自分自身を評価するのである。「|自《うぬ》|惚《ぼれ》」の項に、相手が一〇〇点をつけると、北村は|一寸《ちょっと》恥し相な顔をして、自分では八〇点を与えるのである。そして、この種の様々の項目について、北村だけでなく、柴野の評価もするのだ。彼等はこの遊戯から、自己暴露の快感と、互に評価し合う時の、いうべからざる戦慄とを、こよなきものに味うのであった。
三
一方において、彼等は決して探偵小説を忘れなかった。病的にまで退屈し切っている彼等にとって、毎月幾十となく発表せられる小説などは、|最《も》|早《は》や何の刺戟をももたらさなかった。あらゆる読み物の中で、探偵小説だけが彼等を虜にした。彼等はこの探偵小説によって、また色々な遊戯を行うことが出来た。たとえば柴野がドイルの「恐怖の谷」を朗読するのである。すると、北村は、作中のある人物の食慾が、甚だしく増したという所まで読むと、犯人がその人物の部屋に隠れていることを指摘するのである。そして、名探偵にでもなった気で、甚だしく得意がるのだ。ある時は一人が探偵小説を創作して、他の一人がその結末をいいあてる、即ち探偵会話ともいうべき遊戯を行うこともある。それが嵩じると、今度は、またしても探偵小説が書き|度《た》くなるのだ。
やがて、彼等両人の書きためた、探偵小説の|反《ほ》|古《ご》が、一篇二篇とその数を増して行った。彼等はいうまでもなく「空想的犯罪生活者」であった。一篇を書く毎に、一つの罪悪を犯した様な気がした。あるいは美事大犯罪を探偵した様な得意を感じた。
「どうだい君、こうして書きためるばかりが能でもなかろう。一つどっかへ送って見ては」
ある時柴野が提議した。
「それは最初の時は黙殺されたとしても、編輯者によっては、認めてくれないものでもなかろう。一度発表されたら、こうした『探偵趣味』は、一般の読書界にもきっとあるに相違ないんだ。そして存外受るかも知れないよ。是非送って見ようじゃないか」
北村とても、それをいい出そうと思っていた際だったので、早速この提議は成立した。「そうだね。このすばらしい魅力を、我々丈けで独占しているのは勿体ないね。世間の退屈屋達にも、少しおすそ[#「すそ」に傍点]分けがしてやりたいね」
そして、結局彼等は、|夫《それ》|々《ぞれ》、最も会心の作一篇ずつを、ある雑誌社へ送ったのである。
ところが、結果は案外良好であった。彼等の作品は引続いて発表せられ、その上予期しなかった過大の賞讃すらを、博することが出来た。外国の探偵小説を読んでいた人々は、日本にもその真似事見た様なものが生れたのを喜び、そうでない人達も、いつの間にか彼等の作品にひきつけられていた。図に乗った二人は、書きためてあった古原稿を、矢つぎ早に発表した。そして、僅少なる探偵趣味家の間にではあったが、彼等は一作毎に、虚名を高めて行くことが出来たものである。
だが、彼等はそろ[#「そろ」に傍点]いもそろ[#「そろ」に傍点]って、何とまあ並々ならぬ退屈屋であったことであろう。半年もたたない内に、もうその探偵小説稼業にあきはじめていたのである。といって、原稿料というボロイ金儲に味を占めた彼等は(彼等にとっては、探偵小説を書くことそれ自身が、この上もない快楽であった。それに対して報酬をもらうなんて確かにボロイ仕事に相違ない)今更、筆を捨てる気にはなれないのであった。
そこで、彼等はどういう方法をとったか。それがお話なのである。一方では執筆の感興を増して、より以上面白い物語りを綴る為に、また一方では、そろそろ頭をもたげて来た、底知れぬ退屈を慰める為に、徐々に大それたいたずらを、そして、ついには恐ろしい犯罪をさえ行うに至った、そのいきさつを書記すのが、実はこの物語りの目的なのである。
四
ある日のこと、北村五郎が妙な提議をした。
「ね、君、こういうことはどうだろう。僕が君の名前で探偵小説を書くんだ。君も同じ様に僕の名前で書くんだ。つまり、名前のとりかえっこだね。無論文章のくせから、筆蹟から、お互に真似合って、どう見ても偽物とは分らない様にするのだ。それで編輯者や読者が気付なかったら、こんな面白い遊戯はないね」
「成程、成程」
柴野は早速相づちを打った。
「たとえば、たれかが君の作品に悪評を加えたとするね。その場合評者は、てもなく君をやっつけたと思い込んでいる。ところが、滑稽なことには、やっつけられたのは、君でなくておれなんだ。おれがいいものを書けば君の評判がよくなる。君がへまをやればおれが味噌をつける。それを知っているのは、広い世界でおれ達二人っ切りなのだ、骨董屋に頼まれて名画を贋造する専門家がある。あれは無論金もうけの為にやっているのだろうが、自分の書いた偽物が、高価な名画として通用する。それをたれも疑わない。この魅力は又格別だと思うね。けちな詐欺取財なんかと違って、世間を相手の仕事だ。幾千幾万の人間をたばかる[#「たばかる」に傍点]快感だ。君は多分、文学史上に名を残している、有名な芸術贋造者達の話を聞いているだろう。おれは彼等の心持がわかる様な気がする。ある人にとっては、自分自身の名前が現れることより、こっそり他人の贋作をやって、それをだれもが気づかないことの方が、どれ程愉快だか知れないと思う。これは犯罪嗜好者にだけ与えられた快楽だ。どうだい、このおれの考えは」
「成程、成程」
この道にかけては、彼等両人の意見は不思議な程一致していた。北村の提議は|立所《たちどころ》に成立し、その日から彼等は、お互の名前を取かえて、小説創作に着手した。
間もなく彼等の贋作小説は、相前後して雑誌に発表せられたが、案の|定《じょう》何人も彼等の悪だくみを看破することが出来なかった。そして北村のものにはやっぱり北村の味があり、柴野の作品には柴野一流のおもむきがあるといって、称賛しあるいは非難した。
「甘いもんだね」
二人は顔を見合せて、くすくすと笑うのであった。そして、この最初の試みに味を占めた彼等は引続き同じ様な色々な悪戯を初めたものである。たとえば贋の飜訳がそれであった。彼等は勝手に外国作者の名前を創作して、×××作北村五郎訳などと記して、知合いの雑誌編輯者に送った。欧米に幾十となく探偵雑誌があり、そこには毎月毎月限りもなく新作家が現れるのだ。どんな編輯者だって、それに一々目を通している訳ではない。しかつめらしい外国人の名前があって、文章が飜訳臭ければ、そして筋が一通り面白ければ、それは直ちに採用されるのだ。何という皮肉だ。一方では真面目な飜訳者達が、お互に誤訳を指摘しあったり、地名人名の発音に至るまで眼に角立ててせんさく[#「せんさく」に傍点]しているかと思うと、一方では一夜作りの創作が、立派にイタリー人何々氏原作として通用するのだ。
「この分では、浮世にはまだまだ面白いことが残っていそうだね」
北村も柴野も、何という悪魔共であったか、そんなことをいいながら、性こりもなくたち[#「たち」に傍点]の悪いいたずら[#「いたずら」に傍点]を続けて行くのであった。
ある時は、彼等の作品の中へ出て来る人物の名前が、彼等の友人達のそれと寸分違わない様なこともあった。北村の同窓の友達が名探偵になれば、柴野の親友と同性同名の殺人魔が出て来たりした。普通いう所のモデル問題とは、小説に出て来る人物の性格や所業が、作者の知人などと似ている所から起るのであるが、彼等の場合はその反対で、彼等の知人の名前が、探偵小説のことだから、多くの場合悪漢などに冠せられるのだ。名前を使われた人は馬鹿馬鹿しくて文句もいえない。といって決して気持がよくはない。それを想像して、彼等は|私《ひそ》かに笑っているのだ。
五
だが、そんな子供らしい悪戯がいつまでも彼等をひきつけることは出来なかった。彼等の間にはまたしても、不思議な智恵比べの遊戯が始められたのである。智恵比べといっても、もうそれは以前の様な、探偵問答やごみ[#「ごみ」に傍点]隠しではなかった。もっともっと罪の深い遊戯なのだ。
ある日のこと柴野金十が北村の下宿をおとずれて、こんなことをいい出した。それが事の起りであった。
「君とおれとで、一つ探偵ごっこをやろうじゃないか。おれはこういうことを考えついたのだよ。浅草のキネマクラブだね、あすこへおれが何かに変装して行ってるんだ。それを君が探偵になってさがすのだ。あの薄暗い活動小屋の何百人の見物の中からおれをさがし出すのだ。おれは決して見つからないという自信があるのだが……」
「つまらないね、そんなこと」北村が答えるのだ。「広いったって|高《たか》の知れた活動小屋だ。丹念に捜しさえすれば、見つかるにきまっているじゃないか。馬鹿馬鹿しいよ」
「じゃ捜し出して見給え」すると柴野は意気込んで、「大丈夫、君には発見出来ないよ。ただ変装するだけじゃない。そこには心理的な一つのトリックがあるのだよ。めくら[#「めくら」に傍点]滅法に捜したって分るものじゃない」
「馬鹿に自信がありそうだね。じゃ活動見物かたがた君の腕前を発見するとしようか」
そして彼等の間には、いつ何日の何時という約束が成立ったのである。さて当日になると、北村は柴野の事だから、どうせ女か何かに変装して、ひょっとしたら、本物の娘達を同伴して、男子の近寄れない婦人席にでも潜伏しているのであろうとたか[#「たか」に傍点]をくくって、指定の活動小屋へ出掛けた。だが、いくらさがしても、柴野の姿は見えないのだ。男子席はもち[#「もち」に傍点]論、婦人席の隅々までも歩きまわって検べたけれど、柴野らしい人物は影も形も見せないのだ。
