TITLE : たかが江川されど江川
たかが江川されど江川
江川 卓
玉置 肇
永瀬郷太郎
西村欣也 著
目 次
プロローグ
第一章 「背番号30」が誕生するまで
僕《ぼく》にとっての「空白の一日」
親《おや》父《じ》のこと
高所恐怖症と閉所恐怖症
親《おや》父《じ》の権威
親父なりの野球教育
“甲子園と早慶戦”が決めた高校受験
「雨に散る江川」の感激
慶応受験失敗
女《によう》房《ぼう》との出会い
パパからオヤジへ
はじめての反抗期
不運のドラフト
アメリカ留学
「空白の一日」というパズル
第二章 たかが一球、されど一球
開幕投手
小林さんとの対決
“二十勝”裏話
最初で最後の日本一
大《おお》杉《すぎ》さんへの一球
球宴の九連続三振ならず
バースに献上した一発
僕《ぼく》と女《によう》房《ぼう》だけの「引退試合」
第三章 スタジアムの向う側
パパ、やめるんでしょ
愛妻家と暴君
引退を決めた直球
成金趣味の原体験
ワイン熱
田園調布に憧《あこが》れて
シラケ世代の仲間たち
僕《ぼく》の金銭感覚
解説者修行
エピローグ
延長戦 「たかが、されど」再び
三年たって
されど、されど江川
江川監督待望論
三十年たったら
プロローグ
ウイニング・ショットの直球がキャッチャーのミットに吸い込まれる。空振りする四番打者。三振――。この最高の一瞬のために、僕《ぼく》はマウンドに立った。
昭和五十三年十一月のドラフト、その日から、僕の野球人生は一変した。というより、人生そのものがそこで切れてしまった。騒然とした雰《ふん》囲《い》気《き》の中で、二十三歳の僕は自分が自分でないような感覚に襲われたし、精神的にひどく追い詰められもした。
しかし、いわば「逆境」にあった僕を支えたのは、やはり野球だった。素晴らしいプロの打者と勝負する一瞬の輝きだった。
あの日以来、さまざまに語られたことに対して、僕はこれまで一度たりとも弁解してこなかった。言うまでもなく周囲の方々の励ましと家族の支えがあってのことであるが、なにより強打者を打ち取る直球が僕を奮い立たせた。「たかが野球」かもしれないが、僕には「されど野球」だった。
今にして思う。もし僕が、投手として人間として自分を信じることができなかったら、この九年間の野球生活を乗り切ることはできなかったと。
この本の題名には、そんな僕の思いがこもっている。
子供のころから憧《あこが》れたプロ野球の世界から引退した今、はじめて僕は、自分自身の言葉で本当の「江川卓」を語ろうと思う。幼年時代のこと、「空白の一日」をめぐる出来事、記憶に残る一球のこと、そして家族のこと――。
精一杯思い出したつもりだが、僕の記憶だけで足りない所は、仲の良いスポーツ紙の記者である玉《たま》置《き》肇《はじむ》、永瀬郷太郎、西村欣《きん》也《や》の各氏、妻の正子の協力を得た。
三十三歳、新しい人生への出発にあたって、僕はこの本を書いた。もちろん、真っ向勝負の直球である。マウンドを降りても、僕にはやはり速球がすべてなのだから。
第一章 「背番号30」が誕生するまで
僕《ぼく》にとっての「空白の一日」
時計の針は夜の十時半を少し回っていた。留学先のロサンゼルスのアパートでなんとなくテレビを眺《なが》めていると、電話が鳴った。やっと英語にも慣れ、一人住まいのアパートにも、アメリカ人の友人からかかってくることがある。「ハロー」。“ロ”のところに力を入れて、それなりの発音で答えて耳をすますと、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「卓《すぐる》、すぐ日本に帰ってこい」
親《おや》父《じ》だ。いつもながらの有無を言わさぬ命令調……。でも、ちょっと待てよ。「すぐ日本に帰ってこい」だって――。僕はいったい何事が起こったのかと思った。日本でドラフトが行なわれる二十二日(ロス時間二十一日)には、その結果を待ってロスで記者会見を行なう手はずになっていた。会見場として、リトル・トウキョウにある日本レストラン「ほり川」に予約も入れてあった。それは親父も承知しているはずなのに、どうしてこんなに急に? なにかよくないことでも起こったのだろうか。あわてて「どうしたの?」と聞いた。
「巨人に入れるかもしれないんだ」
たまげた。耳を疑った。ドラフト制度がある以上、そのドラフト会議が行なわれる前から「巨人に入れるかもしれない」なんて……。
あの親父のことだから、巨人を除く十一球団から「江川は指名しない」という約束を取りつけたとでもいうのだろうか。いやいや、いくらなんでも、それは……。僕の頭はすっかり混乱した。
「ど、どういうこと?」
僕は受話器を握る手に力を込めて聞き返した。しかし、親父は、
「それは帰るまで説明できない。いいから明日の飛行機に乗れ」
と、今にも電話を切ってしまいそうな気配で言う。もともと親父はロスへ電話をかけてきても、いつも要件だけ言うと一方的に切ってしまう。国際電話は高いからということらしいが、今度ばかりは事情が事情である。自分の一生を左右する問題だ。説明を聞かなければ納得できない。僕はなおも喰《く》い下がった。だが親父は、
「とにかく帰ってこい。じゃあな」
命令調に言うなり、ガチャンと電話を切ってしまったのである。こちらからかけなおそうとも思った。だが頑《がん》固《こ》な親父のことだ。「説明できない」と一度言ったものを、説明してくれるわけがない。仕方なく僕も受話器を置いた。
しばらくは、「巨人に入れるかも」という親父の言葉が頭の中で何度も鳴り響いた。だが、どうしても、なぜ巨人に入れるのかわからない。今から思えば不謹慎な話かもしれないが、そのうち僕の思いはまったく別の方向にスライスしていった。
明日、日本に帰ってこいだって? 日本に帰れば、正《まさ》子《こ》に会えるじゃないか。当時、すでに僕たちは婚約中だったが、日本とロスではなればなれになっていて、会いたくてもすぐには会えなかった。急に帰ったら、あいつ、さぞかし驚くだろうな。そうだ。あの「エルメス」のハンドバッグのこともあるし……。僕は急にウキウキした気分になった。
八月に正子がロスに遊びに来たときのことだ。有名ブランド商品の専門店が軒を並べるロデオ通りに出かけ、ブラブラとウインドウショッピングをしていると、どの店もお客でごった返しているというのに、なかに一軒だけ、目立って客の入っていない店がある。正子に「何でこの店は客が少ないんだ?」と聞くと、「高いからじゃないの」という。
そう言われると、どんな物を置いているのか覗《のぞ》いてみたくなるのが僕の性格だ。店に入ってみると、なるほど高い。「グッチ」や「セリーヌ」に比べても、格段に大きな数字の値札が並んでいる。はじめて見るその超高級ブランドが、他《ほか》でもない「エルメス」だった。
見るだけで済ませばよかったのに、このとき僕の“病気”がムクムクと頭をもたげた。見《み》栄《え》である。何か買ってやらなきゃ、男がすたる……。高いなあ、と思いながらも、正子に「何か買ってやるよ」ともちかけたのだ。「嬉《うれ》しいわ」と言うと思ったのに、正子はなんと、
「いいわよ、高いから。こんなの無理よ」
と言うではないか。これにはカチンときた。確かにこちらはプロ入り前の、親のスネをかじる浪人中の身である。とはいえ、せっかく彼氏が精一杯無理して、買ってやろうというものを、「高いから無理よ」とはあんまりだ。恋する乙女にしては結婚前からずいぶんと現実的ではないか。夢多く多感な江川青年としては、大いに傷ついてしまった。
その場はブスッとして、すぐに店を出た。でも、このまま黙ってひっ込んでいるようでは男がすたる。「高くて買えない」なんていうのは、男を侮辱している。日本に帰るときには絶対に「エルメス」を買って帰ろうと、心に誓った。「おい、これ」とさり気なく渡して、ビックリさせてやる。そうしないでこの胸が晴れるか、と意地になったわけである。「巨人に入れるかも」の緊急帰国命令、思いがけず早くそのチャンスがきたのである。
親父から帰国命令が下った翌日、僕はさっそく飛行機の切符の入手に走った。なにぶん急なことで、いつも利用する「エコノミー・クラス」はどこも満員。やっと取れたのは身分不相応な、JALの「ファースト・クラス」だった。
さて、足を確保してしまえば、ロデオ通りへ一直線。あり金を数えてから「エルメス」の店へ飛び込み、手にしたのはトカゲ革で臙《えん》脂《じ》色《いろ》のハンドバッグ。値札には千二百ドル(!)とついている。よし、これなら何とか足りる。もう一度お札を数え直して、店員さんのところへ持っていった。
生まれて初めて「ファースト・クラス」のゆったりとしたシートに身を沈めた僕の財布には、一ドル紙幣がわずか五枚……。でも、僕は正子が「エルメス」を手にして驚き喜ぶ顔を思い浮かべ、高所恐怖症も忘れ、リッチな気分で快適な空の旅を楽しんだのだった。
江川を乗せた日航六十一便は、定刻より三十二分遅れ、昭和五十三年十一月二十日午後五時二分、成田空港に到着した。
突然の帰国ではあったが、ロスでの記者会見がキャンセルになったこともあって、彼の帰国はマスコミにも知らされ、空港には約七十人もの報道関係者が詰めかけていた。江川が姿を現わすと空港ロビーは一時大パニックとなった。あまりの騒動に表情をこわばらせた江川は二、三の質問に対し、「ドラフト前の感想? こんな騒ぎの中では答えられません」などとかわし、出迎えの車に乗り込んだ。
江川の後見人、船田中《なか》衆議院議員秘書の大島孝氏が運転する車は、京葉道路を一路東京に向かい、東京・南青山の船田議員宅に午後七時三十五分、到着する。
「ファースト・クラス」での優雅な空の旅からまさに一転、冷水を頭からぶっかけられた思いがした。成田でのあの騒動には、大いに面喰らった。アメリカでの一年間、日本のマスコミから遠ざかって生活していただけに、自分の帰国がこんな大騒ぎになるとはまるで予測していなかった。自分がマスコミに騒がれる対象であるという感覚がなくなっていたのだ。
報道陣から解放され、船田先生の秘書の実進さん、大島さんと車に乗り込んでから、やっと日本に戻《もど》ったのだという実感と安《あん》堵《ど》感《かん》に包まれた。四月に渡米後、六月に日本で開かれた日米大学野球のエキジビション・ゲームで投げるために一時帰国したものの、なにしろ約五カ月ぶりの日本である。
僕たちの車を鈴なりになって追ってくる何台もの黒塗りのハイヤーは気になったが、すべての会話が日本語ということが僕をなごませてくれた。アメリカでのみやげ話をしながら、車は南青山の船田代議士のお宅に向かった。
作新学院の理事長で、僕の後見人でもあった船田先生に、まずは帰国の報告である。手短かに留学中の体験談などを話してから、近くの実さん宅へ場所を移した。
こちらには、すでに親父も来ていた。だが、親父はそっちのけで、僕は実さんにそっと耳打ちした。もちろん「正子を呼んでもいいですか」である。「いいんじゃないの」と実さんはサラリと言ってくれた。ちょっとヤバイかなとも思ったけど、僕はさっそく正子に電話をいれた。一刻も早く、例のものを見せて、驚かせたかったのだ。
差し入れのケーキを携えた正子が実さんの家に着いたのは夜の十一時前だったろうか。外で張っていた新聞記者の数は徐々に減っていたらしいが、「一社にだけ、写真を撮られちゃった」と言いながら正子は応接間に入ってきた。
もう結婚は決めているのだから、そんなことはどうでもいい。それより、早く彼女の驚く顔が見たい。僕は隣に座った正子の膝《ひざ》を足でつついて、「エルメス」の包みをそっと渡した。ロス以来、待ちに待っていた瞬間がついにやってきたのだ。
応接間には、僕、親父、実さんのほかに、二、三人が何だか緊張の面《おも》持《も》ちで同席していた。正子は敏感にその場のどことなく重苦しい空気を感じたという。みんなの目の前でプレゼントを開けるムードではとてもないと思ったのだそうだが、僕は「巨人に入れるかも」のことなど半分忘れかけて彼女の到着を待っていたくらいだ。もじもじする正子に「いいから、開けてみろよ」と囁《ささや》いて、ようやく包みを開かせた。
結果は、がっかりだった。正子はちょっとだけ驚く表情は見せたものの、何も言わないで、隠すように包みを閉じた。彼女にしてみれば、その場の雰《ふん》囲《い》気《き》が雰囲気だったから、あえて感情を抑えたに違いない。驚いたあとに「タク(当時、彼女は僕をこう呼んでいた)、ありがとう」とでもいって目を輝かせるシーンを期待していた僕のほうは、反応のあまりの小ささに、旅の疲れがドッと出た。
すっかりしらけたとはいえ、何しろ僕はおしゃべりなタイプ。久しぶりに日本人相手に日本語を思う存分話すことのできた僕は、あれこれアメリカでの体験談などをしゃべりつづけて、気づいたときには時計の針はもう十二時近くを指していた。「明日になるまで起きていようよ」と何も知らぬ僕は正子とのんきに言葉を交わしながら、運命の日である二十一日を迎えたのである。残念ながら「もう遅いから正子さんは帰りなさい」と促されて彼女は退席。正子がいなくなって急に時差ボケで眠くなった僕は、「話は明日する。七時半に起こすから寝なさい」と親父に言われて、実さんのお宅に用意されたふとんに入った。あれ、そういえばあの話、巨人に入れるウンヌンは……と思う間もなく眠りに落ちていった。ちなみに、とりたてて理由があるわけではないけれど、その後女《によう》房《ぼう》は、あのハンドバッグを一度も使ったことがない。
当時の新聞報道によると、実邸で江川が眠りに就いた午前零時すぎ、実秘書は東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニに向かい、巨人・長谷川実雄球団代表と会談。巨人側には山本栄則顧問弁護士も加わり、約四時間の協議が行なわれたという。「空白の一日」を突く“巨人入団劇”の筋書きが最終的に確認されたに違いない。
予定通り七時半に目を覚ました僕は、グッスリ眠れたおかげか、時差ボケもさほどなくスッキリしていた。
親父も実さんも、すでに身仕度を整えている。僕も急いで顔を洗い、服を着て応接間のソファーに座ると、「あの話だが……」と親父が神妙な表情で切り出した。
「野球協約によると、ドラフト会議の前々日、つまりきのう二十日、前の年のドラフトで指名した球団の交渉権が切れることになっている。(クラウンの後身である)西武の交渉権はきのうで切れ、今はどこの球団も束縛権はもっていない。従ってきょう二十一日は、どこの球団とも自由に契約ができるんだ」
背スジがゾッとした。そんなことが本当に可能なのか。今までそんな方法で契約した選手はひとりもいないはずだ。想像もしなかったシナリオに僕はただただ驚くばかりだった。だが、親父は自信たっぷりに頷《うなず》いている。
「ホラ、ここだ」
野球協約の該当する部分を見せられた。半信半疑で第百三十八条を読むと、なるほど一日だけ空いている日がある。さらに第百三十三条によると、ドラフトにかかるべき選手は「日本の中学校、高等学校、大学に在籍し未だいずれの球団とも選手契約を締結したことのない選手」となっている。考えてみれば、僕は今年(昭和五十三年)の三月に法政を卒業し、現在はいわばフリーの身である。とすると、規則の上から考えてみても、きょう一日に限って、僕はどの球団とも自由に契約してかまわないわけだ。
世の中は広い。誰《だれ》が気づいたことかは知らないけれど、頭のいい人がいるものだ。理屈は通っている。世の中には、いろんな抜け穴があるとは聞かされていたが、自分の関《かか》わるもの、つまりドラフトにこんな抜け穴があるとは……。しかし、根が臆《おく》病《びよう》な僕のことだ。さあ、どうすると言われても、すぐには結論が出せなかった。
不安があった。この「空白の一日」を活用した前例がまったくなかったことだ。野球協約を何度も何度も、その場で読み返した。なるほど納得はできる。間違いなく「空白の一日」は存在する。でも……。僕の心は揺れた。もともと、次のドラフトにかけようと覚悟は決めていたのだし、前代未聞の抜け穴を通り抜けたりせずに、明日まで待った方がいいのではないか……。すると、もうひとりの僕が囁《ささや》きかけてきた。法律的に問題はないんだ、お前はアメリカで、法的合理主義の精神で人々が自分の権利を通す姿を、目《ま》のあたりにして来たはずじゃないか、今日なら正々堂々、巨人と契約できる、夢が叶《かな》うんだ……。そしてまた、今日しかないのだ、明日では遅すぎる……。
結論を出すには一時間ほどかかった。法律の専門家も「問題ない」と太鼓判を押してくれているという。親父に「本当に間違いないんだね?」と訊《たず》ねても、「大丈夫だ」と確信に満ちた言葉が返ってくる。僕にとって親父は、まだまだ絶対的な存在ではあったし、その場の雰囲気も僕の感じた限り、なにかいけないことをしているというムードではなかったことが、次第に不安を消していった。そして何より、まがりなりにも法学部を卒業した僕が、何度野球協約を読み直しても正当だと判断できる。
よし、僕は決断した。「巨人と契約するよ」と親父や実さんにきっぱり伝えた。二人の顔に心なしか安堵感のようなものが走ったような気がした。こうなると展開は早い。船田先生の事務所がある虎ノ門の全共連ビルに巨人と契約の場をすでにセッティングしてあるという。僕はあわただしく紺のスーツに着替えて、全共連ビルに向かった。
そして午前九時。船田先生立ち合いのもと僕は巨人との統一契約書にサインしたのである。
それまで写真やテレビでしか見たことのなかった正力亨オーナーと握手をかわしているうちに、小さいころからの夢が叶ったという実感が湧《わ》いてきた。晴れて巨人のユニフォームを着られるのだ。後楽園のマウンドに立てるのだ。
僕は舞い上がった。
〈野球協約〉
『第百三十三条(新人選手の選択) 球団は、日本の中学校、高等学校、大学に在籍し未だいずれの球団とも選手契約を締結したことのない選手(以下「新人選手」という)と、選手契約を締結するためには、選択会議で同選手に対する選手契約締結の交渉権を取得しなければならない。(後略)』
『第百三十八条(交渉権の喪失と選択) 球団が選択した選手と翌年の選択会議開催日の前々日までに、選手契約を締結し支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手にたいする選手契約交渉権を喪失するとともに、以後の選択会議で、再びその選手を選択することはできない。(後略)』
親《おや》父《じ》のこと
栃木県小《お》山《やま》市の実家にある古いアルバムには、笑っている僕《ぼく》の写真は一枚もない。これを見れば誰《だれ》だって、おそらく子供のころの江川は暗い性格だったんだなと、思うに違いない。
どの写真も“気をつけ”をして直立不動。頭には帽子、足《あし》許《もと》は革《かわ》靴《ぐつ》、その上しかめっ面《つら》ときている。今時の子供は、カメラを向けられると「チーズ」なんて言わないまでも、ニッコリ笑う。やにわにVサインをこしらえ、おどけたポーズをとる男の子も少なくない。それに比べて江川少年の何と暗いことか……。
でも、けっして性格が暗かったわけじゃない。これには深い深いわけがある。親父の命令があったのだ。カメラのファインダーを覗《のぞ》きながら「卓《すぐる》、笑ったり歯を出したりしたらいかんぞ」と、あの怖い声で言うのである。
昔も今も「さあ、笑って笑って」と笑顔の写真を撮りたがる親が多いのに、僕の親父ときたら……。
笑えない写真の理由は後で書くとして、とにかく、僕の“パパ”はちょっとばかり変わっていた。
“パパ”!? そうなのだ。僕は親父のことをパパと呼んでいた。女《によう》房《ぼう》でさえそれを聞いたとき、「あなたがあのお父さんを“パパ”ですって」と笑い転げたものだ。しかし、これは事実だからしようがない。
昭和三十年代に自分のことを“パパ”と呼ばせていたわけだから、親父はかなり“ハイカラ”だったことになるのだろう。
決まって朝食はパンとコーヒーだった。それだけでも当時は珍しかったが、コーヒーは親父が必ず自分で豆をひいて入れた本格派である。パンにしても、既製の食パンを買ってくるのではなく、自家製だ。
あの時代に、それも南アルプスと赤石山脈が天《てん》竜《りゆう》川に切れ込んだ山あいの町、静岡県磐《いわ》田《た》郡佐《さ》久《く》間《ま》町の久《く》根《ね》鉱山社宅で、鉱山技師一家がそんな生活をしていたのだ。
出張土産も変わっていた。例えばサラミ・ソーセージだ。最初のうちは脂《あぶら》がギトギトしていてこんなもの食えるのかと気持ち悪かったけど、「みんなの食べてるソーセージとは違うんだぞ」と聞かされると、なんだかおいしく思えたものだ。
とにかく、親父は新しもの好きである。わが家には僕が物心ついたときから白黒テレビがあったし、冷蔵庫もあった。狭い社宅で内《うち》風《ぶ》呂《ろ》がなく、二百メートルほど離れたところにある、社宅に住む十五軒の職員の家族が共同で使う風呂に通わなければならなかったのに、何ともアンバランスな、当時としては高級な電化製品がそろっていたわけだ。
旅行にも、年に二回ずつ連れていってもらった。しかも「誰よりも早く」というのが親父の大原則だった。
鳥羽と蒲《がま》郡《ごおり》を結ぶ水中翼船に乗ったのも、新幹線「ひかり」号に乗ったのも、すべて学校で一番最初。小学校六年のときには富士山にも登った。
鉱山技師の給料で、よくぞ電化製品を揃《そろ》えたり年二回の家族旅行をする余裕があったと思うけれど、切り詰めるところは相当切り詰めていたのだと思う。数万円の給料のうち、月に一万円の旅行資金を積み立てていたという。
さて、ここで写真の話に戻《もど》るが、家族旅行に親父がいつも自慢そうに携えたのがカメラである。行く先々で僕に「気をつけ」をさせてはシャッターを切った。おかげで当時としては僕の少年時代の写真がけっこうあるのだが、僕がプロ入りした後のある日、親父はアルバムをめくりながら、こう言ったことがある。
「オレはなあ、卓。お前がスターになったとき写真集を出そうと思ってなあ。将来スターになる子が、どこにも旅行してないっていうのはまずいだろうよ」
ということは、家計を切りつめてまで行った旅行はただ写真を撮るためだったのか。それにしても、あきれる。息子は将来、写真集も出版され、それがベスト・セラーになるくらいに有名なプロ野球選手になるはずだ、と本気で思っていたというのだから……。
いくら子供のときとはいえ、野球選手たるもの、ヘラヘラ笑っているのはよろしくない、と親父が思っていたというのが“直立不動の江川少年”の真相である。
その写真の何枚かはこの本でも紹介されているが(電子書籍では削除しました。編集部)、江川二《ふ》美《み》夫《お》撮影「江川卓写真集」などという代《しろ》物《もの》がどこの出版社からもいまだに出版されていないのは、いうまでもない。
高所恐怖症と閉所恐怖症
江川の父・二美夫氏とその息子・江川の関係は、しばしば劇画『巨人の星』に登場する星一徹・飛雄馬父子のそれに例えられる。是が非でも息子を巨人のエースにしたいと思う父親が、息子に幼いときからスパルタ式の英才教育を施すという図式である。
確かに星父子とオーバーラップする部分はある。二美夫氏は江川が生まれる前、いや、彼の受胎前から「長男はプロ野球の選手にしたかった」のだという。ONの登場でプロ野球が隆盛を迎える前の話だから、ここでも二美夫氏の新しもの好きの精神が、先見の明となって発揮されたのかもしれない。
これこそ劇画チックなエピソードだが、二十七歳で、当時二十三歳だった美代子夫人と結婚した二美夫氏は、「あまり若いときに子供をつくると、親に貫《かん》禄《ろく》がなさすぎる感じになる」と考え、しばらくはバース・コントロールを続けた。そして、いよいよ親になる機が熟した、というとき、二美夫氏は床入りする前に美代子夫人とふたり並んで神《かみ》棚《だな》に手を合わせ、
「野球選手になるような、尻《しり》が大きくて体のでかい子を授かりますように」
と祈ったという。それからピタリ十月十日後の昭和三十年五月二十五日、願い通りの男の子が生まれるのだ。
どうも話ができすぎている……。だが、これだけは反論しておきたいのだけれど、僕《ぼく》は、劇画の主人公のような大リーグ養成ギプスをはめられたことも、親父から野球でしごかれた記憶もない。
確かに、親父が長男をプロ野球の選手にしたかったという話は後で聞いた。ついでに言えば、次男を医者、もう一人生まれていたら、三男は株屋にするというのが親父の夢だったらしい。
だけど、親父から「プロ野球の選手になれ」などと強要された記憶は一度もない。グラブやバットにしても育ち盛りのごく普通の男の子と同じように、遊び道具として与えられたに過ぎない。母方の叔父に野球のうまい人がいたりして、ごく自然に野球が好きになっていっただけだ。
ただし、直接野球と関《かか》わらない部分での“スパルタ教育”という意味では、いやというほどの思い出がある。
幼い頃《ころ》の僕は、ひどく臆《おく》病《びよう》で泣き虫だった。何かあると、すぐにビービー泣いたということだ。「これじゃあ立派な野球選手になれない」と親父は心配したらしく、考えられないような教育を、僕に施すのである。自分が子供を持つ身になって、はじめて親の心がわかるなどというけれど、とんでもない。いま二児の父親である僕には、とうていできない“教育”だった。
この話は僕にはまったく記憶がないのだが、僕が二歳か三歳のとき、親父は僕を福島県の太平洋岸にある豊《とよ》間《ま》灯台に連れていったという。そして、僕を背負って灯台のてっぺんまで登り、海側に向かって、そのまま上体をほぼ直角に曲げたのだそうだ。
ひどい話である。背負われた幼い僕の目の下は、断《だん》崖《がい》絶壁だ。そうでなくても臆病な僕が、死にそうな恐怖心に襲われたのはまず間違いない。親父にすれば、断崖を見下ろしても平然としていられるくらいの度胸を、僕につけさせようとしたらしいのだが、やることが大胆すぎる。となりにいた人がびっくりして、
「お父さん、ひどいですよ。息子さん、真っ青ですよ」
と止めてくれて、ようやく親父は上体を伸ばしたという。後に親父は「ありゃあ、失敗だった」と頭をかいていたが、こっちはたまったものではない。この幼児体験がどうやら僕の“高所恐怖症”につながったのだから……。
でも、まあ“高所恐怖症”のおかげで、女《によう》房《ぼう》と知り合えたわけ(後で詳しく書く)で、これはとりあえず許せるとしても、親父はもうひとつ、僕に“ビョーキ”を植えつけてしまった。
僕は今でも自宅では、トイレも風《ふ》呂《ろ》も戸を開けっ放しではいる。狭い部屋に閉じ込められる、という感覚が怖いからだ。つまり、“閉所恐怖症”というやつである。
これは三、四歳のころの話らしい。何か悪さをして叱《しか》られたときのことだ。ふつうお仕置といえば、せいぜいゲンコツをもらったり、物置に閉じ込められるくらいのものだ。ところが僕の親父は半端じゃない。
なんとテレビの入っていた木箱を持ち出して、その中に僕を押し込めたのである。もちろん僕は泣きじゃくりながら「ごめんなさい」と連呼した。が、それでもあの親父は許してくれない。それどころか箱に蓋《ふた》までかぶせた。
中は真《ま》っ暗《くら》闇《やみ》となった。身動きもできない。ますます大きな声で泣いていると、そのうち「トントン」という音が聞こえる。何かと思ったら、どうやら親父が、蓋が開かぬよう釘《くぎ》を打っているのだ。今でも、あの「トントン」という釘の音は耳に甦《よみが》える。狭い所に閉じ込められるような感覚に襲われると、悪夢の音がどこからともなく聞こえてくるのである。
その他、おんぶ紐《ひも》で手を縛られ、鴨《かも》居《い》から吊《つ》るされるようなこともあったけれど、親父としても、僕に対する教育は文字通り“命がけ”だったのだと思う。
数々のスパルタ教育の甲《か》斐《い》なく、僕は相変わらず臆病なままだった。親父とすれば、次なる手を打たなければならないと、あれこれ考えたのだろう。そこで小学校に上がった年の夏のある日、僕は近くの天竜川に連れていかれた。
「卓、見てろよ。パパがこれから泳いで川を渡るからな」
と言うなり、親父はサッサと服を脱ぎ、川へ入っていく。僕の全身をまたまた恐怖が襲った。ひとくちに川といってもそこは山《やま》間《あい》の急流で、濁った表面はさほどでもないが、水面下は激しい流れが渦《うず》巻《ま》いている。「危険だから絶対に川に入っちゃいけない」と口を酸っぱくして言われていたし、大人が泳いで渡るのも見たことがない。
僕は「パパは死ぬ」と本気で思った。いくら「泳ぐのは得意だ」とはいっても、絶対泳ぎ切ることはできないと思った。
「パパ、行かないで!」
と泣きじゃくりながら叫んだ。結局、親父は急流に負けないよう斜めに泳いで向う岸までたどり着いたのだが、もし途中で流れに呑《の》まれていたら、と考えるとゾッとする。
親父は“不可能を可能にする”ところを僕に見せ、強烈な親父の権威をアピールしたかったのだろう。また「男はこのくらいの度胸がなけりゃいかん」と言いたかったのかもしれない。いずれにしても、この“決死の”天竜川横断は、僕に親父の存在を“絶対のもの”と思わせることにつながったのは間違いない。だが、僕に度胸をつけさせるという点では……。
恐怖の天竜川横断の年の秋のことだ。近所の年上のお兄ちゃんたちと遊んでいて「柿《かき》を盗《と》りにいこう」ということになり、僕もそのままついて行って分け前をもらって帰った。「その柿どうしたの?」とおふくろに見つかり、正直に「盗んできた」と告白したのだが、それからの三日間ほどは生きた心地がしなかった。「警察が捕えにくるんじゃないか」と柿を見るたびに怯《おび》えていた。僕は、相変わらずなんとも臆病な少年であった。
想像を絶するような“教育”の数々……。卓少年はまったく拒否反応を示さなかったのだろうか。二美夫氏は述懐する。
「卓は親の言うことを何でも聞く子でね。親からすれば物足りなく思ったこともあります。男の子ですからね。自分の主張というものがないのか、とね。反抗期らしいものもありませんでした」
江川は生まれもっての臆病だったのか、あるいは、二美夫氏から与えられた幼児体験がそうさせたのだろうか。
親《おや》父《じ》の権威
二美夫氏は強烈な個性の持ち主である。六十二歳となった今でこそマスコミに登場することはないが、巨人軍入団のあの騒動のときに、栃木県小山の自宅に連日つめかけた報道陣に対して、「日本経済のムダ」と言い放った言葉は、あまりにも有名だ。
そしてまた、もめにもめた末、とりあえず阪神との契約を済ませた後の記者会見で、憤《いきどお》りをあらわにする記者たちに、江川は江川で「興奮しないでやりましょう」とやった。「あの親にして、この子あり」と、よく言われたものだ。
なるほど二美夫氏の超個性的な教育が江川の人格形成に、大きな影響を及ぼしている。
親父は講談師になったら成功しただろうと思うほど、話術が巧みだった。子供の頃《ころ》、その話術にすっかりだまされたことがあった。
親父の眉《み》間《けん》にはタテに傷がある。僕《ぼく》と弟には、その傷をこう説明していた。
「刀で切られたんだ。男同士の真剣勝負でな!」
詳しくは覚えていないのだが、確か親父が悪漢を、苦戦しながらも結局はやっつけたというストーリーだったと思う。なにしろ親父は真剣に話すし、こちらはこちらで疑うことを知らない。「パパはすごいんだ」と思い込んで聞いたものだった。そしてこの話は、
「俺《おれ》は“神の子”なんだ。神様は、こんな美男子は、このまま育ったらいい人生は送れないと思って、わざわざ俺にこの傷をつけてくれたんだ」
というオチで終わる。それにしても、よくぞいけしゃあしゃあと言ったものだ。あの顔で美男子だって? 僕も耳の大きさなどは親父に似ているから、親父の顔を悪く言いたくはないが、いくらなんでも美男子とは言い過ぎだ。
しかも、真剣勝負だなんて真っ赤な嘘《うそ》なのである。大きくなってから親類の人に真相を聞いたら、どうやら木登りしていて顔から落ちたとか。しかも柿《かき》かなんかを取っていて、欲張って細い枝の先にあるのにまで手を伸ばして、枝が折れたんだという。
眉間がパックリ割れて血もたくさん出たのはたしからしい。新潟県の田舎のことだから、今のように病院の設備も整っていない。自然にくっつくのを待って、それで傷が残ってしまったようだ。
それにしても、木から落ちたドジ話を、英雄物語に変えてしまうのだから、つくづく親父にはかなわない。でも、天竜川を泳いで渡った姿といい、この神様のつけた傷の話といい、ここまで親父の権威にこだわろうとした親父は立派だと、今は素直に思う。
最近世間では親子の対話不足が問題になっているようだが、当時の江川家からすれば考えられない話である。とにかく夕食後の毎晩三十分、お茶を飲みながら正座して親父の話を聞かされたのだから。
眉間の傷を何と心得る、といったたぐいのホラ話だけではなかった。むしろ聞かされた当初に、こりゃホラだぞと眉《まゆ》に唾《つば》したくなったものの、やがてそうじゃなかったと気づかされた話もある。あるとき白黒テレビを見ながら、「そのうち、こいつに色がつくぞ」と言う。いくら絶対的存在の“パパ”の話とはいえ、こればかりは信用できなかった。白黒テレビですら、まだ各家庭に普及していない時代である。まさかテレビに色がつくなんて……。
もちろん、怖い“パパ”の前で「まさか」なんて言えないから黙って聞いていたけど、ところが東京オリンピックの前に、カラーテレビが出現する。
「パパの言った通りだ」
僕の中で、また“パパ”の権威が上がったのは言うまでもない。その他《ほか》にも「じきに、テレビ番組を放送されたときに見なくても、あとで好きなときに見られるようになるぞ」と聞かされた数年後に、ビデオが現れた。
ビデオで思い出す話がもうひとつある。これは小学校に上がるかどうかの頃《ころ》だ。前にも書いたが、社宅には内《うち》風《ぶ》呂《ろ》がない。鉄腕アトムだの鉄人28号だの、好きなテレビ漫画に夢中になっていて、共同風呂へ行くのをグズッていると“パパ”が、
「卓、テレビ消して待たせておくから、風呂に行ってこい。続きは風呂から戻《もど》ってきてから見りゃいい」
まだ小さいから風呂からでるころには、テレビのことなどすっかり忘れていて、寝るときになってふと思い出し、「なんだ、テレビ終わっちゃったじゃない」と残念がるのが常だったけれど、こうして騙《だま》された話も、そのうちビデオの出現を何やら暗示していたような気分にさせられた。
とにかく本当の話も嘘の話も、大予言も大ボラも、“パパ”の言うことは僕にとってすべて正しかったのである。
親父なりの野球教育
江川本人がそれと意識していたか否《いな》かにかかわらず、小学校時代までの江川に対する二美夫氏の教育は、息子をプロ野球の選手に、という夢をかなえるための基礎工事だった、と見るべきかもしれない。
なるほど、手取り足取りといった形での野球実技は何ら教えてはいない。しかし自然と野球に親しむ環境を与え、そして何より父親である自分を“絶対的な存在”と信じ込ませるような教育を施した。
泣き虫だったという江川のこと、二美夫氏がスパルタ式の野球教育を押しつけていたら、むろん服従はするだろうが、根本的なところで野球に嫌《けん》悪《お》感《かん》を抱いていたかもしれない。
二美夫氏のやり方は、少なくとも、江川をプロ野球へ進むレールに乗せるうえでは、正解だった。自然と野球に夢中になるように仕向けられた(?)江川は、メキメキとその才能を伸ばしていく。
そして、本格的に野球に進むか否かの、“転機”とも思われる時期に、二美夫氏はそれまで培《つちか》ってきた“発言力”にものを言わせるのである。
親父から野球をとりたてて教えてもらったことなど一度もない僕だが、思えば当時の江川家では、“食”についても金をかけていたように思い出される。今でもエビが好物なのはそのお蔭《かげ》だし、小・中学校の弁当持参で通学していた時期、おかずについては他《ほか》の誰《だれ》にも負けた記憶がない。ふろしきに包んで二段重ねにしたタッパー(これも当時としてはハイカラな代《しろ》物《もの》にちがいない)の、片方がごはんで、もう一方のおかずのタッパーには、たまご焼きと肉が必ず入っていて、あとは日替わりでさまざま。ピーナッツみそ、なんていうのも忘れがたい。おそらく「息子を野球選手にするからには、栄養をつけさせてでっかい体に」という親父の考えが働いていたのかもしれない。
また、あれは僕を「野球選手にしたい」と願う親父が意識的に、それも何気なく仕向けたことだったのかもしれないな、と思う経験がある。
それは石投げだ。僕が近所の子供たちと三角ベースのソフトボールをするようになったころだから、たぶん小学校三年生くらいのときだったと思う。
僕らの住む山あいの町には、近くにソフトボールのできるようなスペースがない。僕らのグラウンドは三、四百段ほどコンクリートの階段を登った山の上を切り開いてつくられたものだった。しかも僕はとなりの町の佐久間小学校に、片道四十分かけてバスで越境通学していたから、いつも近所の子たちとソフトボールの約束ができるわけではなかった。
ある日、学校から帰ると、親父も仕事から帰ってきていて「散歩に行こう」という。もちろん「はい」しか返事はない。ふたりで川べりの砂利道を散歩していると、親父はふと立ち止まって足元の石を拾い上げた。砂利道の向うは崖《がけ》で、その下に流れるのは天竜川である。親父は対岸に向けて拾った石を投げた。
川幅は八十メートルくらいあっただろうか。その石は川幅の半分より少し向うあたりで濁流に呑《の》まれた。「お前も投げてみるか」。親父の声を待つまでもなく、僕はもう石を手にしていた。親父を真《ま》似《ね》てひとつ投げてみた。するとどうだろう。親父ほどは飛ばないが、それほど負けてはいない距離に落ちたのだ。“すごいパパ”と小学校中学年の僕とが、投げる石の飛距離に大差がないのである。
僕は夢中になって石を投げ続けた。少しでも遠くへ投げてやろうと必死になっていた。そんな僕に親父は、どんどん石を拾い集めてくれた。
この日以来、石投げは僕の日課になった。なにしろファミコンのような代物はない時代だ。三角ベースのメンバーが集まらなければ、他に遊ぶこともない。
来る日も来る日も、石を投げ続けた。飛距離はみるみるうちに伸びた。ついに向う岸に石が達したのは、僕が六年生のときだったように思う。
この石投げによって、なるほど僕の地肩は鍛えられた。ボールでも石でも遠くへ投げようと思うと、体全体を使わなければいけない。ぎくしゃくしたフォームでは決して遠くへは投げられない。知らず知らずのうちに正しい投げ方も身についたというわけだ。
地肩の強化に正しいフォーム。――プロに入ってからも、フォームを崩したときは、遠投をして矯《きよう》正《せい》していたが、天竜川の石投げは理想的な練習だったのだ。
親父は“計画的”に僕を石投げに誘ったのだろうか。一度聞いたら「別にそんなことは考えていなかった。お前が俺《おれ》の投げるのを真似しただけだ」と話していたが、それが本当かどうかは、あの親父のことだからわからない。
天竜川の石投げについて、二美夫氏はこう述懐している。
「最初に投げたときは正直言って驚きましたよ。大人の私とそう変わらないんですから。その後ちょくちょく石を投げてるのをのぞきましたが、確実に距離が伸びている。わが息子ながら、凄《すご》いと思いましたよ」
二美夫氏は、この瞬間に、自分の夢がかなうことを確信したのかもしれない。そして江川が佐久間中学に進んだころから、野球に関しての“方向づけ”をサラリとやってのけるのである。
