ガンパレード・マーチ 5121小隊 episode ONE
榊 涼介
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第一話 邂逅
一九九九年三月二日、熊本。
陽射しは淡く、冷たい風が頬を打った。
速水厚志はボストンバッグを地面に下ろすと、ぼんやりと目の前の建物を見つめた。
第62戦車学校――これから自分が学ぶことになる学校の校舎だった。校舎というよりはプレハブ、工事現場によくあるそれに近い。風に砂挨が舞った。厚志は何かに迷うようにしばらく立ち尽くしていたが、やがて深呼吸をひとつすると校舎へと歩き始めた。
ためらいがちに教室の扉を開けると、五、六人ばかりの生徒がまばらに席に張りついていた。
何人かが顔を上げる気配がしたが、厚志は視線を返さずにおいた。私語する者はなく、教室内はしんとした沈黙に満たされている。このまま突っ立っていては怪しまれる。早いところ座ろう。空いた席が目立つから適当でいいのかなと判断して、視線をさままわす。なるべく端の席を探そうとしたが、皆同じようなことを考えるとみえ、後方隅の席は塞がっている。しかたなく前列窓際の席に腰を下ろした。
居心地が悪い。こんな風に同世代の者と一緒になるのは久しぶりだった。自然、誰とも視線を合わせず、窓の外に目をやる。外には女子校のグラウンドが広がり、体操着姿の生徒たちがトラックを回っている。その先には熊本の市街が延々と続いていた。ロックを外して、少しだけ窓を開けると、すきまから冷たい風が吹き込んだ。
(僕は何をやっているんだ……)
不意にいたたまれぬ思いに駆られた。
体が震える。握り締めた拳を開くと、じっとりと汗ばんでいた。
場違いだ! 僕はとんでもないまちがいを犯している。やっぱり来るんじゃなかった、と激しい後悔を覚え、席を立った。
「おいおい、どこ行くんだ? じきに授業、始まるって」
はっとして振り返ると、ゴーグルをつけ、鼻の頭に絆創膏を貼りつけた少年がにっと笑った。
厚志は曖昧な笑みを浮かべ、少年の笑いに応えた。慣れないところに来て、よほど僕は調子が狂っているのだろう。すぐ後ろの気配に気づかないなんて。
「ごめん、ちょっとね……」
厚志は口ごもると、ボストンバッグを抱え、出入り口へ向かおうとした。厚志の肩を掴もうとした少年の手が空を切った。それでも辛うじてバッグの端を掴む。瞬間、厚志の表情が憤怒に彩られたらだが、きっと振り向く一瞬の間に厚志は笑顔をつくっていた。
「……なんだか変わったやつだな。へらへら笑ってねえで、おとなしく座ってろって」
「え? 変わっているって、どこがさ」
満面に笑顔を貼りつかせたまま立っている厚志を少年は怪しむように見た。
「まあいいや。授業、始まる」
「そう、そうだったね」
これ以上、少年を無視すれば不審に思われる。厚志は観念して腰を下ろした。
後ろの席の少年は厚志のすぐ横に移動してきて、「へへっ」と笑いかけてきた。
「おまえ、新入りだろ、っていっても、俺も昨日、着いたばかりなんだ。あ、俺、滝川陽平」
滝川陽平と名乗った少年は、いっきにしゃべると、人懐っこい子犬のように邪気のない日で厚志の顔をのぞき込んだ。厚志は顔を赤らめ自らも名乗った。
「速水厚志かあ。やっぱ、おまえもパイロットめざしてるのか?」
「どうかな。よくわかんないけど」
煮え切らない厚志の態度に、滝川は拍子抜けしたように頬杖をついた。
「ちぇっ、調子狂うよな。じゃあさ、速水ってどこから来たの?」
「ええ、と。東の方から」あっちと方角を指差した。
「コドモかよ」
「……なんだか静かなクラスだよね」
厚志が話題を変えるように言うと、滝川は首を傾げた。
「う〜ん、そんなことはないと思うけど。なんかとっつきにくいのは確かだな。ほら、あの子なんてさ」
滝川は声をひそめた。
視線の先に胴衣に袴姿の古風な少女が座っていた。艶やかな長い髪を赤いリボンで束ねている。最前列に座って、教科書でも包んできたのか、風呂敷包みを解いているところだった。
「昨日からひと言もしゃべっていない。あんな風に黒板をまっすぐ見ていて。けど、なんなんだろうな、あの格好」
「さあ・……なんなんだろ」
昨日からいる滝川にわからないものが厚志にわかるわけはない。
ふたりの視線に気づいたか、胴衣の少女が振り向いた。こちらを告めるような目だ、と厚志は身構えた。少女は硬い表情のまま立ち上がると、意を決したように、ばたばたと独特な音を響かせふたりに近づいた。
草履? 足下を見ると少女は純白の足袋に草履を履いている。厚志の視線を察したか、少女は不快げに口許を引き結んだ。
「あ……ごめんなさい」厚志は思わず謝っていた。
「あなたは謝るようなことはなさってません」少女は硬い声で言った。
「そ、そつか」厚志は口ごもりながら、ちらと滝川を見る。しかし滝川は下を向いたまま厚志と視線を合わせようとしない。
「僕、今日初めてだったから。……速水厚志です」
厚志がしどろもどろに自己紹介をすると、少女は生真面目そうに固くうなずいた。
「わたくし、壬生屋未央と申します」
腰を折って深々とお辞儀をする壬生屋に、厚志もあわてて頭を下げる。滝川も釣られて頭を下げていた。沈黙。壬生屋の顔がみるまに赤らんでゆく。
「か、風が冷たいですけど、気持ちのよい朝ですわね……」
「ええ、と……」厚志が言葉を探していると、壬生屋は気の毒なくらい赤くなった。
「その……とにかく、これからもよろしくお願いします」
壬生屋はぎこちなく回れ右すると、席に戻った。
「……変わっているけど、ちょっと可愛いかも」
滝川の声がした。能天気。厚志は応える代わりに、ため息をついた。
「あの子は滝川君の手には負えないと思うけどな!」
斜め後ろの席から声がかかった。赤い髪をした少女が身を乗り出して微笑んでいた。
「あ、ニセ関西弁女」
「失礼やね。ウチ、加藤祭ゆう名前あるねん」
馴れ馴れしいな――。厚志と滝川は同じことを思ったらしく顔を見合わせた。しかし加藤は意に介さず、あっけらかんと言った。
「あはは、なんや心細そうな顔してる。けど、ウチも同じ。このキュートな胸が張り裂けそうなくらい、不安だらけ。授業はなんやけったいやし」
「だよなあ。戦車学校っていうから、すぐに戦車に乗れるのかなと思ったけど」
滝川が相づちを打つと、加藤は声のトーンを落とした。
「ここだけの話な、この学校、危ないかもしれへんよ」
「危ないって……」厚志がつぶやくと、加藤は大げさにうなずいた。
「女子校の敷地のはずれに間借りしてて、このプレハブがぽつんとあるだけ。発足させたものの、人も物も足りずに立ち消えになるかもしれん。そうなったら、みんなまた別々の学校に横滑りやね」
「そりゃねえだろ」滝川が口をとがらせた。
厚志はふたりの会話を聞き流した。それならそれでいいや、と思った。何をトチ狂ってか、自分はここに来てしまった。そして今、後悔している。
今ならまだ逃げ出せる。厚志はじっと扉の方向に視線を注いだ。
殺風景な部屋だった。
部屋の壁には無数のピンが刺された九州中部城戦線の地図が掲げられ、もう少しましな机を手配することもできただろうに、事務用のスチール机、その上にはなぜだか巨大な砂時計が置かれていた。
室内には引き締まった痩身の男がたたずんでいた。華奢なメタルフレームの眼鏡をかけ、髪は自衛軍風に短く刈り上げている。どことなく禁欲的な雰囲気をただよわせた男だった。
来客泣かせの部屋だ、と男は思った。部屋の主を待っている間、時間を潰すのに困る。しかたなく男は嫌というほど見慣れた作戦地図に目を凝らした。
目を覆いたくなるような戦況だった。熊本市を守るように緊密な防衛線が構築されてはいる
が、今では各戦区とも敵の戦力が味方を凌駕していた。部屋の主の情報の速さと正確さを称えるべきか、数日前まであったはずの自軍のピンがいくつも除かれている。
男は机に置かれた砂時計を引っ繰り返した。赤く着色された砂が勢いよくこぼれ落ちる。
男は眼鏡を押し上げると、じっとその様子を眺め続けた。
――一九四五年、第二次大戦は意外なかたちで幕を下ろした。天空に突如として黒い月が出現し、幻獣と呼ばれる異形の生物が地球上を覆った。確固たる目的も理由もなく、ただ人を狩る人類の天敵――それが幻獣であった。
人類は種の存続のために幻獣と戦うことを余儀なくされた。それから五十年。悪夢のような戦争は延々と続いていた。人類は死闘を繰り返したが、圧倒的な物量を誇る幻獣軍の前に後退を重ね、ユーラシア大陸はことごとく敵の手に陥ちた。人類が生存するエリアは日本、北米、南米の一部、そして南アフリカのみとなっていた。
一九九八年、幻獣軍は九州西岸に上陸。同年、熊本南部・八代平原において、自衛軍の戦力のすべてともいうべき二十万の軍が幻獣軍二千万と激突。のちに八代会戦と呼ばれる戦いにおいて、人類側は記録的な惨敗を喫した。
事態を憂えた政府は、一九九九年、ふたつの法案を可決し、起死回生を図らんとした。
ひとつは幻獣の本州上陸を阻止するための拠点、熊本要塞の戦力増強。ふたつめは十四歳から十七歳までの少年兵の強制召集であった。
その数十万といわれる彼ら少年兵の多くは年内に死亡するであろうというのが専門家の一致した意見だった。彼らを捨て駒として自衛軍再建までの時間を稼ぐ。これが国家の意思であり方針であった。
かくして重力に引かれ落下する砂のように、刻一刻と、そして確実に若い命は失われてゆく。眼鏡の男はかぶりを振ると砂時計を元に戻した。
「くだらん客に時間の大切を教えるためのものだ。だが、今は使わんでもよいだろう」
声がかかった。反射的に踵を揃え、敬礼をする。目の前に準竜師の階級章をつけた恰幅の良い男が立っていた。「む」とうなずくと、準竜師は席に着いた。スプリングがへたった椅子がぎしぎしと悲鳴をあげた。
「それで、パイロットのめどはついたのか?」
なんの前置きもなく、準竜師は用件に入った。
「はい。人型戦車との遺伝子適性を重視して選抜しました。何しろ兵器が兵器ですから」
眼鏡の男が言うと、準竜師は口許をゆがめた。
「まあ、な。装輪式戦車のベテランを転用している隊もあるようだが、はかばかしい成果は得られていない。精神に変調をきたす者まで出る始末だ。……ああ、これは機密事項だった」
「機密を聞かされる身にもなってください。これでは命がいくらあっても足りませんよ」
しゃあしゃあと軍事機密を口にする上司に眼鏡の男は苦笑した。
「心配するな。おまえの身くらいは守ってやる。それで、整備員はどうする? 何しろあれは動くのが奇跡と言ってよいくらい稼働率が低いからな。なまじっかな整備態勢だと戦えんぞ」「実はそのことでお願いがあるのです」
眼鏡の男は淡々とした口調で説明を始めた。
チャイムが鳴った。錆びた鉄板の階段をけたたましく駆け上がる書がして、真っ赤な草のジャケット、パンツに身を包んで、とどめは厚化粧という派手な女が教室に飛び込んできた。
誰かが、「起立、礼」の号令をかけた。全員、立ち上がると、ばらばらと礼をした。
赤ずくめの女は「ふん」と鼻で笑うと、まばらに座っている一同を見回した。
「朝っぱらからしけた面しやがって。瀬戸口と東原はさっそくサボリかよ、上等じゃねえか。
おっ……」
厚志に日を留めると、女は満足げにうなずいた。厚志は首をすくめた。
「新顔もいるな。ああ、怖がらんでもいい。俺は本田だ。午後には出張中のおめーらの隊長さんもご到着だ。だんだん揃ってきたようで、けっこうなことだ。自己紹介を、と言いたいところだが顔を合わせてりや嫌でも覚えるだろ。さっそく授業だ」
本田は背を向けると、かっかっとチョークを黒板にたたきつけるようにして板書した。
黒板には世にも下手な字でサムライ、と書かれてあった。しらつとした沈黙。生徒たちの鈍い反応は予想済みだったとみえ、本田は「サムライ」と口に出して言った。
「そう、サムライだ。この国を守るために武器を取って自ら戦う。外国じゃ兵隊って言うけどな、この国にはもっと良い呼び名があるわけだ。おめーらはサムライだ。その証拠に、逃げる……徴兵拒否もせずここに来ている。能力があるからサムライじゃない。どこかの誰かのために武器を取るのがサムライだ」
どこからかため息が洩れた。そんなことを言われても困る。徴兵拒否をしなかったのではなく、できなかったというのが本当のところだ。拒否などすれば個人の生括は徹底して圧迫を受け、制限される。人知れず姿を消すなどという噂もまことしやかに流れている。
前提からしてまちがっている。しかし面と向かって異議を唱える者はいなかった。
本田は苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「ああ、わかっているよ。好きでここに来たわけじゃないって、顔に描いてあるからな。けどな、ここに来た以上、おめーらには強い子になってもらわないと困る。だから一応、おめーらはサムライなんだ、俺にとってはな」
「ふむ、それはわかった。先を続けよ」
通路側奥の席から低い女の声。やけにえらそうな口振りの声が聞こえた。
厚志が振り向くと、髪をポニーテールにした鋭い目つきの少女がまっすぐに本田を見ていた。
一応、制服を着ているから生徒なのだろう。少女は口許をきゅっと引き締め、不機嫌そうな顔をしている。が、見続けていると、その顔がごく自然で飾らない表情に見えてくる。
嫌な感じはしなかった。むしろその反対だ。不思議な魅力をたたえた顔だ。厚志の視線を感じたか、少女がこちらを向いた。厚志はあわてて視線をそらした。
少女の声に励まされたか、本田はしばらく視線を宙にさまよわせたかと思うと、「俺はな……」とあらたまった面もちになった。
「おめーらに自信を持って欲しいと思っている。戦場で強いのは自分を使いこなしているやつだ。自分を使いこなすには自分に自信がないとな。自分に自信がないやつぁ、ピンチになったら仲間を捨てて逃げる。実力を発揮せずにな。だから、新兵や学兵にはとりあえず自信と誇りを身につけさせるんだ。自分たちは勇敢で、自分たちこそこの国を守る最後の盾、この国の剣のその切っ先。自分たちの後には、もうなんもないと……」
厚志は滝川を盗み見た。頬をふくらませ何やら真剣な面もちになって本田の話に聞き入っている。そんなにいい話か? と思った。自信がどうのこうのって言っているが、要は戦争に行けってことだ。こんな話に無防備に聞き入っては馬鹿を見る。
本田の話は風のように厚志の脳裏をかすめ過ぎていった。
「おめーらの敵――幻獣と呼ばれている連中はちびりたくなるほど強い。あの強大なソビエトもドイツもイギリスも中国も死にもの狂いで戦ったあげく、たたき潰された。幻獣には心も感情も発声する口すらもねえ。やつらには不安も恐怖も後悔もためらいもない。ただ人間を殺すために存在する悪い夢のような存在だ……なんだ?」
壬生屋が手を挙げていた。本田がうなずくと、壬生屋は腎継を伸ばして立ち上がった。
「幻獣に感情がないというのは嘘だと思います」
「なんだか幻獣共生派みたいな言い草だが、続けてみろ」
共生派とは幻獣との対話・共存を説く非合法集団で、政府から徹底した弾圧を受けている。
壬生屋の青い瞳が怒りに輝いた。
「教官といえども言っていいことと悪いことがありますっ! わたくしは幻獣を憎んでいます。わたくしの兄は幻獣に殺され、手足をもがれたあげくさらしものになりました。テレビに……テレビに映っていたんですっ……!」
興奮のあまり壬生屋の呼吸が荒くなり、言葉が続かなくなった。本田は歩み寄ると、「悪かった」と震える壬生屋の肩を抱いた。
「あのものたちは感情を持っています。悪意に満ちた感情。殺すだけでなく、生き残った者の嘆き悲しむさまを見るのを楽しんでいます。だからわたくし、わたくしは……」
本田は壬生屋の背をボンとたたき、座らせた。
「そうだ。憎め。憎しみで自分を武装しろ。この戦争は殺るか殺られるか、ふたつにひとつだ。
そして俺たちには負けることは許されねえ。だとすれば勝つために考えうる限りの最善を尽くそうじゃないか。おっと……鐘だ、残念ながら授業終了だ」
本田が出てゆくと、滝川がさっそく寄ってきた。
「へへっ、よ〜やくさまになってきたって感じ」
「何が?」
「おまえ、話聞いてなかったのか? 戦争しているんだって感じになってきたじゃん。おめーらはサムライ、かぁ。くーっ」
滝川は興奮しているらしく、握り拳で机をたたいた。厚志は困ったように加藤と視線を父わした。なんて素直なやつ。加藤は、「はは……」と苦し紛れに笑った。
「滝川君、知らん人にお菓子あげるって言われてもついてっちやあかんよ」
「なんだそれ」
滝川は憮然として言った。
「どうしてそういう話になるんだよ」
「そんなことより、壬生屋さんの気持ち考えなあかん」
加藤は真顔になって滝川をにらみつけると、壬生屋の席へと向かった。後に残された滝川は助けを求めるように厚志を見た。
「……はしゃぎ過ぎたんだと思うよ。それじゃ僕はこれで」
バッグを抱え、そそくさと教室を出ようとしたところを滝川に呼び止められた。
「なんだよ、水くせえな。昼飯、食うんだろ? 売店だったら案内してやる」
「そ、そう? けど、悪いから……」
「へっへっへ、せっかく友達になったんじゃねえか。変な遠慮するなよ」
そう言うと滝川は、ずんずんと先に立って歩いていった。
数分後、ふたりはグラウンド土手に腰を下ろして焼きそばパンを頬張っていた。
土手には一面芝が植えられ、眼下に広々としたグラウンドが広がっている。芝のにおいを厚志は胸一杯に吸い込んだ。
「なあ、今の先生の話。俺、けっこう良かったと思うんだ。けど、おまえも加藤も白けた顔してたじゃん。どういうこと?」
滝川は話題を蒸し返して尋ねた。厚志は黙ってパンを口に運んでいたが、辛抱強く答えを待つ滝川を見てしぶしぶと口を開いた。
「されいごと言うなってこと、かな? 国のために死んでくれってことだよね、先生の話を要約すると。僕、そういうの、好きじゃないんだ」
言葉だけならなんとでも言える。国のために死んでくれという言葉は、これまでに何回も何十回も何百回も何千回も繰り返し語られてきた。そのたびに新たな表現が生まれ、言葉は洗練され、考え尽くされている。
ふと顔を上げると、滝川がぽかんとした顔でこちらを見ていた。
言い過ぎたか? 反戦思想とも取られかねない。この世界は地雷原だ。どんな罠が待ち構えていないとも限らない。厚志はあわてて言葉を継いだ。
「ええと、僕が言いたいことは、戦争が嫌だって言ってるんじゃなくてそんなされいごと言われなくたって戦えるってこと。しょうがないもんね」
「……言い訳っぽいな。刑務所もんだぜ」滝川はぼそりと言った。
「そんな、言い訳なんかじゃなくて!」
厚志が焦って言葉を探すと、滝川はにかっと笑った。
「なーんてな。おまえの言うこともわかるよ。ほら、ここの雰囲気ってなんか冴えないじゃん。だから気合いの入った話、聞きたかっただけかもな」
滝川にからかわれ、厚志はほんの少し傷ついた。動揺を悟られないよう、話題を変える。
「午後はどんな授業やるんだろ?」
「坂上先生の講義かな。戦車の話、してくれるんだ……って戦車の学校だから当たり前か」
「戦車学校っていうから、どんなところかと思っていたけど」
「うんうん、俺も拍子抜けした。こんなプレハブ校舎とは思わなかったし、戦車だってまだ一台も見てないんだ。今のところは話聞いているだけ、かな? なあ、さっきも聞いたけど、速水ってどうしてこの学校に来たの? やっぱパイロット志望なんだろ?」
滝川はたたみかけるように尋ねてきた。
「さあ、パイロットなんて考えたこともなかった。別に戦車兵じゃなくても良かったんだけど、戦車の中にいれば生き残る確率が高いような感じがしたから」
厚志の言葉に、滝川はつかのま考え込んだ。
「…そうかもな。あ、そうだ。この隊に配備されるのは士魂号っていって、人型戦車なんだ。人型だぜ、人型! 俺、テレビの政府PR見てすぐに志願した」
「志願ね……」
なんてもの好きな、とあされながらも厚志は相づちを打った。
「ま、志願したっていっても、まだ候補生だから人型に乗れると決まったわけじゃないけど。俺、絶対パイロットになる」
「……応援するよ」
厚志はため息交じりに話を合わせた。
午後のチャイムと同時に、厚志と滝川は教室に滑り込んだ。
少し遅れて、眼鏡をかけ無精ひげを生やした年上の千翼長が教壇に立った。
「あの人が坂上先生?」厚志が尋ねると、滝川は首を横に振った。
「違う。初めて見る人だ」
千翼長は善行忠孝と名乗った。
「ゆくゆくはわたしが司令となって隊の指揮を執ることになります。が、あなたたちが卒業するまでは、部隊設営委員長としてあなたたちと生活を共にし、訓練その他の指導を行います。さて、さっそくですが、坂上先生の許可を得たので午後からは特別訓練を行います」
善行委員長はもの柔らかな声で言うと全員を見回した。
「全員体操着に着替えてグラウンドに集合してください」
そう言い残すと、すっと教室を出て行った。
「よし、速水、隣の教室で着替えだ。ここは女子の更衣室になるから」
滝川が嬉々として厚志に言った。
「な、なんだか嬉しそうだね」
「そりゃあ、つまらねえ授業より体動かす方がいいだろ。それにさ、隊長も来たし、やっとホンモノつぽくなってきたじゃん」
グラウンドに集合すると、善行も体操着に着替えて皆を待っていた。傍らにはレスラーのように屈強な男が控えていた。髪を金髪に染め、浅黒い肌の精悍な印象の男だった。
「紹介します。小隊付き戦士の若宮康光君。今後、あなたたちの訓練教官となります」
若宮は善行に黙礼をすると生徒たちに向き直った。
「さて、それでは課外授業を始めます。このグラウンドより、大甲橋、厩橋《うまやばし》を経て熊本城公園を三周してグラウンドへ戻る。行程およそ十キロのランニングであります。どうです、楽なものでしょう?」
若宮はにやりと白い歯を見せて笑った。
「ただし、こんな楽な授業じゃあなた方に申し訳ない。ラスト五人は腕立て伏せ百回」
ラスト五人って? 厚志はあたりを見回した。自分を含めてこのクラスには六人しかいない。
善行と若宮を含めても八人だ。あ、もうひとり。なぜか子供が交じっている。午前の授業では見なかった顔だ。「ああ、東原さんは水を用意してゴールに待機してください。できますね?」
善行がしゃがみ込んで言うと、東原と呼ばれた子供は「うん!」と元気良く答えた。
「うん、ではありません。はい、です」
「はいっ!」
「ち、ちょっと待ってえな。これって女子も同じなん?」
加藤が不服そうに質問した。
「む、女子は十分先にスタート」
「わたしは男子と同じでも構わぬぞ」
静かな口調ですぐ横の女子が抗議した。あの子だ。厚志の視線は声の方に吸い寄せられた。
「兵である以上、男子も女子もない。体力において劣っているというのなら、ハンデを克服すべく努力すべきだろう」
センス最低の緑色の体操着が、この少女が着ているととても格好良く見えた。厚志は少女のにこりともしない横顔を盗み見た。
「さすがに姫様は違うね。まあ確かに立派な意見ではあるけど、戦車兵は、生身の体で戦うわけじゃないからな。男子女子のハンデはよしとしようよ。ああ、俺にもハンデね。十分前スタートってことで。でなきや東原と一緒に留守番がいいや」
後ろの方から声があがった。厚志が振り返ると、長身の整った顔立ちの男が笑いかけてきた。
彼も朝の授業にはいなかった。
「そうか、わかった。おまえ、瀬戸口隆之だったな」
若宮は隊員のプロフィールを思い出しながらうなずくと、にやっと笑った。
「坊ちゃん嬢ちゃんの寄り合い所帯と聞かされてきたから、紳士的に振る舞ったつもりだが。俺には柄じゃないようだな」
若宮はつかつかと瀬戸口に近づいた。
「すごい筋肉だね。それって何製?」
刹那、若宮のストレートが瀬戸口を襲った。ピシリ、と鈍い音がして、瀬戸口は尻餅を着いていた。しきりに頬をさすっている。
「おお、痛い。勘弁してくれよ」
しかし若宮は苦い顔をして突っ立ったままだ。見事に避けられた。しかもこの男はわざと殴られる演技までしてみせた。問題児と重罪人の小隊と聞いていたが、けっこう奥が深そうだ。
「たかちゃんっ!」東原が瀬戸口に駆け寄った。
「ひどい。殴ることないやろ!」加藤も抗議する。
「そうです。理不尽なっ!」体操着と言われたのに、なぜか袴姿の壬生屋は血相を変えて叫んだ。一歩踏み出すと、若宮と瀬戸口の間に割り込み、柔術らしき構えを取った。
な、なんなんだ? 厚志は茫然として成り行きを見守った。壬生屋ににらまれ、若宮はしきりに目をしばたたいている。
「あー、おまえはなんだ?」若宮の口から辛うじて言葉がこぼれた。
「理由もなく暴力を振るう人間に名乗る名など持ち合わせません!」
名前を聞かれたと勘違いしたらしい壬生屋はきっぱりと言った。
「善行委員長」
若宮は困惑して、善行を振り返った。こんなことは初めてだ。どう対処してよいか、一時的なパニックに陥っていた。瀬戸口とやらは得体が知れないし、袴女はめちゃくちゃだ。しかも格闘術の心得があるのか、相当に危険な雰囲気をただよわせている。これが軍隊か? 学兵とはいえひど過ぎる。吹き溜まりとは聞いていたが、これほどまでとは。
若宮に助けを求められ、善行は眼鏡を押し上げた。
「瀬戸口君、若宮戦士をからかわないでください。それから壬生屋未央さん、軍において暴力は禁止されていますが、後に遺恨を残さない解決法でもあるのですよ。暗黙の了解事項として認めるか、それができなければ転属するしかありませんね」
「だったら転属しますっ!」
「残念ながら、あなたを受け容れてくれる隊はもうありませんよ」
善行の冷静な口調に、壬生屋は悔しげに押し黙った。
理解不可能。この人たち、なんだか変だと厚志は下を向いて考え込んだ。自ら難を招くようなヘマをする瀬戸口も変なら、相手が軽口をたたいたくらいで殴りかかる若宮も変、そして他人事なのに喧嘩腹になる壬生屋も変、年下の女の子を脅す善行も変だ。
軍隊とはこういうものなのか?
それともたまたま変人が集まったのか?
「あ〜あ、まったく軍隊しちやって。わかった、わかりましたよ。原因は俺にあるから、この通り、謝ります。腕立て伏せ百回? 今ここでやりますか?」
瀬戸口はこれ見よがしに腕まくりをすると、善行に向かって肩をすくめた。善行は眼鏡を押し上げると、無表情に「訓練を再開しましょう」と言った。
「わ、わたくし……!」
「壬生屋さん、スタート位置に着いて」
善行がストップウオッチを見せると壬生屋は黙り込んだ。気を取り直した若宮が合図をすると女子は走り去った。
「百翼長、女子はスタートしましたが」若宮の声。しかし百翼長と呼ばれたポニーテールの少女は、澄ました顔でストレッチをしている。
若宮はあきらめるように、十分間待って合図を下した。厚志の目の前で、男子と一緒にスタートした少女のポニーテールが勢いよく継れた。
ペナルティが嫌だったのか、まだ顔合わせの段階でクラスメートに情けない姿を見られるのが嫌だったのか、全員が真剣に走った。善行はスタートと同時に悠々としたストライド走法でまたたくまに見えなくなった。若宮は後尾について遅れがちの隊員を励ます役についた。
厚志と滝川はしばらくの問、併走していたが、滝川はしだいに息を切らし始めた。
「なんだ、滝川。まだ半分も来てないぞ」
厚志が顔を上げると、いつのまにか瀬戸口が併走していた。
「そ、そんなこと言ったって。俺、長距離は苦手で」滝川は苦しげに言い訳をする。
「ま、ゆっくりやるさ。ところでそちらの坊やは……」
坊やと言われて厚志はむっとしたが、感情を抑え、会釈をした。
「……速水厚志です」
「瀬戸口だ。一応、キミたちより年上の先輩ね」
瀬戸口が挨拶を返すと、滝川も息を調えて耳打ちした。
「瀬戸口さんって俺のスクールライフの師匠なんだ。上は人妻から下は幼稚園児までってすげー人なんだぜ」
「……そうなの」すごいといえばすごいんだろうが、厚志には相づちを打つしかない。
「野郎はさよならお娘さんはこんにちはってね――お聞きの通りの女好きだが、おまえさんならいいや」
いいやって何がいいんだ? 瀬戸口にウインクされ、厚志は困惑した。
「ところで速水、おまえさんはまだ先に行けると思うが。滝川につき合ってると罰ゲームを食らうぞ」
「え……別にいいですけど」
「滝川の面倒は俺が見るよ。これでもこいつの師匠だからな」
瀬戸口は走りながら、まるで世間話でもするように悠然と話し続けた。
「へへっ、速水、こんなことでつるんだってしょうがねえよ。先、行け」滝川も口を添える。
厚志は黙ってペースを速めた。ふたりの足音が遠ざかってゆく。自分のアスファルトを蹴る普だけを耳に黙々と走った。途中、加藤と壬生屋を追い抜き、気がつくと目の前にポニーテールの後ろ姿があった。しなやかなフォームで無駄のない走りだ。一歩ごとにポニーテールが揺れる。規則正しい足音が聞こえ、厚志は自分のピッチをいつしか合わせていた。
相手の背を追いながら、厚志は一種の充実感を覚えていた。
こうして走るのは好きだ。あらゆる監視、詮索の目、わずらわしい世間から逃れられる。その瞬間はひとりきりだ。ただ走ることのみ考えていればそれで済む。こんな訓練で点数が稼げるんだったら、軍というのも悪くない。それにしてもまるで僕に合わせたようなペースだな、と厚志は思った。このペースならラストまで十分体力を残しておける。
知らずポニーテールに近づいていた。厚志の足音に気づいたか、ポニーテールは振り返ると、口の端を吊り上げてふっと笑った。ペースが上がった。
出し抜かれた! あわてた厚志は相手に追随しようとしたが、反応が遅れた分、ペースが乱れ始めた。一度歯車が狂うと、立て直すには苦労する。それに相手のペースは、これまで自分をからかっていたのではと思うほど速かった。厚志はポニーテールを追うことをあきらめ、自分のペースでアスファルトの路面を蹴り続けた。
視界の隅を熊本城の風景が流れてゆく。緑と土のにおいを含んだ風が汗をかいた体には心地好かった。朝から戸惑いっぱなしだった自分を顧みる。
これで良かったのか?
自分にはふたつの選択肢があった、と厚志は考える。
ひとつは徴兵命令を無視して逃亡し、隠れ潜む道。これには自信があった。アンテナさえ研ぎ澄ましておけば、僕は最後まで「敵」を出し抜くことができる。
初めはそのつもりだった。都市に隠れるにせよ、野山に潜むにせよ、ひとりでひっそりと生きようと思っていたら得意な選択肢を捨てるほどのメリットが熊本行きにあったわけではない。
ただ、危険を告げるいつもの声が沈黙していた。だからなのだろう、熊本行きの道を選んだのは。もしかしたら人恋しさのようなものもあったかもしれない――。学校というのは人間がやたら多くて、どうでもいいことに一喜一憂しているような世界だ。
(人恋しいだって……?)
厚志は口の端に笑みを浮かべた。皮肉と羨望がない交ぜになったような笑みだった。
グラウンドに設けられたゴールに駆け込むと東原が駆け寄ってきた。渡されたものをまじまじと見つめる。ノートを切り破ってつくられた三角旗だった。「3」と書かれた旗を困ったように見つめていると、善行委員長はふっと笑って、「一等貨」の旗を示してみせた。二等賞のポニーテールは淡々とストレッチを続けていた。
「はい、お水」
はっとして下を見ると、こぼれるような笑顔に出合った。厚志が紙コップを受け取ると、東原は「えへへ」と厚志にすり寄ってきた。
「え、何……?」
「とっても速いのね。えっと、えっと」
「速水。速水厚志だよ。君は?」
「東原ののみです」
「そう……」何を話せばよいのだろう。厚志は困惑してあたりを見回した。善行委員長と視線が合った。
「この旗は東原君のお手製ですよ」善行が助け船を出すように言う。
「はあ、そうなんですか。あー、え、えらいね……」こんな感じかな、と厚志はしゃがみ込むと目線を合わせ、東原に話しかけた。
グラウンド入り口から甲高い声が聞こえてきた。壬生屋が加藤を励ましていた。加藤は限界らしくすぐに座り込もうとする。そのたびに壬生屋はきんきんとよく響く声を張りあげ、加藤の腕を取り、背を押して立ち上がらせていた。
「加藤さん、ゴールが見えますよ。しっかりして!」
なおも座り込もうとする加藤を、壬生屋は憤然とした顔でおぶった。「こんなん恥ずかしい」
と抗議する加藤に構わず、壬生屋はよろめきながら一歩一歩進んでくる。
「ふむ」ポニーテールが顔を上げて、ふたりの姿を見つめていた。善行も腕組みして、じっと成り行きを見守っている。
「名前を呼ぶなんて卑怯ですっ!」
ゴールに着くなり、壬生屋は加藤に食ってかかった。どうやら先行する壬生屋を加藤が呼び留めたらしい。加藤にしてみれば取り残されるのが不安でならなかったのだろう。加藤には言い訳のしようはないが、助ける壬生屋も壬生屋だった。
「あのォ、壬生屋さん……?」
自分の声だ。厚志はよけいなことをしたと思いながらも、壬生屋の不機嫌な顔に笑いかけた。
「水、用意してあるけど」
「いただきますっ!」
壬生屋が怒ったように言うと東原が駆け寄って、ふたりに紙コップを渡した。壬生屋は東原に任せることにして、厚志は滝川たちの様子を見るために歩き出した。
結局のところ、滝川は若宮と瀬戸口に抱えられるようにしてゴールした。滝川を挟んで若宮と瀬戸口は何やら言い合いをしている。善行はため息をついて眼鏡を直した。
放課後。
厚志は滝川と別れて、グラウンド土手に寝そべっていた。残照が赤々とグラウンドを照らし、空はゆっくりと暮れてゆく。風は冷たく、地面からしんしんと冷気が忍び寄ってくるが、厚志は平気だった。土の上、アスファルトの上で寝ることなど慣れっこになっている。
これからどうするか? 厚志は冷静に自分の身の振り方を考えようとしたが、なぜか今日一日で出会った人々のことを思い浮かべていた。変な人たちだったな。少なくとも僕がこれまで出会った人間たちの中でも飛び切り変わった部類だ。なんというか、印象的だ。たった数時間、一緒にいただけなのにな――今日の僕はやっぱりおかしいやと厚志は自嘲した。
それにしてもあの子、格好良かったなと厚志はポニーテールのすっきりとジャープな姿を脳裏に浮かべていた。挨拶代わりに見事に出し抜かれた。
(あれ、あの子……?)
