筑摩eブックス
江戸川乱歩全短篇1 本格推理T
[#地から2字上げ]江戸川乱歩著
[#地から2字上げ]日下三蔵 編
目次
二銭銅貨
心理試験
恐ろしき錯誤
D坂の殺人事件
火繩銃
黒手組
夢遊病者の死
幽霊
U
指環
日記帳
接吻
モノグラム
算盤が恋を語る話
妻に失恋した男
盗難
V
断崖
兇器
疑惑
一枚の切符
二癈人
灰神楽
石榴
著者による作品解説
編者あとがき 日下三蔵
T
二銭銅貨
上
「あの泥棒が羨ましい」二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、そのころは窮迫していた。場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただひと間しかない六畳に、一閑張りの破れ机を二つならべて、松村|武《たけし》とこの私とが、変な空想ばかりたくましくして、ゴロゴロしていたころのお話である。もうなにもかも行き詰まってしまって、動きの取れなかった二人は、ちょうどそのころ世間を騒がせていた、大泥棒の巧みなやり口を羨むような、さもしい心持になっていた。
その泥棒事件というのが、このお話の本筋に大関係を持っているので、ここにざっとそれをお話ししておくことにする。
芝区のさる大きな電機工場の職工給料日の出来事であった。十数名の賃銀計算係りが、五千人近い職工のタイム・カードから、それぞれ一カ月の賃銀を計算して、山と積まれた給料袋の中へ、当日銀行から引き出された、大トランクに一杯もあろうという、二十円、十円、五円などの紙幣を汗だくになって詰め込んでいるさなかに、事務所の玄関へ一人の紳士が訪れた。
受付の女が来意をたずねると、私は朝日新聞社の記者であるが、支配人にちょっとお目にかかりたいという。そこで女が東京朝日新聞社社会部記者と肩書のある名刺を持って、支配人にこのことを通じた。幸いなことには、この支配人は新聞記者操縦法がうまいことを、ひとつの自慢にしている男であった。のみならず、新聞記者を相手に、ほらを吹いたり、自分の話が何々氏談などとして、新聞に載せられたりすることは、おとなげないとは思いながら、誰しも悪い気持はしないものである。社会部記者と称する男は、快く支配人の部屋へ請じられた。
大きな鼈甲縁の目がねをかけ、美しい口髭をはやし、気のきいた黒のモーニングに、流行の折鞄といういでたちのその男は、いかにも物慣れた調子で、支配人の前の椅子に腰をおろした。そしてシガレット・ケースから、高価なエジプトの紙巻煙草を取り出して、卓上の灰皿に添えられたマッチを手際よく擦ると、青味がかった煙を、支配人の鼻先へフッと吹き出した。
「貴下の職工待遇問題についての御意見を」とか、なんとか、新聞記者特有の、相手を呑んでかかったような、それでいて、どこか無邪気な、人懐っこいところのある調子で、その男はこう切り出した。そこで支配人は、労働問題について、多分は労資協調、温情主義というようなことを、大いに論じたわけであるが、それはこの話に関係がないから略するとして、約三十分ばかり支配人の室におったところの、その新聞記者が、支配人が一席弁じ終って、「ちょっと失敬」といって便所に立ったあいだに、姿を消してしまったのである。
支配人は、不作法なやつだくらいで、別に気にもとめないで、ちょうど昼食の時間だったので、食堂へと出掛けて行ったが、しばらくすると、近所の洋食屋から取ったビフテキかなんかを頬ばっていたところの支配人の前へ、会計主任の男が、顔色を変えて飛んできて、報告することには、
「賃銀支払いの金がなくなりました。とられました」
というのだ。驚いた支配人が、食事などはそのままにして、金のなくなったという現場へきて調べてみると、この突然の盗難の仔細は、だいたい次のように想像することができたのである。
ちょうどその当時、工場の事務室が改築中であったので、いつもならば、厳重に戸締まりのできる特別の部屋で行なわれるはずの賃銀計算の仕事が、その日は、仮りに支配人室の隣の応接間で行なわれたのであるが、昼食の休憩時間に、どうした物の間違いか、その応接間が|空《から》になってしまったのである。事務員たちは、お互に誰か残ってくれるだろうというような考えで、一人残らず食堂へ行ってしまって、あとにはシナ鞄に充満した札束が、ドアには鍵もかからない部屋に、約半時間ほども、ほうり出されてあったのだ。そのすきに、何者かが忍び入って、大金を持ち去ったものにちがいない。それも、すでに給料袋に入れられた分や、細かい紙幣には手もつけないで、シナ鞄の中の二十円札と十円札の束だけを持ち去ったのである。損害高は約五万円であった。〔註、今の二千万円ほど〕
いろいろ調べてみたが、結局、どうもさっきの新聞記者が怪しいということになった。新聞社へ電話をかけてみると、やっぱり、そういう男は本社員の中にはないという返事だった。そこで、警察へ電話をかけるやら、賃銀の支払を延ばすわけにはいかぬので、銀行へ改めて二十円札と十円札の準備を頼むやら、大へんな騒ぎになったのである。
かの新聞記者と自称して、お人よしの支配人に無駄な議論をさせた男は、実は、当時、新聞が紳士盗賊という尊称をもって書き立てていたところの、有名な大泥棒であったのだ。
さて、所轄警察署の司法主任その他が臨検して調べてみると、手掛りというものがひとつもない。新聞社の名刺まで用意してくるほどの賊だから、なかなか一筋繩で行くやつではない。遺留品などあろうはずもない。ただひとつわかっていたことは、支配人の記憶に残っているその男の容貌風采であるが、それが甚だたよりないのである。というのは、服装などはむろん取りかえることができるし、支配人がこれこそ手掛りだと申し出たところの、鼈甲縁の目がねにしろ、口髭にしろ、考えてみれば、変装には最もよく使われる手段なのだから、これも当てにはならぬ。そこで、仕方がないので、めくら探しに、近所の車夫だとか、煙草屋のおかみさんだとか、露店商人などいう連中に、かくかくの風采の男を見かけなかったか、若し見かけたらどの方角へ行ったかと尋ねまわる。むろん市内の各巡査派出所へも、この人相書きが廻る。つまり非常線が張られたわけであるが、なんの手ごたえもない。一日、二日、三日、あらゆる手段が尽された。各駅には見張りがつけられた。各府県の警察署へは依頼の電報が発せられた。こうして、一週間が過ぎさったけれども賊は挙がらない。もう絶望かと思われた。かの泥棒が、何か別の罪をでも犯して挙げられるのを待つよりほかはないかと思われた。工場の事務所からは、その筋の怠慢を責めるように、毎日毎日警察署へ電話がかかった。署長は自分の罪ででもあるように頭を悩ました。
そうした絶望状態の中に、一人の同じ署に属する刑事が、市内の煙草屋の店を一軒ずつ丹念に歩きまわっていた。
市内には、舶来の煙草をひと通り備え付けているという煙草屋が、各区に、多いのは数十軒、少ない所でも十軒内外はあった。刑事はほとんどそれを廻りつくして、今は、山の手の牛込と四谷の区内が残っているばかりであった。きょうはこの両区を廻ってみて、それで目的を果たさなかったら、もういよいよ絶望だと思った刑事は、富籤の当り番号を読むときのような、楽しみとも恐れともつかぬ感情をもって、テクテク歩いていた。時々交番の前で立ち止まっては、巡査に煙草屋の所在を聞きただしながら、テクテクと歩いていた。刑事の頭の中は FIGARO, FIGARO, FIGARO と、エジプト煙草の名前で一杯になっていた。ところが、牛込の神楽坂に一軒ある煙草屋を尋ねるつもりで、飯田橋の電車停留所から神楽坂下へ向かって、あの大通りを歩いていたときであった。刑事は、一軒の旅館の前で、フト立ち止まったのである。というのは、その旅館の前の、下水の蓋を兼ねた御影石の敷石の上に、よほど注意深い人でなければ目にとまらないような、ひとつの煙草の吸殼が落ちていた。そして、なんとそれが、刑事の探しまわっていたところのエジプト煙草と同じものだったのである。
さて、このひとつの煙草の吸殼から足がついて、さしもの紳士盗賊もついに獄裡の人となったのであるが、その煙草の吸殼から盗賊逮捕までの径路に、ちょっと探偵小説じみた興味があるので、当時のある新聞には、続き物になって、そのときの何某刑事の手柄話が載せられたほどであるが――この私の記述も、実はその新聞記事に拠ったものである――私はここには、先を急ぐために、ごく簡単に結論だけしかお話ししている暇がないことを残念に思う。
読者も想像されたであろうように、この感心な刑事は、盗賊が工場の支配人の部屋に残して行ったところの、珍らしい煙草の吸殼から探偵の歩を進めたのである。そして、各区の大きな煙草屋をほとんど廻りつくしたが、たとえ同じ煙草を備えてあっても、エジプトの中でも比較的売行きのよくない、その FIGARO を最近に売ったという店はごく僅かで、それがことごとく、どこの誰それと、疑うまでもないような買い手に売られていたのである。ところがいよいよ最終という日になって、今もお話ししたように、偶然にも、飯田橋附近の一軒の旅館の前で、同じ吸殼を発見して、実は、あてずっぽうに、その旅館に探りを入れてみたのであるが、それがなんと僥倖にも、犯人逮捕の端緒となったのである。
そこで、いろいろ苦心の末、たとえば、その旅館に投宿していたその煙草の持ち主が、工場の支配人から聞いた人相とはまるで違っていたりして、だいぶ苦労をしたのであるが、結局、その男の部屋の火鉢の底から、犯行に用いたモーニングその他の服装だとか、鼈甲縁の目がねだとか、つけ髭だとかを発見して、逃がれぬ証拠によって、いわゆる紳士泥棒を逮捕することができたのである。
で、その泥棒が取り調べを受けて白状したところによると、犯行の当日――もちろん、その日は職工の給料日と知って訪問したのだが――支配人の留守のまに、隣の計算室にはいって例の金を取ると、折鞄の中にただそれだけを入れておいたところの、レインコートとハンチングを取り出して、その代りに、鞄の中へは、盗んだ紙幣の一部分を入れて、目がねをはずし、口髭をとり、レインコートでモーニング姿を包み、中折れの代りにハンチングをかぶって、きたときとは別の出口から、何くわぬ顔をして逃げ出したのであった。あの五万円という紙幣を、どうして、誰にも疑われぬように、持ち出すことができたかという訊問に対して、紳士泥棒がニヤリと得意らしい笑いを浮かべて答えたことには、
「わたしどもは、からだじゅうが袋でできています。その証拠には、押収されたモーニングを調べてごらんなさい。ちょっと見ると普通のモーニングだが、実は手品使いの服のように、付けられるだけの隠し袋が付いているんです。五万円くらいの金を隠すのはわけはありません。シナ人の手品使いは、大きな、水のはいったどんぶり鉢でさえ、からだの中へ隠すではありませんか」
さて、この泥棒事件がこれだけでおしまいなら、別段の興味もないのであるが、ここにひとつ、普通の泥棒とちがった妙な点があった。そして、それが私のお話の本筋に、大いに関係があるわけなのである。というのは、この紳士泥棒は、盗んだ五万円の隠し場所について、一ことも白状しなかったのである。警察と、検事廷と、公判廷と、この三つの関所で、手を換え品を換えて責め問われても、彼はただ知らないの一点張りで通した。そしておしまいには、その僅か一週間ばかりのあいだに、使い果たしてしまったのだというような、でたらめをさえ言い出したのである。その筋としては、探偵の力によって、その金のありかを探し出すほかはなかった。そして、ずいぶん探したらしいのであるが、いっこう見つからなかった。そこで、その紳士泥棒は、五万円隠匿のかどによって、窃盗犯としては可なり重い懲役に処せられたのである。
困ったのは被害者の工場である。工場としては、犯人よりは五万円を発見してほしかったのである。もちろん、警察の方でも、その金の捜索をやめたわけではないが、どうも手ぬるいような気がする。そこで、工場の当の責任者たる支配人は、その金を発見したものには、発見額の一割の賞を懸けるということを発表した。つまり五千円〔註、今の二百万円ほど〕の懸賞である。
これからお話ししようとする、松村武と私自身とに関するちょっと興味のある物語は、この泥棒事件がこういうふうに発展しているときに起こったことなのである。
中
この話の冒頭にもちょっと述べたように、そのころ、松村武と私とは、場末の下駄屋の二階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のドン底に沈んでいたのである。でも、あらゆるみじめさの中にも、まだしも幸運であったのは、ちょうど時候が春であったことだ。これは貧乏人だけにしかわからない、ひとつの秘密であるが。冬の終りから夏のはじめにかけて、貧乏人はだいぶ儲けるのである。いや、儲けたと感じるのである。というのは、寒いときだけ必要であった、羽織だとか、下着だとか、ひどいのになると、夜具、火鉢の類に至るまで、質屋の蔵へ運ぶことができるからである。私どもも、そうした気候の恩恵に浴して、あすはどうなることか、月末の間代の支払いはどこから捻出するか、というような先の心配をのぞいては、先ずちょっと息をついたのである。そして、しばらくは遠慮しておった銭湯へも行けば、床屋へも行く、飯屋ではいつもの味噌汁と香の物の代りに、さしみで一合かなんかを奮発するといったあんばいであった。
ある日のこと、いい心持になって、銭湯から帰ってきた私が、傷だらけの毀れかかった一閑張りの机の前に、ドッカと坐ったときに、一人残っていた松村武が、妙な、一種の興奮したような顔つきをもって、私にこんなことを聞いたのである。
「君、この、僕の机の上に二銭銅貨をのせておいたのは君だろう。あれは、どこから持ってきたのだ」
「ああ、おれだよ。さっき煙草を買ったおつりさ」
「どこの煙草屋だ」
「飯屋の隣の、あの婆さんのいる不景気なうちさ」
「フーム、そうか」
と、どういうわけか、松村はひどく考えこんだのである。そして、なおも執拗にその二銭銅貨について訊ねるのであった。
「君、そのとき、君が煙草を買ったときだ、誰かほかにお客はいなかったかい」
「確か、いなかったようだ。そうだ。いるはずがない、そのときあの婆さんは居眠りをしていたんだ」
この答えを聞いて、松村はなにか安心した様子であった。
「だが、あの煙草屋には、あの婆さんのほかに、どんな連中がいるんだろう。君は知らないかい」
「おれは、あの婆さんとは仲よしなんだ。あの不景気な仏頂面が、妙に気に入っているのでね。だから、おれは相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこには婆さんのほかに、婆さんよりはもっと不景気な爺さんがいるきりだ。しかし、君はそんなことを聞いてどうしようというのだ」
「まあいい。ちょっとわけがあるんだ。ところで君が詳しいというのなら、もう少しあの煙草屋のことを話さないか」
「ウン、話してもいい。爺さんと婆さんとのあいだに一人の娘がある。おれは一度か二度その娘を見かけたが、そう悪くないきりょうだぜ。それがなんでも、監獄の差入屋とかへ嫁入っているという話だ。その差入屋が相当に暮らしているので、その仕送りで、あの不景気な煙草屋も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆さんが話していたっけ……」
私が煙草屋に関する知識について話しはじめたときに、驚いたことには、それを話してくれと頼んでおきながら、もう聞きたくないといわぬばかりに、松村武が立ち上がったのである。そして、広くもない座敷を、隅から隅へ、ちょうど動物園の熊のように、ノソリノソリと歩きはじめたのである。私どもは、二人とも、日頃からずいぶん気まぐれなほうであった。話のあいだに突然立ち上がるなどは、そう珍らしいことでもなかった。けれども、この場合の松村の態度は、私をして沈黙せしめたほども、変っていたのである。松村はそうして、部屋の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、約三十分くらい歩きまわっていた。私はだまって、一種の興味を持って、それを眺めていた。その光景は、若し傍観者があって、これを見たら、おそろしく気ちがいじみたものであったにちがいないのである。
そうこうするうちに、私は腹がへってきたのである。ちょうど夕食時分ではあったし、湯にはいった私は余計に腹がへったような気がしたのである。そこで、まだ気ちがいじみた歩行を続けている松村に、飯屋に行かぬかと勧めてみたところが、「すまないが、君一人で行ってくれ」という返事だ。仕方なく、私はその通りにした。
さて、満腹した私が、飯屋から帰ってくると、なんと珍らしいことには、松村が按摩を呼んで、もませていたではないか。以前は私どものお馴染であった若い盲唖学校の生徒が、松村の肩につかまって、しきりと何か、持ち前のおしゃべりをやっているのであった。
「君、贅沢だと思っちゃいけない。これにはわけがあるんだ。まあ、しばらく黙って見ていてくれ、そのうちにわかるから」
松村は、私の機先を制して、非難を予防するようにいった。きのう、質屋の番頭を説きつけて、むしろ強奪して、やっと手に入れた二十円なにがしの共有財産の寿命が、按摩賃六十銭だけ縮められることは、この際、贅沢にちがいなかったからである。
私は、これらの、ただならぬ松村の態度について、或る言い知れぬ興味を覚えた。そこで、私は自分の机の前に坐って、古本屋で買ってきた講談本か何かを、読みふけっている様子をした。そして、実は松村の挙動をソッと盗み見ていたのである。
按摩が帰ってしまうと、松村は彼の机の前に坐って、何か紙きれに書いたものを読んでいるようであったが、やがて彼は懐中からもう一枚の紙切れを取り出して、机の上に置いた。それは、ごく薄い二寸四方ほどの小さな紙切れで、細かい文字が一面に書いてあった。彼はこの二枚の紙片を、熱心に比較研究しているようであった。そして、鉛筆で新聞紙の余白に、何か書いては消し、書いては消ししていた。そんなことをしているあいだに、電灯がついたり、表通りを豆腐屋のラッパが通り過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りが、しばらく続いたり、それが途絶えると、シナ蕎麦屋の哀れげなチャルメラの音が聞こえたりして、いつの間にか夜が更けたのである。それでも、松村は食事さえ忘れて、この妙な仕事に没頭していた。私はだまって自分の床を敷いて、ゴロリと横になると、退屈にも、一度読んだ講談本を、さらに読み返しでもするほかはなかったのである。
「君、東京地図はなかったかしら」
突然、松村がこういって、私の方を振り向いた。
「さア、そんなものはないだろう。下のおかみさんにでも聞いてみたらどうだ」
「ウン、そうだね」
彼はすぐに立ち上がって、ギシギシという梯子段を、下へ降りて行ったが、やがて、一枚の折り目から破れそうになった東京地図を借りてきた。そして、また机の前に坐ると、熱心な研究をつづけるのであった。私はますます募る好奇心をもって、彼の様子を眺めていた。
下の時計が九時を打った。松村は、長いあいだの研究が一段落を告げたと見えて、机の前から立ち上がって、私の枕もとへ坐った。そして少し言いにくそうに、
「君、ちょっと、十円ばかり出してくれないか」
というのだ。私は松村のこの不思議な挙動については、読者にはまだ明かしてないところの、深い興味を持っていた。それゆえ、彼に十円〔註、今の四千円ほど〕という、当時の私どもに取っては、全財産の半分であったところの大金を与えることに、少しも異議を唱えなかった。
松村は、私から十円札を受け取ると、古袷一枚に、皺くちゃのハンチングといういでたちで、何もいわずに、プイとどこかへ出て行った。
一人取り残された私は、松村のその後の行動についていろいろ想像をめぐらした。そして独りほくそ笑んでいるうちに、いつか、ついうとうとと夢路に入った。しばらくして松村の帰ったのを、夢うつつに覚えていたが、それからは、何も知らずに、グッスリと朝まで寝込んでしまったのである。
ずいぶん朝寝坊の私は、十時頃でもあったろうか、眼を醒ましてみると、枕もとに妙なものが立っているのに驚かされた。というのは、そこには縞の着物に、角帯を締めて、紺の前垂れをつけた一人の商人風の男が、ちょっとした風呂敷包みを背負って立っていたのである。
「なにを妙な顔をしているんだ。おれだよ」
驚いたことには、その男が、松村武の声をもって、こういったのである。よくよく見ると、それはいかにも松村にちがいないのだが、服装がまるで変っていたので、私はしばらくのあいだ、何がなんだか、わけがわからなかったのである。
「どうしたんだ。風呂敷包みなんか背負って。それに、そのなりはなんだ。おれはどこの番頭さんかと思った」
「シッ、シッ、大きな声だなあ」松村は両手で抑えつけるような恰好をして、ささやくような小声で、「大へんなお土産を持ってきたよ」というのである。
「君はこんなに早く、どこかへ行ってきたのかい」
私も、彼の変な挙動につられて、思わず声を低くして聞き返した。すると、松村は、抑えつけても抑えつけても、溢れ出すようなニタニタ笑いを、顔一杯にみなぎらせながら、彼の口を私の耳のそばまで持ってきて、前よりはいっそう低い、あるかなきかの声で、こういったものである。
「この風呂敷包みの中には、君、五万円という金がはいっているのだよ」
下
読者もすでに想像されたであろうように、松村武は、問題の紳士泥棒の隠しておいた五万円を、どこからか持ってきたのであった。それは、かの電機工場へ持参すれば、五千円の懸賞金にあずかることのできる五万円であった。だが、松村はそうしないつもりだといった。そして、その理由を次のように説明した。
彼にいわせると、その金をばか正直に届け出るのは、愚かなことであるばかりでなく、同時に、非常に危険なことであるというのであった。その筋の専門の刑事たちが、約一カ月もかかって探しまわっても、発見されなかったこの金である。たとえこのまま、われわれが頂戴しておいたところで、誰が疑うもんか。われわれにしたって、五千円より五万円の方が有難いではないか。それよりも恐ろしいのは、あいつ、紳士泥棒の復讐である。これが恐ろしい。刑期の延びるのを犠牲にしてまで隠しておいたこの金を、横取りされたと知ったら、あいつ、あの悪事にかけては天才といってもよいところのあいつが、見逃しておこうはずがない――松村はむしろ泥棒を畏敬しているような口ぶりであった――このまま黙っておってさえあぶないのに、これを持ち主に届けて、懸賞金を貰いなどしようものなら、すぐ松村武の名が新聞に出る。それは、わざわざ、あいつに、かたきのありかを教えるようなものではないか、というのである。
「だが、少なくとも現在においては、おれはあいつに打ち勝ったのだ。え、君、あの天才泥棒に打ち勝ったのだ。この際、五万円もむろん有難いが、それよりも、おれはこの勝利の快感でたまらないんだ。おれの頭はいい、少なくとも貴公よりはいいということを認めてくれ。おれをこの大発見に導いてくれたものは、きのう君がおれの机の上にのせておいた、煙草のつり銭の二銭銅貨なんだ。あの二銭銅貨のちょっとした点について、君が気づかないでおれが気づいたということはだ、そして、たった一枚の二銭銅貨から、五万円という金を、え、君、二銭の二百五十万倍であるところの五万円という金を探しだしたのは、これはなんだ。少なくとも、君の頭よりは、おれの頭の方がすぐれているということじゃないかね」
二人の多少知識的な青年が、ひと間のうちに生活していれば、そこに、頭のよさについての競争が行なわれるのは、至極あたり前のことであった。松村武と私とは、その日ごろ、暇にまかせて、よく議論を戦わしたものであった。夢中になってしゃべっているうちに、いつの間にか夜が明けてしまうようなことも珍らしくなかった。そして、松村も私も互に譲らず、「おれの方が頭がいい」ことを主張していたのである。そこで、松村がこの手柄――それはいかにも大きな手柄であった――をもって、われわれの頭の優劣を証拠立てようとしたわけである。
「わかった、わかった。威張るのは抜きにして、どうしてその金を手に入れたか、その筋道を話してみろ」
「まあ急ぐな。おれは、そんなことよりも、五万円のつかいみちについて考えたいと思っているんだ。だが、君の好奇心を充たすために、ちょっと、簡単に苦心談をやるかな」
しかし、それは決して私の好奇心を充たすためばかりではなくて、むしろ彼自身の名誉心を満足させるためであったことはいうまでもない。それはともかく、彼は次のように、いわゆる苦心談を語り出したのである。私は、それを、心安だてに、蒲団の中から、得意そうに動く彼の顎のあたりを見上げて、聞いていた。
「おれは、きのう君が湯へ行ったあとで、あの二銭銅貨をもてあそんでいるうちに、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べてみると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見たまえ、これだ」
彼は、机の引出しから、その二銭銅貨を取り出して、ちょうど練り薬の容器をあけるように、ネジを廻しながら、上下にひらいた。
「そら、ね、中が空虚になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか。ちょっと見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、おれは思い当ったことがあるんだ。おれはいつか牢破りの囚人が用いるという鋸の話を聞いたことがある。それは懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸みたようなものを、二枚の銅貨を擦りへらして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、なんなく切り破って脱牢するんだそうだ。なんでも元は外国の泥棒から伝わったものだそうだがね。そこでおれは、この二銭銅貨も、そうした泥棒の手から、どうかしてまぎれ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、おれの好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発したところの、一枚の紙片がその中から出てきたんだ。それはこれだ」
それは、ゆうべ松村が一生懸命に研究していた、あの薄い小さな紙片であった。その二寸四方ほどの日本紙には、細かい字で左のような、わけのわからぬものが書きつけてあった。
[#ここから2字下げ]
陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、
弥、無阿弥陀、無陀、
弥、無弥陀仏、無陀、陀、
南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、
無陀、南仏、南陀、無弥、
無阿弥陀仏、弥、無阿陀、
無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、
南弥、南無弥仏、無阿弥陀、
南無弥陀、南弥、南無弥仏、
無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、
無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、
南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、
弥、無弥陀仏、無陀、
南無阿弥陀、阿陀仏、
[#ここで字下げ終わり]
「この坊主の寝言みたようなものは、なんだと思う。おれは最初は、いたずら書きだと思った。前非を悔いた泥棒かなんかが、罪亡ぼしに南無阿弥陀仏をたくさん並べて書いたのかと思った。そして、牢破りの道具の代りに銅貨の中へ入れておいたのじゃないかと思った。が、それにしては、南無阿弥陀仏と続けて書いてないのがおかしい。陀とか、無弥仏とか、どれも南無阿弥陀仏の六字の範囲内ではあるが、完全に書いたのはひとつもない。一字きりのやつもあれば、四字五字のやつもある。おれは、こいつはただのいたずら書きではないと感づいた。ちょうどそのとき、君が湯屋から帰ってきた足音がしたんだ。おれは急いで、二銭銅貨とこの紙片を隠した。どうして隠したというのか。おれにもはっきりわからないが、たぶんこの秘密を独占したかったのだろう。そしてすべてが明らかになってから君に見せて、自慢したかったのだろう。ところが、君が梯子段を上がっているあいだに、おれの頭に、ハッとするようなすばらしい考えが閃いたんだ。
というのは、例の紳士泥棒のことだ。五万円の紙幣をどこへ隠したのか知らないが、まさか、刑期が終るまでそのままでいようとは、あいつだって考えないだろう。そこで、あいつには、あの金を保管させるところの手下乃至は相棒といったようなものがあるにちがいない。いま仮りにだ、あいつが不意の捕縛のために、五万円の隠し場所を相棒に知らせる暇がなかったとしたらどうだ。あいつとしては、未決監にいるあいだに、何かの方法でそのなかまに通信するほかはないのだ。このえたいのしれない紙片が、若しやその通信文であったら……こういう考えがおれの頭に閃いたんだ。むろん空想さ。だが、ちょっと甘い空想だからね。そこで、君に二銭銅貨の出所についてあんな質問をしたわけだ。ところが君は、煙草屋の娘が監獄の差入屋へ嫁入っているというではないか。未決監にいる泥棒が外部と通信しようとすれば、差入屋を媒介者にするのが最も容易だ。そして、若しその目論見が何かの都合で手違いになったとしたら、その通信は差入屋の手に残っているはずだ。それが、その家の女房によって親類の家に運ばれないと、どうして言えよう。さア、おれは夢中になってしまった。
さて、若しこの紙片の無意味な文字がひとつの暗号文であるとしたら、それを解くキイはなんだろう。おれはこの部屋の中を歩きまわって考えた。可なりむずかしい、全部拾ってみても、南無阿弥陀仏の六字と読点だけしかない。この七つの記号をもってどういう文句が綴れるだろう。おれは暗号文については、以前にちょっと研究したことがあるんだ。シャーロック・ホームズじゃないが、百六十種くらいの暗号の書き方はおれだって知っているんだ。で、おれは、おれの知っている限りの暗号記法を、ひとつひとつ頭に浮かべてみた。そして、この紙切れのやつに似ているのを探した。ずいぶん手間取った。確か、そのとき君が飯屋へ行くことを勧めたっけ。おれはそれをことわって一生懸命考えた。で、とうとう少しは似た点があると思うのを二つだけ発見した。そのひとつはベイコンの考案した two letters 暗号法というやつで、それはaとbとのたった二字のいろいろな組み合わせで、どんな文句でも綴ることができるのだ。たとえば fly という言葉を現わすためには aabab, aabba, ababa. と綴るといった調子のものだ。もひとつは、チャールズ一世の王朝時代に、政治上の秘密文書に盛んに用いられたやつで、アルファベットの代りに、ひと組の数字を用いる方法だ。たとえば……」
松村は机の隅に紙片をのべて、左のようなものを書いた。
[#ここから2字下げ]
A B C D…………
1111 1112 1121 1211………
[#ここで字下げ終わり]
「つまりAの代りには一千百十一を置き、Bの代りには一千百十二を置くといったふうのやり方だ。おれは、この暗号も、それらの例と同じように、いろは四十八字を南無阿弥陀仏をいろいろに組み合わせて置き換えたものだろうと想像した。さて、こいつを解く方法だが、これが英語かフランス語なら、ポーの Gold bug にあるようにeを探しさえすれば訳はないんだが、困ったことに、こいつは日本語にちがいないんだ。念のためにちょっとポー式のディシファリングをやってみたが、少しも解けない。おれはここでハタと行き詰まってしまった。六字の組み合わせ、六字の組み合わせ、おれはそればかり考えて、また部屋を歩きまわった。おれは六字という点に、何か暗示がないかと考えた。そして六つの数でできているものを思い出してみた。
めったやたらに六という字のつくものを並べているうちに、ふと、講談本で覚えたところの真田幸村の旗印の六連銭を思い浮かべた。そんなものが暗号になんの関係もあるはずはないのだが、どういうわけか『六連銭』と、口の中でつぶやいた。すると、するとだ。インスピレーションのように、おれの記憶から飛び出したものがある。それは、六連銭をそのまま縮小したような形をしている盲人の使う点字であった。おれは思わず『うまい』と叫んだよ。だって、なにしろ五万円の問題だからなあ。おれは点字について詳しくは知らなかったが、六つの点の組み合わせということだけは記憶していた。そこで、さっそく按摩を呼んできて伝授にあずかったというわけだ。これが按摩の教えてくれた点字のいろはだ」
そういって松村は、机の引出しから一枚の紙片を取り出した。それには、点字の五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった。
「今、南無阿弥陀仏を、左からはじめて三字ずつ二行に並べれば、この点字と同じ配列になる。南無阿弥陀仏の一字ずつが、点字のおのおのの一点に符合するわけだ。そうすれば、点字のアは南、イは南無と、いうぐあいに当てはめることができる。この調子で解けばいいのだ。そこで、これは、おれがゆうべこの暗号を解いた結果だがね。いちばん上の行が原文の南無阿弥陀仏を点字と同じ配列にしたもの、まん中の行がそれに符合する点字、そしていちばん下の行が、それを飜訳したものだ」
こういって、松村はまたもや図に示したような紙片を取り出したのである。
「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン。つまり、五軒町の正直堂からおもちゃの紙幣を受け取れ、受取人の名は大黒屋商店というのだ。意味はよくわかる。だが、なんのためにおもちゃの紙幣なんかを受け取るのだろう。そこでおれはまた考えさせられた。しかし、この謎は割合い簡単に解くことができた。そして、おれはつくづくあの紳士泥棒の、頭がよくって敏捷で、なおその上に小説家のようなウイットを持っていることに感心してしまった。え、君、おもちゃの紙幣とはすてきじゃないか。
おれはこう想像したんだ。そして、それが幸いにもことごとく的中したわけだがね。紳士泥棒は、万一の場合をおもんぱかって、盗んだ金の最も安全な隠し場所を、あらかじめ用意しておいたにちがいないんだ。さて世の中にいちばん安全な隠し方は、隠さないことだ。衆人の目の前に曝しておいて、しかも誰もがそれに気づかないというような隠し方が最も安全なんだ。恐るべきあいつは、この点に気づいたんだ。と想像するんだがね。で、おもちゃの紙幣という巧妙なトリックを考え出した。おれは、この正直堂というのは、たぶんおもちゃの紙幣なんかを印刷する店だと想像した。――これも当っていたがね。――そこへ、あいつは大黒屋商店という名で、あらかじめおもちゃの紙幣を注文しておいたんだ。
近頃、本物と寸分違わないようなおもちゃの紙幣が、花柳界などで流行しているそうだ。それは誰かから聞いたっけ。ああ、そうだ。君がいつか話したんだ。ビックリ函だとか、本物とちっとも違わない泥で作った菓子や果物だとか、蛇のおもちゃだとか、ああしたものと同じように、女の子をびっくりさせて喜ぶ粋人のおもちゃだといってね。だから、あいつが本物と同じ大きさの紙幣を注文したところで、ちっとも疑いを受けるはずはないんだ。そうしておいて、あいつは、本物の紙幣をうまく盗み出すと、たぶんその印刷屋へ忍び込んで、自分の注文したおもちゃの紙幣と擦り換えておいたんだ。そうすれば、注文主が受け取りに行くまでは、五万円という天下通用の紙幣が、おもちゃとして、安全に印刷屋の物置に残っているわけだからね。
これは単におれの想像かもしれない。だが、ずいぶん可能性のある想像だ。おれはとにかく当ってみようと決心した。地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかった。そこでいよいよおもちゃの紙幣を受け取りに行くのだが、こいつがちょっとむずかしい。というのは、このおれが受け取りに行ったという痕跡を、少しだって残してはならないんだ。もしそれがわかろうものなら、あの恐ろしい悪人がどんな復讐をするか、思っただけでも、気の弱いおれはゾッとするからね。とにかく、できるだけおれでないように見せなければいけない。そういうわけで、あんな変装をしたんだ。おれはあの十円で、頭の先から足の先まで身なりを変えた。これを見たまえ、これなんかちょっといい思いつきだろう」
そういって、松村はそのよく揃った前歯を出して見せた。そこには、私がさきほどから気づいていたところの、一本の金歯が光っていた。彼は得意そうに、指の先でそれをはずして、私の目の前へつき出した。
「これは夜店で売っている、ブリキにメッキしたやつだ。ただ歯の上に冠せておくだけの代物さ。わずか二十銭のブリキのかけらが大した役に立つからね。金歯というやつはひどく人の注意を惹くものだ。だから、後日おれを探すやつがあるとしたら、先ずこの金歯を目印にするだろうじゃないか。
これだけの用意ができると、おれはけさ早く五軒町へ出掛けた。ひとつ心配だったのはおもちゃの紙幣の代金のことだった。泥棒のやつ、きっと、転売なんかされることを恐れて、前金で支払っておいただろうとは思ったが、若しまだだったら、少なくとも二、三十円は入用だからね。あいにくわれわれにはそんな金の持ち合わせがない。なあに、なんとかごまかせばいいと高をくくって出掛けた。うまいぐわいに、印刷屋は金のことなんか一こともいわないで、品物を渡してくれたよ。かようにして、まんまと首尾よく五万円を横取りしたわけさ。……さてそのつかいみちだ。どうだ何か考えはないかね」
松村が、これほど興奮して、これほど雄弁にしゃべったことは珍らしい。私はつくづく五万円という金の偉力に驚嘆した。私はその都度、形容する煩を避けたが、松村がこの苦心談をしているあいだの嬉しそうな顔というものは、まったく見ものであった。彼ははしたなく喜ぶ顔を見せまいとして、大いに努力しておったようであるが、努めても、努めても、腹の底から込み上げてくる、なんともいえぬ嬉しそうな笑顔は隠すことができなかった。話のあいだあいだにニヤリと洩らす、その形容のしようもない、気ちがいのような笑いを見ていると、なんだか恐ろしくなってきた。昔千両の富くじに当たって発狂した貧乏人があったという話もあるのだから、松村が五万円に狂喜するのは決して無理ではなかった。
私はこの喜びがいつまでも続けかしと願った。松村のためにそれを願った。だが、私には、どうすることもできぬひとつの事実があった。止めようにも止めることのできない笑いが爆発した。私は笑うんじゃないと自分自身を叱りつけたけれども、私の中の小さないたずら好きの悪魔が、そんなことにはへこたれないで私をくすぐった。私は一段と高い声で、最もおかしい笑劇を見ている人のように笑った。松村はあっけにとられて、笑いころげる私を見ていた。そしてちょっと変なものにぶっつかったような顔をして言った。
「君、どうしたんだ」
私はやっと笑いを噛み殺してそれに答えた。
「君の想像力は実にすばらしい。よくそれだけの大仕事をやった。おれはきっと今までの数倍も君の頭を尊敬するようになるだろう。なるほど君のいうように、頭のよさでは敵わない。だが、君は、現実というものがそれほどロマンチックだと信じているのかい」
松村は返事もしないで、一種異様の表情をもって私を見つめた。
「言いかえれば、君は、あの紳士泥棒にそれほどのウイットがあると思うのかい。君の想像は、小説としては実に申し分がないことを認める。けれども世の中は小説よりはもっと現実的だからね。そして、若し小説について論じるのなら、おれは少し君の注意を惹きたい点がある。それは、この暗号文には、もっとほかの解き方はないかということだ。君の飜訳したものを、もう一度飜訳する可能性はないかということだ。たとえばだ、この文句を八字ずつ飛ばして読むというようなことはできないことだろうか」
私はそういって、松村の書いた暗号の飜訳文に左のような印をつけた。
|ゴ《○》ケンチヨーシヨー|ジ《○》キドーカラオモチ|ヤ《○》ノサツヲウケトレ|ウ《○》ケトリニンノナハ|ダ《○》イコクヤシヨーテ|ン《○》
「ゴジヤウダン。君、この『御冗談』というのはなんだろう。エ、これが偶然だろうか。誰かのいたずらだという意味ではないだろうか」〔註〕
松村は物をもいわず立ち上がった。そして五万円の札束だと信じきっているところの、かの風呂敷包みを私の前へ持ってきた。
「だが、この事実をどうする。五万円という金は、小説の中からは生れないぞ」
彼の声には、果たし合いをするときのような真剣さがこもっていた。私は恐ろしくなった。そして、私のちょっとしたいたずらの、予想外に大きな効果を、後悔しないではいられなかった。
「おれは、君に対して実に済まぬことをした。どうか許してくれ。君がそんなに大切にして持ってきたのは、やはりおもちゃの紙幣なんだ。まあそれをひらいてよく調べてみたまえ」
松村は、ちょうど闇の中で物を探るような、一種異様の手つきで――それを見て、私はますます気の毒になった――長いあいだかかって風呂敷包みを解いた。そこには、新聞紙で丁寧に包んだ二つの四角な包みがあった。そのうちのひとつは新聞紙が破れて中味が現われていた。
「おれは途中でこれをひらいて、この目で見たんだ」
松村は喉につかえたような声でいって、なおも新聞紙をすっかり取り去った。
それは、いかにも真にせまったにせ物であった。ちょっと見たのでは、すべての点が本物であった。けれども、よく見ると、それらの紙幣の表面には、圓という字の代りに團という字が、大きく印刷されてあった。十圓、二十圓ではなくて、十團、二十團であった。松村はそれを信ぜぬように、幾度も幾度も見直していた。そうしているうちに、彼の顔からは、あの笑いの影がすっかり消え去ってしまった。そして、あとには深い深い沈黙が残った。私は済まぬという気持で一杯であった。私は、私のやり過ぎたいたずらについて説明した。けれども、松村はそれを聞こうともしなかった。その日一日、おしのようにだまり込んでいた。
これで、このお話はおしまいである。けれども読者諸君の好奇心を充たすためには、私のいたずらについて一こと説明しておかねばならぬ。正直堂という印刷屋は実は私の遠い親戚であった。私は或る日、せっぱ詰まった苦しまぎれに、そのふだんは不義理を重ねているところの親戚のことを思い出した。そして「いくらでも金の都合がつけば」と思って、進まぬながら久し振りでそこを訪問した。――むろんこのことについては松村は少しも知らなかった。――借金の方は予想通り失敗であったが、その時はからずも、あの本物と少しも違わないような、その時は印刷中であったところのおもちゃの紙幣を見たのである。そしてそれが大黒屋という長年の御得意先の注文品だということを聞いたのである。
私はこの発見を、われわれの毎日の|話《わ》|柄《へい》となっていた、あの紳士泥棒の一件と結びつけて、ひと芝居打ってみようと、くだらぬいたずらを思いついたのであった。それは、私も松村と同様に、頭のよさについて、私の優越を示すような材料が掴みたいと、日頃から熱望していたからでもあった。
あのぎこちない暗号文は、もちろん私の作ったものであった。しかし、私は松村のように外国の暗号史に通じていたわけではない。ただちょっとした思いつきにすぎなかったのだ。煙草屋の娘が差入屋へ嫁いでいるというようなことも、やはりでたらめであった。第一、その煙草屋に娘があるかどうかさえ怪しかった。ただ、このお芝居で、私の最も危ぶんだのは、それらのドラマチックな方面ではなくて、最も現実的な、しかし全体から見ては極めて些細な、少し滑稽味を帯びた、ひとつの点であった。それは私が見たところのあの紙幣が、松村が受け取りに行くまで、配達されないで、印刷屋に残っているかどうかということであった。
おもちゃの代金については、私は少しも心配しなかった。私の親戚と大黒屋とは延べ取り引であったし、その上もっといいことは、正直堂が極めて原始的な、ルーズな商売のやり方をしていたことで、松村は別段、大黒屋の主人の受取証を持参しないでも、失敗するはずはなかったからである。
最後にあのトリックの出発点となった二銭銅貨については、私はここに詳しい説明を避けねばならぬことを残念に思う。若し、私がへまなことを書いては、後日、あの品を私にくれた或る人が、とんだ迷惑をこうむるかもしれないからである。読者は、私が偶然それを所持していたと思ってくださればよいのである。
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〔註〕ゴジヤウダンは旧仮名遣い。全文新仮名遣いに改めたが、これは直せなかった。
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心理試験
1
|蕗《ふき》|屋《や》|清《せい》|一《いち》|郎《ろう》が、なぜこれからしるすような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機については詳しいことはわからぬ。またたとえわかったとしても、このお話には大して関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通よっていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼は稀に見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好きな読書や思索が充分できないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。そのあいだ、彼は迷いに迷い、考えに考えた挙句、結局やっつけることに決心したのだ。
ある時、彼はふとしたことから、同級生の斎藤勇と親しくなった。それが事の起こりだった。はじめはむろんなんの成心があったわけではなかった。しかし中途から、彼はあるおぼろげな目的を抱いて斎藤に接近して行った。そして、接近して行くにしたがって、そのおぼろげな目的がだんだんはっきりしてきた。
斎藤は一年ばかり前から、山の手の或る淋しい屋敷町の素人屋に部屋を借りていた。その家のあるじは、官吏の未亡人で、といっても、もう六十に近い老婆だったが、亡夫の残して行った数軒の借家から上がる利益で、充分生活ができるにもかかわらず、子供を恵まれなかった彼女は、「ただもうお金がたよりだ」といって、確実な知り合いに小金を貸したりして、少しずつ貯金をふやして行くのをこの上もない楽しみにしていた。斎藤に部屋を貸したのも、一つは女ばかりの暮らしでは不用心だからという理由もあっただろうが、一方では、部屋代だけでも、毎月の貯金額がふえることを勘定に入れていたに違いない。そして、彼女は、今どきあまり聞かぬ話だけれど、守銭奴の心理は、古今東西を通じて同じものと見えて、表面的な銀行預金のほかに、莫大な現金を、自宅のある秘密な場所へ隠しているという噂だった。
蕗屋はこの金に誘惑を感じたのだ。あのおいぼれが、そんな大金を持っているということになんの価値がある。それをおれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわめて合理的なことではないか。簡単に言えば、これが彼の理論だった。そこで彼は、斎藤を通じてできるだけ老婆についての知識を得ようとした。その大金の秘密な隠し場所を探ろうとした。しかし彼は、ある時、斎藤が偶然その隠し場所を発見したという話を聞くまでは、別に確定的な考えを持っていたわけでもなかった。「君、あの婆さんにしては感心な思いつきだよ、たいてい縁の下とか、天井裏とか、金の隠し場所なんてきまっているものだが、婆さんのはちょっと意外な場所なのだよ。あの奥座敷の床の間に、大きな松の植木鉢が置いてあるだろう。あの植木鉢の底なんだよ、その隠し場所がさ。どんな泥棒だってまさか植木鉢に金が隠してあろうとは気づくまいからね。婆さんは、まあ言ってみれば、守銭奴の天才なんだね」
その時、斎藤はこう言って面白そうに笑った。
それ以来、蕗屋の考えは少しずつ具体的になって行った。老婆の金を自分の学資に振り替える径路の一つ一つについて、あらゆる可能性を勘定に入れた上、最も安全な方法を考え出そうとした。それは予想以上に困難な仕事だった。これに比べれば、どんな複雑な数学の問題だって、なんでもなかった。彼は|先《さき》にもいったように、その考えを纏めるだけのために半年をついやしたのだ。
難点は、言うまでもなく、いかにして刑罰をまぬがれるかということにあった。倫理上の障礙、即ち良心の苛責というようなことは、彼にはさして問題ではなかった。彼はナポレオンの大掛りな殺人を罪悪とは考えないで、むしろ讃美すると同じように、才能のある青年が、その才能を育てるために、棺桶に片足ふみ込んだおいぼれを犠牲に供するのを、当然のことだと思った。
老婆はめったに外出しなかった。終日黙々として奥の座敷に丸くなっていた。たまに外出することがあっても、留守中は、田舎者の女中が彼女の命を受けて正直に見張り番を勤めた。蕗屋のあらゆる苦心にもかかわらず、老婆の用心には少しの隙もなかった。老婆と斎藤のいない時を見はからって、この女中をだまして使いに出すか何かして、その隙に例の金を植木鉢から盗み出したらと、蕗屋は最初そんなふうに考えてみた。しかしそれは甚だ無分別な考えだった。たとえ少しのあいだでも、あの家にただ一人でいたことがわかっては、もうそれだけで充分嫌疑をかけられるではないか。彼はこの種のさまざまな愚かな方法を、考えては打ち消し、考えては打ち消すのに、たっぷり一カ月をついやした。それはたとえば、斎藤か、女中か、または普通の泥棒が盗んだと見せかけるトリックだとか、女中一人の時に、少しも音を立てないで忍び込んで、彼女の眼にふれないように盗み出す方法だとか、夜中、老婆の眠っているあいだに仕事をする方法だとか、その他考え得るあらゆる場合を彼は考えた。しかし、どれにもこれにも、発覚の可能性が多分に含まれていた。
どうしても老婆をやっつけるほかはない。彼はついにこの恐ろしい結論に達した。老婆の金がどれほどあるかよく分らないけれど、いろいろの点から考えて、殺人の危険を冒してまで執着するほど大した金額だとは思われぬ。たかの知れた金のために、なんの罪もない一人の人間を殺してしまうというのは、あまりに残酷過ぎはしないか。しかし、たとえそれが世間の標準から見ては、大した金額でなくとも、貧乏な蕗屋には充分満足できるのだ。のみならず、彼の考えによれば、問題は金額の多少ではなくて、ただ犯罪の発覚を絶対に不可能ならしめることだった。そのためにはどんな大きな犠牲を払っても少しも差支えないのだ。
殺人は、一見、単なる窃盗よりは幾層倍も危険な仕事のように見える。だが、それは一種の錯覚にすぎないのだ。なるほど、発覚することを予想してやる仕事なれば、殺人はあらゆる犯罪のうちで最も危険に違いない。しかし、若し犯罪の軽重よりも、発覚の難易を目安にして考えたならば、場合によっては(たとえば蕗屋の場合の如きは)むしろ窃盗の方があぶない仕事なのだ。これに反して、悪事の発見者をバラしてしまう方法は、残酷なかわりに心配がない。昔からえらい悪人は、平気でズバリズバリと人殺しをやっている。彼らがなかなかつかまらなかったのは、かえってこの大胆な殺人のお蔭なのではなかろうか。
では、老婆をやっつけるとして、それに果たして危険がないか。この問題にぶっつかってから、蕗屋は数カ月のあいだ考え通した。その長いあいだに、彼がどんなふうに考えを育てて行ったか。それは物語が進むにしたがって、読者にわかることだから、ここには省くが、ともかく、彼は、到底普通人の考え及ぶこともできないほど、微に入り細をうがった分析並びに総合の結果、塵ひと筋の手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したのだ。
今はただ、時機のくるのを待つばかりだった。が、それは案外早くきた。ある日、斎藤は学校関係のことで、女中は使いに出されて、二人とも夕方まで決して帰宅しないことが確かめられた。それはちょうど蕗屋が最後の準備行為を終った日から二日目だった。その最後の準備行為というのは(これだけは前もって説明しておく必要がある)、かつて斎藤に例の隠し場所を聞いてから、もう半年も経過した今日、それがまだ当時のままであるかどうかを確かめるための或る行為だった。彼はその日(即ち老婆殺しの二日前)斎藤を訪ねたついでに、はじめて老婆の部屋である奥座敷にはいって、彼女といろいろ世間話を取りかわした。彼はその世間話を徐々にひとつの方向へ落として行った。そして、しばしば老婆の財産のこと、それを彼女がどこかへ隠しているという噂のあることなぞを口にした。彼は「隠す」という言葉の出るごとに、それとなく老婆の眼を注意した。すると、彼女の眼は、彼の予期した通り、その都度、床の間の植木鉢にそっと注がれているのだ。蕗屋はそれを数回繰り返して、もはや少しも疑う余地のないことを確かめることができた。
2
さて、いよいよ当日である。彼は大学の制服正帽の上に学生マントを着用し、ありふれた手袋をはめて目的の場所に向かった。彼は考えに考えた上、結局変装しないことにきめたのだ。もし変装をするとすれば、材料の買入れ、着換えの場所、その他さまざまの点で、犯罪発覚の手掛りを残すことになる。それはただ物事を複雑にするばかりで、少しも効果がないのだ。犯罪の方法は、発覚のおそれのない範囲においては、できる限り単純に、且つあからさまにすべきだと言うのが、彼の一種の哲学だった。要は、目的の家にはいるところを見られさえしなければいいのだ。たとえその家の前を通ったことがわかっても、それは少しもさしつかえない。彼はよくその辺を散歩することがあるのだから、当日も散歩をしたばかりだと言い抜けることができる。と同時に、一方において、彼が目的の家に行く途中で知合いの人に見られた場合(これはどうしても勘定に入れておかねばならぬ)、妙な変装をしている方がいいか、ふだんの通り制服正帽でいる方がいいか、考えてみるまでもないことだ。犯罪の時間についても、待ちさえすれば都合のよい夜が――斎藤も女中も不在の夜が――あることはわかっているのに、なぜ彼は危険な昼間を選んだか。これも服装の場合と同じく、犯罪から不必要な秘密性を除くためだった。
しかし、目的の家の前に立った時だけは、さすがの彼も、普通の泥棒の通りに、いやおそらく彼ら以上に、ビクビクして前後左右を見廻した。老婆の家は、両隣とは生垣で境した一軒建ちで、向こう側には、ある富豪の邸宅の高いコンクリート塀が、ずっと一丁もつづいていた。淋しい屋敷町だから、昼間でも時々はまるで人通りのないことがある。蕗屋がそこへたどりついた時も、いいあんばいに、通りには犬の子一匹見当らなかった。彼は、普通にひらけば、ばかにひどい金属性の音のする格子戸を、ソロリソロリと少しも音を立てないように開閉した。そして、玄関の土間から、ごく低い声で(これは隣家への用心だ)案内を乞うた。老婆が出てくると、彼は、斎藤のことについて少し内密に話したいことがあるという口実で、奥の間に通った。
座が定まると間もなく「あいにく女中がおりませんので」と断わりながら、老婆はお茶を汲みに立った。蕗屋はそれを、今か今かと待ち構えていたのだ。彼は老婆が襖をあけるために少し身をかがめた時、やにわにうしろから抱きついて、両腕を使って(手袋ははめていたけれど、なるべく指の痕をつけまいとしてだ)力まかせに首を絞めた。老婆は喉のところでグッというような音を出したばかりで、大してもがきもしなかった。ただ苦しまぎれに空をつかんだ指先が、そこに立ててあった屏風に触れて、少しばかり傷をこしらえた。それは二枚折りの時代のついた金屏風で、極彩色の六歌仙が描かれていたが、そのちょうど小野の小町の顔のところが、無残にも、ちょっとばかり破れたのだ。
老婆の息が絶えたのを見定めると、彼は死骸をそこへ横にして、ちょっと気になる様子で、その屏風の破れを眺めた。しかしよく考えてみれば、少しも心配することはない。こんなものがなんの証拠になるはずもないのだ。そこで、彼は目的の床の間へ行って、例の松の木の根元を持って、土もろともスッポリと植木鉢から引き抜いた。予期した通り、その底には油紙で包んだものが入れてあった。彼は落ちつきはらって、その包みを解いて、右のポケットから一つの新らしい大型の|札《さつ》|入《い》れを取り出し、紙幣を半分ばかり(充分五千円〔註、今の二百万円ぐらい〕はあった)その中に入れると、財布を元のポケットに納め、残った紙幣は油紙に包んで前の通りに植木鉢の底へ隠した。むろん、これは金を盗んだという証跡をくらますためだ。老婆の貯金の高は、老婆自身が知っていたばかりだから、それが半分になったとて誰も疑うはずはないのだ。
それから、彼はそこにあった座蒲団を丸めて老婆の胸にあてがい(これは血潮の飛ばぬ用心だ)、右のポケットから一梃のジャックナイフを取り出して刃をひらくと、心臓めがけてグサッと突き刺し、グイと一つえぐっておいて引き抜いた。そして、同じ座蒲団の布でナイフの血のりを綺麗に拭き取り、元のポケットへ納めた。彼は、絞め殺しただけでは、蘇生のおそれがあると思ったのだ。つまり昔のとどめを刺すというやつだ。では、なぜ最初から刃物を利用しなかったかというと、そうしては、ひょっとして自分の着物に血潮がかかるかもしれないことをおそれたのだ。
ここでちょっと、彼が紙幣を入れた札入れと、今のジャックナイフについて説明しておかなければならない。彼は、それらを、この目的だけに使うために、ある縁日の露店で買い求めたのだ。彼はその縁日の最も賑わう時分を見計らって、最も客のこんでいる店を選び、正札通りの小銭を投げ出して、品物を取ると、商人はもちろん、たくさんの客たちも、彼の顔を記憶する暇がなかったほど、非常に素早く姿をくらました。そして、この品物は両方とも、ごくありふれた、なんの目印もあり得ないようなものだった。
さて、蕗屋は、充分注意して少しも手掛りが残っていないのを確かめた後、襖のしまりも忘れないで、ゆっくりと玄関へ出てきた。彼はそこで靴の紐を締めながら、足跡のことを考えてみた。だが、その点はさらに心配がなかった。玄関の土間は堅いシックイだし、表の通りは天気つづきでカラカラに乾いていた。あとにはもう、格子戸をあけてそとへ出ることが残っているばかりだ。だが、ここでしくじるようなことがあっては、すべての苦心が水の泡だ。彼はじっと耳を澄まして、辛抱強く表通りの足音を聞こうとした……しんとしてなんの気はいもない。どこかの家で琴を|弾《だん》じる音がコロリンシャンと至極のどかに聞こえているばかりだ。彼は思い切って、静かに格子戸をあけた。そして、なにげなく、今いとまをつげたお客様だというような顔をして、往来に出た。思った通り、そこには人影もなかった。
その一劃は、どの通りも淋しい屋敷町だった。老婆の家から四、五丁隔たったところに、何かの神社の古い石垣が往来に面してずっと続いていた。蕗屋は、誰も見ていないのを確かめた上、そこの石垣の隙間から、兇器のジャックナイフと血のついた手袋とを落とし込んだ。そして、いつも散歩の時には立ち寄ることにしていた、付近の小さい公園を目ざしてブラブラと歩いて行った。彼は公園のベンチに腰をかけ、子供たちがブランコに乗って遊んでいるのを、いかにものどかな顔をして眺めながら、長い時間をすごした。
帰りがけに、彼は警察署へ立ち寄った。そして、
「今しがた、この札入れを拾ったのです。百円札がいっぱいはいっているようですから、お届けします」
と言いながら、例の札入れをさし出した。彼は警官の質問に答えて、拾った場所と時間と(もちろんそれは可能性のあるでたらめなのだ)、自分の住所姓名と(これはほんとうの)を答えた。そして、印刷した紙に彼の姓名や金額などを書き入れた受取証みたいなものを貰った。なるほど、これは非常に迂遠な方法には違いない。しかし安全という点では最上だ。老婆の金は(半分になったことは誰も知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、この札入れの遺失主は絶対に出るはずがない。一年の後には間違いなく蕗屋の手に落ちるのだ。そして、誰憚らず大っぴらに使えるのだ。彼は考え抜いた挙句この手段を採った。もしこれをどこかへ隠しておくとする。どうした偶然から他人に横取りされないものでもない。自分で持っているか。それはもう考えるまでもなく危険なことだ。のみならず、この方法によれば万一老婆が紙幣の番号を控えていたとしても、少しも心配がないのだ(もっともこの点はできるだけ探って、だいたい安心はしていたけれど)。
「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届けるやつがあろうとは、ほんとうにお釈迦さまでもご存じあるまいて」
彼は笑いをかみ殺しながら、心の中でつぶやいた。
翌日、蕗屋は、下宿の一室で、常と変らぬ安眠から眼覚めると、あくびをしながら、枕元に配達されていた新聞をひろげて、社会面を見渡した。彼はそこに意外な事実を発見してちょっと驚いた。だが、それは決して心配するような事柄ではなく、かえって彼のためには予期しない仕合わせだった。というのは、友人の斎藤が嫌疑者として挙げられたのだ。嫌疑を受けた理由は、彼が身分不相応の大金を所持していたからだと書いてある。
「おれは斎藤の最も親しい友だちなのだから、ここで警察へ出頭して、いろいろ問い糺すのが自然だな」
蕗屋はさっそく着物を着更えると、あわてて警察署へ出掛けた。それは彼がきのう札入れを届けたのと同じ署だ。なぜ札入れを届けるのを管轄の違う警察にしなかったか、いやそれとてもまた、彼一流の無技巧主義でわざとしたことなのだ。彼は過不足のない程度に心配そうな顔をして、斎藤に会わせてくれと頼んだ。しかし、それは予期した通り許されなかった。そこで、彼は斎藤が嫌疑を受けたわけをいろいろと問い糺して、ある程度まで事情を明らかにすることができた。
蕗屋は次のように想像した。
きのう、斎藤は女中よりも先に家へ帰った。それは蕗屋が目的を果たして立ち去ると間もなくだった。そして、当然、老婆の死骸を発見した。しかし、ただちに警察に届ける前に、彼はあることを思いついたに違いない。というのは、例の植木鉢だ。もしこれが盗賊の仕業なれば、或いはあの中の金がなくなっていはしまいか。多分それは、ちょっとした好奇心からだったろう。彼はそこを調べてみた。ところが案外にも金の包みがちゃんとあったのだ。それを見て斎藤が悪心を起こしたのは、実に浅はかな考えではあるが、無理もないことだ。その隠し場所は誰も知らないこと、老婆を殺した犯人が盗んだという解釈がくだされるに違いないこと、こうした事情は、誰にしても避けがたい強い誘惑に違いない。それから彼はどうしたか。警察の話では、なにくわぬ顔をして人殺しのあったことを警察へ届け出たということだ。ところが、なんという無分別な男だ。彼は盗んだ金を腹巻のあいだに入れたまま平気でいたのだ。まさかその場で身体検査をされようとは想像しなかったとみえる。
「だが、待てよ。斎藤は一体どういうふうに弁解するだろう。次第によっては危険なことになりはしないかな」蕗屋はそれをいろいろと考えてみた。「彼は金を見つけられた時、『自分のだ』と答えたかもしれない。なるほど老婆の財産の多寡や隠し場所は誰も知らないのだから、一応はその弁明も成り立つであろう。しかし、金額があまり多すぎるではないか。で、結局、彼は事実を申し立てることになるだろう。でも、裁判所がそれを承認するかな。ほかに嫌疑者が出ればともかく、それまでは彼を無罪にすることは先ずあるまい。うまく行けば彼が殺人罪に問われるかも知れたものではない。そうなればしめたものだが……ところで、予審判事が彼を問い詰めて行くうちに、いろいろな事実がわかってくるだろうな。たとえば、彼が老婆の金の隠し場所をおれに話したことだとか、兇行の二日前におれが老婆の部屋にはいって話し込んだことだとか、さては、おれが貧乏で学資にも困っていることだとか」
しかし、それらは皆、蕗屋がこの計画を立てる前にあらかじめ勘定に入れておいたことばかりだった。そして、どんなに考えても、斎藤の口からそれ以上彼にとって不利な事実が引き出されようとは考えられなかった。
蕗屋は警察から帰ると、遅れた朝食をとって(その時食事を運んできた女中に事件について話して聞かせたりした)、いつもの通り学校へ出た。学校では斎藤の噂で持ち切りだった。彼はなかば得意げにその噂話の中心になってしゃべった。
3
さて読者諸君、探偵小説というものの性質に通暁せられる諸君は、お話は決してこれきりで終らぬことを百も御承知であろう。いかにもその通りである。実を言えば、ここまではこの物語の前提にすぎないので、作者が是非、諸君に読んでもらいたいと思うのは、これから|後《あと》なのである。つまりかくも企らんだ蕗屋の犯罪がいかにして発覚したかという、そのいきさつについてである。
この事件を担当した予審判事〔註、当時の制度〕は有名な笠森氏であった。彼は普通の意味で名判官だったばかりでなく、ある多少風変りな趣味を持っているので一そう有名だった。それは彼が一種の素人心理学者だったことで、彼は普通のやり方ではどうにも判断のくだしようがない事件に対しては、最後に、その豊富な心理学上の知識を利用して、しばしば奏功した。彼は経歴こそ浅く、年こそ若かったけれど、地方裁判所の一予審判事としては、もったいないほどの俊才だった。今度の老婆殺し事件も、笠森判事の手にかかれば、もうわけなく解決することと、誰しも考えていた。当の笠森氏自身も同じように考えた。いつものように、この事件も、予審廷ですっかり調べ上げて、公判の場合には、いささかの面倒も残らぬように処理してやろうと思っていた。
ところが、取調べを進めるにしたがって、事件の困難なことがだんだんわかってきた。警察側は単純に斎藤勇の有罪を主張した。笠森判事とても、その主張に一理あることを認めないではなかった。というのは、生前老婆の家に出入りした形跡のある者は、彼女の債務者であろうが、借家人であろうが、単なる知合いであろうが、残らず召喚して、綿密に取調べたにもかかわらず、一人として疑わしい者はないのだ(蕗屋清一郎ももちろんそのうちの一人だった)。ほかに嫌疑者が現われぬ以上、さしずめ最も疑うべき斎藤勇を犯人と判断するほかはない。のみならず、斎藤にとって最も不利だったのは、彼が生来気の弱いたちで、一も二もなく調べ室の空気に恐れをなしてしまって、訊問に対してもハキハキ答弁のできなかったことだ。のぼせ上がった彼は、しばしば以前の陳述を取り消したり、当然知っているはずの事を忘れてしまったり、言わずともの不利な申立てをしたり、あせればあせるほど、ますます嫌疑を深くするばかりだった。それというのも、彼には老婆の金を盗んだという弱味があったからで、それさえなければ、相当頭のいい斎藤のことだから、いかに気が弱いといって、あのようなへまなまねはしなかったであろう。彼の立場は実際同情すべきものだった。しかし、それでは斎藤を殺人犯と認めるかというと、笠森氏にはどうもその自信がなかった。そこにはただ疑いがあるばかりなのだ。本人はもちろん自白せず、ほかにこれという確証もなかった。
こうして、事件から一カ月が経過した。予審はまだ終結しない。判事は少しあせり出していた。ちょうどその時、老婆殺しの管轄の警察署長から、彼のところへ一つの耳よりな報告がもたらされた。それは、事件の当日五千二百何十円在中の一個の札入れが、老婆の家から程遠からぬ××町において拾得されたが、その届け主が、嫌疑者の斎藤の親友である蕗屋清一郎という学生だったことを、係りの疎漏から今まで気づかずにいた。が、その大金の遺失者が一カ月たっても現われぬところをみると、そこに何か意味がありはしないか。念のために御報告するということだった。
困り抜いていた笠森判事は、この報告を受け取って、一道の光明を認めたように思った。さっそく蕗屋清一郎召喚の手続が取り運ばれた。ところが、蕗屋を訊問した結果は、判事の意気込みにもかかわらず、大して得るところもないように見えた。なぜ事件の当時取り調べた際、その大金拾得の事実を申立てなかったかという訊問に対して、彼は、それが殺人事件に関係があるとは思わなかったからだと答えた。この答弁には充分理由があった。老婆の財産は斎藤の腹巻から発見されたのだから、それ以外の金が、殊に往来に遺失されていた金が、老婆の財産の一部だと誰が想像しよう。
しかし、これが偶然であろうか。事件の当日、現場からあまり遠くない所で、しかも第一の嫌疑者の親友である男が(斎藤の申立てによれば彼は植木鉢の隠し場所をも知っているのだ)この大金を拾得したというのが、これが果たして偶然であろうか。判事はそこに何かの意味を発見しようとして悶えた。判事の最も残念に思ったのは、老婆が紙幣の番号を控えておかなかったことだ。それさえあれば、この疑わしい金が、事件に関係があるかないかも、ただちに判明するのだが。「どんな小さなことでも、何かひとつ確かな手掛りを掴みさえすればなあ」判事は全才能を傾けて考えた。現場の取り調べも幾度となく繰り返された。老婆の親族関係も充分調査した。しかし、なんの得るところもない。そうしてまた半月ばかりが徒らに経過した。
たったひとつの可能性は、と判事は考えた。蕗屋が老婆の貯金を半分盗んで、残りを元通りに隠しておき、盗んだ金を札入れに入れて、往来で拾ったように見せかけたと推定することだ。だがそんなばかなことがあり得るだろうか。その札入れもむろん調べてみたけれど、これという手掛りもない。それに、蕗屋は平気で、当日散歩のみちすがら、老婆の家の前を通ったと申立てているではないか。犯人にこんな大胆なことが言えるものだろうか。第一、最も大切な兇器の行方がわからぬ。蕗屋の下宿の家宅捜索の結果は、何物をももたらさなかったのだ。しかし、兇器のことをいえば、斎藤とても同じではないか。では一体だれを疑ったらいいのだ。
そこには確証というものが一つもなかった。署長らの言うように、斎藤を疑えば斎藤らしくもある。だが、また、蕗屋とても疑って疑えぬことはない。ただ、わかっているのは、この一カ月半のあらゆる捜索の結果、彼ら二人を除いては、一人の嫌疑者も存在しないということだった。万策尽きた笠森判事はいよいよ奥の手を出す時だと思った。二人の嫌疑者に対して、彼の従来しばしば成功した心理試験を施そうと決心した。
4
蕗屋清一郎は、事件の二、三日後に第一回目の召喚を受けた際、係りの予審判事が有名な素人心理学者の笠森氏だということを知った。そして、当時既にこの最後の場合を予想して少なからず狼狽した。さすがの彼も、日本に、たとえ一個人の道楽気からとはいえ、心理試験などというものが行なわれているという事実を、うっかり見のがしていた。彼は種々の書物によって、心理試験の何物であるかを、知り過ぎるほど知っていたのだ。
この大打撃に、もはや平気を装って通学をつづける余裕を失った彼は、病気と称して下宿の一室にとじこもった。そして、ただ、いかにしてこの難関を切り抜けるべきかを考えた。ちょうど、殺人を実行する以前にやったと同じ、或いはそれ以上の、綿密と熱心とをもって考えつづけた。
笠森判事は果たしてどのような心理試験を行なうであろうか。それは到底予知することができない。で、蕗屋は知っている限りの方法を思い出して、そのひとつひとつについて、なんとか対策がないものかと考えてみた。しかし、元来心理試験というものが、虚偽の申立てをあばくためにできているのだから、それを更に偽るということは、理論上不可能らしくもあった。
蕗屋の考えによれば、心理試験はその性質によって二つに大別することができた。ひとつは純然たる生理上の反応によるもの、今ひとつは言葉を通じて行なわれるものだ。前者は、試験者が犯罪に関連したさまざまの質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、適当な装置によって記録し、普通の訊問によっては到底知ることのできない真実を掴もうとする方法だ。それは、人間は、たとえ言葉の上で、または顔面表情の上で、嘘をついても、神経そのものの興奮は隠すことができず、それが微細な肉体上の徴候として現われるものだという理論に基づくので、その方法としては、たとえば automatograph などの力を借りて、手の微細な動きを発見する方法、或る手段によって眼球の動き方を確かめる方法、pneumograph によって呼吸の深浅遅速を計る方法、sphygmograph によって脈搏の高低遅速を計る方法、plethysmograph によって四肢の血量を計る方法、galvanometer によって手の平の微細なる発汗を発見する方法、膝の関節を軽く打って生じる筋肉の収縮の多少を見る方法、その他これらに類する種々さまざまの方法がある。
たとえば、不意に「お前は老婆を殺した本人であろう」と問われた場合、彼は平気な顔で「何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」と言い返すだけの自信はある。だが、その時不自然に脈搏が高まったり、呼吸が早くなるようなことはないだろうか。それを防ぐことは絶対に不可能なのではあるまいか。彼はいろいろな場合を仮定して、心のうちで実験してみた。ところが、不思議なことには、自分自身で発した訊問は、それがどんなにきわどい、不意の思い付きであっても、肉体上に変化を及ぼすようには考えられなかった。むろん微細な変化を計る道具があるわけではないから、確かなことはいえぬけれど、神経の興奮そのものが感じられない以上は、その結果である肉体上の変化も起こらぬはずだった。
そうして、いろいろと実験や推量をつづけているうちに、蕗屋はふとある考えにぶっつかった。それは、練習というものが心理試験の効果を妨げはしないか、言い換えれば、同じ質問に対しても、一回目よりは二回目が、二回目よりは三回目が、神経の反応が微弱になりはしないかということだった。つまり、慣れるということだ。これは他のいろいろの場合を考えて見てもわかる通り、ずいぶん可能性がある。自分自身の訊問に対しては反応がないというのも、結局はこれと同じ理窟で、訊問が発せられる以前に、すでに予期があるために違いない。
そこで、彼は「|辞《じ》|林《りん》」の中の何万という単語をひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。そして、一週間もかかって、それに対する神経の「練習」をやった。
さて次には、言葉を通じて試験する方法だ。これとても恐れることはない。いやむしろ、それが言葉であるだけに、ごまかしやすいというものだ。これにはいろいろな方法があるけれど、最もよく行なわれるのは、あの精神分析家が病人を見るときに用いるのと同じ方法で、連想診断というやつだ。「障子」だとか「机」だとか「インキ」だとか「ペン」だとか、なんでもない用語をいくつも順次に読み聞かせて、できるだけ早く、少しも考えないで、それらの単語について連想した言葉をしゃべらせるのだ。たとえば「障子」に対しては「窓」とか「敷居」とか「紙」とか「戸」とかいろいろの連想があるだろうが、どれでも構わない。その時ふと浮かんだ言葉を言わせる。そして、それらの意味のない単語のあいだへ「ナイフ」だとか「血」だとか「金」だとか「財布」だとか、犯罪に関係のある単語を、気づかれぬように混ぜておいて、それに対する連想を調べるのだ。
先ず第一に、最も思慮の浅い者は、この老婆殺しの事件でいえば「植木鉢」という単語に対して、うっかり「金」と答えるかもしれない。即ち「植木鉢」の底から「金」を盗んだことが最も深く印象されているからだ。そこで彼は罪状を自白したことになる。だが、少し考え深い者だったら、たとえ「金」という言葉が浮かんでも、それを押し殺して、たとえば「瀬戸物」と答えるだろう。
かような偽りに対して二つの方法がある。ひとつは、一巡試験した単語を、少し時間を置いて、もう一度繰り返すのだ。すると、自然に出た答えは多くの場合前後相違がないのに、故意に作った答えは十中八九は最初のときと違ってくる。たとえば「植木鉢」に対して最初は「瀬戸物」と答え、二度目は「土」と答えるようなものだ。
もうひとつの方法は、問いを発してから答えを得るまでの時間を、ある装置によって精確に記録し、その遅速によって、たとえば「障子」に対して「戸」と答えた時間が一秒であったにもかかわらず、「植木鉢」に対して「瀬戸物」と答えた時間が三秒もかかったとすれば、それは「植木鉢」について最初に現われた連想を押し殺すために時間を取ったので、その被験者は怪しいということになるのだ。この時間の遅延は、当面の単語に現われるばかりでなく、その次の意味のない単語にまで影響して現われることもある。
また、犯罪当時の状況を詳しく話して聞かせて、それを暗誦させる方法もある。真実の犯人であったら、暗誦する場合に、微細な点で思わず話して聞かされたことと違った真実を口走ってしまうものなのだ。
この種の試験に対しては、前の場合と同じく「練習」が必要なのはいうまでもないが、それよりももっと大切なのは、蕗屋に言わせると、無邪気なことだ。つまらない技巧を弄しないことだ。「植木鉢」に対しては、むしろあからさまに「金」または「松」と答えるのが、いちばん安全な方法なのだ。というのは、蕗屋は、たとえ彼が犯人でなかったにしても、判事の取り調べその他によって、犯罪事実をある程度まで知っているのが当然だから、そして、植木鉢の底に金があったという事実は、最近の且つ最も深刻な印象に違いないのだから、連想作用がそんなふうに働くのは至極あたり前ではないか。また、この手段によれば、現場の有様を暗誦させられた場合にも安全なのだ。ただ、問題は所要時間の点だ。これにはやはり「練習」が必要である。「植木鉢」ときたら、少しもまごつかないで、「金」または「松」と答え得るように練習しておく必要がある。彼は更にこの「練習」のために数日をついやした。かようにして、準備はまったく整った。
彼はまた、一方において、ある一つの有利な事情を勘定に入れていた。それを考えると、たとえ、予期しない訊問に接しても、更に一歩を進めて、予期した訊問に対して不利な反応を示しても、少しも恐れることはないのだった。というのは、試験されるのは、蕗屋一人ではないからだ。あの神経過敏な斎藤勇が、いくら身に覚えがないといっても、さまざまの訊問に対して、果たして虚心平気でいることができるだろうか。おそらく彼とても、少なくとも蕗屋と同様くらいの反応を示すのが自然ではあるまいか。
蕗屋は考えるにしたがって、だんだん安心してきた。なんだか鼻歌でも歌い出したいような気持になってきた。彼は今はかえって笠森判事の呼出しを待ち構える気持にさえなった。
5
笠森判事の心理試験がいかように行なわれたか。それに対して、神経質な斎藤がどんな反応を示したか、蕗屋がいかに落ちつきはらって試験に応じたか、ここにそれらの管々しい叙述を並べ立てることを避けて、直ちにその結果に話を進めることにする。
それは心理試験の行なわれた翌日のことであった。笠森判事が、自宅の書斎で、試験の結果を書きとめた書類を前にして、小首を傾けているところへ、明智小五郎の名刺が通じられた。
「D坂の殺人事件」を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男だかということを幾分ご存じであろう。彼はその後、しばしば困難な犯罪事件に関係して、その珍らしい才能を現わし、専門家たちはもちろん、一般の世間からも、もう立派に認められていた。笠森氏とも、ある事件から心易くなったのであった。
女中の案内につれて、判事の書斎に、明智のニコニコした顔が現われた。このお話は「D坂の殺人事件」から数年後のことで、彼ももう昔の書生ではなくなっていた。
「いや、どうも、今度はまったく弱りましたよ」
判事が来客の方にからだの向きを変えて、ゆううつな顔を見せた。
「例の老婆殺しの事件ですね。どうでした、心理試験の結果は」
明智は判事の机の上を覗きながら言った。彼は事件以来、たびたび笠森判事に会って詳しい事情を聞いていたのだ。
「いや、結果は明白ですがね」と判事「それがどうも、僕にはなんだか得心できないのですよ。きょうは脈搏の試験と、連想診断をやってみたのですが、蕗屋の方は殆んど反応がないのです。もっとも脈搏では大分疑わしいところもありましたが、しかし、斎藤に比べれば、問題にもならぬくらい僅かなんです。これをごらんなさい。ここに質問事項と、脈搏の記録がありますよ。斎藤の方は実にいちじるしい反応を示しているでしょう。連想試験でも同じことです。この「植木鉢」という刺戟語に対する反応時間を見てもわかりますよ。蕗屋の方はほかの無意味な言葉よりもかえって短かい時間で答えているのに、斎藤の方はどうです、六秒もかかっているではありませんか」
判事が示した連想診断の記録は前頁に表示したようなものであった。
「ね、非常に明瞭でしょう」判事は明智が記録に眼を通すのを待ってつづけた。「これでみると、斎藤はいろいろ故意の細工をやっている。いちばんよくわかるのは反応時間のおそいことですが、それが問題の単語ばかりでなく、そのすぐあとのや、二つ目のにまで影響しているのです。それからまた、『金』に対して『鉄』と答えたり、『盗む』に対して『馬』といったり、かなり無理な連想をやっています。『植木鉢』にいちばんながくかかったのは、恐らく『金』と『松』という二つの連想を押さえつけるために手間どったのでしょう。それに反して、蕗屋の方はごく自然です。『植木鉢』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だとか、『犯罪』に『人殺し』だとか、もし犯人だったら是非隠さなければならないような連想を、平気でしかも短かい時間に答えています。彼が人殺しの本人でいて、こんな反応を示したとすれば、よほどの低能児に違いありません。ところが、実際は彼は××大学の学生で、それになかなか秀才なのですからね」
「そんなふうにも取れますね」
明智は何か考え考え言った。しかし判事は彼の意味ありげな表情には、少しも気づかないで、話を進める。
「ところがですね、これでもう、蕗屋の方は疑うところはないのだが、斎藤が果たして犯人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにハッキリしているのに、どうも僕は確信が持てないのですよ。何も予審で有罪にしたといって、それが最後の決定になるわけではなし、まあこのくらいでいいのですが、御承知のように、僕は例のまけぬ気でね。公判で僕の考えをひっくり返されるのが癪なんですよ。そんなわけで実はまだ迷っている始末です」
「これを見ると、実に面白いですね」明智が記録を手にしてはじめた。「蕗屋も斎藤もなかなか勉強家だって言いますが、『本』という単語に対して、両人とも『丸善』と答えたところなどは、よく性質が現われていますね。もっと面白いのは、蕗屋の答えは、皆どことなく物質的で、理智的なのに反して、斉藤のは、いかにもやさしいところがあるじゃありませんか。叙情的ですね。たとえば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だとか『景色』だとか『妹』だとかという答えは、どちらかといえば、センチメンタルな弱々しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと病身ですよ。『嫌い』に『病気』と答え、『病気』に『肺病』と答えているじゃありませんか。平生から肺病になりゃしないかと恐れている証拠ですよ」
「そういう見方もありますね。連想診断てやつは、考えれば考えるだけ、いろいろ面白い判断が出てくるものですよ」
「ところで」明智は少し口調をかえて言った。「あなたは、心理試験というものの弱点について考えられたことがありますかしら。デ・キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベルヒの考えを批評して、この方法は拷問に代るべく考案されたものだけれど、その結果は、やはり拷問と同じように無実のものを罪に陥れ、有罪者を逸することがあるといっていますね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所とか人とか物について、知っているかどうかを見いだす場合に限って決定的だけれど、その他の場合には幾分危険だというようなことを、どっかで書いていました。あなたにこんなことをお話しするのは釈迦に説法かもしれませんね。でも、これは確かに大切な点だと思いますが、どうでしょう」
「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。むろん僕もそれは知ってますよ」
判事は少しいやな顔をして答えた。
「しかし、その悪い場合が、存外手近にないとも限りませんからね。こういうことはいえないでしょうか。たとえば非常に神経過敏な無実の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定しますね。その男は犯罪の現場で捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼は果たして心理試験に対して平気でいることができるでしょうか。『あ、これは僕を試すのだな、どう答えたら疑われないだろう』などというふうに興奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情の下に行なわれた心理試験は、デ・キロスのいわゆる『無実のものを罪に陥れる』ことになりゃあしないでしょうか」
「君は斎藤勇のことをいっているのですね。いや、それは僕もなんとなくそう感じたものだから、今もいったように、まだ迷っているのじゃありませんか」
判事はますます苦い顔をした。
「では、そういうふうに、斎藤が無実だとすれば(もっとも金を盗んだ罪はまぬがれませんけれど)いったい誰が老婆を殺したのでしょう」
判事はこの明智の言葉を中途から引き取って、荒々しく訊ねた。
「そんなら、君は、ほかに犯人の目当てでもあるのですか」
「あります」明智はニコニコしながら、「僕はこの連想試験の結果から見て蕗屋が犯人だと思うのですよ。しかしまだ確実にそうだとは言いきれませんけれど。あの男はもううちへ帰したのでしょうね。どうでしょう。それとなく彼をここへ呼ぶわけにはいきませんかしら、そうすれば、僕はきっと真相をつき止めてお眼にかけますがね」
「なんですって、それは何か確かな証拠でもあるのですか」
判事が少なからず驚いて訊ねた。
明智は別に得意らしい色もなく、詳しく彼の考えを述べた。そして、それが判事をすっかり感心させてしまった。明智の希望が容れられて、蕗屋の下宿へ使いが走った。
「御友人の斎藤氏はいよいよ有罪と決した。それについてお話ししたいこともあるから、私の私宅まで御足労を煩わしたい」
これが呼び出しの口上だった。蕗屋はちょうど学校から帰ったところで、それを聞くと早速やってきた。さすがの彼もこの吉報には少なからず興奮していた。嬉しさのあまり、そこに恐ろしい罠のあることを、まるで気づかなかった。
6
笠森判事は、ひと通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こうつけ加えた。
「君を疑ったりして、まったく相すまんと思っているのです。きょうは、実はそのお詫びかたがた、事情をよくお話ししようと思って、来て頂いたわけですよ」
そして、蕗屋のために紅茶を命じたりして、ごくうちくつろいだ様子で雑談をはじめた。明智も話に加わった。判事は彼を知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続者から、貸金の取り立てなどを依頼されている男だといって紹介した。むろん半分は嘘だけれど、親族会議の結果、老婆の甥が田舎から出てきて、遺産を相続することになったのは事実だった。
三人のあいだには、斎藤の噂をはじめとして、いろいろの話題が話された。すっかり安心した蕗屋は、中でもいちばん雄弁な話し手だった。
そうしているうちに、いつの間にか時間がたって、窓のそとに夕闇が迫ってきた。蕗屋はふとそれに気づくと、帰り支度をはじめながら言った。
「では、もう失礼しますが、別にご用はないでしょうか」
「おお、すっかり忘れてしまうところだった」明智が快活に言った。「なあに、どうでもいいようなことですがね。ちょうど序でだから……ご承知かどうですか、あの殺人のあった部屋に二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それにちょっと傷がついていたといって問題になっているのですよ。というのは、その屏風は婆さんのものではなく、貸金の抵当に預かってあった品で、持ち主の方では、殺人の際についた傷に違いないから弁償しろというし、婆さんの甥は、これがまた婆さんに似たけちん坊でね、元からあった傷かもしれないといって、なかなか応じないのです。実際つまらない問題で、閉口してるんです。尤もその屏風は可なり値うちのある品物らしいのですがね。ところで、あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、その屏風も多分ご存じでしょうが、以前に傷があったかどうか、ひょっと御記憶じゃないでしょうか、どうでしょう、屏風なんか別に注意しなかったでしょうね。実は斎藤にも聞いてみたんですが、先生興奮しきっていて、よくわからないのです。それに、女中は国へ帰ってしまって、手紙で聞き合わせても要領を得ないし、ちょっと困っているのですが……」
屏風が抵当物だったことはほんとうだが、そのほかの点はむろん作り話にすぎなかった。蕗屋は屏風という言葉に思わずヒャッとした。しかしよく聞いてみるとなんでもないことなので、すっかり安心した。
「何をビクビクしているのだ。事件はもう決定してしまったのじゃないか」
彼はどんなふうに答えてやろうかと、ちょっと思案したが、例によってありのままにやるのがいちばんいい方法のように考えられた。
「判事さんはよく御承知ですが、僕はあの部屋へはいったのはたった一度きりなんです。それも、事件の二日前にね。つまり先月の三日ですね」彼はニヤニヤ笑いながら言った。こうした言い方をするのが愉快でたまらないのだ。「しかし、その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には確か傷なんかありませんでした」
「そうですか。間違いないでしょうね。あの小野の小町の顔のところに、ほんのちょっとした傷があるだけなんですが」
「そうそう、思い出しましたよ」蕗屋はいかにも今思い出したふうを装って言った。「あれは六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。しかし、もしその傷がついていたとすれば、見おとしたはずがありません。だって、極彩色の小野の小町の顔に傷があれば、ひと目でわかりますからね」
「じゃあ、ご迷惑でも、証言をして頂くわけにはいきませんかしら。屏風の持ち主というのが、実に欲の深いやつで、始末にいけないのですよ」
「ええ、よござんすとも、いつでもご都合のいい時に」
蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信ずる男の頼みを承諾した。
「ありがとう」明智はモジャモジャと伸ばした髪の毛を指でかきまわしながら、嬉しそうに言った。これは彼が興奮した際にやる一種の癖なのだ。「実は、僕は最初から、あなたが屏風のことを知っておられるに違いないと思ったのですよ。というのはね、この、きのうの心理試験の記録のなかで、『絵』という問に対して、あなたは『屏風』という特別の答え方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあんまり屏風なんて備えてありませんし、あなたは斎藤のほかには別段親しいお友だちもないようですから、これはさしずめ老婆の座敷の屏風が、何かの理由で特別に深い印象になって残っていたのだろうと想像したのですよ」
蕗屋はちょっと驚いた。それは確かにこの弁護士のいう通りに違いなかった。でも、彼はきのうどうして屏風なんて口走ったのだろう。そして、不思議にも今までまるでそれに気づかないとは。これは危険じゃないかな。しかし、どういう点が危険なのだろう。あの時彼は、その傷跡をよく調べて、なんの手掛りにもならぬことを確かめておいたではないか。なあに、平気だ、平気だ。彼は一応考えてみてやっと安心した。ところが、ほんとうは、彼は明白すぎるほど明白な大間違いをやっていたことを少しも気づかなかったのだ。
「なるほど、僕はちっとも気づきませんでしたけれど、確かにおっしゃる通りですよ。なかなか鋭い御観察ですね」
蕗屋はあくまで、無技巧主義を忘れないで、平然として答えた。
「なあに、偶然気づいたのですよ」弁護士を装った明智が謙遜した。「だが、気づいたといえば、実はもうひとつあるのですが、いや、いや、決して御心配なさるようなことじゃありません。きのうの連想試験の中には八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全にパスしましたね。実際完全すぎたほどですよ。少しでもうしろ暗いところがあれば、こうは行きませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打ってあるでしょう。これですよ」といって明智は記録の紙片を示した。「ところが、あなたのこれらに対する反応時間は、ほかの無意味な言葉よりも、皆ほんの僅かずつではありますけれど、早くなってますね。たとえば『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇・六秒しかかかってない。これは珍らしい無邪気さですよ。この三十箇の単語の内で、いちばん連想し易いのは先ず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇・七秒かかってますからね」
蕗屋は非常な不安を感じはじめた。この弁護士は、いったいなんのためにこんな饒舌を弄しているのだろう。好意でか、それとも悪意でか。何か深い下心があるのじゃないかしら。彼は全力を傾けて、その意味を探ろうとした。
「『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、そのほか、問題の八つの単語は、皆、決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものより、連想しやすいとは考えられません。それにもかかわらず、あなたは、そのむずかしい連想の方をかえって早く答えているのです。これはどういう意味でしょう。僕が気づいた点というのはここですよ。ひとつあなたの心持を当ててみましょうか。え、どうです。なにも一興ですからね。しかしもし間違っていたらごめんくださいよ」
蕗屋はブルッと身震いした。しかし、何がそうさせたかは彼自身にもわからなかった。
「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょう。犯罪に関係のある言葉について、ああ言えばこうと、ちゃんと腹案ができていたんでしょう。いや、僕は決して、あなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理試験というやつは、場合によっては非常に危険なものですからね。有罪者を逸して無実のものを罪に陥れることがないとは断言できないのですからね。ところが、準備があまり行き届き過ぎていて、もちろん別に早く答えるつもりはなかったのでしょうけれど、その言葉だけが早くなってしまったのです。これは確かに大へんな失敗でしたね。あなたは、ただもう遅れることばかり心配して、それが早過ぎるのも同じように危険だということを少しも気づかなかったのです。もっとも、この時間の差は非常に僅かずつですから、よほど注意深い観察者でないと、うっかり見逃がしてしまいますがね。ともかく、こしらえ事というものは、どっかに破綻があるものですよ」明智の蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点にあったのだ。「しかし、あなたはなぜ『金』だとか『人殺し』だとか『隠す』だとか、嫌疑を受け易い言葉を選んで答えたのでしょう。言うまでもない。そこがそれ、あなたの無邪気なところですよ。もしあなたが犯人だったら決して『油紙』と問われて『隠す』などとは答えませんからね。そんな危険な言葉を平気で答え得るのは、少しもやましいところのない証拠ですよ。ね、そうでしょう。僕のいう通りでしょう」
蕗屋は話し手の眼をじっと見詰めていた。どういうわけか、そらすことができないのだ。そして、鼻から口の辺にかけて筋肉が硬直して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、一切の表情が不可能になったような気がした。むろん口は利けなかった。もし無理に口を利こうとすれば、それは直ちに恐怖の叫び声になったに違いない。
「この無邪気なこと、つまり小細工を弄しないということが、あなたのいちじるしい特徴ですよ。僕はそれを知ったものだから、あのような質問をしたのです。え、おわかりになりませんか。例の屏風のことです。僕は、あなたがむろん無邪気にありのままにお答えくださることを信じて疑わなかったのですよ。実際その通りでしたがね。ところで、笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですかしら」
明智はとぼけた顔をして、判事に訊ねた。
「犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の四日です」
「え、前日ですって、それはほんとうですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の前々日即ち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ言っているじゃありませんか。どうも不合理ですね。あなた方のどちらかが間違っていないとしたら」
「蕗屋君は何か思い違いをしているのでしょう」判事がニヤニヤ笑いながら言った。「四日の夕方までは、あの屏風が、そのほんとうの持ち主の家にあったことは、明白にわかっているのです」
明智は深い興味をもって、蕗屋の表情を観察した。それは、今にも泣き出そうとする小娘の顔のように変なふうにくずれかけていた。これが明智の最初から計画した罠だった。彼は事件の二日前には、老婆の家に屏風のなかったことを、判事から聞いて知っていたのだ。
「どうも困ったことになりましたね」明智はさも困ったような声で言った。「これはもう取り返しのつかぬ大失策ですよ。なぜあなたは見もしないものを見たなどと言うのです。あなたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていないはずじゃありませんか。殊に六歌仙の絵を覚えていたのは致命傷ですよ。おそらくあなたは、ほんとうのことを言おう、ほんとうのことを言おうとして、つい嘘をついてしまったのでしょう。ね、そうでしょう。あなたは事件の二日前にあの座敷へはいった時、そこに屏風があるかないかというようなことを注意したでしょうか。むろん注意しなかったでしょう。実際それはあなたの計画にはなんの関係もなかったのですし、もし屏風があったとしても、あれは御承知の通り時代のついたくすんだ色合いで、ほかのいろいろの道具の中で、殊さら目立っていたわけでもありませんからね。で、あなたが今、事件の当日そこで見た屏風が、二日前にも同じようにそこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに僕はそう思わせるような調子で問いかけたのですものね。これは一種の錯覚みたいなものですが、よく考えてみると、われわれには日常ザラにあることです。しかし、もし普通の犯罪者だったら決してあなたのようには答えなかったでしょう。彼らは、なんでもかんでも、隠しさえすればいいと思っているのですからね。ところが、僕にとって好都合だったのは、あなたが世間なみの裁判官や犯罪者より、十倍も二十倍も進んだ頭を持っていられたことです。つまり、急所にふれない限りは、できるだけあからさまにしゃべってしまう方が、かえって安全だという信念を持っていられたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで僕は更にその裏を行ってみたのですよ。まさか、あなたは、この事件になんの関係もない弁護士が、あなたを白状させるために、罠を作っていようとは想像もしなかったでしょうからね。ハハハハハハ」
蕗屋はまっ青になった顔の、ひたいのところにビッショリ汗を浮かせて、じっとだまり込んでいた。彼はもうこうなったら、弁明すればするだけボロを出すばかりだと思った。彼は頭がよいだけに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よくわきまえていた。彼の頭の中には、妙なことだが、子供の時分からのさまざまの出来事が、走馬燈のように、めまぐるしく現われては消えて行った。長い沈黙がつづいた。
「聞こえますか」明智がしばらくしてから言った。「そら、サラサラ、サラサラという音がしているでしょう。あれはね、さっきから、隣の部屋で、僕たちの問答を書きとめているのですよ……君、もうよござんすから、それをここへ持ってきてくれませんか」
すると、襖がひらいて、一人の書生ふうの男が手に洋紙の束を持って出てきた。
「それを一度読み上げてください」
明智の命令にしたがって、その男は最初から朗読した。
「では、蕗屋君、これに署名して、拇印で結構ですから捺してくれませんか。君はまさかいやだとは言いますまいね。だって、さっき、屏風のことはいつでも証言してやると約束したばかりじゃありませんか。もっとも、こんなふうな証言だろうとは想像しなかったかもしれませんがね」
蕗屋は、ここで署名を拒んだところで、なんの甲斐もないことを、充分知っていた。彼は明智の驚くべき推理をも、あわせて承認する意味で、署名捺印した。そして、今はもうすっかりあきらめ果てた人のようにうなだれていた。
「先にも申し上げた通り」明智は最後に説明した。「ミュンスターベルヒは、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所、人、または物について知っているかどうかを試す場合に限って、決定的だといっています。今度の事件でいえば、蕗屋君が屏風を見たかどうかという点が、それなんです。この点をほかにしては、百の心理試験もおそらくむだでしょう。なにしろ相手が蕗屋君のような、なにもかも予想して、綿密な準備をしている男なのですからね。それからもう一つ申し上げたいのは、心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてある通り、一定の刺戟語を使い、一定の機械を用意しなければできないものではなくて、いま僕が実験してお眼にかけたように、ごく日常的な会話によってでも充分やれるということです。昔からの名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発明した方法をちゃんと応用していたのですよ」
恐ろしき錯誤
「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」
北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。
彼は今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。第一、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。
往来の人たちは妙な顔をして、彼の変てこな歩きぶりを眺めた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。
What ho ! What ho ! This fellow dancing mad ! who hath been bitten by the tarantula.
ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモに噛まれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念の虜となっていた。
彼は今全身をもって復讐の快感に酔っているのだった。
「勝った、勝った、勝った……」
一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつまでもつづいていた。渦巻花火のような、眼も眩むばかりの光り物が、彼の頭の中を縦横無尽に駈けまわっていた。
あいつはきょうから、一日の休む暇もなく一生涯、長い長い一生涯、あの取り返しのつかぬ苦しみを苦しみ抜くんだ。あのどうにもしようのない悶えを悶え通すのだ。
おれの気のせいだって? ばかなっ! 確かに、確かに、おれは太鼓のような判だっておしてやる。あいつはおれの話を聴いているうちに、とうとううつぶしてしまったじゃないか。まっ青な顔をして、うつぶしてしまったじゃないか。これが勝利でなくてなんだ。
「勝った、勝った、勝った……」
という、単調な、没思考力の渦巻のあいだあいだに、ちょうど映画の字幕のように、こんな断想がパッパッと浮かんでは消えて行った。
夏の空はソコヒの眼のようにドンヨリと曇っていた。そよとの風もなく、家々ののれんや日除けは、彫刻のようにじっとしていた。往来の人たちは、何かえたいのしれぬ不幸を予感しているとでもいったふうに、抜き足差し足で歩いているかと見えた。音というものが無かった。死んだような静寂が、その辺一帯を覆っていた。
北川氏は、その中を、独りストレンジャーのように、狂気の歩行をつづけていた。
行っても行っても果てしのない、|鈍《にぶ》|色《いろ》に光った道路が、北川氏の行手につづいていた。
あてもなくさまよう人にとって、東京市は永久に行止まりのない迷路であった。
狭い道、広い道、まっすぐな道、曲がりくねった道が、それからそれへとつづいていた。
「だが、なんというデリケートな、そして深刻な復讐だったろう。あいつのもずいぶん頭のいい復讐だったに違いない。しかし、その復讐に対する、おれの返り討ちの手際が、どんなにまあ鮮やかなものだったろう。天才と天才の一騎討ちだ。天衣無縫の芸術だ。あいつがその前半を受持ち、おれが後半を受持ったところの一大芸術品だ。だが、なんといっても勝利はおれのものだ……おれは勝ったぞ、勝ったんだぞ。あいつをペチャンコに叩きつけてしまったんだぞ」
北川氏は、鼻の頭に一杯汗の玉を溜めて、炎天の下を飽きずまに歩きつづけていた。彼にとっては、暑さなどは問題ではなかった。
やがて、時がたつに従って、彼の有頂天な、没思考力な歓喜が、少しずつ、意識的になって行った。
そして、彼の頭には、ようやく、回想の甘味を味わうことができるほどの余裕が生じてきた。
それは|三《み》|月《つき》ぶりの訪問であった。あの事件が起こる少し前に会ったきり、二人はきょうまで顔を合わさなかった。
野本氏の方では、事件の悔み状を出したきり、北川氏の新居を訪ねもしなかったことが、わだかまりになっていた。
北川氏は北川氏で、その野本氏の気まずさが反映して、彼の家の敷居をまたぐとこから、もう吐き気を催すほどに不快を感じていた。
二人は生れながらのかたき同士だった。
同じ学校の同じ科で机を並べながら、北川氏はどうにも野本氏が虫が好かなかった。多分野本氏の方でも、彼をゲジゲジのように嫌っていたに違いないと、北川氏は信じていた。
二人がかつては恋の競争者だったことが、なおさらこの反感を高めた。北川氏はそのころから、野本氏のうしろ姿を一と眼見ただけでも、こう、からだがねじれてくるほど、なんともいえぬ不快を覚えるのだった。そこへ今度の問題が起こった。そして、もう破れるか、もう破れるかと見えながら、やっと危く均衡を保っていた二人の関係が、とうとう爆発してしまった。
こうなっては、二人はどちらかが死んでしまうまで、命がけの果たしあいをするほかに逃げ道がないのだと、彼は信じていた。
北川氏は、機の熟するまでは、なるべくきょうの訪問の真の目的を秘しておこうとしていた。
しかし敏感な野本氏はとっくにそれを察したらしく、恐怖にたえぬ眼で、チラリチラリと北川氏を盗み見るのであった。
先ず運ばれた冷しビールのコップを挾んで、新しい皮蒲団の上に対座した二人のあいだには、最初の瞬間から、息詰まるような暗雲が低迷していた。
「君がなぜあの事件に触れようとしないのか、僕はよく知っている。君はあれ以来はじめて会った僕に、悔みの言葉一つ述べられないほど、あの事件に触れることを怖れているんだ」
しばらく心にもない世間話をつづけているうちに、もう我慢ができなくなって、北川氏はこう戦闘開始の火蓋を切ったのだった。
野本氏はハッとして眼をそらした。
あの時、彼の顔が青ざめたのは、顔の向きを代えたために、庭の青葉が映ってそう見えたばかりではないと、北川氏は固く信じていた。
「おれの放った第一声は、見事にあいつの心臓をえぐったんだ」
相変らず、どこともしれぬ場末の街筋をテクテクと歩きながら、北川氏は甘い回想をつづけて行った。
ちょうど反芻動物が、一度胃の腑の中へおさまったものを、また吐き出して、ニチャリニチャリと噛みしめては、楽しみをくり返すように、北川氏は、きょうの野本氏との会談の模様を、はじめから終りまで、文句のこまかい点まで注意しながら、ユックリユックリ思い出して行った。事実そのものにもまして快い回想の魅力は、北川氏を夢中にさせないではおかなかった。
「僕がそれに気づいたのは、極く最近のことなんだ。その当座はただもう泣くにも泣かれぬ悲しみで心が一杯だった。恥かしいことだが、正直をいうと、僕は妙子に惚れていた。惚れていたればこそ、彼女の居るあいだは、あれほども、君をはじめ友人たちが驚いていたほども、仕事に没頭できたんだ。どんなに仕事に夢中になっていたって、おれの女房は、あの片靨の可愛い笑顔で、おれのうしろにちゃんと坐っているんだという安心が、僕をあんなふうにしていたんだ。
忘れもしない彼女の初七日の朝だった。ふと新聞を見ると、文芸欄の片隅に生田春月の訳詩がのっていた――そのある日にはそれとも知らず、なくてぞ恋しき妻である――という一句を読むと、子供の時分からこのかた、ずっと忘れてしまっていた涙が、不思議なほど止めどもなく、ほろほろとこぼれたっけ。僕は女房の死んだあとになって、僕がどれほど彼女を愛していたかということがわかった……君はこんな繰り言を聞きたくもないだろうね。僕も言いたくはない、殊に君の前では言いたくない。しかし、どれほど女房の死が僕を悲しませたか、それがどんなに僕の一生をメチャメチャにしてしまったかということを、よくよく君に察してもらいたいからこそ、言いたくもないのを、無理にも言っているんだ」
北川氏はいかにも殊勝げにこう語り出したのであった。
しかし、このめめしい繰りごととも見えるものが、実は世にも恐ろしい復讐への第一歩だろうと、誰が想像し得ただろう。
「日がたつに従って、ほんの少しずつではあったが、悲しみが薄らいで行った。いや、悲しみそのものには変りがなかったのだろうが、ただそればかりにかかずらって、めそめそと泣いていた僕の心に、少しばかり余裕ができてきた。すると、今までは、悲しみにまぎれて、忘れるともなく忘れていたある疑いが、猛然として頭をもたげはじめたんだ……君も知っているように、妙子のあの不思議な死に方は、僕にとってはどうしても解くことのできない謎だった」
北川氏は彼の細君の死については、最初から疑いを抱いていた。子供さえ助かっているのに、なぜ妙子だけが、あの火事のために焼け死んだかということは、彼には、考えても考えても、解きがたい一つの謎だった。
それは三カ月以前の春もたけなわなころの出来事だった。
そのころ、北川氏は二軒建ちのちょっとした借家に住んでいたのだが、あの日、真夜中に棟を同じうしている、壁ひとえ隣から失火して、彼の家も丸焼けになってしまった。
類焼は五軒ばかりで鎮火したが、風のひどかったせいか、火の燃え拡がる速力は不思議なほど早かった。大切なものを持ち出したり、子供にけがをさせまいとしたり、そういう場合でなければ経験のできない、一種異様な、追いつめられたような、せかせかした気持のために、可なりの時間をほとんど一瞬のように感じたせいもあろうけれど、あの、とほうもなく大きな大蛇の舌ででもあるような「火焔」という生き物が、人間の住家をなめただらしてしまう速さというものは、ほんとうにびっくりするほどであった。
北川氏は第一に幼児――誕生を過ぎてまだ間もなかった幼児を抱いて、少し離れた友人の家へかけつけた。
泣き叫ぶ子供は、友人の細君に託し、友人にも手伝ってもらって、できるだけの品物を持ち出そうと、彼は火事場へ取って返した。
寝巻姿の気違いめいた北川氏は、人間がまだ言葉というものを知らなかった原始時代に立ち帰って、意味をなさぬ|世《よ》|迷《まい》|言《ごと》を口走りながら、息を切らして走るのだった。
そうして、友人の家との二、三丁のあいだを二回往復すると、もう火勢が強くなって、品物を持ち出すどころではなく、危くすると命にもかかわりそうになったので、彼はともかくも友人の家に落ち着いて、何よりも先ず、痛みを感じるほどにカラカラに渇いた喉を、コップに何杯も何杯もお代りをして、うるおしたのだった。
が、ふと気がつくと、妙子の姿が見えない。
たしかに一度は彼女の走っているのを見かけたのだが、そして、彼女は、北川氏がこの友人の家へ避難したことは当然知っているはずだが、どうしたものか姿を見せなかった。
でも、まさか、燃えさかる火の中へ飛びこもうなどとは、想像もしなかったので、しばらくは、彼女の取り乱した姿が、友人の門口に現われるのを、ぼんやりと待っていたのだった。
行李だとか、手文庫だとか、書類だとか、いろいろの品物が雑然と投げ出された友人の家の玄関に、友人夫婦と、北川氏と、子供を抱いてふるえているまだ年のいかぬ女中とが、妙にだまり込んで顔を見合わせていた。
そとからは、火事場の騒擾が手に取るように聞こえてきた。「オーイ」とか「ワー」とか「ワッワッワッ、ワッワッワッ……」とかいう感じの騒音が、表通りを駈けて通る騒々しい足音が、近所の軒先にたたずんだ人々の眠むそうな、しかしおどおどした話声にまじって、まるで、北川氏自身にはなんの関係もない音楽かなんぞのように響いてくるのだった。
あちらでもこちらでも、あの妙に劇的な音色を持った半鐘の音が、人の心臓をドキドキさせないではおかぬ、凄いような、それでいてどこか快いような感じで打ち鳴らされていた。
それに引きかえて、家の中の彼らの一団の静かさが、なんとまあ不思議なほどであったことよ。どれほどの時間だったか、よほど長いあいだ、彼らは身動きさえしないでシーンと静まり返っていた。
一時は火のつくように泣き叫んでいた幼児も、もうすっかりだまりこんでいた。
ほどへてから、友人の細君が、まるで、つまらない世間話でもしているような、ゆったりした調子でこう言った。
「奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた」
「そうだ、だいぶ時間もたったのに、おかしいな」
友人は北川氏の顔をじろじろ眺めながら、考え深そうに答えた。
そんなわけで、彼らが妙子を探しに出掛けたのは、さすがに烈しかった火勢も、もう下火になったころであった。
だが、探しても探しても妙子の姿は見えなかった。知り合いの家を一軒ずつ尋ね廻って、もうこれ以上手の尽しようがないと思ったのは、はや夜の明けるに間もないころであった。
へとへとに疲れきった北川氏は、一と先ず友人の家へ引き上げて、ともかく床についた。
その翌日、焼け跡の取かたづけをしていた仕事師の鳶口によって、北川氏の家の跡から、女の死骸が掘り出された。
そして、はじめて、妙子がなんのためだか、燃えさかる家の中へ飛びこんで、焼け死んだということがわかった。
それは実際不思議なことだった。
何一つ彼女を猛火の中へ導くような理由というものがなかった。変事のために遠方から集まってきた親族の人たちのあいだには、これはきっと、あまり恐ろしい出来事のために逆上して、気が変になったせいだろうという説が勝ちを占めた。
「私の知っているあるお婆さんは、そら火事だというのに、うろたえてしまって、いきなり米櫃の前へ行って、丹念にお米を量っては桶の中へ入れていたっていいますよ。ほんとうに、お米が一ばん大切だと思ったのでしょうね。こんな時には、よっぽどしっかりした者でも、うろたえてしまいますからね」
妙子の母親は、ともすれば、咽びそうになるのをこらえこらえして、鼻の詰まった声で、こんなことを言ったりした。
「可愛い女房が、若い身そらで、しかも子供まで残して、死んでしまった。それだけで、もう男の心を打ちひしぐには充分過ぎるほど充分なんだ。その上に、見るも無ざんなあの死にかた……君にあいつの死顔を一と眼見せてやりたかった。もし、あの死骸を前に置いて、君にこの話ができるんだったら、まあどんなに深刻な、劇的な効果を収め得たことだろう。
あいつの死骸はまっ黒な一つのかたまりにすぎなかった。それはむごたらしいなどというよりは、むしろ気味のわるいものだった。知らせによってその場へ駈けつけた僕の眼の前にころがっていたものは、生れてからまだ一度も見たことのないような珍らしいものだった。それが三年以来つれ添ってきた女房だなどとは、どうしたって考えられなかった。それが人間の死骸だということさえも、ちょっと見ただけではわからなかった。眼も鼻も、手足さえ判明し兼ねるような一とかたまりの黒いものだった。所々、黒い表皮が破れて、まっ赤な肉がはみ出していた。
君は火星の望遠鏡写真を見たことがあるかね。火星の運河という、あの変な表現派じみた、網の目のようなものを知っているかね。ちょうどあの感じだった。まっ黒なかたまりの表面が、あんなふうにひび割れて、毒々しいまっ赤な筋が縦横についていた。人間という感じからは、まるでかけはなれた、えたいのしれぬ物凄い物体だった。僕は、これが果たして妙子かしらと疑ぐった。物慣れた仕事師は、僕の疑わしげな様子に気づいたとみえて、その黒い物体のある箇所を指し示してくれた。そこには、よく見ると、妙子がきのうまではめていた、細いプラチナの指環が光っていた。もう疑ってみようもなかった。
それに、妙子のほかには、その夜、行方不明になったものは、一人もなかったことも後になってわかったのだ。
だが、こんな死にざまも世間にないことではない。それはずいぶんひどいことには違いなかったが、それよりも、そんな外面的なことよりも、もっと、もっと、僕の心を苦しめたのは、なぜ妙子が死んだかという疑いだった。死なねばならぬような理由は少しだってありはしなかった。物質的にも、精神的にも、彼女に死ぬほど深い悩みがあったろうとは、僕にはどうしたって考えられなかった。といって、彼女は、不意の出来事に気の狂うほど、気の弱い女でもなかった。彼女が見かけによらぬしっかり者だということは、君もよく知っている通りだからね。仮りに一歩を譲って、彼女は気が狂ったのだとしても、何もわざわざ猛火の中へ飛びこんで行くわけがないじゃないか。
そこには何か理由がなくてはならない。一人の女を、死の危険を冒してまで、燃えさかる家の中へ飛びこませるほど重大な理由というのは、それは一体なんだろう。夜となく、昼となく、この息苦しい疑いが僕の頭にこびりついて離れなかった。たとえ死因がわかったところで、今さらどうしてみようもないと知りながら、やっぱり考えないではいられなかった。僕は長いあいだかかって、あらゆるありそうな場合を考えてみた。
大切な品物を家の中へ置き忘れて、それを取り出すために、ああした行動を取ったと解するのが、先ず一ばんもっともらしい考えだった。
しかし、どんな大切な品物を彼女が持っていたのだろう? 僕は、妙子の身のまわりの細かい点などにはまるで注意を払っていなかったので、その持ち物なども、何があるのか、ちっとも知らなかった。しかし、あの女が命にも換えられぬような大切な品物を持っていたとも考えられないじゃないか。そんなふうに、ほかのいろいろな理由を想像してみても、みな可能性に乏しいものばかりだった。僕はついには、これは死人と共に永久によみがえることのない疑問としてあきらめるほかはないのかと思った。dead secret という言葉があるが、妙子の死因は文字通りの dead secret だった。
君は盲点というものを知っているだろう。
僕は盲点の作用ほど恐ろしいものはないと思うよ。普通、盲点といえば視覚について用いられてる言葉だが、僕は意識にも盲点があると思う。つまり、いわば『脳髄の盲点』なんだね。なんでもないことをふと胴忘れすることがある。最も親しい友だちの名前が、どうしても思い出せないようなこともある。世の中に何が恐ろしいといって、こんな恐ろしいことはないと思うよ。僕はそれを考えると、じっとしていられないような気がする。例えば、僕が一つの創見に富んだ学説を発表する、その場合、その巧みに組立てられた学説のある一点に『脳髄の盲点』が作用していたとしたらどうだ。一度盲点にかかったら何かの機会でそれをはずれるまでは、間違いを間違いだと意識しないのだからな。僕らのような仕事をしているものには殊に、盲点の作用ほど恐ろしいものはない。
ところが、どうだろう。あの妙子の死因が、どうやら僕の『脳髄の盲点』に引っ掛っているような気がし出したのだ。どうも不思議だと思う反面には、これほどよくわかったことはないじゃないかと、何者かがささやいているんだ。ぼんやりした、なんだかわからないものが、『私こそ奥さんの死因なんですよ』といわぬばかりに、そこにじっとしているんだ。しかし、もうちょっとで手が届くというところまで行っていて、それから先はどうにもこうにも考え出せないのだ」
北川氏は予定通り、寸分も間違えないで話を進めて行った。あせる心をじっと抑えて、結論までの距離をなるだけ長くしようとした。そして、ちょうど子供が蛇をなぶり殺しにする時のような快感で、野本氏の苦悶する有様を眺めようとした。一寸だめし五分だめしに、チクリチクリと急所を突いて行った。
この愚痴っぽい、なんでもないような長談義が野本氏にとっては、どんなに恐ろしい責め道具だかということを、彼はよく知っていた。
野本氏はだまって彼の話を聴いていた。
はじめのうちは「うん」とか「なるほど」とか受け答えの言葉を挾んでいたが、だんだん物を言わなくなって行った。それは退屈な話に飽き飽きしたというふうにも見えた。
しかし、北川氏は、野本氏は怖れのために口が利けなくなったのだと信じていた。うっかり口を利けば、それが恐怖の叫び声になりはしないかというおそれのために、だまっているのだと信じていた。
「ある日、越野が訪ねてくれた。越野は近所に住んでいたばかりに、火事の手伝いから避難場まで引き受けて、ずいぶん面倒を見てくれたんだが、その日はその日で妙子の死因について非常に重大なサゼッションを与えてくれたのだった。越野の話によると、それはある目撃者から聞いたんだそうだが、妙子はあのとき何か大声に喚きながら、燃えさかる家の前を、右往左往に駈け回っていたっていうんだ。あたりの騒音のために、それが何を喚いているのか聞き取れなかったが、何か非常に重大なことだったに違いないって、その男が言ったそうだ。そうしているうちに、どこからともなく、一人の男が現われて、妙子の側へ近寄って行ったそうだ」
北川氏はこういって、じっと相手の眼に見入ったのだった。それがどんなに相手を怖わがらせるかということを意識しながら、彼は、暗い洞穴の中からじいっと獲物を狙っている蛇のような眼つきで、野本氏を見つめたのだった。
「その男は、妙子のそばまで行ったかと思うと、フッと廻れ右をして、元来た方へ走り去ってしまったそうだが、すると、どうした事か、妙子は非常に驚いて、一杯に見ひらいた眼で、救いを求めるようにあたりを見廻した。が、それも瞬間で、アッと思う間に、一面の火になっていた家の中へ飛びこんでしまったというのだ……その男は、それからどうなったか、まさか、その不思議な女が焼け死のうとも思わなかったので、混雑にまぎれて、その後の様子を見届けなかったと言ったそうだ。そして、それが、翌日焼け跡から掘り出された越野の友だちの細君だったと聞くと、その男は、そんなことなら、あの時すぐお知らせするのだった。残念をしたといって悔みを述べたそうだ。
この話を聞いて、僕は、やっぱり妙子は気が狂ったのではなかったと思った。確かに何か重大な理由があって、火中に飛びこんだのに違いないと思った。
『それにしても、妙子のそばまで行って、すぐにどっかへ居なくなった男というのは、一体何者だろう』と僕がいうと、越野は声を落として、真剣な眼付で『それについて思い当たることがある』と言うではないか……越野はあの時、僕の荷物を肩に担いで走りながら、ふと一人の男にすれ違ったのだった。ハッと思って振り返ると、もうその男は、たくさんの野次馬の中へまぎれこんで、姿が見えなかったそうだ。越野はその男の名前を知らせてくれたが、君はそれが誰だったと思う。僕とも、越野とも、至って親しい古い友だちなんだが……その男は、なぜ友だちの越野に会って、挨拶もしないで、逃げるように跡をくらましたのだろう。僕の家が焼けているというのに、見舞いにもこないで行ってしまったのだろう。これについては、君は一体どんなふうに考えるね」
北川氏の話は、だんだん問題の中心に近づいて行くのだった。
野本氏は相変らず一とことも口を利かないで、一種異様の表情をもって、北川氏の雄弁に動く口のあたりをじっと見つめていた。彼の顔色は、さいぜんから、手酌でかなりビールを飲んでおったにもかかわらず、はじめ対座したときから見ると、見違えるほどあおざめていた。
勝ちほこった北川氏は、ますます雄弁に、まるで演説でもしているような口調で、一所懸命に話を進めて行くのだった。
彼は極度の緊張で、両頬のカッカッとほてるのを感じた。腋の下が、冷たい汗でしとど濡れるのを感じた。
「だが、それだけの謎のような事実を聞いたばかりでは、僕にはどうにも判断の下しようがなかった。事実の真髄によほど近づいたことは確かだった。しかし、真髄そのものは、やっぱり今にもわかりそうでいて、少しもわからなかった。それは無限小の距離には近づき得ても、本体に触れることは絶対にできないようなもどかしさだった。もどかしいというよりは、むしろ恐ろしかった。僕は、これはてっきり『脳髄の盲点』だなと思うと、身震いするほど恐ろしかった。そうして二日三日と日がたって行った。
ところが、ついしたことから、その盲点がハッと破れた。そして、夢からさめたように、何もかもすっかりわかってしまった。僕は忿怒のあまり躍り上がった。そいつこそ、越野が教えてくれたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りないやつだった。僕はすぐさま、そいつの家へ飛んで行って、掴み殺してやろうかと思ったくらいだ……いや、僕は少し興奮しすぎた。もっと冷静にゆっくり話をするはずだった……そのとき僕は、妙子の里からよこしてくれた新しい乳母に抱かれている子供を見ていた。子供は、まだ乳母になつかないで、まわらぬ舌で『ママ、ママ』と、死んだ母親を求めていた。子供はいじらしかった。
だが、こんな可愛い子供を残して死んでしまった、いや殺されてしまった母親こそなおさら可哀そうだった。僕はそう思うと、『坊や、坊や』と子供を呼んでいる母親の声が、あの世から聞こえてくるような気がした。
君、これはきっと、浮かばれぬ妙子の魂が、どっかから、僕の胸へささやいたんだね。『坊や、坊や』という妙子の声を想像すると、突然僕は烈しいショックに打たれた。そうだ。それに違いない……妙子を猛火の中へ飛びこませるほどの偉大な力はこの『坊や』のほかには持っていないのだ……一度盲点が破れると、長いあいだせき止められていた考えが津波のようにほとばしり出た。
あのとき、僕が第一に子供を連れて友だちの家に避難したことを、妙子は知らなかったかもしれない。あの場合そうした思いちがいは、あり得ないことじゃない。僕は飛び起きるとすぐさま子供を抱えて走り出しながら、床の上に起き上がって身づくろいしている妻に、『早く逃げろ、子供はおれが連れて行くぞ』とどなったのだ。しかし、それが果たして、顛動していた妙子の耳に通じたかどうか。何を考える暇もなく、本能的に飛び出したあとで、はじめて子供のことに気づいたというようなことではあるまいか。そして、『坊や、坊や』と叫びながら、家の前をうろついていたのではあるまいか。ああいう異常な場合には、ふだんとはまるで違った心理作用が働くものだ。その証拠には、僕自身にしても、二度目に、荷物を運んで越野の家へ走っているあいだに、『はてな、子供はどうしたかしら』という考えで、幾度となく心臓をドキドキさせたくらいだもの」
北川氏は、ここで少し言葉を切って、その効果を確かめるように、野本氏の様子をうかがった。
そして、野本氏が一層あおざめて、歯を食いしばっているのを知ると、満足らしくうなずいて、話を最も肝要な点に進めて行った。
「ここに一人の執念深い男があって、ある女に深い恨みを抱いていたと仮定する。男はどうかして、その恨みをはらそうと執念深く機会を狙っている。すると、ある時その女の家が火事にあう。どうかした都合で、その場に居合わせた男が、女の一家が焼け出される有様を小気味のいいことに思って眺めている、ふと見ると、女が『坊や、坊や』と叫びながら家の前をうろついている。男の頭にあるすばらしい機智が浮かぶ。このチャンスをはずしてなるものかと思う。
男はやにわに女のそばに近寄って、催眠術の暗示でもかけるように、『坊ちゃんはね、奥座敷に寝ていますよ』と告げる。そして、素早くその場を逃げてしまう。なんという驚くべきインジニアスな復讐だろう。ふだんなら、誰だってこんな暗示にかかりはしないだろう。しかし、気も狂わんばかりに、子供の身の上を気遣って逆上している、あの際の母を殺すには、それは飛び切りのトリックだった。僕は忿怒に燃え立ちながらも、その男のすばらしい機知に感心しないわけにはいかなかった。
僕は今まで、絶対に証拠を残さないような犯罪というものが、あり得ようとは思わなかった。だが、その男の場合はどうだ。どんな偉い裁判官だって処罰のしようがないではないか。死人のほかには誰も聞かなかったであろうそのささやきが、なんの証拠になるだろう。それは、その男の行動を怪しんで、記憶にとどめている幾人かの人はあるかもしれない。しかし、そんなことが何になるものか。友だちの細君の不幸を慰めるために、そのそばへよって口を利くということは、ごく当たり前のことだからね。仮りに一歩を譲って、そのささやきが誰かに洩れ聞かれたとしても、それはその男にとってちっとも恐ろしいことじゃない。『私は真実そう信じて言ったまでのことです。そのために奥さんが火の中へ飛びこんで、自分で自分を焼き殺したって、それは私の知ったことじゃありません。あなたは、そんな気ちがいじみたことを私が予期しておったとでもおっしゃるのですか』そういえば、立派に申しわけが立つではないか。なんという恐ろしい企らみだ。その男は確かに人殺しの天才だ。え、そうじゃないか、野本君」
北川氏は、ここでもう一度言葉を切った。そしてこれからいよいよおれの復讐を実行するのだぞと言わぬばかりに、ペロペロと唇を舐め廻した。
彼は、半殺しの鼠を前にした猫のように、いかにも楽しそうに、物凄い眼つきで野本氏の顔をジロジロ眺めるのだった。
北川氏が野本氏と親しくなったのは、もちろん学校が同じだったという点もあるが、それよりも、一人の女性を渇仰する青年たちが、類を以て集まった、そのグループの中の一員として、お互いに嫉視しながら近づき合ったということが、より重大な動機をなしていたのだった。
そのグループの中には、北川氏、野本氏のほかに、まだ二、三人の同じ青年たちがいた。あの火事の際に、北川氏一家の避難所をうけたまわった越野氏もその中の一人だった。それは七、八年も前のことで、当時の青年たちは、もうそれぞれ一かどの威厳を備えたプティ・ブルジョワになりすましていたが、さすがに昔忘れずつき合っているのだった。
では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それがすなわち後の北川氏夫人妙子だったのである。
妙子は山の手のある旧御家人の娘だった。何々小町と呼ばれたほどの器量よしで、その上、教育こそ地味な技芸学校を出たばかりだったが、女としては可なり理解力にも富んでいたし、昔形気の母親のしつけにもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかなところもあって、申し分のない少女だった。
当時北川氏は、遠い親戚に当たるところから、妙子の家に寄寓して学校に通よっていた。自然、妙子渇仰の青年たちは、北川氏の書斎に集まってきた。
北川氏はその頃から、少し変人型のむっつりやで、学問にかけては誰にもひけを取らなかったが、交際というようなことは至って不得手だった。それにもかかわらず、彼の書斎に客の絶えまがなかったというのは、彼を訪ねさえすれば、たとえ一緒になって談笑するとまでは行かずとも、取次に出たり、お茶を運んできたり、何かと妙子の顔を拝む機会があろうという、友人たちの敵本主義によるものだった。その中でも、最もしげしげ彼の室に出入りしたのは、今いった野本氏、越野氏、そのほか二、三氏のグループだった。彼らの暗闘は並々ならず烈しいものだった。だが、それはあくまで暗闘にすぎなかった。
その中でも、野本氏は最も熱心だった。秀麗な容貌の持主で、学校の成績も先ず秀才の部に属してい、その上ずいぶん調子のいい交際家でもあった野本氏が、われこそという自信を持っていたのは当然なことだった。彼自身そう信じていたばかりでなく、競争者たちも、残念ながら彼の優越を否定するわけにはいかなかった。北川氏の書斎での談笑の中心は、いつもきまったように野本氏が引き受けていた。時たま妙子が座にあるとき、もしそこに野本氏がいないと座が白けた。野本氏がいれば、彼女も快活に口をひらいた。
彼女が大声に笑ったりするのは野本氏のいる時に限られていた。そういう調子で、彼は苦もなく妙子に接近して行ったのだった。
誰しも野本氏こそ勝利者だと思った。
いろいろな機会のいろいろな暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あとには唯プロポーズが残っているばかりだと信じていた。
彼らの関係がちょうどそうした状態にあるとき、暑中休暇がきた。野本氏は優勝者の満悦をもって、いそいそと帰省の途についた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙子とのしばしの別れをかえって楽しいものに思わせた。
遠方からの手紙の遣り取りによって、二人のあいだがなお一層接近するであろうことを予想しながら、野本氏は東京をあとにした。
ところが、野本氏の帰省中に、俄然局面が一変した。野本氏があれほども自分のものだと信じきっていた妙子が、彼には一とことの断りもなく、一同がまさかこの男がと、高をくくっていた、あのむっつりやの北川氏に嫁してしまったのであった。
北川氏の喜悦と反比例して、野本氏の忿怒は烈しいものだった。それは忿怒というよりもむしろ驚愕であった。信じきっていたものに裏切られた人の驚愕であった。これ見よがしに振舞っていた手前、彼は友だちに合わす顔がなかった。
しかし、これといってハッキリした約束を取りかわしているわけではなかったので、どうにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、違えるべき約束をまだしていないのだった。洩らすすべのない憤りは野本氏の人物を一変させてしまった。
それ以来彼はあまり物を言わなくなった。これまでのように友だちの家を遊び廻らなくなった。彼はただ、学問に没頭することによって、僅かにやるせない失恋の悲しみを紛らそうとした。北川氏はそれらの事情を知りすぎるほどよく知っていた。野本氏がその後今日に至るまで妻帯しないことが、彼の失恋の悲しみがいかに烈しいものだったかを証拠立てていると思っていた。それだけに、彼と野本氏との間柄は、表面は同窓の友としてつき合っていたけれども、実は恐ろしく気まずいものになっていた。
そうしたいきさつを考えると、野本氏があのような復讐を企てるというのも、ずいぶんもっともなことだったし、北川氏がそれを疑う心持も、決して無理ではなかった。
さて、北川氏という男は、前にもちょっと言い及んだように、少し変り者だった。
社交的の会話、洒落とか冗談とかいうものは、まるでだめだった。彼はユーモアというものをてんで解しないような男だった。しかし議論などになると、ずいぶん雄弁にしゃべった。彼は何か一つの目的がきまらないことには何もする気になれぬらしかった。その代り、これと思い込むと、傍目もふらず突き進む方だった。そういう時は、目的以外のことにはまるで盲目になってしまった。この性質があればこそ、彼は学問にも成功した。不得手な恋にさえ成功した。彼は二つのことを同時に念頭におくことのできない性質だった。
妙子を得るまでは妙子のことのほかは何も考えなかった。妙子を得てしまうと、今度は学問に熱中した。あれほど執心だった妙子を一人ぼっちにほったらかして学問の研究に没頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは、「可哀そうな妙子」のことのほかは何も考えられぬ彼であった。野本氏に対する復讐についても彼は狂的に熱中した。そして、その目的を果たすと狂的に歓喜した。
すべてが極端から極端へと走った。
彼は一つ間違うと気違いになり兼ねぬような素質を多分に持っていた。いや、現に、妙子の死因についてのあの突飛な想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏の正気を信ずるにはあまりに気違いじみたものではなかったか。
しかし、北川氏は彼の想像の的中を固く信じていた。そして、その信念がいま確証されたのであった。
かたきと狙う野本氏は、見事北川氏の術中におちいって、彼の眼の前に、あさましい苦悶の姿を曝したのであった。
北川氏の話は、やっと長々しい前提を終えて、復讐の眼目にはいるのだった。
「その男の恐ろしい復讐には少しの手落ちもなかった。たとえそれを推量することはできても、それは推量の範囲を一歩だって越えることはできないのだ。お前はこういう罪を犯したではないかと責めたところで、相手がそれに服しなければ、どうにもしようがないのだ。僕はただその男の機知に感じ入って、じっとしているほかはなかった。相手はわかっている。しかもそれを責める方法がない。こんな苦しい変てこな立場があるだろうか。だが、野本君、安心してくれたまえ、僕はとうとうその男をとっちめる武器を発見したんだ。けれど、それは僕にとってなんという残酷な武器だったろう。
僕が発見した事実というのは、その男を苦しめると同時に僕を苦しめる、それを復讐の手段に用いるためには、先ず僕自身が相手と同様の苦しみを舐めた上でなければ、役に立たないような種類のものだった。僕は、あの、敵に毒饅頭を食わせるために、先ず自からの命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思い出した。敵をたおせば自分も滅びる、自分が先ず死なねば相手を殺すことができない。なんという恐ろしい死にもの狂いな復讐だろう。
だが、昔の忠臣の場合はまだいい。彼は復讐を思い止まりさえすれば、身を殺す必要はなかったのだ。ところが、僕の場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、その恐ろしい事実は、刻一刻鮮明の度を加えて、僕に迫ってくるのだった。はじめのあいだはボンヤリした、あるかなきかの疑いだったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実らしくなって行った。そして、今ではそれが『らしく』などという言葉を許さぬ、火のように明らかな事実となってしまったのだ。今までは心の中の問題だったものが、あまりに明瞭な証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となってしまった。どっちみち、僕はこの苦しみを味わねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、多分僕よりも幾層倍打撃を蒙るであろう敵にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち廻る有様を眺めてやろう。僕はそう決心したのだ。
その当座、僕は毎日々々その男のこの上もなく巧妙な復讐のことよりほかは考えなかった。或いは憤ったり、或いは感心したりしながら、そればかりで頭の中が一杯になっていた。ところが、ある日、地平線の彼方にぽっつりと現われた、一点の怪しげな黒雲のように、ふと妙な考えが浮かんだ、なるほど、あの男は完全無欠な手際で復讐をなしとげた。しかし、もし妙子が彼の信じているように、彼を嫌っていなかったとしたらどうだ。いや、かえって彼を愛していたとしたらどうだ……そんなことがあるはずはない。それはとりとめもない妄想だ。おれは頭がどうかしている。ばかな、そんなことがあってたまるものか。だが、しかしそれは果たしてあり得ないことだろうか。なぜ、こんなとほうもない妄想が、おれの頭の中へ浮かんできたのだろう。僕は恐ろしさに身震いした。もし……もし、妙子があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。
自然に、僕の考えは妙子との結婚当時の事情に移って行った。その男は結婚以前の僕にとって、一人の恐るべき競争者だった。僕は秘かに信じているんだが、その男自身も、彼の周囲の人たちも、妙子が僕と結婚しようなどとは、毛頭考えていなかったに違いない。そして、その男こそ妙子の未来の夫になる仕合わせ者だと信じていたに違いない。それほど、その男は妙子の心を奪っていた。もしそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ず彼のもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに反して僕はというと、何一つ女の心を惹くような美点を持ち合わせていなかったではないか。だが、僕の方には特別の武器があった。僕は妙子の家と遠い姻戚関係があったばかりでなく、昔にさかのぼれば、僕の一家は妙子の一家の主筋に当たるのだった。そうした関係から、結婚を申込めば妙子の両親が、あの昔形気な老人たちが、二つ返事でむしろ有難く承諾するのは当然のことだった。そんな義理づくばかりでなく、物堅い僕の性質が『あの人なら』というふうに彼らの深い信用を買っていた。その上、幸か不幸か、妙子自身が、どんなことがあっても親の言いつけには反き得ないような、昔風の娘だった。心では、どれほど深く思いつめている男があっても、それを色に現わすようなはしたない女ではなかった。僕はそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。たとえこれほど明瞭には考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。
だが、誰でも持っているように、僕とても、人並の、いやおそらく人並以上の自惚れを持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗して、さて一緒になってみると、いつとはなしに、そうした自責に似た心持も消え去ってしまった。妙子は、僕を大切な旦那様として、十分貞節を尽してくれた。『さては、あの男を恋していたと思ったのも、おれの疑心暗鬼であったか』お人好しの僕は一概にそう信じてしまったのだった。
しかし今にして思えば、妙子のほかに女というものを知らぬ僕には、なんとも判断しかねるけれど、恋というのはあんなものではないらしい。僕と妙子の関係は、恋人というよりも、むしろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか。考えてみれば僕もずいぶんお坊ちゃんであった。三年間もつれ添っていながら、女房の心持がハッキリわからないなんて……実際、僕はこれまで、女房の心持について考えて見ようなどと思ったことすらないのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界中のただ一人として愛するものだと単純に極めてしまって、もうなんの疑うところもなく、専門の仕事に没頭していたのだった。
だが、今度の事件が僕の眼をひらいてくれた。
あとになって考えると、妙子のそぶりに腑に落ちぬ点が多々あった。ああいう時、ほんとうに夫を愛している女房だったら、あんなふうにはしなかったろうというような、些細な出来事がそれからそれへと思い浮かぶのだった。確かに、妙子は僕という夫に満足していなかったのだ。そして心ならずも見棄てたところの、昔の恋人の姿を、絶えず心にいだきしめていたのだ。いや心の上だけではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな暖かい胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。
僕はさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したと言った。
その証拠というのは、見たまえ、これなんだ。このペンダントは、君もよく知っているように、妙子が娘時代から大切にしていた品だ。
これは、やっと火事場から持ち出した彼女の手文庫の底に、丁寧にビロードのサックに入れてしまってあったのを、つい数日前、ふとしたことから発見したんだが、この妙子の秘蔵のペンダントの中には一体なにがはいっていたと思う。その中には、野本君、その男の――越野が火事場で出会った男の――妙子を無残に焼き殺した男の――しかも、その妙子が以前からずっと愛しつづけていた男の――写真が、守り本尊のようにはりつけてあったのだよ。しかし、もし、これが、妙子が娘時代にその男の写真をはりつけておいたまま、うち忘れていたとでもいうのならまだしも、現に、彼女は僕と結婚した当座、確かにこの中へは僕の写真をはりつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と代っていたというのは、これは一体なにを語るものだろう」
北川氏は、内ぶところへ手を入れて、一つの金製のペンダントを取り出した。そして、それを手の平の上にのせてヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。
野本氏は、怖れに耐えぬように、打震う手でそれを受け取った。そして、ペンダントの表面の浮彫り模様をじっと見入っていた。
北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にありといった感じだった。あらゆる神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細かい点までも見のがすまいと努力した。死のような沈黙がつづいた。
野本氏は可なり長いあいだペンダントを見つめていた。
彼は、その蓋をひらいて、中の写真を確かめようともしなかった。それは、そんなことをしてみるまでもなく、あまりに明白な事実として、野本氏の胸を打ったのに違いなかった……彼の表情はだんだん空虚になって行った。殊に彼の眼は、視線だけはペンダントに注いでいたけれど、何かほかのことを深く深く思いめぐらしてでもいるように、まるでうつろに見えた。やがて、彼の頭は、そろりそろりとさがって行った。そして、ついには、彼はチャブ台の上に俯伏してしまったのだった。その瞬間、北川氏は彼が泣き出したのではないかと思ってハッとした。だが、そうではなかった。
野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、もはや永久に起き上がることのできない人のように、俯伏したまま動かなかった。
北川氏は、もうこれでいいと思った。
勝利の快感で喉が塞がったようになった。それ以上話をつづける必要はなかった。たとえあっても、北川氏にはもう口が利けなかった。彼はもがくようにして立ち上がった。
そして、俯伏したままの野本氏をしり目にかけて、すっと座敷から出た。何も知らぬ婆やが、あわてて彼の下駄を直しに出てきた。彼は躍るような足取りで玄関の式台へ下りたとたんに、ドサリという音がした。
北川氏は婆やの上に重なって、ぶざまに倒れていた。彼は昂奮のあまり痺れが切れたことすら意識しなかったのだ。
「かくして、おれは勝ったのだ」
北川氏は満悦のていで、まだ歩きつづけていた。
「あいつはあのペンダントを永久に手離し得ないのだ。棄てようとしても、どうにも棄てられないのだ、いやペンダントそのものはたとえ棄てることができても、あいつの頭の中には、いつまでも、いつまでも、おそらく墓場の中までも、その持主の姿を象徴するようにあのペンダントがこびりついていることだろう。『これほど自分を思ってくれた人を、おれはこの上もない残酷な手段で焼き殺してしまったのだ』やつは取り返しのつかぬ失策に、毎日々々嘆き悶えることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか。なんという申し分のない手際だろう。さすがは北川だ。お前は偉い。お前の頭は、日頃お前が信じている通り、実にすばらしいものだなあ」
北川氏の歓喜は勝利の悲哀に転ずる一刹那前のクライマックスに達していた。
彼は今、歩きつづけながらベースボールの応援者たちが、「フレー、フレー、なんとかあ」と喚いて躍り上がる時のように、躍り上がった。そして、気違いのように涎を垂らしながら、ゲラゲラと笑った、おびただしい汗が、シャツを通して、薩摩上布の腰のあたりをべっとりと濡らしていた。まっ赤に充血した顔からは、ぼとりぼとりと汗の雫が垂れていた。
「ワハハハハハハハハハハハハ、なんというばかばかしい、子供だましなトリックだ。野本先生まんまとしてやられたね。え、野本先生」
彼は大きな声でこうどなった。
さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分だけがほんとうで、あとの半分は彼の復讐のために考え出したトリックにすぎないのだった。
彼が妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。彼女が死んでから半月ばかりというものは、学校も休んでしまって――それが彼の職業だった――夜の眼も寝ずに泣き悲しんでいた。「ママ、ママ」と母親の乳を求める幼児といっしょになって泣いていた。
越野氏――あの火事の時に親切に手伝ってくれた越野氏が、彼の新居へやってきて、妙子の死因についてある暗示を与えたまでは、彼は彼女の死を疑う余裕さえないほど、ただわけもなく悲嘆に暮れていた。
だが一とたび越野氏の話を聞くと、
彼は例の一本調子になって、悲しみを打ち忘れて復讐に熱中しだした。夜となく昼となく、彼は相手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。
それは非常に困難な仕事だった。第一、相手が誰であるか、それすらわからなかった。北川氏は越野氏が火事場で野本氏に逢ったように話したけれど、あれも作りごとだった。なるほど、越野氏は見覚えのある男に逢ったと言った。そして、その男がいかにも彼の眼を怖れるように人混みの中へ隠れてしまったとも言った。
しかし、それが誰であったか、越野氏はよく見別ける暇がなかったのだった。
「なんでも、学校時代に親しく往き来した友だちの一人なんだ。何しろ、あの騒ぎで、気が顛動している際だったから、ハッキリしたことはいえないが、野本か、井上か、松村か、つまり、あの時分君の書斎へよく集まった連中の一人だと思うんだがね。野本のようでもあり、井上のようでもあり、そうかといって松村でなかったとも断言し兼ねるが……ともかくその三人のうちの誰かに違いないのだけれど、どうしても思い出せない」
越野氏はこんなふうに言った。
先ず相手から探してかからねばならないのだった。もし、間違った相手に復讐するようなことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、たとえ相手がわかったとしても、あまりに巧妙な遣り口に、どうにも手のつけようがないではないか、北川氏自身野本氏に白状した通り、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つまり、そこには二重の困難が横たわっていたのだった。
幾日となく、そればかりを考えているうちに、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮かんできた。それは法律に訴えることではむろんなかった。といって、暴力をもって私刑を行なうのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢獄や、どんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与えうるような方法だった。そればかりでなく、もっといい事には、その方法によるときは、わざわざ真犯人を見いだす面倒のないことだった。嫌疑者のすべてに対して、それを実行しさえすればよいのだった。
真の犯罪者にはこの上もない苦痛を与えるけれども、他の者はなんらの痛痒も感じないという方法だった。
妙子が残していったペンダントと、学生時代に、同じクラスの者が集まって写した四つ切りの写真とが、その材料だった。
北川氏は先ずそのペンダントと同じものを二つ作らせた。そして、都合三つの寸分違わないペンダントが揃うと、今度はその中へ、それぞれ、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、顔のところだけ切り抜いてはりつけた。
なんという簡単な準備だ。これであの重大な仇討ができようとは。
「しかし、相手のトリックは、もっと簡単でしかも自然だったではないか。世の中には、きわめて些細な原因が、非常に重大な結果を招くことがあるもんだ。このつまらないペンダントと、古ぼけた切抜き写真が、一人の人間の一生の運命を左右する偉大な力を持っていないと誰が断言できるだろう。
野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、このペンダントを見忘れているはずはない。殊にこの蓋の表面のヴィーナスの浮彫りは、あの頃おれの室へきたほどの青年たちが皆熟知しているはずだ。彼らが妙子の噂をし合うときには、いつもその本名を呼ぶ代りに、ペンダントの模様から思いついた『ヴィーナス』という綽名を使っていたほどではないか。今もし、彼らのうちの誰かが、妙子の手文庫の底深く秘めていた、このペンダントの中に、自分の写真がはり付けてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に、もしその誰かが、妙子を焼き殺した本人だったら、その男の悲痛はまあどれほどだろう」
実を言えば、越野氏の教えてくれた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。だが、他の二人とても妙子に無関心であったはずはないのだから、疑って疑えないことはなかった。そこで、最も嫌疑の重い野本氏を最後に残して、先ず、井上、松村の両氏に、北川氏自ら名案と信ずる、このペンダントのトリックを試みることにしたのだった。
しかし、両氏とも、ペンダントを取り出すまでもなく、その無実が明瞭になった。
彼らは申し合わせたように、北川氏の変てこな話を聴くと、気の毒だという表情をした。そして、
「君は細君に死なれて、少しとりのぼせているに違いない。そんなばかばかしいことがあってたまるものか、君はもっと気を落ち着けなくちゃいけない。まあまあそんなつまらない話は止しにして、さあ一杯やりたまえ」
というような調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。彼らの表情には、犯罪者の不安などは影さえもささなかった。
北川氏は少なからず失望した。
「おれの考えは、そんなに気違いじみているのかしら。もしかすると、これは彼らのいうように、まるで根も葉もない妄想にすぎないのではあるまいか。
だが、まだ野本が残っている。おれは最初からあいつをこそ目ざしていたのではないか。ともかくも最後までやってみなければ」
こうして、彼はきょう野本氏をおとずれたのだった。そして、予期以上の見事な効果を収めたのだった。彼が狂人のように歓喜したのは決して無理ではなかった。
北川氏は二時間あまりも、汗でベトベトになって歩きつづけていた。ふと時計を見ると、夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食どきをすぎていた。彼はようやくわれに返ったように、今度は方向を定めて歩き出した。
一日の昂奮で疲れきったからだを、郊外電車に揺られながら、家にたどりつくと、彼はもう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、間もなく、快い鼾が、きょうの勝利に満足しきった彼の喉から、ゆったりしたリズムをもって、流れてくるのだった。
翌日、北川氏が眼をさましたのは、十時に近いころだった。熟睡の後の快い倦怠が、彼をことさらいい心持にした。彼は起き上がると寝間着のまま書斎へはいって行った。そこには甘い回想の材料が彼を待っていた。野本氏の手に残してきたのと寸分違わない、二つのペンダントが、書き物机の引出しの中に待っていた。
彼はそれを取り出して愛撫するように眺めるのだった。
はじめの計画では、野本氏の所ばかりでなく、井上氏や、松村氏の所へも、それを残してくるつもりだった。もし三人の内、誰が犯罪者だか判別しかねるような場合には、どうしても一人に一つずつペンダントを残してくる必要があった。そういうつもりで、彼はわざわざ高価な模造品を二つまで造らせたのだった。
しかし、前にも言ったように、野本氏のほかの二人は、ペンダントを取り出すまでもなく見別けがついた。北川氏は大切に紙入れの中へ入れて行ったのを、二度ともそのまま持ち帰らねばならなかった。彼は今、その不用に帰した二つのペンダントを眺めているのだった。
「野本のやつ、こんなトリックがあろうとは、まるで想像もできないだろう。へへへへへ、どうです。なんとうまい手品でしょうがな。ところで一つ種明かしをいたしましょうか。さあごらんなされ。手品の種というのは、この二つのペンダントでござる。この中には一体なにがはいっているとおぼしめす。わかりますまい? では申しますがね。この一つには松村先生の写真、もう一つには井上先生の写真が、ちゃんとはいっているのですよ。野本先生の写真はもうここには……」
北川氏は、ふと|台詞《せ り ふ》めいた独り言をやめた。
彼は心臓がスーッと喉の方へ飛び上がってくるような気がした。彼の顔が白紙のように白くなった。今にもペンダントの蓋をひらこうとしていた彼の手は、突然、えたいの知れぬ恐れのために、パッタリその動作を中止した。
そして恐怖に耐えぬ彼の瞳がじっと空を見詰めた。
「おれはどんなこまかい点までも、注意に注意して事を運んだつもりだ。しかし、この不安はどうしたというのだろう。何かとほうもない間違いをしてやしないかしら、お前は今、その肝腎の点だけがどうしても思い出せないではないか。お前は野本の家へ行くときに、果たして野本の写真のはいっているペンダントを持って行ったか。
さあ、しっかりしろ。もしも、お前が野本に渡したペンダントに、松村か井上の写真がはいっていたとしたら、どんな結果になるか、よく考えてみよ。お前は恐ろしくはないか。そら、お前は震えているではないか。では、お前は、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤を、今思い出したとでもいうのか」
彼はフラフラと立ち上がった。そして、じっとしていられないように、部屋の入口の方へ歩き出した。ちょうどその時、出会いがしらに女中が一通の封書を手にして彼の書斎へはいってきた。
「旦那様、野本さんからお使いでございます」
しゃっくりのようなものが北川氏の胸に込み上げてきた。
ある予感が、だだっ子のように、この手紙を読ませまいと、彼を引き止めた。しかし、いつまでもそうして女中と睨めっこをしているわけにはいかなかった。
彼はついに意を決したもののように、手紙を取って開封した。巻紙に書かれた達筆な野本氏の文字が、焼きつくように北川氏の眼を射た。
読んでいるうちに、物凄い笑いが北川氏の口辺に浮かんできた。その笑いがだんだん顔じゅうに拡がって行った。
彼は、巻紙を持った両手をスーッとさし上げたかと思うと、クルリ、その巻紙で頬冠りをした。そして爆発したように笑い出した。
「ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………」
彼は身をもだえて笑いつづけた。ちょうど、朝顔日記の笑い薬の段に出てくる|悪《あく》医者のように、止め度もなく笑いこけた。
こうして、可哀そうな北川氏は発狂してしまった。彼の発狂の原因がなんであったか、われわれはいま俄かにそれを判断することはできない。
しかし、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大なる近因であったと推定するのが、まず誤りのないところであろう。その野本氏の手紙には左のような文句が綴られてあった。
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前略
昨日は意外の失策御無礼の段幾重にも御容赦下されたく候。実は数日来極度の多忙にてろくろく夜の眼も寝ず仕事に没頭いたしおり、連日の睡眠不足より遂にあの不始末に及びたる次第に候。貴君のお話も幽かには記憶いたしおり候得共、いつお立帰りになりたることやらまるで前後忘却、貴君の前をも憚らずいぎたなく熟睡に及びたる段、何とも申訳の言葉もこれなく候。おぼろげながら昨日のお話によれば、令閨御死去に関して何か疑惑を抱かれおる様拝察いたし候得共、常識より判断いたせばお話の如き儀はよもこれあるまじきかと存ぜられ候。愛人を失われたる御悲歎の程は千万御同情申上候得共、余りに其事のみ思い詰められては御健康にも宜しからず、此際転地でもなされ十分御静養相成り候様、差出がましき次第ながら、旧友の老婆心より御忠告申上候。先は取りあえず昨日の御詫旁々斯くのごとくに御座候。
[#ここで字下げ終わり]
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二伸、御忘れのペンダント同封いたしおき候。確かこの中に貼付けある写真の主こそは恐るべき殺人者のよう承り候得共、さるにても御同様親しく往来いたしおるかの松村君が仰せの如き極悪人なりとは断じて信じ難き所に御座候。
[#ここで字下げ終わり]
封筒の中には、手紙のほかに、白紙で包んだペンダントがはいっていた。どうして間違ったのか、そのペンダントには野本氏のでなくて、松村氏の写真が貼りつけてあった。この手紙が野本氏の真意であったか、それともペンダントの間違いに乗じた彼の機智であったか、それは野本氏自身のほかは誰にもわからぬ永久の秘密だった。かくて、北川氏の発狂の直接の動機となったものは、なんと恐ろしい因縁ではないか。彼がへいぜい口癖のようにしていた、いわゆる「脳髄の盲点」の作用だったのである。
D坂の殺人事件
(上)事 実
それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコーヒーを啜っていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬ喫茶店廻りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、私という男は悪い癖で、喫茶店にはいるとどうも長尻になる。それに、元来食欲の少ない方なので、ひとつは嚢中の乏しいせいもあってだが、洋食ひと皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代りして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエートレスにおぼしめしがあったり、からかったりするわけでもない。まあ下宿よりなんとなく派手で居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓のそとをながめていた。
さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしてみるといかにも変り者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが、その男の幼馴染の女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、この前、彼から聞いていたからだった。二、三度本を買って覚えているところによれば、この古本屋の細君というのがなかなかの美人で、どこがどうというではないが、なんとなく官能的に男をひきつけるようなところがあるのだ。彼女は夜はいつでも店番をしているのだから、今晩もいるに違いないと、店じゅうを、といっても二間半間口の手狭な店だけれど、探してみたが、誰もいない、いずれそのうちに出てくるのだろうと、私はじっと眼で待っていたものだ。
だが、女房はなかなか出てこない。で、いい加減面倒臭くなって、隣の時計屋へと眼を移そうとしている時であった。私はふと、店と奥の間との境に閉めてある障子の戸が、ピッシャリしまるのを見た――その障子は専門家の方では無双と称するもので、普通、紙をはるべき中央の部分が、こまかい縦の二重の格子になっていて、一つの格子の幅が五分ぐらいで、それが開閉できるようになっているのだ――ハテ変なこともあるものだ。古本屋などというものは、万引きされやすい商売だから、たとえ店に番をしていなくても、奥に人がいて、障子のすき間などから、じっと見張っているものなのに、そのすき見の箇所を塞いでしまうとはおかしい。寒い時分ならともかく、九月になったばかりのこんな蒸し暑い晩だのに、第一障子そのものが閉めきってあるのからして変だ。そんなふうにいろいろ考えてみると、古本屋の奥の間になにごとかありそうで、私は眼を移す気になれなかった。
古本屋の細君といえば、ある時、この喫茶店のウエートレスたちが、妙な噂をしているのを聞いたことがある。なんでも、銭湯で出会うおかみさんや娘さんたちの棚おろしのつづきらしかったが、「古本屋のおかみさんは、あんなきれいな人だけれど、はだかになると、からだじゅう傷だらけだ。たたかれたり抓られたりした痕に違いないわ。別に夫婦仲が悪くもないようだのに、おかしいわねえ」すると別の女がそれを受けてしゃべるのだ。「あの並びのソバ屋の旭屋のおかみさんだって、よく傷をしているわ。あれもどうも叩かれた傷に違いないわ」……で、この噂話が何を意味するか、私は深くも気に留めないで、ただ亭主が邪慳なのだろうぐらいに考えたことだが、読者諸君、それがなかなかそうではなかったのだ。このちょっとした事柄が、この物語全体に大きな関係を持っていたことが、後になってわかったのである。
それはともかく、私はそうして三十分ほども同じところを見詰めていた。虫が知らすとでもいうのか、なんだかこう、傍見をしているすきに何事か起こりそうで、どうもほかへ眼が向けられなかったのだ。その時、先ほどちょっと名前の出た明智小五郎が、いつもの荒い棒縞の浴衣を着て、変に肩を振る歩き方で、窓のそとを通りかかった。彼は私に気づくと会釈をして中へはいってきたが、冷しコーヒーを命じておいて、私と同じように窓の方を向いて、私の隣に腰かけた。そして、私が一つところを見詰めているのに気づくと、彼はその私の視線をたどって、同じく向こうの古本屋をながめた。しかも、不思議なことには、彼もまた、いかにも興味ありげに、少しも眼をそらさないで、その方を凝視し出したのである。
私たちは、そうして、申し合わせたように同じ場所をながめながら、いろいろむだ話を取りかわした。その時、私たちのあいだにどんな話題が話されたか、今ではもう忘れてもいるし、それに、この物語にはあまり関係のないことだから、略するけれど、それが、犯罪や探偵に関したものであったことは確かだ。試みに見本をひとつ取り出してみると、
「絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。僕はずいぶん可能性があると思うのですがね。たとえば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪はまず発見されることはありませんよ。もっとも、あの小説では、探偵が発見したことになってますけれど、あれは作者のすばらしい想像力が作り出したことですからね」と明智。
「いや、僕はそうは思いませんよ。実際問題としてならともかく、理論的にいって、探偵のできない犯罪なんてありませんよ。ただ、現在の警察に『途上』に出てくるような偉い探偵がいないだけですよ」と私。
ざっとこういったふうなのだ。だが、ある瞬間、二人は言い合わせたように、ふとだまり込んでしまった。さっきから、話しながら眼をそらさないでいた向こうの古本屋に、ある面白い事件が発生していたのだ。
「君も気づいているようですね」
と私がささやくと、彼は即座に答えた。
「本泥棒でしょう。どうも変ですね。僕もここへはいってきた時から、見ていたんですよ。これで四人目ですね」
「君が来てからまだ三十分にもなりませんが、三十分に四人も。少しおかしいですね。僕は君の来る前からあすこを見ていたんですよ。一時間ほど前にね、あの障子があるでしょう。あれの格子のようになったところが、しまるのを見たんですが、それからずっと注意していたのです」
「うちの人が出て行ったのじゃないのですか」
「それが、あの障子は一度もひらかないのですよ。出て行ったとすれば裏口からでしょうが………三十分も人がいないなんて、確かに変ですよ。どうです、行ってみようじゃありませんか」
「そうですね。うちの中には別状がないとしても、そとで何かあったのかもしれませんからね」
私はこれが犯罪事件ででもあってくれれば面白いがと思いながら、喫茶店を出た。明智とても同じ思いに違いなかった。彼も少なからず興奮しているのだ。
古本屋は、よくある型で、店は全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届くような本棚を取り付け、その腰のところが本を並べるための台になっている。土間の中央には、島のように、これも本を並べたり積み上げたりするための、長方形の台がおいてある。そして、正面の本棚の右の方が三尺ばかりあいていて奥の部屋との通路になり、先にいった一枚の障子が立ててある。いつもは、この障子の前の半畳ほどの畳敷きのところに、主人か細君がチョコンとすわって番をしているのだ。
明智と私とは、その畳敷きのところまで行って、大声に叫んでみたけれど、なんの返事もない。はたして誰もいないらしい。私は障子を少しあけて、奥の間を覗いてみると、中は電燈が消えてまっ暗だが、どうやら人間らしいものが、部屋の隅に倒れている様子だ。不審に思ってもう一度声をかけたが、返事をしない。
「構わない、上がってみようじゃありませんか」
そこで、二人はドカドカと奥の間へ上がり込んで行った。明智の手で電燈のスイッチがひねられた。そのとたん、私たちは同時に「アッ」と声を立てた。明かるくなった部屋の片隅に、女の死体が横たわっていたからだ。
「ここの細君ですね」やっと私がいった。「首を絞められているようじゃありませんか」
明智はそばへ寄って、死骸を調べていたが、
「とても蘇生の見込みはありませんよ。早く警察へ知らせなきゃ。僕、公衆電話まで行ってきましょう。君、番をしててください。近所へはまだ知らせない方がいいでしょう。手掛りを消してしまってはいけないから」
彼はこう命令的に言い残して、半丁ばかりのところにある公衆電話へ飛んで行った。
平常から、犯罪だ探偵だと、議論だけはなかなか一人前にやってのける私だが、さて実際にぶっつかったのははじめてだ。手のつけようがない。私は、ただ、まじまじと部屋の様子をながめているほかはなかった。
部屋はひと間きりの六畳で、奥の方は、右一間は幅の狭い縁側をへだてて、二坪ばかりの庭と便所があり、庭の向こうは板塀になっている――夏のことで、あけっぱなしだから、すっかり、見通しなのだ――左半間はひらき戸で、その奥に二畳敷きほどの板の間があり、裏口に接して狭い流し場が見え、裏口の腰高障子は閉まっている。向かって右側は、四枚の襖になっていて、中は二階への階段と物入れ場になっているらしい。ごくありふれた安長屋の間取りだ。死骸は、左側の壁寄りに、店の間の方を頭にして倒れている。私は、なるべく兇行当時の模様を乱すまいとして、一つは気味もわるかったので、死骸のそばへ近寄らないようにしていた。でも、狭い部屋のことだから、見まいとしても、自然その方に眼が行くのだ。女は荒い中形模様の浴衣を着て、ほとんど仰向きに倒れている。しかし、着物が膝の上の方までまくれて、腿がむき出しになっているくらいで、別に抵抗した様子はない。首のところは、よくはわからぬが、どうやら、絞められた痕が紫色になっているらしい。
表の大通りには往来が絶えない。声高に話し合って、カラカラと|日《ひ》|和《より》下駄を引きずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なことだ。そして障子ひとえの家の中には、一人の女が惨殺されて横たわっている。なんという皮肉だろう。私は妙な気持ちになって、呆然とたたずんでいた。
「すぐくるそうですよ」
明智が息をきって帰ってきた。
「あ、そう」
私はなんだか口をきくのも大儀になっていた。二人は長いあいだ、ひとことも言わないで顔を見合わせていた。
間もなく、一人の制服の警官が背広の男と連れだってやってきた。制服の方は、後で知ったのだが、K警察署の司法主任で、もう一人は、その顔つきや持物でもわかるように同じ署に属する警察医だった。私たちは司法主任に、最初からの事情を大略説明した。そして私はこうつけ加えた。
「この明智君が喫茶店へはいってきた時、偶然時計を見たのですが、ちょうど八時半でしたから、この障子の格子が閉まったのは、おそらく八時頃だったと思います。その時はたしか中にも電燈がついていました。ですから、少なくとも八時頃には、誰か生きた人間が部屋にいたことは明らかです」
司法主任が私たちの陳述を聞き取って、手帳に書き留めているあいだに、警察医は一応死体の検診を済ませていた。彼は私たちの言葉のとぎれるのを待っていった。
「絞殺ですね。手でやられたのです。これごらんなさい。この紫色になっているのが指の痕ですよ。それから、この出血しているのは、爪があたった箇所です。|拇《おや》|指《ゆび》の痕が頸の右側についているのを見ると、右手でやったものですね。そうですね。おそらく死後一時間以上はたっていないでしょう。しかし、むろん蘇生の見込みはありません」
「上から押さえつけられたのですね」司法主任が考え考え言った。「しかし、それにしては、抵抗した様子がないが……おそらく非常に急激にやったのでしょうね、ひどい力で」
それから、彼は私たちの方を向いて、この家の主人はどうしたのだと尋ねた。だが、むろん、私たちが知っているはずはない。そこで、明智は気をきかして、隣家の時計屋の主人を呼んできた。
司法主任と時計屋の問答は大体次のようなものだった。
「主人はどこへ行っているのかね」
「ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しに参りますんで、いつも十二時頃でなきゃ帰って参りません」
「どこへ夜店を出すんだね」
「よく上野の広小路へ参りますようですが、今晩はどこへ出しましたか、どうも手前にはわかりかねます」
「一時間ばかり前に、何か物音を聞かなかったかね」
「物音と申しますと」
「きまっているじゃないか。この女が殺される時の叫び声とか、格闘の音とか……」
「別段これという物音も聞きませんようでございましたが」
そうこうするうちに、近所の人たちが聞き伝えて集まってきたのと、通りがかりの野次馬で、古本屋の表は一杯の人だかりになった。その中に、もう一方の隣家の足袋屋のおかみさんがいて、時計屋に応援した。そして、彼女も、何も物音を聞かなかったと申し立てた。
このあいだに、近所の人たちは、協議の上、古本屋の主人のところへ使いを走らせた様子だった。
そこへ、表に自動車が止まる音がして、数人の人がドヤドヤとはいってきた。それは警察からの急報で駈けつけた検事局の連中と、偶然同時に到着したK警察署長、及び当時名探偵という噂の高かった小林刑事などの一行だ――むろんこれは後になってわかったことだ。というのは、私の友だちに一人の司法記者があって、それがこの事件の係りの小林刑事とごく懇意だったので、私は後日彼からいろいろと聞くことができたのだ。――先着の司法主任は、この人たちの前で今までの模様を説明した。私たちも|先《さき》の陳述をもう一度繰り返さねばならなかった。
「表の戸を閉めましょう」
突然、黒いアルパカの背広に白ズボンという、下廻りの会社員みたいな男が大声でどなって、さっさと戸を閉め出した。これが小林刑事だった。彼はこうして野次馬を撃退しておいて、さて探偵にとりかかった。彼のやり方はいかにも傍若無人で、検事や署長などはまるで眼中にない様子だった。彼ははじめから終りまで一人で活動した。他の人たちはただ彼の敏捷な行動を傍観するためにやってきた見物人にすぎないように見えた。彼は第一に死体を調べた。頸のまわりは殊に念入りにいじり廻していたが、
「この指の痕には別に特徴がありません。つまり普通の人間が、右手で押さえつけたという以外になんの手がかりもありません」
と検事の方を見て言った。次に彼は一度死体をはだかにしてみると言い出した。そこで議会の秘密会みたいに、傍観者の私たちは、店の間へ追い出されねばならなかった。だから、そのあいだにどういう発見があったか、よくわからないが、察するところ、彼らは死人のからだにたくさんの生傷のあることを注意したに違いない。喫茶店のウエートレスの噂していたあれだ。
やがて、この秘密会は解かれたけれど、私たちは奥の間へはいって行くのを遠慮して、例の店の間と奥との境の畳敷きのところから奥の方をのぞきこんでいた。幸いなことには、私たちは事件の発見者だったし、それに、あとから明智の指紋をとらねばならぬことになったために、最後まで追い出されずにすんだ。というよりは抑留されていたという方が正しいかもしれぬ。しかし小林刑事の活動は奥の間だけに限られていたわけではなく、屋内屋外の広い範囲にわたって行なわれたのだから、ひとつところにじっとしていた私たちに、その捜査の模様がわかろうはずがないのだが、うまいぐあいに、検事が奥の間に陣取っていて、始終ほとんど動かなかったので、刑事が出たりはいったりするごとに、一々捜査の結果を報告するのを、もれなく聞きとることができた。検事はその報告にもとづいて、調書の材料を書記に書きとめさせていた。
まず、死体のあった奥の間の捜索が行なわれたが、遺留品も、足跡も、その他探偵の眼に触れる何物もなかった様子だった。ただひとつのものを除いては。
「電燈のスイッチに指紋があります」黒いエボナイトのスイッチに何か白い粉をふりかけていた刑事がいった。
「前後の事情から考えて、電燈を消したのは犯人に違いありません。しかし、これをつけたのはあなた方のうちどちらですか」
明智は自分だと答えた。
「そうですか。あとであなたの指紋をとらせてください。この電燈はさわらないようにして、このまま取りはずして持って行きましょう」
それから、刑事は二階へ上がって行って、しばらく下りてこなかったが、下りてくるとすぐに裏口の路地を調べるのだと言って出て行ってしまった。それが十分もかかったろうか。やがて、彼はまだついたままの懐中電燈を片手に、一人の男を連れて帰ってきた。それは汚れたクレップシャツにカーキ色のズボンという服装で、四十ばかりの汚ない男だ。
「足跡はまるでだめです」刑事が報告した。「この裏口の辺は、日当りがわるいせいか、ひどいぬかるみで、下駄の跡が滅多無性についているんだから、とてもわかりっこありません。ところで、この男ですが」と今連れてきた男を指さし「これは、この裏の路地を出たところの角に店を出していた、アイスクリーム屋ですが、もし犯人が裏口から逃げたとすれば、路地は一方口なんですから、かならずこの男の眼についたはずです。君、もう一度私の訊ねることに答えてごらん」
そこで、アイスクリーム屋と刑事の一問一答。
「今晩八時前後に、この路地を出入りしたものはないかね」
「一人もありません。日が暮れてからこっち、猫の子一匹通りません」アイスクリーム屋はなかなか要領よく答える。「私は長らくここへ店を出させてもらってますが、あすこは、ここのおかみさんたちも、夜分は滅多に通りません。何分あの足場のわるいところへもってきて、まっ暗なんですから」
「君の店のお客で路地の中へはいったものはないかね」
「それもございません。皆さん私の眼の前でアイスクリームを食べて、すぐ元の方へお帰りになりました。それはもう間違いはありません」
さて、もしこのアイスクリーム屋の証言が信用すべきものだとすると、犯人はたとえこの家の裏口から逃げたとしても、その裏口からの唯一の通路である路地は出なかったことになる。さればといって表の方から出なかったことも、私たちが白梅軒から見ていたのだから間違いはない。では彼は一体どうしたのであろう。小林刑事の考えによれば、これは、犯人がこの路地を取りまいている裏おもて二た側の長屋のどこかの家に潜伏しているか、それとも借家人のうちに犯人がいるのか、どちらかであろう。もっとも、二階から屋根伝いに逃げる道はあるけれど、二階をしらべたところによると、表の方の窓は取りつけの格子がはまっていて、少しも動かした様子はないのだし、裏の方の窓だって、この暑さで、どこの家も二階は明けっぱなしで、中には物干で涼んでいる人もあるくらいだから、ここから逃げるのはちょっとむずかしいように思われる、というのだ。
そこで臨検者たちのあいだに、ちょっと捜査方針についての協議がひらかれたが、結局、手分けをして近所を軒並みにしらべてみることになった。といっても、裏おもての長屋を合わせて十一軒しかないのだから、たいして面倒ではない。それと同時に、家の中も再度、縁の下から天井裏まで残るくまなく調べられた。ところがその結果は、なんの得るところもなかったばかりでなく、かえって事情を困難にしてしまったようにみえた。というのは、古本屋の一軒おいて隣の菓子屋の主人が、日暮れ時分からつい今しがたまで、屋上の物干へ出て尺八を吹いていたことがわかったが、彼は初めからしまいまで、ちょうど古本屋の二階の窓の出来事を見のがすはずのないような位置に坐っていたのだ。
読者諸君、事件はなかなか面白くなってきた。犯人は、どこからはいって、どこから逃げたのか、裏口からでもない、二階の窓からでもない、そして表からではもちろんない。彼は最初から存在しなかったのか、それとも煙のように消えてしまったのか。不思議はそればかりではない。小林刑事が、検事の前に連れてきた二人の学生が、実に妙なことを申し立てたのだ。それは近所に間借りしている或る工業学校の生徒たちで、二人ともでたらめをいうような男とも見えぬが、それにもかかわらず、彼らの陳述はこの事件をますます不可解にするような性質のものだったのである。
検事の質問に対して、彼らは大体左のように答えた。
「僕は、ちょうど八時頃に、この古本屋の前に立って、そこの台にある雑誌をひらいて見ていたのです。すると、奥の方でなんだか物音がしたもんですから、ふと眼を上げてこの障子の方を見ますと、障子は閉まっていましたけれど、この格子のようになったところがひらいていましたので、そのすき間に一人の男の立っているのが見えました。しかし、私が眼を上げるのと、その男がこの格子を閉めるのと、ほとんど同時でしたから、くわしいことはむろん分りませんが、でも帯のぐあいで男だったことは確かです」
「で、男だったというほかに何か気づいた点はありませんか、背恰好とか、着物の柄とか」
「見えたのは腰から下ですから背恰好はちょっとわかりませんが、着物は黒いものでした。ひょっとしたら、細かい縞か絣であったかもしれませんけれど、私の眼には黒く見えました」
「僕もこの友だちと一緒に本を見ていたんです」ともう一方の学生、「そして、同じように物音に気づいて同じように格子の閉まるのを見ました。ですが、その男は確かに白い着物を着ていました。縞も模様もない、白っぽい着物です」
「それは変ではありませんか。君たちのうちどちらかが間違いでなけりゃ」
「決して間違いではありません」
「僕も嘘は言いません」
この二人の学生の不思議な陳述は何を意味するか、敏感な読者はおそらくあることに気づかれたであろう。実は、私もそれに気づいたのだ。しかし、検事や警察の人たちは、この点について、あまり深くは考えない様子だった。
間もなく、死人の|夫《おっと》の古本屋が、知らせを聞いて帰ってきた。彼は古本屋らしくない、きゃしゃな若い男だったが、細君の死骸を見ると、気の弱い性質とみえて、声こそ出さないけれど、涙をぽろぽろこぼしていた。小林刑事は彼が落ち着くのを待って、質問をはじめた。検事も口を添えた。だが、彼らの失望したことには、主人は全然犯人の心当りがないというのだ。彼は「これに限って人様の怨みを受けるようなものではございません」といって泣くのだ。それに、彼がいろいろ調べた結果、物とりの仕業でないことも確かめられた。そこで主人の経歴、細君の身元その他のさまざまの取調べがあったけれど、それらは別段疑うべき点もなく、この話の筋に大して関係もないので、略することにする。最後に死人のからだにある多くの生傷について刑事の質問があった。主人は非常に躊躇していたが、やっと自分がつけたのだと答えた。ところが、その理由については、くどく訊ねられたにもかかわらず、ハッキリ答えることはできなかった。しかし、彼はその夜ずっと夜店を出していたことがわかっているのだから、たとえそれが虐待の傷痕だったとしても、殺害の疑いはかからぬはずだ。刑事もそう思ったのか、深くは追究しなかった。
そうして、その夜の取調べはひとまず終った。私たちは住所氏名などを書き留められ、明智は指紋をとられ、帰途についたのは、もう一時を過ぎていた。
もし警察の捜索に手抜かりなく、また証人たちも嘘をいわなかったとすれば、これは実に不可解な事件であった。しかもあとで分ったところによると、翌日から引きつづいて行なわれた小林刑事のあらゆる取調べもなんの甲斐もなくて、事件は発生の当夜のまま少しだって発展しなかったのだ。証人たちはすべて信頼するに足る人々だった。十一軒の長屋の住人にも疑うべきところはなかった。被害者の国許も取調べられたけれど、これまたなんの変ったこともない。少なくとも、小林刑事――彼は先にもいった通り、名探偵とうわさされている人だ――が、全力をつくして捜索した限りでは、この事件は全然不可解と結論するほかはなかった。これもあとで聞いたのだが、小林刑事が唯一の証拠品として、頼みをかけて持ち帰った例の電燈のスイッチにも、明智の指紋のほか何物も発見することができなかった。明智はあの際であわてていたせいか、そこにはたくさんの指紋が印せられていたが、すべて彼自身のものだった。おそらく、明智の指紋が犯人のそれを消してしまったのだろうと、刑事は判断した。
読者諸君、諸君はこの話を読んで、ポーの「モルグ街の殺人」やドイルの「スペックルド・バンド」を連想されはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人が、人間ではなくて、オランウータンだとか、印度の毒蛇だとかいうような種類のものだと想像されはしないだろうか。私も実はそれを考えたのだ。しかし、東京のD坂あたりにそんなものがいるとも思われぬし、第一、障子のすき間から、男の姿を見たという証人があるのみならず、猿類などだったら、足跡の残らぬはずはなく、また人眼にもついたわけだ。そして、死人の頸にあった指の痕も、まさに人間のそれだった。蛇がまきついたとて、あんな痕は残らぬ。
それはともかく、明智と私とは、その夜帰途につきながら、非常に興奮していろいろと話し合ったものだ。一例をあげると、まあこんなふうなことを。
「君は、ポーの『ル・モルグ』やルルーの『黄色の部屋』などの材料になった、あのパリの Rose Delacourt 事件を知っているでしょう。百年以上たった今日でも、まだ謎として残っているあの不思議な殺人事件を。僕はあれを思い出したのですよ。今夜の事件も犯人の立ち去った跡のないところは、どうやら、あれに似ているではありませんか」と明智。
「そうですね。実に不思議ですね。よく、日本の建築では外国の探偵小説にあるような深刻な犯罪は起こらないなんていいますが、僕は決してそうじゃないと思いますよ、現にこうした事件もあるのですからね。僕はなんだか、できるかできないかわかりませんけれど、ひとつこの事件を探偵してみたいような気がしますよ」と私。
そうして、私たちはある横町で別れを告げた。その時私は、横町をまがって彼一流の肩を振る歩き方で、さっさと帰って行く明智のうしろ姿が、その派手な棒縞の浴衣によって、闇の中にくっきりと浮き出して見えたのが、なぜか深く私の印象に残った。
(下)推 理
さて、殺人事件から十日ほどたった或る日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。その十日のあいだに、明智と私とが、この事件に関して、何をなし、何を考え、そして何を結論したか。読者は、それらを、この日、彼と私とのあいだに取りかわされた会話によって、充分察することができるであろう。
それまで、明智とは喫茶店で顔を合わしていたばかりで、宿を訪ねるのは、その時がはじめてだったけれど、かねて所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。私は、それらしい煙草屋の店先に立って、おかみさんに明智がいるかどうかを尋ねた。
「ええ、いらっしゃいます。ちょっとお待ちください、今お呼びしますから」
彼女はそういって、店先から見えている階段の上がり口まで行って、大声に明智を呼んだ。彼はこの家の二階に間借りしていたのだ。すると、「オー」と変な返事をして、明智はミシミシと階段を下りてきたが、私を発見すると、驚いた顔をして「やあ、お上がりなさい」といった。私は彼の|後《あと》に従って二階へ上がった。ところが、なにげなく、彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッとたまげてしまった。部屋の様子があまりにも異様だったからだ。明智が変り者だということは知らぬではなかったけれど、これはまた変り過ぎていた。
なんのことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。まん中のところに少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ、四方の壁や襖にそって、下の方はほとんど部屋いっぱいに、上の方ほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっている。ほかの道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われるほどだ。第一、主客二人のすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土手くずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。
「どうも狭くっていけませんが、それに、座蒲団がないのです。すみませんが、やわらかそうな本の上へでもすわってください」
私は書物の山に分け入って、やっとすわる場所を見つけたが、あまりのことに、しばらく、ぼんやりとその辺を見廻していた。
私はかくも風変りな部屋のぬしである明智小五郎の人物について、ここで一応説明しておかねばなるまい。しかし、彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切わからぬけれど、彼がこれという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。しいていえば学究であろうか。だが、学究にしてもよほど風変りな学究だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」と言ったことがあるが、そのとき私には、それが何を意味するのかわからなかった。ただ、わかっているのは、彼が犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるべき豊富な知識を持っていることだ。
年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯龍を思い出させるような歩き方なのだ。伯龍といえば、明智は顔つきから|声《こわ》|音《ね》まで、彼にそっくりだ――伯龍を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい――ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている、そして彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。
「よく訪ねてくれましたね。その|後《ご》しばらく会いませんが、例のD坂の事件はどうです。警察の方ではまだ犯人の見込みがつかぬようではありませんか」
明智は例の、頭を掻き廻しながら、ジロジロ私の顔をながめる。
「実は僕、きょうはそのことで少し話があって来たんですがね」そこで私はどういうふうに切り出したものかと迷いながらはじめた。「僕はあれから、いろいろ考えてみたんですよ。考えたばかりでなく、探偵のように実地の取調べもやったのですよ。そして、実はひとつの結論に達したのです。それを君にご報告しようと思って……」
「ホウ。そいつはすてきですね。くわしく聞きたいものですね」
私は、そういう彼の眼つきに、何がわかるものかというような、軽蔑と安心の色が浮かんでいるのを見のがさなかった。そして、それが私の逡巡している心を激励した。私は勢いこんで話しはじめた。
「僕の友だちに一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の小林刑事というのと懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様をくわしく知ることができましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。むろん、いろいろやってはいるのですが、これはという見込みがつかぬのです。あの例の電燈のスイッチですね。あれもだめなんです。あすこには、君の指紋だけしかついていないことがわかりました。警察の考えでは、多分君の指紋が犯人の指紋を隠してしまったのだろうというのですよ。そういうわけで、警察が困っていることを知ったものですから、僕はいっそう熱心に調べてみる気になりました。そこで、僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います。そして、それを警察へ訴える前に、君のところへ話しにきたのはなんのためだと思います。
それはともかく、僕はあの事件のあった日から、或ることを気づいていたのですよ。君は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色については、まるで違った申立てをしたことをね。一人は黒だと言い、一人は白だと言うのです。いくら人間の眼が不確かだと言って、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。警察ではあれをどんなふうに解釈したか知りませんが、僕は二人の陳述は両方とも間違いでないと思うのですよ。君、わかりますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ――つまり、太い黒の棒縞の浴衣かなんかですね。よく宿屋の貸し浴衣にあるような――では、なぜそれが一人にはまっ白に見え、もう一人にはまっ黒に見えたかといいますと、彼らは障子の格子のすき間から見たのですから、ちょうどその瞬間、一人の眼が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の眼が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かもしれませんが、決して不可能ではない。そして、この場合こう考えるよりほかに方法がないのです。
さて、犯人の着物の縞柄はわかりましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたというまでで、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋なんです。僕はさっき話した新聞記者の友だちの伝手で小林刑事に頼んでその指紋を――君の指紋ですよ――よくしらべさせてもらったのです。その結果、いよいよ僕の考えていることが間違っていないのを確かめました。ところで君、硯があったら、ちょっと貸してくれませんか」
そこで、私はひとつの実験をやって見せた。まず硯を借りると、私は右手の|拇《おや》|指《ゆび》に薄く墨をつけて懐中から取り出した半紙の上にひとつ指紋を捺した。それから、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ、前の指紋の上から、今度は指の方向をかえて念入りにおさえつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋がハッキリあらわれた。
「警察では、君の指紋が犯人の指紋の上に重なってそれを消してしまったのだと解釈しているのですが、しかしそれは今の実験でもわかる通り不可能なんですよ。いくら強く押したところで、指紋というものが線でできている以上、線と線とあいだに、前の指紋の跡が残るはずです。もし前後の指紋がまったく同じもので、捺し方まで寸分違わなかったとすれば、指紋の各線が一致しますから、あるいは後の指紋が先の指紋を隠してしまうこともできるでしょうが、そういうことはまずあり得ませんし、たとえそうだとしても、この場合結論は変らないのです。
しかし、あの電燈を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指紋が残っていなければなりません。僕はもしや警察では君の指紋の線と線とのあいだに残っている犯人の指紋を見おとしているのではないかと思って、自分で調べてみたのですが、少しもそんな痕跡がないのです。つまり、あのスイッチには、後にも先にも、君の指紋が捺されているだけなのです――どうして古本屋の人たちの指紋が残っていなかったのか、それはよくわかりませんが、多分、あの部屋の電燈はつけっぱなしで、一度も消したことがないのでしょう。〔註1〕
君、以上の事柄はいったい何を語っているでしょう。僕は、こういうふうに考えるのですよ。一人の太い棒縞の着物を着た男が――その男はたぶん死んだ女の幼馴染で、失恋の恨みという動機なんかも考えられるわけですね――古本屋の主人が夜店を出すことを知っていて、その留守のあいだに女を襲ったのです。声を立てたり抵抗したりした形跡がないのですから、女はその男をよく知っていたに違いありません。で、まんまと目的をはたした男は、死骸の発見をおくらすために、電燈を消して立ち去ったのです。しかし、この男はひとつの大きな手ぬかりをやっています。それはあの障子の格子のあいているのを知らなかったこと、そして、驚いてそれを閉めた時に、偶然店先にいた二人の学生に姿を見られたことでした。それから、男はいったんそとへ出ましたが、ふと気がついたのは、電燈を消した時、スイッチに指紋が残ったに違いないということです。これはどうしても消してしまわねばなりません。しかし、もう一度同じ方法で部屋の中へ忍び込むのは危険です、そこで、男は一つの妙案を思いつきました。というのは、自分が殺人事件の発見者になることです。そうすれば、少しの不自然もなく、自分の手で電燈をつけて、以前の指紋に対する疑いをなくしてしまうことができるばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとは誰しも考えませんからね。二重の利益があるのです。こうして、彼は何食わぬ顔で警察のやり方を見ていたのです。大胆にも証言さえしました。しかも、その結果は彼の思うつぼだったのですよ。五日たっても十日たっても、誰も彼をとらえに来るものはなかったのですからね」
この私の話を、明智小五郎はどんな表情で聴いていたか。私は、おそらく話の中途で、何か変った表情をするか、言葉をはさむだろうと予期していた。ところが、驚いたことには、彼の顔にはなんの表情もあらわれぬのだ。日頃から心を色にあらわさぬたちではあったけれど、あまり平気すぎる。彼は始終例の髪の毛をモジャモジャやりながら、だまりこんでいるのだ。私は、どこまでずうずうしい男だろうと思いながら、最後の点に話を進めた。
「君はきっと、それじゃ、その犯人はどこからはいって、どこから逃げたかと反問するでしょう。確かにそれが明らかにならなければ、他のすべてのことがわかってもなんのかいもないのですからね。だが、遺憾ながら、それも僕が探り出したのですよ。あの晩の捜査の結果では、全然犯人の出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった以上、犯人が出入りしなかったはずはないのですから、刑事の捜索にどこか抜け目があったと考えるほかはありません。警察でもそれにはずいぶん苦心した様子ですが、不幸にして、彼らは、僕という一人の青年の推理力に及ばなかったのですよ。
なあに、実に下らないことですが、僕はこう思ったのです。これほど警察が取調べているのだから、近所の人たちに疑うべき点はまずあるまい。もしそうだとすれば、犯人は何か、人の眼にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で逃げたのじゃないだろうか。そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうかとね。つまり人間の注意力の盲点――われわれの眼に盲点があると同じように、注意力にもそれがありますよ――を利用して、手品使いが見物の眼の前で、大きな品物をわけもなく隠すように、自分自身を隠したのかもしれませんからね。そこで、僕が眼をつけたのはあの古本屋の一軒おいて隣の旭屋というソバ屋です」
古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、ソバ屋と並んでいるのだ。
「僕はあすこへ行って、事件の夜八時頃に、手洗いを借りにきた男はないかと聞いてみたのです。あの旭屋は、君も知っているでしょうが、店から土間つづきで、裏木戸まで行けるようになっていて、その裏木戸のすぐそばに便所があるのですから、それを借りるように見せかけて、裏口から出て行って、また裏口から戻ってくるのはわけはありませんからね――例のアイスクリーム屋は路地を出た角に店を出していたのですから、見つかるはずはありません――それに相手がソバ屋ですから、手洗いを借りるということがきわめて自然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたのだそうですから、おあつらえ向きなんです。君、なんとすてきな思いつきではありませんか。
調べてみると、果たして、ちょうどその時分に手洗いを借りた客があったのです。ただ、残念なことには、旭屋の主人は、その男の顔とか着物の縞柄なぞを少しも覚えていないのですがね――僕は早速このことを例の友だちを通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。刑事は自分でもソバ屋を調べたようでしたが、それ以上には何もわからなかったらしいのです……」
私は少し言葉を切って、明智に発言の余裕を与えた。彼の立場は、この際なんとか一こといわないではいられぬはずだ。ところが、彼は相変らず頭を掻き廻しながら、すましこんでいるではないか。私はこれまで、敬意を表する意味で間接法を用いていたのを、直接法に改めねばならなかった。
「君、明智君、僕のいう意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が君を指さしているのですよ。白状すると、僕はまだ心の底では、どうしても君を疑う気にはなれないのですが、こういうふうに証拠がそろっていては、どうも仕方がありません……僕は、もしやあの長屋の住人のうちに、太い棒縞の浴衣を持っている人がないかと思って、ずいぶん骨折って調べてみましたが、一人もありません。それももっともですよ。同じ棒縞の浴衣でも、あの格子に一致するような派手なのを着る人は珍らしいのですからね。それに、指紋のトリックにしても、手洗いを借りるというトリックにしても、実に巧妙で、君のような犯罪学者ででもなければ、ちょっとまねのできない芸当ですよ。それから、第一おかしいのは、君はあの死人の細君と幼馴染だといっていながら、あの晩、細君の身元調べなんかあった時に、そばで聞いていて、少しもそれを申し立てなかったではありませんか。
さて、そうなると、唯一の頼みはアリバイの有無です。ところが、それもだめなんです。君は覚えていますか、あの晩帰り途で、白梅軒へ来るまで君がどこにいたかということを、僕が聞きましたね。君は、一時間ほど、その辺を散歩していたと答えたでしょう。たとえ君の散歩姿を見た人があったとしても、散歩の途中で、ソバ屋の手洗いを借りるなどはありがちのことですからね。明智君、僕のいうことが間違っていますか。どうです、もしできるなら君の弁明を聞きたいものですね」
読者諸君、私がこういって詰めよった時、奇人明智小五郎は何をしたと思います。面目なさに俯伏してしまったとでも思いますか。どうしてどうして、彼はまるで意表外のやり方で、私の荒胆をひしいだ。というのは、彼はいきなりゲラゲラと笑い出したのである。
「いや失敬々々、決して笑うつもりではなかったのですが、君があまりまじめだもんだから」明智は弁解するように言った。「君の考えはなかなか面白いですよ。僕は君のような友だちを見つけたことをうれしく思いますよ。しかし惜しいことには、君の推理はあまりに外面的で、そして物質的ですよ。たとえばですね。僕とあの女との関係についても、君は僕たちがどんなふうな幼馴染だったかということを、内面的に心理的に調べてみましたか。僕が以前あの女と恋愛関係があったかどうか。また現に彼女を恨んでいるかどうか。君にはそれくらいのことが推察できなかったのですか。あの晩、なぜ彼女を知っていることをいわなかったか、そのわけは簡単ですよ。僕は何も参考になるような事柄を知らなかったのです……僕はまだ小学校へもはいらぬ時分に、彼女と別れたきりなのですからね」
「では、たとえば指紋のことはどういうふうに考えたらいいのですか?」
「君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。僕もこれでなかなかやったのですよ。D坂は毎日のようにうろついていましたよ。ことに古本屋へはよく行きました。そして、主人をつかまえて、いろいろ探ったのです――細君を知っていたことはその時打ち明けたのですが、それがかえって話を聞き出す便宜になりましたよ――君が新聞記者をつうじて警察の模様を知ったように、僕はあの古本屋の主人から、それを聞き出していたんです。今の指紋のことも、じきわかりましたから、僕も妙だと思って調べてみたのですが、ハハハハ、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。僕がスイッチをひねったために光が出たと思ったのは間違いで、あの時、あわてて電球を動かしたので、一度切れたタングステンがつながったのですよ。〔註2〕スイッチに僕の指紋しかなかったのはあたりまえなのです。あの晩、君は障子のすき間から電燈のついているのを見たといいましたね。とすれば、電球の切れたのは、そのあとですよ。古い電球は、どうもしないでも、ひとりでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……」
彼はそういって、彼の身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。
「君、これを読んだことがありますか、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んでごらんなさい」
私は、彼の自信ありげな議論を聞いているうちに、だんだん私自身の失敗を意識しはじめていた。で、言われるままにその書物を受け取って、読んでみた。そこには大体次のようなことが書いてあった。
かつて一つの自動車犯罪事件があった。法廷において、真実を申し立てると宣誓した証人の一人は、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今一人の証人は、雨降りあげくで、道路はぬかるんでいたと証言した。一人は、問題の自動車は徐行していたと言い、他の一人は、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また、前者は、その村道には人が二、三人しかいなかったと言い、後者は、男や女や子供の通行人がたくさんあったと陳述した。この二人の証人は共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁したとて、なんの利益があるはずもない人々であった。
私がそれを読み終るのを待って明智はさらに本のページをくりながらいった。
「これは実際あったことですが、今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。その中ほどのところに、あらかじめ計画して実験した話があるのですよ。ちょうど着物の色のことが出てますから、面倒でしょうが、まあちょっと読んでごらんなさい」
それは左のような記事であった。
(前略)一例をあげるならば、一昨年(この書物の出版は一九一一年)ゲッティンゲンにおいて、法律家、心理学者及び物理学者よりなる、或る学術上の集会が催されたことがある。したがって、そこに集まったのはみな綿密な観察に熟練した人たちばかりであった。その町には、あたかもカーニヴァルのお祭り騒ぎが演じられていたが、この学究的な会合の最中に、突然戸がひらかれて、けばけばしい衣裳をつけた一人の道化が狂気のように飛び込んできた。見ると、その|後《あと》から一人の黒人がピストルを持って追っかけてくるのだ。ホールのまん中で、彼らはかたみがわりに、おそろしい言葉をどなり合ったが、やがて、道化の方がバッタリ床に倒れると、黒人はその上におどりかかった、そして、ポンとピストルの音がした。と、たちまち彼らは二人とも、かき消すように室を出て行ってしまった。全体の出来事が二十秒とはかからなかった。人々はむろん非常に驚かされた。座長のほかには、誰一人、それらの言葉や動作が、あらかじめ予習されていたこと、その光景が写真に撮られたことなどを悟ったものはなかった。で、座長が、これはいずれ法廷に持ち出される問題だからというので、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだのは、ごく自然に見えた(中略、このあいだに、彼らの記録がいかに間違いにみちていたかを、パーセンテイジを示してしるしてある)。黒人が頭に何もかぶっていなかったことを言いあてたのは四十人のうちでたった四人きりで、ほかの人たちは、中折帽子をかぶっていたと書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるという有様だった。着物についても、ある者は赤だと言い、あるものは茶色だと言い、あるものは縞だと言い、あるものはコーヒー色だと言い、その他さまざまの色合いが彼のために発明せられた。ところが、黒人は実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのである。(後略)
「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り」と明智ははじめた。「人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ。この例にあるような学者たちでさえ、服の色の見分けがつかなかったのです。私が、あの晩の学生たちも着物の色を思い違えたと考えるのが無理でしょうか。彼らは何物かを見たかもしれません。しかしその者は棒縞の着物なんか着ていなかったのです。むろん僕ではなかったのです。格子のすき間から棒縞の浴衣を思いついた君の着眼は、なかなか面白いには面白いですが、あまりおあつらえ向きすぎるじゃありませんか。少なくとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信じてくれるわけにはいかないでしょうか。さて最後に、ソバ屋の手洗いを借りた男のことですがね。この点は僕も君と同じ考えだったのです。どうも、あの旭屋のほかに犯人の通路はないと思ったのです。で、僕もあすこへ行って調べてみましたが、その結果は、残念ながら君とは正反対の結論に達したのです。実際は手洗いを借りた男なんてなかったのですよ」
読者もすでに気づかれたであろうように、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠だてようとしているが、しかしそれは同時に、犯罪そのものをも否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しもわからなかった。
「で、君には犯人の見当がついているのですか」
「ついてますよ」彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。「僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力の問題ですがね。ともかく、僕は今度はそういう方面に重きをおいてやってみましたよ。
最初僕の注意をひいたのは、古本屋の細君のからだじゅうに生傷があったことです。それから間もなく、僕はソバ屋の細君のからだにも同じような生傷があるということを聞き込みました。これは君も知っているでしょう。しかし、彼女らの夫たちはそんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても、ソバ屋にしても、おとなしそうな物分りのいい男なんですからね。僕はなんとなく、そこに或る秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです。で、僕はまず古本屋の主人をとらえて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合いだというので、彼もいくらか気を許していましたから、それは比較的らくにいきました。そして、ある変な事実を聞き出すことができたのです。ところが、今度はソバ屋の主人ですが、彼はああ見えてもなかなかしっかりした男ですから、探り出すのにかなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したのです。
君は、心理学上の連想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用されはじめたのを知っているでしょう。たくさんの簡単な刺戟語を与えて、それに対する嫌疑者の観念連合の遅速をはかる、あの方法です。しかし、あれは心理学者のいうように、犬だとか家だとか川だとか、簡単な刺戟語には限らないし、そしてまた、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、僕は思いますよ。連想診断のコツを悟ったものにとっては、そのような形式はたいして必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれた人は、心理学が今のように発達しない以前から、ただ彼らの天禀によって、知らずしらずのあいだにこの心理学的方法を実行していたではありませんか。大岡越前なども確かにその一人ですよ。小説でいえば、ポーの『ル・モルグ』のはじめに、デュパンが友だちのからだの動き方ひとつによって、その心に思っていることを言い当てるところがありますね。ドイルもそれをまねて、『レジデント・ペーシェント』の中で、ホームズに同じような推理をやらせてますが、これらはみな、或る意味の連想診断ですからね。心理学者の色々な機械的方法は、ただこうした天禀の洞察力を持たぬ凡人のために作られたものにすぎませんよ。話がわき道にはいりましたが、僕はソバ屋の主人にいろいろの話をしかけてみました。それもごくつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。しかし、これは非常にデリケートな心理の問題で、それに可なり複雑してますから、くわしいことはいずれゆっくり話すとして、ともかくその結果、僕はひとつの確信に到達しました。つまり、犯人を見つけたのです。
しかし、物質的な証拠というものがひとつもないのです。だから、警察に訴えるわけにもいきません。よし訴えてもおそらく取り上げてくれないでしょう。それに、僕が犯人を知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変な言い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行なわれたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行なわれたのかもしれません」
私はいろいろ想像をめぐらしてみたけれど、どうにも彼の考えていることがわかりかねた。私は自分の失敗を恥じることも忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。
「で、僕の考えをいいますとね。殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらますために、あんな手洗いを借りた男のことを言ったのですよ。いや、しかし、それは何も彼の創案でもなんでもない。われわれが悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問いを構えて彼を教唆したようなものですからね。それに、彼は僕たちを刑事かなんかと思い違えていたのです。では、彼はなぜに殺人罪をおかしたか……僕はこの事件によって、うわべはきわめて何気なさそうなこの人生の裏面に、どんなに意外な陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします。それは実にあの悪夢の世界でしか見出すことのできないような種類のものだったのです。
「旭屋の主人というのは、マルキ・ド・サドの流れをくんだ、ひどい残虐色情者で、なんという運命のいたずらでしょう。一軒おいて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼におとらぬ被虐色情者だったのです。そして、彼らは、そういう病者に特有の巧みさをもって、誰にも見つけられずに、姦通していたのです――君、僕が合意の殺人だといった意味がわかるでしょう――彼らは、最近まではおのおの、そういう趣味を解しない夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じような生傷のあったのはその証拠です。しかし、彼らがそれに満足しなかったのはいうまでもありません。ですから眼と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼らのあいだに非常に敏速な了解の成立したことは想像にかたくないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼らの、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。そして、ついにあの夜、この、彼らとても決して願わなかった事件をひき起こしてしまったわけなのです……」
私は、明智の異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ!
