神曲奏界ポリフォニカ 第2話
生命はいつか必ず死を迎える。
一度はこの世界に実体として存在した以上――滅びは避け得ない宿命だ。生成と死滅が互いに繰り返しながら連綿と続いていく事、即ち万物流転がこの世界の理《ことわり》である。例外は無い。例外が在っては世界はそもそも成り立たない。
一般に不滅と考えられている精霊達でさえも死とは無縁ではない。
彼等は人間や他の生物に較べると多分に長命で存在としても強靱だが決して不死という訳ではない。人間が単に自分の時間単位で測りきれない為にその存在を永遠のものと勘違いし易いだけで、有史以来、精霊が死亡した例は数限りなく存在する。それは人間の死とはまた形態を異にするのかもしれないが、やはり『滅び』ではあるのだ。
そう――精霊もやはり死ぬのだ。人と同じ様に。
故にこそ人間、精霊の区別無く、際限なく死をまき散らす争いは醜く、痛ましく、そして……哀しい。そこに如何なる理想や利益が在ろうとも。
タイヤと路面が噛み合って甲高い悲鳴を上げる。
灰色の――都市迷彩に塗られた無骨な造りの四輪駆動車が荒々しく土煙を巻き上げながら急停車する。
何処の戦場からやってきたのか、いかにも装甲然とした外装には、幾つもの不自然な窪みや、何か獣の爪の様なもので引っかかれたらしい傷痕が幾つも残っていた。
先の傷は銃弾によるものだろうが……では後者は一体何が付けた傷なのか。塗装どころか外装にはっきりと食い込む傷痕は、断じて普通の獣のものではない。戦車に較べると薄いとはいえ鋼は鋼――装甲に明確な爪痕を刻める獣とは、果たして如何なる存在か。
「早くお嬢さんの処へ」
運転席に座っている若い男が、サイドブレーキを引きながら後部座席へと振り向く。
特に武装らしいものは帯びていないものの、四輪駆動車と同じく灰色と黒の都市迷彩を帯びている事からすれば、恐らく軍人なのだろう。
彼の頭部に巻かれている薄く汚れた包帯にはまだ新しい朱色のしみが広がっていたが、そのことを気にする余裕は彼自身にも無い様だった。
「ありがとう。君も早く本格的な手当を受けてくれ」
そう答えたのは後部座席に座っていた二人の内の片方――恐らくは三十代半ばと思しき中年の男性であった。こちらは軍人ではないのか黒いインバネス・コートを身に纏い、鍔広の帽子を被っている。衣装といい彫りの深い端整な顔立ちといい、更には上品な口調といい、無骨な軍用車輌よりも二頭立ての馬車辺りに乗っていた方が似合う――そんな雰囲気の男性だった。
「お気遣い感謝します!」
運転席の兵士は感激した様に敬礼する。
インバネス・コートの男性は軽く会釈を返してから扉を開いて外へ出る。その容貌には不似合いな位に――やや乱暴な手つきであったのは、内面の焦燥感が物腰にまで滲み出ているからだろう。
続いて男は大型の旅行鞄の様なものを車の荷台から降ろす。
形は大まかには直方体。ただしただ鞄と呼ぶには、その形状は細かな凹凸が多く――何か組木細工の様な複雑さを備えていた。
「お疲れ様です」
彼に続いて同じく後部座席に座っていたもう一人の人物も会釈の後に車を降りる。
こちらは女性だった――それもとびきり美しい容姿の。
外見から判断する限り年齢は二十歳位であろうか。
長い長い白銀の髪が陽光に煌めく。
「…………」
若い兵士の視線が一瞬――色を変える。
インバネス・コートの男に送っていたそれは崇敬と畏怖の色に充ちていたが、銀髪の女性に向けられたそれを占めるのは純然たる憧憬と親愛の色であった。
奇蹟の如き優美さが見る者を瞬間的に魅了する……そんな姿なのだ。
生身の俗臭など微塵も纏っていない。幻想を呼吸して生きているかの様な――それ故にこそ普通の女性には有り得ない様な繊細さと清楚さをその容姿は備えている。昨今は、彼等彼女等のそんな姿に惹き付けられて普通の異性に興味を無くしてしまう者達も後を絶たないと言われていた。
車外に出た瞬間――伸びをするかの様に女性の背中で光る平面が放射状に展開する。
羽根の様な、花弁の様な、美しい四枚の平面はその女性の正体を何よりも雄弁に物語っていた。
精霊である。しかも上級の。
存在としては多分に精神体としての比率の高い精霊達は、肉体的な外見はある程度の調整が利くので単純な見た目は等級の判断材料として使えない。精霊達の力の大きさと精度はその羽根の数と形状の複雑さから判断するのが最も正確であるとされている。
その意味では――この銀髪の精霊は間違いなく上級精霊であった。
「手続きは私が。ユギリ様は一瞬でも早く御嬢様の処へ」
正面玄関に続く階段を上りながら銀髪の精霊は言った。
「すまないドーリスラエ。頼む――」
二人が入っていったのは大きく、そしてかなり旧い――くたびれた感じの建物だった。
重厚かつ頑強な耐火煉瓦造りの為か、まだまだ朽ち果てる様子は無いが、よく見れば経年による外壁の変色や細かな亀裂を無数に確認出来る。元々は数年前まで市役所として使われていた建物であるが――今回はその床面積の広さと駐車場の広さを買われて急造の救急病院として活用されている。
言ってみれば此処は野戦病院なのである。
機材や人員は圧倒的に足りないが……それでも此処が現在、市民達の生命を守る要所の一つであった。本来の市営病院は真っ先に攻撃され、既に瓦礫と化しているからだ。
「なんと……」
正面玄関の扉を開けたインバネス・コートの男は――絶句しその場に立ち尽くした。
最前線から戻ってきた筈の彼の前に、やはり『戦場』が広がっていたからだ。
正面玄関ホール。
そこは本来高い天井と広い床がゆったりと訪問者を迎える為の場所だ。民家には有り得ない程の空間の大きさが独特の雰囲気を醸し出し時間の流れすら緩慢にさせる場所である――本来であれば。
だが今はもう既に手続きがどうの――などといった状態ではない。
恐ろしく雑然とした空気の中を白衣の医師や看護士が走り回っている。飛び交うのは冷静な言葉の羅列ではなく、前後の脈絡をぶった切られた様な怒号と、そして意味を成さない苦鳴と悲鳴だ。
誰もが懸命に――文字通りの意味で――生き、そして働いているものの、それが現状を打開するには圧倒的に微力であるのは見た瞬間に分かる。ベッドが足りていないのだろう、シーツやタオルを敷いただけの床に寝かせられている者も多い。迂闊に歩いたら怪我人を踏んでしまいそうだった。
人手やベッドのみならず、恐らく薬や包帯の類も足りていないのだろう。明らかに消毒もされていない様な汚れたタオルで傷口を縛ったまま呻いている負傷者も見受けられた。
この急造の――そもそも一時凌ぎとして造られた、病院とすら呼べないような場所では、最初の負傷者達が運び込まれた時点ですでに限界に達していたのだ。
「……おのれ<嘆きの異邦人>共め」
インバネス・コートの男――ユギリ・パルテシオは怒りを含んだ呟きを漏らす。
悲惨な怪我人達の姿は先ず怒りを掻き立てる。だがそれは一定限度を超えると絶望感と無力感に転化する。また死者は死者としてそのまま放置されるだけだが、怪我人は最低二人の人間の手を拘束し――そして無傷の者達の疲労を加速度的に蓄積させていく。
そして疲労はやがて志気を低下させ総合的な戦力を減衰させる。
それを分かった上でこの事件――いや動乱の首謀者達は先ず最初に病院施設を攻撃したのだろう。戦術としては理解出来るが良心が欠片でも在ればとても実行不可能な戦い方である。
怒りに震える男の元へ――若い女性看護士の一人が駆け寄ってきた。
「ユギリさん! こちらです」
「あ……ああ……」
パルテシオは我に返った様子で頷く。
「ユギリ様、急いで娘さんの所へ行きましょう」
ドーリスラエと呼ばれた銀髪の精霊が促す。
二人は看護士に案内されて病院の奥へと歩き出した。
通路も正面玄関ホールと同様の有様だった。
やはり床の上にまで怪我人が溢れている。三人は怪我人を踏まぬ様、あるいは駆け回る医師や看護士にぶつからぬ様に注意して進まねばならなかった。
「酷い有様でしょう――でもこれでも未だマシな方なんですよ」
看護士は愚痴をこぼす様な――いや愚痴そのものだろう――口調で言った。
「ただちょっと頭のおかしい連中何人かが暴れただけだと思っていたのに――気がついたらこんな状態です。もうこれは事件とか呼べる様なものじゃない。戦争ですよ」
「…………」
パルテシオは黙って看護士の言葉を聞いている。
あるいはそれは彼にとって糾弾の叫びとして響いているのかもしれない。
彼の背後ではドーリスラエが彼と同じ様な――いや彼よりも更に辛そうな表情を浮かべて看護士の言葉を聞いている。
「ユギリさん……一体<嘆きの異邦人>って何なのですか? 連中は総勢たった十数名のテロリストなんでしょう? それだけの手勢でどうしてこれだけの惨状を創り出す事が出来るんですか……?」
惨憺たる院内を歩きながら看護士は怒りを露わにして尋ねてくる。
無理も無い――政府の公式発表は現状報告以上の事を何も民衆には伝えていない。情報公開が制限されている為にパルテシオも銀髪の精霊も何も言う事が出来ないのだ。
いや……情報規制が無かったとしても彼等に言えたかどうか。
これだけの惨状を創り出したのは<嘆きの異邦人>が従える精霊達の力なのだ――と。
政府が情報規制をしているのもこの為である。
<嘆きの異邦人>が正体不明のテロリストと奉じられているのも社会の混乱と不安を煽らないようにとの配慮からだ。もし<嘆きの異邦人>が全員、超一流の神曲楽士であるという事実が明るみに出れば――人々の恐怖と憎悪は最前線で彼等と闘っている神曲楽士達や精霊達にまで向けられる可能性が在る。
そもそも人間よりも遙かに強大な力を持つ精霊が恐怖よりも親愛の眼で見られているのは、彼等が人間達の良き隣人であったからだ。そしてその精霊達を使役する神曲楽士が人間と精霊の架け橋であり――人々の崇敬を集める様な業績を幾つも残してきたからだ。
彼等の働き無くして今日の人類社会の繁栄は有り得ない。無論、多少の揉め事は在ったものの、殆どの人々にとって精霊とは『人類と共に歩み共に脅威に立ち向かう仲間』であった筈なのだ。
こうして組織だって神曲楽士達が精霊を使ったテロリズムに走るなど、有史以来無かった事である。
それだけに政府は社会不安の拡大を怖れた。
ただでさえ<嘆きの異邦人>のテロ行為によって社会は混乱している。此処に更に国民の不安を煽り、軍全体の志気を下げる様な情報を開示すべきではない――議会はそう判断しているのである。
無論……最前線で闘う兵士達は敵が精霊と神曲楽士である事を知ってはいるが、彼等は同時に自分達を守って自分達の更に前で闘う精霊と神曲楽士を見ている。この事で何とか彼等は志気を保っているのである。
「大体――」
「…………」
苛立ちの故か、あるいは不安を紛らわせる為にか、更に言い募ろうとした看護士の肩にそっと触れ――振り向いた彼女に、銀髪の精霊は哀しげな表情で首を振って見せた。
「あ…………」
看護士はすぐに相手の言わんとする事を悟った様でばつの悪そうな表情を浮かべる。
「すいません……つい取り乱してしまって」
自分が誰を何処に案内しているかを思い出したのだろう。
確かに<嘆きの異邦人>と彼等の起こすテロリズムは深刻な問題だが――彼の案内している神曲楽士はそれと同じ位に、ある意味ではそれ以上に深刻な問題を抱えているのだ。
だからこそ彼は最前線で行っていた戦闘を中断し、疲弊しきった身体を引きずって帰還したのだ。そして今は一人でも一台でも戦力の離脱が惜しい状態であるのは分かっているにも関わらず、無理を承知で司令部に懇願し――軍の車輌に送ってもらい此処まで駆け付けてきたのだ。
「いや……いいんだ」
パルテシオは弱々しく笑った。
「<四楽聖>が派遣されたと聞きました。連中が何者であろうとも事態が収拾するのは時間の問題ですよね!」
自分に言い聞かせるように無理矢理笑顔を作って看護士が言う。
彼女に限らず――<四楽聖>派遣の報を聞いた人間達は殆どが同じ考えを持っていた事であろう。精霊とはこの世界における最強の力であり、<四楽聖>とは最も強力な神曲楽士――即ち精霊使いである。これ以上の戦力は存在しない。
だが。
少し頭の回転の速い者ならばすぐに気付く事だろう。
では何故今まで――こんなに戦況が悪化するまで<四楽聖>が派遣されなかったのか。
その事に疑問を覚える者達とてさすがに想像もつかなかったであろう。
早々に切り札たる<四楽聖>は派遣され、まさにこの戦闘の激化は彼等のもたらしたものだとは。そして<嘆きの異邦人>とは彼等にも匹敵する強大な神曲楽士の集団であるのだと。
「そう……だね。<四楽聖>がきっとあのテロリスト達を倒してくれる」
パルテシオはそう言った。
恐らく自分でも信じていない言葉である。ドーリスラエは彼の身体から滲み出る焦燥と苦悩を痛い程に強く感じていた。彼の喜怒哀楽――その全てを共有したいと望んだのは彼女自身である。そして事実その通りにしてこの十数年を過ごしてきた。故にこそたとえ神曲を介さなくても彼の考えている事は大概分かる。
故にこそドーリスラエは今、身を引き裂かれる様な辛さを味わっていた。
彼の苦しみが手に取る様に分かる。不可能を可能にすると言われる精霊の身でありながら――しかし自分には彼の苦しみを取り除く事が出来ない。
いや。方法は在る。
だがそれを言い出す事が出来ない。言ってはならない。言うべきではない。それはパルテシオやドーリスラエを信頼している者達への重大な裏切りでもあるからだ。
「こちらです」
看護士が院内の一番奥に在る部屋の扉を開けた。
そこは本来、何かの倉庫室であったのだろう。とても病室のそれとは言えない様な無愛想な鉄製の扉を抜けてパルテシオとドーリスラエは室内に入った。
気を利かしたつもりなのだろう――看護士は軽く二人の背中に会釈して扉を閉める。
パイプだの建材だのが剥き出しの部屋に、何かの箱を並べ、シーツを敷いただけの、見るからに急拵えと分かるベッドが置かれている。だがこれでも――いやそもそも『個室』を与えられているだけでも、廊下やホールに居た者達に較べると格段に上の扱いであるのだろう。
そして――
「………………っ!」
パルテシオは声にならないくぐもった悲鳴を漏らす。
粗末なベッドの模倣品の上に二人の少女が並んで横たわっていた。
共に重症である事は一目見て分かった。明らかに顔が白い。健康的な白さではなく血の気を失った白さだ。
特に右側の少女は明らかに瀕死だった。
いつ息絶えてもおかしくはない――いや今こうして生きている事そのものが不思議な状態であった。呼吸もひどく弱々しい上に、しばしば痙攣する様にそれが乱れる。殊更に医学の知識が無くてもはっきりと分かる程の衰弱ぶりだった。
「ペルセ……! プリネ……!」
パルテシオの娘――双子の少女達である。
妻を亡くした彼にとって何に替えても守るべき大切な娘達。
彼女等が如何に深刻な状態に在るのかは既に彼も聞き及んでいる。聞き及んではいたが――しかし混乱する前線では、後方のからの情報は必要以上に大袈裟に伝わる事は珍しくない。どうか間違いであってくれと一縷の望みを託して彼はこの場に駆け付けてきたのである。
だが彼の目の前には残酷な現実が突き付けられていた。
如何なる自己欺瞞も利かない程に単純かつ明白な絶望的事実。
『恐らくは今晩が峠』『覚悟だけはしておいて欲しい』
パルテシオに伝えられた情報は過不足無く事実であった。
インバネス・コートの神曲楽士の手から、それまでずっと引きずられていた旅行鞄様の箱が離れ、床に倒れて重い音を立てた。パルテシオは苦しげに細い息を繰り返す娘達に近付き、彼女達にその手を伸ばし――そして手を止めた。
娘達は重態だ。下手に触っても傷を悪化させるだけという事に気付いたのであろう。
「私は……馬鹿だ……ッ!」
床に膝をつきながらパルテシオは言った。<嘆きの異邦人>達が行っていたのは戦争ではない。非戦闘員をも平然と巻き込む卑劣なテロリズムだ。
病院を攻撃した事からも分かる様に――そこに『安全地域』などという概念は無い。いつでもどこでも爆弾の一個、銃弾の一発、精霊の一体でそこは危険地帯に成り得る。どれだけ最前線と離れていても――後方だからといって何の安全保証にもなりはしないのだ。
真に娘達の安全を優先するのであれば彼は娘達の側を離れるべきではなかった。
だが――
「いえ……ユギリ様。これは不可抗力です……」
無意味と分かっていてもドーリスラエはそう言うしかなかった。
彼が娘を大事に思っているのは間違いが無い。ムだが同時に理不尽な暴力に苦しむ人々を見捨てておけない性格だという事もドーリスラエは知っている。理不尽に怒り不平等に嘆く――そういう純粋さを棄てていない彼だからこそ、そんな彼が奏でる神曲であるからこそ、ドーリスラエは彼と精霊契約を結んだのだ。
「ユギリ様――」
言葉を続け掛け――ふとドーリスラエは身をふらつかせた。
思わず片手を壁につき……そしてその場に跪いてしまう。
「ドーリスラエ!?」
慌ててパルテシオが声を掛ける。
ドーリスラエは大丈夫だ――という風に手を振って見せたが、その仕草がかえって彼に彼女の状態を教えてしまった様だった。
「やはり――こんなにも消耗しているじゃないか!」
彼女の手を取りパルテシオが叫ぶ。
「いえ……大丈夫です、本当に。お嬢様達に較べれば私は未だ平気です」
精霊とて不死ではない。
むしろ存在としては肉体よりも精神の比重が大きい分、過剰な力の放出は彼等の存在そのものを急速に消耗させる。
確かにドーリスラエは本来の自分が出せる以上の力を使った。
パルテシオを前線から撤退させる為に。大切な娘の側に辿り着かせる為に。強引に退路をこじ開け浴びせ掛けられる攻撃の全てを弾き飛ばし――その結果として彼女は自分の常態を維持するのも困難になっていた。
力無く明滅する羽根がその証拠だ。
だがその事を彼女はパルテシオに黙っていた。娘の事で気も狂わんばかりに心を痛めていた彼にこれ以上の心労を与えたくなかったのだ。彼の負担を少しでも軽くする為にした事で、彼の心配事を増やしていては元も子もない。
「ドーリスラエ……すまない」
精霊の手を取りながらパルテシオは――涙を流した。
「私は本当に駄目な人間だ……娘を守る事も出来ず、君には負担を掛け……本来であれば今すぐにでも神曲を君の為に奏でるべきなのに……」
言って彼は倒れたままの箱に視線を向ける。
「だがとても無理だ……今の私には……とても……許してくれ……」
神曲は如実に神曲楽士の内心を反映する。
またその演奏はかなりの精神集中を要する繊細なものだ。
此処まで心が乱れきっている状態ではとても神曲など奏でられるものではないし、奏でられたとしてもドーリスラエの力を補給できる様な高品質のものにはならないだろう。上級精霊は当然ながらより高品位の神曲でなければその力の補填には使えない。
「ユギリ……いえ……パルテシオ様……」
娘のことだけを考えてくれればいい……そう伝えたかった。だが同時にこの状況においても彼が自分までも気にかけてくれた事を嬉しく感じてしまい――ドーリスラエは言葉を詰まらせた。
やはり彼と精霊契約をした事は間違ってはいなかったと思う。
それが今ドーリスラエを追い詰めているとしてもだ。長年パルテシオと組んでいたドーリスラエは既に他の神曲楽士の神曲を受け付けにくい状態になっている。パルテシオが神曲を奏でられなければ彼女はひたすら衰弱するだけだし――その極致は存在の消滅、即ち『死』である。
だがドーリスラエはその事に一片の後悔も無かった。
むしろ――
「パルテシオ様――」
彼の苦悩が伝わってくる。痛い程に分かる。
パルテシオの痛みはドーリスラエの痛みだ。
だから……
「――神曲を」
ドーリスラエに迷いは無かった。
それはある意味で彼女やパルテシオを信頼する者達、今も最前線で闘う兵士や神曲楽士、精霊達をも裏切
る事になるが――それでも彼女は彼の苦しみを和らげたかった。それが最善の方法ではないと知りつつも他に彼女は採るべき手段を思い付かなかった。
「え……?」
パルテシオは一瞬戸惑った表情を見せたが、次の瞬間にはその顔を曇らせ、俯いた。
今の彼にはドーリスラエを満足させるだけの神曲を奏でることはできない。誰よりもパルテシオ自身がそれを理解しているからこそ、彼は俯いてしまったのだろう。
しかしドーリスラエは決意を表すかの様に強い口調で続けた。
「私の為にではありません。御嬢様の為に神曲を奏でてください」
「ドーリスラエ……?」
パルテシオはすぐに彼女の言葉の意味するところを理解できず、ベッドの上で力なく息を繰り返している娘達を見た。
「この子達のために……?」
神曲がその力を及ぼすのは精霊に対してのみである。
多少の幻惑効果や一種の麻薬の様な酩酊感を与える事はあるが、逆に言えばそれが人間に対する神曲の影響力の限界だ。現に肉体的損傷で死にかけている人間を救う力を発揮する事は出来ない。実際に何らかの物理的な力を及ばせる為にはどうしても精霊を介さなければならない。
つまり――
「ま――まさか」
パルテシオはドーリスラエの意図している事に気付いたのだろう。
彼女を振り返った彼の顔には明らかに狼狽の色が在った。
「し……しかしそれでは君が……それにあまりにも成功の確率が……」
「はい。それに必ず御嬢様をお救い出来るとも限りません。それにこの方法でお救い出来るのはお一人だけです」
そこで一度ドーリスラエは顔を伏せた。
出来る事ならば確実に二人共を救える方法を示したかった。だが精霊とて万能ではないのだ。出来る事と出来ない事が在る。しかしドーリスラエの提案は彼女が考え得る中で最も確実性の高いものではあった。
「それでも、これが残された唯一の手段です」
ドーリスラエは再び顔を上げると真っ直ぐにパルテシオを見つめてそう言った。
彼の力になりたい。
パルテシオを見詰める彼女の眼差しにはその強い想いが在った。同時に長年連れ添った神曲楽士《ダンティスト》パルテシオへの深い信頼もあった。
彼なら必ず最善の結果を残してくれる――と。
しかし……
「だが……」
パルテシオはドーリスラエの真摯な眼差しを受け止めながら――それでも逡巡していた。
問題は幾つも在る。
一つはこれが前線で二人の帰りを待っている者達への裏切りになるという事。
この方法は事実上の敵前逃亡となる。たとえ成功してもパルテシオはともかくドーリスラエは最早、戦力として前線には戻れまい。そうすればパルテシオの仲間達は大きな戦力を欠いたまま闘わねばならず……その結果としてもしパルテシオとドーリスラエが居れば死なずに済んだ者達が死んでしまうかもしれないのだ。
また問題の一つとして成功した結果――これは娘の命を助けるという一点においての判断だが――その影響がどういう形で出るのかが予測がつかないという事が在る。
命を助ける事は出来ても精神や肉体に何らかの障害が残るかもしれない。あるいは記憶の全て、人格の全てが別のものに置き換わってしまうかもしれない。それだけ微妙で先の読めない方法であるという事だ。
更にもう一つはこの方法をどちらの娘に施すのか――という事である。
右側の娘の方が確かに状態は悪い。その分、左側の娘よりも救いの手を要するとも言えるが、より衰弱が激しい分、失敗する確率は高い。
左側の娘とて決して安心出来る様な状態ではない。あくまで比較すれば右側の娘よりも多少マシというだけの事だ。それでも成功する確率は右側の娘より高い。
右側の娘を見捨てて左側の娘に施すか。
左側の娘の自力回復に賭けて右側の娘に施すか。
判断を誤れば彼は最悪の場合、二人の娘とドーリスラエを一度に失う事になる。
そうでなくともパルテシオの結論は――たとえ望んだものではないにしろ――二人の娘の生命に優劣をつけるという事にもなる。パルテシオの性格上それは途方もない苦痛を伴う事であろう。
しかし――他に彼に採り得る方法が無い。
他からの助けを期待出来る状況でもない。
ならば……
「ドーリスラエ……すまない……」
深く長く思い悩んだ末、パルテシオは意を決してか、ゆっくりと口を開いた。
彼にとってそれは恐ろしく残酷な選択だった筈だ。わずか数分で十年分も老け込んだかの様に彼の顔は憔悴しきっていた。
それでも――
「――頼む」
そう言うパルテシオの声には力が戻ってきている事を悟ってドーリスラエは誇らしく思った。彼女の選んだ神曲楽士はただ優しいだけの男ではない。それが避け得ない事態ならばたとえどれだけ苦しくても、意を決して挑むだけの気概を持った人間だった。
パルテシオが旅行鞄様の箱に手を伸ばす。
彼がそれを引き寄せ――ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込むと、僅かな機械音と共に箱の表面に幾つもの筋が走った。
そして――
「ドーリスラエ……すまない。そしてありがとう」
筋に沿って花開く様に展開してゆく箱の構成部品。
いやそれは単なる箱ではない。
単身楽団――そう呼ばれる神曲楽士の道具だった。
数秒前の単純な箱形がまるで嘘の様に、展開した単身楽団は幾つもの『腕』を伸ばし、蓋を開き、内蔵されていた複雑な形状をさらけ出す。それを背負い、最後に滑る様にして自分の手元に展開された主操作部――バイオリンを手にしてパルテシオは頷いた。
「貴方の喜びは我が喜びです――どうかお忘れ無く」
微笑を浮かべるドーリスラエ。
そして。
神曲楽士と銀髪の精霊は自らの選択を実行に移した――
ふと――ベッドの中でプリネシカは眼を覚ました。
カーテンの隙間から見える外の景色は未だ闇の色に塗り潰されている。双子の姉に較べると比較的プリネシカは早起きではあるが――それにしても起床時間には少々早すぎる感じだった。空気の匂いもどちら
かといえば朝というより夜に近い。
だがプリネシカはゆっくりと身体を起こした。
少し重苦しい気分だ。二度寝できる様な状態ではなかった。
「う〜ん……」
隣で寝ている双子の姉――ペルセルテが寝返りをうった。
双子という言葉だけを聞くと大抵の者は髪型から背丈、挙げ句には性格までそっくりな二人を想像する事が多い様だが……当然ながら双子といっても別個の人間、相違点は幾つも在る。特にペルセルテとプリネシカは容姿こそ似ているものの、細かい表情や仕草、癖や趣味といった部分は共通点の方が少ない。
例えば――必ず毎日被っている毛布を蹴飛ばしてしまう様な寝相の悪さもペルセルテ特有のものだった。
「…………風邪、ひくよ」
呟く様に言ってプリネシカはそっと姉に毛布を掛け直した。
どうやらペルセルテは良い夢を観ている様で、その可愛らしい顔はふにゃふにゃと幸せそうに緩みまくっている。彼女は枕をぎゅっと抱き締めて頬擦りなどしながら――よだれのこぼれ掛けた口で寝言を漏らした。
「ふぉろんせんふぁい〜」
どうやら先輩――タタラ・フォロンの夢を観ている様だ。
間の抜けた笑顔ではあるがそれがまた妙に可愛らしい。そんな姉の寝顔を見詰めている内にプリネシカの顔にも我知らず微笑が浮かんでいた。
そして――
「ああ〜ふぉろんせんふぁい〜そんな〜そこはひゃめ〜そんなところ〜」
「…………」
プリネシカはベッドの上でかくんと斜めに傾いた。
ペルセルテは一体どーゆー夢を観ているのか。
一瞬、ペルセルテを揺さぶり起こして夢の中のフォロンが『そんなところ』にナニをしていたのか、ナニが『駄目』なのか尋ねたい気持ちがさすがのプリネシカにも猛烈に巻き起こったが――妙にペルセルテの寝顔が嬉しそうなのでそのままにしておいてあげる事にした。
苦笑を浮かべつつ短い溜め息をつく。
やはりもう少し寝ておこうとプリネシカは思った。起きていても特にやる事も無い。眠れないにしても身体を休めておくに越したことはないだろう。
プリネシカは昔から身体が弱い。十三年前の――あの日の後遺症らしいのだが。
「おやすみ。ペルセ」
小さな声でそう告げると、プリネシカはもう一度ベッドの中へと潜り込んだ。
闇という概念には幾つもの派生型が在る。
薄い闇。濃い闇。
暖かい闇。冷たい闇。
閉ざす闇。広がる闇。
威嚇する闇。包み込む闇。
鮮やかな闇。くすんだ闇。
氷原に住む民族は『氷』の種類を示す単語を複数持つと言われる。単に温帯に住む者達にはひとまとめに『氷』の一語で呼べば済むそれらも、彼等にとってはそれぞれ全く別のものであるらしい。極めて身近であるが故にその違いの意味は――違いから来る影響力の差は大きいのだろう。
ならば闇に親しむ者にとってもやはり闇はただ一種一概念ではない。
ただの闇というものは有り得ない。闇には闇の種類が在りそれはそこに住まう者達にとってはそれぞれに意味を持つものなのだ。
「…………」
暗闇の中に一人の女が跪いている。
それは――静かな闇であった。
単に音が無いというだけではない。空気そのものが動かない。澱んでいるのではなくまるで凍り付いているかの様に空気が止まっている。あるいは温度差による対流現象さえ抑え込まれているのかもしれない。
無論、自然に出来上がる静けさではない。
明らかに意図的な――『強制』の込められた静けさである。
ならばそれに充ちる闇もまたある種の威嚇を帯びるのは当然ではあったろう。そこにはこの莫大な暗黒と静寂を己のものとして従えるだけの力が在るという事なのだから。
「任務だ。ライカ」
突如――張り詰めた静寂を押し退ける様にして声が響く。
夜の湖面に生まれた波紋の如くその声は減衰も変質もせずただ静かに拡散していく。何処からどのようにして響いたのか分からない。それ以前に――声からその主の想像がつかない。男であろうという事は分かるが……それ以上の情報を全く聴き手に与えない無個性な声音であった。
これもまた意図してのものか。あるいは天性のものなのか。
万が一後者であったならば……それはとても人間とは呼べない様な存在であろう。ままならぬ身だからこその人間である。自分の声でさえもそこにこもる感情さえもを自由自在に制御出来るとすればそれは既に人ではなく、『神』あるいは『怪物』の概念で捉えるべきものであろう。
「はい」
しかし跪く女には声の主を怖れる様子は無い。
身を屈めているので一見では分かり辛いが……女性としては長身である。まるでこの闇に溶け込もうとしているかの様にしなやかな肢体を黒い衣装で覆っている。衣装だけではない。癖の無い長い髪もその双眸も共に黒。やや伏せがちの白い顔だけがぼんやりと面の様に闇の中に浮かんで見える。
闇への恐怖を克服する方法は二つある。
光を以てそれを切り裂くか。
さもなくば自らも闇に染まるかだ。
ライカと呼ばれた女は後者を選んだ様だった。右も左も分からぬ闇の中に在りながらその表情に不安は無い。ただ主君に謁見する臣下の如く、僅かな緊張が薄い膜の様にその容姿を包んでいる。
「第三神曲公社付属の神曲学院を調査しろ」
ひどく簡潔な命令が響く。
「はい」
短く恭順の意を声に載せてライカは闇の向こうに送り出す。
疑問の揺らぎも異論の震えも無い。まるで機械の様に与えられた命令を当然にして絶対のものとして受諾している。交わされる言葉と意味は人間のものであっても――とてもこれは人間と人間の会話とは思えない代物だった。
「すでに同志達を他の公社関係の施設に送りこんでいる。だが、トルバス神曲学院だけは別格だ。侵入することすら困難だ。<四楽聖>の一人が常駐している」
「はい」
応じる声に変化はやはり無く――しかし<四楽聖>の名にライカは僅かに眉を顰めた。
大抵の者はその名を聞けばその表情を畏敬や憧憬に染める。歴史上それだけの偉業を果たしてきた伝説の存在であるからだ。多くの子供達は寝物語に彼等の超人的な活躍を聞いて育つし<四楽聖>をモチーフにした小説、演劇、映画、絵画、音楽は枚挙に暇がない。
だがライカの表情には冷え冷えとした敵意が過ぎっただけだった。
無論それも一瞬の事ではあったが。
「だがそれは逆に言えば<四楽聖>が常駐するだけの重要性がそこに在るという事だ。我等の探し求める『神器』がそこに在る可能性が高い」
「はい」
やはりただ機械的にライカは頷く。
「できるな? ――ライカ」
『出来るか?』という問い掛けではない。不安要素を払拭する為の確認ですらない。それは単に会話の終了を告げる定型文句だった。K拒否権も選択権も全く前提に無い。およそ人間同士の会話とは思えない一方的なやり取りだった。
「はっ。必ず遂行してみせます」
そう告げるライカの声にも言葉面とは裏腹に熱は無い。
会話の内容から察するに恐らくは重要な任務なのであろうが――大役を任せられた事への興奮も高揚も無い。声の主は主でそんな彼女の態度を無愛想とも不遜とも思わない様だった。あるいは……そもそもそんな人間的な感情には縁が無いのかも知れない。
空疎なやりとりはそれだけだった。
後は再び――硬質の静かな闇が辺りを満たす。
ライカはゆっくりと立ち上がるとその場を後にする。
遠ざかっていく彼女の足音だけが乾いた鼓動の様に闇の中に響いていた。
もぞりとシーツが動く。
「…………」
にゅっと隆起した盛り上がりからシーツが音もなくずり落ちて――薄闇の中にも鮮やかに映える真紅の頭部が露わになった。寝返りを打った際に束ねていた髪留めが外れたのか、緩やかに波打ち宝石の様な艶やかさを示すその髪は音も無くふわりと広がった。
紅い髪の真ん中に在るのは整った少女の貌だ。
少し吊り上がり気味の、猫を思わせる眼が気の強そうな印象を与えるが――寝ぼけているからか、今その貌は、ただひたすらふにゃふにゃと緩んでいるだけだ。
ただ……
「…………むむ?」
紅い髪の少女は黙って部屋の中を見回す。
自分が何処に居るのかよく分かっていない……そんな様子だった。
少女が眠っていたのは狭い部屋に置かれたベッドの上だった。
元よりあまり余裕の在る部屋ではないらしく、手を伸ばせば届くかの様な側には勉強机が置かれている。bその隣には本棚。そしてクローゼット。
学生寮の一室である。
ここでようやく記憶が現実と合致したのか安心した様な表情が少女の顔に浮かぶ。
少女はぺたりと素足を床に降ろすと細長い部屋を歩いてキッチンの方に向かう。
その際――
「……む……?」
歩く事で微妙な均衡が崩れたのか……少女の髪と同じく宝玉の様に紅い瞳から、小さな雫が一筋こぼれ落ちた。
「…………」
少女は眼を瞬かせながら自分の目元を指先で拭う。
どうやら自分が泣いていた事に今やっと気付いたらしい。
少女は顔をしかめて自分の涙を手の甲で拭き取ると、ぺたぺたと素足の足音を響かせながらキッチンに入った。
そこにはこの部屋本来の主が、急遽拵えた粗末なベッドの上で眠っている。
優しい顔立ちの少年である。
彼が眠っているのは古雑誌を積み上げて造った、本来ならとてもベッドなどと呼べない様な代物に厚手の布を何枚か敷いただけのものである。少女は同じベッドでも構わないと主張したのだが少年がこれだけは譲らず……キッチンに造ってしまったのである。『起きてすぐに朝食が造れるから意外と便利だよ』とはいかにも少年らしい言い訳であるが、どう贔屓目に見ても快適とは言い難い寝床である。
「…………フォロン」
そっと少女は少年に呼び掛ける。
タタラ・フォロン。
それが彼の名前である。
そして――
「んー…………? ………………コーティ……?」
呼び掛けに応じたと言うより、ただ単に寝ぼけた様な感じで少年が応じる。
コーティ――コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
少女の名前だ。
既にその表情に眠気は断片も無く――ひどくひたむきで切なそうな表情が浮かんでいる。何かを怖れ。何かを望み。何かを憎み。何かを愛し。その全ての精算を望みながらもそれを自力で果たす事が出来ない。決断を他人に委ねねばならない。そんな自分に対するもどかしさが少女の表情には如実に浮かんでいた。
「おまえは……全てを知ったら……私の過去を知ったら……私を責めるか……?」
「…………」
返事は無い。
やはり先程の反応は単に寝ぼけていただけの様だ。
だがコーティカルテは構わず言葉を続けた。
「それとも……それでも受け入れてくれるか……? ずっと側に居させてくれるか……? あるいは……そんな自分勝手な……罪を犯しながらも都合の良い事を夢見る私を……おまえは……笑うか……? 軽蔑するか……?」
それは問い掛けというよりもむしろ祈りに近かったのかもしれない。
答えを求めた訳でもないのだろう。
コーティカルテは泣き笑いの様な表情を浮かべると短く溜め息をつき、そして少年の『ベッド』にもたれて腰を下ろした。
「十二年か……」
天井を――その向こうに在るであろう夜空を透かし見る様にしてコーティカルテは呟く。
「もう……終わった……筈だ。きっと」
そんな彼女の言葉に応える声もやはり無く……そのままコーティカルテはフォロンの体温と息遣いを背中に感じながら眼を閉じた。
ツゲ・ユフィンリー。
数多いトルバス神曲学院の生徒の中でもその名は特別な意味を持つ。
専門課程への進級の際、厳密な選別が行われる為、専門課程には比較的優秀な生徒の多いトルバス神曲学院であるが――その生徒達の中に在ってもユフィンリーの存在は飛び抜けていたと言っても良い。その神曲楽士としての実力は在学生当時でも講師陣にもひけをとらず、卒業の半年前には既に学生の身分でありながらも神曲楽士事務所を構えて実際に仕事をこなしていた。
専門課程の者達でさえ全員がプロの神曲楽士として国家試験に合格出来る訳ではない。むしろ途中で夢破れて他の職を探す事になる者達の方が圧倒的に多い。まして――在学中にプロの神曲楽士としてデビューする人間は滅多に居ない。数多くの神曲楽士を輩出してきたトルバス神曲学院の長い歴史の中でも数える程だ。
簡単に言えば一種の天才である。
だが元々専門課程に居る生徒達も、一般人から見れば専門課程の選別試験をくぐり抜けた『天才』級の存在である事を思えば――ユフィンリーがいかにずば抜けた生徒であるかが分かるだろう。
そもそも神曲楽士自体が一般人から見れば極めて特殊な存在、一種の超人である。
そんな神曲楽士達の中に在ってさえ天才の名をほしいままにした彼女だ。その噂だけを聞く者は『一体それ程の逸材とは如何なる人物か』と浮世離れした突飛な人物像を脳裏に思い描いたりするのだが――
「はぁ〜」
トルバス神曲学院の廊下を歩きながら、ユフィンリーが溜息を漏らした。
夜の校舎は非常に暗く、窓から入ってくる僅かな星明かりが唯一の光源となっている。校内に取り付けられている明かりを灯せばそれなりに明るくなるはずだが、彼女は面倒がってそれをしなかった。元々暗闇を怖がるような娘ではない。
「校長もさ、人使い荒いよね。普通、久しぶりに顔を出した卒業生にいきなり夜の校舎の見回りなんてやらせないよ」
彼女が言葉を投げかけると、くぅーん、と困ったような鳴き声が返ってくる。
何も知らない者がユフィンリーと連れだって歩く『相棒』と夜道で出くわせば、きっと腰を抜かす事だろう。
彼女の隣に居るのは大型の獣だった。
それもその輪郭は明らかに肉食獣――それも屍肉を漁るのではなく、自ら強靱な四肢で地を駆け、鋭利な爪と牙を以て獲物を狩る狩猟獣のそれだった。その双眸は見るからに鋭く引き絞られた体躯や頭部の形状は狼のそれに似ていた。
もっともこれは尋常の獣ではない。
青と白に彩られた体毛と――そして何より背中で鬣《たてがみ》の様になびいている四対の光る羽根が、この獣が精霊の一種である事を物語っていた。
四つ足で歩いて居てさえ視線の高さはユフィンリーのそれと大差無い。ただそこに居るだけでも威圧感を与えそうな体格と風貌なのだが、ユフィンリーの言葉に返答しかねている姿は、何処か飼い主に甘える愛玩犬の様な愛嬌が在る。
「ああごめんごめん。ウォルフィスは立場上、校長の事は悪く言えないよね」
苦笑するユフィンリー。
ウォルフィスと呼ばれた獣型の精霊は短く鳴いて肯定の意を示した。
「しかし本当に律儀な枝族よね――あんた達ってさ」
ウォルフィスはこの精霊の個体名である。
この青と白の体毛を持つ狼型の精霊は<セイロウ>と呼ばれる枝族――神曲楽士や精霊学の研究者達は、精霊の中でも特定の形状的共通性を持つ個体群をまとめてそう呼称する――の一体である。必ずしも精霊は何処かの枝族に属する訳ではないのだが、他にも<ボウライ>や<ヒザク>といった下級精霊の枝族が比較的よく知られている。
ちなみに枝族という呼称は、これら全ての精霊が始祖精霊から派生したものだと言われているからだ。
八柱居たとされる始祖精霊は人間と――それも女性と同様の姿形をしているとされ、彼女等が全ての精霊の母であると言われているが、その末裔たる精霊達は長い年月の間にそれぞれ独自の形態を獲得するに至った。
これは精霊が肉体よりも精神の比重が大きい存在であり、その分、個体レベルでの獲得形質の許容範囲――つまりは環境に適合して変化出来る度合い――が広い為とも言われているが、証明はされていない。
何にしても、ウォルフィスの様に狼の様な形に特化した精霊達も居るという事だ。
そして内面が外見に反映し易いのも精霊達の特徴の一つではある。<セイロウ>枝族――この狼状の形態を採っている精霊達は、他の精霊達に較べて妙に義理堅く謹厳実直な性質を持っているとされる。もし精霊契約を結ぶ事が出来たならば、たとえ世界中がその神曲楽士を裏切っても最後まで神曲楽士を守って闘うだろうとも言われ、一般人からも<青騎士>の通称で敬意を集めている。
ちなみに。
ウォルフィスは今ユフィンリーと一緒に行動してはいるが彼女の契約精霊ではない。
彼はトルバス神曲学院に常駐している精霊である。元々程度の差は在れ神曲を聴く機会の多い神曲学院には精霊が集まりやすい。無論――下手な神曲を奏でようものなら精霊達の暴動が起きたりもしかねないので、生徒達は練習も実技試験も、大抵の場合は遮音室で行うものだが――それでも他の場所に較べれば神曲に触れる機会の多い現場である事には変わりない。
そういう訳で、学院は混乱や暴動が起きない様にと、特定の精霊達とある種の業務契約を結んでいたりする。これはいわゆる<精霊契約>とはまた異なり、人間同士の結ぶものに近い。要するに学院に住まわせてやるのでちょっと学院の雑事を手伝ってくれ――という交換条件の様なものだ。
こうして精霊達を常駐させておけばある種の『縄張り』の様なものが出来上がる為に、そうそう精霊達が集まりすぎて混乱が生じる事も無い。先住精霊達が後から来た精霊達と交渉して交通整理の様な事をしてくれるからである。
主に<ボウライ>や<ヒザク>が簡単な雑務を、<セイロウ>や<オウリュウ>、<ワラキ>といった、知能が高く力も強い中級、あるいは上級精霊が複雑な用事や学院の警備といった部分を請け負う事が多い。
それはさておき……
「ああもう退屈。大体――こんな処にわざわざ侵入してくる泥棒なんか居ないよねえ」
まあ確かに特殊とはいえ学校は学校。
新学期の授業料納付期限日でも無ければ、殊更に金目のものが集まっている訳でもなし――単身楽団はやたらと高価な機械ではあるが、神曲使いでもない一般人にはそうそう高く売れるものでもない。一部の好事家や、神曲楽士への憧れから神曲楽士の扮装《コスプレ》をする連中が、模造品では我慢出来ずに本物の単身楽団を欲しがっているという話も聞くが……まあこれとて少数派ではあるだろう。大体、大金を払って盗品を買う位ならば自分で造らせた方が早い。
