筑摩eブックス
江戸川乱歩全短篇2 本格推理U
[#地から2字上げ]江戸川乱歩著
[#地から2字上げ]日下三蔵 編
目次
湖畔亭事件
屋根裏の散歩者
何者
月と手袋
堀越捜査一課長殿
陰獣
著者による作品解説
編者あとがき 日下三蔵
湖畔亭事件
読者諸君は先年H山中A湖のほとりに起こった、世にも不思議な殺人事件を、ご記憶ではないでしょうか。片山里の出来事ながら、それは、都の諸新聞にも報道せられたほど、異様な事件でありました。ある新聞は「A湖畔の怪事件」というような見出しで、またある新聞は「死体の紛失云々」という好奇的な見出しで、相当大きくこの事件を書き立てました。
注意深い読者諸君はご承知かもしれませんが、そのいわゆる「A湖畔の怪事件」は五年後の今日まで、ついに解決せられないのであります。犯人はもちろん、奇怪なことには被害者さえも、実ははっきりとわかっていないのであります。警察でももはや匙を投げています。当の湖畔の村の人々すら、あのように騒ぎ立てた事件を、いつの間にか忘れてしまったようにみえます。この分では、事件は永久の謎として、いつまでもいつまでも未解決のまま残っていることでありましょう。
ところがここに、広い世界にたった二人だけ、あの事件の真相を知っているものがあるのです。そして、その一人は、かくいう私自身なのであります。では、なぜもっと早く、それを発表しなかったのだと、読者諸君は私をお責めになるかもしれません。が、それには深いわけがあるのです。まず私の打ちあけ話を、終りまでお聞き取りください。そして、私がいままで、どんなにつらい辛抱をして沈黙を守っていたかを、ご諒察願いたいのであります。
さて本題にはいるに先だって、私は一応、私自身の世の常ならぬ性癖について、私自身「レンズ狂」と呼んでいるところの一つの道楽について、お話ししておかねばなりません。読者諸君の常として、その不思議な事件というのは一体どんなことだ。そして、それが結局どう解決したのだと、話の先を急がれますが、この一篇の物語りは、先ず今いった私の不思議な道楽から説き起こさないと、あまりに突飛な信じがたいものになってしまうのですし、それに、私としては、自分の異常な性癖についても、少し詳しく語りたいのです。どうかしばらく、痴人のくり言を聞くおつもりで、私のつまらぬ身の上話をお聞きとり願いたいのであります。
私は子供の時分から、どういうものか、世にも陰気な、引っ込み思案な男でありました。学校へ行っても面白そうに遊びまわっている同級生たちを、隅の方から白い眼で、羨ましげに眺めている。家に帰れば帰ったで、近所の子供と遊ぶでもなく、自分の部屋にあてがわれた離れ座敷の四畳半に、たった一人でとじこもって、幼い頃はいろいろなおもちゃを、少し大きくなっては、さっきいったレンズの類を、仲のよい友だちかなんぞのように、唯一の遊び相手にしているといった調子でした。
私はなんという変な、気味のわるい子供であったのでしょう。それらの無生物の玩具に、まるで生ある物のように、言葉をかけることさえありました。時によって、その相手は、人形であったり、犬張子であったり、幻燈の中のさまざまな人物であったり、一様でないのですが、恋人に話しかけでもするようにくどくどと、相手の言葉も代弁しながら、話し合っているのでした。あるとき、それを母親に聞かれて、ひどく叱られたことも覚えています。そのとき、どうしたわけか、母親の顔は非常に青ざめて、私を叱りながらも、彼女の眼が、物おじしたように見ひらいていたのを、子供心に不思議に思ったことであります。
それはさておき、私の興味は普通の玩具から幻燈へ、幻燈からレンズその物へと、だんだん移り変って行きました。宇野浩二さんでしたかも何かに書いていましたが、私もやっぱり押入れの暗闇の中で幻燈を写す子供でした。あのまっ暗な壁の上へ、悪夢のように濃厚な色彩の、それでいて、太陽の光などとはまるで違った、別世界の光線で、さまざまの絵の現われる気持は、なんともいえず魅力のあるものです。私は食事も何も忘れて、油煙臭い押入れの中で、不思議なせりふを呟きながら、終日幻燈の絵に見入っていることさえありました。そして、母親に見つけられて、押入れからひきずり出されますと、何かこう、甘美な夢の世界から、いまわしい現実界へ引き戻されるような気がして、いうにいわれぬ不愉快をおぼえたものであります。
さすがの幻燈気ちがいも、でも、尋常小学校を卒業するころには、少し恥かしくなったのか、もう押入れへはいることをやめ、秘蔵の幻燈器械もいつとはなしにこわしてしまいました。が、器械はこわれてもレンズだけは残っています。私の幻燈器械は、普通玩具屋の店先にあるのよりは、ずっと上等の大型のでしたから、したがってレンズも直径二寸ほどの、厚みのたっぷりある、重いものだったのですが、それが二つ、文鎮代りになったりして、その後ずっと私の勉強机の上に置かれてありました。
あれは、中学校の一年生の時でしたか、ある日のこと、いったい私は朝寝坊のたちで、そんなことは珍らしくもなかったのですが、母親に起こされても起こされても、ウンウンと空返事ばかりして、暖かい寝床を出ようともせず、とうとう登校時間を遅らせ、もう学校へ行くのがいやになってしまって、母親にまで仮病を使って、終日寝床の中で暮らしたことがありました。病気だといってしまったものですから、好きでもないお粥をたべさせられる、何かやりたくても寝床を出ることができず、私は、いつものことながら、今さら学校へ行かなかったことを後悔しはじめました。
私はわざと雨戸を締め切って、自分の気持にふさわしく部屋の中を暗くしておきましたので、その隙間や節穴からそとの景色が障子の紙に映っています。大きいのや小さいのや、はっきりしたのやぼやけたのや、たくさんの同じ景色が、皆さかさまに映っているのです。私は寝ながらそれを見て、ふと写真機の発明者の話などを思い出していました。そして、どうかしてあの節穴の映像のように、写真にも色彩をつけることはできないものかなどと、どこの子供も考える夢のような、しかし自分ではひとかど科学者ぶったことを空想するのでした。
だが、見ているうちに、障子の影が少しずつ薄くなって行きました。そして、ついにはそれが消えてしまうと、今度はまっ白く見える日光が、同じ節穴や隙間から、まぶしくさし入るのでした。故もなく学校を休んでいるやましさから、私はもぐらもちのように日光を恐れました。私はいうにいわれぬ、いやないやな気持で、頭から蒲団をかぶると、眼をとじて、眼の前にむらがる無数の黄色や紫の輪を、甘いような、いまわしいような変な感じで眺めたことであります。
読者諸君、私のお話は、余りに殺人事件と縁が遠いように見えます。しかしそれを叱らないでください。こうした話し振りは私の癖なのです。そして、このような幼時の思い出とても、その殺人事件に、まるで関係のない事柄ではないのですから。
さて、私はまた蒲団から首を出して見ると、私の顔のすぐ下に、ボッツリと光った個所があります。それは節穴からはいった日光が、障子の破れを通って、畳の上に丸い影を投げていたのであります。むろん、部屋全体が暗いせいでしょうが、私はその丸いものが、余りに白々と、まぶしく見えるのを、ちょっと不思議に思いました。そして、何げなくそこに落ちていた例のレンズを取ると、私はそれを、丸い光の上にあてがってみたのでありますが、そうして、天井に映った化物のような影を見ると、私ははっとして思わずレンズを取り落としました。そこに映ったものは、それほど私を驚かしたのです。なぜといって、薄ぼんやりではありましたが、その天井には、下の畳の目が、一本の|藺《い》の太さが二寸ほどに拡大されて、小さなごみまでがありありと映っていたからです。私はレンズの不思議な作用に恐怖を感じると共に、一方では言い知れぬ魅力をおぼえました。それからです、私のレンズいじりのはじまったのは。
私はちょうどその部屋にあった手鏡を持ち出すと、それを使って、レンズの影を屈折させ、畳の代りにいろいろな絵だとか写真だとかを、かたえの壁に映してみました。そして、それがうまく成功したのです。あとで、中学の上級になってから、物理の時間にそれと同じ理窟を教わったり、また後年流行した実物幻燈などを知ると、その時の私の発見が別段珍らしいことでないのがわかりましたけれど、当時は何か大発明でもしたような気で、それ以来というものは、ただもうレンズと鏡の日々を送ったことであります。
私は暇さえあると、ボール紙や黒いクロースなどを買ってきて、いろいろな恰好の箱をこしらえました。レンズや鏡もだんだん数を増して行きました。あるときは長いU字形に屈折した|暗《あん》|箱《ばこ》を作って、その中へたくさんのレンズや鏡を仕掛け、不透明な物体のこちらから、まるでなんの障害物もないように、その向こうがわが見える装置を作り、「透視術」だなどといって家内の者を不思議がらせて見たり、あるときは、庭一面に凹面鏡をとりつけて、その焦点で火を燃して見たり、又あるときは、うちの中にいろいろの形の暗箱を装置して、奥座敷にいながら、玄関の来客の姿が見えるようにしてみたり、その他さまざまのそれに類したいたずらをやって喜んでいるのでした。顕微鏡や望遠鏡も自己流に作って、ある程度まで成功しました。小さな鏡の部屋を作って、その中へ蛙や鼠などを入れ、彼らが自分の姿に震えおののく有様を興がったこともあります。
さて、この不思議な道楽は、中学を出るころまで続いていましたが、上の学校にはいってからは、下宿住いになったり、勉強の方が忙がしかったりして、いつの間にかレンズいじりも中絶してしまいました。それが以前に数倍した魅力をもって復活したのは、学校を卒業して、といって別段勤め口を探さねばならぬ境遇でもなく、なにがなしブラブラと遊び暮らしている時代でありました。
ここで、私が或るいまわしい病癖を持っていることを白状しなければなりません。と言いますのは、少年時代のいじけた性質から考えても、こうなるのが当然だったかもしれませんが、私は、鼻下にはしかつめらしいチョビ髭まで貯えたこの私が、不良少年でさえもあえてしないような、他人の秘密を隙見することに、この上もない快感をおぼえるのでありました。むろんこうした性質は、いくらかは誰にでもあるものですが、私のはそれが極端なのです。そして、もっといけないことは、この隙見をする対象が、お話しするのもはずかしいような変てこな、いまわしい物ばかりなのです。
これはある友だちから聞いた話ですが、その友だちの伯母さんとかに、やっぱり隙見の病気を持った人がいて、ちょうど裏の板塀の向こうに隣家の座敷が見えるのを幸い、暇にまかせてその板塀の節穴から隣家の様子を覗くのだそうです。彼女は隠居の身の上で、これという仕事もなく、退屈なまま、まるで小説本でも読む気で、隣家の出来事を観察しているのです。きょうは何人来客があって、どの客はどんなふうをしていて、どんな話をしたとか、そこのうちでは、子供が生れたので、たのもしを落として、それで何と何とを買ったとか、女中が鼠いらずをあけて、何をつまみ食いしたとか、何から何までことも細かに、自分自身の家内のことよりもっと詳しく、いや先方の主人たちも知らないようなことまでも、洩れなく観察しては、私の友だちなどに話して聞かせるのだそうです。ちょうどお婆さんが孫たちに、新聞小説の続きものを読んで聞かせるように。
私はそれを聞いて、やっぱり世間には自分と同じような病人があるのだなあと、ばかばかしい話ですが、いくらか心強くなったものです。しかし、私の病気はその伯母さんよりも甚だしくたちのよくない種類のものでありました。一例を申しますと、これは私が学校を卒業してから第一にやったいたずらなのですが、私は、自分の居間と私の家の女中部屋とのあいだに、例のレンズと鏡でできたさまざまの形の暗箱を装置して、熟れた果物のように肥え太った二十娘の秘密を、隙見してやろうと考えました。隙見といっても、私のはごく臆病な間接のやり方なのです。女中部屋の目につかないような、例えば天井の隅っこなどに、私の発明した鏡とレンズの装置をほどこし、そこから暗箱によって、天井裏などを通路にして、光線を導き、女中部屋で鏡に映った影が、自分の居間の机の上の鏡にも、そのまま映るような仕掛けをこしらえたわけなのです。つまり潜航艇の中から海上を見る、なんとかスコープという、あれと同じ装置なのです。
さて、それによって何を見たかと言いますと、多くはここに言うをはばかる種類の事柄なのですが、例えば、二十歳の女中が、毎晩寝床へはいる前に、行李の底から幾通かの手紙と一葉の写真を取り出して、写真を眺めては手紙を読み、手紙を読んでは写真を眺め、さて寝るときには、その写真を彼女の豊満な乳房におしつけ、それを抱きしめて横になる様子を見て、彼女にもやっぱり恋人があるのだなと悟る。まあそういったことなのです。それから彼女が見かけによらない泣き虫であることや、想像にたがわずつまみ食いのはげしいことや、寝行儀のよくないことや、そして、もっと露骨なさまざまの光景が、私の胸をおどらせるのでありました。
この試みに味をしめて、私の病癖はいちじるしく昂進しましたが、女中以外に家人の秘密を探ることなどは、妙に不愉快ですし、といって、まさか、この仕掛けをよそのうちへ延ばすわけにもいきませんので、一時ハタと当惑しましたが、やがて、私は一つの妙案を思いついたのです。それは、かのレンズと鏡の装置を携帯自在の組立て式にして、旅館だとか、お茶屋だとか、或いは料理屋などへ持って行って、そこで即座に隙見の道具立てをこしらえるということでした。それには、レンズの焦点を自由に移動できるような装置を考えることだとか、暗箱をなるべく小さくして、目立たぬよう細工することだとか、いろいろ困難がありましたけれど、先に申しました通り、私は生来そうした手細工に興味を持っておりますので、数日のあいだコツコツとそればかりを丹誠して、とうとう申し分のない携帯覗き目がねを作り上げたことでした。
そして、私はそれを到るところで用いました。口実を設けて友人の家へ泊りこみ、主人公の居間へこの装置をほどこして、激情的な光景を隙見したこともあります。それらの秘密観察の記録を記すだけでも、充分一篇の小説が出来上がりそうに思われます。
それはさておき、前置きはこのくらいにして、いよいよ表題の物語りにお話を進めることにいたしましょう。
それはいまから五年前の夏のはじめのことでした。私はそのころ神経衰弱症にかかっていまして、都の雑沓が物憂きまま、家族の勧めに従い、避暑かたがた、H山中のA湖畔にある、湖畔亭という旅館に、ひとりきりで、しばらく滞在していたことがあります。避暑には少し早い時期なので、広い旅館がガランとして人けもなく、すがすがしい山気が、妙にうそ寒く感じられました。湖上の船遊びも、森林の跋渉も、慣れてはいっこう面白くありません。といって、都へ帰るのもなんとなく気が向かず、その旅館の二階でつまらない日々を送っていたことであります。
そこで退屈の余りふと思い出したのが、例の覗き目がねのことでした。幸い癖になっているものですから、その道具はチャンとトランクの底にあります。
さびしいとは言っても、旅館には数組の客がいますし、夏の用意に雇い入れた女中たちも十人近くいるのです。
「では一つ、いたずらをはじめるかな」
私はニヤニヤひとり笑いを洩らしながら、客が少ないので見つけられる心配もなく、例の道具立てに取りかかるのでした。そこで私は何を隙見しようとしたか、又その隙見から、計らずも、どんな大事件が持ち上がったか。これからこの物語りの本題にはいるのであります。
湖畔亭は、H山上の有名な湖水の、南側の高台に建てられてありました。細長い建物の北側がすぐに湖水の絶景に面し、南側は湖畔の小村落を隔てて、遙かに重畳の連山を望みます。私の部屋は、湖水に面した北側の一方の端にありました。部屋の前には、露台のような感じの広い縁側に、一室に二箇くらいの割合いで籐椅子が置かれ、そこから旅館の庭の雑木林を越して、湖水の全景を眺めることができるのです。緑の山々に取り囲まれた、静寂な湖水の景色は、最初のあいだ、どんなに私を楽しませたことでしょう。晴れた日には、付近の連峰が、湖面にさかしまの影を投げて、その上を、小さな帆かけ船が辷って行く風情、雨の日には山々の頂きを隠して、間近に迫った雲間から銀色の糸が乱れ、湖面に美しい鳥肌を立てている有様、それらの寂しくすがすがしい風物が、混濁しきった脳髄を洗い清め、一時はあのように私を苦しめた神経衰弱も、すっかり忘れてしまうほどでありました。
しかし、神経衰弱が少しずつよくなるにつれて、私はやっぱり雑沓の子でありました。その寂しい山奥の生活に、やがて耐えがたくなってきたのです。湖畔亭は、その名の示す通り、遊覧客の旅館であると同時に、付近の町や村から日帰りで遊びにくる人々のためには、料亭をも兼ねているのでした。そして、客の望みによっては、程近き麓の町から芸者を招いて、周囲の風物にふさわしからぬばか騒ぎを演じることもできるのです。淋しいままに、私は二、三度そんな遊びもやってみました。しかし、そのようななまぬるい刺戟が、どうして私を満足させてくれましょう。又しても山、又しても湖水、多くの日は、ヒッソリと静まり返った旅館の部屋部屋。そして時たま聞こえるものは、田舎芸者の調子はずれの三味線の音ばかりです。しかしながら、そうかといって、都の家に帰ったところで、なんの面白いことがあるわけでなく、それに、予定の滞在日数は、まだまだ先が長いのでした。そこで困じはてた私は、先にもちょっと書いたように、例の覗き目がねの遊戯を、ふと思いうかべることになったのでした。
私がそれを考えついた一つの動機は、私の部屋がごく好都合の位置にあったことでありました。部屋は二階の隅っこにあって、その一方の丸窓をあけると、すぐ目の下に、湖畔亭の立派な湯殿の屋根が見えるのです。私は、これまで覗き目がねの仕掛けによって、種々さまざまの場面を覗いてきましたが、さすがに浴場だけはまだ知りませんでした。したがって、私の好奇心は烈しく動いたのであります。といって私は何も裸女沐浴の図を見たかったわけではありません。そんなものは、すこし山奥の温泉場へでも行けば、いや都会のまん中でさえも、ある種の場所では、自由に見ることができます。それに、この湖畔亭の湯殿とても、別段男湯女湯の区別など設けてはなかったのです。
私の見たいと思ったのは、周囲に誰もいないときの、鏡の前の裸女でありました。或いは裸男でありました。われわれは日常銭湯などで、裸体の人間を見なれておりますが、それはすべて他人のいる前の裸体です。彼らはわれわれの目の前に、一糸もまとわぬ、赤裸々の姿を見せてはいますけれど、まだ羞恥の着物までは、脱ぎすてていないのです。それは人目を意識した、不自然な姿に過ぎないのです。私はこれまでの覗き目がねの経験によって、人間というものは周囲に他人のいるときと、たった一人きりのときと、どれほど甚だしく違って見えるものだかということを、熟知していました。人前では、さも利口そうに緊張している表情が、一人きりになると、まるで弛緩してしまって、恐ろしいほど相好の変るものです。ある人は、生きた人間と死人ほどの、甚だしい相違を現わします。表情ばかりではありません。姿勢にしろ、いろいろな仕草にしろ、すべて変ってしまいます。私はかつて他人の前では非常な楽天家で、むしろ狂的にまで快活な人が、その実は、彼が一人きりでいる時は、正反対の極端に陰気な厭世家であったことを目撃しました。人間には多かれ少なかれ、こうしたところがあるように思われます。われわれの見ている一人の人間は、実は彼の正体の反対のものである場合がしばしば見られるのです。この事実から推して行きますと、裸体の人間を鏡の前に、たった一人で置いたとき、彼が彼自身の裸体を、いかに取り扱うかを見るのは、甚だ興味のある事柄ではないでしょうか。
そういう理由から、私は覗き目がねの一端を、浴場の中へではなく、その次ぎの間になっている、大きな姿見のある脱衣場にとりつけようと決心したものであります。
その日、夜のふけるのを待って、私は不思議な作業にとりかかりました。先ずトランクの底から覗き目がねの道具を取り出しますと、入れこになったボール紙の筒を、長くつなぎ合わせて、例の丸窓から屋根へ忍びいで、人目につかぬ場所を選んで、それを細い針金で結びつけるのでした。幸い、そこの空地には背の高い杉の木立があって、その辺の壁を一面に覆い隠していましたので、夜が明けても、私の装置が発覚する心配はありません。のみならず、そこは家の裏側に当たる場所ですから、めったに人のくるようなことはないのです。
盗賊のように、木の枝を伝ったり、浴場の窓から忍び込んだり、私は暗闇の中で、夢中になって働きました。そして、三時間余りをついやして、やっと思うような装置をほどこすことができたのです。目がねの一端は、丸窓から、床の間の柱の蔭を伝わせて、そこへ寝転びさえすれば、いつでも覗けるようにして、その柱のところへは、私の合トンビをかけ、女中などに仕かけを見つけられぬ工夫をしたのです。
さて、その翌日から、私は不思議な鏡の世界に耽溺しはじめました。壁の隅にとりつけた、鼠色の暗箱の中には、方二寸ほどの小さい鏡が、斜めに装置せられ、上のレンズからくる脱衣場の景色を、まざまざと映し出しています。光線がたびたび屈折しているので、それは甚だ薄暗い映像ではありましたが、そのため、かえって一種夢幻的な感じを添え、もうこの上もなく、私の病的な嗜好を喜ばせるのでありました。
私の部屋は二階ですから、湯殿へ行く人の足音は、むろん聞こえず、また、丸窓から覗いたとて、そこには湯殿の屋根が見えるばかりで、内部の様子を伺うことはできません。それゆえ、いつその脱衣場へ人がくるか、鏡の面を注意しているほかには、知るべきすべもないのです。そこで、私は、ちょうど魚を釣る人が、浮きの動くのを待ちかねて、そのほうばかり見つめているように、朝起きるとから、部屋の隅に寝ころんで、暗箱の中の小さな鏡を凝視するのでありました。
やがて、待ちに待った人影が、チラリと鏡の上にひらめいたとき、私はどんなに胸を躍らせたことでしょう。そして、その人が着物を脱ぐあいだ、湯から出てからからだをふいているあいだ、いまにも変ったことが起こるか、いまにも変ったことが起こるかと、どんなに待ちかねたことでありましょう。
ところが、私の予想は、多くの場合裏切られて、そこに現われた男女は、ただそれが、不思議な、薄暗い鏡の表面に、うごめいているという興味のほかには、なんの変った様子も見せてはくれないのでした。それに、先にもいった通り、初夏とはいえ、山の上ではまだ朝夕は寒いほどの時候なので、泊り客も二、三組にすぎず、酒を飲んで騒ぐためにくる客とても、三日に一度ぐらいの割合にしかないのです。したがって、入浴者も少なく、私の鏡の世界は、湖水の景色と同じように、なんともさびしいものでありました。
その中で、わずかに私を慰めてくれたのは、十人に近い宿の女中たちの入浴姿でした。
彼らの或る者は、二人三人と連れ立って、脱衣場に現われました。
そして、何をいうのか声は聞こえませんが、多分みだらな噂でもしているのでしょう。笑ったりふざけたりしながら着物を脱ぎ、お互いの肌を比べ合い、相手の肥え太った腹を叩きなどするさまが、手に取るように眺められるのです。それらが鏡の表面に、豆写真のように可愛い姿で動いているのです。それから入浴を済ませると、彼女らは長い時間かかって、姿見の前でお化粧をはじめます。私は以前から、女のお化粧というものには一種の興味を感じていたのですが、かように裸体の女が、あからさまな姿態で、大胆なお化粧をする有様は見たことがありません。そこには男の知らぬ、ある不思議な世界がくり拡げられるのでありました。
あるものはたった一人で、脱衣場に現われます。そして鏡の前で、少しの遠慮もなく着物を脱ぎすてるのです。
この場合には、一そう好奇的な景色に接することができます。今のさき、無邪気そうな顔をして、私のお給仕をしていた女が、たった一人で鏡の前にたつと、こんなにも様子が変るものかしら、なるほど女は魔物だなあ。私はしばしばそんな嘆声をもらすのでありました。
ところが、間もなく、私の鏡の世界には、平凡な景色に退屈しきっていた私を、驚喜せしめるような人物が現われました(そして、その次には、もっともっと、そんなものよりは幾層倍も驚くべき事件が、鏡の中に起こったのですが)。それは、最近宿に着いた、東京の富裕階級に属するらしい、女づれの一家族の一人で、十八ぐらいに見える、非常にけばけばしい身なりをした娘でした。彼女がはじめて私の鏡に現われたとき、私は何かこう、その薄暗いガラスの中に、まっ赤なけしの花でも咲いたような気がしたものです。彼女は身なりにふさわしく、世にも美しい容貌の持ち主でした。そして、その容貌にもいやまして、彼女のからだは見事でした。西洋人のように豊かなる肉体、桜の花弁のように微妙な肌の色、それだけでも充分私を驚かせたのですが、その上彼女には、鏡の前の不思議な癖さえあったのです。彼女は一糸まとわぬ自分のからだを、或いは横むきになり、或いはうしろむきになり、種々さまざまの、みだらなポーズを作って、いつまでも眺めているのです。
廊下などで遇ったときの、つつましやかな、とりすました様子に引きかえ、たった一人で姿見の前に立つときには、彼女はまるで別人のように大胆になりました。
私ははじめて、若い女が、自分自身の肉体に見とれる有様を、隙見することができました。そしてその余りにも大胆な身のこなしに、一驚を喫しないではいられませんでした。
それらの一々を説明することは、この物語の本筋と関係のないことですから、ここには省略しますけれど、ともかく、私は彼女の出現によって、やっと退屈から救われることができました。
やがて私は覗き目がねの効果を一そう強めるために、又もや夜中に浴場へ忍び込んで、高い通風用の窓の隙間からのぞかせたレンズの先に、もう一つ望遠鏡のようなレンズ装置をほどこし、そこの姿見の中央の部分だけが、間近く映るように作り変えました。その結果、私の部屋の方二寸の鏡の中には、脱衣場の姿見に映る人影が、うまく行けば全身、ときによってはからだの一部分だけ、映画の大写しのようにうごめくのです。
それがどんなに異様な感じであったか、そのたった二寸の鏡に映る人間のからだの一部分が、どんなに大きく思われるか、実際私と同様の遊戯をやってみた人でなければおそらく想像もつかないでしょう。そこには、薄暗い水族館のガラス張りの水槽の表に、白々と、思いがけぬ魚の腹が現われる感じで、ちょうどあの感じで、突然ヌッと、人間の肌が現われるのです。それがどんなに、気味わるく、同時に蠱惑的なものであったでしょう。私はそうして、毎日毎日、飽きもせず、裸女の秘密を眺め暮らしたことであります。
そして、或る日のことでありました。
毎日欠かさず湯殿にくる娘が、どうしたことか、その日は夜になっても姿を見せないので、見たくもないほかの人たちのからだを、眺め暮らしているうちに、いつしか夜も更けて、もう浴客も尽き、いつもの例によると、あと十二時ごろに女中たちの入浴するまで、一、二時間のあいだ、鏡の表に人影の現われることはないはずです。
私はもうあきらめて、さいぜんから敷いてあった床の中にもぐりこみました。すると、今まで気にもとめなかった、ふた間おいて向こうの部屋のばか騒ぎが、うるさく耳について、とても眠ることができません。田舎芸者のボロ三味線に、野卑な俗曲を女の|甲《かん》|声《ごえ》と男の胴間声とが合唱して、そこへ太鼓まではいっているのです。珍らしく大一座と見えて、廊下を走る女中の足もいそがしそうに響いてきます。
寝られぬままに、私は又もや床を這い出して、鏡のところへ行きました。そして、ひょっとして、あの娘の姿が見られはしないかと、そんなことを願いながら、ふと鏡の表を見ますと、いつの間にきたのか、そこには一人の女の後姿が映っているのです。それが例の娘でないことは一と目でわかりましたが、しかし、それが誰であるかは少しもわかりません。そこには女のくびから下が、鏡の中にボンヤリと映っているにすぎないのです。からだの肉づきから判断すると、どちらかといえば若い女のように見えます。いま湯から上がって、顔でもふいているらしい恰好です。と、突然、女の背中で何かがギラリと光りました。ハッとしてよく見ると、実に驚くべきものがそこにうごめいているではありませんか。鏡の隅の方から一本の男のらしい手が伸びて、それが短刀を握っているのです。女の丸々としたからだと、その手前に、距離の関係で非常に大きく見える男の片腕とが、鏡面一ぱいになって、それが水族館の水槽のように、黒ずんで見えるのです。一刹那、私は幻を見ているのではないかと疑いました。事実、私の神経はそれほど病的になっていたのですから。
ところが、しばらく見ていても、いっこう幻は消えないのです。それどころか、ギラギラと異様に光る短刀が、少しずつ少しずつ、女の方へ近づいて行くのです。男の手は多分、興奮のためでしょう。気味わるく震えています。女はそれを知らないのでしょう。じっと落ちついて、やっぱり顔を拭いているようです。
もはや夢でも幻でもありません。疑いもなく、いま浴場で殺人罪が犯されようとしているのです。私は早くそれを止めなければなりません。しかし、鏡の中の影をどうすることができましょう。早く、早く、早く、私の心臓は破れるように鼓動します。そして、何事かを叫ぼうとしていますが、舌がこわばってしまって、声さえ出ないのです。
ギラリ、一瞬間、鏡の表が稲妻のように光ったかと思うと、まっ赤なものが、まるで鏡の表面を伝うように、タラタラと流れました。
私はいまでも、あの時の不思議な感じを忘れることができません。一方の部屋では、景気づいた俗曲の合唱が、太鼓や手拍子足拍子で部屋もわれよと響いています。それと、私の目の前の、闇の中の、ほの暗い鏡の表の出来事とが、なんとまあ異様な対照をなしていたことでしょう。そこでは、白い女のからだが、背中から、まっ赤なドロドロしたものを流しながら、スーッとあるき去ったように鏡の表から消えました。いうまでもなく、そこへ倒れたのでしょうけれど、鏡には音がないのです。あとに残った男の手と短刀とは、しばらくじっとしていましたが、やがて、これも、あとずさりをするように、鏡から影を消してしまいました。その男の手の甲に、斜かけに傷痕らしい黒い筋のあったのが、いつまでも、いつまでも、私の目に残っていました。
しばらくは、私は鏡の中の血なまぐさい影絵を、現実の出来事と思わず、私の病的な錯覚か、それとも、覗きからくりの絵空ごとのように感じて、ボンヤリとそのまま寝ころんでいたことです。しかし考えてみれば、いかに衰えた私の頭でも、まさかああまでハッキリと幻を見よう道理がありません。これはきっと、人殺しではないにしても、何かそれに似通よった、恐ろしい事件が起こったものにちがいないのです。
私は耳をすまして、今にも下の廊下に、ただならぬ足音や、騒がしい人声が聞こえはじめはしないかと待ちかまえました。そのあいだに、私はなんの気もなく腕の時計を見ていたのですが、その針がちょうど十時三十五分近くをさしていました。
ところが、待っても待っても、なんの変った物音も聞こえてはきません。隣室のばか騒ぎも、なぜかふと鳴りをひそめていましたので、一刹那、家じゅうがシーンと静まり返って、私の腕時計のチクタクばかりがいやに大きく響くのでした。私は幻を追いでもするように、もう一度鏡の中を見つめました。むろんそこには脱衣場の冷たい大姿見が、壁や棚などを映して白々と鈍い光を放っているばかりです。あれほどの勢いで短刀をつき立て、あれほどの血潮が流れたのですから、被害者は死なぬまでも、必ず非常な重傷を負ったことでしょう。鏡の像に声はなくとも、彼女は恐ろしい悲鳴を発したことでありましょう。
私は甲斐なくも、冷たい鏡の表から、その悲鳴の余韻をでも聞き出そうとするように、じっとそこを見つめていました。
それにしても、宿の人たちは、どうしてこう静まり返っているのでしょう。もしかしたら、彼らは女の悲鳴を聞かなかったのかもしれません。浴場の入口の厚いドアと、そこから女中たちのいる料理場までの距離が、それを|遮《さえぎ》ったのかも知れません。そうだとすると、この恐ろしい出来事を知っているものは、広い湖畔亭の中で、私ただ一人のはずです。当然私は、このことを彼らに知らせなければなりません。でも、なんといってしらせればいいのでしょう。それには覗き目がねの秘密をあかすほかはないのです。どうしてそんな恥かしいことができましょう。恥かしいばかりではありません。この常人では判断もできないような変てこな仕掛けが、どうしたことで、殺人事件と関連して考えられないものでもありません。生来臆病で不決断な私には、とてもそんなことはできないのです。
といって、このままじっとしているわけにはいきません。私はほとんど十分ほどのあいだ、かつて経験したことのない焦燥にかられながら、もじもじしていましたが、やがてたまらなくなって、いきなり立ち上がると、どうするという当てもなく、ともかく部屋を出て、すぐそばの広い階段をかけおりるのでした。階段の下の廊下がT字形になっていて、一方は湯殿の方へ、一方は玄関の方へ、そうして、もう一つは奥の座敷の方へ続いていましたが、いま私が大急ぎで階段をおりたのと、ほとんど出あいがしらに、奥の座敷へ通じる廊下から、ヒョッコリと人の姿が現われました。
見るとそれは相当の実業家らしい洋服姿で、落ちついた色合の、豊かな春外套を波うたせ、ひらいた胸からは、太い金鎖がチラついていました。そして右手には重そうな大一番のトランク、左手には金の握りのステッキです。しかし夜の十一時近い時分、宿を立つらしいその様子と言い、重いトランクを自身手にさげているのも、考えてみれば妙ですが、それよりも一そうおかしいのは、出あいがしらで、私の方でも、少なからずびっくりしましたけれど、先方の驚き方と言ったらないのです。彼はハッとしたように、いきなり後へ引き返そうとしましたが、やっと思い返して、いかにも不自然なすまし方で、私の前を通り抜け、玄関のほうへいそぐのです。そして、そのあとからもう一人、彼の従者とも見える少し風采の劣った男が、これもやっぱり洋服姿で、手には同じようなトランクをさげてついて行きました。
私が世にも内気者であることは、これまでもしばしば申し述べた通りです。従って、宿屋にいても、滅多に部屋のそとへ出ることはなく、同宿者たちのことも、まるで無知でありました。例の華美な都会の少女と、もう一人の青年(彼がどんなに驚嘆すべき男であるかは、お話が進むに従って読者に明らかになるでしょう)のほかには、私はほとんど無関心だったのです。むろん覗き目がねを通して、すべての泊り客を見てはいるのですけれど、どの人がどの部屋にいて、どんな顔つき風采をしているのやら、まるで知らないのです。で、いま出あいがしらに私を驚ろかせた紳士とても、一度は見たようにも思うのですけれど、別段深い印象もなく、したがって彼の変てこな挙動にも、大して興味を感じなかったのです。
そのときの私には、時ならぬ出立客など怪しんでいる余裕はなく、ただもうワクワクとして、その廊下をどちらへ行っていいのかさえわからない始末でしたが、いくら勇気をふるい起こしてみても、あの出来事を宿の人に告げる気にはなれません。覗き目がねのことがあるものですから、まるで自分自身が科人ででもあるようにうしろめたい気持なのです。
しかし、そうしていても際限がないので、私はともかく、浴場を検べてみることに心をきめました。
薄暗い廊下をたどって、そこへ行ってみますと、入口の厚い西洋|扉《とびら》はピッシャリととじられてありました。気の弱い私には、それをあけるのが、どんなに薄気味わるかったことでしょう。でも大ぶん時間もたっていることですし、やっと元気を出して、一寸二寸と、少しずつ扉をひらき、そこに目を当てて覗いて見ましたところ、私は何をまあビクビクしていたのでしょう。当然、そこにはもう曲者などはいなかったばかりか、もしやと思っていた女の死骸さえないのです。ガランとした脱衣場は、白々とした電燈に照らし出されて、墓場のように静かなのです。
やっと安心した私は、すっかりドアをあけて脱衣場にはいりました。あれほどの刃傷沙汰があったのですから、そこの床にはおびただしい血潮が流れていなければなりません。ところが、見ると、綺麗に艶の出た板張りの床には、それらしい跡もないではありませんか。ではもう浴場との境のすりガラスの戸をあけて見るまでもありません。
あっけに取られた私は、ただボンヤリとそこに立ち尽していました。まるで狐にでもつままれたような話なのです。
「ああ、おれの頭はいよいよどうかしてしまったのだ。あんな気味わるい幻を見て、しかもそれを真実のことかなんぞのように騒ぎまわるなんて。なぜ変な覗き目がねなんか作ったのだろう。もしかすると、あれを考案したときから、もうおれは気ちがいだったのかもしれない」
さっきのとは違った、もっと根本的な恐れが、私を戦慄させました。私は夢中で自分の部屋へ帰ると、敷いてあった床の中にもぐりこんで、これ迄のことが一切夢であってくれればいいと、それを祈りながら目をとじました。
一時やんでいた近くの部屋のばか騒ぎが、私の愚かさをあざ笑うように、またしてもドンチャンとやかましく響いてきます。蒲団をかぶってもどうしても、その響きがうるさく耳について、寝られたものではないのです。
すると、いつの間にかまた、私は先ほどの幻について考えふけっていました。あれが幻であったときめてしまうのは、とりも直さず私の頭が狂っていることを承認するようなもので、余りに恐ろしいことです。それに、だんだん冷静に考えれば考えるほど、私の頭が、或いは眼が、それほど狂っていようとは思われません。「ひょっとしたら誰かのいたずらではないかしら」愚かにも、私はそんなことまで想像してみるのでした。
しかしあのようなばかばかしいいたずらを、誰がなんのためにやるのでしょう。私を驚かすためにか? そんな懇意な知り合いは、この湖畔亭にはいないのです。のみならず、私の覗き目がねの秘密すら、まだ誰もさとってないはずではありませんか。あの短刀、あの血潮、あれがどうしていたずらなどでありましょう。
では、やっぱり幻なのか。しかし私には、なんとなくそう思われないのです。脱衣場に血潮が流れていなかったのは、ちょうど被害者の足の下に着物か何かがあって、それにしたたったのだとも、また床に流れるほど多量の出血がなかったのだとも、考えられぬことはありません。でもそれにしては、切られた人が、あの深手で、どこへ立ち去ることができたのでしょう。叫び声は、それは二階の騒ぎに消されて、宿の人も気づかなかったのかもしれませんが、あの手負いが誰にも見つからずに、ここを出られよう道理はないのです。だいいち彼女は、すぐにも医者の必要があったのです。
そんなことを、とつおいつ考えつづけて、その夜はついにまんじりともしませんでした。ナニ宿の者に告げさえすれば気がすむのですけれど、覗き目がねの弱味があるものですから、それもならず、つまらぬ苦労をしたことです。
翌朝、夜があけて、階下が騒がしくなると、私はやっと少しばかり元気づいて、顔でも洗ったら気が変るかもしれないと、タオルを持って階段を下り、洗面所へ行きました。それがちょうど例の浴場のそばにあるので、もう一度朝の光で脱衣場を検べてみましたが、やっぱりなんの変ったこともありません。
洗面を済ませて部屋へ帰ると、私は湖水に面した障子をあけて、腹一ぱいに朝の空気を吸い込みました。なんというはればれとした景色でしょう。見渡す限りの湖面には縮緬のような小波が立って、山の端を上った日光がチカチカと白く反射しています。背景には日蔭の山肌が、壮大な陰影をたたんで、その黒と、湖面の銀と、そして山と湖との境に流れる一抹の朝霞。長い滞在のあいだにも、朝寝坊の私は、そんな景色を見るのは珍らしいことでした。その景色に比べては、私の夜来の恐怖がなんとむさくるしく感じられたことでしょう。
「お早いのでございますね」
うしろに冷かすような女の声がして、そこへ朝のお膳が運ばれました。いっこう食慾などありませんでしたが、ともかく私はお膳につきました。そして、箸を取りながら、ふと、もう一度ゆうべのことを確かめてみる気になったのです。朝のはれやかな空気が、私の口をいくらか快活にしました。
「君は知らなかったのかい。ゆうべ湯殿の方で、変な叫び声がしたように思ったが、何かあったのじゃないかい」
私はさも|剽軽《ひょうきん》な調子で、こんなふうにはじめました。そしてさまざまに問い試みたのですが、女中は何事も知らないのです。客のうちにはむろんけが人などなく、附近の村人にも、そんな噂を聞かないというのです。あの手負いが今まで人に気づかれぬはずはありませんから、その噂が耳ざとい女中たちに伝わっていないとすると、ゆうべのことは、いよいよ一場の悪夢にすぎなかったのかもしれません。私はさらに自分自身の神経を心配しなければなりませんでした。
それからしばらくして、いまさら寝るわけにもいかず、部屋に坐ったままうつうつと物思いにふけっていた私の前に、一人の訪問者が現われました。それは先にちょっと記した、面識のある青年で、やはり同じ宿に泊っている河野という男でしたが、これがこの物語りの主人公ともいうべき人物なのですから、ここに少しく彼のことを説明しておかなければなりません。
私は彼とは、浴場の中だとか、湖の岸だとかで二、三度あったのにすぎませんが、彼もまた私のように、どちらかといえば憂欝な性格らしく、いつのときもボンヤリと空間を見つめているのを見かけました。ふとしたことから話し合ってみたのですが、お互いの性格にはどっか似通よったところがあるのでした。人にまじってお喋べりするよりは、一人で物思いに沈んでいる、或いは書物などを読みふけっている。私は彼のそんなところに、なんとなく好意を感じました。しかし、彼は私のようないわばニヒリストではなく、人間相互の関係について、何かの理想を抱いているように見えました。そしてそれは決してひとりよがりなユートピアを夢みているのではなくて、もっと着実な、従って社会的には危険な、実行的なもののように思われました。ともかく変り者に相ちがいないのです。