そこへ、下の煙草屋のおかみさんが、夕刊を持ってきた。明智はそれを受け取って、社会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついていった。
「ああ、とうとう耐えきれなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。ちょうどそのことを話している時に、こんな報道に接するとは」
私は彼の指さすところを見た。そこには小さい見出しで、十行ばかりソバ屋の主人の自首したことがしるされてあった。
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〔註1〕 この小説の書かれた大正時代には、メーターを取りつけない小さな家の電燈は、昼間は、電燈会社の方で、変電所のスイッチを切って消燈したものである。
〔註2〕 当時の電球はタングステンの細い線を鼓の紐のように張ったもので、一度切れても、また偶然つながることがよくあった。
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火繩銃
或る年の冬休み、私は友人の林一郎から一通の招待状を受けとった。手紙は弟の二郎と一緒に一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟に日を暮らしているが、ふたりだけでは面白くないから暇があれば私にも遊びにこないか、という文面だった。封筒はホテルのもので、A山麓Sホテルと名前が刷ってあった。
永い冬休みをどうして暮らそうかと、物憂い毎日をホトホト持てあましていたおりなので、私にはその招待がとても嬉しく、渡りに船で早速招きに応ずることにした。林が日頃仲のわるい義弟と一緒だというのがちょっと気になったが、ともかく橘を誘ってふたりで出掛けることになった。なんでも前の日の雨が名残りなく晴れた十二月の、小春日和の暖かい日であった。別に身支度の必要もない私らは、旅行といっても至極簡単で、身柄一つで列車に乗りこめばよかった。この日、橘は、これが彼の好みらしいのだが、制服の上にインバネスという変な恰好で、車室の隅に深々と身を沈め、絶えずポーのレーヴンか何かを|口《くち》|誦《ずさ》んでいた。そうやってインバネスの片袖から突き出した肘を窓枠に乗せ、移り行く窓のそとの景色をうっとりと眺めながら、物凄い|怪鳥《けちょう》の詩を口誦んでいる彼の様子が、私には何かしらひどく神秘的に見えたものだ。
三時間ばかりの後、汽車はA山麓の駅に着いた。なんの前触れもしてなかったことだし、駅にはもちろん誰も出迎えに来てはいなかったので、私たちはすぐ駅前の車に乗ってホテルに向かった。ホテルに着くと、私たちを迎えたホテルのボーイが私たちに答えて言った。
「林さんでございますか、弟様の方はどこかへお出ましになりましたが、にいさまの方は裏の離れにお寝みでございます」
「昼寝かい」
「ハイ、毎日お昼からしばらくお寝みでございますので。では離れへ御案内いたしましょう」
その離れは母屋から庭を隔てて十間ほど奥に、一軒ポツンと建っている小さな洋館であったが、母屋からまっすぐに長い廊下が通じていた。
部屋の前に私たちを導いたボーイは「いつもお寝みの時は中から錠をおろしてございますので」と言いながら、とざされたドアを軽く叩いた。しかしよく眠っているとみえて、内部からはなんの返事もない。今度は少し強く叩いたが、それでも林の深い眠りをさますことはできなかった。
「オイ、林、起きないか」
そこで、今度は私が大声にわめいてみた。これならいかに寝込んでいても眼をさますだろうと思ったが、どうしたことか、内部からはなんの物音も聞こえない。橘も一緒になってドアを一層強く叩きながらどなったが、更に眼をさますけはいもなかった。私はなんだか不安になってきた。非常に不吉なことが想像された。
「オイ、どうも変だぜ。どうかしてやしないか」
私が、橘にそういうと、橘も私と同じような事を想像していたらしく、ボーイの方を振り返って言った。
「林がこの部屋で寝ているのは間違いないでしょうね」
「ええ、それはもう……何しろ中から鍵もかかっていますし」
「合鍵はほかにないですか」
「ございます。持ってまいりましょう」
「これほど叩いても起きないのは、ただ事でないようです。ともかく、合鍵であけて中の様子を見てみましょう」
そこで、ボーイは引き返して母屋から合鍵を持ってきた。
ドアがひらかれると、まっ先に橘が飛び込んだが、入口の真正面の壁際にすえてある寝台の方へつかつかと近づいて行ったかと思うと、そこで棒立ちになり「アッ」とかすかな叫びを洩らした。
寝台の上には、上衣をぬいだチョッキ一枚の林一郎が、左胸に貫通銃創を受けて横たわっていた。生々しい血潮は、チョッキから流れて白いシーツを紅に染め、まだ乾ききらず、血の匂いを漂わしている。私はこの意外な林の姿を見ると、もう何を考える力もなく、なかば放心のていで、ボンヤリ橘の動作を見まもっていた。
橘はしばらく変わり果てた林の死体をじっと見詰めていたが、やがて、あまりにも不意の血なまぐさい出来事のためにろくろく口も利けず、ただおろおろと顔の色を変えて震えているボーイに、ともかく急を警察へ知らせるように言いつけておいて、さて、寝台の傍を離れると、あらためて部屋の内部を克明に見廻しはじめた。
先にも言った通り、この離れは一軒建ての洋館だったが、部屋の様子を一と通り話してみると、東と北とは壁、そして、その隅に寝台が置かれ、それに並んで、洋だんすが据えてある。その真正面、つまり西側の北寄りのところが、この部屋の唯一の入口で、長い廊下を通よって母屋に行けるようになっていた。南に面した方には二つの窓があり、その西側の窓の下に大きな机があって、その上にドッシリした本立てが置かれ、それに数冊の洋書が立ててある。その本立ての傍に、台にのせた、珍らしい形をした、球形のガラスの花瓶があって、それに一杯水がいれてあった。その前にはきわめて旧式な一梃の猟銃が無造作に投げ出されてある。そのほかにペンとインキ、それから手紙が一通、それが机の上に置かれたすべてのものであった。机の前と横には型どおり二脚の椅子が行儀よく据えてあった。
窓は両方とも磨りガラスだったが、一方の、机の前の窓はどうしたのか半びらきになって、そこから陽の光がまぶしいまでに、机の上いっぱい射しこんでいた。
橘はしばらく部屋の中を見廻していたが、机の前のなかばひらいた窓に近寄ると、そこからヒョイと首を出して窓のそとを眺め、首を引くと、机の上の猟銃にじっと眼をそそいだ。次に封筒を手に取って一瞥し、今度は洋服のポケットから時計の鎖についた磁石を取り出し、その磁石を見ては又窓から首を出して空を眺めたり、じっと机の上を見詰めたり、うしろを振り返って部屋の隅の寝台の方を見たり、そんな事をなんべんかくり返していたが、その時、母屋の方から廊下伝いにあわただしい人の足音が聞こえてきた。すると何思ったか橘は急にあわてだし、ポケットから取り出した鉛筆でそそくさと机の上に猟銃の位置とガラス瓶の位置とのしるしをつけた。半びらきになった窓にも、そのひらき加減を同じように鉛筆でしるしをつけた。
やがて椿事の部屋にドカドカとはいってきたのは、ボーイの急報によって駈けつけた警察官の一行であった。制服の警部に巡査、背広服の刑事に警察医、そしてそのうしろにはこのホテルの主人と、私たちを最初この部屋に案内したさっきのボーイが、青くなって控えていた。
警察医と刑事は、はいってくるなりまっすぐに寝台の方に歩みよって、何かもぞもぞ調べていたが、見ていると、刑事が死体の胸のあたりから鎖の付いた懐中時計を引きずり出した。そして誰にともなく、
「やられたのは一時半だな」
とつぶやいた。銃弾が当たって、時計の針が一時半で止まっていたらしい。刑事がそうして死体を調べているあいだに、警部はボーイを招いて尋問をはじめていた。
「被害者は昼食を食堂ですましてから部屋に帰ったというのだな。ウン、それでお前は何か鉄砲の音のようなものを聞かなかったか」
「そういえば、お昼すぎ、なんだか大きな音がしたように思いますが、何分すぐ裏の山で始終鉄砲の音がしているものですから、別に気にも留めませんでした」
「この机の上の銃は――火繩銃のようだが、これはどうしたのだ。被害者の物か」
そう言いながら、警部はその火繩銃を取り上げ、銃口を鼻に近づけたが、思わずつぶやいた。
「フン、まだ煙硝の匂いが残っている」
「ああ、それでございますか、それはこのかたの弟様ので……」
ホテルの主人が横から口をはさんだ。
「弟?」
「ハイ、二郎様とおっしゃいまして、矢張り手前どもにお泊まりで、只今お留守でございますが、母屋の方にお部屋がございます」
「じゃあ、あれは? あの銃は?」
警部はなかば向きをかえて、寝台の上を指さした。そこには、最新式の連発銃が、やっと手の届くほどの高さの壁に懸かっていた。迂闊な話だが、私はそのときまでそれに気がつかなかった。
「あれはにいさまのでございまして、あれで毎日裏山へ猟においででございました」
その時、死体から離れて窓のそとを眺めていた刑事が、何を見出したのか、
「アッ、これだ!」
と叫んだ。私もその声に釣られて、刑事のうしろから窓の下を見ると、きのうの雨で湿った庭に、下駄の跡がクッキリしるされていた。それを見きわめた刑事は、さもわが意を得たというふうに、警部のほうに向きなおって、一席弁じだした。
「犯行の径路は至極簡単のようです。つまり、犯人は被害者の昼寝の習慣を知っていて、ちょうど被害者が寝ついた頃、この窓のそとへ忍び寄り、静かにこの窓をあけてその火繩銃で狙撃したのです。そして銃を机の上に置いたまま逃走したというわけでしょう。ですから、被害者の日常生活をよく知っている者を調べ上げたら、犯人はすぐ知れるだろうと思います」
その時、廊下にバタバタとあわただしい足音がしてひとりの青年が飛び込んできた。二郎だ。はいってくるなり寝台の上の兄の死体の方に眼を馳せたが、その顔は恐怖のあまりひどく硬ばっていた。私はなぜか二郎の姿を見ると急に動悸がはげしくなってきた。来てはいけない所へその人がやってきたように思ったからだ。すべての状況が、ひとりの人に向かって「お前が犯人だ」とゆびさしているではないか。火繩銃は二郎のものだし、窓のそとの足跡は下駄の跡だが、いま目の前にいる二郎は和服を着ている。それに、彼ら兄弟の家庭内のごたごたを私はよく知っていた。
「これは、いったい、どうしたのです」
肩で息をしながら、はいってくるなり二郎は誰にともなくどなった。
「君が二郎君だね」
刑事が鋭い口調で尋ねた。
「そうです」
二郎はそこに居並んだ緊張しきった人々の顔を見ると、一層顔を青くして、震え声で答えた。
「じゃあ、これは、この火繩銃はあなたのでしょうね」
刑事は机の上の猟銃をゆびさした。それを見ると、二郎はハッと驚いたらしかったが、でも平然と答える。
「そうです。しかし、それがどうかしたのですか」
刑事はそれにかまわず畳みかけた。
「今まであなたはどこへ行っていたのです」
この質問に二郎はちょっと詰ったが、やっと小さな声でつぶやくように答えた。
「それは申し上げられません。また申し上げる必要もないと思います」
「失礼ですが、あなた方は真実の御兄弟でしょうね」
そう言った刑事の顔には皮肉な微笑が浮かんでいた。
「いいえ、そうじゃないんです」
それからなおいろいろの尋問があったり、警察医の検死があったり、部屋の内とそとの現場調べがあったりしたが、そのあげく、二郎はついにその場から拘引される事になった。
その夕方、橘と私とは同じホテルの一室で互に向かい合っていた。死体の後始末や何かのため私たちはホテルに残っていたのだ。
「君はしばらく姿が見えなかったが、どこかへ行っていたのかい?」
先ず私が口を切った。日頃探偵狂の橘が、こんな事件にぶっつかって安閑としているはずがない。永いあいだ姿を隠していたのは、そのあいだに何か真相をあばく手掛かりを掴んだのか、或いは証拠がためのために奔走していたに違いないと思ったので、私は橘の探偵談を聞きたくて、話をその方に向けてみたのだ。とはいうものの、私はまじめに橘の名探偵振りを期待したのではなく、こんなきまりきった殺人事件を、探偵狂の橘がどうもったいつけて説明するか、それが実は聞きたかったのである。すると、橘は突然大きな口をあけて、
「アハハハハハ」
と笑い出した。
私は何が何やらさっぱりわからず、狐につままれた形で、ボンヤリ橘の顔を眺めていた。
「田舎の刑事にしては、素早く立ち廻ってよく調べているようだったが、この事件は、せんさく好きの田舎探偵には少し簡単すぎるようだ。そうだ、まったく単純過ぎるくらい単純な事件なんだ――」
橘がなおも語りつづけようとした時、ボーイに案内されて、今うわさしていた、その橘のいわゆる田舎探偵がヒョッコリやってきた。
「先ほどは失礼、ちょっとお尋ねしたいことがありまして、ね」
探偵が挨拶した。
「二郎君は自白しましたか」
私がこう聞くと、刑事は嫌な顔をして、
「それをあなた方にいう必要はありません」
と空うそぶいた。
「それじゃなんの用で来たのです」
「あの時の模様をもう一度詳しく聞きたいと思うのです」
刑事がそう言って私につめ寄ると、傍から橘が片頬に皮肉な、また得意そうな笑いを浮かべて刑事に答えた。
「詳しくお話しすることもないでしょう」
この侮辱したような言葉は、明らかに刑事を怒らせた。
「なにっ? 話す必要がないとはなんです。僕は職権をもって調べにきたのだ」
「お調べになるのは御自由ですが、僕はその必要がないと思うのです」
「なぜ?」
「あなたはどうお考えか知りませんが、この事件は犯罪ではないのです。従って犯人もなく、犯行を調べる必要もないのです」
この橘の意外な言葉に、刑事も私も飛び上がるほど驚いた。
「犯罪でない? フン、じゃあ君は自殺だと言うんだね」
刑事の言葉には、この若造が何を生意気な、という侮蔑の響きがこもっていた。
「いや、もちろん自殺じゃありません」
「それじゃ過失死とでも言うのかね」
「そうでもないんです」
「アハハハハハハ、これは面白い。他殺でもなく、自殺でもなく、又過失死でもないか、じゃあ一体あの男はどうして死んだのだね。まさか、君は――」
「いや、僕はただ犯罪でないと言ったまでです。他殺でないとは言いません」
「わからないね、僕には――」
口ではそう言ったものの刑事の顔にはまだ橘をばかにしたような皮肉な微笑が浮かんでいた。その刑事の顔色を見た橘は、グッと癪にさわったらしく、鋭く刑事を睨みつけて言った。
「ここで今、私が説明しても、あなたには得心できぬかもしれませんから、あすその証拠をお見せしましょう」
「証拠? ホウ、そんな珍らしい証拠があれば是非見せていただきたいね。だが、あすとはどうしてなんだね」
「それには重大な意味があるのです。あすにならなければお見せする事ができないのです。ともかくあす一時にここへ来てください。きっと御得心のゆく証拠をお見せします」
「まさか冗談ではあるまいね、よろしい、あす一時だね」
「しかし、もしあす雨天か、少しでも曇っていたらだめだと思ってください」
「へえ、曇っていてはいけないのかね」
「そうです。きょうのように晴天でなければ証拠はお目にかけられないのです。ああ、それからお出での時に必ずあの火繩銃を持ってきてください」
「なかなかむずかしい条件だね。では、あすの日を楽しみにして、きょうはこれで失礼しよう」
刑事は捨てぜりふともつかず、そう言い捨てると、妙にニヤニヤ笑いながら出て行った。刑事が出て行くと、橘は私に向かって、
「田舎刑事め、今度は僕を疑いはじめたな」
とつぶやいた。田舎刑事ならずとも、私も実は橘の言動があまりに意表外なので、橘の言葉を疑わずにはいられなかった。
橘の言う証拠とはいったい何を指しているのだろう。
「君、証拠って、いったい何をいうんだい?」
そこで、私がその事を聞くと、橘は、さも事もなげに言うのだった。
「あの部屋のテーブルの上に、風変わりな花瓶があっただろう。あれがつまり証拠さ」
橘にそう言われても、私にはさっぱり呑み込めなかった。だが、それ以上つっ込んで聞くのも私は業腹だった。
その夜、私は床に就く前、部屋の窓をあけてそとを眺めたが、その時、窓に添うて闇の中につっ立っている怪しい男の姿を見た。
翌日は、幸いに日本晴れの好天気だった。
きのうの刑事はふたりの巡査を伴なって、約束通り一時かっきりにやってきた。右手には問題の火繩銃をしっかり握っている。橘は刑事のうしろからついてくるひとりの巡査の姿を見ると、その方に近寄り、その巡査の肩を軽く叩いて笑いながら、
「ゆうべは御苦労でした」
と言った。
それを聞くと、刑事の方がドギマギして、
「実は、まだこのホテル内に犯人が隠れていやしないかと思ったので、見張りをさせておいたのです」
と、言いわけをした。すると、私の見た怪しい男はこの警官であったらしい。
さて、一同の顔が離れに揃うと……その中にはホテルの主人もボーイもいたのであるが……きょうの主役の橘は、部屋の西南隅にあるテーブルに近寄って、その上の品物をきのうの通り置き並べた。刑事から受け取った火繩銃には、用意の弾丸と火薬を装填して、しるしをつけておいた元の位置に正確に置き、花瓶と花瓶台も、これには最も綿密に注意をしたのであるが、前にあった位置通りに据えた。机の上の品物が、きのうと寸分違わぬ場所に置かれると、今度は机の前の窓を、しるしをつけてあった所までひらいた。そうしておいて橘はボーイに何か耳打ちした。すると、ボーイはうなずいて部屋を出て行ったが、間もなく等身大の藁人形を抱えて戻ってきた。藁人形には不恰好にチョッキが着せてあった。橘はボーイからそれを受け取ると、部屋の隅の寝台の上に、きのう林が寝ていた通りに人形を横たえた。
用意がととのうと、橘は一同の人々を見廻して、おもむろに口をきった。
「これで、この部屋の様子はどの品一つも、きのう椿事があった時の位置と違っていないはずです。重要な品物の位置にはすべてしるしをつけておいたのです。さて私はこれからきのう林君がいかにして殺されたか、いや、いかにして胸に弾丸を受けたか、その時の状況を皆さんにお目にかけようと思うのです」
この橘のいかにも自信に満ちた言葉を聞くと、なみいる人々は緊張した。
「その前に、私はこの事件について、私の信ずるところを申し述べてみようと思います。警察は二郎君を犯人と認められているようですが、それは、この事件の真相を見誤まったものと言わなければなりません。二郎君に限らず、この事件には、どこにも林一郎を殺害した犯人はいないのです。二郎君に嫌疑をかけた第一の理由は、この火繩銃が彼の所有品である事によるらしいのですが、これは毫も理由にならないと思います。いかに迂闊な人間でも、自分の銃で人を殺し、その上それを現場に置いて逃げるようなばかなまねはしないでしょう。かえってこの事は、二郎君の無罪を証拠だてるものだと思います。第二の理由は、この庭にある足跡ですが、これもまた反対の証拠を示しているにすぎません。あとでお調べになればよくわかる事ですが、往復とも同じ歩幅で、しかもその歩幅が非常に狭いのです。殺人罪を犯した人間が、こんなに落ちついて帰れるものでしょうか。なお念のため、ゆうべその足跡を辿って調べてみますと、ばかばかしい事には、それは、このホテルの裏山の気ちがい娘が、裏の生垣をくぐって庭に忍び込んだ足跡とわかったのです。第三の理由は、二郎君が椿事のあった時間に、ちょうど不在であって、その行き先を言わなかった事です。この事については、私はあまり詳しい話は避けたいと思いますが、ただ、ボーイから、二郎君が外出するとすぐ、二階に滞在している老紳士の令嬢が外出し、その令嬢は二郎君とほとんど同時に帰られたという事実を聞いた事のみ申し上げておきます。この事は、或いはもう二郎君が警察で告白したかもしれませんが」
そこで橘は言葉をきって、刑事の方を眺めた。刑事はうなずいて、暗黙のうちに橘の推察を肯定した。
橘は再び語りはじめた。
「最後に、一郎君と二郎君とが、真実の兄弟でないという事も、疑う理由の一つになっているようですが、それは理由とするに足らないほど薄弱な理由だと思います。それにもし二郎君が一郎君に殺意を抱いておったとしても、何もホテルなどという人目の多い場所を選ぶことはありません。兄弟は毎日のように裏山へ狩猟に行っていたのですから、もしやろうと思えばそこでいくらでも機会はあったはずです。もし運わるく現場を誰かに見られたとしても、そんな場所であれば、鳥かけものか、何かをうとうとして、誤まって殺したとでも言いのがれる途があるのです。こう煎じ詰めてきますと、どこに一つ二郎君を疑う理由も見出せないではありませんか。いかがでしょう。これでも二郎君が殺人犯人でしょうか」
橘の雄弁と推理のあざやかさには、唯もう感心するばかりで、私は心の中で、なるほど、なるほど、と叫びつづけていた。橘は言葉を改めてまた語りつづけた。
「はじめは私も火繩銃が机の上に置いてあったり、死人のチョッキが煙硝で黒く焦げていたりするものですから、或いは自殺ではないかとも思いましたが、机の上にあった、二つの品の或る怖ろしい因果関係に気づいて、私はすぐ自分の考えの間違っていたことを悟ったのです。次に足跡がこの事件にまったく関係のない事がわかったので、この事件に犯人のある事を想像する事はできないわけになりました。と、しますと、林君の死は、いったいどう解釈したらいいのでしょう。犯人のない他殺とよりほかに考えようはないのじゃないでしょうか」
ああ、犯人のない他殺。そのような奇妙な事実があるであろうか。一座の人々は固唾を呑んで橘の言葉に聞き入っていた。
「私の想像に間違いなければ、林君はきのう正午、中食を終ると、二郎君の部屋から弾丸の装填してあった火繩銃を持ち出して、この部屋に戻り、それをこの机に凭れながらもてあそんでいたのです。ところが、フト友人に手紙を書かなければならない事を思い出したので、銃を机の上に置いたまま、手紙を書きはじめたのです。その時、銃の台尻がちょうどこの本立ての隅に当たっていたということが、この事件に重大な関係があるのです。手紙を書き終ると、すぐ、習慣になっている午睡のためにベッドに横たわりました。それからどれくらいたったか明確ではありませんが、一時三十分になって、実に恐るべき惨事が突発したのです。世にも不思議な犯人のない殺人が行なわれたのです」
そう言いながら、橘はポケットから懐中時計を取り出した。
「さあ、今一時二十八分です、もう一、二分すれば、犯人のない殺人が行なわれるのです。この事件の真相がハッキリわかるのです。机の上の花瓶によく注意していてください」
人々は手品師の奇術を見るような気持で、そのガラス瓶に十二の瞳を一斉に注いだ。
と、そのとき、私の頭に或る考えが稲妻のように閃めいた。そうだ。手品の種がわかった。事件の真相が明らかとなった。
ああ、それは太陽とガラス瓶との世にも不思議な殺人事件であったのだ。
見よ、ガラス瓶は、空から射す強烈な太陽の光を受けて、焔のようにキラキラと照りかがやき、その満々と水をたたえた球形のガラス瓶を貫ぬいて、太陽の光線は一層強烈となり、机の上に置かれた火繩銃の上に、世にも怖ろしい呪いの焦点を作りはじめた。
焦点は太陽の移動と共にジリジリ位置を換えて、今や点火孔の真上にその白熱の光を投げた。と同時に、鋭い銃声が部屋一杯に響きわたり、銃口からは白い煙がモクモクとゆらめいた。
人々は一様に視線を寝台に移した。
そこには胸を撃たれた藁人形が、無残な死体となって横たわっていた。
黒手組
顕れたる事実
またしても明智小五郎の手柄話です。
それは、私が明智と知合いになってから一年ほどたったころの出来事なのですが、事件に一種劇的な色彩があってなかなか面白かったばかりでなく、それが私の身内のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、私には一そう忘れがたいのです。
この事件で、私は、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、彼の解いた暗号文というのをまず冒頭に掲げておきましょうか。
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一度おうかがいしたいと存じながらつい好い折がなく失礼ばかり致しております割合にお暖かな日がつづきますのね是非此頃にお邪魔させていただきますわ扨|日《いつ》|外《ぞや》×つまらぬ品物をお贈りしました処御叮寧なお礼を頂き痛み入りますあの手提袋は実はわたくしがつれづれのすさびに自×ら拙い刺繍をしました物で却ってお叱りを受けるかと心配したほどですのよ歌の方は近頃はいかが?時節柄お身お大切に遊ばして下さいまし
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]さよなら
これは或る葉書の文面です。忠実に原文通りしるしておきました。文字を抹消したところから各行の字詰めにいたるまですべて原文のままです。
さてお話ですが、当時私は避寒かたがた少し仕事をもって熱海温泉の或る旅館に逗留していました。毎日いくどとなく湯につかったり、散歩したり、寝ころんだり、そしてそのひまに筆をとったりして、のんびりと日を送っていたのです。ある日のことでした。又しても一と風呂あびて好い気持に暖まったからだを、日あたりのいい縁側の籐椅子に投げかけ、なにげなくその日の新聞を見ていますと、ふとたいへんな記事が眼につきました。
当時都には「黒手組」と自称する賊徒の一団が人もなげに跳梁していまして、警察のあらゆる努力もその甲斐なく、きのうは某の富豪がやられた。きょうは某の貴族がおそわれたと、噂は噂をうんで、都の人心は兢々として安き日もなかったのです。したがって新聞の社会面なども、毎日々々そのことで賑わっていましたが、きょうも「神出鬼没の怪賊云々」というような三段抜きの大見出しで、相もかわらず書き立てています。しかし私はそうした記事にはもうなれっこになっていて別に興味をひかれませんでしたが、その記事の下の方に、いろいろと黒手組の被害者の消息をならべたうちに、小さい見出しで「××××氏襲わる」という十二三行の記事を発見して非常に驚きました。といいますのは、その××××氏はかくいう私の伯父だったからです。記事が簡単でよく分りませんけれど、なんでも娘の富美子が賊に誘拐され、その身代金として一万円〔註、今の四、五百万に当る〕を奪われたということらしいのです。
私の実家はごく貧乏で、私自身もこうして温泉場にきてまで筆かせぎをしなければならぬほどですが、伯父はどうしてなかなか金持なのです。二、三の相当な会社の重役なども勤めていますし、充分「黒手組」の目標になる資格はありました。日頃なにかと世話になっている伯父のことですから、私は何をおいても見舞いに帰らなければなりません。身代金をとられてしまうまで知らずにいたのは迂闊千万です。きっと伯父の方では私の下宿へ電話ぐらいはかけていたのでしょうが、こんどの旅行はどこへも知らせずにきていましたので、新聞の記事になってから、はじめてこの不祥事を知ったわけなのです。
そこで、私は早速荷物をまとめて帰京しました。そして旅装をとくや否や伯父の屋敷へ出掛けました。行ってみますと、どうしたというのでしょう。伯父夫婦が仏壇の前で一心不乱に|団扇《う ち わ》|太《だい》|鼓《こ》や拍子木をたたいてお題目を唱えているではありませんか。いったい彼らの一家は狂的な日蓮宗の信者で、一にも二にもお祖師様なんです。ひどいのは、ちょっとした商人でさえも、まず宗旨を確かめた上でなければ出入りを許さないという始末でした。しかしそれにしても、いつもお勤めをする時間ではないのにおかしなこともあるものだと思い、様子をききますと、驚いたことには事件はまだ解決していないのでした。身代金は賊の要求どおり渡したにもかかわらず、肝心の娘がいまだに帰ってこないというのです。彼らがお題目をとなえていたのは、いわゆる苦しい時の神頼みで、お祖師様のお袖にすがって娘を取戻してもらおうというわけだったのでしょう。
ここでちょっと当時の「黒手組」のやり口を説明しておく必要があるようです。あれからまだ数年にしかなりませんから、読者諸君のうちには当時の模様を御記憶のかたもあるでしょうが、彼らはきまったように、まず犠牲者の子女を誘拐し、それを人質にして巨額の身代金を要求するのです。脅迫状には、いつ何日の何時にどこそこへ金何万円を持参せよと、くわしい指定があって、その場所には「黒手組」の首領がちゃんと待ちかまえています。つまり身代金は被害者から直接賊の手に渡されるのです。なんと大胆なやりかたではありませんか。しかも、それでいて彼らには寸分の油断もありません。誘拐にしろ、脅迫にしろ、金円の受授にしろ、少しの手掛りも残さないようにやってのけるのです。また被害者があらかじめ警察に届け出て、身代金を手渡す場所に刑事などを張り込ませておきますと、どうして察知するのか、彼らは決してそこへやってきません。そして後になって、その被害者の人質は手ひどい目にあわされるのです。思うにこんどの黒手組事件は、よくある不良青年の気まぐれなどではなくて、非常に頭の鋭い、しかもきわめて豪胆な連中の仕業に違いありません。
さて、この兇賊のお見舞いを受けた伯父の一家では、今も言いますように、伯父夫妻をはじめ青くなってうろたえていました。一万円の身代金はとられる、娘は返してもらえないというのでは、さすが実業界では古狸とまでいわれている策士の伯父も、手のつけようがないのでしょう。いつになく私のような青二才をたよりにして、何かと相談をする始末です。|従妹《い と こ》の富美子は当時十九のしかも非常な美人でしたから、身代金をあたえても戻さぬところを見ると、ひょっとしたら無残にも賊の毒手にもてあそばれているのかもしれません。そうでなかったら、賊は伯父を組みしやすしと見て、一度ではあきたらず、二度、三度身代金を脅喝しようとしているのでしょう。いずれにしても伯父としてはこんな心配なことはありません。
伯父には富美子のほかに一人の息子がありましたが、まだ中学へはいったばかりで力にはなりません。で、さしずめ私が、伯父の助言者という格でいろいろと相談したことですが、よく聞いてみますと、賊のやり方はうわさにたがわず実に巧妙をきわめていて、なんとなく妖怪じみたすごいところさえあるのです。私も犯罪とか探偵とかいうことには人並み以上の興味があり、「D坂の殺人事件」でもご承知のように、時にはみずから素人探偵を気取るほどの稚気も持ち合わせているのですから、できることなら一つ本職の探偵の向こうを張ってやろうと、さまざまに頭をしぼってみましたものの、これはとてもだめです。てんで手がかりというものがないのですからね。警察へはもちろん伯父から届け出てありましたけれど、果たして警察の手でこれが解決できましょうか。少なくともきょうまでの成績を見ると、まず覚束ないものです。
そこで、当然、私は友だちの明智小五郎のことをおもいだしました。彼なればこの事件にもなんとか眼鼻をつけてくれるかもしれません。そう考えますと、私は早速それを伯父に相談してみました。伯父は一人でも余計に相談相手のほしい際ではあり、それに私が日頃明智の探偵的手腕についてよく話をしていたものですから、もっとも、伯父としてはたいして彼の才能を信用してはいなかったようですけれど、ともかく呼んできてくれということになりました。
私は御承知の煙草屋へ車を飛ばしました。そして、いろいろの書物を山と積み上げた例の二階の四畳半で明智に会いました。都合のよかったことには、彼は数日来「黒手組」についてあらゆる材料を蒐集し、ちょうど得意の推理を組み立てつつあるところでした。しかも彼の口ぶりではどうやら何か端緒をつかんでいる様子なのです。で、私が伯父のことを話しますと、そういう実例にぶっつかるのは願ってもないことだというわけで、早速承諾してくれ、時を移さず連れだって伯父の家へ帰ることができました。
間もなく、明智と私とは伯父の屋敷の数奇を凝らした応接間で伯父と対座していました。伯母や書生の牧田なども出てきて話に加わりました。この牧田というのは身代金手交の当日、伯父の護衛役として現場へ同行した男なので、参考のために伯父に呼ばれたのでした。
取り込みの中で、紅茶だ菓子だといろいろのものが運ばれました。明智は舶来の接待煙草を一本つまんで、つつましやかに煙をはいていましたっけ。伯父はいかにも実業界の古狸といった形で、生来大男のところへ、美食と運動不足のためにデブデブ肥っていますので、こんな場合にも、多分に相手を威圧するようなところを失いません。その伯父の両隣に伯母と牧田が坐っているのですが、これがまた二人とも痩形で、ことに牧田は人並みはずれた小男ですから、一そう伯父の恰幅が引き立って見えます。一通り挨拶がすみますと、事情はすでに私からざっと話してあったのですけれど、もう一度詳しく聞きたいという明智の希望で、伯父が説明をはじめました。「事の起こりは、さよう、きょうから六日前、つまり十三日でした。その日のちょうど昼ごろ、娘の富美がちょっと友だちの所までといって、着がえをして家を出たまま晩になっても帰らない。われわれはじめ『黒手組』のうわさに脅かされている際でしたから、先ずこの家内が心配をはじめましてね、その友だちの家へ電話で問い合わせたところが、娘はきょうは一度も行っていないという返事です。さあ驚いてね、わかっているだけの友だちの所へはすっかり電話をかけさせてみたが、どこへも寄っていない。それから、書生や出入りの者などを狩り集めて八方捜索につくしました。その晩はとうとうわれわれは一睡もせずでしたよ」
「ちょっとお話し中ですが、その時、お嬢さんがお出ましになるところを実際に見られたかたがありましたでしょうか」
明智がたずねますと、伯母がかわって答えました。
「はあ、それはもう女どもや書生などがたしかに見たのだそうでございます。ことに梅と申す女中などは、あれが門を出る後姿を見送ってよくおぼえていると申しておりますので……」
「それからあとは一切不明なのですね。ご近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を見かけたものもないのですね」
「そうです」と伯父が答えます。「娘は車にも乗らないで行ったのだから、もし知った人に行きあえば、充分顔を見られるはずですが、ここはご存じの通り淋しい屋敷町で、近所の人といっても、そう出あるかないようだし、それはずいぶんたずね廻ってみたのですが、だれ一人娘を見かけたものがないのです。そういうわけで警察へ届けたものかどうだろうと迷っているところへ、その翌日の昼すぎでした。心配していた『黒手組』の脅迫状が舞い込んだのです。もしやと思っていたものの、実に驚かされました。家内などは手ばなしで泣きだす始末でね。脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人きりでくること、もし警察へ訴えたりすれば、人質の生命はないものと思え……娘は身代金を受取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」
T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所にちょっとした灌木林があって、一本松はそのまん中に立っているのです。練兵場といっても、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、ことに今は冬のことですから一そう淋しく、秘密の会合場所には持ってこいなのです。
「その脅迫状を警察で検べた結果、何か手掛りでも見つかりませんでしたか」とこれは明智です。
「それがね、まるで手掛りがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色の一重の安物で目印もなにもない。刑事は、手跡などもいっこう特徴がないといっていました」
「警視庁にはそういうことを検べる設備はよくととのっていますから、先ず間違いはありますまい。で、消印はどこの局になっていましたでしょう」
「いや、消印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、誰かが表の郵便受函へ投げ込んで行ったらしいのです」
「それを函からお出しになったのはどなたでしょう」
「私です」書生の牧田が答えた。「郵便物はすべて私が取りまとめて奥様の所へさし出しますんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっておりました」
「何者がそれを投げ込んだかという点も」伯父がつけ加えました。「交番の警官などにもたずねてみたり、いろいろ調べたが、さっぱりわからないのです」
明智はここでしばらく考え込みました。彼はこれらの意味のない問答のうちから、何物かを発見しようとして苦しんでいる様子でした。
「で、それからどうなさいました」
やがて顔を上げた明智が話の先をうながしました。
「わしはよほど警察沙汰にしてやろうかと思いましたが、たとえ一片のおどし文句にもせよ、娘の生命をとると言われては、そうもなりかねる。そこへ、家内もたって止めるものですから、可愛い娘には替えられぬと観念して、残念だが一万円出すことにしました。
脅迫状の指定は今もいう通り、十五日の午後十一時、T原の一本松までということで、わしは少し早目に用意をして、百円礼で一万円、白紙に包んだのを懐中し、脅迫状には必ず一人でくるようにとありましたが、家内がばかに心配してすすめますし、それに書生の一人ぐらいつれて行ったって、まさか賊の邪魔にもなるまいと思ったので、もしもの場合の護衛役としてこの牧田をつれて、あの淋しい場所へ出掛けました。笑ってください。わしはこの年になってはじめてピストルというものを買いましたよ。そしてそれを牧田に持たせておいたのです」
伯父はそういって苦笑いをしました。私は当夜の物々しい光景を想像して思わずふき出しそうになるのを、やっとこらえました。この大男の伯父が、世にもみすぼらしい小男のしかも幾ぶん愚鈍な牧田を従えて、闇夜の中をおずおずと現場へ進んで行った、珍妙な様子が眼に見えるようです。
「あのT原の四、五丁手前で自動車をおりると、わしは懐中電燈で道を照らしながら、やっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく|木《こ》|陰《かげ》をつたうようにして、五、六間の間隔でわしのあとからついてきました。ご承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやらわからぬので、可なり気味がわるい。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあのあいだどうしていたっけなあ」
「はあ、ご主人の所から十間ぐらいもありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっとご主人の懐中電燈の光を見詰めておりました。ずいぶん長うございました。私は二、三時間も待ったような気がいたします」
「で、賊はどの方角から参りました?」
明智が熱心に訊ねました。彼は少なからず興奮している様子です。と言いますのは、ソラ、例の頭の毛をモジャモジャと指でかきまわす癖がはじまったのでわかります。
「賊は原っぱの方から来たようです。つまりわれわれが通って行った路とは反対のほうから現われたのです」
「どんなふうをしていました」
「よくはわからなかったが、なんでもまっ黒な着物を着ていたようです。頭から足の先までまっ黒で、ただ顔の一部分だけが、闇の中にほの白く見えていました。それというのが、わしはそのとき賊に遠慮して懐中電燈を消してしまったのでね。だが、非常に背の高い男だったことだけは間違いない。わしはこれで五尺五寸あるのですが、その男はわしよりも二三寸も高かったようです」
「何か言いましたか」
「だんまりですよ。わしの前までくると、一方の手でピストルをさしむけながら、もう一方の手をぐっと突き出したもんです。で、わしも無言で金の包みを手渡ししました。そして、娘の事を言おうとして、口をききかけると、賊のやつやにわに人差指を口の前に立てて、底力のこもった声でシーッというのです。わしはだまってろという合図だと思って何も言いませんでした」
「それからどうしました」
「それっきりですよ。賊はピストルをわしの方に向けたまま、あとじさりにだんだん遠ざかって行って、林の中に見えなくなってしまったのです。わしはしばらく身動きもできないで立ちすくんでいましたが、そうしていても際限がないので、うしろの方を振り向いて小声で牧田を呼びました。すると、牧田は繁みからごそごそ出てきて、もう行きましたかとビクビクもので聞くのです」
「牧田さんの隠れていたところからも賊の姿は見えましたか」
「はあ、暗いのと樹が茂っていたために、姿は見えませんでしたが、何かこう賊の足音のようなものを聞いたかと思います」
「それからどうしました」
「で、わしはもう帰ろうというと、牧田が賊の足跡を検べてみようというのです。つまりあとになって警察に教えてやれば非常な手懸りになるだろうという意見でね。そうだったね牧田」
「はあ」
「足跡が見つかりましたか」
「それがね」伯父は変な顔つきをして言うのです。「わしはどうも不思議でしようがないのですて。賊の足跡というものがなかったのです。これは決してわしたちの見誤まりではないので、きのうも刑事が検べに行ったそうですが、淋しい場所でその後人も通らなかったとみえ、わしたち両人の足跡はちゃんと残っているのに、そのほかの足跡は一つもないということでした」
「ほう、それは非常に面白いですね。もう少しく詳しくお話し願えませんでしょうか」
「地面の現われているのは、あの一本松の真下の所だけで、そのまわりには落葉がたまっていたり、草がはえていたりして、足跡はつかないわけですが、その地面の現われている部分には、わしの下駄と牧田の靴の跡しか残っていないのです。ところが、わしの立っていた所へきて金包みを受取るためには、どうしたって賊はその足跡の残るような部分へ立ち入っていなければならないのに、それがない。わしの立っていた地面から草のはえている所までは、一ばん短いので二|間《けん》は充分あったのですからね」
「そこには何か動物の足跡のようなものはありませんでしたか」
明智が意味ありげに訊ねました。伯父はけげんな顔をして、
「え、動物ですって」
と聞き返します。
「例えば、馬の足跡とか犬の足跡とかいうようなものです」
私はこの問答を聞いて、ずっと以前にストランド・マガジンか何かで読んだ一つの犯罪物語を想い浮かべました。それは或る男が、馬の蹄鉄を靴の底につけて犯罪の場所へ往復したために、殺人の嫌疑を免れたという話でした。明智もきっとそんな事を考えていたのに違いありません。
「さあ、そこまではわしも気がつかなかったが、牧田お前覚えていないかね」
「はあ、どうもよく覚えませんですが、たぶんそんなものはなかったようでございます」
明智はここでまた黙想をはじめました。
私は最初伯父から話を聞いた時にも思ったことですが、今度の事件の中心は、この賊の足跡のないという点にあるのです。それは実に一種無気味な事実でした。
長いあいだ沈黙がつづきました。
「しかし何はともあれ」やがてまた伯父が話しはじめます。「これで事件は落着したのだとわしは大いに安心して帰宅しました。そして翌日は娘が帰ってくるものと信じていました。偉い賊になればなるほど、約束などは必ず守る、一種の泥棒道徳というようなものがあることをかねて聞き及んでいたので、まさか嘘はいうまいと安心しておりました。ところがどうでしょう、きょうでもう四日目になるのに娘は帰ってこない。実に言語道断です。たまりかねて、わしはきのう警察に委細を届け出ました。けれども、警察はどうも、事件の多い中のことで、余り当てにもなりません。ちょうど幸い甥があんたとお心安いというので、実は大いに頼みにして御足労を願ったような次第で……」
これで伯父の話は終りました。明智は更にいろいろ細かい点について巧みな質問をして、一つ一つ事実を確かめて行きました。
「ところで」明智は最後に訊ねました。「近頃お嬢さんの所へ、何か疑わしい手紙のようなものでも参っていないでしょうか」
これには伯母が答えました。
「私どもでは娘の所へ参りました手紙類は、必ず一応私が眼を通すことにしておりますので、怪しいものがあればじきにわかるはずでございますが、さようでございますね、近頃べつにこれといって……」
「いや、ごくつまらないような事でも結構です。どうかお気づきの点をご遠慮なくお話し願いたいのですが」
明智は伯母の口調から何か感じたのでしょう、畳みかけるように訊ねました。
「でも、今度の事件にはたぶん関係のないことでしょうと存じますが……」
「ともかくお話なすってみてください。そういうところに往々思わぬ手掛りがあるものです。どうか」
「では申し上げますが、一と月ばかり前から娘の所へ、私どものいっこう聞き覚えのないお名前のかたから、ちょくちょく葉書が参るのでございますよ。いつでしたか、一度私は娘に、これは学校時代のお友だちですかって聞いてみたことがございましたが、娘は、ええと答えはいたしましたものの、どうやら何か隠している様子なのでございます。私も妙に存じまして、一度よく糺してみようと考えていますうちに、今度の出来事でございましょう。もうそんな些細なことはすっかり忘れておりましたのですが、お言葉でふとおもい出したことがございます。と申しますのは、娘がかどわかされますちょうど前日に、その変な葉書が参っているのでございますよ」
「では、それをいちど拝見願えませんでしょうか」
「よろしゅうございます。たぶん娘の手文庫の中にございましょうから」
そうして伯母は問題の葉書というのを探し出してきました。見ると日付は伯母の言った通り十二日で、差出人は匿名なのでしょう、ただ「やよい」となっています。そして市内の某局の消印がおされていました。文面はこの話の冒頭に掲げておきました「一度おうかがい云々」のあれです。
私もその葉書を手に取って充分吟味してみましたが、なんの変てつもない、いかにも少女らしい|要《よう》でもない文句を並べたものにすぎません。ところが、明智は何を思ったのか、さも一大事という調子で、その葉書をしばらく拝借して行きたいと言うではありませんか。もちろん拒むべき事でもなく、伯父は即座に承諾しましたが、私には明智の考えがちっともわからないのです。
こうして明智の質問はようやく終りを告げましたが、伯父は待ちかねたように彼の意見を問うのでした。すると、明智は考え考え次のように答えました。
「いや、お話を伺っただけでは別段これという意見も立ちかねますが……ともかくやってみましょう。ひょっとしたら、二、三日のうちにお嬢さんをお連れすることができるかもしれません」
さて、伯父の家を辞した私たちは、肩を並べて帰途についたことですが、その折、私がいろいろ言葉を構えて明智の考えを聞き出そうと試みたのに対して、彼はただ、捜査方針の一端をにぎったにすぎないと答え、そのいわゆる捜査方針については、一とことも打ち明けませんでした。
その翌日、私は朝食をすませますと、直ぐに明智の宿を訪ねました。彼がどんなふうにこの事件を解決して行くか、その径路を知りたくてたまらなかったからです。
私は例の書物の山の中に埋没して、得意の瞑想にふけっている彼を想像しながら、心安い間柄なので、ちょっと煙草屋のおかみさんに声をかけて、いきなり明智の部屋への階段を上がろうとしますと、
「あら、きょうはいらっしゃいませんよ。珍らしく朝早くからどっかへお出かけになりましたの」
といって呼び止められました。驚いて行先を訊ねますと、別に言い残してないということです。
さてはもう活動をはじめたかしら、それにしても朝寝坊の彼が、こんなに早くから外出するというのは、あまり例のないことだと思いながら、私は一と先ず下宿へ帰りましたが、どうも気になるものですから、少しあいだをおいて、二度も三度も明智を訪問したことです。ところが、何度行ってみても彼は帰っていないのです。そして、とうとう翌日の昼ごろまで待ちましたが、彼はまだ姿を見せないではありませんか。私は少々心配になってきました。宿のおかみさんも非常に心配して、明智の部屋に何か書き残してないか調べてみたりしましたが、そういうものもありません。
私は一応伯父の耳に入れておく方がいいと思いましたので、早速彼の屋敷を訪ねました。伯父夫妻は相変らずお題目を唱えてお祖師様を念じていましたが、事情を話しますと、それは大変だ。明智までも賊の虜になってしまったのではあるまいか。探偵を依頼したのだから、こちらにも充分責任がある。もしやそんなことがあったら明智の親許に対してもなんとも申しわけがないと言って騒ぎ出す始末です。私は明智に限って|万《ばん》|々《ばん》へまなまねはしまいと信じていましたが、こう周囲で騒がれては、心配しないわけにはいきません。どうしよう、どうしようといううちに時間がたつばかりです。
ところが、その日の午後になって、私たちが伯父の家の茶の間へ集まって、小田原評定をやっているところへ、一通の電報が配達されました。
フミコサンドウコウイマタツ
それは意外にも明智が千葉から打ったものでした。私たちは思わず歓呼の声を上げました。明智も無事だ。娘も帰る。打ちしめっていた一家は、にわかに陽気にざわめいて、まるで花嫁でも迎える騒ぎです。
そうして、待ちかねた私たちの前に、明智のニコニコ顔が現われたのは、もう日暮れごろでした。見ると幾ぶん面やつれのした富美子が彼のあとに従っていました。ともかく疲れているだろうからという伯母の心づかいで、富美子だけは居間に|退《しりぞ》き床についた様子でしたが、私たちの前にはお祝いとあって、用意の酒肴がはこばれる。伯父夫妻は明智の手を取らんばかりにして、上座にすえ、お礼の百万遍を並べるという騒ぎでした。無理もありません。国家の警察力をもってしても、長いあいだどうすることもできなかった「黒手組」です。いかに明智が探偵の名人だからといって、そうやすやすと娘が取り戻せようとは、誰にしたって思いもかけなかったのです。それがどうでしょう。明智はたった一人の力でやってのけたではありませんか。伯父夫妻が凱旋将軍でも迎えるように歓待したのは、ほんとうにもっともなことです。彼はまあなんという驚くべき男なのでしょう。さすがの私も、今度こそすっかり参ってしまいました。そこで、皆がこの大探偵の冒険談を聞こうとつめよったものです。黒手組の正体は果たして何者でしょう。
「非常に残念ですが、何もお話しできないのです」明智が少し困ったような顔をして言いました。「いくら私が無謀でも、単身であの兇賊を逮捕するわけにはいきません。私はいろいろ考えた結果、極くおだやかにお嬢さんを取り戻す工夫をしたのです。つまり、賊の方から|熨《の》|斗《し》をつけて返上させるといった方法ですね。で、私と『黒手組』とのあいだにこういう約束が取りかわされたのです。すなわち、『黒手組』の方ではお嬢さんも身代金の一万円も返すこと、そして、将来ともお宅に対しては絶対に手出しをしないこと、私の方では、『黒手組』に関しては一切口外しないこと、そして、将来とも『黒手組』逮捕の助力など絶対にやらぬこと、こういうのです。私としてはお宅の損害を回復しさえすれば、それで役目がすむのですから、下手をやって虻蜂とらずに終るよりはと思って、賊の申し出を承知して帰ったような次第です。そういうわけですから、どうかお嬢さんにも『黒手組』については一切おたずねなさいませんように……で、これが例の一万円です。確かにお渡しします」
そういって彼は白紙に包んだものを伯父に手渡しました。折角楽しみにしていた探偵談を聞くことができないのです。しかし私は失望しませんでした。それは伯父や伯母には話せないかもしれませんが、いくら固い約束だからといって、親友の私だけには打ち明けてくれるだろう。そう考えますと、私は酒宴の終るのが待ち遠しくてしようがありません。
伯父夫妻としては、自分の一家さえ安全なら、賊が逮捕されようとされまいと、そんなことは問題ではないのですから、ただもう明智への礼心で、賑やかな杯の献酬がはじめられました。あまり酒のいけぬ明智はじきにまっ赤になってしまって、いつものニコニコ顔を更に笑みくずしています。罪のない雑談に花が咲いて、陽気な笑い声が座敷一杯にひろがります。その席でどんなことが話されたか、それはここにしるす必要もありませんが、ただ次の会話だけはちょっと読者諸君の興味をひきはしないかと思います。
「いやもう、あんたは全く娘の命の親です。わしはここで誓っときます。将来ともあんたのお頼みならどんな無理なことでもきっと承知するということをね。どうです。さし当り何かお望みくださることでもありませんかな」
伯父は明智に杯をさしながら、恵美須様のような顔をして言いました。
「それは有難いですね」明智が答えます。「例えばどうでしょう。私の友人の或る男が、お嬢さんに大変こがれているのですが、その男にお嬢さんを頂戴するというような望みでも構いませんでしょうか」
「ハハハハハハ、あんたもなかなか隅に置けない。いや、あんたが先の人物さえ保証してくださりゃ、娘をさし上げまいものでもありませんよ」
伯父はまんざら冗談でもない様子で言いました。
「その友人はクリスチャンなんですが、この点はどうでしょう」
明智の言葉は座興にしては少し真剣すぎるように思われます。日蓮宗に凝り固まっている伯父は、ちょっといやな顔をしましたが、
「よろしい。わしはいったい耶蘇教は大嫌いですが、ほかならんあんたのお頼みとあれば、一つ考えてみましょう」
「いやありがとう。きっといつかお願いに上がりますよ。どうか今のお言葉をお忘れないように願います」
この一とくさりの会話は、ちょっと妙な感じのものでした。座興と見ればそうとも考えられますが、真剣な話と思えば、又そうらしくもあるのです。ふと私は、バリモアの芝居では、あのシャーロック・ホームズが、事件で知合いになった娘と恋におちいり、ついに結婚する筋になっているのを思い出して、密かにほほ笑みました。
伯父はいつまでも引き止めようとしましたが、余り長くなりますので、やがて私たちは暇をつげることにしました。伯父は明智を玄関まで送り出して、お礼の寸志だと言いながら、彼が辞退するのも聞かないで、無理に二千円の金包みを明智の懐へ押し込みました。
隠れたる事実
「君、いくら『黒手組』との約束だって、僕にだけは様子を話してくれたっていいだろう」
私は伯父の家の門を出るのを待ちかねて、こう明智に問いかけたものです。
「ああ、いいとも」彼は案外たやすく承知しました。「じゃ、コーヒーでも飲みながら、ゆっくり話そうじゃないか」
そこで、私たちは一軒のカフェーにはいり、奥まったテーブルを選んで席につきました。
「今度の事件の出発点はね。あの足跡のなかったという事実だよ」
明智はコーヒーを命じておいて、探偵談の口を切りました。
「あれには少なくとも六つの可能な場合がある。第一は伯父さんや刑事が賊の足跡を見落としたという解釈、賊は例えば獣類とか鳥類とかの足跡をつけてわれわれの眼を欺瞞することができるからね。第二は、これは少し突飛な想像かもしれないが、賊が何かにぶら下がるか、それとも綱渡りでもするか、とにかく足跡のつかぬ方法で現場へやってきたという解釈、第三は伯父さんか牧田かが賊の足跡をふみ消してしまったという解釈、第四は偶然賊の履物と伯父さん又は牧田の履物と同じだったという解釈、この四つは現場を綿密に検べてみたらわかる事柄だ。それから第五は、賊が現場へこなかった、つまり伯父さんが何かの必要から独り芝居を演じたのだという解釈、第六は牧田と賊とが同一人物だったという解釈、この六つだ。
「僕はともかく現場を検べてみる必要を感じたので、あの翌朝、早速T原へ行ってみた。もしそこで第一から第四までの痕跡を発見することができなかったら、さしずめ第五と第六の場合が残るばかりだから、非常に捜査範囲をせばめることができるわけだ。ところがね、僕は現場で一つの発見をしたんだ。警察の連中は大変な見落としをやっていたのだよ。というのは、地面にたくさん、なんだかこう尖ったもので突いたような跡があるんだ。もっともそれは伯父さんたちの足跡(といっても大部分は牧田の下駄の跡)の下に隠れていて、ちょっと見たんではわからないのだがね。僕はそれを見ていろいろ想像をめぐらしているうちに、ふとある事をおもい出した。天来の妙音とでもいうか、実にすばらしい考えなんだよ。それはね、書生の牧田が小さなからだに似合わない太い黒メリンスの兵児帯を、大きな結び目をこしらえて締めているだろう。うしろから見るとちょっと滑稽な感じだね。僕は偶然あれを覚えていたんだ。これでもう僕には何もかもわかってしまったような気がしたよ」
明智はこう言ってコーヒーを一と口なめました。そして、なんだかじらすような眼つきをして私を眺めるのです。しかし、私には残念ながらまだ彼の推理の跡をたどる力がありません。
「で、結局どうなんだい」
私はくやしまぎれにどなりました。
「つまりね、さっきいった六つの解釈のうち、第三と第六とが当っているんだ。言い換えると、書生の牧田と賊とが同一人物だったのさ」
「牧田だって」私は思わず叫びました。「それは不合理だよ。あんな愚かな、それに正直者で通っている男が……」
「それじゃあね」明智は落ついて言うのです。「君が不合理だと思う点を一つ一つ言ってみたまえ。答えるから」
「数えきれぬほどあるよ」
私はしばらく考えてから言いました。
「第一、伯父は賊が大男の彼よりも二、三寸も背が高かったといっている。そうすると五尺七、八寸はあったはずだ。ところが牧田は反対にあんな小っぽけな男じゃないか」
「反対もこう極端になるとちょっと疑ってみる必要があるよ。一方は日本人としては珍らしい大男で、一方は畸形に近い小男だね。これは、いかにもあざやかな対照だ。惜しいことに少しあざやか過ぎたよ。もし牧田がもう少し短い竹馬を使ったら、かえって僕は迷わされたかもしれない。ハハハハハハ、わかるだろう。彼はね。竹馬を短くしたようなものをあらかじめ現場に隠しておいて、それを手で持つ代りに両足に縛りつけて用を弁じたんだよ。闇夜でしかも伯父さんからは十間も離れていたんだから、何をしたってわかりやしない。そして、賊の役目を勤めたあとで、今度は竹馬の跡を消すために、わざと賊の足跡を調べまわったりなんかしたのさ」
「そんな子供だましみたいなことを、どうして伯父が看破できなかったのだろう。第一、賊は黒い着物だったというのに、牧田はいつも白っぽい田舎縞を着ているじゃないか」
「それが例のメリンスの兵児帯なんだ。実にうまい考えだろう。あの大幅の黒いメリンスをグルグルと頭から足の先までまきつけりゃ、牧田の小さなからだぐらいわけなく隠れてしまうからね」
あんまり簡単な事実なので、私はすっかりばかにされたような気がしました。
「それじゃ、あの牧田が『黒手組』の手先を勤めていたとでもいうのかい。どうもおかしいね。黒手……」
「おや、まだそんな事を考えているのか、君にも似合わない、ちときょうは頭が鈍っているようだね。伯父さんにしろ、警察にしろ、はては君までも、すっかり、『黒手組』恐怖症にとっつかれているんだからね。まあ、それも時節がら無理もない話だけれど、もし君がいつものように冷静でいたら、なにも僕を待つまでもなく、君の手で充分今度の事件は解決できただろうよ。これには『黒手組』なんてまるで関係がないんだ」
なるほど、私は頭がどうかしていたのかもしれません。こうして明智の説明を聞けば聞くほど、かえって真相がわからなくなってくるのです。無数の疑問が、頭の中でゴッチャになって、こんぐらがって、何から訊ねていいのかわからないくらいです。
「じゃあ、さっき君は、『黒手組』と約束したなんて、なぜあんなでたらめをいったのだい。第一わからないのは、もし牧田の仕業とすれば、彼をだまってほうっておくのも変じゃないか。それから、牧田はあんな男で、富美子を誘拐したり、それを、数日のあいだも隠しておいたりする力がありそうにも思われぬし。現に富美子が家を出た日には、彼は終日伯父の屋敷にいて、一歩もそとへ出なかったというではないか。いったい牧田みたいな男に、こんな大仕事ができるものだろうか。それから……」
「疑問百出だね。だがね、もし君がこの葉書の暗号文を解いていたら、少なくともこれが暗号文だということを看破していたら、そんなに不思議がらないですんだろうよ」
明智はこういって、いつかの日、伯父のところから借りてきた例の「やよい」という署名の葉書を取り出しました。(読者諸君、はなはだご面倒ですが、どうかもう一度冒頭のあの文面を読み返してください)
「もしもこの暗号文がなかったら、僕はとても牧田を疑う気になれなかったに違いない。だから、今度の発見の出発点はこの葉書だったといってもいいわけだ。しかもこれが暗号文だと最初からハッキリわかっていたのではない。ただ疑ってみたんだ。疑ったわけはね、この葉書が富美子さんのいなくなるちょうど前日にきていたこと、手跡がうまくごまかしてあるがどうやら男らしいこと、富美子さんがこれについて聞かれたとき、妙なそぶりを示したことなどもあったが、それよりもね、これを見たまえ、まるで原稿用紙へでも書いたように各行十八字詰めに実に綺麗に書いてある。で、ここへ横にずっと線を引いてみるんだ」
彼はそう言いながら、鉛筆を取り出して、ちょうど原稿用紙の横線のようなものを引きました。
「こうするとよくわかる。この線にそってずっと横に眼を通してみたまえ。どの列も半分ぐらい仮名がまじっているだろう。ところがたった一つの例外がある。それは、この一ばんはじめの線に沿った各行の第一字目だ、漢字ばかりじゃないか。
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一好割此外叮袋自叱歌切
[#ここで字下げ終わり]
「ね、そうだろう」彼は鉛筆でそれを横にたどりながら説明するのです。「これはどうも偶然にしては変だ。男の文章ならともかく、全体として仮名の方がずっと多い女の文章に、一列だけ、こんなにうまく漢字の揃うはずがないからね。とにかく僕は研究してみるねうちがあると思ったのだ。あの晩帰ってから一所懸命考えた。幸い、以前暗号についてはちょっと研究したことがあるので、結局、解けたことは解けたがね。一つやってみようか。先ずこの漢字の一列を拾い出して考えるんだ。しかしこのままではおみくじの文句みたいで、いっこう意味がない。何か漢詩か経文などに関係していないかと思って調べてみたが、そうでもない。いろいろやっているうちに、僕はふと二字だけ抹消した文字のあるのに気づいた。こんなに綺麗に書いた文章の中に汚ない消しがあるのはちょっと変だからね。しかもそれが二つとも第二字目なんだ。僕は自分の経験で知っているが、日本語で暗号文を作るとき、一ばん困るのは濁音半濁音の始末だよ。でね、抹消文字はその上に位する漢字の濁音を示すための細工じゃないかと考えたんだ。果たしてそうだとすると、この漢字はおのおの一字ずつの仮名を代表するものでなければならない。それから、紙を何枚も何枚も書きつぶして、ずいぶん考えたが、とうとう解読することができた。つまりこれは漢字の字画がキイなんだよ。それも|偏《へん》と|旁《つくり》を別々に勘定するんだ。例えば『好』は偏が三画で旁が三画だから33という組合わせになる。で、それを表にしてみるとこうだ。この中に一つ当て字がある。『叮嚀』は、ほんとうは『丁寧』だが、それでは暗号にぐわいがわるいので、わざと当て字を使ったんだね」
彼は手帳を出して左のような表を書きました。
[#ここから2字下げ]
旁 3 2 2 2 2 2 4 2
偏1 3 10 4 3 3 11 6 3 10 2
一 好 割 此 外 叮 袋 自 叱 歌 切
[#ここで字下げ終わり]
「この数字を見ると、偏の方は十一まで、旁の方は四までしかない。これが何かの数に符合しやしないか。例えばアイウエオ五十音をどうかいうふうに配列した場合の順序を示すものではあるまいか。ところが、アカサタナハマヤラワンと並べてみると、その数はちょうど十一だ。こいつは偶然かもしれないが、まあやってみよう。偏の画の数はアカサタナすなわち子音の順序を示し、旁の画の数はアイウエオすなわち母音の順序を示すものと仮定するのだ。すると『一』は一画で旁がないからア行の第一字目すなわち『ア』となり、『好』は偏が三画だからサ行で、旁が三画だから第三字目の『ス』だ。こうして当てはめて行くと、
「アスヰチジシンバシヱキ」
となる。『ヰ』と『ヱ』はあて字だろう。『ハ』は偏が六で旁が一でなければならないが、適当な字が見当らなかったので、偏だけでごまかしておいたのだろう。果たして暗号だった。ね、『明日一時新橋駅』。さて、年ごろの女のところへ暗号文で時間と場所を知らせてくる。しかもそれがどうやら男の手跡らしい。この場合ほかに考え方があるだろうか。逢引きの打合わせと見るほかにはね。そうなると、事件は『黒手組』らしくなくなってくるじゃないか。少なくとも『黒手組』を捜索する前に一応この葉書の差出人を取り調べてみる必要があるだろう。ところが、葉書の主は富美子さんのほかに知っている者がない。ちょっと難関だね。しかし一とたびこれを牧田の行為と結びつけて考えてみると、疑問はたちまち解けるのだよ。というのは、もし富美子さんが自分で家出をしたものとすれば、両親のところへ詫状の一本ぐらいよこしてもよさそうなものじゃないか。この点と、牧田が郵便物を取りまとめる役目だということと結びつけると、ちょっと面白い筋書きが出来上る。つまりこうだ。牧田がどうかして富美子さんの恋を感づいていたとするんだ。ああした不具者みたいな男のことで、その方の猜疑心は人一倍発達しているだろうからね。で、彼は富美子さんからの手紙をにぎりつぶして、その代りに手製の『黒手組』の脅迫状を伯父さんのところへさし出したという順序だ。これは脅迫状が郵便でこなかった点にもあてはまる」
明智はここでちょっと言葉を切った。
「驚いた。だが……」
私がなおもさまざまの疑問について糺そうとすると、「まあ、待ちたまえ」彼はそれを押えつけておいてつづけました。「僕は現場を検べると、その足で伯父さんの屋敷の門前へ行って牧田の出てくるのを待ち伏せしていた。そして彼が使いにでも行くらしいふうで出てきたのを、うまくごまかして、このカフェーへ連れ込んだ。ちょうど今僕らが坐っているこのテーブルだったよ。僕は彼が正直者だということは、はじめから君と同様に認めていたので、今度の事件の裏には何か深い事情がひそんでいるに違いないと睨んでいた。でね、絶対に他言しないし、場合によっては相談相手になってやるからと安心させて、とうとう白状させてしまったのだ。
君は多分服部時雄という男を知っているだろう。キリスト教信者だという理由で、富美子さんに対する結婚の申し込みを拒絶されたばかりでなく、伯父さんのところへのお出入りまで止められてしまった、あの気の毒な服部君をね。親というものは馬鹿なもので、さすがの伯父さんも、富美子さんと服部君とがとうから恋仲だったことに気づかなかったのだよ。また富美子さんも富美子さんだ。何も家出までしないでも、可愛い娘のことだ、いかに宗教上の偏見があったって、できてしまったものを今さら無理に引き離す伯父さんでもあるまいに、そこは娘心の浅はかというやつだ。それとも案外家出をして脅かしたら頑固な伯父さんも折れるだろうという横着な考えだったかもしれないが、いずれにしても二人は手に手をとって、服部君の田舎の友人の所へ駈落ちとしゃれたのさ。むろんそこからたびたび手紙を出したそうだ。それを牧田のやつ一つもらさずにぎりつぶしていたんだね。僕は千葉へ出張して、家では『黒手組』騒動が持ち上がっているのも知らないで、ひたすら甘い恋に酔っている二人を、一と晩かかってくどいたものだよ。あんまり感心した役目じゃなかったがね。で、結局きっと二人が一緒になれるように取り計ろうという約束で、やっと引き離して連れてきたのさ。だが、その約束もどうやら果たせそうだよ。きょうの伯父さんの口ぶりではね。
ところで、今度は牧田の方の問題だが、これもやっぱり女出入りなのだ。可哀そうに先生涙をぽろぽろこぼしていたっけ。あんな男にも恋はあるんだね。相手が何者かは知らないが、おそらく商売人か何かにうまく持ちかけられたとでもいうのだろう。ともかく、その女を手に入れるために、まとまった金が入用だったのだ。そして、聞けば富美子さんが帰ってこないうちに出奔するつもりでいたんだそうだ。僕はつくづく恋の偉力を感じた。あの愚かしい男に、こんな巧妙なトリックを考えださせたのも、全く恋なればこそだよ」
私は聞き終って、ほっと溜息を吐いたことです。なんとなく考えさせられる事件ではありませんか。明智もしゃべり疲れたのか、ぐったりとしています。二人は長いあいだだまって顔を見合わせていました。
「すっかりコーヒーが冷えてしまった。じゃあ、もう帰ろうか」
やがて明智は立ち上がりました。そして、私たちはそれぞれ帰途についたのですが、別れる前に明智は何かおもい出したふうで、先刻伯父から貰った二千円〔今の七、八十万円に当る〕の金包みを私の方へ差し出しながら言うのです。
「これをね、ついでの時に牧田君にやってくれたまえ。婚資にといってね。君、あれは可哀そうな男だよ」
私は快よく承諾しました。
「人生は面白いね。このおれがきょうは二た組の恋人の|仲《なこ》|人《うど》をつとめたわけだからね」
明智はそう言って、心から愉快そうに笑うのでした。
夢遊病者の死
彦太郎が勤め先の木綿問屋をしくじって、父親のところへ帰ってきてから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている、五十を越した父親の厄介になっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み自分でも奔走しているのだけれど、折からの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼の方から断わった。というのは、彼にはどうしても再び住み込みの勤めができないわけがあったからである。
彦太郎には、幼ない時分から寝とぼける癖があった。ハッキリした声で寝言を言って、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けて又しゃべる。そうしていつまででも問答をくり返すのだが、さて、朝になって眼が覚めてみると、少しもそれを記憶していないのだ。余り言うことがハッキリしているので、気味がわるいようだと、近所の評判になっていたくらいである。それが、小学校を出て奉公をするようになった当時は、一時やんでいたのだけれど、どうしたものか二十歳を越してから、また再発して、困ったことには、みるみる病勢がつのって行くのであった。
夜中にムクムクと起き上がって、その辺を歩き廻る。そんなことはまだお手軽な方だった。ひどい時には、夢中で表の締まりを――それが住み込みで勤めていた木綿問屋のである――その締まりをあけて、一町内をぐるっと廻ってきて、また戸締まりをして寝てしまったことさえあるのだ。
だが、そんなふうのことだけなら、気味のわるいやつだぐらいですみもしようけれど、最後には、その夢中でさ迷い歩いているあいだに、他人の品物を持ってくるようなことが起こった。つまり知らず知らずの泥棒なのである。しかも、それが二度、三度とくり返されたものだから、いくら夢中の仕草だとはいえ、泥棒を雇っておくわけにはゆかぬというので、もうあと三年で、年期を勤め上げ、暖簾を分けてもらうという惜しいところで、とうとうその木綿問屋をお払い箱になってしまったのである。
最初、自分が夢遊病者だとわかった時、彼はどれほど驚いたことであろう。乏しい小遣銭をはたいて、医者にもみてもらった。いろいろの医学の書物を買い込んで、自己療法もやってみた。或いは神仏を念じて、大好物の餅を断って、病気平癒の祈願をさえした。だが、彼のいまわしい悪癖はどうしても治らぬどころではない、日にまし重くなって行くのだ。そして、ついには、あの思い出してもゾッとする夢中の犯罪。ああ、おれはなんという因果な男だろう。彼はただもう、身の不幸を歎くほかはなかったのである。
今までのところでは、幸いに法律上の罪人となることだけは免がれてきた。だが、この先どんなことで、もっとひどい罪を犯すまいものでもない。いや、ひょっとしたら、夢中で人を殺すようなことさえ、起こらないとは限らぬのだ。
本を見ても、人に聞いても、夢遊病者の殺人というのは、ままある事らしい。まだ木綿問屋にいたころ、飯炊きの爺さんが、若いころ在所にあった事実談だといって、気味のわるい話をしたのを、彼はよく覚えている。それは、村でも評判の貞女だったある女が、寝とぼけて、野らで使う草刈鎌をふるって、その亭主を殺してしまったというのである。
それを考えると、彼はもう夜というものが怖くてしようがないのだ。そして、普通の人には一日の疲れを休める安息の床が、彼だけには、まるで地獄のようにも思われるのだ。もっとも、家へ帰ってからは、ちょっと発作がやんでいるようだけれど、そんなことで決して安心はできないのだ。そこで、彼は、住み込みの勤めなど、どうして、どうして、二度とやる気はしないのである。
ところが、彼の父親にしてみると、折角勤め口が見つかったのを、なんの理由もなく断わってしまう彼のやり方を、甚だ心得がたく思うのである。というのは、父親はまだ、大きくなってから再発した彼の病気について、何も知らないからで、息子がどういう過失で木綿問屋をやめさせられたか、それさえ実はハッキリしないくらいなのだ。
ある日、一台の車がM伯爵の門長屋へはいってきて、三畳と四畳半二た間きりの狭苦しい父親の住居の前に梶棒をおろした。その車の上から息子の彦太郎が妙にニヤニヤ笑いながら行李を下げて降りてきたのである。父親は驚いて、どうしたのだと聞くと、彼はただフフンと鼻の先で笑って見せて、少し面白くないことがあったものだからと答えたばかりだった。
その翌日、木綿問屋の主人から一片の書状が届いた。そこには、今度都合により一時御子息を引き取ってもらうことにした。が、決して御子息に落度があったわけではないからというような、こうした場合の極りきった文句がしるされていた。
そこで、父親は、これはてっきり、彼が茶屋酒でも飲み覚えて、店の金を使い込みでもしたのだろうと早合点をしてしまったのである。そして、暇さえあれば彼を前に坐らせて、この柔弱者めがというような、昔形気な調子で意見を加えるのだった。
彦太郎が、最初帰ってきた時に、実はこうこうだと言ってしまえば、わけもなくすんだのであろうが、それを言いそびれてしまったところへ、父親に変な誤解をされて、お談義まで聞かされては、彼の癖として、もうどんなことがあっても真実を打ち明ける気がしないのであった。
彼の母親は三年あとになくなり、ほかに兄弟とてもない。ほんとうに親一人子一人の間柄であったが、そういう間柄であればあるほど、あの妙な肉親憎悪とでもいうような感情のために、お互いになんとなく隔意を感じ合っていた。彼が依怙地に病気のことを隠していたのも、一つはこういう感情に妨げられたからであった。もっとも一方では、二十三歳の彼には、それを打ち明けるのが此の上もなく気恥かしかったからでもあるけれど。そこへ持ってきて彼が折角の勤め口を断わってしまったものだから、父親の方ではますます立腹する。それが彦太郎にも反映して、彼の方でも妙にいらいらしてくる。というわけで、近頃ではお互いに口を利けば、すぐもう喧嘩腰になり、そうでなければ何時間でもだまって睨み合っているという有様であった。きょうもまたそれである。
二、三日雨が降りつづいたので、彦太郎は、日課のようにしていた散歩にも出られず、近所の貸本屋から借りてきた講談本も読み尽してしまい、どうにも身の置きどころもないような気持になって、ボンヤリと父親の小さな机の前に坐っていた。
四畳半と三畳の狭いうちが、畳から壁から天井から、どこからどこまでジメジメと湿って、すぐに父親を連想するような一種の臭気がむっと鼻を突く。それに、八月のさ中のことで、雨が降ってはいても、耐らなく蒸し暑いのである。
「えっ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」
彼はそこにあった、鉛の屑を叩き固めたような重い不恰好な文鎮で、机の上を滅多無性に叩きつけながら、やけくそのようにそんなことをどなったりした。そうかと思うとまた、長いあいだ、だまりこくって考え込んでいることもあった。そんな時、彼はきっと十万円〔註、今の四千万円ほど〕の夢を見ていたのである。
「あああ、十万円ほしいな。そうすれば働かなくってもいいのだ。利子で充分生活ができるのだ。おれの病気だって、いい医者にかかって、金をうんとかけたら、治らないものでもないのだ。親父にしてもそうだ。あの年になって、みじめな労働をすることはいらないのだ。それもこれも、みんな金だ、金だ。十万円ありさえすればいいのだ。こうっと、十万円だから、銀行の利子が六分として、年に六千円、月に五百円か……」〔註、五百円は今の二十万円ほど〕
すると彼の頭に、いつか木綿問屋の番頭さんに連れられて行った、お茶屋の光景が浮かぶのである。そして、そのとき彼のそばに坐った眉の濃い一人の芸妓の姿や、その|声《こわ》|音《ね》や、いろいろのなまめかしい仕草が、浮かぶのである。
「ところで、なんだっけ、ああ、そうそう十万円だな。だが一体全体そんな金がどこにあるのだ。えっ、くそ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」
そして、またしてもゴツンゴツンと、文鎮で机の上をなぐるのである。
彼がそんなことをくり返しているところへ、いつの間にか電燈がついて、父親が帰ってきた。
「今帰ったよ。やれやれよく降ることだ」
近頃では、その声を聞くと彼はゾーッと寒気を感じるのだ。
父親は雨で汚れた靴の始末をしてしまうと、やれやれという恰好で、四畳半の貧弱な長火鉢の前に坐って、濡れた紺の詰襟の上衣を脱いで、クレップシャツ一枚になり、ズボンのポケットから取り出した、真鍮のなたまめ|煙管《き せ る》で、まず一服するのであった。
「彦太郎、何か煮ておいたかい」
彼は父親から炊事係りを命ぜられていたのだけれど、ほとんどそれを実行しないのだった。朝などでも、父親がブツブツと言いながら、自分で釜の下を焚きつける日が多かった。きょうとても、むろんなんの用意もしていないのである。
「おい、なぜだまっとるんだ。おやおや、湯も沸いていないじゃないか。からだを拭くこともできやしない」
なんといってみても、彦太郎はだまっていて答えないので、父親は仕方なく、よっこらしょと立ち上がって、勝手もとへ下りて、ゴソゴソと夕餉の支度にとりかかるのであった。
そのけはいを感じながら、じっと机の前の壁を見つめている彦太郎の胸の中は、憎しみとも悲しみとも、なんとも形容のできない感情のために、煮え返るのである。天気のよい日なれば、こういう時には、何も言わずにプイとそとへ出て、その辺を足にまかせて歩き廻るのだけれど、きょうはそれもできないので、いつまでもいつまでも、雨もりで汚れた壁と睨めっくらをしているほかはない。
やがて、鮭の焼いたので貧しい膳立てをした父親が、それだけが楽しみの晩酌に取りかかるのである。そして、一本の徳利を半分もあけたころになると、ボツボツと元気が出て、さて、おきまりのお談義がはじまるのだ。
「彦太郎、ちょっとここへおいで……どういうわけで、お前はおれのいうことに返辞ができないのだ。ここへこいといったらくるがいいじゃないか」
そこで、彼は仕方なく机の前に坐ったまま、向きだけをかえて、はじめて父親の方を見るのだが、そこには、頭の禿と、顔の皺とを除くと、彼自身とそっくりの顔が、酒のために赤くなって、ドロンとした眼を見はっている。
「お前は毎日そうしてゴロゴロしていて、一体恥かしくないのか……」と、それから長々とよその息子の例話などがあって、さて「おれはな、お前に養ってくれとはいわない。ただ、このおいぼれの脛噛りをして、ゴロゴロしていることだけは、頼むから止めてくれ。どうだわかったか。わかったのかわからないのか」
「わかってますよ」すると彦太郎がひどい剣幕で答えるのだ。「だから、一所懸命就職口を探しているのです。探してもなければ仕方がないじゃありませんか」
「ないことはあるまい。此のあいだ××さんが話してくだすった口を、お前はなぜ断わってしまったのだい。おれにはどうもお前のやることはさっぱりわからない」
「あれは住み込みだから、厭だと言ったじゃありませんか」
「住み込みがなぜいけないのだ。通勤だって住み込みだって、別に変りはないはずだ」
「…………」
「そんな贅沢がいえた義理だと思うか。|先《せん》のお|店《たな》をしくじったのは何がためだ。みんなその我儘からだぞ。お前は自分ではなかなか一人前のつもりかも知れないが、どうして、まだまだ何もわかりゃしないのだ。人様が勧めてくださるところへハイハイと言って行けばいいのだ」
「そんなことをいったって、もう断わってしまったものを、今さらしようがないじゃありませんか」
「だから、だからお前は生意気だというのだ。一体あれを、おれに一言の相談もしないで、断わったのは誰だ。自分で断わっておいて、今さらしようがないとは、なんということだ」
「じゃあ、どうすればいいのです………そんなに僕がお邪魔になるのだったら、出て行けばいいのでしょう。ええ、あすからでも出て行きますよ」
「ば、馬鹿。それが親に対する言い草か」
やにわに父親の手が前の徳利にかかると、彦太郎の眉間めがけて飛んでくる。
「何をするんです」
そう叫ぶが早いか、今度は彼の方から父親に武者ぶりついて行く。狂気の沙汰である。そこで世にもあさましい親と子のとっ組み合いがはじまるのだ。だが、これは何も今夜に限ったことではない。もうこの頃では毎晩のようにくり返される日課の一つなのである。
そうして、とっ組み合っているうちに、いつも彦太郎の方が耐りかねたように、ワッとばかりに泣き出す………何が悲しいのだ。なんということもなく、すべてが悲しいのだ。詰襟の洋服を着て働いている五十歳の父親も、その父親の家でゴロゴロしている自分自身も、三畳と四畳半の乞食小屋のような家も、何もかも悲しいのだ。
そして、それからどんなことがあったか。
父親が火鉢の引出しから湯札を出して、銭湯へ出掛けた様子だった。しばらくたって帰ってくると、彼の御機嫌をとるように、
「すっかり晴れたよ。おい、もう寝たのか。いい月だ、庭へ出てみないか」
などといっていた。そして自分は縁側から庭へ下りて行った。そのあいだじゅう、彦太郎は四畳半の壁のそばに俯伏して、泣き出した時のままの姿勢で、身動きもしないでいた。蚊帳もつらないで全身を蚊の食うに任せ、ふてくされた女房のように、棄鉢に、口癖の「死んじまえ、死んじまえ」を念仏みたいに頭の中でくり返していた。そして、いつの間にか寝入ってしまったのである。
それからどんなことがあったか。
その翌朝、開けはなした縁側からさし込む、まばゆい日光のために、早くから眼を覚ました彦太郎は、部屋の中がいやにガランとして、ゆうべのまま蚊帳も吊ってなければ床も敷いてないのを発見した。
さてはもう父親は出勤したのかと、柱時計を見ると、まだやっと六時を廻ったばかりだ。なんとなく変な感じである。そこで、睡い眼をこすりながら、ふと庭の方を見ると、これはどうしたというのであろう。父親が庭のむこうの籐椅子にもたれこんで、ぐったりとしているではないか。
まさか睡っているのではあるまい。彦太郎は妙に胸騒ぎを覚えながら、縁側にあった下駄をつっかけると、急いで籐椅子のそばへ行ってみた。――読者諸君、人間の不幸なんて、どんなところにあるかわからないものだ。そのとき縁側には二足の下駄があって、彼のはいたのはその内の朴歯の日和下駄であったが、もしそうでなく、もう一つの桐の駒下駄の方をはいていたなら、或いはあんなことにならなくてすんだのかもしれないのだ。
近づいてみると、彦太郎の仰天したことには、父親はそこで死んでいたのである。両手を籐椅子の肘かけからダラリと垂らして、腰のところで二つに折れでもしたようにからだを曲げて、頭と膝とがほとんどくっ着かんばかりである。それゆえ、見まいとしても見えるのだが、その後頭部がひどい傷になっている。出血こそしていないけれど、いうまでもなくそれが致命傷に違いない。
まるで作りつけの人形ででもあるように、じっとしている父親の奇妙な姿を、夏の朝の輝かしい日光が、はれがましく照らしていた。一匹の虻がにぶい羽音を立てて、死人の頭の上を飛び廻っていた。
彦太郎は、余り突然のことなので、悪夢でも見ているのではないかと、しばらくぼんやりそこにたたずんでいたが、でも、夢であろうはずもないので、そこで、彼は庭つづきの伯爵邸の玄関へ駈けつけて、折から居合わせた一人の書生に、事の次第を告げたのである。
伯爵家からの電話によって間もなく警察官の一行がやってきたが、中に警察医もまじっていて、先ず取りあえず死体の検診が行なわれた。その結果、彦太郎の父親は「鈍器による打撃のために脳震盪」を起こしたもので、絶命したのはゆうべ十時前後らしいということがわかった。一方彦太郎は警察署長の前に呼び出されて、いろいろと取り調べを受けた。伯爵家の執事も同様に訊問された。しかし両人とも、なんら警察の参考になるような事柄は知っていなかったのである。
それから現場の取り調べが開始された。署長のほかに背広姿の二人の刑事が、いろいろと議論を戦わせながら、しかしいかにも専門家らしくテキパキと調査を進めて行った。彦太郎は伯爵家の召使いたちと一緒に、ぼんやりとその有様を眺めていた。彼は余りのことに思考力を失ってしまって、その時まで、まだ何事も気づかないでいたのだ。一種の名状しがたい不安におそわれてはいたけれど、しかしそれが何ゆえの不安であるか、彼は少しも知らなかったのである。
そこは庭とはいっても、彦太郎の家の裏木戸のそとにある二十坪ほどの殺風景な空地なので、彦太郎の家と向かい合って、伯爵家の三階建ての西洋館があり、右手の方は高いコンクリート塀を隔てて往来に面し、左手は伯爵家の玄関に通ずる広い道になっている。そのほとんど中央に、主家の使いふるしの毀れかかった籐椅子が置いてあるのだ。
むろん他殺の見込みで取り調べが進められた。しかし、死体の周囲からは加害者の遺留品らしいものは何も発見されなかった。空地が隅から隅まで捜索せられたけれど、西洋館に沿って植えられた五、六本の杉の木を除いては、植木一本、植木鉢一つないガランとした砂地で、石ころ、棒切れ、その他兇器に使いうるような品物はむろん、疑うべき何物をも見出すことはできなかった。
たった一つ、籐椅子から一間ばかりの杉の木の根元の草のあいだに、一と束の夏菊の花が落ちていたほかには。だが、誰もそんな草花などには見向きもしなかった。或いは、たとえ気がついていても特別の注意を払わなかった。彼らはもっとほかのもの、例えば一と筋の手拭とか、一個の財布とか、いわゆる遺留品らしいものを探していたのである。
結局、唯一の手掛りは足跡だった。幸いなことには降りつづいた雨のために、地面が滑らかになっていて、前夜、雨が上がってからの足跡だけが、ハッキリと残っているのだ。とはいえ、けさからもうたくさんの人が歩いているので、それを一々調べ上げるのはずいぶん骨の折れる仕事ではあったが、これは誰の足跡、あれは誰の足跡と、丹念にあてはめて行くと、あとに一つだけ主のない足跡が残ったのである。
それは幅の広い駒下駄らしいもので、その辺をやたらに歩き廻ったとみえて、縦横無尽の跡がついている。そこで、刑事の一人がそれを追ってみると、不思議なことには、足跡は彦太郎の家の縁側から発して、またそこへ帰っていることがわかった。そして、縁側の型ばかりの沓脱石の上に、その足跡にピッタリ一致する古い桐の駒下駄がチャンと脱いであったのである。
最初刑事が足跡を調べはじめたころに、彦太郎はもうその桐の古下駄に気がついていた。彼は父親の死体を発見してから一度も家の中へはいったことはないのだから、その足跡はゆうべついたものに違いないが、とすると、一体なにびとがその下駄をはいたのであろうか……
そこで、彼はやっと或る事を思い当たったのである。彼はハッと昏倒しそうになるのをやっとこらえることができた。頭の中でドロドロした液体が渦巻きのように回転しはじめた。レンズの焦点が狂ったように、周囲の景色がスーッと眼の前からぼやけて行った。そして、そのあとへ、あの机の上の重い文鎮をふり上げて、父親の脳天を叩きつけようとしている、自分自身の恐ろしい姿が幻のように浮かんできた。
「逃げろ、逃げろ、さあ早く逃げるんだ」
何者とも知れず、彼の耳のそばであわただしく叫びつづけた。
彼は一所懸命に、なにげないふうを装いながら、伯爵家の召使いたちの群れから少しずつ、少しずつ離れて行った。それが彼にとってどれほどの努力であったか。今にも「待てっ」と呼び止められそうな気がして、もう生きた心地もないのである。
だが、仕合わせなことには、誰もこの彼の不思議な挙動に気づくものもなく、無事に家の蔭までたどりつくことができた。そこから彼は一と息に門の前まで駈けつけた。見ると門前に一台の警察用の自転車が立てかけてある。彼はいきなりそれに飛び乗って、行手も定めず、無我夢中でペダルを踏んだ。
両側の家並がスーッ、スーッと背後へ飛んで行った。幾度となく往来の人に突きあたって顛覆しそうになった。それを危うく避けて走った。今なんという町を走っているのか、むろんそんなことは知らなかった。賑やかな電車道などへ出そうになると、それをよけて淋しい方へ、淋しい方へとハンドルを向けた。
それからどれほど炎天の下を走りつづけたことか。彦太郎の気持では充分十里以上も逃げのびたつもりだったけれど、東京の町はなかなか尽きなかった。ひょっとすると、彼は同じところをグルグル廻っていたのかもしれないのだ。そうしているうちに、突然パンというひどい音がしたかと思うと、彼の自転車は役に立たなくなってしまった。
彼は自転車を捨てて走り出した。白絣の着物が、汗のために、水にでも漬けたようにビッショリ濡れていた。足は棒のように無感覚になって、ちょっとした障碍物にでもつまずいては倒れた。
心臓が胸の中で狂気のように躍り廻っていた。喉はカラカラに渇いて、ヒューヒューと喘息病みみたいな音を立てた。彼はもう、なんのために走らねばならぬのか、最初の目的を忘れてしまっていた。ただ眼の前に浮かんでくる世にも恐ろしい親殺しの幻影が彼を走らせた。
そして、一丁、二丁、三丁、彼は酔っぱらいのような恰好で、倒れては起き上がり、倒れてはまた起き上がって走った。が、その痛ましい努力も長くはつづかなかった。やがて彼は倒れたまま動かなくなった。汗と埃にまみれた彼のからだを、真夏の日光がジリジリと照りつけていた。
しばらくして、通行人の知らせで駈けつけた警官が、彼の肩をつかんで引き起こそうとした時に、彼はちょっとふり放して逃げ出す恰好をしたが、それが最後だった。彼はそうして警官の腕に抱かれたまま息を引きとったのである。
そのあいだに、伯爵邸の父親の死骸のそばでは何事が起こっていたか。
警官たちが彦太郎の逃亡に気づいたのは、彼が半里も逃げ延びている時分であった。署長は、もう追っかけてもだめだと悟ると、猶予なく伯爵家の電話を借りて、その旨を本署に伝え、彦太郎逮捕の手配を命じた。そうしておいて、彼らは猶も現場の調査をつづけ、かたがた検事の来着を待つことにしたのである。
むろん彼らは彦太郎が下手人だと信じた。現場に残された唯一の手掛りである桐の下駄が、彦太郎の家の縁側から発見されたこと、その下駄の主と見なすべき彦太郎が逃亡したこと、この二つの動かし難い事実が彼の有罪を証拠立てていた。
ただ、彦太郎が何ゆえに真実の父親を殺害したか、そして又、下手人である彼が、なぜ警官が出張するまで逃亡を躊躇していたかという二点が、疑問として残されていたけれど、それもいずれ彼を逮捕してみればわかることなのである。ところが、そうして事件が一段落をつげたかとみえた時に、実に意外なことが起こった。
「その人を殺したのは、私です。私です」
伯爵邸の方から一人のまっ青な顔をした男が、署長のそばへ走ってきて、いきなりこんなことを言い出したのである。その男はまるで熱病患者のように「私です、私です」とそればかりをくり返すのだ。
署長をはじめ刑事たちは、あっけにとられて、不思議な闖入者の姿を眺めた。そんなことがありうるだろうか。まさか、この男が彦太郎の家にあった桐の下駄をはいたとも思われぬ。そうだとすると、少しも足跡を残さないで、どうして殺人罪を犯すことができたのであろうか。そこで、彼らはともかく男の陳述を聞いてみることにした。
それは実に意外な事実であった。警察はじまって以来の記録といってもさしつかえないほど、不思議千万な事実であった。さて、その男(それは伯爵家の書生の一人であった)の告白したところはこうである。
きのう、伯爵邸に数人の来客があって、西洋館三階の大広間で晩餐が供せられた。それが終って客の帰ったのがちょうど九時ごろであった。彼はそこのあと片付けを命ぜられて、部屋の中をあちこちしながら働いていたが、ふとジュウタンの端につまずいて倒れた。そのはずみに部屋の隅に置いてあった花瓶を置くための高い台を倒し、台の上の品物が、開けはなしてあった窓から飛びだしたのである。
この品物がもし花瓶であったら、こんな間違いは起こらなかったのであろうが、それは、花瓶の台にはのっていたけれど、花瓶ではなく、五、六時間もたてば跡形もなく融けてなくなってしまう氷の|塊《かたま》りだったのである。冷房用の花氷だったのである。水を受けるための装置は台に取りつけてあったので、上の氷だけが落ちたのだ。むろんそれは昼間からその部屋に飾ってあったのだから、大部分融けてしまって、ほとんど心だけが残っていたのだけど、でも老人に脳震盪を起こさせるには充分だったとみえる。
彼は驚いて窓から下を覗いて見た。そして、月あかりでそこに小使いの老人が死んでいるのを知った時、どんなに仰天したか。たとえあやまちからとはいえ、おれは人殺しをやってしまったのだ。そう思うともうじっとしていられない。皆に知らせようか、どうしようか、とつおいつ思案をしているうちに時間がたつ、もしこのままあすの朝まで知れずにいたら、どうなるだろう。ふと彼はそんなことを考えてみた。
いうまでもなく、氷は解けてしまうのだ。中の夏菊の花だけは残っているだろうけれど、ひょっとしたら気づかれずにすむかもしれない。それとも今から氷のかけらを拾いに行こうか。いやいや、そんなことをして、もし見つかったら、それこそ罪人にされてしまう。彼は寝床へはいっても、一と晩中まんじりともしなかった。
ところが朝になってみると、事件は意外な方向に進んで行った。朋輩から詳しく様子を聞いて、一時はこいつはうまく行ったと喜んだものの、さすがに善人の彼は、そうしてじっとしていることはできなかった。自分の代りに、一人の男が恐ろしい罪名を着せられているかと思うと、あまりに空恐ろしかった。それに又、そうして一時は免がれることができても、いずれ真実が暴露する時がくるに違いなかった。そこで彼は、今は意を決して署長のところへやってきた。というわけであった。
これを聞いた人々は、あまりに意外な、そしてまたあまりにあっけない事実に、しばらくは、ただ顔を見合わせているばかりであった。
それにしても彦太郎は早まったことをしたものである。その時は、彼が逃亡してからまだ三十分もたっていないのだった。それとも又、彼が、いや彼でなくとも、刑事なり伯爵家の人たちなりが、あの杉の根元に落ちていた一と束の夏菊の花に、もっとよく注意したならば、そしてその意味を悟ることができたならば、彦太郎は決して死ななくともすんだのである。
「しかしおかしいね」しばらくしてから警察署長が妙な顔をして言った。「この足跡はどうしたというのだろう。それから、死人の息子はなぜ逃亡したのだろう」
「わかりましたよ、わかりましたよ」ちょうどこのとき問題の桐の下駄をはき試みていた一人の刑事がそれに答えて叫んだ。「足跡はなんでもないのです。この下駄をはいてみるとわかりますがね。割れているのですよ。見たところ別状ないようですけれど、はいてみると、まん中からひび割れていることがわかるのです。もうちょっとで離れてしまいそうです。誰だってこんな下駄をはいているのは気持がよくありませんからな。きっと被害者が庭を歩いているうちに、それに気づいて、縁側まではき換えに帰ったのですよ」
もしこの刑事の想像が当たっているとすると、彼らは今まで被害者自身の足跡を見て騒いでいたわけである。なんという皮肉な間違いであろう。多分それは、殺人が行なわれたからには、犯人の足跡がなければならぬというもっともな理窟が、彼らの判断力を迷わせてしまったのであろう。
その翌々日、M伯爵家の門を二つの棺が出た。いうまでもなく、不幸なる夢遊病者彦太郎とその父親を納めたものである。噂を聞いた世間の人たちは、だれもかれも、彼ら親子の変死を気の毒がらぬものはなかった。だが、あのとき彦太郎がなぜ逃亡を試みたかという点だけは、永久に解くことのできない謎として残されたのである。
幽霊
「辻堂のやつ、とうとう死にましたよ」
腹心のものが、多少手柄顔にこう報告した時、平田氏は少なからず驚いたのである。もっとも、だいぶ以前から、彼が病気で|床《とこ》についたきりだということは聞いていたのだけれど、それにしても、あの自分をうるさくつけ狙って、|敵《かたき》を(あいつは勝手にそうきめていたのだ)討つことを生涯の目的にしていた男が、「きゃつのどてっ腹へ、この短刀をぐっさりと突きさすまでは、死んでも死にきれない」と口ぐせのようにいっていたあの辻堂が、その目的を果たしもしないで死んでしまったとは、どうにも考えられなかった。