佐久間小学校から佐久間中学に進んだ僕は迷わず野球部に入った。最初に与えられたポジションはレフトだった。本当はサードをやりたかったが、監督にそんなことを言える僕ではない。
でも、しばらくはサードにこだわりがあった。同世代の人ならもうピンとくるだろうが、当時子供たちが一番憧《あこが》れたのは、決してピッチャーではなく、ホット・コーナーと言われる三塁手。そう、あの長嶋さんのポジションだ。
僕が小学生のとき初めて作ってもらったユニフォームの背番号はもちろん3番。小学生の時分に、僕は親父に二度、わざわざ田舎の町からプロ野球観戦に連れていってもらったことがあるが、強烈に印象に残っているのは、最初にプロ野球を観《み》た中日球場(今のナゴヤ球場)ではなく、やはり四年生の七月に行った後楽園のほうである。
カードは巨人―阪神戦、伝統の一戦だ。はじめてじかに観るナイターの、カクテル光線に照らされた芝生は、もちろんまだ自然の芝だったがとても鮮やかだった。この試合、どちらが勝ったかも忘れてしまったけど、長嶋さんがレフトに打ったホームランだけは、忘れもしない。
試合後、駐車場へ向かう長嶋さんを待った。しばらくして憧れの大スターが目の前に現れた。大きい。たちまち他のファンに囲まれ、親父は僕に「お前も近くに行って握手してもらってこい」と耳打ちした。でも僕は金縛りにあったように身動きできなかったのを覚えている。
そんなわけで、長嶋さんを夢見ての三塁手志望だった。足と肩を買われて今はレフトを守っているけど、いつかサードに、と思い続けていた。そんなある日、テレビの野球中継を観ていた親父がこう言った。
「なあ、卓。見てみろ。一番テレビに映ってる選手は誰だ。お前の好きなサードじゃないだろう。ピッチャーだ。これからはピッチャー中心の野球になる。お前、ピッチャーをやれ」
この親父の命令に従ったわけではないのだが、偶然にも僕は一年の秋からピッチャーも兼ねるようになった。二年生のエースは球が速かったが、どうにもコントロールが悪い。対する当時の僕はまだ速球派ではなく、投げ方もスリー・クウォーターだったのだけれど、コントロールだけが取り柄《え》だった。それで控え投手の指名が下ったのだ。
そしてまた、僕の出番はすぐに来た。近くの中学との試合だった。3対3で同点の六回、無死満塁のピンチに「行け」という。
投手デビューにしては、どえらい場面を頂《ちよう》戴《だい》したものだが、試合で投げた経験のない僕には、逆に怖さもない。ましてスピードに自信があるわけでもないので、どうしても三振を取ってやろうなどという妙な色気もない。
ないないづくしのまま、キャッチャーの構えるミット目がけて投げただけである。ところが最初のバッターが三振。「アレッ!?」という感じ。次の打者はショート・フライ。「やるじゃない」と周囲のムードも変わって、お次も三振だ。
これ以上ない形でこの回の大ピンチを切り抜け、そのまま一点も取られずに試合は結局引分けた。
どうして打たれなかったのか自分でも不思議だったが、とにかく、この一戦を機に僕は正式にピッチャーとなった。僕自身の希望や意志とはまったく関《かか》わりなく、親父の「ピッチャーになれ」という言葉に従うことになったのである。
もしこの試合でボカスカ打たれていたとしたら、少なくとも佐久間中学時代に僕がピッチャーをつとめる場面はなかったかもしれない。その意味でこのデビュー戦は僕のひとつの転機と言えるだろう。この試合で、投手・江川が誕生したのだ。さらに、僕が中学二年に進んでから、もっと大きな転機を迎えることになる。
親父の転勤だ。社宅こそ移らなかったものの、すでに親父は久根鉱山からすぐ近くの名古尾鉱山に移っていたが、この鉱山が閉鎖され、栃木県小山市の工場へ移れと命ぜられたのだ。
仲間と離れ離れになるのがつらく、僕は佐久間を離れるのがいやだった。僕の女《によう》房《ぼう》役、キャッチャーをしていた関島民雄君からは、「ウチの二階の部屋が空いているから下宿しないか」と勧められた。できることなら僕もそうしたい。親父に下宿のことを頼み込んだが、答えはノーだ。ふだんであれば、はい分かりましたで済ませただろうが、このときばかりは僕も粘った。煮え切らぬ日が何日も続いてから、最後に親父はこう言った。
「いいか、卓。この佐久間では、太陽は九時に昇り三時に沈む。でもな、世の中には水平線から陽《ひ》が昇って水平線に沈むところもあるんだ。いつまでも狭い範囲に閉じこもっていては、人間、大きくならない。関東平野は大きいぞ。俺といっしょに行こう」
やはり親父にはかなわない。劇画よりよっぽどドラマチック、今風に言えばクサいセリフで僕は転校のふんぎりがついた。そしてこの転校が重大な節目となるのである。もし、あのまま佐久間に残っていたとしたら、もちろん中学の野球部での生活は満喫したかも知れないが、プロにまで進めたか否かははなはだあやしい。もしかすると商社か何かのビジネスマンになっていたかも知れないと今でも思う。
というのも、静岡は野球の激戦区。中学の県大会にも、まず郡大会、そして西部地区大会という難関を突破しないと出場できない。佐久間中学野球部は創部十年ほどだったけれど、県大会の経験は一度もなく、県大会出場というのが夢だった。よしんば出場できたとしても、それだけで満足したはずだ。あの野球部のレベルからすれば優勝は到底無理だ。県大会というささやかな夢を果たした後は、静岡県内の高校に進んで、野球よりも受験勉強に精を出していたことだろう。ましてや“甲子園”だなんて、夢にも思わなかったに違いない。
栃木県小山に移り住んで、僕の運命は大きく変わった。
小山中学の野球部に入ると、県大会出場どころか、いきなり優勝をさらった。強い野球部を持ついくつかの高校から「わが校へ来ないか」という誘いもあり、“甲子園”が急に身近なものに思えてきたのだ。
父の言葉通り、関東平野は広かった。その広い関東平野に気づかずにいたら、自分自身の野球の力にも、本質的には気づかずにいただろう。
小山への転校によって、僕は文字通り、新しい世界に足を踏み入れたのである。
“甲子園と早慶戦”が決めた高校受験
現在巨人の一軍には、三人のトレーナーがいる。その三人のなかで、江川の現役中、彼のマッサージおよび故障箇所の治療を主に受けもったのが、萩原宏久氏である。実は江川とその萩原氏には、江川の巨人軍入団以前からの興味深い因縁がある。
萩原氏が江川を初めて見たのは昭和四十五年の九月、彼が小山中学三年生のときだった。
「彼が校庭で遊んでいるのを、垣《かき》根《ね》越しにこっそりと観察したんですが、身のこなしといい身体《からだ》つきといい、噂《うわさ》にたがわぬすごい子だと思いました」
と、江川の第一印象を語る萩原氏は、その当時、東京は日大三高の野球部監督を務めていた。知人から「小山の中学にすごい投手がいる」と聞き、はるばる東京から小山まで出向いたのだ。もちろん目的は、スカウトである。
九月といえば三年生はすでに一線を退き、部は二年生中心の新しい編成のチームになっている。江川の投球内容は見たくても見られなかったが、校庭で遊ぶ江川の姿を垣根越しに眺《なが》めただけで、萩原氏はすっかり度肝を抜かれるのである。
「彼が来てくれれば、東京では当分負けないチームが出来るなあ」
と萩原氏が思ったのも無理はない。日大三高野球部は、翌四十六年の選抜高校野球で優勝し、四十七年の同じ選抜大会でも準優勝をさらうほどの強豪だった。そこに江川が加われば、まさに怖いものなし。
だが萩原氏は、すぐにはアクションを起こせなかった。というのも、日大そのものから江川勧誘にストップがかかったからである。
同じ時期、江川を小山高校が熱心に勧誘していて、実は小山高校から日大野球部に進むひとつのラインがあったのだ。日大にしてみれば、わざわざ日大三高に入学してもらわなくとも、小山高校から江川を日大に進ませることが出来る。いわば、身内同士のとり合いはよせ、という思惑である。
日大野球部のOBでもある萩原氏は、いったんは泣く泣く江川をあきらめた。しかし、彼の高校入試も近づいた年明けのある日、思いがけない情報がとび込んで来た。江川の父、二美夫氏が大宮あたりで息子の進むべき高校を物色中だというのである。
小山高校に決まったはずだと思っていたのに、それでは話が違う。「まだチャンスがある」と考えた萩原氏は昭和四十六年一月十五日、小山の江川宅を訪れたのだった。二美夫氏は出張中で留守だったが、江川本人には会えた。中学三年生にしてはしっかりとしたもの言いの子だというのが、このときの萩原氏の印象だった。そして忘れもしない江川の質問――。
「日大三高から早稲田に進めますか」
萩原氏は返事に困った。あげく口をついた「野球と勉強を両立すれば、その可能性はある」という言葉を、氏は今でも後悔している。
「あの時点では私にも、江川を確実に早稲田に入学させる自信はなかったんです。あのときもう少し早稲田進学の可能性を強く説いていたら、日大三高に来てくれていたかも知れません」
この二年後、江川の一級上にあたる吉沢俊幸(後に阪急に入団)が日大三高から早稲田に入学している。江川と話をした時点でこんな身近な早稲田進学の例があれば、江川の気持ちも日大三高に動いていたかも知れないのだ。
翌十六日、萩原氏は出張先の江川の父に電話を入れ、面会を求めたものの、
「卓の進学先はもう決めておりますし、お会いすれば情がうつりますから……」と、丁重に断られた。
この二カ月後に選抜甲子園の優勝監督となった萩原氏は、同じ年の十二月、監督を退いた。日大野球部の監督にならないか、という声もあったが、有望な選手が、ケガでその芽をつみとられてしまうケースが多いと憂《うれ》えていた氏は、トレーナーへの転身を決意するのである。
三年間の修行生活ののち、近鉄バファローズでトレーナー業をスタートさせた萩原氏は、昭和五十三年、巨人に移る。そしてその翌年、あの大騒動を経て入団して来た江川と、再びめぐり合うのである。かつて氏が望んだ、高校の野球部監督と生徒の間《あいだ》柄《がら》ではなく、トレーナーと選手としてようやく接することの出来た江川は、やはり萩原氏にとって、特別の存在となる。単なるトレーナーと選手の関係を超えて、氏は江川のよき相談相手となり、ともすればチーム内でも誤解されがちだった彼の右肩痛の、最大の理解者になるのだ。
小山中の垣根の蔭《かげ》に隠れながら、江川に熱い視線を送ったあの日から十七年後、萩原氏は怪物江川が右肩痛と闘いつつ、ついに三十二歳の若さでマウンドから去っていく姿を見送ることになった。
「もしあのとき江川が日大三高に入っていたらねえ……。私もそのまま監督を続けていたでしょう。もしそうすれば、私の人生も、随分違うものになっていただろうと思います」
江川の引退後、遠くを見つめるような目で、萩原氏はそうもらした。
僕《ぼく》が作新学院に入学したとき、多くの同級生たちに驚かれた。「小山高校に行くはずじゃなかったのか」というわけだ。なかには「お前が小山に行くというから、俺《おれ》は作新に来たのに……」と露骨にいやな顔をする同級生もいるにはいた。しかし、これも仕方がない、僕は相当おしつまったある時期まで、小山を受けると公言していたのだから。
小山から作新への志望変更は急なできごとだった。おそらく小山高校の受験日の三、四日前だったと記憶する。変更の理由は、他《ほか》でもない、早稲田か慶応かどちらかへ進学できる可能性である。
栃木県大会で小山中が優勝して以来、野球の強いいろいろな高校からの誘いもあり、甲子園は身近な目標になっていた。それだけなら、地元でもあり野球も強かった小山高校をすんなり受験していたことだろう。
ところが僕にはもうひとつ、大きな目標が出来てしまったのだ。中学三年の秋に神宮球場へ早慶戦を観《み》に行ってから、早慶どちらかへの進学の夢が、少しずつ、確実に、ふくらんできたのだ。
甲子園と早慶戦。ふたつの大きな夢。甲子園の土を踏めるほど野球が強く、同時に早慶に進学できるくらいの学力を養える高校はどこか。――いったん小山高校への進学を決意しながら、僕の心の内に早慶戦という新たな目標が急浮上してきたために、進学先を迷うことになってしまうのだ。
小山高校進学のネックになったのは当時普通科がなかったことだ。野球部と太いつながりのある日大には進めるかもしれないが、早稲田や慶応への進学となれば、まず難しい。
あれこれ思案するうちに、埼玉県の大宮高校の名前があがった。この高校ならば、進学校であるうえに、野球も強い。県立高校なので栃木からの受験は許されず、それなら大宮在住の親《おや》父《じ》の弟、つまり叔父のところへ養子に入れば、というところまで計画は煮つまっていた。
ところがどっこい、このあたり、どうもやることがドジとしか言いようがないのだが、埼玉の県立高校は試験日が早くて、江川家が大宮高校を、と決めた時点では、すでに受験手続きが間に合わなかったのだ。
これでは仕方がない、再び小山高校に、と思っていたところへ、ある作新OBの方から誘いがあり、作新へ来ないかという。
作新の野球部はかつて甲子園を春夏連《れん》覇《ぱ》したこともあるし、聞けば特別進学コースがあり、勉強のほうも自分がその気になって励めば、どうやら早慶も夢ではないらしい。
「よし、決めた」と決断したときは、すでに小山高校の受験日目前だったというわけなのである。
この頃《ころ》すでに、プロ野球選手になるという具体的目標を持っていたことは事実だったし、早慶戦に憧《あこが》れて大学へ、などというわき道にそれずに、高校では野球に専念し、まっすぐプロを狙うべきだという声もあるにはあったが、その点については親父からの影響があった。
親父は工業高校出身である。親父自身の言によれば、一所懸命努力し、仕事のできる人だったようだが、出世というものにはどちらかというと無縁だった。
僕が小学校の五年か六年だったある日のこと、親父が昇進辞令らしきものを携えて帰宅した。ところが親父は、僕と弟が見ている目の前で、まるでその辞令を破り捨てんばかりの剣幕で「こんなもの、要らない」と言ったのである。
実力が必ずしも正当に評価されない学歴社会というものに、あえて抵抗する親父。このときの親父は、実に恰《かつ》好《こう》よかった。男らしかった。その光景は、いまでもしっかりと脳裏に焼きついている。
そんな学歴の辛酸をなめているだけに、親父は僕たち兄弟には同じ思いはさせたくなかったのだろう。小さいころからことあるごとに「大学には絶対に行けよ」と言われながら育った。その言葉を聞くたびに、親父が辞令を破り捨てようとしたあの姿が蘇《よみが》えり、「大学には行かなくては……」と思うようになっていった。
だから、高校進学の基本的な条件のなかには、すでに大学進学が可能かどうかの一項目が含まれていたことは事実だし、出来ることなら東京六大学のどこかに進めれば万々歳というくらいの大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》な希望だったものが、早慶戦の洗礼を受けてから、その二大学のどちらかに、狙いがしぼられてしまった。しかも、いざ高校受験の、ギリギリ直前になってから。
江川家においては、すべて綿密な計画のもとにことが運ばれてきた、という風聞があるらしいが、僕の見るかぎり、かなり行きあたりばったりだったのではないかと思う。
「雨に散る江川」の感激
江川が全国的に“怪物”の名を馳《は》せたのは、もちろん高校時代である。プロでは一度も達成できなかったが、高校時代にはノーヒット・ノーランを十三試合もやり、うち二試合は完全試合である。
江川の怪物ぶりを端的に示す数字だが、その江川は甲子園に二度しか出場できなかった。三年生の春夏の二度だけだ。そしてそのどちらも、決勝戦に進めなかった。このへんにも、江川の“ここ一番”の不運を感じさせる。
江川を一躍有名にしたのは、作新学院二年夏の栃木県大会だった。当時スピードガンはなかったが、江川の球速は百五十キロは軽くあったといわれている。高校生が江川の球を打ち返すことは、ほとんど不可能といってもよかった。
県大会初戦、大田原高をノーヒット・ノーラン、続く石橋高を完全試合。準々決勝の栃木工もノーヒット・ノーランだった。三試合続けて、一本のヒットも許さなかった。
準決勝は、一度は進学を決めていた小山高が相手だった。九回まで一本のヒットも許さなかった。しかし味方も無得点で延長戦へ。
十一回、江川はついに点を取られた。四球と内野安打で無死一、二塁。送りバントのあとの一死二、三塁から小山高はスクイズ。打球は江川の前に転がった。江川はマウンドを駆けおりボールを拾ったが、そのまま尻《しり》もちをついてしまった。江川の目の前を、小山高の三塁ランナーが本塁を駆け抜け甲子園はお預けになるのである。
初めて甲子園の土を踏んだのは、三年の春だった。一回戦北陽高を相手にいきなり十九個の三振を奪って完封。北陽の打者がバットにボールを当てただけでスタンドがどよめいた。
二回戦は十奪三振、準々決勝はなんと二十奪三振で“怪物”ぶりをアピールした。この試合で、練習試合を含めた無失点記録を百四十三イニングまで伸ばした。二年生の秋からスタートした新チームは、このときまでまだ一点も取られていないことになる。当然、まだ無敗だった。
この記録は、準決勝の広島商戦でストップする。五回に一点を失ったのだ。結局この試合は、もう一点とられて作新学院は負けた。通算六十奪三振の記録を作りながら、勝利の女神は江川を見放した。
最後の甲子園。栃木県予選は、五試合のうち三試合をノーヒット・ノーラン、打たれたヒットはわずかに二本と相変わらずの“怪物”ぶりで、甲子園に臨んだ。
一回戦の柳川商戦では、延長十五回を投げ抜き、二十三奪三振の力投で勝った。そして、二回戦。相手は、ヒット一本、二十三奪三振で完封をしたことがある、千葉県の銚子商業だった。1対1のまま延長に入った。八回頃《ごろ》から降り出した雨が次第に強くなり、「十二回で決着がつかなければ、翌日続きを行なう」と大会本部は発表していた。
その十二回裏。江川は一死満塁、ボールカウントは2―3の大ピンチを迎えるのである。
高校時代の最大の思い出は、やはりあの銚子商業戦になる。十二回裏のあのシーンは忘れようにも忘れられない。
最後の一球を投げる前、ナインがマウンドに集まってきた。ここで僕《ぼく》がフォアボールを出せば、僕たちの夏は終わってしまう。
作新学院のチームはかなり変わっていた。江川のワンマン・チームだったなどと評する向きもあるが、それは少し違うと思う。みんなが一《いつ》匹《ぴき》狼《おおかみ》のような性格をしていて、妙な個性派人間の集団だった。なにしろ試合のときはまとまるが、野球以外の学校生活ではほとんど付き合うことがなかったのだ。
僕ひとりがマスコミに騒がれて、チーム内で浮いている、とよく言われた。だが、それも違うと思う。僕だけでなく、みんながそれぞれマイペース。仲が悪いというのとちょっと違うけれど、なるほどバラバラのチームといわれても仕方がないところは確かにあった。
しかし、これが最後の一球という場面に直面して、僕はみんなに相談したかった。まがりなりにも、三年間いっしょに汗を流してきた仲間である。こんなことは、他《ほか》のチームだったらいつも当たり前のようにやっていたことかもしれないが、僕は集まったみんなに初めてこう問いかけた。
「真っ直ぐを力一杯投げたいんだ」
胸の内では「ふざけんじゃない。お前ひとりのために野球やってんじゃない」、「どうぞ御勝手に」くらいの返事がきても無理ないな、と予測していた。
ところが、思いがけない言葉が返ってきた。
「お前の好きなボールを投げろよ。お前がいたからこそ、俺《おれ》たちもここまで来れたんじゃないか」
僕はもう一度、チームメイトたちの顔を見渡し直した。嬉《うれ》しかった。初めてチームがひとつにまとまったと思った。
もう僕は、ストライクを取ろうとか、ボールになったらどうしようかとかはまったく考えなかった。ただ高校時代で一番いい球を投げてやろうと思った。
僕はストレートを投げた。高校時代で一番いい球がいったと確信している。そのボールはストライク・ゾーンより高く、球審の判定は「ボール」。サヨナラ押し出し……。僕らの甲子園は終わった。でも、悔しさはなかった。あったのは満足感だけだ。あのとき、
「フォアボールは絶対出すなよ」
とでも言われていたら、あんなすがすがしい気持ちにはなれなかったと思う。
この最後の甲子園にはもう一つ楽しかった思い出がある。春の大会のときにはベスト4にまで残ったから、新幹線に乗って悠《ゆう》々《ゆう》栃木へ帰ったものだが、このたびは早くも二回戦敗退である。どうしよう、こりゃヤバイぜ、とチームの仲間と話し合っていたところへ、監督が実に素敵な提案をしてくれた。どうだい、せっかく関西まで来たんだから、京都・奈良の観光旅行をしてから帰ろうじゃないか、と。今でも、話のよく分かる、部員思いのいい監督だったと思う。甲子園を目指して練習に明け暮れていた僕ら野球部員は、修学旅行にも参加できなかったのである。
こうして、修学旅行が実現した。それも、甲子園でのあの最後の一球の前に心を通じ合えた僕たちは、終始和気あいあいと、楽しい旅行だった。ただし、夜陰にまぎれてという感じで栃木にたどり着いたバスから降りる僕たちが、試合に敗れてシュンとしています、といった恰《かつ》好《こう》だけして見せたのは言うまでもない。
自宅の居間に、額がひとつ掛かっている。詩人のサトウハチロー先生が、あの銚子商業戦を唄《うた》って下さった詩である。
〈雨に散る江川投手〉
と題するこの詩は、わが家の家宝になっている。高校時代のチームメイトとは、その後めったに会わない。同窓会すら一度も開いたことがなく、あらためて、変わり者の集団だったのだなあ、と思う。でも、この詩に目をやるたびに、甘酸っぱい思い出が甦《よみがえ》ってくる。
雨に散る江川投手
サトウハチロー
雨のために江川投手は
敗戦投手となった
彼のことだから雨をうらんだりはしない
敗《ま》けましたと大きくうなづき
深いためいきをもらした
晴天つづきだった今度の大会に
雨が落ちた
それもものすごいどしゃぶりだった
普通なら中止だった
だが延長戦になっていたのでつづけた
天を仰いで應援団は
嘆きと悲しみの底に沈み
ナインの胸にはこの雨が
生《しよう》涯《がい》忘れることの出来ないものとなった
こんな雨は 又とない雨だ
甲子園の雨は
ものすごい音がする
わたしはそれをよく知っている
すぎし日のわたしはそれを唄った
わたしはその詩句までおぼえている
雨に散った江川投手の心に
この日の雨はしみこんだにちがいない
心の底までぬらしたにちがいない
わたしはその姿を目にうかべ
まつ毛をびしょびしょにぬらしていた
わたしは雨を愛した詩人だ
だがわたしは江川投手を愛する故《ゆえ》に
この日から雨が きらいになった
わたしは雨をたたえる詩に別れて
雨の詩はもう作らないとこころにきめた
慶応受験失敗
プロ野球というゴールを目指し、江川父子の夢の実現は順風満帆に進んでいた。
甲子園の土も二度踏んだ。優勝こそできなかったが、怪物の名をほしいままにして、日本中の注目を浴びる存在になった。
だが、このことが逆に、父・二美夫氏の言う「はじめての小さな挫《ざ》折《せつ》」につながる。
慶応受験失敗である。
この件について二美夫氏は「迷惑をかけてしまう人もいるから……」と多くを語ろうとはしない。江川自身も「点数が足りなかったんだから、しようがない」としか言わない。
だが、ある慶応OBの球界関係者は、今でもため息まじりにこうもらす。
「江川があれほど騒がれる存在でなかったならなあ……」
その人物によれば、実は、江川は慶応に合格していたというのだ。
どの私立大学でもおおむねそうだが、スポーツに優れ、入学後その方面での活躍が期待される受験生には、最初から入試の点数を上乗せするシステムがある。いわゆる“ゲタをはかせる”というやつだ。
慶応でも当時は、運動各部が有望な受験生に、推薦順位をつけ、それに応じてゲタをはかせる制度があったという。
江川ほどの存在になれば、おそらく推薦順位は一位だったはずで、慶応野球部は大物OBまで乗り出して、江川の勧誘に力を入れた。理事会への働きかけも相当強力なものだったという。
作新学院入学時の江川の成績は、学年で二番だった。その後、野球に打ち込んだため成績は落ちてはいたが、慶応受験が決まってから、彼は一日十時間の猛勉強を続け、慶応関係者は江川の合格に太鼓判を押していた。
実際、先のOBは「江川はゲタをはかせれば、楽々合格ラインを超えていた」と証言する。ではなぜ落とされたのか。これには当時、私立大学の不正入試が騒がれ、社会問題化していたことが関係する。
「江川を合格にすれば、六大学での彼の活躍を見込んだ裏口入学と騒がれてしまう危険性が大きい。落とせば“さすが慶応”と認められる。そういう大学側の思惑がからんでいた」
というわけだ。江川がさほど有名でなかったら、なるほどこんな思惑もからまなかったに違いない。
江川の合否について教授会は大紛糾をきたしたが、ついに、慶応はプライドを選んだのである。この、ゲタは一切はかせないとする決定のワリを喰《く》って落とされた慶応受験生の中には、当時大型捕手と騒がれた堀場英孝(一浪して慶応進学、プリンスホテル―広島―大洋)がいる。
慶応を受験したのは、前にも書いた通り、早慶戦でプレーしたかったからである。というと「なぜ早稲田でなく慶応なのか」と疑問に思われる方も多いと思う。
答えは単純。慶応受験を決めたのは、慶応の野球部関係者の方に、早稲田よりも先に、うちへ来ないかと声をかけられたからだ。
はっきり言ってしまえば、慶応でなくてはならない、というこだわりなどまったくなかった。最近は、早慶両校を受験してどちらか合格した方に進むという受験生が多いと聞くが、僕《ぼく》の場合も気持ちは同じだった。
スマートな慶応ボーイに憧《あこが》れたのでもなく、早稲田の在野精神をどうこう思ったわけでもない。両校のOBの方々にははなはだ失礼かもしれないが、とにかく早慶戦でプレーしたかっただけなのだ。
中学三年生のとき、初めて観《み》た早慶戦には、小学生のとき後楽園球場で観た巨人―阪神の伝統の一戦とは、またひと味違う感慨があった。
広い神宮球場のスタンドが両校応援団で真っ二つに割れ、応援合戦を繰り広げる。
「こんな応援のなかでマウンドに立ちたい……」
素《そ》朴《ぼく》な憧れが、現実の目標となっていった。
だから高校を選択するときも、早慶に進める可能性の有無を一つのポイントにしたが、いくらその可能性があったとしても、いかんせん野球に打ち込んでいると、どうしても勉強の方がおろそかになる。
練習でクタクタになって帰宅し、夜、机に向かっても、勉強どころか睡魔が襲ってきた。入学当初はまずまずだった成績もだんだん下がり、三年生になるころは、果たして大学に進めるのか、正直いって不安になったものだ。
ちょうどそんなときだ。確かセンバツが終わった直後だと思う。慶応野球部のOBの方が、「慶応でやらないか」と誘って下さった。
素朴に、うれしかった。憧れの早慶戦の一校からお誘いがあったのだから……。一番不安だった勉強の方も、秋から愛知県の豊橋で合宿特訓をしてもらえるという。
いまでも「甘かった」と反省しているが、まだ誘われただけなのに、早くも合格したような気分になって、僕は舞い上がってしまった。
いとこに慶応ボーイがいたし、親《おや》父《じ》も慶応に好感を抱いていた。この時点で、すっかり慶応派になってしまった。
あとになって、早稲田の方からも声をかけていただいた。でも、僕の気持ちは完全に慶応に傾いていた。
それに、一般の受験生なら二《ふた》股《また》かけてもなんら差支えがないだろうが、僕の立場では、それはできなかった。慶応に受験勉強の面倒まで見てもらっておいて、早大も受験しますというのは、どう考えても失礼だ。
こうして受験校は決まった。あとは慶応を目指して勉強するのみとなった。とはいいながら、夏の甲子園が終わっても、国体やら全日本高校選抜の遠征やらで、本格的に受験勉強に打ち込めるようになったのは、秋風も冷たくなったころだった。
それ以後というものは、自分でいうのもおかしいが、われながらよく勉強したと思う。週に何度かは宇都宮から豊橋の受験合宿所通いの日々だった。
豊橋に行けば学校の方はサボることになる。作新学院からは「出席日数が足りなくなる」と警告され、慶応関係の方からは「もっとやってもらわないと……」と尻《しり》を叩《たた》かれる。その板《いた》挟《ばさ》みにあいながら、一日十時間、しっかり勉強したつもりだ。高校三年時の社会の選択科目に、慶応の受験科目にない「地理」を選ぶというドジも踏んでいたから、学校の地理の授業中は、先生の目を隠れて、日本史の勉強に励むことにもなった。
豊橋では主に英語と数学を教わり、日本史は代々木ゼミナールのある先生に個人特訓も受けた。とにかく短時間に覚えなければならないことが山ほどある。けれども受験日までには、そこそこ自信めいたものが湧《わ》いてきていた。
ところが――。フタを開けてみると、社会科の科目変更がモロに響いた。日本史は一応集中して勉強したつもりだが、過去、慶応で出題された日本史のデータを調べてみると、明治時代以降の問題はほとんど出ないだろうと判断できた。そこで自分勝手ではあるが時間の関係もあり、近代史ははじめから捨ててかかっていた。ところが、なんとその年、慶応の日本史の問題は、明治時代以降の問題だったのだ。目から星が……。実力がないといってしまえばそれまでだが、なんとツキのないことか。マークシート方式の解答用紙を前にして、サイコロをころがすような気分で、むなしく答えを選ぶというありさまだった。
運がないのか、縁がなかったのか、受験した法、商、文学部の全部がアウトだった。つまり、早慶戦でプレーする夢は破れたのだ。
あわててまだ受験できる大学の二部を調べてみると、間に合うのは、法政、明治、青学の三大学だった。早慶戦がダメでも六大学、ということでまず青学が消えた。
あとは法政か明治かという選択になったが、「明治は練習がきつい」という噂《うわさ》を聞いて、法政に決めた。これでは練習嫌《ぎら》いと批判されても仕方がないが、法政受験のときには、僕が勉強していた部分がズバリそのまま出題されたりして、女《によう》房《ぼう》に言わせれば、それが定められた星というものだそうだ。
慶応の受験に失敗したあと、よく「早稲田になら入れたんじゃないか」と言われた。早稲田には当時、教育学部に体育専攻科という学科があり、スポーツに優れた学生には、割合広く門戸が開かれていた。
作新学院からは八木沢荘六先輩(早大―東京オリオンズ―現西武コーチ)も進んでおり、道はついていたから「受かったであろう」というわけだ。でも、仮定の話をすればキリがない。そもそも、受験していないのに「入れたかどうか」なんて早稲田大学に失礼な話だ。
慶応受験は、いち早く誘っていただいて、しかも自分で決めたこと。やるだけやって、力が及ばなかったのだから、ああして法政に進むことになったのを、僕は後悔していない。
女《によう》房《ぼう》との出会い
法政に進んでからの江川は、並みはずれた実力で神宮を沸かせた。
一年生の秋には早くも六勝一敗の好成績を収め、法政を優勝に導き、史上初の一年生ベストナインに選ばれる。
六大学通算四十七勝は法政の先輩・山中正竹のもつ四十八勝にあと一勝の第二位であり、完封勝利十七は未《いま》だに破られていない記録として残っている。
法政時代の江川が、いかに六大学のレベルを超えていたかを物語るエピソードがある。証言するのは二年生のときから交際していた正子夫人だ。
「試合のある日は、いつも神宮球場のとなりの東京ボウリング場で待ち合わせていたんです。その待ち合わせ時刻を前もって、試合開始から二時間後とか二時間半後とかと伝えてくれるんですね。だいたいその通りの時間に、学生服に学生帽をかぶった彼が現れました」
マウンドでデートの時間を計算しながら投げていたのだ。もちろん遅れそうになると、力を入れて打者を早く料理し、時間があれば適当に打たせながら……というわけである。
そこまでズバ抜けた力量を示した六大学時代ながら、江川の口から楽しそうに大学時代を振り返る言葉はほとんどない。慶応受験に失敗、不本意に進んだ法大ということもあったかもしれない。いや、それ以上に、法政野球部で、並みはずれた実力ゆえにかえってけむたがられ、上級生からいじめられたことが、江川の口を重くしているとも言われている。
そんな江川が、大学時代を唯《ゆい》一《いつ》楽しそうにふり返るのは、正子夫人との出会いだ。
大学二年生のときだった。日米大学野球で渡米する日航機の中で江川は、当時日航国際線のスチュワーデスをつとめていた菊地正子さんを見初めるのである。
われながら、かわいい口実を思いついたものだと思う。
「手紙をエアメールで出すときの、アドレスの書き方がわからないんですけど……」
これが正子へのアプローチをスムーズにしてくれた言葉だ。
僕《ぼく》は親《おや》父《じ》のせいで高所恐怖症となり、飛行機が大《だい》嫌《きら》いだ。鉄の塊が空をとぶなんて、今でも信じられない。ニュートンの法則はいったいどこへ行ってしまったのだ。これまで何十回、いや何百回となく飛行機に乗ってきて、いまだに生きているのだから、安全性は信じることにするが、離陸してから着地するまでの緊張感、疲労感だけはどうしようもない。
日米大学野球で初めてロスに向かうときももちろん同じだった。みんなはワイワイはしゃいでいるのに、僕だけは目を閉じてじっとしていたっけ……。
そんな時、「気分でも悪いんですか」と声をかけてくれたのが正子だった。なにしろ約十時間の旅である。目を閉じても眠れるわけでもなく、不安いっぱいの僕にとって、正子との会話がどれだけ地獄で仏とでも言うべき気晴らしになったことか。
そうこうするうちに無事にロスに着いた。ようやく空の旅の恐怖から解放され、ホッとしたのはいいが、今度は正子の顔が目の前にチラついてしようがない。どうやら一目惚《ぼ》れというやつである。
「もう一度会いたい」
思いはつのるばかり。全日本のメンバーに選ばれていた田尾さん(同志社―中日―西武―阪神)と二宮さん(駒大―巨人)に相談すると、
「それじゃ、会いに行こうじゃないか」
ということになった。午前中にロスについたその日の夕方だ。先輩の助《すけ》太《だ》刀《ち》を得て、それも集団でお目当ての人に会いに行くところなんか、これも今にしてみればかわいいもんだ。とにもかくにも日航のスチュワーデスの泊まっているホテルを調べ当て、さあ押しかけようということになったが、会ったその日に、
「忘れられないから来ました」
と言えるほど、僕はスレてはいない。なにしろ野球一《いち》途《ず》だったのだ。そこでアドレスの書き方にかこつけたというわけだ。
ドキドキする胸を抑えての“決行”だったが、先方はスンナリと受け入れてくれた。正子は同僚のスチュワーデスさんをもうひとり連れてきて、近くのコーヒー・ショップでお茶を御《ご》馳《ち》走《そう》になって和気あいあいである。ところが、田尾さんと二宮さんは仲よく話し込んでいるのだけれど、年下の僕はあっちへ行ってなさいというような雰《ふん》囲《い》気《き》で、四人掛けのテーブルから一人追い出されて、ブスッとしたまま沈黙を決め込んでいた。それでも時差ボケで寝つかれぬ僕達《たち》五人はコーヒー・ショップで夜明けを迎え、そのうえ調子に乗って、同じメンバーで翌日の練習を終えてからもまた夕方に押しかけた。
こちらは大学生とはいっても野球しかやっていないイガグリ頭の無骨者で、向うはなにしろ世界に羽ばたく日航のスチュワーデスである。
「何か困ったことでもあったら相談にいらっしゃい」
というような感じで、あちらが先輩、こちらが後輩といったムードではあった。目の前にいるふたりのスチュワーデスさんをあらためて見《み》較《くら》べ、ターゲットは若いほう(それでも僕より三つくらい年上かなとは思ったが)、すなわちやはり正子しかない、別れ際《ぎわ》に彼女と交換したアドレスは、僕の宝物になった。
自分でも不思議に思う。なぜ、あれほど積極的になれたのだろう。アドレスを交換した際、自分より六つ年上だと聞かされたときにはさすがにびっくりして、その紙の余白に「26。僕は20」とあわてて書いたものだが(この紙切れは、今でも自宅にある)、すぐにそんなこと問題じゃないと思った。別れた二日後には、僕はロスから、正子にもらったアドレスの電話番号にさっそく国際電話をかけた。
彼女は別れた翌日のフライトだと言っていたから、もう日本に帰っていると思ったのだ。ところが、正子はホノルル経由でまだ空の上だった。とんだ肩すかしを喰《く》ったものだと内心がっかりしたが、電話に出たお母さんが気さくな人だったので助かった。
「アメリカで御世話になった江川と申しますが……」
「娘はまだ帰っておりませんが、江川さんって、あの法政の江川さん?」
正子は僕の顔も名前も知らない野球オンチだったのに、お母さんは大の野球通だったのだ。すっかり気が楽になってしまったうえに、
「日本へ帰っていらしたら、一度家に遊びにいらっしゃい」
などと言われたものだから、恋する僕には、もう遠慮もなにもない。
日米大学野球を終えて帰国した翌日、僕は東京・新宿区弁天町にある正子の実家を、さっそく訪ねたのだった。
パパからオヤジへ
まさに電光石火の正子夫人へのアプローチだった。また、正子夫人の実家である菊地家が、江川をすんなりと受け入れやすい家庭環境にあったのも、まさしく運命の糸と言うべきかもしれない。
正子夫人の父・菊地文男氏は東京都の教育行政に長らくたずさわってきた。都立高校の校長のほか、東京家政大学教授をつとめたこともある。無口で学者タイプの人物だが、学生たちの信望は厚く、いつのころからか教え子のみならず、広く若者たちのよき人生の相談役になっていた。また江川が「無口なお義《と》父《う》さんとあのお義《か》母《あ》さんを、足して二で割るとちょうど平均になるんじゃないか」と評するほど、菊地夫人が気さくな社交家であることも手伝って、菊地家には常に多くの若者たちが出入りしていた。正子夫人によれば「私の幼いころから、食事のときには必ず誰《だれ》かよそのお兄さんたちが家族と一緒に食卓を囲んでいました」というような家庭環境にあった。だから、正子夫人にとっては江川も、
「私よりは母と先に仲良くなったという感じで、はじめのうちは、家に大勢みえる若い人たちの中の一人といったふうにしか感じていませんでした」
ちょっとつれない話ではあるが、菊地家が、そんな独特の雰《ふん》囲《い》気《き》をもつ家庭だったからこそ、「スレていない」と語る江川も気楽に出入りできたのだろう。正子夫人の休みの日には菊地家を訪れ、みんなで食事を終えると正子夫人の車で合宿所へ送ってもらうというのが、江川の菊地家訪問のパターンになった。正子夫人は、
「はじめのうちは私の方が主導権を握っている感じだったのに、三カ月くらいたつと、立場が逆転していました。そして何となくそういうような、恋愛関係のような雰囲気になったのは、半年くらいしてからでした」
と振り返る。六カ月前にはじめて飛行機のなかで出会い、野球しか知らないイガグリ頭の大学生でしかなかった江川を、いつの間にか彼女のほうも“異性”として見るようになったというわけである。
と、ここまでに書かれた分を読むと、僕《ぼく》と正子の仲は順調に進んでいったかに見えるけれど、物事はそんなにうまくは運ばない。交際が深まるにつれ、特に試合のことなどでナーバスな状態になったりしたとき、まだ女《によう》房《ぼう》にしたわけでもないのに、彼女への甘えやわがままを抑え切れなくなり、正子に当たり散らすようになった。ふたりの関係は、バラ色の期間と暗黒の時期とを交互に繰り返していた。