彼はまた職業や物質の方面でも、私とは大ぶん違っていました。彼の専門は洋画家で、風采から考えても決して富裕な階級に属する人ではなく、彼の口ぶりでは、画を売りながら、こうして旅行をしているらしい様子です。宿の部屋なども、彼のは廊下の隅っこの一ばん不便な場所があてがわれてありました。何が引きつけるのか、彼はこれまでも、しばしばこのHへやってきたらしく、その辺の事情にはよく通じていました。今度も麓の町にしばらくいて、私の少し前に湖畔亭にきたということでした。そうして旅をしながら、彼は諸国の人情風俗を調べている様子で、さまざまの珍らしい風習を知っていました。暇なときには彼はたずさえている書物に読みふけるらしく、手垢で黒くなった四、五冊のむずかしい書物が、いつも彼の座右にあるのでした。
いや、これでは少しお話が堅くなりすぎたようです。河野の紹介はこれくらいにとどめて、さて彼がその朝私の部屋を訪ねたところへ立ち帰ることにいたしましょう。
彼は私の部屋へはいってくると、私の顔をジロジロ眺めて、
「どうかしましたか、大変顔色がわるいようですが」
と聞くのです。
「ゆうべ眠れなかったものですから」
私はさりげなく答えました。
「不眠症ですか、いけませんね」
そして、私たちはしばらく、いつものような議論とも世間話ともつかぬものを取りかわすのでした。が、やがて、私はそんな暢気な対話に耐えきれなくなりました。ともすれば、ゆうべのことで頭が一ぱいになって、河野の物知り顔な議論などいっこう耳にはいらぬのです。そうしていらいらしているうちに、私はふと「この男に話をして彼の判断を聞いてみたら」と考えました。彼なればある程度私を理解もしていてくれるのですから、なんとなく話し易い気がするのです。そこで、私はゆうべの出来事を、すっかり彼に打ち明けてしまいました。覗き目がねの秘密をあかすときには、でも、ずいぶん恥かしい思いをしたことですが、相手の聞き上手が、いつの間にか、臆病者の私を多弁にしてしまったのでした。
十一
河野は私の話に非常な興味をおぼえたように見えました。殊に覗き目がねの仕掛けは、彼を有頂天にさせました。
「その鏡というのはどれです」
彼は何よりも先にそれを聞くのでした。私は夏外套を取って、例の仕掛けを見せてやりますと、
「ホウ、なるほど、なるほど、うまいことを考えたものですね」
彼はしきりに感心しながら、自からそれを覗いてみるのです。
「たしかに、ここへそんな影が映ったのですね。いまおっしゃる通り、幻にしては変ですね。しかし、その女は(たぶん女でしょうね)少なくとも大怪我をしているはずですから、それがいままで知れないというのもおかしいけれど」
そして、しばらくのあいだ、彼は何か考えに耽っている様子でしたが、やがて、
「いや、必ずしも不可能ではありませんよ。もし被害者が怪我をしただけだとするとおかしいけれど、その女が死んでしまったとすれば、死骸を隠して、あとの血潮などは拭きとることもできますからね」
「でも、私がそれを見たのが十時三十五分で、それから湯殿へ行くまでに、三十分ほどしかたっていないのですよ。その僅かのあいだに死体を隠したり掃除をしたりできるものでしょうか」
「場合によってはできないこともありませんね」河野は意味ありげに言いました。「例えば……いや想像なんかあと廻しにして、も一度湯殿を検べてみようではありませんか」
「しかし」私はなおも主張しました。「誰もいなくなった人はないでしょう。だとすると、女が死んだというのも変ですよ」
「それはわかりません。ゆうべなんか泊らない客がたくさんあって、ずいぶん混雑していたようですから、誰か行方不明になっていないとも限りませんよ。そして、そこの家ではゆうべのけさのことですから、まだ気がつかないでいるかもしれません」
そこで、私たちはともかく浴場へ行ってみることにしました。私としては行ってみるまでもないと思うのですけれど、河野の好奇心が、もう一度彼自身の眼で調べてみなければ承知しなかったのです。
脱衣場にはいると、私たちはドアをしめ切って、旅館の浴場にしては贅沢なほど広いそこの板間を見廻しました。河野はするどいまなざしで(彼の眼はときとして非常に鋭く光るのでした)その辺をジロジロ眺めていましたが、
「ここは朝早く掃除することになっていますから、血の跡があるにしても、ちょっと見たくらいではわからぬように拭きとってあるかもしれません」そして、ふと気がついたように、「おや、これは変ですね。このマットはいつもこんな鏡の前にはなかったはずだが、これの正しい位置は、この浴場の入口にあるべきですね」
彼はそう言いながら、足の先で、そのゴム製の幅の広いマットを、あるべき位置へおしやるのでした。
「ヤ、ヤ、これは」
彼が妙な声を出したので、驚いてそこを見ますと、今までマットで隠れていた床板には、三尺四方ほどの広さで、ベットリと、ドス黒いしみがついているのです。それが血潮を拭きとった跡であることは、一と目見ただけで充分察しられました。
十二
河野は袂からハンカチを出して、その血らしいものを、ゴシゴシとこすってみましたが、よほど拭き取ってあるとみえて、ハンカチの先がほんのうっすりと赤くなるばかりでした。
「どうも血のようですね。インキや絵の具の色とは違いますね」
そして、彼はなおもその辺を調べまわっていましたが、
「これをごらんなさい」
といって指さすところを見ると、マットで隠れていた個所のほかにも、諸所に点々として血の痕らしきものを認めることができました。あるものは柱や壁の下部に、あるものは板張りの上に、よく拭き取ってあるために、ほとんど見分けられぬほどになっていましたけれど、そう思って見れば、なるほど非常にたくさんの血痕らしいものがあるのです。そして、その点々たる血痕をつけて行きますと、負傷者或いは死者は、明らかに浴場の中へはいった形跡があります。しかし、それから先はどこへ行ったものか、どこへ運ばれたものか、絶えず水の流れているたたきになっているのですから、むろん少しもわかりません。
「ともかく帳場へ知らせようじゃありませんか」
河野は意気ごんでいうのです。
「ええ」私は非常に困って答えました。「しかし、例の覗き目がねのことは、お願いですから、いわないようにしてください」
「だって、あれは重大な手掛りですよ。例えば、被害者が女だってことだとか、短刀の形だとか」
「でも、どうかそれだけはいわないでください。恥かしいばかりじゃありません。あんな犯罪じみた仕掛けをしていたことになると、なんだか僕自身が疑われそうで、それも心配なのですよ。手掛りはこの血痕だけで充分じゃありませんか。それから先は僕の証言なんかなくっても、警察の人がうまくやってくれるでしょう。どうかそれだけは勘弁してください」
「そうですか、そんなにおっしゃるのなら、まあ言わないでおきましょう。では、ともかく知らせて来ますから」
河野は言い捨てて帳場の方へ走って行くのです。取り残された私は、ただもう当惑しきってボンヤリそこに佇んでおりました。考えてみれば大変なことになったものです。私の見たものは、夢でも幻でもなくて、ほんとうの人殺しだったのです。この血の分量から考えると、さっき河野が想像した通り、おそらくは被害者は死んでいるのでしょうが、犯人はその死体をどこへ持って行ったというのでしょう。いやそんなことよりも、殺された女は、そして殺した男は(たぶん男なのです)いったい全体何者でしょう。今ごろになっても、宿の人たちが少しも不審をおこさぬところをみると、止宿人のうちに、行方不明の者もないと見えます。しかし、誰がわざわざ外部から、こんな所へ相手をつれ込んで、人殺しなどやりましょう。考えれば考えるほど、不可解なことばかりではありませんか。
やがて、廊下の方に数人のあわただしい足音がして、河野を先頭に、宿の主人、番頭、女中などが浴場へはいってきました。
「どうか騒がないようにしてください。人気稼業ですからね。そうでもないことが、世間の噂になったりしますと、商売にさわりますからね」
デブデブ太った湖畔亭の主人は、そこへはいるなり、囁き声で言いました。そして、血痕を見ると、
「なあに、これは何かの汁をこぼしたのですよ。人殺しなんて、そんなばかな、だいいち叫び声を聞いたものもなければ、うちのお客様に見えなくなった人もありませんからね」
彼は強いて打ち消すように言いながら、しかし、内心では充分おじけづいているらしく、
「けさ、ここを掃除したのは誰だ」
と女中の方を振りかえって聞きただすのでした。
「三造さんでございます」
「じゃあ、三造をここへ呼んでおいで、静かにするんだよ」
三造というのは、そこの風呂焚きをしている男でした。女中に伴なわれてきた様子を見ますと、日頃お人好しの、少々抜けているという噂の彼は、まるで、彼自身が人殺しの犯人ででもあるように、青くなって、オドオドしているのです。
「お前は、これを気づかなかったのか」
主人はどなるように言いました。
「へえ、いっこうに」
「掃除はお前がしたんだろう」
「へえ」
「じゃ気がつかぬはずはないじゃないか。きっとなんだろう。ここにあった敷物をのけてみなかったのだろう。そんな掃除のしようがあるか。どうしてそう骨おしみをするのだ。……まあそれはいいが、お前、ゆうべここで何か変な物音でも聞かなかったかね。ずっとその焚き場にいたんだろう。叫び声でもすれば聞こえたはずだ」
「へえ、別にこれといって……」
「聞かないというのか」
「へえ」
といった調子なのです。私どもには眼尻に皺をよせて、猫撫で声でものをいう主人が、召使いに対すると、こうも横柄になるものかと、私は少なからず不快を感じました。それにしても、三造というのは、なんという煮え切らない男でありましょう。
十三
それから「血痕だ」「いや血痕ではない」と主人はあくまで稼業のさわりを恐れてことを荒立てまいとするし、河野も自説を取って下らず、はしなくも、変てこな論争がはじまったものです。
「あなたも妙な方ですね。こんな何がこぼれたのだかわかりもしないものを見て、まるで人殺しがあったときめてしまうようなものの言い方をなさるじゃありませんか。あなたは私のうちへけちがつけたいのですか」
主人はもう喧嘩腰なのです。こうなってきますと、私はもしや河野が覗き目がねの一件を持ち出しはしないかと、もう気が気ではありません。いかな主人でも、それを打ち明けさえすれば、納得するにちがいないのですから。ところが、ちょうどそのとき、一人の女中があわただしくはいってきました。彼女たちはもう血痕のことを知っているのです。従って誰も彼も、立居振舞いが常規を逸しています。
「旦那さま、中村|家《や》さんから電話がかかりましてね」彼女は息を切らせていうのです。「あのう、長吉さんがまだ帰らないんでございますって」
この突然の報告が、局面を一転させました。さすがの主人も、もはや落ちついているわけにはいきません。長吉というのは、程近き麓の町の芸者なのです。それがゆうべ湖畔亭に呼ばれてきたことは確かにきたのだそうですが、そのまま行方がわからなくなったのです。中村家ではゆうべ湖畔亭に泊りこんでしまったものと思って(田舎のことで、そういう点はごくルーズなのです)別に心配もせず、やっと今頃になって電話をかけてきたわけでした。
「ええ、それは、大一座のお客様を送って、ほかの家の芸者衆と一しょに、あの子も確かに自動車に乗ったと思うのですが」
主人の詰問にあって、番頭がへどもどしながら答えました。しかし、彼自身もどうやら、確かな記憶はないらしい様子なのです。
そこへ、騒ぎを聞いておかみもやってきますし、女中たちも大勢集まってきました。そして、長吉を見たとか見ないとか、口々に喋べるのです。それを聞いていますと、しまいには、長吉という芸者が果してゆうべきたのかどうか、それさえ怪しくなってきます。
「いいえ、そりゃきていたことは確かですわ」
一人の女中が何か思い出したように言いました。
「あれは十時半頃でした。お銚子を持って二階の廊下をあるいていますと、いきなり十一番の襖がガラッとあいて、長吉さんが飛び出してきたのですよ。あの子が呼ばれたのは、広間の方でしょう。私は変に思って後姿を見ていましたの。すると、長吉さんたら、まるで何かに追い駈けられでもしているように、バタバタと向こうのほうへ走って行きましたわ」
「そうそう、それで思い出した」もう一人の女中がその尾についていうのです。「ちょうどその時分だわ、私が下のご不浄の前を通っていると、十一番さんの、あのおひげさんね、あの人がやってきて、いまここを長吉が通らなかったかって、ひどい剣幕で聞くのよ。知りませんというと、わざわざご不浄の中へはいって、戸をひらいて探しているじゃないか。あんまり変だったので、よく憶えてるわ」
それを聞きますと、私もまた、ある事柄に思い当りました。そして口を挾まないではいられませんでした。
「その十一番さんというのは、もしや洋服を着た二人づれで、大きなトランクを持っている人ではないか。そしてゆうべおそくここを立った」
「ええ、そうですの。大きなトランクを一つずつ持っていらっしゃいましたわ」
そこでしばらくのあいだ、十一番の客について、あわただしい会話が取りかわされました。番頭のいうところによりますと、彼らはなんの前ぶれもなしに、突然出立の用意をして下りてきて、帳場で宿料の支払いを済ませると、慌てて、自動車も呼ばずに出て行ったというのです。もっとも湖畔の村には、乗合自動車の発着所があって、特別の料金さえ出せば、時間に構わず出させることができるのですから、彼らはその発着所まで歩いて行ったのかもしれませんが、それにしても出立の際の慌て方が、決して尋常ではなかったというのです。私の見た彼らの妙なそぶりといい、今の番頭の言葉といい、そして、長吉の行方不明、浴場の血痕、のみならず、鏡の影と彼らの出立との不思議な時間の一致、どうやらそのあいだに連絡がありそうな気がするではありませんか。
十四
前後の処置は、この家の主人である私が、どうともするから、あなた方は一応部屋へ引き取ってくれ、そしてあまり騒がないようにしてくれと、主人はあくまで隠蔽主義でありました。河野と私とは邪魔者扱いにされてまで、この事件に口出しすることもありませんので、ともかくも私の部屋まで引き上げました。
私としては、何よりも先ず、例の覗き目がねの装置が心配でした。といって昼日なか、それを取りはずすことはできません。
「なに、ここからでも、彼らが何をしているか、よく見えますよ」
私の気も知らないで、河野がかぶせてあった外套を取って、またしても鏡を覗いているのです。
「なんというすばらしい仕掛けでしょう。ほら、ごらんなさい。主人の仏頂面が大きく写っていますよ」
仕方がないので、私もそこを覗いて見ますと、なるほど、鏡の中では、太っちょの主人の横顔が、厚い唇を動かして、いま何かいっているところでした。それがほとんど鏡の三分の一ほどの大きさに拡大されて写っているのです。
先にもいった通り、覗き目がねで見る景色は、ちょうど水中に潜って目をひらいた世界のように、異様に淀んで、いうにいわれぬ凄味を添えているのです。時が時であり、ゆうべの恐ろしい記憶がまだ去らぬ私には、そこに写っている主人の顔から、いきなりタラタラと血が流れそうな気さえして、ほとんど見るに耐えないのでありました。
「あなたはどう思います」
しばらくすると河野は鏡から顔を上げて言いました。
「もしほんとうに長吉という芸者が行方不明だとすると、どうやら十一番の客というのが怪しくはないでしょうか。僕は知っていますが、その二人の男は四、五日前から泊っていたのですよ。あまり外へも出ないで、ときどき芸者などを呼んでも、大きい声を出すでもなく、たいていはひっそりとして、何をしているかわからないのです。ちっとも遊覧客らしくないのです」
「しかし、彼らが怪しいとしても、この土地の芸者を殺すというのも変ですし、それに、たとえ殺したところで、その死体をどこへ隠すことができたのでしょう」
私はもやもやと湧き上がってくる、ある恐ろしい考えを打ち消し打ち消し、心にもなくそんなことを言いました。
「それは湖水へ投げ込んだのかもしれません。それとも又……彼らの持っていたトランクというのはどのくらいの大きさだったでしょう」
私はギョッとしながら、しかし答えないわけにはいきませんでした。
「一ばん大型のやつでした」
河野はそれを確かめると、何か合図でもするように、私の眼を覗きました。いうまでもなく彼もまた私と同じ考えを抱いているのです。二人は黙って睨み合っていました。それは口に出すにはあまりに恐ろしい想像だったからです。
「しかし、普通のトランクでは、とても人間一人ははいりませんね」
やがて、河野は青ざめた目の下をピクピクとさせながらいうのでした。
「もうその話は、止そうじゃありませんか。まだ誰が殺したとも、いや殺人があったということさえきまっていないのですから」
「そうはいっても、あなたもやっぱり私と同じことを考えているのでしょう」
そして私たちは、また黙り込んでしまいました。
一ばん恐ろしいのは、一人の人間を、二つのトランクに分けて入れたという想像でした。それは誰にも気づかれぬように、浴場の流し場で、死体を処理することはできたかもしれません。そこではどんなにおびただしい血潮が流れても、皆湖水の中へ注ぎこんでしまうのです。しかし、そこで彼らは長吉の死体を、まっ二つに切断したのでしょうか。私はそれに思い及んだとき、ヒヤリと自分の背骨に斧の刃がささったような痛みを感じました。彼らはいったい何をもってそれを切断したのでありましょう。あらかじめ兇器を用意していたか、それとも庭の物置きから斧でも盗み出してきたのか。
一人は入口のドアのそばで見張り番を勤めたかもしれません。そして、一人は流し場で、艶めかしい女の死体を前に、斧をふり上げていたかもしれません。
読者諸君、私のあまりにも神経過敏な想像を笑わないでください。あとになって考えてみれば、おかしいようなことですけれど、そのときの私たちは、その血なまぐさい光景を、まざまざと眼の前に描いていたわけです。
さて、その日の午後になりますと、事件はようやく現実味を帯びてきました。長吉の行方は、中村|家《や》でも手を尽して探したらしいのですが、依然として不明です。湖畔亭の帳場には、村の駐在所の巡査をはじめとして、麓の町の警察署長や刑事などが、続々とつめかけてきました。噂はもう村じゅうにひろがり、宿の表は一ぱいの人だかりです。主人の心遣いにもかかわらず、湖畔亭殺人事件は、すでに表沙汰になってしまいました。
いうまでもなく、河野と私とは、事件の発見者として、きびしい訊問を受けなければなりませんでした。先ず河野が、血痕を発見した当時の模様を詳しく陳述して引き下がると、次に私が署長の面前に呼び出されましたが、私はそこで河野の喋べったことを、更にまた繰り返すのでありました。訊問が一と通り済んでしまってから、署長はふと気がついたように、こんなことを言いました。
「だが、君たちは、どうして湯殿へ行ってみたのだね。まだ湯も沸いていなかったそうだが、そこへ何をしにはいったのだね」
私はハッと答えにつまりました。
十五
もしこの際ほんとうのことを白状しなかったら、あとになって取り返しのつかぬことになりはしないか。私までも、この殺人事件に何かの関係を持っているように、疑われはしないか。そんなふうに考えますと、覗き目がねの秘密をあかしてしまったほうがいいようでもあります。しかし、私が脱衣場の隙見をしていたということが、湖畔亭の人たちに知れ渡ったときの恥かしさを想像しますと、それも一そうたまらないことです。咄嗟の場合、私は二つのうちどれを選ぶかに、非常に迷いましたけれど、内気者の私は、結局恥かしさの方が先に立ち、充分危険は感じながらもつい嘘をついてしまったのであります。
「脱衣場に自分の石鹸を置き忘れたかと思ったのです。実際はそうではなかったのですけれど、朝、顔を洗おうと思って、石鹸がなかったものですから、ふとそんなふうに思って、脱衣場へはいってみたのです。そして、偶然あの血痕を発見したのです」
私はそう言いながら、そばにいた河野にそれとなく眼くばせをしました。もし彼があとで、ほんとうのことをいってしまっては大変ですから、それをとめるためです。敏感な彼は、いうまでもなく、私の微妙な眼の働きを悟ったようでありました。
それから、湖畔亭の主人をはじめとして、番頭、女中、下男、さては泊りの客に至るまで、ことごとく一応の取り調べを受けました。検事などもまだ来着せず、それはほんの仮調べといったふうのもので、別段人ばらいなどしないで、一室にゴチャゴチャとかたまっている人々を、次々と訊問してゆくのでしたから、私はほとんどすべての陳述を、その場にいて聞くことができました。
河野は、私の無言の歎願を容れて、私の嘘と口を合わせてくれました。それを聞いて、私はやっと胸のつかえがおりたように思ったことです。主人をはじめ宿の人たちの陳述にも、別段新らしい事実はなく、みな私たちが前もって聞いていたところと同じことでありました。そしてそれらを綜合しますと、警察の人々もやはりトランクの紳士を疑うほかはないように見えました。
また、犯罪現場が、いとも綿密に調査せられたことは申すまでもありません。私たちは事件発見者としてそれにも立ち合うことができましたが、老巧な刑事の一人は、板の間のしみを見ますと、たちどころに血痕にちがいないと鑑定しました。これはあとになってわかったことですが、係りの検事の意見などもあって、念のためというので、その血痕を拭き取った上、地方の医科大学に送って検査してもらった結果、この刑事の鑑定は少しも誤まっていないことがわかりました。それはほかの動物などのものではなく、正しく人間の血液に相違ないことが判明したのです。
引きつづき刑事が推定したところによりますと、血痕の分量から推して、被害者はおそらく死んでいること、犯人はその死体を浴場のタタキで処理したにちがいないことなど、すべて素人の想像したところと大差はないのでありました。
もしや兇器その他の遺失物がないかと、浴場の周囲、嫌疑者である紳士の泊っていた十一番の部屋なども、落ちなく調べられましたが、何一つ手がかりになるような品物は残っていませんでした。
推定被害者長吉の身許については、ちょうど抱え主中村|家《や》のおかみが湖畔亭へかけつけていましたので、彼女から詳しく知ることができました。そのとき彼女は恐ろしく多弁にいろいろな事柄を述べ立てましたが、要するに、私どもが考えても、これはと思うような疑わしい事実は何もないのでした。長吉は一年ばかり前、地方のNという町から中村家に住みかえてきたもので、以前のことはともかく、中村家へきてからの彼女にはなんの変ったところもなく、浮いた稼業の女にしては少し陰気過ぎる気性であったのが、特徴といえばいえるぐらいでありました。また情事関係も、普通の馴染客以上のものはないように思われるということでした。
「ゆうべはこちらの大一座のお座敷へ呼ばれまして、ちょうどここにおります蔦|家《や》の〆治さんも一しょでございましたが、八時ごろに町を出ましたので、出るときも別に変った様子はなかったようでございますし、お座敷でもふだんの通りにしていたということでございます」
おかみの申し立ては、結局、こんなふうに取り留めもないものにすぎませんでした。そのとき、署長は長吉とトランクの紳士(宿帳の名前は松永某となっておりました。従者と見える方の男はたしか木村とか言いました。しかし、二人ともそれ以来杳として行方がしれないのですから、名前をハッキリ申し上げておくほどのこともないのです)との関係について、彼女に何か思い当ることはないかとただしました。ところがこれに対しても、彼女は、長吉が両三度松永某の座敷へ呼ばれたという、すでにわかっている事実のほかに、なんのつけ加えるところもないのでした。そして、宿の番頭や〆治という芸者の証言によりますと、松永と長吉の関係は、ほんの酒の相手に呼ばれた程度のものであることもわかりました。
十六
結局その取り調べによって判明したことは、私たちがあらかじめ知っていた以上のものではありませんでした。のみならず、私が例の覗き眼がねのことを打ち明けないものですから、彼らは或る意味ではこの事件について、私たちよりも一そう無智であるといわねばなりません。例えば兇行の時間でも、私たちには十時三十五分ごろと、可なり正確にわかっているに反して、彼らは、女中が長吉や松永の不審な挙動を見た時間から、兇行も多分そのころ行われたものであろうと推定しているにすぎないのです。
そこで、ともかくも嫌疑者松永の行方捜索が行われることになりました。正確にいえば、このときはまだ果たして殺人罪が行われたかどうかさえ確かめられていたわけではありません。脱衣場の血痕と、長吉の行方不明、松永の怪しむべき出立などの符合から、わずかにそれを想像せしめる程度にすぎませんでした。しかし、この場合、誰が考えても松永の行方捜索が先決問題であるのはいうまでもないことです。
幸い、河野が村の巡査と知り合いになっていたものですから、私たちは後に至って、その筋の意見や捜索の実際を、ある程度まで洩れ聞くことができましたが、一応湖畔亭の取り調べが済むと、時を移さず行われた松永の行方捜索は、結局なんのうるところもないのでした。それは主として、私と宿の番頭とが申し立てた、彼らの出立当時の風体に基づいて、街道筋の町々村々を尋ねまわったわけですが、不思議なことには「洋服姿で、トランクを手にした者」という条件に当てはまる人物は、絶えて姿を見せないのでした。といって、そのほかの目印は、松永が肥え太った男で、鼻下に髭をたくわえていたというくらいのものですから、もし彼らが、トランクをどこかへ隠して、巧みに変装をすれば、人目にかからず逃げおおせることは、あながち不可能でもありません。
彼らの逃走の最大の邪魔物は、いうまでもなくあの目立ちやすいトランクです。彼らは必らず、それを途中で人知れず処分したのにちがいありません。警察でもその点に気づいて、これもまたできる限り探索したのですが、やっぱり思わしい結果はえられませんでした。
それから数日のあいだというもの、村人を雇って、附近の山々は申すに及ばず、湖水の底までも、ほとんど遺憾なきまでに捜索されましたが(湖水の岸に近い部分は割合に水深も浅く、それに水が綺麗ですから、船を浮かべて覗きまわりさえすれば、その底にあるものは手に取るように見えるのです)依然としてなんのうるところもありません。かくして、事件はついに未解決のままに終るのではないかとさえ思われました。
しかし、以上は表面上の事実にすぎないので、その裏面には、さらに一そう不可解な事柄が起こっていたのでした。
お話は元に戻って、事件の翌日、湖畔亭の取調べのあったその夜のことになりますが、たとえ一時発覚をまぬがれたとはいえ、私はどうにも覗き目がねのことが気になって仕様がないものですから、夜のうちにその装置を取りこわしてしまうつもりで、イライラしながら人々の寝しずまるのを待っていました。
警察の人々が浴場の周囲を取り調べたとき、私はどんなにヒヤヒヤさせられたことでありましょう。樹木のために蔽われていても、屋根の下へはいって見上げさえすれば、その鼠色の筒は、必らず疑いをひいたにちがいないのです。ところが私にとって幸いであったことには、刑事たちは何かが落ちていないか、足跡でもついてはいないかと、地面ばかり見廻って、上のほうにはいっこう注意を払わなかったものですから、この不思議な装置は、危うく発覚をまぬかれることができたわけでした。
しかし、あすにもなれば、また一そう綿密な調査が行われることでしょうし、いついつまでも、このままに済むはずはありません。どうしても今夜のうちに取りはずさなければ、安心することはできないのです。
その夜は事件のために、家の中がなんとなく騒がしく、常の日より余程おそくまで、話し声が絶えませんでしたが、でも、十二時を過ぎた時分には、やっと人々も寝しずまった様子でありました。私はそれでも、用心に如くはないと思い、ほとんど一時近くまで、じっと待っていました。そのあいだにも、私はたびたび覗き目がねの鏡を見て、脱衣場の人影を気にしていたのですが、さて、いよいよこれから窓のそとへ忍び出て、秘密の仕事に取りかかるというときに、何気なく、もう一度そこを覗きますと、一刹那ではありましたけれど、ふと恐ろしいものが鏡の底にうごめいているのを発見しました。
それは昨夜見たのと寸分ちがわない、男の手先の大写しになったものでした。手の甲にはやっぱり同じような傷痕らしいものが見え、太くたくましい指の恰好から、全体の調子が、ゆうべの印象と少しも違わないのです。
それがチラリと見えたかと思うと、ハッと思う間に消え去ってしまいました。決して夢でも幻でもありません。私はことの意外さ、かつは恐ろしさに、もはやなんの影もない鏡の表を見つめたまま、しばらくはその場を動くこともできませんでした。
十七
一時の放心を取り戻すと、私はすぐさま浴場へかけつけました。しかし、そこには、前の晩と同じようになんのけはいもないのです。殊に事件のために湯も立たず、人々は気味わるがって、そこへ近寄りもしませんので、脱衣場は一そう物淋しく白々として見えました。そしてちょっと見たのでは黒い板の間と区別がつかぬほどの、例の血痕ばかりが、一そう物凄く私の眼を惹きつけるのでした。
しばらく耳をすましていても、むろんなんの物音も聞こえてはきません。家じゅうがシーンと静まり返って、あの恐ろしい手首の持ち主のほかには、おそらくは誰一人起きている者もないのです。そして、その男は、鏡の影を見てから大して時間もたっていないのですから、ひょっとしたら、まだその辺の隅に隠れていないとも限りません。それを考えると、私は無性に怖くなって、いきなり浴場を逃げ出したものです。
しかし、部屋へ帰ってみても、どうしてじっとしていることができましょう。といって、宿の人を起こしてこの事実を知らせるには、やっぱり覗き目がねの秘密を打ちあけるほかはなく、私はいまさら、なぜ取り調べのあったとき、それをいってしまわなかったかと、少なからず後悔しなければなりませんでした。
でも、そうしていても際限がありませんので、レンズの装置を取りはずすことなぞはあと廻しにして、私はあわただしく唯一の相談相手である河野の部屋をおとずれました。そして、よく寝入っている彼を無遠慮に叩き起こし、あたりをはばかる囁き声で、ことの仔細を語るのでした。
「それは妙ですね」すると河野も変な顔をして、「犯人がわざわざ帰ってくるはずはありませんよ。それに、手首を見ただけで、きのうの加害者だということがどうしてわかりました?」
この質問にあって、はじめてそのことに気がつきました。私は迂濶にも、まだ一度も手首の傷痕のことを彼に話していないのでした。それと同時に、松永と自称する男、或いはその同伴者の手首に、果たして同じ傷痕があったかという点に思い及んで、その重大な事柄を一度も考えてみなかった私の愚かさが、今さら恥かしくなるのでした。
「そうですか。そんな目印があったのですか」
河野は非常に驚いたように見えました。
「ええ、あれは多分右手なんでしょうが、こうはすかけに、一文字の太い線が、ドス黒く見えていたのです」
「しかし、それがあなたの見違いでないとすると、なおさら変ですね」河野はやや疑わしげに、「私は、宿の人たちはいうに及ばず、泊り客なども注意して観察していますが、手の甲に傷のある者は、一人も見かけませんでしたよ。問題のトランクの男にも、そんなものはなかったようです。手の甲の陰影が傷痕のように見えたのではありませんか」
「いや、影にしては色が濃いのです。傷痕ではなくとも、何かそれに似たものでしょう。決して見違いではありません」
「そうだとすると、これは非常に重大な手がかりですね。その代りに、事件はますますわからなくなってくる」
「こんなことがありますと、僕は例の秘密の仕掛けが心配でなりません。今のうちに取りはずしてしまいたいのですが、なんだかまだ、その辺に人殺しが潜伏しているような気がして、気味がわるいのですよ」
「やっぱり秘密にしておくのですか。非常にいい手掛りですがね。しかしまあ、僕だけにでも教えてくだすってよかったですよ。実はね、僕はこの事件を自分で探偵してみようと思っているのです。突然こんなことをいうと、変に聞こえるかもしれませんが、僕は以前から犯罪というものに、特別の興味を持っているのですよ」
そして、これは私の邪推かもしれませんけれども、河野はむしろ、覗き目がねの秘密をその筋に知らせないで、彼の独占にしておくことを望んでいるように見えました。その証拠には、「そんなにおっしゃるのなら、僕も手伝って上げましょう」といって、彼は私のレンズ装置取りはずしの作業を助けてくれたほどでありました。
それは非常に危険な仕事でした。真夜中のことですし、附近に人のいる部屋とてもありませんので、その点は安心ですけれど、さきほどの手首の男が、庭の暗闇に潜伏していて、危害を加えないとも限らず、又その筋の刑事などが、張り込んでいないものでもありません。私たちは猿のように木の枝を伝いながら、絶えず庭の方を注意して、ビクビクもので仕事をつづけました。
ボール紙の筒が、ところどころ簡単に取りつけてあるにすぎないのですから、取りはずすのに造作はありません。やがて私たちはすっかり仕事を終って、部屋の方へ引き返そうと、屋根伝いに這っているときでした。
「誰だっ」
私のうしろで、突然、低いけれど力のこもった叫び声がしました。河野が何かを見つけてどなったのです。
見ると、庭の向こうの隅のところに、湖水の薄明りを背景にして、一つの黒い影がうずくまっていました。
「誰です」
河野がもう一度どなりました。
すると影の男は、物をもいわず立ち上がり、つと建物の蔭にかくれると、一散ににげ出したように思われます。別段厳重な塀などがあるわけではなく、湖水の岸を伝って行けば、どこまでも逃げることができるのです。それを見ると、河野はやにわに屋根から飛びおりて、男のあとを追っかけました。
ほんの一瞬間の出来事です。アッと思うまに、逃げる者も追う者も、姿が見えなくなってしまいました。
私は驚きの余り、屋根の上に腹這いになったまま、不様な恰好で、永いあいだじっとしておりましたが、考えてみますと、さっき河野の飛びおりた地響きが、宿の人たちに聞こえたかもしれません。もしそうだとすると、私は一刻も早く自分の部屋へ帰らなければなりません。この変なボール紙の筒が人の目にかかっては、折角の苦心が水の泡です。いや、それよりも、真夜中に屋根を這っていたことを、なんと弁明すればよいのでしょう。
私は大急ぎで部屋にはいると、抱えていた品物をトランクの底深く押し隠し、いきなりそこにしいてあった蒲団の中へもぐりこみました。そして、今にも宿の人たちが騒ぎ出しはしないかと、ビクビクもので聞き耳をたてていました。
しかし、しばらくそうしていても、別段物音も聞こえません。仕合わせにも、誰も気がついたものはないようです。私はやっと安心して、その代りに、俄かに気がかりになりだした河野の身の上を、案じわずらうのでありました。
「駄目でしたよ」
間もなく、木の枝をガサガサいわせて、窓のそとに河野の無事な姿が現われました。彼は部屋へはいると私の枕もとに坐って、追跡の結果を報告するのでした。
「ばかに逃げ足の早いやつで、とうとう見失ってしまった。しかし、その代りにいいものを拾いましたよ。また一つ証拠品が手に入ったというものです」
十八
河野はそう言いながら、さも大切そうに、懐の中から一個の品物を取り出しました。
「これですよ。この財布ですよ」
見ると、金色の金具のついた、可なり上等の二つ折りの紙入れです。それが厚ぼったくふくらんでいるのです。
「あいつの逃げたあとに落ちていたのですよ。まっ暗で、曲者の風采なぞはよく見きわめられませんでしたが、この財布はちょうど運よく、浴場の裏口から明りのさしている地面に落ちていたものですから、気がついたのです。むろんあいつが落としたものにちがいありません」
そこで、私たちは非常な好奇心をもって財布をあらためました。そして何気なくその中身を取り出して見たとき、私たちは更に一驚を喫しないではいられませんでした。そこには、予期したような、名刺その他の所有主を示すようなものは何一つなく、紙幣ばかりが、それも手の切れそうな十円札で約五百円〔今の二十万円ほど〕はいっていたのです。
「これで見るといまの男は、ひょっとしたら例のトランクの紳士かもしれませんね。あの男ならこの財布の持ち主として相当していますからね」
なんだかえたいのしれぬものが、私の頭の中でモヤモヤしていましたが、咄嗟の場合まずそんな想像が浮かぶのでした。
「しかし、妙ですよ。あれが人殺しの本人だったとすると、今ごろなんのためにこの辺をうろついているのでしょう。逃げ出したところを見れば、刑事なんかでなくて犯罪に関係のある者には違いないのですけれど、それにしても妙ですよ」
河野は、考え考え言いました。
「曲者の姿かたちは少しもわかりませんでしたか」
「ええ、アッと思う間に逃げ出したのですからね。暗闇の中をコウモリかなんかが飛んで行った感じでした。そんな感じを受けたというのが、つまり和服を着ていたからではないかと思います。帽子はかぶっていなかったようです。背恰好は、ばかに大男のようでもあり、そうかと思うと、非常に小さな男のようでもあり、不思議に覚えていません。湖水の岸を伝って庭のそとへ出ると、向こうの森の中へ逃げ込んだようでした。あの深い森ですからね。追っ駈けてみたところで、とてもわかるものではありませんよ」
「トランクの男は(松永とか言いましたね)肥え太った男でしたが、そんな感じはしませんでしたか」
「はっきりわかりませんが、どうも違うらしいのです。これは僕の直覚ですが、この事件にはわれわれの知らない第三者がいるのではないかと思いますよ」
河野は何事かを、うすうす感づいているような口ぶりでしたが、それを聞くと妙な悪寒をおぼえながら、私もまた彼と同じ感じを抱かないではいられませんでした。この事件には、誰もまだ知らないような恐ろしい秘密が伏在しているのではないでしょうか。
「足跡が残っているかもしれませんね」
「駄目ですよ。この二、三日天気続きで土が乾いていますし、それに庭からそとの方は一ぱい草がはえてますから、とても見分けられませんよ」
「それでは今のところ、この財布が唯一の手掛りですね。これの所有者さえつきとめればいいわけですね」
「そうです。夜があけたら、さっそくみんなに聞いて見ましょう。誰か見覚えているかもしれません」
そうして、私たちは、ほとんど夜を徹して、この激情的な事件について語り合いました。私のはただ、子供が怪談を好むように、恐いもの見たさの好奇心にすぎませんでしたが、河野の方は犯罪事件の探偵に、深い興味を持っているらしく、言葉の端々にも、彼の判断力の異常な鋭さがほの見えるのでした。
考えてみれば、私たちは事件の発見者であるばかりでなく、覗き目がねの影と言い、今夜の出来事と言い、また財布という確実な物的証拠まで手に入れて、警察の知らないいろいろな手がかりを握っているわけでした。そのことが一そう私たちを興奮させたものです。
「愉快でしょうね、もしわれわれの手で犯人をつきとめることができたら」
私は、覗き目がねという心配の種がなくなったので、いくらか調子づいた気味で、河野のお株を奪って、そんなこともいってみるのでした。
十九
「じゃあ、この財布は僕が預かっておきましょう。そして、朝になったら、さっそく番頭や女中に持ち主の心当りを尋ねてみましょう」
そう言い残して、河野が彼の部屋へ引き取ったのは、もうほとんど夜あけに近いころでした。私としてはむろん一切の探索を河野に任せて、ただその結果を聞けばいいのですから、彼が新らしい報告をもたらすまで、わずかの時間でも寝ておこうと、話に夢中になって寝間着のまま蒲団の上に坐っていたのを、元のように枕についてみましたが、どうして一旦興奮してしまった頭は、睡ろうとすればするほど冴え返って、そのうちにあたりはだんだん明るくなる、階下では女中どもの掃除の音が聞こえ出す。とても寝られたものではありません。
私はソワソワと起き上がって、第一に例の仕掛けの取りつけてあった、窓の所へ行き、そこをあけて、何か人目につくようなレンズ装置の痕跡でも残っていはしないかと、朝の光でもう一度調べてみました。頭が疲れていたせいか、大丈夫だとは思いながら、ふと飛んでもない粗漏があるような気がして心配でたまらなかったのです。しかしそれは私の取り越し苦労にすぎないことがわかりました。ボール紙の筒を結びつけた針金さえ、一本残らず取り去って、そこにはなんの痕跡も残ってはいないのです。
それで、すっかり安心した私は、今度はゆうべ異様な人物の佇んでいた場所へ目を移しました。二階の窓からでは、遠くてよくわかりませんけれど、河野のいった通り足跡などは残っていないように見えます。
「だが、ひょっとして、地面のやわらかい部分があるかもしれない。そこに曲者の足跡がついていないとは限らない」
妙なもので、相手の河野が犯人の探偵に熱中しているのを見ると、私も彼にまけない気で、ふとその足跡を調べてみたくなったのです。それに一つは、夜来の心遣いと睡眠不足のためにズキズキ痛む頭を、屋外のすがすがしい空気にさらしたくもあって、私はそのまま、顔も洗わないで、階下の縁側から、裏庭へと立ちいで、散歩をよそおいながら、浴場の裏口の方へとあるいて行きました。
しかし失望したことには、なるほど、地面はすっかり堅くなっていて、たまに軟いところがあるかと思えば、草がはえていたりして、明瞭な足跡などは一つも発見することはできないのでした。でも、私はあきらめないで、なおも湖水の岸を伝いながら、庭のはずれを目ざして進んで行きました。
すると、塀代りに庭を囲んでいる杉木立の中に、人影が見え、ハッと思う間に、それがこちらへ近づいてきました。早朝のことではあり、こんな場所に人がいようとは思いもかけなかったものですから、私はそこへ立ちすくみ、何かその男がゆうべの曲者ででもあるように、おずおずと相手の挙動を眺めたものです。
しかしよく見れば、それは怪しい者ではなく、湖畔亭の風呂焚き男の三造であることがわかりました。
「お早ようございます。エヘヘヘヘ」
彼は私の顔を見ると、愚かな笑い顔で挨拶をしました。
「やあ、お早よう」
私は言葉を返しながら、ふと「この男が何か知っているのかもしれない」という気がしたものですから、そのまま立ち去ろうとする三造を呼び止めて、なにげなく話しかけました。
「湯が立たないので、ひまだろう。しかし大変なことになったものだね」
「へえ、困ったことで」
「君はちっとも気がつかなかったのかい、人殺しを」
「へえ、いっこうに」
「おとといの晩、湯殿の中で何か物音でもしなかったのかい。焚き場とは壁ひとえだし、中を覗けるような窓がこしらえてあるくらいだから、何か気がつきそうなものだね」
「へえ、ついうっかりしておりましたので」