気配を感じて頭をめぐらすと、少し離れたところ、まだ蕾もない桜の木の下に制服姿の少女がたたずんでいた。ポニーテールだ。腕組みをしてキュロットから伸びたかたちのよい脚を踏ん張っている。男みたいだ、と厚志は思った。
厚志の視線に気づいたか、ポニーテールはまっすぐにまなざしを投げ返してきた。口許を引き結んでにこりともしない。厚志は起き上がると、引き寄せられるようにポニーテールに歩み寄った。
「こんにちは」
厚志の挨拶にポニーテールはうなずいたのみだった。
「何をしているの?」厚志が問うと、ポニーテールはわずらわしげに眉をしかめた。
「ご覧の通りだ」
「ええ、と……」
話の接ぎ穂を探そうとして、厚志はポニーテールを見た。百翼長の肩章をつけている。ポニーテールは気難しげな表情で厚志を見つめていたが、やがて思い出したようにうなずいた。
「そうか、そなたは先刻の男だな」
「そなたって……ああ、本日付けで第62戦車学校に入校した速水厚志です。あの、百翼長は速いんですね。ペースを合わせてついて行こうとしたら急にダッシュされて……」
「なんの。そなたの走りも効率的だった。それと、階級で呼ぶのはやめろ」
「え……」
「わたしは芝村舞だ。芝村をやっている」
芝村をやっている、とは? 厚志は芝村舞と名乗る少女の会話についてゆけずに言葉に詰まった。その様子を見て、ふっと舞は笑った。
「そなたは変わっているな」
「……そんなことはないと思うけど」変わっているのは君だよ、と言おうとしてやめた。
「変わっている。わたしは決して洞察功に優れた方ではないが、わたしにだってわかる。そうだな、たとえて言えば、子犬が新しい飼い主に一生懸命に馴染もうとするような。……我ながらまずいたとえだ。忘れて欲しい」
「……忘れます」
「だがそなたの目は子犬などというものではないな」
「そうですか?」
「前にテレビの動物ドキュメンタリーで見たイタチに似ている。小さいが鋭い牙を持ったそれは樺猛な生き物だ」
「イタチ……」
厚志はかぶりを振った。変人だ。初対面の相手を大真面目な顔でイタチ呼ばわりする。近寄らない方がいいかもしれない。
「あー、待て。そんな顔をするな。けなしているわけではないのだ。イタチというのは雑食性の肉食獣で、ネズミを餌食としている。あの狡猾にして敏捷なネズミを上回る能力を持っているということだ。決して馬鹿にしたものではないのだぞ」
芝村舞はしきりにイタチを弁護し始めた。颯爽とした外見で延々と続けられるから妙な気持ちになる。厚志は暖味にうなずくしかなかった。
馴染めない。そぐわない。引っかかる。変な感じだ。表現はいろいろとあった。速水厚志はその晩、アレルギー症状に悩まされる生き物のように、心のそこかしこの拒否反応をなだめかね、下宿の布団の中で寝返りを打ち続けた。キッチンで水を飲んでは、ふうっと息をつく。
これまでの日々とは一変していた。そもそも布団の中で安全に眠るなどという事態が異常なのだが、今日一日を総括すれば、自分を守るための闘いと逃亡の世界に、一度にいろいろなものが増えてきてしまった。
厚志は今日出会った人々のことを考え続けた。そのうち芝村舞の面影が頭から離れなくなった。確かに格好いいけど相当な変人だ。自分とは無縁だし、考えてもなんの意味もない、と厚志は舞の面影を打ち消そうとするのだが、うまくゆかない。明日こそ逃げ出してやる、変人とはさよならだとひとりごちて眠りに落ちた。
翌朝、厚志は冴えない顔で学校への道を歩いていた。逃げようかどうしようか散々迷ったあげく、今日一日くらいは様子を見よう、と言い訳している自分が情けなかった。
どん、と背中をたたかれた。
「よっ、一緒に学校行こうぜ」
振り返ると滝川陽平が笑いかけている。
「体は大丈夫?」昨日は息を切らして弱っていたのに、今日の滝川はやけに元気だ。
「晩飯食って、寝たら治った」
これだ……と厚志はかぶりを振った。
「瀬戸口さんと若宮さん、なんだか喧嘩してたみたいだけど」
「俺はおまえみたいな軟弱野郎は大嫌いだって若宮さんね。そしたら師匠が、アタマ筋肉の欲求不満男はかわいそうね。ふざけるな放課後グラウンドに来い決着つけてやる。やなこつた野郎とデートなんて趣味じゃないんでね――こんな感じ。まいったよ、子供じゃないんだからさ」
滝川は瀬戸口と若宮の口真似をしてみせた。
「らしいよね」
なんとなく想像ができて、厚志は笑みを浮かべた。
「ああ、あなたたち。速水君と滝川君でしたね」
落ち着いた声がした。ふたりがおそるおそる振り返ると、善行委員長が眼鏡に手をやって立っていた。
やべえという顔で滝川が敬礼をした。厚志もあわでてそれに倣う。善行はぴしっと指を伸ばし、手本のような敬礼を返した。
「どうですか、調子は」
「ええ、まあ、いいです……」と厚志。
「学校の講義はどうです?」
「あの、けっこう面白いです。俺たちはサムライなんだって、本田先生が」
何か言わなくちやと滝川が早口で言った。
善行は「なるほど」とほんの少し口許をゆるめた。
「講義が面白いなんて、滝川君は変わっていますね。まだ機材もないようなので、実は今日一日、屋外でゲームを楽しもうと考えていたのですが」
「えっ、ゲームですか? やります、俺やります」滝川はやけに張り切って自分を売り込んだ。
「どんなゲームですか?」厚志が尋ねると、善行はふっと笑った。
「模擬戦闘訓練。まあ、一種の戦争ごっこですね」
午前中の授業は中止になった。
生徒たちは体操着に着替えると、校門脇の前庭で訓練教官の若宮に、模擬戦闘の前準備として、戦闘行動のイロハを教わることとなった。
「斥候、敵を発見したら合図だ」
若宮の声が響く。滝川は耳を押さえ、背後の植え込みに向かって合図を送った。丈の低い植え込みの陰では生徒たちが不満顔で待機している。滝川が指を二本、立てた。
「楽勝Xサイン?」加藤はつぶやくと植え込みを出ようとした。滝川はあわでて、待ての合図。敵はふたりだよと身振りを交えて説明する。
「敵はふたり。この角の向こうに潜んでいる」
若宮はウンザリ顔で解説した。
昨夜、善行から他校との模擬戦闘訓練の実施を告げられた。早過ぎると思いますが、と若宮は懸念したが、善行は澄ました顔で、「彼らには敗北が必要です」と言った。彼らは一度、徹底して打ちのめされる必要がある。そこから本当の意味での訓練が始まる、と。
善行の話は半分も理解できなかったが、命令である。若宮は不承不承うなずいた。
サインその他を思いっ切りシンブルにして、かつ生徒たちにフィールドでの動き方を教えてやろうと思った。若宮ならではの親心だが、どうも通じていないようだ。
「それで……これからどうするのでしょう? 突撃かしら」
壬生屋が真剣なまなざしで言った。
「あほらし。何を本気になってるんだ。本物のサインとは全然違うし、こんなの子供の遊びじやないか」
瀬戸口が植え込みから両手を突き出し、伸びをした。
「真面目にやってくださいっ!」壬生屋が庭全体に響き渡る声で叫ぶ。
「ふたりとも不注意であろう。今の壬生屋の声で砲弾が飛んできても不思議はないぞ」
それまでむすっと黙っていた芝村舞が口を開いた。目を光らせて次の情報を待っている。厚志は舞の隣に屈んで、何気なくささやいた。
「ふたり、ということは敵も偵察かな」
「まちがいなくそうだろうな。我らと同じく後方に本隊がいるはずだ」
舞の声が耳許に心地好かった。厚志は真剣を装ってさらに言った。
「不意打ちはできない?」
「難しいな。今の我らの練度を考えれば、攻撃は危険だ。敵の動きを追跡した後、待ち伏せした方が勝算は高い。わたしだったらあそこに機銃を配置する」
「あらら、おふたりさん、急接近やね――」
加藤が冷やかすと、「どれどれ」と瀬戸口が身を乗り出してきた。厚志と舞は互いの距離を確認して、ばっと離れた。
「違いますよ、そんなんじゃないですよ!」
「速水、今の声で砲弾が飛んでくるぞ」瀬戸口は澄ました顔で言った。
「不潔ですっ!」誘爆でも起こすように壬生屋のきんきん声が飛んできた。
不意に大量の水が降ってきた。濡れねずみになりながら全員が顔を上げると、若宮がバケツを手にかぶりを振っていた。
「なあおまえら、頼むから……頼むから真面目にやってくれ。午後からは樹木園で女子校の戦車兵と模擬戦闘をやるんだからな」
これじゃ幼稚園児にも負ける。若宮は世にも情けない顔でつぶやいた。
若宮に引率され、生徒たちが樹木園前に着くと善行の姿があった。
女子校の教官と何やら雑談をしているところだった。傍らには体操着姿の女生徒たち。彼女らは体育の授業でも受けるように生真面目に整列していた。
「紹介します。堅田女子の皆さん。彼女たちは士魂号Lのクルーです」
女子校のクルーたちは、声を揃え、きびきびと挨拶をした。
「や、どうも。可愛いね、君たち」
瀬戸口が軽薄に手をひらひら振ると、壬生屋の顔が赤らんだ。
「こら、なんて挨拶だ。こちらの方々はすでに実戦を経験している先輩だぞ」
瀬戸口に食ってかかろうとした壬生屋の機先を刺し、若宮はあわてて言った。
「まあ、挨拶だけは済ませておきましょう」
善行にうながされ、生徒たちは思い思いの礼をした。
「あ……こんにちは」と厚志。
「ふむ。よろしく頼む」と舞。
「よろしくお願いいたします」と壬生屋。
「ど、ども・……」顔を赤らめて滝川。
「お手柔らかに頼むわ」と加藤。
「えへへ、よろしくね!」と東原は満面の笑顔で挨拶をした。
「皆さん個性的ですね」
女子校の教官が笑いながら言うと、善行は「さて……」と苦笑した。
「速水よ、やつら、見かけより手強いぞ。引き締まった良い表情をしている」
舞にささやかれ、厚志は女子校の面々の表情に目を留めた。学兵の世界にあって、非力な女子だけで構成される女子校はとかく馬鹿にされやすい。無用な摩擦を避けるため、女子校は戦車兵として編制されることが多かった。それだけに彼女たちの負けん気は強かった。
「それではこれを」
女子校のチームといったん別れ、戦車学校のメンバーだけになると、善行は数字が書かれた
ゼッケンと肩章を皆に配った。胸、背中の他、両肩にも装着され、四方から見えるようにな。
ている。
「ふむ、ペイント弾などは使わぬのか?」舞が首を傾げた。
「ええ、戦闘訓練用のライフルは不足していまして。敵を先に発見して相手の数字を読みあげるというシステムですね。番号を呼ばれた者はその場で倒れてください」
「適当に番号を言えばどうなります?」
瀬戸口が見るからに嫌そうな顔で尋ねた。
「モフルの問題ですが。ゼッケンをよく見て。それを防ぐために三桁の数字がランダムに書かれているでしょう。257番君」
数字でささやかれて瀬戸口は憮然となった。
「子供だまし、と思いますがね」
「本当にそう思いますか?」
善行は眼鏡に手をやった。確かに現役の戦車随伴歩兵などから見ればそうだろうが、この隠れん坊だけでも隊の質、練度は明らかになる。
「それでは瀬戸口君、君にリーダーをお願いします。わたしと若宮君は観戦していますよ」
「柄じゃないですよ。リーダーなら百翼長がいるじゃないですか」
「芝村さんとの話はついています」
そっけなく言うと、善行は背を向けた。瀬戸口は忌々しげにその背を見送ると、六人のクラスメートたちに向き直った。
「リーダー役を拝命したんだけど、俺はごめんだ。芝村、おまえさんがやれ」
舞は無表情に瀬戸口を見た。
「命令には従うことだ。それにわたしは|芝村だからな《``````》」
「……おまえさん、善行さんと何を話した?」瀬戸口は珍しく、真顔になった。
「今、言ったようなことだ。芝村が指示を下すより、そなたが下した方がうまくゆくだろう、とな。わたしは同意した」
「やれやれ、さっそく陰謀の相談か」
瀬戸口は皮肉っぽく笑って、舞を見つめた。舞は平然として瀬戸口を見つめ返している。
「ね、ねえ、芝村がどうのこうのって。どういうこと?」
舞と瀬戸口のにらみ合いに驚き、厚志は滝川に尋ねた。
「芝村とは関わりたくないってこと」滝川は声をひそめて耳打ちした。
「……それがよくわからないんだけどさ」
「はあ? おまえってどこの国の人? 芝村っていえば悪の結社じゃねえか。悪いやつらだ」
「悪の……結社?」
「芝村一族は反対する者を力で排除し、自分たちの帝国を築こうとしています。なぜ、あの方がわたくしたちのクラスに入ってきたのか、わかりませんけど」
壬生屋が嫌悪感を露にして言った。厚志はなおも腑に落ちぬ顔である。そもそも芝村がなんなのかがわからない。
「さわらぬ神にたたりなしってな、昔の人はうまいこと言ったもんやぬ。速水君ってとんでもない田舎の人みたいやから忠告や。関わったら絶対、損するで」
加藤もひそひそ声で言い足した。悪の結社で帝国を築こうとしていて神様なのか? 芝村舞――そうは見えないけれど。厚志は首を傾げ、にらみ合うふたりに声をかけた。
「あのォ、僕はどうすればいいんでしょう?」
「そうか、速水でもいいや。今からおまえさんがリーダーだ。第62戦車学校ピクニック分隊の隊長に任命する」
「た、隊長……」瀬戸口の言葉に厚志は後ずさった。
「速水、真に受けるな。瀬戸口よ、これは要請ではなく命令だ。リーダーは瀬戸口だ。そなたらも納得するがよい」
舞はクラスメートを見渡した。壬生屋が遠慮がちに手を挙げた。
「けれど瀬戸口さんで大丈夫なんでしょうか? わたくし心配です」
「心配するのは勝手だが、これは善行の命令だ。今は瀬戸口を補佐することを考えればよい」
舞ににべもなく言われて、壬生屋は不機嫌に黙り込んだ。
「さて、どうするかな……」
瀬戸口はベンチに腰を下ろしてメンバーを見回した。瀬戸口チームは樹木園の東端から、そして女子校側は西端から行動を開始することとなった。行動開始のホイッスルが鳴って数分、瀬戸口は付近にあったベンチに座り込んでいた。
他の生徒たちは手持ちぶさたにたたずんでいる。
樹木園は面積二・六ヘクタール。戦時下の人手不足のためか、雑草の除去などの手入れもままならず、生い茂る薮の中を砂利を敷き詰めた道が縫うように走っている。それでも自然の雑木林に比べれば見通しが利き、冬枯れの名残をとどめていることもあって身を隠すにはそれなりの工夫が必要になる。このまま道でぼんやりしていればあっけなく発見される。一向に動こうとしない瀬戸口を見てメンバーの顔に不安と焦りが浮かんできた。
「こんなところでぐずぐずしていでもしかたありません。敵を発見しないと」
壬生屋が生真面目に訴えた。
「うーん、それは構わないけど、おまえさんの格好は目立つな!」
壬生屋は相変わらず胴衣姿のままだ。他の生徒が着ている緑色の体操着はちょうどよい迷彩となっているが、壬生屋の白の胴衣に赤の袴は非常に目立つ。痛いところを指摘され壬生屋は顔を赤らめた。
「皆さんにご迷惑はかけません!」
「なあ、壬生屋ってどうしていつもその格好なの?」と滝川。
「そんなことどうだっていいでしょう」壬生屋はむっとして滝川をにらみつける。
「ねえねえ、早く隠れようよ」
東原が瀬戸口の袖を引っ張った。瀬戸口はしぶしぶと立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行くか。常緑樹の薮を見つけて姿を隠そう。滝川、そんな姿勢で歩くと疲れるぞ。思ったより消耗するんだよな、それ」
瀬戸口は腰を屈めて移動しようとした滝川を見咎めた。
「え、けど戦争映画でやってますよ」
「……映画はしょせん映画だって。体力を消耗すると、いざという時集中が続かない。判断力が低下するってわけ。ご意見は、芝村百翼長閣下?」
「滝川、普通に歩け」
瀬戸口の口調に微かな敵意を感じ取ったが、舞は相手にせず滝川に言った。
善行らは樹木園北に位置する櫓の上から両軍の動きを監視していた。
「やつら、まったくやる気ありませんね」
双眼鏡を手に、若宮はぼやいた。瀬戸口チームはピクニックよろしく無防備に道を歩いている。その隣で善行も双眼鏡に見入っていた。女子校側はすでに樹木園のほぼ中央、東屋の付近に展開を終えている。このまま無防備に道を進んでいくと、東屋のある小山の東斜面から見下ろされるかたちとなり、あっさり全滅となる。
少しでも見晴らしの良い高所に位置するというのは歩兵戦闘の基本である。
「女子校の皆さんは基本に忠実……ああ、なるほど」
善行はふっと笑った。よく考えている。彼女たち、勝ちたいのだろうな。勝って隊の士気を高めようという意志がありありとうかがえた。
「よい子たちですね」
善行が誉めると、女子校の教官は双眼鏡に見入ったまま応えた。
「彼女たちを指導していた先輩の隊が全滅しましてね」
「そうでしたか」
今の彼女たちにはなんであれ勝利が必要なのだろう。むろんこちらにも事情はある。隊の問題点を摘出するためのゲームだ。そのために芝村舞と謀って瀬戸口をリーダーにしてみた。目的は勝つことではない。
「貴隊には願ってもない相手だったというわけですね」
善行は静かに言った。
「五十メートル先に築山がある。頂上は東屋。斜面は常緑樹の茂みになっている」
舞が地図を示しながら口を開いた。
「え、それがどうしたん?」加藤がきょとんとして地図をのぞき込んだ。
まったく……。舞は内心で舌打ちした。少しは自分の頭で考えろ。
「築山の斜面からは道を歩く俺たちの姿が丸見えってことさ。それとこちらから斜面に隠れた相手は発見しにくい」
瀬戸口はこともなげに言った。そろそろ停止、と合図をしようとした時、舞が耐え切れずに口を出したのだ。
「偵察を出した方が良いのではないでしょうか?」
壬生屋が瀬戸口に提案した。
「偵察、ねえ……」じっと胴衣姿に目を留めると、壬生屋の顔がみるまに赤らんだ。
「薮の中を行けば大丈夫ですから。わ、わたくしが行ってまいります!」
「未央ちゃん、ののみも連れてって」東原が嬉しそうに手を挙げた。
と、それまで黙っていた厚志が遠慮がちに口を挟んだ。
「あの、僕でよければ行きますけど。なんだか悪い予感がするんです」
「悪い予感とは?」舞が目を光らせた。
「確かにあの築山、待ち伏せには便利ですけど。なんかそれだけじゃないような……」
「すげー。らしいじゃん、速水」滝川が能天気に感心してみせた。
「真面目にやってください、滝川さん!」壬生屋はきつと滝川をにらみつけた。
「悪ィ。ただ、いいこと言うなと思って」滝川は頭を掻いた。
「あ、いいこと思いついた。その東屋をウチらのもんにすればあたり一面丸見えやわ」
加藤はあまりわかっていないようだ。
「速水の言うことはもっともだな」と瀬戸口は考え込んだ。
こちらがゆっくり道を歩いてきたのに対し、敵はその数倍の速さで移動しているだろう。すでに東屋とその付近に展開し、こちらを待ち受けているとしたら――。
「俺が行こう」
「だめだ。そなたはリーダーゆえ、誰を派遣するか決めるがよい」
舞は厳しい口調で引き留めた。
「ちなみに言えば、我らはすでに敵に発見されていたとしても不思議はない。もう少し緊張と集中力を高めてもよいと思うが」
苦々しげに言う舞を瀬戸口は冷やかすように見た。
「じゃあ芝村、行ってくれるか」
「わかった」
「……と言いたいところだけど、芝村の姫様に命令するなんて畏れ多いんでね。速水と壬生屋に頼むよ」
舞の日に一瞬、怒りの色が宿った。が、すぐに表情を消すとむっつりと黙り込んだ。
厚志は舞の横顔を盗み見た。怒っているな。いらだちを抑えている。瀬戸口はそんな舞の様子を面白がっている。どうしてだ? 瀬戸口も芝村を嫌っているのか?
「芝村さん、何か注意することがあったら教えて」
自然、舞に媚びるような口調になった。舞は冷たい笑みを浮かべ、厚志を見つめた。見透かすようなまなざしだった。
「そなたに教えることなどない」
「はははフラれたな、速水。俺たちはそこの薮に隠れている。ふたりとも一緒に行動して、付近の様子を探ったら戻ってきてくれ」
「なぜ速水と壬生屋なのだ?」
ふたりが行った後、舞は瀬戸口に尋ねた。
「ふたりとも俺のお気に入りなんだ」瀬戸口は舞を挑発するように言った。
「それもよかろう。だが、どうせならもう少しもっともらしい理屈が聞きたかった。速水が壬生屋をどう抑えるか、あるいは壬生屋が速水をどれほど信頼しているか知りたい、とかだな。それはそれで今後のデータになる」
瀬戸口の韜晦《とうかい》を予期していたとみえ、舞は即座に言い返した。
「姫様は難しいことを言うね」瀬戸口は受け流すように言った。
「……今後、姫様と言ってみろ。殴ってやる」
「わかった、わかったよ。暴力は苦手でね、姫様」
舞の目が怒りにきらめいた。ぐっと拳を握り締める。心配そうに自分を見上げる東原の視線を感じた。今は騒ぎを起こしている場合ではない。舞は拳を解くと、忌々しげに横を向いた。
「速水さん、聞こえますか?」
厚志と壬生屋は常緑樹の群落の中を匍匐して、東屋の方角から聞こえてくる物音に耳を澄ませていた。ぬかるんだ地面を壬生屋はためらいもせず匍匐している。真っ白な胴衣が台無しだった。厚志は少しだけ壬生屋を見直した。
「風の音じゃないね。犬とか猫とか」
「敵かもしれませんよ」
「敵だったらあんなにがさがさやらないよ。僕たちと同じく、物音には気をつける」
「……そうですね。けれど」
壬生屋が口を開きかけた瞬間、東屋の裏手から人の声が聞こえた。「来ないねー」「なんか変わった人たちやったけど、どこへ消えたんやろ」こちらから見て反対側、西側の斜面である。
壬生屋は袂から地図を出すと、声の位置を確認した。
「築山の裏側にいますね。すぐに戻りましょう」
「ちょっと待って」
厚志は壬生屋を押しとどめた。引っかかる。危険を告げる声がした。厚志の脳裏に山狩りの光景が浮かんできた。逃げ道を発見し、安心したところを狙われる。
もう少し様子を見ていたかった。
「どうかなさいましたか?」
壬生屋は不満げな声で尋ねた。
「静かになったね。きっと今頃は移動しているよ」
「どうしてそんなことがわかるんです? 理由をおっしやってくださいっ」
壬生屋の強い口調に、厚志は耳を押さえた。頭が痛くなる。
「ええと……特に理由はないよ。なんとなく、だね」
「なんとなくで押し通せるほど、速水さんはご自分に自信があるのですか? わたくし、先に戻ります」
壬生屋は起き上がると、身を屈めて移動した。厚志はしかたなく壬生屋の後を迫った。追跡されないようふたりはわざと遠回りして、仲間がいる薮に転がり込んだ。
「あらら、ふたりとも泥だらけやね」
加藤が目を見開いた。ふたりとも散々な姿になっている。
「敵の位置が判明しました! 道なりに行って築山の裏側、西側斜面に隠れています。声が聞こえたんです」
興奮のためか壬生屋はうっすらと頬を染め、報告した。
「ふうん、裏側ねえ。俺たちが東斜面を探って、異状なしと判断した直後の油断を衝く。そんな感じかな。彼女たち、けっこう考えてるな」
瀬戸口は珍しく真顔になって考え込んだ。本音を言えばこの種の遊びは嫌いではない。ただ、善行と芝村の掌の上で踊らされるのが気に食わない。
「あれ、わざとです」
厚志の声に皆が振り返った。
「どういうことだ?」と瀬戸口。
全員に注目されて厚志は怯んだ。誰も口を開こうとしないので、しぶしぶと言葉を継いだ。
「きっと……僕たちに気づいて、わざと声を聞かせたんですよ。今頃は別のところにいて僕たちが仲間を連れてやってくるのを待ってるんだと思います」
「ふむ。意見が食い違うな。どうするのだ、瀬戸口?」
舞は口許をほころばせた。もう少し客観的な情報が欲しかったが、速水はなかなか鋭い。
これは模擬戦闘というより、集団同士の隠れん坊だ。ひとりでも逃がしたら、広大な樹木園を延々と探すはめになる。相手を分散させずに一挙に狩れればそれに越したことはないだろう。
「芝村の意見は?」
「わたしは速水の考えが正しいと思うが」
「じゃあ俺は壬生屋の味方をするよ」瀬戸口はあっさりと言い放った。
「え、そんな……」
壬生屋は顔を赤らめた。味方だなんて。不謹慎だ。そんないい加減なことでいいのか? しかし自分の判断が支持された嬉しさからか、抗議できずに黙り込んだ。
「うーん、師匠と速水の板挟みってのも辛いな。俺、パス一」と滝川。
「ののみ、たかちゃんと同じがいい。ごめんね」東原が「意見」を表明した。
「そういう問題じゃ……」
厚志は困惑した。偵察とやらの役目は果たした。実は匍匐している時から誰かに見られている、と感じていた。が、それはなんとなくだ。説得力はなかった。そうこうするうちに敵の声が聞こえてきた。
都合が良過ぎる。罠だと直感した。そんなはずないじゃないか。このメンバーならいざ知らず、あの子たちはよけいなおしゃべりをするような感じではなかった。
「ウチも壬生屋さんに賛成や。さっさと終わらせて帰りたいしな」
加藤の声を聞いて、厚志は白けた気分になった。
百パーセントとは言わないが、九十以上の確率で自分の方が正しいと自信がある。が、このメンバーを説得するのは面倒くさかった。ゲームだから高をくくっている? けれど高をくくることに慣れた人間は必ず痛い目を見る。幻獣相手の戦争がどんなものだかは知らないが、真っ先に死ぬのはここにいる人たちだろうな。嫌気が差していた。
「他に言うことはないか、速水」
舞に尋ねられ、厚志は考えを読まれたようにドキリとした。
「そ、そうだね……こ僕の言っていることはあくまでも勘だから。けど、相手の声が聞こえたからそこにいるなんてなんだか都合良過ぎると思うんだけど」
「あはは、速水君って悲観的なんやね。レッツ・ポジティブ・シンキングや。敵さんの不運とウチらの幸運を信じましょ」
「加藤よ、運を当てにするポジティブ・シンキングなど考えたくもないぞ。あー、とにかく情報が不足しているようだ。ゆえに……」
言いかけて舞は口をつぐんだ。今回は瀬戸口に任せると決めたのだ。善行の言う「問題点の摘出」とやらに同意したのではなかったか?
「すまん、瀬戸口」
「ははは、まあそう真剣にならずに。よし、今回は壬生屋情報を信じて西側斜面を奇襲する。そういうことで了解願いますよ、姫……じゃなかった芝村百翼長閣下」
なるほど瀬戸口はわたしを怒らせるゲームを楽しんでいるのだな、と舞は納得した。
「了解した」
築山のオモテは東側斜面である。道に画していて、東屋に登る石段がある。そのウラである
西側は道に面してはいず、斜面からはすぐに常緑樹の茂みが広がっている。
敵にしてみれば隠れるのにもってこいの西側斜面に潜んで、東側を捜索する味方の不意を衝くつもりだろう。その裏を掻き、大きく迂回した後、常緑樹の茂みから西側斜面に接近しようというのが瀬戸口の考えだった。
成功すれば不意討ちになる。
瀬戸口は仲間を先導して西側斜面へと向かっていた。
実はかなりの確率で速水の方が正しいと思っていた。が、別に勝つつもりはなかった。リーダーとやらに自分を任命し踊らせようという善行・芝村が気に食わなかったし、女子校の子たち、一生懸命な目をしていた。だったらうまく負けてやれ、と彼らしく考えた。
「あの……」
厚志が声をかけてきた。木々の間から西側の斜面が見え隠れしている。
「なんだい、ハニー」
ずるつと音がして壬生屋が足を滑らせた。
「……固まり過ぎていませんか? もう少し分散した方がいいと思うんですけど」
「ま、いいから。別にホンモノの戦争やっているわけじゃなし」
「もう……いいです」
厚志は表情を消して後ろへ下がった。不満そうだな、と瀬戸口は首を傾げた。
厚志はそのまま動かずに瀬戸口らを見送った。
全員を先に行かせた後、姿をくらまそうと思った。
ざざ、と薮が鳴る音がして滝川が顔を見せた。
「あれ、どうしたんだ速水」
「君こそ」
「ん、ちょっとな、リスを見つけて。構っていたら遅れちやって。瀬戸口さんたちは?」
厚志は彼らのいる方角を指さすと滝川が立ち去るのを待った。
「一緒に行こうぜ」
「……ごめん。先に行ってて」厚志は滝川から視線をそらした。
「どうしたんだよ。なあ、速水」滝川は厚志の顔をのぞき込んで、ビクリと後ずさった。
「先に行ってくれ!」
厚志の目には怒りともなんとも形容できぬものが浮かんでいた。
舞が振り返ると、滝川を追い払っている厚志が映った。滝川はほうほうの体でこちらに移動してくる。厚志はといえば、動かずにじっとこちらの様子をうかがっている。
舞は歩きながら、後方の厚志に注意した。微かな音がして、厚志の姿が消えた。
舞は地面に屈み込んで瀬戸口を呼び止めた。
「靴紐が解けた。先に行くがよい」
「OK。ゆっくりでいいよ」
芝村舞も嫌気が差してきたろう、と瀬戸口は思った。芝村一族の末姫。何が目的なのかはわからないが、こんな吹き溜まりの落ちこぼれ集団に入り込んできた。舞が抜ければ少なくとも隊は芝村の影からは遠ざかる。トラブルの種は未然に摘んでおくのに越したことはない。頼むからこんな下々の隊から離れて栄転でもなんでもしてほしいものだ。
西側斜面はすぐ目の前だった。
滝川を見送った後、厚志は木々の間を抜け、走った。もうごめんだ。あんな危なっかしい人たちにつき合って戦争に行くなんて嫌だ。この分じゃ、十中八九、僕は死ぬことになる。
「僕は生きたいんだ」
厚志は敏捷なけもののように走り続けた。僕は自由だ。自由なんだ。
枯葉を踏み締める音がして、背後から何者かが猛スピードで近づいてきた。ダッシュをかけようとした瞬間、厚志は襟首を引っ張られてバランスを失った。しまった! このままじゃ捕まる。とっさに厚志は相手に全体重を預ける。仰向けに倒れ込みながら、すばやく体勢を変え、脅威に過剰反応した腕を振り上げる。着地と同時に、相手の鼻柱は砕けているはずだ。
しかし――厚志の一撃は空を切った。拳が土にめり込み、厚志は痛みに顔をしかめた。
「速水」
聞き覚えがある声だ。それでも警戒を解かず、身を起こすと急いで後ろに下がって身構える。
と、芝村舞と視線が合った。舞も目を光らせ、油断なく厚志の出方をうかがっている。
戦意喪失。厚志はほっと息を吐くと、両手を下げた。
「芝村さん。皆と一緒じゃなかったの?」
「靴紐が解けてな」
舞は厚志から視線を外さない。すべてお見通しというわけか? 観念してうつむいていると、舞は静かな声で続けた。
「そなたは何を恐れている? 今の態度は穏やかではなかったぞ」
厚志は、一瞬考え込んだ。逃げたことを責めないのか? それとも芝村さんも僕と同じことを考えていたのか? だとしたら説明はつく。
「……ご、ごめん。急に掴まれたから」弁解しながら厚志はしきりに逃げ道を探した。
西側斜面の方から女性の声が響き渡った。
「433、257、176、958――」
ふたりは顔を見合わせた。舞はゆっくりと息を吐いた。
「やられたな」
「うん」
少し遅れて「861」と声。続いて「ちつくしよう」と滝川の悔しがる声が聞こえてきた。
全滅だ。何事か考えている舞を残して、厚志は去ろうとした。
「待て」
厚志はつい足を止めてしまった。舞の声には有無を言わせぬ力がある。
芝村さんもメンバーに愛想を尽かして逃げてきたんでしょ、と言おうとして口ごもる。しかし舞の口から出たのは意外な言葉だった。
「移動するぞ。二対七の不利な戦いだが、まだ勝機はある」
「え、だって……」
「だってもくそもない。そなた、夜目は利くか?」
「大丈夫だと思う」答えてしまってから、厚志は自分の口の軽さを呪った。
「ふむ。ならば決まりだな。じきに陽が落ちる。夜陰に乗じて遊撃戦を行う」
「ちょっと待ってよ」
「ん……ああ、恥ずかしがることはない。生理的欲求ならそこらで処理するがよい」
瀬戸口の目の前では女子校の面々が歓声をあげていた。腕を取り合い、跳びはねる様子は樹木園前で挨拶した時の緊張した様子からは考えられない光景だった。
まんまと罠にはまってしまった。
それならそれでいいさ。瀬戸口はふっと笑みを洩らした。仰向けになると、悠々と寝そべった。陽は大きく西に傾き、空は茜色に染まっている。
「たかちゃん、ののみ、いつまで死んでなきやいけないの?」
東原が頬杖をついて瀬戸口の顔をのぞき込んだ。
「ま、いいじゃないか。ほら、空がきれいだよ」
「えへへ、たかちゃん、楽しそうだね。ののみも楽しいよ」
わっと声がして壬生屋が泣き出した。
「わ、わたくしがいけないんです! わたくしが……」
「おいおい、壬生屋。泣くことはないだろ。おまえさんの情報を選んだのは俺だ。すべて俺の貢任ってわけさ」
「けれどけれど……」壬生屋は両手で目を覆って嗚咽している。
「だからそんなにマジになるなって。鬱陶しいぞ」ため息交じりに瀬戸口は言う。
「『マジ』になってもらわないと困るのですがね」
影が瀬戸口の視界を遮った。いつのまにか善行が厳しい表情で立っていた。
「ああ、委員長。見事にしてやられました。起き上がっていいですか?」
「だめです。しばらくそのままでいなさい」
穏やかな声だったが、善行の口調には有無を言わせぬものがあった。
「死体運搬完了、と」
若宮が滝川を小脇に抱えて善行の前に立った。滝川は悄然として声も出ない。
「そこらに放り出してください」
「はっ」若宮は一礼すると、瀬戸口の隣に滝川を放り出した。滝川の足が鳩尾を直撃して瀬戸口は腹を押さえた。
「あ、危ないだろ。ちょっとは気を遣え!」
「おや、死体が口をきくのか。不思議なことがあるもんだな」若宮はにやっと笑った。およそ三十分間、善行は沈黙したまま「死体」を眺めていた。
これが辛い。まだ起き上がって正座でもした方がましだ。三月の冷気が土の下から忍び寄り、体を冷やす。それ以上に恥ずかしかった。平然としている瀬戸口以外のメンバーは善行に見つめられるたびに顔を赤くした。
「あの……東原さんはもう」沈黙に耐えられなくなって壬生屋が口を開いた。
「東原さんも死体ですから。特別扱いはできません」善行はにべもなく言った。
「さて、と。それでは若宮君、帰りましょうか」
善行がうながすと番犬のように控えていた若宮は「ほっ」と畏まって応えた。
「この近くにうまい鴨鍋を食べさせてくれる店があるんですよ。今夜あたり、どうです?」
「そりゃあ豪勢ですな。ご相伴いたします」
背中を見せるふたりを瀬戸口は呼び止めた。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ。俺たちはどうなるんです?」
「忘れていました」善行はわざとらしく言って振り返った。
「ここで解散。明日は始業一時間前に登校すること。全員に面接します」
「面接って……」加藤がウンザリしたように口を挟んだ。
「主に本日の訓練についてですね。ひとりひとりから事情聴取なします」
それだけ言うと善行はすたすたと歩み去った。後に残されたメンバーは茫然として互いに顔を見合わせた。善行委員長ってなんて冷たい人なんだ、と誰もが思った。何を考えているのかわからないし、怖い。自分たちはそんなに悪いことをしたのか?
「さあ、とっとと帰るぞ」
瀬戸口がうながすと、皆、辛そうに立ち上がった。
「待って。速水がいないよ」滝川が、はっとして言った。
「わかっている。芝村もな」
「探した方が良くないですか?」と壬生屋。
「まあ、子供じゃないんだから適当に帰るだろ」瀬戸口が面倒くさそうに言った。
「けど、やっぱり俺。あいつ、なんだか変だったし……」と滝川が口ごもる。
「あのな、おふたりさんの邪魔しちゃいかんのとちゃう?」
「じゃあ、これでどうだ? おおーい、速水、芝村、俺たち、先に帰るからなー。あ、そうだ、明日は一時間早く来いよー」
瀬戸口は両手をメガホン替わりにして声をかけた。
ふたりは園内の用具置き場に隠れていた。長い間使われていないらしく、一坪ほどの小屋は蔦に覆われ、格好の隠れ家となっていた。ここで陽が暮れるまで待とうと舞は提案したのだ。
厚志は舞につき合っていた。何度も逃げ出そうと思ったのだが、体が動いてくれなかった。
「瀬戸口か? 何を言っている?」舞は扉を開けると耳を澄ました。しかしそれ以上、声は聞こえず、あたりはしんとした静寂に包まれた。
「ごめん、聞き逃した」
厚志は謝った。舞とふたりきりになって少々冷静さを失っていた。
時間が流れた。陽は西の果てに落ち、夕暮れの残照が明かり取りの小窓から射し込んでいる。
「ねえ、芝村さん」膝を抱えて体育座りをしていた厚志が口を開いた。
「なんだ」舞は小窓から外の様子をうかがっている。
「その、芝村一族ってなんなの? 悪の結社とか帝国を築くだとか。わけわかんないんだけど」
舞が身じろぎする気配。顔を上げると、舞がこちらに向き直っていた。
「ふむ。悪の結社かどうかはわからぬが、いずれ我らは七つの世界をことごとく征服するであろう。これは必然だな」
「世界……征服?」厚志がたじろぐと、舞はふっと笑った。
「なんだその顔は? 我らは別に世界を手に入れようなどとは思わぬが、余人は勝手に我らを敵と考え、戦いを挑んでくる。我らがこうしてしゃべることが気に食わぬらしいのだな」
舞は長々としゃべったが、厚志にとってわけがわからぬ状況は一向に変わっていない。
厚志の沈黙を理解と受け取ったか、舞は淡々と続けた。
「そしてそういう者たちと戦えば、我らは必ず勝つ。そんなはずは、とか、こうでなければならぬと固定観念に縛られた者では我らに勝てぬのだ。ゆえに我らは勝ち続け、自動的に世界は我らのものとなろう」
芝村とは全世界の政治・経済・軍事に大きな影響力を持つ新興の名族だった。その一族の特異な点は、血によってではなく、能力と志を持つ者によって構成されることだ。
芝村の重要なポストにつく者が子を儲けたとしでも、一族がその能力を認めず、本人が望まなければその子は芝村でなくなる。逆に言えば孤児として育った者でも、ふさわしいと認められれば芝村を名乗ることを許される。
舞は一般の言葉で語ることに慣れていないために、こうした端的な表現となるは「我らは必ず勝つ」厚志はこの言葉に魅せられた。
「芝村は強いんだね」強い者は好きだ。
「強くあらぬば芝村ではないからな。陽が暮れたぞ」
舞は立ち上がると、小屋を出た。厚志も続いて外へ出て、闇に目を凝らした。
「だめだ」
「どういうことだ?」
「園内の照明が消えている。この暗さで歩き回るのは危ないよ」
夜の森を厚志は知っている。無明の、手探りの世界だ。今の園内はそれに近い。夜目が利くといっても限度がある。
「わたしには夜戦の経験はないが、それは相手も同じことであろう」
「……これじゃ数字が読めないよ」
ぼそりと言われて、舞ははっとした。肝心なことを忘れていた。実際の戦闘ならば敵の気配を求め、そこに向かって弾をばら撒くことはできる。しかしこのゲームは、確実にゼッケンの数字を読み取らねばならぬ。
「くつ、なんというぶざまな過ちを……」舞は拳を自分の掌に打ちつけた。大真面目である。
同時に自らの失策を挽回するために、必死に作戦を考えていた。
「ねえ、もう帰ろうよ」
厚志の言葉に耳を傾ける。帰る? それも作戦の選択肢のひとつか? 否。それは敵前逃亡になる。速水め、雑音を吹き込むな。
「逃亡をしたら撃つ、もとい、殴る」
「逃亡ってさ……」
厚志は一瞬ひやりとした。しかし舞はそれ以上言わず、用具置き場に戻った。膝を抱え、考えている。夜の冷気がしんしんと押し寄せてくる。体操着の上下では耐えられない寒さだ。舞はしきりに手をこすり合わせた。
「寒くない?」
「む、大丈夫だ」と言いながらも、屋外での生活に慣れている厚志と違って舞は辛そうだ。しょうがないな、と思いながら、厚志はやおら舞と背中合わせに座って背と背をくっつけた。
「な、何をするつ!」
舞が飛び退くと、厚志は気まずげに下を向いた。
「……別に。ただ、こうしてると少しは暖かいよ。そんな、悪いこと、かな?」
厚志の言葉を吟味したのか、やがて舞は「ふむ」とうなずき、再び背中合わせに座った。
「なるほど。確かに体温の低下は避けられるな」
「……これからどうするの?」
落ち着かなく動く舞の背中を意識して、厚志は尋ねた。
「夜戦は中止だ。夜明けを待って攻撃を開始する。そなたは少し休むがよい」
声がした。耳を澄ますと、仲間たちが何やら口々に叫んでいる。
「舞ちゃん、あっちゃん、かくれんぼは終わりなのよ。出てきて――」
東原の声だ。しんとした間によく響く。
「訓練は終了しました。早く出てきてください、速水さん、芝村さん――」
壬生屋の声も東原に負けず、よく通る。
「ぶざまだ」
舞はぽつりとつぶやくと、立ち上がった。
翌朝、善行の面接を終えた厚志は教室に赴いた。
どうやら自分が最後だったらしく、教室にはすべてのメンバーが揃っていた。芝村舞を壬生屋と滝川、加藤が取り囲んでいた。瀬戸口は我関せずといった顔で、東原は心配そうにその様子を見守っている。
「……あ、あなたの方こそ協調性に欠けているじゃありませんか! どうして皆さんとはぐれたんですか?」
壬生屋だ。舞に何か言われたらしく、顔を真っ赤にして噛みついている。
「そうだ、ぶざまであったってのはなんだよ。俺たち、飯も食わねえでおまえらのこと探しに行ったんだぜ!」滝川も珍しく怒っている。
「普通は迷惑かけたってひと言あるもんや。……別に芝村に喧嘩を売る気はないけど、人間関係は和ちゅうもんが大切やで」
澄ました顔で座っている舞に、加藤は諭すように言った。
厚志は東原の傍らにしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
東原は悲しげにかぶりを振った。
「壬生屋が昨日の判断ミスを謝ったら、芝村の姫様は『ぶざまな戦いであったが、良さ糧となるであろう』だと。それにかちんと来たらしいんだな、壬生屋のやつ」
瀬戸口が代わって答えた。
「え、けど……」厚志は言いかけて言葉を呑み込んだ。
その通りじゃないか、と思った。ぶざま。ゲームと高をくくったあげく、まんまと敵に出し抜かれた。壬生屋さんの言う協調怪とは、全員仲良く「ぶざま」を分け合うことか? 揃って仲良く戦場で死ぬことか? 昨日の白けた気分はまだ続いている。
「わたしは――」
舞が口を開いた。冷静なまなざしで三人を見る。
「あの訓練を生死を懸けた戦闘と考えた。それゆえに昨日の結果をぶざまと評した」
「だからあ、あれはホンモノじゃねえだろ?」滝川がウンザリしたように言う。
「本物ではないから手を抜くのか? 我らはそんな傲慢が許される立場なのか? そうではなかろう。頭を冷やして考えるがよい」
「注目」
善行の声がした。全員の視線が善行に注がれた。若宮が傍らに従っている。
「面接の結果、およその事情はわかりました。これより講評を行います」
講評と聞いて全員が目をしばたたいた。なんだかやけに大げさだ――。そんな生徒たちの視線を無視するように善行は続けた。
「結論から述べましょう。あなたたちの資質、能力は水準をはるかに下回っています。別の言い方をすれば、あなたたちは最低のクズ、ですね」
「クズ……」壬生屋と滝川が同時につぶやいた。
「あなたたちはそれぞれ強過ぎる個性を持ち、そのため配属先を転々としたり、受け入れ先が決まらずここに来ることになりました。いわば問題児の寄せ集めですが、それでもわたしはあなたたちに期待していました。個性が強いことはマイナスではない。問題児は問題児なりに、自らの頭で考え、困難を乗り越えることができるのではないか、としかし昨日の模擬戦闘訓練を見た限りでは、それは幻想に過ぎなかった。緊張、集中の不足は幼児並です。さらに致命的なことは謙虚さがまったく欠如していることです。それぞれ入校まもないという自分の立場を考えてください。あなたたちは兵として素人であり、弱者です。ならば弱者は弱者なりに、より真剣により必死に、訓練に取り組まねばならなかった。わたしは本当に失望しました。あなたたちは最低のクズです」
善行は眼鏡を直すと、若宮を従え教室を去った。
後には茫然とした生徒たちが残された。見捨てられた? こんなにあっさりと見捨てるのか?
「最低のクズ、ねえ。善行さんも大変だな」
瀬戸口が飄々とした口調で言った。さほど衝撃を受けているようには見えない。東原がもの問いたげに瀬戸口を見上げた。
「失礼しますっ!」
壬生屋は席を立つと、教室から駆け去った。
昨日から自分を責めていたことに加えて、善行の言葉が急所を衝いた。これまでどの隊へ行ってもうまくいかなかった。今度こそうまくやろうと思っていたのに。
「クズならクズでけっこうや……と」加藤も悄然と席を立った。いつもの陽気さは消え、どこか孤独で不安そうな生地が透けてみえた。
「祭ちゃん、どこ行くの?」東原が声をかけると、加藤は力なく笑った。
「割のいいバイト、探しに行くんや。クズにはクズの生き方があるやろ」
厚志は、どうするんだというように舞を見た。舞は腕組みしたままだ。そして厚志にではなく、ぼんやりと成り行きを見守っている滝川に言った。
「滝川、加藤を拘束せよ」
「え、あ、はいっ……」
滝川はダッシュすると加藤を羽交い締めにした。「何するんや!」加藤の怒声が響いたが、
滝川は強引に加藤を引きずり戻した。
「じきに授業が始まる。席に着くがよい」
舞が澄ました顔で言うと、すぐに教官の本田が教室に入ってきた。揉み合う滝川と加藤を一喝すると本田は何事もなかったかのように講義を始めた。
放課後。厚志と滝川はどちらからともなく連れだってグラウンドを走っていた。しばらくの間、ふたりは黙々と走り続けていたが、やがて滝川が口を開いた。
「これ力らどうなるんだろ?」
「さあ……」
厚志は言葉を濁した。それはこちらが聞きたいことだ。それにしても善行委員長のあの冷たさはどうだ。この分じゃ僕たちはお払い箱か? お払い箱になった学兵はどうなるんだろう?