「ほんとうかね」
平田氏は思わずその腹心の者にこう問い返したのである。
「ほんとうにもなんにも、私は今あいつの葬式の出るところを見とどけてきたんです。念のために近所で聞いてみましたがね。やっぱりそうでした。親子ふたり暮らしのおやじが死んだのですから、息子のやつ可哀そうに、泣き顔で棺のそばへついて行きましたよ。おやじに似合わない、あいつは弱虫ですね」
それを聞くと、平田氏はがっかりしてしまった。屋敷のまわりに高いコンクリート塀をめぐらしたのも、その塀の上にガラスの破片を植えつけたのも、門長屋をほとんどただのような家賃で警官の一家に貸したのも、屈強なふたりの書生を置いたのも、夜分はもちろん、昼間でも、止むを得ない用事のほかはなるべく外出しないことにしていたのも、止むを得ず外出する場合には、必ず書生を伴なうようにしていたのも、それもこれも皆、ただひとりの辻堂が怖いからであった。平田氏は一代で今の大身代を作り上げたほどの男だから、それは時にはずいぶん罪なこともやってきた。彼に深い恨みをいだいている者もふたりや三人ではなかった。といって、それを気にする平田氏ではないのだが、あの半狂乱の辻堂老人ばかりは、彼はほとほと持てあましていたのである。その相手が今死んでしまったと聞くと、彼はホッと安心のため息をつくと同時に、なんだか張合いが抜けたような、淋しい気持もするのであった。
その翌日、平田氏は念のために自身で辻堂の住まいの近所へ出掛けて行って、それとなく様子をさぐってみた。そして、腹心のものの報告がまちがっていなかったことを確かめることができた。そこで、いよいよ大丈夫だと思った彼は、これまでの厳重な警戒をといて、久しぶりでゆったりした気分を味わったことである。
詳しい事情を知らぬ家族の者は、日頃陰気な平田氏が、にわかに快活になって、彼の口からついぞ聞いたことのない笑い声がもれるのを、少なからずいぶかしがった。ところが、この彼の快活な様子はあんまり長くはつづかなかった。家族の者は、今度は、前よりも一そうひどい主人公の憂鬱に悩まされなければならなかった。
辻堂の葬式があってから、三日のあいだは何事もなかったが、その次の四日目の朝のことである。書斎の椅子にもたれて、何心なくその日とどいた郵便物を調べていた平田氏は、たくさんの封書やはがきの中にまじって、一通の、かなりみだれてはいたが、確かに見覚えのある手蹟で書かれた手紙を発見して、青くなった。
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この手紙は、おれが死んでから貴様の所へとどくだろう。貴様は定めしおれの死んだことを小躍りして喜んでいるだろうな。そして、ヤレヤレこれで安心だと、さぞのうのうした気でいるだろうな。ところが、どっこいそうは行かぬぞ。おれのからだは死んでも、おれの魂は貴様をやっつけるまでは決して死なないのだからな。なるほど、貴様のあのばかばかしい用心は生きた人間には利き目があるだろう。たしかにおれは手も足も出なかった。だがな、どんな厳重なしまりでも、すうっと、煙のように通りぬけることのできる魂というやつには、いくら貴様が大金持ちでも策のほどこしようがないだろう。おい、おれはな、身動きもできない大病にとっつかれて寝ているあいだに、こういうことを誓ったのだよ。この世で貴様をやっつけることができなければ、死んでから怨霊になって、きっと貴様をとり殺してやるということをな。何十日というあいだ、おれは寝床の中でそればっかり考えていたぞ。その思いが通らないでどうするものか。用心しろ、怨霊というものはな、生きた人間よりもよっぽど恐ろしいものだぞ。
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筆蹟がみだれている上に、漢字のほかは全部片仮名で書かれていて、ずいぶん読みにくいものだったが、そこには大体右のような文句がしるされていた。いうまでもなく、辻堂が病床で呻吟しながら、魂をこめて書いたものに違いない。そして、それを自分の死んだあとで息子に投函させたものに違いない。
「なにをばかな。こんな子供だましのおどし文句で、おれがビクビクするとでも思っているのか。いい年をして、さてはやつも病気のせいで、いくらかもうろくしていたんだな」
平田氏は、その場ではこの死人の脅迫状を一笑に付してしまったことだが、さて、だんだん時がたつにつれて、なんともいえない不安が、そろそろと彼の心にわき上がってくるのをどうすることもできなかった。どうにも防禦の方法がないということが、相手がどんなふうに攻めてくるのだか、まるでわからないことが、少なからず彼をイライラさせた。彼は夜となく昼となく、気味のわるい妄想に苦しめられるようになった。不眠症がますますひどくなって行った。
一方においては、辻堂の息子の存在も気がかりであった。あのおやじとはちがって気の弱そうな男に、まさかそんなこともあるまいが、もしやおやじの志をついで、やっぱりおれをつけ狙っているのだったら大変である。そこへ気づくと、彼はさっそく以前辻堂を見張らせるために雇ってあった男を呼びよせ、今度は息子の方の監視を命じるのであった。
それから数カ月のあいだは何事もなく過ぎ去った。平田氏の神経過敏と不眠症は容易に回復しなかったけれど、心配したような怨霊のたたりらしいものもなく、又辻堂の息子の方にもなんら不穏の形勢は見えなかった。さすが用心深い平田氏も、だんだん無益なとりこし苦労をばかばかしく思うようになってきた。
ところが、ある晩のことであった。
平田氏は珍らしく、たったひとりで書斎にとじこもって何か書き物をしていた。屋敷町のことで、まだ宵のうちであったにもかかわらず、あたりはいやにシーンとしずまり返っていた。ときどき犬の遠吠えが物淋しく聞こえてくるばかりだった。
「これが参りました」
突然書生がはいってきて、一封の郵便物を彼の机の端に置くと、だまって出て行った。
それは一と目見て写真だということがわかった。十日ばかり前に或る会社の創立祝賀会が催された時、発起人たちが顔を揃えて写真をとったことがある。平田氏もそのひとりだったので、それを送ってきたものに違いない。
平田氏はそんなものに大して興味もなかったけれど、ちょうど書きものに疲れて一服したい時だったので、すぐ包み紙を破って写真を取り出してみた。彼はちょっとのあいだそれを眺めていたが、ふと何か汚ないものにでもさわった時のように、ポイと机の上にほうり出した。そして不安らしい眼つきで、部屋の中をキョロキョロと見廻すのであった。
しばらくすると、彼の手がおじおじと、今ほうり出したばかりの写真の方へ伸びて行った。しかし拡げてちょっと見ると、又ポイとほうり出すのだ。二度三度この不思議な動作をくりかえしたあとで、彼はやっと気を落ちつけて写真を熟視することができた。
それは決して幻影ではなかった。眼をこすってみたり、写真の表をなでてみたりしても、そこにある恐ろしい影は消え去りはしなかった。ゾーッと彼の背中を冷たいものが這い上がった。彼はいきなりその写真をずたずたに引きさいてストーブの中に投げ込むと、フラフラと立ちあがって、書斎から逃げ出した。
とうとう恐れていたものがやってきたのだ。辻堂の執念深い怨霊が、その姿を現わしはじめたのだ。
そこには、七人の発起人の明瞭な姿の奥に、朦朧として、ほとんど写真の表面一杯にひろがって、辻堂の無気味な顔が大きく大きく写っていたではないか。そして、その〔も〕〔や〕のような顔の中にまっ暗な二つの眼が平田氏の方を恨めしげに睨んでいたではないか。
平田氏はあまりの恐ろしさに、ちょうど物におびえた子供のように、頭から蒲団をひっ被って、その晩はよっぴてブルブルとふるえていたが、翌朝になると、太陽の力は偉いものだ! 彼は少しばかり元気づいたのである。
「そんなばかなことがあろうはずはない。ゆうべはおれの眼がどうかしていたのだ」
しいてそう考えるようにして、彼は朝日のカンカン照りこんでいる書斎へはいっていった。見ると残念なことには、写真は焼けてしまって跡形もなくなっていたけれど、それが夢でなかった証拠には、写真の包み紙が机の上にちゃんと残っていた。
よく考えてみると、どちらにしても、恐ろしいことだった。もしあの写真にほんとうに辻堂の顔が写っていたのだったら、それはもう、例の脅迫状もあることだし、こんな無気味な話はない。世の中には理外の理というものがないとも限らないのだ。それとも又、実はなんでもない写真が、平田氏の眼にだけあんなふうに見えたのだとしても、それでは、いよいよ辻堂の呪いにかかって、気が変になりはじめたのではないかと、一そう恐ろしく感ぜられるのだ。
二、三日のあいだというもの、平田氏はほかのことは何も思わないで、ただあの写真のことばかり考えていた。
もしや、どうかして同じ写真屋で辻堂が写真をとったことがあって、その種板と今度の写真の種板とが二重に焼き付けられたとでもいうことではないかしら、そんなばかばかしいことまで考えて、わざわざ写真屋へ使いをやって調べさせたが、むろんそのような手落ちのあろうはずもなく、それに、写真屋の台帳には辻堂という名前はひとりもないこともわかった。
それから一週間ばかりのちのことである。関係している会社の支配人から電話だというので、平田氏が何心なく卓上電話の受話器を耳にあてると、そこから変な笑い声が聞こえてきた。
「ウフフフフフ」
遠いところのようでもあり、そうかと思うと、すぐ耳のそばで非常な大きな声で笑っているようにも思われた。こちらからいくら声をかけても、先方は笑っているだけだった。
「モシモシ、君は××君ではないのかね」
平田氏がかんしゃくを起こしてこうどなりつけると、その声はだんだん小さくなって、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、と、すうっと遠くの方へ消えて行った。そして、「ナンバン、ナンバン、ナンバン」という交換手のかんだかい声がそれに代わった。
平田氏はいきなりガチャンと受話器をかけると、しばらくのあいだじっと一つ所を見つめて身動きもしないでいた。そうしているうちに、なんとも形容できない恐ろしさが、心の底からジリジリと込み上げてきた……あれは聞き覚えのある辻堂自身の笑い声ではなかったか……平田氏はその卓上電話器が何か恐ろしいものででもあるように、でもそれから眼を離すことはできないで、あとじさりにそろそろとその部屋を逃げ出すのであった。
平田氏の不眠症はだんだんひどくなって行った。やっと睡りついたかと思うと、突然気味わるい叫び声を立てて飛び起きるようなこともたびたびあった。家族の者は主人の妙な様子に少なからず心配した。そして医者に見てもらうことをくどく勧めた。平田氏は、もしできることなら、ちょうど幼い子供が「怖いよう」といって母親にすがりつくように、誰かにすがりつきたかった。そして、このごろの怖さ恐ろしさをすっかり打ち明けたかった。でもさすがにそうもなりかねるので、「なあに、神経衰弱だろう」といって、家族の手前をとりつくろい、医者の診察を受けようともしなかった。
そしてまた数日が過ぎ去った。ある日のこと、平田氏の重役を勤めている会社の株主総会があって、彼はその席で少しばかりおしゃべりをしなければならなかった。その半年のあいだの会社の営業状態はこれまでにない好成績を示していたし、ほかに別段心配するような問題もなかったので、ただ通り一ぺんの報告演説をすれば事はすむのであった。彼は百人近くも集まった株主たちの前に立って、もうそういう事には慣れきっているので、至極板についた態度口調で、話を進めるのであった。
ところが、しばらくおしゃべりをつづけているうちに、むろんそのあいだには、聴衆である株主たちの顔をそれからそれへと眺め廻していたのだが、ふと変なものが眼にはいった。彼はそれに気づくと、思わず演説をやめて、人々があやしむほども長いあいだ、だまったまま棒立ちになっていた。
そこには、たくさんの株主たちのうしろから、あの死んだ辻堂と寸分ちがわない顔がじっとこちらを見つめていたのだ。
「上述の事情でござりまして」
平田氏は気を取りなおしたように一段と声をはり上げて、演説をつづけようとした。だがどうしたものか、いくら元気を出してみても、その気味のわるい顔から眼をそらすことができないのである。彼はだんだんうろたえ出した。話の筋もしどろもどろになってきた。すると、その辻堂と寸分ちがわない顔が、平田氏の狼狽をあざけりでもするように、いきなりニヤリと笑ったではないか。
平田氏はどうして演説を終ったか、ほとんど無我夢中であった。彼はヒョイとおじぎをしてテーブルのそばを離れると、人々が怪しむのもかまわず、部屋の出口の方へ走って行って、彼をおびやかしたあの顔の持ち主を物色した。しかし、いくら探してもそんな顔は見あたらないのだ。念のために一度上座の方へ戻って、元の位置に近い所から、株主たちの顔を一人々々見直しても、もう辻堂に似た顔さえ見いだすことができなかった。
その会場の大広間は、人の出入り自由な或るビルディングの中にあったのだが、考えようによっては、偶然、聴衆の中に辻堂と似た人物がいて、それが平田氏の探した時には、もう立ち去ったあとだったかもしれない。でも世の中にあんなによく似た顔があるものだろうか。平田氏はどう考え直してみても、それが瀕死の辻堂のあの恐ろしい宣言に関係があるような気がしてしようがなかった。
それ以来、平田氏はしばしば辻堂の顔を見た。ある時は劇場の廊下で、ある時は公園の夕闇の中で、ある時は旅行先の都会のにぎやかな往来で、ある時は彼の屋敷の門前でさえ。この最後の場合などは、平田氏は危うく卒倒するところであった。ある夜ふけに、よそから帰った彼の自動車が今門をはいろうとした時だった。門の中から一つの人影がすうっと出てきて自動車とすれちがったが、すれちがう時に、実に瞬間の出来事だった、その顔が自動車の窓からヒョイと覗いたのである。
それがやっぱり辻堂の顔だった。しかし、玄関について、そこに出迎えていた書生や女中などの声でやっと元気を回復した平田氏が、運転手に命じて探させた時分には、人影はもうその辺には見えなかった。
「ひょっとしたら、辻堂のやつ、生きているのではないかな。そして、こんなお芝居をやっておれを苦しめようというのではないかな」
平田氏はふとそんなふうに疑ってみた。しかし、絶えず辻堂の息子を見張らせてある腹心の者からの報告では、少しも怪しむべきところはなかった。もし辻堂が生きているのだったら、長いあいだには一度ぐらいは息子のところへやってきそうなものだが、そんなけぶりも見えないのだ。それに第一おかしいのは、生きた人間に、あんなにこちらの行く先がわかるものだろうか。平田氏は平常から秘密主義の男で、外出する場合にも召使いはもちろん家族の者にさえ、行く先を知らさないことが多かった。だから例の顔が彼の行く先々へ現われるためには、絶えず彼の屋敷の門前に張りこんでいて自動車のあとをつけるほかはないのだが、その辺は淋しい場所で、ほかの自動車がくればそれに気のつかぬはずはなく、また自動車を雇おうにも、近くにガレージはないのだ。といって、まさか徒歩であとをつけるわけにも行くまい。どう考えてみても、やっぱりこれは怨霊の祟りと思うほかはなかった。
「それともおれの気の迷いかしら」
だが、たとえ気の迷いであっても、恐ろしさに変わりはなかった。彼ははてしもなく思いまどった。
ところが、そうしていろいろと頭を悩ましているうちに、ふと一つの妙案が浮かんできた。
「これならもう確かなもんだ。なぜ早くそこへ気がつかなかったのだろう」
平田氏はいそいそと書斎へはいって行って、筆をとると、辻堂の郷里の役場へあてて、彼の息子の名前で、戸籍謄本下付願を書いた。もし戸籍謄本の表に辻堂が生きて残っているようだったらもう占めたものだ。どうかそうあってくれるようにと平田氏は祈った。
数日たつと、役場から戸籍謄本が届いた。しかし平田氏のがっかりしたことには、そこには、辻堂の名前の上に十文字に朱線が引かれて、上欄には死亡の年月日時間と届書を受け付けた日付とが明瞭に記入されていた。もはや疑う余地はないのだ。
「近頃どうかなすったのではありませんか。おからだのぐあいでも悪いんじゃないんですか」
平田氏に会うと誰もが心配そうな顔をしてこんなことを言った。平田氏自身でも、なんだかめっきり年をとったような気がした。頭のしらがも一、二カ月以前にくらべると、ずっとふえたように思われた。
「いかがでしょう。どこかへ保養にでもいらしってみては」
医者に見てもらうことはいくら言ってもだめなので、家族の者は今度は彼に転地をすすめるのであった。平田氏とても、門前であの顔に出あってからというものは、もう家にいても安心できないような気がして、旅行でもして気分を変えてみたらと思わないではなかったので、そこで、そのすすめをいれて、しばらく或る暖かい海岸へ転地することにした。
あらかじめ行きつけの旅館へ、部屋を取って置くようにハガキを出させたり、当座の入用の品を調えさせたり、お供の人選をしたり、そんなことが平田氏を久しぶりで明かるい気持にした。彼は、いくらかわざとではあったけれど、若い者が遊山にでも行く時のようにはしゃいでいた。
さて、海岸へ行ってみると、予期した通りすっかり気分が軽くなった。海岸のはればれした景色も気に入った。醇朴なあけっぱなしな町の人たちの気風も気に入った。旅館の部屋も居心地がよかった。そこは海岸ではあったけれど、海水浴場というよりはむしろ温泉町として名高い所だった。彼はその温泉へはいったり、暖かい海岸を散歩したりして日を暮らした。
心配していた例の顔も、この陽気な場所へは現われそうにもなかった。平田氏は今では人のいない海岸を散歩する時にも、もうあまりビクビクしないようになっていた。
ある日、彼はこれまでになく、少し遠くまで散歩したことがあった。うかうかと歩いているうちに、ふと気がつくといつの間にか夕闇が迫まっていた。あたりには、広い砂浜に人影もなく、ドドン……ザー、ドドン……ザーッと寄せては返す波の音ばかりが、思いなしか何か不吉なことを告げ知らせでもするように、気味わるく響いていた。
彼は大急ぎで宿の方へ引っ返した。可なりの道のりであった。悪くすると半分も行かぬうちに日が暮れきってしまうかもしれなかった。彼はテクテク、テクテク、汗を流して急いだ。
あとから誰かついてくるように聞こえる自分の足音に、彼は思わずハッとふり返ったりした。何かがひそんでいそうな松並木のうす暗い影も気になった。
しばらく行くと、行く手の小高い砂丘の向こう側に、チラと人影が見えた。それが平田氏をいくらか心丈夫にした。早くあのそばまで行って話しかけでもしたら、この妙な気持が直るだろうと、彼は更に足を早めてその人影に近づいた。
近づいてみると、それはひとりの男が、もうだいぶ年寄りらしかったが、向こうをむいてじっとうずくまっているのだった。そのようすは、何か一心不乱に考え込んでいるらしく見えた。
それが、平田氏の足音に気づいたのか、びっくりしたように、いきなりヒョイとこちらをふり向いた。灰色の背景の中に、青白い顔がくっきりと浮き出して見えた。
「アッ」
平田氏はそれを見ると、押しつぶされたような叫び声を発した。そしてやにわに走り出した。五十男の彼が、まるでかけっこをする小学生のように滅多無性に走った。
ふりむいたのは、もうここでは大丈夫だと安心しきっていた、あの辻堂の顔だったのである。
「危ない」
夢中になって走っていた平田氏が、何かにつまずいてばったり倒れたのを見ると、ひとりの青年がかけ寄ってきた。
「どうなすったのです。ア、|怪《け》|我《が》をしましたね」
平田氏は生爪をはがして、うんうん唸っているのだ。青年は袂から取り出した新らしいハンケチで手ぎわよく傷の上に包帯をすると、極度の恐怖と傷の痛みとで、もう一歩も歩けぬほど弱っている平田氏を、ほとんどだくようにしてその宿へつれ帰った。
自分でも寝込んでしまうかと心配したのが、そんなこともなく、平田氏は翌日になると割合い元気に起き上がることができた。足の痛みで歩き廻るわけにはいかなかったけれど、食事など普通にとった。
ちょうど朝飯をすませたところへ、きのう世話をしてくれた青年が見舞いにきた。彼もやっぱり同じ宿に泊まっていたのだ。見舞いの言葉やお礼の挨拶が、だんだん世間話に移って行った。平田氏はそういう際で、話し相手がほしかったのと、礼心とで、いつになく快活に口をきいた。
同席していた平田氏の召使いがいなくなると、それを待っていたように、青年は少し形を改めてこんなことを言った。
「実は僕はあなたがここへいらした最初から、ある興味をもってあなたのご様子に注意していたのですよ……何かあるのでしょう。お話しくださるわけにはいきませんかしら」
平田氏は少からず驚いた。この初対面の青年が、いったい何を知っているというのだろう。それにしてもあまりぶしつけな質問ではないか。彼はこれまで一度も辻堂の怨霊について人に話したことはなかった。恥かしくってそんなばかばかしいことは言えなかったのだ。だから今この青年の質問に対しても、彼はむろんほんとうのことを打ち明けようとはしなかった。
だが、しばらく問答をくり返しているあいだに、それはまあなんという不思議な話術であったか。青年はまるで魔法使いのように、さしもに堅い平田氏の口をなんなくひらかせてしまったのである。平田氏がちょっと口をすべらしたのがいとぐちだった。もし相手が普通の人間だったら、なんなく取り繕うこともできたであろうけれど、青年にはだめだった。彼は世にもすばらしい巧みさをもって、次から次へと話を引き出して行った。一つは、ゆうべあの恐ろしい出来事のあったけさであったためもあろうが、平田氏はまるで自由を失った人のように、話をそらそうとすればするほど、だんだん深みへはまって行くのだった。そしてついには、辻堂の怨霊に関するすべてのことが、あますところなく語りつくされてしまったのである。
聞きたいだけ聞いてしまうと、今度は、青年は話を引き出した時にも劣らぬ、実に巧みな話術をもって、ほかの世間話に移っていった。そして、彼が長座を詫びて部屋を出て行った時には、平田氏は無理に打ち明け話をさせられたことを不快に感じていなかったばかりか、その青年がどうやらたのもしくさえ思われたのである。
それから十日ほどは別段のこともなく過ぎ去った。平田氏はもうこの土地にもあきていたけれど、足の傷がまだ痛むのと、それを無理に帰京して淋しい屋敷へ帰るよりは、この賑やかな宿屋住いの方がいくらか居心地がよかろうと思ったのとで、ずっと滞在をつづけていた。一つは新らしく知り合いになった青年がなかなか面白い話し相手だったことも、彼を引き止めるのにあずかって力があった。
その青年がきょうもまた彼の部屋をおとずれた。そして、突然、変に笑いながらこんなことを言うのだった。
「もうどこへいらっしゃっても大丈夫ですよ。幽霊は出ませんよ」
一瞬間、平田氏はその言葉の意味がわからなくて、まごついた。彼のあっけにとられたような表情のうちには、痛いところへさわられた人の不快がまじっていた。
「突然申し上げては、びっくりなさるのもごもっともですが、決して冗談ではありません。幽霊はもういけどってしまったのです。これをごらんなさい」
青年は片手に握った一通の電報をひろげて平田氏に示した。そこにはこんな文句がしるされていた。
「ゴメイサツノトオリ一サイジハクシタホンニンノショチサシズコウ」
「これは東京の僕の友人からきたのですが、この一サイジハクシタというのは、辻堂の幽霊、いや幽霊ではない生きた辻堂が自白したことですよ」
とっさの場合、判断をくだす暇もなく、平田氏はただあっけにとられて、青年の顔とその電報とを見くらべるばかりであった。
「実は僕はこんな事を探して歩いている男なんですよ。この世の中の隅々から、何か秘密な出来事、奇怪な事件を見つけ出しては、それを解いて行くのが僕の道楽なんです」
青年はニコニコしながら、さも無造作に説明するのだった。
「先日あなたからあの怪談をうけたまわった時も、その僕のくせで、これには何かからくりがありやしないかと考えてみたんです。お見受けするところ、あなたは御自分で幽霊を作り出すような、そんな弱い神経の持ち主でないように思われます。それに、ご当人はお気づきがないかもしれませんが、幽霊の現われる場所がどうやら制限されているではありませんか。なるほど、御旅行先などへついてくるところを見ると、いかにもどこへでも自由自在に現われるように思われますが、よく考えてみますと、それがほとんど屋外に限られていることに気づきます。たとえ屋内の場合があっても、劇場の廊下だとか、ビルディングの中だとか、誰でも出入りできる場所に限られています。ほんとうの幽霊なら何も不自由らしくそとばかりに姿を現わさないだって、あなたのお屋敷へ出たってよさそうなものではありませんか。ところがお屋敷へはというと、例の写真と電話のほかは、これも誰でも出入りできる門のそばでちょっと顔を見せたばかりです。そういうことは少し幽霊の自然に反していやしないでしょうか。そこで、僕はいろいろ考えてみたのですよ。ちょっと面倒な点があって時間をとりましたが、でもとうとう幽霊をいけどってしまいました」
平田氏はそう聞いても、どうも信じられなかった。彼も一度はもしや辻堂が生きているのではないかと疑って、戸籍謄本までとり寄せたのだ。そして失望したのだ。いったいこの青年はどういう方法でこんなにやすやすと幽霊の正体をつきとめることができたのであろう。
「なあに、実に簡単なからくりなんです。それがちょっとわからなかったのは、あまり手段が簡単すぎたためかもしれませんよ。でも、あのまことしやかな葬式には、あなたでなくともごまかされそうですね。翻訳物の探偵小説ではあるまいし、まさか東京のまん中でそんなお芝居が演じられようとは、ちょっと想像できませんからね。それから辻堂が辛抱強く息子との往来を絶っていたこと、これが非常に重大な点です。他の犯罪の場合でもそうですが、相手をごまかす秘訣は、自分の感情を押し殺して、世間普通の人情とはまるで反対のやり方をすることです。人間というやつは兎角わが身に引き比べて人の心をおしはかるもので、その結果一度誤まった判断をくだすとなかなか間ちがいに気がつかぬものですよ。又幽霊を現わす手順もうまく行っていました。先日あなたもおっしゃった通り、ああしてこちらの行く先、行く先へついてこられては、誰だって気味がわるくなりますよ。そこへもってきて戸籍謄本です。道具立てがよく揃っていたじゃありませんか」
「それです。もし辻堂が生きているとすれば、どうしても腑に落ちないのは、第一はあの変な写真ですが、しかしこれはまあ私の見誤まりだったとしても、今おっしゃった行く先を知っていること、それから、戸籍謄本です。まさか戸籍謄本に間ちがいがあろうとも考えられないではありませんか」
いつの間にか青年の話につり込まれた平田氏は、思わずこうたずねるのであった。
「僕もおもにその三つの点を考えたのですよ。これらの不合理らしく見える事実を合理化する方法がないものかということをね。そして、結局、このまるでちがった三つの事柄に或る共通点のあることを発見しました。なあにくだらないことですがね。でもこの事件を解決する上には非常に大切なんです。それは、どれも皆郵便物に関係があるということでした。写真は郵送してきたのでしょう。戸籍謄本も同じことです。そして、あなたの外出なさる先は、これもやっぱり日々の御文通に関係があるではありませんか。ハハハハ、おわかりになったようですね。辻堂はあなたのご近所の郵便局の配達夫を勤めていたのですよ。むろん変装はしていたでしょうが。よく今までわからないでいたものです。お宅へくる郵便物もお宅から出る郵便物も、すっかり彼は見ていたに違いありません。わけはないのです。封じ目を蒸気に当てれば、少しもあとの残らないように開封できるのですから、写真や謄本はこういうふうにして彼が細工したものですよ。あなたの行く先とても、いろいろな手紙を見ていれば自然わかるわけですから、郵便局の非番の日なり、口実をかまえて欠勤してなり、あなたの行く先へ先廻りして幽霊を勤めていたのでしょう」
「しかし写真の方は少し苦心をすればまあできぬこともありますまいが、戸籍謄本なんかがそんなに急に偽造できるでしょうか」
「偽造ではないのです。ただちょっと戸籍吏の筆蹟をまねて書き加わえさえすればいいのですよ。謄本の紙では書いてあるやつを消しとることはむずかしいでしょうけれど、書き加わえるのはわけはありません。万遺漏のないお役所の書類にもちょいちょい抜け目があるものですね。変な言い方ですが、戸籍謄本には人が生きていることを証明する力はないのです。戸主ではだめですが、その他の者だったら、ただ名前の上に朱を引き上欄に死亡届を受け付けたことを記入さえすれば、生きているものでも死んだことになるのですからね。誰にしたって、お役所の書類といえば、もうめくら滅法に信用してしまうくせがついていますからね。僕はあの日にあなたからうかがった辻堂の本籍地へ、もう一通戸籍謄本を送ってくれるように手紙を出しました。そして送ってきたのを見ますと、僕の思った通りでした。これですよ」
青年はそういってふところから一通の戸籍謄本を取り出すと、平田氏の前にさし置いた。そこには、戸主の欄には辻堂の息子が、そして次の欄には|当《とう》の辻堂の名前がしるされていた。彼は死亡を装う前に既に隠居していたのだ。見ると、名前の上に朱線も引かれていなければ、上欄には隠居届を受け付けたむね記載してあるばかりで、死亡の死の字も見えないのであった。
実業家平田氏の交友録に、素人探偵明智小五郎の名前が書き加わえられたのは、こうしたいきさつからであった。
U
指環
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A 失礼ですが、いつかも汽車で御一緒になったようですね。
B これはお見それ申しました。そういえば、私も思い出しましたよ。やっぱりこの線でしたね。
A あの時はとんだ御災難でした。
B いやお言葉で痛み入ります。私もあの時はどうしようかと思いましたよ。
A あなたが、私の隣の席へいらっしゃったのは、あれはK駅を過ぎて間もなくでしたね。あなたは一と袋の蜜柑を、スーツケースと一緒にさげてこられましたね。そしてその蜜柑を私にもすすめてくださいましたっけね……実を申しますとね。私は、あなたを変に馴れ馴れしい方だと思わないではいられませんでしたよ。
B そうでしょう、私はあの日はほんとうにどうかしていましたよ。
A そうこうしているうちに、隣の一等車の方から、興奮した人たちがドヤドヤとはいって来ましたね。そして、そのうち一人の貴婦人が一緒にやって来た車掌に、あなたの方を指さして何かささやきましたね。
B あなたはよく覚えていらっしゃる、車掌に「ちょっと君、失敬ですが」と言われた時には変な気がしましたよ。よく聞いてみると、私はその貴婦人のダイヤの指環を掏ったてんですから、驚きましたね。
A でも、あなたの態度はなかなかお立派でしたよ。「ばかな事を言ってはいけない。そりゃ人違いだろう。なんなら私のからだを調べてみるがいい」なんて、ちょっとあれだけの落ちついたせりふは言えないもんですよ。
B おだてるもんじゃありません。
A 車掌なんてものは、ああしたことに慣れているとみえて、なかなか抜け目なく検査しましたっけね。貴婦人の旦那という男も、うるさくあなたのからだをおもちゃにしたじゃありませんか。でも、あんなに厳重に調べても、とうとう品物は出ませんでしたね。みんなのあやまりようったらありませんでした。ほんとに痛快でした。
B 疑いがはれても、乗客が皆、妙な眼つきで私の方を見るのには閉口しました。
A しかし、不思議ですね。とうとうあの指環は出てこなかったというじゃありませんか。どうも、不思議ですね。
B …………
A …………
B ハハハハハ。おい、いい加減にしらばくれっこはよそうじゃねえか。この通り誰も聞いているものはいやしねえ。いつまでも、左様然らばでもあるめえじゃねえか。
A フン、ではやっぱりそうだったのかね。
B おめえもなかなか隅へは置けないよ。あの時、おれがソッと窓から投げ出した蜜柑のことを一と言も言わないで、見当をつけておいて、後から拾いに出掛けるなんざあ、どうして、玄人だよ。
A なるほど、おれはずいぶんすばしっこく立ちまわったつもりだ。それが、ちゃんとおめえに先手を打たれているんだからかなわねえ。おれが拾ったのはただの腐れ蜜柑が五つよ。
B おれが窓から投げたのも五つだったぜ。
A ばか言いねえ。あの五つはみな無傷だった。指環を抜き取った跡なんかありゃしなかったぜ。曰くつきのやつぁ、ちゃんとおめえが先きまわりをして、拾っちまったんだろう。
B ハハハハハ。あに計らんや、そうじゃねえんだからお笑い草だ。
A おや、これはおかしい。じゃあ、なんのためにあの蜜柑を窓からほうり出したんだね。
B まあ考えても見ねえ。折角命がけで頂戴した品物をよ。たとえ蜜柑の中へ押し込んだとしてもよ。誰に拾われるかわかりもしねえ線路のわきなぞへほうられるものかね。おめえがノコノコ拾いに行くまで元の所に落ちていたなぞは、飛んだ不思議というもんだ。
A それじゃあ、やっぱり、蜜柑をほうったわけがわからないじゃないか。
B まあ聞きねえ、こういうわけだ。あの時は少々どじを踏んでね、亭主野郎に勘ぐられてしまったもんだから、こいつはヤバいと大慌てに慌てて逃げ出したんだ。どうする暇もありゃしねえ。だが、おめえの隣の席まで来て様子を見ると、急に追っかけてくるようでもねえ。さては車掌に知らせているんだな、こいつはいよいよ油断がならねえと気が気じゃないんだが、さて一|件《けん》|物《もの》をどう始末したらいいのか、とっさの場合で日頃の智恵も出ねえ。恥かしい話だが、ただもうフラフラしちまってね。
A なるほど。
B すると、フッとうまい事を考えついたんだ。というのが、例の蜜柑の一件さ。よもやおめえが、あれを見てだまっていようとあ思わなかったんだ。きっと手柄顔に吹聴するに違いない。そうしておれが蜜柑の袋を投げたとわかりゃ、皆の頭がそっちへ向こうというもんじゃねえか。蜜柑の中へ品物をしのばせておいて後から拾いに行くなんざあ古い手だからね。誰だって感づかあね。そうなるてえと、たとえ調べるにしてからが、この男はもう品物を持っちゃいねえという頭で調べるんだから、自然おろそかにもなろうてもんだ。ね、わかったかね。
A なるほど、考えやがったな。こいつあ一杯喰わされたね。
B ところが、おめえが知っていながら、なんとも言い出さねえ。今に言うか今に言うかと待ち構えていても、ウンとも、スンとも口を利かねえ。とうとう身体検査の段取りになっても、まだだまっていやあがる。おらあ「さては」と思ったね。「こいつは飛んだ食わせものだぞ。このままソッとしておいて、後から拾いに行こうと思っていやがる」とね。あの場合だが、おらあおかしくなったね。
A フフン、ざまあねえ……だが待ちねえ。するってえと、おめえはあれをいったいどこへ隠したんだね。車掌のやつ、ずいぶん際どいところまで調べやがった。口の中から耳の穴まで隈なく検べたが、でも、とうとう見つからなかったじゃないか。
B おめえもずいぶんお目出てえ野郎だな。
A はてね。こいつは|面《めん》|妖《よう》だね。こうなるてえとおらあどうも聞かずにゃおかれねえ。そうもったいぶらねえで、後学のために御伝授にあずかりたいもんだね。
B ハハハハハ、まあいいよ。
A よかあねえ、そうじらすもんじゃねえやな。おれにゃどうもほんとうとは受け取れねえからな。
B 嘘だと思われちゃ癪だから、じゃあ話すがね。怒っちゃいけないよ。実はね、おめえが腰に下げていた煙草入れの底へソッとしのばせておいたのさ。それにしても、あん時おめえのからだはまるで隙だらけだったぜ。ハハハハハ。え、いつ、その指環を取り戻したかって。いうまでもねえ、おめえが、早く蜜柑を拾いに行こうと、大慌てで開札口を出る時によ。
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日記帳
ちょうど初七日の夜のことでした。私は死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとり物思いにふけっていました。
まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんと鎮まりかえっています。そこへもってきて、なんだか新派のお芝居めいていますけれど、遠くの方からは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いてくるのです。私は長いあいだ忘れていた、幼いころの、しみじみした気持になって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげてみました。
この日記帳を見るにつけても、私は、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。
内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は充分うかがうことができます。そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する煩悶だとか、彼の年頃にはだれでもが経験するところの、いわゆる青春の悩みについて、幼稚ではありますけれど、いかにも真摯な文章が書き綴ってあるのです。
私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とページをはぐって行きました。それらのページにはいたるところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい眼が、じっと私の方を見つめているのです。
そうして、三月九日のところまで読んで行った時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫び声を発したほども、私の目をひいたものがありました。それは、純潔なその日記の文章の中に、はじめてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。そして「発信欄」と印刷した場所に「北川雪枝(葉書)」と書かれた、その雪枝さんは、私もよく知っている、私たちとは遠縁に当たる家の、若い美しい娘だったのです。
それでは、弟は雪枝さんを恋していたのかもしれない。私はふとそんな気がしました。そこで私は、一種の淡い戦慄を覚えながら、なおもその先を、ひもといてみましたけれど、私の意気込んだ予期に反して、日記の本文には、少しも雪枝さんは現われてこないのでした。ただ、その翌日の受信欄に「北川雪枝(葉書)」とあるのを初めに、数日のあいだをおいては、受信欄と発信欄の双方に雪枝さんの名前がしるされているばかりなのです。そして、それも発信の方は三月九日から五月二十一日まで、受信の方も同じ時分にはじまって五月十七日まで、両方とも三月に足らぬ短かい期間つづいているだけで、それ以後には、弟の病状が進んで筆をとることもできなくなった十月なかばにいたるまで、その彼の絶筆ともいうべき最後のページにすら、一度も雪枝さんの名前は出ていないのでした。
かぞえてみれば、彼の方からは八回、雪枝さんの方からは十回の文通があったにすぎず、しかも彼のにも雪枝さんのにも、ことごとく「葉書」としるしてあるのを見ると、それには他聞をはばかるような種類の文言がしるしてあったとも考えられません。そして、また日記帳の全体の調子から察するのに、実際はそれ以上の事実があったのを、彼がわざと書かないでおいたものとも思われぬのです。
私は安心とも失望ともつかぬ感じで、日記帳をとじました。そして、弟はやっぱり恋を知らずに死んだのかと、さびしい気持になったことでした。
やがて、ふと眼を上げて、机の上を見た私は、そこに、弟の遺愛の、小型の手文庫のおかれているのに気づきました。彼が生前、一ばん大切な品々を納めておいたらしい、その高まき絵の古風な手文庫の中には、あるいはこの私のさびしい心持をいやしてくれる何物かが隠されていはしないか。そんな好奇心から、私はなにげなくその手文庫をひらいてみました。
すると、その中には、このお話に関係のないさまざまの書類などが入れられてありましたが、その一ばん底の方から、ああ、やっぱりそうだったのか。いかにも大事そうに白紙に包んだ十一枚の絵葉書が、雪枝さんからの絵葉書が出てきたのです。恋人から送られたものでなくて、だれがこんなに大事そうに手文庫の底へひめてなぞおきましょう。
私は、にわかに胸騒ぎをおぼえながら、その十一枚の絵葉書を、次から次へと調べて行きました。ある感動のために葉書を持った私の手は、不自然にふるえてさえいました。
だが、どうしたことでしょう。それらの葉書には、どの文面からも、あるいはまたその文面のどの行間からさえも、恋文らしい感じはいささかも発見することができないのです。
それでは、弟は、彼の臆病な気質から、心の中を打ち明けることさえようしないで、ただ恋しい人から送られた、なんの意味もないこの数通の絵葉書を、お守りかなんぞのように大切に保存して、可哀そうに、それをせめてもの心やりにしていたのでしょうか。そして、とうとう、報いられぬ思いを抱いたままこの世を去ってしまったのでしょうか。
私は雪枝さんからの絵葉書を前にして、それからそれへと、さまざまの思いにふけるのでした。しかし、これはどういうわけなのでしょう。やがて私は、その事に気づきました。弟の日記には雪枝さんからの受信は十回きりしかしるされていないのに、今ここには十一通の絵葉書があるではありませんか。最後のは五月二十五日の日付けになっています。確かその日の日記には、受信欄に雪枝さんの名前はなかったようです。そこで、私は再び日記帳をとり上げて、その五月二十五日のところをひらいて見ないではいられませんでした。
すると、私は大変な見落としをしていたことに気づきました。いかにもその日の受信欄は空白のまま残されていましたけれど、本文の中に、次のような文句が書いてあったではありませんか。
「最後の通信に対してYより絵葉書きたる。失望。おれはあんまり臆病すぎた。今になってはもう取り返しがつかぬ。ああ」
Yというのは雪枝さんのイニシアルに違いありません。ほかに同じ頭字の知り人はないはずです。しかし、この文句はいったい何を意味するのでしょう。日記によれば、彼は雪枝さんのところへ葉書を書いているばかりです。まさか葉書に恋文をしたためるはずもありません。では、この日記には書いてない封書を(それがいわゆる最後の通信かもしれません)送ったことでもあるのでしょうか。そして、それに対する返事として、この無意味な絵葉書が返ってきたとでもいうのでしょうか。なるほど、以来彼からも雪枝さんからも文通を絶っているのを見ると、そうのようにも考えられます。
でも、それにしては、この雪枝さんからの最後の葉書の文面は、たとえ拒絶の意味を含ませたものとしても、あまりに変です。なぜといって、そこには、(もうその時分から弟は病床にいたのです)病気見舞の文句が、美しい手蹟で書かれているだけなのですから。そして、またこんなにこくめいに発信受信をしるしていた弟が、八通の葉書のほかに封書を送ったものとすれば、それをしるしていないはずはありません。では、この失望うんぬんの文句は一体なにを意味するのでしょうか。そんなふうにいろいろ考えてみますと、そこには、どうも辻つまの合わぬところが、表面に現われている事実だけでは解釈のできない秘密が、あるように思われます。
これは、亡弟が残して行った一つのナゾとして、そっとそのままにしておくべき事柄だったかもしれません。しかし、なんの因果か私には、少しでも疑わしい事実にぶっつかると、まるで探偵が犯罪のあとを調べまわるように、あくまでその真相をつきとめないではいられない性質がありました。しかも、この場合は、そのなぞが本人によっては永久に解かれる機会がないという事情があったばかりでなく、その事の実否は私自身の身の上にもある大きな関係を持っていたものですから、持ち前の探偵癖が一層の力強さをもって私をとらえたのです。
私はもう、弟の死をいたむことなぞ忘れてしまったかのように、そのなぞを解くのに夢中になりました。日記も繰り返し読んでみました。その他の弟の書きものなぞも、残らず探し出して調べました。しかし、そこには、恋の記録らしいものは、何一つ発見することができないのです。考えてみれば、弟は非常なはにかみ屋だった上に、この上もなく用心深いたちでしたから、いくら探したとて、そういうものが残っているはずもないのでした。
でも、私は夜のふけるのも忘れて、このどう考えても解けそうにない謎を解くことに没頭していました。長い時間でした。
やがて、種々さまざまなむだな骨折りの末、ふと私は、弟の葉書を出した日付けに不審を抱きました。日記の記録によれば、それは次のような順序なのです。
三月……九日、十二日、十五日、二十二日、
四月……五日、二十五日、
五月……十五日、二十一日、
この日付けは、恋をするものの心理に反してはいないでしょうか。たとえ恋文でなくとも、恋する人への文通が、あとになるほど、うとましくなっているのは、どうやら変ではありますまいか。これを雪枝さんからの葉書の日付けと対照してみますと、なお更その変なことが目立ちます。
三月……十日、十三日、十七日、二十三日、
四月……六日、十四日、十八日、二十六日、
五月……三日、十七日、二十五日、
これを見ると、雪枝さんは弟の葉書に対して(それらは皆なんの意味もない文面ではありましたけれど)それぞれ返事を出しているほかに、四月十四日、十八日、五月の三日と、少なくともこの三回だけは、彼女の方から積極的に文通しているのですが、もし弟が彼女を恋していたとすれば、なぜこの三回の文通に対して答えることを怠っていたのでしょう。それは、あの日記帳の文句と考え合わせて、あまりに不自然ではないでしょうか。日記によれば、当時弟は旅行をしていたのでもなければ、あるいは又、筆もとれぬほどの病気をやっていたわけでもないのです。それからもう一つは、雪枝さんの、無意味な文面だとはいえ、この頻繁な文通は、相手が若い男であるだけに、おかしく考えれば考えられぬこともありません。それが、双方とも言い合わせたように、五月二十五日以後はふっつりと文通しなくなっているのは、一体どうしたわけなのでしょう。
そう考えて、弟の葉書を出した日付けを見ますと、そこに何か意味がありそうに思われます。もしや彼は暗号の恋文を書いたのではないでしょうか。そして、この葉書の日付けがその暗号文を形造っているのではありますまいか。これは、弟の秘密を好む性質だったことから推して、まんざらあり得ないことではないのです。
そこで、私は日付けの数字が「いろは」か「アイウエオ」か「ABC」か、いずれかの文字の順序を示すものではないかといちいち試みてみました。幸か不幸か私は暗号解読についていくらか経験があったのです。
すると、どうでしょう。三月の九日はアルファベットの第九番目のI、同じく十二日は第十二番目のL、そういうふうにあてはめて行きますと、この八つの日付けは、なんと、I LOVE YOU と解くことができるではありませんか。ああ、なんという子供らしい、同時に、世にも辛抱強い恋文だったのでしょう。彼はこの「私はあなたを愛する」というたった一とことを伝えるために、たっぷり三カ月の日子を費やしたのです。ほんとうにうそのような話です。でも、弟の異様な性癖を熟知していた私には、これが偶然の符号だなどとは、どうにも考えられないのでした。
かように推察すれば一切が明白になります。「失望」という意味もわかります。彼が最後のUの字に当たる葉書を出したのに対して、雪枝さんは相変わらず無意味な絵葉書をむくいたのです。しかも、それはちょうど、弟が医者からあのいまわしい病気を宣告せられた時分なのでした。可哀そうな彼は、この二重の痛手にもはや再び恋文を書く気になれなかったのでしょう。そして、だれにも打ち明けなかった。|当《とう》の恋人にさえ、打ち明けはしたけれど、その意志の通じなかった切ない思いを抱いて、死んで行ったのです。
私は言い知れぬ暗い気持に襲われて、じっとそこに坐ったまま、立ちあがろうともしませんでした。そして、前にあった雪枝さんからの絵葉書を、弟が手文庫の底深くひめていたそれらの絵葉書を、なんの故ともなくボンヤリ見つめていました。
すると、おお、これはまあなんという意外な事実でしょう。ろくでもない好奇心よ、呪われてあれ。私はいっそすべてを知らないでいた方が、どれほどよかったことか、この雪枝さんからの絵葉書の表には、綺麗な文字で弟の宛名が書かれたわきに、一つの例外もなく、切手がななめにはってあるではありませんか。わざとでなければできないように、キチンと行儀よく、ななめにはってあるではありませんか。それは決して偶然の粗相なぞではないのです。
私はずっと以前、多分小学時代だったと思います。ある文学雑誌に切手のはり方によって秘密通信をする方法が書いてあったのを、もうその頃から好奇心の強い男だったとみえて、よく覚えていました。中にも、恋を現わすには切手をななめにはればよいというところは、実は一度応用してみたことがあるほどで、決して忘れません。この方法は当時の青年男女の人気に投じて、ずいぶん流行したものです。しかしそんな古い時代の流行を、今の若い女が知っていようはずはありませんが、ちょうど雪枝さんと弟との文通が行なわれた時分に、宇野浩二の「ふたりの青木愛三郎」という小説が出て、その中にこの方法がくわしく書いてあったのです。当時私たちのあいだに話題になったほどですから、弟も雪枝さんも、それをよく知っていたはずです。
では、弟はその方法を知っていながら、雪枝さんが|三《み》|月《つき》も同じことを繰り返して、ついには失望してしまうまでも、彼女の心持を悟ることができなかったのはどういうわけなのでしょう。その点は私にもわかりません。あるいは忘れてしまっていたのかもしれません。それともまた、切手のはり方などには気づかないほど、のぼせきっていたのかもしれません。いずれにしても、「失望」などと書いているからは、彼がそれに気づいていなかったことは確かです。
それにしても、今の世にかくも古風な恋があるものでしょうか。もし私の推察が誤らぬとすれば、彼らはお互に恋しあっていながら、その恋を訴えあってさえいながら、しかし双方とも少しも相手の心を知らずに、ひとりは痛手を負うたままこの世を去り、ひとりは悲しい失恋の思いを抱いて長い生涯を暮らさねばならぬとは。
それはあまりにも臆病過ぎた恋でした。雪枝さんはうら若い女のことですから、まだ無理のない点もありますけれど、弟の手段にいたっては、臆病というよりはむしろ卑怯に近いものでした。さればといって、私はなき弟のやり方を少しだって責める気はありません。それどころか、私は、彼のこの一種異様な性癖を、世にもいとしく思うのです。
生れつき非常なはにかみ屋で、臆病者で、それでいてかなり自尊心の強かった彼は、恋する場合にも、先ず拒絶された時の恥かしさを想像したに違いありません。それは、弟のような気質の男にとっては、常人には到底考えも及ばぬほどひどい苦痛なのです。彼の兄である私には、それがよくわかります。
彼はこの拒絶の恥を予防するために、どれほど苦心したことでしょう。恋を打ち明けないではいられない。しかし、もし打ち明けて拒まれたら、その恥かしさ、気まずさ、それは相手がこの世に生きながらえているあいだ、いつまでもいつまでもつづくのです。なんとかして、もし拒まれた場合には、あれは恋文ではなかったのだと言い抜けるような方法がないものだろうか。彼はそう考えたに違いありません。
その昔、大宮人は、どちらにでも意味のとれるような「恋歌」という巧みな方法によって、あからさまな拒絶の苦痛をやわらげようとしました。弟の場合はちょうどそれなのです。ただ、彼のは日頃愛読する探偵小説から思いついた暗号通信によって、その目的を果たそうとしたのですが、それが、不幸にも、彼のあまり深い用心のために、あのような難解なものになってしまったのです。
それにしても、彼は自分自身の暗号を考え出した綿密さにも似あわないで、相手の暗号を解くのに、どうしてこうも鈍感だったのでしょう。自ぼれ過ぎたために飛んだ失敗を演じる例は、世に|間《ま》|々《ま》あることですけれど、これはまた自ぼれのなさ過ぎたための悲劇です。なんという本意ないことでしょう。
ああ、私は弟の日記帳をひもといたばかりに、とり返しのつかぬ事実に触れてしまったのです。私はその時の心持をどんな言葉で形容しましょう。それが、ただ若いふたりの気の毒な失敗をいたむばかりであったなら、まだしもよかったのです。しかし、私にはもう一つの、もっと利己的な感情がありました。そして、その感情が私の心を狂うばかりにかき乱したのです。
私は熱した頭を冬の夜の凍った風にあてるために、そこにあった庭下駄をつっかけて、フラフラと庭へおりました。そして乱れた心そのままに、木立ちのあいだを、グルグルと果てしもなく廻り歩くのでした。
弟の死ぬ二カ月ばかり前に取りきめられた、私と雪枝さんとの、とり返しのつかぬ婚約のことを考えながら。
接吻
一
近頃は有頂天の山名宗三であった。なんとも言えぬ暖かい、柔かい、薔薇色の、そして薫りのいい空気が彼の身辺を包んでいた。それが、お役所のボロ机に向かって、コツコツと仕事をしている時にでも、さては同じ机の上でアルミの弁当箱から四角い飯を食っている時にでも、四時がくるのを遅しと、役所の門を飛び出して、柳の街路樹の下を、木枯のようにテクついている時にでも、いつも彼の身辺にフワフワと漂っているのであった。
というのは、山名宗三、この一と月ばかり前に新妻を迎えたので、しかも、それが彼の恋女房だったので。
さて或る日のこと、例の四時を合図に、まるで授業のすんだ小学生のように帰り急ぎをして、課長の村山が、まだ机の上をゴテゴテと取り片づけているのを尻目にかけて、役所を駈け出すと、彼は真一文字に自宅へと急ぐのであった。
大丸まげのお花は、例の長火鉢にもたれて、チャンと用意のできたお膳の前に、クツクツ笑いながら(なんてお花はよく笑う女だ)ポッツリと坐っていることであろう。玄関の格子があいたら、兎のように飛び出す用意をしながら、今か今かとおれの帰りを待っていることであろう。テヘヘ、なんてまあ可愛いやつだろう。そんなふうにはっきり考えたわけではないが、山名宗三の|道《みち》|々《みち》の心持を図解すると、まあこういったものであった。
「きょうは一つ、やっこさん、おどかしてやるかな」
自宅の門前に近づくと、宗三はニヤニヤ独り笑いを浮かべながら考えた。そこで、抜き足差し足、ソロリソロリと格子戸をあけて、玄関の障子をあけて、靴をぬぐのも音のせぬように注意しながら、いきなり茶の間の前まで忍び込んだ。
「ここいらで、エヘンと咳ばらいでもするかな。いや待て待て。やつ独りでいる時にはどんな恰好をしているか、ちょっとすき見をしてやれ」
で障子の破れから茶の間の中を覗いてみると、さあ大変、山名宗三、青くなって硬直した。というのは、そこに、いとも不思議な光景が演じられていたからで。
二
想像どおり、お花はチャンと長火鉢の前に坐っている。布巾をかけたお膳も出ている。が、肝心のお花は決してクツクツ笑ってはいないのだ。それどころか、世にもまじめな様子で、泣いているのではないかと思うほどの緊張ぶりで、一枚の写真を持って、接吻したり、抱きしめたり、それはそれは見ちゃいられないのであった。
さてはと、山名宗三、ギクリと思い当たるところがあったので、もう胸は早鐘をつくようだ。ソッと二、三畳あと帰りをすると、今度はドシドシと畳ざわりも荒々しく、ガラリとあいだの障子を引きあけて、
「オイ、今帰った」
なぜ出迎えないのだと言わぬばかりに、そこの長火鉢の向こうがわへドッカリ坐ったことである。
「アラッ」
一と声叫ぶやいなや、手に持っていた写真をいきなり帯のあいだへ隠すと、お花は、赤くなったり、青くなったり、へどもどしながら、でも、やっと気を沈めて、
「まあ、私、ちっとも存じませんで、ご免なさいまし」
そのいやにしとやかな口のきき方からして、食わせものだ。宗三、そう思った。それに、あの写真を隠したところを見ると、テッキリそうときまった。障子をあけるまでは、もしや自分の写真ではあるまいかと、一方では大いに自惚れてもいたのだが、写真を隠して青くなった様子では、むろん自分のではない。きっと、きゃつの写真に違いない。あの課長の村山|面《づら》の。
と、宗三が疑念を|抱《いだ》くには、抱くだけの理由があった。
新妻のお花は課長村山の遠縁の者で、長らく彼の家に寄寓していたのを、縁あって宗三が貰い受けたのだ。媒酌はいうまでもなく課長さんである。課長さんといっても年配は宗三とさして違わぬ年若だし、奥さんはあっても、評判の不器量もの、疑い出せば、何がなんだか知れたものではないのである。宗三、ていよくお下がり頂戴に及んだのか、それも今となっては怪しいものなのである。
それに、もう一つおかしいのは、お花のやつ、しげしげと村山家をおとずれる一件だ。まだ一と月にしかならぬに、宗三が知っているだけでも、四、五へんは行っている。時には夜に入って帰ったこともあるくらいだ。
いろいろと考えるに従って、もうもう癪で癪で、宗三は胸がはち切れそうだ。彼がまた大のやきもち焼きときているので。が、まずさあらぬていで夕食をすませると、いつものように戯談口をきき合うでもなく、そうかといって、写真の正体をきわめぬあいだは、書斎にとじこもるわけにもいかず、双方妙に気まずく睨み合いといった形。
「それはいったい誰の写真だ」
と、たびたび喉まで込み上げてくるのを、やっと噛み殺して宗三はじっとお花の挙動を監視している。やきもち焼きだけに、なかなか陰険な方で、彼のつもりでは、床へつく時にはきっとあの写真をどこかへしまうだろう。それを見きわめておいて、あとから探し出してやろうという気だ。
三
やがて、お花はだんまりで立ちあがると、こそこそと、どこかへ出て行った。はばかりとは方角が違う。どうやら納戸らしい。宗三自身は見る影もない腰弁だけれど、家だけは、おやじが御家人だったので、古いが手広な納戸なんていうものもある。じゃあタンスへでもしまうつもりかな、タンスといっても、幾つもあるから後になってはわからない。ともかく、お花の跡をつけてみるにしくはない。で宗三、そっと立ちあがると、女房のあとから、影のようについて行った。
案のじょう納戸だ。今はいったばかりのところで、まだタンスの錠前をガチャガチャいわせている。いったい、どのタンスの、どの引出しへしまうのかと、幸いの障子の破れに眼を当てて、そっと覗いて見ると、何しろ二た間兼用の五燭の電灯だから、それに障子の穴がやっと片目だけの大きさなので、見当をつけるのが、なかなか骨だったが、でも、ともかく入口から言って、正面のタンスの上の、小引出しの左の端ということだけはわかった。お花のうしろ姿は、そこへ一物を投げ込むと、ピシャンとしめて、大急ぎでこちらへやってきそうな様子。
見られては一大事と、宗三、元の茶の間へ逃げ帰ると、敷島を一本、つけるが早いか口へ持って行って、スパリスパリととりすました。
それからご両人睨み合いよろしくあって、だが、そうしていても際限がないので、どちらが口を切るともなく、砂をかむような世間話を二た口三口取りかわしているうちに、やがて九時だ。宗三、思惑があるのでいつもより少し早いのだが、いそいで床にはいった。
さて、その真夜中、お花の寝息をうかがって、これなら大丈夫と思ったか、宗三むっくり起き上がって、寝巻きの前をかき合わせると、ソロリソロリと寝間のそとへ忍び出した。行く先はいうまでもなく納戸だ。やっとたどりついて、宵に見当をつけておいた、正面のタンスの上の一ばん左の小引出し、胸をドキドキさせながらひらいてみると、あった、あった。邪推ではなかった。十数枚の大きいのや小さいのや写真のかさねてある一ばん上に、課長の村山の半身像が、いやにすましてのっかっている。でも念のために、震える手先に力を入れて、その写真を一枚一枚調べてみたが、男のものといっては村山のただ一枚、あとはみんなお花の家庭の写真ばかりだ。もうもう疑う余地はない。そうときまった。うぬ、どうしてくれるか。くやしいのと、寒いので、宗三ガタガタと身を震わせて、はぎしりをかんだ。
四
その翌日、物も言わず、お花の差し出す弁当箱をひったくると、宗三、やけに急いで役所へ出勤したが、同僚の顔を見ても、癪でしようがない。はした月給を貰って、あの課長|面《づら》にペコついているのかと思うと、どいつもこいつも、かたっぱしから、なぐり倒してやりたいような気がする。挨拶もしないで席につくと、ムーッとだまり込んだまま、いやに血走った眼で、まだ出勤しない課長の机を睨みつけた。
やがて、意気な背広の課長さんが、大きな折鞄を小脇にご出勤だ。一同自席から敬礼するのを軽く受けて席につく。鞄がバタンと机の上で鳴る。宗三は、むろん礼なんかしない。焼くような眼で睨んでいるばかりだ。
村山課長、一とわたり机の上の整理がすむと、エヘンと一|咳《がい》して、拍子のわるい、
「山名君、ちょっと」
という仰せだ。宗三はよっぽど返事をしないでいようかと思ったが、まさかそうもならず、しぶしぶ席を立って、課長の机の前まで行った。もっとも「なんか御用で」なんて追従は言わない。ムッツリとしてつっ立っている。だが課長の方では、何も知らないものだから、いつもの通りお叱言がはじまる。
「君、この統計は困るね。肝心の平均率が出ていないじゃないか。え、君」
見るとなるほど、こちらの手落ちだ。普通なら一言もなく引き下がるところだが、きょうはそうはいかない。虫の居どころが違う。返事もしないで、グッと相手を睨みつけている。
「君はこの統計をなんだと思っているのだ。ご丁寧に総計を並べたりして、そんなものはいらないのだ。平均率が必要なんだ。そのくらいのことわかりそうなものだね」
「そうですかっ」
宗三、いきなりびっくりするような大声でどなると、サッと書類を引ったくって、そのまま自席へ戻ってきた。これから、みっしり、閑つぶしの御説法をはじめるつもりの課長さん、眼をぱちくり。
さて、自席に戻ると、宗三、なんだか一所懸命書き出した。殊勝にも統計を訂正するのかとみると、決してそうでない。白紙一枚ひろげると、筆太に先ず書いたのが、「辞職願」
五
面喰った課長の前に、小学生のお清書のような大文字の辞表を投げつけて、ぐっと溜飲を下げた宗三は、まだ午前十一時というに、大手を振って帰ってきた。
「お花、ちょっとここへおいで」
例の長火鉢の前へ、ドッカリと坐ると、さて、これから一と談判だ。ゆうべのことがあるのでお花はもうビクビクもの。
「あら、お帰りなさいまし。どっかお加減でも……」
「いや、からだに別状ない。僕はきょうから役所をよす。そのつもりでいてくれ。それから、役所をよしたわけはあの村山と衝突したからだ。今日以後村山家へ出入りすることはふっつりやめてもらいたい。これは断じて守ってくれないと困る」
「まあ……」
といったが二の句がつけない。
「あ、それから」と、なにげなく、「お前は村山の写真を持っているはずだね。あれをちょっとここへ持っておいで」
|夫《おっと》の剣幕がひどいので拒むわけにもいかぬ。お花はしぶしぶ例の写真を持ってくる。宗三は、それをお花の目の前で、さも憎々しく、ズタズタに引きさくと、火鉢の中へくべてしまった。そして、やっとこれでせいせいしたという顔つきだ。
こうまでされては、お花とて悟らないわけにはいかぬ。さてはあの一件だなと、どうやら様子がわかった。そこで、ともかくも夫の口からそれを聞いた上のことと、こうなると女というものは手管のあるもので、すねてみたり、泣いてみたり、種々さまざまの手段を尽して、結局隙見の一見を白状させてしまった。
どうだ、これには一言もあるまい。写真をしまったところまで調べ上げてあるのだから、なんといってもこっちに手抜かりはないはずだ。宗三、勝利者の気組みで、ぐっと落ち着いて、お花の様子を眺めている。
するとお花、いきなりワッと泣き伏しでもするかと思いきや、どうしてどうして、宗三があっけに取られたことには、やにわにクツクツと笑い出したのである。
「まあ、何かと思えば、あなた、あんまりですわ。村山さんと私と……ホホホホホ、あなたもずいぶん邪推深いかたね。あの写真、あれは、あれは、あのう、あなたのお写真でしたのよ」
といったかと思うと、お花、いきなり赤くなって、顔を隠すのであった。
「僕の写真だって、ばかな、うまくごまかそうと思ってもそれはだめだ。チャンと納戸へ尾行して、しまうところを睨んでおいたんだからな。あの引出しには村山の写真のほかには、僕の写真はおろか、男のは一枚もありゃしないじゃないか」
「ですから、なお変ですわ。そんなたくさん写真があったなんて。きっとあなたは寝惚けていらしったのよ。あなたのお写真は一枚だけ、大切に引出しの中の手文庫にしまってあるのですもの。いったいあなたのごらんなすったという引出しはどれですの」
「あの正面のタンスの上の、左の端の小引出しさ」
「あら、正面ですって、まあ、おかしい。私がゆうべあなたのお写真をしまったのは左側のタンスでしたのよ。引出しは上の左の端のですけれど。まるでタンスが違いますわ」
「そんなはずはない。やっぱりお前はごまかそうと思っているのだ。僕は小さな障子の穴から覗いたのだから、左側のタンスなぞ、だいいち見える道理がないのだ。なんといっても正面だ。いくらいそいでいたとはいえ、正面と左側と、まるで方向の違うものを間違えるはずはない」
「おかしいですわねえ」
「おかしくはない。お前はてれ隠しに、そんなでたらめを言っているのだ。つまらないまねはいいかげんによさないか」
「だって……」
「だってじゃない。なんといっても僕の目に間違いはない」
妙な押し問答になってきた。夫は部屋の正面の壁に沿って置かれたタンスだと言い、妻は左側面の壁に沿って置かれたそれだと主張する。両人の言い分のあいだには九十度の差異がある。
六
「あ、わかりましたわ」
突然お花が叫んだ。
「あなた、まあこちらへ来てごらんなさいまし。わかりました、わかりました」
無暗に袖を引っぱるので、宗三しようことなしについて行くと、それは納戸だった。
「これ、これ、あなた、これに違いありませんわ」
そこで、お花がそういって、ゆびさしたのは、一個の新らしい洋服ダンス。去年の暮れ、臨時手当に据置貯金の利息を足して買いととのえた新式洋服ダンス。それがいったいどうしたというのであろう。
「おわかりになりまして、ほら、この|扉《とびら》についている鏡ですよ。この扉がひらいていて、ちょうど障子の穴の前にきていたのですよ。ですから、正面のタンスが隠れて、飛んでもない左側のタンスが写ってそれがちょうど正面にあるように見えたのですよ」
なるほど、洋服ダンスの扉の鏡が、障子の穴の前に四十五度の角度でひらいていたとすれば、そこへ映った左側のものが真正面に見えたはずだ。二つのタンスの形もよく似ているので間違うのは無理ではない。殊に薄暗い電灯の光で、しかも大いそぎで見たのだもの。こいつはおれのしくじりかな、宗三はあまりの事にがっかりした。
他人の写真だと早合点したのは飛んだ間違いで、お花が宗三恋しさのあまり、彼宗三の写真に接吻したり抱きしめたりしていたのだとすると、こんなひどい間違いはない。ゾクゾクと嬉しがっているべき場合に、見当違いのかんしゃくを立てて、取り返しのつかぬ辞表まで書いたとは。
さあそこで、主客顛倒である。一挙にして頽勢を挽回したお花は、今度こそほんとうに泣き出した。
お役所をよしてあすからなんとするつもりだ。この不景気にすぐさま口があるではなし、そうかといって、遊んで食える身分でもなし、あなたもあんまり向こう見ずだ。それに、私が村山家へ出入りするといってお怒りなさるけれど、これもみんなあなたに出世させたいばっかりじゃありませんか。誰があんな家へ、進んで行きたいことがあるものですか。人の気も知らないで、といって恨む、怨じる、歎く、それはそれは。
山名宗三、今は一言もない。そればかりか、さしずめこれからの身のふり方に困じ果てた。「すまじきものは嫉妬だなあ」彼はつくづく嘆じたことである。
だが、読者諸君、男というものは、少々陰険に見えても、性根はあくまでお人好しにできているものだ。そして、女というものは、表面何も知らないねんねえのようであっても、心の底には生れつきの陰険が巣くっているものだ。このお花だって、お話の表面に現われただけの女だかどうだか甚だ疑わしいものである。もしも、例の鏡のトリックが彼女の創作であったとしたらどうだ。そして、彼女が接吻し、抱きしめたのは、やっぱり村山課長の写真であったとしたらどうだ。
それはともかく、男である山名宗三は、そこまで邪推をたくましくする陰険さはなかったのである。
モノグラム
私が、私の勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、なんとなく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなって間もなく、おそらくこれは栗原さんの取っておきの話の種で、彼は誰にでも、そうした打ち明け話をしてもさしつかえのないあいだがらになると、待ち兼ねたように、それを持ち出すのでありましょうが、私もある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。
栗原さんは話し上手な上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小噺めいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やっぱり捨て難い味があり、そうした種類の打ち明け話としては、私はいまだに忘れることのできないものの一つなのです。栗原さんの話しっぷりをまねて、次にそれを書いてみることにいたしましょうか。
いやはや、落としばなしみたいなお話なんですよ。でも、先にそれを言ってしまっちゃお慰みが薄い、まあ当たり前の、エー、お惚気のつもりで聞いてください。
私が四十の声を聞いて間もなく、四、五年あとのことなんです。いつもお話する通り、私はこれで相当の教育は受けながら、妙に物事に飽きっぽいたちだものですから、何かの職業に就いても、たいてい一年とはもたない。次から次と商売替えをして、とうとうこんなものに落ちぶれてしまったわけなんですが、その時もやっぱり、一つの職業を止して、次の職業をめっけるあいだの、つまり失業時代だったのですね。御承知のようにこの年になって子供はなし、ヒステリーの家内と狭い家に差し向かいじゃやりきれませんや。私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。
いますね、あすこには。公園といっても六区の見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチのたくさん並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、ちょうどそれらにふさわしく、浮世の雨風に責めさいなまれて、気の抜けたような連中が、すき間もなく、こう、思案に暮れたという恰好で腰をかけていますね。自分もそのひとりとして、あの光景を見ていますと、あなたがたにはおわかりにならないでしょうが、まあなんともいえない、物悲しい気持になるものですよ。
ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いにふけっていました。ちょうど春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向こうの映画館の方は、大変な人出です。ドーッという物音、楽隊、それにまじっておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声だとかが、かんだかく響いてくるのです。それに引きかえて、私たちのいる林の中は、まるで別世界のように静かで、おそらく映画を見るお金さえ持ち合わせていない、みすぼらしい風体の人々が、飢えたような物憂い眼を見合わせ、いつまでもいつまでも、じっと一つところに腰をおろしている。こんなふうにして罪悪というものが醗酵するのではないかと思われるばかり、実に陰気で、物悲しい光景なのです。
そこは、林の中の、丸くなった空き地で、私たちの腰かけている前を、私たちと無関係な、幸福そうな人々が、絶えず通り抜けています。それが着かざった女なんかだと、それでも、ベンチの落伍者どもの顔が、一斉にその方を見たりなんかするのですね。そうした人通りがちょうど途絶えて、空き地がからっぽになっていた時でした、ですから自然私も注意したわけでしょうが、一方の隅のアーク灯の鉄柱の所へ、ヒョッコリひとりの人物が現われたのです。
三十前後の若者でしたが、風体はさしてみすぼらしいというのではないのに、どことなく淋しげな、少なくとも顔つきだけは決して行楽の人ではなく、私ども落伍者のお仲間らしく見えるのです。彼はベンチのあいたところでも探すようにしばらくそこに立ち止まっていましたが、どこを見ても一杯な上に、彼の風采に比べては、段違いに汚ならしくて、怖ろしい連中ばかりなので、おそらく辟易したのでしょう。あきらめて立ち去りそうにした時、ふと彼の視線と私の視線とがぶつかりました。
すると彼は、やっと安心したように、私の隣の僅かばかりのベンチの空き間を目がけて近づいてくるのです。そうした連中の中では、私の風体は、古ぼけた銘仙かなんか着ていて、おかしな言い方ですが、いくらか立ちまさって見えたでしょうし、決してほかの人たちのように険悪ではなかったのですから、それが彼を安心させたとみえます。それとも、これはあとになって思い当たったことですが、彼は最初から私の顔に気がついていたのかもしれません。いえ、そのわけはじきにお話ししますよ。
どうも私のくせで、お話が長くなっていけませんな。で、その男は私の隣へ腰をかけると、袂から敷島の袋を出して、タバコをすいはじめましたのですが、そうしているうちに、だんだん、変な予感みたいなものが、私を襲ってくるのです。妙だなと思って、気をつけて見ると、男がタバコをふかしながら、横の方から、ジロジロと私を眺めている。その眺め方が決して気まぐれでなく、なんとやら意味ありげなんですね。
相手が病身らしいおとなしそうな男なので、気味がわるいよりは、好奇心の方が勝ち、私はそれとなく彼の挙動に注意しながら、じっとしていました。あの騒がしい浅草公園のまん中にいて、いろいろな物音は確かに聞こえているのですが、不思議にシーンとした感じで、長いあいだそうしていました。相手の男が、今にも何か言い出すかと待ち構える気持だったのです。
すると、やっと男が口を切るのですね、「どっかでお目にかかりましたね」って、おどおどした小さな声です。多少予期していたので、私は別に驚きはしませんでしたが、不思議と思い出せないのですよ。そんな男、まるで知らないのです。
「人違いでしょう。私はどうもお目にかかったように思いませんが」って返事をすると、それでも、相手は|不《ふ》|得《とく》|心《しん》な顔で、又しても、ジロジロと私を眺めだすではありませんか。ひょっとしたら、こいつ何か企らんでるんじゃないかと、さすがに気持がよくはありませんや。
「どこでお会いしました」ってもう一度尋ねたものです。
「さあ、それが私も思い出せないのですよ」男が言うのですね、「おかしい、どうもおかしい」小首をかしげて、「昨今のことではないのです。もうずっと|先《せん》からちょくちょくお目にかかっているように思うのですが、ほんとうに御記憶ありませんか」そういって、かえって私を疑うように、そうかと思うと、変に懐かしそうな様子で、ニコニコしながら私の顔を見るじゃありませんか。
「人違いですよ。そのあなたの御存じのかたはなんとおっしゃるのです。お名前は」って聞きますと、それが変なんです。「私もさいぜんから一所懸命思い出そうとしているのですが、どういうわけか出てきません。でも、お名前を忘れるようなかたじゃないと思うのですが」
「私は栗原一造ていいます」私ですね。
「ああ、さようですか、私は田中三良っていうのです」これが男の名前なんです。
私たちはそうして、浅草公園のまん中で名乗り合いをしたわけですが、妙なことに、私の方はもちろん、相手の男も、その名前にちっとも覚えがないというのです。ばかばかしくなって、私たちは大声を上げて笑い出しました。すると、するとですね、相手の男の、つまり田中三良のその笑い顔が、ふと私の注意を惹いたのです。おかしなことには、私までが、なんだか彼に見覚えがあるような気がしだしたのです。しかも、それがごく親しい旧知にでもめぐり合ったように、妙に懐かしい感じなんですね。
そこで、突然笑いを止めて、もう一度その田中と名乗る男の顔を、つくづくと眺めたわけですが、同時に田中の方でも、ピッタリと笑いを納め、やっぱり笑いごとじゃないといった表情なんです。これがほかの時だったら、それ以上話を進めないで別かれてしまったことでしょうが、今いう失業時代で、退屈で困っていた際ですし、時候はのんびりとした春なんです。それに、見たところ私よりも風体のととのった若い男と話すことは、わるい気持もしないものですから、まあひまつぶしといったあんばいで、変てこな会話をつづけて行きました。こういうぐあいにね。
「妙ですね、お話ししてるうちに、私もなんだかあなたを見たことがあるような気がしてきましたよ」これは私です。
「そうでしょう。やっぱりそうなんだ。しかも道で行き違ったというような、ちょっと顔を合わせたくらいのことじゃありませんよ、確かに」
「そうかもしれませんね。あなたお国はどちらです」
「三重県です。最近はじめてこちらへ出てきまして、今勤め口を探しているようなわけです」
してみると、彼もやっぱり一種の失業者なんですね。
「私は東京の者なんだが、で、御上京なすったのはいつごろなんです」
「まだ一と月ばかりしかたちません」
「そのあいだにどっかでお会いしたのかもしれませんね」
「いえ、そんなきのうきょうのことじゃないのですよ。確かに数年前から、あなたのもっとお若い時分から知ってますよ」
「そう、私もそんな気がする。三重県と……私は一体旅行嫌いで、若い時分から東京を離れたことはほとんどないのですが、殊に三重県なんて上方だということを知っているくらいで、はっきり地理もわきまえない始末ですから、お国で逢ったはずはなし、あなたも東京ははじめてだと言いましたね」
「箱根からこっちは、ほんとうにはじめてなんです。大阪で教育を受けて、これまであちらで働いていたものですから」
「大阪ですか、大阪なら行ったことがある。でも、もう十年も前になるけれど」
「それじゃあ、大阪でもありませんよ。私は七年前まで、つまり中学を出るまで国にいたのですから」
こんなふうにお話しすると、なんだかくどいようですけれど、その時はお互になかなか緊張していて、何年から何年までどこにいて、何年の何月にはどこそこへ旅行したと、細かいことまで思い出し、比べ合ってみても、一つもそれがぶつからない。たまに同じ地方へ旅行しているかと思うと、まるで年代が違ったりするのです。さあそうなると、不思議でしようがないのですね。人違いではないかと言っても相手はこんなによく似た人がふたりいるとは考えられぬと主張しますし、それが一方だけならまだしも、私の方でも、見覚えがあるような気がするのですから、一概に人違いと言い切るわけにも行きません。話せば話すほど、相手が昔なじみのように思え、それにもかかわらず、どこで会ったかはいよいよわからなくなる。あなたにはこんな御経験はありませんか。実際変てこな気持のものですよ。神秘的、そうです。なんだか神秘的な感じなんです。ひまつぶしや、退屈をまぎらすためばかりではなく、そういうふうに疑問が漸増的に高まってくると、執拗にどこまでも調べてみたくなるのが人情でしょうね。が、結局わからないのです。多少あせり気味で、思い出そうとすればするほど、頭が混乱して、ふたりが以前から知合いであることは、わかり過ぎるほどわかっているではないか、なんて思われてきたりするのです。でも、いくら話してみても、要領を得ないので、私たちはまたまた笑い出すほかはないのでした。
しかし要領は得ないながらも、そうして話し込んでいるうちに、お互に好意を感じ、以前はいざ知らず、少なくともその場からは忘れ難いなじみになってしまったわけです。それから田中のおごりで、池のそばの喫茶店に入り、お茶をのみながら、そこでもしばらく私たちの奇縁を語り合ったのち、その日は何事もなく別かれました。そして別かれる時には、お互の住所を知らせ、ちとお遊びにと言いかわすほどのあいだがらになっていたのです。
それが、これっきりですんでしまえば、別段お話するほどの事はないのですが、それから四、五日たって、妙な事がわかったのです。田中と私とは、やっぱりある種のつながりを持っていた事がわかったのです。はじめに言った私のおのろけというのはこれからなんですよ。(栗原さんはここでちょっと笑ってみせるのです)田中の方では、これは当てのある就職運動に忙がしいと見えて、一向訪ねてきませんでしたが、私は例によって時間つぶしに困っていたものですから、ある日、ふと思いついて、彼の泊まっている上野公園裏の下宿屋を訪問したのです。もう夕方で、彼はちょうど外出から帰ったところでしたが、私の顔を見ると、待っていたと言わぬばかりに、いきなり「わかりました、わかりました」と叫ぶのです。
「例のことね。すっかりわかりましたよ。ゆうべです。ゆうべ床の中でね、ハッと気がついたのです。どうもすみません。やっぱり私の思い違いでした。一度もお逢いしたことはないのです。しかし、お逢いはしていないけれど、まんざら御縁がなくはないのですよ。あなたはもしや、北川すみ子という女を御存じじゃないでしょうか」
藪から棒の質問でちょっと驚きましたが、北川すみ子という名を聞くと、遠い遠い昔の、華やかな風が、そよそよと吹いてくるような感じで、数日来の不思議な謎が、いくらかは解けた気がしました。
「知ってます。でも、ずいぶん古いことですよ。十四、五年も前でしょうか、私の学生時代なんですから」
というのは、いつかもお話ししました通り、私は学校にいた時分は、これでなかなか交際家でして、女の友だちなどもいくらかあったのですが、北川すみ子というのはその内のひとりで、特別に私の記憶に残っている女性なのです。××女学校に通よっていましたがね。美しい人で、われわれの仲間の|歌《か》|留《る》|多《た》|会《かい》なんかでは、いつでも第一の人気者、というよりはクイーンですね。美人な代りにはどことなく険があり、こう近寄り難い感じの女でした。
「その女にね(話し手の栗原さんはちょっと言いしぶって、はにかみ笑いをしました)実は私は惚れていたのですよ。しかもそれが、恥かしながら、片思いというわけなんです。そして、私が結婚したのは、やっぱり同じ女学校を出た、仲間では第二流の美人、いや今じゃ美人どころか、手におえないヒステリー患者ですが、当時はまあまあ十人並みだった御承知のお園なんです。手ごろなところで我慢しちまったわけですね。つまり、北川すみ子という女は、私の昔の恋人であり、家内にとっては学校友だちだったのです」
しかしそのすみ子を、三重県人の田中がどうして知っていたのか、又それだからといって、なぜ私の顔を見覚えていたか、どうも腑に落ちないのですね。そこでだんだん聞きただしてみますと、実に意外なことがわかってきました。田中が言うには、ちょうどその前の晩に、寝床の中でハッとある事を思い出したのだそうです。どういうわけで私を見覚えていたかについてですね。で、すっかり疑問が解けてしまったので、早速そのことを私に知らせようと思ったのだけれど、あいにく、その日は(つまり私が彼を訪問した日ですね)就職のことで先約があったために、私の所へ来ることができなかったというのです。
そんな断わりを言ったあとで、田中は机の引出しから一つの品物を取り出して、「これを御存じじゃないでしょうか」というのです。見ると、それはなまめかしい懐中鏡なんですね。大分流行遅れの品ではありましたが、なかなか立派な、若い女の持っていたらしいものでした。私が一向知らないと答えますと、
「でも、これだけは御存じでしょうね」
田中はそういって、なんだか意味ありげに私の顔を眺めながら、その二つ折りの懐中鏡をひらき、|塩《しお》|瀬《ぜ》らしいきれ地にはめ込みになった鏡を、器用に抜き出すと、そのうしろに隠されていた一枚の写真を取り出して、私の前につきつけたものです。それが、驚いたことには、私自身の若い時分の写真だったではありませんか。
「この懐中鏡は私の死んだ姉の形見です。その死んだ姉というのが、いま言った北川すみ子なのですよ。びっくりなさるのは御尤もですが、実はこういうわけなんです」
そこで田中の説明を聞きますと、彼の姉のすみ子は、ある事情のために小さい時分から、東京の北川家に養女になっていて、そこから××女学校にも通よわせてもらったのですが、彼女が女学校を卒業するかしないに、北川家に非常な不幸が起こり、止むを得ず郷里の実家に、つまり田中の家に引き取られて、それからしばらくすると、彼女は結婚もしないうちに病気が出て死んでしまったというのです。私も私の家内も、迂闊にも、そうした出来事を少しも知らないでいたのですね。実に意外な話でした。
で、そのすみ子が残して行った持ち物の中に、一つの小さな手文庫があって、中には女らしくこまごました品物が一杯はいっていたそうですが、それを田中は姉の形見として大切に保存していたわけです。
「此の写真に気がついたのは、姉が死んでから一年以上もたった時分でした」田中が言うのですね。
「こうして懐中鏡の裏に隠してあるのですから、ちょっとわかりません。その時はなんでも、ひまにあかして、手文庫の中の品物を検査していたのですが、この懐中鏡をひねくり廻しているうちに、ヒョッコリ秘密を発見してしまったのです。で、ゆうべ寝床の中でこの写真のことを思い出し、それですっかり疑問が解けたわけでした。なぜといって、私はその後も折りがあるごとにこのあなたの写真を抜き出して、死んだ姉のことを思い浮かべていたのですから、あなたという人は私にとって忘れることのできない、深いおなじみに違いないのです。先日お会いした時には、それを胴忘れして、写真ではなく実物のあなたに見覚えがあるように思い違えたわけなのです。又あなたにしても、」田中はニヤニヤ笑うのですね、「写真までやった女の顔をお忘れになるはずはなく、その女の弟のことですから、私に姉の面影があって、それをやっぱり以前に会ったように誤解なすったのではありますまいか」
聞いてみれば、田中の言う通りに違いないのです。しかし、それにしても腑に落ちないのは、写真はまあ、いろいろな人にやったことがあるのですから、すみ子が持っていても不思議はありませんけれど、それを彼女が懐中鏡の裏に秘めていたという点です。なんだか、彼女と私の立場が反対になったような気がしましてね。だって、片思いの方にこそ、そうした仕草をする理由はありましょうが、すみ子が、私の写真なぞを大切にしている道理がないのですからね。
ところが、田中にしてみますと、私とすみ子とのあいだに何か妙な関係があったものと独断してしまって、もっとも、それは無理もありませんけれど、その関係を打ち明けてくれといって迫まるのです。で、彼が言うのですね。姉の死因はむろん主として肉体的な病気のためには違いないけれど、弟の自分が見るところでは、ほかに何かあったのではないかと思う。というのは、たとえば生前起こっていた縁談に、姉が強硬に不同意を唱えたことなどから考えると、誰か心に思いつめている人があって、それが意のままにならない、というようなことが姉の死を早めたのではないか、とね。実際すみ子は国へ帰ってから一種の憂欝症にかかり、それのつづきのようにして病気にとりつかれたのだそうですから、田中の言うところももっともではあるのです。
さあ、そうなると、いい年をしていて、私の心臓は俄かに鼓動を早めるのですね。虫のいい考え方をすれば、片思いは私の方ばかりでなくて、すみ子も同じように、言い出し兼ねた恋を秘めて、うらめしい私たちの婚礼を眺めていたのだとも想像できるのですから、あの美しいすみ子が、そうして死んで行ったとすれば、私はどうすればいいのでしょう。嬉しいのですね。なんだかこう涙が喉のところへ込み上げてくるほど嬉しいのですね。
でも一方では、「こんなことが果たしてほんとうだろうか」という心持もあるのです。すみ子は私などに恋するには、あまりに美しく、あまりに気高い女性だったのですから。そこで、私と田中とのあいだに妙な押し問答がはじまったのですよ。私は大事を取るような気持で、「そんなことがあるはずはない」と言えば、田中は「でも、この写真をどう解釈すればいいのだ」とつめ寄る。で、そうして言い合っているうちに、私はだんだん感傷的になっていって、ついには私の片思いを打ち明けて、そういうわけだから、すみ子さんの方で私を思っていてくれたなんてことはあり得ないと、実はその反対をどれほどか希望しながら、まあ強弁したわけなんです。
ところが、話し、話し、懐中鏡をもてあそんでいた田中が、ふと何かに気がついた様子で、「やっぱりそうだ」と叫ぶのですよ。それが、大変なものを発見したのです。懐中鏡のサックは、さっきも言ったように塩瀬で作った二つ折りのもので、その表面の麻の葉つなぎかなんかの模様のあいだに、すみ子の手すさびらしく、目立たぬ色糸で、英語の組み合わせ文字の刺繍がしてあったのですが、それがIの字をSで包んだ形にできているのです。
「私は今までどうしても、この組み合わせ文字の意味がわからなかったのです」田中が言うのですね、「Sはなるほどすみ子の頭字かもしれませんが、Iの方は、実家の田中にも養家の北川にも当てはまらないのですからね。ところが、今ふっと気がつくと、あなたは栗原一造とおっしゃるではありませんか、イチゾウの頭字のIでなくてなんでしょう。写真といい、組み合わせ文字といい、これですっかり姉の思っていたことがわかりましたよ」
かさねがさねの証拠品に、私は嬉しいのか悲しいのか、妙に眼の内が熱くなってきました。そういえば、十数年以前の北川すみ子の、いろいろな仕草が、今となっては一々意味ありげに思い出されます。あの時あんなことを言ったのは、それでは私への謎であったのか。あの時こういう態度を示したのは、やっぱり心あってのことだったのかと、年がいもないと笑ってはいけません、次から次へ、甘い思い出にふけるのでした。
それから、私たちはほとんど終日、田中は姉の思い出を、私は学生時代の昔話を、事実が遠い過去のことであるだけに、少しもなまなましいところはなく、又いや味でもなく、ただ懐かしく語り合いました。そして、別かれる時に、私は田中にねだって、その懐中鏡と、すみ子の写真とを貰い受け、大切に、内ぶところに抱きしめて、家に帰ったことでした。
考えてみれば、実に不思議な因縁と言わねばなりません。偶然浅草公園の共同ベンチで出合った男が、昔の恋人の弟であって、しかも、その男からまるで予期しなかったその人の心持を知るなんて、それも、私たちが以前に会っているのだったら、さして不思議でもないのですが、まるで見ず知らずのあいだがらで、双方相手の顔を覚えていたのですからね。
そのことがあってから、当分というものは、私はすみ子のことばかり考えておりました。あのとき私に、なぜもっと勇気がなかったかと、それもむろん残念に思わぬではありませんが、何をいうにも年数のたったことではあり、こちらの年が年ですから、そんな現実的な事柄よりは、単になんとなく嬉しくて、また悲しくて、家内の目を盗んでは、形見の懐中鏡と写真とを眺め暮らし、夢のように淡い思い出にふけるばかりでした。
しかし、人間の心持は、なんと妙なものではありませんか。そんなふうに、私の思いは、決して現実的なものではなかったのに、ヒステリー患者とはいいながら、これまでさして厭にも思わなかった家内のお園が、きわ立っていとわしくなり、すみ子が睡っている三重県の田舎町が、そこへ一度も行ったことがないだけに、不思議にもなつかしく思えるのですね。そして、しまいには、巡礼のようなつつましやかな旅をして、すみ子のお墓参りがしてみたいとまで願うようになったものです。こんなふうの言い方をしますと、今になってはからだがねじれるほどいやみな気がしますけれど、当時は、子供のような純粋な心持で、ほんとうにそれまで思いつめたものなんです。
田中から聞いた、彼女のやさしい戒名を刻んだ石碑の前に、花を手向け香をたいて、そこで一とこと彼女に物が言ってみたい。そんな感傷的な空想さえ描くのでした。むろんこれは空想にすぎないのです。たとえ実行しようとしたところで、当時の生活状態では、旅費を工面する余裕さえなかったのですから。
で、お話がこれでおしまいですと、いわば四十男のおとぎ話として、たとえおのろけとはいえ、ちょっと面白い思い出に違いないのですが、ところが、実はこのつづきがあるのですよ。それを言うと非常な幻滅で、まるきり他愛のない落とし話になってしまうので、私も先を話したくないのですけれど、でも、事実は事実ですから、どうもいたし方がありません。なに、あんなことでうぬぼれてしまった私にとっては、いい見せしめかもしれないのですがね。
私がそんなふうにして、死んだすみ子の幻影を懐かしんでいたある日のことでした。ちょっとした手抜かりで、例の懐中鏡とすみ子の写真とを、私のヒステリーの家内に見つかってしまったわけなんです。それを知ったときは、困ったことになった、これでまた四、五日のあいだは、烈しい発作のお|守《も》りをしなければなるまいと、私はいっそ覚悟をきめてしまったほどでした。ところが、意外なことには、その二た品を前にして、私の破れ机の前に坐った家内は、いっこうヒステリーを起こす様子がないのです。そればかりか、ニコニコしながらこんなことを言うではありませんか。
「まあ、北川さんの写真じゃありませんか、どうしてこんなものがあったの。それに、まあ珍らしい懐中鏡、ずいぶん古いものですわね。私の行李から出てきたのですか、もうずっと前になくしてしまったとばかり思っていましたのに」
それを聞きますと、私はなんだか変だなと思いましたが、まだよくわからないで、ぼんやりして、そこにつっ立っておりました。家内はさも懐かしそうに懐中鏡をもてあそびながら、
「あたしが、この組み合わせ文字の刺繍を置いたのは、学校に通よっている頃ですわ、あなた、これがわかって」そういって、三十歳の家内が妙に色っぽくなるのですよ。「一造のIでしょう。園のSでしょう。まだあなたと一緒にならない前、お互の心が変わらないおまじないに、これを縫ったのですわ。わかって。どうしたのでしょうね。学校の修学旅行で日光に行った時、途中で盗まれてしまったつもりでいたのに」
というわけです。おわかりでしょう。つまりその懐中鏡は、私が甘くも信じきっていたすみ子のではなくて、私のヒステリー女房のお園のものだったのです。園もすみ子も頭字は同じSで、飛んだ思い違いをしたわけです。それにしてもお園の持ち物がどうしてすみ子の所にあったか、そこがどうも、よくわかりません。で、いろいろと家内に問いただしてみましたところ、結局こういうことが判明したのです。
家内が言いますには、その修学旅行の折り、懐中鏡は財布などといっしょに、手提げの中へ入れて持っていたのを、途中の宿屋で、誰かに盗まれてしまった。それがどうも、同じ生徒仲間らしかったというのです。私も仕方なく、すみ子の弟との出合いのことを打ち明けたのですが、すると家内は、それじゃあ、これはすみ子さんが盗んだのに違いない。あなたなんか知るまいけれど、すみ子さんの手くせの悪いことは級中でも誰知らぬ者もないほどだったから。じゃあ、きっとあの人だわと言うのです。
この家内の言葉が、でたらめや勘違いでなかった証拠には、その時にはもう抜き出してなくなっていた、鏡の裏の私の写真のことを覚えていました。それも家内が入れておいたものなんです。多分すみ子は、死ぬまで、この写真については知らずに過ぎたものに違いありません。それを彼女の弟が、気まぐれにもてあそんでいて、偶然見つけ出し、飛んだ勘違いをしたわけでしょう。
つまり、私は二重の失望を味わわねばならなかったのです。第一にすみ子が決して私などを思ってはいなかったこと、それから、もし家内の想像を真実とすれば、あれほど私が恋いしたっていた彼女が、見かけによらぬ泥棒娘であったこと。
ハハハハハハ、どうも御退屈さま。私のばかばかしい思い出話は、これでおしまいです。落ちを言ってしまえば、此の上もなくつまらないことですけれど、それがわかるまでは、私もちょっと緊張したものですがね。
算盤が恋を語る話
〇〇造船株式会社会計係りのTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやってきました。そして、会計部の事務室へはいると、外套と帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。
出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。
Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、彼の助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして何かこう、盗みでもするような恰好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一梃の|算《そろ》|盤《ばん》を取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきでその玉をパチパチはじきました。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」
彼はそこにおかれた非常に大きな金額を読みあげて、妙な笑い方をしました。そして、その算盤をそのままS子のデスクのなるべく目につきやすい場所へおいて、自分の席に帰ると、なにげなくその日の仕事に取りかかるのでした。
間もなく、ひとりの事務員がドアをあけてはいってきました。
「やあ、ばかに早いですね」
彼は驚いたようにTにあいさつしました。
「お早う」
Tは内気者らしく、のどへつまったような声で答えました。普通の事務員同士であったら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取りかわすのでしょうが、Tのまじめな性質を知っている相手は、気づまりのようにそのままだまって自分の席に着くと、バタンバタン音をさせて帳簿などを取り出すのでした。
やがて次から次へと、事務員たちがはいってきました。そして、その中にはもちろんTの助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTの方へ丁寧にあいさつをしておいて、自分のデスクに着きました。
Tは一所懸命に仕事をしているような顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。
「彼女は机の上の算盤に気がつくだろうか」
彼はヒヤヒヤしながら横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことは、彼女はそこに算盤が出ていることを少しもあやしまないで、さっさとそれを脇へのけると、背皮に金文字で、「原価計算簿」としるした大きな帳簿を取り出して、机の上にひろげるのでした。それを見たTはがっかりしてしまいました。彼の計画はまんまと失敗に帰したのです。
「だが、いちどぐらい失敗したって失望することはない。S子が気づくまでなんどだって繰り返せばいいのだ」
Tは心の中でそう思って、やっと気をとりなおしました。そしていつものように、まじめくさって、あたえられた仕事にいそしむのでした。
ほかの事務員たちは、てんでに冗談を言いあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわざわ騒いでいるのに、Tだけはその仲間に加わらないで、退出時間がくるまでは、むっつりとして、こつこつ仕事をしていました。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」
Tはその翌日も、S子の|算《そろ》|盤《ばん》に同じ金額をはじいて、机の上の目につく場所へおきました。そしてきのうと同じように、S子が出勤して席につく時の様子を熱心に見まもっていました。すると、彼女はやっぱりなんの気もつかないで、その算盤を脇へのけてしまうのです。
その次の日もまた次の日も、五日のあいだ同じことが繰り返されました。そして、六日目の朝のことです。その日はどうかしてS子がいつもより早く出勤してきました。それはちょうど例の金額を、S子の算盤において、やっと自分の席へもどったばかりのところだったものですから、Tは少なからずうろたえました。もしや今、算盤をおいているところを見られはしなかったか。彼はビクビクしながらS子の顔を見ました。しかし、仕合わせにも、彼女は何も知らぬようにいつもの丁寧なあいさつをして自席に着きました。
事務室にはTとS子ただふたりきりでした。
「こんどの××丸はもうやがてボイラーを取りつける時分ですが、製造原価の方もだいぶかさみましたろうね」
Tはてれかくしのようにこんなことを問いかけました。臆病者の彼は、こうした絶好の機会にも、とても仕事以外のことは口がきけないのです。
「ええ、工賃をまぜると、もう八十万円〔註、今の数億円に当たる〕を越しましたわ」
S子はちらっとTの顔を見て答えました。
「そうですか。こんどのはだいぶ大仕事ですね。でも、うまいもんですよ。そいつを倍にも売りつけるんですからね」
ああ、おれはとんでもない下品なことをいってしまった。Tはそれに気づくと思わず顔を赤くしました。この普通の人々にはなんでもないようなことがTには非常に気になるのです。そして、その赤面したところを相手に見られたという意識が、彼の頬をいっそうほてらせます。彼は変な|空《から》|咳《せき》をしながら、あらぬかたを向いてそれをごまかそうとしました。しかし、S子は、この立派な口ひげをはやした上役のTが、まさかそんなことで狼狽していようとは気づきませんから、なにげなく彼の言葉に合いづちを打つのでした。
そうして二たこと三こと話しあっているうちに、ふとS子は机の上の例の算盤に目をつけました。Tは思わずハッとして、彼女の眼つきに注意しましたが、彼女は、ただちょっとのあいだ、そのばかばかしく大きな金額を不審そうに見たばかりで、すぐ眼を上げて会話をつづけるのです。Tはまたしても失望を繰り返さねばなりませんでした。
それからまた数日のあいだ、同じことが執拗につづけられました。Tは毎朝S子の席に着く時をおそろしいような楽しいような気持で待ちました。でも二日三日とたつうちには、S子も帰る時には本立てへかたづけておく算盤が、朝来てみると必ず机のまんなかにキチンとおいてあるのを、どうやら不審がっている様子でした。そこにいつも同じ数字が示されているのにも気がついた様子です。ある時なぞは声を出してその十二億四千何百という金額を読んでいたくらいです。
そして或る日とうとうTの計画が成功しました。それは、最初から二週間もたった時分でしたが、その朝はS子がいつもより長いあいだ例の算盤を見つめていました。小首をかたむけてなにか考え込んでいるのです。Tはもう胸をドキドキさせながら、彼女の表情を、どんな些細な変化をも見のがすまいと、異常な熱心さでじっと見まもっていました。息づまるような数分間でした。が、しばらくすると、突然、何かハッとした様子で、S子が彼の方をふり向きました。そして、ふたりの眼がパッタリ出あってしまったのです。
Tは、その瞬間、彼女が何もかも悟ったに違いないと感じました。というのは、彼女はTの意味あり気な凝視に気づくと、いきなりまっ|赤《か》になってあちらを向いてしまったからです。もっとも、とりようによっては、彼女はただ、男から見つめられていたのに気づいて、その恥ずかしさで赤面したのかもしれないのですが、のぼせ上がったそのときのTには、そこまで考える余裕はありません。彼は自分も赤くなりながら、しかし非常な満足をもって、紅のように染まった彼女の美しい耳たぶを、気もそぞろにながめたことです。
ここでちょっと、Tのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。
読む人はすでに推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。そして、それが女に対しては一層ひどいのです。彼は学校を出てまだ間もないのではありますけれど、それにしても三十近い|今《こん》|日《にち》まで、なんと、いちども恋をしたことがない、いや、ろくろく若い女と口をきいたことすらないのです。むろん機会がなかったわけではありません。ちょっと想像もできないほど臆病な彼の性質|が禍《わざわい》したのです。それは一つは彼が自分の容貌に自信を持ち得ないからでもありました。うっかり恋をうちあけて、もしはねつけられたら。それがこわいのでした。臆病でいながら人一倍自尊心の強い彼は、そうして恋を拒絶せられた場合の、気まずさ恥ずかしさが、何よりも恐ろしく感じられたのです。「あんないけすかない人っちゃないわ」そういったゾッとするような言葉が、容貌に自信のない彼の耳許でたえず聞こえていました。
ところが、さしもの彼もこんどばかりは辛抱しきれなかったとみえます。S子はそれほど彼の心を捉えたのです。しかし、彼にはそれを正面から堂々と訴えるだけの勇気はもちろんありませんでした。なんとかして拒絶された場合にも、少しも恥ずかしくないような方法はないものかしら。卑怯にも彼はそんなことを考えるようになりました。そして、こうした男に特有の異常な執拗さをもっていろいろな方法を考えては打ち消し、考えては打ち消しするのでした。
彼は会社で|当《とう》のS子と席をならべて事務をとりながらも、そして彼女とさりげなく仕事の上の会話を取りかわしながらも、たえずそのことばかり考えていました。帳簿をつける時も、算盤をはじく時も、少しも忘れる暇はないのです。すると或る日のことでした。彼は算盤をはじきながら、ふと妙なことを考えつきました。
「少しわかりにくいかもしれぬが、これなら申し分がないな」
彼はニヤリと会心の|笑《え》みを浮かべたことです。彼の会社では、数十人の職工たちに毎月二回にわけて賃銀を支払うことになっていて、会計部は、その都度、工場から廻されるタイムカードによって、各職工の賃銀を計算し、ひとりひとりの賃銀袋にそれを入れて、各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。そのためには、数名の賃銀計算係りというものがいるのですけれど、非常にいそがしい仕事だものですから、多くの場合には、会計部の手すきのものが総出で、読み合わせからなにから手伝うことになっていました。
その際に、記帳の都合上、いつも何千というカードを、職工の姓名の頭字で「いろは」順に仕訳けをする必要があるのです。はじめのうちは机をとりのけて広くした場所へそれをただ「いろは」順にならべていくことにしていましたが、それでは手間取るというので、一度アカサタナハマヤラワと分類して、そのおのおのをさらにアイウエオなりカキクケコなりに仕訳ける方法をとることにしました。それを始終やっているものですから、会計部のものはアイウエオ五十音の位置を、もう諳んじているのです。たとえば「野崎」といえば五行目(ナ行)の第五番というふうにすぐ頭に浮かぶのです。
Tはこれを逆に適用して、算盤にあらわした数字によって簡単な暗号通信をやろうとしたのです。つまり、ノの字を現わすためには五十五と算盤をおけばよいのです。それがのべつにつづいていてはちょっとわかりにくいかもしれませんけれど、よく見ているうちには、日頃おなじみの数ですから、いつか気づく時があるに違いありません。
では、彼はS子にどういう言葉を通信したか、こころみにそれを解いてみましょうか。
十二億は一行目(ア行)の第二字という意味ですからイです。四千五百は四行目(タ行)の第五字ですからトです。同様にして三十二万はシ、二千二百はキ、二十二円もキ、七十二銭はミです。すなわち「いとしききみ」となります。
「愛しき君」もしこれを口にしたり、文章に書くのでしたら、Tには恥ずかしくてとてもできなかったでしょうが、こういうふうに算盤におくのならば平気です。ほかのものに悟られた場合には、なに偶然算盤の玉がそんなふうにならんでいたんだと言い抜けることができます。だいいち手紙などと違って証拠の残る憂いがないのです。実に万全の策といわねばなりません。幸いにして、S子がこれを解読して受け入れてくれればよし、万一そうでなかったとしても、彼女には、言葉や手紙で訴えたのと違って、あらわに拒絶することもできなければ、それを人に吹聴するわけにもいかないのです。さてこの方法はどうやら成功したらしく思われます。
「あのS子のそぶりでは、まず十中八九は大丈夫だ」
これならいよいよ大丈夫だと思ったTは、こんど少し金額をかえて、
「六十二万五千五百八十一円七十一銭」
とおきました。それをまた数日のあいだつづけたのです。これも前と同じ方法であてはめてみればすぐわかるのですが、「ヒノヤマ」となります。|樋《ひ》の山というのは、会社からあまり遠くない小山の上にある、その町の小さな遊園地でした。Tはこうしてあいびきの場所まで通信しはじめたのです。
その或る日のことでした。もう充分暗黙の了解が成り立っていると確信していたにかかわらず、Tはまだ仕事以外の言葉を話しかける勇気がなく、あいかわらず帳簿のことなぞを話題にしてS子と話していました。すると、ちょっと会話の途切れたあとで、S子はTの顔をジロジロ見ながら、その可愛い口許にちょっと|笑《え》みを浮かべてこんなことをいうのです。
「ここへ算盤をお出しになるの、あなたでしょ。もう先からね。あたしどういうわけだろうと思っていましたわ」
Tはギックリしましたが、ここでそれを否定しては折角の苦心が水のあわだと思ったものですから、満身の勇気をふるい起こしてこう答えました。
「ええ、僕ですよ」
だがなさけないことに、その声はおびただしくふるえていました。
「あら、やっぱりそうでしたの。ホホホホ」
そうして彼女はすぐほかの話題に話をそらしてしまったことですが、Tにはその時のS子の言葉がいつまでも忘れられないのでした。彼女はどういうわけであんなことをいったのでしょう。肯定のようにもとれます。そうかと思えばまた、まるで無邪気になにごとも気づいていないようでもあります。
「女の心持なんて、おれにはとてもわからない」
彼はいまさらのように嘆息するのでした。
「だが、ともあれ最後までやってみよう。たとえすっかり感づいていても、彼女もやっぱり恥ずかしいのだ」
彼にはそれがまんざらうぬぼれのためばかりだとも考えられぬのでした。そこで、その翌日、こんどは思いきって、
「二二八五一三二一一四九二五二」
とおきました。「キョウカエリニ」すなわち「きょう帰りに」という意味です。これで一か|八《ばち》か、かたがつこうというものです。きょう社の帰りに彼女が樋の山遊園地へくればよし、もしこなければ、こんどの計画は全然失敗なのです。「きょう帰りに」。その意味を悟った時、うぶな少女は一方ならず胸騒ぎを覚えたに違いありません。だが、あのとりすました平気らしい様子はどうしたことでしょう。ああ、吉か凶か、なんというもどかしさだ。Tはその日に限って退社時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。仕事なんかほとんど手につかないのです。
でも、やがて待ちに待った退社時間の四時がきました。事務室のそこここにバタンバタンと帳簿などをかたづける音がして、気の早い連中はもう外套を着ています。Tはじっとはやる心をおさえてS子の様子を注意していました。もし彼女が彼の指図にしたがって指定の場所にくるつもりなら、いかに平気をよそおっていても、帰りのあいさつをする時には、どこか態度にそれが現われぬはずはないと考えたのです。
しかし、ああ、やっぱりだめなのかな。彼女がTにいつもとおなじ丁寧なあいさつを残して、そこの壁にかけてあった襟巻をとり、ドアをあけて事務室を出ていってしまうまで、彼女の表情や態度からは、常にかわったなにものをも見出すことができないのでした。
思いまよったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんでした。
「ざまを見ろ。お前のような男は、年がら年中、こつこつと仕事さえしていればいいのだ。恋なんかがらにないのだ」
彼はわれとわが身を呪わないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな眼で、じっと一つところを見つめたまま、いつまでもいつまでもかいなきもの思いにふけるのでした。
ところが、しばらくそうしているうちに、彼はふと或るものを発見しました。今まで少しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたというのでしょう。彼が毎朝やる通りにあの算盤がチャンとおいてあるではありませんか。
思いがけぬ喜びが、ハッと彼の胸をおどらせました。彼はいきなりそのそばへ寄って、そこに示された数字を読んでみました。
「八三二二七一三三」
スーッと熱いものが、彼の頭の中にひろがりました。そして、にわかに早まった動悸が耳許で早鐘のように鳴り響きました。その算盤には彼のとおなじ暗号で「ゆきます」とおかれてあったのです。S子が彼に残していった返事でなくてなんでしょう。
彼はやにわに外套と帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れてしまって、いきなり事務室を飛び出しました。そして、そこにじっとたたずんで、彼のくるのを待ちわびているS子の姿を想像しながら、息せききって樋の山遊園地へと駈けつけました。
そこは遊園地といっても、小山の頂きにちょっとした広場があって、一、二軒の茶店が出ているかぎりの、見はらしがよいというほかには取柄のない場所なのですが、見れば、もうその茶店も店をとじてしまって、ガランとした広場には、暮れるに間のない赤茶けた日光が、樹立ちの影を長々と地上にしるしているばかりで、人っ子ひとりいないではありませんか。
「じゃあ、きっと彼女は着物でも着かえるために、いちど家に帰ったのだろう。なるほど、考えてみればあの古い海老茶の袴をはいた事務員姿では、まさかこられまいからな」
算盤の返事に安心しきった彼は、そこに抛り出してあった茶店の床几に腰かけて、タバコをふかしながら、この生れてはじめての待つ身のつらさを、どうして、つらいどころか、はなはだ甘い気持で味わうのでした。
しかし、S子はなかなかやってこないのです。あたりはだんだん薄暗くなってきます。悲しげな鳥どもの鳴き声や、間近の駅から聞こえてくる汽笛の音などが、広場のまん中にひとりぽつねんと腰をかけているTの心にさびしく響いてきます。
やがて夜がきました。広場のところどころに立てられた電灯が寒く光りはじめます。こうなると、さすがのTも不安を感じないではいられませんでした。
「ひょっとしたら、うちの首尾がわるくて出られないのかもしれない」
今では、それが唯一の望みでした。
「それともまた、おれの思い違いではないかしら。あれは暗号でもなんでもなかったのかもしれない」
彼はいらいらしながら、その辺をあちらこちらと歩き廻るのでした。心の中がまるでからっぽになってしまって、ただ頭だけがカッカとほてるのです。S子のいろいろの姿態が、表情が、言葉が、それからそれへと目先に浮かんできます。
「きっと、彼女もうちでくよくよおれのことを心配しているのだ」
そう思う時には、彼の心臓は熱病のようにはげしく鳴るのです。しかし、また或る時は身も世もあらぬ焦躁がおそってきます。そして、この寒空にこぬ人を待って、いつまでもこんなところにうろついているわが身が、腹立たしいほどおろかに思われてくるのです。
二時間以上もむなしく待ったでしょうか。もう辛抱しきれなくなった彼は、やがてとぼとぼと力ない足どりで山を下りはじめました。
そして山のなかばほどおりた時です。彼はハッとしたようにそこへ立ちすくみました。ふと、とんでもない考えが彼の頭に浮かんだのです。
「だが、はたしてそんなことがありうるだろうか」
彼はそのばかばかしい考えを一笑に付してしまおうとしました。しかし、いちど浮かんだ疑いは容易に消し去るべくもありません。彼はもう、それを確かめてみないではじっとしていられないのでした。
彼は大急ぎで会社へ引き返しました。そして、小使いに会計部の事務室のドアをひらかせると、やにわにS子の机の前へ行って、そこの本立てに立ててあった原価計算簿を取り出し、××丸の製造原価を記入した部分をひらきました。
「八十三万二千二百七十一円三十三銭」
これはまあなんという奇蹟でしょう。その帳尻の締め高は、偶然にも「ゆきます」というあの暗号に一致していたではありませんか。きょうS子はその締め高を計算したまま、算盤をかたづけるのを忘れて帰ったというにすぎないのです。そして、それは決して恋の通信などではなくて、ただ魂のない数字の羅列だったのです。
あまりのことにあっけにとられた彼は、一種異様な顔つきで、ボンヤリとその呪わしい数字をながめていました。すべての思考力を失った彼の頭の中には、彼の十数日にわたる惨憺たる焦慮などには少しも気づかないで、あの快活な笑い声をたてながら、暖かい家庭で無邪気に談笑しているS子の姿がまざまざと浮かんでくるのでした。
妻に失恋した男
わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺したのです。
「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっぽっちもおれを愛してはいないのだ。
よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、怒ると、はっとしたように、愛想よくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真からきらわれているんだ。
じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は少しもない。おれは疑い深くなって、ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生れつき氷のように冷たい女なのか。いや、そうじゃない。おれのほかの愛しうる男を見つけたら、烈しい情熱を出せる女だ。あいつは相手をまちがえたのだ。仲人結婚がお互の不幸のもとになったのだ。
結婚して一年ほどは何も感じなかった。こういうものだと思っていた。二年三年とたつにつれて、だんだんわかってきた。あいつがおれを少しも愛していないことがだよ。不幸なことに、おれの方では逆に、年がたつほど、いよいよ深く、あいつにほれて行ったのだ。そして、半年ほど前から、その不満が我慢できないほど烈しくなってきた。こうもきらわれるものだろうか。だが、いくらきらわれても、おれはあいつを手ばなすことはできない。ほれた相手に代用品なんかあるもんか。ああ、おれはどうすればいいのだ。
おれは、あいつを殺してやろうと思ったことが、何度あるかしれない。だが、殺してどうなるのだ。相手がいなくなったからって、忘れられるもんじゃない。おれは失恋で死んでしまうだろう。
しかし、もう一日もこのままじゃ、いられない。あいつが殺せないなら、おれが死ぬほかないじゃないか。おれは死にたい、死にたい、死にたい」
こんなよまいごとを、直接聞いたわけじゃありません。南田収一が酔ったまぎれに、涙をこぼしながら、わめきちらしたことが、たびたびあったと、南田の親しい友だちから、あとになって聞きこんだのです。その友だちは、こわいろ入りで話してくれましたが、まあこんなふうだったろうと、わたしが想像してお話しするわけですよ。
ある晩、南田収一は自分の書斎のドアに中からカギをかけて、小型のピストルで自殺してしまいました。わたしはその知らせをうけて、すぐに同僚といっしょに、S町の南田家へかけつけました。
そのときはまだ、自分の妻に失恋して自殺したなんて少しも知らないので、自殺の動機をさぐり出すのに、たいへん骨がおれました。
南田の父親は戦後のドサクサまぎれに財産を作った男で、南田収一はその財産を利殖して暮らしていればよいのでした。父母は死んでしまい、兄弟もなく、うるさい親戚もないという羨ましい身の上でした。つき合いも広くはなく、夫婦で旅行をしたり、いっしょに映画や芝居を見るぐらいが楽しみで、近所では実に仲のよい仕合わせな夫婦だと思いこんでいました。
変事の知らせがあったのは夜の九時半でしたが、かけつけて奥さんのみや子さんに聞いてみると、そのとき、女中は母親が病気で午後から千住の自宅へ出かけてまだ帰らず、主人は虫歯が痛むといって、琴浦という近所の歯科医へ行って、帰ったかとおもうと、そのまま洋室の書斎へとじこもってしまって、なにか考えごとにふけっている。奥さんは手持ぶさたに、茶の間で編みものをしていたというのです。
すると、書斎の方で、なにかへんな音がした。表の大通りからオートバイなどの爆音がよくきこえてくるので、へんな音にはなれていたけれど、今のはなんだか感じがちがう。それに主人が毎日ひどくふさいでいたことも気にかかるので、書斎へ行ってドアをあけようとしたが、中からカギがかかっている。いくら叩いても返事がない。合鍵というものが作ってないので、そとへまわって、ガラス窓からのぞいてみると、主人があおむけに倒れて、口から血が流れていたというのです。
わたしたちも、その窓のガラスを破って書斎にはいり、机の上にあった鍵でドアをひらきました。
南田収一は黒い背広を着て、あおむけに倒れていました。口と後頭部が血だらけで、息が絶えていることは、一見してわかりました。あとから警視庁鑑識課の医者がしらべましたが、南田は小型ピストルの筒口を口の中へ入れて発射したのです。後頭部が割れて、ひどい状態になっていました。
貫通銃創ですから、ピストルのたまがどこかになければなりません。室内を調べてみると、そのたまは一方のシックイ壁に深く突き刺さっていました。南田はその壁の前に立って自殺したのです。遺書らしいものは、いくら探しても発見されませんでした。
むろんピストルの出所が問題になりました。許可を受けて所持していたわけではなかったのです。これは戦争直後、南田の父親がアメリカ人からもらったもので、たまといっしょに机の引出しの奥にしまったまま、奥さんなどは忘れてしまっていたということでした。
密室の中の自殺で、ピストルは南田が右手に握ったままなのですから、これはもう少しも疑うところはありません。自殺にちがいないと判断されました。
いくら疑いのない情況でも、警察の仕事はそれで終るわけではありません。自殺の動機を調べてみなければならないのです。
わたしは奥さんにそれをたずねる役を引きうけました。事件の翌日、少し気のしずまるのを待って、南田家の茶の間でさし向かいになり、いろいろたずねてみました。
みや子さんは、南田があれほど恋したのも無理はないほど魅力のある女性でした。年は二十八歳、南田が痩せっぽちの小男なのにくらべて、上背のある豊かなからだで、目のさめるような美しい人でした。
奥さんと話しているうちに、わたしは何か隠しているなという感じを受けました。しかし、そう深くたずねるわけにもいきませんので、故人の友だちを教えてもらって、次々とあたってみることにしました。そして、最初にお話しした親しい友だちを見つけ、南田の奇妙な失恋の話を聞きこんだのです。
そこで、もう一度奥さんに会って、うまく話を持っていきますと、奥さんもちゃんとそれを知っていたことがわかりました。主人のその気持はわかっていたが、自分にはあれ以上どうすることもできなかった。主人は精神異常者だったのではないかというのです。
しかし、わたしには、みや子さんが、いわゆる冷たい女だとは、どうしても考えられませんでした。こういう女に冷たく仕向けられたら、南田が悶えたのも無理はないとさえ思いました。
これで自殺の動機は推定されたのです。普通の人間はそんなことで自殺はしないでしょうが、病的な神経の持ち主ならば、そういう気持にならないとも限りません。そこで、この事件は一応けりがついたわけです。
ところが、わたしはこの結論に満足しなかったのです。自分の妻に失恋して自殺したというのは、人間心理の一つの極端なケースとして、小説にでも書けば面白いかもしれませんが、わたしにはどうも納得できませんでした。長年刑事をやってきた経験からの勘というやつが承知しないのです。
ですから、この事件が警察の手をはなれてからも、わたしは余暇を利用して、もっと深くさぐってみようと決心しました。実はそういう抜けがけの功名みたいなことは禁じられているのですが、余暇を利用して、個人としてやるのなら構わないと思いました。
わたしは南田家の近所から聞きこみをしようと、いろいろやってみましたが、何も出てきません。みや子さんも、一週間に一度ぐらい訪ねて、無駄話をしました。しかし、ここからも何も引き出せません。
みや子さんは主人の葬式をすませると、広い家に女中とふたりで、つつましく暮らしていました。むろん南田の財産はみや子さんのものになるのです。その額は三千万円を下らないだろうということでした。
わたしは、ふと、南田が自殺の直前に琴浦という近所の歯科医院へ行ったということを思い出し、そこを訪ねてみました。事件の当時にも、「自殺するものが歯を治したって仕方がないじゃないか」と思ったので、みや子さんに聞いてみましたが、この夫妻はふたりとも歯性が悪く、たえず近所の琴浦歯科医院へかよっていて、南田が自殺の前にも虫歯が烈しく痛みだし、ともかくその痛みをとめるために歯医者へかけつけたのだろうということでした。歯医者へ行ったときには、まだ充分決心がついていなかったのかもしれません。そして、書斎で物思いにふけっているあいだに、とうとう自殺する気になったのかもしれません。こういう微妙な点は常識だけでは判断できないものです。
琴浦という歯医者は南田家の裏にあたるT町の大通りにありました。歩いて三分ぐらいの距離です。琴浦医師は一年ほど前奥さんに死なれて、子どももなく、かよいの看護婦と女中だけで暮らしているということでした。四十ぐらいのがっしりした男で、マユの太い骨ばった浅黒い顔で、背も高く、肩幅も広く、スポーツできたえたような頼もしい体格です。聞いてみると、南田が自殺の直前、虫歯の痛みをとめてもらいに来たのは事実で、しかし、歯の痛みだけでなく、何か非常に憂欝な様子だったというのです。それ以上のことは何もわかりませんでした。
それから三カ月ほど、わたしは執念深くこの事件に食い下りました。故人の友だち関係は申すまでもなく、あらゆる方面を調べました。琴浦歯科医院に出入りする薬屋や医療器械店まで訪ねたほどです。
すると、Kという医療器械店の店員から、へんなことを聞きこみました。事件の直後、琴浦医院の治療室にある手術椅子の、差しこみになった枕だけを一個、至急持ってくるようにと、注文を受けたというのです。では、古いのと取りかえたのかと聞きますと、古いのは薬品で汚したので捨ててしまったといわれるので、取りかえでなく新しいのだけを渡したという返事でした。
わたしは、このちょっとした事実にこだわりました。こだわる理由があったのです。そこで、琴浦医師にはないしょで、女中さんに、古い枕を捨てたことはないか、ゴミ箱にそういうものがはいっていなかったかとただし、また、その辺を回っているゴミ車の人夫をとらえて、聞き出そうとしたり、手をつくして調べました。しかし、だれも古い枕を見たものはないのです。
琴浦医師はその古い枕を焼きすてたのではないかと想像しました。手術椅子の枕を、なぜ焼きすてなければならなかったか。
わたしは一つの仮説を立てていました。非常に突飛な仮説ですが、そこにこの事件の盲点があるのではないかと考えたのです。そして、琴浦氏が枕を焼きすてたという想像は、このわたしの仮説とぴったり適合したのです。
みや子さんもたびたび琴浦医師に歯の治療をしてもらっていたということを聞いたときから、わたしは一つの疑いをもっていました。みや子さんは琴浦医師に、はじめて真に愛しうる男性を見いだしたのではないか。そして、ついにふたりは共謀して南田を殺害するにいたったのではないかという考えです。治療椅子の枕を新らしくしたという事実が、この考えを強力に裏書きしました。
わたしは琴浦とみや子さんの身辺に、いよいよ執念ぶかく、つきまといました。ふたりが話し合っている部屋のそとから、立ち聞きしたことも、たびたびでした。
そして、南田が死んでから、ちょうど三月目に、ふたりは恐怖に耐えられなくなって、わたしの前に兜をぬいだのです。
みや子は南田に対して極度に用心ぶかくしていました。南田の生前には、琴浦と最後の関係におよんでいなかったほどです。看護婦の目を盗んで、ささやきと愛撫だけで我慢しながら、その我慢のつらさゆえにこそ、ついにこの完全犯罪ともいうべき殺人を計画するにいたったのです。むろん、三千万円の相続ということも、強い動機でした。
琴浦はなぜ治療椅子の枕を焼きすてたか。その枕はピストルのたまで射抜かれ、血のりで汚れたからです。それが恐ろしい他殺の証拠になるからです。
犯人が被害者の口の中へピストルのつつ先を入れて発射するなんて、まったく不必要なことですし、普通の場合、ほとんど不可能な方法です。したがって、口中にピストルをうちこんだ死体を見たら、だれでも自殺としか考えないでしょう。その裏をかいたのがこの犯罪でした。
歯科医はいろいろな金属の器具を患者の口の中に入れて治療します。そのとき患者はたいてい眼をつぶっているものです。たとえ眼をあいていても、視角をはずして下の方からピストルを近づけ、その先を口の中へ入れれば、やはり治療の器具だとおもって、患者はじっとしているでしょう。そこで手早く発射すればよいのでした。
そのとき看護婦はもう家へ帰っていましたし、女中は口実を設けて使いに出してありました。また、問題のピストルは、みや子が主人の机の引出しの奥から取り出して、前もって琴浦に渡しておいたのです。
ピストルのたまが南田の頭蓋骨を貫通し、枕の木をつらぬいて床におちたのを、あとで、南田家の書斎の壁に叩きこんでおいたというのです。柔かいものを当てて、金ヅチで叩いたのです。
この犯罪には、もう一つ都合のよい条件がありました。南田家と歯科医院は、表から回れば三分もかかりますが、裏口は、草のしげった空き地をへだてて、つい目と鼻のあいだに向かい合っていたことです。琴浦とみや子は、治療室の死体を、夜にまぎれて、裏口から南田家の書斎へ運び、指紋をふきとったピストルを、死体の手に握らせ、別の鍵でドアをしめました。カギはほんとうに一つしかなかったのですが、歯科医ですから、みや子に型をとらせて、合カギを鋳造するぐらい、わけのないことでした。
盗難
面白い話しがあるのですよ。私の実験談ですがね。こいつをなんとかしたら、あなたの探偵小説の材料にならないもんでもありませんよ。聞きますか。え、是非話せって。それじゃ至って話し下手でお聞きづらいでしょうが、一つお話ししましょうかね。
決して作り話じゃないのですよ。とお断りするわけは、この話はこれまで、たびたび人に話して聞かせたことがあるのですが、そいつがあんまり作ったように面白くできているもんだから、そりゃあお前、なんかの小説本から仕込んできた種じゃないか、なんて、大抵の人がほんとうにしないくらいなんです。しかし正真正銘いつわりなしの事実談ですよ。
今じゃこんなやくざな仕事をしていますが、三年前までは、これでも私は宗教に関係していた男です。なんて言いますと、ちょっと立派に聞こえますがね。実はくだらないんですよ。あんまり自慢になるような宗教でもない。××教といってね、あんたなんか多分ご承知ないでしょうが、まあ天理教や金光教の親類みたいなものです。もっとも、宗旨のものにいわせれば、そりゃいろいろもったいらしい理窟があるのですけれど。
本山、というほどの大げさなものでもありませんが、そのお宗旨の本家は××県にありまして、それの支教会が、あの地方のちょっと大きい町には大抵あるのです。私のいましたのはそのうちのN市の支教会でした。このN市のは数ある支教会のうちでもなかなか羽振りのいい方でしたよ。それというのが、そこの主任――宗旨ではやかましい名前がついてますけれど、まあ主任ですね。それが私の同郷の者で古い知合いでしたが、そりゃ実にやり手なんです。といっても、決して宗教的な、悟りをひらいたというようなのではなくて、まあ商才にたけていたとでも言いますかね。宗教に商才は少し変ですけれど、信者をふやしたり、寄付金を集めたりする腕前は、なかなかあざやかなものでしたよ。
今もいったように、私はその主任と同郷の縁故で、あれは何年になるかな。エート、私の二十七の年だから、そうですね、ちょうど今から七年前ですね。そこへ住み込んだのですよ。ちょっとしたしくじりがありまして、職に離れたものですから、どうにもしようがなくて、一時のしのぎに、早くいえば居候をきめ込んだわけですね。ところが、いっこう足が抜けなくて、ごろごろしているうちには、だんだん宗旨のことにもなれてくる、自然いろいろの用事を仰せつかる、というわけで、しまいにはその教会の雑用係りとして、とうとう根をすえてしまったのです。あれで、足かけ五年もいましたからね。
むろん私は信者になったわけではありません。根が信仰心の乏しいところへ、内幕を知ってしまって、しかつめらしい顔をしてお説教をしている主任が、裏へ廻ってみれば、酒を飲むわ、女狂いはするわ、夫婦喧嘩は絶え間がないという始末では、どうも信仰も起こりませんよ。やり手といわれるような人にはあり勝ちのことなんでしょうが、主任というのはそんな男だったのです。
ところが、信者となると、ああいう宗旨の信者はまた格別ですね。気ちがいみたいなのが多いのですよ。普通のお寺のことはよく知りませんが、寄進などでも、なかなか派手にやりますね。よくまあ惜しげもなくあんなに納められたもんだと、私のような無信仰のものには不思議に思われるくらいですよ。したがって、主任の暮し向きなんか贅沢なものです。信者からまき上げた金で相場に手を出していたくらいですからね。私はいったいあきっぽいたちでして、それまでは同じ仕事を二年とつづけたことはないほどですが、その私が教会に五年辛抱したというのは、そういうわけで、私などにも、自然実入りがたっぷりあって、居心地がよかったからでしょうね。では、なぜそんないい仕事をよしてしまったか。さあ、それがお話なんですよ。
さて、その教会の説教所というのは、もう十何年も前に建てられたもので、私がそこへ行った時分には、大分いたんでもいるし、汚なくもなっていました。それに、主任が変ってから、にわかに信者がふえて、可なり手狭でもあったのです。そこで、主任は、説教所を建て増して広くし、同時にいたんだ箇所の手入れをすることを思い立ちました。といっても、別に積立金があるわけではなく、本部にいってやったところで、多少の補助はしてくれるでしょうが、とても増築費全部を支出させるわけにはいきません。結局は信者から寄付金を募るほかはないのです。費用といっても、増築のことですから、一万円〔註、今の三、四百万円〕足らずですむのですが、田舎の支教会の手でそれだけ寄付金を集めるというのは、なかなか骨です。もし主任にさっきいったような商才がなかったら、多分あんなにうまくはいかなかったでしょう。
ところで、主任のとった寄付金募集の手段というのが面白いのです。こうなるとまるで詐欺ですね。先ず信者中第一の金満家、市でも一流の商家のご隠居なんですがね。その老人を、なんでも神様から夢のお告げがあったなどともったいをつけて、うまく説き伏せ、寄付者の筆頭として三千円でしたか納めさせてしまったのです。そりゃ、こういう事にかけちゃとてもすごい腕前ですからね。で、この三千円がおとりになるわけです。主任はそれを現金のまま備えつけの小形金庫の中へ入れておいて、信者のくるたびに、
「ご奇特なことです。だれだれさんは、もうこの通り大枚の寄進につかれております」
などと見せびらかし、同時に例のまことしやかな夢のお告げを用いるものですから、だれしも断りきれなくなって、応分の寄付をする。中には虎の子の貯金をはたいて信仰ぶりを見せる連中もあるというわけで、みるみる寄付金の額は増して行くのでした。考えてみると、あんな楽な商売はありませんね。十日ばかりのあいだに五千円〔注、今の二百万円ほど〕も集まりましたからね。この分で行けば、一と月もたたないうちに予定の増築費はわけもなく手に入れることができるだろうと、主任はもうほくほくものなんです。
ところがね、大変なことが起こったのです。ある日のこと、主任にあてて、実に妙な手紙が舞い込んだじゃありませんか。あなた方のお書きになる小説の方では、いっこう珍らしくもないことでしょうが、実際にあんな手紙がきてはちょっとめんくらいますよ。その文面はね、「今夜十二時の時計を合図に貴殿の手もとに集まっている寄付金を頂戴に推参する。ご用意を願う」というのです。ずいぶん酔狂なやつもあったもので、泥棒の予告をしてきたのですよ。どうです、面白いでしょう。よく考えてみれば、ばかばかしいようなことですけれど、その時は私なんか青くなりましたね。今もいうように寄付金は全部現金で金庫に入れてあって、それをたくさんの信者たちに見せびらかしているのですから、今教会にまとまった金があるということは、一部の人々には知れ渡っているのです。どうかして悪いやつの耳にはいっていないとも限りません。ですから泥棒がはいるのは不思議はないのですが、それを時間まで予告してやってくるというのはいかにも変です。
主任などは「なあに、だれかのいたずらだろう」といって平気でいます。なるほどいたずらででもなければ、こんなわざわざ用心させるような手紙を出す泥棒があるはずはないのですから。でもね、理窟はまあそういったものですけれど、私はどうやら心配で仕方がないのです。用心するに越したことはない。一時この金を銀行へ預けたらどうだろうと、主任に勧めてみても、先生いっこうとりあってくれません。では、せめて警察へだけは届けておこうと、ようやく主任を納得させて、私が行くことになりました。
お昼すぎでした、身支度をして表へ出て警察の方へ一丁ばかりも行きますと、うまいぐあいに向こうから、四、五日前に戸籍調べにきて顔を見覚えている警官が、テクテクやってくるのに出会ったものですから、それをつかまえて、実はこれこれだと一部始終を話したのです。いかにも強そうなヒゲ武者の警官でしたがね。私の話を聞くと、いきなり笑い出したじゃありませんか。
「おいおい、君は世のなかにそんな間抜けな泥棒があると思うのか。ワハハハハハ、一杯かつがれたのだよ、一杯」
恐い顔をしているけれど、なかなか磊落な男です。
「しかし、私どもの立場になってみますと、なんだかうす気味がわるくてしようがないのですが、念のために一応お調べくださるわけにはいきますまいか」
私が押して言いますと、
「じゃあね、ちょうど今夜は僕があの辺を廻ることになっているから、その時分に一度行ってみて上げよう。むろん泥棒なんてきやしないけれど、どうせついでだからね。お茶でも入れておいてくれたまえ。ハハハハハ」
と、どこまでも冗談にしているのです。でもまあ、きてくれるというので私も安心して、くれぐれも忘れないようにと念を押してそのまま教会へ帰りました。
さて、その晩です。いつもなら、夜の説教でもない限り、もう九時頃になると寝てしまうのですが、今夜はなんだか気になって寝るわけにはいきません。私は警官との約束もあったので、お茶とお菓子の用意をさせて、奥の一と間で――それが信者との応接間だったのです――そこの机の前に坐って、じっと十二時になるのをまっていました。妙なもので、床の間に置いてある金庫から眼が離せないような気がするのです。そうしているうちに、すうっと中の金だけが消えてゆきやしないかなんて思われましてね。
それでも多少心配になるかして、主任も時々その部屋へやってきて、私に世間話などしかけました。なんだかばかに夜が長いように思われます。やがて、十二時近くになると、感心に約束をたがえないで、昼間の警官がやってきました。そこでさっそく奥へ上がってもらって、金庫の前で主任と警官と私と三人が車座になってお茶を飲みながら番をすることにしました。いや、番をするつもりでいたのは、たぶん私だけだったかもしれません。主任も警官も、昼間の手紙のことなんかてんで問題にしていないのです。おまわりさんなかなか議論家で、主任をつかまえて盛んに宗教論を戦わせている。先生まるでそんな議論をやるために来たようなあんばいなのです。そりゃ、テクテクくら闇の町を巡廻しているよりは、お茶を飲んで議論をしている方が愉快に違いありませんからね。なんだか私一人くよくよ心配しているのがばかばかしくなったものですよ。
しばらくしますと、しゃべりたいだけしゃべってしまった警官は、ふと気がついたように私の顔を見ながらいうのです。
「あ、もう十二時半だね。それ見たまえ、あれはやっぱりいたずらだったね」
そうなると私はいささか恥かしく、「ええ、お蔭さまで」とかなんとかあいまいに答えたのですが、すると警官が金庫の方を見て、
「で、金はたしかにその中にはいっているのだろうね」
と妙なことを聞くではありませんか。私はからかわれたような気がして、いささかむっとしたものですから、
「むろんはいっていますよ。なんならお眼にかけましょうか」
と皮肉に言いかえしたものです。
「いや、はいっていればいいがね。念のために一応調べておいた方がいいかもしれないよ。ハハハハハ」
と先方もあくまでからかってきます。私はもうしゃくにさわってしようがないものですから、
「ごらんなさい」
と言いながら、金庫の文字合わせを廻してそれをひらき、中の札束を取り出して見せました。すると警官がね、
「なるほど、そこですっかり安心してしまったわけだね」
私はうまくまねられませんけれど、そりゃあいやな言い方でしたよ。なんだか変に奥歯に物のはさまったような調子で、意味ありげにニヤニヤ笑っているのですからね。
「だが、泥棒の方にはどんな手段があるかもしれないのだ。君はこの通り金があるから大丈夫だと思っているのだろうが、これは」そういって警官はそこにおいてあった札束を手にとりながら、「これは、もうとっくに泥棒のものになっているかもしれないよ」と妙なことを言うではありませんか。
それを聞くと、私は思わずゾッと身ぶるいしました。こうなんともえたいの知れない凄い気持ですね。こんなふうに話したんじゃ、ちょっとわからないかもしれませんけれど。何十秒かのあいだ、私たちは物もいわないでじっとしていました。お互いに相手の眼の中を見つめて、何事かを探りあっているのです。
「ハハハハハ、わかったね。じゃ、これで失敬するよ」
突然、警官はそういって立ち上がりました。札束は手に持ったままですよ。それから、もう一方の手には、ポケットから取り出したピストルを油断なく私たちの方へ向けながらですよ。にくらしいじゃありませんか。そんな際にも警官の口調を改めないで、失敬するよなんていっているんですよ。よっぽど|胆《たん》のすわったやつですね。
むろん、主任も私も声を立てることもできないで、ぼんやり坐ったままでした。どぎもを抜かれましたよ。まさか戸籍調べにきて顔なじみになっておくという新手があろうとは気がつきませんや。もうほんとうの警官だと信じきっていたのですからね。
やつはそのまま部屋のそとへ出ましたが、帰るかと思うとそうじゃないのです。出たあとの襖を僅かばかりあけておいて、その隙間からピストルの筒口を私たちの方へ向けてじっとしているのです。長いあいだ少しも動かないのです。暗くてよくわからないけれど、ピストルの上の隙間からは、曲者の片方の目玉がこちらをにらんでいるような気がします………え、わかりましたか。さすがはご商売柄ですね。その通りですよ。鴨居の釘から細い紐でピストルをつり下げて、いかにも人間がねらいを定めているように見せかけたのです。しかしその時の私たちには、そんなことを考える余裕なんかありやしません。今にもズドンときやしないかという恐ろしさで一杯ですからね。しばらくして、主任の細君がそのピストルの見えている襖をあけて部屋へはいってきたので、やっと様子がわかったような始末でした。
滑稽だったのは、そうして金を盗んで行く警官を、いや警官に化けた泥棒を、主任の細君が玄関まで丁寧に送り出したことです。別に大きな声を立てたわけでも、立ち騒いだわけでもないのですから、茶の間にいた細君には少しも様子がわからなかったのです。そこを通るとき曲者は「お邪魔しました」なんて、平気で細君に声をかけたそうですよ。「まあお見送りもいたしませんで」と、細君もちょっと妙に思ったそうですが、とにかく自分で玄関まで見送ったというのです。いや大笑いですよ。
それから、寝ていた雇い人なども起きてきて大騒ぎになったのですが、その時分には、泥棒はもう十丁も先へ逃げているころでした。皆のものが期せずして|門《かど》|口《ぐち》まで駈け出しました。そして、暗い町の左右を眺めながら、あちらへ逃げた、こちらへ逃げたと、くだらない評定に時を移したものです。夜ふけですから、両側の商家なども、戸をしめてしまって、町はまっ暗です。四軒に一つか、五軒に一つくらいの割で、丸い軒燈がちらほらとさびしく光っているばかりです。するとね、向こうの横町からぽっかりと一つの黒い影が現われて、こちらへやってくるのが、どうやら警官らしいじゃありませんか。私はそれを見ると、今の泥棒がわれわれに刃向かうために、もう一度帰ってきたのじゃないかと思って、ハッとしました。そして思わず主任の腕をつかんでだまってその方を指さしたのです。
だが、それは泥棒ではなくて、今度は本物の警官でした。その警官が私たちのガヤガヤ騒いでいるのを不審に思ったとみえて、どうしたのだとたずねるのです。そこで主任と私とが、ちょうどいいところです、まあお聞きくださいというわけで、盗難の次第を話しますと、警官のいうには、今から追っかけてみたところでとてもだめだから、自分がこれから署に帰ってさっそく非常線を張るように手配をする。むろんそれはにせの警官に違いないが、そんな服装をしていれば人眼につき易いから大丈夫つかまる、安心しろということで、盗難の金額や泥棒の風体など詳しく聞きとって手帳に書きこみ、大いそぎで今きた方へ引き返して行きました。警官の口ぶりでは、もうわけもなく泥棒をつかまえ、金を取り戻すことができるような話だったので、私たちも大変たのもしく思い、一と安心したことですが、さて、なかなかどうして、そううまく行くものではありません。
きょうは警察から通知があるか、あすはとられた金が返るかと、その当座は毎日そのことばかり話しあっていました。ところが、五日たっても十日たっても、いっこう音沙汰がないではありませんか。むろん、そのあいだには、主任がたびたび警察へ出かけて様子をたずねていたのですけれど、なかなか金は返ってきそうもないのです。
「警察なんて実に冷淡なもんだ。あの調子ではとても泥棒はつかまらないよ」
主任はだんだん警察のやり方に愛想をつかして、司法主任が横柄なやつだとか、このあいだの警官が、あんなに請合っておきながら、近頃では自分の顔を見ると逃げまわっているとか、いろいろ不平をこぼすようになりました。そうして半月とたち一と月と過ぎましたが、やっぱり泥棒は捕まらないのです。信者たちも寄り合いなどを開いて大騒ぎをやっているのですが、なにぶんそんな宗旨の信者のことですから、さてどうしようという智恵も出ないのです。そこで、とられたものはとられたものとして、警察にまかせておいて、改めて寄付金の募集に着手することになりました。そして、例の主任の巧みな弁説によって相当の成績を上げ、結局、予定に近い寄付金が集まって、増築の方はまあ計画通りうまくいったのですが、それはこのお話しに関係がないから略するとして。
さて、盗難事件から二た月ばかりのちの或る日のことです。私は所用があってA市から五、六里隔たったところにあるY町まで出かけたことがあります。Y町には近郷でも有名な浄土宗の寺院があるのですが、ちょうど私の行った日は一年に一度の盛大なお説教がはじまっていて、七日のあいだとか、その寺院の付近一帯はお祭り騒ぎをやっているのです。軽業だとか因果者師だとかのかけ小屋が幾つも建てられ、いろいろなたべ物や玩具の露店が軒を並べ、ドンチャン、ドンチャンと大変な騒ぎです。
用事をすませた私は、別に急いで帰る必要もなかったものですから、時候は長閑な春のことであり、陽気な音楽や人声につられて、ついその盛り場へ足を踏み入れ、あちらの見世物、こちらの物売りと、人だかりの背後からのぞいて廻ったものです。
あれはなんでしたっけ、確か歯の薬を売っている|香《や》具|師《し》の人だかりだったと思います。大きな男が太いステッキを振り廻して、なんだかしゃべっているのが、大勢の頭の隙間から見えていました。それがいかにも面白そうなので、私は人だかりの大きな輪のまわりを、あちらこちらと、一ばんよく見えそうな場所を探して歩きまわっていました。するとね、その見物人の中にまじっていた一人の田舎紳士風の男が、ヒョイと背後をふり向いたのですが、それを見た私はハッとして、思わず逃げ出そうとしました。なぜといって、その男の顔がいつかの泥棒にそっくりだったのです。ただ違うところは、警官にばけていた時分には、鼻の下からあごから一面にひげをはやしていたのが、今は綺麗にそり落とされていた点です。ひょっとしたら、あれは顔形をかえるためのつけひげだったのかもしれません。実に驚きましたね。
しかし、一度は逃げ出そうと身構えまでしたのですが、よく先方の様子を見ますと、別段私に気がついたふうでもなく、また向こうを向いてじっと中の口上を聞いていますので、先ずこれなら安心だと、その場を去って、少し離れたおでん屋のテント張りのうしろからそっとその男を注意していました。
私はもう胸がドキドキしているのです。一つはこわさ、一つは泥棒を見つけたうれしさでね。なんとかして、こいつのあとをつけて、住所を確かめ、警察へ教えてやることができたら、そして、もし盗まれた金が一部でも残っているようだったら、主任をはじめ信者たちもどれほど喜ぶだろう。そう思うとなんだかこう自分が劇中の人物になったような気がして、異様な興奮をおぼえるのです。だが、もう少し様子を見てこの男がほんとうにあの時の泥棒かどうかを確かめる必要があります。人違いをやっては大変ですからね。
しばらく待っていますと、彼は人だかりを離れてブラブラ歩き出しました。が、見れば二人連れなんです。私はその時まで気がつかずにいたのですが、さっきからその男の隣に同じような服装の男が立っていたのが、友だちだったと見えます。なあに、一人でも二人連れでもあとをつけるに変りはないと、私は見つからないように用心しながら、人ごみのことですから二、三間の間隔で、彼らのあとからついて行きました。あなたはご経験がありますか。人を尾行するのは実にむずかしい仕事ですね。用心しすぎれば見失いそうだし、見失うまいとすれば、どうしても自分のからだを危険にさらさねばならず、小説で読むように楽なもんじゃありませんね。で、彼らが、二、三丁も行ったところで一軒の料理屋へはいった時には、私はホッとしましたよ。ところが、その時に、彼らが料理屋へはいろうとした時にですね、私は又もや大変なことを発見したのです。というのは、二人のうちの泥棒でない方の男の顔が、不思議じゃありませんか、あの時泥棒を捕まえてやろうといったもう一人の警官にそっくりだったのです。いや待ってください。それでもうわかったなんて、いくらあなたが小説家でも、そいつは少し早すぎますよ。まだ先があるのです。もうしばらく辛抱して聞いてください。
さて、二人の男が料理屋へはいったのを見て、私はどうしたかといいますと、これが小説だと、その料理屋の女中にいくらか握らせて、二人の隣の部屋へ案内してもらい、襖に耳をあてて話し声でも聞くところなんでしょうが、滑稽ですね、私はそのとき料理屋へ上がるだけの持ち合わせがなかったのですよ。財布の中には汽車の往復切符の半分と、たしか一円足らずの金しかはいっていなかったのです。そうかといって、あまりに不思議なことで、警察へ届けるという決断もつかず、またそんなことをしているうちに、逃げられるという心配もあったものですから、ご苦労さまにも、私は料理屋の前にじっと張り番をしていました。
そうしていろいろと考えてみますと、どうもこれは、あの時あとから来た警官もにせ物だったと見るほかはありません。実にうまく考えたものですね。前の半分はよくあるやつで、さして珍らしくもないでしょうが、あとの半分、つまりにせ物の次に又同じにせ物を出すという手は、いかにもよくできてますよ。同じからくりが二つも重なっていようとは、ちょっと考えられませんし、それに相手がおまわりさんですから、今度こそ本物だろうと、たれしも油断しまさあね。こうしておけば、ほんとうの警察に知れるのはずっとあとになり、充分遠くまで逃げることができますからね。
ところが、そう考えてふと気がついたのは、もしやつらが同類だとすると、ちょっと辻つまの合わない点があることです。ええ、そうですよ。その点ですよ。教会の主任はあれから警察へたびたび出頭したのですから、あとの警官もにせ物だったらすぐわかるはずです。さあ、私は何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまいました。
一時間も待ったでしょうかね。やがて二人は赤い顔をして料理屋から出てきました。私はむろん彼らのあとをつけました。彼らは盛り場を離れてだんだんさびしい方へ歩いて行きましたが、ある町角へくると、ちょっと立ち止まってうなずきあったまま、そこで二人は別かれてしまったのです。私はどちらの跡をつけたものかと、ちょっと迷いましたが、結局金を持って行った方の、つまり最初に発見した男を尾行することにしました。彼は酔っているので、いくらかヒョロヒョロしながら、町はずれの方へと歩いて行きます。あたりはますます淋しくなって、尾行するのがよほどむずかしくなってきました。私は半丁もうしろから、なるべく軒下の蔭になったところを選んで、ビクビクものでついて行きました。そうして歩いているうちに、いつの間にか、もう人家のないような町はずれへ出てしまったのです。見ると行く手にちょっとした森があって、中に何かの社が祭ってある、鎮守の森とでもいうのでしょうね、そこへ男はドンドンはいって行くではありませんか。私はどうやら薄気味がわるくなってきました。まさかやつの住居がその森の奥にあるわけでもありますまい。いっそ断念して帰ろうかと思いましたが、折角ここまで尾行してきたのを、今さら中止するのも残念ですから、私は勇気を出して、なおも男のあとをつけました。ところが、そうして森の中へ一歩足を踏み入れた時です。私はギョッとして思わず立ちすくんでしまいました。すっと向こうの方へ行っているとばかり思っていた男が、意外にも、大きな樹の幹のうしろからひょいと飛び出して、私の眼の前に立ちふさがったじゃありませんか。彼はずるそうな笑いを浮かべて私の方をじっと見ているのです。
そこで、私は今にも飛びかかってきやしないかと、思わず身構えをしたのですが、ど胆をぬかれたことには、相手は、
「やあ、しばらくだったね」
と、まるで友だちにでも逢ったような調子で話しかけるのです。いや、世の中にはずうずうしいやつもあったもんだと、これにはあきれましたね。
「一度お礼に行こうと思っていたんだよ」
と、そいつがいうのです。
「あの時は実に痛快にやられたからね。さすがのおれも、君んとこの大将には、まんまと一杯食わされたよ。君、帰ったらよろしくいっといてくれたまえな」
むろん、なんのことだかわけがわかりません。私はよっぽど変な顔をしていたとみえます。そいつは笑い出しながらいうのです。
「さては君までだまされていたのかい。驚いたね。あれはみんなにせ札だったのだよ。ほんものなら、五千円もあったから、ちょっとうまい仕事なんだが、だめだめ、みんなよくできたにせ物だったよ」
「え、にせ札だって、そんなばかなことがあるもんか」
私は思わずどなりました。
「ハハハハハ、びっくりしているね。なんなら証拠を見せて上げようか。ほら、ここに一枚二枚三枚と、三百円〔註、今の十万円以上〕あるよ。みんな人にくれてしまって、もうこれだけしか残っていないんだ。よく見てごらん、上手にできているけれど、まるきりにせ物だから」
そいつは財布から百円札を出して、それを私に渡しながらいうのです。
「君はなんにも知らないもんだから、おれの住居をつき止めようとして、ついてきたのだろうが、そんなことをしちゃ大変だぜ。君んとこの大将の身の上だぜ。信者をだましてまき上げた寄付金をにせ札とすり替えたやつと、それを盗んだやつと、どちらが罪が重いか、言わなくてもわかるだろう。君、もう帰った方がいいぜ、帰ったら大将によろしく伝えてくれたまえ、おれが一度お礼に行きますといっていたとな」
そう言ったまま男はさっさと向こうへ行ってしまいました。私は三枚の百円札を手にして、長いあいだぼんやりとつっ立っていました。
なるほど、そうだったのか。それですっかり話しの辻つまがあうわけです。今の二人が同類だったとしても不思議はありません。主任がたびたび警察へ様子を聞きに行ったなんて、皆でたら目だったのです。そうしておかないと、ほんとうに警察沙汰になって、泥棒が捕まっては、にせ札のことがばれてしまいますからね。予告の手紙がきた時にも驚かなかったはずです。にせ物ならこわくはありませんや。それにしても、山師だったとは思いましたが、こんな悪事を働いていたとは意外です。先生、ひょっとしたら例の相場に手を出してしくじったのかもしれません。それで、どこかからにせ札を仕入れてきて――シナ人なんかに頼むと精巧なものが手にはいると言いますから――私や信者の前を取りつくろっていたのかもしれません。そういえばいろいろ思いあたる節もあるのです。よく今まで、信者の方から警察へ漏れなかったものですよ。私は泥棒から教えられるまで、そこへ気がつかなかった自分の愚かさが腹立たしく、その日は家に帰っても終日不愉快でした。
それからというもの、なんだか変なぐあいになってしまいましてね。まさか古い知り合いの主任の悪事を表ざたにするわけにもいきませんから、だまっていましたけれど、なんとなく居心地がよくないのです。今まではただ身持がわるいというくらいのことでしたが、こんなことがわかってみると、もう一日も教会にいる気がしないのです。その後間もなく、ほかに仕事が見つかったものですから、すぐ暇をとって出てしまいました。泥棒の下働きはいやですからね。私が教会を離れたのはこういうわけからですよ。
ところがね。お話しはまだあるのです。作り話しみたいだというのはここのことなんです。例のにせ札だという三百円はね、思い出のために、それからずっと財布の底にしまっていたのですが、ある時私の女房が――こちらへきてからもらったのです――その中の一枚をにせ札と知らずに月末の支払いに使ったのです。もっともそれはボーナス月で、私のような貧乏人の財布にもいくらかまとまった金がはいっているはずでしたから、女房の間違えたのも無理はありません。そして、なんとそれが無事に通用したではありませんか。ハハハハハ。どうです。ちょっと面白い話しでしょう。え、どういうわけだとおっしゃるのですか。いや、そいつはその|後《ご》別に調べてもみませんから、今もってわかりませんがね。私の持っていた三百円がにせ物でなかったことだけは事実ですよ。あとの二枚も引つづいて女房の春着代になってしまったくらいですからね。
泥棒のやつ、あの時、実は本物の札を盗んでおきながら、私の尾行を逃れるためににせ札でもないものをにせ札だといって、私をだましたのかもしれません。ああして、惜しげもなくほうり出して見せれば、それも十円や二十円のはした金ではないのですから、誰れしもちょっとごまかされますよ。現に私も泥棒の言葉をそのまま信用してしまって、別段深く調べてもみなかったのです。しかし、そうだとすると、主任を疑ぐったのは実にすまないわけです。それからもう一人の、泥棒を捕まえてやると言った警官ですね。あれはいったい本物なのでしょうか、にせ物なのでしょうか。私が主任を疑ぐった動機は、あの警官が泥棒と一緒に料理屋へ上がったりしたことですが。今になって考えてみると、あの男は本物の警官でありながら、後になって泥棒に買収されていたのかもしれません。又、ひょっとしたら、職務上ああして目星をつけた男とつきあって、つまり探偵をしていたのかもしれません。主任の日頃の行状が行状だったものですから、私はついあんなふうに断定してしまったのですけれど。
そのほかにも、まだいろいろの考え方がありますよ。たとえば泥棒のやつ、にせ札のつもりで、うっかりほかの本物を私に渡したと考えられないこともありませんからね。いや、結末が甚だぼんやりしていて、話のまとまりがつかないようですが、なあに、もし探偵小説になさるのだったら、このうち、どれかにきめてしまえばいいわけですよ。いずれにしても面白いじゃありませんか。とにかく、私は泥棒からもらった金で女房の春着を買ったわけですからね。ハハハハハ。
V
断崖
春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に溪流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。
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女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」
男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」
女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ」
男「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは、くわしく聞きたくない。君の露出狂のお相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」
女「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あなたおいやなら、はしょって話すわ……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合って泣いていた時に、ふと、あたし、あら、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもよりはげしくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれあがった眼の中をのぞきこんだ」
男「スリルだね、閨房の蜜語がたちまちにして恐怖となる。君はその時、あの男の眼の中に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」
女「そうよ。おお、可哀そうに、可哀そうにと、あたしを心からあわれんで泣いていたのよ……人間の眼の中には、その人の一生涯のことが書いてあるわね。まして、たった今の心持なんか、初号活字で書いてあるわ。あたし、それを読むのが得意でしょう。ですから、一ぺんにわかってしまった」
男「君を殺そうとしていることがかい」
女「ええ、でも、むろんスリルの遊戯としてよ。こんな世の中でも、あたしたち、やっぱり退屈していたのね。子供はお|仕《し》|置《おき》されて、押入れの中にとじこめられていても、その闇の中で、何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している。遊戯しないではいられない。どうすることもできない本能なのね」
男「むだごとをいっていると、日が暮れてしまうよ。話のさきはまだ長いんだから」
女「あの人、ちょっと残酷家のほうでしょう。あたしはその逆なのね。そして、お互いに夫婦生活の倦怠を感じていたでしょう。むろん愛してはいたのよ。愛していても、倦怠がくる。わかるでしょう」
男「わかりすぎるよ。ごちそうさま」
女「だから、あたしたち、何かゾッとするような刺戟がほしかったの。あたしはいつもそれを求めていた。斎藤の方でも、そういうあたしの気持を充分知っていた。そして、何かたくらんでいるらしいということは、うすうす感じていたんだけれど、あの晩、あの人の眼の中をのぞくまでは、それがなんだかわからなかった……でも、ずいぶんたくらんだものねえ。あたしギョッとしたわ。まさかあれほど手数のかかるたくらみをしようとは思っていなかったのよ。でも、ゾクゾクするほど楽しくもあったわ」
男「君があの男の眼の中に深い憐愍を読みとった。それもあの男のお芝居だったんだね。そのお芝居で、君に第一ヒントをあたえたんだね。それで、次の第二ヒントは?」
女「紺色のオーバーの男」
男「同じ紺色のソフトをかむって、黒目がねをかけて、濃い口ひげをはやした」
女「その男を、あなたが最初にみつけたのね」
男「うん、なにしろ僕は君のうちの居候で、君たち夫婦のお抱え道化師で、それから第三に、売れない絵かきだったんだからね。ひまがあるから町をぶらつくことも多い。紺オーバーの男が君のうちのまわりをウロウロしているのを、第一に気づいたのも僕だし、角の喫茶店で、その紺オーバーが、君のうちの家族のことや間取りなんかまで、根ほり葉ほりたずねていたということを、喫茶店のマダムから聞き出して、君に教えてやったのも僕だからね」
女「あたしもその男に出会った。勝手口のくぐり門のそとで一度、表門のわきで二度。紺のダブダブのオーバーのポケットに両手を突っ込んで、影のように立っていた。何かまがまがしい影のように突っ立っていた」
男「最初はどろぼうかもしれないと思ったんだね。近所の女中さんなんかも、そいつの姿を見かけて、注意してくれた」
女「ところが、それはどろぼうよりも、もっと恐ろしいものだったわね。斎藤の憐愍の涙を見た時、あたしのまぶたに、パッとその紺オーバーの男がうかんできたのよ。これが第二ヒント」
男「そして、第三ヒントは探偵小説とくるんだろう」
女「そうよ。あなたが、あたしたちのあいだに、はやらせた探偵趣味よ。斎藤もあたしも、もともとそういう趣味がなかったわけではないわ。でも、あんなに理窟っぽくクネクネと、トリックなんかを考えるようになったのは、あなたのせいよ。あの頃は少し下火になっていたけれど、半年ほど前は絶頂だったわね。あたしたち毎晩、犯罪のトリックの話ばかりしていた。中でも斎藤は夢中だったわ」
男「その頃、あの男の考え出した最上のトリックというのが……」
女「そう、一人二役よ。あの時の研究では、一人二役のトリックにはずいぶんいろんな種類があったわね。あなた表を作ったでしょう。今でも持っているんじゃない?」
男「そんなもの残ってやしない。しかし覚えているよ。一人二役の類別は三十三種さ。三十三のちがった型があるんだ」
女「斎藤はその三十三種のうち、架空の人物を作り出すトリックが第一だという説だったわね」
男「たとえば一つの殺人をもくろむとする。できるならば実行の一年以上も前から、犯人はもう一人の自分を作っておく。つけひげ、目がね、服装などによる、ごく簡単な、しかし巧妙な変装をして、遠くはなれた別の家に別の人物となって住み、その架空の人物を充分世間に見せびらかしておく。つまり二重生活だね。ほんものの方が仕事と称して外出している時間には、架空の方が自宅にいる。架空の方は何か夜間の勤めをしていると見せかけ、その出勤時間にはほんものが自宅にいる。ときどきどちらかに旅行でもさせれば、このごまかしはずっと楽になるわけだね。そして、最好の時期を見て、架空の方が殺人をやるんだが、その直前直後に自分の姿を二、三人の人に見せて、犯人は架空の人物にちがいないと思いこませる。いよいよ目的をはたしたら、そのまま架空の方を消してしまう。変装の品々は焼き捨てるか、おもりをつけて川の底にでも沈める。架空のほうの住宅へはいつまでたっても主人が帰ってこない。|杳《よう》として行方を知らずというわけだね。そして、ほんものの方は何くわぬ顔で今まで通りの生活をつづける。そうすれば、この事件は、もともと架空の人間の犯罪だから、犯人の探しようがない。いわゆる完全犯罪というやつだね」
女「あの人はこれがあらゆる犯罪トリックのうちで最上のものだと、恐ろしいほど熱中して話したわね。あたしたち、すっかり説きふせられてしまったでしょう。ですから、あたし、あの架空犯人のトリックのことは、ずうっと忘れないでいたのよ。それに、もう一つ日記帳ってものがあったの。あの人はあたしが探し出すことを、ちゃんと予想して、自分の日記帳をかくしていた。ひどくむずかしい場所にかくしたものよ。でも、もともとあたしに見せるための日記だから、心の底の秘密は書いていない。あとでわかったあの女のことだって、一行も書いてないのよ」
男「見せ消しというやつだね。見せ消しというのは校訂家の使う言葉なんだが、昔の文書などに元の字が読めるように、線だけで消したのがある。読めば読めるんだね。われわれの手紙にだってよくあるよ。わざと見えるように消しておいて、そこに実はいちばん相手に読ませたいことが書いてある。あの男の日記帳はその見せ消しだよ。見せかくしかね」
女「で、あたしその日記帳を読んだのよ。すると、長い論文が書いてあった。架空犯人トリックの論文なのよ。うまく書いてあったわ。この世にまったく存在しない人間を作り出す興味。あの人、文章がうまかったわね」
男「わかったよ。懐古調はよして、先をつづけろ」
女「ウフ、そこで三つのヒントがそろったわけね。憐れみの涙、紺オーバーの怪人物、架空殺人トリックの讃美。でも、もう一つ第四のヒントがなくては完成しない。それは動機だわ。動機はあの女だった。それをあの人は日記にさえ書かなかった。そこまで書いてしまっては、まったくお芝居になって、スリルがうすらぐからよ。なんて憎らしい用心深さでしょう……女のことはあなたが教えてくれたわね。でも、あたし、うすうすは感づいていた。あの人の眼の奥に若い女がチラチラしていた。それから、ベッドの中で抱き合っていると、あたしでない女のにおいが、あの人のからだから、ほのかに漂ってきた……」
男「そこまで……それでつまり、その四つのヒントを結び合わせると、あの男のお芝居の筋はこういうことになるんだね。いわゆる見せ消しで、君にその女の存在をさとらせ、同時に憐愍の涙を流し、可哀そうだが、あの女といっしょになるためには、君がじゃまになる。しかし、君と別かれることは、生活能力のない斎藤にしてみれば、たちまち食えなくなることだから、それはできない……あの男は友だちの事業を手伝うのだといって、毎日出勤していたが、たいして俸給がはいるわけでもなかった。いわば退屈しのぎだった……君は斎藤と正式に結婚したけれども、財産は手放さなかった。戦後成金だった君の亡くなったおとうさんに譲られた財産は、君自身のものとして頑固に守っていた。夫婦の共有財産にはしなかった。あの男は君から莫大なお小遣いをせしめていたが、財産の元金には一指も触れることを許されなかった。そこで、この財産を君の意志に反して、別の女との享楽に使おうとすれば、君を殺すよりない。そうすれば正式に結婚しているのだし、君には身よりもないのだから、全財産があの男にころがりこむ。これが動機だ」
女「むろん、スリル遊戯の動機という意味ね」
男「そうだよ。しかし、真実の犯罪としても、申し分のない動機だ。そして、殺人手段は彼の讃美する架空犯人の製造……まず紺オーバーの男を充分見せつけておいて、その姿で君の寝室にしのびこみ、君を殺した上、架空の犯人を永遠にこの世から消してしまう。そして、入れちがいにもとの斎藤にもどって帰ってくる。君の死体を見て大騒ぎをやる。という順序なんだね」
女「ええ、そういうふうにあたしに思いこませ、こわがらせ、お互いにスリルを味わって楽しもうとしたわけね。子供の探偵ごっこの少し手のこんだぐらいのものだわ。でも、もしあたしがあの人の遊戯心を信じなかったとしたら、そして、ほんとうに殺意があると感じたら、これは恐ろしいスリルだわ。あの人はそこを狙ったのよ。子供の探偵ごっこよりは、ずっとこわいものを狙ったのよ」
男「子供の探偵ごっこだって、ばかにならないぜ。僕は十二、三の時、探偵ごっこをやっていて、年上の女の子といっしょに、暗い納屋の中にかくれていて、その女の子からいどまれたことがある。可愛らしい女の子が、ここでいえないような変な恰好をしたんだよ、あんな恐ろしいことはなかった。生きるか死ぬかの恐ろしさだった」
女「枝道へはいっちゃいけないわ。で、今まであたしたちが話し合った全部のことを、その晩、斎藤の涙にふくれ上がった眼をのぞきこんだ瞬間、一秒ぐらいのあいだに、ちゃんと考えてしまったのよ。あれだけの出来事を思い出して、論理的に組み合わせる。それが一秒間でできるんだわ。人間の頭の働きって、ほんとうに不思議なものね。どういう仕掛けなのかしら。口で話せば三十分もかかることが、一秒間に考えられるなんて」
男「だがね、それでどういうことになるんだい。ほんとうに君を殺す気なら、ちゃんと幕切れがあるわけだが、まったくお芝居だとすると、いつまでもケリがつかないじゃないか。ただ紺オーバーの男でおどかすだけで、おしまいなのかい」
女「そうじゃないわ。これはあたしの想像にすぎないけれど、ケリはつくのよ。紺オーバーの男は窓かなんかから忍びこんであたしの寝室にはいってくるのよ。そして、あたしに悲鳴をあげさせ、あたしがどんなはげしいスリルを感じるか、ながめてやろうというわけよ。そのあとで、まだ架空の人物のまま、あたしのベッドにはいる。他人に化けて自分の妻のベッドにはいる……」
男「悪趣味だね」
女「そうよ。あの人はそういう悪趣味の人よ。でなければこんな変てこなスリル遊戯なんか思いつきやしないわ」
男「ところが、結果はまるでちがったことになったね」
女「そう……もうこのあとは冗談ではないわ……こわかった。あたし今でもこわい」
男「僕だって、これからあとの話は、あまりいい気持がしないね。しかし、話してしまおう。この無人境の崖の上で、一度だけおさらいをしよう。そうすれば、君だって、いくらか気分が軽くなるかもしれないぜ」
女「ええ、あたしもそう思うの……その晩から日を置いて三度、同じようなことがあったのよ。そして、頬をくっつけて涙を流すあの人の泣き方が、だんだんはげしくなるばかりなの……おやっ変だなと思うことが、幾度もあった。あたし、そのたびに、急いで顔をはなして、あの人の眼の奥をのぞいたけれども、もうわからなかった。ただ邪推よ。あたしは恐ろしい邪推をしたのよ」
男「あの男がほんとうに君を殺すと思ったんだね」
女「ふと、あの人の眼が、こう言ってるように見えたのよ……おれは架空の人物を作って、お前にスリルを味わわせようとたくらんでいる。はじめはそのつもりだった。しかし、今ではもう、これがお芝居で終るかどうか、おれにも判断がつかなくなった。おれはほんとうにお前を殺しても、まったく安全なんだ。そして、お前の財産がおれのものになるのだ。おれはその魅力に負けてしまうかもしれない。実をいうと、おれはお前よりもあの女の方を何倍も愛している。可哀そうだ。お前が可哀そうでたまらない……あの人がそんなふうに、声をふりしぼって、泣き叫んでいるようにさえ感じられた。あの人の眼から涙がとめどもなくあふれた。それがゴクゴクとあたしの喉へ流れこんできた。あの人とあたしの、てんでの妄想が、まっ暗な空間でもつれあって、ごっちゃになって、あたしはもう、どうしていいのかわけがわからなくなってしまった」
男「僕に相談をかけたのは、その頃なんだね」
女「そうよ。今いった不安を、あなたにうちあけたわね。すると、あなたは、君の思いすごしだ、そんなばかなことがあるものかと、あたしを笑ったわ。でも、笑っているあなたの眼の奥に、チラッと疑いの影があった。あなたも、もしかしたらと、一抹の不安を感じていることが、あたしにはよくわかったのよ」
男「しかし、僕はあの時、そういう不安を意識してはいなかったね。君のような千里眼にかかっちゃかなわない。相手の無意識の中までさぐり出すんだからね」
女「あたし、あの人の眼を見るのがこわくなった。また、こちらがこわがっていることを、あの人に悟られるのが恐ろしかった。そして、とうとう、ピストルのことまで気を廻すようになった……ある夕方、門のそとで、また紺オーバーの男に出会ったのよ。あの男はいつも夕方か夜しか姿をあらわさなかった。変装を見破られることをおそれたのだわ。その時も、うすぐらくて、はっきり見えなかったけれど、あの男があたしを見て、ニヤッと笑ったような気がしたのよ。斎藤の変装ということがわかっていても、あたしゾーッとしないではいられなかった。そして、その刹那、なぜかハッとピストルのことを思い出したのよ。あの人の書斎の机の引出しにかくしてあるピストルのことを」
男「ピストルのことは僕も知っていた。あの男は禁令を破って、こっそりとピストルを手に入れていたね。いつも実弾をこめて、引出しの底の方にしまってあった。別に何に使おうというのじゃない。ただ手にはいったから持っているんだと言っていた」
女「あたし、そのピストルを、紺オーバーの男が、いつも身につけているんじゃないかと思って、ギョッとしたのよ。それで、あわてて書斎にとびこんで、引出しをあけてみると、ピストルはちゃんと元の場所にあった。あたし一時はホッとしたけれど、すぐに、あの人が架空の犯人に斎藤の持ち物であるこのピストルを持たせるような、間抜けなことをするはずがないと気づいた。紺オーバーの男は別のピストルを手に入れたかもしれない。もっとほかの兇器を用意しているかもしれない。ピストルが元の場所にあったからといって、決して油断はできない。そう考えると、あたしはいよいよ不安になった」
男「そこで、君はあのピストルを、自分で持っていようと決心したんだね」
女「ええ、その方がいくらか安心だと思ったの。それで、あたし、ピストルを自分の部屋にうつして、夜はベッドの中へ持ってはいることにしたのよ」
男「悪いものがあったねえ。あれさえなければ……」
女「あたし、あなたにたずねたわね。紺オーバーの男が、あたしの寝室へはいってきたとして、その時あたしがピストルであの男をうったら、どんな罪になるでしょうかって」
男「そうだったね。僕はあの時、見知らぬ男が暴力で屋内に侵入して、寝室にまで踏みこんできたら、男の方に危害を加える意味がなかったとしても、正当防衛は成り立つ。たとえ相手をうち殺しても、罪にはならないと答えた。事実それにちがいないんだが、今から考えると悪いことを言った」
女「そして、とうとうあの男がやってきた。もうくるかもうくるかと、斎藤の不在の夜は、そればっかり待っていたほどよ。十二時すぎ、あの男は塀をのりこえ、廊下の窓からしのびこんで、足音も立てないで、あたしの寝室のドアをひらいた。紺オーバーを着たまま、ソフトをかぶったまま、黒目がねと濃い口ひげが、たびたび出会ったあの男にちがいなかった。あたしは眼をつむって寝たふりをしながら、まつげのすきまから、じっと男を見ていた。ピストルはいつでもうてるように、ふとんの中でにぎりしめていた」
男「…………」
女「あたし、心臓が破れそうだった。早くピストルがうちたかった。でも、じっと我慢して、まつげのすきまから見ていた……あの男は両手をオーバーのポケットに突っ込んだまま、ヌーッと立っていた。あたしが寝たふりをしているのを、ちゃんと見抜いているようだった。そのにらみ合いが、まる一時間もつづいたような気がした。あたしは、いきなりベッドから飛びおりて、ギャーッと叫びながら、逃げ出したいのを、歯をくいしばって、こらえていた」
男「…………」
女「とうとう、あの男は、大またにベッドに近づいてきた。電気スタンドの笠の蔭になっていたけれど、あの男の顔が大きく、はっきり見えた。器用に変装していても、あたしには、斎藤だということが、はっきりわかった……あの男は黒目がねの中で笑っているように見えた。そして、いきなりベッドの上に上半身をまげて、おそいかかってきた。その時、あの短刀は、ふとんの襟が邪魔になって見えなかったけれど、あたしはもう無我夢中だった。あたしはふとんの中からソッとピストルの先を出して、男の胸にむけていきなり引き金をひいた……あたし、ピストルを突きつけながら、問答するなんて、そんな余裕はとてもなかったわ。もう、うちたくって、うちたくって、気が狂いそうだった……ピストルの音をきいて、あなたと女中がかけつけた時には、あの男は胸をうたれて息がたえていたし、あたしはベッドの上に気を失っていたのね」
男「僕は最初、何がなんだかわからなかった。しかし、ちょっとのまに、やっぱりそうだったのかと悟った。あの男の死骸のそばに、抜きはなった短刀がおちていた」
女「警察の人たちが来た。それから、あたしは検察庁へ呼ばれた。あなたも呼ばれたわね。あたしは少しも隠さないでほんとのことを言った。検事はあたしたちの遊戯三昧の生活を非難して、長いお説教をした。そして、あたしは不起訴になった。短刀があったので、あの男の殺意を疑うことができなかったのだわ。それから、あたしは病気になるようなこともなく、あの人の葬式も無事にすませ、一と月ほど家にとじこもっていた。あなたが毎日慰めてくれたわね。身よりもないし、親友もないし、あたし、あなた一人がたよりだったわ……それから、斎藤の女のことも、あなたがちゃんとケリをつけてくれた」
男「あれからやがて一年になる。君と正式に結婚の手続きをしてからでも五カ月だ……さあ、ポツポツ帰ろうか」
女「まだお話があるのよ」
男「まだ? もうすっかり、おさらいをすませたじゃないか」
女「でも、今まで話したことは、ほんのうわっつらだわ」
男「え、うわっつらだって? あれほど心の底をさぐるような分析をしてもかい?」
女「いつでも、真にほんとうのことってのは、一ばん奥の方にあるわよ。その奥の方のことは、まだあたしたち話さなかった」
男「なにを考えてるのか知らないが、君は少し神経衰弱じゃないのかい」
女「あなた、怖いの?」
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男の眼がスーッと澄んだように見えた。しかし、表情はほとんど変わらなかった。身動きさえしなかった。女はおしゃべりの昂奮で、ほの赤く上気していた。眼がギラギラ光り、唇のすみがキュッとあがって、意地わるな微笑が浮かんでいた。
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女「他人の心を自分の思うままに動かして、一つの重罪を犯させるということができたら、その人にとっては、実に愉快だろうと思うわ。心をそういうふうに動かされたほうでは、自分たちがその人の傀儡だということを少しも気づいていないんだから、これほど完全な犯罪はないわ。これこそ正真正銘の完全犯罪じゃないかしら」
男「君は何を言おうとしているの?」
女「あなたがそういう人形使いの魔術師だってことを、言おうとしているの。でも、あなたを摘発しようなんて言うんじゃないわ。悪魔が二人、額をよせてニヤニヤ笑いながら、お互いの悪だくみの深さを|嘉《よみ》し合う、あれね。そういう意味で、もっとお互いの心の中をさらけ出したいのよ。あなたの言う露出狂だわね」
男「オイ、よさないか。僕は露出狂なんかには興味がない」
女「やっぱり、あなたは怖がっているのね。でも、話しかけたのを、このままよしてしまっては、もっとあと味がわるいでしょう。話すわ……亡くなった斎藤に探偵趣味を吹きこんだのは、あなただったわね。斎藤にはもともとその素質があった。ですから、あなたにとっては絶好の傀儡だったのよ。そして、あなたは、あの人を犯罪手段の研究に熱中させ、架空犯人のトリックに心酔させてしまった。むろん斎藤のほうで夢中になったんだけれど、あなたは実に微妙な技巧で、斎藤の物の考え方をその方向に導いて行ったのよ。話術でしょうか。いや、話術よりももっと奥のものね。あなたはそれで斎藤を自由に扱いこなした……女ができたのは、あなたのせいじゃない。斎藤が勝手に作ったんだけれど、それは道楽者の斎藤のことだから、いつだって起こりうることだったわ。あなたはそれをうまく利用したのよ」
男「…………」
女「架空犯人のトリックとあの女とを結びつけて、あたしたち夫婦のあいだのスリル遊戯を思いつくことだって、むろんあなたの力が働いていた。斎藤はそういう突飛なことを実行して喜ぶような性格なんだから、あなたが一とこと二たこと、それとない暗示を与えさえすればよかったのよ。斎藤には少しも気づかれない言葉で、しかし暗示としては恐ろしい力を持つような言葉で」
男「想像はどうにでもできる。そんな想像をするのは、君自身が途方もない悪人だということを証拠だてるばかりだ」
女「そうよ。悪人だから、悪人の気持がわかるのよ。あなたは、斎藤が思うつぼにはまって、紺オーバーの男に化けて、うちのまわりをうろつき出した時、まっ先にそれを見つけたでしょう。そして、あたしに知らせてくれたわね。あたし、その時はまだ気づかなかったけれど、あとになって思い出してみると、あなたの眼は喜びの色を隠すことができなかったのね。あの眼の意味は、ただ怪しい男を見つけたというだけのものじゃなかった。してやった、うまく行ったという歓喜が、今から考えると、あなたの眼の中に、まるではだかみたいに、さらけ出されていたわ。あたしには斎藤の涙を分析したり、架空犯人のトリックを思い出したりしなければ、判断できなかったことが、計画者のあなたには、最初からちゃんとわかっていたのだわ」
男「もうよそう。ね、もうよそう」
女「もう少しよ。もう少し言うことがあるのよ……お芝居がいつのまにか本気になって、斎藤はあたしを殺すのじゃないかと思った。それから、ピストルを手に入れて、あなたにその事を相談した。すると、あなたは芯からのように、そんなばかなことがあるものかと打ち消しながら、眼の奥に不安の色を漂わせて見せた。その上、万一ピストルで相手を殺しても、正当防衛で罪にならないということをはっきりあたしにのみこませた……これでもう、あなたは成り行きを眺めていさえすればよかったのだわ。殺人は起こるかもしれない。起こらないかもしれない。でも、起こらなかったとしても、あなたは別に損をするわけではない。もしあたしがピストルをうち、斎藤が死ねば、すっかりあなたの思う壺。なんてうまい考えでしょう。あたしたちがよく犯罪トリックのことを話し合ったころ、プロバビリティの犯罪というのが問題になったわね。可能性は充分あるけれども、必らず目的を達するかどうかはわからない。それは運命にまかせるという、あの一等ずるい、一等安全な方法よ。失敗しても、犯人はこれっぽちも疑われる心配はないんだから、何度だって、ちがった企らみをくり返すことができる。そうしているうちには、いつか目的を達する時がくる。そして、目的を達しても、犯人は絶対に疑われることがない……あなたのプロバビリティの犯罪は、斎藤の架空犯人の思いつきなんかより、一枚も二枚もうわ手だったわ」
男「僕は怒るよ。君は妄想にとりつかれているんだ。頭が変になっているんだ……僕は一人で先に帰るよ」
女「あなたの額、汗でビッショリよ。気分わるいの?……あの時、ピストルの引き金をひいた時、あたし斎藤が短刀を持っていることは知らなかった。とっさに、首をしめにくるのじゃないかとも思ったし、そうでなくて、ただ、あたしを抱くばかりかとも思った。ほんとうのことは、わからなかったのよ。それでも、あたし引き金をひいてしまった……ほんとうは、ずっと前から、心の底のほうであなたを愛していたからよ。あなたにもそれはわかっていたはずだわ……そして、引き金をひいたまま気を失ってしまった。短刀は意識をとりもどした時に、はじめて見たのよ。ですから、あの短刀は斎藤がオーバーのポケットに入れていたとも考えられるし、また、あなたが、あらかじめ用意しておいた斎藤の短刀を持ちこんで、死んだ斎藤の指紋をつけてあすこへ放り出しておいたとも考えられるわね。なぜって、ピストルの音をきいてまっ先にかけつけたのは、あなただったし、それから斎藤が短刀を持っていたとすれば、正当防衛の口実が一そう完全になるからだわ。あなたは斎藤が殺されることは望んでいたけれど、あたしが罪におちては困る。あたしを助けるためには、どんなことでもしなければならなかったのだわ」
男「おどろいた。よくもそこまで妄想をめぐらすもんだね。ハハハハハ」
女「だめよ、笑って見せようとしたって。まるでいつもの声とちがうじゃありませんか。泣いているみたいだわ……何をそんなに怖がっているの、これはここだけの話よ。たとえまったく危険のないプロバビリティの犯罪にもせよ、そういう恐ろしい企らみまでして、あたしを手に入れようとしたあなたを、あたしは決して裏切りゃしないわ。しんそこから愛しているわ。このことは二人のあいだの永久の秘密にしておきましょうね。あたしはただ、一度だけはほんとうのことを話し合っておきたいと思ったばかりよ」
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男は無言のまま、妄想狂のお相手はごめんだと言わぬばかりに、自然石のベンチから立ちあがった。それにつれて、女も立ち、帰りみちとは反対の、崖ばなの方へ、ゆっくり歩いて行った。男は何かおずおずしながら、二、三歩あとから、女について行く。
女は崖っぷち二尺ほどの所まで進んで、そこに立ちどまった。遙か下方に幽かに溪流の音がしている。しかし溪流そのものは見えない。谷の底には薄黒いモヤがたてこめ、その深さは何十丈ともしれなかった。
女は谷の方を向いたまま、うしろの男に話しかけた。
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女「あたしたち、きょうはほんとうのことばかり話したわね。こんなほんとうのことって、めったに話せるものじゃないわ。あたし、なんだかせいせいした……でも、一つだけ、まだ話さなかったことが残っているわ。その最後のほんとうのことを言ってみましょうか……あなたの顔を見ないで言うわね……あたしははだかのあなたを愛していたのに、あなたはあたしとお金とを愛していたのでしょう。そして、今ではあたしを愛しないで、あたしの持っているお金だけを愛しているのでしょう。それがあたしにはよくわかるのよ。あなたの眼の中が読めるのよ。そして、あたしがそれにかんづいたということを、あなたの方でも知っているんだわ。ですから、きょうこんな淋しい崖の上へ、あたしを誘い出したんだわ……あなたはあたしを愛さなくなっても、あたしと離れることができない。斎藤と同じように、あなたも生活能力のない男だから。すると、あなたにできることは、たった一つしか残っていないわね……斎藤の|故《こ》|智《ち》にならって、あたしを無きものにする。そうすれば、あたしの全部の財産が|夫《おっと》であるあなたのものになる……あたし、あなたに別の愛人ができていることを、そして、今ではあなたはあたしを憎んでいることを、とうから知っていたのよ」
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うしろから、ハッハッという男のはげしい息づかいが聞こえてきた。男のからだがソーッとこちらへ迫まってくるのが感じられた。女はいよいよその時がきたのだと思った。
背中に男の両手がさわった。その手は小きざみに烈しくふるえていた。そして、ググッと恐ろしい力で女の背中を押してきた。
女はその力にさからわず、柔かくからだを二つに折るようにして、パッと傍らに身を引いた。
男は力あまって、タタッと前に泳いだ。死にものぐるいに踏みとどまろうとした最後の一歩の下には、もう地面がなかった。男のからだ全体が、棒のように横倒しになったまま、スーッと下へおちて行った。
今まで少しも気づかなかった小鳥の声が、やかましく女の耳にはいってきた。溪流のしもての広くひらけた空を、そこにむらがる雲を、入り陽がまっ赤に染めていた。ハッとするほど雄大な、美しい夕焼けであった。
女は茫然と岩頭に立ちつくしていたが、やがて、何かつぶやきはじめた。
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女「また正当防衛だった。でも、これはどういうことなのかしら。一年前に、あたしを殺そうとしたのは斎藤だった。そのくせ、殺されたのはあたくしでなくて、斎藤の方だった。今度も、あたしを突き落とそうとしたのは、彼だった。そのくせ、崖から落ちて行ったのは、あたしでなくて、彼の方だった……正当防衛って妙なものだわ。両方とも、ほんとうの犯人はこのあたしだったのに、法律はあたしを罰しない。世間もあたしを疑わない。こんなずるいやり方を考えつくなんて、あたしはよくよくの毒婦なんだわね……あたしはこの|先《さき》まだ、幾度正当防衛をやるかわからない。絶対罪にならない方法で、幾人ひとを殺すかもわからない……」
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夕陽は大空を焼き、断崖の岩肌を血の色に染め、そのうしろの鬱蒼たる森林を焔と燃え立たせていた。岩頭にポッツリと立つ女の姿は、小さく小さく、人形のように可愛らしく、その美しい顔は桃色に上気し、つぶらな眼は、大空を映して異様に輝いて見えた。
女はそのままの姿勢で、大自然の微妙な、精巧な装飾物のように、いつまでも、身動きさえしなかった。
兇器
1
「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。
傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。
何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。
窓のそとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、すぐコンクリートの万年塀なのです。コントリートの板を横に並べた組み立て式の塀ですね。そのそとは住田町の淋しい通りです。私たちは万年塀のうちとそとを、懐中電灯で調べてみたのですが、ハッキリした足跡もなく、これという発見はありませんでした。
