ガンパレード・マーチ 山口防衛戦3
榊 涼介
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)萩|往還《おうかん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
萩市《はぎし》の陥落は自衛軍の首脳部に衝撃を与えた。
陣地群を築き、戦力の手当も十分だった。戦況は膠着し、安定状態と考えられていただけに、あっというまの敗北に狐につままれたような顔をする軍人も少なくなかった。
原因があって結果がある。この方面で何が起こっていたのか? あるいは起こったのか?
幻獣軍の主力が岩国、そして広島をめざしていると判明した時点で、萩戦線には一種の焦燥感が広がっていたのはまちがいない。そして、その傾向は特に士官に多かった。
戦略上無意味な地域に縛られ、度重なる敵との小競り合いに部隊は刻々と消耗してゆく。当初、リザーブとして駆けつけた隊が山口で編成された善行戦闘団に次々と吸収されるに及んで、将兵の士気は大きく低下していった。
八月八日未明、スキュラ、うみかぜゾンビなどを加えた幻獣軍が攻勢に出てしばらく、最前線の陣地群が崩れた。はじめはごく一部の部隊が後退したに過ぎなかった。しかし、その後退はなし崩しに戦線全体に及んだ。踏みとどまった隊は幻獣の海の中に孤立して、各個に殲滅された。路上は山口、岩国方面をめざす軍用車両で渋滞し、そこへうみかぜゾンビが生体式機関砲弾の雨を降らせた。
これがさらにパニックを呼び……といった悪循環が繰り返された。
後に、「萩シンドローム」と名付けられた現象は、さまざまな分野で研究され、この時代の誰もが心の底に抱える絶望、無力感、徒労感に軍人も無縁ではないことを示した。白アリに食い荒らされた家が倒壊するように、萩戦線は消滅していったのである。
人類は戦争に疲れ果てていた。そして……。
[#改ページ]
第十二章 ただ真実だけを
八月九日 〇二〇〇 至山口・萩|往還《おうかん》
道路わきに展開した対空車両が探照灯《たんしょうとう》の光で夜空を照らし、空を覆ううみかぜゾンビの編隊に機関砲弾を浴びせていた。路上では車両が燃え、赤々と空を照らす。路上の車両はことごとく停止して、乗員は遮蔽物を求めて逃げ散っていた。
三番機は少しでも兵らの弾避けになろうと、路上に士魂号をさらしたままうみかぜゾンビを狙い撃ちしていた。
何機かの敵の注意を引きつけたら、そのまま道から離れる。萩往還と呼ばれる古道に列をなしている車両には無傷なものも多く、破壊されることは避けたかった。逃げまどう兵は、それだけは抜け目なく、標識に従って道沿いに群れをなして移動していた。
とにかく路上から敵を引き離すことが目的だった。反対方向から九二ミリライフルの砲声が聞こえ、また敵が一機撃墜された。滝川の新生二番機は、順調に敵を狙撃してポイントを稼いでいるようだ。
「調子がよさそうだね、滝川」
厚志が通信を送ると、「まあなー」とウンザリしたような声が返ってきた。連日、長時間の戦闘に駆り出されて、今また急な撤退支援に参加している。被弾率が下がる夜間戦闘しあることがせめてもの救いだった。
あたりはなだらかな山々に囲まれている。道路わきのわずかな平地、そして施設を拠点として戦闘団は対空戦闘を続けていた。
「ふむ。罰当たりだな。そなた神社に陣取ったか」
舞が淡々とした口調で言った。滝川は見晴らしのよい神社の境内に陣取って敵を狙撃していた。敵の攻撃が手に余るようだったら、裏山に逃げ込んで敵から姿を隠す。滝川らしい目ざとさだ、と一応誉めたのだ。
「そろそろ……かな?」
三番機のまわりに十機近くの編隊が接近してきた。「うむ」舞はうなずくとすべての敵をロック、三番機のミサイルポッドから有線式ジャベリンミサイルが放たれた。夜空にいくつもの閃光が走り、地上をまばゆく照らした。周辺の山々に敵が墜落し、炎が噴き上がった。北へと逃げ去る敵に九二ミリ砲弾が追いすがり、またひとつ閃光がまたたいた。
どこからか歓声があがった。空からの脅威になすすべもなく隠れていた兵らが、山の斜面やガードレールの下から這い出してきて、路上に倣然とたたずむ三番機を讃えていた。無理もなかった。山道でうみかぜゾンビに襲われたら、まず不運を嘆くしかない。避難場所が限られているからだ。
山口と萩を結ぶ最短ルートである萩往還を中隊規模の戦闘車両が走行中との報せを受け、三番機は二番機とともに対空部隊の支援に駆けつけたのである。
「すまんな。疲れているところを」
山口の矢吹から無線が入った。寝入りばなを起こされての出動だった。
「なんの。戻ったら十分に睡眠をとるつもりだ。同じ言葉を対空部隊にかけるべきだろう。……対空部隊がもっと欲しいな。一個中隊だけでは足りね」
舞が応じると矢吹は黙り込んだ。対空部隊はどこでも引っ張りだこだ。
「熊本戦の頃と比べてやけに敵の空中ユニットが多くなっている。山岳部が多い山口戦に対応してのことと思う。我らにとっては与し易い相手なのだが、他の部隊はつらかろう」
「……善行大佐に相談してみよう」
矢吹からの通信が終わるのをはかったように瀬戸口《せとぐち》の声が聞こえた。
「ごくろうさん。それにしても散々な戦場だな、ここは。隠れ場所を見つけるのに困った」
「石津《いしづ》は鉄砲玉か?」
舞が尋ねると、瀬戸口は声をあげて笑った。
「ああ、たった今、飛び出していったよ。ところで壬生屋《みぶや》のことなんだが、戻ったら話がある」
「それは構わぬが、やつはこの無線を聞いていないか?」
出撃前――。理由は後で説明するから、と瀬戸口に頼まれて、舞は壬生屋を待機任務にあたらせていた。壬生屋は一瞬、憤然としたが「市内で何が起こるかわからぬゆえ」と舞は説得していた。
前日の戦闘で矢吹の司令部と整備班が狙われたことは、先の大勝利に汚点を残していた。敵は妙に賢くなっている、との説得に壬生屋はしぶしぶと応じた。
「原さんに頼んで、一番機は総点検ということになっている」
「ふむ……」
「にしても疲れた――。戻ったら甘いモンが食べてえ」
滝川がぼやいた。厚志と自分はさほどでもないのだが、緊張の度合いが違うのか? 森の件があってから舞は滝川の様子にも目を配ろうと思っていた。
……ヨーコと新井木に手を引っ張られて来た森は気の毒なぐらい顔を赤らめ、謝った。こんな経験は舞もはじめてであったから、思わず顔を赤らめてしまった。しかし森は迷ったあげく、あなたや速水君や壬生屋さんと滝川君は元々の才能が違うんです、と訴えた。舞ははじめて森の怒りの底を理解し、落ち込んだ。
「あー、滝川よ、九二ミリライフルでの撃墜率はどんなものだ?」
「へっへっへ、二十発で十二磯落としたぜ。紙装甲のお客さんってな。リロードがもちっと速くなってくれるといいんだけどなー。芝村、メーカーに交渉してくれない?」
まだ大丈夫だ……。疲れ切っているならライフルの反動をうまく逃がすことができなくなる。命中率も当然落ちる。
「あれで限界だ。後は口径をスケールダウンしたライフルを新開発するしかない。しかし、士魂号はすでに生産中止になっているゆえ、無理だろう」
「へ、そうなの……?」
滝川は意外だというように口を開いた。
「今、ハンガーに収まっている後継機にじきに切り替わる。それに応じて武装も変わる」
「……うーん。寂しい話だな」
「ねえ、今度の軽装甲、どんな感じ? 見たところ動きがすごくいいけど」
厚志が話題を変えて尋ねた。
「よっくぞ聞いてくれました! 今度のお嬢さんは軽いね。山の斜面を軽々と駆け上がった。帰ったらさっそくイタリアンイエローに塗ってやんねえと」
「たわけ! 帰ったらとっとと休め」
舞は苦々しげに言うと通信を切った。
八月九日 〇三〇〇 山口・5121小隊駐屯所
制服に着替えて厚志と一緒にハンガーを出ると、瀬戸口が鉄扉にもたれてたたずんでいた。
「こんな夜中に悪いな」
瀬戸口はにこやかに笑って「さて」と切り出した。
「例の話だ」
「ああ」
「九州撤退時の負傷で、壬生屋は体機能が元の半分に落ちているんだ。本来なら大事をとって休ませたいところだ」
「……そうだったのか」
意味を理解するまでに時間がかかった。体力の上限が半分になったということだ。もちろんその中にはパイロットにとって重要な瞬発力、集中力といった要素も含まれる。
「元には戻らんのか?」
「定期的な生体手術を受け、二、三年はかかると医者に言われた。今回のスクランブルをパスさせたのもそういうことさ」
瀬戸口の笑みに憂愁が宿った。
「……それで壬生屋さん、あんなに勝負を急いでいたんですね。動きが危なかった」
厚志が口を開くと、「違うんだ」と瀬戸口は静かに言って首を振った。
「司令代理ということで医者は俺だけに話してくれた。壬生屋はこのことを知らない。一連の変化はたぶん本能的なものだろう」
「え、まさか。どうして……?」
厚志が衝撃を受けて声を上げると、舞が瀬戸口の前に立った。気難しげに腕組みをしている。
「なぜ、本人に直接言わん?」
険しい声だった。舞の問いに瀬戸口は笑みを消して横を向いた。
「すまん。言いそびれた」
言いそびれた、だと……? 馬鹿な? そんな重要な、命にも関わることを! 舞の鳶色の瞳が怒りにきらめいた。
「馬鹿めっ!」
瀬戸口の頬が鳴った。渾身の一撃を振るわれて瀬戸口の体がぐらついた。
「壬生屋は何も知らずに死の危険と隣り合わせで戦っていたのだぞ! そなたはパイロットを戦争の道具として扱ったのだ! 馬鹿め、馬鹿め、愚か者めっ!」
舞の心はきりきりと痛んだ。これでは何も知らずに戦った壬生屋が哀れ過ぎる! 舞は瀬戸口の頬にもう一発、拳をたたき込んだ。
瀬戸口は切れた口の端の血をぬぐうと「すまん」と再び謝った。
「殴りたければもっと殴れ。機会を見て言おうと思っていた。だが、その前に戦争がはじまり……ああして生き返ったように士魂号に乗るあいつを見るとどうしても言い出せなかった。……芝村、よく言ってくれた。俺は壬生屋を戦争の道具として扱った。俺はあいつに真実を告げるのがこわかった。現実から目を背けていたのさ」
瀬戸口は憂鬱な表情で淡々と語った。
「……なんという弱さだ」
舞は茫然としてつぶやいた。
これまでの瀬戸口とは別人のようだった。隊を支え、皆に気を配り、そしてどんな状況でも冷静さを失わなかった。舞はふと身を切るような早春の風を思い出した。今となっては古いアルバムの中の一枚となった第62戦車学校の時代。瀬戸口隆之という存在がなかったら5121小隊はどうなっていただろう? やつがいたからこそ隊は結束し、ここまでやってくることができた、とさえ舞は考えていた。
それがどうして……。
瀬戸口の弱さも傷ましかったが、それ以上に瀬戸口を信じてパイロットとして復活した壬生屋が傷ましかった。そんな壬生屋を、わたしは……。
「瀬戸口さん……」
厚志は悲しげに笑って言った。
「真実を。……ただ真実だけを。瀬戸口さんは伝えるべきですよ。それで壬生屋さんが泣こうが、怒ろうが、絶望しようが、受け止めないと。瀬戸口さんにはそれができるはずなのに、やさしすざるから……だめなんだ。瀬戸口さんが壬生屋さんのためになら笑って自分の命を投げ出せる人だって、僕は知ってます。壬生屋さんの傷は瀬戸口さんの傷です。……流すべき血を流してくださいよ。でないと僕は――」
厚志の目に鋭い光が宿っていた。話すうちに声は低くなり、しまいにはささやきとなった。
言葉にすれば殺意と言ってもよいだろう。
舞はそんな厚志を黙って見つめた。
厚志の心の根を見たように思った。そう、流すべき血は流すがよい。厚志は流している。わたしのために、否、名も知れぬ誰かのために。殺戮者として狂気の淵に沈もうとも、笑って自らの運命を受け入れる。我がカダヤはそんなやつだ。
しかし、止めねば――。舞は密かに厚志の動きを見守った。
「……その殺気は感心しませんね」
声がかかった三人が振り向くと、暗がりの中にほっそりした影がたたずんでいた。
「瀬戸口さんに何をなさるというのでしょう? 速水さん……?」
暗がりから壬生屋が姿を現した。ハンガーから洩れる光に照らされた顔色は青白く見えた。
口許に不思議な笑みをたたえ、その目は油断なく厚志の挙動を見据えていた。
「……ごめん。少し待って」
厚志は息を吐くと、徐々に殺意を消していった。
「もう少しで速水さん、あなたは一線を越えるところでしたわ。わたくしのことであなたがそんな風になったというのなら、謝ればよろしいのですか?」
壬生屋はどこか猛禽を思わせる笑みを厚志に向けた。
「本当にごめん。謝るのは僕だ。……話しているうちに訳がわからなくなって」
厚志は顔を赤らめて謝った。
「そうされても文句は言えないんだ、壬生屋。俺はおまえさんを裏切っていた」
瀬戸口は壬生屋と視線を会わせた。壬生屋の口許から危険な笑みが消えた。
「聞いていました。わたくしはあなたのそんな弱さも好きです」
壬生屋は笑みを消して、凛とした表情で瀬戸口に言った。
「すまん」
「ええ、謝ってもらいます。けれど、その後でわたくし、あなたを許します。だって、わたくしは一度死んで戻ってくることができたんですもの。だからあなたのそばにいるだけでいいんです。これ以上、何も求めません」
その言葉は切なく闇の中に響き渡った。三人は無言で壬生屋の言葉を受け止めた。
「絶望なんてしませんよ」
不意に壬生屋はくすりと笑ってみせた。
「悲しい真実だけど、戦うことはできるのでしょう? わたくし、戦います。ただ、なんだか……あら?」
壬生屋の頬に一筋の涙がしたたり落ちた。
「これから泣きますから。わたくし、少し泣きますから……!」
「……うん」
瀬戸口がうなずくと、壬生屋は子供のように泣きじゃくった。
舞は厚志をうながすと、そっとその場を離れた。舞の目の端に、しっかりと互いを抱きしめ会うふたりの姿が映った。壬生屋は瀬戸口の胸に顔を埋めて泣いていた。
「まったく……この隊はこわいやつが多いな。滝川が懐かしくなってきたぞ」
舞が静かに言うと、厚志は肩を落とした。
「ごめんよ」
厚志の声が聞こえた。しかし舞は、ふっと笑った。
「謝ってばかりだな? だが、これだけは言えるぞ。わたしはそなたの狂気が好きだ。それは闇を敵う銀の剣。あらゆる絶望を一身に背負った者のみが振るう剣だ。そなたの正義、そして狂気にわたしは魅入られている」
「そ、そんな大げさなもんかな……? 僕はただ舞が元気でいればいいんだけど」
「ははは」
舞は珍しく高笑いを響かせた。
危なかった。厚志を失わずに済んだ。厚志の心、壬生屋の心、そして瀬戸口の心。いろいろな色のいろいろな音を奏でる心を見た。色は違うが、皆、真撃で必死に生きている。心が生きることを求めている。それが嬉しかった。怒りなどとうに吹き飛んでいた。
それにしても――。舞は笑みをたたえたまま白い歯を光らせた。瀬戸口のたわけめ、これで一生、壬生屋に頭が上がらんだろうな。くくく、ざまをみろ! なおも断続的に笑いの発作に見舞われる舞を、厚志は怪訝な顔で見つめた。
八月九日 〇六〇〇 岩国外郭陣地群
県道に国道に林道に農道に、そして名もなき道に異形の敵たちは満ちていた。
基督教の黙示録で語られている世界の終わりをもたらす軍勢のように、彼らは日本の一地域に過ぎない岩国という土地をめざしていた。
ありとあらゆる高所に配置された砲が、そしではるか後方からは長射程の砲が、途切れることなく砲弾を浴びせていた。その数、数百万と人類側から半ば投げやりに推定される小型幻獣の群れは、飛び散る榴弾に消滅するものの、すぐに後続の集団がその穴を埋めた。それは川の流れのように、一瞬の波紋はあっても切れ目なく続いていた。
そして中型幻獣と呼ばれる者どもは榴弾の破片に傷つき、体液をしたたらせながらも地響きを響かせ、東へ東へと進撃していた。
「こちら二十一旅団第二中隊室井です。現在、岩国経済大ポイントにて戦闘中。ミノタウロス二十、ゴルゴーン三十四、キメラ二十八他小型幻獣から成る一団が外郭陣地を突破、188号を通過して行きました。中津町に展開する諸隊は至急、橋、鉄橋を爆破されたし」
「あわでるな。外郭陣地はなおも健在。爆破はしない。増援、補給に支障をきたす。戦車隊と重砲が対応する。第二中隊はそのまま戦闘を継続せよ」
大隊長の声は冷静だった。
「しかし……このままでは全滅します!」
「なんのための縦深陣地だ? なんのための最新装備だ? 落ち着いて粘り強く戦いたまえ」
……大敵長からの応答に、室井中尉は不機嫌に顔をしかめた。
ここ経済大ポイントは国道を見下ろす丘の上にあり、絶好の拠点から敵に銃撃を加えていた。
戦闘開始以来、中隊は無数の小型幻獣、そして中型幻獣七を撃破したが、敵は何度か生体ミサイルを撃ち込んできただけで悠々と進撃を続けていた。
これに室井は半ば怒り、半ば恐怖した。大隊の方針を再確認するためと自らに言い聞かせ、泣き言に等しい通信を送ってしまった。
「第一小隊、ゴルフセンターポイント、大量の小型幻獣と戦闘中。至急増援求む!」
指揮下の小隊長からせっぱ詰まった声で救援要領が届いた。……増援などない。
「あわてるな。拠点維持が無理と判断したら隣接する小隊と合流、抵抗を続行しろ。陣地に爆薬を仕掛ける時間はあるか? 確かクレイモアがあったな?」
あわでるな、と言ってから室井は失笑した。大隊長のセリブと同じじゃないか。
ゴルフセンターの方角を双眼鏡で見ると、すでに白兵戦が行われていた。くそ、粘り過ぎだ……。陣地に取り付かれる前にトラップを仕掛けて後方の陣地に撤収するよう指示していたはずだ。
何度も何度も、旅団の講習で言い聞かせたことだった。白兵戦は絶対にするな。そのために縦深陣地が存在する、と。もっとも自分もあわてふためいたあげく忘れていた。
どうもいかんな、と思っているところにウォードレスに小隊長の階級章をつけた将校が手振りで後退の指示を下しはじめた。
白兵戦闘に巻き込まれていない兵が塹壕から出て、走った。数人の兵に抱えられ、小隊機銃も移動をはじめた。旧陣地はすでに小型幻獣で充満していた。逃げ遅れた五名の兵に四、五十体ばかりの敵が張り付いていた。小隊長はサブマシンガンを乱射しながら陣地の端までたどり着くと、クレイモア指向性地雷を壕内に向けた。
馬鹿め……! 室井は歯を噛みしめた。地雷が爆発して敵味方を粉砕した。小隊長の姿は躍りかかる幻獣の中に消えた。
八月九日 〇六三〇 岩田基地・司令管制センター
地下司令管制センターは柔らかな光に包まれていた。スタッフの疲労を軽減するため、自然光に近い照明が灯っている。広大な室内は作戦、兵貼、連絡、情報、交通管制などチームごとに区切られたパーティションの他に、司令官、参謀らの詰める司令所が同居していた。これは荒波現司令官の意向だった。担当ごとに情報を抱え込んでしまう弊害を恐れたのだ。その代わりとして、十分なスペースと、居心地のよい環境が用意されていた。
それでも基地の地下狭くに閉じこもる不安感からか、地表に取り付けられた集音マイクから地上の音が流れ込んでくる。
銃声砲声が虚空にこだましていた。すでにどこから、のレベルではなかった。ありとあらゆるところから。誰かが耐えかねてそっとボリュームを絞った。
藤代幸恵は作戦チームのオペレータ席に座って、戦術画面上に刻々と浸透してくる赤い光点に目を凝らしていた。本当に来たんだな、という思いがあった。
「藤代、おまえばかりすまんな」
荒波指[#]令の声がした。藤代は眼鏡を直すと、端末の画面に目を凝らしたまま「いえ」と言った。ディスプレイに微かに司令の姿が映っている。藤代は息を整えると、
「門前川西岸の外郭陣地群の損耗率二十パーセントを超えまじた」と報告した。
「うむ」荒波はよしというように応じた。
「西岸の守備隊の間で撤退許可求むの通信が飛び交っているとのことです」
管制センターには総勢百五十名のスタッフが詰めていた。その中には友軍の無線をチェックする者も含まれる。三十代の女性士官はウンザリしたように「相当やられているみたいですが」と荒波に言ってきた。
「外郭陣地はそれでよいのだ」荒波は冷静に応じた。
「第十一、十四師団の展開、六十パーセント終了とのことです」
別のスタッフの声が聞こえた。
「すべて順調だな」
荒牧が口を開くと、「フフフ」と含み笑いが聞こえた。前線で飛び交う無線をランダムに傍受していた岩田参謀が指令用のコンソール画面でタッチペンを動かしながら笑っていた。
「二十一旅団はナイスですねえ! 落ち着け、あわでるな、が合言葉です」
笑えるのか? 藤代にだって戦場の経験はある。息を呑んで岩田参謀に向き直ろうとした。
「そのまま」
肩に暖かなものが置かれた。荒波の手と知って藤代は顔を赤らめた。
「岩田少佐は二十一旅団の出身だ。顔を見てはならんぞ」
「スキュラ十一、うみかぜゾンビ八十、来ます! 目標は外郭陣地と思われます」
対空担当のスタッフが画面を見て叫んだ。
「……地下陣地の防空支援隊三で対応。壕内から迎撃。オモテに出ちゃいけませんよ」
岩田参謀の指示に幕僚のひとりが首を傾げた。
「九五式の機関砲では射程がぎりぎりです! どうか川沿いに前進命令を」
「ノオオオ! わたしの言ったことが聞こえないんですかァァァ? 命令につべこべ言うと、わたしキレるかもしれませんよォ!」
貴重過ぎる。対空部隊はあまりにも貴重過ぎた。
この三ヵ月の間に、あらゆる手段を駆便して、しかも対空戦車だけの隊をつくるという発想に案の定、上層部は難色を示した。荒波と岩田参謀は生産が急ピッチで進められている九五式対空戦車を実地に見聞して、その使い勝手の良さに注目していた。
結果として、変則的な岩国防空支隊なるシロモノをでっちあげた。「防空」「支援隊」。名前がさえないのは、中身の贅沢さを隠すためだ。ふたりは新式の九五式対空戦車を連隊規模で集めていた。
名目上は第二師団専属の独立支隊ということになっていたが、実質は荒波と岩田参謀直属の部隊だった。ただし、正面から敵を迎撃すれば一戦で大損害を受けるだろう。虎の子だ。
それに……まだまだ手札はあった。
「九五式はこれからだ……厳島《いつくしま》は?」
荒波が言葉を投げると、オペレータが「所定の位置に」と応じた。
「ここらで敵さんをあきれさせてやろうか?」
荒波が岩岳参謀に声をかけると、「フフフ、前座ですけどねえ」と岩田は笑った。
「四〇センチ航空榴弾。まあ、こんなベタな戦争だから役立ちますねえ。厳島、射撃はじめ。後、指示があるまで待避トンネルに避難せよ」
八月九日 〇六四五 吉香《きつこう》公園
はるか広島方面から殷々とした砲声がこだました。これまでに聞いたこともない音だった。
橋爪が空を見上げると、門前川西岸に密集していたうみかぜゾンビが一斉に炎をあげ墜落した。
まさかゾンビヘリが故障するわきやねえよな? 合田小隊の兵も島村小隊の兵も、子供が打ち上げ花火を見るように天空を見上げた。
「十八、十九……二十。やっちまった! すげえ、新兵器すか?」
ヘリは戦車随伴歩兵の天敵だ。橋爪が興奮して口走ると、合田は苦笑した。
「二次大戦当時のアンティークですよ」
「へ……?」
「四〇センチ列車砲・厳島。日本で唯一現役のレアものです。元はと言えば、敗色渡厚な旧軍が戦艦の主砲を呉軍港防衛のためと称して列車に搭載したものなんですがね。……海上に露出した戦艦と違ってトンネルに避難すれば大丈夫という浅はかな発想でした」
兵器マニアの素養がある合田が説明すると、兵の間から声が上がった。
「そんなトンネルあるんすか?」
鉄道マニアの比率はけっこうなもんだな、と思いながら橋爪も考え込んだ。佐藤らの六一式は指定された座標に榴弾を撃ち続けている。歩兵は今のところヒマだった。
「ははは。結果として日本の狭軌ゲージでは無理という結論に達しましてね、全長五キロの広軌鉄道を完成したあげく、今度は砲を最低に仰角修正しても既存のトンネルには収まらないと。あげく、お隣さんのようにカモフラージュしてアメリカさんに見逃してもらったわけで……。日本人とは何者か、と考えますよね」
泥縄に次ぐ泥縄。合田のあきれかえった口調に、兵らの間から笑い声が起こった。
「けど、今は役に立っていますぜ」
橋爪が言うと、合田は笑ってうなずいた。
「空戦型幻獣用に特化した航空榴弾。この発想がまた日本人ですね。なんでも岩国基地の参謀が錆び付いた列車砲をよみがえらせたと聞いています。まあ、たぶん敵も躍起になって潰しにかかるだろうから出番はそうないと思います」
「ヘリさえ来なけりや……」橋爪が言いかけて口をつぐんだ。
地獄の三丁目が二丁目程度になるだけだろう。へっへっへ。橋爪は妙な滑稽味を感じて笑ってしまった。どっちみち歩兵はゴブとタイマンでも地獄なんだよな。
なおも空中に浮かぶ敵空中ユニットに、あらゆる火点から対空砲火が集中した。うみかぜゾンビは一機、また一機と撃ち落とされていく。スキュラは丹念に火点をレーザーで潰してまわるが、不思議と爆発音は聞こえなかった。
対空戦車じゃねえのか? 歩兵か……? 橋爪は六一式戦車の砲塔――築山《つくやま》式花壇の頂上に駆け登るとあぐらをかいて、たった今、潰されたた陣地を双眼鏡で観察した。
……生きていた! 野ネズミがネズミ穴から追い出すように、泥まみれの歩兵が陣地に接続された地下鉄の昇降口のような出入り口から這い出てきて次の獲物を探しはじめた。
スキュラのレーザーは大地を派手に耕しただけだった。兵が相棒に零式ミサイルらしき武器を手渡した。
ミサイルが発射され、うみかぜゾンビに吸い込まれていった。爆発。仲間をやられたうみかぜゾンビは火点に方向転換すると、生体式機関砲弾を撒き散らした。ふたりの兵はあわでてネズミ穴に潜った。またしても銃弾が大地を耕した。
「少尉、零式ミサイルを持った戦車随伴歩兵が穴蔵からゾンビヘリを狙い撃ちしていますぜ。なんなんだろう、あの連中」
橋爪が声をかけると、合田も「さあ」と首を傾げた。
……彼らは岩国第二師団、二十一旅団、そして新たに到着した十一師団、十四師団の戦車随伴歩兵から選抜された「対空歩兵」だった。深く、頑丈につくられた地下通路と無数に設けられた昇降口・通称「ネズミ穴」から這い出しては敵ヘリとスキュラを狙う役割を与えられた者たちだった。狙撃兵と同じく、独立行動を認められている。
ふたり一組が基本で、地下通路のところどころにある弾薬庫には大量のミサイルが蓄えられている。司令部は九五式対空戦車を見せ玉として、むしろ対空戦闘を歩兵に委ねたのだ。
激しい振動が「花壇」の花を揺らした。仰角を上げた九〇ミリ砲から発射される榴弾は、弧を措き、錦川西岸・川西付近に密集している敵を吹き飛ばしていた。
橋爪は砲塔をごつんとやった。
「おーい、金髪ヤンキー、元気かぁ?」
この戦車隊のアホ隊長は鼻っ柱が強いんでからかい甲斐がある。案の定「誰がヤンキーだってのよ! 逆モヒカン!」と返事が返ってきた。すでに三十分、射撃を続けている。
「こちら側は敵影なし。へっへっへ、商売繁盛でけっこうだな」
橋爪が笑うと、「あ、じきに労働してもらうから」と澄ました声で返事が返ってきた。
「うん……?」
橋爪が首を傾げると、「第七陣地……管理事務所陣地はここだな!」と戦車壕の背後に広がる地下通路の暗がりから声が飛んできた。
橋爪が目を凝らすと、世にもくたびれた軽トラの運転席から小太りの下士官が窮屈そうに顔を出した。「榴弾を持ってきた!」怒鳴るように言われて、花壇の頂上から佐藤がハッチを開け姿を現した。髪に花びらが張り付いている。
「出前ごくろーさんです!」佐藤がにこっと笑って敬礼すると、下士官はうなずいた。
「さあさあ、時間がないの。砲弾の搬入頼むよ!」
佐藤に言われて、橋爪は俺かよと自分を指さした。
「わたしたちってかよわい乙女ばかりだしィ、男手が必要なの〜」
佐藤は不気味な乙女ボイスを出して、にやりと笑いかけた。
「少尉――」橋爪は助けてくれ、というように合田を見た。
「時間がもったいないです。佐藤千翼長の指示に従いましょう。全員、荷台から弾薬を下ろしますよ。さあ、急いで」
とっとと降ろせ。後がつかえているんだ! 下士官に怒鳴られながら合田小隊の面々は茶箱ぐらいの大きさの箱をいくつも下ろした。百五十sは軽く超える恐ろしく重いシロモノだった。
軽トラが去ると、佐藤は横柄に橋爪に指示を下した。
「蓋を開けて。砲弾が縦置きに十二発づつ収まっている。一発ずつ、わたしの指示に従って弾薬庫に収めるの。どう、簡単っしょ? 森田、宮本、車外へ出て休んで! 装填《そうてん》手はくたくたなんであんた車内に入ってよ」
佐藤に続いて森田と呼ばれた女子学兵がハッチから這い出てきた。日本人形を連想させる美少女だった。ただし、隊は女の園のため、口の悪い隊員に座敷わらし呼ばわりされるぐらいだ。短く切り揃えたおかっぱ髪が汗で額に貼り付いている。
「あー、もうダメ。ねえ、誰かチョコレートとか持ってない?」
森田は如何にもだるそうに砲塔から降りると、そのまま堀内でへたり込んだ。合田小隊の若い隊員たちが手に手にチョコレートを差し出した。
十六才という年齢より三才は低く見える森田のあどけない顔がばっと輝いた。
「こら、知らないおじさんから物をもらっちゃだめ!」佐藤は妙に上機嫌になると、さあさあ遠慮せずにと橋爪を車内に押し込んだ。
前席の鈴木と神崎が振り返った。
「へへっ、一日戦車隊体験ってのもいいもんだろ?」
鈴木が冷やかすと、神崎は「すみません」と謝った。
「けど、砲弾の扱いは慎重にお願いします。榴弾は特に」
「……ちっくしょう! んなこたわかってるよ!」
「二号車の車長は……ああ、君ですか。僕が手伝いますよ」
合田は小柄なすばしっこそうな学兵に声をかけ、もうひとつの「花壇」に駆け上がった。
「あの……わたしたちも手伝えますけど。わたし、元迫撃砲小隊の……事務官です」
島村が駆け寄ってきて、車外から合田と橋爪に呼びかけた。
「あ、ああ、ええと……俺たちがへたばったらピンチヒッター頼むぜ。そういうことでいいっすよね、少尉?」
「……ええ、島村さん、君は引き続き警戒をよろしく。あ、戦車兵の皆さんにお茶でも淹れてもらえるとありがたいですね」
「はいっ! すぐに」
島村はいそいそと壕の奥に駆け去った。
ほい、ほいよ、と威勢良くかけ声があがって、砲弾は流れ作業で次々と砲塔ハッチから中へ運ばれた。さすがに自衛軍だった。十三sはある九〇ミリ砲弾を楽々と扱った。熊本の時は拠点……学校で身震いするほどくそ重い一二〇ミリ砲弾を泣きながら積み込んだものだ。補給の経験はなかった。待ち伏せ専門。徹甲弾、HEAT弾による中型幻獣の一本釣りが専門だったから一回の出撃で十発も使えば多い方だった。
「うん、やっぱ男手があると速いねー。あら、あんたけっこうしぶといわね。橋爪だっけ?」
佐藤はほうじ茶をすすりながら、汗ひとつかかずに砲弾を砲架《ほうか》に収める橋爪に話しかけた。
「……熊本の頃からずっと小隊機銃を持ち歩いているからな」
橋爪愛用の九四式小隊機銃は慣れない兵だと、二脚もしくは三脚を用意して固定、給弾手を用意して……といった一二・七ミリ機銃である。ウォードレスの筋肉補正を受けでもひとりきりで、腰だめで撃てるような射手はそうはいない。「へええ……」佐藤はしげしげとアーリーFOXに身を包んだ橋爪を見た。
「筋肉ゴリラには見えないけど。遅筋が発達しているんかな」
「な、なんだか、おめーに見られるとウォードレスの下まで透視されるような気がするぜ」
橋爪はぶるっと身を震わせた。操縦席の鈴木が、へへっと笑った。
「そんなもん透視したくないって! あー、やだやだ、せっかく褒めてあげたのに。あんた、友達いないでしょ? アーンド彼女レス。世をはかなんで自衛軍に横滑りしたと。んで、女なんて限中にないってハードボイルド気取ってるんだよね。どこにでも転がってるパターンよね! あんたの孤独で不細工な青春に乾杯――」
佐藤は島村からもらった紙コップのほうじ茶を掲げでみせた。
「こら、勝手に話を作るな! 彼女ぐらいいるぜ。そういうおめーこそ、男っ気なし、欲求不満で幻獣をぶっ殺しているんだろ? そんな感じだぜえ」
橋爪に反撃されて佐藤はむっとして顔を赤らめた。
「残念でした! わたしの彼氏は広島の情報センターに勤務している超エリートの秀才なの。プロポーズされちやってさ、戦争が終わったら返事するって言ってあるのよね!」
「へっへっへ、ユウ・アー・ライヤー。とうとう尻尾を出したな! おめーの性格だったらカメラを向けられた時、部隊名はともかくよ、彼氏の名前なんか呼んで、元気ィーぐらいは言うはずだよな。来もしねえ王子様を妄想してるマッチ売りの少女とはおめーのことだ!」
「むきっ。生意気、あんた生意気――!」
図星を指されて佐藤は消臭スプレーを橋爪に噴きかけた。「くそ、このアマ!」橋爪の怒鳴り声が車外にまで響き渡った。
「橋爪軍曹、隊員たちがあきれていますよ」
合田がさすがにたしなめた。
橋爪は黙り込み、佐藤は気まずげな顔になって、垂れかかる金髪をかき上げた。
「ところで着弾地点の様子はどんな感じです?」
「あ、はい。川西方面はゴブだらけらしいです。西岸の外郭陣地が今のところ持ちこたえてくれているんで榴弾を降らすだけで済んでいるんですけど」
佐藤はころっと態度を変えて、合田に応えた。
「なるほど。山の稜線に隠れて向こうからはこちらは見えませんからね」
公園に設けられた陣地群と、陣地の戦車が榴弾を浴びせている川西付近は陸続きだが、蛇行する錦川に山の稜線が迫り、道路は川沿いの土手道しかなかった。
この方面の敵は、むしろ付近にかかる三本の橋に集中していた。錦川を渡れば市街地に出る。
これを阻むために、西岸の陣地は必死に抵抗を続けていた。わずか十メートル、二十メートルのエリアをめぐって、激戦が行われていた。
「観測兵の報告によれば、かなり西岸の友軍を助けているみたいです。さあて……合田少尉、ありがとうございました。それから逆モヒカンもね」
少しは頭が冷えたか、佐藤は礼を言うと、休んでいる森田をうながして車内に入った。ほどなく仰角を上げた砲身から砲弾が吐き出された。
八月九日 〇七三〇 国道262号線付近・山陽自動車道
「さて、と。聞いてくれ、エプリボディ。山陽自動車道は今日も満員御礼だな。まずはミノタウロス三十の一行さんからいってみよう」
瀬戸口の声が朗らかに響いた。さすがは瀬戸口さんだな、と厚志は思った。昨夜のことを引きずっている様子がなかった。むしろ晴れ晴れとした気分なんだろうな。
「戦術は昨日と同じでよいな?」
舞が確認すると、矢吹から通信が入った。
「頼む。冒険は懲りた。我々はおとなしくゴルフ場に引っ込んでいるよ」
スキュラ、うみかぜゾンビの気配はなかった。ミノタウロス三十、ゴルゴーン三十八、キメラが四十……。ミサイル発射を一度。あとはジャイアントアサルトで適当に敵を削っていけば友軍の戦車と共同でやれる。約十分ってところかな。厚志はすばやく計算した。
「ジャイアントバズーカ。滝川君、少し重くなるけどよろしくね」
原の声がコックピットに響いた。滝川の軽装甲はスキュラ対策のためになけなしのジヤイアントバズーカを二丁装着している。これに主武器の九二式ライフルが加わるため、まず軽快な動きは無理だろう。それだけ戦車にとってスキュラは嫌な相手だった。
「それはいいっすけど、どしてバズーカの補給が減ってるんすか? 横にバズーカたくさん積んだトラックがいればけっこう頑張れますよ?」
「予算削減ね。残念ながら。それに、バズーカは重いから野戦ではつらいでしょ?」
原は澄ました声で言った。
「まあ、そうなんすけど」
「へへっ、心配すんなって滝川。負傷しても助けに行ってやるからよ。今時の俺様はひと味違うぜ。歌って踊れるじゃなかった……整備もできる衛生兵ってな」
復帰した田代が無線に割り込んだ。
「ちっくしょう、縁起でもねえ。……助けてもらうんだったら石津に頼むよ」
「ははは。石津に強力なライバルが出現というところだな。さて、戦車隊、歩兵の展開も終わったようだ。無駄口はこれぐらいにしてそろそろよろしくな」
瀬戸口の催促に、舞は「おまえが言うか……」とつぶやいた。
「距離八百。行くぞ」
「参りますっ……!」
壬生屋の声が聞こえ、一番機が路上を移動する敵めざして猛進する。その後を追随しながら厚志は壬生屋のことを考えた。今、どんな気持ちだろう。体機能が半分になったって聞かされてもビンと来ないよな……。普段通りやるしかない、ということか?
幻獣が一斉にこちらに回頭した。大地を蹴る音がして重装甲の巨体が宙を舞ったかと思うと路上に着地、一体のゴルゴーンを唐竹割りに斬り下げていた。爆発。すぐにもう一本の大太刀でアームを振り上げたミノタウロスの胴を回転しながらきれいに両断していた。滝川の九二ミリライフルの砲声がこだました。一番機から十メートルほど離れたところでミノタウロスの巨体が揺れた。間を置いてさらに一発。ミノタウロスは爆散した。
「よし」
舞がシートを軽く蹴ると、三番機も路上に降り立った。ジヤベリンミサイルの一斉射撃。二十四体の幻獣にミサイルが突き刺さり、爆発を起こした。
一番機は炎をあげながらもしぶとくたたずんでいるミノタウロス二体に、たで続けに斬撃を与えてから反対側の大地に降り立った。そのままジグザグに走りながら、盾となる集落へと身を隠した。
あ、軽くなったな――。
厚志は壬生屋の動きに満足した。慣れぬ者が見れば昨日と変わらぬ動きに見えるが、敵中での斬撃の時間が厚志の体感では半分以下に減っている。向かってくる敵と渡り合うのではなく、ことごとく敵の側面から大太刀をたたきつけている。敵が正面を向き、白兵戦を――となった時には、すでに壕剣が一閃している。
後は離脱して敵のオトリとなる。一斉に一番機を向いた敵の背を、戦車砲弾が貫いた。すでにミサイル発射の段階でキメラ以下は全滅している。残ったミノタウロス、ゴルゴーンを矢吹大隊の戦車群が撃破してゆく。
滝川の二番機は遮蔽物を利用しながら不測の事態に備えつつ、九二ミリライフル弾で確実に敵を撃破していた。
この間、五分と数秒――。
「あのね……ええとね」
戦闘指揮車の東原が、一瞬、口ごもった。それだけ速さのある攻撃だった。
「ミノタウロス十七、ゴルゴーン二十……ええとね、キメラは全滅よ」
その間にも三番機は一番機と隣り合わせの位置に身を隠している。背に攻撃を受けた敵が路上から降り、戦車に向かって突進をはじめた。
戦車砲が巧みに敵を撃破してゆく。二体の敵に三十メートルの距離に迫られた戦車の付近からミサイルが発射された。近距離からの直撃。ミノタウロスはぐずぐずと炎をあげ、爆発。その間にも戦車砲がもう一体を仕留めている。
一番機と三番機は全速力で生体ミサイル発射の体勢に入った敵に攻撃を仕掛けた。自動車道付近で横列を組んだゴルゴーンが次々と撃破される。
「壬生屋さん、軽くなったね。すごくいい感じ」
厚志は通信を送った。軽くなった――。動きが、というより判断が軽くなった。思い切りよくためらわず、速く、しかもこだわらない。いろいろな意味がこめられていた。
「ありがとうございます。これだったら十分に保《も》ちます」
厚志の表現は壬生屋にも十分伝わったようだ。深夜、ああして対峙してみてあらためて認識していた。僕たちは似たところがある――。けれど、僕は舞と出会い、壬生屋さんは幸せなことに瀬戸口さんと出会った。壬生屋さんは泣くことができる。羨ましいよな。
待てよ、それじゃ僕と舞は幸せじゃないことになるな。……うーん、としばらく考えて厚志は言葉を見つけた。戦場を故郷とする者と、思い出の故郷を持つ者と――の違い? あ、なんとなくピントが合っているぞ、と厚志は滞足して壬生屋に応えていた。
「こわい、と思った。今の壬生屋さんは。風。かまいたちみたいな……」
舞がシートを蹴った。あはは、機嫌がいいな。感触でわかる。
「ははは。無駄口はやめろと芝村が言うフェイズなんだがな。茜が一番機の動きをスロー再生して興奮しているぞ。発情期なのかな?」
瀬戸口の声が聞こえた。へえ、スロー再生か。僕の動きはどんなんだろう?
「な、なーにが発情期だ! 僕は壬生屋の動きに興奮していただけだ。なんでひと晩でこんなに変われるかな? ……わからないやつには永遠にわからないだろうけど、壬生屋、君は壁を超えたな!」
茜の声が流れてきた。言葉に熱がこもっている。
「そうなんですか? ただ、無理しないようにと自分に言い聞かせていただけですけど」
壬生屋の応答に、「これだよ。あきれるね」と茜は言った。
「こちら矢吹。今のところ損害はゼロだ。わたしもいささかあきれているところだ。まともに戦車大隊だけで当たれば三割の損害は覚悟しなければならない相手だ」
その間にも押し寄せる小型幻獣の真っ直中で榴弾が爆発している。七四式戦車の砲塔の機銃からは一二・七ミリ機銃弾がジャワーのように弾幕を張っていた。
「満足するのは早いですよ。こちとら歩兵ですからね、きっちり小型幻獣を始末せんと。榴弾の破片を受け、三名負傷。後送します」
植村が通信に割り込んできた。
「申し訳ない」
「事故なんでしょうがないです。遮蔽物への待避を徹底しますよ。しかし、まだまだいけそうですな。複数の敵に狙われた戦車について確認を。その場合、こちらはまず最接近した敵を優先して攻撃しますので、その点はよろしく」
……それから三十分の間、自動車道を通過する敵に中型は見あたらなくなった。三機の士魂号は配置につきながら、自走砲の榴弾が路上で爆発する様子を眺めていた。
「なんだか順調すぎるね」
厚志がぽつりと言った。
熱したナイフでパターを切るように、敵は壊滅してくれたが、ついこの間、下関戦で久々に戦いの風の中に身をさらした時となんだか違う。
はじめは舞や矢吹少佐が作戦を考えてくれたせいかなと思ったが、なんというか敵の心が見えなくなった。感覚が麻痺しているのかな?