三造はかかり合いになることを恐れるもののように、きのうから何を問われても、一つとしてハッキリした返事をしないのです。思いなしか、私には彼が何事かを隠しているようにも感じられます。
「君はいつもどこで寝ているの」
私はふと或ることを思いついて、こんなふうに問いかけて見ました。
「へえ、その焚き場のそばの、三畳の部屋なんで」
彼が指さすのを見ますと、浴場の建物の裏側に、焚き場の石炭などを積み上げた薄暗い土間があって、その隣に障子も何もない、まるで乞食小屋のような畳敷きの小部屋が見えます。
「ゆうべもあすこで寝たんだね」
「へえ」
「じゃあ、夜なかの二時ごろに何か変ったことはなかったかい。僕は妙な音がしたように思うのだが」
「へえ、別に」
「眼を覚まさなかったの」
「へえ」
彼のいうところがほんとうだとすると、あの曲者追跡の騒ぎも、この愚か者の夢を破らなかったとみえます。
もはや尋ねてみることもなくなったのですけれど、私はなんとなくその場を去りがたい気持で、三造の姿をジロジロと眺めていました。不思議なことには、相手の三造の方でも、何かモジモジしながらそこに突っ立っているのです。
彼は、襟に湖畔亭と染め抜いた、古ぼけた半纏を着て、膝のところのダブダブになったメリヤスの股引をはいているのですが、そのみすぼらしい風采に似げなく、顔を綺麗に剃っているのが、妙に私の注意をひきました。この男でも髭を剃ることがあるのだな。私はふとそんなことを考えていました。彼は愚か者にもかかわらず、そうしておめかしをすれば、狭い富士額が、ちょっと気になりますけれど。のっぺりとした好い男でした。
二十
どういうわけか、それから私は、彼の手首に眼をやりました。しかし、そこには別に傷痕などはありません。私は事件以来、妙に人の手首に注意するようになっていたのです。その癖が出たのでしょう。むろんこの愚か者の三造を疑う気持があったわけではありません。
ところが、そうして相手を眺めているうちに、私はふとこんなことを考えました。
「きのうからたびたび聞かれても、この男は何も知らないといっているけれど、それは尋ね方がわるいのではなかろうか。尋ねる人は誰も時間をいわない。殺人の行なわれた時間をいわないで、ただ何か物音がしなかったかと聞いている。それでは答えのしようもないわけだ。もし時間さえハッキリ示しえたならば、この男はもっと別な答えをすることが出来るのではないだろうか」
そこで、私は思い切って、三造にだけ時間の秘密を打ちあけて見ることにしました。
「人殺しがあったのは、おとといの夜の十時半ごろではないかと思うのだよ」私は声を低めて言いました。「というのはね、ちょうどそのころ、僕は湯殿のほうで変な叫び声のようなものを聞いたのだよ。君は気がつかなかったかい」
「へえ、十時半ごろ」すると三造は何か思い当るように、いくらか、表情をハッキリさせて、「十時半といえば、ああ、そうかもしれない。旦那、ちょうどその時分、私は湯殿にいなかったのでございますよ。台所の方で夜食を頂いておりましたですよ」
聞けば、彼は仕事の性質上、就寝時間が遅くなるので、従って食事も他の雇い人たちよりは、ずっとおくれて、泊り客の入浴が一順すんだころを見はからって、とることになっているのだそうです。
「しかし、食事といったって、大した時間ではあるまいが、そのわずかのあいだに、あれだけの兇行を演じることができるだろうかね。もし君が注意をしていたなら、食事の前かあとに、何か物音を聞いているはずだよ」
「へえ、それがいっこうに」
「じゃあ、君が台所へ行くすぐ前か、台所から帰ったあとかに、湯の中に人のいるようなけはいはなかったかい」
「へエ、そういえば、台所から帰ったときに、誰かはいっているようでございましたよ」
「覗いてみなかったのだね」
「へえ」
「で、それはいつごろだったろう。十時半ごろではないかね」
「よくはわかりませんですが、十時半よりはおそくだと思います」
「どんな音がしていたの、湯を流すような音だったの」
「へえ、ばかに湯を使っているようでございました。あんなにふんだんに湯を流すのは、うちの旦那のほかにはありませんです」
「じゃあ、そのときのはここの旦那だったのかい」
「へえ、どうも、そうでもないようで」
「そうでもないって、それがどうしてわかったの」
「咳払いの音が、どうも旦那らしくなかったので」
「じゃあ、その声は君の知らない人だったの」
「へえ、いいえ、なんだか河野の旦那の声のように思いましたですが」
「エ、河野って、あの二十六番の部屋の河野さんかい」
「へえ」
「それは君、ほんとうかい。大事なことだよ。確かに河野さんの声だったのかい」
「へえ、それやもう、確かでございます」
三造は、昂然として答えました。しかし、私はこの愚か者の言葉を、俄かに信用していいかどうか判断に苦しまないではいられませんでした。はじめの曖昧な調子に比べて、今の断定は少しく唐突のように見えないでしょうか。そこで、私はさらに質問をくり返して、三造の危なげな記憶を確かめようと試みましたが、どういうわけか、彼はそのときの入浴者が河野であったことを、むやみに主張するばかりで、それについてなんの確証もなく、結局私を満足させることはできないのでした。
二十一
私はこの事件について、最初から一つの疑問を抱いておりました。それがいま三造の告白を聞くに及んで一そう深くなったのです。たとえ相手が愚か者の三造であるとはいえ、そこには風呂番専用の小さな出入口もあれば、客に湯加減を聞く覗き窓もあるのですから、もし彼が焚き場にいたとすれば、必ず兇行を悟ったに相違なく、それを知りながらあの大がかりな殺人を(或いは死体切断を)やるというのは、余りに無謀なことではないでしょうか。
或いは犯人は、あらかじめ三造の不在を確かめておいて兇行を演じたのかもしれません。しかしそれにしても、夜食をとっていたというわずかの時間に、どうしてあれだけの大仕事ができたのでしょう。その点がなんとなく変ではありませんか。それとも、三造が聞いた湯を使う音というのは、犯人が風呂番の帰っているのも知らずに、浴場のたたきの血潮を流していた音なのでしょうか。そんな途方もない、悪夢のような出来事がほんとうにあったのでしょうか、しかも一そう不思議なのは、三造によれば、その湯を流していた男が、河野らしいというのです。では、非常にばかばかしい想像ですけれど、犯人はほかならぬ河野であって、彼は彼自身を探偵しようとしているのでしょうか。考えれば考えるほど、この事件は、いよいよ不思議なものに見えてきます。
私はそこに佇んだまま、長いあいだ、奇怪な物思いに耽っていました。
「ここでしたか、さっきから捜していたのですよ」
その声に驚いて顔を上げますと、そこには、いつの間に立ち去ったのか、三造の姿はなくて、その代りに河野が立っていました。
「こんなところで、何をしていたのです」
彼はジロジロと私の顔を眺めながら尋ねました。
「ええ、ゆうべのやつの足跡をさがしにきたのですよ。しかし何も残っていません。それで、ちょうどここに風呂焚きの三造がいたものですから、あれにいろいろと聞いていたところなのです」
「そうですか、何か言いましたか、あの男」
河野は、三造と聞くと非常に興味をおぼえたらしく、熱心に聞き返しました。
「どうも曖昧でよくわからないのですが」
そこで私は、わざと河野に関する部分だけ省いて、三造との問答のあらましを繰り返しました。
「あいつおかしいですね。飛んだ食わせ者かもしれない。うっかり信用できませんよ」河野がいうのです。
「ところで、例の財布ですがね。持ち主がわかりました。ここの家の主人のでした。四、五日前に紛失して、探していたところだということです。どこでなくなったのか、残念なことには、それをまるで覚えてないそうですが、ともかく、女中や番頭などに聞いてみても、主人の物にはちがいないようです」
「じゃあ、それをゆうべのやつが盗んでいたわけですね」
「まあそうでしょうね」
「そうして、それがあのトランクの男と同一人物なのでしょうか」
「さア、もしそうだとすると、一度逃げ出した男が、なぜゆうべここへ立ち戻ったか……どうしてそんな必要があったのか、まるでわからなくなりますね」
そうして、私たちはまた、しばらく議論を戦わしたことですが、事件は、一つの発見があるごとに、かえってますます複雑に、不可解になって行くばかりで、少しも解決の曙光は見えないのでありました。
二十二
私は殺人事件の渦中に巻き込まれてしまった形でした。目がねの装置を取りはずすまでは、予定の滞在期間など構わずに、早くこのいまわしい場所を逃げ出したいと思っていたのですが、さて、その装置もなくなり、わが身の心配が取りのぞかれてしまうと、今度は持ち前の好奇心が勃然として湧き上がり、河野と共に、私たちの材料によって、犯人の探偵をやってみようという、大それた願いすら起こすのでした。
そのころには、近くの裁判所から係りの役人たちも出張し、浴場のしみが人間の血液にちがいないこともわかり、町の警察署ではもう大騒ぎを演じていたのですが、捜査の仕事は、その大がかりな割には、いっこう進捗せず、河野の知り合いの村の巡査の話を聞いても、素人の私たちでさえ歯痒くなるほどでありました。その警察の無力ということが、一つは私をおだてたのです。そして、もう一つは、河野の熱心な探偵ぶりが少なからず私の好奇心を刺戟したのは申すまでもありません。
私は部屋へ帰って、今風呂番三造から聞きこんだ事実についていろいろと考えてみました。三造が食事から帰ったとき、浴場の中に何者かがいたことは間違いないらしく思われます。そして、その男が犯罪に関係のあることは、時間の点から考えて、ほとんど確実であります。ところが、三造によれば、それが私と一しょに素人探偵を気取っている、あの河野であったらしいというのです。
「では、河野が人殺しの犯人なのだろうか」
ふと、私はいうにいわれぬ恐怖を感じました。もし浴場にあのように多量の血潮が流れていず、或いは流れていても、それが絵の具だとか他の動物の血液だとかであったならば、河野の風変りな性質と考え合わせて、彼のいたずらだとも想像できるのでしょうが、不幸にして血痕は明らかに人間の血に相違ないことが判明し、その分量も、拭き取った痕跡からおして、被害者の生命を奪うに充分なものだということがわかっているのですから、そのとき浴場にいたのが河野に間違いないとすると、彼こそ恐るべき犯罪者なのであります。
でも、河野は何ゆえに長吉を殺したのでしょう。またその死体をいかに処分することができたのでしょう。それらの点を考えると、まさか彼が犯人だとは想像できません。だいいち先夜の怪しい人影だけでも、彼の無罪を証拠立てるに充分ではないでしょうか。それに、普通の人間だったら、殺人罪を犯した上、のめのめと現場にとどまって、探偵のまねなんかできるはずがないのです。
三造はただ咳払いの音を聞いて、それが河野であったと主張するのですが、人間の耳にはずいぶん聞き違いということもあり、まして、聞いた人が愚か者の三造ですから、これはむろん何かの間違いでありましょう。しかし、その浴場に何者かがいたことだけは、事実らしく思われます。三造は、「あんなに湯を使う人はここの旦那のほかにありません」といっています。では、それは河野ではなくて湖畔亭の主人だったのではありますまいか。
考えてみれば、あの影の男が落として行った財布も、その主人の持ち物でありました。もっとも召使いたちが主人の財布の紛失したことを知っていたくらいですから、影の男と主人とが同一人物だと想像するのは無理でしょうけれど、三造の言葉といい、彼の一とくせありげな人柄といい、そこに、なんとやら疑わしい影がないでもありません。
しかし、なんといっても最も怪しいのは例のトランクの紳士です。死体の処分……二つの大トランク……そこに恐ろしい疑いが湧いてきます。では、三造の聞いた人の気配は、河野でも、宿の主人でもなくて、やっぱりトランクの男だったのでありましょうか。
そのトランクの紳士については、警察の方でも唯一の嫌疑者として、手を尽して調べたのですけれど、深夜湖畔亭の玄関を出てから、彼らがどのような変装をして、どこをどう逃げたものやら、少しもわからないのです。トランクを提げた洋服男を見たものは、一人としてないのです。彼らはすでに遠くへ逃げのびたのでしょうか。それとも、まだこの山中のどこかに潜伏しているのでしょうか。先夜の怪しい人影などから想像しますと、或いは潜伏しているほうがほんとうかもしれません。何かこう、えたいのしれぬ怖さです。どこかの隅に(ごく間近なところかもしれません)人殺しの極悪人がモゾモゾしているのです。
二十三
その夕方のことでした。私はふと思いついて、麓の町から蔦家の〆治という芸者を呼びました。別段三味線の音が聞きたかったわけでも、〆治という女に興味を持ったわけでもありませんが、女中などの話によると、彼女が死んだ長吉と一ばんの仲よしであったというところから、少し長吉の|身状《みじょう》について尋ねてみようと考えたのです。
「しばらくでしたわね」
一度以前に呼んだことのあるのを覚えていて、年増芸者の〆治は、親しげな笑顔で、無造作な口をききました。私の目的にとっては、それが何よりの幸いでした。
「三味線なんかそっちへかたづけておいて、くつろいで、きょうはごはんでもたべながら話そうじゃないか」
私はさっそくそんなふうに切り出しました。それを聞くと〆治は、ちょっと笑顔を引っこませて、不審らしい表情を浮かべましたが、やがて、およそ私の目的を察したらしく、今度は別種の笑顔になって、遠慮なくちゃぶ台の向こう側に坐るのでした。
「長吉さん、ほんとうに可哀そうなことをしました。あたしとはそりゃ仲よしでしたの。あの湯殿の血の痕は、こちらと河野さんとで、見つけなすったのですってね。あたし、気味がわるくて、とても見られませんでしたわ」
彼女自身も私と同じように、殺人事件について話したい様子でした。彼女は被害者の朋輩であり、私は事件の発見者なのです。私はそうして彼女と杯のやり取りをしているあいだに、なんの不自然もなくそれを切りだすことができました。
「君は嫌疑者の、トランクを持っていた二人づれの男を知っているだろう。あの客と長吉とはどんな関係だったのかしら」
ころを見て私はそうなふうに要点にはいって行きました。
「あの十一番さんは、長吉さんにきまってましたわ。しょっちゅう呼ばれてたようですの」
「泊って行ったことなんかは」
「それは一度もないんですって。私は長吉さんの口からよくあの人たちの噂を聞きましたが、殺されるような深い関係なんて、ちっともありはしないのです。だいいち、あの人たちはここへははじめての客で、それにきてから一週間になるかならないでしょう。そんな関係のできよう道理がありませんわ」
「僕はちょっと顔を見たきりだが、どんなふうな男だろうね、あの二人は。何か長吉さんから聞いたことはないの」
「別にこれって。まああたりまえのお客さまですわね。でも大変なお金持ちらしいということでした。きっと財布でも見たのでしょう。お金がザクザクあるって、長吉さんびっくりしてましたわ」
「ホウ、そんな金持ちだったのか。それにしては、大して贅沢な遊びもしていなかったようだが」
「そうですわね。いつも長吉さん一人きりで、それに、三味線も弾かせないで、陰気らしく、お話ばかりしていたのですって。毎日部屋にとじこもっていて、散歩一つしないで変なお客だって、番頭さんがいっていましたわ」
トランクの紳士については、それ以上別段の話もありませんでした。そこで私は今度は、長吉自身の身の上に、話頭を転じて行きました。
「どうせ、長吉には、いい人というのがあっただろうね」
「ええ、それですわ」〆治は目で笑って、「長吉さんという人は、至って黙り屋さんで、それにこちらへきてから日が浅いので、あたしにしたって、あの人の心の中なんて、まるでわかりゃしません。どっかこう、うちとけないところがあるんですの。損なたちね。ですから深いことはわからないけれど、あたしの見たところじゃ、そんないい人なんてなかったようですわ。こんな商売にも似合わない、まるで堅気の娘さんのような子でしたわ」
「きまった旦那というようなものは」
「まるでこのあいだの刑事さんみたいね」〆治は大仰に笑いながら、「それはありましたわ。松村さんていうの。この近くの山持ちの息子さんで、それや大変なのぼせようでした。いいえ、その息子さんの方がよ。でね、このごろ、長吉さんをひかしてやるなんて話まで持ち上がっていたのですが、それを長吉さんのほうでは、またひどく嫌って、どうしてもウンといわなかったのですよ」
「そんなことがあったのかい」
「ええ、あの晩にも、長吉さんの殺された晩ね。二階の大一座のお客様の中に、その松村さんがいて、平常はおとなしい人なんですが、お酒がわるくって、みんなの前で長吉さんをひどい目にあわせたりしたのです」
「ひどい目って」
「そりゃもう、田舎の人は乱暴ですからね。ぶったり叩いたりしましたの」
「まさかその人が」私は冗談のように言いました。「長吉を殺したんではあるまいね」
「まあ、びっくりするじゃありませんか」私の言いようが悪かったのか、〆治はひどくおびえた様子で、「それは大丈夫ですわ。あたし刑事さんにも言いましたの、松村さんは宴会のおしまいまで、一度も席をはずしたことはなかったのですもの。それから、帰りには、あたしと同じ車に乗っていたのですもの、少しも疑うところはありませんわ」
私が〆治から聞きえたところは、大体以上に尽きております。こうして、私はまたもや、一人の疑わしい人物を発見したのです。松村という男は〆治の証言によれば宴会のあいだに一度も座をはずさなかったというのですが、酒に乱れた大一座で、彼女とても多分酔っていたのでしょうから、〆治の言葉をそのまま信用していいかどうか、疑い出せば際限がないのです。
食事を済まして、〆治を帰してしまうと、私は荒されたちゃぶ台の前にボンヤリと坐っていました。頭の中にはトランクの男をはじめとして、河野に追われた影の男、湖畔亭の主人、いま聞いた松村青年、はてはあの河野の姿までが、走馬燈のように浮かんでは消えるのです。それらの人々には、むろんこれという証拠があるわけではないのですが、それぞれなんとなく疑わしく、妙に無気味に感じられるのでありました。
二十四
さて、その夜のことでした。一時出入りを禁じられていた問題の浴場は、客商売にさわるからという湖畔亭の主人の歎願が容れられて、ちょうどその日から湯が立つことになったのですが、〆治を帰してから、しばらく物思いに耽っていた私は、もう夜の九時ごろでもあったでしょうか、久しぶりでその浴場へはいってみる気になりました。
脱衣場の板の間の血痕は、綺麗に削りとられていましたが、その削り跡の白々と木肌の現われた有様は、かえって妙に気味わるく、先夜の血なまぐさい出来事をまざまざと思い
起こさせるのでした。
客といっても、多くは殺人騒ぎに肝をつぶして、宿を立ってしまい、あとに残っているのは、河野と私のほかに三人連れの男客だけです。例の覗き目がねの花であった都の娘さんの一家などは、事件の翌日、匆々出立してしまいました。そんなに客が少ない上、多人数の雇人たちはまだ入浴していないのですから、浴槽が綺麗に澄んで、その中にからだを投げ出していますと、足の爪までも、一つ一つ見分けられるのです。
男女の区別こそありませんが、都会の銭湯にしてもよいほど、広々とした浴槽、ガランとした洗い場、高い天井、その中央に白々と光る電燈、全体の様子が、夏ながら異様にうそ寒げで、ふとそこのたたきに、人体切断の光景など見えるような気もするのでした。
私は、先日来顔馴染の三造が、壁ひとえ向こうの焚き場に居ることを思い出して、例の小さな覗き窓の蓋をあけて彼の姿をさがしました。
「三造さん」
声をかけると、
「へい」
と答えて、大きな焚き口の一角から、彼のボンヤリした顔が現われました。それが、石炭の強い火気に照らし出されて、赤黒く光っているのが、これもまた異様な感じのものでありました。
「いい湯だね」
「エヘヘヘヘヘ」
三造は暗いところで、愚か者らしく笑いました。
私は変な気持になって、窓の蓋をとじ、そこそこに浴槽を出ると、洗い場に立ってからだを拭きはじめました。ふと気づくと、目の前の窓のすりガラスが少しばかり開いていて、先夜曲者の逃げこんだという深い森の一端が見え、そのまっ暗な所に、ただ一点白く光ったものがチラチラと動いていました。
何かの見違いではないかと、しばらく手を休めて、じっと見ているうちに、今度は少し位置をかえて、またチラチラ光るのです。その様子がどうやら、何者かが森の中をさまよっているように思われるのでした。
そうした際のことですから、私は直ちに先夜の曲者を連想しました。もしもあの男の正体を明らかにすることができたなら、すべての疑問は氷解するわけです。私は湧き上がる好奇心を抑えかねて、大急ぎで着物を着ると、廻り道をして庭から森の方へと進みました。途中河野のところへ寄ってみましたけれど、どこへ行ったのか、彼の部屋はからっぽでした。
星もない闇夜です。その中を、かすかに明滅する光りものをたよりに探り足に進むのです。臆病者の私に、よくあのような大胆なまねができたと、あとになって不思議に思うほどでしたが、その時は、一種の功名心でほとんど夢中だったのです。といって、曲者を捕えようなどと考えたわけではありません。ただ危険のない程度で、彼に近づいて、その正体を見きわめるつもりでした。
先にも言った通り、湖畔亭の庭を出ると、すぐに森の入口でした。私は大木の幹から幹へと身を隠しながら、恐る恐る、光りのほうへ近づいて行きました。
しばらく行くと、おぼろに人の姿が見えてきました。彼は懐中電燈を照らしながら、熱心に地上を見廻っているらしく思われます。何かこう、探し物でもしている形です。しかしそれが何者であるか、まだ遠くてよくわかりません。
私はさらに勇気をふるって、男の方へ近づいて行きました。幸い、樹の幹が重なり合っているため、音さえ立てねば気づかれる心配はないのです。
やがて私は相手の着物の縞柄から、顔形まで、ボンヤリと見えるほどに、間近く忍びよりました。
二十五
怪しげな男は、老人のように背をかがめて、小さな懐中電燈をたよりに、何を探すのか草叢を歩きまわっていました。電燈の位置によって、彼はまっ黒な影法師になったり、白っぽい幽霊に見えたりします。そして、ふと電燈を持ちかえる時などには、あたりの木の枝が、無気味な生きもののようにうごめき、時としては、私自身が燈光の直射にあって、思わず木の幹に身を隠すこともありました。
しかし、何をいうにも、豆のような懐中電燈の光で、しかも彼自身それをふりかざしているのですから、その姿を見きわめることは、非常に困難でありました。私は絶対安全の位地を選んで、ちょうど敵に近づいた兵士たちが、地物から地物へと、身を隠して行くように、木の幹を縫って、少しずつ少しずつ進みました。
この夜ふけに、森の中で探し物というのも変ですし、それがいっこうこの辺で見かけたことのない都会風な男であるのも合点がいきません。私は当然、先夜のあやしい男、河野が追跡して見失った男を思い浮かべました。あれとこれとが同一人物ではないかと考えたのです。
しかし、どうしてもその顔形を見きわめることができません。ほとんど五間ばかりのところまで近づいていながら、闇の中のことですから、もどかしくも、それが叶わないのです。その晩は、ひどい風で、森全体がざわめいていましたので、少しぐらい物音をたてても聞こえる気づかいはなく、そのためか相手は少しも私を悟らず、探し物に夢中になっています。
永い時間でした。右往左往する懐中電燈の光をたよりに、私は根気よく男の行動を見守っていました。すると、いくら探しても目的の品物が見つからぬらしく、男はついにあきらめて、背を伸ばすと、いきなり懐中電燈を消して、ガサガサとどこかへ立ち去るけはいです。見失ってはならぬと、私はすぐさま彼のあとをつけはじめました。つけるといっても、暗闇のことで、わずかに草を踏む足音によって相手の所在を察するほかはなく、それに、いまいうひどい風の音だものですから、なかなかうまく聞き取れず、怖さは怖し、物なれぬ私にはどうしていいかわからないのです。そして、まごまごしているうちに、かすかな足音も聞こえぬようになり、私はその闇の中へ、たった一人でとり残されてしまいました。
ここまで漕ぎつけて、相手をとり逃がしては、折角の苦心が水の泡です。まさか森の奥へと逃げこんだわけではないでしょう。相手は私に見られたことなど少しも気づいていないのですから、きっと街道筋へ出るにちがいありません。そこへ気がつくと、私はやにわに湖畔亭の前を通っている村道に駈けつけました。
山里のことですから、宿のほかには燈火の洩れる家とてもなく、まっくらな街道には、人影もありません。遠くから、村の青年が吹き鳴らしているのでしょう、下手な追分節の尺八が、それでもなんとやら物悲しく、風の音にまじって聞こえてきます。
私はその往還にたたずんで、しばらく森の方を眺めていましたが、そうして離れてみれば、怪物のような巨木たちが、風のために波打っている有様は、一そう物凄く、ますます私に里心を起こさせるばかりで、さっきの異様の人物は、いつまで待っても出てくる様子がありません。
十分もそうしていたでしょうか、もういよいよ駄目だとあきらめて、あきらめながら、なんとなく残り惜しく、このあいだにもう一度河野の部屋を訪ねて、もし彼がいたら、一緒に森の中を探してみようと、大急ぎで、息せき切って宿の玄関へ駈けこみ、下駄をぬぐのももどかしく、廊下を辷り彼の部屋に達すると、いきなりガラリと襖をひらきました。
二十六
「やア、おはいりなさい」
仕合わせと河野は帰っていて、私の顔を見ると、いつものように笑顔で迎えました。
「君、いま森の中にね、また変なやつがいるのですよ。ちょっと出てみませんか」
私はあわただしく、しかし囁き声で言いました。
「このあいだの男でしょう」
「そうかもしれません。森の中で懐中電燈をつけて、なんだか探しているのです」
「顔を見ましたか」
「どうしてもわからないのです。まだその辺にうろうろしているかもしれません。ちょっと出てみませんか」
「君は前の街道のほうへ出たのですか」
「そうです。ほかに逃げ道はありませんからね」
「じゃあ、いまから行ってみても無駄でしょうよ。曲者は街道の方へ逃げるはずはありませんから」
河野は意味ありげにいうのです。
「どうしてわかりますか。君は何か知っているのですね」
私は思わず不審を打ちました。
「ええ、実は或る点まで範囲をせばめることができました。もう少しです。もう少しですっかりわかりますよ」
河野はいかにも自信のある口調で言います。
「範囲をせばめたというのは」
「今度の事件の犯人は、決してそとからきたものでないということです」
「というと、宿の人の中に犯人がいるとでも……」
「まあそうですね。宿の者だとすると森から裏口へ廻ることができますから、街道のほうなんかへは逃げないと思うのです」
「どうしてそんなことがわかりました。それはいったい誰です。主人ですか雇い人ですか」
「もう少しですから待ってください。僕はけさからそのことで夢中になっていたのです。そして、だいたい目星をつけることができました。だが、軽率に指名することは控えましょう。もう少し待ってください」
河野はいつになく思わせぶりな、妙な態度に出ました。私は少なからず不快をおぼえましたけれど、それよりも好奇心が先に立って、なおも質問をつづけるのでありました。
「宿の者というのは変ですね。僕も実は或る人を、それが多分君の考えている人だろうと思いますが、一応疑ってみたのですよ。しかしどうもわからない点があります。だいいち死体をどう処分したかが不明なのです」
「それです」河野もうなずきながら、「僕もその点だけがまだわからないのです」
言葉の調子では、彼もまた問題の財布の持ち主であるところの湖畔亭の主人を疑っている様子です。定めし彼は、私の知っている以上の確かな証拠でも握ったのでしょう。
「それに、例の手の甲の傷痕です。僕は注意してみているのですが、宿の人たちにも、泊り客にも、誰の手にもそれがないのです」
「傷痕のことは、僕はある解釈をつけています。多分あたっていると思うのですが、でもまだハッキリしたことはわかりません」
「それから、トランクの男についてはどう考えます。今のところ誰よりもあの二人が疑わしくはないでしょうか。長吉が彼らの部屋から逃げ出したことと言い、トランクの男が長吉の所在を探しまわっていたことと言い、彼らの不意の出立と言い、そして二つの大型トランクというものがあります」
「いや、あれはどうも偶然の一致じゃないかと思いますよ。僕はけさそのことに気づいたのですが、君が殺人の光景を見たのが十時三十五分ごろでしたね。それから、階段の下で彼らに会った時まで、どのくらい時間が経過していたのでしょう。君の話では十分ぐらいのようですが」
「そうです。長くて十分ぐらいでしょう」
「ソレ、そこが間違いの元ですよ。僕は念のために、彼らの出立した時間を番頭に聞いてみましたが、番頭の答えもやはり同じことで、そのあいだに十分以上はたっていないのです。そのわずかの時間に死体を処分して、トランクにつめるなんて芸当ができるでしょうか。たとえトランクにつめないでも、人殺しをして、血のりを拭き取り、死体を隠し、出立の用意をする、それだけのことが十分ぐらいでできるはずがありません。トランクの男を疑うなんて、実にばかばかしいことですよ」
聞いてみれば、なるほど河野のいう通りです。私はまあ、なんというばかばかしい妄想を描いていたのでしょう。警察の方では、私の錯覚なんか気がつきませんから、女中たちの証言に照らし合わせて、てもなくトランクの男を疑ってしまったわけです。
「長吉を追っかけたことなんか、芸者と酔客とのあいだにあり勝ちの出来事です。妙な目で見るからことが間違うのです。不時の出立にしたって、彼らには、どんな急用ができたのかわかりませんし、君と出くわして、驚いたというのも、誰だってそういう不意の出合いにはびっくりしようじゃありませんか」
河野はこともなげにいうのでした。
それからしばらくのあいだ、私たちはその飛んでもない間違いについて語り合いました。私はあまりの失策に河野に対しても面目なく、ばかばかしい、ばかばかしいとくり返すばかりで、それから先は真犯人のせんさくをする余裕もなく、うやむやのうちに自分の部屋へ引きさがりました。
その時、私は河野の口吻から、彼の疑っているのは宿の主人にちがいないときめてしまい、そのつもりで応対していたことですが、あとになって、実はそうでないことがわかりました。私という男は、この物語において、はじめから終りまで、滑稽な道化役を勤めていたわけです。
二十七
さて、お話は少し飛んで、それから三、四日後の夜のことに移ります。そのあいだ別段お話しするほどの出来事もありません。河野は毎日どこかへ出かけているらしく、いつ訪ねても部屋にいないので、その私を除外した態度に反感を持ったのと、一つは例の失策が面はゆくて、私はこれまでのように、素人探偵を気どる気にもなれませんでした。が、そうかといって、この好奇的な事件を見捨てて宿を出発するのも残念だものですから、もう少し待てという河野の言葉を当てにして、やっぱり逗留を続けていました。
一方警察では、先にもいった、大仕掛けなトランク捜索の仕事をはじめ、森の中、湖水の岸と洩れなく探しまわったのですが、結局なんのうるところもない様子でした。そんなむだな手数をかけさせるまでもなく、ただ一とこと、例の時間の錯誤について申し出ればよかったのかもしれませんが、河野が「被害者の死体の捜索にもなることだから、とめるにも及ぶまい」というので、私もその気になって、警察に対してはあくまで秘密を守っていたわけです。
私は機会があるごとに宿の主人の様子に注意するのと、河野の部屋を訪ねるのを日課のようにしていました。しかし主人の挙動にはこれといって疑うべきところもなく、河野は多くの場合留守なのです。
なんとも待ち遠しく、退屈な数日でした。
その晩も、どうせまたいないのだろうと高をくくって、河野の部屋の襖をひらいてみたのですが、案外にもそこには主人公の河野ばかりではなく、村の駐在所の警官の顔も見え、何か熱心に話しこんでいる様子でした。
「ああ、ちょうどいいところです。おはいりなさい」
私がモジモジしているのを見ると、河野は如才なく声をかけました。私は普通なら遠慮すべきところを、どうやら事件に関する話らしいので、好奇心を抑えがたく、いわれるままに部屋の中へはいりました。
「僕の親しくしている人です。大丈夫な人ですから、どうかお話を続けてください」
河野は私を紹介しながら言いました。
「今もいうように、この湖水の向こうの村からきた男の話なのですよ」警官は語りつづけました。「私はここへくる途中、偶然そこを通り合わせ、村の人たちの話しているのを聞いたのですがね。なんでもこの二日ばかり前の真夜中ごろだということです。妙な匂いがしたのだそうです。気がついたのは、その男ばかりでなく、同じ村にたくさんあったと言います。なんの匂いといって、それが火葬場の匂いなんです。この辺には火葬場なんてないのですからね。どうもおかしいのですよ」
「人間の焼ける匂いなんですね」
河野は非常に興味を起こしたらしく、目をかがやかして問い返しました。
「そうです。人間の焼ける匂いです。あの変ななんともいえない臭い匂いですね。それを聞きますと、私はふと今度の殺人事件のことを思い浮かべたのです。ちょうど死体が紛失して困っている際ですからね。人間の焼ける匂いというと、何か連絡がありそうな気がするものですから」
「この二、三日ひどい風が吹いてますね」河野は何か思い当たることでもあるのか、勢いこんで、「南風ですね。そうだ南風が吹き続いていたという点が問題なのだ」
「どうしてです」
「その匂いのした村というのは、ちょうどこの村の南に当たりはしませんか」
「ちょうど南です」
「では、この村で人を焼けば、それは烈しい南風のために、湖水を渡って、向こうの村まで匂って行くはずですね」
「でも、それなら、向こうの村よりは、ここでひどい匂いがしそうなものですね」
「いや、それは必ずしもそうではありませんよ。たとえば湖水の岸で焼いたとすれば、風が激しいのですから、匂いはみな湖水の方へ吹き飛ばされてしまって、この村ではかえって気がつかないかもしれません。風上ですからね」
「それにしても、誰にも気づかれないように人を焼くなんて、そんなことができるとは考えられませんが」
「ある条件によってはできますよ。例えば湯殿の|竈《かま》の中などでやれば……」
「え、湯殿ですって?」
「ええ、湯殿の|竈《かま》ですよ。……僕はきょうまであなた方とは別に、僕だけでこの事件を探偵していたのです。そしてほとんど犯人をつき止めたのですが、ただ一つ死体の始末がわからないために、その筋に申し出ることを控えていたわけでした。それが今のお話ですっかりわかったような気がします」
河野は私たちが驚くのを満足げに眺めながら、うしろを向いて鞄を引き寄せると、その中から一本の短刀を取り出しました。鞘はなくて、まっ黒によごれた五寸ほどのものです。それを見ると、私はハッと思い出しました。鏡の表に殺人の影を見たとき、男の手に握られていたのが、やはりそのような短刀だったのです。
「これに見覚えはありませんか」
河野は私のほうをみて言いました。
「ええ、そんなふうな短刀でした」
私は思わず口をすべらせ、そこに警官のいることに気づいて、しまったと思いました。覗き目がねの秘密がバレるかも知れないからです。
「どうです、もう打明けてしまっては」河野は私の失言を機会に「いずれはわかることですし、それに覗き目がねの一件からはじめないと、私の話が嘘になってしまうのですから」
考えてみれば、彼のいうところは尤もでした。この短刀に見覚えのあることを明らかにするためにも、また、手の甲の傷痕にしても、トランクの男の無罪を証する時間のことにしても、或いは覗き目がねを取りはずしているときに発見した怪しい人影についても、その他いろいろな点で、あれを打ちあけてしまわないとぐあいがわるそうに思われます。
「実につまらないいたずらをしていたのです」
私はせっぱつまってこんなふうにはじめました。打ち明けるくらいなら、河野の口からでなく私自身で、せめて婉曲に話したく思ったのです。
「この宿の湯殿の脱衣場に妙な仕掛けを作ったのです。鏡とレンズの作用で、私の部屋からそれが覗けるようにしたのです。別に悪意があったわけではありません。余りひまだものですから、学校で習ったレンズの理窟を、ちょっと応用してみたまでなのです」
そんなふうに、なるべく私の変態的な嗜好などには触れないで、あっさりと説明したのです。警官は余り突飛な事柄なので、ちょっと腑におちぬ様子でしたが、繰り返して説明するうちに、話の筋だけは悟ることができました。
「そういうわけで、大切な時間のことなどを、いままでかくしていたのは、まことに申しわけありませんが、最初のお調べの時つい言いそびれてしまったものですから、それに一つは、そんな変てこな仕掛けをしていたために、ひょっとして私が犯罪に関係のあるように誤解でもされては困ると思ったのです。しかし、いまの河野君のお話ではもう犯人もわかったというのですから、その心配はありません。なんでしたらあとで実物をお目にかけてもいいのです」
「そこで、今度は私の犯人捜査の顛末ですが」河野が代って説明をはじめました。「先ず第一にこの短刀です。ごらんなさい。刃先に妙なしみがついて居ります。よく見れば血痕だということがわかるのです」
全体が汚れて黒ずんでいるため、よく見ないとわからぬほどでしたが、その刃先には黒く血痕らしいものが付着しています。
「鏡に映ったのと同じ型の短刀で、その先に血がついているのですから、これが殺人の兇器だことは明白です。ところで、私はこの短刀をどこから発見したと思います」
河野は幾ぶん勿体ぶって言葉を切ると、私たちの顔をジロジロと見比べるのでした。
二十八
河野が汚れた短刀を片手に、私たちの顔を眺めまわしたとき、咄嗟の場合、私の頭には、その短刀の持ち主であるべき嫌疑者の容貌が、次々と現われては消えました。トランクの男、宿の主人、松村という長吉の旦那、懐中電燈の男、そして、最後まで残ったのはやっぱりかの強慾な湖畔亭の主人でした。いまに河野の口を洩れる名は、必らず彼に違いないと信じていました。ところが、河野は意外にも、まさかあんなうすノロがと、私など嫌疑のそとに置いていた人物を名指したのです。
「この短刀は湯殿の焚き場の隅の、薄暗い棚の上で見つけたのです。あすこの棚には、三造の持ち物が、ほこりまみれになって、つみ上げてある。そこに汚ないブリキの箱が隠してありました。もっとも人目につきにくい場所でした。箱の中には妙なものがはいっていました。まだそのままにしてありますが、綺麗な女持ちの財布だとか、金の指環だとか、たくさんの銀貸だとか、そして、この血なまぐさい短刀もです………いうまでもなくこの短刀の持ち主は風呂焚きの三造です」
村の警官も私も、だまって河野の話の続きを待っていました。そのくらいの事実では、あのおろか者の三造が犯人だなどとはとても信じられなかったのです。
「そして、犯人も三造なのです」河野は落ちつきはらってつづけました。「この事件には疑うべき人物がたくさんあります。第一はトランクの男、第二には松村という若者、第三はこの宿の主人。第一の嫌疑者については警察でも全力を尽して捜索を行われたようですが、いまのところはまったく行方不明です。が、あの二人を疑うことは根本的に間違っています」
そこで河野は|嘗《か》つて私に解き聞かせた時間的不合理について説明しました。
「第二の松村青年は、これも警察で一応取り調べたようですが、なんら疑うべき点のないことがわかりました。芸者〆治と同じ自動車で帰宅して、それ以来疑わしい行動がないのですから、彼に死体を処理する余裕がなく、従って犯人でなかったことは明らかです。だいいち惚れ抜いていた女を殺すような特別の動機もないのでした。それから例の怪しい人物が落として行った財布は、なるほど、この家の主人の所持品でしたが、ただそれだけのことで、その後、よく調べてみますと、彼は事件発生の時刻には、自分の部屋で寝ていたことが明らかになりました。細君をはじめ雇い人の口うらがチャンと一致していたばかりでなく、子供までがそれを裏書きしてくれました。子供は嘘を言いません」
ここでまた、河野は先夜の怪人物について、一応の説明を加えました。
「つまり、われわれの疑った嫌疑者たちは、皆ほんとうの犯人でないことがわかったのです。われわれは往々にして、あまり間近なものを、間近であるがゆえに見落すことがあります。たとえ白痴に近いおろか者であるとはいえ、警察の人たちはなぜ風呂焚きの三造を疑ってみなかったのでしょう。あの男だって湯殿に附属した道具ではありません。やっぱり人間です。浴場の出入口は両方にあるのです。焚き場からでも自由に脱衣場へくることができるのです。そして、あの短時間に、十時三十分から五分か十分のあいだに、死体を処理することのできる立場にあるものは、三造を措いてほかにないのです。彼は一応焚き場の石炭の山のうしろへ死体を隠しておいて、深夜を待って、ゆっくり人肉料理を行なうこともできたのですから」
河野はだんだん演説口調になって、得意らしくしゃべるのでした。
「しかし、あのおろか者です。その上正直で通った三造です。私もまさかと思っていました。彼を疑いはじめたのはごく最近のことなのです。きょう浴場の裏で三造に行きあったとき、ふと気がつくと、彼の手の甲に黒い筋がついている、私は例の犯人の手の傷痕を思い出さないではいられませんでした。ハッキリと、太く一文字にひかれた筋が、君のお話のものとよく似ているのです。私はハッと思い当たって、しかし何気なく『どうしたのだ』と聞きますと、『へえ』と例の間の抜けた返事をして、三造はしきりに手の甲をこすりましたが、なかなかその筋が消えない。どうも焚き場の煤のついた品物に強くさわった跡らしいのです」
河野はここでもまた、警官のために、覗き目がねの像について、詳しい説明をつけ加える必要がありました。
「その鏡に見えた傷痕というのは、実はこれと同じ煤の汚れにすぎなかったのではないか。私はそこへ気がついたのです。そんなぼんやりした像ですから、煤の一本筋がどうかして傷痕に見えなかったとはいえません。ね、君はどう思います」
河野に意見を聞かれて私は少し考えました。
「一刹那の出来事だったから、或いは見違えたかも知れませんが……」
