筑摩eブックス
江戸川乱歩全短篇2 本格推理U
[#地から2字上げ]江戸川乱歩著
[#地から2字上げ]日下三蔵 編
目次
湖畔亭事件
鬼
屋根裏の散歩者
何者
月と手袋
堀越捜査一課長殿
陰獣
著者による作品解説
編者あとがき 日下三蔵
湖畔亭事件
一
読者諸君は先年H山中A湖のほとりに起こった、世にも不思議な殺人事件を、ご記憶ではないでしょうか。片山里の出来事ながら、それは、都の諸新聞にも報道せられたほど、異様な事件でありました。ある新聞は「A湖畔の怪事件」というような見出しで、またある新聞は「死体の紛失云々」という好奇的な見出しで、相当大きくこの事件を書き立てました。
注意深い読者諸君はご承知かもしれませんが、そのいわゆる「A湖畔の怪事件」は五年後の今日まで、ついに解決せられないのであります。犯人はもちろん、奇怪なことには被害者さえも、実ははっきりとわかっていないのであります。警察でももはや匙を投げています。当の湖畔の村の人々すら、あのように騒ぎ立てた事件を、いつの間にか忘れてしまったようにみえます。この分では、事件は永久の謎として、いつまでもいつまでも未解決のまま残っていることでありましょう。
ところがここに、広い世界にたった二人だけ、あの事件の真相を知っているものがあるのです。そして、その一人は、かくいう私自身なのであります。では、なぜもっと早く、それを発表しなかったのだと、読者諸君は私をお責めになるかもしれません。が、それには深いわけがあるのです。まず私の打ちあけ話を、終りまでお聞き取りください。そして、私がいままで、どんなにつらい辛抱をして沈黙を守っていたかを、ご諒察願いたいのであります。
二
さて本題にはいるに先だって、私は一応、私自身の世の常ならぬ性癖について、私自身「レンズ狂」と呼んでいるところの一つの道楽について、お話ししておかねばなりません。読者諸君の常として、その不思議な事件というのは一体どんなことだ。そして、それが結局どう解決したのだと、話の先を急がれますが、この一篇の物語りは、先ず今いった私の不思議な道楽から説き起こさないと、あまりに突飛な信じがたいものになってしまうのですし、それに、私としては、自分の異常な性癖についても、少し詳しく語りたいのです。どうかしばらく、痴人のくり言を聞くおつもりで、私のつまらぬ身の上話をお聞きとり願いたいのであります。
私は子供の時分から、どういうものか、世にも陰気な、引っ込み思案な男でありました。学校へ行っても面白そうに遊びまわっている同級生たちを、隅の方から白い眼で、羨ましげに眺めている。家に帰れば帰ったで、近所の子供と遊ぶでもなく、自分の部屋にあてがわれた離れ座敷の四畳半に、たった一人でとじこもって、幼い頃はいろいろなおもちゃを、少し大きくなっては、さっきいったレンズの類を、仲のよい友だちかなんぞのように、唯一の遊び相手にしているといった調子でした。
私はなんという変な、気味のわるい子供であったのでしょう。それらの無生物の玩具に、まるで生ある物のように、言葉をかけることさえありました。時によって、その相手は、人形であったり、犬張子であったり、幻燈の中のさまざまな人物であったり、一様でないのですが、恋人に話しかけでもするようにくどくどと、相手の言葉も代弁しながら、話し合っているのでした。あるとき、それを母親に聞かれて、ひどく叱られたことも覚えています。そのとき、どうしたわけか、母親の顔は非常に青ざめて、私を叱りながらも、彼女の眼が、物おじしたように見ひらいていたのを、子供心に不思議に思ったことであります。
それはさておき、私の興味は普通の玩具から幻燈へ、幻燈からレンズその物へと、だんだん移り変って行きました。宇野浩二さんでしたかも何かに書いていましたが、私もやっぱり押入れの暗闇の中で幻燈を写す子供でした。あのまっ暗な壁の上へ、悪夢のように濃厚な色彩の、それでいて、太陽の光などとはまるで違った、別世界の光線で、さまざまの絵の現われる気持は、なんともいえず魅力のあるものです。私は食事も何も忘れて、油煙臭い押入れの中で、不思議なせりふを呟きながら、終日幻燈の絵に見入っていることさえありました。そして、母親に見つけられて、押入れからひきずり出されますと、何かこう、甘美な夢の世界から、いまわしい現実界へ引き戻されるような気がして、いうにいわれぬ不愉快をおぼえたものであります。
さすがの幻燈気ちがいも、でも、尋常小学校を卒業するころには、少し恥かしくなったのか、もう押入れへはいることをやめ、秘蔵の幻燈器械もいつとはなしにこわしてしまいました。が、器械はこわれてもレンズだけは残っています。私の幻燈器械は、普通玩具屋の店先にあるのよりは、ずっと上等の大型のでしたから、したがってレンズも直径二寸ほどの、厚みのたっぷりある、重いものだったのですが、それが二つ、文鎮代りになったりして、その後ずっと私の勉強机の上に置かれてありました。
あれは、中学校の一年生の時でしたか、ある日のこと、いったい私は朝寝坊のたちで、そんなことは珍らしくもなかったのですが、母親に起こされても起こされても、ウンウンと空返事ばかりして、暖かい寝床を出ようともせず、とうとう登校時間を遅らせ、もう学校へ行くのがいやになってしまって、母親にまで仮病を使って、終日寝床の中で暮らしたことがありました。病気だといってしまったものですから、好きでもないお粥をたべさせられる、何かやりたくても寝床を出ることができず、私は、いつものことながら、今さら学校へ行かなかったことを後悔しはじめました。
私はわざと雨戸を締め切って、自分の気持にふさわしく部屋の中を暗くしておきましたので、その隙間や節穴からそとの景色が障子の紙に映っています。大きいのや小さいのや、はっきりしたのやぼやけたのや、たくさんの同じ景色が、皆さかさまに映っているのです。私は寝ながらそれを見て、ふと写真機の発明者の話などを思い出していました。そして、どうかしてあの節穴の映像のように、写真にも色彩をつけることはできないものかなどと、どこの子供も考える夢のような、しかし自分ではひとかど科学者ぶったことを空想するのでした。
だが、見ているうちに、障子の影が少しずつ薄くなって行きました。そして、ついにはそれが消えてしまうと、今度はまっ白く見える日光が、同じ節穴や隙間から、まぶしくさし入るのでした。故もなく学校を休んでいるやましさから、私はもぐらもちのように日光を恐れました。私はいうにいわれぬ、いやないやな気持で、頭から蒲団をかぶると、眼をとじて、眼の前にむらがる無数の黄色や紫の輪を、甘いような、いまわしいような変な感じで眺めたことであります。
読者諸君、私のお話は、余りに殺人事件と縁が遠いように見えます。しかしそれを叱らないでください。こうした話し振りは私の癖なのです。そして、このような幼時の思い出とても、その殺人事件に、まるで関係のない事柄ではないのですから。
さて、私はまた蒲団から首を出して見ると、私の顔のすぐ下に、ボッツリと光った個所があります。それは節穴からはいった日光が、障子の破れを通って、畳の上に丸い影を投げていたのであります。むろん、部屋全体が暗いせいでしょうが、私はその丸いものが、余りに白々と、まぶしく見えるのを、ちょっと不思議に思いました。そして、何げなくそこに落ちていた例のレンズを取ると、私はそれを、丸い光の上にあてがってみたのでありますが、そうして、天井に映った化物のような影を見ると、私ははっとして思わずレンズを取り落としました。そこに映ったものは、それほど私を驚かしたのです。なぜといって、薄ぼんやりではありましたが、その天井には、下の畳の目が、一本の|藺《い》の太さが二寸ほどに拡大されて、小さなごみまでがありありと映っていたからです。私はレンズの不思議な作用に恐怖を感じると共に、一方では言い知れぬ魅力をおぼえました。それからです、私のレンズいじりのはじまったのは。
私はちょうどその部屋にあった手鏡を持ち出すと、それを使って、レンズの影を屈折させ、畳の代りにいろいろな絵だとか写真だとかを、かたえの壁に映してみました。そして、それがうまく成功したのです。あとで、中学の上級になってから、物理の時間にそれと同じ理窟を教わったり、また後年流行した実物幻燈などを知ると、その時の私の発見が別段珍らしいことでないのがわかりましたけれど、当時は何か大発明でもしたような気で、それ以来というものは、ただもうレンズと鏡の日々を送ったことであります。
私は暇さえあると、ボール紙や黒いクロースなどを買ってきて、いろいろな恰好の箱をこしらえました。レンズや鏡もだんだん数を増して行きました。あるときは長いU字形に屈折した|暗《あん》|箱《ばこ》を作って、その中へたくさんのレンズや鏡を仕掛け、不透明な物体のこちらから、まるでなんの障害物もないように、その向こうがわが見える装置を作り、「透視術」だなどといって家内の者を不思議がらせて見たり、あるときは、庭一面に凹面鏡をとりつけて、その焦点で火を燃して見たり、又あるときは、うちの中にいろいろの形の暗箱を装置して、奥座敷にいながら、玄関の来客の姿が見えるようにしてみたり、その他さまざまのそれに類したいたずらをやって喜んでいるのでした。顕微鏡や望遠鏡も自己流に作って、ある程度まで成功しました。小さな鏡の部屋を作って、その中へ蛙や鼠などを入れ、彼らが自分の姿に震えおののく有様を興がったこともあります。
さて、この不思議な道楽は、中学を出るころまで続いていましたが、上の学校にはいってからは、下宿住いになったり、勉強の方が忙がしかったりして、いつの間にかレンズいじりも中絶してしまいました。それが以前に数倍した魅力をもって復活したのは、学校を卒業して、といって別段勤め口を探さねばならぬ境遇でもなく、なにがなしブラブラと遊び暮らしている時代でありました。
三
ここで、私が或るいまわしい病癖を持っていることを白状しなければなりません。と言いますのは、少年時代のいじけた性質から考えても、こうなるのが当然だったかもしれませんが、私は、鼻下にはしかつめらしいチョビ髭まで貯えたこの私が、不良少年でさえもあえてしないような、他人の秘密を隙見することに、この上もない快感をおぼえるのでありました。むろんこうした性質は、いくらかは誰にでもあるものですが、私のはそれが極端なのです。そして、もっといけないことは、この隙見をする対象が、お話しするのもはずかしいような変てこな、いまわしい物ばかりなのです。
これはある友だちから聞いた話ですが、その友だちの伯母さんとかに、やっぱり隙見の病気を持った人がいて、ちょうど裏の板塀の向こうに隣家の座敷が見えるのを幸い、暇にまかせてその板塀の節穴から隣家の様子を覗くのだそうです。彼女は隠居の身の上で、これという仕事もなく、退屈なまま、まるで小説本でも読む気で、隣家の出来事を観察しているのです。きょうは何人来客があって、どの客はどんなふうをしていて、どんな話をしたとか、そこのうちでは、子供が生れたので、たのもしを落として、それで何と何とを買ったとか、女中が鼠いらずをあけて、何をつまみ食いしたとか、何から何までことも細かに、自分自身の家内のことよりもっと詳しく、いや先方の主人たちも知らないようなことまでも、洩れなく観察しては、私の友だちなどに話して聞かせるのだそうです。ちょうどお婆さんが孫たちに、新聞小説の続きものを読んで聞かせるように。
私はそれを聞いて、やっぱり世間には自分と同じような病人があるのだなあと、ばかばかしい話ですが、いくらか心強くなったものです。しかし、私の病気はその伯母さんよりも甚だしくたちのよくない種類のものでありました。一例を申しますと、これは私が学校を卒業してから第一にやったいたずらなのですが、私は、自分の居間と私の家の女中部屋とのあいだに、例のレンズと鏡でできたさまざまの形の暗箱を装置して、熟れた果物のように肥え太った二十娘の秘密を、隙見してやろうと考えました。隙見といっても、私のはごく臆病な間接のやり方なのです。女中部屋の目につかないような、例えば天井の隅っこなどに、私の発明した鏡とレンズの装置をほどこし、そこから暗箱によって、天井裏などを通路にして、光線を導き、女中部屋で鏡に映った影が、自分の居間の机の上の鏡にも、そのまま映るような仕掛けをこしらえたわけなのです。つまり潜航艇の中から海上を見る、なんとかスコープという、あれと同じ装置なのです。
さて、それによって何を見たかと言いますと、多くはここに言うをはばかる種類の事柄なのですが、例えば、二十歳の女中が、毎晩寝床へはいる前に、行李の底から幾通かの手紙と一葉の写真を取り出して、写真を眺めては手紙を読み、手紙を読んでは写真を眺め、さて寝るときには、その写真を彼女の豊満な乳房におしつけ、それを抱きしめて横になる様子を見て、彼女にもやっぱり恋人があるのだなと悟る。まあそういったことなのです。それから彼女が見かけによらない泣き虫であることや、想像にたがわずつまみ食いのはげしいことや、寝行儀のよくないことや、そして、もっと露骨なさまざまの光景が、私の胸をおどらせるのでありました。
この試みに味をしめて、私の病癖はいちじるしく昂進しましたが、女中以外に家人の秘密を探ることなどは、妙に不愉快ですし、といって、まさか、この仕掛けをよそのうちへ延ばすわけにもいきませんので、一時ハタと当惑しましたが、やがて、私は一つの妙案を思いついたのです。それは、かのレンズと鏡の装置を携帯自在の組立て式にして、旅館だとか、お茶屋だとか、或いは料理屋などへ持って行って、そこで即座に隙見の道具立てをこしらえるということでした。それには、レンズの焦点を自由に移動できるような装置を考えることだとか、暗箱をなるべく小さくして、目立たぬよう細工することだとか、いろいろ困難がありましたけれど、先に申しました通り、私は生来そうした手細工に興味を持っておりますので、数日のあいだコツコツとそればかりを丹誠して、とうとう申し分のない携帯覗き目がねを作り上げたことでした。
そして、私はそれを到るところで用いました。口実を設けて友人の家へ泊りこみ、主人公の居間へこの装置をほどこして、激情的な光景を隙見したこともあります。それらの秘密観察の記録を記すだけでも、充分一篇の小説が出来上がりそうに思われます。
それはさておき、前置きはこのくらいにして、いよいよ表題の物語りにお話を進めることにいたしましょう。
それはいまから五年前の夏のはじめのことでした。私はそのころ神経衰弱症にかかっていまして、都の雑沓が物憂きまま、家族の勧めに従い、避暑かたがた、H山中のA湖畔にある、湖畔亭という旅館に、ひとりきりで、しばらく滞在していたことがあります。避暑には少し早い時期なので、広い旅館がガランとして人けもなく、すがすがしい山気が、妙にうそ寒く感じられました。湖上の船遊びも、森林の跋渉も、慣れてはいっこう面白くありません。といって、都へ帰るのもなんとなく気が向かず、その旅館の二階でつまらない日々を送っていたことであります。
そこで退屈の余りふと思い出したのが、例の覗き目がねのことでした。幸い癖になっているものですから、その道具はチャンとトランクの底にあります。
さびしいとは言っても、旅館には数組の客がいますし、夏の用意に雇い入れた女中たちも十人近くいるのです。
「では一つ、いたずらをはじめるかな」
私はニヤニヤひとり笑いを洩らしながら、客が少ないので見つけられる心配もなく、例の道具立てに取りかかるのでした。そこで私は何を隙見しようとしたか、又その隙見から、計らずも、どんな大事件が持ち上がったか。これからこの物語りの本題にはいるのであります。
四
湖畔亭は、H山上の有名な湖水の、南側の高台に建てられてありました。細長い建物の北側がすぐに湖水の絶景に面し、南側は湖畔の小村落を隔てて、遙かに重畳の連山を望みます。私の部屋は、湖水に面した北側の一方の端にありました。部屋の前には、露台のような感じの広い縁側に、一室に二箇くらいの割合いで籐椅子が置かれ、そこから旅館の庭の雑木林を越して、湖水の全景を眺めることができるのです。緑の山々に取り囲まれた、静寂な湖水の景色は、最初のあいだ、どんなに私を楽しませたことでしょう。晴れた日には、付近の連峰が、湖面にさかしまの影を投げて、その上を、小さな帆かけ船が辷って行く風情、雨の日には山々の頂きを隠して、間近に迫った雲間から銀色の糸が乱れ、湖面に美しい鳥肌を立てている有様、それらの寂しくすがすがしい風物が、混濁しきった脳髄を洗い清め、一時はあのように私を苦しめた神経衰弱も、すっかり忘れてしまうほどでありました。
しかし、神経衰弱が少しずつよくなるにつれて、私はやっぱり雑沓の子でありました。その寂しい山奥の生活に、やがて耐えがたくなってきたのです。湖畔亭は、その名の示す通り、遊覧客の旅館であると同時に、付近の町や村から日帰りで遊びにくる人々のためには、料亭をも兼ねているのでした。そして、客の望みによっては、程近き麓の町から芸者を招いて、周囲の風物にふさわしからぬばか騒ぎを演じることもできるのです。淋しいままに、私は二、三度そんな遊びもやってみました。しかし、そのようななまぬるい刺戟が、どうして私を満足させてくれましょう。又しても山、又しても湖水、多くの日は、ヒッソリと静まり返った旅館の部屋部屋。そして時たま聞こえるものは、田舎芸者の調子はずれの三味線の音ばかりです。しかしながら、そうかといって、都の家に帰ったところで、なんの面白いことがあるわけでなく、それに、予定の滞在日数は、まだまだ先が長いのでした。そこで困じはてた私は、先にもちょっと書いたように、例の覗き目がねの遊戯を、ふと思いうかべることになったのでした。
私がそれを考えついた一つの動機は、私の部屋がごく好都合の位置にあったことでありました。部屋は二階の隅っこにあって、その一方の丸窓をあけると、すぐ目の下に、湖畔亭の立派な湯殿の屋根が見えるのです。私は、これまで覗き目がねの仕掛けによって、種々さまざまの場面を覗いてきましたが、さすがに浴場だけはまだ知りませんでした。したがって、私の好奇心は烈しく動いたのであります。といって私は何も裸女沐浴の図を見たかったわけではありません。そんなものは、すこし山奥の温泉場へでも行けば、いや都会のまん中でさえも、ある種の場所では、自由に見ることができます。それに、この湖畔亭の湯殿とても、別段男湯女湯の区別など設けてはなかったのです。
私の見たいと思ったのは、周囲に誰もいないときの、鏡の前の裸女でありました。或いは裸男でありました。われわれは日常銭湯などで、裸体の人間を見なれておりますが、それはすべて他人のいる前の裸体です。彼らはわれわれの目の前に、一糸もまとわぬ、赤裸々の姿を見せてはいますけれど、まだ羞恥の着物までは、脱ぎすてていないのです。それは人目を意識した、不自然な姿に過ぎないのです。私はこれまでの覗き目がねの経験によって、人間というものは周囲に他人のいるときと、たった一人きりのときと、どれほど甚だしく違って見えるものだかということを、熟知していました。人前では、さも利口そうに緊張している表情が、一人きりになると、まるで弛緩してしまって、恐ろしいほど相好の変るものです。ある人は、生きた人間と死人ほどの、甚だしい相違を現わします。表情ばかりではありません。姿勢にしろ、いろいろな仕草にしろ、すべて変ってしまいます。私はかつて他人の前では非常な楽天家で、むしろ狂的にまで快活な人が、その実は、彼が一人きりでいる時は、正反対の極端に陰気な厭世家であったことを目撃しました。人間には多かれ少なかれ、こうしたところがあるように思われます。われわれの見ている一人の人間は、実は彼の正体の反対のものである場合がしばしば見られるのです。この事実から推して行きますと、裸体の人間を鏡の前に、たった一人で置いたとき、彼が彼自身の裸体を、いかに取り扱うかを見るのは、甚だ興味のある事柄ではないでしょうか。
そういう理由から、私は覗き目がねの一端を、浴場の中へではなく、その次ぎの間になっている、大きな姿見のある脱衣場にとりつけようと決心したものであります。
五
その日、夜のふけるのを待って、私は不思議な作業にとりかかりました。先ずトランクの底から覗き目がねの道具を取り出しますと、入れこになったボール紙の筒を、長くつなぎ合わせて、例の丸窓から屋根へ忍びいで、人目につかぬ場所を選んで、それを細い針金で結びつけるのでした。幸い、そこの空地には背の高い杉の木立があって、その辺の壁を一面に覆い隠していましたので、夜が明けても、私の装置が発覚する心配はありません。のみならず、そこは家の裏側に当たる場所ですから、めったに人のくるようなことはないのです。
盗賊のように、木の枝を伝ったり、浴場の窓から忍び込んだり、私は暗闇の中で、夢中になって働きました。そして、三時間余りをついやして、やっと思うような装置をほどこすことができたのです。目がねの一端は、丸窓から、床の間の柱の蔭を伝わせて、そこへ寝転びさえすれば、いつでも覗けるようにして、その柱のところへは、私の合トンビをかけ、女中などに仕かけを見つけられぬ工夫をしたのです。
さて、その翌日から、私は不思議な鏡の世界に耽溺しはじめました。壁の隅にとりつけた、鼠色の暗箱の中には、方二寸ほどの小さい鏡が、斜めに装置せられ、上のレンズからくる脱衣場の景色を、まざまざと映し出しています。光線がたびたび屈折しているので、それは甚だ薄暗い映像ではありましたが、そのため、かえって一種夢幻的な感じを添え、もうこの上もなく、私の病的な嗜好を喜ばせるのでありました。
私の部屋は二階ですから、湯殿へ行く人の足音は、むろん聞こえず、また、丸窓から覗いたとて、そこには湯殿の屋根が見えるばかりで、内部の様子を伺うことはできません。それゆえ、いつその脱衣場へ人がくるか、鏡の面を注意しているほかには、知るべきすべもないのです。そこで、私は、ちょうど魚を釣る人が、浮きの動くのを待ちかねて、そのほうばかり見つめているように、朝起きるとから、部屋の隅に寝ころんで、暗箱の中の小さな鏡を凝視するのでありました。
やがて、待ちに待った人影が、チラリと鏡の上にひらめいたとき、私はどんなに胸を躍らせたことでしょう。そして、その人が着物を脱ぐあいだ、湯から出てからからだをふいているあいだ、いまにも変ったことが起こるか、いまにも変ったことが起こるかと、どんなに待ちかねたことでありましょう。
ところが、私の予想は、多くの場合裏切られて、そこに現われた男女は、ただそれが、不思議な、薄暗い鏡の表面に、うごめいているという興味のほかには、なんの変った様子も見せてはくれないのでした。それに、先にもいった通り、初夏とはいえ、山の上ではまだ朝夕は寒いほどの時候なので、泊り客も二、三組にすぎず、酒を飲んで騒ぐためにくる客とても、三日に一度ぐらいの割合にしかないのです。したがって、入浴者も少なく、私の鏡の世界は、湖水の景色と同じように、なんともさびしいものでありました。
その中で、わずかに私を慰めてくれたのは、十人に近い宿の女中たちの入浴姿でした。
彼らの或る者は、二人三人と連れ立って、脱衣場に現われました。
そして、何をいうのか声は聞こえませんが、多分みだらな噂でもしているのでしょう。笑ったりふざけたりしながら着物を脱ぎ、お互いの肌を比べ合い、相手の肥え太った腹を叩きなどするさまが、手に取るように眺められるのです。それらが鏡の表面に、豆写真のように可愛い姿で動いているのです。それから入浴を済ませると、彼女らは長い時間かかって、姿見の前でお化粧をはじめます。私は以前から、女のお化粧というものには一種の興味を感じていたのですが、かように裸体の女が、あからさまな姿態で、大胆なお化粧をする有様は見たことがありません。そこには男の知らぬ、ある不思議な世界がくり拡げられるのでありました。
あるものはたった一人で、脱衣場に現われます。そして鏡の前で、少しの遠慮もなく着物を脱ぎすてるのです。
この場合には、一そう好奇的な景色に接することができます。今のさき、無邪気そうな顔をして、私のお給仕をしていた女が、たった一人で鏡の前にたつと、こんなにも様子が変るものかしら、なるほど女は魔物だなあ。私はしばしばそんな嘆声をもらすのでありました。
六
ところが、間もなく、私の鏡の世界には、平凡な景色に退屈しきっていた私を、驚喜せしめるような人物が現われました(そして、その次には、もっともっと、そんなものよりは幾層倍も驚くべき事件が、鏡の中に起こったのですが)。それは、最近宿に着いた、東京の富裕階級に属するらしい、女づれの一家族の一人で、十八ぐらいに見える、非常にけばけばしい身なりをした娘でした。彼女がはじめて私の鏡に現われたとき、私は何かこう、その薄暗いガラスの中に、まっ赤なけしの花でも咲いたような気がしたものです。彼女は身なりにふさわしく、世にも美しい容貌の持ち主でした。そして、その容貌にもいやまして、彼女のからだは見事でした。西洋人のように豊かなる肉体、桜の花弁のように微妙な肌の色、それだけでも充分私を驚かせたのですが、その上彼女には、鏡の前の不思議な癖さえあったのです。彼女は一糸まとわぬ自分のからだを、或いは横むきになり、或いはうしろむきになり、種々さまざまの、みだらなポーズを作って、いつまでも眺めているのです。
廊下などで遇ったときの、つつましやかな、とりすました様子に引きかえ、たった一人で姿見の前に立つときには、彼女はまるで別人のように大胆になりました。
私ははじめて、若い女が、自分自身の肉体に見とれる有様を、隙見することができました。そしてその余りにも大胆な身のこなしに、一驚を喫しないではいられませんでした。
それらの一々を説明することは、この物語の本筋と関係のないことですから、ここには省略しますけれど、ともかく、私は彼女の出現によって、やっと退屈から救われることができました。
やがて私は覗き目がねの効果を一そう強めるために、又もや夜中に浴場へ忍び込んで、高い通風用の窓の隙間からのぞかせたレンズの先に、もう一つ望遠鏡のようなレンズ装置をほどこし、そこの姿見の中央の部分だけが、間近く映るように作り変えました。その結果、私の部屋の方二寸の鏡の中には、脱衣場の姿見に映る人影が、うまく行けば全身、ときによってはからだの一部分だけ、映画の大写しのようにうごめくのです。
それがどんなに異様な感じであったか、そのたった二寸の鏡に映る人間のからだの一部分が、どんなに大きく思われるか、実際私と同様の遊戯をやってみた人でなければおそらく想像もつかないでしょう。そこには、薄暗い水族館のガラス張りの水槽の表に、白々と、思いがけぬ魚の腹が現われる感じで、ちょうどあの感じで、突然ヌッと、人間の肌が現われるのです。それがどんなに、気味わるく、同時に蠱惑的なものであったでしょう。私はそうして、毎日毎日、飽きもせず、裸女の秘密を眺め暮らしたことであります。
七
そして、或る日のことでありました。
毎日欠かさず湯殿にくる娘が、どうしたことか、その日は夜になっても姿を見せないので、見たくもないほかの人たちのからだを、眺め暮らしているうちに、いつしか夜も更けて、もう浴客も尽き、いつもの例によると、あと十二時ごろに女中たちの入浴するまで、一、二時間のあいだ、鏡の表に人影の現われることはないはずです。
私はもうあきらめて、さいぜんから敷いてあった床の中にもぐりこみました。すると、今まで気にもとめなかった、ふた間おいて向こうの部屋のばか騒ぎが、うるさく耳について、とても眠ることができません。田舎芸者のボロ三味線に、野卑な俗曲を女の|甲《かん》|声《ごえ》と男の胴間声とが合唱して、そこへ太鼓まではいっているのです。珍らしく大一座と見えて、廊下を走る女中の足もいそがしそうに響いてきます。
寝られぬままに、私は又もや床を這い出して、鏡のところへ行きました。そして、ひょっとして、あの娘の姿が見られはしないかと、そんなことを願いながら、ふと鏡の表を見ますと、いつの間にきたのか、そこには一人の女の後姿が映っているのです。それが例の娘でないことは一と目でわかりましたが、しかし、それが誰であるかは少しもわかりません。そこには女のくびから下が、鏡の中にボンヤリと映っているにすぎないのです。からだの肉づきから判断すると、どちらかといえば若い女のように見えます。いま湯から上がって、顔でもふいているらしい恰好です。と、突然、女の背中で何かがギラリと光りました。ハッとしてよく見ると、実に驚くべきものがそこにうごめいているではありませんか。鏡の隅の方から一本の男のらしい手が伸びて、それが短刀を握っているのです。女の丸々としたからだと、その手前に、距離の関係で非常に大きく見える男の片腕とが、鏡面一ぱいになって、それが水族館の水槽のように、黒ずんで見えるのです。一刹那、私は幻を見ているのではないかと疑いました。事実、私の神経はそれほど病的になっていたのですから。
ところが、しばらく見ていても、いっこう幻は消えないのです。それどころか、ギラギラと異様に光る短刀が、少しずつ少しずつ、女の方へ近づいて行くのです。男の手は多分、興奮のためでしょう。気味わるく震えています。女はそれを知らないのでしょう。じっと落ちついて、やっぱり顔を拭いているようです。
もはや夢でも幻でもありません。疑いもなく、いま浴場で殺人罪が犯されようとしているのです。私は早くそれを止めなければなりません。しかし、鏡の中の影をどうすることができましょう。早く、早く、早く、私の心臓は破れるように鼓動します。そして、何事かを叫ぼうとしていますが、舌がこわばってしまって、声さえ出ないのです。
ギラリ、一瞬間、鏡の表が稲妻のように光ったかと思うと、まっ赤なものが、まるで鏡の表面を伝うように、タラタラと流れました。
私はいまでも、あの時の不思議な感じを忘れることができません。一方の部屋では、景気づいた俗曲の合唱が、太鼓や手拍子足拍子で部屋もわれよと響いています。それと、私の目の前の、闇の中の、ほの暗い鏡の表の出来事とが、なんとまあ異様な対照をなしていたことでしょう。そこでは、白い女のからだが、背中から、まっ赤なドロドロしたものを流しながら、スーッとあるき去ったように鏡の表から消えました。いうまでもなく、そこへ倒れたのでしょうけれど、鏡には音がないのです。あとに残った男の手と短刀とは、しばらくじっとしていましたが、やがて、これも、あとずさりをするように、鏡から影を消してしまいました。その男の手の甲に、斜かけに傷痕らしい黒い筋のあったのが、いつまでも、いつまでも、私の目に残っていました。
八
しばらくは、私は鏡の中の血なまぐさい影絵を、現実の出来事と思わず、私の病的な錯覚か、それとも、覗きからくりの絵空ごとのように感じて、ボンヤリとそのまま寝ころんでいたことです。しかし考えてみれば、いかに衰えた私の頭でも、まさかああまでハッキリと幻を見よう道理がありません。これはきっと、人殺しではないにしても、何かそれに似通よった、恐ろしい事件が起こったものにちがいないのです。
私は耳をすまして、今にも下の廊下に、ただならぬ足音や、騒がしい人声が聞こえはじめはしないかと待ちかまえました。そのあいだに、私はなんの気もなく腕の時計を見ていたのですが、その針がちょうど十時三十五分近くをさしていました。
ところが、待っても待っても、なんの変った物音も聞こえてはきません。隣室のばか騒ぎも、なぜかふと鳴りをひそめていましたので、一刹那、家じゅうがシーンと静まり返って、私の腕時計のチクタクばかりがいやに大きく響くのでした。私は幻を追いでもするように、もう一度鏡の中を見つめました。むろんそこには脱衣場の冷たい大姿見が、壁や棚などを映して白々と鈍い光を放っているばかりです。あれほどの勢いで短刀をつき立て、あれほどの血潮が流れたのですから、被害者は死なぬまでも、必ず非常な重傷を負ったことでしょう。鏡の像に声はなくとも、彼女は恐ろしい悲鳴を発したことでありましょう。
私は甲斐なくも、冷たい鏡の表から、その悲鳴の余韻をでも聞き出そうとするように、じっとそこを見つめていました。
それにしても、宿の人たちは、どうしてこう静まり返っているのでしょう。もしかしたら、彼らは女の悲鳴を聞かなかったのかもしれません。浴場の入口の厚いドアと、そこから女中たちのいる料理場までの距離が、それを|遮《さえぎ》ったのかも知れません。そうだとすると、この恐ろしい出来事を知っているものは、広い湖畔亭の中で、私ただ一人のはずです。当然私は、このことを彼らに知らせなければなりません。でも、なんといってしらせればいいのでしょう。それには覗き目がねの秘密をあかすほかはないのです。どうしてそんな恥かしいことができましょう。恥かしいばかりではありません。この常人では判断もできないような変てこな仕掛けが、どうしたことで、殺人事件と関連して考えられないものでもありません。生来臆病で不決断な私には、とてもそんなことはできないのです。
といって、このままじっとしているわけにはいきません。私はほとんど十分ほどのあいだ、かつて経験したことのない焦燥にかられながら、もじもじしていましたが、やがてたまらなくなって、いきなり立ち上がると、どうするという当てもなく、ともかく部屋を出て、すぐそばの広い階段をかけおりるのでした。階段の下の廊下がT字形になっていて、一方は湯殿の方へ、一方は玄関の方へ、そうして、もう一つは奥の座敷の方へ続いていましたが、いま私が大急ぎで階段をおりたのと、ほとんど出あいがしらに、奥の座敷へ通じる廊下から、ヒョッコリと人の姿が現われました。
見るとそれは相当の実業家らしい洋服姿で、落ちついた色合の、豊かな春外套を波うたせ、ひらいた胸からは、太い金鎖がチラついていました。そして右手には重そうな大一番のトランク、左手には金の握りのステッキです。しかし夜の十一時近い時分、宿を立つらしいその様子と言い、重いトランクを自身手にさげているのも、考えてみれば妙ですが、それよりも一そうおかしいのは、出あいがしらで、私の方でも、少なからずびっくりしましたけれど、先方の驚き方と言ったらないのです。彼はハッとしたように、いきなり後へ引き返そうとしましたが、やっと思い返して、いかにも不自然なすまし方で、私の前を通り抜け、玄関のほうへいそぐのです。そして、そのあとからもう一人、彼の従者とも見える少し風采の劣った男が、これもやっぱり洋服姿で、手には同じようなトランクをさげてついて行きました。
私が世にも内気者であることは、これまでもしばしば申し述べた通りです。従って、宿屋にいても、滅多に部屋のそとへ出ることはなく、同宿者たちのことも、まるで無知でありました。例の華美な都会の少女と、もう一人の青年(彼がどんなに驚嘆すべき男であるかは、お話が進むに従って読者に明らかになるでしょう)のほかには、私はほとんど無関心だったのです。むろん覗き目がねを通して、すべての泊り客を見てはいるのですけれど、どの人がどの部屋にいて、どんな顔つき風采をしているのやら、まるで知らないのです。で、いま出あいがしらに私を驚ろかせた紳士とても、一度は見たようにも思うのですけれど、別段深い印象もなく、したがって彼の変てこな挙動にも、大して興味を感じなかったのです。
そのときの私には、時ならぬ出立客など怪しんでいる余裕はなく、ただもうワクワクとして、その廊下をどちらへ行っていいのかさえわからない始末でしたが、いくら勇気をふるい起こしてみても、あの出来事を宿の人に告げる気にはなれません。覗き目がねのことがあるものですから、まるで自分自身が科人ででもあるようにうしろめたい気持なのです。
九
しかし、そうしていても際限がないので、私はともかく、浴場を検べてみることに心をきめました。
薄暗い廊下をたどって、そこへ行ってみますと、入口の厚い西洋|扉《とびら》はピッシャリととじられてありました。気の弱い私には、それをあけるのが、どんなに薄気味わるかったことでしょう。でも大ぶん時間もたっていることですし、やっと元気を出して、一寸二寸と、少しずつ扉をひらき、そこに目を当てて覗いて見ましたところ、私は何をまあビクビクしていたのでしょう。当然、そこにはもう曲者などはいなかったばかりか、もしやと思っていた女の死骸さえないのです。ガランとした脱衣場は、白々とした電燈に照らし出されて、墓場のように静かなのです。
やっと安心した私は、すっかりドアをあけて脱衣場にはいりました。あれほどの刃傷沙汰があったのですから、そこの床にはおびただしい血潮が流れていなければなりません。ところが、見ると、綺麗に艶の出た板張りの床には、それらしい跡もないではありませんか。ではもう浴場との境のすりガラスの戸をあけて見るまでもありません。
あっけに取られた私は、ただボンヤリとそこに立ち尽していました。まるで狐にでもつままれたような話なのです。
「ああ、おれの頭はいよいよどうかしてしまったのだ。あんな気味わるい幻を見て、しかもそれを真実のことかなんぞのように騒ぎまわるなんて。なぜ変な覗き目がねなんか作ったのだろう。もしかすると、あれを考案したときから、もうおれは気ちがいだったのかもしれない」
さっきのとは違った、もっと根本的な恐れが、私を戦慄させました。私は夢中で自分の部屋へ帰ると、敷いてあった床の中にもぐりこんで、これ迄のことが一切夢であってくれればいいと、それを祈りながら目をとじました。
一時やんでいた近くの部屋のばか騒ぎが、私の愚かさをあざ笑うように、またしてもドンチャンとやかましく響いてきます。蒲団をかぶってもどうしても、その響きがうるさく耳について、寝られたものではないのです。
すると、いつの間にかまた、私は先ほどの幻について考えふけっていました。あれが幻であったときめてしまうのは、とりも直さず私の頭が狂っていることを承認するようなもので、余りに恐ろしいことです。それに、だんだん冷静に考えれば考えるほど、私の頭が、或いは眼が、それほど狂っていようとは思われません。「ひょっとしたら誰かのいたずらではないかしら」愚かにも、私はそんなことまで想像してみるのでした。
しかしあのようなばかばかしいいたずらを、誰がなんのためにやるのでしょう。私を驚かすためにか? そんな懇意な知り合いは、この湖畔亭にはいないのです。のみならず、私の覗き目がねの秘密すら、まだ誰もさとってないはずではありませんか。あの短刀、あの血潮、あれがどうしていたずらなどでありましょう。
では、やっぱり幻なのか。しかし私には、なんとなくそう思われないのです。脱衣場に血潮が流れていなかったのは、ちょうど被害者の足の下に着物か何かがあって、それにしたたったのだとも、また床に流れるほど多量の出血がなかったのだとも、考えられぬことはありません。でもそれにしては、切られた人が、あの深手で、どこへ立ち去ることができたのでしょう。叫び声は、それは二階の騒ぎに消されて、宿の人も気づかなかったのかもしれませんが、あの手負いが誰にも見つからずに、ここを出られよう道理はないのです。だいいち彼女は、すぐにも医者の必要があったのです。
そんなことを、とつおいつ考えつづけて、その夜はついにまんじりともしませんでした。ナニ宿の者に告げさえすれば気がすむのですけれど、覗き目がねの弱味があるものですから、それもならず、つまらぬ苦労をしたことです。
十
翌朝、夜があけて、階下が騒がしくなると、私はやっと少しばかり元気づいて、顔でも洗ったら気が変るかもしれないと、タオルを持って階段を下り、洗面所へ行きました。それがちょうど例の浴場のそばにあるので、もう一度朝の光で脱衣場を検べてみましたが、やっぱりなんの変ったこともありません。
洗面を済ませて部屋へ帰ると、私は湖水に面した障子をあけて、腹一ぱいに朝の空気を吸い込みました。なんというはればれとした景色でしょう。見渡す限りの湖面には縮緬のような小波が立って、山の端を上った日光がチカチカと白く反射しています。背景には日蔭の山肌が、壮大な陰影をたたんで、その黒と、湖面の銀と、そして山と湖との境に流れる一抹の朝霞。長い滞在のあいだにも、朝寝坊の私は、そんな景色を見るのは珍らしいことでした。その景色に比べては、私の夜来の恐怖がなんとむさくるしく感じられたことでしょう。
「お早いのでございますね」
うしろに冷かすような女の声がして、そこへ朝のお膳が運ばれました。いっこう食慾などありませんでしたが、ともかく私はお膳につきました。そして、箸を取りながら、ふと、もう一度ゆうべのことを確かめてみる気になったのです。朝のはれやかな空気が、私の口をいくらか快活にしました。
「君は知らなかったのかい。ゆうべ湯殿の方で、変な叫び声がしたように思ったが、何かあったのじゃないかい」
私はさも|剽軽《ひょうきん》な調子で、こんなふうにはじめました。そしてさまざまに問い試みたのですが、女中は何事も知らないのです。客のうちにはむろんけが人などなく、附近の村人にも、そんな噂を聞かないというのです。あの手負いが今まで人に気づかれぬはずはありませんから、その噂が耳ざとい女中たちに伝わっていないとすると、ゆうべのことは、いよいよ一場の悪夢にすぎなかったのかもしれません。私はさらに自分自身の神経を心配しなければなりませんでした。
それからしばらくして、いまさら寝るわけにもいかず、部屋に坐ったままうつうつと物思いにふけっていた私の前に、一人の訪問者が現われました。それは先にちょっと記した、面識のある青年で、やはり同じ宿に泊っている河野という男でしたが、これがこの物語りの主人公ともいうべき人物なのですから、ここに少しく彼のことを説明しておかなければなりません。
私は彼とは、浴場の中だとか、湖の岸だとかで二、三度あったのにすぎませんが、彼もまた私のように、どちらかといえば憂欝な性格らしく、いつのときもボンヤリと空間を見つめているのを見かけました。ふとしたことから話し合ってみたのですが、お互いの性格にはどっか似通よったところがあるのでした。人にまじってお喋べりするよりは、一人で物思いに沈んでいる、或いは書物などを読みふけっている。私は彼のそんなところに、なんとなく好意を感じました。しかし、彼は私のようないわばニヒリストではなく、人間相互の関係について、何かの理想を抱いているように見えました。そしてそれは決してひとりよがりなユートピアを夢みているのではなくて、もっと着実な、従って社会的には危険な、実行的なもののように思われました。ともかく変り者に相ちがいないのです。
彼はまた職業や物質の方面でも、私とは大ぶん違っていました。彼の専門は洋画家で、風采から考えても決して富裕な階級に属する人ではなく、彼の口ぶりでは、画を売りながら、こうして旅行をしているらしい様子です。宿の部屋なども、彼のは廊下の隅っこの一ばん不便な場所があてがわれてありました。何が引きつけるのか、彼はこれまでも、しばしばこのHへやってきたらしく、その辺の事情にはよく通じていました。今度も麓の町にしばらくいて、私の少し前に湖畔亭にきたということでした。そうして旅をしながら、彼は諸国の人情風俗を調べている様子で、さまざまの珍らしい風習を知っていました。暇なときには彼はたずさえている書物に読みふけるらしく、手垢で黒くなった四、五冊のむずかしい書物が、いつも彼の座右にあるのでした。
いや、これでは少しお話が堅くなりすぎたようです。河野の紹介はこれくらいにとどめて、さて彼がその朝私の部屋を訪ねたところへ立ち帰ることにいたしましょう。
彼は私の部屋へはいってくると、私の顔をジロジロ眺めて、
「どうかしましたか、大変顔色がわるいようですが」
と聞くのです。
「ゆうべ眠れなかったものですから」
私はさりげなく答えました。
「不眠症ですか、いけませんね」
そして、私たちはしばらく、いつものような議論とも世間話ともつかぬものを取りかわすのでした。が、やがて、私はそんな暢気な対話に耐えきれなくなりました。ともすれば、ゆうべのことで頭が一ぱいになって、河野の物知り顔な議論などいっこう耳にはいらぬのです。そうしていらいらしているうちに、私はふと「この男に話をして彼の判断を聞いてみたら」と考えました。彼なればある程度私を理解もしていてくれるのですから、なんとなく話し易い気がするのです。そこで、私はゆうべの出来事を、すっかり彼に打ち明けてしまいました。覗き目がねの秘密をあかすときには、でも、ずいぶん恥かしい思いをしたことですが、相手の聞き上手が、いつの間にか、臆病者の私を多弁にしてしまったのでした。
十一
河野は私の話に非常な興味をおぼえたように見えました。殊に覗き目がねの仕掛けは、彼を有頂天にさせました。
「その鏡というのはどれです」
彼は何よりも先にそれを聞くのでした。私は夏外套を取って、例の仕掛けを見せてやりますと、
「ホウ、なるほど、なるほど、うまいことを考えたものですね」
彼はしきりに感心しながら、自からそれを覗いてみるのです。
「たしかに、ここへそんな影が映ったのですね。いまおっしゃる通り、幻にしては変ですね。しかし、その女は(たぶん女でしょうね)少なくとも大怪我をしているはずですから、それがいままで知れないというのもおかしいけれど」
そして、しばらくのあいだ、彼は何か考えに耽っている様子でしたが、やがて、
「いや、必ずしも不可能ではありませんよ。もし被害者が怪我をしただけだとするとおかしいけれど、その女が死んでしまったとすれば、死骸を隠して、あとの血潮などは拭きとることもできますからね」
「でも、私がそれを見たのが十時三十五分で、それから湯殿へ行くまでに、三十分ほどしかたっていないのですよ。その僅かのあいだに死体を隠したり掃除をしたりできるものでしょうか」
「場合によってはできないこともありませんね」河野は意味ありげに言いました。「例えば……いや想像なんかあと廻しにして、も一度湯殿を検べてみようではありませんか」
「しかし」私はなおも主張しました。「誰もいなくなった人はないでしょう。だとすると、女が死んだというのも変ですよ」
「それはわかりません。ゆうべなんか泊らない客がたくさんあって、ずいぶん混雑していたようですから、誰か行方不明になっていないとも限りませんよ。そして、そこの家ではゆうべのけさのことですから、まだ気がつかないでいるかもしれません」
そこで、私たちはともかく浴場へ行ってみることにしました。私としては行ってみるまでもないと思うのですけれど、河野の好奇心が、もう一度彼自身の眼で調べてみなければ承知しなかったのです。
脱衣場にはいると、私たちはドアをしめ切って、旅館の浴場にしては贅沢なほど広いそこの板間を見廻しました。河野はするどいまなざしで(彼の眼はときとして非常に鋭く光るのでした)その辺をジロジロ眺めていましたが、
「ここは朝早く掃除することになっていますから、血の跡があるにしても、ちょっと見たくらいではわからぬように拭きとってあるかもしれません」そして、ふと気がついたように、「おや、これは変ですね。このマットはいつもこんな鏡の前にはなかったはずだが、これの正しい位置は、この浴場の入口にあるべきですね」
彼はそう言いながら、足の先で、そのゴム製の幅の広いマットを、あるべき位置へおしやるのでした。
「ヤ、ヤ、これは」
彼が妙な声を出したので、驚いてそこを見ますと、今までマットで隠れていた床板には、三尺四方ほどの広さで、ベットリと、ドス黒いしみがついているのです。それが血潮を拭きとった跡であることは、一と目見ただけで充分察しられました。
十二
河野は袂からハンカチを出して、その血らしいものを、ゴシゴシとこすってみましたが、よほど拭き取ってあるとみえて、ハンカチの先がほんのうっすりと赤くなるばかりでした。
「どうも血のようですね。インキや絵の具の色とは違いますね」
そして、彼はなおもその辺を調べまわっていましたが、
「これをごらんなさい」
といって指さすところを見ると、マットで隠れていた個所のほかにも、諸所に点々として血の痕らしきものを認めることができました。あるものは柱や壁の下部に、あるものは板張りの上に、よく拭き取ってあるために、ほとんど見分けられぬほどになっていましたけれど、そう思って見れば、なるほど非常にたくさんの血痕らしいものがあるのです。そして、その点々たる血痕をつけて行きますと、負傷者或いは死者は、明らかに浴場の中へはいった形跡があります。しかし、それから先はどこへ行ったものか、どこへ運ばれたものか、絶えず水の流れているたたきになっているのですから、むろん少しもわかりません。
「ともかく帳場へ知らせようじゃありませんか」
河野は意気ごんでいうのです。
「ええ」私は非常に困って答えました。「しかし、例の覗き目がねのことは、お願いですから、いわないようにしてください」
「だって、あれは重大な手掛りですよ。例えば、被害者が女だってことだとか、短刀の形だとか」
「でも、どうかそれだけはいわないでください。恥かしいばかりじゃありません。あんな犯罪じみた仕掛けをしていたことになると、なんだか僕自身が疑われそうで、それも心配なのですよ。手掛りはこの血痕だけで充分じゃありませんか。それから先は僕の証言なんかなくっても、警察の人がうまくやってくれるでしょう。どうかそれだけは勘弁してください」
「そうですか、そんなにおっしゃるのなら、まあ言わないでおきましょう。では、ともかく知らせて来ますから」
河野は言い捨てて帳場の方へ走って行くのです。取り残された私は、ただもう当惑しきってボンヤリそこに佇んでおりました。考えてみれば大変なことになったものです。私の見たものは、夢でも幻でもなくて、ほんとうの人殺しだったのです。この血の分量から考えると、さっき河野が想像した通り、おそらくは被害者は死んでいるのでしょうが、犯人はその死体をどこへ持って行ったというのでしょう。いやそんなことよりも、殺された女は、そして殺した男は(たぶん男なのです)いったい全体何者でしょう。今ごろになっても、宿の人たちが少しも不審をおこさぬところをみると、止宿人のうちに、行方不明の者もないと見えます。しかし、誰がわざわざ外部から、こんな所へ相手をつれ込んで、人殺しなどやりましょう。考えれば考えるほど、不可解なことばかりではありませんか。
やがて、廊下の方に数人のあわただしい足音がして、河野を先頭に、宿の主人、番頭、女中などが浴場へはいってきました。
「どうか騒がないようにしてください。人気稼業ですからね。そうでもないことが、世間の噂になったりしますと、商売にさわりますからね」
デブデブ太った湖畔亭の主人は、そこへはいるなり、囁き声で言いました。そして、血痕を見ると、
「なあに、これは何かの汁をこぼしたのですよ。人殺しなんて、そんなばかな、だいいち叫び声を聞いたものもなければ、うちのお客様に見えなくなった人もありませんからね」
彼は強いて打ち消すように言いながら、しかし、内心では充分おじけづいているらしく、
「けさ、ここを掃除したのは誰だ」
と女中の方を振りかえって聞きただすのでした。
「三造さんでございます」
「じゃあ、三造をここへ呼んでおいで、静かにするんだよ」
三造というのは、そこの風呂焚きをしている男でした。女中に伴なわれてきた様子を見ますと、日頃お人好しの、少々抜けているという噂の彼は、まるで、彼自身が人殺しの犯人ででもあるように、青くなって、オドオドしているのです。
「お前は、これを気づかなかったのか」
主人はどなるように言いました。
「へえ、いっこうに」
「掃除はお前がしたんだろう」
「へえ」
「じゃ気がつかぬはずはないじゃないか。きっとなんだろう。ここにあった敷物をのけてみなかったのだろう。そんな掃除のしようがあるか。どうしてそう骨おしみをするのだ。……まあそれはいいが、お前、ゆうべここで何か変な物音でも聞かなかったかね。ずっとその焚き場にいたんだろう。叫び声でもすれば聞こえたはずだ」
「へえ、別にこれといって……」
「聞かないというのか」
「へえ」
といった調子なのです。私どもには眼尻に皺をよせて、猫撫で声でものをいう主人が、召使いに対すると、こうも横柄になるものかと、私は少なからず不快を感じました。それにしても、三造というのは、なんという煮え切らない男でありましょう。
十三
それから「血痕だ」「いや血痕ではない」と主人はあくまで稼業のさわりを恐れてことを荒立てまいとするし、河野も自説を取って下らず、はしなくも、変てこな論争がはじまったものです。
「あなたも妙な方ですね。こんな何がこぼれたのだかわかりもしないものを見て、まるで人殺しがあったときめてしまうようなものの言い方をなさるじゃありませんか。あなたは私のうちへけちがつけたいのですか」
主人はもう喧嘩腰なのです。こうなってきますと、私はもしや河野が覗き目がねの一件を持ち出しはしないかと、もう気が気ではありません。いかな主人でも、それを打ち明けさえすれば、納得するにちがいないのですから。ところが、ちょうどそのとき、一人の女中があわただしくはいってきました。彼女たちはもう血痕のことを知っているのです。従って誰も彼も、立居振舞いが常規を逸しています。
「旦那さま、中村|家《や》さんから電話がかかりましてね」彼女は息を切らせていうのです。「あのう、長吉さんがまだ帰らないんでございますって」
この突然の報告が、局面を一転させました。さすがの主人も、もはや落ちついているわけにはいきません。長吉というのは、程近き麓の町の芸者なのです。それがゆうべ湖畔亭に呼ばれてきたことは確かにきたのだそうですが、そのまま行方がわからなくなったのです。中村家ではゆうべ湖畔亭に泊りこんでしまったものと思って(田舎のことで、そういう点はごくルーズなのです)別に心配もせず、やっと今頃になって電話をかけてきたわけでした。
「ええ、それは、大一座のお客様を送って、ほかの家の芸者衆と一しょに、あの子も確かに自動車に乗ったと思うのですが」
主人の詰問にあって、番頭がへどもどしながら答えました。しかし、彼自身もどうやら、確かな記憶はないらしい様子なのです。
そこへ、騒ぎを聞いておかみもやってきますし、女中たちも大勢集まってきました。そして、長吉を見たとか見ないとか、口々に喋べるのです。それを聞いていますと、しまいには、長吉という芸者が果してゆうべきたのかどうか、それさえ怪しくなってきます。
「いいえ、そりゃきていたことは確かですわ」
一人の女中が何か思い出したように言いました。
「あれは十時半頃でした。お銚子を持って二階の廊下をあるいていますと、いきなり十一番の襖がガラッとあいて、長吉さんが飛び出してきたのですよ。あの子が呼ばれたのは、広間の方でしょう。私は変に思って後姿を見ていましたの。すると、長吉さんたら、まるで何かに追い駈けられでもしているように、バタバタと向こうのほうへ走って行きましたわ」
「そうそう、それで思い出した」もう一人の女中がその尾についていうのです。「ちょうどその時分だわ、私が下のご不浄の前を通っていると、十一番さんの、あのおひげさんね、あの人がやってきて、いまここを長吉が通らなかったかって、ひどい剣幕で聞くのよ。知りませんというと、わざわざご不浄の中へはいって、戸をひらいて探しているじゃないか。あんまり変だったので、よく憶えてるわ」
それを聞きますと、私もまた、ある事柄に思い当りました。そして口を挾まないではいられませんでした。
「その十一番さんというのは、もしや洋服を着た二人づれで、大きなトランクを持っている人ではないか。そしてゆうべおそくここを立った」
「ええ、そうですの。大きなトランクを一つずつ持っていらっしゃいましたわ」
そこでしばらくのあいだ、十一番の客について、あわただしい会話が取りかわされました。番頭のいうところによりますと、彼らはなんの前ぶれもなしに、突然出立の用意をして下りてきて、帳場で宿料の支払いを済ませると、慌てて、自動車も呼ばずに出て行ったというのです。もっとも湖畔の村には、乗合自動車の発着所があって、特別の料金さえ出せば、時間に構わず出させることができるのですから、彼らはその発着所まで歩いて行ったのかもしれませんが、それにしても出立の際の慌て方が、決して尋常ではなかったというのです。私の見た彼らの妙なそぶりといい、今の番頭の言葉といい、そして、長吉の行方不明、浴場の血痕、のみならず、鏡の影と彼らの出立との不思議な時間の一致、どうやらそのあいだに連絡がありそうな気がするではありませんか。
十四
前後の処置は、この家の主人である私が、どうともするから、あなた方は一応部屋へ引き取ってくれ、そしてあまり騒がないようにしてくれと、主人はあくまで隠蔽主義でありました。河野と私とは邪魔者扱いにされてまで、この事件に口出しすることもありませんので、ともかくも私の部屋まで引き上げました。
私としては、何よりも先ず、例の覗き目がねの装置が心配でした。といって昼日なか、それを取りはずすことはできません。
「なに、ここからでも、彼らが何をしているか、よく見えますよ」
私の気も知らないで、河野がかぶせてあった外套を取って、またしても鏡を覗いているのです。
「なんというすばらしい仕掛けでしょう。ほら、ごらんなさい。主人の仏頂面が大きく写っていますよ」
仕方がないので、私もそこを覗いて見ますと、なるほど、鏡の中では、太っちょの主人の横顔が、厚い唇を動かして、いま何かいっているところでした。それがほとんど鏡の三分の一ほどの大きさに拡大されて写っているのです。
先にもいった通り、覗き目がねで見る景色は、ちょうど水中に潜って目をひらいた世界のように、異様に淀んで、いうにいわれぬ凄味を添えているのです。時が時であり、ゆうべの恐ろしい記憶がまだ去らぬ私には、そこに写っている主人の顔から、いきなりタラタラと血が流れそうな気さえして、ほとんど見るに耐えないのでありました。
「あなたはどう思います」
しばらくすると河野は鏡から顔を上げて言いました。
「もしほんとうに長吉という芸者が行方不明だとすると、どうやら十一番の客というのが怪しくはないでしょうか。僕は知っていますが、その二人の男は四、五日前から泊っていたのですよ。あまり外へも出ないで、ときどき芸者などを呼んでも、大きい声を出すでもなく、たいていはひっそりとして、何をしているかわからないのです。ちっとも遊覧客らしくないのです」
「しかし、彼らが怪しいとしても、この土地の芸者を殺すというのも変ですし、それに、たとえ殺したところで、その死体をどこへ隠すことができたのでしょう」
私はもやもやと湧き上がってくる、ある恐ろしい考えを打ち消し打ち消し、心にもなくそんなことを言いました。
「それは湖水へ投げ込んだのかもしれません。それとも又……彼らの持っていたトランクというのはどのくらいの大きさだったでしょう」
私はギョッとしながら、しかし答えないわけにはいきませんでした。
「一ばん大型のやつでした」
河野はそれを確かめると、何か合図でもするように、私の眼を覗きました。いうまでもなく彼もまた私と同じ考えを抱いているのです。二人は黙って睨み合っていました。それは口に出すにはあまりに恐ろしい想像だったからです。
「しかし、普通のトランクでは、とても人間一人ははいりませんね」
やがて、河野は青ざめた目の下をピクピクとさせながらいうのでした。
「もうその話は、止そうじゃありませんか。まだ誰が殺したとも、いや殺人があったということさえきまっていないのですから」
「そうはいっても、あなたもやっぱり私と同じことを考えているのでしょう」
そして私たちは、また黙り込んでしまいました。
一ばん恐ろしいのは、一人の人間を、二つのトランクに分けて入れたという想像でした。それは誰にも気づかれぬように、浴場の流し場で、死体を処理することはできたかもしれません。そこではどんなにおびただしい血潮が流れても、皆湖水の中へ注ぎこんでしまうのです。しかし、そこで彼らは長吉の死体を、まっ二つに切断したのでしょうか。私はそれに思い及んだとき、ヒヤリと自分の背骨に斧の刃がささったような痛みを感じました。彼らはいったい何をもってそれを切断したのでありましょう。あらかじめ兇器を用意していたか、それとも庭の物置きから斧でも盗み出してきたのか。
一人は入口のドアのそばで見張り番を勤めたかもしれません。そして、一人は流し場で、艶めかしい女の死体を前に、斧をふり上げていたかもしれません。
読者諸君、私のあまりにも神経過敏な想像を笑わないでください。あとになって考えてみれば、おかしいようなことですけれど、そのときの私たちは、その血なまぐさい光景を、まざまざと眼の前に描いていたわけです。
さて、その日の午後になりますと、事件はようやく現実味を帯びてきました。長吉の行方は、中村|家《や》でも手を尽して探したらしいのですが、依然として不明です。湖畔亭の帳場には、村の駐在所の巡査をはじめとして、麓の町の警察署長や刑事などが、続々とつめかけてきました。噂はもう村じゅうにひろがり、宿の表は一ぱいの人だかりです。主人の心遣いにもかかわらず、湖畔亭殺人事件は、すでに表沙汰になってしまいました。
いうまでもなく、河野と私とは、事件の発見者として、きびしい訊問を受けなければなりませんでした。先ず河野が、血痕を発見した当時の模様を詳しく陳述して引き下がると、次に私が署長の面前に呼び出されましたが、私はそこで河野の喋べったことを、更にまた繰り返すのでありました。訊問が一と通り済んでしまってから、署長はふと気がついたように、こんなことを言いました。
「だが、君たちは、どうして湯殿へ行ってみたのだね。まだ湯も沸いていなかったそうだが、そこへ何をしにはいったのだね」
私はハッと答えにつまりました。
十五
もしこの際ほんとうのことを白状しなかったら、あとになって取り返しのつかぬことになりはしないか。私までも、この殺人事件に何かの関係を持っているように、疑われはしないか。そんなふうに考えますと、覗き目がねの秘密をあかしてしまったほうがいいようでもあります。しかし、私が脱衣場の隙見をしていたということが、湖畔亭の人たちに知れ渡ったときの恥かしさを想像しますと、それも一そうたまらないことです。咄嗟の場合、私は二つのうちどれを選ぶかに、非常に迷いましたけれど、内気者の私は、結局恥かしさの方が先に立ち、充分危険は感じながらもつい嘘をついてしまったのであります。
「脱衣場に自分の石鹸を置き忘れたかと思ったのです。実際はそうではなかったのですけれど、朝、顔を洗おうと思って、石鹸がなかったものですから、ふとそんなふうに思って、脱衣場へはいってみたのです。そして、偶然あの血痕を発見したのです」
私はそう言いながら、そばにいた河野にそれとなく眼くばせをしました。もし彼があとで、ほんとうのことをいってしまっては大変ですから、それをとめるためです。敏感な彼は、いうまでもなく、私の微妙な眼の働きを悟ったようでありました。
それから、湖畔亭の主人をはじめとして、番頭、女中、下男、さては泊りの客に至るまで、ことごとく一応の取り調べを受けました。検事などもまだ来着せず、それはほんの仮調べといったふうのもので、別段人ばらいなどしないで、一室にゴチャゴチャとかたまっている人々を、次々と訊問してゆくのでしたから、私はほとんどすべての陳述を、その場にいて聞くことができました。
河野は、私の無言の歎願を容れて、私の嘘と口を合わせてくれました。それを聞いて、私はやっと胸のつかえがおりたように思ったことです。主人をはじめ宿の人たちの陳述にも、別段新らしい事実はなく、みな私たちが前もって聞いていたところと同じことでありました。そしてそれらを綜合しますと、警察の人々もやはりトランクの紳士を疑うほかはないように見えました。
また、犯罪現場が、いとも綿密に調査せられたことは申すまでもありません。私たちは事件発見者としてそれにも立ち合うことができましたが、老巧な刑事の一人は、板の間のしみを見ますと、たちどころに血痕にちがいないと鑑定しました。これはあとになってわかったことですが、係りの検事の意見などもあって、念のためというので、その血痕を拭き取った上、地方の医科大学に送って検査してもらった結果、この刑事の鑑定は少しも誤まっていないことがわかりました。それはほかの動物などのものではなく、正しく人間の血液に相違ないことが判明したのです。
引きつづき刑事が推定したところによりますと、血痕の分量から推して、被害者はおそらく死んでいること、犯人はその死体を浴場のタタキで処理したにちがいないことなど、すべて素人の想像したところと大差はないのでありました。
もしや兇器その他の遺失物がないかと、浴場の周囲、嫌疑者である紳士の泊っていた十一番の部屋なども、落ちなく調べられましたが、何一つ手がかりになるような品物は残っていませんでした。
推定被害者長吉の身許については、ちょうど抱え主中村|家《や》のおかみが湖畔亭へかけつけていましたので、彼女から詳しく知ることができました。そのとき彼女は恐ろしく多弁にいろいろな事柄を述べ立てましたが、要するに、私どもが考えても、これはと思うような疑わしい事実は何もないのでした。長吉は一年ばかり前、地方のNという町から中村家に住みかえてきたもので、以前のことはともかく、中村家へきてからの彼女にはなんの変ったところもなく、浮いた稼業の女にしては少し陰気過ぎる気性であったのが、特徴といえばいえるぐらいでありました。また情事関係も、普通の馴染客以上のものはないように思われるということでした。
「ゆうべはこちらの大一座のお座敷へ呼ばれまして、ちょうどここにおります蔦|家《や》の〆治さんも一しょでございましたが、八時ごろに町を出ましたので、出るときも別に変った様子はなかったようでございますし、お座敷でもふだんの通りにしていたということでございます」
おかみの申し立ては、結局、こんなふうに取り留めもないものにすぎませんでした。そのとき、署長は長吉とトランクの紳士(宿帳の名前は松永某となっておりました。従者と見える方の男はたしか木村とか言いました。しかし、二人ともそれ以来杳として行方がしれないのですから、名前をハッキリ申し上げておくほどのこともないのです)との関係について、彼女に何か思い当ることはないかとただしました。ところがこれに対しても、彼女は、長吉が両三度松永某の座敷へ呼ばれたという、すでにわかっている事実のほかに、なんのつけ加えるところもないのでした。そして、宿の番頭や〆治という芸者の証言によりますと、松永と長吉の関係は、ほんの酒の相手に呼ばれた程度のものであることもわかりました。
十六
結局その取り調べによって判明したことは、私たちがあらかじめ知っていた以上のものではありませんでした。のみならず、私が例の覗き眼がねのことを打ち明けないものですから、彼らは或る意味ではこの事件について、私たちよりも一そう無智であるといわねばなりません。例えば兇行の時間でも、私たちには十時三十五分ごろと、可なり正確にわかっているに反して、彼らは、女中が長吉や松永の不審な挙動を見た時間から、兇行も多分そのころ行われたものであろうと推定しているにすぎないのです。
そこで、ともかくも嫌疑者松永の行方捜索が行われることになりました。正確にいえば、このときはまだ果たして殺人罪が行われたかどうかさえ確かめられていたわけではありません。脱衣場の血痕と、長吉の行方不明、松永の怪しむべき出立などの符合から、わずかにそれを想像せしめる程度にすぎませんでした。しかし、この場合、誰が考えても松永の行方捜索が先決問題であるのはいうまでもないことです。
幸い、河野が村の巡査と知り合いになっていたものですから、私たちは後に至って、その筋の意見や捜索の実際を、ある程度まで洩れ聞くことができましたが、一応湖畔亭の取り調べが済むと、時を移さず行われた松永の行方捜索は、結局なんのうるところもないのでした。それは主として、私と宿の番頭とが申し立てた、彼らの出立当時の風体に基づいて、街道筋の町々村々を尋ねまわったわけですが、不思議なことには「洋服姿で、トランクを手にした者」という条件に当てはまる人物は、絶えて姿を見せないのでした。といって、そのほかの目印は、松永が肥え太った男で、鼻下に髭をたくわえていたというくらいのものですから、もし彼らが、トランクをどこかへ隠して、巧みに変装をすれば、人目にかからず逃げおおせることは、あながち不可能でもありません。
彼らの逃走の最大の邪魔物は、いうまでもなくあの目立ちやすいトランクです。彼らは必らず、それを途中で人知れず処分したのにちがいありません。警察でもその点に気づいて、これもまたできる限り探索したのですが、やっぱり思わしい結果はえられませんでした。
それから数日のあいだというもの、村人を雇って、附近の山々は申すに及ばず、湖水の底までも、ほとんど遺憾なきまでに捜索されましたが(湖水の岸に近い部分は割合に水深も浅く、それに水が綺麗ですから、船を浮かべて覗きまわりさえすれば、その底にあるものは手に取るように見えるのです)依然としてなんのうるところもありません。かくして、事件はついに未解決のままに終るのではないかとさえ思われました。
しかし、以上は表面上の事実にすぎないので、その裏面には、さらに一そう不可解な事柄が起こっていたのでした。
お話は元に戻って、事件の翌日、湖畔亭の取調べのあったその夜のことになりますが、たとえ一時発覚をまぬがれたとはいえ、私はどうにも覗き目がねのことが気になって仕様がないものですから、夜のうちにその装置を取りこわしてしまうつもりで、イライラしながら人々の寝しずまるのを待っていました。
警察の人々が浴場の周囲を取り調べたとき、私はどんなにヒヤヒヤさせられたことでありましょう。樹木のために蔽われていても、屋根の下へはいって見上げさえすれば、その鼠色の筒は、必らず疑いをひいたにちがいないのです。ところが私にとって幸いであったことには、刑事たちは何かが落ちていないか、足跡でもついてはいないかと、地面ばかり見廻って、上のほうにはいっこう注意を払わなかったものですから、この不思議な装置は、危うく発覚をまぬかれることができたわけでした。
しかし、あすにもなれば、また一そう綿密な調査が行われることでしょうし、いついつまでも、このままに済むはずはありません。どうしても今夜のうちに取りはずさなければ、安心することはできないのです。
その夜は事件のために、家の中がなんとなく騒がしく、常の日より余程おそくまで、話し声が絶えませんでしたが、でも、十二時を過ぎた時分には、やっと人々も寝しずまった様子でありました。私はそれでも、用心に如くはないと思い、ほとんど一時近くまで、じっと待っていました。そのあいだにも、私はたびたび覗き目がねの鏡を見て、脱衣場の人影を気にしていたのですが、さて、いよいよこれから窓のそとへ忍び出て、秘密の仕事に取りかかるというときに、何気なく、もう一度そこを覗きますと、一刹那ではありましたけれど、ふと恐ろしいものが鏡の底にうごめいているのを発見しました。
それは昨夜見たのと寸分ちがわない、男の手先の大写しになったものでした。手の甲にはやっぱり同じような傷痕らしいものが見え、太くたくましい指の恰好から、全体の調子が、ゆうべの印象と少しも違わないのです。
それがチラリと見えたかと思うと、ハッと思う間に消え去ってしまいました。決して夢でも幻でもありません。私はことの意外さ、かつは恐ろしさに、もはやなんの影もない鏡の表を見つめたまま、しばらくはその場を動くこともできませんでした。
十七
一時の放心を取り戻すと、私はすぐさま浴場へかけつけました。しかし、そこには、前の晩と同じようになんのけはいもないのです。殊に事件のために湯も立たず、人々は気味わるがって、そこへ近寄りもしませんので、脱衣場は一そう物淋しく白々として見えました。そしてちょっと見たのでは黒い板の間と区別がつかぬほどの、例の血痕ばかりが、一そう物凄く私の眼を惹きつけるのでした。
しばらく耳をすましていても、むろんなんの物音も聞こえてはきません。家じゅうがシーンと静まり返って、あの恐ろしい手首の持ち主のほかには、おそらくは誰一人起きている者もないのです。そして、その男は、鏡の影を見てから大して時間もたっていないのですから、ひょっとしたら、まだその辺の隅に隠れていないとも限りません。それを考えると、私は無性に怖くなって、いきなり浴場を逃げ出したものです。
しかし、部屋へ帰ってみても、どうしてじっとしていることができましょう。といって、宿の人を起こしてこの事実を知らせるには、やっぱり覗き目がねの秘密を打ちあけるほかはなく、私はいまさら、なぜ取り調べのあったとき、それをいってしまわなかったかと、少なからず後悔しなければなりませんでした。
でも、そうしていても際限がありませんので、レンズの装置を取りはずすことなぞはあと廻しにして、私はあわただしく唯一の相談相手である河野の部屋をおとずれました。そして、よく寝入っている彼を無遠慮に叩き起こし、あたりをはばかる囁き声で、ことの仔細を語るのでした。
「それは妙ですね」すると河野も変な顔をして、「犯人がわざわざ帰ってくるはずはありませんよ。それに、手首を見ただけで、きのうの加害者だということがどうしてわかりました?」
この質問にあって、はじめてそのことに気がつきました。私は迂濶にも、まだ一度も手首の傷痕のことを彼に話していないのでした。それと同時に、松永と自称する男、或いはその同伴者の手首に、果たして同じ傷痕があったかという点に思い及んで、その重大な事柄を一度も考えてみなかった私の愚かさが、今さら恥かしくなるのでした。
「そうですか。そんな目印があったのですか」
河野は非常に驚いたように見えました。
「ええ、あれは多分右手なんでしょうが、こうはすかけに、一文字の太い線が、ドス黒く見えていたのです」
「しかし、それがあなたの見違いでないとすると、なおさら変ですね」河野はやや疑わしげに、「私は、宿の人たちはいうに及ばず、泊り客なども注意して観察していますが、手の甲に傷のある者は、一人も見かけませんでしたよ。問題のトランクの男にも、そんなものはなかったようです。手の甲の陰影が傷痕のように見えたのではありませんか」
「いや、影にしては色が濃いのです。傷痕ではなくとも、何かそれに似たものでしょう。決して見違いではありません」
「そうだとすると、これは非常に重大な手がかりですね。その代りに、事件はますますわからなくなってくる」
「こんなことがありますと、僕は例の秘密の仕掛けが心配でなりません。今のうちに取りはずしてしまいたいのですが、なんだかまだ、その辺に人殺しが潜伏しているような気がして、気味がわるいのですよ」
「やっぱり秘密にしておくのですか。非常にいい手掛りですがね。しかしまあ、僕だけにでも教えてくだすってよかったですよ。実はね、僕はこの事件を自分で探偵してみようと思っているのです。突然こんなことをいうと、変に聞こえるかもしれませんが、僕は以前から犯罪というものに、特別の興味を持っているのですよ」
そして、これは私の邪推かもしれませんけれども、河野はむしろ、覗き目がねの秘密をその筋に知らせないで、彼の独占にしておくことを望んでいるように見えました。その証拠には、「そんなにおっしゃるのなら、僕も手伝って上げましょう」といって、彼は私のレンズ装置取りはずしの作業を助けてくれたほどでありました。
それは非常に危険な仕事でした。真夜中のことですし、附近に人のいる部屋とてもありませんので、その点は安心ですけれど、さきほどの手首の男が、庭の暗闇に潜伏していて、危害を加えないとも限らず、又その筋の刑事などが、張り込んでいないものでもありません。私たちは猿のように木の枝を伝いながら、絶えず庭の方を注意して、ビクビクもので仕事をつづけました。
ボール紙の筒が、ところどころ簡単に取りつけてあるにすぎないのですから、取りはずすのに造作はありません。やがて私たちはすっかり仕事を終って、部屋の方へ引き返そうと、屋根伝いに這っているときでした。
「誰だっ」
私のうしろで、突然、低いけれど力のこもった叫び声がしました。河野が何かを見つけてどなったのです。
見ると、庭の向こうの隅のところに、湖水の薄明りを背景にして、一つの黒い影がうずくまっていました。
「誰です」
河野がもう一度どなりました。
すると影の男は、物をもいわず立ち上がり、つと建物の蔭にかくれると、一散ににげ出したように思われます。別段厳重な塀などがあるわけではなく、湖水の岸を伝って行けば、どこまでも逃げることができるのです。それを見ると、河野はやにわに屋根から飛びおりて、男のあとを追っかけました。
ほんの一瞬間の出来事です。アッと思うまに、逃げる者も追う者も、姿が見えなくなってしまいました。
私は驚きの余り、屋根の上に腹這いになったまま、不様な恰好で、永いあいだじっとしておりましたが、考えてみますと、さっき河野の飛びおりた地響きが、宿の人たちに聞こえたかもしれません。もしそうだとすると、私は一刻も早く自分の部屋へ帰らなければなりません。この変なボール紙の筒が人の目にかかっては、折角の苦心が水の泡です。いや、それよりも、真夜中に屋根を這っていたことを、なんと弁明すればよいのでしょう。
私は大急ぎで部屋にはいると、抱えていた品物をトランクの底深く押し隠し、いきなりそこにしいてあった蒲団の中へもぐりこみました。そして、今にも宿の人たちが騒ぎ出しはしないかと、ビクビクもので聞き耳をたてていました。
しかし、しばらくそうしていても、別段物音も聞こえません。仕合わせにも、誰も気がついたものはないようです。私はやっと安心して、その代りに、俄かに気がかりになりだした河野の身の上を、案じわずらうのでありました。
「駄目でしたよ」
間もなく、木の枝をガサガサいわせて、窓のそとに河野の無事な姿が現われました。彼は部屋へはいると私の枕もとに坐って、追跡の結果を報告するのでした。
「ばかに逃げ足の早いやつで、とうとう見失ってしまった。しかし、その代りにいいものを拾いましたよ。また一つ証拠品が手に入ったというものです」
十八
河野はそう言いながら、さも大切そうに、懐の中から一個の品物を取り出しました。
「これですよ。この財布ですよ」
見ると、金色の金具のついた、可なり上等の二つ折りの紙入れです。それが厚ぼったくふくらんでいるのです。
「あいつの逃げたあとに落ちていたのですよ。まっ暗で、曲者の風采なぞはよく見きわめられませんでしたが、この財布はちょうど運よく、浴場の裏口から明りのさしている地面に落ちていたものですから、気がついたのです。むろんあいつが落としたものにちがいありません」
そこで、私たちは非常な好奇心をもって財布をあらためました。そして何気なくその中身を取り出して見たとき、私たちは更に一驚を喫しないではいられませんでした。そこには、予期したような、名刺その他の所有主を示すようなものは何一つなく、紙幣ばかりが、それも手の切れそうな十円札で約五百円〔今の二十万円ほど〕はいっていたのです。
「これで見るといまの男は、ひょっとしたら例のトランクの紳士かもしれませんね。あの男ならこの財布の持ち主として相当していますからね」
なんだかえたいのしれぬものが、私の頭の中でモヤモヤしていましたが、咄嗟の場合まずそんな想像が浮かぶのでした。
「しかし、妙ですよ。あれが人殺しの本人だったとすると、今ごろなんのためにこの辺をうろついているのでしょう。逃げ出したところを見れば、刑事なんかでなくて犯罪に関係のある者には違いないのですけれど、それにしても妙ですよ」
河野は、考え考え言いました。
「曲者の姿かたちは少しもわかりませんでしたか」
「ええ、アッと思う間に逃げ出したのですからね。暗闇の中をコウモリかなんかが飛んで行った感じでした。そんな感じを受けたというのが、つまり和服を着ていたからではないかと思います。帽子はかぶっていなかったようです。背恰好は、ばかに大男のようでもあり、そうかと思うと、非常に小さな男のようでもあり、不思議に覚えていません。湖水の岸を伝って庭のそとへ出ると、向こうの森の中へ逃げ込んだようでした。あの深い森ですからね。追っ駈けてみたところで、とてもわかるものではありませんよ」
「トランクの男は(松永とか言いましたね)肥え太った男でしたが、そんな感じはしませんでしたか」
「はっきりわかりませんが、どうも違うらしいのです。これは僕の直覚ですが、この事件にはわれわれの知らない第三者がいるのではないかと思いますよ」
河野は何事かを、うすうす感づいているような口ぶりでしたが、それを聞くと妙な悪寒をおぼえながら、私もまた彼と同じ感じを抱かないではいられませんでした。この事件には、誰もまだ知らないような恐ろしい秘密が伏在しているのではないでしょうか。
「足跡が残っているかもしれませんね」
「駄目ですよ。この二、三日天気続きで土が乾いていますし、それに庭からそとの方は一ぱい草がはえてますから、とても見分けられませんよ」
「それでは今のところ、この財布が唯一の手掛りですね。これの所有者さえつきとめればいいわけですね」
「そうです。夜があけたら、さっそくみんなに聞いて見ましょう。誰か見覚えているかもしれません」
そうして、私たちは、ほとんど夜を徹して、この激情的な事件について語り合いました。私のはただ、子供が怪談を好むように、恐いもの見たさの好奇心にすぎませんでしたが、河野の方は犯罪事件の探偵に、深い興味を持っているらしく、言葉の端々にも、彼の判断力の異常な鋭さがほの見えるのでした。
考えてみれば、私たちは事件の発見者であるばかりでなく、覗き目がねの影と言い、今夜の出来事と言い、また財布という確実な物的証拠まで手に入れて、警察の知らないいろいろな手がかりを握っているわけでした。そのことが一そう私たちを興奮させたものです。
「愉快でしょうね、もしわれわれの手で犯人をつきとめることができたら」
私は、覗き目がねという心配の種がなくなったので、いくらか調子づいた気味で、河野のお株を奪って、そんなこともいってみるのでした。
十九
「じゃあ、この財布は僕が預かっておきましょう。そして、朝になったら、さっそく番頭や女中に持ち主の心当りを尋ねてみましょう」
そう言い残して、河野が彼の部屋へ引き取ったのは、もうほとんど夜あけに近いころでした。私としてはむろん一切の探索を河野に任せて、ただその結果を聞けばいいのですから、彼が新らしい報告をもたらすまで、わずかの時間でも寝ておこうと、話に夢中になって寝間着のまま蒲団の上に坐っていたのを、元のように枕についてみましたが、どうして一旦興奮してしまった頭は、睡ろうとすればするほど冴え返って、そのうちにあたりはだんだん明るくなる、階下では女中どもの掃除の音が聞こえ出す。とても寝られたものではありません。
私はソワソワと起き上がって、第一に例の仕掛けの取りつけてあった、窓の所へ行き、そこをあけて、何か人目につくようなレンズ装置の痕跡でも残っていはしないかと、朝の光でもう一度調べてみました。頭が疲れていたせいか、大丈夫だとは思いながら、ふと飛んでもない粗漏があるような気がして心配でたまらなかったのです。しかしそれは私の取り越し苦労にすぎないことがわかりました。ボール紙の筒を結びつけた針金さえ、一本残らず取り去って、そこにはなんの痕跡も残ってはいないのです。
それで、すっかり安心した私は、今度はゆうべ異様な人物の佇んでいた場所へ目を移しました。二階の窓からでは、遠くてよくわかりませんけれど、河野のいった通り足跡などは残っていないように見えます。
「だが、ひょっとして、地面のやわらかい部分があるかもしれない。そこに曲者の足跡がついていないとは限らない」
妙なもので、相手の河野が犯人の探偵に熱中しているのを見ると、私も彼にまけない気で、ふとその足跡を調べてみたくなったのです。それに一つは、夜来の心遣いと睡眠不足のためにズキズキ痛む頭を、屋外のすがすがしい空気にさらしたくもあって、私はそのまま、顔も洗わないで、階下の縁側から、裏庭へと立ちいで、散歩をよそおいながら、浴場の裏口の方へとあるいて行きました。
しかし失望したことには、なるほど、地面はすっかり堅くなっていて、たまに軟いところがあるかと思えば、草がはえていたりして、明瞭な足跡などは一つも発見することはできないのでした。でも、私はあきらめないで、なおも湖水の岸を伝いながら、庭のはずれを目ざして進んで行きました。
すると、塀代りに庭を囲んでいる杉木立の中に、人影が見え、ハッと思う間に、それがこちらへ近づいてきました。早朝のことではあり、こんな場所に人がいようとは思いもかけなかったものですから、私はそこへ立ちすくみ、何かその男がゆうべの曲者ででもあるように、おずおずと相手の挙動を眺めたものです。
しかしよく見れば、それは怪しい者ではなく、湖畔亭の風呂焚き男の三造であることがわかりました。
「お早ようございます。エヘヘヘヘ」
彼は私の顔を見ると、愚かな笑い顔で挨拶をしました。
「やあ、お早よう」
私は言葉を返しながら、ふと「この男が何か知っているのかもしれない」という気がしたものですから、そのまま立ち去ろうとする三造を呼び止めて、なにげなく話しかけました。
「湯が立たないので、ひまだろう。しかし大変なことになったものだね」
「へえ、困ったことで」
「君はちっとも気がつかなかったのかい、人殺しを」
「へえ、いっこうに」
「おとといの晩、湯殿の中で何か物音でもしなかったのかい。焚き場とは壁ひとえだし、中を覗けるような窓がこしらえてあるくらいだから、何か気がつきそうなものだね」
「へえ、ついうっかりしておりましたので」
三造はかかり合いになることを恐れるもののように、きのうから何を問われても、一つとしてハッキリした返事をしないのです。思いなしか、私には彼が何事かを隠しているようにも感じられます。
「君はいつもどこで寝ているの」
私はふと或ることを思いついて、こんなふうに問いかけて見ました。
「へえ、その焚き場のそばの、三畳の部屋なんで」
彼が指さすのを見ますと、浴場の建物の裏側に、焚き場の石炭などを積み上げた薄暗い土間があって、その隣に障子も何もない、まるで乞食小屋のような畳敷きの小部屋が見えます。
「ゆうべもあすこで寝たんだね」
「へえ」
「じゃあ、夜なかの二時ごろに何か変ったことはなかったかい。僕は妙な音がしたように思うのだが」
「へえ、別に」
「眼を覚まさなかったの」
「へえ」
彼のいうところがほんとうだとすると、あの曲者追跡の騒ぎも、この愚か者の夢を破らなかったとみえます。
もはや尋ねてみることもなくなったのですけれど、私はなんとなくその場を去りがたい気持で、三造の姿をジロジロと眺めていました。不思議なことには、相手の三造の方でも、何かモジモジしながらそこに突っ立っているのです。
彼は、襟に湖畔亭と染め抜いた、古ぼけた半纏を着て、膝のところのダブダブになったメリヤスの股引をはいているのですが、そのみすぼらしい風采に似げなく、顔を綺麗に剃っているのが、妙に私の注意をひきました。この男でも髭を剃ることがあるのだな。私はふとそんなことを考えていました。彼は愚か者にもかかわらず、そうしておめかしをすれば、狭い富士額が、ちょっと気になりますけれど。のっぺりとした好い男でした。
二十
どういうわけか、それから私は、彼の手首に眼をやりました。しかし、そこには別に傷痕などはありません。私は事件以来、妙に人の手首に注意するようになっていたのです。その癖が出たのでしょう。むろんこの愚か者の三造を疑う気持があったわけではありません。
ところが、そうして相手を眺めているうちに、私はふとこんなことを考えました。
「きのうからたびたび聞かれても、この男は何も知らないといっているけれど、それは尋ね方がわるいのではなかろうか。尋ねる人は誰も時間をいわない。殺人の行なわれた時間をいわないで、ただ何か物音がしなかったかと聞いている。それでは答えのしようもないわけだ。もし時間さえハッキリ示しえたならば、この男はもっと別な答えをすることが出来るのではないだろうか」
そこで、私は思い切って、三造にだけ時間の秘密を打ちあけて見ることにしました。
「人殺しがあったのは、おとといの夜の十時半ごろではないかと思うのだよ」私は声を低めて言いました。「というのはね、ちょうどそのころ、僕は湯殿のほうで変な叫び声のようなものを聞いたのだよ。君は気がつかなかったかい」
「へえ、十時半ごろ」すると三造は何か思い当るように、いくらか、表情をハッキリさせて、「十時半といえば、ああ、そうかもしれない。旦那、ちょうどその時分、私は湯殿にいなかったのでございますよ。台所の方で夜食を頂いておりましたですよ」
聞けば、彼は仕事の性質上、就寝時間が遅くなるので、従って食事も他の雇い人たちよりは、ずっとおくれて、泊り客の入浴が一順すんだころを見はからって、とることになっているのだそうです。
「しかし、食事といったって、大した時間ではあるまいが、そのわずかのあいだに、あれだけの兇行を演じることができるだろうかね。もし君が注意をしていたなら、食事の前かあとに、何か物音を聞いているはずだよ」
「へえ、それがいっこうに」
「じゃあ、君が台所へ行くすぐ前か、台所から帰ったあとかに、湯の中に人のいるようなけはいはなかったかい」
「へエ、そういえば、台所から帰ったときに、誰かはいっているようでございましたよ」
「覗いてみなかったのだね」
「へえ」
「で、それはいつごろだったろう。十時半ごろではないかね」
「よくはわかりませんですが、十時半よりはおそくだと思います」
「どんな音がしていたの、湯を流すような音だったの」
「へえ、ばかに湯を使っているようでございました。あんなにふんだんに湯を流すのは、うちの旦那のほかにはありませんです」
「じゃあ、そのときのはここの旦那だったのかい」
「へえ、どうも、そうでもないようで」
「そうでもないって、それがどうしてわかったの」
「咳払いの音が、どうも旦那らしくなかったので」
「じゃあ、その声は君の知らない人だったの」
「へえ、いいえ、なんだか河野の旦那の声のように思いましたですが」
「エ、河野って、あの二十六番の部屋の河野さんかい」
「へえ」
「それは君、ほんとうかい。大事なことだよ。確かに河野さんの声だったのかい」
「へえ、それやもう、確かでございます」
三造は、昂然として答えました。しかし、私はこの愚か者の言葉を、俄かに信用していいかどうか判断に苦しまないではいられませんでした。はじめの曖昧な調子に比べて、今の断定は少しく唐突のように見えないでしょうか。そこで、私はさらに質問をくり返して、三造の危なげな記憶を確かめようと試みましたが、どういうわけか、彼はそのときの入浴者が河野であったことを、むやみに主張するばかりで、それについてなんの確証もなく、結局私を満足させることはできないのでした。
二十一
私はこの事件について、最初から一つの疑問を抱いておりました。それがいま三造の告白を聞くに及んで一そう深くなったのです。たとえ相手が愚か者の三造であるとはいえ、そこには風呂番専用の小さな出入口もあれば、客に湯加減を聞く覗き窓もあるのですから、もし彼が焚き場にいたとすれば、必ず兇行を悟ったに相違なく、それを知りながらあの大がかりな殺人を(或いは死体切断を)やるというのは、余りに無謀なことではないでしょうか。
或いは犯人は、あらかじめ三造の不在を確かめておいて兇行を演じたのかもしれません。しかしそれにしても、夜食をとっていたというわずかの時間に、どうしてあれだけの大仕事ができたのでしょう。その点がなんとなく変ではありませんか。それとも、三造が聞いた湯を使う音というのは、犯人が風呂番の帰っているのも知らずに、浴場のたたきの血潮を流していた音なのでしょうか。そんな途方もない、悪夢のような出来事がほんとうにあったのでしょうか、しかも一そう不思議なのは、三造によれば、その湯を流していた男が、河野らしいというのです。では、非常にばかばかしい想像ですけれど、犯人はほかならぬ河野であって、彼は彼自身を探偵しようとしているのでしょうか。考えれば考えるほど、この事件は、いよいよ不思議なものに見えてきます。
私はそこに佇んだまま、長いあいだ、奇怪な物思いに耽っていました。
「ここでしたか、さっきから捜していたのですよ」
その声に驚いて顔を上げますと、そこには、いつの間に立ち去ったのか、三造の姿はなくて、その代りに河野が立っていました。
「こんなところで、何をしていたのです」
彼はジロジロと私の顔を眺めながら尋ねました。
「ええ、ゆうべのやつの足跡をさがしにきたのですよ。しかし何も残っていません。それで、ちょうどここに風呂焚きの三造がいたものですから、あれにいろいろと聞いていたところなのです」
「そうですか、何か言いましたか、あの男」
河野は、三造と聞くと非常に興味をおぼえたらしく、熱心に聞き返しました。
「どうも曖昧でよくわからないのですが」
そこで私は、わざと河野に関する部分だけ省いて、三造との問答のあらましを繰り返しました。
「あいつおかしいですね。飛んだ食わせ者かもしれない。うっかり信用できませんよ」河野がいうのです。
「ところで、例の財布ですがね。持ち主がわかりました。ここの家の主人のでした。四、五日前に紛失して、探していたところだということです。どこでなくなったのか、残念なことには、それをまるで覚えてないそうですが、ともかく、女中や番頭などに聞いてみても、主人の物にはちがいないようです」
「じゃあ、それをゆうべのやつが盗んでいたわけですね」
「まあそうでしょうね」
「そうして、それがあのトランクの男と同一人物なのでしょうか」
「さア、もしそうだとすると、一度逃げ出した男が、なぜゆうべここへ立ち戻ったか……どうしてそんな必要があったのか、まるでわからなくなりますね」
そうして、私たちはまた、しばらく議論を戦わしたことですが、事件は、一つの発見があるごとに、かえってますます複雑に、不可解になって行くばかりで、少しも解決の曙光は見えないのでありました。
二十二
私は殺人事件の渦中に巻き込まれてしまった形でした。目がねの装置を取りはずすまでは、予定の滞在期間など構わずに、早くこのいまわしい場所を逃げ出したいと思っていたのですが、さて、その装置もなくなり、わが身の心配が取りのぞかれてしまうと、今度は持ち前の好奇心が勃然として湧き上がり、河野と共に、私たちの材料によって、犯人の探偵をやってみようという、大それた願いすら起こすのでした。
そのころには、近くの裁判所から係りの役人たちも出張し、浴場のしみが人間の血液にちがいないこともわかり、町の警察署ではもう大騒ぎを演じていたのですが、捜査の仕事は、その大がかりな割には、いっこう進捗せず、河野の知り合いの村の巡査の話を聞いても、素人の私たちでさえ歯痒くなるほどでありました。その警察の無力ということが、一つは私をおだてたのです。そして、もう一つは、河野の熱心な探偵ぶりが少なからず私の好奇心を刺戟したのは申すまでもありません。
私は部屋へ帰って、今風呂番三造から聞きこんだ事実についていろいろと考えてみました。三造が食事から帰ったとき、浴場の中に何者かがいたことは間違いないらしく思われます。そして、その男が犯罪に関係のあることは、時間の点から考えて、ほとんど確実であります。ところが、三造によれば、それが私と一しょに素人探偵を気取っている、あの河野であったらしいというのです。
「では、河野が人殺しの犯人なのだろうか」
ふと、私はいうにいわれぬ恐怖を感じました。もし浴場にあのように多量の血潮が流れていず、或いは流れていても、それが絵の具だとか他の動物の血液だとかであったならば、河野の風変りな性質と考え合わせて、彼のいたずらだとも想像できるのでしょうが、不幸にして血痕は明らかに人間の血に相違ないことが判明し、その分量も、拭き取った痕跡からおして、被害者の生命を奪うに充分なものだということがわかっているのですから、そのとき浴場にいたのが河野に間違いないとすると、彼こそ恐るべき犯罪者なのであります。
でも、河野は何ゆえに長吉を殺したのでしょう。またその死体をいかに処分することができたのでしょう。それらの点を考えると、まさか彼が犯人だとは想像できません。だいいち先夜の怪しい人影だけでも、彼の無罪を証拠立てるに充分ではないでしょうか。それに、普通の人間だったら、殺人罪を犯した上、のめのめと現場にとどまって、探偵のまねなんかできるはずがないのです。
三造はただ咳払いの音を聞いて、それが河野であったと主張するのですが、人間の耳にはずいぶん聞き違いということもあり、まして、聞いた人が愚か者の三造ですから、これはむろん何かの間違いでありましょう。しかし、その浴場に何者かがいたことだけは、事実らしく思われます。三造は、「あんなに湯を使う人はここの旦那のほかにありません」といっています。では、それは河野ではなくて湖畔亭の主人だったのではありますまいか。
考えてみれば、あの影の男が落として行った財布も、その主人の持ち物でありました。もっとも召使いたちが主人の財布の紛失したことを知っていたくらいですから、影の男と主人とが同一人物だと想像するのは無理でしょうけれど、三造の言葉といい、彼の一とくせありげな人柄といい、そこに、なんとやら疑わしい影がないでもありません。
しかし、なんといっても最も怪しいのは例のトランクの紳士です。死体の処分……二つの大トランク……そこに恐ろしい疑いが湧いてきます。では、三造の聞いた人の気配は、河野でも、宿の主人でもなくて、やっぱりトランクの男だったのでありましょうか。
そのトランクの紳士については、警察の方でも唯一の嫌疑者として、手を尽して調べたのですけれど、深夜湖畔亭の玄関を出てから、彼らがどのような変装をして、どこをどう逃げたものやら、少しもわからないのです。トランクを提げた洋服男を見たものは、一人としてないのです。彼らはすでに遠くへ逃げのびたのでしょうか。それとも、まだこの山中のどこかに潜伏しているのでしょうか。先夜の怪しい人影などから想像しますと、或いは潜伏しているほうがほんとうかもしれません。何かこう、えたいのしれぬ怖さです。どこかの隅に(ごく間近なところかもしれません)人殺しの極悪人がモゾモゾしているのです。
二十三
その夕方のことでした。私はふと思いついて、麓の町から蔦家の〆治という芸者を呼びました。別段三味線の音が聞きたかったわけでも、〆治という女に興味を持ったわけでもありませんが、女中などの話によると、彼女が死んだ長吉と一ばんの仲よしであったというところから、少し長吉の|身状《みじょう》について尋ねてみようと考えたのです。
「しばらくでしたわね」
一度以前に呼んだことのあるのを覚えていて、年増芸者の〆治は、親しげな笑顔で、無造作な口をききました。私の目的にとっては、それが何よりの幸いでした。
「三味線なんかそっちへかたづけておいて、くつろいで、きょうはごはんでもたべながら話そうじゃないか」
私はさっそくそんなふうに切り出しました。それを聞くと〆治は、ちょっと笑顔を引っこませて、不審らしい表情を浮かべましたが、やがて、およそ私の目的を察したらしく、今度は別種の笑顔になって、遠慮なくちゃぶ台の向こう側に坐るのでした。
「長吉さん、ほんとうに可哀そうなことをしました。あたしとはそりゃ仲よしでしたの。あの湯殿の血の痕は、こちらと河野さんとで、見つけなすったのですってね。あたし、気味がわるくて、とても見られませんでしたわ」
彼女自身も私と同じように、殺人事件について話したい様子でした。彼女は被害者の朋輩であり、私は事件の発見者なのです。私はそうして彼女と杯のやり取りをしているあいだに、なんの不自然もなくそれを切りだすことができました。