「……ごめん、変なこと聞くね。壬生屋さん、敵の憎しみとか怯えとか、感じたかい?」
あっと声がして、「速水さんもですか?」と壬生屋が応じた。
「ふ。何を言ってるかと思えば……」茜が口を開きかけた。
「茜。俺たちは黙っていようぜ。速水、けっこう大切な話してる」
滝川がすかさず遮った。
「下関の時は敵をやっつけるたびにさ、どんどん憎しみが強くなってきたんだ。けど、それが怯えや不安に変わって、最後には……そんな感じだったよね?」
「ええ」
速水の言葉に壬生屋はうなずいた。
「昨日、今日の戦いにはそれがあんまりないんだよ。舞はどんな感じ……?」
「わたしはあまり鋭くないが、やつら特有の邪な意志が動きの中にはなかった。虫取り網に捕まる冬の蝶のような……む、まずいたとえだ。忘れよ」
パイロット同士で話していると、「すまんが」と矢吹が割す込んできた。
「君たちは普段からこうして議論するのかね?」
誰も応える者がなかったので、しかたなく厚志が応じた。
「ええと……アクセントみたいな感じで、交信してますよ。無駄口、とよく舞に怒られますけど、本当は舞もけっこう好きで」
「……たわけ、よけいなことを言うな!」
舞が不機嫌に割って入った。
「じゃあ無駄口の続き。戦果はあげているんだけど、敵はそれでもいいみたい」
厚志が言葉を選びながら言うと、舞は「む」とうなった。
「三十五分が経過。うん……、やっと次のご一行さんが来たな。スキュラ三、うみかぜゾンビ十五、ミノタウロス二十八、ゴルゴーン三十、キメラ三十八の空陸混成だ。難易度が少し高めになる。二分後に来るぞ」
瀬戸口が議論にけじめをつけた。
「二番機と三番機は対空戦車とともにスキュラ、うみかぜゾンビをたたく。壬生屋、済まねがオトリ頼む」
「了解しました。あの……済まねが、はやめてくださいね」
舞らしくない気遣いの言葉に、くすりと笑って壬生屋が言った。
「まずはスキュラからだ。移動するぞ」
敵が戦闘体勢に入らぬうちに――友軍を射界に収めぬうちに先制攻撃を加える、と舞は言っている。異存はなかった。
「わかった。じゃあ、行くよ」
厚志はアクセルをぐっと踏んだ。急なGに、舞が忌々しげに舌打ちする音が聞こえ、厚志は微笑んだ。
八月九日 〇八〇〇 旭町・戦車整備工場
そこは岩国基地に隣接する整備工場だった。
元々、民間の自動車工場であったものを軍が員い上げたらしい。工場は兵器ごとの整備棟、格納庫、倉庫、食堂などいくつかの棟に分かれ、堅牢な鉄骨で組み上げられたバラック造りの建物内のところどころに「安全確認」の垂れ幕、文字が目立った。
防塵ペンキが塗られたコンクリートの床を踏みしめ、遠坂は戦車整備棟の風景を見てまわっていた。
とある一画に足を踏み入れると、五両の九五式対空戦車のまわりに整備員が群がっていた。
遠坂がひょいと顔をのぞかせると、整備員はぎょっとして顔を上げた。作業服の肩には、第一整備集団との文字が縫い込まれていた。その集団とやらが工場に展開しているわけだ。
「テレビ新東京の遠坂です。ここを拠点に取材するように言われましてね」
その間にもカメラはまわっている。
「き、拠点っつったって……、ここ、何もないですよ。あるのは壊れた戦車と武器だけです。ああ、食堂と自動販売機があるんで適当に。口に合うかどうかはわかりませんが」
曹長の階級章を作業服に縫いつけた整備班長がそれでもマイクに向かって応対してくれた。
どうやら遠坂の正体を知っているらしい。困惑した表情をしている。
「ああ、サスペンションですね」
遠坂は修理をめぐって整備員が話し合っている一両の前に立った。整備員はあっけにとられて一斉に遠坂を振り向いた。
「機関砲弾でサスペンションがやられていますね。直さずに応急処置で前線に出すんですか? 振動のストレスでクルーにはつらいことになります。下手をするとクルーの生存率にも関わってきますしね……あ、失礼。よけいなことを」
「……どうすっか、揉めていたところです。今から修理すると時間もかかるし」
整備員のひとりが遠坂に言った。
「パーツがあるなら修理してあげないと。サスペンションは戦闘車両の肝ですよ」
どうやらこの部署では曹長以下一部の整備員以外は新人が多いらしい。まだクルーのことを考える余裕がないのだろう。
「……整備員は入念な整備・修理を行っているところです」
そう緒んでカメラを止めさせると、遠坂は整備員の中に入っていった。なんだ、サスペンションのパーツは選び放題じゃないか。賛沢な。あきれ顔の本田・坂上、カメラマンを後目に、「田辺さん」と遠坂は呼びかけた。
「手伝ってあげましょう。これなら十分で終わりますから」
そう言い置くと、遠坂はぼんやりしている整備員から工具を借り受け、戦闘車の下に潜り込んだ。遠坂の求めに応じて、田辺は黙々とパーツを渡す。十分後、遠坂は群がる整備員一同ににこやかに笑いかけた。
「テストよろしく。……どんな感じです?」
用意された突起物の上を対空戦車は行き来した。
「パーフェクトです! すげえ、十分で九五式のサスペンションを修理する人なんてはじめてですよ! あんた、何者?」
車内から整備員が出てきて興奮してまくしたてた。
「今は一介の民間人ですが、以前は整備の神様の下で働いていました」
整備の神様、と開いて整備員はオオオと感嘆の声をあげた。整備の神様・原素子は、今では整備員の間では一種の都市伝説となっていた。稼働率ひと桁の人型戦車を、九十九パーセントにまで高めた手腕は遠坂ら現場にいた人間にとっては何ほどのこともない事実だったが、一般の整備員の間では伝説と化していた。
しかも美貌を併せ持つ天才。芸能界入りがまことしやかに噂され、原素子異星人説までささやかれているほどだ。
「あ、あの……原先生に弟子入りするにはどうすればいいんすか?」
若い整備員が手を上げて尋ねた。
原に弟子入り……大変だ。遠坂と田辺は視線を交わして微笑んだ。
「最低、人型戦車の整備ができるようにならないと。制御系、人工筋肉に関しては特に猛勉強が必要ですね。わたしも……わからないところがわかるようになるまで時間がかかりました。原さんは天才肌のメカニックだからついてゆくのが大変でしたね。あ……この戦車、なんだか歪んで見えますよ」
遠坂は整備員の輪を割って、隣の戦車に歩み寄ると、スパナで事体を軽くたたいた。
「なるほど。元々が不良品ですね。サスペンション? スタビライザー? 油圧系統かな? それとも……」
外では砲声銃声が勢いを増しているというのに、生き生きと話す遠坂と、遠坂を神の使いのように囲む整備員をカメラマンがいつのまにか映していた。これでは遠坂の独壇場だ。
「……あー、取材はどうするんだ?」
サブマシンガンを手にした本田が口をはさんだ。遠坂は、はっと我に返って、
「……整備工場取材は終わりです。食事を摂ってから門前川近辺に行こうと思っているんですが、どんな感じかな」
「ちょっと……ちょっと待ってください! 危ないですよ。遠坂財閥の若総帥が行くようなところじゃありませんぜ」
整備班長があわでたように言葉を挽けて言った。
「そ、そんなことよりお願いが。実は……そちらの方が着ている烈火なんですけど、生体兵器棟に試作品が二十ほど届いていまして。あちらには人手も人工筋肉の知識もないんで、兵に支給してよいか迷っているところで……もし、よろしければ」
なるほど、と遠坂はにこやかにうなずいた。
「これは重要な問題ですね。案内を。わたしと田辺さんでチェックしましょう」
本田と坂上はまあいいかと苦笑を浮かべ、顔を見合わせた。
八月九日 〇九一〇 中津町・川俣中学校付近
あきれ顔の整備員を後日に遠坂は整備工場を後にしていた。
田辺とふたりで人工筋肉の不具合をわずか三十分ほどで処理すると、軽トラを借り受け、烈火を五着積んで、中津町へ向かった。
左手になおも運行を続けている山陽本線が見える。生体ミサイルが落下する中、数両の客車から兵員が降り立ち、貨車からは戦闘車両が線路上に降り立った。これが戦場だ……。遠坂は不思議な解放感を覚えた。
「だめだ。これ以上、先には進めねえ」
ハンドルを握る本田が軽トラを路地に入れるとサイドブレーキを引いた。路地に入ったとたんに生体ミサイルがほんの数秒前までいた路上で爆発した。彼らが進む188号の両側の建物は炎と煙に包まれていた。
「進めないとは、どういうことですか?」
遠坂が荷台からオットリと尋ねると、本田は忌々しげに叫んだ。
「ここから先は戦争の真っ直中だってんだよ! おめー、死にたいのか?」
「しかし……わたしは戦争を取材しに来たんですよ。死ぬの生きるのを言うのなら、そんなことは運命の問題でしてね、運命がわたしを殺したければどんな安全なところにいたって死にますよ。生かしたければその反対ですね。……わたしはそう考えます」
遠坂は心外だというように顔色を変えて滔々と反論した。
「あの……それはよくわかりますけど。ここは先生に従った方がいいです」
助手席に座っている田辺が遠慮がちに口をはさんだ。
「この先は激戦地ですから。護衛としては止めたいところですね」
坂上が冷静な声で口添えした。カメラマンは路上に降りて、燃える街並みを撮している。
「あんたら……こんなとこで何してんだ?」
不意に声がかけられた。十人ほどの戦車随伴歩兵が路地裏になだれ込んできた。泥と挨と煤で汚れまくったウォードレスを着込んでいる。装備は小隊機銃に……零式ミサイルを担いでいる兵もいる。指揮官らしき少尉は、最新の六九式小銃を手にしていた。彼らは周辺の様子を確認すると、それぞれ武器の、あるいは怪我の手当を自らしはじめた。
「はじめまして。わたしはテレビ新東京の遠坂と申します。カメラさん、よろしく。ああ……こちらのことです。戦況はどうですか?」
どうですか、と開かれて少尉の煤にまみれた顔が引きつった。怒ったのかな? 遠坂はにこやかな笑みを崩さずにそんなことを思ったが、少尉は押し殺した笑い声をあげた。
「ご覧の通りですよ。隊が三分の一にすり切れちまった」
「それはわかりますが……あなたがたはまだやる気でしょう?」
こう言われて少尉は、ふんと鼻を鳴らした。
「川をはさんで三本の橋を取ったり取られたりしている状況です。中型幻獣の侵攻は今のところ阻止していますが、ゴブはこちらの戦線をすり抜けて相当数浸透しています」
ゴブとはパペット型……小型幻獣の略称である。下関からここ岩国に押し込まれるまで人類側がどれだけの数を倒したかは不明だが、その数は百万とも二百万とも言われ、実際には算出不可能だ。
その圧倒的な数の多さから、陣地攻撃に加わる者もいれば、陣地をすり抜け、戦線後方へと浸透する者もいる。要は津波と同じようなものと考えればよいだろう。特に後方への浸透は厄介で、放置しておくと人類側の防御拠点は補給路を絶たれ孤立してしまう。戦場に安全なところなどない、というのが兵らの常識だった。
遠坂はさりげなく少尉の肩の部隊章に目をやった。観光名所の錦帯橋《きんたいきょう》を象ったのか、アーチの曲線が強調された橋のマークの下に21の数字があった。岩国二十一旅団。第二師団とともに軍都岩国を守る軍だった。装備から見ても一線級の部隊とわかる。
「荷台に新型のウォードレスが積んであります。旭町の整備工場からことづかったんですけど」
遠坂がさりげなく言うと、少尉の目の色が変わった。
「烈火の試作品ですが、不具合は修正してあります。スペック的には二〇ミリ機関砲の直撃を受けても大丈夫です」
坂上がカメラ位置の外から淡々と説明した。
「どんな感じ……ですか?」
少尉は坂上の発する雰囲気に気圧されて丁寧に尋ねた。
「動きは鈍くなりますね。ただし、拠点防御には贅沢過ぎる装備ですよ」
「これ……支給してよろしいですよね? もし問題があったら後で弁償します――」
遠坂はカメラに向かって微笑んだ。
数分後、ウォードレスを破損した兵の半数が烈火に着替えていた。不用意にアームを動かした兵が住宅のブロック邪を粉々に欝した。
「馬鹿野郎……!」
少尉は怒鳴ったが、ハンマーパンチのあまりの威力に「へっへっへ」と兵は笑った。
「これならゴブの真ん中に突っ込んで大暴れできます。にしてもすげーな。なんだかプロレスラーになった気分っすよ」
無邪気に本音を言う兵を、少尉は苦笑して小突いた。
「さて、小休止は終わりだ。川俣中ポイントに戻るぞ」
少尉がうながすと、兵の目つきが変わった。武器を点検する金属音が響き渡った。
「わたしたちも同行します」
遠坂は無造作に言うと、カメラマンにこの場面を撮せと合図をした。
「無茶を言うな! ここまで来ただけでも危険なのに、これ以上進んだら死ぬぞ! 民間人はさっさと逃げろ……!」
少尉はカメラを向けられると憤然として叫んだ。
「ありのままの戦争を伝えたいのです。それにここにいるクルーは役に立ちますよ。わたしと彼女はウォードレスと武器の修理ができます。あと……」
遠坂は本田と坂上を目で示した。本田はともかく、坂上の発する雰同気は兵としての格の違いを感じさせるものだった。
「軍人……じゃないんですか?」
少尉は小声で坂上に尋ねた。坂上は表情を変えずに「ええ」とうなずいた。
「わたしと彼女はとあるボディガード養成所の教官です。彼の護衛を命じられましてね」
「……わかりました」
少尉は半ば自棄になって遠坂に向き直った。
「ただし、自己責任で。こちらはマスコミとやらをご接待する余裕はありませんから」
校門裏から侵入すると、すぐに閃光が目に飛び込んできた。
ゴブリンの群れの真ん中で手榴弾が爆発したのだ。校舎内からの小隊機銃が弾幕を張って、校門裏から陣地を迂回突破しようとしたゴブリンをばたばたと倒した。
生き残ったゴブリンが遠坂らのいる裏門めざして進んでくる。小隊の小銃、機銃が火を噴いた。なおも進んでくるゴブリンに烈火を着た兵が襲いかかった。ウォードレスに取り付こうとしたゴブリンにハンマーパンチがたたきつけられた。
ゴブリンの頭部がひしゃげたかと思うと、地面に伏したまま動かなくなった。要領を覚えた兵がさらに三匹、ゴブリンを撲殺した。
「なんじゃそりゃあ……?」
あきれ声が校舎裏に響いた。ゴブリンを掃射していた兵たちが校舎内から姿を現した。周辺を警戒しつつも、重ウォードレス烈火に日を奪われている。
「こいつはな新型のウォードレスだ。象が乗っても壊れねえってな」
ハンマーパンチでゴブリンを撲殺した兵が自慢げに言った。
「室井中尉は?」
少尉が尋ねると、校門の方角からひときわ高い銃声が起こった。
「敵! また来やがった。中尉は屋上に。高射機関砲でミノとゾンビに備えていますよ」
少尉はうなずくと、「加勢に行くぞ」と言った。
「校門陣地にゴブ三百! とっとと配置につけ……!」
屋上から声が降ってきた。小隊機銃が一斉に機銃音をあげる。少尉らが校舎を迂回して陣地に向かおうとすると、五体のゴブリンリーダーに出くわした。後には五十体以上のゴブリンが続いている。
手榴弾投擲。次いで、二丁の小隊機銃が火を噴いた。ゴブリンリーダーの体がふらついたかと思うと、二メートルの巨体が地面に伏す。動きの鈍いゴブリンリーダーを追い抜き、ゴブリンが兵に襲いかかった。
烈火に身を包んだ兵が小銃を撃ち、ハンマーパンチで張り付いたゴブリンを撲殺する。坂上もその中に加わっていた。坂上はゴブリンリーダーの背後にまわると、その背にサブマシンガンの銃弾をたたき込んだ。なおもたたずむ敵の傷口をハンマーパンチで切り裂いた。本田は遠坂らをめざして突進してくるゴブリンにサブマシンガンで応戦している。さらに一匹、飛びかかってきたゴブリンをすばやく引き抜いたカトラスでしとめた。
「前進」
敵が消滅したのを確認すると、取材クルーを含めて二十名ほどの兵は校門前陣地の側面に展開しようとしている敵に銃撃を浴びせた。一二・七ミリ機銃はゴブリンをまたたくまに切り裂き、肉塊に変える。四丁に増えた小隊機銃は、容赦なく敵をなぎ倒した。
坂上の要領を目に留めていたのか、背を向けて逃げ出すゴブリンリーダーに烈火を着た兵が襲いかかった。密着距離でサブマシンガンを放ち、体液を吹き出す傷口をえぐるようにハンマーパンチをたたき込む。
陣地内の兵たちは銃撃を止め「新兵器」の威力を見守った。白兵戦に十分に耐えるウォードレスは貴重だった。
「……よし。追撃するぞ! 橋を確保する」
屋上からの声に兵らは喚声をあげて目の前にかかる門前橋に突進した。傷を負い、ふらつくゴブリンをカトラスで突き殺し、ゴブリンリーダー、ヒトウバンの背にはありとあらゆる銃弾をたたきつける。
兵たちのあげる蛮声。充満する人間の血と幻獣の体液のにおいに酔いそうになりながらも遠坂も走っていた。と、坂上の腕が伸びて遠坂を制止した。振り返ると塹壕前には本田と田辺、カメラマンが茫然とした顔で自分を見ていた。
「これ以上はだめです。十分過ぎるほど戦争を見たでしょう」
坂上に言われて、遠坂は深々と息を吐いた。
「我を忘れでしまいました。……申し訳ありません」
塹壕に引き返すと、田辺が心配そうに見上げた。自分にも田辺にも幻獣の体液が付着し、独得なにおいを放っている。田辺さんを危険な目に遭わせてしまった……。遠坂は田辺の肩に手を置くと、「すみません」と謝った。
「おめー、なんだか溜まってるんじゃねえのか? 冷静になれ!」
本田が忌々しげににらみつけてきた。
「ええ……。頭が冷えました。ここの指揮官を取材することにします」
田辺の心配そうなまなざしを意識して、遠坂は自分の衝動的な行動を恥じた。
八月九日 一二三〇 防府市近郊・山陽自動車道
定期的に通過する敵を戦闘団はことごとく殲滅していた。
この戦役が起こるまで単独で動いてきた5121小隊だった。戦車、歩兵との連携によって戦果が自乗倍に膨れ上がることに舞自身が驚いていた。
補給を受け、すでに十二時の時点で四度目の進撃作戦を成功させていた。その戦果、中型幻獣撃破二百四十七。うちスキュラ十八。小型幻獣に至っては数えようもなかった。
さすがに疲れた……
舞はしぶしぶと自らの疲労を認めた。厚志はしだいに無口になっていった。それは他のパイロットも同じことで、壬生屋は一度、後方に下がって休息していた。
「自走砲中隊から連絡があった。残弾なし。榴弾の到着まで二時間かかるとのことだ」
矢吹から通信が入った。
「同じく、複座型のミサイルもなし。二〇ミリ機関砲弾は残り二百を切ったわね」
原からも報告があった。どの声にも疲労の影が認められた。攻め疲れ、戦い疲れ――。まさに「目をむくような」大戦果をあげながらも、残るのは疲労感だった。
「そろそろ……だな」
舞が通信を送ると、矢吹が「うむ」とうなずいた。
「撤収の準備をしながら聞いてくれ」
瀬戸口の柔らかな声がコックピットにこだました。声に疲労は感じられなかった。
「ご一行さんの出現間隔のことなんだが、三十、三十八、四十八分とだんだん間が空くようになってきた。これは何を意味するか?」
「間隔が空くのは確実に敵に打撃を与えている、ということではないかね?」
矢吹が口を開いた。無線から撤収準備をする車両のエンジン音が聞こえた。
「ええ、もちろんそれもあるでしょう。実は戦闘中、自称天才氏に分析をしてもらっていたのですが、山陽自動車道を進撃する敵が減っているんです。茜、説明してくれ」
瀬戸口がうながすと、「ふ。やっと出番が来たか」と茜が言った。
「一昨日、昨日と比べて間隔が長いと思ったんで、偵察衛星からデータを取り込んでみたのさ。はじめは中国地方の第一の動脈、山陽自動車道を何かに取り憑かれたように闇雲に進んでいたよね? その理由。敵さんも僕たちを動脈に張り付かせて、捕捉撃滅、そして戦力を削ることを考えていた、と。宇部戦線が崩壊して、岩国最終防衛ラインに取り付いたところで、『お馬鹿さんなフリ』をする必要はなくなった。今は動脈の他にいろいろな静脈も優って進撃している。まあ、目標は岩国に収束するんだがね」
茜は言葉を切った。「くそ……」悔しげなつぶやきが洩れた。次いで指揮車の床で地団駄を踏む書が聞こえた。
「僕もまんまとだまされたよ! 九州の時と同じく、敵はその余勢をかって電撃的な短期決戦を挑んでくると考えた。けれど、敵は岩国防衛ラインを突破しさえすればいいのさ。まったく……大天才の僕にしてだまされた。人類の業っていうかさ、幻獣はあんな化け物みたいな姿だから、どうしても人間より頭が悪いと思ってしまうんだよな! くそ、くそ、くそ……!」
「だいちゃんはだけどきづいたんでしょ?」
東原がやさしく言った。
「あのね、ののみ思うのよ。げんじゆうってにんげんと違うからつよかったんじゃないの? みっちゃんや未央ちゃん、言っていたよね。げんじゅうがこわがっているって。ののみも九州のときからずっとかんじていたよ」
「東原……」茜は冷静を取り戻したようだ。
「九州のげんじゅうはもっとつよかったよ」
「そ、そうなのか?」
舞は衝撃を受けて口走っていた。
「うん!」東原は元気よく請け合った。
「わたし……も……そう……思う……わ」
石津の声か? 本当に石津は変わったな! 頼もしく、心に勇気を与えてくれる。
「東原と石津が言うのだからまちがいはなかろう。厚志、壬生屋、どうだ……?」
「僕は……言葉を知らなくてうまく言えなかったんだけど、茜やののみちゃんや石津さんの言っことを聞いてなんかすっきりした。そういうことなんだろうね」
厚志は声に張りを取り戻していた。
「あの……わたくし、復帰した時、自分が強くなったと思ったんです。けれど、それって自分が強くなったのではなく、敵が弱くなったということだったのですね。ええ、東原さんと石津さんのおっしゃることわかります。幻獣の皆さん、けっこうすぐ弱音を吐いていたし」
壬生屋はくすくすと愉快そうに笑った。
「ええと……以上、分析終わり。僕は作戦会議に出られないからこの場で言わせてもらった。えらい人たち、後はよろしく。瀬戸口がデータを提出するから」
茜は冷静に言葉を結んだ。
「なんだかおめーがホントに天才に思えてきたぜ」
それまで口を挟めずにいた滝川が冷やかした。
「ふ。だからホンモノの天才なんだって」茜は気取った口調で応えた。
「まあ、俺の見込んだ通りのダーリンだよ。ただなあ、今んところは変態半ズボンが何を言っても相手にされねーからな。そこがかわいそーなところだぜ」
田代の声が割って入った。
「だ、誰がダーリンなんだ! 君には特別な感情は持っていないぞ!」
茜の狼狽える声が聞こえ、田代が「へっへっへ」と笑った。
「なーに無理してやがるんだよ? 素直になれよ。俺たち他人じゃぬーじゃん。あんなこともこんなことも……」
「わああああ――!」
茜は悲鳴をあげて田代の言葉を遮った。
「た、た、助けてくれ。芝村――」
どうしてわたしなんだ? 舞は苦々しげに言葉を発した。
「何を、どのように助ければよいのだ? 現状では理解不能だ。まとまったレポートにしてわたしに送るがよい。話はそれからだ」
「けど、茜と田代さん、お似合いだと思うけどなあ。田代さんの気持ち、わかるよ」
厚志がぼややんとした調子で言った。
「そ、それってどゆこと?」滝川が素朴過ぎるほど素朴に尋ねた。
「茜は面白いんだよ。突っつけば赤くなるし、放っておけば青くなるし。すごく構い甲斐があるんじゃないかな」
「へへっ、まいったまいった。さすがは速水だ。鋭いところを衝くぜ」
田代は満足げに速水の「分析」を評価した。
「なんともまあ……」
それまで黙っていた植村中尉があきれたように言葉を発した。
「作戦中にもこんな話をしているのか? その、なんというか、個性的だな、君たちは。……矢吹少佐が黙り込んでしまったぞ」
「ははは。ま、こんな調子です。これでもこれまでは自衛軍の皆さんと一緒だったから遠慮していたみたいなんですけどね。ははっ、あきれて構いませんから」
瀬戸口が楽しげに言うと、「そなたが言うな、そなたが!」と舞が不機嫌に突っ込んだ。
「無駄口率はそなたが一番高いのだぞ! わたしは証拠となるデータを持っている!」
「ははは。わはははは」
植村の笑い声が爆笑に変わった。
[#改ページ]
第十三章 心の闇
八月九日 一三三〇 山口市内某所
市民が避難した街は閑散としていた。
ここ山口市は幻獣の進撃路からはずれていたために避難は順調に進み、今では軍と軍関係者だけが残っていた。
敗兵を収容し、今朝方は萩から撤退してきた兵を迎え入れ、戦闘団は当初の規模よりはるかに膨らんでいたが、それでも二十万規模の都市を満たすにはあまりに少な過ぎた。半ばゴーストタウンと化した駅周辺を近江貴子《おうみたかこ》の中隊は警備していた。
萩からの敗兵を吸収して中隊は復帰を遂げていたが、作戦からはずされ、干されていた。
戦闘団は大戦果を挙げ、岩国の攻防戦ははじまってしまった。復権を遂げるにはどうすればよいのか? 部下から離れて近江は駅近くの公園のベンチに腰を下ろし考えていた。
夏の陽炎《かげろう》の中にフリルのついた古風な純白のワンピースを着た女性が立った。十四、五才ぐらいの少女だった。少女は日傘を差したまま、じっと近江を見つめた。
「あなたが指揮官になればいいんじゃないかしら?」
近江は耳を疑った。幻聴か? それにしてもなぜ、民間人がこんなところに残っている?
少女はエメラルド色の瞳に、夏の光にまばゆく輝く金色の髪を持っていた。どこか西洋の妖精を思わせる現実離れした雰囲気を漂わせている。
近江は怪しむように少女に尋ねた。
「……今、何か言ったか?」
「|Ja《ヤー》」
少女はうなずくと白い歯を見せて笑った。
「あなたが指揮官になって、岩国に転進するの。それだけでもお手柄よ。九州でもやったことじゃない? 関係を拒否したら役立たずの女って散々上官につらく当たられて、最後には殿軍《でんぐん》として捨てゴマにされそうになった」
「なんだと……」
近江は青ざめて、ホルスターの拳銃を取り出した。
この女、何者だ? まさか熊本戦のことを未だに調査している者がいるとは――。殺さねば。しかし殺しをどう説明する? 近江は考え込んだ。
「戦闘の最中に中尉を撃った。とっても勇気のあるタカコ。……わたしはあなたのお友達よ。あなたのことはなんでも知っている」
「おまえは狂っている。至急、施設に収容してもらう」
そうだ……。ラボはこの年頃の少年少女を求めているはずだ。検疫課に連絡して引き取ってもらおう。
「無理」
少女のエメラルド色の瞳が笑みをたたえた。近江は立ち上がろうとしたが、金縛りに遭ったように動けなくなった。
「……幻獣共生派か?」
少女はにこやかに笑って手を振った。
「わたしが何者であるかは問題じゃないでしょう? ええ、共生派と思いたければそれで。仕事の話をしましょう」
「仕事とはなんだ?」
わけがわからなかった。少女は笑みを消すと、華奢な細い指を鳴らした。どこからかウォードレスを着た兵が近づいてきた。近江の掌にも収まる小箱をふたつ持っている。どちらも贅沢な象嵌《ぞうがん》が施された木箱だった。オルゴールか?
兵は近江の前で立ち止まると、ふたつの木箱を差し出した。
「な、なんだ、これは?」
「タカコはどっちが好き?」少女は悪戯っぽく笑った。
「ふざけるな! 質問に答えろ!」
「右の箱を開けてみて」
金縛りがやっと解けた。一瞬、ホルスターの拳銃を意識したが、すぐに「あなたにわたしは殺せないわ」と少女は見透かしたように言った。近江はしぶしぶと言われたとおりにした。
箱の中には宝が詰まっていた。まるでおとぎ話だ。指輪、ペンダント、イヤリング。ダイヤモンドやルビーなど貴金属が夏の光を反射してまばゆく光っている。
宝石箱……。黒一色で塗りつぶされた子供の頃の記憶の中で、ただひとつの夢と憧れ、渇望の象徴として残っているもの――。
近江の目は箱の中身に釘付けになった。
なぜだ? なぜ、こんなものを見せる?
「これ、子供の頃、欲しかったんでしょう? けれど大人になったあなたには箱だけじゃ不満よね。中身ごとあげる。仕事が成功してもしなくてもね」
「どういうことだ?」
意外な成り行きの連続に、近江は疑問を連発している自分に気がつかなかった。しかし少女は近江の問いを無視して、兵の手から左の小箱を手にとった。蓋を開けると、馴染みのある童話が流れ、デジタル表示のタイマーがすぐに近江の目に映った。
これならわかる……。
「それじゃお仕事の説明をするわね。戦闘団は出撃した後、必ず会議を開くでしょう? あなたの仕事は会議室の隣の廊下にこれをオンにして置いてくるだけ。会議室の中じゃだめ。気づかれちゃうから。どう、お使いより簡単でしょう?」
「……」
近江は額に吹き出る汗をぬぐった。
「ドーん。爆発が起こってえらい人はあなたの前から消えるわ。後はすばやくアクションを起こすの。そうね、誰よりも速く芝村少将に連絡をとって、混乱した兵を率いて岩国への撤収を指揮する、とでも訴えて志願すればいいかしら? 少将は野心的な人物が好きだしね。後は生きるか死ぬかはタカコの運命ね」
「貴様……」
「この宝石、有効に使えばどんなに不器用な人でも大佐ぐらいまでは出世できるでしょうね。わたし、知っているのよ。あなたは別に人類がどうなろうと関係ないのよね。タカコほど可哀想で気の毒な子供時代を送った人も珍しいものね」
まるで芝居のセリフでもしゃべるように、少女は抑揚をつけて言った。
「やめろ! やめてくれっ!」近江は青ざめて耳を塞ごうとした。しかし、体はフリーズしたようにピクリとも動かない。全身が総毛立って震えが止まらなかった。
「可哀想なタカコ言葉にするととんでもないロマンになるしね。悲しい話はやめましょう」
少女の芝居がかった口調は止まらなかった。
近江は荒い息を整えて、「どうして」と言葉を発した。
「どうしてわたしのことを知っている?」
「わたしのお友達には人の心を読むことができる人がいるの。今の時代、ありふれた話。さあ、夢の扉を開けてみる?」
「わかった……」
言ってしまってから近江は愕然とした。断る、と言おうと思っていた! なぜ? 近江のまなざしは少女のエメラルド色の瞳に吸い込まれるように引き寄せられていた。
「可愛い人――! あなたは今からわたしのお友達よ」
少女は、嬉しげに笑うと近江の手にオルゴールを握らせた。
「……ひとつだけ」
「なあに?」少女はにこやかに小首を傾げた。
「おまえの名は?」
「カーミラ。これから仲良くやりましょうぬ。タカコ?」
カーミラと名乗った少女は背を向けると、低い声で歌を歌いはじめた。
澄んだ声で無邪気に童話を歌いながら、純白の少女の姿は陽炎の中に消えていった。
白日夢! 気がつくと近江はベンチに座っていた。
地面に視線を落とすと足下に宝石箱とオルゴールが置かれていた。夢ではなかった。近江はおそるおそる精巧な象嵌が施されたオルゴールを手に取った。
わたしは悪魔と契約してしまったのか? 不意に膝が震えて、心の中が怯えと不安に満たされた。どうしよう……。
近江はあたりを見回すと、人気のない公園で考え込んだ。
……わたしはなんだって自分ひとりで処理してきた。子供の頃の生活は記憶の片隅に今なおしぶとくへばりついている。
どうしてあたしをいじめるの? 自分をラボに売り渡そうとした両親を殺して、ありったけの金を持って東京に出て、ある少女と知り合った。少女に身寄りがないことを知ってすぐ、近江のナイフは少女の喉を切り裂いていた。
それから東北に行き、殺した少女の身分証を使って軍に志願した。自らを型にはめて帳尻《ちょうじり》さえ合わせれば驚くほど楽に生きていける世界だった。ただ、それだけではだめなことをすぐに悟った。牛や馬の生活だ。
将校たちの世界をかいま見て、そう思うようになった。
中隊長を殺したのは占いのようなものだった。前線の背後から敵が攻めてきて、指揮所の将校たちは一斉に逃げ走った。煙幕とキメラの熱線、生体ミサイルが爆発する中、硝煙の切れ目にこちらに向かって駆けてくる中隊長の姿が映った。おまえが消えるかわたしが消えるか? 近江は引き金を引き、弾丸はきれいに中隊長の頭蓋を貫いていた。それから近江は声を張り上げ、撤退を指示した。
撤退は凄惨を極めたが、近江は最善を尽くした。軍、特に会津はこの種の物語を好む。軍曹だった自分は二階級特進し、中尉となった。
戦闘団の司令部が壊滅すれば、後は尉官だけになる。佐官が生き残ったとしても、団の頭脳は失われているわけだから、あの少女の言ったことは可能性を帯びてくる。
どうする? どうするか? しかし、芝村少将は敵の派閥ではないか? 待て、それ以前に西部方面軍の司令官だ。
問題はないだろう。爆破のタイミングを見計らって、指令センターを占拠する。非常時ゆえわたしが指揮権を引き継ぐと放送するのだ。
なんだか頭がすっきりとしてきた。ふと足下の宝石箱に目を留めて、はっとなった。脳内で何かのスイッチが、かちりと音をたてた。
だめ! だめだ。きっと誰かに取られちゃう!
近江はオルゴールを置くと、屈んで宝石箱を両手に抱え込んだ。不安げに周囲を見渡す。宝石箱。とっても欲しかったもの。父ちゃんと母ちゃんに見つかったらきっと取り上げられる!
どこで盗んできたっていじめられて、しまいには裸にされて――。こわい……。こわいよ。隠さなきゃ。近江は瞳孔が開いた目で、ひしと箱を抱きしめて何度も何度も周囲を見回し、子供が宝物を埋めるように、急いで植え込みに穴を掘って宝石箱を埋めた。
……これまでの記憶は無惨に消え去り、近江は自分を九才の幼女と信じ込んでいた。
宝石箱。あたしがとっても欲しかったもの。中にはきらきら光るものがたくさん入っている。
あの宝石箱がある限り、あたしは幸せ。近江の心は無邪気にときめいていた。
そしてお姉ちゃんから頼まれたお使いを果たすためにオルゴールを手にとった。
八月九日 一四二〇 吉香公園
にしても戦車ってのも不便なもんだな。
六一式戦車の砲弾数は五十発。榴弾の支援射撃を行えばすぐに尽きてしまう。二度ほど弾薬の補給を手伝って、橋爪はあきれたように「花壇」を見上げた。
操縦手の鈴木のウンチクによれば、六一式戦車の速射性能は一分間に十五発。デビューした当時も現在も大したものだそうだ。
じゃあ装填手が大変じゃねえか、と作業をしながら橋爪が混ぜっ返すと佐藤があははと笑った。そうよねえ、なんだか間が抜けているよねえ、と。ウォードレスの筋肉補正を受けているとはいえ、一発十三sなりの砲弾を「わんこ蕎麦」のように装填しているのではたまったもんじゃない。大昔にはけっこう輸出もしていた戦車らしいから、いわゆるカタログスペックってやつだなと橋爪は思った。
鈴木と神崎は隣り合って座っているが、心なしか距離が接近して見える。肩と肩が触れ合いそうになって、たまに視線を交わしては黙り込んでいる。
へっへっへ、これって車内恋愛ってやつ? 橋爪はにやりと笑った。
「ね、ね、あんたの彼女ってどんな人?」
佐藤が砲塔から声をかけてきた。鼻っ柱は強いけれど、根はいいやつみたいだ。
「あー、イチゴの代わりに梅干しが乗っているショートケーキみてえなやつだな。甘ったるいけど妙に強情でさ」
橋爪が応えると佐藤は「へえ」と要領を得ない顔になったが、すぐに冷やかすような目つきになった。
「そういうケーキを食べちゃうやつもいるんだね!」
「た、食べてなんかいぬえぞ! 食っちまったらずっと面倒みなきやいけなくなるしな!」
「あっはっは、臆病者」
佐藤は豪快に声をあげて笑った。その表情を見て、「……だよな」と橋爪は作業をしながら妙に納得した。こういうアホ話に飢えているんだろうな。
「そういう女っているだろ? おめーみたいな男イリマセン女とは違うんだよ」
橋爪が苦々しげに言うと、佐藤は余裕の表情を残したまま橋爪の顔をのぞきこんだ。
「ふっふっふ。ネーミングにヒネリがないね、逆モヒカン君。だからー言ったじゃん。本当に情報センターの大尉さんとつき会っているんだって! 落合大尉っていうのよ。調べてみな」
口をとがらせて言い募る佐藤に、副操縦席からうふふと笑い声が聞こえた。
「佐藤、背伸びしてるんです」
神崎が小声で言った。
「これから大尉さんと食事に行くってワンピース着て自慢しに来たんだけど、肩の筋肉ついちやってるから、なんだか勇ましくって。食事じゃなくて喧嘩しに行くみたいで。まだ友達以上恋人未満なんですよ」
「へっへっへ」
橋爪が笑うと、「ジャーラップ!」と声が飛んできた。
「大尉さん、似合うって言ってくれたんだから! 僕は健康的な女性が好きだって。背伸び上等。恋は冒険よ。アドベンチャー! 神崎、あんたは冒険しなさ過ぎ! このオキアミ野郎のどこがやさしいってのよ?」
「う……」
急に水を向けられて操縦席の鈴木がうめいた。
「気配りしてくれるし……パンを」言いかけて神崎は黙り込んだ。
「ノオ! 信じらんない! 鈴木にオキアミパンもらったぐらいでポッとなるってか? キミは男で苦労するタイプだねえ。ミゼラブルでプアーな人生送って、あの時わたしも冒険していれば、とか、大尉さんにアタックしていれば、とかくよくよ後悔して悩むの。どうだっ……!」
佐藤の強引な決めつけに鈴木と神崎と橋爪は同時にため息をついた。
「君たちの隊長はいつもあんな感じなんですか?」
合田に尋ねられて橘と名乗った少女は恥ずかしそうに顔を赤らゆた。二号車の車長は小柄で目立たない少女だが、FOXキッドの上からでも俊敏そうな体つきとわかる。
「わたしたち、元はソフトボール部だったんですけど、戦争がはじまる前からあんな感じでした。佐藤はキャプテンで……なんか思い出しちゃいます。マスクをとってかけ声上げる佐藤。どんな負けている試合でも佐藤、胸張って声を出してたな……」
橘は懐かしむような目になった。
うん、懐かしいな……。合田も作業を続けながら、野球部時代のことを思い出していた。戦時下、そして人類の生存圏が狭まるにつれ、プロスポーツも消滅していった。それでも野球には国民的な人気があり、変わらず甲子園をめざし、プロをめざす少年は多かった。自分もそのひとりだった。
「君はセカンドかショートじゃなかったですか?」
「え……?」橘は目を瞬いた。「ショートを守っていましたけど。わかるんですか?」
「まあ、体つきと、あとは今の話かな。チームの雰囲気づくりの話をはじめにしたでしょう。佐藤さんが強打者だったとかそんな話じゃなくて。キャッチャー、ショート、セカンドをやるプレイヤーはチームのメンタル面に敏感ですから。野球だとセカンド、ショート、センターのラインがすごく大切なんですよ」
合田は笑いながら言った。
「あの、少尉殿、もしかしで野球を……?」
橘は遠慮がちに尋ねた。
「ええ、ポジションはピッチャーだったんですが、肩を壊しましてね。……なんだかずいぶん昔の話に思えます。ははは」
合田は照れくさそうに笑った。「すみません」橘が謝った。
「謝ることはないですよ。単にそれだけの選手だった、というだけだから。まあ、そんなこんなで士官学校に入学したわけです。しかし……君たちの隊長はいい感じですね」
「ええ。ソフトボール部再建するんだって植木屋さんにバイトの話つけてきて。そうしたら急に召集されちやって。……あの、わたしたち、死ぬんでしょうか?」
不安げな橘の言葉にこみ上げるものがあった。……この子たちに思う存分ソフトボールをさせてやりたいな。合田は顔を背けると、「大丈夫」と請け合った。
「僕たちが絶対に死なせやしません。ソフトボール部、再建できるといいですね」
合田は感情を抑えると、にこっと笑った。
「少尉――、なにしみじみ話し込んでるんすか? あんな美人の彼女がいるくせに浮気は禁止っすよ!」
橋爪のよく響く声が聞こえた。
「こちらの少尉さんはね、ユウと違ってジェントルマンなの! どうして少尉さんの下にあんたみたいなピテカントロプスがいるかな?」
佐藤の声も負けじと響く。
「ばっきやろ、俺がピテカントロプスだったらおめーは北京原人じゃねえか!」
「えっへっへ、キミは偏差値低いねー。原人な分だけましじゃん! ……あ、少尉さんって彼女いたんだ? ね、ね、ね、どんな感じの人?」
ふたりのやりとりに合田がお手上げという風に両手を挙げると、橘もふふと笑った。
八月九日 一四三〇 川俣中陣地
五度橋を取って、五度奪い返された。
その度に中隊は橋を逆戻りして川俣中ポイントに逃げ込み、敵の侵攻を凌いでいた。中学周辺の建物はほとんどが倒壊し、川の西岸からはふたりひと組で原隊から離れて単独行動する狙撃兵の散発的な銃声が響いている。彼らの主な標的は、ゴブリンリーダー、キメラだ。前者は二メートルを超える「小型幻獣」であり、白兵戦に加わられると面倒な相手で、後者はレーザー攻撃が厄介な重砲型中型幻獣だ。中型とはいえ装甲が比較して薄いので、熟練した狙撃兵の中にはキメラを専門に狙う者もいる。
西岸に陣地……ポイントを確保し、敵に出血を強いるというのが中隊の任務だった。しかしこちらが必死になればなるほど、敵も意地になって攻めかかってくるようだ。
「橋を爆破しないんですか2」
遠坂が尋ねると室井中尉はしぶい表情で首を振った。
「じき中型幻獣の大群が到着します。爆破するのはこいつらに打撃を与えた後ですね。小型幻獣の攻撃ごときで爆破するわけにはいかんのです」
とにかく一体でも多く中型幻獣を倒すことだ、と中尉は言っている。
中隊は戦闘の度に消耗し、その度に少数の兵、車両が増援として駆けつける。増援とはいえどこかの戦線から転用されたのか、相当にくたびれている。
「中隊長、ミノ十、ゴル十八、キメ公二十が接近中とのことです」
無線機に張り付いていた兵が報告した。友軍の砲撃、そして方々に散っている狙撃兵の洗礼をくぐり抜けた一群が向かっているのだろう。
「……そろそろだな」
支えきれなくなった。橋の西岸でなお散発的に抵抗を続けている友軍は制圧されるだろう。
遠坂が中学校とは目と鼻の先にある橋を眺めると、戦闘車両を先頭に、友軍が橋上に屯する小型幻獣と戦闘をはじめていた。
「友軍の撤退を支援する」
室井は各隊に呼びかけると、自らもサブマシンガンを手に取り、屋上の階段へと向かった。
司令部付きの兵が後に従う。遠坂も後を追おうとしたが、室井ににらまれた。
「後方に下がってください。十五分……十分後に橋を爆破します。基地へ逃げ込めばまず安全でしょう」
基地は陣地から一キロはど先にある。基地というものの性格上、元々は市の郊外、広大な三角州を干拓した一帯であり、幻獣の進撃路からはややはずれた地域にあった。
「しかし……あなたがたはどうするんですか?」
遠坂の質問はどこか間が抜けて聞こえたらしい。室井は苦笑すると「戦いますよ」とだけ言って駆け去った。
「あの、遠坂君、基地じゃなく、工場へ戻りませんか? 仕事もあるみたいですし」
田辺が遠慮がちに言った。仕事、とはリポーターのことではなく整備負のそれだろう。
「まあ、工場でもいいかもな。前線の取材はこれぐらいでいいじゃねえか。てえか、取材もこれで十分だと思うぜ」
本田も橋をめぐって行われている戦闘を眺めながら言った。強引に橋を突破しようとする友軍を室井の隊が支援している。聞き慣れた風切り音がして、橋上で生体ミサイルが爆発した。
悲鳴が聞こえ、炎に包まれた兵らが橋から落下していった。
「やべえぞ! とっとと逃げねえと」
本田はサブマシンガンを点検すると、坂上に向き直った。
「中隊はしばらく足止め役となった後、撤退するでしょう。この方面の前線は基地から今津川に沿ったラインに後退するはずです。橋を爆破した後、ほどなく砲撃が集中します。工場へ」
坂上は冷静に分析してみせた。
「それとですね、あらかじめ断っておきます。岩国駅に専用の列車を用意してあります。何かあったらすみやかに君たちを護送せよとわたしは命令を受けています」
鉄道は対空砲火に守られて、なおも稼動していた。
「……護送とは穏やかじゃないですね」遠坂が憮然として言った。
「芝村の意向です。個人的に言えばわたしも本田先生も、君は戦争で死ぬべき人ではないと考えています。さて……」
坂上は生体ミサイルの音に耳を澄ませた。
「逃げますよ」
八月九日 一四三〇 山口市役所
司令部代わりとなっている市役所は、閑散とした市内でも唯一賑わっている場所だった。
市役所前の広大な駐車場では兵のための炊き出しが行われ、さらに即席の整備場ともなっていた。小型幻獣、そして共生派の浸透を警戒する兵の姿も目立った。
善行は執務室の窓からそんな光景を眺めていた。
市役所前は雑然としているようでいながら、人の流れに無駄がなかった。軍人というものは状況に拘わらずそれぞれの仕事を行うものだ、とあらためて思った。
ただ、戦闘に参加せず、遊んでいる……警戒体勢にある部隊が多過ぎる。
これは自分の責任だ。
瀬戸口が茜の分析として送ってきたレポートを読んで、考え込んでしまった。確かに大戦果をここ数日あげているが、さほど幻獣側には影響はないのか? むしろ山口市に釘付けにされているのは自分たちではないのか?
敵の攻撃がまったくないのが気になっていた。一定規模の軍が展開しているなら、攻めてくるはずだ。そのために市防衛のための部隊も確保してある。
「危ないですよ。ここには相当数の共生派が紛れ込んでいますね」
声をかけられて善行は背後の気配を探った。聞き覚えのある声だった。
「ええ、しょせんは寄せ集めですから。それは覚悟しています」
善行が向き直ると、灰色の髪の少年が笑いかけていた。広島での事件に自分を巻き込んだ張本人だった。
「君の顔を見るとドキリとしますね」
善行が軽く冗談を言うと、灰色の髪の少年は「失礼しました」と謝った。
「僕のことはなんとでも呼んでください。階級はあってなきがごとし、ということでよろしく。一個小隊の憲兵を引き連れて、今は回収した部隊の身分照会を行っています。大佐殿は共生派に対して認識が足りないように思いますね」
こう指摘されて善行は苦笑した。
「耳が痛い話です。元々が小所帯の出身でしてね」
自分の欠点が次々と明らかになる。ただし、善行は指摘に感謝するタイプの軍人だった。
「陸軍だと小隊ごとに憲兵がひとり派遣されているんですがね。共生派にもスパイを送り込んでいますよ。ただし、軍の情報部と憲兵隊の仲が悪いのが悩みのタネで。情報の共有に苦労している始末です」
少年も苦笑して言った。
「捜査はご自由に。……また寄生体ですか?」
前西部方面軍の司令官の体が知性を持った寄生型幻獣に乗っ取られたことを言っている。あのまま気つかずにいれば、西部方面軍は今頃壊滅していたろう。
「あれはごく特殊な例です。今のところ心配はないかな。僕が当地に来た理由は、萩の戦線の崩壊理由の調査と、共生派の大物を追ってですね」
ふたつの事案を示された。善行は前者から議をすることにした。
「こちらに撤収してきた指揮官の何人かと話をしよしたが、友軍が一斉に撤退をはじめたので孤立することを恐れて撤退を指示した、と。原因は霧の中です。ただし、念のために下士官にも話を聞きましたが、士気が極端に低下していたようですね。後方部隊の中にはブレイン・ハレルヤが密かに出回っていたようです」
将校クラスになると、一般的に自らの軍歴に傷が付くような軍の恥、隊の恥をひた隠しにしたがるものだ。念のために一般の兵に聞き取り調査を行ったところ、いくつかの真実が明らかになった。
「同じような報告が届いています。共生派の暗躍もあったようですね」
少年は考え込むように言った。
「我々も意識操作できる幻獣に、危うく指揮官を殺されるところでした。迫撃砲小隊が全滅。まあ我々には変わった能力を持つ人材がいるので助かりましたがね」
「ええ、5121さんのことは知っていますよ。しかし敵にとって知性体を失うことは、たとえて言えばあなたの率いていた人型戦車小隊の天才パイロットを失うことに等しいんです。これを我々に三体やられた。相当な痛手でしょうね。当面は立ち直れないでしょう」
少年は淡々と言った。
「……おそらくは敵に深刻な敗北感を与えていますよ。こちらの面では」
「まさか……」
善行は眼鏡を押し上げた。
「ただし、皮肉なことに戦闘団の戦闘そのものは想定した範囲でしょうね。おっと失礼。これは僕が口を出す問題じゃありませんね」
「共生派の大物とは?」
善行が尋ねると、少年は「カーミラ」と短く言った。
「寄生体ですか?」
「いえ、信頼できる情報によれば第五世代でしょうね。市内に潜入しているらしいです。なぜここに来たのかについては謎が多いのです」
善行は少年の言菜を待った。
「カーミラは後方でのテロ活動が専門なんですが、テロの目的はたとえば後方の大都市で一般住民を巻き込んで戦意を喪失させることでしょう。疎開が進んだ当市になぜ来たのか? ここに特別な何かがあるに違いないと僕は踏んだわけです」
「なるほど」
なるべくならウラの世界とは関わりたくないのだが、と思いながら善行はうなずいた。そんな空気を読んだか、少年は苦笑した。
「他人事ではないんですがね。特別な何かとはあなたたちのことですよ」
「……まさか」善行は苦笑を浮かべた。
「うんうん、気持ちはわかりますが、ご自分の価値を冷静に考えるべきでしょう。まず、大佐殿ご自身。あなたさえいなくなれば5121小隊はまともに動けなくなります。次いで5121のスタッフ、パイロット。共生派は5121さんに目をつけているんですよ。身辺に気をつけることです」
そう言い残すと少年は背を向け、執務室を後にした。
八月九日 一四四五 山口市内
まったく頑固なんだから。
原はいつものようにカフュテラスのテーブルに座り込んで趣味の日記を書き綴っていた。ちょうど木陰となって、時折掠しげな風が吹き込んでくるのがありがたかった。閉店した店は店員もいないのでテーブルにはペットボトルのオレンジデリシャスティーが置かれてある。
頑固、というのは舞のことである。
複座型の総点検も兼ねて「]甲」、後継機への搭乗を勧めたのだが舞は断固として拒否をした。我々はデータを収集するためのテストパイロットではないというのが理由だった。にべもない正論に原も鼻白んだ。
それにしてもあの子たち、機体を壊さないな、と原はため息をついた。ずっとスペアのままでは新型機も宝の持ち腐れだ。こうなったら善行さんを動かして……。だめだ、どんなに直訴しても泣き落としを使っても、善行さんもパイロットの味方をするだろう。命を賭けているふたりをプロトタイプ機に乗せることはできないと。
ゆえに思いっきり芝村舞の悪口及びイラストを書き連ねていたところだった。隣の公園から旺盛な蝉の声が聞こえてくる。
近頃では滅多に見かけない久遠を着込んだ兵の姿がちらと目に入った。
久遠とはいえ、今時のもので大幅にチューンナップされていた。肩に中尉の階級章がペイントされている。熊本帰りの女性兵士には久遠に愛着を持つ者が多い。フォルムが美しいし、チューンナップさえ施せばアーリーFOXにも劣らない性能を示す。
何気なく女性将校を観察していると、その将校はきびきびした足取りで歩きはじめた。
あの人は確か……。原は首を傾げるとノートを閉じ、後をつけた。
なんだろう?