私の頭からは、まだ例の傷痕の印象が消えていない。従って、どうも煤の汚れだなどとは思われぬのです。
「鏡に映ったのはこんな手ではなかったですか」
すると河野はいきなり彼の右手の甲を私の目の前にさし出しました。見るとそこには、手の甲一ぱいに、|斜《はす》かけの黒い線がひかれています。それが余りに鏡で見たものに似ていたため、私は思わず叫ばないではいられませんでした。
「それです。それです。君はどうしてそんな傷痕があるのです」
「傷じゃない。やっぱり煤ですよ。よく似ていますね」
河野は感心したように自分の手を眺めながら、
「そういうわけで、三造を疑わしく思ったものですから、私はさっきいった焚き場の棚を調べてみました。むろん三造のいない時にですよ。すると例のブリキ箱です。短刀をはじめ三造に似合わしくない品々です。で、その棚を捜す時にですね、あすこには二段に棚があって、その間隔が狭いものだから、下の棚の奥へ手を入れると、上の棚の裏側の|棧《さん》で手の甲をこするようになる、それが棧の角だったりすると、そこに溜った煤のために、こんな跡がつくわけなんです」
河野は手まねをまぜて話しつづけます。
「これでいよいよ三造が疑わしくなるでしょう。それからもう一つ、私が三造の性癖について誰も知らないことを知っていました。もうだいぶ前です。私がここへきて間もなくのことです。偶然三造が見かけによらない悪人であることを発見しました。やつはあれで手癖が悪いのです。脱衣場に忘れ物などをしておくと、こっそり取ってしまうのです。私はその現場を見たことがある。でも、その時は大した品物でもなかったので、あばきもしないで、そのまま見すごしたのですが、ブリキ箱を見て驚きました。これじゃあ大泥棒です。ばか正直なんて油断をしていると、往々こんなやつがあります。その油断が彼を邪道に導く一つの動機にもなったのでしょう。それに白痴などにはよく盗癖の伴なうことがありますからね」
二十九
「それならそれで、早く三造をとらえなければ」私は、浴場の方へ気が走って、河野の長々しい説明をもどかしく思いました。田舎の警官なんて暢気なもので、いっこう平気で腰をすえています。
河野も河野です。説明はあとでもよさそうなものを、まだ長々と喋べりつづけるつもりです。
「死体の処理に最も便利な地位にいること、手の甲の煤痕、血のついた短刀、数々の贓品、つまり彼が見かけによらぬ悪人であること。これだけ証拠が揃えば、もう彼を犯人と見るほかはないでしょう。あの朝脱衣場を掃除しながら、マットの位置のちがっているのを直さなかった点なども、数えることができます。ただ殺人の動機は私にもよくわかりませんが、ああした白痴に近い男のことですから、われわれの想像も及ばないような動機がなかったとは限りません。酒にみだれた女を見て、咄嗟の衝動を押さえかねたかもしれない。それは想像の限りではありませんが、動機のいかんにかかわらず、彼が犯人であることは、疑う余地がないように見えます」
「それで、彼は長吉の死体を、浴場の|竈《かま》で焼いてしまったとおっしゃるのですか」
巡査が信じられないという顔で、口をはさみました。
「そうとよりほかに考えられません。普通の人には想像も及ばぬ残酷ですが、ああした男にはわれわれの祖先の残忍性が多量に残っていないとは限りません。その上発覚を危ぶむ理智において欠けています。存外やりかねないことです。彼は風呂焚きですからね。死体を隠す必要に迫られたら、考えがそこへ行くのはごく自然ですよ。それに犯人が死体隠匿の手段として、死体を焼却した例は乏しくないのです。有名なウエブスター教授が友人を殺して実験室のストーヴで焼いた話、青髭のランドルーが多数の被害者をガラス工場の炉や田舎の別荘のストーヴで焼いた話などは、あなた方も多分お聞き及びでしょう。ここの浴場の竈は本式のボイラーですから、充分の火力があります。一度に焼くことができなくても、三日も四日もかかって、手は手、足は足、頭は頭と少しずつ焼いて行けば不可能なことではありません。幸いに強い南風が吹いていました。時はみなの寝静まった真夜中です。彼は滅多に人のこない自分の部屋にとじこもって、少しの不自然もなくそれをやってのけることができたのです。この考えは余りに突飛すぎるでしょうか。では、あの対岸の村人が感じた火葬場の匂いをなんと解釈したらいいのでしょう」
「だが、ここでは少しも匂わなかったのが変ですね」
警官は半信半疑でさらに問いかけました。私とても、なんとなくこの説には服しかねました。
「焼いたのは人の寝ている真夜中にちがいありません。少々匂いが残っていても、朝までには強い風に吹き飛ばされてしまいます。竈の灰はいつも湖水の中へ捨てるのですから骨も何も残りません」
実に途方もない想像でした。なるほど火葬場の匂いがしたという動かしがたい事実はありましたけれど、それだけの根拠で河野のように断定してしまうのは余りに突飛ではないでしょうか。私は後に至るまでこの疑問を捨てることができませんでした。それはともかく、死体の処分いかんにかかわらず、三造が犯人だということは河野の検べ上げた事実だけで充分のようでした。
「さっそく三造をつかまえて尋問してみましょう」
河野の演説が一段落つくと、村の警官はやおら腰を上げたのです。
われわれ三人は、庭づたいに浴場の焚き場を目がけて近づきました。もう十時ごろでした。やっぱり風の強い闇夜です。私はいうにいわれぬ恐怖とも憐憫ともつかぬ感情のために、胸のおどるのを禁ずることができませんでした。
焚き場の戸口にくると、田舎警官にしろ、やっぱり御用をいただく役人です。彼は専門家らしい一種の身構えと共に、手早くパッと戸をひらき、いきなり中へ躍り込みました。
「三造ッ」
低いけれども力のこもった声が響きました。ところが、折角の気構えがなんの甲斐もなかったことには、そこには、三造の影もなくて、見知り越しの使い走りの爺さんが、赤々と燃える竈の前にツクネンと腰かけているばかりです。
「三造けえ、三造なら夕方から姿が見えねえです。どけ行っただか、さっぱり行方が知れねえです。わしが代りにここの番を言いつかっちまってね」
爺さんはへんな顔をして警官の問いに答えました。
それから大騒ぎになりました。警官が麓の警察署へ電話をかける。捜索隊が組織される。そしてそれが街道の上下に飛ぶ。これでもう三造の有罪はいよいよ動かすことのできないものになったわけです。
本式の捜索は翌朝を待って行われました。街道筋からそれて、森の中、溪のあいだと隈なく探しまわったのです。河野も私も、行きがかり上じっとしているわけにはいきません。それぞれ捜索隊に加わりました。その騒ぎがお昼ごろまで続いたでしょうか。やっと三造の行方がわかりました。
湖畔亭から街道を五、六丁行ったところに、山路に向かってそれる細い杣道があります。それを幾曲りして半里もたどると、何川の上流であるか、深い谷に出ます。谷に沿って危なげな棧道が続きます。その最も危険な個所に少しばかり土崩れができているのを、警官の一人が発見したのです。
幾丈の断崖の下に、問題の三造があけに染まって倒れていました。下は一面の岩です。恐らくは夕闇の棧道に足をすべらせて落ちたのでしょう。岩にはドス黒い血が気味わるく流れていました。肝腎の犯人は、なんの告白もせぬうちに、これが天罰でありましょうか、惨死をとげてしまったのです。
死体の懐中からは、河野がブリキ箱の中で見たというさまざまの贓品が発見されました。三造が逃亡の途中で不慮の死にあったことは明白です。
死体の運搬、検事たちの臨検、村一ぱいの噂話、一日は騒ぎのうちに暮れました。三造の部屋であった焚き場も充分調べたようです。しかし、死体焼却の痕跡についてはついに何物をも発見することができませんでした。
事件は急転直下に落着したかと見えました。被害者の消失について、殺人の動機について、幾分曖昧な点があったにせよ、三造の犯行は誰も否定することはできません。大がかりなトランク捜索がなんの甲斐もなくて、多少この事件をもて余していた警察は、三造の死によって、救われた気がしたかもしれません。検事たちは間もなく麓の町を引き上げました。警察は捜索をいつとなく中止した形となりました。そして、湖畔の村は、また元の静寂に帰りました。
最もばかを見たのは湖畔亭です。その当座は物好きな客たちが、問題の浴場を見物かたがたやってくる者もありましたが、そのうちに、長吉の幽霊が出たとか、三造の呟き声が開こえたとか、噂は噂を生んで、附近の人でさえ湖畔亭を避けるようになり、ついには一人の客さえない日が続きました。そして、今では近くに別の旅館が建ち、さしも有名であった湖畔亭も、見るかげもなく寂れはてているということです。
読者諸君、以上が湖畔亭事件の表面上の物語りです。A湖畔の村人の噂話や、Y町の警察署の記録に残っている事実は、おそらくこれ以上のものではありません。それにもかかわらず、私のお話の肝要な部分は、実はこれから後にあるのです。といっても、うんざりなさるには及びません。その肝要な部分というのは、ほんの僅かで、原稿紙でいえば二、
三十枚でかたづくことなのですから。
事件が落着すると、私たちはさっそくこの気味わるい場所を引き上げることにしました。事件以来一そう親しくなった河野とは、方向が同じだというので一緒の汽車に乗りました。私はいうまでもなくT市まで、河野はそのずっと手前のIという駅で降りる予定でした。
二人はめいめい相当大型の鞄を提げていました。私のは例の覗き目がねを秘めた角鞄、河野のは古ぼけたボストン・バッグ、服装は両人とも和服でしたけれど、そうして湖畔亭を出発する光景が、なんとやらあのトランクの二人づれに似ているように思われました。
「トランクの男はどうしたのでしょうね」
私はその連想から思わず河野に話しかけました。
「さア、どうしましたかね。偶然人目にかからないで、この村を出たというようなことではないでしょうか。いずれにしても、あの連中の詮議立てはもう必要がありませんね。今度の犯罪にはちっとも関係がないはずですから」
そして、私たちの上り列車は、思い出多き湖畔の町を離れるのでした。
三十
「ああ、やっと清々した。美しい景色じゃありませんか。あんな事件にかかわっているあいだ、僕たちはすっかりこういうものを忘れていましたね」
窓外を過ぎ行く初夏の景色を眺めながら、河野はさも伸び伸びと言いました。
「ほんとうですね。まるきり違った世界ですね」
私は調子を合わせて答えました。しかし、私には、この事件の余りにもあっけない終局に、なんとなく腑に落ちかねるところがありました。例えば、死体焼却というような世の常ならぬ想像に、それを裏書きする火葬場の匂いがちゃんと用意されていたり、犯人が見つかったかと思うと、そのときには彼はすでに死骸になっていたり、トランクの男の(少なくともトランクそのものの)行方が絶対にわからなくなったり、考えれば考えるほど、異様な感じがします。もっと手近なことをいえば、いま私の前に腰かけている河野自身の古ぼけた手提げ鞄で、その中にはおそらく数冊の古本と、絵の道具と、幾枚かの着類が入れてあるにすぎないその鞄を、彼はなぜなればあんなに大切そうにしているのでしょう。ちょっと開くたびごとに、いちいち錠をおろして、その鍵をポケットの中へ忍ばせるのでしょう。私は妙に河野の古鞄が気になりました。それにつれては、河野自身の態度までも、なんとやら気掛りになってくるのです。
従って、私の様子に幾らか変なところが見えたのでしょう、河野の方でも、なんとなく警戒的なそぶりを見せはじめました。そして、一そうおかしいのは、非常に巧みに、さりげない風を装ってはいますけれど、私には彼の眼が(というよりも彼の心そのものが)頭の上の網棚にのせた古鞄に、恐ろしい力で惹きつけられていることがわかります。
それは実際奇妙な変化でした。
湖畔亭での十数日、当の犯罪事件に関係しているあいだには、かつてそのような疑いの片鱗さえも感じなかった私が、いま事件がともかくも解決して、帰京しようという汽車の中で、ふと変な気持になったのです。しかし、考えてみれば、世の疑いというものは、多くはそうした唐突なきっかけから湧き出すものかもしれません。
でも、もしあの時、河野の古鞄が棚の上から落ちるという偶然の出来事がなかったなら、私のそのあるかなきかの疑念は、時と共に消え去ってしまったかもしれません。それは多分急なカーヴを曲った折でしょう。あのひどい車体の動揺は、河野に取ってまったく呪うべき偶然でした。それにしても、その古鞄の転落したとき、おろしておいたと思った錠が、どうかしたはずみで、うまくかかっていなかったというのは、よくよくの不運といわねばなりません。
鞄はちょうど私の足もとへ転がり落ちました。そして驚くべき在中品が、目の前にひらいた鞄の口から危うくこぼれ出すところでした、いや或る品物は、コロコロと私の足の下へころがり出しさえしました。
読者諸君、それがまあなんであったと思います。細かく切り離した長吉の死骸? いやいや、まさかそんなものではありません。それは鞄一杯につまった莫大な紙幣の束だったのです。それから足の下へころがった品は、これがまた妙なもので、医者の使うガラス製の注射器でありました。
その時の、河野の慌てようといったらありませんでした。ハッと赤くなり、次の瞬間にはまっ青になって、大急ぎで落ちたものを拾いこみ、鞄の蓋を閉じると、腰かけの下へ押し込んでしまいました。私はいままで、河野という男は理智ばかりで出来上がった、鉄のような人間かと思っていましたのに、このうろたえようはどうでしょう。彼はきわどいところで弱点を暴露してしまいました。
河野がどのような早さで鞄の蓋をとじたとて、その中のものを私が見逃そうはずはありません。河野もむろんそれを知っているのです。知りながら彼はやがて顔色を取り直すと、さも平気な様子で、前の会話の続きを話し出すのでした。
莫大な紙幣と注射器。これがいったい何を意味するのか、余りの意外さに、私はしばらく物もいわないで思いまどっておりました。
三十一
しかし河野がどんなにたくさんの金を所持していようと、又は商売違いの医療器械を携帯していようと、それはただ意外だというにとどまり、別段とがむべき筋のものではありません。といって、このまま謎を謎として別れてしまうのも非常に心残りです。私はどんなふうにしてこの困難な質問を切り出したものかと、とつおいつ思案にくれました。
河野は非常な努力をもって、何気ないふうをよそおいつづけていました。少なくとも私にはそんなふうに見えたのです。
「君、覗き目がねは忘れずに持ってきたでしょうね」
彼はそんな突拍子もないことを尋ねたりしました。これはむろん、彼自身の狼狽を隠すための無意味な言葉にすぎなかったのでしょうが、取りようによっては「君だってそんな秘密を持っているんだぞ」というおどし文句のようにも考えられないことはありませんでした。
私たちの無言の葛藤を乗せて、汽車はいつの間にか数十里の山河を走っていました。そして、間もなく河野の下車すべき駅に到着したのです。ところが、私はその駅をうっかり忘れていて、発車の笛が鳴ってから、やっと気がつくと、どうしたものか河野は泰然として下車する模様も見えません。
「君、ここで降りるのじゃありませんか」
私としても、そこで降りてしまわれては困るのですが、咄嗟の場合思わず声をかけますと、河野はなぜかちょっと赤くなって、
「ああそうだった。なにいいです。この次まで乗り越しましょう。もう、とても降りられないから」
と弁解がましく言いました。いうまでもなく彼はわざと降りそくなったのです。それを思うと、私はなんとなく無気味に感じないではいられませんでした。
二マイル何十チェンの次の駅は、またたくひまにやってきました。その駅の信号標が見えはじめたころ、河野はもじもじしながら妙なことを言い出したものです。
「君、折入ってお願いしたいことがあるんですが、一と汽車遅らせてくださるわけにはいきませんか。この駅で下車して、つぎの上りがくるまでのあいだ、三時間ほどありますね、そのあいだ僕のお願いを聞いてくださることはできないでしょうか」
私は河野の不意の申し出に、面くらいもし、気味わるくも思いましたが、彼があまり熱心に頼むので、まさか危険なこともあるまいと考え、それに好奇心を押さえかねた点もあって、ともかく彼の提案を容れることにしました。
私たちは汽車をおりると、駅前のとある旅人宿にはいり、少し休ませてもらいたいといって、奥まった一室を借り受けました。隣室に客のいる様子もなく、密談にはおあつらえ向きの部屋です。
注文の酒肴を運んで、女中が立ち去ると、河野は非常に言いにくそうに、もじもじして、てれ隠しに私に酒をすすめなどしていましたが、やがて、青ざめた頬の筋肉を、ピリピリと痙攣させながら、思い切った様子ではじめました。
「君は僕の鞄の中のものを見ましたか」
そういって彼にじっと見つめられますと、なんの恐れるところもないはずの私までが、多分まっ青になっていたことでしょう、動悸が早くなって、腋の下からタラタラと冷たいものの流れるのを感じました。
「見ました」
私は相手を興奮させないように、できるだけ低声で、しかしほんとうのことを答えるほかはありませんでした。
「不審に思いましたか」
「不審に思いました」
そしてしばらく沈黙が続くのです。
「君は恋というもののねうちをごぞんじですか」
「多分知っていると思います」
それはまるで学校の口頭試験か、法廷の訊問でありました。普通の際なれば、すぐにも吹き出してしまうところでしょうが、その滑稽な問答を、私たちはまるで果たし合いのような真剣さでつづけたものです。
「それでは、恋のための或る過失、それはひょっとしたら犯罪であるかもしれません。少しも悪意のない男のそういう過失を、君は許すことができるでしょうか」
「多分できます」
私は充分相手に安心を与えるような口調で答えました。私はその際も、河野に好意を感じこそすれ、決して反感は抱いていなかったのですから。
「君はあの事件に関係があったのですか。もしや君こそ最も重要な役割を勤めたのではありませんか」
私は思い切って尋ねました。十中八、九、私の想像の誤まっていないことを信じながら。
「そうかもしれません」河野の血走った目がまたたきもせず私を睨みつけていました。「もしそうだとしたら君は警察に訴えますか」
「おそらくそんなことはしません」私は言下に答えました。「もうあの事件は解決してしまったのです。いまさら新らしい犠牲者を出す必要がないではありませんか」
「それでは」河野はいくらか安心したらしく、「僕が或る種の罪を犯していたとしても、君はそれを君の胸だけに納めておいてくださるでしょうか。そして、僕の鞄の中にあった妙な品物についても忘れてしまってくださるでしょうか」
「友だちの間柄じゃありませんか。誰だって自分の好きな友だちを罪人にしたいものはありますまい」
私は強いて軽い調子で言い放ちました。事実それが私のほんとうの心持でもあったのです。
それを聞くと河野は長いあいだだまっていましたが、だんだん渋面を作りながら、果ては泣かぬばかりの表情になって、こんなふうにはじめるのでした。
「僕は飛んでもないことをしてしまった。人を殺したのです。ほんの出来心からやりはじめたことが、意外に大きくなってしまったのです。僕はそれをどうすることもできなかった。それくらいのことがわからないなんて、僕はなんという愚か者だったのでしょう。恋に目がくらんだのです。実際魔がさしたのです」
河野にこうした弱々しい反面があろうとは、実に意外でした。湖畔亭での河野と、今の彼と、なんというちがいでしょう。妙なことですが、この河野の弱点を知ると私は以前よりも一そう、彼に好意を感じないではいられませんでした。
「では君が殺したのですね」
私は茶話でもしている調子で、なるべく相手の心を痛めないように問いかけました。
「ええ、僕が殺したも同然です」
「同然というと」
私は思わず不審を打ちました。
「僕が直接手をかけて殺したわけではないのです」
少し話がわからなくなってきました。彼の手で殺したのでないとすると、あの鏡に映った男の手は一体全体誰のものだったでしょう。
「じゃあ直接の下手人は?」
「下手人なんてありません。あいつは自分自身の過失で死んだのですから」
「過失といって……」ふと私はとんでもない間違いに気づきました。「ああ、君は三造のことをいっているのですか」
「むろんそうです」
この明瞭な返事を聞くと、私の頭はかえって混乱してきました。
三十二
「じゃあ、君が殺したといっているのは、あの三造のことだったのですか」
「そうですよ。誰だと思っていたのです」
「いうまでもない、芸者の長吉です。この事件には長吉のほかに殺されたものはないじゃありませんか」
「ああ、そうそう。そうでしたね」
私はあっけにとられて、河野の頓狂な顔を見つめました。いったいどうしたというのでしょう。この事件には、何か根本的な大錯誤があったのではないでしょうか。
「長吉は死んでやいないのですよ。かすり傷一つ負っていません。ただ姿を隠したきりなんです。僕は自分のことばかりを考えていたものだから、つい大切なことをお話しするのを忘れてしまったんですよ。死んだのは三造一人です」
このことは、覗き目がねに驚かされたとき、私も一応は考えぬではなかったのです。あれはただ狂言にすぎぬのではないかと。しかしそのときにも説明しておいた通り、さまざまの事情が到底そんな想像を許さなかったではありませんか。ですから、いま河野のこともなげな言葉を聞いたばかりでは、かえってばかにされたような気がして、俄かに信じる気にもなれません。
「ほんとうですか」私は半信半疑で聞き返しました。「そんな死にもしないもののために、警察があんな大騒ぎをやったのですか。僕には何がなんだかさっぱりわけがわかりません」
「ご尤もです」河野は恐縮しきって言いました。「僕がつまらない策略を弄したために、なんでもないことが、飛んだ大問題になってしまったのです。そして人間一人の生命を奪うようなことが起こったのです」
「はじめから話してくれませんか」
私はどこから問いかけていいのか、見当さえつきかねるままに、彼にこう頼むよりほかはありませんでした。
「むろんそれをお話ししようと思っているのです。先ず僕と長吉との深い関係についてお話ししなければなりません。あの女と僕とは実は幼馴染なんです。これだけいえば君には充分想像がつきましょう。幼馴染を忘れかねた僕は、彼女がほかの町で勤めに出てから、しばしば逢う瀬を重ねていました。もっとも、貧乏な僕には(ここで私は彼の鞄の中の莫大な紙幣を思い出さないわけにはいきませんでした)そうそう彼女の所へ通う自由がありません。のみならず、私はこうして旅から旅を歩いている身ですから、ときには半年も一年も顔を見ないで過ごすこともありました。今度がやはりそれで、一年ばかり前にこの地方へ住みかえたという噂は耳にしていたのですが(それが僕をこの山の中へ導いた一つの動機に違いありません)、この町になんという名で出ているか、少しも知りませんでした。長吉がほかならぬ私の恋人であることを知ったのは、事件のたった一日前のことでした。それまでもあの女はたびたび湖畔亭へきていたはずですが、どうしたわけか一度も出あわなかったのです。それがあの日の前日ふと廊下ですれ違って、お互いに気がつくと、ご免ください、私はそっとあの女を自分の部屋へ連れこんで、まあ、つもる話をしたわけです。詳しいことは時間がありませんから省きますが、その時あの女はいきなり泣き出して、「死にたい死にたい」と言い、ついには私に一緒に死ぬことを迫るのです。いったいに内気な女で、多少ヒステリーも手伝っていたのでしょう。が、最初から芸者稼業がいやであったところへ、Y町へ住みかえて以来、友だちらしい友だちはなく、同輩にもいじめられるようなことが多かったらしいのです。そこへ抱え主が因業で、最近持ち上がった例の松村という物持ちの身うけ話がだんだんうるさくなり、うんというか、借金を倍にしてほかへ住みかえするか、二つに一つののっぴきならぬ場合にさし迫っているのでした。死にたいというのも、あの女の気質にしては、まあ尤もなのです。そんな事情も事情ですが、何よりも私を夢中にしたのは、あの女がいまだに私を思い続けていてくれる誠意でした。私はできることなら、女の手をとって、この世の果てまでも落ちのびたく思ったことでした。
ところがちょうどそこへ、幸か不幸か妙な出来事が突発したのです。たとえ、その突発事件が起こったところで、もう一つの条件がなかったら、あんな騒動にもならないですんだのですが、どうも不運な(といっては虫のいい話ですけれど)事情が揃っていたのですね。もう一つの事情というのは、実は君の覗き目がねです。あの仕掛けを僕は前もって知っていたのです。これが僕の悪い癖なんですが、他人の秘密を探る探偵癖とでもいうのでしょうか、その性質が多分にあって、あの装置などもほとんど最初から知っていたばかりか、君の留守中に部屋へ忍び込んで、あの鏡を覗いて見さえしたのです」
「ちょっと待ってください」
私は河野の言葉の切れ目を待ちかまえて、口をはさみました。彼の告白がいつまでたっても、私の疑問の要点に触れぬもどかしさに堪えかねたのです。
「長吉が死んでいないというのは、どうも不合理な気がして仕様がありません。あの脱衣場のおびただしい血潮は誰のものなんです。人間の血液だということは医科大学の博士も証明しているじゃありませんか。あれほどの血潮をいったいどこから持ってきたというのです」
「まあそうあせらないでください、順序を追ってお話ししないと、僕の方がこんぐらかってしまうのです。その血のこともすぐにお話ししますから」
河野は私の疑問を制しておいて、更に彼の長々しき告白を続けるのでありました。
三十三
「そういうわけで、僕は、脱衣場の大姿見のどの辺のところへ立てば、からだのどの部分が覗き目がねに映るかを、ちゃんと知っていたのです。覗き目がねの一部分が望遠鏡のような装置になっていて、姿見の中央の部分だけが、大きく映るのでしたね。僕は君の留守中に入浴者の裸体姿の大写しを、盗み見たことがあります。そして、おそらく君もそうだったのでしょうが、僕はあの夢のような無気味な影像に、一種異様の魅力を感じたのです。そればかりか、もしあの水底のように淀んだ鏡の面に、何かこう血なまぐさい光景が、例えば豊満な裸女の肩先へ、ドキドキ光る短刀がつきささって、そこからまっ赤な血のりが流れ出す光景などが映ったならば、どんなに美しいだろうというような空想さえ描いたのでした。いうまでもなくそれはほんの気まぐれな思いつきにすぎないので、さっきいったもう一つの突発事件がなかったなら、それを僕みずから実演しようなどとは思いもよらぬことでした。
あの晩、十時過ぎでもあったでしょうか、ともかく殺人事件のすぐ前なんですが、もう床についていた僕の部屋へ、突然長吉が駈けこんできました。そして隅っこの方へ小さくなって『かくまってください。かくまってください』と上ずった声で頼むのです。見れば顔は青ざめ、激しい呼吸のために肩が波打っています。余りに唐突のことで、僕はあっけに取られてぼんやりしていましたが、間もなく廊下にあわただしい足音がして『長吉はどこへ行った』などと聞いている声も聞こえます。声の主はどうやらトランクの二人連れの一人らしいのです。
それからずいぶん方々探しまわっているようでしたが、まさか長吉と僕とが馴染の間柄で、僕の部屋に逃げ込んだとは、女中にしたって想像もしなかったでしょう。トランクの男はとうとう空しく引き返した様子でした。僕は何がなんだかさっぱりわけがわからず、やっと安心したのか部屋のまん中へ出てきた長吉をとらえて、ともかくも事の仔細を問いただしました。すると、長吉が言いますには、ちょうどその晩も例の旦那の松村なにがしが宴席にきていて、酔ったまぎれに余りひどいことをいったりするので、長吉は座にいたたまらず、その場をはずして、あてもなく廊下を歩きまわっていたのだそうですが、通りすがりに、トランクの男の部屋の襖があいていて、中に誰もいないのを見ると、長吉はふと或ることを思いついたのです。それはご承知でしょう、長吉はたびたびトランクの男に呼ばれていたのですが、何かの機会にあのトランクの中に大金の隠されているのを知ったのです。手の切れそうなお札の束が幾つとも知れずはいっているのを見たのです。まあ待ってください。おっしゃる通りこの鞄の中にあるのがその金ですが、どうして私の手にはいったかはこれからおいおいお話ししますよ。
長吉はその金のことを思い出し、あたりに人のいないのを見て、悪心を起こしたのです。そのうちのほんの一と束か二た束で、あすからでも自由の身になり、いやな松村の毒手をのがれることができる。そう思うと、松村の乱暴でいくらか取りのぼせていたのでしょうね。彼女はいきなり部屋へはいって、トランクをひらこうとしました。しかし、むろん錠まえがおろしてあるのだから、女の細腕でひらくはずがない。それを、彼女はもう夢中で蓋の隅の方を無理に持ち上げてそのすき間から指を入れ、やっとの思いで数十枚のお札を抜き出すことができました。が、そうしたことに不慣れな彼女は、わずか一と束の紙幣を抜きとるのに可なりの時間をついやしたらしく、ふと気がついた時には、いつの間にか、うしろにトランクの主が恐ろしい剣幕で立ちはだかっていたのです。
長吉が僕の部屋へ逃げ込んだのは、まあそういうわけだったのです。が、ここに不思議なのはトランクの持ち主の態度でした。普通だったら、長吉の行方がわからぬとなれば、さっそくそのことを宿の帳場を通じて、詮議させるべきですが、いっこうその様子がない。長吉が余り心配するものですから、僕はそっとトランクの男の部屋へ忍んで行って様子を見ましたが、妙なことに、彼らは大あわてで出発の用意をしているじゃありませんか。こんな辻褄の合わぬ話はありません。これは何か彼らの方にも秘密があるにちがいない。長吉に金を盗まれたことを怒るよりも、彼女にトランクの中味を知られたことのほうを恐れているのかもしれない。長吉が見たという莫大な紙幣の束、しかもそれをトランクの中へ入れて持っている。考えてみれば変なことばかりです。彼らはひょっとしたら大泥棒か、さもなくば紙幣贋造者ではないだろうか。当然僕はこんなふうに考えました。
部屋へ帰って見ると、長吉はもう身も世もあらず泣きふしています。そして持ち前のヒステリーの発作を起こして、例の『一緒に死んでくれ』をはじめるのです。それが僕までも、どうにも取り返しのつかない、いやにせっぱつまった、気ちがいめいた気分にしてしまいました。そして、この悪夢のような気分から、僕はふと途方もないことを考えついたのです。『そんなにいうなら、殺して上げよう』僕はそういって長吉を湯殿へつれ込みました。焚き場を覗いてみると、幸い三造はいない。そこの棚の上には彼の短刀がのっかっている(これは前から見ておいて知っていました)。こうして、ご承知の兇行が演じられたわけなんです」
三十四
「そういう際ながら、僕にはあの激情的な美しい光景を、君に見せて上げたい気持があったのです。ひょっとしたら長吉を逃すことよりも、その方がおもな動機だったかもしれませんよ。しかしちょうどそのとき、君が目がねを覗いていてくれたかどうか、もし覗いていなかったとすると、折角のお芝居がなんの甲斐もないことになります。そこで、僕はもっと現実的な証拠として、前もって脱衣場の板の間に血を流しておくことを考えつきました。でも、これとても、ほんとうに気まぐれな、芝居気たっぷりな咄嗟の思いつきにすぎなかったのです。
僕はある旅先で、友達から注射器をもらいました。僕の癖として、そういう医療器械などに、いうにいわれぬ愛着を感じるのですね。おもちゃのように、しょっちゅう持ちあるいていたのですよ。で、その注射器によって、長吉の腕からと、私の腕からと、両方合わせて茶碗に一杯ほどの血を取り、それを海綿でもって板の間へぬりつけたわけなのです。恋人の血を取って自分の血にまぜ合わせる。その劇的な考えが僕を有頂点にしてしまったのです」
「でもたった茶碗に一杯の血が、どうしてあんなに多量に見えたのでしょう。信じられませんね」
私は思わず口をはさみました。
「そこですよ」河野はいくらか得意らしく答えました。
「それはただ、拭きとるのと、塗りひろげるとの相違です。誰にしても、まさか血潮を塗りひろげたものがあろうとは考えませんからね。拭きとったとすれば、あれだけの痕跡は、確かに一人殺すに足る分量ですよ。ところがほんとうはさも拭き取った跡らしく見せかけて、その実できるだけ広く塗りまわしたのです。商売の絵心でもって、柱や壁のとばちりまで、ごく念入りにこしらえ上げ、余ったのを短刀の先に塗りつけて、例のブリキ箱に入れておいたのです。むろん長吉はその場から逃がしてやりました。彼女にしては、泥棒の汚名を着るか自由の身になるかの瀬戸際ですから、怖がっている場合ではありません。山伝いに闇にまぎれて、Yとは反対の方へ走りました。むろん落ちつく先はちゃんと申し合わせてあったのです」
私はあまりあっけない事実に、いくらかがっかりしないではいられませんでした。しかし、疑問はこれですっかり解けたのでしょうか。いやいや、あれが単なるお芝居であったとすると、ますます不可解な点が出てきます。
「それじゃ例の人間を焼く匂いはどこからきたのでしょう」私は性急に問いかけました。「また三造はどうして変死をとげたのでしょう。そして、それがなぜ君の責任なのか、どうもよくわかりませんね」
「いまお話ししますよ」河野は沈んだ調子で続けました。
「それからあとは、君も大概ご承知の通りです。幸いトランクの男が、想像に違わず何かの犯罪者であったと見え、夜のうちに姿をくらまし、あれほど探しても行方がわからないものですから、僕のお芝居が一そうほんとうらしく見え、被害者長吉、加害者トランクの男ときめてしまって、警察をはじめ少しも疑う者がないのです。しかし事件の発頭人である僕にしては、騒ぎが大きくなればなるほど、もう心配でしようがありません。いまさらあれはいたずらだったと申し出るわけにもいかず、そうかといって、黙っていれば、いつトランクの男が捕えられて真相がばれないとも限りません。一時の出来心に任せて、とんでもないことを仕出かしてしまったと、僕はどれほど後悔したことでしょう。そんなわけで、長吉が約束の場所で首を長くして待っていたにもかかわらず、そこへ行くことができません。事件がどちらかにかたづいてしまうまでは、どうしても湖畔亭を立ち去る気になれません。この十日ばかりというもの、表面は苦しい平気をよそおいながら、僕がどんな地獄を味わっていたか、とても局外者には想像できないだろうと思います。
僕は探偵を気取って、君と一緒にいろいろなことをやりましたが、実はどこから僕の芝居がばれてくるかと、ビクビクものでそれを待っていたわけなんです。ところが、例の覗き目がねをとりはずしていた時、突如として新らしい登場者が現われました。あの晩の怪しい人影を僕はわざと隠していましたが、あれは風呂番の三造だったのです。彼が宿の主人の財布を落として行ったのは、前にもいった彼の盗癖から考えて、さして驚くにも当たらぬことです、おかしいのは中にあった札束です。主人は自分の金だと言いますけれども、どうもそぶりが変です。彼は評判の欲ばり爺ですから、当てになったものではありません。そこで、僕は三造がこの事件に関連してなにか秘密を持っているにちがいないと目星をつけ、彼の身辺につきまとって探偵をはじめました。そして、その結果、驚くべき事実を発見したのです。
三十五
「三造は例の大トランクを二つともどこから拾ってきたのか、焚き場の石炭の中に隠していたのです。トランクの男たちは多分目印しにされることを恐れて、トランクを山の中に隠し、身をもって逃げ去ったのでしょうが、三造はそれを見ていたのかもしれません。或いは後になって、森の中へ枯枝を集めに行った時に、偶然発見したのかもしれません。ともかく、中味の莫大な紙幣もろとも、彼はトランクを盗んでいたのです。これであの財布の中の札束も解釈がつくわけですね。しかし、トランクの持ち主が、たとえ危急の際であったとはいえ、あの大金を惜しげもなく捨てて行ったというのは、少々変です。やっぱり贋造紙幣だったのでしょうか。それとも後日取りにくるつもりで、人目につかぬ所へ埋めてでもおいたのでしょうか。あの大風の晩に懐中電燈で森の中を探しまわっていた男は、ひょっとしたら彼らの命を受けてトランクを探しにきた一味の者だったかもしれませんね。
事件はだんだん複雑になってきました。どうなることか少しも見当がつきません。僕の向こう見ずないたずらが、このような大事件になろうとは、まったく予想外で、したがって心配はますます強くなるばかりです。ところが、四五日前、警察のトランク大捜索がはじまるころには、三造も自分の所業に恐れを抱きはじめました。そして、その唯一の証拠品であるトランクを風呂場で焼くことを思いつきました。人の寝静まったころを見はからい、トランクをこわしては、少しずつ焼き捨てて行くのです。僕は現にそれを隙見していたのですが、まさか対岸の村まで獣皮の匂いが漂って行こうとは思いませんでした。いうまでもなく、これが死体を焼く匂いと間違えられたわけです。僕はかつて、外国にもこれに似た事件のあったことを聞いています。なんでも田舎の一軒家の煙突から盛んに黒煙が出て、火葬場の匂いがするものですから、村人が騒ぎ出し、てっきり死体を焼いているものと思って調べてみると、あにはからんや、古長靴かなんかをストーブに投げ込んだものとわかりました。その家の主人が或る殺人事件の嫌疑者だったために飛んだ騒ぎになったのです。
しかし僕はその当時そこまで考えたわけではありません。ただもう途方に暮れてしまったのです。もしこの愚か者の軽挙から、ことの真相がばれるようなことがあってはと、それが先ず心配でした。で、少しでも発覚を遅らせる意味で、僕は三造を逃亡させようと計りました。警察で彼を疑い出したことを、それとなくほのめかし、彼を怖がらせたのです。悪人にしろ、そこは愚か者のことです。僕の計画を見破るどころか、トランクを盗んだということから、すぐに殺人の嫌疑までかけられるものと思いこみ、ちょうど村の警官が僕を訪ねてきた日です。彼は例の紙幣の束だけを風呂敷包みにして、彼の故郷である山の奥へと逃げ出したのです。僕は計画がまんまと成功したのを喜び、むしろ彼を護衛するような心持で、そのあとを尾行しました。
ところが、その途中、あの棧道の所で、思いがけぬ出来事が起こったのです。余りに道を急いだために、三造は崖から辷り落ちて変死をとげてしまったのです。僕は大急ぎで下におりて、介抱してみましたが、もはや蘇生の見込みはありません。考えてみれば可哀そうな男です。悪人といっても、それは彼の白痴と同様、彼自身にはどうすることもできない生れつきだったのでしょう。それを僕の利己的な気持から逃亡を勧めたばっかりに、彼はもっと活きられた命を、果敢なくおとしてしまったのです。僕は非常な罪を犯したような気がして、無残な死骸を正視するに耐えず、ともかく、紙幣の風呂敷包みだけを拾って、急を知らせるために宿に引き返しました。
ところが、その途中、僕はふとある妙案を思いついたのです。三造は可哀そうだけれども、もう死んでしまった者だ。もしもすべての罪を彼に着せることができたなら、長吉はいつまでも死んだものとして、まったく自由な一生を送ることができ、したがって自分も最初夢想したような幸福を味わいうるではないか。それには幸い、短刀と言い、手の甲の筋と言い、三造の日頃の盗癖と言い、都合のよいことが揃っている。そこで僕は、俄かに三造の変死を知らせることをやめて、彼に罪をなすりつける理窟を考えはじめたのです。ちょうどそこへ、村の警官が匂いのことを知らせにきてくれました。すっかりお膳立てが出来上がっていたのです。僕は巡査と君の前で、考えておいた理窟を申したてればよいのでした。
紙幣をちょっと見たのでは、贋造かどうかわかりません。もし本物であったら、僕は一躍大金持ちになることができます。そんな慾心から、お恥かしいことですが、つい焼きすてるのが惜しくなり、ともかくも鞄の底に納めておいたものです。それを君に見られてしまい、このまま別れてはどうしたことで君の口から真相がばれないものでもなく、いっそほんとうのことを白状してしまった方が安全だと思ったものですから、こうしてお引き留めしたわけです。つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、長吉のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常な血なまぐさい大犯罪らしいものが出来上がってしまったのです」
河野はため息と共に長物語を終りました。私は事件の裏面の意外さに、しばらく物をいうこともできませんでした。
「そういうわけですから、どうかこのことは君の腹におさめて、誰にも話さないでください。もしこれがばれて、元の雇い主に呼び戻されるようなことがあれば、長吉はきっと生きてはいないでしょう。僕も世間に顔むけのできないことになります。どうかこの僕の願いを聞き入れてください。誰にも話さないと誓ってください」
「承知しました」私は河野の態度に引き入れられ、さも沈痛な調子で答えました。「決して他言しません。どうかご安心ください。そして一刻も早く長吉の所へ行ってあの人を安心させて上げてください。僕は蔭ながらお二人の幸福を祈っています」
そして私は一種の感激をもって河野と別れを告げたのです。河野は私の汽車の出るのを感謝をこめたまなざしで、永いあいだ見送ってくれました。
それ以来、私は彼らを見ません。河野とは二、三度文通しましたけれど、彼らの恋がどのような実を結んでいるかは知る由もないのです。ところが最近河野から珍らしく長文の手紙を受け取りました。彼は長々と私の往年の好意を謝した上、愛人長吉の死を告げ、彼自身も友人の事業に関係して南洋の或る島へ旅立つことを知らせてきたのです。その文面によれば、彼はおそらく再び日本の土を踏むことはありますまい。もはや事件の真相を発表してもさしつかえない時がきたのです。
読者諸君。以上で私のお話は終りをつげました。例の莫大な紙幣が本物であったかどうかは、つい聞く機会がありませんでしたが、おそらく贋造紙幣ではなかったかと思います。