「う゛るるるる」
何やら非難めいた唸り声を上げるウォルフィス。
それでも気を抜くのは良くない――とでも言いたいのだろう。
だがユフィンリーは構わず脇に抱えていた大きめの封筒から大型クリップで束ねられた紙束を取り出した。何やら顔写真や細かいグラフが載っている事を思えば、生徒個々人の成績表か内申書の類らしい。
「暇だしさっき借りたやつでも見ながら……」
「う゛るるるる」
「さて。あの校長のオモチャ――もとい、お眼鏡にかなったのはどんな生徒達かなぁっと?」
実を言えばユフィンリーは学院に遊びに来た訳ではない。
本人の意識としては母校に遊びに来たのと大差無い感じなのだが、一応、プロの神曲楽士として、そして事務所の経営者として、きちんとした用事が在ったのだ。
神曲楽士の仕事は多岐に渡る。
強力な精霊は不可能を可能にするし――<ボウライ>の様な下級精霊でも、優秀な神曲楽士が神曲を奏でれば、高い精度で様々な作業を行える。工業や農業から医療、サービス業、果ては警察、軍事までその需要はほぼ人間社会のありとあらゆる分野に存在する。
その為に優秀な神曲楽士はやたらに忙しいのだ。
未だ若く実績も少ないという事で、今のユフィンリーは多少の余裕が在るものの、天才をいつまでも遊ばせておく程に神曲楽士業界も暇ではない。数年後には眼の回る様な日々が彼女を待ち受けているだろう。
だから今の内に事務所に人材を確保しておくのだ。
その為にユフィンリーは校長に話を通し、彼が注目しているという生徒の資料をコピーしてもらったのである。校長は基礎過程も含めた全校生徒の顔と名前に加え、成績や家族構成等まで漏らさず記憶しているという一種のバケモノである。めぼしい新人を捜すのに頼るにはうってつけの相手であった。
もっとも……
校長が注目しているからといって優秀な生徒とは限らないのが問題と言えば問題なのだが。良くも悪くも校長は特出した部分を持つ生徒を構いたがるという悪癖が在り――ただ言動が奇矯なだけの者や、やけに偏った才能の持ち主がこの書類の中には含まれている可能性も高い。
ただ……
「あれ?」
ユフィンリーは眼を瞬かせてぱらぱらと書類をめくった。
「ほとんど専門課程の一年じゃん。二年だらしないなあ」
神曲楽士は稀少な才能だ。
いくら学院側が均質で丁寧な授業を心掛けても、入ってくる生徒達の質のばらつきによっては『豊作』の時も在れば『不作』の時も在る。これは仕方が無い。それでも毎年最低一人は神曲楽士を出しているトルバス神曲学院は安定している方ではあった。他の神曲学院や民間で神曲楽士教育を謳っている専門学校等は、何年も神曲楽士が出ない事さえ珍しくない。
「まあ単に今年の一年に優秀なのが多かっただけなんだろうけど――」
最初は笑いながら読んでいたユフィンリーだったが、次第にその目付きが真剣なものへと変わっていく。
「サイキ・レンバルト……、カギロ・イミル……。なるほど、今年の一年はレベルの高いやつが多いみたいね」
呟きながら書類をめくっていくユフィンリー。
そして――
「タタラ・フォロン……ミナギ・フェルテ……ん?」
ふと書類をめくる手が止まる。
「タタラ・フォロン……?」
もう一度その名前を読み返す。
何か違和感の様なものが舌の上に残った。
改めてコピーされた書類に視線を落とす。左上にはその資料の人物の顔写真が印刷されているのだが――その顔にユフィンリーは見覚えが在った。
ただ……まさかこの資料の中で見る事になるとは思っていなかった顔と名である。
「って、フォロン!? うそぉ! あの子がこの中に入ってるの!?」
大声を上げて立ち止まった彼女に驚き――ウォルフィスが首を伸ばして横から彼女の持つ資料に視線を向ける。だがそんな相棒の様子に気付いているのかいないのか、ユフィンリーは眼を丸くしたまま何度も写真と名前を見返していた。
「へぇ〜、あの子がぁ……」
そう呟く彼女の表情は何処か嬉しそうである。
この学校には講師の絶対数が不足している事から、専門課程の一年が入学したばかりの基礎過程一年の世話をするというシステムが在る。
ユフィンリーも専門の一年だった時に数名の基礎過程一年の面倒をみたが、フォロンという少年はその時彼女が面倒をみた基礎過程の生徒の一人だった。真面目なのだが何かと要領の悪い上に、とにかくそそっかしい少年で……まあ色々と手間は掛かるわ迷惑も掛けられるわで大変だった記憶は在るのだが、妙に憎めない後輩であった。
実の所、ユフィンリーが一番可愛がっていた後輩と言っても良いだろう。
だが……だからといって神曲楽士としての才能が在るか無いかはまた別問題である。
「そういえば……あの子、専門課程に進級できるかどうかって慌ててたっけ」
前述の通り学院には基礎過程から専門課程に上がる際に、進級試験が設けられている。ただでさえ学年が一つ変わるたびに、登校してくる生徒の数が減っていくのだが――授業内容に付いていけなかったり、単純に自分の才能に見切りを付けたりと、理由は様々だが――この進級試験でさらに多くの生徒が振り落とされてしまう。
正直――ユフィンリーはフォロンが専門課程に進めるとは思っていなかった。
才能が無いとは思っていない。
むしろ眠れる才能という意味ではフォロンは相当なものが在った筈だ。
だが才能とはユフィンリーに言わせればダイアモンドの原石と同じである。
適切な方法で磨き上げなければ何の価値も無い。そしてまた磨き上げる為の才能というのも別に存在するのである。更に言えば単に潜在的能力という意味では脱落者の中にも光るものを持っている者は沢山居たとユフィンリーは思う。
だが彼等は自分の潜在能力を掘り起こす才能が無かったのだ。
逆に言えば『掘り起こす才能』に恵まれた者は師など居なくても勝手に神曲楽士になってしまう。現に最初の神曲楽士と言われるダンテなどは我流で神曲演奏という技術体系を創り上げてしまったのだから。
その意味ではとにかくフォロンは鈍くさかった。
何かを教えた場合――とにかく一端理解すれば深く正確に理解するのだが、それまでがやたらに不器用なのである。この調子で学んでいてはプロの神曲楽士になれるまでにフォロンは老人になってしまうだろう。
人間の時間が有限である以上、現実的でない成長期間を必要とする者は、たとえ潜在能力が在ったとしても『才能は無い』と見られてしまう。
ただ……
「そっか。ちゃんと進級できたんだね」
彼女の柄ではなかったが、少し胸が熱くなるのを覚える。
出来の悪い弟が、人知れず頑張っている姿を目撃した姉の気分――といった処か。
「何かきっかけでも掴んだかな?」
成長速度が遅くても何かのきっかけを掴んで急に化ける者は居る。
「ん……? てことは、今はあの子が基礎の子たちの面倒を見てるの!?」
専門課程の生徒がおもに基礎過程の生徒にするのは、神曲に関する勉強の補助的な講義である。生徒個人によって講義の仕方は異なるが、ものを教える立場には変わりない。
ユフィンリーの頭に、いつもおどおどしている、優しげ……というよりは気弱そうな少年の顔が浮かんだ。
「――う゛る?」
怪訝そうにウォルフィスがユフィンリーの横顔を覗き込む。
かつてトルバス神曲学院創設以来の神童と呼ばれた少女は、その場に立ち尽くしたままやや顔を俯かせ――震えていた。
何かを堪えているかの様に。
綺麗な顔は恐ろしい程に無表情だ。
ふるふると彼女の震えは首の辺りから肩、肩から腕や胸、と全身に広がっていく。
何か発作の類でも起こしたのか、とウォルフィスが心配げにくんくんとその鼻を鳴らしてユフィンリーの身体を調べ始めた――その時。
少女の顔は一気に崩壊した。
「くはあ〜っ!」
ユフィンリーは――まるで仕事帰りにビールのジョッキを一気に飲み干したおっさんの様に――『堪えられない』といった調子で息を吐く。
「あの子が!? フォロンが!? あの! フォロンが!! 教壇に立って講義!? これは見たい! 是非見たい! 見ておかないと私一生後悔するよ!?」
何やら興奮した様子でユフィンリーは手にした書類をばたばたと上下に振っている。
教え子の成長した姿を見たい――という訳では無さそうだった。まあそれも少しは在るかもしれないが……明らかに彼女の主目的は冷やかしであろう。あるいはカメの逆立ちとかワニの腕立て伏せとか、本来結合不可能なイメージの代物に対する興味も在るかもしれない。
神曲楽士の才能云々はこの際さておいても、ユフィンリーの記憶に在るフォロンという少年は他人に何かを教えられる様な柄ではない。他に何をやっても、反っくり返って他人に説教垂れる様な真似だけはしない――出来ない性格だ。気が小さいと言うより、無意味に遠慮深いというか、押しが弱いのである。
そんなフォロンがどうやって一年生達に授業をしているのか。
考えるだけでユフィンリーは笑いがこみ上げてくる。
壁に手を付きながら、ユフィンリーは腹の底から止めどもなく湧き出る爆笑の発作に耐えていたが――
「ぐるるるるるるる……」
「……!」
突然、ウォルフィスが低いうなり声を上げた。
それを耳にした瞬間――ユフィンリーもまた笑い声をぴたりと停める。
一瞬前まで身を捩って爆笑していた人間と同一人物とは思えない程に、彼女は真剣な目つきで周囲に視線を投げる。だが彼女の視界には先程までと変わらない夜の校舎風景が見えるだけだ。
「何を見つけたの?」
「うぉふ」
ユフィンリーの問いかけにウォルフィスは低く短く咆えて答える。
常人にはただの吼え声にしか聞こえないであろうが――感性と聴覚を研ぎ澄まされた神曲楽士ならば微妙な音程変化や声の強弱と長短に込められた情報を読みとる事が出来る。<セイロウ>は獣型の精霊ではあるが知能程度は人間に近い。彼等の吼え声は単なる音ではなくきちんと体系付けられた言語なのである。発声器官の関係で互いの言語を直接喋る事は出来ないが――双方にある程度の知識さえ在れば神曲楽士と<セイロウ>が会話するのはそう難しい事ではない。
精霊の答えにユフィンリーは少なからず驚きの表情を示した。
「神曲……?」
人間の言葉に直訳すればウォルフィスは『神曲が聞こえる』と告げたのだ。
ユフィンリーは耳を澄ませて辺りの音を拾おうとした。
だが何も聞えない。
前述の通り神曲楽士は音に対する感覚は常人よりも遙かに鍛えられている。セ単純な可聴領域だけでも彼等は一般人よりも広い。
しかし対象が神曲ともなれば精霊の――特に上位精霊の感覚には人間は到底及ばない。ましてウォルフィスら<セイロウ>枝族は狩猟獣の形態を採っているせいか、聴覚と嗅覚は他の精霊に較べても高い感度を誇っている。
「どっち? 案内して」
ユフィンリーの言葉に頷くとウォルフィスが走り出した。
ユフィンリー自身もその後に続く。在学中からの付き合いだ――彼女はウォルフィスの感性と性格には絶対の信頼を寄せている。彼が『聞こえる』と言う以上、確実にこの学院敷地内の何処かで誰かが神曲を奏でている筈だ。
(神曲ってことは、ただの泥棒ではないわね……)
そう考えて気持ちを引き締めた。
神曲は隠密行動には適さない。
当然だが神曲とは音楽であり、音を出すことが絶対条件だ。だからその音を殺すことが求められる行動にはむかない。どこかに忍びこんで物を盗むのであれば、神曲などは使わず、人間だけで乗り込むほうがまだ隠密性が高いだろう。
場所が神曲学院ということもあり、学院関係者の可能性も否定はできないが、時間が時間なだけに生徒が居残っているわけはない。また他の講師が見回っているという話も聞いていない。
周囲でたまたま仕事中の神曲楽士と精霊が居るという可能性も無い訳ではないが――ウォルフィスの鋭敏な感覚がそんな初歩的な勘違いをするとは思えない。
という事は――少なくとも神曲楽士かそれに類する能力の持ち主が精霊と共にこの神曲学院に不法侵入しているという事だ。
問題は実を言えば不法侵入の方ではない。
侵入者が精霊を連れているであろうという事だ。
ユフィンリーが先程言った様に、この学院に金目のものが在る訳ではない。
元々この神曲学院の戸締まりは甘い方だ。実際、深夜十二時までは校門に鍵も掛けられていないので、忘れ物をした生徒達がちょくちょく戻ってきたりもする。さすがに十二時を過ぎれば全ての出入口に施錠されるが――それとて一般家屋の鍵と大差無い。道具さえ在れば壊して入るのもそう難しい事ではない。
だが精霊を従えた神曲楽士が此処に忍び込むとなると話が変わる。
そもそも神曲楽士ともなれば下手な泥棒や強盗をするよりも、単純に仕事をこなした方が遙かに儲けが在るのだ。小銭目当てでこんな危険な行動に出る神曲楽士は居ないだろう――まして精霊を連れてまで。
つまり。
未だ目的ははっきりしないが――この侵入者は、隠密行動に適さぬと知りながら神曲を演奏して精霊を従え、あるいは強化し、この学院の中に入ってきたのだ。言うなれば戦車に乗って夜の学校に忍び込む様なものである。目立つという不利さを覚悟の上で精霊を引き連れている――それは要するに精霊の力が必要な行為をするという事だ。
目的が窃盗の類でなどある筈がない。
では何かと問われればユフィンリーにも咄嗟には思い付かないのだが。
いや――
「――まさかね」
一つ思い付いた。
過去にそういう事件が在った。確か十二年前か。精霊を使った神曲楽士による無差別破壊工作。学校や病院が真っ先に攻撃対象になったという。数万人単位の死傷者を出し未だ当時の傷が癒えぬ者も居ると聞く。帝国政府は神曲楽士や精霊の存在が社会不安を煽る事を怖れ、未だ事件の詳細について正式発表をしていないが――大抵の人間がそれがどういう事件であったかを知っている。
<嘆きの異邦人>事件。
首謀者の自殺で事件は終わったとされているがやはり詳細は謎のままだ。
事件を研究する者の中には、首謀者は複数居て、自殺したのはただ一人、他の生き残りが虎視眈々と第二の事件を引き起こす機会を待っているのだと主張する者も居る。
「ああもう……校長が絡むと必ず何か面倒なことに巻き込まれるのよね」
一階へと駆け降りる。
廊下のさらに奥――非常灯の光の及ばぬ暗がりに蠢く影が見えた。
同時に此処まで来てようやくユフィンリーの耳にも音が聞こえる様になった。しかし奏者はまた別の場所にいるようで……その音は小さく遠い。
ならば今見えている動くものは精霊ということか。
「あんな遠くからこの音を聞き取るなんて、さすがだウォルフィス」
「う゛ぉふ」
ウォルフィスが標的を確認し、さらに速度を上げる。
すでに全速に近い速度で走っていたユフィンリーとの距離はどんどん開いていくが、問題ない。音が届く場所であればどこからでも神曲で援護することはできるのだ。
走りながらユフィンリーは背負っていた小型単身楽団の安全装置を外した。
授業で使う様な本格的なものではない。
重ねられる音色数も掛けられるエフェクトの数も限られてくるし、何よりもスピーカー出力が低いが、学院が授業で使うものの半分近い大きさである。ユフィンリー個人所有の最新型だ。プロとして仕事をしていると時には暴走精霊や犯罪者と戦闘に及ぶ事も在るので、こういう機動性重視の軽量タイプも持っているのだ。
不意に――
「――!」
それまで聞こえていた音が止んだ。
代わりに一瞬の沈黙を置いて――強い断音含みで調子の早い攻撃的な曲が響いてくる。
ユフィンリー達の接近に気付いて行動を切り替えてきたのだろう。
(さあ、どう出る?)
彼女がそう思った次の瞬間――目標が動いた。
闇にまみれた黒い塊が何の躊躇も逡巡も示さず真っ直ぐこちらに向かって来る。しかもウォルフィスにではない。突っ込んでくる角度からして狙いはユフィンリーの方だ。
「そうきたか!」
むしろ何処か嬉しげにユフィンリーは叫んだ。
精霊《スピリット》は神曲が在ればその潜在能力を全開にして――更には何倍にも増幅した状態で活動出来る。また神曲が響いている限り彼等に体力切れは無い。
この為に、神曲の支援を受けた精霊同士の戦いは、神曲楽士や精霊に余程の力量差が無い限りしばしば長引いて消耗戦の様相を呈してしまう。
はっきり言って戦闘という意味においてはおよそ効率的でない不器用な状態だ。
ではどうすれば効率よく勝つことができるか。
戦い慣れた、あるいは少し頭の切れる神曲楽士や精霊ならば、すぐに気付く。簡単なことだ。精霊の活力源である神曲を止める――つまり神曲楽士を先に潰してしまえばいい。相手の兵站を叩くのは戦の基本である。
敵は何の躊躇もなく誰何すらせずにそれを実行してきた。
つまり――
(目撃者は消せって事? やっぱり最初から荒事覚悟で乗り込んできてるって事ね。)
迫り来る黒いものはやはり精霊らしかった。
辺りが薄暗い上にその精霊が闇に同化するかの様な黒褐色の身体をしているせいで、細かい部分までははっきりと見えないが――人間と同じ位の背丈、同じ二本脚で移動はしているものの、明らかに輪郭のバランスが人間のそれと違う。横幅も厚みも人間より在る様だし……何処か無理矢理二本脚で立った獣の様ないびつさが見える。
(まあそれならそれでこっちも遠慮無くぶっちめられるってもんよ……!)
だがユフィンリーの単身楽団は未だ展開していない。
神曲の支援を受けないままにウォルフィスが相手に飛び掛かる。
だが相手の精霊は外見によらぬ素早い動きでこれを避けた。ウォルフィスが鈍いのではない。これが神曲の支援を受けている精霊と受けていない精霊の差なのだ。状況によっては神曲を受けた下位精霊が、神曲無しの上位精霊を倒す事さえ有り得る。
ウォルフィスの爪をかいくぐった標的はユフィンリーへと直進してくる。
背中の単身楽団は一瞬で展開出来る。だが今から神曲を奏でてその効果が現れるまでには早くても数秒を要する。とてもではないがそんな暇は無い。
ユフィンリーはすっぱりと単身楽団の展開を諦めた。
正体不明の敵が目の前に迫っているというのに彼女は自分の最大の武器を棄てたのだ。この辺りが彼女の天才振りを如実に物語っている。
多くの神曲楽士はどうしても己の技能にある種の誇りを感じている分――多大な努力の末に身に付けた技能なのだからそれは当然だが――妙に神曲にこだわる傾向に在る。何でもかんでも神曲の演奏で対処しようとするというか、常識で考えれば間に合わないと分かる危機的状況でもつい神曲を反射的に奏でて対処してしまう。
これはつまり『神曲に縛られている』という見方も出来る。
道具であり技術である神曲に逆に支配されてしまっているという本末転倒な状態だ。
適材適所――道具であれ技術であれ適不適が在る。
これを見極めて不適当と判断すればどんなにこだわりがあろうとも他の道具や技術に持ち替える、これが本当に『使いこなす』という事だ。
黒い精霊がその腕をユフィンリーに向けて振り上げた。
指の先に生えた鋭い五本の爪が星明かりを受けて光る――
「――っ!」
敵が攻撃方法を決定して実際に行動に出た……その瞬間。
それはユフィンリーが狙っていた一瞬でもあった。一旦勢いを付けて動き出したものは停めにくい。それは精霊であっても同じだ。何か状況が変化しても次の行動に切り替えるには一瞬の遅れが出る。無理に対応すれば動きが乱れる。
ユフィンリーは手にした書類の束を投げた。
ばさりと広がって相手の視界を埋める紙。紙。紙。紙。
互いに手が届く様な至近距離では相手の精霊は何を投げ付けられたかさえ確認する余裕が無かったろう。精霊はまるで舞い落ちる紙が致死性の毒ででもあるかの様に触れるのを避け、無様な体勢で横へと跳んだ。
その隙をついてユフィンリーは廊下を走る。
走りながら同時に単身楽団を展開――彼女が愛用しているヴァイオリン型の主制御楽器を引き抜いた。
それは本当に一瞬だった。
非常に複雑な構造を持つ単身楽団の展開は、決して簡単なものではない。素早く展開できるようになるまでにかなりの修練が必要だ。これは才能云々の問題ではない。単純に習熟訓練の賜物であり――彼女が自分の才能にあぐらをかいて努力を怠る様な間抜けでない事の証明でもあった。
黒い精霊はすぐに状況を把握、傍らを走り抜けたユフィンリーを追って振り返るが――その視界を遮る様にして今度はウォルフィスの巨体が両者の間に割って入る。
しかも
「――――……………………!」
ユフィンリーの喉と単身楽団から鋭くも滑らかな旋律が紡ぎ出される。
一瞬にしてウォルフィス用に最適化――即ち編曲した戦闘支援用神曲を彼女が奏でているのだ。簡易型の単身楽団とは思えない程にその音量は豊潤で、夜気に冷え込んだ校舎内の空気を激しく攪拌する。
同時に――
「う゛るるるるるるるおおおおおおおおお――……」
ウォルフィスの背中の羽根が威嚇する様に大きく展開し明滅する。
その姿は基本的に変わっていない筈なのに狼型の上位精霊は一回りも大きくなった様に見えた。全身に力が漲りその力が何倍にも増幅されてゆくのが、知識ではなく、傍目にもはっきりと分かる。
神曲とウォルフィスの咆吼は互いに絡み合い校舎中に響き渡った。
「これで、攻守逆転だね?」
からかう様なユフィンリーの声。
有利だった状況を一瞬にしてひっくり返された事に焦りを感じてか――黒い精霊が僅かにたじろぐ様な動きを見せた。
だがそれも一瞬の事だ。
黒い精霊は再び構えをとった。未だ戦闘を諦めていないらしい。
「あ。未だやる気なんだ?」
面白そうにユフィンリーは言う。
だが――
(立ち直りが早い。かなり実戦慣れしている精霊だね……いや神曲楽士の方かな?)
内心では油断無く彼女はそう分析していた。
鮮やかに状況をひっくり返して見せる事で相手の意表を突き、躊躇している間に一気に畳み掛ける――それが咄嗟に彼女が立てた作戦だった。
だが黒い精霊はすぐに立ち直った。
まともに闘っても負けるとは思えないが――無意味に戦況を長引かせるとどんな不確定要素が絡んでくるか分からない。この場に下手に事情を知らない人間などがやって来たら、黒い精霊に人質に取られる事だって有り得る。
とはいえ――
(神曲楽士の姿が見えない……。ということは神曲の効果が届く範囲内のどこか……。こいつを相手にしながら神曲楽士を探し出すのは難しいか)
仕方なくユフィンリーは短期決戦を諦め、精霊同士の消耗戦を覚悟した。
ここはトルバス神曲学院なのだ。未だ居残っている講師も一人や二人は居るだろうし、学長室にはあの学長が居る。相手の精霊をこの場に足止めしておけば、すぐに応援が駆けつけてくる筈だ。相手の神曲楽士を探すのはそれからでいい。
本当は自分とウォルフィスだけの力で制圧したかったのだが――
「ウォルフィス――いくよ!」
ユフィンリーの指が弦の上をめまぐるしく動き右手が激しく弓を滑らせる。
優雅でいながら――力強く強烈なうねりを感じさせる一曲だ。
無論、元々彼女は戦闘支援用に造られた封音盤を持ち歩いていた訳ではない。そもそも神曲楽士の仕事において精霊を使役しての戦闘行為は、非常に稀な部類に属する。
ユフィンリーは自分の手持ちの封音盤の中から最も戦闘支援用に流用出来そうなものを選んで即興で編曲《アレンジ》し、相方であるウォルフィスの力を引き出す事に特化した神曲を奏でているのである。
程度の差こそあれ神曲楽士ならば誰でも可能な作業だ。
だが――その速度と精度がユフィンリーの場合は並ではない。
先に動いたのは黒い精霊の方だった。
人とも獣ともつかぬ低い唸り声をあげて真っ直ぐに襲い掛かってくる。
薄闇の中で再び鋭い爪が月明かりを反射させて威嚇的に光った。
「う゛ぉふっ!」
ウォルフィスも短い咆吼と共に突撃する。
こちらはしかし馬鹿正直に直進はしない。神曲の支援を受けた狼型精霊は猛烈な勢いで壁を走り、更には天井を走り、まるで重力など意に介さぬとでも言うかの様な、常識外れな動きで相手に襲い掛かる。眼で追うだけでも酔ってしまいそうな運動であった。
ウォルフィスと黒い精霊が激突する。
刹那に走る閃光。
交錯はまさに一瞬――互いに致命的な攻撃は打ち込めなかったのか、ウォルフィスは着地と同時にすぐにまた構えを採る。良く言えばウォルフィスとユフィンリーが黒い精霊を挟撃している位置関係だが――悪く言えばウォルフィスはユフィンリーを守るには黒い精霊よりも数歩出遅れる位置という事でもある。
無論――黒い精霊はユフィンリーを襲うつもりならその無防備な背中にウォルフィスの攻撃を受ける覚悟が要る訳だが。神曲の支援を受けているウォルフィスは普段の彼の倍以上の運動能力を発揮出来る。
緊張がたわめられ――弾ける。
ウォルフィスが動き黒い精霊が動いた。
だが……。
「……!」
ユフィンリーは咄嗟に前に出ようとして――思い留まった。
同時に鋭い破砕音が響き、夜の闇に細かな煌めきが舞った。
黒い精霊は、ただ一瞬の交戦で互いの力量差を正確に判断したのか……再び襲い掛かると見せ掛けて横へ跳躍、自らの身体で廊下の窓を破り、校舎外へと飛び出したのである。
黒褐色の体躯は瞬く間に闇の中に溶け去った。
咄嗟にユフィンリーが追うのを思い留まったのは、それすらもハッタリ《ブラフ》である可能性が在ったからだ。迂闊に窓から首を出せば、待ちかまえていた黒い精霊に首を落とされる可能性さえ在った。
だが――
「――考え過ぎか」
呟いてユフィンリーは窓際に歩み寄る。
神曲は既に聞こえないし、黒い精霊の気配も既に途絶えていた。
やはりあの黒い精霊は遁走したらしい。
先にユフィンリーは黒い精霊が攻撃に出る瞬間を狙ったが、全く同じ事を今度はユフィンリーとウォルフィスがされた事になる。あの黒い精霊は逃げる隙をウォルフィスが攻撃に移る瞬間に見出したのだ。
見事と言えばとことん見事な身の引き方ではある。先程の立ち直りの早さといい、引き際の鮮やかさといい、明らかに幾度と無く場数を踏んでこうした非合法活動に慣れた精霊と神曲楽士だ。
「逃がした……か。まずいかな……」
少し表情を緩めてぽつりと呟くユフィンリー。
その姿には既に臨戦態勢の緊張は無い。
「ウォルフィス。無駄だとは思うけど、まだ神曲は聞こえる?」
彼女の問いに、相方は首を横に振って答えた。
「まぁ、そうだよね。あれだけ引き際を心得ているんだ――わざわざ尻尾をつかませるようなことはしないか」
神曲は確かに精霊の力を倍増させるが――その旋律は追跡者に己の位置を告げてしまうという諸刃の剣だ。ただ撤退させるだけならば精霊自身の力だけで逃走させた方が追跡者を振りきれる可能性は高い。
「一体何者なんだか……まさか本当に<嘆きの異邦人>一派じゃ」
しかし他にユフィンリーには神曲楽士と精霊がこの学院校舎に侵入してくる可能性を思い付かない。あの狂気のテロリスト集団が何を考えているのかなどユフィンリーには想像もつかないが――例えば彼等は堂々と日の下を歩けない身分である以上、単身楽団の部品調達にも困る立場である訳で、学院が所有している単身楽団を狙ったとも考えられる。
いや……しかしそれならば単身楽団を製造している工房を狙った方が早いし新品の部品が手に入る筈だ。
となると――
「……って事はあの学長、分かってて私に見回りさせたな」
前述の通り学院の警備は甘い。
なのに普段はろくにしない――というか正確には<ボウライ>達に任せている――夜間の校内見回りという仕事を、生徒の資料と交換という事でユフィンリーに押し付けてきたのが何よりの証拠だ。相手が神曲楽士であった場合、下位精霊では手懐けられたり、追い払われたりして役に立たない。神曲楽士と上位精霊の組合せが唯一対抗出来る手段だ。
恐らく学長は何か予め情報を掴んでいたのだろう。
「あンのタヌキ――……まあいいけど」
にやりと笑うユフィンリー。
精霊を使役しての戦闘――しかも相手はそれなりの経験者。真っ当に神曲楽士をしていればそうそう出会える状況ではない。その意味では貴重な経験を積めた事になる。
こういう前向きな考え方もユフィンリーの才能を支えている要素の一つだ。
それはさておき――
「何者かはともかく……多分、これくらいで諦めたりはしないんだろうなあ。押し付けられたとはいえ、中途半端に仕事を残していくのも気持ち悪いんだけど――」
「うるるるるる……」
首を傾げてウォルフィスがユフィンリーの顔を見る。
「明日からは第六神曲公社に顔出してあっちの仕事をしないと駄目なんだよね……」
出来れば自分であの黒い精霊を捕まえ、あれと組んでいた神曲楽士の顔を見たいと思うユフィンリーであったが――神曲楽士たるもの、神曲公社の依頼を放り出しては今後の活動に支障をきたす。
「しょうがない。校長に報告して、しばらくは毎晩誰かに見回りしてもらうしかないか。運良く先生の誰かが見回ってくれればずっと安心できるし」
学院の講師達はみな現役の神曲楽士である。どの講師が担当することになっても心配は無いだろう。
無論――彼等とて生身の人間、実力差は多少なりとも在るが、戦闘支援用の封音盤を用意するなり、精霊を事前に集めておくなり、予め敵襲が在る事が分かっていれば対処はし易い。油断さえしなければあの黒い精霊と神曲楽士に遅れをとる事は無い筈だ。
「さてと」
ユフィンリーは侵入者に投げつけた書類を捜した。
かなりの速度で走ってきた相手に対し、全力で叩き付けたせいか広範囲にわたって散らばってしまっている。その上何枚かはばらばらに破れてしまっていた。
その破れた破片を見つめながら思案顔を浮かべている。
「う〜ん。さすがに破っちゃったのはまずかったかなぁ……まぁ、写しだし、大丈夫か」
勝手にそう判断すると、落ちている書類やその紙くずを封筒に入れ始めた。
「ほら、ウォルフィスも手伝ってよ」
「ぐるるぅ……」
誇り高き狼の姿をした精霊も、しぶしぶその紙くずを口で拾い集める。
その姿は狼というよりは飼いならした犬の様だ。まあその姿と行動の落差が彼等<セイロウ>枝族独特の愛嬌であったりするのだが。
ただ……
天才娘や上位精霊も神ならぬ身――決して万能ではない。
何かの事実に気付かない事や、物事を忘れる事も在る。在ってむしろ当然だろう。
故に……
「あ――ウォルフィス。そっち。そっちにも落ちてる。壁際」
「ぐるるぅ……」
彼女等はこの時、気付く事が出来なかった。
拾い集めた書類の写し。
それが数枚足りない事に。
まして――
その数枚が数日後の騒動に絡んでくる事など……さすがの天才娘と上位精霊にも想像の外であった。
今日も蒼穹は深く果てしなく広がっている。
まばらに点在する雲がのんびりと流れゆく様も実に気持ちよさそうで――見上げているだけで爽やかな気分になれる。日に日に高くなる太陽は暑い季節の到来を予感させ、降り注ぐ陽光も白さを増していた。
季節の変わり目――晩春と初夏の端境期。
心地良い空の下で無数の人々が行き交っている。
普段よりも人の姿が数多く見えるのはこの季候故の事だろう。暑くもなく寒くもなく。湿っぽくもなく乾いてもおらず。外出には丁度良い。仕事を持つ社会人や学生は無論だが、老人や幼児や――特に外出の必要に迫られていない人々も、ふと思い立って散歩に出たくなる様な爽やかな空気が街に充ちている。
人口はおよそ二百万の大都市――将都トルバス。
トルバスは帝都メイナードを囲む衛星都市の一つである。
かつては首都の人口過密状態を緩和する計画の一環として置かれたベッド・タウンとしての側面を持っていたが――現在は都市開発が進み、規模も人口も利便性も帝都と遜色の無い大都市へと成長していた。新興企業の進出も多く、経済的な活性も進んでいる。法的手続きやその他の問題もあって帝都に本拠地を置いてはいるが、活動そのものの拠点はこちらに置いている――という古参の企業も多い。
だが数ある組織や集団の中でも最もこの地において有名なのは、トルバスが今日の発展を示す以前からこの街の中央区に居を構える二つの公的機関であった。
一つは政府直轄の第三神曲公社。
そしてもう一つは更にその第三神曲公社に附属するトルバス神曲学院である。
もっとも第三神曲公社についてはトルバス神曲学院の絡みで語られる事が多く、この街最大の名所といえば、結局は多数の優秀な神曲楽士を輩出している、神曲楽士専門学校――即ちこのトルバス神曲学院になる。
本来は学院の方がいわば『オマケ』なのだが人々の認識としては完全に立場が逆転している感が在る。トルバス神曲学院はその実績故に、全国から神曲楽士志望の若者が集まってくる。その結果――街の雰囲気も彼等若者の存在によって華やいだものになるのだ。仕事を依頼するのでも無ければ一般人とはあまり接点の無い神曲公社よりは、学院関係者の方が人々の目に留まりやすいのは当然であった。
ちなみに――
この国、即ちメニス帝国には六つの神曲公社があり、それぞれに付属する神曲楽士専門学校がある。
神曲楽士の資格そのものは国家試験によって与えられるが、公社附属の専門学校以外にも神曲楽士養成を謳った民間教育機関も存在し――これがまた詐欺同然の代物から公社附属専門学校も形無しの本格的なものまで程度は様々だが――一説には毎年一万人を越える人々が何らかの形で神曲楽士養成機関の門戸を叩く事になる。
しかし実際にそれら教育機関を卒業し、国家試験を通って神曲楽士としての資格を得る者の人数は毎年四十名に満たないという。統計数値に出にくい潜在的な志望者も含めればその倍率は四百倍を超えるとされ、神曲楽士とは恐ろしく狭き門である事が分かる。
そんな中――毎年安定して神曲楽士を世に送り出しているトルバス神曲学院は、特別な存在として認識されている。またトルバス神曲学院は最も歴史が旧く、その結果として最も多くの神曲楽士を生み出したという事にもなる。
またその校舎はかつての大貴族の別邸を改装して造られている為、中はともかく、外部は歴史を感じさせる重厚な印象が在る。
トルバス神曲学院が街の名所として認識されるのも当然ではあった。
今朝も中央街区付近では学院の制服を着た生徒達の姿がたくさん見受けられる。
学院のすぐ目の前に『トルバス神曲学院前』というバス停があり、五つある市内巡回バス路線全てが停車駅にこの『トルバス神曲学院前』を含んでいるので、ほとんどの生徒達が将都内を巡回しているバスを利用していた。
例外は三種類。
学院から許可証を貰って自前の自転車や自動二輪で通学する者。
健康のためか、あるいは節約の為か、とにかくわざわざ徒歩で通学する者。
そして――先の例にも被るが――寮に住んでいる者だ。
毎朝の通学時間、生徒達の群れがひしめくバス停から歩いておよそ十分、走れば三分ちょいの処にトルバス神曲学院の学生寮は在る。
もっとも寮と言ってもあまり規模は大きくなく、部屋数の少なさや狭さ、設備の古さから、利用する生徒は少ない。何と言ってもこのトルバスは神曲楽士志望者の街として有名なのだ――彼等を当て込んだ下宿だの学生用マンションだのは豊富に物件が存在する。
それらを差し置いてわざわざ学生寮を選ぶ者達が挙げる選択理由は、揃ってその家賃の安さ、そしてそれさえもが『出世払いが可能』という事だった。
つまりは『学生寮に居る奴は貧乏人』という認識が在る訳で。
これが金銭的に余裕の在る生徒達が学生寮を敬遠する理由となり、その結果として設備の更新がなかなかされないという悪循環を生んでいたりする。
まあそれはともかく。
その学生寮の前。
少々くたびれて寂しい感じの建物の前の道路に、学院の制服に身を包んだ一組の男女の姿があった。
「フォ〜ロ〜ン。いい加減にしろ。もうこれ以上待つ必要もないだろう? 早く行かなければ学校に遅れるぞ」
そう言っているのは……やたらと尊大な口調や言葉遣いとは対照的に、未だ幼さの残る少女だった。
彼女の名はコーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
非常に可愛らしい容姿の持ち主である。目鼻立ちはくっきりとしていて可憐。肌は陶器の様に白く滑らかだ。鮮やかな紅を湛え優美に波打つ髪を大きなリボンでポニーテールにしている。
口を開かずに微笑んでいれば誰もが『お人形さんみたい』という感想を漏らすだろう。
そんな彼女は今、少しむくれた表情で目の前の少年――フォロンを急かしていた。
「まだ大丈夫だよ。それに普段はよく待ってもらっているんだから、置いていったら悪いよ。まだ五分と待っていないんだしね」
そう言って微笑む。
何というか……このフォロンという少年はこういう柔らかい表情が実によく似合う。表情に彼の内面がよく現れているというか、見る者の心をじんわりと癒してくれる様な暖かさや穏やかさが滲み出てくるのだ。もっともその分彼はどうにも押しが弱く、ともすれば『消極的に過ぎる』『自主性に欠ける』と講師達から注意されたりもする。
ただ……今現在、彼の笑顔が少し弱々しいというか、何処か困っている様に見えるのは、彼の消極的な性格が表れているというだけではないだろう。
「向こうは好きで待っているのだろう?」
「う〜ん、まぁ……でも……」
言い淀むフォロンにイライラした様子でコーティカルテが言い募る。
「特に待ち合わせを取り決めているわけでもないのだから、何もお前が合わせてやる必要はないではないか」
「確かに、約束しているわけじゃないけどさ……」
二人は――というか、少なくともフォロンは、いつも一緒に登校している二学年下の双子の姉妹を待っていた。
フォロンとしては彼女等と話すのは楽しいし、一緒に登校しようと誘ってくれる彼女等を無下にするのも申し訳ない。なのでこうして学生寮の前で待っている訳だが、これがコーティカルテにはどうも面白くないらしい。
「ならばもう行くぞ」
コーティカルテはフォロンの制服の袖を掴んで歩き出そうとするが、フォロンは動こうとしない。
「もう少しだけ待ってあげようよ」
確かにきっちりと約束をしているわけではないが、毎日の事となれば事実上約束しているも同然だ。いつもより一分や二分遅れているからと言って見切りを付けてしまうのは忍びない。
「まだまだ登校には余裕あるしさ」
だがそれがやはりコーティカルテにとっては面白くない様子で。
「むぅ……。だいたい、お前はあの二人に甘すぎるぞ!」
眦を吊り上げてフォロンを睨み付けながらコーティカルテは彼の襟首を掴んだ。
「えぇ? な、なんだよ急に」
彼女の突然の剣幕にフォロンは少しばかり当惑した様子を見せる。
もっともコーティカルテの方がずっと小柄なので、傍目からは、あまり凄んでいる様には見えない。むしろ子供が背伸びして大人にぶら下がっている様にさえ見えて、微笑ましかったりするが。
「お前がこうやって甘やかすから、あの二人……特に金色の髪の方が馴れ馴れしく付きまとってくるのだ!」
「馴れ馴れしくって……僕は別に構わないけど。やっぱりさ、ほら。あんまり先輩だからとか後輩だからとか言って壁を作っても……」
「そういう意味での馴れ馴れしいではないっ!」
コーティカルテが噛み付くように怒鳴った。
一方、怒鳴られた方のフォロンはきょとんとしている。
「……? じゃあどういう馴れ馴れしさなの?」
「そ、それはだなぁ……」
フォロンが聞き返すと今度は急に顔を赤くしながら歯切れが悪くなった。
「その……先輩後輩ということではなくだな……その、もっと高い次元の話で……」
コーティカルテはそう言いながら顔の赤みをどんどん増していく。すでに耳の先まで綺麗な桜色に染まってしまっていた。
普通は――というか大抵の人間は此処で彼女の言わんとする事を悟る。
同時に彼女の気持ちも。
しかしどういう理由からか、そういう方面に関しては恐ろしい程に鈍感なのがこのフォロンという少年である。彼はこの期に及んでも彼女の台詞の意味が分からないといった様子で首を傾げている。
「もっと高い次元の……?」
「ああもう! それはどうでもいいのだ! つまりだな、私が言いたいのは、あまりあの二人を甘やかすなということだ!」
コーティカルテは真っ赤な顔のままフォロンのお腹を叩いた。はたから見ているとやはり小さな女の子がじゃれついているように見える。ただしフォロンが真っ青になって身を屈めている処を見ると――見た目通りに微笑ましいものではない様だった。
「コ……コーティ…………」
「――む?」
『足りなかったか?』とでも言わんばかりに手を挙げるコーティカルテを見て、さすがにこれ以上この話題を追求するのは危険と判断したらしく、フォロンは弱々しく首を振った。
「うぐ……わ、わかったよ……」
「うむ。解ればいい」
コーティカルテは腕組みをして偉そうに頷くが――顔は赤いままだ。
彼女は深呼吸を一つしてから表情を嬉しそうな笑顔に切り替えると、フォロンの手を取って言った。
「そういうわけだから、やはりここは厳しくあの二人を待たずにだな……」
「それとこれとはまた別だよ」
意外と耐久力は在るのか、あるいは回復力が高いのか、すぐに柔らかな笑顔を取り戻してフォロンは言った。
「みんなで行った方が楽しくていいでしょ?」
話は結局、振り出しに戻ったらしい。
まあこの程度で状況が変化すれば此処までコーティカルテも不機嫌にはなったりしない訳で。彼女は再びむくれた顔をしてそっぽを向いた。
「私は、楽しくないぞ」
彼女は誰にも聞き取れない様な小さな声で呟いた。
事情を知らない人間はこんなやり取りを繰り返す彼等の関係について首を傾げるかもしれない。やり取りだけを聞いていると兄妹の様に見えない事も無いが……まるで二人の容姿は似ていない。会話の内容からすれば恋人同士でもない。
無論二人は恋人でもなければ兄妹でもない。
神曲楽士――そしてその者と専属契約を交わした精霊である。
精霊
世界に満ちる『知性ある何か』。
この『善き隣人』達と共に暮らし、生活の様々な部分で彼等の存在の恩恵を受けながら、大部分の人間は驚く程に精霊の『生態』については無知である。
例えば――精霊の特徴である輝く羽根。
確かにこれは精霊だけが備える器官だ。一説にはこの羽根で神曲を吸収し人間の魂の波動を感知するとも言われるが定説には至っていない。ただ精霊が精霊としての能力を最大限に発揮する際は必ずこの羽根を発光させて大きく展開する事が知られている。
だが。
この羽根が実は出し入れ自由である事を知っている人間は少ない。精霊といえば単純にその外見的特徴を『輝く羽根』と考えている人間は多い。この為に、今のコーティカルテを人間と見紛う者も多いだろう。
ましてや――
今のコーティカルテはトルバス神曲学院の女生徒の制服を着ている。
学院の生徒であるフォロンがその制服を着ているのはごく当たり前のことだ。だが彼と契約している精霊までもが制服を着る必要は、別にない。逆に言えば羽根を隠し制服を着ている今のコーティカルテは、女生徒にこそ見えても、精霊にはあまり見えない。彼女の髪は確かに人間には有り得ない真紅だが――最近はヘアカラーのスプレーも色々と出回っているのでこういう『精霊に似た』髪の色にする者も珍しくない。それだけ精霊達は人間に親しまれ憧れられているのである。
まあそれはともかく。
「フォロン先輩〜!」
そう呼びかける元気な声が聞こえてきた。
声に呼ばれてフォロンが振り向くと、ちょうど寮の西棟玄関から金色の髪の少女が手を振りながら走ってくる姿が見える。そのすぐ後ろには、彼女とそっくりな容姿をした銀髪の少女の姿も確認できた。
「あ、ほら、来たよ」
「むぅ……」
手を振り返すフォロンとは対照的に、コーティカルテはつまらなそうに口を尖らせる。
「二人とも、おはよう」