「君は嫌疑者の、トランクを持っていた二人づれの男を知っているだろう。あの客と長吉とはどんな関係だったのかしら」
ころを見て私はそうなふうに要点にはいって行きました。
「あの十一番さんは、長吉さんにきまってましたわ。しょっちゅう呼ばれてたようですの」
「泊って行ったことなんかは」
「それは一度もないんですって。私は長吉さんの口からよくあの人たちの噂を聞きましたが、殺されるような深い関係なんて、ちっともありはしないのです。だいいち、あの人たちはここへははじめての客で、それにきてから一週間になるかならないでしょう。そんな関係のできよう道理がありませんわ」
「僕はちょっと顔を見たきりだが、どんなふうな男だろうね、あの二人は。何か長吉さんから聞いたことはないの」
「別にこれって。まああたりまえのお客さまですわね。でも大変なお金持ちらしいということでした。きっと財布でも見たのでしょう。お金がザクザクあるって、長吉さんびっくりしてましたわ」
「ホウ、そんな金持ちだったのか。それにしては、大して贅沢な遊びもしていなかったようだが」
「そうですわね。いつも長吉さん一人きりで、それに、三味線も弾かせないで、陰気らしく、お話ばかりしていたのですって。毎日部屋にとじこもっていて、散歩一つしないで変なお客だって、番頭さんがいっていましたわ」
トランクの紳士については、それ以上別段の話もありませんでした。そこで私は今度は、長吉自身の身の上に、話頭を転じて行きました。
「どうせ、長吉には、いい人というのがあっただろうね」
「ええ、それですわ」〆治は目で笑って、「長吉さんという人は、至って黙り屋さんで、それにこちらへきてから日が浅いので、あたしにしたって、あの人の心の中なんて、まるでわかりゃしません。どっかこう、うちとけないところがあるんですの。損なたちね。ですから深いことはわからないけれど、あたしの見たところじゃ、そんないい人なんてなかったようですわ。こんな商売にも似合わない、まるで堅気の娘さんのような子でしたわ」
「きまった旦那というようなものは」
「まるでこのあいだの刑事さんみたいね」〆治は大仰に笑いながら、「それはありましたわ。松村さんていうの。この近くの山持ちの息子さんで、それや大変なのぼせようでした。いいえ、その息子さんの方がよ。でね、このごろ、長吉さんをひかしてやるなんて話まで持ち上がっていたのですが、それを長吉さんのほうでは、またひどく嫌って、どうしてもウンといわなかったのですよ」
「そんなことがあったのかい」
「ええ、あの晩にも、長吉さんの殺された晩ね。二階の大一座のお客様の中に、その松村さんがいて、平常はおとなしい人なんですが、お酒がわるくって、みんなの前で長吉さんをひどい目にあわせたりしたのです」
「ひどい目って」
「そりゃもう、田舎の人は乱暴ですからね。ぶったり叩いたりしましたの」
「まさかその人が」私は冗談のように言いました。「長吉を殺したんではあるまいね」
「まあ、びっくりするじゃありませんか」私の言いようが悪かったのか、〆治はひどくおびえた様子で、「それは大丈夫ですわ。あたし刑事さんにも言いましたの、松村さんは宴会のおしまいまで、一度も席をはずしたことはなかったのですもの。それから、帰りには、あたしと同じ車に乗っていたのですもの、少しも疑うところはありませんわ」
私が〆治から聞きえたところは、大体以上に尽きております。こうして、私はまたもや、一人の疑わしい人物を発見したのです。松村という男は〆治の証言によれば宴会のあいだに一度も座をはずさなかったというのですが、酒に乱れた大一座で、彼女とても多分酔っていたのでしょうから、〆治の言葉をそのまま信用していいかどうか、疑い出せば際限がないのです。
食事を済まして、〆治を帰してしまうと、私は荒されたちゃぶ台の前にボンヤリと坐っていました。頭の中にはトランクの男をはじめとして、河野に追われた影の男、湖畔亭の主人、いま聞いた松村青年、はてはあの河野の姿までが、走馬燈のように浮かんでは消えるのです。それらの人々には、むろんこれという証拠があるわけではないのですが、それぞれなんとなく疑わしく、妙に無気味に感じられるのでありました。
二十四
さて、その夜のことでした。一時出入りを禁じられていた問題の浴場は、客商売にさわるからという湖畔亭の主人の歎願が容れられて、ちょうどその日から湯が立つことになったのですが、〆治を帰してから、しばらく物思いに耽っていた私は、もう夜の九時ごろでもあったでしょうか、久しぶりでその浴場へはいってみる気になりました。
脱衣場の板の間の血痕は、綺麗に削りとられていましたが、その削り跡の白々と木肌の現われた有様は、かえって妙に気味わるく、先夜の血なまぐさい出来事をまざまざと思い
起こさせるのでした。
客といっても、多くは殺人騒ぎに肝をつぶして、宿を立ってしまい、あとに残っているのは、河野と私のほかに三人連れの男客だけです。例の覗き目がねの花であった都の娘さんの一家などは、事件の翌日、匆々出立してしまいました。そんなに客が少ない上、多人数の雇人たちはまだ入浴していないのですから、浴槽が綺麗に澄んで、その中にからだを投げ出していますと、足の爪までも、一つ一つ見分けられるのです。
男女の区別こそありませんが、都会の銭湯にしてもよいほど、広々とした浴槽、ガランとした洗い場、高い天井、その中央に白々と光る電燈、全体の様子が、夏ながら異様にうそ寒げで、ふとそこのたたきに、人体切断の光景など見えるような気もするのでした。
私は、先日来顔馴染の三造が、壁ひとえ向こうの焚き場に居ることを思い出して、例の小さな覗き窓の蓋をあけて彼の姿をさがしました。
「三造さん」
声をかけると、
「へい」
と答えて、大きな焚き口の一角から、彼のボンヤリした顔が現われました。それが、石炭の強い火気に照らし出されて、赤黒く光っているのが、これもまた異様な感じのものでありました。
「いい湯だね」
「エヘヘヘヘヘ」
三造は暗いところで、愚か者らしく笑いました。
私は変な気持になって、窓の蓋をとじ、そこそこに浴槽を出ると、洗い場に立ってからだを拭きはじめました。ふと気づくと、目の前の窓のすりガラスが少しばかり開いていて、先夜曲者の逃げこんだという深い森の一端が見え、そのまっ暗な所に、ただ一点白く光ったものがチラチラと動いていました。
何かの見違いではないかと、しばらく手を休めて、じっと見ているうちに、今度は少し位置をかえて、またチラチラ光るのです。その様子がどうやら、何者かが森の中をさまよっているように思われるのでした。
そうした際のことですから、私は直ちに先夜の曲者を連想しました。もしもあの男の正体を明らかにすることができたなら、すべての疑問は氷解するわけです。私は湧き上がる好奇心を抑えかねて、大急ぎで着物を着ると、廻り道をして庭から森の方へと進みました。途中河野のところへ寄ってみましたけれど、どこへ行ったのか、彼の部屋はからっぽでした。
星もない闇夜です。その中を、かすかに明滅する光りものをたよりに探り足に進むのです。臆病者の私に、よくあのような大胆なまねができたと、あとになって不思議に思うほどでしたが、その時は、一種の功名心でほとんど夢中だったのです。といって、曲者を捕えようなどと考えたわけではありません。ただ危険のない程度で、彼に近づいて、その正体を見きわめるつもりでした。
先にも言った通り、湖畔亭の庭を出ると、すぐに森の入口でした。私は大木の幹から幹へと身を隠しながら、恐る恐る、光りのほうへ近づいて行きました。
しばらく行くと、おぼろに人の姿が見えてきました。彼は懐中電燈を照らしながら、熱心に地上を見廻っているらしく思われます。何かこう、探し物でもしている形です。しかしそれが何者であるか、まだ遠くてよくわかりません。
私はさらに勇気をふるって、男の方へ近づいて行きました。幸い、樹の幹が重なり合っているため、音さえ立てねば気づかれる心配はないのです。
やがて私は相手の着物の縞柄から、顔形まで、ボンヤリと見えるほどに、間近く忍びよりました。
二十五
怪しげな男は、老人のように背をかがめて、小さな懐中電燈をたよりに、何を探すのか草叢を歩きまわっていました。電燈の位置によって、彼はまっ黒な影法師になったり、白っぽい幽霊に見えたりします。そして、ふと電燈を持ちかえる時などには、あたりの木の枝が、無気味な生きもののようにうごめき、時としては、私自身が燈光の直射にあって、思わず木の幹に身を隠すこともありました。
しかし、何をいうにも、豆のような懐中電燈の光で、しかも彼自身それをふりかざしているのですから、その姿を見きわめることは、非常に困難でありました。私は絶対安全の位地を選んで、ちょうど敵に近づいた兵士たちが、地物から地物へと、身を隠して行くように、木の幹を縫って、少しずつ少しずつ進みました。
この夜ふけに、森の中で探し物というのも変ですし、それがいっこうこの辺で見かけたことのない都会風な男であるのも合点がいきません。私は当然、先夜のあやしい男、河野が追跡して見失った男を思い浮かべました。あれとこれとが同一人物ではないかと考えたのです。
しかし、どうしてもその顔形を見きわめることができません。ほとんど五間ばかりのところまで近づいていながら、闇の中のことですから、もどかしくも、それが叶わないのです。その晩は、ひどい風で、森全体がざわめいていましたので、少しぐらい物音をたてても聞こえる気づかいはなく、そのためか相手は少しも私を悟らず、探し物に夢中になっています。
永い時間でした。右往左往する懐中電燈の光をたよりに、私は根気よく男の行動を見守っていました。すると、いくら探しても目的の品物が見つからぬらしく、男はついにあきらめて、背を伸ばすと、いきなり懐中電燈を消して、ガサガサとどこかへ立ち去るけはいです。見失ってはならぬと、私はすぐさま彼のあとをつけはじめました。つけるといっても、暗闇のことで、わずかに草を踏む足音によって相手の所在を察するほかはなく、それに、いまいうひどい風の音だものですから、なかなかうまく聞き取れず、怖さは怖し、物なれぬ私にはどうしていいかわからないのです。そして、まごまごしているうちに、かすかな足音も聞こえぬようになり、私はその闇の中へ、たった一人でとり残されてしまいました。
ここまで漕ぎつけて、相手をとり逃がしては、折角の苦心が水の泡です。まさか森の奥へと逃げこんだわけではないでしょう。相手は私に見られたことなど少しも気づいていないのですから、きっと街道筋へ出るにちがいありません。そこへ気がつくと、私はやにわに湖畔亭の前を通っている村道に駈けつけました。
山里のことですから、宿のほかには燈火の洩れる家とてもなく、まっくらな街道には、人影もありません。遠くから、村の青年が吹き鳴らしているのでしょう、下手な追分節の尺八が、それでもなんとやら物悲しく、風の音にまじって聞こえてきます。
私はその往還にたたずんで、しばらく森の方を眺めていましたが、そうして離れてみれば、怪物のような巨木たちが、風のために波打っている有様は、一そう物凄く、ますます私に里心を起こさせるばかりで、さっきの異様の人物は、いつまで待っても出てくる様子がありません。
十分もそうしていたでしょうか、もういよいよ駄目だとあきらめて、あきらめながら、なんとなく残り惜しく、このあいだにもう一度河野の部屋を訪ねて、もし彼がいたら、一緒に森の中を探してみようと、大急ぎで、息せき切って宿の玄関へ駈けこみ、下駄をぬぐのももどかしく、廊下を辷り彼の部屋に達すると、いきなりガラリと襖をひらきました。
二十六
「やア、おはいりなさい」
仕合わせと河野は帰っていて、私の顔を見ると、いつものように笑顔で迎えました。
「君、いま森の中にね、また変なやつがいるのですよ。ちょっと出てみませんか」
私はあわただしく、しかし囁き声で言いました。
「このあいだの男でしょう」
「そうかもしれません。森の中で懐中電燈をつけて、なんだか探しているのです」
「顔を見ましたか」
「どうしてもわからないのです。まだその辺にうろうろしているかもしれません。ちょっと出てみませんか」
「君は前の街道のほうへ出たのですか」
「そうです。ほかに逃げ道はありませんからね」
「じゃあ、いまから行ってみても無駄でしょうよ。曲者は街道の方へ逃げるはずはありませんから」
河野は意味ありげにいうのです。
「どうしてわかりますか。君は何か知っているのですね」
私は思わず不審を打ちました。
「ええ、実は或る点まで範囲をせばめることができました。もう少しです。もう少しですっかりわかりますよ」
河野はいかにも自信のある口調で言います。
「範囲をせばめたというのは」
「今度の事件の犯人は、決してそとからきたものでないということです」
「というと、宿の人の中に犯人がいるとでも……」
「まあそうですね。宿の者だとすると森から裏口へ廻ることができますから、街道のほうなんかへは逃げないと思うのです」
「どうしてそんなことがわかりました。それはいったい誰です。主人ですか雇い人ですか」
「もう少しですから待ってください。僕はけさからそのことで夢中になっていたのです。そして、だいたい目星をつけることができました。だが、軽率に指名することは控えましょう。もう少し待ってください」
河野はいつになく思わせぶりな、妙な態度に出ました。私は少なからず不快をおぼえましたけれど、それよりも好奇心が先に立って、なおも質問をつづけるのでありました。
「宿の者というのは変ですね。僕も実は或る人を、それが多分君の考えている人だろうと思いますが、一応疑ってみたのですよ。しかしどうもわからない点があります。だいいち死体をどう処分したかが不明なのです」
「それです」河野もうなずきながら、「僕もその点だけがまだわからないのです」
言葉の調子では、彼もまた問題の財布の持ち主であるところの湖畔亭の主人を疑っている様子です。定めし彼は、私の知っている以上の確かな証拠でも握ったのでしょう。
「それに、例の手の甲の傷痕です。僕は注意してみているのですが、宿の人たちにも、泊り客にも、誰の手にもそれがないのです」
「傷痕のことは、僕はある解釈をつけています。多分あたっていると思うのですが、でもまだハッキリしたことはわかりません」
「それから、トランクの男についてはどう考えます。今のところ誰よりもあの二人が疑わしくはないでしょうか。長吉が彼らの部屋から逃げ出したことと言い、トランクの男が長吉の所在を探しまわっていたことと言い、彼らの不意の出立と言い、そして二つの大型トランクというものがあります」
「いや、あれはどうも偶然の一致じゃないかと思いますよ。僕はけさそのことに気づいたのですが、君が殺人の光景を見たのが十時三十五分ごろでしたね。それから、階段の下で彼らに会った時まで、どのくらい時間が経過していたのでしょう。君の話では十分ぐらいのようですが」
「そうです。長くて十分ぐらいでしょう」
「ソレ、そこが間違いの元ですよ。僕は念のために、彼らの出立した時間を番頭に聞いてみましたが、番頭の答えもやはり同じことで、そのあいだに十分以上はたっていないのです。そのわずかの時間に死体を処分して、トランクにつめるなんて芸当ができるでしょうか。たとえトランクにつめないでも、人殺しをして、血のりを拭き取り、死体を隠し、出立の用意をする、それだけのことが十分ぐらいでできるはずがありません。トランクの男を疑うなんて、実にばかばかしいことですよ」
聞いてみれば、なるほど河野のいう通りです。私はまあ、なんというばかばかしい妄想を描いていたのでしょう。警察の方では、私の錯覚なんか気がつきませんから、女中たちの証言に照らし合わせて、てもなくトランクの男を疑ってしまったわけです。
「長吉を追っかけたことなんか、芸者と酔客とのあいだにあり勝ちの出来事です。妙な目で見るからことが間違うのです。不時の出立にしたって、彼らには、どんな急用ができたのかわかりませんし、君と出くわして、驚いたというのも、誰だってそういう不意の出合いにはびっくりしようじゃありませんか」
河野はこともなげにいうのでした。
それからしばらくのあいだ、私たちはその飛んでもない間違いについて語り合いました。私はあまりの失策に河野に対しても面目なく、ばかばかしい、ばかばかしいとくり返すばかりで、それから先は真犯人のせんさくをする余裕もなく、うやむやのうちに自分の部屋へ引きさがりました。
その時、私は河野の口吻から、彼の疑っているのは宿の主人にちがいないときめてしまい、そのつもりで応対していたことですが、あとになって、実はそうでないことがわかりました。私という男は、この物語において、はじめから終りまで、滑稽な道化役を勤めていたわけです。
二十七
さて、お話は少し飛んで、それから三、四日後の夜のことに移ります。そのあいだ別段お話しするほどの出来事もありません。河野は毎日どこかへ出かけているらしく、いつ訪ねても部屋にいないので、その私を除外した態度に反感を持ったのと、一つは例の失策が面はゆくて、私はこれまでのように、素人探偵を気どる気にもなれませんでした。が、そうかといって、この好奇的な事件を見捨てて宿を出発するのも残念だものですから、もう少し待てという河野の言葉を当てにして、やっぱり逗留を続けていました。
一方警察では、先にもいった、大仕掛けなトランク捜索の仕事をはじめ、森の中、湖水の岸と洩れなく探しまわったのですが、結局なんのうるところもない様子でした。そんなむだな手数をかけさせるまでもなく、ただ一とこと、例の時間の錯誤について申し出ればよかったのかもしれませんが、河野が「被害者の死体の捜索にもなることだから、とめるにも及ぶまい」というので、私もその気になって、警察に対してはあくまで秘密を守っていたわけです。
私は機会があるごとに宿の主人の様子に注意するのと、河野の部屋を訪ねるのを日課のようにしていました。しかし主人の挙動にはこれといって疑うべきところもなく、河野は多くの場合留守なのです。
なんとも待ち遠しく、退屈な数日でした。
その晩も、どうせまたいないのだろうと高をくくって、河野の部屋の襖をひらいてみたのですが、案外にもそこには主人公の河野ばかりではなく、村の駐在所の警官の顔も見え、何か熱心に話しこんでいる様子でした。
「ああ、ちょうどいいところです。おはいりなさい」
私がモジモジしているのを見ると、河野は如才なく声をかけました。私は普通なら遠慮すべきところを、どうやら事件に関する話らしいので、好奇心を抑えがたく、いわれるままに部屋の中へはいりました。
「僕の親しくしている人です。大丈夫な人ですから、どうかお話を続けてください」
河野は私を紹介しながら言いました。
「今もいうように、この湖水の向こうの村からきた男の話なのですよ」警官は語りつづけました。「私はここへくる途中、偶然そこを通り合わせ、村の人たちの話しているのを聞いたのですがね。なんでもこの二日ばかり前の真夜中ごろだということです。妙な匂いがしたのだそうです。気がついたのは、その男ばかりでなく、同じ村にたくさんあったと言います。なんの匂いといって、それが火葬場の匂いなんです。この辺には火葬場なんてないのですからね。どうもおかしいのですよ」
「人間の焼ける匂いなんですね」
河野は非常に興味を起こしたらしく、目をかがやかして問い返しました。
「そうです。人間の焼ける匂いです。あの変ななんともいえない臭い匂いですね。それを聞きますと、私はふと今度の殺人事件のことを思い浮かべたのです。ちょうど死体が紛失して困っている際ですからね。人間の焼ける匂いというと、何か連絡がありそうな気がするものですから」
「この二、三日ひどい風が吹いてますね」河野は何か思い当たることでもあるのか、勢いこんで、「南風ですね。そうだ南風が吹き続いていたという点が問題なのだ」
「どうしてです」
「その匂いのした村というのは、ちょうどこの村の南に当たりはしませんか」
「ちょうど南です」
「では、この村で人を焼けば、それは烈しい南風のために、湖水を渡って、向こうの村まで匂って行くはずですね」
「でも、それなら、向こうの村よりは、ここでひどい匂いがしそうなものですね」
「いや、それは必ずしもそうではありませんよ。たとえば湖水の岸で焼いたとすれば、風が激しいのですから、匂いはみな湖水の方へ吹き飛ばされてしまって、この村ではかえって気がつかないかもしれません。風上ですからね」
「それにしても、誰にも気づかれないように人を焼くなんて、そんなことができるとは考えられませんが」
「ある条件によってはできますよ。例えば湯殿の|竈《かま》の中などでやれば……」
「え、湯殿ですって?」
「ええ、湯殿の|竈《かま》ですよ。……僕はきょうまであなた方とは別に、僕だけでこの事件を探偵していたのです。そしてほとんど犯人をつき止めたのですが、ただ一つ死体の始末がわからないために、その筋に申し出ることを控えていたわけでした。それが今のお話ですっかりわかったような気がします」
河野は私たちが驚くのを満足げに眺めながら、うしろを向いて鞄を引き寄せると、その中から一本の短刀を取り出しました。鞘はなくて、まっ黒によごれた五寸ほどのものです。それを見ると、私はハッと思い出しました。鏡の表に殺人の影を見たとき、男の手に握られていたのが、やはりそのような短刀だったのです。
「これに見覚えはありませんか」
河野は私のほうをみて言いました。
「ええ、そんなふうな短刀でした」
私は思わず口をすべらせ、そこに警官のいることに気づいて、しまったと思いました。覗き目がねの秘密がバレるかも知れないからです。
「どうです、もう打明けてしまっては」河野は私の失言を機会に「いずれはわかることですし、それに覗き目がねの一件からはじめないと、私の話が嘘になってしまうのですから」
考えてみれば、彼のいうところは尤もでした。この短刀に見覚えのあることを明らかにするためにも、また、手の甲の傷痕にしても、トランクの男の無罪を証する時間のことにしても、或いは覗き目がねを取りはずしているときに発見した怪しい人影についても、その他いろいろな点で、あれを打ちあけてしまわないとぐあいがわるそうに思われます。
「実につまらないいたずらをしていたのです」
私はせっぱつまってこんなふうにはじめました。打ち明けるくらいなら、河野の口からでなく私自身で、せめて婉曲に話したく思ったのです。
「この宿の湯殿の脱衣場に妙な仕掛けを作ったのです。鏡とレンズの作用で、私の部屋からそれが覗けるようにしたのです。別に悪意があったわけではありません。余りひまだものですから、学校で習ったレンズの理窟を、ちょっと応用してみたまでなのです」
そんなふうに、なるべく私の変態的な嗜好などには触れないで、あっさりと説明したのです。警官は余り突飛な事柄なので、ちょっと腑におちぬ様子でしたが、繰り返して説明するうちに、話の筋だけは悟ることができました。
「そういうわけで、大切な時間のことなどを、いままでかくしていたのは、まことに申しわけありませんが、最初のお調べの時つい言いそびれてしまったものですから、それに一つは、そんな変てこな仕掛けをしていたために、ひょっとして私が犯罪に関係のあるように誤解でもされては困ると思ったのです。しかし、いまの河野君のお話ではもう犯人もわかったというのですから、その心配はありません。なんでしたらあとで実物をお目にかけてもいいのです」
「そこで、今度は私の犯人捜査の顛末ですが」河野が代って説明をはじめました。「先ず第一にこの短刀です。ごらんなさい。刃先に妙なしみがついて居ります。よく見れば血痕だということがわかるのです」
全体が汚れて黒ずんでいるため、よく見ないとわからぬほどでしたが、その刃先には黒く血痕らしいものが付着しています。
「鏡に映ったのと同じ型の短刀で、その先に血がついているのですから、これが殺人の兇器だことは明白です。ところで、私はこの短刀をどこから発見したと思います」
河野は幾ぶん勿体ぶって言葉を切ると、私たちの顔をジロジロと見比べるのでした。
二十八
河野が汚れた短刀を片手に、私たちの顔を眺めまわしたとき、咄嗟の場合、私の頭には、その短刀の持ち主であるべき嫌疑者の容貌が、次々と現われては消えました。トランクの男、宿の主人、松村という長吉の旦那、懐中電燈の男、そして、最後まで残ったのはやっぱりかの強慾な湖畔亭の主人でした。いまに河野の口を洩れる名は、必らず彼に違いないと信じていました。ところが、河野は意外にも、まさかあんなうすノロがと、私など嫌疑のそとに置いていた人物を名指したのです。
「この短刀は湯殿の焚き場の隅の、薄暗い棚の上で見つけたのです。あすこの棚には、三造の持ち物が、ほこりまみれになって、つみ上げてある。そこに汚ないブリキの箱が隠してありました。もっとも人目につきにくい場所でした。箱の中には妙なものがはいっていました。まだそのままにしてありますが、綺麗な女持ちの財布だとか、金の指環だとか、たくさんの銀貸だとか、そして、この血なまぐさい短刀もです………いうまでもなくこの短刀の持ち主は風呂焚きの三造です」
村の警官も私も、だまって河野の話の続きを待っていました。そのくらいの事実では、あのおろか者の三造が犯人だなどとはとても信じられなかったのです。
「そして、犯人も三造なのです」河野は落ちつきはらってつづけました。「この事件には疑うべき人物がたくさんあります。第一はトランクの男、第二には松村という若者、第三はこの宿の主人。第一の嫌疑者については警察でも全力を尽して捜索を行われたようですが、いまのところはまったく行方不明です。が、あの二人を疑うことは根本的に間違っています」
そこで河野は|嘗《か》つて私に解き聞かせた時間的不合理について説明しました。
「第二の松村青年は、これも警察で一応取り調べたようですが、なんら疑うべき点のないことがわかりました。芸者〆治と同じ自動車で帰宅して、それ以来疑わしい行動がないのですから、彼に死体を処理する余裕がなく、従って犯人でなかったことは明らかです。だいいち惚れ抜いていた女を殺すような特別の動機もないのでした。それから例の怪しい人物が落として行った財布は、なるほど、この家の主人の所持品でしたが、ただそれだけのことで、その後、よく調べてみますと、彼は事件発生の時刻には、自分の部屋で寝ていたことが明らかになりました。細君をはじめ雇い人の口うらがチャンと一致していたばかりでなく、子供までがそれを裏書きしてくれました。子供は嘘を言いません」
ここでまた、河野は先夜の怪人物について、一応の説明を加えました。
「つまり、われわれの疑った嫌疑者たちは、皆ほんとうの犯人でないことがわかったのです。われわれは往々にして、あまり間近なものを、間近であるがゆえに見落すことがあります。たとえ白痴に近いおろか者であるとはいえ、警察の人たちはなぜ風呂焚きの三造を疑ってみなかったのでしょう。あの男だって湯殿に附属した道具ではありません。やっぱり人間です。浴場の出入口は両方にあるのです。焚き場からでも自由に脱衣場へくることができるのです。そして、あの短時間に、十時三十分から五分か十分のあいだに、死体を処理することのできる立場にあるものは、三造を措いてほかにないのです。彼は一応焚き場の石炭の山のうしろへ死体を隠しておいて、深夜を待って、ゆっくり人肉料理を行なうこともできたのですから」
河野はだんだん演説口調になって、得意らしくしゃべるのでした。
「しかし、あのおろか者です。その上正直で通った三造です。私もまさかと思っていました。彼を疑いはじめたのはごく最近のことなのです。きょう浴場の裏で三造に行きあったとき、ふと気がつくと、彼の手の甲に黒い筋がついている、私は例の犯人の手の傷痕を思い出さないではいられませんでした。ハッキリと、太く一文字にひかれた筋が、君のお話のものとよく似ているのです。私はハッと思い当たって、しかし何気なく『どうしたのだ』と聞きますと、『へえ』と例の間の抜けた返事をして、三造はしきりに手の甲をこすりましたが、なかなかその筋が消えない。どうも焚き場の煤のついた品物に強くさわった跡らしいのです」
河野はここでもまた、警官のために、覗き目がねの像について、詳しい説明をつけ加える必要がありました。
「その鏡に見えた傷痕というのは、実はこれと同じ煤の汚れにすぎなかったのではないか。私はそこへ気がついたのです。そんなぼんやりした像ですから、煤の一本筋がどうかして傷痕に見えなかったとはいえません。ね、君はどう思います」
河野に意見を聞かれて私は少し考えました。
「一刹那の出来事だったから、或いは見違えたかも知れませんが……」
私の頭からは、まだ例の傷痕の印象が消えていない。従って、どうも煤の汚れだなどとは思われぬのです。
「鏡に映ったのはこんな手ではなかったですか」
すると河野はいきなり彼の右手の甲を私の目の前にさし出しました。見るとそこには、手の甲一ぱいに、|斜《はす》かけの黒い線がひかれています。それが余りに鏡で見たものに似ていたため、私は思わず叫ばないではいられませんでした。
「それです。それです。君はどうしてそんな傷痕があるのです」
「傷じゃない。やっぱり煤ですよ。よく似ていますね」
河野は感心したように自分の手を眺めながら、
「そういうわけで、三造を疑わしく思ったものですから、私はさっきいった焚き場の棚を調べてみました。むろん三造のいない時にですよ。すると例のブリキ箱です。短刀をはじめ三造に似合わしくない品々です。で、その棚を捜す時にですね、あすこには二段に棚があって、その間隔が狭いものだから、下の棚の奥へ手を入れると、上の棚の裏側の|棧《さん》で手の甲をこするようになる、それが棧の角だったりすると、そこに溜った煤のために、こんな跡がつくわけなんです」
河野は手まねをまぜて話しつづけます。
「これでいよいよ三造が疑わしくなるでしょう。それからもう一つ、私が三造の性癖について誰も知らないことを知っていました。もうだいぶ前です。私がここへきて間もなくのことです。偶然三造が見かけによらない悪人であることを発見しました。やつはあれで手癖が悪いのです。脱衣場に忘れ物などをしておくと、こっそり取ってしまうのです。私はその現場を見たことがある。でも、その時は大した品物でもなかったので、あばきもしないで、そのまま見すごしたのですが、ブリキ箱を見て驚きました。これじゃあ大泥棒です。ばか正直なんて油断をしていると、往々こんなやつがあります。その油断が彼を邪道に導く一つの動機にもなったのでしょう。それに白痴などにはよく盗癖の伴なうことがありますからね」
二十九
「それならそれで、早く三造をとらえなければ」私は、浴場の方へ気が走って、河野の長々しい説明をもどかしく思いました。田舎の警官なんて暢気なもので、いっこう平気で腰をすえています。
河野も河野です。説明はあとでもよさそうなものを、まだ長々と喋べりつづけるつもりです。
「死体の処理に最も便利な地位にいること、手の甲の煤痕、血のついた短刀、数々の贓品、つまり彼が見かけによらぬ悪人であること。これだけ証拠が揃えば、もう彼を犯人と見るほかはないでしょう。あの朝脱衣場を掃除しながら、マットの位置のちがっているのを直さなかった点なども、数えることができます。ただ殺人の動機は私にもよくわかりませんが、ああした白痴に近い男のことですから、われわれの想像も及ばないような動機がなかったとは限りません。酒にみだれた女を見て、咄嗟の衝動を押さえかねたかもしれない。それは想像の限りではありませんが、動機のいかんにかかわらず、彼が犯人であることは、疑う余地がないように見えます」
「それで、彼は長吉の死体を、浴場の|竈《かま》で焼いてしまったとおっしゃるのですか」
巡査が信じられないという顔で、口をはさみました。
「そうとよりほかに考えられません。普通の人には想像も及ばぬ残酷ですが、ああした男にはわれわれの祖先の残忍性が多量に残っていないとは限りません。その上発覚を危ぶむ理智において欠けています。存外やりかねないことです。彼は風呂焚きですからね。死体を隠す必要に迫られたら、考えがそこへ行くのはごく自然ですよ。それに犯人が死体隠匿の手段として、死体を焼却した例は乏しくないのです。有名なウエブスター教授が友人を殺して実験室のストーヴで焼いた話、青髭のランドルーが多数の被害者をガラス工場の炉や田舎の別荘のストーヴで焼いた話などは、あなた方も多分お聞き及びでしょう。ここの浴場の竈は本式のボイラーですから、充分の火力があります。一度に焼くことができなくても、三日も四日もかかって、手は手、足は足、頭は頭と少しずつ焼いて行けば不可能なことではありません。幸いに強い南風が吹いていました。時はみなの寝静まった真夜中です。彼は滅多に人のこない自分の部屋にとじこもって、少しの不自然もなくそれをやってのけることができたのです。この考えは余りに突飛すぎるでしょうか。では、あの対岸の村人が感じた火葬場の匂いをなんと解釈したらいいのでしょう」
「だが、ここでは少しも匂わなかったのが変ですね」
警官は半信半疑でさらに問いかけました。私とても、なんとなくこの説には服しかねました。
「焼いたのは人の寝ている真夜中にちがいありません。少々匂いが残っていても、朝までには強い風に吹き飛ばされてしまいます。竈の灰はいつも湖水の中へ捨てるのですから骨も何も残りません」
実に途方もない想像でした。なるほど火葬場の匂いがしたという動かしがたい事実はありましたけれど、それだけの根拠で河野のように断定してしまうのは余りに突飛ではないでしょうか。私は後に至るまでこの疑問を捨てることができませんでした。それはともかく、死体の処分いかんにかかわらず、三造が犯人だということは河野の検べ上げた事実だけで充分のようでした。
「さっそく三造をつかまえて尋問してみましょう」
河野の演説が一段落つくと、村の警官はやおら腰を上げたのです。
われわれ三人は、庭づたいに浴場の焚き場を目がけて近づきました。もう十時ごろでした。やっぱり風の強い闇夜です。私はいうにいわれぬ恐怖とも憐憫ともつかぬ感情のために、胸のおどるのを禁ずることができませんでした。
焚き場の戸口にくると、田舎警官にしろ、やっぱり御用をいただく役人です。彼は専門家らしい一種の身構えと共に、手早くパッと戸をひらき、いきなり中へ躍り込みました。
「三造ッ」
低いけれども力のこもった声が響きました。ところが、折角の気構えがなんの甲斐もなかったことには、そこには、三造の影もなくて、見知り越しの使い走りの爺さんが、赤々と燃える竈の前にツクネンと腰かけているばかりです。
「三造けえ、三造なら夕方から姿が見えねえです。どけ行っただか、さっぱり行方が知れねえです。わしが代りにここの番を言いつかっちまってね」
爺さんはへんな顔をして警官の問いに答えました。
それから大騒ぎになりました。警官が麓の警察署へ電話をかける。捜索隊が組織される。そしてそれが街道の上下に飛ぶ。これでもう三造の有罪はいよいよ動かすことのできないものになったわけです。
本式の捜索は翌朝を待って行われました。街道筋からそれて、森の中、溪のあいだと隈なく探しまわったのです。河野も私も、行きがかり上じっとしているわけにはいきません。それぞれ捜索隊に加わりました。その騒ぎがお昼ごろまで続いたでしょうか。やっと三造の行方がわかりました。
湖畔亭から街道を五、六丁行ったところに、山路に向かってそれる細い杣道があります。それを幾曲りして半里もたどると、何川の上流であるか、深い谷に出ます。谷に沿って危なげな棧道が続きます。その最も危険な個所に少しばかり土崩れができているのを、警官の一人が発見したのです。
幾丈の断崖の下に、問題の三造があけに染まって倒れていました。下は一面の岩です。恐らくは夕闇の棧道に足をすべらせて落ちたのでしょう。岩にはドス黒い血が気味わるく流れていました。肝腎の犯人は、なんの告白もせぬうちに、これが天罰でありましょうか、惨死をとげてしまったのです。
死体の懐中からは、河野がブリキ箱の中で見たというさまざまの贓品が発見されました。三造が逃亡の途中で不慮の死にあったことは明白です。
死体の運搬、検事たちの臨検、村一ぱいの噂話、一日は騒ぎのうちに暮れました。三造の部屋であった焚き場も充分調べたようです。しかし、死体焼却の痕跡についてはついに何物をも発見することができませんでした。
事件は急転直下に落着したかと見えました。被害者の消失について、殺人の動機について、幾分曖昧な点があったにせよ、三造の犯行は誰も否定することはできません。大がかりなトランク捜索がなんの甲斐もなくて、多少この事件をもて余していた警察は、三造の死によって、救われた気がしたかもしれません。検事たちは間もなく麓の町を引き上げました。警察は捜索をいつとなく中止した形となりました。そして、湖畔の村は、また元の静寂に帰りました。
最もばかを見たのは湖畔亭です。その当座は物好きな客たちが、問題の浴場を見物かたがたやってくる者もありましたが、そのうちに、長吉の幽霊が出たとか、三造の呟き声が開こえたとか、噂は噂を生んで、附近の人でさえ湖畔亭を避けるようになり、ついには一人の客さえない日が続きました。そして、今では近くに別の旅館が建ち、さしも有名であった湖畔亭も、見るかげもなく寂れはてているということです。
読者諸君、以上が湖畔亭事件の表面上の物語りです。A湖畔の村人の噂話や、Y町の警察署の記録に残っている事実は、おそらくこれ以上のものではありません。それにもかかわらず、私のお話の肝要な部分は、実はこれから後にあるのです。といっても、うんざりなさるには及びません。その肝要な部分というのは、ほんの僅かで、原稿紙でいえば二、
三十枚でかたづくことなのですから。
事件が落着すると、私たちはさっそくこの気味わるい場所を引き上げることにしました。事件以来一そう親しくなった河野とは、方向が同じだというので一緒の汽車に乗りました。私はいうまでもなくT市まで、河野はそのずっと手前のIという駅で降りる予定でした。
二人はめいめい相当大型の鞄を提げていました。私のは例の覗き目がねを秘めた角鞄、河野のは古ぼけたボストン・バッグ、服装は両人とも和服でしたけれど、そうして湖畔亭を出発する光景が、なんとやらあのトランクの二人づれに似ているように思われました。
「トランクの男はどうしたのでしょうね」
私はその連想から思わず河野に話しかけました。
「さア、どうしましたかね。偶然人目にかからないで、この村を出たというようなことではないでしょうか。いずれにしても、あの連中の詮議立てはもう必要がありませんね。今度の犯罪にはちっとも関係がないはずですから」
そして、私たちの上り列車は、思い出多き湖畔の町を離れるのでした。
三十
「ああ、やっと清々した。美しい景色じゃありませんか。あんな事件にかかわっているあいだ、僕たちはすっかりこういうものを忘れていましたね」
窓外を過ぎ行く初夏の景色を眺めながら、河野はさも伸び伸びと言いました。
「ほんとうですね。まるきり違った世界ですね」
私は調子を合わせて答えました。しかし、私には、この事件の余りにもあっけない終局に、なんとなく腑に落ちかねるところがありました。例えば、死体焼却というような世の常ならぬ想像に、それを裏書きする火葬場の匂いがちゃんと用意されていたり、犯人が見つかったかと思うと、そのときには彼はすでに死骸になっていたり、トランクの男の(少なくともトランクそのものの)行方が絶対にわからなくなったり、考えれば考えるほど、異様な感じがします。もっと手近なことをいえば、いま私の前に腰かけている河野自身の古ぼけた手提げ鞄で、その中にはおそらく数冊の古本と、絵の道具と、幾枚かの着類が入れてあるにすぎないその鞄を、彼はなぜなればあんなに大切そうにしているのでしょう。ちょっと開くたびごとに、いちいち錠をおろして、その鍵をポケットの中へ忍ばせるのでしょう。私は妙に河野の古鞄が気になりました。それにつれては、河野自身の態度までも、なんとやら気掛りになってくるのです。
従って、私の様子に幾らか変なところが見えたのでしょう、河野の方でも、なんとなく警戒的なそぶりを見せはじめました。そして、一そうおかしいのは、非常に巧みに、さりげない風を装ってはいますけれど、私には彼の眼が(というよりも彼の心そのものが)頭の上の網棚にのせた古鞄に、恐ろしい力で惹きつけられていることがわかります。
それは実際奇妙な変化でした。
湖畔亭での十数日、当の犯罪事件に関係しているあいだには、かつてそのような疑いの片鱗さえも感じなかった私が、いま事件がともかくも解決して、帰京しようという汽車の中で、ふと変な気持になったのです。しかし、考えてみれば、世の疑いというものは、多くはそうした唐突なきっかけから湧き出すものかもしれません。
でも、もしあの時、河野の古鞄が棚の上から落ちるという偶然の出来事がなかったなら、私のそのあるかなきかの疑念は、時と共に消え去ってしまったかもしれません。それは多分急なカーヴを曲った折でしょう。あのひどい車体の動揺は、河野に取ってまったく呪うべき偶然でした。それにしても、その古鞄の転落したとき、おろしておいたと思った錠が、どうかしたはずみで、うまくかかっていなかったというのは、よくよくの不運といわねばなりません。
鞄はちょうど私の足もとへ転がり落ちました。そして驚くべき在中品が、目の前にひらいた鞄の口から危うくこぼれ出すところでした、いや或る品物は、コロコロと私の足の下へころがり出しさえしました。
読者諸君、それがまあなんであったと思います。細かく切り離した長吉の死骸? いやいや、まさかそんなものではありません。それは鞄一杯につまった莫大な紙幣の束だったのです。それから足の下へころがった品は、これがまた妙なもので、医者の使うガラス製の注射器でありました。
その時の、河野の慌てようといったらありませんでした。ハッと赤くなり、次の瞬間にはまっ青になって、大急ぎで落ちたものを拾いこみ、鞄の蓋を閉じると、腰かけの下へ押し込んでしまいました。私はいままで、河野という男は理智ばかりで出来上がった、鉄のような人間かと思っていましたのに、このうろたえようはどうでしょう。彼はきわどいところで弱点を暴露してしまいました。
河野がどのような早さで鞄の蓋をとじたとて、その中のものを私が見逃そうはずはありません。河野もむろんそれを知っているのです。知りながら彼はやがて顔色を取り直すと、さも平気な様子で、前の会話の続きを話し出すのでした。
莫大な紙幣と注射器。これがいったい何を意味するのか、余りの意外さに、私はしばらく物もいわないで思いまどっておりました。
三十一
しかし河野がどんなにたくさんの金を所持していようと、又は商売違いの医療器械を携帯していようと、それはただ意外だというにとどまり、別段とがむべき筋のものではありません。といって、このまま謎を謎として別れてしまうのも非常に心残りです。私はどんなふうにしてこの困難な質問を切り出したものかと、とつおいつ思案にくれました。
河野は非常な努力をもって、何気ないふうをよそおいつづけていました。少なくとも私にはそんなふうに見えたのです。
「君、覗き目がねは忘れずに持ってきたでしょうね」
彼はそんな突拍子もないことを尋ねたりしました。これはむろん、彼自身の狼狽を隠すための無意味な言葉にすぎなかったのでしょうが、取りようによっては「君だってそんな秘密を持っているんだぞ」というおどし文句のようにも考えられないことはありませんでした。
私たちの無言の葛藤を乗せて、汽車はいつの間にか数十里の山河を走っていました。そして、間もなく河野の下車すべき駅に到着したのです。ところが、私はその駅をうっかり忘れていて、発車の笛が鳴ってから、やっと気がつくと、どうしたものか河野は泰然として下車する模様も見えません。
「君、ここで降りるのじゃありませんか」
私としても、そこで降りてしまわれては困るのですが、咄嗟の場合思わず声をかけますと、河野はなぜかちょっと赤くなって、
「ああそうだった。なにいいです。この次まで乗り越しましょう。もう、とても降りられないから」
と弁解がましく言いました。いうまでもなく彼はわざと降りそくなったのです。それを思うと、私はなんとなく無気味に感じないではいられませんでした。
二マイル何十チェンの次の駅は、またたくひまにやってきました。その駅の信号標が見えはじめたころ、河野はもじもじしながら妙なことを言い出したものです。
「君、折入ってお願いしたいことがあるんですが、一と汽車遅らせてくださるわけにはいきませんか。この駅で下車して、つぎの上りがくるまでのあいだ、三時間ほどありますね、そのあいだ僕のお願いを聞いてくださることはできないでしょうか」
私は河野の不意の申し出に、面くらいもし、気味わるくも思いましたが、彼があまり熱心に頼むので、まさか危険なこともあるまいと考え、それに好奇心を押さえかねた点もあって、ともかく彼の提案を容れることにしました。
私たちは汽車をおりると、駅前のとある旅人宿にはいり、少し休ませてもらいたいといって、奥まった一室を借り受けました。隣室に客のいる様子もなく、密談にはおあつらえ向きの部屋です。
注文の酒肴を運んで、女中が立ち去ると、河野は非常に言いにくそうに、もじもじして、てれ隠しに私に酒をすすめなどしていましたが、やがて、青ざめた頬の筋肉を、ピリピリと痙攣させながら、思い切った様子ではじめました。
「君は僕の鞄の中のものを見ましたか」
そういって彼にじっと見つめられますと、なんの恐れるところもないはずの私までが、多分まっ青になっていたことでしょう、動悸が早くなって、腋の下からタラタラと冷たいものの流れるのを感じました。
「見ました」
私は相手を興奮させないように、できるだけ低声で、しかしほんとうのことを答えるほかはありませんでした。
「不審に思いましたか」
「不審に思いました」
そしてしばらく沈黙が続くのです。
「君は恋というもののねうちをごぞんじですか」
「多分知っていると思います」
それはまるで学校の口頭試験か、法廷の訊問でありました。普通の際なれば、すぐにも吹き出してしまうところでしょうが、その滑稽な問答を、私たちはまるで果たし合いのような真剣さでつづけたものです。
「それでは、恋のための或る過失、それはひょっとしたら犯罪であるかもしれません。少しも悪意のない男のそういう過失を、君は許すことができるでしょうか」
「多分できます」
私は充分相手に安心を与えるような口調で答えました。私はその際も、河野に好意を感じこそすれ、決して反感は抱いていなかったのですから。
「君はあの事件に関係があったのですか。もしや君こそ最も重要な役割を勤めたのではありませんか」
私は思い切って尋ねました。十中八、九、私の想像の誤まっていないことを信じながら。
「そうかもしれません」河野の血走った目がまたたきもせず私を睨みつけていました。「もしそうだとしたら君は警察に訴えますか」
「おそらくそんなことはしません」私は言下に答えました。「もうあの事件は解決してしまったのです。いまさら新らしい犠牲者を出す必要がないではありませんか」
「それでは」河野はいくらか安心したらしく、「僕が或る種の罪を犯していたとしても、君はそれを君の胸だけに納めておいてくださるでしょうか。そして、僕の鞄の中にあった妙な品物についても忘れてしまってくださるでしょうか」
「友だちの間柄じゃありませんか。誰だって自分の好きな友だちを罪人にしたいものはありますまい」
私は強いて軽い調子で言い放ちました。事実それが私のほんとうの心持でもあったのです。
それを聞くと河野は長いあいだだまっていましたが、だんだん渋面を作りながら、果ては泣かぬばかりの表情になって、こんなふうにはじめるのでした。
「僕は飛んでもないことをしてしまった。人を殺したのです。ほんの出来心からやりはじめたことが、意外に大きくなってしまったのです。僕はそれをどうすることもできなかった。それくらいのことがわからないなんて、僕はなんという愚か者だったのでしょう。恋に目がくらんだのです。実際魔がさしたのです」
河野にこうした弱々しい反面があろうとは、実に意外でした。湖畔亭での河野と、今の彼と、なんというちがいでしょう。妙なことですが、この河野の弱点を知ると私は以前よりも一そう、彼に好意を感じないではいられませんでした。
「では君が殺したのですね」
私は茶話でもしている調子で、なるべく相手の心を痛めないように問いかけました。
「ええ、僕が殺したも同然です」
「同然というと」
私は思わず不審を打ちました。
「僕が直接手をかけて殺したわけではないのです」
少し話がわからなくなってきました。彼の手で殺したのでないとすると、あの鏡に映った男の手は一体全体誰のものだったでしょう。
「じゃあ直接の下手人は?」
「下手人なんてありません。あいつは自分自身の過失で死んだのですから」
「過失といって……」ふと私はとんでもない間違いに気づきました。「ああ、君は三造のことをいっているのですか」
「むろんそうです」
この明瞭な返事を聞くと、私の頭はかえって混乱してきました。
三十二
「じゃあ、君が殺したといっているのは、あの三造のことだったのですか」
「そうですよ。誰だと思っていたのです」
「いうまでもない、芸者の長吉です。この事件には長吉のほかに殺されたものはないじゃありませんか」
「ああ、そうそう。そうでしたね」
私はあっけにとられて、河野の頓狂な顔を見つめました。いったいどうしたというのでしょう。この事件には、何か根本的な大錯誤があったのではないでしょうか。
「長吉は死んでやいないのですよ。かすり傷一つ負っていません。ただ姿を隠したきりなんです。僕は自分のことばかりを考えていたものだから、つい大切なことをお話しするのを忘れてしまったんですよ。死んだのは三造一人です」
このことは、覗き目がねに驚かされたとき、私も一応は考えぬではなかったのです。あれはただ狂言にすぎぬのではないかと。しかしそのときにも説明しておいた通り、さまざまの事情が到底そんな想像を許さなかったではありませんか。ですから、いま河野のこともなげな言葉を聞いたばかりでは、かえってばかにされたような気がして、俄かに信じる気にもなれません。
「ほんとうですか」私は半信半疑で聞き返しました。「そんな死にもしないもののために、警察があんな大騒ぎをやったのですか。僕には何がなんだかさっぱりわけがわかりません」
「ご尤もです」河野は恐縮しきって言いました。「僕がつまらない策略を弄したために、なんでもないことが、飛んだ大問題になってしまったのです。そして人間一人の生命を奪うようなことが起こったのです」
「はじめから話してくれませんか」
私はどこから問いかけていいのか、見当さえつきかねるままに、彼にこう頼むよりほかはありませんでした。
「むろんそれをお話ししようと思っているのです。先ず僕と長吉との深い関係についてお話ししなければなりません。あの女と僕とは実は幼馴染なんです。これだけいえば君には充分想像がつきましょう。幼馴染を忘れかねた僕は、彼女がほかの町で勤めに出てから、しばしば逢う瀬を重ねていました。もっとも、貧乏な僕には(ここで私は彼の鞄の中の莫大な紙幣を思い出さないわけにはいきませんでした)そうそう彼女の所へ通う自由がありません。のみならず、私はこうして旅から旅を歩いている身ですから、ときには半年も一年も顔を見ないで過ごすこともありました。今度がやはりそれで、一年ばかり前にこの地方へ住みかえたという噂は耳にしていたのですが(それが僕をこの山の中へ導いた一つの動機に違いありません)、この町になんという名で出ているか、少しも知りませんでした。長吉がほかならぬ私の恋人であることを知ったのは、事件のたった一日前のことでした。それまでもあの女はたびたび湖畔亭へきていたはずですが、どうしたわけか一度も出あわなかったのです。それがあの日の前日ふと廊下ですれ違って、お互いに気がつくと、ご免ください、私はそっとあの女を自分の部屋へ連れこんで、まあ、つもる話をしたわけです。詳しいことは時間がありませんから省きますが、その時あの女はいきなり泣き出して、「死にたい死にたい」と言い、ついには私に一緒に死ぬことを迫るのです。いったいに内気な女で、多少ヒステリーも手伝っていたのでしょう。が、最初から芸者稼業がいやであったところへ、Y町へ住みかえて以来、友だちらしい友だちはなく、同輩にもいじめられるようなことが多かったらしいのです。そこへ抱え主が因業で、最近持ち上がった例の松村という物持ちの身うけ話がだんだんうるさくなり、うんというか、借金を倍にしてほかへ住みかえするか、二つに一つののっぴきならぬ場合にさし迫っているのでした。死にたいというのも、あの女の気質にしては、まあ尤もなのです。そんな事情も事情ですが、何よりも私を夢中にしたのは、あの女がいまだに私を思い続けていてくれる誠意でした。私はできることなら、女の手をとって、この世の果てまでも落ちのびたく思ったことでした。
ところがちょうどそこへ、幸か不幸か妙な出来事が突発したのです。たとえ、その突発事件が起こったところで、もう一つの条件がなかったら、あんな騒動にもならないですんだのですが、どうも不運な(といっては虫のいい話ですけれど)事情が揃っていたのですね。もう一つの事情というのは、実は君の覗き目がねです。あの仕掛けを僕は前もって知っていたのです。これが僕の悪い癖なんですが、他人の秘密を探る探偵癖とでもいうのでしょうか、その性質が多分にあって、あの装置などもほとんど最初から知っていたばかりか、君の留守中に部屋へ忍び込んで、あの鏡を覗いて見さえしたのです」
「ちょっと待ってください」
私は河野の言葉の切れ目を待ちかまえて、口をはさみました。彼の告白がいつまでたっても、私の疑問の要点に触れぬもどかしさに堪えかねたのです。
「長吉が死んでいないというのは、どうも不合理な気がして仕様がありません。あの脱衣場のおびただしい血潮は誰のものなんです。人間の血液だということは医科大学の博士も証明しているじゃありませんか。あれほどの血潮をいったいどこから持ってきたというのです」
「まあそうあせらないでください、順序を追ってお話ししないと、僕の方がこんぐらかってしまうのです。その血のこともすぐにお話ししますから」
河野は私の疑問を制しておいて、更に彼の長々しき告白を続けるのでありました。
三十三
「そういうわけで、僕は、脱衣場の大姿見のどの辺のところへ立てば、からだのどの部分が覗き目がねに映るかを、ちゃんと知っていたのです。覗き目がねの一部分が望遠鏡のような装置になっていて、姿見の中央の部分だけが、大きく映るのでしたね。僕は君の留守中に入浴者の裸体姿の大写しを、盗み見たことがあります。そして、おそらく君もそうだったのでしょうが、僕はあの夢のような無気味な影像に、一種異様の魅力を感じたのです。そればかりか、もしあの水底のように淀んだ鏡の面に、何かこう血なまぐさい光景が、例えば豊満な裸女の肩先へ、ドキドキ光る短刀がつきささって、そこからまっ赤な血のりが流れ出す光景などが映ったならば、どんなに美しいだろうというような空想さえ描いたのでした。いうまでもなくそれはほんの気まぐれな思いつきにすぎないので、さっきいったもう一つの突発事件がなかったなら、それを僕みずから実演しようなどとは思いもよらぬことでした。
あの晩、十時過ぎでもあったでしょうか、ともかく殺人事件のすぐ前なんですが、もう床についていた僕の部屋へ、突然長吉が駈けこんできました。そして隅っこの方へ小さくなって『かくまってください。かくまってください』と上ずった声で頼むのです。見れば顔は青ざめ、激しい呼吸のために肩が波打っています。余りに唐突のことで、僕はあっけに取られてぼんやりしていましたが、間もなく廊下にあわただしい足音がして『長吉はどこへ行った』などと聞いている声も聞こえます。声の主はどうやらトランクの二人連れの一人らしいのです。
それからずいぶん方々探しまわっているようでしたが、まさか長吉と僕とが馴染の間柄で、僕の部屋に逃げ込んだとは、女中にしたって想像もしなかったでしょう。トランクの男はとうとう空しく引き返した様子でした。僕は何がなんだかさっぱりわけがわからず、やっと安心したのか部屋のまん中へ出てきた長吉をとらえて、ともかくも事の仔細を問いただしました。すると、長吉が言いますには、ちょうどその晩も例の旦那の松村なにがしが宴席にきていて、酔ったまぎれに余りひどいことをいったりするので、長吉は座にいたたまらず、その場をはずして、あてもなく廊下を歩きまわっていたのだそうですが、通りすがりに、トランクの男の部屋の襖があいていて、中に誰もいないのを見ると、長吉はふと或ることを思いついたのです。それはご承知でしょう、長吉はたびたびトランクの男に呼ばれていたのですが、何かの機会にあのトランクの中に大金の隠されているのを知ったのです。手の切れそうなお札の束が幾つとも知れずはいっているのを見たのです。まあ待ってください。おっしゃる通りこの鞄の中にあるのがその金ですが、どうして私の手にはいったかはこれからおいおいお話ししますよ。
長吉はその金のことを思い出し、あたりに人のいないのを見て、悪心を起こしたのです。そのうちのほんの一と束か二た束で、あすからでも自由の身になり、いやな松村の毒手をのがれることができる。そう思うと、松村の乱暴でいくらか取りのぼせていたのでしょうね。彼女はいきなり部屋へはいって、トランクをひらこうとしました。しかし、むろん錠まえがおろしてあるのだから、女の細腕でひらくはずがない。それを、彼女はもう夢中で蓋の隅の方を無理に持ち上げてそのすき間から指を入れ、やっとの思いで数十枚のお札を抜き出すことができました。が、そうしたことに不慣れな彼女は、わずか一と束の紙幣を抜きとるのに可なりの時間をついやしたらしく、ふと気がついた時には、いつの間にか、うしろにトランクの主が恐ろしい剣幕で立ちはだかっていたのです。
長吉が僕の部屋へ逃げ込んだのは、まあそういうわけだったのです。が、ここに不思議なのはトランクの持ち主の態度でした。普通だったら、長吉の行方がわからぬとなれば、さっそくそのことを宿の帳場を通じて、詮議させるべきですが、いっこうその様子がない。長吉が余り心配するものですから、僕はそっとトランクの男の部屋へ忍んで行って様子を見ましたが、妙なことに、彼らは大あわてで出発の用意をしているじゃありませんか。こんな辻褄の合わぬ話はありません。これは何か彼らの方にも秘密があるにちがいない。長吉に金を盗まれたことを怒るよりも、彼女にトランクの中味を知られたことのほうを恐れているのかもしれない。長吉が見たという莫大な紙幣の束、しかもそれをトランクの中へ入れて持っている。考えてみれば変なことばかりです。彼らはひょっとしたら大泥棒か、さもなくば紙幣贋造者ではないだろうか。当然僕はこんなふうに考えました。
部屋へ帰って見ると、長吉はもう身も世もあらず泣きふしています。そして持ち前のヒステリーの発作を起こして、例の『一緒に死んでくれ』をはじめるのです。それが僕までも、どうにも取り返しのつかない、いやにせっぱつまった、気ちがいめいた気分にしてしまいました。そして、この悪夢のような気分から、僕はふと途方もないことを考えついたのです。『そんなにいうなら、殺して上げよう』僕はそういって長吉を湯殿へつれ込みました。焚き場を覗いてみると、幸い三造はいない。そこの棚の上には彼の短刀がのっかっている(これは前から見ておいて知っていました)。こうして、ご承知の兇行が演じられたわけなんです」
三十四
「そういう際ながら、僕にはあの激情的な美しい光景を、君に見せて上げたい気持があったのです。ひょっとしたら長吉を逃すことよりも、その方がおもな動機だったかもしれませんよ。しかしちょうどそのとき、君が目がねを覗いていてくれたかどうか、もし覗いていなかったとすると、折角のお芝居がなんの甲斐もないことになります。そこで、僕はもっと現実的な証拠として、前もって脱衣場の板の間に血を流しておくことを考えつきました。でも、これとても、ほんとうに気まぐれな、芝居気たっぷりな咄嗟の思いつきにすぎなかったのです。
僕はある旅先で、友達から注射器をもらいました。僕の癖として、そういう医療器械などに、いうにいわれぬ愛着を感じるのですね。おもちゃのように、しょっちゅう持ちあるいていたのですよ。で、その注射器によって、長吉の腕からと、私の腕からと、両方合わせて茶碗に一杯ほどの血を取り、それを海綿でもって板の間へぬりつけたわけなのです。恋人の血を取って自分の血にまぜ合わせる。その劇的な考えが僕を有頂点にしてしまったのです」
「でもたった茶碗に一杯の血が、どうしてあんなに多量に見えたのでしょう。信じられませんね」
私は思わず口をはさみました。
「そこですよ」河野はいくらか得意らしく答えました。
「それはただ、拭きとるのと、塗りひろげるとの相違です。誰にしても、まさか血潮を塗りひろげたものがあろうとは考えませんからね。拭きとったとすれば、あれだけの痕跡は、確かに一人殺すに足る分量ですよ。ところがほんとうはさも拭き取った跡らしく見せかけて、その実できるだけ広く塗りまわしたのです。商売の絵心でもって、柱や壁のとばちりまで、ごく念入りにこしらえ上げ、余ったのを短刀の先に塗りつけて、例のブリキ箱に入れておいたのです。むろん長吉はその場から逃がしてやりました。彼女にしては、泥棒の汚名を着るか自由の身になるかの瀬戸際ですから、怖がっている場合ではありません。山伝いに闇にまぎれて、Yとは反対の方へ走りました。むろん落ちつく先はちゃんと申し合わせてあったのです」
私はあまりあっけない事実に、いくらかがっかりしないではいられませんでした。しかし、疑問はこれですっかり解けたのでしょうか。いやいや、あれが単なるお芝居であったとすると、ますます不可解な点が出てきます。
「それじゃ例の人間を焼く匂いはどこからきたのでしょう」私は性急に問いかけました。「また三造はどうして変死をとげたのでしょう。そして、それがなぜ君の責任なのか、どうもよくわかりませんね」
「いまお話ししますよ」河野は沈んだ調子で続けました。
「それからあとは、君も大概ご承知の通りです。幸いトランクの男が、想像に違わず何かの犯罪者であったと見え、夜のうちに姿をくらまし、あれほど探しても行方がわからないものですから、僕のお芝居が一そうほんとうらしく見え、被害者長吉、加害者トランクの男ときめてしまって、警察をはじめ少しも疑う者がないのです。しかし事件の発頭人である僕にしては、騒ぎが大きくなればなるほど、もう心配でしようがありません。いまさらあれはいたずらだったと申し出るわけにもいかず、そうかといって、黙っていれば、いつトランクの男が捕えられて真相がばれないとも限りません。一時の出来心に任せて、とんでもないことを仕出かしてしまったと、僕はどれほど後悔したことでしょう。そんなわけで、長吉が約束の場所で首を長くして待っていたにもかかわらず、そこへ行くことができません。事件がどちらかにかたづいてしまうまでは、どうしても湖畔亭を立ち去る気になれません。この十日ばかりというもの、表面は苦しい平気をよそおいながら、僕がどんな地獄を味わっていたか、とても局外者には想像できないだろうと思います。
僕は探偵を気取って、君と一緒にいろいろなことをやりましたが、実はどこから僕の芝居がばれてくるかと、ビクビクものでそれを待っていたわけなんです。ところが、例の覗き目がねをとりはずしていた時、突如として新らしい登場者が現われました。あの晩の怪しい人影を僕はわざと隠していましたが、あれは風呂番の三造だったのです。彼が宿の主人の財布を落として行ったのは、前にもいった彼の盗癖から考えて、さして驚くにも当たらぬことです、おかしいのは中にあった札束です。主人は自分の金だと言いますけれども、どうもそぶりが変です。彼は評判の欲ばり爺ですから、当てになったものではありません。そこで、僕は三造がこの事件に関連してなにか秘密を持っているにちがいないと目星をつけ、彼の身辺につきまとって探偵をはじめました。そして、その結果、驚くべき事実を発見したのです。
三十五
「三造は例の大トランクを二つともどこから拾ってきたのか、焚き場の石炭の中に隠していたのです。トランクの男たちは多分目印しにされることを恐れて、トランクを山の中に隠し、身をもって逃げ去ったのでしょうが、三造はそれを見ていたのかもしれません。或いは後になって、森の中へ枯枝を集めに行った時に、偶然発見したのかもしれません。ともかく、中味の莫大な紙幣もろとも、彼はトランクを盗んでいたのです。これであの財布の中の札束も解釈がつくわけですね。しかし、トランクの持ち主が、たとえ危急の際であったとはいえ、あの大金を惜しげもなく捨てて行ったというのは、少々変です。やっぱり贋造紙幣だったのでしょうか。それとも後日取りにくるつもりで、人目につかぬ所へ埋めてでもおいたのでしょうか。あの大風の晩に懐中電燈で森の中を探しまわっていた男は、ひょっとしたら彼らの命を受けてトランクを探しにきた一味の者だったかもしれませんね。
事件はだんだん複雑になってきました。どうなることか少しも見当がつきません。僕の向こう見ずないたずらが、このような大事件になろうとは、まったく予想外で、したがって心配はますます強くなるばかりです。ところが、四五日前、警察のトランク大捜索がはじまるころには、三造も自分の所業に恐れを抱きはじめました。そして、その唯一の証拠品であるトランクを風呂場で焼くことを思いつきました。人の寝静まったころを見はからい、トランクをこわしては、少しずつ焼き捨てて行くのです。僕は現にそれを隙見していたのですが、まさか対岸の村まで獣皮の匂いが漂って行こうとは思いませんでした。いうまでもなく、これが死体を焼く匂いと間違えられたわけです。僕はかつて、外国にもこれに似た事件のあったことを聞いています。なんでも田舎の一軒家の煙突から盛んに黒煙が出て、火葬場の匂いがするものですから、村人が騒ぎ出し、てっきり死体を焼いているものと思って調べてみると、あにはからんや、古長靴かなんかをストーブに投げ込んだものとわかりました。その家の主人が或る殺人事件の嫌疑者だったために飛んだ騒ぎになったのです。
しかし僕はその当時そこまで考えたわけではありません。ただもう途方に暮れてしまったのです。もしこの愚か者の軽挙から、ことの真相がばれるようなことがあってはと、それが先ず心配でした。で、少しでも発覚を遅らせる意味で、僕は三造を逃亡させようと計りました。警察で彼を疑い出したことを、それとなくほのめかし、彼を怖がらせたのです。悪人にしろ、そこは愚か者のことです。僕の計画を見破るどころか、トランクを盗んだということから、すぐに殺人の嫌疑までかけられるものと思いこみ、ちょうど村の警官が僕を訪ねてきた日です。彼は例の紙幣の束だけを風呂敷包みにして、彼の故郷である山の奥へと逃げ出したのです。僕は計画がまんまと成功したのを喜び、むしろ彼を護衛するような心持で、そのあとを尾行しました。
ところが、その途中、あの棧道の所で、思いがけぬ出来事が起こったのです。余りに道を急いだために、三造は崖から辷り落ちて変死をとげてしまったのです。僕は大急ぎで下におりて、介抱してみましたが、もはや蘇生の見込みはありません。考えてみれば可哀そうな男です。悪人といっても、それは彼の白痴と同様、彼自身にはどうすることもできない生れつきだったのでしょう。それを僕の利己的な気持から逃亡を勧めたばっかりに、彼はもっと活きられた命を、果敢なくおとしてしまったのです。僕は非常な罪を犯したような気がして、無残な死骸を正視するに耐えず、ともかく、紙幣の風呂敷包みだけを拾って、急を知らせるために宿に引き返しました。
ところが、その途中、僕はふとある妙案を思いついたのです。三造は可哀そうだけれども、もう死んでしまった者だ。もしもすべての罪を彼に着せることができたなら、長吉はいつまでも死んだものとして、まったく自由な一生を送ることができ、したがって自分も最初夢想したような幸福を味わいうるではないか。それには幸い、短刀と言い、手の甲の筋と言い、三造の日頃の盗癖と言い、都合のよいことが揃っている。そこで僕は、俄かに三造の変死を知らせることをやめて、彼に罪をなすりつける理窟を考えはじめたのです。ちょうどそこへ、村の警官が匂いのことを知らせにきてくれました。すっかりお膳立てが出来上がっていたのです。僕は巡査と君の前で、考えておいた理窟を申したてればよいのでした。
紙幣をちょっと見たのでは、贋造かどうかわかりません。もし本物であったら、僕は一躍大金持ちになることができます。そんな慾心から、お恥かしいことですが、つい焼きすてるのが惜しくなり、ともかくも鞄の底に納めておいたものです。それを君に見られてしまい、このまま別れてはどうしたことで君の口から真相がばれないものでもなく、いっそほんとうのことを白状してしまった方が安全だと思ったものですから、こうしてお引き留めしたわけです。つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、長吉のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常な血なまぐさい大犯罪らしいものが出来上がってしまったのです」
河野はため息と共に長物語を終りました。私は事件の裏面の意外さに、しばらく物をいうこともできませんでした。
「そういうわけですから、どうかこのことは君の腹におさめて、誰にも話さないでください。もしこれがばれて、元の雇い主に呼び戻されるようなことがあれば、長吉はきっと生きてはいないでしょう。僕も世間に顔むけのできないことになります。どうかこの僕の願いを聞き入れてください。誰にも話さないと誓ってください」
「承知しました」私は河野の態度に引き入れられ、さも沈痛な調子で答えました。「決して他言しません。どうかご安心ください。そして一刻も早く長吉の所へ行ってあの人を安心させて上げてください。僕は蔭ながらお二人の幸福を祈っています」
そして私は一種の感激をもって河野と別れを告げたのです。河野は私の汽車の出るのを感謝をこめたまなざしで、永いあいだ見送ってくれました。
それ以来、私は彼らを見ません。河野とは二、三度文通しましたけれど、彼らの恋がどのような実を結んでいるかは知る由もないのです。ところが最近河野から珍らしく長文の手紙を受け取りました。彼は長々と私の往年の好意を謝した上、愛人長吉の死を告げ、彼自身も友人の事業に関係して南洋の或る島へ旅立つことを知らせてきたのです。その文面によれば、彼はおそらく再び日本の土を踏むことはありますまい。もはや事件の真相を発表してもさしつかえない時がきたのです。
読者諸君。以上で私のお話は終りをつげました。例の莫大な紙幣が本物であったかどうかは、つい聞く機会がありませんでしたが、おそらく贋造紙幣ではなかったかと思います。
ただ一つ、ここに或る重大な疑問が残されています。私は河野に別れて以来、日をふるにつれて色濃くなってくるその疑問に、形容のできない悩ましさを感じはじめました。もし私の想像が当たっているとすれば、私はにくむべき殺人者を、ゆえなく見逃したことになるのです。でも、今はまだその疑いをあからさまにいうべき時機ではありません。河野が生きているのです。しかも彼はお国のために海外に出稼ぎをしているのです。数年前に死んでしまったおろか者の三造の故に、なにを好んで、今さら犠牲者を出す必要がありましょう。
鬼
生腕
探偵小説家の殿村昌一は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。
S村は四方を山にとざされ、ほとんど段畑ばかりで暮らしを立てているような、淋しい寒村であったが、その陰鬱な空気が、探偵小説家を喜ばせた。
平地に比べて、日中が半分ほどしかなかった。朝のあいだは、朝霧が立ちこめていて、お昼頃ちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。
段畑が鋸型に喰い込んだあいだあいだには、いかに勤勉なお百姓でも、どうにも切りひらきようのない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに這い出していた。
段畑と段畑が作っている溝の中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪な大蛇のように、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起こして汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配を喘いで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。
|山《やま》|家《が》の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷々とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。この陰鬱な山や森や段畑や鉄道線路とも又しばらくお別れだ。青年探偵小説家は、二た月あまり通りなれた村の細道を、一本の樹、一茎の草にも名残りを惜しみながら歩いていた。
「また淋しくなるんだね。君はいつ帰るの?」
散歩の道連れの大宅幸吉がうしろから話しかけた。幸吉はこの山村では第一の物持ちと言われる大宅村長の息子さんであった。
「あすかあさってか、いずれにしてももう長くはいられない。待っててくれている人はないけれど、仕事の都合もあるからね」
殿村は女竹のステッキで朝露にしめった雑草を無意味に薙ぎはらいながら答えた。
細道は鉄道線路の土手に沿って、段畑の縁や薄暗い森を縫って、遙か村はずれのトンネルの番小屋までつづいていた。
五哩ほど向こうの繁華な高原都市を出た汽車が、山地にさしかかって、第一番にぶっつかるトンネルだ。そこから山はだんだん深くなり、幾つも幾つもトンネルの口が待っているのだ。
殿村と大宅は、いつもこのトンネルの入口まで行って、番小屋の仁兵衛爺さんと話をしたり、暗いトンネルのほら穴の中へ五、六間踏み込んで、ウォーとどなってみたりして、又ブラブラと村へ引き返すのが常であった。
番小屋の仁兵衛爺さんは、二十何年同じ勤めをつづけていて、いろいろ恐ろしい鉄道事故を見たり聞いたりしていた。機関車の大車輪に轢死人の血みどろの肉片がねばりついて、洗っても洗ってもとれなかった話、ひき殺されてバラバラになった五体が、手は手、足は足で、苦しさにヒョイヒョイ躍り狂っていた話、長いトンネルの中で、轢死人の怨霊に出会った話、そのほか数えきれないほどの、物凄い鉄道綺譚をたくわえていた。
「君、ゆうべはNの町へ行ったんだってね。帰りはおそくなったの?」
殿村がなぜか遠慮勝ちに尋ねた。道は薄暗い森の下にはいっていた。
「ウン、少し……」
大宅は痛いところへさわられたように、ビクッとして、しかし強いてなにげないていをよそおった。
「僕は十二時頃まで、君のおかあさんの話を聞いていた。おかあさんは心配していたぜ」
「ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いてきたものだから」
大宅は弁解がましく答えた。
N市とS村を連絡するたった一台のボロ乗合自動車は、夜十時を過ぎると運転手が帰ってしまうし、N市といっても山国の小都会のことだから、営業自動車は四、五台しかなく、それが出払ってしまうと、ほかに交通機関とてもないのだ。
「道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう」
「ウン、いや、それほどでもないよ」
大宅は、事実異様に青ざめた頬を、手の平でさすりながら、照れ隠しのように笑ってみせた。
殿村はおおかたの事情を知っていた。大宅はれっきとした同村の素封家の許嫁の娘をきらって、N市に住む秘密の恋人と逢い引きをつづけているのだ。その恋人は大宅の母親の言葉によると、「どこの馬の骨だかわからない、渡り者のあばずれ娘」であった。
「おかあさんを安心させて上げた方がいいよ」
殿村は相手を恥かしがらせはしないかとビクビクしながら、置土産のつもりで忠告めいたことを口にした。
「ウン、わかっている。しかしまあうっちゃっておいてくれたまえ。自分のことは自分で始末をつけるよ」
大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村はだまってしまった。
二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。
鉄道線路がチラチラ見えているくらいだから、むろん深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山につづいていて、立ち並ぶ木立ちが、どれも一と抱え二た抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み入った感じであった。
「おい、待ちたまえ!」
突然先に立っていた殿村が、ギョッとするような声で、大宅を押し止めた。
「いやなものがいる。戻ろう。急いで戻ろう」
殿村は脅えきっていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色がまっ青に変わっているのがわかった。
「どうしたんだ。何がいるんだ」
大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、あわただしく聞き返した。
「あれ、あれを見たまえ」
殿村は逃げ足になりながら、五、六間向こうの大樹の根本を指さした。
ヒョイと見ると、その巨木の幹の蔭から、なんともえたいの知れぬ怪物が覗いていた。
狼! いや、なんぼ|山《やま》|家《が》でも、こんなところへ狼が出るはずはない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。唇も舌も白い牙さえも生々しい血に濡れて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒い血の斑点だ。顔も血みどろのブチになって、その中から燐光をはなつ丸い眼が、ジッとこちらを睨んでいる。顎からは、まだポタポタと血のしずくが垂れている。
「山犬だよ。モグラかなんかやっつけたんだよ。逃げない方がいい、逃げるとかえって危いから」
さすがに大宅は山犬に慣れていた。
「チョッ、チョッ、チョッ」
彼は舌を鳴らしながら、怪物の方へ近づいて行った。
「なあんだ。知ってるやつだよ。いつもこの辺をウロウロしているおとなしいやつだよ」
先方でも大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと樹の蔭を出て、二、三度彼の足元を嗅いだかと思うと、森の奥へと駈けこんで行った。
「だが君、モグラやなんか喰ったんで、あんな血みどろになるだろうか。変だぜ」
殿村はまだ青ざめていた。
「ハハハハハ、君も臆病だね。まさかこんなところに、人喰いの猛獣はいやしないよ」
大宅は何をばかばかしいと言わぬばかりに笑って見せたが、実は案外そうでなかったことが間もなくわかった。
森を出はなれて、|蓬《ほう》|々《ほう》と雑草の茂った細道を歩いて行くと、草むらの中から、ムクムクと、又しても血みどろの大犬が姿を現わし、人に驚いたのか、一目散に逃げ去った。
「おい、あいつはさっきのやつと毛色が違うぜ。揃いも揃って、この村の犬がモグラを喰うなんて変だぜ」
殿村は、犬の出てきた草むらを分けて、その蔭に何か大きな動物の死骸でも横たわっているのではないかと、ビクビクもので探しまわったが、別段猛犬の餌食らしいものは見当たらなかった。
「どうも気味がわるいね。引き返そうか」
「ウン、だが、ちょっとあれを見たまえ。又もう一匹やってくるぜ」
一丁ばかり向こうから、線路の土手に沿って、雑草の中を見え隠れに、なるほど又毛色の違うやつが歩いてくる。チラチラと草に隠れて、全身を見ることができぬため、非常に大きな動物のようにも、又、犬ではないもっと別な生物のようにも感じられて、ひどく無気味である。
道はとっくに部落を出はなれているので、あたりは人気もない山の中、狭い草原を挾んで、両側から迫まる黒い森、刃物のように光る二本の鉄路、遙かに見えるトンネルの口。薄暗くシーンと静まり返った夢の中の景色だ。その草むらを、ゴソゴソ近づいてくる妖犬の姿。
「おい、あいつなんだか|咥《くわ》えているぜ。血まみれの白いものだ。」
「ウン、咥えている。なんだろう」
立ち止まって、じっと見ていると、犬が近づくにしたがって、咥えているものの形が、少しずつハッキリしてきた。
大根のようなものだ。しかし、大根にしては色が変だ。鉛のように青白い、なんとも言えぬ色合いだ。おやっ、先が幾つかに分かれている。五本指の大根なんてあるものか。手だ。人間の生腕だ。断末魔に空をつかんだ、鉛色の人間の片腕だ。肘の関節から喰いちぎられて、その端には、赤い綿のようなかたまりがくっついている。
「アッ、畜生め」
大宅がわめきながら、石ころを拾って、いきなり投げつけた。
「ギャン、ギャン」という悲鳴を上げて、人喰い犬は、矢のように逃げ去った。小石が命中したのだ。
顔のない死体
「やっぱりそうだ。人間の腕だ。指の様子では、まだ若い女のようだね」
妖犬の捨てて行った一物に近より、こわごわ覗き込みながら大宅が判断した。
「どっかの娘さんが喰い殺されたのじゃあるまいか。それとも餓えた山犬が墓をあばいたのか」
「いや、この村には若い女の|新仏《にいぼとけ》はないはずだ。といって山犬どもが生きている人間を喰い殺すなんて、そんなばかなことは考えられないし、オイ|昌《しょう》ちゃん、やっぱり君の言った通り、こいつは少し変なぐあいだね」
さすがの大宅も眼の色を変えていた。
「それ見たまえ、モグラやなんかで、あんなに全身血まみれになるはずはないよ」
「ともかく調べてみよう。片腕があるからには、その腕についていたからだがどっかになければならない。君、行ってみよう」
二人は、ひどく緊張して、何か探偵小説中の人物にでもなった気持で、さいぜんから妖犬のやってきた方角へと急いだ。
ポッカリと黒い、怪物の口のようなトンネルの入口が、だんだん形を大きくして近づいてきた。番小屋の中で手内職の編み物をしている仁兵衛爺さんの姿も見える。
と見ると、その番小屋の小半丁手前、鉄道線路の土手のすぐそばの一きわ深い草むらの中から、三本の、或いは黒く或いは白いゴボウのようなものが生えて、それがピンピン動いていた。なんともえたいのしれぬ異様な光景であった。やがて、草に隠れてからだは見えぬけれど、その三本のゴボウは、御馳走に夢中になっている三匹の犬の尻尾であることがわかった。
「あすこだ。あすこに何かあるんだ」
大宅は、先の例にならって、先ず小石を二つ三つ投げつけると、三匹の犬は、草むらの中から、一斉にニョッと首をもたげて、血に狂った六つの眼でこちらを睨みつけた。牙をむき出したまっ赤な口から、ボトボトとしずくを垂らしながら。
「畜生、畜生」
その形相にこちらはギョッとして、又も小石を拾って投げつける。それには犬どもも敵しかねて、さも残り惜しそうに逃げ去って行った。
そのあとへ、二人は大急ぎで駈けつけ、草を分けて覗いてみると、草の根のジメジメした地面に、人間の形をしたまっ赤なものが、黒髪を振り乱し、派手な銘仙の着物の前をはだけて、ころがっていた。
二人が見ただけでも六匹の大犬に喰い荒されているのだ。まだ生々しい死骸の、あばら骨が現われ、臓腑が飛び出し、顔面は跡かたもない赤はげになって、茶呑み茶碗ほどもあるまんまるな眼の玉が虚空を睨んでいたとて不思議はない。
殿村も大宅も、生れてから、こんな滑稽な、えたいの知れぬ、恐ろしいものは見たことがなかった。
犬の歯に荒されない部分の皮膚を見ると、よく肥っていて病人らしくはない。さきほど犬の咥えてきた片腕をのぞいては、五体がチャンと揃っているところを見ると、轢死人でもないらしい。すると、六匹の野犬が健康な一人の女を喰い殺してしまったのであろうか。いやいや、それは考えられないことだ。人間一人喰い殺される騒ぎを、いくらなんでも、すぐ近くの番小屋の仁兵衛爺さんが気づかぬはずはない。悲鳴を聞きつけて助けに駈けつけぬはずはない。
「君はどう思う。犬どもは、生きている女を喰い殺したのでなくて、とっくに殺されている死骸を餌食にしたのじゃないだろうか」
大宅幸吉が、やっとしてから物を言った。
「むろんそうだね。僕も今それを言おうとしていたんだ」
青年探偵作家が答えた。
「すると……」
「すると、これは恐るべき殺人事件だよ。誰かがこの女を殺害して、たとえば毒殺するなり、締め殺すなりしてだね。それからこの淋しい場所へ運んできて、ソッと草むらの中へ隠しておいたという考えかただ」
「ウン、どうもそうとしか考えられないね」
「服装が田舎めいているから、たぶんこの付近の女だろう。駅もないこの村へ、旅人がさまよってくるわけはないからね。君この女のどっかに見覚えはないか。たぶんS村の住人だろうと思うが」
殿村が尋ねる。
「見覚えがないかといって、見るものがないじゃないか。顔もなんにもない、赤いかたまりなんだもの」
いかにも、頭部はあるけれど、顔と名づけるものは跡方もない赤坊主であった。
「いや、着物とか帯とか」
「ウン、それはどうも見覚えがないよ。僕はいったい女の服装なんか注意しないたちだからね」
「じゃあ、ともかく、仁兵衛爺さんに尋ねてみよう。あいつ近くにいて、ちっとも気づかないらしいね」
そこで二人は、トンネルの入口の番小屋へ走って行って、旗振りの仁兵衛を呼び出し、現場へ引っぱってきた。
「ワア、こりゃどうじゃ。なんてまあむごたらしい……ナンマイダブ、ナンマイダブ」
爺さんは赤いかたまりを一と目見ると、たまげて、頓狂な声を立てた。
「この女は犬に喰われる前に殺されていたんだよ。下手人がここへ担いできて捨てて行ったんだよ。君、何か思い当たるようなことはないかね」
大宅が尋ねると、爺さんは小首をかしげて、
「わしゃなんにも知らなかったよ。知ってれば山犬なんぞに喰わせるこっちゃないのだが。ハテネ、若旦那、こりゃてっきりゆうべのうちに起こったことだぞ。なぜと言って、わしゃきのうは何度もこの辺を歩いたし、夕方落とし物をして、そうだ、ちょうどここいらを探しまわったくらいだから、こんな、大きな死骸がありゃ、気のつかねえはずはねえ。てっきりこりゃ、ゆうべ真夜中に起こったことだぞ」
と断定した。
「そりゃそうかもしれないね。いくら人通りがないといって、あんなに犬がたかっているのを、一日じゅう気づかないはずはないからね。ところで、爺さん、君、この着物に見覚えはないかね。村の娘だと思うのだが」
「こうっと、こんな柔か物を着る娘と言や村でも四、五人しかないのだが……ああ、そうだ、わしの家のお花に聞いてみましょう。あれは若いもんのこったから、同じ年頃の娘の着物は、気をつけて見覚えてるに違えねえ。オーイ、お花やあ……」
爺さんのどなり声に、やがて娘のお花が、
「なあに、おとっつぁん」
と番小屋を駈け出してきた。
彼女は草むらの死骸を見るとキャッと悲鳴を上げて逃げ出しそうにしたが、父親に引き止められ、こわごわ着物の裾の方を見て、たちまちその主を鑑定した。
「あらまあ、この柄は山北の鶴子さんのだわ。村じゅうでこの柄の着物持ってるのは、鶴子さんのほかにありゃしないわ」
それを聞くと、大宅幸吉の顔色がサッと変わった。無理はない。山北鶴子といえば、大宅が嫌い抜いている彼の幼時からの許嫁の娘だ。その鶴子が時も時、結婚問題で悶着の起こっている今、かくも無残な変死をとげたのだ。大宅が青くなったのも不思議ではない。
「間違いはねえだろうな。よく考えて物をいうがええぞ」
仁兵衛爺さんが注意すると、娘はだんだん大胆になって、死骸の全身を注意深く眺めていたが、
「鶴子さんに違いないわ。帯だって見覚えがあるし、そこに落ちている石のはいったヘヤピンだって、鶴子さんのほかに持っているものありゃしないわ」
と断言した。
アリバイ
お花の証言で、その惨死体が豪農山北家のお嬢さんとわかったので、すぐさま山北家へ急使が飛ぶ、駐在所へ自転車が走る、警察電話がけたたましく鳴り響く、家々からは、緊張した表情の人々が現場へ、現場へと駈け出す、しばらくして係り官を満載した警察自動車が本署から到着するという物々しい騒ぎとはなった。
綿密な現場調査が終り、解剖のために死体がN市の病院へ運び去られると、関係者の取調べを行なうために、はなはだ変則ながら、臨機の処置として村の小学校の応接室が借り入れられ、そこへ、鶴子の両親の山北夫婦、同家の雇い人、発見者の大宅、殿村、仁兵衛爺さん、娘のお花などが次々に呼び入れられた。
取調べには可なりの時間をついやしたけれど、被害者鶴子の母親が提出した一通の封書のほかには、別段これという手掛りもなかった。
「娘の机の引出しの手紙の中に、こんなものがございました。今そこへ入れたばかりというふうに、手紙類の一ばん上にのっておりましたから、きっとあれがうちを出ますすぐ前に受け取ったものに違いございません。男の呼び出し状でございます」
母親はそんなふうに言って、切手の貼ってない一通の封書をさしだした。
「使いが持ってきたのだね。誰がこの手紙を娘さんに渡したのか、雇い人たちを調べてみましたか」
検事の国枝氏が、物やさしく尋ねた。
「はい、それはもう充分調べたのでございますが、妙なことに、誰も知らないと申すのでございます。ひょっとしたら、娘が門のところに出ていた時、直接手渡して行ったのかもしれませんでございます」
「フン、そんなことだろうね。ところで、あなたは、この手紙のぬしに心当たりでもありますか」
「いいえ、親の口から申すのもなんでございますが、あれに限って、そんなみだらなことは、これっばかりもございません。この手紙の男も、決して前々から知っていたのではなく、上手な呼び出し文句に、ついのせられたのではないかと存じます」
で、その呼び出し状というのは、左のような至極簡単なものであった。
[#ここから2字下げ]
今夜七時、お宮の石燈籠のそばで待っています。
きっときてください。誰にも言ってはいけません。
非常に非常に大切な用件です。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]Kより
「この筆蹟に見覚えはありませんか」
「いっこう心当たりがございません」
「鶴子さんは、大宅村長の息子の幸吉君と許嫁になっていたそうですね」
国枝検事はそれとなく気を惹いてみた。手紙の差出人のKというのが、幸吉の頭字に一致するし、許嫁からの手紙なら、娘がすぐさまその呼び出しに応じたのも無理ではないと思われたからだ。
「はい、わたくしどもも、そうではないかと思いまして、さいぜん本人の幸ちゃんに尋ねてみましたのですが、僕がそんな呼び出しなぞかけるわけがない。その時間にはN市へ行っていたのだから……それに第一、伯母さんも御存知の通り、僕はこんな下手な字は書きません。また、鶴子さんに逢いたければ、不自由らしく手紙で呼び出したりなんかしないでも、僕がじかにお誘いに行くはずじゃないか、って申すのでございます。あの、これはもしや、誰か悪者が、幸ちゃんからの手紙のように見せかけて、鶴子をおびき出したのではございますまいか」
検事と被害者の母親との問答は、それ以上進展しなかった。そこで国枝氏はまっさきに取調べた大宅幸吉を、もう一度その調べ室に呼び入れる必要を感じた。同席の警察署長をはじめ同意見であった。
大宅幸吉は問題の呼び出し手紙を見せられると、さっき鶴子の母親が申し述べたのと大体同じような答えをした。
「君はゆうべN市へ行っていたのだね。ハッキリしたアリバイだ。で、N市では誰かを訪問したのでしょうね。別に君を疑うわけではないが、重大事件のことだから、一応は先方へ聞き合わせる程度の手数はかけなければなりません」
検事はなにげなく尋ねた。
「別に誰も訪ねなかったのです。会って話した人もありません」
幸吉は苦しそうに答えた。
「では、買い物にでも出掛けたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが覚えているかもしれない」
「いいえ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Nの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買い物といえば、通りがかりの煙草屋でピースを買ったくらいのものです」
「フム、そいつはまずいな」
国枝氏はうさんらしく、相手の顔をジロジロ眺めながら、しばらく思案していたが、やがてヒョイと気づいたように元気な声を出した。
「いや、そんなことはどうだっていいのだ。君はN市の往復に乗合自動車に乗ったでしょう。むろん運転手は君の顔を見知っているはずだ。その運転手を調べさえすればいいのです」
検事がホッとしたように言うと、意外にも幸吉の顔にハッと狼狽の色が浮かんだ。青ざめて急には口もきけないほどだ。
検事は唇の隅に奇妙な微笑を浮かべて、しかし眼は相手の心を突き通すするどさで、ジッと幸吉の表情を見つめていた。
「偶然だ。恐ろしい偶然だ」
幸吉は妙なことをつぶやきながら、救いを求めるように国枝検事のうしろに立っている人物を眺めた。
そこには幸吉の親友の探偵小説家殿村昌一が、気の毒そうな顔をしてたたずんでいた。彼がどうして、この調べの席に、しかも調べる人々の|側《がわ》に列していたかというに、昌一は国枝検事と高等学校時代の同級生で、現在も文通をつづけている友だちであったからだ。作者は物語の速度をにぶらせまいために、この両人の偶然の邂逅の場面をわざと省略したのである。
両人がそんな間柄であったから、検事は取調べに際して何かと好都合であったし、又探偵作家の殿村にとっては、犯罪事件の実際を見学する好機会となった。彼は事件の証人として、友だちの検事から一応の取調べを受けたが、それがすんでも退席せず、人々の暗黙の了解を得て、その場に居残っていたわけである。
で、いま大宅幸吉が、N市へ往復した自動車について質問を受け、顔色を変えて妙なことをつぶやいたのを聞くと、殿村はハッとしないではいられなかった。彼は幸吉の苦しい立場を大方は推察していた。ゆうべはN市に住む恋人に逢いに行ったのに違いない。幸吉はそれを隠すためにアリバイを犠牲にしようとさえしているのだ。
「まさか乗合自動車に乗らなかったわけはないでしょう」
国枝氏は相手がもじもじしているのを怪しんで、やや皮肉な口調で催促した。
「ところが、乗らなかったのです」
幸吉は苦しそうに言って、なぜかひどく赤面した。青ざめていた顔が突然パッと紅潮したのが、人々をギョッとさせた。
「僕が嘘をついているように聞こえましょうね。しかし、ほんとうなんです。偶然にも、私はゆうべに限って乗合自動車に乗らなかったのです。村の発着所へ行った時、ちょうどN市行きの最終の乗合が出たあとで、ほかに車もないものですから、私はテクテク歩いて行ったのです。汽車と違って近道をすれば一里半ほどのみちのりですから」
「君はさっき、N市へはなんの目的もなく、ただ賑やかな町を散歩するために出掛けたように言ってましたね。なんの目的もないのに、一里半にもせよ、わざわざ歩いてまでN市へ行かなければならなかったのですか」
検事の追及ますます急である。
「ええ、それは、田舎者には一里や二里の道はなんでもないのです。村の者はN市へ用事があっても、自動車賃を倹約して歩くくらいです」
だが、幸吉は村長の若旦那だ。一里や二里が平気なほど丈夫そうにも見えぬ。
「では、帰りはどうしました。まさか往復とも歩いたわけではないでしょう」
「それが歩いたのです。おそかったものですから、乗合はなく、ハイヤーを探しましたが、折悪しく皆出払っていたので、思い切って歩きました」
このことは、朝、鶴子の死体を発見する前、幸吉と殿村との会話によって、すでに読者の知るところである。
「フン、すると、君のアリバイはまったく消えてしまったわけですね。犯罪の行なわれた当夜、君がこのS村にいなかったという証拠は、一つもないわけですね」
検事の態度は、だんだん冷やかになって行くように見えた。
「僕自身でさえ妙に思うほどです。せめて往復の道で、誰か知人に出会っているといいのですが、それもないのです」幸吉は不運をかこつように、「しかし、アリバイがないからといって、そのにせ手紙で、僕に嫌疑がかかるわけではないでしょうね、まさか。ハハハハハ」
彼は不安らしく、キョトキョトしながら、無理に笑ってみせた。
「にせ手紙といっても、これがにせ物であるという証拠は何もないのです」
検事は振り切るように、冷淡に言ってのけた。
「君の筆蹟と似ていないからといって、故意に字体を変えて書くこともできるわけですからね」
「そんなばかな。なんの必要があって字体を変えたでしょう、僕が」
「いや、変えたとは言いません。変えることもできるといったまでのことです……よろしい。では引き取ってください。しかし、家へ帰ったらなるべく外出しないようにしてください。又お尋ねしたいことができるかもしれませんから」
幸吉が引き下がると、国枝氏は警察署長と何かヒソヒソささやいていたが、やがて一人の私服刑事が、署長の命令でどこかへ出かけて行った。
藁人形
「殿村君、これで一と先ずおしまいだ。小説と違ってたいして面白いものではないだろう」
手すきになった国枝検事が、昔の学友探偵小説家を廊下へ誘い出して言った。
「おしまいだって? そんなこといって、僕を追っ払おうというのかい。おしまいどころか、これからじゃないか」
「ハハハハハ、いや、そういうわけじゃないが、きょうはもう調べることもあるまい。あす解剖の結果がわかるはずだから、何もかもそれからだよ。私はN市に宿を取っているから、二、三日はそこから村へ通ようつもりだ」
「なかなか熱心だね。誰でもそんなふうにするのかい。署長に任せておいてもいいのだろう」
「ウン、だが、この事件はちょっと面白そうなのでね。少しおせっかいをしてみるつもりだ」
「君は大宅君を疑っているようだが……」
殿村は友だちのために、判事の気を惹いてみた。
「いや、疑っているわけじゃない。そういうことをきめてかかるのは、君がいつも小説に書いている通り、非常に危険なんだ。疑うといえばすべての人を疑っている。君だって疑っているかもしれない」
検事は冗談のように言って、殿村の肩を叩いた。
「君、いま手がすいているのだったら、見せたいものがあるんだ。トンネルのそばの番小屋まで一緒に散歩しないか」
殿村は相手の冗談を黙殺して、さいぜんから言おうとしていたことを言った。
「仁兵衛爺さんの番小屋かい。いったいあすこに何があるの」
「藁人形があるんだ」
「え、なんだって」
国枝氏はびっくりして、殿村のきまじめな顔を眺めた。
「現場を調べている時、君にそのことを言ったけれど、耳にも入れてくれなかった。藁人形なんぞあとでいいと言った」