「なる程、これはまんまと一杯食わされた。|彼奴《あ い つ》はてんでこの活動小屋へ来ていないのだ。それが彼のいわゆる心理的なトリックという奴なんだろう。ナアンだ馬鹿馬鹿しい」
そうきめてしまうと、北村は面白くない日本物の活動写真を一くさり見物して、サッサと宿へ帰ってしまった。そして、その次柴野にあった時にも、忘れた様な顔をしてその事はいい出さなかった。すると柴野は幾分|不《ふ》|満《まん》|相《そう》に、
「どうだい、やっぱり君はおれを発見出来なかったじゃないか」
と、彼の方から切り出すのであった。
「発見したよ、君が来ていないということを」
「そういうだろうと思った。だがおれはちゃんとあすこにいたんだよ、まあ聞きたまえ。君はあの『大地は輝く』という写真を見ただろうね。あれに浅草仲見世の雑踏を写した場面があったのを覚えているかい。その場面の最初の所で、カメラのすぐ前に大きく通行人の顔が入っているんだが、あの顔がこのおれだということを気づかなかったかい。おれの変装というのはね、活動写真の画面に姿を隠していることだったのだよ。それがトリックさ。ハハハハハハ」
柴野は仲見世を散歩していて、偶然カメラに入っていたのだ。ふとそれを発見してこのいたずら[#「いたずら」に傍点]を思いついたのだ。だが、この落し話見たいな柴野のいたずら[#「いたずら」に傍点]が、計らずも彼等の大がかりな探偵ごっこの、導火線を為したのであった。それ以来彼等は変装にうき身をやつし|始《はじめ》た。おしろいだとか刷毛だとか役者の使う様々の顔料だとか、つけ髭かつら[#「かつら」に傍点]の類が用意された、彼等の無気味な変装姿が町から町をさまよった。一人が犯人になると、一人が刑事のまねをしてそのあとを尾行した。犯人は自動車を乗り廻して刑事をまこうとした。活動写真の様な追かけくらが演じられた。劇場、百貨店、ホテルなどが、彼等の探偵ごっこの舞台になった。
一方において彼等は探偵小説の筆を絶った訳ではなかった。むしろこれらの遊戯が彼等の創作慾を刺戟し、ある場合には材料をさえ提供した。そして創作と(時々名前を取かえるいたずら[#「いたずら」に傍点]はまだ続けていた)探偵ごっこと、また探偵ごっこと彼等の生活そのものとが、段々こんぐらかって行った。どこまでが探偵小説で、あるいはどこまでが探偵ごっこであるのか、何とやらあいまい[#「あいまい」に傍点]になって行った。彼等は小説の上で真剣に罪を犯そうとする様に、遊戯の上でも往々にして本気になった。ただ逃げたり追駈たりしているのでは満足出来なかった。犯人の真似をしている方は、ほんとうに泥棒をし人殺しをしている様な気持になった。刑事の真似をしている方は本物の極悪人を追跡する気でいた。そして、それが彼等の生活の全部であるかと見えた。
六
ある時こんな事もあった。
丁度刑事の番に当った柴野は、その日指定されていたあるホテルへ出かけて行った。彼は先ず帳場に頼んで宿帳をくらせてもらった。だがそこには北村のらしい筆跡はなかった。相手は必ず泊客にばけているとはきまらない。コック場に忍んでいるかも知れない。臨時雇の小使に姿をやつしているかも知れない。それともまた泊客を訪問して、その部屋に隠れているかも知れない。柴野はさも本物の刑事らしく敏捷に立まわって、ホテルの廊下から廊下へとさまよい歩いた。そしてどこの隅にも北村のいないことを確かめると、第二の指定場所のY公園へと自動車を駆った。公園をくまなくさがしたけれど、ここにも北村の影はなかった。不思議に思いながら彼はだんだん公園の奥へ入って行った。そして、いつの間にか公園をはずれて、ある共同墓地へさしかかっていた。
ふと気がつくと、彼のうしろに人の足音が聞えた。もうたそがれ[#「たそがれ」に傍点]時であった。あたりには外に人影もなかった。柴野は妙な気持になった。
「オイ、手を上げろ」
突然うしろから声が聞えて来た。ハッとして振向くと、一人のおどけた身なりのサンドイッチマンが、ピストルの筒口をこちらに向けて立っていた。真赤な着物を着て、身体の前とうしろに大きな広告看板を下げ、顔には道化役の面をつけ、長いだんだら染の帽子をかむっていた。
柴野があっけにとられて、思わず手を上げた隙に、相手のサンドイッチマンは、恐ろしい敏捷さで、彼をそこの立木に縛りつけてしまった。そして、いきなり仮面をとると、
「刑事さん、ざまはないね。まあごゆっくり、そうして景色でも眺めていらっしゃい」
そんな悪態をつきながら、サッと向うへ行ってしまった。いうまでもなく、それが当の北村であったのだ。思い出すと、柴野はホテルの玄関で、公園の入口で、有名な銅像の下で、あるいは噴水のそばで、絶えずそのサンドイッチマンを見ていた。ある時などは、その手から広告ビラをもらいさえした。サンドイッチマンなどというものは、ちょっと人間という感じがしないものだ。往来の郵便箱や電信柱と同じ様に、すぐ目の前にいても、ふと無視してしまうものだ。柴野はまんまと、北村のこの巧みなトリックにかかったのである。
そのことがあって暫くすると、柴野は「サンドイッチマン」という探偵小説を発表して喝采を博した。無論彼等の探偵ごっこが材料となったのだ。
またある時はこんなこともあった。
それは柴野が犯人の役を勤め、非常に風変りな変装をこらして、あるさかり場で北村を待合わした時であった。変装は我ながら感心する程の出来栄えであったし、場所は|肩《けん》|摩《ま》|轂《こく》|撃《げき》の雑踏の中だったので、これならてこずるだろうと安心しきっている所へ、相手は人波を押し分け近づいて、少しも変装しない柴野を見つけるよりも、もっと楽々と彼の仮面をはいでしまったのである。
柴野はあまりのことにあきれ返って早速に言葉も出なかった。すると、北村は彼の顔を眺めて、ニヤニヤ笑いながら種明しをするのである。
「驚いたかい。ナニ何でもないことだよ。実はおれはあらかじめ君の変装を知っていたのだ。この人中では、その妙な変装がかえって目印になったよ」
「じゃ、ひょっとしたら君は」柴野が何かに気付いた様にいうのだ「家を出る時からおれを尾行していたのじゃないか」
「そうじゃない。そんな卑怯なことはしないよ。それに君の方でもその点は充分注意をしているから、家の前から尾行するなんて、とても出来るものじゃない。家を出る以前だよ。君が変装しつつある所をすっかり見てしまったのだよ。おれは君が外出している隙に、君の宿の人をごまかして君の部屋へ上り込んだ。そして、押入れの天井板をはずして屋根裏へもぐり込んだのさ。天井板には節穴がある。そこからじっと君の部屋をのぞいていたのだ。君はどっかから汚い着物を持って帰って来たね。そして、手際よく変装をやったね。おれはすっかり見ていたよ。それから、君が家を出るのを待って、しばらくしてからブラブラここへやって来た。しくじる気遣いはないからね。途中でカフェによったりして、ゆっくりやって来たのだよ」
そして北村はまた、こんなこともいった。
「その天井裏からのぞいている時にだね、おれは色々面白い空想をめぐらして見たよ。第一妙なのは、天井裏は隣の家と共通になっていることだ。下では雨戸だとか格子だとか厳重に締が出来ているけれど、一歩天井裏に入って見ると、何の境界もない開っぱなしだ。|若《も》し隣の人が悪気があって、君の部屋を窺おうとすれば、天井裏に上りさえすればいいのだ。そこから君の部屋の押入れの中へおりて来て、盗みを働くことも出来る。日本の家屋なんて実際変なものだね」
北村は更に言葉を続けていうのだ。
「ところでね。おれはそこで大変なことを空想したのだよ。というのは、今の節穴から見ていると、色々に体を動かして変装している君の顔が、時々上を向くのだ。そして、君の大きく開いた口が、丁度節穴の真下へ来るのだ。エ、これが何を意味すると思う。若しもおれが君を殺そうと思えば、その節穴から毒薬をたらせばいいのじゃないか。君の口の中へさ。どうだい、この考えは」
そして、そのことがあってからしばらくして、北村は「天井裏の密計」という探偵小説を発表したのである。
ところが、北村の意気込みにもかかわらず、その作品は一向賞讃をかち得なかった。彼の読者達はいうのである。
「あれは柴野氏の『サンドイッチマン』の模倣だ。若し前に『サンドイッチマン』という名作が出ていなかったなら、面白いものには相違ないのだけれど、あれのあとで書かれたのでは、またかという気がする」
つまり北村は柴野の作のまねをしたものに過ぎないというのであった。そういわれれば、成程材料の扱方に似通った所がないでもなかった。
北村五郎と柴野金十はこの批評に接して、苦笑を禁じ得なかった。なぜといって「サンドイッチマン」を書いたのは柴野であったけれど、そのトリックを創作したのは北村なのだ。今北村の作品が「サンドイッチマン」の模倣だといって非難されるのは、とりも直さず北村が北村自身を模倣したといわれることなのだ。そればかりか彼等はお互に名前を取り替えてさえいる。読者はそれも知らないで、とや角と彼等を批評しているのだ。
それは|兎《と》も|角《かく》、彼等の探偵ごっこは、|斯《か》|様《よう》にして段々深刻になって行った。彼等は時として、お互がこわくなることがあった。相手は何時どこで、どんな悪だくみをめぐらしているか分らないのだ。柴野は相手が天井の節穴から自分を眺めて、毒薬をたらすことまで考えたかと思うと、異様な気味悪さを感じないではいられなかった。北村の方でも、相手に同様の恐れをいだいた。