「おはようございますっ! すいません、先輩。お待たせしてしまって」
一足先に駆けつけた金色の髪の少女が元気一杯にはきはきと挨拶をした。
「まったくだ」
コーティカルテはひとり不機嫌そうに小声で呟く。
「ううん、全然待っていないから気にしないでよ」
「えへへ。ありがとうございます!」
フォロンがそう答えると、少女はほんのりと頬を染めて嬉しそうに笑った。
フォロンよりも二学年下の女の子、ユギリ・ペルセルテだ。
彼女はフォロンと同じトルバス神曲学院の制服に身を包んでいて、長い金色の髪を薄紫色のリボンで二条に束ねている。その髪が小動物の尻尾のようにせわしなく揺れている様子はとても可愛らしい。
ペルセルテ達姉妹もフォロンと同じ学生寮の住人だ。
ただ同じ学生寮といっても、館内はほぼ中央で東側と西側に仕切られており東西に行き来することはできないようになっている。なので同一の建物だが東館と西館という呼ばれ方をされていた。
もちろん、男子寮と女子寮を分けるための措置である。
当然ながら東館と西館にはそれぞれ別の玄関があり、同じ学生寮に住んでいるといっても合流しようと思えば建物の外に出る必要が在る。そういう訳でフォロン達とペルセルテ達はいつも寮の前の道路で合流しているのである。
「実はですね、ちょっと寝坊をしてしまって……」
尋ねてもいないのにペルセルテが照れくさそうに自白し始める。
「ああ〜。わかる。なんかこの時期ってついつい寝過ごしちゃうよね」
そう言ってフォロンは苦笑いを浮かべた。
自分がここ最近毎朝しっかり時間通りに出てこられるのは、実は朝からコーティカルテが飯を作れだのなんだのと言って攻撃――もとい、叩き起こしてくれているからだとは恥ずかしくて口が裂けても言えない。
「そうそう、そうなんですよねぇ〜。なんかこう、つい寝過ごしちゃうっていうか。それで起きたらもう部屋を出る十分くらい前で、プリネと二人して慌てて仕度して走って出てきたんですよ〜」
なぜかそう話す彼女は少しだけ得意げに見えた。
「といっても、私はいつもプリネに起こしてもらっているんですけどね。だからあの子が寝坊しちゃうと必然的に私も……」
陽気に笑い出すペルセルテを見て、フォロンはどこか少しだけ安心感を覚えていた。
(よかった……。起こしてもらっているのは僕だけじゃなかった……)
ちょうどそこへ、ペルセルテの双子の妹、彼女曰くプリネこと、ユギリ・プリネシカが追いついてきた。
顔の作りや肉体的な面ではペルセルテと非常に良く似ている。
腰まで伸びた銀色の長い髪と、姉と同じ薄紫色のリボンがとてもよく似合っていた。
だが、活発的なペルセルテとは対照的に、髪の結び方はやや地味な感じでしっとりと落ち着いた様な雰囲気が強い。実際、彼女は少し大人しく控えめな性格で――それが表情や仕草にもよく顕れていた。
このプリネシカという少女――いつもペルセルテと一緒に居るが、並んでいるというより半歩斜め後ろで双子の姉のやらかすあれやこれやを、苦笑して見守っている様な印象が在った。大体は調子に乗って暴走するのがペルセルテでそれを止めたり被害者に謝って回るのがプリネシカという役回りらしい。
「おはようございます」
プリネシカは両手をそろえて丁寧にお辞儀をする。
「おはよう。朝から大変だったみたいだね」
フォロンがそう聞くと、プリネシカは赤面しながら慌てて姉の顔を見て、そのわき腹を小さくつんつんと突付いた。
「ペ、ペルセ……。朝のこと、もう先輩に話したの?」
「うん……? ああ、うん。話しちゃった!」
恥ずかしさでうつむき気味のプリネシカとは対照的に、ペルセルテはやはり少し自慢げにうんと頷く。彼女としては先輩に面白い話ができて、嬉しくて仕方がないのだろう。
「もう……そんなことまで話さなくてもいいのに……」
プリネシカは今にも消え入りそうな声で抗議したが、ペルセルテには届いていないようだった。
逆に、二人のやりとりを見ていたフォロンは自分の不用意な発言を深く反省した。年頃の繊細な女の子にする話ではなかったのかもしれない。ペルセルテがそこら辺はざっくばらんだからといって、プリネシカまで同じだと考えるのは早計だろう。
「あ……その、変なこと聞いてごめん…」
「え……。あ、その、違うんです」
プリネシカもプリネシカで、何やら動揺している様子だった。自分の抗議が違う相手の反省を促してしまった事に困惑しているのかもしれない。
「あの、昨日はたまたま……その、夜中に一度目が覚めてしまって、それから寝直したらそのまま……」
彼女は聞かれてもいないのにぽろぽろと自白を始めた。
曰く夢見が悪かった。
曰く昔は身体が弱かった。今もあまり強い方ではないけれど。
曰く眠りが浅い方なので一度起きてしまうとまた眠るのに時間がかかってしまう。
曰く昨日は特に季節の変わり目という事で寝苦しく――
…………
暴走しだしたら留まらない――案外この辺はユギリ家の血というか、さすがに双子同士、よく似ているのかもしれない。
「そ、そうなんだ。それだと仕方ないよね」
何が仕方がないのかフォロン自身もよく分からないが、そう言って誤魔化すように笑い出す。というか何か言わないと延々と俯いたままプリネシカは今朝寝坊した事の弁明を続けていそうな印象が在った。
フォロンの言葉でようやく自分の暴走を自覚したのか、プリネシカはコクリと頷き、黙り込んだ。俯いたまま顔を上げようとしない。お陰で彼女の表情までは分からないが――やはり恥ずかしいのか、その耳は真っ赤に染まっていた。
「フォロン! もう行くぞ!」
それまでは多少膨れっ面になりながらもとりあえず黙って見ていたコーティカルテであったが――さすがに我慢出来なくなったのか、彼女はフォロンの腕を引っ張って無理矢理に歩き出した。
「え……? あ……。ちょ、ちょっとコーティ、痛いって」
「あ、そうですよね! ただでさえ少し遅いんですもんね。急いで学校に行きましょう!」
そう言ってペルセルテがフォロンの腕を――コーティカルテが引っ張っているのとは逆側の腕を掴む。彼女にしてみれば至極当然の行動なのだろうが、無論、それを見てコーティカルテが黙っている筈が無い訳で。
「おい! 私はフォロンにだけ言っているのだぞ! お前はあそこでずっと喋っていればいいだろう!」
「あそこに一人でいたって話す相手がいないじゃないですか!」
「木。草。寮の壁」
コーティカルテが真面目な顔で冷たくそう言い放った。
一瞬、考えてから――此処で一瞬でも考えてしまうのがこの少女の長所でもあり短所でもある訳だが――ペルセルテも負けずと言い返す。
「木も草も壁も返事をしてくれないじゃないですか!」
そういう問題じゃないんじゃないかなあ――とぼんやり思うフォロンであったが、物凄い剣幕で言い合う少女達の間に押しの弱い彼が口を差し挟める筈も無い。
「その代わり、ずっとお前の話を聞いていてくれるぞ」
「あ。そうですね――じゃなくて! どうしてコーティカルテさんはすぐそういうこと言うんですか! 意地悪ですよ!」
「お前がフォロンにすぐ近寄ってくるからだ! 何度も言っているが、コレは私のだぞ! まずその手を離せ!」
仮にも精霊契約の相手――主従とまでは言わないが相応の敬意を挟んでの関係である筈のフォロンを指してコーティカルテはコレと言い放った。
生真面目な騎士気質で知られる<セイロウ>枝族辺りが聞いていたら激怒しそうな物言いだが、その事については当のフォロンは勿論、ペルセルテもプリネシカも突っ込まない。契約主を契約主とも思わないコーティカルテの不遜な言動は、今日に始まった事ではないからだ。
それに――
「嫌です! それに私だって何度も言っていますよ! 先輩はみんなのモノです!」
ペルセルテも全く悪気はないのだろうが、仮にも二つ上の先輩をモノと言い放つ。
まあ失礼という意味ではどっちもどっちなのである。
二人とも悪意は無い様だが。
「いや私のだ! 離せ!」
「ダメです!」
「離せと言っているだろう!」
「ダメったらダメです!」
二人は激しく言い合いをしながらフォロンを引っ張り合う。
かなり気の強いコーティカルテだが、ペルセルテも負けてはいない。まあペルセルテの場合は気の強さというより、思い込みの激しさや少々頑固に過ぎる性格によるものであろうが。
で――
引っ張られている本人はというと半ば諦めの境地に達しているのか、殊更に抗いもせず、どちらの側につくでもなく、ただ深く静かに溜め息をつくのみである。
「はぁ……」
二人の喧嘩は毎朝の事だ。
見事なまでに同じ内容で飽きずにこのやり取りが繰り返される。
勿論、公共の道のど真ん中でこれほど騒いでいれば周りの通行人達が少なからず注目していく。本来であればとても恥ずかしいことだったが、さすがのフォロンもだいぶ慣れてしまった。
そんな自分が少々悲しい。
逆に、幸か不幸か未だに慣れずにいるプリネシカはフォロン達から少し離れた所を、赤面して俯きながら歩いていた。いっそ『私は無関係です』と離れきってしまった方が気楽な筈なのだが――プリネシカの性格上、そこまで割り切る事は出来ないらしい。
代わりに彼女は恥ずかしそうに言った。
「……本当に……みんな毎朝……飽きずによくやりますよね……」
――かく言う彼女の台詞も飽きずに同じものではあるのだが。
まあそんなこんなで。
いつも通りにフォロン達の一日は始まるのだった。
かつて世界には混沌が満ちていた。
他には何も無く――ただ無限の混沌だけが在った。
混沌とはあらゆるもので『ある』と同時にあらゆるもので『ない』。
変化は在れどそこに意味は無い。混沌があらゆる意味を含む以上――それは何の意味も無い事と同義である。無数の色を混ぜ合わせれば結果的にただ虚無の如き漆黒が出来上がるのと同じく。
故に真なる混沌の内には時間さえもが無い。
その事を憂う存在が居た。
混沌の世界を遙かな高みより見下ろすもの。
祖神――後に<奏世主>《ジェネシスト》と呼ばれる事になる絶対者である。
混沌の世界に降り立った祖神は異形の存在であったと言われる。
その腕は八本。
その顔は四面。
祖神はその八本の腕に四つの楽器を持ち、四つの顔で歌う事により混沌の世界に意味を与えた。祖神の奏でる曲は混沌に無数の楔を打ち込み、線を画し、先ず混沌の中から八柱の<神霊>を生み出したと言われる。<神霊>とは<奏世主>の従僕にして全ての精霊の母である。
故にこの<神霊>は後に<始祖精霊>とも呼ばれる事になる。
それぞれ強大な力を与えられた八柱の精霊達は祖神の奏でる曲に従い、混沌に更なる意味の楔を打ち込み、線を画し、先ず天と地を分け、更に地と海を分けたと言われる。
これが創世――いや奏世の始まりである。
やがて世界は八柱の<神霊>達により今在る形に整えられ<奏世>に力を使い果たした祖神は自らの後継者として『人間』を生み出し、永い永い眠りについたと言われる。
八柱の<神霊>達は大いにこれを嘆き祖神の望んだ命満つる世界を完成させる為、そして祖神の後継者たる人間達を見守る為、自らの身より無数の精霊達を生み出して世に放ったという。
こうして世界は今在る形になった――
「創世記に記されている祖神がこの世で最初の神曲を奏で世界を作ったという説と、そもそも祖神などは存在せず、話に出てくる八体の〈神霊〉――今では始祖精霊と呼ばれていますが――彼女達が世界を作ったという説もあります」
「あるいはこの始祖精霊とは祖神の持つ四つの楽器と四つの口をそれぞれ象徴するものであるとする説も在りますね。要するに祖神の持つ様々な側面にそれぞれ象徴としての人格を与えたのが始祖精霊達である――と」
「いずれにしてもその決定的な証拠となるようなものは一度も発見されておらず、ただ言い伝えや伝説といった形で無数に伝わっているだけであります」
老講師の説明を真面目にノートに書きとめながら、フォロンは隣の席を覗く。
そこではコーティカルテが堂々と机に突っ伏して熟睡していた。
紅の髪がゆらりと揺れて、寝顔がフォロンの方へと向く。幸せそうに笑っている……というよりは、なぜか満足そうににやけていた。
(眠っている時は可愛いもんだよねぇ)
フォロンは特に深い意味もなくそう思う。
その考えの奥底には普段彼女から受けている理不尽な扱いに対するストレスが存在するのかどうかは彼自身にも分からない。
そのままフォロンはふと教室全体を見渡した。
眠っているのは彼女だけではなかった。生徒の中にも眠っている人の姿が見受けられる。割合としては起きている人数よりも多い。そして、それ以上に空席の数が目に付いた。
この歴史に関する授業は、あまり生徒に人気がなかった。
元々が歴史というより真偽の曖昧な伝説じみた話が多いし、何より歴史をいくら学んでも神曲が上手く奏でられる訳ではない――というのが欠席を決め込む者達の言い分である。
まして――
この歴史を受け持っている初老の講師は神曲楽士でない。
彼の本業は精霊学の研究である。本来はどこぞの大学の助教授らしく学院の常勤講師ですらない。学院の教務部が週に一度、特別に講義の為に招いているのだ。
だからどうしても神曲楽士を目指す生徒達はこの講師を『神曲楽士でない』という一事を以て他の講師よりも下に見る傾向が在る。
そして何よりもこの講師は人が善い。
大抵の生徒がこれにつけ込んでいるのだ。授業を休んでいても頼めばあっさり出席にしてくれるし、期末試験などはとにかく試験用紙に何か書いて出せば進級に必要な最低限の点はくれる。
まあそういう訳で。
歴史の授業においては空席と居眠りをする生徒がやたらに多い。
今も半分近く空席で、残りのさらに半分近くが伏せ寝をしている。他人の授業態度に文句を付けるつもりは全く無いが――さすがにここまで来ると妙に教室が広く感じられてフォロンとしても寂しい気分だった。
ちなみに、コーティカルテに関しては特別この授業だからというわけではなく、ほぼ全ての授業でいつも気持ちよさそうに寝ていたりするのだが。
(歴史だっておもしろいのになぁ……)
フォロンはこの授業が好きだった。
昔この世界には神様がいて。
その神様が世界を作るために奏でた曲が最初の神曲で。
神曲に従って生み出されたのが最初の精霊達で。
――そう言われるとなんだかとても心躍るものがある。
神霊、あるいは始祖精霊と呼ばれる伝説的な精霊にも興味があるし、何より世界を奏世してしまう程の神曲というものがどの様なものだったのか、ということを考えだすと楽しくてしかたがない。
例えば――
同級生のレンバルトから毎月、彼が読み終わったら回して貰う音楽雑誌――自分で購入するにはちょっと経済状態が苦しい――にはよく後ろの方、編集後記の手前位にこの創世時代に関連する記事が載っている。真面目な学説から噂話と言うのも恥ずかしい様な嘘っぽい代物まで月によって様々なのだが、実はそこはフォロンが密かに楽しみにしているページでもあった。
このページには毎年、二度か三度は祖神が奏世の際に使ったといわれる四つの奏世楽器が発見されたと報じる記事が載る。無論、いずれもが数ヶ月後には偽物と判明したり、発見の事実自体が捏造だったりする事が明らかになるのだが――本当に発見されたら、それこそ世界がひっくり返る程の大事だ――それでもフォロンはそのいかがわしいページを読むのが好きだった。何度読んでも飽きないのだ。
「んー……」
講師がふと口を止めて空中を見上げると――それが合図ででもあったかの様に授業終了の鐘の音が教室に響いた。
未だ講師が次回の授業の予定などを告げているにも関わらず席を立つ生徒や、変な姿勢で寝ていたために凝り固まった身体をほぐし始める生徒の姿がいくつも見受けられた。
気の弱いフォロンとしては何度この光景を見ても違和感を感じてしまう。
講師は怒っていないだろうか――といつも教壇の方を最後に見るのだが、講師は講師で全く気にした様子も無く道具をまとめるとのんびり教室を出て行った。
溜め息をつくフォロン。
そこへ――
「よ、フォ〜ロン」
「あ。レンバルト。おはよう」
フォロンは自分に声をかけてきた生徒に片手を振って返事をした。
前述の同級生――サイキ・レンバルトだ。
フォロンにとっては一番仲の良い同級生である。
一見すると彼は非常に優美な容姿をしている。顔の作りは繊細で麻色の髪を少し長めに伸ばしているので中性的な魅力も在る。無論――中性的という意味ではフォロンも似た様な処が在るが、レンバルトの特徴はその眼である。
鋭いのだ。切れ長と言っていい。
この双眸が彼にやけに鋭利な印象を与えている。フォロンを『癒し系』とするならばレンバルトは『クール系』――見るからに切れ者といった印象である。
しかも実際に彼はよく頭が回る上に、商家の出という事もあって、見た目とは裏腹にやたらと図太く要領が良い。
神曲楽士としての才能も在る。
大別して優秀と言われる神曲楽士には『特定の精霊を強く惹き付ける神曲』を奏でる事が出来る者と、『前者に較べると個別の誘引力は低いが大量の精霊を一度に惹き付ける神曲』を奏でる事が出来る者が居る。
どちらが上という訳ではない。あくまで流儀の差だ。
そしてレンバルトは後者に属する。
専属契約――つまり『精霊契約』を結んだ精霊こそ居ないが彼の神曲は種類や個体差をものともせず満遍なくありとあらゆる精霊に訴えかけ、彼等を引き寄せる。精霊達の扱いも慣れたもので、最近はわざわざ神曲を奏でなくても、<ボウライ>や<セイロウ>といった学園に常駐する精霊達が彼を慕って側に寄ってくる光景が何度と無く見られた。
つまり――
気が弱く押しが弱く。
要領も悪く。
精霊契約は出来たがその精霊に振り回されっぱなし。
…………そんなフォロンとは全く正反対の人物がレンバルトなのである。
多少の得意不得意はそれぞれに在るが、実技も含めた総合的な成績で言えばフォロンとレンバルトはいちいち確かめるのも哀しくなる程の開きがある。
共通点などあまり無い二人ではある。
しかし何故かレンバルトはよくフォロンに声を掛けてくるし、フォロンとしても自分に無い視点や価値観を色々持っている彼と話すのは楽しいので、二人は一緒に行動している事が多い。
「おう、おはようさん」
レンバルトが爽やかな笑顔で挨拶を返してきた。
繊細な顔立ちとやや乱暴な口調の落差がたまらない――と彼に心酔する女生徒も実は少なくない。その上神曲楽士としての才能も並でないとなれば、学校の内外を問わずもてない筈が無い。
「レンバルト……。今日も二限から登校ですか?」
「まぁね」
レンバルトが悪びれもせずに頷く。
そんな彼を見てフォロンは苦笑した。
「たまには歴史だって出ておいでよ。いろいろおもしろいよ?」
「おう。気が向いたらな〜」
「気分次第ですか……」
「おうよ。歴史の講義って基礎の時に習った内容と同じことを繰り返しているだけだろ。もう覚えたからいいや」
「う……」
フォロンは言葉に詰まる。確かにレンバルトの言うとおり、歴史の授業は基礎過程で習った内容と同じものだ。実際にレンバルトは授業に出ていなくても筆記試験ではいつも満点に近い点数を出している。
それに比べ、フォロンは歴史が好きだし二回目ともいえる授業も毎回出ているが、試験の点数ではわずかにレンバルトより劣っていた。
実習関係の試験ではいつも下のほうをうろうろしているフォロンだが、真面目な彼は単純な筆記試験に関してはいつもそこそこ点数を取れていた。それでもレンバルトには及ばないというのは……やはり要領の良さの違いなのだろう。
「それはそうと、次実習室だろ? そろそろ行こうぜ」
「あ、そういえば……。あれ?」
そこでフォロンは首を捻った。
次が実習室での授業となると一つ疑問が生じる。
「次の授業が実習室ならどうしてわざわざ教室に寄ったの? 二限から来たのなら直接あっち行った方が早いよね」
そうなのだ。レンバルトは一限目の講義をさぼり、次の実習訓練から参加する。ならばあえて教室に寄る必要はないはずだった。
「何言ってるの。お前、そりゃ親友を迎えに来たに決まってるだろ。俺はな、義に厚い男なんだよ」
「冗談でも嬉しいよ」
レンバルトは気楽な口調で言った言葉だったが、フォロンとしては言葉通り、冗談だとしても本当に嬉しかった。昔は愚図だのろまだと同じ孤児院の子供達に言われ、いつも仲間はずれにされたり、置き去りにされたりしていたからだ。
『親友』などと言われてしまうと自然と口元が緩んでしまう。
そんな彼を見ながら――ふとレンバルトが言う。
「お前……やっぱり何年かしたらすげー女泣かせになるんだろうな。――っていうかもう既になってるか」
レンバルトは苦笑しながらフォロンの傍らで爆睡中のコーティカルテにちらりと視線を向ける。
「え? なんで?」
眼を瞬かせてフォロンは尋ねた。
他の誰に言われるよりも意外と言えば意外である。前述の通りレンバルトはかなりもてる。彼と親しいという事で、上級生や基礎過程の下級生から懸想文《ラブレター》の仲介を頼まれた事も一度や二度ではない。その後、彼女等がレンバルトとどうなったのかはフォロンも知らないが……レンバルトが特定の女子と付き合っているという話は聞かないから、恐らく皆、振られてしまったのだろう。
その意味ではレンバルトこそ凄い女泣かせではないのだろうか。
しかし――
「そこで心底本気で『なんで?』って聞けるからだよ」
「え? なんで? あ――じゃなくて。でも……?」
混乱するフォロン。
彼は本気で分かっていないのである。
些細な善意に本気で感謝を感じる事の出来る人間は少ないという事も。
ましてそれを素直に口に出してしまえる人間はもっと少ないという事も。
「それよりさ、ほれ、早くそこで爆睡しているちびっ子起こせよ」
そう言うレンバルトの口調は妙に楽しそうだったが、フォロンは特に気にもとめず、言われた通りにコーティカルテを起こすことにした。
「コーティ。教室移動するよ。ほら、起きて」
「ほるにひろ〜」
軽く彼女の身体を揺さぶるが、あまり効果はない。ただ謎の寝言が返ってきただけだ。
「くっくっく……。やっぱちびっ子おもしれ〜」
隣ではレンバルトが笑いをかみ殺している――つもりらしい。一応口元は押さえているが指の間から引きつる様な笑い声が漏れまくっている。
『親友』だの何だのは本当に単なる方便で――彼はただコーティカルテの間抜けな寝顔を見物に来ただけなのではないだろうか。
そんな考えが一瞬、脳裏をよぎったが、友達を疑った事を恥じてすぐに忘れることにした。これもフォロンらしいといえばフォロンらしい。
「ほら、コーティってば」
いつもの事だが、なかなか起きてくれない。朝だけは寝起きがいいのは、昼間学校で散々寝ているからなのだろう。
そもそも本当に精霊に睡眠が必要なのかどうかは疑問なのだが。
「ふるぬらぁ〜」
レンバルトが腹を押さえながら激しく肩を揺らしている。どうもコーティカルテが寝言を言っている姿というのが彼のツボらしい。まあ確かに普段は何処か尊大でやや古臭い言い回しもしたりするコーティカルテが、寝惚けた猫の様にうにうにと意味不明の言葉を呟いている様は、フォロンから見ても面白いといえば面白い。
とはいえ起きてくれないと困るのも事実で――
「はぁ……」
一向に起きる様子の無いコーティカルテを前に、フォロンはやるせない気持ちになって溜息をもらした。
その肩をレンバルトが掴む。
「ん……?」
「よし、ここは俺に任せろ」
自信たっぷりに頷くレンバルト。
「え……?」
何となく嫌な予感のするフォロン。
何だか分からない割にも彼がレンバルトを制止しようとした時――
……ピシッ。
いきなりレンバルトが彼女の額を指で弾いた。
「痛ッ!!」
コーティカルテが額を押さえながら怒りの咆哮にも似た声を上げて壮絶な勢いで立ち上がる。
「ぬあ――ッ!? 何をするッ!?」
彼女は視界に入った物を睨み殺す様な眼で辺りを一通り見渡す。
既に彼女が機嫌が悪いと生徒と乱闘も辞さない気の短い精霊と知っている同級生達は、そそくさと教室から逃げ出していった。
そして。
睡眠を中断された怒りに燃える真紅の瞳がぐるりと教室を巡ってから、最後にフォロンの方を向いて留まった。
「ふぉ〜ろ〜ん〜……」
腹の底から響き渡ってくるような唸り声でその名を呼ぶ。
よほど痛かったのか、寝起きだからか、目尻には薄っすらと涙が浮かんでいた。
あ、ちょっと可愛いかも――と場違いな感想がフォロンの脳裏を過ぎったりするが、それどころではないとすぐに気付いた。このままではコーティカルテの燃え上がる怒りは全てフォロンに向けられてしまう。
まして『殴られたらとりあえず三倍返しが基本』と平気で宣うコーティカルテである。
誤解されたままどんな報復をされるか分かったものではない。
「ちょっと待って、コーティ」
話せば分かる――などとフォロンは甘い幻想を抱いた。
「ぼ、僕じゃないよ……! レンバルトが……」
さすがに今の彼に『親友』を庇おうなどという崇高な考えは無い。
というか庇うも何も実際にコーティカルテにデコピンかましたのはレンバルトであってフォロンではない。まして怒り狂ったコーティカルテは寝起きの熊よりも危険である。比喩や冗談ではなく――これは事実なのだ。コーティカルテに限らず精霊をその外見で、つまり人間的基準で判断してはいけない。そもそも――ちょっと拗ねただけでフォロンが悶絶する様なボディブローをかましてきたりするのだから。
「ほほう……。あの男がどうしたと…?」
「いや、だから、犯人は彼だと……って、あれ……?」
フォロンはついさっきまでレンバルトが立っていた場所を示す。
だが言うまでもなくそこに彼の姿は無い。
焦って辺りを見回すと――教室の扉から顔だけだしてこちらを覗いているレンバルトの姿を見つけた。気楽に手を振っている。
フォロンは確信した。
レンバルトはあきらかにこういう場面を期待してフォロンを迎えに来たのだ。
「…………」
とりあえずフォロンは後でレンバルトと『親友』の定義についてじっくりと話し合おうと心に決めた。ひょっとしたらレンバルトの辞書には全く違う意味が載っているのかもしれない。
「フォロン……覚悟は出来ているのだろうな……私の安らかなる眠りを暴力によって妨げた罪は重いぞ……?」
「いや、その、ちょっとまって……そう……そうだよ……暴力はいけないよね……暴力は……とりあえず落ち着いて話し合うべきだと……思わない……?」
どうにか誤解を解こうと試みるが、彼女は一言。
「思わん」
「そ、そう……」
頬にひやりと冷たい汗が流れ落ちる。
「暴力は暴力で、血は血で、痛みは同じ痛みで以てのみ贖《あがな》われる。それが歴史の示す事実だ」
「か……哀しい結論だよね……それ……」
などと言ってみるもののコーティカルテの耳には最早届いていない様子。
そして。
「仕返しだっっ!!」
「だから僕じゃないってぇ!」
仕返しといいながら明らかに拳で襲いかかってくるコーティカルテから、フォロンは一目散に逃げ出した。
トルバス神曲学院最上階。
その中央。
そこには学院長室が在る。
トルバス神曲学院――学院長。
その権力は単なる一教育機関の長の領分を大きく越えるものである。
元々精霊の強大な力を操る神曲楽士達は社会に対する影響力も大きい。そんな彼等をトルバス神曲学院は何百人と送り出してきたのだ――これは神曲楽士業界に最大学閥を形成するに足る数であり、一般社会に対して充分以上に影響を及ぼせる実績である。
当然――その教育機関の長ともなれば発言は各方面に多大な影響力を持つ。
学院長の名を無断借用して怪しい商売に手を染める者も居れば、学院長にもたらされる権益のおこぼれにあずかろうと揉み手をしながらすり寄ってくる者も居る。本来は関係の無い政治的な争い事に学院長を巻き込んで、その権力を都合良く利用しようと考える者も少なくない。
大きな力を持っている者は本人が望む望まぬに関わらず周囲が放っておかないのだ。
もっとも。
そうやって学院長の処に群がってくる者達は、実の所、学院長の持つ『本当の権力』というものを知らない。そして同時に学院長が持つ『本当の実績』と『本当の威力』というものを知らない。
何より――誰からも違和感なく『学院長』とだけ呼ばれる男の本名を知らない。
学院長室を訪れる大半の者達は、自分達が歴史にも名高い偉人を前にしているという事実にさえ気付かず、用件を済ませてこの部屋を去っていくのだった。
そして。
学院長室にはそんな訪問客が今日も絶えない――
「この度は我々第六神曲公社の訪問見学を受け入れていただきありがとうございます。神曲学院としては我々にはまだ何かと経験不足な事が多々ありますので、いろいろと参考にさせていただきます」
きっちりとしたスーツに身を包んだ、この業界ではまだ若いといえる男が深々と頭を下げる。その胸には第六神曲公社のマークが誇らしげに輝いていた。
「はい。うちもまだまだ足りないところなどもありますが、ゆっくりとくつろいでいって下さいな」
トルバス神曲学院最高権力者は、にこやかな笑顔と場違いな程にのほほんとした口調でそう答えた。
鼻先に眼鏡を引っ掛けた、非常に美しい顔立ちの青年である。その容姿は頭を下げている男よりもさらに若くみえた。
細かな仕草にまで気品のようなものが感じられたが、その優しそうな青年からは最高権力者としての風格や威厳といったものはまるで感じられない。講師どころか教室で学生達の間に交じっていてもそう違和感が無いだろう。
最近では既にこの学院長の容貌やちょっと変わった性格についてはあちこちで知れ渡っている為、そうそうややこしい事にはならないが、今でもたまに目の前の青年がトルバス神曲学院の学院長であるとはどうしても信じられず、学生にからかわれたと勘違いして怒り出す訪問者も居る。
「今年のうちの卒業生も、一人そちらでお世話になっていますしね」
「いえ、世話になっているのはこちらです。我々よりも彼女……ツゲ・ユフィンリーさんの方が、この学院にあって我々の学院にないものを的確に指摘してくれています」
「そうですか。お役に立てているのでしたら、なによりですよ」
六つ存在する神曲公社の中でも、彼等来訪者の所属する第六神曲公社が付属の神曲楽士専門学校を創設したのはつい最近のことだった。
神曲楽士になるためには必ずしも神曲楽士専門学校を卒業する必要はなく、国家試験を通り、公社の認定を受けて仕事を斡旋された時点で神曲楽士と認識される。
これまで第六神曲公社はそういったフリーの神曲楽士に仕事を斡旋し、業務をこなしてきた。それで今まで何も問題はなかったにも関わらず、急に方針を転換し、付属の学院を創設することになった背景には何らかの政治的介入があったのではないかと一部の報道関係者は騒いでいた。
それはともかく。
学院としては新興の第六神曲公社は、その筋で最も実績をあげているこの第三神曲公社付属のトルバス神曲学院を見学しにきていたのである。実を言えばユフィンリーに代表されるトルバス神曲学院の卒業生達が、最近よく第六神曲公社から仕事の発注を受けるのも、この学院が育て上げた神曲楽士の質を見るという隠れた公社側の目的が在る。
「さて。立ち話もなんですから、お茶でも飲んで行きます?」
まるで友達を遊びに誘うかのような気軽さで話しかける学院長。
「ダカルポ産のね、良いのを昨日、元卒業生の親御さんから頂きましてね。ゴールデン・ティップが入った古式製法最高級品《ヴィンテージ》ですよ。これにミルクを入れて飲むのがもう……一口で恍惚となる美味しさです」
などと言いつつ既に茶器を用意しようと腰を浮かしていたりする。
彼の立場からすれば椅子に座ったままふんぞり返っていても誰も文句は言うまいし、茶を煎れてもてなすにしても、普通は専属の秘書か誰かが気を利かせて手配するものだ。
まあ単純に茶を煎れるのが趣味なだけかもしれないのだが――いまいちどこまで本気で言っているのか分かりにくい人ではあった。
「いえ、さっそく授業内容など見学させていただこうと……」
「あらあら、そうですか。分かりました。それではカリキュラム等に詳しい人間に案内をお願いしますので、ごゆっくりしていって下さい」
「お心遣い、ありがとうございます」
男がもう一度頭を下げると、扉の前で待機していた事務員の制服に身を包んだ男が扉を開け、「こちらへ」と公社職員を促した。
重厚な扉が、その重さを感じさせないほど滑らかに閉じられる。
「あの様子からすると、彼女は向こうでも上手くやっているようですね」
閉じられた扉を眺めながら学院長は呟く。
その時――
ひゅん、と空気が鳴った。
急激な密度差を創り出された気体の出す悲鳴だ。例えば高速移動する物体が抉り抜いた真空へ周囲の空気が流れ込む時に発する様な。
扉は――再び開いていた。
全く一瞬の事である。
恐らくこの場に余人が居たならばいつ開いたのか認識も出来なかったであろう。
そして……学院長の前には小柄な人影がいつの間にか佇んでいた。
「学院長」
「君は……相変わらずノックをしないですねぇ」
そうは言いつつも学院長に気分を悪くしている様子は無い。むしろどこか親しみがこもっている様な口調だった。元々彼自身がざっくばらんな性格なのだろう。
それに――
「人間には人間の。我等には我等の礼儀が在る」
ぶっきらぼうな口調でそう言う人影の背には二枚の輝く羽根が浮かんでいた。
小柄な人影は――台詞とは裏腹に可憐な顔立ちの童女だった。
十歳位の子供の様に見えるが、無論、この童女は精霊なので人間的な見た目はあまり意味が無い。たまたま童女の外見をしているだけで実際の年齢は百を超えるなどという事も珍しくないのだ。
もっともこの精霊は実際に生まれて数年の若い精霊ではあるが。
学院の中に常駐している精霊の一体である。
「とりあえず此処は私の部屋なので人間の流儀に従うべきだと思いません?」
「…………」
「…………」
レイトスは微笑を浮かべて、精霊はただ無表情に、互いを見詰める。
そして――
「…………ごめんちゃい」
あっさり言ってぺこりと精霊は頭を下げた。
「はいはい」
今一つ言動に統一感が無いのは、この精霊が若い精霊だからだ。人間と異なり成長という過程を経ずいきなり完成体として生まれる精霊には、人間から見れば言動がちぐはぐな者も少なくない。
人格や感情の成長過程が人間と違うのである。
最終的には普通の人間と同じ様に安定する精霊が殆どだが、生まれて十年未満の精霊は意外と熟練の神曲楽士でも扱いに手こずる事が多い。
それはともかく……
「ああ、別にやり直さなくていいから」
と学院長は部屋を出て最初からやり直そうとしている精霊の童女に声を掛ける。
「――そう?」
首を傾げて言うと……とことこ歩いて精霊はレイトスの前に戻ってきた。
「それより報告を」
「――ツゲ・ユフィンリーの報告にあった侵入者の件。その後の夜間見回りでは今のところ何も無い」
精霊は無表情に言った。
「そうですか。まぁ相手としても一度失敗していますしねぇ。まったく同じ手でくるわけはありませんよね。う〜ん」
レイトスはそう話しながら、執務机の中から小袋を取り出した。その袋を開くと学院長室にほんのりと良い香が漂う。
ポプリである。
この学院長は良い匂いのするものが好きで、先程公社の者に勧めていた紅茶も味というより匂いにこだわって始めた趣味である。他にもポプリ造りは昔からの趣味で、時々考え事をするときや、逆に何にもしていない時などにこうして机の中からお気に入りの袋をとりだし、匂いを嗅いでいる。
学院長は一度眼を閉じ――ゆったりとその香を確かめるように軽く吸い込んだ。
「意外と昼間から堂々と入り込んでいるかもしれませんね……とりあえずアレの警備の方は引き続きお願いします」
「心得た。ウォルフィスやテレンシアミルにも伝えておく」
「よろしく。ところで」
学院長はにっこり笑って言った。
「ミゼルドリット――君、紅茶に興味はありませんか?」
「紅茶?」
「ダカルポ産のね、良いのを昨日、元卒業生の親御さんから頂きましてね。ゴールデン・ティップが入った古式製法最高級品ですよ。これにミルクを入れて飲むのがもう……一口で恍惚となる美味しさです」
「飲むー」
無表情に頷く精霊。
「ではちょっと待っててくださいね? ああ、お茶請けも必要ですねえ。確か昨日ツゲ君に貰ったお土産が――」
言いながら学院長は立ち上がる。
妙に嬉しそうに茶器の準備をするその姿には――学院長としての威厳はおろか伝説的な偉人に相応しい雰囲気など微塵も無かった。
「いたたた……」
フォロンは額をさすりながら廊下を歩いていた。
彼の前を鼻歌交じりにコーティカルテが歩いている。とりあえず仕返しをしたら御機嫌が直ったらしい。短気だがその分気分の切り替えは早いのである。だからこそ正反対の性格であるフォロンは彼女に振り回されまくる訳だが。
昼休みに入った学院内は意外と静かだった。
昼食をどう摂るかというのは特に何も決まっていない。
トルバス神曲学院では自己管理・自己責任の名の下にかなり校則の類は緩く設定されており、休み時間に郊外へ出る事も特に制限が無い。故に校外の飲食店で昼食を採る生徒も少なくない。
もっとも校内食堂も専属コックが居るだけあって味も悪くないし、何よりも安い。昼食時ともなれば大繁盛である。生徒の半数以上は此処で昼食を摂る。
なので外で昼食を採る生徒は大抵が校内食堂に飽きた専門課程の生徒か――さすがに美味でも二年も通っていれば飽きてくる――さもなくばもっと優雅な雰囲気で昼食を楽しみたいというこだわり派が殆どである。どうしても時間帯によっては校内食堂は戦場の様相を呈したりするからだ。
まあそれはさておき。
こうした事情が在る為に昼休みの校内は大幅に人口密度が偏る。
教室が並んでいる棟は人口が極端に減るのだ。自前の弁当を持ち込んで食べている者や、一部教室に残って雑談している生徒も居るには居るが、数が少ないので騒がしくなることはまずない。
「はぁ……」
前を歩くコーティカルテの背中を見て、フォロンは溜息をつく。
(レンバルトが面白半分にコーティをからかうと、痛い目をみるのはいつも僕なんだよなぁ……)
分かっている筈なのについつい油断する自分が情けない。
結局――コーティカルテの理不尽極まりない『仕返し』がしっかり終わってからレンバルトは謝りに来たが、彼は全く反省などしていないとフォロンは確信していた。反省していればもうちょっと殊勝な態度になるだろう――少なくともフォロンの額にくっきりと残る痕を指差して笑い続ける様な真似はすまい。
コーティカルテはコーティカルテで、フォロンを追い掛け回してしっかり制裁を決めたせいか、殊更にレンバルトの責任を追及する様子も無く、フォロンに対して勘違いを謝る様子が無い。要するに憂さ晴らしが出来れば誰でも良いのだろう。
「――ん?」
フォロンがそんな事を考えながら歩いていると、急にコーティカルテが足を止めて何かをじっと見つめた。
「どうしたの?」
「フォロン。ここには前からこんな扉があったか?」
彼女に言われて振り向くと、そこには壁の色と同じ色で分かりにくいが、金属製の扉が壁の真中に備えられていた。一見すれば防火壁にも見えるが……建物の構造から考えれば小さいながらもこの奥には何らかの空間が確保されている筈だった。
「ああ……『三枚の開かずの扉』か」
「開かずの扉?」
コーティカルテが怪訝そうに聞き返してくる。
「うん。たぶん倉庫か何かの扉なんだろうけど、いつも鍵がかかっていて生徒は入れない――って扉が学院内のあちこちに、三枚在るんだ。しかも今まで誰も開いているのをみたことがない、ってことで、みんなが面白がってそう呼んでいるんだよ」
フォロンが語った通り――扉の正面には『立ち入り禁止』と書かれた紙が貼り付けられている。鍵もやたらと頑丈そうなものが三基も並んで取り付けられており、ちょっとやそっとでは開けられそうにない。
「ほう……?」
何か興味をそそられた様子でコーティカルテが扉を凝視する。
「この扉に関してはいろんな噂があるなぁ。実は秘密研究室への扉とか、地下基地への入り口とか、昔自殺者を出した教室を封印しているとか……」
フォロンがこの扉について囁かれている噂話の幾つかを列挙する。
しかしいかにも学生が捻り出した様な御粗末な噂話にはあまり興味が無いのか――コーティカルテはただ扉だけを奇妙な熱心さで見詰めている。
「あ。そういえば今日の朝礼で先生が言っていたっけ。何か昨日泥棒騒ぎがあったからあんまりこの辺りに近づくなって……」
元々この辺りは一般の教室から少し離れた場所に在る。
普通に学院生活を送っていれば殆ど通る事の無い――用の無い区画である。既にトルバス神曲学院に入って三年目のフォロンでさえ、この扉の前を通ったのはこれで四度目か五度目だろう。
どうやら考え事をしながらコーティカルテの後をついて歩いていたので、彼女がいつもと違う通路を通っている事に気付かなかったのだ。
コーティカルテは持ち前の気まぐれさからか、あるいは何か捜しているものでもあるのか、突発的に学院内の散策――というか探検――を始めたりするので、気がつくと二人して妙な処に迷い込んでいるという時はたまに在った。
「でもよく考えたら泥棒騒ぎって変だよね。学校の、それも倉庫なんかから何を盗むんだろう……ってコーティ?」
フォロンの話にはろくに耳も貸さず――コーティカルテはそっと手を伸ばしてその鉄の扉に触れた。
あたかもその存在を隠すかのように、壁と溶け込む色で塗られた鋼鉄の扉。
コーティカルテは何も言わずにしばらく扉の表面を掌で撫で回していたが――いきなり何を思ったか、はめ込み式になっているノブを回した。
「――お。開いているぞ」
「え……?」
金属の擦れる重い音を立てながら扉が開いていく。
フォロンは硬直してその場に立ち尽くしていた。何か――知らずにとんでもない事をしてしまった様な不安感が胸の中に沸き上がってくる。普段、厳重に鍵がかけられているという事は当然、安易に開けてはいけない扉だという事だ。少なくとも一生徒や精霊が勝手に開いて良い扉ではない筈だった。
早く誰かに見られる前に閉じなければ――そう思うフォロンだったが、彼の焦りなどまるで知らぬ様子で、あっさり開いた扉をくぐり、何の躊躇いも無くコーティカルテは中へと脚を踏み入れていた。
「ちょ、ちょっとコーティ! 立ち入り禁止って書いてあるんだよ。入っちゃダメだよ! ダメだったら!!」
当然だが焦ったフォロンは彼女を止めるべくその腕を掴もうとしたが……するりと彼の手をかわしてコーティカルテは扉の向こうに開いた空間へ入っていってしまう。
「ああああ……もう……」
片手を扉の傍らの壁に付いて俯きながら、呻く様な声を漏らすフォロン。
放っておく訳にもいくまい。精霊契約を交わした精霊の不始末は神曲楽士も連帯責任に問われるし――それだけならまだしも、ひょっとしたら中には危険なものが在るのかもしれないではないか。『立ち入り禁止』の張り紙はまさか伊達ではあるまい。
「これって、やっぱり見つかったら怒られるよねぇ……」
幸か不幸か辺りに他の生徒の姿は無い。
意を決してフォロンはコーティカルテの後を追った。
鉄扉の向こう側は細い階段が続いている。薄暗い上にやけに長々と急な階段が続いているのでその先に何が在るのかは分からないが――
「コーティ! コーティってば! 危ないよ!?」
叫びながらフォロンは階段を下りていく。
ちなみに……
『コーティカルテは精霊だから大抵の事は平気』という考えはフォロンには無い。