それから、主人の佐藤寅雄……三十五歳のアプレ成金です。少し英語がしゃべれるので、アメリカ軍に親しくなって、いろいろな品を納入して儲けたらしいのですね。今はこれという商売もしないで遊んでいるのです。しかし、なかなか利口な男で、看板を出さない金融業のようなことをやって、財産をふやしているらしいのですがね……その佐藤寅雄とさし向かいで、聞いてみたのですが、細君の美弥子は二十七歳です。新潟生れの美しい女で、キャバレーなんかにも勤めたことがあり、まあ多情者なんですね。いろいろ男関係があって、佐藤と結婚するすぐ前の男が執念ぶかく美弥子につきまとっているし、もう一人あやしいのがある。犯人はそのどちらかにちがいないと、佐藤が言うのです。
私は警察にはいってから五年ですが、仕事の上では、あんな魅力のある女に出会ったことがありませんね。佐藤はひどく惚れこんで、それまで同棲していた男から奪うようにして結婚したらしいのです。その前の男というのは、関根五郎というコック……コックと言っても相当年季を入れた腕のあるフランス料理のコックですが、これと同棲していたのを、佐藤が金に物を言わせて手に入れたのですね。
もう一人の容疑者は青木茂という不良青年です。美弥子はこの青年とも以前に関係があって、青木の方が惚れているのですね。佐藤と結婚してからは、美弥子は逃げているのに、青木がつきまとって離れないのだそうです。不良のことですから、あつかましく佐藤のうちへ押しかけてきたり、脅迫がましいことを口走ったりして、うるさくて仕方がないというのです。
この青木は見かけは貴族の坊ちゃんのような美青年ですが、相当なやつで、中川一家というグレン隊の仲間で、警察の厄介になったこともあるのです。これが、美弥子に愛想づかしをされたものだから、近頃では凄いおどし文句などを送ってよこすらしく、美弥子は「殺されるかもしれない」といって怖がっていたと言います。
主人の佐藤は、この二人のほかには心当たりはない。やつらのどちらかにきまっている。美弥子はうしろからやられて、相手の顔を見なかったし、ふりむいたときには、もう窓から飛び出して、暗やみに姿を消していたので、服装さえもハッキリわからなかったが、やっぱり、その二人のうちのどちらかだと言っている。それにちがいないと断言するのです。そこで、私はこの二人に当たってみました……いや、その前にちょっとお耳に入れておくことがあります。いつも先生は「その場にふさわしくないような変てこなことがあったら、たとえ事件に無関係に見えても、よく記憶しておくのだ」とおっしゃる、まあそういったことですがね。
医者が来て美弥子の手当てがすみ、別室に寝させてから、主人の佐藤は事件のあった部屋を念入りに調べたのだそうです。刃物を探したのですよ。美弥子の刺された刃物は普通の短刀ではなくて、どうも両刃の風変わりな兇器らしいのですが、ずいぶん探したけれども、どこにもなかったというのです。
私が、その辺にころがっていなければ、むろん犯人が持って逃げたにきまっているじゃないか、何もそんなに探さなくてもと言いますと、いやそうじゃない。これは、ひょっとしたら美弥子のお芝居かもしれない。あいつは恐ろしく変わり者のヒステリー女だから、何をやるか知れたものじゃない。だから念のために、刃物がどこかに隠してないか調べてみたのだというのです。
しかし、美弥子のいた部屋の押入れやタンスを調べても、鋏一梃、針一本見つからなかった。庭には何も落ちていなかった。そこではじめて、これは何者かがそとから忍びこんだものだと確信したというのです。
相手の話がおわると、アームチェアに埋まるようにして聞いていた明智小五郎が、モジャモジャ頭に指を突っ込んで、合槌を打った。
「面白いね。それには何か意味がありそうだね」
この名探偵はもう五十を越していたけれど、昔といっこう変わらなかった。顔が少し長くなり、長くて痩せた手足と一そうよく調和してきたほかには、これという変化もなく、頭の毛もまだフサフサとしていた。
2
明智小五郎はお|洒《しゃ》|落《れ》と見えないお洒落だった。顔はいつもきれいにあたっていたし、服も彼一流の好みで、凝った仕立てのものを、いかにも無造作に着こなしていた。頭の毛を昔に変わらずモジャモジャさせているのも、いわば彼のお洒落の一つであった。
ここは明智が借りているフラットの客間である。麹町采女町に東京唯一の西洋風な「麹町アパート」が建ったとき、明智はその二階の一区劃を借りて、事務所兼住宅にした。アパートは帝国ホテルに似た外観の建築で、三階建てであった。明智の借りた一区劃には広い客間と、書斎と、寝室とのほかに、浴槽のある化粧室と、小さな台所がついていた。食堂を書斎に変えてしまったので、客と食事するときは近くのレストランを使うことにしていた。
明智夫人は胸を患らって、長いあいだ高原療養所にはいっているので、彼は独身同然であった。身のまわりのことや食事の世話は、少年助手の小林芳雄一人で取りしきっていた。手広いフラットに二人きりの暮らしであった。食事といっても、近くのレストランから運んできたのを並べたり、パンを焼いたり、お茶をいれたりするだけで、少年の手におえぬことではない。
その客間で明智と対座しているのは、港区のS署の鑑識係りの巡査部長、庄司専太郎であった。一年ほど前から、署長の紹介で明智のところへ出入りするようになり、何か事件が起こると智恵を借りにきた。
「ところで佐藤がこの二人のうちどちらかにちがいないというコックの関根と、不良の青木に当たってみたのですが、どうも思わしくありません。両方ともアリバイははっきりしないのです。家にいなかったことは確かですが、といって、現場付近をうろついたような聞き込みも、まだないのです。ちょっとおどかしてみましたが、二人とも、どうしてなかなかのしたたかもので、うかつなことは言いません」
「君の勘では、どちらなんだね」
「どうも青木がくさいですね。コックの関根は五十に近い年配で、細君はないけれども、婆さんを抱えていますからね。なかなか親孝行だって評判です。そこへ行くと青木ときたらまったく天下の風来坊です。それに仲間がいけない。人殺しなんか朝めし前の連中ですからね。それとなく口裏を引いてみますとね、青木は確かに美弥子を恨んでいる。惚れこんでいただけに、こんな扱いを受けちゃあ、我慢ができないというのでしょうね。ほんとうに殺すつもりだったのですよ。それが手先が狂って、叫び声を立てられたので、つい怖くなって逃げ出したのでしょう。関根ならあんなヘマはやりませんよ」
「二人の住まいは?」
「ごく近いのです。両方ともアパート住まいですが、関根は坂下町、青木は菊井町です。関根の方は佐藤のところへ三丁ぐらい。青木の方は五丁ぐらいです」
「兇器を探し出すこと、関根と青木のその夜の行動を、もう一歩突っ込んで調べること、これが常識的な線だね。しかし、そのほかに一つ、君にやってもらいたいことがある」
明智の眼が笑っていた。いたずらっ子のように笑っていた。庄司巡査部長はこの眼色には馴染みがあった。明智は彼だけが気づいている何か奇妙な着眼点に興じているのだ。
「犯人が逃げるとき、窓のガラス戸が庭に落ちて、ガラスが割れたんだね。そのガラスのかけらはどうしたの?」
「佐藤のうちの婆やが拾い集めていたようです」
「もう捨ててしまったかもしれないが、もしそのガラスのかけらを全部集めることができたら、何かの資料になる。一つやってみたまえ。ガラス戸の枠に残っているかけらと合わせて、復原してみるんだね」
明智の眼はやっぱり笑っていた。庄司も明智の顔を見てニヤリと笑い返した。明智のいう意味がわかっているつもりであった。しかし、ほんとうはわかっていなかったのである。
それから十日目の午後、庄司巡査部長はまた明智を訪問していた。
「もう御承知でしょう。大変なことになりました。佐藤寅雄が殺されたのです。犯人はコックの関根でした。たしかな証拠があるので、すぐ引っ張りました。警視庁で調べています。私もそれに立ち会って、いま帰ったところです」
「ちょっとラジオで聴いたが、詳しいことは何も知らない。要点を話してください」
「私はゆうべ、その殺人現場に居合わせたのです。もう夜の九時をすぎていましたが、署から私の自宅に連絡があって、佐藤が、ぜひ話したいことがあるから、すぐ来てくれという電話をかけてきたことがわかったのです。私は何か耳よりな話でも聞けるかと、急いで佐藤の家に駈けつけました。
主人の佐藤と美弥子とが、奥の座敷に待っていました。美弥子は二、三日前に、傷口を縫った糸を抜いてもらったと言って、もう外出もしている様子でした。ふたりとも浴衣姿でした。佐藤は気色ばんだ顔で、『夕方配達された郵便物の中に、こんな手紙があったのを、つい今しがたまで気づかないでいたのです』といって、安物の封筒から、ザラ紙に書いた妙な手紙を出して見せました。
それには、六月二十五日の夜(つまりゆうべですね)どえらいことがおこるから、気をつけるがいいという文句が、実に下手な鉛筆の字で書いてありました。どうも左手で書いたらしいのですね。封筒もやはり鉛筆で同じ筆蹟でした。差出人の名はないのです。
心当たりはないのかと聞くと、主人の佐藤は、筆蹟は変えているけれども、差出人は関根か青木のどちらかにきまっていると断言しました。それからね、実にずうずうしいじゃありませんか、やつらは二人とも、美弥子のお見舞いにやってきたそうですよ。もしどちらかが犯人だとすれば、大した度胸です。一と筋繩で行くやつじゃありません」
3
「そんなことを話しているうちに三十分ほどもたって、十時を少しすぎた頃でした。美弥子が『書斎にウィスキーがありましたわね、あれ御馳走したら』と言い、佐藤が縁側の突き当たりにある洋室へ、それを取りに行きましたが、しばらく待っても帰ってこないので、美弥子は『きっと、どっかへしまい忘れたのですわ。ちょっと失礼』といって、主人のあとを追って、洋室へはいっていきました。
私は部屋のはしの方に坐っていましたので、ちょっとからだを動かせば、縁側の突き当たりの洋室のドアが見えるのです。あいだに座敷が一つあって、その前を縁側が通っているので、私の坐っていたところから洋室のドアまでは五間も隔っていました。まさかあんなことになろうとは思いもよらないので、私はぼんやりと、そのドアの方を眺めていたのです。
突然『アッ、だれか来て……』という悲鳴が、洋室の方から聞こえてきました。ドアがしまっているので、なんだかずっと遠方で叫んでいるような感じでした。私はそれを聞くと、ハッとして、いきなり洋室へ飛んで行ってドアをひらきましたが、中はまっ暗です。『スイッチはどこです』とどなっても、だれも答えません。私は壁のそれらしい場所を手さぐりして、やっとスイッチを探しあてて、それを押しました。
電灯がつくと、すぐ眼にはいったのは、正面の窓際に倒れている佐藤の姿でした。浴衣の胸がまっ赤に染まっています。美弥子も血だらけになって、夫のからだにすがりついていましたが、私を見ると、片手で窓を指さして、何かしきりと口を動かすのですが、恐ろしく昂奮しているので、何を言っているのかさっぱりわかりません。
見ると、窓の押し上げ戸がひらいています。曲者はそこから逃げたにちがいありません。私はいきなり窓から飛び出して行きました。庭は大して広くありません。人の隠れるような大きな茂みもないのです。五、六間向こうに例のコンクリートの万年塀が白く見えていました。曲者はそれを乗り越して、いち早く逃げ去ったのでしょう。いくら探しても、その辺に人の姿はありませんでした。
元の窓から洋室に戻りますと、私が飛び出すとき、入れちがいに駈けつけた婆やと女中が、美弥子を介抱していました。美弥子には別状ありません。ただ佐藤のからだにすがりついたので、浴衣が血まみれになっていたばかりです。佐藤のからだを調べてみると、胸を深く刺されていて、もう脈がありません、私は電話室へ飛んで行って、署の宿直員に急報しました。
しばらくすると、署長さんはじめ五、六人の署員が駈けつけてきました。それから、懐中電灯で庭を調べてみると、窓から塀にかけて、犯人の足跡が幾つも、はっきりと残っていたのです。実に明瞭な靴跡でした。
けさ、署のものが関根、青木のアパートへ行って、二人の靴を借り出してきましたが、比べてみると、関根の靴とピッタリ一致したのです。関根はちょうど犯行の時間に外出していて、アリバイがありません。それで、すぐに引っぱって、警視庁へつれて行ったのです」
「だが、関根は白状しないんだね」
「頑強に否定しています。佐藤や美弥子に恨みはある。幾晩も佐藤の屋敷のまわりを、うろついたこともある。しかしおれは何もしなかった。塀を乗りこえた覚えは決してない。犯人はほかにある。そいつがおれの靴を盗み出して、にせの足跡をつけたんだと言いはるのです」
「フン、にせの足跡ということも、むろん考えてみなければいけないね」
「しかし、関根には強い動機があります。そして、アリバイがないのです」
「青木の方のアリバイは?」
「それも一応当たってみました。青木もその時分外出していて、やっぱりアリバイはありません」
「すると、青木が関根の靴をはいて、万年塀をのり越したという仮定もなり立つわけかね」
「それは調べました。関根は靴を一足しか持っていません。その靴をはいて犯行の時間には外出していたのですから、その同じ時間に青木が関根の靴をはくことはできません」
「それじゃあ、真犯人が関根の靴を盗んで、にせの足跡をつけたという関根の主張は、なり立たないわけだね」
明智の眼に例の異様な微笑が浮かんだ。そして、しばらく天井を見つめてタバコをふかしていたが、ふと別の事を言い出した。
「君は、美弥子が傷つけられた時に割れた窓ガラスのかけらを集めてみなかった?」
「すっかり集めました。婆やが残りなく拾いとって、新聞紙にくるんで、ゴミ箱のそばへ置いておいたのです。それで、私はガラス戸に残っているガラスを抜き取って、そのかけらと一緒に復原してみました。すると、妙なことがわかったのです。割れたガラスは三枚ですが、かけらをつぎ合わせてみると、三枚は完全に復原できたのに、まだ余分のかけらが残っているのです。婆やに、前から庭にガラスのかけらが落ちていて、それがまじったのではないかと聞いてみましたが、婆やは決してそんなことはない。庭は毎日掃いているというのです」
「その余分のガラスは、どんな形だったね」
「たくさんのかけらに割れていましたが、つぎ合わせてみると、長細い不規則な三角形になりました」
「ガラスの質は?」
「眼で見たところでは、ガラス戸のものと同じようです」
明智はそこで又、しばらくだまっていた。しきりにタバコを吸う、その煙を強く吐き出さないので、モヤモヤと顔の前に、煙幕のような白い煙がゆらいでいる。
4
明智小五郎と庄司巡査部長の会話がつづく。
「佐藤の傷口は美弥子のと似ていたんだね」
「そうです。やはり鋭い両刃の短刀らしいのです」
「その短刀はまだ発見されないのだろうね」
「見つかりません。関根はどこへ隠したのか、あいつのアパートには、いくら探しても無いのです」
「君は殺人のあった洋室の中を調べてみたんだろうね」
「調べました。しかし洋室にも兇器は残っていなかったのです」
「その洋室の家具なんかは、どんな風だったの? 一つ一つ思い出してごらん」
「大きな机、革張りの椅子が一つ、肘掛け椅子が二つ、西洋の土製の人形を飾った隅棚、大きな本箱、それから窓のそばに台があって、その上にでっかいガラスの金魚鉢がのっていました。佐藤は金魚が好きで、いつも書斎にそのガラス鉢を置いていたのです」
「金魚鉢の形は?」
「さし渡し一尺五寸ぐらいの四角なガラス鉢です。蓋はなくて、上はあけっぱなしです。よく見かける普通の金魚鉢のでっかいやつですね」
「その中を、君はよく見ただろうね」
「いいえ、べつに……すき通ったガラス鉢ですから、兇器を隠せるような場所ではありません」
その時、明智は頭に右手をあげて、指を櫛のようにして、、モジャモジャの髪の毛をかきまわしはじめた。庄司は明智のこの奇妙な癖が、どういう時に出るかを、よく知っていたので、びっくりして、彼の顔を見つめた。
「あの金魚鉢に何か意味があったのでしょうか」
「僕はときどき空想家になるんでね。いま妙なことを考えているのだよ……しかし、まったく根拠がないわけでもない」
明智はそこでグッと上半身を前に乗り出して、内証話でもするような恰好になった。
「実はね、庄司君、このあいだ君の話を聞いたあとで、うちの小林に、少しばかり聞きこみと尾行をやらせたんだがね、佐藤寅雄には美弥子の前に細君があったが、これは病気でなくなっている。子供はない。そして、佐藤は非常な財産家だ。それから、君は今、青木が美弥子を見舞いにきたといったね。ちょうどそのとき、小林が青木を尾行していたんだよ。物蔭からのぞいていると、美弥子は青木を玄関に送り出して、そこで二人が何かヒソヒソ話をしていたというのだ。まるで恋人同士のようにね」
庄司は話のつづきを待っていたが、明智がそのままだまってしまったので、いよいよいぶかしげな顔になった。
「それと、金魚鉢とどういう関係があるのでしょうか」
「庄司君、もし僕の想像が当たっているとすると、これは実にふしぎな犯罪だよ。西洋の小説家がそういうことを空想したことはある。しかし、実際にはほとんど前例のない殺人事件だよ」
「わかりません。もう少し具体的におっしゃってください」
「それじゃあ問題の足跡のことを考えてみたまえ。あれがもしにせの靴跡だとすれば、必ずしも事件の起こったときにつけなくても、前もってつけておくこともできたわけだね。それならば青木にだってやれたはずだ。すきを見て関根のアパートから靴を盗み出し、佐藤の庭に忍びこんで靴跡をつけ、また関根のところへ返しておくという手だよ。関根のアパートと佐藤の家とは三丁しか隔たっていないのだから、ごくわずかの時間でやれる。それに、たとえ見つかったとしても、靴泥棒だけなれば大した罪じゃないからね。もう一つ突っ込んでいえば、にせの足跡をつけたのは、青木に限らない。もっとほかの人にもやれたわけだよ」
庄司巡査部長は、まだ明智の真意を悟ることができなかった。困惑した表情で明智の顔を見つめている。
「君は盲点に引っかかっているんだよ」
明智はニコニコ笑っていた。例の意味ありげな眼だけの微笑が、顔じゅうにひろがったのだ。そして、右手に持っていた吸いさしのタバコを灰皿に入れると、そこにころがっていた鉛筆をとってメモの紙に何か書き出した。
「君に面白い謎の問題を出すよ。さあ、これだ」
「いいね。Oは円の中心だ。OAはこの円の半径だね。OA上のB点から垂直線を下して円周にまじわった点がCだ。また、Oから垂直線を下してOBCDという直角四辺形を作る。この図形の中で長さのわかっているのはABが三インチ、BDの斜線が七インチという二つだけだ。そこで、この円の直径は何インチかという問題だ。三十秒で答えてくれたまえ」
庄司巡査部長は面くらった。昔、中学校で幾何を習ったことはあるが、もうすっかり忘れている。直径は半径の二倍だから、まずOAという半径の長さを見出せばよい。OAのうちでABが三インチなんだから、残るOBは何インチかという問題になる。もう一つわかっているのはBDの七インチだ。このBDを底辺とする三角形が目につく、エート、底辺七インチのOBDという直角三角形の一辺は……
「だめだね。もう三十秒はとっくにすぎてしまったよ。君はむずかしくして考えるからいけない。多分ABの三インチに引っかかったんだろう。それに引っかかったら、もうおしまいだ。いくら考えてもだめだよ。
この問題を解くのはわけない。いいかね、この図のOからCに直線を引いてみるんだ。ほうらね、わかっただろう。直角四辺形の対角線は相等し……ハハハハハ。半径は七インチなんだよ。だから直径は十四インチさ」
「なるほど、こいつは面白い謎々ですね」
庄司は感心して図形を眺めている。
「庄司君、君は今度の事件でも、このAB線にこだわっているんだよ。ずるい犯人はいつもAB線を用意している。そして、捜査官をそれに引っかけようとしている。さあ、今度の事件のAB線はなんだろうね。よく考えてみたまえ」
5
庄司巡査部長が三度目に明智のフラットを訪ねたのは、それからまた三日の後であった。
「先生、ご明察の通りでした。美弥子は自白しました。佐藤の財産が目的だったのです。そして、財産を相続したら、青木と一緒になるつもりだったというのです。美弥子の方が青木に惚れていたのですよ。それを青木に脅迫されているように見せかけて、佐藤を安心させておいたのです」
明智は沈んだ顔をしていた。いつもの笑顔も消えて、眼は憂鬱な色にとざされていた。
「先生のおっしゃったAB線は、美弥子が自分で自分の腕を傷つけ、さも被害者であるように見せかけたことです。まさか被害者が犯人だとは誰も考えなかったのです。
兇器は先生のお考えの通りガラスでした。長っ細い三角形のガラスの破片でした。美弥子はそれで自分の腕を切って、よく血のりをふきとってから庭に投げすてたのです。そして、窓のガラスを割って庭へ落とし、そのガラスのかけらで、兇器のガラスをカムフラージュしてしまったのです。そのガラスのかけらをすっかり集めて、丹念に復原してみる警官があろうとは、さすがの彼女も思い及ばなかったのですね。
佐藤もなかなか抜け目のない男ですから、美弥子がほんとうに自分を愛してはいないことを見抜いていたのかもしれません。それで、あんなに兇器を探したのでしょうね。自分が殺されるとまでは考えなかったにしても、なんとなく疑わしく思っていたのですね。
佐藤を殺した兇器もガラスでした。傷口へ折れ込まない用心でしょう。それは少し厚手のガラスで、やはり短刀のような長い三角形のものでした。佐藤に油断をさせておいて、それで胸を突き、血のりをよくふきとってから、例の金魚鉢の底へ沈めたのです。その時間は充分ありました。『だれか来て……』と叫んだのは、すべての手順を終ってからです。佐藤が殺されたとき、唸り声ぐらいは立てたのでしょうが、私の坐っていた座敷からは遠いし、それに、厚いドアがしまっていたので私は気づかなかったのです。
金魚鉢にガラスの兇器とは、なんとうまい思いつきでしょう。底に一枚ガラスが沈んでいたって、ちょっと見たのではわかりません。物を探す場合、透明な金魚鉢なんか最初から問題にしませんし、それにガラスが短刀の代りに使われたなんて、誰も考えっこありませんからね。先生がすぐにそこへお気づきになったのは、驚くほかありません。
庭のにせの足跡も美弥子がつけたのです。傷口の糸を抜いた翌日、あまりとじこもっていても、からだに悪いから、ちょっと散歩してくるといって、家を出たのだそうです。そして近くの関根のアパートへ行って、関根の靴を風呂敷に包んで持ち帰り、庭にあとをつけると、又アパートへ返しに行ったのです。美弥子は関根が朝寝坊なことを知っていて、寝ているひまに、これだけのことをやってのけたのです。前にも関根と同棲していたのですから、関根の生活はこまかいところまで知りぬいていたわけです。
それから例の脅迫状も、美弥子が左手で書いて、自分でポストへ入れたのだと白状しました。この脅迫状は、一つは私を呼びよせて犯行の現場に立ち会わせるためだったのですね。ずいぶん舐められたものです。ガラスの兇器のトリックは、目撃者がなくては、その威力を発揮しないのですからね。
それから青木もむろん呼び出して調べましたが、共犯関係はないことがわかりました。美弥子は恋人の青木には何も知らせないで、自分一人で計画し、実行したのです。実に勝気な女です。美弥子は貧乏を呪っていました。自分は貧乏のためにどんなつらい思いをしてきたかわからない。いろいろな男をわたり歩かなければならなかったのも貧のためだ。どんなことをしても貧乏とは縁を切りたいと思っていた。そこへ佐藤という大金持ちが現われたので、金のために結婚を承諾した。関根には借金をしていたので、いやいやながら同棲したが、ずいぶんひどい目にあった。逃げ出したくても隙がなく、すぐ腕力をふるうので、どうすることもできなかった。佐藤がその借金を返してくれたので、やっと助かったが、関根にいじめられた復讐はいつかしてやろうと思っていたというのです。
青木には佐藤と結婚する前から好意を持っていたが、結婚後、佐藤の目をかすめてだんだん深くなって行ったのだそうです。そうなると佐藤とはもう一日も一緒にいたくない。といって、離婚したのではお金に困る。貧乏はもうこりこりだ、というわけで、佐藤の財産をそのまま自分のものにして、好きな青木と一緒になるという、虫のいいことを思いついたのですね。そして、ガラスの殺人という、実に奇抜な方法を考え出したのです。女というものは怖いですね」
「僕の想像が当たった。実に突飛な想像だったが、世間にはそういう突飛なことを考え出して、実行までするやつがあるんだね」
明智は腕を組んで、陰気な顔をしていた。あれほど好きなタバコも手にとるのを忘れているように見えた。
「ですから、先生も不思議な人ですよ。不思議な犯罪は、不思議な探偵でなければ見破ることができないのですね」
「君はそう思っているだろうね。しかし、いくら僕が不思議な探偵でも、君の話を聞いただけでは、あんな結論は出なかっただろうよ。種あかしをするとね、僕は小林に美弥子の前歴をさぐらせたのだ。そして、美弥子と親しかったが今は仲たがいになっている二人の女に、別々にここへ来てもらって、よく話を聞いたのだ。それで美弥子という女の性格がわかったのだよ。僕が金魚鉢に気がついたのは、そういう手続きを経ていたからだ。だが、その時はもうおそかった。僕の力では事前にそこまで考えられなかった。あとになって、不思議な殺人手段に気づくだけがやっとだった」
明智はそういって、プツンとだまりこんでしまった。庄司巡査部長は明智のこんなにうち沈んだ姿を見るのは、はじめてであった。
疑惑
一、その翌日
「おとうさんが、なくなられたというじゃないか」
「ウン」
「やっぱりほんとうなんだね」
「だが、君は、けさの××新聞の記事を読んだかい。いったいあれは事実なのかい」
「…………」
「おい、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。なんとか言えよ」
「ウン、ありがとう……別に言うことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ、きのうの朝、眼をさましたら、うちの庭で、おやじが頭を|破《わ》られて倒れていたのだ。それだけのことなんだ」
「それで、きのう、学校へこなかったのだね……そして、犯人はつかまったのかい」
「ウン、嫌疑者は二、三人あげられたようだ。しかしまだ、どれがほんとうの犯人だかわからない」
「おとうさんは、そんな、恨みを受けるような事をしていたのかい。新聞には遺恨の殺人らしいと出ていたが」
「それは、していたかもしれない」
「商売上の……」
「そんな気のきいたんじゃないよ。おやじのことなら、どうせ酒の上の喧嘩が元だろうよ」
「酒の上って、おとうさんは酒くせでもわるかったのかい」
「…………」
「おい、君は、どうかしたんじゃないかい……ああ、泣いているね」
「…………」
「運がわるかったのだよ。運がわるかったのだよ」
「……おれはくやしいのだ。生きているあいだは、さんざんおふくろやおれたちを苦しめておいて、それだけでは足らないで、あんな恥さらしな死に方をするなんて……おれは悲しくなんぞ、ちっともないんだよ。くやしくてしようがないのだ」
「ほんとうに、君は、きょうは、どうかしている」
「君にわからないのはもっともだよ。いくらなんでも、自分の親の悪口をいうのはいやだったから、おれはきょうまで、君にさえ、これっぱかりも、そのことを話さなかったのだ」
「…………」
「おれは、きのうから、なんとも言えない変てこな気持なんだ。親身のおやじが死んだのを悲しむことができない……いくらあんなおやじでも、死んだとなれば、定めし悲しかろう。おれはそう思っていた。ところが、おれは今、少しも悲しくないんだよ。もしも、あんな不名誉な死にかたでさえなかったなら、死んでくれて助かったくらいのものだよ」
「ほんとうの息子から、そんなふうに思われるおとうさんは、しかし、不幸な人だね」
「そうだ、あれがどうすることもできないおやじの運命だったとしたら、考えてみれば、気の毒な人だ。だが、今、おれにはそんなふうに考える余裕なんかない。ただ、いまいましいばかりだ」
「そんなに……」
「おやじは、じいさんが残して行った僅かばかりの財産を、酒と女に使い果たすために生れてきたような男なんだ。みじめなのは母親だった。母が、どんなに堪えがたい辛抱をし通してきたか、それを見て、子供のおれたちが、どんなにおやじをにくんだか……こんなことをいうのはおかしいが、おれの母は実際驚くべき女だ。二十何年のあいだ、あの暴虐を堪え忍んできたかと思うと、おれは涙がこぼれる。今おれがこうして学校へ通よっていられるのも、一家の者が路頭に迷わないで、ちゃんと先祖からの屋敷に住んでいられるのも、みんな母親の力なんだ」
「そんなに、ひどかったのかい」
「そりゃ、君たちにはとても想像もできやしないよ。この頃では、殊にそれがひどくなって、毎日毎日あさましい親子喧嘩だ。年がいもなく、だらしなく酔っぱらったおやじが、どこからか、ひょっこり帰ってくる……おやじはもう酒の中毒で、朝から晩まで、酒なしには生きていられないのだ……そして、母親が出迎えなかったとか、変な顔つきをしたとか、実にくだらない理由で、すぐに手を上げるんだ。この|半《はん》|年《とし》ばかりというもの、母親はからだに生傷が絶えないのだ。それを見ると、兄貴が癇癪もちだからね――歯ぎしりをして、おやじに飛びかかって行くのだ……」
「おとうさんは、いくつなんだい」
「五十だ。君はきっと、その年でといぶかしく思うだろうね。実際おやじはもう、半分くらい気が違っていたのかもしれない。若い時分からの女と酒の毒でね……夜など、なんの気なしにうちへ帰って、玄関の格子をあけると、その障子に、箒を振り上げて、仁王立ちになっている兄貴の影がうつっていたりするのだ。ハッとして立ちすくんでいると、ガラガラというひどい音がして、提灯の箱が、障子をつき抜けて飛んでくる。おやじが投げつけたんだ。こんなあさましい親子が、どこの世界にある……」
「…………」
「兄貴は、君も知っていた通り、毎日横浜へ通よって、××会社の通訳係りをやっているんだが、気の毒だよ、縁談があっても、おやじのためにまとまらないのだ。そうかといって、別居する勇気もない、みじめな母親を見捨てて行く気には、どうしてもなれないというのだ。三十近い兄貴が、おやじととっ組みあったりするといったら、君にはおかしく聞こえるかもしれないが、兄貴の心持ちになってみると、実際無理もないんだよ」
「ひどいんだねえ」
「おとといの晩だってそうだ。おやじは珍らしくどこへも出ないで、その代りに朝起きるとから、もう酒だ。一日じゅうぐずぐず管をまいていたらしいのだが、夜十時ごろになって、母親があまりのことに、少しお燗をおくらす、それからあばれ出してね。とうとう、母親の顔へ茶碗をぶっつけたんだよ。それが、ちょうど鼻柱へ当たって、母親はしばらく気を失ったほどだ。すると兄貴がいきなりおやじに飛びついて胸ぐらをとる、妹が泣きわめいて、それを止める。君、こんな景色が想像できるかい。地獄だよ、地獄だよ」
「…………」
「もしこの先、何年もああいう状態がつづくのだったら、おれたちは到底堪えきれなかったかもしれない。母親なんか、そのために死んでしまったかもしれない。あるいはそうなるまでに、おれたち兄弟の誰かがおやじを殺してしまったかもしれない。だから、ほんとうのことをいえば、おれの一家は、今度の事件で救われたようなもんだよ」
「おとうさんがなくなったのは、きのうの朝なんだね」
「発見したのが五時ごろだったよ、妹が一ばん早く眼を覚ましたんだ。そして、気がつくと、縁側の戸が一枚あいている。おやじの寝床がからっぽだったので、てっきりおやじが起きて庭へ出ているのだろうと思ったそうだ」
「じゃあ、そこからおとうさんを殺した男が、はいったんだね」
「そうじゃないよ。おやじは庭でやられたんだよ。その前の晩に、母親が気絶するような騒ぎがあったので、さすがのおやじも眠れなかったとみえて、夜中に起きて、庭へ涼みに出たらしいのだ。次の部屋に寝ていた母親や妹は、ちっとも気がつかなかったそうだけれど、そういうふうに、夜中に庭へ出て、そこにおいてある、大きな切石の上に腰かけて涼むのがおやじのくせだったから、そうしているところを、うしろからやられたに違いない」
「突いたのかい」
「後頭部を、あまり鋭くない刃物で、なぐりつけたんだ。斧とかナタとかいう種類のものらしいのだ。そういう警察の鑑定なんだ」
「それじゃ兇器が、まだ見つからないのだね」
「妹が母親を起こして、二人が声をそろえて、二階に寝ていた兄貴とおれを呼んだよ。うわずったその声の調子で、おれは、おやじの死骸を見ない先に、すっかり事件がわかったような気がした。妙な予感というようなものが、ずっと以前からあった。それで、とうとうきたなと思った。兄貴と二人で、大急ぎで降りて行ってみると、一枚あいた雨戸の隙間から、活人画のように、明かるい庭の一部が見え、そこに、おやじが非常に不自然な恰好をしてうずくまっていた。妙なものだね、ああいうときは。おれはしばらく、お芝居を見ているような、まるで傍観的な気持になっていたよ」
「……それで、何時ごろだろう、実際兇行の演じられたのは」
「一時ごろっていうんだよ」
「真夜中だね。で、嫌疑者というのは」
「おやじを憎んでいたものはたくさんある。だが、殺すほども憎んでいたかどうか。しいて疑えば今あげられているうちに一人、これではないかと思うのがある。ある小料理屋で、おやじになぐられて、大怪我をした男なんだがね。療治代を出せとかなんとかいって、たびたびやってきたのを、おやじはその都度どなりつけて追い返したばかりか、最後には、母親なんかの留めるのも聞かないで、警官を呼んで引き渡しさえしたんだよ。こっちは零落はしていても、町での古顔だし、先方はみすぼらしい労働者みたいな男だから、そうなると、もう喧嘩にならないんだ……おれは、どうもそいつではないかと思うのだ」
「しかし、おかしいね。夜中に、多勢家族のいるところへ忍び込むなんて、可なりむつかしい仕事だからね。ただ、なぐられたくらいの事でそれほどの危険を冒してまで、相手を殺す気持になるものかしら。それに、殺そうと思えば、家のそとでいくらも機会がありそうなものじゃないか……いったい、曲者がそとから忍び込んだという、確かな証拠でもあったのかい」
「表の戸締まりがあいていたのだ、かんぬきがかかっていなかったのだ。そして、そこから、庭へ通じる枝折戸には錠前がないのだ」
「足跡は」
「それはだめだよ。このお天気で、地面がすっかりかわいているんだから」
「……君のところには、雇い人はいなかったようだね」
「いないよ……あ、では、君は犯人は外部からはいったのではないと……そんな、そんなことが、いくらなんでも、そんな恐ろしいことが。きっとあいつだよ。そのおやじになぐられた男だよ。労働者の命知らずなら、危険なんか考えてやしないよ」
「それはわからないね。でも……」
「ああ君、もうこんな話は止そう。なんといってみたところで、すんでしまったことだ、今更らどうなるものじゃない。それに、もう時間だよ。ぼつぼつ教室へはいろうじゃないか」
二、五日目
「それじゃあ、君は、おとうさんを殺した者が、君の家族のうちにあるとでもいうのかい」
「君は、このあいだ、犯人はそとからはいったのではないというような口吻を漏らしていたね。あの時は、そんなことを聞くのがいやだったので……というのが、いくらかおれもそれを感じていて、痛いところへさわられたような気がしたんだね……君の話を中途で止めさせてしまったが、今おれはその同じ疑いに悩まされているのだ……こんなことはむろん他人に話す事柄じゃない。できるなら、だれにもいわないでおこうと思っていた。だが、おれはもう苦しくってたまらないのだ。せめて、君だけには相談に乗ってもらいたくなった」
「で、つまり、誰を疑っているのだ」
「兄貴だよ、おれにとっては血を分けた兄弟で、死んだおやじにとっては、真実の息子である兄貴を疑っているのだ」
「例の嫌疑者は白状しないのか」
「白状しないのみか、次から次へと、反証が現われてくるのだ。裁判所でも手こずっているというのだ。よく刑事がたずねてきては、そんな話をして帰る。それがやはり、考えようによっては、その筋でも、おれのうちのものを疑っていて、様子をさぐりにくるのかもしれないのだ」
「だが、君は少し神経過敏になり過ぎてやしないのかい」
「神経だけの問題なら、おれはこんなに悩まされやしない。事実があるんだ……このあいだは、そんなものが事件に関係を持っていようとは思わず、ほとんど忘れていたくらいで、君にも話さなかったが、おれはあの朝、おやじの死骸のそばで、クチャクチャに丸めた麻のハンカチを拾ったのだよ。ずいぶんよごれていたけれど、ちょうど|印《しるし》を縫いつけたところが、外側に出ていたので、一と目でわかった。それは兄貴とおれのほかには、だれも持っているはずのない品物だった。おやじは古風にハンカチを嫌って、手拭いをたたんで懐に入れているくせだったし、母親や妹は、ハンカチは持つけれど、むろん女持ちの小さいやつで、まるで違っていた。だから、そのハンカチを落としたのは、兄貴かおれかどちらかに違いないのだ。ところが、おれはおやじの殺される日まで、ずっと四、五日のあいだも、その庭へ出たことはないし、最近にハンカチをなくした覚えもない。すると、そのおやじの死骸のそばに落ちていたハンカチは、兄貴の持ち物だったと考えるほかはないのだ」
「だが、おとうさんが、どうかしてそれを持っていられたというような……」
「そんなことはない。おやじは、ほかのことではずぼらだけど、そういう持ち物なんかには、なかなか几帳面な男だった。これまで、一度だって、他人のハンカチを持っていたりしたのを見たことがない」
「……しかし、もしそれが兄さんのハンカチだったとしても、必らずしもおとうさんの殺された時に落としたものとは限るまい。前日に落としたのかもしれない。もっと前から落ちていたのかもしれない」
「ところが、その庭は、一日おきぐらいに、妹が綺麗に掃除することになっていて、ちょうど、事件の前日の夕方も、その掃除をしたのだ。それから、皆が寝るまで、兄貴が一度も庭へ下りなかったこともわかっている」
「じゃあ、そのハンカチをこまかに調べてみたら、何かわかるかもしれないね。たとえば……」
「それはだめだ。おれはそのとき誰にも見せないで、すぐ便所へほうりこんでしまった。なんだかけがらわしいような気がしたものだから……だが、兄貴を疑う理由はそれだけじゃないんだよ。まだまだいろいろな事実があるんだ。兄貴とおれとは、部屋が違うけれど、同じ二階に寝ていたのだが、あの晩一時ごろには、どういうわけだったか、おれは寝床の中で眼をさましていて、ちょうどそのとき、兄貴が階段を下りて行く音を聞いたのだ。そのときは便所へ行ったのだろうぐらいに思って別段気にとめなかったが、それから階段を上がる足音を聞くまでにはだいぶ時間があったから、疑えば疑えないことはない。それと、もう一つ、こんなこともあるんだ。おやじの変死が発見されたとき、兄貴もおれもまだ寝ていたのを、母親と妹のあわただしい呼び声に、驚いて飛び起きて、大急ぎで下におりたんだが、兄貴は、寝間着をぬいで、着物をはおったまま、帯もしめないで、それを片手につかんで縁側の方へ走って行った。ところがね、縁側の靴ぬぎ石の上へ、はだしでおりたかと思うと、どういうわけだか、そこへピッタリ立ち止まってしまったんだ。考えようによっては、おやじの死骸を見て驚きのあまり、ためらったのかとも思われるが、しかし、それにしては、なぜ手に持っていた兵児帯を、靴ぬぎ石の上へ落としたのだ。兄貴はそれほど驚いたのだろうか。これは兄の日頃の気性から考えて、どうも受けとれないことだ。落としたばかりならいい。落としたかと思うと、大急ぎで拾い上げた。それがね、おれの気のせいかもしれないけれど、拾い上げたのは、どうやら帯だけではなかったらしいのだ。なんだか黒い小さな物が(それは一と目で持ち主のわかる、たとえば財布というようなものだったかもしれない)石の上に落ちていたのを、とっさの場合、先ず帯を落としておいて、拾うときには帯の上から、その品物も一緒につかみとったように思われるのだ。それは、おれの方でも気が転倒している際だし、ほんとうに一瞬間の出来事だったから、ひょっとすると、おれの思い違いかもしれない。しかしハンカチのことや、ちょうどその時分に下へおりたことや、何よりも、このごろの兄貴のそぶりを考え合わせると、もう疑わないわけには行かぬ。おやじが死んでからというもの、家じゅうの者が、なんだか変なんだ。それは単に家長の死を悲しむというようなものではない。それ以上に、なんだかえたいのしれぬ、不愉快な、薄気味のわるい、一種の空気がただよっている。食事の時なんか、四人の者が顔を合わせても、だれも物をいわない。変にじろじろ顔を見合わせている。その様子が、どうやら、母親にしろ、妹にしろ、おれと同じように兄貴を疑っているらしいのだ。兄貴は兄貰で、妙に青い顔をしてだまりこんでいる。実になんとも形容のできない、いやあないやあな感じだ。おれはもう、あんなうちの中にいるのはたまらない。学校から帰って、一歩うちの敷居をまたぐと、ゾーッと陰気な風が身にしみる。家長を失ってたださえさびしいうちの中に、母親と三人の子供が、だまりこんで、てんでに何かを考えて、顔を見合わせているばかりだ……ああ、たまらない、たまらない」
「君の話を聞いていると怖くなる。だが、そんなことはないだろう。まさか兄さんが……君は実際鋭敏すぎるよ。とりこし苦労だよ」
「いや、決してそうじゃない。おれの気のせいばかりではない。もし理由がなければだが、兄貴には、おやじを殺すだけの、ちゃんと理由がある。兄貴がおやじのためにどれほど苦しめられていたか。したがって、おやじをどんなに憎んでいたか……殊にあの晩は、母親が怪我までさせられているのだ。母親思いの兄貴が激昂のあまり、ふと飛んでもない事を考えつかなかったとはいえない」
「…………」
「…………」
「恐ろしいことだ、だが、まだ断定はできないね」
「だからね、おれは一そうたまらないのだ。どちらかに、たとえ悪い方にでも、きまってくれれば、まだいい。こんな、あやふやな、恐ろしい疑惑にとじこめられているのは、ほんとうにたまらないことだ」
「…………」
三、十日目
「おい、Sじゃないか。どこへ行くの」
「ああ……別に……」
「ばかに憔悴しているじゃないか。例のこと、まだ解決しないの?」
「ウン……」
「あんまり学校へこないものだから、きょうはこれから、君のところをたずねようと思っていたのさ。どっかへ行くところかい」
「いや……そうでもない」
「じゃあ、散歩っていうわけかい。それにしても、妙にフラフラしているじゃないか」
「…………」
「ちょうどいい。そのへんまでつきあわないか。歩きながら話そう……で、君はまだ何か煩悶しているんだね。学校へも出ないで」
「おれはもう、どうしたらいいのか、考える力も何もなくなってしまった。まるで地獄だ。うちにいるのが恐ろしい……」
「まだ犯人がきまらないのだね。そして、やっぱり兄さんを疑っているの?」
「もう、その話はよしてくれたまえ、なんだか息が詰まるような気がする」
「だって、一人でくよくよしたってつまらないよ。話してみたまえ、僕にだってまたいい智恵がないとも限らない」
「話せといっても、話せるような事柄じゃない。うちじゅうの者が、お互いに疑いあっているのだ。四人の者が一つうちにいて、口もきかないで、にらみあっているのだ。そして、たまに口をきけば、刑事か裁判官のように相手の秘密をさぐり出そうとしているのだ。それが、みんな血を分けた肉親同士なんだ。そして、そのうちのだれか一人が、人殺し……親殺しか、夫殺しなんだ」
「それはひどい。そんなばかなことがあるものじゃない。きっと君はどうかしているんだ。神経衰弱の妄想かもしれない」
「いいや、決して妄想じゃない、そうであってくれると助かるのだが」
「…………」
「君が信じないのも無理はない。こんな地獄が、この世にあろうとは、誰にしたって想像もできないことだからな。おれ自身も、なんだか悪夢にうなされているような気がする。このおれが、親殺しの嫌疑で、刑事に尾行されるなんて……シッ、うしろを向いちゃいけない。すぐそこにいるんだ。この二、三日、おれがそとに出れば、きっとあとをつけている」
「……どうしたというのだ。君が嫌疑を受けているのだって?」
「おればかりじゃない。兄貴でも妹でも、みんな尾行がつくのだ。うちじゅうが疑われているのだ。そしてうちの中でもお互いが疑いあっているのだ」
「そいつは……だが、そんな疑いあうような新らしい事情でもできたのかい」
「確証というものは一つもない。ただ疑いなんだ。嫌疑者がみんな放免になってしまったのだ。あとには、家内の者でも疑うほかに方法がないのだ。警察からは毎日のようにやってくる。そして、うちじゅうの隅から隅まで調べまわる。このあいだも、タンスの中から血のついた母親の浴衣が出たときなんか、警察の騒ぎようったらなかった。なあに、なんでもないのだ。事件の前の晩に、おやじから茶碗を投げつけられた時の血が、洗ってなかったのだ。おれがそれを説明してやると、その場は一時おさまったが、それ以来、警察の考えが一変してしまった。おやじがそんな乱暴者だったとすると、なおさら家内の者が疑わしいという論法らしいのだ」
「このあいだは、君はひどく兄さんを疑っていたようだが……」
「もっと低い声でいってくれたまえ、うしろのやつに聞こえるといけない……ところが、その兄貴は兄貴で誰かを疑っている。それがどうも、母親らしいのだ。兄貴がさもなにげないふうで、母親に聞いていたことがある。おかあさんクシをなくしやしないかって。すると母親はびっくりしたように息を呑んで、お前どうしてそんなことを聞くのだと反問した。それっきりのことだ。取りようによっては、なんでもない会話だ。だが、おれにはギックリときた。さては、このあいだ兄貴が帯で隠したのは、母親のクシだったのかと……
それ以来、おれは母親の一挙一動に注意するようになった。なんという浅ましいことだろう。息子が母親を探偵するなんて。おれはまる二日のあいだというもの、蛇のように眼を光らせて、隅の方から母親を監視していた。恐ろしいことだ。母親のそぶりは、どう考えてみてもおかしいのだ。なんとなくソワソワと落ちつかないのだ。君、この気持が想像できるか。自分の母親が自分のおやじを殺したかもしれないという疑い。それがどんなに恐ろしいものだか……おれはよっぽど兄貴に聞いてみようかと思った。兄貴はもっとほかのことを知っているかもしれないのだから。だが、どうにも、そんなことを聞く気にはなれない。それに兄貴の方でも、なんだかおれの質問を恐れでもするように、近頃はおれから逃げているのだ」
「なんだか耳にふたしたいような話だ。聞いている僕がそうなんだから、話している君の方は、どんなにか不愉快だろう」
「不愉快というような感じは、もう通り越してしまった。近頃では、世の中が、何かこう、まるで違った物に見える。ああして、往来を歩いている人たちの暢気そうな、楽天的な顔を見ると、いつも不思議な気がする。あいつらだって、あんな平気な顔をしているけれど、きっとおやじかおふくろを殺しているのだ。なんて考えることがある……だいぶ離れた。尾行のやつ、人通りが少なくなったものだから、一丁もあとからやってくる」
「だが君、たしかおとうさんの殺された場所には、兄さんのハンカチが落ちていたのではないか」
「そうだ。だから、まるきり兄貴に対する疑いがはれたわけではないのだ。それに、母親にしたって、疑っていいのかどうか、はっきりはわからない。妙なことには、母親は母親でまた、誰かを疑っているのだ。まるで、いたちごっこだ……きのうの夕方のことだ。もうだいぶ暗くなっていた。なんの気なしに、二階から降りてくると、そこの縁側に母親が立っているのだ。何かをソッとうかがっているという様子だ。いやに眼を光らせているのだ。そして、おれが降りてきたのを見ると、ハッとしたように、さりげなく部屋の中へはいってしまった。その様子がいかにも変だったので、おれは母親の立っていた場所へ行って、母親の見つめていた方角を見た」
「…………」
「君、そこに何があったと思う。その方角には、若い杉の木立ちが茂っていて、葉と葉のあいだから、稲荷を祀った小さな|祠《ほこら》がすいて見えるのだが、その祠のうしろに、なんだかチラチラと赤いものが見えたり隠れたりしているのだ。よく見ると、それは妹の帯なんだ。何をしているのか、こちらからは、帯の|端《はし》しか見えないから、少しもわからないけど、そんな祠のうしろなんかに、用事のあろうはずはない。おれはもうちょっとで、声を出して、妹の名前を呼ぶところだった。が、ふと思い出したのは、さっきの母親の妙なそぶりだ。それと、おれが祠の方を見ているあいだじゅう、背中に感じた母親の凝視だ。これはただごとでないと思った。もしかしたら、すべての秘密があの祠のうしろに隠されているのではないか。そして、その秘密を妹が握っているのではないか、直覚的にそんなことを感じた」
「…………」
「おれは、自分でその祠のうしろをさぐってみようと思った。そして、きのうの夕方から今しがたまで一所懸命にそのおりを待っていた。だが、どうしても機会がないのだ。第一、母親の眼が油断なくおれのあとを追っている。ちょっと便所へはいっても、用をすませて出てくると、ちゃんと母親が縁側へ出て、それとなく監視している。これはおれの邪推かもしれない。できるならそう思いたい。だが、あれが偶然だろうか。きのうからけさにかけて、おれの行くところには必ず母親の眼が光っているのだ。それから、不思議なのは妹のそぶりだ……
君も知っている通り、おれはよく学校を怠ける。だから、近頃ずっと休んでいるのを、誰も別に怪しまない。ところが、妹のやつ、兄さんはなぜ学校へ出ないのだと聞くのだ。今まで一度だってそんなことを聞いたことはないのに、事件があってから、二度も同じことを聞くのだ。そして、その時の眼つきが実に妙なんだ、まるで泥棒同士が合点々々をするような調子で、何もかも呑み込んでいるから安心しろという、どう考えても、そうとしかとれないような合図をするのだ。妹はてっきりこのおれを疑っているのだ。その妹の眼も光っている。やっとのことで、母親と妹の眼をのがれて庭へ出てみると、あいにく、二階の窓から兄貴がのぞいている。そんなふうで、どうしても機会がないのだ……
それに、たとえ機会が与えられたとしても、祠のうしろを見ることは、非常な勇気のいる仕事だ。いざとなったら、おれにはこわくてできないかもしれぬ。誰が犯人だかきまらないのも、むろんたまらないことだ。といって、肉親のうちのだれかに違いない犯人を、確かめるというのは、これも恐ろしい。ああ、おれはいったいどうしたらいいのだ」
「…………」
「つまらないことをいっている間に、妙なところへ来てしまったね。ここはいったいなんという町だろう。ボツボツあと戻りをしようじゃないか」
「…………」
四、十一日目
「おれはとうとう見た。例の|祠《ほこら》のうしろを見た……」
「何があった?」
「恐ろしいものが隠してあった。ゆうべ、みんなの寝しずまるのを待って、おれは思い切って庭へ出た。下の縁側からは、母親と妹がすぐそばで寝ているので、とても出られない。そうかといって表口から廻るにも、彼らの枕もとを通らなければならぬ。そこで、おれは二階の自分の部屋が、ちょうど庭に面しているのを幸い、そこの窓から屋根を伝って地面へ降りた。月の光が昼のようにその辺を照らしていた。おれが屋根を伝う怪しげな影が、クッキリと地面にうつるのだ。なんだか自分が恐ろしい犯罪者になったような気がした。おやじを殺したのも実はこのおれだったのではないか。ふっとそんなことを考えた。おれは夢遊病の話を思い出した。いつかの晩も、やっぱりこんなふうにして、屋根を伝って、おやじを殺しに行ったのではないか……おれはゾーッと身ぶるいがした。だが、よく考えてみれば、そんなばかばかしいことがあろう道理はないのだ。あの晩、おやじの殺された刻限には、おれはちゃんと自分の部屋で眼をさましていたはずだ。
おれは足音に注意して、例の祠のうしろへ行った。月の光でよく見ると、祠のうしろの地面に掘り返したあとがあった。さてはこれだなと思って、手で土をかき分けてみた。一寸二寸と掘って行った。すると存外浅いところに手ごたえがあった。取り出してみると、それは見覚えのある、自分のうちの斧だった。赤くさびた刃先のところに、月の光でも見分けられるほど、こってりと黒い血のかたまりがねばりついていた……」
「斧が?」
「うん、斧が」
「それを、君の妹さんが、そこへ隠しておいたというのか」
「そうとしか考えられない」
「でも、まさか妹さんが下手人だとは思えないね」
「それはわからない。誰だって疑えば疑えるのだ。母親でも、兄でも、妹でも、またおれ自身でも、みんながおやじには恨みを抱いていたのだ。そして、おそらくみんながおやじの死を願っていたのだ」
「君のいい方はあんまりひどい。君や兄さんはともかく、お母さんまでが、長年つれ添った|夫《おっと》の死を願っているなんて、どんなにひどい人だったか知らないが、肉親の情というものはそうしたものじゃないと思う。君にしたって、おとうさんがなくなった今では、やっぱり悲しいはずだ……」
「それが、おれの場合は例外なんだ。ちっとも悲しくないんだ。母にしろ、兄にしろ、妹にしろ、だれ一人悲しんでやしないんだ。非常に恥かしいことだが、実際だ。悲しむよりも恐れているのだ。自分たちの肉親から、夫殺しなり親殺しなりの、重罪人を出さねばならぬことを恐れているのだ。ほかのことを考える余裕なんかないのだ」
「その点は、ほんとうに同情するけれど……」
「だが、兇器は見つかったが、下手人がだれであるかは少しもわからない。やっぱりまっ暗だ。おれは斧を元の通り土に埋めておいて、屋根伝いに自分の部屋へ帰った。それから一と晩じゅう、まんじりともしなかった。さまざまな幻がモヤモヤと目先に現われるのだ。おふくろが般若のような恐ろしい形相をして、両手で斧をふり上げているところや、兄貴が額に石狩川のような癇癪筋を立てて、なんともしれぬおめき声を上げながら、兇器をふりおろしているところや、妹が何かを後手に隠しながら、ソロリソロリとおやじの背後へ迫まって行く光景や」
「じゃあ君はゆうべ寝なかったのだね。道理で恐ろしく興奮していると思った。君は平常から少し神経過敏の方だ。それがそう興奮しちゃあからだにさわるね。ちっと落ちついたらどうだ。君の話を聞いていると、あんまりなまなましいので、気持がわるくなる」
「おれは平気な顔をしている方がいいのかもしれない。妹が兇器を土に埋めたように、この発見を、心の底へ埋めてしまった方がいいのかもしれない。だが、どうしてもそんな気になれないのだ。むろん世間に対しては絶対に秘密にしておかねばならぬけれど、少なくともおれだけは、事の真相を知りたいのだ。知らねばどうしても安心ができないのだ。毎日々々家じゅうの者が、お互いがお互いをさぐりあっているような生活はたまらないのだ」
「今更ら言ってもむだだけれど、君はいったい、そんな恐ろしい事柄を、他人のおれに打ち明けてもいいのかい。最初はおれの方から聞き出したのだが、このごろでは、君の話を聞いていると恐ろしくなる」
「君は構わない。君がおれを裏切ろうとは思わない。それに、だれかに打ち明けでもしないと、おれはとてもたまらないのだ。不愉快かもしれないけれど、相談相手になってくれ」
「そうか、それならいいけれど。で、君はこれから、どうしようというのだい」
「わからない。何もかもわからない。妹自身が下手人かもしれない。それとも、母親か、兄貴か、どっちかをかばうために兇器を隠したのかもしれない。それから、わからないのは妹がおれを疑っているようなそぶりだ。どういうわけで、やつはおれを疑うのだろう。あいつの目つきを思い出すと、おれはゾーッとする。若いだけに敏感な妹は、何かの空気を感じているのかもしれない」
「…………」
「どうも、そうらしい。だが、それがなんだか少しもわからないのだ。おれの心の奥の奥で、ブツブツ、ブツブツ、つぶやいているやつがある。その声を聞くと不安でたまらない。おれ自身にはわからないけれど、妹だけには何かがわかっているのかもしれない」
「いよいよ君は変だ。謎みたいなことをいっている。さっき君もいった通り、おとうさんの殺されなすった時刻に、君自身がチャンと眼をさましていたとすれば、そして、君の部屋に寝ていたとすれば、君が疑われる理由は少しだってないはずではないか」
「理窟ではそういうことになるね。だが、どうしたわけか、おれは、兄や妹を疑う一方では、自分自身までが、妙に不安になり出した。全然父の死に関係がないとは言いきれないような気がする。そんな気がどっかでする」
五、約一カ月後
「どうした。何度見舞いに行っても、あわないというものだから、ずいぶん心配した。気でも変になったのじゃないかと思ってね。ハハハハハ。だが、痩せたもんだな。君のうちの人も妙で、くわしいことを教えてくれなかったが、いったいどこがわるかったのだい」
「フフフフフ、まるで幽霊みたいだろう。きょうも鏡を見ていて恐ろしくなったよ。精神的の苦痛というものが、こうも人間をいたいたしくするものかと思ってね、おれはもう長くないよ。こうして君のうちへ歩いてくるのがやっとだ。妙にからだに力がなくて、まるで雲にでも乗っているような気持だ」
「そして病名は?」
「なんだかしらない。医者はいい加減のことをいっている。神経衰弱のひどいのだって。妙なせきが出るのだよ。ひょっとしたら肺病かもしれない。いやひょっとしたらじゃない、九分九厘そうだと思っている」
「お株をはじめた。君のように神経をやんではたまらないね。きっとまた例のおとうさんの問題で考え過ぎたんだろう。あんなこと、もういい加減に忘れてしまったらどうだ」
「いや、あれはもういい。すっかり解決した。それについて、実は君のところへ報告にきたわけなんだが……」
「ああ、そうか。それはよかった。うっかり新聞も注意していなかったが、つまり犯人がわかったのだね」
「そうだよ。ところが、その犯人というのが、驚いちゃいけない、このおれだったのだよ」
「えっ、君がおとうさんを殺したのだって……君、もうその話は止そう。それよりも、どうだい、その辺をブラブラ散歩でもしようじゃないか。そして、もっと陽気な話をしようじゃないか」
「いや、いや、君、まあ坐ってくれたまえ。とにかく筋道だけ話してしまおう。おれはそのためにわざわざ出かけてきたんだから。君はなんだかおれの精神状態を危ぶんでいる様子だが、その点は心配しなくてもいい。決して気が変になったわけでも、なんでもない」
「だって、君自身が親殺しの犯人だなんて、あんまりばかばかしいことをいうからさ。そんなことは、いろいろな事情を考え合わせて、全然不可能じゃないか」
「不可能? 君はそう思うかい」
「そうだろう、おとうさんの死なれた時間には、君は自分の部屋の蒲団の中で眼をさましていたというじゃないか。一人の人間が、同時に二カ所にいるということは、どうしたって不可能じゃないか」
「それは不可能だね」
「じゃあ、それでいいだろう。君が犯人であるはずはない」
「だが、部屋の中の蒲団の上に寝ていたって、戸外の人が殺せないとはきまらない。これは、ちょっとだれでも気づかないことだ。おれも最近まで、まるでそんなことは考えていなかった。ところが、つい二、三日前の晩のことだ。ふっとそこへ気がついた。というのは、やっぱりおやじの殺された時刻の一時ごろだったがね、二階の窓のそとで、いやに猫が騒ぐのだ。二匹の猫が長いあいだ、まるで天地のひっくり返るようなひどい騒ぎをやっているんだ。あんまりやかましいので、窓をあけて追っ払うつもりで、起き上がったのだが、そのとたんハッと気づいた。人間の心理作用なんて、実に妙なものだね。非常に重大なことを、すっかり忘れて平気でいる。それがどうかした偶然の機会に、ふっとよみがえってくる。墓場の中から幽霊が現われるように、恐ろしく大きな物すごい形になってうかび上がってくる。考えてみると、人間が|日《にち》|々《にち》の生活をいとなんで行くということは、なんとまあ危っかしい軽業だろう。ちょっと足をふみはずしたら、もう命がけの大怪我だ。よく世の中の人たちはあんなのんきそうな顔をして、生きていられたものだね」
「それで、結局、どうしたというのだ」
「まあ聞きたまえ。その時おれは、おやじの殺された晩、一時ごろに、なぜおれが眼をさましていたかという理由を思い出したのだ。今度の事件で、これが最も重大な点だ。いったいおれは、一度寝ついたら朝まで眼をさまさないたちだ。それが夜中の一時ごろ、ハッキリ眼をさましていたというは、何か理由がなくてはならない。おれは、その時まで、少しもそこへ気がつかなかったが、猫の鳴き声で、すっかり思い出した。あの晩にもやっぱり、同じように猫が鳴いていたのだ。それで眼をさまされたのだった」
「猫に何か関係でもあったのかい」
「まあ、あったんだ。ところで、君はフロイトのアンコンシャスというものを知っているかしら。簡単に説明するとね、われわれの心に絶えず起こってくる慾望というものは、その大部分は遂行されないでほうむられてしまう。あるものは不可能な妄想であったり、あるものは、可能ではあっても社会上禁ぜられた慾望であったりしてね。これらの数知れぬ慾望はどうなるかというと、われわれみずから無意識界へ幽囚してしまうのだ。つまり、忘れてしまうのだが。忘れるということは、その慾望を全然無くしてしまうのではなくて、われわれの心の奥底へとじ込めて、出られなくしたというにすぎない。だから、僕たちの心の底の暗闇には、浮かばれぬ慾望の亡霊が、ウヨウヨしているわけだ。そして少しでも隙があれば飛び出そう、飛び出そうと待ち構えている。われわれが寝ている隙をうかがっては、夢の中へいろいろな変装をしてのさばり出す。それが嵩じては、ヒステリーになり、気ちがいにもなる。うまく行って昇華作用を経れば、芸術ともなり、事業ともなる。精神分析学の書物を一冊でも読めば、幽囚された慾望というものが、どんなに恐ろしい力を持っているかに一驚を喫するだろう。おれは、以前そんなことに興味を持って少しばかり読んだことがある。その一派の学説に『物忘れ説』というものがあるのだ。わかりきったことをふと忘れて、どうしても思い出せない、俗に胴忘れということがあるね。あれが決して偶然でないというのだ。忘れるという以上は、必ずそこに理由がある。何か思い出しては都合の悪いわけがあって、知らず知らずその記憶を無意識界へ幽囚しているのだという。いろいろ実例もあるが、たとえばこんな話がある。
かつて或る人が、スイッツルの神経学者ヘラグースという名を忘れて、どうしても思い出せなかったが、数時間の後に偶然心にうかんできた。日頃熟知している名前を、どうして忘れたのかと不思議に思って連想の順序をたどってみたところ、ヘラグース――ヘラバット・バット(浴場)――沐浴――鉱泉――というふうにうかんできた。そしてやっと謎が解けた。その人は以前スイッツルで鉱泉浴をしなければならないような病気にかかったことがある。その不愉快な連想が記憶を妨げていたのだとわかった。
また精神分析学者ジョオンズの実験談にこういうのがある。その人は煙草ずきだったが、こんなに煙草をのんではいけないと思うと、その瞬間パイプの行方がわからなくなる。いくらさがしても見つからない。そして忘れた時分にヒョイと意外な場所から出てきた。それは無意識がパイプを隠したのだ……なんだかお談義みたいになったが、この忘却の心理学が、今度の事件を解決するカギなんだ。
おれ自身も、実はとんだことを胴忘れしていたんだ。おやじを殺した下手人が、このおれであったということをね……」
「どうも、学問のあるやつの妄想にはこまるね。世にもばかばかしい事柄を、さも仔細らしく、やかましい学説入りで説明するんだからな。そんな君、人殺しを胴忘れするなんて、間抜けた話がどこの世界にあるものか。ハハハハハ、しっかりしろ。君は実際、少しどうかしているぜ」
「まあ待て、話をしまいまで聞いてからなんとでもいうがいい。おれは決して君のところへ冗談を言いにきたのではない。ところで、猫の鳴き声を聞いておれが思い出したというのは、あの晩に、同じように猫が騒いだとき、猫の一匹が屋根のすぐ向こうにある松の木に飛びつかなかったか、きっと飛びついたに違いない。そういえば、なんだかバサッという音を聞いたようにも思う、ということだった……」
「いよいよ変だなあ。猫が松の木に飛びついたのが、殺人の本筋とどんな関係があるんだい。どうも僕は心配だよ。君の正気がさ……」
「松の木というのは、君も知っているだろう。おれの家の目印になるような、あのばかに背の高い大樹なんだ。そして、その根元のところにおやじの腰かけていた、切石がおいてあるのだ……こういえば、たいがい君にも話の筋がわかっただろう……つまり、その松の木に猫が飛びついた拍子に、偶然枝の上にのっかっていた或るものにふれて、それがおやじの頭の上へ落ちたのではないかということだ」
「じゃあ、そこに斧がのっかっていたとでもいうのか」
「そうだ。正にのっかっていたのだ。非常な偶然だ。が、あり得ないことではない」
「だって、それじゃ偶然の変事というだけで、別に君の罪でもないではないか」
「ところが、その斧をのせておいたのがこのおれなんだ。そいつを、つい二、三日前まで、すっかり忘れてしまっていたのだ。その点がいわゆる忘却の心理なんだよ。考えてみると、斧をのせた、というよりも、木の股へおき忘れたのは、もう半年も前のことだ。それ以来、一度も思い出したことがない。その後斧の入用が起こらないので、自然思い出す機会もなかったわけだけれど、それにしても、何かの拍子に思い出しそうなものだ。また思い出してもいいほどの或る深い印象が残っているはずだ。それをすっかり忘れていたというのは、何か理由がなければならない。
ことしの春、松の枯れ枝を切るために斧やのこぎりを持って、その上へ登った。枝にまたがったあぶない仕事なので、不用な時には、斧を木の股へおいては仕事をした。その木の股というのが、ちょうど例の切石のま上に当たるのだ。高さは二階の屋根よりも少し上のところだ。おれは仕事をしながら考えた。もしここから斧が落ちれば、どうなるだろう。きっとあの石にぶつかるに違いない。石の上に人が腰かけていれば、その人を殺すかもしれない。そこで、中学校の物理で習った『落体の仕事』の公式を思い出した。この距離で加速度がつけば、むろん人間の頭蓋骨を砕くくらいの力は出るだろう。
そして、その石に腰をかけて休むのがおやじの癖なのだ。おれは思わず知らず、おやじを殺害することを考えていたんだ。ただ心の中で思ったばかりだけれど、おれは思わずハッと青くなったね。どんな悪い人間にしろ、仮りにも親を殺そうと考えるなんて、なんという人外だ! 早くそんな不吉な妄想を振い落としてしまおうと思った。そこでこの極悪非道の慾望が、意識下に幽囚されてしまったわけだ。そして、その斧はおれの悪念をうけついで、チャンと元の木の股に時期のくるのをまっていた。この斧を忘れてきたということが、フロイトの学説に従えば、いうまでもなく、おれの無意識の命じたわざなんだ。無意識といっても普通の偶然の錯誤を意味するものではなくて、チャンとおれ自身の意志から発しているのだ。あすこへ斧をおき忘れておけば、どうかした機会に落ちることがあるだろう。そして、もしその時、おやじが下の石に腰かけていたら、彼を殺すことができるだろう。そういう複雑な計画が、|暗《あん》|々《あん》のうちに含まれていた。しかもその悪企みを、おれ自身さえ知らずにいたのだ。つまり、おれはおやじを殺す装置を用意しておきながら、故意にそれを忘れて、さも善人らしく見せかけていた。くわしくいえば、おれと無意識界の悪人が、意識界の善人をたばかっていたのだ」
「どうもむずかしくってよくわからないが、なんだか故意に悪人になりたがっているような気がするな」
「いや、そうじゃない。もし君がフロイトの説を知っていたら決してそんなことは言わないだろう。第一斧のことを|半《はん》|年《とし》のあいだも、どうして忘れきっていたか。現に血のついた同じ斧を目撃さえしているじゃないか。これは普通の人間としてあり得ないことだ。第二に、なぜそんな場所へ、しかも危ないことを知りながら、斧を忘れたか。第三に、なぜ、ことさらにその危ない場所をえらんで斧をおいたか。三つの不自然なことがそろっている。これでも悪意がなかったといえるだろうか。ただ忘却していたというだけで、その悪意が帳消しになるだろうか」
「それで、君はこれからどうしようというのだ」
「むろん自首して出るつもりだ」
「それもよかろう。だが、どんな裁判官だって、君を有罪にするはずはあるまい。その点はまあ安心だけれど。で、このあいだから君のいっていた、いろいろな証拠物件はどうなったのだい。ハンカチだとか、お母さんのクシだとか」
「ハンカチはおれ自身のものだった。松の枝を切る時に、斧の柄にまきつけたのを、そのままおき忘れた。それがあの晩、斧と一緒に落ちたのだ。クシは、はっきりしたことはわからないけれど、多分母親が最初おやじの死体を見つけた時に落としたのだろう。それを兄貴がかばいだてに隠してやったものに違いない」
「それから妹さんが斧を隠したのは」
「妹が最初の発見者だったから、充分隠すひまがあったのだ。一と目で自分のうちの斧だとわかったので、きっと家内の誰かが下手人だと思い込み、ともかく、第一の証拠物件を隠す気になったのだろう。ちょっと気転の利く娘だからね。それから、刑事の家宅捜査などがはじまったので、並の隠し場所では安心ができなくなり、例の|祠《ほこら》の裏を選んで隠しかえたものに違いない」
「家内じゅうの者を疑った末、結局、犯人は自分だということがわかったわけだ。盗人をとらえて見ればなんとかだね。なんだか喜劇じみているじゃないか。こんな際だけれど、僕は妙に同情というような気持が起こらないよ。つまり、君が罪人だということがまだよく呑み込めないんだね」
「そのばかばかしい胴忘れだ。それが恐ろしいのだ。ほんとうに喜劇だ。だが、喜劇と見えるほど間が抜けているところが、単純な物忘れなどでない証拠なんだ」
「いってみれば、そんなものかもしれない。しかし、おれは、君の告白を悲しむというよりも、数日の疑雲がはれたことを祝いたいような気がしているよ」
「その点は、おれもせいせいした。皆が疑い合ったのは、実はかばい合っていたので、誰もあんなおやじさえ殺すほどの悪人はいなかったのだ。そろいもそろって無類の善人ばかりだった。その中で、たった一人の悪人は、皆を疑っていたこのおれだ。その疑惑の心の強い点だけでも、おれは正に悪党だった」
一枚の切符
上
「いや、僕も多少は知っているさ。あれは先ず、近来の椿事だったからな。世間はあの噂で持ち切っているが、多分君ほど詳しくはないんだ。話してくれないか」
一人の青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れを口へ持って行った。
「じゃあ、一つ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代りだ」
身なりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語り出した。
「時は大正××年十月十日午前四時、所は××町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い暁の静寂を破って、上り第×号列車が驀進してきたと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車は出し抜けに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、一人の婦人が轢き殺されてしまったんだ。僕は、その現場を見たんだがね。
それが問題の博士夫人だったのさ。車掌の急報でその筋の連中がやってくる。野次馬が集まる。そのうちに誰かが博士に知らせる。驚いた主人の博士や召使いたちが飛び出してくる。ちょうどその騒ぎの最中へ、君も知っているように、当時××町へ遊びに出掛けていた僕が、僕の習慣であるところの、早朝の散歩の|途《みち》で、通り合わせたというわけさ。で、検死がはじまる。警察医らしい男が傷口を検査する。一と通りすむと、すぐに死体は博士邸へ担ぎ込まれてしまう。傍観者の眼には、きわめて簡単に、事は落着したようであった。
僕の見たのはこれだけだ。あとは新聞記事を総合して、それに僕の想像を加えての話だから、そのつもりで聞いてくれたまえ。さて警察医の観察によると、死因はむろん轢死であって、右の太腿を根もとから切断されたのによるというのだ。そして、事ここに至った理由はというと、それを説明してくれるところの、実に有力な手懸りが、死人の懐中から出てきた。それは夫人が夫博士に宛てた一通の書置であって、中の文句は、永年の肺病で、自分も苦しみ、周囲にも迷惑を掛けていることが、もはや耐えられなくなったから、ここに覚悟の自殺をとげるという意味だった。実にありふれた事件だ。もし、ここに一人の名探偵が現われなかったなら、お話はそれでおしまいで、博士夫人の厭世自殺とかなんとか、三面記事の隅っこに小さい記事をとどめるにすぎなかったであろうが、その名探偵のお蔭で、われわれもすばらしい話題ができたというものだ。
それは黒田清太郎という、新聞にも盛んに書きたてられたところの刑事探偵だが、これが奇特な男で、日頃探偵小説の一冊も読んでいようというやつさ。とまあ素人考えに想像するんだがね。その男が翻訳物の探偵小説にでもあるように、犬のように四つん這いになって、その辺の地面を嗅ぎ廻ったものだ。それから博士邸内にはいって、主人や召使いにいろいろの質問をしたり、各部屋のどんな隅々をも残さないで、拡大鏡をもって覗き廻ったり、まあ、よろしく新らしき探偵術を行なったと思いたまえ。そして、その刑事が、長官の前に出て言うことには、「これは、も少し検べてみなければなりますまい」というわけだ。そこで、一同俄かに色めき立って、とりあえず死体の解剖ということになる。大学病院において、何々博士執刀のもとに、解剖してみると、黒田名探偵の推断誤まらずというわけだ。轢死前すでに一種の毒薬を服用したらしい形跡がある。つまり、何者かが夫人を毒殺しておいて、その死骸を鉄道線路まで運び、自殺と見せかけて、実は恐るべき殺人罪を犯したということになる。その当時の新聞は「犯人は何者?」という見出しで、盛んにわれわれの好奇心を煽ったものだ。そこで、予審判事が黒田刑事を呼び出して、証拠調べの一段となる。
さて、刑事がもったいぶって持ち出したところの証拠物件なるものは、第一に一|足《そく》の短靴、第二に石膏で取ったところの足跡の型、第三に数枚の皺になった反故紙。この三つの証拠品をもって、この男が主張するには、博士夫人は自殺したのではなくて、殺されたんだ。そしてその殺人者は、なんと、夫富田博士その人である、とこういうんだ。どうだい、なかなか面白いだろう」
話し手の青年は、ちょっとずるそうな微笑を浮かべて相手の顔を見た。そして、内ポケットから銀色のシガレット・ケースを取り出し、如何にも手際よく一本のオックスフォードをつまみ上げて、パチンと音をさせて蓋を閉じた。
「そうだ」聞き手の青年は、話し手のためマッチを擦ってやりながら「そこまでは、僕も大体知っているんだ。だが、その黒田という男が、どういう方法で殺人者を発見したのか、そいつが聞きものだね」
「好個の探偵小説だね。で、黒田氏が説明して言うことには、他殺ではないかという疑いを起こしたのは、死人の傷口の出血が案外少ないといって警察医が小首を傾けた、そのきわめて些細な点からであった。去る大正何年何月幾日の××町の老母殺しに、その例があるというんだ。疑いうるだけ疑え、そして、その疑いの一つ一つをできるだけ綿密に探索せよ、というのが探偵術のモットーだそうだが、この刑事もそのコツを呑み込んでおったとみえて、まず一つの仮定を組み立てたのだ。誰だかわからない男又は女が、この夫人に毒薬をのませた。そして、夫人の死体を線路まで持ってきて、汽車の|轍《わだち》が万事を滅茶苦茶に押しつぶしてくれるのを待った、と仮定するならば、線路の付近に死体運搬によってつけられた、何かの痕跡が残っているはずだ、とこう推定したんだ。そして、なんとまあ刑事にとって幸運であったことには、轢死のあった前夜まで雨降りつづきで、地面にいろいろの足跡がクッキリと印せられていた。それも、前夜の真夜中ごろ雨が上がってから、轢死事件のあった午前四時何十分までに、その付近を通った足跡だけが、お誂え向きに残っていたというわけだ。で、刑事は先にいった犬のまねをはじめたんだが、ここでちょっと現場の見取図を書いてみよう」
左右田は――これが話し手の青年の名前であるが――そういって、ポケットから小形の手帳を取り出し、鉛筆でザッとした図面を書いた。
「鉄道線路は地面よりは小高くなっていて、その両側の傾斜面には一面に芝草が生えている。線路と富田博士邸の裏口とのあいだには相当広い、そうだ。テニスコートの一つぐらい置かれるような空き地、草も何も生えていない小砂利まじりの空き地がある。足跡の印せられてあったのはそのがわであって、線路のも一つのがわ、すなわち博士邸とは反対のがわは、一面の水田で、遙かに何かの工場の煙突が見えようという、場末によくある景色だ。東西に伸びた××町の西のはずれが、博士邸その他数軒の文化村式の住宅で終っているのだから、博士邸の並びには線路とほぼ並行して、ズッと人家がつづいていると思いたまえ。で、四つん這いになったところの黒田刑事が、この博士邸と線路のあいだの空き地において、何を嗅ぎ出したかというと、そこには十以上の足跡が入りまじっていて、それが轢死の地点に集中しているといった形で、一見しては何がなんだかわからなかったに違いないが、これを一々分類して調べ上げた結果、地下ばきの跡が幾種類、足駄の跡が幾種類、靴の跡が幾種類と、まあわかったんだ。そこで、現場にいる連中の頭数と、足跡の数とを比べてみると、一つだけ足跡の方が余計だとわかった。すなわち所属不明の足跡が一つ発見されたんだ。しかもそれが靴の跡なんだ。その早朝、靴をはいているものは、先ずその筋の連中のほかにないわけだが、その連中のうちにはまだ一人も帰ったものはなかったのだから、少しおかしいわけだ。なおよくよく調べてみると、その疑問の靴跡が、なんと博士邸から出発していることがわかった」
「ばかに詳しいもんだね」
と、聞き手の青年、すなわち松村が、こう口を入れた。
「いや、この辺は赤新聞に負うところが多い。あれはこうした事件になると、興味中心に、長々と報道するからね。時にとって役に立つというものだ。で、今度は博士邸と轢死の地点とのあいだを往復した足跡を調べてみると、四種ある。第一は今いった所属不明の靴跡、第二は現場にきている博士の地下ばきの跡、第三と第四は博士の召使いの足跡、これだけで、轢死者が線路まで歩いてきた痕跡というものが見当たらない。多分それは小形の足袋はだしの跡でなければならないのに、それがどこにも見当たらなかったのだ。そこで轢死者が男の靴をはいて線路まできたか。そうでなければ、何者かこの靴跡に符号するものが夫人を線路まで抱いて運んできたかの二つである。もちろん前者は問題にならない。まず後の推定が確かだと考えてさしつかえない。というのは、その靴跡には一つの妙な特徴があったのだ。それはその靴跡の踵の方が非常に深く食い入っている。どの一つをとってみても同様の特徴がある。これは何か重いものを持って歩いた証拠だ。荷物の重味で踵が余計に食い入ったのだ、と刑事が判断した。この点について、黒田氏は赤新聞で大いに味噌を上げているが、その曰くさ。人間の足跡というものは、いろいろな事をわれわれに教えてくれるものである。こういう足跡は|跛足《ち ん ば》で、こういう足跡は|盲目《め く ら》で、こういう足跡は妊婦でと、大いに足跡探偵法を説いている。興味があったらきのうの赤新聞を読んでみたまえ。
話が長くなるから、こまかい点は略するとして、その足跡から黒田刑事が苦心して探偵した結果、博士邸の奥座敷の縁の下から、一|足《そく》の、問題の靴跡に符号する|短《たん》|靴《ぐつ》を発見したんだ。それが、不幸にも、あの有名な学者の常に用いていたものだと、召使いによって判明した。そのほかこまかい証拠はいろいろある。召使いの部屋と、博士夫妻の部屋とは可なり隔っていることや、当夜は召使いたちは、それは二人の女中であったが、熟睡していて、朝の騒ぎではじめて眼をさまし、夜中の出来事は少しも知らなかったということや、|当《とう》の博士が、その夜めずらしく在宅しておったということや、その上、靴跡の証拠を裏書きするような、博士の家庭の事情なるものがあるんだ。その事情というのは、富田博士は、君も知っているだろうが、故富田老博士の女婿なのだ。つまり、夫人は家つきの我儘娘で、|痼《こ》|疾《しつ》の肺結核はあり、ご面相は余り振るわず、おまけに強度のヒステリーときているんだ。こういう夫婦関係がどういうものであるかは、容易に想像しうるじゃないか。事実、博士はひそかに妾宅を構えて、なんとかいう芸妓上がりの女を溺愛しているんだ。が、僕はこういうことが博士の値うちを少しだって増減するものとは思わないがね。さて、ヒステリーというやつはたいていの亭主を気ちがいにしてしまうものだ。博士の場合も、これらの面白からぬ関係が募り募って、あの惨事をひき起こしたのだろう、という推論がなりたつわけだ。
ところが、ここに一つ残された難問題がある。というのは、最初話した死人のふところから出たという書置だ。いろいろ調べてみた結果、それは正しく博士夫人の手蹟だと判明したんだが、どうして夫人が、心にもない書置などを書き得たか。それが黒田刑事にとって一つの難関だった。刑事もこれにはだいぶてこずったと言っているがね。それから、いろいろ苦心をして発見したのが、皺になった数枚の反故紙。これがなんだというと手習草紙でね、博士が、夫人の手蹟を、何かの反故に手習いしたものなんだ。そのうち一枚は、夫人が旅行中の博士に宛てて送った手紙で、これを手本にして、犯人が自分の妻の|筆《ふで》|癖《くせ》を稽古したというわけだ。なかなかたくらんだものさ。それを刑事は、博士の書斎の屑籠から発見したというんだ。
で、結論はこういうことになる。眼の上の瘤であり、恋愛の邪魔者であり、手におえぬ|気《き》|違《ちが》いであるところの夫人をなきものにしよう。しかも博士である自分の名誉を少しも傷つけぬ方法によってそれを遂行しようと深くもたくらんだ博士は、薬と称して一種の毒薬を夫人に飲ませ、うまく参ったところを、肩に担いで、例の|短《たん》|靴《ぐつ》をつッかけ、裏口から、幸いにも近くにある鉄道線路へと運んだ。そして犠牲者のふところへ用意の尤もらしい書置を入れておいた。やがて轢死が発見されると、大胆な犯人は、さも驚いた表情を作って、現場へ駈けつけた、とこういう次第だ。なぜ博士が夫人を離別する挙に出ないでこの危険なる道を採ったかという点は、多分新聞記者自身の考えなのだろうが、ある新聞にこう説明が下してあった。それは第一に故老博士に対する情誼の上から、世間の非難を恐れたこと、第二にあの残虐を敢てする博士には、或いはこの方が主たる理由であったかもしれないが、博士夫人には親譲りのちょっとした財産があったということ、この二つを上げている。
そこで、博士の引致となり、黒田清太郎氏の名誉となり、新聞記者にとっては不時の収穫となり、学界にとってはこの上ない不祥事となって、君もいうように、世間は今この噂で湧いているというわけさ」
左右田はこう語り終って、前のコップをグイと乾した。
「現場を見た興味があったとはいえ、よくそれだけ詳しく調べたね。だがその黒田という刑事は、なかなか頭のいい男だね」
「まあ、一種の小説家だね」
「え、ああ、そうだ。小説家だ。いや、小説以上の興味を創作したといってもいい」
「だが、僕は、彼は小説家以上の何者でもないと思うね」
片手をチョッキのポケットに入れて、何か探りながら、左右田が皮肉な微笑を浮かべた。
「それはどういう意味だ」
松村は煙草の煙の中から、眼をしばたたいて反問した。
「黒田氏は小説家であるかもしれないが、探偵ではないということさ」
「どうして?」
松村はドキッとしたようであった。何かすばらしい、ありうべからざることを予期するように、彼は相手の眼を見た。左右田はチョッキのポケットから、小さい紙片を取り出してテーブルの上に置いた。そして、
「これはなんだか知ってるかい」
と言った。
「それがどうしたと言うのだ。PL商会の受取り切符じゃないか」
松村は妙な顔をして聞き返した。
「そうさ。三等急行列車の貸し枕の代金四十銭也の受取り切符だ。これは僕が轢死事件の現場で、計らずも拾ったものだがね、僕はこれによって博士の無罪を主張するのだ」
「ばか言いたまえ。冗談だろう」
松村は、まんざら否定するでもないような、半信半疑の調子で言った。
「一体、証拠なんかにかかわらず、博士は無罪であるべきなんだ。富田博士ともあろう学者を、高が一人のヒステリー女の命のために、この世界――そうだ、博士は世界の人なんだ。世界の幾人をもって数えられる人なんだ――この世界から葬ってしまうなんて、どこのばか者がそんなことを考えるんだ。松村君、僕はきょう一時半の汽車で、博士の留守宅を訪問するつもりでいるんだ。そして、少し留守居の人に聞いてみたいことがあるんだ」
こういって、腕時計をちょっと眺めた左右田は、ナプキンを取ると、立ち上がった。
「おそらく博士は自分自身で弁明されるだろう。博士に同情する法律家たちも博士のために弁護するだろう。が、僕が此処に握っている証拠物件は誰も知らないものだ。わけを話せってのか。まあ待ちたまえ。も少し調べてみないと完結しない。僕の推理にはまだちょっと隙があるんだ。その隙を満たすために、ちょっと失敬して、これから出掛けてくる。ボーイさん。自動車をそういってくれたまえ。じゃあ、またあす会うことにしよう」
下
その翌日、××市でもっとも発行部数の多いといわれる、××新聞の夕刊に、左のような五段に亘る長文の寄書が掲載せられた。見出しは「富田博士の無罪を証明す」というので、左右田五郎と署名してある。
私はこの寄書と同様の内容を有する書面を、富田博士審問の任に当たられる予審判事××氏迄呈出した。多分それだけで充分だとは思うが、万一、同氏の誤解或いはその他の理由によって、一介の書生にすぎない私のこの陳述が、暗中に葬り去られる場合をおもんぱかって、かつ又、有力なるその筋の刑事によって証明せられた事実を裏切る私の陳述が、たとえ採用せられたとしても、事後に於てわが尊敬する富田博士の冤罪を、世間に周知せしめるほど明瞭に、当局の手によって発表せられるかどうかをおもんぱかって、ここに輿論を喚起する目的のために、この一文を寄せる次第である。
私は博士に対してなんらの恩怨を有するものではない、ただ、その著書を通じて博士の頭脳を尊敬している一人にすぎない。が、このたびの事件については、みすみす間違った推断によって罪せられんとするわが学界の長者を救うものは、偶然にもその現場に居合わせて、ちょっとした証拠物件を手に入れた、この私のほかにないと信ずるが故に、当然の義務として、この挙にい出たまでである。この点について誤解のなからんことを望む。
さて、なんの理由によって、私は博士の無罪を信ずるか、一言をもって尽せば、司法当局が、刑事黒田清太郎氏の調査を通して、推理したところの博士の犯罪なるものが、余りにおとなげないことである。余りに幼稚なるお芝居気に充ちていることである。かの寸毫の微といえども逃すことのない透徹その比を見ざる大学者の頭脳と、このたびのいわゆる犯罪事実なるものとを比較する時、吾人はいかに感ずるであろうか。その思想の余りに隔絶せることに、むしろ苦笑を禁じ得ないではないか。その筋の人々は、博士の頭脳がつたなき靴跡を残し、偽筆の手習い反故を残し、毒薬のコップをさえ残して、黒田某氏に名を成さしめるほど耄碌したというのか。さては又、あの博学なる嫌疑者が、毒薬の死体に痕跡を留むべきことを予知し得なかったとでもいうのか。私はなんら証拠を提出するまでもなく、博士は当然無罪と信ずる。だからといって、私は以上の単なる推測をもって、この陳述を思い立つほど、無謀ではないのである。
刑事、黒田清太郎氏は、いま赫々の武勲に光り輝いている。世人は同氏を和製のシャーロック・ホームズとまで讃嘆している。その得意の絶頂にあるところの同氏を、失望のどん底におとしいれなければならないことを遺憾に思う。実際、私は黒田氏が、わが国の警察の仲間では、もっとも優れたる手腕家であることを信ずる。このたびの失敗は、他の人々よりも頭がよかったためのわざわいである。同氏の推理法に誤りはなかった。ただその材料となるところの観察に欠くるところがあった。すなわち綿密周到の点において、私という一介の書生に劣っておったことを、氏のために深く惜しむものである。それはさておき、私が提供しようとするところの証拠物件なるものは、左の二点の、ごくつまらぬ品物である。
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一、私が現場で収得したところの一枚のPL商会の受取り切符〔註、三等列車備えつけの貸し枕の代金の受取り。大正期には実際PL商会という民間会社がこれを請負っていた〕
二、証拠品として当局に保管されているところの博士の|短《たん》|靴《ぐつ》の紐。
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ただこれだけである。読者諸君にとっては、これが余りに無価値に見えるであろうことをおそれる。が、その道の人々は、一本の髪の毛さえもが、重大なる犯罪の証拠となることを知っておられるであろう。
実を申せば、私は偶然の発見から出発したのである。事件の当日現場に居合わせた私は、検死官たちの活動を眺めているあいだに、ふと、ちょうど私が腰をおろしていた一つの|石《いし》|塊《ころ》の下から、何か白い紙片の端が覗いているのを発見した。もしその紙片に捺してある日付印を見なかったら、なんの疑いも起こらなかったのであろうが、博士のためには幸いにも、その日付印が、私の眼に何かの啓示のように焼き付いたのである。大正××年十月九日、即ち事件の直ぐ前の日の日付印が。
私は五、六貫目は大丈夫あったところの、その石塊を取りのけて、雨のために破れそうになっていた紙片を拾い上げた。それがPL商会の受取り切符であったのだ。そして、それが私の好奇心を刺戟したのである。
さて、黒田氏が現場において見落とした点が三つある。
そのうち一つは、偶然私に恵まれたところのPL商会の受取り切符であるから、これを除くとしても、少なくも二つの点において粗漏があったことは確かである。が右の受取り切符とても、もし黒田氏が非常に綿密な注意力を持っておったならば、私のように偶然ではなく発見することができたかもしれないのである。というのは、その切符が下敷になっていた石というのは、博士邸の裏に半ば出来上がった下水の溝のわきに、たくさんころがっている石塊の一つであることが、一見してわかるのであるが、その石塊がただ一つだけ、遠く離れた線路のそばに置かれてあったということは、黒田氏以上の注意力の所有者には、なんらかの意味を語ったかもしれないからである。それのみならず、私は当時その切符を臨検の警官の一人に見せたのである。私の親切に一顧をも与えず、邪魔だからどいておれと叱ったところのその人を、私は今でも数人の臨検者の中から見つけ出すことができる。
第二の点は、いわゆる犯人の足跡なるものが、博士邸の裏口から発して線路まではきていたが、再び線路から博士邸へ立ち帰った跡がなかったことである。この点を黒田氏がいかに解釈せられたかは――この重大な点について、心なき新聞記者は何事も報道していない故に――私にはわからないが、多分、犯人が犠牲者のからだを線路へ置いた後、何かの都合で、線路づたいに廻り路をして立ち帰ったとでも判断せられたのであろう。事実、少し廻り路をすれば足跡を残さないで、博士邸まで立ち帰りうるような場所が無くもなかったのである。そして足跡に符号する短靴そのものが、博士邸内から発見せられたことによって、たとえ立ち帰った跡はなくとも、立ち帰ったという証拠は充分備わっているとでも考えられたのであろう。一応もっともな考えであるが、そこに何か不自然な点がありはしないだろうか。
第三の点はこれは大抵の人の注意からそれるような、実際それを目撃した人でも、いっこう気に留めないような種類のものであるが、それは一匹の犬の足跡がその辺一面に、特にいわゆる犯人の足跡に並行して、印せられていたことである。私がなにゆえこれに注意したかというに、轢死人があるような場合に、その付近におった犬が、しかも足跡が博士邸の裏口に消えているのをみると、多分轢死者の愛犬であるところの犬が、この人だかりのそばへ出てこないというのはおかしいと考えたからであった。
以上私は、私のいわゆる証拠なるものを残らず列挙した。鋭敏なる読者は、私のこれから述べようとするところを、おおかたは推察せられたであろう。それらの人々には、蛇足であるかもしれないが、私はとにかく結論まで陳述せねばならぬ。
その日帰宅した時には、私はまだなんの意見も持っていなかった。右に述べた三つの点についても、別段深く考えておったわけではない。ここには読者の注意を喚起するために、わざと明瞭に記述したまでであって、私が当日その場で、これだけのことを考えたのではないが、翌日、翌々日と毎朝の新聞によって、私が尊敬する博士その人が嫌疑者として引致されたことを知り、黒田刑事の探偵苦心談なるものを読むに至って、私は、この陳述の冒頭に述べたような常識判断から、黒田氏の探偵にどこか間違った点があるに違いないと信じ、当日目撃したところの種々の点を考え合わせ、なお残った疑点については、本日博士邸を訪問して、種々留守居の人々に聞き合わせた結果、ついに事件の真相を掴み得た次第である。
そこで、左に順序を追って、私の推理の跡をしるしてみることにする。
前に申したように、出発点は、PL商会の受取り切符であった。事件の前日、おそらく前夜深更に、急行列車の窓から落とされたのであろうところの切符が、なぜ五、六貫目もある重い石塊の下敷になっていたか、というのが、第一の着眼点であった。これは、前夜PL商会の切符を落として行ったところの列車が通過した後、何者かが、その石塊をそこに持ってきたと判断するほかはない。汽車の線路から、或いは、石塊を積載して通過した無蓋貨車の上から、転落したのではないことはその位置によって明かである。では、どこからこの石を持ってきたか、可なり重いものだから遠方であるはずはない。さしずめ、博士邸の裏に、下水を築くために置いてある、たくさんの石塊のうちの一つだということは、楔形に削られたその恰好からだけでも明かである。
つまり、前夜深更から、その朝、轢死が発見されるまでのあいだに、博士邸から轢死のあった箇所まで、その石を運んだものがあるのだ。とすれば、その足跡が残っているはずである。前夜は雨も小降りになって、夜中ごろにはやんでおったのだから、足跡の流れたはずはない。ところが足跡というものは、賢明なる黒田氏が調査せられた通り、その朝、現場に居合わせた者のそれのほかは「犯人の足跡」ただ一つあるのみである。ここにおいて、石を運んだものは「犯人」その人でなければならぬことになる。この変テコな結論に達した私は、いかにして「犯人」が石を運ぶということに可能性を与えるべきかに苦しんだ。そして、そこにいかにも巧妙なトリックの弄せられておることを発見して、一驚を喫したのである。
人間を抱いて歩いた足跡と、石を抱いて歩いた足跡、それは熟練なる探偵の眼をくらますに充分なほど、似通よっているに違いない。私はこの驚くべきトリックに気づいたのである。すなわち博士に殺人の嫌疑を掛けようと望む何者かが、博士の靴を穿いて、夫人のからだの代りに、石塊を抱いて、線路まで足跡をつけたと、かように考えるほかに解釈のくだしようがないのである。そこで、この憎むべきトリックの製作者が、例の足跡を残したとするならば、かの轢死した当人、すなわち博士夫人はどうして線路まで行ったか。その足跡が一つ不足することになる。以上の推理の当然にして唯一つの帰結として、私は遺憾ながら博士夫人その人が、夫を呪う恐るべき悪魔であったことを、確認せざるを得ないのである。戦慄すべき犯罪の天才、私は嫉妬に狂った、しかも肺結核という――それはむしろ患者の頭脳を病的にまで明晰にする傾きのあるところの――不治の病にかかった、一人の暗い女を想像した。すべてが暗黒である。すべてが陰湿である。その暗黒と陰湿の中に、眼ばかり物凄く光る青白い女の幻想、幾十日幾百日の幻想、その幻想の実現、私は思わずゾッとしないではいられなかった。
それはさておき、次に第二の疑問である。足跡が博士邸に帰っていなかったという点はどうか。これは単純に考えれば、轢死者がはいて行った靴跡だから、立ち帰らないのがむしろ当然のように思われるかもしれない。が、私は少し深く考えてみる必要があると思う。かくの如き犯罪的天才の所有者たる博士夫人が、なにゆえに線路から博士邸まで、足跡を返すことを忘れたのであろう。そしてもしPL商会の切符が、偶然にも列車の窓から落とされなかった場合には、ただ一つの手懸りとなったであろうところの、まずい痕跡を残したのであろう。