そして、もう一つ悪いことには、彼等はまたしても、その探偵ごっこにあき始めていたのだ。あとには何がある。今度こそ、本当の泥棒本当の人殺しの|外《ほか》に、彼等の興味をつなぐものはなくなったのではあるまいか。
彼等は銘々に、自分達が既に犯罪の真似事では満足出来なくなったことを感じていた。と同時に相手の心持を察して一種の戦慄を禁じ得なかった。彼等は時として、じっと顔を見つめ合うことがあった。それはさも「お前もか」「お前もか」と何かをうなずき合う様に見えた。
七
ある日のこと、北村五郎の下宿の部屋で(下宿といっても、その頃はもうけちな書生下宿を引はらって、何々ホテルと名のつく様ないわば高等下宿におさまっていたのだが)主人公の北村と、柴野金十とが相対していた。
「おれは今度こういう筋の探偵小説を書くつもりだが、一つ聞いてくれないか。そしてこいつは君の名前で発表するか、それとも僕の名前にするか、きめようじゃないか」
柴野金十がこう初めたものである。すると北村五郎、
「よかろう。話したまえ」
「例によって変態者が主人公だが、少し風変りで、桃色の洋封筒かなんかに女らしい文字を書いてだね、そいつを自分宛にして送るのだ。わざわざ遠方のポストまで入れに行く訳だね。そして、自分自身でもそれをさも本当の、どこかのお嬢さんから来た恋文の様に、胸をワクワクさせて読むんだし、その上友人等にも、わざと机の上にその手紙を出しておいて、先方が好奇心を起す様に仕向け、大いにのろける訳だ。本人はそれで本当に恋をしている様な気持になれるのだ。つまり変態者だね」
柴野は、どうだ名案だろうといわぬばかりに、鼻をうごめかしながら話しつづける。それを北村はどういう訳か、ウンウンと返事はしながらも、妙にそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いてニヤニヤ含み笑いをして聞いている。
「それが嵩じると、手紙で|媾《あい》|曳《びき》の場所を示し合せて(無論架空の人物とだよ)主人公はわざわざそこへやって行く。そしてたとえば公園のベンチなどで、ひとりぼっちで永い退屈な時間を費して、帰って来ると、おれは今日どこそこで、例の女とあって来たなんて、ふれまわるのだ。どうだいこの気持は。それからまた、隣の部屋に友達のいる時を見はからって(主人公は下宿をしていることにする方がいいかな)自分の部屋に女客がある様な声色を使う。彼が自分の声と、架空の娘のやさしい声とを、代り代りに使い分けて、つまり独り芝居をやるのだ。それが真夜中の人の寝鎮まった時分なんかだと一層効果があるわけだね。ここで凄味を出すんだ。壁一重隣の部屋で、ふと目をさまして、二人のひそひそ話を聞く男の心持を予期しながら、真面目くさって寧ろ真剣になって、恋のひとり芝居に陶酔している主人公、一寸面白く書け相じゃないか」
「なる程、なる程」
北村は今にもふき出し相になるのを、やっと堪えながら相槌を打つのである。柴野は(空想的犯罪生活者なんて多くお人好なものであるが、いや本当の犯罪者だって、ひょっとしたら世間のレベルよりお人好なものかも知れないが、柴野と来てはそれが一倍であった)相手の顔色には少しも気づかないで、得々と語りつづける。
「それだがね、主人公がただ虚栄心みたいなものだけでやっているのだったら、大したこともないが、彼は他人に見せること以上に、自分自身で喜んでいるのだ。そうして一人芝居をしている彼の目には、あるいは相手の娘が、まざまざと見えるかも知れない。それが彼の前で様々の嬌態を示し、痴語を吐くが如くに、幻想しているのかも知れない。まあそういった事柄を、結局一人の男が彼の所業とさとって、いたずらをやる。たとえば、彼が媾曳の手紙を出すと、彼の先まわりをしてその返事を架空の娘の名前で送るんだ。主人公は非常に驚く。架空の人から本当の手紙が来るんだからね。それからその男が様々のトリックを弄して、主人公を驚かせたり苦しめたりする。しまいには、女の友達を舞台に上せていよいよ主人公を有頂天にさせる。それから犯罪だ。主人公がその男のトリックにかかって、罪を犯す様なことになる。どんな犯罪にするかまだ未定だがね。結論は、犯罪と思ったのが、やっぱりその男のトリックだったという、例の常套的オチだ。外に仕様がない」
八
「ヤレヤレ、またしてもうそだったで|落《おち》か。我々もいい加減にそいつを卒業しなけれゃ駄目だね」北村は聞き終っていうのだ。「ところで、その筋はなかなか面白い。オチが未定なのは残念だけれど、主人公の異常な心理は面白い。だが、君はその話をどっからか剽窃して来たのじゃないかい。たとえば古い読物だとか、又は他人の話だとか」
「馬鹿いうな。おれの創作だよ。そういう心理はいつ考え出したのかはっきりしないけれど、いよいよ書いて見ようと思って、筋をまとめる気になったのは、たった昨日の事だよ。剽窃なもんか」
柴野はむきになっていうのである。すると北村は意地の悪い薄笑いをうかべて、
「確かに間違いないね」
「確かに間違いない」
「じゃいうがね、その筋はおれが考えて、大分以前だが、やっぱりここで、君に話したのだよ。それはおれの創作なんだよ。ハハハハハ。とうとう、君の早発性痴呆の確証を上げることが出来たね。どうだ降参か」
「君から聞いたのだって。これはおかしい。そういわれても、おれはまるで覚えがない。君はいつもそんなことをいう。おれも確かに忘れっぽいことは忘れっぽいのだが、まさか君から聞いたことを、又君の前でのめのめとしゃべるなんて、そんな馬鹿な」
「アレ、まだいっている。本当に君の健忘症は|最《も》|早《はや》膏肓に入れるものだね。考えて見たまえ。たしか先月の第二の日曜だった。やっぱりこの部屋で話していて、そうそうそこへ同宿の木村君も来ていたじゃないか。二人の前で話したんだよ。嘘だと思うなら、あの人に聞いて見るといい」
「そうかなあ」柴野は少しこわくなって、真面目な表情をする、「多分君のいうことが本当だろう。いつでもそうだからね。すると、おれはいよいよ病気かな。きっと何かの天罰だね。何とかいったね、早発性痴呆か、それの徴候をくわしく知っているかい」
「知らない。君の様なのが果して早発性痴呆かどうかもはっきりしない。だが、何となくその名称が君にふさわしい様な気がするんだよ」
「オイオイ、ひどいことをいうな。でも、ちょっと怖い気がするなあ。おれは昔から記憶というものを軽べつしていた。記憶力が強い奴は判断力がにぶい、つまり馬鹿だという考えに影響されたんだね。一つはその罰かも知れない。君にいわれなくても、おれも多少気づいているが、この頃の様にひどくては、不便で仕様がない。時々約束をすっぽかして、知らん顔をしていることがあるからね」
「だろう。いよいよ脳をおかしはじめたんだよ、何かの毒が。実際君の忘れ方はひどいよ。健忘症なんていう、やさしいのじゃないよ。もうおしまいだね」
「しゃくだなあ。おれは確かに頭はいいのだがな。人から聞いた小説の筋を忘れる様じゃ、本当におしまいだ。これから絶対に書けないことになるからね。だが、君はうまくかついでいるんじゃないかい」
「そんなにいうなら、証拠を見せてやろうか。その時のおれの話にはちゃんとオチがついているんだよ。それを話せば君はきっと思い出すだろう」北村はなぜか友達が痴呆症であることを望むものの様に、意地悪く続けるのだ。「その主人公は、君はいうのを忘れた様だけれど、非常に醜い容貌の持主なんだよ。彼の変態遊戯はそこから来ているんだよ。で、最後に、友達になぶられたり、外に境遇上の原因があったりして、とうとう死ぬ決心をするのだ。若い身空で恋もなく生きているのが、つくづくいやになったのだ。ところで彼もまた、世間の恋愛至上主義者と同じく、恋の極致は情死の外にないと信じている男だった。どうせ死ぬ位なら、せめて、うそでもいいから情死の真似がして見たいと思った。どうだい、まだ思い出せないかい」
「ウン、何だか聞いた様な気もするけれど」
「そこで彼は、恋文を創作したり架空な恋人を作ったりしたのと同じ筆法で、今度は情死の相手を創作しようと決心した」
「アアそうか、やっと思い出した。男と女と連名の遺言状を用意して、よく轢死者のある踏み切りへ出掛けて行く、あれだろう」
「そうだよ。あて名は漠然と『皆々様』位にして、女の名前は『不孝な娘より』とでも書いて置くんだね。そして、若い女の自殺者をまっているのだ。『魔の踏み切り』なんていう、非常に自殺者の多い場所があるもんだ。そういう所をさがしてまわるのだね。やがて、とうとう適当の相手を見つける。汽車が間近く迫って、女が線路へ飛び込むと、主人公も無断でそこへ一緒に飛び込む。そして二人はさも情死らしく、抱き合って死んでいるのだ。もっとも女が遺言状を書いていては駄目だが、そこは何とか考えるさ。それとも女の遺言状で、折角の主人公の目論見がオジャンになるというので幕にしてもいいがね」
「どうもそこが少し不自然だね。遺言状などはぶいて[#「はぶいて」に傍点]しまう方がいいかも知れないよ。あんまり小刀細工だからね」
「だが、僕達は今小説の筋を相談しているのではなかった。それも忘れてしまったのじゃあるまいね。君が忘れっぽいということを証明しつつあるのだよ」
「そうそう、それだね。なる程聞いて見れば、この筋は君が考え出したものらしいね」
九
そのことがあってから、柴野は非常に彼の記憶力を気にし出したものである。|尤《もっと》も彼は以前から忘れっぽい男で、「君と話していると馬鹿馬鹿しくなる。今いったことをもう忘れているんだからね」などと、しばしば北村に非難されてはいたのだけれど、まさかその健忘症が小説の筋にまで及ぼうとは思わなかった。「早発性痴呆」という言葉が、薄気味悪く彼の胸を打った。