よく考えれば同じ危険領域に脚を踏み入れるのでも、コーティカルテとフォロンなら、単なる人間であるフォロンの方が遙かに危機に陥る可能性は高い訳だが……コーティカルテは何しろ見た目だけは『か弱い』女の子なのである。いやもう本当に見た目だけなのだが……それでもフォロンは心の何処かで彼女を『男の自分が守ってあげないと』と思っている部分が在って、彼女が何か危なっかしい事をしていると放っておけない。
まあコーティカルテが聞けば爆笑するか心底呆れるかもしれない話だが。
「……でも何なんだろう……ここ?」
階段を下りながらフォロンは呟く。
てっきりちょっとした物置でも在るのかと思っていたら――予想に反して出てきたのは階段。しかも恐ろしく長く降りていく先は異常に深い。
辿り着く先は恐らく地下室だ。
それも単なる地下室ではなく何か特別な理由や意図が絡んだ施設なのだろう。無意味にこんな百段以上もの階段を要する深さに部屋を設置する馬鹿は居まい。深いなら深いなりの理由が在る筈だ。
例えば――地盤によって何かを地底奥底に封じておこうとしているとか。
まさかこんなものが学院に在るとは思ってもみなかった。
何か一歩降りる毎に常識や日常といった世界から離れていく様でフォロンは背中に冷たいものが這う感覚を覚えた。
だが――
(……っと……考え込んでる場合じゃない)
気を取り直し先へ先へと進んでいるコーティカルテを追いかける。
ゆっくりと階段を下りていた彼女は、それから程なくして捕まえる事が出来たが――
「コーティ。ここは立ち入り禁止なんだから、戻ろうよ」
そう言って彼女の手を引いたが、動く気配がない。
代わりに彼女は階段の真ん中に立ちながら、何かの気配を探るかの様に周囲を見回した。
「ここは……何か懐かしい匂いがする」
「え……?」
コーティカルテの思いがけない言葉に虚を突かれ――フォロンは掴んでいた彼女の手を離してしまう。
懐かしいとはどういう事か。
(コーティは此処に来た事がある? それとも――)
彼女に過去の記憶を改めて想起させる様な何かが此処には在るのか。
ふとフォロンは気付く。
自分はこの紅い髪の精霊についてどれだけの事を知っているのか。
何も知らないに等しいのではないのか……
フォロンが彼女に出会ったのは十二年前――彼がまだ孤児院に居た頃のことだった。
その時にフォロンは自覚のないままコーティカルテと精霊契約を交わしたという。
だが実はその前後の記憶が曖昧になっている。
彼が幼少時にコーティカルテと会ったのはその一度だけだ。
それから彼は成長して神曲楽士を志しこのトルバス神曲学院に入学する訳だが――つい先日再会するまで実は彼女の事は忘れていた。彼女と出会った時の記憶そのものは残っていたのだが……前後の記憶が曖昧だった事もあり、フォロンの意識の中では彼女が実在の存在であるかどうかさえ怪しく思える様になってきていたのだ。
そこに現れたのがこのコーティカルテである。
当初は、初めて出会った時とあまりに外見が違っていたので同一人物――もとい同一精霊とは分からなかったフォロンだが、彼女は彼とあの『紅い髪のお姉さん』しか知らない筈の約束を知っていた。そしてまたフォロンが彼女が満足するだけの神曲を奏でた際、束の間であるが本来の姿を取り戻した。
こうしてフォロンは名実共にコーティカルテと十二年ぶりの再会を果たしたのである。
だが――此処に一つ疑問が残る。
初めて孤児院で出会ったあの日から、再会を果たすまでの間、彼女はいったいどこで何をしていたのだろうか。そしてフォロンと出会う以前のコーティカルテは何処で何をしていたのか。
改めて考えればフォロンはコーティカルテの事を何も知らない。
彼女の強引な性格に振り回され、一緒に暮らす様になって、いつの間にか彼女が側に居るのが当たり前の様に思っていたが――よく考えればフォロンはコーティカルテが一体幾つなのかという事すら知らないのだ。
精霊に人間と同じ様な老化は無いと言われる。
だが精霊も成長するし寿命も在るという事は精霊学の研究によって明らかになっている。
例えば人間型の精霊の多くが属する<ズイキ>枝族の若い精霊は、二十歳辺りまでは人間から見て何処かおかしな言動を示す。言葉遣いが安定しなかったり、言う事とやる事が合致しなかったり、性格が秒単位でころころ変わったり。
これは人間と違う成長の仕方をする精霊ならではの状態であるらしい。二十歳を超えて安定してくると彼等は普通の人間と大差ない言動をする様になってくる。
何にしても……外見に大きな変化や差異は無くとも若い精霊はしばらく見ていればそれとすぐに分かるのだ。この精霊が子供か大人かを判別する為に重ねる会話とその判断を神曲楽士や精霊学研究者達は『ルナティック・テスト』と読んでいたりする。
だが。
コーティカルテに関して言えば、フォロンと出会った十二年前の時点で、彼女は既に普通の人間と大差無い振る舞いをしていた。少なくとも当時のフォロンは彼女が精霊であったとは気付いていなかったのだ。
そうなると彼女は当時で少なくとも二十年以上の歳月を経た精霊であった事になる。
コーティカルテが何処で生まれどの様な時間を過ごしてきたのか。
それをフォロンは全く知らない。
(コーティ……君は……)
その言葉を口にしようとした時。
かつん……かつん……
靴音が響く。
慌てて見れば階段を上がってくる一人の女性の姿が見えた。
(まずい――ど、どうしよう!?)
フォロンは一瞬でパニックに陥る。
薄暗いのと角度のせいで相手の顔は見えにくいが――女性が生徒ではないのは一瞬で分かった。着ているのは学生服ではない。ぱりっとした仕立てで色の揃ったジャケットとスカート――つまりはスーツである。しかも胸の辺りにあしらわれているのは第六神曲公社の社紋《エンブレム》だ。
恐らく何らかの社用でやってきた公社の人間だろう。
そういえば第六神曲公社の職員が訪問見学に来るとか何とか――そんな話を聞いた様な気がする。自分達には特に関係ない事と思って忘れていたが。
何にしても公社は学院の上部組織――つまりは公社の社員も講師や事務員、用務員達と同じくこの学院校舎を管理する側の人間である。そんな相手に見咎められれば、学生のフォロンは相応の罰を覚悟せねばならないだろう。
ただでさえフォロンは喧嘩っ早いコーティカルテのせいで何かと学院側から睨まれている立場である。立ち入り禁止の場所に入ったと分かれば他の生徒達よりもきつい処分が下される可能性だって在った。
(コーティ、行くよ!)
フォロンは急いで戻ろうとする。
女性は何やら書類の様なものを見ながら階段を上っており、未だこちらに気付いた様子は無い。足音を立てずにこっそり戻れば見咎められる事は無いかも知れなかった。
だが――
(コーティ、コーティ!)
コーティカルテは女性に気付いていないのか――そもそも状況が分かっていないのか逃げようとする素振りも見せない。むしろ怪訝そうな表情を浮かべて尚も空気中に漂う『匂い』を嗅ぐ様な仕草を繰り返しながらその場に立っている。
焦れたフォロンは無理矢理彼女の手を引き――
「あ……」
公社の制服を着た女性がフォロン達に気付いたらしい。
女性は階段を上る足を止め――僅かに驚いた様な表情を浮かべてこちらを見上げてきた。
(やばい! 見つかった!)
最早、足音を抑えてだの気配を殺してだの何だのと言っている場合ではない。フォロンは珍しく強引にコーティカルテの腕を引っ張って自分の側に引き寄せると、彼女の背中に腕を回して押しつつ、急いで階段を上り始めた。
今なら未だはっきり相手に顔を見られていないかもしれない。さっさとこの場から逃げ去るのが賢明だ。
だが――
「おお……?」
「すぐ出て行きます! すいませんでした!」
それでも去り際にわざわざ律儀に謝ってしまうのは……まあ彼の性格だ。
「おいフォロン――おおっ?」
焦れたフォロンに抱えられる様にして階段を上りながら――というか殆ど丸太か何かを抱える様な感じで小脇に抱えられて運ばれながら――驚きの声を上げるコーティカルテ。
それだけフォロンが焦っているという事なのだが、コーティカルテは何故か静かに笑ってされるがままになっていた。色気も何もあったものではない体勢なのだが、それでも彼女には嬉しいらしい。
「あの子供が……今や私を抱き上げるか」
何処か感慨の滲む彼女の声は――無論、必死に階段を上る事に集中しているフォロンの耳には届く筈も無かった。
一方――
「あの子は……」
階段を駆け上がり去っていく男子生徒と、その小脇にまるで荷物の様に抱えられながら運ばれていく女子生徒――次第に小さくなる彼等の後ろ姿を、第六神曲公社の制服に身を包んだ女性は静かに見つめていた。
その怜悧に整った顔にはもう驚きの表情は無い。
しかし――
「見覚えの在る顔だが」
呟いて女性は懐から小さく折り畳まれた紙を何枚か取り出した。
開かれたそれは――トルバス神曲学院に在籍する生徒の資料である。ぱらぱらと紙をめくってから女性はその中の一枚を見つつ指を止めた。
斜めに破けた書類。
読めない部分も多いが――名前と顔写真は確認出来る。
タタラ・フォロン。
「学生服をきていたが……学生か……?」
写真を睨みつけながら眉をひそめる。
女性の背後でもぞりと何かの気配が動いた。
薄闇と女性の影に紛れている為にその輪郭すら定かではないが――
「当たり前だろが。学生服着てたんなら学生だろうがよ?」
くぐもった声が女性の背後から漂ってくる。
「擬装という事も考えられる。大体――あの少年の隣に居たのは、学生服を着てはいたが……恐らく精霊だろう」
女性は声の主を振り返りもせず淡々とした口調で言った。
「ふむ……成る程?」
「お前の回収してきたこの資料だが……一人だけおかしな名前が混じっていてな」
女性はフォロンの顔写真を指先で弾いた。
「調べてみるとどうもあれは、今期の成績優秀者一覧だったらしい。全学年から選ばれた人選である事を考えれば、レイトスが今後の戦力強化候補として考えている生徒と見て間違いないだろう。だが――この少年だけが例外なのだ」
「成績が良くないとか?」
「そうだ。決して悪いという程ではないが――他の者達からすると明らかに見劣りする。不自然だ。レイトスが生徒に紛れ込ませた手駒という可能性もある」
「しかし……神曲も無しに精霊を連れ回してる訳だろ? ってことは精霊契約結んでるって事になる。あの歳でもう精霊と専属契約を交わしているとしたら、成績表通りの実力って訳でもないんだろうさ」
「ならば尚更に不自然だろう。そこまでの逸材ならば何故学生などやっている?」
「……そりゃそうか」
「無論――潜在能力は高いが安定していないだけかもしれないが。何にしてもレイトスが眼を付けているとなれば単なる学生でもないのだろう」
女性は懐に資料を戻しながら微かに思案の表情を浮かべる。
「どちらにしても見つかったのはまずいか。公社の制服を着ている以上、すぐに疑われるとは思えないが……」
第六神曲公社の職員達が訪問見学に来ているのは事実だ。
だが訪問見学の詳細を知る者や当の職員達がこの場に居ればすぐにこの女性に対し素性を明かす様に求めた事だろう。
今回の公社の訪問予定者の中に女性職員は居ない筈だったのだ。
「少しやり辛くなったか……」
女性は小さく舌打ちをする。
しかし――
「そうでもないんじゃねえか?」
「――ふむ?」
「考えようによっちゃ好機だぜ? レイトスが眼をかけている人間だとしたら、何らかの形であれに繋がっている可能性は高いわな」
「しかし……どちらにせよ警備が厳重になる可能性が高い。しばらくは少々離れた位置からあの少年を監視しておく方が安全かもしれん」
「……まあそこらの判断は任せるが」
「とにかく早急に一旦撤退するぞ。またあの小娘の様な精霊使いが出てきては厄介だ」
階段を再び上りながら女性はそう言った。
「やっぱり…………逃げてきちゃった……のは……まずかった……かなぁ……」
少し息を切らせながらフォロンは後ろを振り返る。
彼の背後には長い廊下が真っ直ぐ延びているが――少なくともそこに追い掛けてくる者の姿は無い。コーティカルテを脇に抱えて走るフォロンの姿にびっくりして振り返っている生徒の姿はちらほらと見受けられたが。
フォロンは長い溜め息をついてコーティカルテを降ろす。
彼女は今一つ状況が飲み込めていないのか、不思議そうな表情を浮かべて尋ねてきた。
「一体どうしたんだ?」
彼女のその言葉を聞いてフォロンはその場に座り込んでしまいたくなった。
自分がこれほどドキドキしなければならない状況を作り出した張本人だけには言われたくないセリフである。
「あのねぇ……コーティが立ち入り禁止って書いてある部屋に入っていっちゃったからこんなことになったんだよ」
「ん……? こんなこととは?」
「公社の人から逃げなくちゃいけなくなったことだよ」
「なぜ逃げねばならないのだ?」
ダメだ。
根本的に――というか常識的部分から分かっていない。
「なぜって……入っちゃダメだって言われている所に入っちゃったんだから、見つかったら怒られるじゃないか」
「怒りたい奴は怒らせておけばいいではないか」
まるで他人事のように言ってのける。
いや――彼女にとっては完全に他人事なのだろう。基本的に彼女は唯我独尊……自分の行動で誰が怒ろうが喚こうが大して気にしない。下手をするとただ我が儘なだけの嫌な奴という事になるのだが、不思議と腹が立たないのは、多分、彼女の行動に妙な小狡さや浅ましさが無いからであろう。
いつでも堂々としているのだ――この紅い髪の精霊は。
「僕は……よくないの……」
コーティカルテが学院についてくるようになってもうすぐ三ヶ月になろうとしているが、未だに人間社会の常識の様なものがごっそり欠落している感がある。恐らくは学ぶ気が無いのだろう。
(つまり……それは……)
単に勝手に出来上がった自分の常識にこだわっているのか。
あるいは――人間の常識そのものに価値を見出していないのか。
長命な精霊は人間よりも遙かに長い時間を生きるという。肉体部分よりも精神部分の比重が大きい彼等は肉体の劣化による死――老衰というものとは縁が無い。
その反面、彼等は精神の疲労や苦痛に弱い処が在る。
人間の心理的ストレスが激しいと肉体が不調を訴える事が多いが精霊の場合はそれが直接的に生死に関わったりするのだという。心の底から絶望したり、あまりに大きな哀しみを感じたりすると、それが原因で死んでしまう事さえ在るのだそうだ。
それはさておき――
(僕はコーティが一体、どれだけの時を生きてきたのかも知らない……)
何にしても――もしコーティカルテが数百年を生きてきた精霊なら、常識などというものに価値を見出していない事も有り得る。人間個人が見てさえ十年から数十年の単位で常識は変遷する。時に千年を生きる精霊からすれば、人間社会の常識などころころ変わる不確かな戯言にしか見えないのかもしれない。
だからといって堂々と無視されても困る訳だが。
「はぁ……一応謝ってはきたけど……後で呼び出しされるかもね……」
その時は大人しく怒られに行こうと腹をくくる。
まあ元々徹底してしらばっくれたり、他人に罪をなすりつけたりは性格的に出来ないフォロンであるから、それ以外に選択肢は無いのだが。
「さて。次は一年生との授業か。気持ちを切り替えていかないとね」
それを聞いてコーティカルテが少しだけムッとして見せた。
専門課程一年目の午後の部は、担当する基礎過程一年生への授業をする時間がほとんどだ。
授業をするといっても、教壇に立って講義するわけではなく、基礎一年の生徒達がそれまでの授業で分からなかった点を質問し、それにフォロン達専門一年の先輩が答えるといった形式のものだ。
学院の講師は殆どが現役の神曲楽士であるために、どうしても数的に生徒数をカバーしきれないため、現役でなくても指導できる点に関しては先輩が後輩を指導するシステムとなっていた。
無論――これは単に講師不足を補う為だけのものではなく、専門課程の者にとっては自分が基礎過程で学んできた事の復習と整理にもなる。ただ何となく聞いているだけで分かった様な気になる者は多いが、いざ他人に教えるとなるときっちり理解していなければたちまち詰まってしまうので、自分の弱点を自覚するには丁度良いのである。
フォロンが面倒を見るべき基礎の一年は八名。
当初はもう少し数が居たのだが、既に半年も経たない内から脱落者が出て今はこの人数になっている。最終的には更にこの半分になるだろう。
この八名の中にはペルセルテとプリネシカの二人も含まれていた。通常は基礎の一年は適当に振り分けられるのだが――この二人は世話役に強くフォロンを希望したので揃って彼の担当の中に居るのである。
だがこれがコーティカルテは面白くない。
もっと具体的に言えばペルセルテが何かとフォロンに懐くのが気に入らないらしい。
「何もお前が張り切ることはないではないか」
ユギリ姉妹に会う事をフォロンが楽しんでいる様に見えたのか――まあ実際に彼女等と会う事は何かと楽しい訳だが――コーティカルテは見るからに不満そうな表情で文句を言ってくる。
「だってさ、前に比べたら最近は結構質問とかも増えてきたし、頑張らないとって思うだろ?」
最近――フォロンは少し基礎一年への授業そのものが楽しくなっていた。
新学期が始まってすぐのころは、殆どペルセルテしか質問にきてくれなかった。
フォロンはあまり『頼り甲斐の在る先輩』といった雰囲気ではないし、担当の一年の間にはとある事情からフォロンを小馬鹿にする様な雰囲気も在って、ユギリ姉妹以外は殆どフォロンの存在を無視していたのである。
だが――ある日たまたまペルセルテに請われて単身楽団を使った実演指導をしたところ、他の一年生達も少しはフォロンの事を見直してくれた様で、それからは質問にくる生徒の数が増え始めたのだ。
あまり人にものを教えるのが得意ではないフォロンではあったが、皆が真剣に聞きにきてくれるようになるとやはり嬉しく思うし、やり甲斐も出てくる。
「むぅ……」
コーティカルテが珍しく困ったように考え込んでしまった。
彼女としてはフォロンが嬉しそうにしているのは喜ばしいが、その原因にユギリ姉妹が関係している、と思うと素直に喜べないといったところなのだろう。
無論――コーティカルテのそんな複雑な心境を読み取れる程の敏感さはまだフォロンにはなかった。自分に自信が無いからなのか他人から寄せられる好意に関しては驚く程に鈍感な処が彼には在る。
「さてと。今日も単身楽団の持ち出し許可をもらいに行こう」
フォロンは完全に気持ちを切り替え終わると事務室へと向かって足早に歩き始めた。
午後の授業開始を報せる鐘の音が鳴る。
「おはようございます」
フォロンは少し控えめな挨拶をしながら担当する基礎課程一年達が待っている教室へと入った。ちなみにレンバルトなどは「おーし。ジャリども揃ってるかー」などと言いながら教室に入るそうだが、とてもフォロンには真似出来ない。
「おはようございまーす」
ちらほらと返事が返ってくる。
やはり一番元気がいいのは一番前の席で授業が始まるのを今か今かと楽しそうに待っているペルセルテだ。
しかしそれでも、他の生徒達から返事が返ってくるようになっただけだいぶ進歩したと言えるだろう。最初の頃は殆ど返事など返ってこなかったのだ。
勿論――これは前述の通り後輩達だけではなく、いかにも頼り無さそうな態度で彼等に接していたフォロンにも問題があったのだが。
余談ではあるが、学院での挨拶は時間帯にかかわらず顔を合わせば「おはようございます」、別れる時は「お疲れ様でした」で統一されていた。そのため、午後の授業にもかかわらずみな「おはようございます」で挨拶をしている。細かい事で悩みやすいフォロンとしてはこういう簡略化の為の統一は有り難い。
「それでは、いつも通り何か質問があったら来てくださいね」
フォロンは単身楽団を教壇の隣に置くと、椅子に腰をおろした。
「はいはい先輩! 質問質問!」
席に着くと同時に、ペルセルテがノートを持って駆け寄ってきた。毎回必ず彼女の質問から授業が始まる。
そして――
「却下。席に戻れ」
これもやはりいつもの通りコーティカルテが横から口を出し、腕を組んでペルセルテの前に立ちはだかった。
「ええ!? まだ質問すらしてませんよ!」
「お前は質問しすぎだ! たまには全部自分でどうにかしろ!」
「先輩に教えてもらった方が分かりやすいんですもん! いいじゃないですか!」
「ダメだ! 禁止する!」
そのまま二人が口喧嘩を始めるのも今となっては日課である。
確かにコーティカルテの言うとおり、ペルセルテはよくそれだけ質問を考えるなと思ってしまうほど、よく質問にくる。というかフォロンはともかく、他の生徒達やコーティカルテはペルセルテが質問の為の質問をしている事に――尋ねる事が無くても無理矢理質問を捻り出している事に気付いていた。
だからコーティカルテの反応もあながち無茶なものではない。
とはいえフォロンは気付いていようといまいと立場と性格から二人を放っておく訳にもいかない。口調と表情にほんのりと諦めの色を漂わせつつ彼はやはり毎度の如く二人の仲裁に入るのだった。
「二人とも……静かにしてね。他のみんなも勉強してることだし」
実際にはその『他のみんな』もすでに二人の口喧嘩には慣れきった様子で、いちいち顔も上げないのだが。きっと少々大きめのBGMくらいにしか思っていないのだろう。
人間の慣れというのは恐ろしいなあとフォロンは思う。
もっともプリネシカだけは慣れていない様で――姉とコーティの口喧嘩が起こる度に赤面して俯いている。
「そうだぞ。静かにしろ。お前は早く席に戻れ」
「教えてもらったら戻ります! コーティカルテさんこそ静かにして下さい!」
……とはいえ。
この二人のやり取りはまだある意味で微笑ましい。
コーティカルテもペルセルテも共に容姿としては可愛らしい少女なのだし、彼女等が口喧嘩している姿も何処か子犬がきゃんきゃんと吠え合っている様な感じで、あまり殺伐とした雰囲気にはならない。フォロンとしては辛いものが在るが――他の生徒達は苦笑したり無視したりする余裕が在った。
しかし――
彼女等の言い合いが長引くと決まって火に油を注ぎに来る不穏分子が居る。
かつて一年の間にフォロンを小馬鹿にする空気を造る原因となった人物である。
「やぁフォロン。君の周りは相変わらず賑やかだねぇ」
その人物は気障に自分の前髪を弄りながら――あまり似合っていないのだが誰も忠告はしない――にやにやと笑みを浮かべてフォロンの前に立った。
「ご、ごめん。ちょっと待ってね。なるべく早く終わってもらうから……」
フォロンはそう答えるしかなかった。
無論――相手はそれを見越して声を掛けてきているのである。
コマロ・ダングイス。
彼もフォロンが担当している基礎課程一年の生徒だ。
しかし彼は他の一年生と少し扱いが違う。というか違わざるを得ない。
実は彼――去年まではフォロンと同じ学年に在籍していたのだ。しかし専門課程への進級テストに落ちてしまい、もう一度新入生として入学してきたのだ。トルバス神曲学院は基本的に『来る者拒まず去る者追わず』なのでこういう妙な生徒もたまに出てくる。
要するに。
このダングイスはフォロンの後輩であると同時に元同級生なのである。
しかも多分に自惚れが強く根拠の無い自信だけは人一倍持ち合わせている。更には実年齢でもフォロンより二つ年上なので、単に馴れ馴れしいだけでなく、何かとフォロンを見下す様な言動が多い。
このダングイス、既に一度基礎課程を受けているということから、一年生の間でも妙に先輩風をふかしており、かつてはそんな彼に他の一年生達も一目置いている様な雰囲気が在ったのだが――フォロンの人気が上がるにつれ、いちいち彼に嫌味を言い散らすダングイスの態度を煙たがる者も増えてきて、今では一年の中でもかなり浮いた存在になっている様だった。
ちなみに。
トルバス神曲学院は入学者の年齢制限が非常に緩い。
なので下は十三から上は三十過ぎまで新入生といってもかなり年齢の幅がある。確か今年は人妻で二児の母という一年生も居た筈だ――さすがに珍しいので専門課程の生徒達の間でも話題になっていたのである。
その一方でユフィンリーの様に十代で資格試験を突破し神曲楽士として活動している者も居る訳で、そういう若い神曲楽士が講師として招かれたりした場合、生徒の中に何人か年上が居るという状況もあり得る。#メ
良くも悪くも実力主義が神曲楽士の世界だ。
故にこそきちんとその意味を理解して礼儀をわきまえている者は、たとえ講師が自分より歳下であろうとそれなりの敬意を払う訳だが――中には『実力主義』の意味を都合良く曲解して尊大に振る舞う者も居る。
ダングイスはその典型であった。
「ところでフォロン。その額のアザはどうしたのかな?」
妙に嬉しそうにダングイスがフォロンの肩に手を回す。
尋ねられた方のフォロンはつい反射的に額を手で隠そうとしたがもう遅い。他人の不幸や失敗を見つけるのはダングイスの趣味であり得意技だ。そしてそれを追求するのも。今更、誤魔化しが利く筈も無い。
「ちょっとした不慮の事故でね……あは、あははは」
「そうか〜。ちょっとした精霊による不慮の事故か〜」
「なんで知っているの……」
呻く様に言うとダングイスはにやにや笑いを一層深めて言った。
「フォロン〜? 語るに落ちるって言葉を知ってるかい?」
どうやら彼のカマ掛けにしっかり引っかかってしまったらしい。
恥ずかしくなってダングイスから視線を逸らすと――彼の背後で同じ一年生が顔をしかめているのが見えた。
こういう嫌味ったらしい会話をくどくどとしつこく仕掛けてくるこの性格が、彼の周りから浮いてしまう最大の原因なのだが――彼は分かっていない様だった。というか自分が周りから浮いているという自覚さえ無いだろう。
「いや〜、しかし本当に、なまじヘンテコな精霊と契約しちゃうといろいろ大変だよねぇ。君にはつくづく同情するよぉ」
文字通りBGMと化していたコーティカルテとペルセルテの口喧嘩がぴたりと止まる。
無論これは嵐の前の静けさなのだが……ダングイスは気付いていない。まあ気付いていても彼は止めないだろうが。
「僕の才能の欠片でも分けてあげられたらっていつも思うんだけどね。まぁ君みたいに半人前の凡人は何かと苦労は絶えないと思うけど、まあ頑張ってくれよ。うん。愚図でも不器用でも、一生懸命頑張る姿は美しいからね。鈍くさい君でも感動を呼ぶ事が出来るかもしれない。僕の様な天才の創り出す真の感動には及ばないにしても」
そう言って何やら満足げにフォロンの肩をぽんぽんと叩く。
大抵の人間は、まあよくもここまで尊大になれるものだと怒る前に呆れるだろう。はっきり言って喜劇的ですらある。
フォロンはフォロンで少々自信不足が過ぎる為、『まあ僕が鈍くさいのは本当だしね』と迂闊に納得したりするのだが――彼が怒らないからこそ余計に激しく怒る者がすぐ側に居たりする訳で。それも二人。
あ――とフォロンが気付いた時にはもう遅い。
ダングイスを睨み付けるコーティカルテとペルセルテ。
そして。
わずかな静寂の時間は瞬く間に過ぎ――
「貴様! ヘンテコとはなんだ!」
いきなり嵐が吹き荒れる。
「フォロン先輩は半人前なんかじゃありません!」
左右から挟撃するかの様に数秒前まで言い争いをしていた二人はダングイスに向けて怒鳴り始めた。
だがダングイスもこれでなかなか芯の通った馬鹿である。しかも毎日毎日彼女達と言い合っているので文字通りに百戦錬磨である。当初は二人の勢いにたじろいでいた彼だが、今では即時に言い返す事が出来る様になっていた。
「ヘンテコをヘンテコ、半人前を半人前と言っただけだろう?」
「違う!」
「違います!」
またしてもコーティカルテとペルセルテの二人が声をそろえて反論した。
とにかく飽きもせずに毎日言い合いをしている二人なのだが、ダングイスを相手にしている時だけは妙に呼吸が合っている。案外――フォロンの取り合いさえしなければこの二人、気が合うのかもしれない。
「違わないさ!」
「違う! そもそもろくに精霊も召喚することができずに、基礎課程をやり直しているようなやつには言われる筋合いは無い! 貴様が今此処に二度目の一年生の立場で居る事が何よりも確かな無能の証! そんな貴様がフォロンを凡人呼ばわりするなど身の程知らずにも程がある!!」
「ちょっと――コーティ!」
さすがに言いすぎだと思ったフォロンが止めに入るが――時既に遅し。
「ほ……ほほう〜?」
ダングイスは引きつった笑顔を浮かべながら身を震わせる。
自尊心だけは人よりも無駄に高いダングイスにとって、コーティカルテの指摘は最も聞きたくない事実であったろう。というより――その事実から眼を背け、自分のプライドを守る為に、わざわざダングイスはフォロンを小馬鹿にし続けていた節が在る。自信過剰は前からだが、同級生の時は此処まで徹底して嫌味な奴ではなかったからだ。
ダングイスは額に青筋を浮かべながら一語一語聞く者の耳にねじ込もうとするかの様な口調で言った。
「この、僕が、天才の僕が、フォロンに――フォロン如きに劣るとでも?」
「現に劣っているだろうが」
「コーティ! 言い過ぎだってば――」
フォロンがたしなめるも――コーティカルテは聞いていない。それどころかペルセルテまで一緒になってダングイスを非難する。
「実際にフォロン先輩はコーティさんと精霊契約をしているじゃないですか! 私はコマロさんが精霊を呼んだのを見た事が無いです。それだけを見てもどっちが凄いかは明白ですよ!」
「ぬぐぐぐぐぐぐ――」
拳を握りしめて呻くダングイス。
そして――
「現実は残酷だな?」
この一言で彼は切れた。
「黙れ黙れ黙れだまれダマレッ!!」
喚きながら彼は両手を振り回す。
「この三流精霊と色惚け女が! 目先の薄っぺらい事実だけで何でもかんでも分かった様な気になりやがって!!」
彼は平手で壁をばんばんと叩きながら言った。
「天才のボクが精霊を呼べないわけがない! ないんだよッ!!」
「現に呼べてないだろう」
そう当の精霊に言われては確かに否定出来ない。
出来ない筈なのだが――
「ボクの周りに精霊が来ないのは――来ないのは、他のダンティスト達がボクの才能を怖れて、ボクの周りに精霊を寄せ付けないようにしているんだ! 精霊を独占してボクの周りには精霊を居ない様にしているだけなんだ!! ボクみたいな天才が世の中に出てきたら、自分達の仕事が無くなるからって!!」
要するに。
自分の能力が足りないのではなくて他人の陰謀である――という主張らしい。
無論、実際には特定の空間の精霊だけを独占するだの、精霊を特定の神曲楽士の側に近付けない様にするだのといった事は不可能だ。
「貴様なんぞを誰が恐れるものか」
「みんなさ! 世の中に溢れているほとんどのダンティスト達なんていうものはみんな卑しいからね。みなでボクを陥れようとしているのさ。そう、これは全て彼等の陰謀なのだよ!」
「そんなことはありません!」
いちいち否定する程の事も無い様な妄想全開の台詞を――しかしペルセルテは強い口調で否定した。既に呆れ始めているコーティカルテと違い、彼女は未だ本気でダングイスに対して怒っているらしい。
「なんだとぉ……?」
ダングイスの青筋がぴくぴくと痙攣する。
フォロンは彼が卒倒しないかと本気で心配した。ダングイスはいつ脳の血管が破裂しても不思議ではない様な形相になっている。
しかしペルセルテは構わず――
「神曲楽士は他人の事を思いやれる、心の綺麗な人にしかなれません! だからそんな、誰かを陥れようなんて人はいません!」
断言するペルセルテ。
これも極論といえば極論ではある。
神曲楽士は精霊の好む神曲を組み立てて精霊の反応を見ながらそれを微調整しなければならない。これは他人の――精霊に限らず――感情や感覚をないがしろにする人間には出来ない作業だ。神曲楽士は単なる自己満足の為に曲を奏でるのではなく、聴いてくれる精霊達を喜ばせる為に曲を紡ぐのである。彼等は常に自分の曲の向こう側に精霊達の感情を透かし見ている。
だが――これが可能な者が必ずしも善人である必要は無い。
実際に、<嘆きの異邦人>事件を筆頭に、神曲楽士達が凶悪な犯罪行為に手を染めた例は、少ないながらも皆無ではないし――そこまで行かなくても人格的に問題を抱えた神曲楽士も居ないではない。
他人の感情を理解し操れる事と、他人の気持ちを思いやれる事は別だ。
神曲楽士の中にはまるで数式を解いたり化学実験をする様な感覚で神曲を演奏し、精霊を呼び寄せる者も居る。彼等は確かに精霊の喜ぶものを探り考えて神曲を奏でてはいるが、それは鋭い感性と技術によってそれを可能にしているだけで、その者の性格が優しいかどうか、潔いかどうか、などといった部分はさして問題にはならない。
ペルセルテもそういう事実を知らない訳では無かろう。
だが彼女は神曲楽士という存在に対して人一倍強い憧れや尊敬の感情を抱いている。だからこそ彼女は神曲楽士という職業人を必要以上に美化する傾向が在るし、神曲楽士を侮辱する様な物言いは許せないのだろう。
「いるさ! もうダンティストなどみんなそうさ!」
「いません! 絶対違います!」
「いるっ!」
「いませんっ!」
「それよりも貴様、ヘンテコを取り消せ!」
三人の言い合いは鎮火するどころか余計に熱を帯びていく。
それを横で見ながらフォロンはただ狼狽するばかりである。
ここまできては彼が何を言っても収まるまい。それぞれ虫の居所でも悪かったのか――今日は三人とも普段にも増して激しい。いつもなら適当な処で姉を止めに入るプリネシカですら割り込めずにおろおろしている。
やがて――
「うるさいうるさい黙れっ!! くそッ――ボクは、ボクはこんな侮辱を受けたのは初めてだッ! ボクの才能に嫉妬して、こんな――くそッ!! この事は一生忘れないからなっ!! お前達、一生許さないからなっ!!」
殆ど駄々っ子の様な口調でそう言うと、ダングイスはフォロンを押し退けて教室を出て行った。彼の眼が今にも血を噴きそうな位に血走っていたのが気になったが――さすがにフォロンも追い掛ける気にはならなかった。今彼が側に行っても余計にダングイスは激昂するだけだろう。
「逃げたか」
ふん――と鼻から息を吐いて言うコーティカルテ。
「コーティ……言い過ぎだってば……」
さすがにあそこまで追い詰めてはダングイスが気の毒だ。
「そんな事は無いぞ。馬鹿は一度徹底的に叩き潰しておかないとつけあがるからな」
「だからそういう言い方が――」
とコーティカルテをたしなめるフォロンだが、やはり彼女が反省する様子は無い。隣ではペルセルテがやはり未だ怒りが収まらないといった様子で顔をしかめながらぶつぶつと文句じみた事を呟いている。
溜め息をつくフォロン。
そして――
「ええと。そろそろ質問いいですか?」
毎度の事と気にもしていないのか――生徒の一人が手を挙げてそう言った。
そんなフォロン達の居る教室から少し離れた――廊下の片隅。
そこに一人の女性が立っていた。
胸には第六神曲公社の社紋。
昼休みにフォロンが例の階段で遭遇した人物である。
「成る程――」
彼女は薄い笑みを浮かべながら言った。
「彼――都合が良さそうだな」
「フォロン――夕食」
コーティカルテの我が儘ぶりは年中無休二十四時間営業である。
学生寮の部屋に帰り着くや否や――容赦ない要求がフォロンに向かって投げられる。しかも口にするのは最低限の単語だけという暴君ぶりである。
「ごめん――ちょっとだけ休憩させてくれないかな?」
無駄だとは思いつつもそう訴えるフォロン。
だが――
「ダメだ。今すぐ作れ」
瞬時に却下。
いっそ惚れ惚れする程の早さだが――案外、条件反射の様にフォロンの提案を却下しているだけなのかもしれない。とにかく駄目出しをし続けていればフォロンが最後には折れると知っているのだろう。
ここで断固として拒否すればまた二人の関係も変わるのだろうが――
「はいはい……」
もともと自分の要求が通るとは思っていなかったフォロンはフォロンで、コーティカルテの返事を聴く前に既にキッチンへ向かう体勢になっていたりする。
どっちもどっちである。
(でもなんか、今日は本当に疲れたなぁ)
肩を回すと、コキコキっと小気味良い音がなった。
ただでさえコーティカルテを抱えて全力疾走した上に、いつもより激しいコーティカルテ、ペルセルテ、そしてダングイスの喧嘩に立ち会った気疲れも加わっているのだろう。
(それにしても、開かずの扉の向こうに階段があったのには驚いたなぁ)
思い出すと妙に落ち着かない気持ちになる。
禁止されている事をやってしまったという罪の意識が半分、皆が知らない事を知る事ができたという得意げな気持ちが半分――といったところか。結局階段の先に何が在るのかは分からないままなのだが。
結局、今日は特に教務部から呼び出される様な事は無かった。
単にこちらの顔が見られていなかったという事か。あるいは公社の人が見逃してくれたという事なのだろうか。
(ここは……。何か懐かしい匂いがする)
「…………」
フォロンはふと、あの時のコーティカルテの言葉を思い出した。
ずっと心の奥底に引っかかってはいたのだ。その後のどたばたのせいで改めて思い出す余裕が無かっただけの事で。
(そういえば、あれってどういう意味なんだろう)
いつの間にか彼女と一緒にいるのがあたりまえで、ずっと前から彼女の事を知っているような気になっていたが――本当はフォロンが彼女について知っている事はほんの少しだけだ。自分と出会う以前や空白の十二年間については何も知らない。
無論分かっていた事ではある。
だが改めて自覚すると言いようの無い不安が頭をもたげてくる。普段この事を意識しないのは――知らず知らずの内に考える事を避けていたのかもしれない。
(でも、いい機会だし、聞いてみるのもいいかもしれない……)
フォロンはエプロンの紐を背中で結びながら、少しばかり勇気を振り絞ってテーブルの前に座っているコーティカルテに話しかけた。
「ねぇコーティ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「ん? なんだ? もう出来たのか?」
早とちりをしたコーティカルテが、嬉しそうに笑顔を見せる。
何というか本当にその表情は心の底から嬉しそうで――見ているフォロンですら嬉しくなってくる様な純粋さが在る。喜ぶ時のコーティカルテはまるで幼児の様に開けっぴろげな笑みを見せる。フォロンが唯々諾々とコーティカルテの我が儘に従っているのは、気の弱さもあるが、この笑顔には逆らえなくて……という部分も大きい。
「あ、ごめん、まだだけど……」
フォロンの返事を聞いた瞬間に、笑顔があっという間に不機嫌そうな顔へと変わる。
「むぅ。お腹空いたぞ。早く作れー」
何時の間に取り出したのか、ナイフとフォークでコンコンとテーブルの縁を叩きながらコーティカルテが急かす。行儀悪い事おびただしいのだが、どうせ注意しても彼女は聞く耳を持つまい。
「うん、すぐ作るけどさ……」
「早く作れ」
「うん。作るけどその前に――」
「その前のその前に先ず作れ」
何よりも先ず晩飯――彼女の中では変更不可能な決定事項らしい。
「うぅ……」
フォロンはうなだれて呻くととりあえず夕食の用意に専念する事にした。
作りながら話す事も出来るだろうが……一度料理を始めるとキッチンはものを焼く音や水を流す音などで雑音が溢れる。言葉も聞き取りにくくなるし届きにくくもなる。とても真面目な話をする環境ではなかろう。
(別に、今すぐどうこうって話でもないし、また次の機会のときでいいか……)
フォロンはフライパンの上に油をひきながらため息をつくと、コーティカルテへの質問を断念した。
翌朝。
将都トルバスの空は今日も一面澄み渡っている。
トルバス近郊は比較的四季の移り変わりがはっきりしており、春が終わると急に晴れる日が続く様になる。そもそも年間を通しても降雨量が比較的少ない土地で、この為にトルバス校外では農業用の用水路が古くから整備されていた。
これから徐々に暑い日が続いていくこともあってか、街を行きかう人々の服装は薄手の涼やかなものが多い。
「だいぶ温かくなってきたね」
学生寮の玄関を出ながら、フォロンが気持ち良さそうに両腕を広げる。
朝一番の日の光を浴びるとフォロンは今日も一日頑張ってみようという気分になる。我ながら単純だとは思うが、悪い事ではない――とフォロンは思っていた。
「ふむ。私は暑いのも寒いのも嫌いだ」
門に向かって歩く彼の横に並びながら、コーティカルテがその幼い外見にはいささか不釣り合いな年寄り臭い事を言う。
「コーティ――今からそんなこと言っているようじゃ、これからの時期もっと大変になるよ? どんどん暑くなっていくし」
「む。ならば北の方へ移り住むぞ」
「なにそれ……。それって、今度は寒くなったら南の方へまた引っ越すの?」
「うむ」
当然といった様子でコーティカルテが頷く。
ひょっとしたら本人は大真面目なのかもしれない。
「あはは……学校があるのにそんな渡り鳥みたいな生活はちょっと無理だと思う」
そう言って困ったような顔でフォロンは笑った。
彼女の性格からすれば「では気候を変えろ」などと言い出しかねない。自分から気候に合わせて移動するという発想は、ひょっとしたら彼女なりの譲歩なのかもしれない。譲歩という言葉の意味が根本から揺らぎそうな考え方だが。
しかし……
そもそも精霊である彼女には気温の高い低いなど殆ど意味は無い筈なのだ。少なくともフォロンは暑いだの寒いだのと文句を言う精霊の話など聞いた事も無い。
あるいはコーティカルテは気温そのものを問題にしているのではなく、街全体に漂う雰囲気の方を気にしているのかもしれなかった。暑ければ人々の動きはどうしてもだれ気味になるし、寒ければ今度はぎくしゃくして大人しくなり過ぎる。精霊はそういう人々の生活が創り出す空気の変化に敏感だ。
それはさておき――
「フォロン先輩〜!」
学生寮の建物に面した道路。
その歩道にトルバス神曲学院の制服を着た金髪と銀髪の二人の女子生徒が立っていた。
言うまでもなくユギリ姉妹だ。
その金色の髪の少女――双子の姉のペルセルテが元気良く手を振っている。
「おはようございます!」
「おはよう」
フォロンは微笑みながら小さく手を振って返した。
例によって例のごとく、コーティカルテは隣で非常に不服そうな顔をしているのだが。
「えへへ〜。今日はしっかり自分で起きたんですよ」
フォロンと一緒に歩き出すと同時にペルセルテが誇らしげに言ってくる。
十五歳にもなって自慢するようなことではないのだが、まだ少し幼さの残る顔立ちの彼女が得意げにしている様子はとても可愛らしくて微笑ましい。
「おお。頑張ったんだね」
コーティカルテによって毎朝叩き起こされているフォロンとしては、真剣に感心してしまった。もっとも彼女がフォロンを起こすのは朝食の為であって学校に遅れない様にとの気遣いからではない。
「しかも、今日はめずらしく私がプリネを起こしてあげたんですよ!」
「おお〜」
嬉しそうにしているペルセルテの隣で、銀色の髪の少女――プリネシカが頭を下げる。
「やぁ。おはよう」
彼女の顔は少し赤くなっている。
(あれ?)