ある時は菊地の家のなかで大ゲンカを演じ、正子をなぐったうえに、僕は彼女の髪をつかんでひきずりまわしたこともある。制止しようとしがみついてきたお義母さんは、もう気が狂ったようになっている僕に押し倒され、ひっくり返った拍子に襖《ふすま》に大穴をあける始末。お義父さんも居合わせたのだが、そもそも普段から、菊地家に集まった若者たちが酔って大騒ぎしようと議論が昂《こう》じて声を荒らげようと、「うるさい、静かにしろ」などと怒ったためしがなく、そのただなかでも平気でひとり静かに本を読んでいるような人なのだ。僕と正子とのこのケンカの際も、まるで騒ぎには気づかぬふうで、読書を中断することすらなかった。
さて、ひと通り暴れまくった僕が玄関からとび出していった後、ぶつけた腰をさすりさすり、「なぜ何もおっしゃってくださらなかったんですか」とお義母さんがこぼし、「そうよ、娘があんな目にあっているのに」と正子が詰め寄ると、本から目を離さぬまま、お義父さんは言ったそうだ。
「ワシはあの男のことを信じておる」
うちの親父も相当変わってはいるが、菊地家のお義父さんもかなりのものだと思う。これには恐れ入った。
ところで、とび出していった僕はその後どうしていたのか。暴れられるだけ暴れて気持ちもおさまり、その辺をウロウロしているうちに外気で頭も適当に冷えたころ、公衆電話を見つけて菊地家のダイヤルを廻《まわ》した。
「僕だ。じゃ、今から食事に戻《もど》るから」
――あるいは僕も僕で、相当なものかもしれない。
そして、江川父子の関係にある変化が起こったのは、ちょうどこの正子夫人との壮絶(?)な恋愛の頃《ころ》であった。
前にも書いたことだが、僕は物心ついた頃から親《おや》父《じ》を“パパ”と呼び、付け加えると、母親のことは“おかあちゃん”と呼んでいた。“パパ”“おかあちゃん”とはおかしな組み合わせだが、なぜそうなったのかは分からない。今になって両親に訊《たず》ねてみても「さあ、どうしてだろうね」としか答えがかえってこない。ともかく親父は“パパ”で、大学に入ってからもそう呼んでいた。
しかし、大学生ともなると、さすがに“パパ”では抵抗がある。子供の頃ならともかく、すでに大学で仲間との雑談のときは、
「それでオヤジがさあ……」
などと言うようになっていたのに、それでいて親父の前に出ると「パパ、あのね……」なのだ。これは「怪物」というニックネームまですでに頂《ちよう》戴《だい》していた僕にとって、他人には絶対知られたくも見せたくもない光景となった。僕も並の男の子たち同様、面と向かって父親を「オヤジ」と呼びたいという願望にかられたわけなのだ。
でも、いざその場になるとなかなかこのひと言が言えない。セキをするだけでも、怖い親父だった。「オヤジ」なんて生意気な口をきくな、と怒鳴られるんじゃないか。大学生になっても僕には、まだまだ恐怖が先に立つのか……。
しかし、いつまでもこれではいけない。確かあれは大学二年のときだったと思う。合宿所から実家に帰ったとき、「今日こそは“オヤジ”と呼ぶぞ」と“パパ”にサヨナラする一歩を踏み出す決意をかためた。が、だらしのないことに、いざ父親の顔を見ると、やっぱりためらいが出た。「今度にしようかな……」。逃げ出したい気分に襲われ、動《どう》悸《き》が激しくなった。でも、とにもかくにも男がいったん心にこうと決めたことだ。文字通り渾《こん》身《しん》の力をふり絞って、僕は自らを前に押しやった。喉《のど》はカラカラだ。タイミングをはかり、
「……オヤジ、それは……?」
蚊の鳴くような声で、しかも横を向いてそう言うのがやっとだった。何を訊ねたのかは覚えていない。第一、質問の内容が大事だったわけじゃない。要は“オヤジ”のひと言だ。
父の反応に全神経を集中した。あのとき僕の耳は、十メートル先に針が落ちても聞こえただろう。長い静寂が続いた。……と僕には思われた。
「それはなあ、卓……」
いつもと変わらない親父のおだやかな声が聞こえたときは、冗談じゃなく、ドッと汗がふき出した。
「やった! オヤジと言えたぞ」
パパからオヤジへ。――恥ずかしい話だが、これは、少なくとも僕にとってひとつの大きな転換期であった。とはいえ、オヤジと呼び始めてしばらくの間は、なかなか思うようにはいかなかった。やはり面と向かってしまうとオヤジとは呼べずに、横を向いたまま早口でささやくように「オヤジッ」と言うのが関の山。そんな僕に気づいた女《によう》房《ぼう》からは、随分笑われたものだったが、やがてある出来事を通じて、この“怖いパパ”からようやく本式に解放された。のみならず、これからの人生でたとえどんなことが起ころうとも、もう何も怖いものはない、そう思える僕になった「ある出来事」とは……それは、次に詳述することにしよう。
はじめての反抗期
父・二美夫氏にとって、長男・卓は彼の理想通りに成長していた。
慶応の受験失敗という挫《ざ》折《せつ》はあったにせよ、これは本人の意志とはまったく関係のないところで、周囲の思惑や事情に流されてしまったきらいがある。
いずれにしても二美夫氏にとって、あくまで長男・卓は、自分に逆らうことなく、プロ野球というゴールに向かって突き進んでいたのである。
そんな二美夫氏が、少なからずショックを覚えたのが、菊地正子さんとの交際だった。
正子さんは名門都立青山高校から実践女子短大の英文科に進み、卒業後、日航の国際線スチュワーデスとなった。それだけ見れば、申し分ないお嬢さんであることは確かだった。
しかし、いかんせん、正子さんは江川より六歳も年上である。何も急いでそんな年上の女性と……というわけだ。父としてはこの交際に、もちろん反対した。このことに関して二美夫氏は、
「年が上だからというよりも、まだ早いということでね。やはり親ですから、あまり早く手《て》許《もと》から離したくないという思いはありました。だから、周りの連中を焚《た》きつけて、若干の抵抗をしたようなことはありますよ」
と語る。具体的には、江川の周囲の人物に、
「早すぎるんじゃないか」
と反対するように頼んだ上で、菊地家に対し仲介の人物を立てて、ふたりが別れるように工作した。
だが、そこまでしても、江川の気持ちを変えることはできなかった。それどころか、江川はますます正子さんに傾倒し、大学卒業後、すぐに結婚しようと決意する。
親《おや》父《じ》には、おそらく僕《ぼく》の結婚の意志を簡単に覆《くつがえ》す自信があっただろうと思う。それまで父の言葉に逆らったためしがない僕のことだから、結婚についても、
「それは、やめたほうがいいよ」
と言えば、その通りに僕が従うと思っていたはずだ。ところが正子とのことについては、僕の気持ちは完全に固まっていた。
正子に対して、プロポーズらしき言葉をほのめかしたのは、大学四年の秋のリーグが終わった後だ。彼女の自宅を訪れる約束をしたとき、
「御両親にはちゃんと言わなくちゃね。背広を着て行くよ」
そう宣言したものの、結局“ちゃんと”は言えなかったが、約束の日は背広にネクタイをしめていった。父を「オヤジ」と呼んだ時と同じで、結婚の意志をはっきりと伝えられたわけではない。だが、御両親には、当時の僕としては珍しいあらたまった服装でおおかた僕の胸のうちを察してもらえたようだ。
実は、この時点では、大学を卒業したらすぐにも結婚するつもりでいた。
もはや正子以外の女性は考えられなかったし、自分の給料で女《によう》房《ぼう》が養えるようにさえなれば、いつ結婚してもいいと考えていた。
ドラフトで指名を受ければ、契約金も入るし、給料にしても普通の大卒以上の額を貰《もら》えるはずで、すぐ結婚しても、十分生活していけると踏んだのだ。
ところが結局、その年指名されたのが意中の球団ではないクラウンライター・ライオンズだった。止《や》むを得ず結婚は延期、浪人を決意してアメリカに留学した。翌年も巨人入りがもめて、結婚はもう一年遅れることになったが、この二年間は、父をはじめ僕の周囲を正子との結婚に納得させる意味では、大いに貴重だったと思う。
親父は、僕に対して真っ向から反対するようなことはなかったが、その気持ちは間接的に誰《だれ》かの口から、僕の耳に入った。
親父だけではない。親《しん》戚《せき》も快く思ってくれなかった。
自分の口から言うのもおかしいが、僕は江川一族のスーパースターだった。江川卓を中心に一族がまとまっているという雰《ふん》囲《い》気《き》もあった。だから、卓はそうあわてずに、もう少し待って、しかるべき女性と結婚しなさいというわけだ。
それでも、僕はもう自分の気持ちを固く決めていたから、どんな声にも屈することはなかった。しかしその点、かわいそうだったのは正子のほうだ。
女性なら誰でも、祝福されて白いウエディング・ドレスを着たいものだろう。なのに相手の親、親戚から反対されているのだ。僕も、それだけは心苦しかった。自分が最良の相手と自信をもって選んだ女性が身内に受け入れてもらえないことほどつらいことはない。
そこで、とにかく正子を正しく理解してもらうように僕はつとめた。親戚が集まるときは彼女がその席に呼ばれようが、呼ばれまいが、正子を連れていった。
じかに正子に接すれば、必ず彼女の良さを理解してもらえるはずだと思ったのだ。女房自慢をしているようで、こんなことを書くのはなんとなく気がひけるが、その考えは間違っていなかった。そのうち母が、
「あれほど愛し合った仲なんだから、生木を裂くようなことはできませんよ」
と親父を説得してくれて、その鶴《つる》の一声でわれわれの結婚が認められたという次第だ。
ただし、正直に言えば、大騒ぎになってしまったあのドラフトがなかったら、僕たちの結婚も、もしかするとなかったかもしれないのである。
不運のドラフト
僕は通算三度、ドラフト会議で一位指名されている。作新学院三年のときの阪急(現オリックス)、法政四年時のクラウン(現西武)、そして問題の、アメリカ留学後の阪神だ。とにもかくにも、多くの球団からこうして誘われたこと自体、僕は野球人として心から感謝したいし、光栄のいたりだと思っている。
たしかに、ドラフトで二度指名された選手は何人かいるが、三度、それも一位指名というのは昭和四十年にスタートしたドラフト史上、彼がただひとりである。
江川という投手がそれだけの逸材だったことを物語るエピソードには違いないが、意中の球団からの指名であれば、何度めであろうとすんなり契約したに違いない。つまり三度というのは、江川のクジ運の悪さの証明に他《ほか》ならないのである。
必ずしもクジ運だけの問題ではなかったと、僕《ぼく》は思う。三度めの阪神からの指名については、巨人がドラフトをボイコットするというあの異常事態のさなかの出来事だったから、クジ運とは言えない。また、一度めの指名についても、大学進学を控えた身の僕にとっては、およそ問題外のことだった。大学などに行かずプロ入りしていれば二百勝はかたかったろうに、などと言われる方もあるけれど、前述の通り、大学進学は僕の人生航路において避けて通れぬ道筋であったのだから、「もし……」と言ってみてもはじまらない。もし、あれが阪急じゃなく、たとえ巨人からの指名だったとしても、僕にも、そして親《おや》父《じ》にも、あの時点でのプロ入りの気持ちは決してなかったのだと、はっきり断言しておきたい。
クジ運の悪さをうんぬんできる部分があるとするなら、それは二度めの指名のときだろう。大学での生活も終わりに近づき、いよいよ僕の人生航路もプロに向かおうとするあのとき、ドラフト前から、たとえ指名して下さったにせよ入団する気はありませんと、無礼なことと知りつつも戦略的に、あえてそう公言していた球団が、一位指名権を引き当ててしまったのだから……。
この年のドラフトは、まず十二球団が指名順位を決め、一位から順に選手を指名し、交渉権を獲得するという方式で行なわれていた。ひとりの選手に対して複数の球団から指名があった場合に抽選を行なうという現在の方式に変わるのは、その翌年からである。
そして江川の不幸は、クラウンライター・ライオンズが一位指名を獲得したことにある。しかも二位は巨人だった。クラウンがあのとき江川を指名していなければ、“空白の一日”など存在しなかった。江川は間違いなく巨人に入団していた。
クラウンライター・ライオンズ球団は、言うまでもなく、鉄腕・稲尾和久、スラッガー・中西太を擁して黄金時代を築いた西鉄ライオンズの後身である。しかし江川の二度めのドラフト当時、かつての黄金時代の勢いも面《おも》影《かげ》もすでにない弱小球団になっていた。
そんなクラウンには、いくら江川本人がドラフト前から入団する気はないと宣言していたとはいえ、「はいそうですか」と江川指名を簡単に断念できない理由があった。借金にあえぐ赤字球団には、一位指名のクジをひきあてたとき、超目玉である江川指名を回避することは許されなかった。ファンが納得しないし、江川をもし獲得できれば人気はおろかチーム強化面でも、これ以上ない起爆剤になるのは間違いなかった。
しかし結果は、やはり火を見るより明らかだった。江川はクラウンへの入団を拒否した。
入団交渉にあたったのは、当時の球団代表の坂井保之氏(西武球団代表を経て現在ダイエー球団代表)である。
江川サイドのガードは固く、クラウンは年が明けて最後の手段に訴えた。現金をかき集めて船田事務所を訪れ、契約金を提示したのだ。その額は一億円を超えていたと言われる。
プロ野球のスカウトの間では、「現金をみせろ」が入団交渉が難航したときの鉄則になっている。今まで見たこともないような分量の札束を前にして、グラッとするケースが多いのだ。しかし、江川家はその目のくらむようなキャッシュにも動じなかった。
結局、江川獲得を断念したクラウンの球団の赤字は解消されず、翌五十三年西武に身売りすることになる。もし江川が入団していれば……。球団経営は正常化し、身売りは避けられたかもしれない。となると、現在の西武ライオンズはなかったかもしれない。その西武が巨人にとってかわる常勝球団に成長していることを見れば、ここでも“球界の歴史を変えた”江川の存在が浮かびあがるのである。
僕は大学のときから、入団を希望する球団は巨人一辺倒だったと思われているようだ。でも、それは違う。もちろん巨人に入れれば最高だとは思っていたけれど、もしもヤクルトか大洋に指名されたなら、すんなり入団するつもりだった。
四年前の慶応受験に失敗しているだけに、プロに入るときこそは意中の球団に入りたいとは思っていた。それは事実だ。だけどその意中の球団が巨人一本だとすると、たかだか十二分の一の確率でしかない。そんなことよりは、多少の幅を持っていた方が、少しは期待を裏切られずにすもうというものだ。
そこで“在京セ・リーグなら”ということを心に決めていた。それには理由がふたつある。
「在京」にこだわったのは、実のところ恋愛中の正子に関係していた。当時は一番ホットな時期である。彼女と、九州はもちろん広島や大阪や名古屋に離れて暮らすなんていうことは、恐しくて想像もできなかったのだ。
そして「セ・リーグ」というのは、もちろん巨人であれば何の文句もないが、もし巨人のユニフォームが無理であっても、せめて巨人と戦える球団に、というわけだった。
在京セ・リーグといったら、三球団しかない。四分の一の確率である。「四分の三はハズレ」と覚悟して待ったドラフトではあるが、結果は在京でもセ・リーグでもないクラウンの指名……。すぐにプロのユニフォームを着たいという思いも確かにあった。だが、大学受験に続いて憧《あこが》れのプロ入りまでも希望とかけ離れた道では……と思うと、なんとも言えぬ抵抗感があった。
また、親父には親父なりの、思惑もあったと思う。正子と僕との結婚に反対したのと同様、僕を自分の手《て》許《もと》からそう簡単に放したくなかったのではないか。親父の頭には、プロ入りするとはいえ、自分の威厳を、まだ遅い反抗期半ばの息子に示しつづけるためには、九州はあまりに遠いという思いもあったはずだ。
かくして僕は、クラウンへの入団にノーを出したのである。
あのときの記者会見で僕は、入団拒否の理由として「九州は遠すぎる」というようなことを言った。おそらく妙な事を言うと思われた方は多いだろうが、これが僕の真意だったのだ。
アメリカ留学
江川の一年間“浪人”を決めた江川家は、さっそく「一族のスーパースター」の浪人期間中における身の処し方を慎重に検討し、何度も話し合った結果、次の三つの案が浮かび上がってきた。
@ 日本に残って社会人野球入り。
A ハワイ大学への留学。
B USC(南カリフォルニア大学)への留学。
大事な選択である。最終目的はあくまでプロ野球入りなのだから、一年間のブランクが大きいのは目に見えている。となれば、いかに体をなまらせずに翌年のドラフトを待つかが大切だ。
最初に@が消えた。社会人野球に行くと二年間はそちらに在籍しなければドラフトにかからない規則がある。二年は長すぎる。
Aは、受け入れ態勢に無理があった。まず試験を受けて、語学生として入学しなければならないのだそうで、そうなると勉強が中心となって野球どころではないのだ。
そして最後に、Bが残った。江川家に近しい人物のなかにUSC野球チームのデドー監督を知る人がおり、江川をUSCチームの練習生として受け入れて貰《もら》えるように、話をとりつけてくれたのである。
そこでBを選ぶこととなった江川家は、二美夫氏が退職金を前借りして渡航資金を捻《ねん》出《しゆつ》し、江川をアメリカへ送り出すことになった。
ひと口に留学とは言っても、USCの学生証をちゃんともらったわけではない。あくまで客人扱いの野球チームの練習生なのである。正式な学生ではないのだから、ゲームに出場できるはずもない。では僕《ぼく》は何をしていたかというと、もっぱらバッティング投手を務めていた。
日本では、江川卓という名前でそこそこ通用し始めていたけれど、向うに行ってしまえば、大学の野球チームの、名もないただのバッティング投手役なのだ。いや、だからこそ、それはそれでいい経験をさせてもらった。
それまでにも、日米大学野球で渡米した経験はあったけれど、そもそも団体さんで通訳付きだったから、英語がわからなくても不自由はなかった。しかし、今度はひとりっきりで、通訳なんていない。ロスには日本人の知人がいたけれど、一日中一緒にいてもらえるわけもない。
とにかく英語を使うほかない。ところが、本場の英語は俗語まじりで、しかもテンポが速いときている。こっちが言いたいことは身振り手振りを交えて何とか相手に伝えられたとしても、相手の言うことがチンプンカンプンなんだから、とても会話にはならない。元来がおしゃべりな僕だけに、世間話もろくにできないのはかなり苦痛だった。
そんな生活の中で、最初に僕の英会話の先生になってくれたのが、クリス・スミスである。野球通の方なら聞き覚えのある名前だと思う。USCから大リーグ入りし、その後日本へ来て、ヤクルトでもプレーしたことのある左バッターだ。
彼は僕と、1DKのアパートでベッドを二つ並べたルームメイトだった。アメリカの大学生は、日本の学生ほど裕福ではない。親からの仕送りなど期待せず、あくまで自活をモットーとしている。だから生活費を最小限に抑えるために、仲間同士でひとつのアパートを借りるのは当たり前の生活の知恵なのだ。
とはいうものの、クリスの彼女が遊びに来て、しかたなしに僕はその間部屋を明け渡す、なんてみじめな役回りを演じたこともしょっちゅうだったけれど、彼は英語のわからない僕を相手にいろいろ面倒を見てくれたものだ。
彼との共同生活で傑作だったのは、お互いの朝食についてである。向うにも日本食を置いているドラッグストアがあって、ビーフ・フレーバーとかポーク・フレーバーとかといった即席ラーメンを売っていた。それをドサッと買い込んできて、朝は、いつもインスタントラーメンをすすってすませる毎日だった。
これに対して、クリスはコーンフレークに牛乳をかけて、そいつをスプーンで掻《か》き込むのがおきまりであった。どちらも安くて、作るのが簡単、というだけの朝食だが、食文化の違いはいかんともしがたい。僕は、牛乳に浮かぶコーンフレークなんて代《しろ》物《もの》を食べ物とは認知できなかったし、クリスとてラーメンをすする僕を不思議そうにながめるばかり。お互いに、
「よくそんなものが食べられるな」
というのが朝の挨《あい》拶《さつ》になった。こうして一日が必ず、日米食文化論争めいた言い合いで始まるクリスとの生活だったが、本当に楽しい思い出だ。
英語も少しずつ耳になじむようになり、おしゃべりでの不自由はなくなってきたものの、その一方で、別のフラストレーションがたまってきた。言うまでもなく、試合で投げられないことからくる鬱《うつ》憤《ぷん》である。
中学二年のときからとにかく試合で投げ続けてきた僕だけに、「どうぞ打ってください」式のバッティング投手だけでは、やはり我慢できない。浪人の身の上としては贅《ぜい》沢《たく》な不満だけど、打者との勝負ができない日々が次第に、正直つまらなく思えてきたのだ。
クリスの彼女がアパートに来ているときなど、車を飛ばして海を見にいき、海に向かって、「ドラフトがうまくいっていれば、今《いま》頃《ごろ》はプロ野球のマウンドに立っていたんだなあ」とつぶやいたこともある。外国でのしがない浪人暮らし、僕の気持ちはしめりがちになった。
そんなフラストレーションから僕を解放してくれたのが、アラスカでのサマー・リーグだった。アラスカには四つの市があるが、地元の企業がスポンサーになって、それぞれ野球チームを持っており、夏の三カ月間、リーグ戦を開催している。デドー監督のはからいがあって、僕はそのサマー・リーグに参加するチャンスを与えられたのだ。ロスを後にして、僕は勇んでアラスカに向かった。
このリーグ戦に参加するのは、将来有望な大学生を中心に、そこに元プロも加わるので、レベルはかなり高かった。トム・シーバーやクロマティなどもこのリーグ経験者だ。
日本人の体験者は、おそらく僕が最初で最後だと思う。所属したのは「グレイシア・パイレーツ」なるチームで、背番号は「23」。ちなみに成績は二勝二敗。毎日毎日バッティング投手ばかりやっていた僕にとって、久しぶりに「打者を抑えよう」と思って投げられる喜びは格別だった。
このアラスカ滞在中、僕はアラスカ鉄道に勤めるフランク・トムリンソンさん夫妻の家にホームステイしていた。フランクさんは五十歳くらいの紳士で、奥さんは日本人という日本通だった。お子さんはなく、ホームステイの期間中は僕が息子がわりでもあった。大の釣り好きで、休みの日には僕も誘われ、よくフランクさんと二人で釣りザオをかついで出かけたものだった。
産卵のために川の上流に戻《もど》ってくるサーモンを狙《ねら》う。なにしろうじゃうじゃいるから、釣りというより、針で引っ掛けると言ったほうがいいくらいだ。この豪快さ、スケールの大きさ。大自然が相手のこんな遊びは、日本ではまず味わえないものだ。
毎日ハンバーガーとピザの食事には閉口したが、チーム内に日本人は僕ひとりだったので、英語がグンと上達したし、有望な選手たち相手に試合で投げることもできた。そのうえ大自然の豊かさも満喫できて、僕のアラスカ体験は実り多いものだった。
静岡の山奥から関東平野に移ったときにも、子供心に「広いな」と思ったものだけれど、日本を遠く離れてアメリカに暮らしてみると、これはもう関東平野の比ではない。断然スケールが違うのだ。そして、このアラスカ体験に追い撃ちをかけたのが、グランド・キャニオンである。
アラスカからロスへ戻った僕のところに、正子が遊びに来た。すでに彼女はその年の七月いっぱいで日航を退社していた。いわば花嫁修業中の気楽な身である。せっかく来たんだから車でグランド・キャニオンへ行ってみようか、ということになった。
どこまでいっても景色が変わらない砂《さ》漠《ばく》を走りに走って、たどりついたグランド・キャニオンの雄大さに、僕は圧倒された。今にも吸い込まれそうな自然の大パノラマを目の前に、しょせん自分もちっぽけな人間でしかないと痛感させられた。
小学校六年生のとき、家族して初めて登った富士山の大きさにしたたか驚かされたことを思い出した。御来光を拝む僕の眉《み》間《けん》に皺《しわ》が寄っているのを見つけたおふくろが「卓、富士山に来て、生まれて初めて眉間に皺を寄せるなんて、きっと大きな人物になるよ」と、なんだかおまじないめいたことを言ってくれたのだ。
でもグランド・キャニオンの荒々しさときたら、これはもうおまじないなどという次元のものではない。人間、小さいことをクヨクヨ考えているのはバカらしい。おふくろのおまじないではないけれど、なるほど大きくならなければと思い知らされた。
このアメリカ体験が、僕の合理的精神と結びつけられて考えられがちのようだが、それは若干違う。少なくとも僕はアメリカにかぶれたつもりはない。椅《い》子《す》の生活より、炬《こ》燵《たつ》に入ってみかんを食べる生活をどれだけなつかしいと思ったか知れない。遠く離れてみてあらためて日本の良さに気づいたこともしばしばあった。そして逆に悪い面に気づいたことも事実だ。あの人種の坩堝《るつぼ》のなかで、人それぞれ、個々の考え方、生き方は尊重されるべきものだと実感させられもした。
またプロ入り後の僕が、シーズン・オフの短い期間を利用して、必ず海外旅行に出かけるように心掛けていたのは、なにかと騒がれる日本という国を離れ、年に一度くらいは、混じりけのない目で自分を見つめ直してみたいと思ったからでもあった。
「空白の一日」というパズル
高校時代から常に世間の目にさらされ続けてきた江川にとって、文字通り日本のマスコミから解放された形の滞米期間中は、じっくりと自分を見つめ直すことのできる“安息の日々”であったと言えるかもしれない。
しかしながら、江川本人がアラスカやグランド・キャニオンの大自然に心を洗われている間にも、日本では“運命のシナリオ”が着々と準備されていた。ドラフトを四日後に控えた十一月十八日、江川は海の向うの日本から突如、帰国命令を受けたのである。
江川の巨人入団発表記者会見は十一月二十一日、午前九時三十二分から全共連ビル六階で行なわれた。紺のスーツ姿の江川の両《りよう》脇《わき》には巨人軍・正力亨オーナー、船田中自民党副総裁が座り、さらに正力オーナーのとなりに巨人軍・長谷川実雄球団代表が位置した。
寝耳に水の電撃契約が、スンナリ受け入れられるはずがなかった。巨人と江川側が正当とした「空白の一日」は、あくまで手続き上から生じたもので野球協約の基本精神に反するもの、と総攻撃を受け、セ・リーグ鈴木龍二会長は、巨人の江川選手登録を却下した。
これを不服とする巨人は「重大決意」という表現で新リーグ結成をほのめかし、翌二十二日のドラフト会議をボイコット、異議申立書を提出した。ドラフト会議は巨人を除く十一球団で行なわれるという異常事態となり、江川は南海、阪神、ロッテ、近鉄の四球団が一位指名。抽《ちゆう》籤《せん》の結果、阪神が交渉権を引き当てた。
以来、江川との契約を正当とする巨人と、これに反対する他の十一球団が真っ向から対立。球界は大混乱に陥《おちい》る。世論も圧倒的に巨人と江川を悪者扱いし、「空白の一日」をめぐる騒動はエスカレートの一途をたどる。以下、日を追って江川騒動の展開を見たい。
十一月二十五日。金子鋭《とし》コミッショナー、鈴木龍二セ・リーグ会長、工藤信一良パ・リーグ会長の三者会議が行なわれ、巨人の提訴を却下する方針を確認。
十二月五日。セ・リーグのオーナー懇談会が開かれ、ドラフト制撤廃の方向の話し合いがなされる。
十二月九日。パ・リーグのオーナー懇談会が開かれ、セ・リーグのオーナー懇談会のドラフト撤廃論は江川問題のすり替えとの非難が出る。
十二月十三日。金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長、巨人・長谷川代表の三者会談が開かれる。巨人に対する事情聴取。
十二月二十一日。金子コミッショナーの裁定が下る。巨人と江川の契約を却下。ドラフト会議は有効、とするもの。
十二月二十二日。金子コミッショナー強権発動。実質的収拾のためキャンプ前の巨人と阪神のトレードを認めるというもの。
十二月二十七日。巨人、江川との契約の白紙撤回を決定。
明けて昭和五十四年一月七日。阪神と江川が初交渉。
一月十一日。阪神と江川の二度目の交渉は、阪神側の「トレードは前提にできない」という態度に決裂。
一月二十日。江川の父二美夫氏、大阪入りし、小津正次郎阪神球団社長と会談。「鈴木会長への一任」を要請。
一月二十四日。小津球団社長が上京し、鈴木セ・リーグ会長立ち合いのもとで江川側と交渉。「金銭トレード」を主張する江川側と平行線。
一月二十六日。再度の小津・江川交渉も平行線。
一月三十一日。小津上京。鈴木会長と会談したのち、江川と契約。ただちに阪神と巨人・小林繁投手の交換トレードが成立する。
二月五日。江川、小山でひとりのトレーニング開始。
二月八日。実行委員会が開かれ、江川―小林のトレードは白紙に戻《もど》し、小林は金銭トレードで阪神入り、江川のトレードは野球協約通り(新入団選手は開幕するまでトレードできない)四月七日以降に行なう、という決定がなされる。また、江川はペナルティとして五月三十一日以降でなければ現役登録できないと決定された。
四月七日。巨人・江川が正式誕生。
六月二日。江川、因縁の阪神戦で一軍デビュー、五失点で敗戦投手となる。
僕《ぼく》は、巨人との統一契約書にサインした時点では、あんな騒動が待ち受けていようとは夢にも思っていなかった。少なくとも入団発表の記者会見場に一歩足を踏み入れるまでは……。
記者会見場のムードは、はじめからおかしかった。異様なざわめき。巨人との契約という晴れの舞台に臨むために、いちばんいい背広とネクタイを身につけ、夢見心地だった僕もさすがに、スンナリ会見できる雰《ふん》囲《い》気《き》ではないと気づいた。冷静に思えた新聞記者の表情も次第に険しくなってくる。僕は用意していたコメントを棒読みして会見を終えたが、ただならぬムードに不安を覚えた。
案の定、事態はどんどん思わぬ方向へ展開していった。僕は会見終了後、報道陣から逃がれるようにして新宿区弁天町にある正子の自宅へ行った。当時の新聞によると、“江川、雲隠れ”だ。
翌日のドラフト会議の模様は、正子の家でパジャマ姿のまま、テレビ中継で見た。自分がこの先どうなっていくのか想像もつかない。巨人が欠席したドラフト会議では、僕が次々と指名されていく。南海、阪神、ロッテ、近鉄の四球団が競合した。
その中で阪神が籤《くじ》を引き当てたのだが、正直ホッとした記憶がある。阪神なら巨人と同じセ・リーグの球団だ。巨人との話し合いで何となくいい方向にいくような気がしたのだ。結果的にはその通りになったが、もちろんそれは甘っちょろい考えだった。その話し合いは、決してスンナリというものではなく、交換トレードという形で、小林さんに大きな迷惑をかける結果となったのだから……。
マスコミのマークはエスカレートする一方だった。ドラフトの二、三日後に戻った小山の実家でも、朝から晩まで報道陣がピッタリとはりついていた。
窓から顔を覗《のぞ》かせでもすれば、バシャバシャとシャッターを切る音が降ってくる。おかげで窓は一日中閉めっぱなし。もちろんカーテンも閉めて、家の中は朝から電気をつけていた。洗《せん》濯《たく》物《もの》も外に干せないから家の中に吊《つ》るした。
外に出られないだけではない。家の中からも“攻撃”を受けた。どこかで江川家の電話番号を調べたらしい野球ファンからの怒りの電話である。とにかく鳴りっぱなしなのだ。田舎育ちで律儀な性格のおふくろは、文句を言われるのは承知で受話器をとっていたが、ついにノイローゼ状態で寝込んでしまった。
読売を除く新聞は連日、巨人と僕の非難を続けている。僕をはじめ家族のフラストレーションは、日増しにつのり、もう限界というとき、とにかく外に出たいと思った僕は、報道陣に追いかけられるのは覚悟の上で、中古のローレルを運転して家を出た。
すわっとばかり報道各社の黒塗りのハイヤーが鈴なりになって追ってきた。僕が誰《だれ》かに会うのではないか、と彼らも必死だ。
僕は家から五百メートルばかり離れたところで車を停《と》め、自動販売機にコインを入れた。牛乳を買いに行ったというわけだ。すると息を切らせて駆けつけた記者のひとりが叫んだ。
「テメエー、バカヤロー、新聞記者をなめんなよ!」
僕は彼らをなめたつもりはない。ただ外の空気が吸いたくて牛乳を買いに行っただけなのだ。いま思えば、記者の人たちも僕の張り番を続けた疲れもあって、興奮していたのだと思う。でも、そのときは僕も平静ではいられなかった。
「牛乳を買いにきてどこが悪いんだ。牛乳を買うのは自由じゃないか」
売り言葉に買い言葉だ。親《おや》父《じ》は親父で記者さんに向かって「日本経済の無《む》駄《だ》」なんて憎まれ口をきくし、当時小山に張り込んだ記者の人たちは、さぞ「江川家の連中ときたら……」と思ったことだろう。
まあ、とにかく、そこらじゅうを敵に回して戦争をしているような時期だったから、新聞も読まなかった。読めば、書いてあるのは悪口ばかり。さらに気が滅入るだけだ。わが家には、僕に関する新聞記事などを、目につく限り残さず集めた「江川資料」がある。現在、自宅に置いてある分だけでもスクラップ・ブックで五十冊以上はあるが、この整理は女《によう》房《ぼう》の仕事だった。旅に出れば、その際のスナップ写真から領収書や案内図まで、丹念にアルバムに整理するのを楽しみにしている彼女だが、この「空白の一日」をめぐる騒ぎのときの新聞も、読みはしなかったが、実はすべて保存しておいた。それを最近になって目にした正子は、見出しのおぞましさに、思わず目をそむけたと言っていた。とても口にはできぬような恐しい言葉の連続だったというのだ。あのとき、僕を非難するためとはいえ、あれほどひどい言葉を新聞の一面に載せた人々は、今、それを見たらどう思うだろう。ともあれ、そんな時期だったからこそ、まるで籠《ろう》城《じよう》中の家の中で「少しでも何かを楽しもう」と僕は考えていた。そうでなければ、重圧に圧《お》し潰《つぶ》されそうな気がしたのだ。
で、何をやったかというと、平たく言えば、マスコミに対するいたずらだ。たとえば新聞記者の人たちは、家の前の路上で出前のラーメンをすすったりして僕を見張っている。そこでカーテン越しに覗いて、ラーメンが到着したと同時に僕が出かける。彼らはせっかくのラーメンを食い損なうという仕掛けだ。一度はタイミングが早すぎて、出前が着いたときには、もう誰もいなかった、ということもあった。あのときの支払いは誰がしたんだろうか……。
正子が肉の差し入れをしてくれたときには、みんなあまり食欲はなかったけれど、スキヤキをしようということになった。「ようし、換気扇でにおいをガンガン外に出してやれ」と、これもまともな食事のとれない記者さんたちには、かなりのイヤガラセだった。
そんなこんなで、当時小山に張りついていた記者のみなさんには本当に申し訳ないことをした。生意気な口も叩《たた》いた。でも、あれくらいの突っ張り精神がなかったならば、辛《つら》く、苦しく、今振り返ってみればよくぞ自殺しなかったものだと思わずにはいられないあの日々を、乗り越えることはできなかったと思う。
生意気の話が出たついでに、有名になってしまった「興奮しないで」の経《いき》緯《さつ》にもふれておきたい。これは阪神との契約を終えた後の記者会見で出た言葉だった。会見場の席に座るか座らないかというとき、ひとりの記者が、かなり激しい口調で、「お前、阪神に入ったんなら、キャンプに行くつもりか!」と喧《けん》嘩《か》腰《ごし》に話しかけてきたのだ。そこで僕は、「興奮しないで、冷静にやりましょう」と言ったわけだが、後日この模様のビデオを見ても、なぜかこの記者の言葉は入っていない。いきなり僕のあの言葉だけがとび出す形になってしまっているのだ。
「興奮しないで」は僕の生意気さを象徴する言葉になってしまった。あの“名文句”を引き出してくれた記者さん、どこの社のどういう方かわからないけれど、今になれば一度会って話をしてみたい。
ちょっと時期が違うが、会ってみたい記者の人がもうひとりいる。慶応受験に失敗したときに取材を受けた人だ。絶対に合格していると思って出かけた法学部の合格発表に、自分の番号がなくて愕《がく》然《ぜん》として駅に戻ると、後ろからついてきた記者がいた。確か雑誌の人だったと思うが、プラットフォームまで来て「ザマーミロ」みたいなことを言ったのだ。カーッときた僕は、他《ほか》の人にわからないようにその人の向うずねを蹴《け》ってやった。あの人もどうしているかなあ。
そんなトラブル含みのことばかりなつかしく思い出すが、あのふたりの記者さんとは、恨みつらみなしで、本当に会ってみたいと思う。
球界の利益という立場を重視した金子コミッショナーの英断で、江川は巨人に入団することはできた。しかし、読売を除くその他のマスコミの総攻撃にあって、江川には“ダーティ”というイメージが定着した。
入団時には、チーム内でも、阪神との交換でチームを出された小林繁の心情を慮《おもんばか》ってか、江川に対し白い目を向ける選手もいた。
ドラフトの時のイメージにこだわり、「江川は許せない」と言い続ける“アンチ”の存在も根強かったが、江川の豪快なピッチングや、野球選手としてこれまでにない独特のキャラクターに好感を持つファンも次第に増えていった。
“アンチ”も含めたファンの関心度は球界ナンバーワンと言えただろう。スポーツ新聞は江川を一面で扱えば売れに売れた。スカッと完封してファンが買い、KOされて“アンチ”が買った。今まで、勝ってもKOされても常にスポーツ紙の一面を飾った投手は、江川ひとりである。
僕は、人生において経験するすべてのことを、あくまでプラスに考えたい。あのドラフトで学んだことは多い。教訓として今も胸に深く刻みこんでいるのは、
「自分のことはすべて自分できめなくてはならない」
ということだ。
いろんな方の意見、アドバイスにはしっかり耳を傾けなければならない。しかし、それはあくまで判断の材料としてであって、自分の中でそれらを充分吟味したうえで、最終的な結論を出すのは、他でもない、自分自身なのだ。
それが自分で選んだ道ならば、たとえ失敗に終わったとしても、誰に対しても恨みつらみは言えないし、言うべきでもない。それをよいステップにして反省したうえで、もう一度、また自分の責任でやり直せばいいだけだ。
ところが他人の意見を押しつけられ、自分自身でしっかり判断したのではないまま行動を起こし、そのうえ失敗したらどうなるか。誰かに責任を転《てん》嫁《か》して、見苦しい弁明に終始するのがオチだ。そんなことでは人生、決してプラスにはならない。
だから、「空白の一日」に関する決断についても、その責任は誰でもない、僕ひとりにあるのだ。そしてあの騒動の中、あれだけ世間を敵にまわしていながら、なんとかそれに耐えられたのも、
「自分で選んだ道だから、これは逃げも隠れもできない」
という思いがあったからだ。もし「あいつのせいでこんな目に……」などという思いに駆られていたとしたら、僕はそのままつぶれていただろう。また僕自身がズルして巨人に入ったという後ろめたさを持っていたとしたら、どこかでひどく屈折していたと思う。
この経験は、その後の人生において、大きな自信につながった。あれだけの辛さをまがりなりにも乗り越えられたのだから、もうどんなものも怖くなくなった。“パパ”を“オヤジ”と呼べるようになったなんてことだけじゃなく、完全にひとり立ちできたと思っている。