「そうだったかい。僕はちっとも記憶しないが、で、その藁人形がどうかしたのかい」
「まあ、なんでもいいから、一度見ておきたまえ。ひょっとしたら、今度の事件を解決する鍵になるかもしれない」
国枝氏は突飛千万なこの申しいでを、まじめに受け取る気にはならなかったけれど、殿村の熱心な勧めをしりぞける理由もなかった。彼は「小説家はこれだから困る」とつぶやきながら、殿村のあとについて小学校の門を出た。
番小屋に着くと、今小学校へ呼ばれて帰ったばかりの仁兵衛親子は、また取調べを受けるのかと、オドオドしながら、二人を迎え入れた。
「おじさん、さっきの、ほら、藁人形を見せてほしいのだよ」
殿村が言うと、仁兵衛爺さんは妙な顔をして「ああ、あれですかい」と裏の物置き小屋へ案内してくれた。
ガタピシと板戸をあけると、薪や炭を積んだ小暗い物置きの隅っこに、人間ほどの大きさの藁人形が、いかめしく突っ立っていた。
「なあんだ、|案《か》|山《が》|子《し》じゃないか」
国枝氏があきれたように言う。
「いや、案山子じゃない。こんな立派な案山子があるもんか。なかなか重いのだよ。呪いの|人《ひと》|型《がた》だよ」
殿村はあくまできまじめだ。
「で、この藁人形が、今度の殺人事件にどんな関係があるというの?」
「どんな関係だか、僕にもわからない。しかし無関係でないことだけは確かだよ……おじさん、この人形を見つけた時のことを、もう一度、この人に話して上げてくれないだろうか」
すると仁兵衛爺さんは、国枝検事に小腰をかがめて、話しはじめた。
「ちょうど五日前の朝でございました。村へ用達しがあって、あの大曲がり……ほら、鶴子さんの死骸が倒れていた線路のカーヴのところを、わしら『大曲がり』と申しますだが、そこを通りかかりますと、線路わきの原っぱに、この藁人形がころがっていましただ」
「ちょうど鶴子さんの倒れていた辺だね」
殿村が口をはさむ。
「へえ、だが、鶴子さんの死骸は線路の土手のすぐ下でしたが、この人形は線路から十間も離れた、原っぱの中にころがっていました」
「胸を刺されてね」
「へえ、これでございますよ。藁人形の胸の辺に、こんな短刀が突きささっておりましただ」
爺さんは、小屋へはいって、藁人形を抱え出してきた。見ると、なるほど、胸の辺の藁がズタズタに斬りきざまれて、そこに小型の白鞘の短刀が、心臓をえぐった形で、突き立ててあった。
「呪いの|人《ひと》|型《がた》だ……しかもそれが、ちょうど殺人事件の四日前、殺人現場の付近に捨ててあったというのは、何か意味がありそうじゃないか」
「フーン、なるほど」
国枝氏もこの二つの殺人事件の(人形と人間との)不思議な一致を無視するわけにはいかぬ。いやそれよりも、胸をえぐられた藁人形の死骸が、なんともいえぬ妙な、ゾーッと寒気のするような感じを与えたのだ。
「それで、君はどうしたの」
「へえ、わしは、村の子供たちがいたずらをしたのだろうと、別に気にもとめないで、たきつけにするつもりでこの小屋へほうり込んでおきましただ。短刀も抜くのを忘れて、ついそのままにしておきましただ」
「で、この藁人形のことは、誰にも話さなかったのだね」
「へえ、まさかこれが今度の事件の前兆になろうとは思わなかったもんでね。ああ、そうそう、一人だけこれを見た人がありますよ。ほかでもねえ山北の鶴子さんだ。あの方がちょうど藁人形を拾ったあくる日、ひょっくり番小屋へ遊びにござらっしてね、わしの娘がそれを話したもんだから、じゃあ見せてくれってね、この小屋をあけて中を覗いて見なすったですよ。因縁ごとだね。お嬢さんも、まさかこの人形と同じ目にあおうとは知らなかったでございますべえ」
「ホウ、鶴子さんがね。君の家へ……よく遊びにきたのかね」
「いいえ、めったにないことでございます。あの日は、娘のお花に何かくれるものがあるといって、それを持って、久しぶりでお出でなさったのですよ」
さて、一応聞き取りをすませると、国枝氏は藁人形はのちほど警官に取りにこさせるから、大切に保管してくれるように頼んでおいて、番小屋を引き上げることにした。
「偶然の一致だよ。おそらく爺さんのいったように、村の子供たちのいたずらに違いない。犯人が、実際の人殺しをやる前に、藁人形で試験をしたというのもおかしいし、又、その人形を同じ場所へ捨てておくなんて、実に愚かな仕業だからね」
実際家の国枝検事は、探偵小説家の神秘好みに同意できなかった。
「そんなふうに考えれば、犯罪事件とは無関係のように見えるかもしれない。しかし、もっと別な考え方がないとは言いきれまい。僕は何かしらわかりかけてきたような気がする。殊に、鶴子さんが藁人形を見にきたという点が非常に面白い」
「見にきたわけじゃないだろう」
「いや、見にきたのかもしれない。爺さんの口ぶりから考えても、これという用事があったのではないらしいから、鶴子さんがお花を訪ねたほんとうの目的は、案外藁人形を見るためだったかもしれない」
「何か突飛な空想をやっているんだね。しかし、実際問題は、そんな手品みたいなもんじゃないよ」
国枝検事は殿村の妄想を一笑に付し去ったが、それが果たして妄想にすぎなかったかどうか、やがてわかる時がくるだろう。
恐ろしき陥穽
その翌日も、国枝検事は、警察署長と連れ立って、小学校の臨時捜査本部へやってきたが、彼が例の調べ室へはいった時には、一夜のあいだに、刑事たちの奔走によって、実に
重大な証拠物件が取り揃えられてあった。
その証拠物件によって、事件は急転直下、あまりにもあっけなく終結したかに見えた。恐るべき殺人犯人は確定したのだ。のっぴきならぬ証拠があがったのだ。
間もなく、調べ室のテーブルの前には大宅幸吉が呼び出され、きのうと同じように国枝検事と対坐していた。
「ほんとうのことをいってください。あの日君はN市へなぞ行かなかったのでしょう。たとえ行ったとしても、七時までには村へ帰って、それからずっと村内のどこかにいたのでしょう。君があの夜、帰宅したのは十二時頃だというから、それまで、どこかお宮の境内とか、森の中とかで過ごしたのでしょう」
国枝検事はきのうと違って、確信に充ちた態度で、落ちつき払って取調べをはじめた。
「何度お尋ねになっても同じことです。僕はN市からまっすぐに徒歩で帰宅したのです。お宮や森の中にいるはずがありません」
幸吉は平然として答えたが、青ざめた顔色に、内心の苦悶を隠すことはできなかった。彼はすでに検事の握っている証拠物件に気づいていたからだ。そののっぴきならぬ証拠を、いかに言い解くべきかと、心を千々に砕いていたからだ。
「ああ、君にお知らせしておくことがあったのです」検事はまったく別のいとぐちからはいって行った。「鶴子さんは細身の刃物で心臓をやられていたのです。たぶん短刀でしょう。ついさきほど、解剖の結果がわかったのです。で、つまりですね。この犯罪には血がある。被害者は血を流して斃れた。したがって、加害者の衣服などに、血痕が付着したかもしれないと考えるのは、きわめて自然なことですね」
「そ、そうでしたか。やっぱり他殺でしたか」
幸吉は絶望の表情でうめいた。
「ところで、加害者は、もし衣服などに血痕が付着したとすれば、それをどんなふうに処分するでしょう。君だったら、どうしますか」
「よしてください」
幸吉は気でも違ったのではないかと思われるような、突拍子もない声で叫んだ。
「そんな問いかたはよしてください。僕は知っているのです。刑事が僕の部屋の縁の下から這い出して行くのを見たのです。僕は少しも覚えがないけれど、縁の下に何かがあったのでしょう。それを言ってください。それを見せてください」
「ハハハハハ、君はお芝居が上手ですね。君の部屋の縁の下に隠してあった物を、君は知らないというのですか。よろしい。見せてあげよう。これだ。これが君の常用していた|浴衣《ゆ か た》であることは、ちゃんと調べが届いているのだよ。さあ、この血痕はなんだ。これが鶴子さんの血でないとでもいうのか」
検事は威丈高に言って、テーブルの下から、もみくちゃになった一枚の浴衣を取り出し、幸吉の前にさし出した。見ると、浴衣の袖や裾に、点々として血痕が付着している。
「僕にはまったくわけがわかりません。どうしてこんなものが僕の部屋の縁の下にあったのか。浴衣は僕のもののようです。しかし血痕はまったく覚えがありません」
幸吉は追いつめられたけだもののように、眼を血走らせ、やっきとなって叫んだ。
「覚えがないではすむまいよ」検事は落ちつき払って、
「第一はKの署名ある呼び出し状、第二は実に不思議なアリバイの不成立、第三はこの浴衣だ。君はその一つをも言い解くべき反証を示し得ないじゃないか。これほど証拠が揃って、しかも弁解が成り立たないとしたら、もはや犯罪は確定したといってもいい。私は君を、山北鶴子殺害の容疑者として起訴するほかはないのだ」
検事が言い終ると、署長の眼くばせで、二人の警官が、ツカツカと幸吉のそばに近づき、左右からその手を取った。
「待ってください」
幸吉はゾッとするような死にもの狂いの表情になって絶叫した。
「待ってください。君たちの集めた証拠はみんな偶然の暗合にすぎない。そんなもので罪におとされてたまるものか。第一、僕には動機がないのだ。僕が、なんの恨みもない|許嫁《いいなずけ》の少女を、なぜ殺さなければならないのか」
「動機だって? 生意気をいうな」署長がたまりかねてどなった。「君は情婦があるじゃないか。そいつと切れるのがいやさに、せき立てられる結婚を一日延ばしに延ばしてきたんじゃないか。しかし、もうこれ以上は延期できない事情になっていた。君のうちと山北家との複雑な関係から、この結婚はもう一日も延ばし得ない状態になっていた。もしこの結婚が不成立に終ったら、君の一家は山北家はもちろん、村じゅうに対して、顔向けもできない事情があったのだ。君はせっぱ詰まった窮境に立った。そして、とうとう鶴子さんさえなきものにすればと、むちゃな考えを起こしたのだ。これでも動機がないというのか。こちらではなにもかも調べ上げてあるのだよ」
「ああ、|陥《かん》|穽《せい》だ。おれは恐ろしい陥穽にはめられたのだ」
幸吉はとっさに返す言葉もなく、半狂乱に身もだえするばかりであった。
「幸ちゃん、しっかりしたまえ。君は忘れているんだ。もうこうなったら、ほんとうのことを言いたまえ。ほら、君にはちゃんとアリバイがあるじゃないか。N市に住んでいる女の人に証言してもらえばいいじゃないか」
人々のうしろから、殿村昌一が躍り出して、叫んだ。彼は友だちの苦悶を見るに見かねたのだ。
「そうだ。検事さん、N市×町×番地を調べてください。そこに僕の恋人がいるんです。僕は事件の夜、ずっとそこにいました。散歩したなんて嘘です。その人の名は絹川雪子っていうんです。雪子に聞いてください」
幸吉はついにひそかなる恋人の名を隠しておくことができなくなった。
「ハハハハハ、何を言っているんだ、君の情婦の証言なんか当てになるか。その女は君の共謀者かもしれんじゃないか」
署長が一笑に付した。
「いや、その女の証言をとるくらいの手数はなんでもありません。あんなに言っているのだから、警察電話で、本署へ至急取調べて返事をしてくれるようにお命じになってはいかがです」
国枝氏のとりなしで、ともかく雪子という女を取調べさせることに決した。雪子はどうせ一度は調べなければならない人物なのだから。
待ち遠しい一時間が経過して、駐在所からの電話の返事を持って、一人の刑事が駈けつけてきた。
「絹川雪子は、一昨夜大宅は一度もこなかった。何かの間違いでしょうと答えたそうです。幾度尋ねても同じ返事だったそうです」
刑事が報告した。
「それで、雪子は当夜ずっと在宅していたかどうかは?」
「それは雪子が二階借りをしている婆さんを取調べた結果、確かに在宅していたことがわかったということです」
もし雪子が当夜外出したとなると、彼女にも鶴子殺しの疑いがかかるわけだ。彼女もまた幸吉と同じ動機を持っていたからである。しかし、外出した模様もなく、恋人の幸吉にとってはもっとも不利な証言をしたところを見ると、雪子は何も知らぬらしい。全然この事件の圏外においてさしつかえないわけだ。
国枝氏は再び幸吉を面前に呼び出して、刑事からの報告を伝えた。
「さあ、これで君のためにできるだけのことをしたわけだ。もう異存はあるまいね。君の情婦さえアリバイを申し立ててはくれなかったのだ。観念した方がいいだろう」
「嘘だ。雪子がそんなことを言うはずがない。会わせてください。僕を雪子に会わせてください。あれがそんなばかなことを言う道理がない。君たちはいい加減のことを言って、僕をおとしいれようとしているのだ。さあ、僕をN市へ連れて行ってください。そして雪子と対決させてください」
幸吉はじだんだを踏まんばかりにして、わめいた。
「よしよし、会わせてやる。会わせてやるからおとなしくするんだ」
警察署長は見えすいた猫撫で声をしながら、ギロリとするどい眼で部下に合図をした。
二名の警官が、よろめく幸吉の手を掴んで、荒々しくドアのそとへ引きずり出してしまった。
大宅村長の若旦那幸吉は、果たして恐ろしい殺人犯人であったか。もしや彼は何者かのために、抜き差しならぬ陥穽におとしいれられたのではあるまいか。ではその真犯人は一体全体どこに隠れているのであろう。探偵小説家殿村昌一は、この事件において、いかなる役割を勤めるのか。彼があのように重大に考えていた藁人形には、そもそもどんな意味があったのか。
雪子の消失
S村の村長の息子である大宅幸吉が、その許嫁山北鶴子惨殺犯人の容疑者として拘引せられた。
幸吉はあくまで無実を主張したが、第一、のっぴきならぬ血染めの|浴衣《ゆ か た》という証拠品があり、犯罪当夜のアリバイが成り立たず、その上彼には許嫁を殺害しかねまじき動機さえあったのだ。
幸吉は鶴子を嫌いぬいていた。彼にはN市に絹川雪子というひそかなる恋人があって、その恋をつづけるためには、結婚を迫まる|許嫁《いいなずけ》は、何よりの邪魔者であった。しかも、幸吉一家には、鶴子の家に対して、この許嫁を取消し得ない、苦しい浮世の義理があった。幸吉が結婚を承知しなければ、父大宅氏は村長の栄職をなげうって、S村を退散しなければならないほどの事情があった。
一方、山北家では、その事情をふりかざして、矢のように婚礼の日限を迫まってくる。したがって、大宅氏夫妻は、泣かんばかりに幸吉を責めくどく。恋に狂った若者が、こんな羽目におちいった時、その許嫁の女を憎み、呪い、はては殺意をさえ抱くに至るのは、至極ありそうなことではないか。というのが、検事や警察の人々の意見であったのだ。
動機あり、証拠品あり、アリバイなし。もはや幸吉の有罪はなにびともくつがえすことができないように見えた。
だが、ここに、幸吉の両親大宅氏夫妻のほかに、彼の有罪を信じない一人の人物があった。それは、幸吉の親友でS村に帰省中たまたまこの事件にぶっつかった探偵小説家殿村昌一だ。
彼は幼年時代からの幸吉の友だちで、その気心を知りつくしていたから、いかに恋に狂ったとはいえ、彼が罪もない許嫁の鶴子を殺すなどとは、どう考えても信じられないのであった。
彼は今度の事件について、一つの不可思議な考えを抱いていた。それは殺人の行なわれた五日前に、ほとんど同じ場所に、等身大の藁人形が、しかも短刀で胸を刺されて倒れていたことを出発点とする、まことに突飛千万な幻想であった。そんなことを、国枝検事などに話せば、小説家の空想として、たちまち一笑に付し去られるは知れきっていたから、彼はそれについて、何事も口にしなかったけれど、親友の幸吉が無実を主張しながら拘引された上は、親友を助ける意味で、彼は彼の幻想にもとづいて、一つこの事件を探偵してみようと決心した。
ではどこからはじめるか。経験のない殿村には、ちょっと見当がつきかねたが、何はさておき、先ずN市の絹川雪子を訪問してみなければならないように感じられた。
幸吉は犯罪当夜、雪子のところへ行っていたと主張し、雪子は警察に対してハッキリそれを否定している。この奇妙な矛盾はいったい何からきているか。先ずそれを解くのが先決問題だと思った。
そこで、幸吉が拘引された翌朝、彼はN市への乗合自動車に乗った。むろん雪子とは初対面である。この恋人のことは、幸吉が誰にもうちあけていなかったので、S村の人はもちろん、幸吉の両親さえも、雪子を知らず、検事の取調べの際、幸吉が告白したので、はじめてその住所なり姓名なりを知ったほどであった。
殿村はN市へ着くと、ただちに駅に近い雪子の住所を訪問した。ゴタゴタした小工場などに挾まれた、くすぶったような二階建ての長屋の一軒がそれであった。
案内を乞うと、六十あまりのお婆さんが眼をしょぼしょぼさせて出てきた。
「絹川雪子さんにお目にかかりたいのですが」
と来意を告げると、老婆は耳に手を当てて、
「え、どなたでございます」
と顔をつき出す。眼もわるく、耳も遠いらしい。
「あなたのところの二階に、絹川という娘さんがいらっしゃるでしょう。その人にお目にかかりたいのです。僕は殿村という者です」
殿村は老婆の耳に口を寄せて大声にどなった。
すると、その声が二階に通じたのか、玄関から見えている階段の上に、白い顔が覗いて、
「どうか、こちらへお上がりくださいませ」
と答えた。その娘が絹川雪子に違いない。
まっ黒にすすけた段梯子を上がると、二階は六畳と四畳半の二た間きりで、その六畳の方が雪子の居間と見え、女らしく綺麗に飾ってある。
「突然お邪魔します。僕はS村の大宅幸吉君の友だちで殿村というものです」
挨拶をすると、雪子は、丁寧におじぎをして、
「わたし絹川雪子でございます」
と言ったきり、恥かしそうにうつむいて、だまっている。
見ると、雪子の様子が少し意外である。殿村は、幸吉があれほどに思っていた娘さんだから、定めし非常に美しい人であろうと想像してきたのに、いま目の前にツクネンと坐っている雪子は、どうも美しいとはいえないばかりでなく、まるで淫売婦のような感じさえするのだ。
髪は洋髪にしているが、それが実に下手な結い方で、額に波打たせた髪の毛が、眉を隠さんばかりに垂れ下がり、顔には白粉や紅をコテコテと塗って、その上虫歯でも痛いのか、右の頬に大きな膏薬をはりつけているという始末だ。
殿村は、幸吉が何を物好きに、こんな変てこな女を愛したのかと疑いながら、ともかくも、幸吉の拘引せられた顛末を語りきかせ、犯罪の当日、彼はほんとうに雪子を訪問しなかったのかと糺した。
すると、なんという冷淡な女であろう。雪子は恋人の拘引をさして悲しむ様子もなく、言葉少なに、その日幸吉は一度もこなかった旨を答えた。
殿村は話しているうちに、だんだん変な気持になってきた。雪子という女が、感情を少しも持たぬ、人造人間かなんかのようにさえ思われて、一種異様の無気味さを感じないではいられなかった。
「それで、あなたは、今度の事件をどう思います。大宅君が人殺しなぞできる男だと思いますか」
少々癪にさわって、叱りつけるようにいうと、相手は相変らずの無感動で、
「あの人が、そんな大それたことをなさるとは思われませんけれど……」
と実に煮えきらぬ返事だ。
この女は恥かしがって感情を押し殺しているのか、真からの冷血動物なのか、それとも、もしかしたら、幸吉をそそのかして鶴子を殺害せしめた張本人であるために、その罪の恐怖に脅えきって、こんな様子をしているのか、まったくえたいのしれぬ、不思議な感じであった。
彼女が何かにひどく脅えていることは確かで、ちょうどその家の裏が駅の構内になっているものだから、絶えず機関車の往き来する音が聞こえ、時々はすぐ窓のそとで、するどい汽笛が鳴り響くのだが、そんな物音にも雪子はビクッと身を震わせて驚くのだ。
雪子はこのうちの二階を借りて、一人で暮らしているらしい。調度などがなんとなく職業婦人を思わせる。
「どこかへお勤めなんですか」
と尋ねてみると、
「ええ、少し前まであるかたの秘書を勤めていましたが、今はどこへも……」
と口の中でモグモグいう。
なんとかして本音を吐かせようと、なおいろいろ話しかけてみたが、雪子はだまり勝ちで少しも要領を得ない。絶えずうつむいて、眼をふせて、口をきく時も、殿村を正視せず、まるで畳と話をしているようなあんばいだ。
結局、殿村は、この雪子の執拗な沈黙をどうすることもできず、一と先ずその家を辞去することにしたが、いとまを告げて、階段を降りかけても、雪子は座敷に坐って頭を下げているばかりで、下へ送ってこようともせぬ。
玄関の土間に降りると、それでも、例のお婆さんが見送りに出てきたので、殿村は、念のために、その耳に口を寄せて、
「きょうから三日前、つまりさきおとといですね。絹川さんのところへ男のお客さんはなかったですか、ちょうどわたしくらいの年配の」
と尋ねてみた。二階の雪子に気兼をしながら、二、三度繰り返すと、やっと、
「さあ、どうでございましたかね」
という返事だ。だんだん聞いてみると、このうちはお婆さん独り暮らしで、二階を雪子に貸しているのだが、からだが不自由なため、いちいち取次ぎなどはせず、雪子のお客さまは、勝手に階段を上がって行くし、夜なども、客がおそく帰る時は、雪子が表の戸締まりをすることになっているらしい。つまり、二階と下とがまったく別々のアパートみたいなもので、たとえあの日幸吉が雪子を訪ねたとしても、このお婆さんは、それを知らないでいたかもわからぬのだ。
殿村はひどく失望してその家を出た。そして、考え込みながら、足元を見つめて歩いていると、
「やあ、あなたもここでしたか」
突然声をかけたものがある。
びっくりして見上げると、S村の小学校の取調べ室で知り合った、N警察の警官だ。まずいやつに出くわしたと思ったが、嘘をいうわけにもいかぬので、雪子を訪問したことを告げると、
「じゃあ、うちにいるんですね。そいつはいいぐあいだ。実はあの女を取調べることになって、今呼び出しに行くところです。急ぎますから失敬します」
警官は言い捨てて、五、六間向こうに見えている雪子の下宿へ走って行った。
殿村は、なぜかそのまま立ち去る気にはなれず、そこにたたずんで、警官の姿が格子戸の中へ消えるのを見送っていた。
警官に引き連れられた雪子が、どんな顔をして出てくるかと、ちょっと好奇心を起こして待っていると、やがて、再び格子戸のあく音がして、警官が出てきたが、雪子の姿は見えぬ。そればかりか、警官は殿村がまだそこに立っているのを見つけると、怒ったような声で、
「困りますね、でたらめをおっしゃっては。絹川雪子はいないじゃありませんか」
と言った。
「え、いないって?」殿村は面喰らって「そ、そんなはずはありませんよ。いま僕が逢ってきたばかりですからね。僕がたった五、六間歩くあいだに、外出できっこはありませんよ。ほんとうにいないのですか」
と信じられぬ様子だ。
「ほんとうにいないのです。婆さんに尋ねても不得要領なので、二階へ上がってみたんですが、猫の子一匹いやしない。じゃあ、裏口からでも外出したのかもしれませんね」
「さあ、裏口といって、裏は駅の構内になっているのだが……ともかく僕も引き返して調べてみましょう。いないはずはないのだがなあ」
そこで、二人はもう一度その家の格子戸をあけて、婆さんに尋ねたり、家探しをしたりしたが、結局、絹川雪子は煙のように消え失せてしまったことが確かめられたばかりであった。
さいぜん警官がはいって行った時、婆さんは殿村を送り出して、まだ玄関の、しかも階段の降り口に立っていたのだから、いくら眼や耳のうとい老人でも、雪子がその階段を降りてくるのを気づかぬはずはなかった。
なお念のために、履物を調べさせてみたけれど、雪子のはもちろん、婆さんの履物も、一足もなくなっていないことがわかった。
雪子が外出しなかったことは、もはや疑う余地がないのだ。ではもう一度二階を調べてみようと、梯子段を上がり、押入れの中や、天井裏まで覗いてみたが、やっぱり人のけはいはない。
「この窓から、屋根伝いに逃げたんじゃないかな」
警官が窓のそとを眺めながら口走った。
「逃げたって? 何かあの人が逃げ出す理由でもあるのですか」
殿村がびっくりしたように聞き返した。
「もしあの女が、共犯者であったとすれば、僕の声を聞いて逃げ出さぬとも限りませんよ。しかし、それにしても……」
警官はその辺の屋根を眺めまわして、
「この屋根じゃ、どうも逃げられそうもないな。それに、すぐ下の線路に、多勢工夫がいるんだし」
いかにも窓の下は、すぐ駅の構内になっていて、何本も汽車のレールが並び、その一本は、修繕中とみえて、四五人の工夫が鶴嘴を揃えて仕事をしている。
「オーイ、今この窓から、線路へ飛び降りたものはないかあ」
警官が大声に、工夫たちに尋ねた。
工夫たちは驚いて窓を見上げたが、むろん雪子がそんな人眼につく場所へ飛び降りるはずはなく、彼らは何も見なかったと答えた。又、雪子が屋根伝いに逃げたとすれば、工夫たちが気づかぬわけはないから、これも不可能なことだ。
つまり、あのお化けのように白粉を塗った、妖怪じみた娘は、気体となって蒸発したとでも考えるほかには、解釈のしようがないのであった。
殿村は狐につままれたような、夢でも見ているような、なんともいえぬ変てこな気持になって、空ろな眼で窓のそとを眺めていた。
頭の中に無数の微生物が、モヤモヤと入り乱れて、そのあいだを、胸に短刀を刺された藁人形や、壁のように白い雪子の顔や、赤はげになった顔の中から、まん丸に飛び出していた鶴子の眼の玉などが、スーッスーッと現われては消えて行った。
そして、頭の中が闇夜のように、あやめも分かぬ暗さになった。その暗い中から、徐々に、異様な物の影が浮き上がってきた。なんだろう。棒のようなものだ。鈍い光をはなっている棒のようなものだ。それが二本並行にならんでいる。
殿村はその棒のようなものの正体を掴もうとして、悶え苦しんだ。
すると、突然、パッと、頭の中が真昼のように明かるくなった。謎が解けたのだ。まるで奇蹟みたいに、すべての謎が解けたのだ。
「高原療養所だ。ああ、わかったぞ。君、犯人のありかがわかりましたよ。国枝君はまだこちらにいますか。警察ですか」
殿村が気違いのように、叫び出したので、警官は面喰らいながらも、国枝検事がちょうど今警察署にきている旨を答えた。
「よろしい。じゃあ君はすぐ帰って、国枝君に僕が行くまで待っているように伝えてください。殺人事件の犯人を引き渡すからといってね」
「え、犯人ですって。犯人は大宅幸吉じゃありませんか。あなたは何をばかなことをおっしゃるのです」
警官が仰天して叫んだ。
「いや、そうじゃないのです。犯人はほかにあることが、今やっとわかったのです。想像もできない邪悪です。ああ、恐ろしいことだ。ともかく、国枝君にそう伝えてください。僕がすぐあとから行って説明します」
殿村が気違いのように、繰り返し繰り返し頼むので、事情はわからぬながら、煙にまかれてしまって、警官はアタフタと署に帰って行った。国枝検事の親友である殿村の言葉を、無下にはねつけるわけにもいかなかったのだ。
途中で警官に別れると、殿村はいきなり駅にかけつけ、駅員をとらえて、奇妙なことを尋ねた。
「きょう午前九時発の上り貨物列車には、材木を積んでいましたか」
駅員は、びっくりして、ジロジロ殿村の顔を眺めていたが、なんと思ったのか、親切に答えてくれた。
「積んでました。材木を積んだ無蓋貨車が、確か三台あったはずです」
「で、その貨物列車は、次のU駅には停車することになっているのですか」
Uというのは、S村とは反対の方角にある、N市の次の駅なのだ。
「ええ、停車します。Uではいくらか積み卸しがあったはずです」
それだけ聞き取ると、殿村は駅を走り出して、駅前の自動電話に飛び込み、U町の郊外にある、有名な高原療養所を呼び出して、何か入院患者のことをしきりと尋ねていたが、これも満足な答えが得られたとみえ、通話が終ると、そのまま、勢い込んで警察署へと駈けつけた。
国枝氏は署長室にただ一人、ぽつねんと腰かけていたが、突然殿村が取次ぎもなく飛び込んできたので、あっけにとられて立ち上がった。
「殿村君、君の酔狂にも困るね。お上のことはお上に任せておきたまえ。小説家の|俄《にわか》刑事なんかが成功するはずはないのだから」
国枝氏は苦りきって、きめつけた。
「いや、俄刑事であろうとなんであろうと、この歴然たる事実を知りながら、だまっているのは、むしろ罪悪だ。僕は真犯人を発見したのだ。大宅君は無罪だ」
殿村は昂奮のあまり、場所がらをもわきまえず絶叫した。
「静かにしてくれたまえ。お互いは気心を知り合った友だちだからいいけれど、警察の連中にこんなところを見られては、少しぐあいがわるいのだから」
国枝氏は困りきって、気違いのような殿村をながめながら、
「で、その真犯人というのは、いったい何者だね」
と尋ねた。
「いや、それは君自身の眼で見てくれたまえ。U町まで行けばいいのだ。犯人は高原療養所の入院患者なんだ」
殿村の言い草はますます突飛である。
「病人なのかい」
国枝氏はびっくりして聞き返した。
「ウン、まあ病人なんだ。本人は仮病を使っているつもりだろうが、その実救いがたい精神病者なのだ。気違いなのだ。そうでなくて、こんな恐ろしい殺人罪が考え出せるものか。探偵小説家の僕が、これほど驚いているのでもわかるだろう」
「僕には何がなんだかサッパリわからないが……」
国枝氏は、殿村こそ気が違ったのではないかと、心配になり出した。
「わからないはずだ。どこの国の警察記録にも前例のない事件だよ。いいかい。君たちは実に飛んでもない思い違いをしているのだ。もしこのまま審理をつづけて行ったら、君は職務上実に取り返しのつかぬ失策を仕出かすのだよ。だまされたと思って、僕と一緒に高原療養所へ行ってみないか。信用できなかったら、検事としてでなく、一個人として行けばいい。たとえ僕の推理が間違っていたところで、ホンの二時間ほど浪費すればすむのだ」
押し問答をつづけた末、結局、国枝氏は旧友の熱誠にほだされ、いわば気違いのお守りをする気で、療養所へ同行することになった。むろん警察の人々にはそれといわず、ちょっと私用で出掛けるていにして、自動車の用意を頼んだ。
真犯人
高原療養所へは、国道を飛ばして、四十分ほどの道のりだ。雪子のうちを家探しして一時間以上つぶしたのと、国枝検事を説きつけるために手間どったので、彼らが療養所へ着いたのは、もうお|午《ひる》過ぎであった。
療養所は駅の少し手前、美しい丘の中腹に、絵のようにひろがっている白堊の建物だ。車を門内に入れて、受付に来意をつげると、すぐさま院長室に通された。
院長の児玉博士は、専門の医学のほかに、文学にも堪能で、殿村などとも知り合いであったから、さいぜん殿村からの電話を聞いて、彼らのくるのを待ち受けていたほどである。
「さっき電話でお尋ねの人相の婦人は、北川鳥子という名で入院してますよ。お言葉によってそれとなく見張りをつけておきました」
挨拶がすむと院長が言った。
「あの女がここへやってきたのは、|何《なん》|時《じ》頃でしょうか」
殿村が尋ねる。
「そうです。けさ九時半頃でしたか」
「で、病状はどんなふうなのですか」
「まあ、神経衰弱でしょうね。何かショックを受けて、ひどく昂奮しているようです。別に入院しなければならないほどの症状ではありませんが、御承知のとおり、ここは病院というよりは一種の温泉宿なんですから、本人の希望次第で入院を許すことになっているのです……あの人が何か悪いことでもしたのですか」
院長はまだ何も知らぬのだ。
「殺人犯人なのです」
殿村が声を低めて言いはなった。
「え、殺人犯人ですって?」
「そうです。御承知のS村の殺人事件の下手人です」
院長は非常な驚きにうたれ、あわただしく医員を呼んで、北川鳥子の病室へ案内させてくれた。
国枝氏も殿村も、その病室のドアをひらく時には、さすがに心臓のただならぬ鼓動を感じないではいられなかった。
思いきって、サッとドアを引くと、入口の真正面に、絹川雪子が脅えた眼を、はりさけんばかりに見ひらいて、突っ立っていた。北川鳥子とは、ほかならぬ絹川雪子であった。いや、少なくとも絹川雪子と称する女であった。
彼女はけさ逢ったばかりの殿村を忘れるはずはない。そのうしろに立っている国枝検事は知らなかったけれど、このあわただしい闖入が好意の訪問であろうはずはない。彼女はとっさのあいだにすべてを悟ってしまった。
「アッ、いけない」
突然殿村が雪子のからだに飛びついて、その手から青い小さなガラス瓶をもぎ取った。彼女はどこで手に入れたか、万一の場合に備えて毒薬を用意していたのだ。
毒薬を奪われた娘は、最後の力尽きて、くずれるように倒れ伏し、物狂わしく泣き入った。
「国枝君、けさ絹川雪子が、部屋の中で消え失せてしまったことを聞いているだろう。あの部屋から姿を消したこの女は、すばやくも、療養所の入院患者になりすましていたのだよ」
殿村が説明した。
「だが、待ちたまえ。それは少しおかしいぜ」
国枝氏は何か腑に落ちぬらしく、絶え入らんばかりに泣き入っている女を見おろしながら、
「絹川雪子は犯罪の行なわれた日は一度も外出しなかったはずだ。それに、被害者の山北鶴子は、雪子にとって恋の敵でもなんでもない。大宅は完全に雪子のものだったのだからね。その雪子が何を好んで、命がけの殺人罪などを企てたのだろう。どうもおかしいぜ。この女は神経衰弱のあまり、変な幻想を起こしているのではないかしら」
と妙な顔をする。
「さあ、そこだよ。そこに非常な錯誤があるのだ。犯人のずば抜けたトリックがあるのだ。君は犯人を大宅幸吉ときめてかかっている。それが間違いだ。君は被害者を山北鶴子ときめてかかっている。そこに重大な錯誤があるのだ。被害者も犯人も、君たちには少しもわかっていないのだ」
殿村が奇怪千万なことを言い出した。
「え、え、なんだって?」
国枝氏は飛び上がらんばかりに驚いて叫んだ。
「被害者が山北鶴子ではないって? じゃいったい誰が殺されたのだ」
「あの死骸は犬に食い荒される以前、おそらく顔面をめちゃめちゃに傷つけてあったに違いない。そうして人相をわからなくした死骸に、鶴子の着物や装身具をつけて、あすこへ捨てておいたのだ」
「だが君、それじゃあ鶴子の行方不明をどう解釈すればいいのだ。田舎娘が親に無断で三日も四日も帰らないなんて、常識では考えられないことだ」
「鶴子さんは絶対に家に帰るわけにはゆかなかったのだ。僕はね、大宅君から聞いているのだが、鶴子さんは非常な探偵小説好きで、英米の犯罪学の書物まで集めていたそうだ。僕の小説なんかも残らず読んでいたそうだ。あの人は君が考えているような、単純な田舎娘ではないのだよ」
殿村は必要以上に高い声で物を言った。国枝氏ではない誰かもっと別の人に話しかけてでもいるように。
国枝氏はますます面喰らって、
「なんだか、君は鶴子さんを非難しているように聞こえるが」
と反問した。
「非難だって? 非難どころか、あいつは人殺しなんだ。極悪非道の殺人鬼なんだ」
「え、え、すると……」
「そうだよ。山北鶴子は君が信じているように被害者ではなくて加害者なんだ。殺されたのではなくて殺したのだ」
「誰を、誰を」
国枝検事は、殿村の興奮につり込まれて、あわただしく尋ねた。
「絹川雪子をさ」
「オイオイ、殿村君、君は何を言っているのだ。絹川雪子は、現に僕らの目の前に泣き伏しているじゃないか。だが、ああ、それとも、もしや君は……」
「ハハハハハ、わかったかい。ここにいるのは絹川雪子の仮面をかぶった山北鶴子その人なんだ。鶴子は大宅君を熱愛していた。両親を責めて結婚をせき立てたのも鶴子だ。この人が大宅君の心を占めている絹川雪子の存在を、どんなに呪ったか、また自分からそむき去った大宅君をどれほど恨んだか。想像に難くはない。そこでその二人に対して恐ろしい復讐を思い立ったのだ。恋の|敵《かたき》の雪子を殺し、その死骸に自分の着物を着せて、大宅君に殺人の嫌疑がかかるように仕組んだのだ。一人は殺し、一人には殺人犯人として恐ろしい刑罰を与える。実に完全な復讐ではないか。しかもその手段の複雑巧妙をきわめていたこと、さすがは探偵小説や犯罪学の研究家だよ」
殿村はそこで、泣き伏している鶴子に近づき、その肩に手を当てて話しかけた。
「鶴子さん、聞いていたでしょうね。僕の言ったことに何か間違いがありますか。ありますまい。僕は探偵小説家です。君のすばらしい思いつきがよくわかりますよ。けさ絹川雪子の部屋で逢った時は、君の巧みな変装にだまされて、つい気がつかなんだけれど、君と別れてから、僕はハッと思い出したのです。S村でたった一度話をしたことのある山北鶴子の面影を、その不恰好な洋髪や、厚化粧の白粉の下から、ハッキリ思い浮かべることができたのです」
鶴子はもはや観念したものか、泣きじゃくりをしながら、殿村の言葉をじっと聞いている。その様子が、殿村の推察が少しも間違っていないことを、肯定しているように見えた。
「すると、鶴子は絹川雪子を殺しておいて、その殺した女に化けていたのだね」
国枝氏が驚愕の表情をおし殺すようにして口をはさんだ。
「そうだよ。そうする必要があったのだ」殿村がすぐ引き取って答える。「せっかく雪子の死骸の顔を傷つけて鶴子と見せかけても、当の雪子が行方不明になったのでは、疑いを受ける元だ。そればかりではなく、鶴子が殺されたていを装うためには、鶴子こそ行方をくらまさなければならぬ。そこで鶴子が一時雪子に化けてしまえば、この二つの難題を同時に解決することができるじゃないか。その上、雪子に化けて、大宅君のアリバイを否定し、いや応なしに罪に陥してしまう必要もあったのだからね。実にすばらしい思いつきだよ」
なるほど、なるほど、雪子が恋人である大宅のアリバイを否定するのは変だと思ったが、それで辻褄が合うわけだ。
「それにはね」殿村が説明をつづける。「あの雪子の下宿というものが、実にお誂え向きにできていた。下には眼も耳もうといお婆さんがたった一人だ。外出さえしなければ化けの皮がはげる気遣いはない。又、たとえ人違いを看破するものがあったところで、まさか彼女が惨殺されたはずの山北鶴子だなどと誰が思うものか。広いN市に鶴子を知っている人は、ほんの数えるほどしかないはずだもの。
つまり、この女は、わが身を一生日蔭者にし、親子の縁をきってまでも、恋の恨みをはらしたかったのだ。むろん永久に絹川雪子に化けていることはできない。大宅君の罪が決定するのを見定めてから、どこか遠国へ身を隠すつもりであったに違いない。ああ、なんという深い恨みだろう。恋は恐ろしいね。このうら若い娘を気違いにしたのだ。いや鬼にしたのだ。嫉妬に燃える一匹の鬼にしたのだ。この犯罪は決して人間の仕業ではない。地獄の底から這い出してきた悪鬼の所業だ」
なんとののしられても、哀れな鶴子は、俯伏したまま石のように動かなかった。あまりの打撃に思考力を失い、あらゆる神経が麻痺して、身動きをする力もないかと見えた。
国枝氏は、小説家の妄想が、ピシピシと的中して行くのを、非常な驚きをもって、むしろ空恐ろしくさえ感じながら聞いていたが、しかし、まだまだ腑に落ちぬ点がいろいろあった。
「殿村君、すると大宅幸吉は別に嘘を言う必要もなく、又言ってもいなかったことになるが、思い出してみたまえ、大宅は犯罪の当夜おそくまで絹川雪子のところにいたと主張している。つまり雪子はその夜少なくとも十一時前後まではN市にいたはずだね。ところがその雪子が、同じ晩に遠く離れたS村で殺されていたというのは、少し辻褄が合わぬじゃないか。たとえ自動車が雇えたとしても、そんなに遅く若い女が一里半もある山奥へ出かけてゆくというのは、実に変だ。それにいくらか耄碌した婆さんだといって、雪子がそんな夜ふけに外出するのだったら、一とことくらい断わって行くだろうし、それを忘れてしまうはずもなかろうじゃないか。ところが、婆さんは、あの夜雪子は決して外出しなかったと証言しているのだぜ」
さすがに国枝氏は急所を突く。
「さあ、そこだよ。僕がどこの国の警察記録にも前例がないというのはその点だよ」
殿村はこの質問を待ちかまえていたように、勢いこんでしゃべりはじめた。
「実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せないような、驚くべき方法なんだ。このあいだ僕は仁兵衛爺さんが拾っておいた藁人形に関して、君の注意をうながしておいたはずだね。ほら、あの短刀で胸を刺されていたやつさ。あれはなんだと思う。犯人がね、その突飛千万な思いつきを試験するために使用したものだよ。つまり、あの藁人形をね、貨物列車にのせておいたなら、いったいどの辺で車上から振り落とされるものだかを試験してみたのだよ」
「え、なんだって? 貨物列車だって?」
国枝氏は又しても面喰らわざるを得ないのだ。
「手っ取り早くいうとね、こういうわけなのだよ。探偵小説愛読者である犯人は、犯罪というものは、どんなに注意をしても、現場に何かしら手掛りが残ることをよく知っていたのだ。で、自分は少しも現場に近寄らず、ただ被害者の死骸だけがそこにころがっているという、一見まったく不可能なことをなしとげようと企てた。
鶴子がどうしてそんな変なことを考えついたかというとね、この女は、恋人の敏感で、いつの間にか絹川雪子の住所をかぎつけ、雪子の留守のあいだに、あの二階の部屋へ上がってさえいたのだ。ね、そうですね、鶴子さん。そして、実に驚くべき発見をしたのだ。というのは、御承知のとおり、雪子の部屋はすぐ駅の構内に面していた。窓の真下に貨物列車専用のレールが走っている。で、そこを列車が通ると、レールの地盤が高くなっているものだから、貨物の箱の屋根が窓とスレスレに、一尺と隔たぬ近さで、雪子の部屋をかすめて行く。僕はけさあの部屋を訪ねて、この眼でそれを見たのだ。しかも、構内のことだから、貨物列車は貨車のつけ替えのために、ちょうど雪子の部屋の窓のそとあたりで停車することがある。鶴子さん、君はあれを見たのですね。そして今度の恐ろしい犯罪を決行する気になったのですね」
殿村は時々、泣き伏している鶴子に話しかけながら、複雑な説明をつづけて行った。
「そこで、この人は、やっぱり雪子の留守をうかがい、例の藁人形を持ち込んで、ちょうど窓の下に停車している有蓋貨車の屋根の上へ、その人形をソッとのせたのだ。括りもどうもしないのだから、汽車の動揺で、人形はどっかへ振り落とされるにきまっている。それがどの辺だか、大体の見当をつけようとしたわけだ。
長い貨物列車のことだから、それにS村のトンネルまでは道が上りになっているから、速力は非常にのろい。人形はなかなか落ちないのだ。そして、例のトンネルの近くまで進むと、勾配が終って少しスピードが出る。ちょうどその時、俗に大曲がりと称する急カーブにさしかかるのだ。列車がひどく動揺する。自然人形はそこで振り落とされることになる。
好都合にも、人形の落ちた所が、S村のはずれの淋しい場所と知ると、犯人はいよいよ殺人の決心を固めた。そして、大宅君が雪子を訪問する日を待ち構えていて、彼を尾行し、彼が雪子に別れて帰るのと入れ違いに、二階の部屋へ闖入して、相手の油断を見すまし、なんなく雪子をくびり殺してしまう。それから顔をめちゃめちゃに傷つけて、着物を着替えさせ、ちゃんと時間を調べておいた夜の貨物列車が、窓のそとに停るのを待って、屋根伝いにそこへ抱きおろす、という順序なのだ。鶴子さん、その通りでしたね。
死骸は目算どおり、トンネルのそばへ振り落とされた。その上なお好都合にも、あの辺の山犬が、まったく見分けのつかぬように皮膚を食い破ってしまった。一方、犯人の鶴子は、そのまま雪子の部屋に居残って、髪の形を変え、白粉を塗り、頬には膏薬をはり、雪子の着物を着、作り声をして、まんまと雪子になりすましていたのだ。
国枝君、これは君たち実際家には、まったく考えも及ばぬ空想だ。しかし若い探偵小説狂の娘さんには決して空想ではなかった。この人は無謀千万にもそれを実行してみせたのだ。おとなにはできない芸当だよ。
それから、きょうこの人があの二階で消え失せてしまった秘密も、君には説明するまでもなかろう。やっぱり同じ方法で、今度はS村とは反対の方角へ、材木をつんだ無蓋貨車のただ乗りをやったのだよ。さあ、鶴子さん、もし僕の推察に間違った点があったら訂正をしてください。たぶん訂正する必要はないでしょうね」
殿村は語り終って、再び鶴子に近づき、その肩に手をかけて引き起こそうとした。
とその瞬間、俯伏していた鶴子のからだが、電気にでも感じたように、大きくビクッと波打ったかと思うと、
「ギャッ」というような身の毛もよだつ叫び声を発して、彼女はガバとはね起きた。はね起きて、いきなり、断末魔の気違い踊りを踊り出した。
それを一と目見ると、殿村も国枝氏も、あまりの恐ろしさに、思わずアッと声を立ててあとじさりをした。
鶴子の顔は、涙のために厚化粧の白粉が、無気味なまだらにはげ落ちて、眼は血走り、髪は逆立ちもつれ、しかも見よ、彼女の口は夜叉のように耳までさけて、かみ鳴らす歯のあいだから、ドクドクとあふれ出るまっ赤な血のり。それが唇を毒々しくいろどり、網目になって顎を伝ってポトポトとリノリウムの床へしたたり落ちているではないか。
鶴子はついに舌を噛み切ったのだ。自殺しようとして舌を噛み切ったのだ。
「オーイ、誰かきてください。大変です。舌を噛み切ったのです」
意外の結果に狼狽した殿村は、廊下に飛び出して、声を限りに人を呼んだ。
かくしてS村の殺人事件は終りをつげた。舌を噛み切った山北鶴子は、可哀そうに死にきれず、永らく療養所の厄介になっていたが、傷口は快癒しても狂気は治らず、呂律の廻らぬ口で、あらぬことをわめきながら、ゲラゲラと笑うほかには、なんの能もない気違い女となり果ててしまった。
だが、それは後のお話。その日、舌噛み切った鶴子を院長に託し、鶴子の実家へは長文の電報を打っておいて、一と先ずN市へ引き返す汽車の中で、国枝検事は、親友の殿村に、こんなことを尋ねたものだ。
「それにしても、僕にはまだ呑み込めない点があるんだがね。鶴子が無蓋貨車の材木の中に隠れて、逃げ出したのはわかっているが、その行く先が高原療養所だということを、君はどうして推察したんだね」
鶴子の自殺騒ぎで、せっかく事件を解決した楽しさを、めちゃめちゃにされた殿村は、苦がい顔をして、ぶっきら棒に答えた。
「それは午前九時発の貨物列車が、ちょうど療養所の前で操車の都合上ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木のあいだに隠れたままU駅まで行ったのでは、貨物積み卸しの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしてもU駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには療養所の前で停車した折が絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りた所には、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に屈強の隠れがなんだよ。探偵小説狂の鶴子さんがそこへ気のつかぬはずはない。僕はこんなふうに考えたんだ」
「なるほど、聞いてみると、実になんでもない事だね。しかし、そのなんでもない事が、僕や警察の人たちにはわからなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机の引出しに残しておいた、Kの署名のある呼び出し状は、むろん鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めの|浴衣《ゆ か た》の方は、ちょっと解釈がむずかしいと思うが」
「それもなんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君の留守中にも、自由に遊びにきたに違いない。そして遊びにきているあいだに、機会を見て大宅君の着古しの浴衣を盗み出すのは造作もないことだ。その浴衣に血を塗って、丸めて、犯罪の前日あたりにあの縁の下へほうり込んでおくというのも、少しもむずかしいことではない」
「なるほど、なるほど、犯罪のあとではなくて、その前にあらかじめ証拠品を作っておいたというわけだね。なるほど、なるほど。しかし、あのおびただしい血のりはどこから取ったものだろう。僕は念のためにあれを分析してもらったが、確かに人間の血なんだよ」
「それは僕も正確には答えられない。しかしあのくらいの血を取ることは、さして困難ではないのだよ。例えば一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、茶呑茶碗に一杯くらいの血は取れる。それをうまく塗りひろげたら、あの浴衣の血痕なぞ造作なくこしらえられるよ。鶴子さんの腕をしらべてみれば、その注射針のあとが、まだ残っているかもしれない。まさか他人の血を盗むわけにもいくまいから、おそらくそんなことだろうよ。この方法は探偵小説なんかにもよく使われているんだからね」
国枝氏は感じ入って、幾度もうなずいて見せた。
「僕は君にお詫びしなければならない。小説家の妄想などと軽蔑していたのは、どうも僕の間違いらしい。今度のような空想的犯罪には、僕ら実際家は、まったく手も足も出ないことがわかった。僕はこれから、実際問題についても、もっと君を尊敬することにしよう。そして、僕もきょうから探偵小説の愛読者になろう」
国枝検事は無邪気に兜を脱いだ。
「ハハハハハ、そいつは有難い。これで探偵小説愛読者が一人ふえたというものだね」
殿村も一倍の無邪気さで、朗かに笑った。
屋根裏の散歩者
1
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世が面白くないのでした。
学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですが――彼にできそうな職業は、片っ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思うようなものには、まだひとつも出くわさないのです。おそらく彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短かいのは一と月ぐらい、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもないその日その日を送っているのでした。
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種の賭博に至るまで、とてもここには書き切れないほどの、遊戯という遊戯はひとつ残らず、娯楽百科全書というような本まで買い込んで、探し廻って試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそうおっしゃるでしょうね。ところが、わが郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、むろんその欲望がないわけではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかといって、これあるがために生き甲斐を感じるというほどには、どうしても思えないのです。
「こんな面白くない世の中に生き長らえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ」
ともすれば、彼はそんなことを考えました。しかし、そんな彼にも、生命をおしむ本能だけは備わっていたとみえて、二十五歳のきょうが日まで、「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死に切れずに生き長らえているのでした。
親許から月々いくらかの仕送りを受けることのできる彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にしてしまったのかもしれません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮らすことに腐心しました。たとえば、職業や遊戯と同じように、頻繁に宿所を換えて歩くことなどもそのひとつでした。彼は、少し大げさにいえば、東京中の下宿屋を一軒残らず知っていました。一と月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。むろんそのあいだには、放浪者のように旅をして歩いたこともあります。或いはまた仙人のように山奥へ引き込んでみたこともあります。でも、都会に住みなれた彼には、とても淋しい田舎に長くいることはできません。ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会のともし火に、雑沓に、引き寄せられるように、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、そのたびごとに下宿屋を換えたことはいうまでもありません。
さて、彼が今度移ったうちは、東栄館という、新築したばかりの、まだ壁に湿り気のあるような、新らしい下宿屋でしたが、ここで彼はひとつのすばらしい楽しみを発見しました。そして、この一篇の物語は、その彼の新発見に関連したある殺人事件を主題とするのですが、お話をその方に進める前に、主人公の郷田三郎が、素人探偵の明智小五郎と知り合いになり、今までいっこう気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新らしい興味を覚えるようになったいきさつについて、少しばかりお話ししておかねばなりません。
二人が知り合いになったきっかけは、或るカフェで彼らが偶然一緒になり、その時同伴していた友だちが、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はその時、明智の聡明らしい容貌や、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかり引きつけられてしまって、それからはしばしば彼を訪ねるようになり、また時には彼の方からも三郎の下宿へ遊びにくるような仲になったのです。明智の方では、ひょっとしたら、三郎の病的な性格に(一種の研究材料として)興味を見いだしていたのかもしれませんが、三郎は明智からさまざまの魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意もなく喜んでいるのでした。
同僚を殺害して、その死体を実験室の竈で灰にしてしまおうとしたウェブスター博士の話、数カ国の言葉に通暁し、言語学上の大発見までしたユージン・エアラムの殺人罪、いわゆる保険魔で、同時にすぐれた文芸評論家であったウェーンライトの話、小児の臀肉を煎じて養父の癩病を治そうとした野口男三郎の話、さては、あまたの女を女房にしては殺して行った、いわゆるブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈しきっていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくるのでした。
明智を知ってから、二、三カ月というものは、三郎は殆んどこの世の味気なさを忘れたかに見えました。彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽るのでした。それらの書物の中には、ポーだとかホフマンだとか、或いはガボリオだとか、そのほかいろいろの探偵小説なども混じっていました。「ああ、世の中には、まだこんな面白いことがあったのか」彼は書物の最終のページをとじるごとに、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、できることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公のような、目ざましい、けばけばしい遊戯をやってみたいものだと、大それたことまで考えるようになりました。
しかし、いかな三郎も、さすがに法律上の罪人になることだけは、どう考えてもいやでした。彼はまだ、両親や、兄弟、親戚知己などの悲歎や侮辱を無視してまで、楽しみに耽る勇気はないのです。それらの書物によりますと、どのような巧妙な犯罪でも、必ずどこかに破綻があって、それが犯罪発覚のいと口になり、一生涯警察の眼をのがれているということは、ごく僅かの例外を除いては、全く不可能のように見えます。彼にはただそれが恐ろしいのでした。彼の不幸は、世の中のすべての事柄に興味を感じないで、事もあろうに「犯罪」にだけ、いい知れぬ魅力を覚えたことでした。そして、いっそうの不幸は、発覚を恐れるために、その「犯罪」を行ない得ないということでした。
そこで彼は、ひと通り手に入るだけの書物を読んでしまうと、今度は「犯罪」のまね事をはじめました。まね事ですから、むろん処罰を恐れる必要はないのです。それはたとえばこんなことを。
彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草に再び興味を覚えるようになりました。おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地は、犯罪嗜好者にとっては、こよなき舞台でした。彼は、そこへ出かけては、映画館と映画館のあいだの、人ひとり漸く通れるくらいの細い暗い路地や、共同便所のうしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われるような、妙にがらんとした空き地を、好んでさ迷いました。そして、犯罪者が同類と通信するためでもあるかのように、白墨でその辺の壁に矢の印を書いて廻ったり、金持ちらしい通行人を見かけると、自分がスリにでもなった気で、どこまでもどこまでも、そのあとを尾行してみたり、妙な暗号文を書いた紙切れを――それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などを認めてあるのです――公園のベンチの板のあいだへはさんでおいて、木かげに隠れて、誰かがそれを発見するのを待ち構えていたり、そのほかこれに類したさまざまの遊戯を行なっては、独り楽しむのでした。
彼はまた、しばしば変装をして、町から町をさまよい歩きました。労働者になってみたり、乞食になってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました。そのためには、彼は着物や時計などを売りとばして金を作り、高価なかつらだとか女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって、好みの女すがたになりますと、頭の上からすっぽりと外套をかぶって、夜ふけに下宿屋の入口を出るのです。そして、適当な場所で外套をぬぐと、あるときは淋しい公園をぶらついてみたり、あるときはもうはねる時分の映画館へはいって、わざと男子席の方へ紛れ込んでみたり〔註、大正末期の映画館は男女の席がわかれていた〕はては、そこの男たちに、きわどいいたずらまでやってみるのです。そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が姐己のお百だとか、うわばみお由だとかいう毒婦にでもなった気持で、いろいろな男たちを自由自在に翻弄する有様を想像しては、喜んでいたのです。
しかし、これらの犯罪のまねごとは、或る程度まで彼の欲望を満足させてはくれましたけれども、そして、時にはちょっと面白い事件を惹き起こしなぞして、その当座は充分慰めにもなったのですけれど、まねごとはどこまでもまねごとで、危険がないだけに――「犯罪」の魅力は見方によってはその危険にこそあるのですから――興味も乏しく、そういつまでも彼を有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三カ月もたちますと、いつとなく彼はこの楽しみから遠ざかるようになりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、だんだん遠々しくなって行くのでした。
2
以上のお話によって、郷田三郎と明智小五郎との交渉、または三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んでいただいた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることにいたしましょう。
三郎が東栄館の建築ができ上がるのを待ちかねて、いの一番にそこへ引き移ったのは、彼が明智と交際を結んだ時分から、一年以上もたっていました。従ってあの「犯罪」のまねごとにも、もうほとんど興味がなくなり、といって、ほかにそれにかわるような楽しみもなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過ごしかねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友だちができたりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものはなんと退屈きわまる生きものなのでしょう。どこへ行ってみても、同じような思想を、同じような表情で、同じような言葉で、繰り返し繰り返し発表し合っているにすぎないのです。せっかく下宿屋を替えて、新らしい人たちに接してみても、一週間たつかたたないうちに、彼はまたしても、底知れぬ倦怠の中に沈みこんでしまうのでした。
そうして、東栄館に移って十日ばかりたった或る日のことです。退屈のあまり、彼はふと妙なことを考えつきました。
彼の部屋には――それは二階にあったのですが――安っぽい床の間の隣に、一|間《けん》の押入れがついていて、その内部は、鴨居と敷居とのちょうど中程に、押入れ一杯の頑丈な棚があって、上下二段にわかれているのです。彼はその下段の方に数個の行李を納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取り出して、部屋のまん中へ敷くかわりに、始終棚の上に寝台のように蒲団を重ねておいて、眠くなったらそこへ上がって寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今までの下宿屋であったら、たとえ押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井に蜘蛛の巣が張っていたりして、ちょっとその中へ寝る気にはなれなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから非常に綺麗で、天井もまっ白なれば、黄色く塗った滑らかな壁にも、しみひとつできてはいませんし、そして、全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが、なんとなく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝てみたいような誘惑を感じさえするのでした。
そこで、彼はさっそくその晩から押入れの中へ寝ることをはじめました。この下宿は、部屋ごとに内部から戸締りができるようになっていて、女中などが無断ではいってくるようなこともなく、彼は安心してこの奇行をつづけることができるのでした。さて、そこへ寝てみますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝ころんで、眼の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、ちょっと異様な味わいのあるものです。襖をピッシャリ締め切って、隙間から洩れてくる糸のような電気の光を見ていますと、なぜかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなったような気がして、愉快ですし、またそれを細目にあけて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗くような気持で、いろいろの激情的な場面を想像しながら、眺めているのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入れにはいり込んで、一間と三尺の長方形の箱のような中で、大好物の煙草をプカリプカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、しめ切った襖の隙間から、押入れの中で火事でもはじまったのではないかと思われるほど、おびただしい白煙が洩れているのでした。
ところが、この奇行を二、三日つづけているあいだに、彼はまたしても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台にも興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどをしていましたが、ふと気がつくと、ちょうど頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動くようなのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持ち上げてみますと、なんなく上の方へはずれることははずれるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所はひとつもないのに、まるでバネ仕掛けのように、もともと通りになってしまいます。どうやら、何者かが上からおさえつけているような手ごたえなのです。
はてな、ひょっとしたら、ちょうどこの天井板の上に、何か生きものが、たとえば大きな青大将か何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄かに気味がわるくなってきましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みていますと、ズッシリと重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かすたびに、その上でなんだかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。いよいよ変です。そこで彼は思い切って、力まかせにその天井板をはねのけてみました。すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちてきたのです。彼はとっさの場合、ハッと片わきへ飛びのいたからよかったものの、もしそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我をしているところでした。
「なあんだ、つまらない」
ところが、その落ちてきた物体を見ますと、何か変ったものであればよいがと、少なからず期待していた彼は、あまりのことに呆れてしまいました。それは漬物石を小さくしたような、ただの石ころにすぎないのでした。よく考えてみれば、別に不思議でもなんでもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚だけわざとはずして、そこからゴミなどが押入れにはいらぬように、石ころで重しがしてあったのです。
それはいかにも、とんだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽しみを発見することになったのです。
彼はしばらくのあいだ、自分の頭の上にひらいている、ほら穴の入口とでもいった感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持ち前の好奇心から、いったい天井裏というものは、どんなふうになっているのだろうと、おそるおそるその穴に首を入れて、四方を見まわしました。それはちょうど朝のことで、屋根の上にはもう陽が照りつけているとみえ、方々の隙間からたくさんの細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照らしてでもいるように、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明かるいのです。
先ず眼につくのは、縦に長々と横たえられた、太い、曲がりくねった、大蛇のような棟木です。明かるいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが、向こうの方は霞んで見えるほど、遠く遠く連なっているように思われます。そして、その棟木と直角にこれは大蛇の肋骨に当たるたくさんの|梁《はり》が、両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それだけでもずいぶん雄大な景色ですが、その上、天井を支えるために、梁から無数の細い棒が下がっていて、それがまるで鍾乳洞の内部を見るような感じを起こさせます。
「これはすてきだ」
一応屋根裏を見まわしてから、三郎は思わずそうつぶやくのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見えるような、こうしたことに、かえって言い知れぬ魅力をおぼえるのです。
その日から、彼の「屋根裏の散歩」がはじまりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥棒猫のように足音を盗んで、棟木や梁の下を伝い歩くのです。幸いなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物のクモの巣もなければ、煤やホコリもまだ少しも溜まっていず、鼠の汚したあとさえありません。ですから、着物や手足の汚なくなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁しました。時候もちょうど春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。
3
東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央に庭を囲んで、そのまわりに、桝型に、部屋が並んでいるような作り方でしたから、したがって、屋根裏もずっとその形につづいていて、行き止まりというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッとひと廻りしますと、また元の彼の部屋の上まで帰ってくるようになっています。
下の部屋部屋には、さも厳重に壁の仕切りができていて、その出入口には締まりをするための金具まで取りつけてあるのに、一度天井裏に上がってみますと、これはまたなんという開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。もしその気があれば、三郎の部屋のと同じような、石ころの重しのしてある箇所が方々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍びこんで、盗みを働くこともできます。廊下を通って、それをするのは、今もいうように、桝型の建物の各方面に人眼があるばかりでなく、いつなん時ほかの下宿人や女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
それからまた、ここでは他人の秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築とはいっても、下宿屋の安普請のことですから、天井には到る所に隙間があります――部屋の中にいては気がつきませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に多いのに一驚を喫します――稀には、節穴さえもあるのです。
この屋根裏という屈強の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつの間にか忘れてしまっていた、あの犯罪嗜好癖がまたムラムラと湧き上がってくるのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い「犯罪のまね事」ができるに違いない。そう思うと、彼はもう嬉しくてたまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今まで気づかないでいたのでしょう。魔物のように暗闇の世界を歩き廻って、二十人近い東栄館の二階じゅうの下宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのことだけでも、三郎はもう充分愉快なのです。そして、久かたぶりで、生き甲斐を感じさえするのです。
彼はまた、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも、興深くするために、先ず、身支度からして、さも本ものの犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下――なろうことなら、昔映画で見た、女賊プロテアのように、まっ黒なシャツを着たかったのですけれど、あいにくそんな物は持ち合わせていないので、まあ我慢することにして……足袋をはき手袋をはめ――天井裏は、皆荒削りの木材ばかりで、指紋の残る心配などはほとんどないのですが――そして、手にはピストルが……欲しくても、それがないので、懐中電燈を持つことにしました。
夜ふけなど、昼とは違って、洩れてくる光線の量がごく僅かなので、一|寸《すん》先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てないように注意しながら、その姿で、ソロリソロリと天井裏を這っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなったような気がして、われながら妙に恐ろしくなってきます。でも、その恐ろしさが、なんの因果か、彼にはゾクゾクするほど嬉しいのです。
こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」をつづけました。そのあいだには、予期にたがわず、いろいろと彼を喜ばせるような出来事があって、それをしるすだけでも、充分一篇の小説ができ上がるほどですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら端折って、ごく簡単に二、三の例をお話しするにとどめましょう。
天井からの隙見というものが、どれほど異様に興味のあるものだかは、実際やってみた人でなければおそらく想像もできますまい。たとえ、その下に別段の事件が起こっていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察するだけで、充分面白いのです。よく注意してみますと、ある人々は、そのそばに他人のいる時と、ひとり切りの時とでは、立居ふるまいはもちろん、その顔の相好までが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見おろすのですから、この、眼の角度の相違によって、あたり前の座敷が、ずいぶん異様な景色に感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥、火鉢などは、その上方の面だけが主として眼に映ります。そして、壁というものは、ほとんど見えなくて、そのかわりに、すべての品物のバックには、畳が一杯にひろがっているのです。
何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々にして、滑稽な、悲惨な、或いは物凄い光景が展開されています。ふだん過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰ったばかりの昇給の辞令を、折鞄から出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かずに打ち眺めて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召の着物を不断着にして、はかない豪奢ぶりを示している或る相場師が、いざ床につく時には、その、昼間はさも無造作に着こなしていた着物を、女のように、丁寧に畳んで、蒲団の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で舐めて――お召などの小さな汚れは、口で舐めとるのがいちばんいいのだといいます――一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビづらの青年が、運動家にも似合わない臆病さをもって、女中への付け文を、食べてしまった夕飯のお膳の上へ、のせてみたり、思い返して引っ込めてみたり、またのせてみたり、モジモジと同じことを繰り返している光景。中には、大胆にも、淫売婦(?)を引き入れて、茲に書くことを憚るような、すさまじい狂態を演じている光景さえも、たれ憚らず、見たいだけ見ることができるのです。
三郎はまた、下宿人と下宿人との、感情の葛藤を研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、さまざまに態度をかえて行く有様、今の先まで、|笑《え》|顔《がお》で話し合っていた相手を、隣の部屋へきては、まるで不倶戴天の仇ででもあるように罵っている者もあれば、コウモリのように、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを言って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の下宿人――東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです――になるといっそう興味があります。「三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取るように見えるばかりか、競争者たちの誰も知らない本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」にだけ、ハッキリとわかるではありませんか。おとぎ話に隠れ蓑というものがありますが、天井裏の三郎は、いわばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。
もしもその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、いろいろないたずらをやることができたら、いっそう面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三室に一カ所くらいの割合で、三郎の部屋のと同様に、石ころで重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋のぬしが帰ってくるかしれませんし、そうでなくとも、窓はみな透明なガラス障子になっていますから、そとから見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ降り、襖をあけて部屋にはいり、また押入れの棚へよじのぼって、元の屋根裏へ帰る、そのあいだには、どうかして物音を立てないとも限りません。それを廊下や隣室から気づかれたら、もうおしまいなのです。
さて、或る夜ふけのことでした。三郎は、一巡「散歩」をすませて、自分の部屋へ帰るために、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、ちょうど向かい側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、かすかな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈をともして、調べてみますと、それは可なり大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、その半分で、やっとつながり、あやうく節穴になるのをまぬがれたものでした。ちょっと爪でこじさえすれば、なんなく離れてしまいそうなのです。そこで、三郎はほかの隙間から下を見て、部屋のあるじがすでに寝ていることを確かめた上、音のしないように注意しながら、長いあいだかかって、とうとうそれをはがしてしまいました。都合のいいことには、はがしたあとの節穴が杯形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえおけば、下へ落ちるようなことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気づかれずにすむのです。
これはうまいぐあいだと思いながら、その節穴から下を覗いてみますと、ほかの隙間のように、縦には長くても、幅はせいぜい一分内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が楽々と見渡せます。そこで、三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎のいちばん虫の好かぬ、遠藤という歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりしたむしずの走るような顔を、いっそうのっぺりさせて、すぐ眼の下に寝ているのでした。
ばかに几帳面な男と見えて、部屋の中は、ほかのどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓しています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許に置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の眼覚し時計、漆器の巻煙草入れ、色硝子の灰皿、いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗好きな人物であることがわかります。また遠藤自身の寝姿も実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口をあいて、雷のような鼾をかいていることでした。
三郎は、何か汚ないものでも見るように眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。なるほど彼自身で吹聴する通り、女などには好かれる顔かもしれません。しかし、なんという間伸びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には変に狭い富士額、短かい眉、細い眼、始終笑っているような目尻の皺、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段をなして、上顎と下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照をなして、大きな紫色の唇がひらいています。そして、肥厚性鼻炎ででもあるのか、始終鼻を詰まらせ、その大きな口をポカンとあけて呼吸をしているのです。鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。
三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、なんだかこう背中がムズムズしてきて、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴りつけてやりたいような気持になるのでした。
4
そうして、遠藤の寝顔を見ているうちに、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾をはけば、ちょうど遠藤の大きくひらいた口の中へ、うまくはいりはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂えでもしたように、節穴の真下の所にあったのです。三郎は物好きにも、腿引の下にはいていた、猿股の紐を抜き出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片眼を紐にくっつけて、ちょうど銃の照準でも定めるように、ためしてみますと、不思議な偶然です。紐と、節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに違いないことがわかったのです。
しかし、まさかほんとうに唾を吐きかけるわけにもいきませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋めておいて、立ち去ろうとしましたが、その時、不意にチラリと、或る恐ろしい考えが彼の頭に閃めきました。彼は思わず、屋根裏のくら闇の中で、まっ青になってブルブルと震えました。それは実に、なんの恨みもない遠藤を殺害するという考えだったのです。
彼は遠藤に対してなんの恨みもないばかりか、まだ知合いになってから半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引っ越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二、三度部屋を訪ね合ったばかりで、別に深い交渉があるわけではないのです。では、なぜその遠藤を殺そうなどと考えたかといいますと、今もいうように、彼の容貌や言動が殴りつけたいほど虫が好かぬということも、多少手伝っていましたけれど、三郎のこの考えの主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。さっきからお話ししてきた通り、三郎の精神状態は、非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持っていて、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起こるのも決して偶然ではないのです。ただ、今までは、たとえしばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりです。
ところが、今の遠藤の場合は、全然疑いを受けないで、発覚のおそれなしに、殺人が行なわれそうに思われます。わが身に危険さえなければ、たとえ相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮するのではありません。むしろ、その殺人行為が残虐であればあるほど、彼の異常な欲望は、いっそう満足させられるのでした。それでは、なぜ遠藤に限って殺人罪が発覚しないか――少なくとも三郎がそう信じていたか――と言いますと、それには次のような事情があったのです。
東栄館へ引っ越して四、五日たった時分でした。三郎は懇意になったばかりの、或る同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時、同じカフェに遠藤も来ていて、三人がひとつテーブルに寄って酒を――もっとも酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど――飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連れ立って下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来てください」と無理に二人を彼の部屋へ引っぱり込みました。遠藤は独りではしゃいで、夜がふけているのも構わず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持ち越しののろけ話を繰り返すのでした――三郎が彼を嫌い出したのはその晩からです――その時、遠藤は、まっ赤に充血した唇をペロペロと舐め廻しながら、さも得意らしくこんなことを言うのでした。
「その女とですね、僕は一度情死をしかけたことがあるのですよ。まだ学校にいたころですが、ホラ、僕のは医学校でしょう。薬を手に入れるのはわけないんです。で、二人が楽に死ねるだけのモルヒネを用意して、聞いてください、塩原へ出かけたもんです」
そう言いながら、彼はフラフラと立ち上がって、押入れの前へ行き、ガタガタ襖をあけると、中に積んであった行李の底から、ごく小さい、小指の先ほどの、茶色の瓶を探してきて、聴き手の方へさし出すのでした。瓶の中には、底の方にホンのぽっちり、何か白いものがはいっていました。
「これですよ。これっぽっちで、充分二人の人間が死ねるのですからね……しかし、あなた方、こんなことをしゃべっちゃいやですよ、ほかの人に」
そして、彼ののろけ話は、さらに長々と、止めどもなくつづいたことですが、三郎は今、その時の毒薬のことを、計らずも思い出したのです。
「天井の節穴から、毒薬を垂らして、人殺しをする! まあなんという奇想天外な、すばらしい犯罪だろう」
彼は、この妙案に、すっかり有頂天になってしまいました。よく考えてみれば、その方法は、いかにもドラマティックなだけ、可能性に乏しいものだということがわかるのですが、そしてまた、何もこんな手数のかかることをしないでも、ほかにいくらも簡便な殺人法があったはずですが、異常な思いつきに眩惑させられた彼は、何を考える余裕もないのでした。そして、彼の頭には、ただもう計画についての都合のいい理窟ばかりが、次から次へと浮かんでくるのです。
先ず薬を盗み出す必要がありました。が、それはわけのないことです。遠藤の部屋を訪ねて話し込んでいれば、そのうちには、便所へ立つとかなんとか、彼が席をはずすこともあるでしょう。そのすきに、見覚えのある行李から、茶色の小瓶を取り出しさえすればいいのです。遠藤は、始終その行李の底を調べているわけではないのですから、二日や三日で気のつくこともありますまい。たとえまた、気づかれたところで、その毒薬の入手径路が、すでに違法なのですから、表沙汰になるはずもなく、それに、上手にやりさえすれば、誰が盗んだのかもわかりはしません。
そんなことをしないでも、天井から忍び込む方が楽ではないでしょうか。いやいや、それは危険です。先にもいうように、部屋のぬしがいつ帰ってくるかしれませんし、ガラス障子のそとから見られる心配もあります。第一、遠藤の部屋の天井には、三郎の室のように、石ころで重しをした、あの抜け道がないのです。どうしてどうして、釘づけになっている天井板をはがして忍び入るなんて危険なことができるものですか。
さて、こうして手に入れたこな薬を、水に溶かして、鼻の病気のために始終ひらきっぱなしの遠藤の大きな口へ垂らし込めば、それでいいのです。ただ心配なのは、うまく呑み込んでくれるかどうかという点ですが、なに、それも大丈夫です。なぜといって、薬がごく少量で、溶き方を濃くしておけば、ほんの数滴で足りるのですから、熟睡している時なら、気もつかないくらいでしょう。また、気がついたにしてもおそらく吐き出す暇なんかありますまい。それから、モルヒネが苦い薬だということも、三郎はよく知っていましたが、たとえ苦くとも分量が僅かですし、なおその上に砂糖でも混ぜておけば、万々失敗する気遣いはありません。誰にしても、まさか天井から毒薬が降ってこようなどとは想像もしないでしょうから、遠藤がとっさの場合、そこへ気のつくはずはないのです。
しかし、薬がうまく利くかどうか、遠藤の体質に対して、多すぎるか或いは少なすぎるかして、ただ苦悶するだけで死に切らないというようなことはあるまいか。これが問題です。なるほどそんなことになれば非常に残念ではありますが、でも、三郎の身に危険を及ぼす心配はないのです。というのは、節穴は元々通り蓋をしてしまいますし、天井裏にも、そこにはまだホコリなど溜まっていないのですから、なんの痕跡も残りません。指紋は手袋で防いであります。たとえ天井から毒薬を垂らしたことがわかっても、誰の仕業だか知れるはずはありません。殊に彼と遠藤とは、昨今の交際で、恨みを含むような間柄でないことは周知の事実なのですから、彼に嫌疑のかかる道理がないのです。いや、そうまで考えなくても、熟睡中の遠藤に、薬の落ちてきた方角などが、わかるものではありません。
これが、三郎の屋根裏で、また部屋へ帰ってから、考え出した虫のいい理窟でした。読者はすでに、たとえ以上の諸点がうまく行くとしても、そのほかにひとつの重大な錯誤のあることを気づかれたことと思います。が、彼はいよいよ実行に着手するまで、不思議にも、そこへ気がつかないのでした。
5
三郎が、都合のよい折を見計らって、遠藤の部屋を訪問したのは、それから四、五日たった時分でした。むろんそのあいだには、彼はこの計画について、繰り返し繰り返し考えた上、大丈夫危険がないと見極わめをつけることができたのです。のみならず、いろいろと新らしい工夫をつけ加えもしました。たとえば、毒薬の瓶の始末についての考案もそれです。
もしうまく遠藤を殺害することができたならば、彼はその瓶を、節穴から下へ落としておくことにきめました。そうすることによって、彼は二重の利益が得られます。一方では、もし発見されれば重大な手掛りになるところのその瓶を、隠匿する世話がなくなること、他方では、死人のそばに毒物の容器が落ちていれば、誰しも遠藤が自殺したのだと考えるに違いないこと、そして、その瓶が遠藤自身の品であるということは、いつか三郎と一緒に彼ののろけ話を聞かされた男が、うまく証明してくれるに違いないのです。なお都合のよいのは、遠藤は毎晩、キチンと締まりをして寝ることでした。入口はもちろん、窓にも、中から金具で締まりがしてあるので、外部からは絶対にはいれないことでした。
さてその日、三郎は非常な忍耐力をもって、顔を見てさえむしずの走る遠藤と、長いあいだ雑談をかわしました。話のあいだに、しばしばそれとなく殺意をほのめかして、相手を怖わがらせてやりたいという、危険極まる欲望が起こってくるのを、彼はやっとのことで喰い止めました。
「近いうちに、ちっとも証拠の残らないような方法で、お前を殺してやるのだぞ。お前がそうして、女のように多弁にペチャクチャしゃべるのも、もう長いことではないのだ。今のうちにせいぜいしゃべり溜めておくがいいよ」
三郎は、相手の止めどもなく動く、大ぶりな唇を眺めながら、心の内ではそんなことを繰り返していました。この男が、間もなく、青ぶくれの死骸になってしまうのかと思うと、彼はもう愉快でたまらないのです。
そうして話し込んでいるうちに、予想した通り、遠藤が便所に立って行きました。それはもう、夜の十時頃でもあったでしょうか、三郎は抜け目なくあたりに気を配って、ガラス窓のそとなども充分調べた上、音のしないように、しかし、手早く押入れをあけて、行李の中から、例の薬瓶を探し出しました。いつか入れた場所をよく見ておいたので、探すのに骨は折れません。でも、さすがに胸がドキドキして、脇の下から冷汗が流れました。実をいうと、彼の今度の計画のうち、いちばん危険なのはこの毒薬を盗み出す仕事でした。どうしたことで遠藤が不意に帰ってくるかもしれませんし、また誰かが隙見をしていないとも限らぬのです。が、それについては、彼はこんなふうに考えていました。もし見つかったら、或いは見つからなくても、遠藤が薬瓶のなくなったことを発見したら――それはよく注意していればじきわかることです。殊に彼には天井の隙見という武器があるのですから――殺害を思いとどまりさえすればいいのです。ただ毒薬を盗んだというだけでは、大した罪にもなりませんからね。
それはともかく、結局、彼は先ず誰にも見つからずに、うまうまと薬瓶を手に入れることができたのです。そこで遠藤が便所から帰ってくると間もなく、それとなく話を切り上げて、彼は自分の部屋へ帰りました。そして、窓には隙間なくカーテンを引き、入口の戸には締まりをしておいて、机の前に坐ると、胸を躍らせながら、懐中から可愛らしい茶色の瓶を取り出して、さて、つくづくと眺めるのでした。
[#ここから2字下げ]
MORPHINE(o.×g.)
[#ここで字下げ終わり]
多分遠藤が書いたのでしょう。小さいレッテルにはこんな文字がしるしてあります。彼は以前に毒物学の書物を読んで、モルヒネのことは多少知っていましたけれど、実物にお眼にかかるのは今がはじめてでした。瓶を電燈の前に持って行って、すかしてみますと、小匙に半分もあるかなしの、ごく僅かの白いモヤモヤしたものが、綺麗に透いて見えます。いったいこんなもので、人間が死ぬのかしら、と不思議に思われるほどでした。
三郎は、むろん、それをはかるような精密な秤を持っていないので、分量の点は遠藤の言葉を信用しておくほかはありませんでしたが、あの時の遠藤の態度口調は、酒に酔っていたとはいえ、決してでたらめとは思われません。それにレッテルの数字も、三郎の知っている致死量の、ちょうど二倍なのですから、よもや間違いはありますまい。
そこで、彼は瓶を机の上に置いて、そばに用意の砂糖やアルコールの瓶を並べ、薬剤師のような綿密さで、熱心に調合をはじめるのでした。止宿人たちはもう皆寝てしまったと見えて、あたりは森閑と静まり返っています。その中で、マッチの棒に浸したアルコールを、用心深く、一滴一滴と、瓶の中へ垂らしていますと、自分自身の呼吸が、悪魔のため息のように、変に物凄く響くのです。それがまあ、どんなに三郎の変態的な嗜好を満足させたことでしょう。ともすれば、彼の眼の前に浮かんでくるのは、くら闇の洞窟の中で、ふつふつと泡立ち煮える毒薬の鍋を見つめて、ニタリニタリと笑っている、あの古い物語の恐ろしい妖婆の姿でした。
しかしながら、一方においては、その頃から、これまで少しも予期しなかった、ある恐怖に似た感情が、彼の心の片隅に湧き出していました。そして、時間のたつにしたがって、少しずつ、少しずつ、それが拡がってくるのです。
[#ここから2字下げ]
MURDER CANNOT BE HID LONG ; A MAN'S SON MAY, BUT AT THE LENGTH TRUTH WILL OUT.