しばらくして原はなるほどねと気がついた。戦車随伴歩兵にしでは身ごなしが無防備で不用心だ。こんな町中でもパペット型の幻獣……多くはゴブリンが浸透していることはままある。
しかも前線近くの町だから、まず単独行動はしないだろう。とここまで考えて、あら、わたしもだ、と原は苦笑いを浮かべた。
相手は市役所の方角に向かっている。途中、何人かの兵が怪訝な顔で女性将校を振り返った。
そして後に続く原をあきれたように見た。
「何をしている?」
不意に声をかけられた。横道から舞が不機嫌な顔で見つめていた。隣には例のごとく厚志が付き従っている。原は悪戯を見つかった子供のように笑った。
「探偵ごっこをしていたの」
遠ざかる女性将校と一定の距離を保ちながら原は言った。
「ふむ。近江中尉だ。先日の戦闘で一緒に戦った。不審な点があるのか?」
舞は尋ねたが、答えを待たずに厚志と一緒に相手の挙動を見守った。しばらくして、舞は「なるほど」と言葉を発した。「変でしょ?」原も目を凝らしたまま言った。
「まるで人形のようだ。兵に敬礼されても前を見据えたまま返礼もせぬ。よほど急いでいるのか? それとも……」
市役所前の喧噪を抜けて、近江は庁舎へと入った。三人が庁舎に入った時にはエレベータに乗り込んだところだった。
「しまった……!」
すでに原以上にやる気満々になっている舞が悔しげに叫んだ。そして階数表示のパネルに目をやった。パネルは五、六、七と点滅して行き八階で停まった。最上階。会議室がある階だ。
「階段を使うぞ」
舞はこともなげに言うと、傍らの階段を駆け上がった。厚志と原も後に続く。昔風のゆったりした造りの市庁舎だった。天井が高く、踊り場も広くとってある。階段の距離も長く、それを舞は一段おきに駆け登る。厚志も楽々とそれに続くが、原にとってはたまったものではなかった。すぐに息を切らしはじめ、「待って。待ってよ!」とふたりを引き留めた。
舞はほんの少し足を止めたが、すぐに原に見切りをつけたように走った。舞たちが八階に駆け上がった時には、女性将校が会議室前の廊下のエレベータ前にたたずんでいた。ドア付近のホワイトボードには三十分後に作戦会議が開かれる旨が書かれてあった。
「あれ? 舞も出席するんじゃなかったっけ?」
厚志に言われて舞はうなずいた。
「むろん」
そのためにふたりは市庁舎に向かっていたところだ。しかしな、と舞は首をひねった。近江は能面のような無表情で、エレベータを待っている。近江は確か更迭されたはずだが、会議に出席するのか?
「そなた……」
話しかけたとたん、エレベータが到着した。エレベータに乗り込んだ将校は、とろんとした目つきで舞を見た。言葉を続けようとした時、扉が閉まった。
舞は受付の軍曹の前に立つと、「今の将校は?」と尋ねた。
「はあ、なんでも仕事があるとかで……。身分証に不審な点はありませんでしたからお通ししたのですが、様子が変でした。会議室から出てきたかと思うとフロアをあちこち歩き回って。警備の下調べかなと思って放っておいたのですが」
「作戦会議に近江は呼ばれているのか?」
舞が質問を発すると、軍曹は急いでリストをチェックして首を振った。
「更迭された中尉が会議前にしなきやいけない仕事ってなにかしら?」
原が好奇心たっぷりの表情で笑った。
「あ、そうか。更迭された腹いせに椅子に画鋲を置くとか……?」
「……それはそなたの趣味であろう」
舞はあきれて、軍曹をうながすと会議室に入った。
「盗聴器を仕掛けた可能性はあるな。善行の足を引っ張ろうとする輩は多いだろう。近江は会津閥だしな」
そう言うと舞は手慣れた仕草で、てきぱきと室内をチェックしはじめた。
「なんだか楽しそうね……」原もしかたなく、室内を物色した。味気ない白の壁面には額縁に収められた山口市の風景画が数枚飾られている。舞は厚志に手伝わせると真っ先に額緑を調べた。次いで椅子、テーブルの裏側。コンセント……。
「画鋲はないわね。ぬるぬるしたものもなし」
「……なんだそれは?」
舞の目が険しく光った。
「タコとかイカとかナマコとか、嫌がらせに足下に置いておくの。なんだろうと思って触ると、きやーって。これって男にも効くわよ!」
舞はため息をつくとがくりと肩を垂れた。ほほほほ。原の高笑いが響き渡った。ひとしきり笑った後で、笑みを消して軍曹に向き直った。
「今から入室禁止。あなたは廊下で見張っていて」
美貌の原に断固として言われて、軍曹は緊張した面もちで敬礼し部屋の外に出た。
「さて、皆さん……」
原はこつこつと靴音を響かせながら、なおも必死に「盗聴器」を探している舞と厚志に探偵ごっこのノリで呼びかけた。
「画鋲でもぬるぬるしたものでも盗聴器でもなければ、答えは限られてくるわ」
「……だから盗聴器の可能性は否定されたわけではなかろう」
舞の反論を原は「ノンノン」と遮った。
「忘れていたのー。この部屋に盗聴防止の機器を取り付けたのはウチの整備班だったのね。ごめんね、芝村さん♪」
原が近づくと、舞はビクリとして飛び退いた。もう照れ屋さんなんだから! けど芝村さんって抱き心地がいいのよねえ。柔らかくってしなやかですべすべしてるし。舞に逃げられて原は「残念」とつぶやいた。
「軍曹、廊下の音シャットダウン!」
原が叫ぶと、「はっ!」と軍曹の返事が聞こえた。
「わたしたちは無言の行。……部屋の音だけに耳を澄ませて。芝村さん、速水君、目を閉じて集中する!」
時間が流れた。「あ……」厚志が声をあげ、会議室奥の柱時計を見上げた。
「違うわ」原は真顔になると、ゆっくりと室内を見渡した。原は指を動かし思考のリズムを取りながら、「なるほどね」と微笑んだ。
そして会議室の外に出ると、「あそこかな」と赤い誠毯の敷かれた廊下突き当たりの一点を指さした。ステンレス製の灰皿が置かれてある。
「灰皿がどうした?」
舞が不機嫌に尋ねると、原は「その陰」と言った。ふたりが目を凝らすと壁と灰皿のわずかな隙間に掌大の小箱が置かれてあった。
原は手振りで厚志と舞に灰皿を移動することを命じた。灰皿とはいっても公共の場にある類のもので腰までの高さがあり、ずっしりと重量感がある。
煙草のにおいが嫌いなのか、原はくんと鼻をうごめかせると小箱に近づき、屈み込んだ。顔を触れんばかりに近づけている。
「ふうん。考えたわね。これ爆弾ね」
「えっ! あの、解除しなくていいんですか……?」厚志は驚いて小箱に近づこうとした。
「素人には無理。開けたら即どかーん。時限爆弾ね。わたしはこの種の意地悪兵器は透視できるの。構造、炸薬の種類、トラップ……。この気障ったらしい箱をよくご覧なさい。それと掌に乗る大きさ。作った者は相当な自信家で爆弾が好きね」
原は得々と説明をはじめた。舞は日を瞬き、原を見た。
「そなたには透視能力があるのか?」
「ここにね」原はにこやかに自分の頭を指さした。
「ううむ……」舞はしぶい顔で原を見つめた。
「わたしの勘と灰色の脳細胞を信じなさいって! 爆薬はたぶんサイクロナイトにニトログリセリンを混ぜた高性能なプラスティック爆弾ね。わたしだったらそうするから。室外で爆発してもこんな薄っぺらい壁は簡単に吹き飛ばすわ。たぶんこの階まるごと消えちゃうんじゃないかしら」
原がこともなげに言うと、早めに到着し、足止めをくっていた将校たちが一斉に逃げ出した。
「お間抜けなアナログ式のちくたくを期待していたけど、デジタル式のタイマーなんで音はなしねえ。さて、芝村さん、会議まであと何分?」
「…八分を切った」
さすがに舞も青ざめている。
「じゃあ、とっとと逃げましょ。爆発物処理の専門家もいないし。軍曹、放送室まで案内して!……って逃げちやってるし」
「む。わ、わたしが案内する。共生派等の襲撃に備え、ビル内のマップは把握している」
そう言うと、舞は原の手をとって走り出した。厚志もあわでて後を追う。
「あと五分を切った……」
厚志の声に「わかっている!」と舞は叫び返した。
一階の放送室まで駆け降りると、舞はほっと胸をなで下ろした。破壊は免れている……。原がスイッチをオンにすると、舞はマイクに向かって吠えた。
「こちら5121小隊、芝村である! ビル最上階で時限爆弾を発見した! あと三分で爆発する。ビル内の者は全員、とっとと避難せよ! 二分四十五秒を切った! とっとと逃げよ! 死んで後悔してからでは遅いのだぞっ……!」
室外でおびただしい足音と悲鳴と怒声が聞こえた。
「あと一分を切った!」
舞は叫ぶと同時に厚志、原とともに放送室を飛び出した。
無人になった玄関を猛然と走り抜けると、目に留まった修理中の九五式対空戦車のハッチを開け、原を車内に押し込み、厚志に押し込まれた。厚志がハッチを閉めたとたん、ふうっと原のたゆ息が聞こえた。
「時間、まちがえたかも。ほほほ」
原は愉快そうに笑った。舞がむっとしてにらみつけると「だってえ……」と原は笑いながら言葉を続けた。
「会議がはじまる時間に爆発させるってのも間抜けてるわよね。善行さんの会議は短いから、そうねえ、爆発は三十分後ぐらいかな? あわてさせてごめんね」
「ぬ、ぬぬぬぬ……」舞は忌々しげにうめいた。……その通りだ。かなり間抜けている。
「どうしようか?」厚志がおずおずと口を開いた。
「わたしが善行さんに話してみるわね」
そう言うと原は拡声器のマイクをとって、「善行さーん」と呼びかけた。
すぐに応答があった。善行もどこかの装甲車両に潜んでいるらしい。会話はすぐに無線に切り替えられた。
「あなたが開いた会議の最長記録ってどれぐらいだっけ?」と原は尋ねた。
「そ、そうですね……三時間三十分ぐらいですか」
善行もすぐに意を察したらしく、戦闘車両の拡声器から周辺に呼びかけた。
「こちら善行大佐です。これより市庁舎ビルは封鎖。周辺の兵はすみやかにビルから遠ざかってください。繰り返します。周辺の兵はすみやかにビルから遠ざかってください。爆弾は市庁舎ビルをまるごと吹き飛ばす威力を持っています」
善行はささやかな脚色を交えて言った。
動ける車両が次々と市庁舎前駐車場から避難してゆく。厚志は操縦席に座って、エンジンを始動させそろそろと九五式のペダルを踏んだ。なんとか動くようだ。
「あのさ……」
慣れぬクラッチ操作に手間取りながらも、厚志は口を開いた。
「爆弾が偽物だったらどうするの?」
ほほほほは。原の高笑いが狭い車内に響き渡った。舞は忌々しげに耳を塞いだ。
「それってナイスブラフ! 敵さんにもそれぐらいのユーモアセンスがあればねえ! さすが速水君よねえ。あなた、こわいわ。ブラフ、ブラフでこちらを疲れさせて、ある日突然、どかーんなんてね!」
原は瞳をきらきらと光らせてまくしたてた。厚志のひと言はなんというか、原の辛辣にして悪趣味なジョークセンスの琴線《きんせん》に触れたようだ。
「確かに……最高の嫌がらせだな。しかし……」
舞は、はっとして原をにらみつけた。
「そもそも時限爆弾説を唱えたのはそなただぞ! わ、我らはその……廊下の隅に置かれた小箱を発見したに過ぎぬ」
「そうだっけ?」
原は、あれ? という顔になった。そして何かを思いついたらしく、にこっと笑った。悪戯を思いついた時の原の微笑は同姓から見ても美しかった。舞は思わず身構えた。
「じゃあ、賭けましょ? もしあれが爆弾じゃなかったら、そうね、わたしの大切なぬいぐるみのフェレット君をあげるわ」
「フェレット……君?」
舞はもしやという顔になった。知らず頬が紅潮している。舞の動物好き、ぬいぐるみ好き、動物グッズ好きは隊員の間で有名だ。とはいえ、表向きには皆「動物の生態研究」に関心がある、ということにしている。そういうことにしておかないと、延々数時間に渡って研究成果=照れ隠しを聞かされるはめになる。
「知ってるでしょ? アメリカの手作りぬいぐるみの限定生産品。フェレット君……イタチはレアで人気が高いからまず国内じゃ手に入らないわねえ。昔、北米の研究者と技術交流をしたことがあってね。彼女に市松人形と交換してもらったの」
原は澄ました顔で舞の動揺を見守った。
「か、可愛いのか?」
言ってしまってから、舞はしまったという顔になった。
「イタチのしなやかな野性味と、ぬいぐるみに必要な愛らしさが見事に同居しているわね。たぶん、あなたは強烈なカルチャーショックを受けるわ! その代わりっ……!」
原は挑戦するように、ぴっと舞に指を突きつけた。
「爆弾だったら、次の戦闘から]甲型に搭乗してもらうわ! パイロットを求めてあの子は寂しがっている。士魂号は総点検ということでわたしが預かる! 勝負よ、芝村さん……!」
「だめだよ、舞。そんな個人的なことで……」
「くっ! わかった! 勝負だ。原!」
厚志の言葉を遮るように舞が言ったとたん、轟音が轟き爆風に事体が揺れた。厚志はハンドルをとられ、九五式をガードレールに激突させた。
三人が急いでハッチを開け、市庁舎ビルの方角に目をやると、ビルの最上階は黒煙を上げ、きれいに消え去っていた。原の勝ち誇った笑い声が響き渡った。
「あ……原さんもしかして」
厚志があきれたように鼻を撫でると、原は楽しげに厚志の顔をのぞき込んだ。
「まちがってはいないでしょ? 嗅覚神経だって脳細胞の一種だもの。爆薬にも特有の匂いがあるのよね。速水君、よく気がついたわわ。ご褒美にフェレット君の写真をあげる」
原から渡された写真を厚志は舞にまわした。「ぬ、ぬぬぬ……」舞の口から悔しげなうめき声が洩れた。
「この世のものとは思えぬ愛らしさ……もとい興味深さだ! そなたは残酷な女だ、原。わたしはどうしても欲しく……研究したくなった!」
「魚心あれば水心。あげるわよ。……ただし条件がある。この戦争に勝つことと、隊員を死なせないこと。どう、楽勝でしょ?」
原は真顔になって言った。舞のまなざしが希望に輝いた。
「わたしっていい人だと思わない? 芝村さん?」
「……根は良いやつであることがわかった」
舞がしぶしぶ認めると、原は高笑いをあげて「新司令イジメ」を楽しんだ。
……近江貴子が憲兵隊に拘束されたのはその数時間後であった。
八月九日 一八〇〇 山口市憲兵隊屯所
「どうですか、彼女の様子は?」
善行に声をかけられ、マジックミラー部屋に座っていた憲兵大尉が席を立って敬礼をした。
ミラーの向こう側には灰色の髪の少年と近江が向かい合って座っている。ドア近くのデスクには護衛役がふたりついていた。
「少しずつですが、正気に戻りつつあるようです」
大尉は部屋を訪れた人数の多さに驚きながらも全員に折り畳み式の椅子を勧めた。舞に厚志、原、そして矢吹までもが駆けつけていた。
舞たちの通報によって捕らえた時には、どうしたわけだか近江は幼児とほとんど変わらない状態になっていた。
きれいなお姉ちゃんにお使いを頼まれたの、の一点張りで、あとは憲兵の持ち物に興味を示して触りたがり、やむなく拘束をした。それが幼児に退行した近江にはショックだったらしく、しばらくはまったく話をしなくなったという。
「特殊能力を持つ共生派が市内に潜入していると考えてよいのだろうな?」
舞が尋ねると、憲兵は悔しげな顔になった。無理もない。偶然、原が近江を目撃しなければ今頃は戦闘団の幹部のほとんどが爆死している。
「申し訳ありません」
「謝罪はけっことてす。ガードが致命的に甘かった。戦闘団のリストからは憲兵隊が抜けていました。わたしの責任でもあります」
善行は冷静に言った。
自分自身、そして自分が率いてきた隊が変わり種……異端であるため、無意識のうちに憲兵を遠ざけていた。コネクションと言えば、この少年と、今では東京都下の軍刑務所の所長となっている老大尉ぐらいだ。もっとも老大尉は、熊本時代、何かと問題を起こしては留置されていた田代香織の世話を頼んできたようなオモテ側の人間だ。これから人脈を開拓せねば、と痛切に思った。
「それでお姉さんはどんな人だったの?」
少年がやさしく尋ねると、近江は邪気のない表情で考え込んだ。
「……とってもきれいな外国の人。真っ白な服着ていたわ。あと傘を差していた」
「ふうん。こわいめには遭わなかったんだね? ご褒美は何?」
少年の問いに近江は怯えた表情を浮かべた。思考がどこかにつながったらしい。机に突っ伏したまま動かなくなった。
「あ……そっか」
原が何かに思い当たったように声をあげた。
「どうしました?」
善行が尋ねると、原は冷やかすように戦闘団長を見つめた。
「ここに集まっていると危ないわ。わたし、爆弾の研究が趣味なのね。あるキーワードに反応して体内に埋め込まれている爆弾が作動するものもあるから。たとえば、わたしが犯人ですと言ったとたん、音声認識装置が作動して爆発するような」
爆弾の研究が趣味、と聞かされてどこからかため息が洩れた。
「一応、スキャニングはしましたが」
大尉だけが尊敬のまなざしを原に向けている。
「金属探知式? それとも体内の異物をすべて検出できるタイプ? 後者でもごまかしはできるの。音声認識、起爆を催眠術によって管理するわけ。それでたとえば心拍数が上がって血液の成分が変化したとたん、爆発するとかね。人間の細胞組織に似せた爆薬も研究されているから要注意ね」
「さすがによくご存じですな」
……原の演説に感心したのは憲兵大尉だけだった。
「きりがない話だ。そなた、なぜ、爆弾の研究など?」舞が好奇心を露わに尋ねた。
「あら、元はと言えば人型戦車の機関砲弾の威力を増すためじゃない。通常の二〇ミリ機関砲弾の一・五倍の破壊力が欲しい、なんて相談しにきたのは誰だっけ? 一発の値段が十倍に跳ね上がった機関砲弾が欲しい、なんてねえ」
「むむ……」舞は顔を赤らめて黙り込んだ。
「とにかくわたしと善行さん、矢吹少佐あたりはこの場を後にした方がよさそうね。後はあの謎の少年Aと……速水君? だけでいいんじゃない?」
さあさあ、と啓行と舞は原に背を押されて部屋から出された。
「ま、待て。なぜ、厚志が残らねばならんのだ?」
舞があわてて尋ねると、原はにこやかに微笑んだ。
「何があっても死にそうにないのね、彼。勘がいいしねぇ」
「……納得だ」
舞はしぶしぶとうなずいた。フェレット君……。原の機嫌を損ねては、と一瞬考えた自分を内心で激しく責めた。
「取り残されちゃった……」
厚志はぼんやりとマジックミラーの向こう側を見つめた。憲兵大尉は、デスクにつくと端末を操作しはじめた。
「近江中尉はどうなるんですか?」
厚志がこわごわと尋ねた。
「……明らかに精神操作を施されている。中央に送られて、研究対象となるだろう」
「ラボ……ですか?」
「我々の研究所だね。いずれにせよ元の部隊に戻ることはできんだろう。なるほど……速水厚志千翼長。君も大したものだ。共生派狩りで大活躍をしているね」
憲兵に褒められても気まずいな……。厚志はかろうじて笑顔をつくろった。
機嫌を直したのか、近江の歌声が聞こえてきた。
「あの……大尉殿」
「何か?」
「精神操作ってそんなに簡単にできるものなんですか?」
厚志の質問に大尉は端末の画面に近江貴子のプロフィールを映しだした。そして自身も考え込む表情になった。
「本籍地は和歌山。しかしなぜか東北で自衛軍に志願しているね。訓練成績は優秀だが、男所帯の隊内で苦労したようだ。ん? これは異常だな。小隊の兵がふたり自殺している。それも先任下士官がふたりだ。九州戦では小隊長以下八割が戦死している。残兵を率いて敵中を突破してきたことで、将校への道が開けたようだ」
ふたり、自殺? 厚志はぶるっと身震いをした。冷や汗が流れる。
「何か意見があったら聞かせて欲しいね」
憲兵独特の視線を感じて、厚志は言葉を選んで話をはじめた。
「……心に疚《やま》しいものを抱えていたり、何かを思い詰めていたりすると誘導されやすくなると思います。あの、サブマシンガンを乱射した重迫撃砲小隊の人はどうだったんですか?」
話題をそらしたかった。厚志には近江という女性の心の闇が朧気に見えた。
「プレイン・ハレルヤの売人をしていた。違法なプログラムではないので何か別の事件を起こしたら拘束するつもりだったんだが、結果として我々は失態を犯した。……すぐにでも違法にしたいのだが、実は多いのだよ、愛用者が。高級軍人の中にもね」
「こわい話ですね」
厚志の言葉に大尉は視線を落とした。
「君のように命を賭けて戦っている者には申し訳ない話だな」
「……そろそろ失礼します」
厚志は敬礼をすると部屋を後にした。汗をかいていた。どちらかと言えば研究者タイプの憲兵だったが、たぶん自分の経歴にも興味を持つに違いなかった。まあ今の僕には痛くも痒くもないけれど。近江の経歴を聞いてピンと来るものがあった。
あの人は何人も殺している。自分の身を守るのと同じく戦争も上手だったら、きっと違う運命が開けていたんだろうけど。
玄関を出ると肩を小突かれた。舞が不機嫌な顔を向けていた。
「ぞっとせん場所だな。近江はどうなる?」
「研究所に送られるみたいだよ」
厚志が答えると、舞は「ふむ」とうなずいた。
「これから作戦会議だ。厚志、そなたの出席も認めさせた」
「え……あはは。僕なんかが出席しても」
「まあそう言うな。おそらく楽しいことになるぞ」
そう言うと舞はポニーテールを揺らめかせて、ついて来いとうながした。
[#改ページ]
第十四章 それぞれの防衛戦
八月九日 一八〇〇 吉香公園
午後の夏空に砲声が轟いていた。戦場のありとあらゆる音が入道雲に反射して、橋爪の耳に
こだました。この陣地から一キロほど先、山の向こう側では激戦がなおも続いていた。すでに六回、砲弾の搬入を手伝っている。
どうやら戦線はまだ維持されているらしい。移動命令が来たらこいつらどうすっかな、と橋爪は島村を見た。どう考えても戦闘は無理だろう。
「何か……?」
島村に声をかけられて、橋爪は視線をそらした。
「島村は大学行くのか?」
面倒だから戦車隊クルーも島村も名前で呼ぶことにした。
「……その、なんだ。でっけえペンだこがあるからさ」
あ、と島村は自分の指を見た。
「わたし、将来は厚生省に入りたくて」
「うお……」
島村の返事に橋爪は戸惑った。将来は医者になるとか、弁護士になるとか、そうした類の返事ならわかる。しかし、そんなものをいきなり通り越して厚生省、と来た。こいつ相当頭いいんだろうな、と橋爪は思った。
「役人ってことかよ?」
尋ねると本日二杯めの玄米茶が差し出された。「あ、ども……」戦争以外のことになるとすごいやつなのかも、と橋爪はつい気後れしてしまった。
「ええ、技術系から入るか事務系から入るか迷っているんですけど。将来は福祉行政の仕事に就きたいんです」
「すげーな……。けど、学校の生徒会長の世界とは違うだろ。もうちっと押しが強くならねえと政治の世界じゃ苦労すんじゃねえか?」
橋爪に措摘されて島村は「そうなんですよね」とため息交じりに言った。そんな島村を見て橋爪はにやりと笑った。
「この戦争を生き残れば島村は変わる。予言してもいいぜ」
「予言……?」
「そうなってもらわんと死んだ連中が浮かばれねえだろう。おめーはまちがいなく強くしぶとくふてぶてしいやつになる」
島村の目に光が宿った。橋爪に反抗した時のあのまなざしだ。
「そうですね。わたしは変わる」
「……さて、そろそろお客さんが来た。島村、戦争のことは俺たちに任せておけ」
川西方面の稜線のかなたから、そして新岩国駅方面からも幻獣の大群が押し寄せてきた。
戦闘の口火を切ったのは戦車砲だった。
密集した小型幻獣の群れに数発の榴弾が落ちた。合田小隊の二丁の小隊機銃が火を噴き、ワンテンポ遅れて四〇ミリ高射機関砲が重たげな音をたてて機関砲弾を吐き出した。小銃の音が散発的に響く。小型幻獣の群れは弾幕に遮られてばたばたと倒れていくが、途切れることなく陣地に突進してくる。
「サブマシンガン持ったやつは給弾手頼む!」
橋爪の声に「了解」の声が上がった。
せいぜい五十メートル以内でないとサブマシンガンは威力を発揮しない。拠点防御戦では陣地に迫り突入した敵を掃除する保険的な役割だった。とはいえサブマシンガンがあるとないとでは接近戦の火力がまったく異なる。
橋爪は九四式小隊機銃を三脚に固定して、安定した弾幕を張っていた。彼我の距離は二百メートルを前後に膠着したように見えた。
とはいえ――。
橋爪にはそれがわかっていた。足止めしているつもりでも、一メートル、二メートルと確実に敵は距離を縮めてくる。だるまさんが転んだの世界だった。そして最初の一匹が場内に躍り込んできた瞬間、同じような光景がそこかしこで見られ、最後にはスコップをぶん回しでの白兵戦となる……。あげくは全滅だ。だから徹底して火力にこだわった。
ほどなく機銃が新たに二丁加わった。六一式戦車の砲塔に搭載されている一二・七ミリ機銃が火を噴きはじめた。一号車の射撃手は意外なことに神崎ではなく操縦手の鈴木だった。
車内恋愛ってホントだったんだな……。へっと橋爪は笑った。
「……鈴木、もうちと銃身下げろ! よおし」
これで四重もの弾幕ができあがった。さらに別の陣地からの戦車砲弾が幻獣の群れの中で炸裂する。橋爪にとってはこれまでで一番賛沢な拠点防御だった。
塹壕の奥では合田が無線で補給要請を行っていた。さすがに自衛軍。さすがに精鋭の二十一旅団だ。小隊員はそれぞれの役割を心得て、一体となって動いていた。
その時――。地響きが聞こえて十体以上の中型幻獣が姿を現した。機銃の弾幕を中型幻獣にまわすわけにはいかない。他の陣地からの戦車砲弾が一体のミノタウロスに命中した。至近距離からのHEAT弾を受けミノタウロスは爆発した。土くれの落ちる音が聞こえ、紅陵αの二両の戦車からも砲弾が吐き出された。命中! さらに二体のミノタウロスとゴルゴーンが体液を撒き散らし、のたうったかと思うと爆散した。
爆散した敵の背後で、ゴルゴーンが生体ミサイルの発射体勢に入った。小型幻獣は二百の距離で止めているが、ミノ、ゴルは弾幕を物ともせずいつの間にか百前後まで距離を縮めている。
橋爪の横を合田の長身がかすめ過ぎた。
壕内から出て、手榴弾の投擲姿勢に入った。マジかよ、とどかねーだろ? と思った瞬間、伸びやかなフォームで投げられた工兵用手榴弾はゴルゴーンの腹の下に転がった。爆発と同時に合田は壕内に飛び込んだ。
柔らかな腹部をやられ、ぐずぐずと炎を噴きだしたゴルゴーンに向け、橋爪は五秒間だけ引き金を引いた。撃破。強酸の飛沫が周辺の幻獣に降り注ぐ。
「少尉殿、マジっすか?」
橋爪が苦々しげに言うと、合田は「申し訳ない」と微笑んだ。
「一度やってみたかったんですよ。ラケット型は狙うのが難しいですね」
「……そういう問題じゃねえよ」合田の肩の強さに橋爪はあきれて言葉を失った。
「ゴルゴーンは工兵用手榴弾でも一発じゃだめですかね?」
合田は悠々と尋ねると、橋爪は首をひねった。
「やったやつがいないんで……あの様子だと俺の支援射撃がなくてもじき爆発したかも」
その間にもさらに二体のミノタウロスが爆発、そして残りはぐっと距離を細めてきた。どうやら中型幻獣のゴリ押しでこちらの火力を弱め、後続する小型幻獣の突破、蹂躙を助けるつもりらしい。単純だが嫌ったらしく確実な攻撃だ。
さらに一体が爆散。三体に減ったミノタウロスが五十メートル先で生体ミサイルの射撃体勢に入った。
「手摺弾投擲後、すぐに待避壕へ……!」
合田が叫ぶと、工兵用手榴弾をたて続けにミノタウロスの足下に転がした。六一式の戦車砲弾が一匹を破壊。兵たちは手榴弾を投げた後、待避壕に入った。爆発音がたで続けに起こって六一式の拡声器から「ミノ全滅――」と佐藤の緊張した声が聞こえてきた。
くそ、また距離を稼がれた!
橋爪はあわでて機銃に取り付くと、五十メートル以内に肉薄してきた小型幻獣の大群に向け引き金を引いた。新たにサブマシンガンと手榴弾の火力が加わって、第七陣地は大わらわの忙しさになった。
「補給車到着。……ど、どうしよ?」
佐藤の声が響いた。初めての状況に狼狽《うろた》えている。
「島村小隊、一両づつ砲弾搬入お願いします。まず一号車から」
合田が落ち着いた声で言った。
佐藤と森田が車外に出ると、森田は待避壕にくたりと倒れ込んだ。島村小隊は佐藤の指図に従って例の「配達おじさん」の軽トラの荷台からくそ重い砲弾ケースを降ろす。身を屈めて、ゴブリン、ゴブリンリーダーの放つ斧を避けながら、一発づつ戦車へと。最後に鈴木が砲弾を受け取って、補給は十五分ほどで終わった。「次、橘、頼むよ!」そう叫ぶと、佐藤は待避壕でぐったりと休んでいる森田の頻を思いっきりつねった。悲鳴が聞こえた。こわいお姉さんに腕を引かれて戦車へと乗り込む森田に「嬢ちゃん、しっかりな」と声がかかって板チョコが投げられた。
「あ、ありがと……」
合田小隊の古参の軍曹だった。軍曹は車内へ消えて行く森田を一瞥してから、橋爪に負けじと弾幕をめぐらす。
「……島村さん、調子はどうです?」
合田が砲弾の受け渡し作業を行っている島村に声をかけた。
「ええ、大丈夫です。あ……」
島村の手から砲弾がこぼれそうになった。すぐ隣の男子学兵があわでて支える。
「島村さん……お願いだから! 本当にお顧いだからっ! ……落とさないで!」
橘が泣き顔になって島村に注意する。島村は真っ青になって「ごめんなさい、ごめんなさい……」と何度も何度も頭を下げた。
ふたりのやりとりを聞きながら「なんだかなー」と橋爪はあきれた。
……榴弾は発射後の時限式であり、九〇ミリライフル砲用に改良された対中型幻獣用のHEAT弾は敵の装甲を高熱によって貫通し、内部で爆発する方式を使用している。地面に落とした程度の衝撃で爆発するぐらいなら、危なっかしくて使えない。子供にでもわかる理屈だ。とはいえ橋爪には戦車少女たちの性格がよくわかった。百パーセントはあり得ないのだ。
佐藤にしろ橘にしろ、根はまじめで几帳面だ。どんな時でも慎重に憤重を重ねる。「最強の学兵」が砲弾を大切に扱えばそれでよしと考えているのだろう。
浸画の「バクダン」じゃないんだぜ。橘の「芝居」と島村の「ごめんなさい」を合田小隊の面々はにやにやと笑いながら聞いていた。
合田は五十メートル圏内なら軽々と手榴弾を扱った。要所に的確に工兵用手榴弾を投げ込むと、心なしか敵の密度が薄くなったように兵らの目には映った。
二両の六一式が再び砲撃をはじめ、一二・七ミリ機銃も参戦すると、陣地まで三十メートルほどに迫った小型幻獣が一斉になぎ倒された。
「やった……」
背を向けて逃げ去る敵を掃射しながら、橋爪はつぶやいていた。塹壕戦初勝利ってか? とにかく火力で敵を押し戻したのは初めてだ。
不意に右手の第三陣地……佐々木小次郎像陣地で爆発が起こった。六一式戦車の砲塔が高々と宙を舞った。茫然とする陣地の兵に橋爪は叫んでいた。
「スキュラだ。佐藤、通路に下がれ!」
「新岩国方面よりスキュラ八、来ます」通信兵が叫ぶと、合田は双眼鏡をその方角に向けた。
「距離六百。岩国城の真上に陣取っていますね。戦車から先に退避しましょう」
「けど、カモフラージュ完璧ですよ」
佐藤が車内から言うと、「念のためだよ」と橋爪は説明した。
「おめーらも戦ったろう。幻獣だって馬鹿じゃねえぞ。位置を特定されているかもしれねえ。城山の麓の陣地はスキュラから見えねえが、小次郎陣地とこっちは危ねえ」
「……わかった」
二号車がすばやく後退して地下通路へ下がった。次いで一号車。その間にもまた一両、戦車が破壊された。距離にして千を超える程度。空中要塞は悠々と獲物を狙っていた。判断が遅れた戦闘車両がまた一両、レーザーの直撃を受け破壊された。
「島村小隊も退避」
合田が指示すると、十八名ほどの学兵は通路へと走り去った。
ばっと炎が上がって一体のスキュラが地上へと落下した。それを合図にそこかしこから零式ミサイルがスキュラの群れに吸い込まれてゆく。生体ミサイルの音。地上でたで続けに爆発音。
どうやら護衛の陸戦型幻獣が対空歩兵に襲いかかっているようだ。
「まずいっすね。スキュラとミノがセットになるとこっちもやばい」
さらに言えば小型幻獣の豪華付録となると、局地的な戦いでは圧倒される。
熊本ではこれが悩みのタネで、スキュラと見るとベテランの戦車兵が乗った士魂号Lが猛スピードで突進肉薄したものだ。今のように歩兵用ミサイルもなく、スキュラとまともに渡り合えるベテランの戦車兵は消耗し、すり減っていった。
吉香神社付近のネズミ穴からミサイルが発射された。橋爪が急いでその方角を双眼鏡で見ると、零式直接支援火砲を抱えた兵が小型幻獣に追われてあたふたと穴に逃げ込むところだった。
相棒の兵がサブマシンガンで敵を掃射してから穴へ逃げ込んだ。小型幻獣の群れもそれを迫って穴へとなだれ込んで行く。
「そういやこの通路、中はどうなっているんすかね?」
橋爪が尋ねると、合田も首を傾げた。合田小隊は彦島に派遣されていたため、地下通路の詳細に関しては知らなかった。
「敵、来ます!」
声がかかって、橋爪は機銃に駆け寄った。またしても左手、川西方面から小型幻獣の大群が陣地へと向かってくる。第一陣地……城山麓陣地から戦車砲の音が響き渡った。山陰に完全に隠れているためにスキュラの射程には入っていない。橋爪はまたしても二百メートルの距離に弾幕を設定、幻獣をなぎ倒した。
「ウチら、どうする?」
佐藤の声が聞こえた。橋爪はちらと城の方角を見上げると、
「その穴から出たらスキュラにやられちまう。通路の中から支援射撃よろしくな」
と言った。
「けど、そうしたら一台しか使えないよ」と佐藤。通路は五メートル幅がやっとだ。
「構いません。とにかく射撃を」合田が指示を下した。
「あの……わたしたちはどうすれば?」島村の不安げな声が聞こえた。
「通路内に。君たちは全力で戦車を守ってください。あ、弾薬箱を二十メートルほど後方へ」
合田がすかさず言い渡した。
「ふうん、なるほど。スキュリンから丸見えになるってか」
佐藤は橋爪の設定した弾幕地点に榴弾を放ちながら納得というようにつぶやいた。
嫌な思い出が一瞬脳裏をよぎった。狙われたらまずジ・エンド。煙幕を張るという手もあるけど、単に命中率がある程度下がるだけ。むしろ殺到してくるミノや小型幻獣には有利になる。
それにしても合田さんの小隊は頑張るよな。あの逆モヒカンもいい弾幕張っている。橋爪が設定した弾幕は城山麓陣地と共同して絶好の地点で十字砲火を築いている。
「鈴木ィ、ちと戦車を左の壁ぎりぎりに動かして。神崎、鈴木と交代ね」
「……どうするんだ?」
砲塔で機銃を撃ち続けている鈴木が尋ねてきた。
「オケラにも射界、つくってやんないと」
「わかった」鈴木はすばやく操能席にすべりこむと、車体を動かした。
「こんな感じか? 神崎……?」
「うん。すごいよ、隙間一センチ」神崎が感心したように言った。
佐藤の意図を察したか、二号車オケラは右の璧ぎりぎりに車体をくっつける。佐藤は無線を取って橘に言った。
「どう、ゴブのやつら、見える?」
「待って……なんとか」オケラの砲塔が旋回する音がした。
「榴弾よろしく」そう言うと佐藤は無線を切った。
ほどなく砲声が聞こえて、「ヒイイ」と神崎の悲鳴が洩れた。
「ぎりぎりじゃん。砲塔に当たりそうでこわいよ……」
神崎は副操縦席に戻ると、佐藤に訴えた。佐藤は黙って、消臭スプレーを神崎に浴びせた。
「冷たーい!」袖崎が抗議すると、佐藤は澄ました顔で言い放った。
「鈴木、機銃頼む。森田休め。臆病者の神崎と装填手交代ね」
にしても、判断が遅れたらスキュリンにやられるところだった。逆モヒカンと合田さんに感謝だ。レーザーでどかんってやられんの散々見てきたからな――。
「こちら橘。合田少尉のことなんだけどさ……」
橘から無線が入ってきた。
「うん……?」
「野球やってたみたいよ。端末で調べてみたら七年前の都大会で準決勝まで行ってた。逆転で負けているけど。……肩、壊したんだって」
橘らしくない無駄口だな、と思いながらも興味をそそられる話題だった。
「へえ、そうだったんだ。それで世をはかなんで自衛軍に?」
「それは……わからないけど。なんかわたしたちってナイスな将校さんに出会うよね」
あ、橘のタイプか、と佐藤はにやと笑った。
「橘、気をつけな。神崎は安売りしたし、わたしはノット・ユア・ライバルだけど、合田さんには彼女いるし、みんなきっと狙っているよ。命短し恋せよ乙女ってね」
「そんなつもりは……」
橘はきっと顔を赤らめていることだろう。
「えっへっへ、純情少女。まちがってウチらを撃たないでね」
「おめーら、今は戦争中だっての!」鈴木が砲塔から忌々しげに言った。
「オキアミ男は黙って機銃を撃ってなさい。弾幕射撃だから今は無駄ロオッケーなの。んで、あんま興味ないけど、君たちはやるべきことちゃんとやったのかね?」
佐藤が引き金を引きながらかまをかけると、鈴木は黙り込んだ。
「ふっふっふ、その沈黙はイエスだぬ。不潔――」
「わたしたちまだ何も……」神崎の動揺した声が耳元で聞こえた。
「けどキッスぐらいはしたんでしょ? あー、やだやだ、車内恋愛禁止のオキテ破って」
「神崎、黙秘だ! だいたいそんなオキテ誰がつくったんだよ?」
鈴木が忌々しげに怒鳴った。
「そ、そうよ……! 佐藤だって落合大尉と……あ、なんにもないのね。……ごめん」
勝手に納得されて謝られて佐藤は憮然となった。神崎にしては珍しいキレのあるボールだ。
「あのねえ、そこらのけだものと落合さんを比べないのーわたしたちは静かにフォーリン・ラブ。恋の炎を燃やしているところなんだから」
無線機から一斉に笑い声が聞こえてきた。神崎も吹き出している。
「けどワンピースは新しく買った方がいいよ。あは、あははは」
神崎め! こうなったら、やってやる。広島に戻ったら絶対にキッスのひとつでもふたつでもみっつでもやってやる! 佐藤の目にめらめらと炎が灯った。
「ミノタウロス五、キメラ十八、川西方面から来ます。……どうします?」
もうひとりの軍曹が合田に呼びかけた。
弾幕の後方にミノタウロスの巨体が現れた。これまで暇だった陣地にこれだけの敵が現れるということは、激戦地は散々なことになっているはずだ。
合図を送ると島村小隊の兵が橋爪の傍らに弾薬箱を置いて去った。銃身も変えたいけど時間がねえ。橋爪はなおも城の上に浮かぶスキュラを悔しげに見上げた。くそ、とっとと片付けてくれよ。どれぐらいの友軍が迷惑してるかわかってんのか?