例えば正子との結婚問題についても、いくら僕の意志が固かったとはいえ、もし僕がすんなりプロ入りしてしまって、精神的親ばなれを完全にすませられないまま、親父から「やはりまだ早すぎる。絶対反対だ」などと再度強く言われ続けたとしたら、江川一族のスーパースターを演じるいい子で通すためにも、涙をのんで正子との結婚を諦《あきら》めたかもしれない。
しかし、あの騒動で僕は変わった。生《しよう》涯《がい》の伴《はん》侶《りよ》に、と自分自身で決めた女性について、あるいは周囲から何と言われようと、あの怖かった“パパ”が大反対したとしても、押し切れたのである。
人間的に多少なりと僕を成長させてくれたドラフトではあったが、だからこそ、その代償も相当に大きかった。
世間に定着した江川卓のダーティ・イメージである。
「あのイメージをなんともぬぐいさりたい」これが僕と正子のふたりの、人生における最大のテーマとなった。どうすれば、本当の自分をわかってもらえるか――。そのために、まずふたつのことを肝に銘じた。
ひとつは、野球ではとにかく勝つこと。トレードで阪神に移った小林さんへの負い目もあった。投手である僕にとって、勝つ以外におわびの方法はないし、ファンに納得してもらうのもまず勝つことが最低条件だと思ったのだ。
もうひとつは、周囲には決して失礼なことはできないということだ。
一度貼《は》られたダーティなレッテルをはがすのは容易なことではない。一度にまとめて、なんてことは絶対に無理だ。何かの縁で接することのできるひとりひとりの方に、江川卓を正しく理解してもらう以外に方法はない。
同じ軽はずみがあっても“あの江川”がするのと、他の誰かがするのとでは反応が違う。ちょっとでも他人の神経にふれることをすれば、「やっぱり江川の野郎は」とことさら大《おお》袈《げ》裟《さ》に批判される。一度悪者になると悪い方へ悪い方へと解釈されるものなのだ。
だから僕は、異常なまでに気をつかった。仕事の場でも、タクシーに乗るときも、食事に出かけたときも、いつでも、どこでも……。挨《あい》拶《さつ》、言葉遣いなど、必要以上にと思えるくらい丁寧にした。気心の知れた人からは、「なんでそこまで気をつかわなければならないの」と言われるほどであった。
もちろんその反動はあった。外で神経質になるものだから、うちにこもる鬱《うつ》憤《ぷん》を発散させられる先は、家族しかない。
正子とも最初の一、二年はつまらないことで喧嘩が絶えなかったし、手をあげたこともある。
親父とはそれ以上に激しかった。子供のころ従順すぎた反動も手伝ってか、父の言うことすべてに反発した。
まずは野球の話である。親父にとって僕はいつまでたってもやはり子供なのだろうが、野球の技術的なことにまで口を出してくる。だが、こちらはもうプロなのだ。僕なりのプライドもある。表で神経をすっかりすり減らしているこちらとしては、なんのかの言われてはたまらない。
「野球選手は体が資本なんだから、事故を起こしても車体が丈夫な外車が一番」という信念があってベンツを買おうとすると、「まだ早すぎる」と親父は文句を言う。そうかと思うとマウンドでの足のあげ方、ひろげ方にまでいちいち注文をつけたがる。そういうとき、「うるさいなあ、ほっといてくれよ」と僕はきっぱりハネつけるようになった。
プロ入り二年目から、二階に僕たち一家、一階に親父一家という形で同居したことがあるが、このときは親子電話を使って、一階と二階でののしり合うこともしょっちゅうだった。
当時のすさんだ家庭の状態を、正子は「とても野球ができる状態じゃなかったわ」と振り返ったことがあるが、あながち大袈裟な表現でもない。僕が銀座で一番飲み歩いた時期でもある。家で面《おも》白《しろ》くないことがあると、夜の十一時ごろからでも銀座にタクシーを飛ばしたものだった。
プロに入って三年、四年はそういう状態が続いただろうか。江川家を襲ったドラフト後遺症は強烈だった。しかし、人間が成長するうえにはドラフトでも家庭でも、真剣に取り組むべき問題があったほうがいいのかもしれない。
やがて親父たちが小山に戻り、別居するようになってから、親父とはとてもいい関係になれたと思っている。今でも、しょっちゅう電話で話をするが、もちろんののしり合いはしない。子供の頃《ころ》、恐しかった“パパ”ではなく、はたまたプロ入り直後、カンにさわるほどうるさかった“オヤジ”でもない。今は大人と大人、友人同士のような感じで親父を見られるようになった。
もちろんわが家四人も、笑顔を絶やさぬ日々を送っている。これも、今ではむしろなつかしくさえあるあのドラフトの事件のおかげかもしれない。
かといって僕の中で、いや江川家にとって「空白の一日」が完全に風化してしまったかというと、それはそうではない。僕たちの心の中には、いまだに引きずっている部分がある。あの事件などまったく知らない子供たちにも迷惑をかけている。
僕に似て体がバカでかい長男の与《あと》は、二歳ぐらいの時から、すでに小学生ほどの体格があった。幼稚園でももちろん一番でかい。なにしろ、帽子は特注で、小山の親父にそう話したら、「それは、ワシに似てるんだ」と大喜びした。
そのでかい与に、幼稚園に入る時、ひとつだけ約束させたことがあった。
「いいか、与。オマエは、ほかの友だちと比べると、ずっとデッカイ。力も強い。ちょっと押したつもりでも、友だちは、ひっくり返っちゃうんだ。だから、どんなことがあっても、何をされても、オマエは手を出すんじゃないぞ」
「わかったよ。そんなことしないよ」
与はコクリとうなずいて、約束してくれた。ところが、夏ごろ、与の担任の先生が「与君、最近何か悩みがあるんですか」と訊《たず》ねてきたと正子から聞かされた。
こういうときには、例によっていっしょに風《ふ》呂《ろ》に入って、与にじかに聞いてみるのが一番だと思った。
「与、どうかしたのか。元気ないじゃないか。パパとの約束を破って、友だちをぶんなぐっちゃったのか」
湯船につかっていた与が、キッとした目で、僕をにらみつけた。
「違うよ」
涙が、今にもこぼれそうだった。
「違う。僕なんにもしてない。なのに、パンチするヤツがいるんだ。僕はパパと約束した。だから、なんにもしない。そしたらまたパンチやられるんだ」
つかえながら、それだけいうと、与の顔は涙で、もうグシャグシャだった。
僕との約束を守ろうとしたばかりに、与がそこまで追いつめられているとは……。親でありながら僕は与に悪いことをしたと思った。
「そうだったのか。よし、約束を少し変えよう。ぶんなぐっていいぞ。与がどうしても我慢できなかったらな。だけど一回だけだぞ、一回だけ。だから今がぶんなぐっていいときかどうか、よく考えてからやるんだ」
「うん」
与の顔が明るくなった。
それから一週間ほどして、再び風呂場で与に聞いてみた。
「まだ、パンチやられるのか?」
「うん、まだパンチやられる。でも、僕、やってないよ。だって僕がぶってもいいの、一回なんでしょ」
「そう、一回だけな」
結局、与はそのいじめっ子を殴らなかったようだった。“一回ならいい”と言った僕の言葉が、与の気持ちを楽にしたらしかった。そして、約束を守り通そうとした与に、親として、いやそれ以上に同じ男として、僕は胸を打たれるものがあったのだ。果たさなければならない約束。責任。最後のシーズン、ガタガタの肩をかかえた僕が、それ相応にではあってもチームの優勝に貢献できたとすれば、こうして与に教えられ、励まされたおかげでもあると思っている。
僕は、若葉台第一幼稚園の特大園児、与に感謝している。
だが、今思うと、子供に厳しく暴力を禁じたのも、ドラフトで、マスコミにたたかれ続けたことと無縁ではない。
「空白の一日の、あの江川の子供にやられた」
という苦情が、もし、幼稚園児の父兄の口から出たりしたら、僕ではなく、与の傷がどれだけ深いものになるだろう。そういう思いだけはさせたくなかったから、暴力は極端なまでに禁じてきた。
また食事の時だって「もっと上手に食べろ」などと、ちょっとおこりすぎたかなと思うくらい厳しくしつけたし、子供が人に責任をなすりつけるようなことを言ったときには、是も非もなくしかりつけた。それもこれも、「あの江川の子が……」といった負い目を、子供たちに負わせたくないと願ったからだった。
しかし、これからはドラフト問題の“後遺症”は、できるだけぬぐいさる方向で、のびのびと育てていきたいと思う。子供たちにはなるべくおおらかに育って欲しい。
ユニフォームを脱いだ今、与の喧嘩も大目に見ていこうと考えている。
これほどまでに僕、江川家に計り知れない影響を及ぼした「空白の一日」から巨人入団への経《いき》緯《さつ》について、当事者である僕にしても、実のところ、不明の部分がかなり多い。わかっているのは、どんなに多めに見積もっても、七割からせいぜい八割くらいだろうか。親父にしても、その点は僕と同様のはずだ。
あまりにも多くの人物が関《かか》わり、僕のあずかり知らぬところで、知らない人物が動いたりもしている。あの事件のことを、僕が完全に忘れるためには、まず、完全に知り尽くすことなのではないのか。そう考えた僕は、密《ひそ》かに調べようとしたこともある。
しかしながら、どうしようもない壁にぶち当たってしまった。「空白の一日」に関わる主要な人物で、僕が真相究明を決意した時点ですでに、お亡《な》くなりになった方がかなり多いのだ。船田先生をはじめ、金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長……。それぞれの御立場で公表できなかった事実を胸にしまったまま、逝《い》かれてしまったのである。
こうして、僕は「空白の一日」というタイトルのジグソーパズルを完成させることを断念せざるを得なかった。すでにいくつもの重要なピースが欠けてしまっているからである。
あれだけの社会的事件であった以上、皆さんに真相をお伝えするのは僕の義務ではあろう。しかし、部分的な事実だけで誤解を招くのだとしたら、それはまた、僕のすべきことではない。残念ながらこのジグソーパズルの完成が不可能である以上、僕が可能な限り集めたピースも心にしまったまま、これからの人生を歩んでいく以外にないと思っている。
江川は引退に際して、父二美夫氏にはいっさい相談していない。
プロ入りまでの強烈な影響力を考えると奇異にも映るが、二美夫氏は江川の引退決定直後、こう語っている。
「今年に入ってからの仕事ぶりを見て、だいぶ衰えたなと思っていました。私の目から見て、あいつが自信をもって仕事をしたのは二勝分ぐらいしかなかったですよ。男が自信を持って仕事ができなくなったら引退するのは当然です。その点、誰《だれ》に相談するでもなしに自分自身の意志でこうすると決めたことは、親として満足していますよ」
心配するくらい従順すぎた息子が、二十歳すぎに結婚をめぐって第一反抗期を迎え、プロ入りしてからの第二反抗期で完全に自分の手から離れていった。そして息子の引退。今、二美夫氏に心残りはないだろうか。
「そりゃ結果(巨人入団)オーライということもありますがね。親としてその都度の決断に誤りがなかったとも言えません。誤算だとすると、大人の世界の都合ですかね」
大人の世界の都合とは、慶応受験の失敗と、「空白の一日」をさすのだろうか。そして、「負け惜しみではなく、長い人生において味わった経験はどれもプラスです。卓もこれから、今までよりもはるかに長い人生をどう切り拓いて行くか、いかに生きて行くかです。そりゃ息子ですからね。不安はありますよ。ことあるごとに親としての小言はいっていきます」
と頑《がん》固《こ》親父の面《おも》影《かげ》をまだまだ残していた。
第二章 たかが一球、されど一球
開幕投手
野手たちが一《いつ》斉《せい》に試合前のシートノックに飛び出していき、ロッカールームにはたった一人、先発投手が残される時間がある。
すでに数日前から先発前の緊張のなかにいたはずなのに、さらにここから、あらたな緊張が始まる。
この時間が、僕《ぼく》は嫌《きら》いだった。二百何十回経験しても、それは同じことだった。
ひとり、遅れてベンチに入る。徐々に埋まって行く観客席が見える。
ブルペンに向かう。観客席から応援の声がかかるが、それには応《こた》えない。自分の世界をつくるためだ。
投球練習を終え、ベンチに戻《もど》る。ベンチの裏でアンダーシャツを着替える。僕は誰《だれ》ともしゃべりたくない。
――球場での僕のドラマは、いつでもこんなプロローグではじまった……。
僕は開幕投手を四回経験している。昭和五十五年の大洋戦、五十七年のヤクルト戦、五十九年の阪神戦、六十一年のヤクルト戦。五十五年から六十二年まで西本君と一年交代で開幕投手をつとめたことになる。
これも、僕らしいジンクスということになるのだろうか、僕が開幕投手をつとめた年、巨人は一度も優勝していない。優勝した五十六年、五十八年、六十二年はいずれも西本君が開幕投手だった。
五十五年、四月五日。入団二年目で最初の開幕投手をまかされたゲームのことを書いておこうと思う。
が、正直に言えば、この試合の記憶は、ほとんど欠落している。百六十六球も投げて、試合内容を覚えていないゲームは、この試合ぐらいだ。後に経験する二十勝達成、小林さんとの初対決とは、また違うプレッシャーが、ゲームの記憶を消し去ってしまっているのだ。
その緊張の度合いは、やはり正子のほうが詳しい。球場に着くまでの描写は、正子にまかせよう。
*
主人があの日の試合内容を覚えていないのも、当然だろうと思います。それほど異常な緊張の仕方でした。
玉川田園調布のマンションに住んでいた時分ですから、夜はいつもと同じように、二つふとんを敷いて並んで寝ていたわけですが、主人は一睡もしていませんでした。寝返りをうつ。「うーん」と唸《うな》る。空が白んでも、とうとう寝息は聞こえてきませんでした。それを知っているということは、もちろん私も眠れなかったのです。
朝食の用意は、実は三日前から取りかかっていたんです。そのころから主人は、何を話しかけても、生返事しか返ってこない状態になっていました。
どうにかして、緊張をほぐしてあげたい。考えついたのは、些《さ》細《さい》なことでした。開幕当日の朝、食卓にびっくりするような朝食を並べてあげれば、笑いも出て、少しはプレッシャーから解放されるかもしれない。
ない知恵をしぼって、メニューを考えました。それが五球団まるかじり弁当です。広島は鯉《こい》の洗い。阪神はとらやの羊《よう》羹《かん》。大洋は鯨のステーキ。中日はきしめん。そしてスワローズはヤクルト。それらをならべて「エイッ」とふきんを取る……。
駄《だ》目《め》でした。
ニコリともしない。それでも主人は、ひと口ずつ箸《はし》をつけて家を出たんですが、顔は真っ青で、まるで夢遊病者です。
当時は、ベージュのBMW530iに乗っていたんです。通りをはさんだ向う側に加藤初さんが住んでいらっしゃって、加藤さんを助手席に乗せて、球場入りするのが日課でした。そのとき、加藤さんを本当に頼もしく思いました。助手席に加藤さんがいらっしゃらなければ、横浜球場まで、無事にたどりつけるのだろうかと案じられるほどの状態でしたので。妻の私からすれば、タク(当時はそう呼んでいた)は野球ができるようなコンディションではないと思いました。
*
正子の言葉には、オーバーな部分も多少あるが、
「相手は平松さんだし、飛ばしていくしかない」
と思って、マウンドに上がったことだけは覚えている。それが、五回まで九奪三振という数字に表れているのだと思う。
四月五日晴れ。横浜球場には三万人の観衆が入っていた。大洋の先発・平松は午後二時三分に、第一球を投げた。
立ち上がりは、平松がベテランらしく江川を上回る出来だった。ストレートはともに百四十キロ台だったが、江川のボールは少し上ずっていた。
一回江川は四球の走者を二人出し、二、四回は、いずれもヒットの走者を二塁に背負った。四回まで、平松は低目にボールを集めてパーフェクト・ピッチングを続けていた。
だが、まず、試合の流れをつかんだのは巨人だった。五回、先頭打者の王は、1―1からの胸元のストレートをライトスタンドぎりぎりに運んだ。六回目の開幕アーチだった。非公式の試合も含めて、通算千号のホームランである。
「あの一発ばかり考えてしまって……」
平松の、その心の隙《すき》を新外人のロイ・ホワイトが突いて、2―2からライトスタンド最上段へ運んだ。
江川は落ち着きを取り戻したようだった。五回まで九奪三振。開幕勝利が一歩一歩近づいて来るように思えた。
ところが、歯車は八回に狂い始めた。一死後、長崎に2―3から投げたカーブをボールと判定される。四球。次の山下に百四十五キロのストレートをセンター前に打たれて、一、三塁。基のサードゴロで一点。さらに高木の三遊間安打でもう一点とられた。これで2対2の同点となり、試合は振り出しにもどった。
巨人は九回二死からホワイトが二本目のホームランを放って、再びリードした。ところが、これで決まらないところが、江川の江川たる所以《ゆえん》である。
九回裏。江川は先頭打者のジェームスにセンターオーバーの特大ホームランを打たれて同点にされてしまった。
「江川の失投だね。でも、ホワイトが目の前でガンガン打つから、狙《ねら》っていたんだ」
と試合後ジェームスは言った。
“外人病”。マスコミから、そういわれ始めたこれが最初の試合だった。なぜ外人に、痛いところでよく打たれるのか、自分なりに分析できないことはない。
ガイジン。この独特の語感に、こと野球にかぎらず、日本人はどうしても、コンプレックスを持っているようだ。ところが、僕は、そのコンプレックスをあまり感じない。大学卒業後のアメリカ留学体験で、コンプレックスはなくなった。
だから、というよりむしろ逆に、外人選手には必ず、勝負しにいってしまう。つまり、外人と対すると、かけひきをやめてしまうことが多かったのだ。力対力で勝負にいってしまう。特に若いときはそうだった。このジェームスのときも同じケースなのだ。押したり、引いたりしないで、ストレートでズドンといってしまう。それが、“外人病”の原因である。
外人コンプレックスがないからと思いこんでいたが、それが、外人コンプレックスの裏返しではないか、と言われれば確かにその通りかもしれない。「外人に負けたくない」という気持ちが、人一倍強かったのだ。
ジェームスのアーチから、不運がどっと江川に押し寄せた。田《た》代《しろ》がショート左へころがし、河《こう》埜《の》が一塁へ悪送球した。代走・屋《や》鋪《しき》が二塁へ盗塁。山倉の送球を河埜がまたはじいて、屋鋪は三塁へ。そして、次の打席は福島。2―1からの六球目。実は、福島は読み違いをしていた。
「江川は、必ず内角直球で攻めてくる」
捕手としての目である。ところが、江川はここで、外角球を投げた。福島は泳ぎながらバットを出し、それがかえって幸いする。スクイズを警戒して前進守備をしていた王の頭を、ボールはフワリと越えた。福島は万歳をし、江川はクルリと背中をむけた。
取り囲んだ記者団に江川はなにもしゃべらず、ロッカールームに入ってしまった。奥にある洗面台に両手をついてうなだれていた。その背中をポンと叩《たた》いたのは王だった。
「プロは勝った、負けたが続くんだ。シュンとしたら駄目だぞ」
“外人病”、“一発病”のレッテルを張られ、ビッグゲームに勝てない江川を、象徴するような試合だった。
この試合には僕の悪い部分が、まとめて出ているけれど、最後まで治らなかったのが、試合に対する粘りのなさだ。
土壇場でリードしていて、追いつかれると、もう踏ん張れない。必ず逆転されてしまうであろう自分が、同点にされた時点で見えてしまう。ポーカー・フェースに見せながら、落胆の度合いが、実は大きいのである。プロ九年間で、どうしてもこの踏ん張りのなさを治せなかった。
責任感は、自分で言うのも気がひけるが、強い方だ。ところが、いや、だからこそというべきなんだろうか、やられた時に、歯止めがきかない。僕はそういう男である。
小林さんとの対決
スタジアムでの僕《ぼく》、つまり投手江川卓は勝った試合よりも、むしろ敗れることによって、記憶に残る特異なタイプの投手であったと思う。このことには、いまさらながら、自分でも不思議だ。だが、どうしても勝たなければならない試合、心の中でケリをつけなければいけないゲームもあった。
昭和五十五年八月十六日、後楽園球場。あの小林さんとの初対決がそれだ。
因縁の対決に、大《おお》袈《げ》裟《さ》な言い方でなく、僕ばかりか日本中の野球ファンのみなさんが熱に浮かされたような状態になっていたそうだ。親しい記者に“取材”すると、A席(当時二千百円)が、当日四万円の値をつけていたという。
お蔭《かげ》で僕にも、まったく切符は手に入らない状態になっていたほどだ。
当日午前五時には一番乗りのファンが二十一番ゲートに並んだ。雨が降り出していた。開門は午後三時五十九分。ネット裏の球団室から長嶋監督が身を乗り出し、カン高い声で言った。
「ファンの足音を聞きたいんだ。すごい勢いでスタンドが埋まって行くな。ドキドキするよ」
午後六時ちょうど、因縁の勝負は始まった。それからの二時間五十九分、江川は自らの“宿命”と格闘したのだった。
一年六カ月前に小林は江川との交換トレードで巨人を去り、阪神に移った。善玉と悪玉――ふたりの男のイメージがくっきりと染め分けられた。
ここではひとつだけ、あの江川騒動について明らかにしておきたいことがある。
御承知のように、僕は昭和五十三年のドラフトで阪神に指名されて、一度阪神に入団している。「背番号3」をいただいたし、巨人が発行しているプレス・メディア・ガイドにも阪神からトレードで巨人入団と書かれている。
そのとき、つまりいわゆるコミッショナーの“強い要望”によって、阪神から巨人にトレードされる際に、最後の最後まで、是非ともそうして欲しいと、僕がただひとつ球団側に頼み込んだことがあった。
それは、江川卓なる投手を、阪神から金で買い取ってもらいたい、ということだった。金で解決した、となれば、誰《だれ》にも迷惑をかけず、あとくされなく巨人に入団できるだろうと僕は思っていたのだ。
ところが金銭トレードではなく、小林さんとの交換トレードだと聞かされた時、僕は強硬に言い張った。
「それでは約束が違います。だれにも迷惑をかけずに、巨人に入団できるはずじゃなかったんですか? 小林さんにそんな迷惑がかかるんだったら、話が違います」
しかし、駄《だ》目《め》だった。僕は無力だった。実に情なかった。その日から、小林さんに、死ぬまで背負わなければならないだろう負い目を感じていた。
因縁のマウンドで、江川は、決していい出来ではなかった。初回から、ボールが先行した。四球が多く、三振が少ない。いつもの江川ではなかった。
確かに僕は、あの試合で、それまでの自分と違うタイプの投手になっていた。決め球を放棄していたのだ。あのころの僕は、高目のホップする球に、絶対の自信を持っていた。高目のクソボールでも三振をとれていた。が、その球が、“一発”と隣り合わせの武器であったことも、確かなのだ。
是が非でも勝利を手中にするために、どうしても避けなければならないのは、何か。これは間違いなくホームランだ。ホームランを、とにかく避けるために、僕は高目の速球を捨てた。速球は、低目に、カーブも徹底的にコースを狙《ねら》った。
それが、百七十六球という多めの球数にそのまま表れている。
その百七十六球目も、岡田君が見逃がしたカーブだった。最後の三振がストレートでないところにも、この日の僕のピッチングが象徴されていた。
速球王のプライドをしまいこむことで、江川は小林の、「あの江川」には負けまいとするプライドを砕いたのだ。五回には小林からタイムリーまで打った。内角のスピードボールをセンター前へ。
この回で、小林はマウンドを降りた。
あのドラフトから一年ちょっとたった昭和五十五年一月、この試合からさかのぼること七カ月前に、飯倉のステーキ店で、実は、偶然小林さんに会っている。僕は女《によう》房《ぼう》とカウンターに座っていた。すると、食事を終えた小林さんが、奥の席から出口に向かって歩いて来た。そして、目があってしまったのだ。
これにはまいった。体が硬直して、言葉もでなければ、会《え》釈《しやく》も何にもできなかった。
「あの時は、本当に文字通り、タクは石になっていたわ」
今でも女房には、そうからかわれるが、あの時はそれどころではなかった。先輩に挨《あい》拶《さつ》できなかったのは、これまでの人生であの一回きりだ。それほどの負い目を、僕が小林さんに感じていた証拠でもある。
だんだん小林さんが近づいてくる。動けない。しゃべれない。僕のうしろまで来た。何か言われるだろうか……。
しかし小林さんは、なんにも言わないで、僕の背中から肩に手を置いて、ほんの少し微笑《ほほえ》んで出ていった。許してもらえたとは思わなかった。でも、少し気持ちが楽になったことも事実だ。
「小林さんて、本当にいい人なのね」
涙ぐみながら女房は言った。いい人じゃなければ、逆にもっと楽だったのに――そんな気持ちさえあったと思う。僕も黙って頷《うなず》いたのをよく覚えている。
だから、どうしても勝ちたかった。八月十六日が近づくと夢にまで小林さんが出てきたり、「勝ちたい、勝ちたい」と寝言すらいうような状態になった。
僕のために、巨人を去らなければならなくなった小林さんに対して、巨人に入れてもらった僕が、ふがいないピッチングをすることは許されない。
「どうしても勝つんだ」
ピリピリして女房にもあたった。プロで登板した二百六十六試合のなかで、一番神経を張りつめ、勝ちたかったゲームだったといっても、過言ではない。
ピッチング自体はよくなかった。極度の緊張と雨でコンディションは最低だった。が、この試合は僕のバットで勝負をつけた。
五回。内角のストレートをセンター前にもっていった。二塁手の岡田君が飛びついたものの届かずに、倒れていたのを、昨日のことのように思い出す。
“江川騒動”以後のすべての屈辱を、そのとき九百二十グラムのバットにこめたつもりだった。
九回を投げ切った江川は、ほんの少し唇《くちびる》の端に笑みを浮かべただけで、試合中に一イニングずつ着替えた、雨と汗に濡《ぬ》れた九枚のアンダーシャツをロッカー前の洗《せん》濯《たく》機《き》に投げ入れた。
昭和四十八年の同じ八月十六日には、江川はやはり雨が降る甲子園球場にいた。作新学院が銚子商業にサヨナラ負けした日である。
その因縁の日、因縁の対決に勝利した江川は、ダーティ・イメージからやっと解放されることになったのだろうか。
巨人が三位に沈み、十月二十一日には長嶋監督が解任されたこの年、長嶋がもっともうれしそうな顔を見せた日でもあった。
実は対決の前々日、小林にアクシデントがあった。ノックのボールを右手人差指に受け、試合前まで湿布をしていたのだ。が、そんなことを口にする小林ではない。
「巨人打線にやられたな」
自分のコンディションにも、江川のことにも、触れようとしない。小林のダンディズムだ。
しかしこの日以後、小林は江川のことをそれまでの「あの子」ではなくて、「江川君」と呼ぶようになった。
家にもどっても、その日はほとんど言葉が出なかった。女房が、冷やしたスープと、好物のエビ料理を用意してくれたが、手をつけられなかった。疲労と緊張の糸が切れたのとで、二人で顔をあわせて、ため息を繰り返すばかりだった。
是が非でも勝ちたいと願った因縁の試合に勝利したからと言って、僕の負い目が消えたわけではなかったのだ。だから、引退記者会見のときにも、「小林さんに迷惑をかけました」のひとことが出たのだ。
引退したいまでも、完全に許していただいたとは思っていない。僕が一生背負って行くべき傷であることには、変わりがないと思っている。
“二十勝”裏話
僕《ぼく》がプロに入って最初の“勲章”を手に入れたのは、昭和五十六年九月九日である。後楽園の大洋戦。小ぬか雨が、僕の肩を濡《ぬ》らしていた。
雨。僕にとって、キーポイントとなる試合は、いつも雨が降っていた。そんな気がする。甲子園で銚子商業を相手に、押し出しサヨナラ負けを演じたあの試合もそうだった。小林さんとの因縁対決の日も……。そして二十勝投手に挑《いど》んだこの夜もやはり、マウンドに立つ僕の肩を雨が濡らしていた。
“二十勝投手”の出現は、巨人に関しては久方ぶりの出来事であった。昭和四十八年に高橋一《かず》三《み》が二十三勝(十三敗)の成績を残して以来、この快挙をなし遂げた投手はいなかった。
妙なものだが、大一番の記憶は、試合中の気持ちよりも、マウンドへのぼるまでの感慨のほうがむしろ鮮明に残っている。
プロでの二十勝は、僕にとっては気の遠くなるほどはるかな道程だった。もっとも白状してしまうと、実際にプロの水につかるまでは、通算二百勝ぐらい軽く稼《かせ》げるだろうと、安易な計算が働いていたのも確かだった。
あれは昭和五十四年六月二日、プロ入りデビュー試合の対阪神戦だった。僕の二百勝への自信が、それもマウンドの上でではなく、バッター・ボックスの中で音をたててくずれ落ちたのだ。
山本和行さんの投げた一球目が、ひょいとストレートに来た。なんだ、これは。ヒョロヒョロ球だな。これで通用するんなら、俺《おれ》は三百勝だってかたいぞ。――見逃がしのストライクをとられたものの、僕は内心ほくそえんだ。バッティングにもそれなりの自信があった僕は、本気でホームランを狙《ねら》った。
そして二球目。同じような球が来た。フルスイング。その直後自分の目を疑った。ボールが忽《こつ》然《ぜん》と消えてしまったのだ。そんなバカなことがあるはずがない!?
三球目もストレートだった。よし、今度こそもらった、と思った瞬間、ボールはまたしても消えた。結果は三球三振。三打席全部三振だった。
種を明かせば、このとき山本さんが投げていたのはフォーク・ボールだ。が、僕の足は震えた。それまで、あれほど落差のあるフォークに出会ったためしのない僕にとって、それは“魔球”としか思えなかった。マウンドから自信を持って投げた球をホームランされるのより、ずっと大きなショックが僕を襲った。
エライ世界に入っちまったぞ。俺が知っていたこれまでの野球の世界と、ここ、プロはまるで違う。下手をすると年に二桁《けた》は勝てないだろう。通算百勝だって難しい……。自分の顔が青ざめていくのが、はっきりと分かった。
こうして山本さんの洗礼を受けた形で、僕のプロとしての勝負は始まった。それから後も、プロの厳しさを身にしみて味わった。一年目、“空白の一日”をめぐる心理的プレッシャーをもろにかかえたままの僕が残した戦績が九勝十敗である。これは最低のコンディションのなかの最悪の成績――これより下げてはなるまいと心に誓ったが、毎年二桁勝ちつづけることの難しさもいやというほど知った。もちろん二十勝への道も遠く、辛《つら》かった。いや、だからこそ、二十勝は是が非でも達成したい記録だったのだ。
昭和五十六年は、江川が投げるたびに、何か大記録の達成を予感させるものがあった。実はこの試合も、江川は、ノーヒット・ノーランを狙ってマウンドに立っている。
七月七日の対中日戦で星を落としてからは、負け知らずの十連勝を記録し、彼の登板に何の不安もない藤田監督と牧野ヘッドコーチは、
「スグルは、本当にいい顔になったなあ」
ベンチでにこやかに言葉を交し合い、後は江川のピッチングを楽しんでさえいればよかった。
二回の表、大洋六人目の打者、福島に内野安打が出た。めぐり合わせ、ということがあるのだろうか、昭和五十五年に江川が初めて開幕投手をつとめたときも、この福島から当たり損ねのサヨナラ安打を奪われている。野望がひとつ消えた江川は、「フッ」とため息をついた。が、それでもなお、彼は記録の達成にこだわっていた。奪三振レコードにターゲットを切り替えたのだ。六日前、神宮での対ヤクルト戦に続く二試合連続毎回奪三振に加え、一試合十六奪三振のセ・リーグ記録もこの日、江川の射程距離内にあった。
七回に入ってわずかに球威が落ち、それも夢に終わったが、最終回、彼のエンジンは全開する。一死後、屋鋪に投げた四球目、内角へのストレートがバットを粉々に裂き、ボールが力なく一塁方向にあがる。ラスト・バッター中塚には、ボールをかすらせすらしない。江川の投げたストレートがホップして中塚のバットの上を通過した。バットはそのままクルリと回転して、ゲーム・セット。
江川がガッツ・ポーズをとる。珍しい光景だ。
「勝ったら何をしようか、前の晩からあれこれ考えていた。それが、いざ試合となったらすっかり忘れちゃって、自然にガッツ・ポーズが出てしまった」
と、報道陣に囲まれた彼は照れながら笑った。
「文句なしだ。私が二十勝をあげたころとは、ローテーションの組み方がまったく違うんだからね。今の二十勝のほうが、はるかに価値は高いよ」
昭和三十三年、二十九勝という成績を残したかつての大エース、藤田監督は手放しで江川を讃《たた》えた。
開幕前にこの年の目標においた十八勝を達成したその日に、自分自身への祝福の意味を込めて、江川はBMW745iを新車で購入している。“成金趣味”江川の車のグレードが、着々アップして行く時期でもあった。その愛車BMW745iを駆って帰宅した夫を、迎えた正子夫人の喜びも、ひとしおであったに違いない。と、言うのも……
あの年、九月三日の対ヤクルト戦で十九勝となり、あと一勝――その、あと一勝までの道のりの長さは、恐しいほどであった。それから六日間、僕は極限状況におかれ、気の安まる暇は一《いつ》時《とき》もなかった。
その極限状況をもっとも知り抜いているのは正子である。公表するのも憚《はばか》られるような僕の醜態を、ここで、あえて正子に書かせてみようと思う。それが、あの時の状態をもっとも真実に近い形で再現する方法だと思うから。
*
主人の許しが出たので、正直に書かせてもらおうと思います。主人はいつでも、登板の前は、かなりの緊張状態になり、食事の量も落ちます。でも、この時ばかりは、本当に異常でした。九月三日に十九勝をあげてから、その後もまったく緊張が解けないんです。
おかゆすら受けつけなくなりました。唯《ゆい》一《いつ》、口にしてもらえたのは、冷たいスープでした。ミキサーにゆでたじゃがいも、いためた玉《たま》葱《ねぎ》、牛乳を入れて、ミキシングし、胡《こ》椒《しよう》を加えて、冷たくしたビシソワーズ風スープです。それだけを飲んで生活しているようなありさまでした。
主人の神経は、どうしようもないほど、ささくれだっていました。
そんなある夜、ちょっとしたことで、主人がついに爆発してしまったことがありました。
主人が、何か些《さ》細《さい》な用事を私にいいつけたのですが、私は生後六カ月の長女早《さき》にミルクを飲ませていました。私も、緊張から疲れ果てていて、返事をしなかったんだと思います。
いきなり怒声が飛んできました。
「何やってんだ! 俺の世話ができないのか。俺の世話ができないなら、子供なんて生むな!」
びっくりしてしまいました。涙がとまりませんでした。早も怯《おび》えたように泣き続けるばかりです。
あまりに、ひどいと思いました。返す言葉がありません。お互いに口をきかないまま、時が過ぎました。
泣き疲れた早は、ベビーベッドで寝てしまいました。私も、悔しい思いをかかえたまま、横になっていました。
ふっと気がつくと、主人が、ベビーベッドの前にいるんです。あぐらをかいていました。ちょうど目線に、早の寝顔が入る位置です。
主人に気づかれないように、そっと様子を窺《うかが》っていましたが、主人は動きませんでした。
そして、ブツブツと小さな声が聞こえてきました。
「二十勝したいんだよ。これが最後のチャンスかもしれないんだ。二十勝したいんだよ」
我に返りました。主人の目には、かすかに涙が混じっていました。
ああ、この人は、本当に勝ちたいんだな。わかりました。
そもそも子供のことを、あんなふうに言うような人ではありません。
早がハイハイを始めた頃《ころ》、私が、
「大きくなったね、早も」
と言ったら、怒ったことがありました。
「大きくなるなんて、言うな! それだけ、嫁に行っちゃうのが、近くなるじゃないか」
それほど、子《こ》煩《ぼん》悩《のう》な主人が、
「子供なんて生むな」
という。そこまで、二十勝にこだわっていたのです。
それも、よくわかることでした。私たち二人の間では、二十勝というのは、ひとつの“免罪符”のようなものだったんです。二十勝すれば、あのドラフト後の悪夢を忘れることができるかもしれない、と考えていた部分もありました。
だからこそ、主人は極限状態に陥っていたのです。
*
恥ずかしい限りだが、正子が書いたことはすべて本当である。だから、僕はあの日、早のために、正子のために、ノーヒット・ノーランを狙って、後楽園のマウンドに立ったのだった。
ノーヒット・ノーランはできなかったが、試合終了と同時に、僕は思わずガッツ・ポーズをとってしまった。
それまで、自分はガッツ・ポーズとは無縁だと思っていた。九回二死になれば、ほぼ試合の行方はわかっている。わかっているものに対して僕は感動しない。
が、この時ばかりは、意識とは別の回路で体が動いてしまった。
あのガッツ・ポーズには、自分とそして正子と早への思いが、こめられていたのだ。
ところで、誰《だれ》でもそうかもしれないが、腹が立ったり頭に来たりすることがあっても、たいていひと晩寝ると、何であんなに頭に来たのかな、と自分でも不思議になるくらい忘れてしまう。が、いく晩眠ろうとも、いや、今にいたるまで、思い出すといまだに腹が立ってならない出来事がひとつ、この二十勝の年にあった。沢村賞である。
沢村賞にかぎらず、ダイヤモンドグラブ賞、MVPなど、プロの投手になったからには、そのプロの投手に与えられる賞はすべてとりたい、と僕は思い、それをまた自分を高めるための目標としてきた。このうちダイヤモンドグラブ賞については、入団の年のある試合で僕がピッチャーライナーを思わずよけたのが、投手にあるまじき行為といわれ、残念ながら獲得することはできなかった。仕方がない、とこれはあきらめた。
そして昭和五十六年、幸いにも二十勝で最多勝利をものにしたほか、防御率、奪三振、勝率でもトップとなった僕は、沢村賞は絶対間違いなしと言われ、賞の決定当日も早々に記者会見場に呼ばれ、そこで発表を待っていた。
ところが、受賞者は僕ではなく、西本君に決まった。こんなとき、僕でなくても、さらし者にされた形の人間は、カメラに向かってどんな顔をすればいいというのだ!? なんともバツの悪い思いをした。
西本君が沢村賞を得たことについては、僕は素直に祝福したい気持ちだったし、それ以外には何も含むところはない。しかし問題は、西本君受賞の報と同時に聞かされた僕の落選の理由のほうにあった。「江川の場合、沢村賞投手としては人格的に問題が……」というのだ。
このころ、試合でノックアウトされた僕を評して「球にも威力があるしピッチングも完《かん》璧《ぺき》なのに、どうしてノックアウトされちゃうんですかねえ。後は人間性の問題ですかねえ」などと解説者がわけ知り顔で語っていたのも、僕は知っている。
冗談じゃない!! 僕があれこれ言うことで西本君の獲得した沢村賞の価値を下げたくはないし、そんなつもりも毛頭ないけれど、これだけははっきり申し上げたい。選考にあたった皆さん方、冗談じゃないですよ!! と。
人格うんぬんとおっしゃるなら、どうぞそれをごくごく具体的に示してほしい。精一杯投げ、それなりの成績を残す――それが、投手としての僕が評していただくべきすべてであると思っている。そんな僕のピッチングのどこに、どのような人格的問題があるのか? そもそも人格とは、どのようにして測定するものなのか? また、それまでの沢村賞受賞者の場合、人格などというものが、一度でも問題にされたことがあったのか?