[#ここで字下げ終わり]
誰かの引用で覚えていた、あのシェークスピアの無気味な文句が、眼もくらめくような光を放って、彼の脳髄に焼きつくのです。この計画には、絶対に破綻がないと、あくまで信じながらも、刻々に増大してくる不安を、彼はどうすることもできないのでした。
なんの恨みもない一人の人間を、ただ殺人の面白さのために殺してしまうとは、これが正気の沙汰か、お前は悪魔に魅入られたのか、お前は気が違ったのか。いったいお前は、自分自身の心を空恐ろしくは思わないのか。
長いあいだ、夜のふけるのも知らないで、調合してしまった毒薬の瓶を前にして、彼は物思いに耽っていました。いっそ、この計画を思いとどまることにしよう。幾度そう決心しかけたかしれません。でも、結局はどうしても、あの人殺しの魅力を断念する気にはなれないのでした。
ところが、そうして、とつおいつ考えているうちに、ハッと、ある致命的な事実が、彼の頭に閃めきました。
「ウフフフフ……」
突然、三郎は、おかしくてたまらないように、しかし、寝静まったあたりに気を兼ねながら、笑いだしたのです。
「馬鹿野郎。お前はなんとよくできた道化役者だ! 大真面目でこんな計画を目論むなんて、もうお前の麻痺した頭には、偶然と必然の区別さえつかなくなったのか。あの遠藤の大きくひらいた口が、一度、節穴の真下にあったからといって、その次にも同じようにそこにあるということが、どうしてわかるのだ。いや、むしろ、そんなことはまずあり得ないではないか」
それは実に滑稽きわまる錯誤でした。彼のこの計画は、すでにその出発点に於て、一大迷妄におちいっていたのです。しかし、それにしても、彼はどうしてこんなわかりきったことを今まで気づかずにいたのでしょう。実に不思議といわねばなりません。おそらくこれは、さも利口ぶっている彼の頭脳に、実は非常な欠陥があった証拠ではありますまいか。それはとにかく、彼はこの発見によって、一方では甚しく失望しましたけれど、同時に他の一方では、不思議な気安さを感じるのでした。
「お蔭でおれはもう、恐ろしい殺人罪を犯さなくてもすむのだ。やれやれ助かった」
そうはいうものの、その翌日からも、「屋根裏の散歩」をするたびに、彼は未練らしく例の節穴をあけて、遠藤の動静をさぐることを怠りませんでした。それはひとつは、毒薬を盗み出したことを遠藤が勘づきはしないかという心配からでもありましたけれど、しかしまた、どうかしてこのあいだのように、彼の口が節穴の真下へこないかと、その偶然を待ちこがれていなかったとはいえません。現に彼は、いつの「散歩」の場合にも、シャツのポケットからあの毒薬を離したことはないのでした。
6
ある夜のこと――それは三郎が「屋根裏の散歩」をはじめてからもう十日ほどもたっていました。十日のあいだも、少しも気づかれることなしに、毎日何回となく、屋根裏を這い廻っていた彼の苦心は、ひと通りではありません。綿密なる注意、そんなありふれた言葉では、とても言い表わせないようなものでした――三郎はまたしても遠藤の部屋の天井裏をうろついていました。そして、何かおみくじでも引くような心持で、吉か凶か、きょうこそは、ひょっとしたら吉ではないかな。どうか吉が出てくれますようにと、神に念じさえしながら、例の節穴をあけて見るのでした。
すると、ああ、彼の眼がどうかしていたのではないでしょうか。いつか見たときと寸分違わない恰好で、そこに鼾をかいている遠藤の口が、ちょうど節穴の真下へきていたではありませんか。三郎は、何度も眼をこすって見直し、また猿股の紐を抜いて、目測さえしてみましたが、もう間違いはありません。紐と穴と口とが、正しく一直線上にあるのです。彼は思わず叫び声を立てそうになるのを、やっとこらえました。遂にその時がきた喜びと、一方ではいいしれぬ恐怖と、その二つが交錯した、一種異様の興奮のために、彼は暗やみの中でまっ青になってしまいました。
彼はポケットから、毒薬の瓶を取り出すと、独りでに震え出す手先を、じっとためながら、その栓を抜き、紐で見当をつけておいて――おお、その時のなんとも形容できない心持!――ポトリ、ポトリ、ポトリと十数滴。それがやっとでした。彼はすぐさま眼を閉じてしまったのです。
「気がついたか、きっと気がついた。きっと気がついた。そして、今にも、おお、今にもどんな大声で叫び出すことだろう」
彼はもし両手があいていたら、耳をもふさぎたいほどに思いました。
ところが、彼のそれほどの気遣いにもかかわらず、下の遠藤はウンともスンとも言わないのです。毒薬が口の中へ落ちたところは確かに見たのですから、それに間違いはありません。でも、この静けさはどうしたというのでしょう。三郎は恐る恐る眼をひらいて、節穴をのぞいて見ました。すると、遠藤は口をムニャムニャさせ、両手で唇をこするような恰好をして、ちょうどそれが終ったところなのでしょう。またもやグーグー寝入ってしまうのでした。案ずるより産むがやすいとはよくいったものです。寝呆けた遠藤は、恐ろしい毒薬を飲み込んだことを少しも気づかないのでした。
三郎は、可哀そうな被害者の顔を、身動きもしないで、食い入るように見つめていました。それがどれほど長く感じられたか、事実は、二十分とはたっていないのに、彼には二、三時間もそうしていたように思われたことです。するとその時、遠藤はフッと眼をひらきました。そして、半身を起こして、さも不思議そうに部屋の中を見廻しています。目まいでもするのか、首を振ってみたり、眼をこすってみたり、うわごとのような意味のないことをブツブツとつぶやいてみたり、いろいろ気違いめいた仕草をして、それでも、やっとまた枕につきましたが、今度は盛んに寝返りを打つのです。
やがて、寝返りの力がだんだん弱くなって行き、もう身動きもしなくなったかと思うと、そのかわりに、雷のような鼾声が響きはじめました。見ると、顔の色がまるで酒にでも酔ったように、まっ赤になって、鼻の頭や額には、玉の汗がふつふつとふき出しています。熟睡している彼の身内で、今、世にも恐ろしい生死の闘争が行なわれているのかもしれません。それを思うと身の毛がよだつようです。
さて、しばらくすると、さしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙のように白くなったかと思うと、みるみる青藍色に変って行きます。そしていつの間にか鼾がやんで、どうやら、吸う息、吐く息の度数が減ってきました……ふと胸の所が動かなくなったので、いよいよ最期かと思っていますと、暫くして、思い出したように、また唇がピクピクして、鈍い呼吸が帰ってきたりします。そんなことが二、三度繰り返されて、それでおしまいでした……もう彼は動かないのです。グッタリと枕をはずした顔に、われわれの世界とはまるで別な一種のほほえみが浮かんでいます。彼はついに、いわゆる「ほとけ」になってしまったのでしょう。
息をつめ、手に汗を握って、その様子を見つめていた三郎は、はじめてホッとため息をつきました。とうとう彼は殺人者になってしまったのです。それにしても、なんという楽々とした死に方だったでしょう。彼の犠牲者は、叫び声ひとつ立てるでなく、苦悶の表情さえ浮かべないで、鼾をかきながら死んで行ったのです。
「なあんだ。人殺しなんて、こんなあっけないものか」
三郎はなんだかガッカリしてしまいました。想像の世界では、もうこの上もない魅力であった殺人ということが、やってみれば、ほかの日常茶飯事となんの変りもないのでした。このあんばいなら、まだ何人だって殺せるぞ。そんなことを考える一方では、しかし、気抜けのした彼の心を、なんともえたいの知れぬ恐ろしさが、ジワジワと襲いはじめていました。節穴から死体を見つめている自分の姿が、三郎は俄かに気味わるくなってきました。妙に首筋の辺がゾクゾクして、ふと耳をすますと、どこかで、ゆっくりゆっくり、自分の名を呼びつづけているような気さえします。思わず、節穴から眼を離して、暗やみの中を見廻しても、久しく明かるい部屋を覗いていたせいでしょう。眼の前には、大きいのや、小さいのや、黄色い環のようなものが、次々に現われては消えていきます。じっと見ていますと、その環のうしろから、遠藤の異様に大きな唇が、ヒョイと出てきそうにも思われるのです。
でも彼は、最初計画したことだけは、先ず間違いなく実行しました。節穴から薬瓶――その中にはまだ十数滴の毒液が残っていたのです――を抛り落とすこと、その跡の穴をふさぐこと、万一天井裏に何かの痕跡が残っていないか、懐中電燈を点じて調べること、そして、もうこれで手落ちがないとわかると、彼は大急ぎで梁を伝って、自分の部屋へ引っ返しました。
「いよいよこれですんだ」
頭もからだも、妙に痺れて、何かしら物忘れでもしているような不安な気持を、強いて引き立てるようにして、彼は押入れの中で着物を着はじめました。が、その時ふと気がついたのは、例の目測に使用した猿股の紐を、どうしたかということです。ひょっとしたら、あすこへ忘れてきたのではあるまいか。そう思うと、彼はあわただしく腰の辺を探ってみました。どうも無いようです。彼はますますあわてて、からだじゅうを調べました。すると、どうしてこんなことを忘れていたのでしょう。それはちゃんとシャツのポケットに入れてあったではありませんか。やれやれよかったと、ひと安心して、ポケットの中から、その紐と、懐中電燈とを取り出そうとしますと、ハッと驚いたことには、その中にまだほかの品物がはいっていたのです……毒薬の瓶の小さなコルクの栓がはいっていたのです。
彼は、さっき毒薬を垂らすとき、あとで見失っては大へんだと思って、その栓をわざわざポケットへしまっておいたのですが、それを胴忘れしてしまって、瓶だけ下へ落としてきたものとみえます。小さなものですけれど、このままにしておいては、犯罪発覚のもとです。彼はおびえる心を励まして、再び現場へ取って返し、それを節穴から落としてこなければなりませんでした。
その夜、三郎が床についたのは――もうその頃は、用心のために押入れで寝ることはやめていましたが――午前三時頃でした。それでも、興奮しきった彼は、なかなか寝つかれないのです。あんな栓を落とすのを忘れてくるほどでは、ほかにも何か手抜かりがあったかもしれない。そう思うと、彼はもう気が気ではないのです。そこで、乱れた頭を強いて落ちつけるようにして、その晩の行動を追って、一つ一つ思い出して行き、どこかに手抜かりがなかったかと調べてみましたが、少なくとも彼の頭では、何事も発見できませんでした。
彼はそうして、とうとう夜の明けるまで考えつづけていましたが、やがて、早起きの下宿人たちが、洗面所へ通るために廊下を歩く足音が聞こえだすと、つと立ち上がって、いきなり外出の用意をはじめました。彼は遠藤の死骸が発見されるときを恐れていたのです。そのとき、どんな態度をとったらいいのでしょう。ひょっとして、あとになって疑われるような、妙な挙動があってはたいへんです。そこで彼は、そのあいだ外出しているのがいちばん安全だと考えたのですが、しかし、朝飯もたべないで外出するのは、いっそう変ではないでしょうか。「ああ、そうだっけ、何をうっかりしているのだ」そこへ気がつくと、彼はまたもや寝床の中へもぐりこむのでした。
それから朝飯までの二時間ばかりを、三郎はどんなにビクビクして過ごしたことでしょう。が、幸いにも、彼が大急ぎで食事をすませて、下宿屋を逃げ出すまでは、何事も起こらないですみました。そして、下宿屋を出ると、彼はどこという当てもなく、ただ時間をつぶすために、町から町へとさまよい歩くのでした。
7
結局、彼の計画は見事に成功しました。
彼がお昼ごろそとから帰ったときには、もう遠藤の死骸は取り片づけられ、警察からの臨検もすっかりすんでいましたが、聞けば、誰一人遠藤の自殺を疑うものはなく、その筋の人たちも、ただ形ばかりの取調べをすると、じきに帰ってしまったということでした。
遠藤がなぜ自殺したかというその原因は、少しもわかりませんでしたが、彼の日ごろの素行から想像して、多分痴情の結果であろうということに、皆の意見が一致しました。現に最近、ある女に失恋していたというような事実まで現われてきたのです。なに、「失恋した、失恋した」というのは、彼のような男にとっては、一種の口癖みたいなもので、大した意味があるわけではないのですが、ほかに原因がないので、結局それにきまったわけでした。
のみならず、原因があってもなくても、彼の自殺したことは、一点の疑いもないのでした。入口も窓も、内部から戸締まりがしてあったのですし、毒薬の容器が枕許にころがっていて、それが彼の所持品であったこともわかっているのですから、もうなんと疑ってみようもないのです。天井から毒薬を垂らしたのではないかなどと、そんなばかばかしい疑いを起こすものは、誰ひとりありませんでした。
それでも、なんだかまだ安心しきれないような気がして、三郎はその日一日、ビクビクものでいましたが、やがて一日二日とたつにしたがって、彼はだんだん落ちついてきたばかりか、はては、自分の手際を得意がる余裕さえ生じてきました。
「どんなもんだ。さすがはおれだな。見ろ、誰一人ここに、同じ下宿屋のひと間に、恐ろしい殺人犯人がいることを気づかないではないか」
彼は、この調子では、世間にどれくらい隠れた、処罰されない犯罪があるか、知れたものではないと思うのでした。「天網恢々疎にして漏らさず」なんて、あれはきっと昔からの為政者たちの宣伝にすぎないので、或いは人民どもの迷信にすぎないので、その実は、巧妙にやりさえすれば、どんな犯罪だって、永久に顕われないですんで行くのだ。彼はそんなふうにも考えるのでした。もっとも、さすがに夜などは、遠藤の死に顔が眼先にちらつくような気がして、なんとなく気味がわるく、その夜以来、彼は例の「屋根裏の散歩」も中止している始末でしたが、それはただ、心の中の問題で、やがては忘れてしまうことです。実際、罪が発覚さえせねば、もうそれで充分ではありませんか。
さて、遠藤が死んでからちょうど三日目のことでした。三郎が今、夕飯をすませて小楊枝を使いながら、鼻唄かなんか歌っているところへ、ヒョッコリと、久し振りの明智小五郎が訪ねてきました。
「やあ」
「ごぶさた」
彼らはさも心安げに、こんなふうの挨拶を取りかわしたことですが、三郎の方では、折が折なので、この素人探偵の来訪を、少々気味わるく思わないではいられませんでした。
「この下宿で毒を呑んで死んだ人があるっていうじゃないか」
明智は、座につくと、さっそくその三郎の避けたがっている事柄を話題にするのでした。おそらく彼は、誰かから自殺者の話を聞いて、幸い同じ下宿に三郎がいるので、持ち前の探偵興味から、訪ねてきたのに違いありません。
「ああ、モルヒネでね。僕はちょうどその騒ぎの時に居合わせなかったから、詳しいことはわからないけれど、どうも痴情の結果らしいのだ」
三郎は、その話題を避けたがっていることを悟られまいと、彼自身もそれに興味を持ってるような顔をして、こう答えました。
「いったいどんな男なんだい」
すると、すぐにまた明智が尋ねるのです。それから暫くのあいだ、彼らは遠藤の人となりについて、死因について、自殺の方法について、問答をつづけました。三郎ははじめのうちこそ、ビクビクもので、明智の問いに答えていましたが、慣れてくるにしたがって、だんだん横着になり、はては、明智をからかってやりたいような気持にさえなるのでした。
「君はどう思うね。ひょっとしたら、これは他殺じゃあるまいか。なに、別に根拠があるわけではないけれど、自殺に違いないと信じていたのが、実は他殺だったりすることが、往々あるものだからね」
どうだ、さすがの名探偵もこればっかりはわかるまいと、心の中で嘲りながら、三郎はこんなことまで言ってみるのでした。それが彼には愉快でたまらないのです。
「それはなんとも言えないね。僕も実は、ある友だちからこの話を聞いたときに、死因が少し曖昧だという気がしたのだよ。どうだろう、その遠藤君の部屋を見るわけにはいくまいか」
「造作ないよ」三郎はむしろ得々として答えました。「隣の部屋に遠藤の同郷の友だちがいてね。それが遠藤のおやじから荷物の保管を頼まれているんだ。君のことを話せば、きっと喜んで見せてくれるよ」
それから、二人は遠藤の部屋へ行ってみることになりました。そのとき、廊下を先にたって歩きながら、三郎はふと妙な感じにうたれたことです。
「犯人自身が、探偵をその殺人の現場へ案内するなんて、じつに不思議なことだな」
ニヤニヤと笑いそうになるのを、彼はやっとのことでこらえました。三郎は、生涯のうちで、おそらくこの時ほど得意を感じたことはありますまい。「イヨー親玉あ」自分自身にそんな掛け声でもしてやりたいほど、水際立った悪党ぶりでした。
遠藤の友だち――それは北村といって、遠藤が失恋していたという証言をした男です――は、明智の名前をよく知っていて、快く遠藤の部屋をあけてくれました。遠藤の父親が国許から出てきて、仮葬をすませたのが、やっときょうの午後のことで、部屋の中には、彼の持物が、まだ荷造りもせず、置いてあるのです。
遠藤の変死が発見されたのは、北村が会社へ出勤したあとだったので、発見の刹那の有様はよく知らないようでしたが、人から聞いたことなどを総合して、彼は可なり詳しく説明してくれました。三郎もそれについて、さも局外者らしく、いろいろと噂話などを述べ立てるのでした。
明智は二人の説明を聞きながら、いかにも玄人らしい眼配りで、部屋の中をあちらこちらと見廻していましたが、ふと机の上に置いてあった眼覚まし時計に気づくと、何を思ったのか、長いあいだそれを眺めているのです。多分、その珍奇な装飾が彼の眼を惹いたのかもしれません。
「これは眼覚まし時計ですね」
「そうですよ」北村は多弁に答えるのです。「遠藤の自慢の品です。あれは几帳面な男でしてね、朝の六時に鳴るように、毎晩欠かさずにこれを捲いておくのです。私なんかいつも、隣の部屋のベルの音で眼をさましていたくらいです。遠藤の死んだ日だってそうですよ。あの朝もやっぱりこれが鳴っていましたので、まさかあんなことが起こっていようとは想像もしなかったのですよ」
それを聞くと、明智は長く延ばした頭の毛を、指でモジャモジャ掻き廻しながら、何か非常に熱心な様子を示しました。
「その朝、眼覚ましが鳴ったことは間違いないでしょうね」
「ええ、それは間違いありません」
「あなたは、そのことを、警察の人におっしゃいませんでしたか」
「いいえ……でも、なぜそんなことをお聞きなさるのです」
「なぜって、妙じゃありませんか。その晩に自殺しようと決心した者が、翌日の朝の眼覚ましを捲いておくというのは」
「なるほど、そういえば変ですね」
北村は迂濶にも、今まで、まるでこの点に気づかないでいたらしいのです。そして、明智のいうことが、何を意味するかも、まだハッキリ呑みこめない様子でした。が、それも決して無理ではありません。入口に締まりがしてあったこと、毒薬の容器が死人のそばに落ちていたこと、その他すべての事情が、遠藤の自殺を疑いないものに見せていたのですから。
しかし、この問答を聞いた三郎は、まるで足許の地盤が不意にくずれはじめたような驚きを感じました。そして、なぜこんな所へ明智を連れてきたのだろうと、自分の愚かさを悔まないではいられませんでした。
明智はそれから、いっそうの綿密さで、部屋の中を調べはじめました。むろん天井も見逃がすはずはありません。彼は天井板を一枚一枚叩き試みて、人間の出入りした形跡がないかを調べ廻ったのです。が、三郎の安堵したことには、さすがの明智も、節穴から毒薬を垂らして、そこをまた元々通り蓋しておくという新手には、気づかなかったとみえて、天井板が一枚もはがれていないことを確かめると、もうそれ以上の穿鑿はしませんでした。
さて、結局その日は別段の発見もなくすみました。明智は遠藤の部屋を見てしまうと、また三郎の所へ戻って、しばらく雑談を取りかわした後、何事もなく帰って行ったのです。ただ、その雑談のあいだに、次のような問答のあったことを書き洩らすわけにはいきません。なぜといって、これは一見ごくつまらないように見えて、その実、このお話の結末に最も重大な関係を持っているのですから。
そのとき、明智は袂から取り出した煙草に火をつけながら、ふと気がついたようにこんなことをいったのです。
「君はさっきから、ちっとも煙草を吸わないようだが、よしたのかい」
そういわれてみますと、なるほど、三郎はこの二、三日、あれほど大好物の煙草を、まるで忘れてしまったように、一度も吸っていないのでした。
「おかしいね。すっかり忘れていたんだよ。それに、君がそうして吸っていても、ちっとも欲しくならないんだ」
「いつから?」
「考えてみると、もう二、三日吸わないようだ。そうだ、ここにあるのを買ったのが、たしか日曜日だったから、もうまる三日のあいだ、一本も吸わないわけだよ。いったいどうしたんだろう」
「じゃあ、ちょうど遠藤君の死んだ日からだね」
それを聞くと、三郎は思わずハッとしました。しかし、まさか遠藤の死と、彼が煙草を吸わないこととのあいだに因果関係があろうとも思われませんので、その場は、ただ笑ってすませたことですが、あとになって考えてみますと、それは決して笑い話にするような、無意味な事柄ではなかったのです――そして、その三郎の煙草嫌いは、不思議なことに、その後いつまでもつづきました。
8
三郎は、その当座、例の眼覚まし時計のことが、なんとなく気になって、夜もおちおち眠れないのでした。たとえ遠藤が自殺したのでないということがわかっても、彼がその下手人だと疑われるような証拠はひとつもないはずですから、そんなに心配をしなくともよさそうなものですが、でも、それを知っているのがあの明智だと思うと、なかなか安心はできないのです。
ところが、それから半月ばかりは何事もなく過ぎ去ってしまいました。心配していた明智もその後一度もやってこないのです。
「やれやれ、これでいよいよおしまいか」
そこで三郎は、ついに気を許すようになりました。そして、時々恐ろしい夢に悩まされることはあっても、大体において、愉快な日々を送ることができたのです。殊に彼を喜ばせたのは、あの殺人罪を犯して以来というもの、これまで少しも興味を感じなかったいろいろな遊びが、不思議と面白くなってきたことです。ですから、このごろでは毎日のように、彼は家をそとにして、遊び廻っているのでした。
ある日のこと、三郎はその日もそとで夜をふかして、十時頃に自分の部屋へ帰ったのですが、さて寝ることにして、蒲団を出すために、なにげなく、スーッと押入れの襖をひらいたときでした。
「ワッ」
彼はいきなり恐ろしい叫び声を上げて、二、三歩あとへよろめきました。
彼は夢を見ていたのでしょうか。それとも、気でも狂ったのではありますまいか。そこには、押入れの中には、あの死んだ遠藤の首が、髪の毛をふり乱して、薄暗い天井から、さかさまにぶらさがっていたのです。
三郎は、いったん逃げ出そうとして、入口の所まで行きましたが、何かほかのものを見違えたのではないかというような気もするものですから、恐る恐る引き返して、もう一度、ソッと押入れの中を覗いてみますと、どうして、見違いでなかったばかりか、今度はその首が、いきなりニッコリ笑ったではありませんか。
三郎は、再びアッと叫んで、ひと飛びに入口の所まで行って障子をあけると、やにわにそとへ逃げ出そうとしました。
「郷田君。郷田君」
それを見ると、押入れの中では、頻りと三郎の名前を呼びはじめるのです。
「僕だよ。僕だよ。逃げなくってもいいよ」
それが、遠藤の声ではなくて、どうやら聞き覚えのある、ほかの人の声だったものですから、三郎はやっと逃げるのを踏みとどまって、こわごわふり返って見ますと、
「失敬失敬」
そう言いながら、以前よく三郎自身がしたように、押入れの天井から降りてきたのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせてすまなかった」押入れを出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「ちょっと君のまねをしてみたのだよ[#「ちょっと君のまねをしてみたのだよ」に傍点]」
それは実に、幽霊なぞよりはもっと現実的な、いっそう恐ろしい事実でした。明智はきっと、何もかも悟ってしまったのに違いありません。
そのときの三郎の心持は、実になんとも形容のできないものでした。あらゆる事柄が、頭の中で風車のように旋転して、いっそ何も思うことがないときと同じように、ただボンヤリとして、明智の顔を見つめているばかりでした。
「さっそくだが、これは君のシャツのボタンだろうね」
明智は、いかにも事務的な調子ではじめました。手には黒っぽいボタンを持って、それを三郎の眼の前につき出しながら、
「ほかの下宿人たちも調べてみたけれど、誰もこんなボタンをなくしているものはないのだ。ああ、そのシャツのだね。ホラ二番目のボタンがとれているじゃないか」
ハッと思って、胸を見ると、なるほど、ボタンがひとつとれています。三郎は、それがいつとれたものやら、少しも気づかないでいたのです。
「シャツのボタンとしては、ひどく変った型だから、これは君のにちがいない。ところで、このボタンをどこで拾ったと思う。天井裏なんだよ。それもあの遠藤君の部屋の上でだよ」
それにしても、三郎はどうして、ボタンなぞを落として、気づかないでいたのでしょう。あの時、懐中電燈で充分検べたはずではありませんか。
「君が殺したのではないのかね、遠藤君を」
明智は無邪気にニコニコしながら――それがこの場合、いっそう気味わるく感じられるのです――三郎のやり場に困った眼の中を、覗き込んで、とどめを刺すように言うのでした。
三郎は、もうだめだと思いました。たとえ明智がどんな巧みな推理を組み立ててこようとも、ただ推理だけであったら、いくらでも抗弁の余地があります。けれども、こんな予期しない証拠物をつきつけられては、もうどうすることもできません。
三郎は今にも泣き出そうとする子供のような表情で、いつまでもいつまでもだまりこくって突っ立っていました。時々、ボンヤリと霞んでくる眼の前には、妙なことに、遠い遠い昔の、たとえば小学校時代の出来事などが、幻のように浮き出してきたりするのでした。
それから二時間ばかりののち、彼らはやっぱり元のままの状態で、その長いあいだ、ほとんど姿勢さえもくずさず、三郎の部屋に相対していました。
「ありがとう、よくほんとうのことを打ち明けてくれた」最後に明智が言うのでした。「僕は決して君のことを警察へ訴えなぞしないよ。ただね、僕の判断が当たっているかどうか、それが確かめたかったのだ。君も知っている通り、僕の興味はただ「真実」を知るという点にあるので、それ以上のことは、実はどうでもいいのだ。それにね、この犯罪には、ひとつも証拠というものがないのだよ。シャツのボタン? ハハハハ、あれは僕のトリックさ。何か証拠品がなくては君が承知しまいと思ってね。この前君を訪ねた時、その二番目のボタンがとれていることに気づいたものだから、ちょっと利用してみたのさ。なに、これは僕がボタン屋へ行って仕入れてきたのだよ。ボタンがいつとれたなんていうことは、誰しもあまり気づかないことだし、それに、君は興奮している際だから、多分うまく行くだろうと思ってね。
僕が遠藤君の自殺を疑いだしたのは、君も知っているように、あの眼覚まし時計からだ。あれから、この管轄の警察署長を訪ねて、ここへ臨検した一人の刑事から、詳しく当時の模様を聞くことができたが、その話によると、モルヒネの瓶が、煙草の箱の中にころがっていて、中味が巻煙草にこぼれかかっていたというのだ。聞けば、遠藤は非常に几帳面な男だというし、ちゃんと床にはいって死ぬ用意までしているものが、毒薬の瓶を煙草の箱の中へ置くさえあるに、しかも中味をこぼすなどというのは、なんとなく不自然ではないか。
そこで、僕はますます疑いを深くしたわけだが、ふと気づいたのは、君が遠藤の死んだ日から煙草を吸わなくなっていることだ。この二つの事柄は、偶然の一致にしては、少し妙ではあるまいか。すると、僕は、君が以前犯罪のまねなどをして喜んでいたことを思い出した。君には変態的な犯罪嗜好癖があったのだ。
僕はあれからたびたびこの下宿へきて、君に知られないように遠藤の部屋を調べていたのだよ。そして、犯人の通路は天井のほかにないということがわかったものだから、君のいわゆる『屋根裏の散歩』によって、止宿人の様子をさぐることにした。殊に、君の部屋の上では、たびたび、長いあいだうずくまっていた。そして、君のあのイライラした様子を、すっかり隙見してしまったのだよ。
さぐればさぐるほど、すべての事情が君を指している。だが残念なことには、確証というものがひとつもないのだ。そこでね、僕はあんなお芝居を考え出したのさ。ハハハハ……じゃあ、これで失敬するよ。多分もうお眼にかかれまい。なぜって、ソラ、君はもうちゃんと自首する決心をしているのだからね」
三郎は、この明智のトリックに対しても、もはやなんの感情も起こらないのでした。彼は明智の立ち去るのも知らず顔に、
「死刑にされる時の気持はいったいどんなものだろう」
ただそんなことを、ボンヤリと考えこんでいるのでした。
彼は毒薬の瓶を節穴から落としたとき、それがどこへ落ちたかを見なかったように思っていましたけれど、その実は、巻煙草に毒薬がこぼれたことまで、ちゃんと見ていたのです。そして、それが意識下に押しこめられて、心理的に彼を煙草嫌いにさせてしまったのでした。
何者
一 奇妙な盗賊
「この話は、あなたが小説にお書きになるのが一ばんふさわしいと思います。ぜひ書いてください」
ある人が私にその話をしたあとで、こんなことをいった。四、五年前の出来事だけれど、事件の主人公が現存していたので、憚って話さなかった。その人が最近病死したのだということであった。
私はそれを聞いて、なるほど当然私が書く材料だと思った。なにが当然だかは、ここに説明せずとも、この小説を終りまでお読みになれば、自然にわかることである。
以下「私」とあるのは、この話を私に聞かせてくれた「ある人」をさすわけである。
ある夏のこと、私は|甲《こう》|田《だ》|伸《しん》|太《た》|郎《ろう》という友人にさそわれて、甲田ほどは親しくなかったけれど、やはり私の友だちである|結《ゆう》|城《き》|弘《ひろ》|一《かず》の家に、半月ばかり逗留したことがある。そのあいだの出来事なのだ。
弘一君は陸軍省軍務局に重要な地位をしめている、結城少将の息子で、父の屋敷が鎌倉の少し向こうの海近くにあって、夏休みを過ごすには持ってこいの場所だったからである。
三人はその年大学を出たばかりの同窓であった。結城君は英文科、私と甲田君とは経済科であったが、高等学校時代同じ部屋に寝たことがあるので、科は違っても、非常に親しい遊び仲間であった。
私たちには、いよいよ学生生活にお別れの夏であった。甲田君は九月から東京のある商事会社へ勤めることになっていたし、弘一君と私とは兵隊にとられて、年末には入営である。いずれにしても、私たちは来年からはこんな自由な気持の夏休みを再び味わえぬ身の上であった。そこで、この夏こそは心残りのないように、充分遊び暮らそうというので、弘一君のさそいに応じたのである。
弘一君は一人息子なので、広い屋敷をわが物顔に、贅沢三昧に暮らしていた。おやじは陸軍少将だけれど、先祖が或る大名の重臣だったので、彼の家はなかなかのお金持ちである。したがってお客様の私たちも居心地が悪くなかった。そこへもってきて、結城家には、私たちの遊び友だちになってくれる一人の美しい女性がいた。志摩子さんといって、弘一君の|従妹《い と こ》で、ずっと以前に両親を失ってから、少将邸に引き取られて育てられた人だ。女学校をすませて、当時は音楽の稽古に熱中していた。ヴァイオリンはちょっと聞けるぐらいひけた。
私たちは天気さえよければ海岸で遊んだ。結城邸は由井ガ浜と片瀬との中間ぐらいのところにあったが、私たちは多くは派手な由井ガ浜をえらんだ。私たち四人のほかに、たくさん男女の友だちがあったので、海にあきることはなかった。紅白碁盤縞の大きなビーチ・パラソルの下で、私たちは志摩子さんやそのお友だちの娘さんたちと、まっ黒な肩をならべてキャッキャッと笑い興じた。
私たちは又、結城邸の池で鯉釣りをやった。その大きな池には、少将の道楽で、釣堀みたいに、たくさん鯉が放ってあったので、素人にもよく釣れた。私たちは将軍に釣のコツを教わったりした。
実に自由で、明かるくて、のびやかな日々であった。だが不幸という魔物は、どんな明かるいところへでも、明かるければ明かるいほど、それをねたんで、突拍子もなくやってくるものである。
ある日、少将邸に時ならぬ銃声が響いた。この物語はその銃声を合図に、幕があくのである。
ある晩、主人の少将の誕生祝いだというので、知人を呼んで御馳走があった。甲田君と私もそのお相伴をした。
母屋の二階の十五、六畳も敷ける日本間がその席にあてられた。主客一同浴衣がけの気のおけぬ宴会であった。酔った結城少将が柄になく義太夫のさわりをうなったり、志摩子さんが一同に懇望されて、ヴァイオリンをひいたりした。
宴は別状なく終って、十時ごろには客はたいてい帰ってしまい、主人側の人たちと二、三の客が、夏の夜の興を惜んで座に残っていた。結城氏、同夫人、弘一君、志摩子さん、私のほかに、退役将校の北川という老人、志摩子さんの友だちの琴野さんという娘の七人であった。
主人少将は北川老人と碁をかこみ、他の人々は志摩子さんをせびって、またヴァイオリンをひかせていた。
「さあ、僕はこれから仕事だ」
ヴァイオリンの切れ目に、弘一君が私にそうことわって座を立った。仕事というのは、当時彼はある地方新聞の小説を引き受けていて、毎晩十時になると、それを書くために、別棟の洋館の父少将の書斎へこもる例になっていたのだ。彼は在学中は東京に一軒家を借りて住んでいて、中学時代の書斎は、現在では志摩子さんが使っているので、まだ本宅には書斎がないのである。
階段をおりて、廊下を通って、弘一君が洋館についたと思われる時分、突然何かをたたきつけるような物音が、私たちをビクッとさせた。あとで考えると、それが問題のピストルの音だったのである。
「なんだろう」と思っているところへ、洋館の方からけたたましいさけび声が聞こえてきた。
「誰か来てください。大変です。弘一君が大変です」
先ほどから座にいなかった甲田伸太郎君の声であった。
そのとき一座の人々が、誰がどんな表情をしたかは記憶がない。一同総立ちになって、梯子段のところへ殺到した。
洋館へ行ってみると、少将の書斎の中に(のちに見取図を掲げる)弘一君が血に染まって倒れ、そのそばに甲田君が青い顔をして立っていた。
「どうしたんだ」
父将軍が不必要に大きな、まるで号令をかけるような声でどなった。
「あすこから、あすこから」
甲田君が、激動のために口もきけないというふうで、庭に面した南側のガラス窓を指さした。
見るとガラス戸はいっぱいにひらかれ、ガラスの一部にポッカリと不規則な円形の穴があいている。何者かが、外部からガラスを切ってとめ金をはずし、窓をあけてしのび込んだのであろう。現にジュウタンの上に、点々と無気味な泥足のあとがついている。
母夫人は倒れている弘一君にかけより、私はひらいた窓のところへかけつけた。だが、窓のそとには何者の影もなかった。むろん曲者がそのころまで、ぐずぐずしているはずはないのだ。
その同じ瞬間に、父少将は、どうしたかというと、彼は不思議なことに息子の傷を見ようともせず、まず第一に、部屋のすみにあった小金庫の前へ飛んで行って、文字盤を合わせて扉をひらき、その中を調べたのである。これを見て、私は妙に思った。この家に金庫があるさえ心得ぬに、手負いの息子をほうっておいて、先ず財産をしらべるなんて、軍人にもあるまじき仕草である。
やがて、少将の言いつけで、書生が警察と病院へ電話をかけた。
母夫人は気を失った結城君のからだにすがって、オロオロ声で名を呼んでいた。私はハンカチを出して、出血を止めるために、弘一君の足をしばってやった。弾丸が足首をむごたらしく射ぬいていたのだ。志摩子さんは気をきかして、台所からコップに水を入れて持ってきた。だが、妙なことには、彼女は夫人のようには悲しんでいない。椿事に驚いているばかりだ。どこやら冷淡なふうが見える。彼女はいずれ弘一君と結婚するのだと思いこんでいた私は、それがなんとなく不思議に思われた。
しかし不思議といえば、金庫を調べた少将や、妙に冷淡な志摩子さんより、もっともっと不思議なことがあった。
それは結城家の下男の、常さんという老人のそぶりである。彼も騒ぎを聞いて、われわれより少しおくれて書斎へかけつけたのだが、はいってくるなり、何を思ったのか、弘一君のまわりを囲んでいた私たちのうしろを、例のひらいた窓の方へ走って行って、その窓際にペチャンとすわってしまった。騒ぎの最中で誰も老僕の挙動なぞ注意していなかったけれど、私はふとそれを見て、親爺気でも違ったのではないかと驚いた。彼はそうして、一同の立ち騒ぐのをキョロキョロ見廻しながら、いつまでも行儀よくすわっていた。腰が抜けたわけでもあるまいに。
そうこうするうちに、医者がやってくる。間もなく鎌倉の警察署から、司法主任の波多野警部が部下を連れて到着した。
弘一君は母夫人と志摩子さんがつきそって、担架で鎌倉外科病院へはこばれた。その時分には意識を取りもどしていたけれど、気の弱い彼は苦痛と恐怖のために、赤ん坊みたいに顔をしかめ、ポロポロと涙をこぼしていたので、波多野警部が賊の風体をたずねても、返事なぞできなかった。彼の傷は命にかかわるほどではなかったけれど、足首の骨をグチャグチャにくだいた、なかなかの重傷であった。
取調べの結果、この兇行は盗賊の仕業であることが明らかになった。賊は裏庭から忍び込んで、品物を盗み集めているところへ、ヒョッコリ弘一君がはいって行ったので(たぶん賊を追いかけたのであろう。倒れていた位置が入口ではなかった)、恐怖のあまり所持のピストルを発射したものに違いなかった。
大きな事務デスクの引出しが残らず引き出され、中の書類などがそこいら一面に散乱していた。だが少将の言葉によれば、引出しの中には別段大切なものは入れてなかったという。
同じデスクの上に、少将の大型の|札《さつ》|入《い》れが投げ出してあった。不思議なことに、中には可なりの額の紙幣がはいっていたのだが、それには少しも手をつけたあとがない。では何が盗まれたかというと、実に奇妙な盗賊である。まずデスクの上に(しかも札入れのすぐそばに)置いてあった小型の金製置時計、それから、同じ机の上の金の万年ペン、金側懐中時計(金鎖とも)、いちばん金目なのは、室の中央の丸テーブルの上にあった金製の煙草セット(煙草入れと灰皿だけで、盆は残っていた。盆は赤銅製である)の品々であった。
これが盗難品の全部なのだ。いくら調べてみても、ほかになくなった品はない。金庫の中も別状はなかった。
つまり、此の賊はほかのものには見向きもせず、書斎にあったことごとくの金製品を奪い去ったのである。
「気ちがいかもしれませんな。黄金収集狂とでもいう」
波多野警部が妙な顔をして言った。
二 消えた足跡
実に妙な泥棒であった。紙幣在中の札入れをそのままにしておいて、それほどの値打ちもない万年筆や懐中時計に執着したという、賊の気持が理解できなかった。
警部は少将に、それらの金製品のうち、高価というほかに、何か特別の値打ちをもったものはなかったかと尋ねた。
だが、少将は別にそういう心あたりもないと答えた。ただ、金製万年筆は、彼がある師団の連隊長を勤めていたころ、同じ隊にぞくしていられた高貴のお方から拝領したもので、少将にとっては金銭に替えがたい値打ちがあったのと、金製置時計は、三寸四方くらいの小さなものだけれど、洋行記念に親しくパリで買って帰ったので、あんな精巧な機械は二度と手に入らぬと惜まれるくらいのことであった。両方とも、泥棒にとって別段の値打があろうとも思われぬ。
さて波多野警部は室内から屋外へと、順序をおって、綿密な現場調査に取りかかった。彼が現場へ来着したのは、ピストルが発射されてから二十分もたっていたので、あわてて賊のあとを追うような愚はしなかった。
あとでわかったことだが、この司法主任は、犯罪捜査学の信者で、科学的綿密ということを最上のモットーとしていた。彼がまだ片田舎の平刑事であったころ、地上にこぼれていた一滴の血痕を、検事や上官が来着するまで完全に保存するために、その上にお椀をふせて、お椀のまわりの地面を、一と晩じゅう棒切れでたたいていた、という一つ話さえあった。彼はそうして、血痕をミミズがたべてしまうのをふせいでいたのである。
こんなふうな綿密周到によって地位を作った人だけに、彼の取調べには毛筋ほどのすきもなく、検事でも予審判事でも、彼の報告とあれば全然信用がおけるのであった。
ところが、その綿密警部の綿密周到な捜査にもかかわらず、室内には、一本の毛髪さえも発見されなかった。この上はガラス窓の指紋と、屋外の足跡とが唯一の頼みである。
窓ガラスは最初想像した通り、掛金をはずすために、賊がガラス切りと吸盤とを使って、丸く切り抜いたものであった。指紋の方はその係りのものがくるのを待つことにして、警部は用意の懐中電燈で窓のそとの地面を照らして見た。
幸いにも雨上がりだったので、窓のそとにはハッキリ足跡が残っていた。労働者などのはく靴足袋の跡で、ゴム裏の模様が型で押したように浮き出している、それが裏の土塀のところまで二列につづいているのは、賊の往復したあとだ。
「女みたいに内輪に歩くやつだな」警部のひとりごとに気づくと、なるほどその足跡はみな爪先の方が|踵《かかと》よりも内輪になっている。ガニ股の男には、こんな内輪の足癖がよくあるものだ。
そこで、警部は部下に靴を持ってこさせて、それをはくと、窓をまたいでそとの地面に降り、懐中電燈をたよりに、靴足袋のあとをたどって行った。
それを見ると、人一倍好奇心の強い私は、邪魔になるとは知りながら、もうじっとしてはいられず、いきなり日本座敷の縁側から廻って警部のあとを追ったものである。むろん賊の足跡を見るためだ。
ところが行ってみると足跡検分の邪魔者は私一人でないことがわかった。もうちゃんと先客がある。やはり誕生祝いに呼ばれていた赤井さんであった。いつの間に出てきたのか、実にすばしっこい人だ。
赤井さんがどういう素姓の人だか、結城家とどんな関係があるのか、私は何も知らなかった。弘一君さえハッキリしたことは知らないらしい。二十七、八の、頭の毛をモジャモジャさせた痩せ形の男で、非常に無口なくせに、いつもニヤニヤと微笑を浮かべている、えたいの知れない人物であった。
彼はよく結城家へ碁をうちに来た。そして、いつも夜ふかしをして、ちょいちょい泊り込んで行くこともあった。
少将は彼をあるクラブで見つけた碁の好敵手だといっていた。その晩は招かれて宴会の席に列したのだが、事件の起こった時には、二階の大広間には見えなかった。どこか下の座敷にでもいたのであろう。
だが、私は或る偶然のことから、この人が探偵好きであることを知っていた。私が結城家に泊り込んだ二日目であったか、赤井さんと弘一君とが、事件の起こった書斎で話しているところへ行き合わせた。赤井さんはその少将の書斎に持ち込んであった弘一君の本棚を見て何か言っていた。弘一君は大の探偵好きであったから(それは、この事件で後に被害者の彼自身が探偵の役目を勤めたほどである)、そこには犯罪学や探偵談の書物がたくさん並んでいるのだ。
彼らは内外の名探偵について、論じあっているらしかった。ヴィドック以来の実際の探偵や、デュパン以来の小説上の探偵が話題にのぼった。また弘一君はそこにあった「明智小五郎探偵談」という書物を指さして、この男はいやに理窟っぽいばかりだけとけなした。赤井さんもしきりに同感していた。彼らはいずれおとらぬ探偵通で、その方では非常に話が合うらしかった。
そういう赤井さんが、この犯罪事件に興味をもち、私の先を越して、足跡を見に来たのはまことに無理もないことである。
余談はさておき、波多野司法主任は、
「足跡をふまぬように気をつけてください」
と、二人の邪魔者に注意しながら、無言で足跡を調べて行った。賊が低い土塀を乗り越えて逃げたらしいことがわかると、土塀のそとを調べる前に、一度洋館の方へ引返して、何か邸内の人に頼んでいる様子だったが、間もなく炊事用の摺鉢をかかえてきて、もっともハッキリした一つの足跡の上にそれをふせた。あとで型をとる時まで原型をくずさぬ用心である。
やたらにふせたがる探偵だ。
それから私たち三人は裏木戸をあけて、塀のそとに廻ったが、そのあたり一帯、誰かの屋敷跡の空地で、人通りなぞないものだから、まぎらわしい足跡もなく、賊のそれだけが、どこまでもハッキリと残っていた。
ところが懐中電燈を振りふり、空地を半丁ほども進んだ時である。波多野氏は突然立ち止まって、当惑したようにさけんだ。
「おやおや、犯人は井戸の中へ飛び込んだのかしら」
私は警部の突飛な言葉に、あっけにとられたが、よく調べてみると、なるほど彼のいうのがもっともであった。足跡は空地のまんなかの一つの古井戸のそばで終っている。出発点もそこだ。いくら電燈で照らして見ても、井戸のまわり五、六間のあいだ、ほかに一つの足跡もない。しかもその辺は、決して足跡のつかぬような硬い土ではないのだ。又足跡を隠すほどの草もはえてはいない。
それは、|漆《しっ》|喰《くい》の丸い井戸|側《がわ》が、ほとんど欠けてしまって、なんとなく無気味な古井戸であった。電燈の光で中をのぞいて見ると、ひどくひびわれた漆喰が、ずっと下の方までつづいていて、その底ににぶく光って見えるのは腐り水であろう。ブヨブヨと物の|怪《け》でも泳いでいそうな感じがした。
賊が井戸から現われて、また井戸の中へ消えたなどとは、いかにも信じがたいことであった。お菊の幽霊ではあるまいし。だが、彼がそこから風船にでも乗って天上しなかったかぎり、この足跡は賊が井戸の中へはいったとしか解釈できないのである。
さすがの科学探偵波多野警部も、ここでハタと行きづまったように見えた。彼は入念にも、部下の刑事に竹竿を持ってこさせて、井戸の中をかき廻してみたが、むろんなんの手答えもなかった。といって、井戸側の漆喰に仕かけがあって、地下に抜け穴が通じているなどは、あまりに荒唐無稽な想像である。
「こう暗くては、こまかいことがわからん。あすの朝もう一度調べてみるとしよう」
波多野氏はブツブツと独り言を言いながら、屋敷の方へ引き返して行った。
それから、裁判所の一行の来着を待つあいだに、勤勉な波多野氏は、邸内の人々の陳述を聞きとり、現場の見取図を作製した。便宜上見取図の方から説明すると、
彼は用意周到にいつも携帯している巻尺を取り出して、負傷者の倒れていた地位(それは血痕などでわかった)足跡の歩幅、来る時と帰る時の足跡の間隔、洋館の間取、窓の位置、庭の樹木や池や塀の位置などを、不必要だと思われるほど入念に計って、手帳にその見取図を書きつけた。
だが、警部のこの努力は決してむだではなかった。素人考えに不必要だと思われたことも、後には甚だ必要であったことがわかった。
その時の警部の見取図をまねて、読者諸君のために、ここにそれを掲げておく。これは事件が解決したあとで、結果から割出して私が作った図であるから、警部のほど正確ではないが、そのかわり、事件解決に重大な関係のあった点は、間違いなく、むしろいくぶん誇張して現わしてある。
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後に至ってわかることだが、この図面は、犯罪事件について、存外いろいろなことを物語っているのである。ごく手近な一例を上げると、賊の往復の足跡の図だ。それは彼が女のように内輪であったことをしめすばかりではない、Dの方は歩幅がせまく、Eの方はその倍も広くなっているが、これはDはくる時のオズオズした足取りを意味し、Eはピストルをうって、一目散に逃げ去る時のあわただしい足取りを現わすものである。つまりDが往、Eが復の足跡であることがわかる(波多野氏はこの両方の歩幅を精密にはかり、賊の身長計算の基礎として、その数字を書きとめたが、ここではあまりくだくだしくなるから省いておく)。
だが、これは一例にすぎないのだ。この足跡の図にはもっと別の意味がある。又負傷者の位置その他二、三の点について、後に重大な意味を生じてくる部分がある。私は順序を追って話すために、ここではその点に触れないが、読者諸君は、よくよくこの図を記憶にとどめておいていただきたい。
つぎに邸内の人々の取調べについて一言すると、第一に質問を受けたのは、兇行の最初の目撃者甲田伸太郎君であった。
彼は弘一君よりも二十分ばかり前に、母屋の二階をおりて、階下の手洗所にはいり、用をすませてからも、玄関に出て酒にほてった頬を冷やしていたが、もう一度二階の宴席へもどるために、廊下を引き返してくると、突然の銃声につづいて弘一君のうめき声が聞こえた。
いきなり洋館にかけつけると、書斎のドアは半びらきになって、中は電燈もつかずまっくらだった。彼がそこまで話してきた時、警部は、
「電燈がついてなかったのですね」
と、なぜか念を押して聞き返した。
「ええ、弘一君はたぶんスイッチを押す間がなかったのでしょう」
甲田君が答えた。
「私は書斎へかけつけると、まず壁のスイッチを押して電燈をつけました。すると、部屋のまん中に弘一君が血に染まって気を失って倒れていたのです。私はすぐ|母《おも》|屋《や》の方へ走っていって、大声で家の人を呼びたてました」
「その時、君は賊の姿を見なかったのですね」
警部が最初に聞きとったことを、もういちどたずねた。
「見ませんでした。もう窓のそとへ出てしまっていたのでしょう。窓のそとはまっくらですから……」
「そのほかに何か変ったことはなかったですか。ほんの些細なことでも」
「ええ、別に……ああ、そうそう、つまらないことですけれど、私がかけつけた時、書斎の中から猫が飛び出してきてびっくりしたのをおぼえています。久松のやつが鉄砲玉のように飛び出してきました」
「久松って猫の名ですか」
「ええ、ここの家の猫です。志摩子さんのペットです」
警部はそれを聞いて変な顔をした。ここに暗の中でもハッキリと賊の顔を見たものがあるのだ。だが、猫はものをいうことができない。
それから結城家の人々(召使いも)、赤井さん、私、その他来客一同が質問を受けたが、誰も別段変った答えをしなかった。病院へつき添って行って、その場に居合わせなかった夫人と志摩子さんは、翌日取調べを受けたが、その時の志摩子さんの返事が、少し変っていたのをあとで伝聞したので、ついでにここにしるしておく。
警部の「どんな些細なことでも」という例の調子にさそわれて、彼女は次ぎのようなことを申し述べた。
「私の思い違いかもしれませんけれど、私の書斎へも誰かはいった者があるらしいのでございます」図面にしるした通り彼女の書斎は問題の少将の書斎の隣室である。
「別になくなったものはございませんが、私の机の引出しを誰かあけたものがあるのです。きのうの夕方たしかにそこへ入れておいた私の日記帳が、けさ見ますと、机の上にひろげたまま乱暴にほうり出してありました。引出しもひらいたままなんです。家の人は、女中でも誰でも、私の引出しなんかあけるようなものはございませんのに、なんだか変だと存じましたので……でもつまらないことですわ」
警部は志摩子さんの話を、そのまま聞き流してしまったが、あとで考えると、この日記帳の一件にもなかなか意味があったのである。
話は元にもどる。それからしばらくして、やっと裁判所の一行がやってきた。専門家がきて、指紋をしらべたりした。しかし、その結果は、波多野警部の調べ上げた以上の収穫は何もなかった。問題の窓ガラスは布でふきとった形跡があり、指紋は一つも出なかった。窓外の地上に落ち散っていたガラスの破片にさえ一つの指紋もなかった。この一事をもってしても、賊が並たいていのやつでないことがわかるのだ。
最後に、警部は部下に命じて、さっき摺鉢でふせておいた足跡の型を、石膏でとらせ、大切そうに警察署へ持ち帰った。
騒ぎがすんで、一同ともかくも床についたのは二時頃であった。私は甲田君と床をならべて寝たが、両人とも昂奮のため寝つかれず、ほとんど一と晩じゅう寝返りばかりうっていた。そのくせ、私たちは、なぜか事件については一ことも話をしなかった。
三 金ピカの赤井さん
翌朝、寝坊な私が五時に床を出た。例の不可解な足跡を朝の光で見直そうというのだ。私もなかなかの猟奇者であった。
甲田君はよく眠っていたので、なるべく音をたてぬように、縁側の雨戸をあけ、庭下駄で洋館のそとへ廻って行った。
ところが、驚いたことには、又しても私の先客がいる。やっぱり赤井さんである。いつも私の先へ先へと廻る男だ。しかし、彼は足跡を見てはいなかった。なんだか知らぬがもっとほかのものを見ている。
彼は洋館の南側(足跡のついていた側)の西のはずれに立って、建物に身をかくして、首だけで西側の北よりの方角を覗いているのだ。そんなところに何があるのだろう。その方角には、洋館のうしろがわに母屋の台所口があって、その前に、常爺さんがなぐさみに作っている花壇があるばかりだ。別に美しい花が咲いているわけでもない。
私は先手を打たれて、少々小癪にさわっていたものだから、一つ驚かせてやろうと思って、足音を忍ばせて彼のうしろに近寄り、出し抜けにポンと肩をたたいたものである。すると相手は予期以上に驚いて、ビクッとしてふり向いたが、なぜかばかげて大きな声で、
「やあ、松村さんでしたか」
とどなった。その声に私の方がどぎも抜かれたほどである。そして、赤井さんは、私をおし返すようにして、つまらない天気の話などをはじめるのだった。
こいついよいよおかしいと思うと、私はもうたまらなくなり、赤井さんの感情を害してもかまわぬと思って、邪魔する彼をつきのけるようにして、建物のはずれに出て、北の方をながめたが、別に変ったものも見えぬ。ただ、早起きの常爺さんが、もう花壇いじりをはじめていたばかりだ。赤井さんはいったい全体、何をあんなに熱心にのぞいていたのだろう。
不審に思って赤井さんの顔をながめると、彼は不得要領にニヤニヤ笑っているばかりである。
「今何をのぞいていらっしゃったのです」
私は思いきってたずねてみた。すると彼は、
「何ものぞいてなんかいやしませんよ。それはそうと、あなたは、ゆうべの足跡を調べに出ていらっしゃったのでしょう。え、違いますか」
と、ごまかしてしまった。私が仕方なくそうだと答えると、
「じゃあ、いっしょに見に行きましょう。私も実はこれからそれを見に行こうと思っていたところなんですよ」
と誘いかける。だが、そういう彼の言葉も、嘘っぱちであったことがじきわかった。塀のそとへ出てみると、赤井さんの足跡が四本ついていた。つまり二往復の跡だ。一往復は私の先廻りをしてけさ見に行った足跡に違いない。何が「これから」なものか、もうちゃんと見てしまっているのだ。
井戸のそばに着いて、しばらくその辺をしらべてみたが、別にゆうべと違ったところもなかった。足跡は確かに井戸から発し、井戸で終っている。ほかには、ゆうべ調べにきた私たち三人の足跡と、もっとくわしくいえば、その辺を歩き廻った大きな野良犬の足跡とがあるきりだ。
「この犬の足跡が、靴足袋の跡だったらなあ」
私はふとそんなひとりごとを言った。なぜといって、その犬の足跡は、靴足袋とは反対の方角から井戸のところへきて、その辺を歩き廻ったすえ、又元の方角へ帰っていたからである。
その時私はふと、外国のある犯罪実話を思い出した。古いストランド誌で読んだものだ。
野原の一軒家で人殺しがおこなわれた。被害者は一人住まいの独身者だった。犯人は外部からきたものにきまっている。ところが、不思議なことに、兇行以前に降りやんだ雪の上に、人間の足跡というものが全然なかった。犯人は人殺しをやっておいて、そのまま天上したとでも考えるほかはないのだ。
だが人間の足跡こそなかったけれど、ほかのものの足跡はあった。一匹の馬がその家まできて、また帰って行った蹄鉄の跡であった。
そこで、一時は被害者は馬に蹴殺されたのではないかと疑われたが、だんだん調べていくと、結局、犯人が足跡を隠すために、自分の靴の裏に蹄鉄を打ちつけて歩いたことがわかった、という話である。
私は、この犬の足跡も、もしやそれと同じ性質のものではなかろうかと思ったのだ。
なかなか大きな犬らしい足跡だから、人間が四つんばいになって、手と足に犬の足跡に似せた木ぎれなんかをつけて、こんな跡を残したと考えることも不可能ではない。又その跡のついた時間も、土のかわきぐあいなんかで見ると、ちょうど靴足袋の男の歩いたのと同じころらしいのだ。
私がその考えを話すと、赤井さんはなんだか皮肉な調子で、
「あなたはなかなか名探偵ですね」
といったまま、ムッツリとだまり込んでしまった。妙な男だ。
私は念のために、犬の足跡を追って荒地の向こうの道路まで行ってみたが、道路が石ころ道だものだから、それから先はまったく不明であった。「犬」はその道路を右へか左へか曲って行ったものに違いない。
しかし、私は探偵ではないので、足跡が消えると、それから先どうすればよいのか、見当がつかず、せっかくの思いつきも、そこまでで打切ってしまったが、あとになって、なるほど、ほんとうの探偵というものは、そうしたものかと思いあたるところがあった。
それから一時間もして、約束通り波多野警部が再調べにやってきたが、ここにつけ加えるほどの、別段の発見もなかった様子だ。
朝食後、この騒ぎに逗留でもあるまいというので、甲田君と私はひとまず結城邸にいとまを告げることにした。私は内心事件の成行きに未練があったけれど、一人居残るわけにもいかない。いずれ東京からまた出掛けてくればよいことだ。
帰りみちに、弘一君の病院を見舞ったことはいうまでもない。それには、結城少将も、赤井さんもいっしょだった。結城夫人と志摩子さんは、病院に泊っていたが、ゆうべは一睡もしなかったといって、まっさおな顔をしていた。当の弘一君にはとても会えなかった。父少将だけが、やっと病室へはいることをゆるされた。思ったよりも重態である。
それから中二日おいて三日目に、私は弘一君の見舞かたがたその後の様子を見るために、鎌倉へ出かけて行った。
弘一君は手術後の高熱もとれ、もう危険はないとのことであったが、ひどく衰弱してものをいう元気もなかった。ちょうどその日、波多野警部がきて、弘一君に犯人の風体を見おぼえていないかとたずねたところ、同君は、「懐中電燈の光で黒い影のようなものを見たほか、何も見おぼえがない」と答えたよしである。それを私は結城夫人から聞いた。
病院を出ると、私は少将に挨拶するために、ちょっと結城邸に立寄ったが、その帰途、実に不思議なものを見た。なんとも私の力では解釈のつかない出来事である。
結城邸を辞した私は、猟奇者の常として、なんとなく例の古井戸が気にかかるものだから、そこの空地を通って、存分井戸のそばをながめ廻し、それからあの犬の足跡が消えていた小砂利の多い道路に出て、大廻りをして駅に向かったのであるが、その途中、空地から一丁とはへだたらぬ往来で、バッタリと赤井さんに出会った。ヤレヤレ又しても赤井さんである。
彼は往来に面した、有福らしい一軒のしもた家の格子をあけて出てきたが、遠方に私の姿をみとめると、なぜか顔をそむけて、逃げるようにスタスタと向こうへ歩いて行く。
そうされると、私も意地になって、足をはやめて赤井さんの後を追った。彼の出てきた家の前を通る時、表礼を見ると「琴野三右衛門」とあった。私はそれをよくおぼえておいて、なおも赤井さんの跡を追い、一丁ばかりでとうとう彼に追いついた。
「赤井さんじゃありませんか」
と、声をかけると、彼は観念したらしくふり向いて、
「やあ、あなたもこちらへおいででしたか。僕もきょうは結城さんをおたずねしたのですよ」
と、弁解がましくいった。琴野三右衛門をたずねたことはいわなかった。
ところが、そうしてこちらを向いた赤井さんの姿を見ると、私はびっくりしてしまった。彼は|錺屋《かざりや》の小僧か表具屋の弟子みたいに、からだじゅう金粉だらけだ。両手から胸膝にかけて、梨地のように金色の粉がくっついている、それが夏の太陽に照らされて、美しくキラキラ光っているのだ。よく見ると、鼻の頭まで、仏像のように金色だ。わけをたずねても、「なにちょっと」と曖昧な返事をしている。
当時の私たちにとって「金」というものは特別の意味を持っていた。弘一君を撃った賊は、金製品にかぎって盗み去ったのである。彼は波多野氏のいわゆる「黄金収集狂」なのだ。その犯罪当夜、結城邸に居合わせたえたいの知れぬ人物赤井さんが、いま金ピカの姿をして私の前から逃げようとした。実に異様な出来事である。まさか赤井さんが犯人ではなかろうが、しかし、このあいだからの不思議な挙動といい、この金ピカ姿といい、なんとも合点の行かないことだ。
私たちは双方奥歯に物のはさまった形で、言葉少なに駅の方へ歩いたが、私は前々から気にかかりながらたずねかねていたことを、思いきって尋ねてみた。
「先夜ピストルの音がした少し前から、あなたは二階の客間にいらっしゃらなかったようですが、あの時あなたはどこにおいでになったのですか」
「私は酒に弱いので」赤井さんは待ち構えていたように答えた。「少し苦しくなったものですから、そとの空気を吸いたくもあったし、ちょうど煙草が切れたので、それを自分で買いに出かけていたのですよ」
「そうでしたか。それじゃピストルの音はお聞きにならなかったわけですね」
「ええ」
というようなことで、私たちは又プッツリだまり込んでしまったが、しばらく歩くと、今度は赤井さんが妙なことを言い出した。
「あの古井戸の向こう側の空地にね、事件のあった二日前まで、近所の|古《ふる》|木《き》|屋《や》の古材木がいっぱい置いてあったのです。もしその材木が売れてしまわなかったら、それが邪魔をしているので、僕たちの見た例の犬の足跡なんかもつかなかったわけです。ね、そうじゃありませんか。僕はそのことをつい今しがた聞いたばかりですが」
赤井さんはつまらないことを、さも意味ありげにいうのだ。
てれ隠しか、そうでなければ、彼はやっぱり利口ぶった薄ばかである。なぜといって、事件の二日前にそこに材木が置いてあろうがなかろうが、事件にはなんの関係もないことだ。そのために足跡がさまたげられるわけもない。まったく無意味なことである。私がそれをいうと、赤井さんは、
「そういってしまえば、それまでですがね」
と、まだもったいぶっている。実に変な男だ。
四 病床の素人探偵
その日は、ほかに別段の出来事もなく帰宅したが、それからまた一週間ばかりたって、私は三度目の鎌倉行きをした。弘一君はまだ入院していたけれど、気分はすっかり回復したから話にこいという通知を受け取ったのである。その一週間のあいだに、警察の方の犯人捜査がどんなふうになっていたかは、結城家の人から通知もなく、新聞にもいっこう記事が出なかったので、私は何も知るところがなかった。むろんまだ犯人は発見されないのであろう。
病室にはいってみると、弘一君は、まだ青白くはあるがなかなか元気な様子で、諸方から送られた花束と、母夫人と、看護婦にとりまかれていた。
「ああ、松村君よくきてくれたね」
彼は私の顔を見ると、うれしそうに手をさし出した。私はそれをにぎって回復の喜びを述べた。
「だが、僕は一生びっこは直らないのだよ。醜い片輪者だ」
弘一君が暗然としていった。私は答えるすべを知らなかった。母夫人は傍見をして眼をしばたたいていた。
しばらく雑談をかわしていると、夫人はそとに買物があるからといって、あとを私に頼んでおいて、席をはずしてくれた。弘一君はその上に看護婦も遠ざけてしまったので、私たちはもう何を話してもさしつかえなかった。そこで、まず話題にのぼったのは事件のことである。
弘一君の語るところによると、警察では、あれから例の古井戸をさらってみたり、足跡の靴足袋と同じ品を売った店を調べたりしたが、古井戸の底からは何も出ず、靴足袋はごくありふれた品で、どこの足袋屋でも日に何足と売っていることがわかった。つまりなんの得るところもなかったわけである。
波多野警部は、被害者の父が陸軍省の重要な人物なので、土地の有力者として敬意を表し、たびたび弘一君の病室を見舞い、弘一君が犯罪捜査に興味を持っていることがわかると、捜査の状況を逐一話して聞かせてさえくれたのである。
「そういうわけで、警察で知っているだけのことは僕にもわかっているんだが、実に不思議な事件だね。賊の足跡が広場のまんなかでポッツリ消えていたなんて、まるで探偵小説みたいだね。それに金製品に限って盗んだというのもおかしい。君は何かほかに聞きこんだことはないかね」
弘一君は、当の被害者であった上に、日頃の探偵好きから、この事件に非常な興味を感じている様子だった。
そこで私は、彼のまだ知らない事実、すなわち赤井さんの数々の異様な挙動、犬の足跡のこと、事件当夜、常爺さんが実際にすわった妙な仕草のことなどを、すべて話して聞かせた。
弘一君は私の話を「フンフン」とうなずいて、緊張して聞いていたが、私が話し終ると、ひどく考え込んでしまった。からだにさわりはしないかと心配になるほど、じっと眼をつむって考え込んでいた。が、やがて眼をひらくと非常に緊張した様子でつぶやいた。
「ことによると、これは皆が考えているよりも、ずっと恐ろしい犯罪だよ」
「恐ろしいといって、ただの泥棒ではないというのかね」
弘一君の恐怖の表情に打たれて、私は思わず真剣な調子になった。
「ウン、僕が今ふと想像したのは途方もないことだ。泥棒なんてなまやさしい犯罪ではない。ゾッとするような陰謀だ。恐ろしいと同時に、唾棄すべき悪魔の所業だ」
弘一君の痩せた青ざめた顔が、まっ白なベッドの中にうずまって、天井を凝視しながら、低い声で謎のようなことをいっている。夏の真昼、蝉の声がパッタリやんで、夢の中の沙漠みたいに静かである。
「君はいったい何を考えているのだ」
私は少しこわくなって尋ねた。
「いや、それはいえない」弘一君はやっぱり天井を見つめたままで答える。「まだ僕の白昼の夢でしかないからだ。それに、あんまり恐ろしいことだ。まずゆっくり考えてみよう。材料は豊富にそろっている。この事件には、奇怪な事実がみちみちている。が、表面奇怪なだけに、その裏にひそんでいる真理は、存外単純かもしれない」
弘一君は自分自身にいい聞かせる調子でそこまでしゃべると、また眼をとじてだまり込んでしまった。
彼の頭の中で、なにごとか或る恐ろしい事実が、徐々に形作られているのであろう。だが、私はそれがなんであるか、想像することもできなかった。
「第一の不思議は、古井戸から発して、古井戸で終っている足跡だね」
弘一君は考え考えしゃべりはじめた。
「古井戸というものに何か意味があるのかしら………いやいや、その考え方がいけないのだ。もっと別の解釈があるはずだ。松村君、君は覚えているかね。僕はこのあいだ波多野さんに現場の見取図を見せてもらって、要点だけは記憶しているつもりだが、あの足跡には変なところがあったね。賊が女みたいに内輪に歩くやつだということも一つだが、これはむろん非常に大切な点だが、そのほかに、もっと変なところがあった。波多野さんは、僕がそれを注意しても、いっこう気にもとめなかったようだ。たぶん君も気づかないでいるだろう。それはね、往きの足跡と帰りの足跡とが、不自然に離れていたことだよ。ああした場合、誰しもいちばん早い道をえらぶのが自然ではないだろうか。つまり、二点間の最短距離を歩くはずではないだろうか。それが、往きと帰りの足跡が、井戸と洋館の窓とを基点にしてそとにふくらんだ二つの弧をえがいている。そのあいだに大きな立ち木がはさまれていたほどだ。僕にはこれがひどく変に思われるのだよ」
これが弘一君のものの言い方である。彼は探偵小説が好きなほどあって、はなはだしく論理の遊戯をこのむ男であった。
「だって君、あの晩は闇夜だぜ。それに賊は人を撃ってあわてているのだ。来た時と違った道を通るくらい別に不自然でもないじゃないか」
私は彼の論理一点張りが不服であった。
「いや、闇夜だったからこそ、あんな足跡になったのだ。君は少し見当違いをしているようだが、僕のいう意味はね、ただ通った道が違っていたということではないのだよ。二つの足跡が故意に離してあったということはね、賊が自分のきた時の足跡を踏むまいとしたからではないかと、僕は思うのだ。それには、闇夜だから、用心深くよほど離れたところを歩かなくてはならない。ね、そこに意味があるのだよ。念のため波多野さんに、往き帰りの足跡の重なったところはなかったかと確かめてみたが、むろん一カ所もないということだった。あの闇夜に、同じ二点間を歩いた往き帰りの足跡が、一つも重なっていなかったなんて、偶然にしては少し変だとは思わないかね」
「なるほど、そういえば少し変だね。しかし、なぜ賊が足跡を重ねまいと、そんな苦労をしなければならなかったのだね。およそ意味がないじゃないか」
「いや、あるんだよ。が、まあそのつぎを考えてみよう」
弘一君はシャーロック・ホームズみたいに、結論を隠したがる。これも彼の日頃のくせである。
顔は青ざめ、息使いは荒く、嵩だかく繃帯を巻きつけた患部が、まだ痛むとみえて、
時々眉をしかめるような状態でいて、探偵談となると、弘一君は特殊の情熱を示すのだ。それに、こんどの事件は彼自身被害者であるばかりか、事件の裏に何かしら恐ろしい陰謀を感じているらしい。彼が真剣なのも無理ではない。
「第二の不思議は、盗難品が金製品に限られていた点だ。賊がなぜ現金に眼をくれなかったかという点だ。それを聞いた時、僕はすぐ思いあたった人物がある。この土地でもごく少数の人しか知らない秘密なんだ。現に波多野さんなんかも、その人物には気づかないでいるらしい」
「僕の知らない人かね」
「ウン、むろん知らないだろう。僕の友だちでは甲田君が知っているだけだ。いつか話したことがあるんでね」
「いったい誰のことだい。そして、その人物が犯人だというのかい」
「いや、そうじゃないと思うのだ。だから、僕は波多野さんにもその人物のことを話さなかった。君にもまるで知らない人のことを話したって仕方がない。一時ちょっと疑っただけで、僕の思い違いなんだ。その人だとすると、ほかの点がどうも一致しないからね」
そういったまま、彼はまた眼をつむってしまった。いやに人をじらす男だ。だが、彼はこういう推理ごとにかけては確かに私より一枚うわてなんだから、どうもいたしかたがない。
私は病人のお伽をするつもりで、根気よく待っていると、やがて、彼はパッチリと眼をひらいた。その瞳が喜ばしげな光を放っている。
「君、盗まれた金製品のうちで一ばん大きいのはなんだと思う。おそらくあの置時計だね。どのくらいの寸法だったかしら、縦が五寸、幅と奥行が三寸、だいたいそんなものだね。それから目方だ。五百匁、そんなものじゃなかろうか」
「僕はそれをよく見覚えてはいないけれど、お父さんが話されたのを聞くと、ちょうどそんなものらしいね。だが、置時計の寸法や目方が、事件とどんな関係があるんだね。君も変なことを言い出すじゃないか」
私は弘一君が熱に浮かされているのではないかと思って、実際彼の額へ手を持っていきそうにした。だが、顔色を見ると、昂奮こそしているが、べつだん高熱らしくもない。
「いや、それが一ばんたいせつな点だ。僕は今やっとそこへ気がついたのだが、盗難品の大きさなり目方なりが、非常に重大な意味を持っているのだよ」
「賊が持ち運びできたかどうかをいっているの?」
だが、あとで考えると、なんというおろかな私の質問であったことか。彼はそれには答えず又しても突飛なことを口走るのだ。
「君、そのうしろの花瓶の花を抜いて、花瓶だけをね、この窓からそとの塀を目がけて力いっぱい投げてくれないか」
気ちがいの沙汰である。弘一君はその病室に飾ってあった花瓶を、窓のそとの塀に投げつけよというのだ。花瓶というのは高さ五寸ほどの瀬戸物で、べつだん変った品ではない。
「何をいっているのだ。そんなことをすれば花瓶がこわれるじゃないか」
私はほんとうに弘一君の頭がどうかしたのではないかと思った。
「いいんだよ、われたって、それは僕の家から持ってきた花瓶なんだから。さあ、早く投げてくれたまえ」
それでも私が躊躇していると、彼はじれて、ベッドの上に起き上がりそうになる。そんなことされては大変だ。身動きさえ禁じられているからだではないか。
気ちがいじみているけれど、病人にさからうでもないと観念して、私はとうとう彼のばかばかしい頼みを承知した。ひらいた窓から、その花瓶を三間ばかり向こうのコンクリート塀へ、力いっぱい投げつけたのだ。花瓶は塀にあたって粉々にくだけてしまった。
弘一君は首を上げて花瓶の最後を見届けると、やっと安心した様子で、グッタリと又もとの姿勢に帰った。
「よし、よし、それでいいんだよ。ありがとう」
呑気な挨拶だ。私は今の物音を聞きつけて、誰かきやしないかと、ビクビクものでいたのに。
「ところで、常爺やの妙な挙動だがね」
弘一君が突然また別のことを言い出した。どうも、彼の思考力は統一を失ってしまっているようだ。私は少々心配になってきた。
「これがこんどの犯罪事件の、もっとも有力な手掛りになるのではないかと思うよ」
彼は私の顔色などには無関心で話しつづける。
「皆が書斎へかけつけた時、常爺やだけが窓際へ行ってすわりこんでしまった。面白いね。君、わかるかね。それには何か理由がなくてはならない。気ちがいではあるまいし、理由なしでそんなばかなまねをするはずはないからね」
「むろん理由はあったろうさ。だが、それがわからないのだ」
私は少し癇にさわって、荒っぽい口をきいた。
「僕にはわかるような気がするんだがね」弘一君はニヤニヤして「ほら、その翌朝、常爺やが何をしていたかということを考えてみたまえ」
「翌朝? 常爺さんが?」
私は彼の意味をさとりかねた。
「なんだね。君はちゃんと見ていたじゃないか。君はね、赤井さんのことばかり考えているものだから、そこへ気がつかないのだよ。ほら、君がさっき話したじゃないか。赤井さんが洋館の向こう側をのぞいていたって」
「ウン、それもおかしいのだよ」
「いやさ、君は別々に考えるからいけない。赤井さんがのぞいていたのは、ほかのものではない、常爺やだったとは考えられないかね」
「ああ、そうか」
なるほど、赤井さんは爺やの挙動をのぞいていたのかもしれない。
「爺やは、花壇いじりをしていたんだね。だがあすこにはいま花なんて咲いてないし、種を蒔く時節でもない。花壇いじりは変じゃないか。もっと別のことをしていたと考える方が自然だ」
「別のことというと?」
「考えてみたまえ。あの晩、爺やは書斎の中の不自然な場所にしばらくすわっていた。その翌早朝、花壇いじりだ。この二つを結び合わせると、そこから出てくる結論はたった一つしかない。ね、そうだろう。爺やは何か品物をかくしたのだ。
何をかくしたか、なぜかくしたか、それはわからない。しかし、常爺やが何かを隠さなければならなかったということだけは、間違いがないと思う。窓際へすわったのは、その品物を膝の下に敷いて隠すためだったに違いない。それから、爺やが何か隠そうとすれば、台所から一ばん手近で、一ばん自然な場所はあの花壇だ。花壇いじりと見せかける便宜もあるんだからね。ところで君にお願いだが、これからすぐ僕の家へ行って、ソッとあの花壇を掘り返して、その品物を持ってきてくれないだろうか。うずめた場所は土の色でじきわかるはずだよ」
私は弘一君の明察に一言もなかった。私が目撃しながら理解し得なかったことを、彼はとっさの間に解決した。
「それは行ってもいいがね。君はさっきただの泥棒の仕業ではなくて悪魔の所業だといったね。それには何か確かな根拠があるのかい。もう一つわからないのは、今の花瓶の一件だ。行く前にそいつを説明してくれないか」
「いや、すべて僕の想像にすぎないのだ。それに迂濶にしゃべれない性質のことなんだ。今は聞かないでくれたまえ。ただ、僕の想像が間違いでなかったら、この事件は表面に現われているよりも、ずっとずっと恐ろしい犯罪だということを、頭に入れておいてくれたまえ。そうでなくて、病人の僕がこんなに騒いだりするものかね」
そこで、私は看護婦にあとを頼んでおいて、ひとまず病院を辞したのであるが、私が病室を出ようとした時、弘一君が鼻歌を歌うような調子でフランス語で「シェルシェ・ラ・ファンム」(女を探せ)とつぶやいているのを耳にとめた。
結城家をおとずれたのはもうたそがれどきであった。少将は不在だったので、書生に挨拶しておいて、隙を見てなにげなく庭に出た。そして問題の花壇を掘り返した結果を簡単にいえば、弘一君の推察は的中したのだ。そこから妙な品物が出てきたのだ。それは古びた安物のアルミニューム製目がねサックで、最近うずめたものに違いなかった。私は常さんに感づかれぬように、ソッとそのサックを一人の女中に見せて、持主を尋ねてみたところが、意外にもそれは常さん自身の老眼鏡のサックであることがわかった。女中は目印があるから間違いはないといった。
常さんは彼自身の持物をかくしたのだ。妙なこともあるものだ。たとえそれが犯罪現場に落ちていたにもせよ、常さん自身の持物なれば、何も花壇へうずめたりしないで、だまって使用していればよいではないか。日常使用していたサックが突然なくなったら、その方がよっぽど変ではあるまいか。
いくら考えても、わかりそうもないので、私はともかくもそれを病院へ持って行くことにして、女中には固く口どめをしておいて、|母《おも》|屋《や》の方へ引き返したが、その途中、又してもわけのわからぬことにぶつかった。
そのころはほとんど日が暮れきって、足元もおぼつかないほど暗くなっていた。母屋の雨戸はすっかり締めてあったし、主人は不在なので、洋館の窓にも明かりは見えぬ。その薄暗い庭を、一つの影法師がこちらへ歩いてくるのだ。
近づいたのを見ると、シャツ一枚の赤井さんだ。この人は主人もいない家へ、しかも今時分このなりで、何をしに来たのであろう。
彼は私の姿に気づくと、ギョッとしたように立ち止まったが、見ると、どうしたというのであろう。シャツ一枚ではだしの上に、腰から下がびっしょりぬれて泥まみれだ。
「どうしたんです」
と聞くと、彼はきまりわるそうに、
「鯉を釣っていて、つい足をすべらしたんです。あの池は泥深くってね」
と弁解がましく言った。
五 逮捕された黄金狂
間もなく私は、再び弘一君の病室にいた。母夫人は私と行き違いに帰邸し、彼の枕もとには付添いの看護婦が退屈そうにしているばかりだった。私の姿を見ると弘一君はその看護婦を立ち去らせた。
「これだ、君の推察通り、花壇にこれがうずめてあった」
私はそういって、例のサックをベッドの上に置いた。弘一君は一と目それを見ると、非常に驚いた様子で、
「ああ、やっぱり…」とつぶやいた。
「やっぱりって、君はこれがうずめてあることを知っていたのかい。だが、女中に聞いてみると、常さんの老眼鏡のサックだということだが、常さんがなぜ自分の持物をうずめなければならなかったのか、僕にはサッパリわからないのだが」
「それは、爺やの持物には違いないけれど、もっと別の意味があるんだよ。君はあれを知らなかったのかなあ」
「あれっていうと?」
「これでもう疑う余地はなくなった。恐ろしいことだ……あいつがそんなことを……」
弘一君は私の問いに答えようともせず、ひどく昂奮してひとりごとをいっている。彼は確かに犯人をさとったのだ。
「あいつ」とはいったい誰のことなんだろう。で、私がそれを聞きただそうとしていた時、ドアにノックの音が聞こえた。
波多野警部が見舞いにきたのだ。入院以来何度目かのお見舞いである。彼は結城家に対して職務以上の好意を持っているのだ。
「大分元気のようですね」
「ええ、お蔭様で順調にいってます」
と、一と通りの挨拶がすむと、警部は少し改まって、
「夜分やって来たのは、実は急いでお知らせしたいことが起こったものだから」
と、ジロジロ私を見る。
「ご存知の松村君です。僕の親しい友人ですからおかまいなく」
弘一君がうながすと、
「いや、秘密というわけではないのだから、ではお話ししますが、犯人がわかったのです。きょう午後逮捕しました」
「え、犯人が捕縛されましたか」
弘一君と私とが同時に叫んだ。
「して、それはなにものです」
「結城さん。あなた琴野三右衛門というあの辺の地主を知っていますか」
はたして、琴野三右衛門に関係があったのだ。
読者は記憶されるであろう。いつか疑問の男赤井さんが、その三右衛門の家から、金箔だらけになって出てきたことを。
「ええ、知ってます。では……」
「その息子に光雄っていう気ちがいがある。一間に檻禁してめったに外出させないというから、たぶんご存知ないでしょう、私もきょうやっと知ったくらいです」
「いや、知ってます。それが犯人だとおっしゃるのですか」
「そうです。すでに逮捕して、一応は取調べもすみました。何分気ちがいのことで、明瞭に自白はしていませんけれど。彼は珍らしい気ちがいなんです。黄金狂とでもいいますかね。金色のものに非常な執着を持っている。私はその男の部屋を見て、びっくりしました。部屋中が仏壇みたいに金ピカなんです。鍍金であろうが、真鍮の粉や箔であろうが、金目には関係なく、ともかくも、金色をしたものなら、額縁から金紙からやすり屑にいたるまで、滅多無性に収集しているのです」
「それも聞いています。で、そういう黄金狂だから、私の家の金製品ばかりを盗み出したとおっしゃるのでしょうね」
「むろんそうです。|札《さつ》|入《い》れをそのままにして、金製品ばかりを、しかもたいした値打ちもない万年筆まで、もれなく集めていくというのは、常識では判断のできないことです。私も最初から、この事件には何かしら気ちがいめいた匂いがすると直覚していましたが、はたして気ちがいでした。しかも黄金狂です。ピッタリとあてはまるじゃありませんか」
「で、盗難品は出てきたのでしょうね」
どうしたわけか、弘一君の言葉には、わからぬほどではあったが、妙に皮肉な調子がこもっていた。
「いや、それはまだです。一応は調べましたが、その男の部屋にはないのです。しかし、気ちがいのことだから、どんな非常識なところへかくしているかわかりませんよ。なお充分調べさせるつもりですが」
「それから、あの事件のあった夜、その気ちがいが部屋を抜け出したという点も確かめられたのでしょうね。家族のものは、それに気づかなかったのですか」
弘一君が根掘り葉掘り聞きただすので、波多野氏はいやな顔をした。
「家族のものは誰も知らなかった様子です。しかし、気ちがいは裏の離座敷にいたのだから、窓から出て塀をのり越せば、誰にも知られずそとに出ることができるのですよ」
「なるほどなるほど」と、弘一君はますます皮肉である。「ところで、例の足跡ですがね。井戸から発して井戸で終っているのを、なんとご解釈になりました。これは非常にたいせつなことだと思うのですが」
「まるで、私が訊問されているようですね」
警部はチラと私の顔を見て、さも磊落に笑って見せたが、その実、腹の中ではひどく不快に思っている様子だった。
「何もそんなことを、あなたがご心配なさるには及びませんよ。それにはちゃんと警察なり予審判事なりの機関があるのですから」
「いや、御立腹なすっちゃ困りますが、僕は当の被害者なんだから、参考までに聞かせてくださってもいいじゃありませんか」
「お聞かせすることはできないのです。というのは、あなたはまだ明瞭になっていない点ばかりお尋ねなさるから」警部は仕方なく笑い出して「足跡の方も目下取調べ中なんですよ」
「すると確かな証拠は一つもないことになりますね。ただ黄金狂と金製盗難品の偶然の一致のほかには」
弘一君は無遠慮に言ってのける。私はそばで聞いていてヒヤヒヤした。
「偶然の一致ですって」辛抱強い波多野氏もこれにはさすがにムッとしたらしく、「あなたはどうしてそんなものの言い方するのです。警察が見当違いをやっているとでもいわれるのですか」
「そうです」弘一君がズバリととどめをさした。「警察が琴野光雄を逮捕したのは、とんでもない見当違いです」
「なんですって」警部はあっけにとられたが、しかし聞きずてにならぬという調子で「君は証拠でもあっていうのですか。でなければ、迂濶に口にすべきことではありませんよ」
「証拠はありあまるほどあります」
弘一君は平然として言う。
「ばかばかしい。事件以来ずっとそこに寝ていた君に、どうして証拠の収集ができます。あなたはまだからだがほんとうでないのだ。妄想ですよ。麻酔の夢ですよ」
「ハハハハハ、あなたはこわいのですか。あなたの失策を確かめられるのがこわいのですか」
弘一君はとうとう波多野氏をおこらせてしまった。そうまでいわれては、相手|が若年者《じゃくねんもの》であろうと、病人であろうと、そのまま引き下がるわけにはいかぬ。警部は顔を筋ばらせて、ガタリと椅子を進めた。
「では聞きましょう。君はいったい誰が犯人だとおっしゃるのです」
波多野警部はえらい見幕でつめよった。だが弘一君はなかなか返事をしない。考えをまとめるためか、天井を向いて眼をふさいでしまった。
彼はさっき私に、疑われやすいある人物を知っているが、それは真犯人でないと語った。その人物というのが、黄金狂の琴野光雄であったに違いない。なるほど非常に疑われやすい人物だ。で、その琴野光雄が真犯人でないとすると、弘一君はいったい全体なにものを犯人に擬しているのであろう。ほかにもう一人黄金狂があるとでもいうのかしら。もしやそれは赤井さんではないか。事件以来、赤井さんの挙動はどれもこれも疑わしいことばかりだ。それに琴野三右衛門の家から、金箔にまみれて出てきたことさえある。彼こそ別の意味の「黄金狂」ではないのか。
だが、私が花壇を調べるため結城家へ出かける時、弘一君は妙なことを口走った。「女を探せ」というフランス語の文句だ。この犯罪の裏にも「女」がいるという意味かもしれない。はてな、女といえばすぐに頭に浮かぶのは志摩子さんだが、彼女が何かこの事件に関係を持っているのかしら。おお、そういえば賊の足跡は女みたいに内輪だった。それから、ピストルの音のすぐあとで、書斎から「久松」という猫が飛び出してきた。あの「久松」は志摩子さんのペットだ。では彼女が? まさか、まさか。
そのほかにもう一人疑わしい人物がいる。老僕常さんだ。彼の目がねサックは、確かに犯罪現場に落ちていたし、彼はそれをわざわざ花壇へ埋めたではないか。
私がそんなことを考えているうちに、やがて弘一君がパッチリと眼をひらいて、待ち構えた波多野氏の方に向きなおると、低い声でゆっくりゆっくりしゃべりはじめた。
「琴野の息子は家内のものに知られぬように、家を抜け出すことができたかもしれません。だが、いくら気ちがいだからといって、足跡なしで歩くことは全然不可能です。井戸のところで消えていた足跡をいかに解釈すべきか。これが事件全体を左右するところの、根本的な問題です。これをそのままソッとしておいて犯人を探そうなんて、あんまり虫がいいというものです」
弘一君はそこまで話すと、息をととのえるためにちょっと休んだ。傷が痛むのかひどく眉をしかめている。
警部は彼のしゃべり方がなかなか論理的で、しかも自信にみちているので、やや圧倒された形で、静かに次ぎの言葉を待っている。
「ここにいる松村君が」と弘一君はまたはじめる。「それについて、実に面白い仮説を組み立てました。というのは、ご存知かどうか、あの井戸の向こう側に犬の足跡があった。それが靴足袋のあとを引継いだ形で反対側の道路までつづいていたそうですが、これは、もしや犯人が犬の足跡を模した型を手足にはめ、四ん這いになって歩いたのではないか、という説です。だが、この説は面白いことは面白いけれど、ひどく非実際的だ。なぜって君」と私を見て、「犬の足跡というトリックを考えついた犯人なら、なぜ井戸のところまでほんとうの足跡を残したのか。それじゃ、折角の名案がオジャンになるわけじゃないか。わざわざ半分だけ犬の足跡にしたなんて、たとえ気ちがいの仕業にもしろ、考えられぬことだよ。それに、気ちがいが、そんな手のこんだトリックを案出できるはずもないしね。で、遺憾ながらこの仮説は落第だ。とすると、足跡の不思議は依然として残されたことになる。ところで波多野さん。先日見せてくださった、例の現場見取図を書いた手帳をお持ちでしょうか。実はあの中に、この足跡の不思議を解決する鍵が隠されているんじゃないかと思うのですが」
波多野氏は幸い、ポケットの中にその手帳を持っていたので、見取図のところをひらいて、弘一君の枕下に置いた。弘一君は推理をつづける。
「ごらんなさい。さっき松村君にも話したことですが、この往きの足跡と帰りの足跡との間隔が不自然にひらき過ぎている。あなたは、犯罪者が大急ぎで歩く場合に、こんな廻り道をするとお考えですか。もう一つ、往復の足跡が一つも重なっていないのも、非常な不自然です。という僕の意味がおわかりになりますか。この二つの不自然はある一つのことを語っているのです。つまり、犯人が故意に足跡を重ねまいと綿密な注意を払ったことを語っているのです。ね、闇の中で足跡を重ねないためには、犯人は用心深く、このくらい離れたところを歩かねばならなかったのですよ」
「なるほど、足跡の重なっていなかった点は、いかにも不自然ですね。あるいはお説の通り故意にそうしたのかもしれない。だが、それにどういう意味が含まれているのですかね」
波多野警部が愚問を発した。弘一君はもどかしそうに、「これがわからないなんて。あなたは救い難い心理的錯覚におちいっていらっしゃるのです。つまりね、歩幅の狭い方がきた跡、広い方が急いで逃げた跡という考え、したがって、足跡は井戸に発し井戸に終ったという頑固な迷信です」
「おお、では君はあの足跡は井戸から井戸へではなくて、反対に書斎から書斎へ帰った跡だというのですか」
「そうです。僕は最初からそう思っていたのです」
「いや、いけない」警部はやっきとなって「一応はもっともだが、君の説にも非常な欠陥がある。それほど用意周到な犯人なれば、少しのことで、なぜ向こう側の道路まで歩かなかったか。中途で足跡が消えたんでは、折角のトリックがなんにもならない。それほどの犯人が、どうしてそんなばかばかしい手抜かりをやったか。これをどう解釈しますね」
「それはね、ごくつまらない理由なんです」弘一君はスラスラと答えるのだ。「あの晩は非常に暗い闇夜だったからです」
「闇夜? なにも闇夜だからって、井戸まで歩けたものが、それから道路までホンのわずかの距離を歩けなかったという理窟はありますまい」
「いや、そういう意味じゃないのです。犯人は井戸から向こうは足跡をつける必要がないと誤解したのです。滑稽な心理的錯誤ですよ。あなたはご存知ありますまいが、あの事件の二、三日前まで、一と月あまりのあいだ、井戸から向こうの空地に古材木がいっぱい置き並べてあった。犯人はそれを見慣れていたものだから、つい誤解をしたのです。彼はそれの運び去られたのを知らず、あの晩もそこに材木がある、材木があれば犯人はその上を歩くから足跡はつかない、つけなくてもよい、と考えたのです。つまり、闇夜ゆえのとんだ思い違いなんです。もしかしたら、犯人の足が井戸側の漆喰にぶつかって、それが材木だと思い込んでしまったのかもしれませんよ」
ああ、なんとあっけないほどに簡単明瞭な解釈であろう。私とてもその古材木の山を見たことがある。いや、見たばかりではない。先日赤井さんが意味ありげに古材木の話をしたのを聞いてさえいる。それでいて、病床の弘一君に解釈のできることが、私にはできなかったのだ。
「すると君は、あの足跡は犯人が外部からきたと見せかけるトリックにすぎないというのですね。つまり、犯人は結城邸の内部にかくれていたと考えるのですね」
さすがの波多野警部も、今は兜をぬいだ形で、弘一君の口から、はやく真犯人の名前を聞きたそうに見えた。
六 「算術の問題です」
「足跡がにせ物だとすると、犯人が宙を飛ばなかったかぎり、彼は邸内にいたと考えるほかはありません」弘一君は推理を進める。「つぎに、やつはなぜ金製品ばかりを目がけたか。この点が実に面白いのです。これは一つには、賊が琴野光雄という黄金狂のいることを知っていて、その気ちがいの仕業らしくよそおうためだったでしょう。足跡をつけたのも同じ意味です。だが、ほかに、もう一つ妙な理由があった。それはね、金製品類の大きさと目方に関係があるのですよ」
私は二度目だったから左ほどでないが、波多野氏は、この奇妙な説にあっけにとられたとみえ、だまり込んで弘一君の顔をながめるばかりだ。病床の素人探偵はかまわずつづける。
「この見取図が、ちゃんとそれを語っています。波多野さん、あなたは、この洋館のそとまで延びてきている池の図をただ意味もなく書きとめておかれたのですか」
「というと……ああ、君は……」と、警部は非常に驚いた様子であったが、やがて「まさか、そんなことが」と、半信半疑である。
「高価な金製品なれば賊がそれを目がけたとしても不自然ではありません。と、同時に、みな形が小さく、しかも充分目方があります。賊が盗み去ったと見せかけて、その実、池へ投げ込むにはおあつらえ向きじゃありませんか。松村君、さっき君に花瓶を投げてもらったのはね、あの花瓶が盗まれた置時計と同じくらいの重さだと思ったので、どれほど遠くまで投げられるものかためしてみたのだよ。つまり、池のどの辺に盗難品が沈んでいるかということをね」
「しかし、犯人はなぜそんな手数のかかるまねをしなければならなかったのです。君は盗賊の仕業と見せかけるためだといわれますが、それじゃあ一体なにを盗賊の仕業と見せかけるのです。金製品のほかに、盗まれた品でもあるのですか。全体なにが犯人の真の目的だとおっしゃるのですか」
と、警部。
「わかりきっているじゃありませんか。この僕を殺すのが、やつの目的だったのです」
「え、あなたを殺す? それはいったい誰です。なんの理由によってです」
「まあ、待ってください。僕がなぜそんなふうに考えるかと言いますとね、あの場合、賊は僕に向かって発砲する必要は少しもなかったのです。闇にまぎれて逃げてしまえば充分逃げられたのです。ピストル強盗だって、ピストルはおどかしに使うばかりで、めったに撃つものではありません。それに、たかが金製品くらいを盗んで、人を殺したり傷つけたりしちゃあ泥棒の方で引合いませんよ。窃盗罪と殺人罪とでは、刑罰が非常な違いですからね。と、考えてみると、あの発砲は非常に不自然です。ね、そうじゃありませんか。僕の疑いはここから出発しているのですよ。泥棒の方は見せかけで、真の目的は殺人だったのじゃないかとね」
「で、君はいったい誰を疑っているのです。君をうらんでいた人物でもあるのですか」
波多野氏はもどかしそうだ。
「ごく簡単な算術の問題です……僕はあらかじめ誰も疑っていたわけではありません。種々の材料の関係を理論的に吟味して、当然の結論に到達したまでです。で、その結論があたっているかどうかは、あなたが実地に調べてくださればわかることです。たとえば池の中に盗難品が沈んでいるかどうかという点をですね……算術の問題というのは、二から一を引くと一残るという、ごく明瞭なことです。簡単過ぎるほど簡単なことです」
弘一君はつづける。
「庭の唯一の足跡がにせ物だとしたら、賊は廊下伝いに|母《おも》|屋《や》の方へ逃げるしか道はありません。ところがその廊下にはピストル発射の刹那に、甲田君が通りかかっていたのです。御承知の通り洋館の廊下は一方口だし、電燈もついている。甲田君の眼をかすめて逃げることはまったく不可能です。隣室の志摩子さんの部屋も、すぐあなた方が調べたのですから、とてもかくれ場所にはならない。つまり、理論で押していくと、この事件には犯人の存在する余地が全然ないわけです」
「むろん私だってそこへ気のつかぬはずはない。賊は母屋の方へ逃げることはできなかった。したがって犯人は外部からという結論になったわけですよ」
と、波多野氏がいう。
「犯人が外部にも内部にもいなかった。とすると、あとに残るのは被害者の僕と最初の発見者の甲田君の二人です。だが被害者が犯人であるはずはない。どこの世界に自分で自分に発砲する馬鹿がありましょう。そこで最後にのこるのは甲田君です。二から一引くという算術の問題はここですよ。二人のうちから被害者を引き去れば、あとに残るのは加害者でなければなりません」
「では君は……」
警部と私が同時に叫んだ。
「そうです。われわれは錯覚におちいっていたのです。一人の人物がわれわれの盲点にかくれていたのです。彼は不思議な隠れ蓑……被害者の親友で事件の最初の発見者という隠れ蓑にかくれていたのです」
「じゃあ君は、それをはじめから知っていたのですか」