「加藤のやつ、泣いてた。授業中ずっと」
「うん」
「この分じゃ戦車に乗れそうもねえなー。善行委員長、機嫌直してくれねえかな」
滝川はぼやくと、がくっと頭を垂れた。甘やかされた愛玩動物のように無警戒な危うさ。まだわからないのか? 厚志は衝動的に口走っていた。
「……君たちが悪いんだ」
「おい?」
「僕たちは試されているんだ。見捨てられたら終わりなのに、君たちは遊び半分だった。そんな簡単なことがどうしてわからないの?」
「どういうことだよ、それ」
滝川はむっとしたようだ。しかし厚志は前を向いたまま、憂鬱な声で言った。
「委員長の言う通りだ。君たちは最低のクズさ。役に立たない人間は収容所に送られるんだよ、きっとそそこで殺される」
「ばっきやろ。おまえ、電波か? わけわかんねえこと言うんじゃねえ!」
滝川は憤然として厚志の肩を掴んだ。厚志はすばやくその手を振り払う。トラック上でふたりは足を止めてにらみ合った。滝川の目には涙があふれている。今にも泣きそうだ。なぜ僕はこんなことを口走ったんだろう?.厚志の心からどす黒い感情が消えた。代わりに憐個のようなものが生まれた。全身の力を抜くら滝川が突進してきた。逆らわず、地面に倒れ込む。顔面に一発食らった。第二、第三の衝撃に備え、厚志は歯を食いしばったが、続きはなかった。厚志の上に馬乗りになって滝川は嗚咽していた。
「ちつくしょう。馬鹿にしやがって……!」
嗚咽する滝川を見て、厚志は後悔した。滝川は生きることに無邪気過ぎるだけだ。
「ごめん。言い過ぎたね……」
厚志は、おいおいと泣く滝川を持て余した。
背に視線を感じた。振り返ると、桜の木の下に芝村舞の姿があった。腕組みをしてじっと厚志を見つめている。
厚志は滝川にもう一度謝ると、引き寄せられるように舞に歩み寄った。
「なぜ、殴り返さぬ?」
舞の問いには好奇心が交じっている。
「悪いのは僕だから」
「話が聞こえた。正直な感想だと思うが?」
「滝川はパイロットになるため志願したんだ。ひどいこと、言っちゃったよ」
「それにしては真剣味が足りんな。善行が機嫌を直してくれるのを指をくわえて待っているのか? やつには何かに打ち勝とうという姿勢が感じられぬ。ああ、これはこの学校の連中に共通することだがな」
なんと答えてよいのかわからず、厚志は沈黙を守った。
「しかし、そなたは違うらしい」
舞はふっと笑って厚志を見つめた。自分が赤面するのが厚志にはわかった。
「そんな……同じだよ」
厚志は慎重に答えた。
「わたしに殴りかかってきたそなたは別人であった」
「……ごめん。そのことはもう言わないで」
「わたしに協力せぬか?」
舞は唐突に切り出した。厚志はまたしても答えに窮して下を向く。認めてくれるのは嬉しいが、舞との会話には緊張が伴う。
「何をすればいいの?」
「雪辱戦だ。もう一度戦う。だが、わたしが呼びかけても誰も集まらぬだろう。そこでだ、
そなたにやつらとの交渉役を務めてもらいたい」
「交渉役……?」厚志は首を傾げた。
「善行のあれは下手な芝居だ。そなたの言う通り、我らは試されている。与えられた課題をこなすだけの訓練では一ヵ月の教育期間で我らを一人前にするのは無理と考えたのだろう。ひるがえって考えるに昨日の模擬戦闘訓練は我らの負けを期待していたようだ。負ければその原因を考える。原因を考え、勝つための方策を練るだろう、とな」
「それって期待し過ぎ」
無理がある、と厚志は難しい顔になった。見たところ、そこまで前向きなのは舞くらいしかいない。他の人たちは暢気なものだ。自分をごまかして敗北を忘れるこてしかできないだろう。厚志の反応に、舞は口許をほころばせた。その通り。善行は分の悪い賭けに出ている。
「ゆえにわたしとそなたが連中の尻をたたく」
舞に言われて厚志はしばらく考え込んだ。どうして僕がそんなことをしなければならない? 本来なら、昨日も試みたように今この足で脱走するのが正解だろう。けれど――。厚志は足下の地面を見つめながら今ひとつの可能性を考えていた。
そうだ。選択肢は増えているんだ。
芝村は絶大な権力を持っているという。芝村舞にくっついていれば安全かもしれない。いざという時、僕を守ってくれるかもしれない。厚志は顔を上げ、舞に笑いかけた。
「わかった。僕にできることならなんでも言って」
逃げることはいつでもできる、と思いながら厚志は請け負った。
戦時下というのに新市街のゲームセンターは混雑していた。
滝川は近頃お気に入りのシューティング・ゲームの筐体にずっと張りついていた。
「あらあ、そこで冴えない顔してるのはごますり男やん」
背後から声がかかった。加藤の声だ。滝川は振り返らず、熱心に画面を見つめていたが、爆発音と同時にわめきたてた。
「あっ、ちつくしよう! おまえが声をかけるからやられちまった。弁償だ、百円弁償しろっ、二七関西弁!」
滝川機墜落。GAME OVER。滝川は振り返ると忌々しげに加藤をにらんだ。
「ウチが声かけないでも時間の問題だったって。CPUに遊ばれるなんて、あんた才能ないわ。無駄遣いはやめとき」
加藤はどこ吹く風でうそぶいて隣の席に座った。いつもの調子に戻っている。滝川はどこかほっとする思いで加藤に向き直った。
「……けど、ごますり男はねえだろ」
「芝村さんにしっぽ振ってた。最低やね!」
「ちぇっ、あれはおまえが自棄起こすからだよ。だいたいな、割のいいバイトってなんだよ。焦るじゃねえか」
割のいいバイトといえば……あれか? あれはだめだ。滝川の顔が赤らんだ。そんな滝川を見て加藤は陽気に笑った。
「あはは、心配してくれたの?」
「ちょっとな」
「あ、そうや。あんた、ウチの胸触ったでしょ。慰謝料一万円や」
「ば、馬鹿! 偶然だよ。そんな貧乳、頼まれたって触るもんか。十円なら払ってやる……なあ、もう大丈夫か?」
知り合ってまだ三日しか経っていなかったが、あの時の加藤は別人だった。気弱で自信なさげな様子。自分と似たにおいを感じた。
「うん、大丈夫。頭冷えてる」
加藤は恥ずかしそうに笑った。以前の自分を思い出していた。冴えない根暗女。友達の後ろにいつも隠れている印象の薄いやつ。自分を変えたいと思って、この学校に来てからは無理して明るく振る舞ってきた。善行の言葉はそんな仮面をバリバリと引き剥がした。
表面だけ繕っても、しょせん最低のクズ――そう聞こえたのだ。
「だったらいいんだけどよ」
滝川は憂鬱そうな表情になっている。滝川君ってこういう顔してたんやわと加藤はその横顔を見つめた。滝川も仮面が取れかかっている。
「そちらの方こそむしゃくしゃしてるみたいやね」
「俺たち、クビかな?」
「どうしてそう思うんや?」
「善行委員長、すげー怒っていたし。パイロットになりたがるやつってけっこういるだろうし。俺、どうなっちゃうんだろ」
パイロットになるのは難関だ。訓練の過程で不合格の賂印を押された者は容赦なくふるい落とされ、代わりに新しい候補生がやって来るんだと滝川は思い込んでいた。
冴えない顔はそれが原因だったのかと、加藤はふうっとため息をついた。
「だったらだったで上等や。クビになって早く家に帰りたいわ」
「おい、過激なこと言うな」
滝川はあわでてあたりを見回した。その様子に加藤は声をあげて笑った。
「あれ、壬生屋……?」
ゲーセンの入り口の前を胴衣、袴の少女が通り過ぎてゆく。壬生屋だった。もの珍しげに振り返る通行人にも動ぜず、顔を上げて口許をきっと引き結んでいる。夜の新市街をうろつくなんて似合わねえと滝川は思った。
怪訝な顔をする加藤を後目に、滝川はゲーセンを出て壬生屋に声をかけようとした。
「巫女じゃねえか」
五人の学兵が壬生屋を取り囲んだ。声をかけようとして、滝川と加藤はためらった。いずれもふたりより体格が良く強そうだ。
道を塞がれた壬生屋は立ち止まり、油断なく目を光らせ彼らをにらみつけている。
「2Aの田嶋な、おまえに腕をやられたおかげで今も病院通いしている」
「詫びのひとつでもあるかと思ったら、逃げちまうんだもんな。ちょうどいい、ここで落とし前つけようじゃねえか」
人数がいるという心強さからか、学兵たちは口々に勝手なことを言い始めた。が、壬生屋は相手をにらんだまま、怯んだ様子は一向に見せない。
「わたくしは自分を守っただけです! それに逃げたのではなく、転属になったのです」
壬生屋は唇を震わせ、それでも凛としたまなざしで言い放った。目許が赤らんでいるのは恥じらいではない。怒りのためだ。
滝川と加藤は看板の陰に隠れて、様子を見守った。
「なんや事情がありそうやね」
「それどころじゃねえって。このままじゃあいつ、やられる。助けなきや……」
滝川の顔から血の気が引いていた。膝ががくがく震える。喧嘩らしい喧嘩をしたことなんかなかった。それでも……あれを放っておいたら後悔するだろう。仲間を売り渡すことと同じだからと直感的に思った。
「加藤、警官でも憲兵でもいいから呼んできてくれ」
「よっしや。で、滝川君はどうするの?」
「殴られに行く」滝川は泣きそうな顔で言うと、ダッシュして手近なひとりに組みついた。滝川と学兵はもつれ合うように地面に倒れ込んだ。
「逃げろっ、壬生屋――!」
「滝川さんっ!」
壬生屋の叫びと滝川の悲鳴が重なった。誰かが滝川の腹を蹴った。壬生屋は冷静を取り戻すとなおも蹴り続けようとする学兵の腕を取り、軽く引っ張る。学兵は宙に浮き上がり、次の瞬間には地面に激突していた。
後ろから髪を掴まれた。壬生屋は振り返りざま、二本の指を突き出した。学兵の目に凶器と化した指が吸い込まれると思われた瞬間、壬生屋は指を曲げた。悲鳴。両目を押さえた学兵がこれも地面に転がった。
「これでも手加減しているんです。すぐに見えるようになりますわ」
壬生屋はさらに学兵の腕をねじり上げ、足の甲を踏んだ。これもあっさりと地面に転がる。
圧倒的な強さだった。優位を確信していた学兵は、三人が地に這い、ひとりは滝川にブロックされている。残るひとりは真っ青になって逃げ出すきっかけを探っていた。
見物人が増えてきた。汗だくになって相手を押さえ込んでいた滝川は、周囲を見渡して思い出したように言った。
「しまった。このままじゃ憲兵が来ちまう」
壬生屋と顔を見合わせる。壬生屋はじりじりと後ずさると、おもむろに駆け出した。滝川もあわてて壬生屋の後を追う。
「こっちです、友達が不良にからまれて――」加藤の声がした。
滝川は加藤の名を呼ぶと手を振った。憲兵を従えた加藤は、何事かと滝川を見る。滝川が身振りでついてこいと合図をすると、加藤は「あ、もういいです」と憲兵にペコリと頭を下げ、次の瞬間には猛然とダッシュしていた。
表通りを避け、路地から路地へと抜けるうちに小さな広場に出た。壬生屋は足を止めた。
滝川と加藤は奇跡的に壬生屋の姿を見失わずに済んだ。
ふたりと違って壬生屋は息も切らさず、しょんぼりとその場にたたずんでいた。ふたりには気づいていないようだ。
「壬生屋」
壬生屋は振り返ると、はっと口許に手を当てた。壬生屋から発せられるすさまじい緊張に、滝川は辟易した。
「声をかけようと思ったら。なんなんだよ、あいつら」
「前の隊の……あの人たちのお友達に怪我をさせてしまって」
「ま、いいや。どうせ理由があるんだろ? あいつら悪役面してたし。けど壬生屋って強いんだな。助けなんか必要なかったかな」
滝川はほっとして笑いかけた。女性を逃がして、自分はポコボコにされるという王道パターンその一を覚悟していたからだ。あれはそこそこ格好いいけど、下手すれば死ぬ。
「壬生屋さん、夜遊びはいかんよ。それまで体を折り曲げ息を調えていた加藤が、滝川の後ろから声をかける。滝川戦死、壬生屋拉致の最悪の状況を予想して、必死に憲兵を探した。ただでさえ焦っていたところに、走り続けで心臓がばくばく言っている。
壬生屋の顔がかあっと赤らんだ。
「あ、あの、わたくし皆さんには申し訳ないことを……」
「へっへっへ、別にいいっで。悪いのは壬生屋じゃねえし。けっこう楽しかった、かな?」
「いえ、昨日のことです。皆さんにご迷惑をかけて。わたくし最低ですっ……!」
壬生屋は嗚咽を堪え、うつむいてしまった。壬生屋には先ほどの立ち回りより昨日のことが重要らしい。最低のクズ。善行の言葉がいつまでも脳裏にこだましていた。不良との喧嘩などは物理的な問題に過ぎなかった。
「最低は俺。……俺なんてリスを見つけて、追いかけているうちに遅れちまったんだぜ」
壬生屋の緊張をほぐしてやろうと、滝川はにかっと笑いかけた。
「あはは、アホやねー。あんたは楽しい幼稚園か? けど、あのこと、ウチもショックやった」加藤はすぐに笑みを消し、ぽつりと切り出した。
「え……?」
「善行さんのこと。けどな、壬生屋さんは訓練真面目にやってた。――だからえらいと思うんよ。ウチなんてこんな寒いところ抜け出して家に帰りたいと思ってただけ」
「そ、そうだぜ。ああいうのって真面目にやらなきやいけないんだよな。壬生屋はえらいよ」
滝川も急いで相づちを打つ。自分や加藤と違って、壬生屋は熱血な分、落ち込みの度合いがハンパじゃないのだろう。
壬生屋は物憂げな顔でふたりを見た。
もう同じ繰り返しは嫌だ。口先だけで慰めてくれる人間など掃いて捨てるほどいた。けれど、壬生屋が多数派と対立し、孤立するに従って離れていった。これが辛かった。からまれて喧嘩することなど、それに比べればたいしたことではない。こうした経験は壬生屋をますます孤独な、閉ざされた心の少女にしていた。
「……そんなこと言って、わたくしを陰で笑っているのでしょう?」
「なんやて?」
「わたくしが変わっていて世間知らずだから、からかうと面白いんですよね」
どうせこの隊でも孤立するんだろう。壬生屋は寂しげにうつむいた。どうしちゃったんだ、
壬生屋は? 滝川と加藤は言葉を失って立ち尽くした。
「まったく、こつばずかしいやつらだな」
声がした。路地の暗がりから長身の男が飄然と姿を現した。
「瀬戸口さん、どうしたんですか?」
「愛を求めてさまよっていたのさ。……こらこら、固まるんじゃない、滝川」
瀬戸口はぽかんと口を開ける滝川の頭をはたき、壬生屋に笑いかけた。
「しっかりしろよ、壬生屋」
瀬戸口の笑みを、壬生屋は嘲笑と取った。
「もう馬鹿にされるのはたくさんですっ!」
きっと瀬戸口をにらみつけると、きびすを返して駆け出した。肩を掴まれた。振り払おうとした壬生屋の拳が何かに当たった。
「考え過ぎるな」
瀬戸口だった。口の端を押さえている。
「あ……、ご、ごめんなさい」壬生屋は凍りついたよう立ち尽くした。
「どうってことないさ。そんなことよりだ、善行さんに叱られたくらいで自棄を起こしていたら良いパイロットにはなれないぞ。噂は聞いているよ」
「噂……」
「ここでやるしかないだろ? だったら逃げるな」
瀬戸口の言葉は壬生屋の頭を冷やした。そう、ここでやるしかない。戦死した兄の敵を取るために志願したのだ。こんなところで立ち止まっているわけにはゆかない。
「わかっている。善行さんの話にショックを受けたんだろ? けどな、軍隊というところは滅多に誉めることをしない。戦場ではちょっとした気のゆるみが死を招く。だから隊長って人種はいつだって部下に緊張と集中を強いるのさ。最低のクズっていうのは軍隊流に言えば、可愛いぞおまえらってことでね。これからビシビシ鍛えるからそのつもりでいろっていう、趣味の悪い挨拶さ」
瀬戸口は当たらずとも遠からずの出任せを口にした。善行の言葉の意味はもう少しシビアで切羽詰まっているが、彼らに説明するためにオブラートにくるんでいる。善行が瀬戸口流の翻訳を聞いたら眉をひそめることだろう。
善行と芝村に謀られた、と瀬戸口は悟っていた。訓練未熟で学生気分が抜けていない彼らが失敗するのは当然だ。しかもリーダーとすることで責任を先輩格の自分に押しつけ、自分を巻き込もうとしている。負け犬になった彼らを立ち直らせるのはお兄さんの役目というわけだ。
善行の発想だろうが、まったく可愛げのないやり口だ。
「そうなんですか……?」
壬生屋は目をしばたたいた。落ち着きを取り戻している。
「それ、嘘じゃないですよね、瀬戸口さん?」滝川もあっけに取られて瀬戸口を見る。
「ああ、その証拠に『最低のクズ』だからおまえさんたちに罰を与えるとか、原隊に戻すなんてことにはならなかったろ? 挨拶をしたらさっさと消えたはずだ」
「確かに……」と壬生屋。
「まともな隊長なら一度や二度の失敗くらいで愛想を尽かすような真似はしない。だからおまえさんたちはくよくよするな」
瀬戸口の飄々とした口調は皆を安心させた。壬生屋にしろ滝川にしろ加藤にしろ、他人の言葉に臆病に、敏感になっている。
「そ、そういえばそうですわね」納得したのか、壬生屋はうなずいた。
「なんか瀬戸口さんに言われると安心するわ」加藤も笑顔を取り戻した。
「というわけで、行くぞ」
「行くってどこへ……あ、ナンパですか?俺、つき合います!」
不安が晴れた滝川が嬉々として寄って来た。その頭を瀬戸口がはたく。
「馬鹿、お嬢さんたちもナンパに誘うのか? そうじゃなくて、飯を食いに行くんだよ。この
近くにお好み焼き屋がある。さあお兄さんについてきなさい」
ああ俺はかなり恥ずかしい役をやってるぞと思いながら瀬戸口は歩き出したど
翌日の昼休み、厚志は滝川とグラウンド土手に座ってサンドイッチを食べていた。
滝川との仲を修復しなければならなかった。自分が悪いと思っていたから、素直にごめんの言葉が口をついて出た。
滝川にしても心の余裕を取り戻していたから拒絶する理由はなかった。昨日は皆おかしかった、と思っている。
「もう一回やりたいと思ってるんだ。このままじゃ悔しいから」
厚志が言うと、滝川はきょとんとした表情を浮かべた。おとなしそうな速水には似合わない
セリフだ。
「あれか。おまえ、そんなに悔しいの?」
滝川の答えに余裕を感じ取って、厚志は内心首を傾げた。何かあったのか?
「ちょっとはね。負けたんならその原因を考えないと。その意味じゃ一昨日は良い経験をした。今度やる時は絶対に勝とうよ。僕たち、その……最低のクズと言われたんだ。勝って善行委員長を見返してやろうよ」
と言葉を続けながら、厚志はしだいに気恥ずかしくなってきた。百パーセント混じりつけなしの芝村舞からの受け売りだ。どうにも下手な芝居の筋書きを演じているような気がしてならなかった。
僕はこういう前向きなことは柄じゃないんだけどな。
「善行委員長、なあ。けど、あれって挨拶代わりなんだろ?」
滝川は五つめのサンドイッチを旺盛に岨噂しながら言った。
「挨拶って・……」絶句する厚志に滝川はにっと笑いかけた。
「けど速水がこんなこと言うなんて意外だよな。どしたの、心境の変化? それとも女子校に目をつけた子がいるとか?」
「……そんなんじゃないよ」面倒だ。疲れる。厚志は暖味に笑った。
「なーんてな。けど、善行委員長を見返すなんておまえらしくないセリフ。もしかして、お友達に吹き込まれたんじゃないの?」
ドキリ。厚志は辛うじて動揺を抑え込んだ。
「お友達って誰さ?」
「へっへっへ、赤くなるなって。噂になってるぜ。芝村とのこと。夜の樹木園でふたりに何があったのか? なんて。俺としちやこれ以上、芝村には近づくなって言いたいけどな」
「……芝村はどうしてそんなに嫌われるの?」
厚志が真顔になって問い質すと、滝川も口からサンドイッチをぶら下げたまま真顔になった。
「俺も考えてみたんだよ、そのこと。政治とか難しいことはわからねえけど、芝村ってさ、バイキンみたいなもんだと思ったんだ」
「バイキン……」なんだそれ?
「触ると伝染るっていうか、そんなの。芝村の一族と喧嘩しているやつなら別だけど、理由なんてないんだよな。ただ触っちゃいけないってそれだけ」
「君はひどいこと言ってるよ。理由もなく嫌われるんじゃ、芝村さんはどうすればいいの?」
「わかんね。んなこと俺に聞くなよ。芝村の人間と一緒のクラスになると思わなかったし。速水みたいに普通につき合えるようになるのか、それともずっと嫌ったままでいるのか、どうなるか全然わかんないんだ」
普通につき合っているわけじゃないが、と厚志は言いかけてやめた。どうしようもないってことか、みんなが芝村を嫌うのは。
「それで……協力してくれるかい?」
厚志は話題を変えた。これ以上、芝村の話をすると気まずくなる。滝川は救われたように、
満面の笑顔になった。
「俺はいいぜ。つき合うよ。勝利を我らに、なんてな」
滝川は立ち上がると、右手を高々と掲げた。
「待って。ふたりに話があるんだけど……」
放課後、連れだって教室を出てゆこうとしていた壬生屋と加藤に厚志は声をかけた。
話しかければ愛想良く応じてくれるが、厚志の方から声をかけるなんて珍しい。壬生屋と加藤は何事かと視線を交わした。
「なんでしょう?」
壬生屋は警戒するように厚志を見た。樹木園で舞と一緒に何をしていたのか? あれこれ考えると目の前にいる厚志が得体の知れない人間に思えてくる。
「あ、あの……ええと」
厚志はそんな壬生屋の感情を感じ取って、口ごもった。敵意とまではいかないがすごく居心地の悪い感情だ。回れ右して逃げ出そうかと思った。
と、壬生屋の肩越しに視線を感じた。舞だ。口許は無愛想に引き結んでいるが、まなざしに微かな笑みが交じっていた。やっているな、という目だ。
「もう一度、やってみたいんだ! 壬生屋さん、お願いします」
厚志はいっきに言った。初め壬生屋は驚いていたが、意味を察すると、ふっと口許をほころばせた。
「望むところです。わたくしもそのつもりでした」
「……そうか、女子校との戦闘訓練の話やね。けど速水君、それって差別や! どうして壬生屋さんにだけその話、振るんや?」
「そ、それは……」」
冗談めかして言う加藤に、厚志はたちまち答えに窮した。
「わ……わたしも心外だな。そのような話なら、なぜ真っ先にわたしに相談しないのか?」
芝村舞の声。
「芝村さん……」
厚志と壬生屋は同時に声をあげた。舞は壬生屋と肩を並べると、厚志に向き直った。
「あー、つまりその、わたしも雪辱戦を考えていたところだ。利害は一致する。たとえ一時的に敗北しようとも、最後に勝つのは我らだ」
舞の口調に、厚志は耳を押さえたくなった。棒読み。フォローしてくれるのはありがたいが、限りなくわざとらしく聞こえる。
壬生屋と加藤はしばらく厚志と舞を見比べていたが、やがてふうっと息を吐いた。
「そうですね。今は勝つことだけを考えましょう」
「利害は一致する。上等や。最低のクズから脱出するためなら、芝村とだって手を結んだる」
それから三十分後、厚志と舞は校門脇の芝生で落ち合った。
「それにしても……壬生屋はともかく滝川や加藤は難色を示すと思ったが」
「そ、そうだね。もっと難しいかと思ったけど。……はは、ちょっと拍子抜け」
厚志も舞も人情の機微には疎いところがある。厚志は他人の悪意や欲望などマイナスの面には敏感だったが、ごくありふれた普通のと形容詞がつく状況には慣れていない。舞は舞で人の打算や欲得ずくの行動には鋭い洞察力を示すが、非論理的な感情についてはお手上げだった。
ふたりのコンビは、いわば戦闘機で災害救助に向かうようなものだった。そしてこれに気づかずしきりに首をひねるのがふたりのらしいところだった。
「なぜだ? なぜ連中はあんなに立ち直りが早いのだ? 善行のもくろみではあと少し時間が必要とされるはずだった」「善行委員長の……?」
「む、こちらのことだ」舞は芝生に座り込んで気難しげに腕組みしている。
やつらが本当に立ち直ったとしたら、たいしたものだった。ここに来てからわずか三、四日の少年少女が慣れぬ経験をしたあげく、罵倒される。衝撃のはずだ。にも拘わらず、わずか一日で立ち直るとすればこれは非常な強みかもしれぬ。
「やつら、見かけより強いのかもしれんな」
「強いってどういうこと?」
「精神的にだ。学業やスポーツなど数字に置き換えられる強さはわかりやすいが、精神的な強さは個人のスペックにはなかなか表れぬ。あー、つまり善行が把握するプロフィールだけではその人間はわからんということだ」
厚志の肩に紙ヒコーキが命中し、へなへなと落ちた。舞も頭を押さえて怪訝な表情をしている。厚志は舞の髪の上に着陸した紙ヒコーキを取り除いてやった。
あたりを見渡すと、木陰から東原がひょっこり顔を出した。
「ののみちゃん」
「えへへ、たかちゃんがね、一緒に遊ぼうって」
東原に続いて瀬戸口が顔を出した。聞かれたか? 厚志と舞は気まずそうに顔を見合わせた。
「やはりよからぬことをたくらんでいたようだな。けどかなり恥ずかしい演出だったな」
瀬戸口はにやりと笑った。舞は無表情に相手を見やった。
「……だからなんだ」
「俺は最大の被害者だぜ。おかげで連中と仲良くなってしまったじゃないか。俺としちや名誉ある孤立ってやつを守っていたかったんだがね」
瀬戸口はさも愉快といった風に舞に笑いかけた。舞の口の端がきゅっと上がった。ふっと息を吐き出すと、くく、くくくと含み笑いを始めた。
厚志は今ひとつ状況についてゆけず、ふたりを交互に見比べていたむ
不意に東原に袖を引っ張られた。
「あのねえ、ののみもたかちゃんにおねがいしたのよ。未央ちゃんたちとなかよくしてあげて
って」
「そ、そうなんだ……」厚志は顔を赤らめた。
「そういうことか。速水よ、疑問が解けた。瀬戸口は思った以上に働いてくれたようだぞ」
舞の声は心なしか明るかった。
なるほど、と厚志はようやく合点した。持久走でのことを思い出していた。瀬戸口はピンポイントで仲間をフォローするのが上手だ。考えてみれば、自分たちもフォローされている。
「それで、そなたも雪辱戦に賛成してくれるか?」
「どちらでも。ただし、今度は姑息な芝居はやめてくれ。善行・芝村ラインに踊らされてると思うと気分が悪いから」
瀬戸口は真剣な顔になると、やおら舞の胸ぐらを掴んだ。舞は精悍な笑みを浮かべたままされるがままになっている。
「わかった。今後、そなたには小細工はせぬだが、そなたは自らの頭で考え、最善を尽くさねばならぬぞ。それでよいのか?」
瀬戸口は舞を離すと、ふうっと息を吐いた。善行にしろ芝村の姫様にしろ、人を動かし利用するのが商売だ。おそらくはこうした反応までも計算に入れているに違いなかった。
「束原、芝村が遊んでくれるそうだ」
「わたしは忙しい……な、なんだ?」
東原が歓声をあげて舞にむしゃぶりついた。舞はバランスを失って、芝生に倒れた。
「……というわけですか」
善行は澄ました顔で眼鏡を直した。司令室のデスクの前には、舞と厚志、それから瀬戸口が並んで立っていた。部屋の隅には若宮が番犬のように立っている。
「雪辱戦の件は了解しました。今の話が本当だとしたら希望がありますね。スペックの面で言うなら、ここは吹き溜まりです。彼らは実社会で負け、あきらめることに馴れてしまっている。通常の訓練をほどこしても効果は低いとわたしは判断しました」
善行は静かな声で言った。
「芝村さんの言う精神的な強さを彼らが持っているとしたら、心強い武器になるでしょうね」
厚志は居心地の悪さを感じて部屋から出る口実を探すべく頭をめぐらした。
「彼は?」善行はふと気づいたように目で厚志を示した。
「速水だ」と舞。東原とプロレスごっこをしたおかげで制服のあちこちに草をつけている。
「そうではなく、彼の役どころは?」
「……わたしの、て、手下だ」
舞はなぜか顔を赤らめて答えた。
「手下ねえ……。芝村さんの手下が務まるならたいしたものですよ」善行は、初めて笑顔を見せた。これだけの時間でご学友をつくるなど姫様もやるものだ。
「そんな、手下だなんて。僕は協力してくれと頼まれただけで……」
「ははは。芝村に目をかけてもらえれば軍では出世しますよ」
「だから僕はただ……」
「わかってるって。速水は俺の方がいいんだよな。芝村、俺のハニーに手を出すんじゃない」
瀬戸口がすかさず厚志の言葉を引き取った。厚志と舞はぎょっとして瀬戸口を見る。
「瀬戸口、そなた、まさか……」
「だったらどうする?」
「許さぬ許さぬ。そんな破廉恥なこと、断じて許さぬ!」
ポニーテールのしっぽを揺らし瀬戸口に食ってかかる舞を見て、善行はかぶりを振った。アンバランスだ。大人と子供が極端に同居している。
「雪辱戦の件ですが、近日中に実現できるよう手配しましょう」
二日後、第62戦車学校の面々は、再び堅田女子の戦車兵とまみえることとなった。場所は同じ樹木園である。
善行は女子校の教官と挨拶を交わすと、「申しわけありません」と謝った。
「雪辱戦をやりたいと直訴されまして」
「問題点の摘出は終わったというところですね」
「さて、どうなることやら」
善行は苦笑いした。ここ数日、生徒たちは訓練していたようだが、指導は若宮に一任してある。自分の目を気にして萎縮してはいけないとの判断からだ。
「若宮戦士、彼らの調子はどうです?」
善行が水を向けると、若宮はにやっと笑った。
「やつら、揃ってわたしのところに頭を下げて来ましてね。野外行動術のイロハでも教えて欲しいのかと思ったら、そんなものはいらんと。代わりにあることを徹底して教えて欲しいと頼まれましてね」
「あること、ねえ。まあ、後の楽しみに取っておきましょう」
善行は口許をほころばせた。
「ええと、それじゃ方針をもう一度確認するよ。この戦いは……この戦いは……」
口ごもる厚志に舞が後ろから何事かささやいた。
「そ、そうか……。なるべく楽をして勝とうということ。だから罠を仕掛けたんだった。そうだよね?」
厚志は地図を取り出して、都合十ヵ所に及ぶトラップ・ポイントを示した。すべて対人用の罠でけたたましい音を発し、敵の自由を奪うようになっている。中には踏み込んだとたん網が作動して相手を釣り上げる凝ったものまである。すべて若宮に教わったものだ。
「けど、それってやっぱ卑怯じゃねえか?」
前日、樹木園に忍び込んでの罠設置を手伝わされた滝川がぼやいた。今さらという感じだが、いざ本番となると手段を選ばね戦法に気後れがしてしまう。
「……そのことならきっと大丈夫。罠を使うなとは言われていないし、下準備はいけないとも言われてないよ。それに、みんなで罠作るの、楽しかったじゃない?」
厚志はにこっと笑って、気後れする滝川を励ました。罠を使う作戦は、表向きは厚志が提案したものだった。
「ですけど、わたくしもやっぱり反対です。潔くありませんわ」
壬生屋も昨日は罠作りに散々汗を流した。なぜか発案者の速水厚志は黙々と作業に従事し、図面を手に指図をするのは芝村舞だった。えらそうに、と思ったが、作業自体は楽しく、罠ができ上がるたびに壬生屋はクラスメートと一緒に歓声をあげた。抗議するのは「卑怯者」呼ばわりを恐れる一種の心理的アリバイづくりだ。
「まあまあ、もう決めたことだろ? 速水が困っているよ。それにしても速水って相当なワルだったんだな。芝村も真っ青の極悪非道の作戦じゃないか」
瀬戸口が見透かしたように言った。
「ぼ、僕はただ芝村さんに……」
「しっかりしろ、速水。そなたは作戦を発案し、ここまでこぎつけた。雑音に惑わされず、堂々としておればよい」
舞は威圧するように、厚志をにらみつけた。
厚志はため息をついた。手下は辛いな。これは芝村舞が考えた作戦なんだ、と白状したかったが、舞の目が光っている。
「わかった。それで分担なんだけど……」
「手下」の厚志は話を戻した。戦闘開始まであとわずかだ。
「各班がそれぞれの地域の罠を巡回し、監視します。滝川と加藤さんは北、僕と芝村さんは
真ん中を、瀬戸口さんは壬生屋さん、ののみちゃんと南を担当してもらいます。そうだったよね、芝村さん?」
「たわけ。わたしに確認してどうする?」
「あの……斥候は出さなくてよろしいんですか?」と壬生屋。
「昨日決めた監視ポイントに潜んで獲物がかかるのを待つこと。それだけでいいんだ。ホイッスルの合図と同時にダッシュね」
「なんだかすごく疲れた……」
厚志はぐったりとした顔で、舞を恨めしげに見た。
「不満は残るが、まあ、あんなものだろう」
舞は澄ました顔で応じた。口下手は口下手なりに親しまれる。本当は瀬戸口にこの役をやって欲しかったのだが、彼を動かすのは厄介だった。よくやったと代役の速水を誉めてやりたかったが、誉め過ぎは良い結果をもたらさぬ。
「けどさ、なんだか拍子抜けするような作戦だけど。こんなんでよかったの?」
監視所が設けられた樹上からは四つの罠が見渡せる。舞と厚志は大げさなほど全身に革を結わえつけ、木々にとけ込んでいる。これも若宮から引き出した知識だった。隊員たちは若宮の前で何度も迷彩ショーを演じたものだ。
「わたしは彼我《ひが》の長所短所を考えた。まとまっての集団行動なら女子校の連中に利がある。我らがひと月訓練しても追いつけないほどのな」
「それで罠?」
「何度も説明したと思うがむそなたのシナプスはずいぶんと奥ゆかしいのだな。我らの利は規格外なところにある。数本通りの行動などできぬし、期待されてもいない。ゆえに発想ひとつで敵を破る必要がある。そこで罠なのだ」
舞の目は鋭く罠と罠の間を移動している。
「並の隊なら異議が続出し、この案を通すのが困難であったろう。にも拘わらず、この隊ではあっさりと通ってしまった。発想の柔軟さ、臨機応変。これぞ我らの武器である」
「はぁ……」
あっさりと通ったというよりは、他にアイデアがなかったといった方が正しいのだが、舞は
全員が納得してくれたと信じている。
もっとも、この作戦で皆が勝てるという雰囲気になったのは事実だ。この種の訓練は飽きるほど指導している若宮が絶句したことも生徒たちに自信を与えた。
「速水よ。どうやら敵のようだ」
舞は耳許のイヤホンを押さえ、集中する顔つきになった。
「東屋の付近で停止。様子をうかがっている。ふむ、予想通りの動きだ」
「それって……」厚志は木からずり落ちそうになった。
「集音器だ。我らの担当戦域は敵出現の可能性が高いゆえ、昨日のうちに仕掛けておいた。まだここからは見えぬな」
舞はこともなげに言うと、再び敵の動きに耳を澄ました。
舞が典型的な芝村であるとしたら、敵に回すなどとんでもないことだ、と厚志は思った。
「速水厚志」
ややあって舞が口を開いた。
「何?」
「二度と逃げるなよ」
舞に静かな声で言われ、厚志の全身からどっと汗が噴き出した。
「できればあの罠にかかって欲しいよな」
滝川が指さしたのは巨大な綱だった。滝川苦心の作である。若宮に何度も何度も直され怒鳴られながら作った作品だ。プラモデルをはるかに超える充実感があったり
「あはは。けど、罠は卑怯じゃなかったの?」加藤が混ぜ返した。
「まあ、そうなんだけどよ。せっかく作ったんだからさ」
滝川は顔を赤らめた。罠作りは楽しかったし、気がつくと敵が罠にかかるのをわくわくして待っている自分がいる。それがちょっと後ろめたかった。
「けど速水のやつ、どうしちゃったんだろ? 芝村にこき使われてさ」
滝川がぽつりと言うと、加藤もうんうんとうなずいた。
「あ、気がついてたん? ウチもわかった。この罠、絶対、速水君の考えじゃないよね。速水君、口ごもるたびに芝村さんがひそひそ声で命令するんやけど、芝村さんの声ってよく通るんよね。聞こえた?」
「まあな。芝村は影の番長をやりたかったらしいけど、けっこう抜けてるよな!」
芝村舞に惚れた弱みか、それとも別の弱みを握られてるのか、厚志は一生懸命、舞の操り人形役を演じていたが、ミエミエだった。それを知らないのは厚志と舞だけだ。
皆が作戦に賛成したのは、アイデアがなかったのはもちろん、芝村舞に自分たちにはないものを感じたからかもしれない。とはいえ、芝村を受け入れたわけじゃなかったっ芝村にはやっぱり胡散くささがつきまとう。
「うーん、けど、わざとかもしれんし。油断大敵やね」
加藤は首を傾げ、言った。トラックを手配して裏マーケットに資材を調達しに行ったのは加藤だ。その際の費用は百翼長である舞と相談して、隊費から横領した。けっこうドキドキしたが、責任はわたしが取るとうそぶく舞に引きずられ、悪の道に踏み込んだ。むろん加藤と舞だけの秘密である。「速水が心配だな」と滝川。
「そうやね……それはそうと、なんか来そうもないね」
「敵が来る可能性は南から四・五・一って確率だって芝村が言っていたからな。一ってのは寂しいなあ」
「あれ、リスがいる」
「えっ、どこどこ?」滝川はあわでて樹上からあたりを見回した。
「あっははは。嘘や、嘘。それじゃ速水君と芝村さんが不安に思うのも無理はあらへん」
気難しげに耳を澄ましていた舞の表情に変化が表れた。
「来るぞ。やつらしびれを切らしたな。足音からすると全員が一列になって進んでくる」
そう言うと生き生きとしたまなざしを厚志に向けた。楽しそうだな、と厚志は微笑した。
「B1ないしB2に引っかかる可能性がある。速水よ、準備はよいか?」
「いつでも」
ほどなく悲鳴があがった。「なんなの、これ」と誰かが声をあげたり厚志と舞は位置を確認するとすばやく樹上から降り立った。
身を屈め、音を殺して接近する。全員がかかったというわけではないらしい。がさがさと薮を割って遠ざかる音がする。
「行け、速水」舞の命令で、厚志は罠に向かって突進した。
「114、352」
厚志がゼッケンの数字を読みあげると、女子が金切り声をあげて抗議した。しかし厚志は相手にせず、「926」と別の数字を読みあげていた。ほどなく薮を割って、厚志は帰還する。
「ええと……B1にひとり、B2には……やったね、ふたりかかった。残りはどうやら逃げたみたいだ」厚志が偵察役として報告すると、舞は口許をほころばせた。
「ふっ……」と笑いが洩れる。手を振って、厚志に背中を向くように指図した。
「ふふ……ふふふ」含み笑いと同時に、地面をたたく音がした。戦闘訓練だと言いながら、舞は明らかに楽しんでいた。
「そ、そんなに面白いかな?」
「ふっ、今だけだ、今だけ。笑いは人間の本能のひとつとも言うぞ。わたしは滅多に声をあげて笑わぬが、ふふっ、こんなに楽しいとは思わなかった」
「戦争になると別だと思うけど」厚志は困惑してつぶやいた。
「だから今だけなのだ.思えばわたしは同年代の者と遊戯にふけることは絶えてなかった。これは代償行為かもしれぬ。ふふっ……」
「ふっ」
厚志の口からも息が洩れた。舞の笑いが伝染していた。ふ、ふふふ。そうだよ、僕だって遊んだことなんてなかったよ。楽しいよ。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだ。厚志も必死に笑いを堪えようとした。舞の手が伸びて厚志の肩に触れ、振り向かせた。
「ふっ……」しゃべるでもなく、舞はおまえもそうかと目で語っている。
「ふふっ」厚志はうなずくと、身を折り曲げて笑った。つかのま、ふたりは笑いのキャッチボールを続けていた。
「それで……これからどうするの?」
笑いの発作が治まった後、厚志は真顔になって舞に尋ねた。舞もいつもの不機嫌そうな顔に戻っている。
「まだ五人残っている。ポイントに戻って監視を続ける」
「あ、けど、罠にかかった子たち、助けないでいいの? 泥水を張った落とし穴にいつまでもいると風邪引くと思うけど。網にかかった子たち、怪我したみたいだ」
こう言われて舞は考え込んだ。暴走し過ぎたか? しかし罠の地点に敵が戻ってきて逆に待ち伏せしている可能性もある。
「あの、さ。悪い冗談なんだから一応、謝っておかないとね」
「ふむ。ならば速水、そなたに任せる。わたしは万が一のことを考え、監視所に戻る」
厚志は落とし穴まで憤重に進んでいった。
周囲の音に神経を集中し、少しでも異状がある時はじっと薮に身を潜める。敵は戻っていなかった。落とし穴をのぞくと女子がひとり、憤然とこちらを見上げた。厚志は、しつと指を唇に近づけ、
「騒がないと約束してくれたら助けてあげる」
と話しかけた。
「卑怯ですよ、落とし穴なんて」女子は厚志が持参したロープを登ってぶつぶつと言った。
「これも作戦だから。ごめんね」
厚志が謝ると、女子はしぶしぶと死んだ振りをした。
ざっと薮が鳴った。厚志はとっさに転がると薮に逃げ込んだ。足音が聞こえた。泥まみれになった女子を助け起こす気配。「ひどーい」とつぶやく声。厚志は薮から顔を出すと、「244」と数字を読みあげた。はっとして振り向く女子。しかし厚志は一目散にその場を後にした。
もうひとつの罠付近に隠れ、相手を待つ選択もあったが、これ以上、欲張れば墓穴を掘ると勘が告げていた。
「芝村さんたちのところで動きがあったみたいです」
壬生屋は敵の悲鳴を聞き逃さなかった。瀬戸口が隣で身じろぎした。
「ああ。じきに俺たちのところにも来るぞ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「待ち伏せを食らったら一目散に逃げるのがセオリーだからな。いったん後方に下がって体勢を立て直してくる。その場合、同じルートは使わないさ」
「そ、そうですね」瀬戸口の説明に壬生屋は感心してうなずいた。見かけに寄らないと思った。
本当は真面目な人なのかしらと考えた。
「ねえねえ、ののみはどうするの?」
瀬戸口の袖を引っ張って、東原が尋ねた。瀬戸口はやさしく笑って東原の頭に手を置いた。
「東原は番号を読みあげる役だ。楽しいぞ」
「うん! ののみ、数字読めるから」
「わたくし、罠の近くまで移動してましょうか?」
じっと待つのは壬生屋の得意ではない。壬生屋は逸る気持ちを抑えかねて言った。敵はより慎重に進んでくるだろう。少しの異常でも見逃してはならなかった。
「そうだな。頼めるか?」
言い終わらぬうちに壬生屋は勇躍して樹上から降り立った。先日の喧嘩で見せた無駄のないしなやかな動きでまたたくまに薮に消えた。
滅多に履かない運動靴がすぐに泥だらけになった。壬生屋は地図でおよその位置を確かめると、敵を待った。樹木園には多くの音がある。烏のさえずり、風のざわめき、風にさらわれる枯葉の乾いた音。遠くから軍用車両のエンジン音が聞こえてくる。
こうして神経を集中していると様々な音が耳に入ってくる。さらに集中を高める。かさこそと枯葉を踏み締める音がくっきりと聞こえた。
(来る……)
足音に意識を集中する。数は四人ないし五人。罠にかかるとしたらいいところ半分か? いえ、一度引っかかった後だもの。それは虫が良過ぎる。落とし穴――まず落とし穴にひとり。敵はすぐに分散して逃げるだろう。
落とし穴の敵は放っておいて、背を見せる敵を追いかけよう。緊張に心臓が高鳴る。しかし壬生屋にとってはここしばらく経験していなかった心地好い緊張だった。
敵の悲鳴が聞こえた。ざっと枯葉を踏み締める音。壬生屋は薮陰から飛び出すと敵を迫った。
三人。なりふり構わず逃げてゆく。最後尾のゼッケンの番号を読みあげる。とたんに相手はへなへなと地面に座り込んだ。ざっざざざ。薮の中を走る。枝が頬に当たるが、構わない。ふたりめに追いつき、これも倒す。
壬生屋の勢いに敵はパニックに陥ったようだった。最後のひとりが足をもつれさせ転んだところを壬生屋はすかさず追いつき番号を読みあげた。
「な、なんなのよ……!」
壬生崖が前に立つと、女子校の生徒は顔を上げて叫んだ。泣きべそをかいていた。
「あの、お怪我はありませんか?」差し伸べた手を相手は振り払った。
「なんなのよ、あんたたち? 殺されるんじゃないかって、怖かったわ。この間とは全然違うじゃないの」
「……ご、ごめんなさい」
壬生屋は恐縮して、平謝りに謝った。
「ええとね、325」東原の声が落とし穴の付近から響いた。
壬生屋が近寄ると、東原が落とし穴をのぞき込んでいた。瀬戸口は壬生屋に気がつくと苦笑して肩をすくめた。
「すごいじゃないか、三人を一挙にやっちまった」
「わたくし、怖いですか?」
「ああ、怖い怖い」
瀬戸口の返事に、壬生屋は憤然として叫んだ。
「真面目に答えてくださいっ!」
「おまえさんの動きを見てないからわからないが、迫力があったんだろうな、きつと」
誉められているのかどうか微妙なところだったが、壬生屋は矛を収めた。落とし穴の中では相手がしきりにぼやいているっ「こんな卑怯な手で勝とうなんて。常識疑うわよね」
「ひきょうってなに?」
東原は相手を助けようと手を伸ばしているが、さすがに無理だ。代わりに瀬戸口が「お嬢さん、お手をどうぞ」と恭しく腕を伸ばした。
勝利を宣言した後、樹木園前に集合した生徒たちは晴れやかな顔で善行の前に出た。えへんこれで文句ないでしょ、という得意顔である。
「第62戦車学校、ただ今帰投した」
芝村舞は腰に手を当てて無表情に言った。善行は苦笑いを浮かべ、眼鏡を直した。若宮から詳細を聞かされて、「いやはやどうも」とかぶりを振るばかりである。
「目的のためには手段を選ばぬ、ぞくぞくするような勝ちつぶりですね。こんな卑怯な手で勝利して恥ずかしくないですか?」
言葉の割に善行の口許はほころんでいる。何よりも生徒たちが自らの力で勝つ手段を模索してくれたことが嬉しかった。
「けど、これって芝村の作戦ですから」澄ました顔で加藤が言った。
厚志と舞はぎょっとして顔を見合わせた。
「な、何をたわけたことを! これは速水の……」
舞の顔がみるまに赤くなってゆく。目立たぬよう、陰で速水を操っていたつもりだったが。
「ははは、もう下手な芝居はたくさんだ。最初から全部ばれていたよ、芝村。おまえさん、役者には絶対になれないな」
瀬戸口に冷やかされ、舞は悔しげに唇を噛んだ。
「けれどわたくし、勝てて良かったと思っています。芝村さんの考えてくれた作戦があったから、勝てたんですよね」
壬生屋の言葉に、生徒たちは耳を疑ったが、やがて大きくうなずいた。
「芝村は嫌いやけど、芝村さんがいてくれると心強いゆうことがよくわかったわ。けど芝村さんて可愛いとこあるんやねー。影番気取っちゃったり。大昔の学園漫画の読み過ぎや」
加藤のひと言は舞に堪えたようだ。どういう態度を取ったらよいかわからず、舞は固まったままその場に立ち尽くした。
「どうです? これで少しは見込みが出てきたんじゃないですか?」
瀬戸口は相変わらず飄々とした口調である。
「多少は」善行はそっけなく言ったが、笑いを抑えるのに苦労していることがわかる。
厚志の口許も知らずほころんでいた。
「そ、そなた、何を笑っている?」笑い者にされ被害妄想に陥っている舞に責められ、厚志ははっと口許に手を当てた。
「ええと、その……、だって楽しかったじゃない? 芝村さんも楽しかったでしょ」
舞は憮然として厚志をにらみつけた。
「あ、そういえば忘れてた……」加藤が思い出したように口を開いた。
「滝川君が大変なんよ! 自分で作った罠が動くかどうか確かめたいって……」
「なんだと。それで、試したのか?」と瀬戸口。
「はいな。それで今、綱にからめ取られて木の上。救援隊を待ってます」
「早く助けませんと」
壬生屋が心配すると、善行は「何をやっているんだか」とため息をつき、言い放った。
「しばらくさらし者にしておきましょう。彼にも少しは成長してもらいませんとね」
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第二話 教官の憂鬱
保健室に顔を出すと先客がいた。
芳野春香が仮眠用のベッドで寝息を立てていた。酒くさい。第62戦車学校教官・本田節子は彼女を起こさないよう軽く舌打ちをした。酔っぱらい教師大集合かよ、と我ながら情けなくなって手にしたペットボトルのウーロン茶をあおった。
不眠症は近頃に始まったことじゃない。昔っからそうだった。だからぎりぎりまで体を痛めつけ訓練に励んだし、酒豪の評判を取って野郎どもに交じって酒を飲んで歩いた。しらふで部屋に戻ると、眠れないことがわかっていたからだ。
それでも昔は良かったなと本田は思う。悩みといえば男のことが何割かに、後は細々としたことだけだ。まあ、わかりやすかった。
今は違う。教官になってからは男の悩みなぞきれいさっぱり消え失せた。代わって入り込んできたのは生徒たちだ。色気もへったくれもない鼻ったれの餓鬼ども。やつらと関わるのは厄介だ。なんといっても兵隊をつくり出す学校だ。深く関われば死なれた時の衝撃が大きい。
だからわざと派手な格好をして、乱暴な言葉を遣ってそれを迷彩として連中と距離を取った。
(くくつ……もともとそうだったって説もあるけどな)
本田は自嘲気味に笑うと、大あくびをした。さすがに昨日は飲み過ぎた。行き着けの店で球磨焼酎の燗をちびりちびりとやるうちに度を越した。気がつくと家の玄関でサンダルを枕替わりに寝込んでいる始末だ。
「あら本田先生、どうなさったんですか?」
芳野が目を開けて怪訝な表情をしていた。
「ああ、ちょっと。芳野先生こそ相変わらずですね。授業、始まりますよ」
芳野は本田の同僚だが、本田以上に酒を飲んでは保健室の世話になっている。外見だけ見ればスーツに身を包んだ清楚な女教師といった印象だが、アルコールが入ると別人になる。何度か一緒に飲んだことはあるが、かなりやばい酒なので近づかないようにしている。以前、職員室でこっそりウィスキーの小瓶を飲んでいるところを見つけ、取っ組み合いをして止めたこともある。
「今日は休みます」芳野はぷいと横を向いた。
「休むって……あんたねえ」
「だってわたしの授業なんて誰も聞いてくれないんだもの。この前なんて出席してくれたのは芝村さんと壬生屋さんと東原さんだけでした」
英語だけでなく実技一般を教える本田と違って、芳野は国語担当だ。要するに戦車を動かすイロハには関係がない。
そりゃそうだな、と本田も思うが、それを言うと芳野はまた落ち込むい
「HRの担当として連中に言っておきますよ。あー、こんな時だからこそ役に立たない学問が必要なんだって。あ、俺が教えてる英語もそうか」
「嘘です。英語は出席率いいじゃない」芳野はすねたように言った。
「それは俺がエアガンで撃つから、じゃなかった。英語があるのは朝だから。朝弱いから国語は午後にしてくれって言ったの、芳野先生じゃないですか。午後はあれで連中、けっこうやることがあるらしくて。善行の訓練もあるし」
「……わたしの授業なんて意味ないんでしょうね」
「情けないこと言いなさんなって。そ、そうだ。漫然と授業しているだけじゃつまらんから生徒に競争意識を持たせる、なんてどうです?」
ああ、芳野ワールドにはまってしまったと後悔しながら本田は芳野をなぐさめた。
「競争意識?」
「たとえば百人一首を暗唱させるとか。そ、それでグループ分けして対抗させるんですよ。国語は格闘技だ、なんてね、ははは」
本田は苦し紛れに言って保健室を逃げ出した。
しょうがねえからグラウンド土手で寝転がるか、と思って歩き始めると、速水厚志と滝川陽平が連れだって走ってゆくのが目に留まった。
「おい、おめーら」
声をかけるとふたりはしぶしぶと立ち止まった。
「午後から授業だろーが」
「え、ええ、その、少し体を鍛えとこうと思って」厚志が口ごもる。
「つべこべ言わねえで授業に出ろっ!」
本田が怒鳴りつけると、ふたりは回れ右してプレハブ校舎へと走っていった。
「……つたく」
本田はちっと舌打ちすると、芳野の馬鹿の様子を見るため教室へと向かった。教室をのぞくと、速水と滝川を含めて三人の生徒が手持ちぶさたにしていた。消しゴムバトルをしている厚志、滝川と最前列に陣取っている壬生屋未央と。
「どうした? 芳野先生は?」
本田が教壇に立つと、三人とも首を振ったl。
「滝川、三分だけ時間をやる。保健室へ行って芳野先生の様子を見てこい。速水と壬生屋、おめーらには制限時間五分だ。片っ端からさぼってるやつを捕まえてこい.捕まえられなかったらエアガンの刑にするからな」
三人が教室を飛び出した後、本田は苦笑した。何を仕切ってるんだ?