悔しかった。そして、残念だった。
続くこの年のMVP発表の日も、会見場に来てほしいと言われたが、それこそ冗談じゃなく、もう御免だった。傷心をかかえた僕は仲間たちと気晴らしのゴルフに出かけ、そのゴルフ場で、このたびは間違いなく自分がMVPを得たことを知った。そして三時間以上も遅れて出向いた記者会見場では、この大事な日にゴルフとはなんだ、とさんざん叩《たた》かれたものだが、沢村賞を逃がしたのは人格の問題などと言いながら、その沢村賞の記者会見場で手ひどいショックを受けた僕の精神状態、すなわち人格は、ちっとも問題にしてもらえなかったわけだ。
いずれにしても、今後、投手成績の四つの部門でトップとなりながら、沢村賞を逃がす投手が出現するかどうかを、興味深く見物させていただくこととしよう。
最初で最後の日本一
それにしても、いったい、どこへ消えてしまったのだろうか、あの記念すべきウイニング・ボールは? しっかりと自分のグラブにおさめたはずなのに、胴上げされた後、ふと気づいたときには、グラブのなかはすでに空っぽだったのだ。
それは昭和五十六年十月二十五日、巨人が四勝二敗で日本ハムを破り、日本シリーズを制した日の出来事である。巨人にとっては実に八年ぶりの日本一奪回であったが、また江川にとっては、これが唯《ゆい》一《いつ》無二の「日本一」体験となる。
このシリーズでは三試合に、しかもプロ入りしてからは初めて、連続中三日で登板した江川は、日本一を決めたその日、井上弘昭の一発を含む三点を失いながらも、みごと完投勝利を果たすのだが、何より、そのエンディングが劇的だった。
最後の打者となった五十嵐が、マウンド近くに高々と打ち上げたフライを、通常ならこんな場合、投手は野手に捕球を任せ、自分はその邪魔にならぬようマウンド後方に退くところだが、捕球にかけ寄ってきた中畑や原に対して、江川は「俺《おれ》が捕る!」とばかりに、マウンドで両手を水平に広げ、強烈な意思表示を見せたのだ。
日本一を決めるその一瞬に、僕《ぼく》の頭上に打球が上がったとき、これは絶対に、他の誰《だれ》かに捕らせたくない、と僕は思ったのだ。こんなチャンスは、滅多に訪れるものではない。だから今でも、VTRであのときのシーンを見直してみると、僕の「OK!」と叫ぶ声が、はっきりと聞きとれるほどである。そして僕は、なにしろ生《しよう》涯《がい》唯一の日本一を、左手のなかにしっかりとつかみとったのだ。
とにかく、嬉《うれ》しかった。日本一とはこんな素敵なものなのかと、つくづく感じたものである。
午後三時三十六分、勝利の胴上げが始まり、巨人では昭和三十六年の川上元監督以来、新人監督日本一を果たした藤田監督、続いて王助監督、牧野ヘッドコーチもそれぞれ四度ずつ、抜けるような秋空に舞った。が、まだナインの興奮はそれでは収まりきらない。最後に江川の九十キロ近い(当時はそれでも痩《や》せていた方だ)の巨体も、ゆっくりと宙に舞った。三年前の入団当初、チームの仲間となかなか溶け込めずにいた男が、ついに胴上げ投手の栄冠をかち得たのだ。そしてこんな喜びの大騒ぎにまぎれて、ガッチリつかんでいたはずのウイニング・ボールが、いつの間にか消え失《う》せていたというわけだ。
そもそも、投手が自分の記念とすべきボールを手に入れること自体、実はかなりの労力が必要だ。それは、胴上げでもみくちゃにされても決してボールを手から離さずにいる労力、なんていうことではなく、先発完投型の僕のような投手の場合、とにかくその試合を九回まで投げ切る、すなわち完投することが、ウイニング・ボールを獲得する上での最低条件なのだ。やむなく途中降板したとしても、その日の勝利投手になることはあるけれど、あくまで該当するゲームのウイニング・ボールは最後に球を投げた別の投手のものだ。そういった次第で、幸いにも入手できた限りの記念すべきボールを、僕は大切に保管するようにしてきた。たとえばプロでの初勝利のボール、百勝めのときの球、などなど、である。とするなら、この手でつかみとった日本一のボールとくれば、応接間に飾るのは勿《もち》論《ろん》、神《かみ》棚《だな》に恭《うやうや》しく祀《まつ》って毎日拝んでも決しておかしくはないくらいの、きわめてまれな代《しろ》物《もの》であったはずなのに……。
しかし、日本一を達成したあの感激ときたら、ウイニング・ボールの紛失をいつまでも僕に悔しがらせているほど、ちっぽけなものではなかった。とにかくあれは大変なことなのだ、日本一になる、というのは。中三日の連続なんて、それまで一度も経験したことがなかったし、それこそ本当に疲れたものだが、あそこまで頑《がん》張《ば》ってよかったと思う。オーバーな表現ではなく、あれは味わった者でなければ想像もつかないだろう、最高の気分だった。あの僕の大事なボールはどこへ行ったのか、というような小さなエゴイズムを通りこして、あの信じがたい量の喜びを、みんなに残さず分けてあげたいと思えるほどの、またとない美酒だったのだ。ひとり酒なんて唄《うた》の文句だけで結構じゃないか。みんなで美《お》味《い》しく味わってこそ美酒なのだと、僕は心底思った。
僕のグラブから転げ落ちたあのボールを、たまたま拾った人がいるとして、もしその人が、僕のあのウイニング・ボールを見るたびに、日本一が僕とチームの仲間たちにもたらしてくれたあれほどの歓喜や興奮を少しでも甦《よみがえ》らせ、共有してくれるのだとしたら、元来人々に夢を与えるのが商売のプロの野球人として、これほど喜ぶべき事実はないのだと、素直に思えるようになった。
その後、これも幸いにも得た、百十勝と百十九勝のときのウイニング・ボールを、それぞれ僕の考えるしかるべき公共施設に差し上げたのも、これと同じ思いからである。このふたつの数字――そう、一一〇番と一一九番である。
僕は日《ひ》頃《ごろ》お世話になっている地元横浜市の警察署に百十勝めの、そして同じく消防署に百十九勝めの記念ボールを贈ったのだ。考えてみれば、捕手が盗塁を阻止した百十個めのボールであるとか、火消し役投手の百十九セーブめのボールの方がもっとふさわしいのかも知れないけれど、両署に喜んでいただけたのは、何よりだった。
そしてまた、記念ボールこそなくしたものの、四勝のうち二勝をあげ、文字通り自らの手でつかみとったと言えそうなこの日本一で、彼はようやく巨人の一員になったことを肌《はだ》で感じたのかもしれない。それが、江川の体得した、何より大きな収穫だった。
この日本一へのほうびとして、球団から僕ら一軍の選手が女《によう》房《ぼう》同伴のハワイ旅行をプレゼントしてもらったときのことだ。正子は長女を生んだばかりで、とても行けそうもなかったが、僕は彼女を説得して連れて行った。僕たちは巨人の一員なのだから、と。
昨日までのチームメイトであった小林さんが僕の入団のために巨人を去ったことで、巨人の選手の間には僕に対するわだかまりがあったろうし、その思いは選手の奥さんたちも同じだったと思う。僕もそれを微妙に感じ取っていた。もちろんそのわだかまりがこの日本一の頃までに、少しずつ解けていったのだが、この女房同伴のハワイ旅行を通じて、ようやくなんのわだかまりもない、巨人の一員になることができたのだと感じている。
旅行も三日めの昼食時、僕を含む旦《だん》那《な》連中はゴルフに出かけて留守だったが、食後の茶飲み話に、正子は夫人部隊から、実はあなたの御主人の入団で小林さんがトレードに出されたことがいまだに釈然としない、と正直に打ち明けられたのだという。それは正子も同じ気持ちだ。そこで彼女も率直に、主人も自分もそのことをいまも苦しい思いでいるし、実はあのとき、誰にも迷惑のかからない金銭トレードを最後まで主張していたのだが、自分たちの力の到底及ぶところではなかった、という話をした。
この時、正子は精一杯、自分たちのことを話しながら、思わず涙が出てきてしまったようだ。話を聞いて目がしらを押えた夫人たちもいたという。正子にすれば、どうにもならなかったという空《むな》しくやりきれない気持ちが、涙になったのだろう。しばらくは誰も言葉が見つからず、しんと静まり返ってしまった。
「何の涙だったのかは今でもわからないし、皆さんに許してもらえたというのとはちょっぴり違う。甘いかもしれないけれど、あの時ひとつのわだかまりがふっと消えたような安《あん》堵《ど》感《かん》があって、喜びがこみ上げてきたのを覚えている」
この正子の言葉のように、それで一挙に僕たちが巨人のファミリーに受け入れられたわけではなかったと思うが、これを機に確かに何かが変わった。
こうして、僕が日本一から得た実りは、公私ともに豊かすぎるほどだった。こんな気持ちは、巨人にいたからこそ味わえたのだと思う。それ以来、味わった者でしか決して分からないであろう日本一という喜びを、今度は他《ほか》でもない若手の選手たちに存分味わってもらわなければ、と強く思うようになった。勿《もつ》体《たい》ないほどの自分の経験からして、これから伸びて行こうとする若い後輩たちを乗り気にさせ、勢いづかせるとするなら、何より試合に勝って自信をつけさせることであり、優勝の感激を味わいつつ、さらに前向きに取り組む姿勢をもたせることではないか、と真剣に考え始めたのだ。
昨年(昭和六十二年)リーグ優勝を果たしたときも、僕は日本一が待ちきれずに、水野君や槙《まき》原《はら》君、広田君らをひき連れて、銀座のクラブで祝杯をあげたものだった。残念ながら日本シリーズには敗れ、日本一の感激を分かち合うことにはならなかったけれど、一日も早く、実り多い優勝の気分を、彼ら若手のチームメイトと共有したかったのである。
この昭和五十六年は「巨人の江川」にとって、最良の年だった。五月十日の対大洋戦で十四奪三振の自己新記録をつくり、九月九日の同じく大洋戦では二十勝を達成、日本シリーズで栄冠の胴上げ投手になった上に、年間MVPまで獲得している。しかし実は、何より特筆すべきなのは、彼が巨人の若手選手たちの信頼を集める、リーダーの格を身につけたことだったのかも知れない。
大《おお》杉《すぎ》さんへの一球
あと一球で勝利を逃がしたゲームがある。そこには、いつも喜劇と悲劇が同居しているものだ。昭和五十七年五月三十日のヤクルト戦も、そんな試合のひとつだった。
あの日の大杉さんへの一球は、様々な伏線が絡まって、今でも僕《ぼく》は、頭のスクリーンに、鮮明に像を結ばせることができる。
九回まで巨人は、3対2で、一点のリードをどうにか守っていた。先発の江川が、そのまま投げ切れば、八勝目が記録されるゲームだった。五月で八勝しようというのだから、江川にとっては最高のペースだった。九回表二死。三塁にランナーがいた。大杉のカウントは2―0。そこから、ドラマは始まる。
江川が大杉に投げた三球目――スピードガンは、実に百五十キロを記録して、江川自身は、ゲームを終えたつもりだったに違いない。が、大杉はどうにか、このボールをファウルした。
そして、四球目が語り継がれるボールになった。
確かにガックリきた。絶対の自信を乗せたボールだった。それに、このファウルが問題だった。バックネットの低い位置へのファウル。これは、タイミングが合っていることの証明である。その時、僕はとっさに江川本来の球、ストレートを捨てた。走者が三塁にいる。プライドよりも勝ちを優先させるしかない。ここは、カーブだ。球審は岡田さん。この人はいつも両サイドに厳しい人だ。ところが、この日は初回から甘かった。そこで、サービス・ゾーンの外角ギリギリへカーブを投げようとした。
ブレーキの鋭いカーブが独特の大きな軌跡を残して、曲がり落ちた。百十九キロの球だった。外角、少し高目の位置で、山倉はボールをつかんだ。このときのビデオテープを見ると、大杉はハッとしたように表情を動かして、見送っている。読みをはずされたようにも見える。しかし、岡田球審の右手は上がらなかった。
「ボール!」
江川の顔色が朱に染まった。走ってマウンドを降りてくる。
「どこがボールなんですか!」
「コースがはずれているよ」
岡田球審の声に、江川がムキになったように見えた。五球目もカーブ。これは、明らかにはずれた。一球ファウルの後の七球目。
百三十三キロ。その球を大杉は右中間に運んだ。同点二塁打。続く渡辺に2―2からの五球目をレフトスタンドに運ばれた。すべてが終わった。
ゲームが終了してから、スポーツ新聞各社の電話は、ファンからの電話でパニック状態になった。
「ビデオでじっくり見たけど、あれは絶対ストライク。江川は岡田球審にやられた」
「江川ほどの冷静な男が、あれだけ興奮するわけがない。間違いなくストライクだから、カッときたんだろう。江川がかわいそうだ」
「同じコースを前半はストライクにとっていた。ジャッジがひどい」
ファンのこういうコメントが、翌朝のスポーツ紙に掲載された。
だが、五月三十一日付けの報知新聞で、青田昇氏は、こう書いている。
「大杉への三球目、江川の速球は実に百五十キロを記録した。いまの球界でこのスピードボールを打てる打者はいない。もう一球、いや二球でも三球でもこの球を投げておけば……。実際、その前の杉浦には速球一本で攻めて一ゴロに打ちとっている。
が、江川はカーブを投げた。九回表二死三塁の場面である。速球のあとカーブを投げるのは間違っていない。ブレーキ鋭いあのカーブは打者にとって打ちづらく、大杉がスイングしていれば多分三振になったかもしれない。
問題はカーブそのものではなく、速球一本で攻める気概が薄れ、ちょっぴり江川が弱気になったことである。速球がコースをわずかにはずれボールになったのなら、それほど気落ちせず、むしろムキになってより速い球を投げただろうが、かわすカーブが二球、惜しくもボールと判定されては明らかに動揺した。
気持ちが攻めにはいっている時の『ボール』と弱気になりかかっている時の『ボール』は同じ判定でも投手に与える心理的圧迫はまるで違う。そのあとの江川の速球は別人のようにスピードがなくなり、百三十三キロの球を大杉に右中間にたたかれたのだった」
マウンドにいる時の心理は、もちろん自分にしかわからない。というより、マウンドに、いつもふたりの江川卓がいるのだ。全力で戦い続ける自分と、それを冷静に見つめている江川卓だ。自分を見つめていた江川の「記録」とマスコミに報道された「心理」との間には、実は大きなギャップがあった。そのギャップをここで初めて詳細にたどってみようと思う。
問題の四球目と、今でも多くの方に言われる。「あれがストライクなら……」と。ストライク・ゾーンに、入っていたはずだ。今でもそう思っていることには変わりはない。
しかし、この四球目が、マスコミやファンのみなさんがいわれるような勝負の分かれ目の球ではなかったのだ。
僕は「ボール!」のコールを聞いて、確かにすごい形相でマウンドを駆け降りた。これは、冷静な方の江川卓が、こっそり命じた行為だった。
つまり、怒って我を忘れたわけではなかった。演技だったのだ。
本当に怒っていれば、そんなことをする僕ではない。岡田さんへの牽《けん》制《せい》が大きな目標だった。次の勝負を優位に進めるためのステップのつもりだった。だから、次の五球目の解釈は、マスコミが報道したのとはまったく違う。
ムキになって、同じところへ投げたのではない。ましてムキになったから、コントロールミスでボールになったのではない。
実は、あの球は最初からボールにするカーブだった。アンパイヤの岡田さんの心理、大杉さんの胸のうちを考えると、ボールをストライクといってもらえる可能性もあるし、そのボールを振ってもらえる可能性も高い。だから、その球を続けてボールと判定されても仕方がない、という程度だった。
そして、六球目。この球についてはほとんど誰《だれ》も言及していない。四球目に目がいってしまっているからであろう。
この六球目こそ勝負球だった。外角カーブを伏線にしてのストレート勝負。自信満々で投げた。これが誤算だった。大杉さんはバックネットにファウルしたのだ。
もう僕には投げる球がなかった。七球目。これもマスコミに書かれたのとは、まったく違う。百三十三キロの気抜けしたストレートと書かれた。これも違う。百三十三キロのストレートなんか投げてない。
正解は、当時テスト中のスライダーだったのだ。のちに「コシヒカリ」と名付けた。これで目先をかわすつもりでいた。決して気抜けしたストレートではない。
もっとも、僕がこのスライダーを選択せざるを得なかった時点で、この勝負は大杉さんの勝ちだったと思う。二塁打というのは結果にすぎない。
敵もファンもアンパイヤも欺《あざむ》く名演技をしながら、それが結果に結びつかない江川卓。冷静な観察者である江川卓は、「それも、お前らしい」と苦笑いを浮かべるしかなかった。
“手抜き”と言われた球のなかには、このような勝負のアヤが、ぎっしりと詰まっていたというわけだ。
ちなみに、「コシヒカリ」の命名についてひと言書いておこう。野球は面《おも》白《しろ》くなければ、が信条の僕には、投手が自分の持ち球に独特の名前を付けてみるのもビジネスのひとつ、という頭があった。そこで後にスライダーに近いらしいと知る新ボールをあみ出したとき、なにか僕ならではの名前を付けてやろうと考えた。ちょうどそのころナーバスな時期であった僕は飯がなかなかノドを通らず、どうせならお米の名前、それも親《おや》父《じ》の出身地新潟にちなんで(なんという親孝行者か!?)「コシヒカリ」としたのである。もっとも家族に言わせると、テレビ中継で解説者が「今江川の投げたのがいわゆるコシヒカリです」と大《おお》真《ま》面《じ》目《め》に語るのを聞き、おかしくてならなかったそうだが。
球宴の九連続三振ならず
どちらかと言えば、僕《ぼく》はお祭り好きである。だからオールスターのようなにぎやかなセレモニーになると、俄《が》然《ぜん》浮き浮きと、ハッスルしてしまう方だ。公式戦のマウンド上ではいつも、首をひねったり、むずかしい顔をして腕をグルグル回したりするだけで、ふてぶてしく平静を装っているように見えるらしいけれど、実はそれも駆け引きのうちで、実際の僕はまるで逆だ。
そもそも僕という人間は、打たれたら、頭にカーッと血が昇るし、その瞬間に興奮してしまう。とても平静でいられる心理状態ではなくなるのだ。そしてまた、そんな自分の心理状態を相手チームに気どられないよう、平静を装わせようと努めるもうひとりの自分が、マウンド上の江川卓のなかに同時に存在しているから、大抵の場合、ノッているときの自分と、そうでないときの自分を、僕はハッキリ自覚しながら投球している。もちろん、あの日はノッていた。お祭り好きの僕に、いかにもふさわしい形で、最高の投球が出来たと、今でもそう思う。
最後の最後にファンをガッカリさせる江川らしさ(?)を、確かに十分に発揮したゲームだった。昭和五十九年七月二十四日のオールスター第三戦――。
いつもなら中日の応援席から江川がやじり倒されていたはずのナゴヤ球場に、その夜響き渡るのは、まぎれもない「江川コール」だった。四回から登板して、先頭阪急の福本を三振に仕留めてから、阪急・簑《みの》田《だ》、阪急・ブーマー、近鉄・栗《くり》橋《はし》、ロッテ・落合(現中日)、西武・石毛、西武・伊東、そして日本ハム・クルーズと八連続三振を奪ったのだ。八人目のクルーズにいたっては速球オンリーで空振りの三球三振である。しかも、三球目はその年最高の百四十七キロをマークしている。
「九人目」への期待が高まらなければ嘘《うそ》だ。昭和四十六年に阪神の江夏豊(現評論家)が達成し、空前絶後といわれたオールスター九連続三振の記録に、いま、江川が到達しようとしているのだから。
江川がこの夜迎える九人目の打者は近鉄の大石大二郎だった。初球、二球目と連続ストレートでグイグイ押して2ストライク。スタンドの掛け声は「あと一人」から「あと一球」に変わった。
大石がたまらず打席を外し、夜空を仰いで深呼吸をする。重苦しい雰《ふん》囲《い》気《き》がナゴヤ球場を包んだ。そして、三球目。
外角高目のコースを狙《ねら》ったカーブだった。大石はバットを投げ出すようにしてこれをとらえた。打球は二塁の篠《しの》塚《づか》の前にゆっくりと転がって、その瞬間球場を包んでいた緊張の糸が切れた。あきらめと失望の声が球場を支配した。
それにひきかえ、二度目の九連続三振献上という汚名を免《まぬが》れた全パのベンチはまるでお祭り騒ぎで、ドカベン香川は、「アウトで喜ぶなんて初めてや。サヨナラ勝ちみたいやな!」と腹を揺すって大笑いだった。マウンドの江川も思わず苦笑した。
この夜江川に三振させられた全パの打者の声を聞くと、「あんなに速い球、みたことない。あれでどうして公式戦でポカスカ打たれるんだ?」(落合)、「空振りしたのはストレート。久し振りに速い球を見たって感じ」(ブーマー)、「スピードがあった。バットとボールが二十センチは離れていた」(クルーズ)といった具合である。
それに殊勲(?)の大石は、「江川さんの球は見えないくらい速かった。三球目も真っ直ぐやったら、間違いなく三振やったでしょう」と、九人目になる名誉(?)を覚悟すらしていたのだ。
それなのに何《な》故《ぜ》、あの一球はストレートでなく、カーブだったのか?
実は、九人目の打者が大石君だとわかったとき、本当にイヤな予感がしたのだ。八連続まで来たからには、もはや九連続を狙うしかないだろう。しかしその九人目が、粘っこくコツンと当てて来るタイプの大石君ときた。思い切り振り回して来る外人選手なら空振りさせる自信はあったけれど、大石君のような打者は、三振をとらねばならない、という場面では正直言ってシンドイ。だから全パのベンチにいる広岡監督をじっと見つめて、「バッター交代」と言ってくれないものかと思った。
初球、二球目と真っ直ぐを投げたが、彼のバットはピクリとも動かない。大石君はカーブを狙っているのではないか、そう思った。よし、それなら裏の裏をかいてカーブをボールにしてやろうと考えた。この日の僕の女《によう》房《ぼう》役、中日の中尾君(現巨人)のサインも「カーブをボールに」だった。こうして僕は、迷わずモーションに入った。
しかし、ここで欲が出てしまったのである。ボールが手を放れる瞬間まで「カーブをボールに」のつもりだったのに、ふと、それまでの八人のうち栗橋さん、石毛君、伊東君の三人を外角のカーブで三振に仕留めていたことが頭をよぎったのだ。もしかして、それと同じコースに行けば、大石君も空振りさせられるかもしれない。――テレビの三十分連続野球マンガなら簡単に一回分が出来上がって、ジャジャーン、ではこの結末はまた来週ということぐらいになるだろうが、その直後に僕の手を離れたボールは、外角のカーブがストライク(空振りするかも)に行ってしまった。しかし、相手は大石君のこと、たとえはじめの考え通りにカーブをボールにしたとしても、うまく当ててきたに違いない。また、ストレートは僕なりの計算で避けたのだし、それを「もし……」といってみたってはじまらない。
内野ゴロが篠塚君の前に転がっていくのが見えたとき、天を仰ぎながら僕は「これで今日の賞品がもらえなくなっちゃうかな」と随分のどかなことを考えていた。実を言えば、悔しさもショックもなかった。これは本当だ。負け惜しみで言っているのではない。だいたい僕はタイ記録にはあんまり興味がないのだ。失礼な言い草ながら、江夏さんのあの記録がもしも残されていなかったら、僕は是が非でも九連続三振を狙って、もっとこだわりもしたことだろうが。僕という人間はそういう男なのだ。
思えば法政四年のとき、先輩の山中正竹さんの持っていた通算四十八勝の六大学最多勝利記録にあと一勝と迫ったこともあったけれど、監督から次の試合でも投げるかと問われ、僕はいいですから、とあっさり他《ほか》の投手に登板を譲ってしまった。あのときも、もしあと二勝できる可能性があって新記録をつくるチャンスがあったなら、無理をしても投げさせてもらえたかも知れないが、タイ記録で終わるくらいならわざわざ連投することもない、むしろ投げない方がいいやと思ったのだった。僕はどうもタイ記録には、拒否反応を起こす質《たち》があるらしい。
オールスター戦での2―0からのあの外角のカーブが、今でも酒の席かなにかの野球談義で「何故ストレートじゃなかったのか」などと話題になっているのだとすれば、あれが八連続で終わってしまったからであって、もし間違って(?)江夏さんと並ぶようなことになっていたとしたら、きっと「そういえば、江川とかいう奴《やつ》もやったようなやらないような……」と、この程度の話題にすらなり得るかどうか、はなはだ怪しい。「江川の野郎あと一人のとこでズッコケてさ」と笑い話みたいにして語られるほうが面《おも》白《しろ》いではないか。“記録”よりも“記憶”の男――僕はそれを誇りに思う。
あの球宴のあと、「江川ってやればできるじゃない。公式戦でもこの調子で投げてくれよ」と言われたものだけれど、ペナントレースの投球とオールスターのそれとはまるで別物なのだ。球宴では自分の持ち場は長くても三イニングなのに、公式戦では九イニングが前提である。完投するつもりで球宴のときのペースで投げたら、当然すぐにバテてしまうだろう。
オールスターはあくまでも、プロ野球選手のお祭りなんだし、ペナントレースでは出来ないチャレンジをして、ファンにサービスする「気持ち」のほうが大事なのだ、と僕は思う。
バースに献上した一発
バースに特大の、それも記念すべき一発を献上した夜のことを書いてみよう。昭和六十一年六月二十六日、後楽園での巨人―阪神戦だ。この夜バースがホームランを打てば、王監督が現役時代に残した七試合連続アーチの日本記録に並ぶことになる、そのバースと対決しなければならなくなった。さすがのバースもこのときばかりは相当のプレッシャーを感じていたようだ。マウンドにいた僕《ぼく》にも、彼のそんな心理状態がはっきり伝わってきた。
対する僕には、不思議とそれほど重々しい気持ちがなかった。たとえ打たれたにせよ、まだタイ記録じゃないか、という頭が僕にはあったのだ。これがもし、八試合連続の日本新記録がかかっていたのだとしたら、そんなに落ち着いていられたかどうか、保証の限りではないのだけれど。
それまでの四年間、五十一打席十安打、被ホームラン一本のみと、ほぼ完《かん》璧《ぺき》にバースを抑えていた江川は、この試合でも、結果からみれば十三被安打の自己ワースト記録をつくるほど不調ではあったものの、ことバースについてはうまく抑えていた。バース自身「エガワはオレの読みを、完全に外していた。四打席まではお手上げだったよ。まったく打てる気がしなかった」と試合後のインタビューで正直に語ったほどだ。
そして八回二死。ランナーはいない。得点は5対5。バースが五回目の打席に立った。いってみれば、江川優勢で迎えた最終打席だった。バースは「最後は何も考えずただ来る球を打つことにした」とインタビューに答えている。
正直なところ、マウンドに上がれば投手と打者の、一対一の勝負があるだけだ。雑念は消し、ただ打者に集中するのみ。だからこの夜も、「打たれたら自軍の監督の記録に並ばれる」とか「そうなってはまずい」とかと、マウンドの上で思い悩んだりはしなかった。
確かに、バースの連続ホームラン日本タイ記録が達成されるかどうかが、次の巨人―阪神戦で決まるということがはっきりしてから、巨人内部に、王監督の記録にバースを並ばせてはならない、記録を達成させるくらいなら全打席歩かせろ、といったような空気が漂っていたことは事実だった。しかし、登板予定の僕に、王監督からバースを歩かせろなどという指示は決して出なかったし、そんなことを言う人ではない。僕は迷わずバースとの勝負に出た。また逆に、もし監督から歩かせろと指示が出ていたとしたら、迷うことなく全打席敬遠で通したはずだ。
僕たちプロにとっては、とにかく試合に出してもらえないことにはなんの意味もない。また、どんな条件のもとでも試合に出してもらった限りは、コンディションがどうあれ全力でプレーするのがプロだと思う。僕は三人の監督のもとで働いてきたことになるが、監督が代われば練習内容、調整方法など、その都度すべて変わる。しかし、プロであるなら、その変更にちゃんと従い、自分のほうをそれに合わせて行くべきだと思うし、じっさい僕は僕なりに、そうしてきたつもりだ。確かに、調整方法やローテーションをめぐって個人的な不満がなくはなかったが、しかしそれ故《ゆえ》「手抜き」をするだなんてとんでもない! 個人的な好《こう》悪《お》の感情を職場に入り込ませてプレーをおろそかにするようでは、決してプロとは言えない。そんなことをしていれば上司の信頼を失って使ってもらえなくなるのが関の山だ。つまり、無意味なのだ。無意味なことを、僕はする気はない。
監督に対する私的な好き嫌《きら》いの感情とプロの意識とはまったく別のものだ。プロ野球の選手だって組織の中の人間には違いなく、組織の中の人間にとって上司の命令は絶対である。監督は自分の思うように自分の野球をやればよい、それが一番だ。そしてその采《さい》配《はい》がどうであれ、監督への不満をあらわにしつつ野球をするなんて、まあ他の選手にはその人なりの考え方やプロ意識があるのだろうから、それはそれとして尊重するけれど、少なくとも僕はそんなことはしない。とにかくあのバースの一発は、純粋に僕とバースの勝負のアヤの結果だったのだ。
カウント1―0からの内角への直球をバースはたたいた。完全なストライクだった。白球は、ライト場外へ消えて行った。タイ記録の達成である。しかし、バースは試合後、「ストライクだったか?」と報道陣に質問している。球筋も見えないほどの状態で、バットを振っていたのだ。
投手には思わぬところに“落とし穴”があるものだ。
捕手とのサインのやりとりの中にも、その“落とし穴”はある。例えば僕の場合、マスクをかぶっているのは山倉であることが多いが、自分が投げたいと思っている球と、山倉が僕に投げさせたいと思っている球とが、見事に一致する――そんなケースは、一試合に何度もあるわけじゃない。それでも、たまたま一致したときに、僕の言う“落とし穴”が口を開ける。
「よし、山倉も同じことを考えてくれた。あいつと同じなら大丈夫だ」
これが曲《くせ》者《もの》である。決して油断するわけではないけれど、打者へ集中すべきときに、「これで打者より優位にたった」と思わず知らず気がゆるんでいるのだ。
この気のゆるみがコントロールを微妙に狂わせてしまうことがある。
バースに打たれた球も、まさにそれだったように思う。初球が内角高目のストレート。そして二球目もほぼ同じところへ投げるつもりだったのが、少しコントロールが甘くなった。山倉のサインに、ノーと首をふった覚えはないから、きっと僕が投げようとした球と、山倉の要求した球が一致していたのだろう。そこにエアポケットが生まれ、コントロールが微妙に狂った――。
バースはベースから三十センチも後ろに立って構えるから、外角球にはバットがとどかないと考えられがちだ。確かに、外角に投げれば、一発を喰《く》う危険性はやや少ない。しかし、バースはいくら外角を攻め続けたとしても、うまくレフトスタンドへ流し打ちする。まったく器用な選手だ。当然打たれるケースも考えられる。
だから、内・外角のストライク・ゾーンを広く使った投球がポイントになる。彼の好きな内角の近くに投げて、打ち気を誘うことも必要になってくるわけだ。打者というのは不思議なもので、自分の好きなコースに球が来ると「よし!」と思うあまり、力みすぎてバットの出が悪くなる。
打者の好きなコースの近くを攻めることで、あせったり、力んだりさせるのだ。確かに勇気はいるけれど、打者のミスを誘発するそうしたコースにも投げなければならないのが、投手の宿命だ。
あのとき、むろん勝負球はバットからもっとも遠い外角であったにせよ、追い込むまでには内角球を有効に使わなければならなかった。結果として、二球連続して内角を攻めた。そしてあの場合、僕にはエアポケットによる制球の乱れがあったのだと自分なりに分析する。
それに、僕のほうはプレッシャーを感じていなかった分だけ、もしかすると集中力を欠いていたかもしれない。
“一発病”なんて書かれるのは、そういう集中力の欠如が、ひとつの原因のようだ。せっかちな性格が、野球にそのまま表れている。2アウトをとると、別に女《によう》房《ぼう》の顔がチラつくせいではないが、つい早くケリをつけて帰りたいと思ってしまう。あのときも2アウトからの勝負だった。
そんな性格を変えられなかったから、なかなか被ホームランの数を減らせなかったのかもしれない。
バースに打たれたとき、「タイ記録」をつくられたら困るといった頭のない僕には、「悔しい」という気持ちはあまりなかった。それよりなにより、純粋に勝負の上から「しまった!」と思った。ほんの一瞬の気のゆるみが制球ミスを招いたのだから。――あれは打たれても仕方がない一球だったと思っている。いずれにしても、プレッシャーを感じながらあの特大ホームランをはなったバースはさすがだった。
バースは、江川を褒《ほ》めた。「エガワは逃げなかった。オレは彼のチャレンジ精神を尊敬する」と、江川の勇気を賛美した。
そして、バースが江川から打った「タイ記録」アーチは、他のどの投手から奪ったホームランよりも、はるかに豪華に見えた。やはり江川は、打たれても絵になる、珍しくも不思議な男なのだ。
僕《ぼく》と女《によう》房《ぼう》だけの「引退試合」
昭和六十二年十月二十八日、秋晴れの後楽園。西武との日本シリーズ第三戦が、僕にとって最後のマウンドになった。
それまで僕が経験した二度の日本シリーズでは、どちらも緒戦の先発を任されて、全部で六試合に投げている。それが今回は第三戦で初めての登板、というのはどことなく寂しくもあったけれど、肩の状態を考えればむしろ当然のことだった。肩がこんな具合ではシリーズで投げられるのはおそらく一試合だけだろうと思っていた(事実、その通りになった)し、だとすれば、これが最後のマウンドということにもなるだろうから、恥ずかしい投球は出来ない、と肝に銘じていた。そこで試合の前日には鍼《はり》も打った。
そんな意地と、気持ちの張りがなかったら、もっと早い回にボカスカ打ち込まれていたことだろう。なにしろ、あの試合で僕が自分でよしと納得出来たのはたったの一球きりだった。四回、清原君にカウント2―2から投げた外角低目のカーブはわれながら切れ味鋭く、清原君はピクリとも出来ずに完全な見逃がしだった。が、それも僕自身に言わせれば、「江川卓」本来の球であるストレートではなく、悲しいかなカーブなのである。
あとの球は推して知るべしで、自分でも納得のいく球はひとつもなかった。ストレートも百三十五キロ前後だったろうか、明らかにスピード不足だし、それ故《ゆえ》、投球の際に左足を上げるタイミングを早くしたり遅らせたり、モーションに変化をつけつつ打者の調子を外すことに必死だったのだ。
八回を投げたところで四安打、四球がひとつ、失点二は、あれがシーズン中であったなら、先発投手としての、ゲームをこわさぬという基本的役割を、いちおう果たせたと言えたかも知れない。だが、舞台はあくまで、短期決戦の日本シリーズだったのだ。ひとつの負けがシリーズの流れを大きく変えてしまうことだってある。そのことはちゃんとわきまえたうえで、十分注意に注意を重ねて投げたつもりだったし、あの日のコンディションからすれば、そうせざるを得なかった。内角に直球、外角にカーブと、両コーナーを丹念につくよう心がけて投げた。しかしながら、自分でもそれと分かる、明らかな失投がふたつだけあった。そして、打者に失投をそれと覚《さと》らせないのも、当然投手の力量のうちなのだが……。
女房役の山倉が「あの二球だけだったんだが……」とこぼし、皆川ピッチング・コーチも「球の切れも制球も悪くなかった。ただ、あの二つだけが……」と悔やんだ。それは、たった「百四球分の二球」の失投だった。その二球を二つとも、江川はスタンドに運ばれたのだ。
0対0で迎えた四回、西武のポイント・ゲッター秋山と清原を打ちとった心のスキをつかれたのか、次のブコビッチに先制アーチを放たれたのが、第一の失投である。
ふたつめの失投は六回にあった。石毛に、内角を狙《ねら》った直球が真ん中に吸い込まれていったところを叩《たた》かれた。この試合、けっきょく巨人は一点しか取れず、西武が勝つ。江川は、たったふたつの失投に泣いたのだった。
この日僕は、そこまでカーブを多投していたので、ブコビッチがバッター・ボックスに入ったとき、カーブにヤマを張られているような気がしてならなかった。山倉とのサインの交換でも、「初球はまず、ボールになるストレートを」ということで意見が一致した。それなら、と思って投げた球が、山倉の構えたミットより内側に入ってしまったのだ。まあ、よくある制球ミスのひとつで、出会い頭に打たれたようなものだから、この一発はさほどショックでもなかった。問題は石毛君のほうだ。シリーズ前から僕が一番警戒していた、また記者たちにもそう話していた相手に一発浴びたのはまずかった。これには自分に腹が立って仕方がなかった。
むろん後になって知ったことだが、その石毛君の読みによれば、僕は彼の内角を突いておいて、最後は外角のカーブで勝負してくるだろうから、カーブを引っ掛けないようにしつつ、内角の球を狙っていけばいいと考えていたのだそうで、石毛君の言う通り、内角を狙って投げた球が、魅入られたかのごとく、やや中に入ってしまったのだ。打たれた瞬間、しまった! と思わずマウンドで膝《ひざ》に両手を当てて、視線を上げられなかったほどだ。
出来ればもう一度、日本一の決定的瞬間を味わってから辞めたいと願っていたのは、もちろんのことである。その夢をなんとしても実現しようと頑《がん》張《ば》ったつもりだが、そういう意味ではあの一球が、本当に痛かった。
あの日のピッチングでチームの日本一に貢献できなかったのはかえすがえすも残念で申し訳ないと思うが、あくまで僕個人の問題にしぼって考えてみるなら、現役にピリオドを打つにふさわしい、けじめのあるピッチングではあったと思う。どこか、これでいいんだと、納得してしまったようなところもある。「立つ鳥、あとを濁さず」にはなったのではないか、と。
この日のスタンドには、正子を呼んであった。本当なら、早と与も球場に来て欲しかったが、あいにくウィークデーのデーゲームということもあり、小学校と幼稚園をわざわざ休ませるのはなんとなく気がひけて、けっきょく子供たちは呼ばずじまいになってしまった。と、こんなことを、ことさら書くのは、それなりの理由がある。これまで僕は、知っている人間にスタンドから観《み》られていると思うと、どうも気恥ずかしくてやりにくいので、家族を僕の試合観戦に呼んだことはまずなかったからだ。そしてまた、家族を球場に招待するときが自分の引退するときだ、と漠《ばく》然《ぜん》とながら心に決めていたからである。
五月に女房と義兄に、今年で引退したいと打ち明けてからは、すでにオールスター戦や公式戦に三、四度ほど、家族を招いたことはあったけれど、この日はまた特別だった。なんと言っても、僕の「引退試合」になるかも知れない(結局、そうだった)ゲームだ。しかも日本シリーズの真っ最中に、僕のそんな個人的な意志がチームの仲間に知れ、試合にマイナスの効果をもたらすようなことだけは、是が非でも避けなければならない。だから、これが夫の「引退試合」なのかと思いつつ、その思いを自分ひとりの胸にしまい込んで観戦してくれていた女房は、さぞや大観衆のなかで孤独感を味わって、はなはだ辛《つら》い時間を送ったに違いない。後で聞いたら、こぼれそうになる涙を押さえるのが大変だったと言っていた。最後の最後に、試合中は平静を装う江川流を、正子にも身をもって体験させてしまったというわけだ。
その夜、巨人軍がシリーズ期間中合宿していた九段のホテル・グランドパレスの地下レストランに、小山から親《おや》父《じ》とおふくろ、正子とその両親、それに義兄を招いて、夕食をともにした。傍《かたわ》らから見れば、その日の敗戦投手が祝宴をはっているような、おかしなものに映ったかも知れないけれど、本人の僕にしてみれば、これも、ひとつのケジメのつもりではあった。
せっかく家族が、久しぶりに一堂に会したのだし、なるたけ楽しく、にぎやかにするよう努めていたが、ナイフとフォークを使いながら、僕は二年前のことを思い出していた。
実はそのころも一度、僕は女房に辞めたいと洩《も》らしたことがあるのだ、登校拒否の子供のように、もう投げられないし、投げたくもないと。そのとき女房は僕にこんなふうに言った。
「好きだからこそ、野球をやっていたのにね。何のために野球をしているのかしら。後は自分のために野球をしてみたらどうなの?」
何のために? 自分でも意外だったが、言われてみればそのとおり、野球が好きな僕自身のために、好きな野球を自分の職業として選んだのだということを、僕はいつの間にか忘れていたのだ。自分のための野球ではなく、「空白の一日」からこちら、僕は汚名をそそぐためのみの野球に死に物狂いだったのである。正子の言葉は僕の心を動かした。もう少し野球を続けてやろうと僕は思い直した。それも自分のために……。
自分のために野球をしよう、そのためにも、なんとしても十五勝以上はあげよう――こんな思いが、昭和六十一年の十六勝につながった。そして今日、「引退試合」になるかも知れぬあのゲームで、お前は自分のために野球が出来たのか? 自分の中のもうひとりの江川は、僕にそう問いかけて来る。僕は、心のなかできっぱりと、イエスと答えた。
第三章 スタジアムの向う側
パパ、やめるんでしょ
忘れもしない昭和六十二年十一月、僕《ぼく》は長女の早《さき》に叱《しか》られた。
とにかく早朝から深夜まで、マスコミの黒塗りハイヤーが僕の家の前に毎日十台以上はりついていて、それは異常な状態だった。息子の与《あと》が幼稚園から帰ってくると、フラッシュがバシャバシャたかれ、気の強い彼でさえ、「もう、イヤだ。こわいよ。イヤだ」と泣き出すありさまだ。早のほうは、熱を出して寝込んでしまった。
とりあえず、なんでこんなことになっているのか、子供たちに説明しておくのが、親としての義務だと思った。与と、一応熱の下がった早を応接間に呼んで、キチンと座らせてから、僕は言った。
「話がある」
早の反応は素早かった。下から睨《にら》むような目で、こちらがその先を話し出す前に、口を開いた。
「やめるんでしょ。なんで?」
娘は当時小学校一年生、おぼろげながら父親の置かれた状況はわかっている。
「そうなんだ。パパは肩が痛くなって、これ以上野球を続けることができないんだ。わかってくれるね」
すると、意外なことを早は口にした。
「ゴルフをする人になるんでしょ」
なるほど、僕は女《によう》房《ぼう》とゴルフの話をよくしていたし、プロゴルファーの羽川豊君とは隣同士で、仲よくつき合っているから、早は子供心にそう思ったのかもしれない。
「違うんだよ、早。ゴルフする人は、小さい時から、ずっと練習してやっとゴルフする人になるんだ。パパは、今からじゃあゴルフする人にはなれないんだ。本当はもっと野球をやりたい。でも、どうしても駄《だ》目《め》なんだ」
そう言いながら、自分の胸に込みあげてくるものがあった。野球を離れなければならない辛《つら》さが、こうして子供たちの前で引退を言葉にしてみて、増幅されたのだろう。目がしらが熱くなって、一筋、涙がこぼれてしまった。すると、早も小さな目に涙をいっぱいためて、唇《くちびる》をふるわせながら、こう言うのだ。
「パパ、どうして泣くの。おかしいよ。泣くぐらいなら、やめなきゃいいのに!」
きつい口調だった。怒っていた。それに、早の言葉は、僕の口《くち》真《ま》似《ね》でもあった。
いたずらをした早を叱るとき、がまんできずに泣いた早を、僕はよく、こう言って諭《さと》したものだ。
「泣くぐらいなら、どうしてあんなことをしたんだ。泣くぐらいなら、そんなことをしちゃあダメなんだぞ」
そのお返しを、こんな形でされたわけだ。でも、僕の辛い気持ちを、早も与もよくわかってくれた。だからこそ、涙を見せてしまった僕に、“強くなれ”という意味を込めて、娘は喰《く》ってかかってきたのだと思う。
恥ずかしながら、僕は娘に勇気づけられた。この一件の後、予定原稿もつくらずに臨んだ引退記者会見で、僕の言うべきことをまがりなりにも皆さんに伝えられたと思えるのも、早のあのゲキがあったおかげかもしれない。早、ありがとう。
昨年(昭和六十二年)、僕が女房に初めて引退について口にした夜のことは、今でもはっきり覚えている。それはシーズンが押し詰まってからではなく、開幕からさほど間のない五月三日、広島遠征に出る直前だった。