「いや、きょうになってわかったのです。あの晩はただ黒い人影を見ただけです」
「理窟はそうかも知らんが、まさか、あの甲田君が……」
私は彼の意外な結論を信じかねて口をはさんだ。
「さあ、そこだ。僕も友だちを罪人にしたくはない。だが、だまっていたら、あの気の毒な狂人が無実の罪を着なければならないのだ。それに、甲田君は決して僕らが考えていたような善良な男でない。今度のやり口を見たまえ。邪悪の知恵にみちているじゃないか。常人の考え出せることではない。悪魔だ。悪魔の所業だ」
「何か確かな証拠でもありますか」
警部はさすがに実際的である。
「彼のほかに犯罪を行ない得る者がなかったから彼だというのです。これが何よりの証拠じゃないでしょうか。しかしお望みとあればほかにもないではありません。松村君、君は甲田君の歩き癖が思い出せるかい」
と、聞かれて、私はハッと思いあたることがあった。甲田が犯人だなどとは夢にも思わないものだから、ついそれを胴忘れしていたが、彼は確かに女みたいな内輪の歩き癖であった。
「そういえば、甲田君は内輪だったね」
「それも一つの証拠です。だが、もっと確かなものがあります」
と弘一君は例の目がねサックをシーツの下から取り出して警部に渡し、常爺さんがそれをかくした顛末を語ったのち、
「このサックは本来爺やの持ち物です。だが爺やがもし犯人だったと仮定したら、彼は何もこれを花壇にうめる必要はない。素知らぬ顔をして使用していればよいわけです。誰も現場にサックが落ちていたことは知らないのですからね。つまりサックをかくしたのは、彼が犯人でない証拠ですよ。では、なぜかくしたか。わけがあるのです。松村君はどうしてあれに気がつかなかったかなあ。毎日いっしょに海へはいっていたくせに」
と、弘一君が説明したところによると、
甲田伸太郎は近眼鏡をかけていたが、結城家へくる時サックを用意しなかった。サックというものは常に必要はないが、海水浴などでは、あれがないとはずした目がねの置き場に困るものだ。それを見かねて常爺さんが自分の老眼鏡のサックを甲田君に貸しあたえた。このことは(私は迂濶にも気づかなかったが)弘一君ばかりでなく、志摩子さんも結城家の書生などもよく知っていた。そこで、常さんは現場のサックを見るとハッとして、甲田君をかばうためにそれをかくした次第である。
ではなぜ爺さんは甲田君にサックを貸したり、甲田君の罪をかくしたりしたかというに、この常爺さんは、甲田君のお父さんに非常に世話になった男で、結城家に雇われたのも甲田君のお父さんの紹介であった。したがってその恩人の子の甲田君になみなみならぬ好意を示すわけである。これらの事情は私もかねて知らぬではなかった。
「だが、あの爺さんは、ただサックが落ちていたからといって、どうしてそう簡単に甲田を疑ってしまったのでしょう。少し変ですね」
波多野氏はさすがに急所をつく。
「いや、それには理由があるのです。その理由をお話すれば、自然甲田君の殺人未遂の動機も明きらかになるのですが」
と弘一君は少し言いにくそうに話しはじめる。
それは一と口にいえば、弘一君、志摩子さん、甲田君のいわゆる恋愛三角関係なのだ。ずっと以前から、美しい志摩子さんを対象として、弘一君と甲田君とのあいだに暗黙の闘争が行なわれていたのである。この物語の最初にも述べた通り、二人は私などよりもよほど親しい間柄だった。それというのが、父結城と父甲田とに久しい友人関係が結ばれていたからで、したがって彼ら両人の心の中のはげしい闘争については、私は殆んど無智であった。弘一君と志摩子さんが|許嫁《いいなずけ》であること、その志摩子さんに対して甲田君が決して無関心でないことぐらいは、私にもおぼろげにわかっていたけれど、まさか相手を殺さねばならぬほどのせっぱつまった気持になっていようとは、夢にも知らなかった。弘一君はいう。
「恥かしい話をすると、僕らは誰もいないところでは、それとはいわず些細なことでよく口論した。いや、子供みたいに取っ組みあいさえやった。そうして泥の上をころがりながら、志摩子さんはおれのものだおれのものだと、お互いの心の中で叫んでいたのだ。一ばんいけないのは、志摩子さんの態度の曖昧なことだった。僕らのどちらへも失恋を感じるほどキッパリした態度を見せなかったことだ。そこで甲田君にすれば、許嫁という非常な強味を持っている僕を、殺してしまえば、という気になったのかもしれませんね。この僕らのいがみ合いを、常爺やはちゃんと知っていたのです。事件のあった日にも、僕らは庭でむきになって口論をした。それも爺やの耳にはいっていたに違いない。そこで、甲田君所持のサックを見ると、忠義な家来の直覚で、爺やは恐ろしい意味をさとったのでしょう。なぜといって、あの書斎は甲田君などめったにはいったことがないのだし、ピストルの音で彼がかけつけた時には、ただドアをひらいて倒れている僕を見るとすぐ、母屋の方へかけ出したわけですから、一ばん奥の窓のそばにサックを落とすはずがないからです」
これでいっさいが明白になった。弘一君の理路整然たる推理には、さすがの波多野警部も異議をさしはさむ余地がないように見えた。この上は池の底の盗難品を確かめることが残っているばかりだ。
しばらくすると、偶然の仕合わせにも警察署から波多野警部に電話で吉報をもたらした。その夜、結城家の池の底の盗難品を警察へ届け出たものがあった。池の底には例の金製品のほかに、兇器のピストルも、足跡に一致する靴足袋も、ガラス切りの道具まで沈めてあったことがわかった。
読者もすでに想像されたであろうように、それらの品を池の底から探し出したのは、例の赤井さんであった。彼がその夕方泥まみれになって結城邸の庭をうろついていたのは、池へ落ちたのではなくて、盗難品を取り出すためにそこへはいったのであった。
私は彼を犯人ではないかと疑ったりしたが、とんだ思い違いで、反対に彼もまた優秀なる一個の素人探偵だったのである。
私がそれを話すと、弘一君は、
「そうとも、僕は最初から気づいていたよ。常爺やがサックをうずめるところをのぞいていたのも、琴野三右衛門の家から金ピカになって出てきたのも、みな事件を探偵していたのだ。あの人の行動が、僕の推理には非常に参考になった。現にこのサックを発見することができたのも、つまり赤井さんのおかげだからね。さっき君が、赤井さんが池に落ちたと話した時には、サテはもうそこへ気がついたかと、びっくりしたほどだよ」と語った。
さて、以下の事実は、直接見聞したわけではないが、便宜上順序を追ってしるしておくと、池から出た品物のうち、例の靴足袋は、浮き上がることを恐れてか、重い灰皿といっしょにハンカチに包んで沈めてあった。それがなんと甲田伸太郎のハンカチに違いないことがわかったのだ。というのは、そのハンカチの端にS・Kと彼の頭字が墨で書き込んであったからだ。彼もまさか池の底の品物が取り出されようとは思わず、ハンカチの目印まで注意が行き届かなかったのであろう。
翌日甲田伸太郎が殺人被疑者として引致されたのは申すまでもない。だが、彼はあんなおとなしそうな様子でいて、芯は非常な強情者であった。いかに責められてもなかなか実を吐かないのだ。では、事件の直前どこにいたかと問いつめられると、彼はだまりこんで何もいわぬ。つまりピストル発射までのアリバイも成立しないのだ。最初は頬を冷やすために玄関に出ていたなどと申し立てたけれど、それは結城家の書生の証言で、たちまち覆えされてしまった。あの晩一人の書生はずっと玄関脇の部屋にいたのだ。赤井さんが煙草を買いに出たのがほんとうだったことも、その書生の口からわかった。しかしいくら強情を張ったところで、証拠がそろい過ぎているのだから仕方がない。その上アリバイさえなりたたぬのだ。いうまでもなく彼は起訴され、正式の裁判を受けることになった。未決入りである。
七 砂丘の蔭
それから一週間ほどして私は結城家をおとずれた。いよいよ弘一君が退院したという通知に接したからだ。
まだ邸内にしめっぽい空気がただよっていた。無理もない、一人息子の弘一君が、退院したとはいえ、生れもつかぬ片輪者になってしまったのだから。父少将も母夫人も、それぞれの仕方で私に愚痴を聞かせた。中にもいちばんつらい立場は志摩子さんである。彼女はせめてもの詫び心か、まるで親切な妻のように、不自由な弘一君につききって世話をしていると、母夫人の話であった。
弘一君は思ったよりも元気で、血なまぐさい事件は忘れてしまったかのように、小説の腹案などを話して聞かせた。夕方例の赤井さんがたずねて来た。私はこの人には、とんだ疑いをかけてすまなく思っていたので、以前よりは親しく話しかけた。弘一君も素人探偵の来訪を喜んでいる様子だった。
夕食後、私たちは志摩子さんをさそって四人連れで海岸へ散歩に出た。
「松葉杖って、案外便利なものだね。ホラ見たまえ、こんなに走ることだってできるから」
弘一君は浴衣の裾をひるがえして、変な恰好で飛んで見せた。新しい松葉杖の先が地面につくたびにコトコトと淋しい音をたてる。
「あぶないわ、あぶないわ」
志摩子さんは、彼につきまとって走りながら、ハラハラして叫んだ。
「諸君、これから由井ガ浜の余興を見に行こう」
と弘一君が大はしゃぎで動議を出した。
「歩けますか」
赤井さんがあやぶむ。
「大丈夫、一里だって。余興場は十丁もありやしない」
新米の不具者は、歩きはじめの子供みたいに、歩くことを享楽している。私たちは冗談を投げ合いながら、月夜の田舎道を、涼しい浜風に袂を吹かせて歩いた。道のなかばで、話が途切れて、四人ともだまり込んで歩いていた時、何を思い出したのか、赤井さんがクツクツ笑い出した。非常に面白いことらしく、いつまでも笑いが止まらぬ。
「赤井さん、何をそんなに笑っていらっしゃいますのよ」志摩子さんがたまらなくなってたずねた。
「いえね、つまらないことなんですよ」赤井さんはまだ笑いつづけながら答える。「あのね、私は今人間の足っていうものについて、変なことを考えていたんですよ。からだの小さい人の足はからだに相当して小さいはずだとお思いでしょう。ところがね、からだは小作りな癖に足だけはひどく大きい人間もあることがわかったのですよ。滑稽じゃありませんか、足だけ大きいのですよ」
赤井さんはそういって又クツクツと笑い出した。志摩子さんはお義理に「まあ」と笑って見せたが、むろんどこが面白いのだかわからぬ様子だった。赤井さんのいったりしたりすることはなんとなく異様である。妙な男だ。
夏の夜の由井ガ浜は、お祭りみたいに明かるくにぎやかであった。浜の舞台では、お神楽めいた余興がはじまっていた。黒山の人だかりだ。舞台をかこんで|葭《よし》|簾《ず》張りの市街ができている。喫茶店、レストラン、雑貨屋、水菓子屋。そして百燭光の電燈と、蓄音器と、白粉の濃い女たち。
私たちはとある明かるい喫茶店に腰をかけて、冷たいものを飲んだが、そこで赤井さんがまた礼儀を無視した変な挙動をした。彼は先日池の底を探った時、ガラスのかけらで指を傷つけたといって繃帯をしていた。それが喫茶店にいるあいだにほどけたものだから、口を使って結ぼうとするのだが、なかなか結べない。志摩子さんが見かねて、
「あたし、結んで上げましょうか」と手を出すと、赤井さんは不作法にも、その申し出を無視して、別のがわに腰かけていた弘一君の前へ指をつき出し「結城さんすみませんが」と、とうとう弘一君に結ばせてしまった。この男はやっぱり根が非常識なのであろうか、それとも|天邪鬼《あまのじゃく》というやつかしら。
やがて、主として弘一君と赤井さんのあいだに探偵談がはじまった。両人ともこんどの事件では、警察を出し抜いて非常な手柄をたてたのだから、話がはずむのも道理である。話がはずむにつれて、彼らは例によって、内外の、現実のあるいは小説上の名探偵たちをけなしはじめた。弘一君が日ごろ目のかたきにしている「明智小五郎物語」の主人公が、槍玉に上がったのは申すまでもない。
「あの男なんか、まだほんとうにかしこい犯人を扱ったことがないのですよ。普通ありきたりの犯人をとらえて得意になっているんじゃ、名探偵とはいえませんからね」
弘一君はそんなふうな言い方をした。
喫茶店を出てからも、両人の探偵談はなかなか尽きぬ。自然私たちは二組にわかれ、志摩子さんと私とは、話に夢中の二人を追い越して、ずっと先を歩いていた。
志摩子さんは人なき波打際を、高らかに歌いつつ歩く。私も知っている曲は合唱した。月はいく億の銀粉と化して波頭に踊り、涼しい浜風が、袂を、裾を、合唱の声を、はるかかなたの松林へと吹いて通る。
「あの人たち、びっくりさせてやりましょうよ」
突然立ち上がった志摩子さんが、茶目らしく私にささやいた。振り向くと二人の素人探偵は、まだ熱心に語らいつつ一丁もおくれて歩いてくる。
志摩子さんが、かたわらの大きな砂丘をさして、「ね、ね」としきりにうながすものだから、私もついその気になり、かくれん坊の子供みたいに、二人してその砂丘のかげに身をかくした。
「どこへ行っちまったんだろう」
しばらくすると、あとの二人の足音が近づき、弘一君のこういう声が聞こえた。彼らは私たちのかくれるのを知らないでいたのだ。
「まさか迷子にもなりますまい。それよりも私たちはここで一休みしようじゃありませんか。砂地に松葉杖では疲れるでしょう」
赤井さんの声が言って、二人はそこへ腰をおろした様子である。偶然にも、砂丘をはさんで、私たちと背中合わせの位置だ。
「ここなら誰も聞く者はありますまい。実はね、内密であなたにお話ししたいことがあったのですよ」
赤井さんの声である。今にも「ワッ」と飛び出そうかと身構えしていた私たちは、その声にまた腰をおちつけた。盗み聞きは悪いとは知りながら、気まずい羽目になって、つい出るにも出られぬ気持だった。
「あなたは、甲田君が真犯人だとほんとうに信じていらっしゃるのですか」
赤井さんの沈んだ重々しい声が聞こえた。いまさら変なことを言い出したものである。だが、なぜか私は、その声にギョッとして聞き耳を立てないではいられなかった。
「信じるも信じないもありません」と弘一君、「現場付近に二人の人間しかいなくて、一人が、被害者であったら、他の一人は犯人と答えるほかないじゃありませんか。それにハンカチだとか目がねサックだとか証拠がそろい過ぎているし。しかしあなたは、それでもまだ疑わしい点があるとお考えなんですか」
「実はね、甲田君がとうとうアリバイを申立てたのですよ。僕はある事情で係りの予審判事と懇意でしてね、世間のまだ知らないことを知っているのです。甲田君はピストルの音を聞いた時、廊下にいたというのも、その前に玄関へ頬を冷やしに出たというのも、みな嘘なんだそうです。なぜそんな嘘をついたかというと、あの時甲田君は、泥棒よりももっと恥かしいことを――志摩子さんの日記帳を盗み読みしていたからなんです。この申立てはよく辻褄が合っています。ピストルの音で驚いて飛び出したから日記帳がそのまま机の上にほうり出してあったのです。そうでなければ、日記帳を盗み読んだとすれば、疑われないように元の引出しへしまっておくのが当然ですからね。とすると、甲田君がピストルの音に驚いたのもほんとうらしい。つまり彼がそれを発射したのではないことになります」
「なんのために日記帳を読んでいたというのでしょう」
「おや、あなたはわかりませんか。彼は恋人の志摩子さんのほんとうの心を判じかねたのです。日記帳を見たら、もしやそれがわかりはしないかと思ったのです。可哀そうな甲田君が、どんなにイライラしていたかがわかるではありませんか」
「で、予審判事はその申立てを信じたのでしょうか」
「いや、信じなかったのです。あなたもおっしゃる通り、甲田君に不利な証拠がそろい過ぎていますからね」
「そうでしょうとも。そんな薄弱な申立てがなんになるものですか」
「ところが、僕は、甲田君に不利な証拠がそろっている反面には、有利な証拠もいくらかあるような気がするのです。第一に、あなたを殺すのが目的なら、なぜ生死を確かめもしないで人を呼んだかという点です。いくらあわてていたからといって、一方では、前もってにせの足跡をつけておいたりした周到さにくらべて、あんまり辻褄が合わないじゃありませんか。第二には、にせの足跡をつける場合、往復の逆であることを看破されないために、足跡の重なることを避けたほど綿密な彼が、自分の足癖をそのまま、内輪につけておいたというのも信じ難いことです」
赤井さんの声がつづく。
「簡単に考えれば殺人とはただ人を殺す、ピストルを発射するという一つの行動にすぎませんけれど、複雑に考えると、幾百幾千という些細な行動の集合から成り立っているものです。ことに罪を他に転嫁するための欺瞞が行なわれた場合は一そうそれがはなはだしい。こんどの事件でも、目がねサック、靴足袋、偽の足跡、机上にほうり出してあった日記帳、池の底の金製品と、ごく大きな要素をあげただけでも十ぐらいはある。その各要素について犯人の一挙手一投足を綿密にたどっていくならば、そこに幾百幾千の特殊なる小行動が存在するわけです。そこで、映画フィルムの一コマ一コマを検査するように、探偵がその小さな行動の一々を推理することができたならば、どれほど頭脳明晰で用意周到な犯人でも、到底処罰をまぬがれることはできないはずです。しかしそこまでの推理は残念ながら人間力では不可能ですから、せめてわれわれは、どんな微細なつまらない点にも、たえず注意を払って、犯罪フィルムのある重要な一コマにぶつかることを僥倖するほかはありません。その意味で僕は、幼児からの幾億回とも知れぬ反覆で、一種の反射運動と化しているようなこと、たとえばある人は歩く時右足からはじめるか左足からはじめるか、手拭をしぼるとき右にねじるか左にねじるか、服を着るとき右手から通すか、左手から通すかというような、ごくごく些細な点に、つねに注意を払っています。これらの一見つまらないことが、犯罪捜査にあたって非常に重大な決定要素となることがないとも限らぬからです。
さて、甲田君にとっての第三の反証ですが、それは例の靴足袋とおもりの灰皿とを包んであったハンカチの結び目なのです。私はその結び目をくずさぬように中の品を抜き出し、ハンカチは結んだまま波多野警部に渡しておきました。非常にたいせつな証拠品だと思ったからです。ではそれはどんな結び方かというと、私共の地方で俗に立て結びという、二つの結び端が結び目の下部と直角をなして十文字に見えるような、つまり子供のよくやる間違った結び方なのです。普通のおとなでは非常に|稀《まれ》にしかそんな結び方をする人はありません。やろうと思ってもできないのです。そこで僕は早速甲田君の家を訪問して、お母さんにお願いして、何か甲田君が結んだものがないか探してもらったところ、幸い、甲田君が自分で結んだ帳面の綴糸や、書斎の電燈を吊ってある太い打紐や、そのほか三つも四つも結び癖のわかるものが出てきました。ところが例外なく普通の結び方なのです。まさか甲田君があのハンカチの結び方にまで欺瞞をやったとは考えられない。結び目なんかよりもずっと危険な、頭字の入ったハンカチを平気で使ったくらいですからね。で、それが甲田君にとっては一つの有力な反証になるわけです」
赤井さんの声がちょっと切れた。弘一君は何もいわぬ。相手の微細な観察に感じ入っているのであろう。盗み聞く私たちも、真剣に聞き入っていた。ことに志摩子さんは、息使いもはげしく、からだが小さく震えている。敏感な少女はすでにある恐ろしい事実を察していたのであろうか。
八 THOU ART THE MAN
しばらくすると、赤井さんがクスクス笑う声が聞こえてきた。彼は気味わるくいつまでも笑っていたが、やがてはじめる。
「それから、第四のそしてもっとも大切な反証はね、ウフフフフフフ、実に滑稽なことなんです。それはね、例の靴足袋について、とんでもない錯誤があったのですよ。池の底から出た靴足袋はなるほど地面の足跡とは一致します。そこまでは申し分ないのです。水にぬれたとはいえ、ゴム底は収縮しませんから、ちゃんと元の形がわかります。僕はこころみにその文数をはかってみましたが、十文の足袋と同じ大きさでした。ところがね」
と、いって赤井さんは又ちょっとだまった。次ぎの言葉を出すのが惜しい様子である。
「ところがね」と赤井さんは喉の奥でクスクス笑っている調子でつづける。「滑稽なことにはあの靴足袋は、甲田君の足には小さ過ぎて合わないのですよ。さっきのハンカチの一件で甲田家をたずねたときお母さんに聞いてみると、甲田君は去年の冬でさえすでに十一文の足袋をはいていたじゃありませんか。これだけで甲田君の無罪は確定的です。なぜといって、自分の足に合わない靴足袋ならば、決して不利な証拠ではないのです。何をくるしんで重りをつけて沈めたりしましょう。
この滑稽な事実は、警察でも裁判所でもまだ気づいていないらしい。あんまり予想外なばかばかしい間違いですからね。取調べが進むうちに間違いがわかるかもしれません。それとも、あの足袋を嫌疑者にはかせてみるような機会が起こらなかったら、あるいは誰も気づかぬまま済んでしまうかもしれません。
お母さんもいってましたが、甲田君は身長の割に非常に足が大きいのです。これが間違いの元なんです。想像するに、真犯人は甲田君より少し背の高いやつですね。やつは自分の足袋の文数から考えて、自分より背の低い甲田君が、まさか自分より大きい足袋をはくはずがないと信じきっていたために、この滑稽な錯誤が生じたのかもしれませんね」
「証拠の羅列はもうたくさんです」
弘一君が突然、イライラした調子でさけぶのが聞こえた。
「結論を言ってください。あなたはいったい、誰が犯人だとおっしゃるのですか」
「それは、あなたです」
赤井さんの落ちついた声が、真正面から人差指をつきつけるような調子で言った。
「アハハハハハ、おどかしちゃいけません。冗談はよしてください。どこの世界に、父親の大切にしている品物を池に投げ込んだり、自分で自分に発砲したりするやつがありましょう。びっくりさせないでください」
弘一君が頓狂な声で否定した。
「犯人は、あなたです」
赤井さんは同じ調子でくり返す。
「あなた本気でいっているのですか。何を証拠に? 何の理由で?」
「ごく明白なことです。あなたの言い方を借りると、簡単な算術の問題にすぎません。二から一引く一。二人のうちの甲田君が犯人でなかったら、どんなに不自然に見えようとも、残るあなたが犯人です。あなた御自分の帯の結び目に手をやってごらんなさい。結び端がピョコンと縦になってますよ。あなたは子供の時分の間違った結び癖をおとなになってもつづけているのです。その点だけは珍らしく不器用ですね。しかし、帯はうしろで結ぶものですから例外かもしれないと思って、僕はさっきあなたにこの繃帯を結んでもらいました。ごらんなさい。やっぱり十字型の間違った結び方です。これも一つの有力な証拠にはなりませんかね」
赤井さんは沈んだ声で、あくまで丁重な言葉使いをする。それがいっそう無気味な感じをあたえた。
「だが、僕がなぜ自分自身をうたなければならなかったのです。僕は臆病だし見え坊です。ただ甲田君をおとしいれるくらいのために、痛い思いをしたり、生涯不具者で暮らすようなばかなまねはしません。ほかにいくらだって方法があるはずです」
弘一君の声には確信がこもっていた。なるほど、なるほど、いかに甲田君をにくんだからといって、弘一君自身が命にもかかわる大傷をおったのでは引き合わないはずだ。被害者が、すなわち加害者だなんて、そんなばかな話があるものか、赤井さんは、とんだ思い違いをしているのかもしれない。
「さあ、そこです。その信じ難い点に、この犯罪の大きな欺瞞がかくされている。この事件ではすべての人が催眠術にかかっています。根本的な一大錯誤におちいっています。それは『被害者は同時に加害者ではあり得ない』という迷信です。それから、この犯罪が単に甲田君を無実の罪におとすために行なわれたと考えることも、大変な間違いです。そんなことは実に小さな副産物にすぎません」
赤井さんはゆっくりゆっくり丁重な言葉でつづける。
「実に考えた犯罪です。しかしほんとうの悪人の考えではなくて、むしろ小説家の空想ですね。あなたは一人で被害者と犯人と探偵の一人三役を演じるという着想に有頂天になってしまったのでしょう。甲田君のサックを盗み出して現場に捨てておいたのもあなたです。金製品を池に投げ込んだのも、窓ガラスを切ったのも、偽の足跡をつけたのも、いうまでもなくあなたです。そうしておいて、隣りの志摩子さんの書斎で甲田君が日記帳を読んでいる機会を利用して(この日記帳を読ませたのも、あなたがそれとなく暗示をあたえたのではありませんか)、煙硝の焼けこげがつかぬようにピストルの手を高く上げて、いちばん離れた足首を射ったのです。あなたはちゃんと、その物音で隣室の甲田君が飛んでくることを予知していた。同時に、恋人の日記の盗み読みという恥かしい行為のため、甲田君がアリバイの申し立てについて、曖昧な、疑われやすい態度を示すに違いないと見込んでいたのです。
うってしまうと、あなたは傷の痛さをこらえて、最後の証拠品であるピストルを、ひらいた窓越しに池の中へ投げ込みました。あなたの倒れていた足の位置が窓と池との一直線上にあるのが一つの証拠です。これは波多野氏の見取図にもちゃんと現われています。そして、すべての仕事が終ると、あなたは気を失って倒れた。あるいはそのていをよそおったという方が正しいかもしれません。足首の傷は決して軽いものではなかったけれど、命にかかわる気づかいはない。あなたの目的にとってはちょうど過不足のない程度の傷でした」
「アハハハハハ、なるほど、なるほど、一応は筋の通ったお考えですね」と弘一君の声は、気のせいかうわずっていた。「だが、それだけの目的をはたすために、生れもつかぬ不具者になるというのは、少し変ですね。どんなに証拠がそろっていても、ただこの一点で僕は無罪放免かもしれませんよ」
「さあそこです。さっきもいったではありませんか。甲田君を罪におとすのも一つの目的には違いなかった。だが、ほんとうの目的はもっと別にあったのです。あなたは御自分で臆病者だとおっしゃった。なるほどその通りです。自分で自分を射ったのは、あなたが極度の臆病者であったからです。ああ、あなたはまだごまかそうとしていますね。僕がそれを知らないとでも思っているのですか。では、言いましょう。あなたは極端な軍隊恐怖病者なのです。あなたは徴兵検査に合格して、年末には入営することになっていた。それをどうかしてまぬがれようとしたのです。私はあなたが学生時代、近眼鏡をかけて眼を悪くしようと試みたことを探り出しました。また、あなたの小説を読んで、あなたの意識下にひそんでいる、軍隊恐怖の幽霊を発見しました。ことにあなたは軍人の子です。姑息な手段はかえって発覚のおそれがある。そこであなたは内臓を害するとか、指を切るというような常套手段を排して、思いきった方法を選んだ。しかもそれは一石にして二鳥をおとす名案でもあったのです……おや、どうかしましたか。しっかりなさい。まだお話しすることがあります。
気を失うのではないかとびっくりしましたよ。しっかりしてください。僕は君を警察へつき出す気はありません。ただ僕の推理が正しいかどうかを確かめたかったのです。しかし、君はまさかこのままだまっている気ではありますまいね。それに、君はもう君にとって何より恐ろしい処罰を受けてしまったのです。この砂丘のうしろに、君のいちばん聞かれたくない女性が、今の話をすっかり聞いていたのです。
では僕はこれでお別れします。君はひとりで静かに考える時間が必要です。ただお別れする前に僕の本名を申し上げておきましょう。僕はね、君が日頃軽蔑していたあの明智小五郎なのです。お父さんの御依頼を受けて陸軍の或る秘密な盗難事件を調べるために、変名でお宅へ出入りしていたのです。あなたは明智小五郎は理窟っぽいばかりだとおっしゃった。だが、その私でも、小説家の空想よりは実際的だということがおわかりになりましたか……ではさようなら」
そして、驚愕と当惑のために上の空の私の耳へ、赤井さんが砂を踏んで遠ざかる静かな足音が聞こえてきた。
月と手袋
一
シナリオ・ライター北村克彦は、股野重郎を訪ねるために、その門前に近づいていた。
東の空に、工場の建物の黒い影の上に、化けもののような巨大な赤い月が出ていた。歩くにしたがって、この月が移動し、まるで彼を尾行しているように見えた。克彦はそのときの巨大な赤い月を、あの凶事の前兆として、いつまでも忘れることができなかった。
二月の寒い夜であった。まだ七時をすぎたばかりなのに、その町は寝しずまったように静かで、人通りもなかった。道に沿って細いどぶ川が流れていた。川の向こうには何かの工場の長い塀がつづいていた。その工場の煙突とすれすれに、巨大な赤い月が、彼の足並みと調子をあわせて、ゆっくりと移動していた。
こちら側には閑静な住宅のコンクリート塀や生垣がつづいていた。そのなかの低いコンクリート塀にかこまれた二階建ての木造洋館が、彼の目ざす股野の家であった。石の門柱の上に、丸い電灯がボンヤリついていた。門からポーチまで十メートルほどあった。二階の正面の窓にあかりが見えていた。股野の書斎である。黄色いカーテンで隠されていたが、太いべっこう縁の目がねをかけ、ベレ帽に茶色のジャンパーを着た、いやみな股野が、そこにいることが想像された。克彦はそれを思うと、急にいや気がさして、引き返したくなった。
(あいつに会えば、きょうは喧嘩になるかもしれない)
股野重郎は元男爵を売りものにしている一種の高利貸しであった。戦争が終ったとき一応財産をなくしたが、土地と株券が少しばかり残っていたのが、値上がりして相当の額になった。それを元手に遊んで暮らすことを考えた。元貴族にも似合わない利口ものだった。日東映画会社の社長と知りあいなのを幸いに、映画界へ首を突っこんできた。高級映画ゴロであった。そして映画人のスキャンダルをあさり、それを種に金儲けをすることを考えた。痩せ型の貴族貴族した青白い顔に似合わぬ、凄腕を持っていた。弱点を握った相手でなければ金を貸さなかった。それで充分の顧客があった。公正証書も担保物も不要だった。相手の公表を憚る弱点を唯一の武器として、しかし、月五分以上の利息はむさぼらなかった。彼の資産はみるみるふえて行った。
北村克彦も股野の金を借りたことがある。しかし半年前に元利ともきれいに払ってしまった。だから股野に会うことを躊躇する理由はそれではなかった。
股野重郎の細君のあけみは、もと少女歌劇女優の夕空あけみであった。男役でちょっと売り出していたのを、日東映画に引き抜かれて入社したが、出る映画も出る映画も不成功に終り、腐りきって、身のふりかたを思案していたとき、股野に拾われて結婚した。元男爵と財産に目がくれたのである。シナリオ・ライターの克彦は、日東映画時代の知り合いであったが、あけみが三年前股野と結婚してからも、時たまの交際をつづけていた。それが、半年ほど前に、妙なきっかけから、愛し合うようになって、今では股野の目を盗んで、しばしば忍び会う仲になっていた。
抜け目のない股野が、それを気づかぬはずはない。だが彼はなぜか素知らぬふりをしていた。時たま厭味のようなことを言わぬではなかったが、正面から責めたことはない。細君のあけみに対しても同じ態度をとっていた。
(しかし、今夜は破裂しそうだ。是非話したいことがあるからといって、おれを呼びつけた。二人をならべておいて、痛烈にやっつけるつもりかもしれない)
表面は晩餐の招待だったが、三人顔を会わせて食事をするのは、猶更らたまらないと思ったので、用事にかこつけて食事をすませてから、やってきたのである。できるなら、あけみを遠ざけて、股野だけと話したかった。
二階の窓あかりを見ると、急に帰りたくなったが、そしてそのとき帰りさえすれば、あんなことは起こらなかったのであろうが、克彦は、折角決心して出かけてきたのだから、一|寸《すん》のばしにしても仕方がない、ともかく話をつけてしまおうと考えた。そして、薄暗いポーチに立って、ベルを押した。
中からドアをあけたのは、いつもの女中ではなくて、あけみだった。派手な格子縞のスカートに、燃えるような緑色のセーターを着ていた。小柄で、すんなりしていて、三十歳にしては三つ四つも若く見えた。彼女の魅力の短い上唇を、ニッと曲げて微笑したが、眼に不安の色がただよっていた。
「ねえやはどうしたの?」
「あなたが食事にこないとわかったものだから、夕方から泊まりがけで、うちへ帰らせたの。今夜は二人きりよ」
「彼は二階? いよいよあのことを切り出すつもりかな」
「わからない。でも、正直に言っちゃうほうがいいわ。そして、かたをつけるのよ」
「ウン、僕もそう思う」
せまいホールにはいると、階段の上に股野がたちはだかって、こちらを見おろしていた。
「やあ、おそくなって」
「待っていたよ。さあ、あがりたまえ」
二階の書斎にはムンムンするほどストーヴが燃えていた。天井を煙突の這っている石炭ストーヴだ。寒がり屋の股野は、これでなくては冬がすごせないと言っていた。
一方の壁にはめこみの小金庫がある。イギリスものらしい古風な飾り棚がある。一方のすみに畳一畳もある事務机、まん中には客用の丸テーブル、ソファー、アームチェア、いずれも由緒ありげな時代ものだが、これらは皆、元金ではなくて利息の代りに取り上げた家具類である。
克彦が入口の長椅子にオーバーをおいて、椅子にかけると、股野は飾り棚からウィスキーの瓶とグラスを出して、丸テーブルの上においた。高利貸しらしくもないジョニー・ウォーカーの黒である。これもむろん利息代りにせしめたものであろう。
股野は二つのグラスにそれをつぎ、克彦が一と口やるうちに、彼はグイとあおって、二杯目をついだ。
「直接法で行こう。わかっているだろうね、きょうの用件は?」
股野はいつもの通り、太いべっこう縁の目がねをかけ、黒のズボンに茶色のジャンパーを着て、詩人めいた長髪に紺のベレ帽をかむっていた。室内でもぬがない習慣である。映画界に出入りするようになってから、高利貸しのくせに、そんな服装をするようになっていた。四十二歳というのだが、時とすると、三十五歳の克彦と同年ぐらいに見えることもあり、また五十を越した老年に見えることもある。年齢ばかりではない、彼はあらゆる点で奥底のしれない、無気味な性格であった。
ひげの薄いたちで、いやにツルツルした顔をしている。色は青白くて、眉がうすく、眼は細く、鼻が長く、貴族|面《づら》と言えば貴族面だが、貴族にしても、ひどく陰険な貴族である。
「おれは、前々から知っていた。知ってはいたが、確証をつかむまで、だまっていたんだ。その確証をおとといの晩つかんだ。君のアパートだ。窓のカーテンに一センチほど隙間があった。注意しないといけない。一センチだって眼をあててのぞくのには充分すぎるんだからね。おれはあのとき窓のそとから見ていたんだ。だが、おれはその場で飛びこむようなまねはしない。歯をくいしばって我慢をした。そして、今夜話をつけることにしたんだ」
彼は三杯目のウィスキーをあおっていた。
「申しわけない。僕らは甘んじて君の処分を受けようと思っている」
克彦は頭をさげるほかなかった。
「いい覚悟だ。それじゃ、おれの条件を話そう。今後あけみには一切交渉を断つこと。口を利いてもいけない。手紙をよこしてもいけない。これが第一の条件だ。わかったかい。第二は、おれに慰藉料を出すことだ。その額は五百万円。一時には払えないだろうから、毎年百万円ずつ五年間だ。百万円だっていま君が持っているとは思わないが、会社から前借することはできる。君はそれだけの力を持っている。そして、仕事に精を出し、一方で生活を切りつめれば、それぐらいのことはできる。君の身分に応じた金額だ。第一回の百万円は一週間のうちに都合してもらいたい。わかったね」
股野はそういって、薄い唇をキューッとまげて、吊りあがった唇の隅で、冷酷に笑った。
「待ってくれ。百万円なんて、僕にはとてもできない。まして五百万円なんて、思いもよらないことだ。せめてその半額にしてくれ。それでも僕には大変なことだ。食うものも食わないで、働かなけりゃならない。だが、やってみる。半額にしてくれ」
「だめだ。そういう相談には応じられない。あらゆる角度から考えて、これが正しいときめた額だ。いやなら訴訟をする。そして、君の過去の秘密を洗いざらい暴露してやる。映画界にいたたまれないようにしてやる。それでもいいのかね。それじゃあ困るだろう。困るなら、おれの要求する金額を払うほかはないね」
股野は四杯目のウィスキーを、グッとほして、唇をペタペタいわせながら、傲然としてそらうそぶく。
克彦にとって、問題は、しかし、金のことではなかった。あけみと交渉を断つという第一条件には、どう考えても堪えられそうになかった。彼らはお互いに命がけで愛し合っていた。だが、正当の夫である股野に、あけみを譲れとは言えなかった。それを言い得ない社会の掟というものに、ギリギリと歯ぎしりするほどの苦痛があった。彼はふと、それに対抗するものは「死」のほかにはないとさえ感じた。
「君はあけみさんをどうするのだ。あけみさんまで罰する気か」
「それは君の知ったことじゃない。あれもこらしめる。おれの思うようにこらしめる」
「ねえ、君の条件は全部容れる。あの人を苦しめることだけはやめてくれ。罪はおれにあるんだ」
「エヘヘヘヘ、つまらないことを言うもんじゃない。そういう君の犠牲的愛情は、おれの嫉妬を、よけい燃えたたせるばかりじゃないか」
「それじゃあ、おれはどうすればいいんだ。おれはあけみさんを愛している。君には申しわけない。申しわけないが、この愛情はどうすることもできないんだ」
「フフン、よくもおれの前でほざいたな。それじゃあ、おれの第三の条件を言ってやる。それはきさまに肉体の制裁を加えることだ」
股野は椅子から立ちあがっていた。たださえ青白い顔に、眼は赤く血走っていた。アッと思うまに、克彦はクラクラと目まいがして、椅子からすべり落ちていた。頬に烈しい平手打ちをくったのだ。
「なにをするかっ」
夢中で相手にむしゃぶりついて行った。今度は股野の方が不意をうたれて、タジタジとなり、二人は組み合ったまま、床にころがった。お互に相手の鼻と言わず眼と言わず掴み合った。最初は克彦が上になっていたが、股野が巧みに位置を転倒して、針金のような強靱な腕でのどをしめつけてきた。とっさに「おれを殺す気だな」という考えがひらめいた。
「そんなら、おれも殺すぞっ」
克彦は、両手に靴を持って、泣きわめきながら、いじめっ子に向かって行く幼児のようになって、めちゃくちゃな力をふりしぼった。いつのまにか上になっていた。のどをおさえようとすると、股野は夢中でそれを避けて、クルッとうつむきになった。
(ばかめ、その方が一層しめやすいぞっ)
相手の背中にかさなり合って、すばやく右腕を頸の下に入れた。そして、相手の頸を、思いきり自分の胸にしめつけた。一所懸命に可愛がっているかたちだ。筋ばった細い頸だった。鶏をしめているような感じがした。
相手は全身でもがいていた。もうこちらの腕に手をかけることさえできなかった。青い顔が紫色に変わって、ふしくれ立っていた。
何か女のかんだかい声がしたように思った。耳の隅でそれを聞いたけれども、そんなことに気をとられているひまはなかった。彼の右腕は鋼鉄の固さになって、器械のように、ジリッジリッと締めつけて行った。ゴキンという音がした。|喉仏《のどぼとけ》のつぶれた音だろう。
無我夢中ではあったが、心の底の底では人殺しを意識していた。「こいつさえ死ねば、何もかもよくなる」ということを打算していた。どんなふうによくなるかはわからなかった。しかし、おそらくよくなることは、まちがいないと感じていた。
相手はもうグッタリと動かなくなっているのに、不必要に長く締めつけていた。鶏のように相手の頸の骨が折れてしまった手ざわりを意識しながら、もっともっとと、頑強に締めつけていた。
耳の中に自分の動悸だけが津波のようにとどろいていた。そのほかの物音は何も聞こえなかった。部屋の中がいやにシーンと静まり返っているように感じられた。しかし、誰かがうしろに立っていた。見も聞きもしないけれども、さっきから、誰かがそこにじっと立っているのが、わかっていた。
首をまわすのに、おそろしく骨がおれた。頸の筋がこむら[#「こむら」に傍点]返りのようになって、動かないのだ。やっと三センチほど首をまわすと、眼の隅にその人の姿がはいった。そこに青ざめたあけみが立っていた。彼女の眼が飛び出すほど見ひらかれていた。人間の眼がこんなに見ひらかれたのを、彼は今まで一度も見たことがなかった。
あけみは魂のない蝋人形のように見えた。ほしかたまったように立っていた。ほしかたまったまま、スーッと横に倒れて行きそうであった。
「あけみ」
言ったつもりだが、声にならなかった。舌が石のようにコロコロして、すべらなかった。口の中に一滴の水分もなかった。手まねをしようとすると、手も動かなかった。股野の首を捲いた腕が鋳物のように、無感覚になっていた。
斬り合いをした武士の手が刀の柄から離れないのを、指を一本ずつひらいてやって、やっと離させる芝居を見たことがある。あれと同じだなと思った。しびれがきれたときのやり方で、血を通わせればいいのだと思った。肩の力を抜いて、腕を振るようにした。血が指先までめぐって行くのがわかった。やっと相手の頸にくっついていた腕がほぐれた。無感覚のまま、ともかく相手のからだから離れることができた。
|躄《いざり》が這うようにして、丸テーブルのそばまで行った。そして、まだしびれている手を、やっとのばして、飲みのこしのウィスキー・グラスをつかみ、あおむきになった口へ持っていって、たらしこんだ。舌が焼けるように感じたが、それが誘い水になって、少しばかり唾液が湧いた。
あけみがフラフラと、こちらに近よってきた。声は出なかったけれど、口があたしにもというように動いた。克彦はいくらかからだの自由を取り戻していたので、丸テーブルにつかまって立ちあがり、ウィスキー瓶をつかんで、グラスに注ぎ、それを口へ持っていってやった。金色のウィスキーが、ポトポトとこぼれた。あけみは自分の手を持ちそえて、それを飲んだ。
「死んだのね」
「ウン、死んじまった」
二人とも、やっとかすれた声が出た。
二
克彦は股野の頸の骨が折れてしまったと信じていた。だから人工呼吸で生き返らそうなどとは、毛頭考えなかった。
十分ほど、彼はアームチェアにもたれこんで、じっとしていた。絞首台の幻影が、遠くからバーッと近づいて、限界一ぱいにひろがり、また遠くから近づいてきた。あらゆる想念が、目まぐるしく彼の脳中をひらめき過ぎた。その中で、どうしたらこの難局をのがれることができるかという、自己防衛の線がだんだん太く鮮明になり、ほかの一切の想念を駆逐して行った。
(ここで、おれは電気計算機のように、冷静に、緻密にならなければいけない。股野が死んだことは、もっけの幸いではないか。あけみは牢獄からのがれて自由の身となるのだ。おれは彼女を独占できる。その上、股野の莫大な財産があけみのものになる。だが、おれは殺人者だ。このまま手を拱いていれば、牢屋にぶちこまれる。激情の結果の殺人だから、まさか死刑になることはあるまいが、しかし一生が台なしだ。自首するのとのがれるのと、その差いくばくであろう。しかも、のがれる道がないではない。おれはそれを日頃から考えぬいておいたではないか)
克彦はあけみを愛し股野を憎み出してから、空想の中では、千度も股野を殺していた。あらゆる殺し方と、その罪をのがれるあらゆる手段を、緻密に、緻密に、毛筋ほどの隙間もなく空想していた。今、その空想の中の一つを実行すればよいのである。
(時間が大切だ。十分間に凡ての準備を完了しなければ)
彼は腕時計を見た。こわれてはいなかった。七時四十五分だ。飾り棚の上の置時計を見た。七時四十七分だ。
あけみは彼の横の床に、うつぶせになったまま身動きもしないでいた。彼はそのそばによって、上半身を抱きおこした。あけみはいきなりしがみついてきた。十センチの近さで、お互いの顔を見、眼をのぞき合った。克彦の考えを、あけみも察していることがわかった。ふたりの眼は互いに悪事をうなずき合った。
「あけみ、鉄の意志を持つんだ。ふたりで一と幕の芝居をやるんだ。冷静な登場人物になるんだ。君にやれるか」
あけみは、あなたのためなら、どんなことでも、というように深くうなずいてみせた。
「今夜は明かるい月夜だ。今から三、四十分たって、この前の通りを、誰かが通りかかってくれなければ……おお、おれは冷静だぞ。こんなことを思い出すなんて。あけみ、この前をパトロールの警官が通るのは、あれはたしか八時よりあとだったね。いつか、君がそのことを話したじゃないか」
「八時半ごろよ、毎晩」
あけみは、いぶかしげな表情で答えた。
「うまい。四十分以上の余裕がある。どんな通行人よりも、パトロールは最上だ。それまでにやることが山のようにある。一つでも忘れてはいけないぞ……女中は大丈夫あすまで帰らないね。月は曇っていないね……」
彼は窓のところへ飛んで行って、黄色いカーテンのすきまから空を見た。一点の雲もない。満月に近い月が、ちょうど窓の正面に皎々と輝いている。
(なんという幸運だ。この月、パトロール、女中の不在。まるで計画したようじゃないか。あとは、あけみさえうまくやってくれりゃいいんだ。それも大丈夫、あれは舞台度胸は申し分がない。それに男役には慣れている。おれは人殺しをまったく忘れて、舞台監督になるんだ。この際、恐怖は最大の敵だぞ。恐れちゃいけない。忘れてしまうんだ。あすこに倒れているやつは人形だと思え)
克彦は強いて狂躁を装った。そして軽快に、敏捷に、緻密に立ちまわることに、意力を集中しようとした。
「あけみ、僕らが幸福になるか、不幸のどん底におちいるか、それは今から一時間ほどのあいだの、君と僕との冷静にかかっている。殊に君の演戯が必要だ。命がけの大役だよ。君には大丈夫それがやれる。わけもないことだ。怖がりさえしなければいいのだ。舞台に立ったときのように、ほかの一切のことを忘れてしまうんだ。わかったね」
「きっとできるわ。あなたが教えてさえくれれば」
あけみはまだワナワナふるえていたけれど、強い決意を見せて言った。ふたりの気持がこんなにピッタリ一つになったことは一度もなかった。
克彦は股野の死体のそばにしゃがんで、念のために心臓にさわってみた。むろん動いているはずはない。そんなことをしないでも、生体と死体とは一と目でわかる。その顔に現われている死相と、無生物のようなからだの感じでわかる。
紺色のベレ帽が、死体のそばに落ちていた。まずそれを拾った。太いべっこう縁の目がねは、折れもしないで、青ざめた額にひっかかっていた。それをソッとはずした。
(だが、このジャンパーをぬがせて、また着せるのは大変だぞ)
「あけみ、これと同じ色のジャンパーがもう一着ないか。着がえがあるだろう」
「あるわ」
「どこに?」
「となりの寝室のタンスの引出し」
「よし、それを持ってくるんだ。いや、まだある。白い手袋が必要だ。革ではいけない。ほんとうは軍手がいいんだが、ないだろうね」
「あるわ。股野が戦時中に、畑仕事をするのに買ったんですって。新らしいのがたくさん残ってるわ。台所の引出しよ」
「よし、それをもってくるんだ。まだある。長い丈夫な紐が二本ほしい。遠くから持ってきちゃいけない。隣の寝室に何かないか」
「さあ、あれば洋服ダンスの中だわ。でも丈夫な紐って……ア、股野のレーンコートのベルトがはずせるわ。それから……ネクタイではだめ?」
「もっと長い丈夫なものだ」
「そうね。ア、股野のガウンのベルトがある。あれならネクタイの倍も長くて丈夫だわ」
「よし、それを持ってくるんだ。それから……ウン、そうだ。おれはいつか、ちゃんと考えておいたんだ。君のうちには、何かの草で作った箒のような形の洋服ブラシがあったね。おれは見たことがある。あれが、入用だ。あるか」
「あるわ。洋服ダンスのそばに、かけてあるわ」
「いいか、忘れちゃいけないぞ。全部そろえるんだ。もう一度言う。軍手、ベルトが二本、箒型のブラシ、ジャンパー、そして、ここにベレ帽と目がねがある。それで全部か? いや待て、そうだ、ネクタイでいい。洋服ダンスから柔かいネクタイを三本抜いてくるんだ。それからあとは、洋服ダンスの鍵と、この書斎の入口、隣の寝室の入口、二つの部屋のあいだのドアと、三つのドアの鍵、それと、玄関のドアの鍵が入用だ」
「軍手、ジャンパー、ブラシ、ベルト二本、ネクタイ三本、鍵が三つ」あけみは指を折ってかぞえた。「この部屋と、隣の部屋と、境のドアとはみんな同じ鍵だから、そのほかに洋服ダンスと、玄関のと、鍵は三つだわ」
「よしその通り。ア、ちょっと待った。三つの鍵はいつもどこに置いてあるんだ」
「洋服ダンスの鍵なんて、かけたことないから、|把《とっ》|手《て》にぶらさがってるわ。玄関と部屋の鍵は股野のズボンのポケットと、下のあたしの部屋の小ダンスの引出しに一つずつ」
「それじゃあ、股野のポケットのを使おう。これは僕がとり出す。君はほかの品を全部集めるんだ。時間がない。大急ぎだっ」
あけみはもうふるえていなかった。舞台監督のさしずのままに動く俳優になりきっていた。彼女は所要の品々を集めるために、隣の寝室へ飛びこんで行った。
克彦は死体のそばに行って、ズボンの両方のポケットをさぐった。そして、わけなく二つの鍵を見つけた。別に気味わるくも感じなかった。死体はまだ温かかった。石炭ストーヴの熱気で、部屋は熱すぎるくらいなのだから、今から三、四十分たっても、死体はまだ温かいだろうと考えた。
所要の品々がそろった。克彦はそれを丸テーブルの上に並べて点検したあとで、箒型のブラシと軍手の片方を手に持って、妙なことをはじめた。箒の先をひとつまみずつにわけ、それを軍手の指の中へおしこんで行くのだ。見るまに箒を芯にした一本の手ができ上がった。
「もうわかっただろう。君が股野の替玉になって一人芝居をやるのだ。股野は長髪だから、君の頭でいい。少しうしろへ掻き上げておけばいい。そして、ベレ帽をかむり、目がねをかけるんだ。それで鼻から上はでき上がる。鼻から下は、ホラ、この軍手で、こういうぐあいに隠すんだ。つまり、誰かが、うしろから君の口をおさえて、声を立てさせまいとしている恰好だ。君はその軍手を引きはなそうと自分の手をかけている気持で、実はこの箒の根もとを持って、口の前に支えていればいいのだ」
これらは、克彦が空想殺人の中で、たびたび考えて、繰り返し検算しておいたことだ。細かい点まで、手にとるようにわかっている。
「それから、そのセーターの上からジャンパーを着るんだ。下はそのままでいい。あの窓をあけて、上半身を見せればすむのだ。軍手の男が君のうしろから抱きついている。君は窓から上半身をのり出して、軍手でおさえられた手を、引きはなしながら、助けてくれと叫ぶのだ。そういう場合だから、ただしゃがれた男の声でさえあればいい。この部屋の電灯を消して、僕とパトロールの警官とが門の前に現われるのを待って、演戯をはじめるんだ。もしパトロールがこないようだったら、誰でもいい通りがかりの人と一緒に門までやってくる。君は窓のカーテンのすきまからのぞいて、僕の姿が見えるのを待ってればいいのだ。そして、二声三声叫んでおいて、軍手の男にうしろへひっぱられる形で、窓から姿を消してしまうのだ。二階の窓から門までは十メートル以上はなれている。いかに明かるいと言っても月の光だ。細かいことはわかりゃしない。それに、僕がうまく相手を誘導するから、万に一つもしくじる心配はない。わかったね」
あけみは、克彦の興奮した顔、自信ありげな熱弁に見とれているうちに、彼の計画の全貌が、おぼろげにわかってきた。
「わかったわ。そうして、あなたのアリバイを作るのね。股野が殺されたときに、あなたはまだ門をはいろうとしていたのだということを、証人に見せるのね。だから、その証人にはパトロールのおまわりさんが一番いいというわけね。そうすると、あたしはここにいたことになるけれど、かよわい女だからどうにもできなかった……あら、それじゃあ、あたしは犯人を見たことになるのね。どんな男だったと聞かれたら……」
「覆面の強盗だ」
「どんな覆面? 服装は?」
「黒い服を着ていた。こまかいことはわからなかったというんだ。覆面は眼だけでなく、顔全体の隠れるやつだ。ヴェールのように、黒い布を鳥打帽からさげていたと言うんだ。両手に軍手をはめていたのはもちろんだ。だから指紋は一つも残っていない」
「わかった。あとは出まかせにやればいいのね。でも、あたし自身が犯人だと疑われることはないの? かよわい女だから、股野に勝てるはずがないっていう理窟? それで大丈夫かしら」
「それには、このベルトとネクタイと鍵だ。時間がないから一度しか言わない。よく聞いてるんだよ。僕が今にそとへ出て行くから、そのときすぐに、この部屋の入口のドアに鍵をかける。それから、窓の演戯をすましたら、君はこれだけのことを大急ぎでやるんだ。箒型ブラシから軍手をはずし、一対ちゃんとそろえて、一応となりのタンスの引出しへしまう。あとでゆっくり台所の元の引出しへ返しておけばいい。ジャンパーも元のところへしまう。ブラシも元の釘へかける。それから君はこのネクタイとベルトを持って、となりの寝室へはいり、中から鍵をかける。寝室から廊下へ出るドアにも鍵をかける。そうしておけば、どちらかのドアを破らなければはいれないのだから、ゆっくり仕事ができるわけだ。鍵の始末は、そうだね、寝室のどこかの小引出しにでも入れておくんだね。
書斎と寝室との三つのドアには、あとで犯人が鍵をかけて行ったことになるんだから、もし小引出しの鍵が見つかったら、同じ鍵が三つあったことにするんだ。だが、もっといいのは、君の部屋の小ダンスの合鍵を、あとでどこかへ隠してしまうんだね。そうすれば鍵は二つあったことになる。
寝室へはいったら、このネクタイのうちの二本を丸めて自分の口の中へ押しこむのだ。そして、もう一本のネクタイでその上をしばり、頭のうしろで固く結ぶ。つまり猿ぐつわだね。それから、君は洋服ダンスの中へはいるのだ。かけてある服を、どちらかへよせれば、人間一人、足をまげて、もたれかかるぐらいの余地はあるだろう……大いそぎでためしてごらん」
二人は隣の寝室へはいって行って、大型の洋服ダンスのとびらをひらいた。やってみるまでもなく、大丈夫はいれる。すぐに丸テーブルの前に引き返した。
「さて、洋服ダンスの中へはいったら、両足をそろえて、足首にこのガウンのベルトをグルグルに巻きつけ、その端を固く結ぶ。それから、観音びらきのとびらを、中からしめる。その次がちょっとむずかしい。これは繩抜け奇術を逆にやるようなものだからね。しかし、だれにでもできることだ……君、両手をグッと握って、前に出してごらん。そうそう。この両手の手首のところを、僕がレーンコートのベルトでしばる。手品師なら、いくら強くしばってもいいのだが、君は素人だから、わざとゆるくしばっておく」
克彦はそう言いながら、あけみの両の手首に、グルグルとベルトを巻きつけ、しばりあげた。
「さあ、これでいい。手のひらを平らにして、片方ずつ抜いてごらん。ゆるくしばったのだから、わけなく抜ける。ほらね。するとベルトが輪になったまま残るね。これを洋服ダンスの中へ持ってはいるのだ。そして、足首をゆわえたあとで、このベルトの輪を自分のうしろのタンスの底に置いて、うしろに手をのばし、さっきのやり方で、片方ずつ、この輪の中に手首を入れる。つまり、うしろ手にしばられたとみせかけるのだ。なかなかむずかしいけれども、時間をかけてゆっくりやれば、大丈夫できるんだよ……ここでちょっと練習してごらん」
あけみは必死になって、それを試みた。部屋の隅の壁にもたれて、うしろにベルトの輪を置き、からだをねじって、右手を入れるときには、右の方に輪をよせ、左手を入れるときには、左によせて、眼の隅でそれを見ながらやるようにした。もともとゆるい輪だから、思ったほど苦労もしないで、両手を入れることができた。
「だが、両手を入れただけではいけない。握りこぶしを作るんだ。そして、手首のところでギュッとねじる。そうそう、そうするとバンドが手首に喰い入って、固くゆわえてあるように見える上に、そうしてねじっていれば、自然に充血して、その辺がふくれあがり、今度はもうほんとうに抜けなくなる。これは繩抜け術とはちがうが、僕らの今の場合はそうする方がいいのだ。あとは、君が洋服ダンスにとじこめられていることがわかったときに、誰かが解いてくれるんだからね。
この仕事はあわてないでもいい。ゆっくりやれる。僕がここを出ると、君が入口のドアに鍵をかけ、それから、あとで寝室のドアにも鍵をかけるんだから、窓の演戯を見て、すぐに駈けつけても、ドアを破る時間がある。そして、死体を発見すれば、そこで手間どるから、寝室へはいってくるのは、ずっとあとになる。だから自分をしばるのはゆっくりでいい。しかしまったく気づかれなくても困るから、誰かが寝室へはいってきたら、君は洋服ダンスの中で、あばれて音を立てるんだ。そして注意を引くんだ。わかったね。念のために、今まで僕が言ったことを、忘れないように、もう一度君の口で言ってごらん。一つでもまちがったら大変だからね」
そこで、あけみは、この複雑な演戯の順序を、正確に復誦して見せた。さすがに俳優である、少しのまちがいもなかった。
「うまい。それでいい。ぬかりなくやるんだよ。それからここに残った玄関の鍵と洋服ダンスの鍵は、僕がポケットに入れてそとに出る。それはこういうわけだ。君は犯人のために洋服ダンスにとじこめられた。だから、犯人は洋服ダンスにも鍵をかけて行ったはずだ。しかし、君は中にはいっているんだから、自分で鍵をかけることはできない。それで僕が持って出て、今度誰かと一緒にはいってきたとき、相手のすきをうかがって、洋服ダンスに鍵をかけておく、という順序だ。それから、玄関に鍵をかけておく意味は言うまでもない。僕たちがあとでこのうちにはいる時間をおくらせるためだ」
「まあ、そこまで! あなたの頭は恐ろしく緻密なのね。それで、あたしが洋服ダンスにとじこめられる意味は?」
「わかってるじゃないか。犯人は股野にだけ恨みをもっていたんだ。美しい細君まで殺す気はない。覆面で顔は見られていないから、殺すには及ばないのだ。しかし逃げる時間がほしい。君を自由にしておけば、すぐに警察に電話をかけるだろう。また、叫び声をたてて近所の人に知らせるだろう。犯人はそれでは困るのだ。そこで、猿ぐつわをはめて、とじこめておく。そうしておけば、あすの朝までは、誰にも気づかれないですむという計算なのだ。
と同時に、われわれの方から言えば、君を洋服ダンスにとじこめる意味は、君も被害者の一人であって、決して犯人の仲間ではないということを証明するためだ。わかったかい」
あけみは深くうなずいて、畏敬のまなざしで恋人の上気した顔を見上げた。克彦はあわただしく腕時計を見た。八時十五分だ。
「これで演戯の方はすんだ。だが、もう一つやる事がある。君はあすこの金庫のひらき方を知っているね」
「股野はあたしにさえないしょにしていたけれど、自然にわかったの。ひらきましょうか」
「ウン、早くやってくれ」
克彦はあけみが金庫をひらいているあいだに、ストーヴの前に立って、石炭をなげこみ、灰おとしの|把《とっ》|手《て》をガチャガチャいわせていた。
「その中に借用証書の束があるはずだ」
「ええ、あるわ。それから現金も」
「どれほど?」
「十万円の束が一つと、あと少し」
「貯金通帳や株券なんかはそのままにして、証文の束と現金だけ、ここへ持ってくるんだ。金庫はあけっぱなしにしておく方がいい」
あけみがそれを持ってくると、克彦は証文の束をバラバラと繰ってみた。ゆっくり調べているひまのないのが残念だ。彼の知人の名も幾人かあった。全体では大した金額だ。
「それ、どうなさるの?」
「ストーヴで焼いてしまうのさ。現金もいっしょだ」
「人助けね」
「ウン、犯人が人助けのために、証文を全部焼いて行ったと思わせるのだ。むろん犯人自身の証文もこの中にあるというわけだよ。股野は担保もとらなかったし、公正証書も作らなかったので、この証文さえなくしてしまえば、一応返済の責任はなくなるのだ。しかし、帳簿が残っている。帳簿を見れば、債務者がわかる。そこで警察は、帳簿の債務者を虱つぶしに調べることになる。しかし、永久に犯人はあがらない。というわけさ。証文を焼いた犯人が現金を見れば、残してはおかないだろう。それが自然だ。しかし、僕らが持っていては危ない。股野のことだからどこかへ紙幣の番号を控えていなかったとはきめられない。だから、現金もここで焼いてしまうのだ。まず先に紙幣を焼こう」
貴重な三分間を費し、紙幣は灰になるまで監視し、それを更らにこなごなにしてから、証文の束を投げ入れた。あとはあけみに任せておいて、克彦は入口の長椅子においてあったオーバーを着、そのポケットにあった手袋をはめ、ハンカチを出して、丸テーブルの上のウィスキーの瓶とグラスの指紋をふきとって、元の飾り棚に納め、丸テーブルの表面、ストーヴの火掻き棒、金庫やドアの把手など、指紋の残っていそうな個所を入念にふきとった。そして、洋服ダンスの鍵をポケットに入れると、
「じゃあすぐに用意をはじめるんだよ。ぬかりなくね」
言いのこして、入口を出ようとすると、あけみが息をはずませて追いすがってきた。
「うまく行けばいいけれど、そうでなかったら、これきりね」
両手が肩にかかり、涙でふくれた眼が、近づいてきた。可愛らしい唇が、いじらしくすすり泣いていた。ふたりは唇を合わせて、長いあいだ、しっかりと抱きあっていた。情死の直前の接吻という観念が、チラと克彦の頭をかすめた。
あけみが中からドアにカチッと鍵をかける音を聞いて、階段へ急いだ。もう手袋をはめているから、何にさわっても構わない。玄関のドアに中から鍵をかけた。それから台所でコップをさがしてつづけざまに水を飲んだ。そして、玄関の鍵はそこの戸棚の中へ入れておいた。
台所のそとの地面は、天気つづきでよく乾いていた。その上、敷石があるのだから、足跡は大丈夫だ。コンクリート塀についている勝手口の戸を、二センチほどひらいたままにして、狭い裏通りに出た。そとの石ころ道もよく乾いていた。
三
真昼のような月の光だ。人に見られてはいけない。あたりに気をくばりながら、グルッと廻って表通りに出た。誰にも会わなかった。どこの窓からも覗いているものはなかった。表のどぶ川沿いの道路は、月の光で遠くまで見通せる。どこにも人影はなかった。腕時計を見ると、八時二十分だ。八時半にはまだ充分余裕がある。
どぶ川が月の光をうけて、キラキラと銀色に光っていた。海の底のような静けさだ。向こうに立っている何かの木の丸い葉もチカチカと光っていた。こちら側の生垣のナツメの葉もチカチカと光っていた。
(なんて美しいんだろう。まるでおとぎ話の国のようだ)
こんなくだらない街角を、これほど美しく感じたのは、はじめての経験だった。
彼は口笛を吹き出した。偽装のためではない。なぜか自然に、そういう気持になった。口笛の余韻が、月にかすむように、空へ消えて行った。
(だが待てよ。もう一度検算してみなければ……)
克彦はたちまち現実に帰って、不安におののいた。
(窓からの叫び声を聞いて、玄関に駈けつけ、うちの中にはいるまでの時間が重大だぞ。そのあいだに仮装犯人はいろいろのことをやらなければならない。あとから考えて、その時間がなかったという計算になっては大変だ。危ない危ない。犯罪者の手抜かりというやつだな。エーと、よく考えてみなければ……
仮装犯人は、股野が窓から助けを求めた直後に、彼をしめ殺してしまうだろうか。いや、そうじゃない。金庫をひらかせなければならない。そうでないと証文を焼くことができない。だが、ひらかせるのはわけもないことだ。頸に廻した手を締めたりゆるめたりして、脅迫すればよい。殺されるよりは金庫をひらく方がましだから、股野は金庫をひらく。ひらかせておいて、すぐしめ殺すのだ。そして、死骸はそこに捨てて、証文をとり出し、ストーヴに投げこみ、現金はポケットに入れる。仮装犯人はそうするにちがいない。これを一分か二分でやらなければいけない。あけみが主人の叫び声を聞きつけて、上がってくるにちがいないからだ。いや、その前にもう一つやることがある。洋服ダンスを物色して、ベルトやネクタイを取り出すことだ。仮装犯人はそこに洋服ダンスがあることを知っていたとすればいい。そうすれば紐類を探すとき、まず洋服ダンスをあけてみるのはごく自然だ。だが、そんなことがまっ暗な中でできるか? 寝室にも窓からの月あかりがある。ちょっと暗すぎるかな? 犯人は懐中電灯を持っていたことにしてもいい。そして、ベルトとネクタイを用意して、あけみを待っている。これも一分間にやらなければいけない。そのときはもう、あけみは書斎にはいっているかもしれない。いずれにしても、あけみをとらえて、すぐ猿ぐつわをはめ、声を立てないようにしておいて、手足をしばる。そして、洋服ダンスにとじこめる。これを二分か三分にやらなければいけない。ずいぶんきわどい芸当だが、やってやれないことはなかろう。合わせて四分か五分、仮想犯人のために、これだけの余裕は見てやらなければならぬ。それより早く玄関のドアを破ってはいけないのだ。つまり、仮想犯人が裏口から逃げ出してしまってから、ドアを破るという段取りにする必要がある。その手加減が、一ばんむずかしいところだ……よし、なんとかやってみよう)
克彦は目まぐるしく頭を回転させて、とっさのあいだに、これだけのことを考えた。この寒さに、全身ビッショリの冷汗であった。
それからまだ暫くあいだがあった。待ちかねていると、やっとコツコツという靴音がきこえてきた。普通の通行者の歩きかたではない。いよいよ今夜の演戯のクライマックスがきた。
ふり返ると、果たしてパトロールの警官であった。二人連れではない。この辺は一人で巡廻するのであろう。
克彦は歩き出した。二十歩もあるくと、股野家の門であった。門のそとに立って、二階の窓を見た。窓の押し上げ戸が音を立ててひらかれた。室内はまっ暗だ。カーテンをかき分けるようにして、人の顔がのぞいた。ベレ帽、太いべっこう縁の目がね、白い大きな手袋、茶色のジャンパー。
白い手袋がうしろから彼の口を覆っていた。苦しそうにもがいている。そして、おさえられた手袋のすきまから、
「助けてくれ……」
という、しゃがれ声の悲鳴がほとばしった。
克彦はハッとして立ちすくんでいる恰好をした。うしろから、駈け出してくる靴音が聞こえた。パトロールの警官にも、低い塀ごしにあれが見えたのだ。
「助けて……」
もう一度悲鳴が。しかし、その声は途中でおさえられた。そして、窓の人影は、白い手袋に引き戻されるように、室内の闇に消えてしまった。あとには、月の光を受けたカーテンが、ユラユラとゆれているばかりだ。
「あなたは?」
警官は門内に駈けこもうとして、そこに突っ立っている克彦に不審を抱いた。美少年と言ってもよい若い警官だった。
「ここは僕の友人の家です。いま訪ねてきたところです。僕は映画に関係している北村克彦というものです」
「じゃあ、いま窓から叫んだ人を御存知ですか」
「今のは僕の友人らしいです。股野重郎という元男爵ですよ」
「じゃあ、はいってみましょう。どうも、ただごとではないですよ」
(よしよし、これで一分ばかり稼げたぞ。仮想犯人はもう証文をストーヴに投げ入れて、洋服ダンスに向かっている時分だ)
克彦と美少年の警官とは前後してポーチに駈けつけた。ドアを押してもひらかないので、ベルを押しつづけたが、なんの答えもない。
「妙ですね、家族は誰もいないのでしょうか」
「さあ、主人と細君と女中の三人暮らしですが、主人だけというのはおかしい。細君も女中もあまり外出しないほうですから」
(又、一分はたった。ボツボツ裏口へ廻ることにしてもいいな)
「仕方がない。裏口へ廻ってみましょう。裏口もしまっていたら、窓からでもはいるんですね」
「あなた裏口への道を知ってますか」
「知ってます。こちらです。もっとも、あいだに板塀の仕切りがあって、そこの戸をひらかなければなりませんがね」
板塀の戸はしまっていた。警官はその戸を押し試みて、ちょっと考えていたが、なにか自信ありげな口調になって、
「この板戸を破るのはわけないですが、裏口もしまっていたら、手間がかかって仕方がない。それよりも、玄関へ戻って、ドアをひらきましょう」
と言って、もうそのほうへ走り出していた。
「玄関のドアを破るのですか」
「いや、破る必要はありません。見ててごらんなさい」
警官はポーチに戻ると、ポケットから黒い針金のようなものを取り出した。そして、その先を少し曲げてドアの鍵穴に入れ、カチカチやってみて、また引き出しては曲げ方を変え、それを何度も繰り返している。
(オヤオヤ、これは錠前破りの手だな。近頃は警官もこんなことをやるのかしら。それにしてもありがたいぞ。板塀まで行って帰ってきて、先生がコチコチやっているうちに、もう二分以上過ぎてしまった。これで五分間は持ちこたえたわけだ。針金で錠がはずれるまでには、まだ一、二分はかかるだろうて)
だが、一分もたたないうちに、カチッと音がして、錠がはずれ、ドアがひらいた。その時は急いでいるので、そのまま屋内に踏みこんだが、ずっとあとになって、この美少年の警官は、錠前破りについて、こんなふうに説明した。
「僕は探偵小説を愛読してますが、中から鍵のかかっているドアを、急いでひらく場合には、警官が体当たりでドアを破るのが定法のようになっていますね。しかし今の警官はそんな野蛮なまねをしなくていいのですよ。針金一本で錠前をはずすという手は、もとは錠前破りの盗賊が考え出したことです。しかし、賊が発明したからといって、警察がこれを利用して悪いという道理はありません。近年はわれわれのような新米警官でも、針金でドアをひらく技術を教えられているんですよ。このほうが体当たりで破るよりも、かえって早いのですからね」
さて、二人はまっ暗なホールに踏みこんだが、シーンと静まり返って、人のけはいもない。
「もしもし、だれかいませんか」
「股野君、奥さん、ねえやもいないのか」
二人が声をそろえてどなっても、なんの反応もなかった。
「誰もいないのでしょうか」
「構いません、二階へ上がってみましょう。ぐずぐずしている場合じゃありません」
(また今のまに、一分ほど経過したぞ。もういくらせき立てても大丈夫だ)
ふたりは階段を駈け上がって、書斎のドアの前に立った。
「さっきの窓はこの部屋ですよ。主人の書斎です」
克彦は言いながら、ドアの|把《とっ》|手《て》を廻した。
「だめだ。鍵がかかっている」
「ほかに入口は?」
「隣の寝室からもはいれます。あのドアです」
今度は警官が把手を廻してみた。やっぱり鍵がかかっている。
「オーイ、股野君、そこにいるのか。股野君、股野君……」
答えはない。
「仕方がない。また錠前破りですね」
「やってみましょう」
警官は例の針金を取り出して、鍵穴をいじくっていたが、前よりも早く錠がはずれて、ドアがひらいた。
ふたりはすぐに室内に踏みこんで行ったが、まっ暗ではどうにもならぬ。克彦は心覚えの壁をさぐってスイッチをおした。
電灯がつくと、ふたりの目の前に、茶色のジャンパーを着た、長髪の男が倒れていた。
「アッ、股野君だ。このうちの主人です」
克彦が叫んで、そのそばにかけよった。
「さわってはいけません」
警官はそう注意しておいて、自分もじっと股野の顔を覗きこんでいたが、
「死んでいますね。頸にひどい傷がついている。扼殺でしょう……電話は? このうちには電話があったはずですね」
克彦が事務机の上を指さすと、警官は飛んで行って受話器を取った。
電話をかけ終ると、ふたりで二階と一階との全部の部屋を探し廻ったが、夫人も女中も不在であることがわかった。
「犯人は多分、われわれと入れちがいに、裏口から逃げたのでしょうが、もう追っかけても間に合いません。それよりも現状の保存が大切です」
警官はそう言って、再び二階へ引きかえした。書斎の隣の寝室は、両方のドアに鍵がかかっていたので、そこで手間どることをおそれて、あとまわしにしておいたのだった。警官はまた例の針金をポケットからとり出して、まず廊下のドアをひらいた。そして、寝室にはいると、ベッドの下など覗いていたが、すぐに、書斎との境のドアに取りかかった。
克彦はそのすきに、さりげなく洋服ダンスの前に近づき、ポケットの鍵で、うしろ手に錠をおろし、その鍵は洋服ダンスと壁とのすきまへ投げこんでおいた。むこう向きになって錠前破りに夢中になっている警官は、少しもそれに気づかなかった。
やっと書斎との境のドアがひらいた。警官はホッとして、死体のある書斎へはいろうとしたが、そのとき、どこかでガタガタと音がした。
「オヤ、いま変な音がしましたね」
警官が克彦の顔を見た。克彦は洋服ダンスを見つめていた。またガタガタと音がして、洋服ダンスがかすかにゆれた。若い警官の顔がサッと緊張した。
彼はツカツカと洋服ダンスの前に近づいて、とびらに手をかけた。ひらかない。
「だれだっ、そこにいるのはだれだっ」
中からは答えがなくて、ガタガタいう音は一層はげしくなる。
警官は腰のピストルを抜き出して、右手に構えた。そして、こんどはもう針金を使わないで、左手で力まかせに|扉《とびら》を引いた。観音びらきだから、鍵がかかっていても、ひどく引っぱれば、はずれてしまう。パッと扉がひらいた。そして、そこから大きな物体がゴロゴロと、ころがり出してきた。
「アッ、あけみさん」
克彦がほんとうにびっくりしたような声で叫んだ。
「だれです、この人は」
「股野君の奥さんですよ」
警官はピストルをサックに納め、そこにしゃがんで、あけみの猿ぐつわをはずし、口の中のネクタイを引き出してやった。
そのあいだに、克彦はうしろ手にしばられた手首を調べてみた。うまくやったぞ。ベルトが手首の肉に喰い入って、自分でしばったという疑いの余地はまったくなかった。これなら大丈夫だと、克彦はわざと足首のベルトを解くほうにまわり、手首のほうは警官にまかせた。
すっかりベルトを解くと、あけみのからだを二人で吊って、そこのベッドに寝かせた。
「水を、水を」
あけみが、哀れな声で渇を訴えたので、克彦は台所へ駈けおりて、コップに水を持ってきた。彼女はほんとうに喉がかわいていたのだから、真に迫まって、ガツガツと一と息にそれを飲みほした。
あけみが少しおちつくのを待って、若い警官は手帳を取り出し、一と通り彼女の陳述を書きとったが、あけみの演戯は申し分がなかった。
きょうは夕方から女中を自宅に帰したので、彼女は、主人とふたりのおそい夕食のあとかたづけのために、台所にいた。主人の書斎で何か物音がした、叫び声がきこえたように思った。様子を見るために二階にあがって、書斎のドアをひらくと、中はまっ暗で、ただならぬけはいが感じられた。壁のスイッチを押そうとして、手をのばしたとき、いきなり、うしろから組みつかれ、口の中へ絹のきれのようなものを押しこまれ、物も言えなくなってしまった。
それから、そこへ押しころがされ、両手をうしろにまわして、しばられ、両足もしばられたが、そのあいだに、窓からの月あかりで犯人の姿が、おぼろげに見えた。黒っぽい背広を着ていたように思う。背が非常に高いとか、低いとか、ひどく痩せているとか、太っているとかいう印象はなかった。つまり、からだにはこれという特徴がなかった。顔はまったく見えなかった。黒っぽい鳥打帽をかぶり、ヴェールのように黒い布を顔の前に垂らしていた。まったく口をきかなかったので、声の特徴もわからない。
主人の股野が、うつぶせに倒れているのも、月あかりで見た。殺されているのか、気を失っているのかわからなかったが、覆面の男にやられたことはまちがいないと思った。金庫のとびらがあいているのも、チラと見た。だから強盗かと思ったが、どうも普通の強盗ではないような感じを受けた。
それから、犯人はしばり上げたあけみを抱いて、寝室の洋服ダンスの中に入れ、そとから鍵をかけた。そして、そのまま立ち去ったらしく思われる。犯人はまったく無言で、敏捷に働いたので、最初猿ぐつわをはめられてから、洋服ダンスにとじこめられるまで、三分とかかっていないであろう。
あけみは話の途中から、ベッドの上に起き上がって、思い出し、思い出し、大体そういう意味のことを話した。彼女はその役になり切っていた。話しぶりも真に迫まっていた。彼女は大胆にも、主人の股野重郎には愛情を感じていないことをすら、言外ににおわせた。
美少年の警官は、この美しい夫人が、夫の無残な死にざまを見たら、どんなに歎くだろうと、オロオロしているように見えたが、あけみは、まるでお義理のように、警官にたすけられて、夫のなきがらのそばへ行った。そして、一応は涙をこぼしたけれど、死体にとりすがって泣きわめくようなことはしなかった。
いつの間にか九時半をすぎていた。そのころから股野家は俄かに騒がしくなった。所轄警察や警視庁などから、多勢の人々が、次々とやってきたからである。
あけみは、捜査一課長や警察署長の前で、同じことをたびたび繰り返さなければならなかった。彼女の話しぶりは、繰り返すごとに、少しも危険のない枝葉をつけ加わえながら、いよいよ巧みになっていった。克彦さえ、その演戯力にはあきれ返るほどであった。
克彦自身もいろいろ質問を受けた。彼は今夜のことだけは別にして、すべて正直に答えた。あけみを愛していることを悟られても構わないという態度をとった。遠方からの殺人目撃者という、不動のアリバイが、それほど彼を大胆にしたのだが、それだけに、彼の話しぶりには少しの不自然もなかった。
鑑識課員は、股野の死因が、強力なる腕による扼殺であること、ドアの把手その他室内の滑かなものの表面が、布ようのものでふきとってあること、一応指紋は採集したけれども、犯人の指紋はおそらく発見されないだろうということ、表口にも裏口にも、顕著な足跡は発見されなかったことなどを報告した。
鑑識課員はまた、ストーヴで紙束が焼かれたらしいことも見のがさなかった。そして、あけみの証言によって、それが借用証書の束であることが判明して、現金十数万円が金庫の中から紛失していることも明きらかとなった。それに関連して、股野の事務机の引出しから、貸金の帳簿が押収せられた。
捜査官たちは、何も言わなかったけれども、捜査が股野の現在の債務者の方向に進められることは、容易に推察された。おそらく貸金帳簿に記入されている人々が、シラミつぶしに調べられることであろう。
股野は両親も兄弟もなく、孤独な守銭奴だったから、こういう際に電報で呼び寄せるような親しい親戚もなかった。うちとけた友人も少なく、強いて言えば克彦などが最も親しいあいだがらであった。
あけみの両親は新潟にいたが、彼女の姉が東京の三共製薬の社員に嫁していたので、さしあたって、その夫妻を電話で呼びよせた。そんなことをしているうちに、夜がふけてしまったので、克彦もその晩は股野家に泊まることになった。
翌日は日東映画の社長をはじめ股野の友人たちが多勢やってきて手伝ってくれたが、一番事情に通じているのは克彦だったから、中心になって立ち働かないわけにはいかなかった。そして、事件から三日目に、股野重郎の葬儀は無事に終った。
克彦もあけみも、この|難《なん》|場《ば》を事なく切り抜けた。死者の家族が、葬儀の忙しさにまぎれて、その悲しみを一時忘れているように、犯罪者の恐怖も、まぎれ忘れていることができるもののようであった。一つは彼らに十二分の自信があったためでもあるが、もう一つは、こういう犯罪を敢てする者の、一種の不感症的性格から、彼らはなんらおびえることもなく、その数日を過ごすことができた。
四
それから一カ月あまりが過ぎ去った。はじめのあいだは、あけみの家へも、克彦のアパートへも、警察の人がたびたびやってきて、うるさい受け答えをしなければならなかったが、それも当座のあいだで、このごろでは忘れたように、事件関係の出入りがなくなってしまった。
克彦は十日ほど前から、アパートを引きはらって、あけみの家に同居していた。愛し合うふたりにとって、これはごく自然の成りゆきである。知人たちも、別にそれを怪しまなかった。克彦にしては、もしおれが殺人者なら、こうはできないだろうという逆手の潔白証明でもあった。
彼の殺人は、考えてみれば、正当防衛と言えないこともなかった。相手に殺されそうになったから殺したのだ。したがって、計画殺人に比べて、精神上の苦痛は遙かに少なかった。そのせいか、ふたりとも、夜の悪夢に悩まされるようなことも、まったくなかった。正当防衛を表沙汰にすれば、もっと気が楽であったろう。しかし、そうしては、あけみとの恋愛が破れてしまう。現在のような思う壺の状態は、絶対にこなかったにちがいない。それがつらさに、あれほどの苦労をして、アリバイ作りのトリックを実行したのだ。
彼らは幸福であった。前からの女中一人を使っての新世帯。邪魔するものは誰もなかった。股野の財産は少しの面倒もなく、あけみが相続した。股野のような守銭奴でないふたりには、思うままの贅沢もできた。
(世の中って、なんて甘いもんだろう。おれの智恵が警察に勝ったんだ。そのほか誰一人疑うものもない。つまり世の中全体に勝ったんだ。これこそ「完全犯罪」ではないだろうか。今になって考えてみると、おれは実にうまい智恵を絞ったもんだな。殺人者自身が、遠くから殺人の場面を目撃する。こんなトリックは探偵作家だって考え出せないだろう。いや、ないこともない。「皇帝の嗅煙草入」とかいう小説があった。おれは読んだことがある。しかし、あれは口でごまかすだけだ。聴き手は病気で寝ている。それにありもしない出来事を、今見ているように話して聞かせるだけのことだ。実際には、あんな都合のいいことができるはずはない。「どれどれ」と言って、ベッドから起きてきて覗かれたら、おしまいじゃないか。だが、残念ながら、おれの名トリックは世間に見せびらかすことができない。小説にもシナリオにも、似たような筋さえ書くことができない。昔から、最上最美のものは、世に現われないというのは、ここのことだて)
もう大丈夫だと安心すると、思いあがりの気持が、だんだん強くなってきた。彼の心から、もしもという危惧が、殆んど跡かたもなく薄らいで行った。
そんな或る日、つまり事件から一カ月あまりたった或る日、この事件を担当していた警視庁の花田警部が、久しぶりでヒョッコリ訪ねてきた。花田は平刑事から叩きあげて、今は捜査一課に重要な地位を占め、実際の事件を手がけた数では、部内第一といわれていた。
二階の書斎に請じ入れると、背広姿の花田警部は、ニコニコして、ジョニー・ウォーカーのグラスを受けた。むろん、あの夜のウィスキーではない。克彦はあれ以来、なぜかジョニー・ウォーカーを愛飲するようになっていた。あけみも心配になるとみえて、その席へやってきた。だが、それは、股野の妻であった彼女として、至極当然のことでもあった。
「やっぱりこの部屋をお使いですか。気味がわるくはありませんか」
花田警部が、ジロジロと部屋の中を見廻して、笑いながら言った。
「別にそうも感じませんね。僕は股野君のように、人をいじめませんから、この部屋にいたって、あんな目に会うこともないでしょうからね」
克彦も微笑していた。
「奥さんもよかったですね。北村さんのようなうしろ楯ができて、かえってお仕合わせでしょう」
「なくなった主人には悪いのですけれど、あたし、あの人と一緒にいるのが、なんとも言えないほど苦しかったのです。御存知のような憎まれものでしたから」
「ハハハハハ、奥さんはほんとうのことをおっしゃる」警部はほがらかに笑って、「ところで、おふたりは結婚なさるのでしょうね。世間ではそう言っていますよ」
克彦はこんな会話が、どうも普通でないような気がしたので、話題を変えた。
「そういう話は、しばらくお預けにしましょう。それよりも、犯人はまだあがりませんか。あれからずいぶん日がたちましたが」
「それをいわれると、今度は僕が恐縮する番ですよ。いやな言葉ですが、これはもう迷宮入りですね。あらゆる手段をつくしたのですが、結局、容疑者皆無です」
「と言いますと」
「股野さんの帳簿にあった債務者を、全部調べ終ったからです。そして、一人も疑わしい人物がなかったからです。大部分は確実なアリバイがありました。アリバイのない人たちも、あらゆる角度から調べて、全部『白』ときまったのです」
「債務者以外にも、股野君には敵が多かったと思いますが……」
「それもできるだけ調べました。あなたや奥さんからお聞きしたり、そのほかの映画界の人たちから聞いた股野さんの交友関係は、すっかり当たってみました。こちらも容疑者皆無です。こんなきれいな結果は、実に珍らしいのですよ。どこかに奥歯に物のはさまったような感じが残るのが普通です。今度の事件にはそれがまったくありません。実にきれいなものです。不思議なくらいです」
克彦もあけみもだまっていた。
(さすがは警視庁だな。そんなにきれいに調べあげてしまったのか。こいつは少し用心しなくちゃいけないぞ。あれはおれのやり過ぎだったかな。証文なんか焼かないでおいた方がよかったのじゃないかな。証文を取られていたやつが犯人らしい。しかも、その中に犯人がいないとなると、警察はその奥を考えるだろう。確実に見えるアリバイをつぶすことしか、あとには手がないわけだ。そうすると、おれのアリバイも再検討ということにならぬとも限らないぞ。いや、そんなことはできっこない。なにをビクビクしているんだ。おれは殺人現場から十メートル以上離れていたじゃないか。物理学上の不可能事だ。そしてそれにはパトロール警官という、確実無比の証人があるじゃないか)
「それでね、きょうはもう一度、あなた方に考えていただきたいと思って、やってきたのです。前にお聞きしたほかに、うっかり忘れていたような、股野さんの知人、多少でも恨みをもっていそうな知人はないでしょうか。これは、殊に奥さんに思い出していただきたいのですが」
「さあ、そういう心当たりは、いっこうございませんわ。あたし股野と結婚してから三年にしかなりませんので、それ以前の事は、まったくわからないと言ってもいいのですし……」
あけみはほんとうに、もう思い出す人がない様子であった。
「股野君は、誰にも本心をうちあけない、孤独な秘密好きの性格でしたから、僕だけではない、誰にも深いことはわかっていないと思います。別に日記をつけるではなし、遺言状さえ書いていなかったのですからね」
「そう、そこが僕らの方でも、悩みの種ですよ。こういう場合に、本心をうちあけた友人がないということは、捜査には何よりも困るのです」
花田警部はそこで事件の話をうち切って、雑談にはいった。彼の話は実に面白くて、克彦もあけみも、事件のことなどすっかり忘れて、興にのったほどである。警部も克彦も、ウィスキーのグラスをかさね、だんだん酔が廻るにつれて、猥談も出るという調子で、あけみも映画人だから、少々の猥談に辟易するたちでもなく、三人とも心から、春のように笑い興じたものである。
花田警部は、その日、三時間以上もなが居をして帰って行ったが、それからというものは、三日に一度、五日に一度、訪ねてくるようになった。
真犯人と警視庁の名探偵とが、親しい友だちとしてつき合うというのは、克彦のような性格にとって、こよなき魅力であった。花田警部の来訪がたびかさなるにつれて、彼らのあいだにはほんとうの親しみが生じてきた。
女中のきよを仲間に入れて、マージャンに興ずることもあった。トランプもやった。もう三月中旬をすぎていたので、暖かい日曜日などには、花田を誘って三人で外出した。そして夜は、新橋あたりのバーのスタンドに、三人が肩をならべて、洋酒に酔うこともあった。
そういう場合に、元女優あけみの美しさと社交術はすばらしかった。酒がまわると、花田警部はあけみにふざけることもあった。ひょっとしたら、彼がこんなにしばしば遊びにくるのは、あけみに惹かれているためではないかとさえ思われた。花田はしゃれた背広は着ていたけれど、やっぱり叩き上げた警官の武骨さをごまかすことはできなかった。それに、顎の張った|爼《まないた》のような赤ら顔をしていた。だから、克彦は少しも気にしなかった。名探偵が共犯の女性に惚れるなんて、実に楽しいスリルだと思っていた。
克彦と花田のあいだに、探偵小説談がはずむこともあった。
「北村さんは、探偵映画のシナリオを幾つもお書きでしたね。一つ二つ見ていますよ。商売がら僕も探偵小説は好きな方です」
花田はなかなか読書家のようであった。
「犯人を隠す映画はどうもうまく行きませんね。僕の書いたのはその方なんだが、大体失敗でした。やっぱりスリラーがいい。それか倒叙探偵小説ですね。犯人が最初からわかっていて、しかもサスペンスとスリルのあるやつに限ります」
「どうです、股野の事件は映画にはなりませんか」
「そうですね」克彦は、考え考え答えた。あのときの演技と、仮想犯人の行動とが、こんぐらがりそうになった。いつでも、そこをハッキリ区別して考えていなければいけない。まあ、しゃべりすぎないことだ。「月に照らされた窓から、被害者が助けを求めるところなんか、絵になりますね。それから、この人が」と、そばのあけみを顧みて「洋服ダンスから出てくるところ。金庫の前の格闘なんかも悪くないですね。しかし、そのほかには材料がまったくありません。もし金を借りているやつが犯人でないとすると、動機さえわからないのですからね。映画にしろと言ったって無理ですよ」
「窓のところはいい場面になるでしょうね。あなたは自分でごらんになったんだから、余計印象が深いでしょう。月光殺人事件ですかね」
(あぶない、あぶない、窓のことをあまり話していると、何か気づかれるかもしれないぞ。こんな話はしないに限る)
「花田さんも、なかなか詩人ですね。血なまぐさい犯罪捜査の中にも、時には詩があるでしょうね。物の哀れもあるでしょうね」
「物の哀れはふんだんですよ。僕はどうも犯人の気持に同情するたちでしてね。わるいくせです。捜査活動に詩人的感情は大禁物です」
そして、ふたりは声を合わせて笑ったものである。
そんなふうにして、事件から二カ月近くもたったころ、ある日、また花田が訪ねてきて、克彦をギョッとさせるような話をした。
「私立探偵の明智小五郎さん、御存知でしょう。僕はもう六、七年も懇意にしているのですが、やっぱりいろいろ教えられるところがありますね。あの人のちょっとしたヒントから、捜査に成功した例も少なくありません。昔は、民間探偵なんかに智恵を借りに行くのは、大警視庁の名折れだといって、うるさかったものですが、この頃では、だいいち僕の方の安井捜査一課長が明智さんの親友ですからね。誰も悪くいうものはなくなりましたよ」
これは克彦にとって、まったくの不意うちであった。わきの下から、冷たいものがタラタラと流れた。顔色も変わったかもしれない。
(しっかりしろ。こんなことで顔色を変えちゃあ、折角の苦労が水の泡じゃないか。平気だ、平気だ。明智小五郎であろうと誰であろうと、あのトリックを見破れるやつがあるはずはない。証拠になるような手掛かりは、これぽっちもないんだからな。だが、おれとしたことが、明智小五郎の名を、今まで一度も考えなかったなんて、どうしたことだろう。まるで胴忘れしていた。ずっと前から、空想の中で股野を殺すことを研究し出してから、一度も明智の名を思い出さなかった。不思議なくらいだ。おれは明智の手柄話を残らず読んでいる。一時は彼に心酔したことさえある。それを少しも思い出さないなんて、ひょっとしたら、これは「盲点」だぞ。明智の好きな「盲点」にひっかかっているのかもしれないぞ)
「今度の事件についても」花田は話しつづけていた。「明智さんの意見を聞いてみたのです。面白い事件だと言ってますよ。一度現場をごらんになったらどうですかと誘ってみたのですが、見に行かなくても、君の話を詳しく聞けばいいと言われるので、その後も、ときどき明智さんを訪ねて、捜査の経過のほかに、ここのうちの間取りだとか、金庫やストーヴや洋服ダンスの位置だとか、そのほかこまごました道具のこと、戸じまりのこと、前の道路と門と建物の関係、裏口の模様、それから、あなた方のお話の内容などを、詳細に話して聞かせているのです。そして、明智さんの意見も聞いているのですよ」
克彦は花田の顔をじっと見ていた。そこから何かを読み取ろうとした。花田は妙な顔をしていた。唇の隅に笑いが漂っていたけれども、それは皮肉な微笑とも取れた。全体にとりすました表情であった。
(ハハン、そうだったのか。マージャンをやったのも、トランプをやったのも、酒を飲んだのも、みんな明智小五郎の指図だったのか。そして、おれとあけみがボロを出すのを、待っているんだな。こいつは重大なことになってきたぞ。あけみにも充分言いきかせておかなければいけない。だが、待てよ。おれは自分の智恵に負けているのかもしれないぞ。なんでもないことを、思いすごしているのかもしれないぞ。犯罪者は恐れをいだくことが最大の禁物だ。いつも自分のほうからバラしてしまうのだ。神様のその手にかかっちゃいけない。恐れさえしなければ安全なんだ。おれは少しも後悔していない。股野みたいなやつは殺されるのが当然だ。多くの人が喜んでいる。だから、おれは良心に責められることはまったくないのだ。だから、恐れることもないのだ。なあに平気だ。平気で応対していれば、安全なんだ)
だが、平気で応対するということが、人間である克彦には恐ろしく困難であった。それは神と闘うことであった。
「それで、明智さんは、どんなふうに考えておられるのですか」
彼はごく自然な……と自分では信じている……微笑を浮かべて、さりげなく尋ねた。
「この犯罪は手掛かりが皆無のようだから、物質的証拠ではどうにもなるまいという意見です。心理的捜査のほかはないだろうという意見です」
「で、その相手は?」
「それはたくさんありますよ。一応白くなった連中が全部相手です。とても僕一人の力には及びません。ほかに二人の課のものが、これにかかりきっていますが、心理捜査なんて、まったく慣れていませんからね。むずかしい仕事ですよ」
「警視庁も、次々と大犯罪が起こっているので、忙しいでしょうしね」
「忙しいです。今の人員ではとてもさばききれません。しかし、迷宮入りの事件については、われわれは執念深いのです。全員を動かすことはできませんが、ごく一部のものが、執拗に何本かの筋を、日夜追及しています。われわれの字引きには『諦め』という言葉がないのですよ」
(そうかなあ。そうだとすれば、日本の警視庁も見上げたもんだな。これはうるさいことになってきたぞ。だが、そんなことは花田の誇張だ。新聞記事だけでも、迷宮入りの事件がたくさんあるじゃあないか。警察なんかに、それほどの万能の力があってたまるものか)
「たいへんですね。しかし面白くもあるでしょうね。犯罪捜査はいわば人間狩りですからね。猟師が傷ついたけものを追っかけているのと同じですからね。或る検事が、おれは生れつきサディストだったから、最適任の検事になったのだと言っていましたが、捜査官も飛びきりのサディズムが味わえるわけですね」
克彦はふと挑戦してみたくなった。意地わるが言ってみたくなった。
「ハハハハハ、あなたはやっぱり文学者だ。そこまで掘りさげられちゃあ、かないませんよ。だが、煎じつめれば、おっしゃる通りかもしれませんね」
そこでまた、ふたりは声を合わせて笑った。
その夜、ベッドの中で、克彦はあけみに、この事件に明智小五郎が関係していることを話して聞かせた。あけみの顔色が変わった。彼女は克彦の腕の中でふるえていた。ふたりだけになると、お互に弱気が出るのは止むをえないことだった。
彼らは午前三時ごろまでボソボソと話し合っていた。あけみはサメザメと泣き出しさえした。彼女の弱気を見ると、克彦も心細くなった。
「あけみ、ここが一ばんだいじなところだ。平気にならなければいけない。平気でさえいれば、何事も起こらないのだ。ほかの誰でもない自分自身に負けるのだよ。それが一ばん危険だ。絶対に証拠が無いんだからね。お互に弱気にさえならなければ、しのぎ通せるんだ。幸福がつづくんだ。いいか、わかったね」
克彦は口の酸くなるほど、同じことをくり返した。そして、やっとあけみの弱気をひるがえすことができたように思った。
五
それからまた数日後の夜、花田警部が訪ねてきたときには、克彦とあけみの心理に一転機を来たすような恐ろしいことが起こった。彼らにとって、それからあとの十数日は、恐怖と闘争の連続であった。恐怖とはわが心への恐怖であり、闘争とはわが心との闘争であった。
その夜は、女中のきよを交えてのマージャンがはじまったが、花田のひとり勝ちがつづき、あまりの一方的勝負に興味がなくなってしまった。九時ごろ勝負を中止して、例のジョニー・ウォーカーが出た。そして酔いが廻ると、花田はあけみをとらえて、ダンスのまねごとをやったりした。あけみも、少し酔っていた。キャッキャッという追っかけっこさえはじまった。花田は逃げまわって、階段を降り、台所にはいっていった。