しかしそれはいつもの恥ずかしがって赤面しているような感じではなく、どこか調子が悪そうな――熱っぽい顔色に見えた。
「プリネシカ、どこか具合悪いの? 顔が赤いよ?」
そう訪ねると彼女は少し驚いたように瞬きをする。
その横からペルセルテが、やはり驚いたように目を丸くしながら言った。
「そうなんですよ先輩。プリネったら風邪をひいちゃったようで、ちょっと朝から少しだけ熱があるんですよね。でも先輩――凄い。ぱっと見ただけで分かっちゃうんですか?」
「いや……まあ何となくっていうか当てずっぽうなんだけどね」
「それだけ普段からよくプリネの事も見てくださってるんですね!」
とペルセルテ。
プリネシカ本人は俯いて地面を見つめている。今度は恥ずかしがっている様だった。
「で――大丈夫? 休んでいた方がいいんじゃない?」
フォロンが心配してそう言うと、彼女は首を横に振る。
「私もそう言ったんですけど、休むのはいやだって……まぁたいした熱でもありませんし、本人もこう言ってるから……」
「そっか。でも風邪をこじらせると大変だし、学校が終わったら一度病院で診てもらった方が……」
何気なく言うフォロン。
殊更に何かを意図しての台詞ではなかった。
だが――
「病院はダメです!」
突然プリネシカが顔をあげ、悲鳴じみた強い口調で言った。
「え……?」
フォロンは驚いて彼女の顔を見つめる。
いつも大人しいこの少女がこんな言い方をするところは初めてみた。
「あ……」
フォロンの視線に気付き、プリネシカは再び俯いてしまう。
「その……病院は嫌いなんです……」
「えっと……その……ごめん」
何と言えばいいのかわからずにフォロンはただ謝るだけだった。
気まずい空気が二人の間に横たわる。
それを取り除いてくれたのはペルセルテの元気な声だった。
「先輩。プリネったら小さい頃から病院嫌いなんですよ。よく風邪をひくのに、絶対に病院には行きたがらないんです」
ね、と彼女が問いかけると、プリネシカがこくりと頷いて答える。
「そうだったんだ……」
この元気な金髪の少女に救われたような思いをしながらフォロンも笑みを作って答えた。
「実は私も病院嫌いなんですよねぇ〜」
「あはは。ペルセルテの場合はそもそも病気になるイメージがないけど?」
「はいな。私も病気にかかった記憶はありません」
そう言って笑い出す。
「でも小さいときに、あんまりちゃんとは覚えてないんですけど、しばらく病院に入院していた事があるんですよ。何だか忙しそうな病院で――いつも誰かがばたばたしていた様な感じだけ覚えてます」
「救急病院か何かかな?」
忙しそうな――というとフォロンの知識ではそれ位しか思い浮かばない。
しかし幼い入院患者までがその慌ただしさを感じてしまう様では、いくら救急病院でも医療施設としては問題が無いだろうか病は気から――落ち着かなければつまらない病気でも変に長引く事がある。
「先生とかもいつも難しい顔してて……私不安でよく泣いてたんですよね。プリネも一緒に入院してたのが唯一の慰めで。あれって何歳の時だっけ?」
ペルセルテが尋ねるが――プリネシカは首を横に振った。
覚えていないという事らしい。
「物覚えの良いプリネが覚えていないって事は、きっと本当に小さかった時なんだと思いますけど……私も何だか怖かったって事でしか覚えていないですし」
「そんなことがあったんだ……」
フォロンは頷いて言った。
「ごめんね――ひょっとして嫌な事を思い出させたかな?」
「全然!」
ペルセルテはむしろ嬉しそうに言った。
「確かに病院は何だか怖かったですけど――よく思い出すんです。出掛けていたお父さんが帰ってきてくれて、神曲でプリネを治してくれた事! 細かい事は全然覚えてないのに、その事だけはやっぱり覚えてるんです。あの時は本当にお父さんってすごいなぁとか、神曲楽士ってすごいなぁって感動しました!」
「そっか……」
笑顔で返事をしていいのかどうか迷ってしまい、フォロンは複雑な表情のまま頷いた。
二人の父親が神曲楽士だったということは以前聞いたことがあった。そして彼が今はもうこの世にいないことも。
その父親の事を明るく話すペルセルテを見ていると、余計な気遣いは必要ないのかもしれない。
ただ、彼女が神曲楽士に対して非常に強い思い入れがあるのは、神曲楽士という職業の向こうに父親を透かして見ているからなのかもしれない……フォロンはそう思った。
「本当にすごかったんですよぉ。治してもらった本人が覚えていないっていうのがちょっと残念ですけどね」
双子の姉の言葉に、プリネシカはどこか寂しさとか悲しさといったような雰囲気を含んだ笑みを浮かべている。
フォロンはその表情の意味するものがわからず僅かに首を傾げた。
父の記憶が曖昧な事を惜しんでいるのか。
それとも――
「うむぅ……」
短く唸る様な声を聴いてふとフォロンは気付いた。
普段ならとうの昔にペルセルテと口喧嘩を始めているはずのコーティカルテが妙に大人しい。振り返ってみると彼女は、珍しく指先で顎をさすりながら何か考え込んでいる様子だった。
紅い瞳を時々プリネシカへと視線を向けては――また何やら考え込む。
「ふぅむ……」
コーティカルテの様子が少し気にはなったが……折角、口喧嘩をしていないのだからとフォロンは声を掛けるのを避けた。この状態が微妙な均衡の上に成り立っているのなら、下手に刺激を与えると一気に崩壊する可能性があった。
たまにはこんな風に、静かにしみじみとした空気に包まれて登校するのも悪くない。
久し振りの穏やかな朝を満喫しながらフォロン達は学院への通学路を歩き続けた。
『精霊を魅了せしめる神の調べ』――神曲。
実を言えばこの神曲というものの概念に明確な定義は存在しない。
曲という以上は音楽としての基本的な法則性や体裁は当然に存在する。
だが例外の無い法則は無い様に……これとて絶対のものではない。またこれだけでは一般的な楽曲と神曲を区別する線が明確にならない。
神曲が広義の『音楽』という概念の中に含まれるのは間違いがないが――では神曲を神曲たらしめる要素は何かと問われると客観的に定義できないのである。
最も神曲の定義で一般的なものは『精霊を惹き付け力を与える事が出来るかどうか』だ。
これは確かに間違いではない。
しかし実を言えばこれとて絶対条件とは言い難いのである。
何故なら精霊達にも個別の嗜好というものが在る。同じ神曲でも興味を示す精霊も居れば全く無関心な精霊も居たりするからだ。ダングイスの台詞ではないが――同じ神曲を奏でてみても、その可聴域に居るのがたまたま嗜好が合わない精霊ばかりだとしたら何の反応も無いし、嗜好が合う精霊ならば一気に精霊契約を申し出てくる可能性も在る。
これは文芸や美術にも共通する部分が在る。
小説。詩歌。油絵。漫画。彫刻。
これらの作品は形式よりも何よりも『相手に感動を与えられるかどうか』が問題になる。
創作物がこの世に生まれた最も原始的で明確な理である。
だがたった一行の走り書きが人々に感動を与える事もあれば、やたらと手間に時間を掛けて書かれた小説が『つまらないから』と誰にも顧みられない事も在る。壁にスプレーで描かれた落書きの親戚の様なものに涙する者も居れば、紙から絵の具や筆といった、道具や材料にも、古式の技法を丁寧に再現した水彩画が『退屈』の一語で切って捨てられる事も在る。
そこに事前に可能な定義付けは無い。
ただ結果が在るだけだ。
そしてそれは神曲も同じなのだった。
この事からも分かる様に……神曲楽士の定義もやはり曖昧にならざるを得ない。
だからこそダングイスの様ないびつな思い込みをする者も出てくる。
逆に言えば――この定義づけさえ曖昧な神曲の演奏を『職業』とする以上、彼等神曲楽士に求められるのは『安定』であり『確実性』である。
三回に二回は失敗するが、残る一回は強く強く精霊を惹き付けられる神曲を奏でる者と。
前者に較べれば誘引力そのものは低いが、毎回確実に精霊を惹き付ける神曲を紡ぐ者と。
職業人としての神曲楽士の名に相応しいのは後者である。
だがそういう意味では――
(確実性が無いって意味では僕もダングイスと大差無いんだよね……)
とフォロンは思ったりもする。
どうもフォロンの場合はコーティカルテの存在が他の精霊を威嚇してフォロンを独占している様な処が在る様だが――これも一種の『縄張り』だ――ではそのコーティカルテを確実に神曲によって御す事が出来ているのかと問われればフォロンは苦笑を浮かべるしかない。何しろ毎朝叩き起こされて朝飯を作らされたりしているのだから。
(うーん……)
一限目の講義が終わり――フォロン達は二限目の実習訓練を受けるべく実習室へと移動していた。
実習室とはつまり防音処理が施された上に単身楽団を置いてある部屋である。
単身楽団。
これも元々は神曲独特のものであった。
人間一人の歌声よりも複数の楽器を使う楽団の方が音楽の中に複雑さと重厚さを盛り込み易い。必ずしも音色数や同時発音数だけが楽曲の価値ではないが、表現方法に一定の幅が在る方が神曲の効果――即ち精霊の誘引と強化に関して融通が利き易いのだ。
よって古くは――神曲楽士の始祖たるダンテが神曲による精霊との交流という方法を世間に広め始めた当初は、神曲とは十数人の楽団員によって奏でられていた。
だが当然ながらこれは手間暇がかかる。
複数の人間が合奏しようとすると呼吸の合わせ方から楽器の調律に至るまで様々な要素の打ち合わせが必要になり、それを更に摺り合わせる為の練習が必要になる。いくら神曲を奏でられるだけの感性を備えていても、他人の手を借りねばならない以上は、そこにどうしても些細な意味の取り違えや勘違いが生じ、自分の思う通りの神曲を描き出す事は多大な労力を必要とする事になる。
たとえその問題を克服したとしても……そもそもそれだけの人数を集めて移動し楽器を運搬し場所を確保するだけでかなりの労力と時間を要する。
これでは現場における即応性が無い。
この労力の削減と感性具現方法の一元化を狙って作られたのが単身楽団なのだ。
単身楽団は、封音盤と呼ばれる記録媒体に演奏情報を刻み込んでおけば、神曲を構成する大部分を予め意図した通りに自動演奏させる事が出来る。無論それだけでは現場に即した柔軟性を発揮する事が出来ないので、神曲楽士がその場で曲の早さや音響効果装置《エフェクタ》、各楽器の音のバランス等をリアルタイムで調整出来る様になっており、自分の最も得意とする楽器を『核』として随時、神曲を微調整――編曲出来る様になっている。
このお陰で神曲楽士は一人で神曲を奏でる事が出来るのである。
「フォロン」
「ん? なに?」
フォロンが軽く単身楽団の一部を開いて作動を確認していると――珍しく眠りもせずに一限目からずっと考え込んでいたコーティカルテが声をかけてきた。
彼女は学院の生徒ではなく、精霊だということにもかかわらずフォロンの隣の椅子に堂々と腰掛けている。幸い教室には椅子が多めに置かれており、その上殆どの者は自分の単身楽団の調整や動作確認に追われていて、誰かに咎められることもないが。
実習室には十数種類――総計百基近い単身楽団が保管されている。
生徒達は各々得意とする楽器を備えた単身楽団を持ち出して席に着いている。フォロンが得意とするのはピアノを模した鍵盤楽器型である。
ちなみに。
最低限の技法に限って言えば、全くの素人が最も簡単に扱える様になるのはギター型だと言われている。
無論、極めるのはどの楽器も同じくらいに難しいのだが――フォロンの使うピアノ型はむしろ一般的には難しい部類に属する。ギター型と違って左右の手を全くばらばらに動かす必要が在るからだ。
ではフォロンがどうしてピアノ型を選んでいるかというと……これは単に彼が育った孤児院には楽器といえばピアノか手作りの笛位しか無く、最も親しみ易いのがピアノだったというだけの事である。
それはさておき――
「双子の銀髪の方――」
「ん――プリネシカだね。彼女がどうかした?」
コーティカルテがプリネシカを気にするのは珍しい。
いつもはペルセルテと口喧嘩ばかりしているし、プリネシカはプリネシカであまり自己主張をする方ではないので、コーティカルテはプリネシカを『金髪のオマケ』程度にしか認識していない様な節が在る。
「ああ。そいつ、精霊と専属契約でも交わしたのか?」
「え? いや、何も聞いてないけど?」
思ってもいなかった質問をされ、フォロンは少し驚いた。
プリネシカはあまり自分から話しかけてくるような女の子ではない。まして何かを積極的に自慢する性格でも無いだろう。彼女だけなら精霊契約を交わしても黙っている事は充分に有り得る。
だが姉のペルセルテの性格を考えれば、もしプリネシカが精霊と契約を交わしたのであれば一番に――それもまるで自分の事の様に嬉しそうに――報告してくるだろう。まさかプリネシカもペルセルテにまで黙っているとも思えない。
またたとえプリネシカに口止めされていたとしてもペルセルテはすぐに顔に出るだろうから、少なくとも『何かあった』程度の事はフォロンでも気付く筈だ。
少なくともフォロンはプリネシカが精霊契約を結んだなどという話は聞いていない。
まして――これだけ精霊だの神曲楽士だのその卵だのが日常的うろうろしているトルバスで、誰にも気付かれずに精霊契約を交わすなどとても無理だろう。入学したての新入生がいきなり精霊と専属契約なんぞ結べば嫌でも話題にならざるを得ない。
「そうか……」
「なんで急に?」
「うむぅ……いや何でもない。気のせいだろう」
そういって彼女はまた考え込んでしまった。
(変なコーティ……)
フォロンは自分と契約している精霊の変わった言動に首を傾げる。まあ彼女の行動が変わっているのは今に始まったことではなかったが。
そんな事を考えていると――
「よ、フォロン」
よく聞き知った声に名前を呼ばれて振り返る。
「レンバルト。おはよう」
彼の隣に立っていたのはサイキ・レンバルトだった。
「おおい――おはようはないだろ。今日はちゃんと一限から出席してるぞ。俺ってばそんなにサボり魔の印象あるかね」
「あ、ごめん。つい癖で……」
大袈裟に落ち込んでみせるレンバルトに殆ど反射的に謝るフォロン。明らかにレンバルトは冗談で言っている訳だが、本気で傷ついている訳ではないと分かっていてもつい謝ってしまうのがフォロンという少年である。
「冗談だよ――冗談」
言いながらレンバルトはフォロンの隣の席に座る。
基本的にトルバス神曲学院では決められた席というものは無い。途中脱落者が多いので下手に決めておくと歯抜けの様に空席が目立つ様になって寂しくなってしまうからだ。故に生徒達は適当に前から詰めて座っていく。
「それよりさ、確かお前の担当する一年の中にダングイスいたよな?」
「うん。いるけど」
例の問題児――コマロ・ダングイスは去年まで彼らと同じクラスの生徒だった。この学年でも浮いた存在だった彼を、このクラスで覚えていない生徒はいない。記憶力の良いレンバルトなら尚更である。
「さっき向こうの連中が話していたのを聞いたんだけど、あいつが精霊と専属契約を結んだって本当か?」
「――えぇ!?」
驚いて聞き返してしまった。
もちろんそんな話は聞いていないし、昨日会った時もそんな様子はなかった。大体もしそれが本当なら彼は昨日の時点でその精霊を呼び出して見せただろう。
「何にも聞いてないけど!?」
フォロンの反応を見てダングイスは苦笑する。
「お前が聞いていないならやっぱり違うのかね。あいつの性格なら真っ先に自慢していそうだもんな。まぁあいつが契約できるとは思えなかったから聞きにきたんだけど」
当のダングイスが聞けばまた顔を真っ赤にして怒る処だろうが――まあこれに関してはレンバルトでなくてもダングイスを知る者ならば同じ意見だろう。
だが――
「そ――そうだね」
何かついさっき同じようなやり取りをコーティカルテとしたような気がして、フォロンは不思議な気分になる。
(プリネシカの次はダングイス……? どっちも精霊契約って話だし……。みんなどうしたんだろう)
一年が精霊契約をした、という新手の怪談じみた話が出回っているのだろうか。
自慢ではないが……フォロンがコーティカルテと精霊契約を交わした事自体、一時期は相当な話題になったのだ。精霊を召喚出来ずに専門課程へ上がれず学院を去る者が大半というこの現状からすれば、知識も経験も無い入学したての一年が精霊契約を交わしたとなれば、それは文句なし『天才』――最早、超人の域である。
あのユフィンリーですらそこまでずば抜けてはいなかった筈だ。
「ところで……」
レンバルトが急に爽やかな笑顔を見せる。
フォロンはそれを見て嫌な予感がした。彼がこんな顔をする時は絶対にろくなことを考えていない。彼のこの笑顔を『素敵』と表する女生徒は多いと言うが、絶対に皆騙されているとフォロンは思う。
「今日はちびっ子、どうしたんだよ。さっきから妙に静かだけどさ」
コーティカルテを指差しながら聞いてくる。
正直――それを聞きたいのはフォロンも同じだった。
「さぁ。朝からずっとこうだよ」
「ふーん。また気合でも入れてやるか?」
レンバルトが表情を意地の悪そうな笑みに切り替えて中指を弾いてみせる。フォロンの脳裏に昨日の悪夢が蘇った。
「ちょっと、レンバルト! 昨日僕がどれだけ痛い目にあったか知ってるだろ!?」
フォロンが血相を変えて抗議する。
また同じ目を見るのは絶対にお断りだ。というか次は多分本当に血を見る。場合によってはあの世を見る。コーティカルテは小柄な少女の外見をしているので、第三者が見ているとフォロンにじゃれついている様に見えるだけかもしれないが――彼女の拳は、腹に喰らえばたとえ気を張っていても耐えきれずに悶絶しちゃう位の強打だという事をフォロンは身を以て知っている。
「冗談だって、冗談」
「本当に……?」
フォロンが疑い深い目で彼を睨む。
「ホント、ホント」
そう答えるレンバルトの目は笑っていた。
油断すれば本当に実行しかねない。
フォロンは授業開始の鐘が鳴り響くまで友人の右腕が不審な動きをしない様に見張り続ける事にした……
授業は問題なく消化され――昼休みも終わる頃。
食事を終えた生徒達がそろそろ午後の授業を行う教室へと移動し始める時間帯である。
フォロンはいつもの如く教務課で許可を貰い単身楽団を担ぎながら基礎過程一年生の待つ教室へ向かって廊下を歩いていた。
隣には無論コーティカルテの姿も在る。
これはいつも通り。
しかし――
「コーティ。やっぱりまだ考え込んでいるの?」
「ん……? うむぅ」
コーティカルテからは曖昧な返事しか戻ってこない。
打てば響くといった様子で普段は会話に言い淀む事などまず無い彼女だ。これは未だ何か心の端に引っかかっているという事なのだろう。
「何をそんなに悩んでいるの? プリネシカのこと?」
「むぅ。たいしたことではないんだが…」
「そうなんだ」
大したことではない、といいつつコーティカルテは朝からずっと考え続けている。普段とにかく気持ちの切り替えが早いというか飽きっぽいというか――あまり一つの物事に拘泥する事の無い彼女にしてはかなり珍しい状態だった。
さすがにこれはフォロンも少し心配になってくる。
「ねぇコーティ」
「む……?」
改まった口調に何か感じるものが在るのか――コーティカルテは初めて眼を瞬かせながらフォロンを振り返った。
「何をそんなに気にしているのか分からないけど……もし何か悩み事だったりしたらさ、遠慮しないで言ってよ。僕でよければ相談に乗るよ?」
フォロンとしては特に何か気負った訳もなく、当然の事を言ったつもりだった。
だが相当にコーティカルテは驚いた様で、何度か瞬きを繰り返し――そしてその顔が少し赤味を帯び始めた。
一瞬――何かまずい事を言ったかとフォロンは反射的に身構える。
コーティカルテの赤面を彼は怒りの故と思ったからだ。
だが――
「ど、どうしたのだ。きゅ……急に」
コーティカルテは少し慌てた様子で視線を前に戻しながら言った。
その頬は益々赤味を帯びているが、鉄拳の類が飛んでくる様子は無い。
「あれ?…………あ――いや。だってほら、ずっと何か気にしているみたいだったから」
慌ててフォロンは説明になっていない様な事を繰り返してしまう。
何やら恥ずかしがっているらしいのは分かるが――こういう事に関しては鈍感なフォロンにはその理由までは分からない。レンバルトが居れば『やっぱり女泣かせになるわ、お前は』と苦笑しながら言うだろう。
「ほ――本当にたいしたことではないのだ」
「ならいいんだけど」
とフォロン。
「………………」
コーティカルテがじっとフォロンの顔を見つめた。その表情からはいつもの暴君じみた我が儘は影をひそめ――代わりに何かを祈る様なひどく真摯な色が在った。
「フォロン……」
「なに? どうしたの?」
「私の事……心配したのか?」
彼女の大きな瞳には不安と期待が入り混じっているのが分かる。
だが――
「当たり前だろ?」
フォロンはなぜそんなことを聞かれるのか分からず、至極当然といった口調で答えた。
振り回されようが我が儘だろうがフォロンにとってコーティカルテは家族同然の大事な存在である。
いや――そもそも孤児であった彼にとって特定の誰かとこれだけ意識して一緒に過ごすというのは初めての事だ。孤児院はただ孤児が一カ所に集められていただけで、一人一人の結びつきはあまり強くなかった。多分、フォロンが居ようが居まいがあの孤児院の者達の生活は変化しなかったろう。
その意味では互いに影響を及ぼし合う一個人として共に暮らしたのはフォロンにとってコーティカルテが初めてなのだ。まして……望んで彼の側に居てくれるのは彼女が初めてだ。故にこそフォロンにとってコーティカルテは特別な存在なのである。
もっとも――本当の『家族』を得た事の無いフォロンは自分の中に在る感情をきちんと理解はしていない。
自分のコーティカルテに対する感情が果たして本当に『家族』に向けられるべき類のものなのか。それとも微妙に種類を異にするものなのかは。
「コーティ?」
怪訝そうにフォロンは声を掛ける。
コーティカルテが何か言いかけ――しかし何も言わぬままに口をつぐんでそっぽを向いてしまったからだ。
「あの……」
「馬鹿者」
コーティカルテは顔を背けたまま苛立たしそうに言った。
「私がお前に遠慮などするわけがないだろう」
「あ――ええと。その」
少しはして欲しいかなあと思うフォロンであったが無論口には出さない。
「だいたい……何故私がお前に遠慮などしなくてはならんのだ!」
「あ。はい。そうですね」
振り返ったと思ったら妙に力を込めて言ってくるコーティカルテの剣幕に思わずフォロンは敬語で返してしまう。
まあ確かに遠慮という言葉はコーティカルテには縁遠い。というか普段の傍若無人ぶりを見ている限り遠慮という言葉や概念を知っていただけでも驚きだ。
「次は基礎課程のやつらと授業ごっこか。行きたくはないが、仕方ないから行ってやるから感謝する様に」
腰に手を当て不遜な口調でそんなことを言うコーティカルテ。
既にいつもの調子に戻った様だ。
「はぁ……ありがとうございます」
苦笑を浮かべながらフォロンは言った。
ひょっとしたら大人しく考え込んでくれていた方がペルセルテと喧嘩にもならなくて良かったかもしれない――少しそんな事を思いながらフォロンは歩く。
そんな彼の隣を歩くコーティカルテの表情は何故だが妙に嬉しそうだが――しかしどこまでも鈍感一直線なフォロンがその事に気付く事は無かった。
入った瞬間にまず……何だか空気が違った。
基礎過程一年生の教室の事である。
「おはようございま……す?」
少し戸惑いながらもいつもの挨拶をしつつ入るフォロン。
いつもなら一年生達はそれですぐに席についてくれるのだが――今日は皆が教室の真ん中に集まって何かを囲んだまま動こうとしない。フォロンが入ってきた事にさえ気付いていない者が殆どだったが、気付いてフォロンの方を振り返った者とて、今はそれどころではない――といった様子ですぐに視線を元に戻す。
一年生の人垣の向こうに一体何が在るというのか。
「――何だ?」
コーティカルテも教室の妙な空気に気付いて首を傾げる。
「さぁ……」
少し途方に暮れた感じで立ち尽くすフォロン。
だがすぐにペルセルテが彼の姿に気付いて大きく手を振ってきた。
「あ、先輩! おはようございます!」
彼女の元気な声で他の一年生達もようやくフォロンの存在に気付いたらしく、それぞれの席に戻っていく。
ただし……人だかりの中心に居た人物はその場に残った。
その場に残ってふんぞり返っていた。
「やぁフォロンくん。調子はどうだい?」
今更言うまでもない――ダングイスである。
昨日の今日だというのに懲りていないと言うか、どうもダングイスの記憶は都合の良い処で部分的にやり直し《リセット》が利くらしく――彼は今日も今日とてやたらと尊大だった。
いや――違う。
「や……やぁ。おはよう。うん、調子は……、まぁまぁかな」
「まぁまぁ……? まぁまぁか。まぁ、君にはぴったりかもね。ははははは!」
ダングイスは反っくり返って笑う。
不気味な位に今日は陽気だ。何か悪いものでも喰ったのではないかと一瞬ながらフォロンが本気で心配する位に彼は絶好調《ハイテンション》だった。
「あ、ありがとう」
「ついに壊れたか……」
フォロンの後ろでコーティカルテが小さく呟いたが、幸運にもダングイス本人には聞えなかったらしい。あるいは――ちょっと尋常で無い位に機嫌が良い様なので、今の彼は何を言われても気にしないかもしれないが。
「ちなみにボクの調子は絶好調なんだ!」
聞いてもいないのにダングイスが勝手に話を進めていく。いつもの事といえばそうだが、普段よりも随分と興奮している感じだ。
「へえ……そうなんだ。何かいいことでもあったの……?」
止せばいいものを――フォロンは深い考えも無く尋ねてしまう。
ダングイスのような相手でも冷たくあしらえないところが彼の欠点でもあり、良いところでもあるのだが……この場合は明らかに失敗だった。
大きく開いたトラバサミにウサギが自ら飛び込む様なものである。
フォロンは気付いていなかったがコーティカルテや一年生達が『あちゃあ』といった感じで顔をしかめていた。
「いやぁ、別に特別良いことというわけではないのだけどね」
聞かれたダングイスは非常に満足そうに大仰な身振り手振りで話を続ける。
「当然と言えば当然の事さ。本物の天才は愚昧な連中の羨望や嫉妬のせいでなかなか理解されにくいものだが、やはり見ている者はちゃんと見ているという事だね」
「……?」
相変わらず回りくどい物言いのせいで今一つフォロンはダングイスの台詞の意味が分からない。
「ま――ようやく本当の神曲を理解する者と出会えたという事さ」
「本当の神曲……?」
「そう、本当の神曲。このボクが奏でる本当の神曲を理解できる、本物の精霊に出会えたのだよ」
「え……?」
奏者とその神曲を理解する精霊――
『さっき向こうの連中が話していたのを聞いたんだけど、あいつが精霊と契約を結んだって本当か?』
午前中に聞いたレンバルトの台詞が脳裏を過ぎる。
てっきり何かのデマだと思っていたのだが――今のダングイスの言葉を聞く限り、自分の脳内に在りもしない精霊を捏造したのでも無ければ、それは、彼が自分と専属契約を結ぶ精霊と出会ったという事になる。
精霊契約。
それは神曲楽士にとっても精霊にとっても気軽に結べる類のものではない。
しばしば神曲楽士や精霊学関係者から『専属契約』の通称で呼ばれる様に、それは特定の精霊が特定の神曲楽士が奏でる神曲に対してのみ従う事を意味する。
この契約を結んだ精霊は自分の契約主の神曲の癖に合わせて自分の肉体的、精神的構造さえも組み替えていく。より契約主の神曲に合わせ、その神曲のみを糧とし、より効率的に働ける様に特化していくのである。
これは通常の神曲楽士と精霊の関係とは全く違う。
多くの神曲楽士は現場に際してその都度神曲を奏で、近くに居た精霊を召喚し、神曲の提供を報酬として仕事を依頼する。言ってみればその場限りの関係であって、精霊達は別にその神曲楽士について回る訳ではない。後日、別の神曲楽士の神曲が気に入ればそちらに行ってまた新たに働く。
しかし精霊契約を結んだ精霊達は完全に一人の神曲楽士に専属する。
常にその神曲楽士の側に侍り同じものを見たり聞いたりしながらより深く広くその神曲楽士が奏でる神曲に同調出来る様に――より効率的に、神曲を糧とし、自らを強化出来る様に自分自身を変えていく。
精霊契約を結んだ精霊は普通の精霊の何倍もの力を発揮する事が出来るという。
これはしかし諸刃の剣だ。
特定の神曲楽士の神曲を吸収し易くに特化するという事は、逆に言えば他の神曲楽士の神曲を糧として取り込みにくくなるという事でもある。
余程、相手の神曲に心酔――文字通り――しない限り精霊契約を結ぶ精霊は居ない。
万が一その神曲楽士が死んだり何らかの理由で神曲を奏でなくなれば、その精霊はひたすら飢えていき、理性を失って暴走してしまう可能性すらあるからだ。
故に――
「…………」
さすがに驚いてフォロンは小さく口を開けたまま言葉を失っていた。
彼のその反応がよほど気持ち良かったのか、ひどく得意げな様子でダングイスはにやにやと笑い続けている。彼はひどく芝居がかった仕草で――まるで燕尾服を着込んだ楽団指揮者の様な動きで傍らを示して見せた。
「紹介しよう。彼がその本当の神曲を理解する精霊――バルゲス・ゴルト・グリディアムだ!」
「――!」
フォロンは驚愕の表情でダングイスの傍らに視線を滑らせる。
いつの間にそんな精霊が自分の目の前に来ていたのか――気づきもしなかった事にフォロンは戦慄する。気配を消す能力でも持っている精霊なのだろうか。
だが……
「……あれ?」
居ない。
得意げにダングイスが示した空間には――やっぱり空間が在るだけだ。
透明化する能力を持つ精霊なのか。
それともやっぱり――というか何というか――ダングイスの脳内にだけ存在する精霊だったりするのだろうか。それならそれで何処かの病院に連絡を取らなければならないのではないか……などとダングイス本人が聞いたら暴れそうな事を考えるフォロン。
そんな彼に――
「おい――貴様何処を見てる?」
嘲る様な声が掛かった。
「……?」
慌てて左右を見回すフォロン。
だが声の主らしい者の姿は見えない――
「ここだここ!!」
苛立たしげな声はフォロンの目線より下から来た。
フォロンは何気なく視線を降ろし――
「……あ」
と声を漏らした。
そこには一匹の小さな獣が二本脚で立っていた。
背丈はフォロンの腰の辺りまでであろうか。小さいのでそこに居る事に気付かなかったのである。
恐らくはこれがダングイスの言う精霊なのだろう。
体毛は全体的に黒味を帯びた赤黄色。しかし鼻の辺りや腹部の中心部にかけては黒味が薄れ朽ち葉色に染まっている。眼は深さの見えない漆黒。耳は側頭部ではなく、頭頂部近くに一対、丸い形状のものが載っかっている。
全体的に手足は短く胴体は丸みを帯びている。
その姿はまるで――
「たぬき」
コーティカルテが率直な意見を漏らした。
確かに彼女の言うとおり、狸の様にも見える。それも本物の狸ではなくて漫画や童話によく出てくる様なデフォルメされた形の狸――いわゆる『たぬき』だ。
だがそれは狸ではない。
その証拠に――
「たぬきじゃない!」
その獣――バルゲスは見た目からは想像しがたい様な、低く恫喝的な声で反論する。眉間から生えている一対の青白い光の羽根が、まるで眉のようにつり上がっていた。
そう――光の羽根。
それが褐色の獣の姿をしたその存在を、獣ではなく精霊であるのだと証明している。
まあ顔に付いているのは珍しいが――
「お。たぬきが喋った」
コーティカルテは珍獣を眺める様な目つきでたぬき――もといダングイスの精霊だというバルゲス・ゴルト・グリディアムを見て言った。
当然の様にバルゲスの眉を想わせる光の羽根が一層つり上がる。
「たぬきじゃないと言っているだろうが! これだからガキは嫌いなんだ!」
バルゲスにしてみれば深い考えも無く勢いで言った台詞であろう。まあ確かに初対面の相手からいきなりタヌキ呼ばわりされたのだから相手をガキ呼ばわりしてもおあいこではあるのだろう。
だが相手が悪い。
コーティカルテにその様な常識的発想が通用する筈も無い。
瞬間的に教室内の空気がピシリと凍り付いた――様にフォロンは感じた。
「ガキ……だと……?」
彼女の肩がわなわなと震えている。
言うまでもないが寒がっている訳でも怖がっている訳でもない。
小さいとか子供っぽいなどといった、今の彼女の外見を指摘するような台詞は自尊心の高いコーティカルテの嫌うものの一つだが――やはり縮んだままなのを気にしているのかもしれない――普段にもましてコーティカルテは激しく怒っている様子だった。
普段レンバルトに『がきんちょ』と言われてもここまでは怒らない。
同じ精霊に言われると腹が立つのかもしれなかった。
(あ……ちょっとやばいかも……)
コーティカルテの様子を見てフォロンは思う。
…………思うだけだが。
はっきり言ってとてもフォロンに止められる様な状態ではなかった。むしろ下手に声を掛けるとその瞬間に爆発しかねない。
それを知ってか知らずにか――
「あ? 怒ったのか? ガキはガキだろ? この俺様の野性的な中にも紳士さが溢れている姿を見て、狸なんていう下等動物と同じにしか感じられないのは、見た目も頭の中もガキだっていういい証拠だろ」
コーティカルテの中で怒りの気配が膨れあがっていく様子がフォロンには手に取る様に分かった。
「ちょっと言いすぎなんじゃないですか?」
バルゲスの言い方に少し不快感を覚えたのか、ペルセルテが横から口を挟むが、バルゲスに聞いている様子は伺えない。
そればかりか――止せばいいのにダングイスが彼の言葉に便乗して好き勝手な事を言いだした。
「おお〜。さすがは真の神曲を理解する我がパートナー。真実を知るものは言うことも違うねぇ。君が言わんとすることはまさしくボクの思っていることと同じだよ」
そしてまた似合ってもいないのにさらりと前髪を書き上げる仕草。
完全に悦に入っている。
「……………貴様ら……」
(うわ……そろそろ限界だ)
コーティカルテから伝わってくるものは既に怒気を通り越して殺気に近い。
「ダングイス。あんたもこんなレベルの低い精霊しか周りにいなくて大変だなぁ、おい」
「そうなのだよ〜。しかも皆自分たちの程度の低さを自覚していないからさらにたちがわるいのだ」
ダングイスとバルゲスが全く同じ仕草で肩をすくめて溜息をついた。
この仕草が何というか――また相手を小馬鹿にしている風というか、微妙な感じで見る者の神経を逆撫でする。とにかく嫌味ったらしいのだ。
とうとうそこで微妙な均衡を保っていた何かが崩れた。
「貴様ら……」
教室中に不穏当な空気をばら撒いている張本人――コーティカルテがその燃えるように赤い髪を揺らしながらゆっくりと一歩踏み出した。
ぱりぱりと音を立てながら彼女の周囲で細い稲妻が跳ね回る。
言うまでもなくコーティカルテの力――その欠片の様なものだ。怒りの余り力の制御が利かなくなってきているのである。
一年生達が慌てて教室の隅に避難する。
そして――
「黙って聞いていれば勝手なことばかっ……モフモガッ!」
怒鳴りながら飛び掛ろうとしたコーティカルテを、フォロンが後ろから抱きかかえて制止した。もちろん口もがっちりと抑えつけている。
正直――ここまでくるとさすがに放っておくのはまずい。
本気で力を解放したコーティカルテならば、こんな教室の一つや二つ軽く吹っ飛ばしてしまうだろう。上位精霊とはそれだけの力を当然の様に秘めている。
そうなれば教務課に怒られるどころの話ではなく――怪我人が出かねない。