「ちょっと、話があるんだ。外へ飯を食いにいこう」
午後十一時近くになって、ある決心をした僕は女房の正子にそう言った。
江川企画をとりしきってくれている義兄の菊地敏明も呼んで、三人で出かけたのは、六本木のイタリア・レストランだった。注文も済んで、いざ話を切り出そうとしたとき、うまく表現できないが、雰《ふん》囲《い》気《き》がおかしくなってしまった。僕の表情を見て、ふたりとも黙りこんでしまった。
「出よう」
唐突に僕は言った。注文した料理はまだきていない。店の人には悪いことをしたと思う。ふたりを引き連れる形で、強引に店を出てしまった。
譬《たとえ》はおかしいが、これは自《じ》刃《じん》する人間の“ためらい傷”のようなものだったのかもしれない。「引退」を言い出そうとして、それができないのだ。渋谷の中華風レストランに、僕らは場所を変えた。
ウーロン茶を一口飲んで、やっと気持ちが落ち着いたような気がした。正子と義兄の顔を僕は交互に見ていた。
「実は……」
次に出る言葉をふたりとも、すでに察しているようだった。
「今年でやめるかもしれない」
ふたりに驚きの表情はなかった。
正子はあとになって、僕にこう言ったものだ。
「もっと早く、その言葉を聞きたかったわ。もう、これ以上苦しんでほしくなかった」
なぜやめるのか。技巧派に変身すれば、まだ二ケタは楽に勝てるじゃないか。そういう声を、引退してからも、たくさんいただいた。
でも、違う。僕は、すでに技巧派に変身していた。コシヒカリなんて名前をつけたスライダーを投げなければならなくなった時、もはや江川卓は終わりかけていた。
走者が二塁にいようと三塁にいようと、打者を三振に仕留めてケリをつける。相手がストレートを待っているとわかっていて、それでもストレートを投げて、空振りさせる。
僕の頭の中にいる江川卓は、そういう投手なのだ。それができずにいるフラストレーションが、心の中にたまっていた。
いつからなのか。
振り返れば、法政二年のころから、僕はもう“技巧派”への一歩を踏み出したともいえる。
この年僕は、右肩に疲労骨折を起こしている。外部にはもれないように、六大学のリーグ戦は投げ抜いたが、不本意ながら軟投せざるを得なかった。それから後、プロに入ってからも確実にたまり続けた「あるべき姿の江川卓」にもどれないフラストレーションが、去年で限界に達していた、というべきだろう。
グァム・キャンプ恒例の三十メートルダッシュで、僕は初めて若手に負けた。
「お前、どうしたんだ」
顔では笑いながら、そう自問した僕は内心すごいショックを受けていた。俺《おれ》の筋肉が、死にかけている。肩をかばっているうちに、腰にきた。絶対自信のあった尻《しり》と腰にまで……もう駄目なのか。
だから、覚悟はグァム・キャンプで固まりつつあったのだ。が、一度決めた心が、揺れ動いたことも確かだ。来年完成するドームで投げたい。もしかすると速球が戻《もど》るかもしれない。
大学二年のときに起こしたあの疲労骨折以来、僕の投手人生は最後まで、右肩との闘いの繰り返しだった。あらゆる治療を試みてきたつもりだ。筋肉の回復が早くなるといわれ、オゾン注射も打った。レーザー光線による治療も受けた。そうして右肩をだましだまし、僕は投げた。
思うような速球が投げられなくなった僕に、他のチームの選手までが、心配して電話をかけてきてくれたこともある。
いまだから書くが、田尾さん(当時中日)はわざわざ連絡をくれて、九州在住だが、そのときたまたま名古屋に来られていた高名な“酒マッサージ”の先生を紹介してくれた。日本酒を患部に塗ってマッサージする特殊な治療法である。
「敵の僕に、どうしてそこまでしてくれるんですか」
僕の問いに、田尾さんは、笑って答えた。「つまらないからだよ。本来の調子が出ていない君と対戦しても、つまらないじゃないか」
大《おお》袈《げ》裟《さ》な言い方ではなく、これには涙が出るほど嬉《うれ》しかった。
しかし、その先生から、一時は痛みが消えるとしても、患部は深く、決して元に戻る肩ではないことを、僕は知らされた。
そう診断されても、僕としては投げつづけたい。しかしまた、先生が九州在住では痛みがひどくなったときにいつでも診ていただくことは不可能だ。そのときふと思い出したのが、中国鍼《ばり》だった。大学時代に中国へ行ったとき、中国人の先生に鍼を打って貰《もら》い、痛めていた肘《ひじ》が一発で治った経験がある。この治療なら東京で可能である。最後にこれに賭《か》けてみよう、と僕は思ったのだ。しかし、やがて鍼を打たなければ、もうマウンドにすら上がれない状態となった。それも百球近く投げてくると、指先はしびれて感覚がなくなってくる。こうなったら軟投すらむずかしい。また投げた後は、腕をねじ上げられるような痛みが肩に走った。登板した夜は眠られないほどだった。
こうして、その中国鍼を打つ間隔も短くなる。二週間は持ったものが一週間になり、三日になった。鍼を打つ本数も十本を超え、明らかに限界が迫って来たのだ。
僕は自分の限界が近いことを、数少ないチームメイトに洩《も》らしてはいた。例えば僕と同じく肩の故障で苦しんでいた水野君だ。
昨年の日本シリーズ第六戦で、先発する水野君は何かを感じとったのだろうか、引退をひそかに決意していた僕に、こう言った。
「もう一回、とにかくもう一回、江川さんにマウンドに上がってもらいます」
結果としては西武が3対1で勝利をものにし、この試合で西武の日本一が決まり、それは果たせなかった。勝ちはしなかったが、水野君の力投に、僕は胸をつまらせた。溢《あふ》れる涙をこらえている水野君の顔を見て、僕は黙ってうなずくしかなかった。
そんな僕が、ドームへの夢を捨て、本当に引退を決意した日は、いつだっただろうか。
後述するが、やはり広島の小早川君への一球が、トドメだった。あの一球をホームランされていなければ、とも思うけれど、他人がなんと言おうとも、僕自身は懸命にやった結果なのだから、それでいい。とにかく僕は、ユニフォームを脱いだのだ。
さて、ユニフォームを脱いでから、僕の家庭生活に、小さな変化がたくさん起こった。まず、風《ふ》呂《ろ》に入って、早と与の体を洗ってやれるようになった。
遠征などで留守がちになる僕にとって、風呂は子供たちとの貴重なコミュニケーションの場でもある。だからなるたけ楽しいバス・タイムにするためにも、家族四人がゆったりつかれるくらいの湯船をつくった。たっぷり広さをとった洗い場には床暖房を入れ、自慢のバスルームなのだが、現役中は、ふたりの子供の体を洗ってやることができなかったのだ。
なぜなら、肩が冷えるからである。スキンシップを大事にしたいから、ふたりの子供といっしょに湯につかりはしても、体を洗ってやるのは、いつも正子の役目だった。
風呂だけでなく、わが家のベッドも特大にできている。幅一メートル八十センチのベッドがふたつ、一メートル四十センチのがひとつ、これをくっつけて、幅五メートルのベッドが置かれている。
どうしてかというと、これも僕が自分のコンディションを維持するためなのだ。眠るのもプロ野球選手にとっては仕事のうちなのである。
登板前の僕は、いつも極端に神経質になる。三、四時間しか眠れず、うす暗い食堂の椅《い》子《す》に腰をおろし、朝刊が来るのを待っていたこともしばしばだ。洋間だった部屋に畳を入れ、だだっ広いセンベイぶとんを一枚だけ敷いて、その上にひとりで寝てみたり、今は子供たちが使っている部屋を寝室にしてみたり、といろいろ実験してみたが、うまくいかない。ナーバスになってしまっている僕は、簡単に寝つけないのだ。周囲が気になる。そんな夜の翌日は、あいつは自閉症じゃないのかといわれたりしたものだ。しかし、それでもなお、子供とは一緒に休みたい。その結論が五メートルベッドだった。二年くらい前に、このばかでかいベッドを入れるために、わざわざ二十六坪ほど土地を買い足して、寝室を増築しなければならなかったが、これなら寝返りを打っても肩が落ちたりせず、大丈夫だ。重ねると十センチにもなる分量のベッドのパンフレットを収集し、研究した成果である。
ところがその特大ベッドの、三分の二近くを僕がひとりで占領し、残りの三分の一ほどのスペースに、妻と二人の子供が肩を寄せ合うようにして寝ていたのだ。それもあくまで仕事のため、右腕右肩を守るためであった。それに家族と僕とは、就寝時間、起床時間がもちろん違う。例えば与が幼稚園に行く時、僕はまだ睡眠という仕事(?)の最中だから、ソッと息を殺して、安眠を妨げぬように、僕にわからないように起きるのが、彼の義務だった。しかし僕は、子供たちが寝る気配も起きる様子にもすべて気づいていた。小さな子供のイビキが耳についてならなかったこともある。ナーバスになった僕の眠りは、それほど浅かったのだ。
しかし、江川家の朝もガラリと変わった。いつもの習慣で、ソッと起きかけて、「こんなことは、もうしなくていいんだ」と与は気づく。
「パパ、起きろよ、朝だよ」
今では大イビキをかいて(と女房《にようぼう》が教えてくれた)グッスリ眠りこけている寝坊のパパのまわりをとびはねてはしゃぐのである。僕が引退してから、少なくとも、彼の朝は、幸せに満ちたものになった。
僕の野球生活は、こんなふうに様々な家庭生活を犠牲にして、成り立っていた。
缶《かん》詰《づめ》を開ける、釘《くぎ》を打つ、与の自転車のチェーンを直す……みんな引退してから初めてやったことだ。指を傷つける危険はことごとく避けていたのである。
そんな心構えがなかなか抜けなくて、大笑いしたことがあった。
引退騒動が一段落したある日、久しぶりに夫婦ふたりでゴルフに行こうか、ということになった。その日の朝、ゴルフ用の手袋をセロファンの袋から出そうとして、人さし指をホチキスの針でひっかけてしまった。
僕も正子も一瞬顔がひきつった。が、二秒ぐらいしてから、ふたりとも笑いがとまらなくなった。正子は、笑いながら、
「もう、ケガをしてもいいのよね」
「俺《おれ》を殺す気か」
また大笑いになった。
長女が早《さき》、長男が与《あと》。変な名前だと、よく言われる。サキとアト。さきに生まれたからサキ。あとから生まれたからアト。ずいぶん、いいかげんな名前のつけ方じゃないか、とも言われる。が、まがりなりにも人の親なのだから、もちろん、色々考えぬいた末の名前である。
僕の名前が卓《すぐる》。弟の名前が中《あたる》。もう一人生まれたら了《さとる》と付けようと思っていたとかで、どうもマージャンじみていて、ややおふざけの気味がないでもないような気がするが、とにかく一字の名前というのが、江川家の“伝統”みたいになっていた。だから、やはり一文字で決めてみたかった。
それに、最初の子供には、自分の卓という名をからませてみたかったのだ。王監督が娘さんに、「お嫁に行っても王家が里ということを忘れないように」と「理」の字の入った名前をつけられたのと、同じ発想だったと思う。
「卓」にちなんだ名前といっても、女の子の場合は、なかなかむずかしい。考えに考えぬいて、「卓」の字のトの部分を取ったのだ。つまり、「卓」からオチンチンを取ると、「早」になる。サキという語感もよかったし、「早」という漢字は、もともと太陽が昇ってくる姿、日光のさしはじめを表したものだという。
まぎれもなく、早はわが家の太陽だった。娘が生まれるまでのわが家の雰《ふん》囲《い》気《き》といったら、これはもう最低最悪だったのだ。眉《み》間《けん》にシワを寄せっ放しの僕も、女房も常にピリピリしていた。“空白の一日”の一件で負った汚名を晴らすには、とにかく試合に勝つしかない。家でヤワにしていては勝負に勝てない。いきおい、わが家は笑いも楽しさもない重苦しいムードがいつも漂っていた。このままでは家庭崩壊だと思った。好きで一緒になった女房だというのに。だから、女房に子供が出来たと分かったとき、これは自分の性格を直し、家庭の空気を一新する好材料だと僕は思った。そのためにも、どうか娘が生まれてくれ、と僕は祈った。やがてその祈りが天に通じてか、早が生まれてから望み通りに、僕は変わった。暗いわが家にひと筋の光がさしこんだのだ。はっと気づいたらエンマ様がエビス様に変身したかのように、僕は温厚になった。まさしく我が家のサン・ライズ。
だから、自信をもって「早」に決めた。
「与」の場合は、「後、先」という遊び心も多少あった。そして、どんな字をあてるべきか、と一所懸命考えたわけだが、「与」にはふたりで力を合わせるという意味があった。早と力を合わせて、大きないい子になってくれ、という願いをこめたつもりだった。
愛妻家と暴君
結婚前の大学時代から、正子は僕《ぼく》のことを、“タク”と呼んできた。「卓」のタクである。だが最近、彼女は僕を“タク”と呼ばなくなった。たいていの場合“パパ”である。
なぜなのか。実はひとつのエピソードがある。
革命は風《ふ》呂《ろ》場《ば》から始まった。
早を風呂に入れた時のことだ。何度も書くが、現役時代は、肩を冷やさないように、湯船にいっしょにつかった後、僕は風呂から先に出て、子供の体を洗ってやるのは正子の係だった。あがろうとした僕に、
「タクのバスタオルは、いつもの所にありますから」
正子が言ったのを、早が聞いていたのだろう。
「タク、もう出ちゃうの。タクが洗ってくれないの」
それまで、僕のことをきちんと“パパ”と呼んでいた早が、こうしてある晩の風呂場で突然“タク”と呼ぶようになってしまった。
「ママはパパのことを“タク”と呼んでもいいけど、早はダメなんだよ」
そう説明したけど、早は納得しない。まあ当然か。
「どうして、ママはよくて、早はダメなの? だってパパは“タク”なんでしょ」
そう言われれば、確かにその通りで、パパはほんとはスグルだが、ママはパパを昔からタクと呼ぶわけで、ママがタクと呼ぶパパはスグルだけどタクなのであって……いやはや、途中経過を省略すると、要するに論理的には、早のほうが正しいわけだ。そこで僕は、正子と話し合った。
「早に俺《おれ》を“タク”と呼ばせても別にかまわないけど、ちょっと貫《かん》禄《ろく》がないだろう。叱《しか》るときにどうも恰《かつ》好《こう》がつかないよ。だからとりあえず、お前が俺を“タク”と呼ぶのをやめてくれ。“パパ”で統一した方が、子供のためにもいいよ」
それ以来わが家では、“タク”という呼び名は、一応消滅した。少なくとも“サキ”と“アト”の前では。
でも、正子に対しては、ずっと変わらず“タク”の顔を持っているつもりである。
後述する“ワイン熱”と“銀座熱”が醒《さ》めてから、酒はほとんど飲まなくなってしまったが、外で食事をするようなときは、必ず正子といっしょだ。
だから、写真雑誌もまったくこわくなかった。むしろ張り込みをしているF・Fカメラマン記者が、正直かわいそうだった。いくら僕を見張っていても、絶対に“フリン”もののネタは拾えないのだから。でも、あるとき、球団のフロントの方に言われたことがある。
「きのう、六本木で見たよ。なかなかの女性を連れていたじゃないか」
その人は、ついにシッポをつかんだという表情で含み笑いである。ところがこれが、とんだ見当違いなのだ。僕の意志にかかわりなく、女《によう》房《ぼう》自慢をせざるを得なくなるのがどうも辛《つら》い。というのも、その“なかなかの女性”というのは、皆さんお察しの通り正子だったのだから、言葉の返しようもなく僕が黙っていると、
「ずいぶん親しそうだったじゃないか」
と、向うは追いうちをかけてきた。
「そうでしょう」
そこで僕は笑いながら、
「女房ですから、親しいですよ」
と答えた。その人は何とも拍子抜けしたような、しかしまた意外だと言いたげな顔をしていた。ひょっとすると、女房と親しげに食事をするのは、いまの日本ではもっとも普通ではない行為なのかもしれない。
そういうわけで、僕が“なかなかの女性”と食事をしていたら、それは正子ですから、読者のみなさん、喜び勇んで、『FOCUS』なんかに駆け込まないようにしてください。
とはいうものの、江川卓の顔はけっしてひとつではない。本人も照れずに言う通り、だれにも負けない愛妻家であるのも事実だが、マウンドでコントロールが突如乱れることがあるように、急に暴君となってしまうのも、他《ほか》でもない江川卓だ。
実は結婚してから二度だけ、女房に手をあげたことがある。
「テレビで見ていると、“タク”はうつむいてマウンドを降りてくるけど、もっと胸を張って顔をあげて、降りて来た方がいいんじゃないの」
いきなり、バシンとやった。
「俺はたまたまテレビに映っているから、お前に“仕事場”が見える。だけど、男の仕事場は、普通は女房には見えないもんなんだ。口出しするな!」
これが一度目だった。
二回目は、背筋を痛めて練習を早退し、酒を飲んで帰った夜のことだ。
「練習を休んだのに、飲んだりするのは、よくないわ」
このときも、いきなりバシンとやった。
「練習できない俺の気持ちが、お前にはわからないのか!」
どちらも理屈が通っていない。少なくとも、手をあげるようなことではない。やはり、甘えがあったのだろうと思う。
二度目のバシンの翌朝、僕が目覚めた場所は、なんとトイレの中だった。本当に汚い話だが、嘔《おう》吐《と》しながら眠ってしまったらしい。気がつくと、洋式の便器を抱え込んだ姿勢で、へたりこんでいたのだった。
いつもなら、介抱してくれる正子も、この日ばかりは、何もしてくれなかった。当然の報いだろう。
白状してしまえば、この二度のバシンのころは“銀座通い”に凝っていた時期だ。
決して、酒場の女の子をくどこうというのではない。そちらの“身持ち”は固いのだ。ではなぜ、狂ったように銀座に通っていたのか。これは僕の旺《おう》盛《せい》な好奇心のなせる業《わざ》である。世の男性諸氏をあれだけ魅《ひ》きつけてやまぬ銀座とは、いったいなんであるか? どうしてああいう料金になるのか? そしてホステスさんたちは、いくらくらい給料を貰《もら》い、どういう生活をしているのか? そういうことに限りなく興味があった。
そのころ僕は武蔵小杉に住んでいたのだが、銀座を目指して午後十一時半に家を出たことがある。銀座の店は、だいたい十二時には閉まってしまうにもかかわらず、である。
怪《け》訝《げん》な顔をする正子に、僕はこう言った。
「車を飛ばしてもらえば、十一時五十分には店に着けるだろ。それなら十分間くらいは飲めるじゃないか」
ひとつのことに凝ってしまうと、僕はこんな具合になってしまう。
正直やましいことはないのだけれど、少しは後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。正子に言われたことがある。
「タクが銀座に行く時は、すぐわかる。うしろを向いて髭《ひげ》を剃《そ》るから」
なるほど、確かにそうだった。
一度だけ、女の子の家を訪ねたこともある。もう時効だから、書くことにする。
あるクラブに感じのいい女の子がいた。いろんな話をして、別れ際《ぎわ》にこう言われた。
「よかったら、昼間ウチにいらしてください。お茶でも飲みましょう」
自宅の住所を書いたメモを渡されたのだ。そこで翌日、僕は後輩のある選手を誘って、その子の家に向かった。もし下心があれば、後輩なんて誘わない。とにかく、クラブで働く女性がどんな生活をしているのか、“知的好奇心”がうずいたのだ。
ところが、彼女の家はなかなか見つからない。交番で訪ねたのだが、そんな番地は存在しないと首をかしげている。
頭が混乱した。前夜、その子は僕にこうまで言ったのだ。
「これから、江川さんを頼りに思っていいですね」
なのに、メモに書かれた住所は嘘《うそ》だという。その時、おまわりさんは住民帳のようなものを調べながら言った。
「そのお名前で、違う住所ならありますよ」
僕は意地になっていた。同伴の後輩は、「もういいじゃないスか」とあきれていたし、勝算のない戦いだったが、行ってみなければ、気が済まなかった。それからさらに三十分ほど捜して、やっとそのマンションを見つけだした。
違うかな、と思いながらベルを押す。
「ハーイ」
と若い女の声がして、その子が、ドアから首をニューッと出したのだ。夜の顔とは印象が違ったが、間違いなくその子だった。
「あらっ、どうして……」
そういったきり、彼女は声を失った。違う住所を書いたのに、まさか訪ねてこられるとは、思いもよらなかったのだろう。
「嘘つくんじゃないよ」
僕は他に言葉が見当たらなかった。きっと間抜けな顔をしていたに違いない。お土産に買って手に持っていたケーキを押しつけて、そのまま帰ってきた。
そんなこともあったが、やがて銀座もひと通り見てしまい、だいたいこんなものだな、よし、分かったとなってしまうと、銀座熱は一挙に醒めてしまった。
それはともかく、いずれにせよ家庭人としては、決して合格点をつけられないはずの僕に、女房は、本当によくついてきてくれたと思う。最近になって、正子がポツンと言ったことがある。
「実は結婚してすぐ、長嶋さんの奥様に言われたことがあります。『正子さん、野球人と結婚するのは、辛いわよ。大変よ。でも、幸せって別にあるからね』って」
別の幸せ――。
正子はこう説明した。
「試合を球場で見せてもらうと、つくづく思うのよ。九回、リードしていて、“江川コール”が起こるでしょ。ゴォーという地鳴りのような歓声。あれを聞くと、体がふるえてきてしまう。凄《すご》いことを、私の夫はやっているんだって」
嬉《うれ》しかった。野球人としての誇りを共有して、正子は僕のわがままに耐えてくれていたのだ。
思えばわが家の場合、女房は専業主婦だから、なにか打ち込める仕事があるわけでもなく、大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》に言うと外でのつき合いも“井戸端会議”の枠《わく》を出ない程度のものだろう。だから興味の対象も、どこそこのスーパーのキャベツは安いとか高いとか、極論すればそんなことだけになってしまわないとも限らない。
しかも、一所懸命に子供を育て上げ、一人前になった子供が結婚、というころには、女房自身はそろそろ老いを迎えている。そのときになって女房がふと、自分の人生とは……などと言ってじっと手を見つめたりするのでは目も当てられない。また正子がいなければ、プロ野球人としての江川卓が存在し得なかったのも歴然たる事実なのだ。だからこそ、と思う。
もちろん女房だけではなく、僕だっていずれ老いるのだということも忘れているわけではない。それも、老いぼれた僕が、機械的に預金通帳を開いて意味もなく数字の羅《ら》列《れつ》を眺《なが》めては、無意識のうちにニタニタと笑う“欲ボケじじい”にならない保証はどこにもない。通帳の数字は、そこから何かを感じとり、何事かを発展的に考えてこそ意味があるのだ。そういう感覚が麻《ま》痺《ひ》してからでは、もう遅い。
僕は老いと死を恐れる。おそらくそれは、僕の若さゆえである。やりたいことは山ほどある。今のうちは一日が三十六時間くらいあればいいと本気で思う。その分、江川老人になってからは一日を十二時間に減らしてもらっても構わない。こんなふうに考えてみると、一日一日が、実に大切なものに思えてくるのだ。確たる意志をもって生きている間に、夫婦ともども、一日一日を思う存分楽しみたい。“タク”としてのマイナス点を挽《ばん》回《かい》するのも、これからの課題である。
三十三歳にしてすでに老後を意識したかのようなこの発言。――こんなところに年上の女性、特に“おばあちゃん”族に、江川が圧倒的な人気を誇る秘密が隠されているような気がする。
圧倒的な人気というのは、ちと大《おお》袈《げ》裟《さ》すぎるんじゃないか……。しかしながら、ここ五、六年ほど継続的に、三人の“おばあちゃん”からファン・レターを頂《ちよう》戴《だい》しているのは事実である。都内に住むAさんは数えで七十四歳だとお書きだったし、四国のBさんはすでに卒寿を迎えておいでとか。静岡のCさんの年齢は不詳だけれど、言葉遣いやみごとな筆ペンさばきなど、書面からうかがえる限りでは六十代以上の御婦人かな、と想像している。
「なんで俺は“おばあちゃん”にモテるんだろう」
あるとき何気なく、女房に言ってみたら、「タクは年上の女性に人気があるんじゃないの?」とあっさり答えたものだ。考えてみれば正子も僕より六つ年上なのであった。
ところが昨年(昭和六十二年)十一月、僕が引退を表明した直後から、いつでもビッシリと文字で埋まっていたこの三人の“おばあちゃん”からの手紙が、示し合わせたかのようにピタリと届かなくなってしまった。正直言って、僕と女房はこの事態にかなりの打撃を受けた。僕の引退がひどいショックをあたえたのだとしたらどうしよう、と心配になったのだ。
それが、ひと月ほど経《た》ったころから、配達されなかった三通の手紙が一通ずつ届き始めたのである。「ユニフォームを脱がれることはいたたまれもなく寂しいのですが、新たな御出発に涙は禁物」といった具合に、いずれの手紙にも今後とも江川を応援して下さる旨《むね》が書かれてあった。胸のつかえが下りた。音信の途絶えていた一カ月という期間は、僕の引退に対する御三方の失望やとまどい、落胆をいやすのに必要な時間だったのかもしれない。三人の“おばあちゃん”からの手紙は、僕をまた勇気づけた。
“おばあちゃん”たちからの手紙だけでなく、江川に寄せるファン・レターのイメージはふつうのそれとは趣を異にするものが多いようだ。若いギャルたちからのファン・レターはむしろ少ない。ファン・レターの質にも、江川らしさが反映している。
あれは巨人軍入団間もない頃《ころ》の出来事だ。試合を終えて拾ったタクシーで、当時住んでいた川崎の自宅へ戻る途中、僕は運転手さんから声をかけられた。
「お客さん、江川さんでしょ」
“空白の一日”についての議論がかまびすしかったこの時期、どんなに悪《あ》しざまにののしられようとも仕方がないと思っていた。悪口も甘んじて聞こうと心に決めて、自分が江川であることを認めると、運転手さんは言葉をつないだ。
「生意気なことを言わせてもらうけど……」
来たな、と思った。だが、この後の言葉が予想外だった。
「世間がどう言おうと、自分の信じたやり方で生きるべきですよ。後悔しないためにもね。私は江川さんのこと、応援させてもらいますよ!」
地獄で仏に会ったような気持ちだった。
すっかり嬉しくなってしまった僕は、タクシーが自宅に到着すると、家にあがってお茶を飲んでいって下さいと運転手さんを誘った。しかし、
「いいえ、仕事がありますから」
と固辞する気配だ。
「お茶、飲んでいってください。御《ご》馳《ち》走《そう》したいんです!」
僕はしつこく、何度も何度も頼むようにして誘ったが、運転手さんは苦笑いを浮かべるだけで、家にあがってはくれない。
「本当にお気持ちだけ、有《あり》難《がた》くいただきますから」
と言い残して、運転手さんは夜の街に戻《もど》っていった。
それから数日して、その運転手さんから手紙が届いた。
「あのときは失礼しました。お気持ちは本当にうれしく、光栄至極だったのですが、実は私のはいていた靴《くつ》下《した》がほころびていたもので、そんな恥ずかしい姿をお見せするのも忍びなく……」
僕は再び感激した。わざわざ手紙を下さったことに対してだけではない。また運転手さんの靴下が本当にほころびていたのかどうかも問題ではない。なによりも、僕の気持ちを傷つけないようにと気づかってくれた運転手さんの思いやりに感激したのだ。
またあるときは、こんな手紙が届いて、嬉しいながらも随分驚いたことがある。
手紙の主は、以前暴走族グループに属していたというひとりの少年だった。手紙によれば、暴走族の集会で、何百人かの暴走族仲間を前にして、彼は僕のことをひきあいに出して演説をぶったという。
「世間はゴリ押しで巨人に入った江川を悪者扱いするけど、俺は決してそうは思わない。むしろあいつの生き方は正しい。だって、自分の意志で生きたいように生きているんだから。俺はあいつの生き方を支持したい!」
こんな風に評されては、当の本人である僕は面《おも》はゆいばかりだが、彼がこう言うと、聴衆からは一《いつ》斉《せい》にブーイングが鳴らされたという。つまり、当時、社会に迷惑をかけ通しと言われていた暴走族の連中からも江川卓は支持されなかったようだ。
当然のことながら僕の生き方を称揚した少年には、他の連中から「生意気だ!」とか「お前も嫌《きら》われ者だ!」とかと罵《ば》声《せい》が浴びせられ、かなりたたかれたらしい。ところが、そんななかでただひとり、ある少女が進み出て、「私も彼の言う通りだと思うわ」と宣言したというのだ。
この少年と少女は、やがて結ばれた。手紙にはこうしてふたりが結婚するまでの経《いき》緯《さつ》と、今はふたりとも暴走族を抜け、幸福な夫婦生活を営んでいることも書かれてあった。そして、
「こんなすばらしい出会いのきっかけを与えてくれた江川選手にお礼がいいたい。どうもありがとう」
と結んであった。
あるマーケティングリサーチによれば、江川を支持する層を年齢別、性別に調査してみた場合、三十代の男性が圧倒的だという。三十代の男性といえば、江川と同世代であると同時に、仕事と家庭のはさみ打ちにあって、もがき苦しむ受難の世代である。
ファン・レターの傾向やこうした調査結果などから推察するに、江川の支持者やファンにはある特徴が見受けられる。どちらかと言えば派手であるよりは地味で、社会遊泳術も下手、自在に生きて行くタイプではない。
実は江川自身に、この特徴はそのままあてはまりそうな気がしないでもない。彼の持つ魅力は、ギャルが騒ぐ派手派手しさとは無縁だ。また彼が、もう少し世渡りの術に長《た》けた男であったなら、巨人軍入団をめぐる経緯も、世間やマスコミの反応も、かなり違ったものになっていただろう。が、結果は周知の通りで、江川ははなはだ苦い経験を味わい、また、それによく耐えた。
「江川でさえあれだけ頑《がん》張《ば》ってるんだから、俺だって……」
と、江川の姿にわが身を投影させて励みにしていたファンも多かったのではないか。おそらくあの“おばあちゃん”たちも……。
引退を決めた直球
僕《ぼく》の家には、女《によう》房《ぼう》が“動かない場所”と呼ぶ、僕専用のコーナーがある。食堂の丸テーブルの一角、ゆったりした椅《い》子《す》の置かれた場所で、手をのばせば脇《わき》に備えつけの棚《たな》から本を引き出して読書もできるし、電話も置いてある。この席で日がな一日テレビを眺《なが》めて過ごすことも可能だ。とにかく家にいるときの僕は、ほとんどこの便利で快適なタク・コーナーから動かない。最近では席を立つのはトイレに行くときくらいのもので、女房もあきれている。棚には、早と与が画用紙に描いてくれた“パパの顔”もはりつけてあるが、その絵と並べて、小さな「感謝状」が飾ってある。二十センチ四方のボール紙を銀色のテープで縁どった、手書きの「感謝状」である。
この「感謝状」を贈ってくれたのは、僕のふたりのオイッ子だ。義《あ》兄《に》のふたりの息子で、早稲田小学校五年生の陽介と、三年生の卓也である。
「感謝状」には、「どうもありがとう。これからもお仕事がんばってください」と書かれている。裏を返すと僕の通算成績まで記されてあるのだ。
陽介も卓也も、僕のことを“ニイ”と呼んでくれる。いつから、そう呼ぶようになったのかは思い出せないが、「兄」という意味での“ニイ”なのだろう。オジさんと呼ばれるよりは、ジジくさくなくて、自分では気に入っている。
現役時代も、週末は新宿区弁天町にある正子の実家にしばしば泊まらせてもらい、義兄一家もそこに住んでいるから、普通のオジ、オイよりも、僕と陽介・卓也コンビの関係は緊密ではないかと思う。息子の与もふたりのことを“アニキ”“オニイチャン”と呼び、親しんでいる。
その陽介・卓也のコンビは、もともと野球にまったく関心がなかった。少なくとも二年ほど前までは、僕が巨人の選手であることすら、全然知らなかったようだから、これは野球好きのおばあちゃんに似ず、むしろオバである正子ゆずりだろうか、とにかく相当の野球オンチだったのである。
そんな彼らが野球に興味を持ち始めたのは、ここ一、二年のことだ。それも、ナマの野球を見て興味を持ったのではなかった。
なんとふたりを野球にひきずりこんだのは、とあるテレビゲームだった。画面にピポピポいいながら登場するプロ野球各チームの選手の名前を、ひとりひとり覚えていったのだそうだ。
すると、そのなかにひとり、エガワというのがいる。そのひょうきんなエガワなるキャラクターを見て、「ひょっとしたらこれは“ニイ”じゃないか」ということになったらしい。
「“ニイ”は巨人のピッチャーだったのか」と卓也が驚いたように言ったのを、よく覚えている。彼らがテレビで巨人戦を喰《く》い入るように見るようになったのは去年、僕の引退の年になってからだ。陽介にショックな言葉をぶつけられたのは、確かシーズンが開幕してひと月くらい経《た》った頃《ころ》だった。
「ニイ」
「なんだよ」
陽介の目が笑っている。
「ニイは、すごいピッチャーだって自分では言うけど、本当にそうなの? 桑田の方が、全然すごいじゃん」
正直言って、ガーンときた。
この発言には、伏線があった。その数カ月前に、テニスボールを使っての草野球につき合って、僕が投げてやったゆるいボールを、陽介はジャストミートして、自信をつけたのだ。「俺《おれ》は、エガワの球を打ったんだ。簡単だよ」と。
それにしても、言われた僕はショックだった。笑ってすませておけばいいのに、僕は聞き流さずにムキになった。
「桑田もいいピッチャーに違いないけど、ニイもすごいピッチャーだったんだよ」
「そうかなあ」
陽介は、ちっとも納得しなかった。
「本当だよ」
「じゃあ、証拠を見せてよ」
と、最後は小学生レベルの会話に、僕のほうが完全にひきずりこまれてしまった。マウンドにおけるピッチングもそうだったが、ムキになると、僕は相手のペースにはまるのが落ちだ。
結局このときは、放送局の方にお願いして、全盛期の僕のビデオを取り寄せた。バッタバッタと三振を取っていたころのビデオを見せる以外に、彼らを納得させることはできないだろうと思ったのだ。
引退してから、「夏前ぐらいに、昔のビデオを集めていたけど、あのころから引退を意識していたんだね」とマスコミの方によく言われたけれど、引退が頭にあったことは事実としても、あのビデオ集めの裏には、こういう深い事情があったのだ。
「ふーん」
高校時代のビデオを含めて、おふたりさんに、これでもか、これでもかと見せた末の感想が、これだ。いぶかし気に「ふーん」ときた。巨人軍のエース江川卓と、目の前にいる“ニイ”が、どうしても頭の中で一致しないようだった。
「じゃあ今度、ニイが投げる時、テレビでようく見てろよ。すごいピッチングを見せてやるからな」
男としては、こう言うしかない。そのタンカにふさわしいピッチングができたのは、秋風が吹くようになってからだ。
昭和六十二年九月二十日、広島市民球場での対広島戦、勝てば巨人優勝のマジックが点灯するという試合だった。その試合、僕は久しぶりに“江川卓”のピッチングに酔った。そして試合終了の瞬間、テレビを見ていた陽介は、畳にうつぶせになって、こぶしを握りしめていたのだそうだ。その後、自分の部屋に閉じ籠《こも》って、長いこと出てこなかったと、義兄から聞いた。
それは僕も、同じだった。
九回表の巨人の攻撃が終わったところで2対1と巨人がリード、その裏の二死一塁、法政の後輩でもある小早川君との勝負だった。
このとき僕は、ストレートで勝負するしかないと心に決めていた。七回裏、彼にカーブを右翼席に本塁打されていたから、というだけではなかった。
自分の球威が全盛期の勢いを失っていたとはいえ、近年で最高の出来。「あるべき姿の江川卓」すなわちストレートに賭《か》けてみよう、それが駄《だ》目《め》だったら、これで「おしまい」だと、僕は心に念じていた。小早川君も、僕がそんな最後の賭けをしているとは知るはずもない。試合を締めくくるピッチングとして、おそらく僕がストレートで勝負してくるものと読んでいるに違いない。読まれた上で、その読まれたストレートで勝負する。「あるべき姿の江川卓」の限界を測るには、願ってもない場面である。よし、賭けよう。
すべてストレートだった。一塁走者の高橋君(現阪神)が二盗を決め、カウントは2―2となる。そして勝負球の五球目。山倉はアウトローに構えたが、僕はインハイを狙《ねら》った。納得できる球だった。この日最高の百四十キロをマークした。しかし、僕は賭けに敗れた。小早川君の打球は逆転サヨナラ・ホームランとなって右翼席に消えた。
マウンドの上で、全身から力が抜けて行き、僕は立っていられなかった。しゃがみ込んだまま、十秒も二十秒も動けない。やはり通用しなかった。「あるべき姿の江川卓」は、もう自分でも手の届かぬ、遠いどこかに行ってしまった……。
確か、中畑さんや篠塚君に促されてベンチに向かって歩き始めたとき、帰りのバスに向かう王監督に「ごくろうさん……」と声をかけられた。目がしらが一気に熱くなったのは、この瞬間だった。マジックがともるか否《いな》かの大事な試合を任せてくれた監督の期待に、応《こた》えられなかった無念さももちろんのことながら、なんとも形容しがたい寂しさが、僕の胸をとらえていた。
人前で涙を見せたことなど一度もない僕だが、このときばかりはこらえ切れなかった。ベンチに戻《もど》って荷物を持ち、バスに乗り込むまでの間に何度、涙をぬぐったことだろう。次々と質問を浴びせかけてくる記者さんたちの質問にも、この日は何ひとつ答えられなかった。翌日涙のわけを彼らからかなりしつこく問われても、「そのうちに」と言葉を濁す以外になかった。自軍の優勝がかかったあんなときに、実は引退するかどうかを賭けた勝負に負けたので……などと口が裂けても言えない。
だいいち僕は、“お涙頂《ちよう》戴《だい》”的なことがどうにも苦手だし、テレ臭くてならない。
以前、テレビで甲子園に出場したある高校の野球チームを紹介しているのを見たとき、ベンチに入れるのが十五人に対し、そこの部員が十六人いて、そこでベンチ入りできなかった残りの一人にインタビューしていたが、その彼は「五十人部員がいれば三十五人はベンチからはみだす計算で、たまたまうちのチームは十六人だったから、僕が一人残ったまでのことですよ」とアッサリと答えた。
おそらくインタビュアーの狙いとしては、“お涙頂戴”の返事を期待していたのだろうが、むしろ本人はさばさばと割り切っていた。僕は彼のそんな考え方のほうに共感できる。感情に流されて涙を見せるなんて、やっぱり嫌《いや》だ。
ところがこの日、僕の感情は、僕の意志をずっと上回っていたらしい。宿舎に帰るバスのなかでは、さらに悲惨だった。バスの最後部に座るなり、ずっと下を向いたまま泣いていた。それも、バスに乗り込むまでのようなカワイイ(?)ものではなく、まさに泣き叫ぶといった感じで、エンエン泣いたのだ。
シーンと静まり返ったバスのなかで、僕の泣き叫ぶ声だけが響きわたっていたのだから、きっと異様な光景だっただろうと思う。なにしろとなりに誰《だれ》が座っていたのかすら、覚えてはいなかった。宿舎の自室に戻ってから、やっと涙が止まった次第で、要するに試合後二十分ほどは泣きっ放しだったわけだ。あの涙は、避けて通れぬ最後の通過儀礼だったのかもしれない。江川の野球は彼の副業だなどと言われたこともある。しかし、結局のところ野球中心の人生を送らざるを得なかった。小学校のときから着続けていたユニフォームを脱ぐ決断をした瞬間だ。平静を装うというのは無理な話である。
それにしても、自分の投手生命を賭けて投げたあの球が、セカンドとセンターの真ん中にポトリと落ちる同点のテキサス安打ではなく、ちゃんとドラマチックなサヨナラ・ホームランになってしまうところが、江川卓の野球人生にはふさわしかったような気もする。
ところで、あの生意気盛りの陽介が、僕が小早川君に打たれた日、涙を共有してくれていたとは、僕には、喜びと同時に、驚きだった。彼にとってその涙が、これから先の人生において、プラスに作用する涙になってくれれば、と願っている。
その後リーグ優勝を果たしてから、自宅の狭い庭で、ビールかけパーティを開いた。陽介・卓也コンビも呼んで、早、与、プロゴルファーの羽川君一家も一緒に、ビールをかけまくった。勝つことの喜びを、子供たちに少しでも分けてやりたいし、それを味わい覚えておいて欲しいという気持ちがあったからだ。
そして、引退記者会見の後、陽介・卓也が、手書きの「感謝状」をくれたというわけだ。これからどんな「仕事」をするのか、自分でも分からないが、かわいいオイたちのためにもがんばらなくてはなるまい。
どんな記念品よりも、この「感謝状」は嬉《うれ》しかった。だから今も宝物として、タク・コーナーに大事に飾ってある。陽介・卓也のふたり組は、僕にとって、よきライバルでもあるような気がする。男と男は、年齢に関係なく、お互いを磨《みが》き合うヤスリのようなものなのだと思う。
息子の与も男には違いないが、彼が男の勝負の世界である野球を、ちゃんと理解できるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。こいつは江川卓をキチンと発音できなくて、「エガワ・スムル」と言う。
「エガワ・スムルは、一番いいピッチャーなんだよ」
“学習”の成果があって、ここまでは言うのだが、あとがわかっちゃいない。
「でもね、投げる人より、打つ人の方がえらいんだよ。だから、エガワ・スムルより、“クロマキー”の方がえらいんだよ。“クロマキー”が一番強いんだ」
彼のまわらない口では、クロマティが“クロマキー”になってしまう。与が、昨年一番嬉しそうにしていたのは、後楽園でクロウと一緒に写真に収まった時だった。
与を野球選手にしたいとは思わないが、陽介・卓也の“アニキ”“オニイチャン”と一緒に草野球を楽しめるようにはなってほしい。野球がお前に教えてくれることは、決して小さくないはずだから……。
成金趣味の原体験
江川は“一流”志向の男である。別の角度から見れば“成金趣味”と言えなくもない。しかし普段の服装を見れば、これがどうも“オジン臭い”と一部ギャルの評判(?)である。彼女らによれば、年齢相応とはちょっと言い難《がた》いのだそうだ。江川卓は何《な》故《ぜ》“成金趣味”であり、何故“オジン臭い”のか? まずは衣食住の“衣”について、彼自身の徹底分析を聞いてみよう。
断言しよう。正真正銘、僕《ぼく》は“成金趣味”の持ち主である。なんであれ、“一流品”への憧《あこが》れは人一倍強いと思う。
何が、江川卓をそうさせたのか?
実は、大学四年のとき、僕が“成金趣味”を持つに至る、強烈な“原体験”とでも呼ぶべき出来事があった。
日米大学野球に出発する直前のことだった。法政の野球部の合宿所で渡米準備をしていた僕のところに、一本の電話がかかってきた。
「江川君ですか」
「はい」
「巨人軍の長嶋ですが」
「エッ?」
「長嶋です」
これには驚いた。一瞬耳を疑った。しかし受話器から聞こえてきた声は、それまでテレビを通してしか聞いたことがなかったものの、紛れもなくあのカン高い、長嶋さんの声だった。アメリカへ発《た》つ前に激励したいから、食事をしに来ないか、というお誘いの電話であった。
子供のころからの憧れの人にいきなり招待された形の僕は、翌日、天にものぼる心地で田園調布の長嶋邸を訪ねた。
部屋に通されてからも僕はあがりっぱなしで、このとき長嶋さんとどんな話をしたのか、ほとんど記憶にない。長嶋さんの言葉は僕の大きな耳を素通りして行ったのだろう。
憧れの人を前にして、僕は目をあげることも出来ず、うつむいてばかりいた。いきおい視線は長嶋さんの足《あし》許《もと》へ向くことになる。見るともなしに見つめていた長嶋さんの、まくれ上がったズボンの下に見える濃いブルーも鮮やかな靴《くつ》下《した》が、僕の“成金趣味”の原風景となった。
エンゼル・フィッシュのワンポイント・マークが付いたその靴下は、とにかく恰《かつ》好《こう》よかった。たとえこれが、別の靴下であったとしても、長嶋さんがはいてさえいれば僕には恰好よく見えたに違いない。だが、とにかくこのときは、エンゼル・フィッシュのマーク入りのその靴下にしたたかいかれてしまった。
この日合宿所に戻るとすぐに、当時すでに女《によう》房《ぼう》にするつもりでのつき合いが始まっていた正子に、僕は電話を入れた。急いでエンゼル・フィッシュの靴下をさがしてくれ、と。
ところがこれがなかなか見つからない。あっちにもない、こっちにもないで、結局十数軒めにまわった渋谷の東急本店でやっと見つけてきてくれた。
ゴルフ・クラブ“スリー・ハンドレッド”の靴下だった。一足千円!