その後も似た様な事柄が|度《たび》|々《たび》起って、柴野は|益《ます》|々《ます》自分の記憶力を疑う様になって行った。彼は小説書きである丈けに、それが恐ろしかった。得々として発表しているものが、たれにも分る様な剽窃だったら、これ程はずかしい不様なことはないのだ。
ある時はまた、こんなこともある。
北村は以前写真道楽にふけったことがあって、その名ごりの写真機械が行李の底に残っていたが、ある日のこと、例によって柴野が彼の下宿をたずねると、突然彼はそれを持出して、君を写してやるのだといって、柴野の姿をレンズにおさめたものである。柴野は妙なことをすると思ったけれど別にとがめることもないので、そのまま話し込み、夜になって自分の宿に帰った。
すると、その翌日、めずらしく北村の方から柴野をたずねて来た。
「昨日はなぜ君の写真を写したか知っているかい」
北村はニヤニヤしながらいうのである。
「実はね、君の早発性痴呆を確実に思い知らせてやろうと考えたのだよ。さあいって見たまえ、昨日はどんな服装をしていたか。洋服か和服か、和服ならどの着物だったか」
柴野はそれを聞くと、幾分不快を感じないではいられなかった。この男は何ぜこんなに執拗に自分の弱点をいい立てるのであろうか。考えて見ると、柴野が彼の記憶力をこうまで信じなくなったのは、一つは北村の絶え間なき暗示のせいかも知れないのである。柴野はいくらか北村を畏敬している点があるので、知らず知らず彼の暗示にかかっていたのかも知れないのである。
だが昨日どんな着物を着ていたという質問は、あまりといえば人を馬鹿にしている。彼は外出着として一着の洋服と、二着の和服を用意している。そして、その日の気持によって、洋服を着たり和服を着たりするのだが、昨日は洋服を着ていたことをハッキリ覚えている。
「洋服だよ。いくらなんだって、まさかそれまで忘れる程耄碌はしないよ」
「エエ、洋服だって」すると北村はさもあきれた顔つきで、「じゃこれを見たまえ。君の痴呆症が、どれ程救い難きものだか」
見るとそれは昨日写した写真であったが、意外にも、そこにはちゃんと和服姿の柴野が写っているのだ。
「おかしいな。たしかに洋服を着たはずなんだがね」
「だってまさか写真が間違っているともいえまい。これで君も、自分の病気がハッキリわかっただろう。君はいつも、おれが意地悪でいう様にとるけれど、決してこんなことで優越を示そうとするのじゃない。真面目に君の身体を心配しているのだよ。何とかしなきゃ、取返しのつかないことになるよ。どうだい、一度専門の医者に見てもらっては」
「ウン、そうだね」
柴野は|流石《さ す が》に恐ろしくなって来たものである。で、その時には、是非何とかするつもりになるのだが、根がその日暮らしの刹那主義者である彼は、つい外の事に取まぎれ、医者に見てもらおうともしない。一つには、それが恐ろしくもあるのだ。
やがて、彼のこの病気は、日にましひどくなって行った。話をしていても、どれが自分の意見で、どれが他人の意見だか、区別がつかなくなって来た。さも大発見の様に、一つの説を述べ立てていると、それが意外にも、以前に聞いたことのある、相手の意見だったりすることがしばしばあった。
「しばらくあわなかったね」と挨拶すると、「何をいっているのだ。昨日あったばかりじゃないか」といって笑われる様なこともあった。柴野は変な気持になって行った。現実と夢幻との境がだんだんハッキリしなくなって行った。
「おれは一体起きているのか眠っているのか」
そんな滑稽な疑いさえ起るのであった。
「君はすべてのことを、形だとか数だとか、時間だとかで、ハッキリ記憶するのでなくて、ボンヤリと空気で感じているらしいね。たとえば一つの説を吐いても、それを確実に、具体的に論証することは出来ない。記憶がないのだから、したがって論証の材料を持たないのだ。そういう場合に君は口ぐせの様にいうじゃないか。証拠はないけれど空気で感じているのだ。そしてその直覚は滅多に間違った事がないって。だから、君は空気男なんだよ」
北村はからかう様に、そんなことをいうのであった。そして、いつの間にか、柴野は空気男というあだ名をつけられてしまった。
ある時北村は「空気男」という表題で一篇の小説を発表した。そこには、その小説の主人公が(それはとりも直さず柴野のことなのだ)如何に記憶力に乏しいか、そしてそれがどんなに危険なものであるか、ということが条理をつくして記述されてあった。
十
北村と柴野とが前述の様な状態にあった時、一方では、空気男の柴野の知合いである河口という挿絵画家の身の上に、不思議な事件が起っていた。
河口は最近妻を失って、情人のお琴というのと同棲しているのであったが、その変異の起りは、妻の芳子が死んでから一月ばかりたった、あるむし暑い夏の夜ふけのことであった。
その夜河口は、あけ放した二階の六畳で、眠い目をこすりながら、さし迫った挿絵の仕事に夢中になっていた。
「よくもこんな下らない小説を書いたものだ」
彼はきたない原稿を苦心して読んでしまうと、そんなことをブツブツつぶやきながら、でも商売の恐ろしさは、その下らない小説の挿絵をかかなければならなかった。
彼は一枚一枚鉛筆で下書きをしては、その上を墨汁を含ませたペンでなすって行った。流石に慣れたもので、見る見る、物語にふさわしい|夫《それ》|々《ぞれ》の人物が紙上に現れて来る。何といってもすきな道のこととて、そうして仕上の筆を運ぶ内には、彼は段々愉快になって来て、はては鼻歌まじりに、いつしか時間のたつのも忘れて、仕事に没頭しているのであった。
夜番の拍子木が度々彼の部屋の下を通り過ぎた。ふと算えて見ると、時計の音が少いのに驚いた。明かにもう十二時を過ぎているのだ。
と、突然下の方から「ギャッ」という異様な叫び声が聞えて来た。うっかりしていた河口には、それがどこから来たものかよく分らなかったけれど、非常な恐怖を現す人間の声らしく思われた。
何だか、ゾッと寒気のする様な、いやないやな感じのものだった。
「もしや」ふとある恐ろしい考えが彼の胸にひらめいた。彼は思わず、じっと身をすくめて、次に起る物音を聞こうとした。しかし、しばらくの間は何の気はいもしなかった。机の上の置時計のセコンドを刻む音が、彼の心臓の鼓動と拍子を合せる様に、いやに大きく聞えるばかりだった。
「ハハハハ、何んだ馬鹿馬鹿しい」
彼は青い顔をして、わざとらしく笑った。「きっと猫か何かが鳴いたのだろう。気のせいだ。気のせいだ」そう思って無理に落ちつこうとしても、一度おびやかされた神経は容易にしずまらぬ。彼はある理由の為に、近頃妙に臆病になっていた。ともすれば、怪しげな幻が目先にちらついたり変な物音が聞えたりするのだ。
やがて、ふと気がつくと、たれかが、ゆっくりゆっくり階段を上って来る様な気がする。たれかといって、階下にはお琴がいる切りなのだから、その他に黙って階段を上って来る者はないはずだが、ゆっくりゆっくり上って来る様子が、どうやらいつものお琴らしくないのだ。彼は思わず一種の身構えをして、じっと階段の方をみつめた。
「あなた」
だが、階段の所に顔を出して、変にかすれた声でこう呼びかけたのは、やっぱりお琴だった。
「ナンダ、お前か」
それを見ると、彼はやっと安心して、いくらかおこった様な調子で怒鳴った。ところが、それに対して、日頃多弁な彼女が、何とも応じないばかりか、見れば、階段を上った所にぐったりともたれかかって、まるで大病人ででもある様に肩で息をしているではないか。
「オイ、どうしたのだ」
河口は思わず立って行って、彼女を抱えた。
「オイ、しっかりしろ、どっか悪いのか」
すると、琴子は青ざめた、妙に引きつった様な表情で、キョロキョロあたりを見廻していたが、突然、彼にしっかり抱きつくと、
「怖いッ」
と叫んで、わなわなと|慄《ふる》い出すのだった。
「馬鹿ッ、いいかげんにしろ。子供じゃあるまいし」
彼は、|兎《と》も|角《かく》も、こう叱りつけて見たけれど、どうやら彼自身も、襟元がゾクゾクして来るのだ。そこで元気をつける様に、もう一度、
「馬鹿ッ、何がそんなに怖いのだ」
「だって、あなた、あの人が、あの人が……」
「あの人って、どの人だ」
「……先の奥さんの……芳子さんの幽霊が……あなた、あなた、下を見て下さい、梯子段の下に誰もいやしない?」
「たれがいるもんか。馬鹿だなあ、何かを見違えたんだよ、お前は」
だが、そういう彼の声も、いくらか慄えていた。そして、そのまま、彼等は長い間だまって顔を見合せていた。彼女の方はうわずった気を沈める為に、彼の方は、急に湧上ったある恐怖をうち消す為に。
夜ふけの町には少しの物音もなく、そうして相対している二人は、一寸ずつ、一寸ずつ、地の底へ滅入り込んで行く様な気がするのだった。
「アア、恐かった」やがて少し元気づいたお琴が初めた。「だってね、あなた。あなたがあんまり遅いものだから、あたし一人で、お先へやすんでたんでしょう。まだ戸がしめてなかったのよ。するとね、ホラ、あの縁側の手水鉢の向うに八つ手の木があるでしょう。あすこの所へね、ボーッと白いものが見えるじゃありませんか」そういって彼女はそっとうしろを見た。「ハッと思って、よく見直すと、まあ、あなた、長いかみの毛をね、こう顔の前へたらして、その間から、こわい目であたしの方を、じいっと見つめているのよ。……あたし、もう今夜は、どうしたって、下へはおりられないわ。……アラ、見違いなもんですか。先の奥さんの証拠にはね、ちゃんと経かたびらを着ていたんですもの。頭陀袋まで下げていたのが、ハッキリ見えてましたわ」