そういう訳で後で、しこたまコーティカルテにぶん殴られるのを覚悟でフォロンは実力行使に出たのである。
「コーティ――落ち着いて! 落ち着いて!! ダングイス達には別に悪気があるわけじゃないんだから!」
そう――ダングイスにはまったく悪気はないのだ。
彼はただ思ったことをそのまま口にしているだけだ。ただし彼の思考は恐ろしく自己中心的なので自然と周りの怒りを買う事になる訳だが。
「ふごが! ふがががごが!!」
「コーティ! 君が本気で暴れたら怪我人が出る! そうなったら厳重注意とかじゃ済まないよ!!」
フォロンが叫ぶ。
一瞬、はっとした様子で羽交い締めにされていたコーティカルテは動きを止め――渋々とった様子で力を抜いてフォロンに身を預ける。
怒りは収まっていない様だが、自分が本気で暴れれば、最悪、フォロンが退学させられてしまう可能性も在る事に気付いたのだろう。
学院は多少の器物損壊の類に関してはかなり大目に見てくれる反面、傷害の類には厳罰を以て臨む傾向が在る。大きな力を使う精霊や神曲楽士達だからこそすぐカっとなって他人を傷付ける様な人物であってはならない――という事なのだろう。
「おやおや。君の精霊は相変わらず困った精霊だねぇ」
コーティカルテの様子を見ていたダングイスが溜息混じりに苦笑した。
フォロンのお陰で大怪我を免れたという事には無論気付いていない。
「まぁね……」
フォロンは笑って返す。
腕の中のコーティカルテからは再燃した怒りが一層強く伝わってくるが――彼もまた彼女を抑えている腕に力を加えた。
「何だ。このガキ、あんたの精霊だったのか」
「あ……うん」
冷や汗混じりに答えるフォロン。
先の稲妻が跳ねる光景を見ているのだから、このダングイスの契約精霊――バルゲスがコーティカルテの正体に気付いていない筈が無い。つまりコーティカルテが精霊である事を分かった上でそれをネタに何かまた侮辱的な事を言うつもりなのだろう。
正直――これ以上コーティカルテが怒ればもうフォロンに止める自信は無い。
それを知ってか知らずにか、バルゲスは嵩に掛かった口調で言った。
「なんか制服着ているし、羽根も見えなかったから精霊とは分からなかったぞ。恐ろしく変な精霊だな」
「あはは……」
まあこれは否定できない。
服を着る精霊は珍しくないがわざわざ学生服を着ている精霊というのはコーティカルテ位のものだろう。
「だが……。こんな見るからに低能そうな精霊すらしっかり制御しきれていないなんて、貴様もかなりの低能神曲楽士だな」
そう言ってバルゲスが指を突きつけてきた。
「あー……えーっと……」
はっきりとそう言われてしまうとそれなりに傷つくものがあったが、確かにその通りだと思ってしまう自分もいてフォロンはどっちつかずの返事をしてしまう。
「あんた、それでよく人にものを教える立場に立てるな。あんたみたいなやつから教わることなんて何かあるのか?」
「あぁ……うーん……」
改めて聞かれると少し考えてしまう。
「今まで習ってきた範囲ではなんとか説明できるとは思うけど……」
「習ってきた範囲ねぇ。言われた事をただ繰り返すだけなら別に神曲楽士じゃなくてもできるよなぁ」
「そうだねぇ」
自分の事を言われているはずなのだが、フォロンは怒るよりもむしろ妙に納得してしまい、うんうんと頷いている。
実際――今でこそ言われずとも分かっている事ではあるのだが、つい先日までフォロンは確かに『言われた事をただ繰り返すだけ』だったのだ。それで随分とコーティカルテにも辛い思いをさせた。
その意味でフォロンはバルゲスの台詞も自分への戒めに聞こえるというか、忘れてはいけない事を再確認している様で特に反発を覚えないのである。
だが――そんなフォロンをみて、むしろバルゲスの方が苛立っている様だ。
「おい! あんたのこと言っているんだぞ!?」
「え……あ……うん」
怒鳴られても素直に頷いてしまうフォロン。
そんな二人の間にダングイスが割り込んできて言った。
「そこら辺にしておいてあげたまえ、バルゲス。凡人には凡人の限度というものがある。凡人の彼にボクみたいな天才と同じものを求めても仕方のないことなのだよ」
「はっ。そうだな。凡人どもへの教育なら凡人程度の人間で十分か」
バルゲスのあまりな言い様に、他の生徒達もむっとした表情を見せる。
彼等とて神曲楽士志望者――それなりの矜持を持ってこのトルバス神曲学院に入学してきている筈だ。それをまとめて凡人呼ばわりされれば楽しい筈がない。その相手が嫌味な奴等なら尚更だ。
そして。
彼等を代表する様に金髪の髪の女生徒が立ち上がった。
言うまでもなくペルセルテだ。
「先輩は立派な神曲楽士ですよ! それを――侮辱する様な言い方はやめてください!」
……どうやらフォロンへの言い様に怒っているのであって、別に『侮辱されて怒る一年生代表』ではない様である。
まあそれはさておき。
「なんだお前は?」
「ダングイスさんと同じ基礎課程一年のユギリ・ペルセルテです!」
ペルセルテは胸を張って堂々と名乗り上げた。
「はぁ。またガキか。ここには身の程をわきまえないガキどもしかいないのか?」
ガキという単語にコーティカルテの身体がぴくりと反応する。
フォロンは危険な予感を覚えてコーティカルテを抱き留める腕に力を込めるが――意外にもコーティカルテは静かな口調で言った。
「大丈夫だ。暴れたりはしない――少なくとも私はな」
「そ……そう?」
今一つ信用ならない感じであったが。
そして――
「おいそこのたぬきの出来損ない。下等精霊のしかも若造の分際で態度がでかいぞ」
ひどく静かな――しかしよく通る声でコーティカルテが言った。
弾かれた様にバルゲスは反応して喚く。
「たぬきじゃねぇって言ってるだろうが! このクソガキが!」
「だからたぬきの出来損ないと呼んだだろう。確かにお前の様な不細工な奴をたぬきと呼んではたぬきに失礼だからな」
「てめっ……この――」
「そうだ。たぬきの出来損ないでは呼びにくいのでタヌキモドキと呼んでやろう。略してタヌキモだ。鳴き声は『たぬーっ』という感じだな。おお、間が抜けた響きがよく似合いそうだ。ほら。鳴いてみろ。遠慮はいらないぞ、タヌキモ」
「誰がタヌキモだっ!! てめえ黙って聞いてりゃいい気に――」
「別に黙ってなどいないだろう。タヌキモ。お前は頭も悪いな。タヌキも災難だ。こんな頭の悪い奴に似ているなどと言われて――」
「似てるつってんのはてめーらだろうが!!」
どうやら直接的暴力が駄目なら――という事でコーティカルテは言葉の暴力に切り替える事にしたらしい。一旦頭を冷やしてから腹をくくって舌戦を挑んでいるので、それはもう――すらすらと酷い文句が出てくる出てくる。
そこへ更にペルセルテとダングイスが加わって――何やらひたすらややこしくなっていく。
「狸さんかどうかはともかく、フォロン先輩のことは訂正してください!」
「ははははは。君たち、いくら精霊が羨ましいからといってあまり妬まないでくれたまえ。嫉妬は醜いよ」
「うるさい。お前はいちいち出てくるな」
「くそっ、ガキどもは引っ込んでろ!」
「訂正してください!」
「ああ、天才とは常に凡人達の妬みによる不条理な非難を受けるものなのだねぇ」
…………というか。
舌戦というより四人が四人とも好き勝手な事を言っているのでそもそも噛み合っていないし、事態が収拾する気配など尚更に無い。
とはいえ――とりあえず暴力沙汰は回避された様で、生徒達もそれぞれの席に戻り、我関せずといった様子で黙々と自習をはじめた。
(……まあ……怪我人が出なくて良かった……かな)
四人の口喧嘩は終わる気配も無かったが――フォロンはそう自分に言い聞かせて長々と溜め息をついた。
「あの野郎……」
トルバス中央街区を走る路線バス。
この街のバスの路線はいずれもトルバス神曲学院前駅を経由して四方八方に伸びている。この為――登下校時刻に重なる朝夕の時間帯は一般市民の利用者よりも学院生徒の方が明らかに多い。
今もトルバス神曲学院前駅から四駅目――ハートラン通り駅に停まったバスから降りてきた乗客の内、半数以上が学生達である。
いつもと大差無い筈の下校風景。
しかし学院生徒達の間に流れる空気は一種微妙なものが在った。
ハートラン通り駅で降りた客の中にいつもと違う連中の姿が混じっていたからだ。
上機嫌で鼻歌交じりに身体を揺すっているダングイスと、その隣で彼とは対照的に不機嫌そうな表情を浮かべて歩く精霊バルゲスである。
「ひょうひょうとしていやがって何考えているのか掴めねぇ。しかも周りの連中が邪魔だな……」
バルゲスが舌打ちをする。
だが隣のダングイスはバルゲスの台詞を聞いているのかいないのか……今にも踊り出しそうな様子で鼻歌を続けている。
「ふんふんふふ〜ん〜」
実の所――ダングイスの存在自体は別に奇異でも何でもないが、さすがに学生服を着た少年が見るからに精霊と分かる異形の存在を引き連れていると目立つ。しかもダングイス本人も見るからに常軌を逸した上機嫌さなので一種異様な空気を周りに醸し出しているのである。
生徒達は一体何事かと彼の方を気にしながらも、この見るからに危なそうな生徒とその精霊に話し掛ける勇気は無い様で――何度かダングイス達の方を薄気味悪そうに振り返りつつもそれぞれの家路を帰っていった。
「ふん〜ふんふふ〜ん〜ん〜」
結局――
コーティカルテやペルセルテとの言い合いは決着がつかないまま授業時間が終わったことで曖昧になっていた。
だがダングイス自身は一切気にしていない。
彼は過ぎた事は気にしない。だから懲りないし経験から学ばない。自分の都合の良い様に曲解して記憶するだけだ。ある意味で最悪の生き方だが……ダングイス程に徹底すれば本人はそれなりに幸せだったりする。
どうやら彼の中では言い合いは彼の判定勝ちという事になっている様だった。
だが――
「もっと直接的な方法でいってみるか」
ダングイスとは対照的に一人思考を張り巡らせていたバルゲスが呟く。
遂に自分の隣で脳天気にスキップを踏み出した自意識過剰少年に精霊は声を掛けた。
「おい、ダングイス。お前はどうしてあのフォロンとかいう奴に偉そうな態度をとらせているのだ?」
「ん〜? 偉そうな態度とは?」
「あいつが教壇に立っているってことだ。それはつまり、あいつがお前よりも上の立場に立っているということだろう?」
ピクリ――とそれまで上機嫌だったダングイスの額に青筋が浮かびあがった。
「いやいや。凡人の彼が頑張ってどうにか精霊と契約したから、思慮深いボクが彼の面子のためにあそこに立たせてあげているのだよ」
その言葉を聞いてバルゲスが口元に薄っすらと笑みを浮かべる。
「なら、天才のお前も俺という精霊を手に入れた以上、いつまでもあいつの下についてやっている必要はないんじゃねぇか? 世の中には秩序ってもんが必要だ。どっちが上か下かははっきりさせておいた方が、凡人共も色々と納得しやすいってもんだろ」
「ふむ……確かにその通りだ」
なぜ今までそんな当たり前のことに気付かなかったのだろう、といった様子でダングイスがぽんと手を叩いた。
「ならば善は急げ。早速明日にでもお前の方が優秀だということを証明してやって、お前が代わりに授業をしてやればいい」
「なるほど。それはいい考えだ。さすが我が神曲を理解する真の精霊。考えかたも実に合理的で美しい。よし、それでいこう」
「おう!」
余計に上機嫌になるダングイス。
隣を歩く褐色の獣はそんな彼を見て、毛むくじゃらの丸い顔にひっそりと不気味な笑みを浮かべていた。
「――もう、本当に、ダングイスさんの精霊さんってどうしてあんな風に失礼なこと言うんですかね?」
朝の陽気に満ちる青空の下――『私とっても怒ってます』と言わんばかりに頬を膨らませながらペルセルテが言った。それでも相手に『さん』付けなのは彼女らしいと言えば彼女らしい。
「うーん……」
フォロンは返答に困り、言葉かどうかもわからないうめき声で返す。
彼は今朝もいつもの如くコーティカルテとユギリ姉妹の四人で登校していた。
ここ数日変わらない情景である。
だが――どうもペルセルテは昨日のダングイスの精霊バルゲスの発言が未だに引っかかっているらしい。コーティカルテと口喧嘩をしても割と次の日には全て忘れたかの様に無邪気に接してくる彼女にしては、此処まで立腹が長引くのも珍しい。
「育ちが卑しいのだろう。精霊でも幼少期に変な人間の影響を受けたりすると根性が曲がったりする」
コーティカルテもまた個人的な不満がかなり残っているようで、ペルセルテの話に便乗してきた。
「あの精霊さんは悪くないって事ですか?」
「そんな訳があるか。奴の側の理由はどうあれ――私達が著しく不愉快を感じるのには変わりない」
「そうですよね」
「何にしてもあいつの口は一度塞いでやらなければ気がすまん――二度と開こうなどと思わない位にきっちりとな」
「あはは……」
フォロンはとりあえず愛想笑いで誤魔化した。
コーティカルテの場合は本気でバルゲスの口を糸か何かで縫い付けかねない。
その時――
「ッ…………」
プリネシカが小さく咳き込む。
普段から大人しい彼女は咳き込む姿も何処か控えめというか――何やら申し訳なさそうな感じである。
「大丈夫? あまり良くなっているようには見えないけど……」
「あ……はい……」
心配そうに訪ねるとプリネシカは小さく会釈をして答える。
彼女の顔が赤いのは恥ずかしがりな性格のためか、風邪によるものなのかフォロンには今一つ判断がつかなかった。
ただ何処か動作がぎくしゃくしているというか……ただ横で見ているだけでも体調が万全とは言い難いのは分かる。本人が大丈夫と言っている以上はあまりしつこく注意するのも悪い様な気がしてフォロンはそれ以上の追求を避けた。まあ一人暮らしでもなし――本当に酷くなればペルセルテが気付くだろう。
「ダングイスさんも、バルゲスさんと専属契約したんですから、彼が何か失礼なことを言ったら注意するべきですよね?」
そのペルセルテはというと――やはりダングイスとその精霊についての話をコーティカルテと続けている。顔を合わせれば口喧嘩をしていた二人がこうして普通に話し合っているのはある意味、珍しい。
「無理に決まっているだろうが。注意も何もあいつ自身が思いっきり無礼なやつなのだから、他に対して注意できる筈がない」
少し呆れたような口調でコーティカルテがそう話すが――ペルセルテはなぜか拳を強く握り締めたまま首を横に振った。
「そういうことでは困ります! ダングイスさんも精霊さんと契約をして立派な神曲楽士になったのですから、神曲楽士らしいしっかりとした態度でいてもらわないと!」
拳を握りしめてそう主張するペルセルテ。
やはり彼女にとって神曲楽士とは失った父を象徴するものであり、強い憧憬の念を向ける対象なのだろう。だからダングイスの様な性格に問題の在る人間が神曲楽士を名乗って無礼な行為に及ぶのがどうにも許せないのだ。
彼女の気迫に少しコーティカルテは毒気を抜かれた様な表情をしていたが――
「神曲楽士らしい態度って何だ?」
「もちろん、誰からも尊敬されるような、人として恥じることのない正しい行いとそれを貫く精神です!」
「ほほぅ〜」
コーティカルテは面白そうに口元を緩ませながらフォロンの方を振り返った。
彼女の言わんとする処を悟ったフォロンはただただ苦笑いを浮かべるしかない。
「そういうことらしいが?」
「えーっと……まあ将来に期待って事で」
そう言ってフォロンは人差し指で頬を掻く。
未だ学生の身分ではあるが、彼は一応はコーティカルテという精霊と契約したことにより神曲楽士と呼んでも差し障りない立場になったと言える。だが――ではペルセルテの主張する様な崇高な精神を備えた人格者なのかと問われると苦笑して首を振らざるを得ない。
そんなフォロンの態度に、コーティカルテは何やら新しい遊びでも思い付いたかの様にニカッと笑いを示すと――再びペルセルテと話し込み始めた。
普段はケンカばかりしている二人だが、やはり根本的に気が合わないという訳ではなさそうだ。
ひょっとして自分さえ間に入らなければ思いの外、この二人は仲良く出来るのかもしれない――そう思うとフォロンは何だか嬉しい様な、寂しい様な、名状しがたい複雑な気分である。
「それにしても、お前、それは少し夢を見すぎなのではないか? 一口に神曲楽士といってもいろいろだぞ」
「そんなことはありません! 神曲楽士の人はみんなすごい方々なんですよ! フォロン先輩も学校の先生もお父さんも……、やっぱり神曲楽士の人ってすごいじゃないですか!」
「すごいらしいぞ?」
ペルセルテが真剣な眼差しで、そしてコーティカルテがにやにやとした笑みを浮かべながら同時にフォロンを振り返る。
「え……あ……ごめん」
何だか返答に困ったフォロンは――とりあえず謝っておく事にした。
(誰からも尊敬されるような行いとそれを貫く精神かぁ…。本当に神曲楽士全員がそんなものを持っていたらなぁ…)
廊下を歩きながら、フォロンは自分の重たい気持ちを表すかの様に首をうな垂れていた。
彼の気分が沈み込んでいるのは別にコーティカルテのおちょくりが必要以上に効いたからではない。あの程度の意地悪ならば日常茶飯事である。今更ここまで引きずる程の事ではない。
フォロンの気分を下降気味にしているのは次の授業の内容だった。
基礎戦闘訓練である。
正直――フォロンはその授業があまり好きではない。
元々争い事が苦手なのだ。
無論――戦闘訓練というと大袈裟に聞こえるが、まさか軍隊でもあるまいし、そう本格的な事をする訳ではない。射撃や格闘技を習う訳でもない。此処はトルバス神曲学院――要するに精霊の力を自己防衛の手段として使う為の訓練なのである。
精霊の力を戦闘力として行使し身を護らなければならない状況というのは、そう種類が在る訳ではない。そもそも精霊の力は強大過ぎる為、人間相手に攻撃手段として使う事は法律で禁止されている。つまり法律上、精霊を人間同士の争い事に直接介入させる訳にはいかないのだ。
では戦闘訓練とは一体どういう状況を想定しているのか。
答えは一つ――精霊に攻撃された場合だ。
ある種の悪条件が重なると精霊は暴走する事が在る。この場合に狂暴化した精霊は眼に映るもの全てに攻撃を仕掛ける傾向が在り――非常に危険だ。
高い技術を持った神曲楽士ならば神曲で暴走精霊を落ち着かせる事も出来るらしいが、それは本当に一握りの超上級者にのみ可能な技術だという。
では一般的な神曲楽士はどうするのかと問われれば――やはり精霊の力を使役して闘うしかない。
また……数は少ないものの精霊を犯罪に使用する神曲楽士も居るには居る。
そう。
神曲楽士は皆が皆――人格者である訳ではないのだ。
世の中には精霊をまるで兵器の様に使い、同じ人間や精霊を傷つけようとする者も居るのだ。
<嘆きの異邦人>事件の様に、時にはそれが大規模な戦争行為にまで発展する事もある。これは紛れもない事実である。
それに――
(そもそも精霊の力を行使して戦闘って……なんか精霊を道具として使っているような気がして嫌なんだよなぁ)
嬉しそうに前を歩いているコーティカルテの背中を見ながら、そう思う。
最近は少しずつではあるがフォロンの神曲にコーティカルテが満足してくれるようになったためか、実習訓練だけはいつも楽しそうにしている。
だが自分の神曲がコーティカルテを戦わせる為に奏でられる場面――というのを想像するとひどく悲しい様な申し訳ない様な気分になってくる。
(というか、コーティなら神曲なくてもケンカは強そうだけどね……)
と胸の奥で呟くフォロン。
外見は小柄だがコーティカルテの腕力は成人男性並である。しかも以前尋ねたら『これでも一応手加減はしている』と言っていた事からすれば、本気の彼女がどれだけの腕力を秘めているのかはフォロンにも想像がつかない。
「よ、フォ〜ロン」
「あ、レンバルト」
フォロンは肩を叩いてきた相手の名前を呼ぶ。同じクラスのサイキ・レンバルトだ。
「――む」
前を歩いていたコーティカルテは彼の名前を聞いて振り向き、警戒するようにフォロンを挟んでレンバルトとは反対の位置に移動した。
そんな彼女にもレンバルトは気楽な調子で「や。ガキンチョ。元気?」と手を振る。もちろんコーティカルテはそれを無視したが。
「浮かない顔してどうしたんだ?」
彼はコーティカルテの態度に気を悪くした様子もなくフォロンの顔をのぞきこみながらそう話しかけてくる。
「いや、別に何も……」
「そっか」
フォロンが答えるとレンバルトはあっさりと納得してそれ以上聞いてはこなかった。彼は元々あまり人の事情を根ほり葉ほり聞いてくる様な性格ではない。
「そうだ、レンバルト。昨日聞いてきたダングイスの話だけど……」
「おお?」
フォロンは彼の顔を見て思い出し、話し始める。その話題にレンバルトも興味有りといった様子で食いついてきた。
「彼、本当に精霊と契約していたよ」
「なに!? マジか!?」
「本当本当。僕、昨日、彼の精霊を見せてもらったから」
「ほえ〜〜〜〜〜〜〜」
この男にしては珍しく、本当に驚いた様で眼を丸くしている。
「あいつに神曲ができたのか……てことはあれか、あいつも基礎課程に入り直して少しは性格も変わったのか?」
「え……?」
なぜそこでいきなり性格の話が出てくるのかも分からない。
「まったくもって変わっていないぞ」
フォロンの代わりにコーティカルテが実に素直に答えてくれた。
「あれ? そうなのか? 変わってもないのに精霊と契約できたの?」
「そうらしいな」
「うーん、おかしいなぁ」
「その意見には同感だ」
レンバルトが首を捻り、コーティカルテがうんと頷く。
「二人とも、そんな言い方したら可哀相だよ……」
まるでダングイスのあの性格が災いして今まで精霊と契約できなかったような言い方をする二人に、さすがに彼に悪いような気がしてきてフォロンはフォローを入れた。
だが……
「ダングイスだって僕たちと同じ授業受けていたわけだし、専門に上がれなくてもまた基礎からやり直そうと頑張っているんだからさ、彼が精霊と契約できるようになっても別に不思議じゃないよね?」
フォロンの言葉にコーティカルテがやれやれと頭を振った。
「甘いぞフォロン。やつにそんな前向きな発想があるわけがないだろう。おそらくやつの中では進級できなかったということは無かったことになっているのだ」
「ちょ、ちょっとコーティ。言いすぎじゃあ……」
やたらと自信ありげに断言するコーティカルテに、フォロンが控えめな抵抗をする。
そんな彼の肩を、今度はレンバルトがぽんと叩いた。
「い〜や、あいつは自分に不利益な記憶は全てなかったことにするやつだ。同じクラスだった二年間もそうだっただろ?」
「う……」
レンバルトに言われて記憶を掘り返すと反論できない。
まあフォロンが無理をしてダングイスをかばわなければならない理由も別に無いのだが……元々コーティカルテと契約できるまでは彼と似た様な立場だった身のフォロンとしては、なんだか『神曲楽士になれなくて当たり前』といった風に言われている彼が本当に気の毒で、擁護せずにはいられなかった。
「そ、そうだとしてもさ、それとこれとは話が別だろ? それに同じくらい神曲ができていなかった僕にだって契約できたんだから彼にできたっておかしくないよ。せっかくダングイスも契約ができたんだから元同級生として喜んであげようよ」
苦し紛れの言い方にコーティカルテは溜息をつきながら肩をすくめてみせる。
だがその表情はなぜか少し嬉しそうに笑っているようにも見えた。
「はぁ。お前は本当に甘いな、まったく。お前らしいといえばお前らしいが」
その時――予鈴が鳴った。
授業開始三分前を示すものだ。教室はすぐ近くなので特に急がなくてもまだ時間的な余裕はあるのだが――
「次は実習の時間だからな。早く行ってしっかり単身楽団を選べ」
そう言って強引にコーティカルテはフォロンを引っ張って歩き出す。
戦闘訓練であろうが何だろうが、実習となればフォロンの神曲を聴く事ができるのでコーティカルテは比較的機嫌がいい。
「え? あ――わ、わかったから、そんなに引っ張らなくてもいいって!」
引っ張られてこけそうになりながらもフォロンはそう言って歩き出す。
そして――
「…………」
二人のすぐ後ろを歩きながら――レンバルトは思案の表情を浮かべている。
(フォロン――お前はそういうが、神曲の在り方を考えるとやっぱりダングイスが契約したって話は信じられねぇよ)
レンバルトは思う。
別にレンバルトはダングイスに対して嫌悪や侮蔑の情を抱いている訳ではない。
確かにダングイスはクラスでも浮いた存在だったし、彼の事を嫌悪したり軽蔑している同級生も多かったが……レンバルトに関して言えば彼はダングイスなどに取り立てて興味は無かった。
たまたまダングイスは程度が桁違いにきついが――自意識過剰なところなど誰にでも在ったし、尊大な物言いもただの雑音だと思えば気にする程の事も無い。気が合わないと思えば距離を取ったり無視していれば良いだけの事である。
ただ……レンバルトはレンバルトなりの神曲に対する理解がある。
今まで学んできた事や、現役の神曲楽士である講師達と接してきた結果を彼なりに整理して結論づけたものである。そしてその自分の考えが正しければやはりダングイスに神曲が奏でられる筈が無い――レンバルトはそう思うのだ。
そして同時に――
(お前には神曲楽士になれるだけの理由がしっかりあるさ。あいつと違ってな)
レンバルトが自分の経験を元に築いた独自の基準。
彼はそれに自信を持っているしその基準に従って精進してきた。
フォロンはその基準に矛盾しない。レンバルトの基準に従って判断する限り彼には神曲楽士になれる資質がある。
だがダングイスは正反対なのだ。
だからレンバルトにとって今回ダングイスが精霊と契約したという話は重大な意味を持っている。レンバルトにとっては自説の正誤に関わる問題だ。もし間違っているとすればその基準に従って精進を続けてきた自分も間違った努力を重ねてきた事になる。
(ま――フォロンは天然だからな。これっぽっちも自覚してないだろーが)
そんな事を考えながら、レンバルトは前を行く友人を追いかけていった。
――しゃんっ!!
涼しげな音と共にぶつかり合う光と光。
一瞬の後にそれは双方共に弾け飛んで――消滅する。
「…………」
教室の中央部。
そこに険しい表情で立つコーティカルテの姿が在った。
対するのは<セイロウ>枝族の精霊――ウォルフィスである。元より戦闘能力の高いウォルフィスは生徒の戦闘訓練時等に手を貸してくれる事が多い。
精霊達の背後にはそれぞれ単身楽団を背負った生徒の姿も在る。
コーティカルテの背後に居るのは当然フォロンだ。
もっとも――あまり彼は浮かない顔をしている。先程から鳴り響いている神曲の演奏も何処か力が無い。やはり気が進まないのだろう。そしてそれがコーティカルテには如実に分かるのだろう――コーティカルテはいかにも『不機嫌だ』とでも言わんばかりにムスっとした表情をしている。
今の光の対消滅はそれぞれコーティカルテの掌から、あるいはウォルフィスの眉間から発生し撃ち出されたものだ。
精霊の戦いは複雑な様に見えて実は単純である。
彼等は著しい外見の差異は在れど同じ系統に属する存在である。便宜的にそれぞれの形状をしてはいるが――その戦闘能力の基本は同じである。
精霊雷《スピリチュアル・ライトニング》と呼ばれる光を弾丸の様に撃ち出して敵を攻撃し、あるいは盾の様に展開して敵からの攻撃を弾き飛ばす。
精霊雷を身に纏って突撃する場合も在るが――<ボウライ>枝族などが戦闘する場合はこの攻撃法が多い――基本的にはこの精霊雷が精霊達の持つ共通的な『威力』である。
ただし。
同じ精霊雷を基本としていても、高位である程に、あるいは歳経た精霊程に、その応用範囲が広く、多彩な攻撃を可能としている。
ウォルフィスは今は単純な精霊雷弾を撃っていたしコーティカルテもそれに応じて同じ攻撃をぶつけてきた訳だが、ウォルフィスは普段、向かい合って立ったまま、ただ精霊雷弾を撃ち合うなどという、分かり易くてかわしやすい攻撃はしない。お互いに模擬戦闘と分かっているからこその『手加減』だ。ウォルフィスならば精霊雷を爪や牙の先に収束させた上で、高い運動能力や動態視力を活かし、接近戦を挑むだろう。
まあそれはともかく――
「行け――ッ! ウォルフ!」
「ウォルフ! ウォルフ! ウォルフ!」
今は見学に回っている生徒達が蒼い狼型の精霊を応援する。
ウォルフィスは生徒達に人気が高い。威圧的な外見に反して義理堅く普段は極めて穏やかな性格をしている彼は、生徒達にとってマスコット的な存在を兼ねてもいる。
何かと気が強く、過去に生徒をぶん殴った事で問題になったコーティカルテに較べれば、彼の方に応援の声が集中するのも仕方のない事ではある。
とはいえ――コーティカルテが表情を険しげに歪めているのは別に自分に声援が少ないからではあるまい。
ウォルフィスはウォルフィスであまりこの戦闘訓練そのものは気乗りがしていない様子なのだが……元よりこうした訓練はどうしても『勝ち負け』が分かり易い形で出る分、当事者は元より周囲の人間も巻き込まれて興奮し易い。彼に神曲の支援をしている生徒は元より、周囲の生徒達も何やら熱くなっている。
「――おいフォロン! いつまで気の抜けた神曲を弾いているつもりだ!?」
コーティカルテはフォロンを振り返って怒鳴る。
「……え? いやあの――」
「きちんと支援の為に神曲を弾け! お前は私を負けさせたいのか?」
苛立たしげに言うコーティカルテであるが――フォロンの奏でる曲調は変わらないばかりか、動揺を如実に示して演奏そのものが揺らぐ始末。
「っく…………」
コーティカルテは益々表情を険しくすると、おもむろに前に出た。
ウォルフィスが驚いた様に半歩下がる。
だがコーティカルテは右手に精霊雷を纏いながらずんずんと大股にウォルフィスに近付いていく。どうやら彼をぶん殴る事で憂さ晴らしでもするつもりなのだろう。
ウォルフィスは多少困惑した様だったが、すぐに後退を中止した。
これは戦闘訓練だ。
背景の理由はどうあれ精霊雷を使っての攻撃は別に咎められるべき事ではない。
ふっとウォルフィスの蒼い毛が濃さを増す。精霊雷を身に這わせて防御力を高めているのだろう。
コーティカルテは微かに光る拳を振り上げる。
ウォルフィスは相手に飛び掛かる為に身構える。
「ウォルフ! ウォルフ! ウォルフ!」
生徒達の声援が双方の奏でる神曲と混じり合って異様な空間を作り出す。
そして――動き出す双方。
だが。
「ヘンテコ精霊なんざやっつけちまえ!」
「誰がヘンテコだ!」
生徒から飛んできたヤジに思わず振り返って怒鳴るコーティカルテ。
そこに――
「……!!」
「コーティ! よそ見は――」
――異音。
ごづん――という聞いているだけで痛々しい音が教室に響いた。
コーティカルテが体を捌いて避けると踏んでいたウォルフィスは――その回避行動も計算に入れて頭からコーティカルテに向かって突撃したのだ。
だがコーティカルテは思わず脚を止めて振り向いた。
そこへ突っ込んだウォルフィスはもう止まれない。
結果として二体の精霊はもろに頭部をカチ合わせて別々の方向に吹っ飛んだ。
「コーティ!!」
フォロンは叫んでコーティカルテに駆け寄る。
紅い髪の精霊は仰向けにぶっ倒れて目を回していた。ウォルフィスも同様だがこちらはまだ被害が浅いのか――首を振りながらむっくりと起きあがる。
でもって。
「――訓練中止」
呆れた様な口調と共にそれまで黙って見守っていた講師が宣言した。
「コーティ〜。いい加減機嫌直してよ〜」
午後からの、基礎課程への授業をする教室に珍しく早めに入っていたフォロンは、隣でムスっとしている彼の精霊に情けない声で懇願していた。
そのコーティカルテの額には何かにぶっつけた様な赤い痕がくっきりと残っている。
精霊は人間に較べると肉体に対する依存度が低い。
これが彼等の不死身の如き強靱さの一端を担っている訳だが――だからといって痛みを感じない訳でもないし怪我をしない訳でもない。
頭をぶつければやっぱり痛いのである。
精霊同士となれば尚更だ。
そういう訳で――コーティカルテは御機嫌斜めで、フォロンは先の授業時間の終了後からひたすら彼女に謝り続けている状態である。
で――
「先輩、何があったんですか?」
授業前だということで、当然のように教壇へと遊びに来ているペルセルテが心配そうに尋ねてきた。彼女の双子の妹、プリネシカは所定の席で大人しく座っている。顔色はあまり良さそうではない。
「お前には関係ない!」
コーティカルテはペルセルテにそう言い捨てると再びぷいっとそっぽを向いてしまう。
さすがに顔をしかめるペルセルテ。
仕方なくフォロンはそっと耳打ちで説明した。
「午前の実習授業でね、戦闘訓練をやったんだけど、僕が上手く神曲でサポートできなくてさ。でまあ――思いっきり、無様な感じに頭打っちゃって。それで機嫌が悪くて……」
「あうぅ、そうだったんですか〜。誰にでも得意不得意というモノはありますし、ドンマイですよ先輩!」
そう言ってペルセルテはフォロンを元気づけてくれる。
コーティカルテの様子を見つつ小声で――なのだが、元々の彼女の性格のせいか、表裏の無い明るい表情のせいか、大声で声援を受けているかの様な、心強さが在る。
「あはは。ありがとう」
実際――フォロンはあまり戦闘訓練が好きではないし、それが彼の神曲にも如実に出ていたという事だろう。
精霊を闘わせるというのがどうにもフォロンには馴染めない感覚なのだ。
元々彼は精霊を人類の『友人』あるいは『仲間』として捉えている。
だから神曲楽士はあくまで彼等に『御願い』するのであって、彼等を使役して自分の代わりに戦闘させるという事に、どうにも躊躇いを覚えるのである。
自分が闘わないで友人にあれこれ指図して闘わせる様なものだ。
それはどうにも……卑怯というか、自分勝手な気がする。
ましてフォロンの場合……自分は男で、コーティカルテは女という事で、余計にそういう風に考えてしまうのだ。精霊の性別は人間のそれ程に厳密なものではないが、それでも小柄な少女の姿をしているコーティカルテを自分の道具として闘わせるのは……何というか男としてとても卑怯な様な気がした。
「……戦闘訓練が嫌いなのか?」
ふと――コーティカルテがムスっとしたまま聞いてくる。
今までは何度話し掛けても無視していたコーティカルテであるが――ペルセルテと喋らせておく位なら自分が喋った方が良い、とでも思ったのかもしれない。
「戦闘訓練が必要なのは分かるけどさ」
フォロンは言った。
「一つの技術としては別に嫌いじゃないんだよ。でも何て言うか……やっぱり僕はあまりコーティを闘わせたくないんだよね。その……女の子に乱暴な真似させたくないというか……自分はただ神曲を奏でているだけで……自分の代わりにコーティを痛い目に遭わせたり、傷ついたり、そういうのがどうも……」
無論コーティカルテは元々乱暴だ。
だがそれでも普段のコーティカルテの乱暴狼藉――そういう日常の延長の無茶と、戦闘訓練における暴力とは違うとフォロンは思う。
感情の暴走や暴発とは異なり、冷徹に目的意識を以て奮われる暴力は心底怖い。それを精霊を使って実行するのは尚更だ。まるで精霊を武器か兵器の様に扱っていて、まるで感情が介在していないと言うか――とても冷たい感じがする。
それがどうにもフォロンには嫌なのだ。
「…………」
眼を瞬かせながらフォロンを振り返るコーティカルテ。
そして――
「やっぱり女の子なんだしさ。いや――まあ精霊の性別ってあまり意味が無いのかもしれないけど、でも……それに痛いのは痛いんだろうし……ってコーティ?」
驚いた様に声を掛けるフォロン。
コーティカルテが顔を真っ赤にして彼を睨んでいたからである。
(うわ――益々怒った!?)