せいぜい三足千円の靴下しかはいたことのなかった僕には、驚きだった。靴下にまでこんなに金をかけるとは……。長嶋さんと同じ靴下を手に入れたことが僕にはなんとも嬉《うれ》しくて、エンゼル・フィッシュの靴下をはいた僕は勇躍日米大学野球に出発したものだった。
たかが靴下、と言うなかれ。子供たちに夢を与えるプロ野球の選手、それも長嶋さんほどの大スターともなれば、そのたかが靴下までもが、衆目にさらされるのだ。ファンの視線が注がれるとき、たとえそれが江川卓たったひとりの視線である場合にも、頭の先から爪《つま》先《さき》まで、プロは常にファンの夢であり、憧れであり続けなければならない。それこそがプロだ。プロの美学だ。――長嶋邸への初めての訪問で、長嶋さんは無言のうちに、そう僕に教えてくれたように思う。こうして、この“原体験”が僕を“一流品”志向にしたのだ。
もうひとつ、あの日の長嶋体験について記しておきたい。すでに時効ということで、長嶋さんには公開をお許しいただこう。
長嶋邸を辞そうとする僕に、長嶋さんはポケットから無造作に取り出した封筒を差し出して言った。
「アメリカに行くとなにかと物入りだから、これ、持っていけよ。気持ちだから」
どうやらお小遣いらしい。出されたものをお断りするのはかえって失礼なので、有難く頂《ちよう》戴《だい》して帰った。合宿所の部屋で封筒を開いてみて、これも驚いた。額こそ申し上げないけれど、すべてドル紙幣だったのである。アメリカに渡る若き後輩にわざわざドルを用意してさり気なく渡すこの恰好よさ。僕はあらためて長嶋さんにいかれてしまった。
きっといつかは僕もプロの先輩として、後輩にこういう恰好のいい真《ま》似《ね》をしてみたいものだ、と思い続けていた。われながら江川卓という奴《やつ》はどこか幼児性が抜けきらない男だとつくづく思う。チャンスはちゃんとめぐってきた。
法政の後輩で阪神に入団した木戸君が、日米大学野球でアメリカに行くことになった。この時しかない、と僕は思った。出発前に食事でもどうだいと自宅に木戸君を招いた。
「アメリカに行くとなにかと物入りだから、これ、持っていけよ。気持ちだから」
そっくりあのときの長嶋さんの真似である。もちろん差し出した封筒の中身はすべてドルだ。さり気なく渡すはずが、僕のほうがドキドキしてならなかった。もちろんその場で開封するよう指示することも忘れなかった。でなければ、わざわざ自宅まで招いた甲《か》斐《い》がない。中身を覗《のぞ》き込む彼の姿に、僕は内心「やったーッ」と叫んだものだが、木戸君は悠《ゆう》然《ぜん》たるもので、
「ごっちゃんです」
とかなんとか、大して感激したようでもなく、それを持って帰っていった。やはりこの手の恰好よさは長嶋さんでないと似合わないもののようだ。ガッカリだった。
エンゼル・フィッシュの靴下に端を発した僕の“成金趣味”的上昇志向は、自分の可能性を高めたい、目標をもちたいといった思いと、表裏の関係にあったとも言えると思う。
日米大学野球の帰途、ロサンゼルスに寄った折、そのとき日本で買うよりかなり安い金ムクのオメガが目にとまった。安いといっても学生の身分には高額だったが、根は孝行息子の江川君のこと、親《おや》父《じ》への土産にひとつ買って帰ろうと決心した。エイヤッとばかり、日本で買えば十八万円くらいはしただろうそのオメガを小遣いをはたいて十万円で購入、大事にかかえるようにしてもち帰った。
ところがこのオメガ、親父の手に渡って間もなく、どうなだめすかそうともまったく動かなくなってしまった。何度修理に出してもラチがあかず、少々もて余した親父は、孝行息子(?)にその旨《むね》打ち明けるわけにもいかず、僕には内緒で正子に相談したらしい。そしてくだんの腕時計をつらつら眺《なが》めた正子は、吹き出しそうになるのをこらえながら、こう断じたそうだ。
「これ、オメガじゃないですよ。よく見て下さい。OMEGAじゃなくて、OMIGAとスペルをつづってあるでしょ。これはオメガじゃなくオミガです!」
“成金”といえども一日ではならず。“一流志向”と一口で言っても、そこに至る道は細く、狭かったのである。
僕のファッション(少なくともユニフォーム姿以外)が、ある女の子たちから“オジン臭い”と見られていたのは事実だし、それについて、弁解はしない。
僕は“マンシング・ウェア”という、例のペンギン・マークの服飾ブランドと契約を結んでいた。これは広告上の契約であって、普段はどんな服装でいても構わない。しかし、僕にはそれが出来ない。まあ床に就くときは別として、ちょっとそこいらへ散歩や買物にでるときであっても、誰《だれ》かよその人、僕を見てああ江川が歩いていると思う人が、あいつはペンギン・マークの広告に出ているくせに、ペンギンならぬオットセイ、あるいはセイウチなどのマークを胸に付けて出歩いているではないか、と指さされるのは潔《いさぎよ》しとしなかったのである。だからこれも、常にファンに見られているという長嶋さんの無言の教えの応用と言えるのかもしれないが、人目につく、もしくはカメラを向けられる可能性のある場所では、必ず“マンシング”を着ているように心がけたのである。
ワンポイント・マークの付いたゴルフ・ウェアがカジュアルとして大流行したのは、ある時期だけだったと思う。にもかかわらず、僕は送っていただいた“マンシング”を有難く着続けた。だから、流行に敏感な女の子たちから時代遅れと見られたり、“オジン臭い”と思われるのもまあ当然のことだろうけれど、僕にはこれでいいのである。
なにも“オジン臭い”からいいのではない。ネクタイの太い細い、スカートの長い短いをみても分かるように、流行とは常に繰り返すもの。それなら、自分が細いネクタイがいいと思い、ペンギンのワンポイント・マークがいいと思ったならば、それが今、はやりではなくなろうとも、ちっとも構わないではないか。流行を追いかけて汲《きゆう》々《きゆう》とすることはない。流行に対する僕のモットーは、あくまで平均、ノーマル、スタンダードなのであって、みんながやってるから、もしくはみんなが着ているから僕もするというのは大《だい》嫌《きら》いだ。
最近床屋さんに行くたび、江川さんももみあげを耳の上のところまでまっすぐに切り落としませんか、と言われる。それが最近の流行らしい。けれども尾崎紀世彦の唄《うた》が大ヒットしていたころは、もみあげを彼の真似をしてアゴのあたりまでのばすのが恰好いいとされていたではないか。流行なんてしょせんそんなものである。僕はいつも変わらず、二センチくらいもみあげを残して切ってもらうのがスタンダードだと思っている。“マンシング”は僕のそんなスタンダードにも、ちょうど合っていたのだ。
ところで、昭和六十三年三月で“マンシング”との契約が切れ、六月から“レノマ”との契約が始まったばかりだ。これからは皆さんと“レノマ”着用でお目にかかるわけだし、僕のスタンダードの枠《わく》を少しく拡《ひろ》げてみようとは思っている。
ワイン熱
江川卓の“一流”志向が最も特徴をもってあらわれるのはグルメ部門だろう。フランス料理とワインの話をさせれば際限がなくなり、
「ボルドーの赤ではシャトー・ラトゥールがいいかな」
「ブルゴーニュの白はモンラッシェだね。赤がおいしいのは七〇年と七五年だよ」
といった具合である。江川のこの手の知識は半端なものではない。ワインだけで、おそらく数百万円近くは費やしているだろう。
何《な》故《ぜ》ここまで、江川はグルメにこだわるのか? “食”についても単なる“ゼイタク病”では済まされぬ何かを、江川卓は抱いているように思われるのだが。
何故僕《ぼく》がフランス料理、ことにワインにこだわるのか。――これも“成金趣味”の一環とお考えいただいてもなんら差し支えない。とはいえ、僕なりにフランス料理通、ワイン通を志した理由がないではない。むしろこれは、長嶋体験よりも古い。
あれは高校三年の秋、慶応を受験しようと決めたときのことだった。ある方とお目にかかる目的で赤坂東急ホテルに僕は出向いた。
信じていただけないかもしれないが、それまで小山の実家から上京する機会はほとんどなかったと言っていい。恥ずかしながら、ホテルのエレベーターに乗るのも、このときが初めてだった。最上階のレストランで食事を、ということになって乗ったエレベーターにすえ付けられた鏡に、いがぐり頭で耳の大きな少年がおびえたような顔をして映っていたのがいまだに忘れられない。
そしてレストランに入ろうとした、まさにそのときだ。
「失礼ですが……」
ボーイさんに呼びとめられた。
「お客様、申し訳ありませんが、ネクタイ着用の方以外は、御遠慮いただいております」「そ、そうですか。こちらこそ申し訳ありません」
そう答えるのがやっとだった。いま思えばこのときはつめ襟《えり》の制服姿だったから、入るのを断わられる理由はなにもなかったと思う。しかしそう言われて高校生の僕は、ひたすら恥ずかしかった。で、この日はエレベーターを再び下って、服装にやかましくない地下のレストランに落ち着いた。
――俺《おれ》はまったくのところなにも知らんのだなあ。これではこの東京で生きていくこともむずかしい。
何も言わずに悔しさをバネにするのは、その当時からの僕の性格であった。これも悔しいことだったが慶応の受験に失敗、法政に入学してから、僕はファミリー・レストランに通いまくった。ここでフランス料理のイロハのイ、つまりナイフの使い方、動かし方から練習した。学生の身分でそうそう高級なフランス料理屋に行く機会もお金もなかったから、ファミリー・レストランである。正子とのつき合いが始まってからは、JALの国際線に乗務して食事のマナーにも慣れている彼女にもいっしょに通ってもらった。
こうして僕のグルメ修行はファミリー・レストランから始まったのである。
僕はプロ野球の世界に入り、おいしい物を多少なりとも味わえるようになって、フランス料理屋にも出入りしはじめると、ファミリー・レストランでは学びきれなかった壁につき当たることになった。
ワインが、ちんぷんかんぷんなのである。銀座のさるフランス料理屋でさっとワイン・リストを渡されて、脂《あぶら》汗《あせ》を流したことがあった。
「これになさっては、いかがですか」
ソムリエは親切で言ってくれているのだが、ファミリー・レストランでしか練習していないこちらにはどうしても劣等感があり、「あーあ、バカにされているな」と思ってしまう。
「クソッ見返してやるゾ!」
これが僕、江川卓のいいところでもあり、悪いところでもある。例によってムキになってしまうのだ。しかも一度ムキになると、これがなんともしつこいときている。
遠征先にもワイン関連の本を持参し、片端から読んでいった。ある程度ワインに関する知識が整理された段階で、それを実地に試してみる。自分でも自分がある種の偏執狂ではないか、と思うこともあるほど、それを徹底的に繰り返した。
まずは口当たりがよくて初心者にも手を出しやすい白から。ブルゴーニュの白を本と見《み》較《くら》べながら飲んでいった。ひと通りそれを終えると、今度は赤。赤はボルドーをできる限り試していった。世間は自分も含めて野球の選手を、物を知らぬ奴《やつ》らだとみなしている。世間のそんな偏見から、実質的なレベルで野球選手を脱出させたい。――とまあ、そんな気負った思いも僕の心のどこかにあったようだ。
白から赤にグレード・アップ(と言うのも、白は年代をとやかく言わない。種類を飲めばいつ出来たものでも同じなのだが、赤はデリケートな分だけそこに年代が加味され、その分、数をこなし味定めしなければならないというわけだ)して間もないころの話を、恥じかきついでに書いてしまおう。女《によう》房《ぼう》とふたりで、フランス・レストランN亭に行ったときのことだ。
ワイン・リストに、ある高級ワインの名前を見つけ、それを注文した。ところが、店の人は、
「実はこれは売り物ではないんです。三本ほど置いてあるきりでして……」
と、なかなか出してくれない。こうなるとこちらはなおさら飲んでみたくなる。どうにか頼み込んでついに一本出してきてもらった。
さすがに美味であった。豊潤ななかにもさわやかさがある、なんてことはその時とてもわからなかったが、女房とふたりで大満足だった。が、さてお勘定という段になって妙なことに気づいた。請求書のこのワインの金額の欄に、何度も書き直した跡があって、最終的には六万円、となっている。
僕は、うーん、とうなってしまった。確かにこれまで飲んできたワインのうちでは最高の味と額に属するが、それが問題だったのではない。「ひょっとして……」と僕は女房に耳うちした。
「俺が江川だってこと、分かったようだし、これはボラれたのかもしれないね」
「そんなことはないと思うけど……」
正子も半信半疑のまま首をひねっていたが、その場は請求書通りの金額を払って帰った。
「この間ひどい目にあっちゃったよ」
それからしばらくして、僕は店の名と飲んだワインの名前をあげてこのときの話をある友人にした。
「それで結局いくら取られたんだい?」
「六万円。何度も金額が書き直してあったんだぜ」
「……」
一瞬間の沈黙ののち、その友人は笑いながら言った。
「ロマネ・コンティをそういう店で飲めば、普通そんな額じゃあ済まないもんだよ。倍以上はするな。金額を書き直してあったということは、君が江川だと分かって、出血大サービスをしてくれたんじゃないのかい?」
「……」
今度は僕が黙り込む番だった。きっと僕の顔はロマネ・コンティよりずっと赤くなっていたに違いない。
N亭の御主人、ほんとうに御免なさい。気をつかっていただいたのに、なんとボラれたと思い込むなんて……。
無知がいかに恐しいものであるかを、あらためて僕は思い知らされたのだった。
田園調布に憧《あこが》れて
ここでクイズをひとつ――。
江川卓の本籍地は、いったいどこでしょうか?
A 彼の実家のある栃木県小山市。
B 生まれ育った静岡県佐久間町。
C 現住所の横浜市緑区霧ケ丘。
さて、正解は――実を言えばABCのいずれもハズレである。そこで、彼の運転免許証をちょっと拝借して、その“本籍地”の欄をのぞいてみると……意外や意外、東京都世田谷区玉川田園調布と記されてある。
それにしても何《な》故《ぜ》、本籍地が玉川田園調布なのか? WHYを連発させずには済まさない奴《やつ》なのだ、江川という男は。
それでは疑問にお答えして、“衣”と“食”につづく、“住”における僕《ぼく》の“成金趣味”を公開することにしよう。
僕の親《おや》父《じ》は四十歳にして、小山に持ち家を建てた。それなら俺《おれ》は、と、自分の親父に対して見《み》栄《え》を張ってみても仕方がないとは思うのだけれど(またその理由もおいおいお分かりいただけると思うが)、三十九歳までに必ず家を持とう、それも、親父が家を建てた土地より絶対にいい場所に、とプロに入った当初から心に決めていた。
だから、正子と結婚して、本格的に家捜しをはじめたときに、僕は迷うことなく、田園調布に的をしぼった。実利的な面から言えば巨人の多摩川グラウンドにも近いし、あの憧れの長嶋さんも豪邸をかまえている。なにしろ究極の高級住宅地だ、という頭が、僕にはあった。
僕の執念は実り、家捜しをはじめてからじきに、玉川田園調布にいい物件が見つかった。そして、2DKのそのマンションで新婚生活の第一歩を踏み出すと同時に、本籍もこの地に移した、という次第なのだ。徹底した“一流志向”の僕は、もちろん本籍地にいたるまで“一流”でなければ気が済まなかった、というわけだ。
と、ここまで江川の言をお読みになって、なにか釈然としないものを感じとられた読者諸兄も少なくないはずだ。長嶋茂雄氏が住み、江川が目標とした田園調布とは、詳しくその住所を記せば、東京都大田区田園調布である。なのに、江川が住み、本籍地としたのは、“田園調布”の四文字は同じでも、世田谷区玉川田園調布なのである。環状八号道路をはさんで両地は隣接してはいるものの、彼が住み、本籍地としたのはあくまで田園調布ならぬ玉川田園調布である。このあたりに、どうも江川らしい理由が隠されていそうな気がするが……。
僕がプロに入りたての頃《ころ》は、“一戸建て、ベンツ、ローレックス”が、プロ野球選手の三種の神器だった。人一倍見栄っぱりの僕は、巨人入団早々から、この三つだけは絶対に揃《そろ》えようと、かたく思ったわけだ。しかしながら、なにぶん経済力の限界というやつはどうしようもない。はじめからヤミクモに“最高峰”を目指すのはとうてい無理がある。だから、出来るところからひとつずつ、あせらずに実現していこうと僕なりの計画をたてた。
“衣”“食”の項でも紹介した通り、見栄や“一流志向”にまつわる失敗談は、自分でも笑わずにはいられないほど多い。田園調布ならぬ玉川田園調布に本籍地を移したことをも失敗談のひとつに数えるべきか否《いな》かは、読者のみなさんの判断にお任せしたいと思うが、確かに、いかにも僕らしいエピソードのひとつではある。
いざ、田園調布、と勇んで家捜しに出かけてみたものの、目の球がとび出るような値段の物件ばかりで、やはりふところ具合が許してくれない。なかなか思い通りの家が見当たらずにいたところへ、「田園調布に近い場所に、いい物件がある」という情報が入ってきた。さっそく見にいったのが、現在もわが本籍地となっている2DKの賃貸マンションだった。そこは、当時の僕の経済状態と、なんとか折合いをつけられそうな家賃ではあったし、地名を問えば、玉川田園調布だという。“田園調布”の四文字がありさえすれば、たとえ“玉川”と余計な二文字が付いていたっていいんじゃないの!? 結婚した思い出に今後一生住めないであろう(玉川)田園調布に住み、本籍も移そう。そう納得し、そこを新居と決めて一年半住んだ。田園調布願望もそれなりの満足を見たのであった。
こうして、笑い話みたいな失敗はいろいろあったけれど、現在は建て坪百二十坪の、理想だった東南角地の一戸建ての家もあり(土地を買った当初はカエルの声がやかましいくらいだったが)、ベンツは女《によう》房《ぼう》のと合わせて二台所有し、ローレックスだって持っていて(親父よ、あのOMIGAのときは御免なさい)、――つまり、三種の神器をなんとか揃えることが出来た。
“たかが靴《くつ》下《した》”にはじまって現在に至る僕の一途な“されど一流志向”は、ある面で、プロの意識、プロの美学と表裏の関係にあったのだということを、もう一度書いておくべきかも知れない。僕は、ファンである子供たちの夢に、僕なりの仕方であくまでこだわりたかったのだ。
聞くところによれば、最近の子供たちには、サッカーやラグビーのほうが野球より人気があるのだそうだ。調査結果でもそれは明らかにされているという。僕たちが子供だった頃を考えれば、まるで嘘《うそ》のような現象であり、野球が好きで、野球に打ち込んで来た人間のひとりとして、これほど寂しい話はない。
現役時代から、こうした野球衰退の危機感が、いつも僕についてまわっていた。労働組合・プロ野球選手会の会計を務めていたときにも、機構側との話し合いの席上、僭《せん》越《えつ》ながら「野球にかかわる者のすべてが危機意識を持って、人気の回復に当たるべきだ」などと、僕のそんな危機感を力説させていただいたこともあったくらいだ。
プロ野球が子供たちに夢を与え、「野球選手はすごい。僕も大きくなったらプロ野球選手になりたいな」というような憧れを、サッカーやラグビーに負けないで、子供たちに変わらず抱いてもらうためには、僕たちはいったい何をなすべきか?
もしプロ野球の選手が、誰《だれ》にでも容易に真《ま》似《ね》が出来、簡単に就ける職業だったとすれば、誰もなんの魅力も感じないだろう。そもそも、プロで野球選手がつとまること自体、ひとつの特異な才能だと思うし、球団はそんな才能、技術に対して、それに見合った報酬を支払うものでもある。才能、技術に見合う報酬を充分に頂《ちよう》戴《だい》していたか否かについてはかなりの疑問が残るけれど、それでもプロ野球選手たるもの、下手な生活ぶりをファンに見せるわけにはいかない。ある程度いいものを身につけいいものを食べ、いい家に住む。最低限そうした努力をしていなければ、誰もプロ野球選手に憧れてくれないのではないか。プロ野球衰退の危機を乗り越えるための手段として、僕自身が理想像に近くなりたいと、まあ恰《かつ》好《こう》をつけて言ってみると、そんなふうに考えていた。
だから、いま住んでいる横浜市緑区霧ケ丘の自宅を建築する際も、大いに見栄を張ったつもりだ。ヘリコプターで上空から撮影されても恥ずかしくないくらいに、外観には精一杯こだわった。屋根にはスペイン瓦《がわら》、それも、一度燃やしてちょっぴりくすませたベージュ色のやつをのせた。それと典型的な例は、駐車場だ。ベンツ級の大型外車が楽々三台は入るスペースをとり、床はコンクリートの打ちっぱなしではなく、タイルを全面に敷きつめた。それに気づいた人は、おや、こんなところにまでタイルが、と驚くというわけである。自慢ではないけれど、何かの折、外から何となく見えるであろう部分には、くまなく最大限の見栄を張ろうと考えた。
長嶋さんとの出会いの日の、あの無言の教えは、僕においてはこんな形で結実したと、言うべきかも知れない。プロならばいつでもどこでも誰かの目にさらされているのだということを、常に意識し、それにふさわしい姿を演じ、見せていなければならない。プロであれば少なくとも、それくらいの自覚は持ちつづけ、その自覚を反映させた形でプロを演じつづけなければならない、と僕は思う。
シラケ世代の仲間たち
本書を僕《ぼく》と共同で執筆してくれている三人の友人たちと僕とは、妙な縁がある。
日刊スポーツの玉置肇記者とスポーツニッポンの永瀬郷太郎記者は昭和三十年生まれ、そして朝日新聞の西村欣也記者は昭和三十一年の三月生まれだから、僕を含めて四人とも、学齢がいっしょなのである。
巨人担当記者である彼ら三人と僕は、文字通り四六時中行動を共にしてきた。多摩川での自主トレーニングから始まって、グァム・キャンプ、宮崎キャンプ、オープン戦、それに公式戦の遠征も含めると、一年の三分の二くらいにはなるだろう。女《によう》房《ぼう》・子供の顔を見て過ごした時間より、三人の変わりばえのしない顔を眺《なが》めて暮らした時間のほうがよっぽど長かったと言ってもいい。
引退してつくづく思うに、いい意味でも悪い意味でも、この三人が僕の感じ方や考え方を一番的確にとらえてくれていた連中だと思う。
同じ年に小学校にあがり、東京オリンピックを同じ三年生のときに迎えた、という具合に僕たち四人は、やや世代論めくけれども、同じ時代の空気の吸い方も、おそらく似通っていたに違いない。
そのうえ、彼らは三人揃《そろ》いも揃って早稲田の出身である。早稲田を出れば、商社や銀行にも就職できたことだろうに、あえてスポーツ記者という職業を選択し、それほど高くない(?)給料をもらいつつ、その代わり、書きたいことを書く。――そんなヘソ曲がりなところも、彼らと僕との共通項かも知れない。
ただし、人間同士のつき合いというやつは、同世代だから仲がよい、などと単純に言い切れるほど生半可な代《しろ》物《もの》ではないこともよく分かっている。なにしろヘソ曲がり四人衆のつき合いなのだから、時には真剣な正面衝突、バトル・ロイヤルとなることもある。でも、それが却《かえ》って友情を育《はぐく》んでくれることもあるから面《おも》白《しろ》い。
西村記者は報知新聞に入社し、その後朝日新聞に移った。彼が報知で巨人担当になったのは昭和五十五年、僕のプロ入り二年目の年からだった。彼は僕と同年であると聞かされていたので、親しくしたいな、という気持ちがこちらには漠《ばく》然《ぜん》とあった。ところが、西村記者はハナからケンカ腰なのだ。
「江川君」
「はい」
「取材じゃない話を、少ししてもいい?」
「いいですよ。いま暇ですから」
遠征先の広島から東京へ戻《もど》る新幹線のなかでの一幕だ。西村君のドングリ眼《まなこ》はつり上がっていた。
「僕が君と同期だというのは、知っているよね。君がプロ入りした年に、僕は報知に入った。実は、君の巨人軍入団が決定したのと、僕の報知新聞入社が決まったのも、ほぼ同じころなんだ」
「そう」
「そのとき、僕は報知へ行くのを辞めようと思った」
「どうして?」
「君の巨人への入団の仕方がフェアじゃなかったからだ。君も僕も法学部でしょ。あれは、少しでもリーガル・マインドを身につけた人間のやることじゃない。読売系列の会社に入るのが、僕は恥ずかしくなった」
「じゃあ、どうして入社して、ここにいるんですか?」
「君と、こうして話をしたかったからさ。江川卓とキチンと話をしてみたかったんだ」
まるで挑《ちよう》発《はつ》するかのような話しぶりだ。が、腹は立たなかった。むしろ嬉《うれ》しくさえあった。当時はまだ、僕とキチンと話をしないまま、紙面で“江川たたき”をしてくれる記者さんのほうが多かった。そのなかで、僕と社会人同期の彼が、僕と話をするために、あえて記者という職業を選び、ここまで来てくれたというのだから。
とはいえ、西村君はしつこかった。東京に着くまでの五時間、それじゃ分からない、これ以上はしゃべれない、というような議論を延々と繰り返したのである。
「君はドラフトで阪神に入団し、トレードで巨人に入った。だから、いまの君の存在そのものは認めよう。しかし、だ。“空白の一日”なんてものは、絶対に存在しやしない。君は大学で法律を学んだんだから、立法趣旨に立ちかえって考えてみれば、簡単に分かるはずだ。法の網の目をかいくぐったつもりかも知れないが、網の目は立法趣旨でカバーされているんだよ」
僕としてはできる限りおつき合いしたつもりである。しかし、こうも理詰めで何時間も攻められては……。法学部出身とはいっても、僕が大学に進んだ目的はあくまでも“野球”だ。悔しいながら、法律の知識では彼にかなわない。この日以降、西村君とのかみ合わない議論が頻《ひん》繁《ぱん》に続いた。
「これ以上話し合っても、お互い、分かり合えないかも知れないね」
ある日、僕は彼のドングリ眼を見つめながら言った。
「説明したくても、できないことが、僕にはある。あの件については、弁明しないまま墓のなかまで持っていかなくちゃならない部分がある。ただ、ひとつだけ、君に分かって欲しいと思うのは……」
「……」
ようやく黙って聞いてくれる西村君に、僕は言葉を選びながら続けた。
「例えば、列車が走っているとする。僕はそれに乗っているわけだ。気づいたときには猛スピードになっている。僕は飛び降りたい、と思う。だけど、それはできない。僕が飛び降りることで、大勢の人に迷惑をかけることになるから。そんな状況に置かれてしまうことが、この世の中にはある。でも、列車から飛び降りなかったのは、あくまで僕自身の責任だ。たとえ人に迷惑をかけ、そのために多くの犠牲を払うことになったとしても、そんなことお構いなしで飛び降りる“権利”は、僕には留保されてあったわけだからね」
「……」
西村君に納得してもらえたのかどうか、僕には自信がない。しかし、僕と「キチンと話を」するために記者となった彼への、これが僕にできる精一杯の答えだった。また彼も、その後は“空白の一日”について触れなくなった。もうあの話はしなくてもいいのか、とこちらから水を向けても、
「いいよ、もう。多分、実際のところは分かっちゃいないと思うけど、分かったような気にはなっている。世の中に、君が言ったようなことも、あるんだと思う」
ブスッとした顔のまま、首を横に振るのだった。
僕たち四人はお互いに理解し合っている、などと思い入れたっぷりのことは言いたくない。しかしながら、僕と彼ら三人の精神の振幅みたいなものがどこか似かよっていて、時として音《おん》叉《さ》のように響き合うことだけは確かだろう。
学生運動という高揚した時代の波に、僕らは乗りそびれた。言わば遅れてきた世代である。高校・大学の時期は“シラケ世代”という大きなカッコでくくられて過ごした。僕は野球に打ち込むことができたから、そのカッコからは多少はみ出しているかも知れないけれど、僕らの世代は、無気力・無関心・無感動・無責任の四無主義という言葉で呼ばれたものである。
そう言えば、西村君にはこんな風に言われたこともあった。
「君は、負のヒーローなんだ。“シラケ世代”の星なんだ。ガッツ・ポーズなんて君には似合わない。ポーカー・フェースの君がいい。大勝負を挑《いど》んで敗れたときの君は、なおさら素晴らしい。江川以前に、そんな選手はいなかったね。長嶋さんとも王さんとも違うやり方で、われわれの世代を、君は君の美学で輝かせてくれたんだ」
“江川の美学”なんぞと口はばったいことを意識したわけではないけれど、僕の心のどこかに、なるほど彼らと共有すべき“時代”がひそんでいるのだろう。だから、ケンカが却って僕らのつき合いを深めたし、野球を離れた今も、こうしていっしょに仕事ができる。早大同期のスポーツ記者三人組は、これからも僕の財産だと思っている。
江川のほうが、はるかに大人だった。私(西村)がいわゆる江川事件について青くさい法律論をふっかけても、ボクシングでいうスウェー・バックでかわされた。それも、けっして逃げ腰ではない。真正面から私の目を見すえて、こちらが繰り出すパンチを見切ってから、完《かん》璧《ぺき》にかわすのだ。ここでひとつ、昨年(昭和六十二年)八月のエピソードを紹介しておきたい。
例年報知新聞では、次年度用巨人軍選手のカレンダーの撮影を、八月ごろから開始する。写真部から依頼を受け、私は江川を訪ねた。
「いつものヤツ、頼むよ。桑田といっしょに撮りたいというのが、写真部の注文なんだ」
「……」
「どうしたの? 何かまずい?」
それに応じた江川の言葉はやわらかかったが、どういうわけか、彼は首をタテに振らなかった。
「いや、まずくはないんだけど、ほかの投手の手前もあるし、桑田とふたりで、というのは、どうかな。槙原や水野が、いい気持ちがしないんじゃないかな。だからさ、僕ひとりで撮ってよ」
「だけど、カメラマンが、どうしても桑田とふたりで、と言ってるんだけど……」
こんな分からずを言う男ではない。極めて珍しいことだ。さては桑田となにかあったかな……と、こちらの記者根性が頭をもたげそうになっているのを察したかのように、江川は笑った。
「また、つまらんことを考えてるんだろう。桑田を嫌《いや》がってるわけではないんだ。頼むから今回だけは、わがままを通させてくれよ」
結局この撮影は江川ひとりで行なわれたが、これが江川のやさしさであり、彼流の心づかいでもあったのだ。
この時期、江川はすでに引退を意識していた。シーズン・オフに引退を発表することになれば、次年度の巨人軍カレンダーに自分が顔を出しているのはおかしい。そこで、彼が引退を表明したときにいつでも“差し替え”が可能なようにと、自分ひとりでの撮影にこだわったのだった。“差し替え”の写真に桑田がいっしょに写っていては、彼にまで迷惑がかかってしまう、と桑田との撮影拒否は彼への心づかいでもあった。
「あれは引退のヒントだったね」
引退発表が終わってから、そう声をかけた私に、
「そんなことないよ。あのときは虫のいどころが悪かっただけだろ」
江川は笑って首を振ったものだが、ひとつだけ、江川らしい計算違いがあった。
江川が考えていたのよりも、カレンダーが印刷にまわされるのはずっと早くて、従って引退記者発表を終えてからでは“差し替え”がもう間に合わない状態であった。だから、八八年のジャイアンツ・カレンダーには、さびし気な笑いをほんの少し頬に浮かべた江川がひとりで登場していた。
そしてもうひとつ、予想外の出来事がその後おこった。
「江川さんがカレンダーに出てるって、本当ですか?」
次年度のカレンダーにはまだ江川の登場する月があるらしい、と聞きつけたファンからの問い合わせで、報知新聞出版局の電話は一時鳴りっぱなしであった。
そんな次第で、八八年のジャイアンツ・カレンダーは、過去最高の売り上げを記録することになった。
「エッそうなの。迷惑をかけることにはならなかったの」
自分の計算ミスでカレンダー作りに迷惑をかけた、と思い込み、気に病んでいただろう江川に、この朗報を伝えると、心から嬉しそうな顔をして、笑った。
僕《ぼく》の金銭感覚
「空白の一日」というスタートがスタートだったから、世間では“江川は厚顔無恥”というイメージが定着している。だが、我々が一歩でも江川との距離を縮め、ふところに入ってみると、驚くほど他人に気を遣う性質だということがわかる。
それは「少しでもダーティ・イメージを消し去りたい」という思いが原点になっているのかもしれないが、同じ“シラケ世代”の人間から見れば、彼は十分に義理堅い。
こんなエピソードがある。彼の現役最後の年のことである。我々番記者は個人的趣味はさておいて、常に江川に密着していなければならないという仕事上の使命があった。遠征先で江川がいつもお茶を飲む喫茶店は必ず調べていて、江川が顔を出しそうなときは、のぞくのが仕事だった。
いつも何人かの記者が集まって、お茶飲み会となる。話の内容はほとんど野球に関係ない雑談だ。だが、雑談の中に江川の思考法が垣《かい》間《ま》見えたり、またポロッと口をつく言葉に彼の野球眼や人生観を知るヒントがあるのだ。
そんな具合で番記者からすれば、江川とお茶を飲むことは取材の一環なのに、さて会計となると、必ず江川が伝票をつかむのである。
取材なのだから、江川に払わせるわけにはいかない。取材記者は取材対象に対して、守らなければならないスタンスというものがある。だが、我々が、
「きょうはオレたちにもたせてくれ。そうでないと困る」
といくら申し出ても、江川は首を振ってこういうのだ。
「いいよ。オレの方がみんなよりたくさん給料もらってるんだから。もしオレが将来メシが食えなくなったら、そのときメシを食わせてよ。こういう関係が三百六十五人と持てたら、一年に一人一回、それで生きていけるんだから」
こう言われると「ごちそうさま」と言うしかない。だが、おごられっぱなしで負い目を感じるのはイヤだ。そこで去年の誕生日。「どうせあいつは払わせないんだから、気持ちだけのお返しとして誕生日に何かプレゼントしよう」と相談した。
いつものメンバーが一人数千円ずつ出しあって買ったのがネクタイ。それを贈られて、江川は感激してくれたらしい。それぞれの自宅に正子夫人直筆の礼状が二日後に届いた。
仕事柄《がら》いろんなプロ野球選手とつきあっているが、ともすれば“ゴッチャン主義”に染まりがちな世界だ。そんな中で、江川は、いつも自分のお金を使い、さらに贈り物をされたりすると必ず礼状をよこす。そこに形式主義ではない人情を感じるのだ。
収入のケタが違うから、金の使い方は我々とは違う。でも金額ではない“気持ち”の部分では同等意識を持たせてくれる男なのである。
だから江川の金銭感覚に関して、世間で言う「ケチ」だとか「計算高い」というイメージは、僕らからすれば少しピントがずれている気がしてならない。
少なくとも現役時代、わが家の金庫にお金がジッとしていることはなかった。そこそこの収入が入ってきても、羽根が生えたようにすぐ出ていくのである。
もちろんすぐ出してしまうのは僕自身、“お金は使うために稼《かせ》ぐもの”という信念があるからいけない。
安定志向から貯蓄が美徳とされる世の中の傾向からすれば、僕のやり方は少々変わって見えるかもしれない。
何にそんなに使ってしまうかといえば、これまでに書いてきた“成金趣味”“一流志向”を満たすために消えることが多い。
これはおそらく「バカか」と思われるに違いない話だが、この際だから、江川卓の“趣味”を知ってもらう意味で書いておきたい。
七、八年前のことだ。シーズン・オフには何日でもゴルフ場に通うほどのゴルフ好き、もちろん道具にもこだわる。そこそこ一流のクラブをそろえていても、何か足りないなあ、と思いはじめた。
それは何か? そうだ、僕のオリジナルのクラブだ。世界中で江川しか持っていないというしろもの。“江川スペシャル”を持つしかないと、僕は考えた。
そこで思いついたのが純金パター。グリップからフェイスまでキンキンキラキラのゴールデンパターである。純金で作れば、ゴルフ道具としてだけでなく財産として残せる。
さっそく知人を通じて業者に注文を出したのだが、相手も困ったらしい。金というのは比重が大きい。どう設計しても重くて振れないのだ。数日後に「江川さん、やっぱり無理ですよ」という返事をいただいたが、それでひるんでは究極の“成金趣味”とは言えない。
じゃあ、と言って考えたのが純銀パター。金がダメなら銀で、という単純な発想だ。「銀じゃ作れませんかねえ」と聞いてみると「銀ならできるかも……」という返事、物事単純に考えればうまくいくこともあるものだ。
さらに数日後、僕のもとに待望の純銀パターが届けられた。ゴールドのことをまったくあきらめたわけじゃなく、背番号にちなんで「30」という数字だけ、純金をはめこんでもらったやつが……。
この純銀パターを手にしたときの快感たらありゃしない。これを持ってるのは世界でオレ一人という満足感、僕はニタニタしながらさっそくじゅうたんの上でボールを転がしてみた。
世の中、やはり試練の連続だ。純銀パターは重かった。自分の腕で操るというよりも、重さに振られてしまうのだ。結局一部をくり抜いてロウを埋めるという改良を加えて、ようやく陽《ひ》の目を見たという次第である。
“ほぼ”純銀のオリジナル・パター。今でも僕のゴルフバッグに入っている。もちろんこれで数々のバーディーパットを……。
「何だ、お前、それじゃあ“成ギン趣味”じゃないか」
と友人にからかわれながら、僕のかけがえのない宝物になっている。
こんな買物に加えて、衝動買いってやつも得意だ。遠征先で珍しいワインを見つけると一ダース、ちょいと気に入った陶器があるとセットで……。買うたびに女《によう》房《ぼう》に電話して「そのうち届くから」といって何度あきれられたことか。
グァムのキャンプ中には、女房にカシミヤのセーターを買ってやろうと店に行くと、七色もあってどれも甲乙つけがたい。いいや、いっそのこと全部買ってやれ、と七色のセーターを女房の目の前に広げたこともある。
ここまで書いたついでに、ほとんどビョーキみたいなクセも紹介しよう。今、僕のポケットに三十万円入っているとする。それでどこかへ出かける。すると僕は、帰るときはポケットをカラッポにしないと気がすまない。
別にほしいものがなくても、使い切るのが目的だから、目の前にネクタイがあればネクタイ、コップしかなければコップという具合に何でもかんでも買ってしまうのだ。
ひどいときは、女房にも押しつけた。まとまった金を渡して「これを全部使って来い。なくなるまで帰ってこなくていいからな」と命令したのだ。あのとき女房はきっちり使ってきたけど、何を買うかずいぶん苦労したらしい。
こんな調子だから、お金が貯《た》まるはずがない。もともと貯める気がないのだから当然だけど、不思議と“これ以上いくとマイナスになる”というときにはブレーキはかけた。だから、刹《せつ》那《な》的というのとは少し違うが、やはり普通ではない。
今思えば、こんなお金の使い方も、結局はストレスを発散するための手段だったんだな、という気がする。
登板するたびに極度の緊張状態に陥《おちい》り、試合になれば一球一球の駆け引きに神経をスリ減らす。野球を離れた部分では、思い切って現実から離れたい、という思いが、異常な買物に走らせたのだ。
それが証拠に、投手という職業のプレッシャーから解放された今、少しずつではあるがわが家の金庫にもお金の定着率が良くなっている。
また、金庫をカラッポにすることを野球の励みにした部分もある。お金が残ってないんだから、また稼ぐしかない。よりぜいたくをしたいから給料を下げるわけにもいかない。自分で自分の尻《しり》を叩《たた》いたわけだ。
ストレスの発散という意味では、現役時代、競馬も大いに役立ってくれた。登板と登板の間の日々、週末にある競馬の検討がいい気晴らしになってくれたのだ。
僕と競馬の出会いは大学入学直後にさかのぼる。野球部の合宿所で、先輩から「競馬新聞を買ってこい」と命令されたのが、そもそものスタートだ。体育会では先輩後輩の関係は絶対。「ハイ」といい返事をした僕は百円玉を一枚握って駅前の売店に走った。
あった、あった。薄っぺらで数字とカタカナが羅《ら》列《れつ》してある新聞。ヒョイと手に取って「おばちゃん、コレ」
と言って百円玉を差し出すと思いがけない返事が返ってきた。
「お客さん、これ二百円だよ」
驚いた。当時はスポーツ新聞が一部五十円だった。野球に加え芸能、釣り、艶《つや》っぽい小説、もちろん競馬欄もあるスポーツ紙が五十円なのに、薄っぺらで競馬のことしか載ってない新聞が二百円とは……。
僕は好奇心をそそられた。これはきっと何かある。何かなきゃあ、二百円もする新聞を誰《だれ》も買わない、すぐに僕は競馬に夢中になった。
データを分析してレースの行方を読む。マウンドでは自分しか頼れないという状況の中にいるが、馬に夢を託すってのもロマンがある。学生時代は大した小遣いも持ってなく、知れた金額で大レースだけ買うのがやっとだったが、懸命に分析した自分の読みが的中したときの快感ときたらなかった。
プロ入りして多少お金に余裕ができると、金額は多少大きくなったが、大きくなればなるほど検討の方も奥が深くなる。血統や距離の得手不得手、天候、パドックの鼻息、毛づやなど……。チェックポイントは数限りなくある。ものを見る目を養う点でためにもなったし、しばし野球を離れて没頭するにはもってこいだった。
さて、僕の“戦績”はというと、あまりはかばかしいとは言えない。かれこれ十三年もやってきているのに、未《いま》だに万馬券を取ったことがない。“素人《しろうと》”のはずの正子が二度も取ったことがあるというのに、である。
その原因はというと、僕のデータ重視主義にある。データを重んずれば、人気薄の馬券はあまり買えない。今までの最高は中京競馬の六千六十円。それもどしゃぶりの日に重が得意の二頭を買ってである。
正子の場合は“ゴロ合わせ”主義。二度の万馬券的中というのは、一度は僕の巨人一年目の合宿所の部屋番号四〇八号室から買ったC―G。もう一度は彼女の誕生日、四月三日で買ったB―C。つい最近もゴルフの帰りに「きょうは8が多かったからG―Gを買おうかな」と言って見事当ててしまった。
競馬というのはしょせんこんなものなのかもしれないが、夢の万馬券をもう少しのところで三度逃がしたことがある。毎回同じ轍《てつ》を踏んで……。
自信を持って軸になる馬を決め、その馬から総流しをしようといったんは思う。だが、いざ買うときになると、どうせ入りっこないからと超人気薄の馬を一枠《わく》か二枠はずす。ところがそんなときに限って、その人気薄の馬が頑《がん》張《ば》ってしまう。人気薄だから万馬券になるのに、こんな失敗を繰り返していたら一生万馬券とは縁がないかもしれない。
でもまあ、勝った負けたを繰り返しして競馬は面白《おもしろ》い。その趣味が嵩《こう》じて、去年、僕は共同馬主になった。部分的ではあるが、自分の馬がどんな風に成長していくか楽しみでならない。
できることならミスターシービーのようになってほしい。直線から後方一気のごぼう抜きをみせるかと思えば、こちらの期待を見事なまでに裏切って惨《ざん》敗《ぱい》することもある。ほら、どこか似てるでしょ、去年まで巨人で投げてたヤツに……。
株も競馬と共通点がある。一般紙が一ページ使ってでっかく載せる株式市況。知人に勧められたこともあるが、日本経済新聞も定期購読するようになった。
こちらは血統や毛づやではなく、判断材料は経済の動きや世界情勢。恥ずかしながら野球以外の知識には乏しかった僕も、多少は世の中のことがわかるようになった。
もちろん投資をしているのだから値の上がり下がりに一喜一憂はする。しかし、せっかちな性格な僕のこと、上がるともうこれがいっぱいじゃないかとすぐに売り、下がったときもしかり。大きな値動きのする前に買ったり売ったりするのだから、大きな得も大きな損もしない。もっとも、手放したあとにグングン高値を記録するようなときは、すごく損をした気分になるけれど。
株を始めてよかったと思うのは、先にも書いたが、政治や経済についての知識が増えたこと。巨人時代、巨人を支援してくださる財界人の方にお会いする機会がしばしばあったが、野球だけでなく経済の動きなどについても話題を展開できるようになった。もちろん僕が教えてもらうことばかり、それでも同じ話題の輪に加わるということはまた僕の“一流志向”を十分満たしていた。
競馬にしても株にしても、とかく僕の儲《もう》け主義に結びつけられる風潮がある。はっきり言って、金儲けには興味がある。でも、金を儲けたい一心で競馬や株に手を出していたのではない。
少なくとも現役時代の僕にとっては、競馬も株もストレス発散の一手段だった。なかには酒を飲みカラオケを歌ってストレスを発散する人もいる。人によって気晴らしの手段はさまざま。マージャンと言う人もいるし、読書という人もいる。
たまたま僕にとっては、お金を使うことや競馬や株を検討することだったのだ。だから僕は、競馬も株も、ストレスを解消し新しい気分で仕事に臨む手助けをしてくれたという点で、野球にプラスにこそなれ決してマイナスにはならなかったと断言できる。
プロであるからにはプロの職分をきちんとはたさなければお金をもらう資格はない、と常《つね》日《ひ》頃《ごろ》話していた江川にとって、現役引退後いちばんのニュースは、何と言っても、昭和六十二年度の長者番付で、スポーツ部門のナンバーワンに輝いたことではなかろうか。
まさか引退の年に、僕の納税額がスポーツ部門のトップになろうとは、夢にも思わなかった。
ともかく光栄なことには違いないが、それが引退の年の出来事というのは、皮肉な話である。僕自身がそうなればよい、ということではなく、野球界からもっと早く、スポーツ部門の長者番付のトップを飾る者が出てほしい、と僕は切に望んでいた。それは広く野球界のためになるはずだと考えていたからだ。
そもそも僕は、ファンの皆さんに夢を売る、というプロ野球選手の人気や社会への影響力を考えれば、その年俸がいかにも安すぎると思っていた。もう何年も前から、競輪の中野浩一君の年間賞金総額が一億円を超えていたのに比べ、わが野球界から一億円プレーヤーが誕生したのは、やっと昭和六十二年、落合さんと東尾さんのふたり、あまりに遅かったという気が、僕にはしてしまう。
スポーツ紙に載る野球選手の年俸の推定額は、ほぼ正確だが、例えば年俸が五千万円の選手の場合で、所得税と住民税を合わせて五十パーセントぐらいは持って行かれてしまい、手取りとなると、世間に知らされた年俸総額の半分も残るか残らないかというのが実情なのだ。
税金と言えば、昭和六十三年の二月二十四日に、僕は税制調査会の横浜公聴会に招かれて、意見を述べさせていただいた。何《な》故《ぜ》僕が、と当初は不思議に思ったが、さすが公聴会を実施される方々はお目が高い。というのも、実は僕には、税金にまつわる苦い経験があるからである。
入団一年目のことだった。契約金を使って世田谷区の深沢に土地を購入した僕のところに、とつぜん納税の請求が届いた。もちろん所得税の分はあらかじめ別に預金しておいたのだが、この納税請求、それとはどうも別ものらしい。いったい、これは何だ?