「だが、お前は芳子に逢ったこともないじゃないか。それに、別段恨まれる理屈もなし……」
「あわなくたって、あたし写真を見てますわ。そりゃもう、あの写真そっくり……」
よく考えて見れば、その咄嗟の場合、幽霊の容貌まであらためる余裕など、あろうはずもないのだが、女というものは、兎角断定的な物言いをする習いだ。河口は|可《か》|也《なり》躊躇を感じたけれど、でも女の手前じっとしている訳にも行かぬので、勇を鼓して階下へおりて見ることにした。
狭い借家のことで、階段を降りると、すぐにもう裏の板塀まで見通しなのだ。
「それごらん、何にもいやしないじゃないか。気の迷いだよ、気の迷いだよ」
だが、そういいながらも、河口が少し不審に思ったことには、庭に通ずる板塀の木戸が、何かしら、今人が出て行ったばかりの様に、少し開いていて、それがかすかにゆれてさえいるのだった。
「お前、あの木戸は先から開いていたのかい」
「エエ、あたしうっかりしてましたけど、夕方締りをするのを忘れてた様よ」
お琴は、彼の背中へピッタリくっつくようにして、小さくふるえながらささやき声で答えるのだ。
「そうだ。きっとそうだ」それを聞くと河口は妙に元気づいて来た。
「だから、お前が悪いのだよ。だらしがないからだよ。あの木戸から泥棒か何んかがはいって来たのさ。それをお前がいやなものに見違えたのさ。ただそれだけのことなんだよ。馬鹿だなあ、お前は」
そこで、彼は念の為に庭へ下りて、足跡を見たり、木戸の外を調べたりしたけれど、地面の堅い為に足跡もなく、外の露地にも、別段怪しい人影はなかった。
それから二人が、やっと落ちついて床についた時分には、もう三時がまわっていた。お蔭で、仕事の方は、また雑誌社に済まぬ思いをしなければならぬのだ。でも、その代りには、彼の説得が効を奏して、床につく頃になると、あの様に恐れ|戦《おのの》いていたお琴も、どうやら神経をしずめて、笑声さえ漏らす程になった。
「だって、あたし、しょっちゅう、先の奥さんに恨まれてやしないか、恨まれてやしないかと、もう気になってしようがないのですもの。まだ三十五日も済まない内から、こうしているんでしょう。あなたにしたって、あんまり寝ざめがよくはないはずだわ。ホホホホホホ」
だが、こうして、お琴が日頃の多弁を取返して、その口調が滑らかになればなる程、それとは反対に、河口の心は、刻々に深まって来る、ある恐怖の為に、重く沈んで行くのだった。お琴がいくらこわがりやでも、泥棒を幽霊に見違えるはずはなかった。かみの毛をふり乱して、経かたびらに頭陀袋まで下げている、そんな泥棒がいるだろうか。身に覚えがあるだけに、彼の方は、琴子の様に一時的の恐怖では済まなかった。彼はその夜一晩中、恐ろしい悪夢にうなされつづけた。大きな鼻の頭に、しっとりと、玉のような油汗をうかべて。
十一
河口の細君の芳子は、この話の一月ばかり前に、まだ二十三歳という若い身空で、ひょんな不時の災難から、この世を去ったのである。最初は河口の方から大騒ぎをして、多少の無理を通してまでもらった恋女房のこと故、|至《し》|極《ごく》夫婦仲もむつまじく、「河口の女房孝行」といえば、友達の間の評判にさえなっていた程だが、それが、結婚して二三年もすると、元来が派手ずきの河口は、京人形の様に、美しく、しとやかな丈けが取柄の芳子に、段々あき始て、ふとしたことから友達の家で知り合いになった、モデル女のお琴の、蓮葉な、なげやりな、それで恋の技巧などにはすばらしく|長《た》けている、いわば近代的とでもいった所に、すっかり打込んでしまったのである。
流石に始の間は、細君の前をとりつくろって、こっそりとやっていたので、芳子の方では、少しもそれと気付かないでいたけれど、二月三月とたつ内には、そんなことがかくしおおせるものではなく、いつしか芳子の知る所となり、日頃おとなしい彼女も、流石に辛抱が出来なかったと見えて、夫婦の間にはげしいいさかいの起ったことも、二度や三度ではなかった。だが、そうして家庭が不愉快になればなる程、河口とお琴とのおう瀬は繁くなり、したがって芳子の懊悩は、一日一日とその度を深めて行くのだった。
それが高じると、いつの間にか、芳子は憂鬱症とでもいうべきやまいに罹っていた。よっぴて眠られぬことが、幾晩も続く様になった。河口の身にとっては、それが陽性のヒステリーでない丈けに、却ってつらかった。彼は友達の医者に相談をしたりして、色々と彼女の病気を治すことに骨折った。彼女の持薬として睡眠剤をもらって来てやったのも、そうした彼のせめてものわび心だった。無論百の睡眠剤よりも、お琴と切れることの方が、どれ丈け彼女の病気にきき目があるか分らないのだが、それ丈けは、彼にはどうしても出来なかったのだ。
そんな状態が二三ケ月も続いたであろうか。が、やがて、ついに恐ろしい破綻の日が来たのである。それは過失であったか、故意であったか、それともまた、|外《ほか》の理由からであったか、兎に角も、芳子は睡眠剤の分量をあやまって、とうとう、それがむしろ彼女の希望であったろう所の、永久の眠りについてしまったのである。この芳子の不意の死にあった河口は、一時は非常に悲しんだ。いや、少くとも外見上はそう見えた。が、七日と過ぎ、十日半月と日がたつにつれて、彼はいつかその悲しみを忘れ、忘れたばかりか、間接には芳子の死の原因であった所の、情婦のお琴を、ひそかに我家へ引入れさえしたのである。
こうした事情故、若しこの世に幽霊というものがあるとしたら、芳子がその幽霊になって、彼等両人の所へ恨みを述べに来るというのは至極当然のことであった。その当然である丈けに、彼等としては今度の幽霊沙汰が身にしみて恐ろしく思われるのだ。殊に河口の方は、当然以上にもっともっと恐れなければならぬ、ある秘密を持っていたのだから。
[#ここから2字下げ]
「写真報知」の廃刊と運命を共にした長篇小説の前半である。記憶力喪失者「空気男」の恐怖を取扱おうとしたものだ。いつか機会があったら、書きつぎ度いと思っている。
[#ここで字下げ終わり]
悪霊
発表者の付記
二た月ばかり前の事であるが、N某という中年の失業者が、手紙と電話と来訪との、執念深い攻撃の結果、とうとう私の書斎に上がり込んで、二冊の部厚な記録を、私に売りつけてしまった。人嫌いな私が、未知の、しかもあまり風体のよくない、こういう訪問者に会う気になったのはよくよくのことである。彼の用件はむろん、その記録を金に換えることのほかにはなかった。彼はその犯罪記録が私の小説の材料として多額の金銭価値を持つものだと主張し、前もって分け前にあずかりたいというのであった。
結局私は、そんなに苦痛でない程度の金額で、その記録をほとんど内容も調べず買い取った。小説の材料に使えるなどとはむろん思わなかったが、ただこの気兼ねな訪問者から、少しでも早くのがれたかったからである。
それから数日後の或る夜、私は寝床の中で、不眠症をまぎらすために、なにげなくその記録を読みはじめたが、読むにしたがって、非常な掘り出しものをしたことがわかってきた。私はその晩、とうとう徹夜をした上、翌日の昼ごろまでかかって、大部の記録をすっかり読み終った。半分も読まないうちに、これは是非発表しなければならないと心をきめたほどであった。そこで、当然私は、先日のN某君にもう一度改めて会いたいと思った。会って、この不思議な犯罪事件について、同君の口から何事かを聞き出したいと思った。記録を所持していた同君は、この事件にまったく無縁の者ではないと思ったからだ。しかし、残念な事には、記録を買い取った時の事情があんなふうであったために、私は、某君の身の上について何事も知らなかった。彼の面会強要の手紙は三通残っていた。けれど所書きは皆違っていて、二つは浅草の旅人宿、一つは浅草郵便局留置きで返事をくれとあって所書きがない。その旅人宿二軒へは、人をやったり電話をかけたりして問い合わせたけれど、N某君の現在の居所はまったく不明であった。
記録というのは、まっ赤な革表紙で綴じ合わせた、二冊の部厚な手紙の束であった。全体が同じ筆蹟、同じ署名で、名宛人もはじめから終りまで例外なく同一人物であった。つまり、このおびただしい手紙を受け取った人物が、それを丹念に保存して、日付の順序に従って綴じ合わせておいたものに違いない。もしかしたら、あのN某こそ、この手紙の受取人で、それが何かの事情で偽名をしていたのではなかったか。こんな重要な記録が、故なく他人の手に渡ろうとは考えられないからだ。
手紙の内容は、|先《さき》にも言った通り、或る一連の残酷な、血なまぐさい、異様に不可解な犯罪事件の、首尾一貫した記録であって、そこにしるされた有名な心理学者たちの名前は、明きらかに実在のものであって、われわれはそれらの名前によって、今から数年以前、この学者連の身辺に起こった奇怪な殺人事件の新聞記事を、容易に思い出すことができるであろう。おぼろげな記憶によって、その記事をこれに比べてみても、私の手に入れた書翰集がまったく架空の物語でないことはわかるのだが、しかし、それにもかかわらず、ここにしるされた事件全体の感じが(簡単な新聞記事では想像もできなかったその秘密の詳細が)なんとなく異様であって、信じがたいものに思われるのはなぜであるか。現実は往々にしていかなる空想よりも奇怪なるがためであろうか。それとも又、この書翰集は無名の小説家が現実の事件にもとづいて、彼の空想をほしいままにした、廻りくどい欺瞞なのであろうか。歴史家でない私は、そのいずれであるかを確かめる義務を感じるよりも先に、これを一篇の探偵小説として、世に発表したい誘惑に打ち勝ちかねたのである。