ただ一つ、ここに或る重大な疑問が残されています。私は河野に別れて以来、日をふるにつれて色濃くなってくるその疑問に、形容のできない悩ましさを感じはじめました。もし私の想像が当たっているとすれば、私はにくむべき殺人者を、ゆえなく見逃したことになるのです。でも、今はまだその疑いをあからさまにいうべき時機ではありません。河野が生きているのです。しかも彼はお国のために海外に出稼ぎをしているのです。数年前に死んでしまったおろか者の三造の故に、なにを好んで、今さら犠牲者を出す必要がありましょう。
生腕
探偵小説家の殿村昌一は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。
S村は四方を山にとざされ、ほとんど段畑ばかりで暮らしを立てているような、淋しい寒村であったが、その陰鬱な空気が、探偵小説家を喜ばせた。
平地に比べて、日中が半分ほどしかなかった。朝のあいだは、朝霧が立ちこめていて、お昼頃ちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。
段畑が鋸型に喰い込んだあいだあいだには、いかに勤勉なお百姓でも、どうにも切りひらきようのない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに這い出していた。
段畑と段畑が作っている溝の中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪な大蛇のように、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起こして汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配を喘いで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。
|山《やま》|家《が》の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷々とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。この陰鬱な山や森や段畑や鉄道線路とも又しばらくお別れだ。青年探偵小説家は、二た月あまり通りなれた村の細道を、一本の樹、一茎の草にも名残りを惜しみながら歩いていた。
「また淋しくなるんだね。君はいつ帰るの?」
散歩の道連れの大宅幸吉がうしろから話しかけた。幸吉はこの山村では第一の物持ちと言われる大宅村長の息子さんであった。
「あすかあさってか、いずれにしてももう長くはいられない。待っててくれている人はないけれど、仕事の都合もあるからね」
殿村は女竹のステッキで朝露にしめった雑草を無意味に薙ぎはらいながら答えた。
細道は鉄道線路の土手に沿って、段畑の縁や薄暗い森を縫って、遙か村はずれのトンネルの番小屋までつづいていた。
五哩ほど向こうの繁華な高原都市を出た汽車が、山地にさしかかって、第一番にぶっつかるトンネルだ。そこから山はだんだん深くなり、幾つも幾つもトンネルの口が待っているのだ。
殿村と大宅は、いつもこのトンネルの入口まで行って、番小屋の仁兵衛爺さんと話をしたり、暗いトンネルのほら穴の中へ五、六間踏み込んで、ウォーとどなってみたりして、又ブラブラと村へ引き返すのが常であった。
番小屋の仁兵衛爺さんは、二十何年同じ勤めをつづけていて、いろいろ恐ろしい鉄道事故を見たり聞いたりしていた。機関車の大車輪に轢死人の血みどろの肉片がねばりついて、洗っても洗ってもとれなかった話、ひき殺されてバラバラになった五体が、手は手、足は足で、苦しさにヒョイヒョイ躍り狂っていた話、長いトンネルの中で、轢死人の怨霊に出会った話、そのほか数えきれないほどの、物凄い鉄道綺譚をたくわえていた。
「君、ゆうべはNの町へ行ったんだってね。帰りはおそくなったの?」
殿村がなぜか遠慮勝ちに尋ねた。道は薄暗い森の下にはいっていた。
「ウン、少し……」
大宅は痛いところへさわられたように、ビクッとして、しかし強いてなにげないていをよそおった。
「僕は十二時頃まで、君のおかあさんの話を聞いていた。おかあさんは心配していたぜ」
「ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いてきたものだから」
大宅は弁解がましく答えた。
N市とS村を連絡するたった一台のボロ乗合自動車は、夜十時を過ぎると運転手が帰ってしまうし、N市といっても山国の小都会のことだから、営業自動車は四、五台しかなく、それが出払ってしまうと、ほかに交通機関とてもないのだ。
「道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう」
「ウン、いや、それほどでもないよ」
大宅は、事実異様に青ざめた頬を、手の平でさすりながら、照れ隠しのように笑ってみせた。
殿村はおおかたの事情を知っていた。大宅はれっきとした同村の素封家の許嫁の娘をきらって、N市に住む秘密の恋人と逢い引きをつづけているのだ。その恋人は大宅の母親の言葉によると、「どこの馬の骨だかわからない、渡り者のあばずれ娘」であった。
「おかあさんを安心させて上げた方がいいよ」
殿村は相手を恥かしがらせはしないかとビクビクしながら、置土産のつもりで忠告めいたことを口にした。
「ウン、わかっている。しかしまあうっちゃっておいてくれたまえ。自分のことは自分で始末をつけるよ」
大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村はだまってしまった。
二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。
鉄道線路がチラチラ見えているくらいだから、むろん深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山につづいていて、立ち並ぶ木立ちが、どれも一と抱え二た抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み入った感じであった。
「おい、待ちたまえ!」
突然先に立っていた殿村が、ギョッとするような声で、大宅を押し止めた。
「いやなものがいる。戻ろう。急いで戻ろう」
殿村は脅えきっていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色がまっ青に変わっているのがわかった。
「どうしたんだ。何がいるんだ」
大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、あわただしく聞き返した。
「あれ、あれを見たまえ」
殿村は逃げ足になりながら、五、六間向こうの大樹の根本を指さした。
ヒョイと見ると、その巨木の幹の蔭から、なんともえたいの知れぬ怪物が覗いていた。
狼! いや、なんぼ|山《やま》|家《が》でも、こんなところへ狼が出るはずはない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。唇も舌も白い牙さえも生々しい血に濡れて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒い血の斑点だ。顔も血みどろのブチになって、その中から燐光をはなつ丸い眼が、ジッとこちらを睨んでいる。顎からは、まだポタポタと血のしずくが垂れている。
「山犬だよ。モグラかなんかやっつけたんだよ。逃げない方がいい、逃げるとかえって危いから」
さすがに大宅は山犬に慣れていた。
「チョッ、チョッ、チョッ」
彼は舌を鳴らしながら、怪物の方へ近づいて行った。
「なあんだ。知ってるやつだよ。いつもこの辺をウロウロしているおとなしいやつだよ」
先方でも大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと樹の蔭を出て、二、三度彼の足元を嗅いだかと思うと、森の奥へと駈けこんで行った。
「だが君、モグラやなんか喰ったんで、あんな血みどろになるだろうか。変だぜ」
殿村はまだ青ざめていた。
「ハハハハハ、君も臆病だね。まさかこんなところに、人喰いの猛獣はいやしないよ」
大宅は何をばかばかしいと言わぬばかりに笑って見せたが、実は案外そうでなかったことが間もなくわかった。
森を出はなれて、|蓬《ほう》|々《ほう》と雑草の茂った細道を歩いて行くと、草むらの中から、ムクムクと、又しても血みどろの大犬が姿を現わし、人に驚いたのか、一目散に逃げ去った。
「おい、あいつはさっきのやつと毛色が違うぜ。揃いも揃って、この村の犬がモグラを喰うなんて変だぜ」
殿村は、犬の出てきた草むらを分けて、その蔭に何か大きな動物の死骸でも横たわっているのではないかと、ビクビクもので探しまわったが、別段猛犬の餌食らしいものは見当たらなかった。
「どうも気味がわるいね。引き返そうか」
「ウン、だが、ちょっとあれを見たまえ。又もう一匹やってくるぜ」
一丁ばかり向こうから、線路の土手に沿って、雑草の中を見え隠れに、なるほど又毛色の違うやつが歩いてくる。チラチラと草に隠れて、全身を見ることができぬため、非常に大きな動物のようにも、又、犬ではないもっと別な生物のようにも感じられて、ひどく無気味である。
道はとっくに部落を出はなれているので、あたりは人気もない山の中、狭い草原を挾んで、両側から迫まる黒い森、刃物のように光る二本の鉄路、遙かに見えるトンネルの口。薄暗くシーンと静まり返った夢の中の景色だ。その草むらを、ゴソゴソ近づいてくる妖犬の姿。
「おい、あいつなんだか|咥《くわ》えているぜ。血まみれの白いものだ。」
「ウン、咥えている。なんだろう」
立ち止まって、じっと見ていると、犬が近づくにしたがって、咥えているものの形が、少しずつハッキリしてきた。
大根のようなものだ。しかし、大根にしては色が変だ。鉛のように青白い、なんとも言えぬ色合いだ。おやっ、先が幾つかに分かれている。五本指の大根なんてあるものか。手だ。人間の生腕だ。断末魔に空をつかんだ、鉛色の人間の片腕だ。肘の関節から喰いちぎられて、その端には、赤い綿のようなかたまりがくっついている。
「アッ、畜生め」
大宅がわめきながら、石ころを拾って、いきなり投げつけた。
「ギャン、ギャン」という悲鳴を上げて、人喰い犬は、矢のように逃げ去った。小石が命中したのだ。
顔のない死体
「やっぱりそうだ。人間の腕だ。指の様子では、まだ若い女のようだね」
妖犬の捨てて行った一物に近より、こわごわ覗き込みながら大宅が判断した。
「どっかの娘さんが喰い殺されたのじゃあるまいか。それとも餓えた山犬が墓をあばいたのか」
「いや、この村には若い女の|新仏《にいぼとけ》はないはずだ。といって山犬どもが生きている人間を喰い殺すなんて、そんなばかなことは考えられないし、オイ|昌《しょう》ちゃん、やっぱり君の言った通り、こいつは少し変なぐあいだね」
さすがの大宅も眼の色を変えていた。
「それ見たまえ、モグラやなんかで、あんなに全身血まみれになるはずはないよ」
「ともかく調べてみよう。片腕があるからには、その腕についていたからだがどっかになければならない。君、行ってみよう」
二人は、ひどく緊張して、何か探偵小説中の人物にでもなった気持で、さいぜんから妖犬のやってきた方角へと急いだ。
ポッカリと黒い、怪物の口のようなトンネルの入口が、だんだん形を大きくして近づいてきた。番小屋の中で手内職の編み物をしている仁兵衛爺さんの姿も見える。
と見ると、その番小屋の小半丁手前、鉄道線路の土手のすぐそばの一きわ深い草むらの中から、三本の、或いは黒く或いは白いゴボウのようなものが生えて、それがピンピン動いていた。なんともえたいのしれぬ異様な光景であった。やがて、草に隠れてからだは見えぬけれど、その三本のゴボウは、御馳走に夢中になっている三匹の犬の尻尾であることがわかった。
「あすこだ。あすこに何かあるんだ」
大宅は、先の例にならって、先ず小石を二つ三つ投げつけると、三匹の犬は、草むらの中から、一斉にニョッと首をもたげて、血に狂った六つの眼でこちらを睨みつけた。牙をむき出したまっ赤な口から、ボトボトとしずくを垂らしながら。
「畜生、畜生」
その形相にこちらはギョッとして、又も小石を拾って投げつける。それには犬どもも敵しかねて、さも残り惜しそうに逃げ去って行った。
そのあとへ、二人は大急ぎで駈けつけ、草を分けて覗いてみると、草の根のジメジメした地面に、人間の形をしたまっ赤なものが、黒髪を振り乱し、派手な銘仙の着物の前をはだけて、ころがっていた。
二人が見ただけでも六匹の大犬に喰い荒されているのだ。まだ生々しい死骸の、あばら骨が現われ、臓腑が飛び出し、顔面は跡かたもない赤はげになって、茶呑み茶碗ほどもあるまんまるな眼の玉が虚空を睨んでいたとて不思議はない。
殿村も大宅も、生れてから、こんな滑稽な、えたいの知れぬ、恐ろしいものは見たことがなかった。
犬の歯に荒されない部分の皮膚を見ると、よく肥っていて病人らしくはない。さきほど犬の咥えてきた片腕をのぞいては、五体がチャンと揃っているところを見ると、轢死人でもないらしい。すると、六匹の野犬が健康な一人の女を喰い殺してしまったのであろうか。いやいや、それは考えられないことだ。人間一人喰い殺される騒ぎを、いくらなんでも、すぐ近くの番小屋の仁兵衛爺さんが気づかぬはずはない。悲鳴を聞きつけて助けに駈けつけぬはずはない。
「君はどう思う。犬どもは、生きている女を喰い殺したのでなくて、とっくに殺されている死骸を餌食にしたのじゃないだろうか」
大宅幸吉が、やっとしてから物を言った。
「むろんそうだね。僕も今それを言おうとしていたんだ」
青年探偵作家が答えた。
「すると……」
「すると、これは恐るべき殺人事件だよ。誰かがこの女を殺害して、たとえば毒殺するなり、締め殺すなりしてだね。それからこの淋しい場所へ運んできて、ソッと草むらの中へ隠しておいたという考えかただ」
「ウン、どうもそうとしか考えられないね」
「服装が田舎めいているから、たぶんこの付近の女だろう。駅もないこの村へ、旅人がさまよってくるわけはないからね。君この女のどっかに見覚えはないか。たぶんS村の住人だろうと思うが」
殿村が尋ねる。
「見覚えがないかといって、見るものがないじゃないか。顔もなんにもない、赤いかたまりなんだもの」
いかにも、頭部はあるけれど、顔と名づけるものは跡方もない赤坊主であった。
「いや、着物とか帯とか」
「ウン、それはどうも見覚えがないよ。僕はいったい女の服装なんか注意しないたちだからね」
「じゃあ、ともかく、仁兵衛爺さんに尋ねてみよう。あいつ近くにいて、ちっとも気づかないらしいね」
そこで二人は、トンネルの入口の番小屋へ走って行って、旗振りの仁兵衛を呼び出し、現場へ引っぱってきた。
「ワア、こりゃどうじゃ。なんてまあむごたらしい……ナンマイダブ、ナンマイダブ」
爺さんは赤いかたまりを一と目見ると、たまげて、頓狂な声を立てた。
「この女は犬に喰われる前に殺されていたんだよ。下手人がここへ担いできて捨てて行ったんだよ。君、何か思い当たるようなことはないかね」
大宅が尋ねると、爺さんは小首をかしげて、
「わしゃなんにも知らなかったよ。知ってれば山犬なんぞに喰わせるこっちゃないのだが。ハテネ、若旦那、こりゃてっきりゆうべのうちに起こったことだぞ。なぜと言って、わしゃきのうは何度もこの辺を歩いたし、夕方落とし物をして、そうだ、ちょうどここいらを探しまわったくらいだから、こんな、大きな死骸がありゃ、気のつかねえはずはねえ。てっきりこりゃ、ゆうべ真夜中に起こったことだぞ」
と断定した。
「そりゃそうかもしれないね。いくら人通りがないといって、あんなに犬がたかっているのを、一日じゅう気づかないはずはないからね。ところで、爺さん、君、この着物に見覚えはないかね。村の娘だと思うのだが」
「こうっと、こんな柔か物を着る娘と言や村でも四、五人しかないのだが……ああ、そうだ、わしの家のお花に聞いてみましょう。あれは若いもんのこったから、同じ年頃の娘の着物は、気をつけて見覚えてるに違えねえ。オーイ、お花やあ……」
爺さんのどなり声に、やがて娘のお花が、
「なあに、おとっつぁん」
と番小屋を駈け出してきた。
彼女は草むらの死骸を見るとキャッと悲鳴を上げて逃げ出しそうにしたが、父親に引き止められ、こわごわ着物の裾の方を見て、たちまちその主を鑑定した。
「あらまあ、この柄は山北の鶴子さんのだわ。村じゅうでこの柄の着物持ってるのは、鶴子さんのほかにありゃしないわ」
それを聞くと、大宅幸吉の顔色がサッと変わった。無理はない。山北鶴子といえば、大宅が嫌い抜いている彼の幼時からの許嫁の娘だ。その鶴子が時も時、結婚問題で悶着の起こっている今、かくも無残な変死をとげたのだ。大宅が青くなったのも不思議ではない。
「間違いはねえだろうな。よく考えて物をいうがええぞ」
仁兵衛爺さんが注意すると、娘はだんだん大胆になって、死骸の全身を注意深く眺めていたが、
「鶴子さんに違いないわ。帯だって見覚えがあるし、そこに落ちている石のはいったヘヤピンだって、鶴子さんのほかに持っているものありゃしないわ」
と断言した。
アリバイ
お花の証言で、その惨死体が豪農山北家のお嬢さんとわかったので、すぐさま山北家へ急使が飛ぶ、駐在所へ自転車が走る、警察電話がけたたましく鳴り響く、家々からは、緊張した表情の人々が現場へ、現場へと駈け出す、しばらくして係り官を満載した警察自動車が本署から到着するという物々しい騒ぎとはなった。
綿密な現場調査が終り、解剖のために死体がN市の病院へ運び去られると、関係者の取調べを行なうために、はなはだ変則ながら、臨機の処置として村の小学校の応接室が借り入れられ、そこへ、鶴子の両親の山北夫婦、同家の雇い人、発見者の大宅、殿村、仁兵衛爺さん、娘のお花などが次々に呼び入れられた。
取調べには可なりの時間をついやしたけれど、被害者鶴子の母親が提出した一通の封書のほかには、別段これという手掛りもなかった。
「娘の机の引出しの手紙の中に、こんなものがございました。今そこへ入れたばかりというふうに、手紙類の一ばん上にのっておりましたから、きっとあれがうちを出ますすぐ前に受け取ったものに違いございません。男の呼び出し状でございます」
母親はそんなふうに言って、切手の貼ってない一通の封書をさしだした。
「使いが持ってきたのだね。誰がこの手紙を娘さんに渡したのか、雇い人たちを調べてみましたか」
検事の国枝氏が、物やさしく尋ねた。
「はい、それはもう充分調べたのでございますが、妙なことに、誰も知らないと申すのでございます。ひょっとしたら、娘が門のところに出ていた時、直接手渡して行ったのかもしれませんでございます」
「フン、そんなことだろうね。ところで、あなたは、この手紙のぬしに心当たりでもありますか」
「いいえ、親の口から申すのもなんでございますが、あれに限って、そんなみだらなことは、これっばかりもございません。この手紙の男も、決して前々から知っていたのではなく、上手な呼び出し文句に、ついのせられたのではないかと存じます」
で、その呼び出し状というのは、左のような至極簡単なものであった。
[#ここから2字下げ]
今夜七時、お宮の石燈籠のそばで待っています。
きっときてください。誰にも言ってはいけません。
非常に非常に大切な用件です。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]Kより
「この筆蹟に見覚えはありませんか」
「いっこう心当たりがございません」
「鶴子さんは、大宅村長の息子の幸吉君と許嫁になっていたそうですね」
国枝検事はそれとなく気を惹いてみた。手紙の差出人のKというのが、幸吉の頭字に一致するし、許嫁からの手紙なら、娘がすぐさまその呼び出しに応じたのも無理ではないと思われたからだ。
「はい、わたくしどもも、そうではないかと思いまして、さいぜん本人の幸ちゃんに尋ねてみましたのですが、僕がそんな呼び出しなぞかけるわけがない。その時間にはN市へ行っていたのだから……それに第一、伯母さんも御存知の通り、僕はこんな下手な字は書きません。また、鶴子さんに逢いたければ、不自由らしく手紙で呼び出したりなんかしないでも、僕がじかにお誘いに行くはずじゃないか、って申すのでございます。あの、これはもしや、誰か悪者が、幸ちゃんからの手紙のように見せかけて、鶴子をおびき出したのではございますまいか」
検事と被害者の母親との問答は、それ以上進展しなかった。そこで国枝氏はまっさきに取調べた大宅幸吉を、もう一度その調べ室に呼び入れる必要を感じた。同席の警察署長をはじめ同意見であった。
大宅幸吉は問題の呼び出し手紙を見せられると、さっき鶴子の母親が申し述べたのと大体同じような答えをした。
「君はゆうべN市へ行っていたのだね。ハッキリしたアリバイだ。で、N市では誰かを訪問したのでしょうね。別に君を疑うわけではないが、重大事件のことだから、一応は先方へ聞き合わせる程度の手数はかけなければなりません」
検事はなにげなく尋ねた。
「別に誰も訪ねなかったのです。会って話した人もありません」
幸吉は苦しそうに答えた。
「では、買い物にでも出掛けたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが覚えているかもしれない」
「いいえ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Nの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買い物といえば、通りがかりの煙草屋でピースを買ったくらいのものです」
「フム、そいつはまずいな」
国枝氏はうさんらしく、相手の顔をジロジロ眺めながら、しばらく思案していたが、やがてヒョイと気づいたように元気な声を出した。
「いや、そんなことはどうだっていいのだ。君はN市の往復に乗合自動車に乗ったでしょう。むろん運転手は君の顔を見知っているはずだ。その運転手を調べさえすればいいのです」
検事がホッとしたように言うと、意外にも幸吉の顔にハッと狼狽の色が浮かんだ。青ざめて急には口もきけないほどだ。
検事は唇の隅に奇妙な微笑を浮かべて、しかし眼は相手の心を突き通すするどさで、ジッと幸吉の表情を見つめていた。
「偶然だ。恐ろしい偶然だ」
幸吉は妙なことをつぶやきながら、救いを求めるように国枝検事のうしろに立っている人物を眺めた。
そこには幸吉の親友の探偵小説家殿村昌一が、気の毒そうな顔をしてたたずんでいた。彼がどうして、この調べの席に、しかも調べる人々の|側《がわ》に列していたかというに、昌一は国枝検事と高等学校時代の同級生で、現在も文通をつづけている友だちであったからだ。作者は物語の速度をにぶらせまいために、この両人の偶然の邂逅の場面をわざと省略したのである。
両人がそんな間柄であったから、検事は取調べに際して何かと好都合であったし、又探偵作家の殿村にとっては、犯罪事件の実際を見学する好機会となった。彼は事件の証人として、友だちの検事から一応の取調べを受けたが、それがすんでも退席せず、人々の暗黙の了解を得て、その場に居残っていたわけである。
で、いま大宅幸吉が、N市へ往復した自動車について質問を受け、顔色を変えて妙なことをつぶやいたのを聞くと、殿村はハッとしないではいられなかった。彼は幸吉の苦しい立場を大方は推察していた。ゆうべはN市に住む恋人に逢いに行ったのに違いない。幸吉はそれを隠すためにアリバイを犠牲にしようとさえしているのだ。
「まさか乗合自動車に乗らなかったわけはないでしょう」
国枝氏は相手がもじもじしているのを怪しんで、やや皮肉な口調で催促した。
「ところが、乗らなかったのです」
幸吉は苦しそうに言って、なぜかひどく赤面した。青ざめていた顔が突然パッと紅潮したのが、人々をギョッとさせた。
「僕が嘘をついているように聞こえましょうね。しかし、ほんとうなんです。偶然にも、私はゆうべに限って乗合自動車に乗らなかったのです。村の発着所へ行った時、ちょうどN市行きの最終の乗合が出たあとで、ほかに車もないものですから、私はテクテク歩いて行ったのです。汽車と違って近道をすれば一里半ほどのみちのりですから」
「君はさっき、N市へはなんの目的もなく、ただ賑やかな町を散歩するために出掛けたように言ってましたね。なんの目的もないのに、一里半にもせよ、わざわざ歩いてまでN市へ行かなければならなかったのですか」
検事の追及ますます急である。
「ええ、それは、田舎者には一里や二里の道はなんでもないのです。村の者はN市へ用事があっても、自動車賃を倹約して歩くくらいです」
だが、幸吉は村長の若旦那だ。一里や二里が平気なほど丈夫そうにも見えぬ。
「では、帰りはどうしました。まさか往復とも歩いたわけではないでしょう」
「それが歩いたのです。おそかったものですから、乗合はなく、ハイヤーを探しましたが、折悪しく皆出払っていたので、思い切って歩きました」
このことは、朝、鶴子の死体を発見する前、幸吉と殿村との会話によって、すでに読者の知るところである。
「フン、すると、君のアリバイはまったく消えてしまったわけですね。犯罪の行なわれた当夜、君がこのS村にいなかったという証拠は、一つもないわけですね」
検事の態度は、だんだん冷やかになって行くように見えた。
「僕自身でさえ妙に思うほどです。せめて往復の道で、誰か知人に出会っているといいのですが、それもないのです」幸吉は不運をかこつように、「しかし、アリバイがないからといって、そのにせ手紙で、僕に嫌疑がかかるわけではないでしょうね、まさか。ハハハハハ」
彼は不安らしく、キョトキョトしながら、無理に笑ってみせた。
「にせ手紙といっても、これがにせ物であるという証拠は何もないのです」
検事は振り切るように、冷淡に言ってのけた。
「君の筆蹟と似ていないからといって、故意に字体を変えて書くこともできるわけですからね」
「そんなばかな。なんの必要があって字体を変えたでしょう、僕が」
「いや、変えたとは言いません。変えることもできるといったまでのことです……よろしい。では引き取ってください。しかし、家へ帰ったらなるべく外出しないようにしてください。又お尋ねしたいことができるかもしれませんから」
幸吉が引き下がると、国枝氏は警察署長と何かヒソヒソささやいていたが、やがて一人の私服刑事が、署長の命令でどこかへ出かけて行った。
藁人形
「殿村君、これで一と先ずおしまいだ。小説と違ってたいして面白いものではないだろう」
手すきになった国枝検事が、昔の学友探偵小説家を廊下へ誘い出して言った。
「おしまいだって? そんなこといって、僕を追っ払おうというのかい。おしまいどころか、これからじゃないか」
「ハハハハハ、いや、そういうわけじゃないが、きょうはもう調べることもあるまい。あす解剖の結果がわかるはずだから、何もかもそれからだよ。私はN市に宿を取っているから、二、三日はそこから村へ通ようつもりだ」
「なかなか熱心だね。誰でもそんなふうにするのかい。署長に任せておいてもいいのだろう」
「ウン、だが、この事件はちょっと面白そうなのでね。少しおせっかいをしてみるつもりだ」
「君は大宅君を疑っているようだが……」
殿村は友だちのために、判事の気を惹いてみた。
「いや、疑っているわけじゃない。そういうことをきめてかかるのは、君がいつも小説に書いている通り、非常に危険なんだ。疑うといえばすべての人を疑っている。君だって疑っているかもしれない」
検事は冗談のように言って、殿村の肩を叩いた。
「君、いま手がすいているのだったら、見せたいものがあるんだ。トンネルのそばの番小屋まで一緒に散歩しないか」
殿村は相手の冗談を黙殺して、さいぜんから言おうとしていたことを言った。
「仁兵衛爺さんの番小屋かい。いったいあすこに何があるの」
「藁人形があるんだ」
「え、なんだって」
国枝氏はびっくりして、殿村のきまじめな顔を眺めた。
「現場を調べている時、君にそのことを言ったけれど、耳にも入れてくれなかった。藁人形なんぞあとでいいと言った」
「そうだったかい。僕はちっとも記憶しないが、で、その藁人形がどうかしたのかい」
「まあ、なんでもいいから、一度見ておきたまえ。ひょっとしたら、今度の事件を解決する鍵になるかもしれない」
国枝氏は突飛千万なこの申しいでを、まじめに受け取る気にはならなかったけれど、殿村の熱心な勧めをしりぞける理由もなかった。彼は「小説家はこれだから困る」とつぶやきながら、殿村のあとについて小学校の門を出た。
番小屋に着くと、今小学校へ呼ばれて帰ったばかりの仁兵衛親子は、また取調べを受けるのかと、オドオドしながら、二人を迎え入れた。
「おじさん、さっきの、ほら、藁人形を見せてほしいのだよ」
殿村が言うと、仁兵衛爺さんは妙な顔をして「ああ、あれですかい」と裏の物置き小屋へ案内してくれた。
ガタピシと板戸をあけると、薪や炭を積んだ小暗い物置きの隅っこに、人間ほどの大きさの藁人形が、いかめしく突っ立っていた。
「なあんだ、|案《か》|山《が》|子《し》じゃないか」
国枝氏があきれたように言う。
「いや、案山子じゃない。こんな立派な案山子があるもんか。なかなか重いのだよ。呪いの|人《ひと》|型《がた》だよ」
殿村はあくまできまじめだ。
「で、この藁人形が、今度の殺人事件にどんな関係があるというの?」
「どんな関係だか、僕にもわからない。しかし無関係でないことだけは確かだよ……おじさん、この人形を見つけた時のことを、もう一度、この人に話して上げてくれないだろうか」
すると仁兵衛爺さんは、国枝検事に小腰をかがめて、話しはじめた。
「ちょうど五日前の朝でございました。村へ用達しがあって、あの大曲がり……ほら、鶴子さんの死骸が倒れていた線路のカーヴのところを、わしら『大曲がり』と申しますだが、そこを通りかかりますと、線路わきの原っぱに、この藁人形がころがっていましただ」
「ちょうど鶴子さんの倒れていた辺だね」
殿村が口をはさむ。
「へえ、だが、鶴子さんの死骸は線路の土手のすぐ下でしたが、この人形は線路から十間も離れた、原っぱの中にころがっていました」
「胸を刺されてね」
「へえ、これでございますよ。藁人形の胸の辺に、こんな短刀が突きささっておりましただ」
爺さんは、小屋へはいって、藁人形を抱え出してきた。見ると、なるほど、胸の辺の藁がズタズタに斬りきざまれて、そこに小型の白鞘の短刀が、心臓をえぐった形で、突き立ててあった。
「呪いの|人《ひと》|型《がた》だ……しかもそれが、ちょうど殺人事件の四日前、殺人現場の付近に捨ててあったというのは、何か意味がありそうじゃないか」
「フーン、なるほど」
国枝氏もこの二つの殺人事件の(人形と人間との)不思議な一致を無視するわけにはいかぬ。いやそれよりも、胸をえぐられた藁人形の死骸が、なんともいえぬ妙な、ゾーッと寒気のするような感じを与えたのだ。
「それで、君はどうしたの」
「へえ、わしは、村の子供たちがいたずらをしたのだろうと、別に気にもとめないで、たきつけにするつもりでこの小屋へほうり込んでおきましただ。短刀も抜くのを忘れて、ついそのままにしておきましただ」
「で、この藁人形のことは、誰にも話さなかったのだね」
「へえ、まさかこれが今度の事件の前兆になろうとは思わなかったもんでね。ああ、そうそう、一人だけこれを見た人がありますよ。ほかでもねえ山北の鶴子さんだ。あの方がちょうど藁人形を拾ったあくる日、ひょっくり番小屋へ遊びにござらっしてね、わしの娘がそれを話したもんだから、じゃあ見せてくれってね、この小屋をあけて中を覗いて見なすったですよ。因縁ごとだね。お嬢さんも、まさかこの人形と同じ目にあおうとは知らなかったでございますべえ」
「ホウ、鶴子さんがね。君の家へ……よく遊びにきたのかね」
「いいえ、めったにないことでございます。あの日は、娘のお花に何かくれるものがあるといって、それを持って、久しぶりでお出でなさったのですよ」
さて、一応聞き取りをすませると、国枝氏は藁人形はのちほど警官に取りにこさせるから、大切に保管してくれるように頼んでおいて、番小屋を引き上げることにした。
「偶然の一致だよ。おそらく爺さんのいったように、村の子供たちのいたずらに違いない。犯人が、実際の人殺しをやる前に、藁人形で試験をしたというのもおかしいし、又、その人形を同じ場所へ捨てておくなんて、実に愚かな仕業だからね」
実際家の国枝検事は、探偵小説家の神秘好みに同意できなかった。
「そんなふうに考えれば、犯罪事件とは無関係のように見えるかもしれない。しかし、もっと別な考え方がないとは言いきれまい。僕は何かしらわかりかけてきたような気がする。殊に、鶴子さんが藁人形を見にきたという点が非常に面白い」
「見にきたわけじゃないだろう」
「いや、見にきたのかもしれない。爺さんの口ぶりから考えても、これという用事があったのではないらしいから、鶴子さんがお花を訪ねたほんとうの目的は、案外藁人形を見るためだったかもしれない」
「何か突飛な空想をやっているんだね。しかし、実際問題は、そんな手品みたいなもんじゃないよ」
国枝検事は殿村の妄想を一笑に付し去ったが、それが果たして妄想にすぎなかったかどうか、やがてわかる時がくるだろう。
恐ろしき陥穽
その翌日も、国枝検事は、警察署長と連れ立って、小学校の臨時捜査本部へやってきたが、彼が例の調べ室へはいった時には、一夜のあいだに、刑事たちの奔走によって、実に
重大な証拠物件が取り揃えられてあった。
その証拠物件によって、事件は急転直下、あまりにもあっけなく終結したかに見えた。恐るべき殺人犯人は確定したのだ。のっぴきならぬ証拠があがったのだ。
間もなく、調べ室のテーブルの前には大宅幸吉が呼び出され、きのうと同じように国枝検事と対坐していた。
「ほんとうのことをいってください。あの日君はN市へなぞ行かなかったのでしょう。たとえ行ったとしても、七時までには村へ帰って、それからずっと村内のどこかにいたのでしょう。君があの夜、帰宅したのは十二時頃だというから、それまで、どこかお宮の境内とか、森の中とかで過ごしたのでしょう」
国枝検事はきのうと違って、確信に充ちた態度で、落ちつき払って取調べをはじめた。
「何度お尋ねになっても同じことです。僕はN市からまっすぐに徒歩で帰宅したのです。お宮や森の中にいるはずがありません」
幸吉は平然として答えたが、青ざめた顔色に、内心の苦悶を隠すことはできなかった。彼はすでに検事の握っている証拠物件に気づいていたからだ。そののっぴきならぬ証拠を、いかに言い解くべきかと、心を千々に砕いていたからだ。
「ああ、君にお知らせしておくことがあったのです」検事はまったく別のいとぐちからはいって行った。「鶴子さんは細身の刃物で心臓をやられていたのです。たぶん短刀でしょう。ついさきほど、解剖の結果がわかったのです。で、つまりですね。この犯罪には血がある。被害者は血を流して斃れた。したがって、加害者の衣服などに、血痕が付着したかもしれないと考えるのは、きわめて自然なことですね」
「そ、そうでしたか。やっぱり他殺でしたか」
幸吉は絶望の表情でうめいた。
「ところで、加害者は、もし衣服などに血痕が付着したとすれば、それをどんなふうに処分するでしょう。君だったら、どうしますか」
「よしてください」
幸吉は気でも違ったのではないかと思われるような、突拍子もない声で叫んだ。
「そんな問いかたはよしてください。僕は知っているのです。刑事が僕の部屋の縁の下から這い出して行くのを見たのです。僕は少しも覚えがないけれど、縁の下に何かがあったのでしょう。それを言ってください。それを見せてください」
「ハハハハハ、君はお芝居が上手ですね。君の部屋の縁の下に隠してあった物を、君は知らないというのですか。よろしい。見せてあげよう。これだ。これが君の常用していた|浴衣《ゆ か た》であることは、ちゃんと調べが届いているのだよ。さあ、この血痕はなんだ。これが鶴子さんの血でないとでもいうのか」
検事は威丈高に言って、テーブルの下から、もみくちゃになった一枚の浴衣を取り出し、幸吉の前にさし出した。見ると、浴衣の袖や裾に、点々として血痕が付着している。
「僕にはまったくわけがわかりません。どうしてこんなものが僕の部屋の縁の下にあったのか。浴衣は僕のもののようです。しかし血痕はまったく覚えがありません」
幸吉は追いつめられたけだもののように、眼を血走らせ、やっきとなって叫んだ。
「覚えがないではすむまいよ」検事は落ちつき払って、
「第一はKの署名ある呼び出し状、第二は実に不思議なアリバイの不成立、第三はこの浴衣だ。君はその一つをも言い解くべき反証を示し得ないじゃないか。これほど証拠が揃って、しかも弁解が成り立たないとしたら、もはや犯罪は確定したといってもいい。私は君を、山北鶴子殺害の容疑者として起訴するほかはないのだ」
検事が言い終ると、署長の眼くばせで、二人の警官が、ツカツカと幸吉のそばに近づき、左右からその手を取った。
「待ってください」
幸吉はゾッとするような死にもの狂いの表情になって絶叫した。
「待ってください。君たちの集めた証拠はみんな偶然の暗合にすぎない。そんなもので罪におとされてたまるものか。第一、僕には動機がないのだ。僕が、なんの恨みもない|許嫁《いいなずけ》の少女を、なぜ殺さなければならないのか」
「動機だって? 生意気をいうな」署長がたまりかねてどなった。「君は情婦があるじゃないか。そいつと切れるのがいやさに、せき立てられる結婚を一日延ばしに延ばしてきたんじゃないか。しかし、もうこれ以上は延期できない事情になっていた。君のうちと山北家との複雑な関係から、この結婚はもう一日も延ばし得ない状態になっていた。もしこの結婚が不成立に終ったら、君の一家は山北家はもちろん、村じゅうに対して、顔向けもできない事情があったのだ。君はせっぱ詰まった窮境に立った。そして、とうとう鶴子さんさえなきものにすればと、むちゃな考えを起こしたのだ。これでも動機がないというのか。こちらではなにもかも調べ上げてあるのだよ」
「ああ、|陥《かん》|穽《せい》だ。おれは恐ろしい陥穽にはめられたのだ」
幸吉はとっさに返す言葉もなく、半狂乱に身もだえするばかりであった。
「幸ちゃん、しっかりしたまえ。君は忘れているんだ。もうこうなったら、ほんとうのことを言いたまえ。ほら、君にはちゃんとアリバイがあるじゃないか。N市に住んでいる女の人に証言してもらえばいいじゃないか」
人々のうしろから、殿村昌一が躍り出して、叫んだ。彼は友だちの苦悶を見るに見かねたのだ。
「そうだ。検事さん、N市×町×番地を調べてください。そこに僕の恋人がいるんです。僕は事件の夜、ずっとそこにいました。散歩したなんて嘘です。その人の名は絹川雪子っていうんです。雪子に聞いてください」
幸吉はついにひそかなる恋人の名を隠しておくことができなくなった。
「ハハハハハ、何を言っているんだ、君の情婦の証言なんか当てになるか。その女は君の共謀者かもしれんじゃないか」
署長が一笑に付した。
「いや、その女の証言をとるくらいの手数はなんでもありません。あんなに言っているのだから、警察電話で、本署へ至急取調べて返事をしてくれるようにお命じになってはいかがです」
国枝氏のとりなしで、ともかく雪子という女を取調べさせることに決した。雪子はどうせ一度は調べなければならない人物なのだから。
待ち遠しい一時間が経過して、駐在所からの電話の返事を持って、一人の刑事が駈けつけてきた。
「絹川雪子は、一昨夜大宅は一度もこなかった。何かの間違いでしょうと答えたそうです。幾度尋ねても同じ返事だったそうです」
刑事が報告した。
「それで、雪子は当夜ずっと在宅していたかどうかは?」
「それは雪子が二階借りをしている婆さんを取調べた結果、確かに在宅していたことがわかったということです」
もし雪子が当夜外出したとなると、彼女にも鶴子殺しの疑いがかかるわけだ。彼女もまた幸吉と同じ動機を持っていたからである。しかし、外出した模様もなく、恋人の幸吉にとってはもっとも不利な証言をしたところを見ると、雪子は何も知らぬらしい。全然この事件の圏外においてさしつかえないわけだ。
国枝氏は再び幸吉を面前に呼び出して、刑事からの報告を伝えた。
「さあ、これで君のためにできるだけのことをしたわけだ。もう異存はあるまいね。君の情婦さえアリバイを申し立ててはくれなかったのだ。観念した方がいいだろう」
「嘘だ。雪子がそんなことを言うはずがない。会わせてください。僕を雪子に会わせてください。あれがそんなばかなことを言う道理がない。君たちはいい加減のことを言って、僕をおとしいれようとしているのだ。さあ、僕をN市へ連れて行ってください。そして雪子と対決させてください」
幸吉はじだんだを踏まんばかりにして、わめいた。
「よしよし、会わせてやる。会わせてやるからおとなしくするんだ」
警察署長は見えすいた猫撫で声をしながら、ギロリとするどい眼で部下に合図をした。
二名の警官が、よろめく幸吉の手を掴んで、荒々しくドアのそとへ引きずり出してしまった。
大宅村長の若旦那幸吉は、果たして恐ろしい殺人犯人であったか。もしや彼は何者かのために、抜き差しならぬ陥穽におとしいれられたのではあるまいか。ではその真犯人は一体全体どこに隠れているのであろう。探偵小説家殿村昌一は、この事件において、いかなる役割を勤めるのか。彼があのように重大に考えていた藁人形には、そもそもどんな意味があったのか。
雪子の消失
S村の村長の息子である大宅幸吉が、その許嫁山北鶴子惨殺犯人の容疑者として拘引せられた。
幸吉はあくまで無実を主張したが、第一、のっぴきならぬ血染めの|浴衣《ゆ か た》という証拠品があり、犯罪当夜のアリバイが成り立たず、その上彼には許嫁を殺害しかねまじき動機さえあったのだ。
幸吉は鶴子を嫌いぬいていた。彼にはN市に絹川雪子というひそかなる恋人があって、その恋をつづけるためには、結婚を迫まる|許嫁《いいなずけ》は、何よりの邪魔者であった。しかも、幸吉一家には、鶴子の家に対して、この許嫁を取消し得ない、苦しい浮世の義理があった。幸吉が結婚を承知しなければ、父大宅氏は村長の栄職をなげうって、S村を退散しなければならないほどの事情があった。
一方、山北家では、その事情をふりかざして、矢のように婚礼の日限を迫まってくる。したがって、大宅氏夫妻は、泣かんばかりに幸吉を責めくどく。恋に狂った若者が、こんな羽目におちいった時、その許嫁の女を憎み、呪い、はては殺意をさえ抱くに至るのは、至極ありそうなことではないか。というのが、検事や警察の人々の意見であったのだ。