吉香公園の内外には地下通路でつながっている七つの陣地が設けられていた。公園外に二つ。城山沿いに三つ、そして反対側の錦帯橋側に小次郎像陣地と橋爪らがいる管理事務所陣地……第七陣地だ。それぞれ戦車一個小隊、歩兵二〜四個小隊で守備している。
夏の渇水期ゆえ、錦川の水位は低く、ミノタウロス級の敵ならば市街地へと渡ることができる。川西、そして中津町方面では昨日から激戦が行われていたが、この公園にも戦域が広がってきた。
「おおーい、佐藤。ミノ五、キメ公十八だってよ。やれるか?」
橋爪が声をかけると、「五十」と返事があった。
「五十メートル先に壊れた電話ボックスがあるでしょ? そこらまで来れば通路に隠れていても標準にどんぴしゃり。城山麓陣地の戦車四両も元気だし。あちらさんは山陰でスキユリンから隠れているからどんどん撃てるでしょ」
ちっくしょう。戦車兵ってのも頼もしいじゃねえか。橋爪はにやりと笑った。
「問題はキメ公だな。たぶん三百メートルは距離をとってレーザーを撃ってくる。麓陣地の戦車をやられるとちとつらいな」
橋爪らの陣地と山麓に見える麓陣地は二百メートルほど先で火線が集中交差するようになっている。
「地下通路を通ってキメラに接近できませんかね?」
合田が戦車に向かって尋ねると、「あ?」と声がして鈴木がハッチを開け駆け寄ってきた。
「これ、地下通路のマップです。赤いのが歩兵用の通路。……もらってなかったんすか?」
合田はマップを受け取ると「いえ」と苦笑した。元々は彦鳥分遣隊であって岩国の守備要員ではなかった。司令部のささやかなミスというやつだろう。
「しかし……すごいですね、これは。君には必要ないんですか?」
「青の線が車両用なんすけど、俺は覚えましたからどうぞ」
鈴木は頭を下げると、戦車へと戻っていった。合田がマップ上の縦横にめぐらされた赤い迷路を眺めていると橋爪ものぞきこんできた。
「これで「ネズミ穴』からミサイルぶっ放してたのか……」
「らしいですね」
そう言いながら合田の視線は真剣に公園付近の一点に注がれていた。
コンクリートのにおいが真新しかった。
申し訳程度に電球がぶら下がっている地下通路を橋爪と合田は身を屈めて歩いていた。天井高は一・八メートルほどだろうか、それぞれ首七十センチを超えているふたりにはつらかった。
ふたりの後を鉄箱を重たげに下げた兵が続く。裸電球が灯されているところには必ず、番号と進路が示されていた。
頭上でしきりに砲撃音が響き、銃声がこだまする。振動は微々たるものだ。日本自衛軍には妙な癖があって、工兵を馬鹿にする割にはふんだんに予算を与え、速乾性コンクリートの研究やらモノコック式のトーチカ陣地、ライナープレートと呼ばれる円柱管などを開発している。
この円柱管を地中に埋め込んでたこつぼ陣地にするわけだが、その強度はミノタウロスのハンマーパンチをくらってもビクともしない。当然、地下通路、地下陣地用の資材・ユニットも民間のそれとは異なるはずだ。
「ミノタウロス二撃破。残りのミノは麓陣地に向かっています」
合田の携帯無線から先任軍曹の声が流れた。人のよい中年の男だが、今では寄らば斬るぞの橋爪にすっかり「軍曹役」を奪われてしまっている。橋爪は即席の軍曹で戦争しかできなかったため、それ以外の生活面などの面倒は彼が引き受けざるを得なかった。
「キメラはどうです?」
「砲列を敷いて麓陣地に攻撃を集中しています。戦車一大破。なおも十四体のキメラがK15付近に展開中」
「ゴブは……?」橋爪が尋ねた。
「なんとか制圧している。スキュラの野郎がまだ居座ってやがるんで派手には暴れられねえ。四〇ミリ機関砲のクルーがやられた」
「ちっくしょう。ミサイルネズミは何やってるんだ?」
対空歩兵がいつのまにか橋爪の脳内ではネズミになってしまった。
「そろそろL17……四菱化学社員寮の前庭に出ますね」
合田と橋爪は揃ってサブマシンガンを構えた。階段に足をとられて合田が転倒した。前方に鉄扉があり、それを開けると地上だ。
「まったく……不親切なマップですね」合田はスネをさすりながら眼鏡をかけ直した。
扉を開けるとまばゆい光が射し込んできた。何度か瞬きして目を慣らすと、小型幻獣の群れがほんの三十メートル先を移動していた。こちらに気づいている様子はない。キメラの砲列はすぐにわかった。距離にして六、七十というところだ。ただし、このネズミ穴からでは寮の建物が邪魔をしている。
「前へ出ないとやばいすね」
橋爪がささやくと、合田はしきりにウオーミングアップをはじめた。
「……なんとかなるでしょう。手榴弾を」
運び屋から工兵用手榴弾を受け取ると、合田は野球選手さながらのフォームに移った。
緩やかな弧を描いて手榴弾はキメラの砲列の隅を転がって爆発した。「腕が縮んだな……」
合田はつぶやくと、次弾を要求した。今度はさらに高い弧を措き、砲列の真ん中で爆発。三体のキメラが地に遣った。
「次……!」合田の声が切迫味を帯びた。
数匹のゴブリンがこちらに気づいて迫ってくる。橋爪と運び屋はサブマシンガンを掃射して敵を倒す。その間にも二発の手榴弾がキメラを撃砕していた。
百を超すゴブリンが一斉に向かってくる。橋爪は急いでマガジンを装着すると、なで切りにするように満遍なく敵にパラベラム弾をばらまいた。その間にもさらに一投。爆発。「キメ公全滅!」携帯無線から軍曹の声が響いた。
合田に張り付いたゴブリンを至近距離からの射撃で始末すると、四人は鉄扉を閉め、ハンドルをまわして施錠した。どんどん、と鉄扉をたたく音が聞こえたが、四人は小走りに自軍の陣地に向かって移動していた。
「……人は見かけによらねえもんだな」
橋爪が口を開くと、合田は「ははは」と苦笑いを浮かべた。
「こんなところで役立てたくはなかったですがね。練習は密かにやっていたんですよ」
「へへっ、秘密特訓ですね」
「そういうことです」
今度の敵も撃退できるか、と橋爪が安堵した瞬間、携帯無線から軍曹の声が洗れた。
「新岩国駅方面から多数の幻猷! 第二……吉香神社陣地から救援要話。白兵戦の其っ最中だそうです。ああ、くそ……よく見えねえ! 早く戻ってきてください!」
橋爪と合田は顔を見合わせると、陣地へと走った。
八月九日 一八〇〇 岩国基地
海岸線に最も近い中津町・旭町から岩国基地にかけての戦線では、地元岩国に駐屯する将兵が必死の市街戦を繰り広げていた。
決して広くはない市街地を進む中型幻獣を、戦闘車両が、そして対中型幻獣用の兵器を構えた戦車随伴歩兵が狙い撃ちする。吉香公園とは比べものにならぬぐらい濃密に張り巡らされた地下通路にも小型幻獣が浸透し、わずか三メートル幅ほどの通路で出会い頭の乱戦になることも珍しくなかった。
この方面に二十一旅団とともに展開している第二師団は、通路を熟知し、小型幻獣の群れを地下通路に誘導することを度々行っていた。こうすることで小型幻獣を通路に侵入できぬミノタウロス、ゴルゴーンなどと引き離し、中型専門の戦車、兵を戦いやすくする。
すでに戦力が半減している二十一旅団の兵などは、この作戦を「ネズミかご」と自嘲気味に呼んでいた。敵も、そして自分たちも……どちらがネズミかわかりやしない。そんな皮肉を込めてである。
それでも随所に設置されているネズミかごは小型幻獣の殲滅に有効だった。オトリの兵が「団体さん」をトラップに案内してすばやく待避用の部屋に逃げ込む。通路が数百を超える小型幻獣で埋まったとたん、敵はジャワーのような銃弾を浴びるか、ナパームによってことごとく焼き尽くされる。
狭い通路では白兵戦にならない限り、人類側の火力が有効だ。サブマシンガンを持った、たったひとりの歩兵が三十、四十もの敵を撃破することができる。
地下通路を設計した荒波と岩田参謀……特に岩田参謀は、物量に対して火力による効率的な大量殺戮でもって対抗しようとしたのである。
「吉香公園。対空歩兵沈黙。三チームまわします」
藤代が通路に待機中のチームをクリックすると、荒波は笑ってうなずいた。ネズミ穴。まったくもっていけ好かない戦争だ。大昔のアメリカのネコとネズミが追いかけっこするアニメを思い出させる。ただし、この戦争はネコがネズミ穴にぶつかってこけるなんでものではなく、ネズミがネズミをトラップに引き込む類のものだ。
三ヶ月前――。
岩田参謀を紹介された時、岩田は冗談ではなく、本気でアニメのビデオをこれでもかと荒波に見せた。あきれ返る荒波に、岩田参謀は「人類の狡知と外道っぷりを存分に見せつけてやりましょう」と胸をそらして言い放ったものだ。
地球にとってこれまで人類は、都会に寄生するネズミなど比較にならない壮大な害獣ぶりを示してきた。森林は死滅し、動物は絶滅し、水も空気も汚染された。幻獣など可愛いものじゃありませんかと岩田参謀は一部の共生派のようなことを熱っぽくまくしたてた。
「二十一旅団、損耗率三十パーセントを超えました。増援を要請しています」
藤代の声が淡々と響いた。どうしたわけか、本来の仕事に加え、藤代は二十一旅団の担当となってしまった。
「十四師団から一個中隊まわす、と。それまで持ちこたえろと伝えてください」
岩田はそう言うと、荒波に向き直った。
「もったいないです。代わりに学兵の戦車小隊をひとつまわしましょう」
「だめだ」
荒波はにこやかに拒否した。
「今回の学兵ってのはお客さんみたいなもんでな。死傷者ゼロが理想だ。約束通り、中隊をまわしてやれ」
「ノオオオー何を夢みたいなことを言ってるんですかあ!」
岩田参謀が絶叫すると、荒波は負けじと高笑いをあげた。
「はっはっは。岩田参謀、君は計算し過ぎるところが欠点だな。二十一旅団は精鋭だ。精鋭には敬意を払え。物惜しみするな。そうすれば連中は限界を超えて戦い続けるだろう。現場の軍人というものはな、意気に感じるところがあるのさ。まあ、これも計算だがな。……さて、そろそろうみかぜゾンビが空を埋めてきたぞ。厳島を出してくれ」
学兵の話をあっさり切り上げて、荒波は命令を下した。
藤代は戦線の画面に目を凝らしながら、震えを抑えることができなかった。
部隊ユニットごとに表示された戦力……数値が刻一刻と低下し、展開している部隊がまばたきする間にすり減っていく様子がよくわかる。
藤代の鋭敏な頭脳と感性は数値を具体的な被害に置き換えることができる。まばたきするごとにひとり……ふたりか? 二十一旅団の戦線は一キロ以上も押し下げられ、今では中津町には対空歩兵と狙撃兵が点々と残っているぐらいだった。戦線は敵の圧力の強い車町から弱い岩国基地にかけて極端に湾曲する形を描いている。
こんな戦争ははじめてだった。
荒牧司令に従って士魂号複座型に乗っていたのは二ヶ月足らずに過ぎないけれど、その頃の戦争は単純だった。カモフラージュして半ば地中に隠れ、ただ荒波の指示に応じてミサイルを発射していればよかった。ミノタウロス五、ゴルゴーン八撃破……などという数字は何かの競技で高得点を取るようなものだった。
その後、初めて歩兵の救援に赴いた時、全身が震えた。こわかった。自分たちを狙ってくる敵と出合うのはそれが初めてだったからだ。そんな経験もただ一度きり。自分たちは荒汲司令に守られて岩国で気楽で平和な日々を過ごしていた。
……実は荒波司令が、たまに夜遅くまで執務室でアルコールを飲んでいることは知っていた。
朝、執務室に掃除に入ると、微かにスコッチのにおいが漂っていることがあった。泥酔するような司令ではなかった。自分に厳しい人であるのもわかっていた。けれど……執務室で孤独に飲む酒というのはなんとなく司令には似合わない、と思った。
だから――、なんの衝動に駆られたのかはわからないけれど、深夜、荒披の執務室を訪れたことがあった。ノックの音にもドアの音にも気づかす荒波は沈鬱な表情で、ショットグラスに注がれた墟柏色の液体に視線を落としていた。「藤代か」。荒牧は顔を上げると、一瞬のうちに沈鬱な表情を消し去った。
「……すみません」藤代はなぜか謝っていた。
「子供は寝る時間だぞ」ため息交じりに言われて藤代は「何か心配なことあるんですか? わたしたちが役にたたないからですか?」と口走っていた。荒波は朗らかに笑った。
「おまえらは、あー、特におまえはこの大天才の役に十分立っている。……満点だ」
荒波は笑みを浮かべたままそう言ってくれた。だったらなぜ? 尋ねようとする藤代の機先を刺して「八代で死んだ連中のことをちょっとな」と荒波は言った。
二十万の兵の過半を失うという凄惨な戦いだった。奇跡的に生き残った荒波は、この戦いで精神に致命的な傷を受けた。二度と部下の死には耐えられないだろう。
「だから俺の心の中では、部下はおまえら四人だけなのさ。四人だったらなんとか守れる。これから大戦争が起ころうというのに、軍人としちゃ銃殺もんだな」
引退して坊主にでもなろうと思ったが、俺は女好きだからなみと荒波は笑った。藤代の心の中で何かが弾けた。荒彼に駆け寄ると、膝を折り、その背にしがみついた。
しかし、荒波は背を向けたまま微動だにしなかった。
散々泣いた後で、気がつくと、ぽんと肩をたたかれた。荒波はやさしく笑って、「このことは誰にも言うな。言ったらさよならだ」と言った。藤代はあわでて「死んでも言いません!」と誓った。
その夜のことを思い出すたびに藤代は幸せな気分になる。司令の心に近づくことができた。
今の藤代にはそれだけで十分だった。
「ちわーす。出前をお持ちしました――」
不音な声が聞こえた。藤代がドアの方角に目をやると、田中、島、村井がワゴンを押して入ってきた。藤代は思わず叫んだ。
「島、村井! すぐに田中をワゴンから離して……!」
島はとっさに田中を羽交い締めにすると、ワゴンから引き離した。島は藤代と同じ複座型電子戦仕様・通称土木二号の砲手で、落ち着いた雰囲気の少女である。大和撫子を思わせるおとなしやかな外見から基地の兵らに人気が高かった。村井は複座型突撃仕様、通称土木一号の操縦手で、陽気な姉御肌の性格である。三人とも今は宙ぶらりんな身のわけだが、近くの高校に通いながら律儀に複座型の操縦訓練に励んでいた。
「な、何すんのよォ?」
田中はきょとんとした目で藤代を見つめた。
「シチュューション・コメディやる雰囲気じゃないから……」
藤代がため息交じりに言うと、他のふたりはくすくすと笑った。サンドイッチとコーヒーが司令室の要員に配られた。さすがに司令室の張りつめた雰囲気に気後れを覚えたらしく、三人は藤代のところへ寄ってきた。
「藤代たん、なんか難しそうなことやってるね。手伝うことない?」
例によって田中だ。刻一刻と変わる数字の意味を悟って、島は画面に見入っている。村井も不安げな表情になっている。
「三人ともこっちへ来なさい」
荒波が声をかけると、三人は子犬のように表情を輝かせて荒波のまわりに集まった。
「土木一号出撃だ。といっても陣地からの狙撃だが、この辺りのうみかぜゾンビとスキュラを削ってくれ」
「へ……?」田中が大きく目を見開いた。
何ヵ月ぶりの出撃だろう。田中は敬礼して「ラジャー!」と元気よく答えた。村井もあわててそれに倣った。彼女らにもこの三ヵ月の待機は長かったのだ。
「狙撃拠点は。藤代……?」
言われるまでもなく藤代は拠点を割り出していた。
「第11陣地。正確には旭町第二陣地はどうでしょう? 工業田地がありますから障害物には恵まれています」
「うむ。行ってこい。ただし、無茶はするな。村井……頼んだぞ」
荒波が言葉をかけると、村井は目を輝かせて「はい!」とうなずいた。
「司会、わたしにもなんか言ってくださいよ――」田中がせがむように言うと、荒波は苦笑して、「よしよし、戻ったらステーキを奢ってやる」とだけ言った。
跳ねるように、踊るように格納庫に走って行くふたりを、島は肩を落として見送った。長く艶やかな黒髪が表情を隠していた。
そんな島を荒波は黙って見つめていたが、不意に「前園少尉」とオペレータ席に座っていた二十代の女性将校を呼んだ。弾薬を炊科を食料を、ありとあらゆる兵姑・補給を司るロジスティクスチームのひとりだった。前原は返事だけすると手をつけていた作業を手早く済ませ、荒波に向き直った。
「藤代と交代してくれ。問題はないな……?」
前園は席を立つと背筋を伸ばして「ありません」と冷静に言った。実のところ、前園少尉は藤代の師匠役だった。
「藤代さん、後のことは心配せずに」前園はやさしく藤代に声をかけた。
「はい。わたし……」
藤代の目元が赤らんだ。実は……もう数字を見ているのが苦痛だった。画面に表示されるあらゆる数字は必ず誰かの死を、負傷を告げている。
「よし。行け」
先輩に言われて、藤代は眼鏡をはずして目元をぬぐった。
「藤代、島。これは神司令官の絶対命令だ。わかっているだろうが……死ぬなよ」
荒波はにやりと笑ってふたりに申し渡した。その意味が痛いほどわかる分、藤代は黙って口許を引き締め、荒波に心からの敬礼を送った。
「わたしたちは旭町第一陣地に行きます。さ、島、行こうよ」
藤代が島に声をかけると、島は嬉しげに「任せて」とつぶやいた。
…ごめんね、島、田中、村井。みんな楽しそうに遊んでいるように見えたけど、わたし誤解していた。みんな同じ気持ちだったんだね。
藤代が視線を向けると、島は闘志にあふれた笑顔をみせた。
八月九日 一九〇〇 吉香公園
二百メートル先にミノタウロスの巨体が見えた。
傍らには炎をあげて燃える戦車があった。塹壕内には小型幻獣がひしめき、戦車随伴歩兵に群がっていた。支援射撃を送りながら橋爪はまたかよと歯がみした。
最後には量でやられる。
上空のスキュラは悠々とレーザーを放って、友軍の戦車を破壊し、今もなおこちらの動きを封じ込めている。こいつらが頑張っている限り、戦車は出せなかった。紅陵の戦車隊は、第二陣地を射界に収められず、川西方面から来る敵だけを砲撃していた。
「零式が二丁あるな。やるしかねえかな」
橋爪がつぶやくと、合田は首を振った。
「君に行かれると戦力が低下します。たった今、救援を要請したところです」
「ミノだけでもやっちまいたいなあ」
第二陣地には十体を超えるミノタウロスが徘徊していた。白兵戦に耐えられなくなった兵は通路へと逃げ込んだ。幻獣の群れがこれを追って行く。陣地壊滅。後には戦車の残骸と、友軍歩兵の遺体が残されているのみだった。
「通路に入った友軍、こちらに来る可能性がありますね」
合田にマップを見せられて、橋爪はうなずいた。
「島村小隊は待避壕へ。佐藤さん、砲塔を通路側へ向けられますか?」
合田に声をかけられて一号車、二号車とも砲塔を旋回させる。同じく機銃の銃口を通路へと。
橋爪は三脚から機銃をはずして、急ぎ銃身を交換した。
ざわざわと不気味な音が通路奥の間にこだまする。足音がして数人の戦車随伴歩兵がこちらに向かって駆けてきた。
合田はすばやく戦車を飛び越えると、兵に張り付いたゴブリンをサブマシンガンで引き剥がした。次の瞬間、パンドラの箱を開けるように、わっと小型幻獣の群れが通路にあふれ出した。
橋爪の小隊機銃を含め、三丁の機銃が火を噴いた。合田らが陣地へ戻ったタイミングで戦車砲が轟音を響かせる。一方的な殺戮。幅五メートルの通路に、またたくまに数百の幻獣が折り重なるように倒れ、消滅した。
後続をさらに一斉射撃で葬り去って、通路は静かになった。
「これ……いけますね」
橋爪がにやりと笑うと、合田も「ええ」とうなずいた。地下通路での戦いは人が有利だ。小型幻獣をまとめて葬れる。
「ゴブ、接近!」
塹壕に残って弾幕を張っていた先任軍曹の声がした。
橋爪は再び三脚に機銃を固定すると、引き金を引いた。すでに塹壕から三十メートルにまで接近している。合田が手摺弾をたて続けに投げ、サブマシンガンで敵を掃射した。
「通路でやっちまいませんか? 今の要領で」
橋爪が提案すると、合田はすばやく辺りを見渡した。こちらに向かってくる小型幻獣は二百体ほどか? 神社陣地を蹂躙したミノタウロスは通路に入れず、二百メートルほど離れた美術館陣地と交戦していた。
こちらに来るお客さんは……ミノタウロス、ゴルゴーン、キメラを囲むように第二波の小型幻獣の群れがかなたに見える。
「佐藤さん、さっきの要領で通路で迎え撃ちましょう!」
合田の言葉に「了解」と返事が返ってきた。
「戦車十メートル後退! 全員戦車を超えて通路の奥へ! 島村小隊から走れ……!」
二両の六一式戦車が後退すると、島村小隊の学兵が戦車を超えて通路奥へ走った。
合田小隊の兵は弾幕を張りながら小銃兵、ガンナー、マシンガン共の順に通路奥へと。敵が塹壕を抜け通路に殺到したところを四丁の一二・七ミリ機銃が至近距離からシャワーのように機銃弾を浴びせる。かろうじて戦車に取り付いた敵はマシンガン兵が仕留めた。今度は砲撃をするわけにはいかなかったが、戦車を盾として五メートル幅の通路を突進してくる敵を殺戮する。一発の機銃弾が敵の体を貫通して、二匹、三匹と倒してゆく。
橋爪が弾切れに気づいた時には戦闘は終わっていた。なんと十分ほどの間に合田小隊と紅陵α小隊及び島村小隊は千以上の小型幻獣を倒していた。
「元の位置へ。第二波を迎え撃ちましょう」
合田の口調にしだいに確固とした自信が宿るようになった。小型幻獣との戦闘は基本的に単純だという事実に気がついたのである。塹壕での白兵戦などは論外、戦闘正面を極力狭くして火力で殲滅する。そのための地下通路だった。
通路は移動だけでなく、戦闘のためのものだ!
合田の小隊は新規補充の兵が多く、彦島分遣隊ということもあり、この種の訓練を受けていなかったが、とっさの判断で旅団の最精鋭と同じ結論に達したのである。
「おお、やっとるやっとる」
通路側から声がして三十名ほどの兵が姿を現した。
「二十一旅団の合田です」
合田が敬礼をすると、先頭に立っている指揮官用アーリーFOXを着た少尉も敬礼を返した。
合田とさほど年は違わないだろう。
「十四師団の堂島や。こちらに急行するように言われたんやが」
「ご苦労様です。実は第二陣地が全滅しましてね」
合田はマップを示して、たった今経験した戦闘について話した。
「なるほど。支え切れんと判断する前に通路に引き込むわけか。わしら、市街戦の玄人やから塹壕死守の白兵戦なんてしゃれにならんと話していたところや。小隊機銃は二丁ある。跳弾だけが心配やがなんとかなるか」
跳弾……これは運だろう。合田は内心で苦笑した。
合田は堂島の部下たちを一瞥した。数人の兵が重ウォードレス烈火を着用していた。
これなら大丈夫だろう。
「第二陣地の兵に案内させます。ご武運を」
合田が敬礼をすると、堂島も気が楽になったか、にやりと笑って敬礼を返した。ほどなく第二陣地の方角からしきりに銃声が聞こえはじめた。
八月九日 一九三〇 旭町陣地
なんという光景だろう。
藤代は暗澹として空を見上げた。
二百を超えるうみかぜゾンビが、戦場の空を支配していた。その背後にはスキュラが三十体ほど。陸戦型幻獣の進撃を阻止しようと姿を現す友軍戦車をレーザーで破壊していた。
とはいえ、今では露出している戦闘車両は皆無だった。付近に適当な遮蔽物がない戦闘車両は強引にビルに突入し、これを盾としている。無数につくられたネズミ穴から対空歩兵が出現しては一機、また一機とスキュラ、ゾンビヘリを撃破してゆく。
これを追う小型幻獣の大群は、二度とネズミ穴から戻ることはなかった。小型幻獣から引き離されたミノタウロス、ゴルゴーン、キメラは巧妙に隠蔽された戦車、そして零式ミサイルを担いだネズミたちの餌食となった。
二十一旅団及び第二師団が担当する戦線、車町――旭町――岩国基地を結ぶ防衛ラインでは戦況は膠着状態に陥っていた。
そこは奇妙な戦線だった。
街中を徘徊する自衛軍は対空歩兵と狙撃兵だけであり、一見して市街は幻獣の支配下に見える。しかし敵が進撃を開始したとたん、ありとあらゆる方角から榴弾、機関砲弾、ミサイル、さらにはナパーム弾までもが飛んでくる。
さらに神の気まぐれのように突如として天空で爆発が起こり、十体単位のうみかぜゾンビが炎をあげて落下していった。
ゾンビヘリは地上に掃射する目標を見失っていた。
「距離八百。スキュラをやるよ」
島が話しかけてきた。藤代らの複座型は九二ミリライフルを構え、戦車用の塹壕で伏射の姿勢をとっていた。その背後には車両用の通路が設けられている。
「了解。けど、この角度だと危ないから、撃ったらすぐに逃げるよ」
藤代はペダルに足をかけたまま、射撃即後退のイメージを思い浮かべた。
振動が起こって砲弾が一直線にスキュラをめざした。側面に命中。這ったまますぐに通路内へと。ここで少しだけほとぼりを覚ます。
「上手くなったね、島。撃った時の衝撃が軽くなった」
藤代が誉めると「悪いと思っていたの」と島は唐突に言った。
「わたし、藤代の手伝いできなかったし。……海水浴行っても面目くなかった。みんなもそうだと思うよ」
「そう……」
藤代は島の心を思いやった。楽しんでいる、と思ったのは自分の傲慢だった。
返事をしながら藤代は再び複座型を通路から塹壕へ。目標のスキュラはまだ宙に浮かんでぐずぐずと炎をあげている。大丈夫。まだこちらに気づいていない。二発目を命中させると派手に爆発を起こして墜落していった。よし。藤代は不敵に笑うと「ほとぼりさまし」に再び通路へと戻った。
「誰かと思ったら……藤代、司令部から逃げてきたの?」
無線から田中の能天気な声が流れてきた。
「逃げてきた、はないでしょ? 司令からの命令」
二機の距離は百メートルと離れていないはずだ。右手に工業団地の白い建物が見えた。
「えっへっへ。こっちはうみかぜゾンビ四、スキュラ一撃破したよ」
田中が自慢げに言った。
「……それはいいけど陣地から出ないで。スキュラのレーザーでばっさりなんて。わたしたち、死んじゃいけないんだから。誰かが死んだら司令、悲しむよ」
藤代がたしなめた。
「わたしが死んでも悲しんでくれるかな……」
田中は心肝なげにつぶやいた。
「当たり前じゃない!」
「藤代ばっかり頼りにしてるし……わたし、あんたに負けてる。どうして藤代みたいな頭と性格を持って生まれてこなかったんだろ」
これがあの田中の言葉か? 藤代は愕然として「馬鹿……」と口走っていた。
「勝ちも負けもないよ! 田中、村井、あんたたち少し危ない! 通路へ下がって……!」
藤代は無線機に向かって怒鳴った。その剣幕に押されて「わ、わかった」と村井は応答して
きた。その時、不吉な音がして一瞬無線が途切れた。
「村井? 田中……?」
「……うう、まずった。レーザーに片足吹っ飛ばされた。今、通路に逃げ込んだところ」
村井が悔しげにうめいた。
藤代は戦術画面を参照した。うん、なんとかたどり着けるだろう。
「よく聞いて。そのまま這って、三丁目の整備工場へ。足って全部じゃないよね?」
「うん。足首から先」村井は気落ちした様子で言った。
「整備工場に部品があるかもしれないし、整備できる人がいるかも……あ、たぶんなんとかなると思うよ。すぐに行って。あと、田中……ヘタレ!」
「うわ……」島が驚きの声をあげた。ヘタレなんて言葉が藤代から出るとは。
「反省だったら猿でもできるんだからね! 陣地の塹壕から絶対に出ないで」
「……藤代、やさしくないよ」田中は気落ちした様子で抗議した。
「うるさい! とっとと行け!」そう言うと、藤代は無線を切った。
「すごく怒ってるね、藤代」島が言葉をかけてきた。
「うん……活躍して司令に認めてもらおうなんて。わかるから。わかり過ぎるから……」
そう言うと藤代は黙り込んだ。
「藤代……」
「……こここを使う戦車には気の毒だけど、塹壕、もう少し掘り抜こうよ。相手の高度から計算すると、伏射だと脚を狙われる」
藤代が冷静を取り戻して言うと、島は「わかった」とうなずいた。
整備工場まで這ってきた複座型を見て整備員たちは息を呑んだ。
失われた右の足首から乳白色のたんばく燃料を垂れ流している。とりあえず、と整備員たちは格納庫のシャッターを開けて複座型を収容した。
コックピットから出てきたふたりの少女を整備員は遠巻きに囲んだ。
「修理……お願いしたいんですけど」
栗色の髪の少女が言葉を発した。しかし整備員たちは茫然として機体を見つめるだけだった。
何をどうすればよいのか? それすらも彼らはわからなかった。
やっぱ、だめか……。田中はほっとため息をついた。活躍したかった。しぶる村井をうながし陣地を出て「最適の射撃位置」に移動した。訓練は怠っていなかったから自信はあった。けれど……結局ヘタレは治らなかった。遮蔽物の多い地域に展開したことが幸いした。
藤代の怒りが田中にはよくわかった。どうしてわたしはこうなんだろう? 衝動的で考えなしで……司令に大怪我をさせてしまったこともある。田中は複座型の足下にへたり込んだ。村井も途方に暮れた顔で隣に座った。
「終わつちゃったね。ごめん……」田中が言うと村井は「そうだね」と頭を垂れた。
「サンドイッチ作りに逆戻りかな」
「うん……」田中は寂しげにうなずいた。
「懐かしいですね。複座型突撃仕様」
声がした。指揮官用アーリーFOXを着た長身の男が目を細めて複座型を見上げていた。隣には眼鏡をかけた少女が同じく機体を見上げていた。
「あら、可哀想に。足をやられていますね。けどこれなら……」
少女は複座型に近づくと、丹念に傷口をあらためた。そして男に向かって指でマル印を作って微笑んだ。
「確か光輝号が一体あったはずです。パーツを流用しましょう。多少動きは鈍くなりますが、同じ人工筋肉です。生体兵器棟に案内を……」
男は整備員に声をかけた。整備員たちはふたりを囲むようにして別の棟に向かった。
「あの……」
田中が声をかけると長身の男と眼鏡の少女は振り返った。
「確か下関で。遠坂さんと田辺さんですよね?」
「ええ、その節はお世話になりました。これは大した傷ではありませんよ。すぐに治します。……おっと、たんばく燃料がもったいないな。すぐに止血します」
そう言うと遠坂は辺りを見渡して、「あれを」とワイヤーの束を指さした。整備員が弾かれたようにワイヤーへと向かった。遠坂は手短に指図をすると、右足をジャッキで持ち上げ、ワイヤーで傷口を縛った。
「運がよかった。じきに取材再開するところでしたから。わたしはテレビ新東京の取材でこちらにお世話になっているんです」
「え、社長さんが取材してるんですか? 人手不足とか……?」
田中が無邪気に尋ねると、
「ま、まあ……そうですね」
遠坂は気まずそうに額に手をやった。田辺は口に手をあてて必死に笑いを堪えた。
村井が思いっきり田中の肘を引っ張った。
「あんた馬鹿あ? 人手不足なわけないじゃん! きっと事情があってここにいるんだよ」
「馬鹿はないでしょ、馬鹿は? これでも藤代に散々言われて落ち込んでいるんだから! 少しはやさしくしてよ!」
「だめだめ。あんたは甘やかすと絶対絶対失敗するんだから! シチュエーション・コメディ女とはあんたのことだ!」
元気を取り戻し、言い争いをはじめたふたりを遠坂は笑みを浮かべて見つめた。
「修理は小一時間かかります。それまで食事でもなさっては?」
八月九日 一九四五 山口グランドホテル
市庁舎は爆発物処理の兵に占領されてしまった。
最小限の機器を市庁舎近くのシティホテルに運び込むと善行は会議をそこで開催することにした。ホテルのロビーでは護衛の兵と憲兵が目を光らせている。従業員が疎開して日数を経たロビーの赤い賊毯は、心なしか挨っぽかった。
舞と厚志が足を踏み入れると、鋭い目つきをした護衛の兵が寄ってきた。
「ああ、彼らは5121小隊の司令とパイロットだ。問題はないよ」
矢吹の声が聞こえた。護衛の兵は緊張した面もちで敬礼すると持ち場へと戻った。第三戦車師団の肩章を付けている。どうやら矢吹は護衛役を、見知った司令部要員で固めているようだ。
「爆弾騒ぎのお陰でとんだことになった」
舞が挨拶代わりに口を開くと、矢吹は苦笑を浮かべた。
「こわいものだな、テロとは。時に岩国なんだが……」
「戦況は膠着しているらしいな。よく止めたものだ」
「……ウチの参謀の酒見《さかみ》が言うには荒波・岩田は見かけによらず戦上手らしい。戦線の縮小に成功しているようだ」
「ふむ。最善を尽くしているようだな」
「それにしても十四師団はともかく、会津閥一色の十一師団を引っ張ってくるとは思わなかったよ。まあ、会津にしてみれば戦功を独占されたくないという思惑もあるだろうがね」
矢吹は苦笑して言った。
「そなたから政治の話を聞くのは初めてだ」
舞も口許をきゅっと吊り上げた。
「実戦、指揮、政治、テロ……わたしにとっては学ぶことばかりだよ。一介の戦車屋にとって世界は複雑だ。それを知って戦うことと、知らずに戦うこととは違うだろうな」
同年代の軍人に言えば失笑される青臭いセリブだ。こんなセリフが言えるだけでも、矢吹にとって舞は、5121小隊は、貴重なパートナーなのだろう。
館内放送が会議開催を告げた。舞と矢吹は肩を並べて会議室代わりの宴会場へと向かった。
すでに半数以上の「招待者」が詰めかけていた。ほとんどが兵を持たぬ将校だった。名目上は宮下中佐が統括する善行戦闘団・山口市守備隊の所属となっている。
善行はふたりの姿を認めると「はじめましょう」と言った。
矢吹が立ち上がると戦況を報告した。その戦果に感嘆のどよめきが洩れたが、矢吹は表情も変えずにおもむろに端末に媒体を差し込んだ。
端末に接続されたプロジェクターが山口県全域を映し出した。萩とその周辺地城が淡い赤に染まり、さらに山陽道は下関から岩国付近まで赤い地域が続いている。唯一、通常の黄緑色を保っているのは山口と県央の山地、そして山陰の広島に近い一帯だった。一見して山口の過半はまだ人類側に残されているように見えるが、そこは人間の住む地域ではなかった。拠点とするにふさわしい都市はすでに山口と岩国だけになっている。
血管を連想させる道路群がピッシリと表示された。最も太い動脈は山陽自動車道、そして国道がそれに続く。深紅に点滅する流れが岩国へと向かっていた。
「これは何を意味するのかね?」
宮下中佐が口を開いた。この年輩の軍人は大陸での戦争を経験していた。仁川《インチヨン》防衛戦では、兵姑を担当して前線の将兵に物資を送り続けた。
「現在、我々はここ山陽自動車道の敵に対して遊撃戦を仕掛けております。しかし当初は自動車道にこだわっていた敵が、このところあらゆるルートを使って岩国をめざしているのです。比喩を用いれば、はじめ動脈しか使わなかった敵が静脈をも使うようになった。これは何を意味するか?」
矢吹は言葉を切って一同を見渡した。
「戦闘団の攻撃による被害のリスクを分散しているのでしょう」
とある大尉が発言した。矢吹は大尉に向かってうなずいてみせた。
「わたしもはじめはそう考えました。しかし我が戦闘団はその性格上、継続して敵の侵攻を止めることはできません。定期的な爆撃……空軍による攻撃と同じですな。そしてその攻撃は残念ながら圧倒的なものではありません。それが痛手なら敵は山口市に侵攻するはずです。しかしそうはなっていませんね」
矢吹の説明に大尉は「なるほど」とうなずいた。
「本日の我々は、おそらく一個師団が与えるに等しい損害を敵に与えた。しかし敵にとってそれはあらかじめ計算された損害であるとしたら? 発想を逆転すれば、我々は生《い》き餌《え》をちらつかされて山口市に釘付けにされているのです」
「考え過ぎではないでしょうか?」
将校のひとりが遠慮がちに口を挟んだ。明らかな「大戦果」に圧倒されて、普段なら揚げ足取り、イビリ役になる将校たちもなかなか発言できずにいる。
「萩の敵も、山陽道を進む敵も我らのことを無視している」
舞は席を立つと冷静に口を開いた。「なぜならば……」と舞は悔しげに口許をゆがゆた。
「敵の戦略はただひとつ。岩国最終防衛ラインの突破であるからだ。そして防衛ラインを突破されればこの間は滅びる! ゆえに敵にとってそれ以外の要素は単に戦術的な勝敗の問題でしかないのだ。我々は戦術的な勝利にだまされていた。我が軍の救いは西部方面軍のほとんどの戦力が岩国に集中していることであろう」
舞と矢吹の……元はと言えば厚志の感性と茜の分析は善行の構想と対立するものだった。厚志の何気ない言葉に皆が反応した。茜は自らの過ちを認めた。善行はどうか? 舞は両手を組んで沈黙したままの善行を見つめた。
「あのー……すいません。意見いいでしょうか?」
厚志がおずおずと手を挙げた。千翼長の子供が、と不機嫌な視線が厚志に集中した。
「どうぞ」善行はあっさりと許可した。
厚志は立ち上がると舞と視線を交わした。「臆《おく》するな」舞は耳元でささやいた。
「ええと……矢吹少佐の言われた『あらかじめ計算された損害』についてなんですけど、僕、士魂号に乗って戦ってみたんですが、なんか敵にやる気感じないんですよね」
とたんに、どっと笑い声があがった。厚志の如何にも素人っぽい言葉に反応したのだろう。
しかし舞も矢吹も笑わなかった。
舞はそっと厚志の脇腹を小突いた。頑張れ――。
厚志は覚悟を決めたか、深呼吸をすると静かな声で話を続けた。
「……下関ではもっと敵は必死でした。負けると九州に逆戻りだから。なんというか、伝わってくる憎悪が達うんですよね。下関じゃすごい憎悪をたたきつけられて、僕も負けずに敵を憎んで潰してやろうと思いました。……皮膚がピリピリするような憎悪が僕たちが戦っているうちに怯えや不安に変わって、最後には恐怖になるんです。そうなるとそろそろ勝つな、と思えてくるんです」
「話が抽象的過ぎる! だいたい幻獣にそんな感情があるのか?」
話にならんといった調子で、誰かが言い放った。舞はそっと厚志の横顔を見た。厚志の表情から遠慮と気後れが消えている。
ふっ。厚志の顔に突然、笑みが浮かんだ。獲物を求め、葬り去る時の笑みだ。
厚志は顔に笑みを張り付かせたまま、声の主を見据えて言った。
「幻獣とじかに戦ったこと、あります? 中尉殿? それも、あいつらの憎しみをかきたてるような戦いをしたこと、ありますか?」
厚志に笑いかけられて、中尉の顔に怯えが走った。
「し、失敬な……! 下関からずっと戦い続けてここにいる」
「弱いと相手もそんな感情、起こしませんよ。中尉殿? 弱くちやだめなんです」
厚志め、開き直りおって――。
舞は発言を代わろうとしたが、矢吹の視線を感じた。存分に言わせてやれと目で語っていた。
ふん。我らと関わり合うとロクなことにはならんがな。舞も了解だというように笑みを含んだ目で見つめ返した。
「……彼の言っていることは本当ですよ。幻獣にも感情はあります」
植村の声が聞こえた。そして絶句する中尉の機先を執するように続けた。
「わたしは下関戦の際、壇ノ浦方面で友軍の退路を確保するために、何度も敵と白兵戦をやりました。三度めの攻撃だったかな、強力な援護があって敵が逃げ腰になりましてね。ほとんど零距離射撃で逃げるゴブリンを狩ったものです。不意に敵の怯え、恐怖が伝わってきました。その時、わたしは考えたんですが、普段の戦闘では我々の心には余裕がない。彼の言う憎悪、怯え、なんでもいい。自分の感情だけで目一杯になる。アンテナが曇るんですよ」
「馬鹿な……!」中尉はやっとこれだけ言った。
「速水千翼長のみならず、5121小隊のパイロットは我々の常識でははかれない天才ですよ。そして天才ゆえに自らの感情をコントロールし、アンテナを研ぎ澄ます余裕がある。ああ、速水千翼長、邪魔をしたな、続けてくれ」
植村は厚志に続きをうながした。
厚志はにこやかな表情を崩さず「はい」と返事をした。
「九州でも同じでした。熊本城攻防戦の時の敵なんかすごかったです。けど、ここに来てからの遊撃作戦では敵のそんな感情が弱いんです。僕思うんですけど、ここの戦場は空気がきれい過ぎ。憎悪極まれる地は岩国なんじゃないかなあ」
憎悪極まれる地――。ふむ、、よいことを言うな。
舞が、ふふっと笑みを吐き出すと、厚志は照れたように頭を掻いて席に着いた。そう、我らは憎悪と狂気渦巻く地に赴かねばならぬ。我らが狂気は敵を恐怖の淵にたたき込むだろう。我らは敵の心をへし折らぬばならぬ……!
研ぎ澄ました刃のような笑みをたたえる舞と厚志を、将校たちは不安げに盗み見た。まるで異星人でも見るような畏怖を含んだ視線だった。
幻獣の憎悪だの恐怖だの、敵に感情があるだのと、多くの軍人たちにはまったく理解不可能な会議の展開だった。普段なら「戯言」もしくは「抽象論」のレッテル粘りで片付けることができたろうが、「目をむくような」戦果をあげた戦闘部隊の指揮官のすべてがこの抽象的な戯言を肯定している。
場の空気は明らかに、この青い髪の少年が発している何かに支配されていた。
「……岩国に転進しましょう」
矢吹は重々しく言った。その場にいた者たちの視線は善行に集まった。
善行は眼鏡を押し上げると静かに告げた。
「戦闘団はこれより岩国へ。宮下中佐には当市の守備隊指揮をお願いします」
ざわめきが起こった。誰もが思ってもみなかった展開だった。しかし善行は顔色も変えずに足早に会議室を出た。
憎悪には憎悪を。狂気には狂気を――。
戦雲《せんうん》という言葉がある。戦雲渦巻く地――そこはありとあらゆる混沌に支配されている。その地こそが我らが戦うべき場所だ。
そんなことを考えながら、舞は席を立ってロビーに出た。「舞」声が聞こえて厚志に呼び止められた。
「その笑い、なかなか取れぬようだな」
「あ……言われると思った。あははは」
厚志は頬を引っ張った。舞も腕を伸ばして頬をつまみ、顔の筋肉を和らげるのを手伝ってやった。まわりの者があきれてふたりを見た。
「……痛いよ。そんなに強くつねることはないだろ」
「ふむ。だんだん元の顔に戻ってきたぞ。どうだ……?」
舞は澄ました顔で厚志の頬をつねり続けた。
「転進の段取りなんだが、たった今、瀬戸口氏から案が示されたそうだ。わたしの隊の参謀の案と照らし合わせて考えてみるよ」
矢吹が声をかけてきた。
かなり大規模な移動になる。移動しながら戦闘を行い、敵を駆逐しなければならない。岩国近辺の状況もあらかじめ調べる必要がありそうだ。
テレビの音が流れてきた。ロビーに設置された巨大なスクリーンから、聞き覚えのある声が流れてきた。
「……現在、戦線は膠着状態に陥っています。岩国市上空は敵空戦型幻獣に支配され、友軍は身動きが取りにくい状況にありますが、巧妙に構築された陣地によって敵は進撃を阻まれた状況にあります。二十一旅団の前線から中継しています」
戦場の光景が映し出された。上空には数百という単位のゾンビヘリ、そして数十のスキュラが悠々と浮かんでいた。戦場となった市街は半ば焦土と化していた。そこには兵の姿はなく、瓦礫の街をミノタウロス、ゴルゴーンらの幻獣が闊歩していた。
幻獣側がはるかに優勢に見える。その戦域の地上と空を支配しているように見えた。ただ、不思議なことに映像に栄《さか》える中型幻獣に、常に従者のごとく付き添う圧倒的な数の小型幻獣の姿が見当たらなかった。
「遠坂君……あ、後ろに田辺さんもいるよ!」
厚志が驚いて叫んだ。舞も目を見開いて、ふたりの姿を見つめた。「前線」は裸電球が灯った地下道だった。ふたりはアーリーFOXを着込んだ戦車随伴歩兵の一隊に交じっている。すぐ先の出入り口から探照灯の光が差し込んでくる。
「何をやっているのだ……」
舞はあきれてつぶやいた。
「……テレビ新東京のリポーターということらしいです。連絡がありました」
善行がふたりの横に並んで言った。口許は笑っている。
「馬鹿な! やつは何を考えているのだ」
舞は遠坂と前線の兵を目を凝らして見た。
兵らは相当にくたびれた格好をしているが、装備はよかった。五、六名ほどの戦車随伴歩兵が映っていたが、零式直接支援火砲……零式ミサイルを抱えている兵がふたりいた。偵察役らしい兵が戻ってきた。「真上にスキュラ」それだけ言うと、偵察兵は通路の床に座り込んでレーションを食べはじめた。
零式ミサイルを抱えた兵がふたり、黙って通路を出ていった。ほどなく軽快なミサイルの発射音が聞こえたかと思うと、うみかぜゾンビの機関砲の音がして、ふたりの兵は転がるように出入り口から戻ってきた。「スキュラ一、撃破」そう申告すると、ふたりは黒のマーカーを取り出してウォードレスの肩に太々と線を描き込んだ。それぞれ三本の横線が措かれている。
「そういやじきにお客さん来ます」兵が思い出したように言うと、他の兵は薄汚れた顔に白い歯を見せて笑った。「リポーターさん、逃げまっせ」声がかかって、カメラは延々と裸電球が灯る簿暗いい地下通路を映し出して、突如として放映は終わった。
「ふむ」
舞は腕組みすると、考え込んだ。
「地雷を抱えて突撃するよりはましだろうな」
植村が舞に笑いかけた。
「零式ミサイルなら二、三発でスキュラは沈む。市街地では対空戦車より有効だろう。護衛の幻獣は脅威だろうが」
植村の言葉に舞は深くうなずいた。
「皮肉なものだな。空中要塞の天敵が歩兵とは」
「敵は空陸共同で市街を制圧しようとしたらしいのですが、市街に入るにつれ損害を増しているようです。むろんこちらの被害も相当なものらしいですがね」
善行は淡々とした口調で言った。
「転進を認めた理由は?」舞は話題を変えた。
「我々は遊撃部隊ですから。あらゆる場所に出現し、敵に恐怖を与えます。速水君はよいことを言いましたね。敵が最も嫌がる地点を衝くのが正解でしょう」
善行は表情も変えずに言ってのけた。
八月十日 二三三〇 憲兵隊屯所
わたしは何をやっているのか?
そう思った瞬間、はっとした。戻っている。一度は破壊された記憶が戻っている。しかも新しい記憶までもがくっきりと刻印されていた。
幼女に退行して、憲兵の前で散々駄々をこねていた自分の姿を思い出して、近江の自尊心は粉々に打ち砕かれていた。
しかし、どうして……? 一過性の催眠術? 精神操作という言葉は近江は知らなかったが、あの少女に畏怖に似た感情を覚えた。
「そうだ、チョコレート食べるかね?」
不意に声がした。そうだ、ここは取調室だ。近江はデスクの上に突っ伏していてよかった、と安堵した。灰色の髪の少年は去り、デスクの前には制服を着た憲兵がふたり。おそらくその後の自分の変化を観察するために残っているのだろう。その後、自分は研究材料としてラボのような施設へ送られるはずだ。ラボの噂は知っている。大都会の片隅で生きる不良たちにとって最も恐ろしいものだった。警察に補導された後、二度と顔を見なくなった少年少女はたくさんいた。
近江は表情の変化を悟られぬよう、突っ伏したまま「あたしプリンが食べたい」と言った。
そして顔を上げると、ちらと憲兵の様子を見た。ひとりは眼鏡をかけた学者風の大尉。一般人が制服を着ている程度。ただしもうひとりはプロだ。階級は伍長。痩せていて身ごなしが軽そうだ。座らずに立っているが、それだけでもバランスのよさが近江にもわかる。命のやりとりをするにはこの種のタイプが一番危険だ。不意を打ってもすぐに取り押さえられるだろう。
「やっとしゃべってくれたね」
学者風はにこやかに微笑んだ。近江は再びデスクに突っ伏した。
「……プリン」
近江は学者風に狙いをつけて、もう一度口に出してみた。
「プリンなど手に入るかね?」
「無理ですな」
ふたりのやりとりが聞こえた。近江はしばらく考えて、「おじさん」と大尉に話しかけた。
「プリンくれたらご褒美のこと、話すよ」
ため息が聞こえた。
「……ジュースだったら飲ませてあげるよ。喉、乾いているんだろう?」
大尉はどうやら尋問を続けたいようだ。幼女に戻っていた近江にはなんら拘束が施されていなかった。幸運だった。近江は密かに大尉に狙いを定めた。
「大尉殿、これ以上は無駄です。研究所から人が来るまで拘束するだけで十分と思います」
伍長の冷静な声が聞こえた。
「あの変態どもに手柄をかっさらわれたいのか?」
大尉の声に苛立ちが交じった。
「しかし、我々は専門家ではありませんよ」
「尋問術のプロではある。我々だけでなんらかの情報を引き出して上に報告したいのだ。このまま収穫ゼロだと失点になるぞ」
「失点ですか……」伍長の声に無念の響きがこもった。
「共生派の捜査からはずされたら、交通整理をする羽目になるぞ。二度と浮かび上がれん。君は若いからわからんだろうが、競争相手は掃いて捨てるほどいる」
なるほど……。軍人だったら誰だって出世を望むはずだ。この大尉は自分から雑用をやるタイプでは絶対にないだろう。となれば……。
「ジュースでいいよ。飲ませてくれたら話すよ」
近江の言葉に、大尉は「約束だよ」と猫なで声で念を押した。そして伍長に有無皇言わさぬ口調で命じた。
「ジュースを買ってきたまえ」
「は……」
顔を上げると、伍長は靴音を響かせ部屋を出ていった。大尉はほっとした様子で眼鏡をはずすと布を取り出し、神経質に曇りをぬぐいはじめた。
今だ……!