一応は、この書翰集全体を、私の手で普通の物語体に書き改めることを考えてみたけれど、それは、事件の真実性を薄めるばかりでなく、かえって物語の興味をそぐおそれがあった。それほど、この書翰集は巧みに書かれていたと言えるのだ。そこで私は、私の買い取った三冊の記録を、ほとんど加筆しないで、そのまま発表する決心をした。書翰集のところどころに、手紙の受取人の筆蹟とおぼしく、赤インキで簡単な感想或いは説明が書き入れてあるが、これも事件を理解する上に無用ではないと思うので、ほとんど全部(註)として印刷することにした。
事件は数年以前のものであるし、もしこの記録が事の真相であったとしても、迷惑を感じる関係者は多く故人となっているので、発表をはばかるところはほとんどないのであるが、念のために書翰中の人名、地名はすべて私の随意に書き改めた。しかし、この事件の新聞記事を記憶する読者にとって、それらを真実の人名、地名に置き替えることは、さして困難ではないと信じる。
いま私はこの著述がどうかしてN某君の眼に触れ、同君の来訪を受けることを切に望んでいる。私は同君が譲ってくれたこの興味ある記録を、そのまま私の名で活字にすることを敢てしたからである。この一篇の物語について、私はまったく労力を費していない、したがってこの著述から生じる作者の収入は、全部、N某君に贈呈すべきだと思っている。この付記をしるした一半の理由は、材料入手の顛末を明きらかにして、所在不明のN某君に、私に他意なき次第を告げ、謝意を表したいためであった。
第一信
長いあいだまったく手紙を書かなかったことを許してください。それには理由があったのだ。数年来まるで恋人のように三日にあげず手紙を書いていた君のことを、この一と月ほどのあいだというもの、僕はほとんど忘れていた。僕に新らしい話し相手ができたからだなどと思ってはいけない。そんなふうの並々の理由ではないのだ。君は僕の「色目がねの魔法」というものを多分記憶しているだろう。僕が手製でこしらえたマラカイト緑とメチール|菫《すみれ》の二枚の色ガラスをかさねた魔法目がねの無気味な効果を。あの二重目がねで世界を覗くと、山も森も林も草も、すべての緑色のものが、血のようにまっ赤に見えるね。いつか箱根の山の中で、君にそいつを覗かせたら、君は「怖い」と言って大切なロイド目がねを地べたへほうり出してしまったことがある。あれだよ。僕がこの一と月ばかりのあいだに見たり聞いたりしたことは、まったくあの魔法目がねの世界なのだよ。眼界は濃霧のようにドス黒くて奥底が見えないのだ。しかしその暗い世界をじっと見つめていると、眼が慣れるにつれて、滲み出すようにまっ赤な物の姿が、まっ赤な森林や、血のような草むらが、眼を圧して迫まってくるのだ。
君の少し機嫌をわるくした手紙はけさ受け取った。恋人でなくても、相手の冷淡はねたましいものだ。僕は心にもない音信の途絶えをすまないことに思った。と言って、何もそれだからこの手紙を書き出したのではない。もっと積極的な意味があってなのだ。君の手紙の中に黒川先生の近況を尋ねる言葉があったね。君は大阪にいて何も知らないけれど、君のあのお見舞の言葉は、偶然とは思われぬほど、恐ろしく適切であったのだ。僕は先生の身辺に継起した出来事について君のお尋ねに答えるべきなのであろうが、それは、いくら僕の手紙が饒舌だからといって、一度や二度の通信ではとても書ききれるものでない。それほどその出来事というのが重大で複雑をきわめているのだ。しかも事件はまだ終ったのではない。僕の予感ではこの殺人劇のクライマックスは、つまり犯人の最後の切札は、どっかしら見えないところに、楽しそうに、大切にしまってあるのだ。
実を言うと、僕自身もこの血なまぐさい事件の渦中のひとりに違いない。なぜと言って、黒川博士の身辺の出来事というのは、君も知っている例の心霊学会のグループの中に起こったことであって、僕もその会員の末席をけがしているからだ。僕がどういう気持で、この事件に対しているか、事件そのものは知らなくても、君にはおおかた想像できるであろう。黒川先生や気の毒な被害者の人たちには、まことにすまぬことだけれど、気の毒がったり、途方にくれたり、胸騒ぎしたりする前に、先ず探偵的興味がムクムクと頭をもたげてくるのを、僕はどうすることもできなかった。事件が実に不愉快で、無気味で、惨虐で、八幡の藪知らずみたいに不可解なものであるだけ、被害者にとってはなんとも言えぬほど恐ろしい出来事であるのに反比例して、探偵的興味からは実に申し分のない題材なのだ。僕はつい強いても事件の渦中に踏み込まないではいられなかった。
君が僕に劣らぬ探偵好きであることはわかっている。僕は君が東京にいてまだ学生だった時分、ふたりで机上の探偵ごっこをして楽しんだのを忘れることができない。で、僕はこういう事を思い立った。まだ謎はほとんど解けていないまま、この事件の経過を詳しく君に報告して、それを後日のための記録ともし、又、遠く隔てて眺めている君の直覚なり推理なりを聞かせてもらおうというもくろみなのだ。つまり、僕たちは今度は、現実の、しかも僕に取っては恩師に当たる黒川博士の身辺をめぐる犯罪事件を材料にして、例の探偵ごっこをやろうというわけなのだ。これはちょっと考えると不謹慎な企てと見えるかもしれない。だが、そうして、もし少しでも真相に近づくことができたならば、恩師に対しても、その周囲の人たちに対しても、利益にこそなれ決して迷惑なことではないと思う。
今から約一カ月前、九月二十三日の夕方、姉崎|曾《そ》|恵《え》|子《こ》未亡人惨殺事件が発見された。そして、なんの因縁であるか、その第一の発見者はかくいう僕であった。姉崎曾恵子さんというのは僕たちの心霊学会の風変わりな会員の一人で(風変わりなのは決してこの夫人ばかりではないことが、やがて君にわかるだろう)一年ほど前夫に死に別かれた、まだ三十を少し越したばかりの美しい未亡人だ。故姉崎氏は実業界で相当の仕事をしていた人だが、その人と黒川博士とが中学時代の同窓であった関係から、夫人も博士邸を訪問するようになり、いつの間にか心霊学に興味を持って、心霊現象の実験の集まりには欠かさず出席していた。その美しいわれわれの仲間が突然奇怪な変死をとげたのだ。
その夕方、午後五時ごろであったが、僕は勤め先のA新聞社からの帰りがけに、かねて黒川先生から依頼されていた心霊学会例会の打ち合わせの用件で、牛込区河田町の姉崎夫人邸に立ち寄った。多分君も知っている通り、あの辺は、道の両側に毀れかかった高い石垣が聳え、その上に森のような樹木が空を覆っていたり、飛んでもない所に草のはえた空き地があったり、狭い道に苔のはえた板塀がつづいていて、その根元には蓋のない|泥《どろ》|溝《みぞ》が横たわっていたりする、市中の住宅街では最も陰気な場所の一つだが、姉崎未亡人の屋敷は、その板塀の並んだ中にあって、塀ごしに古風な土蔵の屋根が見えているのが目印だ。
姉崎家の門よりは電車道寄りに、つまり姉崎家の少し手前の筋向こうに当たるところに、いま言った草のはえた空き地があって、その隅に下水用の大きなコンクリートの管が幾つもころがっているのだが、多分その管の中を住居にしているのだろう、ひとりの年とった男の片輪乞食が、管の前|に躄車《いざりぐるま》をすえて、折れたように坐っていた。僕はそいつを注意しないわけにはいかなかった。それほど汚なくて気味のわるい乞食だったからだ。そいつは簡単に言えば毛髪と右の眼と上下の歯と左の手と両足とを持たない極端な不具者であった。からだの半分がなくなってしまっていると言ってもよかった。その上痩せさらぼうて、おそらく目方も普通の人間の半分しかないのだろうと思われたほどだ。僕は道端に立ち止まって二、三分も乞食を眺めつづけたが、そのあいだ彼は僕を黙殺して、片方しかない手で折れ曲がった背中をボリボリ掻いていた。