「いけません。奥さま、花田さんがいけません」
女中のきよが花田に抱きつかれでもしている様子だった。
あけみは階段の中途から、興ざめ顔に引き返してきた。克彦は書斎のソファにグッタリとなっていた。顔は酔いのためまっ赤だった。あけみはその横に、倒れるように腰かけた。酔っていても、何かしら不安なものがおそいかかってきた。どこか廊下のすみの暗いところに、幽霊が立っているような気がした。股野の幽霊が……こんな奇妙な感じははじめてのことであった。
そこへ、ドタドタと恐ろしい足音をたてて、酔っぱらいの花田が階段をあがってきた。そして、ふたりの前に現われた。きよがキャッキャッと言いながら、そのあとを追ってきた。
「奥さん、手品を見せましょうか。いま下でこのボール紙の菓子箱の蓋と鋏を持ってきたのです。これでもって僕のとっておきの手品をお目にかけまあす」
花田はフラフラしながら、マージャン卓の向こうに立って、さも奇術師らしい恰好をして見せた。
「このボール紙から、いかなるものができ上がりましょうや、お目とめられてご一覧……」
彼はボール紙を左手に鋏を右手にもって落語家の「紙切り」の仕草よろしく、でたらめの口三味線で拍子をとりながら、ボール紙を五本の指のある手の形に切り抜いていった。
克彦の背中をゾーッと冷たいものが走った。酔いもさめて、急に頭がズキンズキンと痛み出した。あけみはほんとうに幽霊でも見たような顔をしていた。眼が大きくなって、可愛らしい口がポカンとあいていた。
「ハイッ、まずこのような奇妙キテレツなる形に切りとりましてございます。さて、持ちだしましたるは一つの手袋……」
ポケットから、交通巡査のはめるような軍手に似た手袋の片方をとりだし、それを今切りとったボール紙の五本の指にはめていった。
忽ち白い人間の手になった。彼はボール紙の端を持って手袋を自分の顔の前で、いろいろに動かして見せた。それが、まるで、うしろから別人の手が出ているように見えるのだ。
ある瞬間には、事件の夜、あけみがやったのとまったく同じ形になった。もう見てはいられなかった。あけみは悲鳴をあげないのがやっとだった。西洋の女のように気を失うことはなかったが、でも、失神と紙一と重の状態にあった。克彦はもう眼をつぶるより仕方がなかった。
(まずいことをした。こんな男を、心やすく出入りさせたのが失敗のもとだ。これも平気を装う逆手だったが、それがやっぱりいけなかった。しかし、これは警視庁捜査課の智恵じゃないぞ。明智小五郎のさしがねにきまっている。明智の体臭が漂っている。恐ろしいやつだ。あいつはそこまで想像したんだな。だが、むろん単なる想像にすぎない。試しているんだ。この試練にうち勝つかどうかで、おれたちの運命がきまるのだ。なにくそっ、負けるもんか。相手は花田じゃない。目に見えぬ明智のやつだ。さあ、なんでもやってみろ。おれは平気だぞ。証拠のないおどかしなんかに、へこたれるおれじゃないぞ……だが、あけみは? ああ、あけみは女だ。事は女からバレるのだ……)
彼はとなりのあけみの腕をグッと握った。「しっかりしろ」と勇気づけるために、男の大きな手でグッと握ってやった。
「淑女紳士諸君、ただいまのは、ほんの前芸、これより、やつがれ十八番の本芸に取りかかりまあす。ハイッ」
花田は調子にのって、うきうきと口上を述べた。そして、横で笑いこけている女中のきよを手まねきして、かたわらに立たせ、
「持ちいだしましたるは、レーンコートのベルトにござります」
それはすぐに事件の際に使用した股野のレーンコートのベルトを連想させた。
あけみが克彦の方へ倒れかかってきた。びっくりして顔を見たが、気を失ったのではない。心の緊張のために、からだの力がぬけてしまったのであろう。克彦はその手先をグッと握って、彼女が平静でいてくれることを神に祈った。そして、彼自身は酔いにまぎらせて、眼をつむっていた。見ていれば表情が変わるにちがいない。ここで変な表情を見せてはならないのだ。
(ああ、いけない。あけみ、お前はどうして、そんなに眼を見ひらいているのだ。心の中を見すかされてしまうじゃないか。いい子だから、こちらをお向き)
彼は花田にさとられぬように、肩を動かして、ソッとあけみの顔を自分の方に向けさせた。
「さて、みなさま、これなるベルトで、やつがれの手首を括らせてごらんにいれまあす……さあ、きよちゃん、構わないから、ここを思いきり縛っておくれ。そうそう、三つばかり巻きつけるんだ。そして、はじとはじとを、こまむすびにするんだ」
きよはクスクス笑いながら花田が揃えて前に突き出している手首を、ベルトでしばった。
「ごらんの通り、これなる美人が、やつがれの両手を力まかせにしばってくれました。これではどうにもなりません」
彼は手首を抜こうとして、大げさな仕草をして見せた。どうしても抜けないという身ぶりをして見せた。
「きよちゃん、それでは、僕の胸のポケットからハンカチを出して、僕の手首の上にかけておくれ」
きよが命ぜられた通り、縛った手首の上にハンカチをかぶせた。
「ハイ、この厳重な繩目が一瞬間にとけましたら、お手拍子……」
ハンカチの下で何かモゾモゾやっていたかと思うと、パッと両手を出して見せた。ベルトはきれいに抜けていた。
克彦は勇気をふるって、パチパチと手を叩いた。かすれた音しか出ないので、何度も叩いているうちに、よく響く音が出だした。彼は少しばかり自信を回復した。あけみにも手を叩けと合図をしたが、彼女は音のない拍手を二、三度するのがやっとだった。
「ただいまお目にかけましたるは、藤田西湖直伝、甲賀流繩抜けの妙術にござりまする。これごろうじませ、抜けましたるベルトは、この通り、ちゃんと元の形をたもっておりまする。結び目は少しもゆるんではおりません。さて、みなさま、これのみにてはお慰みがうすい。次には、今抜けましたる繩にもともと通り、もう一度両手を入れてお目にかけまあす。抜くよりは入れるがむずかしい。首尾よくまいりましたら、御喝采……」
またハンカチの下でモゾモゾやり、パッと手をあげたときには、最初の通り、両の手首がベルトで厳重にしばられていた。克彦とあけみは、また心にもない拍手をした。こわばった顔で、手先だけをうち合わせた。
「ハハハハハ、どうです。見事なもんでしょう。さあ、これで手品はおしまい。夜もふけたようですから、おいとましますが、お別れにもう一杯」
花田はテーブルの上のグラスに手ずからジョニー・ウォーカーをついで、それを顔の前にささげながら、ヨロヨロとソファの方へやってくる。同じソファにかけられたら、あけみがふるえているのを悟られる。相手がこぬ先に、克彦はサッと立ち上がって、自分もテーブルのグラスをとり、ウィスキーをつぎながら、
「さあ、乾杯、乾杯!」
と叫んで、花田の前に立ちはだかり、杯をカチンと合わせた。グッとほして、お互の肩を叩き合う。
「あ、そうそう、明智さんがね。あの日はどうしてあんなに月がさえていたのだろう。偶然の一致だろうか、それとも、と小首をかしげていましたっけ。ハハハハハ、じゃあ、これでおひらきといたしましょう」
トンとグラスをテーブルにおいて、そのまま廊下の外套掛けへ、泳ぐように歩いて行った。
ふたりは花田が帰ったあとで、ウィスキーを何杯もあおった。これ以上の心痛には耐えられなかったからだ。
酒の力を借りてグッスリ寝込んだ。しかし、長くはつづかなかった。真夜中にポッカリと眼をさました。隣のあけみを見ると、青ざめた恐ろしい顔をして、眼ばかり大きく見ひらいて、じっと天井を見つめていた。頬が痩せて病人のように見えた。克彦はいつもの勇気づけの言葉をかける気になれなかった。彼のほうも頭が一ぱいだった。
(明智という男は恐ろしいやつだ。恐ろしいやつだ)
そういう文句が、巨大なささやき声となって、彼の頭の中を駈けめぐっていた。
心理的攻撃はそれで終ったわけではない。それからの数日というもの、恐ろしい毒矢が矢つぎばやに、これでもかこれでもかと、ふたりの身辺に飛来した。
その翌日、あけみはうちにいたたまれなくて、渋谷の姉の家を訪問したが、夕方帰ってきたときには、一層痩せおとろえて見えた。
彼女は二階にあがると、書斎にいた克彦の前を無言で通りすぎて、寝室にはいってしまった。克彦はそれを追って、寝室に行き、ベッドに腰かけて両手で顔を覆っている彼女の肩に手をおいた。
「どうしたんだ。なにかあったのか」
「あたし、もう持ちこらえられないかもしれない。ズーッと尾行されてきたの。のぞいてごらんなさい。まだ門の前にウロウロしてるでしょう」
あけみの語調には、なにか捨てばちなものが感じられた。
克彦は寝室の窓のカーテンのすきまから、ソッと前の道路を見た。
「あいつかい? 黒いオーバーを着て、鼠色のソフトをかぶった」
「そうよ。花田さんの部下だわ。気がついたのは渋谷の駅なの。あたしと同じ電車に乗っていて、いっしょに降りたのよ。そして、姉さんのうちまでズーッと。あたし、あすこに三時間もいたでしょう。だからもう大丈夫だろうと思って、姉さんのうちを出ると、いつのまにか、あとからコツコツやってくるの。ウンザリしちゃったわ。こんなふうに毎日尾行されるんじゃ、やりきれないわ」
「神経戦術だよ。証拠は一つもありやしないんだ。こういういやがらせをして、僕たちが尻尾を出すのを待ちかまえているんだ。その手に乗っちゃいけない。相手の戦術なんだからね。こっちさえ平然としてれば、向こうの方で参ってしまうよ」
「あなたはいつもそんなこと言うけれど、うそを隠し通すって、ほんとに苦しいことね。もうたくさんだわ。あたし、多勢の前で、大きな声でわめいてやりたくなった。股野を殺したのは北村克彦です。その共犯者はあたしですって」
(やっぱり女だな。もうヒステリー症状じゃないか。こいつは、ひょっとすると、おれがいくらがんばっても、だめかもしれんぞ)
「ねえ、あけみ、君は女だから、ふっと弱気になることがあるんだ。思い直してくれ、もし僕らが参ってしまったら、ふたりの生涯は台なしなんだぜ。僕だけじゃない、君も共犯として裁判をうける。そして、恐ろしい牢屋に入れられるんだ。そればかりじゃない。たとえ刑期が終っても、金は一文もないし、世間は相手にしてくれない。それを考えたら、どんな我慢でもできるじゃないか。ね、しっかりしてくれ」
「そんなこと、あたしだって知ってるわ。でも、理窟じゃだめ。このいやあな、いやあな、地獄の底へ沈んで行くような気持は、どうにもならないんですもの」
「君はヒステリーだ。睡眠不足だよ。アドルムをのんで、グッスリ寝たまえ。少しでも苦しみを忘れることだよ。僕はウィスキーだ。あの懐かしいジョニー・ウォーカーだ」
しかし、それで終ったわけではない。くる日もくる日も、あけみがちょっとでも外出すると、必らずうしろから、コツコツとついてきた。うちにいれば、昼も夜も、門のそとに黒い外套の男が立っていた。
「奥さま、へんなやつが、勝手口のそとに、ウロウロしてますよ。いま買いものから帰ったら、そいつがあたしの顔を見てニヤッと笑いました。泥棒じゃないでしょうか」
きよが、息せききって報告した。ああ、そちらにもか。泥棒でないことはわかっていた。
「黒い外套に、鼠色のソフトをかぶった男?」
「いいえ、茶色のオーバーに鳥打帽です。人相のわるいやつです」
(すると、見張りがふたりになったんだな)
あけみはいそいで二階にあがって、カーテンのすきまから、表通りを見た。ここにもいる。どぶ川のふちにもたれて、横目で二階をジロジロ見ている。いつもの黒いオーバーのやつだ。
そして、その夜は、おもて裏の見張りが三人になった。克彦は書斎のアームチェアを窓際によせて、それにかけたまま、カーテンの隙間から覗いていた。暗くてハッキリは見えぬけれど、ひとりは電柱の蔭、ひとりは散歩でもしているていで、うしろ手を組んで、ノソリノソリと、向こうの町角まで歩いては、また戻り、また戻りしていた。
(根気のいいことだ。こちらも根気よくやらなければ。持久戦だぞ)
工場の煙突の上に巨大なまっ赤な月が出ていた。しかしあの夜の満月とちがって、今夜は片割れ月だ。まがまがしい片割れ月だ。(このお化けみたいな赤い月が、おれに人を殺させたんだ。あの夜の月はたしかに凶兆だった。だが、今夜の月は……)なんの凶兆なのであろう。
「キクッ、キクッ」という、いやな声が、寝室の中から聞こえてきた。ああまた泣いている。あけみが小娘のように泣いているのだ。克彦は両手で頭を抱えて、ソファの中で、からだを二つに折った。キリキリと揉みこむような頭痛をこらえながら。
(まだ負けないぞ。いくらでも攻めてこい。おれは、あくまで、へこたれないぞ)
それから睡眠薬の力で泥のような眠りについたが、朝、眼がさめると、また気力が回復していた。
「オイ、きょうはふたりで散歩に出よう。いい天気だ。動物園へ行ってみようか。そして精養軒で食事をしようね。うちにとじこもっていたってしようがない。尾行なんか平気だよ。尾行に精養軒をおごってやろう。そして、存分からかってやろう」
女中のきよが、びっくりして見送った。ふたりは銘々に一ばん気に入りの外出着を着て、腕を組まぬばかりにして門を出た。
わざと自動車を避けて、電車に乗ったが、不思議なことに、きょうだけは尾行がつかなかった。動物園にはいったとき、その辺に待ち伏せしているのではないかと、入念に見廻したが、どこにもそれらしい姿はなかった。精養軒の出入りにも、怪しい人影は見えなかった。まだ日が高いからというので、有楽町に廻って、シネマスコープを見たが、その道でも、映画館の中でも、尾行者らしい者は、どこにもいなかった。
ふたりにとって、こんなのびのびした楽しい日は、珍らしいことであった。日のくれごろ、上機嫌で家に帰った。家の前にも、いつもの人影はなかった。
(いよいよ尾行や見張りのいやがらせも、これでおしまいかな。ずいぶん烈しい攻撃だったが、おれもよく踏みこえたものだて)
克彦はうきうきした足どりで玄関をはいった。あけみも初春の外光に、美しく上気して、さも楽しそうに見えた。女中のきよが夕食の用意をして、ふたりを待っていた。
「あの、さっき、花田さんがいらっしゃいました。そして、お書斎の机の上に手紙を書いておいたから、読んでいただくようにって、お帰りになりました」
いつものきよの語調とは、どこかちがっていた。なんだか、いやにオドオドしている。
花田と聞くとウンザリした。(まだ幽霊がつきまとっているのか。だが、きょうのはお別れの手紙かもしれないぞ。そうであってくれればいいが)彼は二階へ急いで、その手紙を探した。事務机のまんなかに、克彦の用箋が一枚、キチンと置いてあった。
たちまち、きょう一日の楽しさが消し飛んでしまった。
(明智がやってくる。あの恐ろしい明智がやってくる)
いつのまに上がってきたのか、あけみがうしろから覗いていた。彼女も唇の色をなくしていた。眼が飛び出すほどの大きさになって、喰い入るように用箋を見つめていた。
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お留守でしたので書き残します。明智小五郎氏が、是非一度おふたりにお会いして、お話がうかがいたいと申されますので、あす午前十時ごろ、僕が明智さんをお連れします。どうかおふたりとも、ご在宅ください。
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[#地から2字上げ]花田
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北村克彦様
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ふたりとも何も言わなかった。物を言うのが恐ろしかった。いよいよこれで解放されたかと思っていたのが、逆に最悪の状態になったのだ。
ふたりは無言のまま、食堂におりて、テーブルについたが、お通夜のような晩餐だった。それに、給仕のきよが、今夜は変にオドオドしているのも気になった。いつものように物を言わなかった。こちらが話しかけると、ビクッとして、おびえた眼をする。ろくに受け答えもできないほどだ。
「どうかしたのかい? 加減でもわるいの?」
「いいえ」
口の中でかすかに答える。そして、叱られた小犬のような眼で、こちらを盗み見る。
すべてが不愉快であった。食事もそこそこに、ふたりは二階に上がった。克彦は飾り棚のジョニー・ウォーカーを取り出して、グラスに二杯、グイグイとあおった。寝室にはいって、着更えをすると、あけみはベッドに横たわり、克彦はベッドのはじに腰かけた。今夜はふたりで充分話し合わなければならない。
「あなた、どうしましょう。もうおしまいだわ。あたし、もう精も根もつきはてた」
「おれもウンザリした。だが、まだ負けられない。こうなれば、どこまでも根くらべだ。相手には確証というものが一つもないのだからね。われわれが白状さえしなければ、決して負けることはないんだ」
「だって、花田さんでさえあれでしょう。手袋とバンドの手品を見せつけられたとき、あたし、もうだめだと思った。相手はすっかり知り抜いているんですもの。股野が死んだあとで、あたしが替玉になって、窓から助けてくれと言ったことも、軍手のトリックも、そうして、あなたのアリバイを作ったことも、それから、あたしが自分で自分を縛って、洋服ダンスにとじこめられたように見せかけたことも、何から何まで、すっかりバレてしまっているじゃありませんか。この上、明智さんが乗り込んできたら、ひとたまりもないわ」
「ばかだな。知っているといっても、それは想像にすぎないんだ。なるほど明智の想像力は怖いほどだが、あくまで想像にすぎない。だからこそ、あんな手品なんかで、僕らに神経戦を仕掛けているんだ。ここでへこたれたら、先方の思う壺じゃないか。おれは明智と会うよ。会って堂々と智恵比べをやってみるんだ。蔭にいるから、変に恐ろしく感じるけれど、面と向かったら、あいつだって人間だ。おれは決して尻尾をつかまれるような、へまはしない」
少し話がとだえたとき、あけみが突然妙な眼つきになった。
「あなた、怖くない? あたし、その辺になんだかいるような気がする。いつかの晩も、廊下のくらがりに、幽霊が隠れているような気がした。それとおんなじ気持よ」
「また変なことを言い出した。君のヒステリーだよ」
しかし、克彦は、いきなり立って、書斎からウィスキー瓶とグラスを持ってきた。そして、またグイグイとあおった。
「あなた、どうしてあの晩、股野ととっ組みあいなんかしたの? どうして頸なんかしめたの? どうして殺してしまったの? あなたが殺しさえしなければ、こんなことにはならなかったんだわ」
「ばかっ、何を言うのだ。あいつが死んだからこそ、君は金持ちになったんじゃないか。おれとこうしていられるんじゃないか。それに、おれは別に計画して股野を殺したわけじゃない。あいつのほうで、おれの頸をしめてきたから、おれもあいつの頸をしめたばかりだ。もしあいつのほうが力が強かったら、おれが殺されていたんだぜ。だから、正当防衛だ。しかし、それを名乗って出たら、君と一緒になれなかった。君も証人として裁判所に呼び出されただろう。遺産相続だって、できたかどうかわからないぜ。そういうことにならないために、おれがあのトリックを考え出したんじゃないか。そして、お互に幸福になれたんじゃないか。どんなことがあっても、この幸福は守らなければならない。おれはまだ戦うよ。明智小五郎と一騎討ちをやるよ」
そしてまた、彼はウィスキーをグイグイとやった。口では強いことを言っていても、酒にたよらなければ、どうにもならないのだ。
「あなた、ね、今、へんな音がしたでしょう。何かいるんだわ。あたし、怖い」
あけみは、いきなり、克彦の膝にしがみついてきた。
そのとき、廊下の方のドアがスーッとひらいて、ひとりの男がはいってきた。
克彦とあけみは互にひしと抱き合って、彼らの方こそ幽霊ででもあるような、恐ろしい形相になって、その男を見つめた。
「ア、花田さん……」
すると、男はゆっくりとベッドに近づきながら、
「僕ですよ。花田ですよ。あなた方はお気の毒ですねえ。今ドアのそとで、あなた方のお話を聞きましたが、こういう苦しみをつづけていては、死んでしまいますよ。それよりも、気持を変えて、楽になられたらどうでしょうね」
(じゃあ、こいつは立ち聞きをしていたんだな。すっかり聞かれてしまった。だが、だが、どこに証拠があるんだ。そんなことしゃべらなかったと言えば、おしまいじゃないか)
「君はなんの権利があって、人のうちへ無断ではいってきたんだ。出て行きたまえ。すぐに出て行ってもらおう」
「ひどいことを言いますねえ。僕は君のマージャン友だち、トランプ友だち、そして、呑み仲間じゃありませんか。だまってはいってきたって、そんなに他人行儀に怒られるはずはないのですがねえ。それよりも、北村さん、今いう通り、楽になられてはどうですか」
花田はニコニコ笑っていた。
「楽になるとは、どういう意味だ」
「つまり、告白をしてしまうんですよ。あなた即ち北村克彦が股野重郎を扼殺した犯人で、そのにせアリバイを作るために、元の股野夫人あけみさんが、股野さんの替玉になって、窓から顔を見せ、助けを呼ぶというお芝居をやったことをね」
花田はいやに丁寧な言い方をした。
「ばかな、そんなことは君たちの空想にすぎない。僕は白状なんかしないよ」
「ハハハ、なにを言ってるんです。たった今、君とあけみさんとで、白状したばかりじゃありませんか。あれだけしゃべったら、もう取り返しがつきませんよ」
「証拠は? 君が立ち聞きしたというのかい。そんなこと証拠にならないよ。君はうそをいうかもしれないのだからねえ。僕があくまで否定したら、どうするんだ」
「否定はできそうもありませんねえ」
「なんだって?」
「ちょっと、そこをごらんなさい。ベッドの枕の方の壁ですよ。電灯がとりつけてある腕金の根もとですよ」
克彦もあけみも、花田のおちつきはらった語調に、ゾーッとふるえ上がって、そこへ目をやった。電灯の光にさえぎられて、腕金の根もとなど、少しも気がつかなかったが、見ると、そこに妙なものが出っぱっていた。小さな丸い金属製のものだ。
「あなた方のお留守中にね、女中さんを納得させて、この壁に小さな穴をあけたのです。そして、そこからお隣の松平さんの離れ座敷まで、コードを引っぱったのです。その離れ座敷には、安井捜査一課長をはじめ、警視庁のものが四、五人つめかけているのです。わかりますか。つまり、この壁の小さな金属製のものは、マイクロフォンなのです。そして、お隣の離れ座敷には、テープ・レコーダーが置いてあるのです。ですから、さっきからのおふたりの話は、すっかりテープに記録されたわけですよ。いや、おふたりの話だけではありません。現にこうして話しているわれわれの問答も、みんなテープにはいっています。それで、僕はさっき、後日のために、関係者の名前をハッキリ発音しておいたのですよ」
克彦はここまで聞いたとき、もうすっかり諦めていた。花田の背後にいる明智の恐ろしさが、つくづくわかった。
(おれの負けだ。こうまで準備ができていようとは、夢にも知らなかった。あすの十時に明智が訪問するという置き手紙も、おれたちを不安の絶頂に追いやって、さっきのような会話をさせる手段にすぎなかったのだ。彼らはおれたちがそろって外出する時を、待ちかまえていた。そして、きょうの機会をとらえて、きよを説き伏せ、味方にして、マイクロフォンの細工をやったのだ。きよがオドオドしていたわけがわかった。おれはきよの態度を見て、なぜ疑わなかったのだろう。なぜ警戒しなかったのだろう。だが、ここまでくると、もう人間の力には及ばない、おれがぼんくらなのじゃない。うそを最後までおし通すことなど、人間には不可能なのだ)
「証人は警察のものばかりじゃありません。隣の松平さんの御主人が立ちあっています。それから、女中のきよも、今は、その離れ座敷にいるのです。そして、今夜の会話を記録したテープは、その場で、みんなの立ちあいのもとに、封印をするのです……おわかりになりましたか。これであなたがたは、すっかり楽になったのですよ。もう今までのような苦しみや、いさかいをつづけるには及ばないのですよ」
語り終った花田警部は、いつになく厳粛な顔で、そこに突っ立ったまま、ふたりの様子を見守った。あけみは話のなかばから、ベッドに倒れて泣き入っていた。克彦は腕組みをして、じっとうなだれていたが、花田の言葉が切れるのを待って、顔をあげて、きっとした表情になり、口をひらいた。
「花田さん、僕の負けです。皆さんに余計なご苦労をかけたことをお詫びします。しかし、最後にひとことだけ、申し上げたいことがあります。あなた方のやり方は、からだの拷問ではありませんが、心の拷問でした。拷問は決してフェアなものではありません。もっと強く言えば、卑怯な手段です。僕はこのことを、明智さんにお伝え願いたいと思うのです」
それを聞くと、花田はちょっと困ったような顔をして考えていたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「それは多分、君のまちがいですよ。なるほど僕は、いろいろな手段によって、君に心理的な攻撃を加わえました。それは止むを得なかったのです。君のトリックがあまりに巧妙であって、物的証拠が一つも挙がらなかった。しかし、そのまま手を引いてしまったのでは、罪あるものを罰し得ないことになります。そこで心理的な手段を用いるほかはなかったのです。しかし、この心理攻撃はいわゆる拷問とはまったく性質がちがいます。拷問というのは、その呵責のつらさに、罪のないものでも、虚偽の自白をする場合の起こり得るような責め方です。肉体上の拷問がこれに当たります。また被疑者を一昼夜も二昼夜も眠らせないで、質問責めにするというたぐいの調べ方、これも拷問です。しかし、今度の場合のやり方は、もし君が犯人でなかったら、少しも痛痒を感じないようなものでした。虚偽の自白を強いるような手段はまったくとられなかったのです。君たちが恐怖を感じ、拷問されているように考えたのは、君たちが犯罪者だったからです。もしそうでなければ、僕があんな手品を見せても、平気でいられたはずです。尾行にしても、身に覚えのないものが、いくら尾行されたからといって、私は人殺しですなどと、告白するはずがないではありませんか。心理攻撃は徳川時代の拷問とはまったくちがったものですよ……わかりましたか」
克彦は深く首を垂れたまま答えなかった。
堀越捜査一課長殿
異様な封書
警視庁捜査一課長堀越貞三郎氏は、ある日、課長室で非常に部厚い配達証明の封書を受け取った。
普通のものより一まわり大きい厚いハトロン封筒で、差出人は「大阪市福島区玉川町三丁目、花崎正敏」とあり、表面には東京警視庁の宛名を正しく書き、「堀越捜査一課長殿、必親展」となっていた。なかなかしっかりした書体なので、よくある投書にしても、軽視はできないように感じられた。堀越課長は封筒の表と裏をよくあらためた上で、ペンナイフで封を切ったが、そのとき、「わざわざ東京へ送ってよこしたのは、東京警視庁管内に関係のある事柄だな」と考えた。しかし、思い出してみても、花崎正敏という人物には、まったく心当たりがなかった。
封筒をひらくと、中にもう一つ封筒がはいっていた。そして、その封筒を包むようにして五枚とじの書簡箋が同封してあった。まずそれをひろげてみると、そこには、外封の書体と同じ筆蹟で、こんなことがしるしてあった。
「私は大阪市内で発行しております『関西経済通信』編集長、花崎正敏というものでございます。一面識もない私から、突然手紙をさしあげますのには、深い理由があるからであります。私は今から一カ月ほど前、大阪市此花区春日出町二丁目の福寿相互銀行専務取締役、北園壮助氏から、同封の封書を手渡されました。北園氏はそのとき、重患の病床にあったのですが、『僕はあと一と月も生きられるかどうかわからない。医者は隠しているけれど、自分には死期の近づいていることが、よくわかる。この封書を君に預けるから、僕が死ぬまで大切に保管して、僕が死んだら、すぐに東京の警視庁の堀越捜査一課長あてに、配達証明郵便で送ってくれ。僕は君を信用して、これを頼むのだ。この封筒の中には、非常に重大な文書がはいっている。僕が死ぬまでは、誰にもうちあけたくない秘密が封じこめてある。だから、君も決して封をひらいてはいけない。君を男と見こんで頼むのだ。約束してくれたまえ。決してこの中を見ないことと、僕が死んだら、必らずすぐに堀越氏宛てに送ることを、誓ってくれたまえ』北園氏は、実に真剣な調子で、そう言われたのです。私はそれを引きうけました。約束通り、この封筒の中は見ておりませんから、どういう文書がはいっているかは、まったく知らないのです。北園氏は三日前に胃癌が悪化してなくなられ、きのう告別式が行なわれました。そこで、約束に従って、あなたにこの封書をお送り申し上げる次第です。
北園壮助氏はかぞえ年四十一歳の独身者です。奥さんは二年前になくなられ、子供もなく、又、再婚もしておられませんので、まったく孤独の人でした。父母も兄弟も死亡して、遠い親戚がないではないが、文通もしていないということでした。私は『関西経済通信』の編集のことで、福寿相互銀行をたびたび訪ねているうちに、専務の北園氏と知り合いになり、お宅へもお出入りするようになって、非常に親しくしていただいておりました。この重要な文書を、会社の人に託さないで、私にお頼みになったのも、そういう関係からであります。
そういうわけで、この封書は、北園氏が死際に、私を信じて託された大切なものですから、普通の投書などと混同なさらず、きっと御一読くださるよう、お願いする次第であります。尚、御参考までに書き添えますが、北園氏はこれと同じような厚い封書を、もう一通私に託されました。その宛て先は東京丸ノ内の東和銀行本店庶務部長、渡辺憲一氏です。やはり内容を見ないで、死後に郵送するようにということでありましたので、この手紙と同時に配達証明便で送りました。では、同封の封書をお取り捨てにならないで、御熟読くださることを切にお願いします」
堀越課長はこれを読んで、異常な興味を感じないではいられなかった。問題の封書を取り上げてみると、やはり厚手のハトロン紙で、ズッシリと重く、表面には「東京警視庁堀越捜査一課長殿」、裏面にはただ「北園壮助」と、達筆な毛筆でしるしてあった。
(はてな、北園壮助、ずっと前に、何かの事件に関係して、聞いたことのある名前だぞ。たぶん、おれの署長時代のことだ。だが、思い出せない。被疑者じゃない。被疑者なれば覚えているはずだ。証人かもしれない。いずれにしても、はじめての名前じゃないぞ)
堀越課長は、そうおもったので、しばらく、その北園壮助という署名と睨めっこをしていたが、どうしても思い出せなかった。そこで、ペンナイフで丁寧に封を切って、中身を取り出してみた。書簡箋七、八十枚を綴じたものに、こまかいペン字でビッシリと何か書きつけてあった。
とても執務時間中に読める分量ではない。うちに帰ってから、ゆっくり読もうと、封筒に戻して、ポケットに入れかけたが、どうも我慢ができなかった。読みたくて仕方がなかった。また取り出して、せめてはじめの方だけでもと、読みはじめた。そして、とうとう退庁時間までに、読み終ってしまった。むろん、たびたび妨げられた。下僚が報告にきたり、判こを貰いにきたり、新聞記者がやってきたりして、今にも疑問が解けようとするところで、手紙をおかなければならなかった。それだけに、いわゆるサスペンスが長くつづき、堀越課長は、授業中に教科書の蔭で小説本を盗み読みする中学生のような、もどかしさと、そこから生ずる一種異様の楽しさとを味わったものである。
その手紙は、読み終っても一度ではやめられないほど、驚異に満ちていた。課長は官宅に帰る自動車の中で、又、手紙を取り出して、読みはじめ、うちに帰ってからも、食事はあとまわしにして、読み耽った。
課長が、それほど興味を感じたのも無理ではない。その手紙には、今から五年前、彼が渋谷署長時代に、管内に起こった迷宮入りの不思議な事件の秘密が、事こまかに解きあかされていたのである。次にその興味ある手紙の全文を、内容からして前段と後段とにわけて掲げることにする。
前段
堀越捜査一課長殿
私はあなたとは一面識もないものです。今から五年前、あなたの部下に参考人として尋問を受けたことはありますが、あなたには一度もお会いしておりません。しかし、あなたはむろん御記憶でしょう。五年前の昭和二十×年十二月、あなたが渋谷署長をなすっていた時に、渋谷区栄通りの東和銀行渋谷支店から、一千万円入りの輸送袋が盗まれた事件を、よもやお忘れではありますまい。あれは不思議な事件でした。単独犯行ではありましたが、いわば銀行ギャングに類する、白昼の派手やかな事件だったものですから、新聞やラジオは随分騒ぎました。盗まれた金額から考えられる以上の恐ろしいセンセイションを起こした事件です。ですから、地元の渋谷警察はもちろん、警視庁でも、手をつくして犯人を捜索されました。それにもかかわらず、あの事件は迷宮入りになってしまったのです。犯人が煙のように消えうせたからです。晴天の午後二時でした。人通りの多い町の中です。犯人自身も目につきやすい風態をして、その上、でっかい札束入りのズックの袋を、かついでいたのです。それが、衆人の目の前からスーッと消えうせてしまいました。
あなたは今、警視庁捜査一課長として、大いなる名声を博しておられます。殊に最近はあの向島三人殺し事件捜査の中心人物として、あなたの写真が新聞にのらない日はないくらいです。五年前、渋谷署長であられた頃も、あなたは名署長でした。次々と起こる大小の事件を、片っぱしから明快に処理せられ、管内の治安に、累代の署長に比べるものもないほどの功績をあげられました。ですから、あの東和銀行支店の盗難事件は、あなたにとって、たった一つの汚点でした。あなたの部下は、逃げる犯人を、今にも背中に手が届きそうな近さで、追跡したのです。人の寝しずまった真夜中ではありません。ゾロゾロその辺を人が動き廻っている白昼です。それでいて、犯人に消えられてしまったのです。警官諸君はもちろん、あなたの無念さは想像にかたくありません。
警視庁でも、あなたの署でも、あらゆる手段を講じて、犯人捜索に努力せられました。しかし、警視庁管下の全警察力をもってしても、ついに犯人を発見することができず、迷宮入りの事件の一つとなってしまったのです。
その、あなたにとっては、たった一つの汚点である、残念な事件の真相を、私は詳しく存じておるものです。それを、あなたにお知らせしたいのです。今ごろになって、何を言うかと、お叱りを受けるでしょうが、それには止むを得ない事情がありました。関係者が生きているあいだは、真相を語れない複雑な事情があったのです。しかし、私を最後に、あの事件の関係者は、犯人をはじめ皆この世を去ってしまいました。真相を発表しても、もう誰も迷惑をするものはないのです。そこで、私がまだ筆を執れるうちに、あの事件の真相を詳しく書きしるし、私の死後に、これをあなたに送るよう、信頼のできる友人に託しておくわけです。
犯人や関係者が死んでしまってから真相を発表して、なんの効用があるのだ。ただ警察を侮辱するにすぎないではないかと、おっしゃるかもしれません。しかし、効用はあるのです。敗戦直後に比べて、警察官の質は非常に向上しました。科学捜査の施設も完備してきました。でも、警察官一人一人のちょっとした注意力によって、手掛かりを掴みうるような場合に、それを見のがしてしまうことが屡々あるようです。東和銀行盗難事件にもそれがありました。一度だけではありません。そういう見のがしが、少なくとも二度はあったのです。
しかし、あらゆる微細なものを、一つものがさず注意するということは、人間わざではできないことかもしれません。いくら老練な警察官でも神様ではないからです。すると、そういう微細な見のがしに、巧みに乗じた犯罪は、結局成功するということになりますね。生意気を言うようですが、ここに警察官に対する大きな教訓があると思うのです。この事件の犯人は、常軌を逸して頭のいいやつでした。そして、常識はずれの手段を発明したのです。老練な警察官は非常に広い捜査学上の知識と、多年の実際上の経験を持っておられます。しかし、そこにはまだ隙があります。常軌を逸した犯人の着想は、あなた方の盲点にはいる場合があるのです。あなた方は犯罪捜査についてのあらゆる知識をお持ちですが、犯罪がひとたび常軌を逸してしまうと、それはあなた方の知識外になるのです。そういう意味で、この事件の真相は、警察官一般にとって、重要な参考資料となるのではないかと思います。この手紙を書きます理由はまだほかにもあるのですが、そういう捜査上の参考資料としてだけでも、あなたの御一読を煩わすねうちは充分あると信ずるからです。では、前置きはこのくらいにして、事実にはいります。
この事件は、あれほどセンセイションを起こしたのですから、まだ、あなたの御記憶にあるかと思います。もし細部をお忘れになっていても、当時の事件記録をお取りよせになれば、詳しくわかることではありますが、そういう面倒を避け、又、あなたの薄れた御記憶を補う意味で、一応、事件そのものの経過をしるすことにいたします。
今から五年前の昭和二十×年十二月二十二日、火曜日、午後二時ごろ、渋谷区栄通りの東和銀行渋谷支店の横丁に一台の自動車がとまっていました。タクシーではなく、丸ノ内の東和銀行本店から、さし廻された自動車ですが、外見は別に普通のハイヤーと変わりはありません。運転手は本店常傭いの事に慣れた男でした。
そこへ、渋谷支店の横の出入り口から、二人の行員が出てきました。その一人は、両手で大きな角ばった麻袋をかかえています。毎日行なわれる現金輸送なのです。輸送の途中で、現金袋が強奪される事件が、ときどきありますので、多くの銀行では、犯人の注意を惹きやすい閉店時間を待たず、日中、人通りの多い時間を選んで、現金輸送をするようです。
支店の二人の行員は、輸送袋を守って、出入り口から自動車に近づいていきました。自動車までは五メートルぐらいしかありません。それに、その横丁は可成り広い通りで、歩行者や自転車に乗った人たちが、たえず往き来していました。犯人の乗ずる余地はないはずです。その上、すぐそばの四つ角に、交番があり、その前にはいつも警官が立ち番をしていたのです。
行員は毎日のきまりきった行事ですし、近くにおまわりさんさえいるのですから、つい油断をしていました。まず第一に、この油断がいけなかったのです。輸送袋を、強奪されないように、しっかり抱きしめていなかったことが、いけなかったのです。
どこか、その辺の軒下に身をひそめて、最好の時機を待ちかまえていたのでしょう、一人の頑丈な男が、突然、パッと飛び出してきて、輸送袋を持っている行員に、烈しくぶっつかり、袋が地上にころがりおちたのを、恐ろしい素早さで拾いあげると、風のように走り出しました。
それが人間わざとも思われない素早さだったので、二人の行員は、盗難ということがハッキリわからず、一瞬間ポカンとしていましたが、すぐに気を取りなおして、大声にわめきながら、追っかけました。それに気づいた自動車の運転手も、車を飛び出して、追跡に加わろうとして、とっさに、うしろの町角の交番のことを思い出し、そこにかけもどって、警官に呼びかけまして、そして、警官と、行員二人と、運転手とで、賊のあとを追ったのです。町を通っていた人たちで、弥次馬根性から、それについて走ったものも少なくありません。賊と追っ手との距離は十メートルほどもありました。その距離がなかなかせばまらないのです。むろん賊の逃げる方向から歩いてくる人たちもあったのですが、賊の物凄い形相に恐れをなして、誰ひとり阻止しようとするものもありません。
賊はせまい町をグルグル廻って、結局、銀行から三百メートルほどの場所にある、松濤町の松濤荘へ逃げこみました。このアパートは都営アパートほど部屋数はありませんが、やはり鉄筋コンクリートの高級アパートで、かくいう私も、当時そこの一階に住んでいたのです。そのころは、未だ小説家にあきらめがつかず、二流の娯楽雑誌などに、つまらない小説を書いていたものです。これには説明を要しますが、二流雑誌の原稿料などでは、とても松濤荘などに住むことはできません。実は私は、なくなった親から譲られた土地と家屋が田舎にありまして、それを売って、株をやっていたのです。小説家と株の投機なんて、まるで縁がないように見えますけれども、数多い文士の中には、そういう例がないでもありません。現在の相互銀行専務という職業からも御想像願えると思いますが、私は株がなかなかうまくて、損をすることは滅多になく、ときどきは小金を儲けたものです。それで相当贅沢な独身生活がつづけられました。
さて、賊はその松濤荘に飛びこむと、廊下を走って、なんと、私の隣室へ隠れたではありませんか。私はその騒がしい物音を聞きました。でも、まさか、あれほどの事件とは知らないものですから、しばらく躊躇していましたが、そとの騒ぎは大きくなる一方です。数人の人が何かわめいています。「合鍵だ、合鍵だ、管理人を呼べ!」とか、「裏へ廻れ、窓から逃げるかもしれないぞ!」とかいう叫び声がきこえます。そして、ドンドンと、破れるほど隣室のドアを乱打するのです。
私ももうじっとしていられなくなって、廊下へ飛び出しました。隣室の前には、制服の警官と二人の背広の男が、ひどく昂奮して立ち騒いでいます。もう一人の詰襟の黒服を着た男が、廊下を入口の方へ駈け出して行くのがチラッと見えました。これが銀行の自動車の運転手で、建物の裏に廻って、犯人が窓から逃げ出すのを防ごうとしたのだということが、あとでわかりました。
そこへ、アパートの管理人が合鍵を持って、駈けつけてきました。ドアはすぐにひらかれました。警官と二人の男が飛びこんで行きます。私よりも先に、数人のアパートの住人が廊下に出て、遠まきにこの騒ぎを見ていましたが、その人たちも、ひらかれたドアに近づいて、室内をのぞきこみました。
ここでちょっと、アパートの部屋の構造を説明しておきます。ドアをあけると、一坪ほどの玄関、その向こうが八畳ほどの洋室になっていて、一方の隅にベッドがあります。その洋室の窓が南側の裏庭に面しているわけです。浴室はなく、簡単な炊事場と便所が、洋室と壁を隔てた右側についております。私自身の部屋もこれと同じ造りでした。
玄関と洋室との境は板のひらき戸になっているのですが、賊はその板戸をひらいたままにしておいたので、入口のドアのところから、洋室の大部分が、向こうの窓まで見通せるのです。その窓もあけはなってありました。そして、賊はもう室内にはいなかったのです。
私はすぐ隣室の住人のことでもあり、又、小説家という職業からいっても、こういう事件には大いに興味がありますので、ほかの住人たちが遠慮をしているのを尻目に、ズカズカと部屋の中へはいって行きました。みんなが裏庭に面する窓のところにかたまっているので、私もそのうしろから庭をのぞいてみました。すると、実に奇妙な光景が眼にはいったのです。
さっきの制服の銀行の運転手が、低いコンクリート塀の上に、馬乗りになって、その向こうの町を通る人にわめいているのです。
「三十ぐらいの鼠色に格子縞のある背広を着たやつだ。このくらいの」と両手で大きさを示しながら「大きな麻袋をかかえるか、かつぐかしていた。そういう男が走って行くのを見ませんでしたか」
そとからの返事は、声が低くて聞きとれませんが、どうやら否定しているようなあんばいです。そこで運転手は又べつの方向に向きなおって、叫ぶのです。
「そちらのかた、あなたも見ませんでしたか。今言ったような、特徴のある男です。肩幅の広いヨタモン風の青年です」
しかし、そちらの人も、そういう男は見なかったという返事らしいのです。その道路は狭い裏通りですが、人通りはたえずあるので、運転手は次々と同じ問いをくりかえしましたが、不思議なことに、右からくる人も、左からくる人も、賊らしい男を見たものが一人もないのでした。といって、その町には人間の隠れられるようなものは何もありません。公衆電話も、ポストも、マンホールさえないのです。又、塀の向こうがわは、大きな自転車店とその倉庫で、店には数名の店員がいるのですが、あとでよく調べてみますと、その店員たちも、怪しい男が塀をのりこすのも、走って行くのも見かけなかったということでした。倉庫の中に隠れたのでないことも確められました。
「塀をのりこさないで、庭を右か左へ逃げたんじゃないか」
こちらの窓から、警官がどなりますと、運転手は怒ったような顔をして、塀の下の地面を指さしました。
「この靴跡をごらんなさい。いまついたばかりだ。そっちのは僕の足跡です。ほかに足跡というものが一つもないじゃありませんか。ジュクジュクした土に、足跡を残さないで逃げられますか。その窓からこの塀までつづいているのが、賊の足跡にきまってます。ホラ、ごらんなさい。この塀にも泥靴でよじのぼったあとが、ちゃんとついている。賊は塀をのりこして逃げたにちがいないのです」
それでいて、塀のそとを通りかかる多勢の人が、又向こう側の自転車店の店員たちが、一人も賊の姿を見なかったのは、どうしたわけなのでしょう。すれちがった人でも、うっかり気がつかないという場合はあります。一人や二人は、そういう見おとしがあっても不思議ではありません。しかし、通行人の全部が、また、店員が、例外なく見かけなかったとすると、これは恐ろしく不合理な話になります。人間一人、煙のように消えてしまったとしか考えられなくなるのです。
犯人の|風《ふう》|体《てい》を耳にしたとき、私はすぐにそれが何者であるかを悟りました。そんな大柄な格子縞の背広を着た男が、ザラにあるものではありません。「名作読物」社の編集員、大江幸吉です。彼は私の隣室の住人だったのです。犯人が逃げこんだ部屋は大江幸吉の住居だったのです。部屋を借りるとき、紹介してやったのも私でした。その懇意な男が、大それた銀行ギャングだったとわかって、私は仰天しました。翌日になっても、彼が隣室へ帰ってこないので、それが一層確実になりました。そして、彼は永久にその部屋へは帰ってこなかったのです。
それから捜査活動は、万遺漏なく行なわれました。犯人の逃走距離を時間によって推定して、その外周一帯に非常線が張られました。
松濤荘には、やがて、警視庁からも、渋谷署からも多勢の人がこられ、建物の内部と外部の捜索がつづけられました。当時渋谷署長であられたあなたは、なぜかその時は、姿を見せられませんでした。もし、あの時、あなたが松濤荘へ来ておられたら、私もお目にかかれたでしょうに、ついその後も機会がなくて、お会いせずじまいになってしまいました。
犯人の大江幸吉は、まだ室内のどこかに隠れているのではないか、又、彼の住居から、何か手掛かりが掴めるかもしれないというので、彼の部屋の台所から便所まで、くまなく調べられました。しかし、どこにも人間の隠れられるような場所はなく、又、これという手掛かりも発見されませんでした。彼の部屋が管理人の合鍵でひらかれてから以後は、ドアのそばにも廊下にも、アパートの住人たちが、ずっと立っていましたし、裏の窓の方には行員や警官などがいたのですから、一時部屋のどこかに身をひそめて、人々の油断を見すまして、逃げ出すということも、絶対にありえなかったわけです。
アパートの建物はコンクリートの二階建てで、上下に八世帯ずつ、都合十六世帯が住んでいたのですが、その建物のまわりを、庭ともいえないような狭い空き地が、グルッと取りまいているので、そこも入念に調べられました。前々日まで雨が降っていて、庭の土は全体にやわらかく、もしそこを人が歩けば、必らず足跡がつくような状態でした。それにもかかわらず、さっきの窓から塀までの足跡のほかには、疑わしい足跡は庭全体に一つもないことがわかったのです。よく小説などには、綱渡りをしたり、綱にすがって、それをブランコのように振ったりして足跡を残さないで塀のそとに出る話がありますが、この事件の場合には、時間的にそんな余裕もなかったのですし、そういう冒険をした痕跡もまったく発見されませんでした。
塀のそとの犯人の消えた道路は、多勢の刑事諸君が右往左往して、綿密に調査しました。又自転車店の店員や、その道路に入口のある家々は、残りなく調査せられ、又、厳重な質問を受けました。しかし、なんの手掛かりもないのです。そういう町の捜査は、松濤荘の周辺一帯についても行なわれました。酒屋や八百屋、肉屋などの御用ききだとか、よく外出する人々を、一人一人、しらみつぶしに調べました。そして、それらの凡てが徒労に終ったのです。
こんなふうに書きますと、警官でもない私に、どうしてそこまでわかるのかと、お疑いになるでしょうが、これらのことは、皆あとになって、渋谷署のあなたの部下であった捜査主任に詳しく聞いたのです。その捜査主任はたしか木村さんといいました。この人には、その後二、三度尋問を受けましたので、その機会に、こちらからも、いろいろお聞きすることができたのです。私はこの事件の参考人として、根掘り葉掘り、木村さんの尋問を受けました。といっても、署に呼び出されたことはなく、いつも木村さんがアパートの私の部屋へ出向いてくださったのですが。
アパートの建物全体も、一応捜索を受けました。殊に犯人大江幸吉の両隣の部屋と、真上の二階の部屋が、厳重に調べられました。それはこういうわけなのです。松濤荘には、各階に、庭に面するガラス窓のそと側に、幅二尺ぐらいのコンクリートのヴェランダのようなものがついています。つまりコンクリートの縁側のようなもので、それに低い鉄の手すりがついているのです。そして、一世帯ごとに、コンクリートの厚い隔壁があり、その隔壁に添って、建物の壁に接して、太い樋が、二階の大屋根からズッとおりています。この隔壁で、勝手に隣同士行き来ができないようになっているのです。その隔壁は、ヴェランダのそと側の手すりよりも、もっとそとへ突き出してあるので、もしそれを越えて、隣のヴェランダへ行こうとすれば、ちょっと曲芸のようなまねをしなければなりません。でも、そういう曲芸さえやれば、行けないことはないのです。警察はそこへ目をつけました。犯人はその曲芸をやって、右か左の隣室へ逃げこんだのではないのか。そして、廊下の人たちの油断を見すまして、廊下の方のドアから、コッソリ逃げ出したのではないか、という疑いです。
この考えは庭の足跡と矛盾します。足跡は塀まで行ったまま帰っていないのですから、それが犯人の足跡だったとすれば、同時に隣室へは逃げられなかったはずですが、警察としては、犯人の靴を手に入れたわけではなく(大江幸吉は一足しか靴を持たず、彼の部屋から余分の靴は発見されなかったのです)庭の足跡を犯人のものと確定することはできないので、それはそれとしておいて、他の可能性をも調査したわけでしょう。
それからもう一つは、二階の真上の部屋です。犯人にもし機械体操の心得があれば、二階のヴェランダの縁にとびついて、二階の窓にのぼりつくことも不可能ではありません。ですから、この左右と上との部屋は最も綿密に、そのほかの全部の部屋も一応は、手分けをして調査したのです。その結果、今言ったような逃亡手段も、まったく不可能であったことが、わかってきました。
右、左、上の三つの部屋には、犯人が消えうせたずっと前から、皆、人がいたのです。それも、裏窓に面した洋室にいたのです。そして、窓から犯人がはいってきたようなことは、絶対にないと証言しました。私自身も、犯人の右側の部屋に住んでいましたので、その証言をした一人なのです。
ここで又ちょっと説明しておきますが、このアパートは、一階も二階も大体同じ間取りで、中央に廊下があり、その左右に四世帯ずつの部屋がならんでいるのです。それで、一階に八世帯、二階に八世帯、都合十六世帯になります。犯人大江幸吉は一階の南側に面した中央の部屋に住んでいました。その右隣が私の部屋、左隣が鬼頭という独身の私立大学の助教授の部屋でした。この人も事件の時に在宅して、裏窓に面した机に向かっていたというのですから、まちがいはありません。むろん犯人はその左隣の部屋にも侵入しなかったのです。一部屋通りこして、もう一つ向こうの部屋まで行ったのではないかということも、考えられますが、裏窓はすき通ったガラス戸ですから、そのそとを人間が通りすぎたとすれば、見のがすはずがありません。
くどいようですが、ここは肝腎なところですから、もう一とことだけつけ加わえます。それなら、私と鬼頭氏とが、窓のそとを通る男に気がつくような位置におったのなら、犯人が自分の部屋の窓から塀まで走るところ、その塀をのりこすところも、見えたはずではないかという点です。それには警察でも気づいて、私も鬼頭氏も、くどく尋ねられましたが、二人とも、それはまったく見ていなかったのです。私のほうは、必らずしも窓のそとを見ていたわけではありませんが、鬼頭氏は窓に向かって書きものをしていたのですから、犯人が塀をのりこすというような際立った動きを、眼の隅に感じないはずはありません。それがまったく気がつかなかったとすると、実に不思議な話です。私にしても、窓のほうは見ていなかったにしても、部屋は一つきりなんですから、犯人が隣室の裏窓をあける音、走る姿、塀をのりこす騒ぎに、気がつかないはずはありません。しかし、私もまったくそういう動きを見ていないのです。
犯人の真上の部屋には会社員の夫婦が住んでいましたが、事件のときには、奥さんだけが部屋にいました。これも窓のそとを眺めていたわけではなく、窓に向かった椅子にかけて編みものをしていたのだそうです。しかし、目の下の塀をのりこす人間があれば、当然、眼の隅で捉え得たはずなのに、この奥さんも、そういうものは何も見なかったという答えでした。
裏庭に面した部屋は、一階と二階で八世帯あり、事件のとき部屋にいた人は、そのほかにも数人はあったのですが、その誰もが、庭を走ったり塀をのり越したりする人の姿を見ていないことがわかりました。
へんなことを書くようですが、私は何かの本で読んだトルストイの言葉を思い出しました。「君がこの世で一番怖いと思う怪談は何か」と問われたとき、トルストイは「見渡す限りの雪の原っぱに、人間も動物もまったくいないのに、ただ一|足《そく》の靴跡だけが、ザクッザクッと雪の上に印せられていく光景、これが一番怖い」と答えたというのです。この事件の犯人は庭に足跡だけを残し、しかし、その姿は誰にも見せていないのです。当然見るべき人々が、一人も見ていないのです。トルストイの怪談ではありませんか。
五日たっても十日たっても、犯人大江幸吉は、この世のどこにも姿を現わしませんでした。あんな大きな荷物を持って、あんな派手な洋服を着て、どこの非常線にも引っかからなかったのです。五日や十日ではありません。一と月、一年、そして満五年がすぎ去った現在まで、彼はまったくこの世に姿を現わしません。盗みとった一千万円は、いったいどうなったのでしょうか。念のために書き添えますが、本店へ輸送する札束は、支店の窓口で受け取ったものが大部分ですから、古い紙幣ばかりで、その紙幣番号の控えなどまったくないのです。
犯人の右と左と上の部屋が綿密に調べられたと書きましたが、その調べがどの程度のものであったかを、私の場合を例にとって、しるしてみます。
あとでわかったのですが、そのとき私の部屋を調べられたのは、渋谷署のあなたの部下の木村捜査主任でした。それに犯人を追ってきた銀行員の一人がつきそっていました。探すものは犯人大江と盗品の札束入り麻袋です。玄関から洋室、炊事場、便所と、あらゆる隅々が探され、ベッドの下、洋服ダンス、押入れ、そのほか札束を隠せそうな場所は、残りなくあけて見られました。麻袋の中には千円札の百万円束が、ちょうど十個入っていたのです。百万円束を一つずつに分ければ、ちょっと大きな引出しにでも、はいるのですから、私の部屋の引出しという引出しは、全部ひらいて調べられたわけです。
そのとき感心したのは、木村さんは、テレビの受像器の中まで調べられたことです。私は株の方で、ちょっと儲けていたものですから、そのころ輸入されはじめた十七インチのテレビ受像器を買って、部屋においてあったのですが、木村さんはそのテレビの箱のうしろの蓋をひらいて、中をのぞいてみるほどの熱心さでした。
しかし、それほどに調べても、何も出てこなかったのです。私の部屋だけでなく、ほかの部屋も同じことでした。
さて、次には犯人大江幸吉がどんな人物であったかということをしるさなければなりません。アパートの住人のうちで、大江と親しくしていたのは私だけでしたので、木村さんは、その後二度も私の部屋を訪ねて詳しく尋ねられました。
当日とその二度の場合とにお答えしたことを要約して、大江の人物について、書いておくことにいたします。
私が大江と知り合ったのは、事件の起こる二た月ほど前、新宿の酒場で偶然話しかけられたからです。彼の勤めている「名作読物」という雑誌には、私もときどき寄稿していますので、彼の方では私をよく知っていて、話しかけたのです。彼はなかなか面白い男で、私も酒好きですから、だんだん親しくなり、ときどきは一緒に呑み歩くこともありました。
そのころ大江はかぞえ年三十歳だと言っていました。私より五つ年下です。ちょっとヨタモン風な美男子で、女には好かれるほうでした。肩幅が恐ろしく広くて、派手な柄のダブル・ブレストがよく似合いました。髪は油っけなしのモジャモジャ頭にしていました。当時はやりのリーゼントスタイルではないのです。彼はちょっと話したのではわかりませんが、内心はひどくエキセントリックな男らしく、その片鱗がモジャモジャ髪にも現われていたという感じです。眉は濃いボウボウ眉毛で、近眼の目がねをかけていましたが、それが当時はやり出したばかりの、あの上部の縁だけ太くなっている、ドギツイ型のやつでした。目がねの中に、文楽の人形のような大きな黒玉が異様に光っていました。黒玉といっても、彼のは茶色なのですが、それが眼の白い部分に比べて、ひどく大きいので、じっと見つめられると、何か魔物にでも魅入られるようで、恐ろしくなるほどでした。鼻には別に特徴はありませんが、顎はひどく張っていました。ですから、顔は真四角な感じで、よく下駄のような顔というあれなのです。遠くから見ても、一目でわかるほどでした。彼の人相書を書くとすれば、茶色の虹彩の異常に大きい眼と、この四角な顎の二点でしょうね。
そういう際立った特徴を持っているのですから、いくら服装をとりかえてみても、すぐに気づかれるはずなのに、それが発見できなかったというのは、どうしたわけなのでしょうか。
大江と知り合いになってから、一と月半ほどたったころ、松濤荘の私の隣の部屋があくことになりました。アパートの部屋が無条件であくなんて、当時としては珍らしいのですが、この松濤荘の経営者は、部屋の権利の転売については非常に厳重で、居住者が他に移転するときは、ハッキリ部屋をあけさせることにしていました。そこで一応保証金を返し、次の申込者の中から適当な人を選んで、改めて保証金を取るというやり方でした。
私が酒場で大江と会ったとき、その話をしますと、是非借りたいというので、私の友人としてアパートの管理人に紹介したわけです。すると、私が相当ゆたかに暮らしているのと、大江も風采はなかなか立派なので、首尾よく部屋を借りることができました。保証金は八万円で、雑誌記者などには大金でしたが、これも大江はどこからか都合をしてきました。そういうわけですから、事件が起こったのは、大江が私の隣の部屋に来てから、十数日しかたっていなかったのです。おそらく彼は、最初から銀行泥棒をやる目的で、東和銀行支店に近い松濤荘を選んだのではないでしょうか。
木村捜査主任は、むろん私の話だけでは満足せず、「名作読物」社の方も調べました。そして、その結果を私に話してくれましたが、大江がその雑誌社にはいったのも、ごく近頃で、最初に私と酒場で会った一と月ほど前だったのです。木村さんは社長に会って、いろいろ聞きだしたそうですが、社長も大江の前身は少しも知らないのでした。ある有名な小説家の紹介名刺を持って、ヒョッコリやってきて、使ってくれと申し込んだのだそうです。話してみると、作家や画家のことをよく知っていますし、編集についても一見識あり、風采もよく、現代風の美男子なので、社長もつい惚れてしまって、あとから、その名刺の作家に問い合わせてみると、「深くは知らないが、二、三度一緒に酒を呑んだことがある。なかなか面白い男だ。まあ使ってやりたまえ」というような返事だったと言います。この作家は非常なはやりっ子で、「名作読物」なんかには、とても原稿をくれないような人でしたから、社長は、大江を採用すれば、その作家の原稿がとれるかもしれないという下心から、あまり詳しくも調べないで、入社させたわけでした。
そこで、木村捜査主任は、その作家をはじめ、大江が出入りしていた作家や、ほかの雑誌社の呑み友だちなどを、できる限りたずね廻って、聞いてみたそうですが、誰一人大江の前身を知ったものがないのでした。この方面はプッツリ糸が切れてしまったので、木村さんは、大江が松濤荘へくる前のアパートを調べました。それは大江が松濤荘へはいるときに書かされた借室証にしるしてありましたので、その町へ行ってみますと、そんなアパートはまったく存在しないことがわかりました。大江はでたらめを書いていたのです。又、借室証にしるされた大江の原籍地へも照会してみましたが、それもでたらめでした。原籍地の戸籍簿のその町名には、大江などという姓は一人もないということがわかったのです。
これで、大江の銀行泥棒は、決して一時の思いつきでないことがわかりました。まず絶対に自分の過去がわからないようにした上で、私に近づき、銀行泥棒には最も好都合な松濤荘へ入りこんだのです。そして、どういう手段かはまったくわかりませんが、松濤荘の一室に逃げこんだまま、煙のように消えうせてしまったのです。
迷惑なのは私でした。私は松濤荘に対して大江の保証人になっていました。ちゃんと判こが捺してあるのです。私はさし当たって、犯人大江の最も身近な人物なのです。木村さんがたびたび私を訪ねて、根掘り葉掘りお尋ねになったのも無理はありません。
こうして犯人の前住所や原籍の筋さえプッツリと糸が切れてしまったので、もうどうすることもできません。警察では犯人の人相をたよりに、気永な捜査をつづけるほかなくなったようでした。
木村捜査主任は、よほど諦めきれなかったもようで、大江の知り合いのものを全部洗い立てたほかに、彼が出入りしていた新宿のバーなどを、木村さん自身で呑み歩いて、マダムや女給から聞きこみをやっていました。
これは木村さんに聞いたのではありません。事件から三、四日たったある日、新宿のドラゴンというバーの美しい女給が、私を訪ねてきて、その話をしたので、わかったのです。その女給は弓子という名で、まだ商売ずれのしていない美しい女でした。
「刑事がくるのよ、そして、大江さんのことを、なんだかんだって尋ねるのよ。あたし、なんにも言うことなんかあるはずがないわ。あたしのほうだって、刑事さん以上に、あの人を探しているんですもの」
弓子は私もよく知っていました。そのドラゴンというバーへ呑みに行った回数では、私の方が大江よりも、はるかに多いのです。大江は私ほど小遣いが自由ではありませんでしたからね。そこへ呑みに行ったのは私の四、五度に対して、大江は一度ぐらいの割合いだったでしょう。というのが、そのドラゴンは新宿では一流の店で、酒と女が揃っているかわりに、随分高くとられるからです。最初私が大江と出合った酒場なんかとは段ちがいのバーです。
弓子という女はドラゴンのピカ一でした。最初にはいったのがこの店で、まだ半としとたっていなかったのですから、どことなくウブなところがありました。わかり易いために女優を例に引きますと、弓子は、まあ木暮実千代をグッと若くしたような、どことなくエキゾチックな感じで、愛嬌者ではありませんが、人当たりは柔かく、頭も悪くないのです。
大江幸吉は、私にもこの女が好きだと宣言して、無理をしてドラゴンへかよっていましたが、いつの間にか彼女を物にしてしまいました。そのことは、私も薄々は感じていましたけれど、弓子がこんなに心配して、私のところまで訪ねてくるほどとは知らなかったのです。
弓子としては、私は大江の先輩で、アパートまで世話してやったのだから、大江のことは相当深く知っているだろうと思って、やってきたのですね。しかし、私は今までも書いてきた通り何も知らないのです。大江の情人の弓子になら、こちらから尋ねたいぐらいのものです。そこで、二人は「わからない、わからない」と言いかわしながら、ため息をつくばかりでした。
弓子はそんな際でも、「あら、テレビがあるのね。今やっているの?」と聞くのです。まだテレビの珍らしい頃でした。私が立って行って、ダイヤルを廻すと、ちょうど正午すぎだったので、ニュースか何かやっていて、弓子はしばらくそれを見ていました。前にこのテレビのことは、ちょっと書きました。木村捜査主任が、その中に札束が隠してあるのではないかと、うしろの蓋をひらいて見たあのテレビです。
それから、私は弓子をそとへ誘い出し、一緒に食事をしたあとで有楽座の映画を見ました。実を言いますと、私は弓子が好きでたまらなかったのです。大江に先手をうたれたので、素知らぬふりをしていましたが、内心では嫉妬に堪えないほどでした。その大江が罪を犯して行方不明になったのですから、私は今こそ大っぴらに弓子に惚れてもいいわけです。
この辺で又、ちょっとお断わりしておきますが、これからしばらく、私自身の身の上話をしるすことになります。それが銀行盗難事件となんの関係があるのだと、お叱りを受けるかもしれません。しかし、私はこの手紙にむだなことは一行も書いておりません。私の身の上話にしても、結局は盗難事件そのものに深い関係を持っているのです。その部分を飛ばしてお読みくださっては困るのです。念のために申しそえます。
そこで、私は急に弓子に接近しはじめたのですが、しかし、その恋愛の経過を書くのが、この手紙の目的ではありませんので、ごく簡単に結果だけをしるしますと、それから二カ月ののち、私はついに弓子を自分のものにしました。そして、三カ月のちにはもう結婚していたのです。私は両親には死に別かれ、兄弟もありませんし、弓子の方も、両親がなく、やっぱり孤独な身の上でしたから、誰に気兼ねすることもなく、この結婚はスラスラと運びました。
しかし、ただ一つ気になることは、私は性格でも、からだつきでも、大江とはまったく逆のタイプだったことです。友人の場合は、それが却っていいのですが、大江の気質なり男前なりに、あれほど惹かれていた弓子が、その逆のタイプの私を、真底から愛しているのかどうかということでした。
誰でも私を文士や詩人のタイプだと言いました。いわゆる青白きインテリですね。大江とは逆に顎はすぼけていて、いかにも貧相ですし、肩幅も普通よりはせまく、われながら悄然とした形をしているのです。性質も、二流雑誌に小説を書いていたほどですから、臆病なインテリ型で、大江のような闘志も活気もありません。そのほか、あらゆる点が大江とは逆なのです。ただ似ているのは、ギャンブルを愛するということだけだったでしょう。私は勝負事はなんでも好きで、勝ち運も強いのです。この点では、はるかに大江以上でした。彼は見かけによらず勝負事には弱いほうでした。私の青白いからだの中には、そういう陰性な闘志が烈しく燃えていたのかもしれません。
私は弓子と結婚すると間もなく、二人で大阪へ来ました。株などよりはもっと確実な大きな儲けがしたくなったからです。小説にはもう見切りをつけました。いつまでやっていても、はやりっこになれる見込みがなかったからです。それよりも、愛する弓子に充分贅沢をさせるために、金持ちになってやろうと考えたのです。弓子は幼時に家が豊かだった関係もあって、相当な贅沢屋でした。
私は以前大阪に住んでいたことがあって、多少の知り合いがありました。それに、弓子と結婚する前、株で一か八かの勝負をやり、思いもよらぬ儲けをしていました。その金があったからこそ大阪行きを思い立ったのですが、さて、大阪へ行って、私たちは何をはじめたとお思いになります。パチンコ屋をひらいたのです。私の大阪の友人がパチンコ屋をやって成功していました。その友人の世話で、うまい場所に貸し店を見つけることもでき、金を借りることもできたのです。パチンコ屋は場所さえよければ、ひどく儲かるものです。みるみる私は金をこしらえました。そして、借金を返した上、自分で高利を貸すほどになったのです。高利といっても、個人に貸すのではなく、あぶなげのない会社の手形の割引を専門にやったのですが、パチンコとその高利貸しとで、私は更らに財産をふくらませました。
そして、大阪へ行って三年目には、現在の福寿相互銀行を起こすほどの素地ができたの
です。そのころには金融方面の有力者にも顔が広くなっておりましたので、私が株の半分を引き受けるからと、相談すると、数名の有力者が話に乗ってきました。そして、小さいながら、資本金五千万円の相互銀行が設立されたのです。その福寿相互銀行は、その後も着々として地歩を固めております。私はもうこの世になんの不足もない身の上でした。
後段
福寿相互銀行が設立されて間もなく、弓子は風邪から肺炎になり、それをこじらせて、僅か十日あまり病床についたばかりで、あっけなく死んでしまいました。たった三年ほどの同棲で、私は愛する妻を失ったのです。はじめは行きずりのバーの女給に心を惹かれたのにすぎませんでしたが、結婚してみると、彼女こそ世界にたった一人の私のほんとうに求めている女だったということが、わかってきました。ですから、私は結婚前よりも、結婚後に真の恋愛をしたといってもよいのです。
私たちは三年のあいだ、お互に烈しく愛し合いました。普通の夫婦が一年かかって費やす愛情を、私たちは三年のあいだに使いつくしてしまったのです。ですから、夫婦生活に隙間のできるような事件は何もおこらなかったのですが、ただ一つ妙なことがありました。弓子が幽霊を感じるようになったのです。眼に見えるのではありません。心で感じる幽霊なのです。
結婚してから一と月ほどのち、私たちが大阪へ引っこして間もなくのことでした。ある夜、私が外出から帰って、居間の襖をひらきますと、弓子が一人で机にもたれて雑誌を読んでいましたが、襖の音に、肩のへんをビクッとさせて、急にこちらを振り向きました。その顔を見て、私の方がギョッとしたくらいです。サッと血の気の引いた顔、飛び出すほど見ひらかれた眼、まったく面変わりのした恐怖の表情でした。
「どうしたんだ」と、たずねますと、弓子はそのままの姿勢で、じっと私の顔を見つめていたあとで、無理に笑い顔をして見せました。
「なんでもないのよ。フッとおびえたの。怖い小説を読んでいたからかもしれませんわ」
しばらく話し合っているうちに、血の気がもどり、いつもの弓子の顔になってきました。そして、その晩は、それっきり、なんのこともなかったのですが、しばらく日がたつと、似たような出来事があり、それから三カ月ものあいだ、しばしばそういう妙なことが起こったのです。私が気づいたのは、回数にして十回ほどにすぎませんが、弓子の脅えかたは一回ごとにひどくなり、その恐怖心理が影響して、ついには、私までが幽霊を感じるようになってきました。
それは銀行泥棒大江幸吉の幽霊でした。彼が死んだかどうかはわかりませんが、警察があれほど探しても発見できないのですから、或いは死んでいないとも限りません。又、べつの考えかたをすれば、幽霊は死霊ばかりではなく、生霊というものもあるわけで、死霊にせよ生霊にせよ、大江の魂が弓子の変心を恨んで、又、私が彼女を横取りしたのを恨んで、眼に見えぬ怨念となって、私たちの身辺に迫まってくるということが、まったくあり得ないとは言えません。弓子も私も、大江の名は一度も口にしませんでしたが、二人とも、それが大江の怨霊だということは、わかりすぎるほどわかっていました。
夜など、弓子と二人きりで向かいあって坐っていますと、弓子の眼がびっくりするほど大きくなって、じっと空間を見つめることが、たびたびありました。眼は私のほうを向いていますけれども、私ではなくて、私の少しうしろの空間を、見つめているのです。
そうすると、弓子の恐怖が私につたわって、私の眼まで大きくなってきます。うしろを振り返る勇気はなく、じっと弓子のおびえきった顔を見つめて、私の顔もおびえてくるのです。二人は石のようにほしかたまって、長いあいだ身うごきもせず、睨み合っていました。そういうことが何度もあったのです。
或るときは、夜なかに、蒲団の中で、これがおこりました。弓子が突然、私のそばから飛びのいたのです。恐ろしい悲鳴をあげて飛びのいたのです。私はほんとうにギョッとしました。彼女は気がちがったのではないかと、非常な不安にうたれました。同時に、私も怖かったのです。私自身が、一刹那大江の怨霊にのりうつられ、大江の姿になって、弓子を怖がらせたのではないかと感じたからです。幽霊は私自身ではないかと思ったからです。実になんともいえない複雑な、異様な恐怖でした。私は喉の奥からギャッという叫び声が押しあげてくるのを、やっとのことで喰いとめたほどです。
そんなことがつづくあいだに、弓子はだんだん痩せていきました。顔色も青ざめ、眼ばかりが大きくなり、気味わるく光ってくるのです。私はそれをじっと見ていなければなりませんでした。なんとも言えない恐れと苦しみに、私自身も痩せる思いでした。恐怖にうちひしがれた弓子は、私をただ一人の頼りにして、すがりついてくるのです。それでいて、大江の怨霊は私のすぐうしろに漂っているらしく、私のすがたを見て脅えるのです。夜中に蒲団の中から飛びおきたりするのです。しっかり抱きしめてやる私の手を、ふりはらって、まるで私自身が幽霊ででもあるかのように、逃げるのです。
もう私は堪えられなくなりました。ついに或る事を実行しようと決心しました。もう一歩でそれを実行するところでした。すると、不思議なことに、ちょうどそのころから、憑きものが落ちるように、弓子の異様な動作がバッタリ消えてしまったのです。もう彼女は幽霊を見なくなったのです。そして、青ざめていた顔が日一日と赤味をまし、痩せていたからだも、だんだん太ってきました。彼女に憑きものがしていたのは約三カ月で、それが落ちてしまうと、もう何事もなかったように、元の愛すべき弓子に戻りました。そして、今から二年ほど前、弓子が急に病死するまで、私たちは愛情に満ちた夫婦生活をつづけたのです。
弓子は風邪がもとで肺炎に罹り、充分手当てをしたのですが、何か彼女の体質に欠陥があったのでしょう。半月ほど病床についたきりで、あっけなく死んでしまいました。
彼女が息を引きとる前日、自分でも死期を感じたのでしょう。枕もとに坐っていた私を、涙ぐんだ眼で見上げて、突然、こんなことを言いました。
「あなたに別の愛人ができても、あたしは恨みません。あたしは魂であなたを愛しつづけます。あなたの愛人さえも愛してあげることができると思います」
彼女はそういって、私の手を握り、唇を求めるのでした。私は涙を流して、彼女をシッカリと抱きしめてやりました。二人は蒲団の上にかさなって、最後の愛情を伝え合いました。ところが、そうしているうちに、私はふと、背中を虫が這っているような悪寒を覚えたのです。かさなり合っている二人のあいだから、久しく忘れていたあの幽霊が、大江幸吉の幽霊が、もうろうと現われ、そいつの痩せたからだが、みるみるふくれあがって、私を弓子の肉体から、はじき返すように感じたのです。
私は抱きしめていた手をはなし、弓子から離れて、彼女の顔を凝視しました。その痩せ衰え、青ざめた顔こそ、幽霊そのもののようでした。その青ざめた顔で、彼女は薄笑いをしていたのです。私はゾーッとしました。彼女がいま言い出そうとしていることが、たちまち予感されたからです。
「あたし、ズーッと知っていたのよ」
薄笑いを浮かべたまま、低い低い声で言いました。
「え、何を、何を知っていたっていうの?」
私はわざと素知らぬ顔で、たずねました。
「だめよ。あたし、永い永いあいだ、考えに考えつづけて、ちゃんと解決してしまったんですもの……あたし、もう一生のお別かれでしょう。ですから、あたしがあの事を知ってたということを、あなたに打ちあけておきたいの。知ってても、あなたを愛しつづけたってことを」
とっさに、私は何もかも悟りました。あの不思議な幽霊を見ていたあいだ、彼女は半信半疑でいたのです。そして、あの恐ろしい三カ月の苦悶のあとで、彼女は真相を掴んだのです。それでも私を愛しつづけたのです。いや、それ故にこそ、却って私を二重に愛することができたのです。
「あたし随分考えましたわ。でも、長い月日のあいだに、一つずつ、ほんとうの事がわかってきたのです……一番最初は、あのあなたの東京のアパートにあったテレビよ。あたしがはじめてお訪ねしたとき、あなたは、なぜかテレビに私の注意を惹くようなことをいって、あたしがそれほど興味も持っていないのに、ダイヤルを廻して、ニュースを見せてくださったわね。あれはなんだかその場にふさわしくない挙動だったという考えが、あたしの頭のすみに残っていたのよ。でも、そのわけがどうしてもわからなかった。やっぱり東京にいるあいだに、あなたがフッと漏らしたあの事を思い出すまでは。
あなたは、たった一度だけれど、うっかりあのことを、あたしに話してしまったのよ。それは、銀行泥棒があった日に、渋谷警察の捜査主任が、あなたの部屋も調べにきて、テレビの器械の裏側の蓋まであけてみたという、あの話なの。それから数日後に、あなたがあたしにテレビのニュースを見せてくれたことを考え合わせると、ハハアそうだったのかという答えが出てくるのよ。
それから又、永いあいだかかって、あたし、もう一つのことを思い出した。ホラ、あの樋よ。あのアパートには大屋根からの太い樋が、ヴェランダよりも内側に、建物の壁にくっついて、ズッと下へおりていたでしょう。あたし、何度目かに、あなたをお訪ねしたとき、窓によりかかっていて、ふと、あの太い樋の裏側を見たのよ。壁にくっついているがわよ。そこに樋のトタン板が腐って、舌のように、はがれているところがあったわ。さしわたし十五センチぐらいの角ばった穴で、舌のようになったトタンを、おしつければ、穴が隠れてしまう。あれよ。あの穴がテレビの代りになったということが、あたしにはチャンとわかったのよ。ね、そうだったでしょう。
それから、あなたは隠していたけれど、あなたが総入歯だということは、お互に知りあってから、じきにわかった。むつかしかったのは眼でしたわ。これが一番あとよ。ふと或る小説を読んでいると、そのことが書いてあったので、ハッと気がついたの。瞼の中へ入れるプラスチックの目がね、コンタクトレンズ……ね、あたし、何もかも知っていたでしょう。
そのほかのことは、この四つの秘密に比べれば、なんでもないことだわ。どうにでも、ごまかせることだわ……ね、わかる? あたし、何もかも知っていて、あなたを愛しつづけたのよ。それが嬉しかったのよ。あたしがはじめて愛したあの人と、あなたと、二人ぶん愛せたのよ。一時は気味が悪くて気が狂いそうだったけれど、二人分愛せるのだということを悟ってから、あたし、もうなんでもなくなった。それを知る前よりも、あなたが何倍も、いとしくなった」
そして、彼女は又、私の手を求め、唇を求めました。私たちは涙を流して、さっきよりも一層かたく抱きしめ合ったまま、いつまでも離れませんでした。
ここで又、おことわりしなければなりません。私は昔、小説家でした。このまじめな手紙にも、その昔のくせが顔を出すのです。そして、こんな思わせぶりな書き方をさせるのです。弓子を見送って二年、今度は私に死期が近づいております。もうあと一と月か二た月のいのちでしょう。そんな瀬戸際になっても、私はまだ遊戯をやっているのです。犯罪の真相を語ることを、できるだけ引きのばして、あなたをイライラさせ、結局は、あなたを面白がらせようとしているのです。私はなんというあきれた男でしょう。
しかし、もうこれ以上は引きのばしません。今こそ告白します。あの銀行泥棒の真犯人は、この私だったのです。
私は生涯にたった一度のあの犯罪に、完全に成功しました。その犯罪手段は、むろん神様に対しては隙だらけでした。しかし、人間はその隙を見つけ得なかったのです。全警視庁の力をもってしても、これを発見することができなかったのです。その意味で、私は「完全犯罪」をなしとげたとも言えるわけではないでしょうか。
あの当時、私はかぞえ年三十五歳でした。或る私立大学を出て、十余年のあいだ、種々様々の職業を転々しました。しかし、どの職業にも私は全身をうちこむことができなかったのです。小説家にはなりたいと思いました。そして、二流雑誌にときどき原稿を買ってもらうところまでは行ったのですが、とても、それで豊かな生活をする見込みはありませんでした。親が残してくれた郷里の家屋などを売って、株をやりましたが、これも僅かな元手のことですし、それに、私は元金をなくしては大変だという考えから、安全第一のやり方をしておりましたので、儲けたといっても知れたものです。私としては、こんなことで満足することはできませんでした。
「安全第一」と言いますと、さきにしるした弓子と大阪へ行く前に一か八かの投機をやったという言葉と矛盾しますが、実はあれは世間への口実で、そのとき私の手には、すでに東和銀行支店から盗んだ一千万円の大金がはいっていたのです。大阪へ行ってパチンコ屋をはじめ、高利貸しをやった元手も、実はその一千万円を小出しにしていたのです。両方とも儲かったにはちがいありませんが、もともと私は大金を持っていたのですから、僅か三年のうちに、相互銀行の設立をもくろむことさえできるようになったわけです。
さて、お話を元に戻して、私はそうして、一攫千金を夢見ながら、アパート生活をつづけていたのですが、近くの東和銀行支店へ預金の出し入れをしに行くたびに、私の心の中に、一つの空想が、だんだん成長してきたのです。私はあの銀行の仕事ぶりを、長いあいだかかって、詳細に研究しました。そして、現金がどういう方法で本店へ運ばれるか、月のうち、又は週日のうちで、どういう日に、最も多額の現金が運び出されるか、その札束の一枚一枚の番号が控えてあるかどうかというようなことを、残りなく調べあげたのです。
銀行の横丁の角に交番がありましたが、これも最初から、私の計画の中にはいっていました。あすこに交番があることが、私の計画には却って必要でさえあったのです。
私の心の中で、この計画が熟してきたのは、事件の半年ほど前のことでした。私はその頃から、遠方のまったく見知らぬ歯科医と眼科医にかよいはじめました。といいますのは、私はずっと以前から、『変装』についての一つの創意を持っていたのですが、いよいよ、それを実行する決心をしたからです。
私は『変装』については、子供のころから深い興味を感じていました。そして、おとなになっても、その興味が少しも衰えなかったのです。これは神話時代から人類の心の底に根強く巣喰っているメタモーフアシス、「変形」の願望、別の言葉で言えば「隠れ簑」や「隠れ笠」を持ちたいという|隠形《おんぎょう》の願望です。多くの人はおとなになると、そういうおとぎ話は考えなくなるものですが、私はおとなになっても、ずっとそのことを思いつづけていました。そして、簡易変装術というようなものを発見したのです。
変装は、近くで対談しても、或いは同じベッドにはいってさえ、相手に気づかれぬほどのものでなくては、実用になりません。カツラやつけひげなどは問題外です。最も理想的な変身術は、顔面はもちろん、全身の整形外科手術によって、まったく別人となることですが、そして、それは充分可能なのですが、この方法では、手がるに元の自分の姿に戻ることができません。甲にもなり、又、とっさに乙にもなれる変装術でなくては、私の計画には役立たないのです。そこで私は、そういう場合に最も適切な簡易変装法を考案しました。
しかし、この変装術には、私でなくてはできない部分を含んでいました。歯の丈夫な人ではだめなのです。私は若いときから歯性が悪くて、三十歳のころには虫歯でない歯は一本もないという有様でした。それで、三十を越して間もなく、総入歯にしたのですが、これが私の変装術の最も重要な条件となったのです。
技巧の下手な総入歯は、すぐにわかりますけれども、私の場合は技巧も悪くなかったのですし、又、肉体のほかの部分が若々しいのにごまかされて、多くの友だちが私の総入歯を少しも気づきませんでした。これが私の着想のもととなったのです。
患者は総入歯になっても、なるべく元の相好が変わらないことを望みます。随って歯科医はこれに応じた総入歯を作るのですが、もし元の相好が変わってもよければ、いくらでも変えることができます。歯並びを変え、出っ歯を出っ歯でなくしたり、又、その逆にもできますし、歯ぐきを思いきり厚くすれば、頬をふくらませ、顎を張らせることも自由です。頬の痩せた役者は、口の中へ含み綿を入れて頬をふっくらさせますが、入歯は歯ぐきそのものの形を変えるのですから、その効果は含み綿などの比ではありません。
有名な人で言えば、なくなった上山草人が若い頃から総入歯でした。彼がアメリカで怪奇映画に主演していた時分には、この総入歯を利用して、いろいろな形の入歯を作らせておき、役によって入歯を取りかえて、極端な変貌をなしとげて見せました。あれです。私は毎日横浜の、あまり有名ではないが非常に技巧のうまい歯科医に通よって、思いきり頬をふくらませ、顎を張らせる総入歯を作らせました。小芝居の俳優だといつわり、舞台の変装用に使うのだといって頼んだのです。
噛むための入歯ではなくて、変貌用の入歯ですから、はめ心地は非常にわるく、無理に顎を張らせてあるので、頬の下部の粘膜を押しつけて、長くはめていると、そこがただれてくるほどでしたが、犯罪の目的のためにはそのくらいのことは我慢しなければなりません。その厚ぼったい総入歯をはめて、鏡を見ますと、私の顔が恐ろしく変わっているのに、われながら驚くほどでした。
次は眼です。人間の顔の中で、一番個性の出ているのは眼です。眼の感じを変えることができたら、ほかの部分はそのままでも、人相が一変します。その証拠に、仮装舞踏会などで、眼だけのマスクをあてれば、誰だか判らなくなるではありませんか。そこで私は、変名で横浜のある眼科病院にかよいました。そして、やはり舞台で使うのだと言って、瞼の中にはめこむプラスチックのコンタクトレンズを作ってもらったのです。私の眼は俗に三白眼といって、白眼の面積の方が多いのですが、それを逆に、白眼が少なくて、|虹《こう》|彩《さい》の大きな眼にしてもらいました。コンタクトレンズの表面に、義眼と同じやり方で、これを描いてもらったのです。又、私の眼は真黒な虹彩ですが、コンタクトレンズの方は目立つほど茶色にしてもらいました。それを瞼の中へはめて、鏡を見ますと、実に気味の悪い眼に一変していました。まるで文楽の人形の眼のように、大きな茶色の虹彩が眼の中一杯に拡がっていて、その眼でじっと見つめられると、何かまがまがしい妖気のようなものが感じられるのです。
この二つが変貌の眼目でしたが、それだけではまだ不充分なので、二、三の仕上げのタッチをしなければなりません。私は非常に薄い眉なので、その上に巧みに眉墨をはいて、やや濃いボウボウ眉にしました。顔色は青白いので、気づかれぬほど肉色の化粧をして、丈夫そうな色艶にしました。それから、私の髪の毛が軟かくて少しちぢれているのを幸い、油をつけないで、モジャモジャ頭にしました。そうすれば生え際がわからなくなり、額がちょっと狭く見えるのです。眼のコンタクトレンズをカバーするためには、新らしい型のベッコウ色の縁の、度の弱い近眼鏡をかけました。
そういう仕上げをしたあとで、鏡を見ますと、私の顔はまったく一変していました。北園壮助はこの世から消えうせて、大江幸吉という見知らぬ人物が、鏡の中からニヤニヤ笑っているのでした。
あとは服装を取り替えればいいのです。私は男にしては目立つほど撫で肩なので、変装の服の肩には、肩幅を広く見せるために、思い切って大きなパットを入れました。(あとで説明しますが、私は自分でそれを入れたのです)また服の柄も、グレイ地に白っぽい格子縞のある派手なダブル・ブレストを選びました。顔色がよくなり、頬がふっくらして、顎が張り、青年のような目がねをかけた上で、この服を着ますと、当時かぞえ年三十五歳であった私が、五つ六つ若く見えるのです。靴なども、むろん私の足には合わない別の型のものを買いました。
こうして私の変身は完成し、まったくの別人と成りおおせたのです。しかも、その変装をすてて、元の私に戻るのには、一、二分もあれば充分という、その簡便な点に、私の考案の最大の特徴があったわけです。私は自分の体臭をごまかすことも忘れませんでした。そのためには、大江に化けて女などに接近するときだけ、強い香水を使って、体臭を消すことにしたのです。むろん、声の調子や言葉遣いも、いろいろ工夫して、一変させたのです。
これだけの準備をした上で、私はいよいよ実験にとりかかりました。大江幸吉という新人物をこの世に誕生させたのです。そして北園である私と、大江に化けた私とが、共通の知り合いの前に、交互に姿を現わして、相手が気づくかどうかを、時間をかけて、ためして行ったのです。そして、完全に成功しました。誰も、これっぱかりも疑うものはなかったのです。私は私の発明と演技とに、絶対の自信を持つことができました。
これからあとの犯罪経路は、あなたのような専門家には、大体おわかりのことと思いますが、しかし、まだ少しばかり説明を要する点が残っております。
事件の三カ月以前、私は大江幸吉になって、「名作読物」社に入社しました。その方法は前に書いた通りです。それから一と月ほどたって、新宿の酒場で北園壮助と大江幸吉が知り合いになりました。むろん実際にそこで顔を合わせたわけではありません。北園壮助の私と、大江幸吉に化けた私とが、交互にその酒場へ行って、マダム、女給、呑み友だちなどに、互に相手の噂をして、友だちになったことを吹聴したのです。そうすれば、酔っぱらいでゴタゴタしている酒場のことですから、二人が一度も同席していなくても、当然一緒に呑んでいたような錯覚をおこしてしまうのです。私の妻になった弓子の勤めていたバー・ドラゴンでも同じ手を用いました。そして、弓子自身が、北園と大江とは、ドラゴンで一度や二度は顔を合わせたことがあるように、錯覚していたくらいです。
そういう架空のつき合いを一と月半ほどつづけたあとで、北園が大江を松濤荘アパートに紹介して、隣同士の部屋に住むことになったのですが、そのときも大江といっしょに管理人に会うわけにはいきませんので、あらかじめ北園が話して、承諾を得ておいて、大江は北園の不在中に部屋借りの手続きをしたのです。さて、隣同士に住むようになってからの一人二役は、随分忙しい仕事でした。大江は午前に雑誌社へ出勤しなければなりません。その時分には作家の北園の方は、ドアに鍵をかけて、まだ熟睡中です。彼は夜中に執筆するくせなので、夕方まで寝ていることも珍らしくありません。そういう習慣をアパートの人たちは充分知っていたのです。夕方大江が帰ってくると、今度は北園の方が外出する番です。そして、場合によっては、北園が出かけたかと思うと、じきに帰ってきて、即座に大江になって外出し、或いは廊下だけに姿を見せ、又その逆の入れ替わりもやるというわけで、芝居の早替わりのような忙しさです。その早替わりには、裏窓のそとのヴェランダを通路に使いました。あのコンクリートの隔壁を曲芸のように越して、どちらの部屋へも往き来していたのです。これは誰にも見られる心配はないのでした。
こういうやり方で、私はアパートの住人たちを、完全にあざむきおおせ、このお芝居は十二、三日で充分その目的を達しました。それに、そんな早替わりの日々が半月以上もつづいては、こちらのからだが、たまりません。いよいよ犯罪を実行する時がきたのです。
銀行事件の経過は御承知の通りです。あのとき、大江に化けた私が、アパートの大江の部屋へ逃げこむところを、ハッキリ目撃してもらわないと、私のトリックはだめになるのでした。それには、銀行の人たちだけでは心もとない。警官が追っかけてくれるのが最も好都合です。警官が目撃しておれば、これはもう何より確かな事実として扱われるからです。銀行のそばに交番のあることが、却って私の犯罪には必要であったという意味が、これでおわかりになったでしょう。
大江はアパートの自分の部屋に逃げこむと、ドアに鍵をかけ、裏窓のそとのヴェランダから、隔壁を越して、北園の部屋にはいり、先ず千万円入りの麻袋を、十七インチ・テレビの箱の中に隠しました。これにはちょっと説明を要します。私はこの犯罪のために、わざわざテレビを買い入れたのです。そして、別に古いブラウン管を手に入れ、それをガラス切りで切って、正面から見えるガラスの面だけを残し、それに裏から白っぽい染料を塗って、前から眺めたのでは、完全なブラウン管に見えるようにしました。そして器械に付属していた完全なブラウン管を抜きとって、その前面だけのガラスと取り替えたのです。それから真空管や附属の装置全部も取りはずし、テレビの箱の中をガラン洞にし、そこへ、札束の麻袋を入れたのです。あの箱の中へ、千円札の百万円たば十個ぐらいは充分はいります。相当の余裕さえありました。
しかし、そのままでは、うしろの蓋をひらかれたら、すぐわかるので、それをごまかすために、前もって、古いラジオセットを買ってきて、一枚の黒っぽい板に、真空管や付属の器械や電線などを、ゴチャゴチャといっぱいに取りつけておき、その板を、麻袋のそとからはめこんで、うしろの蓋をひらいても直接麻袋が見えぬようにしたのです。(申し添えますが、犯行時間は午後二時でしたから、この時間にはテレビは何もやっていないのです)
案の定、木村捜査主任は、テレビの箱に眼をつけて、うしろの蓋をひらいてみました。しかし、その頃はテレビ放送がはじまったばかりで、一般の人はテレビの箱の中がどんなふうになっているか、ほとんど知りません。木村さんも知らなかったのです。蓋をひらいてみると、中は真空管やゴチャゴチャした器械で一杯になっていたので、ごまかされてしまったのです。それに素人でも、ブラウン管がじょうご型で、相当奥行きのあるものだということは、広告の絵などで知っていますから、そういう大きな場所を取るブラウン管が取りつけてある中へ、一千万円の札束を入れることは、とてもできないだろうと考えるのが自然です。正面から見れば、ちゃんとブラウン管があるのですから、木村さんがそういう錯覚をおこしたのは、少しも無理ではありません。こうして私の計画はまんまと図に当たったのです。
しかし、それは犯罪直後のとっさの調べでした。これだけで終るはずはありません。あとからもっと入念な調査が行なわれるにちがいないのです。私はそれも、むろん考えに入れておりました。第二段の隠し場所は窓のそとの太い雨樋でした。私はあらかじめ、その樋の壁に接した人目につかない場所に、ちょっと工作をしておきました。手頃な高さのところを、硝酸で焼き切って、トタン板を小さなとびらのように、ペロッとはがし、それをひらけば、径十五センチほどの不規則な四角い穴になるようにしておいたのです。
捜査の人たちがアパートを引きあげると、私はすぐにテレビの箱から麻袋を出し、中の百万円の札束を、雨が降っても大丈夫なように、一つずつ丈夫なビニールの布で完全に包み、用意しておいた錆びた鉄の長い針金で、その一つ一つを順々にしばり、十個の札束が数珠つなぎになったのを、樋の破れ穴から中へ入れて、下へ垂らしました。そして、針金の端を折りまげて、破れ穴のふちに引っかけ(錆びた針金ですから、樋の色と見わけがつきません)ペロンとめくれたトタン板を、元のようにおさえつけ、穴を隠しておいたというわけです。そして、その後、機会を見ては、その針金を引き上げ、百万円束を一つずつ取り出し、それを又はんぱな額にして、遠い銀行へ変名で預金したり、証券を買ったりして、一と月ほどのあいだには、すっかり嵩を低くしてしまいました。つまりテレビの箱一杯の紙幣が、数冊の預金帳と、数枚の証券に変わってしまったのです。
紙幣の隠し方の説明が、つい先走りしてしまいましたが、大江に化けた私が、北園の部屋にはいって、第一にやったのは、札束入りの麻袋をテレビの箱に隠すことでしたが、その次の瞬間には、変装をといていました。まず大江の派手な服をぬいで、裏返しにして、北園の洋服ダンスの中に掛けました。
この大江の洋服には仕掛けがあったのです。上衣にもズボンにも裏というものがなくて、両側とも表なので、派手な方を裏返すと、地味な黒服になってしまうのです。私は出来合いの肩幅の広い黒服と格子縞の服とを買ってきて、両方の裏をはがし、自分で二つの服を縫い合わせました。随分時間がかかりましたが、服屋に頼んでは証拠が残るからです。その黒地の方を表にして、洋服かけに掛けたのですから、裏の派手な方は隠れてしまい、捜査官が洋服ダンスをひらいても気がつかなかったというわけです。