それは、予定納税という税金の請求であった。翌年分の所得を予測して払う、そんな税金があろうとは。どうしよう、土地を買っちゃって、もうお金はないし……。あわてて銀行から借金をして、その予定納税とやらをなんとか済ませたら、今度は土地購入のために組んだローンが払えなくなってしまい、泣く泣く、買ったばかりの土地を手放したという有様だった。そんな失敗談を混じえて、公聴会ではプロ野球選手の重税感についてお話しした。やはり一番受けたのが、ドジな話だった。
僕は財テクに長《た》けている、などと思われているようだが、しょせんはこの程度のものである。なるほど、初めにこんな失敗をしたからこそ、財テクに関する勉強にも励んだ、という部分が、あるにはあるが、財産を増やすのは正直言って楽じゃない。
野球選手の台所事情は、決して楽なものではない。と、そんな風に言うと、何を言うか、いくら税金でゴッソリ持っていかれても、一般市民に比べればかなり高額のお金が手《て》許《もと》に残るはずじゃないか、とおっしゃる向きもあるに違いない。でも、ファンの皆さんに夢を売り、その夢を壊さぬように努めるのがプロ野球選手の大事な仕事である。手取りがその半分以下であるとしても、新聞などに発表される年俸の額に見合った生活ぶりをファンの皆さんにお見せすべく、常日頃から、それ相応の見《み》栄《え》を極力張り続けなければならないのがプロ野球選手なのだ。土地の高騰《こうとう》もある。今では都内の一等地に家を建てられるプロ野球選手がいないのは寂しい。一億円でもまだ安い。早く二億円、いや三億円プレーヤーが出現することを後輩たちに期待したい。
解説者修行
江川が憧《あこが》れ、尊敬したあの長嶋茂雄のオーバーアクションは、自分がどういうアクションをとればファンにアピールするかを真剣に考えた上での、計算されたものだったという。
スポーツ選手が最終的に、勝敗にこだわるのは当たり前。しかし、それ以前にプロである以上、ファンを満足させるという大前提を忘れてはならない。そもそもファンあってこそ成り立つプロスポーツである。長嶋はまさにプロ中のプロであったと言える。
最近のプロ野球を見ていると、どうも勝敗のみにこだわりすぎるきらいがないでもないが、その意味では江川卓は、長嶋が去った後の球界で、「プロ」のパフォーマンスを意識した数少ないプレーヤーのひとりだった。
昨年(昭和六十二年)十一月二十五日、巨人では最後の公式行事となった熱海後楽園ホテルで催された納会でも、江川は現役の野球人としては最後の“プロ”を演じた。
納会慣例、退団者の胴上げの際には、当然のこと涙がつきものだ。江川につづいて引退を表明し、この日は彼の前にチームメイトから胴上げされた松本匡《ただ》史《し》も、感きわまって泣きくずれた。
しかし江川は……。五回宙に舞ったときも、着地したあとも、そして顔をくしゃくしゃにしたチームメイトに肩を抱かれ、握手を求められても、彼は最後まで笑顔を返したのである。
はたして江川は、あの巨人への惜別の場で、本当にそこまでクールでいられたのだろうか。答えは否《いな》である。小早川にサヨナラ・ホームランを浴びたあの日こそ、はからずも涙を流しはしたが、彼は最後まで、「涙は似合わない」という“江川卓”のイメージを壊さぬよう、演じ切ったのだ。
それが証拠に、納会から退席する途中、江川はエレベーターに乗り合わせた西村記者の耳元でこう囁《ささや》いた。
「最後までちゃんと、江川卓だっただろ」
自らのブランド・イメージへの強いこだわり――。彼の引退そのものが、実はそれを抜きにしては考えられない。
十三勝五敗という、好成績を残したシーズンでの幕引きは、球界に大きなショックを与え、それは入団時の経《いき》緯《さつ》同様、「どうして?」という不可解さを残したのは言うまでもない。
江川は引退記者会見で「肩の限界」にまつわる例の中国鍼《ばり》治療にふれ、
「そこ(肩《けん》甲《こう》骨《こつ》の裏)に鍼を打ってしまえば、今年で終わってしまう」
と“禁断のツボ”が引退の直接の原因であるかのように表現した。その後、そんなツボがはたして存在するものかと問題にもされたが、これは独白会見の異様なムードに江川自身が酔い、ことさらドラマチックに脚色してしまったふしがある。いやむしろ言葉が足りなかったと言った方が適切であろう。
江川の言う「肩の限界」とは、ただ単純にボールを投げられなくなった、ということを意味するものではない。もし十分な休養と治療を施せば、あと一年現役を続けても、まだ十勝くらいはできたに違いない。しかしながら彼の言おうとした限界とは、もう“江川卓ブランド”を満たす、つまりファンの期待に応《こた》えうるボールは投げられないほどに悪化した、という意味だったのではないか。
「もう“江川卓”のピッチングをファンにお見せすることができない」
そう心に決めてユニフォームを脱いだ彼は今後、どんな新しいブランドを求めていくのだろうか。
がんらい欲張りな性格の僕《ぼく》は、プロに入る前から、
「人生、野球だけで終わりたくはない」
という頭があった。
やっぱりアメリカかぶれじゃないかと思われるのはいやだが、アメリカにおけるプロスポーツのありかたには、ある種の憧れがあった。
フットボール、野球、バスケットボールがアメリカで人気を分けあっている三大プロスポーツだが、わが国のプロスポーツと決定的に違うところは、このうちふたつの競技にまたがって活躍するプレーヤーが存在することだ。
ゲームの行なわれるシーズンが違い、ふたつの競技をかけもちする大学生の選手がざらにいる。そして野球とバスケットボール、あるいは野球とフットボールなどという具合に両立させて、ふたつのプロスポーツからドラフト一位で指名される学生も少なくないのである。
たいていの場合は、そのうちどちらかひとつを選択することになるが、なかにはロイヤルズのボー・ジャクソンのように、野球のオフ・シーズンにはフットボールでもファンを沸かせるという、みごとにふたつのスポーツを両立させているプロ選手がいる。
実は僕も、正直いえばこういう真《ま》似《ね》をしてみたかった。
この日本で野球を除くプロスポーツはと見渡せば、大相撲、ゴルフ、ボクシング、テニス……。野球ともうひとつは何かと考えると、「お前は大相撲が似合うんじゃないの」なんて声がどこからか聞こえてきそうだが、もうひとつの“プロ”は、別にスポーツである必要はない。
たとえば野球のオフに、ミュージシャンとして活躍したり、弁護士業に精を出す大リーガーだっている。僕はとにかく、野球だけしか知らないような人生にはしたくなかった、というわけなのである。
でも、あくまでままならないのが現実だ。野球をやっている間は、やれ大相撲だ、それミュージシャンだのの騒ぎどころではなく、とにかく野球だけでもう精一杯だった。年明けには自主トレが始まり、シーズンが終わるのは十月、日本シリーズに出れば十一月。それに続く短いオフは、のんびり体を休めるのも仕事のうちだから、野球以外のものに打ち込む余裕などは、まずなかったと言っていい。
そんなこと言うけど、株や副業にけっこう励んでいたじゃないかと言われる方も多いと思う。
確かに株や副業もしたことはした。しかし、「この副業こそが僕のもうひとつのプロです」と、胸を張れるような代《しろ》物《もの》は、残念ながら、本当はひとつもありはしなかった。
正子が社長になっている「江川企画」で、旅行代理業や保険代理業務を手がけたこともあった。特に旅行代理業のほうは、綿密な計画を立てて旅のあれこれを考えるのが大好きな僕にとっては、とても楽しみな仕事ではあったのだが、いざ蓋《ふた》を開けてみれば、僕自身が実際にたずさわる余裕はまったくなく、結局人まかせのまま。赤字にはならなかったものの、もうかりもせず、早々に手をひいた。また例のレストラン『きりんこ』にしても、僕の副業とはおよそ言い難《がた》い。
「この近くで何か、みんなで集まることのできる店でもやってみたいものだね」
そんな話を隣組の黒沢久雄さんや羽川豊君としているところへ、たまたま巨人のバッティング投手をしていた黒沢修君から、
「このごろバッティング投手としての自分自身の将来に不安を感じているんです。ついては食べ物屋かなにかに転業できればと考えているんですが……」
と相談を受けて、「そういうことなら、あの話を実現させてみようか」ということになり、四人がひとり百万円ずつ出資して開いたのが『きりんこ』なのである。
そんな経緯があって始めた店だから、運営はすべて黒沢君に任せている。彼のためには今後ともバックアップを惜しまないつもりだけど、この自宅に近い、友人たちとの楽しい集いの場を、自分の事業の一環であるとはまったく考えていない。
つまるところ、現役時代の僕は、たとえ野球とは別のことに手を出してみたとしても、それが、自分にとって未知の分野に関するいい勉強にはなったが、野球に負けない、ふたつめの分野での“プロ”と誇り得るレベルには、何ひとつ届いていないのだ。
そして今、このように野球オンリーで生きて来ざるを得なかった男が、ユニフォームを脱いだという次第である。「巨人軍の」という、それは大きな肩書きのはずれたただの江川卓が、妻子をかかえて不安のないはずがあろうか。が、もともと野球以外にもうひとつのプロを、と願っていた僕のことである。好奇心も相変わらず旺《おう》盛《せい》だ。いくらなんでも相撲やミュージシャンというわけには行かないだろうけど、いろんな可能性にひるまずチャレンジして行きたいと思っている。
大きく分けて、僕は「巨人軍の」がとれた後の江川卓の人生を、とりあえず二本立てで考えている。そのうち一本は、九年間お世話になり続けたプロ野球界への、僕に可能な形での恩返し、つまり野球解説者としての仕事であり、もう一本はもちろん、野球に関《かか》わらない分野で新たなプロを発見する作業である。前者についてはすでにギャラを頂《ちよう》戴《だい》して解説者席に座っている以上、プロの解説をさせてもらっているつもりだ。
実は野球解説について、僕はまことにいい先生に恵まれていた。
プロ野球において、一軍登録枠《わく》は二十八人で、そのうちベンチ入りできるのが二十五人と決まっている。はみ出す三人はたいてい、その日登板予定のない先発ローテーション投手ということになり、むろん僕にも“あがり”と呼ばれるベンチに入らなくてもいい日があった。
“あがり”の日には試合前の練習だけ参加し、後は帰宅が許されるのだが、後楽園と神宮で“あがり”になった場合、そのまま都内の女《によう》房《ぼう》の実家へ赴くことが多かった。当然チームは試合をしているのだから、いつも野球好きのお義《か》母《あ》さんとふたりで、テレビ観戦ということになる。
このテレビ桟《さ》敷《じき》で、お義母さんが実に素《そ》朴《ぼく》な質問を投げかけてくる。例えば、こんな具合に……。
「あれあれ、どうしてこのバッターはあんなワンバウンドのボールを振っちゃうんだろうねえ」
ところがこれが、僕にとっては不思議でもなんでもない。お義母さんがこんな疑問を発する場合、たいていフォーク・ボールなのであって、打者ははなからワンバウンドになると分かるようなボール球に手を出しているわけではない。ストライクに来た球を打とうとしたつもりなのに、手元で鋭く落ちたボールが、ワンバウンドになってしまった、というだけの話なのだ。なんとまあ、ふがいない打者だこと、とお義母さんには見えるのだろうけれど、僕に言わせれば、みごとなフォーク・ボールを投げたピッチャーの方が偉い。また、
「なんで、あんなボールを投げちゃったのかしらねえ」
と、ホームランを浴びた投手のピッチングにお義母さんが首をかしげることもあった。僕の見るところ、外角を狙《ねら》ったボールがコントロールミスで真ん中に入ってしまった、というケースもあったし、そこに至る配球に伏線があって、投手が「この球は打てないだろう」とふんだ球が、それこそは打者が狙っていた球だった、といった場合もある。プレーする僕らにとってはごく当たり前のことが、お義母さんには不思議でならなかったりするのである。
「それはねえ、お義母さん……」
お義母さんイコールごくごく一般的な野球ファンだ。僕はテレビ観戦をしながらのこうした“解説”を通じて、ハハンと思ったものだ。テレビを観《み》ている大多数は、プロ野球経験者ではない。素《しろ》人《うと》のファンの素朴な疑問をわかりやすく説明するのが解説者なんだ。こうして僕は、“あがり”のおかげもあって現役のころから、すでに野球解説者としての訓練を、ほどこされていたという次第なのである。
だから僕の野球解説は、「わかりやすく」が基本だ。ファンの皆さんが今までとは少しでも違った角度から野球を楽しめるよう、その手助けができれば本望だ。
もともとおしゃべりは好きな質《たち》だが、しゃべるのが職業の解説者であるからには、僕の思ったまま感じたままを皆さんにお伝えできるよう心がけている。ここが、思ったまま感じたままを相手に気どられてはならぬ投手時代とは、同じプロであってもまったく異なるところだ。
僕にとって解説者デビューとなった東京ドームでの巨人―ヤクルトの開幕戦で、先発した桑田君が七回、2対2の同点の場面で交代させられたとき、「納得できませんねえ」と率直に言ったつもりが、「江川って、けっこうズバズバ言うんだね」との感想を頂戴した。
開幕投手を何度か務めた経験からして、あのときの桑田君の心理は、僕にもわかるのだ。開幕投手を任された限りは、ああいった場面で交代させられるのは「納得いかない」だろうから、桑田君の気持ちになって、ああ言ったのである。
なのに僕のこの日の解説はたちまち、一部マスコミに「江川、王采《さい》配《はい》批判」と取り上げられた。しかしこれは、批判ではない。王監督の立場に立てば、その日ツキのない桑田君の代え時と判断したに違いないのだ。選手が上司である監督の命令に従うのは当然だ。僕も現役時代そうしてきたつもりである。「納得できない」と言うのはあくまで、開幕投手に指名された桑田君のそのときの気持ちを代弁したのである。解説者になった以上、これからも見たこと感じたことを、ときには監督、コーチの意を汲《く》み、またときには選手の気持ちになって、きちんと話していきたいと考えている。
さて、野球解説ではないもう一本の柱は、というと、これはまだ具体的にはお話しできる段階ではない。こちらの方は今やっと自主トレに入ったばかり、というところだ。
エピローグ
江川のいう「もうひとつのプロ」として現時点で一番可能性が高いと思われるのが実業家への転身である。すでに、六十五年オープンする東京ベイホテル東急の役員に名を連らねている。
まだ、実業家としてのほんの足がかりをつかみ、修行に入ったばかりの段階ではあるが、江川のセンスがホテル経営にどう生かされるか、興味をそそられはする。
しかし、である。江川ウォッチャーである我々にとって、彼が実業家として成功するかどうかに、さほど心を動かされることはあるまい。
多くのファンの人《ひと》達《たち》も思いは同じだと思うが、我々は“野球人・江川卓”に魅せられ、あるいは、好き嫌《きら》いを超えた関心を引きつけられてきたのである。
江川はプレーヤーとしてありあまる才能に恵まれながら、常に“怪物ならではの悲劇”につきまとわれてきた。その才能のすごさゆえに、自分の意志とは別の次元で、多くの人物の思惑に流されてきた。慶応受験失敗や「空白の一日」が代表的な例である。
おかげで世間から袋《ふくろ》叩《だた》きにあいながら、江川はプロのマウンドで、その才能を開花させたのだ。
花の命は短くて……、才能の大きさからすれば、九年間の現役生活はあまりにも短かった。彼がその特異な体験の中から培《つちか》ってきた“美学”が早すぎると思える引退に導いたのではあるが、このまま“野球人”としての幕を引いてしまうのではあまりにも寂しい。
彼の人生だから、彼の好きなように生きればいい。実業家として成功すれば拍手もしよう。しかし、彼の快速球にふれたときの驚き、真っ向勝負でKOされたときの痛快さのようには、我々を興奮させてくれることはないに違いない。
現役通算百三十五勝のピッチャーだ。“たかが”江川である。だが、常に真っ向勝負を挑《いど》む潔《いさぎよ》さ。抑えても打たれても痛快、おまけに饒《じよう》舌《ぜつ》で、いつもファンをあきさせなかったというような選手は他《ほか》にいない。“されど”江川である。
我々は“されど”の部分にこだわりたい。もちろん、野球人としての。今すぐにとは言わない。もう一度ユニフォームを着てほしい、監督として。
もう一度“江川の野球”で、笑ったり、おこったりしたいのである。
ゲーム・セット。
楽なゲームではなかった。マウンドに立ち、ボールに気持ちを伝えることには慣れていても、ペンにすべてを託すのは、簡単な作業ではなかった。
僕の体をいま包んでいるのは、どうにか完投できた満足感と、ペンを置いた後のわずかな虚脱感だ。
“空白の一日”から始まった、プロ野球人生。これまで語らなかったこと、語れなかったことも、全力投球で書いたつもりだ。
試合の勝負のことやその前後のことを妻や仲間と一緒に思い出しながら、心の奥底から、わき上がってくる感情があった。それは、たまらなく野球を愛する気持ちだ。
生きていることの楽しさ。誇り。苦さ。せつなさ。百八個の縫い目があるあのボールに、すべてが、つめこまれていた。
そんな野球が本気で好きだから、“空白の一日”騒動にも耐えられたのだと思う。
そして、野球が好きでたまらないから、ボールを静かに置く決意もした。もう江川卓のボールを投げられなくなったから。人生を伝えるボールを投げられなくなったから。
将来、グラウンドにもどる気はないのか、と問われることがある。少なくとも現在、僕は、答える言葉を持っていない。それは、いつの日か、もしそのような声をかけていただくことがあれば、その時真剣に考えればよいことであろう。
ただ、繰り返すが、本当に野球が好きだ。野球を通じて学んだものを土台に、これからもっともっと、人間としての器量を大きくしていかなければ、と思う。
現在の僕の器は、言うならばまだまだ小さなお猪《ちよ》口《こ》みたいなものだ。
器を大きくしたい。
新たな戦いのプレイ・ボールを告げる声が、いま、聞こえる。
延長戦 「たかが、されど」再び
三年たって
永瀬 この本が出て、もう三年たっているんだよね。
江川 今度ていねいに読み返してみたんだけど、書いておいて本当によかったと思う。この四人で仕上げた本だから、僕《ぼく》一人でよかったと言ってしまうとおかしいけどね。
永瀬 今になって現役時代を振り返って書くのでなくて、あのときにあのタイミングで書いたのもよかったな。
江川 ひとつの締め括《くく》りの意味もあるけれども、野球をやめてこれから自分がどういう方向へ行くのかわからない時点で書いたでしょう。人生の転機というのはいっぱいあるけれども、そのなかでもあそこは大きい節目だったな。
西村 そこまでを、一回きちんと振り返って総括して、そこから一歩踏み出すという時期だったわけだ。
玉置 僕は“現役”江川卓の晩年しか見ていないけど、永瀬、西村はその全盛期を知っている。この本を書くにあたって三者三様の「江川像」みたいなものがあったわけで、それをひとつのものにまとめあげる機会を持てたのはよかったと思う。江川に関する主観と客観、思い込みと言いたい放題がないまぜになって、より現実に近い「江川像」がこの本で書けたのではないだろうか。
江川 本を読んだ人からいろいろ感想を聞いたけれども、いちばん多かったのは例のドラフトのことが中途半端だということだった。でも改めて読んでみると、決して中途半端ではないと思うんだ。知らないことはやはりいい加減に書くべきではないと思う。パズルという言葉を使ったけれど、実際亡くなってしまった人もいるし。
西村 ジグソーパズルのピースが欠けたという言い方をしているけど、自分の持っているピースはすべて見せたわけだ。
江川 そう思うんだけどね。
西村 いまだに各方面でいろいろ書かれているけど、われわれのように一記者として、読者として江川卓を見ている人間にとっては、江川というのは本当におもしろいというか、いっぱい機能のある高級なおもちゃだという気がするんだ。去年野《の》茂《も》(近鉄)が出てきたでしょう。ひさしぶりに凄《すご》い選手が出てきたと思う。でも、楽しみ方の機能が少ないよね。たくさん三振をとる。凄い。でもそれだけなわけだよ。その点江川卓というのは勝って叩《たた》かれ、負けて絵になり、引退して実業家になってもああだこうだ言われ、本人は嫌《いや》かもしれないけど見ている者にとっては本当に多機能で高級なおもちゃだという気がする。
江川 最近女房と酒飲んだりカラオケやったりすることがふえたんだけど、そうしたらあいつが、僕はカラオケにせよ酒を飲むにせよ何事につけても醒《さ》めた部分があると言うんだ。で、野球もそうだったんじゃないかって。そんなことを言われたのは結婚十年目にして初めてだよ。たしかにどこか醒めた自分が別の自分を見ているみたいなところはあるような気がする。自分でそう思うくらいだから、第三者からみれば江川卓は楽しめるおもちゃなのかも知れないな。
玉置 物事に対して醒めているところはあるね。好奇心が昔からとても旺《おう》盛《せい》でしょう。たとえば株のことにしても、いったいどういう仕組みになっているんだということで自分で研究したことがあったじゃないか。野球選手のなかでは異質の、日本経済新聞を読み、株ブームの先駆みたいなことをやっていた。先を読む力は十分あると思うし、興味の対象も多岐におよんでいると思うんだ。反面、わかってしまうともうそれまでというか、そのへんが醒めているととられる原因じゃないかという気はするけどね。
江川 自分では意識してはいないんだけれど、考えていることが今ある状況より先へ行ってしまっているような気がして仕方ないんだよ。ドラフトにしても今では逆指名が当然のことのようになってきたし、年《ねん》俸《ぽう》のことだって平気でお金のことを言うようになったしね。当時江川は変わっているといわれたけど、今になってみると少しもそうじゃないという気がするんだ。
西村 「銭闘」なんて言葉を使ったのは初めての契約更改からだし……。
永瀬 おやじさんがカラーテレビやビデオの誕生を予見したみたいな……。
江川 そういう血を受け継いでいるのかもしれないな。
されど、されど江川
西村 今は実業家(現在第一不動産取締役)としての道を進んでいるわけだね。この本を書いた時点と三年後の今と比べてずいぶん遠くまで来たという気はする?
江川 野球で育ってきたから、野球だけは捨てきれないという気はするね。だからどんなビジネスをしようが野球解説は続けたいと思う。でも、現時点ではビジネスの比重が少しずつ高くなってはきているね。最近わかってきたのは、仕事を自分のところに止めてはいけないということ。ピッチャーの場合は打たれれば自分の責任だけれども、今の仕事ではハンコ一つのことでも流れが自分のところで止まってしまったら次の人が困るんだ。だから時間があるたびに、たとえ五分でも十分でもいいから会社へ行ってなんとか仕事を回さなきゃという気持ちになるね。上司に見せるためじゃなくて、次の人に回してあげなきゃすまないという、仕事がたまれば人が困るんだからという気持ちでね。
永瀬 そういう考え方、気配りというのかな、現役時代からあったよ。おれがいちばん物足りなかったのは、もうちょっと「おれがおれが」「おれしかいないんだ」という感じでやって欲しかった。食い足りなさというか、それは裏返しの魅力でもあるんだが……。
江川 現役当時の僕が、ローテーションを中四日とか五日にすべきだと言ったのは永瀬の言う「おれしかいない」の部分だったと思うよ。
永瀬 それが手抜きとか登板拒否だとか当時は言われたわけだ。でも結局振り返れば、六大学で四十八勝の記録を破っておけばよかったのよ。
江川 破ってたらその後の人生も変わっていただろうな。
永瀬 金田(正一)さんにしたって鈴木(啓示)さんにしたって、三百勝も四百勝もしている人はみんな我が強いじゃないか。
西村 江川卓は、人の記憶には残る選手だけど記録にはあまり縁がないんだよな。
江川 だけど与えられた登板数で四十七勝しかできなかったんだから仕方ないというのが僕の考えなんだよ。それを無理して、自分が人を押し退《の》けて五十勝するくらいだったら、その間十三敗しているんだから十敗にしておけば五十勝できたわけでしょう。だから記録を破れなかったのは自分が悪いという考え方なんだ。たとえば中四日か五日で三十三回という登板回数が年間与えられたら、本当に力があれば三十勝三敗できるわけ。それが二十勝しかできないのは自分の能力が足りないということなんだよ。
玉置 高校時代からスター扱いされたものだから、周りのチームメイトに対する気兼ねや遠慮があって、野球はチームワークのスポーツなんだから自分だけが目立つことによって和を乱しちゃいけないという思いがすごく強いと思うのね。そういう環境から、本当はもっとはしゃぎたいんだけどそうできないみたいな感じになって、今のような考え方に繋《つな》がっているんじゃないかな。最後の甲子園での雨の中の押し出しのフォアボールの前、みんながお前の一番いい球で行けと言ってくれたときのこともそうだし。
西村 六大学時代控えの槍《やり》田《た》に譲った試合もそうだし、会社へ行かないで書類がたまっちゃって次の人に迷惑がかかっちゃいけないというのも一緒だよね。根本のところでは全然変わってない。
永瀬 だけど甲子園の雨の中のあの話は、すごく悲しいな。そこまで仲間意識が持てなかったのか。おれたちはみんな同い歳だけど、高校時代にはさんざん遊んでいて、そんなことは想像がつかなかった。やはり野球選手としての江川が抜きんでていたからなんだろうけど、あのときチームメイトに強烈な素質を持ったちょっと悪いやつが一人二人いたら大分救われたんじゃないかとも思うんだ。
江川 あのときの「よかったな」「みんなでやったんだ」って気持ちを一回だけ覆《くつがえ》した時があったわけだよ。日本シリーズのピッチャー・フライがあがったときに、そういう人間ならファーストかサードに取らせるわけさ。それをあの瞬間だけは、一生に一回、ここしかないと思ったわけ。神様がくれたピッチャー・フライ。三振でもサード・ゴロでもない。自分のところで終わる。他の人間には絶対取らせまいと思った。取った瞬間は、今までの人生をずっと振り返って、結婚したときも子供が生まれたときも全部含めても、たぶんいちばんいい顔をしていたと思う。前にも言ったかもしれないけれど、笑った瞬間に歯茎までむけたという記憶があるんだ。あの瞬間だけは別人になったような気がした。
西村 でもプロの選手としてはそれが普通なんだけどね。
玉置 勝負師というのはね。
永瀬 江川卓は絶対勝負師じゃない。
西村 だからこの世界に向いてないなという話をよくしたな。
永瀬 物を知ろうという欲はあるからある程度まではやるし、それで人よりはるかに抜きんでているんだけど、最後の最後の勝負というのができないんだ。要するにワルじゃないんだよ。世間じゃワルだって言われているけどね。
江川 世間で言われているんじゃないよ。自分たちが書いてるんじゃないか(笑)。
永瀬 そうだっけ。昔の話だから忘れちゃったよ(笑)。
江川監督待望論
江川 だけど、例えば野球で何百勝するのも立派、年間二十勝するのも立派なんだよ。立派なんだけれども、いつも考えるのはそれが人間のすべてかということなんだ。立派なことと、人間としてそれがすべてかということと、決してイコールではないような気がするんだ。
永瀬 ずっとバランスを考えてやってきているんだよ。普通凄いやつというのはバランス感覚なんか全然なくて、長嶋さんが子供を忘れて球場に置き去りにして帰っちゃった話は有名だけど、そのたぐいのことになるんで、バランスというのは後でとっていくものなんだ。江川卓の場合は若いときからバランス感覚がしっかりしていた。それでいてあれだけ騒がれたというのは素質があったからこそで、普通これだけのバランス感覚を持っているやつは小ぢんまりまとまっちゃうはずなんだけどね。野球をやめたあとずっと見ていても、江川卓と感覚が似ているという人はあまりいないでしょう。人によっては桑田(巨人)と対比するけどそれは不動産関係とか表面上のことだけで本質的に全然違う。
西村 取材する側だって、取材意欲のわく、わかないがあるからね。桑田に取材意欲がわく人間は少ないんじゃ……。いや、それはともかく、話題を変えよう。そういう話の延長で、江川ウォッチャーとしては江川卓でもっともっと遊びたいというか……。
江川 それは次に遊べるような選手が出てきてないというだけだよ。江川卓と似たような、おもちゃにできるような選手が出てくればいいのさ。
西村 だけど、出てこないぞ。で、エピローグでも書いたけど、今度は江川卓が監督をやるのを何としても見てみたいという気持ちがあるんだが、もしやったら、こういう人間だからやはり苦労するかな。
江川 苦労するというより周りが認めてくれないだろうね。というのは監督をやることをじゃなくて、やり方を認めてくれないと思うんだ。逆にもし監督をやるなら、それくらいのことをやろうと思っているわけなんだ。
玉置 例えば試合前の練習なしとかってやつでしょう。
江川 そんな程度のもんじゃないね。まだここで具体的には言えないけど。
西村 十年契約とかいう話もあったな。
江川 それは金銭面や練習のこととかいろんなことを含めて、何になるかわからないけれど、今の日本の球界では、多分僕の考えていることはできないよ。
永瀬 それを自分が変えてやろうという気はない? ある経営者が球団を買って、よし新しいことをやってやろう、それじゃあ江川に任せようということになったらどうかな。
江川 そういう経営者がいるかどうかだね。でも「十年自分にやらせて下さい。そのうち三回しか優勝できませんけど」と言ったらそんなことを認める人はいないだろうし、まして僕の考えていることを全部そのままやらせてくれる人は多分いないと思うよ。
永瀬 予告編を聞いちゃうとますますやらせたいというか、やってほしい気になるね。
江川 またお金の話になってしまうけど、一軍選手の最低年俸引き上げなんていうのは僕は反対なんだ。一軍に入ったら自動的に最低一千万円なんてのはだめなんだよ。プレイをお客さんに見せていくらの世界なんだから。それの出来る選手が高い年俸を取る。そうでない選手は安くても仕方ない。一億といったって知れてるじゃないか。本当に凄い選手が出てきて、野球でがんばったらあんな家に住めるんだとか、あんな車に乗れるんだということがもっとあっていいと思うんだ。そこに夢の世界がなければ面白い野球なんてできないよ。今はサッカーもあればラグビーもある。ラグビーなんて国立競技場を満員にしてしまうんだからね。いつまでもプロ野球がナンバーワンだと思い込んでいると、いずれ大変なことになると思う。
永瀬 学歴社会では大学といっても取りあえず入ってしまえばあとは遊んでてもいいようなところがあるけど、プロ野球の世界も実力社会とはいえ似たようなところがあるな。
玉置 でも、その割りには人のいいところはいいところとして評価していこうという度量の広い考え方を持っているね。このあいだ草野球をしたときに、だれかが「この人は補欠だ」と言ったときに、「いや、その言い方はまずい。補欠っていうんじゃなくて、代打の切り札って言えば本人のやる気だって違ってくるし、そう言わなきゃだめなんだ」とか言っていたでしょう。全否定じゃなくて、その人のいいところは認めて、悪いところもあるかも知れないけどそこは関係ないから見ないとか、人とのそういう接し方が現役時代から今までずっと続いていると僕は思うんだけど。
江川 人はけなしたり悪く言ったらどこまでも悪く言えると思うんだ。だけどどうやってプラスの方向へ言おうかと考えると難しい。解説のときはそこをいちばん心掛けているわけだよ。楽なのはけなすことだね。「彼はだめです」「あんな球は打てるはずです、打てなくちゃだめです」そんなこと言っているのがいちばん楽なんだ。でもその彼にはどんないいところがあるのかを探ろうとすると、解説は大変だよ。
玉置 例えば?
江川 見ていて十勝くらいしておかしくないピッチャーがいるわけだ。こうすれば十勝できるのになと思うことがあるんだけど、実際には自分の球の使い方とかに問題があって三、四勝しかできていない。だけど素質はあるんだから、こうすれば十勝できるというところを探したいんだ。簡単じゃないけどね。解説を引き受けたときは努めてそういう方向でやろうとしているんだけど。
永瀬 解説というのは大抵みんな結果を見て喋《しやべ》るからね。あんなスイングじゃだめだとかあんなボールじゃだめだとか。
西村 そのために研究も怠りないわけでしょ。
江川 なるべく試合を多く見なきゃと思ってね。UHFやケーブルテレビも使って、たとえば中日―阪神戦とか、時間のある限り全部見ている。そうしないとわからないんだよ。巨人戦というとどこか特殊で違ってくるから。
永瀬 日本って努力がいちばん大切な国で、解説者もまめに球場に足を運べば許されるというか評価されるところがあるじゃない。
江川 一年目、キャンプを見に行かなかった理由はそれなりにあるんだよ。
玉置 でもやっぱり、キャンプへ来ないとは何事か、とか言われたね。評論家がキャンプへ行くのは、みんな新聞や雑誌の仕事を持っていて何か書かなくてはいけないからなんで、君の場合はテレビだけで新聞も雑誌もやってなかったから行く必要はなかったと思うんだけどね。
江川 人のやり方をとやかく言うのでなく、野球のときも変わった江川だったから、解説でも変わった江川でいいと思う。変わっているというのは、今までの人がこうやってきたのと比べてということで、僕自身は別にわざと人と違ったことをしようとしているわけじゃない。自分の考えた通りやって、それが受け入れられなければいつでも解説を降りればいい。普通は選手は球団から要らないと言われるまで、解説者もメディアから要らないと言われるまでやるのだろうけれど、僕はちょっと違うんだ。自分が満足感や興味を持てなくなったら、要らないと言われる前にやめようと思う。現役引退のときもそうだったし、その精神でずっと行きたいと思うんだ。
三十年たったら
西村 さっきサラッとかわされちゃったけど、人と違う監督というのも見せてよ。
江川 それはチャンスがあればね。
永瀬 既成のチームじゃ無理だろうな。まったく新しい感覚を持った経営者が出てくれば可能性はあると思うけど。例えば堤さんにしても、勝つことがすべての前提だろうしね。企業のイメージアップを図るにしてもただ勝つだけじゃなくて、もっと幅広い考え方で球団を経営する人が出てきてくれるといいんだが。
江川 要請がなかったらできない話だし、当面は今の仕事に全力で当たるだけだね。
永瀬 でも、おれたちから言うと、実業家江川卓なんて全然魅力ないわけさ。
江川 それはみんな野球担当記者だからな。
永瀬 おれたちはユニフォームの江川に接して、その魅力を感じてここまできているわけだ。野球には江川しかできない野球があったと思う。でも実業界で江川にしかできない金もうけなんてないだろう。
江川 それはわからないよ。
永瀬 一〇〇パーセントないとはいえないけれども、別にそんなものを見てもおれたちの気持ちは動かないというか、へえ、あいつやっぱり才能があったのか、凄いやつだなというくらいの感想しか持てないだろうね。
江川 今はね。でもこれが十年先か二十年先か、企業の場合はサイクルが長いから三十年先かも知れないけど、そのころおたがい六十五歳位だよね、そのときになって、やはり江川はこういうやつだったのかと思うかも知れないよ。例えば永瀬のいるスポニチだって、そのころには新聞以外の物をつくる会社になっているかも知れない。だれも今のようなかたちの新聞を読まなくなって、新聞社は今と違うかたちの物をつくっているかも知れないでしょう。そのころになって永瀬のやっていることと、僕のやっていることと今とは違った繋がりができてくるかも知れないよ。
玉置 いつもスポットライトを浴びている立場だったのが、今度はいわば縁の下の力持ちみたいな仕事になって、それがまた江川卓の器を大きくする要因になるのだろうけれど、願わくば、実業家でも記録より記憶に残る人になって欲しいね。
江川 この本では野球をやめるまでの三十何年かの歴史をまとめられて、それはそれでよかったと思っているけれど、今はまた違う道を歩み始めて、三十年か四十年先、また一冊本が書けるんじゃないかと思っているんだ。
西村 激動の三十数年だったけど、この先がうってかわって平穏とはとても思えないものな。
永瀬 その時はまた一緒に書くか。
江川 いいじゃないか。そのころにはまた書きたいこともたくさん積もっているはずだし、楽しみにしているよ。
(一九九一年一月)
この作品は昭和六十三年九月新潮社より刊行され、平成三年二月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
たかが江川されど江川
発行 2000年11月3日
著者 江川 卓 玉置 肇 永瀬郷太郎 西村欣也
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861033-4 C0875
(C)Suguru Egawa, Hajimu Tamaki, G冲ar Nagase, Kinya Nishimura, 1988, Coded in Japan