僕がこの|躄乞食《いざりこじき》をそんなに長く見つめていたのは、人間の普通でない姿態に惹きつけられる例の僕の子供らしい好奇心にすぎなかったが、しかし、そうしてこの乞食を心にとめておいたことが、後になってなかなか役に立った。いやそればかりではなく、僕とそいつとは、別にはっきりした理由があるわけではないけれど、なんだか目に見えない糸で繋ぎ合わされているような気がして仕方がないのだ。殊に近頃になって、この二、三日などは毎晩のように、あのお化けの夢にうなされている。昼間でもあいつの顔を思い出すとゾーッと寒気がして、なんともいえぬ厭な気持におそわれるのだ。姉崎家のことを書く前に、僕はなんだかあの片輪ものについて、もう少し詳しく君に知らせておきたくなった。そいつの不具の度合いは、からだのどの部分よりも顔面に最もいちじるしかった。頭部の肉は|顱頂骨《ろちょうこつ》が透いて見えるほどひからびていて、ピカピカ光る引釣りがあって、その上全面に一本の毛髪も残っていなかった。ミイラには毛髪のついているのもあるが、この乞食の頭は、ミイラとそっくりな上に髪の毛さえも見当たらぬのだ。広く見える額には眉毛がなくて、突然眼の|窪《くぼ》が薄黒い|洞《ほら》|穴《あな》になっていた。もっともそれは右の眼の話で、左の眼球だけは残っていたけれど、細くひらいた瞼の中は、黒くはなくて薄白く見えた。僕は左の眼も盲目なのかと考えたが、あとになって、それは充分使用に耐えることがわかった。眼から下の部分はまったく不思議なものであった。頬も鼻も口も顎も、どれがどれだかまるで区別がなくて、無数の深い横皺が刻まれているにすぎなかった。鼻は低くて短かくて幾段にも横皺で畳まれていて、普通の人間の鼻の三分の一の長さもないように見えたし、鼻の下には幾本かの襞になった横皺があるばかりで、すぐに羽をむしった鶏のような喉になっていた。むろんその横皺の一つが口なのだけれど、どれが口に当たるのか見分けがつかないほどであった。つまりこの乞食の顔は、われわれとはまるで逆であって、眼から下の全体の面積が、顔の三分の一にも足りないのだ。これは肉が痩せて皮膚がたるんだのと、上下の歯がまったくないために、顔の下半面が、提灯を押しつぶしたように縮んでしまったものに違いなかった。君がもしアルコール漬けになった月足らずの胎児を見た経験があるなら、それを思い出してくれればいいのだ。髪の毛のまったく生えていない、白っぽくて皺くちゃのあの胎児の顔をそのまま大きくすれば、ちょうどこの乞食の顔になる。皮膚の色は、君はおそらく渋紙色を想像するであろうが、案外そうではなくて、もし皺を引き伸ばしたなら、僕なんかの顔色よりも白くて美しいのではないかと思われるほどであった。それからこいつのからだだが、それは顔ほどではなかったけれど、やっぱりミイラを思い出す痩せ方であった。着ているのは、めくら縞の木綿の単衣のぼろぼろに破れたもので、殊に左袖は跡形もなくちぎれてしまって、ちぎれた袖のあいだから、黒く汚れたメリヤスのシャツに包まれた腕のつけ根が、肩から生えた瘤みたいに覗いていた。その瘤の先が風呂敷の結び目のようにキュッとしぼんでいるのは、一見外科手術の痕で、この乞食が癩病患者ではないことを語るものだ。胴体は非常な老人のようにまったく二つに折れて、ちょっと見ると坐っているのだか寝ているのだかわからないほどであったが、その胴体に覆い隠された隙間から、膝から上だけの二本の細い腿が覗いていて、それが泥まみれの躄車の中にきっちりとはまり込んでいた。年齢はどう見ても六十歳以上の老人であった。
例のくせで、僕は饒舌になりすぎたようだ。道草はよして姉崎家を訪ねることにしよう。そしてなるべく手取り早く犯罪事件にはいることにしよう。で、夫人の家を訪ねると、顔見知りの女中が、広い家の中にたった一人でいた。何かしらただならぬ様子が見えたので、僕はそのわけを尋ねてみたが、女中の答えたところは次の通りであった。姉崎未亡人は、夫の病死以来召使いの人数も減らして、広い屋敷に中学二年生のひとり息子と書生と女中の四人きりで住んでいた。ちょうどその日は子供の中学生は二日つづきの休日を利用して学友と旅行に出ていたし、書生は田舎に不幸があって帰郷していたし、その上、女中は夫人の言いつけで、昼すぎから午後四時半頃まで遠方の化粧品店と呉服屋とへ使いに出ていたので、その留守のあいだ夫人はまったくひとりぼっちであった。いつもはそういう場合には市ケ谷加賀町にある夫人の実家から人をよこしてもらうようにしていたのに、きょうはそれにも及ばないということだったので、女中はそのまま使いに出て、つい半時間ほど前に帰宅してみると、家の中はからっぽで、表の戸締まりもなく、家じゅう隈なく探したけれど、夫人の姿はどこにも見えなかった。おかしいのは、夫人の履物が一足もなくなっていないことだ。もし夫人がはだしで飛び出すようなことが起こったのだとすれば、それだけでもただ事ではない。さしずめ加賀町さんへこの事を知らせなければならぬが、それには留守番がないしと、処置に困じていたところへ、ちょうど僕が来合わせたというのであった。
会話を省略したので、少し不自然に見えるかもしれないけれど、その問答のあいだに、僕は邸内に女中がまだ探していない部分があることを気づいた。それは先にちょっと書いた往来の塀のそとから屋根が見えているというこの家の土蔵なのだ。土蔵が女中の盲点にはいっていたのは、しかし無理はなかった。少なくとも女中の知っている限りでは、土蔵の扉は時候の変わり目のほかはほとんどひらかれたことがなく、戸前にはいつもあかずの部屋のように重おもしい錠前が掛かっていたのだから。僕は念のためにと女中を説いて、ふたりで土蔵の前へ行ってみたが、その扉には、女中の言葉の通り、昔風の大きな鉄の錠前が、まるで造りつけの装飾物ででもあるように、ひっそりと掛かっているばかりであった。だが僕は錠前の鉄板の表面の埃が、一部分乱れているのを見のがさなかった。それはごく最近、誰かが扉をあけてまた閉めたことを示すものではないだろうか。僕はふと夫人が第三者のために土蔵の中へとじこめられているという想像に脅かされて、錠前の鍵を持ってくるように頼んだが、女中はそのありかを知らなかった。それでも、僕はどうも断念できないものだから、窓から覗いてみることを考えて、庭に降りて見まわすと、幸い、蔵の二階の窓が一つひらいたままになっているのを見つけた。僕は梯子を掛けてその窓へ登って行った。窓の鉄棒につかまって、もうほとんど暗くなっているその土蔵の二階を、僕はじっと覗き込んでいた。猫のように僕の瞳孔がひらいて、暗がりに慣れるのに数十秒かかったが、しかし、やがて、ぼんやりとそこにある物が浮き上がってきた。壁に接して塗りダンスだとか、長持だとか、大小さまざまの道具を容れた木箱だとかが、ゴチャゴチャと積み並べてあるらしく、漆や金具があちこちに薄ぼんやりと光って見えた。それらの品物は皆部屋の隅へ隅へと積み上げてあるので、板敷の中央はガランとした空き地になっているのだが、そこに大きなほの白い物体が、曲がりくねって横たわっていた。僕の眼はいちはやくその物体を認めたのだけれど、なんだか正体を見きわめることを遅らそうとするもののようであった。むろん怖がっていたのに違いない。しかし、いくら|外《そ》らそう外らそうとしても、結局僕の視線はそこへ戻って行くほかはなかった。見ていると薄闇の中から、その曲線に富んだ大きな白い物体だけがクッキリと浮き上がって僕の眼に飛びついてくるように感じられた。僕は視力以上のもので、それを白昼のように見きわめることができた。
姉崎未亡人は、全裸体で、水に溺れた人が死にもの狂いに藻掻いている恰好で、そこに息絶えていた。僕は血の美しさというものを、あの時にはじめて経験した。脂づいた白くて滑かな皮膚を、大胆きわまる染め模様のように、或いは緋の絹糸の乱れるように、太く細く伝い流れる血潮の縞は、白と赤との悪夢の中の放胆な曲線の交錯は、ゾッと総毛の立つほど美しいものだ。僕は夫人とさほど親しいわけではなかったから、この惨死体を見て悲しむよりは怖れ、怖れるよりはむしろ夢のような美しさに打たれたことを告白しなければならない。
君はこの僕の形容をいぶかしく思うに違いない。そんな縞のような血の跡がついているなんて、殺人者はいったいどういう殺し方をしたのかと。だがそれに答えるのには、窓のそとからの朧げな隙見だけでは不充分だ。僕は薄闇の悪夢からさめて、現実の社会人の立場から、殺人事件発見者として適当の処置をとらなければならない。僕は女中とも相談の上、先ず第一に公衆電話によって、加賀町の夫人の実家へこの不祥事を報告し、実家の依頼を受けて、所轄警察署その他必要な先きざきへ通知した。
地方裁判所検事の一行が到着して、警視庁や所轄警察署の人々と一緒に現場検証を開始したのは、それから一時間ほど後であった。君も知っている通り、僕のA新聞社での地位はこういう事柄には縁遠い学芸部の記者だから、裁判所の人などに知り合いは少ないのだけれど、幸いにもこの事件を担当した検事綿貫正太郎氏は学芸欄の用件で数度訪問したことがあって、知らぬ仲ではなかったものだから、証人としての供述以上にいろいろ質問もすれば、綿貫氏から話しかけられもした。だが、その夜の検証の模様を順序を追ってここにしるす必要はない。ただ結果だけを正確に書きとめておけばよいと思う。
先ず最初に土蔵の錠前の鍵に関する不可解な事実について一言しなければならぬ。先にもしるした通り、土蔵の扉には錠がおりていたし、たとえ窓はあいていても、厳重な鉄棒に妨げられて、そこから出入りすることはできないので、現場を調べるためには、是非錠前の鍵が必要であった。検証の時分には加賀町の実家から姉崎未亡人のにいさんに当たる人が来ていて、女中と一緒になって鍵のありかを探したのだけれど、どうしても見つからないので、人々は止むを得ず錠前を毀して土蔵の中へはいることにしたが、僕が注意するまでもなく、彼らは錠前の指紋のことに気づいていて、錠前そのものには触れず、扉にとりつけた金具を撃ちこわすことによって目的を達した。だが、やがてその紛失した鍵が、実に奇妙なことには、未亡人の死体の下から発見された。これはいったい何を意味するのであろうか。検査の結果、その土蔵の錠前は開閉ともに鍵がなくては動かぬことがわかっているのだ。とすると、蔵のそとの錠前を、蔵の中にある鍵でどうして閉めることができたのであろう。それともこの殺人犯人は用意周到にも、あらかじめ土蔵の合鍵を用意していたのであろうか。