動機あり、証拠品あり、アリバイなし。もはや幸吉の有罪はなにびともくつがえすことができないように見えた。
だが、ここに、幸吉の両親大宅氏夫妻のほかに、彼の有罪を信じない一人の人物があった。それは、幸吉の親友でS村に帰省中たまたまこの事件にぶっつかった探偵小説家殿村昌一だ。
彼は幼年時代からの幸吉の友だちで、その気心を知りつくしていたから、いかに恋に狂ったとはいえ、彼が罪もない許嫁の鶴子を殺すなどとは、どう考えても信じられないのであった。
彼は今度の事件について、一つの不可思議な考えを抱いていた。それは殺人の行なわれた五日前に、ほとんど同じ場所に、等身大の藁人形が、しかも短刀で胸を刺されて倒れていたことを出発点とする、まことに突飛千万な幻想であった。そんなことを、国枝検事などに話せば、小説家の空想として、たちまち一笑に付し去られるは知れきっていたから、彼はそれについて、何事も口にしなかったけれど、親友の幸吉が無実を主張しながら拘引された上は、親友を助ける意味で、彼は彼の幻想にもとづいて、一つこの事件を探偵してみようと決心した。
ではどこからはじめるか。経験のない殿村には、ちょっと見当がつきかねたが、何はさておき、先ずN市の絹川雪子を訪問してみなければならないように感じられた。
幸吉は犯罪当夜、雪子のところへ行っていたと主張し、雪子は警察に対してハッキリそれを否定している。この奇妙な矛盾はいったい何からきているか。先ずそれを解くのが先決問題だと思った。
そこで、幸吉が拘引された翌朝、彼はN市への乗合自動車に乗った。むろん雪子とは初対面である。この恋人のことは、幸吉が誰にもうちあけていなかったので、S村の人はもちろん、幸吉の両親さえも、雪子を知らず、検事の取調べの際、幸吉が告白したので、はじめてその住所なり姓名なりを知ったほどであった。
殿村はN市へ着くと、ただちに駅に近い雪子の住所を訪問した。ゴタゴタした小工場などに挾まれた、くすぶったような二階建ての長屋の一軒がそれであった。
案内を乞うと、六十あまりのお婆さんが眼をしょぼしょぼさせて出てきた。
「絹川雪子さんにお目にかかりたいのですが」
と来意を告げると、老婆は耳に手を当てて、
「え、どなたでございます」
と顔をつき出す。眼もわるく、耳も遠いらしい。
「あなたのところの二階に、絹川という娘さんがいらっしゃるでしょう。その人にお目にかかりたいのです。僕は殿村という者です」
殿村は老婆の耳に口を寄せて大声にどなった。
すると、その声が二階に通じたのか、玄関から見えている階段の上に、白い顔が覗いて、
「どうか、こちらへお上がりくださいませ」
と答えた。その娘が絹川雪子に違いない。
まっ黒にすすけた段梯子を上がると、二階は六畳と四畳半の二た間きりで、その六畳の方が雪子の居間と見え、女らしく綺麗に飾ってある。
「突然お邪魔します。僕はS村の大宅幸吉君の友だちで殿村というものです」
挨拶をすると、雪子は、丁寧におじぎをして、
「わたし絹川雪子でございます」
と言ったきり、恥かしそうにうつむいて、だまっている。
見ると、雪子の様子が少し意外である。殿村は、幸吉があれほどに思っていた娘さんだから、定めし非常に美しい人であろうと想像してきたのに、いま目の前にツクネンと坐っている雪子は、どうも美しいとはいえないばかりでなく、まるで淫売婦のような感じさえするのだ。
髪は洋髪にしているが、それが実に下手な結い方で、額に波打たせた髪の毛が、眉を隠さんばかりに垂れ下がり、顔には白粉や紅をコテコテと塗って、その上虫歯でも痛いのか、右の頬に大きな膏薬をはりつけているという始末だ。
殿村は、幸吉が何を物好きに、こんな変てこな女を愛したのかと疑いながら、ともかくも、幸吉の拘引せられた顛末を語りきかせ、犯罪の当日、彼はほんとうに雪子を訪問しなかったのかと糺した。
すると、なんという冷淡な女であろう。雪子は恋人の拘引をさして悲しむ様子もなく、言葉少なに、その日幸吉は一度もこなかった旨を答えた。
殿村は話しているうちに、だんだん変な気持になってきた。雪子という女が、感情を少しも持たぬ、人造人間かなんかのようにさえ思われて、一種異様の無気味さを感じないではいられなかった。
「それで、あなたは、今度の事件をどう思います。大宅君が人殺しなぞできる男だと思いますか」
少々癪にさわって、叱りつけるようにいうと、相手は相変らずの無感動で、
「あの人が、そんな大それたことをなさるとは思われませんけれど……」
と実に煮えきらぬ返事だ。
この女は恥かしがって感情を押し殺しているのか、真からの冷血動物なのか、それとも、もしかしたら、幸吉をそそのかして鶴子を殺害せしめた張本人であるために、その罪の恐怖に脅えきって、こんな様子をしているのか、まったくえたいのしれぬ、不思議な感じであった。
彼女が何かにひどく脅えていることは確かで、ちょうどその家の裏が駅の構内になっているものだから、絶えず機関車の往き来する音が聞こえ、時々はすぐ窓のそとで、するどい汽笛が鳴り響くのだが、そんな物音にも雪子はビクッと身を震わせて驚くのだ。
雪子はこのうちの二階を借りて、一人で暮らしているらしい。調度などがなんとなく職業婦人を思わせる。
「どこかへお勤めなんですか」
と尋ねてみると、
「ええ、少し前まであるかたの秘書を勤めていましたが、今はどこへも……」
と口の中でモグモグいう。
なんとかして本音を吐かせようと、なおいろいろ話しかけてみたが、雪子はだまり勝ちで少しも要領を得ない。絶えずうつむいて、眼をふせて、口をきく時も、殿村を正視せず、まるで畳と話をしているようなあんばいだ。
結局、殿村は、この雪子の執拗な沈黙をどうすることもできず、一と先ずその家を辞去することにしたが、いとまを告げて、階段を降りかけても、雪子は座敷に坐って頭を下げているばかりで、下へ送ってこようともせぬ。
玄関の土間に降りると、それでも、例のお婆さんが見送りに出てきたので、殿村は、念のために、その耳に口を寄せて、
「きょうから三日前、つまりさきおとといですね。絹川さんのところへ男のお客さんはなかったですか、ちょうどわたしくらいの年配の」
と尋ねてみた。二階の雪子に気兼をしながら、二、三度繰り返すと、やっと、
「さあ、どうでございましたかね」
という返事だ。だんだん聞いてみると、このうちはお婆さん独り暮らしで、二階を雪子に貸しているのだが、からだが不自由なため、いちいち取次ぎなどはせず、雪子のお客さまは、勝手に階段を上がって行くし、夜なども、客がおそく帰る時は、雪子が表の戸締まりをすることになっているらしい。つまり、二階と下とがまったく別々のアパートみたいなもので、たとえあの日幸吉が雪子を訪ねたとしても、このお婆さんは、それを知らないでいたかもわからぬのだ。
殿村はひどく失望してその家を出た。そして、考え込みながら、足元を見つめて歩いていると、
「やあ、あなたもここでしたか」
突然声をかけたものがある。
びっくりして見上げると、S村の小学校の取調べ室で知り合った、N警察の警官だ。まずいやつに出くわしたと思ったが、嘘をいうわけにもいかぬので、雪子を訪問したことを告げると、
「じゃあ、うちにいるんですね。そいつはいいぐあいだ。実はあの女を取調べることになって、今呼び出しに行くところです。急ぎますから失敬します」
警官は言い捨てて、五、六間向こうに見えている雪子の下宿へ走って行った。
殿村は、なぜかそのまま立ち去る気にはなれず、そこにたたずんで、警官の姿が格子戸の中へ消えるのを見送っていた。
警官に引き連れられた雪子が、どんな顔をして出てくるかと、ちょっと好奇心を起こして待っていると、やがて、再び格子戸のあく音がして、警官が出てきたが、雪子の姿は見えぬ。そればかりか、警官は殿村がまだそこに立っているのを見つけると、怒ったような声で、
「困りますね、でたらめをおっしゃっては。絹川雪子はいないじゃありませんか」
と言った。
「え、いないって?」殿村は面喰らって「そ、そんなはずはありませんよ。いま僕が逢ってきたばかりですからね。僕がたった五、六間歩くあいだに、外出できっこはありませんよ。ほんとうにいないのですか」
と信じられぬ様子だ。
「ほんとうにいないのです。婆さんに尋ねても不得要領なので、二階へ上がってみたんですが、猫の子一匹いやしない。じゃあ、裏口からでも外出したのかもしれませんね」
「さあ、裏口といって、裏は駅の構内になっているのだが……ともかく僕も引き返して調べてみましょう。いないはずはないのだがなあ」
そこで、二人はもう一度その家の格子戸をあけて、婆さんに尋ねたり、家探しをしたりしたが、結局、絹川雪子は煙のように消え失せてしまったことが確かめられたばかりであった。
さいぜん警官がはいって行った時、婆さんは殿村を送り出して、まだ玄関の、しかも階段の降り口に立っていたのだから、いくら眼や耳のうとい老人でも、雪子がその階段を降りてくるのを気づかぬはずはなかった。
なお念のために、履物を調べさせてみたけれど、雪子のはもちろん、婆さんの履物も、一足もなくなっていないことがわかった。
雪子が外出しなかったことは、もはや疑う余地がないのだ。ではもう一度二階を調べてみようと、梯子段を上がり、押入れの中や、天井裏まで覗いてみたが、やっぱり人のけはいはない。
「この窓から、屋根伝いに逃げたんじゃないかな」
警官が窓のそとを眺めながら口走った。
「逃げたって? 何かあの人が逃げ出す理由でもあるのですか」
殿村がびっくりしたように聞き返した。
「もしあの女が、共犯者であったとすれば、僕の声を聞いて逃げ出さぬとも限りませんよ。しかし、それにしても……」
警官はその辺の屋根を眺めまわして、
「この屋根じゃ、どうも逃げられそうもないな。それに、すぐ下の線路に、多勢工夫がいるんだし」
いかにも窓の下は、すぐ駅の構内になっていて、何本も汽車のレールが並び、その一本は、修繕中とみえて、四五人の工夫が鶴嘴を揃えて仕事をしている。
「オーイ、今この窓から、線路へ飛び降りたものはないかあ」
警官が大声に、工夫たちに尋ねた。
工夫たちは驚いて窓を見上げたが、むろん雪子がそんな人眼につく場所へ飛び降りるはずはなく、彼らは何も見なかったと答えた。又、雪子が屋根伝いに逃げたとすれば、工夫たちが気づかぬわけはないから、これも不可能なことだ。
つまり、あのお化けのように白粉を塗った、妖怪じみた娘は、気体となって蒸発したとでも考えるほかには、解釈のしようがないのであった。
殿村は狐につままれたような、夢でも見ているような、なんともいえぬ変てこな気持になって、空ろな眼で窓のそとを眺めていた。
頭の中に無数の微生物が、モヤモヤと入り乱れて、そのあいだを、胸に短刀を刺された藁人形や、壁のように白い雪子の顔や、赤はげになった顔の中から、まん丸に飛び出していた鶴子の眼の玉などが、スーッスーッと現われては消えて行った。
そして、頭の中が闇夜のように、あやめも分かぬ暗さになった。その暗い中から、徐々に、異様な物の影が浮き上がってきた。なんだろう。棒のようなものだ。鈍い光をはなっている棒のようなものだ。それが二本並行にならんでいる。
殿村はその棒のようなものの正体を掴もうとして、悶え苦しんだ。
すると、突然、パッと、頭の中が真昼のように明かるくなった。謎が解けたのだ。まるで奇蹟みたいに、すべての謎が解けたのだ。
「高原療養所だ。ああ、わかったぞ。君、犯人のありかがわかりましたよ。国枝君はまだこちらにいますか。警察ですか」
殿村が気違いのように、叫び出したので、警官は面喰らいながらも、国枝検事がちょうど今警察署にきている旨を答えた。
「よろしい。じゃあ君はすぐ帰って、国枝君に僕が行くまで待っているように伝えてください。殺人事件の犯人を引き渡すからといってね」
「え、犯人ですって。犯人は大宅幸吉じゃありませんか。あなたは何をばかなことをおっしゃるのです」
警官が仰天して叫んだ。
「いや、そうじゃないのです。犯人はほかにあることが、今やっとわかったのです。想像もできない邪悪です。ああ、恐ろしいことだ。ともかく、国枝君にそう伝えてください。僕がすぐあとから行って説明します」
殿村が気違いのように、繰り返し繰り返し頼むので、事情はわからぬながら、煙にまかれてしまって、警官はアタフタと署に帰って行った。国枝検事の親友である殿村の言葉を、無下にはねつけるわけにもいかなかったのだ。
途中で警官に別れると、殿村はいきなり駅にかけつけ、駅員をとらえて、奇妙なことを尋ねた。
「きょう午前九時発の上り貨物列車には、材木を積んでいましたか」
駅員は、びっくりして、ジロジロ殿村の顔を眺めていたが、なんと思ったのか、親切に答えてくれた。
「積んでました。材木を積んだ無蓋貨車が、確か三台あったはずです」
「で、その貨物列車は、次のU駅には停車することになっているのですか」
Uというのは、S村とは反対の方角にある、N市の次の駅なのだ。
「ええ、停車します。Uではいくらか積み卸しがあったはずです」
それだけ聞き取ると、殿村は駅を走り出して、駅前の自動電話に飛び込み、U町の郊外にある、有名な高原療養所を呼び出して、何か入院患者のことをしきりと尋ねていたが、これも満足な答えが得られたとみえ、通話が終ると、そのまま、勢い込んで警察署へと駈けつけた。
国枝氏は署長室にただ一人、ぽつねんと腰かけていたが、突然殿村が取次ぎもなく飛び込んできたので、あっけにとられて立ち上がった。
「殿村君、君の酔狂にも困るね。お上のことはお上に任せておきたまえ。小説家の|俄《にわか》刑事なんかが成功するはずはないのだから」
国枝氏は苦りきって、きめつけた。
「いや、俄刑事であろうとなんであろうと、この歴然たる事実を知りながら、だまっているのは、むしろ罪悪だ。僕は真犯人を発見したのだ。大宅君は無罪だ」
殿村は昂奮のあまり、場所がらをもわきまえず絶叫した。
「静かにしてくれたまえ。お互いは気心を知り合った友だちだからいいけれど、警察の連中にこんなところを見られては、少しぐあいがわるいのだから」
国枝氏は困りきって、気違いのような殿村をながめながら、
「で、その真犯人というのは、いったい何者だね」
と尋ねた。
「いや、それは君自身の眼で見てくれたまえ。U町まで行けばいいのだ。犯人は高原療養所の入院患者なんだ」
殿村の言い草はますます突飛である。
「病人なのかい」
国枝氏はびっくりして聞き返した。
「ウン、まあ病人なんだ。本人は仮病を使っているつもりだろうが、その実救いがたい精神病者なのだ。気違いなのだ。そうでなくて、こんな恐ろしい殺人罪が考え出せるものか。探偵小説家の僕が、これほど驚いているのでもわかるだろう」
「僕には何がなんだかサッパリわからないが……」
国枝氏は、殿村こそ気が違ったのではないかと、心配になり出した。
「わからないはずだ。どこの国の警察記録にも前例のない事件だよ。いいかい。君たちは実に飛んでもない思い違いをしているのだ。もしこのまま審理をつづけて行ったら、君は職務上実に取り返しのつかぬ失策を仕出かすのだよ。だまされたと思って、僕と一緒に高原療養所へ行ってみないか。信用できなかったら、検事としてでなく、一個人として行けばいい。たとえ僕の推理が間違っていたところで、ホンの二時間ほど浪費すればすむのだ」
押し問答をつづけた末、結局、国枝氏は旧友の熱誠にほだされ、いわば気違いのお守りをする気で、療養所へ同行することになった。むろん警察の人々にはそれといわず、ちょっと私用で出掛けるていにして、自動車の用意を頼んだ。
真犯人
高原療養所へは、国道を飛ばして、四十分ほどの道のりだ。雪子のうちを家探しして一時間以上つぶしたのと、国枝検事を説きつけるために手間どったので、彼らが療養所へ着いたのは、もうお|午《ひる》過ぎであった。
療養所は駅の少し手前、美しい丘の中腹に、絵のようにひろがっている白堊の建物だ。車を門内に入れて、受付に来意をつげると、すぐさま院長室に通された。
院長の児玉博士は、専門の医学のほかに、文学にも堪能で、殿村などとも知り合いであったから、さいぜん殿村からの電話を聞いて、彼らのくるのを待ち受けていたほどである。
「さっき電話でお尋ねの人相の婦人は、北川鳥子という名で入院してますよ。お言葉によってそれとなく見張りをつけておきました」
挨拶がすむと院長が言った。
「あの女がここへやってきたのは、|何《なん》|時《じ》頃でしょうか」
殿村が尋ねる。
「そうです。けさ九時半頃でしたか」
「で、病状はどんなふうなのですか」
「まあ、神経衰弱でしょうね。何かショックを受けて、ひどく昂奮しているようです。別に入院しなければならないほどの症状ではありませんが、御承知のとおり、ここは病院というよりは一種の温泉宿なんですから、本人の希望次第で入院を許すことになっているのです……あの人が何か悪いことでもしたのですか」
院長はまだ何も知らぬのだ。
「殺人犯人なのです」
殿村が声を低めて言いはなった。
「え、殺人犯人ですって?」
「そうです。御承知のS村の殺人事件の下手人です」
院長は非常な驚きにうたれ、あわただしく医員を呼んで、北川鳥子の病室へ案内させてくれた。
国枝氏も殿村も、その病室のドアをひらく時には、さすがに心臓のただならぬ鼓動を感じないではいられなかった。
思いきって、サッとドアを引くと、入口の真正面に、絹川雪子が脅えた眼を、はりさけんばかりに見ひらいて、突っ立っていた。北川鳥子とは、ほかならぬ絹川雪子であった。いや、少なくとも絹川雪子と称する女であった。
彼女はけさ逢ったばかりの殿村を忘れるはずはない。そのうしろに立っている国枝検事は知らなかったけれど、このあわただしい闖入が好意の訪問であろうはずはない。彼女はとっさのあいだにすべてを悟ってしまった。
「アッ、いけない」
突然殿村が雪子のからだに飛びついて、その手から青い小さなガラス瓶をもぎ取った。彼女はどこで手に入れたか、万一の場合に備えて毒薬を用意していたのだ。
毒薬を奪われた娘は、最後の力尽きて、くずれるように倒れ伏し、物狂わしく泣き入った。
「国枝君、けさ絹川雪子が、部屋の中で消え失せてしまったことを聞いているだろう。あの部屋から姿を消したこの女は、すばやくも、療養所の入院患者になりすましていたのだよ」
殿村が説明した。
「だが、待ちたまえ。それは少しおかしいぜ」
国枝氏は何か腑に落ちぬらしく、絶え入らんばかりに泣き入っている女を見おろしながら、
「絹川雪子は犯罪の行なわれた日は一度も外出しなかったはずだ。それに、被害者の山北鶴子は、雪子にとって恋の敵でもなんでもない。大宅は完全に雪子のものだったのだからね。その雪子が何を好んで、命がけの殺人罪などを企てたのだろう。どうもおかしいぜ。この女は神経衰弱のあまり、変な幻想を起こしているのではないかしら」
と妙な顔をする。
「さあ、そこだよ。そこに非常な錯誤があるのだ。犯人のずば抜けたトリックがあるのだ。君は犯人を大宅幸吉ときめてかかっている。それが間違いだ。君は被害者を山北鶴子ときめてかかっている。そこに重大な錯誤があるのだ。被害者も犯人も、君たちには少しもわかっていないのだ」
殿村が奇怪千万なことを言い出した。
「え、え、なんだって?」
国枝氏は飛び上がらんばかりに驚いて叫んだ。
「被害者が山北鶴子ではないって? じゃいったい誰が殺されたのだ」
「あの死骸は犬に食い荒される以前、おそらく顔面をめちゃめちゃに傷つけてあったに違いない。そうして人相をわからなくした死骸に、鶴子の着物や装身具をつけて、あすこへ捨てておいたのだ」
「だが君、それじゃあ鶴子の行方不明をどう解釈すればいいのだ。田舎娘が親に無断で三日も四日も帰らないなんて、常識では考えられないことだ」
「鶴子さんは絶対に家に帰るわけにはゆかなかったのだ。僕はね、大宅君から聞いているのだが、鶴子さんは非常な探偵小説好きで、英米の犯罪学の書物まで集めていたそうだ。僕の小説なんかも残らず読んでいたそうだ。あの人は君が考えているような、単純な田舎娘ではないのだよ」
殿村は必要以上に高い声で物を言った。国枝氏ではない誰かもっと別の人に話しかけてでもいるように。
国枝氏はますます面喰らって、
「なんだか、君は鶴子さんを非難しているように聞こえるが」
と反問した。
「非難だって? 非難どころか、あいつは人殺しなんだ。極悪非道の殺人鬼なんだ」
「え、え、すると……」
「そうだよ。山北鶴子は君が信じているように被害者ではなくて加害者なんだ。殺されたのではなくて殺したのだ」
「誰を、誰を」
国枝検事は、殿村の興奮につり込まれて、あわただしく尋ねた。
「絹川雪子をさ」
「オイオイ、殿村君、君は何を言っているのだ。絹川雪子は、現に僕らの目の前に泣き伏しているじゃないか。だが、ああ、それとも、もしや君は……」
「ハハハハハ、わかったかい。ここにいるのは絹川雪子の仮面をかぶった山北鶴子その人なんだ。鶴子は大宅君を熱愛していた。両親を責めて結婚をせき立てたのも鶴子だ。この人が大宅君の心を占めている絹川雪子の存在を、どんなに呪ったか、また自分からそむき去った大宅君をどれほど恨んだか。想像に難くはない。そこでその二人に対して恐ろしい復讐を思い立ったのだ。恋の|敵《かたき》の雪子を殺し、その死骸に自分の着物を着せて、大宅君に殺人の嫌疑がかかるように仕組んだのだ。一人は殺し、一人には殺人犯人として恐ろしい刑罰を与える。実に完全な復讐ではないか。しかもその手段の複雑巧妙をきわめていたこと、さすがは探偵小説や犯罪学の研究家だよ」
殿村はそこで、泣き伏している鶴子に近づき、その肩に手を当てて話しかけた。
「鶴子さん、聞いていたでしょうね。僕の言ったことに何か間違いがありますか。ありますまい。僕は探偵小説家です。君のすばらしい思いつきがよくわかりますよ。けさ絹川雪子の部屋で逢った時は、君の巧みな変装にだまされて、つい気がつかなんだけれど、君と別れてから、僕はハッと思い出したのです。S村でたった一度話をしたことのある山北鶴子の面影を、その不恰好な洋髪や、厚化粧の白粉の下から、ハッキリ思い浮かべることができたのです」
鶴子はもはや観念したものか、泣きじゃくりをしながら、殿村の言葉をじっと聞いている。その様子が、殿村の推察が少しも間違っていないことを、肯定しているように見えた。
「すると、鶴子は絹川雪子を殺しておいて、その殺した女に化けていたのだね」
国枝氏が驚愕の表情をおし殺すようにして口をはさんだ。
「そうだよ。そうする必要があったのだ」殿村がすぐ引き取って答える。「せっかく雪子の死骸の顔を傷つけて鶴子と見せかけても、当の雪子が行方不明になったのでは、疑いを受ける元だ。そればかりではなく、鶴子が殺されたていを装うためには、鶴子こそ行方をくらまさなければならぬ。そこで鶴子が一時雪子に化けてしまえば、この二つの難題を同時に解決することができるじゃないか。その上、雪子に化けて、大宅君のアリバイを否定し、いや応なしに罪に陥してしまう必要もあったのだからね。実にすばらしい思いつきだよ」
なるほど、なるほど、雪子が恋人である大宅のアリバイを否定するのは変だと思ったが、それで辻褄が合うわけだ。
「それにはね」殿村が説明をつづける。「あの雪子の下宿というものが、実にお誂え向きにできていた。下には眼も耳もうといお婆さんがたった一人だ。外出さえしなければ化けの皮がはげる気遣いはない。又、たとえ人違いを看破するものがあったところで、まさか彼女が惨殺されたはずの山北鶴子だなどと誰が思うものか。広いN市に鶴子を知っている人は、ほんの数えるほどしかないはずだもの。
つまり、この女は、わが身を一生日蔭者にし、親子の縁をきってまでも、恋の恨みをはらしたかったのだ。むろん永久に絹川雪子に化けていることはできない。大宅君の罪が決定するのを見定めてから、どこか遠国へ身を隠すつもりであったに違いない。ああ、なんという深い恨みだろう。恋は恐ろしいね。このうら若い娘を気違いにしたのだ。いや鬼にしたのだ。嫉妬に燃える一匹の鬼にしたのだ。この犯罪は決して人間の仕業ではない。地獄の底から這い出してきた悪鬼の所業だ」
なんとののしられても、哀れな鶴子は、俯伏したまま石のように動かなかった。あまりの打撃に思考力を失い、あらゆる神経が麻痺して、身動きをする力もないかと見えた。
国枝氏は、小説家の妄想が、ピシピシと的中して行くのを、非常な驚きをもって、むしろ空恐ろしくさえ感じながら聞いていたが、しかし、まだまだ腑に落ちぬ点がいろいろあった。
「殿村君、すると大宅幸吉は別に嘘を言う必要もなく、又言ってもいなかったことになるが、思い出してみたまえ、大宅は犯罪の当夜おそくまで絹川雪子のところにいたと主張している。つまり雪子はその夜少なくとも十一時前後まではN市にいたはずだね。ところがその雪子が、同じ晩に遠く離れたS村で殺されていたというのは、少し辻褄が合わぬじゃないか。たとえ自動車が雇えたとしても、そんなに遅く若い女が一里半もある山奥へ出かけてゆくというのは、実に変だ。それにいくらか耄碌した婆さんだといって、雪子がそんな夜ふけに外出するのだったら、一とことくらい断わって行くだろうし、それを忘れてしまうはずもなかろうじゃないか。ところが、婆さんは、あの夜雪子は決して外出しなかったと証言しているのだぜ」
さすがに国枝氏は急所を突く。
「さあ、そこだよ。僕がどこの国の警察記録にも前例がないというのはその点だよ」
殿村はこの質問を待ちかまえていたように、勢いこんでしゃべりはじめた。
「実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せないような、驚くべき方法なんだ。このあいだ僕は仁兵衛爺さんが拾っておいた藁人形に関して、君の注意をうながしておいたはずだね。ほら、あの短刀で胸を刺されていたやつさ。あれはなんだと思う。犯人がね、その突飛千万な思いつきを試験するために使用したものだよ。つまり、あの藁人形をね、貨物列車にのせておいたなら、いったいどの辺で車上から振り落とされるものだかを試験してみたのだよ」
「え、なんだって? 貨物列車だって?」
国枝氏は又しても面喰らわざるを得ないのだ。
「手っ取り早くいうとね、こういうわけなのだよ。探偵小説愛読者である犯人は、犯罪というものは、どんなに注意をしても、現場に何かしら手掛りが残ることをよく知っていたのだ。で、自分は少しも現場に近寄らず、ただ被害者の死骸だけがそこにころがっているという、一見まったく不可能なことをなしとげようと企てた。
鶴子がどうしてそんな変なことを考えついたかというとね、この女は、恋人の敏感で、いつの間にか絹川雪子の住所をかぎつけ、雪子の留守のあいだに、あの二階の部屋へ上がってさえいたのだ。ね、そうですね、鶴子さん。そして、実に驚くべき発見をしたのだ。というのは、御承知のとおり、雪子の部屋はすぐ駅の構内に面していた。窓の真下に貨物列車専用のレールが走っている。で、そこを列車が通ると、レールの地盤が高くなっているものだから、貨物の箱の屋根が窓とスレスレに、一尺と隔たぬ近さで、雪子の部屋をかすめて行く。僕はけさあの部屋を訪ねて、この眼でそれを見たのだ。しかも、構内のことだから、貨物列車は貨車のつけ替えのために、ちょうど雪子の部屋の窓のそとあたりで停車することがある。鶴子さん、君はあれを見たのですね。そして今度の恐ろしい犯罪を決行する気になったのですね」
殿村は時々、泣き伏している鶴子に話しかけながら、複雑な説明をつづけて行った。
「そこで、この人は、やっぱり雪子の留守をうかがい、例の藁人形を持ち込んで、ちょうど窓の下に停車している有蓋貨車の屋根の上へ、その人形をソッとのせたのだ。括りもどうもしないのだから、汽車の動揺で、人形はどっかへ振り落とされるにきまっている。それがどの辺だか、大体の見当をつけようとしたわけだ。
長い貨物列車のことだから、それにS村のトンネルまでは道が上りになっているから、速力は非常にのろい。人形はなかなか落ちないのだ。そして、例のトンネルの近くまで進むと、勾配が終って少しスピードが出る。ちょうどその時、俗に大曲がりと称する急カーブにさしかかるのだ。列車がひどく動揺する。自然人形はそこで振り落とされることになる。
好都合にも、人形の落ちた所が、S村のはずれの淋しい場所と知ると、犯人はいよいよ殺人の決心を固めた。そして、大宅君が雪子を訪問する日を待ち構えていて、彼を尾行し、彼が雪子に別れて帰るのと入れ違いに、二階の部屋へ闖入して、相手の油断を見すまし、なんなく雪子をくびり殺してしまう。それから顔をめちゃめちゃに傷つけて、着物を着替えさせ、ちゃんと時間を調べておいた夜の貨物列車が、窓のそとに停るのを待って、屋根伝いにそこへ抱きおろす、という順序なのだ。鶴子さん、その通りでしたね。
死骸は目算どおり、トンネルのそばへ振り落とされた。その上なお好都合にも、あの辺の山犬が、まったく見分けのつかぬように皮膚を食い破ってしまった。一方、犯人の鶴子は、そのまま雪子の部屋に居残って、髪の形を変え、白粉を塗り、頬には膏薬をはり、雪子の着物を着、作り声をして、まんまと雪子になりすましていたのだ。
国枝君、これは君たち実際家には、まったく考えも及ばぬ空想だ。しかし若い探偵小説狂の娘さんには決して空想ではなかった。この人は無謀千万にもそれを実行してみせたのだ。おとなにはできない芸当だよ。
それから、きょうこの人があの二階で消え失せてしまった秘密も、君には説明するまでもなかろう。やっぱり同じ方法で、今度はS村とは反対の方角へ、材木をつんだ無蓋貨車のただ乗りをやったのだよ。さあ、鶴子さん、もし僕の推察に間違った点があったら訂正をしてください。たぶん訂正する必要はないでしょうね」
殿村は語り終って、再び鶴子に近づき、その肩に手をかけて引き起こそうとした。
とその瞬間、俯伏していた鶴子のからだが、電気にでも感じたように、大きくビクッと波打ったかと思うと、
「ギャッ」というような身の毛もよだつ叫び声を発して、彼女はガバとはね起きた。はね起きて、いきなり、断末魔の気違い踊りを踊り出した。
それを一と目見ると、殿村も国枝氏も、あまりの恐ろしさに、思わずアッと声を立ててあとじさりをした。
鶴子の顔は、涙のために厚化粧の白粉が、無気味なまだらにはげ落ちて、眼は血走り、髪は逆立ちもつれ、しかも見よ、彼女の口は夜叉のように耳までさけて、かみ鳴らす歯のあいだから、ドクドクとあふれ出るまっ赤な血のり。それが唇を毒々しくいろどり、網目になって顎を伝ってポトポトとリノリウムの床へしたたり落ちているではないか。
鶴子はついに舌を噛み切ったのだ。自殺しようとして舌を噛み切ったのだ。
「オーイ、誰かきてください。大変です。舌を噛み切ったのです」
意外の結果に狼狽した殿村は、廊下に飛び出して、声を限りに人を呼んだ。
かくしてS村の殺人事件は終りをつげた。舌を噛み切った山北鶴子は、可哀そうに死にきれず、永らく療養所の厄介になっていたが、傷口は快癒しても狂気は治らず、呂律の廻らぬ口で、あらぬことをわめきながら、ゲラゲラと笑うほかには、なんの能もない気違い女となり果ててしまった。
だが、それは後のお話。その日、舌噛み切った鶴子を院長に託し、鶴子の実家へは長文の電報を打っておいて、一と先ずN市へ引き返す汽車の中で、国枝検事は、親友の殿村に、こんなことを尋ねたものだ。
「それにしても、僕にはまだ呑み込めない点があるんだがね。鶴子が無蓋貨車の材木の中に隠れて、逃げ出したのはわかっているが、その行く先が高原療養所だということを、君はどうして推察したんだね」
鶴子の自殺騒ぎで、せっかく事件を解決した楽しさを、めちゃめちゃにされた殿村は、苦がい顔をして、ぶっきら棒に答えた。
「それは午前九時発の貨物列車が、ちょうど療養所の前で操車の都合上ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木のあいだに隠れたままU駅まで行ったのでは、貨物積み卸しの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしてもU駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには療養所の前で停車した折が絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りた所には、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に屈強の隠れがなんだよ。探偵小説狂の鶴子さんがそこへ気のつかぬはずはない。僕はこんなふうに考えたんだ」
「なるほど、聞いてみると、実になんでもない事だね。しかし、そのなんでもない事が、僕や警察の人たちにはわからなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机の引出しに残しておいた、Kの署名のある呼び出し状は、むろん鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めの|浴衣《ゆ か た》の方は、ちょっと解釈がむずかしいと思うが」
「それもなんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君の留守中にも、自由に遊びにきたに違いない。そして遊びにきているあいだに、機会を見て大宅君の着古しの浴衣を盗み出すのは造作もないことだ。その浴衣に血を塗って、丸めて、犯罪の前日あたりにあの縁の下へほうり込んでおくというのも、少しもむずかしいことではない」
「なるほど、なるほど、犯罪のあとではなくて、その前にあらかじめ証拠品を作っておいたというわけだね。なるほど、なるほど。しかし、あのおびただしい血のりはどこから取ったものだろう。僕は念のためにあれを分析してもらったが、確かに人間の血なんだよ」
「それは僕も正確には答えられない。しかしあのくらいの血を取ることは、さして困難ではないのだよ。例えば一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、茶呑茶碗に一杯くらいの血は取れる。それをうまく塗りひろげたら、あの浴衣の血痕なぞ造作なくこしらえられるよ。鶴子さんの腕をしらべてみれば、その注射針のあとが、まだ残っているかもしれない。まさか他人の血を盗むわけにもいくまいから、おそらくそんなことだろうよ。この方法は探偵小説なんかにもよく使われているんだからね」
国枝氏は感じ入って、幾度もうなずいて見せた。
「僕は君にお詫びしなければならない。小説家の妄想などと軽蔑していたのは、どうも僕の間違いらしい。今度のような空想的犯罪には、僕ら実際家は、まったく手も足も出ないことがわかった。僕はこれから、実際問題についても、もっと君を尊敬することにしよう。そして、僕もきょうから探偵小説の愛読者になろう」
国枝検事は無邪気に兜を脱いだ。
「ハハハハハ、そいつは有難い。これで探偵小説愛読者が一人ふえたというものだね」
殿村も一倍の無邪気さで、朗かに笑った。
屋根裏の散歩者
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世が面白くないのでした。
学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですが――彼にできそうな職業は、片っ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思うようなものには、まだひとつも出くわさないのです。おそらく彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短かいのは一と月ぐらい、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもないその日その日を送っているのでした。
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種の賭博に至るまで、とてもここには書き切れないほどの、遊戯という遊戯はひとつ残らず、娯楽百科全書というような本まで買い込んで、探し廻って試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそうおっしゃるでしょうね。ところが、わが郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、むろんその欲望がないわけではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかといって、これあるがために生き甲斐を感じるというほどには、どうしても思えないのです。
「こんな面白くない世の中に生き長らえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ」
ともすれば、彼はそんなことを考えました。しかし、そんな彼にも、生命をおしむ本能だけは備わっていたとみえて、二十五歳のきょうが日まで、「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死に切れずに生き長らえているのでした。
親許から月々いくらかの仕送りを受けることのできる彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にしてしまったのかもしれません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮らすことに腐心しました。たとえば、職業や遊戯と同じように、頻繁に宿所を換えて歩くことなどもそのひとつでした。彼は、少し大げさにいえば、東京中の下宿屋を一軒残らず知っていました。一と月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。むろんそのあいだには、放浪者のように旅をして歩いたこともあります。或いはまた仙人のように山奥へ引き込んでみたこともあります。でも、都会に住みなれた彼には、とても淋しい田舎に長くいることはできません。ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会のともし火に、雑沓に、引き寄せられるように、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、そのたびごとに下宿屋を換えたことはいうまでもありません。
さて、彼が今度移ったうちは、東栄館という、新築したばかりの、まだ壁に湿り気のあるような、新らしい下宿屋でしたが、ここで彼はひとつのすばらしい楽しみを発見しました。そして、この一篇の物語は、その彼の新発見に関連したある殺人事件を主題とするのですが、お話をその方に進める前に、主人公の郷田三郎が、素人探偵の明智小五郎と知り合いになり、今までいっこう気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新らしい興味を覚えるようになったいきさつについて、少しばかりお話ししておかねばなりません。
二人が知り合いになったきっかけは、或るカフェで彼らが偶然一緒になり、その時同伴していた友だちが、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はその時、明智の聡明らしい容貌や、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかり引きつけられてしまって、それからはしばしば彼を訪ねるようになり、また時には彼の方からも三郎の下宿へ遊びにくるような仲になったのです。明智の方では、ひょっとしたら、三郎の病的な性格に(一種の研究材料として)興味を見いだしていたのかもしれませんが、三郎は明智からさまざまの魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意もなく喜んでいるのでした。
同僚を殺害して、その死体を実験室の竈で灰にしてしまおうとしたウェブスター博士の話、数カ国の言葉に通暁し、言語学上の大発見までしたユージン・エアラムの殺人罪、いわゆる保険魔で、同時にすぐれた文芸評論家であったウェーンライトの話、小児の臀肉を煎じて養父の癩病を治そうとした野口男三郎の話、さては、あまたの女を女房にしては殺して行った、いわゆるブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈しきっていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくるのでした。
明智を知ってから、二、三カ月というものは、三郎は殆んどこの世の味気なさを忘れたかに見えました。彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽るのでした。それらの書物の中には、ポーだとかホフマンだとか、或いはガボリオだとか、そのほかいろいろの探偵小説なども混じっていました。「ああ、世の中には、まだこんな面白いことがあったのか」彼は書物の最終のページをとじるごとに、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、できることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公のような、目ざましい、けばけばしい遊戯をやってみたいものだと、大それたことまで考えるようになりました。
しかし、いかな三郎も、さすがに法律上の罪人になることだけは、どう考えてもいやでした。彼はまだ、両親や、兄弟、親戚知己などの悲歎や侮辱を無視してまで、楽しみに耽る勇気はないのです。それらの書物によりますと、どのような巧妙な犯罪でも、必ずどこかに破綻があって、それが犯罪発覚のいと口になり、一生涯警察の眼をのがれているということは、ごく僅かの例外を除いては、全く不可能のように見えます。彼にはただそれが恐ろしいのでした。彼の不幸は、世の中のすべての事柄に興味を感じないで、事もあろうに「犯罪」にだけ、いい知れぬ魅力を覚えたことでした。そして、いっそうの不幸は、発覚を恐れるために、その「犯罪」を行ない得ないということでした。
そこで彼は、ひと通り手に入るだけの書物を読んでしまうと、今度は「犯罪」のまね事をはじめました。まね事ですから、むろん処罰を恐れる必要はないのです。それはたとえばこんなことを。
彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草に再び興味を覚えるようになりました。おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地は、犯罪嗜好者にとっては、こよなき舞台でした。彼は、そこへ出かけては、映画館と映画館のあいだの、人ひとり漸く通れるくらいの細い暗い路地や、共同便所のうしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われるような、妙にがらんとした空き地を、好んでさ迷いました。そして、犯罪者が同類と通信するためでもあるかのように、白墨でその辺の壁に矢の印を書いて廻ったり、金持ちらしい通行人を見かけると、自分がスリにでもなった気で、どこまでもどこまでも、そのあとを尾行してみたり、妙な暗号文を書いた紙切れを――それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などを認めてあるのです――公園のベンチの板のあいだへはさんでおいて、木かげに隠れて、誰かがそれを発見するのを待ち構えていたり、そのほかこれに類したさまざまの遊戯を行なっては、独り楽しむのでした。
彼はまた、しばしば変装をして、町から町をさまよい歩きました。労働者になってみたり、乞食になってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました。そのためには、彼は着物や時計などを売りとばして金を作り、高価なかつらだとか女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって、好みの女すがたになりますと、頭の上からすっぽりと外套をかぶって、夜ふけに下宿屋の入口を出るのです。そして、適当な場所で外套をぬぐと、あるときは淋しい公園をぶらついてみたり、あるときはもうはねる時分の映画館へはいって、わざと男子席の方へ紛れ込んでみたり〔註、大正末期の映画館は男女の席がわかれていた〕はては、そこの男たちに、きわどいいたずらまでやってみるのです。そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が姐己のお百だとか、うわばみお由だとかいう毒婦にでもなった気持で、いろいろな男たちを自由自在に翻弄する有様を想像しては、喜んでいたのです。
しかし、これらの犯罪のまねごとは、或る程度まで彼の欲望を満足させてはくれましたけれども、そして、時にはちょっと面白い事件を惹き起こしなぞして、その当座は充分慰めにもなったのですけれど、まねごとはどこまでもまねごとで、危険がないだけに――「犯罪」の魅力は見方によってはその危険にこそあるのですから――興味も乏しく、そういつまでも彼を有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三カ月もたちますと、いつとなく彼はこの楽しみから遠ざかるようになりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、だんだん遠々しくなって行くのでした。
以上のお話によって、郷田三郎と明智小五郎との交渉、または三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んでいただいた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることにいたしましょう。
三郎が東栄館の建築ができ上がるのを待ちかねて、いの一番にそこへ引き移ったのは、彼が明智と交際を結んだ時分から、一年以上もたっていました。従ってあの「犯罪」のまねごとにも、もうほとんど興味がなくなり、といって、ほかにそれにかわるような楽しみもなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過ごしかねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友だちができたりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものはなんと退屈きわまる生きものなのでしょう。どこへ行ってみても、同じような思想を、同じような表情で、同じような言葉で、繰り返し繰り返し発表し合っているにすぎないのです。せっかく下宿屋を替えて、新らしい人たちに接してみても、一週間たつかたたないうちに、彼はまたしても、底知れぬ倦怠の中に沈みこんでしまうのでした。
そうして、東栄館に移って十日ばかりたった或る日のことです。退屈のあまり、彼はふと妙なことを考えつきました。
彼の部屋には――それは二階にあったのですが――安っぽい床の間の隣に、一|間《けん》の押入れがついていて、その内部は、鴨居と敷居とのちょうど中程に、押入れ一杯の頑丈な棚があって、上下二段にわかれているのです。彼はその下段の方に数個の行李を納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取り出して、部屋のまん中へ敷くかわりに、始終棚の上に寝台のように蒲団を重ねておいて、眠くなったらそこへ上がって寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今までの下宿屋であったら、たとえ押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井に蜘蛛の巣が張っていたりして、ちょっとその中へ寝る気にはなれなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから非常に綺麗で、天井もまっ白なれば、黄色く塗った滑らかな壁にも、しみひとつできてはいませんし、そして、全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが、なんとなく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝てみたいような誘惑を感じさえするのでした。
そこで、彼はさっそくその晩から押入れの中へ寝ることをはじめました。この下宿は、部屋ごとに内部から戸締りができるようになっていて、女中などが無断ではいってくるようなこともなく、彼は安心してこの奇行をつづけることができるのでした。さて、そこへ寝てみますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝ころんで、眼の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、ちょっと異様な味わいのあるものです。襖をピッシャリ締め切って、隙間から洩れてくる糸のような電気の光を見ていますと、なぜかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなったような気がして、愉快ですし、またそれを細目にあけて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗くような気持で、いろいろの激情的な場面を想像しながら、眺めているのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入れにはいり込んで、一間と三尺の長方形の箱のような中で、大好物の煙草をプカリプカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、しめ切った襖の隙間から、押入れの中で火事でもはじまったのではないかと思われるほど、おびただしい白煙が洩れているのでした。
ところが、この奇行を二、三日つづけているあいだに、彼はまたしても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台にも興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどをしていましたが、ふと気がつくと、ちょうど頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動くようなのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持ち上げてみますと、なんなく上の方へはずれることははずれるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所はひとつもないのに、まるでバネ仕掛けのように、もともと通りになってしまいます。どうやら、何者かが上からおさえつけているような手ごたえなのです。
はてな、ひょっとしたら、ちょうどこの天井板の上に、何か生きものが、たとえば大きな青大将か何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄かに気味がわるくなってきましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みていますと、ズッシリと重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かすたびに、その上でなんだかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。いよいよ変です。そこで彼は思い切って、力まかせにその天井板をはねのけてみました。すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちてきたのです。彼はとっさの場合、ハッと片わきへ飛びのいたからよかったものの、もしそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我をしているところでした。
「なあんだ、つまらない」
ところが、その落ちてきた物体を見ますと、何か変ったものであればよいがと、少なからず期待していた彼は、あまりのことに呆れてしまいました。それは漬物石を小さくしたような、ただの石ころにすぎないのでした。よく考えてみれば、別に不思議でもなんでもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚だけわざとはずして、そこからゴミなどが押入れにはいらぬように、石ころで重しがしてあったのです。
それはいかにも、とんだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽しみを発見することになったのです。
彼はしばらくのあいだ、自分の頭の上にひらいている、ほら穴の入口とでもいった感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持ち前の好奇心から、いったい天井裏というものは、どんなふうになっているのだろうと、おそるおそるその穴に首を入れて、四方を見まわしました。それはちょうど朝のことで、屋根の上にはもう陽が照りつけているとみえ、方々の隙間からたくさんの細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照らしてでもいるように、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明かるいのです。
先ず眼につくのは、縦に長々と横たえられた、太い、曲がりくねった、大蛇のような棟木です。明かるいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが、向こうの方は霞んで見えるほど、遠く遠く連なっているように思われます。そして、その棟木と直角にこれは大蛇の肋骨に当たるたくさんの|梁《はり》が、両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それだけでもずいぶん雄大な景色ですが、その上、天井を支えるために、梁から無数の細い棒が下がっていて、それがまるで鍾乳洞の内部を見るような感じを起こさせます。
「これはすてきだ」
一応屋根裏を見まわしてから、三郎は思わずそうつぶやくのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見えるような、こうしたことに、かえって言い知れぬ魅力をおぼえるのです。
その日から、彼の「屋根裏の散歩」がはじまりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥棒猫のように足音を盗んで、棟木や梁の下を伝い歩くのです。幸いなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物のクモの巣もなければ、煤やホコリもまだ少しも溜まっていず、鼠の汚したあとさえありません。ですから、着物や手足の汚なくなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁しました。時候もちょうど春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。
東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央に庭を囲んで、そのまわりに、桝型に、部屋が並んでいるような作り方でしたから、したがって、屋根裏もずっとその形につづいていて、行き止まりというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッとひと廻りしますと、また元の彼の部屋の上まで帰ってくるようになっています。
下の部屋部屋には、さも厳重に壁の仕切りができていて、その出入口には締まりをするための金具まで取りつけてあるのに、一度天井裏に上がってみますと、これはまたなんという開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。もしその気があれば、三郎の部屋のと同じような、石ころの重しのしてある箇所が方々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍びこんで、盗みを働くこともできます。廊下を通って、それをするのは、今もいうように、桝型の建物の各方面に人眼があるばかりでなく、いつなん時ほかの下宿人や女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
それからまた、ここでは他人の秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築とはいっても、下宿屋の安普請のことですから、天井には到る所に隙間があります――部屋の中にいては気がつきませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に多いのに一驚を喫します――稀には、節穴さえもあるのです。
この屋根裏という屈強の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつの間にか忘れてしまっていた、あの犯罪嗜好癖がまたムラムラと湧き上がってくるのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い「犯罪のまね事」ができるに違いない。そう思うと、彼はもう嬉しくてたまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今まで気づかないでいたのでしょう。魔物のように暗闇の世界を歩き廻って、二十人近い東栄館の二階じゅうの下宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのことだけでも、三郎はもう充分愉快なのです。そして、久かたぶりで、生き甲斐を感じさえするのです。
彼はまた、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも、興深くするために、先ず、身支度からして、さも本ものの犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下――なろうことなら、昔映画で見た、女賊プロテアのように、まっ黒なシャツを着たかったのですけれど、あいにくそんな物は持ち合わせていないので、まあ我慢することにして……足袋をはき手袋をはめ――天井裏は、皆荒削りの木材ばかりで、指紋の残る心配などはほとんどないのですが――そして、手にはピストルが……欲しくても、それがないので、懐中電燈を持つことにしました。
夜ふけなど、昼とは違って、洩れてくる光線の量がごく僅かなので、一|寸《すん》先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てないように注意しながら、その姿で、ソロリソロリと天井裏を這っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなったような気がして、われながら妙に恐ろしくなってきます。でも、その恐ろしさが、なんの因果か、彼にはゾクゾクするほど嬉しいのです。
こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」をつづけました。そのあいだには、予期にたがわず、いろいろと彼を喜ばせるような出来事があって、それをしるすだけでも、充分一篇の小説ができ上がるほどですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら端折って、ごく簡単に二、三の例をお話しするにとどめましょう。
天井からの隙見というものが、どれほど異様に興味のあるものだかは、実際やってみた人でなければおそらく想像もできますまい。たとえ、その下に別段の事件が起こっていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察するだけで、充分面白いのです。よく注意してみますと、ある人々は、そのそばに他人のいる時と、ひとり切りの時とでは、立居ふるまいはもちろん、その顔の相好までが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見おろすのですから、この、眼の角度の相違によって、あたり前の座敷が、ずいぶん異様な景色に感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥、火鉢などは、その上方の面だけが主として眼に映ります。そして、壁というものは、ほとんど見えなくて、そのかわりに、すべての品物のバックには、畳が一杯にひろがっているのです。
何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々にして、滑稽な、悲惨な、或いは物凄い光景が展開されています。ふだん過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰ったばかりの昇給の辞令を、折鞄から出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かずに打ち眺めて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召の着物を不断着にして、はかない豪奢ぶりを示している或る相場師が、いざ床につく時には、その、昼間はさも無造作に着こなしていた着物を、女のように、丁寧に畳んで、蒲団の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で舐めて――お召などの小さな汚れは、口で舐めとるのがいちばんいいのだといいます――一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビづらの青年が、運動家にも似合わない臆病さをもって、女中への付け文を、食べてしまった夕飯のお膳の上へ、のせてみたり、思い返して引っ込めてみたり、またのせてみたり、モジモジと同じことを繰り返している光景。中には、大胆にも、淫売婦(?)を引き入れて、茲に書くことを憚るような、すさまじい狂態を演じている光景さえも、たれ憚らず、見たいだけ見ることができるのです。
三郎はまた、下宿人と下宿人との、感情の葛藤を研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、さまざまに態度をかえて行く有様、今の先まで、|笑《え》|顔《がお》で話し合っていた相手を、隣の部屋へきては、まるで不倶戴天の仇ででもあるように罵っている者もあれば、コウモリのように、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを言って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の下宿人――東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです――になるといっそう興味があります。「三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取るように見えるばかりか、競争者たちの誰も知らない本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」にだけ、ハッキリとわかるではありませんか。おとぎ話に隠れ蓑というものがありますが、天井裏の三郎は、いわばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。
もしもその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、いろいろないたずらをやることができたら、いっそう面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三室に一カ所くらいの割合で、三郎の部屋のと同様に、石ころで重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋のぬしが帰ってくるかしれませんし、そうでなくとも、窓はみな透明なガラス障子になっていますから、そとから見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ降り、襖をあけて部屋にはいり、また押入れの棚へよじのぼって、元の屋根裏へ帰る、そのあいだには、どうかして物音を立てないとも限りません。それを廊下や隣室から気づかれたら、もうおしまいなのです。
さて、或る夜ふけのことでした。三郎は、一巡「散歩」をすませて、自分の部屋へ帰るために、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、ちょうど向かい側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、かすかな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈をともして、調べてみますと、それは可なり大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、その半分で、やっとつながり、あやうく節穴になるのをまぬがれたものでした。ちょっと爪でこじさえすれば、なんなく離れてしまいそうなのです。そこで、三郎はほかの隙間から下を見て、部屋のあるじがすでに寝ていることを確かめた上、音のしないように注意しながら、長いあいだかかって、とうとうそれをはがしてしまいました。都合のいいことには、はがしたあとの節穴が杯形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえおけば、下へ落ちるようなことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気づかれずにすむのです。
これはうまいぐあいだと思いながら、その節穴から下を覗いてみますと、ほかの隙間のように、縦には長くても、幅はせいぜい一分内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が楽々と見渡せます。そこで、三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎のいちばん虫の好かぬ、遠藤という歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりしたむしずの走るような顔を、いっそうのっぺりさせて、すぐ眼の下に寝ているのでした。
ばかに几帳面な男と見えて、部屋の中は、ほかのどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓しています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許に置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の眼覚し時計、漆器の巻煙草入れ、色硝子の灰皿、いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗好きな人物であることがわかります。また遠藤自身の寝姿も実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口をあいて、雷のような鼾をかいていることでした。
三郎は、何か汚ないものでも見るように眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。なるほど彼自身で吹聴する通り、女などには好かれる顔かもしれません。しかし、なんという間伸びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には変に狭い富士額、短かい眉、細い眼、始終笑っているような目尻の皺、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段をなして、上顎と下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照をなして、大きな紫色の唇がひらいています。そして、肥厚性鼻炎ででもあるのか、始終鼻を詰まらせ、その大きな口をポカンとあけて呼吸をしているのです。鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。
三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、なんだかこう背中がムズムズしてきて、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴りつけてやりたいような気持になるのでした。
そうして、遠藤の寝顔を見ているうちに、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾をはけば、ちょうど遠藤の大きくひらいた口の中へ、うまくはいりはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂えでもしたように、節穴の真下の所にあったのです。三郎は物好きにも、腿引の下にはいていた、猿股の紐を抜き出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片眼を紐にくっつけて、ちょうど銃の照準でも定めるように、ためしてみますと、不思議な偶然です。紐と、節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに違いないことがわかったのです。
しかし、まさかほんとうに唾を吐きかけるわけにもいきませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋めておいて、立ち去ろうとしましたが、その時、不意にチラリと、或る恐ろしい考えが彼の頭に閃めきました。彼は思わず、屋根裏のくら闇の中で、まっ青になってブルブルと震えました。それは実に、なんの恨みもない遠藤を殺害するという考えだったのです。
彼は遠藤に対してなんの恨みもないばかりか、まだ知合いになってから半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引っ越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二、三度部屋を訪ね合ったばかりで、別に深い交渉があるわけではないのです。では、なぜその遠藤を殺そうなどと考えたかといいますと、今もいうように、彼の容貌や言動が殴りつけたいほど虫が好かぬということも、多少手伝っていましたけれど、三郎のこの考えの主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。さっきからお話ししてきた通り、三郎の精神状態は、非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持っていて、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起こるのも決して偶然ではないのです。ただ、今までは、たとえしばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりです。
ところが、今の遠藤の場合は、全然疑いを受けないで、発覚のおそれなしに、殺人が行なわれそうに思われます。わが身に危険さえなければ、たとえ相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮するのではありません。むしろ、その殺人行為が残虐であればあるほど、彼の異常な欲望は、いっそう満足させられるのでした。それでは、なぜ遠藤に限って殺人罪が発覚しないか――少なくとも三郎がそう信じていたか――と言いますと、それには次のような事情があったのです。
東栄館へ引っ越して四、五日たった時分でした。三郎は懇意になったばかりの、或る同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時、同じカフェに遠藤も来ていて、三人がひとつテーブルに寄って酒を――もっとも酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど――飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連れ立って下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来てください」と無理に二人を彼の部屋へ引っぱり込みました。遠藤は独りではしゃいで、夜がふけているのも構わず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持ち越しののろけ話を繰り返すのでした――三郎が彼を嫌い出したのはその晩からです――その時、遠藤は、まっ赤に充血した唇をペロペロと舐め廻しながら、さも得意らしくこんなことを言うのでした。
「その女とですね、僕は一度情死をしかけたことがあるのですよ。まだ学校にいたころですが、ホラ、僕のは医学校でしょう。薬を手に入れるのはわけないんです。で、二人が楽に死ねるだけのモルヒネを用意して、聞いてください、塩原へ出かけたもんです」
そう言いながら、彼はフラフラと立ち上がって、押入れの前へ行き、ガタガタ襖をあけると、中に積んであった行李の底から、ごく小さい、小指の先ほどの、茶色の瓶を探してきて、聴き手の方へさし出すのでした。瓶の中には、底の方にホンのぽっちり、何か白いものがはいっていました。
「これですよ。これっぽっちで、充分二人の人間が死ねるのですからね……しかし、あなた方、こんなことをしゃべっちゃいやですよ、ほかの人に」
そして、彼ののろけ話は、さらに長々と、止めどもなくつづいたことですが、三郎は今、その時の毒薬のことを、計らずも思い出したのです。
「天井の節穴から、毒薬を垂らして、人殺しをする! まあなんという奇想天外な、すばらしい犯罪だろう」
彼は、この妙案に、すっかり有頂天になってしまいました。よく考えてみれば、その方法は、いかにもドラマティックなだけ、可能性に乏しいものだということがわかるのですが、そしてまた、何もこんな手数のかかることをしないでも、ほかにいくらも簡便な殺人法があったはずですが、異常な思いつきに眩惑させられた彼は、何を考える余裕もないのでした。そして、彼の頭には、ただもう計画についての都合のいい理窟ばかりが、次から次へと浮かんでくるのです。
先ず薬を盗み出す必要がありました。が、それはわけのないことです。遠藤の部屋を訪ねて話し込んでいれば、そのうちには、便所へ立つとかなんとか、彼が席をはずすこともあるでしょう。そのすきに、見覚えのある行李から、茶色の小瓶を取り出しさえすればいいのです。遠藤は、始終その行李の底を調べているわけではないのですから、二日や三日で気のつくこともありますまい。たとえまた、気づかれたところで、その毒薬の入手径路が、すでに違法なのですから、表沙汰になるはずもなく、それに、上手にやりさえすれば、誰が盗んだのかもわかりはしません。
そんなことをしないでも、天井から忍び込む方が楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にもいうように、部屋のぬしがいつ帰ってくるかしれませんし、ガラス障子のそとから見られる心配もあります。第一、遠藤の部屋の天井には、三郎の室のように、石ころで重しをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、釘づけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことができるものですか。
さて、こうして手に入れたこな薬を、水に溶かして、鼻の病気のために始終ひらきっぱなしの遠藤の大きな口へ垂らし込めば、それでいいのです。ただ心配なのは、うまく呑み込んでくれるかどうかという点ですが、なに、それも大丈夫です。なぜといって、薬がごく少量で、溶き方を濃くしておけば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡している時なら、気もつかないくらいでしょう。また、気がついたにしてもおそらく吐き出す暇なんかありますまい。それから、モルヒネが苦い薬だということも、三郎はよく知っていましたが、たとえ苦くとも分量が僅かですし、なおその上に砂糖でも混ぜておけば、万々失敗する気遣いはありません。誰にしても、まさか天井から毒薬が降ってこようなどとは想像もしないでしょうから、遠藤がとっさの場合、そこへ気のつくはずはないのです。
しかし、薬がうまく利くかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるか或いは少なすぎるかして、ただ苦悶するだけで死に切らないというようなことはあるまいか。これが問題です。なるほどそんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をしてしまいますし、天井裏にも、そこにはまだホコリなど溜まっていないのですから、なんの痕跡も残りません。指紋は手袋で防いであります。たとえ天井から毒薬を垂らしたことがわかっても、誰の仕業だか知れるはずはありません。殊に彼と遠藤とは、昨今の交際で、恨みを含むような間柄でないことは周知の事実なのですから、彼に嫌疑のかかる道理がないのです。いや、そうまで考えなくても、熟睡中の遠藤に、薬の落ちてきた方角などが、わかるものではありません。
これが、三郎の屋根裏で、また部屋へ帰ってから、考え出した虫のいい理窟でした。読者はすでに、たとえ以上の諸点がうまく行くとしても、そのほかにひとつの重大な錯誤のあることを気づかれたことと思います。が、彼はいよいよ実行に着手するまで、不思議にも、そこへ気がつかないのでした。
三郎が、都合のよい折を見計らって、遠藤の部屋を訪問したのは、それから四、五日たった時分でした。むろんそのあいだには、彼はこの計画について、繰り返し繰り返し考えた上、大丈夫危険がないと見極わめをつけることができたのです。のみならず、いろいろと新らしい工夫をつけ加えもしました。たとえば、毒薬の瓶の始末についての考案もそれです。
もしうまく遠藤を殺害することができたならば、彼はその瓶を、節穴から下へ落としておくことにきめました。そうすることによって、彼は二重の利益が得られます。一方では、もし発見されれば重大な手掛りになるところのその瓶を、隠匿する世話がなくなること、他方では、死人のそばに毒物の容器が落ちていれば、誰しも遠藤が自殺したのだと考えるに違いないこと、そして、その瓶が遠藤自身の品であるということは、いつか三郎と一緒に彼ののろけ話を聞かされた男が、うまく証明してくれるに違いないのです。なお都合のよいのは、遠藤は毎晩、キチンと締まりをして寝ることでした。入口はもちろん、窓にも、中から金具で締まりがしてあるので、外部からは絶対にはいれないことでした。
さてその日、三郎は非常な忍耐力をもって、顔を見てさえむしずの走る遠藤と、長いあいだ雑談をかわしました。話のあいだに、しばしばそれとなく殺意をほのめかして、相手を怖わがらせてやりたいという、危険極まる欲望が起こってくるのを、彼はやっとのことで喰い止めました。
「近いうちに、ちっとも証拠の残らないような方法で、お前を殺してやるのだぞ。お前がそうして、女のように多弁にペチャクチャしゃべるのも、もう長いことではないのだ。今のうちにせいぜいしゃべり溜めておくがいいよ」
三郎は、相手の止めどもなく動く、大ぶりな唇を眺めながら、心の内ではそんなことを繰り返していました。この男が、間もなく、青ぶくれの死骸になってしまうのかと思うと、彼はもう愉快でたまらないのです。
そうして話し込んでいるうちに、予想した通り、遠藤が便所に立って行きました。それはもう、夜の十時頃でもあったでしょうか、三郎は抜け目なくあたりに気を配って、ガラス窓のそとなども充分調べた上、音のしないように、しかし、手早く押入れをあけて、行李の中から、例の薬瓶を探し出しました。いつか入れた場所をよく見ておいたので、探すのに骨は折れません。でも、さすがに胸がドキドキして、脇の下から冷汗が流れました。実をいうと、彼の今度の計画のうち、いちばん危険なのはこの毒薬を盗み出す仕事でした。どうしたことで遠藤が不意に帰ってくるかもしれませんし、また誰かが隙見をしていないとも限らぬのです。が、それについては、彼はこんなふうに考えていました。もし見つかったら、或いは見つからなくても、遠藤が薬瓶のなくなったことを発見したら――それはよく注意していればじきわかることです。殊に彼には天井の隙見という武器があるのですから――殺害を思いとどまりさえすればいいのです。ただ毒薬を盗んだというだけでは、大した罪にもなりませんからね。
それはともかく、結局、彼は先ず誰にも見つからずに、うまうまと薬瓶を手に入れることができたのです。そこで遠藤が便所から帰ってくると間もなく、それとなく話を切り上げて、彼は自分の部屋へ帰りました。そして、窓には隙間なくカーテンを引き、入口の戸には締まりをしておいて、机の前に坐ると、胸を躍らせながら、懐中から可愛らしい茶色の瓶を取り出して、さて、つくづくと眺めるのでした。
[#ここから2字下げ]
MORPHINE(o.×g.)
[#ここで字下げ終わり]
多分遠藤が書いたのでしょう。小さいレッテルにはこんな文字がしるしてあります。彼は以前に毒物学の書物を読んで、モルヒネのことは多少知っていましたけれど、実物にお眼にかかるのは今がはじめてでした。瓶を電燈の前に持って行って、すかしてみますと、小匙に半分もあるかなしの、ごく僅かの白いモヤモヤしたものが、綺麗に透いて見えます。いったいこんなもので、人間が死ぬのかしら、と不思議に思われるほどでした。
三郎は、むろん、それをはかるような精密な秤を持っていないので、分量の点は遠藤の言葉を信用しておくほかはありませんでしたが、あの時の遠藤の態度口調は、酒に酔っていたとはいえ、決してでたらめとは思われません。それにレッテルの数字も、三郎の知っている致死量の、ちょうど二倍なのですから、よもや間違いはありますまい。
そこで、彼は瓶を机の上に置いて、そばに用意の砂糖やアルコールの瓶を並べ、薬剤師のような綿密さで、熱心に調合をはじめるのでした。止宿人たちはもう皆寝てしまったと見えて、あたりは森閑と静まり返っています。その中で、マッチの棒に浸したアルコールを、用心深く、一滴一滴と、瓶の中へ垂らしていますと、自分自身の呼吸が、悪魔のため息のように、変に物凄く響くのです。それがまあ、どんなに三郎の変態的な嗜好を満足させたことでしょう。ともすれば、彼の眼の前に浮かんでくるのは、くら闇の洞窟の中で、ふつふつと泡立ち煮える毒薬の鍋を見つめて、ニタリニタリと笑っている、あの古い物語の恐ろしい妖婆の姿でした。
しかしながら、一方においては、その頃から、これまで少しも予期しなかった、ある恐怖に似た感情が、彼の心の片隅に湧き出していました。そして、時間のたつにしたがって、少しずつ、少しずつ、それが拡がってくるのです。
[#ここから2字下げ]
MURDER CANNOT BE HID LONG ; A MAN'S SON MAY, BUT AT THE LENGTH TRUTH WILL OUT.