芳野が酒を飲むのは生徒の出席率の問題じゃないことは本田もよく知っている。自分と同じ理由だ。子供たちを戦場に送るのが辛い。ただ、芳野の方がやさしく、傷つきやすい性格なので限度を超えてしまうのだろう。本田はその点、どの教師よりも芳野を評価していた。
「芳野先生、寝てました」
滝川が駆け込んできた。
「だめか?」
「はい、なんかすげー酒くさくて。だから起こしませんでした」
「よし、席に着け」
本田と一対一になって滝川は縮こまっている。遊び半分ににらみつけると、頭をいっそう低くして限界まで縮こまってしまった。面白えな、もっと遊んでやるかと思っていると壬生屋の甲高い声と善行忠孝の柔らかな声が聞こえた。
「わたしは急ぎの用があるんですが」
壬生屋に腕を引っ張られ、善行は迷惑そうに本田に言った。
「るせ1、とつとと席に着け! で、壬生屋、捕まえたのは善行だけか?」
「いえ、後から来るって瀬戸口さんと加藤さんと石津さんが」
「よおし、大戦果じゃねえか。特に善行を捕蔓えたのは殊勲甲だ。戦艦に直撃弾ってやつだな」
「はあ……」壬生屋は首を傾げながら席に着いた。
ほどなく教室の外に速水の声。四分五十秒。ぎりぎりだ。
「だからさ、本田先生の命令なんだって」と速水。
「ののみ、いそがしいのよ。ブータと遊ぶってやくそくしたんだから」
ブータは戦車学校の敷地に住み着いている老猫で、以前は誰かに飼われていたのか、赤いチョッキを着込んでいる。生徒たちのマスコット的存在だった。
「わたしも図書館で調べものがあったのだが」舞も不機嫌に抗議をする。
「だめだよ。誰も捕まえられなかったらエアガンで撃たれちゃう。僕を助けると思って」
速水が芝村と東原の手を握って教室に入ってきた。
「うん、両手に花ってやつだな。席に着け」
本田はもう一度教室内を見回してにらみを利かすと、
「今日は芳野先生は休みだ。代わりに俺が国語の授業をやる」と宣言した。教室がざわめいた。
「あなたに国語を教えられるとは思えませんね。意地を張らずわたしを解放してください」
善行が冷静な口調で応じた。
近頃の善行は忙しいどころの話ではない。到着が遅れている人型戦車の手配、整備員の手配、物資、備品の手配、訓練プランの作成、さらには人事にコネクションを駆使して他隊に配属される兵をかすめ取ることなどもやっているようだ。しかも第62戦車学校と名乗る以上は、部隊設営委員長といえども一応授業につき合わねばならない。それが文武両道をタテマエとする学兵の原則である。「つべこべ言うんじゃねえ! 黙って授業を受けやがれ」
と啖呵を切って、さて何を話をうと考えていると、瀬戸口隆之と加藤祭が相次いで入ってきた。教卓からすばやくエアガンを取り出すとフルオートにして引き金を引いた。
「わっ! 何をするんだ」普段はクールな瀬戸口があわてて逃げ惑う。
「待った、ちょっと待った。降参や、先生、降参や!」
加藤はすばやく床に伏せると、他の生徒たちの間に紛れ込んだ。たんとんと階段を昇る音が響く。教室の扉がそっと開けられた。
「ごめん……なさい」
石津萌がおどおどと教室に入ってきた。本田のエアガンを見てうつむいてしまう。石津萌は一昨日この学校に転校して来たフランス人形のような美少女だったが、陰気な態度が長所を台無しにしていた。この学校に来た理由は前校でのイジメであったため、本田は何かと気をつけるようにしている。
「あー、石津。忙しいのはわかるが、呼ばれたらすぐに来ないとな。席に着いてよし」
本田の声音が劇的に変わった。学園アニメに出てくるやさしくてものわかりのよい、かつベテラン声優が担当する先生みたいだ。
「ずるい、ヒイキや。どうしてウチらが撃たれて石津さんが撃たれへんの?」
加藤が口をとがらせて抗議する。
「馬鹿、ヒイキは教官の特権だ! つべこべ抜かすと蜂の巣にしてやるぞ」
本田はじろりと加藤に眼《ガン》を垂れた。
「よっ、暴力教師……って冗談ですよ。た、頼むからそれ引っ込めてくれませんか?」
瀬戸口は人を挑発して楽しんでいるようなところがある。もう一度撃ってやろうかと本田は思ったが、さすがに時間が惜しかった。講義内容はエアガンを撃っている時に閃いた。
「それではこれから軍隊用語についての講義を始める」
「それって国語なんですか?」滝川が手を挙げたが、本田はエアガンを天井にぶっぱなした。
「俺が国語と言ったら国語なんだ」
教室がしんと静まった。
「よしっ、それではー適当にやれ、という意味について話そう。軍隊で言う『適当』ってのはな、考えられる最善のことをやれって意味だ。適当にやれって言われたら、おめーはおめーの全権限を優って、考えうる最善の行動を取る。そうでなければピーナッツ野郎だ。覚えておけよ。あー、何か質問は?」
「あのっ、ピーナッツ野郎ってなんですか?」
滝川が律儀に手を挙げて質問した。
「んなもん、自分で調べろや」と本田は一蹴して、はたと話題に詰まった。まいったな。これで国語の授業は終わりかよ、とあれこれと自分の頭の引き出しを探した。
「さて、以上、国語の授業終わり。今からは本田アワーだ。善行よ、ちょっと早いが、こいつらの主力兵器となる士魂号について話そうと思うが、どうだ?」
「構わんでしょう」
「さて、それでは、おめーらの小隊の主戦力となる士魂号について話そう。士魂号には大きく分けて四つの種類がある.軽装甲、標準装甲、重装甲、そして複座型だ。まず軽装甲について説明すれば、こいつは装甲をほぼ全廃した高機動仕様だ。移動範囲は広いし、速度も出る。代わりにちょっとした被弾で戦闘不能に陥る。練習機として使われる他、弾に当たらん自信があるエースパイロットが使用することもある。蝶のように舞い、峰のように刺すってか。
ま、よっぽどの自信がない限り、こいつでガチンコ勝負はするなって俺は言いたいけどな」
……といった具合に、本田はなんとか授業を乗り切った。途中からスライドを持ってこさせ、各機体の特長について、機体ごとの戦術について語った。パイロット候補はさすがに目を光らせ真剣に聞いていた。
語り終えると同時に授業終了のチャイムが鳴った。ピッタリじゃんか。本田は満足して、意気揚々と引き上げていった。
後に残された生徒たちは唖然として声も出ない。今日の本田はすごかった。講義の内容はともかく、やることがいちいち強引だ。
「俺、知ってる。あれってヒステリーっていうんだよな。怖かったぜ、一対一になった時じ俺のことにらむんだよな」
滝川がおずおずと口を開いた。どうやら心底怖がっているように見える。
「言葉に気をつけなさい」
善行はやんわりと滝川に注意した。
「まったく……仕事も溜まっているのに迷惑極まりない。あなたたちはそんなに芳野先生の授業を休んでいるんですか? だとしたら本田先生が怒っても当然ですよ」
「はは、そりゃ委員長も同じじゃないですか」
瀬戸口は冷やかすように言った。善行はかぶりを振ると、教室を出て行った。
「け、けれど……どうなさったんでしょう、本田先生は。わたくしの目から見ても、今日は様子が変でした」
壬生屋が疑問を提起した。恩師をヒステリー呼ばわりするのは言語道断だが、このまま情緒不安定な授業をされたのでは堪らない。生徒の側からすれば死活問題だ。
「あっ、そういえばウチ見たんよ、石津さんと一緒に。ねー?」
加藤が石津に水を向けると、石津はこくんとうなずいた。
「えっ、なになに?」と滝川が身を乗り出す。
「中町公園でぼんやりしてた。ベンチに座ってビール飲みながら。ため息ばっかりついてウチらのことに気づかなかったんよ。本田先生って悩みあるんとちゃう?」
「それを言うなら俺だって見たよ。夜中にふらふら歩いている酔っぱらいっあれが教官だと思うと泣けてくるね」
瀬戸口の言葉に、壬生屋が反発した。
「それは言い過ぎです! 本田先生だって人間です。きっと理由があるに違いありませんわ」
「まあまあ、そう怒らずに。本田先生だって人間。そういうことさ。俺が察するに、恋の悩みってやつだなら普段、男っ気がない人ほど深みにはよりやすい」
瀬戸口が無責任に言った。なんだかひどく楽しそうである。
「馬鹿馬鹿しい」
舞が吐き捨てた。憶測だけで何を盛り上がっている? こいつらは病気か。相手にする価値もない。
「速水よ、行くぞ」
「えっ、僕? わかった」舞と同じく、厚志もこの事の話題で盛り上がることができなかった。
手下その一の厚志はいそいそと支度をし始めた。
「恋ってそんなに人をおかしくするものなのですか?」
恋という言葉に敏感に反応した壬生屋が顔を赤らめ、誰にともなく尋ねた。
「あはは、壬生屋さんも恋をすればわかるて。恋は魔法。人間を変える。ウチも瀬戸口さんの意見に賛成。本田先生、絶対恋の魔法に取り憑かれてる」
授業は終わったというのに、生徒たちはぐずぐずと教室に残っていた。
「それじゃね」早いこと避離しようと、厚志は目立たぬよう小さな声で言った。
舞と一緒に教室を出ようとしたところで、瀬戸口に呼び止められた。
「ちょっと待て。それじゃあまりに冷たいだろ」
「え?」厚志は思わず足を止めてしまった。舞が忌々しげに舌打ちした。
「ははは、おまえさんたちももう少しっき合えよ。俺たちは生死を共にする仲間だろ? だとしたらどんなつまらない話題でもつき合う振りくらいはするもんだ」
瀬戸口のもっともらしい言葉に、舞は苦い顔になった。
「わたしが無駄話を嫌うことを知っているはずだが。瀬戸口よ」
「それじゃあ、俺も言ってやろう。芝村、おまえさんはゆくゆくは隊の中心を担う存在になるはずだ。隊の核と言ってもいい。そんな人間が仲間を軽蔑し、孤高を保つのか? それは果たして正しい態度だろうか?」
冷やかすような口調は変わらないが、もっともらしさはバージョンアップしている。
「くっ、何を……!」舞は絶句た。
日頃から気にしていることを衝かれていた。仲間とのコミュニケーション不足は舞の弱点でもあった。それゆえ厚志を手下としている。
「うん、わかればいいんだ」
瀬戸口はにやりとして舞に笑いかけた。舞は憮然として黙り込んだ。
「ね、ね、石津さん、占いできるんよね。占ってくれへん?」
加藤はやおら石津の首っ玉に抱きついた。石津はびっくりしてうつむいてしまう。
「へぇ、石津って占いできるんだ。面白いじゃないか、見せてくれよ」滝川は目を輝かせた。
「ののみも見たい! ね、未央ちゃんもおねがいして」
「そうですね。わたくし、手相とか墓竹を使う占いなら知っていますが、石津さんの占いはどんなものなんですか?」壬生屋も興味を惹かれたように石津に話しかけた。
「……占星術、と水晶」
石津はぽつりと言うと、拳大の永品玉を取り出した。手をかざし、何やらぶつぶつと唱えると、一同、固唾を呑んで見守った。
「視え……ないわ。何も……視えない……の」
しばらくして、石津は管しそうに机に突っ伏した。それでも一同は満足した。テレビで見る占い師なんかよりよっぽどらしかったからだ。
「見えない? 見えないってどういうこと?」と滝川。
「もしかして……先生、よっぽど苦しい恋をしてるんやないか。そんな、すぐに男と女がくっつくとか簡単じゃないやつ。そうや、だから見えないんよ! 障害の多い恋なんやね」
加藤がうんうんとうなずきながら言った。
「不倫か」瀬戸口のひと言に一同はぎょっとした。
「す、すげー。オトナじゃん!」
と滝川。不倫って、あれだよなと昼メロを思い出しながら叫んだ。
「不潔……」壬生屋は恥ずかしそうに下を向いた。
「ねえねえフリンって何?」東原が近くにいた舞の袖を引っ張った。
「せ、瀬戸口に聞け」
舞と厚志は困惑して顔を見合わせた。後悔の念。さっさと消えればよかった。舞の意を察して、厚志はすばやく逃げ道を探った。ここから逃れなければ、僕たちは道化の仲間入りだ。
「おっと、抜け駆けはなしだよ、マイ・ハニー」
瀬戸口の長い腕が厚志の首に巻きついた。後ろから抱きつかれ、厚志はパニックに陥った。
「ぬぬぬ、抜け駆けだなんてひ僕たちはただ……」
「本田先生を探して真相を確かめようとした。わかってる皆まで言うなl。けどな、真実を知りたい思いは皆同じだ。どうせなら一緒に行こう」
「たたたた、たわけっ!」
どうあってもわたしを怒らせたいらしいと舞は瀬戸口をにらみつけたが、厚志を人質に取られている分、迫力が不足した。痛恨だ。授業終了と同時に教室を出ていれば、今頃は図書館で高等数学の世界に没頭することができたものを。朝から楽しみにしていたのに――。
「速水さん、そんなに本田先生のプライバシーが知りたいのですか?」
壬生屋が耳たぶまで真っ赤に染めて言う。
「そんな、僕はっ!」
「なあ速水、俺たち、規友じゃねえか。一緒に行こうぜ」
滝川がにっと笑って厚志に友情ヘッドロックをかけてきた。なんなんだこいつらは? 厚志はたたみかけるようなクラスメートの「仲間だろ|電撃作戦《フリッツ・クリーク》」にまいってしまった。
その時、芳野がふらふらと教室に入ってきた。なぜか出席簿を手にしている。
「あら、今日はどうしたの? 賑やかで先生嬉しいわ。さあ、席に着いて」
にっこりと微笑む芳野に、生徒たちはしばし茫然としたが、加藤が気を取り直して言った。
「先生、時計を見てください」
「あら、どうして進んでいるのかしら? 故障かな?」
芳野は時間を確認して首を傾げた。
「そうじゃなくって、気分悪そうだったので、代わりに本田先生が授業してくれたんです。その間先生ずっと寝てました」芳野の隠れファンを自認する滝川が事情を説明する。
「けど、本田先生、なんだか変だったんで」
「え、変ってどういうことかしら?」
「恋をしてるみたいなんです」滝川が口を開くより先、加藤は一足跳びに結論を口にした。
「あらあ、幸せね!」芳野は春風のような笑顔になった。
「けどけど、本田先生、もしかしたら不倫してるんじゃないかって」
滝川は懸命な顔で訴えた。
「なんですって?」
芳野は出席簿を落としてしまった。見れば足下がおぼつかない。滝川は、芳野の側に寄った。
「先生、俺、保健室まで送っていきます」
「大丈夫よ。そんなことよりみんなで本田先生を支えてあげてね」
「え、だけどプライバシーの問題には……」と壬生屋。
「そうなんだけど。でもわたし本田先生には幸せになって欲しいの。そんな日陰者の身で生きるなんて本田先生には似合わないわ。先生にはきらきらした太陽のような恋を……」
ふらっと芳野はよろめいた。滝川はとっさに芳野を受け止めた。柔らかな感触。ふわっと香水の香りがして滝川はつかのま幸せになった。
「おばちゃん、ちくわぶにハンペン。それから熱爛を一本追加な」
新市街の一隅にある赤ちょうちんで本田はひとり銚子を傾けていた。引き戸をすべて外して、代わりに葦簾《よしず》が立てかけられた開放的な店で、ついぶらりと立ち寄ってしう。どこからか演歌が流れてきた。カウンターだけの店内には女将と本田しかいない。「なあ、おばちゃんは疎開はしないのか? 早いとこ逃げねえと補助金取りはぐれるぞ」
退屈しのぎに女将に話しかける。
「もう少し頑張ってみるたい。熊本中から飲み屋が逃げ出したら困る人もおるけんね」
「えらいっ! 飲み屋の鑑」
「そぎゃんこつ言われてもなんも出らんて。姉さんこそしゃんところで飲んどらんで」
「わかってるって。よか男を見つけてなんたらかんたらってやつだろ? あいにくと今の仕事についてから男っ気はねえよ」
「ま、詮索はせんばってん」
不意に背後に人が立った。振り向くと善行がぼんやりと立っていた。
「おうっ、千翼長閣下じゃねえか。どうした?」
「通りかかっただけです。聞いたような声がしたので、もしやと思って」
善行は無表情に言った。
「そうかそうか。ま、なんでもいいや。座れ」
「いえ、わたしは用事がありますので」
「ん、なんか言ったか? 座って、とにかく一杯つき合え。話はそれからだ」
たたみかけられて善行は苦笑いを浮かべた。ふうっとため息をつくと姿勢良く座った。
「芳野のやつ、ちょっとやばいな」
善行に酒を注いでやりながら本田は口を開いた。善行とは初めて飲む。話題はなんでもよかった。おめーの刈り上げ寒そうだなでよまければ、連中の様子はどうだ、でもよかったが、なぜか芳野のことが口をついて出た。善行は猪口の酒をひと息に飲み干した。
「これは……」
「くつくつく。焼酎を欄したものだ。関東にいたやつじゃ、ちょっときついだろ」
「ちょっとした奇襲攻撃ですね。おかげで目が覚めました。ところで芳野先生のことですが、あれでけっこう人気があるみたいですよ」「そうなのか?」「ええ。彼らの理屈によれば、芳野先生の授業と芳野先生は別だと。先生と話していると、ええ……ふわりだったかほんわかだったか、そんな気分になるらしいですね。生徒たちは彼女が酒に逃げていることも知っていますが、やさしい人だとわかるのでしょうね」
「それならいいんだが。ぶっこわれて生徒を傷つけたりしたら目も当てられねえよ」
「そのことなら専門家に調査してもらっています」
「うん、さすがだ。なんでも速いな」
「これでも無理に無理を重ねて掻き集めた人員です。事故だけは絶対に避けたい。ああ、そういえば戦闘部隊に収まる最後のひとりをかっさらって来ましたよ」
善行の口調に微かにしてやったりの満足感を感じて、本田は苦笑したりそういやこいつ、俺より若いんだよな。
「そうか。その様子じゃエース級のパイロットを引っ張ってきたとか?」
「いえ、戦畢随伴歩兵なんですが。隊の看板になるような男ですよも運が良かった」
本田は善行の猪口に立て続けに酒を注いでやった。今度は善行は「用事」を理由に拒まず、間を置かずに飲み干した。
「待てよ。来須のことか? あいつ、本当に来るんか?」
「どうして彼のこと知っているんです?」
「エース級はどこの隊でも引っ張りだこだからなー。俺も注意して見ている。小隊レベルじゃそれこそプロ野球のスカウトも真っ青の争奪戦が展開される。隊長の腕の見せどころってわけさ。けどよ、肝心のパイロットは敗鬼どもでいくのか?」
「ええ。彼らは見かけこそあんなですが、士魂号との遺伝子適性は最高レベルですよ。士魂号のパイロットは特殊でして、経験より才能なんです。当初の構想では脇をベテランの戦車随伴歩兵で固め、パイロットを精神的に支えてもらおうと思っていたのですがね。先日、嬉しい誤算がありまして」
「この前の模擬戦だろ? 俺も連中があそこまでやるとは思わなかった」
「放っておくと何をするかわからない。こちらとしては頼もしい限りですむおかげで後日、菓子折下げて女子校に謝りに行かなければなりませんでした」
「おめー、やけに嬉しそうだぜ」
本田が酒を注ぐと、善行はまたたくまに干した。なるほど、こいつ仕事の話が好きなんだなと本田は一種の微笑ましさを感じた。
小一時間、情報交換をしながら酒を飲んだ後、善行は立ち上がったり
「さて、そろそろ失礼します」
「じゃあな」
本田は腰を据えたまま動かない。善行は眼鏡を直すと本田に言った。
「先生もそろそろ店じまいにしたらどうです? 体のことも考えないと」
こう言われて、本田はかぶりを振った.
「ちょっとまいっている、本当はな」
本田の言葉に善行は再び腰を下ろした。ぬるくなった酒を手酌で注いで、あおった。
「うかがいましょう」
「あんな鼻たれどもが使い捨て部品のように、前線に送られて行くりあの年頃っていやあ、俺たちの頃はよ、学校と友達だけが現実でよ、なーんも起こらない平和で単調な生活ってやつに抱き飽きして馬鹿やったり、下駄箱にラブレター入れたり、屋上に好きなやつ呼び出してラブコメやっちまったり、文化祭でマイムマイム踊ったりって、そんなもんだったろ? けど、あいつらはいきなり過酷な現実に投げ込まれたんだ。しかもだぜ、そいつは大人が目を背ける、大人が認めたがらねえ現実だ」
本田は憂鬱な口調で淡々と話した。
「俺は飢鬼どもを戦争に送り込んで恥じない戦争屋が嫌いだし、餓鬼どもが一生懸命戦っているのに戦争はいけませんなんて聞いた風な口をきく自称・平和主義者はもっと嫌いだ。くそっ、あいつらは物じゃねえんだぞ!」
話し終えると本田は自嘲の笑みを浮かべた。
「ま、なんだ、今のは聞き流してくれ。これからあいつらを率いて前線に出るおめーに言うことじゃなかった。すまん」
「……わかりますよ。わたしも手塩にかけた部下を全滅させましたから」
「そだったな……それでまた部隊を率いようっておめーはえらいよな」
「それは違いますね」善行はきっぱりと否定した。
「あなたより感情を殺す技術に優れている。技術的な問題に過ぎません。部下の死に一喜一憂する指揮官など、戦場ではお荷物でしかない。教官たる者が、そんなに簡単にえらいとか立派だ、とかそんな言葉を吐かないでいただきたい」
「くくく。言うじゃねえか」
本田は嬉しげに笑った。部下を全滅させる前はこいつ、そつなく仕事はこなすがどこか線の細い将校であったろう。今はどうだ? そつなく抜け目なくしかもふてぶてしい。なかなかの逸材だ。餓鬼どもはけっこう運が良い。大吉ってところか? 「わたしには教官の経験がありませんのでうまくは言えないのですが……」
善行が言いかけた時、外で甲高い怒声が聞こえた。
「おう、喧嘩か」
「待ってください。あの声は……」
葦簾の陰から顔を出して、本田と善行は顔を見合わせた。
ふたりの目に映ったものは、数人の憲兵とにらみ合っている生徒たちだった。苦い顔で腕組みしている芝村。その傍らできょろきょろと逃げ道を探っている速水。声を張りあげ憲兵に食ってかかる壬生屋。その間に割って入っている瀬戸口と加藤。滝川は自信なさげに両手を広げ、石津と東原を守るように突っ立っている。
「ですから、何度言ったらおわかりになるのです。わたくしたちは人を探しているのです。不良なんかじゃありませんっ!」
壬生屋は頭に血が昇って抑えが利かなくなっているようだ。
「だから話は詰所でゆっくり聞くと言っているだろう。だいたいこの時間に学兵が繁華街をうろつくこと自体、問題なんだ。おとなしくついてきなさい。反抗をするとためにならんぞ」
憲兵は壬生屋の迫力に押されながらも辛うじて言った。
「まあまあ、そんな杓子定規なことを言わずに。俺たち、そんなに悪くは見えないはずですが。普通は『早く家に帰りなさい』くらいの注意で済む問題じゃありませんか」
瀬戸口は苦笑いを浮かべて憲兵をなだめている。
初めはそれこそ、早く家に帰りなさいくらいのレベルで済ませようとしたのだが、壬生屋に猛然と反発され、引っ込みがつかなくなったようだ。警官にしろ憲兵にしろ、治安維持を任とする者は面子に敏感である。
「石頭っ!」壬生屋の声だ。相当に興奮している。
本田は舌打ちすると、葦簾の陰から姿を現した。
「おめーら、こんなところで何やってるんだ?」
あきれ顔の本田の前で、生徒たちはばつが悪そうに下を向いた。本田は舞に目を向けた。
どうしてわたしが、と舞は忌々しげな顔になったが、しぶしぶと口を開いた。
「そなたの様子がおかしい、とのことで……調査をさせてもらった。悩みごとがあれば我らに言ってくれ。我らは非力なれどそなたを元気づけることはできるはずだ」
「俺かあ? 俺がおかしいって?」
本田はあっけに取られ、自分を指差した。
「まったく……。おめーらは何を考えてるんだ。とっとと家に帰れっ!」
「しかし、今日のそなたは確かにおかしかったぞ」
本田の一喝にもめげずに、舞は冷静に言った。そもそも熱くなって怒鳴るのは、思い当たる節があるからだろう。
「待て。こちらの話が済んでおらん」
それまで無視されていた憲兵が口を開いた。この赤ずくめの女はなんだ?
「話なら俺が引き受けますよ。お勤めご苦労さん」
本田はひらひらと手を振ると、一団をうながして歩み去ろうとした。これが憲兵のプライドを傷つけた。赤ずくめ女の拘束もやむなしと堪忍袋の緒が切れた。
「待てっ! おまえは何者だ? 詰所でじっくりと聞かせてもらう」
口に出してしまった以上、実行しなければならなかった。憲兵は及び腰の同僚をにらみつけると本田の前に立ちふさがった。
「あんだてめー」
葦簾の陰に隠れていた善行は、額に手をやった。なんて不器用なんだ。あわてて本田と憲兵の問に割って入ろうとした。
と、その機先を制するように本田の体が動いた。憲兵の体が宙を浮き、次の瞬間、地面にたたきつけられていた。
「わっはっは、可愛い生徒にインネンをつけた報いだ。正義は勝つっ!」
本田は高笑いを響かせ、倣然と胸を張った。
間の抜けた、極めて間の抜けた時間が流れた。本田のまわりでは生徒たちが固まっていた。
本田のかみそりのように切れ味鋭い大外刈りで投げられた憲兵は受け身が取れずに悶絶していた。善行は間に合わず、それではわたしはなんのために登場したんですと存在理由を失って凍りついていた。悶絶した憲兵の同僚は、口を開けたまま、これも凍りついていた。
本田の高笑いが続く中、時間は止まった。
「な、なんということを……!」
善行はようやく行動の自由を取り戻すと、悶絶した憲兵の同僚に向き直り、背筋を伸ばし、指先を伸ばして芸術品のような敬礼をした。
「第62戦車学校・善行忠孝千翼長である。この件については後日っ――!」
困惑する憲兵たちは善行の迫力に押され、直立不動の姿勢を取って敬礼を返した。
返す刀で善行は、なおも呵々と笑っている本田の背をばんとはたいた。
「おっ、善行じゃねえか、どうした?」
「この役立たずの酔っぱらい! とっとと走れっ。それとも体がなまって動かないか?」
額に青筋を立てているという表現がふさわしい顔つきで善行は本田の胸ぐらをぐっと掴んだ。
本田の顔から笑みが消えた。
「野郎、俺様が走れねえだと? 走ってやらあ。なんならフルマラソンだって構わねえぞ!」
「けっこう。わたしに追いついたら教官として認めてあげます」
そう言うや、善行は脱兎のごとく走り出した。本田も何やらわめきながらついてゆく。
一方、生徒の中で最も早く我に返ったのは速水厚志であった。見れば善行がなぜか凛とした面もちで敬礼をしている。それから、だっと走り出した。
「追わないと。後を追いかけないと――」
傍らの芝村舞の腕をぎゅっと掴んだ。はっと呪縛から解き放たれる舞。瞬時に状況を悟って、厚志の手を振り払った。怪訝な顔をする厚志を後目に、瀬戸口の頬に一発、壬生屋の肩を拳でこづき、滝川の頭をぺしりとはたいた。
「撤退だ。脇目も振らず、走れっ!」
舞のひと言で、それぞれがまだ固まっている者の手を取って走り出した。
夜の道を走る。相手が追ってくることを考えて、表通りを避け、路地から路地へと抜ける。
気がつくと舞は見知らぬ住宅街を走っていた。
「どうやら撒いたみたいだな」
背後で声がした。振り向くと瀬戸口がにやりと笑いかけてきた。
「瀬戸口、どうして……?」
「別にストーキングしてたってわけじゃないぜ。おまえさんを見つけたのはほんの少し前だ」
舞は足を止めてあたりを見回した。一方通行の狭い道。洗濯機を軒下に出したアパート。格子戸の古びた日本家屋。軒先に納まらぬ植木が路上にまではみ出している。家々が建て込んだ一画だった。もう一度、追っ手の有無を碓かめてから、舞は深々と呼吸をして冷たい夜の大気を胸一杯に吸い込んだ。
「街灯の下には立たない方がいいな。丸見えになっている」
辻にぽつんと設けられた省電力自販機に硬貨を入れながら、瀬戸口は注意した。
「む、ああ、そうであった」
舞はうなずくと少し奥まった駐車場の縁石に腰を下ろした。少しだけ休んでから、他の連中を探しに行くつもりだった。
「どっちにする?」
瀬戸口はオレンジデリシャスティーとウーロン茶のペットボトルを舞に差し出した。
「ならばオレンジデリシャスティーをもらおう。ああ、すまん……」
舞はキュロットのポケットを探った。
「いいよ、俺のおごりだ」
「そなたにおごってもらう理由はない」
舞が硬貨を差し出すと、瀬戸口はやれやれといったようにかぶりを振って受け取った。
沈黙が続いた。舞は黙々と飲み物を喉に流し込んだ。瀬戸口も舞の隣に座って黙って星空を眺めていた。
「話してもいいか?」咳払いをして、瀬戸口が口を開いた。
「なんだ」
「他人とはなるべく関わらない。距離を取る。それが俺のスタイルだった。けどな、善行さんと芝村が書いた筋書きに乗ってから、調子が狂っている」
「そのことなら話はついたはずだ。そなたはそなたの判断で動く、そうであろ?」
舞がそっけなく言うと、瀬戸口はふっと笑った。
「まあな。それであいつらを見ていて思うようになったんだ。あいつらは多分感じているよ。自分たちが十中八九、死んじまうってことをな」
瀬戸口は淡々とした口調で話し始めた。
「一分でも一秒でも生きていたいって全身で主張している。だから、どんな話題でもいいからクラスメートに話しかけて友達をつくっておきたい。どんなささいなことでもいいから盛り上がって、お祭り騒ぎをしたい。今日のことだってそうさ。本田が恋愛をしているなんて勝手に決めつけてな」
「……煽ったのはそなただぞ」
「ま、そうなんだがね。そこで前置きに戻る。俺は足下が定まらない傍観者に過ぎないが、しばらくやつらとつき合ってみるかなんてな、柄にもなく考えてしまった。考えてみれば、善行さんの筋書きにまんまと乗せられたってわけだ」
舞はそっと瀬戸口の顔をのぞき込んだ。物憂げな表情だ。そなたの言うこともわかるが自分は違う、と突き放した言い方をしそうになって舞は唇を噛んだ。この男のことだ、そんな反応は予想しているだろう。その時こそ、こやつは軽蔑を面に表すに違いない。
意地でも目の前にいる男を理解せねばならなかった。そうでなければ自分がここに来た意味はないではないか? 理解することだ。理解すること――。
「そなたと同様にしろ、と。わたしに馴れ合えと言うのか?」
わたしは同族以外の者と意思疎通を図るのが苦手だ。ずっと先送りにしていたことだった。
舞の口調に苦いものを感じ取って、瀬戸口は微笑した。
「おまえさんはこれから隊を引っ張る存在になる。嫌われ者の芝村としちゃ難題になるだろうが、あいつらひとりひとりを駒ではなく人間として見てやってくれ」
「……わたしにそれを求めるのか?」
「おまえさんならできる、と考えた上でのことだ。その気があったら宮殿から出て、あいつらと一緒にいてやって欲しい」
ふっ。舞の口から笑いが洩れた。まったく、こういう展開になるとはな。予想してなかった。
宮殿から出て、とは癇に障る比喩だが、瀬戸口の言うことはおそらく正しい。末端の戦車学校に入校して宮殿から出たつもりだったが、精神的には芝村の姫のままであった。こやつはこれでわたしの背を押しているつもりなのだろう。
瀬戸口という男を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。
「お節介な男だな」
「ははは、誉め言葉と受け取っておくよ。さて、そろそろ連中を探しに行こう」
どうして僕が、とぼやく余裕もなかった。
気がついたら厚志は東原をおぶって走っていた。東原が厚志を頼ったのか、たまたま東原が近くにいたから背負ったのか記憶は曖昧だったが、今は逃げることが先決だった。
それにしても芝村舞はなぜ僕の手を振り払ったのか? 嫌われているのか? だったら手下にはしないよな、と厚志はとりとめもなく考えていた。
「ごめんね、あっちゃん。ののみ、足がおそいから」
東原の声が聞こえた。あっちゃん? 厚志は苦笑いを浮かべ、東原に応えていた。
「気にしないでいいよ。こう見えでも僕、力持ちだから」
背中に東原の息遣いを、心臓の鼓動を感じる。首に回された細く小さな腕にふと目を留めた。
小さくてはかない存在。それを今、自分が守っている――守っている? 僕に誰かを守ること なんてできるのか? 僕に? この僕に?
厚志は挑むように満天の星空を見上げた。
東原がぽつりとつぶやいた。
「おとう……さん」
悲しけな声だった。厚志は足を止めた。東原の寝息が聞こえる。寝てしまったようだ。
馬鹿だ僕は、と厚志は下を向いた。この年頃の子が親から離れ、たったひとり最前線に近い戦車学校にいること自体、幸せなことではないだろう。そんなことにすら気づかなかった。東原のことをほんの少し考えればわかることなのに。
この小さな休で、ののみちゃんはどれだけの悲しみに耐えているのだろう? どれだけの辛さに耐えたら、人にあの暖かな日向のような笑顔を贈れるのだろう?
厚志は深々と息を吸い込んだ。
「君のこと、なんにも知らなかった。ごめんよ、ののみちゃん」
「だっ、大丈夫か、石津っ……!」
地面にうずくまって咳き込む石津を、滝川はおろおろと見守っていた。どこをどう走ったか、空き地に足を踏み入れていた。何かの資材置き場だったのだろうか、鉄パイプやら水道管やらが散乱していた。
石津の背中が震えている。滝川は迷ったあげく、口を開いた。
「背中、さすってやる。……別に変なことするわけじゃねえからな」
気恥ずかしい言い訳をして、滝川は石津の背中に触れた。遠慮がちにさする。
石津の背中は細くて柔らかくて温かかった。制服越しにブラのリアラインの感触があって、滝川は顔を赤らめた。
「……ありがと」
ほどなく咳は治まり、キュロットについた枯草を丹念にはたき、石津は身を起こした。そ、それにしても石津って可愛いよな、と滝川はごくりと喉を鳴らした。磁器のような真っ白な肌、姿かたちも均整が取れている。
これで性格が普通だったらなあと考えて、ふと口を滑らせた。
「なあ、石津。おまえさ、もっとしゃべるようにするとブレークするかもよ」
「しゃべれ……ない……の」
石津は悲しげに滝川を見つめた。そんなことはないよと言おうとして、滝川ははっとなった。
石津の目に涙が浮かんでいた。
くそっ、俺ってやつは! 滝川は自分の迂闊さを呪った。石津には石津の事情があるんだ。
そんなこともわからず勝手なこと言ってしまった。
「悪ィ。俺って馬鹿だから。今度変なこと言ったら、ぶん殴ってくれていいよ」
壬生屋と加藤は住宅街にある小公園で善行と本田を見つけた。本田は植え込みの陰にうずくまり、深酒して走った報いを受けていた。善行は介抱するでなくその側にたたずんで自販機で買った緑茶のペットボトルを喉を鳴らして飲み干している。
「あ、あれ? 委員長やないか! まさか……」加藤は声をあげた。
「委員長。そんなっ……」
と壬生屋が続く。妄想モードのふたりは顔を見合わせた。まさかまさか、本田先生と善行委員長が? 顔を赤らめる壬生屋に、加藤は訳知り顔で言った。
「大人の世界は複雑なんよ」
「不潔ですっ」
などと話しながらもふたりは身を屈め、物陰に隠れて、じりじりと接近した。
「わ、わたくしたち、どうすればいいんでしょう?」壬生屋は真っ赤になって加藤に尋ねた。
「そうやねえ。ま、なま温かくふたりを見守ってあげることやね」
「見て見ぬ振りをしろということですか……?」
「まあ、あの本田先生も人の子や。男勝りで恋愛のレの字もなかった女教官が、単身熊本に赴任してきた秀才の青年将校と出会う。あまりに違い過ぎるふたり。けど、だからこそばあっと恋の炎が燃え上がるんや。これって運命なんやねー。あいたっ……!」
加藤は頭を押さえてしゃがみ込んだ。
いつのまに気がついたのか、ふたりの前で本田が拳を固めてわなわなと震えていた一
「てめー、誰が恋愛のレの字もなかった教官だ。なーにが恋の炎だ。脳味噌にサナダムシでもわいてるんじゃねえのか!」
本田はさすがにげっそりしている。街灯の光で見ても顔色は冴えない。ふたりは首根っこを掴まれ、善行の前に引き出された。善行は何事かと怪訝な顔になった。
「……つたく、こいつらときたら、何をしでかすかわからねえ!」
壬生屋と加藤はさすがにばつが悪そうに神妙な顔をしている。と、笑い声が聞こえて、暗がりから瀬戸口が姿を現した。隣には舞の姿もあった。
「先生、そう照れないで。わかってますって。確かに善行委員長との恋は山あり谷あり、前途多難と思いますがね。恋の悩みなら不肖この瀬戸口めが相談に乗りますよ」
瀬戸口が瓢々とした口調で本田にからんだ。
舞は苦い顔になって、同じく苦り切った顔の善行と視線を交わした。楽しんでいる。明らかに本田をダシにして遊んでいる。諸悪の根源は瀬戸口隆之。この男が煽ったために、こんな大騒ぎになってしまった。
「……さすがは芝村さんだ。状況判断が早いですね」
善行は咳払いをすると、本田、瀬戸口らを無視することに決めて舞に話しかけた。
「なんの。先に動いたのは速水であった。わたしはひと呼吸、遅れた」
舞は救われたように応じた。そうだ、こやつらは他人と考えればよい。
「状況判断、反応速度、そしてフィジカル。どうです、格好の訓練になるでしょう」
善行は照れくさげに微笑んだ。
「部下を置き去りにした言い訳にも聞こえるが、本田を逃がすのが作戦のすべてであった。作戦は成功したと言うべきであろう」
舞も口の端をくいっと上げて、精惇な笑みを浮かべる。が、せっかくのシリアスモードも、すぐ目の前でぎゃあぎゃあやられているもので台無しである。
「この餓鬼や、俺をどうあっても怒らせたいらしいなっ!」
鉄拳が空を切って、瀬戸口は悠々と逃れた。
「けど、先生は不倫してるって。だから様子が変なんでしょ」
いつのまにたどり着いたか、石津の手を引いた滝川がおずおずと口を開いた。
「ウチら、心配したんよ。今日の先生、どこかおかしかった。だから辛い恋をしてるんやないかって。それで……わ、痛いっ!」
舞の指が加藤の頬をつねり上げていた。
「まだ言うかっ! まだ言うかっ! そなたら、わたしをいらだたせてそんなに楽しいか?」
「ま、待て、芝村。耐えろ。おまえさんは隊を引っ張ってゆく身だろ? これしきのこと、耐えられないでどうする?」
しまった、限界値を超えてしまったと瀬戸口はあわてて舞をなだめた。善行や他の生徒たちは怒り心頭の舞を見て茫然としている。
本田はため息をついて地面に座り込んだ。そして大の字になって長々と横たわった。こいつらと来たら、まったく、とんでもねえ。本田はいつしか高笑いを響かせていた。
翌朝。教室は昨夜の話題で持ち切りだった。
肝心なところで善行に追っ払われたおかげで今なお晴れぬ本田疑惑、速水と東原の謎の失踪の豪華二本立てである。
「速水、昨日はどうしてたんだ? 憲兵に捕まったかと思って心配したんだぜ」
滝川がヘッドロックをかまそうとしたのを、厚志は間一髪で避ける。
「ののみちゃんを連れて家に帰ったよ」
「ま、まさかっ……東原が泊まったのかあ?」
滝川は、あわあわと声にならぬ声をあげて後ずさる。
「え、そうだけど。ののみちゃん、寝ちゃったんで家がわからなくて。だから僕の家に……」
厚志は怪訝な顔で後ずさる滝川を見た。
「悪いことは言わないっ。今すぐ自首しろ。わかった、俺がつき添ってやるつ!」
あほらし、とため息交じりに加藤の声。東原はなんの話かわからずきょとんとしている。舞は不機嫌にそっぽを向いた。こんなやつらと一緒にいるのは地獄の責め苦だ――。
「ははは、滝川、そのネタはしゃれにならないぞ」
瀬戸口の腕が伸びて、滝川の頭を軽くはたいた。
「そういえば滝川こそ、昨日、石津と手をつないでいたじゃないか。お兄さんは見ていたぞ」
「あ、あれは……石津が疲れていたから」
不覚にも背中をさすった時の感触を思い出し、滝川は顔を赤らめた。騒ぎをよそに石津は教科書を出し、黙々と授業の準備をしている。
「不潔ですっ!」と壬生屋。
「そうや、このセクハラ大魔王!」加藤も調子を合わせる。
「だ、大魔王ってなあ、なんでそうなるんだよ
滝川がなおも言い募ろうとした時、フルオートの射撃音が響いて全員が床に突っ伏した。
「おめーら、とっとと席に着けっ!」
第62戦車学校の朝が始まる――。
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芝村舞の野望T 乾電池の誘惑
午前六時。芝村舞はぱちりと目を開けた。布団の中でぐずぐずと夢うつつの状態をむさぼるのは好きじゃなかった。
シリアルを皿にぶちまけ、紙パックの牛乳をどぼどぼと注ぐ。これを世にもまずそうな顔で食べるのが舞の朝の食卓であった。
む、と舞はあたりを見回した。何かが違う。何かが欠けている。微妙な違和感を覚え、舞は神経を研ぎ澄ました。冷静になれ。冷静になって考えるのだ。デスクに置かれた猫のぬいぐるみは舞好みの角度で直立不動の姿勢を取っている。魚を唾えた木彫りの熊……も無事だ。ペンギンのキーホルダー、も定位置にある。集中しろ。集中だ。ピンと張り詰めた空気の中、舞の目はベッド脇の一点に注がれた。目覚まし時計。六時に鳴るようにセットされている。こやつを出し抜くように目を覚ますのが舞の密かな楽しみであった。時計は止まっていた。
動力源が……電池が切れている!