さて、そういうふうにして土蔵の二階へ上がった人々は、先ず曾恵子さんの死体を囲んで、裁判医の鑑定を聞くことになった。綿貫氏の許しを得て僕もそこに居合わせたが、こんなことには慣れきったその筋の人たちをさえひどく驚かせたほど、この殺人方法は奇怪をきわめていた。鑑定によると、兇器は剃刀ようの薄刃のもので、右頸動脈の切断が致命傷だということであったが、素人にも一見してそれがわかるほど、頸部からの出血はおびただしいものであった。未亡人の俯伏せになった顔は無気味な絵の具で染めたように見え、解けた黒髪は絞るほどもしっとりと液体を含んでいた。しかしこの殺人が奇怪だという意味は、そういうむごたらしい点にあるのではなくて、被害者の生命を断つことに直接の関係はないけれど、しかし何かしら意味ありげな、常識では判断のできない、非常に無気味な別の事実についてであった。その一つは、姉崎未亡人が丸はだかにされて殺されていたことだ。同じ蔵の二階の片隅に彼女の不断着がぬぎ捨ててあったところを見ると、被害者は蔵の中へはいるまではちゃんと着物を着ていたことは確かで、その二階へ来てから自からぬいだか、犯人にぬがされたかしたものに違いないのだが、それがこの殺人事件にどんな意味を持っていたのか、ちょっと想像がつかないのだ。それからもう一つの点は(この方が一そう奇怪であって、姉崎夫人殺害事件中での最も著しい事実なのだが)夫人の死体には先にしるした致命傷のほかに、全身にわたって六カ所に小さい斬り傷があったことだ。鑑定書の口調をまねて詳しく言うと、右三角筋部、左前上膊部、左右臀部、右前大腿部、左後膝部の六カ所に、長さ三センチから一センチぐらいまでの、剃刀ようの兇器によるものとおぼしき軽微な斬り傷があって、そこから六本の血の河が全身に異様な縞をえがいていたのだ。誰も皆これらの傷があまり小さすぎることを不審に思った。殺人者が六度斬りつけて六度失敗し、七度目にやっと目的を達したと考えるためには、傷が不自然に小さ過ぎた。いくらしくじったからと言って、六度が六度ともこんなかすり傷のようなものしかつけ得なかったとは想像できないことだ。また斬り傷の箇所が前後左右に飛び離れているのも不自然であって、被害者が逃げまわったり抵抗したためだと解釈するにしても、なんとなく首肯しがたいところがある。しかも不思議はそればかりではなかった。これらの傷口から、流れ出している血潮の河の方向が、傷口の小さ過ぎることなどよりは更らに一そう奇怪な感じを与えるのだ。という意味は、それらの血の流れの方向がまったくめちゃくちゃであって、たとえば右肩の傷口からのものは左肩に向かって|横流《おうりゅう》し、左腕の傷口からのものは手首に向かって|下流《かりゅう》し、左足からのものは反対にからだの上部に向かって逆流し、又ある傷口からのものは斜めに流れているという調子で、中にも異様に感じられたのは、左臀部からの(これが一ばん大きい傷口なのだが)血の流れは横に流れ、腰を通って下腹部左の端ちかくまで、つまり腰の部分をほとんど一周しているという有様であった。いかに被害者が抵抗し、もがき廻ったにもせよ、こんなめちゃくちゃな血の流れ方があるものでなく、裁判医などもまったくはじめての経験だと驚いていた。死体の所見は大体以上に尽きている。夫人の絶命した(或いは兇行の行なわれた)時間は、医師の鑑定では、その日の午後という程度の漠然としたことしかわからなかった。又のちに取り調べられたところによると、近所の人たちが夫人の悲鳴を聞いていたというような事実もなく、結局この殺人事件は、女中が使いを言いつけられて家を出た零時半頃から彼女が帰宅した四時半頃までのあいだに行なわれたものだという以上に正確な時間を決定する材料は、今のところ発見されていないのだ。なお未亡人の死体は後に帝大解剖室に運ばれることになったが、その結果についてはいずれ書く機会があると思う。
次に検証の人々は、その土蔵の二階を主として、姉崎邸の室内、庭園を問わず、殺人兇器その他犯人の遺留品、指紋、足跡、犯人の侵入逃走の経路などを発見するための綿密な捜索を行なったが、その結果はほとんど徒労であったといってもよかった。検事や警察官たちの心の中まで見抜くことはできないけれど、少なくとも彼らが取りかわした会話や、僕が綿貫検事から聞き出したところによって想像すれば、捜索の結果彼らの蒐集し得た事実は左の諸点に尽きていた。
剃刀と想像される殺人兇器は土蔵の中はもちろん、邸内のどこにも見出すことはできなかった。もっとも姉崎夫人の化粧台と書生の机の引出しとから剃刀が発見されはしたけれど、それは両方とも殺人の兇器としては使用できそうもない安全剃刀であって、替刃にも別段の異状を認めることはできなかった。つまり兇器は犯人自身のものであって、彼はそれを現場に遺棄して立ち去るほど愚かでなかったのに違いない。犯人の足跡と指紋も、まったく見出すことができなかった。庭園の土は軟らかだったけれど、そこには庭下駄以外の跡はなく、玄関前には敷石が敷きつめてあった。土蔵の板の間には薄く埃が積もっていて、それがひどく掻き乱された跡は見えたが、明瞭な足跡はなかった。指紋の方は、犯行現場の道具類の滑らかな表面には家内の人々の指紋が僅かに残っているばかりだったし、又、僕が最初異状を発見した蔵の錠前の鉄板の表面にも、これこそはと意気込んで鑑識課へ廻されたが、なんの跡も残っていないことがわかった。それでは犯人は用心深く手袋をはめていたのであろうか。だが、もしそうだとすると、その手袋は動脈から吹き出した血潮のためにベトベトに濡れているはずではないか。それについて僕はふとこんなことを空想した。犯人は兇行に取りかかる前に手袋をぬぎ、兇行を終って血のりを拭きとったあとで又それをはめたのだと。更らに進んで、彼がぬいだものはただ手袋だけではなかったのではないかと。これは非常に奇怪な空想かもしれない。そして、君は多分、僕の例のくせがはじまったと言うかもしれない。だが、被害者の夫人が全裸体であったこと、致命傷以外の傷と血の流れ方が実に異様であったことなどから、僕にはなんとなくそんなふうに思われたのだ。実を言うと、今のところ、僕のこの空想にはほとんど賛成者がないのだが、僕自身はまだそれを捨てかねている。むだごとのようだけれど、この妙な考えをしるして君に覚えておいてもらいたいと思うのだ。僕は今犯人が兇行の時の返り血を拭き取ったと書いたが、これだけは空想ではなかった。というのは、先にもちょっとしるした通り兇行現場の土蔵の二階には、死体から遠く離れた隅の方に、姉崎未亡人の不断着がぬぎ捨ててあったが、それは袖畳みにしたのではなく、ごく乱暴に丸めたもので、僕が一と目見て、こいつは曾恵子さん自身が丸めたものではないなと考えた通り、検べてみると、その縞|銘《めい》|仙《せん》の|単衣《ひ と え》ものの中には、クシャクシャになった夫人常用の絞り羽二重の長襦袢が包みこんであって、それに血を拭き取った跡がおびただしく付着していたからだ。もしやそこに指紋が残されているのではないかと思われたが、注意深い犯人にそんな手抜かりはなかった。で、長襦袢の血痕は、人々を一瞬間ハッとさせたばかりで、別に犯人捜索の直接の手掛かりとはならなかったが、しかしそうして丸めた着物をとりのけた事が、実に奇妙な証拠品らしいものを発見する機縁となった。
同じ板の間の隅っこの、今までは着物のために隠れていた部分に、小さく丸めた紙切れが落ちていたのだ。その紙切れはこの殺人事件での証拠品らしい証拠品の唯一のものであって、その筋の人たちもこれには非常に興味を持ったように思われるし、僕自身にも、なんとなくこれがのちに重大な意味を持ってくるのではないかという予感があるので、その紙切れについてなるべく詳しく書いておこうと思う。最近それを発見した所轄警察の司法主任が、小さく丸められたままの紙切れを注意深く観察して、これは以前からそこにあったのではなくて、犯罪の際に落とされたものに違いないと注意した。なぜかというと、その部屋は床の上にも、並んでいる道具類の上にも、眼に見えるほど埃がつもっていたのに、丸められた紙切れの皺の中には、どこにもまったく埃がなかったからだ。更らにそれを拡げてみると、感心な司法主任の観察が間違っていなかったことが一そうはっきりした。というのは、紙切れには妙な符号みたいなものがしるしてあったのだが、それが非常に不可解な秘密めいた性質を持っていて、殺人事件に何かの関係があるらしく思われたからだ。ついでにあとになってわかったことをつけ加わえておくならば、姉崎家の女中をはじめ書生や子供の中学生などに糺した結果を総合するのに、その紙切れは未亡人が持っていたのではなくて、どうかして犯人が落として行ったものとしか考えられなかった。つまり、これこそ、甚だしく難解な材料であったけれど、殺人者の素姓をさぐり出す唯一の手掛かりに違いなかった。その紙切れは長さも幅も厚味もちょうど官製ハガキほどの正確な長方形で、紙質は上質紙と呼ばれているものであって、その中央に、二本の角の生えたいびつな方形の枠の上にななめに一本の棒を横たえた図形が、濃い墨汁で肉太に描いてあるのだ。僕はその形をよく覚え込んでいるので、参考までに次に小さく模写しておく。君はこの異様な符号を見て何を連想するであろうか。僕は暗号でも解く気になって、いろいろに考えてみたが、なんだか、ああ、あれだったのかとすぐわかりそうでいて、その秘密が今にも意識の表面に浮かび上がりそうでいて、だが、どうしてもわからない。綿貫氏に聞くと、警察の方でもまだこの謎が解けないでいるということだ。もし君がこんな図形をどこかで見たことがあるか、或いは図形の意味を解くことができたら是非知らせてほしいと思う。
===== 校正に利用した底本 =====
春陽堂江戸川乱歩文庫
D坂の殺人事件 江戸川乱歩文庫
昭和62年6月5日 新装第1刷発行