近江はすばやく身を起こすと、大尉に襲いかかった。不意を打たれて大尉は椅子ごと転倒、近江は相手のホルスターから拳銃を抜き出しスライドを引いた。銃声はまずい。近江は恐怖に見開かれた大尉の眉間に銃把をたたき込んだ。
すぐに出ないと! 足音が近づいてくる。あの伍長……。近江は覚悟を決め、拳銃を手にドアを開いた。
すぐ目の前に伍長の顔があった。しかしその首は不自然な方向に折れ曲がっていた。
「迎えに来たわ、タカコ」
声がして、伍長の背がとんと押された。床に倒れ伏す伍長の背後に、古風なワンピースを着た少女が笑いかけていた。
近江は言葉を失って、少女に銃を向けた。しかし少女は微笑んだまま、近江に近づき、硬直した体を抱擁した。
「可哀想なタカコ。あなたにはもうどこにも居場所はないの。だからわたしがお友達になってあげる」
ささやかれて、近江の全身から力が抜けた。
[#改ページ]
第十五章 地下迷宮の中で
八月十日 〇〇三〇旭町地下通路
深夜――。
ありとあらゆる探照灯に照らされて、街は輝いていた。闇は小型幻獣の友だった。その浸透突破によって人類は幾度となく手痛い敗戦を重ねてきた。
善行戦闘団の鮮やかな遊撃戦や、合田たちの防衛戦、テレビで放映されたような対空歩兵の理想的な戦いがすべてではなかった。
それらは戦争という巨大な映像を作り出すたったひとつのドットに過ぎず、友軍の成功と引き替えのように、なすすべもなく全滅していった部隊も多く存在した。その均衡がなんとか取れているからこそ「膠着」という状態が生み出されたのだ。空陸が共同して突破をはかる幻獣側の戦術は執拗に繰り返されていた。
市内にある無数の拠点はその何割かを破壊され、戦線はきれいな線ではなく、飛び地あり、極端な凹凸ありの複雑な模様を描いていた。
「旭町第17陣地に敵多数! 救援を求めています!」通信兵が叫んだ。
この陣地のすぐ先には整備工場がある。室井は遠坂らのことを思い出して舌打ちした。一日のうちに戦線は五百メートル突出されて、旭町一帯は川沿いの建物群で友軍が必死の抵抗を続けていた。
室井の中隊は車町付近、戦線の飛び地にあって小型幻獣を狩っていたが、部下に鉄扉を閉じさせると移動の命令を下した。
複雑に入り組んだ地下通路では小型幻獣の大量殺戮が行われていたが、逆に浸透され幻獣の支配下に落ちた通路も多く存在した。
室井中隊六十七名は、サブマシンガン兵を先頭に幅三メートルほどの通路を身を屈めて走った。通路は電力がなお供給され、裸電球に照らされた標識を道しるべに兵らの縦列は車両用の広い通路を横切り、広場……待機所を過ぎ、陣地をめざした。
陣地が近づくにつれけたたましい機銃音が聞こえ、喊声《かんせい》が通路にこだました。
通路を曲がると間の中に不気味に光る無数の赤い目が一斉にこちらを向いた。「ゴブ!」マシンガン兵が叫ぶと、ためらわず引き金を引いた。マシンガン兵の後方、肩越しから小隊機銃を腰だめにしたガンナーが十二・七ミリ機銃弾を送り込む。前列の兵に数匹のゴブリンが張り付いた。実体化した斧が振り下ろされ、兵は断末魔の悲鳴をあげた。後方のサブマシンガンがためらわずゴブリンを掃射する。
「下がれ。火炎放射器……!」
室井の指示に応じてマシンガン兵は無数の赤い目にパラベラム弾を浴びせながら後退する。
火炎放射器を背負った兵が、兵と兵とのわずかな隙間からノズルを突き出す。炎が跳ねながら突進してくる敵を照らし出した。一瞬、辺りはサウナ風呂のような蒸し暑さに包まれた。炎が敵を這うたびに赤い目との距離が広がった。再びサブマシンガンと小隊機銃が弾幕を張る。水滴が室井の頬を打った。頭上は川か? だとしたら敵は予想以上に浸透しているな。悲鳴。また弾を撃ち尽くしたマシンガン兵がまたひとり倒れた。
「弾を切らすな! 切らしたらすばやく後方へ下がれ!」
ああ、そうだ、と室井は重ウォードレス烈火のことを思い出した。不意の遭遇に室井自身が狼狽えていた。烈火ならば敵に張り付かれても平気だろう。
「烈火着用の者。サブマシンガンを持って前へ――」
重たげな足音がして、烈火を着た兵士が前列に出てサブマシンガンを撃つ。撃てば必ず命中する。引き金はほとんど引きっぱなしだった。
一分ほどで全弾を撃ち尽くした兵にゴブリンが襲いかかる。烈火のハンマーパンチがゴブリンを撲殺してゆく。その間にも後列からマガジンを新たに装着したサブマシンガンが烈火兵に渡される。
なるほど、こうして使えばよいのか。室井は重ウォードレスの使い方を学んだような気がした。熊本では何度か実戦に参加したが、単にトーチカ陣地を守っていたに過ぎない。実戦と言えば陣地を守る戦いだけだった。そして交代で本土へ戻ってから中隊を率いる身となった。二十一旅団では各隊に満遍なく実戦経験者を交ぜるようにしていたが、その「経験」にも兵ごとに差があった。
気が付くと静寂が訪れていた。赤い目はすべて死に絶えていた。中隊の死傷二名。確か近くに地下野戦病院があったはずだ。室井はすばやくマップに目を通した。第17陣地の近くだ。
どちらにせよ「病院」を通過することになる。それと補給だ――こいつはどうするか? 先ほとまで聞こえていた銃声は絶えていた。
「急げ!」
室井はさまざまな懸念を脳裏にしまい込むと部下に呼びかけた。
駆けるうちにむせ返るような生臭いにおいが漂ってきた。室井は顔をしかめた。においはだんだんと強烈になってくる。通路横に開け放たれた両開きの扉があった。「ちっくしょう……」誰かが押し殺した声でうめいた。
そこは野戦病院のエリアだった。
照明を落とした薄暗闇の中、百を超える遺体が広々とした空間に横たわっていた。医師も看護師も兵も、血だまりの中で物言わぬ人となっていた。
「機材は無事だ。すまんが運ぶのを手伝ってくれんか」
声がして蛍光灯が灯った。
久遠《くおん》に身を包んだふたりの女性がエリアの隅にたたずんでいた。大尉の階級章をつけウォードレスの上から白衣を羽織った軍医と十翼長の階級章をつけた衛生兵だった。髪をひっつめにした女医は冷静な表情で機材を点検していた。
なぜふたりだけが生き残っているんだ? 室井は怪しんだ。
「何が起こったのです……?」
「見ての通りだ。浸透してきた敵にやられたんだろう。わたしは十分ほど前に対岸の野戦病院から移動してきた」
女医は不機嫌な表情で室井を見つめた。女医の足下でうめき声が聞こえた。
「重傷だがひとりは助かる。病院は整備工場内に移動する。第17陣地を越えたところだ」
「陣地はどうなりました?」
「わからんが、人型の戦車が現れて敵を撃退したようだ。その生き残りが逃げ込んだ先に野戦病院があったということだろう。飯島……?」
女医は生命維持装置に見入っている衛生兵に呼びかけた。あどけない顔をした少女が、ゆっくりと女医を見上げた。表情はなかった。口許をきつく引き結んでいる。
「……ええ、大丈夫です。そんなことより」
飯島と呼ばれた兵は、ぼんやりとたたずむ中隊の兵に頭を下げた。
「医療機材の搬送、お願いします」
八月十日 〇一三〇整備工場
どこからか絶叫がこだました。遠坂と田辺、そしてカメラマンが目を開けると、すでに坂上、本田は起きていた。
「敵が浸透したようです。我々は逃げます」
坂上は静かに言った。有無を言わさぬ口調だった。
遠坂は顔をしかめた。整備員を見殺しにして逃げろと言うのか?
銃声が聞こえた。次いで規則正しい機銃音が参加した。「逃げるな。撃退しろ!」どこからか声が聞こえて、銃声はしだいに盛んになった。
「戦闘部隊が駆けつけたようです」
遠坂はそう言うと、辺りを見渡した。
「修理済みの九二式歩兵戦闘車が二両あります。これを使えませんか、先生? 最悪でも中にいればゴブリンには手も足も出ませんよ」
坂上は銃声に耳を澄ました。そして遠坂に向き直った。
「生体兵器棟ですね。わたし遠坂君、田辺さん。本田先生とカメラマン氏のチームで行きましよう。わたしが先導します」
「ああ、それでけっこう。なんとか味方も持ち直しているみたいですしね。おい、カメラマン。俺が銃手をやる。運転は自動車と同じだ。できるな?」
本田の言葉にカメラマンはうなずいた。多くの機材を必要とすることから、総じてカメラマンは運転には慣れている。
「こちらは遠坂君、銃手お願いします。田辺さんは運転を」
坂上に言われて遠坂と田辺は顔を見合わせた。
「あの……それは構いませんけど、先生はどうなさるんですか?」
田辺が尋ねると坂上は無表情に、「この重ウォードレスでは中に入れませんよ」と言った。
どうやら車両に張り付いて戦うつもりらしかった。
「次の十字路を右に。銃声が聞こえます」
広大な工場の敷地内を坂上の指示通りに九二式を進めてゆくと、ほどなく生体兵器棟のエントランスが見えてきた。血にまみれた整備員の遺体が点々と散らばっていた。小隊機銃の重たげな音がこだまする。エントランスに殺到する数百に及ぶゴブリンの群れが視界に入った。
遠坂は群れに照準を合わせると引き金を引いた。二五ミリ機関砲弾がゴブリンを切り裂き、工場内から旺盛に聞こえる銃声に重なった。百体ほどのゴブリン、ゴブリンリーダーがまたたくまに消減、戦意を失ったらしく、敵は九二式に背を向けて逃げ出した。敵を追う九二式に戦車随伴歩兵が併走して背を向けた敵に射撃を加えた。
「助かりましたよ」
最後の敵の一群に容赦ない一斉射撃を見舞った後、見覚えのある中尉が声をかけてきた。遠坂がハッチを開け車外に出ると、室井中尉が驚きの表情を浮かべた。
「まさかここまで敵が来るとは……」遠坂がつぶやくと室井は苦笑した。
「戦線はあってなきがごとし、ですな。歩兵戦闘車の支援がなければ全滅していましたよ」
「九二式はあと一両、修理待ちのものがあります。九五式も修理点検中のものがありますね。火力はありますから工場は当分は持つでしょう」
坂上が冷静に言った。
「感謝します。九二、九五なら我々でも動かせる。さっそく配置しましょう」
「十一名死んだ。負傷者は十五名」
女性の声がして遠坂が目を向けると、久遠を着た軍医が無表情に見つめ返してきた。女医の傍らには衛生兵の少女がひとり従っていた。
「先生は川を渡って後方に下がった方がいいですよ。ここは危険です」
室井の言葉に、女医は即座に反応した。
「例の野戦病院だが、必要があるからあの場所に造ったのだろう? あの場所からここは百メートルと離れていない。工場の一画を借りて簡単な野戦病院ならば開業できるぞ。まず、君らの隊の負傷兵を手当せんとな」
そう言うと女医は、「良い場所を見つけた。機材の搬送を頼む」と言い残して背を向けた。
衛生兵の少女は遠坂らに会釈すると女医の後を追った。
「まいったな。ここで野戦病院を開業する気ですよ」
室井があきれ顔で言うと、坂上は黙って首を振った。
「これだけの整備工場を放棄するのももったいないですよ。幸いなことに今のところはスキュラの射程外にありますし、戦車だけでなく武器、ウォードレスもここで修理できます。パーツ類も豊富にあるので、司令部に打診してみては?……整備員は機材がないと役にたちません」
遠坂が言うと、どこからか顔なじみの整備班長がおそるおそる顔を出した。
「まだここで働けっていうんですか? 十一人死んだんですぜ」
「しかし、ここが最も前線に近い整備工場なんでしょう? しかもレーザー、生体ミサイルが飛んでくる心配もありません。わたしたちも手伝いますから、しばらく整備工場兼野戦病院を開業しましょう」
遠坂がにこやかに言うと、整備班長は苦い顔になった。
「放棄はするな、との命令です。一個中隊を増援にまわしてくれるそうです」
それまで司令部と無線で話していた室井が、しぶい表情で遠坂を見た。テレビ局のリポーターに主導権をとられてまんまとその提案に乗ってしまった。
「あなたは何者です?」どうにも割り切れないといった表情で室井は遣坂に尋ねた。
「一介のリポーターですよ。たまたま熊本で人型戦車の整備をした経験がありましてね。たぶん少しは役に立つかと」
遠坂の言葉に、整備班長は「やれやれ」とあきれてつぶやいた。
「遠坂財閥の若社長が物好きな……」
「財閥……?」室井はますます混乱したようだった。
八月十日 〇一三〇 書香公園
敵の攻撃は深夜になっても続いていた。
小型幻獣の大群は定期的に公園内に現れ、探照灯の光の下、陣地への浸透をはかろうとした。
何時間戦っているのだろう。時間の感覚がなくなってきた。
通路を効果的に使う戦術も、あれから何度も試みたが、疲れが溜まって来るにつれ危険だと合田と橋爪は判断した。集中を欠けば狭い通路内での白兵戦になってしまう。現に数人の兵が撃ち洩らしたゴブリンに食いつかれて負傷していた。疲労から回復するまで弾幕を張り続ける従来の作戦をとるしかなかった。
……だから、少尉殿、無理だって。
橋爪は機銃の引き金を引きながら、合田の声に耳を澄ましていた。合田はしきりに交代要員を求めていたが、答えは当然のことながら却下だった。これまでの戦闘から考えて公園陣地は激戦区とは思えなかった。よって援軍の優先順位も低いだろう。敵の攻撃が途切れたわずかな時間にまどろんで、短い休息をとっていた。
なるほど、最大の敵は疲れってやつだよな、と橋爪は五分十分の休息を貪った。
人間相手の戦争なら敵にも人数に限りがある。しかし、幻獣……小型幻獣の数は無限だった。ゴブリンは身長一メートルほどの雑魚だが、その手斧はウォードレスを切り裂くことができる。
高火力というのは単に全滅を長引かせるだけかもしれねえな。ふと橋爪は弱気になった。
「橋爪軍曹、僕と銃手を交代しましょう。一時間経ったら起こしますから」
合田が声をかけてきた。合田だって休んではいないだろう。
「んなことより、少尉殿こそ」
この戦争、勝ってるのか負けているのか全然わからねえが、合田のあんちゃんだけは生きて返したい、と橋爪は思った。彼女の写真見ちまったしな。俺は……飯島を都合よく利用しちまった罪ってやつで優先順位は下でいいや。くそ、どうしてもあのオバサンが忘れられねえ。橋爪の脳裏に飯島と鈴原先生の面影が交互に浮かんだ。
「橋爪軍曹、射線がズレていますよ」
合田に指摘されて、橋爪ははっとして銃身を下げた。
塹壕の最奥部に掘られている待避壕からいびきが聞こえてきた。合田小隊二十一名は交代でなんとか休息をとっていた。
兵たちは無口になり、黙々と小銃を撃ち、機銃を撃っていた。隣の戦車隊も同じことで、ここ二時間ほど、まったく会話を交わしていなかった。鈴木と神崎は交代で機銃に取り付き、砲は変わらず射撃を続けている。
日が暮れるまでに城山のスキュラは撃破されていた。ミノタウロス、ゴルゴーンなど陸戦型中型幻獣も間隔を置いて現れては陣地群の火線の餌食となっていた。唯一、切れ目ない攻撃を仕掛けてくるのは小型幻獣の群れだけだった。
「少尉殿、眠気覚ましに何か話してくれませんかね?」
橋爪は忌々しげに合田に向かって言った。合田はいつのまにか給弾手を務めている。
「……九回裏二アウト満塁。カウントは一−二。その日はフォークボールがよく切れていたんですが、切れ過ぎてワイルドピッチになることも多かった。僕の相棒、後輩だったんですが、彼はそれでもフォークを要求してきたんです」
「投げたんすか?」
フォークを投げるなんてすげえもんだな、と思いながら橋爪は尋ねた。
「……投げませんでした。相棒は何度もフォークを要求してきたんですが、勝負は最後にと思って、カウントを整えることにしたんです。投げたのは外角低めストレート。これが球ひとつ分中へ入った。右中間に流し打たれて逆転サヨナラでした」
合田は淡々とした口調で言った。
「別に悪くないんじゃないすか?」
「ええ。皆がそう言ってくれました。しかし、どんなポールでも取ってやるという後輩の気迫に応えることができなかった。信じてやれなかった。……あの場面でね」
「野球のことはよくわからねえけど、後悔してるんすか?」
言ってしまってから橋爪は悔やんだ。そりゃそうだろう。合田は笑い声をあげた。
「まあ、そうですね。僕の野球には心がなかった。きれいごとの正論だけでプレイするようになっていたんです。相手もそれを見透かしていたんでしょうね。今から思えば、なんでもっと楽しめなかったんだろう、と。しかし……こんな状況で話す話題にしては冴えませんね」
「そうですかね……」
少し合田が羨ましかった。
橋爪のその頃と言えば、ひと山いくらの学兵として熊本戦に駆り出されていた。血塗れの白兵戦、ゴブの体液のにおい、人の血のにおい、硝煙と泥のにおい。昨日まで馬鹿話をしていた戦友が翌日には物言わぬ死体となっている。そんな世界だった。そんな世界しか知らなかった。待てよ、そう考えると俺、先生や飯島や合田の兄ちゃんと出会ったってことは運がいいってことか?
昼にも増して夜空にこだまする砲声、銃声に交じって、不意に不吉な風切り音が聞こえてきた。笛の音のような風切り音はしだいに大きくなり、橋爪は充血した目を見開き「やべえ!」と叫んだ。月明かりに照らされ二十体ほどのスキュラが近づいてくる。
城山山麓の陣地に明々と閃光、爆発。第七陣地の真上を過ぎていったスキュラが反転して山麓に展開する陣地に攻撃をはじめたのだ。
「通路へ待避しましょう」
橋爪は夜空を埋める空中要塞を見上げて合田に声をかけた。
「一号車、二号車は待避してください! 次に島村小隊、我々の順で」
合田が声をかけた瞬間、鈍い音がして壕内の土が弾け飛んだ。目をつけられた! 二号車がすばやくバックすると、一号車が続いた。
次の瞬間、どん、と耳障りな音がして一号車の砲塔から煙があがった――。
嫌な感じがするな。
佐藤は照準器のかなたに見える敵に向かって引き金を引き続けていた。夕刻からこのかた単純な作業の繰り返しだった。合田と橋爪が設定した弾幕ポイントに向け、榴弾を撃ち込んでいればそれでよかった。時折規準器の視界を横切る中型幻獣の時だけHEAT弾に代えて、すでに十体の中型幻獣を撃破していた。
装填手の森田の艶やかな髪が汗で濡れている。そろそろ交代してやるか……。佐藤は黙々と装填作業を続ける森田を見た。
「森田、交代しよう。弾薬の残りは……?」
「ええと……榴弾十八、HEAT弾五だったかな」森田は車内の収納庫を見渡して言った。
「わかった。もうちょい撃ったら島村小隊にお願いしよう」
そう言うと佐藤は床に降り立った。森田は、ほっとしたように砲手席に上がった。鈴木と神崎は交代で十二・七ミリ機銃に張り付いている。
「ねえ、森田」
佐藤は榴弾を取り出し、装填を終えて話しかけた。
「前から気になっていたんだけどさ。あんた、本当に原隊とはぐれたの?」
森田は紅陵女子の生徒ではない。熊本駅で原隊とはぐれてウロウロしていたところを佐藤に声をかけられた、ということになっている。話さないことを聞くのは趣味ではなかったので、佐藤はこれまで聞かずにいた。
「本当は……脱走」
森田はあっさりと打ち明けた。
やっぱりな……。
あの時、駅構内で座り込んでいる森田の制服は簿汚れてどことなく垢じみていた。このままじゃ憲兵に補導されると見かねでのことだった。森田に声をかけた後、佐藤は寮のシャワー室に連れていった。服を脱いだ森田の体にはところどころ青あざがあった。
「人間関係っての? しくじつちやって。イジメられ役になっちゃった。それまでイジメられ役だった子が死んじゃってさ、あたしに順番がまわってきたの」
森田は変わらず眠そうな声で言った。
「順番……?」体育会の佐藤には教室内の微妙な空気に疎いところがある。
「ああいうのって何人か候補がいるんだよ。微妙なセンにいるやつって、けっこう必死になってイジメる側にくっついて行くの。あたし、空気読むの下手だからぼんやりしてた。他のやつらってもっと必死。だからイジメられ役にされちゃった。……初めは無視されるぐらいだったんだけど、戦争がひどくなってきてからイジメもひどくなったな。あたし、逃げたの」
今日の森田はよくしゃべるな、と佐藤は考え込んだ。疲れているんだろうな。けど、確かにそうだった……。当時熊本にいた学兵たちはしだいに荒んでいった。繁華街を歩く時は紅陵女子の生徒たちは必ず集団し歩くようにしていたほどだ。
「わかるぜ」
操縦席で休んでいる鈴木がつぶやいた。
「化工もアフリカのサバンナ状態だったからな。俺もナイフを持ち歩いていた」
「……アホの化工だもんね」
佐藤が言うと、「ああ」と鈴木は珍しく素直にうなずいた。
「実はよ、俺も原隊にあんまり未練はなかった。かつあげ、万引き、かっぱらい常習の連中がごろごろいたからな。この隊はすげー居心地いいんだよ」
「あたしも」
森田はぽつりと言った。くう、オキアミ野郎も森田も泣かせてくれる……。佐藤は少しだけ眠気が吹っ飛んだ。ソフトボール部のキャプテン、もとい小隊長として、雰囲気づくりには気を遣っていた。とにかく声を出すようにしていた。性格的に声を出せる者が自分しかいなくなっていた。三号車のクルーはよく声を出していたけれど、披女らは永遠に戻ってこない。佐藤は、大きく息を吸い込んだ。
「広島に戻ったら森由、特訓だからね! 特別にソフトボール部に入れてあげる」
「え、あたし……?」森田の口調に迷惑そうな響きが交じった。
「あっはっは。そんな嬉しそうな声を出すなま、ライトで八番君。ソフトボール部はいいぞ。イジメはないしさ、やさしくて美人のキャプテンはいるしさ」
佐藤は一瞬オーダーを思い浮かべた。あとふたり勧誘すればなんとか秋季大会には潜り込めるだろう。
「ライトで八番君ってなに……?」
「期待されてる人のこと、そう呼ぶんだよ」
からかっているつもりなのになんだか妙にやさしい声が出てしまった。森田って放っておけないんだよな。待てよ……そうか! 妹に雰囲気が似ているんだ。なんだかなー。佐藤は苦笑して照準器をのぞき込んでいる森田を見つめた。
「一号車、二号車は通路へ待避してください! 次に島村小隊、我々の順で」
不意に合田の切迫した声が聞こえた。スキュリン? 佐藤は即座に「二号車から!」つけっぱなしにしてある無線に怒鳴った。
「待避完了」椿の報告を開くと、鈴木は思いっきりアクセルを踏み込んだ。
どん、と衝撃があった。生暖かい液体が佐藤の顔を濡らした。森田が砲手席に突っ伏していた。そして糸が切れた操り人形のように床に転がった。
え……? 何が起こったかわからず、佐藤は一瞬凍り付いた。俯せに倒れた森田の体から血が噴き出した。嘘。嘘でしょ?
「佐藤、脱出しろ!」誰かの声が耳に入ったが、佐藤は森田を抱え起こした。
森田、こんなに軽かったっけ? おそるおそる視線を下に移すと、胴体がなくなっていた。
はじめて何が起こったか、わかった。
「森田あ……!」
佐藤は絶叫した。そして森田を抱きしめた。顔には傷ひとつなかった。唇が半ば開いて、今にも眠たけな声で話し出しそうだった。ライトで八番君ってなに……?
頭上のハッチが開けられ腕を掴まれた。
「佐藤、爆発するぞ!」
誰かの声が聞こえる。そんなことどうでもいいよ。森田を助けなきや。助けなきゃ――。
「だめ……森田も一緒につれて行く」
佐藤がいやいやをするように首を振ると、腕に鈍い傷みを覚え視界が変わった。橋爪と合田に両腕を掴まれ引っ張り上げられていた。
森田は? 嫌だ、置いて行けないよ……!
「嫌だぁ――――!」佐藤は絶叫した。
後頭部に衝撃があって、目の前が真っ白になった。
ぐったりとなった佐藤を橋爪は抱え、走った。走って二号車の陰にすべり込んだ。
くぐもった爆発音がして砲弾が次々と誘爆を起こした。薄闇の中で炎のかたまりとなって一号車は爆発した。炎に照らされて押し寄せる敵の姿が目に入った。「島村……!」橋爪は島村を呼ぶと気絶した佐藤を託した。そして合田が差し出した小隊機銃を腰だめにして、押し寄せる小型幻獣の群れにたたき込んだ。
サブマシンガンが、小銃が火を噴いた。思い出したように、遅れて二号車の機銃が鳴った。
「榴弾!」
合田が叫ぶと、仰角《ぎょうかく》を落とした戦車砲が轟音を発した。爆発。破片を浴びた兵が悲鳴をあげた。橋爪は何かに憑かれたように引き金を引き続けた。敵はほどなく消滅した。
「被害状況は……?」
合田の声に橋爪は我に返った。
「負傷六名。榴弾の破片を浴びちまいました。軽傷です」
軍曹が報告した。
「同じく負傷三名……です」島村の悲しげな声が聞こえた。
「ちっくしょう。他の陣地もやられています」すばやく塹壕に戻って辺りの様子をうかがってきた兵が報告をした。
橋爪は島村の肩にもたれて泣きじゃくる佐藤を見た。神崎が佐藤の背に手を置いていた。
「戦死一名」鈴木がぼそりと言った。
「わたしが悪いんだ、砲手を交代しなければ……」
佐藤は子供のように泣きじゃくっていた。
「島村さん、鈴木君、神崎さん――佐藤さんのこと頼みます。戦車は後退して十字路へ」
合田は冷静に指示を下した。十字路は二十メートルほど下がったところにある。裸電球の乏しい光の中、疲弊した兵らの顔が並んでいる。
「了解。皆さん、道を空けてください」
橘が厳しい表情で戦車随伴歩兵に呼びかけた。
ほどなく十四師団……堂島小隊の兵が逃げてきた。最後の兵が戦車を通過したところで戦車はジグザグに前進を開始し、追撃してきた小型幻獣を踏みつぶした。戦車の鉄鋼を免れた敵は機銃とサブマシンガン、小銃で仕留めた。
「貴隊は何名残っています?」
合田が堂島少尉に尋ねると、堂島は忌々しげに「二十三名」と言った。ただし数名は傷を負っているらしく、他の兵の肩を借りている。
「どうします? 合流してここで戦いましょうか?」
補給が続く限りは絶好の拠点だ。合田の言葉に、堂島は考え込んだ。
「それでもええが、負傷兵を野戦病院に運ばんと」
そう言いながら、地下通路のマップを開き、難しい顔になった。
「あかんな。近くにはない。基地と旭町の地下陣地に大きな病院があるが、遠いな。ふたり、重傷や。止血してモルヒネでなんとか持ちこたえているがな」
「わかりました。ここは我々でなんとか。ああ、こちらの負傷兵も連れていっていただけませんか?」
合田の言葉に、堂島は「すまんな」と謝った。
キャタピラの音がして、二号車が十字路の中心に収まった。
「俺たちは……」
鈴木が言いかけて口ごもった。
「野戦病院の近くに戦車整備工場があります。そこで受領しては?」合田が提案した。
鈴木と神崎はなおも嶋咽している佐藤を傷ましげに見た。
「隊長、めそめそしてねえで命令出してくれよ……!」
鈴木は佐藤を怒鳴りつけた。佐藤はしばらくうつむいていたが、やがて目元をぬぐうと泣きはらした顔をあげた。
ちくしょう――。佐藤は悔しげに声を絞り出した。
「一号車クルーは十四師団さんと合流して整備工場へ向かう。橘、必ず戻ってくるからそれまで頑張ってー」
佐藤の目は怒りに輝いていた。橘も表情を引き締めると、
「任せて。キャプテン」佐藤を励ますように言った。
八月十日 〇二三〇 地下通路
車両用の地下通路から歩兵用の地下通路へ。
コンクリートで固められた味気ない風景だった。
ほんの数メートル地下に潜るだけで冷んやりとした空気が流れていた。堂島少尉は暗視ゴーグルをつけ、マップを見ながら小隊を先導していた。すぐ後ろには烈火を着た兵が続く。紙装甲のFOXキッドに、武器といえば拳銃しか持たない佐藤ら戦車兵は、隊員たちに守られるようにして歩いていた。
途中、どこへ行くとも知れぬ兵ちと出会ったが、軽く挨拶をする程度で誰も言葉を発する者はなかった。どうやら相当数の小型幻獣が通路内に浸透しているらしかった。
佐藤は森田のことを頭から閉め出そうと必死に他のことを考えていた。
そういえば……佐藤はテレビ局の取材を思い出していた。橋爪にはああ言われたけれど、自分が一番大切なのは家族だ。母さんに妹。父さんは悪いけれど、実はちょい順位が落ちる。落合大尉の名前を呼ぶのはその後だ。橋介はわかってないよな。絶対、女にモテないタイプだ。
彼女がいると言っていたけど、もしかしてボランティアな彼女? でも、森田は恋すら……。
不意に足音が聞こえた。烈火を着た兵がすばやく最前列に進み出てマシンガンを構えた。小隊機銃も射撃体勢に入った。
零式ミサイルを抱えたふたりの兵が無表情にこちらを見た。佐藤の目から見て、堂島の部下よりふてぶてしい感じだった。
「自動車学校前に出るまでは通路にゴブはいねえよ」
頬に古傷のある自分たちと同年代の一等兵がぶっそうに笑って言った。肩には二十一旅団のマークの他に、なぜか漢字で五の数字が無造作にマジックで書かれであった。タメ口をきかれて堂島は一瞬、鼻白んだが、すぐにマップを見せて尋ねた。
「じゃあそこからはどうなるんだ?」
ふん、と一等兵は鼻で笑った。
「錦見町から山手町まで十一師団の戦区はマジやばいけえ。ゴブがうようよしてやがる」
「どういうことや……?」堂島が尋ねると、一等兵は「うーん」と答えをためらった。
「誰か牛井定食持ってるやついね? 牛井と引き替えに教える」
堂島は憮然として沈黙し、兵のひとりがしぶしぶとまっさらなレーションを差し出した。まるで指名手配犯のような一等兵の顔が一瞬あどけなく輝いた。
「十一師団は敵とがちんこ勝負してる。戦果も多いが、潰された陣地も多い。そっからゴブが通路に浸透しとるのよ。俺らは瓦礫伝いに地上を通って来た」
「がちんこ勝負だと?」堂島は顔をしかめた。
「十一の連中は九州でも野戦に強くて阿蘇戦区に張り付いとった。街中でネズミのようにこそこそ戦うのは嫌だってことじゃろな。しょうがねえから今はあんたらの師団の警戒部隊が、通路を掃除しとる。小隊で動くんなら……」
一等兵は無遠慮に堂島小隊の装備を見てうなずいた。
「通路の方が安全かもな。相手はゴブじゃけえの。……牛井、ごちな」
西岩国駅付近のネズミ穴から顔を出すと、大通りにミノタウロスの姿が見えた。
道の両側には丈の低いビル群があり、その半ばは瓦礫と化していた。基地以外とりたてて産業のない、木造家屋が多い街だった。木造の家屋はほとんどが燃え、炎と黒煙を噴き上げている。煙にまざれて一群の戦車随伴歩兵が通りを横切ってビル陰へと消えていった。
通路を行くよりもはるかに近道ということもあり、堂島はいったん地上に出ることに決めた。
そこから戦線後方の2号線に出て、市役所辺りでまた地下へ潜る。
ミノタウロスが、ゴルゴーンが、キメラが照明弾と探照灯の人工的な光の下、ゆっくりと行軍を続けている。上空ではスキュラ、うみかぜゾンビがホバリングしたまま、地上の獲物を探している。映像にすれば幻獣側絶対有利の光景だ。
ただし、戦場を圧倒的な数で満たす有象無象の小型幻獣の姿はなかった。雨水が排水溝に流れ込むように、地下へと消えたのだろう。
先頭を進むミノタウロスにどこからか飛来した砲弾が命中した。
数体のスキュラがその方角にレーザーを撃ち込む。その反応を嘲笑うように、今度は二体めのミノタウロスに、複数の方向からミサイルが突き刺さった。スキュラ、うみかぜゾンビの大群は闇雲にレーザーを放ち、生体式機関砲弾を撒き散らすが、陸戦型の幻獣と同様、目に見えぬ敵に一体、また一体と撃墜されてゆく。
ある線を超えると砲火が集中する。人類側は中型幻獣に対しては目に見えぬ城壁を造り上げているようだった。
「この通りを横切って、パン屋横の路地を進むと、すぐに養護施設前のネズミ穴が見えてくるはずや。ミノ、ゴルはすり抜けられるが、ヘリが問題やなあ」
堂島はざっと距離を計算した。路面を斜めに突っ切って五十メートルは走らねばならない。
通りはまだ機関砲弾の射程内にある。ゾンビヘリがこちらを発見して反応するまで……三、四秒というところか? 微妙なところだ。
「少尉殿、俺らがオトリ、やりましまか?」
烈火を着た軍曹が提案した。堂島は少し考えて首を振った。足の遅い烈火はいずれにしても最後尾になる。
「ま、死ぬ時はどこにいたって死ぬわな。覚悟を決めてダッシュしよう」
堂島は大阪の下町育ちらしい楽天的な結論を下した。
「合図したら走るで。皆、パン屋横路地や。もたもたしとるとヘリに殺られて一発昇天する」
そう言うと堂島は兵を二列に並ばせた。佐藤らは堂島のすぐ後ろの位置を指示された。鈴木も神崎も顔を青くして黙り込んでいる。
堂島がゆっくり手を挙げた。
「よしゃ!」
手を振り下ろすと堂島はネズミ穴から飛び出した。
佐藤は無我夢中で先頭を走るアーリーFOXを追いかけた。悲鳴が聞こえて神崎が瓦礫につまずいて転んだ。一瞬振り向くと、鈴木の腕が伸びて神崎を立たせていた。怒声が聞こえた。
「走れ!」兵がふたりの背を小突いた。
奇跡的に生き残っている木造の店だった。宮崎製パンと書かれた古びたトタンの看板が庇《ひさし》の上にかけられている。あそこだ……。路地から堂島が顔を出してしきりに手招きをしている。
後方で機関砲弾の音が聞こえた。烈火を着た兵が一瞬立ち止まり、ヘリに向かって零式ミサイルを発射した。当たりどころがよかったか、一発で爆発が起こってヘリが墜落する。機関砲弾を受けでも烈火の兵は悠々と路地に駆け込んできた。
「神崎……?」
佐藤が声をかけると、神崎は「ごめん」と萎れたように謝った。
「戦車乗りのお嬢さんは道路の歩き方、忘れちまったんじゃねーか?」
兵のひとりが冷やかすと、笑い声が起こった。神崎は真っ赤になってうつむいてしまった。
「……足手まといは困るんだよ」
佐藤は地面に目を落としたまま、低い声で言った。
「えっ……?」佐藤の言葉とは思えず、神崎は幼なじみを見つめた。
「待てよ。そりゃ言い過ぎだぜ」
鈴木が口を挟むと、佐藤は顔を上げ怒りを含んだ目でにらみつけた。そのまなざしの激しさに鈴木は言葉を失った。
「ぼんやり君とかまってちゃんで、あんたらお似合いだよ。もうやめてよ。……これ以上、誰も死なせたくないんだよ。死なせるもんか……」
そう言うと佐藤はふたりに背を向け、堂島らに続いて路地を歩いた。堂島が振り返って、手ぶりで後ろに並べと合図をしてきた。「あ、すいません……」すぐに意味を悟って後続の兵に道を譲ると、兵のひとりに任せておけとボンと肩をたたかれた。
烈火兵を先頭にした縦隊が路地を出ると銃声が起こった。
「ゴブだ! 下がれ!」
堂島が命令を下すと、数匹のゴブリンを張り付かせた烈火兵が路地に逃げ込んできた。兵は冷静に一匹をハンマーパンチで粉砕すると、次の瞬間にはサブマシンガンの銃弾をもう一匹にたたき込んだ。狭い路地に百体ほどの小型幻獣がひしめいたが、機銃、サブマシンガンの一斉射撃で戦闘はわずか一、二分ほどで終わった。
直線距離で二キロほどの戦線を東西に横切るだけなのに、地下通路の移動は手間がかかった。
堂島は「しゃあないなあ」とぼやくと、直線的な車両用の通路に切り替えた。
立場から言って事故に迫っても文句は言えない。たまに戦闘車両と出くわし、神崎らはあわてて待避所があれば逃げ込んで、そうでなければ壁に張り付きやり過ごす。一番よく出くわすのは、例の「配達おじさん」が運転する補給車だった。例外なく小回りのきく軽トラで、荷台には弾薬を満載している。
佐藤、ごめんね……。
神崎は佐藤が心配でならなかった。他人の心配なんてできる柄かとは思うけれど、佐藤とは幼なじみでその性格をよく知っていた。森田の死に責任を感じている。抱え込んでいる。歩きながらなんと言葉をかけていいか、考えていた。
「第二師団の戦区に出た」
堂島は旭町第十七陣地と矢印で示された標識を見て全員に告げた。
「佐藤、さっきはごめん」神崎は小声で佐藤に話しかけた。
佐藤は不機嫌な表情で神崎を見上げた。そのまなざしには不思議な光があった。気圧されて神崎は口をつぐんだ。
「ベタギャグ女。普通、転ぶか? あんたはバナナの皮が置いてあったら、絶対引き寄せられるタイプだね」
不意に佐藤の表情が崩れて、口許に笑みが浮かんだ。無理してる。涙が出そうになった。
「なによォ、せっかく話があったのに……」神崎はかろうじて堪えると、すね顔をしてみせた。
「なんだよ? オキアミパンの食べ過ぎで腹を壊したとか?」
「……ううん。ソフトボール部再建したら、わたしピッチャーやめようかなって……。有望な新人探さなきゃね」
話題はなんでもよかった。が、今、現在の話をすると泣き言になりそうでやめた。
佐藤の拳が伸びて、鳩尾を軽く殴られた。神崎は一瞬身を祈り曲げた。
「だったらいっそソフトやめたら? あんたはロクでもないピッチャーだけど、わたしが一番気に入っているピッチャーでもあるの。どういうことか、わかる?」
今の佐藤はやっぱりこわいな……。神崎は気弱に目を伏せた。
「わかんないよ」
「打たれても打たれても半泣きになって投げ続ける。あきらめが悪いところがあんたの良いところなの。わたしはそういうの好きなの! わかった?」
あきらめが悪いって言われてもな……。泣き言を言いかけると佐藤はすごい目でにらみつけてきたし、何度か胸ぐらを掴まれたこともある。こわかっただけなんだけどな。
佐藤はにやりと不気味に笑った。
「……生きて戻ったらさ、戦争やってた方が楽だったって思うぐらい鍛えるよ。練習メニューはすでに考えてあるのだ」
話しかけてよかった。かなり無理してるけど。佐藤、さすがだなと神崎は思った。立ち直ろうとしている。森田の死にめげてはいない。けど、わたしたち、無事に戻れるのかな?
「戦車兵」
堂島の声が飛んできた。
「しゃべりはそれぐらいにしろ。そろそろ病院に着く」
「すみません……」神崎はあわてて謝った。
生臭いにおいが濃厚に立ちこめてきた。
鈴木は黙々と佐藤と神崎のすぐ後ろを歩いていた。佐藤の泣き叫ぶ声が耳に残っていた。これまで一緒に戦ってきて、わかるような気がした。佐藤は出来るやつだ。責任感が強く、いつでも神経を張りつめていた。それが森田が目の前で死んで、キレちまった。神崎や自分は、佐藤のリーダーシップに甘えているところがあった。
部活仲間の小隊か……。前に神崎から戦死したチームメイトのことを開いたことがある。ショックは他の学兵諸隊にも増して強かったろう。
佐藤が自分に何かとつっかかって来た理由は、配属されてからすぐにわかった。
俺をダシにして隊の雰囲気を盛り上げようとしていたんだよな。まあオモチャにされる役も必要かとそれなりに演じてきた。これがけっこう楽しかった。妙に距離を置かれるより楽だったし、そういう役としてすぐに隊に席ができた。さすがに隊長張ってるだけのことはあるなと思った。化工の頃はその他大勢、傍観者だった。そうしなければイジメの標的にされる。処世術というやつをそれなりに駆使して、嫌ったらしい学兵生活を送ってきた。
この小隊はまったく違った。なんというか、その……チームメイトの一員として迎えられたような、くだらない処世術など吹っ飛んでしまう明るさがあった。
神崎とは席が近い女子と話しているうちに、なんとなくそういう仲になってしまったってパターンなのか。安っぽいけどそれもアリじゃねえか? けど、佐藤が俺にきつく当たっていると神崎が言った時には笑ってしまった。そうじゃねえんだと説明すると神崎のやつ、顔を赤くしやがった。そういうのに慣れてないから自分も赤くなってしまった。まあ、それだけ俺をヒイキにしてくれたんだと思うと嬉しかったな。
にやけそうになる顔を鈴木は息わず引き締めた。
「ひでえ……」
兵の声に鈴木は現実逃避から戻った。なんなんだよこれ……。俺、おかしくなっている?
過去に逃げ込んで目の前の光景とにおいを知らず閉め出していた。
地下野戦病院に足を踏み入れると、床は一面の血の海だった。放置された大量の遺体を前に、鈴木は茫然と立ち尽くした。
ぼんやり君とかまってちゃんか……。ちくしょう、言い返せねえ。俺ってだめなやつだよな。
佐藤に言われた言葉を思い出して、鈴木は歯を噛み鳴らした。
「メッセージがある。野戦病院は整備工場戦車整備棟に移転。悪趣味なギャグやな」
堂島の声が聞こえた。
意識してジャットアウトしていた砲声と銃声が鈴木の耳にこだました。
「工場の方角から聞こえてきます」
鈴木には地図をひと目で記憶したり、一度歩いた道は決して忘れないという才能があった。
ここいらの地理も記憶の引き出しからすぐに取り出せる。
堂島はマップを取り出すと、「地下通路とは連結されとらん。ここから二百メートル先やな」と気難しげにつぶやいた。
八月十日 〇三〇〇 旭町陣地
建物の上には落ちないで、と祈りながら藤代は炎に包まれ墜落するスキュラを見上げていた。人類側はゾンビヘリとスキュラを相当数撃破していたが、藤代には敵が減っているという実感はなかった。
敵は空陸から戦線の突破をはかり、今津川のラインを渡ろうとしていた。
今津川から後方の市中心部には迫撃砲、自走砲の他、支援部隊が多く展開している。このラインを突破されるということは、即戦線が突破されることを意味している。司令部要員として働いてきた藤代にはその重要性がわかっていた。
むろん前線の兵にとっても同じことで、兵らは新たなラインが形成されるまで粘らねばならないことを知っていた。
砲火は熾烈さを増していた。陸戦型のミノタウロス、ゴルゴーンは確実に阻止されていたが、厄介なのは空の敵だった。対空兵器は慢性的に不足気味で、だから自分たちにも出撃命令が出たのだろう。
藤代の土木二号は深く掘り抜いた陣地からライフルの銃身を突き出して、主にスキュラを標的としていた。これまでの自分たちだったら信じられない撃破数……すでに十一体のスキュラを撃墜していた。これが野戦だったら一瞬のうちに機体を大破させていたろう。しょせん自分の操縦技術なんてそんなものだと藤代は割り切っていた。
「陣地造って大正解だったよね」
島が話しかけてきた。敵に背後に回り込まれない限り、死角に位置してほぼ安全。ただし、無理はせず、狙撃位置を特定されないように、一時間戦闘したら通路に待避して十五分は休む……ほとぼりをさます時間を持つようにしていた。
「うん。……そろそろ一時間経つよ」
路面に落ちたスキュラが炎を撒き散らしながら爆敵するのを確認してから「休憩しよう」と藤代は言った。
島と組むのは楽だった。相棒の砲手は素直な性格で、無理しても意味がないことを知っている。大切なのは生き延びて、一体でも多くの敵を倒すことだ。
ライフルの銃身を引っ込めて、しばらく様子を見る。狙われていないことを確認してからそろそろと通路へと待避、休憩をとる。
「こちら田中。そろそろ眠くなってきたよォ」
土木一号から無線が入った。機体を小破させてから、懲りたらしく、藤代の意見を採り入れて、同じような陣地を掘り抜いていた。
「…無理しないで仮眠とれば? 自分ひとりで戦っているわけじゃないから」
藤代がシートにもたれて応えると、「わかった」と返事が返ってきた。素直な田中っていうのもなんだか気味が悪いな……。
そんなことを思いながら藤代は目を閉じた。
戦場のありとあらゆる音が耳にこだましてくるが、もう慣れっこになっていた。島がコックピットに持ち込んだレモンの匂いが漂ってくる。島はこまやかだな……。なんの脈絡もなく、相棒のことを思った。
「島って徴兵されたんだっけ?」
藤代が尋ねると、島は少し考えて「ううん」と首を振った。
「一応志願ってことになってる。進学や就職の時に有利になるみたいだし。けど、クラスでわたしだけだよ。神奈川の学校だったし。授業中に荒波司令が乗り込んできたの。おめでとう、君の遺伝子適正は抜群だとかなんとか。それで、島ゆかり、荒波小隊にようこそだって」
藤代はくすりと笑った。同じだ。わたしの場会は校門での待ち伏せだったけど。ジャケットにジーンズのラフな格好をしたおじさんに声をかけられた。それが荒波司令だった。
「わたしなんか、はじめナンパかと思ったよ」
田中が口をはさんできた。部活の帰りにラーメン屋でも行こうかと歩いていたら繁華街で声をかけられたという。
「それでラーメン奢られて、荒波小隊にようこそ?」
藤代が冷やかすと、田中は「ノノノ、そんな安っぽくないよ」と反論した。
「チャーシューメンに餃子に、カニシューマイにエビチリを奢らせたのだ。卓球続けるのも飽きていたしさ……あっ!」
田中はあわてて口をつぐんだ。
「へえ、田中って卓球やってたんだ?」村井が興味津々といった口調で尋ねる。
「……ふふ、せっかく暗〜い過去を秘密にしてたのにね」
藤代は笑って冷やかした。なんでかなと思うが、田中は卓球…暗いと思っているようだ。
「そ、そんなこと言うなら藤代の過去も暴露してやる! 元文芸部部長。あんたの書いた詩は覚えているよ。届きそうで届かない、夢の中のあなたに……」
「やめてっ……!」
藤代はあわでて叫んだ。
「それ以上言うと本当に怒るからね!」
後部座席で島が声をあげて笑った。
「あはは。田中は僻んでいるんだよ。そんな詩、逆立ちしたって出てこないから」
村井がすかさず割って入った。田中のブレーキ役というのも大変だ。
「ふん。中華料理の品名自慢だったら負けないもんね。ラーメン、ワンタン、炒飯、餃子、湯麺、広東麺、焼売、チンジヤオロウス、ホイコーロー……」
「それって町の中華屋さんのメニューばっかりじゃん」
村井に突っ込まれて田中は「放っといてんか!」と関西弁で受けた。
そういえばふたりとも関西組だったな。藤代は気を静めて微笑した。人型戦車パイロットの遺伝子適正があるということで、荒波司令にスカウトされ、熊本に連れて来られて環境はまったく変わった。訓凍、戦争。そして荒波の方針で、遺体の回収は泣きたくなるほどやらされた。
破壊され、潰された戦車から人間であったものを引きずり出すこともしばしばだった。
そんな日常を過ごしてきて、自分は変わった。現実というものから目を背けなくなった。背けようとしても、どこかで死んだ学兵たちの姿がよみがえってくる。「彼ら彼女らは未来への希望や夢を果たすことなく戦って死んだ。遺体をこわがるのは失礼だと思わんか? すべて大切な死だ」と荒波司令は、その時だけは真剣な表情になって言った。
旅本戦では二百三十万人の未来が失われた。自分たちはそれを背負って生きている――。考え込む藤代に、田中がおそるおそる無線を送ってきた。
「ごめん。詩の話はもうしないから。藤代って怒ると一週間は人のことシカトするからなー。関西人、シカトに弱いデスヨ」
「……そろそろ行くわよ」
田中の性格は直らないなと思いながら藤代は言った。
八月十日 〇三三〇 整備工場
どこからか浸透してきた小型幻獣が広大な整備工場にあふれかえっていた。
二個中隊の戦車随伴歩兵が修理済みの戦闘車両とともに敵の波状攻撃を押し返していたが、探照灯に照らされた工場は、羽虫にとっての光のように敵を引きつけるシンボルになっているらしい。
旭町の一帯では、地上に露出した抵抗拠点は工業団地とここだけだった。世にも貧弱な拠点だが、それでも敵には城塞のように見えるらしい。
敵は抵抗の弱い棟を次々と落として、今では戦車・車両整備棟だけが頑強に、浸透してくる敵を押し返していた。工場の敷地内は無数の赤く光る目で満ちていた。
「弾薬運搬車が立ち往生しているそうです!」
通信兵が叫んだ。
棟内に浸透してきた敵は、入り口付近で機銃の餌食になっていたが、孤立した工場棟は補給がままならなかった。第十七陣地のネズミ穴までの道は敵に押さえられていた。
「迎えに行こう。どこだ?」
室井が尋ねると、通信兵は「新連帆《しんれんぽ》橋を渡った辺りに隠れているらしいです」と答えた。
「生体ミサイルが飛んで来るんで、長い間は留まれないとのことです。一発当たればドカンですから相当びびっていますね」
「工場を出て四百メートルはあるな……」
市街戦での四百メートルは果てしなく長い距離に感じられる。陸には浸透してきた小型幻獣が徘徊し、空はスキュラ、うみかぜゾンビの制圧下にあった。特に戦線のはるか後方から届くスキュラのレーザーが厄介だった。まず一個中隊が迎えに行って半壊というところだろう。弾薬運搬車が爆発すれば目も当てられない。
「近くに複座型がいますね。昼に修理した機体です」
それまで車両の修理をしていた遠坂が口を開いた。
「煙幕を張ってもらって、運搬車を護衛してもらえばなんとかなるんじゃないでしょうか? パイロットの技量しだいなんですが」
遠坂の提案に室井は首を傾げた。
「しかし……陣地に籠もって戦っているようなパイロットたちだろう?」
「空中ユニット相手に露出していてもしようがありませんよ。人型は的が大きいですから。わたしが聞いてみましょうか?」
「おいおい遠坂。リポーターが口出しするのはまずいぞ」
本田があきれて遠坂をたしなめた。
「まずいと言えばこの状況がまずいですね。そろそろ脱出を考えませんと……」
坂上が無表情に言った。油まみれになって修理を手伝っている田辺も心配そうにうなずいた。増援が来て、敵を完全にジャットアウトしない限り、工場も臨時野戦病院も、取材クルーも破滅するだろう。弾薬が尽きた時がその時だ。
入り口の方角で銃声が起こった。室井はサブマシンガンを抱えると立ち上がった。こんなドン詰まりの孤立した工場でジリ貧になってゆくのが苛立たしかった。
「……人型戦車のことはよくわからん。通信兵、交渉は彼に任せてみよう」
不機嫌に言い置くと、部下を連れて駆け去った。
八月十日 〇三四五 旭町陣地
また一体、スキュラが炎をあげて墜落していった。
今度のやつはしぶとかったな、と田中は弾数を数えながら思った。今のやつで三発使った。
ライフルの残弾は八発。使い切ったらジャイアントアサルトでゾンビヘリをやっつけるかなと考えていたところだった。
「こちら整備工場。遠坂です。応答願えませんか?」
無線機から声が流れできた。田中は思わず返事をしていた。
「あ、遠坂さん、昼間はどうも……。カレーライス、おいしかったです」
機体を修理している間、田中と村井は従業員用食堂で残り物のカレーをご馳走になっていた。無線機の向こうから遠慮がちな声が聞こえてきた。
「……実はお願いがありまして。新連帆橋を渡った辺りに弾薬運搬車が隠れているんですが、煙幕を張って戦車整備棟まで護衛していただけませんか? このままでは弾薬が尽きた時に我々は全滅します」
「はあ……」
田中は戦術画面に目を凝らした。そのなんとか橋って今の陣地から六百メートルほどか? けれど通りを移動したのではまちがいなくスキュラの砲列にさらされる。地上に露出している友軍はほとんどいなかった。敵は鵜《う》の目《め》|鷹《たか》の目で目標を探しているから相当に危険な賭けだ。
「……こちら旧荒波小隊二号機です。人型戦車がスキュラのレーザー攻撃に弱いのはご存じでしよう? 自殺行為です」
藤代の声が割り込んできた。
「しかし弾薬が尽きると二個中隊に野戦病院が壊滅します。なんとかなりませんか?」
遠坂はくい下がってきた。藤代は黙り込んでしまった。
どうしよう……? 田中は迷った。ビル陰を利用すればなんとかなるかもしれないけど、敵は一体、二体じゃない。しかも村井の操縦では……。無理だ。無線機の向こうから激しい銃声が聞こえてくる。まずいな……。田中は唇を噛んだ。
「あの……本当に全滅しちゃうんですか?」
村井の声だった。
「おそらく」遠坂の声は冷静だった。けれど、無理なものは無理だ。
無線機から藤代のため息が聞こえてきた。
「今、司令部に問い合わせをしたところです。遠坂社長の救出を最優先にと。……あと五分後に厳島の航空榴弾が発射されます。二号機が敵の注意を引きつけますから、一号機は遮蔽物を利用しつつ弾薬運搬車のところへ。到着したら田中はあらかじめジャイアントアサルトに武装を変えて煙幕。あとは工場まで運搬車の盾となって走って。そちらからもオトリをお願いします。わかった、田中、村井?」
藤代の声が聞こえた。
「わ、わかった……」藤代、どうしたんかなと思いながら田中はうなずいていた。
「戦闘車両を五両出せるそうです」遠坂がすかさず応答した。
「派手にやってくださいね。こちらも命がかかってるんですから」
藤代の声は落ち着いていた。考えるのは藤代に任せよう。操縦席から緊張が伝わってくる。
ザッツ・主役の村井はしきりに深呼吸を繰り返していた。
「……やってられへん」
そうぼやきながらも村井は全身から気合いを発していた。言葉とは正反対に、村井、やる気になっている……。田中も戦術画面を拡大すると、陣地から新連帆橋南岸、そして工場までのルートを探った。
八月十日 〇三四五 旭町第十七陣地
地上の暗闇の中に無数の赤い日が徘徊していた。
空陸の中型幻獣は、はるか前方で立ち往生していたが路上は小型幻獣の天下だった。思い出したように榴弾が落下するが、赤い目はまったく減っている様子がなかった。
かなたに灰色の壁が見える。工場正門まで二百メートル。しかし工場内にも小型幻獣が満ちていた。敷地内から切れ目なく銃声が聞こえてくるからには友軍は健在なのだろう。が、二百メートルを突っ切れるのか? 敷地内のどこに友軍がいるのか?