と思わず身構えるフォロンだったが――コーティカルテはそのまま何を言うでもなく、そっぽを向いてしまった。
ややあって――
「――馬鹿者」
ぽつりと呟く様にコーティカルテは言った。
「そんな事を……気にしていたのか」
「そんな事って。でも大事な事だよ――たぶん」
少し自信無さそうに言うフォロン。
事が精霊と神曲楽士に関するものならば、上位精霊たるコーティカルテの言う事の方が正しいのだろう。対してフォロンは未だ神曲楽士にもなりきれていない半人前だ。フォロンがどう考えようと、彼女が『そんな事』と言うのならばそれは確かに些細な事なのかもしれない。
しかし――
「わ……私が望んで、お、お前の為に……や……やっている事なのだから。気にするな」
コーティカルテは何やら更に動揺しているらしく、声が少し震えていた。
「それに……時には……暴力が人や精霊を救う事もある……それは、忘れるな」
「あ……うん。分かった」
フォロンは素直に頷く。
そんな時――
「やはり、君にはまだいろいろと荷が重いようだねぇ」
いきなり耳元で聞こえてきた声に驚いて、フォロンとコーティカルテが同時に飛びのいた。
特にコーティカルテは何やら悪戯でも見つかった子供の様に、あたふたと――彼女には珍しく――手足をばたつかせながらフォロンから少し距離をとる。
フォロンは声の主を振り返って――呻く様に言った。
「ダ、ダングイス……」
「き――貴様! いつからそこに?」
かなり慌てた口調でコーティカルテが叫ぶ。
フォロン達の側に立っているのはフォロンの言葉通り――ダングイスその人だった。
彼は何やら満足げな表情を浮かべて何度も何度も、くどい位にというか、他人に見せ付ける様な仕草で頷いて見せた。
「話は聞いたよ。また失敗かい? 才能が無いのは君の責任ではないけれど――フォロン、君では心許ない。教わる側の事を思えば、やはりこの教壇に立つのは神曲楽士としてより高みに在る人間であるべきだと思うのだよ」
ダングイスはコーティカルテの質問を無視して自分の話を始めた。
「――え?」
フォロンはダングイスの言わんとしていることが分からずに首を傾げる。
ダングイスの物言いはいつも唐突で断定的だが、今日は何か――普段にも増して妙な興奮が彼の物腰には見え隠れしていた。
「はぁ……。君も物分りが悪いねぇ。ボクに精霊契約が出来た以上、君とボクの条件は同じだ。ならばより才能あるボクの方がこの教壇に立つに相応しいと言っているのだよ」
「え……、あ、いや。でも……」
フォロンとしても、急にそんな事を言われても困る。
当たり前だ。基礎課程一年に授業をすることは専門課程の人間にとっての課題でもあるのだ。代わりに教えてやると言われて簡単に交代してもらうわけにもいかない。
これは好き嫌いとか適不適ではなくこの学院の制度なのだ。
フォロンやダングイスの一存であっさり交替――という訳にはいかない。
それに……
「ちょっと待って下さい! フォロン先輩は今までしっかり教えてきてくれたじゃないですか! それをいきなり精霊さんと契約できたからと言って代われというのはおかしいですよ!」
フォロンに代わってペルセルテが正論で返す。
「ペルセルテ――」
彼女の言葉がちょっと嬉しいフォロンだった。
フォロン自身としては特に教壇に立つことに対して拘りや執着があるわけではないが、彼なりに少し自信がついてきたというか、考え方に整理もついて、後輩に教えるのが楽しくなってきた処だったのだ。それが独り善がりでなかったというだけでもフォロンは嬉しいのである。
「またお前か。ガキは黙っていろ」
ダングイスの隣に控えていたバルゲスが彼女を睨みつける。
「いいえ、黙りません! それに、そんな事を平気で言うダングイスさんに、フォロン先輩以上の神曲楽士としての資質があるとも思えません!」
叫ぶ様に主張するペルセルテ。
彼女がこんなに強い口調で誰かを非難するのを見るのはフォロンも、そして恐らくは他の一年生達も初めてなのだろう。いつも朗らかに笑っている少女、それがペルセルテなのである。
だが彼女は同時に神曲楽士への思い入れが他の者達よりも強い。
彼女にとって神曲楽士とは亡き父の象徴であり、同時にある種の理想像なのだ。それを汚されるのを彼女は嫌う。だからこそ明らかに人格に問題が在るダングイスが、フォロンを差し置いて天才神曲楽士を自称するのが彼女には我慢ならないのだろう。
しかし……
こだわりを持つという意味ではダングイスも同じだ。
「なななな、何を言っているのかね君は! ボクの才能がフォロン以下のはずがないだろう!?」
まるで痙攣しているかのように首筋が細かく震えている。顔も何故か少し右に傾いていた。全体的に歯車が噛み合わずにぎくしゃくと人形が痙攣している様な不自然さが在る。
ダングイスが本気で頭に来ているときの癖だ。
「ちょ、ちょっと二人とも」
フォロンが思わず止めに入る。
だがペルセルテもダングイスも相当に熱くなっている様で――当事者である筈のフォロンなどまるで存在すら忘れたかの様に、二人は睨み合いつつ大声を張り上げている。
「才能なんて知りません! でもフォロン先輩の方がずっと神曲楽士としても紳士的ですし、立派じゃないですか!」
「君にはこのボクの海よりも深い紳士さがわからないのかね!?」
「全然さっぱり完全に分かりません! 有り得ません!!」
ペルセルテが力強く否定すると、ダングイスの額には青筋がくっきりと浮かんでいく。
「無礼な、失敬な、この天才の僕に向かって――このクソガキ――」
「紳士がそんな言葉使う筈ないでしょう!? ――っていうか一度でいいから『紳士』って言葉の意味を辞書で引いてきてください!!」
「ぬぐぐぐ、この――黙っていればこのガキ……」
「黙ってないじゃないですか!!」
「むぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
眼を血走らせてダングイスが拳を振り上げる。
完全に激昂している様だ。今のダングイスは自分が何をしようとしているのかさえ分かっていないかもしれない。
さすがにまずい――とフォロンが思い、コーティカルテが腰を浮かす。
だが……
「ダングイス」
意外な者が暴走するダングイスを止めた。
「こんなガキには口で言ってもしょうがねぇ。お前の実力を見せつけてやれ。それなら嫌でも理解出来るだろ」
小柄な獣はそう言ってダングイスの腰を叩く。
しばらくダングイスは息を荒げたまま固まっていたが――呼吸が落ち着いてくると、拳を降ろし、その手で乱れた髪を気障な仕草で撫で付けた。
「は……はっはっは。それもそうだね。さすが我がパートナー。そこら辺のくだらない連中とは頭の出来が違うようだね」
ダングイスは無理矢理笑顔を作る。
だがその額には血管が浮かび上がっているままだ。
彼は教壇の横に置かれていた単身楽団へと手を伸ばす。フォロンが授業の為にと特別許可を貰って実習室から持って来ている物だ。
当然――使用はあくまで操作法の習熟のみに限定されている。
「ちょっと、ダングイス! それはだめだよ!」
ダングイスの意図を悟ってフォロンが叫ぶ。
基礎課程の生徒が実習室以外の場所で単身楽団を使う事は禁止されている。まして防音設備すら無い部屋で神曲を演奏するなど、専門課程の生徒でも許されていない。
だがダングイスに近付こうとするフォロンの前に立ちはだかる者が居た。
精霊バルゲスである。
「今からあんたに本当の実力って物を教えてやろうって言っているんだ。大人しく黙って見ていろよ」
「あ……」
思わずその場に立ち尽くすフォロン。
相手はタヌキ呼ばわりされた事からも分かる様に、小さく、丸っこい精霊だ。見た目としては特に威圧的でもないし圧倒的でもない。
だが……
バルゲスの声には何処か暴力的な響きがあった。
単に乱暴というだけではない。恫喝に慣れた――嫌な感じの自信を背負って他人を圧迫する者特有の、粘つく様な口調と声音。自分よりも遙かに体格の大きな相手に、まるで襟首を掴まれ、刃物でも突き付けられて凄まれているかの様な、そんな恐怖感にフォロンは気圧されていた。
ダングイスを止めようとして伸ばした手が力無く落ちる。
だがフォロンの存在が盾になったのか――後方のペルセルテはこの異様な圧迫感を直接には感じなかった様だった。やはり憤りを全身に示してバルゲスに食って掛かる。
「だからどうしてそんな言い方しかできないんですか!? それに、ダングイスさんの神曲なら聴いたことあります。フォロン先輩の神曲の方がずっと素敵だってことも、もう知っています!」
「曲の良し悪しで白黒つけようって言ってるわけじゃねぇよ」
せせら笑う様にバルゲスが言った。
「だいたいそれじゃ聴き手によってばらばらで分かりにくいだろ? もっとはっきりと誰の目にもわかる方法があるんだよ。なあ?」
「え……?」
曲を聴くことによってしか比較することはできないと思っていた彼女は、驚いて言い返す言葉を見失ってしまった。
彼女の反応を見てバルゲスは満足した様だった。獣型の精霊は鋭い歯をむき出しにして狂暴な笑みを浮かべつつ、畳み掛ける様に言った。
「神曲を使った精霊同士の戦闘! それがどちらの神曲が優れているか一発ではっきりさせる方法だよ! これなら誰の眼にも明らかだろうがよ? ダングイス!」
「ああ。準備完了だよ」
ようやく単身楽団の展開を終えたダングイスが前髪を掻きあげながら得意げに返事をした。なんだかんだ言って単身楽団の操作はフォロンの方が素早く正確なのである。
無論それは新曲の善し悪しに直接関係は無いのだが――
「凡俗共め。僕の才能を思い知るがいい!」
高らかにそう宣うとダングイスは鍵盤に指を走らせた。
やたらに乱暴な――早弾きとしての技術は大したものだが、『ただ早く弾いているだけ』といった感じの旋律が教室の中に響き渡る。
同時に――バルゲスがフォロンへと飛び掛って実際に胸倉を掴んだ。
「だ、だめだよ……ダングイスを止めて……」
いつもの騒動だと思い静観を決め込んでいた他の生徒達も、突然のことににわかにざわめき出す。明らかにダングイスの行動は常軌を逸している。普段から無茶の多いダングイスだがここまで暴走してしまうと冗談では済まない。
ペルセルテも目の前で起きていることが信じられないといった様子で、ただ呆然と事態を見詰めている。
そんな中――
パシッ。
突然、フォロンの胸倉を掴んでいたバルゲスの手が叩き落とされた。
「コーティ……」
コーティカルテは怒りに満ちた眼でバルゲスを睨みながらフォロンの傍らに立っていた。
「おい、さっさとこの不愉快な音を止めさせろ」
静かだが……ひどく重みのある口調。
暴力的というのならば先のバルゲスなど全く比較にならない。圧倒的な力の差を背後に持ちつつ雑魚を睥睨する女王の気風がコーティカルテには在った。小柄な筈の彼女がまるで巨人の様にすら見える。
傍らのフォロンすらそう感じたのだから――真正面から相対していたバルゲスがどう感じたかは想像がつく。
事実、バルゲスは一瞬、気おされたのか三歩ほど後ずさりした。
「ほ……ほぅ? この俺様と神曲なしでやりあう気か? この半端精霊が」
「いいから止めさせろ」
コーティカルテは淡々とした口調で言う。
普段が感情的な彼女だけに――大声で怒鳴り散らすよりもこうした態度の方が何倍も威嚇的である。内側に抑え込まれた憤怒が圧力を高めているのが分かる。
「ちっ――」
一瞬、バルゲスは自分の足下を見て舌打ちする。
自分が後ずさりしていた事に今初めて気付いたのだろう。それだけ――相手に無意識の行動を強要する程にコーティカルテの怒気が凄まじいという事だ。
バルゲスは両手も床につけて四本の足で立つ。
獣と同じ姿を持つ彼にとってはそれが最も飛び掛りやすい、いわば臨戦態勢なのだろう。
対して――コーティカルテはただ立っているだけだった。
腕は両脇に自然に垂らしたままであるし、脚を開いて構える様子も無い。
ただその紅い眼が獣型の精霊を真っ直ぐ見据えているだけだ。
だが……
「おい……ちょっと……これは……」
これが一触即発の状態だとは他の生徒達にも分かるのだろう。
迂闊に逃げる事さえ許さない様な緊張した空気が教室に満ちていく。
上位精霊ともなれば神曲が無くてもこんな教室の一つや二つ吹っ飛ばすだけの力を持っている。下手に精霊同士の戦いの余波を喰らえばそれだけで大怪我を負いかねない。
生徒達の恐怖を裏打ちするかの様に、コーティカルテとバルゲスの周囲で、何かが弾ける音が続けざまに起こる。
溢れ出した精霊の力が飽和状態に達しているのだ。
コーティカルテやバルゲスがその気になれば一瞬でその不可視の力は精霊雷となって周囲を破壊する。
それを分かっているのかいないのか――ダングイスは得意絶頂で単身楽団を弾きまくっている。
「コーティ――」
フォロンが掛けた声も虚しく空間に散じるばかりだ。
だが……
「――おい、お前ら!?」
救いの主は予想もしなかった処から来た。
がらりと教室の扉を開けて一人の講師が顔を出した。
「何を騒いでいる!? 授業時間はとっくに始まっているぞ!」
ずかずかと大胆な足取りで教室の中に入ってくる講師。
彼はまるで場に満ちている緊張など気付かない様子で、コーティカルテとバルゲスの間に割って入ると、フォロン、ダングイスの双方を見回して怒鳴った。
「またお前等か! コマロ! タタラ! 事ある毎につまらない揉め事ばかり起こしおって!」
「えっと……、あの……」
フォロンはどう説明すれば一番ましかと考えたが、良い案が思い浮かばない。
単身楽団を使っている基礎課程一年、臨戦態勢で向き合っている二人の精霊……これだけ揃っていては言い訳の仕様がなかった。
「タタラ! 特にお前!! 単身楽団はお前が責任を持つと言って借りだしたものだろうが? それをどうしてコマロが背負ってる!?」
「いえ……その……」
言い淀むフォロンに近付くと講師は彼の襟首を掴んで引き寄せる。
次に来るべき厳しい叱責を察して身を固くするフォロン。
だが――
「タタラ。此処は俺に合わせておけ」
囁く様な講師の声。
それで――フォロンは瞬間的に講師の意図を察した。
通り掛かったこの講師は教室に精霊の力が危険な位に満ちていたのを察したのだ。彼も神曲楽士――そういう感覚が鋭い事には何ら不思議は無い。
まるで状況が分かっていないかの様に大声で怒りながら教室に入ってきたのも、そのままコーティカルテとバルゲスの間に割って入ったのも、第三者たる自分の介入で、二体の精霊の正面衝突を避ける為の行為だったのだ。
「…………ったくタタラ。もうちょいしっかりしてくれよ、お前、専門課程だろうが? 精霊もその内呆れて寄ってこなくなるぞ?」
口調を元に戻して言う講師。
まず、よく細かな失敗をするフォロンをいつもの調子で叱っておく事で、場に『日常』を取り戻すつもりなのだろう。この場を収める事についてはフォロンも異論が無いので、素直に謝っておく。
「あ……はい。すいません」
「それとコマロ。お前はまだ基礎課程だろう。実習室以外での単身楽団の使用は禁止されているはずだろうが?」
今度はダングイスを振り返って講師は言った。
基礎課程を終えた直後にまたすぐ基礎課程に入学してきた変り種の彼の名前は講師の間でも有名だ。
「ボクはみんなに本当の神曲というものがどういうものなのか教えてあげていただけなんだ。ボクは天才だから、そんな凡俗の決まりになど――」
さも当然といった顔で答えるが、そんな言い分が講師の前で通るはずもない。
「天才も凡才も関係ないな。規則が守れない者は等しく社会の一員で居る資格が無い。本物だろうが嘘だろうが、此処での神曲演奏は禁止されていることには変わりない――嫌ならこの神曲学院を出て行く事だ」
「…………」
さすがにそれはまずいと思ったのか、沈黙するダングイス。
「タタラ。コマロ。二人とも、罰としてこの後、残って実習室の掃除だ」
「なぜこのボクがそんなことを……」
ダングイスはぶつぶつと文句を漏らしている。全く反省の色が無いというか――そもそも自分が何で叱られているのかすら理解出来ていないらしい。
そしてその隣では――
「…………」
何故かバルゲスが不敵な笑みを浮かべていた。
夕刻――下校時刻。
今日一日の授業を終えてトルバス神曲学院の生徒達が、ある者は足早に、ある者は雑談をしながら校門をくぐって行く。
その中に――ダングイスとバルゲスの姿もあった。
「おい、お前は実習室の掃除とやら、やらなくていいのか?」
ダングイスの隣でふと思い出したかの様にバルゲスが尋ねた。
「掃除? どうしてこのボクが?」
しらばっくれている……というよりは、本当に何の事だか分かっていないといった様子でダングイスは聞き返す。
講師に注意されたのはつい先程の事なのだが、既に彼の頭の中では無かったことになっているらしい。まあ――こういう『自分に都合の悪い事は自然に忘れる』事が可能な精神構造だからこそこの恐ろしく自分勝手で反省の無い性格が出来上がるのだろうが。
「いや……なんでもない」
彼の考え方は理解しているのか――バルゲスは特に驚く事もなく納得する。
「そうだ、ダングイス。俺は少し用事があるから今日は先に帰っていてくれ」
「用事……?」
「ああ。俺クラスの上位精霊になると、それなりにいろいろあるんだ」
「ほぅ。なるほど。分かった」
『俺クラスの上位精霊』という言葉に満足してダングイスは機嫌よく答える。
『バルゲス』が『かなり上位の精霊』という事は『そんな上位の精霊と精霊契約をした自分も凄い』という意味に直結する。バルゲスが凄ければ凄い程に自動的にダングイスも凄いという事になるのだ。
「心置きなく用事とやらをしてきてくれたまえ」
やはり意味もなく気障ったらしい仕草で前髪をかき揚げながらダングイスは言う。
「おう。それじゃあ、また後でな」
にたりと何処か獰猛なものを含む笑顔で言うバルゲス。
そして。
彼は四本の足で地面を蹴り、獣特有の素早さでその場を去っていった。
「――ふぅ。だいぶ終わったね」
実習室を見渡してフォロンがそう言った。
まるで一種の劇場の様に広い部屋。
そこには幾つもの譜面台と席が置かれ、窓は二重硝子、壁と天井は吸音材に覆われ、床にも絨毯が敷かれている。これは余計な神曲を外に漏らして精霊達を無闇に惹き付けない為の配慮なのだが――このお陰で神曲の実習室は床や壁には凹凸が多く、結果的にひどく掃除しにくい状態になっている。
罰掃除を始めて既に二時間余り――窓から見えている外の風景はすっかり夜の色に染められていた。倶楽部活動の類はトルバス神曲学院には無いので、生徒の大半はもう校舎を辞してしまっているだろう。
また講師達も大抵は専業という訳ではなく、神曲楽士の仕事の傍ら生徒達を教えに来ている者なので、授業が終われば帰ってしまう者が殆どだ。今の校内に残っているのは、それぞれ数名の事務員や用務員達ばかりであろう。
昼間の賑やかさから生じる落差のせいか……どうしても人の気配の絶えた夜の校舎は寂れた様な印象が強い。何かが終わったかの様な、廃墟じみた空疎さが横たわっている様は観ていてあまり気持ちの良いものではない。学校に怪談の類が付き物なのもこの辺りの理由からであろう。
だが――
「そうですね! なんかこう、掃除して綺麗になっていくのを見ていると気持ちがいいですよね!」
譜面台を水拭きしてくれているペルセルテはとても楽しそうだ。
普通の生徒なら教室掃除など皆、嫌がるのだが――少なくとも彼女は嫌な顔一つ見せずにフォロンの掃除を手伝ってくれている。
掃除が好きなのか。はたまた別の理由か。
無論、朴念仁のフォロンに分かる筈も無い訳だが。
「しかし、問題を起こした張本人が来ていないというのは腹が立つな」
コーティカルテが不機嫌そうな顔で呟く。
問題を起こした張本人とはもちろんダングイスのことだ。
「そうですよね! 明日会ったらちゃんと注意しないと!」
憤慨した様子でペルセルテが同意する。
「まぁ、彼はねぇ……」
だが本来、罰掃除を押し付けられたと、最も怒るべきフォロンは溜め息を漏らすばかりで怒る様子は無い。彼は元同級生であるダングイスとは二年以上の付き合いである。彼の性格からして罰当番に素直に参加する筈が無いのは最初から分かっていた。
彼お得意の『無かったことになっている』というやつだろう。
その事についてはもう諦めの境地に達しているフォロンであった。
とはいえ――
「でもごめんね。ペルセルテ達に手伝わせてしまって……」
「いえいえ! お掃除だってみんなでやった方が楽しいですし、実習室は私たちも使う教室なんですから、綺麗な方がいいですもん!」
そう答えるペルセルテはとても嬉しそうで……その頬は少し赤い。
そんな彼女の様子を見て、対照的にコーティカルテが非常に不機嫌そうに眉間に縦皺を刻んだり頬を膨らませたりしている。
「そうだぞフォロン。頼んでもいないのに勝手に手伝っているだけなのだから、わざわざ礼など言う必要はないぞ」
「コーティ……」
ある意味でダングイスに向けるのと同じ諦めの気持ちを抱いて彼は紅い髪の精霊を振り返る。
彼女は……教室の端に椅子を置いて、そこに腕を組みながら現場監督の様に座っているだけだ。自分もフォロンを手伝おう――という発想は無いらしい。
まあ……こう見えてコーティカルテは妙に不器用というか、やたら要領が悪い処が在るので、下手に手伝わせてもそう掃除がはかどるとは思えない。むしろ余計な事をせずに座っていてくれる方が助かると言えば助かるのだが。
「プリネシカもごめんね。遅くまで」
コーティカルテと同じく、椅子に座っているプリネシカにも声をかける。
「私は何もしていませんから……」
「ううん。風邪で疲れているのにこんな時間まで待たせちゃったからね」
「いえ……はい、その……」
返答に困った様子で、彼女はただ小さく頭を下げた。
ペルセルテが掃除を手伝ってくれると言ってきたときに、彼女も一緒に手伝うと言ってきてくれたのだ。しかし彼女は今体調を崩している――無理をさせて風邪を悪化させるといけないと考え、せめて彼女には座って待っていてもらうことになったのだ。
本当は先に帰ってもらい、家で養生してもらうのが一番なのだが、プリネシカはペルセルテが残るのなら自分も残りたいという。
「それじゃあ、もう少しで終わるし、頑張って仕上げますか」
「お〜!」
フォロンの言葉に合わせてペルセルテが元気良く腕を上げた。
そんな様子をプリネシカは微笑みながら眺めていて、コーティカルテはやっぱり不機嫌そうに睨み――そしてそっぽを向く。
罰掃除が始まってから何度と無く繰り返された光景である。
だが――
「…………」
コーティカルテが、急に立ち上がった。
ガタン――と音を立てて彼女が座っていた椅子が倒れる。
「コーティ、どうかしたの?」
彼女の急な様子の変化に、フォロンが控えめにたずねるが、彼女は何も答えない。ただ真剣な表情で地面を見つめたまま、何かに意識を集中させているようだった。
やがて――
「歌だ……神曲が聞こえる」
コーティカルテはぽつりとそう言った。
「え……?」
コーティカルテに言われ、フォロンは耳を澄ませたが――何も聞こえない。
すぐ横でペルセルテも同じような仕草をしていたが、彼女にも何も聞こえなかったようで、二人は顔を見合わせて首を横に振った。
そもそも此処は防音仕様の神曲実習室である。
いくらコーティカルテが耳が良くても、この実習室の外で奏でられている音まで聞こえるのは不自然ではないか――フォロンはふとそう思う。
だが――
「音源はそれほど遠くではないぞ」
とコーティカルテ。
近くで演奏しているからこそコーティカルテが辛うじて聞き取れる程度の音量が遮音壁をも透過して伝わってくるのだろう。音とは詰まるところ振動であるから――空気中の伝播は遮蔽できても、床や壁や天井を伝ってくるそれまで完全遮断してしまうのは難しい。
「誰かが残って練習しているんですかね?」
よく考えればそれが一番自然ではある。ここは神曲学院なのだ。居残って神曲の練習をしている生徒がいてもなんら不思議ではない。
だが――
「あ。そうか。え……でも……?」
さすがに別の実習室の音がこちらに伝わってくる事はあるまい。
距離的な事から考えれば音源は廊下に居る筈だ。
だが……廊下では単身楽団を扱う事も神曲を演奏する事も禁じられている。誰が一体そんな真似をするというのか。特に人の姿も無い夜の校舎の廊下で、神曲を演奏する――そんな行動に何の意味が在るのか。
何か不穏なものを感じるフォロン。
現にコーティカルテの表情は堅いままだ。
「いや、違うな……これはもっと……」
いつになく真剣な表情のコーティカルテの姿を見て、フォロンは得体の知れない不安感を抱いていた。ただ神曲が聞こえるというだけでコーティカルテがこんなに警戒するとも思えない。自覚しているかどうか分からないが――彼女は明らかに敵を前にしているかの様に身体を緊張させ、僅かに身構えていた。
「……鋭い……断定的な程に……冷徹な……『嫌悪』? ……いや目的意識が……そうなると『仕事』……いや……もっと……積極的で何かに対する否定的な……根本的な……『存在否定』……その方法――」
ぶつぶつと呟くコーティカルテ。
神曲によって脳裏にもたらされる断片的なイメージに他人にも分かる明確な言葉を当て嵌めようとしているのだろう。
「――『攻撃』? そう、攻撃的な意志が織り込まれているのを感じる」
「攻撃的な意志……?」
「音源が近づいてくる……? いや、違う何かがもっと近くに……」
コーティカルテは、何かに気付いた様子で顔を上げ、フォロンに向かって叫んだ。
「フォロン! 早く単身楽団を! 神曲による精霊戦闘支援だ、早く!!」
刹那――破壊音が鳴り響く。
実習室の扉が何か圧倒的な力にさらされて粉々に砕け散ったのだ。
同時に、電気が落ちたのか、急に教室が暗くなる。
ペルセルテが悲鳴をあげ、フォロンの腕にしがみ付いた。
そのフォロンも事態が飲み込めずにただただ呆然と破壊された扉の方向を見つめていた。
だが暗くてよく見えていない。
窓辺から入り込んでくる街灯や星明かりでは教室に満ちる闇を完全に払拭するには足りない様だった。
「なん……だ……?」
何か、黒く、そして大きな影が破壊された入り口から入ってきた。
その姿ははっきりとは見えない。ただそれが動く何かであること、そしてフォロンよりも大きいものであること、そしてそれが何者かであることだけははっきりと分かった。
暗がりに薄っすらと光る、二対――四枚の羽根。
精霊の証。
「精霊がどうして……?」
闇の中にあってもはっきりと見える光の羽根を、フォロンは見つめていた。
光の羽根が揺らめく。
そして次の瞬間、その光はフォロン目掛けて直進してきた。
「なっ……!」
危険を感じたフォロンは考えるよりも先に、自分にしがみついていたペルセルテを突き飛ばした。
彼女の小さな悲鳴が聞こえるが、少なくとも迫り来る精霊からの被害は受けないはずだ。
だが反射的にペルセルテを突き飛ばしたために体制を崩したフォロンは自分自身が避けるための時間を見出せなかった。
緊張によって引き延ばされた時間の中――フォロンは相手の攻撃が自分に近付いてくる気配を感じて身を強張らせる。
耐えられるだろうか?
いや無理だ。
精霊の攻撃を生身の人間が防ぐ手段は無い。
「この馬鹿者がっ!」
そんな声と同時に、横から強い衝撃を受けてフォロンは床に寝転がされた。
彼の上にはコーティカルテが抱きつくように乗りかかっている。彼女が咄嗟に飛び掛かってフォロンを精霊の進路から外したのである。
「ありがとう、コーティ」
「馬鹿者! そんなことより早く単身楽団を!」
「あ、うん。ごめん」
彼女に促され、フォロンは単身楽団が仕舞われているロッカーへと走る。眼も少しは暗闇に慣れてきていたおかげで、どうにか移動することはできた。
幸運にも此処は防音仕様の神曲実習室だ。
単身楽団が置かれている。
「貴様、いったい何のつもりだ?」
コーティカルテが影に向かって叫ぶ。
だが影は低く重い唸り声を上げるだけで何も答えない。答えるつもりが無いのか、あるいは<セイロウ>枝族の様に人間の言葉で答えられる様な発声器官が無いのか。
「……やはり答える気はないか」
彼女も本当に答えさせようとして問いかけたわけではなく、フォロンが単身楽団を準備するまでの時間稼ぎなのだろう。
体勢は楽にしているように見えるが、コーティカルテの全身には緊張感が漲っており、四肢を僅かに曲げ、何が起きてもすぐに反応できる様な形に構えている。
「…………」
コーティカルテの反応を警戒してか、暗闇の中で光る影の二つの眼も、彼女をじっと見据えたまま動かない。
(……コーティ……?)
コーティカルテの立ち方はひどく自然だった。
緊張はしている。だが何というか――この様な場面を幾度と無く経験しているかの様にその緊張ぶりに偏りが無い。少なくとも恐怖に身を竦ませているのではないのはフォロンの眼にもはっきりと分かった。
(僕は――)
改めて思う。
自分はコーティカルテの事を何も知らない。
自分と出会う前に彼女が何を見て何を聞いて何を感じてきたのかを。
フォロンはコーティカルテの姿を薄闇の中に確認しながら、単身楽団を背負い、素早く指で操作する。
暗闇で細部までははっきりと見えていないが、これまでに数え切れないほど練習してきた手順――身体が覚えている。
歯車と発条《バネ》の音を立てながら、フォロンを包み込む弧のように単身楽団が展開していく。周囲の空間に投影された『計測窓』から単身楽団自身の状況や周囲の空間の状況に関する情報が流れてくる。
単独で強大な力を持った精霊を従わせる為に造られた装置が、その真の姿を現す――
(あの精霊……。ここで出会った時のコーティのように、暴走状態に陥っているのか? だとしても、僕に抑えることができるだろうか)
一瞬そんな考えが頭の中を駆け巡ったが、すぐに切り捨てた。どのみち考えて分かるものではないし、今の彼がやるべきことが変わるわけでもない。
フォロンはそっと一息ついて気持ちを落ち着かせると静かに演奏を始めた。
透き通るような音が部屋に響き渡る。
昂ぶっている精霊の気持ちを、ただ鎮めたい一心で奏でられる曲。
まだまだ完成形にはほど遠いが、彼の純粋な気持ちがこめられた曲。
「フォロン先輩……」
ペルセルテも、そしてプリネシカも静かに耳を傾けている。
精霊と対峙していたコーティカルテでさえも一瞬その曲に聴き入ってしまった。だが彼女は自分を抑制するかのように頭を振った。
「フォロン、馬鹿、違う、こいつは……!」
彼女が叫ぶと同時に、黒く大きな影は咆哮をあげコーティカルテへと襲い掛かった。
精霊雷をまとわりつかせた光る爪が空気を裂いて彼女に迫る。
「ちっ!」
振り下ろされる腕の間を潜り抜けながら横へと飛びのくコーティカルテ。
彼女が立っていた場所にあった椅子は影の一撃を受け粉々に砕けた。
「そんな……。やっぱり僕にはまだダメなのか……?」
精霊を抑えることができなかった。それはフォロンの神曲が相手に受け入れられなかったことを意味する。相手に受け入れられない神曲はすでに神曲ではない。
「馬鹿! 平和主義にも程が在るぞ! 戦闘支援用の神曲を――」
言いながら二撃目を避けて跳躍するコーティカルテ。
そう。
彼女がフォロンに期待したのは、彼女が闘うのを支援する為の神曲だ。
だがフォロンは精霊の気を鎮める為の神曲を演奏した。
これはむしろコーティカルテの戦意を挫く方向に働いてしまう。
しかも……
「でも――」
「こいつは既に違う神曲楽士と契約済みなんだ! だからこいつをお前の神曲で抑えることはできない! 闘って叩き伏せるしかない!」
「え……!?」
コーティカルテの言葉に衝撃を受け、フォロンは言葉を失う。
契約済みの精霊による襲撃。
契約を交わした精霊は神曲楽士の意志に従い行動する。
無論――コーティカルテを見ていれば分かる様に精霊の自由意志による行動も在る。だが今現在、この襲ってきた精霊は神曲の支援を受けている。それはつまり……今フォロン達は誰か神曲楽士の意志による攻撃を受けているという事の証明だ。
「そんな……どういうことなんですか……じゃあ、これは何処かの神曲楽士からの攻撃だっていうんですか……?」
譫言の様に力の無い声で呟くペルセルテ。
「ペルセ、しっかりして」
プリネシカは暗闇の中を立ち尽くしている姉の元へと駆け寄っていく。
フォロンもペルセルテが神曲楽士に対して信仰心にも似た、強い憧れや尊敬を抱いている事を知っている。
無論――ペルセルテも<嘆きの異邦人>事件に代表される様な、神曲楽士による犯罪の例が在る事は知ってはいるだろう。だがそれは新聞やラジオ、テレビといった報道の中で語られるだけのもので彼女にとってはフィクションと大差無いものだったに違いない。知識として知っているのと実感や経験として知っているのは違う。
何処かペルセルテは神曲楽士もまた人間であり悪人たり得るという事を、一種の御伽噺の様な、現実感に欠けたものとして認識していたのだろう。
だが。
現実に今自分達は神曲楽士の悪意に晒されている。
実感として吹き付けてくる精霊の敵意、害意の向こうには神曲楽士が居る。
その紛れもない事実は――彼女に大きな喪失感を与えていた。
「ペルセルテ……」
フォロンは彼女の元へと駆け寄ってやりたい衝動に駆られる。
だが再び室内に響き渡った破壊音がそんな彼に待ったをかけた。
フォロンが音のした方向へと振り向く。
そこでは何度目かの攻撃をやり過ごし、机の上に立つコーティカルテの姿と、更に彼女へ攻撃を加えようと瓦礫の上に立つ黒い巨体が見えた。
「コーティ!」
「フォロン、神曲を」
彼女は振り向く事なく短くそう要請してきた。
精霊である彼女にとって神曲は力の源である。精神体部分の比重が大きい精霊達は嗜好に合致した神曲があればそれだけで普段の何倍もの大きな力を得ることができる。
そして――相手の精霊は神曲を得て闘っているのだ。
つまり精霊として、たとえコーティカルテがこの黒い襲撃者より上位に在ったとしても、神曲の支援が無い状態では敗北する可能性が高い。神曲を得た下位の精霊が神曲の無い上位精霊を倒した例は記録上幾つも確認されている。
「早く!!」
「あ、ああ」
コーティカルテの気勢に押される様にして返事はしたものの、フォロンには今必要とされている神曲を奏でる自信はまるでなかった。
(僕にできるのか……?)