私はあらかじめ、大江の服の下に、北園の背広を着こんでいました。ですから上の服をぬぎさえすれば、そのまま北園の服装になったわけです。あとは靴です。私の足に合わない靴をぬいで、洋服ダンスの下に並べてある数足の私の靴の中にまぜ、私自身の靴を取ってはきました。ここで思い出しましたが、私は大江に化けて銀行に出かける直前に、庭に面した部屋部屋に誰もいないときを見はからって、ヴェランダから庭に降り、裏の塀とのあいだの地面に、大江の靴跡をつけ、その汚れた靴で、コンクリート塀にも土をつけて、そこから逃げ出したように見せかけておきました。つまり、あの問題の靴跡は、事件のあとではなくて、前につけておいたものです。
では、塀から部屋まで、足跡をつけないで、どうして帰ったのかとおっしゃるでしょうが、これはわけのないことでした。この裏庭は幅三メートルほどの狭い空き地で、それがグルッと建物をとりまいているのですが、元は全体に砂利が敷いてあったのが、すっかり土に埋まってしまって、ただ建物の軒下と塀ぎわだけに、細く帯のように砂利が残っているのでした。ですから、見たところ全体に柔かい土ばかりの庭のように感じられるのです。しかし実際は、塀ぎわと軒下の砂利が、すっかり埋まりきらないで、固い部分が岬のように両方から出っぱっている個所があり、大股に飛び越せば、まったく足跡のつかないところがあるのです。私は大江の靴跡をつけたあとで、塀ぎわの砂利の上を四、五メートル右の方へあるき、そういう個所を飛びこして、自分の窓際に戻りました。そのとき私の姿を見られるような部屋部屋には、誰も人がいなかったのです。その固い部分は、砂利が残っているといっても、なかば土に埋まっているのですから、ちょっと見たのでは、全体が柔かい土ばかりのように思われるので、誰もそういう手段には気づかなかったのです。
それから総入歯を入れ替え、目がねをはずし、コンタクトレンズをはずし、用意していた櫛で、モジャモジャ髪を、きれいになでつけました。札束の袋を隠してから、これだけのことをするのに、二分ほどしかかかっていません。その動作は前もって、たびたび練習をしておいたのです。あの日に限って、眉墨は使わず、化粧もせず、香水もつけないで、北園に戻るのにできるだけ時間がかからないようにしておいたのです。
こうして、犯罪当日の北園の室内捜索では、少しの嫌疑も受けないですみました。しかし、それだけで終るはずはない。もう一度ゆっくり調べにくるにちがいないということを、私はちゃんと勘定に入れておりました。それで、札束を樋に移して、テレビの受像装置を元通りにしたのですが、まだそのほかにも重要な犯罪の跡始末が残っていました。
それは、札束のはいっていた麻袋と、テレビの箱の中に立てた、真空管などをゴチャゴチャ並べた板と、ブラウン管の前面だけのガラス、変装に使った大江の服と靴、瞼に入れたコンタクトレンズ、目がねなどを、この世から消してしまうことでした。そのうち一番重要なのは、札束のはいっていた麻袋です。これはその晩のうちに、アパートの自分の炊事場で焼きすてました。次は変装服です。私はその表裏をはがして、派手な格子縞の方だけを、鋏でズタズタに切り、二た晩もかかって、少しずつ焼きました。人造繊維との混ぜ織りでしたが、いくらか羊毛がはいっているので、その匂いがほかの部屋へ漂っていくのをおそれたからです。
黒地の方は、別に証拠になるわけでもないので焼くのは見合わせ、又、靴は、恐ろしく匂いがするだろうと思ったので、これも焼かないことにしました。すると、黒地の服の片側と、靴と、さっきのボール箱とをどこかへ隠さなければなりません。土を掘って埋めるなどは危険です。旅をして火山の噴火口に投げこんだり、船に乗って海中に捨てに行くという手もありますが、そんなことをすれば、私の行動そのものから足がつきます。そこで私は、泥深い池の底へ沈めることにきめました。
事件の翌日の晩、私はその三つの品とおもしの石を、丈夫な天竺木綿に包み、しっかり結んで、夜にまぎれて、アパートから持ち出しました。行く先は善福寺池です。電車で吉祥寺まで直行し、それから十丁あまりの夜道を歩いて、淋しい善福寺池に着き、犯行前に見定めておいた、最も泥深そうな場所へ、それを沈めて帰ったのです。
ところが、それから一と月あまりたった頃、ギョッとするような出来事がおこりました。善福寺池に水死人があったのです。子供が誤って池に落ち、なかなか死体が上がらず、池の中の捜索が行なわれました。私はそれを翌日の新聞で知り、思わず心臓の鼓動が早くなったものです。捜索隊が池の中をかきまわして、例の包みが発見されたら一大事だからです。
しかし、新聞には子供の死体が泥の中から発見されたと書いてあるばかりで、そのほかのことは何もわかりません。たとえあの包みが出たとしても、一見つまらないものばかりはいっているのですから、新聞が書くはずはないのです。
私は非常な不安を感じないではいられませんでした。あの包みが発見され、警察に持ち帰って丹念に調べられたら、どんなことになるかわからないと思いました。そこでじっとしていられなくなって、荻窪署にさぐりを入れてみることにしました。新聞に子供の水死事件を扱ったのは荻窪署だと書いてあったのです。幸い友人に警察署廻りの新聞記者がありましたので、それとなくその男に頼んで水死事件以後のことを聞き出してもらいました。
すると、あの包みは確かに引き上げられ、警察へ持ち帰られたということがわかりました。しかし、中には古服や、古靴や、ガラクタがはいっているばかりで、なんの意味もない代物として、そのままゴミ箱に捨てられてしまったというのです。私はそれを聞いてホッと胸をなでおろしました。
そして、それきりでした。その後、私を不安がらせるようなことは何もおこりませんでした。銀行盗難事件はまったく迷宮に入り、犯人大江幸吉は文字通りこの世から消滅してしまったのです。この架空の人物の残してくれた資金によって、私は物質上の幸福を得ることができました。恋人を妻として、可なり贅沢な暮らしをつづけることができました。
私は大江幸吉のことは、私だけの秘密にしておきたいと思いました。妻の弓子には、あくまで隠しておくつもりでした。そのためには、あらかじめ、随分こまかく気をくばっておいたのです。大江幸吉は、顔かたちを変えたばかりでなく、言葉遣いのくせや、声の調子まで、まったく別人になり切っていたつもりです。この心くばりは閨房の技巧にまで及んでいました。そこでも、大江はまったく北園とは別人として動作したのです。
それにもかかわらず、弓子はついに私の秘密をかぎつけました。はじめは私の身辺に大江幸吉の亡霊を感じ、ただ恐怖するばかりでしたが、やがて、彼女は私の恐ろしい秘密を気づきはじめました。そのきっかけとなったのは、最初私のアパートを訪ねたとき、彼女があまり見たがりもしないのに、私がテレビのダイヤルを廻して、ニュースを見せたことでした。そのときの、何か不自然な私の態度でした。
私は犯罪当日、捜査官たちがアパートを引きあげられるとすぐ、テレビの箱から札束の麻袋を取り出し、中の装置を元通りにし、いつ再度の調べがあっても大丈夫なようにしておいたのです。ですから、それを誰にでも見せびらかしたかった。「どうです、これは本物のテレビですよ。この中へあの大きな麻袋を隠すなんて、思いもよらないことですよ」と証明してみせたかった。それで、弓子がきたときにも、ことさらダイヤルを廻したわけなのです。そこに何かわざとらしさがあったことが、弓子の記憶のすみに影を残していたのでしょう。
木村捜査主任も、弓子と前後して、再度私のアパートへこられ、いろいろと質問をくり返されました。そのときも私はテレビのダイヤルを廻し、ちょうど夜だったので、何かの演芸をお見せしたのです。むろん、私の態度には、弓子の時と同じように、わざとらしさが感じられたにちがいありません。それにもかかわらず、弓子が気づき得たことを、木村さんは気づかれなかったのです。私のテレビ受像器は、犯罪の当時も、その晩の通り完全な状態にあったものと思いこんでしまわれたのです。
しかし、この事で木村さんを責めるのは酷だと思います。弓子は私の妻なのです。昼も夜も私に接し、私の微細な動作を見、私の微細な言葉のあやを耳にして、ああいう推理をする前に、すでに直覚的に私の秘密をさとっていたのです。木村さんはたった二度か三度、短い時間、私を観察し、私の話を聞かれたのにすぎません。弓子ほどの洞察ができなかったとしても、決して無理ではないのです。
この秘密を分け合った、たった一人の弓子は、とっくにこの世を去り、私自身もまた、間もなくこの世を去ろうとしています。そして、あの犯罪は『無』に帰するのです。そうすれば、大江幸吉という架空の人物の秘密を知ったものは、だれ一人この世にいなくなります。それでいいのです。それでこそ、私は安らかに往生できるわけなのです。
しかし、ふしぎなことに、私の心の隅には、なんとなくやすんじないものがあります。あの犯罪の秘密が『無』に帰することを欲しないものがあります。なぜでしょう。大切な秘密がゼロになってしまうのを惜しむのでしょうか。人間は自分の秘密を、完全に消滅させることを好まず、誰か一人にだけは伝えておきたいという願望を持つものなのでしょうか。それはひょっとしたら、俗に犯罪者の虚栄心と言われるのかもしれません。いずれにせよ、私はこの秘密をあなたにだけは打ちあけておきたいのです。当時あの犯罪捜査の当面の責任者渋谷警察署長であったあなた、現在は警視庁捜査一課長という重要な位置につかれているあなたにだけは、真相をお知らせしておきたいのです。
今までの記述で、よくおわかりのことと思いますが、この事件に於て、警察は少なくとも前後二回、目の前にある重大な手掛かりを見のがしました。あなたの部下であった木村捜査主任が、テレビの機械的知識を持たなかったために、私のトリックにかかったこと、それから荻窪署の係り官が、この重要な手掛かりの包みを、意味もないガラクタとして、捨ててしまったこと、この二つです。
木村さんの場合、たとえ機械的知識がなくても、もう少し入念に、ゴチャゴチャした真空管などの奥まで手を入れてみれば、なんなく麻袋を発見することができたのです。しかし、あの時は犯人逃走の直後で、その追跡の方が重要だったのですし、又、特別に私を疑う理由は何もなかったのですから、私の部屋の捜索が、やや形式的であったとしても、木村さんを責めることはできないでしょう。木村さんが、ともかく一応は、テレビの箱にまで注意したことを、むしろ称讃すべきかもしれません。
荻窪署の場合も、一見ガラクタにはちがいないのですから、深く調べなかったのも無理とはいえませんが、係り官はあの包みに、おもしの石が入れてあった点を、なぜ疑ってみなかったのでしょう。そして、ソーンダイク博士のように、ボール箱の中のガラスのかけらを、一つ一つ丹念に調べてみたら、茶色の虹彩を描いた奇妙なコンタクトレンズの破片に、気づいたにちがいありません。それを出発点にして、あの包みの中にあった奇妙な品物の取り合わせに疑いを抱き、それからそれへと推理をおし進めて行ったら、どこかで銀行盗難事件と結びついたかもしれません。一度そこへ結びつけば、あの包みの中の靴と、松濤荘アパートの裏庭の犯人の靴跡(その石膏型はちゃんと採ってあったはずです)とがピッタリ一致するという、非常に有力な手掛かりを掴むこともできたわけではありませんか。
この二つの注意不足には、いずれも無理もないところがあり、ただちに係り官たちの失策とすることはできないかもしれません。神様でない人間には、まぬがれがたい過失として|恕《じょ》すべきかもしれません。しかし、そのために、私の犯罪は完全犯罪となり、一生涯、罪を罰せられずして、あの世へ去ることができるのです。これは私にとって、どういうことなのでしょうか。又、神様にとって、どういうことなのでしょうか。
これをお読みになって、あなたは、人間である警察官の捜査力には限度のあることを、今更らのようにお感じになっていることでしょう。そして、犯罪捜査というものの微妙な、奥底の知れないむずかしさについて、しみじみと反省しておられるのではないでしょうか。
さて、大変長い手紙になってしまいましたが、これで、私の書きたいと考えていたことは、一応書き終ったように思います。乱筆の長々しい手紙を、よくお読みくださいました。私はこの手紙を読んでおられるあなたのお顔を見たいように思います。又、読み終られてからの、あなたの御感想が聞きたくてたまりません。でも、それは無理な話ですね。あなたがこれをお読みになるころには私は、もうこの世にいないのですから。
では、あなたの御多幸と、御健康を祈りながら、生涯にたった一度の、あなたへのこの手紙を、御返事をいただくことのできないこの手紙を、終ることにいたします。さようなら、
[#ここから2字下げ]
昭和三十×年十二月十日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]北園壮助
〔追伸〕 この手紙と同時に、同じ友人に託して、あの当時の東和銀行渋谷支店長、現東和銀行本店庶務部長の渡辺寛一氏に、一通の配達証明郵便を送ります。それにはあの時のご迷惑を謝し、当地住友銀行本店振り出しの二千万円の銀行小切手を封入しました。私は福寿相互銀行の持株の大部分を、別の資本主に譲り渡し、二千万円の現金を作って、住友本店に預け入れ、これを引き当てに小切手を振り出したのです。二千万円のうち一千万円は五カ年の利息として加わえたものです。当時の私の暴挙に対する幾分のお詫びになるかと思います。むろん、この金額は、渡辺寛一氏の手から東和銀行へ返済していただくわけであります。
陰獣
一
私は時々思うことがある。
探偵小説家というものには二種類あって、一つの方は犯罪者型とでもいうか、犯罪ばかりに興味を持ち、たとえ推理的な探偵小説を書くにしても、犯人の残虐な心理を思うさま描かないでは満足しないような作家であるし、もう一つの方は探偵型とでもいうか、ごく健全で、理智的な探偵の径路にのみ興味を持ち、犯罪者の心理などにはいっこう頓着しない作家であると。
そして、私がこれから書こうとする探偵作家|大江春泥《おおえしゅんでい》は前者に属し、私自身はおそらく後者に属するのだ。
したがって私は、犯罪を取扱う商売にもかかわらず、ただ探偵の科学的な推理が面白いので、いささかも悪人ではない。いや、おそらく私ほど道徳的な人間は少ないといってもいいだろう。
そのお人好しで善人な私が、偶然にもこの事件に関係したというのが、そもそも事の間違いであった。もし私が道徳的にもう少し鈍感であったならば、私にいくらかでも悪人の素質があったならば、私はこうまで後悔しなくてもすんだであろう。こんな恐ろしい疑惑の淵に沈まなくてもすんだであろう。いや、それどころか、私はひょっとしたら、今頃は美しい女房と身に余る財産に恵まれて、ホクホクもので暮らしていたかもしれないのだ。
事件が終ってから、だいぶ月日がたったので、あの恐ろしい疑惑はいまだに解けないけれど、私は生々しい現実を遠ざかって、いくらか回顧的になっている。それでこんな記録めいたものも書いてみる気になったのだが、そして、これを小説にしたら、なかなか面白い小説になるだろうと思うのだが、しかし私は終りまで書くことは書いたとしても、ただちに発表する勇気はない。なぜといって、この記録の重要な部分をなすところの小山田氏変死事件は、まだまだ世人の記憶に残っているのだから、どんなに変名を用い、潤色を加えてみたところで、誰も単なる空想小説とは受け取ってくれないだろう。
したがって、広い世間にはこの小説によって迷惑を受ける人もないとは限らないし、また私自身それがわかっては恥かしくもあり不快でもある。というよりは、ほんとうをいうと私は恐ろしいのだ。事件そのものが、白昼の夢のように、正体のつかめぬ、変に無気味な事柄であったばかりでなく、それについて私の描いた妄想が、自分でも不快を感じるような恐ろしいものであったからだ。
私は今でも、それを考えると、青空が夕立雲で一ぱいになって、耳の底でドロンドロンと太鼓の音みたいなものが鳴り出す、そんなふうに眼の前が暗くなり、この世が変なものに思われてくるのだ。
そんなわけで、私はこの記録を今すぐ発表する気はないけれど、いつかは一度、これをもとにして私の専門の探偵小説を書いてみたいと思っている。これはいわばそのノートにすぎないのだ。やや詳しい心覚えにすぎないのだ。私はだから、これを正月のところだけで、あとは余白になっている古い日記帳へ、長々しい日記でもつける気持で、書きつけて行くのである。
私は事件の記述に先だって、この事件の主人公である探偵作家大江春泥の人となりについて、作風について、また彼の一種異様な生活について、詳しく説明しておくのが便利であるとは思うのだけれど、実は私は、この事件が起こるまでは、書いたものでは彼を知っていたし、雑誌の上で議論さえしたことがあるけれども、個人的の交際もなく、彼の生活もよくは知らなかった。それをやや詳しく知ったのは、事件が起こってから、私の友だちの本田という男を通じてであったから、春泥のことは、私が本田に聞き合わせ調べまわった事実を書く時にしるすこととして、出来事の順序にしたがって、私がこの変な事件に捲き込まれるに至った最初のきっかけから、筆を起こしていくのが最も自然であるように思う。
それは去年の秋、十月なかばのことであった。
私は古い仏像が見たくなって、上野の帝室博物館の、薄暗くガランとした部屋部屋を、足音を忍ばせて歩きまわっていた。部屋が広くて人けがないので、ちょっとした物音が怖いような反響を起こすので、足音ばかりではなく、咳ばらいさえ憚かられるような気持だった。
博物館というものが、どうしてこうも不人気であるかと疑われるほど、そこには人の影がなかった。陳列棚の大きなガラスが冷たく光り、リノリウムには小さなほこりさえ落ちていなかった。お寺のお堂みたいに天井の高い建物は、まるで水の底ででもあるように、森閑と静まり返っていた。
ちょうど私が、ある部屋の陳列棚の前に立って、古めかしい木彫の菩薩像の、夢のようなエロティックに見入っていた時、うしろに、忍ばせた足音と、かすかな絹ずれの音がして、誰かが私の方へ近づいてくるのが感じられた。
私は何かしらゾッとして、前のガラスに映る人の姿を見た。そこには、今の菩薩像と影を重ねて、黄八丈のような柄の袷を着た、品のいい丸髷姿の女が立っていた。女はやがて私の横に肩を並べて立ちどまり、私の見ていた同じ仏像にじっと眼を注ぐのであった。
私は、あさましいことだけれど、仏像を見ているような顔をして、時々チラチラと女の方へ眼をやらないではいられなかった。それほどその女は私の心を惹いたのだ。
彼女は青白い顔をしていたが、あんなに好もしい青白さを私はかつて見たことがなかった。この世に若し人魚というものがあるならば、きっとあの女のような優艶な肌を持っているにちがいない。どちらかといえば昔風の瓜実顔で、眉も鼻も口も首筋も肩も、ことごとくの線が、優に弱々しく、なよなよとしていて、よく昔の小説家が形容したような、さわれば消えて行くかと思われる風情であった。私は今でも、あの時の彼女のまつげの長い、夢見るようなまなざしを忘れることができない。
どちらがはじめ口を切ったのか、私は今、妙に思い出せないけれど、おそらくは私が何かのきっかけを作ったのであろう。彼女と私とはそこに並んでいた陳列品について二こと三こと口をきき合ったのが縁となって、それから博物館を一巡して、そこを出て上野の山内を山下へ通り抜けるまでの長いあいだ、道づれとなって、ポツリポツリといろいろのことを話し合ったのである。
そうして話をしてみると、彼女の美しさは一段と風情を増してくるのであった。中にも彼女が笑うときの、恥じらい勝ちな、弱々しさには、私はなにか古めかしい油絵の聖女の像でも見ているような、また、あのモナ・リザの不思議な微笑を思い起こすような、一種異様の感じにうたれないではいられなかった。彼女の糸切歯はまっ白で大きくて、笑うときには、唇の端がその糸切歯にかかって、謎のような曲線を作るのだが、右の頬の青白い皮膚の上の大きな黒子が、その曲線に照応して、なんともいえぬ優しく懐かしい表情になるのだった。
だが、もし私が彼女の|項《うなじ》にある妙なものを発見しなかったならば、彼女はただ上品で優しくて弱々しくて、さわれば消えてしまいそうな美しい人という以上に、あんなにも強く私の心を惹かなかったであろう。
彼女は巧みに衣紋をつくろって、少しもわざとらしくなく、それを隠していたけれど、上野の山内を歩いているあいだに、私はチラと見てしまった。
彼女の項には、おそらく背中の方まで深く、赤痣のようなミミズ脹れができていたのだ。それは生れつきの痣のようにも見えたし、又、そうではなくて、最近できた傷痕のようにも思われた。青白い滑らかな皮膚の上に、恰好のいいなよなよとした項の上に、赤黒い毛糸を這わせたように見えるそのミミズ脹れが、その残酷味が、不思議にもエロティックな感じを与えた。それを見ると、今まで夢のように思われた彼女の美しさが、俄かに生々しい現実味を伴なって、私に迫ってくるのであった。
話しているあいだに、彼女は、合資会社碌々商会の出資社員の一人である、実業家小山田六郎氏の夫人小山田静子であったことがわかってきたが、幸いなことには、彼女は探偵小説の読者であって、殊に私の作品は好きで愛読しているということで(それを聞いたとき、私はゾクゾクするほど嬉しかったことを忘れない)、つまり作者と愛読者の関係が私たちを少しの不自然もなく親しませ、私はこの美しい人と、それきり別れてしまう本意なさを味わなくてすんだ。私たちはそれを機縁に、それからたびたび手紙のやり取りをしたほどの間柄となったのである。
私は、若い女の癖に人けのない博物館などへきていた、静子の上品な趣味も好もしかったし、探偵小説の中でも最も理智的だといわれている、私の作品を愛読している彼女の好みも懐かしく、私はまったく彼女に溺れきってしまった形で、まことにしばしば彼女に意味もない手紙を送ったものであるが、それに対して、彼女は一々丁重な、女らしい返事をくれた。独身で淋しがりやの私は、このようなゆかしい女友だちをえたことを、どんなに喜んだことであろう。
二
小山田静子と私との手紙の上での交際は、そうして数カ月のあいだつづいた。
文通を重ねていくうちに、私は非常にびくびくしながら、私の手紙に、それとなく、ある意味を含ませていたことをいなめないのだが、気のせいか、静子の手紙にも、通り一ぺんの交際以上に、まことにつつましやかではあったが、何かしら暖かい心持がこめられてくるようになった。
打ちあけていうと、恥かしいことだけれど、私は、静子の夫の小山田六郎氏が、年も静子よりは余程とっている上に、その年よりも|老《ふ》けて見えるほうで、頭などもすっかりはげ上がっているような人だということを、苦心をしてさぐり出していたのだった。
それが、ことしの二月ごろになって、静子の手紙に妙なところが見えはじめた。彼女は何かしら非常に怖がっているように感じられた。
「このごろ大変心配なことが起こりまして、夜も寝覚め勝ちでございます」
彼女はある手紙にこんなことを書いた。文章は簡単であったけれど、その文章の裏に、手紙全体に、恐怖におののいている彼女の姿が、まざまざと見えるようだった。
「先生は、同じ探偵作家でいらっしゃる|大江春泥《おおえしゅんでい》というかたと、もしやお友だちではございませんでしょうか。そのかたのご住所がおわかりでしたら、お教えくださいませんでしょうか」
ある時の手紙にはこんなことが書いてあった。
むろん私は大江春泥の作品はよく知っていたが、春泥という男が非常な人嫌いで、作家の会合などにも一度も顔を出さなかったので、個人的なつきあいはなかった。それに、彼は昨年のなかごろからぱったり筆を執らなくなって、どこへ引越してしまったか、住所さえわからないという噂を聞いていた。私は静子へその通り答えてやったが、彼女のこのごろの恐怖は、もしやあの大江春泥にかかわりがあるのではないかと思うと、私はあとで説明するような理由のために、なんとなくいやあな心持がした。
すると間もなく、静子から、
「一度ご相談したいことがあるから、お伺いしてもさしつかえないか」
という意味のはがきがきた。
私はその「ご相談」の内容をおぼろげには感じていたけれど、まさかあんな恐ろしい事柄だとは想像もしなかったので、愚かにも浮き浮きと嬉しがって、彼女との二度目の対面の楽しさを、さまざまに妄想していたほどであった。
「お待ちしています」
という私の返事を受取ると、すぐその日のうちに私を訪ねてきた静子は、私が下宿の玄関へ出迎えた時に、もう私を失望させたほども、うちしおれていて、彼女の「相談」というのがまた、私のさきの妄想などはどこかへ行ってしまったほど、異常な事柄だったのである。
「私ほんとうに思いあまって伺ったのでございます。先生なれば、聞いていただけるような気がしたものですから……でも、まだ昨今の先生に、こんな打ち割ったご相談をしましては、失礼ではございませんかしら」
その時、静子は例の糸切歯と黒子の目立つ、弱々しい笑い方をして、ソッと私のほうを見上げた。
寒い時分で、私は仕事机の傍に紫檀の長火鉢を置いていたが、彼女はその向こうがわに行儀よく坐って、両手の指を火鉢の縁にかけている。その指は彼女の全身を象徴するかのように、しなやかで、細くて、弱々しくて、といっても、決して痩せているのではなく、色は青白いけれど、決して不健康なのではなく、握りしめたならば、消えてしまいそうに弱々しいけれど、しかも非常に微妙な弾力を持っている。指ばかりではなく、彼女全体がちょうどそんな感じであった。
彼女の思いこんだ様子を見ると、私もつい真剣になって、
「私にできることなら」
と答えると、彼女は、
「ほんとうに気味のわるいことでございますの」
と前置きして、彼女の幼年時代からの身の上話をまぜて、次のような異様な事実を私に告げたのである。
そのとき静子の語った彼女の身の上を、ごく簡単にしるすと、彼女の郷里は静岡であったが、そこで彼女は女学校を卒業するという間際まで、至極幸福に育った。
たった一つの不幸とも言えるのは、彼女が女学校の四年生の時、平田一郎という青年の巧みな誘惑に陥って、ほんの少しのあいだ彼と恋仲になったことであった。
なぜそれが不幸かというに、彼女は十八の娘のちょっとした出来心から、恋のまねごとをしてみただけで、決して真から相手の平田青年を好いていなかったからだ。そして、彼女の方ではほんとうの恋でなかったのに、相手は真剣であったからだ。
彼女はうるさくつきまとう平田一郎を避けよう避けようとする。そうされればされるほど、青年の執着は深くなる。はては、深夜黒い人影が彼女の家の塀そとをさまよったり、郵便受けに気味のわるい脅迫状が舞い込んだりしはじめた。十八の娘は、彼女の出来心の恐ろしい報いに震え上がってしまった。両親もただならぬ娘の様子に心づいて胸をいためた。
ちょうどそのとき、静子にとっては、むしろそれが幸いであったともいえるのだが、彼女の一家に大きな不幸がきた。当時経済界の大変動から、彼女の父は|弥《び》|縫《ほう》のできない多額の借財を残し、商売をたたんで、ほとんど夜逃げ同然に、彦根在のちょっとした知るべをたよって、身を隠さねばならぬ羽目となった。
この予期せぬ境遇の変動のために、静子は今少しというところで、女学校を中途退学しなければならなかったけれど、一方では、突然の転宅によって、気味のわるい平田一郎の執念から逃れることができたので、彼女はホッと胸なでおろす気持だった。
彼女の父親はそれが元で、病の床につき、間もなく死んで行ったが、それから、たった二人になった母親と静子の上に、しばらくのあいだみじめな生活がつづいた。だが、その不幸は大して長くはなかった。やがて、彼女らが世を忍んでいた同じ村の出身者である、実業家の小山田氏が、彼女らの前に現われた。それが救いの手であった。
小山田氏は或る垣間見に静子を深く恋して、伝手を求めて結婚を申し込んだ。静子も小山田氏が嫌いではなかった。年こそ十歳以上も違っていたけれど、小山田氏のスマートな紳士振りに、或るあこがれを感じていた。縁談はスラスラと運んで行った。小山田氏は母親と共に、花嫁の静子を伴なって東京の屋敷に帰った。
それから七年の歳月が流れた。彼らが結婚してから三年目かに、静子の母親が病死したこと、それからしばらくして小山田氏が会社の要務を帯びて、二年ばかり海外に旅をしたこと(帰朝したのはつい一昨年の暮れであったが、その二年のあいだ、静子は毎日、茶、花、音楽の師匠に通よって、独り住まいの淋しさをなぐさめていたのだと語った)などを除いては、彼らの一家にはこれという出来事もなく、夫婦の間柄も至極円満に、仕合わせな月日がつづいた。
夫の小山田氏は大の奮闘家で、その七年間にメキメキと財をふやして行った。そして、今では同業者のあいだに押しも押されもせぬ地盤を築いていた。
「ほんとうにお恥かしいことですけれど、わたくし、結婚のとき、小山田に嘘をついてしまったのでございます。その平田一郎のことを、つい隠してしまったのでございます」
静子は恥かしさと悲しさのために、あのまつげの長い眼をふせて、そこに一ぱい涙さえためて、小さな声で|細《ほそ》|々《ぼそ》と語るのであった。
「小山田は平田一郎の名をどこかで聞いていて、いくらか疑っていたようでございましたが、わたくし、あくまで小山田のほかには男を知らないと言い張って、平田との関係を秘し隠しに隠してしまったのでございます。そして、その嘘を今でもつづけているのでございます。小山田が疑えば疑うだけ、私は余計に隠さなければならなかったのでございます。
人の不幸って、どんなところに隠れているものか、ほんとうに恐ろしいと思いますわ。七年前の嘘が、それも決して悪意でついた嘘ではありませんでしたのに、こんなにも恐ろしい姿で、今わたくしを苦しめる種になりましょうとは。
わたくし、平田のことなんか、ほんとうに忘れきってしまっていたのでございます。突然平田からあんな手紙がきましたときにも、平田一郎という差出人の名前を見ましても、しばらくは誰であったか思い出せないほど、わたくし、すっかり忘れきっていたのでございます」
静子はそういって、その平田からきたという数通の手紙を見せた。私はそれらの手紙の保管を頼まれて、今でもここに持っているが、そのうち最初に来たものは、話の筋を運んで行くのに都合がよいから、それをここに貼りつけておくことにしよう。
静子さん。私はとうとう君を見つけた。
君の方では気がつかなかったけれど、私は君に出会った場所から君を尾行して、君の|屋《や》|敷《しき》を知ることができた。小山田という今の君の姓もわかった。
君はまさか平田一郎を忘れはしないだろう。どんなに虫の好かぬやつだったかを覚えているだろう。
私は君に捨てられてどれほど悶えたか、薄情な君にはわかるまい。悶えに悶えて、深夜君の屋敷のまわりをさまよったこと|幾《いく》|度《たび》であろう。だが君は、私の情熱が燃え立てば燃え立つほど、ますます冷やかになって行った。私を避け、私を恐れ、ついには私を憎んだ。
君は恋人から憎まれた男の心持を察することができるか。私の悶えが歎きとなり、歎きが恨みとなり、恨みが凝って、復讐の念と変って行ったのが無理であろうか。
君が家庭の事情を幸いに、一言の挨拶もなく、逃げるように私の前から消え去ったとき、私は数日、飯も食わないで書斎に坐り通していた。そして、私は復讐を誓ったのだ。
私は若かったので、君の行方を探すすべを知らなかった。多くの債権者を持つ君の父親は、誰にもその行く先を知らせないで姿をくらましてしまった。私はいつ君に会えることかわからなかった。だが、私は長い一生を考えた。一生のあいだ君に会わないで終ろうとはどうしても考えられなかった。
私は貧乏だった。食うためには働かねばならぬ身の上だった。一つはそれが、あくまで君の行方を尋ねまわることを妨げたのだ。一年、二年、月日は矢のように過ぎ去って行ったが、私はいつまでも貧困と戦わねばならなかった。そして、その疲労が、忘れるともなく君への恨みを忘れさせた。私は食うことで夢中だったのだ。
だが、三年ばかり前、私に予期せぬ幸運がめぐってきた。私はあらゆる職業に失敗して、失望のどん底にあるとき、うさはらしに一篇の小説を書いた。それが機縁となって、私は小説で飯の食える身分となったのだ。
君は今でも小説を読んでいるのだから、多分|大江春泥《おおえしゅんでい》という探偵小説家を知っているだろう。彼はもう一年ばかり何も書かないけれど、世間の人はおそらく彼の名前を忘れてはいない。その大江春泥こそかくいう私なのだ。
君は、私が小説家としての虚名に夢中になって、君に対する恨みを忘れてしまったとでも思うのか。|否《いな》、|否《いな》、私のあの血みどろな小説は、私の心に深き恨みを蔵していたからこそ書けたともいえるのだ。あの猜疑心、あの執念、あの残虐、それらがことごとく私の執拗なる復讐心から生れたものだと知ったなら、私の読者たちはおそらく、そこにこもる妖気に身震いを禁じ得なかったであろう。
静子さん、生活の安定を得た私は、金と時間の許す限り、君を探し出すために努力した。もちろん君の愛を取り戻そうなどと、不可能な望みをいだいたわけではない。私にはすでに妻がある。生活の不便を除くために娶った、形ばかりの妻がある。だが、私にとって、恋人と妻とは全然別個のものだ。つまり、妻を娶ったからといって、恋人への恨みを忘れる私ではないのだ。
静子さん。今こそ私は君を見つけ出した。
私は喜びに震えている。私は多年の願いを果たす時が来たのだ。私は長いあいだ、小説の筋を組み立てるときと同じ喜びをもって、君への復讐手段を組み立ててきた。最も君を苦しめ、君を怖がらす方法を熟慮してきた。いよいよそれを実行する時がきたのだ。私の歓喜を察してくれたまえ。君は警察そのほかの保護を仰ぎ、私の計画を妨げることはできない。私の方にはあらゆる用意ができているのだ。
ここ一年ばかりというもの、新聞記者、雑誌記者のあいだに私の行方不明が伝えられている。これは何も君への復讐のためにしたことではなく、私の厭人癖と秘密好みから出た逃避なのだが、それが計らずも役に立った。私は一そうの綿密さをもって世間から私の姿をくらますであろう。そして、着々君への復讐計画を進めて行くであろう。
君は私の計画を知りたがっているにちがいない。だが、私は今その全貌を洩らすことはできぬ。恐怖は徐々に迫って行くほど効果があるからだ。
しかし、君がたって聞きたいというならば、私は私の復讐事業の一端を洩らすことを惜しむものではない。例えば、私は今から四日以前、即ち一月三十一日の夜、君の家の中で君の身辺に起こったあらゆる些事を、寸分の間違いもなく君に告げることができる。
午後七時より七時半まで、君は君たちの寝室にあてられている部屋の小机にもたれて小説を読んだ。小説は広津柳浪の短篇集『変目伝』。その中の『変目伝』だけ読了した。
七時半より七時四十分まで、女中に茶菓を命じ、風月の最中を二箇、お茶を三碗|喫《きっ》した。
七時四十分より上厠、約五分にして部屋へ戻った。それより九時十分ごろまで、編物をしながら物思いにふけった。
九時十分主人帰宅。九時二十分頃より十時少し過ぎまで、主人の晩酌の相手をして雑談した。その時、君は主人に勧められてグラスに半分ばかり葡萄酒を喫した。その葡萄酒は口をあけたばかりのもので、コルクの小片がグラスにはいったのを、君は指でつまみ出した。晩酌を終るとすぐ、女中に命じて二つの床をのべさせ、両人上厠ののち就寝した。
それから十一時まで両人とも眠らず。君が再び君の寝床に横たわった時、君の家のおくれたボンボン時計が十一時を報じた。
君はこの汽車の時間表のように忠実な記録を読んで、恐怖を感じないでいられるだろうか。
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二月三日深夜 復讐者より
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我が生涯より恋を奪いし女へ
「わたくし、大江春泥という名前は可なり以前から存じておりましたけれど、それが平田一郎の筆名でしょうとは、ちっとも存じませんでした」
静子は気味わるそうに説明した。
事実、大江春泥の本名を知っている者は、私たち作家仲間にも少ないくらいであった。私にしても、彼の著書の奥付を見たり、私の所へよくくる本田が、本名で彼の噂をするのを聞かなかったら、いつまでも平田という名前を知らなかったであろう。それほど彼は人嫌いで、世間に顔出しをせぬ男であった。
平田のおどかしの手紙は、そのほかに三通ばかりあったが、いずれも大同小異で(消印はどれもこれも違った局のであった)復讐の呪詛の言葉のあとに、静子の或る夜の行為が、細大洩らさず正確な時間を付け加えて記入してあることに変りはなかった。殊にも、彼女の寝室の秘密は、どのような隠微な点までも、はれがましくもまざまざと描き出されていた。顔の赤らむような或る仕草、或る言葉さえもが、冷酷に描写してあった。
静子はそのような手紙を他人に見せることがどれほど恥かしく苦痛であったか、察するに余りあったが、それを忍んでまで、彼女が私を相談相手に選んだのは、よくよくのことといわねばならぬ。それは一方では、彼女が過去の秘密を、つまり彼女が結婚以前すでに処女でなかったという事実を夫の六郎氏に知られることを、どれほど恐れていたかということを示すものであり、同時にまた一方では、彼女の私に対する信頼がどんなに厚いかということを証するわけでもあった。
「わたくし、主人がわの親類のほかには、身内といっては一人もございませんし、お友だちにこんなことを相談するような親身のかたはありませんし、ほんとうにぶしつけだとは思いましたけれど、わたくし、先生におすがりすれば、私がどうすればいいかを、お教えくださるでしょうと思いましたものですから」
彼女にそんなふうにいわれると、この美しい女がこんなにも私をたよっているのかと、私は胸がワクワクするほど嬉しかった。私が大江春泥と同じ探偵作家であったこと、少なくとも小説の上では、私がなかなか巧みな推理家であったことなどが、彼女が私を相談相手に選んだ幾分の理由をなしていたにはちがいないが、それにしても、彼女が私に対して余程の信頼と好意を持っていないでは、こんな相談がかけられるものではないのだ。
いうまでもなく、私は静子の申し出を容れて、できるだけの助力をすることを承諾した。
大江春泥が静子の行動を、これほど巨細に知るためには、小山田家の召使いを買収するか、彼自身が邸内に忍び込んで静子の身近く身をひそめているか、またはそれに近い悪企みが行われていたと考えるほかはなかった。彼の作風から推察しても、春泥はそんな変てこなまねをしかねない男なのだから。
私はそれについて、静子の心当たりを尋ねてみたが、不思議なことには、そのような形跡は少しもないということであった。召使いたちは気心のわかった長年住み込みものばかりだし、|屋《や》|敷《しき》の門や塀などは、主人が人一倍神経質のほうで、可なり厳重にできているし、それにたとえ邸内に忍び込めたところで、召使いたちの眼にふれないで、奥まった部屋にいる静子の身辺に近づくことは、ほとんど不可能だということであった。
だが、実をいうと、私は大江春泥の実行力を軽蔑していた。|高《たか》が探偵小説家の彼に、どれほどのことができるものか。せいぜいお手のものの手紙の文章で静子を怖がらせるくらいのことで、とてもそれ以上の悪企みが実行できるはずはないと、たかを括っていた。
彼がどうして静子の細かい行動を探り出したかは、いささか不思議ではあったが、これも彼のお手のものの手品使いみたいな機智で、大した手数もかけないで、誰かから聞き出してでもいるのだろうと、軽く考えていた。私はその考えを話して静子をなぐさめ、私にはそのほうの便宜もあるので、大江春泥の所在をつきとめ、できれば彼に意見を加えて、こんなばかばかしいいたずらを中止させるように計らうからと、それはかたく請合って、静子を帰したのであった。
私は大江春泥の脅迫めいた手紙について、あれこれと詮議立てすることよりは、優しい言葉で静子をなぐさめることのほうに力をそそいだ。むろん私にはそれが嬉しかったからだ。そして、別れるときに、私は、
「このことは一切ご主人にお話しなさらん方がいいでしょう。あなたの秘密を犠牲になさるほどの大した事件ではありませんよ」
というようなことを言った。愚かな私は、彼女の主人さえ知らぬ秘密について、彼女と二人きりで話し合う楽しみを、できるだけ長くつづけたかったのだ。
しかし、私は大江春泥の所在をつきとめる仕事だけは、実際やるつもりであった。私は、以前から私と正反対の傾向の春泥を、ひどく虫が好かなかった。女の腐ったような猜疑に満ちた繰り言で、変態読者をやんやといわせて得意がっている彼が、無性に癪にさわっていた。だから、あわよくば、彼のこの陰険な不正行為をあばいて、吠え面をかかせてやりたいものだとさえ思っていた。私は大江春泥の行方を探すことが、あんなにむずかしかろうとは、まるで予想していなかったのだ。
三
大江春泥は彼の手紙にもある通り、今から四年ばかり前、商売違いの畑から突如として現われた探偵小説家であった。
彼が処女作を発表すると、当時日本人の書いた探偵小説というものがほとんどなかった読書界は、物珍らしさに非常な喝采を送った。大げさにいえば彼は一躍して読物界の寵児になってしまったのだ。
彼は非常に寡作ではあったが、それでもいろいろな新聞雑誌につぎつぎと新らしい小説を発表して行った。それは一つ一つ、血みどろで、陰険で、邪悪で、一読肌に粟を生じるていの、無気味ないまわしいものばかりであったが、それがかえって読者を惹きつける魅力となり、彼の人気はなかなか衰えなかった。
私もほとんど彼と同時ぐらいに、従来の少年少女小説から探偵小説の方へ鞍替えしたのであったが、そして人の少ない探偵小説界では、相当名前を知られるようにもなったのであるが、大江春泥と私とは作風が正反対といってもいいほど違っていた。
彼の作風が暗く、病的で、ネチネチしていたのに反して、私のは明るく、常識的であった。当然の勢いとして、私たちは妙に製作を競い合うような形になっていた。そして、お互いに作品をけなし合いさえした。といっても、癪にさわることには、けなすのは多くは私のほうで、春泥はときたま私の議論を反駁してくることもあったが、たいていは超然として沈黙を守っていた。そして、つぎつぎと恐ろしい作品を発表して行った。
私はけなしながらも、彼の作にこもる一種の妖気にうたれないではいられなかった。彼は何かしら燃え立たぬ陰火のような情熱を持っていた。えたいの知れぬ魅力が読者をとらえた。それが彼の手紙にあるように、静子への執念深い怨恨からであったとすれば、やや肯くことができるのだが。
実をいうと、私は彼の作品が喝采されるごとに、言いようのない嫉妬を感じずにはいられなかった。私は子供らしい敵意をさえいだいた。どうかしてあいつに打ち勝ってやりたいという願いが、絶えず私の心の隅にわだかまっていた。
だが、彼は一年ばかり前から、ぱったり小説を書かなくなり、所在をさえくらましてしまった。人気が衰えたわけでもなく、雑誌記者などはさんざん彼の行方を探しまわったほどであったが、どうしたわけか、彼はまるで行方不明であった。私は虫の好かぬ彼ではあったが、さていなくなってみれば、ちょっと淋しくもあった。子供らしい言いかたをすれば、好敵手を失ったという物足りなさが残った。
そういう大江春泥の最近の消息が、しかも極めて変てこな消息が、小山田静子によってもたらされたのだ。私は恥かしいことだけれど、かくも奇妙な事情のもとに、昔の競争相手と再会したことを、心ひそかに喜ばないではいられなかった。
だが、大江春泥が探偵物語の組み立てに注いだ空想を、一転して実行にまで押し進めて行ったことは、考えてみれば、或いは当然の成り行きであったかもしれない。
このことは世間でもおおかたは知っているはずだが、或る人がいったように、彼は一個の「空想的犯罪生活者」であった。彼は、ちょうど殺人鬼が人を殺すのと同じ興味をもって、同じ感激をもって、原稿紙の上に彼の血みどろの犯罪生活を営んでいたのだ。
彼の読者は、彼の小説につきまとっていた一種異様の鬼気を記憶するであろう。彼の作品が常に並々ならぬ猜疑心、秘密癖、残虐性をもって満たされていたことを記憶するであろう。彼は或る小説の中で、次のような無気味な言葉をさえ洩らしていた。
「ついに彼は単なる小説では満足できない時がくるのではありますまいか。彼はこの世の味気なさ、平凡さにあきあきして、彼の異常な空想を、せめては紙の上に書き現わすことを楽しんでいたのです。それが彼が小説を書きはじめた動機だったのです。でも、彼はいま、その小説にさえあきあきしてしまいました。この上は、彼はいったいどこに刺戟を求めたらいいのでしょう。犯罪、ああ、犯罪だけが残されていました。あらゆることをしつくした彼の前に、世にも甘美なる犯罪の戦慄だけが残されていました」
彼はまた作家としての日常生活においても、甚だしく風変りであった。彼の厭人病と秘密癖は、作家仲間や雑誌記者のあいだに知れわたっていた。訪問者が彼の書斎に通されることは極めて稀であった。彼はどんな先輩にも平気で玄関払いを喰わせた。それに、彼はよく転宅したし、ほとんど年中病気と称して、作家の会合などにも顔を出したことがなかった。
噂によると、彼は昼も夜も万年床の中に寝そべって、食事にしろ、執筆にしろ、すべて寝ながらやっているということであった。そして、昼間も雨戸をしめ切って、わざと五燭の電燈をつけて、薄暗い部屋の中で、彼一流の無気味な妄想を描きながら、うごめいているのだということであった。
私は彼が小説を書かなくなって、行方不明を伝えられたとき、ひょっとしたら、彼はよく小説の中で言っていたように、浅草あたりのゴミゴミした裏町に巣をくって、彼の妄想を実行しはじめたのではあるまいかと、ひそかに想像をめぐらしていたのだが、果たせるかな、それから半年もたたぬうちに、彼は正しく一個の妄想実行者として、私の前に現われたのであった。
私は春泥の行方を探すのには、新聞社の文芸部か雑誌社の外交記者に聞き合わせるのが最も早道であると考えた。それにしても、春泥の日常が甚だしく風変りで、めったに訪問者にも会わなかったというほどだし、雑誌社などでも、一応は彼の行方を探したあとなのだから、よほど彼と昵懇であった記者を捉えなければならぬのだが、幸いにもちょうどおあつらえ向きの人物が、私の心やすい雑誌記者の中にあった。
それはその道では敏腕の聞こえ高い博文館の本田という外交記者で、彼はほとんど春泥係りのように、春泥に原稿を書かせる仕事をやっていた時代があったし、彼はその上、外交記者だけあって、探偵的な手腕もなかなかあなどりがたいものがあるのだ。
そこで、私は電話をかけて、本田にきてもらって、先ず私の知らない春泥の生活について尋ねたのであるが、すると、本田はまるで遊び友だちのような呼び方で、
「春泥ですか。あいつけしからんやつじゃ」
と大黒様のような顔をニヤニヤさせて、さてこころよく私の問いに答えてくれた。
本田のいうところによると、春泥は小説を書きはじめたころは郊外の池袋の小さな借家に住んでいたが、それから文名が上がり、収入が増すにしたがって、少しずつ手広な家へ(といっても、たいていは借家だったが)転々として移り歩いた。牛込の喜久井町、根岸、谷中初音町、日暮里金杉など、本田はそうして春泥の約二年間に転居した場所を七つほど列挙した。
根岸へ移り住んだころから、春泥はようやくはやりっ子となり、雑誌記者などがずいぶんおしかけたものであるが、彼の人嫌いはその当時からで、いつも表戸をしめて、奥さんなどは裏口から出入りしているといったふうであった。
折角訪ねても会ってはくれず、留守を使っておいて、あとから手紙で、「私は人嫌いだから、用件は手紙で申し送ってくれ」という詫状がきたりするので、たいていの記者はへこたれてしまい、春泥に会って話をしたものは、ほんのかぞえるほどしかなかった。小説家の奇癖には馴れっこになっている雑誌記者も、春泥の人嫌いをもてあましていた。
しかし、よくしたもので、春泥の細君というのが、なかなかの賢夫人で、本田は原稿の交渉や催促なども、この細君を通じてやることが多かった。
でも、その細君に逢うのもなかなか面倒で、表戸が締まっている上に、「病中面会謝絶」とか「旅行中」とか、「雑誌記者諸君。原稿の依頼はすべて手紙で願います。面会はお断わりです」などと手厳しい掛け札さえぶら下がっているのだから、さすがの本田も辟易して、空しく帰る場合も一度ならずあった。
そんなふうだから、転居をしても一々通知状を出すではなく、すべて記者の方で郵便物などを元にして探し出さなければならないのだった。
「春泥と話をしたり、細君と冗談口をきき合ったものは、雑誌記者多しといえども、おそらく僕ぐらいなもんでしょう」
本田はそういって自慢をした。
「春泥って、写真を見るとなかなか好男子だが、実物もあんなかね」
私はだんだん好奇心を起こして、こんなことを聞いて見た。
「いや、どうもあの写真はうそらしい。本人は若い時の写真だっていってましたが、どうもおかしいですよ。春泥はあんな好男子じゃありませんよ。いやにブクブク肥っていて、運動をしないせいでしょう(いつも寝ているんですからね)。顔の皮膚なんか、肥っているくせに、ひどくたるんでいて、シナ人のように無表情で、眼なんか、ドロンとにごっていて、いってみれば土左衛門みたいな感じなんですよ。それに非常な話し下手で無口なんです。あんな男に、どうしてあんなすばらしい小説が書けるかと思われるくらいですよ。
宇野浩二の小説に『人癲癇』というのがありましたね。春泥はちょうどあれですよ。|寝《ね》|胼《だ》|胝《こ》ができるほども寝たっきりなんですからね。僕は二、三度しか会ってませんが、いつだって、あの男は寝ていて話をするんです。寝ていて食事をするというのも、あの調子ならほんとうですよ。
ところが、妙ですね。そんな人嫌いで、しょっちゅう寝ている男が、時々変装なんかして浅草辺をぶらつくっていう噂ですからね。しかもそれがきまって夜中なんですよ。ほんとうに泥棒かコウモリみたいな男ですね。僕思うに、あの男は極端なはにかみ屋じゃないでしょうか。つまりあのブクブクした自分のからだなり顔なりを、人に見せるのがいやなのではないでしょうか。文名が高まれば高まるほど、あのみっともない肉体がますます恥かしくなってくる。そこで友だちも作らず訪問者にも会わないで、そのうめ合わせには夜などコッソリ雑沓の巷をさまようのじゃないでしょうか。春泥の気質や細君の口裏などから、どうもそんなふうに思われるのですよ」
本田はなかなか雄弁に、春泥の面影を形容するのであった。そして、彼は最後に実に奇妙な事実を報告したのである。
「ところがね、寒川さん、ついこのあいだのことですが、僕、あの行方不明の大江春泥に会ったのですよ。余り様子が変っていたので挨拶もしなかったけれど、確かに春泥にちがいないのです」
「どこで、どこで?」
私は思わず聞き返した。
「浅草公園ですよ。僕その時、実は朝帰りの途中で、酔いがさめきっていなかったのかもしれませんがね」
本田はニヤニヤして頭をかいた。
「ほら来々軒っていうシナ料理があるでしょう。あすこの角のところに、まだ人通りも少ない朝っぱらから、まっ赤なとんがり帽に道化服の、よく太った広告ビラくばりが、ヒョコンと立っていたのです。なんとも夢みたいな話だけど、それが大江春泥だったのですよ。ハッとして立ち止まって、声をかけようかどうしようかと思い迷っているうちに、相手のほうでも気づいたのでしょう。しかしやっぱりボヤッとした無表情な顔で、クルッとうしろ向きになると、そのまま大急ぎで向こうの路地へはいって行ってしまいました。よっぽど追っかけようかと思ったけれど、あの風体じゃ挨拶するのもかえって変だと考えなおして、そのまま帰ったのですが」
大江春泥の異様な生活を聞いているうちに、私は悪夢でも見ているような不愉快な気持になってきた。そして、彼が浅草公園で、とんがり帽と道化服をつけて立っていたと聞いたときには、なぜかギョッとして、総毛立つような感じがした。
彼の道化姿と静子への脅迫状とに、どんな因果関係があるのか、私にはわからなかったが(本田が浅草で春泥に会ったのは、ちょうど第一回の脅迫状がきた時分らしかった)、なんにしてもうっちゃってはおけないという気がした。
私はその時ついでに、静子から預かっていた、例の脅迫状のなるべく意味のわからないような部分を、一枚だけ選び出して、それを本田に見せ、果たして春泥の筆蹟かどうかを確かめることを忘れなかった。
すると彼は、これは春泥の筆蹟にちがいないと断言したばかりでなく、形容詞や仮名遣いの癖まで、春泥でなくては書けない文章だといった。彼はいつか、春泥の筆癖をまねて小説を書いてみたことがあるので、それがよくわかるが、「あのネチネチした文章は、ちょっとまねができませんよ」というのだ。私も彼のこの意見には賛成であった。数通の手紙の全体を読んでいる私は、本田以上に、そこに漂っている春泥の匂いを感じていたのである。
そこで、私は本田に、でたらめの理由をつけて、なんとかして春泥のありかをつき止めてくれないかと頼んだのである。
本田は、「いいですとも、僕にお任せなさい」と安請合いをしたが、彼はそれだけでは安心がならず、私自身も本田から聞いた春泥の住んでいたという、上野桜木町三十二番地へ出かけて行って、近所の様子を探ってみることにした。
四
翌日、私は書きかけの原稿をそのままにしておいて、桜木町へ出かけ、近所の女中だとか出入商人などをつかまえて、いろいろと春泥一家のことを聞きまわってみたが、本田のいったことが決して嘘でなかったことを確かめた以上には、春泥のその後の行方について
は何事もわからなかった。
あの辺は小さな門などのある中流住宅が多いので、隣同士でも、裏長屋のように話し合うことはなく、行き先を告げずに引越して行ったというくらいのことしか、誰も知らなかった。むろん大江春泥の表札など出していないので、彼が有名な小説家だと知っている人もなかった。トラックを持って荷物を取りにきた引越し屋さえ、どこの店だかわからないので、私は空しく帰るほかはなかった。
ほかに方法もないので、私は急ぎの原稿を書くひまひまには、毎日のように本田に電話をかけて、捜索の模様を聞くのだが、いっこうこれという手掛りもないらしく、五日六日と日がたって行った。そして、私たちがそんなことをしているあいだに、春泥の方では彼の執念深い企らみを着々と進めていたのであった。
或る日小山田静子から私の宿へ電話がかかって、大変心配なことができたから、一度おいで願いたい。主人は留守だし、召使いたちも、気のおけるような者は、遠方に使いに出して待っているからということであった。彼女は自宅の電話を使わず、わざわざ公衆電話からかけたらしく、彼女がこれだけのことをいうのに、非常にためらい勝ちであったものだから、途中で三分の時間がきて、一度電話が切れたほどであった。
主人の留守を幸い、召使いは使いに出して、ソッと私を呼び寄せるという、このなまめかしい形式が、ちょっと私を妙な気持にした。もちろんそれだからというのではないが、私はすぐさま承諾して、浅草|山《やま》の|宿《しゅく》にある彼女の家を訪ねた。
小山田家は商家と商家のあいだを奥深くはいったところにある、ちょっと昔の寮といった感じの古めかしい建物であった。正面から見たのではわからぬけれど、たぶん裏を大川が流れているのではないかと思われた。だが、寮の見立てにふさわしくないのは、新らしく建て増したと見える建物を取り囲んだ、甚だしく野暮なコンクリート塀と(その塀の上部には盗賊よけのガラスの破片さえ植えつけてあった)、|母《おも》|屋《や》の裏の方にそびえている二階建ての西洋館であった。その二つのものが、いかにも昔風の日本建てと不調和で、金持ち趣味の泥臭い感じを与えていた。
|刺《し》を通じると、田舎者らしい少女の取次ぎで、洋館の方の応接間へ案内されたが、そこには、静子がただならぬ様子で待ちかまえていた。
彼女は幾度も幾度も、私を呼びつけたぶしつけを詫びたあとで、なぜか小声になって、
「先ずこれを見てくださいまし」
といって一通の封書をさし出した。そして、何を恐れるのか、うしろを見るようにして、私の方へすり寄ってくるのだった。それはやっぱり大江春泥からの手紙であったが、内容がこれまでのものとは少々違っているので、左にその全文を貼りつけておくことにする。
静子、お前の苦しんでいる様子が眼に見えるようだ。
お前が主人には秘密で、私の行方をつきとめようと苦心していることも、ちゃんと私にはわかっている。だが、むだだから止すがいい。たとえお前に私の脅迫を主人に打ち明ける勇気があり、その結果、警察の手をわずらわしたところで、私の所在はわかりっこはないのだ。私がどんなに用意周到な男であるかは、私の過去の作品を見てもわかるはずではないか。
さて、私の小手調べもこの辺で打ち切りどきだろう。私の復讐事業は第二段に移る時期に達したようだ。
それについて、私は少しく君に予備知識を与えておかねばなるまい。私がどうしてあんなにも正確に、夜ごとのお前の行為を知ることができたか。もうお前にもおおかた想像がついているだろう。つまり、私はお前を発見して以来、影のようにお前の身辺につきまとっているのだ。お前のほうからはどうしても見ることはできないけれど、私のほうからはお前が家に居るときも、外出したときも、寸時の絶えまもなくお前の姿を凝視しているのだ。私はお前の影になりきってしまったのだ。現にいま、お前がこの手紙を読んで震えている様子をも、お前の影である私は、どこかの隅から、眼を細めてじっと眺めているかもしれないのだ。
お前も知っている通り、私は夜ごとのお前の行為を眺めているうちに、当然お前たちの夫婦仲の睦まじさを見せつけられた。私はむろん烈しい嫉妬を感じないではいられなかった。
これは最初復讐計画を立てたとき、勘定に入れておかなかった事柄だったが、しかし、そんなことが毫も私の計画を妨げなかったばかりか、かえって、この嫉妬は私の復讐心を燃え立たせる油となった。そして私は私の予定にいささかの変更を加えるほうが、一そう私の目的にとって有効であることを悟った。
というのは、ほかでもない。最初の予定では、私はお前をいじめにいじめぬき、怖わがらせに怖わがらせぬいた上で、おもむろにお前の命を奪おうと思っていたのだが、此のあいだからお前たちの夫婦仲を見せつけられるに及んで、お前を殺すに先だって、お前を愛している夫の命を、お前の眼の前で奪い、それから、その悲歎を充分に味わせた上で、お前の番にしたほうが、なかなか効果的ではないかと考えるようになった。そして、私はそれにきめたのだ。
だが慌てることはない。私はいつも急がないのだ。第一この手紙を読んだお前が、充分苦しみ抜かぬうちに、その次の手段を実行するというのは、余りにもったいないことだからな。
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三月十六日深夜 復讐鬼より
静子殿
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この残忍酷薄をきわめた文面を読むと、私もさすがにゾッとしないではいられなかった。そして、人でなし大江春泥を憎む心が幾倍するのを感じた。
だが、私が恐れをなしてしまったのでは、あのいじらしく打ちしおれた静子を誰がなぐさめるのだ。私はしいて平気をよそおいながら、この脅迫状が小説家の妄想にすぎないことを、くり返して説くほかはなかった。
「どうか、先生、もっとお静かにおっしゃってくださいまし」
私が熱心にくどき立てるのを聞こうともせず、静子は何かほかのことに気をとられているふうで、時々じっと一つ所を見つめて、耳をすます仕草をした。そして、さも、誰かが立ち聞きでもしているかのように声をひそめるのだった。彼女の唇は、青白い顔色と見分けられぬほど色を失っていた。
「先生、わたくし、頭がどうかしたのではないかと思いますわ。でも、あんなことが、ほんとうだったのでしょうか」
静子は気でも違ったのではないかと疑われる調子で、ささやき声で、わけのわからぬことを口走るのだ。
「何かあったのですか」
私も誘い込まれてつい物々しいささやき声になっていた。
「この家の中に平田さんがいるのでございます」
「どこにですか」
私は彼女の意味が呑み込めないで、ぼんやりしていた。
すると、静子は思いきったように立ちあがって、まっ青になって、私をさし招くのだ。それを見ると、私も何かしらワクワクして、彼女のあとに従った。彼女は途中で私の腕時計に気づくと、なぜか私にそれをはずさせ、テーブルの上へ置きに帰った。それから、私たちは足音をさえ忍ばせ、短い廊下を通って、日本建ての方の静子の居間だという部屋へはいって行ったが、そこの襖をあけるとき、静子はすぐその向こうがわに、曲者が隠れてでもいるような恐怖を示した。
「変ですね。昼日中、あの男がお宅へ忍び込んでいるなんて、何かの思い違いじゃありませんか」
私がそんなことを言いかけると、彼女はハッとしたように、それを手まねで制して、私の手を取って、部屋の一隅へつれて行くと、眼をその上の天井に向けて、
「だまって聞いてごらんなさい」
というような合図をするのだ。
私たちはそこで、十分ばかりも、じっと眼を見合わせて、耳をすまして立ちつくしていた。
昼間だったけれど、手広い邸の奥まった部屋なので、なんの物音もなく、耳の底で血の流れる音さえ聞こえるほど、シーンと静まり返っていた。
「時計のコチコチという音が聞こえません?」
ややしばらくたって、静子は聞きとれぬほどの小声で私に尋ねた。
「いいえ、時計って、どこにあるんです」
すると、静子はだまったまま、しばらく聞き耳を立てていたが、やっと安心したものか、
「もう聞こえませんわねえ」
といって、また私を招いて洋館の元の部屋に戻ると、彼女は異常な息づかいで、次のような妙なことを話しはじめたのである。
そのとき彼女は居間で、ちょっとした縫物をしていたが、そこへ女中が先に引用した春泥の手紙を持ってきた。もうこのごろでは、上封を見ただけで一と目でそれとわかるようになっているので、彼女はそれを受取ると、なんともいえぬいやあな心持になったが、でも、あけてみないでは、いっそう不安なので、こわごわ封を切って読んでみた。
事が主人の上にまで及んできたのを知ると、もうじっとしてはいられなかった。彼女はなぜということもなく立ち上がって部屋の隅へ歩いて行った。そして、ちょうど箪笥の前に立ち止まったとき、頭の上から、非常にかすかな、地虫の鳴き声でもあるような物音が聞こえてくるのを感じた。
「わたくし、耳鳴りではないかと思ったのですけれど、じっと辛抱して聞いていますと、耳鳴りとは違った、金属のふれ合うような、カチカチっていう音が、確かに聞こえてくるのでございます」
それは、そこの天井板の上に人が潜んでいるのだ、その人の懐中時計が秒を刻んでいるのだ、としか考えられなかった。
偶然彼女の耳が天井に近くなったのと、部屋が非常に静かであったために、神経が鋭くなっていた彼女には、天井裏のかすかなかすかな金属のささやきが聞こえたのであろう。もしや違った方角にある時計の音が、光線の反射みたいな理窟で、天井裏からのように聞こえたのではないかと、その辺を隈なく調べてみたけれど、近くに時計なぞ置いてなかった。
彼女はふと「現に今、お前がこの手紙を読んで震えている様子をも、お前の影である私は、どこかの隅から、眼を細めてじっと眺めているかもしれないのだ」という手紙の文句を思い出した。すると、ちょうどそこの天井板が少しそり返って、隙間ができているのが彼女の注意を惹いた。その隙間の奥の、まっ暗な中で、春泥の眼が細く光っているようにさえ思われてきた。
「そこにいらっしゃるのは、平田さんではありませんか」
そのとき静子は、ふと異様な興奮におそわれた。彼女は思いきって、敵の前に身を投げ出すような気持で、ハラハラと涙をこぼしながら、屋根裏の人物に話しかけたのであった。
「私、どんなになってもかまいません。あなたのお気のすむように、どんなことでもいたします。たとえあなたに殺されても、少しもお恨みには思いません。でも、主人だけは助けてください。私はあの人に嘘をついたのです。その上、私のためにあの人が死ぬようなことになっては、私、あんまり空恐ろしいのです。助けてください。助けてください」
彼女は小さな声ではあったが、心をこめてかきくどいた。
だが、上からはなんの返事もないのだ。彼女は一時の興奮からさめて、気抜けがしたように、長いあいだそこに立ちつくしていた。しかし、天井裏にはやっぱりかすかに時計の音がしているばかりで、ほかには少しの物音も聞こえてはこないのだ。陰獣は闇の中で、息を殺して、唖のようにだまり返っているのだ。
その異様な静けさに、彼女は突然非常な恐怖を覚えた。彼女はやにわに居間を逃げ出して、家の中にも居たたまらなくて、なんの気であったか、表へかけ出してしまったというのだ。そして、ふと私のことを思いだすと、矢も楯もたまらず、そこにあった公衆電話にはいったということであった。
私は静子の話を聞いているうちに、大江春泥の無気味な小説「屋根裏の遊戯」を思い出さないではいられなかった。もし静子の聞いた時計の音が錯覚でなく、そこに春泥がひそんでいたとすれば、彼はあの小説の思いつきを、そのまま実行に移したものであり、まことに春泥らしいやり方と頷くことができた。
私は「屋根裏の遊戯」を読んでいるだけに、この静子の一見とっぴな話を、一笑に付し去ることができなかったばかりでなく、私自身激しい恐怖を感じないではいられなかった。私は屋根裏の暗闇の中で、まっ赤なとんがり帽と、道化服をつけた、太っちょうの大江春泥が、ニヤニヤと笑っている幻覚をさえ感じた。
五
私たちはいろいろ相談をした末、結局、私が「屋根裏の遊戯」の中の素人探偵のように、静子の居間の天井裏へ上がって、そこに人のいた形跡があるかどうか、もしいたとすれば、いったいどこから出入りしたのであるかを、確かめてみることになった。
静子は、「そんな気味のわるいことを」といって、しきりに止めたけれど、私はそれをふり切って、春泥の小説から教わった通り、押入れの天井板をはがして、電燈工夫のように、その穴の中へもぐって行った。ちょうど家には、さっき取次ぎに出た少女のほかに誰もいなかったし、その少女も勝手元のほうで働いている様子だったから、私は誰に見とがめられる心配もなかったのだ。
屋根裏なんて、決して春泥の小説のように美しいものではなかった。
古い家ではあったが、暮れの煤掃きのおり|灰《あ》|汁《く》|洗《あら》い屋を入れて、天井板をはずしてすっかり洗わせたとのことで、ひどく汚くはなかったけれど、それでも、三月のあいだにはほこりもたまっているし、蜘蛛の巣も張っていた。第一まっ暗でどうすることもできないので、私は静子の家にあった懐中電燈を借りて、苦心して梁を伝いながら、問題の箇所へ近づいて行った。そこには、天井板に隙間ができていて、たぶん灰汁洗いをしたために、そんなに板がそり返ったのであろう、下から薄い光がさしていたので、それが目印になった。だが、私は半間も進まぬうちにドキンとするようなものを発見した。
私はそうして屋根裏に上がりながらも、実はまさか、まさかと思っていたのだが、静子の想像は決して間違っていなかったのだ。天井板の上に、確かに最近人の通ったらしい跡が残っていた。
私はゾーッと寒気を感じた。小説を知っているだけで、まだ会ったことのない毒蜘蛛のような、あの大江春泥が、私と同じ恰好で、その天井裏を這いまわっていたのかと思うと、私は一種名状しがたい戦慄におそわれた。私は堅くなって、梁のほこりの上に残った手だか足だかの跡を追って行った。時計の音のしたという場所は、なるほど、ほこりがひどく乱れて、そこに長いあいだ人のいた形跡があった。
私はもう夢中になって、春泥とおぼしき人物のあとをつけはじめた。彼はほとんど家じゅうの天井裏を歩きまわったらしく、どこまで行っても、怪しい足跡は尽きなかった。そして、静子の居間と、静子らの寝室の天井に、板のすいたところがあって、その箇所だけほこりが余計乱れていた。
私は屋根裏の遊戯者をまねて、そこから下の部屋を覗いて見たが、春泥がそれに陶酔したのも決して無理ではなかった。天井板の隙間から見た「下界」の光景の不思議さは、まことに想像以上であった。殊にも、ちょうど私の眼の下にうなだれていた静子の姿を眺めたときには、人間というものが、眼の角度によっては、こうも異様に見えるものかと驚いたほどであった。
われわれはいつも横の方から見られつけているので、どんなに自分の姿を意識している人でも、真上から見た恰好までは考えていない。そこには非常な隙があるはずだ。隙があるだけに、少しも飾らぬ生地のままの人間が、やや不恰好に曝露されているのだ。静子の艶々した丸髷には(真上から見た丸髷というものの形からして、すでに変であったが)、前髪と髷とのあいだの窪みに、薄くではあったが、ほこりが溜って、ほかの綺麗な部分とは比較にならぬほど汚れていたし、髷につづく|項《うなじ》の奥には、着物の襟と背中とが作る谷底を真上から覗くので、背筋の窪みまで見えて、そして、そのねっとり青白い皮膚の上には、例の毒々しいミミズ脹れがずっと奥の暗くなって見えぬところまでも、いたいたしくつづいているのだ。上から見た静子は、やや上品さを失ったようではあったが、その代りに、彼女の持つ一種不可思議なオブシニティが一そう色濃く私に迫ってくるのを感じた。
それはともかく、私は何か大江春泥を証拠立てるようなものが残されていないかと、懐中電燈の光を近づけて、天井板の上を調べまわったが、手型も足跡もみな曖昧で、むろん指紋などは識別されなかった。春泥は定めし「屋根裏の遊戯」をそのままに、足袋や手袋の用意を忘れなかったのであろう。
ただ一つ、ちょうど静子の居間の上の、梁から天井をつるした支え木の根元の、ちょっと眼につかぬ場所に、小さな鼠色の丸いものが落ちていた。艶消の金属で、うつろな椀の形をしたボタンみたいなもので、表面にR・K・BROS・COという文字が浮き彫りになっていた。
それを拾った時、私はすぐさま「屋根裏の遊戯」に出てくるシャツのボタンを思い出したが、しかしその品はボタンにしては少し変だった。帽子の飾りかなんかではないかとも思ったけれど、確かなことはわからない。あとで静子に見せても、彼女も首をかしげるばかりであった。
むろん私は、春泥がどこから天井裏に忍び込んだかという点をも、綿密に調べてみた。
ほこりの乱れた跡をしたって行くと、それは玄関横の物置きの上で止まっていた。物置きの粗末な天井板は、持ち上げてみると、なんなく取れた。私はそこに投げ込んである椅子のこわれを足場にして、下におり、内部から物置きの戸をあけてみたが、その戸には錠前がなくて、わけもなくひらいた。そのすぐそとには、人の背よりは少し高いコンクリートの塀があった。
おそらく大江春泥は、人通りのなくなったころを見はからって、この塀をのり越え(塀の上には前にもいったようにガラスの破片が植えつけてあったけれど、計画的な侵入者にはそんなものは問題ではないのだ)、今の錠前のない物置きから、屋根裏へ忍び込んだものであろう。
そうして、すっかり種がわかってしまうと、私はいささかあっけない気がした。不良少年でもやりそうな子供らしいいたずらじゃないかと、相手を軽蔑してやりたい気持だった。妙なえたいの知れぬ恐怖がなくなって、その代りに現実的な不快ばかりが残った(だが、そんなふうに相手を軽蔑してしまったのは、飛んでもない間違いであったことが、後になってわかった)。
静子は無性に怖がって、主人の身にはかえられぬから、彼女の秘密を犠牲にしても、警察の手をわずらわすほうがよくはないかと言いだしたが、私は相手を軽蔑しはじめていたものだから、彼女を制して、まさか「屋根裏の遊戯」にある天井から毒薬をたらすような、ばかばかしいまねができるはずはないし、天井裏へ忍び込んだからといって、人が殺せるものではない。こんな怖がらせは、いかにも大江春泥らしい稚気で、こうして、さも何か犯罪を企らんでいるように見せかけるのが、彼の手ではないか。高が小説家の彼に、それ以上の実行力があろうとは思われぬ、というふうに彼女をなぐさめたのであった。そして、あまり静子が怖がるものだから、気休めに、そんなことの好きな私の友だちを頼んで、毎夜物置きのあたりの塀そとを見張らせることを約束した。
静子は、ちょうど西洋館の二階に客用の寝室があるのを幸い、何か口実を設けて、当分、彼女たち夫婦の寝間をそこへ移すことにするといっていた。西洋館なれば、天井の隙見なぞできないのだから。
そしてこの二つの防禦方法は、その翌日から実行されたのだが、しかし、陰獣大江春泥の恐るべき魔手は、そのような姑息手段を無視して、それから二日後の三月十九日深夜、彼の予告を厳守し、ついに第一の犠牲者を屠ったのである。小山田六郎氏の息の根を絶ったのである。
六
春泥の手紙には小山田氏殺害の予告に付け加えて「だが慌てることはない。私はいつも急がないのだ」という文句があった。それにもかかわらず、彼はどうしてあんなに慌てて、たった二日しかあいだをおかないで、兇行を演じることになったのであろうか。それは或いはわざと手紙では油断をさせておいて意表にでる、一種の策略であったかもしれないのだが、私はふと、もっと別の理由があったのではないかと疑った。
静子が時計の音を聞いて、屋根裏に春泥が潜んでいると信じ、涙を流して小山田氏の命乞いをしたということを聞いたとき、すでに私はそれを虞れたのだが、春泥はこの静子の純情を知るに及んで、一そうはげしい嫉妬を感じ、同時に身の危険をも悟ったにちがいない。そして「よし、それほどお前の愛している亭主なら、長く待たさないで、早速やっつけて上げることにしよう」という気持になったのであろう。それはともかく、小山田六郎氏の変死事件は、きわめて異様な状態において発見されたのである。
私は静子からの知らせで、その日の夕刻小山田家に駈けつけ、はじめてすべての事情を聞き知ったのであるが、小山田氏はその前日、べつだん変った様子もなく、いつもよりは少し早く会社から帰宅して、晩酌をすませると、川向こうの小梅の友人のうちへ、碁を囲みに行くのだといって、暖かい晩だったので、大島の袷に塩瀬の羽織だけで、外套は着ず、ブラリと出掛けた。それが午後七時ごろのことであった。
遠いところでもないので、彼はいつものように、散歩かたがた、吾妻橋を迂回して、向島の土手を歩いて行った。そして、小梅の友人の家に十二時ごろまでいて、やはり徒歩でそこを出たというところまではハッキリわかっていた。だがそれから先が一切不明なのだ。
一と晩待ち明かしても帰りがないので、しかも、それがちょうど大江春泥から恐ろしい予告を受けていた際なので、静子は非常に心をいため、朝になるのを待ちかねて、知っている限りの心当たりへ、電話や使いで聞き合わせたが、どこにも立ち寄った形跡がない。彼女はむろん私のところへも電話をかけたのだけれど、ちょうどその前夜から、私は宿を留守にしていて、やっと夕方ごろ帰ったので、この騒動は少しも知らなかったのだ。
やがて、いつもの出勤時刻がきても、小山田氏は会社へも顔を出さないので、会社の方でもいろいろと手を尽して探してみたが、どうしても行方がわからぬ。そんなことをしているうちに、もうお昼近くになってしまった。ちょうどそこへ、象潟警察から電話があって、小山田氏の変死を知らせてきたのであった。
吾妻橋の西詰め、雷門の電車停留所を少し北へ行って、土手をおりた所に、吾妻橋千住大橋間を往復している乗合汽船の発着所がある。一銭蒸汽といった時代からの隅田川の名物で、私はよく用もないのに、あの発動機船に乗って、言問だとか白鬚だとかへ往復してみることがある。汽船商人が絵本や玩具などを船の中へ持ちこんで、スクリュウの音に合わせて、活動弁士のようなしわがれ声で、商品の説明をしたりする、あの|田舎《い な か》田舎した、古めかしい味がたまらなく好もしいからだ。その汽船発着所は、隅田川の水の上に浮かんでいる四角な船のようなもので、待合客のベンチも、客用の便所も、皆そのブカブカと動く船の上に設けられている。私はその便所へもはいったことがあって知っているのだが、便所といっても婦人用の一つきりの箱みたいなもので、木の床が長方形に切り抜いてあって、その下のすぐ一尺ばかりのところを、大川の水がドブリドブリと流れている。
ちょうど汽車か船の便所と同じで、不潔物が溜るようなことはなく、綺麗といえば綺麗だが、その長方形に区切られた穴から、じっと下を見ていると、底のしれない青黒い水がよどんでいて、時々ごもくなどが、検微鏡の中の微生物のように、穴の端から現われて、ゆるゆると他の端へ消えて行く。それが妙に無気味な感じなのだ。
三月二十日の朝八時ごろ、浅草仲店の商家のおかみさんが、千住へ用達しに行くために、吾妻橋の汽船発着所へきて、船を待ち合わせるあいだに、その便所へはいった。そして、はいったかと思うと、いきなりキャッと悲鳴を上げて飛び出してきた。
切符切りの爺さんが聞いてみると、便所の長方形の穴の真下に、青い水の中から、一人の男の顔が彼女の方を見上げていたというのだ。
切符切りの爺さんは、最初は、船頭か何かのいたずらだと思ったが(そういう水の中の出歯亀事件は、時たま無いでもなかったので)、とにかく便所へはいって調べてみると、やっぱり穴の下一尺ばかりの間ぢかに、ポッカリと人の顔が浮いていて、水の動揺につれて、顔が半分隠れるかと思うと、またヌッと現われる。まるでゼンマイ仕掛けの玩具のようで、凄いったらなかったと、あとになって爺さんが話した。
それが人の死骸だとわかると、爺さんは俄かに慌て出して、大声で発着所にいた若い者を呼んだ。
船を待ち合わせていた客の中にも、いなせな肴屋さんなどがいて、若い者と協力して死体の引き上げにかかったが、便所の中からではとても上げられないので、そとがわから竿で死骸を広い水の上までつき出したところが、妙なことには、死骸は猿股一つきりで、まるはだかなのだ。
四十前後の立派な人品だし、まさかこの陽気に隅田川で泳いでいたとも受けとれぬので、変だと思ってなおよく見ると、どうやら背中に刃物の突き傷があるらしく、水死人にしては水も呑んでいないようなあんばいである。
ただの水死人ではなくて殺人事件だとわかると、騒ぎはいっそう大きくなったが、さて、水から引き上げる段になって、また一つ奇妙なことが発見された。
知らせによって駈けつけた、花川戸交番の巡査の指図で、発着所の若い者が、モジャモジャした死骸の頭の毛をつかんで引き上げようとすると、その頭髪が頭の地肌から、ズルズルとはがれてきたのだ。
若い者は、余りの気味わるさに、ワッといって手を離してしまったが、入水してからそんなに時間がたっているようでもないのに、髪の毛がズルズルむけてくるのは変だと思って、よく調べてみると、なんのことだ、髪の毛だと思ったのは、かつらで、本人の頭はテカテカに禿げ上がっていたのであった。
これが静子の夫であり、碌々商会の重役である小山田六郎氏の悲惨な死にざまであった。
つまり、六郎氏の死体は、裸体にされた上、禿げ頭に、ふさふさとしたかつらまでかぶせて、吾妻橋下に投げ込まれていたのだった。しかも、死体が水中で発見されたにもかかわらず、水を呑んだ形跡はなく、致命傷は背中の左肺部に受けた、鋭い刃物の突き傷であった。致命傷のほかに背中に数カ所浅い突き傷があったところをみると、犯人は幾度も突きそくなったものにちがいなかった。
警察医の検診によると、その致命傷を受けた時間は、前夜の一時ごろらしいということであったが、なにぶん死体には着物も持ち物もないので、どこの誰ともわからず、警察でも途方に暮れていたところへ、幸いにも昼ごろになって、小山田氏を見知るものが現われたので、さっそく、小山田邸と碌々商会とへ、電話をかけたということであった。
夕刻私が小山田家を訪ねたときには、小山田氏がわの親戚の人たちや、碌々商会の社員、故人の友人などがつめかけていて、家の中は非常に混雑していた。ちょうど今しがた警察から帰ったところだといって、静子はそれらの見舞客にとり囲まれて、ぼんやりしているのだ。
小山田氏の死体は都合によっては解剖しなければならないというので、まだ警察から下げ渡されず、仏壇の前の白布で覆われた台には、急ごしらえの位牌ばかりが置かれ、それに物々しく香華がたむけてあった。
私はそこで、静子や会社の人から、右に述べた死体発見の顛末を聞かされたのであるが、私は春泥を軽蔑して、二、三日前静子が警察に届けようといったのをとめたばかりに、このような不祥事をひき起こしたかと思うと、恥と後悔とで座にもいたたまれぬ思いがした。
私は下手人は大江春泥のほかにはないと思った。春泥はきっと、小山田氏が小梅の碁友だちの家を辞して、吾妻橋を通りかかったおり、彼を汽船発着所の暗がりへ連れ込み、そこで兇行を演じ、死体を河中へ投棄したものにちがいない。時間の点からいっても、春泥が浅草辺にうろうろしていたという本田の言葉から推しても、いや、現に彼は小山田氏の殺害を予告さえしていたのだから、下手人が春泥であることに疑いをはさむ余地はないのだ。
だが、それにしても、小山田氏はなぜまっぱだかになっていたのか、また変なかつらなどをかぶっていたのか、もしそれも春泥の仕業であったとすれば、彼はなぜそのような途方もないまねをしなければならなかったのか、まことに不思議というほかはなかった。
私は折を見て、静子と私だけが知っている秘密について相談をするために、「ちょっと」といって、彼女に別室へきてもらった。静子はそれを待っていたように、一座の人に会釈すると、急いで私のあとに従ってきたが、人目がなくなると、「先生」と小声で叫んで、いきなり私にすがりつき、じっと私の胸の辺を見つめていたかと思うと、長いまつげが、ギラギラと光って、まぶたのあいだがふくれ上がったと見るまに、それがやがて大きな水の玉になって、青白い頬の上をツルッ、ツルッと流れるのだ。涙はあとからあとからと、ふくれ上がってきては、止めどもなく流れるのだ。
「僕はあなたに、なんといってお詫びしていいかわからない。まったく僕の油断からです。あいつに、こんな実行力があろうとは、ほんとうに思いがけなかった。僕がわるいのです。僕がわるいのです……」
私もつい感傷的になって、泣き沈む静子の手をとると、力づけるように、それを握りしめながら、繰り返し繰り返し詫言をした。私が静子の肉体にふれたのは、あの時がはじめてだった。そんな際ではあったけれど、私はあの青白く弱々しいくせに、芯の方で火でも燃えているのではないかと思われる、熱っぽく弾力のある彼女の手先の不思議な感触を、はっきりと意識し、いつまでもそれを覚えていた。
「それで、あなたはあの脅迫状のことを、警察でおっしゃいましたか」
やっとしてから、私は静子の泣き止むのを待って尋ねた。
「いいえ、私どうしていいかわからなかったものですから」
「まだ言わなかったのですね」
「ええ、先生にご相談しようと思って」
あとから考えると変だけれど、私はその時もまだ静子の手を握っていた。静子もそれを握らせたまま、私にすがるようにして立っていた。
「あなたもむろん、あの男の仕業だと思っているのでしょう」
「ええ、それに、ゆうべ妙なことがありましたの」
「妙なことって?」
「先生のご注意で、寝室を洋館の二階に移しましたでしょう。これでもう覗かれる心配はないと安心していたのですけれど、やっぱりあの人、覗いていたようですの」
「どこからです」
「ガラス窓のそとから」
そして、静子はその時の怖かったことを思い出したように、眼を大きく見ひらいて、ポツリポツリと話すのであった。
「ゆうべは十二時ごろベッドにはいったのですけれど、主人が帰らないものですから、心配で心配で、それに天井の高い洋室にたった一人でやすんでいますのが怖くなってきて、妙に部屋の隅々が眺められるのです。窓のブラインドが、一つだけ降りきっていないので、一尺ばかり下があいているので、そこからまっ暗なそとの見えているのが、もう怖くって、怖いと思えば、余計その方へ眼が行って、しまいには、そこのガラスの向こうに、ボンヤリ人の顔が見えてくるじゃありませんか」
「幻影じゃなかったのですか」
「少しのあいだで、すぐ消えてしまいましたけれど、今でも私、見違いやなんかではなかったと思っていますわ。モジャモジャした髪の毛をガラスにピッタリくっつけて、うつむき気味になって、上目遣いにじっと私の方を睨んでいたのが、まだ見えるようですわ」
「平田でしたか」
「ええ、でも、ほかにそんなまねをする人なんて、あるはずがないのですもの」
私たちはその時、こんなふうの会話を取りかわしたあとで、小山田氏の殺人犯人が大江春泥の平田一郎にちがいないと判断し、彼がこの次には静子をも殺害しようと企らんでいることを、静子と私とが同道で警察に申しいで、保護を願うことに話をきめた。
この事件の係りの検事は、糸崎という法学士で、幸いにも、私たち探偵作家や、医学者や、法律家などで作っている猟奇会の会員だったので、私が静子といっしょに、捜査本部である象潟警察へ出頭すると、検事と被害者の家族というような、しかつめらしい関係ではなく、友だちつき合いで、親切に私たちの話を聞いてくれた。
彼もこの異様な事件にはよほど驚いた様子で、また深い興味をも感じたらしかったが、ともかく全力を尽して大江春泥の行方を探させること、小山田家には特に刑事を張り込ませ、警官の巡廻の回数を増して、充分静子を保護するという約束をしてくれた。大江春泥の人相については、世に流布している写真は余り似ていないという私の注意から、博文館の本田を呼んで、詳しく彼の知っている容貌を聞き取ったのであった。
七
それから約一カ月のあいだ、警察は全力をあげて大江春泥を捜索していたし、私も本田に頼んだり、そのほかの新聞記者、雑誌記者など、会う人ごとに、春泥の行方について、何か手掛りになるような事実を聞き出そうと骨折っていたにもかかわらず、春泥はいかなる魔法を心得ていたのであるか、|杳《よう》としてその消息がわからないのであった。
彼一人なればともかく、足手まといの細君と二人つれで、彼はどこにどうして隠れていたのであるか。彼は果たして、糸崎検事が想像したように、密航を企て、遠く海外へ逃げ去ってしまったものであろうか。
それにしても、不思議なのは、六郎氏変死以来、例の脅迫状がぱったりこなくなってしまったことであった。春泥は警察の捜索が怖くなって、次の予定であった静子の殺害を思いとどまり、ただ身を隠すことに汲々としていたのであろうか。いや、いや、彼のような男に、そのくらいのことがあらかじめわからなかったはずはない。すると、彼は今なお東京のどこかに潜伏していて、じっと静子殺害の機会を窺っているのではあるまいか。
象潟警察署長は、部下の刑事に命じて、かつて私がしたように、春泥の最後の住居であった上野桜木町三十二番地付近を調べさせたが、さすがは専門家である。その刑事は苦心の末、春泥の引越し荷物を運搬した運送店を発見して(それは同じ上野でもずっと隔たった黒門町辺の小さな運送店であったが)、それからそれへと彼の引越し先を追って行った。
その結果わかったところによると、春泥は桜木町を引き払ってから、本所区柳島町、向島須崎町と、だんだん品の悪い場所へ移って行って、最後の須崎町などは、バラック同然の、工場と工場にはさまれた汚らしい一軒建ちの借家であったが、彼はそこを数カ月の前家賃で借り受け、刑事が行った時にも、家主の方へはまだ彼が住まっていることになっていたが、家の中を調べてみると、道具も何もなく、ほこりだらけで、いつから空家になっていたかわからぬほど荒れ果てていた。近所で聞き合わせても、両隣とも工場なので、観察好きのおかみさんというようなものもなく、いっこう要領をえないのであった。
博文館の本田は本田で、彼はだんだん様子がわかってくると、根がこうしたことの好きな男だものだから、非常に乗り気になってしまって、浅草公園で一度春泥に会ったのを元にして、原稿取りの仕事のひまひまには、熱心に探偵のまねごとをはじめたものである。
彼は先ず、かつて春泥が広告ビラを配っていたことから、浅草付近の広告屋を、二、三軒歩きまわって、春泥らしい男を雇った店はないかと調べてみたが、困ったことには、それらの広告屋では、忙しい時には浅草公園あたりの浮浪人を臨時に雇って、衣裳を着せて一日だけ使うようなこともあるので、人相を聞いても思い出せぬところをみると、あなたの探していらっしゃるのも、きっとその浮浪人の一人だったのでしょう、ということであった。
そこで、本田は今度は、深夜の浅草公園をさまよって、暗い木蔭のベンチなどを一つ一つ覗きまわってみたり、浮浪人が泊りそうな本所あたりの木賃宿へ、わざわざ泊り込んで、そこの宿泊人たちと懇意を結んで、もしや春泥らしい男を見かけなかったかと尋ねまわってみたり、それはそれは苦労をしたのであるが、いつまでたっても、少しの手掛りさえ掴むことはできなかった。
本田は一週間に一度ぐらいは、私の宿に立ち寄って、彼の苦心談を話して行くのであったが、あるとき、彼は例の大黒様のような顔をニヤニヤさせて、こんな話をしたのである。
「寒川さん。僕このあいだ、ふっと見世物というものに気がついたのですよ。そしてね、すばらしいことを思いついたのですよ。近ごろ蜘蛛女だとか、首ばかりで胴のない女だとかいう見世物が、方々ではやっているのを知っているでしょう。あれと類似のものでね、首ではなくて、反対に胴ばかりの人間っていう見世物があるんですよ。横に長い箱があって、それが三つに仕切ってあって、二つの区切りの中に、大抵は女なんですが、胴と足とが寝ているのです。そして、胴の上に当たる一つの区切りはガランドウで、そこに首から上が見えていなければならないのに、それがまるっきりないのです。つまり女の首なし死体が長い箱の中に横たわっていて、しかも、そいつが生きている証拠には、時々手足を動かすのです。とても無気味で、且つまたエロチックな代物ですよ。種は例の鏡を斜に張って、そのうしろをガランドウのように見せかける、幼稚なものだけれど。
ところが、僕はいつか、牛込の江戸川橋ね。あの橋を護国寺の方へ渡った角の所の空地で、その首なしの見世物を見たんですが、そこの胴ばかりの人間は、ほかの見世物のような女ではなくて、垢で黒光りに光った道化服を着た、よく肥った男だったのです」
本田はここまでしゃべって、思わせぶりに、ちょっと緊張した顔をして、しばらく口をつぐんだが、私が充分好奇心を起こしたのを確かめると、また話しはじめるのであった。
「わかるでしょう、僕の考えが。僕はこう思ったのです。一人の男が、万人にからだを曝しながら、しかも完全に行方をくらます一つの方法として、この見世物の首なし男に雇われるというのは、なんとすばらしい名案ではないでしょうか。彼は目印になる首から上を隠して、一日寝ていればいいのです。これは如何にも大江春泥の考えつきそうな、お化けじみたやり方じゃないでしょうか。殊に春泥はよく見世物の小説を書いたし、この類のことは大好きなんですからね」
「それで?」
私は本田が実際春泥を見つけたにしては、落ちつき過ぎていると思いながら、先をうながした。
「そこで、僕はさっそく江戸川橋へ行ってみたんですが、仕合わせとその見世物はまだありました。僕は木戸銭を払って中へはいり、例の太った首なし男の前に立って、どうすればこの男の顔を見ることができるかと、いろいろ考えてみたんです。で、気づいたのは、この男だって一日に幾度かは便所へ立たなければならないだろうということでした。僕は、そいつの便所へ行くのを、気長く待ち構えていたんですよ。しばらくすると多くもない見物がみな出て行ってしまって、僕一人になった。それでも辛抱して立っていますとね。首なし男が、ポンポンと拍手を打ったのです。
妙だなと思っていると、説明をする男が、僕の所へやってきて、ちょっと休憩をするからそとへ出てくれと頼むのです。そこで、僕はこれだなと感づいて、そとへ出てから、ソッとテント張りのうしろへ廻って、布の破れ目から中を覗いていると、首なし男は、説明者に手伝ってもらって箱からそとへ出ると、むろん首はあったのですが、見物席の土間の隅の所へ走って行って、シャアシャアとはじめたんです。さっきの拍手は、笑わせるじゃありませんか、小便の合図だったのですよ。ハハハハハ」
「落とし噺かい。ばかにしている」
私が少々怒って見せると、本田は真顔になって、
「いや、そいつはまったく人違いで、失敗だったけれど………苦心談ですよ。僕が春泥探しでどんなに苦心しているかという、一例をお話ししたんですよ」
と弁解した。
これは余談だけれど、われわれの春泥捜索は、まあそんなふうで、いつまでたっても、いっこう曙光を認めないのであった。
だが、たった一つだけ、これが事件解決の鍵ではないかと思われる、不思議な事実がわかったことを、ここに書き添えておかねばなるまい。というのは、私は小山田氏の死体のかぶっていた例のかつらに着眼して、その出所がどうやら浅草付近らしく思われたので、その辺のかつら師を探しまわった結果、千束町の松居というかつら屋で、とうとうそれらしいのを探し当てたのだが、ところがそこの主人のいうところによると、かつらその物は死体のかぶっていたのとすっかり当てはまるのだけれど、それを注文した人物は、私の予期に反して、いや私の非常な驚きにまで、大江春泥ではなくて、小山田六郎その人であったのだ。
人相もよく合っていた上に、その人は注文する時、小山田という名前をあからさまに告げて、出来上がると(それは昨年の暮れも押しつまったころであった)、彼自身足を運んで受取りにきたということであった。そのとき、小山田氏は禿げ頭を隠すのだといっていた由であるが、それにしては、彼の妻であった静子でさえも、小山田氏が生前かつらをかぶっていたのを見なかったのは、いったいどうしたわけであろう。私はいくら考えても、この不可思議な謎を解くことができなかった。
一方静子(今は未亡人であったが)と私との間柄は、六郎氏変死事件を境にして、俄かに親密の度を加えて行った。行き掛り上、私は静子の相談相手であり、保護者の立場にあった。小山田氏がわの親戚の人たちも、私の屋根裏調査以来の心尽しを知ると、無下に私を排斥することはできなかったし、糸崎検事などは、そういうことなればちょうど幸いだから、ちょいちょい小山田家を見舞って、未亡人の身辺に気をつけて上げてくださいと、口添えをしたほどだから、私は公然と彼女の家に出入することができたのである。
静子は初対面のときから、私の小説の愛読者として、私に少なからぬ好意を持っていたことは、先にしるした通りであるが、その上に、二人のあいだにこういう複雑な関係が生じてきたのだから、彼女が私を二なきものに頼ってきたのは、まことに当然のことであった。
そうして、しょっちゅう会っていると、殊に彼女が未亡人という境遇になってみると、今までは何かしら遠いところにあるもののように思われていた、彼女のあの青白い情熱や、なよなよと消えてしまいそうな、それでいて不思議な弾力を持つ肉体の魅力が、俄かに現実的な色彩を帯びて、私に迫ってくるのであった。殊にも、私が偶然彼女の寝室から、外国製らしい小型の鞭を見つけ出してからというものは、私の悩ましい慾望は、油を注がれたように、恐ろしい勢いで燃え上がったのである。
私は心なくも、その鞭を指さして、
「ご主人は乗馬をなすったのですか」
と尋ねたのだが、それを見ると、彼女はハッとしたように、一瞬間まっ青になったかと思うと、見る見る火のように顔を赤らめたのである。そして、いともかすかに、
「いいえ」
と答えたのである。
私は迂闊にも、そのときになってはじめて、彼女の|項《うなじ》のミミズ脹れの、あの不思議な謎を解くことができた。思い出してみると、彼女のあの傷痕は、見るたびごとに少しずつ位置と形状が変っていたようである。当時変だなとは思ったのだけれど、まさか彼女のあの温厚らしい禿げ頭の夫が、世にもいまわしい惨虐色情者であったとは気づかなかったのである。