「ゴブだらけやな」
堂島は頭の中で戦局を類推した。ここいらがおそらく最も敵の圧力が強い戦線なのだろう。
背後には川しかない。友軍は陸戦型中型幻獣の阻止とスキュラ、ゾンビヘリを削るのに手一杯で、戦線をすり抜けるゴブにまで手がまわらないのだ。
岩国の地形を熟知している第二師団と二十一旅団にしてここまで押し込まれている。
「亀井と三山は容態が安定しています」
衛生兵が堂島の思惑を察して口を開いた。
「ここで立ち往生してもゴブが消えるとも思えん。通信兵、何か動きはあるか?」
堂島が尋ねると、無線機のチャネルをまわしながら通信兵が首を傾げた。
「……遠坂社長の救出とか言っていますが。なんなんでしょう?」
堂島は無線機に歩み寄ると、耳を傾けた。
「弾薬運搬車を工場にエスコートするみたいやな。ぞっとする話だが、人型戦車が戦闘に参加するらしい」
堂島が何やら考え込むと、佐藤が「5121さんがいるんですか?」と尋ねてきた。
「5121……ああ、人型戦車の部隊か? わからんが聴いてみてくれ」
佐藤も無線機に耳を澄ました。
「……わたしたち、熊本でよく5121さんの無線を傍受していたんですけど、なんか違うみたいです」
佐藤が言うと、堂島は「そうか」とうなずいた。
「連中がドンパチやって、工場に駆け込む瞬間を待とう。便乗やな」
屋外には数千規模の小型幻獣があふれかえっている。便乗したとしでも何人が生き残れることができるかの賭けだった。堂島は思い出したように続けた。
「戦車兵、あの病院に戻ってアーリーFOXに着替えろ。そのべらべらなウォードレスじゃゴブの斧でばっさりやで。急げ!」
「だ、だめだ。吐きそう……」神崎が愚痴っぽく訴えた。
佐藤らは旧野戦病院に戻ると、遺体を一体一体確認して使えそうなウォードレスを物色した。
ウォードレスごと破損している遺体が多かった。「追い剥ぎかよ」とぼやきながらも身長百七十センチ超の鈴木と神崎の分はほどなく見つかった。すみません、ごめんなさいと神崎が遺体に謝っていた。「戦車兵、はじまったぞ!」堂島の怒鳴り声が聞こえてきた。むせかえるよう
な血溜まりの中で、佐藤は折り重なって倒れている看護兵の遺体をあらためた。
「あった!」
百五十八センチの佐藤と同じぐらいの背丈の女性の看護師だった。頸動脈の裂傷が致命傷だったのだろう、アーリーFOXは無傷だった。涙がぽろぽろと流れた。ごめんなさい、ごめんなさいと神崎と同じく唱えながら急いで着替えた。
二〇ミリ機関砲の銃声が地下の病院にまで響いてきた。「急げ!」堂島の声に、佐藤はごめんなさいを繰り返しながら病院を走り出た。
右手の方角で戦闘車両が一両爆発した。
あれは……工業団地のビル陰から士魂号複座型がジャイアントアサルトを夜空に向け撃ち続けている。まるで自棄になったような友軍の攻撃に、佐藤は息を呑んだ。
堂島はと言えば、しきりに左手の方角に目を凝らしている。
幸運なことに敵はこの陣地にまでは注意がまわらないらしい。
陣地の周囲は無人の路面が広がっていた。ふと血のにおいが佐藤の鼻孔を刺激した。夢中で着替えたけれど、佐藤のウォードレスは血まみれだった。胃の底から酸っぱい液体がこみ上げてきた。
左手の方角からジャイアントアサルトの射撃音が聞こえ、佐藤は堂島の視線を追った。堂島は血走った目で左手の路面を見つめていたが、やがて工場の方角に視線を戻して「行くぞ」と全員に呼びかけた。
「円陣を組んで走る。烈火兵、前へ。戦車兵は俺のそばを離れるな」
佐藤の目の前に、ぽっかりと開けた空間が映った。壕から飛び出すと堂島は「走れ!」と叫んだ。遠くに半ば崩れかかった正門が見える。烈火兵の速さに会わせながら、佐藤は歯を食いしばって堂島の後に従った。サブマシンガンが火を噴いた。工場内からぞっとするような数のゴブリンがわき出した。爆発音が聞こえ、遠くでまた一両戦闘車両が炎上した。
だめだ。取り囲まれてぐっちゃぐっちゃにされる!
「突っ切るぞ――!」堂島は駆けながらサブマシンガンを発射した。隣を走る鈴木はいつのまにか突撃銃を手にして、前方をにらみすえている。そうか……。佐藤も気がついて白式拳銃を取り出した。
しかしゴブリンは次から次へとわいてくる。
あと百、五十メートル……だめだ、捕まる! 佐藤は走りながら絶望の言葉を口にしかけた。
その瞬間、二〇ミリ機関砲の音が間近に聞こえて、密集した敵の隊形が崩れた二一度、三度、掃射が続いてから地響きとともに複座型が敵の群れを突っ切った。八メートルの巨人に蹂躙され、敵は次々と消滅していった。
「戦車整備棟、正門左ですっ……!」
拡声器から先ほどの女性の声が聞こえた。複座型はそのまま左手側の敵に二〇ミリ機関砲弾をたたき込んだ。
トラックのエンジン音が聞こえた。そして巨人の足音。地響き。「突っ切れ、振り返るな!」
再び堂島の声。ぐんぐんと正門が迫ってくる。小隊の兵は喊声を上げて、正門を突っ切った。
ヒュンと風を切る音。ゴブの斧。風圧に髪が揺れた。神埼の気配がない。嫌だ! 佐藤はぞっとして、「神崎――!」と叫んでいた。
左、左……あった! 九二式歩兵戦闘車の探照灯が自分たちを照らし出している。二十五ミリ機関砲弾がなおも立ちふさがる敵を次々となぎ倒し、棟内からは戦車随伴歩兵が援護射撃を加えていた。
棟のゲートは大きく開かれていた。そのゲートを守るように守備兵が展開している。まばらになった敵の間隙を縫うように佐藤は走った。息切れ寸前で棟内に駆け込んだ時、誰かが肩をたたいて「おつかれさん」と言ってくれた。
ふらつく足で奥へと歩くうち、何かにつまずいて派手に恵んでしまった。
「大丈夫ですか?」
手が差し伸ばされた。佐藤は相手を見上げた。久遠を着た小柄な衛生兵が自分の顔をのぞき込んでいた。言葉とは裏腹に無表情で声には抑揚がなかった。目はせわしなげに前の持ち主の血にまみれたウォードレスをあらためている。
「怪我とかしてないから。地下野戦病院……」
を調べている時に転んでしまって、と言おうとしたが衛生兵はすぐにうなずいた。差し伸ばされた手をとって起きあがり、深々と息を吐いた。
銃声はなおも続いている。すぐ近くで白兵戦の喊声が聞こえた。そうだ、神崎と鈴木は……! 佐藤があわてて引き返そうとすると、数匹のゴブリンに絡み付かれた将校が目に映った。周りの兵がカトラスを振るって必死に引き剥がしていた。
「堂島少尉」
声をかけると同時にサブマシンガンの連射音が聞こえて、最後のゴブリンが体液を撒き散らしながら地に伏した。
堂島小隊の兵は、整備棟の守備兵と合流して浸透してくる敵と戦っていた。烈火兵が二名の重傷者を抱えて「こいつらを」と佐藤と衛生兵に言った。
「後方の野戦病院に運んでくれ」堂島は佐藤に向き直って指示した。
「あの……神崎と鈴木は?」
佐藤は不安になって堂島の背に尋ねた。馬鹿神崎。長かった二百メートル。あの二百メートルで転んだりしたら――。今度こそさよならだ。こんな戦争、違う。二度と嫌だ! エンジン音が聞こえて、一台の二トントラックが棟内に進入して急ブレーキをかけた。佐藤らはあわてて負傷兵を抱え、脇に避けた。
「佐藤……!」
声がして、視線を向けるとトラックのサイドミラーに掴まった神崎が降り立った。鈴木も反対側から降り立つ。佐藤は神崎の顔をしげしげと眺めた。佐藤の顔がゆっくりと上がった。
「……もう、もう勘弁してよ。どうすればそんなに足手まといになれるかな」
神崎の嗚咽が聞こえた。埃と泥と涙とすり傷にまみれた神崎の顔を見て、佐藤は殴ろうとした腕を降ろした。
鈴木がちっと舌打ちをして、
「神崎のかまってちゃんは、ぼんやり君が面倒見るから心配するんじゃねえ」
と佐藤をにらみつけた。はあ。佐藤はため息をつくと、
「神崎と鈴木は弾薬下ろすの手伝って。わたしはこの子と一緒に負傷兵を運ぶから」
有無を言わさぬ口調で命令した。
遠くでまた一両、友軍の車両が爆発する音が聞こえた。
鼓膜がどリビリと揺れて、一体の人型戦車が身を屈めで戦車整備棟に入ってきた。左腕をもがれ、全身に敵の機関砲弾の弾痕を受けている。もがれた右腕から白い液体が噴き出していた。
「さあ、奥へ」衛生兵にうながされ、佐藤は負傷兵の肩に手をまわした。その瞬間、銃声は唐突に絶え、棟全体に歓声が響き渡った。
八月十日 〇四二〇 整備工場
「もう、こんな生活、イヤっ!」
田中は深々とシートにもたれて涙ぐんだ。
こわかった。本当にこわかった!
路面を走っている時、スキュラのレーザー口が一斉にこちらを向いているような気がした。
一対一でも自信はまったくナッシングなのに、この戦域には少なく見積もっても五十体のスキュラが夜空を埋め尽くしていた。
最短距離を選ぶか、遮蔽物を利用しながら進むか、村井は後者を選んだ。戦闘をしている余裕はなかったから、田中は命を操縦手に任せるしかなかった。意外なことに、普段より村井の操鍵はスムーズだった。
レーザーの射撃を遮蔽物に隠れて避けながら、慎重に目標に向かって進んだ。
怯える運搬車の運転手を拡声器で叱咤するのは田中の役目だった。煙幕弾を撃ち上げ、後は運搬車の盾となって運任せ。弾薬運搬車に一発でも弾が当たれば大爆発だ。こちらも十中八、九、あの世行き。弾薬車の身代わりに右腕が吹っ飛んだ時にはかえってほっとしたくらいだ。
工場に駆け込むまでの四百メートル……土木一号は格好の標的だった。田中は充血した目で「当たるな、当たるな」と念じ続けた。
幸いなことに土木二号がジャベリンミサイルを派手にぶっ放して、オトリ役を代わってくれた。二号と入れ違いになるように土木一号は工場に滑り込んだ。
「ごめん。ちょっと外に……」
言うやいなや村井はコックピットから飛び出した。田中がぼんやりと目で追うと、村井は何かの機械の陰にしゃがみこんで吐きはじめた。無理もない。この作戦はほとんど村井任せだった。自分はただこわがっていただけだ。
「村井、大丈夫……?」
拡声器を通じて田中が呼びかけると、村井は青い顔をして「死にそう」と弱音を吐いた。
「こちら二号機。村井……よくやったね。見直しちゃった」
藤代の声が無線機から流れてきた。
「村井は留守ですー。今、外に出てげろげろ状態」
田中が応えると、藤代の安堵の息が聞こえた。
「こちらもなんとか生き延びたわ。今、川に落ちて水遊びしているけど」
「腕をあげた、藤代?」
「まさか……。運がよかっただけ。もう何がなんだかわからなくなって、島が言うにはきゃーきゃー叫びながら走っていたみたい」
藤代が、きやーきやーだって? 田中は「あはは」と声を出して笑った。
「司令からの命令があるの。遠坂社長をとにかく後方へ下がらせて、だって。たぶん工場の指揮官にも同じ命令が行っているはず」
藤代は冷静さを取り戻したようだ。田中はほんの少し憮然となった。だったらわたしに直接言ってくれればいいじゃん。
「あー、田中、えらいめに遭ったようだな」
荒波の声がタイミングよく割り込んできた。司令、こわかったよォ……。田中はぐっとこみ上げるものを抑え、
「こんな作戦二度とやりたくないっす。わたし、普通の女の子に戻ります!」
口をとがらせて言い募った。荒波の高笑いが聞こえた。
「うむ。おまえと村井は殊勲甲《しゅくんこう》だ。戦争が終わったあかつきにはご褒美として南国リゾートに連れて行ってあげよう」
な、南国リゾート? もしかしてハワイ? ハワーイ?
「まじっすか、それ!」
田中の脳裏に青い海と白い砂浜が酔かんだ。ハワイ……なーんて素敵な響き。
「はっはっは。相変わらず能天気というか強い女だな、おまえは。次の任務は遠坂社長の護送だぞ。四の五の言ったらそのノリで押してくれ」
「イエッサー。トーサカ、ゴーホームであります!」田中は元気よく応じた。
「ご苦労様です」
田中が地面に降り立つと、遠坂がにこやかに笑いかけてきた。まだしゃがみ込んでいる村井の背は田辺真紀がさすっている。田中はげっそりした顔を遠坂に向けた。カメラがまわっている。どうすっかな……。田中は無理して笑顔をつくった。
「いえ、任務ですから」
あんたが押しつけたんじゃん、この疫病神めと忌々しく思いながら田中はサービス精神満点の笑顔でカメラ目線をつくった。カメラマンが指でマル印を遠坂に送った。
「複座型二機の活躍で工場は防衛されました。整備工場は未だに健在で、敵の攻撃に耐え続けています。敵にとっては重大な脅威になるでしょう」
そう遠坂は結ぶと、笑みを消してため息をついた。
「重大な脅威になんかなってないですよ」
田中が指摘すると、遠坂は照れたように笑った。
「まあ、そうなんですが。戦車整備工場で抵抗しているということに意味があるわけです。本来なら後方であるはずの工場が脅かされているというのはそれだけ危機感を煽るわけで。わたしはこの拠点に象徴的な意味を与えたいんです」
わ、わけがわからない! この社長、相当な変人だ。死神。疫病神。貧乏神。妖怪。使徒。戦争オタク。ありとあらゆる悪態を内心で吐きながら田中は遠坂をにらみつけた。ルックスだけはいいけれど、わたしの好みは荒波仕様なのだ。ゴー・ホーム! 田中は任務を遂行すべく、責任者を探した。
「遠坂社長、そろそろ後方へ」
冷静な声が聞こえて、荒披司令と同年代の中尉が姿を現した。髪を短く刈り上げ、いかにも現場の軍人ですといった将校だ。
「そうですよ。わたし、荒波司令じゃなかった大佐から命令を受けているんです。遠坂社長を護衛して安全なところへ送り届けろって!」
田中も間髪入れずにまくしたてた。
「工場裏がすぐ川になっています。複座型なら腰まで浸かるだけで渡河できます。これ以上戦闘に巻き込まれるのは危険です」
低い声が聞こえて、烈火にサングラスの男が淡々とした口調で言った。遠坂は困ったように田辺に視線を向けた。
「あの……もう十分取材なさったと思います。あとは工場内の野戦病院をお見舞いして……」
言いかけて田辺はしまったという顔になった。遠坂は水を得た魚のように、にこりと笑った。
「そう、そうですね。わたしとしたことが忘れていた。野戦病院を取材して、前線の窮状を訴えましょう!」
だから……もう窮状はいらんって! こっちは死にかけたんだから! 田中は憤然として遠坂に食ってかかった。
「複座型を修理してもらったのは感謝しますけど、はっきり言って遠坂さん、邪魔ですっ! ここにいるみんなが振り回されているんですよっ!」
言い終わって田中は気まずげに横を向いた。みんなで仲良く逃げればいいじゃん。ここでしか戦車を修理できないわけじゃなし。
遠坂は意外な一喝を受けて表情を曇らせた。
「振り回すなどと。そんなつもりはありませんでした。そもそも今回の作戦は弾薬運搬車の護衛が目的でしてね。わたしのことは関係ありません」
だからなんで工場にこだわるんだ、という目で田中は遠坂をにらみつけた。
「現在重傷者二十六名、軽傷者三十七名。医師ひとり、看護師ひとりだ。スタッフの補充と重傷者を後送するシステムを作らねばな」
ウォードレスの上に白衣を羽織った女医がいつのまにかたたずんでいた。ハスキーな声で「遠坂ゴーホーム」の話の腰を折った。
「そんなことは……病院も後方へ下がればいいだけの話です」
室井は苦い顔で反論した。しかし女医は涼しげな顔で「それは違う」と言った。
「負傷者は前線にいる。とりあえず前線近くに中継点となる野戦病院が必要だろう。重傷者は後方の本格的な病院へまわすとして。ああ、ちょうどいい。堂島少尉、だったな?」
女医は工場奥から出てきた少尉に声をかけた。少尉は何事かと女医に目で問いかけた。
「ここに負傷者を搬送するまで、相当に苦労したろう?」
「まあ……」
堂島は言葉を濁した。
「こう見えても現在収容している重傷者には適切な処置をしてある。全員助かるだろう。半数はここに来なければ死ぬ運命だった」
話がややこしくなってきたぞ、と田中は頭を抱えた。ええと――。とりあえず遠坂社長は首に縄付けでも追い返して、この先生は……。病院をここに残すと言ってるのか? ああ、もうわけがわからなくなってきた!
不意に工場の裏手で何かが派手に崩れる音がした。続いてジャイアントアサルトの射撃音。
地響きが聞こえて、ほどなく見慣れた僚機が姿を現した。
「工場裏手の外壁を破壊しました。遠坂社長はそこから脱出してください」
拡声器から藤代の声が聞こえた。ずいぶん強引だ。藤代、キレた? 日中は茫然として土木一号の隣に膝をついた二号を見上げた。
「と、とりあえず遠坂社長は後方へ退避を……」
いつのまにか守備隊の責任者とされてしまった室井が疲れた声で結論を下した。
見覚えのある少女が激しい剣幕でリポーターさんに食ってかかっていた。
なんだあれ、と思いながら佐藤は神崎、鈴木とともに棟内を物色してまわった。
戦車整備工場なるものは初めて見る。町の自動車整備工場ぐらいの規模を予想していたのだが、全然違った。佐藤のイメージで言えば学校ぐらいの規模はある。通路は広くとってあり、時折、何かの部品を積んだフォークリフトが通過して行く。
奥へと進むにつれ、整備員の姿が増えてきた。チームごとに破損した戦闘車両を修理している。棟内は異様に蒸し暑く、ほとんどの整備員は半ば自棄になっているらしく、ウォードレスを脱ぎ捨て、半裸で動き回っている者もいる。
「九二式に九五式か。……七四式戦車はねえかな」
鈴木が修理用ブースに収まっている車両をきょろきょろと見回しながらつぶやいた。
どうやらオキアミ野郎も肝が据わってきたらしい。あのぞっとしない「二百メートル走」の時、転んだ神崎を助け起こし、目の前に迫ってくる運搬車に張り付けと、とっさに指示したようだ。神崎からそう聞かされた。ほんの一秒、二秒の差だったという。ドアミラーを掴んだふたりにゴブリンが襲いかかってきたが、間一髪、逃れた。神崎の被害は髪の毛十教本、そして鈴木は……。ポタリと音がして血が床に滴った。
佐藤が驚いて鈴木を見ると、ウォードレスのわき腹のあたりが切り裂かれていた。そこから血が伝って流れ落ちている。
「鈴木、怪我してるじゃん……!」
神崎も、はっとして鈴木を見た。鈴木も初めて気づいたようにわき腹を押さえた。
「たぶん皮膚をやられただけだ。にしても紙装甲のFOXキッドだったら死んでいたよな。危ねえ、危ねえ」
「……馬鹿! とっとと病院に行くよ」
もう血を見るのは嫌だ。佐藤は顔をしかめると、「ついてきて」と言った。
病院は戦車整備棟の隅に間借りしていた。近くまで寄っても消毒液のにおいよりまだマシン油のにおいが勝っている。いかにもそれらしい機材と手術台、箱に収まったままの薬品類、そして百名近くの負傷兵を見て、やっと野戦病院とわかる。
先はどの小柄な衛生兵が点滴のパックを交換している姿が見えた。
「あの……」
佐藤が話しかけると、衛生兵は作業をしながら「はい」と返事をよこした。
「怪我人がいるんですけど。ゴブの斧にウォードレスごとばっさりやられたらしくて」
衛生兵は無表情な視線で三人姐を一瞥すると、「怪我を見せてください」と言った。佐藤が肘打ちをくらわすと、鈴木はしぶしぶと上半身を露わにした。
「軽い裂傷ですね。少し待ってくださいね」
衛生兵はしばらく作業を続けた後、鈴木の前に立った。
「消毒した後、傷口を縫合します。麻酔……いります?」
「え……」鈴木は意表を衝かれて絶句した。
「傷口の深さは三ミリほど。たいしたことありません。もったいないんで麻酔はなしにします」
衛生兵は同性の佐藤から見ても可愛らしい顔立ちだったが、感情を持たない人形のように口だけを動かして言った。そして鈴木の返事を待たずに傷口を消毒して手当にとりかかった。
「く……」さすがに痛みを感じるらしく、鈴木の食いしばった歯から声が洩れた。
「本当はしばらくガムテープで止めでもいいぐらいの傷なんです。けど、そうそうこには来られないだろうからきちんと縫合するんです。感染症もこわいし」
衛生兵は手慣れた仕草で傷口を縫いはじめた。鈴木のうめき声が聞こえた。
「あの、衛生兵はあなたひとり?」
佐藤が尋ねると衛生兵は「ええ」と答えた。
「あと先生がひとりいます」
「ふたりきり……?」佐藤は驚いて周囲を見渡した。重軽傷者合わせて百人はいるだろう。
「先生、仕事速いですから」
衛生兵は澄ました顔で言うと、包帯をまいて鈴木を解放した。
神崎が鈴木の手を握ると、その場を逃げ出すように足早に立ち去った。「これ、抗生物質です」衛生兵は錠剤を取り出すと佐藤の手に握らせた。
「どうしたんだよ、神崎?」
佐藤が追いかけて尋ねると、神崎は青い顔でうつむいた。
「なんかあの子、こわかった。人形みたいで」
「……ああいうやつ、見たことがある」
佐藤の代わりに鈴木が口を開いた。
「部隊を皆殺しにされてよ、そいつは他の隊に連絡に行っていてたまたま助かった。ひでえもんだったぜ。塹壕の縁に切り離された学兵の首がずらりと並べられていたんだ。あの頃はよくある話だった」
「そういう話は……」神崎は気弱にさえぎった。
「聞けよ。おまえも佐藤もきれいな戦争しかやってこなかったろ? 隠れて、目標決めて、ズドン」
「鈴木ィ――!」
佐藤は鈴木の顔面を殴った。鈴木はふらついたが、かろうじて持ちこたえた。
「悪ィ。けど、そいつはショックを受けて、なんつうかスイッチをオフにしたんだ。新しい部隊に配属されても誰とも口をきかなかった。けど、アホの化工にしちや不思議と誰も絡んでこなかったな。……イジメにな」
もう一発殴ってやろうかと思ったが、鈴木の真剣な顔を見てやめた。
「んで、とあるお節介な先生が、女子校の戦車隊に欠員あるの見つけてきてそいつを送り込んだってわけ。そこで出会ったのが意地っ張りの張り切り隊長とヘタレな操縦手だった。あの不細工なモコスに入ったとたん消臭スプレーをいきなりだぜ。掛け合い漫才はやりやがるし、何日か経ったらスイッチがオンに戻っていたんだ」
「そういや鈴木って初めの頃、無口だったね。ヘタレ転校生パターンかと思っていたんだけどさ。積極性なし勇気なしの、僕に話しかけて君ね」
佐藤が記憶を探るように言うと、鈴木は「俺はぼんやり君じゃねえのか?」と苦笑した。
「とにかくそいつはミョーに居心地のいい場所を見つけたって話。普通、女の中に野郎ひとり入るなんて嫌だぜぇ。けど、そいつにはそういう事情があったからそんなことは考えてもいなかったみたいだ。だから、あの衛生兵も一時的なもんさ。ちと我慢強そうなところがかえって心配だけどな」
鈴木の話は佐藤にもよくわかった。森田の死からしばらくして、自分はスイッチをオフにしたんだろう。感情を心の底に押し込めた。チームメイトが戦死した時もそうだった。他の隊員たちも同じだ。死んだ彼女らの話をすることはなかった。
「こわいなんて言って悪かったかな……」
神崎がさえない表情で肩を落とした。
「神崎、あんたが気にしても何もできないじゃん。そういうのってウザイし、すごくむかつくんだよね!」
佐藤は思わず口にしてしまった。神崎は肩を落としたまま、うつむいた。
「……ごめん」
気まずい空気が流れた。
「謝ることなんてねえぞ。悪いけどよ、佐藤……」
鈴木の腕がしなって、佐藤は衝撃を感じた。佐藤は尻餅をついて床の上を滑った。
「目、覚ませよな! 仲良しグループじゃなくなってもいい。俺のことずっと無視してもいいさ。代わりに前の隊長に戻ってくれよ!」
鈴木は傷ましげに佐藤を見下ろした。この野郎……。佐藤は唇を噛みしめた。
「どうしたんだ、穏やかじゃねえな。こんなところで喧嘩すると、機材が転がってるから怪我するぞ」
不意に声がして、作業服姿の整備員が佐藤と鈴木の問に割って入った。佐藤は目ざとく整備員の階級章をあらためた。曹長。これだったら……。佐藤は身を起こした。
「あのっ、お願いがあるんです! わたしたち、戦車を大破させちやって。ここまで来れば新しい戦車が受領できるって聞いたんですけど!」
佐藤に袖を掴まれて、曹長……整備班長は後ずさった。
「そんなこと言われてもここは整備工場だぜ。装備を受領するところじゃねえ。修理済みの戦車には所属部隊のマークもあるし」
年輩の整備班長は気の毒そうな顔をすると、掴まれた袖を払い歩み去った。佐藤は必死に整備班長の後を追った。
「二度と壊しません! 戦車をください……森田の、誰の死も無駄にしたくないんです!」
佐藤はめげずに整備班長の袖を掴んだ。なんだかハンパにオフになっていたスイッチがオンになっおようだ。涙がひっきりなしに流れた。「ううむ……」整備班長は佐藤の涙でくしゃくしゃになった顔を見てお手上げというように声を洩らした。
班長は佐藤の視線を受け止めると、目顔で横にある戦闘車両を示した。佐藤の目に巨大な砲塔と車輪が映った。九五式対空戦車――。
「戦闘で受けた傷が元で部隊マークが見えなくなっている。迷子の戦車さんの引き取り手を捜していたところさ」
実のところ、くっきりと他の部隊の隊章がマーキングされていた。それでも班長は若い整備員を呼びつけるとペンキ一式を持って来させた。そして刷毛を取ると、佐藤に向き直った。
「おめーらの部隊章は……?」
涙が止まった。佐藤の表情がばっと輝いた。嬉しさのあまり混乱して、背後を振り返った。
神崎と鈴木が並んで、佐藤に微笑みかけていた。
「忘れちゃった、隊長? 校章の八重桜の真ん中にαよ」
神崎はポシェットを探ると、懐かしい紅陵女子の校章バッチを取り出した。佐藤は宝物でも扱うようにバッチを手に取ると、うん、とうなずいた。
八月十日 〇四四〇 広島・佐藤宅
佐藤昌子は眠れずに、ぼんやりと天井を見上げていた。
わずか数時間で建ってしまう仮設住宅の天井は真っ白な石膏ボードだった。窓からはカーテン越しに外灯の光が洩れてくる。姉との相部屋だったのが、ひとりになると急に広々と感じられる。昌子は思い切り四肢を伸ばして大の字になると、姉の机を見た。
教科書と参考書がきれいに並べられている。昌子の姉は見かけによらず勉強ができた。昌子は起きあがると姉の机のスタンドをつけた。
ポートレイトに収まった写真が立てかけられている。戦争がはじまる半年前、姉がまだ一年の頃の写真だった。紅陵女子ソフトボール部は地区大会で快進撃を放け、決勝まで駒を進めた。
姉は一年ながらレギュラーで、写っている写真はミットとマスクを高々と掲げ、ナインを鼓舞する姿だった。今は北海道に単身赴任している父親が写したものだ。
姉さん、どうしているかな……。
姉が熱血な分だけ、昌子は冷めた性格になった。冷めていてあきらゆがよくで……汗くさいスポーツが嫌いだった。目の色を変えてソフトボールに熱中する姉が理解できなかった。
けど、この写真の姉さんは格好いいな。昌子は写真に見入った。と、ポートレイトの裏に一通の封筒が立てかけられていることに気づいた。
何気なく手に取ると、封筒には「昌子へ」と書かれてあった。
昌子は迷わず封を開けて便箋にかれた文字を追った。女子高生の鏡のような丸文字。自分の右肩上がりの字とは全然遭う。
(昌子へ。
妹に手紙書くってけっこうダサイよね。わたしはこれから戦争に行きます。今回の戦争はちょっとやばめ。急に昇進して、明日、出頭しろなんて。きっと軍も人手不足で余裕がないんだろうね。あきらめの悪いわたしのことだから、きっと生きて戻ってくるとは思うけど、もしもの時は母さんをよろしくね。母さんって、あっけらかんとした性格に見えるけど、実はすごい泣き虫なの。だからカラ元気でもいいから明るく、声を出して……うーん、やっぱりわたしは体育会だな。わたしの分まで頑張って母さんの子でいてください。PS・まーくんにエサやるの忘れないでね)
読み終えて昌子は封筒を机に置くと、急いで枕に顔を埋めた。堪えようとしても嗚咽が止まらなかった。
「……頑張って母さんの子でいてってなんなんだよ? 意味わかんないよ!」
泣きながら、たったひとつ気づいたことがあった。自分は姉さんのことが大好きなんだな、と心からそう思った。
八月十日 〇五〇〇 吉香公園
「佐藤たち、無事に着きましたかね?」
地下の十字路に陣取る合田小隊以下の混成部隊は、あれから二度の敵襲を撃退していた。
こんなにゴブを殺したのははじめてだ、と橋爪は思った。狭い通路内なら組織的な火力を持つ人間の側に分がある。
しかし、深夜まで続く敵の波状攻撃に誰もが疲労の色を隠せなかった。壁にもたれ、床に寝そべり、まともに立っている者はいない。「配達おじさん」だけはどういうルートを使っているのか、律儀に弾薬を補給してくれる。
「……たった今、堂島少尉と回線がつながったところです」
合田はそう言うと、無線の送受器を取って話しはじめた。
「戦車兵は無事。堂島小隊は新たに重軽傷者三名とのことです。旭町地下の野戦病院は壊滅。野戦病院は工場内に移転したそうですが、工場自体が孤立しているそうです」
しばらくして合田が橋爪以下に伝えた。
「やれやれ。どこもかしこもゴブだらけってか。この分じゃ連中、戻れそうもないすね。にしても妙な戦争だよなあ」
橋爪がぼやくように言った。モグラか野ネズミにでもなったような気分だった。
中大型幻獣の進撃はネズミ穴、正式名称・地下道昇降口と連結された隠蔽された陣地からの砲火が阻止している。地上は半ば幻獣の支配地と化しているが、数百万と表現される小型幻獣は雨水が排水溝に流れ込むように、あるいは砂地に染み込むように現れては消滅し、を繰り返している。
こうまで地上への露出を嫌う防衛ラインというのも珍しかった。
橋爪が嫌というほど戦った阿蘇戦区での戦線と言えば、延々と連なる塹壕にトーチカ、そして草原を疾駆する戦車群だった。勝敗はわかりやすかった。戦車随伴歩兵が陣地を守りきれば勝ち。戦車が機動戦を展開して敵を草原のかなたに追いやれば勝ちというものだ。
市街戦は熊本城攻防戦の時に一度だけ経験があるが、あの時も野戦の延長のように、ビルからビルへ駆けめぐり、トーチカと塹壕に拠って戦った。当時は対中型幻獣用の兵器が少なかったから、戦えば相当な犠牲が出た。今の岩国の街はゴブだらけだが、スキュラを一介の歩兵が撃墜できる。防衛ラインはやんわりと敵の攻撃を受け止めていた。
「佐藤ですけど橘をお願いできませんか?」
無線から再び声が聞こえた。橋爪が名を呼ぶと、橘は砲塔から顔をのぞかせ無線機のそばに降り立った。
「どう、そちらは……?」佐藤が尋ねると、橘は疲れた声で「相変わらず」と答えた。
「戦車、ゲットしたよ! 九五式対空戦車ってやつだけど」
佐藤は張りのある声で言った。
「よかった……よかったね、佐藤」
「整備の人たちがすごく親切でさ。今、紅陵の隊章をペイントしてもらってる」
「合流できるの?」橘が尋ねた。
「うん、今度は重傷者がいないから。かなり遠回りになるけどね。合田さん……?」
合田が送受器に顔を寄せると、橘は顔を赤らめた。
「堂島小隊は工場に残るそうです。わたしたち、これから爆走してそちらに戻ります。合田さん、わたし、やられっぱなしじゃ絶対に嫌です!」
「一緒に頑張りましょう、キャプテン」
合田はにこやかに笑って言った。
八月十日 〇五〇〇 整備工場
「……そろそろ観念してください。遠坂社長」
藤代の声が拡声器から響いた。それに呼応するように坂上と本田が「遠坂ゴーホーム作戦」を実行すべく遠坂の左右に立った。遠坂は助けを求めるように田辺を見た。
「……だめです」
田辺は悲しげに遠坂を見つめた。
万事休すか……?
まだ工場にとどまっていたかった。圧倒的な小型幻獣の大海の中で孤立しながらも工場を守る兵を見ていたかった。なんのためかと問われれば、兵たちが粘り、足掻き、その果てに来るものを目に焼き付けたかった。そう心が欲していた。
遠坂は辺りを見渡して、右腕をもがれた複座型に目を留めた。これだ……!