舞はあらためて時計の偉大さに思いを馳せた。単に時間を知るだけなら我が左手の多目的結晶でも用は足りる。だが時計の時を刻む音は日常生活に独特の安定感とリズムを与える。これまでわたしはそれに気づかなんだ。ふむ、と一度二度うなずき、舞は時計を手に取った。
切れたのはアルカリ電池か、時代遅れな、とつぶやきながら、はたと考え込んでしまった。
電池とはどこで手に入るものか?
舞は気難しげな表情で脳内のシナプス結合をたどった。
学校の購買部……たは確か置いていなかったな。ならばコンビニエンスストアはどうか? ふむ、あそこなら日用品は揃っている。しかし……舞は天井を見上げた。残念なことにわたしはコンビニに入ったことがない。電池を売っているという保証はないのだ。保証がないのに買いに行くというのは非効率的だ。敵を知りおのれを知れば百戦危うからずと言う。まずどこで売っているか情報を収集し、対策を立てることだ。乾電池といえばDRY-BATTERYである。バッテリー。ふむ、こう言い換えた方がわたしにはしっくりくるぞ。
と、ここまで考えて、舞の顔に会心の笑みが浮かんだ。
バッテリーなら心当たりがある。装甲車や戦車の車載用バッテリー。いわば乾電池の親戚のようなものだ。ふっ、灯台下暗しとはこのことだな、と舞はおもむろに受話器を取った。
「ああ、九州総軍広報部か? 士魂号Lのバッテリーを開発した部門に回して欲しいのだ。ふむ……実は電池のことについて尋ねたいのだが……む、バッテリーではないアルカリ電池だ。なんだ? ふざけるなだとそ士魂号Lはプラモデルじゃないだと? たわけ! そんなことはわかっている! もうよい。そなたらに期待したわたしがまちがっていたようだ!」
舞は荒々しく受話器を置くと、悔しげに唇を噛み締めた。気を取り直して再び受話器を取る。
「電池の未来を考える協会はここでよいのか? あー、実は電池のことで。……ふむ、バイオ電池か。興味はあるが、今日は違うものを……か、紙電池とな? 実用化されているのか? ふむ、ふむ。それはすごい……ためになった。感謝を」
受話器を置いて、舞は、はっとなった。違う! しかたなく次の番号にダイヤルする。
「六菱産業はそちらでよいか? 実は電池について……わかった、バッテリー事業部に転送して欲しい。ああ、わたしは芝村というものだ。……そんなに畏まらんでもよい。基地用無停電バッテリーだと? 軍用ハイブリッド太陽風力発電機、定格出力二千八百キロワットだと? できれば九州総軍に納入させていただきたい、とな? たわけ! わたしはアルカリ電池を……む、それなら他社に比べて三十パーセント勉強するだと? バックマージン? たわけっ!」
舞は鼻息も荒く、受話器をたたきつけた。どうしてアルカリ乾電池の話にならんのだ?
ままよ、とばかりに舞は最後の賭に出た。
「あー、子供電話相談室か?……わたしは子供ではないが、実は質問がある。アルカリ電池についてなのだが。む、亜鉛板で電子が発生して……それはわかっている。電子の流れと正反対に電流が流れエネルギーが……それもわかっている。……どうして、どうしてだっ! どうして肝心な問題に触れてはくれぬのだ? そなたら、わたしに含むところがあるのか?」
受話器を置き、舞は挫折感にさいなまれた。舞は肩を落とすと、学校へと向かった。
「舞ちゃん、おはよ!」
道の途中、東原ののみが、駆け寄って舞に抱きついた。舞は弱々しく笑って、挨拶を返しだ。
「どうしたの、舞ちゃん。げんきがないよ」東原は心配そうに舞の顔をのぞき込んだ。
「東原、わたしはこうまでおのれが無力と感じたことはないぞ」
舞は、くっとうつむいた。東原はぎゅっと舞の手を握り締めた。
「なやみがあるならはなして、舞ちゃん」
「……わたしを気遣ってくれるのだな、感謝を。実はな、アルカリ電池のことで問題に直面した。ふっ、旧来のテクノロジーと高をくくったあげく、わたしは手ひどいしっぺ返しを食った。時計の電池も満足に交換できぬようではな。わたしは今、猛烈に反省している」
「とけいのでんち? それならののみもってるよ。がっこう終わったら、ののみ、舞ちゃんのところにもっていってあげる」東原は日向のような笑顔で舞を見上げた。
「なんだと……?」舞はたじろいだ。見かけによらず、東原はできるやつだ……
「えへへ、ののみがでんちをかえてあげる」
「東原……」ぐっと込み上げるものがあった。舞はそっと東原の頭に触れ、感謝の意を表した。
その後、ふたりの友情が深まったのは言うまでもない。
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第三話 あこがれのPanzer Lady
三月の初旬だというのに暖かな風が頬をなでていった。
空は澄んで、明るい陽射しが燦々《さんさん》と降り注ぐ。近づく春の盛りを予感させる陽気だった。
第62戦車学校の面々は揃いの体操着を着て、市街地を黙々と行軍していた。
「こらあ、石津。そんなところに座り込んでハンストか? とっとと立て!」
訓練教官・若宮康光の声が容赦なく飛んだ。
石津萌は街路樹の植え込みの縁石に座り込んで、恨めしげに若宮を見上げている。生徒の何人かはこれ幸いと足を止めて成り行きを見守った。若宮は石津の側に屈むと、何やら質問を発した後、運動靴を脱がせ、足の状態を調べ始めた。
「わ、わつ! すっげーセクハラ」
滝川陽平は奇声をあげて羨ましげに石津と若宮の側に立った。雨蛙のような緑色の体操着の上下、背には十s也の装備と支給されたばかりのアサルトライフルを背負っている。滝川も、便乗してちょっとだけ休んじゃおう組だが、美少女の足をごつい手で揉む野獣の図は彼にと
ってあまりに刺激的だった。
セクハラと言われて若宮は憤然と顔を上げた。
「馬鹿! 猿山から脱走してきたおまえと違って石津は華奢なんだ。下手をすれば疲労骨折をしている可能性もある。俺はそれを……」
言いかけたところ、瀬戸口隆之がひょいと顔を出した。加藤祭の装備を背負っている。背には疲労困憊の加藤が付録のようにくっついている。
「ははは、言い訳はいいから。この距離で疲労骨折はないと思うがね。ここは男らしく素直に認めてしまえ。セクハラ戦士」
若宮は忌々しげに滝川と瀬戸口をにらみつけると、再び石津に向き直った。
「マメができているが、異状はなし。まだ歩けるぞ。立て、立つんだ石津」
「だめ……歩けない……の」
石津は上目遣いに若宮を見つめた。若宮の顔が赤らんだ。くそっ、そんな目で見られでも困るぞ! このままじゃなまっちょろい言葉のひとつでも吐いてしまうじゃないかと若宮は滝川と速水を呼んだ。
「な、なんすか?」
「どちらでも構わん。石津の装備を運んでやれ。それと、あー、励ましてやれっ!」
「え、けど、ふたりで運ぶって言われても……」
厚志は迷惑そうに若宮を見た。疲れのせいで本来の性格が剥き出しになってしまう。が、厚志の声に押し被せるように滝川の声が元気良く響いた。
「了解っす!」
こ、これっておいしいかも、と滝川は目を輝かせる。
滝川は石津の装備を引き取ると、喉をごくりと鳴らして手を差し伸べた。石津はしょんぼりと路面に目を落としている。
「そろそろ行こうぜ、石津。あのゴリラに根性見せてやろうぜ」
滝川は石津の手を握った。石津は動く気配がない。そのまま数秒。わかったよ、とぼやいて滝川は石津を引っ張り上げた。石津の装備プラス五s。一・五倍に増えた重みが滝川の肩にずしりとのしかかる。
滝川と石津は手をつないだまま歩き出した。なんだか小学生の兄妹の集団登校に見える。
「やるもんじゃないか、後輩。お兄さんは嬉しいよ」
瀬戸口が冷やかした。滝川は汗だくの顔を赤らめ、そんなんじゃないですよと言った。この代償は歩くうちに死ぬほど重くなってくる装備だ。
夜明け前から実施された「地獄の二十キロ行軍」も道半ば、三号線を北上して柏木の市街に
入ったところだった。生徒はそれぞれ女子五sないしは男子十sの装備とアサルトライフルを背負って行軍していた。
入校してさほど日数が経過しているわけではない。装備を背負って延々歩かされるという未体験の苦行に誰もが辛い思いをしていた。
芝村舞と壬生屋末央は競い合うようにして歩き続けていたが、しだいに足取りは重くなっている。先頭を歩く善行忠孝が振り返って生徒たちの様子を眺めた。目で合図をすると、最後尾に着いていた若宮は号令を発した。
「よおし、小休止」
全員が歩道上にへたり込むように座った。通行人がおそるおそる生徒たちを避けてゆく。
滝川陽平はふたり分の装備を下ろすと、水揚げされたマグロのように横たわった。若宮、謀ったな。つ、辛いぞ、辛過ぎるっ!
足の裏にはマメができてずきずきするし、装備を背負う肩はすれて皮が剥けたみたいだ。こんなん戦車兵がやることじゃねえ、とぼやきたかったが、他の生徒が黙っている以上、弱音を吐くのは格好悪かった。
(そうだよな。あいつらも泣かないで頑張っているんだもんな)
加藤と石津はガードレールにもたれ、息を調えている。瀬戸口と壬生屋がふたりに水を飲ませてやっていた。それにしても瀬戸口さんは体力があるな。ああ、それを言うなら壬生屋もか。
芝村と張り合っているけど、行軍に関しては芝村の方が少し分が悪く見える。長距離走は芝村の方が速かったけど、壬生屋の方が頑丈なのかな――。
身を起こすと滝川は胸ポケットに入れた自衛軍御用達の合成チョコを取り出した。自衛軍最強の兵器と言われる伝説のチョコである。パッケージに一応チョコレートと表示されているだけで味はコールタールと砂糖を混ぜたような驚異的なまずさである。菓子と言うよりは化学兵器と表現した方がふさわしいシロモノだ。それでも滝川の体は甘味を欲した。ぐちゃりと銀紙にへばりついたチョコを滝川はなめた。
他の生徒たちも判で押したような風情で合成チョコをなめている。すでに天然もののチョコレートは高級品となっていたから、これで我慢するしかない。
「滝川君、調子はどうです?」
あわてて起き上がると、善行が微笑した。汗ひとつかかず、涼しい顔である。おかしい。この人、絶対サイボーグかなんかだよな、と滝川は内心で思いながら「へへっ」と笑ってみせた。
「はいっ、まだまだ大丈夫です」
「食事はきちんと摂っていますか? 食べていないとこの訓練は辛いですよ」
「昧のれんの親父さんが面倒見てくれでますから」
昧のれんとは戦車学校が間借りしている尚敬校の近くにある食堂である。
「まあ、外食もほどほどに。早く自炊に慣れることですね」
善行が話を切り上げると、滝川はほっとして再びだらしなくへたり込んだ。
「自炊もよいが、食材が不足している。豊富にあるのはジャガイモだけだ。これでは味のれんの世話になった方がましというものだ」
芝村舞の声だった。さすがに声が疲れている。
「そうですぬ。わたしも食材を探すのに苦労しています」
「ふむ。ある種の将校は困らぬと開くが」
ある種の将校とは、上層部に顔が利き、物資を自由に動かせる人種のことだ。舞もそこに属するが、今は苦心惨憺して食材を調達することにしている。
「まあ、ある種の将校はね」善行は、ふっと笑って眼鏡を直した。
「先日、熊本における学兵の食生活についての実態統計に目を通した。平均カロリー摂取量は男子で千五百キロカロリー、女子で千二百であった。このままでは我らは敗北するぞ」
一日の必要摂取量は成人男子で二千六百キロカロリーと言われる。体力を消耗する兵士ならば三千五百は欲しいところだ。熊本ではこれを大幅に下回っている、と舞は言った。
「現在の食糧事情でこのような訓練をほどこしても疲労が蓄積するだけと考えるがどうだ? そもそも食糧を自前で調達せよ、などという軍隊がまともに戦えたためしはない」
芝村の言葉に、善行はかぶりを振った。正論だ。自分も第一にそれを考えて、再三、食糧の補給要請をしている。が、確定しないことを口にすれば空約束になる。善行としては苦笑するしかないわけだった。
「死活問題と考えるが如何に?」
「対策は講じています。その件については後日、芝村さんにお話ししましょう」
それ以上は話せなかった。憮然とする舞を後目に、善行はきびすを返した。
善行と舞のやり取りを聞いていた滝川は、傍らで休む厚志をつっついた。厚志も黙々と合成チョコを食べている。
「芝村ってすげーよなあ。善行委員長にあんなこと言っちまうんだもんな。な、な、おまえって案外いいチョイスしたのかもよ」
「すげーのはわかるけどさ……」
厚志は滝川の口調を真似て言った。別に芝村舞をチョイスしたわけじゃないが、一応、手下その一ということになっている。
「そういえば僕、まだ味のれんで行ったことがないんだ」
厚志は話題を変えた。滝川はあっさりと乗ってきた。
「どうして? あそこは学校推奨の飯屋じゃねえか」
「これまでひとりで外食したことないんだ。他人の前で食事するなんてなんか嫌でさ」
こんなやつが世の中にいたのか? 滝川はまじまじと厚志を見つめたが、やがてどんと胸をたたいて請け合った。
「速水ってけっこう神経質なんだな。わかった。俺様が連れてってやる」
訓練終了後、校門に続く坂を下りると、滝川と厚志は縄のれんをくぐった。カウンターの奥から年輩の親父が「らっしゃい」と声をかけてきた。
「おう健康優良児」
「へっへっへ、それって誉め言葉?」
「むろん。コロッケひとつでどんぶり三杯飯を食うのは、あただけたい」
滝川は席に座ると厚志に笑いかけた。
「本田先生に教わったんだ。ここの定食は最高。安くてうまくてボリュームがあるし。学兵だって言ったらサービスしてくれるしな。あ、コロッケ定食、二人前ね」
皿の上には表面積こを掌大だが、タワシのようにこんもりと分厚いコロッケが乗っていた。
ジュージューと音をたてている衣を滝川は箸でさっくり割ると、ひと口頬張った。瞬間、熱さが口の中を走り、次いでジャガイモのふくよかな味が日いっぱいにほんのりと広がった。挽肉にも手を抜いていない。ジューシーな肉汁。ジャガイモのまろやかな味と互いに引き立て合って強力なセッションを組んでいる。さらに重低音と言うべきが微塵切りされ炒められたタマネギだろう。調理法によるのか、タマネギにしではあっさりとした香りと味わい。ふっふっふ。滝川の口から会心の笑みが洩れた。
「どうだ、速水」
厚志は茫然としてコロッケを頬張っていた。外食の経験はまったくない厚志だが、大げさに言えば人生を無駄に過ごしてきたと思った。このおじさん、ただ者じゃない。
「こ、このコロッケは……」厚志は言葉を失った。
「わかるとね」親父はにやりとした。
「最高の素材で作っていますね。これで五百円じゃ」
「大赤字たい。こぎゃんとが出入りするようになんならなおさらたい」と親父は一心不乱にコロッケにかぶりつく滝川を示した。
「あたも育ち盛りだけん、もっと食べんね。ご飯のお代わりはいくらでもあっとだけん」
「遠慮しねえで、かぶりつけって。上品に食ってると、親父さんに叱られる」
と、滝川はカウンターの隅で黙々と同じコロッケ定食を食べている少年に目を留めた。やや太めで髪を銀色に染めている。視線が合った。
「見事な食べっぷりね。ぬしゃとは良さ趣味友になれそうな気がする」
「お、おう……?」
聞き返すまもなく、少年は席を立つと勘定を済ませた。
「ソックスは宇宙の縮図たい。励めよ」
唖然とする滝川を残して、少年は体を揺らして立ち去った。なんだ、あいつ? 滝川は気を取り直して三杯めのどんぶり飯を終え、ふうっと息を吐いた。
「食った、食った。幸せだ!」
「あはは。滝川って簡単に幸せになれるんだね」厚志は思わず声を出して笑った。
「腹減ってる時に飯にありつきや幸せじゃねえか。落ち込んで寂しいーって時に可愛い女の子と知り合えりやもっと幸せだって。なあなあ、おまえ、女の子に興味ある?」
「……どういう意味?」
厚志が尋ね返すと、滝川は秘密めかしてささやいた。
「ノリの悪いやつだな。スクールライフを楽しむなら、やっぱしボーイ・ミーツ・ギャルってこと。んで、速水は芝村デフォルトでいいわけ?」
「な、なんのことだか……」
厚志の曖昧かつノリの悪い反応に、滝川は不満だ。けれどノリを外すわけにはゆかなかったので、続けて言った。
「あ、もう告白しちゃったりしたのか? 待てよ。芝村なら向こうから仕掛けるな。わたしはそなたが好きであるぞ。よきにはからえ、なんちやって」
滝川は元気だな、と厚志はあきれた。早朝の行軍訓練の疲れが残っていた。午後は授業をさぼって昼寝でもしたいところだ。
「らっしゃい! おっ、お久しゅう」
親父さんは口許をほころばせた。滝川が目をやると、ふたりの女子学兵が店内に入ってきたところだった。戦車兵の制服を着ている。
「たまには栄養補給しないとね。おじさんの寒ーいギャグも懐かしかったし」
ふたりの戦車兵はカウンターの隅に座ると、お刺身定食を注文した。
違う。違うんだ。お姉さんたちまちがっていますよ、と滝川は声を大にして叫びたかった。
確かに刺身もうまい。ちょっと値は張るがガラカブ定食もいいだろう。しかし最もリーズナブルかつ美味なのはコロッケ定食なのだ。あのさっくりほくほくはふはふを経験したなら、若人の口に刺身なぞはいかにも淡白。悪いことは言わんからコロッケ定食にしなさいと言いたかったが、むろん滝川にそんな度胸はない。番茶をすすりながら、じっと戦車兵を見つめるだけだ。
「あれ……?」
滝川は、はっとして戦車兵の片割れを見つめた。何かを思い出すような表情になっている。
「どうしたのさ、滝川?」
厚志の呼びかけにも応えず、滝川はじっと戦車兵の片割れを見つめた。滝川の視線に気づいて、戦車兵が顔を上げた。首を傾げて滝川を見つめ返す。滝川はふっと視線を外したが、何やら考えていたかと思うとぎこちなく席を立った。がたん、と音をたてて椅子が引っ繰り返った。
速水は何事かと滝川の様子を見守った。
滝川はぎくしゃくした足取りで戦車兵に近づいた。相手は箸を休め、身構える。
「あ、あのっ……もしかして、テレビとか……CFとかに出てませんでした?」
滝川は気の毒なくらい赤くなっている。緊張しているのが離れたところから見てもわかる。
戦車兵は栗色に染めたショートカット、やさしげな丸顔、体のラインに治った制服からスレンダーな体つきとわかる。美人と言うよりは可愛いと言われるタイプの少女だった。しかし今は彼女の口許は厳しく結ばれ、薄い鳶色の瞳が警戒するように滝川を見上げていた。
「テレビに出てたからどうだっていうの?」顔に似合わず、険しい声だった。
「だ、だから……」滝川の頭は真っ白になっていた。言葉という言葉が蒸発してしどろもどろなコミュニケーションしかできなくなっている。
「昔ね、ちょっとだけ」少女は投げやりにつぶやいた。
「そ、そうでしょそうでしょ! 俺、あ、あなたに憧れて戦車兵に志願したんです」
滝川は満面に笑みを浮かべた。まるで女神が目の前に出現したかのように、ほけっとした顔になっている。
くっと笑いを堪える音。少女は口に手を当てて笑っている。ふたりの様子を見守っていた厚志は少女の笑いに悪意を感じ取った。
「馬鹿ねー、今時、志願してくるやつなんて滅多にいないわよ。しかもあんなCF見て志願するなんてね」
「俺……」滝川は茫然として立ち尽くした。
「ねえ、あんた、頭悪いんじゃないの? さもなきや自殺願望があるとか? わたしは、わたしはね……」
少女の様子がおかしい。どん、とカウンターをたたくと悲鳴をあげるように言った。
「疲れてるの! ひと仕事終えてへとへとなの! 坊やの相手してる暇ないの! 邪魔しないでゆっくり食事させてよっ!」
友人が驚いて、少女の背をさすった。少女は悪寒がするようにぶるぶると震えている。
「あ、あの、あの……」
滝川は固まってしまった。放っておけば「あの」を延々と再生することだろう。厚志は滝川の分まで勘定を済ませると、席を立った。滝川の背を回れ右させる。
「食事の邪魔しちやって、すみません」
愛想笑いをして、戦車兵に頭を下げる。強引に滝川の手を引っ張って店を出た。
ふたりは黙って校舎への道を歩いた。滝川は真面目な顔をして何やら考え込んでいる。
「ね、ねえ、元気出しなよ。なんなんだよ、あの人」
厚志は戦車兵に敵意を抱いた。滝川は勇気を出して話しかけたんだ。なのにあの女はその勇気すら嘲笑った。最低だ。荒んでいて、みっともないやつだ。
「…大スターってのはイライラするもんなんだ。きっとそうだよ。漫画でもそうじゃん」
滝川は寂しげではあったが、気を取り直したように言った。
「僕には大スターには見えなかったよ。普通の戦車兵に見えたけど」
厚志は滝川の人の好さを咎めるように言った。
と、滝川は「シャーラップ!」と厚志をにらみつけた。
「あのお方はな、戦車兵募集の政府PRに出演した大スター様だ! 士魂号Lに乗って、照準器をのぞき込むアップなんか最高だった。前髪がはらりと垂れかかって、それがまた可愛くてたたまらなかった。変わらず美人でいてくれて俺は嬉しいのだ」
「そ、そうかな……」
厚志は戦車兵の姿を思い浮かべた。可愛いことは可愛かったけど戦場から戻ったばかりらしく、髪も肌も制服も薄汚れ、顔色など土気色に近かった。あの人のどこが美人なんだ、とあきれる思いだった。厚志の敵意を察したらしく、滝川は戦車兵を弁護するように言った。
「速水、おまえには女を見る目がないっ! だから芝村なんかに引っかかるんだ」
「君にそんなこと言われたくないね」
厚志はむっとしてそれ以上、しゃべるのをやめた。ふたりはその日、口をきかなかった。
翌日の放課後は若宮のしごきはなかった。
滝川は久しぶりにゲーセンで過ごした。チキンな防御戦術を駆使して格闘ゲームを延々二時間粘ったあげく、シューティングではにっくきCPUと人間の威信を懸けたガチンコ勝負をして六面までクリアした。
なんとなく家に帰りたくなかった。今日はだめかもという予感があった。閉所恐怖症。部屋に籠もっていると、胸が締めつけられるようになる。ゲームやアニメを見ることでなんとか紛らわせていたが、たまに持ち堪えられなくなる時がある。そんな時は季節に拘わらず窓を開け、風に当たってはじっと震えが治まるのを待っている――。
ゲーセンを出た後、たこ焼き屋の屋台を見つけて、滝川はそっとカウンターをのぞき込んだ。
ラ、ラッキー。カウンターには作り置きはなく、今しも焼きたてが上がるところだった。
「ひとつね」
待つこと数分、滝川はかつおぶしがてんこ盛りになったアツアツのたこ焼きをゲットしていた。肌寒い風が吹く早春の夕暮れ、粉モン特有のにおいを漂わせる屋台の側でこうしてたこ焼きを頬張っていると幸せを感じる。滝川から買い食いを取ったら白く燃え尽きた灰になってしまうというほど、滝川は屋台モノが好きだった。
「あ……」
女性の声がした。夕暮れの光の中に小柄な姿が浮かび上がった。
「あっ」滝川は急いで食べかけのたこ焼きを飲み込んだ。喉がとリヒリして、胃に線香花火の先っぽが落下したようだ。くそっ、熱いぜ。滝川は思わず腹を押さえ、身を屈めた。
「だ、大丈夫?」
小柄な影は滝川に近づくと、背をさすってくれた。顔を上げると、先日、昧のれんで出会った少女だった。
「あ、昨日は……」食事を邪魔してすいませんと言おうとして先を越された。
「昨日はごめんね」
やさしく穏やかな声だった。顔色は十代の瑞々しさを取り戻し、髪にも艶がある。荒んだ様子は消えている。少女は照れくさげに笑いかけた。
「あ、いいえ、俺の方こそあんな変な挨拶しちやって。――百翼長殿」
滝川は相手の階級章に目を留めてあわでてつけ足した。
「青海苔がついてる」少女はそっと滝川の口の端に触れた。滝川は硬直して呼吸を止めた。頬を赤らめる滝川を見て、少女はくすりと笑った。
「せっかく声をかけてくれたのに、本当にごめんね。友達が死んじゃって。これまで同じようなことはあったけど、昨日に限っておかしくなったの」
「そう……なんですか」
滝川は息を吐いた。この人は何度も何度も同じ思いをしているんだな、と思った。
「そこに戦車兵に志願しましたなんて君が来たじゃない? 暴発しちゃったのね、きっと」
「す、すいません」
「あ、悪いのはわたしだから」
少女はあわでて手を振ると、憂鬱そうに笑った。
「これからっていう君に言うことじゃないけど、覚悟はしておいた方がいいかもね。戦車兵はマジでやばいわよ。毎日のように戦闘に駆り出されて、どんどん人が死んでゆく。ひと月前と今とでは顔触れが全然違ったりね」
「俺、まだシミュレータも触ってないんです」
「……そっか。変なこと言っちゃったね。わたしも焼きが回ったかな」
「あの……た、たこ焼き食いませんか?」
なぜそんなことを口走ったのかはわからない。この人ともう少しいたかった。返事も待たずに滝川は屋台に走った。
ほどなくふたりは小公園のベンチに座って、たこ焼きを頬張っていた。少女は館野智美と名乗った。
「俺は滝川陽平っす。館野さんって芸名ですか?」
「まさか。テレビに出たのはあれ一回だけ。戦車学校にいた頃よ。まだ戦争も激しくなかったし、クラスメートも生きていたし、楽しかったな」
「はあ……」滝川はなんと答えてよいものか、わからなかった。
「たこ焼き、おいしいね!」館野は滝川の困惑を察したように話題を変えた。
「そうですね。ちゃんとたこの足が入っているし……。へへっ、買い食いキングっていやあ俺のことつすよ。市内の屋台情報なら任せてください」
気取りなくたこ焼きを頬張る館野の姿にほっとして、滝川の肩から力が抜けていった。
「ふふ、じゃあわたしは買い食いクイーンぬ。何を隠そう市内の甘いもの系はほとんど制覇してるし。去年の夏なんて友達と毎日のようにかき水屋さんに通ったしね。氷イチゴ三杯お代わりして次の日学校休んだり」
「三杯はきついっすね。二親にきいんて来ませんでした?」
「あっははは。お腹にどーんと来たわよ」館野は笑って、ぽんと腹をたたいてみせた。
「こ…なんか館野さんって初めの印象とずいぶん違う」
「そうかな? 下ネタけっこう好きだしね、わたしの正体知ったら滝川君びっくりすると思うよ。わたしね……」
館野の顔から笑みが消えていった。ふうっとため息をつくと、足下に視線を落とした。寂しげな横顔を見て、滝川はかける言葉を失った。
「あの政府広報に出ていた子たち、ほとんど残ってないの。みんなわたしの友達だったけど」
やがて館野はぽつりと言った。
「ど、どういうこと、ですか?」
「そのままの意味。みんな死んじゃった」
そう言うと館野はうつむいた。
滝川は自分の幼さを歯がゆく思った。館野の悲しみを理解でされば、自分のことのように感じられればと、もどかしく思った。むろん、ボキャブラリー欠乏症の滝川のことだ。そう、はっきり言葉にして考えたわけではない。
「館野さん……」滝川が口にしたのはたったそれだけだ。
そのまま一時間、館野は黙りこくった。滝川はその隣で、口を開こうとしてあきらめる、その繰り返しだった。
風が冷たくなった。公園の水銀灯が点灯して、あたりは闇に包まれた。館野が顔を上げる気配。滝川はおそるおそる視線を合わせた。
「今日はありがと」
館野の日はやさしげに笑っていた。滝川はほっとして笑みを返した。
「館野さん、俺、馬鹿だから何も言えないんですけど……」
「こんな情緒不安定なやつに、君は一時間もつき合ってくれたじゃない。それで十分よ。これ、わたしの番号」
館野は滝川に電話番号を書いた紙を渡した。滝川は紙片をおずおずと握り締める。
「これって……また会えるってことですよね」思い切って尋ねてみた。
館野は微笑むと、背を向けて歩き出した。あと少しで路地の向こうに消える、という時、振り返って滝川に手を振った。
「そのゴーグル、似合うわよ」
そう言うと、ぼんやり突っ立っている滝川を残してふっと消えた。
「それにしても、馬並の馬力だな」
あされるのは瀬戸口だった。
「なんかパワフルになった感じですよね。どうしちゃったんだろ?」
首を傾げるのは厚志である。
地鉄の二十キロ行軍というのに滝川はやけに張り切っていた。装備の重さなど気にならないらしく、ご機嫌状態で歩いている。口ずさんでいるのはロボットアニメの主題歌だ。石津、加藤と定番のメンバーが落伍しかけるが、若宮の指示を待たずに披女らの装備を引き受けている。総重量二十s。しかし滝川はいっこうに堪えた様子もなく、アニメ主題歌を行軍歌代わりにずんずんと進んでいく。
「あいつ、クスリでも飲んでいるのか?」
若宮は心配顔で瀬戸口に尋ねた。
「それはないと思うけど……うん、わかった。脳内麻薬《エンドルフィン》ってやつだ」
「うむ。聞いたことはあるが」
「よく言えば純粋、悪く言えば馬鹿だから、脳内麻薬が分泌された時はパワー全開となる。一種の無敵モードだな」
瀬戸口は得々と口から出任せを若宮に説いた。
「瀬戸口、いい加減なことを言うな」芝村が不機礫な顔で瀬戸口を一瞥した。
「やつは元々資質があったのだ。あー、つまり……」
「引っ越し屋さんの才能か? 重いものなら任せなさいってか」瀬戸口が混ぜっ返す。
「こらこら、馬鹿にしたものではないぞ。他の歩兵より多くの武器を携行し、移動も遠ければ最強の歩兵になる。もしかしたらやつは戦車兵より戦車随伴歩兵に向いとるかもしれんな」
若宮は瀬もしげに滝川の後ろ姿を見送った。
尚敬枝のグラウンドにたどり着いたとたん、滝川は大の字になって寝そべった。
「わはは。いい汗かいた!」
若宮流に豪傑笑いをする滝川を、女子たちはこわごわと避けていった。
「ご機嫌だね、滝川」
厚志は滝川の隣に座った。浮き立っている滝川を見ると僕も気持ち良くなるな。今まではあきれていたけど、これは発見だと厚志は思った。
「へっへっへ、そうご機嫌。ドンウォリー・ビーハッピー、イエッって感じね」
「聞いていいかな?」
厚志が遠慮がちに尋ねると、滝川はまたしても高笑いをあげた。善行が眼鏡を直し、首を傾げて遠ざかっていく。
「聞いて驚くな。この滝川陽平、暗い青春からおさらばしてついに女神様を見つけた!」
滝川はラブコメアニメから引っ張ってきたようなセリフを臆面なく口にした。
「……女神、様?」
「おまえも知ってるだろ、昧のれんで出会ったあの大スター様とお近づきになったのだ。親友、俺の幸せを祈ってくれ、なんてな」
「そういうことか」
厚志は相づちを打ったが、あの戦車兵と滝川が、何をどうすれば仲良くなるのだろう。そのことを口にすると、滝川はノンノンと指を左右に振った。
「だから言ったじゃねえか。あの人……館野さんは本当はいい人で、たまたまイライラしてただけだって。彼女、あの日、友達が死んだんだ」
痛快浮き浮きモードの滝川から話を聞き終わると、厚志は食堂へと向かった。食堂では舞が不機嫌な顔で厚志を待っていた。
「どうであった?」
「滝川のやつ、年上の女性と仲良くなったんだ」
厚志はかいつまんで事情を説明した。芝村舞の手下その一としては隊内の情報収集にも携わらねばならない。舞は「ふむ」と大きくうなずいた。
「速水、滝川を助けてやれ」
「……芝村、さん? 言ってることわかってるの?」
舞がこの手のことに詳しいわけはないと厚志は思った。と、舞の顔が赤らんだ。
「な、な、なんだその顔は? そなたが考えていることなど見通しだ。わたしが、れ、恋愛沙汰に疎いと思っているな」
舞は気の毒なほど赤くなっている。むろん、それを指摘しようものなら、手痛い一発を受けること確実だ。それに……。厚志は首を傾げた。
そもそも芝村さんはなぜ、滝川なんかに興味を持つんだろう? 滝川だけじゃなく、他のクラスメートにも興味を持っているようだ。今でも仲間外れにされているのに。教室では芝村さんのまわりだけ、席が空いている。話しかける者は、ののみちゃんとそれから瀬戸口さんがからかいに来るだけだ。昼休みだってそうだ。誰からも食事に誘われず、教室でひとりで黙々と焼きそばパンを頬張っている。手下としてはつき合ってあげたいけど、そうなると滝川がひとりになるしなーとここまで考えて厚志はため息をついた。僕は何を考えている?
「何をぼんやりしている?」
舞の声が聞こえ、厚志は我に返った。
「……滝川のことなんだけどさ、その……君が興味を持つほどのことじゃないと思うよ」
厚志がおそるおそる言うと、舞の一喝が飛んだ。
「たわけ! 共に戦う仲間のことだ。最重要事項であろう。とにかく助けてやるんだぞ」
助けるって何をすればいいんだ? 厚志は内心でため息をついた。
日曜日、滝川は裏マーケット前で待ち合わせをしていた。
何度も何度も左手に埋め込まれた多目的結晶で時間を確認する。彼女の教えてくれた番号に電話をするのは勇気がいった。勘違いするなあのお方は俺なんか眼中にないんだぞとか、ス、ストーカーとまちがわれないかなぞと、くよくよ三時間悩んだあげく電話をした。番号を教えてくれたんだから大丈夫だよ、ということには頭が回らない滝川だった。
あっさりOKが出た時には、電話の前にへたり込んでしまった。
風が強い日だった。冷たい風が容赦なく吹きつける。
この風が暖かくなる頃には、自分も戦場に立っているんだろうなと滝川はぼんやり思った。
「何を考えているのかな?」
後ろから声がかけられた。はっとして振り向くと、館野百翼長が笑っていた。すっきりした立ち姿はさすがに歴戦の戦車兵だ。やさしげな丸顔とのアンバランスも良い。滝川は敬礼をしかけたが、館野は首を振って止めた。
「あ、いえつ、今日は何を食おうかなと思って」
「たこ焼きでいいじゃない。トラディショナルなジャンクフード、大好きだよ」
「この間、食べたじゃないですか。それじゃ買い食いキングとしちや芸がないっすよ」
滝川は市内の地図をさっと開いた。
「こ、ここに市内の屋台がマーキングしてあります。俺としちゃ辛島町のおでん屋なんかオススメなんすけど」
「へえ、おでん屋さんなんて珍しいね。行こう。正義は我にあり!」
ほどなくふたりはおでんを頬張っていた。好物のはんぺんにがんもどきをふたつずつ捕獲して滝川は幸せだった。
「おでん屋さんは戦争に強いよね」
「そうっすか?」
「練り物に使う魚は大量に獲れるし、豆腐系も大豆は遺伝子改良で豊かだし、じゃがいもはもう嫌っていうほど出回ってるでしょ。けどわたしはウィンナ巻きが好きなのだ。うん、美味美味、出し汁が染みてて最高」「あ、それって邪道。暗黒面。館野さん、今からでも遅くないっすよ。悔い改めてください」
……などとしゃべりながらふたりは新町の古い町並みを歩いていた。木造の日本家屋が建ち並び、どこからか木の香が流れてくる。
「木の家ってなんかほっとするよね」館野は深呼吸した。
「そうっすね。けど……」
滝川は浮かない顔になった。館野はその顔をのぞき込む。
「どうしたの?」
「あ、いえ。なんでもないです」
滝川の脳裏にふっと昔の情景がよみがえった。古い木造のアパート。滝川は押入の暗く狭い空間で泣き、叫んだ。かびくさい布団のにおいに交じった木造の家独特のにおいを滝川は今でも覚えている。
「さあ、次はどこにする?」
館野の声に滝川は我に返った。あわててマップを取り出すと、二重丸がつけられたポイントを示す。
「ムーンロードのクレープ屋なんてどうっすか? 人気があるんで夕方には店じまいしちゃうんですけど。急がないと売り切れちゃいますよ」
「ここ、おいしいよね。突撃、してみる?」
「らじゃ。全軍抜刀全軍突撃、ガンパレードでありますっ!」
わっと歓声をあげて駆け出したとたん、衝撃を感じて滝川は尻餅を着いていた。見上げると、帽子を目深に被った男が立っていた。服を着ていでも筋肉の分厚さがわかる屈強な男だ。
「あっ、す、すいません」
前方不注意。滝川はあわでて謝った。男は表情のない目で滝川を一瞥すると、手を差し伸べようとした。と、館野がふたりの間に割り込んだ。
「大丈夫、滝川君……?」
滝川を起こすと、館野は男からかばうように立った。館野の視線と男の視線がつかのま交差する。館野が緊張しているのが滝川にはわかった。
「館野さん、悪いのは俺ですから」
滝川は声をかけると、館野は息を吐いた。
「そ、そうだよ。気をつけなくちや。あの……お怪我はありませんか?」
「ああ」
男は短く応えると、道を譲った。
館野は滝川の手を引いてそそくさとその場を後にした。
「なんかすげー雰囲気の人でしたね」
ずっと手を握られているのに照れて、滝川は館野に話しかけた。館野は滝川から手を放さず、憂鬱な表情で言った。
「戦争のにおいがした。あの人から。わたし、あんな風には……」
「館野さん?」滝川が名を呼ぶと、館野はあわてて手を放した。
「……あ、つい自分の世界に浸ってしまった。さあ、気を取り直してクレープ、クレープ!」
休日のクレープ屋は行列ができていた。多くの飲食店が店じまいし疎開する中、小麦粉と卵、砂糖を確保し営業を続けている貴重な店だった。
行列のほとんどはカップルである。今時、カップルが時間を過ごすような店は市内からほとんど姿を消していた。それだけに競争率は高かった。
ふっふっふ、俺もとうとうキミたちの仲間入りだぜと滝川は行列に滑り込んだ。こうして客のほとんどがカップルで占められると、ひとりではなかなか買いにくい。滝川も何度か気後れして回れ右した覚えがある。
「ああ、そうか。ここってそういう店なのよね」
館野は苦笑して、ずらりと並んだカップルの群を眺めた。
「それ系の店ですよね。けど、俺たちもなんつうか、カップルに見えませんか?」
「立派なカップルだと思うよ。さ、堂々と並んだ並んだ」
待つうちに館野は黙り込むことが多くなった。滝川は乏しい話題を四苦八苦して振ってみたが、うなずくばかりで要領を得ない。そのうち、館野は憂鬱そうに眉をひそめて言った。
「ねえ、やっぱりやめよう」
「へ……けど、もうちょっとで」
館野は列を抜け出すと歩き出した。滝川もあわでて後を追う。
「どうしちゃったんですか? 館野さん……?」
「ごめん。ちょっと気分悪くなっちやって」
ふたりは辛島公園のベンチに座った。館野は地面に視線を落としてふさぎ込んでいる。滝川も黙ってそれにつき合った。
「行列」館野はぽつりとつぶやいた。
「え……?」
「行列を見ていたら、怖くなったの。わたしたちってさ、並んで死ぬ順番待ってるようなものじゃない? 次はわたしの順番かなっていつも考えているから、急に怖くなって。こんなの変だよね、変過ぎるよね」
拳を握り締め淡々と話す館野に、滝川は衝撃を受けた。館野は耐えている。死への恐怖を必死で抑えつけていた。今の館野は泣き、叫んだとしても不思議じゃないのに。
「……変だと思いませんけど。俺だって怖いものあるし」
館野の横顔をしばらく見つめ、滝川は意を決したように話し始めた。
「俺、閉所恐怖症なんです。餓鬼の頃のことが原因だってえらい先生は言っていたけど、自分の部屋にいても時々そいつはやってくるんです。けど、一応戦車兵だから誰に言えなくて」
館野は、はっとして顔を上げた。そして「ごめん」とうなだれた。
「嫌なこと、言わせちゃった。壊れているな、わたしって」
「そんなことは。俺、きっと誰かに言いたかったんだと思います」
「だけど、なんとなくわかった。滝川君って、だから人にやさしくできるんだね」
そんな……。館野さんこそやさしいっすよ。
滝川が口に出そうとした時、多目的結晶が鳴った。館野のものだった。
「出動がかかった」
館野の表情がみるまに変わり、凛とした百翼長のものになった。滝川も背筋を伸ばし、館野を見つめた。敬礼をすると、館野もあらたまった面もちで敬礼を返した。
「じゃあ、行ってくるね」
館野は微笑すると背を向け、またたくまに駆け去った。
夕刻から夜にかけ、東の空では砲声がこだました。
休日返上の訓練を終えた厚志がプレハブ校舎の屋上に上ると先客がいた。石津萌がブータを抱えて、じっと夜空を見上げていた。閃光はひっきりなしに続き、少し遅れてどろどろと砲声が大気を震わす。市内からこんなに間近なところで戦闘が行われるのは初めてだった。
「石津さん、風邪を引くよ」
言ってしまってから厚志は後悔した。間の抜けたセリフだ。石津は振り向き、厚志を一瞥すると、すぐに東の空に視線を戻した。
厚志は石津の隣に立った。石津は安心できる相手だ。警戒をしないで済む気安さがあった。
それに――言葉を奪われている。
厚志は壁に向かってしゃべるように、言葉を連ねた。
「滝川を助けてやれって、芝村さんに言われたんだ。けど、助けるってどういうことか僕にはわからないんだよ。僕はどうすればいいんだろう?」
返事は期待していない。何度も試して、石津から応えが返ってきたためしはなかった。初めは嫌われているのかなと思ったが、あることに思い当たって苦笑したものだ。そもそも自分は好かれているとか嫌われているとか、他人にそんなことを期待していなかった。他人は無機質な壁。僕も壁だ。
僕は誰とも関わらずひとりで生きてゆこうと決めていた――。けれどこの学校に来てから、僕はだめになった、と厚志は思う。他人に、何かを期待するなんて、だめだ。
「だめだ。そんなの、だめだ」
厚志は長々と息を吐くと、つぶやいた。石津が微かに身じろぎした。
「特別……な……こと……しなくていいの」
厚志はビクッとして身を震わせた。だましていたのか? しゃべらない壁だと思っていたのに。厚志は石津を警戒するように見つめた。
「滝川君のこと……考えてあげて……そう……すれば……速水君も救われる……の」
石津は厚志の視線から逃れるようにうつむいたが、それでも言葉を絞り出した。腕に抱かれたブータが、励ますように石津の顔をのぞき込んでいる。
「僕は……」
滝川のことなら考えているよ、と言おうとして口をつぐんだ。考えてなんかいなかった。この学校で普通に、らしく過ごすための隠れ蓑としか考えていなかった。
「わからないよ、やっぱり」
厚志はつぶやくと、再び夜空に視線を戻した。戦況はわからなかったが、夜空に稲光のようにきらめく光と腹に響く砲声から人類側の必死の防戦が想像できた。あの閃光と砲声が絶えれば、幻獣は一挙に市内に突入するだろう。
「……死にもの狂いになっているね」
厚志は無意識のうちにつぶやいていた。冷たい風が速水の頬を打った。
「たくさん……死ぬって……ブータが」
石津も東の空を凝視したまま、ぼそっと言った。
数日後、滝川は女子校の校門前にたたずんでいた。
知らない学校に来るのはなんとなくばつが悪い。構内に入ろうかどうしようかと迷っている
と、声をかけられた。
「あー! もしかして。そのゴーグルは……」
振り向くと、知らない女子が立っていた。首を傾げる滝川を女子は責めるような目で見た。
「62戦車学校の卑怯者!」
こう言われて滝川はどっとこけた。な、なんでだ? なんで卑怯者なんだ?