この疑問に対して、解決の鍵を与えてくれたものは、第三の疑点として上げた、犬の足跡であった。私は、かの犬の足跡と、この博士夫人の唯一の手ぬかりとを結び合わせて、微笑を禁じ得なかったのである。おそらく、夫人は博士の靴をはいたまま、線路までを往復する予定であったに違いない。そして改めて他の足跡のつかぬような道を選んで、線路に行くつもりであったに違いない。が、滑稽なことにはここに一つの邪魔がはいった。というのは、夫人の愛犬であるところのジョンが――このジョンという名前は、私が本日同家の召使い××氏から聞き得たところである――夫人の異様なる行動を眼ざとくも見つけて、そのそばにきて盛んに吠え立てたのである。夫人は犬の鳴き声に家人が眼を醒まして、自分を発見することをおそれた。グズグズしているわけにはいかぬ。たとえ家人が眼を醒まさずとも、ジョンの鳴き声に近所の犬どもがおし寄せては大変だ。そこで、夫人はこの難境を逆に利用して、ジョンを去らせると同時に、自分の計画をも遂行するような、うまい方法をとっさに考えついたのである。
私が本日探索したところによると、ジョンという犬は、日頃から、ちょっとした物を咥えて用達しをするように教えこまれておった。多くは、主人と同行の途中などから、自宅まで何かを届けさせるというようなことに慣らされていた。そして、そういう場合には、ジョンは持ち帰った品物を、必ず奥座敷の縁側の上に置く習慣であった。もう一つ博士邸の訪問によって発見したことは、裏口から奥座敷の縁側に達するためには、内庭をとり囲んでいるところの板塀の木戸を通るほかに通路はないのであって、その木戸というのが、洋室のドアなどにあるようなバネ仕掛けで、内側へだけひらくように作られてあったことである。
博士夫人はこの二つの点を巧みに利用したのである。犬というものを知っている人は、こういう場合に、唯口で追ったばかりでは立ち去るものではないが、何か用達しを言いつける――例えば、木切れを遠くへ投げて、拾ってこさせるというような――時は、必ずそれに従うものだということをいなまないであろう。この動物心理を利用して、夫人は、靴をジョンに与えて、その場を去らしめたのである。そして、その靴が、少なくとも、奥座敷の縁側のそばに置かれることと――当時多分縁側の雨戸が閉ざされていたので、ジョンもいつもの習慣通りにはいかなかったのであろう――内側からは押してもひらかぬところの木戸にささえられて、再び犬がその場へこないことを願ったのである。
以上は、靴跡の立ち帰っていなかったことと、犬の足跡その他の事情と、博士夫人の犯罪的天才とを思い合わせて、私が想像をめぐらしたものにすぎないが、これについては、余りに穿ちすぎたという非難があるかもしれないことをおそれる。むしろ、足跡の帰って居なかったのは、実際夫人の手ぬかりであって、犬の足跡は、最初から、夫人が靴の始末について計画したことを語るものだと考えるのが、或いは当たっているかもしれない。しかし、それがどっちであっても、私の主張しようとする「夫人の犯罪」ということに動きはないのである。
さて、ここに一つの疑問がある。それは、一匹の犬が、一足の即ち二個の靴をどうして一度に運び得たかという点である。これに答えるものは、先に挙げた二つの証拠物件のうち、まだ説明をくださなかった「証拠品としてその筋に保管されているところの博士の靴の紐」である。私は同じ召使い××氏の記憶から、その靴が押収された時、劇場の下足番がするように、靴と靴とが靴紐で結び付けてあったということを、苦心してさぐり出したのである。刑事黒田氏は、この点に注意を払われたかどうか。目的物を発見した嬉しまぎれに、或いは閑却されたのではなかろうか。よし閑却されなかったとしても、犯人が何かの理由で、この紐を結び合わせて、縁側の下へ隠しておいたという程度の推測をもって安心せられたのではあるまいか。そうでなかったら、黒田氏のあの結論は出てこなかったはずである。
かくして、恐るべき呪いの女は、用意の毒薬を服し、線路に横たわって、名誉の絶頂から|擯《ひん》|斥《せき》の谷底に追い落とされ、やがて獄裡に呻吟するであろうところの夫の幻想に、物凄い微笑を浮かべながら、急行列車の|轍《わだち》にかかるのを待ったのである。薬剤の容器については、私は知るところがない。が、物好きな読者が、かの線路の付近を丹念に探しまわったならば、おそらくは水田の泥の中から、何ものかを発見するのではなかろうか。
かの夫人のふところから発見されたという書置については、まだ一言も言及しなかったが、これとても靴跡その他と同様に、いうまでもなく夫人の拵えておいた偽証である。私は書置を見たわけではないから単なる推測に止まるが、専門の筆蹟鑑定家の研究を乞うたならば、必ず夫人が自分自身の筆癖をまねたものであることが、そして、そこに書いてあった文句は、まさに事実であったことが、判明するであろう。その他こまかい点については、一々反証を上げたり、説明をくだしたりする煩を避けよう。それは、以上の陳述によって、おのずから明かなことなのだから。
最後に、夫人の自殺の理由であるが、それは読者諸君も想像されるように、至極簡単である。私が博士の召使い××氏から聞き得たところによれば、かの書置にもしるされた通り、夫人は実際ひどい肺病患者であった。このことは、夫人の自殺の原因を語るものではあるまいか。すなわち、夫人は欲深くも、一死によって厭世の自殺と、恋の復讐との、二重の目的を達しようとしたのである。
これで私の陳述はおしまいである。今はただ、予審判事××氏が一日も早く私を喚問してくれることを祈るばかりである。
前日と同じレストランの同じテーブルに、左右田と松村が相対していた。
「一躍して人気役者になったね」
松村が友だちを讃美するように言った。
「ただ、いささか学界に貢献し得たことを喜ぶよ。もし将来、富田博士が、世界を驚かせるような著述を発表した場合にはだ、僕はその署名のところへ、左右田五郎共著という金文字を付け加えることを博士に要求しても差支えなかろうじゃないか」
こういって、左右田は、モジャモジャと伸びた長髪の中へ、クシででもあるように、指をひろげて突っ込んだ。
「しかし、君がこれほど優れた探偵であろうとは思わなかったよ」
「その探偵という言葉を、空想家と訂正してくれたまえ。実際僕の空想はどこまでとっ走るかわからないんだ。例えば、もしあの嫌疑者が、僕の崇拝する大学者でなかったとしたら、富田博士その人が夫人を殺した罪人であるということですらも、空想したかもしれないんだ。そして、僕自身が最も有力な証拠として提供したところのものを、片っ端から否定してしまったかもしれないんだ。君、これがわかるかい、僕がまことしやかに並べ立てた証拠というのは、よく考えてみると、ことごとくそうでない、他の場合をも想像することができるような、曖昧なものばかりだぜ。ただ一つ確実性を持っているのはPL商会の切符だが、あれだってだ。例えば、問題の石塊の下から拾ったのではなくて、その石のそばから拾ったとしたらどうだ」
左右田は、よく呑み込めないらしい相手の顔を眺めて、さもおかしそうにニヤリとした。
二癈人
二人は湯からあがって、一局囲んだあとを煙草にして、渋い煎茶をすすりながら、いつものようにポツリポツリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐の火鉢には鉄瓶が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のようにのどかな冬の温泉場の午後であった。
無意味な世間話が、いつの間にか懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は|青《チン》|島《タオ》役の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火鉢に軽く手をかざしながら、だまってその血腥い話に聞き入っていた。かすかに鶯の遠音が、話の合の手のように聞こえてきたりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。
斎藤氏の見るも無慙に傷ついた顔面は、そうした武勇伝の話し手としては至極似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたという、その右半面の引っつりを指さしながら、当時の有様を手にとるように物語るのだった。そのほかにも、からだじゅうに数カ所の刀傷があり、それが冬になると痛むので、こうして湯治にくるのだといって、肌をぬいでその古傷を見せたりした。
「これで、私も若い時分には、それ相当の野心を持っていたんですがね。こういう姿になっちゃおしまいですよ」
斎藤氏はこういって長い実戦談の結末をつけた。
井原氏は、話の余韻でも味わうようにしばらくだまっていた。
「この男は戦争のお蔭で一生台無しにしてしまった。お互いに癈人なんだ。が、この男はまだ名誉という気休めがある。しかしおれには……」
井原氏はまたしても心の古傷に触れてヒヤリとした。そして肉体の古傷に悩んでいる斎藤氏などは、まだまだ仕合わせだと思った。
「こんどはひとつ私の懺悔話を聞いていただきましょうか。勇ましい戦争のお話のあとで、少し陰気すぎるかも知れませんが」
お茶を入れかえて一服すると、井原氏はいかにも意気ごんだようにこんなことをいった。
「ぜひ伺いたいもんですね」
斎藤氏は即座に答えた。そしてなにごとかを待ち構えるようにチラと井原氏の方を見たが、すぐ、さりげなく眼を伏せた。
井原氏はその瞬間、オヤッと思った。井原氏は今チラと彼の方を見た斎藤氏の表情に、どこか見覚えがあるような気がしたのだった。彼は斎藤氏と初対面の時から――といっても十日ばかり以前のことだが――何かしら、二人のあいだに前世の約束とでもいったふうのひっかかりがあるような気がしていた。そして、日がたつにつれて、だんだんその感じが深くなって行った。でなければ、宿も違い、身分も違う二人が、わずか数日のあいだにこんなに親しくなるはずがないと井原氏は思った。
「どうも不思議だ。この男の顔は確かにどこかで見たことがある」しかしどう考えてみても思い出せなかった。
「ひょっとしたら、この男とおれとは、ずっとずっと昔の、たとえばもの心のつかぬ子供の時分の、遊び友だちででもあったのではあるまいか」そんなふうに思えば、そうとも考えられるのだった。
「いや、さぞかし面白いお話が伺えることでしょう。そういえば、きょうはなんだか昔を思い出すような日よりではありませんか」
斎藤氏はうながすように言った。
井原氏は恥かしい自分の身の上を、これまで人に話したことはなかった、むしろできるだけ隠しておこうとしていた。自分でも忘れようとつとめていた。それが、きょうはどうしたはずみか、ふと話してみたくなった。
「さあ、どういうふうにお話ししたらいいか……私は××町でちょっと古い商家の総領に生れたのですが、親に甘やかされたのが原因でしょう、小さい時から病身で、学校などもそのために二年おくれたほどですが、そのほかにはこれという不都合もなく、小学から中学、それから東京の××大学と、人さまよりはおくれながらも、まずまず順当に育ってきたのでした。東京へ出てからはからだの方も順調でしたし、そこへ学科が専門になるにつれて興味が湧き、ぼつぼつ親しい友だちもできてくるというわけで、不自由な下宿生活もかえって楽しく、まあなんの屈託もない学生生活を送っていたのでした。今から考えますと、ほんとうにあのころが私の一生中での花でしたよ。ところが東京へ出て一年たつかたたないころでした。私はふと或る恐ろしい事実に気づくようになったのです」
ここまで話すと、井原氏はなぜかかすかに身震いした。斎藤氏は吸いさしの巻煙草を火鉢に突き差して、熱心に聞きはじめた。
「ある朝のことでした。私がこれから登校しようと、身支度をしていますと、同じ下宿にいる友だちが私の部屋へはいってきました。そして私が着物を着かえたりするのを待ち合わせながら、『ゆうべは大へんな気焔だったね』と冷やかすように言うではありませんか。しかし私には、いっこうその意味がわからないのです。『気焔って、ゆうべ僕が気焔をはいたとでもいうのかい』私がけげん顔に聞き返しますと、友だちはやにわに腹をかかえて笑い出し『君はけさはまだ顔を洗わないんだろう』とからかうのです。で、よく聞きただしてみますと、その前の晩の夜ふけに、友だちの寝ている部屋へ私がはいって行って、友だちをたたき起こして、やにわに議論をはじめたのだそうです。なんでも、プラトンとアリストテレスとの婦人観の比較論か何かを滔々と弁じたてたそうですが、自分が言いたいだけいってしまうと、友だちの意見なんか聞きもしないで、サッサと引き上げてしまったというのです。どうも狐にでもつままれたような話なんです。『君こそ夢でも見たんだろう。僕はゆうべは早くから床にはいって、今しがたまでぐっすり寝込んでいたんだもの、そんなことのありそうな道理がない』と言いますと、友だちは『ところが夢でない証拠には、君が帰ってから、僕は寝つかれないで永いあいだ読書していたくらいだし、何より確かなのは、見たまえ、この葉書を。その時書いたんだ。夢で葉書を書くやつもないからね』と、むきになって主張するのです。
そんなふうに押し問答をしながら、結局あやふやのまま、その日は学校へ行ったことですが、教室へはいって講師のくるのを待っているあいだに、友だちが考え深そうな眼をして『君はこれまでに寝とぼける習慣がありはしないか』とたずねるのです。私はそれを聞くと、なんだか恐ろしいものにぶつかったように、思わずハッとしました。
私にはそういう習慣があったのです。私は小さい時分から寝言をよくいったそうですが、誰かがその寝言にからかいでもすると、私は寝ていてハッキリ問答したそうです。しかも朝になっては少しもそれを記憶していないのです、珍らしいというので、近所の評判になっていたほどなんです。でも、それは小学校時代の出来事で、大きくなってからは忘れたようになおっていたのですが、いま友だちにたずねられると、どうやらこの幼時の病癖と、ゆうべの出来事とに脈絡がありそうな気がするのです。で、そのことを話しますと、『では、それが再発したんだぜ。つまり一種の夢遊病なんだね』友だちは気の毒そうにそんなことをいうのです。
さあ、私は心配になってきました。私は夢遊病がどんなものか、ハッキリしたことはむろん知りませんでしたが、夢中遊行、離魂病、夢中の犯罪などという熟語が気味わるく浮かんでくるのです。第一、若い私には、寝とぼけたというようなことが恥かしくてならなかったのです。もしそんなことがたびたび起こるようだったらどうしようと、私はもう気が気ではありません。そのことがあって二、三日してから、私は勇気を出して、知合いの医者のところへ出掛けて相談してみました。ところが医者の言いますのには『どうも夢中遊行症らしいが、しかし、一度ぐらいの発作でそんなに心配しなくともよい。そうして神経を使うのがかえって病気を昂進させる元だ。なるべく気をしずめて、呑気に、規則正しい生活をして、からだを丈夫にしたまえ。そうすれば、自然そんな病気もなおってしまう』という至極楽観的な話なんです。で、私もあきらめて帰ったのですが、不幸にして私という人間は、生れつき非常な神経病みでして、いちどそんなことがあると、もうそれが心配で心配で、勉強なども手につかぬという有様でした。
どうかこれきり再発しなければいいがと、その当座は毎日ビクビクものでしたが、仕合わせと一と月ばかりというものは、なにごともなく過ぎてしまいました、ヤレヤレ助かったと思っていますと、どうでしょう、それも束の間の糠喜びで、間もなく今度は以前よりもひどい発作が起こり、なんと、私は夢中で他人の品物を盗んでしまったのです。
朝眼をさましてみますと、私の枕もとに見知らぬ懐中時計が置いてあるではありませんか、妙だなと思っているうちに、同じ下宿にいた会社員の男が『時計がない、時計がない』という騒ぎなんでしょう。私は『さては』と悟ったのですが、なんともきまりが悪くて、謝りに行くにも行けないという始末です。とうとう今いった友だちを頼んで、私が夢遊病者だということを証明してもらって時計を返し、やっとその場はおさまったのですが、さあそれからというものは『井原は夢遊病者だ』という噂がパッとひろがってしまって、学校の教室での話題にさえなるという有様でした。
私はどうかして、この恥かしい病気をなおしたいと、その方面の書物を買い込んで読んでみたり、いろいろの健康法をやってみたり、もちろん医者は、いくたりもかえて見てもらうというわけで、できるだけ手をつくしたのですが、どうしてなおるどころか、だんだん悪くなって行くばかりです。月に一度、ひどい時には二度ぐらいずつ、必ず例の発作がおこり、少しずつ夢中遊行の範囲が広くなって行くという始末です。そして、そのたびごとに他人の品物を持ってくるか、自分の持物を持って行った先へ落としてくるのです。それさえなければ他人に知られずにすむこともあったのでしょうが、悪いことには、たいてい何か証拠品が残るのです。それとももしかしたら、そうでない場合にもたびたび発作を起こしていても、証拠品がないために知らずにしまったのかもしれません。なんにしてもわれながら薄気味のわるい話でした。ある時などは真夜中に下宿屋から抜け出して、近所のお寺の墓地をうろついていたことなどもありました。拍子のわるいことには、ちょうどその時、墓地のそとの往来を、同じ下宿屋にいる或る勤め人が、宴会の帰りかなんかで通り合わせて、低い生垣ごしに私の姿をみとめ、あすこには幽霊が出るなどと言いふらしたものですから、実はそれが私だったとわかると、さあたいへんな評判なんです。
そんなふうで私はいいもの笑いでした。なるほど、他人から見れば喜劇でもありましょうが、当時の私の身にとっては、それがどんなにつらく、どんなに気味のわるいことだったか、その気持は、とても当人でなけりゃわかりっこありませんよ。はじめのあいだは、今夜も失策をしやしないか、今夜も寝とぼけやしないかと、それが非常に恐ろしかったのですが、だんだん、単に睡るということがこわくなってきました。いや睡る睡らないにかかわらず、夜になると寝床にはいらなければならぬということが脅迫観念になってきました。そうなると、ばかげた話ですが、自分のでなくても、夜具というものを見るのが、いうにいわれぬいやな気持なんです。普通の人たちには一日中でもっとも安らかな休息時間が、私にはもっとも苦しい時なのです。なんという不幸な身の上だったのでしょう。
それに、私にはこの発作が起こりはじめた時から、ひとつ恐ろしい心配があったのです。というのは、いつまでもこのような喜劇がつづいて、人のもの笑いになっているだけですめばいいが、もしこれがいつの日か取りかえしのつかぬ悲劇を生むことになりはしないか、という点でした。私は先にも申し上げましたように、夢遊病に関する書物はできるだけ手をつくして収集し、それをいくどもいくども読み返していたくらいですから、夢遊病者の犯罪の実例などもたくさん知っていました。そして、その中には数々の身震いするような血なまぐさい事件が含まれていたのです。気の弱い私がどんなにそれを心配したか、蒲団を見てさえ気持がわるくなるというのも決して無理ではなかったのです。やがて私もこうしてはいられないと気がつきました。いっそ学業をなげうって国許に帰ろうと決心したのです。で、或る日、それは最初の発作が起こってからもう半年あまりもたった頃でしたが、長い手紙を書いて、親たちのところへ相談してやりました。そして、その返事を待っているあいだに、どうでしょう、私の恐れに恐れていた出来事が、とうとう実現してしまったのです、私の一生涯をめちゃめちゃにしてしまうような、とり返しのつかぬ悲劇が持ち上がったのです」
斎藤氏は身動きもしないで謹聴していた。しかし彼の眼は物語の興味に引きつけられているという以上に、何事かを語っているように見えた。正月の書き入れ時もとくに過ぎた温泉場は、湯治客も少なく、ひっそりとして物音ひとつしなかった。小鳥の鳴き声ももう聞こえてはこなかった。実世間というものから遠く切り離された世界に、二人の癈人は異常な緊張をもって相対していた。
「それは忘れもしない、ちょうど今から二十年前の秋のことです。ずいぶん古い話ですがね。ある朝眼をさましますと、なんとなく家の中がざわついていることに気づきました。傷持つ足の私はまた何か失策をやったのではないかと、すぐいやな気持に襲われるのでしたが、しばらく寝ながら様子を考えているうちに、どうもただ事でないという気がし出しました。なんともいえぬ恐ろしい予感が、ゾーッと背中を這い上がってくるのです。私はおずおずしながら、部屋の中をずっと見廻しました。すると、なんとなく様子が変なのです。部屋の中に、ゆうべ私が寝た時とはどことなく変ったところがあるような気がするのです。で、起き上がってよく調べてみますと、果たして変なものが眼にはいりました。部屋の入口のところに見覚えのない小さな風呂敷包みが置いてあるではありませんか。それを見た私は、なんということでしょう、やにわにそれをつかんで押入れの中へ投げ込んでしまったのです。そして、押入れの戸を締めると、泥棒のようにあたりを見廻して、ほっと溜息をつくのでした。ちょうどその時、音もなく障子をあけて一人の友だちが首を出しました。そして小さな声で『君、大へんだよ』といかにもことありげにささやくのです。私は今の挙動をさとられやしなかったかと気が気でなく、返事もしないでいますと、『老人が殺されているんだ。ゆうべ泥棒がはいったんだよ。まあちょっときてみたまえ』そういって友だちは行ってしまいました。私はそれを聞くと、喉が塞がったようになって、しばらくは身動きもできませんでしたが、やっと気を取りなおして、様子を見に部屋を出て行きました。そして私は何を見、何を聞いたのでしょう……その時のなんともいえぬ変な気持というものは、二十年後の唯今でも、きのうのことのようにまざまざと思い出されます。ことにあの老人の物凄い死に顔は、寝ても覚めても、この眼の前にちらついて離れる時がありません」
井原氏は恐れに耐えぬように、あたりを見廻した。
「で、その出来事をかいつまんで申しますと、その夜、ちょうど息子夫婦が泊まりがけで親戚へ行っていたので、下宿の老主人はただ一人で玄関脇の部屋に寝ていたのですが、いつも早起きの主人が、その日に限っていつまでも寝ているので、女中の一人が不審に思ってその部屋をのぞいてみますと、老人は寝床の中に仰臥したまま、巻いて寝ていたフランネルの襟巻で絞め殺されて、冷たくなっていたのです。取調べの結果、犯人は老人を殺しておいて、老人の巾着から鍵を取り出し、箪笥の引出しをあけ、その中の手提金庫から多額の債券や株券を盗み出したことがわかりました。何分その下宿屋は、夜ふけに帰ってくる客のために、いつだって入口の戸に鍵をかけたことがないのですから、賊の忍び入るにはお誂え向きなんですが、そのかわりに、よくしたもので、殺された老主人がばかに目敏い男なので、めったなこともなかろうと、みな安心していたわけなんです。現場には別段これという手掛りも発見されなかったらしいのですが、ただ一つ老主人の枕もとに一枚のよごれたハンカチが落ちていて、それをその筋の役人が持って行ったという噂なんです。
しばらくすると、私は自分の部屋へ帰っていましたが、その部屋の押入れの中には、そら、例の風呂敷包みがあるのです。それを調べてみて、もし殺された老人の財産がはいっていたら……まあその時の私の気持をお察しください。ほんとうに命懸けの土壇場です。私は長いあいだ、寿命の縮む思いをしながらも、どうしても押入れがあけられないで立ちつくしていましたが、ついに意を決して風呂敷包みを調べてみたのです。その途端、私はグラグラと眼まいがして、しばらく気を失ったようになってしまいました……あったのです。その風呂敷包みの中に、債券と株券がちゃんとはいっていたのです……現場に落ちていたハンカチも私のものだったことが、あとになってわかりました。
結局、私はその日のうちに自首して出ました。そして、いろいろの役人にいくたびとなく取調べを受けた上、思い出してもゾッとする未決監へ入れられたのです。私はなんだか白昼の悪夢にうなされている気持でした。夢遊病者の犯罪というものがあまり類例がないことなので、専門医の鑑定だとか、下宿人たちの証言だとか、いろいろ手数のかかる取調べがありましたが、私が相当の家の息子で、金のために殺人を犯す道理がないこともわかっていましたし、私が夢遊病者だということは友人などの証言で明白なことですし、それに、国の父親が上京して二人も弁護士を頼んで骨折ってくれたり、最初私の夢遊病を発見した友だち――それは木村という男でしたが――その男が学友を代表して熱心に運動してくれたり、そのほかいろいろ私にとって有利な事情がそろっていたためでありましょう、長い未決監生活の後、ついに無罪の判決がくだされました。さて無罪になったものの、人殺しという事実は、ちゃんと残っているのです。なんという変てこな立場でしょう。私は無罪の判決をうれしいと感じる気力もないほど疲れきっていました。
私は放免されるとすぐさま、父親同行で郷里に帰りました。が、家の敷居をまたぐと、それまででも半病人だった私は、ほんとうの病人になってしまって、半年ばかり寝たきりで暮らすという始末でした……そんなことで、私はとうとう一生を棒にふってしまったのです。父親の跡は弟にやらせて、それからのち二十年の長い月日を、こうして若隠居といった境遇で暮らしているのですが、もうこのごろでは煩悶もしなくなりましたよ。ハハハハハ」
井原氏は力ない笑い声で長い身の上話を結んだ。そして「下らないお話で、さぞ御退屈でしたろう。さあ、熱いのを一つ入れましょう」と言いながら茶道具を引き寄せるのであった。
「そうですか。ちょっと拝見したところは結構な御身分のようでも、伺ってみればあなたもやっぱり不幸な方なんですね」斎藤氏は意味ありげな溜息をつきながら「ですが、その夢遊病のほうは、すっかりおなおりなすったのですか」
「妙なことには、人殺しの騒ぎののち、忘れたようにいちども起こらないのです。おそらく、あの時あまりひどいショックを受けたためだろうと医者はいっています」
「そのあなたのお友だちだった方……木村さんとかおっしゃいましたね……その方が最初あなたの発作を見たのですね。それから時計の事件と、それから、墓地の幽霊の事件と……そのほかの場合はどんなふうだったのでしょうか。御記憶だったらお話しくださいませんか」
斎藤氏は突然、少しどもりながら、こんなことを言い出した。彼の一つしかない眼が異様に光っていた。
「そうですね。みな似たり寄ったりの出来事で、殺人事件をのけては、まあ墓地をさまよった時のが、いちばん変っていたでしょう。あとはたいてい同宿者の部屋へ侵入したというようなことでした」
「で、いつも品物を持ってくるとか、落としてくるとかいうことから発見されたわけですね」
「そうです。でも、そうでない場合もたびたびあったかもしれません、ひょっとしたら、墓場どころでなく、もっともっと遠いところへさまよい出していたこともあったかもしれません」
「最初、木村というお友だちと議論をなすった時と、墓場で勤め人に見られた時と、そのほかに誰かに見られたというようなことはないのですか」
「いや、まだたくさんあったようです。夜なかに下宿屋の廊下を歩き廻っている足音を聞いた人もあれば、他人の部屋へ侵入するところを見たという人などもあったようです。しかしあなたは、どうしてそんなことをお尋ねになるのです。なんだか私が調べられているようではありませんか」
井原氏は無邪気に笑ってみせたが、その実、少し薄気味わるく思わないではいられなかった。
「いや、ごめんください。決してそういうわけではないのですが、あなたのようなお人柄な方が、たとえ夢中だったとはいえ、そんな恐ろしいことをなさろうとは、私にはどうも考えられないものですから。それに一つ、私にはどうも不審な点があるのです。どうか怒らないで聞いてください。こうして不具者になって世間をよそに暮らしていますと、ついなにごとも疑い深くなるのですね……ですが、あなたはこういう点をお考えなすったことがありますかしら。夢遊病者というものは、その徴候が本人には絶対にわからない。夜なかに歩き廻ったり、おしゃべりをしていても、朝になればすっかり忘れている。つまり他人に教えられてはじめて『おれは夢遊病者なのかなあ』と思うくらいのことでしょう、医者にいわせると、いろいろ肉体上の徴候もあるようですが、それとても実に漠としたもので、発作がともなってはじめて決せられる程度のものだというではありませんか。私は自分が疑い深いせいですか、あなたはよく無造作に自分の病気をお信じなすったと思いますよ」
井原氏は、何かえたいのしれぬ不安を感じはじめていた。それは、斎藤氏の話からきたというよりは、むしろ相手の見るも恐ろしい容貌から、その容貌の裏にひそむ何者かからきた不安であった。しかし、彼は強いてそれをおさえながら答えた。
「なるほど、私とても最初の発作の時にはそんなふうに疑ってもみました。そして、これが間違いであってくれればいいと祈ったほどでした。でも、あんなにも長いあいだ、絶間なく発作が起こっては、もうそんな気休めもいっていられなくなるではありませんか」
「ところが、あなたは一つの大切な事柄に気づかないでいらっしゃるように思われるのです。というのは、あなたの発作を目撃した人が少ない。いや煎じつめればたった一人だったという点です」
井原氏は、相手がとんでもないことを空想しているらしいのに気づいた。それは実に、普通人の考えも及ばぬような恐ろしいことであった。
「一人ですって。いや決してそんなことはありません。先ほどもお話ししたように、私が他人の部屋へはいる|後《うしろ》姿を見たり、廊下の足音を聞いたりしている人はいくらもあるのです。それから墓場の場合などは、名前は忘れましたが、或る会社員が確かに目撃して、私にそれを話したくらいです。そうでなくても、発作の起こるたびに、きっと他人の品物が私の部屋にあるか、私の持物がとんでもない遠方に落ちているかしたのですから、疑う余地がないじゃありませんか。品物がひとりで位置をかえるはずもありませんからね」
「いや、そういうふうに発作のおこるたびごとに証拠品が残っていたという点が、かえってあやしいのです。考えてごらんなさい。それらの品物は、必ずしもあなた自身の手をわずらわさなくても、誰かほかの人がそっと位置をかえておくこともできるのですからね。それから、目撃者がたくさんあったようにおっしゃいますが、墓場の場合にしても、そのほかの、後姿を見たとかなんとかいうのは、みな曖昧のところがあります。あなたでないほかの人を見ても、夢遊病者という先入主のために、少し夜ふけに怪しい人影でも見れば、すぐあなたにしてしまったのかもしれません。そういう際に間違った噂をたてたからとて、少しも非難される心配はありませんし、その上、一つでも新しい事実を報告するのを手柄のように思うのが人情ですからね。さあ、こういうふうに考えてみますと、あなたの発作を目撃したという数人の人々も、たくさんの証拠の品物も、みな或る一人の男の手品から生れたのだといえないこともないではありませんか。それはいかにも上手な手品には違いありません。でも、いくら上手でも手品は手品ですからね」
井原氏はあっけにとられたように、ぼんやりして、相手の顔をながめていた。彼はあまりのことに考えをまとめる力をなくした人のように見えた。
「で、私の考えを申しますと、これはその木村というお友だちの深いおもわくから編み出された手品かも知れないと思うのです。何かの理由から、その下宿屋の老主人をなきものにしたい、そっと殺してしまいたい。しかし、たとえいかほど巧妙な方法で殺しても、殺人が行なわれた以上、どうしても下手人が出なければ納まりっこはありませんから、誰か別の人を自分の身がわりに下手人にする。しかもその人にはできる限り迷惑のかからぬような方法で……もし、もしですよ。その木村という人がそんな立場にあったと仮定しますならば、あなたという信じやすい、気の弱い人を夢遊病者に仕立てて、ひと狂言書くということは、実に申し分のない方法ではなかったでしょうか。
こういう仮定を先ず立ててみて、それが理論上なりたつかどうかを調べてみましょう。さて、その木村という人は或る機会を見て、あなたにありもしない作り話をして聞かせます。と、都合のいいことには、あなたが少年時代に寝とぼける癖があったことが一つの助けとなって、その試みが案外効果をおさめたとします。そこで木村氏は、ほかの下宿人の部屋から時計その他のものを盗み出して、あなたの寝ている部屋の中に入れておくとか、気づかれぬようにあなたの持物を盗み出して、他の場所へ落としておくとか、自分自身があなたのようによそおって墓場や下宿の廊下などを歩き廻るとか、種々様々の機智を弄して、ますますあなたの迷信を深めようとします。また一方、あなたの周囲の人たちにそれを信じさせるために、いろいろの宣伝をやります。こうして、あなたが夢遊病だということが、本人にも周囲にも完全に信じられるようになった上で、もっとも都合のいい時を見はからって、木村氏自身がかたきとねらう老人を殺害するのです。そして、その財産をそっとあなたの部屋に入れておき、前もって盗んでおいたあなたの所持品を現場へのこしておくと、こういうふうに想像することが、あなたは理論的だとは思いませんか。一点の不合理も見出せないではありませんか。そしてその結果はあなたの自首ということになります。なるほどそれはあなたにとってずんぶん苦しいことには違いありませんが、犯罪という点では無罪とはいかずとも、比較的軽くすむのはわかりきったことです。よし多少の刑罰を受けたところで、あなたにしてみれば病気のさせた罪ですから、ほんとうの犯罪ほど心苦しくはないはずです。少なくとも木村氏はそう信じていたことでしょう。別段あなたに対して敵意があったわけではなかったのですからね。ですが、もし彼があなたの今のような告白を聞いたなら、さぞかし後悔したことでしょう。
いやとんだ失礼なことを申しました。どうか気を悪くしないでください。これというのも、あなたの懺悔話を伺って、あまりお気の毒に思ったものですから、つい、われを忘れて変な理窟を考え出してしまったのです。ですが、あなたのお心を二十年来悩ましてきた事件も、こういうふうに考えれば、すっかり気安くなるではありませんか。いかにも私の申し上げたことは当て推量かもしれません。でも、たとえ当て推量にしろ、そう考える方が理窟にもかない、あなたのお心も安まるとすれば、それで結構ではありますまいか。
木村という人がなぜ老人を殺さねばならなかったか。それは私が木村自身でない以上、どうもわかりようがありませんが、そこにはきっと、いうにいわれぬ深いわけがあったことでしょう。たとえば、そうですね、敵打ちといったような……」
まっさおになった井原氏の顔色に気づくと、斎藤氏はふと話をやめて、なにごとかをおそれるようにうなだれた。
二人はそうしたまま長いあいだ対坐していた。冬の日は暮れるにはやく、障子の日影も薄れて、部屋の中にはうそ寒い空気がただよい出していた。
やがて、斎藤氏はおそるおそる挨拶をすると、逃げるように帰って行った。井原氏はそれを見送ろうともしなかった。彼は元の場所にすわったまま、込み上げてくる忿怒をじっとおさえつけていた。思いがけぬ発見に思慮を失うまいとして、全力をつくしていた。
しかし時がたつにつれて、彼のすさまじい顔色がだんだん元に復して行った。そして、にがいにがい笑いが彼の口辺にただようのだった。
「顔かたちこそまるで変っているが、あいつは、あいつは……だが、たとえあの男が木村自身だったとしても、おれは何を証拠に復讐しようというのだ。おれというおろかものは、手も足も出ないで、あの男の手前勝手な憐憫をありがたく頂戴するばかりじゃないか」
井原氏は、つくづく自分のおろかさがわかったような気がした。と、同時に、世にもすばらしい木村の機智を、にくむというよりはむしろ讃美しないではいられなかった。
灰神楽
一
アッと思う間に、相手は、まるで泥でこしらえた人形がくずれでもするように、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は鼻柱がくだけはしないかと思われるほど、ベッタリと机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛けの青い織物とのあいだから、椿のようにまっ赤な液体が、ドクドクと吹き出していた。
今の騒ぎで鉄瓶がくつがえり、大きな桐の角火鉢からは、噴火山のように灰神楽が立ち昇って、それがピストルの煙と一緒に、まるで濃霧のように部屋の中をとじ込めていた。
覗きからくりの|絵《え》|板《いた》が、カタリと落ちたように、一刹那に世界が変わってしまった。なんともいえぬ不思議な感じであった。
「こりゃまあ、どうしたことだ」
彼は胸の中で、さも暢気そうにそんなことを言っていた。
しかし、数秒の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見ると、そこには、相手の奥村一郎所有の小型ピストルが光っていた。「おれが殺したんだ」ギョクンと喉がつかえたような気がした。胸の所がガラン洞になって、心臓がいやに上の方へ浮き上がってきた。そして、顎の筋肉がツーンとしびれて、やがて歯の根がガクガクと動きはじめた。
意識の回復した彼が第一に考えたことは、いうまでもなく、「銃声」についてであった。彼自身にはただ変な手答えのほかなんの物音も聞こえなかったけれど、ピストルが発射された以上、「銃声」が響かぬはずはなく、それを聞きつけて、誰かがここへやってきはしないかという心配であった。
彼はいきなり立ち上がって、グルグルと部屋の中を歩きまわった。時々立ち止まっては耳をすました。
隣の部屋には階段の降り口があった。だが庄太郎には、そこへ近づく勇気がなかった。今にもヌッと人の頭が、そこへ現われそうな気がした。彼は階段の方へ行きかけては引き返した。
しかし、しばらくそうしていても、誰もくるけはいがなかった。一方では、時間が立つにつれて、庄太郎の記憶力がよみがえってきた。「何を怖がっているのだ。下には誰もいなかったはずじゃないか」奥村の細君は里へ帰っているのだし、婆やは彼のくる以前に、可なり遠方へ使いに出されたというではないか。
「だが待てよ、もしや近所の人が……」
ようやく冷静を取り返した庄太郎は、死人のすぐ前にあけはなされた窓から、そっと半面を出して覗いて見た。広い庭を隔てて左右に隣家の二階が見えた。一方は不在らしく雨戸が閉まっているし、もう一方はガランとあけはなした座敷に、人影もなかった。正面は茂った木立ちを通して、塀の向こうに広っぱがあり、そこに、数名の青年が球投げをやっているのがチラチラと見えていた。彼らは何も知らないらしく夢中になって遊んでいた。秋の空に、球を打つバットの音が冴えて響いた。
彼は、これほどの大事件を知らぬ顔に、静まり返っている世間が、不思議でたまらなかった。「ひょっとしたらおれは夢を見ているのではないか」そんな事を考えてみたりした。しかし振り返ると、そこには血に染まった死人が無気味な人形のように黙していた。その様子が明きらかに夢ではなかった。
やがて彼は、ふとある事に気づいた。ちょうど稲の取り入れ時で、付近の田畑には、鳥おどしの空鉄砲があちこちで鳴り響いていた。さっき奥村との対談中、あんなに激している際にも、彼は時々その音を聞いた。いま彼が奥村を撃ち殺した銃声も、遠方の人々には、その鳥おどしの銃声と区別がつかなかったに違いない。
家には誰もいない、銃声は疑われなかった。とすると、うまく行けば彼は助かるかもしれないのである。
「早く、早く、早く」
耳の奥で半鐘のようなものが、ガンガンと鳴り出した。
彼はその時まだ手にしていたピストルを、死人のそばへ投げ出すと、ソロソロと階段の方へ行こうとした。そして一歩足を踏み出した時である。庭の方でバサッというひどい音がして、樹の枝がザワザワと鳴った。
「人?」
彼は吐き気のようなものを感じて、その方を振り向いた。だが、そこには彼の予期したような人影はなかった。今の物音はいったい何事であったろう。彼は判断をくだしかねて、むしろ判断をしようともせず、一瞬間そこに立往生していた。
「庭の中だよ」
すると、そとの広っぱの方から、そんな声が聞こえてきた。
「中かい。じゃあおれが取ってこよう」
それは聞き覚えのある、奥村の弟の中学生の声であった。彼はさっき広っぱの方を覗いた時に、その奥村二郎がバットを振りまわしているのを、頭の隅で認めていたことを思い出した。
やがて快活な足音と、バタンと裏木戸のあく音とが聞こえ、それから、ガサガサと植込みのあいだを歩きまわる様子が、二郎の烈しい呼吸づかいまで、手に取るように感じられるのであった。庄太郎にはことさらそう思われたのかもしれないけれど、ボールを探すのは可なり手間取った。二郎はさも暢気そうに口笛など吹きながら、いつまでもゴソゴソという音をやめなかった。
「あったよう」
やっとしてから、二郎の突拍子もない大声が、庄太郎を飛び上がらせた。そして、彼はそのまま、二階の方など見向きもしないで、そとの広っぱへと駈け出して行く様子であった。
「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。それをわざと素知らぬ振りで、ボールを探すような顔をして、その実は二階の様子をうかがいにきたのだ」
庄太郎はふとそんな事を考えた。
「だが、あいつは、たとえ銃声を疑ったとしても、おれがこのうちへ来ていることは知るはずがない。あいつはおれがくる以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は広っぱの方からは、杉の木立ちが邪魔になって、よくは見えないし、たとえ見えたところで、遠方のことだから、おれの顔まで見わけられるはずはない」
彼は一方では、そんなふうにも考えた。そして、その疑いを確かめるために、障子から半面を出して、広っぱの方を覗いて見た。そこには、木立ちの隙間から、バットを振り振り走って行く、二郎のうしろ姿が眺められた。彼は元の位置に帰ると、すぐ何事もなかったように打球の遊戯をはじめるのであった。
「大丈夫、大丈夫、あいつはなんにも知らないのだ」
庄太郎は、さっきの愚かな邪推を笑うどころではなく、しいて自分自身を安心させるように、大丈夫、大丈夫と繰り返した。
しかし、もうぐずぐずしてはいられない。第二の難関が待っているのだ。彼が無事に門のそとへ出るまでに、使いに出された婆やが帰ってくるか、それともほかの来客とぶっつかるか、そんなことがないと、どうして断言できよう。彼は今さらそこへ気がついたように、慌てふためいて階段をおりかけた。途中で足がいうことをきかなくなって、ひどい音を立てて辷り落ちたけれど、彼はそんなことをほとんど意識しなかった。そしてまるでわざとのように、玄関の格子をガタピシいわせて、やっとのことで門のそばまでたどりついた。
が、門を出ようとして、彼はハッと立ち止まった。ある重大な手抜かりに気づいたのだ。あのような際によくもそこまで考えまわすことができたと、彼はあとになってしばしば不思議に思った。
彼は日頃、新聞の三面記事などで、指紋というものの重大さを知っていた。むろん実際以上に誇張して考えていたほどである。今まで握っていたあのピストルには、彼の指紋が残っているに違いない。他の万事が好都合に運んでも、あの指紋たった一つによって犯罪が露顕するのだ。そう思うと、彼はどうしても、そのまま立ち去ることはできなかった。もう一度二階へ戻るというのは、その際の彼にとって、ほとんど不可能に近い事柄ではあったけれど、彼は死にもの狂いの気力をふるって、更に家の中へ取って返した。両足が義足のようにしびれて、歩くたびごとに、膝頭がガクリガクリと折れた。
どうして二階へ上がったか、どうしてピストルを拭き清めたか、それからどうして門前へ出てきたか、あとで考えると少しも記憶に残っていなかった。
門のそとには幸い人通りがなかった。その辺は郊外のことで、住宅といっては、庭の広い一軒家がまばらに建っているばかりで、昼間でも往来は途絶え勝ちなのだ。ほとんど思考力を失った庄太郎は、その田舎道をフラフラと歩いて行った。早く、早く、早く、という声が、時計のセコンドのように絶え間なく耳許に聞こえていた。それにもかかわらず、彼の歩調はいっこう早くなかった。外見は、暢気な郊外散歩者とも見えたであろう。その実、彼はまるで夢遊病者のように、いま歩いているということすら、ほとんど意識していないのであった。
二
どうしてピストルを撃つようなことになったのか、時のはずみとはいえ、あまりに意外な出来事であった。庄太郎は、彼自身が恐ろしい人殺しなどとは、まるでうそのような話で、ほとんど信じかねるほどであった。
庄太郎と奥村一郎とが、一人の女性を中心に、烈しい反感をいだき合っていたことは事実である。その感情が互いに反発して、加速度に高まりつつあったことも事実である。そして、折につけ、つまらないほかの議論が二人を異常に興奮せしめた。彼らは双方とも決して問題の中心に触れようとはしなかった。
そのかわりに、問題外のごく些細な事柄が、いつも議論の対象となり、ほとんど狂的にまでいがみ合うのであった。
その上、一そういけないのは、庄太郎に取っては一郎がある意味のパトロンであったことだ。貧乏絵かきの庄太郎は、一郎の補助なしには生きて行くことができなかった。彼は言いがたき不快をおさえて、しばしば|恋敵《こいがたき》の門をくぐることを余儀なくされた。
今度の事件も、事の起こりはやはりそれであった。その時、一郎はいつになくキッパリと、庄太郎の借金の申し込みを拒絶した。このあからさまな敵意に会って、庄太郎はカッとのぼせ上がった。恋敵の前に頭を下げて、物乞いをしている自分自身が、此の上もなくみじめに見えた。それと同時に、その心持ちを充分知っていながら、自己の有利な立場を利用して、これを好機と敵意を見せる相手が、ジリジリするほど癪にさわった。一郎の方では、何も借金の申し込みに応ずる義理はないと言い張った。庄太郎の方では、これまでパトロンのようにふるまっておきながら、そして暗黙のうちに物質的援助を予期させておきながら、今さら金が貸せないといわれては困ると主張した。
争いはだんだん烈しくなって行った。問題が焦点をそれていることが、そのかわりに、野卑な金銭上の事柄にまで、こうしていがみ合わなければならぬという意識が、一そう二人をたまらなくした。しかし、もしその時、一郎の机の上にあのピストルが出ていなかったら、まさかこんなことにもならなかったであろうが、悪いことには、一郎は日頃から銃器類に興味を持っていて、ちょうど当時、その付近にしばしば強盗沙汰があったものだから、護身の意味で|弾《た》|丸《ま》まで込めて、机の上に置いてあったのである。それを庄太郎が手に取って、つい相手を撃ち殺してしまったのだ。
それにしても、どうしてあのピストルを取ったか、そして、引き金に指をかけたか、庄太郎にはそのきっかけが、少しも思い出せないのだった。ふだんの庄太郎であったら、いかに口論をすればとて、相手を撃ち殺そうなどとは、考えさえもしなかったであろう。時のはずみというか、魔がさしたというか、ほとんど常識では判断もできないような事件である。
だが、庄太郎が人殺しだということは、もはやどうすることもできない事実であった。この上はいさぎよく自首して出るか、それとも、あくまで素知らぬ振りをしているか、二つの方法しかない。そして、庄太郎はそのいずれの道を採ったのか。彼は、読者もすでに推察されたように、いうまでもなく後者を選んだのである。これがもし、彼が犯人だと知れるような証拠が、少しでも残っているのだったら、まさか、彼とてもそんな野望を抱きはしなかったであろう。だが、そこにはなんの証拠もないのだ。指紋すらも残ってはいないのだ。彼は下宿に帰ってから、一と晩じゅうそのことばかりを繰り返し考えつづけた。そして、結局、あくまでも知らぬていを装うことに決心した。
うまく行けば、一郎は自殺したものと判断されるかもしれない。仮りに一歩を譲って、他殺の疑いがかかったとしても、何を証拠に庄太郎を犯人だときめることができるのだ。現場にはなんの証跡も残ってはいない。そればかりか、その時に庄太郎が一郎の部屋にいたということすら、誰も知らないではないか。
「なに、心配することがあるものか。おれはいつでも運がいいのだ。これまでとても、犯罪に近い悪事を、しばしばやっているではないか、そしてそれが少しも発覚しなかったではないか」
やがて彼は、そんな気安めを考えるほどになっていた。そうして一と安心すると、そこへ、人殺しとはまるで違った、はなやかな人生が浮き上がってきた。考えてみれば、彼はあの殺人によって、計らずも二人で争っていた恋人を独占したわけであった。社会的地位と物質とのために、いくらか一郎の方へ傾いていた彼女も、もはやその対象を失ったのである。
「おお、おれはなんという幸運児であろう」
夜、寝床の中では、昼間とは打って変わって楽天的になる庄太郎であった。彼は煎餅蒲団にくるまって、天井の節穴を眺めながら、恋しい人の上を思った。なんとも形容のできない、はなやかな色彩と、快い薫りと、柔らかな音響が彼の心を占めた。
三
だが、彼のこの安心も、つまりは寝床の中だけのものであった。翌朝、ほとんど一睡もしなかった彼の前に第一に来たものは、恐ろしい記事をのせた新聞であった。そして、その記事の内容はたちまち彼の心臓を軽くした。そこには二段抜きの大見出しで、奥村一郎の惨死が報道されていた。検死の模様も簡単にしるされてあった。
「……前額の中央に弾痕のある点、ピストルの落ちていた位置等を以て見るも自殺とは考えられぬ、その筋では他殺の見込みを以て、已に犯人捜索に着手した」
そういう意味の二、三行が、ギラギラと庄太郎の眼に焼きついた。彼はそれを読むと、何か急用でも思いついたかのように、いきなりガバと蒲団から起き上がった。だが、起き上がってどうしようというのだ。彼は思いなおしてまた蒲団の中へもぐりこんだ。そして、すぐそばに怖いものでもあるように、頭から蒲団をかぶると、身を縮めてじっとしていた。
一時間ばかりののち、彼はそそくさと起き上がると、着物を着更えてそとへ出た。茶の間を通るとき、宿の主婦が声をかけたけれど、彼は聞こえぬのか返事もしなかった。
彼は何かに引きつけられるように、恋人のところへ急いだ。いま逢っておかなければもう永久に顔を見る機会がないような気がするのだ。ところが、一里の道を電車に揺られて、彼女を訪ねた結果はどうであったか。そこにもまた、恐ろしい疑いの目が彼を待っていたのだ。彼女はむろん事件を知っていた。そして日頃の事情から推して、当然庄太郎に一種の疑いを抱いていた。実はそうではなかったのかもしれないけれど、脛に傷持つ庄太郎には、そうとしか考えられなかった。第一に、追いつめられた野獣のような庄太郎の様子が、相手を驚かせた。それを見ると彼女の方でも青ざめた。
せっかく逢いは逢いながら、二人はろくろく話をかわすこともできなかった。庄太郎は相手の眼に疑惑の色を読むと、その上じっとしてはいられなかった。座敷に通ったかと思うと、もういとまを告げていた。そして今度はどこという当てもなく、フラフラと街から街をさまよった。どこまで逃げても、たった五尺のからだを隠す場所がなかった。
日の暮れがたになって、ヘトヘトに疲れきった庄太郎は、やっぱり自分の宿へ帰るほかはなかった。宿の主婦はわずか一日のあいだに、大病人のように痩せ衰えた彼を、不思議そうに眺めた。そして、気ちがいのような彼の目つきにおずおずしながら一枚の名刺をさし出した。その名刺のぬしが彼の不在中に訪ねてきたというのだ。そこには「××警察署刑事××××」と印刷されてあった。
「ああ刑事ですね、僕のところへ刑事が訪ねてくるなんて、こいつは大笑いですね、ハハハハ」
思わずそんな無意味な言葉が彼の口をついて出た。彼はそうしてゲラゲラと笑い出した。だが口だけでばか笑いをしていても、彼の顔つきは少しもおかしそうには見えなかった。その異様な態度が更に主婦を驚かせた。
その晩おそくまで、彼はほとんど放心状態でいた。考えようにも考えることがないような、或いはあまりにありすぎてどれを考えていいのかわからないような、一種異様の気持であった。が、やがて、いつもの「夜の楽観」が、彼をおとずれた。そして、いくらか思考力を取り返すことができた。
「おれはいったい何を恐れていたのだろう」
考えてみれば、昼間の焦躁は無意味であった。たとえ奥村一郎の死が他殺と断定されようと、恋人が彼に疑惑の目を向けようと、或いは又、刑事巡査が訪ねてこようと、何も彼が有罪ときまったわけではないのだ。彼らには一つも証拠というものがないではないか。それは単に疑惑にすぎぬ。いやひょっとしたら彼自身の疑心暗鬼かもしれないのだ。
だが、決して安心することはできない。なるほど、額のまん中を撃って自殺するやつもなかろうから、警察が他殺と判断したのは無理はない。とすると、そこには下手人が必要だ。現場になんの証拠もなければ、警察は被害者の死を願うような立場にある人物を探すに違いない。奥村一郎は日頃敵を持たぬ男だった。庄太郎をほかにして、そんな立場の人物が存在するであろうか。それに悪いことには、弟の奥村二郎が、彼らのあいだの恋の葛藤をよく知っていたことである。二郎の口から、それが警察に洩れないとどうしていえよう。現にきょうの刑事とても、二郎の話を聞いた上で、充分疑いを持ってやってきたのかもしれないではないか。
考えるに従って、やっぱりのがれる途はないような気がする。だが、果たして絶体絶命であろうか。何かしらこの難関を切り抜ける方法がないものであろうか。それから一と晩のあいだ、庄太郎は全身の智恵をしぼり尽して考えた。異常の興奮が彼の頭脳をこの上もなく鋭敏にした。ありとあらゆる場合が、彼の目の前に浮かんでは消えた。
ある刹那、彼は殺人現場の幻を描いていた、そこには額の穴から|血《ち》|膿《うみ》を流して倒れている奥村一郎の姿があった。キラキラ光るピストルがあった。煙があった。桐の火鉢の五徳の上に、なかば湯をこぼした鉄瓶があった。濛々と立ちこめた灰神楽があった。
「灰神楽、灰神楽」
彼は心の中でこんな言葉を繰り返した。そこに何かの暗示を含んでいるような気がするのだ。
「灰神楽……桐の大火鉢……火鉢の中の灰」
そして、彼はハタとある事に思い及んだ。暗澹たる闇の中に一縷の光明が燃えはじめた。それは犯罪者のしばしばおちいるばかばかしい妄想であったかもしれない。第三者から見れば一顧の価値もない愚挙であったかもしれない。しかしこの際の庄太郎にとっては、その考えが、天来の福音のごとくありがたいものに思われるのだった。そして、考えに考えたあげく、結局彼はその計画を実行してみることに腹をきめた。
そう事がきまると、二昼夜にわたる不眠が、彼を恐ろしい熟睡に誘った。翌日の昼頃まで、彼は何も知らないで、泥のように睡った。
四
さて、その翌日、いよいよ実行となると、彼は又しても二の足を踏まなければならなかった。表の往来から聞こえてくる威勢のいい玄米パンの呼び声、自動車の警笛、自転車のベル、そして、障子を照らす眩しい白日の光、どれも、これも、彼の暗澹たる計画に比べては、なんと健康に冴えわたっていることであろう。この快活な、あけっぱなしな世界で、果たしてあの異様な考えが実現できるものであろうか。
「だが、へこたれてはいけない。ゆうべあんなにも考えたあげく、堅く堅く決心した計画ではないか。そのほかにどんな方法があるというのだ。ためらっている時ではない。これを実行しなかったら、お前には絞首台があるばかりだ。たとえ失敗したところで、元々ではないか。実行だ、実行だ」
彼は奮然として起き上がった。ゆっくりと顔を洗って食事をすませると、わざと暢気らしく、一とわたり新聞に眼を通し、ふだん散歩に出るのと同じ調子で、口笛さえ吹きながら、ブラブラと宿を出た。
それから一時間ばかりのあいだ、彼がどこへ行って何をしたか、それは後になって自然読者にわかることだから、ここには説明をはぶいて、彼が奥村二郎を訪問したところから話を進めるのが便宜である。
さて、奥村二郎の家の、殺人の行なわれたその同じ部屋で、庄太郎と死者の弟の二郎とが相対していた。
「で、警察では加害者の見当がついているのかい」
一とわたり悔みの挨拶が取りかわされてから、庄太郎はこんなふうに切り出すのであった。
「さあどうだか」中学上級生の二郎は、あらわなる敵意をもって、相手の顔をじろじろ眺めながら答えた。「たぶんだめだろうと思う。だって証拠が一つもないんだからね。たとえ疑わしい人間があるとしても、どうすることもできないさ」
「他殺は疑う余地がないらしいね」
「警察ではそう言っている」
「証拠が残っていないという話だが、この部屋は充分調べたのかしら」
「そりゃ無論だよ」
「誰かの本で読んだことがあるが、証拠というものは、どんな場合にでも残らないはずはないそうだ。ただ、それが人間の眼で発見できるかできないかが問題なのだ。たとえば一人の男がこの部屋へはいって何一つ品物を動かさないで出て行ったとする。そんな場合にも、少なくとも畳の上の埃には、なんらかの変化が起こっていたはずだ。だから、と、その本の著者が言うのだよ、綿密なる科学的検査によれば、どのような巧妙な犯罪をも発見することができるって」
「…………」
「それから又、こういうこともある。人間というものは、何かを探す場合、なるべく目につかないような所、部屋の隅々とか、物の蔭とかに注意を奪われて、すぐ鼻の先にほうり出してある、大きな品物なぞを見のがすことがある。これは面白い心理だよ。だから最も上手な隠し場所は、ある場合には、最も人目につき易いところへ露出して置くことなんだよ」
「だからどうだっていうのだい、僕らにしてみれば、そんな暢気らしい理窟を言っている場合ではないんだが」
「だからさ、たとえばだね」庄太郎は考え深そうにつづけた。「この火鉢だってそうだ。こいつは部屋の中で最も目につき易い中央にある。この火鉢を誰かが調べたかね。殊に中の灰に注意した人があるかね」
「そんな物を調べた人はないようだね」
「そうだろう。火鉢の灰なんてことは、誰も気がつかない。ところで君はさっき、兄さんが殺された時には、この火鉢のところに一面に灰がこぼれていたといったね。むろんそれはここにかけてあった鉄瓶が傾いて、灰神楽が立ったからだろう。問題は何がその鉄瓶を傾けたかという点だよ。実はね、僕はさっき、君がここへくるまでに、変なものを発見したのだ。ソラ、これを見たまえ」
庄太郎はそういうと、火箸を持って、グルグル灰の中をかき探していたが、やがて一つの汚れたボールをつまみ出した。
「これだよ。このタマがどうして灰の中に隠れていたか。君は変だとは思わないかね」
それを見ると二郎は驚きの目を見張った。そして、彼の額には、少しばかり不安らしい色が浮かんだ。
「変だね。どうしてそんな所へボールがはいったのだろう」
「変だろう。僕はさっきから一つの推理を組み立ててみたのだがね。兄さんの死んだ時、ここの障子はすっかり閉まっていたかしら」
「いや、ちょうどこの机の前のが一枚あいていたよ」
「ではね、こういうことはいえないかしら、兄さんを殺した犯人……そんなものがあったと仮定すればだよ……その犯人の手が触れて鉄瓶の湯がこぼれたと見ることもできるけれど、又もう一つは、そこの障子のそとから何かが飛んできて、この鉄瓶にぶつかったと考えることもできそうだね。そしてあとの場合の方がなんとなく自然に見えやしないかい」
「じゃあ、このボールがそとから飛んできたというのか」
「そうだよ。灰の中にボールが落ちていた以上、そう考えるのが当然ではないだろうか。ところで、君はよくこの裏の広っぱで、球投げをやるね。その日はどうだったい。兄さんの死んだ日には」
「やっていたよ」二郎はますます不安を感じながら答えた。「だが、ここまでボールを飛ばしたはずはない、もっとも一度そこの塀を越したことはあるけれど、杉の木に当たって下へ落ちたよ。僕はちゃんとそれを拾ったのだから間違いはない。タマは一つもなくなってやしないんだよ」
「そうかい、塀を越したことがあるのかい。むろんバットで打ったのだろうね。だが、そのとき下へ落ちたと思ったのは間違いで、実は杉の木をかすめて、ここまで飛んできたのではないだろうか。君は何か思い違いをしてやしないかい」
「そんなことはないよ。ちゃんと、そこの一ばん大きい杉の木の根元で、そのタマを拾ったんだもの、そのほかには一度だって塀を越したことなぞありゃしない」
「じゃあ、そのボールに何か目印でもつけてあったのかい」
「いや、そんなものはないけれど、タマが塀を越して、探してみると庭の中に落ちていたんだから間違いっこないよ」
「しかしこういう事も考えうるね。君が拾ったボールは、実はその時打ったやつではなくて、以前からそこに落ちていたボールであったということもね」
「そりゃあ、そうだけれど、だっておかしいよ」
「でも、そうでも考えるほかに方法がないじゃないか。この火鉢の中にボールがある以上は。そして、ちょうどそのとき鉄瓶のくつがえったという一致がある以上は。君は時々この庭の中へボールを打ち込みはしないかい。そして、ひょっとして、そのとき探しても、植込みが茂っていたりして、わからないままになってしまったようなことはないだろうか」
「それはわからないけれど……」
「で、これが最も肝要な点なのだが、そのボールが塀を越したという時間だね、それがもしや兄さんの死んだ時と一致してやしないかい」
その瞬間、二郎はハッとしたように、顔の色を変えた。そして、しばらく言い渋ったあとで、やっとこう答えた。
「考えてみると、それが偶然一致しているんだ。変だな、変だな」
そうして、彼は俄かにそわそわと落ちつかぬ様子を示した。
「偶然ではないよ。そんなに偶然が幾つもかさなるということはないよ」庄太郎は勝ちほこって言った。「先ず灰神楽だ。灰の中のボールだ。それから君たちの打ったタマが塀を越した時間だ。それがことごとく兄さんの死んだときに前後しているじゃないか。偶然にしては、あまり揃いすぎているよ」
二郎はじっと一つ所を見つめて、何かに考え耽っていた。顔は青ざめ、鼻の頭には粟粒のような汗の玉が浮かんでいた。庄太郎はひそかに計画の奏効を喜んだ。彼はその問題のボールの打者が、ほかならぬ二郎自身であったことを知っていたのだ。
「君はもう、僕が何を言おうとしているかを推察しただろう。そのときボールが、杉の木を通り越してここの障子のあいだから、兄さんの前へ飛んできたのだよ。そして、ちょうどそのとき兄さんは、君も知っている通りピストルをいじることの好きな兄さんは、タマを込めたそれを顔の前でもてあそんでいたのだよ。偶然指が引き金にかかっていたのだね。ボールが兄さんの手を打った拍子に、ピストルが発射したのだ。そして、兄さんは自分の手で自分の額を打ったのだよ。僕はそれに似た事件を、外国の雑誌で読んだことがある。それから、そこで一度はずんだボールは、その余勢で鉄瓶をくつがえして、灰の中へ落ち込んだのだ。勢いがついているから、ボールはむろん灰の中へもぐってしまう。これはすべて仮定にすぎない。だが、非常にプロバビリティのある仮定ではないだろうか。先にもいった通り偶然としてはあまり揃いすぎたさまざまの一致が、この解釈を裏書きしてはいないだろうか。警察のいうように、これから先、犯人が出ればともかく、いつまでもそれがわからないようなら、僕はこの推定を事実と見るほかはないのだ。ね、君はそうは思わないかい」
二郎は返事をしようともしなかった。さっきからの姿勢を少しもくずさないで、じっと一つ所を見つめていた。彼の顔には恐ろしい苦悶の色が現われていた。
「ところで、二郎君」庄太郎はここぞと、取って置きの質問を発した。「そのとき、塀を越したボールを打ったのは、いったい誰だい。君の友だちかい。その男は、考えてみれば罪の深いことをしたものだね」
二郎はそれでも答えなかった。見ると彼の大きく見張った目尻からギラギラと涙が湧き上がっていた。
「だが君、何もそう心配することはないよ」庄太郎はもうこれで充分だと思った。「もし僕の考えが当たっていたとしても、それは過失にすぎないのだ。ひょっとして、あのボールを打ったのが君自身であったところが、それはどうも仕方のないことだ。決してその人が兄さんを殺したわけではない。ああ、僕はつまらないことを言い出したね。君、気をわるくしてはいけないよ。じゃね、僕はこれから下へ行ってねえさんにお悔みを言ってくるから、もう君は何も考えないことにしたまえ」
そして彼は、かつて不様に辷り落ちたあの梯子段を、意気揚々とおりて行くのであった。
五
庄太郎の突拍子もない計画は、まんまと成功したのである。あの調子なら、二郎は今にたまらなくなって、彼が事実だと信じている事柄を、警察に申し出るに違いない。よしその以前に、庄太郎が嫌疑者として捕われるようなことがあっても、二郎の申し出さえあれば、わけなく疑いをはらすことができる。彼の捏造した推理には、単なる情況証拠による嫌疑者を釈放するには、充分過ぎるほどの事実味があるのだ。のみならず、それが自分の過失から兄を殺したと信じている二郎の口によって述べられるときは、一そうの迫真性が加わるわけでもあった。
庄太郎はこれで充分安心することができた。そして、きのうの刑事がいずれ又やってくるであろうが、彼がきた時には、ああしてこうしてと、手落ちなくはかりごとを廻らすのであった。
その次の日の昼過ぎに、案の|定《じょう》××警察署刑事××××氏が庄太郎の下宿をおとずれた。宿の主婦がささやき声で、
「又このあいだの人が来ましたよ」
といって、その名刺を彼の机の上に置いた時にも、彼は決して騒がなかった。
「そうですか、なにいいんですよ、ここへ通してください」
すると、やがて階段に刑事の上がってくる足音が聞こえた。だが、妙なことにはそれが一人の足音ではなく、二人三人のそれらしく感じられるのだ。「おかしいな」と思いながら待っている目の前に、先ず刑事らしい男の顔が現われ、そのうしろから、意外にも奥村二郎の顔がひょいと覗いた。
「さては、先生もうあのことを警察に知らせたのだな」
庄太郎はふとほほえみそうになるのを、やっとこらえた。
だが、あれはいったい何者であろう。二郎の次に現われた商人体の男は。庄太郎はその男をどっかで見たような気がした。しかし、いくら考えてみても、どうした知り合いであるか、少しも思い出せないのだ。
「君が河合庄太郎か」刑事が横柄な調子で言った。「オイ、番頭さん、この人だろうね」
すると、番頭さんと呼ばれた商人ていの男は即座にうなずいて見せて、
「ええ、間違いございません」
というのだ。それを聞くと、庄太郎はハッとして思わず立ち上がった。彼には一瞬間に一切の事情がわかった。もはや運のつきなのだ。それにしても、どうしてこうも手早く彼の計画が破れたのであろう。二郎がそれを見破ろうとはどうしても考えられない。彼はボールを打った本人である。時間も一致すれば、お誂え向きに障子があいていたばかりか、鉄瓶さえくつがえっていたのだ。この真に迫まったトリックを、どうして彼が気づくものか。それはきっと何か庄太郎自身に錯誤があったものに違いない。だが、それはいったいどのような錯誤であったろう。
「君は実際ひどい男だね。僕はうっかりだまされてしまうところだった」二郎が腹立たしげにどなった。「だが、気の毒だけれど、君はあんな小刀細工をやったばかりに、もう動きのとれない証拠を作ってしまったのだよ。あの時には、僕も気がつかなかったけれど、あすこにあった火鉢は、あれは兄が殺された時に同じ場所に置いてあったのとは、別の火鉢なのだよ。君は灰神楽のことをやかましく言っていたが、どうしてそこへ気づかなかったのだろうね。これが天罰というものだよ。灰神楽のために灰がすっかりかたまってしまって、使えなくなったものだから、婆やが別の新らしい火鉢と取り替えておいたのだよ。それは灰を入れてから一度も使わぬ分だから、ボールなんぞ落ち込む道理がないのだ。君は僕のうちに同じ桐の火鉢が一つしかないとでも思っているのかい。ゆうべはじめてそのことがわかった。僕は君の悪企みにほとほと感心してしまったよ。よくもあんな|空《そら》|事《ごと》を考え出したもんだね。僕は当時あの部屋になかった火鉢にボールが落ちているとはおかしいと思って、よく考えてみると、どうも君の話し方に腑に落ちないところがある。で、とにかく、きょう早朝刑事さんに話してみたのだ」
「運動具を売っているうちはこの町にもたくさんはないから、すぐわかったよ。君はこの番頭さんを覚えていないかね。きのうの昼頃、君はこの人からボールを一個買い取ったではないか。そして、それを泥で汚して、さも古い品のように見せかけて、奥村さんの火鉢へ入れたのじゃないか」
刑事が吐き出すように言った。
「自分で入れておいて、自分で探し出すのだから、わけはないや」
二郎が大きな声で笑い出した。
庄太郎は、正に御念の入った「犯罪者の愚挙」を演じたのであった。
石榴
1
私は以前から「犯罪捜査録」という手記を書き溜めていて、それには、私の長い探偵生活中に取り扱った目ぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書きつけておこうとする「硫酸殺人事件」は、なかなか風変わりな面白い事件であったにもかかわらず、なぜか私の捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、私はついこの奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。
ところが、最近のこと、その「硫酸殺人事件」をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議千万な、驚くべき「機会」であったが、そのことはいずれあとでしるすとして、ともかくこの事件を私に思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった|猪《いの》|股《また》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文の探偵小説であった。手擦れで汚れた青黒いクロース表紙の探偵小説本に、今考えてみると、実はさまざまの意味がこもっていたのであった。
これを書いているのは昭和――年の秋のはじめであるが、その同じ年の夏、つまりつい一と月ばかり前まで、私が信濃の山奥に在るSという温泉へ、ひとりで避暑に出かけていた。S温泉は信越線のY駅から、私設電車に乗って、その終点からまた二時間ほどガタガタの乗合自動車に揺られなければならないような、ごくごく辺鄙な場所にあって、旅館の設備は不完全だし、料理はまずいし、遊楽の気分はまったく得られないかわりには、人里離れた深山幽谷の感じは申し分がなかった。旅館から三丁ほど行くと、非常に深い谷があって、そこに見事な滝が懸っていたし、すぐ裏の山から時々猪が出て、旅館の裏庭近くまでやってくることもあるという話であった。
私の泊った翠巒荘というのが、S温泉でたった一軒の旅館らしい旅館なのだが、ものものしいのは名前だけで、広さは相当広いけれど、全体に黒ずんだ山家風の古い建物、白粉の塗り方も知らない女中たち、糊のこわいツンツルテンの貸し浴衣という、まことに都離れた風情であった。そんな山奥ではあるけれど、さすがに盛夏には八分どおり滞在客があり、そのなかばは東京、名古屋などの大都会からのお客さんである。私が知合いになったという猪股氏も、都会客の一人で、東京の株屋さんということであった。
私は本職が警察官のくせに、どうしたものか探偵小説の大の愛読者なのである。というよりは、私の場合は、探偵小説の愛読者が、犯罪事件に興味を持ち出したのがきっかけで、地方警察の平刑事から警視庁捜査課に入りこみ、とうとう半生を犯罪捜査に捧げることになったという、風変わりな径路をとったのであるが、そういう私のことだから、温泉などへ行くと、泊り客の中にうさん臭いやつはいないかと目を光らせるよりは、かえって、探偵小説好きはいないかしら、探偵小説論を戦わす相手はいないかしらと、それとなく物色するのが常であった。
今、日本でも探偵小説はなかなか流行しているのに、娯楽雑誌などの探偵小説は読んでいても、単行本になった本格の探偵小説を持ち歩いているような人は、不思議なほど少ないので、私はいつも失望を感じていたのであるが、今度だけは、翠巒荘に投宿したその日のうちに、実に願ってもない話相手を見つけることができた。
その人は、青年でもあることか、あとでわかったところによると、私より五つも年長の四十四歳という中年者の癖に、トランクに詰めている本といえばことごとく探偵小説、しかも、それが日本の本よりも英文のものの方が多いという、実に珍らしい探偵趣味家であった。その中年紳士が今いった猪股氏なのである。その猪股氏が、旅館の二階の縁側で、籐椅子に腰かけて、一冊の探偵本を読んでいたのを、私がチラと見かけたのがきっかけになり、どちらから接近するともなく接近して行って、その翌日はもうお互の身分を明かし合うほど懇意になっていた。
猪股氏の風采容貌には、何かしら妙に私をひきつけるものがあった。それほどの年でもないのに、卵のように綺麗に禿げた恰好のよい頭、ひどく薄いけれど上品な蓬蓬眉、黄色な玉の縁なし目がね、その色ガラスを透して見える二重瞼の大きな眼、スラッと高いギリシャ鼻、短かい口ひげ、揉み上げから顎にかけて、美しく刈り揃えた頬ひげ、どことなく日本人離れのした、しかし、非常な好男子で、それが、たとえ旅館のツンツルテンの貨し浴衣であろうとも、キチンと襟を合わせ、几帳面に帯を締めて、端然としている様子は、ひどく謹厳な大学教授とでもいった感じで、とても株屋さんなどとは思われぬのであった。
だんだんわかったところによると、この紳士は、最近奥さんを失ったということで、どれほど愛していた奥さんであったのか、その深い悲しみが、彼の青白く美しい眉宇のあいだに刻まれていた。それとなく観察していると、たいていは部屋にとじこもって、例の探偵本を読んでいるのだが、好きな小説も彼の悲しみを忘れさせる力はないとみえて、ともすれば、読みさしの本を畳の上へほうり出したまま、机に頬杖をついて、空ろな表情で、縁側の向こうに聳える青葉の山を、じっと見つめている様子が、いかにも淋しそうであった。
翠巒荘に着いた翌々日のお昼過ぎのこと、私は食後の散歩のつもりで、浴衣のまま、宿の名の焼印を捺した庭下駄をはいて、裏門から、翠巒園という公園めいた雑木林の中へ出掛けて行ったが、ふと見ると、やっぱり浴衣がけの猪股氏が、向こうの大きな椎の木にもたれて、何かの本に読み耽っていた。たぶん探偵小説であろうが、きょうは何を読んでいるのかしらと、私はついその方へ近づいて行った。
私が声をかけると、猪股氏はヒョイと顔を上げ、ニッコリ会釈をしたあとで、手にしていた青黒い表紙の探偵本を裏返して、背表紙の金文字を見せてくれたが、そこには、
[#ここから2字下げ]
TRENT’S LAST CASE E. C. BENTLEY
[#ここで字下げ終わり]
と三段ほどにゴシック活字で印刷してあった。
「むろんお読みなすったことがおありでしょう。僕はもう五度目ぐらいなんですよ。ごらんなさい、こんなに汚れてしまっている。実によくできた小説ですね。おそらく世界で幾つという少ない傑作のひとつだと思います」
猪股氏は、読みさしたページに折り目をつけて、閉じた本をクルクルともてあそびながら、ある情熱をこめて言うのだ。
「ベントリーですか、私もずっと以前に読んだことがあります。もう詳しい筋なんかはほとんど忘れてしまっていますが、何かの雑誌で、それとクロフツの『樽』とが、イギリス現代のふたつの最も優れた探偵小説だという評論を読んだことがありますよ」
そして、私たちはまた、しばらくのあいだ、内外の探偵小説について感想を述べ合ったことであるが、それに引きつづいて、もう私の職業を知っていた猪股氏は、ふとこんなことを言い出したのである。
「長いあいだには、ずいぶん変わった事件もお扱いなすったでしょうね。これで私なども、新聞で騒ぎ立てるような大事件は、切り抜きを作ったりして、いろいろと素人推理をやってみるのですが、そういう大事件でなしに、いっこう世間に知られなかった、ちょっとした事件に、きっと面白いのがあると思いますね。何かお取り扱いになった犯罪のうちで、私どもの耳に入らなかったような、風変わりなものはありませんでしょうか。むろん新らしい事件では、お話しくださるわけにはいかぬでしょうが、何かこう時効にかかってしまったような古い事件でも……」
これが私が新らしく知り合った探偵好きの人から、いつもきまったように受ける質問であった。
「そうですね。私の取り扱った目ぼしい事件は、たいてい記録にして保存しているのですが、そういう事件は、当時新聞も詳しく書き立てたものばかりですから、いっこう珍らしくもないでしょうし……」
私はそんなことを言いながら、猪股氏の両手にクルクルもてあそばれているベントリーの探偵小説を眺めていたが、すると、どういうわけであったか、私の頭の中のモヤモヤしたむら雲を破って、まるで十五夜のお月さまみたいに、ボッカリ浮き上がってきたのが、先に言った「硫酸殺人事件」であった。
「実際の犯罪事件というものは、純粋の推理で解決する場合は、ほとんどないといってもいいくらい少ないのです。ですから探偵小説好きには、ほんとうの犯罪はそんなに面白くない。推理よりも偶然と足とが重大要素なのです。クロフツの探偵小説は、いわば足の探偵小説、探偵が頭よりも足を使って、むやみと歩きまわって事件を解決しますね。あれなんか、やや実際に近い味ではないかと思うのですよ。しかし例外がないこともない。いま思い出したのですが『硫酸殺人事件』とでも言いますか、十年ほど前に起こった奇妙な事件があるのです。それは地方に起こった事件だものですから、東京、大阪の新聞は、ほとんど取り扱わなかったように記憶しますけれど、小事件の割には、なかなか面白いものでしたよ。私はそれを、あまり古いことなので、つい忘れるともなく忘れていたのですが、今あなたのお言葉で、ヒョイと思い出しました。ご迷惑でなかったら、記憶をたどりながら、ひとつお話ししてみましょうか」
「ええ、是非。なるべく詳しくうかがいたいものですね。硫酸殺人と聞いただけでも、なんだか非常に面白そうではありませんか」
猪股氏は、子供らしいほど期待の眼を輝かせながら、飛びつくようにいうのであった。
「ゆっくり落ちついてうかがいたいですね。立ち話もなんですから……といって、旅館の部屋ではあたりがやかましいし、どうでしょうか、これから滝道の方へ登って行きますと、そういうお話をうかがうには持ってこいの場所があるんですが……」
そんなふうに言われるものだから、私はだんだん乗り気になって行った。私には妙なくせがあって、「犯罪捜査録」を執筆する時は、その前に一度、事件の経過を詳しく人に話して聞かせるのが慣例のようになっていた。そうして話しているあいだに、おぼろげな記憶がだんだんハッキリして、辻褄が合ってくる。それがいざ筆を執る段になって、大へん役に立つからである。また、私は座談にかけてはなかなか自信があって、探偵小説めいた犯罪事件などを、なるべく面白そうに順序を立てて、詳しく話して聞かせるのが、ひとつの楽しみでもあった。きょうはなんだかうまく話せそうだわいと思うと、私の方も子供になって、一も二もなく猪股氏の申し出に応じたものである。
なかば雑草に覆われた細い坂道を、ウネウネ曲がりながら一丁ほど登ると、先に歩いていた猪股氏が立ち止まって、ここですよという。なるほど、うまい場所を見つけておいたものである。一方はモクモクと大樹の茂った急傾斜の山腹、一方は深い谷を見おろした、何丈とも知れぬ断崖、谷の底には異様に静まり返ったドス黒い淵が、深く深く見えている。その棧道になった細道から、少しそれた所に、ひとつの大きな岩が、廂のように深淵を覗いていて、そこに畳一畳ほどの平らな場所があるのだ。
「あなたのお話をうかがうには、実にお誂え向きの場所ではありませんか。ひとつ足を踏みはずせば、たちまち命のない崖の上、犯罪談や探偵小説の魅力はちょうどこれではないかと思いますよ。お尻のくすぐったくなるこの岩の上で、恐ろしい殺人のお話をうかがうとは、なんと似つかわしいことではないでしょうか」
猪股氏はさも得意げに言って、いきなり岩の上に登ると、深い谷を見おろす位置にドッカリと腰を据えた。
「ほんとうに怖いような所ですね。もしあなたが悪人だったら、私はとてもここへ坐る気にはなれませんよ」
私は笑いながら、彼の隣に席を占めた。
空は一面にドンヨリした薄曇りであった。何か汗ばむような天候ではあったけれど、温度は大へん涼しかった。谷を隔てた向こうの山も、陰気に黒ずんで、見渡す限りふたりのほかには生きもののけはいもなく、いつもはやかましいほどの鳥の声さえ、なぜかほとんど聞こえてはこなかった。ただ、ここからは見えぬ川上の滝音が、幽かな地響きを伴なって、オドロオドロと鳴り渡っているばかりであった。
猪股氏のいう通り、私の奇妙な探偵談には実に打ってつけの情景である。私はいよいよ乗り気になって、さて、その「硫酸殺人事件」について話しはじめたのである。
2
それは今から足かけ十年前、大正――年の秋に、名古屋の郊外Gという新住宅街に起こった事件です。G町は今でこそ市内と同じように、住宅や商家が軒を並べた明かるい町になっていますが、十年前のその頃は、建物よりは空き地のほうが多いような、ごく淋しい場所で、夜など、用心深い人は提灯を持って歩くほどの暗さだったのです。
ある夜のこと、所轄警察署の一警官が、そのG町の淋しい通りを巡回していました時、ふと気がつくと、確かに空き|家《や》のはずの一軒の小住宅に――それは空き地のまん中にポツンと建った、毀れかかったような一軒建てのあばら屋で、ここ一年ほどというもの、雨戸をたてきったままになっていて、急に住み手がつこうとも思われませんのに、不思議なことに、空き家の中に幽かな赤ちゃけた明かりが見えていたのです。しかもそのほの明かりの前に、何かしらうごめいているものがあったのです。明かりが見えるからには、閉めきってあった戸がひらかれていたのでしょう。いったい何者がその戸をひらいたのか、そして、あんな空き家の中へ侵入して何をしているのか。巡回の警官が不審を起こしたのは至極もっともなことでした。
警官は足音を盗むようにして空き家へ近づいて行って、半びらきになっている入口の板戸のあいだから、ソッと家の中を覗いて見たといいます。すると、先ず最初眼にはいったのは、畳も敷いてない、埃だらけの床板に、蜜柑箱ようのものを伏せて、その上にじかに立てられた太い西洋ロウソクだったそうです。
ロウソクの手前に、黒く、キャタツのようなものが脚をひろげて立っていて、そのキャタツの前に、何か小さなものに腰かけて、モゾモゾ動いている人影があったというのです。よく見るとキャタツと思ったのは、写生用の画架でして、それにカンヴァスを懸けて、一人の若い長髪の男が、しきりと絵筆を動かしていたのでした。
ひとの空き家に侵入して、ロウソクの光で何かを写生しているんだな。美術青年の物好きにもせよ、けしからんことだ。しかし、いったいこの夜ふけに、わざと薄暗いロウソクの光なんかで、何を写生しているのかしらと、その警官は蜜柑箱の向こう側にあるものを、注意して眺めたと申します。
そのものは……美術青年のモデルになっていたものは、立っていなかったのです。ほこりだらけの床板の上に、長々と横たわっていたのです。ですから、警官にも急にはそのものの正体がわかりませんでしたが、蜜柑箱の蔭になっているのを、背伸びをして、よく見ますと、それは確かに人間の服装はしているのですけれど、どうも人間とは思われない、なんともえたいの知れぬ変てこれんなものだったということです。
警官は|石榴《ざ く ろ》がはぜたようなものだったと形容しましたが、私自身も、のちにそれを見た時、やっぱりよく熟してはぜ割れた石榴を連想しないではいられませんでした。そこには、黒い着物を着た一箇の巨大な割れ石榴がころがっていたのです。という意味はむろんおわかりでしょうが、めちゃめちゃに傷つき、ただれ、血に汚れ、どう見ても人間とは思われないような、無残な顔がころがっていたのです。
警官は最初、そんなふうなグロテスクな酔狂なメーク・アップをしたモデル男なのかと考えたそうです。それを写生している青年の様子が、ばかに悠然として、ひどく嬉しそうに見えたからです。また、美術学生などというものは、そうした突飛な所業をしかねまじいものだということを、その警官は心得ていたからです。
しかし、たとえ扮装をしたモデルにもせよ、これはちと穏やかでないと考えましたので、いきなり空き家の中へ踏み込んで行って、その青年を詰問したのですが、すると、異様な長髪の美術青年は、別に驚きあわてる様子もなく、かえってあべこべに、何を邪魔するのだ、折角の感興をめちゃめちゃにしてしまったじゃないかと、警官に向かって喰って掛ったといいます。
警官はそれに構わず、ともかく蜜柑箱の向こうに横たわっている例の怪物を、間近に寄って調べてみますと、決してメーク・アップのモデルでないことがわかりました。息もしていなければ脈もないのです。その男は、実に目もあてられない有様で、お化けのように殺害されていたのでした。
警官は、こいつは大へんな事件だぞと思うと、日頃ひそかに待ち望んでいた大物にぶつかった興奮で、もう夢中になって、有無をいわせず、その青年を近くの交番まで引っ立てて行き、そこの警官の応援を求め、本署にも電話をかけたのですが、その興奮しきった電話の声を聞き取ったのが、かくいう私でありました。もうお察しのことと思いますけれど、当時私はまだ郷里の名古屋にいまして、M警察署に属する駈け出しの刑事だったのです。
電話を受け取ったのが九時少し過ぎでした。夜勤の者のほかは皆自宅に帰っていて、いろいろ手間取ったのですが、検事局、警察部にも報告した上、結局、署長自身が検証に出向くことになり、私も老練な先輩刑事といっしょに、署長さんのお供をして、現場の有様を詳しく観察することができました。
殺されていたのは、警察医の意見によりますと、三十四、五歳の健康な男子ということでした。これという特徴もない中肉中背のからだに、シャツは着ないで、羽二重の長襦袢に、くすんだ色の結城紬の袷を着て、絞り羽二重の兵児帯をまきつけておりましたが、その着物も襦袢も帯も、ひどく着古したよれよれのもので、少なくとも現在では、決して豊かな身分とは思われませんでした。
両手と両足を荒繩で縛られていたのですが、縛られるまではずいぶん抵抗したらしく、胸だとか二の腕などに、おびただしい掻き傷が残っていました。大格闘が演じられたのに違いありません。それを誰も気づかなかったのは、さっきも申し上げる通り、その空き家というのが広っぱのまん中に、ポツンと離れて建っていたからでありましょう。
手足を縛っておいて、顔に劇薬をかけたのです。こうしてお話ししていますと、その恐ろしい形相が、まざまざと目の前に浮かんでくるようです。私は今、その無気味なものの様子を、どんなに詳しくでもお話しすることができますけれど……ああ、あなたもそういうお話はお嫌いのようですね。では、そこの所は|端折《は し ょ》ることにしまして……さて、その男の死因なのですが、いくらひどく硫酸をぶっかけたからといって、顔を焼けどしたくらいで死ぬものではありません。もしや、硫酸をかける前に、殴るとか締めるとかしたのではあるまいかと、医師がいろいろ調べてみたのですが、命に別状のない掻き傷のほかには、そういう形跡は少しもないのでした。
ところが、やがて、実に恐ろしいことがわかってきました。嘱託医が、ふと、こんなことを言い出したのです。
「犯人は硫酸を顔へかけるのが目的ではなくて、こんなに焼けただれたのは、実は偶然の副産物だったのではないでしょうか……この口の中をごらんなさい」
そういって、ピンセットで唇をめくり上げたのを、覗いて見ますと、口の中は顔の表面にもまして、実に惨澹たる有様でした。で、また医者がいうのです。
「床板にしみ込んでいてよくわからないけれど、可なり吐いているようです。顔へかけた劇薬が口にはいって行って、胃袋まで届くはずはありませんからね。これはもう明きらかにそれを飲ませようとしたのですよ。先ず手足を縛っておいて、左の手で鼻をつまんだのでしょうね。そうとしか考えられないじゃありませんか」
ああ、なんという恐ろしい考えでしたろう。しかし、いくら恐ろしくても、この想像説には、少しも間違いがないように思われました……被害者の死体は翌日すぐ解剖に付されたのですが、その結果はやっぱりこの警察医の言葉を裏書きしました。無理やり硫酸を飲ませて人殺しをするなんて、まるで非常識な狂気の沙汰です。気違いのしわざかもしれません。でなければ、ただ殺したのでは飽き足りないほどの、よくよくの深い憎悪なり怨恨なりが、こんな途方もない残虐な手段を考え出させたものに違いありません。被害者の絶命の時間は、もちろん正確にはわからないのですけれど、医師の推定では、その日の午後も夕方に近い時分、おそらくは四時から六時頃までのあいだではないかということでした。
そんなふうにして、大体殺人の方法は想像がついたのですが、では、「誰が」「なんのために」「誰を」殺したかという点になりますと、変ないい方ですが、まるで見当がつきません。むろん、例の長髪の美術青年は、本署に留置して、調べ室でビシビシ調べたのですけれど、犯人は決して自分ではない、被害者が誰であるかも知らないと言い張って、いつまでたっても、少しも要領を得ないのでした。
その青年は、問題の空き家のあるG町の|隣町《となりまち》に間借りをして、なんとか言いましたっけ、ちょっと大きな洋画の私塾へ通よっている、ほんとうの美術学生でした。名前は赤池と言いました。お前は、殺人事件を発見しながら、なぜすぐ警察へ届け出なかったのだ、怪しからんではないか。その上あのむごたらしい死骸を、平気で写生しているとは、いったいどうしたというのだ。お前こそ犯人だといわれても弁解の余地がないではないかと、詰問されたとき、その赤池君はこんなふうに答えたのです。
「僕はあの長いあいだ住み手のない化け物屋敷みたいな空き家に、以前から魅力を感じていて、何度もあすこへはいったことがあるのです。錠前も何も毀れてしまっているから、はいろうと思えば誰だってはいれますよ。まっ暗な空き家の中でいろいろな空想に耽って時間をつぶすのが、僕には大へん楽しかったのです。きょうの夕方も、そんなつもりで、なにげなくはいって行くと、目の前にあの死骸がころがっていたのですよ。もうほとんど暗くなっていましたので、僕はマッチをすって、死骸の様子を眺めました。そして、こいつはすばらしいと思ったのです。なぜといって、ちょうどああいう画題を、僕は長いあいだ夢見ていたのですからね。闇の中のまっ赤な花のように、目もくらむばかりの血の芸術。僕はそれをどんなに恋いこがれていたでしょう。実に願ってもないモデルでした。僕は家に飛んで帰って、画架と絵の具とロウソクとを、空き家の中へ持ちこんだのです。そしてあのにくらしいおまわりさんに妨害されるまで、一心不乱に絵筆をとっていたのです」
どうもうまく言えませんが、赤池君のその時の言葉は、物狂わしい情熱にみちていて、なんだか悪魔の歌う詩のように聞こえたことでした。まったくの狂人とも思われませんが、決して普通の人間じゃない、少なくとも、病的な感情の持ち主であることは確かです。こういう男を常規で律することはできない。さもさもまことしやかな顔をして、その実どんなうそを言っているかしれたものではない。血みどろの死骸を平気で写生していたほどだから、人を殺すことなどなんとも思っていないかもしれぬ。誰しもそんなふうに考えたものです。殊に署長さんなどは、てっきりこいつが犯人だというので、一応の弁解が成り立っても、帰宅を許すどころか、留置室にとじこめたまま、実に烈しい調べかたをさせたのでした。
そうしているあいだに、まる二日が経過しました。私なぞは、よく探偵小説にあるように、空き家の床や地面を、犬みたいに這い廻って、十二分に検べたのですけれど、硫酸の容器も出てこなければ、足跡や指紋も発見されず、手掛かりと言っては、何ひとつなかったのです。また、付近の住人たちに聞き廻っても、なにしろいちばん近いお隣というのが、半丁も離れているのですから、この方もまったく徒労に終りました。一方、唯一の被疑者である赤池青年は、二た晩というもの、ほとんど一睡もさせないで取り調べたのですが、責めれば責めるほど、彼の言うことはますます気ちがいめいて行くばかりで、まったくらちがあきません。
それよりも何よりも、いちばん困るのは、被害者の身元が少しもわからないことでした。顔はいま申したはぜた石榴なんですし、からだにもこれという特徴はなく、ただ着物の柄を唯一の頼みにして、探偵を進めるほかはなかったのですが、先ず第一番に赤池の間借りをしていた理髪店の主人を呼び出して、その着物を見せても、まったく心当たりがないと言いますし、空き家の付近の人たちもハッキリした答えをするものは一人もないという有様で、私たちはほとんど途方に暮れてしまったのです。
ところが、事件の翌々日の晩になって、妙な方面から、被害者の身元がわかってきました。そして、この無残な死にざまをした男は、当時こそ落ちぶれてはいたけれど、以前は人に知られた老舗の主人であったことが判明したのです。さて、私のお話は、これからおいおい探偵談らしくなって行くのですが。
3
その晩も、事件について会議みたいなものがありまして、私は署に居残っていたのですが、八時頃でした、谷村絹代さんという人から、私へ電話がかかってきたのです。至急あなただけに内密にご相談したいことがあるから、すぐおいでくださらんでしょうか、実はいま世間で騒いでいる硫酸殺人事件に関係のある事柄です。しかし、これは私に会って話を聞いてくださるまで、署の人たちに知らせないようにしてほしい。どうか急いでおいでください。というおだやかならん話なのです。電話口の絹代さんの声は妙に上ずって、何か非常に興奮している様子でした。
谷村というのは、もしや御存知ではありませんか、名古屋名物の|貉《むじな》饅頭の本舗なのです。東京でいえば、風月堂とか、虎屋とかに匹敵する大きなお菓子屋さんでした。あの地方では誰知らぬものもない。旧幕時代からの老舗ですよ。|貉《むじな》なんて、変てこな名をつけたものですが、これには物々しい由来話などもあって、古くから通った名前だものですから、あの辺の人には別に変にも響かないらしいのですね。私はここの主人の万右衛門という人とは懇意な間柄でして……万右衛門などというと、いかにもお爺さん臭いですが、これは谷村家代々の伝え名なので、当時の万右衛門さんは、まだ三十を三つ四つ越したばかりの、大学教育を受けた、物わかりのいい若紳士でしたが、その人が文学なども囓っているものですから、小説好きの私とはよく話が合って、ああ、そうそう、私はこの人と探偵小説論なども戦わしたことがあるのですよ。絹代さんというのは、その万右衛門さんの若くて美しい奥さんだったのです。その奥さんから、そういう電話を受けたのですから、打ち捨てておくわけにはいきません。私はでたらめの口実を作って会議の席をはずし、さっそく谷村家へと駈けつけました。
貉饅頭の店は、名古屋でも目抜きのTという大通りにあって、古風な土蔵造りの店構えが、その町の名物みたいになっているのですが、別に家族の住宅が、M署管内の郊外にあったのです。そんなに遠い所でもないのですから、私はテクテクと暗い道を歩きながら、ヒョイと気がついたのは、問題の殺人があったG町の空き家は、谷村さんの宅とは眼と鼻のあいだ、ほんの三丁ほどしか隔たっていないということでした。そういう地理的な関係からしましても、絹代さんの電話の言葉が、いよいよ意味ありげに考えられてくるのです。
さて絹代さんに会ってみますと、日頃血色のいい人が、まるで紙のように青ざめて、ひどくソワソワしていましたが、私の顔を見るなり、大へんなことになりました、どうしたらいいのでしょうと、すがりつかんばかりの有様でした。いったいどうなすったのですかと聞きますと、主人が……万右衛門さんがですね、行方不明になってしまったというのです。時も時、硫酸殺人事件が発見された翌朝のこと、万右衛門さんは、夢中になって奔走していた製菓事業の株式会社創立の要件で、東京のMという製糖会社の重役に会うために、午前四時何分発の上り急行列車で出発したのだそうです。その頃はまだ特急というものがなかった時分で、東京へお昼過ぎに着くためには、そんな早い汽車を選ばなければならなかったのですよ……ちょっとお断りしておきますが、その出発したというのは、むろん絹代さんと一緒に寝泊りをしている郊外の住宅の方からでした。万右衛門さんは、その前日は、会社創立のことで、面倒な調べものをして、夜おそくまで書斎にこもっていたのだそうです……ところが、同じ日の夕方になって、そのM製糖会社から絹代さんの所へ至急電話がかかってきて、谷村さんが約束の時間においでがないが、何かさしつかえが生じたのかという問い合わせがあったのだそうです。急を要する要件があって、先方でも待ちかねていたものとみえますね。この意外な電話に、絹代さんはびっくりして、確かにけさ四時の汽車でそちらへ参りました。ほかへ寄り道などするはずはありませんが、と答えますと、先方からかさねて、実は赤坂の谷村さんの定宿のほうも調べさせたのだけれど、そこにもおいでがない。谷村さんに限ってほかの宿屋へお泊りなさるはずはないのだが、どうもおかしいですねということで、うやむやに電話が切れてしまったというのです。
それから翌日は一日じゅう、つまり私が谷村さんを訪ねた晩までのあいだですね、その一日じゅう、製糖会社はもちろん、東京の宿屋やお友だちの所、静岡の取引先など、心当たりという心当たりへ何度も電話をかけて、万右衛門さんの行方を尋ねたのだそうですが、どこにも手応えがない。まる二日というもの谷村さんの所在はまったくわからないのです。これが普通の場合なれば別に心配もしないのだけれど、と絹代さんがいうのですよ、主人の出発した前の晩には、ああいう恐ろしい事件があったのでしょう。ですから何かしら胸騒ぎがして……と奥歯に物の挾まったように言いよどんでいるのです。