「わかりました。それでは、最後にあの複座型を修理してから戻ることにします。田辺さん、あのままでは機体のバランスが崩れますから火器管制システムがまともに機能しませんよ。パイロットの命を守るためです」
遠坂は観念した、というように田辺に話しかけた。話している中身はまったく観念していなかったが、パイロットの命、と言われて田辺は思わずうなずいてしまった。
「え、ええ……そうですね」
「遠坂、てめえ、まだ言うか!」本田が遠坂に詰め寄った。しかし遠坂はにこやかに「まあまあ先生。そう怒らないでくださいよ」と降参するように両手をあげた。
「ええと……弾が当たらなくなるってことですか、それ?」
田中が自信なさげに尋ねた。村井は青い顔をして、田中の傍らでへたり込んでいる。遠坂は自信たっぷりに「ええ」と言った。手はカメラマンに合図を送っている。
「わたしは元人型戦車の整備員ですよ。生体兵器棟はすぐ隣でしょう。そこにプロトタイプの光輝号があります。複座型二機で侵入して棟内を制圧でされば」
まったくあきらめていなかった。遠坂のあきれるほどのしぶとさに坂上と本田は顔を見合わせ、室井と堂島は苦い顔で天井を見上げた。
「田中さん……ですよね? 本日の撃破数は?」
遠坂は不安げな表情を隠せずにいる田中に尋ねた。
「うみかぜゾンビ八、スキュラ十四……です。けど本当に……」
「まず狙撃は当たりません。それだけの戦力を失うのは大きな損失です。単純に複座型で工場の壁を壊して、隣の棟に突入すればいいだけの話ではありませんか? しかも隣の棟まで五メートルと離れていないでしょう? 戦闘車両の支援もできるでしょうし」
どうしてこういう話になるんだろう、と藤代はため息をついた。
遠坂は本職の軍人を向こうにまわして余裕たっぷりに弁を振るっている。物腰は柔らかだが弾薬運搬車の件についても、気が付いたら動かされていた。島がくすりと笑った。
「なんだか不思議な人だよね」
「笑い事じゃないの。……ねえ、島。火器管制システムが正常に動かないってホント?」
「うーん、どうなんだろう? そういう状況になったことないから。ただ九二ミリライフルの狙撃は反動と衝撃が大きいから、わたしだったらバランス崩したまま撃つのは嫌かな。田中はただでさえ無理しちゃうし」
島は言葉を選んで言った。
「狙いをはずして、スキュラに位置を特定されてなんて考えると……ちょっとね」
島の言葉に藤代は考え込んだ。
わたしたちは役に立っている……。
狙撃の威力をあらためて思い知らされていた。野戦だったら機体を動かすのもやっとのわたしたちが二機会わせてなんと三十体近くのスキュラを葬っていた。九二ミリライフルによる狙撃はそこそこの貫献をしていると考えでも思い上がりではないはずだ。そしてあのシチュューションコメディ女の性格を考えれば、狙撃がうまくいかなければ確実に無理をする。
「協力……したい?」
藤代が尋ねると、しばらくして島は「うん」と返事をよこした。
ふと遠坂がこちらを見上げているのに気づいた。なぜかそのまなざしには懇願の色が交じっているように思えた。
「わかりました。それでどこから侵入を……?」藤代はしぶしぶと言った。
「整備班長がご存じですよ。それでは皆さん、ご協力お願いします」
遠坂のオットリした声に、ふたりの指揮官はこれ以上ないという渋面をつくった。
八月十日 〇五四〇 岩国経済大付近・地下通路
「地下は冷んやりして気持ちがええの!」
レーションの牛井定食を頬張りながら久萬《くま》一等兵は満足げに楊子をくわえた。
これで十五才かよ、と年上の中西伍長はあきれて緊張の欠片もない一等兵を見守った。ふたりは選ばれて対空歩兵として地下通路をめぐっていた。
零式ミサイルの射撃は主に久萬が受け持ち、中西はミサイル三発パックを専ら担ぐ役目だった。ただし、腰に下げたサブマシンガンは伊達ではなかった。中西は狙撃兵として優秀な成績を残していた。久萬がこれまで九体のスキュラを撃墜できたのも、中西の警戒と援護射撃があればこそだった。それは久萬も認めたらしく、殺到するゴブリンに正確な射撃を行った中西に「あのスキュラ、やれるか?」と必ず尋ねるようになった。
久萬は優秀な兵だが、隊内でのトラブルが多過ぎた。喧嘩など日常茶飯事で、病院送りにした兵もひとりやふたりではなかった。中西は、院卒で懲罰部隊出身の久萬とコンビを組む貧乏くじを引かされたわけだった。
「近くに待避部屋があるはずだ。無理せんで休もう。ミサイルパックもあるじゃろ」
中西の提案に久萬は「うむ」とうなずいた。
待避部屋とは、いざという時、歩兵が逃げ込むエリアで、弾薬置き場にもなっている。頑丈な鋼鉄の扉は小型幻獣をシャットアウトできる。
「……にしても、けっこう残っているもんじゃの」
久萬は唐突に言った。久萬の気まぐれにつき合わされるようにして、ふたりはスキュラを狩りながら敵戦線の後方、岩国経済大方面の地下通路を歩いていた。こんな戦線の後方なのに通路で「同業者」や、戦車随伴歩兵の生き残りと行き交うこともままあった。
同業者と出会った時は久萬は必ずガンを飛ばし、相手の撃墜数を確認する。一般の歩兵には親切に撤退ルートを教えてやっていた。
中西はうなずいてから、ミサイルの残弾を確認した。二。
「じき経済大のネズミ穴に出る。身軽になってから待避部屋に行くか」
「うむ」
進むうちに通路は暗く、電球は壊されていた。ふたりは暗視ゴーグルをつけると、同時に立ち止まって辺りの気配をうかがった。戦闘他のトラブルがなければ、道しるべを照らす電球は破壊されないはずだ。
中西は黙って首を振った。久萬は少し考えて鼻をうごめかせた。徴かな風がふたりの頑を撫てた。久寓はGOサインを指でつくった。
「血のにおいはしよらん」
「照明がないのはどういうことだ?」中西は用心深く言った。
「ゴブと戦ったことのないやつらじゃろ。夜目が利くのを知らんから、退却の時、壊していったんじゃ」
そう言うと、久萬は壁面の傷を指でなぞった。電球を破壊する際、勢い余って小銃の銃床でできたものだ、と久萬は言った。
「退却しとろということは、ゴブも通路に入り込んだんじゃないか? 無理せんで……」
久萬は中西の言葉に耳を貸さず、零式を肩に担いでネズミ穴に向かって歩き出していた。
鉄扉は開いていた。中西はミサイルパックを置くと、サブマシンガンを構え、おそるおそる外の様子をうかがった。
穴は国道を見下ろす丘の斜面上にあり、眼下には次々と落下する榴弾にも動じることなくイナゴの大群のように小型幻獣が東へ向かって進んでいた。群れの中をミノタウロス、ゴルゴーンといった中型幻獣が悠然と歩んでいる。壮観にして異様な光景だった。
めざすスキュラは前線に比べるとまばらに展開している。中西は斜面の傾斜を頭に入れると、ミサイルパックを抱え、
「よし。二発分、時間を稼げそうだ」とだけ言った。
久萬はぶっそうに笑うと、無造作に零式ミサイルを撃った。
命中……を確認する間もなく、最後のミサイルを充填する。上空には炎を吹き上げながらもなお空中に留まり続けるスキュラ、地上にはこちらに気づき斜面を四苦八苦しながら登ってくる小型幻獣の群れが見えた。
中西はサブマシンガンの引き金を引くと、先頭の一群をなぎ倒した。弾倉をすばやく替え、さらに連射した瞬間、二発日のミサイルがスキュラにとどめを刺した。
「ざまみろ……!」久萬は無邪気に声をあげると、通路内に滑り込んだ。中西はすばやく鉄扉を閉める。
「へっへっへ――」久萬は埠しげに笑うとウォードレスの肩を突き出した。中西は苦笑いしながらマジックを取り出して、横線を一本書き入れてやった。自分の肩にも同じく。これでチームは五の字がふたつになった。
「これだけ落とせば二階級特進ってか?」
ネズミ穴から離れながら久萬は機嫌良く軽口をたたいた。
「ああ、それですぐに喧嘩して降格な」
中西が辛辣に言うと、久萬は「それもそうじゃのう」と他人事のように同意した。
八月十日 〇六〇〇 岩国基地
基地内から無数の対空砲火、そして榴弾が敵に降り注いでいた。
基地は市街の中心部をややはずれた広大な三角州にあり、最も要塞化が進んでいた。基地上空は白々と明け初めた夏空が見える。空が遮られるのは、敵の空中型幻獣を撃破した五分後だった。広大な演習場、滑走路には無数の幻獣が墜落しては消滅していった。
この地域を守るのは第二師団及び各地からかき集めた混成部隊だった。
大小の施設はあるが、地上部分は放棄され、戦闘施設はほとんど地下要塞化されていた。夜の間に戦線は膠着状態に陥り、基地はその規模と面積を提供して、敵陸戦型中型幻獣を引きつけていた。
フィールドにミノタウロス、ゴルゴーンらの一団が歩き回っているが、人類側は戦車戦を仕掛けてくることもなければ、必死で拠点を死守する兵の姿も見えなかった。
存在するのはあらゆる方角から飛来するミサイルと砲弾、そして無数の地雷だった。後の回収を考えて、ひとつひとつが登録され、識別信号を放っている。
小型幻獣は例のごとく、ネズミ穴へと誘導されていた。
ここは岩田少佐という奇才が夢見たワンダーランドだった。天上、そして地上を支配しているかに見える幻獣たちは見えない敵に翻弄され、一体また一体と姿を消していった。岩田参謀は、はじめから要塞や陣地を造ろうという発想とは無縁だった。彼のワンダーランドはベルトコンベアー式の処理施設。幻獣の屠畜場だった。
五十年にも渡って幻獣と戦っているのに、人類側は未だに敵の長所を封じ込めることに成功していない、と岩田参謀は考える。
そもそもが野戦では押し切られる。バペット撃……小型幻獣を数で圧倒的に劣る戦車随伴歩兵に任せ、中型幻獣には拠点からの砲撃と戦車戦、そして低空を制する空中型幻獣に対しては対空車両が大きな犠牲を払って対応してきた。敵は連携しているわけではない。だからまずそれぞれのタイプの敵の特性を分析し、引き離すことだ。
小型幻獣は地下へと吸収し、護衛を失ったミノタウロス、ゴルゴーンらは隠蔽された砲火で撃破する。スキュラ、ゾンビヘリを撃破するのは対空ミサイルを装備した人間が最も効率的だ。そのためにこの国が保有する歩兵用対空ミサイルの大半をここに集中した。要は圧倒的な数の小型幻獣にさえ対処でされば、後は各個撃破が可能だという考えだった。偏執狂が作成した迷路のような地下通路網がこの国最後の砦であった。
何やら機嫌良く鼻歌をはじめた岩田参謀に、荒波は苦笑した。
「十一師団がえらいめに遭っているぞ。嬉しいかね?」
「フフフ、彼らは絵になるような戦争が好きらしいですから放っておきましょう。ただ、上はともかく現場の兵はアジャストしていますよ。第八師団の増派が決まったことですし」
そう言うと岩田は壁ひとつを占領している巨大な地下通路網のマップに目をやった。
半透明の戦術マップが重なって地下通路への敵の浸透状況が把握できるようになっている。
浸透している敵を示す赤い光点が至るところに表示されているが、袋小路に点滅している赤い光点が消えたところだった。これで数百の敵が消えた。
十一師団の戦区は忙しかった。赤い光点が現れては消え、を繰り返していた。
八月八日夜半から十日現在に至るまでの膠着状態は敵に大量の出血を強いていた。その数字に満足した上層部は、北陸から急遽第八師団の増派を決定していた。
今のところ戦争はうまくいっている。そして二十一旅団、二師団、十一師団の失われた戦力は、今のところ十四師団の兵で十分にまかなえていた。
「ヨーロッパやユーラシアであったら無理な発想ですがね、この日本という山ばっかり多くて平野が付録のようにくっついている国土に感謝しましょう」
岩田参珠は充血した目をぎらつかせて笑った。
「この国では戦車による電撃戦も、大陸のようなくっきりした戦線を形作る戦争も無理だからな。たとえ三百メートルの山でも険しく複雑だ。大昔、伊豆山中の訓練で俺は部隊ごと遭難しそうになったんだが、霧が晴れてみると寮から百メートルのところにキャンプしていたよ。原因はなんだと思う?」
荒牧は岩田の話につき合ってやった。
「フフフ、標識が別方向を向いていた、ですか?」
「少し違うな。原因は一本の常緑樹の枝だった。こいつが成長して重要な標識を隠していた。本当にそれだけのことだったのだ。レンジャー訓練でも油断すると道迷いする。俺たちは標識を見落として道らしい道を進んだってわけだ。そこが先細りになって、また別の道モドキを見つけ、寮のある山頂と沢を行ったり来たりさ。しかも山々が連なっているんで、下手すると別の山へと踏み込んで、さまようはめになったかもしれん」
「荒波司令官にもそんな時代があったのですね」
藤代に代わってオペレータ席に座っている前園がくすりと笑った。前園の担当する画面では相変わらず数字が揺れ動いている。昨日の昼に比べれば緩慢ではあったが。
「さて、そろそろ肝心の話だ。善行が動く」
荒波の言葉に岩田だけがにやりと笑った。
「殺し屋到来というわけですね。わたしはなぜ、敵が戦闘団にやりたい放題やらせていたかがわかりましたよ。彼らは敵に恐怖をもたらす。生け贄を捧げて遠ざけていたふしがありますね」
「善行が来る別に、やつらは圧力を強めてくるだろうな」
荒波はそう言うと、巨大なディスプレイに表示された複雑に錯綜している戦線を眺めた。激しい凹凸、そして孤立した陣地。実際のところ、それぞれの戦場で何が起こっているのかわからなかったが、唯一の事実は未だに戦線の突破を許しでいないことだ。
岩田参謀は防衛ラインに絶対の自信を持っているようだが、戦線のそこかしこで起こっている戦いは防衛ラインの強度をじわじわと浸食しつつあると荒波は考える。萩で起こったような原因不明の戦線崩壊が起こらないとも限らない。それこそたった一本の小枝が崩壊の引き金となることも十分にあり得るのだ。
「光輝号はどうなっている?」
荒波は兵站担当のチームに尋ねた。
「未だに鉄道が復旧していないようです。到着は明日未明とのこと」
「共生派か。憲兵隊には問い合わせてみたか?」
これも小枝のひとつか、と思いながら荒汲は再び尋ねた。
「現在、広島・岩国間に徹底した警備網を敷いているそうですが、爆弾は敵上陸前からあらかじめ仕掛けてあったものであると」
「なるほど」
荒波は苦笑してシートにもたれた。この分ではどれほどの爆薬が仕掛けられているかわかったものではない。
「貨車より降りて徒歩でこちは向かえ、と指揮官に伝えてくれ。それと前園少尉、損耗率の数値に異状があったらすぐに報せてくれ」
[#改ページ]
第十章 新たなる敵
八月十日 〇六三〇 山口市内某高校
厚志と舞は薄暗いハンガー内に収まっている新型機を見上げていた。
士魂号に比べるとデザインが鋭角的ですっきりした印象を与える。どういう趣味だか、慣れ親しんだ灰・緑・赤の都市型迷彩の代わりに派手な白と青に塗装されていた。まるでアニメのロボットだ。新型機、後継機と言いながらも違和感が強かった。原は腕を組んでそんなふたりをにこやかに眺めている。
「これに乗るの……?」
不服そうな厚志の言葉に舞は顔を赤らめた。すべては自分が賭けに負けたためだ。
「……不満か? ああ、確かにわたしが悪いとも。だがな、いずれはこの機体がメインとなる。この]甲とやらにな」
「正式名称が決まったわ。栄光号。いい名前でしょ?」
原に言われて舞は首を傾げた。その響きにすら違和感がある。
「む。まあまあだな。ところでそなたの開発思想はどこに反映されているのだ?」
舞の質問に原は一瞬、冴え冴えとした笑顔になった。
「運動性能。速くしなやかに……ね。速水君の潜在能力をもっと引き出せるわ。ま、だまされたと思って乗ってみて」
「……わかった。だまされてやろう」
もっともこのセリフは厚志が吐くべきものだが。
ハンガーの外では整備班の面々が忙しく出発の準備をしている。戦闘団主力は岩国付近に拠点を確保し、戦うことになった。資材、設備、その他諸々……大がかりな引っ施しである。
「滝川君は搭乗しないで。二番機トレーラーに」
森の声が聞こえる。
「へ? けど敵さんに出会ったらどうすんだ?」滝川が心外というように応える。
原はため息をつくと、
「滝川君は搭乗。武装はジャイアントアサルト。待機は壬生屋さんね」
と指示を下した。急な移動にそこかしこで混乱が起こっていた。茜と田代が何やら声を張り上げて口喧嘩をしているかと患えば、東原が「未央ちゃん、たかちゃーん」と不安げに壬生屋、瀬戸口を探し回っている。
「準備が整うのはいつだ?」舞が尋ねると原は「一時間」と指を一本立てた。
「どこにでも整備テントを展開できるようにしておきたいのよ。それに矢吹さんところは大所帯だからもっとかかるみたい。合わせないとね」
こういうことは司令であるわたしが仕切るべきではないのか? なおもきゃんきゃんとやり合っている茜と田代の声に耳を傾けながら舞は不機嫌に顔をしかめた。
「出発は三十分後だ。急げば半日で岩国に到着するだろう。我らは先駆けとなって適当な地点に展開する」
「三十分ぐらいどうってことないと思うけど」
原は挑発するように舞に笑いかけた。く……わたしは甘く見られているのか? 舞は一瞬拳を握りしめたが、考えてみれば善行が司令の時もこんな感じであった。
「そんなことより少しでも休んだ方がいいわよ。ここの動物園はわたしに任せて、屋上にでも行ってみたら? 朝の空気が気持ちいいわよ」
原はそう言うと、紙袋を差し出した。また悪戯か? 舞がおそるおそる中身を調べると、厚志が「わあ……!」と嬉しそうに声をあげた。
「シュークリーム。どうしたんですか、これ?」
「中村君が作ってくれたの。これでも食べて休んで」
原に追い出されるようにハンガーを出ると、地上の喧噪とは別に、朝の澄んだ夏空が広がっていた。涼しい風が吹いている。ふたりは隊が間借りしている高校の校舎内に入ると、階段を上って屋上へ出た。
ここまで来ると下界の喧噪も遠くなる。濃厚な緑の匂いを含んだ風が舞の頬を撫でた。ここ数日、ほとんど休めなかった。熊本時代とは比較にならないくらい一回の戦闘時間も長い。滝川のたわけがヒマさえあれば場所を問わず寝転がっている理由がよくわかる。じわじわと心身を蝕んでくるような嫌な疲れだ。
こやつは超人か? 厚志には疲れている様子は見えなかった。最善の判断と最善の動きを常に保っている。本人が言うには「操縦が好き」とのことだが、羨ましかった。舞の視線を受けて厚志は照れ笑いを浮かべ、紙袋に手を突っ込んだ。
「はは……こういうところでふたりきりになるって照れちゃうね」
「そ、そうか?」顔を赤らめる厚志に、舞も釣られて頬を染めた。たわけ。言葉にするとますます恥ずかしくなるではないか。
「うーん、風が気持ちいいよね。……たぶん敵はここには攻めてこないよ」
厚志はシュークリームを頬張ると、寝そべった。舞は不機嫌にたたずんでいたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らすと隣に寝そべり、行儀悪くシュークリームを口に放り込んだ。
「なぜ、攻めて来ないとわかる?」
舞は空を見上げ、口の中に広がる甘ったるさに閉口しながら言葉を発した。
「ここにあるのは地面だけだし。なんだっけ、広島が目標なんでしょ? 敵は」
「ふむ」
その圧力を弱めるために戦っていたつもりだが、成果は戦闘団各隊の連携技術の向上と、移動中の敵をそこそこ狩ったにとどまった。善行や自分の考えていた遊撃戦は空回りの感が否めなかった。敵の戦略の方が単純で断固としていた。
敵は何を考えているのか? 敵にも感情というものがあるのはわかった。しかし人類のそれは敵に比べ、よりはかなく、脆く、そして可憐でさえある。舞は目を閉じると岩国防衛ラインで戦っている者たちに思いを馳せた。彼らはどのように戦っているのか? わたしは、我らには何ができるのか? しかし、今はなんだか……疲れた。
「……ねえ、舞」
厚志が声をかけたが、舞は寝息をたてていた。
口論の原因は限りなくくだらないものだった。
戦闘指揮車の前で思いっきり怒鳴り会っていた茜と田代を、原は拳銃をちらつかせて追い払った。田代には衛生機材の積み込みと確認を命じて、茜には学芸会のわかめさん役や樹木の役のようにおとなしくしていて、と笑顔で脅した。
「くそ、供は参謀だぞ。だいたい原さんには指揮権がないだろ……!」
不服そうに言い張る茜に、退学・無職・ホームレスの三ワードをささやくと茜は勢いよく走り去った。
「大変ですね」
声が聞こえて、善行が現れた。原は余裕の笑みを浮かべた。
「そうでもないわ。みんな素直で天使のようによい子たちだし? パイロットの子たちは上手になってるし。なんだか寂しい気分なのよね。一番心配なのは大佐殿。あなたね」
「それは……」
善行は苦笑いを浮かべて額に手をやった。
「作戦変更したんでしょ? 頭だけで考えた作戦が空回りして、今から岩国? まあ、わたしが口を出すことじゃないけどね」
原に言われて善行は苦笑を浮かべたまま、眼鏡を押し上げた。
「耳が痛いです。ただし、十分に戦闘経験を積んだ打撃部隊が敵の背後を襲うことは決して無駄ではないと判断しました。展開先は2号線付近、市近郊ですね」
「これまでの作戦とどこが違うの?」
原の素朴な質問に、善行は即答した。
「背後からのひと刺しですね。殴り合っている相手の背後、側面を襲います」
「卑怯よねえ」原が冷やかすと、「ええ、まあ……」と善行は言葉を濁した。
「要は必要な時に必要な打撃を、ですね。移動しているスキュラを撃破するより、戦闘しているスキュラを撃破することの方が敵へのダメージは大きいと考えました。たとえば蹴りを放つ敵の軸足を払うような」
「あら……痛そうね」
本当に大丈夫? という表情で原は善行の顔をのぞき込んだ。
「……芝村さんや速水君、壬生屋さんは敵に恐怖と不安、怯えを与える、と表現していますがね。彼らは幻獣に感情があると考えているようです」
善行の言葉は原にある種の感慨を与えた。
まだ発足してまもない戦車学校の時代を思い浮かべた。早春の風が冷たく、皆が不安と戦っていた日々。未知の敵に困惑し、振り回されるだけだった自分たちにようやくそういう発想が生まれた。ただ敵を恐れるだけでなく、逆に敵の感情をコントロールしまうとしている。そうしてこそ初めて主導権を奪える。そしてそれに必要なのは彼ら彼女らの持つ狂気なのだ。
原は原なりに作戦を理解した。必要なのは敵の蹂躙と破壊欲、殺戮欲に勝る狂気。この詐欺師さんはそのことに気づいているだろうか?……たぶん気づいているだろう。この人も十分狂っているから。
原の目に宿った光を、善行は怪訝な面もちで見つゆた。
なんとか疲れがとれてきたみたいだぞ。
そんなことを考えながら滝川は寝そべったまま、掃除で居場所を追い立てられる猫のようにハンガー内を転々と移動していた。準備に大忙しの整備斑の面々に「そこ邪魔」「台車で轢いちゃうよ」と怒られながらも、なぜか暑苦しいハンガー内を離れなかった。
二番機の足下に寝そべって目を閉じていると、額にヒヤリと冷たい感触があった。目を開けると森が濡れタオルをあてがってくれていた。水道水じゃない。間借りしている学校の井戸から汲んできてくれた水だ。
「サンキュ!」
滝川がタオルで汗をぬぐうと、森は照れたように顔を背けた。
「滝川君を追っ払ってくれってみんなから苦情があったんです。もう……世話を焼かせないで。休むならもっと涼しいところがあるのに」
「俺は森のそばがいいの」
言ってしまってから、あ、そういうことだったのねと、滝川は気づいた。森のてきぱきした声をBGM代わりに寝そべっているのが心地よかった。森のふっくらした頬が赤らんだ。
「そ、そんなこと言われても……邪魔です」
「……じゃあ静かなところに案内してくれよ」
滝川は少し大胆に言ってみた。帰遷した夜、森にすがりつかれて……というより森にぎゅっと抱きしめられてその筋力に驚きながらも幸せな気分に浸った。「二度と危ないことしないで」と言われてまいったが、それすらも心地よく耳に響いた。
危ないことするのが戦争なんだけどな――。
そんなことを思いながら黙っていると、森は密着したまま五センチの距離で視線を合わせてきた。目、開けたままやるのか? 滝川がごくりと喉を鳴らすと、急に森のまなざしが険しくなった。「芝村さんたちには普通のことでも、滝川君には危ないことなんです。お願いだから、自分にできることとできないことをよく考えて。でないとわたし滝川君と二度と口をききません」低い声で森はいっきに言った。「わ、わかった……」滝川は反射的に答えていた。……それから二番機を大事に扱ってという話になって、整備班の愚痴話を延々と聞かされ、しまいには鳥の唐揚げ、竜田揚げと南蛮揚げどっちが好きですかという話になった。話の間中、なぜか密着していたので、しまいには息苦しくなって床にへたり込んでしまった。「た、大変……」森のあわてる声が聞こえたが、どうやらそのまま眠ってしまったようだ。……疲れているところに三時間密着して立ち話していればそうなるだろう。
「はいはーい、君たち、おつかれさん。今日も元気にラブコメしてるね!」
新井木の声に、滝川ははっとして飛び起きた。「違います。わたしは注意していただけ……」と森は口ごもったが、新井木の後ろから中村と岩田が出てきて、滝川を押さえつけると無理矢理台車に乗せた。
「原さんの命令なんだよね。今日からラブコメ禁止令発動――」
新井木は悪戯っぽく笑うと、台車を勢いよく走らせた。ハンガーを出たところで、ぽいされて滝川は地面にうずくまった。新井木はここの学校のものか、「風紀委員」の肩車を腕につけていた。驚くべきことに中村と岩田の腕にもそれがあった。
原さん、こんな馬鹿ども使って遊ばないでくれよ……。滝川は情けなくなった。
「ラブコメ禁止令ってなんなんだよ……」
滝川は起きあがると、あかんべをしている新井木をにらんだ。
「ふ。君も追い払われた口か」
茜が皮肉に笑って滝川の前に立った。
「俺は休んでいただけだぜ。なんか新井木って近頃生意気だよな。ラブコメ禁止令だってよ」
滝川がぼやくと、茜は表情を変えた。
「ね、姉さんと、その……ラブコメしてるのか?」
セリフのしょーもなさとは裏腹に茜は真剣な表情になっていた。
「してねーよ。だいたいなんで俺たちだけ……」
滝川が不服そうに口をとがらせると、茜の顔から血の気が引いた。
「親友として聞かせてくれ。帰ってきたあの夜、何があったんだ? 絶対に他言はしないから」
「だからなんもしてねーよ。だいたいさ、俺がラブコメって柄かよ?」
柄だと思うぞ。特にコメディの方な。茜は突っ込もうとして言葉を呑み込んだ。正直、茜はヒマだった。データの解析は終わったし、戦術は確立されている。車内で漠然と戦略画面を眺めていたところ、久しぶりに戦闘指揮車の点検でもするかと寄ってきた田代と鉢合わせしてしまった。
何サボッてるんだ、そちらこそと口喧嘩は一瞬にしてはじまった。ああ、こんなことなら時間を元に戻したい、と茜は情けない顔になった。これが田代の気に大いに触ったらしく、俺の青春、返しやがれと発展してしまった。
「んなことより、聞こえてたぞ。田代にもっとやさしくしてやれよ」
くそ。おまえが言うか? 僕の大切な姉さんを奪ったくせに。茜の顔が紅潮した。
「そ、それを言うなら君は姉さんの恋人失格だっ! 未熟な操縦技術で危ない橋を渡って、これ以上姉さんを悲しませるな。でないと僕が姉さんを引き取る!」
ふ、言ってやった。決まったな、と茜は胸を反らした。
とたんに何かが飛んでくる音がして、茜の胸に当たった。い、痛いじゃないか! からん、と音をたてて小さなスパナが地面に転がった。森が茜をにらみつけていた。滝川はあっけにとられて、茜と森を見比べた。
「あんたこそ田代さんに引き取られなさいっ! もう話はついているんだからね。メロンパン十個でね」
森は澄ました顔で言ってのけた。
僕はメロンパン十個で売られたのか? まさか、いや、冗談だろ?……もちろん冗談に決まっている言葉を茜は真に受けて、脳内でメロンパンの五文字がエコーのように響き渡った。
「情けなか話たい」
中村がにやにや笑いながら言った。
「けど、かおりんも高い買い物したよね」新井木も意地悪く笑った。
「……退学・無職・ホームレス。子守歌代わりに耳元でささやいてあげます。落ちるところまで落ちちゃったら大好きなお姉さんに合わす顔がありませんね」
岩田が舌なめずりして茜に笑いかけた。
「そ、そんなの嫌だぁ!」茜は頭を抱え、逃げ出した。
走り去る茜を加藤はため息をついて見送った。
「まあ、あれはあれで面白いからええんやけど……」
狩谷とともに補給車に積み込む備品を確認していた。補給車は5121小隊の心臓と言うべき存在で、生体パーツからたんばく燃料、弾薬まできっちりと積載しなければならない。事務官の加藤の重要な仕事だった。
「整備班にいた頃よりひどくなっている気がするよ」
狩谷はリストに目を通しながら気のない調子で言った。例の茜の「演説」は開いていた。才能はあると思ったが、しばらくは勢いよく空回りを続けるだろう。
「そんなことより滝川だな。前よりよく動くようになった」
格段に操縦がうまくなっている。よく動いた結果、機体を大破させたわけだが、問題は代替機が底をついていることだった。パーツ類も心許なくなっている。狩谷の意を察して、加藤はにこりと笑った。
「それだったら任しとき! 岩国には廃棄処分品がまんま手つかずで残ってる。荒波小隊のメンテナンスする整備員も残っているから大丈夫や」
「……そうか。荒波小隊はまだ現役だったね。この分なら補給も期待できそうだな」
「前に芝村さんが人型戦車の小隊をつくるって話もあったし。ここにいるよりは戦いやすいんとちゃうかな」
近頃の加藤と狩谷の会話はこんなものだった。
しかし、加藤が善行に直談判をして狩谷とともに東京へ赴いたことは十分に加藤の心を示していた。狩谷もしぶしぶながらそれを受け入れていた。
調達の達人である加藤抜きでは新設の人型戦車整備学校は運営できなかったろう。茜が善行の弟子であるように、加藤も別の意味で善行の弟子だった。
戦車学校時代から事務処理を教わっていたから、茜の先輩にあたる。善行を尊敬し、信頼することでは他の誰よりも負けなかった。
「ま、きっとそうなんだろうよ。ただ僕たちは護衛がほとんどいないから、また危機一髪にならなければいいけどね」
狩谷は皮肉に笑った。独立駆逐戦車小隊である5121には整備班を護衛できる者は来須と若宮のふたりの戦車随伴歩兵しかいない。しかもふたりとも「護衛」にしておくにはあまりにもったいない存在だった。結果的に整備班は無防備になることが多かった。つい数日前も冷や汗が出る思いをした。
「今度は矢吹さんや植村さんがいるさかい。きっと守ってくれる」
「そんなことを言って……もしかして加藤も来るのか?」
来るな――。狩谷の言葉に、加藤は傷つく風もなく「うん」とうなずいた。その無造作な態度に、狩谷は首を傾げた。
加藤は口許をほころばせ、話しはじめた。
「思い詰めてもおらんし、無理してもおらんよ。なっちゃんこそ考え過ぎや。追っかけちゃう。あのね……5121小隊は変わりはじめているんや。ウチはそれを助ける役目。整備の人たちは目の前のことだけやっとき」
「なんだって……?」
加藤の言葉の真意がわからなかった。加藤は微笑んだ。
「ウチはなっちゃんのこと好きなだけの女の子じゃないで。そんなものは……」
加藤は言葉を呑み込んだ。そして何かを探し求める表情になった。
「九州に置いてきた」
その言葉に狩谷はことさらに不機嫌に顔をしかめた。加藤は変わった。そして自分はその変化に戸惑っている。以前は煩わしいくらいに自分にまとわりついていたのが、近頃では必要な時にだけそこにいる――そういう関係になっている。隊の主計事務の他、善行の手伝いなども行っているようだ。
戦闘団の編成時には不眠不休で善行の秘書役のような仕事もしていたらしい。加藤の世界は広がっている、と狩谷は思った。新しい何かを得ようとしている。
「なっちゃんかて変わったよ」
黙っていると加藤は続けた。
「僕が……?」
「戦車大隊の整備の人たち、なっちゃんのこと好いていたで。難しいこと知ってるから好かれてるんやないよ。親切なんやて」
加藤は冷やかすように笑った。
「親切になんかした覚えはないけどね」
狩谷は憮然としながらも、なるほどと思った。加藤は戦闘団という雑然とした集団の中で、どこへでも入り込んで誰とでも話ができる。元々がそういう性格であったわけではないが、変わったのだ。地味だが貴重な才能だ。
「話がわかりやすくて丁寧だって。しかも……今のなっちゃんは人を見下さない。ウチもそう思うよ。なっちゃんは嫌だったかもしれないけど、教官に向いてると思った。次の人型戦車の整備員はなっちゃんのところから育つと思うんよ」
加藤の言葉は面映ゆかった。
「聞いた風なことを。馬鹿なやつは当然見下すさ。僕は変わってなんかいないよ」
「あはは、赤くなった! いい人になるのが嫌なんやね!」
そう言うと加藤は「また後で!」と言い残して歩み去った。
「だからさ、ラブコメは禁止だって。これ、原さんの命令ね」
声がかかって車椅子が押された。新井木が顔をのぞきこんでいた。
「まったく……何が風紀委員だ。頭に寄生虫でもわいているのか? くだらないままごとに僕を巻き込むんじゃない!」
狩谷が吐き捨てると、新井木は「新型機のことなんだけど……」ころっと話題を変えた。
「原さんが最終点検に立ち会ってくれって。森さんと変態コンビも一緒だけどね。こっちはままごとじゃなくてお仕事ね」
「……わかったよ」
新井木、自信をつけてきたな。原さんの悪趣味をモロにまね。ている。そう思いながら狩谷はため息交じりに言った。
瀬戸口と壬生屋は屋上の給水塔の縁に腰をかけて朝の涼風に吹かれていた。
途中、舞と厚志がやって来たがふたりに気づく様子もなく、そのうちふたりはシュークリームを鷲掴みにして平らげると仲良く並んで寝そべった。そんなふたりを見下ろして壬生屋はくすりと笑った。
「なんだか不思議な気がします」
そう言うと片膝を立てて座っている瀬戸口を見つめた。瀬戸口の右足と壬生屋の左足の袴は控えめに触れ合っている。壬生屋は子供のように足をぶらぶらさせていた。
「……俺も同じことを言おうと思っていたよ。おまえさんの不思議って?」
瀬戸口は穏やかに微笑んで尋ねた。
「あのふたりがわたくしをここまで連れてきてくれたんだなって。この隊に入る前、わたくし、誰も信じられませんでした。この格好……」
壬生屋は照れくさそうに言うと袴を示してみせた。
「みんなと違っているから嫌われたり無視されたり。喧嘩もたくさんしたし。和を乱すって言われて、隊を転々としていたんです。友達、全然いなくて。死にたいと思ったこともあります」
「懐かしい話だけどな。……そんなに弱気になっていたのか?」
瀬戸口は虚を衝かれたように表情を変えた。戦車学校に入ってきた時の壬生屋はぽっきりと折れる寸前だったのか? そうは見えなかったが……無理していたんだろうな。
「せっかくできた友達がいなくなるってつらいものですよ。何人も何人も。この隊が最後だなと思ってました。けど、皆さん、芝村さんや速水君や原さん……瀬戸口さん、わたくしを受け入れてくれました。とっても嬉しかったんです。ずっと一緒に戦えて、泣いたり笑ったり。この隊がわたくしの居場所なんです」
艶やかな髪が風になびいた。壬生屋は微笑んだまま、淡々と話した。
「本当は国を守るとかあんまり関係ないんです。ただわたくしは居場所を失いたくない。仲間を守りたい。だから戦うんです」
壬生屋は心地よさげに髪をかき上げた。今の壬生屋はすっかり肩の力が抜けている。すべてを知って心の整理がついたのだろうか。瀬戸口は手を伸ばし、壬生屋の髪に触れた。そのまま指に絡める。
「すまんな。おまえさんの髪、触るのが癖になりそうだ」
「……変な癖です。不謹慎」
壬生屋はとがめるように瀬戸口をにらみつけた。それでも抗わず、瀬戸口の好きにさせている。ははは、なんだかな――。瀬戸口は照れたように髪を指に絡め続けた。
「あの、瀬戸口さんの不思議ってなんですか?」
沈黙に耐えられなくなって壬生屋は尋ねた。瀬戸口はふっと息を吐くと天空を見上げた。
「今、ここでこうしていること。……この世をあてもなくさまよう幽霊にならずに済んだことかな。俺は運がよかったよ」
「幽霊だなんて……。変なたとえですね」
「うん。おまえさんのお陰でそうならずに済んだ。本当に運がよかったんだ」
瀬戸口は今度は無意識のうちに壬生屋のリボンを触っていた。壬生屋は怒ろうとしたが、瀬戸口の真剣な横顔を見て黙り込んだ。
どこをどう触ったか、きつく結んでいるはずの深紅のリボンがふわりと解け、風に舞った。
「あ……!」
壬生産はあわでて手を伸ばしてバランスを崩した。草履が屋上の床に落ちて、「きゃあ」と
悲鳴をあげ壬生屋は塔からすべり落ちた。「わっ」瀬戸口も壬生屋をかばうようにして落ちた。
着地し、尻餅をついた瀬戸口の上に壬生屋の体が重なった。
「もう……髪をいじるから!」
憤然として抗議する壬生屋を見て、瀬戸口はばつの悪そうな顔になって頭を掻いた。
「そ、そなたら……」
はっとして気づくと、舞が身を起こし怪訝な表情でこちらを見ていた。瀬戸口の膝の上に抱かれるようにして壬生屋は収まっている。舞の顔が耳たぶまで赤くなった。
「こ、こ、この非常時に! 何を遊んでおるのだっ……!」
「いや、それは。風に吹かれていたらリボンがな。リボン……」
瀬戸口はらしくもなく弁解を試みた。さすがの瀬戸口でも相当に恥ずかしかった。
「瀬戸口さんがリボンを……」壬生屋もしどろもどろに弁解する。
「なーにがリボンだ。言い訳するな! だいたいそなたらは……」
舞がなおも言い募ろうとすると笑い声が聞こえた。
「あはは。だめだよ、舞。今の僕たちが言っても説得力ないって」
厚志は寝そべったまま風に舞うリボンをキャッチすると、立ち上がって壬生屋に手渡した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
厚志はにこやかに、煩を染める壬生屋に挨拶を返した。
「そろそろ出撃だ。わたしはハンガーへ戻る……!」
舞は不機嫌に言い捨てると大股で昇降口へ向かった。ふ
と歩みを止めて振り返った。
「……別に羨ましくなんかないからな。こんなところでラ、ラ、ラブコメなぞしおって! 戦いはまだまだ続くのだからな。気を引き締めよ!」
舞は顔を赤らめたまま、ふたりにくってかかった。舞の言葉を受けて壬生屋は不敵に笑った。
「ええ、わかっています。芝村さん……?」
「なんだ?」
「口許にクリームがついていますよ」
指摘されて舞は乱暴に口許をぬぐった。
八月十日 一一〇〇 玖珂《くが》付近
善行の戦闘団は国道376号線より微弱な敵を蹴散らしながら玖珂方面に進出。有力な敵と交戦状態に入った。
国道、及び山陽自動車道の路面は、陸戦型中型幻獣によって大渋滞を起こしていた。
岩国の防衛ラインに至る進撃路は、人類側の破壊、爆破により教本の国道、県道に限定され陸を行く敵は足踏み状態となっていた。この国土、地形は明らかに人類に味方していた。
岩国守備軍から見たスキュラ、うみかぜゾンビの大量出現は、敵にとっては地形に影響されない空戦型幻獣のやむをえない突出という意味になる。
実際にスキュラ、ゾンビヘリは拍子抜けするほどまばらだった。
付近の山岳地帯に巧妙に配置された迫撃砲陣地はあらかじめ大量の弾薬を備蓄していたためになお健在で、豪雨のように膚弾を降らし続けていた。敵はこうした状況に対処する術を知らなかったが、それでも何かに憑かれたように岩国をめざしていた。戦闘団は各陣地の砲撃エリアの間隙を縫うように敵に襲いかかった。
「あらら、なんだかすごいことになっているわ!」
厚志はあきれたようにつぶやいた。玖珂駅付近の三叉路は各所から飛来する砲弾によって地獄のエリアと化していた。三叉路を抜け、2号線に差し掛かる辺りには矢吹大隊の戦車が展開を終え、一体、また一体と中型幻獣を狙い撃ちしていた。
5121小隊の三機は、反撃に転じようとする敵の機先を制して攻撃を加え、オトリとなって戦場の緩やかな勾配を駆け抜けていた。
「栄光号の調子はどう? 速水君」
後方の原から通信が入った。
そういえば……厚志はなお機体を動かしながらペダルの感触、加速の感触、そしてジャンプした時の感触を思い起こした。ちょうど路面に差し掛かったところだった。榴弾で手傷を負ったミノタウロスが立て続けに二体、舞の正確な射撃で爆放した。熱風を避けるように厚志は機体をジャンプさせていた。
「軽いです。けど、まだ馴れなくて。ふわふわしてるっていうか……」
厚志は敵の憎悪を背に感じながらやっとそれだけ言った。「あら」原の不満そうな声が聞こえた。その間にも舞は上半身をひねって射撃、また一体のミノタウロスを撃破していた。
「重量はむしろ重くなっているのよ。ふわふわねえ……」
原は冷やかすように言った。
「機体とまだ仲良くなってないんですよ。これから仲良くなります」
厚志はそう弁解した。
「Gは軽くなった。戦闘に関してだが、もっと長く戦っていたいと思わせる何かがある。わたしは厚志のような化け物ではないから疲労度については軽減されたと言えるな」
舞が口を挟むと、原はほほほと声をあげて笑った。
「そうだった。速水君は化け物だったわね」
「化け物はひどいな。けど、まだまだ奥があるって感じはします」
厚志はペダルを踏みながらフォローするように言った。整備員とパイロットは違う。パイロットはたとえ性能が劣っていても、乗り慣れた機体を好む。厚志はそう言おうとしたが、原はそんな当たり前のことは承知しているだろうと考えてやめた。
反転すると壬生屋の一番機が超硬度大太刀を一閃、一挙に三体のゴルゴーンに斬撃を加えて駆け抜けて行く光景が見えた。小型幻獣を巻き込んだ大爆発が起こって、その一帯は一瞬空白になる。
「壬生屋機ゴルゴーン三撃破!……未央ちゃん、ぜっこうーちょーだね」
東原の声が響いた。
「今の動きは新しいワザか? 三体いっきになんて見たことないぞ」
瀬戸口が軽い口調で壬生屋に尋ねた。
「ワザなんて、そんな大げさなものじゃないんです。ミノタウロスじゃなくて、柔らかなゴルゴーンとかキメラを狙えば一度の攻撃で十分かなって考えたんです。ミノタウロスは他の皆さんや戦車に任せでも大丈夫ですよね」
壬生屋は冷静に答えた。
確かに――一対一で装甲の硬いミノタウロスと白兵戦をやる余裕があるなら一撃でゴルゴーンを葬った方が合理的だ。しかも突進主体のミノタウロスと違って、重砲型のゴルゴーンの生体ミサイルは友軍の戦車・歩兵には厄介な存在だ。下関で壬生屋は歩兵として戦場に出た経験がある。その経験が生きているのだろう。
「こちら植村。その通りだ。生体ミサイルがこわいんだ」
植村中尉の戦車随伴歩兵の中隊は、分隊、小隊ごとに戦車の護衛、そして小型幻獣の掃討にあたっていた。ただし歩兵の宿命として、陣地や遮蔽物に拠《よ》らねばやられる。遊撃戦を続ける戦闘団では最も苦労する兵種だ。
「ええ、わたくし、これから柔らかい敵専門に狙ってみます」
言いながら壬生屋の一番機は敵の生体ミサイルを無人の地域に誘導したかと思うと、すぐに逆襲に転じて、再び同じ三体斬りをやってのけた。
「矢吹だ。提案感謝する。我々は三番機と協力してミノタウロスを引き受ける」
各所に展開した七四式戦車の一〇五ミリ砲がHEAT弾を次々と発射した。巧妙な十字砲火にさらされ、密集していたミノタウロスが櫛の歯が欠けるように消滅してゆく。ワンテンポずらして再び三番機がミノタウロスを攻撃する。
戦略的には収穫は少なかったが、防府方面での遊撃戦で戦闘団は連携に関しては十分にシンクロナイズされていた。
「この調子だと岩国までの2号線を制圧できるかもしれぬな。これはやつらには痛いぞ」
舞が再び口を開いた。国道2号線は玖珂から十キロ北上して、五キロ東へ走ると岩国の市街に出る。幻獣側にとっては主要な進撃路のひとつだ。
不意に低い男の声がビニールシートのにおいのするコックピットにこだました。
「こちら先遣隊。田原方面に進出している。2号線はなお大量の幻獣が移動中だ。……芝村、そう簡単にはいかないぞ」
来須の声だった。来須、若宮、そして石津の三人は深夜のうちに山口を出発して、山岳地帯を踏破していた。目的は岩国への進入路の偵察である。彼らは2号線を横目に、稜線沿いに敵を探っていた。
「御庄《みしょう》・新岩国駅近辺はどうかね?」
矢吹が尋ねると、今度は若宮が無線に出た。
「ここも友軍の砲撃を受けていますが、平地があるんで幻獣溜まりとでも言うのか、敵さんの巣のようになっていますな。逆に言えば、ここを手に入れ策源地とすれば今後の戦いは有利になるってわけです」
若宮は陽気に言ってのけた。しかし現在地から2号線沿いに十キロ以上。常識で考えれば、強引に突破しようとすれば戦闘団の戦力では相当な被害を受けるだろう。
しかし、たぶん……と厚志は口の端に笑みを浮かべた。
敵はあわてふためくはずだ。戦闘の間、幻獣の声が聞こえたような気がした。――悪しきもの来たれり。悪しき夢である幻獣を食らう悪しきもの。災禍を狩る災禍。「いけるよ」操縦席で厚志は知らずつぶやいていた。「いけるな」舞も即座に反応した。
「あー、こちら芝村だ。そのたわけた案に乗ってみよう。具体的には岩国西部戦区の砲撃を一時間2号線に集中、さらに空爆も要請する。しかる後に一挙に御庄・新岩国駅を占領する。善行よ、荒波と話をつけてくれぬか?」
一見強引とも思える作戦を提案するにはそれなりの理屈が必要になる。火力の集中、そして突破だ。善行は沈黙を守った。
「一番機・壬生屋です。あたくしが斬り込み役を務めます。昔からやってみたかったんです。時代劇の正義の味方みたいに敵を倒しながら悪代官に迫る役。二番機と三番機のフォローがあれば十キロなんてあっという間ですわ」
壬生屋はそう言うと、くすくすと笑った。これ、壬生屋さんのセリフか? 壬生屋さんの冗談って本気だからこわいよな――厚志も笑みを浮かべたまま「それ、いいですね」と言った。
「壬生屋さん、敵の心わかってるから。説得力ありますよ。敵が身構える前にやっつけるんです。僕はスピードと気迫っていうんですか、そんな問題だと思うけどなあ」
「うーん、けど十キロだぜ」
それまで黙っていた滝川がしぶしぶと口を開いた。
「あはは。けど傷ついて弱って、怯えた敵の間を駆け抜けるんだよ? 僕は舞と壬生屋さんの意見に賛成――」
そう言ってから厚志はいつになく多弁な自分に気がついた。破壊欲、殺戮欲のようなものがふつふっとわき上がって、厚志は自分で自分に困惑して口をつぐんだ。
「こちら矢吹だ。突破隊形はどうする?」
矢吹大隊からやっと反応があった。舞と壬生屋、厚志の放胆とも言える放胆に面食らっているようだ。
「一番機と三番機が斬り込み役となる。戦線正面は狭いが、戦車隊は可能な限り楔形の突撃陣形を維持、真ん中に輸送トラック、補給車等を。二番機は最後尾にあって戦車一個小隊とともに後方を警戒する。……これでどうだ?」
舞の声は氷のように冷静だった。しばらくして矢吹から返事があった。
「わかった。ただし相応の犠牲は覚悟せねばな」
「……けど」言いかけて厚志はあわでて口を押さえた。
ふっと笑みを洩らして舞が代わった。
「あっという間だ。おそらく、拍子抜けするほど、な。……インフルエンザの注射をするようなものだ。……くっ」
舞、自分の冗談で笑っているよ……。壬生屋のツポにも入ったのか、くすくすと忍び笑いが聞こえてきた。厚志もしかたなく声に出して笑った。
「まったく、今やおまえさんたちも立派な戦争ボーイズ及ギャルズだな。今、データを分析していたところだ。防府近辺で戦っていた敵より脆いな。特に中型幻獣は榴弾の雨をくぐり、味方の爆発に傷つき、かなり弱っている。一例を挙げれば、ジャイアントアサルトの一連射で爆発するミノタウロスなんて初めてだよ。複座型の撃破分だがな。しかし芝村のジョークはどう笑っていいかわからんな」
瀬戸口の声が聞こえた。敵は物理的にも脆くなり、怯えと不安に駆られている。最後のくだりは厚志も密かに苦笑した。
「わたくし、すごく面白かったですけど」
瀬戸口の声にほっとしたように壬生屋が言った。
「ははは。壬生屋の大好きな冷やしこぶ茶のようなジョークだな。ところで壬生屋、俺と約束したこと覚えでいるか?」
瀬戸口は穏やかな声で尋ねた。「ええ」壬生屋は即座に返事をした。
「あと二時間ぐらいは大丈夫です。時間が経ったら機を降りて休憩します。わたくし、無理して迷惑かけませんから」
「善行です。たった今、GOサインが出ました。三十分後に空爆及び砲撃がはじまります。各自戦闘準備をお願いします」
善行からの通信が聞こえてきたのはまもなくのことだった。
八月十日 一一四五 田原付近山中
「なんてこった。本当にやりやがった……!」
若宮が双眼鏡を手ににやりと笑った。
上空に爆音が響いたかと思うと、戦闘機、戦闘爆撃機が飛来し、2号線沿いに移動している敵の頭上にレーザー誘導式のクラスター爆弾を発射、大量の対戦車用子弾や焼夷弾を降らせ、陸軍からは天然記念物と陰口をたたかれる貴重な地上攻撃機が姿を現し、三〇ミリ機関砲で地上を掃射してまわった。
さらにこれも今や希少種となった攻撃ヘリが三十分もの間、路上を掃射した。前後して玖珂から御庄までのあらゆる路上に砲弾が降り注いだ。
空耳か? 広島の方角から四〇センチ砲弾らしきぶっそうな飛宋音が聞こえ、はた迷惑にも路面他周囲の構造物を根こそぎ破壊した。約一時間続いた砲撃の聞、「先遣隊」は山の稜線を移動し続け、砲撃の様子を観察し続けた。
気前がよい、どころではなかった。熊本戦の時代、若宮はついぞ地上攻撃幾など見たことがなかった。攻撃ヘリにしろ、自衛軍はずいぶん出し惜しみしたものだ。
「この攻撃で病院がいくつ建てられるんだろうな、石津。……おっと、すまん」
石津ににらまれて、若宮は謝った。けちな自衛軍の滅多にお目にかかれぬ爆撃、砲撃に知らず酔っていたようだ、と自らを戒めた。
「高所に移動しよう。稜線に逃げ込んでくる敵もいるはずだ」
来須がぼそりと言った。
敵の陸戦型幻獣は、勾配の急な斜面を登ることを極端に嫌う。
これは熊本・肥後平野の田園地帯で主に戦闘していた兵にはなかなか気づけなかったことだ。
少数の山岳戦闘の経験のある兵らがその経験を上層部に具申したようだ。結果として、軍は山に囲まれた岩国に防衛ラインを築くこととなった。そう若宮は考えていた。
「ところで、おまえの目的はなんなんだ?」
若宮は石津をじっと見つめ、昨晩のことを思い浮かべた。
来須とふたりでオフロードバイクを手配し、山口市役所前から出発しようとしていた。照明を点灯したとたん、テンダーFOXを着込んだ石津が行く手を塞いだ。ヒマラヤ登山隊か、と思えるほど巨大なバックパックを背負っていた。
そして当然のように来須のバイクのリアシートに収まった。「荷物室二分の一に減らせ。五分だけ待つ」と来須に言われて、石津は折から広場を通りかかった加藤の足下にパックを置くと再びシートに乗った。「ちょ、ちょっと、石津さん、どこ行くんや?」加藤の声はパイクのエンジン音にかき消され、聞こえなくなった。
「御庄に病院……があるの。機材……が無事なら使える」
「独断でやることじゃないだろう」
下関戦で活躍できたのが嬉しかったのか、近頃の石津は突撃衛生兵に成りきっている。規律を考えれば褒められたことではなく、若宮は苦々しげにそう言った。
来須は相変わらず無言だった。
「来須、何も言えんのか?」
若宮が水を向けると、来須は無表情にぼそりと言った。
「俺たちに十分ついて来ている。問題ないだろう」
「やれやれ。石津のことになるとおまえはとたんに甘くなるな」
来須と石津の不思議な師弟関係は若宮とて十分に承知していた。春から夏にかけ、石津の体から生傷が絶えることはなかった二、三度、山地踏破訓練に若宮もつき会ったことがあるが、来須は冷酷な教官だった。
格闘衝でも決して手加減せず、それこそ自衛軍の並の訓練をはるかに超えたものだった。幻獣を相手に中立的な衛生兵など存在しない。前線に出る以上、衛生兵も戦闘員であり、来須は石津に戦闘技術を徹底して仕込んだ。そんな経緯を知っているだけに若宮はそれ以上、追及するのを止めた。
砲撃がピタリと止んだ。
濛々と立ち込める硝煙が風に流され、路上には体液を撒き散らしながらのたうち回る幻獣の姿があった。一時間前の密集して東をめざしていた敵の面影はすでになかった。閑散とした路面に横たわるミノタウロスが起きあがろうとして果たせず、その輪郭はしだいにぼやけて消滅していった。
「聞こえる……わ。幻獣たちのこえ」
石津が幻獣の姿を見下ろしてつぶやいた。
「悪しきもの……来たれり。大いなる災禍、来たれり」
八月十日 一二三〇 岩国刑務所・地下通路
「災禍を狩る災禍、来たれり」
純白の古風なワンピースを着た少女が目を閉じて詠唱した。
刑務所地下の通路の待避部屋だった。広大な空間には中隊規模の兵が集まっていた。数人の兵が血を流して倒れている。
近江貴子はカーミラの姿を仰ぎ見た。なぜカーミラは自分を救出してくれたのだろう? 自分にどんな利用価値があるのか? カーミラと目を合わせるのはこわかった。下手をすると脳内の記憶という記憶を破壊され廃人とされる。その後、記憶は徐々に回復したが、憲兵隊の前で幼児に戻されていた記憶は、なぜか残されていた。忌まわしい過去の恥部をカーミラは喉元にナイフを突きつけるように自分に突きつけている。
近江はカーミラをひたすらに恐れた。
しかしカーミラは近江の存在など忘れたかのように厳かな表情で語りはじめた。
「恐怖の運び手が追っている。わたしたちはその前に動かなければならないわ。十一師団の戦区に崩壊の兆しが顕れているの。この戦線を突破でされば、聖なる戦は終わる。破壊し、殺戮し、人類の血をもって我らの道を清めましょう。すべてはシーナ様のために」
カーミラの静かな声が冷え冷えとした地下広場に響き渡った。さまざまな種類のウオードレスを着た幻獣共生派が一斉に雄叫びをあげた。
「さあ行きなさい」
カーミラが両手を高々と挙げると、共生派の兵らは一斉に待避部屋を後にした。
残された近江は茫然として遠ざかる足音に耳を澄ましていた。幻獣共生派は熊本でも見たことがあるが、これから何をしまうというのか?