「俺、なんか悪いことやった〜」
「あんたも他のやつらも! ほら、樹木園で!」
滝川は、はっと気がついて後ずさった。校門の門柱には堅田女子高等学校と刻まれたプレートがかけられていた。模擬戦闘訓練の際、舞のトラップで散々な目に遭わせた女子校だった。
「ご、ごめん。悪かったよォ」
あっさりと謝る滝川に、女子は拍子抜けしたようにため息をついた。
「あれから大変だったんだから。ふたりが風邪を引いて、ひとりは捻挫して。あんたのとこに抗議に行こうと思ったんだけど、教官が許してくれなくて」
「……すいません。反省してます」滝川はペコリと頭を下げた。
「まあいいわ。で、今日はなんの用?」
選択課目は柔道です、といった感じの女子は腕組みして滝川に尋ねた。そういや、この子、リーダー格だったよな、と滝川は思い出していた。
「桜八一戦車小隊ってここでいいんだよな? 俺、人探してるんだけど」
「桜……それで誰を」女子の顔が真っ青になった。滝川は胸騒ぎを覚えて名を言った。
「館野百翼長。何度も電話したんだけど」
「館野さん……」
不意に女子が涙ぐんだ。
「どうしたんだ? 館野さん、どうしちゃったんだ?」
滝川は思わず女子に詰め寄っていた。行き来する生徒たちが怪訝な顔で滝川を見る。
「館野百翼長は戦死されたわ」
「嘘、だろ……」滝川は茫然として、立ち尽くした。
「日曜日の戦闘で。わたしたちを逃がすためにミノタウロスと刺し違えて……エースだったの。わたしたちみんな、館野さんに憧れてた」
「……嘘だ。館野さんが死ぬわけねえだろっ!」滝川は憤然として怒鳴った。
嗚咽が聞こえた。大柄でたくましい女子が目許を押さえて泣いていた。滝川は言葉を失ってふらふらとその場を後にした。
「滝川のやつ、授業さぼったね」
厚志と舞は連れだって味のれんに向かっていた。あそこのコロッケ定食は絶品だと舞に勧めたら、では行こうということになった。
「ふむ。どのような理由かは知らぬが、サボリは感心せぬな。理由を探るがよいだろう」
「あれ、滝川……?」
厚志の目に、尚敬校の校門に向かってくる大柄な男が映った。帽子を目深に被った変わった雰囲気の男だった。その肩に掴まるようにして滝川が歩いている。怪我でもしたのか? 厚志はふたりに駆け寄った。
「ど、どうしたの、滝川?」
滝川はどことなくぼんやりした表情をしている。腰でも抜けたのか、半ば男に引きずられるようにして歩いている。
「第62戦車学校はここでいいか?」大男が低い声で尋ねた。
「はい。校舎裏になりますけど。あの、彼、どうしたんですか?」
「車道を歩いていた。危なっかしいので連れてきた」
「感謝を。よろしければ名をお聞かせ願いたい。わたしは第62戦車学校の芝村舞だ」
舞は男を見上げて礼を言った。
「来須銀河。本日より第62戦車学校に入校する。それで――、どこへ運ぶ?」
三人は滝川を食堂に運んだ。滝川は茫然自失して、瞳孔が開きっぱなしだった。厚志と舞、来須はその場にとどまり滝川の回復を待った。
「どうして車道なんかに?」
厚志は尋ねた。まるで別人のような滝川の変わりようがショックだった。
「心が飛んだ。そういうことだろう」来須は無表情に応えた。
「そのようなことがあるものか?」
舞は静かに尋ねた。厚志と同じくショックを押し隠していた。
「この男に深い悲しみを感じた。悲しみに耐え切れない、と生体が判断した時、心や記憶は飛ばされる。俺も一度、見たことがある」
「えっ、滝川、記憶をなくしちゃうんですか?」
厚志は驚いて滝川を見た。何があったんだ? こんな顔をしている滝川なんて滝川じゃない、とその体を揺さぶってやりたかった。
「……ねえよ」滝川の声だ。三人は滝川に向き直った。
「ばっきやろ、飛んでなんかいねえよ。記憶だってある。忘れるもんか。忘れてたまるかよ。ちつくしよう、館野さんっ……!」
滝川の瞳孔に光が戻った。ほどなくぼろぼろと涙があふれ出した。
「やさしい人だったんだ。やさしい人だったんだ、ちっくしよう、どうして死ななきゃならないんだっ……!」
嗚咽を堪えようともせず、滝川は声をあげて泣いた。
それは死者を惜しみ嘆く、心からの涙だった。鎮魂の涙だった。号泣する滝川を、厚志、舞、来須は粛然《しゅくぜん》として見守った。
皮肉なことに、三人は一度たりとも号泣した記憶を持っていなかった。滝川の嘆きを、悲しみを、ただ見守ることしかできなかった。
「滝川――」
舞は畏れるように滝川の名を呼んだ。ぐっと奥歯を噛み締め、何かに耐えるような表情になった。泣くな、滝川。泣くなというに。なぜそなたは泣く? 泣けば忘れられるのか? 泣けば救われるのか? わからぬ。わたしにはわからぬが、そなたは善き心を持っているな。それは尊いものだ。それゆえわたしはそなたの心を守ってやろう。
厚志の視線を感じた。内面をのぞかれたような気がして、舞は厚志をにらみつけた。
舞の憤怒のまなざしに、厚志はたじろいだ。舞の心の動揺が伝わってくるようだった。
芝村舞を汚してしまった、と厚志は唐突に思った。芝村舞は滝川の嘆きを我がことのように受け止めている。見てはいけなかった。僕なんかが見てはいけなかった。厚志は激しい自己嫌悪にさいなまれた。
厚志は憂鬱なまなざしを滝川に投げかけた。
どうして。他人のためにどうしてそんなに泣けるんだ?滝川、君はおかしいぞ。絶対、変だ。僕はそんなの認めないよ。知り合って数日しか経っていない他人のために泣くなんて。
「やさしい人だったんだっ!」
厚志の内面の声に反発するように滝川は叫んだ。
その声に厚志はすくんだ。敗北感があった。なあ滝川、今やっとわかったよ。僕は最低だ。
最低なんだよ、本当に。僕は、僕は――。厚志は心の中で延々と滝川に語りかけた。
来須はいつのまにか去っていた。
厚志と舞は沈痛な表情で、泣く滝川を見守った。
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第4話 士魂号到着!
「建物の陰にミノタウロス。方位十一時、距離三百。こちらを待ち伏せしている」
速水厚志の視界には灰一色のビル街が映っていた。
ヘッドセットの戦術画面《タクティカル・スクリーン》にはふたつめの信号を過ぎたビル陰に赤い光点がひとつ。先ほどから静止したまま、こちらを待ち受けていた。
「この先の信号を左折しビルからビルへジャンプで移動。敵の背後に回り白兵戦でいっきに片をつける。きゃっを倒せば、後は雑魚ばかりだ」
芝村舞の冷静な声が後部の砲手席から響く。
「あ、ちょっと待って! 三時の方角からミノタウロス二が新たに出現。建物を破壊しながらまっすぐこちらに向かってくる。距離は八百」
厚志の声に焦りの色が交じる。ミノタウロスは、人型戦車の好敵手だ。分厚い装甲と高い攻撃力を併せ持つ難敵であった。
「面倒な。ミサイルでは力不足ゆえジャイアントアサルトの連射で切り抜ける。それにしても壬生屋は何をやっておる。雑魚を追いかけてもしかたがないぞ」
と舞。でされば重装甲と協力して敵を撃破したいところだった。
ほどなく壬生屋末央から応答があった。厚志と舞のヘッドセットに甲高い声が響く。
「失礼なっ! これでも精一杯敵を引きつけているつもりです。そちらこそ早くミサイルを使ってくださいっ補佐役は複座型の方なんですから」
「たわけ。そんなものは状況によって変わる。当面の主敵はミノタウロスだ」
「ミノタウロス接近。距離四百五十。どうしよう?」厚志は舞に判断を仰ぐ。
と、滝川陽平の能天気な声がヘッドセットに入ってきた。
「へっへっへ、ゴブリン撃破、と。にしてもしつこいよな、こいつら。なあ、芝村、複座型のミサイルでやっちまえないかな」
「滝川、そなたは通信を聞いていなかったのか? 我らはミノタウロスに狙われている。掩護だ、掩護。こちらに接近するミノタウロスを側面から射撃せよ」
舞のウンザリした声。
「え……し、しまった。ゴブにまとわりつかれて動けなくなった!」
「それではわたくしが。あら、ミノタウロスが見えません。どこに隠れているんでしょう?」
「ミノタウロス、方向転換。……あれ? 早く逃げろ、滝川。君の方に向かっている!」
遠ざかっていく赤い光点を確認して、厚志はあわてて滝川に通信を送った。
「ば、ばっきやろ! 速水、おまえ、なんかやったな。もしかして裏ワザ?」
「そんな。僕はなんにもしてないよ。だめだ、滝川、早くっ!」
「ア、アクセルが……踏んでも反応しねえっ! ちっくしよう、動け、動けっ……!」
滝川の悲痛な声が響く。
「何度言ったらわかるのだ? プログラムとアクセルの相性が悪いことは説明したはずだ。急に踏み込むとフリーズすることがある。ゆっくり、なだめるように踏むがよい」
舞はこともなげに言い放った。
第62戦車学校が間借りしている尚敬校の戦車シミュレータに、新たに人型戦車用のソフトが入ってから、パイロット候補――厚志、舞、壬生屋、滝川はこれまでのないないづくし、機材不足の鬱憤を晴らすように日がな熱中して視聴覚室を改造して造られたシミュレータ・ルームに籠もっていた。
四人は少し前、パイロットとして養成される旨を伝えられていた。瀬戸口隆之と東原ののみは新たに配備された戦闘指揮車のオペレータとして、索敵、攻撃誘導、情報支援などを担当することとなり、加藤祭と石津萌の両名はそれぞれ事務官、衛生官として近くの学校で講習を受けることとなった。
これまでの基礎的な訓練ではなく、人型戦車のシミュレータはパイロットとしての彼らの潜在的能力を問われるものだった。それだけに四人はシミュレータに熱中し、すでに様々なオプションを試していた。
複座型のパイロットを壬生屋・滝川としたり、全員が軽装甲あるいは重装甲で出撃したり。
何度も繰り返すうちに、複座型は舞と厚志が担当するのが過当であると全員が認めた。むろん正式な担当ではなく、彼らの間だけの約束事に過ぎなかったが、芝村舞の相棒を務めるのはどう考えても厚志しかいなかったからだ。
敵についても教室での講義では味わえぬリアル感があったらゴブリンやゴブリンリーダーなどの小型幻獣を一方的に躍鋼するのは楽しかったが、ミノタウロス、ゴルゴーンなど中型幻獣を加えると、とたんに戦いがきつくなる。建物の陰に隠れて待ち伏せしたり、相討ち覚悟で突進したりと、四人はいろいろと試行錯誤を繰り返した。
「まだやってる……」
シミュレータ・ルームをのぞいた尚敬校の生徒が不満げにつぶやき、すぐに消えた。彼女たちも使いたいのだ。使いたいのだが、鋭い目つきのポニーテールとインパクトある袴女に気圧されて面と向かっては文句が言えない。男の子たちはやさしそうでいい感じなのに、と生徒はぶつぶつ言いながら引き返した。
味方を表す青い光点が厚志の視野から消えた。
「滝川機大破。パイロット死亡」メッセージが流れる。
「ちつくしよう!」
滝川は悔しげにシミュレータの筐体から離れた。
シミュレータが終わった。厚志は皆に紙コップに入れた紅茶を配って回る。舞が紅茶好きと聞いて、毎日ポットに入れて持ってきているのだ。
「おっ、サンキユ。今日の紅茶は一段とお上品なにおいがするぜ」
「ジャスミンの花びらを混ぜてみたんだ」
滝川に誉められ、厚志はまんざらでもない顔になった。
「本当においしいですよ。紅茶の掩れ方だけでも、速水さんの細やかな気配りがわかります」
「そんなことは。ここって水がおいしいから」
まったりした会話を苦々しげに聞いているのは舞である。会話自体が不満なのではなく、話の輪に加わるきっかけが掴めない自分にいらだっている。
「あー、滝川よ、そなた、戦死したというのに余裕だな」
休憩タイム終わり、これより検討会を行うとの合図だ。舞の言葉に滝川は憮然となった。
「ちぇっ、俺だって戦死したくてしたわけじゃねえ。ゴブにまとわりつかれて、動けなくなったんだ。ホントの戦闘だったらあんな雑魚踏みつぶしている」
「言い訳に過ぎぬな。敵に囲まれた時点でそなたの負けだ。ミノタウロスは当然、囲まれ足留めされている機体にとどめを刺しに来る」
舞は紅茶をすすりながら冷静な口調で断じた。
「まあまあ、滝川だってわかっているよ。けどさ、軽装甲は向かないと思うよ。滝川って足を留めての撃ち合いが好きだしさ。見てると、移動するタイミングが遅れている。撃ったらすぐに移動しなさいって教わったじゃない? 重装甲に乗り換えなよ」
舞の意に添うように厚志は滝川の戦闘を評価した。
何かもっともらしいことを言わないと舞は不機嫌になるのだ。舞の手下その一は大変だ。
僚機の動きも観察して一生懸命、意見を表明しなければならない。
「ノノノ。重装甲なんてチキン。格好悪いし。俺は軽装甲じゃなきや嫌なの」
滝川は能天気に応じたが内心では非常に焦っていた。今のところシミュレータでの戦死率は自分が断トツでトップだ。これは秘密特訓でもしなけりやと考えている。
「あの……、わたくしから見れば速水さんの操縦は積極性が足りないと思います。損害を恐れてこわごわと縮こまっているような」
壬生屋が顔を赤らめながら発言した。批評し合うことにまだ慣れていない。
「そ、そうかな。死んだら終わりと思ってやってるんだけど……」
厚志は頭を掻いた。
「それがいけないのだと思います。自分の安全だけを考えるのでしたらいいんでしょうけど」
「ふむ、よくぞ言ってくれた、壬生屋。わたしも速水を何度か蹴りたくなった。速水よ、生き残るために果敢であれ」
舞の口調は冷静であったが、満足げである。感情的で気分屋の壬生屋が、こうも客観的に分析してくれるとは一歩前進だ、と思っている。世間話は超のつくはどの苦手だが、仕事……訓練の話なら自分もコミュニケーションを取ることができる。
「ぼ、僕はただ芝村さんを戦死させちゃいけないと思って……!」
味方だと思っていた舞に言われて、厚志は心外だというように声を高くした。
「よし、ここは俺様が親友を弁護してやろう。複座型は足が遅いし、動きもとろいから速水が慎重になるのもわかるぜ。そこでだ、俺は必勝パターンを考えた」
滝川は自分のことを棚に上げ、得々として言った。
「ふむ、必勝パターンとは?」
「機体を全部、軽装甲にするんだ。戦場を疾風《はやて》のように駆け抜ける戦隊ってな。んで、みんな違うカラーリングにするの。俺は愛と友情のレッド。速水は知恵と勇気のブルーにしてやるよ」
舞はこめかみを押さえ、やおら滝川の胸ぐらを掴んだ。
「どうですか、調子は?」
戦術理論担当の坂上教官が入ってきた。五分刈りにサングラス、白のポロシャツにゴルフズボンというおやじくさい格好をしている三十代の男だが、士魂号に拘る講義は、面白かった。無理に話を面白くするような感じではなく、対象を極めた人間だけが持つ特有の知識の奥深さが感じられた。冷静な舞もこの時ばかりは目を輝かせて聞いている。
舞は滝川の胸ぐらから手を放すと、坂上に向き直った。
「戦術についてはそこそこ学習できるが、肝心なところが抜けている」
「それはしかたがないでしょう。元々は装輪式戦車のシミュレータですからね。後づけで強引に人型のソフトをねじ込んだだけですから、実機の操縦感覚とはずいぶん違いますよ」
坂上はすぐに意味を悟ったらしく、冷静な声で言った。
「それで実機のことだが、あとどれくらい待てばよい?」
「そのことなら善行委員長に尋ねてください。……ところで、先ほどの滝川君の提案ですが、以前、そんな編制で戦った部隊がありました」
「え、えっ? それでどうなったんですか?」
滝川が興奮して尋ねた。
「全滅しました」
坂上は無表情な、抑揚のない声で答えた。
「ふむ。でさればその話を聞かせて欲しいものだ」
舞はあくまでも貪欲に知識を吸収しようとする。
「話はいつでもできます。よろしかったら、君たちにも検討する時間を与えたいのですが」
課題ということだ。同じ教官の本田とは対照的に、坂上は冷静沈着だ。徹底して生徒のやる気を試してくるところがある。その課題とやらをクリアしてやろうと舞は目を細めた。
坂上が職員室に戻ると、善行忠孝が腰を浮かした。
「ああ、善行委員長、どうなさったのです?」
「ここ二、三日、パイロットの卵たちの姿を見かけないもので。彼らはどうですか?」
「シミュレータに夢中になっていますよ。芝村さんはシミュレータを終えた後、必ず検討会をやる習慣を徹底させたようです。何度も何度も繰り返しやれば、たとえ芝村に何か言われたとしても、他のパイロットも慣れてきます」
「なるほど、考えましたぬ……元々彼女はコミュニケーションが苦手だが、訓練の話ならば主導権を握って他のメンバーを引っ張っていくことができる。芝村さんも頑張っています。ステップをひとつクリアしつつあるということでしょうか」
芝村舞は一日一日成長している、と善行は思った。いわゆる数字に表れるスペックも、精神面でもまったく問題はない。ただし、彼女の場合、どのように仲間と馴染んで、かつ彼らを引っ張ってゆくかに不安があった。
「壬生屋さん、滝川君も初めは感情的になって反発していたようですが、今では互いを評価する術を身につけてきたようです。しかし、何度も言うようですが、シミュレータでは本当の士魂号を理解できません。実機はどうなっています?」
「満を持して登場、と言いたいところですが、どうもね……」
善行は言葉を切って考え込んだ。
「責任者が念には念を入れ過ぎまして、整備に時間を食っています。完璧王義というのもどうもねえ。今日も本田先生に様子を……」
言いかけたところに足音も騒々しく本田が入ってきた。
「宿舎に行ってきたぜ。けどよ、ありやあすげえ女だな」
本田は善行を冷やかすように言った。
「と申しますと……?」
「一週間よけいに時間を食った理由を聞いたら、とにかく完璧な機体を持ってゆきたいんだと。何かあって整備の責任にされたら迷惑だと。この芸術品を使いこなす度胸が速成のパイロットにあるかしら、なんてほざいてたぜ」
「そうですか……」
善行は苦笑して眼鏡を直した。
「おめーよ、彼女に何やったんだ? 善行さんはお元気ですか、どうして善行さんが来てくれないのかしらなんて。寂しそうだったぜえ」
本田は意味ありげな視線で善行を見た。
「えっ、彼女がそう言ったのですか?」
「わはは。やっぱり顔馴染みだったか? ちょっとかまをかけてみたんだ。へっへっへ、善行よ、おめーも隅に置けねえな。この悪党」
「悪党呼ばわりですか。ええ、確かに彼女は古い知り合いです。士魂号にかけては最高のエキスパートですよ。彼女が採れなければわたしのプランはあり得ない、と上層部にかけ合いましてね、来てくれることになったのです」
「彼女の噂は聞いていましたが、善行委員長もこれからが大変ですね」
坂上は相変わらず、抑揚のない声で言った。
加藤祭は司令室の事務机に座って備品発注用の端末を操作していた。
司令室とは名ばかりのプレハブの室内は使い回しの機材を使っているためか、ところどころに隙間が開いて冷たい風が吹き込んでくる。居住性は最悪だが、事務官見習いとして部屋の隅に自分のデスクを与えられたことが嬉しかった。
配属が告げられてから三日が経つが、善行は毎日一時間を加藤のために割いて、物資調達、備品管理のイロハを教えてくれた。パイロットの四人はここのところシミュレータ・ルームに詰めているし、こちらも早いところ仕事に慣れておこうと、司令室に籠もっていた。
「ええと、星印製菓の板チョコ一ダース、と。なんやこれ? 申請者、滝川陽平良&ののみやて? 委員長、変な書類が……」
加藤は呼びかけようとして、言葉を呑み込んだ。善行は司令用のデスクであたりを憚るように低い声で受話器に向かって話しかけていた。
「……善行行です。ええ、ご無沙汰しています。到着が遅れたので心配になりまして。何か変わったことはないかと……ええ、ええ、それはわかっています。他意はないのですが、一日でも早くパイロットに機体を操縦させたいと思いましてね……ええ、ですから一刻も早くこちらに……そんなことは。整備テントの展開ですか? 許可しますので、二十四時間、いつでも展開していただいて構いません。とにかくですね、一刻も早く……」
加藤は耳を澄ました。これはわけありや、とピンときた。
受話器を下ろす善行に、加藤は思い切って声をかけた。
「善行委員長……整備の人たちはいつ来るんでしょ? あの、クラス替えとかあるんですか?」
「明日には到着します。クラス替えはありません。あなたたちは一組、整備は二組として隣の教室を使うことになるでしょうね」
善行は書類に目を落としたまま答えた。
不憲にビリビリと建物が揺れた。
地震かな、と思って加藤が司令室を飛び出すと、巨大なトレーラーが視界に飛び込んできた一台、二台、三台……どうやって切り返せば校舎裏まで進入できるのか。ぼんやり立ち尽くしていると、トレーラーのドアが勢いよく聞けられ、戦車学校の制服を着たほっそりした女性が降り立った。百翼長の階級章をつけている。
うわあモデルさんみたいやなあ、と加藤はその姿に見とれた。同じ制服を着ているというのに、腰の高さが全然違う。キュロットからすらりと伸びた脚が印象的だった。
少々険のある顔立ちをした美人とでもいうのか。ただしその顔から険を取ったら、印象はぐっと薄くなってしまう。
その女性は背筋を伸ばし、腕組みをして悠然と裏庭を見渡した。クラスメートの芝村舞の仕草に少し似ているが、少年のように見える舞とは対照的に大人の女性の雰囲気をただよわせていた。
「整備テント、展開始め! すぐ士魂号をセットアップします」
凛とした声で女性が叫ぶと、「ウィツス」と威勢の良い声がして後続のトラックから、屈強な体つきをした工兵が次々と降り立ち、建集資材を積んだ車両に突進した。
まるで蛮族の襲来のようなその勢いに加藤は気圧され、後ずさった。
「予備部品の確認急いで。生体部品はすぐ冷凍開始っ!」
女性は矢継ぎ早に指示を下した。トレーラーと軽トラックから、今度は加藤と同じ制服を着た男女が降り立って、作業を始めた。
加藤はぼんやりと突っ立ったまま、その様子を眺めていた。
トレーフーにかけられた幕が風に煽られ、めくれ返った。巨大な足が見える。人類のそれとは明らかに異なる異形の姿。はっとなって思わずトレーラーに近寄った。
「士魂号や……」
トレーラーの荷台に手をかけると、運転席から声がかかった。
「そこつ。赤い髪の人。危ないですから下がっていてくださいっ!」
声のした方向を見ると、バンダナを巻いた女子が、こちらをにらみつけている。
「あ、ウチは……」自己紹介をしようとして、遮られた。
「じきに整備テントへの搬入が始まります。邪魔だから近寄らないで!」
バンダナ女はしっしと追い払う真似をする。これには加藤もむっとして、言い返そうとしたところ、先ほどの女性の声がした。
「森さん、ギャラリーに構わずに。クレーン車が見えないんだけど、到着はいつかしら?」
「あ、はいっ。連絡では一六〇〇時に到着することになっています。その五分後にクレーンで士魂号を搬入、テントの生地を張るのはそれ以降となります」
森と呼ばれたバンダナ女は生真面目に申告した。
無視された加藤は、ひとしきりバンダナ女をにらみつけてから、「そうや、みんなに知らせてあげないと」とつぶやき、校合へと向かった。
シミュレータ・ルームでは舞が熱弁を奮っていた。
「軽装甲は被弾すればすぐに戦闘不能になる。どころか、パイロットの安全も心許ない。絶対、被弾しないという自信があれば軽装甲を使用することも可だろう。しかしそんなパイロットはまずいない。被弾することを前提として、士魂号を運用するのが現実的というものだ」
「けどよ、俺は軽装甲が好きなんだよ」
と滝川。軽装甲をけなされた、と思って懸命に口を挟む。
「我々は幼稚園児ではないのだ。好き嫌いの次元で発言するな。わたしが思うに単座の重装甲二機に複座型一機が最良の編制だ。軽装甲は、戦車小隊ではなく、戦車随伴歩兵の隊に配備し、小型幻獣の掃討など、歩兵支援任務に当たらせるのがよいだろう」
舞は他のパイロットを挑発するように断定的に言った。楽しそうだ。
しかし、厚志と壬生屋は挑発には乗らず、黙ったままだ。そんなこと、自分たちが決めるものじゃないと割り切っている。
「けど、俺は軽装甲のエース、知ってるもんね。雑誌に出ていた」
ただひとり、滝川だけが舞の相手をしている。
「だから、その者は特殊なのだ。そもそも……」
舞が言葉を継ごうとした時、がらりとドアが開いて、加藤が「まいど」と顔を出した。
「あはは、滝川君、芝村さんと仲良さそうやね!」
舞と仲良さそうと冷やかされて、滝川の顔が赤らんだ。
「そ、そんなんじゃねえ! 俺は芝村と議論ってやつをしてたの!」
「議論をしていたのはわたしだけだったがな。滝川のは駄々をこねるという」
舞が澄ました顔で言うと、くすりと壬生屋が笑った。加藤は少し複雑な思いで、四人のパイロットの卵を見比べた。壬生屋さんも滝川君も芝村を嫌っていたのに、今はけっこういい雰囲気やん、と思った。
「加藤さん、事務講習の方はどう?」
厚志がすばやく紅茶を掩れて、紙コップを差し出した。
「ぼちぼちやな。そんなことより、大、大、大ニュースや! ええい、持ってけドロボー、特別にタダで教えたるっ!」
加藤のハイテンションに、パイロットたちはまたかという顔になった。
「……ど、どうしたの?」
しょうがないなという顔で厚志がしぶしぶと尋ねた。
「ふっふっふ、開いて驚くな。……士魂号が来たんよ!」
「ええっ!」四人が同時に声をあげた。
「裏庭はなんやすごいことになっとる。――って、行ってしもうた。くすん、寂しいわ」
取り残された加藤は、ため息をついて紅茶をすすった。
確かに裏庭はすごいことになっていた。設営用のものを含めて大小の車両が乗り入れて、設営作業は急ピッチで進められていた。
ところどころに足場が組まれ、工兵たちが威勢良く声をかけ合う。テントを支える鉄骨が方方に立てられ、体育館ほどもある巨大なテントの輪郭が明らかになっていた。
東原ののみはプレハブ校舎の二階から瀬戸口と一緒に作業を見守っていたが、やがて我慢できなくなったとみえ、設営現場に走っていった。
現場に足を踏み入れ、東原はあたりを見回した。同じ制服を着たふたり組に気づくと、おそるおそる近づいた。ふたりは鉄骨の接合部をボルトで固定している。白衣を羽織り、派手な化粧をした男と目が合った。
「おおっ、そこのプリティなあなた。もしかして、わたしの……お母さんですかあっ!」
化粧男は怪鳥のような奇声を発して、他の作業員のひんしゅくを一身に集める。東原は跳ねるようにして化粧男の隣に駆け寄った。
「えへへ、ののみ、お母さんじゃないよ。東原ののみです」
「ノオオオ。なあんてラブリーなお名前なんでしょう! わたしは岩田|裕《ひろむ》し申しますです。わかりました。わかりました、あなたがその気なら……」
岩田は相棒にスパナを投げ渡すと、バナナの皮で滑って転ぶパターンを演じ始めた。
「わあっ、すごいよ!」
東原は目を輝かせて、岩田のベタなギャグパターンに見入った。これを冷ややかな目で見守るのは相棒だった。ひょろりとした岩田とは対照的に小太りで恰幅が良い。
「あれがやつの手たい。ふんならば俺にも考えがある……」
小太りは苦々しげにつぶやくと、東原に笑いかけた。
「俺は中村光弘しこれはお近づきのしるしの引っ越しプリンばい」
中村は手に提げたビニール袋からプリンを取り出した。スプーンも渡されてこわごわ口に運んだ東原の顔が劇的に輝いた。
「おいしいよしこんなおいしいお菓子食べたの、初めて!」
「わははー、遠慮せんで食べてよかよか」
と言いながら、中村の視線はそろそろと東原の足下へと伸び、可愛らしいソックスに釘づけになった。不意に視界を塞がれた。岩田の手が遮っていた。
「見たら減ります。これからはわたしに断るように。目をつけたのはわたしが先ですから」
「負け犬が。ぬしゃのギャグはプリンに敗れた。あと百万年修行して出直してくるこんね」
「フフフ、わたしを怒らせると二十四時間耐久で耳許でギャグをささやきますよ」
「ぬぬぬ、脅しには屈せんとぞ。ぬしゃこそプリンの材料にしてやるたい」
険悪な空気になったふたりを、東原は心配そうに見つめた。
「まったく、何をさぼっているんですか! ただでさえ男手が少ないんですから、ちゃんとセットアップ手伝ってくださいっ!」
現場を見廻っていたバンダナ女が激しい剣幕でふたりを怒鳴りつけてきた。が、東原の無邪気な視線に気がつくと、はっと顔を赤らめ口をつぐんだ。
「東原ののみです。お姉ちゃんは?」
「あ、あの……わたし森精華っていうの。ここは危ないから、近づかないようにしようね。けだものもいるし」
「けだもの?」
「このお兄ちゃんたちのこと。何があっても靴下は守るのよ」
工兵隊の怒涛の働きで、わずか一時間で整備テントは組み立てられた。関係者だけとなり、人口密度が減ったテントには三体の士魂号が設置されていた。嵐のような作業場の雰囲気に気後れしてこわごわ見守っていたパイロットたちは、ようやく士魂号の前に立った。
「すげー、これが士魂号か」
滝川は感極まったように士魂号を見上げていた。全長九メートル、体重六・五トン、最高速度時速七十キロメートル。地形に左右されぬ二足歩行、そしてオプション装備の充実により、多彩な戦術に対応する対幻獣戦闘の切り札――。滝川はその質量に圧倒される思いだった。人工筋肉に覆われた三体の巨人を滝川は小躍りして見て回った。
「複座に重装甲に軽装甲か。これが我らの剣であり盾だ」
舞の声。冷静に言ったつもりだったが、まわりには弾んで聞こえた。
「……これにわたくしたち、乗るのですね! なんだか武者震いがします」
壬生屋も息を呑んで士魂号を見上げている。実機がこんなに大きいとは思わなかった。こんなに頼もしいとは思わなかった。これだったら、幻獣に勝てる……! 壬生屋の頬は知らず紅潮して、声にも張りが出ている。
「けど、でっけえよな!」と滝川。
「うん。大きいね」
とうとうここまでつき合ってしまったなと、厚志は奇妙な感慨にふけった。
まるで夢を見ているようだ。良い夢でもなく悪い夢でもなく、どっちつかずの、ふらふら揺れている夢。目が覚めたらどうなるのか予想がつかなくて、少し怖くて、ずっとこのまま見ているしかないと思うような夢だ。
もう少し、もう少しだけつき合ってもいいかなと厚志は顔を上げて巨人たちを見上げた。
「こいつ、格好いいよな。やっぱ士魂号は軽装甲に尽きるぜ!」
滝川は軽装甲に近づくと、その足にすりすりと頬ずりをした。
そこまでやるか? 後に残された三人はぎょっとして、互いに顔を見合わせた。
「へっへっへ、俺、滝川陽平ってんだ。おまえって美人さんだな!」
滝川は自分の世界に入ってしまったようだ。軽装甲に自己紹介をすると、木の幹に張りつくカブトムシのように軽装甲の足に抱きついた。
しかし、三人にも滝川の気持ちはよくわかった。滝川ほどのフュティシズムはないにせよ、これから生死を共にする機体である。自分の生涯のパートナーと出会ったような興奮は共有している。
「ねえ、壬生屋さんはどの機体が好きっ」
厚志が尋ねると、壬生屋は嬉しげに小首を傾げた。
「どの機体でも構いませんけど、好き嫌いで言うならわたくし、これにします」
壬生屋は重装甲の足下に歩み寄った。人工筋肉で包まれた巨人の足をそっとなでる。硬質な、冷んやりした感触ながら、どことなく有機的な柔らかさが感じられる。兵器にしてはウエットな手触りに壬生屋は驚いた。
それに重装甲の厳めしさはどうだ。甲冑をまとった戦国時代の武者のようだ。この機体に乗って戦場を駆け回る自分の姿を想像して、壬生屋は高揚した気分になった。
「まったく……滝川といい壬生屋といい、幸せなやつらだ」
舞は苦々しげに吐き捨てた。実は自分にそのような感情があるとは意外であったが、滝川のように士魂号の側に駆け寄りたかった。個人的には漆黒に塗られた重装甲が好みだったが、壬生屋に先を越されてしまった。「ふむ、強いて言うなら、この機体か」とセリフまで用意したのに、厚志は話題を振ってくれなかった。手下としては失格だ。
「ぼ、僕、なんか悪いことした?」肩に軽いパンチを受けて厚志は戸惑った。
「ふん。そなたは場の空気というものを読めぬ」
少しは察するがよいと言おうとしたとたん、背後で声がした。
「触らないでっ!」
バンダナで髪を束ねた丸顔の女が、こちらをにらんでいた。滝川と壬生屋は弾かれたように機体から離れた。
舞は無表情に相手を見つめた。バンダナ女はわずかに怯んだようだった。
「これは我らの乗る機体だが。触ると何か不都合でもあるのか?」
舞は冷静に言った。不都合などないはずだ。この女は何を緊張しているのか?
「そうだ。俺たちはパイロットだぜ。これから世話になる機体を触って何が悪いってんだ?」
滝川も舞に続いて言い募った。
「どぎゃんしたつ、森?」
テントの奥から声がかかって、小太りの男がバンダナ女の側に寄ってきた。
「あ、おまえ……」と滝川。
「お、おう」小太りの男はそれ以上しゃべるなと視線で制した。
足音がして、さらに数人の整備員が駆けつけた。自然、パイロットたちと対峙するようなかたちとなる。ふたつの集団は互いに相手を値踏みするようににらみ合った。
「ねえ、芝村さん、ここで言い合いをしたってしょうがないよ」
腕組みして整備の面々を見つめる舞に、厚志はささやいた。
「そなたの言うことは正しい。しかし突っかかってきたのは向こうだ。パイロットとしての立場もある。ここで退いては今後に差し支える」
舞もささやき返した。これがバンダナ女――森の癇にさわった。どうしてだか、ふたりが自分の悪口を言っているような錯覚に陥った。
「と……とにかく機体から離れてっ!」
神経質になっていた。新しい環境に身を置かねばならない緊張もあったろう。徹夜の連続でなんとか動けるようにした機体を見知らぬ人間に触られたことへの嫌悪もあったろう。森は気力を振り絞って、パイロットに怒鳴った。
「なあ、おまえ、何かっかしてんだよ? 俺たち、これから同じ部隊になるんだぜ」
滝川の当惑した声が響く。なんとか言えよと視線を顔見知りの小太りに移す。
「まあ、無断で機体を触られるつとは整備にとつちや気色ん悪かね。俺たち、こいつらを三日三晩徹夜して整備しとつけん」
小太りはなだめるように言ったが、今度は壬生屋がかちんときた。
「気色悪いって、失礼です! それに徹夜続きはわたくしたちのせいではありません。どうか勘違いはなさらずに!」
「勘違いしているのはそちらの方ね」
整備員に新たな応援が加わった。モデルのようなスタイルをした美形の百翼長が優雅な歩みで整備テント二階に通じる階段を降りてきた。
百翼長は森を守るようにその前に立つと、にこやかに壬生屋に微笑みかけた。
「士魂号というのはね、大量生産される装輪式戦車と違って、最先端の軍事技術が使われている機体なの。一機一機が手づくりの貴重品なのね。大切にメンテナンスをしてあげないとすぐに故障する。わたしが何を言いたいか、おわかり?」
滔々と論じられて、悔しげに唇を噛んだ壬生屋に代わって、舞が応じた。
「最先端機器ゆえ、整備に任せておけというわけだな?」
舞は腕組みして、冷静な口調で言った。
「そういうこと。良くできました。もっと言えば士魂号はパイロットのものじゃないの。整備員のもの。整備員は機体の細かな癖まで知っている。それぞれ癖の強い機体を稼働させる術を知っている……つき合っている時間が全然違うからね。あなたたちは、たまたま士魂号に乗るだけ。あ、わたし原っていいます。原素子。一応、整備主任として整備班を束ねています」
原も知らず腕組みをしている。舞と原、ふたつの視線がぶつかった。
「芝村舞だ。そなたも勘違いしているようだから言わせてもらおう。士魂号は誰の所有物でもないぞ。それぞれがそれぞれの職分に応じて関わってゆけばよいだけのこと。この機体を運用して如何に敵を倒すかを考えるのはパイロットの職分であるし、きめ細かなメンテナンスをほどこすのは整備の職分であろう。それだけのことだ」
舞の口調に相手への敵意は感じられない。厚志は舞の冷静な横顔を見て、なるほどね、と思ったり舞は好んで敵をつくるほど愚かではない。前向きで積極的だが、必要以上に攻撃的ではない。要するに自分をコントロールできるということだ。
「速成のにわかパイロットに説教されるとはね。まったく、先が思いやられるわ」
原の言葉に厚志は耳を疑った。舞とは対照的に感情的な言葉だ。そうじゃないだろう? 整備を束ねている人がそんなことを言ってはいけないだろう? 黙って聞き流す舞の代わりに壬生屋が口を開いた。
「先ほどから聞いていれば失礼なっ! あなたはそれでも主任ですか?」
「けど本当のことよ。パイロットの代わりはいくらでもいます。けれど士魂号は手に入れるのは大変なのよね、それに、ついでだから言っておくわ。士魂号の整備員はね、もっと貴重なの。頼むから足だけは引っ張らないでね」
ずけずけという原に、壬生屋はまたしても言葉を失って口をつぐんだ。厚志は何気なく舞を見た。舞は、ふっと笑って原のまなざしをとらえた。
「何を感情的になっている? 悩みでもあるのか? わたしでよければ相談に乗るが。ただし相談料は五百円だ」
それだけ言うと、原に背を向けた。厚志らパイロットはあわてて後を追った。
「えらそうに……」
原の声を背に浴びて、パイロット四人は整備テントを後にした。
「へっへっへ、さすがは芝村。すっとしたぜ。あの原って人を言い負かしたじゃん」
滝川がほっとしたように言った。
「たわけ。言い負かしてなどおらぬ。感情的になった者とあのままにらみ合っていても意味がないと考えたゆえ、放っておくことにした」
舞は昔々しげに応えた、
「けど、相談料は五百円だ、は良かった。芝村さんの冗談って初めて聞いた気がする」
厚志も滝川と同じ気持ちだったっ舞はまんざらでもない顔になった。
「あれは……加藤の口癖を参考にしたまでだ。面白かったか?」
「うん、とっても」
「ならばよい」やった成功だ、と内心では思いながら舞は澄ました顔で言った。
足早に整備テントを去るパイロットたちを、善行は首を傾げて見送った。
善行の後ろには石津萌が従っている。整備班への挨拶のついでに、衛生官として整備班詰所を管理することになる石津を紹介しておこうと考えたのだ。が、石津はずっと下を向いたまま黙りこくっている.