恐ろしい事件というのは、むろん硫酸殺人事件なのですが、では絹代さんは、もしやあの被害者を知っているのではないかしら。私は何かしらハッとして、恐る恐るそのことを尋ねてみました。すると、
「ええ、ほんとうはあの夕刊を見た時から、私にはチャンとわかっていたのです。でも、どうしても怖くって、警察へお知らせする気になれなかったものだから……」
と口ごもるのです。
「誰です? あの空き家で殺されていたのは、いったい誰なのです」
私は思わずせきこんで尋ねました。
「ホラ、私どもとは長年のあいだ商売敵であった、もう一軒の|貉《むじな》饅頭のご主人、琴野宗一さんですよ。新聞に出ていた着物の様子もそっくりだし、そればかりでなく、実はもっと確かな証拠がありますのよ」
それを聞きますと、私は何もかもわかったような気がしました。絹代さんが被害者を知りながら、今までだまっていたわけ、それほど心痛している癖に、万右衛門さんの捜索願いをしなかったわけ、一切合点がいったのです。絹代さんは実に恐ろしい疑いを抱いていたのでした。
そのころ名古屋には、貉饅頭という同じ名のお菓子屋さんが、市内でも目抜きのT町に、ほとんど軒を並べんばかりにくっついて、二軒営業をしていました。一軒は私の懇意にしていた谷村万右衛門さん、絹代さんのご主人ですね。もう一軒は琴野宗一といって、絹代さんによれば、この事件の被害者なのですが、両方とも数代つづいた老舗でして、どちらがほんとうの元祖なのか、私も詳しいことは知りませんが、谷村のほうでも、琴野のほうでも、負けず劣らず「元祖貉饅頭」という大きな金看板を飾って、眼と鼻のあいだで元祖争いをつづけていたのでした。東京の上野K町に二軒の黒焼屋さんが、軒を並べて元祖争いをやっていることは大へん有名ですから、あなたもたぶん御存知でしょうが、つまりあれなのですね。
元祖争いというからには、両家のあいだが睦まじくなかったことは申すまでもありませんが、貉饅頭の不仲ときては、少々桁はずれでして、何代前の先祖以来、両家の争いについてさまざまの噂話が伝え残されていたほどです。琴野家の職人が谷村家の仕事場へ忍び込んで、饅頭の中へ砂を混ぜた話、谷村家が祈祷師を頼んで、琴野家の没落を祈った話、両家の十数人の職人たちが、町のなかで大喧嘩をして、血の雨を降らせた話、万右衛門さんの曾祖父に当たる人が、その当時の琴野の主人と、まるで武士のように刀を抜き合わせて果たし合いをした話、数え上げれば際限もないことですが、数代に亘ってつちかわれた両家の敵意というものは、実に恐ろしいほどでして、その呪いの血が万右衛門、宗一両氏の体内にも燃えさかっていたのでしょう。両家の反目は当代になっていっそう激化されたように見えました。
この二人は子供の時分、級は違いましたけれど、同じ小学校に通よっていたのですが、校庭や通学の道で出くわせば、もうすぐに喧嘩だったそうです。血を流すほどのとっくみ合いをしたこともたびたびあるといいます。この争いは、各年齢を通じて、さまざまの形を取ってつづけられてきましたが、因果な二人は、恋愛においてさえも、いがみ合わなければなりませんでした。というのは、つまり谷村さんと琴野氏とが、一人の美しい娘さんを奪い合ったわけなのです。そこにはいろいろ複雑ないきさつがあったのですが、|当《とう》の娘さんの心が万右衛門さんに傾いていたものですから、結局この争いは谷村さんの勝ちとなり、殺人事件の三年ほど前に、盛大な結婚式が挙げられました。その娘さんというのがつまり絹代さんなのです。
この敗北が、琴野家没落のきっかけとなりました。宗一さんは|心《しん》|底《そこ》から絹代さんを恋していたものですから、失恋からやけ気味となり、商売の方はお留守にして、花柳界を泳ぎまわるという有様。それでなくても、大仕掛けな製菓会社に圧迫されて、もう左前になっていた店のことですから、たちまちにして没落、旧幕以来の老舗もいつしか人手に渡ってしまいました。
店の没落と前後して、両親も失い、失恋以来独身を通していたので、子供とてもなく、宗一さんは今ではまったくの独りぼっちとなって、親戚の助力でかつかつその日を送っていたのでした。このころから琴野氏は妙に卑劣な、恥も外聞も構わないような所業をはじめました。昔の同業者を訪ねて合力を乞うて廻ったり、仇敵である谷村家をさえ足繁く訪ねて、夕御飯などを御馳走になって帰るようになったのです。谷村さんもしばらくのあいだは、先方から尾を垂れてくるのですから、いやな顔もできず、友だちのように扱っていましたが、そのうちに、琴野氏が訪ねてくるのは、実は絹代さんの顔を見たり、美しい声を聞いたりするためであることがわかってきたのです。とうとう絹代さんから万右衛門さんに、なんだか怖いような気がしますから、琴野さんを家へこないように計らってくださいと申し出たほどなのです。そこで、ある日のこと、万右衛門さんと琴野氏とのあいだに、殴り合いもしかねまじい烈しい口論があって、それ以来琴野氏はパッタリと谷村家へ足踏みしなくなったのですが、それと同時に、ある事ない事谷村さんの悪口をふれ廻りはじめました。殊にひどいのは、絹代さんの貞操を疑わせるようなことを、しかもその罪の相手は琴野氏自身であるという作り話を方々でしゃべりちらすことでした。
たとえ作り話とわかっていても、そんなことを間接に耳にしますと、万右衛門さんもつい妙な疑惑を抱かないではいられませんでした。私の家内は、絹代さんと大へんうまが合って、よくお訪ねしてはいろいろお世話になっていたのですが、そういうことが自然家内の耳にもはいるものですから、近頃谷村さん御夫婦のあいだが変だ、時々高い声で口論なすっていることさえある。あれでは奥さんがお可哀そうだなどと、よく私に言い言いしたものでした。
そんなふうにして、先祖伝来の憎悪怨恨の悪血が、万右衛門さんの胸にも宗一さんの胸にも、だんだん烈しく沸き立って行きました。その果てには、宗一さんから万右衛門さんに当てて、呪いに充ちた挑戦の手紙が頻々として舞い込むこととなったのです。谷村さんは平常は大へん物わかりのよい紳士ですが、ひとつ間違うと、まるで悪鬼のように猛り狂う烈しい気性の持ち主でした。おそらくは先祖から伝わる闘争好きな血のさせるわざだったのでしょうね。
硫酸殺人事件は、こういう事情が、いわばその頂点に達していた時に起こったのです。宗一さんが前代未聞のむごたらしい方法で殺されたそのちょうど翌朝、万右衛門さんが汽車に乗ったまま行方不明になってしまった。とすると、絹代さんがあのようにおののき恐れたのも決して無理ではなかったのです。
さて、お話を元に戻して、私が絹代さんに呼ばれて、被害者が琴野宗一氏に違いないとうちあけられた、あの晩のことをつづけて申し上げますが、絹代さんは、それには着物の柄が一致するばかりでなく、こういう証拠があるのだと言って、帯のあいだから細かく畳んだ紙切れを取り出し、それをひろげて見せてくれました。紙切れというのは手紙らしいもので、大体こんなことが書いてあったのです。
何月幾日の――正確な日付をいま思い出せませんが、それはつまり殺人事件が発見された当日にあたるのです。で、何月幾日の午後四時にG町の例の空き家(例のとあるからには、その手紙の受け取り主であった万右衛門さんも、あらかじめその空き家を知っていたのでしょうね)例の空き家に待っているから、是非来てもらいたい。そこで、年来のいざこざをすっかり清算したいと思うのだ。君はよもや、この手紙を読んで、卑怯に逃げ隠れなどしないだろうね。まあこんなことが、しかつめらしい文章で書いてあったのです。差出人はむろん琴野宗一氏で、文章の終りに以前琴野家の商標であった、丸の中の宗の字が書き添えてありました。
「で、御主人は、この時間に空き家へ出掛けられたのですか」
私は驚いて尋ねました。万右衛門さんは感情が激すると、そういうばかばかしいまねも仕兼ねない人ですからね。
「それがなんともいえませんのよ。主人はこの手紙を見ると顔色を変えて、ホラ、御存知でしょう。あの人の癖の、こめかみの脈が、眼に見えるほどピクピク動き出しましたの。わたし、これはいけないと思って、気ちがいみたいな人に、お取り合いなさらぬほうがいいって、くどくお止めしておいたのですけれど……」
と絹代さんはいうのです。それに、万右衛門さんは、さきにもちょっと申しましたように、その日、午後からずっと夜おそくまで、書斎にとじこもって、東京へ持って行く新設会社の目論見書とかを書いていたので、絹代さんはすっかり安心していたのだそうですが、今になって考えると……いったい万右衛門さんは、ひと晩だって行く先を知らせないで家をあけたことのない人ですから、それが丸二日も行方不明になってみると、どうもその書斎にこもっていたというのが、絹代さんを安心させる手だったのかもしれないのです。万右衛門さんの書斎というのは、裏庭に面した日本座敷で、その縁側を降りて柴折戸をあければ、自由にそとへ出られたのですからね。で、恐ろしい邪推をすれば、家内の者に知られぬようにソッと忍び出して、すぐ近くのG町へ出かけて行き、また何喰わぬ顔で書斎に戻っているということも、決して不可能ではなかったのです。
万右衛門さんが、あらかじめ殺意をもって、その空き家へ出かけて行ったというのは、まったくあり得ないことでした。由緒ある家名を捨て、美しい奥さんを捨てて、敗残の琴野氏などと命のやり取りをする気になれよう道理がありませんからね。もし出かけて行ったとすれば、ただ琴野氏の卑劣なやり方を面罵して、拳骨のひとつもお見舞い申すくらいの考えだったのでしょう。しかしそこに待ちかまえていた相手は、さっきからもいうように、世を呪い人を呪い、気ちがいのようになっていた琴野氏ですから、どんな陰謀を企らんでいなかったとも限りません。もしその時、琴野氏が硫酸の瓶を手にして、相手の顔をめちゃめちゃにしてやろうと身構えていたとしたら……これは想像ですよ。しかし非常に適切な想像ではないでしょうか。琴野氏にとって、万右衛門さんは憎んでも憎み足りない恋敵です。その恋敵の顔を癩病やみのように醜くしてやるというのは、実に絶好の復讐といわねばなりません。恋人を奪った男が、片輪者同然になって生涯悶え苦しむのみか、女のほうでは、つまり絹代さんのほうでは、その醜い片輪者を末永く夫としてかしずいて行かねばならぬという、一挙にして二重の効果をおさめるわけですからね。さて、そこへはいって行った万右衛門さんが、事前に敵の陰謀を見抜いたとしたら、どういうことになりましょうか。勃然として起こる激情をおさえることができたでしょうか。幾代前の先祖からつちかわれた憎悪の血潮が、分別を越えて荒れ狂わなかったでしょうか。そこに常規を逸した闘争が演じられたことは、想像にかたくないではありませんか。そして、つい勢いのおもむくところ、敵の用意した劇薬を逆に即座の武器として、あの恐ろしい結果をひき起した。と考えても、さして不合理ではないように思われます。
絹代さんはゆうべから、一睡もしないで、そういう恐ろしい妄想を描いていたのです。そして、もうじっとしていられなくなったものですから、日頃、相当立ち入ったことまで話し合っている私を呼び出して、思い切って、その恐ろしい疑惑をうち明けなすったわけでした。
「しかし、いくら感情が激したからといって、奥さんは御承知ないかもしれませんが、琴野さんはただ硫酸をぶっかけられたのでなく、それを飲まされていたのですよ。昔、罪人の背筋を裂いて鉛の熱湯を流しこむという刑罰があったそうですが、それにも劣らぬ無残きわまる所業ではありませんか。御主人にそんな残酷なまねができたでしょうか」
私はなんの気もつかず、感じたままをいったのですが、すると、絹代さんはさも気まずそうに、上目使いに私を見て、パッと赤面されたではありませんか。私はたちまちその意味を悟りました。万右衛門さんは或る意味では非常に残酷な人だったのです。少し以前、私の家内が絹代さんのお供をして、笠置の温泉へ遊びに行ったことがありまして、そのとき家内は、絹代さんの全身に、赤くなった妙な傷痕がたくさんついていることを知ったのです。絹代さんは、誰にもいっちゃいやよ、と断わって、家内にだけ、その傷のいわれをお話しなすったそうですが、万右衛門さんには、そういう意味の残酷性は充分あったわけで、絹代さんはそれを考えて、思わず赤面されたのに違いありません。
しかし、私はそれを見ぬ振りをして、なおも慰めの言葉をつづけました。
「あなたは大へんな取り越し苦労をしていらっしゃるのですよ。そんなことがあっていいものですか。御主人が出発されてから、まだ二日しかたっていないのですから、行方不明だかどうだかわかりもしないのです。それに、たとえあれが琴野さんだったとしても、現に赤池という気ちがいみたいな青年が、現場で捕えられているのですから、何か確かな反証でも挙がらない限り、あの男が下手人と見なければなりません。恐ろしい死骸を、平気で写生していたほどですから、あいつなれば硫酸を飲ませるぐらいのことはやったかもしれませんよ」
と、まあいろいろ気休めを並べてみたのですが、直覚的に、ほとんどそれを信じきっているらしい絹代さんは、いっこう取り合ってくれませんでした。そこで、結局は、今どう騒いでみても仕方がないのですから、私は何も聞かなかったていにして、もう一日二日様子を見ようではありませんか。なあに、谷村さんはそのうちヒョッコリ帰ってこられるかもしれませんよ。ただ被害者が琴野宗一であるという点は、私が警察官なのですから、このままうっちゃっておくわけにも行きませんが、しかし、それは谷村さんや奥さんの名前を出さなくても、他の方面から確かめる道がいくらもありますよ。決して御心配には及びません。ということで、その晩は絹代さんと別れたのです。むろん私はその夜のうちに、被害者が琴野氏であるという新知識に基づいて、同氏が佗住まいをしていた借家を訪ね、果たして行方不明になっているかどうかを確かめてみるつもりでした。ところが、そうして谷村家を辞して、K署へ帰ってみますと、私の留守中に何かあった様子で、署内の空気がなんとなくざわめいているではありませんか。司法主任の斎藤という警部補が……この人は当時県下でも指折りの名探偵といわれていたのですが……その斎藤氏がいきなり私の肩を叩いて、オイ被害者がわかったぞ。というのです。
よく聞いてみますと、私が会議の席をはずして間もなく、二人づれのお菓子屋さんが署を訪ねてきて、硫酸殺人事件の被害者の着物を見せてほしいと申し出たのだそうです。その着物は幸いまだ署に置いてあったものですから、すぐ見せてやりますと、二人の者は顔を見合わせて、いよいよそうだ、元貉饅頭の主人琴野宗一さんに違いない。この結城紬は、琴野さんがまだ盛んの時分、わざわざ織元へ注文した別誂えの柄だから、広い名古屋にも、ふたつとない品だ。最近もこの一張羅を着て、私どもの店へ遊びにきたことがあるくらいですから、決して間違いはありません。という確かな証言を与えました。そこで、琴野氏の住所へ署のものが行って調べてみますと、案の|定《じょう》、おとといどこかへ出かけたきり、まだ帰宅しないということが判明したのだそうです。
もうなんの疑うところもありません。被害者は琴野氏に確定しました。少なくとも被害者に関する限り絹代さんの直覚は恐ろしく的中したのです。この調子だと、加害者もやっぱりあの人の想像した通りかもしれないぞと、私はなんだか不吉な予感におびえないでは
いられませんでした。
「被害者が琴野とわかってみると、もう一軒の貉饅頭の本家を調べる必要があるね。なにしろ有名な敵《かたき》同士なんだから。ああ、そうそう、確かあの貉饅頭、谷村とかいったっけね、君は、あすこの主人と懇意なのじゃないかね。ひとつ君を煩わそうか」
司法主任がなんの気もつかず、私をビクビクさせるのです。
「いや、私はどうも……」
「フン、懇意すぎて調べにくいというのかね、よしよし、それじゃおれがやろう。そして、この神秘の謎というやつを、ひとつ嗅ぎ出してみるかな」
名探偵の司法主任は、舌なめずりをして、そんなことをいうのでした。
4
斎藤警部補は、さすが名探偵といわれたほどあって、実にテキパキと調査を進めて行きました。彼はもうその晩のうちに、谷村さんが行方不明になっていることをさぐり出し、翌日からは谷村家の店や住宅はもちろん、万右衛門さんと親交のあった同業者の宅などへ、自から出向いたり部下をやったりして、忽ちのうちに、私が絹代さんから聞いているだけの事情を、すっかり調べ上げてしまいました。いや、それ以上のある重大な事実までもさぐり出したのです。しかもその新事実は、万右衛門さんが下手人であるということを、ほとんど確定するほどの恐ろしい力を持っていたのでした。
谷村さんが株式組織の製菓会社を起こそうとしていたことは前にも申し上げた通りですが、株式といっても一般に公募するわけではなく、新式の製菓会社に圧迫されて営業不振をかこつ市内の主だったお菓子屋さんたちが、それに対抗して新らしい活路を求めるために、各自資金を調達して、相当大規模な製菓工場を起こそうということになり、会社成立の上は、谷村さんが専務取締役に就任する予定だったのですが、それについて、工場敷地買入れ資金そのほか創立準備費用として、各お菓子屋さんの出資になる五万円〔註、今の二千万円〕ほどの現金を谷村さんが保管して、仮りに市内の銀行の当座預金にしてあったというのです。
二、三のお菓子屋さんの口から、そのことがわかったものですから、さっそく絹代さんに預金通帳のありかを尋ねますと、通帳なれば主人の書斎の小型金庫にしまってあるはずだというので、それをひらいてみたのですが、ほかの小口の預金帳は残っていましたけれど、五万円の分だけが紛失していたのです。そこで、すぐさまN銀行に問い合わせたところ、その五万円は、ちょうど殺人事件のあった翌朝、銀行がひらかれると間もなく、規定の手つづきを踏んで引き出されていることが判明しました。支払い係りは谷村さんの顔を見慣れていませんでしたので、引き出しにきたのが万右衛門さんかどうかは断言しかねるということでしたが、しかし、これによってみますと、谷村さんは四時の上り急行列車に乗ったと見せかけて、実は銀行のひらかれる時間まで、名古屋にとどまっていたことになるのです。この一事だけでも、万右衛門さんが犯人であることは、もう疑いの余地がないではありませんか。
たとえ一時の激情からとはいえ、殺人罪を犯してみれば、すぐ目の前にちらつくのは恐ろしい断頭台の幻です。万右衛門さんが逃げられるだけ逃げてみようと決心したのは、人情の自然ではありますまいか。逃亡となると、すぐ入用なものはお金です。纏まったお金さえあれば、捜査の網の目をのがれるために、あらゆる手段を尽すことができるのですからね。万右衛門さんは、あのむごたらしい罪を犯したあとで、何喰わぬ顔で自宅に帰りました。それはひとつには絹代さんにそれとなく別かれを告げるためでもあったでしょう。しかし、もっと重大な目的は、小型金庫の中から五万円の通帳を取り出すことではなかったでしょうか。
そのほかにまだ、私だけが知っていて、検事局でも警察でも知らないひとつの妙な事柄がありました。これは後になって私の家内が絹代さんの口から聞き出してきたのですが、谷村さんが東京へ行くといって家を出た前晩、つまり殺人事件が発見されたその夜ですね。万右衛門さんのその夜なかの様子が、どうもただごとではなかったというのです。何かこう、永の別かれでもするように、さもさも名残惜しげに、近頃になく絹代さんにやさしい言葉をかけて、突然気違いみたいに笑い出すかと思うと、涙をポロポロこぼして烈しいすすり泣きをはじめるという有様だったそうです。万右衛門さんという人は、先にも申しました通り、日頃から奥さんに対する愛情の表わし方が、常人とはひどく違っていたのです。そういう風変わりな人だものですから、またいつもの病気なのだろうと、さして気にも留めなかったのだそうですが、あとになって考えると、やっぱりあれには深い意味があったのだ、万右衛門さんはほんとうに今生の別かれを告げていたのだと、ひしひし思い当たりますと、絹代さんが打ち明けなすったというのです。
そんなふうにして、万右衛門さんの有罪はもはや動かしがたいものとなったのですが、それらの事情なぞよりも、もっと確かな証拠は、そうして十何日というものが経過したにもかかわらず、谷村さんの行方が少しも知れないことでした。むろん警察では、人相書きを全国の警察署に配布して、厳重な捜索を依頼していたのですけれど、それにもかかわらず、今もってなんの消息もないのを見ますと、これはもう、万右衛門さんが、あらゆる手段を尽して、故意に姿をくらましているとしか考えられないのでした。そこでやっとあの非凡な芸術家赤池青年の釈放ということになりました。彼はこの事件の発端で甚だ重要なひと役を勤めたわけですが、考えてみれば気の毒な男です。聞けばその後、ほんとうの気ちがいになって、とうとう癲狂院に入れられてしまったということですが。
このようにして旧幕以来の名古屋名物であった貉饅頭は、二軒が二軒とも、なんの因縁でしたろうか、実にみじめな終りをとげたのでありました。気の毒なのは絹代さんでした。さて御主人がいなくなって、親戚なぞが寄り集まって、財産しらべをしてみますと、谷村さんがああして製菓会社を起こしてみたり、いろいろやきもきしなければならなかったのも無理でないことがわかってきました。外見は派手につくろっていたものの、内実は、谷村家には負債こそあれ、絹代さんが相続するような資産など一銭だってありはしなかったのです。T町の由緒ある土蔵造りの店舗は、三番まで抵当にはいっているし、土地住宅も同じように負債の担保になっているという始末。十数本の箪笥と、その中にはいっている幾十|襲《かさ》ねの衣裳だけが、やっと奥さんの手に残ったのですが、絹代さんはそれを持って、泣く泣く里へ居候に帰らなければならない有様でした。
さて、これでいわゆる硫酸殺人事件はすべて落着したように見えました。私などもそれを信じきっていたのです。ところが、やがて、実はそうでないことがわかってきました。この事件には、まるで探偵小説のような、非常に念入りな、奇怪至極なトリックが用いられていたことがわかってきました。それは指紋だったのです。たったひとつの指紋が事態をまるで逆転させてしまったのです。これから少し自慢話になるわけですが……その指紋を発見したのが、この私でありました。そして、たったひとつの指紋から、まるで不可能としか思えない、犯人のずば抜けたトリックを看破して、県の警察部長からお褒めの言葉をいただいたという、まあ気のいい話なのですが。
それは殺人が行なわれて半月あまりののちのことでしたが、ある日、絹代さんがいよいよ住まいを手離すことになって、女中たちを指図して部屋をかたづけているところへ、私が行き合わせたのです。そして取りかたづけのお手伝いをしながら、元の万右衛門さんの書斎をウロウロしていて、ふと眼についたのが一冊の日記帳でした。むろん万右衛門さんの日記ですよ。あの人は今頃どこに隠れているのかしら、定めし取り返しのつかぬ後悔に責めさいなまれていることであろう……などと、感慨を催しながら、その日記の最後の記事から、だんだんに日をさかのぼって眼を通して行ったのですが、記事そのものには、別に意外な点もなく、ただ所々に、琴野宗一氏の執拗な所業を呪う言葉が書きつらねてあるくらいのものでしたが、その或るページを読んで、ヒョイと気がついたのは、ページの欄外の白い部分に、ベッタリと、|拇《おや》指に違いない一つの指紋が捺されていることでした。万右衛門さんが日記を書きながら、インキで拇指を汚してそれを知らずにページを繰ったために、そんなハッキリした指紋が残されたのに違いありません。
はじめはなにげなく眺めていたのですが、やがて私はギョッとして穴のあくほどその指紋を見つめはじめました。おそらく顔色も青ざめていたことでしょう。息遣いさえ烈しくなっていたかもしれません。絹代さんが私の恐ろしい形相に気づいて、まあどうなすったのと、声をかけられたほどですからね。
「奥さん、これ、これ……」と、私はどもりながら、その指紋をゆびさして、「この指のあとはむろん御主人でしょうね」と詰問するように尋ねたものです。すると絹代さんは、
「ええ、そうですわ。主人はこの日記を決して他人にさわらせませんでしたから。それは主人のに間違いありませんわ」
とおっしゃるのです。
「では、奥さん、何かこう、御主人がふだんお使いになっていた品で、指紋の残っているようなものはないでしょうか。たとえば塗りものだとか、銀器だとか……」
「銀器でしたら、そこに煙草入れがありますが、そのほかには主人が手ずから扱ったような品物はちょっと思い出せませんけれど」
絹代さんはびっくりしたような顔をしています。私はいきなりその煙草入れを取って調べてみました。表面は拭ったようになんの跡もついていませんでしたが、蓋を取って裏を見ると、その滑らかな銀板の表面に、幾つかの指紋にまじって、日記帳のと一分一厘違わない拇指紋が、まざまざと浮き上がっていたではありませんか。
あなたはきっと、ただ肉眼で見たくらいで、指紋の見分けがつくものかと、不審にお思いなさるでしょうが、われわれその道で苦労しています者には、別段拡大鏡を使わずとも、少し眼を接近させて熟視すれば、隆線の模様など大体見分けることができるのですよ。もっとも、その時はなお念のために、書斎の机の引出しにあったレンズを出して、充分調べてみたのですが、決して私の思い違いではありませんでした。
「奥さん、実に大へんなことを発見したのです。まあそこへ坐ってください。そして、私のお尋ねすることを、よく考えて答えてください」
私はすっかり興奮してしまって、おそらく眼の色を変えて、絹代さんに詰め寄ったことと思います。その興奮が移ったのか、絹代さんも青い顔をして、不安らしく私の前に坐りました。
「エーと、先ず第一に、あの夕方ですね、御主人が出発された前日の夕方ですね、谷村さんはむろん夕ご飯をうちでお上がりになったのでしょうが、その時の様子を、できるだけ詳しくお話しくださいませんか」
私の質問はひどく唐突だったに違いありません。絹代さんは眼を丸くして、まじまじと私の顔を見ておりましたが、
「詳しくといって、何もお話しすることはありませんわ」
とおっしゃるのです。といいますのは、その日、谷村さんは書斎にとじこもったきり、夢中になって調べものをしておられたので、夕御飯なんかも絹代さんが書斎まで運んで行って、お給仕もしないで、襖をしめて、茶の間へ帰ったというのです。そして、しばらくしてから、頃を見計らってお膳を下げに行っただけだから、別にお話しすることもないということでした。これは万右衛門さんの癖でして、何か調べものをするとか、書きものや読書などに熱中している時は、朝から晩まで書斎にとじこもって、家内の人を近寄らせない、お茶なども、机のそばの火鉢に鉄瓶をかけておいて、自分で入れて飲むといったあんばいで、まるで芸術家みたいな潔癖を持っていたのです。
「で、その時、御主人はどんなふうをしていられました。何かあなたに物をいわれましたか」
「いいえ、物なんかいうものですか。そんな時こちらから話しかけようものなら、きっとどなりつけられるにきまっていますので、私もだんまりで引き下がりましたの。主人は向こうを向いて机にかじりついたまま、見向きもしませんでした」
「ああ、そうでしたか……それから、これはちょっとお尋ねしにくいのですが、こういう大事の場合ですから、思い切ってお聞きしますが、その晩ですね、御主人はなんでも一時頃まで書斎にこもっていて、それからお寝みになったということですが、そのお寝みになった時の様子をひとつ……」
絹代さんはポッと眼の縁を赤くして……あの人はよく赤面する人でした。そうするとまたいっそう美しく見える人でした。私は今でも、あの美しい奥さんの姿が、瞼の裏に残っているような気がしますよ……赤くなってモジモジしていましたが、私が真顔になって催促するものですから、仕方なく答えました。
「奥の八畳に寝みますの。あの晩は、あまり遅くなるものですから、わたし、先に失礼して、ウトウトしているところへ、そうです、ちょうど一時頃でしたわ。主人がはいって参りましたの」
「そのとき部屋の電灯はつけてありましたか」
「いいえ、いつも消しておく習慣だったものですから……廊下の電灯が障子に射して、まっ暗というほどでもありませんの」
「それで、御主人は何かお話しになりましたか。いいえ、ほかのことは何もお聞きしないでもいいです。ただ、その晩寝室で御主人とのあいだに、世間話とか、家庭のこととか、何かお話があったかどうかということをうかがいたいのです」
「別になにも……そういえばほんとうに話らしい話は、何もしなかったようですわ」
「そして、四時前にはもう起きていらしったのですね。その時の様子は?」
「わたし、つい寝すごして、主人が起きて行ったのを知りませんでしたの。ちょうどその朝、電灯に故障があって、主人はロウソクの光で洋服を着たのですが、化粧室ですっかり着更えをするまで、私ちっとも知らなかったのです。そうしているところへ、前の晩からいいつけてあった人力車が参りましたので、女中と私とが、やっぱりロウソクを持って玄関のところまでお送りしましたの」
まるで講釈師みたいな変な話し方になりましたが、これは決して写実の意味ではありませんよ。話の筋をわかりやすくするための便法です。ダラダラお話ししていたのでは、御退屈を増すばかりだと思いますので、ほんとうの要点だけをつまんでいるのですよ。むろんこんな簡単な会話で、私のさぐり出そうとしていたことがわかろうはずはありません。その時の私たちの会話は、たっぷり一時間もかかったのですからね。
で、つまり、その朝、万右衛門さんは食事もしないで出掛けたのだそうです。秋の四時といえば、夜なかですから、それも尤もなわけではありますがね。まあこういうふうにして、聞きたいだけのことをすっかり聞いてしまいました。私はドキドキしながら、手に汗を握って、この奇妙な質問をつづけていたのです。私の組み立てた途方もない妄想が的中するかどうかと、まるで一か八かのサイコロでも振るような気持でしたよ。ところが、どうでしょう。その晩の様子を聞けば聞くほど、私の妄想はだんだん現実の色を濃くしてくるではありませんか。
「すると、奥さんはあの夕方から翌朝までのあいだ、御主人の顔を、はっきりごらんなすったことは一度もないわけですね。また、話らしい話もなさらなかったのですね」
私がいよいよ最後の質問を発しますと、絹代さんは、しばらくのあいだその意味を解しかねてぼんやりしていましたが、やがて徐々に表情が変わって行きました。それはまるでお化けにでも出くわしたような無残な恐怖でした。
「まあ、何をおっしゃってますの? それはいったいどういう意味ですの? 早く、早く、わけを聞かせてください」
「では、奥さんは自信がないのですね。あれが果たして御主人だったかどうか」
「まあ、いくらなんでも、そんなことが……」
「しかし、はっきり顔をごらんなすったわけではないでしょう。それに、あの晩に限って、御主人はどうしてそんなに無口だったのですか。よく考えてごらんなさい。夕方から朝までですよ。そのあいだ一度も話らしい話もしない一家の主人なんてあるものでしょうか。書斎にとじこもっていらしったあいだは別として、それからあと出発されるまでには、留守中言い置くこととか、なんかお話があるべきじゃないでしょうか」
「そういえば、ほんとうに無口でしたわ。旅立ちの前に、あんなに無口であったことは、一度もありませんでしたわ。まあ、わたし、どうしましょう。これはいったいどういうことでしょう。気が違いそうですわ。早くほんとうのことをおっしゃってください。早く……」
絹代さんのこの時の驚きと恐れとが、どのようなものであったか、あなたにも充分ご想像がつくと思います。さすがに私もそこまでは突っ込むことはできませんでしたし、絹代さんのほうでも、むろんそれに触れはしなかったのですが、もしあの晩の男が万右衛門さんでなかったとすると、絹代さんは実に女としての最大の恥辱にあったわけなのです。さいぜんも申しました通り、私の家内を通じて知ったところによりますと、その晩に限って、万右衛門さんの様子が、不断とは非常に違っていたというではありませんか。突然笑い出すかと思うと、またたちまち泣き出したというではありませんか。そしてその熱い涙が絹代さんの頬をグショグショに濡らしたというではありませんか。それを今までは、谷村さんが殺人犯人であるために気が顛倒していたのだ、あの涙は奥さんとの訣別の涙だったのだと、きめてしまっていましたけれど、もしその人が万右衛門さんでなかったとすれば、あの執拗な抱擁も、笑いも、涙も、まったく別な、非常にいまわしい意味を持ってくるではありませんか。
そんなばかばかしいことが起こるものだろうか。あなたはきっとそうおっしゃるでしょうね。しかし、昔からずば抜けた犯罪者たちは、まったくありそうもないことを、不可能としか思われぬことをやすやすとやってのけたではありませんか。それでこそ、彼らは犯罪史上に不朽の悪名を残すことができたのではありませんか。
絹代さんの立場は、ただ不幸というほかに言葉はありません。そういう思い違いをしたとしても、決してあの人の罪ではないのです。犯人の思いつきがあまりにも病的で、常規を逸していたのです。あらゆる物質が慣性とか惰力とかいう奇妙な力に支配されているように、人間の心理にもそれと似た力が働いています。書斎に坐りこんで調べものをしている人は、もしその着物が同じで、うしろ姿がそっくりであったとしたら、主人に違いないと思いこんでしまうのです。書斎にはいるまでは確かにその人だったのですから、別の事情が生じない限り……そして、その別の事情は生じてはいたのですが、ずっとあとになってはじめてわかったのです……書斎から出てきた人も主人だと思い込むのに、なんの無理がありましょう。それから寝室、朝の出発、すべてはこの錯覚の継続でした。大胆不敵の曲者は、同時にまた甚だ細心でありまして、そこには電灯の故障というような微妙なトリックまでも用意されていました。絹代さんの話によれば、あとで電灯会社の人を呼んで、調べてもらいますと、故障でもなんでもなく、どうしてはずれたのか、いつの間にやら大元のスイッチの蓋がひらいて、電流が切れていたのだということです。つまり曲者は、皆の寝静まっているあいだに台所へ行って、鴨居の上にあるスイッチ箱の蓋をひらいておきさえすればよかったのです。普通の家庭では大元のスイッチのことなどいっこう注意しないものですから、あわただしい出発の際に、女中たちがそこまで気のつくはずはないと、チャンと計算を立てていたのに違いありません。
「では、では、あなたは、あれが主人でないとすると、いったい誰だったとおっしゃるのですか」
やっとしてから、絹代さんが泣きそうな声で恐る恐る尋ねました。
「びっくりなすってはいけませんよ。僕の想像が当たっているとすれば、いやいや、想像ではなくて、もうほとんど間違いのない事実ですが、あれは琴野宗一だったのです」
それを聞くと、絹代さんの美しい顔が、子供が泣き出す時のようにキューッとゆがみました。
「いいえ、そんなはずはありません。あなたは何をいっていらっしゃるのです。夢でもごらんなすったのですか。琴野さんはああして殺されたではありませんか。殺されたのがあの日の夕方だというではありませんか」
絹代さんにしてみれば藁にもすがりついて、この恐ろしい考えを否定したかったのに違いありません。
「いや、そうではないのです。あなたには実になんとも言いようのないほどお気の毒なことですが、殺されたのは琴野さんではなくて……琴野さんの着物を着せられた谷村さんだったのですよ。御主人だったのですよ」
私はとうとうそれをいわねばなりませんでした。絹代さんはほんとうに可哀そうでした。行方不明にもせよ、谷村さんがこの世のどこかの隈に隠れていたとすれば、どうしたことで再会できぬとも限らないのですが、そうではなくて、谷村さんこそ被害者……あのはぜた石榴みたいにむごたらしく殺された当人だとすると、たとえ、|夫《おっと》は恐ろしい殺人者ではなかったのだという気休めがあるにもせよ、悲痛の情はいっそう切実に迫まってくるに違いありませんからね。その上、さらにさらに残酷なことは、一と晩だけ夫に化けた男が、谷村家にとっては累代の仇敵、夫の万右衛門さんが蛇蝎のごとく忌み嫌っていた男、いや、そんなことはまだどうでもいいのです。何よりも恐ろしいのは、それが万右衛門さんを殺害した――無理やり硫酸を飲ませて殺害した当の下手人であったということでした。女として、妻として、ほとんど耐えがたい事柄ではないでしょうか。
「私、どうにも信じきれません。それには確かな証拠でもありますの? どうか何もかもおっしゃってくださいまし。私はもう覚悟しておりますから」
絹代さんはまったく色を失ったカサカサの唇で、かすかにいうのでした。
「ええ、お気の毒ですけれど、確かすぎる証拠があるのです。この日記帳と煙草入れに残された指紋は、さっきも確かめました通り、御主人の谷村さんのものに間違いないのですが、その指紋とあのG町の空き家で殺されていた男の指紋とが、ピッタリ一致するのですよ」
そのころ愛知県には、まだ索引指紋設備はなかったのですが、この事件の被害者は、何しろ顔がめちゃめちゃになっていて、容易に身元が判明しそうもなかったものですから、万一東京の索引指紋にある前科者であった場合を考慮して、ちゃんと指紋を採っておいたのでした。当時駈け出しの刑事巡査で、しかも探偵小説好きの私のことですから、指紋などにも特別の興味を持っていました。その被害者の指紋を、ひとつひとつ、ハンブルク指紋法でもって分類してみたほどです。といっても、細かい隆線の特徴をことごとく記憶しているなんてことはできるものではありませんが、この被害者の右の拇指紋に限って、特に覚え易いわけがあったのです。それは乙種蹄状紋……といいますのは、ひづめ型の隆線が小指のがわからはじまって、また小指の方へ戻っているあれですね。その乙種蹄状紋の、|外《がい》|端《たん》と|内《ない》|端《たん》とのあいだの線が、ちょうど七本でして、索引の値でいえば3に当たるのです。しかし、それだけでは別に覚え易くもなんともありませんけれど、その七本の隆線を斜めによぎって、ごく小さな切り傷のあとがついていたのですよ。同じ乙種蹄状紋で、同じ値で、同じ型の傷痕のある指が、この世に二つあろうとは考えられません。つまりこの指紋こそ、G町の空き家で死んでいた男が、琴野ではなくて谷村さんであったという、動かしがたい確証ではありますまいか。むろん、あとになって私は日記帳の指紋とM署に保存してあった被害者のそれとを、綿密に比較してみましたが、ふたつはまったく一分一厘違っていないことが確かめられました。
私が、この驚くべき発見と推理とを、上官に対して詳細に報告したのは申すまでもありません。そして、このたったひとつの指紋から、すでに確定的になっていた犯人推定が、まったく逆転し、当局者はもちろん、あの地方の新聞記者を|心《しん》|底《そこ》から仰天せしめたことも、また申すまでもありません。まだ若かった私は、この大手柄を、もう有頂天になって喜ばないわけにはいきませんでした。
こんなふうにお話ししますと、被害者が琴野でないことは最初からわかっていたではないか、硫酸のために顔形が見分けられないということを、どうして疑わなかったのか。そういうトリックは、探偵小説などにはザラにあるではないかと、われわれの迂闊をお笑いなさるかもしれませんね。ですが、それは検事局にしろ、警察にしろ、最初一応は疑ってみたのです。ところが、この犯罪にはそういう疑いをまったく許さないような、一度は疑っても、たちまちそれを忘れさせてしまうような、実に巧妙大胆な、もうひとつの大きなトリックが、ちゃんと用意されていたのでした。といいますのは、谷村家の書斎での、あのずば抜けた人間すり替えの芸当によって、当の被害者の奥さんをまんまと罠にかけて、万右衛門さんは少なくとも殺人事件の翌朝までは生きていた、その人が被害者であるはずはないと信じさせてしまったことです。絹代さんの証言によって、あの夕方、問題の空き家で谷村、琴野両氏が出会ったことは、想像にかたくはないのです。そしてその一方の谷村さんが生き残っていたとしたら、前後の事情から考えて、被害者は琴野のほかにはないということになるではありませんか。このふたりは背恰好もほとんど同じでしたし、頭はどちらも短かい五分刈りにしていたのですし、着物を着更えさせて顔をつぶしてしまえば、ほとんど見分けがつきはしないのです。その上に、当の万右衛門さんはちゃんと生きていたことになっているのですから、絹代さんが現場に出向いて……犯人にはそれがいちばん恐ろしかったに違いありません……死人のからだを検分するという危険なども、起こりようがないのでした。実に何から何まで、うまいぐあいに考え抜いてあったではありませんか。しかし、探偵小説の慣用句を使いますと、犯人にはたったひとつ手抜かりがあったのです。つまり、折角顔をつぶしながら、その顔よりももっと有力な個人鑑別の手掛かりである指紋を、つぶしておかなかったことです。ある探偵小説家の口調をまねれば、この事件では、指紋というものが、琴野氏の盲点に入っていたというわけです。
それにしても、まあなんとよく考えた犯罪でしたろう。琴野氏はこの一挙にして、先祖累代の怨敵を思う存分残酷な……残酷であればあるほど、かえって嫌疑を免れるためには好都合だったのです……残酷な手段で亡きものにすると同時に、年来あこがれの恋人と、たとえ一夜にもせよ、夫婦のように暮らし、それがまた、罪跡をくらます最も重要な手段になろうとは、なんといううまい思いつきだったのでしょう。そして第三に、金庫の中の通帳を盗み出すことによって、赤貧の身がたちまち大金持ちになれたのではありませんか。つまり一石にして三鳥という、まるでおとぎ話の魔法使いかなんぞのような手際でした。今になって考えてみますと、犯罪の少し前、琴野が日頃の恨みを忘れたように、のめのめと谷村家へ出入りをしましたのは、ただ絹代さんの顔が見たいばかりではなかったのです。谷村さん夫婦の習慣だとか、家の間取りだとか、金庫のひらき方だとか、実印の所在だとか、電灯のスイッチのありかまでも、すっかり調べ上げておくためだったに違いありません。そして、その金庫の中へ纏まった会社創立資金が納められるのを待って、且つは谷村さんが上京するという、ちょうどその夕方を選んで、いよいよ事を決行したのだと考えます。
琴野の犯行の径路などは、あなたには蛇足でしょうと思いますが、探偵小説などの手法に習って、簡単に申し添えておきますと、先ず硫酸の瓶を用意して、空き家に待ち伏せ、谷村さんがはいってくると、いきなり手足をしばり上げて、あの無残な罪を犯したのです。それから、縛った繩を一度ほどいて、すっかり着物を取り替え、再び元の繩目の上を縛りつけておいたのでしょう。そうして、谷村さんになりすました琴野は、硫酸の空瓶をどっかへ隠した上、通行者に見とがめられぬよう、細心の注意を払って、案内知った柴折戸から、谷村家の書斎にこもってしまったというわけなのです。それからのちの順序は、さいぜん詳しくお話ししたのですから、もう付け加えることはないと思います。
これで硫酸殺人事件のお話はおしまいです。どうも大へん長話になってしまって恐縮でした。あなたには御迷惑だったか知りませんが、でも、こうしてお話しさせていただいたお蔭で、当時のことをありありと思い出すことができました。さっそく私の「犯罪捜査録」に書きとめておくことにいたしましょう。
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「いや、迷惑どころか、大へん面白かったですよ。あなたは名探偵でいらっしゃるばかりでなく、話術家としても、どうして、大したものだと思いますよ。近来にない愉快な時間を過ごさせていただきました。ですが、お話は条理を尽してよくわかりましたが、たった一つ、まだうかがってないことがあるようですね。それは琴野という真犯人が、あとになって捕まったかどうかということです」
猪股氏は私の長話を聞き終った時、異様に私を褒めたたえながら、そんなことを尋ねるのであった。
「ところが、残念ながら、犯人を逮捕することはできなかったのです。人相書きはもちろん、琴野の写真の複製をたくさん作らせて、全国の主な警察署に配布したほどなんですが、人間一人、隠れようと思えば隠れられるものとみえますね。その後十年近くになりますけれど、いまだに犯人は挙がらないのです。琴野は、どこか警察の目の届かぬところで、もう死んでしまっているかもしれませんよ。たとえ生きていたとしても、局に当たった私自身でさえほとんど忘れているほどですから、もう捕まりっこはありますまいね」
そう答えると、猪股氏はニコニコして、私の顔をじって見つめていたが、
「すると、犯人自身の自白はまだなかったわけですね。そこにはただあなたという優れた探偵家の推理があっただけなのですね」
と、聞き方によっては、皮肉にとれるようなことをいうのである。
私は妙な不快を感じてだまっていた。猪股氏は何か考えごとをしながら、遙か目の下の青黒い淵をボンヤリと眺めている。もう夕暮に近く、曇った空はいよいよ薄暗く、その鈍い光によって、地上の万物をじっと圧えつけているように感じられた。前方にかさなる山々は、ほとんどまっ黒に見え、崖の下を覗くと、薄ぼんやりとした靄のようなものが立ちこめていた。見る限り一物の動くものとてもない、死のような世界であった。遠くから聞こえてくる滝の響きは、何か不吉な前兆のように、私の心臓の鼓動と調子を合わせていた。
やがて、猪股氏は、淵を覗いていた眼を上げて、何か意味ありげに私を見た。色ガラスの目がねが、鈍い空を写してギラッと光った。ガラスを透して二重瞼のつぶらな眼が見えている。私は、その左のほうだけが、さいぜんからの長いあいだ、一度も瞬きしなかったことを気づいていた。きっと義眼に違いない。別に眼が悪くもないのに色目がねなんか掛けているのは、あの義眼をごまかすためなんだな。意味もなくそんなことを考えながら、私は相手の顔を見返していた。すると、猪股氏が突然妙なことを言い出したのである。
「子供の遊びのジャンケンというのを御存知でしょう。私はあれがうまいのですよ。ひとつやってみようじゃありませんか。きっとあなたを負かしてお目にかけますよ」
私はあっけに取られて、ちょっとのあいだだまっていたが、相手が子供らしく挑んでくるものだから、少しばかり癪にさわって、じゃあといって、右手を前に出したのである。そこで、ジャン、ケン、ポン、ジャン、ケン、ポンと、おとなのどら声が、静かな谷に響き渡ったのであるが、なるほど、やってみると、猪股氏は実に強いのだ。最初数回はどちらともいえなかったけれど、それからあとは、断然強くなって、どんなにくやしがっても、私は勝てないのだ。私がとうとう兜を脱ぐと、猪股氏は笑いながら、こんなふうに説明したことである。
「どうです。かないますまい。ジャンケンだって、なかなかばかにはできませんよ。この競技には無限の奥底があるのです。その原理は数理哲学というようなものではないかと思うのですよ。先ず最初紙を出して負けたとしますね。いちばん単純な子供は敵の鋏に負けたのだから、次には鋏に勝つ石を出すでしょう。これが最も幼稚な方法です。それより少し賢い子供は、鋏に負けたのだから敵はきっと、自分が次に石を出すと考え、それに勝つ紙を選ぶだろう。だから、その紙に勝つ鋏を出そうと考えるでしょう。これが普通の考え方なのです。ところが、もっと賢い子供は、さらにこんなふうに考えます。最初紙で負けたのだから、次には自分が石を出すと考えて敵は紙を選ぶであろう、それ故、自分は紙に勝つ鋏を出そうと考えている、ということを敵は悟るに違いない。すると敵は石を選ぶはずだ。だから自分はそれに勝つ紙を出すのだとね。こんなふうにして、いつも敵より一段奥を考えて行きさえすれば、必ずジャンケンに勝てるのですよ。そして、これは何もジャンケンに限ったことではなく、あらゆる人事の葛藤に応用ができるのだと思います。相手よりもひとつ奥を考えている人が、常に勝利を得ているのです。それと同じことが犯罪についても言えないでしょうか。犯人と探偵とはいつでもこのジャンケンをやっているのだと考えられないでしょうか。非常に優れた犯罪者は、検事なり警察官なりの物の考え方を綿密に研究して、もうひとつ奥を実行するに違いありません。そうすれば彼は永久に捕われることがないのではありますまいか」
そこでちょっと言葉を切った猪股氏は、私の顔を見て、またニッコリと笑ったものだ。
「エドガア・ポーの『盗まれた手紙』はむろんあなたも御存知だと思いますが、あれには私のとは少し違った意味で子供の|丁《ちょう》か半かの遊びのことが書いてあります。そのあとに、丁半遊びの上手な非常に賢い子供に、秘訣を尋ねると、子供がこんなふうに答えるところがありますね……相手がどんなに賢いかばかか、善人か悪人か、今ちょうど相手がどんなことを考えているかを知りたい時には、自分の顔の表情をできるだけその人と同じようにします。そしてその表情と一致するようにして、自分の心に起こってくる気持を、よく考えてみればよいのですとね。デュパンは、その子供の答えはマキヤベリやカンパネラなどの哲学上の思索よりも、もっと深遠なものだと説いていたように思います。ところで、あなたは硫酸殺人事件を捜査なさる時、仮想の犯人に対して、表情を一致させるというようなことをお考えになったでしょうか。おそらくそうではありますまい。現にいま私とジャンケンをやっていた時にも、あなたは、そういう点にはまったく無関心のように見えましたが……」
私は相手のネチネチした長たらしい話し振りに、非常な嫌悪を感じはじめていた。この男はいったい何を言おうとしているのであろう。
「あなたのお話をうかがっていますと、なんだか硫酸殺人事件での私の推理が間違っていた、犯人の方が一段奥を考えていたというように聞こえますが、もしやあなたは、私の推理とは違った別のお考えが、おありなさるのではありませんか」
私はつい皮肉らしく反問しないではいられなかった。すると猪股氏は、またしてもニコニコ笑いながら、こんなことをいうのである。
「そうですね。もう一歩奥を考えるものにとっては、あなたの推理を覆えすのは、非常にたやすいことではないかと思うのです。ちょうどあなたが、たった一つの指紋から、それまでの推理を覆えされたように、やっぱりたった一とことで、あなたの推理をも、逆転させることができるかと思うのです」
私はそれを聞くと、グッと癇癪がこみあげてきた。十何年というものその道で苦労してきたこの私に対して、なんという失礼な言い方であろう。
「では、あなたのお考えを承わりたいものですね。たった一とことで私の推理を覆えして見せていただきたいものですね」
「ええ、お望みとあれば……これはほんのちょっとしたつまらないことなんです。あなたはこういうことが確信できますか、例の日記帳と煙草入れに残っていた問題の指紋ですね、その指紋にまったく作為がなかったと確信できるのですか」
「作為とおっしゃるのは?」
「つまりですね、当然谷村氏の指紋が残っているべき品物に、谷村氏のではなくて別の人の指紋が故意に捺されていた、ということは想像できないものでしょうか」
私はだまっていた。相手の意味するところが、まだ判然とはわからなかったけれども、その言葉の中に、何かしら私をギョッとさせるようなものがあったのだ。
「おわかりになりませんか。谷村氏がですね、或る計画を立てて、谷村氏の身辺の品物に……日記帳とか煙草入れとかですね、あなたはそのふた品しか注意されなかったようですが、もっと探してみたら、ほかの品物にも同じ指紋が用意されていたかもしれませんぜ……その品々に、さも谷村氏自身のものであるかのように、まったく別人の指紋を捺させておくということは、もしその相手がしょっちゅう谷村家へ出入りしている人物であったら、さして困難な仕事でもないではありませんか」
「それはできるかもしれませんが、その別人というのは、いったい誰のことをおっしゃっているのですか」
「琴野宗一ですよ」猪股氏は少しも言葉の調子を変えないで答えた。「琴野は一時しげしげと谷村家へ出入りしたというではありませんか。谷村氏は相手に疑いを起こさせないで、琴野の指紋を方々へ捺させることなど、少しもむずかしくなかったのです。それと同時に、谷村氏自身の指紋が残っていそうな滑らかな品物は、ひとつ残らず探し出して、注意深く拭きとっておいたことは申すまでもありません」
「あれが琴野の指紋?……そういうことが成り立つものでしょうか」
私は異様な昏迷におちいって、今から考えると恥かしい愚問を発したものである。
「成り立ちますとも……あなたは錯覚におちいっているのです。空き家で殺されていたのが谷村氏であるという信仰が邪魔をしているのです。もしあれが谷村氏でなくて、最初の推定通り琴野であったとすれば、その死体から採った指紋はいうまでもなく琴野自身のものです。そうすれば、日記帳の指紋に作為があって、それも同じ琴野のものだったとすれば、指紋が一致するのは当然じゃありませんか」
「では犯人は?」
私はつい引き込まれて、愚問を繰り返すほかはなかった。
「むろん、日記などに琴野の指紋を捺させた人物、即ち谷村万右衛門です」
猪股氏は、何かそれが動かしがたい事実でもあるかのように、彼自身犯行を目撃していたかのように、人もなげに断言するのであった。
「谷村氏が金の必要に迫まられていたことは、あなたにもおわかりでしょう。貉饅頭はもう破産のほかはない運命だったのです。何十万〔今の何千万〕という負債は不動産を処分したくらいでおっつくものではない。そういう不面目を忍ぶよりは、五万円〔今の二千万円〕の現金を持って逃亡した方がどれほど幸福かしれません。しかしそれだけの理由ではどうも薄弱なようです。谷村氏は偶然琴野を殺したのではなく、前々から計画を立てて時機を待っていたのですからね。金銭のほかの動機といえば……細君をあんなひどい目にあわせて平気でいられる動機といえば……さしずめ女のほかにはありません。そうです、谷村氏は恋をしていたのです。しかも他人の妻と不倫の恋をしていたのです。いずれは手に手を取って、世間の目をのがれなければならぬ運命でした。第三の動機は、むろん琴野その人に対する怨恨です。恋と、金と、恨みと、谷村氏の場合もまた、あなたの謂われる一石三鳥の名案だったのですよ。
当時、谷村氏の知合いに、あなたという探偵小説好きな、実際家というよりは、どちらかといえば、むしろ空想的な肌合いの刑事探偵がありました。もしあなたがいなかったら、彼はああいう廻りくどい計画は立てなかったことでしょう。つまり、あなたというものが、谷村の唯一の目標だったのです。さっきの丁半遊びの子供のように、あなたと同じ表情をして、またジャンケンの場合のように、あなたの一段奥を考えて、谷村氏はすべての計画を立てました。そして、それがまったく思う壺にはまったのです。ずば抜けた犯罪者には、その相手役として、優れた探偵が必要なのです。そういう探偵がいてこそ、はじめて彼のトリックが役立ち、彼は安全であることができるのです。
谷村氏にとって、この異様な計画には、常人の思いも及ばない魅力がありました。あなたも御承知の通り、いや、あなたがお考えになっているよりも遙かに多分に、彼はサド侯爵の子孫でした。もう飽きてきている細君ではありましたが、あの最後の大芝居は実にすばらしかったのです。谷村氏自身が、谷村氏に変装した琴野であるかのように装って、物もいわず顔も見せないように細心の注意を払いながら、ある瞬間はもう琴野その人になりきってしまって、あるいは笑い、あるいは泣き、われとわが女房に世にも不思議な不義の契りを結んだのでした。
あなたは、この谷村氏のサド的傾向に、もうひとつの意味があったことにお気づきでしょうか。というのは、あの残虐この上もない殺人方法です。あの方法こそ、彼のサド的な独創力を示すものではありますまいか。あなたはさいぜん、はぜた石榴といううまい形容をなさいましたね。そうです。谷村氏はそのはぜた石榴に、なんともいえない恐ろしい誘惑を感じたのでした。そして、それが彼の着想のいわば出発点だったのです。一人の人間を殺して、その顔を見分けられぬほどめちゃくちゃに傷つけておくということは、何を意味するでしょうか。少し敏感な警察官なれば、そこに被害者の欺瞞が行なわれているに違いないと悟るでありましょう。その被害者がもし琴野の着物を着ていたならば、それは犯人が琴野の死骸に見せかけようとしたのであって、実は琴野以外の人物に違いないと信ずるでありましょう。ところがそう信じさせることが、谷村氏の思う壺だったのです。被害者は最初の見せかけ通り、やっぱり琴野でしかなかったのですからね。
そういうわけですから、あの硫酸の瓶も、琴野のほうで持ってきたのではなく、谷村氏が前もって買い入れておいて、空き家に携えて行ったのです。そして、仕事をすませた帰り途、道端のどぶ川の中へ投げ込んでしまったのです。それからがあのお芝居でした。谷村氏が、谷村氏に化けた琴野になりすまして、谷村氏自身の書斎へ、まるで他人の部屋へ忍び込むようにしてビクビクしながらはいって行ったのです」
私は猪股氏のまるで見ていたような断定に、あきれ果ててしまった。いったいこの男は誰なのだ。なんの目的で、こんな途方もないことを言い出したのであろう。単なる論理の遊戯にしては、あまりに詳細をきわめ、あまりに独断にすぎるではないか。私がだまりこんでいるものだから、猪股氏はまた別のことをしゃべりはじめた。
「さあ、もう余程以前のことですが、当時私の家へよく遊びにきた大へん探偵小説好きの男があったのです。私はいつもその人と犯罪談を戦わせたものですが、ある時、殺人犯人の最も巧妙なトリックはなんであろうということが話題になって、結局私たちの意見は、被害者が即ち犯人であったというトリックがいちばん面白いときまったのでした。しかし、この被害者即ち加害者のトリックは、観念としては実に奇抜なのだけれど、具体的に考えてみると、犯人が不治の病気なんかにかかっていて、どうせない命だからというので、他殺のように見せかけて自殺をし、その殺人の嫌疑を他の人物にかけておく場合か、または、被害者が数人ある殺人事件で、その被害者の中に犯人がまじっていて、犯人だけは生命に別状のない重傷を受け……つまり自ら傷つけて……嫌疑をまぬがれるという場合などが主なもので、ぞんがい平凡ではないか、という意見が出たのです。私は、いや、そうではない、それは犯人の智恵がまだ足りないので、優れた犯罪者なれば被害者即ち加害者のトリックだって、もっと気の利いたものを案出するに違いないと主張したものでした。すると、私の友だちは、われわれが今こうして考えてみても、思い浮かばないのだから、そういうトリックがありそうに思われぬというのです。いや、そうではない、きっとあるに違いない。いや、あるはずがないと、まあ大へんな論争になったのですが、その折の私の主張がここで立証されたわけではないでしょうか。つまりですね、硫酸殺人事件では、指紋の作為と、あの夕方から朝までの思い切った変身のトリックによって、被害者は谷村氏に違いないと、この長の年月確信されていたのですが、いま申した私の推理が正しいとしますと……そして、それは正しいにきまっているのですが……真犯人は意外にも被害者と推定された谷村氏その人ではなかったですか。被害者が即ち犯人だったではありませんか。
いくらうまいトリックを用いたからといって、いったい一人の男が他人の細君の夫に化けて、その細君と一夜を過ごすなんて放れわざが現実に行なわれうるものでしょうか。小説的には実にこの上もなく面白い着想ですし、そしてあなたなどは、この着想にたちまち誘惑をお感じなすったに違いないと思うのだけれど……」
この話を聞いているうちに、私の心に、何か非常に遠い、かすかな記憶がよみがえってくる感じがした。どうも私にもそれと同じ経験があるように思われるのだ。だが猪股氏はまったく初対面の人である。その時の私の話し相手がこの猪股氏でなかったことは確かだ。では、あれはいったい誰だったのかしら。私はお化けを見ているような気がした。何かモヤモヤした大きなものが、目の前に立ちふさがっている。そいつは、ゾッとするほど恐ろしいやつに違いないのだが、しかし、もどかしいことには、どうしてもはっきりした正体が掴めないのだ。
その時、猪股氏はまたしても、実に突飛なことをはじめたのである。彼は言葉を切って、しばらく私の顔を眺めていたが、何かチラと妙な表情をしたかと思うと、いきなり両手を口の辺に持って行って、ガクガクと二枚の総入歯を引き出してしまった。すると、そのあとに、八十歳のお婆さんの口が残った。つまり、入歯という支柱がなくなったものだから、鼻から下が極度に圧縮されて、顔全体が圧しつぶした提灯のようにペチャンコになってしまったのである。
冒頭にもしるした通り、猪股氏は禿頭ではあったけれど、それが大へん知識的に見えたのだし、その上、高い鼻と、哲学者めいた三角型の顎ひげが風情を添えて、なかなかの好男子であったのだが、そうしてお座のさめた総入歯をはずすと、いったい人間の相好がこんなにまで変わるものかと思われるほど、みじめな顔になってしまった。それは歯というものを持たない八十歳のお婆さんの顔でもあれば、また同時に、生れたばかりの赤ん坊のあの皺くちゃな顔でもあった。
猪股氏はその平べったい顔のまま、色目がねをはずし、両眼をつむって、力ない唇をペチャペチャさせながら、非常に不明瞭な言葉で、こんなことを言うのであった。
「ひとつ、よく私の顔を見てください。先ずこの私の眼を二重瞼ではないと想像してごらんなさい。眉毛をグッと濃くしてごらんなさい。また、この鼻をもう少し低くして考えてごらんなさい。それからひげをなくしてしまって、そのかわりに、頭に五分刈りの濃い髪の毛を植えつけてごらんなさい……どうです、わかりませんか。あなたの記憶の中に、そういう顔が残ってはいませんかしら」
彼は、さあ見てくださいという恰好で、顔を突き出し、眼を閉じてじっとしていた。
私はいわれるままに、しばらくその架空の相貌を頭の中に描いていたが、すると、写真のピントを合わせるように、そこに、実に意外な人物の顔が、ボーッと浮き上がってきた。ああ、そうだったのか。それなればこそ、猪股氏はあんな独断的な物の言い方をすることができたのか。
「わかりました。わかりました。あなたは谷村万右衛門さんですね」
私はつい叫び声を立てないではいられなかった。
「そう、僕はその谷村だよ。君にも似合わない、少しわかりが遅かったようだね」
猪股氏、いや谷村万右衛門さんは、そういって、低い声でフフフフフと笑ったのである。
「ですが、どうしてそんなにお顔が変わったのです。僕にはまだ信じきれないほどですが……」
谷村さんは、それに答えるために、また入歯をはめて、明瞭な口調になって話し出した。
「僕は確か、あの時分、変装についても、君と議論をしたことがあったと思うが、その持論を実行したまでなのだよ。僕は銀行から五万円を引き出すと、ちょっとした変装をして、さっきも言ったある人の妻と、すぐシャンハイへ高飛びしたのだ。君の話にもあった通り、あれが琴野の死骸だということは、丸二日のあいだわからないでいたのだから、僕はほとんど危険を感じることはなかった。僕というものが一度疑われ出した時分には、二人はもう朝鮮にはいって、長い退屈な汽車の中にいたのだよ。僕は海の旅を恐れたのだ。汽船というやつは犯罪者にはなんだか檻のような気がして、苦手なものだね。
僕たちはシャンハイの或るシナ人の部屋を借りて、一年ほど過ごした。僕の感情については、立ち入ってお話しする気はないけれど、ともかく非常に楽しい一年であったことは間違いない。絹代は普通の意味で美しい女ではあったけれど、僕には性分が合わないのだ。僕は明子みたいな……それが僕と一緒に逃げた女の名だがね……明子みたいな陰性の妖婦が好みだよ。僕はあれに|心《しん》|底《そこ》から恋していた。今でもその気持はちっとも変らない。できることなら変わってほしいと思うのだけれど、どうしてもだめだ。
そのシャンハイにいるあいだに、万一の場合を考えて、大がかりな変装を試みたのだ。顔料を使ったり、つけひげやかつらを用いる変装は、僕にいわせればほんとうの変装じゃない。僕は谷村という男をこの世から抹殺してしまって、まったく別の新らしい人間をこしらえ上げようと、執念深く、徹底的にやったのだ。シャンハイにはなかなかいい病院がある。たいていは外人が経営しているんだが、僕にはそのうちからなるべく都合のいい歯科医と、眼科医と、整形外科の医者を、別々に選んで、根気よくかよったものだ。先ず人一倍濃い頭の毛をなくすることを考えた。毛を生やすのはむずかしいけれど、抜くのはわけはないのだよ。脱毛剤でさえなかなかよく利くのもあるくらいだからね。ついでに眉毛をグッと薄くしてもらった。次に鼻だ。君も知っているように、いったい僕の鼻は、低い上にあまり恰好がよくなかった。それを象牙手術でもってこんなギリシャ鼻に作り上げてしまったのだよ。それから、顔の輪郭を変えることを考えた。なあに別にむずかしいわけではない、ただ総入歯を作ればいいのだ。僕はいったい受け口で歯並みが内側のほうへ引っ込んでいた。それにむし歯が非常に多かった。そこで、さっぱりと全部の歯を抜いてしまって、痩せた歯ぐきの上から、前とは正反対に厚い肉の出っ歯の総入歯をかぶせたのだ。そうすると、君がいま見ているように、相好がまるで変わってしまう。この入歯を取った時に、はじめて君は僕の正体を認めたくらいだからね。それからひげを蓄えたのは、ごらんの通りだが、残っているのは眼だ。眼というやつが変装にとってはいちばん厄介な代物だよ。僕は先ず一重の瞼を二重瞼にする手術を受けた。これはごく簡単にすんだけれど、どうもまだ安心はできない。絶えず眼病を装って黒い目がねをかけて隠していようかとも思ったが、それもなんだが面白くない。うまい方法はないかしらんといろいろ考えた末、僕は一方の目玉を犠牲にすることを思いついた。つまり義眼にするのだ。そうすれば色目がねをかけるのに、義眼を隠すためという口実がつくし、眼そのものの感じもまるで変わってしまうに違いないからね……というわけだよ。つまり僕の顔は何から何まで人工の作りものなんだ。そして谷村万右衛門の生命は僕の顔からまったく消え失せてしまったのだ。しかしこの顔はこの顔でまだ見捨てがたい美しさを持っていると思わないかね。明子なんかは、よくそんなことをいって僕をからかったものだが……」
谷村さんはこの驚くべき事実を、なんでもないことのように説明しながら、右手を左の目の前に持って行くと、いきなり、その目の玉を、お椀をふせたようなガラス製の目の玉を、刳り出して見せたのである。そして、それを指先でもてあそびつつ、ポッカリと薄黒く窪んだ眼窩を、私のほうへまともに向けて言葉をつづけた。
「そうして谷村という人間をすっかり変形してしまってから、僕たちは相携えて日本へ帰ってきた。シャンハイもいい都だけれど、日本人にはやっぱり故郷が忘れられないのでね。そして方々の温泉などを廻り歩きながら、まったく別世界の人間のように暮らしてきたものだ。僕たちはね、十年に近い月日のあいだ、世界にたった二人ぼっちだったのだよ」
片目の谷村さんは、何か悲しそうにして、深い谷を見おろしていた。
「しかし不思議ですね、僕はそんなこととは夢にも知らず、きょうに限って硫酸殺人事件のお話をするなんて……虫が知らせたというのでしょうか」
私はふとそこへ気がついた。偶然とすれば、怖いような偶然であった。
「ハハハハハ」すると谷村さんは低く笑って、「君は気がついていないのだね。偶然ではないのだよ。僕があの話をさせるようにしむけたのさ。ほら、この本だよ。きょうここへくる道で、君とこの本の話をしたっけね。あれはつまり、僕が君に硫酸殺人事件を話させる手段だったのだよ。君はさっき、このベントリーの『トレント最後の事件』の筋を忘れてしまったといったが、実は忘れきったのではなくて、君の意識の下に、ちゃんとその記憶が保存されていたのだよ。『トレント最後の事件』には、犯人が自分が殺した人物に化けすまして、その人の書斎にはいって、被害者の奥さんを欺瞞するという公式のトリックが使用されている。それと君が解決したと思いこんでいた硫酸殺人事件とは、まったく同じ公式によるものではないか。だから、この本の表題を見ると、君は無意識の連想からあの話がしたくなったというわけなのだよ。この本に見覚えはないかね、ほら、ここだ。ここに赤鉛筆で感想が書き入れてあるね。この字に見覚えはないかね」
私は本の上に顔を持って行って、その赤い書き入れを見た。そして、たちまち、その意味を悟ることができた。私はすっかり忘れていたのだ。実に古い古いことであった。そのころまだ薄給の刑事だった私は、好きな探偵小説も思うように買うことができなかったので、谷村万右衛門さんのところへ行っては、新着の探偵本を借りたものだが、このベントリーの著書は、その中の一冊だった。私はそれを読んだあとで、欄外に感想を書き入れたことを思い出す。赤鉛筆の字というのは、私自身の筆跡であったのだ。
谷村さんは、それっきり話が尽きたようにだまりこんでしまった。私もだまっていた。だまったまま或る解きがたい謎について思い耽っていた……谷村さんと私との、この計画的な再会には、一体全体どういう意味があったのだろう。谷村さんは折角あれほど苦心して刑罰をのがれておきながら、今になって警察官である私に、それをすっかり懺悔してしまうなんて、その裏にはどんな底意が隠されているのだろう。ああ、ひょっとしたら、谷村さんは飛んでもない思い違いをしているのではないかしら。この犯罪はまだ時効は完成していないのだ。それを年月の誤算から、時効にかかったものと信じきっているのではあるまいか。そして、私が威丈高になって逮捕しようとするのを、またしても嘲笑する下心ではあるまいか。
「谷村さん、あなたはどうしてそんなことを、僕にうち明けなすったのです。もしやあなたは時効のことをお考えになっているのではありませんか」
私が急所を突いたつもりで、それをいうと、谷村さんは別に表情を変えもせず、ゆっくりした口調で答えた。
「いや、僕はそんな卑怯なことなんか考えてやしない。時効の年限なんかもハッキリ知らないくらいだよ……なぜ君にこんな話をしたかというのかね。それは僕の体内に流れている、サド侯爵の血がさせたわざだろうよ。僕は完全に君に勝ったのだ。君はまんまと僕の罠にかかったのだ。それでいて、君がそのことを知らない、うまい推理をやったつもりで得意になっている。それが僕には心残りだったのだよ。君にだけは『どうだ参ったか』と一とこと言い聞かせておきたかったのだよ」
ああ、そのために谷村さんはこうした底意地のわるい方法を採ったのだな。しかし、その結果はどういうことになるのだ。果たして私は負けっきりに負けてしまわねばならないのだろうか。
「確かに僕の負けでした。その点は一言もありません。ですが、そういうことをうかがった以上は、私は警察官としてあなたを逮捕しないわけにはいきませんよ。あなたは私を打ち負かして痛快に思っていらっしゃることでしょうが、しかし一方からいえば、あなたは僕に大手柄をさせてくださったのです。つまり僕はこうして、前代末聞の殺人鬼を捕縛するわけですからね」
言いながら、私はいきなり相手の手首をつかんだものである。すると谷村氏は、非常に強い力で私の手を振り離しながら、
「いや、それはだめだよ。僕たちは昔よく力比べをやったじゃないか。そして、いつも僕のほうが勝っていたじゃあないか。一人と一人では君なんかに負けやしないよ。君はいったい、僕がなぜこういう淋しい場所を選んだかということを気づいていないのかね。僕はちゃんとそこまで用意がしてあったのだよ。もし君が強いて捕えようとすれば、この谷底へつき落としてしまうばかりだ。ハハハハハ、だが安心したまえ、僕は逃げやしない。逃げないどころか、君の手をわずらわすまでもなく自分で処決してお目にかけるよ……実はね、僕はもうこの世に望みを失ってしまったのだ。生きていることにはなんの未練もありはしないのだよ。というわけはね、僕のたった一つの生き甲斐であった明子が、一と月ばかり前に、急性の肺炎で死んでしまったのだ。その臨終の床で、僕もやがて彼女のあとを追って、地獄へ行くことを約束したのだよ。ただ一つの心残りは、君に会って事件の真相をお話しすることだった。そして、それもいま果たしてしまった……じゃあこれでお別かれだ……」
その、オ、ワ、カ、レ、ダ……という声が、矢のように谷底に向かって落下して行った。谷村氏は私の不意を突いて、遙か目の下の青黒い淵へ飛びこんだのである。
私は息苦しく躍る心臓を押さえて、断崖の下を覗きこんだ。たちまち小さくなって行く白いものが、トボンと水面を乱したかと思うと、静まり返った淵の表面に、大きな波の輪が、幾つも幾つもひろがって行った。そして、一瞬間、私の物狂おしい眼は、その波の輪の中に、非常に巨大な、まっ赤にはぜ割れた一つの石榴の実を見たのであった。
やがて、淵は元の静寂に帰った。山も谷ももう夕靄に包まれはじめていた。|目《め》|路《じ》の限り動くものとて何もなかった。あの遠くの滝の音は、千年万年変わりないリズムをもって、私の心臓と調子を合わせつづけていた。
私はもうその岩の上を立ち去ろうとして、浴衣の砂を払った。そして、ふと足元に眼をやると、そこの白く乾いた岩の上に、谷村さんのかたみの品が残されていた。青黒い表紙の探偵小説、探偵小説の上にチョコンと乗っかっているガラスの目玉、その白っぽいガラスの目玉が、どんよりと曇った空を見つめて、何かしら不思議な物語をささやいているかのようであった。
著者による作品解説
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【二銭銅貨】 大正十二年四月号の「新青年」に掲載せられた私の処女作。当時の編集長森下雨村さんが大いに認めてくれ、小酒井不木博士の讃辞つきで発表された。今でも私の作品といえば「二銭銅貨」をあげる人が多いようである。当時はまだ、あの大きな二銭銅貨が、僅かながら流通していた。直径三センチ余、厚さ四ミリほどの、どっしりと重い銅貨であった。今度、この小説に使われている点字の書き方に間違いがあることを気づいたので、訂正しておいた。これは最初の私の原稿が間違っていたのである。
【心理試験】 「新青年」大正十四年二月号に発表。この作を森下さんと小酒井不木博士に見せて、作家として立てるだろうかと相談し、両氏の賛同を得たので、大阪から東京へ引越しをして、いよいよ作家専業となったのである。
この作にも明智小五郎を出したが、これは「D坂」から数年後の事件で、明智はもう二階借りの貧乏青年ではなくなっている。「D坂」に連想診断による心理試験のことが出てくるが、その方法を具体的に示してはいない。それを補う意味で、「心理試験」には、試験のやり方を詳しく書いた。だから、「D坂」と「心理試験」とは一対の作といってもよいので、ここにならべてのせるわけである。これは倒叙探偵小説の形式だが、やはり本格ものの一種といっていい。この作はジェームス・ハリス君訳によるタトル社版の私の英訳短篇集 Japanese Tales of Mystery and Imagination (1956)の中に The Psychological Test と題して編入されている。
「心理試験」は戦争直後、大映で「パレットナイフの殺人」と題して(この題をつけたのは、当時の大映社長菊池寛氏であった)映画化された。プロデューサー加賀四郎、脚本高岩肇、監督久松静児、主演宇佐見淳、昭和二十一年十月十五日封切りであった。私の原作映画のうちでは、昭和三十一年の日活映画「死の十字路」についでよくできていたと思う。
【恐ろしき錯誤】 「新青年」大正十二年十二月号に発表。「二銭銅貨」と「一枚の切符」を「新青年」編集長森下雨村さんに送って好評だったので、気をよくして、大いに気負って書いた三番目の作品なのだが、私が小説家として未熟であることを暴露したような結果となり、森下さんに長いあいだ握りつぶされていて、大震災のあとの復活号にやっとのせられたものである。私はこの三番目の作で自分の力にあいそをつかし、一時は、もう小説を書くまいと思っていたのだが、その後、また強く督促を受けたので、つい「二癈人」「双生児」と書きつづけたわけである。それから三年ほどのち、昭和二年のはじめに、朝日新聞に連載した「一寸法師」に、われながらあいそをつかして、放浪の旅に出た、あれを小型にしたような自己嫌悪が、すでにして、この三番目の作品のときに起こっていたのである。
【D坂の殺人事件】 「新青年」大正十四年一月増刊に発表した。この作ではじめて明智小五郎を登場させた。別にこれをきまった主人公にするつもりはなかったのだが、方々から「いい主人公を思いつきましたねえ」と言われるものだから、ついその気になって、引きつづき明智小五郎を登場させることになった。「D坂」のころの明智はまだタバコ屋の二階に下宿して、本の中に埋まっている貧乏青年にすぎなかった。
「D坂」を一月増刊に発表してから毎月、この年の夏まで「新青年」に短篇を書きつづけた。これは「新青年」がその後よく催した六カ月連続短篇というものの最初の試みであった。私は「D坂」の次に「心理試験」を書いて、いよいよ専業の作家になる決心をしたので、「新青年」編集長の森下雨村さんが、この機会に六カ月連続短篇を催して、私を激励してくれたのである。その連続短篇というのは、
心理試験(二月号)、黒手組(三月号)、赤い部屋(四月号)、幽霊(五月号)、(六月号は休載)、白昼夢、指環(七月号)、屋根裏の散歩者(八月増刊)
であった。中途で一回休んでいるが、ともかく六カ月つづけたわけである。その中には「黒手組」や「幽霊」のような駄作もあるが、「D坂」「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」などは、私の短篇の代表的なものに属するわけで、この連続短篇はまずまず成功であった。この年には、「新青年」の七篇のほかに「苦楽」(二篇発表、その一篇は「人間椅子」であった)「新小説」「写真報知」「映画と探偵」などに九篇の短篇を書いているから、合せて十六篇となる。私としてはよく書いた年であり、私の初期の代表的な短篇の半分近くは、この年に発表したといってもいいようである。
【火繩銃】 学生時代、日記帳の余白に書きつけておいたものを、昭和七年、平凡社「江戸川乱歩全集」第十一巻に入れたもの。幼稚な文章である。しかし、このトリックは、西洋ではポーストの「アンクル・アブナー」(一九一八年)の中の「ヅームドルフ事件」ではじめて使われ、のちにルブランが「八点鐘」の中の「水壜」で同じトリックを使っているのだが、私の「火繩銃」は大学卒業の大正五年(一九一六年)よりも一、二年早いわけで、トリックだけではポーストや、ルブランに先んじていたわけである。
【黒手組】 「新青年」大正十四年三月号発表。「心理試験」につづいて連続短編としては第二作であったが、これはどうも失敗だった。暗号がただむずかしいばかりで、味もそっけもなく、同じ暗号小説でも、「二銭銅貨」とは比べものにならない。もしこの作に取りえがあるとすれば、足跡の謎の部分であろう。
この小説は昭和六年七月、帝劇で、市川小太夫一座によって劇化上演せられた。小太夫君はその後「陰獣」も自ら脚色して、新橋演舞場で上演したが、この二つの劇については拙著「探偵小説四十年」に詳しくしるしておいた。
【夢遊病者の死】 やはり大阪の「苦楽」の大正十四年七月号にのせたもの。この号には、探偵小説特集頁を設け、そこに片岡鉄兵ほか二人の文壇作家の探偵小説と一緒にのったものである。発表の時には「夢遊病者彦太郎の死」という長い表題であった。この小説の花氷のトリックは、西洋の作品にも前例がないと思うが、私の怪奇小説のほうは大いに好評を博したのに比べて、こういうトリックだけの純探偵小説は一向に歓迎されなかった。そこに、私が怪奇小説ばかり書くようになった一半の理由があったようである。
【幽霊】 「新青年」大正十四年五月号に発表。私が作家として出発したとき、「新青年」編集長の森下雨村さんが、六回連続の短篇を書かせてくださった中の一篇である。その連続短篇は「D坂の殺人事件」「心理試験」「黒手組」「赤い部屋」「幽霊」「白昼夢」「屋根裏の散歩者」とつづいたのだが、「幽霊」はその中で最もつまらない作品であった。
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【指環】 「新青年」大正十四年七月号に「白昼夢」とならべて、「小品二題」という一括見出しをつけて発表したもの。「白昼夢」の方は大いに好評であったが、この「指環」は黙殺された。私のくせの変態心理的なものが出ていない作品はいつも評判が悪いのだが、ことにこれは単なるドンデン返し小説にすぎず、その手際もあまりうまくなかったのだから、黙殺されたのも当然であろう。
【日記帳】 「写真報知」大正十四年四月の号に発表。「モノグラム」の解説に書いた内気者の秘密通信小説の一つである。
【接吻】 大阪の「映画と探偵」大正十四年五月号に発表。この雑誌は大阪の三好正明という人が出していた。その三好君と私はよく会っていたので、頼まれるままに執筆したもの。私の柄にないユーモア小説である。
【モノグラム】 春陽堂「新小説」大正十五年七月号(?)に発表。私は、非常に内気な人間が、恋愛などの意志を伝えるために、暗号通信をする話を三つ書いている。「算盤が恋を語る話」「モノグラム」「日記帳」がそれである。「プロバビリティの犯罪」の、犯人は絶対安全で、しくじったら何度でもやり直すというずるい方法と似ている。拒絶せられても、あれは恋文ではなかったと言えるような、内気な内気な通信である。
【算盤が恋を語る話】 「写真報知」大正十四年四月の号に発表。暗号小説の掌篇である。私は昭和七年に三重県鳥羽町(今は市)の鈴木商店鳥羽造船所の電機部(今の神鋼電機の前身)の事務員をやっていたことがあり、この作の背景になっている造船所は、そこを思い出しながら書いたものである。
【妻に失恋した男】 「産経時事」(今の「サンケイ新聞」の前身)昭和三十二年十月六日より十一月三日までに五回連載。これも主な探偵作家が揃って書くというので、私も書かないわけには行かなかった。カーのトリックを借用している。
この全集の各巻の終りに全作品の目録がつけてあるが、その目録ではこの作を「妻を恋した男」と誤っている。私の最初に渡した目録の原稿がまちがっていて、その誤りに、この最後の巻の校訂をするときまで気がつかなかったのである。お詫びします。
【盗難】 週刊「写真報知」大正十四年五月ごろの号に発表。どこか落語を連想させる軽い読物である。私は昔から、探偵小説と共に落語が大好物であった。両方ともドンデン返しと「落ち」のある点が近似しているからであろうか。この作にはその私の二つの好物が混りあっているように思われる。
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【断崖】 「報知新聞」昭和二十五年三月一日から十二回連載の短篇。同じものを「宝石」六月号にも掲載した。そのころ報知新聞の編集局長となった白石潔君にそそのかされて書いたもの。ほとんど十年振りといってもよいほど久しぶりの小説だったが、新味の摸索に成功せず、ただ正当防衛と見せかけた殺人というトリックに僅かに新味があったにすぎない。もっと長く書くことが望ましかったが、結局、短い会話体にしてしまったのも窮余の一策であった。
【兇器】 大阪の「産業経済新聞」昭和二十九年六月中に五回連載。数名の探偵作家が顔を並べる企画で、たしか探偵作家クラブが注文を受けた関係上、ことわるわけに行かず、無理に書いたもので、トリックもカーの短篇から借用している。
【疑惑】 「写真報知」大正十四年九月の号に発表。精神分析探偵小説を書いて見ようとしたものである。しかし、充分想を練るひまがなく、ちょっとした思いつきだけで書いたので、成功したものとは言えない。意あって力足らぬ作品である。だが、私の短篇では珍らしいものの一つには違いないと思う。
【一枚の切符】 「新青年」大正十二年七月号に発表。処女作「二銭銅貨」と同時に書き上げて、森下雨村さんに送ったもの。やはり「二銭銅貨」の方がいろいろな意味で面白いので、この「一枚の切符」はその蔭に隠れてしまったが、書いたときには、私はこの二作に甲乙をつけていなかった。謎解きとしては「一枚の切符」の方が複雑で読みごたえがあるとさえ思っていた。しかし、これは普通の意味の小説的要素(この場合は身辺小説的要素)が乏しいので、結局、「二銭銅貨」にかなわなかった。探偵小説の評価にも、普通の小説的要素というものが大きく影響するものである。
【二癈人】 「新青年」大正十三年六月号に発表。私は専業作家になる前に、二年間の余技時代があった。その二年間に、私はたった五つの短篇しか発表していない。第一年目の大正十二年には、処女作「二銭銅貨」のほかに「一枚の切符」と「恐ろしき錯誤」、第二年目の大正十三年には、この「二癈人」と「双生児」で、いずれも発表誌は「新青年」であった。だから、これは処女作から四つ目の作品なのだが、発表当時、なかなか好評で、私の代表作の一つに数えられていたものである。この作はジェームス・ハリス君による私の英訳短篇集 Japanese Tales of Mystery and Imagination(1956)の中にTwo Crippled Menと 題して編入されている。
【灰神楽】 「大衆文芸」大正十五年三月号に発表。これは大衆文学というものの創始期に報知新聞から出ていた同人雑誌。同人は大衆文学の名づけ親である白井喬二氏をはじめ、直木三十五、長谷川伸などの諸氏十一名、その中に探偵作家としては、小酒井博士と私とが加わっていた。同人の義務として毎月小説を一篇寄稿しなければならなかったのだが、私は通巻二十号ほどで廃刊になるまでに、たった三篇しか寄稿していない。それはこの「灰神楽」のほかに、「お勢登場」と「鏡地獄」であった。三篇のうちでは「鏡地獄」が最も好評で、「赤い部屋」などと同じく、のちのちまでも人の口の端にのぼった。「お勢登場」も発表当時はなかなか好評であったが、「灰神楽」だけは全く黙殺されてしまった。これは本格ものであって、私の妙な持ち味が少しも出ていなかったからであろう。そういうことが私をますます変格ものへはしらせたのである。
【石榴】 「中央公論」昭和九年九月号に発表。(柘榴とも書くが私は石榴の方が正しいと教わっている)そのころ中央公論からしばしば原稿の依頼を受けていたが、実際に執筆したのはこれ一篇だけであった。中央公論は私のこの作を、ほとんど一枚看板のようにして優待してくれた。編集後記にも「これこそ筆者自身が久方振りの力作と自負される問題のもの、先月号に於て、永井荷風氏の「ひかげの花」が一大波紋を呼び、本号またこの大作を得て、吾らの意気は昂る」と大物扱いであった。中央公論のこの号は評論に切り取りを命ぜられたものがあり(戦前には、小売店に配本されている雑誌から、問題の部分だけ切り取らせて販売させるという罰則があった。出版社にとっては、雑誌全体を発売禁止処分にされるより、この方がましだったのである)改訂版として再広告をしなければならなかったのだが、その再広告には私の「石榴」だけが「本年度収穫の圧巻」と称して、大きくのせられたものである。この作は純文学評論家から批評を受けたが、多くは悪評であった。私の作が新味に乏しかったせいでもあるが、一つには、中央公論が大衆小説を一枚看板にしたことへの反感もあったのではないかと思う。それらの批評は拙著「探偵小説四十年」に詳しく記録しておいた。
編者あとがき
[#地から2字上げ]日下三蔵
江戸川乱歩の小説が面白いことは、今さらいうまでもないだろう。面白いからこそ五十年、六十年、中には七十年以上前に書かれたものもあるのに、現在も全作品が読み継がれているのだ。乱歩の作品が、エンターテインメントとしては、驚異的な息の長さを保っているのは、その発想・技術・文章、すべてがズバ抜けていたからであり、日本探偵小説の基礎を築いた巨人の天才の証明でもある。
これは、多くの人に同意していただけると思うのだが、乱歩の場合、長篇よりも短篇のほうが、概して出来がいい。新聞・雑誌に連載された、いわゆる「通俗もの」の長篇は、構成に破綻を来たしている場合があるからだ。もちろん、そうした作品でも読めばそれなりに面白く、乱歩自身が嫌っていたような意味での駄作では決してないのであるが。一方、短篇のほうは、かなりの作品が傑作といって差し支えあるまい。それは、この三巻本を通読いただければ、お判りになるはずである。
乱歩の小説は、全作品をまとめても、文庫版で二十〜三十冊の分量しかないため、春陽文庫や角川文庫、あるいは各社の全集版のように、長・短とりまぜて刊行されるケースが多かった。短篇だけの傑作集は、新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』か創元推理文庫の『D坂の殺人事件』ぐらいしか見当たらず、これらは質の点では申し分ないものの、量には不満が残る(いずれも三百ページ前後)。ほとんどの作品が面白いのだから、いっそ短篇だけの全集を作ってしまえばいいのではないか、ということで、本全集が生まれた次第である。
本全集には、連作(複数作家によるリレー小説)をのぞく二百枚以内の乱歩作品をすべて収録した。まず、全短篇を、謎解きを興味の中心に据えた本格ミステリと、猟奇趣味あふれる怪奇・幻想小説の二つの系統に分類、さらに前者から、百枚以上の作品を別にまとめて、全三巻とした。底本には、乱歩自身が全作品に校訂を施した桃源社版『江戸川乱歩全集』全十八巻(昭和三十六年〜三十八年)を用いた。本文中の[註]は、乱歩の手によるものだが、貨幣価値などについては、昭和三十年代のものであるということを念頭に入れて、お読みいただきたい。また、桃源社版の各巻あとがきでは、自作の一つ一つについて、丁寧な解説がなされているので、本全集でも、各巻収録作品の該当部分を巻末に収めておいた。
三分冊各巻の構成について、補足しておこう。実はこれ、編者の独創ではなく、乱歩自身による分類を、借用したものなのである。昭和二年に刊行された平凡社版『現代大衆小説全集第三巻/江戸川乱歩集』は、乱歩がデビューした大正十二年以降の作品を、ほとんどすべて収録した、千数十ページにおよぶ大部の本だが、これが三部構成になっているのだ。まずは、この本の「はしがき」をお読みいただくのがいいだろう。(文字使いは、新字・新仮名に直した)
「ここに収めました丈けが、私の現在までの作品の殆ど全部であります。全部を入れなければ、一千頁に充たない程、私は書いていなかった訳です。自分の気力の一人前でないことを感じます。そういう訳で、作品を選むなんて贅沢な真似は出来なかったのです。いやだと思いながら、止むを得ず加えたものが随分あります。長篇物が殊にそうでした。お恥しいことです。
内容を三部に分けて見ました。第一部は純粋の探偵小説、第二部は私の妙な趣味が書かせた謂わば変格的な探偵小説、第三部は新聞雑誌に連載した長篇物であります。中に『闇に蠢く』は雑誌に連載中、作者が興味を失って、中絶し、そのまま単行本にも収めたものですが、今度全集のために、数十枚を書き加えて、兎も角も結末をつけて置きました」
この本の収録作品は、以下の通り。
第一部 二銭銅貨、D坂の殺人事件、心理試験、黒手組、一枚の切符、灰神楽
第二部 二癈人、赤い部屋、白昼夢、屋根裏の散歩者、踊る一寸法師、毒草、鏡地獄、人間椅子
第三部 パノラマ島奇談、一寸法師、湖畔亭事件、闇に蠢く
つまり、この三部構成が、本全集の一巻、三巻、二巻にそれぞれ対応、その後の同傾向の作品を増補する形で編集されている訳だ。本全集の方では、第三部の収録作品のうち、二百枚ちょうどの「湖畔亭事件」しか入っていなかったり、逆に百枚ちょっとの「屋根裏の散歩者」が二巻に入っていたりと、若干の異動はあるものの、基本的な分類コンセプトは、この平凡社版現代大衆小説全集を踏襲しているのが、お解りいただけるだろう。
第一巻には、乱歩の謎解き短篇のうち、百枚以内の作品をすべて収めた。三十枚以内の小品を途中にまとめてあるが、これは緊密な構成で頭を使う作品が多いので、息抜きに利用していただくためだ。また、編集の都合上、分量的には本来第二巻に入るべき百二十枚の傑作「石榴」を巻末においたが、これは一巻の締めくくりであると同時に、二巻の予告篇でもある。
乱歩によるあとがきを読むと、怪奇小説にくらべて本格ミステリの評価が低い、という意味のことが何度も出てくるが、当時の、つまりミステリが探偵小説と呼ばれていた時代には、それもやむを得なかったような気がする。他ならぬ乱歩自身の作品を含め、怪奇・幻想小説までも内包する混沌とした妖しさが、探偵小説の魅力の一つであることは間違いないからだ。
しかし、謎解き小説がミステリにおける中核的な一ジャンルとして、完全に定着している現在ならば、そんなことはあるまい。現在の読者は、六〇年代の松本清張ブーム、七〇年代の横溝正史ブームを経て、島田荘司、綾辻行人から、北村薫、京極夏彦にいたる本格ミステリの流れに接しているのだから。むしろ、今だからこそ、大正末から昭和初期にかけて、これだけ理知的なパズラーを書いていた先駆者・江戸川乱歩の偉大さが、はっきり判るのではないだろうか。
乱歩短篇の精髄ともいうべき本書を、まずはじっくりと味わっていただきたいと思う。
江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
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一八九四―一九六五年。本名平井太郎。三重県名張の生まれ。会社員、古本屋、新聞記者など職業を転々としたのち、大正一二年(一九二三)、雑誌『新青年』に『二銭銅貨』を発表。日本探偵小説の基礎を築いた。筆名はエドガー・アラン・ポーにちなむ。著書に『心理試験』『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』『幻影城』など多数。
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日下三蔵(くさか・さんぞう)
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一九六八年、神奈川県生まれ。出版社勤務を経て、現在はフリー編集者・ミステリ評論家として活動中。編著に、山田風太郎奇想コレクション(全五巻/ハルキ文庫)、木々高太郎『光とその影/決闘』(講談社文庫/大衆文学館)等。
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本作品は一九九八年五月、ちくま文庫として刊行された。
江戸川乱歩全短篇1
本格推理T
2002年1月25日 初版発行
著者 江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
編者 日下三蔵(くさか・さんぞう)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) RYUTARO HIRAI 2002
========== 注記 ==========
二銭銅貨
167行
暗号表内の拗音については、
江戸川乱歩推理文庫@ 二銭銅貨(講談社) → 拗音として小さい字で
日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集(創元推理文庫) → 大きい字で
と異なっていますが、ここでは創元推理文庫版を採りました。
なお、点字に自動翻訳してくれる、
http://muzik.gr.jp/tenji/conv_tenji.asp
で、
「ごけんちょうしょうじきどうからおもちゃのさつをうけとれうけとりにんのなはだいこくやしょうてん」
という文章で翻訳すると、暗号表の通りに変換してくれました。しかし、この場合拗音(ゃゅょ)もきちんと点字化されています。なので、
「ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン」
が正しい翻訳結果となります。点字では昔から音をそのまま表記していたのでしょう。
184行
本来はルビでなく白丸傍点とするべきですが、ビューワの対応を鑑みてルビとしました。
心理試験
画像部分は日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集による
(春陽堂版とは漢字/ひらがななどが少し異なります)
恐ろしき錯誤
525行
彼はもがくようにして立ち上がった。
底本では「もが」は「足偏」+「宛」となっていますが、春陽堂版に従いひらがな化しました。
疑惑
2179行
おかあさんクシをなくしやしないかって。
「クシ」は文字不明だが底本では漢字らしい。春陽堂文庫版では「クシ」となっていたので「クシ」とした。他にこの作品中に出てくる「クシ」も同様です。
===== 校正に利用した底本 =====
春陽堂江戸川乱歩文庫
D坂の殺人事件 江戸川乱歩文庫
昭和62年6月5日 新装第1刷発行
心理試験 江戸川乱歩文庫
昭和62年7月5日 新装第1刷発行
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日本探偵小説全集2
江戸川乱歩集
1984年10月26日初版
1985年5月10日4版
東京創元社
江戸川乱歩推理文庫1
二銭銅貨
昭和62年9月25日 第一刷発行
株式会社講談社