逃げるか? しかしどこへ?
近江が出入り口の方角に目を凝らしていると、「どこへ行くの?」と声がかかった。
カーミラが笑みを浮かべて近江に近づいた。その笑みは天使のように無垢な、邪気を感じさせないものだった。
「厚生省検疫課。通称ラボ。協賛企業を含めれば三万人を超える大所帯。捕まればあなたは裏切り者として生体実験の材料にされるだけ。この世界の者たちは人の体を弄ぶことが好きだから。わたしは――」
カーミラは近江の顔をしげしげとのぞきこんだ。近江は怯えて目を背けた。
「タカコの心の闇が好き。この世界の人々の邪念が興味深いの」
「この世界……? おまえたちも人間だろう」
近江は目を合わせぬようにして尋ねた。深閑とした広間に笑い声が響き渡った。
「そうね。わたしもこの国の言葉で言えば人間。今、わたしが命令した者たちも人間。人間が作り出した第五世代も人間。あなたたちが幻獣と呼んでいる者たちも人間よ」
カーミラは歌うように近江に向かって語りかけた。
「わけがわからぬことを言うな!」
「わからないことを言えと言ったのはあなたでしょう? タカコ、わたしと一緒に来なさい。もう悪戯ほしないから」
顎にカーミラの手の感触があった。強い力で顔を上げさせられた。近江の怯えた瞳はカーミラの吸い込まれるように青い瞳に捕らえられた。嫌だ、やめて……!
「大丈夫。悪いことはしないわ」
「本当に……?」
近江は瞬きを繰り返した。嘘だ! 精神状態が子供のそれに近くなっている。カーミラはくすりと少女らしい笑いを洩らした。
「それ、心外。わたし、何もしていないわ。恐怖は人を無力な子供に戻す。わたしはカーミラ。スキカを束ねる者のひとり。タカコ、あなたとっても魅力的よ。わたしのそばにいて欲しいの」
「……わ、わかった」
自分はこれからどうなるんだろう? 近江は暗澹とした気分でうなずいていた。
八月十日 一二五〇 国道2号線玖珂・御庄間
「参ります」
砲撃終了の合図とともに壬生屋の一番機は路面を走った。
路上を覆っていた煙は風に流され、それまで幻獣で満ちていた路面には生き残った敵がまばらに傷ついた体を引きずっているだけだった。視界に一体のミノタウロスを捉えた。体液を噴き上げ、全身にはぐずぐずと埋み火のように熱が宿っている。
突進。超硬度大太刀を横腹に突き通し、すぐに離脱。次。前方三十メートルに五体のミノタウロス、ゴルゴーンが同じように傷ついた体を重たげに動かしている。後方で爆発。敵は一斉にこちらに回頭するが、壬生屋の大太刀はミノタウロスの腹を突き、ゴルゴーンの背を袈裟掛けに断ち割っていた。残りの敵は複座型と戦車隊が処理するだろう。
一番機は通り魔のように次の敵を求めて離脱した。背後で爆発とジャイアントアサルトの機関砲の音、そして一〇五ミリ戦車砲の砲声がこだました。
皮膚にピリピリと敵の恐怖、怯えが伝わってくる。これだ。これこそわたくしの求めていた戦いだ……。悪しき夢よ、我が前に滅びるがよい。壬生屋は次の敵に強烈な視線を浴びせたまま微笑んだ。
獲物はミノタウロス。全身から怯えを発して、背を向けた。「だめです。許しません」壬生屋はくすりと笑うと、敵を唐竹割りに斬り下げた。
「未央ちゃん……?」
東原の心配そうな声が聞こえた。
「あのね、百メートルさきに二十のミノタウロスとゴルゴーンがいるの。けど、なんだかへんなの。こえがきこえるよ」
「ええ、見えています。道路を降りて山の斜面に登ろうとしているんですけれど、ふふ、足が滑って転んでいます。逃げられませんね」
一番機はそのまま放胆に敵の真ん中に降り立った。一体一撃。三体のミノタウロス、ゴルゴーンが超硬度大太刀に貫かれ、地に伏した。すばやく離脱。爆発が起こって、敵は散開して斜面をなおも登ろうと試みる。
容赦なし。大太刀は敵の背を刺し、斬り裂いてゆく。「後は任せます」短く言うと、壬生屋は新たな敵を探し求めた。
背中に呪詛の声を聞いた。望むところ。おまえたちの呪詛などわたくしにとっては冬間近の秋の虫の弱々しい鳴き声にしか聞こえない。わたくしは未来を奪われた二百三十万人の呪姐を背負っている。
「あはは。間抜けだな。また滑った! 感じるよ、壬生屋さん。敵は心が折れている!」
厚志の笑い声がコックピットに響いた。ええ、その通りです、速水さん。笑いましょう。敵に恐怖をたたき込んでやりましょう。
ジャイアントアサルトと戦車砲が旺盛に耳にこだまする。敵撃破のアナウンスが追いつかず、
東原は「敵、全滅」とだけアナウンスした。
「壬生屋、どうだ?」
瀬戸口から声がかかった。
「今のところ戦争になっていませんから。疲労は少ないです」
「うん。こわいぐらい声に張りがあるな。俺も感じるよ。歌が聴こえているような。嘆きと絶望の歌曲だ」
「ふむ、よくわからんが。それぞれ感じ方が違うものなのか?」
舞の声が割り込んできた。
「それはそうさ。状況として言い直せば、敵はパニックに陥って総崩れになっている。つけ込めるだけつけ込んでやろう」
「ふむ」舞の満足げな声。
「こんな光景ははじめてだ。君たちは何者なんだ?」
不意に矢吹少佐から通信が入った。何者と言われても……。壬生屋は新たな敵集団に突進しながら考えた。
「5121小隊だ」舞が代わりにあっさりと言ってのけた。
これは楽しいや――。
厚志は新型機の微細《びさい》な動きを楽しみながら、撃破されてゆく敵を見やった。すでに敵は反撃に移るかどうかにすらためらいを持っている。
舞の正確無比な射撃は、生き残った中型幻獣を作業のように仕留め続けている。芝村舞の下手なたとえ――インフルエンザの注射ほどの痛みもなく、戦闘団は一時間ほどで御庄へと追出していた。厚志の視認によるだけでも、二百体を超える中型幻獣が撃破されていた。友軍の被害は、道路わきに避難していた敵による反撃で、三両の戦車が大破。幸いなことに死者はなく、乗員はすべて救出されていた。
御庄・新岩国駅周辺には少数のビルと民家が建ち並んでいた。戦闘団は堂々とした楔状の陣形をとって追いつめられた敵と交戦状態に入っていた。
「駅構内に中型幻獣三十、小型幻獣も残っている」
来須から通信が入った。漆黒の巨人が視界を横切ったかと思うと、壬生屋機は線路から駅へと進入した。
「滝川、支援射撃頼む。ここのやつらは抵抗する気だ」
舞が通信を送ると、「ラジャ!」と返事があった。ほどなく構内から炎が噴き上がった。厚志は加速すると壬生屋機の後を追って構内へと踏み込んだ。
駅舎の屋根を飛び越え離脱する壬生屋機を追って、敵は生体ミサイルの射撃体勢に入った。
その瞬間を利用して三番機は静止した敵の真っ直中に躍り込んだ。
「よし」
舞がシートを蹴って合図を送ると、三番機はくん、と腰を落とした。二十四発の有線式ジヤベリンミサイルはすべての敵を捉え、駅はオレンジ色の業火に包まれた。ジャンプして離脱。
そのタイミングをはかっていたように、二番機のジャイアントアサルトが生き残った敵に二〇ミリ機関砲弾をたたき込んだ。
爆発。そして爆発。七四式戦車の一〇五ミリ砲がとどめを刺すように咆哮した。
「敵影なし。引き続き小型幻獣の掃肘を」
瀬戸口の声が聞こえ、三体の巨人と戦闘車両はしらみつぶしに小型幻獣を狩った。十五分後、矢吹少佐から全軍に通信が流れた。
「作戦終了。関係各隊はただちに拠点構築に移ってくれ」
……こうして御庄・新岩国駅周辺は善行戦闘団の新たな策源地となったのである。
八月十日 一四〇〇 御庄。新岩国駅近辺
新たに設営中の整備テント前に巨人たちが戻ってきた。
原は三番機を見上げて考え込んでいた。この試作機は期待通りの働きを示した。あれだけの動きを示したにも拘わらず、脚部にも目立った損傷はない。メンテナンスは士魂号に比べれば三割は楽になっているだろう。それでも――。
舞と厚志がコックピットから降り立った。原はにこやかにふたりを出迎えた。
「お疲れさま。どうなるかと思ったけど、問題はなさそうね」
厚志は笑みを浮かべて「最高ですよ」と言った。そしでデータとなる媒体を手渡した。舞は変わらず不機嫌な表情のままだ。
「火器管制システムは士魂号からの流用であろう」
舞の言葉に原は「ええ」とうなずいた。
「新しい火器の開発が遅れているの。システム自体は完成しているんだけどね」
「現行の武装でも構わんと思うが」舞は首を傾げた。
「士魂号は試行錯誤を繰り返して作り上げた初代の人型戦車だから、機体も武装も生産とメンテナンスに手間がかかり過ぎなのね。機体はともかくとして、武装は工芸品ではなく工業製品として生産の効率化をはかろうとしているの」
「ふむ」
工芸品は工業製品より上等なものに思えるがひとつひとつの作品に癖があり、品質も一定していない。舞はうなずくと厚志をうながして歩み去った。
原は黙ってふたりの後ろ姿を見送った。不意に視線を感じた。
「……壬生屋さんは?」
「戦闘団司令部で休んでいますよ。司令部なら安全だろうから」
瀬戸口はそう言って微笑んだ。この一帯を制圧したとはいえ、付近にはまだ小型幻獣が潜んでいる危険があった。こちらの捜索、掃討は植村中隊が受け持っている。
「言いたいことがあるならどうぞ」
原は真顔になって瀬戸口に言った。瀬戸口は言葉を選ぶようにしばらく考え込んだ。
「……速水の様子がおかしかった。それだけです」
予想通りのことを言われた。おかしいと言えば壬生屋もおかしかったが、これは彼女の個人的な事情によるものだろう。しかし厚志は明らかにおかしかった。戦闘そのものを遊技のように楽しんでいた。
「この子のせいだと言うの?」
原は栄光号を再び見上げた。瀬戸口は苦笑して首を振った。
「それは原さんの方が詳しいでしょう。巨人に意識がある限り、パイロットとの相性もあるはずです。俺には従来機の方が安定しているように思えますがね。あいつの狂気をほどよく受け止めていたような気がする。おっと……これ以上は危険でしたね」
人型戦車が機体の制御に人間の脳を使っていることは、今では有名無実化しているが国際条約違反であり、最高機密だった。いわゆるブラックボックスについて語ることは最大の禁忌となっていた。
そして人型戦車とは、パイロットの意識と巨人の生体脳の意識が同調してはじめて動くものだった。そこに原たちが開発した生体兵器の複雑な事情があった。
「……まだ断定はできないわ。もう少し様子を見るつもりよ」
厚志のあのはしゃぎようは普通ではなかったが、それは本土決戦の異常な環境によるものかもしれなかったし、本人が何らかの事情で精神のバランスを崩していることから生じたことかもしれない。一概に機体が原因と断定することはできない、と原は自らに言い聞かせた。
「実戦投入は早かったんじゃないですかね。速水はモルモットではありませんよ。戦闘データは十分取ったでしょう」
そう言うと瀬戸口はきびすを返して、司令部のある新岩国ホテルの方角に歩み去った。
「……そういうことかあ」
原の心臓が跳ね上がった。舞とともに去ったはずの厚志が、瓦礫の陰から顔を出した。厚志は身軽に障害物を飛び越えると、原の前に立った。その顔は微笑んでいる。
「速水君」
「様子が変だったんで。原さん、緊張していたし。けど、人型戦車ってそういうものだから。モルモットと言われるのは嫌だけど、しょうがないですよ」
厚志は怒ってはいないようだ。原は黙って言葉の続きを待った。
「なんて言ったらいいんだろう? 滝川も言っていたけど人型戦車って一機一機、違いますよね。今度の機体は敵を殺すことが好きですね」
「殺すことが好き?」原は眉をひそめた。
しかし厚志は穏やかな表情で微笑んでいる。
「ええ。戦闘中、たまに信じられない動きをしてくれます。自分の操縦でこれだけ動いてくれる、と思うと最高の機体ですよ。ただ、なんだかテンション高くなっちゃいますね。士魂号の頃は機体の個性なんて意識しなかったけど、今度のは個性が強いというか、攻撃的というか、
そんなものが伝わってくるんです」
淡々とした厚志の口調に、原は腕組みをして考え込んでしまった。
「……データ収集はこれで終わり。次の出撃は従来機にするわ」
「えっ、どうしてですか? 僕はかなり気に入っているんですよ。原さんに、気にしないでと言おうと思って声をかけたんです」
「個性的で攻撃的ということは不安定だということ。従来機でも速水君の操離技術なら戦果は変わらないはずよ」
「けど気に入ってるんですよ。操縦、すごく楽しいし」
「芝村さんと話し合ってみて。最終的には司令の判断ということにしましょう。わたしたちはどちらでも出撃できるようにしておく。さ、話はこれで終わり」
原は珍しく結論を先延ばしにするようなことを言って、困惑する厚志に背を向けた。
ホテルの客室の前には植村中隊の兵がふたり護衛についていた。
瀬戸口の姿を認めると敬礼をして、ドアを開けてくれた。なんだか大げさだなと思いながらも中に入ると、ウォードレスを脱ぎ胴着姿に戻った壬生屋がベッドに横たわっていた。
「瀬戸口さん――」
壬生屋は微笑むと体を起こした。
「ずいぶん警戒厳重だな。部屋も最高だし」
瀬戸口はあきれて広々としたスイートルームを見渡した。従業員が避難して一週間というところか、少し挨っぽい感じはしたが。
「下関で一緒になった人たちみたいです。わたくしのこと覚えていたらしくて。大丈夫ですからって言ったんですけど」
「そうなのか?」壬生屋が歩兵として石津と市街に出たことは知っている。
「ええ、このホテルは植村中隊が警備するみたいです」
「具合はどうだ?」
瀬戸口が尋ねると、「まだまだ大丈夫です」と壬生屋は答えた。
「戦闘時間も短かったし、戦闘らしい戦闘もなかったですし。あんなに弱い敵ってはじめて。幻獣にも人に似たところがあるんですね」
「恐怖とか怯えとか不安とか、負の感情に関してはそうなんだろうな。ただし、ほとんどは闘争本能だけがプログラムされているようなやつらさ」
「ほとんど……?」
壬生屋は怪訝な表情になった。瀬戸口は肩をすくめて微笑んだ。
「なんでもない。ゆっくり休んでくれ」
八月十日 一四一〇 岩国・第十一師団戦区
夏空に炎の柱が噴き上がり、地面が陥没した。
前線の将兵たちはなおも殷々と空にこだまする爆発音に耳を疑った。ほどなく西岩国駅の陣地付近からも轟音とともに炎が噴き上がった。
何十人、何百人を巻き込んでいるだろうか、兵たちが考えるまもなく岩国から錦見にかけての十一師団の戦区数十ヵ所で大爆発が起こった。
道路はずたずたに寸断され、ビル、住宅は倒壊した。師団にとってそれ以上に深刻だったのは、この地域に巡らされた地下通路が壊滅したことだった。運良く助け出された兵士は、爆薬を背負った兵と地下通路ですれ違ったという。
戦線らしい戦線は存在していなかったため、地下通路では何者と出会っても不思議ではなかった。相手は誰何《すいか》されることなく遠ざかっていった。その数分後、西岩国駅の半分を倒壊させる大爆発が起こった。近辺を守っていた一個中隊がほぼ全滅した。その兵も瓦礫に半ば埋もれているところを救出された。
連絡網は断たれ、大量の犠牲者を出した師団に、小型幻獣の大群が襲いかかった。最悪なことに師団司令部も壊滅していた。師団長及びスタッフは戦死、各連隊司令部も沈黙したままのところが少なくなかった。
前線の各部隊は、指揮系統を破壊されたまま、孤立した戦いを強いられることとなった。岩田参謀の作り上げた敢密なワンダーランドは幻獣共生派の自爆というシンプルでいて効果的な攻撃によって危機に陥ったのである。
「……こちら養護施設陣地。大量の敵がなだれ込んできます。ミノタウロス、ゴルゴーンの姿を確認。支え切れません!」
十一師団のとある中隊長の声が地下司令部に響き渡った。
壁面の地下通路綱を表示したパネルの三分の一の通路が黒一色で満たされた。岩田参謀はなおも口許に笑みを浮かべていたが、その指はせわしなげにコンソールの縁をたたいていた。黒一色と化した通路網の上は敵を表す赤い光点がピッシリと表示されていた。
「フフフ、十一師団各隊は撤収。室ノ木から山手町の線に新たな防衛ラインを築いてください。十四師団の一部が増援として向かいます」
十一師団の回線を開けて、岩田参謀は指示を下した。しかし赤い光点はウィルスのように増殖し、刻々と岩国駅の方角へ向けてアメーバのように赤い触手を伸ばしていた。
「十一師団、挽耗三十パーセントを超えました! 爆発が起こってから二十七の陣地が沈黙しています!」
前田の悲鳴に近い報告に荒波は腕組みしたまま「諸君、落ち着け」と言った。
「岩田も何をオタオタしている? こんなことは君にとって予想範囲内のことだろう。そのために十四師団の担当戦域は負担は軽くしである。その前に、砲撃の座標を十一師団の旧戦域に修正。空軍さんにももうひと働きをしてもらおう」
荒波はにやりと笑って岩田参謀を見た。緻密な頭脳は不測の事態に弱い。まるでオモチャを壊されたような顔をしている岩田参謀が荒波にはおかしかった。
「幻獣共生派の自爆攻撃と考えてまちがいはないだろう。しかしな、逆に考えればこれが共生派の限界だ。これ以上の自爆攻撃は起こらんさ」
荒波の言葉に、岩田参謀は顔を上げた。
「司令官の言うことは根拠がないですゥゥゥ!」
「馬鹿だな。根拠ならあるぞ。自爆攻撃をするなら、なぜ、最も圧力の強い第二師団及び二十一旅団の戦区にしないのか? 敵に余裕があれば今頃はこちらも吹き飛んでいるさ。ま、後は勘だな」
そう言うと荒波は高笑いを響かせた。そしてふと思いついたように言葉を継いだ。
「そう言えば善行が御庄に進出している。十キロに渡って敵を蹴散らし、三百を超える中型幻獣を葬っている。戦闘団にもこの方面の手当をしてもらおう。どうだ?」
「それ、ナイスなアイデアあります!」
岩田参謀は救われたように叫んだ。
「はっはっは。君はどこの国の人間かね? 旧戦線にまず空爆、砲撃の集中、そして戦闘団に側面から敵をかき回してもらう。その頃には頑強な新防衛線が出来上がっているさ。あと……」
荒波は司令室の隅にあるブースに目をやった。その一画だけひときわ高いパーティションで隠されている。
「前線を巡回する憲兵隊に警戒を徹底するようにと。六時間前に二個中隊が岩国駅に到着したと言っていたな?」
荒波が呼びかけると、ひとりの憲兵少佐と灰色の髪の少年が立ち上がった。
「申し訳ありません。十一師団の戦区は警戒が手薄だったようです。基地と隣接する戦区では二十八名の共生派を拘束しているのですが」
憲兵少佐は冷や汗をぬぐいつつ荒波に謝罪した。ほぼ連隊規模の選び抜かれた憲兵が戦場を巡回し、もうひとつの戦争を行っていた。
彼らはわずかな隙をも見逃さず、共生派を捕縛するプロ中のプロだった。現に、二十八名全員を自爆される前に強力なスタンガンを使って逮捕していた。
「高速した連中は何者かね?」
荒波の問いに憲兵少佐と少年は視線を交わした。
「尋問の結果、十六名が第五世代と、それに率いられた普通の共生派と判明しました。第五世代の指導者が率いる組織は壊滅したと考えていいでしょう。残る十二名なんですが、どうやら別系統の組織の構成員ですね。僕の追っている組織の構成員でしょう」
灰色の髪の少年は少佐とは対照的に、口許に微笑さえ浮かべていた。荒波はもうひとつの戦争の陰惨な面を思い浮かべた。憲兵隊にはラボとは別系統の独立した研究機関があり、捕らえられた共生派は生体実験的な「尋問」を受ける。岩国基地に赴任してから、荒波は「相互理解と協力関係」を築くという名目で憲兵隊司令部からの招待を受け、研究所で研究員が共生派の脳から情報を引き出している場面を目撃したことがある。思い出したくもない光景だったが、その脳は妙な言葉をしゃべり散らし、研究員がその解読に躍起になっていたことを覚えている。
「君の迫っている組織とは?」荒波は気を取り直して質問した。
「シーナの子、というのです。どうやらシーナというのは女神のようですね」
「ふうむ。カルト化が進んでいる共生派の一派かな?」
幻獣共生派にもさまざまな系統があることは荒波も知っている。主に岩国基地に赴任してから心得として得た知識だ。
「指導者の名はカーミラ。思念波によって人を操り、自在に人の記憶を操作できる、とまではわかっていますが、その姿を見た者は残念ながらまだいません。十一師団の戦区における自爆攻撃はカーミラのしわざでしょう。そうそう、気になる情報がひとつ。近江貴子という将校が山口で善行戦闘団司令部に爆弾を仕掛けたんですが、操作を受けた可能性があります。研究所に護送する前に脱走されましたがね。きれいなお姉さん、に頼まれたそうです」
少年は苦笑して言った。
「きれいなお姉さん、ねえ。君たちと話していると現実から遊離しそうでいかんな。それでその……カーミラとやらは君たちに任せてよいのかな?」
荒波も苦笑した。一刻も早く彼らとは別の戦争に戻りたかった。
「ええ。広島の研究所から今も情報が届いています。目星がついたら動きますよ」
そう請け合うと少年は少佐をうながし、再びパーティションの中に姿を消した。
「善行大佐と連絡が取れました」
連絡担当の将校の声が聞こえて、荒波はほっとした顔でうなずいた。それでは自分たちの戦争に戻るとしよう――。
八月十日 一五二〇 御庄・新岩国駅近辺
わずか一時間ほどの休息だった。
照りつける夏の光の下、5121小隊の面々はあわただしく出撃準備に入った。
指示を下す原の前を、風紀委員の腕章をつけたままの新井木が、中村が機体の最終点検を行い、ヨーコがクレーンを操作して各機に弾薬を補給する。田代と茜も駆り出されてこちらはノズルを手にたんばく燃料を注入していた。
パイロットで最も早く駆けつけたのは厚志と舞だった。原は一瞬、複雑な表情を浮かべたが、ふたりに「どうする?」と話しかけた。
舞は不機嫌な顔で原をにらみつけた。
「どうするもこうするもないであろう。従来機はトレーラーに収まったままではないか。今は栄光号で出撃するしかあるまい」
「ほほほ。おっしゃる通りよ」何を弱気な、と患いながら原は開き直った。
「心配ないですよ。機体に欠陥があるわけじゃないから。むしろその反対」
厚意は点検作業を行っている森と狩谷を見て言った。
「機体に欠陥? 心外だね。制御、駆動系その他、あらゆる点で士魂号に勝っているよ。何が問題なんだい?」
狩谷が皮肉に笑って言った。
「原さん、どうかされたんですか? この機体、いいですよ。人工筋肉もバージョンアップされているし。元々の構造が……」
口を開きかけた森を狩谷が目顔で制止した。おぞましいと言えば、これほどおぞましい生体兵器もないだろう。士魂号の後継機と言いながらも、製造工程は大きく異なる。
「構造がどうした?」
舞は不機嫌を通り施して険しい表情を浮かべた。
「ここで話すことじゃないでしょ。5121以外の人もいるし」
原は警備の兵を見て言った。占領したとはいえ、未だに敵がすべて駆逐されたわけではない。 整備班にも植村中隊から警備の兵が派遣されていた。
「一番機、点検終了だよ――」
新井木が元気よく報告した。傍らで中村がうんうんとうなずいている。
「フフフ、二番機も完了です」臨時に栄光号の面倒を見ている狩谷に代わって、二番機の点検を引き受けた岩田も報告する。
「三番機も、問題ないな」狩谷の言葉に森も「はい」と同意する。
「たんばく燃料、注入完了……くそ、なんで僕がこんな!」
茜が文句を言おうとしたところに、田代がホースのノズルを向けた。茜の顔に乳白色の液体が俗びせられる。
「おっと、失敗。へっへっへ、整備の仕事も久しぶりなんでな」
「わざとだ! 絶対わざとだ! くそ、ネアンデルタール女め! 恨んでやる恨んでやる」
茜は澄ました顔でノズルを収める田代にくってかかった。しかし悲しいかな、胸ぐらを掴むというわけにはいかない。吠えるばかりである。
「田代さん。あなたも退学・無職・ホームレス……になりたい?」
原に脅され、田代は反発するように「へっ」と鼻で笑った。
「まあまあ、原さんも抑えて。何子供みたいに喧嘩してるんだよ? 仲がいいよな、おまえら」
滝川が面倒くさそうに茜と田代を冷やかした。
「くそ、君に言われたくないね! だいたいなんなんだよその面倒くさそうな言い方は? 滝川、君とは絶交だっ!」
茜は憤然として今度は滝川に噛みついた。
「絶交って……小学生かよ」滝川があきれて茜を見る。
「じゃあわたしも大介と絶交」森もウンザリ顔で茜に言った。
「……姉弟は絶交できないんだぞ!」地団駄を踏む茜を田代が羽交い締めにした。
「だから……これから出撃だっつうの。さっさと戦闘指揮車に乗り込もうぜ」
あきれる皆を後目に、田代はそのまま茜を指揮車に引きずっていった。どこからともなくため息が洩れた。栄光号の話など吹っ飛んでしまった。
「すみません、遅れちやって。あら、皆さん疲れた顔をしていますけど。……あ、申し訳ないです。わたくしひとりで休んでしまって」
駆けつけてきた壬生屋が、皆の顔色を見て謝った。
「そなたが気にすることではないのだ。そんなことより今回の戦闘は長くなるぞ。十一師団の戦線が危機に瀕している」
舞は懸念の色を顔に浮かべた。
状況はあらかじめ善行から聞いていた。対応を誤れば戦争は負ける。戦闘団への期待は大きかったが、無理な戦闘を要求して壬生屋を失いたくはなかった。そのぐらいなら後少し休息を取らせ、増援として来て欲しかった。
「大丈夫……です」壬生屋の返事に、舞は表情を引き締めた。
「瀬戸口」
舞が呼びかけると、瀬戸口が指揮車のハッチから顔を出した。
「あと二時間は休息が必要かと。これは善行さんの命令でもある。休んでくれ、壬生屋」
瀬戸口は諭すように壬生屋に言った。
「けれど……」
「俺はお手えさんの担当だ。もう二度とあんな思いは――」
瀬戸口は視線に力を込めた。壬生屋は、はっとして後ずさった。その目は九州撤退戦の時のことを語っていた。悄然とうなだれる壬生屋に厚志が話しかけた。
「僕たちが疲れて戦えなくなったら壬生屋さんに助けてもらうよ。だから今は休んで。休んで元気になった壬生屋さんを頼りにしているから」
「そうそう! ヒーローは遅れてやって来るもんだぜ」
滝川も同調して言った。壬生屋の体のことは今では誰もが知っていた。
「僕と中村君とヨーコさんがエスコートするよん。僕たちも待機してるから」
新井木も口添えする。やがて壬生屋はしぶしぶとうなずいた。
「遅れますけど、皆さんのご武運をお祈りします」
「ははは。壬生屋らしいな。さて、植村さんちの警備兵来たぞ。壬生屋よっぽど植村さんに気に入られているんだな」
瀬戸口が冷やかすと、壬生屋は情けない顔になった。
八月十日 一六〇〇 吉香公園
「敵がすっかり姿を消しましたね」
ここ二時間はど敵の姿は絶えていた。公園内の小型幻獣は午前中までにすべてを掃討していたが、後続はまったく来なかった。橋爪は拍子抜けしたように合田に話しかけた。
「十一師団の戦区に集中しているんでしょう。我々は置き去りというわけですね。旅団司令部は待機命令を出していることですし、休めるうちに休んでおきましょう」
合田は、通路に横たわり睡眠を貪る兵を眺めて言った。友軍の銃声、砲声は心なしかまばらになり、遠ざかっているように思える。
「けど、孤立したってことですよね? 敵が攻めてきて支えされなくなったらどうします?」
佐藤が九五式のハッチから顔を出して尋ねた。
「たぶんそれはないと思いますが、そうなったら逃げましょう」
「え? 逃げるんですか?」佐藤は意外だというように合田を見た。
「地下通路の連絡は断ちきられていますから、我々は原隊への合流は難しいのですよ。対岸の関戸方面から山道を迂回して戻るしかないということです」
「十一師団の戦区は突っ切れませんかね?」
橋爪が提案すると合田は徽笑んだ。
「勇敢ですね。地下通路が使えないとなると、友軍の砲弾が降り注ぐ中、敵中を突破しないと旅団には戻れませんよ。ここに攻めてきたゴブリンと同じ羽目になりますね」
「うーん、ゴブ並かよ。嫌過ぎる……」
橋爪はぼやくと大きく伸びをして壁にもたれた。
ここ何十時間か、眠る間もなく戦い続けてきた。公園を守る友軍はすべて撤退したか、全滅したかのどちらかだったが、合田小隊と学兵から成る混成部隊は奇跡的に生き残っていた。
合田と橋爪が生き残りの作戦を必死に考えたことが大きかった。紅陵女子α小隊の生き残りへの執念にも強烈なものがあった。
過酷な熊本戦を経験した橋爪や佐藤には、ヒロイズムなど欠片もなかった。首を刈られ、体をばらばらにされ、弄ばれた遺体を見てきた。一瞬のうちに地上から消えたチームメイトのことを覚えていた。死神がこちらの命を奪いに来ようとも、最後の最後まで戦って、生きて、また戦ってやろうと思っていた。
地響きが聞こえた。ミノか? 橋爪は起きあがり、陣地へと向かった。
「大型戦車だ。えらい派手な色してやがる」
橋爪の声に反応したか、九五式がエンジン音を響かせ戦車壕に出た。
「あ、あれっでもしかして5121小隊じゃない?」
ハッチから顔を出したまま佐藤が目を見張った。
5121と聞いて島村も塹壕に駆け寄った。ホワイトにブルーの塗装を施された複座型と派手なイエローの軽装甲が公園内を進んでくる。背後に、七四式戦車の縦隊を従えている。それまで穴蔵に籠もって戦闘を続けてきた橋爪の目にはその光景は壮観に、頼もしく映った。
橋爪は塹壕から飛び出すと小隊機銃を高々と掲げた。隣では島村が頬を紅潮させて遠慮がちに手を振っている。佐藤はハッチから半身を出すと、両腕を何度も交差させて挨拶を送った。
「おーい、久しぶりだな。5121さん……!」
橋爪が声を張り上げると、公園中央で複座型は停止した。続いて軽装甲。戦車隊も停止すると用心深く砲塔を四方にめぐらせた。
「なんなんだ、あやつらは……」
舞は塹壕から姿を見せて機銃を高々と掲げる兵に目を留めた。次いで戦闘車両の上から無邪気に手を振る戦車兵を見た。ふたりとも、どこかで……。
舞は厚志に停止を命じると拡声器のスイッチをオンにすると「そこの戦車兵。確か九州で」と話しかけた。なんだかずいぶん昔のことに思える。
戦車兵の顔が明るく輝いた。
「はい。紅陵女子α小隊の佐藤です。あの時は助けてもらってー」
舞はふうっと息を吐くとシートにもたれた。また戦争に駆り出されたのか。この地でも戦闘があったことはなおも煙をあげている戦車の残骸、そして陣地に折り重なるように倒れている遺体を見ればわかる。それでも佐藤は嬉しそうに笑っている。
「生き残りはそなたらだけか?」
「ええと……二十一旅団の合田さんの隊と学兵の島村小隊とわたしたちだけです。今朝ぐらいまで戦闘が続いていたんですけど、ばったり敵が来なくなって」
「ふむ」
理由は簡単だ。戦闘団が御庄・新岩国駅を占領したことと、十一師団の戦区の後退だ。舞は矢吹に向け、通信を送った。
「ここに司令部を置いてはどうだろう? 陣地はまだ使える」
「ここから先は敵の侵攻路になるな。わかった。ここに拠点を作ろう」
矢吹はすぐに応じると、全軍にその旨を告げた。矢吹以下、スタッフと設営要員が車両から降り立つと塹壕陣地から五十名ほどの兵が出てきた。自衛軍の兵もいれば少年少女もいる。なんとも奇妙な集団だった。矢吹の前に若い少尉が進み出て敬礼をした。
「二十一旅団の合田少尉です」
「善行戦闘団の矢吹だ」
矢吹は敬礼を返して、合田小隊の面々をひとしきり観察した。誰もが疲労した顔で、中には負傷している者もいたが、その目は精悍に輝いている。中でも少年と言ってもよい軍曹は小隊機銃を肩にかけ、よく光る眼でこちらを見ていた。
「ずいぶん苦労したようだな」
植村中尉が歩み寄ってきて彼らに笑いかけた。軍曹の顔がふっと笑みに崩れた。
「そりゃそうっすよ。俺たち、元彦島分遣隊ですから。俺は橋爪軍曹です」
ほう、と植村は口許をほころばせた。
「よく脱出できたな。俺たちは壇ノ浦方面で戦った。にしてもけっこう生き残っているな」
「彼は戦上手ですから。熊本戦以来のプロですよ」
合田はにこやかに橋爪の肩に手をかけて言った。
「死守ってやつはしねえ。白兵戦もだめです。通路に敵を引き込んでありったけの火力を集中すればけっこうイケます。五メートル幅の通路だから撃てば必ず当たるんすよ」
逃げ隠れしていたとは思われたくなかったらしく、橋爪は気後れせずに言い放った。そしで
「勇ましく戦っちゃうとまずやられますね」とふてぶてしく言い添えた。
「ははは。相変わらずだな」
声がして、戦闘指揮車から瀬戸口が降りてきた。
「あれから彦島はどうなった? 市民は脱出できたのかい?」
「うーん……」橋爪は目を瞬いて、絶句した。
「残念ながら助かったのはほんのひと握りです。シェルターへの避離誘導がまともに機能しなかったんですよ。悲惨なものでした。ただ、彼女が三十名近くの市民を助けました」
合田が紹介すると、島村は顔を赤らめで頭を下げた。
「久しぶり……と言いたいところだが、君が召集されるとはね。あちらさんを見てみろ。幽霊に会ったような顔をしているぞ」
瀬戸口は指揮車の傍らにたたずんでいる来須と若宮を目で示した。島村は「あ……」と声をあげた。そして顔を赤らめたまま「失礼します」と矢吹らに挨拶すると、ふたりのそばに小走りに駆けていった。
「君たちはこれからどうするのかね?」
矢吹は再び合田に言葉をかけた。
「旅団司令部からは待機命令が出ているんですが、状況しだいですね。その……ここにいる学兵の皆さんを無事に家に帰すことが僕らの義務と考えました」
「む……」矢吹は微かに肩をひそめた。
「彼らには彼らに課せられた命令があるのではないのか?」
「彼らもここに待機ですね。しかし、仮に彼らに転進命令が出たとしても……」
「言葉にすると臨機応変というやつが効かなくなりますよ」
瀬戸田がやんわりと合田の言葉を遮った。
「どうです、彼らに司令部の設営を手伝ってもらっては? ついでにここいらの地下通路も案内してもらってはどうでしょうね?」
八月十日 一七三〇 岩国・旧十一師団戦区
戦線は一キロに渡って後退していた。
吉香公園に司令部の設営をはじめてまもなく、旧戦線、東西一・二キロ、南北四百メートルに及ぶ一帯に大規模な砲爆撃が行われた。空を覆っていたスキュラ、うみかぜゾンビの大群は集中的な対空砲火を浴びて墜落、市街地は炎の海と化した。
一時間に及ぶ攻撃の後、戦闘団主力は2号線に沿って進撃、敵の側面を衝こうとしていた。
「意外なところで意外な人たちに会ったね」
厚志は栄光号を走らせながら舞に話しかけた。その声は穏やかでやさしかった。
顔を見れば彼ら彼女らがどんな思いで戦ったかがわかる。自分たちの姿を見て、あんなに喜んでくれるなんて嬉しいな――。その笑顔が厚志の心を軽くしていた。
当面の敵は生き残りの空戦型幻獣。戦車を主力とする戦闘団にとっては天敵であり、これの処理は人型戦車の役目だった。ジャイアントアサルトから発せられる機関砲弾が、弱ったスキュラに致命傷を与えていく。
すぐ後ろでは二番機が同じような戦いを展開していた。三匹目――。厚志が地上に落下するスキュラを横目に、新たな遮蔽物へと移動していると、舞がようやく口を開いた。
「そなた、本当に大丈夫か?」
「何が……?」
厚志の目は油断なく遮蔽物の候補を探していた。かつて人々が住む町であった地域は幻獣共生派の自爆攻撃、さらには友軍の砲爆撃によって燃え、破壊され、焦土と化していた。唯一鉄筋のビル群が瓦礫をさらし、ここに人間が生活していたことを思い出させる。
三番機は瓦礫の陰に身を潜めると、舞は心得たように敵をロック、また一機スキュラを撃破した。その間、一〇五ミリ戦車砲が陸戦型幻獣を撃破していく。
「……原が言っていたであろう。機体との相性だ」
舞は次の敵をロックオンした後、冷静に言った。
厚志も次の遮蔽物へ。ジャンプ。心地よいGを感じながら答えた。
「実は、グリフの断片みたいなものが頭に残っているんだ。これって変かな……?」
「なんだと」
「けど、戦いにはなんの問題もないし、かえって都合が良かったりする。敵の頸動脈を切った時の音。血しぶき……なんて。それだけなんだけどさ」
地響きをたてて着地。同時にジャイアントアサルトが火を噴く。曳光弾が弧を描き、スキュラに吸い込まれてゆく。大気を揺らめかせて敵は爆散した。
「悪いやつらなんだよ、とっても。僕の武器はICカードしかなくってさ。けど、敵は拳銃を撃ってくる。だから殺してもいいんだ。殺せ殺せって。次の敵、行くよ……!」
厚志はペダルを踏み込んだ。皮膚にピリピリと敵の感情が伝わってきた。スキュラたちの敵意が恐怖に変わりつつあった。
なんでこんなに弱くなったんだ? 厚志は考えた。
熊本城の時のスキュラなんて、幻獣の王のように空に君臨していた。一体を落とすために友軍は必死だったし、僕も大変な思いをした。これ、武器の違いだけじゃ説明できないよな。もしかしてやつらにも個体差があって、強いやつらは九州で滅びちゃったとか? 臆病なやつらだけ生き残ったのかな? そう考えると、前はあれほど畏怖していた空中要塞の巨大な姿に滑稽味すら覚える。レーザーなんて避ければいいだけだしさ……。
舞の的確な射撃でまた一体が墜落してゆく。
新型機、すげえな――。
滝川は前を行く栄光号の動きについてゆくのがやっとだった。武装は出撃の直前に九二ミリライフルに変えていた。隠れて、狙撃。また隠れて、狙撃。これが自分の基本的なリズムだ。
しかし三番機のリズムはさらに早く、激しかった。常に敵の機先を制して、上空の敵を挽乱しているように見えた。移動も一瞬、攻撃も一瞬。まばたきするまに複数の敵が炎をあげて落下してゆく。自分は三番機の撃ち洩らした敵を攻撃するのに手一杯だった。
後続の戦車群は自分のリズムに近い。市街戦の訓練も積んでいるのか、用心深く遮蔽物を利用しては陸戦型幻獣に砲撃を加えている。二両の戦車が燃えていたが、クルーは植村中隊の戦早随伴歩兵にフォローされていた。
来須と若宮もいるしな。滝川は人型戦車とは別の意味で先導役を務めるふたりをちらと視界に収めた。並の歩兵とは動きが違う。不足の攻撃から歩兵たちを守り、戦車を守っていた。
「こちら滝川っす。三番機、どうしちゃったんすかね?」
滝川はなんとなく来須・若宮に無線を送ってみた。
「うむ。追いかけるのに苦労するな」若宮のあきれたような声が返ってきた。
「感じる……わ。あの……誇り高い……スキュラが怯えている」
石津の声が飛び込んできた。
滝川は驚いて、「おまえも……どうしちゃったんだ? 」思わず尋ねていた。整備のやつらは石津が戦争中毒になったなんて軽口たたいていたけど――。ここのやばさは下関なんでもんじゃないぜ。なんたって数が違う。少しでも油断すればゴブの斧でばっさり、ゾンビヘリの機関砲でずたずた、んでもってスキュラのレーザーでこんがりだ。
スキュラ特有の笛の音のような風切り音が鼓膜にビリビリと響いた。まだ三十体は残っているだろうスキュラの群れが一斉に回頭すると傷ついた体を西に向けた。
舞から無線が入った。
「芝村だ。我らはスキュラを追撃する。滝川は戦車隊をフォローしで新防衛ラインの友軍と合流しでくれ」
舞の声には、とにかく一体でも多くのスキュラを撃破したいという断固としたものがあった。
「わ、わかった。なあ、何が起こっているんだ?」
「敵は退却をはじめた」
舞は簡潔に言った。
「前に見たじゃない? 山の斜面を必死に登っているミノタウロス。あれと同じだよ。もう許してくれ、戦うのがこわいんだってさ。背中を向けたスキュラなんてただのエビの尻尾さ」
厚志のやけに興奮した声が飛び込んできた。エビの尻尾? 滝川はあきれて「天井が食えなくなるからやめてくれよ」と言った。
厚志の高笑いが響いた。
まあ、俺たち、何日も戦争浸けだったもんな……。
滝川は厚志の狂騒をそう解釈した。すばやくジャイアントアサルトに武装を変えると、視界に入ったゴルゴーンに機関砲弾をたたき込んだ。
「エビの尻尾、全部やっちやおうよ」
厚志のはしゃぎように舞は不機嫌に顔をしかのた。電子の女王である舞は確実に敵をロックし、仕留めるが、厚志の操縦は舞の限界を試すように大胆で、速く、そして容赦がなかった。
三番機の奮戦に呼応するように友軍の対空砲火も俄烈さを増している。
舞の視界に瓦礫の陰に潜んだ兵が映った。零式を構え、すばやくミサイルを発射すると、かき消えるようにいなくなった。
あのような者たちが戦線を支えていたのだ、と思うと、一分でも一秒でも早く空を我らの手に取り長さねばならぬ、と強く思った。
「あれ……?」
厚志の声に人らしい困惑が交じった。舞も目を囁いた。崩壊したビルの瓦礫の上に、人間がにたずんでいた。拡大するとそれは純白のワンピースを身にまとった少女だった。古風なフリルのついたワンピースに、真っ白な日傘を差している。少女は口許に笑みを浮かべ、逃げ去るスキュラを見送っていた。
「あの女の子、敵だね。撃っちやってよ……」
厚志が口を開いた瞬間、純白の少女はこちらを向いてにこりと笑った。そして砲声と銃声がこだまする中、よく通る声で歌を口ずさみはじめた。
[#ここから1字下げ]
Hanschen Klein ging allein (ひとりで旅立つ小さなハンス)
In die Welt hinein. (世界の旅へと出発だ)
Stock und Hut seht ihm gut (杖と帽子がよく似合う)
Ist gar wohlgemut. (小さなハンスは大喜び)
Aber Mutter weinet sehr, (でも、別れを悲しむママは泣き出した)
Hat ja nun kein hanschen mehr,(小さなハンスに会えなくなってしまうと)
"Wunsch dir Gluck",sagt ihr blick,(「良い旅を」とママの瞳が語ってる)
"kehr nur bald zuruck !"(「そして必ず戻ってくるのですよ!」と)
[#ここで字下げ終わり]
天上から降ってきたような澄んだ歌声だった。しかし、それは舞の心に得体の知れぬ嫌悪感を呼び覚ましただけだった。舞はためらいなくジャイアントアサルトの銃口を少女に向けた。
不意に周囲の瓦礫という瓦礫が隆起した。濛々と立ちのぼる粉塵の中、少女の姿はかき消えていた。
「これは――」舞は愕然として目を凝らした。
土塊《つちくれ》から生まれた人形《ゴーレム》のように、十体に及ぶ光輝号が突如として地中から現れ三番機を困むようにたたずんでいた。
「友軍? 荒波の隠し駒か……?」
舞がつぶやいたとたん、光輝号は一斉にジャイアントアサルトを構えた。
「厚志っ……!」
舞が叫ぶより先、三番機はダッシュして一体の光輝号を蹴り倒した。四方からジャイアントアサルトの高速ガトリング機構特有の回転音が聞こえ、機体は大きく斜めに傾いだ。舞の視界にちぎれ飛ぶ自機の右腕が見えた。
機体は無数の弾痕で覆われた。
「足をやられた。ジャンプした後、脱出するよっ!」
厚志の声が正気に戻った。三番機は最後の力を振り放って、すぐそばに巨大な残骸となって横たわる国土交通省ビルの中に飛び込んだ。
コックピットからすばやく脱出し、物陰に隠れたふたりの目に、密集し友軍に向かって進撃をはじめた光輝号の巨大な姿が映った。
何が、何が起こったんだ……? 茫然として凍り付いたように固まり寄り添うふたりに、背後から忍び寄る影があった。舞と厚志は視線を交わしてホルスターに手をやった。
「そのままそのまま。拳銃はなしにしとき。こんなところでパイロット様が観光旅行か? なら牛井定食一杯で案内するけえ」
ふたりが振り返ると、頬に傷のある兵が目を光らせてにやりと笑った。
[#改ページ]
底本:電撃文庫
「ガンパレード・マーチ 山口防衛戦《やまぐちぼうえいせん》3」
榊《さかき》 涼介《りょうすけ》
二000七年八月二十五日 初版発行
2008/11/16 入力・校正  hoge