「そう固くならずに。挨拶だけはしておかないと。わたしがついていてあげますから」
恨めしげに見上げる石津に、善行は笑いかけた。
「わた……し……だめな…の」
石津は、許してと目で訴えている。まいったな。善行は苦笑した。この目に弱かった。なんだか妹に頼られている兄のような気分になる。
善行はため息をつくと、ポンと石津の肩をたたいた。滅多にやる仕草ではないが、善行は自覚していない。
「ごこ…めん……なさい」
石津の声音に切迫したものが感じられた。善行は真顔になった。石津の場合、人見知り云々の問題ではなかった。前の学校でひどいイジメを受け続けたために、言葉を失って、自己を閉ざしてしまっている。無理強いすれば、楽観を許されない石津の状態は悪化するだろう。
「わかりました。またの機会にしましょう。……それと、他校での衛生官講習のことですが、何か問題があったら遠慮なく相談してくださいね」
「ありが……と」
石津の表情が心なしか明るくなった。
原は腕組みをして、整備テント入り口にたたずむ善行と石津をじっと見つめていた。
「善行さんの隣にいる子、誰?」
原は不機嫌な声で森に尋ねた。森は、かぶりを振って、ちらと原の表情を盗み見た。険しくこわばった表情になっていた。こういう時の原にはさわらぬ神にたたりなし、である。必要なこと以外、しゃべらないようにしている。整備学校で原にスカウトされ、ずっとその下で働いてきて培った原対処法だ。
「誰かあの子を知っている人いないの?」
原は執拗に繰り返した。声が震えている。
戦車学校の部隊設営委員長が善行忠孝であることを知ってからの原は、情緒不安定が激しくなった、と森は思う。それまで穏やかに整備員に接していても、ちょっとでも思い通りにならないことがあると、次の瞬間、癇癪を暴発させる。その都度、古株の森と中村が叱られ役、なだめ役に回っていたが、正直なところ班の雰囲気はあまり良くなかった。
(裏切られた男と一緒に仕事しなければならないんだもの。無理ないですよね……)
森は善行をにらみつけた。善行は女の子と楽しげに話している。せっかく裏切られた痛手から立ち直って、元の先輩に戻りかけていたのに。原さんがかわいそうです、善行さん――。
「まったく……見せつけてくれるわよね。こちらは一週間、ろくに寝ていないというのに」
原はそうでしょと言うように森を見た。
「そうですね。不謹慎だと……、あっ、田辺さんが戻ってきました」
テント入り口から青い髪、眼鏡の少女が走ってきた。手に絆創膏と傷薬を持っている。善行と石津に頭を下げてから、原のところに駆け寄ろうとした。
「あ、ストップ! そのままそのまま」
原はあわでて田辺を止めた。ふたりの間には、拳ほどの太さがある電源ケーブルが走っている。なぜだかこの少女はケーブルにつまずくことが得意だ。
田辺は立ち止まって、原にペコリと頭を下げた。
「持ち場を離れてすみません。あの……、岩田君が怪我をしちやって、それで……」
「そんなことはいいの。田辺さんはあの子、知らないかしら?」
原が顎で示すと、田辺は振り返って「ああ」とうなずいた。
「衛生官の石津さんです。整備員詰所に薬をもらいに行ったらすぐに出してくれました。無口な人でしたけど。石津さんが何か……?」
田辺はおずおずと尋ねた。
「なんでもないの。岩田君を早く手当てしてあげてね」
原の機嫌が直ったことを整備班一同は察して、張り詰めた空気が少し和らいだ。やがて石津は去り、善行が近づいてきた。
「ご苦労様です」
「お久しぶりです。ご機嫌いかが?」
原は腕組みを解かずに軽い調子で応じた。しかし目には険しい色がある。その目でじっと善行を見つめると、敬礼をした。
「そうそう、着任の挨拶まだだったわね。第11整備学校34班、原素子以下士魂号整備班、到着いたしました」
「歓迎します」
敬礼を返しながら、善行は整備員たちの様子をうかがった。二、三の者が敬礼をしただけで、他は素知らぬ顔で作業を続けている。これは噂以上だな、礼儀にうるさい若宮戦士を連れてこなくて良かったと善行は心の中で苦笑した。
「明日以降になるかと思っていました。どこでわたしの電話を受けていたんです?」
「あのえっらそうな赤ずくめの女が癪だったから、不意打ちを食らわせてやろうと思って。電話を受けたのは補給車の中でねね。宿舎から転送してもらうようにしたの」
原は楽しげに笑った。
「ずいぶんと手の込んだことをする」
「驚いた?」
「驚くというより、あきれました。それでは仕事があるでしょうから……」善行がきびすを返すと、原はすっと隣に並んだ。
「仕事の方は一段落着いたの。少し歩きましょうか」
資材が散乱している戦場跡のような裏庭を避け、ふたりはどちらからともなくグラウンド土手に出た。眼下には広々としたグラウンドが広がり、土手に植えられた芝のまだ浅い緑が心地好かった。善行は大きく伸びをしてデスクワークで凝った体をほぐした。
「まさかこんなところで会うとはね。あなた、本気?」
空を走る雲を目で追いながら原が口を開いた。
「どういうことです?」
原は善行に向き直ると、にっこりと笑いかけた。
「昔、捨てた女を手許に置いて何をしようっていうの? わたしが未練たらしく苦しむのを、笑って見物でもするつもりかしら?」
棘のある言葉とは裏腹に原の表情から険は消えている。冷ややかでいて、どこか親しげな、微妙な距離感。善行は眼鏡を押し上げると、静かな声で言った。
「その話はやめましょう」
「……残念ながら、わたしは苦しんだりしないわ。絶対に負けないから」
原はにこやかな笑みを崩さずに、淡々と続けた。
しばらくの沈黙の後、善行はため息をつき、口を開いた。
「過去のことを弁解するつもりはありません。すべてはわたしに責任があります。できることであれば償います。しかし、今は仕事に専念して欲しいのです。わたしとあなたに課せられた任務は、一刻も早く実戦に耐えうる部隊をつくり上げることです。どうか生徒たちのことを考えてあげてください。彼らには罪はありませんから」
善行の冷静な口調に変化はなかった。
原は一瞬、怒りを面に表したが、すぐに笑みを取り戻して言った。
「まったく……相変わらず優等生なんだから。ま、いいわ。ひとつだけ言っておくわね。わたしの願いはね、あなたのその冷静な顔を崩してやること。これは一種のゲームね」
善行はその足で職員室に顔を出した。
部屋では本田がひとり、カップラーメンをすすっていた。
「今日はいろいろとありがとうございました」
善行が礼を言うと、本田は「なんのなんの」と手を振った。が、すぐににやりと笑って善行を探るように見つめた。
「整備の連中、さっそく威嚇しまくってるぜ。委員長としちや頭が痛いだろ?」
本田の顔に好奇心が浮かんでいるのを認めて、善行はかぶりを振った。
「予想はしていました」
「血の雨が降ったりしてな。ま、俺にしてもおめーにしても餓鬼どもの小隊を編制するなんざ未知の仕事だ。餓鬼には餓鬼の難しさがあるんだろうよ」
「ええ、正直なところ、これからどうなるか、わたしにも予想がつかないのですよ」
「けっこう楽しんでいるだろ、悪党め」
本田に冷やかされ、善行は暖味にうなずいた。
翌朝、四人のパイロットはなんとなく舞の仇のまわりに集まっていた。
昨日の事件の話題だった。整備の連中と片をつけてやると調子に乗って吹きまくる滝川を舞は苦々しげに眺めていた。
「ここはひとつパイロットの実力ってやつを示さねえと」
パイロットの代わりはいくらでもいる、と言われたことが滝川にはショックだったようだ。
「けれど、実力を示すっていってもどうするんです? わたくし、暴力は好みません」
滝川の意図を察して、壬生屋は厳しい顔で牽制した。案の定、滝川はふうっとため息をつくと未練げに壬生屋を見た。
「壬生屋がいれば無敵なんだけどな。俺と速水と芝村だけじゃちょっと。やっぱ、だめ?」
「馬鹿なこと、おっしゃらないでくださいっ!」壬生屋は眉をひそめた。
「たわけ。どうしてわたしが仲間に入っているのだ?」
ここまで馬鹿だったか、と舞はあされる思いで滝川をにらみつけた。むろん……滝川のいらだちはわかる。こちらは卵に過ぎないのに比べ、整備の連中はすでに教育を終え士魂号のことも熟知している。しかも、原とやらの言い草ではないが、やつらは一応エリートだ。差を感じて、それをなんとか解消したいのだろう。しかしその結論が暴力とは。たわけめ。
「け、喧嘩はだめだよ。僕たちは、その……ずっと試されているんだ」
厚志が口を挟んだ。
「そうですよ。安易な解決に頼ると、善行委員長に軽蔑されます」
二度と最低呼ばわりはされたくない。壬生屋は、あの見捨てられたような孤独と不安を二度と味わいたくなかった。
「じゃあ、どうするんだよ? このままじゃ馬鹿にされるだけだぜ」
滝川の声が高くなった。
馬鹿にされたって構わぬくだらんことを気にするな。舞が怒鳴りつけようとしたところ、厚志が考え考え、提案をした。
「だから……実力を見せるっていえば……そうだっ! たとえばさ、二十キロ行軍だったら僕たちの方が慣れているだろ。行軍訓練やりましょうって善行さんに頼んでみようよ」
「あ、それってナイス! ふっふっふ、やつらに吸え面かかせてやる」
滝川は目を輝かせた。もはや行軍訓練は彼の得意課目になっていた。
「ふむ、頭を使ったな。賛成だ。他の者にも同意を取りつけよ。クラス全員が賛成であったら、さっそく善行のところへ行こう」
「……どうした? もうへばったのかっ? 先は長いぞ、とっとと立ち上がれっ!」
若宮の怒号が響き渡った。
歩道上にへたり込んでいるのは森だった。体操着姿、例外一名の一組とは違って制服にジーンズという普段の格好だ。二組は全員制服だ。差し伸べられた若宮の手を、森は邪険に振り払った。
「触らないでくださいっ!」
「う、うむ。だったら自分で立ち上がれ」
若宮は気を呑まれたように、森から目をそらした。
金髪の少年が近づいてきて、森を助けるかと思いきや、ちゃっかりその隣に座り込んだ。
年齢は厚志らと変わらないはずだが、なぜか短めのお子様仕様の半ズボンを穿いている。理解しがたい人種なので若宮は努めて話しかけないようにしていたが、これには腹が立った。
「こら、半ズボン、何をやっている!」
若宮は少年の装備を掴んで、強引に立たせた。
「僕には茜大介という名がある。見ればわかるでしょ。休んでいるんですよ」
「だから、休むんじゃないっ!」
若宮はまいっていた。手がかかる連中が、少しましになったと思えば、今度はそれに輪をかけて手のかかるやつらがやって来た。しかもこいつらときたら基礎体力の不足は絶望的だ。
「僕たちは整備ですよ。こんな訓練やっても意味ないんじゃないですかね。だいたい僕は……」
言いかけたところに若宮の平手が炸裂。茜は類を押さえて若宮を見上げた。
「な、な、な、殴ったね……! 僕を殴ったね。重大な軍紀違反だ、君は犯罪者だぞっ!」
わめきたてる茜を若宮は持て余した。どころか……足下で嗚咽が聞こえてきた。嫌な予感がして足下を見ると、森がうずくまって、しくしくと泣いていた。
「こんなのってひどいです。どうして……弟があんたなんかに殴られなきゃならないの?」
若宮は弱り切って列の先頭を歩く善行を見た。しかし善行はかぶりを振るばかりだ。立ち往生するふたりに釣られたか、他の整備員も次々と路上にうずくまった。
「あーあ、女の子を泣かしちやって。若宮も罪な男だな」
瀬戸口が例のごとく冷やかしてきた。若宮は困惑したまま、立ち尽くしている。
「くそっ、俺はな、俺はここまでひどいやつらと……」
「こいつの面倒は俺が見よう」
声がかかった。振り向くと、来須銀河が立っていた。すでに何人分かの装備を抱え、後ろには加藤と石津が来須の服の裾を握ってカルガモの子のようにくっついている。
「……頼む、性根をたたき直してやってくれ」
若宮がほっとした顔をすると、来須は口許を微かにほころばせた。そしてなおも言い募ろうとする茜の装備を取り上げた。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
茜は気を呑まれたように来須について歩き出した。
「なあ、なんかすげーことになっちゃったな」
滝川はばつの悪そうな顔で厚志に話しかけた。ざまあみろと笑ってやりたかったが、路上には累々と整備員が座り込んでいる。ひとりを立ち上がらせるとひとりが座り、といった風に若宮は彼らの世話に四苦八苦している。全然、笑えない。むしろ彼らが気の毒になってきた。
「……そうだね。ねえ、滝川……あれ?」
滝川の姿が消えた。目を転じると、やる気のない整備員の中では珍しく、健気に起き上がろうとしている女子に駆け寄っていた。青い髪の眼鏡をかけた内気そうな子だ。装備を持ってやり、手を差し伸べて立ぢ上がらせた。
まったく調子がいいんだから……厚志は、苦笑いを浮かべた。けれど……厚志は号泣する滝川の姿を思い浮かべた。滝川があの事件から立ち直ろうとしている意志が感じられて、嬉しかった。滝川は無邪気で無防備でお調子者のところがあるけれど、人間としては僕よりはるかに上等だ。死んだ彼女も、きっと滝川の善さを感じたに違いない、と厚志は思った。
「……わたし、もう嫌」
森の声に我に返った。森は路上に座り込んだまま、すすり泣いていた。若宮は他の整備員の世話で手一杯だ。厚志はためらったあげく、森の前に歩み寄ると手を差し伸べた。森は泣き腫らした目で厚志を見上げた。
「装備を持つから、泣きやんで。一緒に行こうよ」
森の顔が、かあっと赤らんだ。厚志から視線をそらすと、ぷいと横を向いた。
「どうせいい気味だと思ってるんでしょ。わ、わたしがこんな風になって……」
「少しね」
森の喉から、くっと嗚咽が洩れた。厚志はあわてて前言を撤回した。
「冗談、今のは冗談! そんなこと思ってないよ。……さあ、行こう」
「訓練と称して貴重な時間を使った結果がこれかしら?」
原は善行と並んで列の先頭を歩きながら、冷たい口調で言った。原も体操着は着ていない。どころか、装備もライフルも見当たらない身軽な姿だ。
「その前にこちらから質問をふたつばかり。なぜ、整備の皆さんは体操着を着ていないのか? もうひとつは、あなたの装備はいったいどこに消えてしまったのか?」
生真面目に質問する善行を見て、原は涼しい顔で笑った。
「体操着は格好悪いから捨てるようにって言ったの。それと、装備の件ね。中村君がどうしても持ちたいっていうから預けであるけど。こんな答えでいいかしら?」
「あなたにはあきれました」
善行は咎めるように原を一瞥した。
「価値観の相違ね。そんなことより、こんな馬鹿げた訓練で貴重な整備員を潰したくないの。
誰がこんな訓練を考えたか、およその見当はつくけどね」
善行たちの後方で舞がくしゃみをした。並んで歩く壬生屋が怪訝な顔をした。
「風邪ですか、芝村さん?」
「芝村は風邪を引かぬ。それにしてもだ、わたしは驚いたぞ。あの者たち、ここまで体力がないとは。整備学校では何を教えているのだ」
「そうですねりあの……若宮さんが苦労していますけど、助けなくていいのですか?」
壬生屋はためらったあげく、切り出した。厚志も滝川も、いつのまにか整備の子たちを助けて装備を持ってやっている。裏切り者とは思わなかった。素朴に、困っている人がいたら助けなければと思っただけだろう。
舞はわずかに口の端を吊り上げた。何かを思いついたような笑みだ。
「壬生屋はどう思うのだ?」
「わたくしはまだ余裕がありますから。助けても構わないと……」
「ならば決まりだ。男子の装備を持ってやろう」
「男子の、ですか?」
「ふっ、我らに助けられるようでは男子としての面子が潰れる。そのような展開を期待しているのだがな」
「そ、それって名案だと思います!」
壬生屋は感心したようにうなずいた。
「まったく……忙しいのにこんな訓練につき合わされて」
「僕たちも最初は文句を言ったよ。歩兵じゃないのに、どうしてこんなに歩くのかってね」
ぶつぶつと不満を洩らす森に、厚志は笑いながら言った。
「じゃあ今は文句ないんですか? こんなの時代錯誤なしごきだと思います!」
森は口をとがらせて言い募った。こんなことをするためにここにいるのではない、と弾力のありそうな額をふくらませている。言い出しっぺの厚志は後ろめたい気分になった。
「今は不満に思ってないよ。僕たちはいつだって試されている。前に芝村さんが言ったことだけど、ええと……そう、状況だ。いろいろな状況で、僕たちが何を考え、どう対処してゆくかを試されているんだって。そしてそれは戦場で必ず役に立つって」
「それはパイロットの場合でしょう? わたしたちは整備のことだけに集中したいんです」
森に切り返されて、厚志は首を傾げた。
「うーん、そう言われてみるとそうかもね……」
厚志の目の前を意気揚々と滝川が通り過ぎていく。装備とライフルを滝川に託し、手ぶらになった眼鏡の女子は申し訳なさそうに後に従っていた。
「へっへっへ、だからさ、行軍訓練で体力をつけとけば絶対役に立つって。な、整備ってのも体力使うんだろ?」
「あ、はいっ。徹夜になることも多くて」
眼鏡の女子は懸命に滝川のペースについて行きながら答えた。
厚志と森は顔を見合わせた。
「け、けっこう説得力あるかも……」と森。
「うん。単純だけどね」と厚志。
滝川理論に負けてしまったと厚志はがくっとうなだれた。森は何やら迷ったあげく、「あの……」と言いかけてもじもじしている。
「あ、トイレだったらあと五分歩いたところにあるから。少しだけ我慢して」
「違いますっ! あの、わたし……昨日のこと謝ろうと思って」
「昨日って。ああ、あれ? 僕も後で考えたんだけどさ、逆の立場になってみれば、一生懸命整備してきた機体を勝手に触られたら気分悪いよね」
森はそんなに攻撃的な性格には思えない。昨日は少し無理をしていた節がある、と厚志は今は思っている。だとしたら、そんな森を怒らせる原因は何か? 自分なりに考えてみた。ただ、あの整備主任は理解不可能だったけど。
「整備の入って、パイロットをよく思わない人が多いんです。どんなに頑張って仕事をしても脚光を浴びるのはパイロットだし。昇進の早さだって全然違うし。パイロットって横柄で、自分のことしか考えなくって、整備を馬鹿にしてるって……整備学校で教官や先輩からそんな話ばっかり聞いていたからわたし、緊張しちやって、あんなことを……」
そういうことか、と厚志は納得した。なんとなく整備員の屈折のようなものがわかった。
「けどさ、本当に嫌な人もいるんじゃないかな、パイロットに」
厚志がなぐさめるように言うと、森は初めて笑顔を見せた。
「だめですよ、そんなこと言つちゃ。その手の話なら、何時間でも話題が尽きませんから」
「そ、そうなの……?」
厚志はやぶへびだというように頭を掻いた。
尚敬校の校門が見えてきた。
「どうやら訓練は成功のようですね」
訓練も終わりに差しかかり、善行は満足げに言った。
故障が多く、稼働率が低い士魂号は整備に多くの負担を強いる。そのため善行は、隊員の過半数を整備員が占めるという変則的な編制を考え出した。
パイロットをはじめとする戦闘員と整備員が縄張り意識を捨て、どれだけの期間で互いを仲間と認め合うことができるかが今の善行にとっての最大の関心事だった。まず、一週間から十日は互いに馴染めず、トラブルが続くだろうと覚悟していたが、今は助け合い、コミュニケーションを取り合っている。若いから適応力があるのか? 少なくとも、自衛軍の大人たちでこうした部隊編制をしたならひと月、あるいは一年経っても歩み寄ることはないかもしれない。これは以外な収穫だと思っていた。
身軽とはいえ、原は慣れない訓練に消耗しているように見えた。それでも必死に善行の歩みに合わせ、先頭を歩き続けていた。
「そうかしら? 整備の子たちをいじめただけじゃない? 逆に戦闘部隊の子たちには変な優越感を与えていなければいいけどね」
疲れのせいもあるだろう、原は不機嫌に言った。
しばらくの問、ふたりは黙々と歩き続けた。ゴール地点の校門は目の前にあった。
「明後日までに」原は低い声で言った。
「はい……?」
「明後日までに、最終点検を終わらせるわ三機とも動かせる。……ねえ、善行さん、わたしたちを甘く見ない方がいいわよ。稼働率ひと桁台の士魂号を限りなく百パーセントに近い率で運用することを目標としている」
「目標、ですか?」
「ええ、残念ながら可能ではなく可能性だけどね。あなたと別れてからずっと整備学校でくすぶっていたけど、その間、最高のスタッフを揃えてきた」
原は前を向いたまま、淡々と言った。
「感謝します」
どう言葉をかけてよいものかわからず、善行は札を言った。
原の口許が皮肉にゆがんだ。この律儀そうな外見にだまされる、と思った。
(善行さん、そんなに繕わないでもいいのよ。わかっているから。どうせ都合のいい時だけ利用して、悪くなったらポイなんでしょう? あなたの世界には役に立つものと立たないものしかないんだものね。けど、今さらどうしようもないこと。あなたと出会ったことが不運と思って、少しは役に立ってあげるわよ……)原は憂鬱な面もちで、自分の内面に沈み込んだ。
善行が大陸に出征する少し前だった。その頃、善行からの連絡は途絶えがちになっていた。
こちらから連絡をしても留守にしているし、何かあったのか、と原は善行の行き着けのカフェバーをのぞいてみることにした。そこで原は善行が女性と一緒にいるところに出くわした。原はふたりの席に歩み寄ると、善行にコップの水をぶち撒けた。女性は逃げ、怒りの余り言葉も出ない原を、善行は冷静なまなざしで見た。
あなたにはいつか言おうと思っていました、と善行はハンカチで水を拭いながら言った。あなたはわたしにとって理想の女性ですが、それだけにわたしも構えてしまうのです。わたしもあなたの理想を演じなければいけないのだ。だから別の女性とつき合うことになった。冒険も刺激も高揚もないが、一緒にいて心安らぐ女性です。
原は善行の言葉に嘘を感じた。衝撃は大きかった。最後の最後に嘘をつかれてさよならか? 言い訳の白々しさときたらどうだ? 頭の中で陳腐なセリフを考えて、それを機械的に口にしただけだ。しかし、問い質すことは彼女の自尊心が許さなかった。
原は黙ってその場を立ち去った。善行は迫ってこなかった。
その日から原は自室に引き籠もった。長いトンネルに迷い込んだような気分だった。食べては吐き、睡眠が取れず朦朧とした状態で一日中ぼんやりしていた。何度も何度も善行とのことは終わったのだ、忘れてしまえと自分に言い聞かせたが、彼の面差しが頭から離れることはなかった。出口は見えなかった――。
「どうしました? ゴールに到着しましたが」
善行が怪しむように見ていた。原は足を止めて深々と息を吸い込んだ。
「そういえば、あの女性とはどうなったの?」
「……今は会っていません」
善行が慎重に言葉を選んでいるのがわかる。原はにこやかな笑みを浮かべると、善行をからかうように言った。
「最低ね。あなたと出会ったことが運の尽きだわ」
夕刻になっていた。
石津萌は整備員詰所で黙々と医薬品のチェックをしていた。そんなに減っていないとわかっていても毎日確かめなければ気が済まない性格だった。そういえば湿布薬をもっともらっておかないと。軍配給の湿布薬は効き目が強過ぎて貼っていると痛くなるから、加藤さんに言って民生用の湿布薬を揃えておこうと石津はリストにその旨を書いた。
詰所の薬、もっと利用してもらいたいな、と石津は思った。けど、それってわたしが悪い。
きちんと話ができないから。けれど、ここに来てから楽になった。初めは話しかけられるの嫌だったけど、みんな懲りずに話しかけてくれて、それもいいかなって思うようになった。今は無視される方が辛くなった。良かったな、とブータは言ってくれる。そうか、今度、ブータに猫缶をごちそうするって約束したんだった。
勢い良く詰所のドアが開けられた。石津はドキリとして、全身をこわばらせた。
原と森だった。原はにっこりと石津に笑いかけると、室内を見回した。
「ふうん、ここが詰所ねえ。期待はしていなかったけど、ここまでひどいとはね。徹夜明けはここで雑魚寝ってわけ?」
原はいらだたしげに壁をこつこつとたたいた。
「ねえ、あなた、石津さんだったっけ。毛布はどれくらい用意してあるの?」
石津は答えようとしたが、舌が麻噂したように動かなかった。言葉が出てこない。石津は申し訳なさそうに原を見上げた。
「質問しているんだけど。あなた、日本語が不自由な人じゃないわよね?」
押し黙完たまま上目遣いに自分を見る石津に、原はいらだちを覚えた。不意に昨日の善行と石津の姿を思い出した。石津は明るい顔で、善行と話している。善行は観しげに石津の肩をたたいた。
あんな仕草、わたしにはしてくれなかった。久しぶりに会ったのに。見せつけて。この女と一緒にわたしを馬鹿にして笑いものにして、そんなに画白いの?
原の様子がおかしいと察して、森がはっと息を呑んだ。
気がつくと、原はデスクをたたいていた。
石津は弾かれたように席を立ち、後ずさった。
「あ、あの……田辺さんが言っていたじゃないですか。石津さんって無口だって」
森が取りなすように言った。
「無口ね。けれど、これって無口とは違うんじゃないの? この子、人を馬鹿にしている。善行さんとは話せても、わたしと話すのは嫌ってわけね」
原の感情がエスカレートしてくるのがわかる。森にとって原は憧れの先輩だった。出会った頃の原は美人で頭が良くて、いつも颯爽としていた。こんな先輩は見たくなかった。元の先輩に戻ってください、と泣き叫びたい気分だった。
森は救いを求めるように石津を見た。なんでしゃべらないのかわからないけど、お願い、なんでもいいからしゃべって。
石津も切羽詰まった表情で森を見た。が、焦れば焦るほど、言葉は出てこない。顔をゆがめ、苦しげに口をばくばくさせているだけだ。
「あ、あ……」
声らしきものが洩れた。
「きつと事情があるんだと思います! だから原先輩……」
森は必死に原をなだめようとした。しかし原は真っ青になって石津をにらみつけていた。やがて石津から目を離すと部屋の隅に置いてある潤滑油の缶を手に取って蓋を開けた。
「先輩!」
怯える森を強い視線で刺すと、原は床に潤滑油をぶち撒けた。
「あら、手が滑っちゃって」
森は息を呑んだが、原は平然として石津に笑いかけた。心なしか顔色が戻っている。
「詰所の管理人さん、これ、片づけといてね」
石津は黙って、雑巾を手に持って膝をつき床に広がった油を丹念に拭い出した。
モップを使わず手で拭うところに石津の性格が表れていた。こうした丁寧さを原は嫌いではない。むしろ好ましい。が、無言のまま見せつけられると、胸の内に弾けるものがあった。当てつけているのか? 原はいっそう石津が憎らしくなった。
「森さん、あなたもやったら? ああ、強制はしないけどね」
原にささやかれて森は顔を赤らめた。「そ、そんなこと……」拒否しようとして、原の射るようなまなざしに出合った。
「やりなさい、森」
石津さん、ごめんなさい。森は缶を手に取ると、眼をつぶって床に放り投げた。容器が転がって、油が床にこぼれる。
石津は顔を上げずに、憑かれたように床を拭き続け
た。
翌日の放課後、滝川は筋トレを済ませ、疲れ切った体を土手で休めていた。厚志は早々に舞に拉致され、シミュレータールームに籠もっていた。どうするか? これから連中の様子を見に行ってみようか、それとも……? 考えるうちにうとうととしてきた。
「あ、元気ザルがこんなところで寝ている」
はっとして目を開けると、半ズボンに金髪頭の少年がこちらをのぞき込んでいた。確か、茜とか言ったっけか。行軍訓練の時に大騒ぎしたやつだ。
「猿はおまえだっつうの。この金髪ザル」
滝川は不機嫌に立ち上がった。
「行軍訓練ではいいところ見せたつもりだろうが、僕は認めないからな。この脳味噌アニメ浸けの馬鹿ゴーグル。原作《ネタ》は割れてるんだよ」
茜は薄笑いを浮かべ、悪態を連発した。なんというか、日常会話をするようにごく自然に悪態が出る。不思議な生き物だと、滝川はまじまじと茜を見つめた。くそっ、このままでは言い負かされてしまう、と滝川は必死で悪態を考えた。
「おまえこそ、気色悪い半ズボン穿きやがって。それでも男かよっ!」
と怒鳴ると油断なく身構えた。
「ふん。しょせん猿には話し合いは通じないか一言っておくが、僕は強いよ。こう見えても格闘技の心得がある。ま、待てっ……」
言い終わらぬうちに滝川は茜にタックルした。ふたりは組み合ったまま、グラウンド土手を転がった。止まった。滝川はすばやく上を取ると、茜の顔面に一発食らわした。とたんに茜は動かなくなって草むらに寝そべった。
し、死んじまったのか? まさか、一発食らったくらいで。滝川が真っ青になって茜を揺さぶると、茜が片目を開けた。
「嘘……だろ? 格闘技の心得はどうした?」
「……今日は調子が悪かったんだ。ま、せいぜい膵ち誇るがいいさ。君の負け犬人生の中で唯一の栄光だろうからな」
茜は減らず口をたたきながらも、長々と草むらに横たわって回復する兆しはない。口の端に血をにじませている。滝川は罪悪感にさいなまれた。
「な、なあ、おまえ、半ズボン相当浮いているぜ」
ごめん、の替わりにこんな言葉が口をついて出た。
「……死んだママンが似合うと言ってくれたんだ。誰にも文句は言わせないよ」
ぽつりと茜が言った。
「おまえの母ちゃんって死んじゃったのか?」
「ああ、ずいぶん前になる」
滝川は茜を抱え起こすと、ためらったあげく口を開いた。
「悪ィ」
肩を落としてしょんぼりとする滝川を、茜は怪訝な顔で見たた。やられたのはこちらの方なのに、なんだか悪いことをした、という気分になった。
元々、滝川に喧嘩を売るつもりはなかった。自分と背丈は変わらないのに、行軍訓練を楽々こなすゴーグル野郎に興味を覚え、普通に話しかけただけだ。
それがなぜだか、争うことになってしまった。でも、まあ、気が短くて野蛮だけれど、根は悪いやつじゃなさそうだ。
「あー、そこの馬鹿ゴーグル、僕はこの学校に来たばかりで地理に疎い。案内する気があるんなら、されてやってもいいよ」
茜のサインを、滝川はすばやくキャッチした。
「なあ、おまえ、グラグラディオスって興味ある?」茜になんとなく同類のにおいを感じた。
「ふ。ずいぶんコアなゲームが好きなんだな。もちろんだ。その手のゲームはひと通り押さえているつもりだ。しかし置いてある店があるのか?」
「へっへっへ、新市街のゲーセンにあるんだな、これが。言っておくけど、俺、強いぜ。シューティングスターっていやあ俺のことさ。さ、行こうぜ!」
滝川が駆け出そうとすると、茜が声をあげた。
「ん……どうした?」
滝川が茜の視線を追うと、グラウンド土手の隅で原がひとり膝を抱えて座っていた。遠目から表情はうかがえなかったが、どことなく寂しげで沈んで見える。芝村舞と渡り合った時とは別人のようだ、と滝川は思った。
「どうしちゃったんだろ、あの人。ええと、確か原さんっていってたよな」
滝川が首を傾げると、茜は「ふん」と鼻を鳴らした。
「さ、行こうぜ。下手に関わると厄介だ」
「待てよ。おまえの先輩だろ? 放っておいていいのか?」
「だからさ。……ああいう時の原さんは放っておくに限るんだ。自尊心の強い人だから、下手に近づくと噛みつかれるぞ。さあ、とっととゲーセンに案内してくれ」
茜にうながされ、滝川は不承不承うなずいた。
「……よし。それじゃグラグラディオス十番勝負だ。負けても恨みっこなしだぜ」
「ふ。君の負け犬人生に新たな汚点を残してやるよ」
滝川と茜は競うように駆け出していった。
「複座型、点検終了。起動いつでもオッケーです」
誰かの声がヘッドセットを通じて流れてきた。厚志は複座型の操縦席に座って、静かに次の指示を待っていた。ほの暗いコックピット。電子機器の金属臭と、人工筋肉から発せられるものか独特なにおいが鼻腔を刺激する。緊張して、五感の神経が研ぎ澄まされていた。厚志の緊張が伝わったか、後部の砲手席に座っている舞が身じろぎする気配がした。
起動していないヘッドセットの視界にはほの暗いコックピットが映っていた。
「速水君、芝村さん、聞こえますか? 坂上です。気分はどうです? 返事をよろしく」
坂上教官の声が聞こえる。
「不思議な気分だ」
舞の声が聞こえた。それ以上、舞の言葉が続かないのを確認して厚志は口を開いた。
「あ、あの……グリフってどんなものなんでしょう?」
言葉の上では理解していた。グリフとは、士魂号との神経接続の際、機体と意識を共有することから生じる夢を言う。けれど、意識を共有するとはどういうことだ? どんな夢を見るんだ? 僕は大丈夫なのか? とここまで考えて、厚志は心臓が高鳴るのを感じた。嫌だ。夢なんて見たくない。出してくれ。ここから出してくれ。
「速水君、グリフは人によって違います。わたしにはなんとも言えませんね」
突き放すような坂上の言葉に、厚志はいっそう不安を増した。出してくれ。パイロットなんてならなくてもいいから。僕は夢なんて嫌だ。出して、ここから出して、出してくれ――。
「腹をくくれ、速水」
舞の声だ。静かで、しんとした声。火照った頬を冷ましてくれる清流のような声だ。
「僕は怖いんだ。こんなことなら……」
「たわけ! 通信がONになっている。そなたは恥をさらす気か?」
厚志は、はっとして口を閉ざした。間髪を入れず、芝村舞の有無を言わせぬ声。
「これより神経接続を開始する。速水、起動だ」
厚志は震える手で起動スイッチをONにした。虫の羽音のような電子書がコックピット内に響き渡る。厚志は奥歯を噛み締め、左手の多目的結晶をソケットに連結した。目の前が真っ白になり、意識が深淵に引き込まれる。
……見覚えのある風景だった。電柱に打ちつけられた歯医者さんの看板。視界の先には、狭く曲がりくねった路地が延々と続いている。先に進んでゆくと、ひとりの女の子がけんけんぱをして進んでいた。顔の部分は真っ白にぼやけているが、厚志は誰だか知っていた。ユミちゃんだ。どうしていたろう? 君は元気だったかい? 僕はなんとか生きているよ。なんとかね。
厚志は知らず、目に涙を浮かべていた。気がつくとユミちゃんは遊びをやめ、心配そうにこちらを見守っている。大丈夫。僕は大丈夫だから――厚志が手を振ると、ユミちゃんはにこっと笑った。張り詰めた心が崩れ、厚志はつかのま懐かしい空間に身を委ねていた。
「……速水君、聞こえますか、速水君」
坂上の声。厚志の視界に、鉄板の床をめぐらした整備テント二階の回廊が映った。まだ顔と名前が一致しない整備員が何人か、柵にもたれてこちらを見ている。ゆっくりと視界を下に移すと、森の姿があった。森は頬をふくらませ、気の毒なくらい緊張している。
「速水です。視界は良好」
「それでは、拡声器のスイッチをONにして。コンソールの配置は頭に入っていますね?」
「はい。……これかな?」
厚志の指はすばやくスイッチをONにする。
「なんでもいいですから、気を楽にしてしゃべってみてください」
「あ、はい……それじゃ、ええと、昨日の夕食はカレーライスを作りました。肉が手に入らなかったんで具は魚肉ハムとジャガイモとタマネギだけだったんですけど、おいしかったです」
笑い声が聞こえた。他のことしゃべればよかったかな、と厚志は顔を赤らめた。
「たわけ言うにこと欠いて」
舞のつぶやきが後ろから聞こえてきた。
「さて、それでは移動します。アクセルに意識を集中して。踏み過ぎはだめですよ。そっとやさしく、そっとやさしく」
「そっとやさしく……」
微かな揺れがあり、整備テント二階の風景が近づいた。あ、そういえば彼、昧のれんで会ったことあるな、と正面でガッツポーズを取っている太めの少年にあらためて気づいた。
ウオオオと歓声。二階からも、地上からも聞こえてくる。
「それでは方向を転換、整備テント入り口へと向かってください。以降の指示は森さんが拡声器にて行います」
再び意識を集中させる。厚志の性格を反映してか、複座型は小刻みなステップでゆっくりと確実に九十度ターンを行った。
「誘導します。……あの、は、速水君、操縦は慣れましたか?」
拡声器を通して森の声が聞こえてきた。
「……ま、まだわかんないです」気が早いよ森さん、と厚志はため息をついた。
「それでは……トレーラーまで行きましょう。ゆっくりでいいですから憤重によろしく」
森は前進の合図をしながら、後ずさった。複座型は彼女の姿を迫って、移動を始めた。テント入り口を抜けると、まばゆい光が視界に満ちた。
「ふむ。そなたはなかなかのものであった」
舞の声が後部座席から届いた。
「……そうかな?」
「そうとも。揺れは覚悟していたのだが、ほとんど揺れはなかった。そなたの操縦が繊細かつ丁寧であることを物語っている」
「まだ気が早いよ。これから大失敗するかもしれないし……」
と言いかけて、厚志は拡声器のスイッチがONになっていることに気がついた。
「失敗されたら困りますっ」森の憤然とした声。
「ごめん」厚志は首をすくめて謝った。
「委員長、あれ、見てください。し……士魂号が謝ってますっ!」
九メートルの巨人が、器用に身を折り曲げているのを指差して、加藤は必死に笑いの発作と闘った。速水君って芸人の鑑や、と見直した。
「士魂号と相性がいいみたいじゃねえか、あいつ」
本田も嬉しげにうんうんとうなずいている。
「ええ、動きを見ればわかります。強引じゃない。機体と、一体化しようとしていますね」
善行も口許をほころばせた。複座型はひとしきり森に謝った後、十メートル前進して、トレーラーの荷台に乗った。片膝を立てて座る姿勢で、左右の腕はがっちりと転落防止用の取っ手を掴んでいる。
「……それでは降車。今度はグラウンドへ向かってください」
森の声が裏庭に響き渡った。
「んじゃ、俺はグラウンドに行ってるよ。基本動作の反復練習一時間だったな」
本田は拡声器を手に駆け出していった。
「……味のれんのコロッケ定食は美味いです。飯が何杯でも食えます」
軽装甲の拡声器から滝川の声が響いた。
「そぎゃんね、あそこのコロッケは最高たいっ!」
緊張から解放された整備員が野次を飛ばす。複座型の起動成功を見た後で、場の雰囲気は和らいでいた。自然、誰もが軽装甲の成功を信じて疑わなかった。
複座、重装甲に比べると、ほっそりと優美な軽装甲がレーダードームを搭載した頭を上下させる。
「それではアクセルに意識を集中して。ゆっくりと一歩、踏み出してください」
坂上はテント入り口付近で、軽装甲の様子を見ながら、指示を下した。傍らでは善行、原、加藤が軽装甲が動き出すのを待っている。
人工筋肉がきしむ独特な音がして、軽装甲の右足が上がった。やや踏み出しが大きいか。
否、かなり大きい。大き過ぎる――。
「滝川君、踏み出しが大きい。戻して、バランスを保ってください」
坂上の声が心なしか切迫する。
踏み出しを修正した軽装甲の足が激しく地面をたたき、ビリビリと振動が大気を震わす。
次の瞬間、誰もが表情を凍らせた。バランスを失った軽装甲が左右に大きく揺れた。二階から見守っていた整備員があわてて左右に散った。
「嘘でしょ?」
わずか数メートル先にいる森は拡声器を下げたまま、茫然と突っ立っている。それまで姉の晴れ姿をじっと物陰から見ていた茜が飛び出した。
「姉さん、危ないっ……!」
茜は森の肩に手を回すと、入り口をめざして必死になって走った。
「わ、わ、わぁぁぁっ!」
滝川の絶叫。バランスを取り戻そうと四苦八苦しているが、体勢は悪くなるばかりだ。軽装甲の腕が二階の手すりを掴んだ。それでも支え切れず、軽装甲は横倒しに倒れ込んだ。メリ。不吉な音がして、機材が潰され、木っ端みじんに粉砕された部材がパニック映画のスローモーション部分のように宙を舞った。濠々と挨が立ち込め、その場にいた全員が目をつぶった。数秒後。軽装甲は整備テント内に横たわっていた。うつ伏せになって、右手には整備テント二階の手すりを握り締め、無惨な姿をさらしていた。目を覆いたくなる惨状だった。二階の回廊は半分ほど千切れ飛んで、テントを覆っていた生地は大きく裂け、外から燦々と春の陽射しが射し込んでいた。測定器、端末などの機器類は中破、復旧までに数日は要する被害の大きさだった。
誰もが九メートルの巨人の破壊力に震え上がった。
善行が駆け寄ってコックピットの扉を開けると、中では滝川が失神していた。
「……滝川君」
善行はそれ以上言えずにかぶりを振った。滝川を助け出そうとする善行を押しとどめる手。
坂上だった。
「誰か起動スイッチをOFFにしてください。その後で神経接続を解除します。どうしました? 君たちは優秀なテクノと聞いていましたが、こんなことで動揺してどうします? 彼は君たちの仲間で、生まれて初めて人型戦車に乗ったのです。転倒事故などは当たり前と腹をくくってください」
坂上は黙りこくる整備員を励ますように呼びかけた。しかし、原素子をはじめ多くの者が不機嫌に顔を曇らせている。
空気が重いとはこのことだ、と善行は息を吐いた。
「あ、あの……わたし、わたしがやります」
田辺が前に進み出た。体の半ば以上をコックピットに沈めると、足をばたばたさせてやっとスイッチをOFFにし、連結を解除した。
「滝川君は保健室へ運びます。壬生屋さんの重装甲は予定通り、起動させてください。坂上先生、後のことはよろしく」
善行は滝川を抱え上げると、尚敬校の校舎へと向かった。
整備テントの方角ですさまじい音がした。やっぱりやっちまったか、と本田は苦笑しつつ拡声器を手に取った。
「よおし、次は右回りにターンした後、横にジャンプ。次に伏せの姿勢で匍匐前進。連続してやってみるぞ」
複座型は順調に、本田の指示に応えていた。矢継ぎ早に繰り出される指示に、厚志は考えるまもなく機体を動かしていた。
「尚敬校職員室をロック。……撃破した」
舞のぶつぶつ言う声が後ろから聞こえる。今回は射撃訓練ではないので、砲手の舞は暇を持て余していた。しかたなく、自主的に標的のロック、射撃の練習を始めている。機体の動きに応じて適当な目標をロックオン。次の動作に移る前に射撃といった手順を繰り返している。
「ご、ごめんね、芝村さん。僕ばっかり……」
舞のつぶやきに耐えかねて、厚志は謝った。
「なんの。初日から射撃訓練は期待していない。そなたは操縦に専念するがよい」
と言いながらも、舞はぶつぶつと仮想敵に対する射撃をやめない。機体はずりずりと葡萄前進を続けている。地面を削られたグラウンドは、無惨な状況を呈していたし
「今、気がついたのだが、グラウンドの後始末はどうするのだっ」
舞は拡声器のスイッチをONにして本田に尋ねた。
「わははー。決まっているだろ。訓練終了後、おめーらが元に戻すのよ。安心しな、若宮と来須が手伝ってくれるってよ。よし、起き上がって五分間、休憩」
厚志は機体を起こすと、ほっと息をついた。
地響きがした。すばやくターンしてその正体を探ると、漆黒の機体がこちらに向かってくる。
「ずいぶん遅かったな。壬生屋か。滝川はどうした?」
本田が尋ねると、壬生屋の高い声がグラウンド中に響き渡った。
「軽装甲は転倒してしまって。滝川君は保健室に担ぎ込まれました!」
「それで、滝川は無事か?」
「え、ええ。脳震盪を起こしただけと、坂上先生はおっしやっていましたけど。……整備テントが潰れてしまって……」
壬生屋は言葉を途切らせた。
意外なことに事故のことを聞いても、本田は平気な顔で言った。
「無事なら良し。滝川の話は終わりだ。複座型は前進、ジャンプ、ターン、匍匐、後退の五つの動作を適当に組み合わせて自習始め。重装甲は時速十キロでグラウンドを往復」
三十分後、重装甲も同じメニューを消化して、複座型と並んで、ジャンプ、ターンを多用した小刻みなステップ練習に移っていた。グラウンド土手には教官他のスタッフ、整備員さらには尚敬校の生徒が鈴なりになって二体の巨人の動きに見入っている。
楽しいな、と厚志は思った。相変わらず舞はぶつぶつ言っていたが、リズミカルにステップを繰り返すうちに操縦の面白さに時間を忘れた。
「よおし、ここいらで観客の皆さんにちょっとしたパフォーマンスを見せてやろう。壬生屋、グラウンド隅にあるゴールポストを持ってこい」
はどなく重装甲はサッカーのゴールポストを握り締めて戻ってきた。
「ゴールポストを使ってキャッチボールだ。うまく行ったらお慰みってやつだな」
本田にうながされ、重装甲はゴールポストを投げた。ずしゃっと音がしてゴールポストは地面にたたきつけられた。
「す、すみません……」と恐縮する壬生屋。
「気にするな。よくある失敗だ。どうすればうまく投げられるか、勘所を掴め」
本田はこともなげに言って、壬生屋を励ました。
何度か失敗した後、ゴールポストは弧を描いて複座型の手に収まった。オオオ。見物人が一斉に拍手を送った。微妙な感触を会得したのだろう、重装甲の拡声器から壬生屋の弾んだ声がグラウンド中に響き渡った。
「で、できましたっ!」
「よっしゃ! おめー、けっこう筋がいいぞ。次、速水だ」
複座型も二度失敗して、三度目にはゴールを重装甲に投げ返した。
二機の士魂号は、しばらくの間、覚えたばかりのステップ、腕の操作を駆使してゴールポストを使ったキャッチボールに熱中した。
初日の訓練は二機に限ってはめざましい成功を収めた。
翌日の朝、滝川の姿は見えなかった。
一組教室の誰もがその名を口にするのを恐れるように、固く口を閉ざしていた。これが二組となるともっと深刻であったろう。
「ねえ、芝村さん、僕、滝川の様子を見てこようと思ってるんだけど……」
昼休み、厚志は教室で黙々と焼きそばパンを食べている舞に話しかけた。舞は不機嫌な顔でパンを呑み下すと、首を振った。
「放っておけ」
「え、けど……」
「あれだけのミスをしでかしたのだ。一日は休養を兼ねた自宅謹慎が適当だろう」
「けど、このままずっと来なかったら」
「速水」
舞は厚志の言葉を遮った。
「最低のクズと言われようが、我らはいつだって自分の意志で、自分の力で立ち上がってきた。
わたしは滝川を信じている。やつは大丈夫だ」
こともなげに言う舞を、厚志は驚いて見つめた。
「それに、そなたの親友はそんなに弱くはないぞ。辛い思いを胸に秘め、生きてゆける。やつは脆いが、立ち直りの早さは一級品だ」
「……そう、そうだったね」
「ところで、催促するようでなんなんだが、今日は紅茶は出ないのか?」
「今日はね、ちょっと賛沢してダージリンティーだよ。裏マーケットで見つけたんだ」
「そなたも弁当を食べるがよい。食事を済ませたら、整備テントに行くぞ」
「そうか、復旧作葉、手伝わなくちやね。……けど、整備の人たちの目が怖いな。なんだか緊張してきちゃった」
その日、厚志たち一組の面々は冷ややかな視線を浴びつつ、懸命に働いた。特に整備主任の原のプレッシャーはすごかった。舞は平然としていたが、厚志はその視線に耐えかね、大柄な若宮、来須の陰に隠れ、作業をするようにしたほどだ。
とはいえ、整備員たちは厚志、舞、壬生屋の三人に対して怒っているわけではなかった。三人は自分たちが苦心して整備した機体を、期待通りのパフォーマンスで動かしてくれた。彼らの敵意は三人を通り越して滝川に向けられていた。
「あの……森さん、この端末、どこに運べばいい?」
厚志はおずおずと森に話しかけた。森は硬い表情で、きびきびと作業を指図している。視線が合った。うっ、そんな目で見ないで、と厚志は縮こまった。
「原さんのデスクの横に。……どうして彼、来ないんですか?」
「す、すみません」厚志はしどろもどろに謝った。
「速水君が謝ったってしょうがないでしょ。まったく……乗ったとたんに転倒するパイロットなんて初めて見ました。軽装甲、仕上がり良好だったのに。かわいそうに」
これは相当怒っているぞと思いながら、厚志はもう一度、謝った。端末をセッティングし、テストを行っていると田辺がそっと近づいてきた。
「滝川さん、やっぱり具合が悪いんですか?」
そわそわと周囲の視線を気にしながらささやいてきた。厚志はちらと原を見た。大丈夫。今は舞にプレッシャーをかけている。
「ごめんね、迷惑かけて。怪我はないけど、あいつ、相当ショックだったみたいだよ。だから今日は休んでいるんだ」
「……そうですか。けど、なるべく早く謝った方がいいと思います」
田辺はこう言い置くと、厚志の側から離れていった。
整備テントの復旧作業は順調に進んでいるようだった。
滝川は戦闘指揮車の陰に隠れ、指名手配の逃亡犯のような心境で中の様子をうかがっていた。
昨日の今日で、皆の前には姿を見せ辛かった。昼前までずっと布団の中で過ごしたが、どうにも居心地が悪くなった。自然と足が学校に向いていた。
「絵になっているぞ。みんなが楽しそうに遊んでいるのを物陰から羨ましげに見つめるロンリーボーイの図ってわけだな」
ボンと背中をたたかれて、滝川はビクリと飛び上がった。振り返ると、瀬戸口と東原が笑いかけていた。
「ど、ども……」
「陽平ちゃん、きょうお休みだったでしょ。さびしかったよ」
東原はにこっと笑った。
「どうしたんだ、風邪でも引いたのか、滝川君?」瀬戸口は冷やかすように言った。
「し、知ってる癖に。あの、クラスのやつら、何か言ってませんでした?」
「覚悟しといた方がいいぞ。連中、すごい剣幕でな、芝村は滝川が来たらぶん殴ってやるって息巻いてたぞ。壬生屋は木刀を持ち込んでいたし、速水は手裏剣の練習をしていたな」
瀬戸口はからかうように言った。
「ぶん殴る……木刀……手裏剣? じゃあ、二組はもっと怒ってるんでしょ?」
「逆さはりつけに刑が確定したらしいし校門前に三日三晩さらし者にするって言っている」
「俺、俺、どうしよう、瀬戸口さん……」
「もう、だめだよ、たかちゃん、うそ言っちや!」
東原は瀬戸口の袖を引っ張って抗議をした。
「あのね、みんな何も言ってないのしだからだいじょうぶよ」
東原がなぐさめると、瀬戸口も言葉を継いだ。
「ここは男らしく謝るしかないな。……それにしても、おまえさん、よく来たな。普通だったら自己嫌悪にさいなまれで、まず一週間は登校拒否になるところだ。ま、この件については俺は心配していない。頑張れよ、少年」
瀬戸口は東原と手をつなぐと、肩をそびやかし去っていった。滝川はほっと息を吐いた。ここは男らしく整備テントに行き、土下座だ。けど、速水たちは許してくれるかもしれないけど、整備の連中はどうか? 逆さはりつけってしゃれじゃないかも。こう考えると、次から次へと妄想が湧いてきた。はりつけにされ、学校の全員から石を投げられ、最後には善行委員長から「放校」を宣告される。嫌だ。嫌過ぎる――。
滝川は頭を抱え、うずくまった。
「何してんだよ?」
はっとしてあたりを見回すと、頭上から声が降ってきた。
「鈍いやつだな。こんなところで何してるんだって開いているんだよ」
「あ、茜……」
茜は指揮車上から滝川の前に降り立った。そしてあたりを侍るように声を潜めた。
「僕と姉さんは君のおかげでぺしゃんこにされるところだった」
「わ、悪ィ……」
滝川はがくりと頭を垂れた。
「ふん。だが、君は僕の記念すべき友人第一号だからな。特別に許してやるよ。それより、こんなところに隠れていないで、やるべきことをやれ」
「け、けどよ……なんだか足がすくんじまって」
滝川はぶるっと全身を震わせた。皆の怒りの目、軽蔑の目が怖かった。
「大丈夫だって。しっかり怒られて、しっかり軽蔑されるから安心しろ。僕はパーフェクトな人間だから人に謝った経験なんてないけど、君は謝らなければだめだ」
茜の激励はけっこう堪えた。口は悪いが、なんとか自分に謝って欲しい、そんな思いがあふれている。友人を失望させるくらいなら、今すぐ整備テントに行って謝った方がましだ。逆さはりつけ上等! 茜の悪態は知らず滝川にエネルギーを与えていた。
滝川はむくと身を起こして、茜に友情ヘッドロックをかけた。
「へっへっへ、心配かけちまって悪ィ。俺、行くぜ」
「ふっ。骨は拾ってやるよ」
茜に見送られ、滝川は整備テントへ走り去った。
「ご、ごめん。ごめんなさいっ! 逆さはりつけでもなんでもしてくださいっ……!」
猛然と整備テントに駆け込むや否や、滝川はテント中に響き渡る大声で謝った。全員があっけに取られてペコペコと謝る滝川を見つめた。
「……なんだかすごいテンションだね」
厚志はあされて、舞にささやいた。舞は口の端を吊り上げ、うっすらと笑った。
「さすがは滝川と言うべきであろう。なんという立ち直りの早さか。だが、声をかけてはならぬぞ。声をかけるのは整備の者たちがやつを許してからだ」
「……そうだね」
まるで債権者に謝る破産した経営者のように「ごめんなさい」を連発する滝川だったが、整備員は彼を空気のように無視して作業を続けていた。すんなり許すには被害が大き過ぎた。
滝川の表情がしだいにこわばってきた。どうしたらいいのか? 滝川はしょんぼりと途方に暮れ、黙々と作業をする整備員を見つめていた。
その様子を原はずっと見ていた。しばらくは滝川を無視してさらし者にするつもりだったが、ああもなりふり構わず謝っている姿を見せられると、寝覚めが悪いと思った。
「しょうがないわね……」
原のつぶやきに、近くで作業していた森が顔を上げた。原は苦笑すると、立ち尽くす滝川を目で示した。森は「はい」と目でうなずき、中村と岩田のところに走っていった。
原は滝川の前に立つと、不機嫌に眉をしかめ、無言でにらみつけた。
「す、すいません。俺、もっと早く謝りたかったんですけど……」
原の視線に耐えられなくなって、滝川は深々と頭を下げた。
「さ、行きましょう。中村君に岩田君、彼を拘束して」
中村と岩田ががっちりと滝川の腕を掴んだ。滝川は不安げに原を見つめた。
「どこへ……行くんですか……?」
「決まってるじゃない。軍法会議よ。気の毒だけどね」
原はにこやかに滝川の顔をのぞき込んだ。軍法会議……? へなへなと崩れ落ちる滝川を中村と岩田があわてて支えた。
「銃殺ですね」と森。
「ぬしゃとはもっと語り合いたかったばい」と中村。
「フフフ、安心なさい。すごく痛いですが一瞬で済みます」岩田が耳許でささやいた。
田辺や一組の面々はあきれた面もちでこの寸劇を見守っている。
「ちょ、ちょっと待って。俺、嫌ですよ銃殺なんて嫌。だ、嫌だぁっ……!」
滝川は日に涙を浮かべ、絶叫した。と、腕が解かれ、涙でぼやけた視界に原の顔がアップで迫った。普段の滝川であれば、ぽっとなっているところだが、今はとにかく怖かった。
「これくらいで許してあげる。さあ、とっとと復旧作業を手伝って」
「え、俺……?」
原が背を向けるのを待って、厚志は滝川に駆け寄った。
「冗談だよ、冗談。整備の人たち、許してくれるって。さあ、早く復旧作業を済ませようよ」
復旧作業が終わって、裏庭は闇に包まれていた。
原はあたりに人がいないことを確かめると、整備員詰所のドアを開けた。石津がはっとして身を固くする。後ろに従っている森に目で合図をすると、すばやくドアを閉めて、内側からロックした。
「今日も来ちゃった」
原はにこやかに言うと、石津の前に立った。石津は日誌を閉じると、立ち上がって後ずさる。
原は楽しげに室内を見回した。窓に歩み寄ると、窓枠に指を這わす。
「あら、こんなところに挨が。詰所の管理人さんとしてはどう対処するの? ほら、森さんからも言ってあげて」
水を向けられた森は、顔を赤らめた。原が怖かった。
「石津さん……掃除して」
森の懇願するような視線に、石津は窓枠に歩み寄った。手にした雑巾で、丹念に窓枠の挨を拭い取る。まるで意志を持たぬ人形のようだ。
「原先輩、もうこんなこと……」
森が口を開くと、原は指を森の唇に押し当てた。
「森さん、あなたまでそんなことを言うの? 信じていたのに。この女は弱い振りをして男の同情を誘う泥棒猫よ。どんなことされても文句は言えないの」
「泥棒猫って……」
森は絶句して、原を見つめた。どうして? 本当はとってもやさしい人なのに。さっきだって滝川君を助けてあげたのに。どうしてこんなになっちゃうの……?