いやそればかりではない。六郎氏の死後一カ月の今日では、いくら探しても、彼女の項には、あの醜いミミズ脹れが見えぬではないか。それこれ思い合わせれば、たとえ彼女の明らさまな告白を聞かずとも、私の想像の間違いでないことはわかりきっているのだ。
だが、それにしても、この事実を知ってからの、私の心の耐えがたき悩ましさは、どうしたことであったか。もしや私も、非常に恥かしいことだけれど、故小山田氏と同じ変質者の一人ではなかったのであろうか。
八
四月二十日、故人の命日に当たるので、静子は仏参をしたのち、夕刻から親戚や故人と親しかった人々を招いて、仏の供養をいとなんだ。私もその席に連なったのであるが、その晩わき起こった二つの新らしい事実(それはまるで性質の違う事柄であったにもかかわらず、後に説き明かす通り、それらには、不思議にも運命的な、或るつながりがあったのだが)、おそらく一生涯忘れることのできない、大きな感動を私に与えたのである。
そのとき、私は静子と並んで、薄暗い廊下を歩いていた。客がみな帰ってしまってからも、私はしばらく静子と私だけの話題(春泥捜索のこと)について話し合ったのち、十一時ごろであったか、あまり長居をしては、召使いの手前もあるので、別れを告げて、静子が呼んでくれた自動車にのって帰宅したのであるが、そのとき、静子は私を玄関まで見送るために、私と肩を並べて廊下を歩いていた。廊下には庭に面して、幾つかのガラス窓がひらいていたが、私たちがその一つの前を通りかかったとき、静子は突然恐ろしい叫び声を立てて私にしがみついてきたのである。
「どうしました。何を見たんです」
私は驚いて尋ねると、静子は片手では、まだしっかりと私に抱きつきながら、一方の手でガラス窓のそとを指さすのだ。
私も一時は春泥のことを思い出して、ハッとしたが、だが、それはなんでもなかったことが、間もなくわかった。見ると、窓のそとの庭の樹立のあいだを、一匹の白犬が、木の葉をカサカサいわせながら、暗闇の中へ消えて行くではないか。
「犬ですよ。犬ですよ。怖がることはありませんよ」
私は、なんの気であったか、静子の肩をたたきながら、いたわるように言ったものだが、そうして、なんでもなかったことがわかってしまっても、静子の片手が私の背中を抱いていて、生温かい感触が、私の身内まで伝わっているのを感じると、ああ、私はとうとう、やにわに彼女を抱き寄せ、八重歯のふくれ上がった、あのモナ・リザの唇を盗んでしまったのである。
そして、それは私にとって幸福であったか不幸であったか、彼女の方でも、決して私をしりぞけなかったばかりか、私を抱いた彼女の手先に、私は遠慮勝ちな力をさえ覚えたのであった。
それが亡き人の命日であっただけに、私たちは罪を感じることがひとしお深かった。二人はそれから私が自動車に乗ってしまうまで、一ことも口をきかず、眼さえもそらすようにしていたのを覚えている。
私は自動車が動き出しても、今別れた静子のことで頭が一杯になっていた。熱くなった私の唇には、まだ彼女の唇が感じられ、鼓動する私の胸には、まだ彼女の体温が残っているように思われた。
私の心には、飛び立つばかりの嬉しさと、深い自責の念とが、複雑な織模様みたいに交錯していた。車がどこをどう走っているのだか、表の景色などは、まるで眼にはいらなかった。
だが、不思議なことは、そんな際にもかかわらず、さきほどから、ある一つの小さな物体が、異様に私の眼の底に焼きついていた。私は車にゆられながら、静子のことばかり考えて、ごく近くの前方をじっと見つめていたのだが、ちょうどその視線の中心に、私の注意を惹かないではおかぬような、或る物体がチロチロと動いていた。はじめは無関心にただ眺めていたのだけれど、だんだんその方へ神経が働いて行った。
「なぜかな。なぜおれは、これをこんなに眺めているのかな」
ボンヤリとそんなことを考えているうちに、やがて事の次第がわかってきた。私は偶然にしては余りに偶然な、二つの品物の一致をいぶかしがっていたのだった。
私の前には、古びた紺の春外套を着込んだ、大男の運転手が、猫背になって前方を見つめながら運転していた。そのよく太った肩の向こうに、ハンドルに掛けた両手が、チロチロと動いているのだが、武骨な手先に似合わしからぬ上等の手袋がかぶさっている。
しかもそれが時候はずれの冬物なので、ひとしお私の眼を惹いたのでもあろうが、それよりも、その手袋のホックの飾りボタン………私はやっと此のときになって悟ることができた。かつて私が小山田家の天井裏で拾った金属の丸いものは、手袋の飾りボタンにほかならぬのであった。
私はあの金属のことを糸崎検事にもちょっと話はしたのだったが、ちょうどそこに持ち合わせていなかったし、それに、犯人は大江春泥と明らかに目星がついていたので、検事も私も遺留品なんか問題にせず、あの品は今でも私の冬服のチョッキのポケットにはいっているはずなのだ。
あれが手袋の飾りボタンであろうとは、まるで思いも及ばなかった。考えてみると犯人が指紋を残さぬために、手袋をはめていて、その飾りボタンが落ちたのを気づかないでいたということは、いかにもありそうなことではないか。
だが、運転手の手袋の飾りボタンには、私が屋根裏で拾った品物を教えてくれた以上に、もっともっと驚くべき意味が含まれていた。形といい、大きさといい、それらはあまりに似過ぎていたばかりでなく、運転手の右手にはめた手袋の飾りボタンがとれてしまって、ホックの座金だけしか残っていないのは、これはどうしたことだ。私の屋根裏で拾った金物が、もしその座金にピッタリ一致するとしたら、それは何を意味するのだ。
「君、君」
私はいきなり運転手に呼びかけた。
「君の手袋をちょっと見せてくれないか」
運転手は私の奇妙な言葉に、あっけにとられたようであったが、でも、車を徐行させながら、素直に両手の手袋をとって、私に手渡してくれた。
見ると、一方の完全なほうの飾りボタンの表面には、例のR・K・BROS・COという刻印まで、寸分違わず現われているのだ。私はいよいよ驚きを増し、一種の変てこな恐怖をさえ覚えはじめた。
運転手は私に手袋を渡しておいて、見向きもせず車を進めている。そのよく太ったうしろ姿を眺めると、私はふと或る妄想におそわれたのである。
「大江春泥……」
私は運転手に聞こえるほどの声で、独り言のようにいった。そして運転手台の上の小さな鏡に映っている、彼の顔をじっと見つめたものであった。だが、それが私のばかばかしい妄想であったことはいうまでもない。鏡に映る運転手の表情は少しも変らなかったし、第一、大江春泥が、そんなルパンみたいなまねをする男ではないのだ。だが、車が私の宿についたとき、私は運転手に余分の賃銭を握らせて、こんな質問をはじめた。
「君、この手袋のボタンのとれた時を覚えているかね」
「それははじめからとれていたんです」
運転手は妙な顔をして答えた。
「貰いものなんでね、ボタンがとれて使えなくなったので、まだ新らしかったけれど、亡くなった小山田の旦那が私にくださったのです」
「小山田さんが?」
私はギクンと驚いて、あわただしく聞き返した。
「いま僕の出てきた小山田さんかね」
「ええ、そうです。あの旦那が生きている時分には、会社への送り迎いは、たいてい私がやっていたんで、ごひいきになったもんですよ」
「それ、いつからはめているの?」
「貰ったのは寒い時分だったけれど、上等の手袋でもったいないので、大事にしていたんですが、古いのが破けてしまって、きょうはじめて運転用におろしたのです。これをはめていないとハンドルが辷るもんですからね。でも、どうしてそんなことをお聞きなさるんです」
「いや、ちょっとわけがあるんだ。君、それを僕に譲ってくれないだろうか」
というようなわけで、結局私はその手袋を、相当の代価で譲り受けたのであるが、部屋にはいって、例の天井裏で拾った金物を出して比べてみると、やっぱり寸分も違わなかったし、その金物は手袋のホックの座金にもピッタリとはまったのである。
これは先にもいった通り、偶然にしては余りに偶然過ぎる二つの品物の一致ではなかったか。大江春泥と小山田六郎氏とが、飾りボタンのマークまで同じ手袋をはめていたということは、しかも、そのとれた金物とホックの座金とがシックリ合うなどということが、考えられるであろうか。
これは後にわかったことであるが、私はその手袋を持って行って、市内でも一流の銀座の泉屋洋物店で鑑定してもらった結果、それは内地では余り見かけない作り方で、おそらくは英国製であろう。R・K・BROS・COなんていう兄弟商会は内地には一軒もないことがわかった。この洋物店の主人の言葉と、六郎氏が一昨年九月まで海外にいた事実とを考え合わせてみると、六郎氏こそその手袋の持ち主で、したがって、あのはずれた飾りボタンも、小山田氏が落としたことになりはしないか。大江春泥が、そんな内地では手に入れることのできない、しかも偶然小山田氏と同じ手袋を所有していたとは、まさか考えられないのだから。
「すると、どういうことになるのだ」
私は頭をかかえて、机の上によりかかり、「つまり、つまり」と妙な独りごとを言いつづけながら、頭の芯の方へ私の注意力をもみ込んで行って、そこからなんらかの解釈を見
つけ出そうとあせるのであった。
やがて、私はふっと変なことを思いついた。それは、山の宿というのは、隅田川に沿った細長い町で、そこの隅田川寄りにある小山田家は、当然大川の流れに接していなければならないということであった。考えるまでもなく、私はたびたび小山田家の洋館の窓から、大川を眺めていたのだが、なぜか、その時、はじめて発見したかのように、それが新らしい意味を持って、私を刺戟するのであった。
私の頭のモヤモヤの中に、大きなUの字が現われた。
Uの字の左端上部には山の宿がある。右端の上部には小梅町(六郎氏の碁友だちの家の所在地)がある。そして、Uの底に当たる所はちょうど吾妻橋に該当するのだ。あの晩、六郎氏はUの右端上部を出て、Uの底の左側までやってきて、そこで春泥のために殺害されたと、われわれは今の今まで信じていた。だが、われわれは河の流れというものを閑却してはいなかったであろうか。大川はUの上部から下部に向かって流れているのだ。投げ込まれた死骸が殺された現場にあるというよりは、上流から流れてきて、吾妻橋下の汽船発着所につき当たり、そこの澱みに停滞していたと考えるほうが、より自然な見方ではないだろうか。
死体は流れてきた。死体は流れてきた。では、どこから流れてきたか。兇行はどこで演ぜられたか………そうして、私は深く深く妄想の泥沼へと沈み込んで行くのであった。
九
私は幾晩も幾晩も、そのことばかりを考えつづけた。静子の魅力もこの奇怪なる疑いには及ばなかったのか、私は不思議にも静子のことを忘れてしまったかのように、ひたすら奇妙な妄想の深みへおち込んで行った。
私はそのあいだにも、或ることを確かめるために、二度ばかり静子を訪ねは訪ねたのだけれど、用事をすませると、至極あっさりと別れをつげて大急ぎで帰ってしまうので、彼女はきっと妙に思っていたにちがいない。私を玄関に見送る彼女の顔が、淋しく悲しげにさえ見えたほどだ。
そして、五日ばかりのあいだに、私は実に途方もない妄想を組み立ててしまったのである。私はそれをここに叙述する煩を避けて、そのとき糸崎検事に送るために書いた私の意見書が残っているから、それにいくらか書き入れをして、左に写しておくことにするが、この推理は、私たち探偵小説家の空想力をもってでなければ、おそらく組み立て得ない種類のものであった。そして、そこに一つの深い意味が存在していたことが、のちになってわかってきたのだが。
(前略)小山田邸の静子の居間の天井裏で拾った金具が、小山田氏の手袋のホックから脱落したものと考えるほかはないことを知りますと、今まで私の心の隅のわだかまりとなっていたいろいろの事実が、続々思い出されてくるのでありました。小山田氏の死骸がかつらをかぶっていたこと、そのかつらは同氏自身注文して拵らえさせたものであったこと(死体がはだかであったことは、後に述べますような理由で、私にはさして問題ではありませんでした)、小山田氏の変死と同時に、まるで申し合わせたように、平田の脅迫状がパッタリこなくなったこと、小山田氏が見かけによらぬ(こうしたことは多くの場合見かけによらぬものです)恐ろしい惨虐色情者(サディスト)であったことなど、これらの事実は、偶然さまざまの異常が集合したかに見えますけれど、よくよく考えますと、ことごとく或る一つの事柄を指し示していることがわかるのであります。
私はそこへ気がつきますと、私の推理を一そう確実にするため、できるだけの材料を集めることに着手しました。私は先ず小山田家を訪ね、夫人の許しを得て、小山田氏の書斎を調べさせてもらいました。書斎ほど、その主人公の性格なり秘密なりを如実に語ってくれるものはないのですから。私は夫人が怪しまれるのも構わず、ほとんど半日がかりで、書棚という書棚、引出しという引出しを調べまわったことですが、間もなく、私は、数ある本棚の中に、たった一つだけ、さも厳重に鍵のかかっている箇所のあるのを発見しました。鍵を尋ねますと、それは小山田氏が生前、時計の鎖につけて終始持ち歩いていたこと、変死の日にも兵児帯に巻きつけて家を出たままだということがわかりました。仕方がないので、私は夫人を説いて、やっとその本棚の戸を破壊する許しを得ました。
あけて見ますと、その中には、小山田氏の数年間の日記帳、幾つかの袋にはいった書類、手紙の束、書籍などが一杯はいっていましたが、私はそれをいちいち丹念に調べた結果、この事件に関係ある三冊の書冊を発見したのであります。第一は静子夫人との結婚の年の日記帳で、婚礼の三日前の日記の欄外に、赤インキで、次のような注意すべき文句が記入してあったのです。
「(前略)余は平田一郎なる青年と静子との関係を知れり。されど、静子は中途その青年を嫌いはじめ、彼がいかなる手段を講ずるもその意に応ぜず、遂には、父の破産を好機として彼の前より姿を隠せる由なり。それにてよし。余は既往の詮議立てはせぬつもりなり」
つまり六郎氏は結婚の当初から、なんらかの事情により、夫人の秘密を知悉していたのです。そして、それを夫人には一こともいわなかったのです。
第二は大江春泥著短篇集「屋根裏の遊戯」であります。このような書物を、実業家小山田六郎氏の書斎に発見するとは、なんという驚きでありましょう。静子夫人から、六郎氏が生前なかなかの小説好きであったということを聞くまでは、私は自分の眼を疑ったほどでした。さて、この短篇集の巻頭にはコロタイプ版の春泥の肖像が掲げられ、奥付には著者平田一郎と彼の本名が印刷されてあったことを注意すべきであります。
第三は博文館発行の雑誌「新青年」第六巻第十二号です。これには春泥の作品は掲載されていませんでしたけれど、その代り、口絵に彼の原稿の写真版が原寸のまま、原稿紙半枚分ほど、大きく出ていて、余白に「大江春泥氏の筆蹟」と説明がついていました。妙なことは、その写真版を光線に当てて見ますと、厚いアートペーパーの上に、縦横に爪の跡のようなものがついているのです。これは誰かが写真の上に薄い紙を当てて、鉛筆で春泥の筆蹟を、幾度もなすったものとしか考えられません。私の想像が次々と的中して行くのが怖いようでした。
その同じ日、私は夫人に頼んで、六郎氏が外国から持ち帰った手袋を探してもらいました。それは探すのに可なり手間取ったのですけれど、ついに私が運転手から買い取ったものと、寸分違わぬ品が一と揃いだけ出てきました。夫人は、それを私に渡した時、確かに同じ手袋がもう一と揃いあったはずなのにと、不審顔でした。これらの証拠品、日記帳、短篇集、雑誌、手袋、天井裏で拾った金具などは、お指図によって、いつでも提出することができます。
さて、私の調べ上げた事実は、このほかにも数々あるのですが、それらを説明する前に、仮りに上述の諸点だけによって考えましても、小山田六郎氏が世にも無気味な性格の所有者であり、温厚篤実なる仮面の下に、甚だ妖怪じみた陰謀をたくましくしていたことは明らかであります。われわれは大江春泥という名前に執着し過ぎていはしなかったでしょうか。彼の血みどろな作品、彼の異様な日常生活の知識などが、われわれをして、このような犯罪は春泥でなくてはできるものでないと、てんから独りぎめにきめさせてしまったのではありますまいか。彼はどうしてかくも完全に姿をくらましてしまうことができたのでしょう。彼が犯人であったとしては、少し妙ではありませんか。彼が無実であればこそ、単に彼の持ち前の厭人癖から(彼が有名になればなるほど、その名に対しても、この種の厭人病は極度に昂進するものであります)行方をくらましたのであればこそ、このように探しにくいのではないでしょうか。彼はいつかあなたがいわれたように海外に逃げ出したのかもしれません。そして、例えば上海のシナ人町の片隅に、シナ人になりすまして、水煙草でも吸っているのかもしれません。そうでなくて、もし春泥が犯人であったとすれば、あのようにも綿密に、執拗に、長年月をついやして企らまれた復讐計画が、彼にしては道草のようなものであった小山田氏殺害のみをもって、肝腎の目的を忘れたように、パッタリと中断されたことを、なんと説明したらいいのでしょう。彼の小説を読み、彼の日常生活を知っているものには、これは余りに不自然な、ありそうもないことに思われるのです。いや、それよりも、もっと明白な事実があります。彼はどうして、小山田氏所有の手袋のボタンを、あの天井裏へ落としてくることができたのでしょう。手袋が内地では手に入らぬ外国製のものであること、小山田氏が運転手に与えた手袋の飾りボタンがとれていたことなど思い合わせれば、かの屋根裏に潜んでいた者は、その小山田氏ではなくて、大江春泥であったなどと、そんな不合理なことが考えられるでしょうか。(ではそれが小山田氏であったとしたら、彼はなぜその大切な証拠品を、迂闊にも運転手などに与えたか、との御反問があるかもしれません。しかし、それは後に述べますように、彼は別段法律上の罪悪を犯してなどいなかったからです。変態好みの一種の遊戯をやっていたにすぎなかったからです。ですから、手袋のボタンがとれたところで、たとえそれが天井裏に残されていたところで、彼にとってはなんでもなかったのです。犯罪者のように、このボタンのとれたのは、もしや天井裏を歩いていた時ではなかったかしら、それが証拠になりはしないかしら、などと心配する必要は少しもなかったからです)
春泥の犯罪を否定すべき材料は、まだそればかりではありません。右に述べた日記帳、春泥の短篇集、「新青年」などの証拠品が、小山田氏の書斎の錠前つきの本棚にあったこと、その錠前の鍵は一つしかなく、同氏が常に身辺をはなさなかったことは、それらの品が同氏の陰険な悪戯を証拠立てているばかりでなく、一歩譲って、春泥が小山田氏に疑いをかけるために、その品々を偽造し、同氏の本棚へ入れておいたと考えることさえ、全然不可能なのです。第一、日記帳の偽造なぞできるものではありませんし、その本棚は小山田氏でなければあけることも閉めることもできなかったのではありませんか。
かく考えてきますと、われわれが今まで犯人と信じきっていた大江春泥こと平田一郎は、意外にも最初からこの事件に存在しなかったと判断するほかはありません。われわれをしてそのように信じさせたものは、小山田六郎氏の驚嘆すべき欺瞞であったとしか考えられないのであります。金満紳士小山田氏が、かくの如き綿密陰険なる稚気の所有者であったことは、彼が表に温厚篤実をよそおいながら、その寝室においては、世にも恐るべき悪魔と形相を変じ、可憐なる静子夫人を外国製乗馬鞭をもって、打擲しつづけていたことと共に、われわれのまことに意外とするところではありますけれど、温厚なる君子と陰険なる悪魔とが、一人物の心中に同居したためしは、世にその例が乏しくないのであります。人は、彼が温厚でありお人好しであればあるほど、かえって悪魔に弟子入りしやすいともいえるのではありますまいか。
さて、私はこう考えるのであります。小山田六郎氏は今より約四年以前、社用を帯びて欧州に旅行をし、ロンドンを主として、其のほか二、三の都市に二年間滞在していたのですが、彼の悪癖は、おそらくそれらの都市のいずれかにおいて芽生え、発育したものでありましょう(私は碌々商会の社員から、彼のロンドンでの情事の噂を洩れ聞いております)。そして、一昨年九月、帰朝と共に、彼の治しがたい悪癖は、彼の溺愛する静子夫人を対象として、猛威をたくましくしはじめたものでありましょう。私は昨年十月、静子夫人と初対面のおり、すでに彼女の|項《うなじ》に無気味な傷痕を認めたほどですから。
この種の悪癖は、例えばかのモルヒネ中毒のように、一度なじんだら一生涯止められないばかりでなく、日と共に、月と共に、恐ろしい勢いでその病勢が昂進して行くものです。より強烈な、より新らしい刺戟をと、追い求めるものであります。きょうはきのうのやり方では満足できず、あすはまたきょうの仕草では物足りなく思われてくるのです。小山田氏も同様、静子夫人を打擲するばかりでは満足ができなくなってきたことは、容易に想像できるではありませんか。そこで彼は物狂わしく新らしい刺戟を探し求めなければならなかったでありましょう。ちょうどそのとき、彼は何かのきっかけで、大江春泥作「屋根裏の遊戯」という小説のあることを知り、その奇怪なる内容を聞いて、一読してみる気になったのかもしれません。ともかく、彼はそこに、不思議な知己を発見したのです。異様な同病者を見つけ出したのです。彼がいかに春泥の短篇集を愛読したか、その本の手摺れのあとでも想像することができるではありませんか。春泥はあの小説の中で、たった一人でいる人を(殊に女を)少しも気づかれぬように隙見することの、世にも不思議な楽しさを、繰り返し説いていますが、小山田氏がこの彼にとってはおそらく新発見であったところの、あたらしい趣味に共鳴したことは想像にかたくありません。彼は遂に春泥の小説の主人公をまねて、自から屋根裏の遊戯者となり、自宅の天井裏に忍んで、静子夫人の|独居《ひとりい》を隙見しようと企てたのであります。
小山田家は門から玄関まで相当の距離がありますので、外出から帰ったおりなど、召使いたちに知れぬよう、玄関脇の物置きに忍び込み、そこから天井伝いに、静子の居間の上に達するのは、まことに造作もないことです。私は、六郎氏が夕刻から、よく小梅の友だちの所へ碁を囲みに出かけたのは、この屋根裏の遊戯の時間をごまかす手段ではなかったかと邪推するのであります。
一方、そのように「屋根裏の遊戯」を愛読していた小山田氏が、その奥付で作者の本名を発見し、それがかつて静子にそむかれた彼女の恋人であり、彼女に深い恨みを抱いているにちがいない平田一郎と、同一人物ではないかと疑いはじめたのは、さもありそうなことではありませんか。そこで、彼は大江春泥に関するあらゆる記事、ゴシップをあさり、ついに春泥がかつての静子の恋人と同一人物であったこと、また彼の日常生活が甚だしく厭人的であり、当時すでに筆を絶って行方をさえくらましていたことを知るに至ったのでありましょう。つまり小山田氏は、一冊の「屋根裏の遊戯」によって、一方では彼の病癖のこよなき知己を、一方では彼にとっては憎むべき昔の恋の仇敵を、同時に発見したのです。そして、その知識に基づいて、実に驚くべき悪戯を思いついたのであります。
静子の|独居《ひとりい》の隙見は、なるほど甚だ彼の好奇心をそそったにはちがいないのですが、惨虐色情者の彼がそれだけで、そんな生ぬるい興味だけで満足しようはずはありません。鞭の打擲に代るべき、もっと新らしい、もっと残酷な何かの方法がないものかと、彼は病人の異常に鋭い空想力を働かせたことでしょう。そして、結局、平田一郎の脅迫状という、まことに前例のないお芝居を思いつくに至ったのであります。それには、彼はすでに「新青年」第六巻十二号巻頭の写真版のお手本を手に入れておりました。お芝居をいやが上にも興深く、まことしやかにするために、彼は、その写真版によって、丹念に春泥の筆蹟の手習いをはじめました。あの写真版の鉛筆の痕がそれを物語っております。
小山田氏は平田の脅迫状を作製すると、適当な日数をおいて、一度一度ちがった郵便局から、その封書を送りました。商用で車を走らせている途中、もよりのポストへそれを投げ込ませるのはわけのないことでした。脅迫状の内容については、彼は新聞雑誌の記事によって春泥の経歴の大体に通じていましたし、静子の細かい動作も、天井からの隙見と、それで足らぬところは、彼自身静子の夫であったのですから、あのくらいのことはわけもなく書けたのです。つまり彼は、静子と枕を並べて、寝物語りをしながら、その時の静子の言葉や仕草を記憶しておいて、それをさも春泥が隙見したかの如く書きしるしたわけなのです。なんという悪魔でありましょう。かくして彼は、人の名を騙って脅迫状をしたため、それを自分の妻に送るという犯罪めいた興味と、妻がそれを読んで震えおののくさまを、天井裏から胸をとどろかせながら隙見するという悪魔の喜びとを、経験することができたのです。しかも、彼はそのあいだあいだには、やはりかの鞭の打擲をつづけていたと信ずべき理由があります。なぜといって、静子の|項《うなじ》の傷は、同氏の死後になって、はじめてその痕が見えなくなったのですから。彼はこのように妻の静子を責めさいなんではいましたけれども、それは決して彼女を憎むがゆえではなく、むしろ静子を溺愛すればこそ、この惨虐を行なったのであります。この種の変態性慾者の心理は、むろん、あなたも充分ご承知のことと思います。
さて、かの脅迫状の作製者が小山田六郎氏であったという、私の推理は以上で尽きましたが、では、単に変態性慾者の悪戯にすぎなかったものが、どうしてあのような殺人事件となって現われたか。しかも殺されたものは小山田氏自身であったばかりでなく、彼はなにゆえにあの奇妙なかつらをかぶり、まっぱだかになって、吾妻橋下に漂っていたのであるか。彼の背中の突き傷は何者の仕業であったのか。大江春泥がこの事件に存在しなかったとすれば、では、ほかに別の犯罪者がいたのであるか、などの疑問が続出してくるでありましょう。それについて、私はさらに、私の観察と推理とを申し述べなければなりません。
簡単に申せば、小山田六郎氏は、彼のあまりにも悪魔的な所業が、神の怒りに触れたのでもありましょうか、天罰を蒙ったのであります。そこにはなんらの犯罪も、下手人もなく、ただ小山田氏の過失死があったばかりであります。では、背中の致命傷はとのお尋ねがありましょうけれど、その説明はあとに廻して、先ず順序を追って、私がそのような考えを抱くに至った筋道からお話ししなければなりません。
私の推理の出発点は、ほかならぬ彼のかつらでありました。あなたは多分、三月十七日、私が天井裏の探険をした翌日から、静子は隙見をされぬよう、洋館の二階へ寝室を移したことをご記憶でありましょう。それには静子がどれほど巧みに夫を説いたか、小山田氏がどうしてその意見に従う気になったかは明瞭でありませんが、ともかく、その日から同氏は天井の隙見ができなくなってしまったのです。しかし、想像をたくましくするならば、彼はそのころは、もう天井の隙見にも、やや飽きがきていたのかもしれません。そして、寝室が洋館にかわったのを幸いに、また別の悪戯を考案しなかったとはいえません。なぜといって、ここにかつらがあります。彼自身注文したところのふさふさとしたかつらがあります。彼がそのかつらを注文したのは昨年末ですから、むろん最初からそのつもりではなく、別に用途があったのでしょうが、それが今、計らずも間に合ったのです。
彼は「屋根裏の遊戯」の口絵で、春泥の写真を見ております。その写真は春泥の若い時分のものだといわれているほどですから、むろん小山田氏のように禿げ頭ではなく、ふさふさとした黒髪があります。ですから、もし小山田氏が手紙や屋根裏の蔭に隠れて静子を怖がらせることから一歩を進め、彼自身大江春泥に化け、静子がそこにいるのを見すまして、洋館の窓のそとからチラッと顔を見せて、あの不思議な快感を味わおうと企らんだならば、彼は何よりも先ず、彼の第一の目印である禿げ頭を隠す必要に迫られたにちがいありませんが、ちょうどそれには持ってこいのかつらがあったのです。かつらさえかぶれば、顔などは、暗いガラスのそとではあり、チラッと見せるだけでよいのですから(そして、その方が一そう効果的なのです)、恐怖におののいている静子に見破られる心配はありません。
その夜(三月十九日)小山田氏は小梅の碁友だちの所から帰り、まだ門があいていたので、召使いたちに知れぬよう、ソッと庭を廻って洋館の階下の書斎に入り(これは静子から聞いたのですが、彼はそこの鍵を例の本棚の鍵と一緒に鎖に下げて持っていたのです)そのときはもう階上の寝室にはいっていた静子に悟られぬよう、闇の中で例のかつらをかぶり、そとに出て、立木を伝って洋館の軒蛇腹にのぼり、寝室の窓のそとへ廻って行って、そこのブラインドの隙間から、ソッと中を覗いたのであります。のちに静子が窓のそとに人の顔が見えたと私に語ったのは、この時のことだったのです。
さて、それでは、小山田氏はどうして死ぬようなことになったのか、それを語る前に、私は一応、私が同氏を疑い出してから二度目に小山田家を訪ね、洋館の問題の窓から、そとを覗いてみた時の観察を申し述べねばなりません。これはあなた自身行ってごらんなさればわかることですから、くだくだしい描写は省くことにいたしますが、その窓は隅田川に面していて、そとはほとんど軒下ほどの空地もなく、すぐ例の表側と同じコンクリート塀に囲まれ、塀は直ちにかなり高い石崖につづいています。地面を倹約するために、塀は石崖のはずれに立ててあるのです。水面から塀の上部までは約二間、塀の上部から二階の窓までは一間ほどあります。そこで小山田氏が軒蛇腹(それは幅が非常に狭いのです)から足を踏みはずして転落したとしますと、よほど運がよくて、塀の内側へ(そこは人一人やっと通れるくらいの細い空地です)落ちることも不可能ではありませんが、そうでなければ、一度塀の上部にぶっつかって、そのままそとの大川へ墜落するほかはないのです。そして、六郎氏の場合はむろん後者だったのであります。
私は最初、隅田川の流れというものに思い当たったときから、死体が投げこまれた現場にとどまっていたと考えるよりは、上流から漂ってきたと解釈するほうが、より自然だとは気づいていました。そして、小山田家の洋館のそとは、すぐ隅田川であり、そこは吾妻橋よりも上流に当たることをも知っていました。それゆえ、もしかしたら、小山田氏はその窓から落ちたのではないかと、考えたことは考えたのですが、彼の死因が水死ではなくて、背中の突き傷だったものですから、私は長いあいだ迷わなければなりませんでした。
ところが、ある日、私はふと、かつて読んだ南波杢三郎氏著「最新犯罪捜査法」の中にあった、この事件と似よりの一つの実例を思い出したのです。同書は私が探偵小説を考える際、よく参考にしますので、中の記事も覚えていたわけですが、その実例というのは次の通りであります。
「大正六年五月中旬頃、滋賀県大津市太湖汽船株式会社防波堤付近ニ男ノ水死体漂着セルコトアリ死体頭部ニハ鋭器ヲ以テシタルガ如キ切創アリ。検案ノ医師ガ右ハ生前ノ切傷ニシテ死因ヲ為シ、尚腹部ニ多少ノ水ヲ蔵セルハ、殺害ト同時ニ水中ニ投棄セラレタルモノナル旨ヲ断定セルニ依リ、茲ニ大事件トシテ俄ニ捜査官ノ活動ハ始マレリ。被害者ノ身元ヲ知ランガ為メニアラユル方法ハ尽サレ遂ニ端緒ヲ得ザリシ所、数日ヲ経テ、京都市上京区浄福寺通金箔業斎藤方ヨリ同人方雇人小林茂三(二三)ノ家出保護願ノ郵書ヲ受理シタル大津警察署ニ於テハ、偶々其人相着衣ト本件被害者ノ|夫《ソレ》ト符合スル点アルヲ以テ、直ニ斎藤某ニ通知シ死体ヲ一見セシメタルニ全ク其雇人ナルコト判明シタルノミナラズ、他殺ニ非ズシテ実ハ自殺ナル事ヲモ確定セラレヌ。何トナレバ水死者ハ主家ノ金円ヲ多ク消費シ遺書ヲ残シテ家出セルモノナリシヲ知レバ也、同人ガ頭部ニ切傷ヲ蒙リ居タルハ、航行中ノ汽船ノ船尾ヨリ湖上ニ投身セル際、廻転セルすくりうニ触レ、切創様ノ損傷ヲ受ケタル事明白トナレリ」
もし私がこの実例を思い出さなかったら、私はあのようなとっぴな考えを起こさなかったかもしれません。しかし、多くの場合、事実は小説家の空想以上なのです。そして、はなはだありそうもない頓狂なことが、実際にはやすやすと行われているのです。といっても、私は小山田氏がスクリューに傷つけられたと考えるものではありません。この場合は右の実例とは少々違って、死体はまったく水を呑んでいなかったのですし、それに夜中の一時ごろ、隅田川を汽船が通ることはめったにないのですから。
では、小山田氏の背中の肺部に達するほどもひどい突き傷は何によって生じたか、あんなにも刃物と似た傷をつけうるものは一体なんであったか。それはほかでもない、小山田家のコンクリート塀の上部に植えつけてあった、ビール壜の破片なのです。それは表門の方も同様に植えつけてありますから、あなたも多分ごらんなすったことがありましょう。あの盗賊よけのガラス片は、ところどころに飛んでもない大きなやつがありますから、場合によっては、充分肺部に達するほどの突き傷をこしらえることができます。小山田氏は軒蛇腹から転落した勢いで、それにぶっつかったのです。ひどい傷を受けたのも無理はありません。なおこの解釈によれば、あの致命傷の周囲のたくさんの浅い突き傷の説明もつくわけであります。
かようにして、小山田氏は自業自得、彼のあくどい病癖のために、軒蛇腹から足を踏みはずし、塀にぶっつかって致命傷を受け、その上隅田川に墜落し、流れと共に吾妻橋汽船発着所の便所の下へ漂いつき、とんだ死に恥をさらしたわけであります。以上で本件に関する私の新解釈を大体陳述しました。一、二申し残したことをつけ加えますと、六郎氏の死体がどうして裸体にされていたかという疑問については、吾妻橋界隈は浮浪者、乞食、前科者の巣窟であって、溺死体が高価な衣類を着用していたなら(六郎氏はあの夜、大島の袷に塩瀬の羽織を重ね、白金の懐中時計を所持しておりました)、深夜人なきを見て、それをはぎ取るくらいの無謀者は、ごろごろしていると申せば充分でありましょう(註、この私の想像は、後に事実となって現われ、一人の浮浪人があげられたのだ)。それから、静子が寝室にいて、なぜ六郎氏の墜落した物音を気づかなかったかという点は、その時彼女が極度の恐怖に気も顛動していたこと、コンクリート作りの洋館のガラス窓が密閉されていたこと、窓から水面までの距離が非常に遠いこと、また、たとえ水音が聞こえたとしても、隅田川はときどき徹夜の泥舟などが通るので、その|櫓《ろ》|櫂《かい》の音と混同されたかもしれないこと、などをご一考願いたいと存じます。なお注意すべきは、この事件が毫も犯罪的の意味を含まず、不幸変死事件を誘発したとはいえ、まったく悪戯の範囲を出でなかったという点であります。もしそうでなかったならば、小山田氏が証拠品の手袋を運転手に与えたり、本名を告げてかつらを注文したり、錠前つきとは申せ、自宅の本棚に大切な証拠物を入れておいたりした、ばかばかしい不注意を、説明のしようがないからであります。(後略)
以上、私は余りに長々と私の意見書を写し取ったが、これをここに挿入したのは、あらかじめ右の私の推理を明らかにしておかなければ、これからあとの私の記事が甚だ難解なものになるからである。
私はこの意見書で、大江春泥は最初から存在しなかったといった。だが、事実は果たしてそうであったかどうか。もしそうだとすれば、私がこの記録の前段において、あんなにも詳しく彼の人となりを説明したことが、まったく無意味になってしまうのだが。
十
糸崎検事に提出するために、右の意見書を書き上げたのは、それにある日付によると、四月二十八日であったが、私はまずこの意見書を静子に見せて、もはや大江春泥の幻影におびえる必要のないことを知らせ、安心させてやろうと、書き上げた翌日、小山田家を訪ねたのである。私は小山田氏を疑ってからも、二度も静子を訪ねて家宅捜索みたいなことをやっていながら、実はまだ彼女には何も知らせてはいなかったのだ。
当時、静子の身辺には、小山田氏の遺産処分につき、毎日のように親族の者が寄り集まって、いろいろの面倒な問題が起こっているらしかったが、ほとんど孤立状態の静子は、よけい私をたよりにして、私が訪問すれば、大騒ぎをして歓迎してくれるのだった。私は例によって、静子の居間に通されると、甚だ唐突に、
「静子さん。もう心配はなくなりましたよ。大江春泥なんて、はじめからいなかったのです」
と言い出して、静子を驚かせた。むろん彼女にはなんのことだか意味がわからぬのだ、そこで、私は私が探偵小説を書き上げたとき、いつもそれを友だちに読みきかせるのと同じ気持で、持参した意見書の草稿を、静子のために朗読したのである。というのは、一つには静子に事の仔細を知らせて安心させるため、また一つには、これに対する彼女の意見も聞き、私自身でも草稿の不備な点を見つけ、充分訂正をほどこしたいからであった。
小山田氏の惨虐色情を説明した箇所は、甚だ残酷であった。静子は顔赤らめて消えも入りたい風情を見せた。手袋の箇所では、彼女は「私は、確かにもう一と揃いあったのに、変だ変だと思っていました」と口を入れた。
六郎氏の過失死のところでは、彼女は非常に驚いて、まっ青になり、口もきけない様子であった。
だが、すっかり読んでしまうと、彼女はしばらくは「まあ」といったきり、ぼんやりしていたが、やがて、その顔にほのかな安堵の色が浮かんできた。彼女は大江春泥の脅迫状が贋物であって、もはや彼女の身には危険がなくなったと知って、ほっと安心したものにちがいない。
私の手前勝手な邪推が許されるならば、彼女はまた、小山田氏の醜悪な自業自得を聞いて、私との不義の情交について抱いていた自責の念を、いくらか軽くすることができたにちがいない。「あの人がそんなひどいことをして私を苦しめていたのだもの、私だって……」という弁解の道がついたことを、彼女はむしろ喜んだにちがいないのである。
ちょうど夕食時だったので、気のせいか彼女はいそいそとして、洋酒などを出して、私をもてなしてくれた。
私は私で、意見書を彼女が認めてくれたのが嬉しく、勧められるままに、思わず酒を過ごした。酒に弱い私は、じきまっ赤になって、すると私はいつもかえって憂鬱になってしまうのだが、あまり口もきかず、静子の顔ばかり眺めていた。
静子は可なり面やつれをしていたけれど、その青白さは彼女の生地であったし、からだ全体にしなしなした弾力があって、芯に陰火の燃えているような、あの不思議な魅力は、少しも失せていなかったばかりか、そのころはもう毛織物の時候で、古風なフランネルを着ている彼女のからだの線が、今までになくなまめかしくさえ見えたのである。私は、その毛織物をふるわせて、くねくねとうごめく彼女の四肢の曲線を眺めながら、まだ知らぬ着物に包まれた部分の肉体を、悩ましくも心のうちに描いてみるのだった。
そうしてしばらく話しているうちに、酒の酔いが私にすばらしい計画を思いつかせた。それは、どこか人目につかぬ場所に、家を一軒借りて、そこを静子と私との逢引きの場所と定め、誰にも知られぬように、二人だけの秘密の逢う瀬を楽しもうということであった。
そのとき私は、女中が立ち去ったのを見とどけて、浅ましいことを白状しなければならぬが、いきなり静子を引き寄せ、彼女と第二の接吻をかわしながら、そして、私の両手は彼女の背中のフランネルの手ざわりを楽しみながら、私はその思いつきを彼女の耳にささやいたのだ。すると彼女は私のこのぶしつけな仕草を拒まなかったばかりでなく、わずかに首をうなずかせて、私の申し出を受けいれてくれたのである。
それから二十日あまりの、彼女と私との、あのしばしばの逢引きを、ただれきった悪夢のようなその日その日を、なんと書きしるせばよいのであろう。
私は根岸御行の松のほとりに、一軒の古めかしい土蔵つきの家を借り受け、留守は近所の駄菓子屋のお婆さんに頼んでおいて、静子としめし合わせては、多くは昼日中、そこで落ち合ったのである。
私は生れてはじめて、女というものの情熱の烈しさ、すさまじさを、しみじみと味わった。あるときは、静子と私とは幼い子供に返って、古ぼけた化物屋敷のように広い家の中を、猟犬のように舌を出して、ハッハッと肩で息をしながら、もつれ合って駈けまわった。私が掴もうとすると、彼女はイルカみたいに身をくねらせて、巧みに私の手の中をすり抜けては走った。グッタリと死んだように折りかさなって倒れてしまうまで、私たちは息を限りに走りまわった。
あるときは、薄暗い土蔵の中にとじこもって、一時間も二時間も静まり返っていた。もし人あって、その土蔵の入口に耳をすましていたならば、中からさも悲しげな女のすすり泣きにまじって、二重唱のように、太い男の手離しの泣き声が、長いあいだつづいているのを聞いたであろう。
だが、ある日、静子が芍薬の大きな花束の中に隠して、例の小山田氏常用の外国製乗馬鞭を持ってきたときには、私はなんだか怖くさえなった。彼女はそれを私の手に握らせて、小山田氏のように彼女のはだかの肉体を打擲せよと迫るのだ。
長いあいだの六郎氏の惨虐が、とうとう彼女にその病癖をうつし、彼女は被虐色情者の耐えがたい慾望に、さいなまれる身となり果てていたのである。そして、私もまた、もし彼女との逢う瀬がこのまま半年もつづいたなら、きっと小山田氏と同じ病にとりつかれてしまったにちがいない。
なぜといって、彼女の願いをしりぞけかねて、私がその鞭を彼女のなよやかな肉体に加えたとき、その青白い皮膚の表面に、俄かにふくれ上がってくる毒々しいミミズ脹れを見た時、ゾッとしたことには、私はある不可思議な愉悦をさえ覚えたからである。
しかし、私はこのような男女の情事を描写するために、この記録を書きはじめたのではなかった。それらは、他日私がこの事実を小説に仕組むおり、もっと詳しく書きしるすこととして、ここには、その情事生活のあいだに、私が静子から聞きえた、一つの事実を書き添えておくにとどめよう。
それは例の六郎氏のかつらのことであったが、あれは正しく六郎氏がわざわざ注文して拵らえさせたもので、そうしたことには極端に神経質であった彼は、静子との寝室の遊戯の際、絵にならぬ彼の禿頭を隠すため、静子が笑って止めたにもかかわらず、子供のように真剣になって、それを注文しに行ったとのことであった。「なぜ今まで隠していたの」と私が尋ねたら、静子は「だって、そんなこと恥かしくって、いえませんでしたわ」と答えた。
さて、そんな日が二十日ばかりつづいたころ、あまり顔を見せないのも変だというので、私は口をぬぐって小山田家を訪ね、静子に会って、一時間ばかりしかつめらしい談話をかわしたのち、例のお出入りの自動車に送られて、帰宅したのであったが、その自動車の運転手が、偶然にもかつて私が手袋を買い取った青木民蔵であったことが、またしても、私があの奇怪な白昼夢へと引き込まれて行くきっかけとなったのである。
手袋は違っていたが、ハンドルにかかった手の形も、古めかしい紺の春外套も(彼はワイシャツの上にすぐそれを着ていた)、その張り切った肩の恰好も、前の風よけガラスも、その上の小さな鏡も、すべて約一カ月以前の様子と少しも違わなかった。それが私を変な気持にして行った。
私はあの時、この運転手に向かって「大江春泥」と呼びかけてみたことを思い出した。すると、私は妙なことに、大江春泥の写真の顔や、彼の作品の変てこな筋や、彼の不思議な生活の記憶で、頭の中が一杯になってしまった。しまいには、クッションの私のすぐ隣に春泥が腰かけているのではないかと思うほど、彼を身近に感じ出した。そして、一瞬間、ボンヤリしてしまって、私は変なことを口走った。
「君、君、青木君。このあいだの手袋ね、あれはいったいいつごろ小山田さんに貰ったのだい」
「へえ?」
と運転手は、一カ月前の通りに顔をふり向けて、あっけにとられたような表情をしたが、
「そうですね、あれは、むろん去年でしたが、十一月の……たしか帳場から月給を貰った日で、よく貰いものをする日だと思ったことを覚えていますから、十一月の二十八日でしたよ。間違いありませんよ」
「へえ、十一月のねえ、二十八日なんだね」
私はまだボンヤリしたまま、うわごとのように相手の返事を繰り返した。
「だが、旦那、なぜそう手袋のことばかり気になさるんですね。何かあの手袋に曰くでもあったのですか」
運転手はニヤニヤ笑ってそんなことをいっていたが、私はそれに返事もしないで、じっと風よけガラスについた小さなほこりを見つめていた。車が四、五丁走るあいだ、そうしていた。だか、突然、私は車の中で立ち上がって、いきなり運転手の肩をつかんで、どなった。
「君、それはほんとうだね、十一月二十八日というのは。君は裁判官の前でもそれが断言できるかね」
車がフラフラとよろめいたので、運転手はハンドルを調節しながら、
「裁判官の前ですって。冗談じゃありませんよ。だが、十一月二十八日に間違いはありません。証人だってありますよ。私の助手もそれを見ていたんですから」
青木は、私があまり真剣なので、あっけにとられながらも、まじめに答えた。
「じゃあ、君、もう一度引っ返すんだ」
運転手はますます面くらって、やや恐れをなした様子だったが、それでも私のいうがままに、車を帰して、小山田家の門前についた。私は車を飛び出すと、玄関へかけつけ、そこにいた女中をとらえて、いきなりこんなことを聞きただすのであった。
「去年の暮れの煤掃きのおり、ここのうちでは、日本間の方の天井板をすっかりはがして、|灰《あ》|汁《く》|洗《あら》いをしたそうだね。それはほんとうだろうね」
先にも述べた通り、私はいつか天井裏へあがったとき、静子にそれを聞いて知っていたのだ。女中は私が気でも違ったと思ったかも知れない。しばらく私の顔をまじまじと見ていたが、
「ええ、ほんとうでございます。灰汁洗いではなく、ただ水で洗わせたのですけれど、灰汁洗い屋が来たことは来たのです。あれは暮れの二十五日でございました」
「どの部屋の天井も?」
「ええ、どの部屋の天井も」
それを聞きつけたのか、奥から静子も出てきたが、彼女は心配そうに私の顔を眺めて、
「どうなすったのです」
と尋ねるのだ。
私はもう一度さっきの質問を繰り返し、静子からも女中と同じ返事を聞くと、挨拶もそこそこに、また自動車に飛びこんで、私の宿へ行くように命じたまま、深々とクッションにもたれ込み、私の持ち前の泥のような妄想におちいって行くのだった。
小山田家の日本間の天井板は昨年十二月二十五日、すっかり取りはずして水洗いをした。それでは、例の飾りボタンが天井裏へ落ちたのは、そののちでなければならない。
しかるに一方では、十一月二十八日に手袋が運転手に与えられている。天井裏に落ちていた飾りボタンが、その手袋から脱落したことは、先にしばしば述べた通り、疑うことのできない事実だ。
すると、問題の手袋のボタンは、落ちぬ先になくなっていたということになる。
このアインシュタイン物理学めいた不可思議な現象は、そも何を語るものであるか、私はそこへ気がついたのであった。
私は念のためにガレージに青木民蔵を訪ね、彼の助手の男にも会って、聞きただしてみたけれど、十一月二十八日に間違いはなく、また小山田家の天井洗いを引受けた請負人をも訪ねてみたが、十二月二十五日に思い違いはなかった。彼は、天井板をすっかりはがしたのだから、どんな小さな品物にしろ、そこに残っているはずはないと請合ってくれた。
それでもやはり、あのボタンは小山田氏が落としたものだと強弁するためには、こんなふうにでも考えるほかはなかった。
すなわち、手袋からとれたボタンが小山田氏のポケットに残っていた。小山田氏はそれを知らずにボタンのない手袋は使用できぬので運転手に与えた。それから少なく見て一カ月後、多分は三カ月後に(脅迫状がきはじめたのは二月からであった)、同氏が天井裏へ上がった時、偶然にもボタンがそのポケットから落ちたという、持って廻った順序なのだ。
手袋のボタンが外套でなくて服のポケットに残っていたというのも変だし(手袋は多く外套のポケットへしまうものだ。そして、小山田氏が天井裏へ外套を着て上がったとは考えられぬ。いや、背広を着て上がったと考えることさえ、可なり不自然だ)、それに小山田氏のような金満紳士が、暮れに着ていた服のままで春を越したとも思われぬではないか。
これがきっかけとなって、私の心には又しても陰獣大江春泥の影がさしてきた。
小山田氏が惨虐色情者であったという近代の探偵小説めいた材料が、私にとんでもない錯覚を起こさせたのではなかったか(彼が外国製乗馬鞭で静子を打擲したことだけは、疑いもない事実だけれど)。そして、彼はやっぱり何者かのために殺害されたのではあるまいか。
大江春泥、ああ、怪物大江春泥の俤が、しきりに私の心にねばりついてくるのだ。
ひとたびそんな考えが芽ばえると、すべての事柄が不思議に疑わしくなってくる。一介の空想小説家にすぎない私に、意見書にしるしたような推理が、あんなにやすやすと組み立てられたということも、考えてみればおかしいのだ。現に、私はあの意見書のどこやらに、とんでもない錯誤が隠れているような気がしたものだから、一つは静子との情事に夢中だったせいもあるけれど、草稿のまま清書もしないでほうってある。事実私はなんとなく気が進まなかった。そして、今ではそれがかえってよかったと思うようにさえなってきたのだ。
考えてみると、この事件には証拠が揃い過ぎていた。私の行く先々に、待ちかまえていたように、おあつらえ向きの証拠品がゴロゴロしていた。大江春泥自身も彼の作品でいっていた通り、探偵は多過ぎる証拠に出会ったときこそ、警戒しなければならないのだ。
第一あの真に迫った脅迫状の筆蹟が、私の妄想したように、小山田氏の偽筆だったというのは、甚だ考えにくいことではないか。かつて本田もいったことだが、たとえ春泥の文字は似せることができても、あの特徴のある文章を、しかも方面違いの実業家であった小山田氏に、どうしてまねることができたのであろう。
私はその時まで、すっかり忘れていたけれど、春泥作「一枚の切手」という小説には、ヒステリーの医学博士夫人が、夫を憎むあまり、博士が彼女の筆蹟を手習いして、贋の書置きを作ったような証拠を作り上げ、博士を殺人罪におとしいれようと企らんだ話がある。ひょっとしたら、春泥はこの事件にも、その同じ手を用いて、小山田氏を陥れようと計ったのではないだろうか。
見方によっては、この事件はまるで大江春泥の傑作集の如きものであった。例えば、天井裏の隙見は「屋根裏の遊戯」であり、証拠品のボタンも同じ小説の思いつきであるし、春泥の筆蹟を手習いしたのは「一枚の切手」だし、静子の|項《うなじ》の生傷が惨虐色情者を暗示したのは「B坂の殺人」の方法である。それから、ガラスの破片が突き傷をこしらえたことといい、はだかの死体が便所の下に漂っていたことといい、そのほか事件全体が大江春泥の体臭に充ち満ちていたのだ。
これは偶然にしては余りに奇妙な符合ではなかったか。はじめから終りまで、事件の上に春泥の大きな影がかぶさっていたではないか。私はまるで、大江春泥の指図に従って、彼の思うがままの推理を組み立ててきたような気がするのだ。春泥が私にのりうつったのではないかとさえ思われるのだ。
春泥はどこかにいる。そして、事件の底から蛇のような眼を光らせているにちがいない。私は理窟ではなく、そんなふうに感じないではいられなかった。だが、彼はどこにいるのだ。
私はそれを下宿の部屋で、蒲団の上に横になって考えていたのだが、さすが肺臓の強い
私も、この果てしのない妄想にはうんざりした。考えながら、私は疲れ果ててウトウトと眠ってしまった。そして、妙な夢を見てハッと眼が醒めたとき、ある不思議なことを思い浮かべたのだ。
夜がふけていたけれど、私は彼の下宿に電話をかけて、本田を呼び出してもらった。
「君、大江春泥の細君は丸顔だったといったねえ」
私は本田が電話口に出ると、なんの前置きもなく、こんなことを尋ねて、彼を驚かした。
「ええ、そうでしたよ」
本田はしばらくして、私だとわかったのか、眠むそうな声で答えた。
「いつも洋髪に結っていたのだね」
「ええ、そうでしたよ」
「近眼鏡をかけていたのだね」
「ええ、そうですよ」
「金歯を入れていたのだね」
「ええ、そうですよ」
「歯がわるかったのだね。そして、よく頬に歯痛止めの貼り薬をしていたというじゃないか」
「よく知ってますね、春泥の細君に会ったのですか」
「いいや、桜木町の近所の人に聞いたのだよ。だが、君の会った時も、やっぱり歯痛をやっていたのかね」
「ええ、いつもですよ。よっぽど歯の性がわるいのでしょう」
「それは右の頬だったかね」
「よく覚えないけれど、右のようでしたね」
「しかし、洋髪の若い女が、古風な歯痛止めの貼り薬は少しおかしいね。今どきそんなもの貼る人はないからね」
「そうですね。だが、いったいどうしたんです。例の事件、何か手掛りが見つかったのですか」
「まあ、そうだよ。詳しいことはそのうち話そうよ」
といったわけで、私は前に聞いて知っていたことを、もう一度念のために本田にただして見たのだった。
それから、私は机の上の原稿紙に、まるで幾何の問題でも解くように、さまざまの形や文字や公式のようなものを、ほとんど朝まで書いては消し、書いては消ししていたのである。
十一
そんなことで、いつも私の方から出す逢引きの打ち合わせの手紙が三日ばかり途切れたものだから、待ちきれなくなったのか、静子からあすの午後三時ごろ、きっと例の隠れがへきてくれるようにとの速達がきた。それには「私という女のあまりにもみだらな正体を知って、あなたはもう私がいやになったのではありませんか、私が怖くなったのではありませんか」と怨じてあった。
私はこの手紙を受取っても、妙に気が進まなかった。彼女の顔を見るのがいやでしょうがなかった。だが、それにもかかわらず、私は彼女の指定してきた時間に、御行の松の下の、あの化物屋敷へ出向いて行った。
それはもう六月にはいっていたが、梅雨の前の、そこひのように憂鬱な空が、押しつけるように頭の上に垂れ下がって、気違いみたいにむしむしと暑い日だった。電車をおりて、三、四丁歩くあいだに、腋の下や背筋などが、ジクジクと汗ばんで、さわってみると、富士絹のワイシャツがネットリと湿っていた。
静子は、私よりもひと足先にきて、涼しい土蔵の中のベッドに腰かけて待っていた。土蔵の二階にはジュウタンを敷きつめ、ベッドや長椅子を置き、幾つも大型の鏡を並べなどして、私たちの遊戯の舞台をできるだけ効果的に飾り立てたのだが、静子は私が止めるのも聞かず、長椅子にしろ、ベッドにしろ、ばかばかしく高価な品を、惜しげもなく買い入れたものだ。
静子は、派手な結城紬の一重物に、桐の落葉の刺繍を置いた黒繻子の帯をしめて、例によって艶々とした丸髷のつむりをふせ、ベッドの純白のシーツの上に、フーワリと腰をおろしていたが、洋風の調度と、江戸好みな彼女の姿とが、ましてその場所が薄暗い土蔵の二階なので、甚だしく異様な対照を見せていた。
私は、夫をなくしても変えようともしない、彼女の好きな丸髷が、匂やかに艶々しく輝いているのを見ると、すぐさま、その髷がガックリとして、前髪がひしゃげたように乱れて、ネットリしたおくれ毛が、首筋のあたりにまきついている、あのみだらがましき姿を眼に浮かべないではいられなかった。彼女はその隠れがから帰るときには、乱れた髪をときつけるのに、鏡の前で三十分もついやすのが常であったから。
「このあいだ、灰汁洗い屋のことを、わざわざ聞きに戻っていらしったのは、どうしたんですの。あなたの慌てようったらなかったのね。あたし、どういうわけだかと、考えてみたんですけど、わかりませんのよ」
私がはいって行くと、静子はすぐそんなことを聞いた。
「わからない? あなたには」私は洋服の上衣を脱ぎながら答えた。「大変なことなんだよ。僕は大間違いをやっていたのさ。天井を洗ったのが十二月の末で、小山田さんの手袋のボタンのとれたのがそれよりひと月以上も前なんですよ。だってあの運転手に手袋をやったのが十一月の二十八日だっていうから、ボタンのとれたのはその以前にきまっているんだからね。順序がまるであべこべなんですよ」
「まあ」
と静子は非常に驚いた様子であったが、まだはっきりとは事情がのみこめぬらしく、
「でも天井裏へ落ちたのは、ボタンがとれたよりはあとなんでしょう」
「あとにはあとだけれど、そのあいだの時間が問題なんだよ。つまりボタンは小山田さんが天井裏へ上がったとき、その場でとれたんでなければ、変だからね。正確にいえばなるほどあとだけれど、とれると同時に天井裏へ落ちて、そのままそこに残されていたのだからね。それがとれてから、落ちるまでのあいだに一と月以上もかかるなんて、物理学の法則では説明できないじゃないか」
「そうね」
彼女は少し青ざめて、まだ考え込んでいた。
「とれたボタンが、小山田さんの服のポケットにでもはいっていて、それが一と月のちに偶然天井裏へ落ちたとすれば、説明がつかぬことはないけれど、それにしても、小山田さんは去年の十一月に着ていた服で、春を越したのかい」
「いいえ。あの人おしゃれさんだから、年末には、ずっと厚手の温かい服に替えていましたわ」
「それごらんなさい。だから変でしょう」
「じゃあ」
と彼女は息を引いて、
「やっぱり平田が……」
と言いかけて、口をつぐんだ。
「そうだよ。この事件には、大江春泥の体臭があまり強すぎるんだよ。で、僕はこのあいだの意見書を、まるで訂正しなければならなくなった」
私はそれから前章にしるした通り、この事件が大江春泥の傑作集の如きものであること、証拠の揃いすぎていたこと、偽筆が余りにも真に迫っていたことなどを、彼女のために簡単に説明した。
「あなたは、よく知らないだろうが、春泥の生活というものが、実に変なんだ。あいつはなぜ訪問者に会わなかったか。なぜあんなにもたびたび転居したり、旅行をしたり、病気になったりして、訪問者を避けようとしたか。おしまいには、向島須崎町の家を無駄な費用をかけて、なぜ借りっぱなしにしておいたか。いくら人厭いの小説家にもしろ、あんまり変じゃないか。人殺しでもやる準備行為でなかったとしたら、あんまり変じゃないか」
私は、ベッドの静子の隣に腰をおろして話していたのだが、彼女は、やっぱり春泥の仕業であったかと思うと、俄かに怖くなった様子で、ぴったり私の方へからだをすり寄せて、私の左の手首を、むず痒く握りしめるのであった。
「考えてみると、僕はあいつの思うままに、なぶられていたんだよ。あいつのあらかじめ拵らえておいた偽証を、そのまま、あいつの推理をお手本にして、おさらいさせられたも同然なんだよ。アハハハハ」
私は自から嘲るように笑った。
「あいつは恐ろしいやつですよ。僕の物の考え方をちゃんと呑みこんでいて、その通りに証拠を拵らえ上げたんだからね。普通の探偵やなんかでは駄目なんだ。僕のような、推理好みの小説家でなくては、こんな廻りくどい、とっぴな想像ができるものではないのだから。だが、もし犯人が春泥だとすると、いろいろ無理ができてくる。その無理ができてくるところが、この事件の難解なゆえんで、春泥が底のしれない悪者だというわけだけれどね。
無理というのはね、せんじつめると、二つの事柄なんだが、一つは例の脅迫状が小山田さんの死後パッタリこなくなったこと、もう一つは、日記帳だとか、春泥の著書、「新青年」なんかが、どうして小山田さんの本棚にはいっていたかということです。
この二つだけは、春泥が犯人だとすると、どうも辻褄が合わなくなるんだよ。たとえ日記帳の例の欄外の文句は、小山田さんの筆癖をまねて書きこめるにしたところが、また「新青年」の口絵の鉛筆のあとなんかも、偽証を揃えるためにあいつが作っておいたとしたところが、どうにも無理なのは、小山田さんしか持っていない、あの本棚の鍵を、春泥がどうして手に入れたかということだよ。そして、あの書斎へ忍びこめたかということだよ。
僕はこの三日のあいだ、その点を頭の痛くなるほど考え抜いたのだがね。その結果、どうやら、たった一つの解決法を見つけたように思うのだけれど。
僕はさっきもいったように、この事件に春泥の作品の匂いが充ち満ちていることから、あいつの小説をもっとよく研究してみたら、何か解決の鍵がつかめやしないかと思って、あいつの著書を出して読んでみたんだよ。それからね、あなたにはまだ言ってないけれど、博文館の本田という男の話によると、春泥がとんがり帽に道化服という変な恰好で、浅草公園をうろついていたというんだ。しかも、それが広告屋で聞いてみると、公園の浮浪人だったとしか考えられないんだ。春泥が浅草公園の浮浪人の中にまじっていたなんて、まるでスチブンソンの『ジーキル博士とハイド』みたいじゃないか。僕はそこへ気づいて、春泥の著書の中から、似たようなのを探してみると、あなたも知っているでしょう、あいつが行方不明になるすぐ前に書いた『パノラマ国』という長篇と、それよりも前の作の『一人二役』という短篇と、二つもあるのです。それを読むと、あいつが『ジーキル博士』式なやり方に、どんなに魅力を感じていたか、よくわかるのだ。つまり、一人でいながら、二人の人物にばけることにね」
「あたし怖いわ」
静子はしっかり私の手を握りしめて言った。
「あなたの話しかた、気味がわるいのね。もうよしましょうよ、そんな話。こんな薄暗い蔵の中じゃいやですわ。その話はあとにして、きょうは遊びましょうよ。あたし、あなたとこうしていれば、平田のことなんか、思い出しもしないのですもの」
「まあお聞きなさい。あなたにとっては、命にかかわることなんだよ。もし春泥がまだあなたをつけねらっているとしたら」
私は恋愛遊戯どころではなかった。
「僕はまた、この事件のうちから、ある不思議な一致を二つだけ発見した。学者くさい言いかたをすれば、一つは空間的な一致で、一つは時間的な一致なんだけれど、ここに東京の地図がある」
私はポケットから、用意してきた簡単な東京地図を取り出して、指でさし示しながら、
「僕は大江春泥の転々として移り歩いた住所を、本田と象潟署の署長から聞いて覚えているが、それは、池袋、牛込喜久井町、根岸、谷中初音町、日暮里金杉、神田末広町、上野桜木町、本所柳島町、向島須崎町と、大体こんなふうだった。このうち池袋と、牛込喜久井町だけは大変離れているけれど、あとの七カ所は、こうして地図の上で見ると、東北の隅の狭い地域に集まっている。これは春泥の大変な失策だったのですよ。池袋と牛込が離れているのは、春泥の文名が上がって訪問記者などがおしかけはじめたのは、根岸時代からだという事実を考え合わせると、よくその意味がわかる。つまりあいつは喜久井町時代までは、すべて原稿の用事を手紙だけですませていたのだからね。ところで、根岸以下の七カ所を、こうして線でつないでみると、不規則な円周を描いていることがわかるが、その円の中心を求めたならば、そこにこの事件解決の鍵が隠れているのだよ。なぜそうだかということは、いま説明するがね」
その時、静子は何を思ったのか、私の手を離して、いきなり両手を私の首にまきつけると、例のモナ・リザの唇から、白い八重歯を出して、
「怖い」
と叫びながら、彼女の頬を私の頬に、彼女の唇を私の唇に、しっかりとくっつけてしまった。ややしばらくそうしていたが、唇を離すと、今度は私の耳を人差指で巧みにくすぐりながら、そこへ口を近づけて、まるで子守歌のような甘い調子で、ボソボソとささやくのだった。
「あたし、そんな怖い話で、大切な時間を消してしまうのが、惜しくてたまらないのですわ。あなた、あなた、私のこの火のような唇がわかりませんの、この胸の鼓動が聞こえませんの。さあ、あたしを抱いて、ね、あたしを抱いて」
「もう少しだ。もう少しだから辛抱して僕の考えを聞いてください。その上できょうはあなたとよく相談しようと思ってきたのだから」
私はかまわず話しつづけて行った。
「それから時間的の一致というのはね。春泥の名前がパッタリ雑誌に見えなくなったのは、私はよく覚えているが、おととしの暮れからなんだ。それとね、小山田さんが外国から帰朝したときと・・あなたはそれがやっぱり、おととしの暮れだっていったでしょう。この二つがどうして、こんなにぴったり一致しているのかしら。これが偶然だろうかね。あなたはどう思う?」
私がそれを言い切らぬうちに、静子は部屋の隅から例の外国製乗馬鞭を持ってきて、無理に私の右手に握らせると、いきなり着物を脱いで、うつむきにベッドの上に倒れ、むき出しのなめらかな肩の下から、顔だけを私の方にふりむけて、
「それがどうしたの。そんなこと、そんなこと」
と何かわけのわからぬことを、気違いみたいに口走ったが、
「さあ、ぶって! ぶって!」
と叫びながら、上半身を波のようにうねらせるのであった。
小さな蔵の窓から、鼠色の空が見えていた。電車の響きであろうか、遠くの方から遠雷のようなものが、私自身の耳鳴りにまじって、オドロオドロと聞こえてきた。それはちょうど、空から魔物の軍勢が押しよせてくる陣太鼓でもあるかのように、気味わるく思われた。おそらくあの天候と、土蔵の中の異様な空気が、私たち二人を気ちがいにしたのではなかったか。静子も私も、あとになってみると、正気の沙汰ではなかったのだ。私はそこに横たわってもがいている彼女の汗ばんだ青白い全身を眺めながら、執拗にも私の推理をつづけて行った。
「一方ではこの事件の中に大江春泥がいることは、火のように明らかな事実なんだ。だが、一方では日本の警察力がまる二カ月かかっても、あの有名な小説家を探し出すことができず、あいつは煙みたいに完全に消えうせてしまったのだ。
ああ、僕はそれを考えるさえ恐ろしい。こんなことが悪夢でないのが不思議なくらいだ。なぜ彼は小山田静子を殺そうとはしないのだ。ふっつりと脅迫状を書かなくなってしまったのだ。あいつはどんな忍術で小山田さんの書斎へはいることができたんだ。そして、あの錠前つきの本棚をあけることができたんだ………
僕は或る人物を思い出さないではいられなかった。ほかでもない、女流探偵小説家平山日出子だ。世間ではあれを女だと思っている。作家や記者仲間でも、女だと信じている人が多い。日出子のうちへは毎日のように愛読者の青年からのラブ・レターが舞い込むそうだ。ところがほんとうは彼は男なんだよ。しかも、れっきとした政府のお役人なんだよ。
探偵作家なんてみんな、僕にしろ、春泥にしろ、平山日出子にしろ、怪物なんだ。男でいて女に化けてみたり、猟奇の趣味が嵩じると、そんなところまで行ってしまうのだ。ある作家は、夜、女装をして浅草をぶらついた。そして、男と恋のまねごとさえやった」
私はもう夢中になって、気ちがいのようにしゃべりつづけた。顔じゅうに一杯汗が浮かんで、それが気味わるく口の中へ流れ込んだ。
「さあ、静子さん。よく聞いてください。僕の推理が間違っているかいないか。春泥の住所をつないだ円の中心はどこだ。この地図を見てください。あなたの家だ。浅草山の宿だ。皆あなたの家から十分以内のところばかりだ。
小山田さんの帰朝と一緒に、なぜ春泥は姿を隠したのだ。もう茶の湯と音楽の稽古に通えなくなったからだ。わかりますか。あなたは小山田さんの留守中、毎日午後から夜に入るまで、茶の湯と音楽の稽古に通ったのです。
ちゃんとお膳立をしておいて、僕にあんな推理を立てさせたのは誰だった。あなたですよ。僕を博物館で捉えて、それから自由自在にあやつったのは。
あなたなれば、日記帳に勝手な文句を書き加えることだって、そのほかの証拠品を小山田さんの本棚へ入れることだって、天井へボタンを落としておくことだって、自由にできるのです。僕はここまで考えたのです。ほかに考えようがありますか。さあ、返事をしてください。返事をしてください」
「あんまりです。あんまりです」
裸体の静子が、ワッと悲鳴を上げて、私にとりすがってきた。そして、私のワイシャツの上に頬をつけて、熱い涙が私の肌に感じられるほども、さめざめと泣き入るのだった。
「あなたはなぜ泣くのです。さっきからなぜ僕の推理をやめさせようとしたのです。あたりまえなれば、あなたには命がけの問題なのだから、聞きたがるはずじゃありませんか。これだけでも、僕はあなたを疑わないではいられぬのだ。お聞きなさい。まだ僕の推理はおしまいじゃないのだ。
大江春泥の細君はなぜ目がねをかけていた? 金歯をはめていた? 歯痛止めの貼り薬をしていた? 洋髪に結って丸顔に見せていた? あれは春泥の『パノラマ国』の変装法そっくりじゃありませんか。春泥はあの小説の中で、日本人の変装の極意を説いている。髪形を変えること、目がねをかけること、含み綿をすること、それから又、『一銭銅貨』の中には丈夫な歯の上に、夜店の|鍍金《め っ き》の金歯をはめる思いつきが書いてある。
あなたは人目につき易い八重歯を持っている。それを隠すために鍍金の金歯をかぶせたのだ。あなたの右の頬には大きな黒子がある。それを隠すために、あなたは歯痛止めの貼り薬をしたのだ。洋髪に結って瓜実顔を丸顔に見せるくらいなんでもないことだ。そうしてあなたは春泥の細君に化けたのだ。
僕はおととい、本田にあなたを隙見させて、春泥の細君に似ていないかを確かめた。本田はあなたの丸髷を洋髪に換え、目がねをかけ、金歯を入れさせたら、春泥の細君にそっくりだといったじゃありませんか。さあ、言っておしまいなさい。すっかりわかってしまったのだ。これでもあなたは、まだ僕をごまかそうとするのですか」
私は静子をつき離した。彼女はグッタリとベッドの上に倒れかかり、激しく泣き入って、いつまで待っても答えようとはしない。私はすっかり興奮してしまって、思わず手にしていた乗馬鞭をふるって、ピシリと彼女のはだかの背中へ叩きつけた。私は夢中になって、これでもか、これでもかと、幾つも幾つも打ちつづけた。
見る見る彼女の青白い皮膚は赤み走って、やがてミミズの這った形に、まっ赤な血がにじんできた。彼女は私の足の下に、いつもするのと同じみだらな恰好で、手足をもがき、身をくねらせた。そして、絶え入るばかりの息の下から、
「平田、平田」
と細い声で口走った。
「平田? ああ、あなたはまだ私をごまかそうとするんだな。あなたが春泥の細君に化けていたなら、春泥という人物は別にあるはずだとでもいうのですか。春泥なんているものか。あれはまったく架空の人物なんだ。それをごまかすために、あなたは彼の細君に化けて雑誌記者なんかに会っていたのだ。あんなにもたびたび住所を変えたのだ。しかし或る人には、まるで架空の人物ではごまかせないものだから、浅草公園の浮浪人を雇って、座敷に寝かしておいたんだ。春泥が道化服の男に化けたのではなくて、道化服の男が春泥に化けていたんだ」
静子はベッドの上で、死んだようになってだまりこんでいた。ただ、彼女の背中の赤ミミズだけがまるで生きているかのように、彼女の呼吸につれてうごめいていた。彼女がだまってしまったので、私もいくらか興奮がさめて行った。
「静子さん。僕はこんなにひどくするつもりではなかった。もっと静かに話してもよかったのだ。だが、あなたがあんまり私の話を避けよう避けようとするものだから、そして、あんな嬌態でごまかそうとするものだから、僕もつい興奮してしまったのですよ。勘弁してくださいね。ではね、あなたは口をきかなくてもいい。僕があなたのやってきたことを、順序を立てていってみますからね。もし間違っていたら、そうでないとひとこといってくださいね」
そうして、私は私の推理を、よくわかるように話し聞かせたのである。
「あなたは女にしては珍らしい理智と文才に恵まれていた。それは、あなたが私にくれた手紙を読んだだけでも、充分わかるのです。そのあなたが、匿名で、しかも男名前で、探偵小説を書いてみる気になったのは、ちっとも無理ではありません。だが、その小説が意外に好評を博した。そして、ちょうどあなたが有名になりかけた時分に、小山田さんが、二年間も外国へ行くことになった。その淋しさをなぐさめるため、且つまた、あなたの猟奇癖を満足させるため、あなたはふと一人三役という恐ろしいトリックを思いついた。あなたは『一人二役』という小説を書いているが、その上を行って、一人三役というすばらしいことを思いついたのです。
あなたは平田一郎の名前で、根岸に家を借りた。その前の池袋と牛込とはただ手紙の受け取り場所を造っておいただけでしょう。そして、厭人病や旅行などで、平田という男性を世間の眼から隠しておいて、あなたが変装をして平田夫人に化け、平田に代って原稿の話まで一切きりまわしていた。つまり原稿を書くときには大江春泥の平田になり、雑誌記者に会ったり、うちを借りたりするときには、平田夫人になり、山の宿の小山田家では、小山田夫人になりすましていたのです。つまり一人三役なのです。
そのために、あなたはほとんど毎日のように午後一ぱい、茶の湯や音楽を習うのだといってうちをあけなければならなかった。半日は小山田夫人、半日は平田夫人と、一つからだを使い分けていたのです。それには髪も結いかえる必要があり、着物を着換えたり変装をしたりする時間が要るので、あまり遠方では困るのです。そこで、あなたは住所を変えるときは、山の宿を中心に、自動車で十分ぐらいの所ばかり選んだわけですよ。
僕は同じ猟奇の徒なんだから、あなたの心持がよくわかります。ずいぶん苦労な仕事ではあるけれど、世の中にこんなにも魅力のある遊戯は、おそらくほかにはないでしょうからね。
僕は思い当たることがありますよ。いつか或る批評家が春泥の作を評して、女でなければ持っていない不愉快なほどの猜疑心に充ち満ちている。まるで暗闇にうごめく陰獣のようだといったのを思い出しますよ。あの批評家はほんとうのことをいっていたのですね。
そのうちに、短い二年が過ぎ去って、小山田さんが帰ってきた。もうあなたは元のように一人三役を勤めることはできない。そこで大江春泥の行方不明ということになったのです。でも、春泥が極端な厭人病者だということを知っている世間は、その不自然な行方不明をたいして疑わなかった。
だが、あなたがどうしてあんな恐ろしい罪を犯す気になったか、その心持は男の僕にはよくわからないけれど、変態心理学の書物を読むと、ヒステリー性の婦人は、しばしば自分で自分に当てて脅迫状を書き送るものだそうです。日本にも外国にもそんな実例はたくさんあります。
つまり自分でも怖がり、他人にも気の毒がってもらいたい心持なんですね。あなたもきっとそれなんだと思います。自分が化けていた有名な男性の小説家から、脅迫状を受け取る。なんというすばらしい着想でしょう。
同時にあなたは年をとったあなたの夫に不満を感じてきた。そして、夫の不在中に経験した変態的な自由の生活にやみがたいあこがれをいだくようになった。いや、もっと突っ込んでいえば、かつてあなたが春泥の小説の中に書いた通り、犯罪そのものに、殺人そのものに、言い知れぬ魅力を感じたのだ。それにはちょうど春泥という完全に行方不明になった架空の人物がある。この者に嫌疑をかけておいたならば、あなたは永久に安全でいることができる上、いやな夫には別れ、莫大な遺産を受け継いで、半生を勝手気ままに振舞うことができる。
だが、あなたはそれだけでは満足しなかった。万全を期するため、二重の予防線を張ることを考えついた。そして、選び出されたのが僕なんです。あなたはいつも春泥の作品を非難する僕をあやつり人形にして、かたき討ちをしてやろうと思ったのでしょう。だから僕があの意見書を見せたときには、あなたはどんなにかおかしかったことでしょうね。僕をごまかすのは造作もなかったですね。手袋の飾りボタン、日記帳、「新青年」、『屋根裏の遊戯』それで充分だったのですからね。
だが、あなたがいつも小説に書いているように、犯罪者というものは、どこかにほんのつまらないしくじりを残しておくものです。あなたは小山田さんの手袋からとれたボタンを拾って、大切な証拠品に使ったけれど、それがいつとれたかをよく調べてみなかった。その手袋がとっくの昔、運転手に与えられたことを少しも知らずにいたのです。なんというつまらないしくじりだったでしょう。小山田さんの致命傷はやっぱり僕の前の推察通りだと思います。ただ違うのは小山田さんが窓のそとからのぞいたのではなくて、多分はあなたと情痴の遊戯中に(だからあのかつらをかぶっていたのでしょう)あなたが窓の中からつきおとしたのです。
さあ、静子さん。僕の推理が間違っていましたか。なんとか返事をしてください。できるなら僕の推理を打ち破ってください。ねえ、静子さん」
私はグッタリしている静子の肩に手をかけて、軽くゆすぶった。だが、彼女は恥と後悔のために顔を上げることができなかったのか、身動きもせず、ひとことも物をいわなかった。
私は言いたいだけ言ってしまうと、ガッカリして、その場に茫然と立ちつくしていた。私の前には、きのうまで私の無二の恋人であった女が、傷つける陰獣の正体をあらわにして倒れている。それをじっと眺めていると、いつか私の眼は熱くなった。
「では僕はこれで帰ります」私は気を取りなおしていった。「あなたは、あとでよく考えてください。そして正しい道を選んでください。僕はこのひと月ばかりのあいだ、あなたのお蔭で、まだ経験しなかった情痴の世界を見ることができました。そして、それを思うと、今でも僕はあなたと離れがたい気がするのです。しかし、このままあなたとの関係を続けて行くことは、僕の良心が許しません………ではさようなら」
私は静子の背中のミミズ脹れの上に、心をこめた接吻を残して、しばらくのあいだ彼女との情痴の舞台であった、私たちの化物屋敷をあとにした。空はいよいよ低く、気温は一層高まってきたように思われた。私はからだじゅう無気味な汗にひたりながら、そのくせ歯をカチカチいわせて、気ちがいのようにフラフラと歩いて行った。
十二
そして、その翌日の夕刊で、私は静子の自殺を知ったのだった。
彼女はおそらくは、あの洋館の二階から、小山田六郎氏と同じ隅田川に身を投じて、覚悟の水死をとげたのである。運命の恐ろしさは、隅田川の流れ方が一定しているために起こったことではあろうけれど、彼女の死体は、やっぱり、あの吾妻橋下の汽船発着所のそばに漂っていて、朝、通行人に発見されたのであった。
何も知らぬ新聞記者は、その記事のあとへ、「小山田夫人は、おそらく夫六郎氏と同じ犯人の手にかかって、あえない最期をとげたものであろう」と付け加えた。
私はこの記事を読んで、私のかつての恋人の可哀そうな死に方を憐れみ、深い哀愁を覚えたが、それはそれとして、静子の死は、彼女が彼女の恐ろしい罪を自白したも同然で、まことに当然の成り行きであると思っていた。ひと月ばかりのあいだは、そんなふうに信じきっていた。
だが、やがて、私の妄想の熱度が、徐々に冷えて行くにしたがって、恐ろしい疑惑が頭をもたげてきた。
私はひとことさえも、静子の直接の懺悔を聞いたわけではなかった。さまざまの証拠が揃っていたとはいえ、その証拠の解釈はすべて私の空想であった。二に二を加えて四になるというような、厳正不動のものではあり得なかった。現に私は、運転手の言葉と、灰汁洗い屋の証言だけをもって、あの一度組み立てたまことしやかな推理を、さまざまの証拠を、まるで正反対に解釈することができたではないか。それと同じことが、もう一つの推理にも起こらないとどうして断言できよう。
事実、私はあの土蔵の二階で静子を責めた際にも、最初は何もああまでするつもりではなかった。静かにわけを話して、彼女の弁明を聞くつもりだった。それが、話の半ばから、彼女の態度が変に私の邪推を誘ったので、ついあんなに手ひどく、断定的に物を言ってしまったのだ。そして、最後にたびたび念を押しても、彼女が押しだまって答えなかったので、てっきり彼女の罪を肯定したものと独り合点をしてしまったのだった。だが、それはあくまでも独り合点ではなかったであろうか。
なるほど、彼女は自殺をした(だが果たして自殺であったか。他殺! 他殺だとしたら下手人は何者だ。恐ろしいことだ)。自殺をしたからといって、それが果たして彼女の罪を証することになるであろうか。もっとほかに理由があったかもしれないではないか。例えば、たよりに思う私から、あのように疑い責められ、まったく言い解くすべがないと知ると、心の狭い女の身では、一時の激動から、つい世を|果《は》|敢《か》なむ気になったのではあるまいか。
とすれば、彼女を殺したものは、手こそ下さね、明らかにこの私であったではないか。私はさっき他殺ではないといったけれど、これが他殺でなくてなんであろう。
だが、私がただ一人の女を殺したかもしれないという疑いだけなれば、まだしも忍ぶことができる。ところが、私の不幸な妄想癖は、もっともっと恐ろしいことさえ考えるのだ。
彼女は明らかに私を恋していた。恋する人に疑われ、恐ろしい犯罪人として責めさいなまれた女の心を考えてみなければならない。彼女は私を恋すればこそ、その恋人の解きがたい疑惑を悲しめばこそ、ついに自殺を決心したのではないだろうか。
また、たとえ私のあの恐ろしい推理が当たっていたとしてもだ。彼女はなぜ長年つれ添った夫を殺す気になったのであろう。自由か、財産か、そんなものが、一人の女を殺人罪におとしいれるほどの力を持っているだろうか。それは恋ではなかったか。そして、その恋人というのは、ほかならぬ私ではなかったか。
ああ、私はこの世にも恐ろしい疑惑をどうしたらよいのであろう。静子が他殺者であったにしろ、なかったにしろ、私はあれほど私を恋い慕っていた可哀そうな女を殺してしまったのだ。私は私のけちな道義の念を呪わずにはいられない。世に恋ほど強く美しいものがあろうか。私はその清く美しい恋を、道学者のようなかたくなな心で、無残にもうちくだいてしまったのではないか。
だがもし彼女が私の想像した通り大江春泥その人であって、あの恐ろしい殺人罪を犯したのであれば、私はまだいくらか安んずるところがある。
とはいえ、今となって、それがどうして確かめられるのだ。小山田六郎氏は死んでしまった。小山田静子も死んでしまった。そして、大江春泥は永久にこの世から消え去ってしまったとしか考えられぬではないか。本田は静子が春泥の細君に似ているといった。だが似ているというだけで、それがなんの証拠になるのだ。
私は幾度も糸崎検事を訪ねて、その後の経過を聞いてみたけれど、彼はいつも曖昧な返事をするばかりで、大江春泥捜索の見込みがついているとも見えない。私はまた、人を頼んで、平田一郎の故郷である静岡の町を調べてもらったけれど、まったく架空の人物であってくれればよいという空頼みの甲斐もなく、今は行方不明の平田一郎なる人物があったことを報じてきた。だが、たとえ平田という人物が実在していたところで、彼がほんとうに静子のかつての恋人であったところで、それが大江春泥であり小山田氏殺害の犯人であったと、どうして断定することができよう。彼はいま現にどこにもいないのだし、静子はただ昔の恋人の名を、一人三役の一人の本名に利用しなかったとはいえないのだから。さらに、私は親戚の人の許しを得て、静子の持ち物、手紙類などをすっかり調べさせてもらった。そこからなんらかの事実を探り出そうとしたのだ。しかしこの試みもなんのもたらすところもなかった。
私は私の推理癖を、妄想癖を、悔んでも悔んでも悔み足りないほどであった。そして、できるならば、平田一郎の大江春泥の行方を探すために、たとえそれがむだだとわかっていても、日本全国を、いや世界の果てまでも、一生涯巡礼をして歩きたいほどの気持になっている。
だが、春泥が見つかって、彼が下手人であったとしても、またなかったとしても、それぞれ違った意味で、私の苦痛は一そう深くなるかもしれないのだが。
静子が悲惨な死をとげてから、もう半年にもなる。だが、平田一郎はいつまでたっても現われなかった。そして私の取りかえしのつかぬ恐ろしい疑惑は、日と共に深まって行くばかりであった。
著者による作品解説
【湖畔亭事件】 大正十五年一月から三月まで「サンデー毎日」に連載したもの。中途で筋に行きつまり、たびたび休載して、当時の編集長渡辺均さんに大へん迷惑をかけたが、同時に書いていた「苦楽」の「闇に蠢く」は、とうとう中絶してしまった(あとで本にするときに結末をつけた)のに比べて、これはともかくも完結した。しかし、予定よりずっと早く打ち切ったのである。これも「一寸法師」同様、非常に恥かしく思っていたのだが、案外評判は悪くなかったようである。
【鬼】 「キング」昭和六年十一月号及び七年二月号の二回連載。非常に不自然な一人二役トリックが使われているけれども、ともかく本格探偵小説の形式を採っている。この作の中の貨車の屋根のトリックは私の発明でなく、シャーロック・ホームズの「最後の挨拶」の中の「ブルース・パーティントン設計書」のトリックを借りたものである。このトリックはのちにブリアン・フリンという作家が「途上殺人事件」で、貨車を二階つき乗合馬車に変えて使っているし、また横溝正史君の戦後の短篇「探偵小説」にもこのトリックが主題として使われている。
【屋根裏の散歩者】 「新青年」大正十四年八月増刊に発表。いわゆる初期の短篇に属するもので、「人間椅子」などと共に、奇抜な着想で好評を博した作品。当時の批評家平林初之輔さんは、自分の家の天井裏を歩きまわって、その体験を小説に書いた作家なんて、古今東西に例がないだろうと、私が不思議な作家であることを強調したものである。そういう意味で古い読者の記憶に残っている作品の一つだから、私の代表作の短篇集には、いつも入れられている。しかし、英訳短篇集にははいっていない。西洋人には天井裏というものがわからないだろうと思ったからである。
【何者】 「時事新報」夕刊一面の中篇小説として、昭和四年十二月から、五年一月にかけて、三十回ほど連載した。これは私の癖を少しも出さない純本格ものであったが、私の体臭のない作品というので、余り問題にされなかった。しかし、甲賀三郎君など本格派には、私には珍らしい夾雑物のない本格ものとして歓迎されたようである。この作の犯罪動機は内外に前例のない独創のトリックにはちがいないと思う。
【月と手袋】 「オール読物」昭和三十年四月号に発表。私は戦後、西洋の作品の紹介や批判ばかり書いていて、小説というものは昭和二十五年に短篇「断崖」を書いたばかりであった。別に小説を断念したわけではなく、何か従来とちがったものを掴もうとして悩んでいたのであるが、「宝石」昭和二十八年十月号に書いた連作「畸形の天女」の私の受けもちの第一回五十枚は、何かしら従来の私とちがったものが出ていたので、ひょっとしたらこの方向へ発展できるのかなと感じ、この「月と手袋」や、書き下し長篇「十字路」などは、そういう心構えで執筆したのだが、しかし、この方向摸索は結局長続きしなかった。この作のトリックは戦争中に「日の出」に連載した「偉大なる夢」(アメリカを侮辱するような戦争小説なので、本にすることをさしひかえている)に使った「犯人自身が自分の犯行を遠くから眺める」という極端な不可能興味、最強のアリバイ作りの手法を、倒叙的に再使用したものであった。このトリックは外国ではカーの「皇帝の嗅ぎ煙草入れ」に使われているが、私はこのカーの作を読む以前に「偉大なる夢」でこれを発案していた。
【堀越捜査一課長殿】 「オール読物」昭和三十一年四月号に発表。この作も「月と手袋」と同じような方向を狙ったのだが、相も変らぬ一人二役トリックに新味がなく、失敗の作であった。
【陰獣】 「新青年」昭和三年八月増刊から九、十月号と三回に分載した。「陰獣」が「淫獣」と誤解されたが、私のつもりでは、猫のような魔性の「陰気なけもの」という意味であった。朝日新聞に連載した「一寸法師」に自己嫌悪を感じて放浪の旅に出てから一年半、雑誌「改造」から頼まれて書き出したのだが、依頼枚数の四倍近くになってしまったので、我儘の利く「新青年」に廻したところ、当時の編集長横溝正史君が非常に宣伝してくれたので、雑誌の再版、三版を刷るという売れ行きを見たのである。今読んでみると大したものではないが、この小説には楽屋落ちみたいなものがあり、そこに奇妙な魅力が感じられたのではないかと思う。この小説の犯人は江戸川乱歩に酷似した人物で、しかも、最後にはその人物が女とわかり、結局、江戸川は架空の作家だったということになってしまう。つまり、私は小説の中で自己抹殺を試みたのである。この作は賑やかな批評を受けたが、それらの批評の多くは、結末に疑いを残したことを非難していたので、その後の版で、私自身、疑いの部分を削ってしまったことがある。しかし、やはり原形の方がよいと考えるので、この本では、最初発表したときの姿に戻しておいた。この作は昭和七年十二月、新橋演舞場において、市川小太夫さん一座により劇化上演せられた。
編者あとがき
[#地から2字上げ]日下三蔵
江戸川乱歩の業績は、大ざっぱにいって、短篇、長篇、少年もの、評論、の四つに大別できると思う。これらの仕事は、もちろん互いに重なり合ってはいるものの、主に力が注がれた期間は、ほぼ年代を追って変遷しているのが面白い。
まず、大正十二年のデビューから昭和四年までの七年間は、短篇作家の時代である。なにしろ、全短篇約五十篇のうち、実に四十篇までが、この期間に書かれているのだ。処女作「二銭銅貨」をはじめ、「D坂の殺人事件」「心理試験」「灰神楽」といった推理作品群では、日本でも欧米に引けをとらない上質のパズラーが書かれうることを、実作で示したし、「赤い部屋」「人間椅子」「芋虫」「鏡地獄」といった怪奇作品群では、探偵小説ならではのロマン性を、強烈にアピールした。これらの作品が、発表後、七十年を超えようとしている現在でも、まったく古びていないことは、本全集を通読すれば、お解りいただけるはずだ。
いわゆる「通俗もの」の第一作である『蜘蛛男』の連載が始まった昭和四年からが、長篇作家の時代だ(大正十五年の『一寸法師』だけは、内容的に通俗ものといえるが、同傾向の長篇の量産体制に入るのは昭和四年からで、その間三年ほど間があいている)。後の作品では、トリックやプロットを海外ミステリから借用する場合もあったが、乱歩のツボを押さえた換骨奪胎は、ミステリを知らない一般読者をも惹きつけるのに充分だったろう。
『黄金仮面』『吸血鬼』『人間豹』といった長篇作品群は、スパイスの効いたミステリのエッセンスと、横溢する猟奇趣味に、乱歩一流のストーリーテリングも加わって、娯楽読み物としては、抜群の面白さを有している。これらの作品によって、「乱歩=エログロ」というイメージだけが、独り歩きしてしまった観はあるが、探偵小説読者の裾野を飛躍的に広げた功績は大きい。
昭和十一年に連載の始まった『怪人二十面相』以下の「少年探偵団」シリーズでは、大人向けの長篇で培ったテクニックを十二分に発揮して、子供たちの心をガッチリ捉えた。戦時中に中断をはさんだものの、昭和三十年代まで毎年数本の長篇が連載され、その作品群は時代を超えて子供たちに読み継がれている。子どもの頃に、「少年探偵団」の洗礼を受けて、ミステリファンになったという人は、今でもかなり多いはずだ。このシリーズは、〈少年探偵団対怪人二十面相〉という不滅のパターンの繰り返しであり、乱歩自身は子供向けだからと開き直って(?)気軽に執筆していたふしが見受けられるが、永年にわたって年少のファンを製造し続けていることを考えると、その功績は無視できない。他にも少年ものを書いた作家は多いのに、「少年探偵団」だけが残っているというのは、やはり乱歩の作家としての力量が優れていたからに他ならないだろう。
海外ミステリの紹介は戦前から行っていた乱歩だが、規制がなくなって、これに拍車がかかるのは、終戦後の昭和二十一年からである。戦時中に読みためていた情報を、一気に吐き出すかのような勢いで、熱っぽく原書を紹介しているが、その批評眼は現在の目で見ても驚くほど確かであり、乱歩によって初めて日本に紹介された名作ミステリは数多い。
また、新人の発掘・育成につとめるなど、評論家というよりは、編集者としての活動も積極的に行っている。見ず知らずの新人・高木彬光から送られてきた処女作『刺青殺人事件』の原稿を一読、デビューに尽力したというエピソードがあるが、当時の新人作家は、みな大なり小なり乱歩の世話になっているといっていい。山田風太郎のように「乱歩さんがいたから、探偵小説を書いただけ」だという人までいるのだ。後に戦後探偵小説の牙城であった専門誌「宝石」の経営が悪化した時には、自ら私財を投じて再建に乗り出し、本当に編集をかってでている。乱歩から直接原稿依頼を受けた当時の作家たちは、かなり恐縮して執筆を引き受けたようだが、中には劇作家の戸板康二のように、乱歩の勧めに応じて書いたミステリで、直木賞を取る人まで出たのだから、編集者としての才覚も、相当なものだったといえるだろう。
こうした乱歩の業績について、例えば「探偵小説にエログロのイメージを植えつけた」とか、「乱歩によって紹介された海外作家・作品は、いまだに乱歩の評価がミステリファンに強烈な先入観を与えている」といったマイナス要素を、数え上げることも可能かもしれないが、差し引きで考えれば圧倒的にプラス面が多かったといえるだろう。例えば、洒落た都会派ミステリを指向する佐野洋も、デビュー以前は、乱歩の持ち込んだ土俗性が日本ミステリ界に悪影響を及ぼしている、と思っていたが、実際に乱歩に接してみて考えが変わったという。
「推理小説に対する並々ならぬ愛情、新人を育てようという熱意、といったものが、五分か十分、お話を伺うだけで、ひしひしと感ぜられ、先生とお会いしたあとは、必ず、是非とも力作をという気持になるのであった」(講談社版江戸川乱歩全集月報12/七〇年三月)
あらゆる面で、日本ミステリの基礎を築いた巨人である、という形容も、乱歩に限っては、特におおげさには感じられない。本全集では、第一の業績である「短篇作家としての乱歩」に的をしぼって、作品の完全網羅を心がけたが、歴史的な価値を含め、乱歩の全短篇を一望できることの意義は、決して小さくないと思う。
第二巻には、乱歩の謎解き短篇のうち、百枚以上二百枚以内の作品を七篇収めた。第一巻の解説にも書いたように、これは内容的な優劣に関係なく、純粋に原稿枚数で分けたものであるが、やはり長いだけに、力のこもったものが多く揃い、読みごたえのある作品集となった。
収録作品のうち、「屋根裏の散歩者」は、タイトル通り屋根裏を散歩して別の部屋を覗いて回る変態生活者・郷田三郎が主人公であり、その奇抜な着想から「人間椅子」(第三巻所収)などと共に、怪奇小説だと思っている人が多いようだ。実際、乱歩自身も平凡社版『現代大衆小説全集第三巻/江戸川乱歩集』では、これを第二部「奇妙な味」に入れているが、終盤の郷田と明智小五郎の対決シーンが、「心理試験」(第一巻所収)のそれを彷彿させるものであることからも解るように、むしろ怪奇趣味は味つけで、本質的には理知の小説というべきだろう。
「屋根裏の散歩者」の場合、怪奇趣味と謎解き趣味は、バラバラに投入されている感じだが、この二つが完全に融合しているのが「陰獣」である。ここでは、乱歩が「人間椅子」や「屋根裏の散歩者」といった猟奇的な小説で有名な作家である、という事実そのものがトリックとして使われており、怪奇小説としても謎解き小説としても、抜群の出来映えを誇る傑作になっている。第一巻巻末の「石榴」と同様、この作品をもって、本巻の締めくくりと同時に、つづく第三巻〈怪奇・幻想篇〉の予告としたい。
江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
一八九四―一九六五年。本名平井太郎。三重県名張の生まれ。会社員、古本屋、新聞記者など職業を転々としたのち、大正一二年(一九二三)、雑誌『新青年』に『二銭銅貨』を発表。日本探偵小説の基礎を築いた。筆名はエドガー・アラン・ポーにちなむ。著書に『心理試験』『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』『幻影城』など多数。
日下三蔵(くさか・さんぞう)
一九六八年、神奈川県生まれ。出版社勤務を経て、現在はフリー編集者・ミステリ評論家として活動中。編著に、山田風太郎奇想コレクション(全五巻/ハルキ文庫)、木々高太郎『光とその影/決闘』(講談社文庫/大衆文学館)等。
本作品は一九九八年六月、ちくま文庫として刊行された。
江戸川乱歩全短篇2
本格推理U
2002年2月22日 初版発行
著者 江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
編者 日下三蔵(くさか・さんぞう)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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