[#ここで字下げ終わり]
誰かの引用で覚えていた、あのシェークスピアの無気味な文句が、眼もくらめくような光を放って、彼の脳髄に焼きつくのです。この計画には、絶対に破綻がないと、あくまで信じながらも、刻々に増大してくる不安を、彼はどうすることもできないのでした。
なんの恨みもない一人の人間を、ただ殺人の面白さのために殺してしまうとは、これが正気の沙汰か、お前は悪魔に魅入られたのか、お前は気が違ったのか。いったいお前は、自分自身の心を空恐ろしくは思わないのか。
長いあいだ、夜のふけるのも知らないで、調合してしまった毒薬の瓶を前にして、彼は物思いに耽っていました。いっそ、この計画を思いとどまることにしよう。幾度そう決心しかけたかしれません。でも、結局はどうしても、あの人殺しの魅力を断念する気にはなれないのでした。
ところが、そうして、とつおいつ考えているうちに、ハッと、ある致命的な事実が、彼の頭に閃めきました。
「ウフフフフ……」
突然、三郎は、おかしくてたまらないように、しかし、寝静まったあたりに気を兼ねながら、笑いだしたのです。
「馬鹿野郎。お前はなんとよくできた道化役者だ! 大真面目でこんな計画を目論むなんて、もうお前の麻痺した頭には、偶然と必然の区別さえつかなくなったのか。あの遠藤の大きくひらいた口が、一度、節穴の真下にあったからといって、その次にも同じようにそこにあるということが、どうしてわかるのだ。いや、むしろ、そんなことはまずあり得ないではないか」
それは実に滑稽きわまる錯誤でした。彼のこの計画は、すでにその出発点に於て、一大迷妄におちいっていたのです。しかし、それにしても、彼はどうしてこんなわかりきったことを今まで気づかずにいたのでしょう。実に不思議といわねばなりません。おそらくこれは、さも利口ぶっている彼の頭脳に、実は非常な欠陥があった証拠ではありますまいか。それはとにかく、彼はこの発見によって、一方では甚しく失望しましたけれど、同時に他の一方では、不思議な気安さを感じるのでした。
「お蔭でおれはもう、恐ろしい殺人罪を犯さなくてもすむのだ。やれやれ助かった」
そうはいうものの、その翌日からも、「屋根裏の散歩」をするたびに、彼は未練らしく例の節穴をあけて、遠藤の動静をさぐることを怠りませんでした。それはひとつは、毒薬を盗み出したことを遠藤が勘づきはしないかという心配からでもありましたけれど、しかしまた、どうかしてこのあいだのように、彼の口が節穴の真下へこないかと、その偶然を待ちこがれていなかったとはいえません。現に彼は、いつの「散歩」の場合にも、シャツのポケットからあの毒薬を離したことはないのでした。
ある夜のこと――それは三郎が「屋根裏の散歩」をはじめてからもう十日ほどもたっていました。十日のあいだも、少しも気づかれることなしに、毎日何回となく、屋根裏を這い廻っていた彼の苦心は、ひと通りではありません。綿密なる注意、そんなありふれた言葉では、とても言い表わせないようなものでした――三郎はまたしても遠藤の部屋の天井裏をうろついていました。そして、何かおみくじでも引くような心持で、吉か凶か、きょうこそは、ひょっとしたら吉ではないかな。どうか吉が出てくれますようにと、神に念じさえしながら、例の節穴をあけて見るのでした。
すると、ああ、彼の眼がどうかしていたのではないでしょうか。いつか見たときと寸分違わない恰好で、そこに鼾をかいている遠藤の口が、ちょうど節穴の真下へきていたではありませんか。三郎は、何度も眼をこすって見直し、また猿股の紐を抜いて、目測さえしてみましたが、もう間違いはありません。紐と穴と口とが、正しく一直線上にあるのです。彼は思わず叫び声を立てそうになるのを、やっとこらえました。遂にその時がきた喜びと、一方ではいいしれぬ恐怖と、その二つが交錯した、一種異様の興奮のために、彼は暗やみの中でまっ青になってしまいました。
彼はポケットから、毒薬の瓶を取り出すと、独りでに震え出す手先を、じっとためながら、その栓を抜き、紐で見当をつけておいて――おお、その時のなんとも形容できない心持!――ポトリ、ポトリ、ポトリと十数滴。それがやっとでした。彼はすぐさま眼を閉じてしまったのです。
「気がついたか、きっと気がついた。きっと気がついた。そして、今にも、おお、今にもどんな大声で叫び出すことだろう」
彼はもし両手があいていたら、耳をもふさぎたいほどに思いました。
ところが、彼のそれほどの気遣いにもかかわらず、下の遠藤はウンともスンとも言わないのです。毒薬が口の中へ落ちたところは確かに見たのですから、それに間違いはありません。でも、この静けさはどうしたというのでしょう。三郎は恐る恐る眼をひらいて、節穴をのぞいて見ました。すると、遠藤は口をムニャムニャさせ、両手で唇をこするような恰好をして、ちょうどそれが終ったところなのでしょう。またもやグーグー寝入ってしまうのでした。案ずるより産むがやすいとはよくいったものです。寝呆けた遠藤は、恐ろしい毒薬を飲み込んだことを少しも気づかないのでした。
三郎は、可哀そうな被害者の顔を、身動きもしないで、食い入るように見つめていました。それがどれほど長く感じられたか、事実は、二十分とはたっていないのに、彼には二、三時間もそうしていたように思われたことです。するとその時、遠藤はフッと眼をひらきました。そして、半身を起こして、さも不思議そうに部屋の中を見廻しています。目まいでもするのか、首を振ってみたり、眼をこすってみたり、うわごとのような意味のないことをブツブツとつぶやいてみたり、いろいろ気違いめいた仕草をして、それでも、やっとまた枕につきましたが、今度は盛んに寝返りを打つのです。
やがて、寝返りの力がだんだん弱くなって行き、もう身動きもしなくなったかと思うと、そのかわりに、雷のような鼾声が響きはじめました。見ると、顔の色がまるで酒にでも酔ったように、まっ赤になって、鼻の頭や額には、玉の汗がふつふつとふき出しています。熟睡している彼の身内で、今、世にも恐ろしい生死の闘争が行なわれているのかもしれません。それを思うと身の毛がよだつようです。
さて、しばらくすると、さしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙のように白くなったかと思うと、みるみる青藍色に変って行きます。そしていつの間にか鼾がやんで、どうやら、吸う息、吐く息の度数が減ってきました……ふと胸の所が動かなくなったので、いよいよ最期かと思っていますと、暫くして、思い出したように、また唇がピクピクして、鈍い呼吸が帰ってきたりします。そんなことが二、三度繰り返されて、それでおしまいでした……もう彼は動かないのです。グッタリと枕をはずした顔に、われわれの世界とはまるで別な一種のほほえみが浮かんでいます。彼はついに、いわゆる「ほとけ」になってしまったのでしょう。
息をつめ、手に汗を握って、その様子を見つめていた三郎は、はじめてホッとため息をつきました。とうとう彼は殺人者になってしまったのです。それにしても、なんという楽々とした死に方だったでしょう。彼の犠牲者は、叫び声ひとつ立てるでなく、苦悶の表情さえ浮かべないで、鼾をかきながら死んで行ったのです。
「なあんだ。人殺しなんて、こんなあっけないものか」
三郎はなんだかガッカリしてしまいました。想像の世界では、もうこの上もない魅力であった殺人ということが、やってみれば、ほかの日常茶飯事となんの変りもないのでした。このあんばいなら、まだ何人だって殺せるぞ。そんなことを考える一方では、しかし、気抜けのした彼の心を、なんともえたいの知れぬ恐ろしさが、ジワジワと襲いはじめていました。節穴から死体を見つめている自分の姿が、三郎は俄かに気味わるくなってきました。妙に首筋の辺がゾクゾクして、ふと耳をすますと、どこかで、ゆっくりゆっくり、自分の名を呼びつづけているような気さえします。思わず、節穴から眼を離して、暗やみの中を見廻しても、久しく明かるい部屋を覗いていたせいでしょう。眼の前には、大きいのや、小さいのや、黄色い環のようなものが、次々に現われては消えていきます。じっと見ていますと、その環のうしろから、遠藤の異様に大きな唇が、ヒョイと出てきそうにも思われるのです。
でも彼は、最初計画したことだけは、先ず間違いなく実行しました。節穴から薬瓶――その中にはまだ十数滴の毒液が残っていたのです――を抛り落とすこと、その跡の穴をふさぐこと、万一天井裏に何かの痕跡が残っていないか、懐中電燈を点じて調べること、そして、もうこれで手落ちがないとわかると、彼は大急ぎで梁を伝って、自分の部屋へ引っ返しました。
「いよいよこれですんだ」
頭もからだも、妙に痺れて、何かしら物忘れでもしているような不安な気持を、強いて引き立てるようにして、彼は押入れの中で着物を着はじめました。が、その時ふと気がついたのは、例の目測に使用した猿股の紐を、どうしたかということです。ひょっとしたら、あすこへ忘れてきたのではあるまいか。そう思うと、彼はあわただしく腰の辺を探ってみました。どうも無いようです。彼はますますあわてて、からだじゅうを調べました。すると、どうしてこんなことを忘れていたのでしょう。それはちゃんとシャツのポケットに入れてあったではありませんか。やれやれよかったと、ひと安心して、ポケットの中から、その紐と、懐中電燈とを取り出そうとしますと、ハッと驚いたことには、その中にまだほかの品物がはいっていたのです……毒薬の瓶の小さなコルクの栓がはいっていたのです。
彼は、さっき毒薬を垂らすとき、あとで見失っては大へんだと思って、その栓をわざわざポケットへしまっておいたのですが、それを胴忘れしてしまって、瓶だけ下へ落としてきたものとみえます。小さなものですけれど、このままにしておいては、犯罪発覚のもとです。彼はおびえる心を励まして、再び現場へ取って返し、それを節穴から落としてこなければなりませんでした。
その夜、三郎が床についたのは――もうその頃は、用心のために押入れで寝ることはやめていましたが――午前三時頃でした。それでも、興奮しきった彼は、なかなか寝つかれないのです。あんな栓を落とすのを忘れてくるほどでは、ほかにも何か手抜かりがあったかもしれない。そう思うと、彼はもう気が気ではないのです。そこで、乱れた頭を強いて落ちつけるようにして、その晩の行動を追って、一つ一つ思い出して行き、どこかに手抜かりがなかったかと調べてみましたが、少なくとも彼の頭では、何事も発見できませんでした。
彼はそうして、とうとう夜の明けるまで考えつづけていましたが、やがて、早起きの下宿人たちが、洗面所へ通るために廊下を歩く足音が聞こえだすと、つと立ち上がって、いきなり外出の用意をはじめました。彼は遠藤の死骸が発見されるときを恐れていたのです。そのとき、どんな態度をとったらいいのでしょう。ひょっとして、あとになって疑われるような、妙な挙動があってはたいへんです。そこで彼は、そのあいだ外出しているのがいちばん安全だと考えたのですが、しかし、朝飯もたべないで外出するのは、いっそう変ではないでしょうか。「ああ、そうだっけ、何をうっかりしているのだ」そこへ気がつくと、彼はまたもや寝床の中へもぐりこむのでした。
それから朝飯までの二時間ばかりを、三郎はどんなにビクビクして過ごしたことでしょう。が、幸いにも、彼が大急ぎで食事をすませて、下宿屋を逃げ出すまでは、何事も起こらないですみました。そして、下宿屋を出ると、彼はどこという当てもなく、ただ時間をつぶすために、町から町へとさまよい歩くのでした。
結局、彼の計画は見事に成功しました。
彼がお昼ごろそとから帰ったときには、もう遠藤の死骸は取り片づけられ、警察からの臨検もすっかりすんでいましたが、聞けば、誰一人遠藤の自殺を疑うものはなく、その筋の人たちも、ただ形ばかりの取調べをすると、じきに帰ってしまったということでした。
遠藤がなぜ自殺したかというその原因は、少しもわかりませんでしたが、彼の日ごろの素行から想像して、多分痴情の結果であろうということに、皆の意見が一致しました。現に最近、ある女に失恋していたというような事実まで現われてきたのです。なに、「失恋した、失恋した」というのは、彼のような男にとっては、一種の口癖みたいなもので、大した意味があるわけではないのですが、ほかに原因がないので、結局それにきまったわけでした。
のみならず、原因があってもなくても、彼の自殺したことは、一点の疑いもないのでした。入口も窓も、内部から戸締まりがしてあったのですし、毒薬の容器が枕許にころがっていて、それが彼の所持品であったこともわかっているのですから、もうなんと疑ってみようもないのです。天井から毒薬を垂らしたのではないかなどと、そんなばかばかしい疑いを起こすものは、誰ひとりありませんでした。
それでも、なんだかまだ安心しきれないような気がして、三郎はその日一日、ビクビクものでいましたが、やがて一日二日とたつにしたがって、彼はだんだん落ちついてきたばかりか、はては、自分の手際を得意がる余裕さえ生じてきました。
「どんなもんだ。さすがはおれだな。見ろ、誰一人ここに、同じ下宿屋のひと間に、恐ろしい殺人犯人がいることを気づかないではないか」
彼は、この調子では、世間にどれくらい隠れた、処罰されない犯罪があるか、知れたものではないと思うのでした。「天網恢々疎にして漏らさず」なんて、あれはきっと昔からの為政者たちの宣伝にすぎないので、或いは人民どもの迷信にすぎないので、その実は、巧妙にやりさえすれば、どんな犯罪だって、永久に顕われないですんで行くのだ。彼はそんなふうにも考えるのでした。もっとも、さすがに夜などは、遠藤の死に顔が眼先にちらつくような気がして、なんとなく気味がわるく、その夜以来、彼は例の「屋根裏の散歩」も中止している始末でしたが、それはただ、心の中の問題で、やがては忘れてしまうことです。実際、罪が発覚さえせねば、もうそれで充分ではありませんか。
さて、遠藤が死んでからちょうど三日目のことでした。三郎が今、夕飯をすませて小楊枝を使いながら、鼻唄かなんか歌っているところへ、ヒョッコリと、久し振りの明智小五郎が訪ねてきました。
「やあ」
「ごぶさた」
彼らはさも心安げに、こんなふうの挨拶を取りかわしたことですが、三郎の方では、折が折なので、この素人探偵の来訪を、少々気味わるく思わないではいられませんでした。
「この下宿で毒を呑んで死んだ人があるっていうじゃないか」
明智は、座につくと、さっそくその三郎の避けたがっている事柄を話題にするのでした。おそらく彼は、誰かから自殺者の話を聞いて、幸い同じ下宿に三郎がいるので、持ち前の探偵興味から、訪ねてきたのに違いありません。
「ああ、モルヒネでね。僕はちょうどその騒ぎの時に居合わせなかったから、詳しいことはわからないけれど、どうも痴情の結果らしいのだ」
三郎は、その話題を避けたがっていることを悟られまいと、彼自身もそれに興味を持ってるような顔をして、こう答えました。
「いったいどんな男なんだい」
すると、すぐにまた明智が尋ねるのです。それから暫くのあいだ、彼らは遠藤の人となりについて、死因について、自殺の方法について、問答をつづけました。三郎ははじめのうちこそ、ビクビクもので、明智の問いに答えていましたが、慣れてくるにしたがって、だんだん横着になり、はては、明智をからかってやりたいような気持にさえなるのでした。
「君はどう思うね。ひょっとしたら、これは他殺じゃあるまいか。なに、別に根拠があるわけではないけれど、自殺に違いないと信じていたのが、実は他殺だったりすることが、往々あるものだからね」
どうだ、さすがの名探偵もこればっかりはわかるまいと、心の中で嘲りながら、三郎はこんなことまで言ってみるのでした。それが彼には愉快でたまらないのです。
「それはなんとも言えないね。僕も実は、ある友だちからこの話を聞いたときに、死因が少し曖昧だという気がしたのだよ。どうだろう、その遠藤君の部屋を見るわけにはいくまいか」
「造作ないよ」三郎はむしろ得々として答えました。「隣の部屋に遠藤の同郷の友だちがいてね。それが遠藤のおやじから荷物の保管を頼まれているんだ。君のことを話せば、きっと喜んで見せてくれるよ」
それから、二人は遠藤の部屋へ行ってみることになりました。そのとき、廊下を先にたって歩きながら、三郎はふと妙な感じにうたれたことです。
「犯人自身が、探偵をその殺人の現場へ案内するなんて、じつに不思議なことだな」
ニヤニヤと笑いそうになるのを、彼はやっとのことでこらえました。三郎は、生涯のうちで、おそらくこの時ほど得意を感じたことはありますまい。「イヨー親玉あ」自分自身にそんな掛け声でもしてやりたいほど、水際立った悪党ぶりでした。
遠藤の友だち――それは北村といって、遠藤が失恋していたという証言をした男です――は、明智の名前をよく知っていて、快く遠藤の部屋をあけてくれました。遠藤の父親が国許から出てきて、仮葬をすませたのが、やっときょうの午後のことで、部屋の中には、彼の持物が、まだ荷造りもせず、置いてあるのです。
遠藤の変死が発見されたのは、北村が会社へ出勤したあとだったので、発見の刹那の有様はよく知らないようでしたが、人から聞いたことなどを総合して、彼は可なり詳しく説明してくれました。三郎もそれについて、さも局外者らしく、いろいろと噂話などを述べ立てるのでした。
明智は二人の説明を聞きながら、いかにも玄人らしい眼配りで、部屋の中をあちらこちらと見廻していましたが、ふと机の上に置いてあった眼覚まし時計に気づくと、何を思ったのか、長いあいだそれを眺めているのです。多分、その珍奇な装飾が彼の眼を惹いたのかもしれません。
「これは眼覚まし時計ですね」
「そうですよ」北村は多弁に答えるのです。「遠藤の自慢の品です。あれは几帳面な男でしてね、朝の六時に鳴るように、毎晩欠かさずにこれを捲いておくのです。私なんかいつも、隣の部屋のベルの音で眼をさましていたくらいです。遠藤の死んだ日だってそうですよ。あの朝もやっぱりこれが鳴っていましたので、まさかあんなことが起こっていようとは想像もしなかったのですよ」
それを聞くと、明智は長く延ばした頭の毛を、指でモジャモジャ掻き廻しながら、何か非常に熱心な様子を示しました。
「その朝、眼覚ましが鳴ったことは間違いないでしょうね」
「ええ、それは間違いありません」
「あなたは、そのことを、警察の人におっしゃいませんでしたか」
「いいえ……でも、なぜそんなことをお聞きなさるのです」
「なぜって、妙じゃありませんか。その晩に自殺しようと決心した者が、翌日の朝の眼覚ましを捲いておくというのは」
「なるほど、そういえば変ですね」
北村は迂濶にも、今まで、まるでこの点に気づかないでいたらしいのです。そして、明智のいうことが、何を意味するかも、まだハッキリ呑みこめない様子でした。が、それも決して無理ではありません。入口に締まりがしてあったこと、毒薬の容器が死人のそばに落ちていたこと、その他すべての事情が、遠藤の自殺を疑いないものに見せていたのですから。
しかし、この問答を聞いた三郎は、まるで足許の地盤が不意にくずれはじめたような驚きを感じました。そして、なぜこんな所へ明智を連れてきたのだろうと、自分の愚かさを悔まないではいられませんでした。
明智はそれから、いっそうの綿密さで、部屋の中を調べはじめました。むろん天井も見逃がすはずはありません。彼は天井板を一枚一枚叩き試みて、人間の出入りした形跡がないかを調べ廻ったのです。が、三郎の安堵したことには、さすがの明智も、節穴から毒薬を垂らして、そこをまた元々通り蓋しておくという新手には、気づかなかったとみえて、天井板が一枚もはがれていないことを確かめると、もうそれ以上の穿鑿はしませんでした。
さて、結局その日は別段の発見もなくすみました。明智は遠藤の部屋を見てしまうと、また三郎の所へ戻って、しばらく雑談を取りかわした後、何事もなく帰って行ったのです。ただ、その雑談のあいだに、次のような問答のあったことを書き洩らすわけにはいきません。なぜといって、これは一見ごくつまらないように見えて、その実、このお話の結末に最も重大な関係を持っているのですから。
そのとき、明智は袂から取り出した煙草に火をつけながら、ふと気がついたようにこんなことをいったのです。
「君はさっきから、ちっとも煙草を吸わないようだが、よしたのかい」
そういわれてみますと、なるほど、三郎はこの二、三日、あれほど大好物の煙草を、まるで忘れてしまったように、一度も吸っていないのでした。
「おかしいね。すっかり忘れていたんだよ。それに、君がそうして吸っていても、ちっとも欲しくならないんだ」
「いつから?」
「考えてみると、もう二、三日吸わないようだ。そうだ、ここにあるのを買ったのが、たしか日曜日だったから、もうまる三日のあいだ、一本も吸わないわけだよ。いったいどうしたんだろう」
「じゃあ、ちょうど遠藤君の死んだ日からだね」
それを聞くと、三郎は思わずハッとしました。しかし、まさか遠藤の死と、彼が煙草を吸わないこととのあいだに因果関係があろうとも思われませんので、その場は、ただ笑ってすませたことですが、あとになって考えてみますと、それは決して笑い話にするような、無意味な事柄ではなかったのです――そして、その三郎の煙草嫌いは、不思議なことに、その後いつまでもつづきました。
三郎は、その当座、例の眼覚まし時計のことが、なんとなく気になって、夜もおちおち眠れないのでした。たとえ遠藤が自殺したのでないということがわかっても、彼がその下手人だと疑われるような証拠はひとつもないはずですから、そんなに心配をしなくともよさそうなものですが、でも、それを知っているのがあの明智だと思うと、なかなか安心はできないのです。
ところが、それから半月ばかりは何事もなく過ぎ去ってしまいました。心配していた明智もその後一度もやってこないのです。
「やれやれ、これでいよいよおしまいか」
そこで三郎は、ついに気を許すようになりました。そして、時々恐ろしい夢に悩まされることはあっても、大体において、愉快な日々を送ることができたのです。殊に彼を喜ばせたのは、あの殺人罪を犯して以来というもの、これまで少しも興味を感じなかったいろいろな遊びが、不思議と面白くなってきたことです。ですから、このごろでは毎日のように、彼は家をそとにして、遊び廻っているのでした。
ある日のこと、三郎はその日もそとで夜をふかして、十時頃に自分の部屋へ帰ったのですが、さて寝ることにして、蒲団を出すために、なにげなく、スーッと押入れの襖をひらいたときでした。
「ワッ」
彼はいきなり恐ろしい叫び声を上げて、二、三歩あとへよろめきました。
彼は夢を見ていたのでしょうか。それとも、気でも狂ったのではありますまいか。そこには、押入れの中には、あの死んだ遠藤の首が、髪の毛をふり乱して、薄暗い天井から、さかさまにぶらさがっていたのです。
三郎は、いったん逃げ出そうとして、入口の所まで行きましたが、何かほかのものを見違えたのではないかというような気もするものですから、恐る恐る引き返して、もう一度、ソッと押入れの中を覗いてみますと、どうして、見違いでなかったばかりか、今度はその首が、いきなりニッコリ笑ったではありませんか。
三郎は、再びアッと叫んで、ひと飛びに入口の所まで行って障子をあけると、やにわにそとへ逃げ出そうとしました。
「郷田君。郷田君」
それを見ると、押入れの中では、頻りと三郎の名前を呼びはじめるのです。
「僕だよ。僕だよ。逃げなくってもいいよ」
それが、遠藤の声ではなくて、どうやら聞き覚えのある、ほかの人の声だったものですから、三郎はやっと逃げるのを踏みとどまって、こわごわふり返って見ますと、
「失敬失敬」
そう言いながら、以前よく三郎自身がしたように、押入れの天井から降りてきたのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせてすまなかった」押入れを出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「ちょっと君のまねをしてみたのだよ[#「ちょっと君のまねをしてみたのだよ」に傍点]」
それは実に、幽霊なぞよりはもっと現実的な、いっそう恐ろしい事実でした。明智はきっと、何もかも悟ってしまったのに違いありません。
そのときの三郎の心持は、実になんとも形容のできないものでした。あらゆる事柄が、頭の中で風車のように旋転して、いっそ何も思うことがないときと同じように、ただボンヤリとして、明智の顔を見つめているばかりでした。
「さっそくだが、これは君のシャツのボタンだろうね」
明智は、いかにも事務的な調子ではじめました。手には黒っぽいボタンを持って、それを三郎の眼の前につき出しながら、
「ほかの下宿人たちも調べてみたけれど、誰もこんなボタンをなくしているものはないのだ。ああ、そのシャツのだね。ホラ二番目のボタンがとれているじゃないか」
ハッと思って、胸を見ると、なるほど、ボタンがひとつとれています。三郎は、それがいつとれたものやら、少しも気づかないでいたのです。
「シャツのボタンとしては、ひどく変った型だから、これは君のにちがいない。ところで、このボタンをどこで拾ったと思う。天井裏なんだよ。それもあの遠藤君の部屋の上でだよ」
それにしても、三郎はどうして、ボタンなぞを落として、気づかないでいたのでしょう。あの時、懐中電燈で充分検べたはずではありませんか。
「君が殺したのではないのかね、遠藤君を」
明智は無邪気にニコニコしながら――それがこの場合、いっそう気味わるく感じられるのです――三郎のやり場に困った眼の中を、覗き込んで、とどめを刺すように言うのでした。
三郎は、もうだめだと思いました。たとえ明智がどんな巧みな推理を組み立ててこようとも、ただ推理だけであったら、いくらでも抗弁の余地があります。けれども、こんな予期しない証拠物をつきつけられては、もうどうすることもできません。
三郎は今にも泣き出そうとする子供のような表情で、いつまでもいつまでもだまりこくって突っ立っていました。時々、ボンヤリと霞んでくる眼の前には、妙なことに、遠い遠い昔の、たとえば小学校時代の出来事などが、幻のように浮き出してきたりするのでした。
それから二時間ばかりののち、彼らはやっぱり元のままの状態で、その長いあいだ、ほとんど姿勢さえもくずさず、三郎の部屋に相対していました。
「ありがとう、よくほんとうのことを打ち明けてくれた」最後に明智が言うのでした。「僕は決して君のことを警察へ訴えなぞしないよ。ただね、僕の判断が当たっているかどうか、それが確かめたかったのだ。君も知っている通り、僕の興味はただ「真実」を知るという点にあるので、それ以上のことは、実はどうでもいいのだ。それにね、この犯罪には、ひとつも証拠というものがないのだよ。シャツのボタン? ハハハハ、あれは僕のトリックさ。何か証拠品がなくては君が承知しまいと思ってね。この前君を訪ねた時、その二番目のボタンがとれていることに気づいたものだから、ちょっと利用してみたのさ。なに、これは僕がボタン屋へ行って仕入れてきたのだよ。ボタンがいつとれたなんていうことは、誰しもあまり気づかないことだし、それに、君は興奮している際だから、多分うまく行くだろうと思ってね。
僕が遠藤君の自殺を疑いだしたのは、君も知っているように、あの眼覚まし時計からだ。あれから、この管轄の警察署長を訪ねて、ここへ臨検した一人の刑事から、詳しく当時の模様を聞くことができたが、その話によると、モルヒネの瓶が、煙草の箱の中にころがっていて、中味が巻煙草にこぼれかかっていたというのだ。聞けば、遠藤は非常に几帳面な男だというし、ちゃんと床にはいって死ぬ用意までしているものが、毒薬の瓶を煙草の箱の中へ置くさえあるに、しかも中味をこぼすなどというのは、なんとなく不自然ではないか。
そこで、僕はますます疑いを深くしたわけだが、ふと気づいたのは、君が遠藤の死んだ日から煙草を吸わなくなっていることだ。この二つの事柄は、偶然の一致にしては、少し妙ではあるまいか。すると、僕は、君が以前犯罪のまねなどをして喜んでいたことを思い出した。君には変態的な犯罪嗜好癖があったのだ。
僕はあれからたびたびこの下宿へきて、君に知られないように遠藤の部屋を調べていたのだよ。そして、犯人の通路は天井のほかにないということがわかったものだから、君のいわゆる『屋根裏の散歩』によって、止宿人の様子をさぐることにした。殊に、君の部屋の上では、たびたび、長いあいだうずくまっていた。そして、君のあのイライラした様子を、すっかり隙見してしまったのだよ。
さぐればさぐるほど、すべての事情が君を指している。だが残念なことには、確証というものがひとつもないのだ。そこでね、僕はあんなお芝居を考え出したのさ。ハハハハ……じゃあ、これで失敬するよ。多分もうお眼にかかれまい。なぜって、ソラ、君はもうちゃんと自首する決心をしているのだからね」
三郎は、この明智のトリックに対しても、もはやなんの感情も起こらないのでした。彼は明智の立ち去るのも知らず顔に、
「死刑にされる時の気持はいったいどんなものだろう」
ただそんなことを、ボンヤリと考えこんでいるのでした。
彼は毒薬の瓶を節穴から落としたとき、それがどこへ落ちたかを見なかったように思っていましたけれど、その実は、巻煙草に毒薬がこぼれたことまで、ちゃんと見ていたのです。そして、それが意識下に押しこめられて、心理的に彼を煙草嫌いにさせてしまったのでした。
何者
一 奇妙な盗賊
「この話は、あなたが小説にお書きになるのが一ばんふさわしいと思います。ぜひ書いてください」
ある人が私にその話をしたあとで、こんなことをいった。四、五年前の出来事だけれど、事件の主人公が現存していたので、憚って話さなかった。その人が最近病死したのだということであった。
私はそれを聞いて、なるほど当然私が書く材料だと思った。なにが当然だかは、ここに説明せずとも、この小説を終りまでお読みになれば、自然にわかることである。
以下「私」とあるのは、この話を私に聞かせてくれた「ある人」をさすわけである。
ある夏のこと、私は|甲《こう》|田《だ》|伸《しん》|太《た》|郎《ろう》という友人にさそわれて、甲田ほどは親しくなかったけれど、やはり私の友だちである|結《ゆう》|城《き》|弘《ひろ》|一《かず》の家に、半月ばかり逗留したことがある。そのあいだの出来事なのだ。
弘一君は陸軍省軍務局に重要な地位をしめている、結城少将の息子で、父の屋敷が鎌倉の少し向こうの海近くにあって、夏休みを過ごすには持ってこいの場所だったからである。
三人はその年大学を出たばかりの同窓であった。結城君は英文科、私と甲田君とは経済科であったが、高等学校時代同じ部屋に寝たことがあるので、科は違っても、非常に親しい遊び仲間であった。
私たちには、いよいよ学生生活にお別れの夏であった。甲田君は九月から東京のある商事会社へ勤めることになっていたし、弘一君と私とは兵隊にとられて、年末には入営である。いずれにしても、私たちは来年からはこんな自由な気持の夏休みを再び味わえぬ身の上であった。そこで、この夏こそは心残りのないように、充分遊び暮らそうというので、弘一君のさそいに応じたのである。
弘一君は一人息子なので、広い屋敷をわが物顔に、贅沢三昧に暮らしていた。おやじは陸軍少将だけれど、先祖が或る大名の重臣だったので、彼の家はなかなかのお金持ちである。したがってお客様の私たちも居心地が悪くなかった。そこへもってきて、結城家には、私たちの遊び友だちになってくれる一人の美しい女性がいた。志摩子さんといって、弘一君の|従妹《い と こ》で、ずっと以前に両親を失ってから、少将邸に引き取られて育てられた人だ。女学校をすませて、当時は音楽の稽古に熱中していた。ヴァイオリンはちょっと聞けるぐらいひけた。
私たちは天気さえよければ海岸で遊んだ。結城邸は由井ガ浜と片瀬との中間ぐらいのところにあったが、私たちは多くは派手な由井ガ浜をえらんだ。私たち四人のほかに、たくさん男女の友だちがあったので、海にあきることはなかった。紅白碁盤縞の大きなビーチ・パラソルの下で、私たちは志摩子さんやそのお友だちの娘さんたちと、まっ黒な肩をならべてキャッキャッと笑い興じた。
私たちは又、結城邸の池で鯉釣りをやった。その大きな池には、少将の道楽で、釣堀みたいに、たくさん鯉が放ってあったので、素人にもよく釣れた。私たちは将軍に釣のコツを教わったりした。
実に自由で、明かるくて、のびやかな日々であった。だが不幸という魔物は、どんな明かるいところへでも、明かるければ明かるいほど、それをねたんで、突拍子もなくやってくるものである。
ある日、少将邸に時ならぬ銃声が響いた。この物語はその銃声を合図に、幕があくのである。
ある晩、主人の少将の誕生祝いだというので、知人を呼んで御馳走があった。甲田君と私もそのお相伴をした。
母屋の二階の十五、六畳も敷ける日本間がその席にあてられた。主客一同浴衣がけの気のおけぬ宴会であった。酔った結城少将が柄になく義太夫のさわりをうなったり、志摩子さんが一同に懇望されて、ヴァイオリンをひいたりした。
宴は別状なく終って、十時ごろには客はたいてい帰ってしまい、主人側の人たちと二、三の客が、夏の夜の興を惜んで座に残っていた。結城氏、同夫人、弘一君、志摩子さん、私のほかに、退役将校の北川という老人、志摩子さんの友だちの琴野さんという娘の七人であった。
主人少将は北川老人と碁をかこみ、他の人々は志摩子さんをせびって、またヴァイオリンをひかせていた。
「さあ、僕はこれから仕事だ」
ヴァイオリンの切れ目に、弘一君が私にそうことわって座を立った。仕事というのは、当時彼はある地方新聞の小説を引き受けていて、毎晩十時になると、それを書くために、別棟の洋館の父少将の書斎へこもる例になっていたのだ。彼は在学中は東京に一軒家を借りて住んでいて、中学時代の書斎は、現在では志摩子さんが使っているので、まだ本宅には書斎がないのである。
階段をおりて、廊下を通って、弘一君が洋館についたと思われる時分、突然何かをたたきつけるような物音が、私たちをビクッとさせた。あとで考えると、それが問題のピストルの音だったのである。
「なんだろう」と思っているところへ、洋館の方からけたたましいさけび声が聞こえてきた。
「誰か来てください。大変です。弘一君が大変です」
先ほどから座にいなかった甲田伸太郎君の声であった。
そのとき一座の人々が、誰がどんな表情をしたかは記憶がない。一同総立ちになって、梯子段のところへ殺到した。
洋館へ行ってみると、少将の書斎の中に(のちに見取図を掲げる)弘一君が血に染まって倒れ、そのそばに甲田君が青い顔をして立っていた。
「どうしたんだ」
父将軍が不必要に大きな、まるで号令をかけるような声でどなった。
「あすこから、あすこから」
甲田君が、激動のために口もきけないというふうで、庭に面した南側のガラス窓を指さした。
見るとガラス戸はいっぱいにひらかれ、ガラスの一部にポッカリと不規則な円形の穴があいている。何者かが、外部からガラスを切ってとめ金をはずし、窓をあけてしのび込んだのであろう。現にジュウタンの上に、点々と無気味な泥足のあとがついている。
母夫人は倒れている弘一君にかけより、私はひらいた窓のところへかけつけた。だが、窓のそとには何者の影もなかった。むろん曲者がそのころまで、ぐずぐずしているはずはないのだ。
その同じ瞬間に、父少将は、どうしたかというと、彼は不思議なことに息子の傷を見ようともせず、まず第一に、部屋のすみにあった小金庫の前へ飛んで行って、文字盤を合わせて扉をひらき、その中を調べたのである。これを見て、私は妙に思った。この家に金庫があるさえ心得ぬに、手負いの息子をほうっておいて、先ず財産をしらべるなんて、軍人にもあるまじき仕草である。
やがて、少将の言いつけで、書生が警察と病院へ電話をかけた。
母夫人は気を失った結城君のからだにすがって、オロオロ声で名を呼んでいた。私はハンカチを出して、出血を止めるために、弘一君の足をしばってやった。弾丸が足首をむごたらしく射ぬいていたのだ。志摩子さんは気をきかして、台所からコップに水を入れて持ってきた。だが、妙なことには、彼女は夫人のようには悲しんでいない。椿事に驚いているばかりだ。どこやら冷淡なふうが見える。彼女はいずれ弘一君と結婚するのだと思いこんでいた私は、それがなんとなく不思議に思われた。
しかし不思議といえば、金庫を調べた少将や、妙に冷淡な志摩子さんより、もっともっと不思議なことがあった。
それは結城家の下男の、常さんという老人のそぶりである。彼も騒ぎを聞いて、われわれより少しおくれて書斎へかけつけたのだが、はいってくるなり、何を思ったのか、弘一君のまわりを囲んでいた私たちのうしろを、例のひらいた窓の方へ走って行って、その窓際にペチャンとすわってしまった。騒ぎの最中で誰も老僕の挙動なぞ注意していなかったけれど、私はふとそれを見て、親爺気でも違ったのではないかと驚いた。彼はそうして、一同の立ち騒ぐのをキョロキョロ見廻しながら、いつまでも行儀よくすわっていた。腰が抜けたわけでもあるまいに。
そうこうするうちに、医者がやってくる。間もなく鎌倉の警察署から、司法主任の波多野警部が部下を連れて到着した。
弘一君は母夫人と志摩子さんがつきそって、担架で鎌倉外科病院へはこばれた。その時分には意識を取りもどしていたけれど、気の弱い彼は苦痛と恐怖のために、赤ん坊みたいに顔をしかめ、ポロポロと涙をこぼしていたので、波多野警部が賊の風体をたずねても、返事なぞできなかった。彼の傷は命にかかわるほどではなかったけれど、足首の骨をグチャグチャにくだいた、なかなかの重傷であった。
取調べの結果、この兇行は盗賊の仕業であることが明らかになった。賊は裏庭から忍び込んで、品物を盗み集めているところへ、ヒョッコリ弘一君がはいって行ったので(たぶん賊を追いかけたのであろう。倒れていた位置が入口ではなかった)、恐怖のあまり所持のピストルを発射したものに違いなかった。
大きな事務デスクの引出しが残らず引き出され、中の書類などがそこいら一面に散乱していた。だが少将の言葉によれば、引出しの中には別段大切なものは入れてなかったという。
同じデスクの上に、少将の大型の|札《さつ》|入《い》れが投げ出してあった。不思議なことに、中には可なりの額の紙幣がはいっていたのだが、それには少しも手をつけたあとがない。では何が盗まれたかというと、実に奇妙な盗賊である。まずデスクの上に(しかも札入れのすぐそばに)置いてあった小型の金製置時計、それから、同じ机の上の金の万年ペン、金側懐中時計(金鎖とも)、いちばん金目なのは、室の中央の丸テーブルの上にあった金製の煙草セット(煙草入れと灰皿だけで、盆は残っていた。盆は赤銅製である)の品々であった。
これが盗難品の全部なのだ。いくら調べてみても、ほかになくなった品はない。金庫の中も別状はなかった。
つまり、此の賊はほかのものには見向きもせず、書斎にあったことごとくの金製品を奪い去ったのである。
「気ちがいかもしれませんな。黄金収集狂とでもいう」
波多野警部が妙な顔をして言った。
二 消えた足跡
実に妙な泥棒であった。紙幣在中の札入れをそのままにしておいて、それほどの値打ちもない万年筆や懐中時計に執着したという、賊の気持が理解できなかった。
警部は少将に、それらの金製品のうち、高価というほかに、何か特別の値打ちをもったものはなかったかと尋ねた。
だが、少将は別にそういう心あたりもないと答えた。ただ、金製万年筆は、彼がある師団の連隊長を勤めていたころ、同じ隊にぞくしていられた高貴のお方から拝領したもので、少将にとっては金銭に替えがたい値打ちがあったのと、金製置時計は、三寸四方くらいの小さなものだけれど、洋行記念に親しくパリで買って帰ったので、あんな精巧な機械は二度と手に入らぬと惜まれるくらいのことであった。両方とも、泥棒にとって別段の値打があろうとも思われぬ。
さて波多野警部は室内から屋外へと、順序をおって、綿密な現場調査に取りかかった。彼が現場へ来着したのは、ピストルが発射されてから二十分もたっていたので、あわてて賊のあとを追うような愚はしなかった。
あとでわかったことだが、この司法主任は、犯罪捜査学の信者で、科学的綿密ということを最上のモットーとしていた。彼がまだ片田舎の平刑事であったころ、地上にこぼれていた一滴の血痕を、検事や上官が来着するまで完全に保存するために、その上にお椀をふせて、お椀のまわりの地面を、一と晩じゅう棒切れでたたいていた、という一つ話さえあった。彼はそうして、血痕をミミズがたべてしまうのをふせいでいたのである。
こんなふうな綿密周到によって地位を作った人だけに、彼の取調べには毛筋ほどのすきもなく、検事でも予審判事でも、彼の報告とあれば全然信用がおけるのであった。
ところが、その綿密警部の綿密周到な捜査にもかかわらず、室内には、一本の毛髪さえも発見されなかった。この上はガラス窓の指紋と、屋外の足跡とが唯一の頼みである。
窓ガラスは最初想像した通り、掛金をはずすために、賊がガラス切りと吸盤とを使って、丸く切り抜いたものであった。指紋の方はその係りのものがくるのを待つことにして、警部は用意の懐中電燈で窓のそとの地面を照らして見た。
幸いにも雨上がりだったので、窓のそとにはハッキリ足跡が残っていた。労働者などのはく靴足袋の跡で、ゴム裏の模様が型で押したように浮き出している、それが裏の土塀のところまで二列につづいているのは、賊の往復したあとだ。
「女みたいに内輪に歩くやつだな」警部のひとりごとに気づくと、なるほどその足跡はみな爪先の方が|踵《かかと》よりも内輪になっている。ガニ股の男には、こんな内輪の足癖がよくあるものだ。
そこで、警部は部下に靴を持ってこさせて、それをはくと、窓をまたいでそとの地面に降り、懐中電燈をたよりに、靴足袋のあとをたどって行った。
それを見ると、人一倍好奇心の強い私は、邪魔になるとは知りながら、もうじっとしてはいられず、いきなり日本座敷の縁側から廻って警部のあとを追ったものである。むろん賊の足跡を見るためだ。
ところが行ってみると足跡検分の邪魔者は私一人でないことがわかった。もうちゃんと先客がある。やはり誕生祝いに呼ばれていた赤井さんであった。いつの間に出てきたのか、実にすばしっこい人だ。
赤井さんがどういう素姓の人だか、結城家とどんな関係があるのか、私は何も知らなかった。弘一君さえハッキリしたことは知らないらしい。二十七、八の、頭の毛をモジャモジャさせた痩せ形の男で、非常に無口なくせに、いつもニヤニヤと微笑を浮かべている、えたいの知れない人物であった。
彼はよく結城家へ碁をうちに来た。そして、いつも夜ふかしをして、ちょいちょい泊り込んで行くこともあった。
少将は彼をあるクラブで見つけた碁の好敵手だといっていた。その晩は招かれて宴会の席に列したのだが、事件の起こった時には、二階の大広間には見えなかった。どこか下の座敷にでもいたのであろう。
だが、私は或る偶然のことから、この人が探偵好きであることを知っていた。私が結城家に泊り込んだ二日目であったか、赤井さんと弘一君とが、事件の起こった書斎で話しているところへ行き合わせた。赤井さんはその少将の書斎に持ち込んであった弘一君の本棚を見て何か言っていた。弘一君は大の探偵好きであったから(それは、この事件で後に被害者の彼自身が探偵の役目を勤めたほどである)、そこには犯罪学や探偵談の書物がたくさん並んでいるのだ。
彼らは内外の名探偵について、論じあっているらしかった。ヴィドック以来の実際の探偵や、デュパン以来の小説上の探偵が話題にのぼった。また弘一君はそこにあった「明智小五郎探偵談」という書物を指さして、この男はいやに理窟っぽいばかりだけとけなした。赤井さんもしきりに同感していた。彼らはいずれおとらぬ探偵通で、その方では非常に話が合うらしかった。
そういう赤井さんが、この犯罪事件に興味をもち、私の先を越して、足跡を見に来たのはまことに無理もないことである。
余談はさておき、波多野司法主任は、
「足跡をふまぬように気をつけてください」
と、二人の邪魔者に注意しながら、無言で足跡を調べて行った。賊が低い土塀を乗り越えて逃げたらしいことがわかると、土塀のそとを調べる前に、一度洋館の方へ引返して、何か邸内の人に頼んでいる様子だったが、間もなく炊事用の摺鉢をかかえてきて、もっともハッキリした一つの足跡の上にそれをふせた。あとで型をとる時まで原型をくずさぬ用心である。
やたらにふせたがる探偵だ。
それから私たち三人は裏木戸をあけて、塀のそとに廻ったが、そのあたり一帯、誰かの屋敷跡の空地で、人通りなぞないものだから、まぎらわしい足跡もなく、賊のそれだけが、どこまでもハッキリと残っていた。
ところが懐中電燈を振りふり、空地を半丁ほども進んだ時である。波多野氏は突然立ち止まって、当惑したようにさけんだ。
「おやおや、犯人は井戸の中へ飛び込んだのかしら」
私は警部の突飛な言葉に、あっけにとられたが、よく調べてみると、なるほど彼のいうのがもっともであった。足跡は空地のまんなかの一つの古井戸のそばで終っている。出発点もそこだ。いくら電燈で照らして見ても、井戸のまわり五、六間のあいだ、ほかに一つの足跡もない。しかもその辺は、決して足跡のつかぬような硬い土ではないのだ。又足跡を隠すほどの草もはえてはいない。
それは、|漆《しっ》|喰《くい》の丸い井戸|側《がわ》が、ほとんど欠けてしまって、なんとなく無気味な古井戸であった。電燈の光で中をのぞいて見ると、ひどくひびわれた漆喰が、ずっと下の方までつづいていて、その底ににぶく光って見えるのは腐り水であろう。ブヨブヨと物の|怪《け》でも泳いでいそうな感じがした。
賊が井戸から現われて、また井戸の中へ消えたなどとは、いかにも信じがたいことであった。お菊の幽霊ではあるまいし。だが、彼がそこから風船にでも乗って天上しなかったかぎり、この足跡は賊が井戸の中へはいったとしか解釈できないのである。
さすがの科学探偵波多野警部も、ここでハタと行きづまったように見えた。彼は入念にも、部下の刑事に竹竿を持ってこさせて、井戸の中をかき廻してみたが、むろんなんの手答えもなかった。といって、井戸側の漆喰に仕かけがあって、地下に抜け穴が通じているなどは、あまりに荒唐無稽な想像である。
「こう暗くては、こまかいことがわからん。あすの朝もう一度調べてみるとしよう」
波多野氏はブツブツと独り言を言いながら、屋敷の方へ引き返して行った。
それから、裁判所の一行の来着を待つあいだに、勤勉な波多野氏は、邸内の人々の陳述を聞きとり、現場の見取図を作製した。便宜上見取図の方から説明すると、
彼は用意周到にいつも携帯している巻尺を取り出して、負傷者の倒れていた地位(それは血痕などでわかった)足跡の歩幅、来る時と帰る時の足跡の間隔、洋館の間取、窓の位置、庭の樹木や池や塀の位置などを、不必要だと思われるほど入念に計って、手帳にその見取図を書きつけた。
だが、警部のこの努力は決してむだではなかった。素人考えに不必要だと思われたことも、後には甚だ必要であったことがわかった。
その時の警部の見取図をまねて、読者諸君のために、ここにそれを掲げておく。これは事件が解決したあとで、結果から割出して私が作った図であるから、警部のほど正確ではないが、そのかわり、事件解決に重大な関係のあった点は、間違いなく、むしろいくぶん誇張して現わしてある。