森は善行と別れてからの原のことを思い出していた。
原が学校を休んでから三日後、森は原の部屋を訪れた。憧れの先輩は見る影もなくやつれ、森の姿を見て「善行さんに振られちゃった」と弱々しく笑った。森はかける言葉が見つからず、「わたし、先輩のこと待っていますから」とだけ言ってその日は帰った。しかし原は学校を休み続け、心配した森は原の部屋を訪れ続けた。原は日に日に痩せ細ってゆくようだった。
「森さん、もういいから。わたしをひとりにして」と原に言われた時、森は途方に暮れた。先輩のことが心配なんです。先輩が学校に来るまで、わたし何度だって来ますから、と言おうとして急に瞼が熱くなった。声の替わりに鴫咽が洩れていた。
床にペタリと座り込んで、わあわあと泣きじゃくる森の頬に冷んやりとしたものが触れた。
原の手。女性にしては大きな手だ。如何にも技術者らしい長く繊細な指だった。泣きやんだ森の顔を原がのぞき込んでいた。原は微笑んでいた。まったく、子供じゃないんだから、と原は冷やかすように言った。
頼りない後輩を持つと落ち込んでもいられないわね、と原は言って、次の日、やつれた姿で学校に現れたいダイエット失敗しちやって、と周囲に笑ってみせる原を見て、もう大丈夫だと森は安心したものだった。しかし、やはり原は以前の颯爽とした面影を失っていた。情緒が安定せず、ひとりで考え込むことが多くなっていた。
それでもせいぜい後輩や部下に八つ当たりするくらいで、特定の人を苦しめるようなことはなかった。けれど、今の原は壊れかかっている。止めないと。わたしが止めないと、
「先輩、わたし、もう嫌です。……元の先輩に戻ってください!」
「なんですって?」
原ににらまれ、森はうつむいた。石津が手を止めて、様子を見守っている。その視線に気づき、原はまなじりを吊り上げた。憐憫《れんびん》の目だった。こんな女に憐れまれているり原はぞっとして、手近にあった救急箱を掴んでいた。
「なんて目で見るのよ。冗談じゃないんだからっ……!」
原が救急箱を床にたたきつけようとした瞬間、森は動いていた。森もわけがわからず、泣きながら原にむしゃぶりついた。振り回した救急箱の蓋が開き、中身が散乱した。
「だ……め……それ、みんな……の」
石津は原から箱をもぎ取ろうとした。そのはずみで箱が石津の胸を強打した。石津はあっけなく吹き飛ばされ、壁に体を打ちつけた。
放心して床に座り込んだ原と、壁際にもたれたままの石津を、森は介抱していた。しんとした室内に夜の冷気が忍び寄ってきた。毛布を探そうと、森は棚に歩み寄った。整然と備品が納められた棚に、森は目を見張った。ただ几帳面なだけでなく、よく考えられていた。文房具などよく使うものは手の届きやすいところに納められている。足下の「毛布」とラベルの貼られた引き出しを開けると、されいに折り畳まれた毛布が整備員の人数分だけ納められていた。
すぐ横には木箱が置いてあり、「毛布、洗濯します。ここに入れてください」と書かれたラベルが貼ってあった。
石津さん、毛布を揃えてくれたんだ。整備のこと、考えてくれているのね。なのにわたしは何をやっているんだろう? 森はじわりと滲みみ出た涙を拭って、ふたりに毛布をかけた。
「……森さん」
原が呼ぶ声がした。森は散乱した医薬品を拾い集めていた。顔を上げると、原は毛布を握り締め、何かに怯えるような表情でぽつりと言った。
「わたし、もうだめみたい」
「……先輩」
森はぐっと嗚咽を堪え、笑顔をつくった。「こんなこと、もうやめましょう」と口から出かかったが、今の原にそれを言っても刺激するだけだろう、と思った。
「な、何を言ってるんです」
先輩がだめだったら、私なんかどうなるんです? 不器用だしどんくさいし。先輩のこと、みんな憧れてるんですから。一緒に道を歩いていると、男の人、必ず先輩のこと振り返りますよね。私、すごく嬉しくて、誇らしくて……。
森は心の中で原に語りかけた。私は先輩が大好きです――。
しかし原は顔をゆがめ、怯えた目で森を見るばかりだった。その無惨な表情に森は衝撃を受け、うつむいてしまった。
「……わかっているのよ。わかっているんだけど、止まらなくなっちやって。わたし、自分が怖くて。怖くて」
原はそれだけ言うと、抱えた膝に顔を埋めた。
石津の視線を感じたが、森は目を合わせることができず、悄然とうなだれた。
ずいぶん遅くなった。滝川のやつ、自分が勝つまで帰してくれないんだもんな、くそっ、ゲーセン中毒めと茜はぼやきながらそっとリビングを抜け自室へ入ろうとした。
リビングでは森がテーブルに突っ伏し寝息を立てていた。どうしたんだ、こんなところでと茜は何気なく森に近づいた。
茜と森は血のつながりのない姉弟だった。母の死後、茜は森家に引き取られて育った。自称・姉は不器用でどんくさくて涙もろい性格だったが、茜はこの姉が好きだった。茜流に言えば、こんなに笑える姉はいないとの理由からだ。しかし最近では、茜も森も以前のようにはつき合えなくなっている。空気がぎこちないと思う時もしばしばで、そんな時、茜は血のつながりのない姉とひとつ屋根の下で暮らす重たさを意識してしまう。
「姉さん、風邪引くよ」
茜が揺り起こそうとした時、森の口から言葉が洩れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、石津さん。わたし、ひどいこと……」
森はうわごとを言っている。石津? 石津っていえばあの無口な子か? 姉さん、どうして謝るんだ? 茜は首を傾げたが、姉の横顔を見て、はっとした涙がひと筋。
されいな横顔だった。最近、よく夢に見る姉の弾力のある頬に触れようとして、おずおずと手を伸ばした。「ごめん」森の声にあわてて手を引っ込めた。
茜は姉の肩にカーディガンをかけてやると、自室へと引き上げた。
「姉さん、なんだか変なんだ。石津さんごめんなさいってうわごと言ってるんだ」
翌日の昼、茜は思い切って滝川に打ち明けた。知り合って数日しか経っていないのに、ふたりは昔からの親友のように打ち解けていた。
校門脇の芝生に寝そべってひとしきりロボットアニメの話をした後だった。唐突に振られた話題に滝川は考え込んでしまった。
「石津に謝っているのか? 石津と森が知り合いだとは思えねえけどな。っていうか、石津は自分から友達つくるタイプじゃないから」
実は嫌な予感がしていた。まさか、とは思ったが、滝川はあえて口にした。
「石津ってさ、イジメでこの学校に移って来たんだ。もしかして……」
茜はがばと身を起こすと、滝川をにらみつけた。
「ふ。姉さんはそんなことしないよ。正義感強いし。僕は小さい頃、いじめられているところを姉さんに何度も助けられた」
と言いながらも、茜の顔色は冴えなかった。こいつ、姉ちゃんのこと心配している。滝川はそうと察して、友人を追い詰めないよう、話題を変えた。
「だからおまえ、喧嘩弱いのね」
「なんだと! 僕は弱くなんかない。誰だって体調が悪い時はあるだろ。なんなら君を実験台にしてもいいよ、新開発のタイガーファングブローの」
茜は立ち上がるとファイティングポーズを取った。滝川もつき合って掌を出す。と、かさっと音がして厚志が藪陰から姿を現した。
「やあ」
厚志はにこっと笑って手を振った。
「ど、どうしたんだよ速水。そんなところで何やってるんだ?」
「昼寝。昨日午前二時まで芝村さんに複座型の調整につき合わされて。眠くて眠くて」
「芝村がどうしたって……?」
茜の顔が急に険しくなった。厚志はきょとんとして、茜を見ている。
「あ、こいつ茜っていうんだ。森の弟なんだって」
「そうなんだ。僕、速水厚志です」厚志はぼややんとした顔で、茜に挨拶をした。
「……あの、な。速水と芝村は複座型のパートナーなんだ」
滝川は茜の表情から、少し前までの自分を思い出していた。自分も芝村と聞くと、それだけで嫌悪感を表していた。今は少し違うが、無用なことで茜を刺激したくなかった。
「そう……だったらいいんだけど」
茜はしばらく警戒するように厚志の品定めをしていた。
「目が覚めたところで聞こえてきたんだけど、石津さんがどうかした? あ、事情があるなら聞かなかったことにするけど」
厚志が気まずそうに切り出すと、滝川と茜は顔を見合わせた。
「そういうことか」
話を聞き終えると、厚志は沈んだ表情になった。
石津のことを考えるのは厚志にとっても苦しいことだ。厚志にはわかっていた。ある種の人間にとって石津はたまらなく嫌味な存在に映る。不安や葛藤を抱えた人間には、失語症一歩手前の陰気で孤独な石津が、実はあふれんばかりの心やさしさを持った少女であることに嫉妬する。あの夜、石津と屋上で出会った自分がそうだった。
「石津さんのことを気をつけて見ていよう。それが一番いいと思うよ」
夕方、厚志は舞に誘われて整備テントに向かっていた。翌朝、二回目の実習を控えていた。
複座型の機体を少しでも調整しておきたかった。もう後はない滝川は放課後から、ずっと軽装甲の側に詰めている。
「この分では、やつはテントに泊まり込むかもしれんな」
滝川の様子を聞いて、舞はそっけなく言った。
「今から緊張している。アクセルは頭の中のイメージより弱く踏むといいよって言っておいたんだけど」
厚志の言葉に、舞は大きくうなずいた。
「機体ごとに差はあるだろうが、至言かもしれんな。担当の者に癖を聞いておくのも手だな」
「うん。そういえば森さんって複座型の……」
と言いかけた時、整備員詰所のドアが開いて、原と森が出て来た。ふたりとも様子が変だ。
特に森はがっくりと肩を落としている。歩くのも辛そうだった。
「どうした、速水?」
「……あ、なんでもない。調整の前に少し滝川を元気づけておこうよ」
「プレッシャーを与えるの間違いではないのか?」
おかしいな、あのふたり、と思いながらも厚志はつい目の前のことにかまけて疑念を打ち消した。
厚志と舞が整備テントを出た頃には強い雨が降っていた。冬に戻ったかのように冷え冷えとした雨だった。折からの強風に煽られ斜めから体に吹きつけてくる。
すでに構内に人影はなく、珍しく整備テントにも残っている整備員はいない。閑散とした裏庭をふたりは突っ切ろうとして、雨足の強さにあきらめテントへと引き返した。
「どうする? テントで雨足が弱まるのを待とうか?」
「それも良いが、少し冷えた。詰所に行けば湯を沸かせると思うのだが」
「あっ、それ名案! 僕がおいしいお茶を掩れてあげるよ」
ふたりは詰所に向かって走り出した。と――詰所近くの外灯の下に、人影があった。土砂降りの中、傘もささずにじっとたたずんでいる。
「石津さん……!」
厚志は足を止め、茫然と立ち尽くした。
「たわけっ! 何をぼんやりしている!」
舞の拳が腹にたたき込まれた。我に返った厚志の目に映ったものは、ふらつく石津を支え、抱き締める舞の姿だった。
「どうしたの?」
「事情はわからんが、相当に体温を失っている。ひとまず詰所に運び込もう」
石津をうながすと、激しく首を振って抗った。その激しさに厚志はたじろぎ、手を離した。
「役立たずめ! そなたは乾いたタオルと毛布を出し、揚を沸かせ」
舞に責められ、厚志はあわでて詰所に入った。備品棚からタオルを取り出し、石津を運び込んだ舞に投げた。
「毛布はどこに……」
とふたりの方を向いたとたん、舞の憤怒の視線と出合った。舞は石津の服を脱がせ、丁寧に拭いてやっていた。
「そなた、どうあってもわたしを怒らせたいらしいな」
「ご、ごめん。すぐに毛布を探すから」
やっとの思いで毛布を確保すると、石津の体に巻いた。石津はされるがままになっている。
「これからどうする?」
厚志はぽつりと尋ねた。
舞は毛布の上から石津を抱き、体温の回復を試みている。石津は青ざめた顔で震えていた。
瞳の色は限りなく暗い。あの時か。厚志の勘がそう告げていた。悪いのは原素子。無抵抗な石津さんをいじめるとしたらあの女しかいないだろう。
「速水よ」
厚志の変化を静かに観察していた舞が口を開いた。
「その目はやめろ。その目をわたしは嫌いだ。おのれのことしか考えず、しかも他者に恨みがましくすべてを転嫁する目だ」
「君に僕の何がわかるっていうんだ!」
厚志はかっとなって叫んでいた。
「そなたのことなど知らぬ。そなたもわたしのことなど知らぬ。そうであろう? それでそなたはよいのだろう?」
舞の口調は冷ややかだったが、どこか悲しげな響きが交じっていた。
……本当に悪いのは僕だ。
「噂で聞いていたんだ。石津さんがいじめられていること。僕がもう少し気をつけていれば、僕がもう少しお節介でお調子者で、他人のために怒ったり泣いたりできる人間であれば……」
厚志は、ぎりと歯を噛み鳴らした。石津さんはこんなことにはならなかったろう。
「僕は最低だっ!」
沈黙。ややあって、舞が静かに口を開いた。
「わたしは善行に連絡してくる。それと医者もな。今度はそなたの番だ。石津を頼む」
舞は石津から体を離すと、厚志を手招きした。
土砂降りの中を舞は駆け出していった。後に残された厚志は、石津をそっと抱き締めていた。
「君はあの時、言ってくれたよね。滝川のことを考えてあげてって。しゃべれない君が勇気を出して一生懸命応えてくれたのに、僕は応えなかった。今日のことだってそうだよ。噂を聞いた以上、君を守らなきやいけなかったんだ」
厚志は低い声で、石津に語りかけた。石津が微かに身じろぎした。顔をのぞき込むと上目遣いの視線と出合った。石津はもがいて体を離そうとしたが、厚志は必死で石津に訴えた。
「だめだよ! あんな雨の中にいたんだから。嫌かもしれないけど、このままでいるよ」
「へい……き……だから」
石津はなお抗ったが、厚志は離さずにいた。
「……自分なんて死んじゃえばいい、と思ったの?」
しばらくして、厚志は憂鬱な声で尋ねた。返事はなかった。
「どうして君が死ななければいけないの? 君はなんにも悪いことしでないのに。悪いのは君をいじめたやつらなのに」
返事はない。厚志はそのまま石津を抱いていた。
自責と後悔の念に駆られ、じっと石津の寝顔を見守っているところに勢いよくドアが開けられた。冷たい風と雨滴が室内に吹き込んできた。
「石津はどうした?」
軍用のレインコートを着た舞が、石津の顔をのぞき込んだ。
「今は眠っているよ。けど、熟があるみたいだね」
「ふむ。それではわたしが茶を淹れてやろう。ああ、これは食料だ」
「……焼きそばパンはちょっと」厚志が指摘すると、舞は顔を赤らめた。
軍用車両のエンジン音が聞こえ、ほどなく善行が駆け込んできた。後ろに軍医を従えている。
「石津さんは大丈夫ですか? 先生、お願いします」
あと一時間、雨に打たれていれば命に関わったと軍医は語った。急速に体温を失ったため、
衰弱しているが二、三日安静にしていれば元気になる、と。
石津は善行が持って来た布団に横たえられた。
厚志と舞、そして善行はしばらくの間、石津の寝顔を見守った。すでに深夜になっていた。
「あなたたちは明日、実習でしょう。今晩はわたしがついていますから」
善行は厚志と舞を交互に見て言った。ふたりとも相当に張り詰めている。特に厚志の思い詰めた表情は別人のような感があった。
「……まだです」
厚志の声だった。怪訝な表情をする舞と善行に、厚志はきっぱりと言った。
「僕、納得できないんです。委員長、森さんの家の住所、わかりますか?」
「あなたは何を……」
「わたしも速水と同じだ。ここは我らを信じてくれぬか?」
舞も口添えする。
善行は手帳を取り出すと、黙って住所を書いたページを破って渡した。
森家は寝静まっていた。懐中電灯の明かりを頼りに迷った未、やっと見つけた。
門扉を越えようとする厚志を、舞は鋭く叱責して止めた。繰り返し何度も何度もチャイムを押すと、パジャマを着た茜が出てきた。
厚志と舞を見て、茜は言葉を失った。
「ど、どうしたんだ、速水? それに……芝村」
「森さんを起こして」
厚志が静かに言うと、茜はびくつとして肩を怒らせた。
「ね、姉さんになんの用だ? 返事によってはこちらにも考えがあるぞ!」
茜の必死な声は深夜の街に響き渡った。
「石津が死にかけた。今は整備員詰所で善行が看護している」
舞の説明に、茜は青ざめた。
「だっ、だからといって姉さんになんの関係が……」
「大介」
奥から声がした。森の声だ。
「だめだ、姉さん、逃げて! こいつらは僕が食い止める」と言うや、茜は拳を構えた。小柄な身体を精一杯緊張させ、厚志と舞をにらみつけた。
森が姿を現した。制服にジーンズといういつもの格好をしている。興奮している弟をなだめるように穏やかに微笑んで言った。
「心配しなくていいから。私は大丈夫だから」
「けど、けど……姉さん、なんだか変だよ」茜はすがるような目つきで森を見つめた。
森は弟の緊張を解くように、そっと茜の背中に触れた。
「わたしを信じて。本当に、わたしは大丈夫だから。留守番よろしくね」
立ち尽くす茜を後目に、森はレインコートを羽織ると歩き出した。厚志と舞は黙って、森と肩を並べた。強風に煽られた雨滴が三人を激しく打った。
不意に森は立ち止まって、身を震わせた。
「わたし、取り返しのつかないことしましたっ……!」
森の目から熱い涙がこぼれ出た。うつむいて嗚咽する。
「泣くのは後だ。尚敬校まで走るぞ」
舞に言われて、森の顔が引き締まった。
整備員詰所で、森はすべてを語った。語り終えて、石津の枕許で夜明けまで泣いていた。
翌朝、石津は保健室に移され二日ほど寝込んだ。
森は石津のベッドの側から離れることを拒んだが、善行に言われてしぶしぶと元の生活に戻った。事情を知っているのは厚志、舞と善行、森の四人だけだったが、一組の面々は代わる代わるに石津を見舞った。
「石津さんは順調だよ。明日には授業に出られるみたい。あ、猫は保健室への出入り禁止だから、もう少し辛抱してね」
厚志は詰所前でブータに話しかけていた。
「この猫は石津の友か」舞がじっとブータを見つめた。
「そうみたいだね。だからきちんと石津さんの様子を報告しないと」
「ふむ。そなたにしては殊勝な心がけだ。さて、わたしは授業が始まる前に片づけねばならぬ用件がある。そなたは先に教室へ行くがよい」
厚志の顔から笑みが消えた。
「……君がそんなことをやっちゃだめだ。僕が行くよ」
「命令だ。とっとと教室へ行かぬと、二度と口をきいてやらぬぞ」
理不尽な、と思いながらも厚志はしぶしぶとその指示に従った。
舞は厚志が教室に入るのを見届けてから、二組の教室へ向かおうとした。一組教室のドアから長い腕が伸びて舞を制止した。
「どうしたのです、芝村さん? いつもとは雰囲気が違いますね」
穏やかな、それでいてすべてを見通しているような目で見られて、舞は観念した。
「ふむ。さすがだ。そなたには知る権利がある。これからやつを殴りにゆく。殴って問題が解決するかといえば断じて否だが、何かのきっかけにはなるだろう」
舞の言葉を聞いて、善行は、ふっと笑った。
「芝村的ではありませんね。ずいぶんと情緒過多なアプローチだ」
「ふっ、わたしとしたことが、な」
舞は行き過ぎようとしたが、善行に阻まれた。邪魔をするな、と言おうとして舞は善行の表情に息を呑んだ。善行は沈痛な面もちになっていた。
「殴られるべきはわたしでしょうね。今度のことはすべてわたしに責任があります。彼女のことはわたしに任せてもらえませんか」
「……わかった」
舞はそれ以上何も言えず、善行とともに一組教室へと入ったり
「そろそろ呼び出されると思っていたわ」
すでに夜が更けていた。司令室のデスクを挟んで、原と善行は向かい合っていた。
原の表情は思いの外、穏やかだった。
「石津さんは発見が遅ければ死ぬところでした」
善行が静かに切り出すと、原は深々と息を吐いた。石津が保健室で寝込んでいること、そしてここ数日の森の態度からおよそのことはわかっていた。
あの子を追いつめてしまった。
馬鹿げた醜い嫉妬。初めは善行と石津の仲を疑っての感情だった。それが石津という少女への羨望と嫉妬に変わった。
石津の、加害者である自分にすら向けられたやさしさを憎いと思った。
「どのような罰でも甘んじて受けます。わたしのやったことは最低だもの」
「……石津さんは心のやさしい子ですよ。なぜ、彼女を?」
原は自分の内面に沈み込むようなまなざしになった。
「だから、なんでしょうね。きっと羨ましかったのよ、あの子が。……あの子、わたしのことを悲しそうな日で見るの。なんでそんな目で見るの? 生意気にわたしを憐れんでいるのって思ったら歯止めが利かなくなって。気がついたらやめられなくなっていた。わたし……、自分が怖かったわ。あんな最低の、人間のクズみたいなこと……!」
原は歯を噛み鳴らして、湧き上がってくる激情を抑えつけた。
「……自分がこんなに醜い人間だなんて! わかってはいたのよ、わかってはいたんだけど、わたし、自分を抑えられなかった。だから、こうして呼び出されて、ほっとしているの。これでやっと解放される」
善行からの返事はなかった。冷静な目で、原を見つめるのみだった。
原は顔を赤らめた。ぶざまだ。なんら弁解の余地ない、取り返しのつかぬ罪を犯して、こうして昔の恋人から断罪されるのを待っているなんて。どうして、善行は何も言ってくれないのか? 原はいらだちを抑え切れず、善行に迫った。
「わたしを解任して」
追放されることを原は望んでいた。その先のことはどうでもよくなっていた。
善行は深々とため息をついた。心なしか、肩を落としているように見えた。しばらくして、
善行は眼鏡を押し上げ、静かな声で言った。
「あなたには失望しました」
予期していた言葉だったが、あらためて聞かされると堪える。原は善行に背を向けると、黙って司令室を出ようとした。
「……逃げるのですか?」
善行の声に足が止まった。原の背に善行の言葉が浴びせられた。
「解任などと……虫が良過ぎます。卑劣ですらある。石津さんから逃げ、あなたに期待し、頼ってくれる生徒たちからも逃げて、すべてを放り出すなんてね。あなたを罰するのはわたしではない。あなた自身ですよ」
善行の柔らかな声が室内にこだました。原は振り返ると、きっと善行をにらみつけた。
「もうたくさん! わたしは自由になりたいの! わたしを自由にして……!」
「しっかりしろ、原素子――!」
原の言葉を遮るように、善行は叫んだ。
原は息を呑んで、善行の激情を見守った。握り締めた拳が震え、眉間には苦しげなしわが寄っている。こんなに苦しげな善行を見るのは初めてだった。
「わたしの……」
原の困惑した視線に気づき、善行は固く握り締めた拳を解いた。長々と息を吐き、感情の高ぶりを静めた。
「わたしの知っている原素子は、逃げるような人ではありませんでした。たとえ、どんなに苦しい状況に置かれても、笑って立ち向かってゆける……そんな人でした。わたしは元の原素子に会いたいのです」
冷静な仮面が剥がれ、善行の声には悲しげな響きが交じった。そうだ。あの頃の原素子のまわりにはいつも人が集まっていた。自分には彼女が眩しかった。
「……なによ」
原の口から絞り出すような声が聞こえた。うつむいたまま、全身を震わせている。
「なによ、なんだっていうのよっ! 勝手なこと言って! えらそうに!」
原は激しくかぶりを振った。温かな涙が千切れ飛んだ。
「あなたにあんな嘘つかれて、辛かったんだから! 死のうと思ったんだから! わかってるわよ。どう考えたってあなたを好きになってくれる女性なんてわたししかいないもの! どうせ、戦争で死ぬかもしれないから自分から身を引こうと思ったんでしょ。わたしに幸せになって欲しい、なんて。自分だけいい気になって。その不細工な頭で勝手に考えて、勝手に結論出して。馬鹿、馬鹿、馬鹿、善行の馬鹿!」
奔流のような感情の爆発を抑え切れず、原は泣きながら思いつく限りの言葉を善行にたたきつけた。善行は黙って、原の言葉に打たれ続けた。
「気が済みましたか?」
しばらくして、善行は静かに口を開いた。原は目許を拭うと、挑むように善行を見た。
「まだまだね。わたしの恨みは深いわよ。じわじわと追い詰めてあげる」
「お手柔らかに願います」
善行は口許をほころばせた。
「あなたの知っている原素子はね、とっくに死んだ。今いるのは不実な男に捨てられて性格がすっかりねじくれてしまった哀れな女。……まったく、こんないい女を振るなんてね。わかってる? 時計を逆回りに戻すことはできないのよ。せいぜい後悔することね」
原はため息交じりに言った。
善行は、はっとして原の顔を見つめた。
目に生き生きと、躍動するような光が戻っている。あの頃とは顔立ちも雰囲気も異なっているが、出会った頃の原素子の面影が微かに感じて取れた。
「ええ、長い時間をかけて後悔することにしますよ」
善行は感情を押し隠すように、冷静な口調で応じた。
その日、原はいつものように朝一番に整備テントに来て、デスクに着いた。
早番の整備員がこわごわと原の様子をうかがったが、原は普段と変わらず、デスクに溜まった書類の処理に没頭した後、教室に顔を出した。原の姿を認めると、二組の教室は急に緊張した空気に包まれた。原が室内を見渡すと、二組の面々は一斉に顔を伏せた。
原は腕組みして、何事か考えていたが、やがて、「さて……」とつぶやくと教室を出た。
「あ、あのっ……原先輩、どこへ行くんですか? わたしもよかったら……」
森が追いすがるように、原を呼び止めた。心配でたまらないという表情だ。
「一組教室」
原はにこっと笑うと、こともなげに言った。森の顔がばっと輝いた。
「先輩……わたしもつき添います!」
「ありがと、森さん。けど遠慮するわ。あなたはもう勇気を出した。今度はわたしの番ね」
立ち尽くす森を後目に、原は一組教室に入った。とたんにピン、と空気が張り詰めた。
原は石津の席の前に立つと、腕組みをして石津を見下ろした。時間が流れる。左右から幾本もの視線が突き刺さった。事情を知っているか、薄々感づいているといった視線だ。しばらくの間、原はさらし者となって、視線に耐え続けた。
石津はずっとうつむいたままだ。原は息を吸い込むと、いっきに話した。
「わたしはいじめるのは好きだけど謝るのは嫌いなの。だから一度しか言わないわ。ごめんなさい、石津さん。許してくれとは言わない。償えと言われるなら、どんなことでもする」
厚志も舞も、滝川も壬生屋も、一組の面々はあっけに取られ、うつむく石津と、言葉とは裏腹に倣然《ごうぜん》と胸を張る原を見比べた。
原の様子を見守っていた善行は知らず口許をほころばせ、目敏《めざと》い瀬戸口に、にやりと意味深に笑いかけられた。
やがて石津が顔を上げてぼそりと言った。
「……呪う…わ」
原が息を呑む気配がした。倣然とした仮面は崩れ、動揺を面に表すと後ずさった。
「……うそ」
石津は上目遣いに原を見た。
わっと歓声があがって、原の目に廊下側の窓ガラスに顔を張りつけた整備班の面々が見えた。
ほどなく、それに対抗するように一組の教室も歓声に包まれた。
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芝村舞の野望U 決戦! ムーンロード
三月某日。昼下がり。芝村舞はムーンロードを歩いていた。
こうして盛り場を歩いていると、世情がよくわかる。行き交う人々はほとんどが自衛軍の兵と学兵だった。それでも後方にいるという安心感からか、それなりに楽しくやっているようだ。
ふむ、そなたら、今のうちに英気を養っておくがよいと納得して歩くうち、廿やかな香りが噴覚を刺激した。これは? 舞はふらふらと引き寄せられるように現場へと向かった。現場にはクレープの屋台と、三組ほどのカップルが行列をつくって並んでいた。
これは……食べ物を商う店であるな。何気なく行列に並ぼうとして、舞は足を止めた。男・女、男・女、そして男・女だ。どうやらそれぞれ連れだっているらしかった。
なにゆえ男女が連れだって並んでいるのだ?……とここまで考えて、舞は、はっとしてカップルを凝視した。もしかして男女が一対でないと買えぬのか? むろん、法や条例で定められていることではないだろう。
だとすればなんだ? もしかして、もしかしてこれは……「常識」というものか? 思えばこの常識というやつ、常にわたしを悩ませる。時計の乾電池を交換できるのは常識であり、できないのは非常識とされる。しかし、百メートルを五秒台で走れることは常識とは言われず、その逆が普通ないしは常識とされる。
この世界は迷宮だ、と舞は首を振った。自分で常識だと思ったことが非常識であり、非常識と思ったことが万人にとっての常識となる。
(なれどわたしは安易な孤高を保つことはやめたのだ。常に謙虚であれ。おそらくは雌雄一対もとい男女一対というのも文化的な理由及び背景があるのであろう……)
列の側にたたずんでぶつぶつとつぶやく舞を、カップルたちは困惑して見つめた。が、彼らの困惑をよそに舞は大真面目に、じっとカップルを凝視していた。
観察し理解することだ、と舞は思った。さすれば道は開けるだろう。
しかしカップルは何事もなかったかのようにクレープを受け取ると店を去っていく。徒労感を覚え、首を傾げる舞の横を、カップルが途切れるのを見澄ましたかのように、猛然と店の前に走り込んだ影があった。
「おじさん、イチゴチョコクレープ特盛り、ふたつねっ!」
滝川陽平だった、滝川は巨大なクレープを両手に持つと、その場でかぶりついた。
「滝川……そなたというやつは」舞はきっとして滝川をにらんだ。滝川は口のまわりにべっとりとクリームを張りつかせた間抜けな顔で舞を見た。
「あれ、どうしたんだ、芝村?」
間抜けめ、間抜けめ、間抜けめ。わたしが必死で「常識」を理解し、この世界との調和を図ろうとしているのにこやっときたら!
「そなたは人間社会の常識を無視した。そなたは人間失格だ! これからは滝川猿以上類人猿以下陽平と名乗るがよいぞ!」
舞は憤然として滝川を怒鳴りつけた。
「なあ、芝村、おまえ何怒ってるの?……あ、もしかして、クレープを狙っているのか?だめ、だめだ。今日は館野さんの分まで食うって決めたんだかんな……」
滝川はクレープを守るように用心深く後ずさった。
「たわけ! わたしは、わたしはな……」
刹那、舞は、全身に電流が流れたかのような衝撃にとらわれた。
もしかしたらわたしは大変な誤謬を犯していたのかもしれぬ。
「滝川よ、ひとつ聞こう。その食べ物は雌雄……男女一対でなくとも買えるものか?」
「へ? 男女……なんだって?」
「あー、だから、男と女が連れだっていなければ買えぬ決まりがあるのではないか?」
大真面目に問うと、滝川は宇宙人でも見るような目で舞を見つめた。その目に舞は衝撃を受けた。わたしはまたまちがったのか? 男女一対かつ滝川。共通項はなんだ? 冷静になれ。冷静になって考えるのだ。舞の頭脳は高速で回転をした。血液型……使用言語……兵科……遺伝子特性……だめだ、焦れば焦るほど思考が拡散してゆく。
「金さえあれば誰だって買えるじゃん」
そうか、金かっ! 舞は、くっと下を向き、おのれの迂闊さを悔やんだ。共通項は金。金さえあれば買えるものだったのだな。ならばわたしも集合の中に入っている。
舞は滝川に礼を言うと、決然と一歩を踏み出した。全身に緊張をただよわせた舞に、店主は縮こまった。
「わたしは……」舞はすうっと息を吸い込むと、断固として硬貨を差し出した。
「わたしはサンダーボルトバナナクレープ、ととと……特大盛りを所望する!」
「はっ」
店主はあわてて敬礼をした。舞の烈々たる闘志に、なんとなく手が挙がってしまった。
こうして芝村舞の死闘は終わった。
……黙々とクレープを頬張る舞を、物陰からじっと見ている姿があった。胴衣、袴姿の少女である。
「あれえ、壬生屋じゃねえか。そんなところで……」
滝川に声をかけられて、壬生屋末央は、飛び上がった。ばたばたと草履の書を響かせ、駆け去ってゆく。
天晴です、芝村さん。わたくしなんて、わたくしなんて緊張で足が震えてしまって、店にすら近づけないというのに――。その勇気はどこから? と壬生屋はライバルの成功に嫉妬と羨望を覚えるのであった。
2008/11/16 入力・校正 hoge