今必要とされているのは戦うための曲。
しかし訓練では一度もしっかりと弾けたためしがない。その上彼には精霊を戦わせること自体にも迷いがあった。
フォロンは先ほどのものとは違う曲を奏で始める。
鍵盤の上を指が走り、スピーカーからは幾重にもエフェクトを掛けられた音が分厚く流れ出す。単に技術という意味ならばフォロンのそれは立派なものだった。この土壇場でミスもなく演奏出来るのはある意味で素晴らしい才能と言える。
だが――
「くっ……」
コーティカルテは歯がゆそうに唇をかみ締めた。
神曲は奏者の心の在り方を映し出す鏡でも在る。
フォロン自身は戦いの事だけを考えて演奏しているつもりでも、彼の内側にある迷いや葛藤がそのまま曲に表れるのだ。
奏でよ、其は我等が盟約也
其は盟約
其は悦楽
其は威力
故に奏でよ汝が魂の形を
トルバス神曲学院の校庭に置かれた石碑の文句。
これは抽象的な詩歌ではなく精霊と神曲と神曲楽士の関係を端的に顕した事実そのものである。
精霊は神曲楽士の魂の影たる神曲を得てその力を増す。
だが迷いのある神曲では十分な力を得る事ができない。むしろ精霊の力を減少させる事さえも有り得る。
「ちっ……!」
振り下ろされる片腕をどうにか避けて見せる。が、続けざまに放たれたもう片方の腕の一撃を直接受けてしまい、コーティカルテは黒板へと叩き付けられた。
ただの一撃ではない。
精霊雷をまとった爪の一撃だ。普通の人間なら身体を真っ二つにされていても不思議は無い。同じ精霊雷の防御壁を展開し、咄嗟に自らの身体を庇ったコーティカルテだからこそ、吹っ飛ばされる程度で済んだのである。
「コーティ……!」
彼女に駆け寄ろうとして――しかしフォロンは立ち止まる。
迂闊に前に出れば黒い巨体の精霊の前に自らの身を無防備に晒す事になる。事実――黒い精霊は『次はお前だ』と言うかの様に、ゆっくりとフォロンの方を振り返った。
「くそっ……」
唇を噛むフォロン。
彼は自らの無力さを悔いた。
そしてそれ以上に呑気な考えに甘えていた自分を悔いた。
もっと戦闘訓練をしっかり受けていれば、コーティカルテや皆をこんな危険に曝さないですんだはずだ。
「それに……時には……暴力が人や精霊を救う事もある……それは、忘れるな」
コーティカルテの言葉が脳裏に浮かぶ。
その通りだ。時には暴力を以て闘わねばならない時も在る。
ダングイスを見ていれば分かる。言葉が通じない相手というのは居る。価値観の相違から、あるいはもっと別な何かの違いから、百万言を連ねても分かり合えない相手というものは存在するし、常に言葉で以て相手を説得するだけの余裕が在るとも限らない。
暴力が誰かを守るために必要な時は確かに在るのだ。
だがフォロンは性格的に争いを好まない為――その事から目を背けていた。神曲楽士が皆人格者というわけではないと知りながらも、精霊同士の戦闘などそうそう遭遇するものではない――と、どこかでそんな甘い考えを持っていた。
精霊をまるで道具のように使って戦わせたくない。
その気持ちは変わらない。
だが今現に――闘わねばならない場面に彼は居る。闘わねば一方的に暴力に蹂躙されてしまうだけだ。自分も。コーティカルテも。そして恐らくはこの場に居合わせたユギリ姉妹でさえも。
「…………」
精霊が身を屈める。
力をたわめて一気にフォロンに飛び掛かるつもりだろう。
だが――
「何処を見ている――この戯けッ!!」
鋭い罵倒の声と共に光が薄闇を切り裂く。
今まさに跳躍せんとしていた黒い精霊を全く無防備な背後から襲った光の一撃は、精霊の巨体を凄まじい勢いで吹っ飛ばし――精霊はフォロンの横を無様な格好ですっ飛んでいくと、壁にめり込んで止まった。
「コーティ!!」
フォロンは今度こそコーティカルテの元に駆け寄る。
彼女は半壊した黒板の前に座り込みながら、しかしまるで何かを突き飛ばそうとするかの様に片手を掲げた体勢を採っていた。恐らく精霊雷を光弾の形で掌から撃ち出したのだろう。
「コーティ、大丈夫……?」
コーティカルテの小さな身体を抱き上げながら尋ねるフォロン。
「ああ……」
精霊である彼女に外傷は見られなかったが――それだけに精霊の消耗は恐ろしい。外見に全く傷が見つからなくとも、精神力を著しく消耗した精霊は自身を維持出来ず、あっさり分解消滅する場合が在るからだ。
コーティカルテの整った顔が今は苦渋に歪んでいる。
彼女の感じている苦痛がどれ程のものか、フォロンには推し量る事しか出来ないが――
「ごめん……」
彼にはただ自分の力の無さを謝る事しかできない。
「何がだ」
しかしコーティカルテはわざと気付かない素振りを見せて立ち上がると、汚れた服をはたいた。
「それよりもフォロン、今の内にユギリ姉妹を連れて逃げろ。派手に極まりはしたが、今のはとどめにはほど遠い――」
言いかけて。
コーティカルテの表情が一変した。
「あの馬鹿、何をする気だ!」
その声に、フォロンは彼女の視線の先を追った。
そして絶句する。
確かに黒い精霊は壁から身を引き剥がし再び戦闘態勢を整えていた。
だがコーティカルテとフォロンを驚かせたのはその事実ではない。
精霊の前に立つ少女の姿だった。
ペルセルテである。
彼女は逃げる様な素振りもなく真っ直ぐに相手を見据えている。
彼女のすぐ後ろにはプリネシカもいた。プリネシカとしては力ずくでもペルセルテを止めたいのだろうが――今の彼女にはそれだけの体力が無い。弱々しい力で姉の袖を引っ張っているが、ペルセルテは頑ななまでに身を固くして動こうとしない。
「あなたと契約している人も神曲楽士なんですよね。それがどうしてこんなことをするのですか!?」
そう叫ぶ彼女の声にいつもの明るさはない。
今にも泣き出してしまいそうな――ひどく揺らぎを含んだ声だ。今の彼女は勇気や意地で精霊の前に立っているのではない。単に恐怖と失望で自分が何をしているのかさえ分からなくなっているだけだ。
そんな彼女を、精霊が睨み付けた。
その眼はどす黒く濁っていて……暗い殺意だけに満ちている。
ペルセルテは崩れ落ちる様に座り込んでしまった。此処まで剥き出しの悪意を叩き付けられるのは生まれて初めてなのだろう。
「どうして……神曲楽士の神曲を聴いているはずなのに……その曲に感動したから神曲楽士の下で働いているんでしょう……? なのに……なのに……そんな……そんな気持ち悪い眼をしているんですか……」
彼女にとって神曲とは皆を幸せにする力だ。
喪われた父の優しさの象徴であり、善き隣人たる精霊達と交歓する為の手段だ。
断じてこのような殺意の塊を作り出すものではない。
それなのに……。
影がゆっくりとその狂暴な腕を振り上げた。
全てを絶望の淵に押し込む威力を秘めた問答無用の一撃――
「二人とも、逃げて!」
フォロンが叫んだが、ペルセルテは動こうとしない。おそらくフォロンの声も聞こえていないのだろう。それだけ彼女の絶望は深く、精霊の殺気も強い。
「ペルセ……!」
プリネシカがペルセルテの身体を後ろから強く抱きしめた。もし彼女の体力がいつもの通りであれば、あるいはこの場からペルセルテを抱えて逃げられたかもしれない。
しかし風邪により極端に体力を奪われている今の彼女にはそれだけの力はなかった。
「くっ――」
立ち上がって精霊雷の光弾をもう一発――と思った様だったが、コーティカルテはそのまま姿勢を崩して倒れ込んだ。最初に喰らった相手の一撃が未だ効いているらしい。
間に合わない。
精霊の腕が容赦なく振り下ろされた。
そして――
「…………!!」
次の瞬間。
鈍い音が響き渡った。
思わず目を背けていたフォロンは――しかし次の瞬間、その音が妙に硬質な響きを伴っている事に気付いた。少なくとも肉が裂けたり潰れたりする様な湿った音ではない。
では一体これは何の音か。
慌てて視線を向けたフォロンは、そこに驚くべき光景を見る事になった。
精霊の爪は止まっていた。
精霊の切り株のような豪腕はユギリ姉妹の身体に触れる事も無く空中に留まっているのだ。だがそれは精霊が自ら止めたからではない。その証拠に精霊はぶるぶると力を込めてその腕をふるわせている。
そして。
「プリネシカ……?」
片手を――まるで盾の様に翳している銀髪の少女。
彼女の白い掌からは虚空に向けて青白い光が閃いている。
精霊雷。
そして何より――彼女の背中には青白く光る薄い二対の羽根が現れていた。
光によって織り成される羽根は精霊にのみ与えられるものだ。他にこの様な器官を持つ生物はこの地上に存在しない。
つまり――
「プリネ…………?」
ペルセルテもまた、妹の突然の変化に困惑している。
彼女と眼が合ったプリネシカはとても悲しそうな顔をして視線を逸らした。
さすがにこの伏兵は予想外だったのだろう。黒い精霊は驚いた様な咆吼を放ちながら後方に跳び下がって距離をとった。
「来るか……?」
コーティカルテは再び身構える。
プリネシカが精霊であったとしても現状はやはりフォロン達に不利だ。こちらの精霊は共に神曲を得ていない――
「あまり遅くまで学校に残って騒いでいるのは感心できませんねぇ」
――不意に。
全く何の前兆も脈絡も無いまま突然に。
場の緊張感を根刮ぎ破壊するかの様に呑気な声が割って入った。
「学院長……!?」
フォロンが驚きの声を上げる。
破壊された扉。
その破片の上に立っていたのはトルバス神曲学院の最高責任者にして、現役神曲楽士である全ての行使の上に立っている人物であった。
「おやおや。これはまた派手に壊しましたね」
彼は実習室の惨状を見ても笑いながら話している。
まるで孫の悪戯を眺める老人の様に――現状が分かっていないのではないかと思える程に、ひどく余裕の在る態度だ。飛び掛かればあっさり殴り倒せるのではないか、と思える位にその姿勢も無防備だった。
しかし……
「レイトス……」
だがそんな彼の姿を見て――黒い襲撃者はゆっくりと後ずさりした。
まるで巨大な猛獣を前にした小動物の様に。
「道具や設備なら見逃しましょう。しかし生徒の身の安全を脅かすとなれば私としても黙っている訳にはいきませんが?」
言って前に出る学院長。
その動きに合わせて更に精霊は後退し――
そして。
「…………」
精霊は身を翻すと窓に頭から突っ込む。
防音仕様の二重硝子が砕ける音と、大量の硝子破片を撒き散らしながら精霊の巨体は闇夜の空に飛び出した。
逃げた――のだろう。
フォロンはしばらく精霊の去った方向を見詰めていたが、そこから黒い巨体が舞い戻ってくる様子は無かった。
「想定外の敵戦力が現れたので迷わず撤退――といったところですかねぇ。なかなか良い判断だと思いますよ」
襲撃者が破壊していった窓の大きな穴から外を見渡しつつそう言う学院長は――何故か楽しげにすら見えた。
だが――
(想定外の敵戦力……?)
フォロンは少し引っかかるものを感じた。
今の黒い精霊にとってはプリネシカこそが想定外の敵戦力であったろう。だが黒い精霊はそれでも自分が有利と判断したのか――退く様子は無かった。
なのに精霊の一体も連れていない学院長が姿を現しただけで撤退するものだろうか?
確かにトルバス神曲学院の学院長ともなれば超一流の神曲楽士であろうが、それにしては彼は単身楽団を背負っている訳でもなし、精霊の一団を連れている訳でもない。
では……あの精霊は学院長の何を怖れたのか。
「ふはぁ〜〜〜」
突然――フォロンの疑問を押し退ける様に、コーティカルテが間の抜けたような声を上げて床に寝転がった。
「フォロン〜。腹減ったぞ。何か食わせろ」
そう喚いている彼女は、フォロンの良く知っているいつもの彼女だ。
「晩御飯は寮に帰ってからだろ」
いつものコーティカルテに戻ってくれた事でフォロンもようやく落ち着きを取り戻すことができた。
「では一曲やれ。神曲」
「はいはい。後でね」
苦笑して応じてからフォロンは学院長に向き直った。
「学院長。ありがとうございました」
「いえいえ。あのような輩が学院内に侵入してしまっていることがすでに我々学院側の問題ですからね。申し訳ない。しかし――そんなことよりも」
学院長は眼鏡越しにわずかに視線をずらした。
「彼女達の方はいいのですか?」
「そうですね……」
フォロンもユギリ姉妹へと視線を移す。
ペルセルテが呆然とプリネシカを見つめていて。
プリネシカはただただ教室の床を見詰めている。
そっくりの顔立ちをした双子の姉妹。
だが銀髪の少女の背中には二対の羽根がはっきりと浮かび上がっていた。
フォロンは二人のもとへそっと歩み寄り、静かに話しかける。
「プリネシカ……君は……」
「プリネ……それ、精霊の羽根だよね? なんで……、どうして精霊の羽根がプリネの背中にあるの……?」
混乱しきった声でペルセルテが尋ねる。
だがプリネシカは俯いたまま頑なに答えようとはしない。ただ彼女の光の羽根が静かに――そして弱々しく明滅している。
「君は……精霊なの……?」
羽根が示す意味を他に知らないフォロンは意を決して問いかけた。
だが答えたのはプリネシカではなかった。
「精霊というよりは、精霊としての側面も有している、と言った方が正確でしょうね」
学院長の言葉に一番驚いていたのはプリネシカだった。彼に向けている彼女の表情には困惑や不安が色濃く出ている。
そんな彼女に、学院長は優しく微笑みかけながらゆっくりと頷いた。
「今更誤魔化しは利かないでしょう。騙す事が本意では無かったのならこれを機に全てを吐き出して楽になるのも一つの方法ではあるかと思いますよ」
学院長の言葉にしばし考える様な様子を見せ……そしてプリネシカが今にも消え入りそうなか細い声で話し始めた。
「私は、人でもあり、精霊でもあります」
フォロンには彼女の言葉がすぐには受け入れられなかった。
人でもあり精霊でもある存在というものを今までに一度たりとも聞いたことがないのだ。
それは彼の傍らで聴いているペルセルテも同じなのだろう。彼女は何処か焦点の定まらない虚ろな瞳で聞き返した。
「どういうことなの……?」
ペルセルテを見つめるプリネシカは酷く怯えている様に見えた。
いや……事実怯えているのだろう。
学院長の言葉が正しければプリネシカはずっとフォロンを、コーティカルテを、何よりも双子の姉であるペルセルテを騙し続けてきた事になる――たとえ本意ではなかったにしてもそれを『裏切り』と糾弾する者は居るだろう。
「ペルセ……。私達がまだ小さかった時に、病院に入院していた時があったよね」
「うん。お父さんが神曲でプリネの怪我を治してくれた時の話だよね……?」
「……そう。だけど違う。彼は怪我を治したわけではないの」
フォロンもコーティカルテも、そして学院長も、皆静かにプリネシカの話に耳を傾けている。
誰も姉妹の会話に割り込む様な言葉は持ち合わせていない。
「え……? どういうこと……? だってプリネその時のこと全然覚えていないって……」
「ごめんなさい。本当はあの時のこと、しっかり覚えているよ。だってあそこには、死にかけて苦しんでいる私と、それをただ見ているだけの私がいたから……」
「プリネを見ている、プリネ……?」
混乱した様子で呟くペルセルテにプリネシカは小さく頷いた。
「ベッドに横たわっていた方の私はユギリ・プリネシカ。そしてそれを見ていた方の私は、父さんと契約を結んでいた精霊、ドーリスラエ・レン・マクスウェリト……」
プリネシカはまるでその時のことを瞼の裏に想い描こうとするかの様に瞳を閉じた。
十三年前のあの時……。
父さん――ユギリ・パルテシオが病院に着いた時には、私――プリネシカはすでにただ死に向かうことしかできない程、衰弱していました。
<嘆きの異邦人>のテロに巻き込まれて大怪我をしたのです。
元々ペルセルテに較べると私は身体が弱かったし、<嘆きの異邦人>のテロによる負傷者は何処の病院にも溢れていて……医薬品も人手も数が全く足りていませんでした。ベッドどころか包帯にも事欠く状態で……それでもお医者さん達は出来る限りの事をしてくださいましたが――やはり私が生き延びる可能性は皆無でした。
そしてもう一人の私――精霊であるドーリスラエもまた、力を使い果たし、存在の消滅を免れない状況にありました。
私は契約主であるパルテシオと共に、<嘆きの異邦人>の鎮圧に向かったのですが、政府の予想に反して彼等の力は圧倒的で……国が神曲公社を介して派遣した神曲楽士を含め、鎮圧部隊は全て壊滅状態にまで追い込まれてしまいました。私もそこで起きた彼らとの戦闘によってほとんどの力を失ってしまったのです。
派遣した部隊が全て壊滅したことにより、ようやく彼等の危険性を認識した国は、世界で最高の神曲と最強の精霊を有していると言われる<四楽聖>の投入を決定し――ようやく戦局は好転の兆しを見せ始めました。
私達の所属していた部隊はすでにその機能を失っていましたが、彼と私は死力を振り絞って前線基地へと逃げ延びました。
しかしそこで彼の耳に入ってきたのは、二人の娘が危険な状態にあるという報告だったのです。
彼は疲弊しきっていた身体に鞭を打ち、プリネシカが収容されている病院へと急ぎました。正直――かなり無茶を軍にも通しました。神曲楽士と精霊が戦線を離れる事は、単純な戦力にも、そして兵隊の志気にも影響します。あるいは――私達が前線を離れる事で、本来なら死なずに済む兵士が死ぬ事になったかもしれません。
しかしそれを理解してもなお……パルテシオにとって二人の娘は見捨てる事の出来ない大事な存在だったのです。
しかし。
私達が彼女らの元へと着いた時にはすでに手遅れだったのです。
ペルセルテは何とか持ち直す事が出来る状態でしたが、プリネシカは最早、ただ死を待つばかりで医学的にはお手上げという状態でした。
パルテシオは自らの無力感に苛まれました。
死に逝く娘を前にして、何もすることができないという事。
そして、その絶望によって自らの神曲すらも見失い、消え逝く自分の精霊すらも救えないという事。
彼のその深い悲しみと強い自責の念は、専属契約を交わしていた私――ドーリスラエにも伝わっていました。
ドーリスラエは彼の苦しみを少しでも和らげたかった。
そして……和らげる可能性のある方法を、たった一つだけ知っていました。
それは死に逝く命と、消え逝く力を重ね合わせ、新たな一つの存在として再構築するというものです。
人間の生死は肉体に左右され――精霊の生死は精神に左右されます。
ならば双方の存在を重ね合わせる事で互いの死を司る部分を打ち消そうとしたのです。
無論……これは一般に知られている技術ではありません。
元々これは<嘆きの異邦人>達が編み出した技術です。
事実……戦場では下位精霊と人間を強制融合させた特殊な兵士が政府軍を苦しめていました。彼等は人間と精霊の双方の特性を併せ持つ為に、とても死ににくく、結果的に普通の人間の兵士に較べて十倍以上の戦闘力を持つ存在でした。
無論……こんな恐ろしい技術はあの戦いから十二年経った今も公開されていません。
そもそも、精霊と人間という異なる存在を無理矢理に融合させて一つの存在に作り替えるのです。多くの融合精霊兵士はその人格を破壊され、命令通りに動く人形の様な状態でしたし……上手くいった個体も何らかの問題を抱えている事が多かった様です。
当然、パルテシオは悩みました。
この方法なら娘と精霊を救えるかも知れない。
しかし――その結果生み出される存在は、ドーリスラエなのか、それともプリネシカなのか、あるいはそのどちらでもない第三の存在なのか。その場合消えてしまった人格を殺した事にはならないのか。
しかし……この手段以外に娘の命を救う方法は在りませんでした。
また精霊を救う手段も他に在りませんでした。ドーリスラエを癒そうにも、心の乱れたパルテシオには神曲を奏でる事など出来なかったからです。
しかし……この手段なら。
可能性が低くても賭ける事が出来る方法が在るのならパルテシオにも精神を集中させて神曲を奏でる事が出来るのではないか。
パルテシオとドーリスラエはそう考えました。
残された時間は無く――彼等はその是非をじっくり考える時間も無いまま、最後の手段に望みを託す事を選んだのです……
「その結果として残ったのが今の私です……。だから私はプリネシカでもありドーリスラエでもあると同時に、そのどちらでもないのかもしれません……」
プリネシカはその細く白い手で、あたかも自分の存在を確かめるかの様に胸を押さえた。
「ある意味で彼は、私という存在を残すためにプリネシカとドーリスラエの二人を犠牲にしてしまったとも言えます……」
「な……何言っているのよ、プリネ……お父さんは神曲楽士だったんだよ……? 出来ないことなんてないんだよ……? 本当は二人とも助けられたんだよね……? プリネはプリネだよね……?」
ペルセルテはすがる様な瞳で目の前の少女に訴えかけるが――彼女は黙ったまま首を横に振った。
「そ…んな……」
話を聞き終えたペルセルテが今にも消え入りそうな呟きをもらす。
「知らなかったのは……、わたしだけだったの……?」
今目の前にいる銀髪の少女が、プリネシカでもドーリスラエでもないのだとしたら、彼女の父が救おうとしたのは一体誰なのだと言うのか。
自分が十二年間双子の妹だと思っていた相手は――人間でも精霊でもなかった。
事もあろうに……<嘆きの異邦人>という悪人達の忌まわしい技術を以て創り出された人でも精霊でもない存在だ。そしてその事をこの『プリネシカ』は知っていながらずっと黙っていた。黙ったまま――ペルセルテの双子の妹を演じ、彼女を騙し続けてきた。
「そんな……わたしだけが……知らなかったなんて……お父さんも……プリネも……」
どんなことも出来て、とても優しい神曲楽士としての父。
父の様に何でも出来て、とても優しくいつも正しい神曲楽士。
既に亡くなって数年の時間を経るからこそ彼女の中で父は美化し続けられてきた。
父を基として形作られた理想像――神曲楽士への憧憬はこれまでの彼女を支えてきたものだった。
同時に、早くに母を喪い、父すらも喪った彼女にとって唯一の家族と言える存在がプリネシカだった。苦しい時も哀しい時も、共に助け合い支え合って暮らしてきたただ一人の家族だった。世界で最も信じられる大切な自分の半身だった。
だが。
それらが全て欺瞞の上に築かれたものだとしたら――
「すばらしい神曲を奏で、強力な精霊と契約を結んだとしても、所詮神曲楽士も人間です。神のようになんでもできるわけではありません。失敗することもありますし、間違うことだってあります」
「………………っ!」
この神曲楽士を育てる神曲学院を束ねる人物の口から出てきた言葉は、おそらくペルセルテが今最も聞きたくなかったものだろう。
しかし――
「神の曲を借り、精霊の力を得られたからといって、神そのものになれるわけではありません」
何を思ってか学院長は容赦なく現実を突き付ける言葉を並べていく。
「もう止めて!」
突然――ペルセルテは耳を塞いで叫ぶ。
彼女の顔は傍目にもはっきりと分かる程に青ざめていた。
「そんな……そんな話、聞きたくありません……!」
悲鳴じみた声でそう叫ぶとペルセルテは――実習室から走り去っていってしまった。
「ペルセルテ!」
フォロンの呼び止める声が虚しく廊下に響き渡る。
彼はしばらくペルセルテの走り去った方を見詰めていたが――
「学院長。何もあんな言い方をしなくても……」
困惑の表情で学院長を振り返った。
その学院長の顔には――
「……!?」
いつもの笑みは無かった。
世界の始まりから終わりまで――文字通り始終笑っているかの様な学院長の顔には、今淡々とした無表情が貼り付いているのみだった。
そのくせ瞳の奥には何か異様に鋭い光が揺れている。
ぞっと寒気の様なものを感じてフォロンは思わず後じさった。
何か自分は取り返しのつかない事をしていたのではないか――そんな気さえする。自分はとんでもない怪物を前にして、その事に気付かぬまま、むしろその怪物に親しみさえ感じながら呑気に振る舞っていたのではないかと。
「神曲を奏でる者は、自分が人間であるということを忘れてはいけません」
「学院長……?」
「我々は決して神ではない。超人ですらない。ただの特殊技術者です。それを忘れて思い上がれば――恐ろしい過ちを犯してしまう」
それは警告の言葉か。
それとも……何かを断罪する言葉か。
得体の知れない圧迫感にフォロンが凍り付いていると――
「とまぁ――要は神曲にもできることとできないことがあると言いたかっただけなんですけどね」
にぱ――と気楽な笑顔を取り戻して学院長は言った。
「…………」
「それよりも、彼女のこと、よろしくお願いしますよ。私の愛弟子の娘さんです。私にとっては孫も同然――このままではちょっと心配です」
「あ……!」
そこでようやく我に返るフォロン。
確かに今のペルセルテを一人にしてはならない。物凄く嫌な事が在った時、人間は一人になりたがるが――駄目だ。一人だと余計に嫌な事を繰り返し繰り返し考えるばかりで、益々気分が落ち込んでいく。孤児であり苛められっ子でもあったフォロンには、何度か覚えの在る感覚だった。
とにかくペルセルテをつかまえなくてはならない。
「失礼します!」
彼はあたふたと一礼すると、慌ててペルセルテの後を追って駆け出した。
フォロンの走り去った後。
実習室にはプリネシカとコーティカルテ、そして学院長の三人が残された。
「学院長は私の事、ご存知だったのですね……」
不安そうに問いかけるプリネシカに学院長はいつもの笑顔で答える。
「彼は……その後、ずっと悩んでいたからね。自分がした事が正しかったのかどうか。何度か彼の懺悔を聞いた事がある。自分は、最愛の娘と最高の相棒を共に殺したのではないかと」
「そうだったのですか……」
プリネシカは俯いたままか細い声でそう言った。
彼女の頬を一粒の雫が流れ落ちる。
学院長は黙ってそんな彼女を見詰めていたが――やがてふと思い出したかの様に、改めて窓や机、扉の残骸が散らばっている実習室を見渡した。
「しかしまぁ派手に壊されてしまいましたねぇ。せっかく掃除してもらったのに、無駄になってしまいました」
急に他愛の無い話題を始める学院長。
だがプリネシカはまだ何も返事ができない。
それでも構わずレイトスは続ける。
「これでは仕方ありませんので、今日のところはもう帰宅しちゃって下さい。二人とも学生寮でしたよね?」
「はい……」
学院長が言う二人とは無論プリネシカとコーティカルテのことだが――プリネシカだけが頷きながら返事をした。
コーティカルテは無言である。
彼女はプリネシカの告白が始まった頃から、ずっと頬に手を当て、虚空の一点を見つめて何事かを思案している様子だった。
「それではあまり遅くなると寮長にも怒られてしまいますからね。気をつけて帰宅して下さい」
プリネシカが小さく頷く。
コーティカルテはやはり思案の表情を浮かべたまま。
だが――
「それでは、私もいろいろとやらなくてはいけないことが残っていますので、そろそろ部屋の方へ戻りますね」
レイトスはそう言い残すと軽く手を振り、実習室を出て行った。
後に残されたのはプリネシカとコーティカルテだけだ。
妙に重苦しい空気が実習室に満ちる。
元々事情が事情でもあるが――いつもペルセルテと行動を共にしているプリネシカは、同じくフォロンといつも一緒にいるコーティカルテとは自然と同じ場所に居合わせることが多かったが、これまでに一度も直接話をしたことはなかった。
二人きりにされても今更何を話して良いのかも分からない。
そもそもコーティカルテがフォロンと離れて行動しているということ事態が稀有なことである。普段の彼女であれば、フォロンがペルセルテを追って教室を出て行った時に、彼の後について行ったであろう。
なぜ彼女がそうはしなかったのか――
「おい……」
突然、コーティカルテが声をかけてきた。プリネシカは少し驚きながら顔を上げる。
「お前、十二年前に<嘆きの異邦人>と交戦したと言っていたな?」
「はい……」
いつになく怖い眼差しで問いかけてくる彼女に、プリネシカは小さく頷いて答えた。
「連中がその後どうなったか、何か知らないか?」
なぜコーティカルテがそのような事を聞いてくるのか分からなかったが、プリネシカは首を横にふった。
当時の彼女は精霊の記憶も受け継いでいるとはいえ、たった二歳の子供だったのだ。しかもその後は戦線に出ていない。細かい事情など知り得る筈がない。
「そうか……いや、なんでもない」
コーティカルテは何やらとても真剣な顔つきで考え込んでいるが――プリネシカにその内容を推し量る術はない。
しばし二人の間に沈黙が横たわる。
やがて――
「それじゃあ先に帰るか」
あっさりいつもの表情を取り戻すとコーティカルテが言う。
おずおずとプリネシカが頷くのを確認すると、紅い髪の上位精霊は、床に転がっていたフォロンの鞄を拾い上げて歩き出した。
「――ペルセルテ!」
夜の街路にフォロンの声が響く。
彼は逃げる様に走っているペルセルテにどうにか追いつき――彼女の腕を掴んで引きとめた。ペルセルテは一瞬、暴れる様に身をよじったが、次の瞬間には糸の切れた操り人形の様にだらんと力を抜いてその場に立ち尽くしていた。
いつも寮へと向かう道とは逆方向にだいぶ走ってきてしまったようだ。ついさっき学園から二つ目のバス停を通り越してきたところだ。
運が良かった。校内で一階への階段を下りているときに、窓から校門を出ていつもとは逆に走り去って行く彼女の姿が見えたのだ。もし反対方向に探しに行っていたら、一晩かかってもペルセルテを見つけられなかったに違いない。
「ペルセルテ、どこ行くの? 寮はそっちじゃないだろう?」
フォロンが話しかけてもペルセルテは何も答えない。それどころか振り向いてもくれない。何か気の利いた事を――とフォロンは思うものの、こういう時に適当な台詞がぽんぽんと出てくる程、彼は器用な性格ではない。
「ペルセルテ……」
掴んでいる彼女の、思ったよりも細くて華奢な腕は小さく震えている。
耳を澄ませば、荒く乱れた呼吸の合間に嗚咽が聞えた。
――泣いているの……?
フォロンはそう訪ねてしまいそうになり慌てて口をつぐんだ。
代わりに、彼女の肩を抱き、ゆっくりと歩き出す。
「ちょっとどこかで落ち着こうか」
ペルセルテは無言のままだったが――拒否するつもりは無いのか、彼女は促されるままフォロンに合わせて歩き出した。
近くに公園でも在れば良かったのだが……生憎と見当たらない。
仕方なくフォロンはバス停のベンチにペルセルテを座らせて、その隣に自分も腰を下ろした。
「…………」
フォロンは彼女にかける言葉が見つからず、ただ彼女が落ち着くまで黙って待っているしかなかった。
主な客層が学生というだけあり、この時間帯にバス停を利用する人はほとんどいない。時々バスが来るが、乗る者も降りる者も居らず、ただ大きな箱形の車体が機械的に停車しては扉を開き、フォロン達に乗る様子が無いと分かるとやはり機械的に扉を閉めて去っていく。
時間が経つのがやけに鈍い。
だが五台目のバスが通り過ぎていったあたりで――ペルセルテはようやく口を開いた。
「先輩……。私、分からなくなってしまいました……」
「ペルセルテ……」
彼女は俯いたまま言葉を続ける。
「プリネシカの中には私の知らないもう一人のあの子がいた。でもその事をあの子もお父さんも、私には話してくれなかった……。まるで私だけ仲間はずれにするみたいに……」
「…………」
「ずっと双子の姉妹だと思ってきたのに、そうじゃないあの子もいるっていきなり言われて……いつも一緒にいたのに、あの子はずっと私の知っているプリネシカを演じていただけなんですよね……」
ペルセルテはようやく顔をあげ、笑顔を作って見せたが……その笑顔は弱々しく今にも泣き顔に崩れてしまいそうだった。
「私、バカですよね。ずっと一緒だったのにそんなことにも気付かなくて。それに、お父さんのことだって、勝手になんでもできる立派な神曲楽士の想像を作り上げて、憧れて、私もそうなりたいって思って頑張って……。本当は私のただの想像で、そんな人なんてどこにもいないし、なれるわけもないのに……」
彼女の頬を、もう一度涙が伝わり落ちる。
ペルセルテの言葉に間違いは無い。全てそれは事実だ。
だが――
「僕は……そんなことないと思うよ」
「……え?」
その言葉を聞き――ペルセルテは改めてフォロンの顔を見詰めた。
「ペルセルテは昔の、怪我した時の事、あまり覚えてないって言ったよね?」
「あ……はい」
「それってつまりさ。もしプリネシカが死んでいたら、彼女が居たって事も忘れちゃってるかもしれないって事じゃない?」
「先輩……?」
フォロンの言いたい事が分からず怪訝そうな表情を浮かべるペルセルテ。
頬を掻きながらフォロンは苦笑を浮かべて言った。
「ああ……上手く言えないんだけど――その、もしそんな昔なら、別にペルセルテを騙さなくたって、もっと普通に……元のプリネシカは死んだ事にして、養女とか何だとか言って改めて今のプリネシカをペルセルテに紹介する事も出来たんじゃないかな?」
「ど……どういう意味ですか?」
「つまりさ。彼女は――無理にプリネシカを、ペルセルテの双子の妹を演じる必要は無かったんじゃないかなって事。二歳とか三歳なら、いくらでも誤魔化せたと思うし」
「それは……そうかもしれませんけど」
「でもそうしなかった。何故だろう?」
「……分かりません」
ペルセルテは首を振った。
「あの子の事……もう何にも分かりません」
「駄目だよ、そんな風に決めつけちゃ」
フォロンは静かに言った。
「考えてみてよ。他人がプリネシカを演じるのと、他人が他人のままでいるのと。どっちが楽だと思う?」
「…………」
「当然、後者だよね。だったら彼女はペルセルテの双子の妹を演じる必要が在ったんじゃないかな。例えば――彼女は『自分はプリネシカでもドーリスラエでもない第三の存在かもしれません』って言ってたけど、『かもしれません』って事は彼女にも自分がプリネシカなのかドーリスラエなのか分からないって事でしょ」
「はい……」
「それでもドーリスラエではなく、第三の名前でもなく、プリネシカを名乗ったのは、彼女がそうありたいと望んだからか――あるいは自分がプリネシカであったと思うのが彼女の中で一番違和感が無かったからじゃないのかな」
二歳の子供を騙す事など簡単だ。それから十二年間――双子の一方を演じ続けるよりは。
それでも彼女がプリネシカたる事を選んだのならば、それは彼女にとってプリネシカである事が最も自然であったからではないのか。
「どちらにせよ、彼女は君を騙したかったんじゃないと思う。彼女が何者なのかは僕には判断付かないけど……彼女は君の双子の妹で居たかった、ただそれだけなんだと思うよ」
「どうして……」
ペルセルテは喉の奥から絞り出す様な声で言った。
「どうして先輩にそんな事が分かるんですか……」
「どうしてペルセルテ――君にそんな事が分からないのかな?」
「…………」
「だってさ。プリネシカはいつも君の側に居て楽しそうだったよ? 君が嬉しそうにしている時は彼女も嬉しそうだったし……それに他にどんな打算が在れば君の側に双子の妹を演じる意味が生じると思う?」
別にペルセルテを騙してプリネシカが得るものは無い。
それなりに父の遺産は在るが――それとて半精霊であるプリネシカにどれだけ意味が在るのかは分からない。
ならば……
「だからさ――彼女も君の前で双子の妹を演じていたわけじゃなくて、彼女自身も自分の事を双子の妹だと思っているから、双子の妹で居たいと思うから、ずっと何も言わなかったんじゃないかな?」
ペルセルテはフォロンを見つめたまま、何も言葉は発しなかった。
彼女の中ではやはり未だ気持ちの整理がつかないのだろう。
「それにお父さんのことも。確かに君のお父さんも神曲楽士もなんでもできる万能の力を持っていたわけじゃなかったけど、少なくとも君のお父さんは娘を助けようと必死だったんだろうし……」
ペルセルテはやはり黙り続けている。
どうしても納得できないのだろう。
それは仕方のないことだとフォロンも思う。
幼い頃に父親を失ったこともあるのか、彼女は神曲楽士でもあった父親を英雄視している節がある。今まで英雄だと思っていた父親が、唐突にただの人間だったと突きつけられても受け入れられないだろう。
同じく幼い頃から孤児院で育ったフォロンにも、親に対する強い憧れという点においては少し分かるような気がする。
「……ごめん。部外者が分かった様な口をきいて」
フォロンは頬を掻きながら言った。
ペルセルテは口こそ開かなかったが――しかし首を振った。
「…………ん」
ふと、夜風が吹き付けてきた。
その冷たさにフォロンは身を縮める。温かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。
フォロンは隣のペルセルテへと視線を向けた。
当然だが彼女も神曲学院の制服を着ている。男女の差はあるが、防寒という点においてはそれほど差はないだろう。
このままここにいれば風邪を引きかねない。
ペルセルテもだいぶ落ち着いてきたように見える。とりあえずフォロンは此処から移動しようと立ち上がった。
「とりあえずさ、今日は一旦寮に戻ろうよ。あんまり遅くなると寮長に怒られるしさ」
フォロンはそう言って手を差し伸べた。
短い逡巡は在ったが――その手を掴み、ペルセルテも無言で立ち上がる。
「けっこう走ってきたしね。少し急ぎ足で戻らないと」
少しでも彼女を元気付けようと、大げさに屈伸運動をして見せた。
そんなフォロンの腕に、何の前触れもなくペルセルテが抱きつく。
「ペルセルテ……?」
「先輩。今日は帰りたくないんです……」
「えっ……」
腕に抱きついたまま、顔も上げずに言ったペルセルテの言葉に、フォロンは硬直した。
『今日は帰りたくないんです』
この台詞がどんな場面でよく使われるかは――さすがのフォロンにも分かる。
(いや、違う、違う、彼女が言っているのはそういう意味じゃない――)
フォロンは脳裏に浮かんだ不謹慎な想像を必死に振り払う。
だが――
「プリネシカと離れて、少しゆっくり考える時間が欲しいんです。今日は先輩のところに泊めてもらえませんか……?」
さっきまで泣いていたせいか、少し赤く腫れている眼で、懇願するようにペルセルテが見上げてくる。
(そ……そうだよね。そういう時間も必要だよね)
彼女は自分のことを先輩として信頼してくれているからこそ、泊めてくれと頼んで来ているのだ。そんな彼女に対してほんの僅かとはいえ、いかがわしい想像をしてしまった自分をフォロンは深く深く恥じた。
「分かった。いいよ」
「…………ありがとうございます」
そう言って彼女は笑ったが、その笑顔にはまだいつもの明るさは無かった。
将都トルバス中央街区。
この都市の経済活動の中心であるこの区画は夜になると人口偏差が激しくなる。
神曲学院の在る区画――『学生街』の辺りは一気に人口が減って殆ど人の姿を見なくなったりするのだが、そのすぐ隣の『繁華街』では逆に朝まで人や車の行き来が絶えない状態である。
文房具屋から本屋、薬屋、といった地味で真面目な店舗から、遊技場、居酒屋、果ては風俗店まで何でもござれの街並みで、此処には昼夜を問わず猥雑な活気が溢れている。
こんな場所が学生街に隣接しているのは如何なものかと苦言を呈する者も居るが――元々トルバス神曲学院は『生徒の自己管理・自主責任』を理念の一つに掲げて放任主義を採っている部分も在る為、今のところ大きな問題にはなっていない。
神曲楽士という狭き門を目指す者が、目先の単純な欲望に負けていてはお話にならないからだ。
逆に――この環境はむしろ淘汰圧を高めて自己管理能力の無い生徒を早い段階でふるい落とす機能を果たしている、と唱える関係者までいる。
要するに歓楽街で遊ぼうが何をしようが、やるべき事をやって実績を出しているのであれば、学院としては文句を言う筋合いでもないのである。生徒の倫理観だの人生観だのの教育は専門学校たる神曲学院の担当ではない。
それはさておき。
繁華街と言っても隅から隅まで賑わっている訳ではない。
中央の大通りから路地一本分外れてしまえば、同じ区画内である事が信じられない位に静かで、人通りも無い空間が現れたりする。光と影の関係の如く……賑わう場所が在れば必ずその側に寄り添って生まれるのがこうした場所である。
そんな裏路地の一つ。
そこに一人の女性が立っている。
ややきつい目つきの――しかし整った容貌の女性である。
壁に背中を預けて立つその姿は、ともすれば客を待つ街娼に見えなくもない。
だが女性の放つ、何処か周囲を威圧する様な鋭い気配と……何よりも足下に置かれた大きな箱形の鞄が、下卑た想像を否定する。少しでも神曲や精霊に対して知識を持つものならば、それが収納状態にある単身楽団であると気付くだろう。それもトルバス神曲学院で学生達が使っているものに較べると数世代後――小型化と自動化の進んだ最新型である。
女性は何をするでもなく虚空に視線を注いでいる。
誰かを待っているのか。
それとも――
「遅かったな」
ふと思い付いたかの様に呟く女性の傍らに――突然どさりという何か重いものが落ちる音がした。
「念のために、遠回りをした。つけてくる様子はなかったが」
ぬう――と女性の傍らの闇が成長し、そこから黒い巨体が出現する。
女性と較べると一回り、あるいは二回り近くも大きい。
二本脚で直立してはいるが、人間ではない証拠にその大柄な体躯はやや猫背状に丸められており、脚も関節形状が明らかに人間のそれとは異なっている。そして何よりもその身体には青白く輝く二対の羽根が備わっていた。
精霊である。
「相手があのレイトスならば、それくらいの用心は必要だな」
女性は相手を見ることもせず、虚空を見据えたまま言った。
「ああ。まさかあんなに早くやつが駆けつけてくるとは思っていなかった」
「それで、探し物は見つかったのか?」
「いや」
「標的が接触するような様子も?」
「まるでない」
「そうか……」
ここでようやく女性は動きを見せた。
といっても腕を組み少し考え込んだだけであるが。相変わらず会話の相手には視線すら向けようとしていない。
「レイトスがすぐに駆けつけてきたということは、やはり標的も何らかの繋がりを持っていることは間違いないと思うが……」
「だがあいつはまだ神曲を使いこなせているわけではなさそうだぞ? そんなやつが本当に関係しているのか?」
巨躯の精霊は苛立たしげに聞き返す。
元々人語を話すのは得意ではないのか……会話の間に時折、獣じみた『ぐるるるる』という意味不明の唸り声が混じっていた。
「だが精霊契約を結んだという何よりの証拠がある。まだ力の使い方を知らないだけなのだろう。逆に、そんな状態でも契約を結べたという潜在能力を警戒するべきだ」
「そんなもんかねぇ」
「ああ。ところで奴の方はまだ持ちそうか?」
何処か嘲る様な響きが女の台詞に混じる。
「いや、予想以上に影響を受けやすかったようだ。そろそろ症状が出始めるぞ。まったく、こんなことの役にも立たんとは」
「ふむ。どの道、時間がないということだな。標的が戦闘に慣れていないのであれば、少々強引なやり方でも構わないか」
彼女の言葉をきいて、精霊が面食らった様に身じろぎした。
「慎重派のあんたからそんな言葉がでるとは思わなかったな」
「今回は今までとは状況が違う。この調査で我々が探しているものが見つかれば、計画は最終段階に移ることができる。そうなればもはや公社や政府に遠慮して行動する必要はなくなるのだからな」
その言葉を聞いて、黒い精霊の顔に白いものが生まれた。
「けけっ――」
鋭い歯を剥き出しにして笑ったのである。獣のそれとは思えない位にその歯は――いや牙は白く、それだけに非生物的で凶器じみた凄味がそこには在った。
「なら最初からそうしていればいいんだ」
「だが、あの学院の生徒を侮ってはいけない。先日の<セイロウ>を使役していた神曲楽士もまだ卒業したばかりの人間だったのだぞ」
「勝負していれば勝ったさ」
精霊がわざとらしく舌打ちをする。
「無意味な危険を冒す必要はない」
「けっ。それで、その強引な手段とやらはいつ実行に移すんだよ?」
「早急にだ。標的の動きを引き続き監視しろ。チャンスがあれば即座に実行する」
「了解だ。けっけっけ。久々に暴れられそうだな」
身を揺すって低く笑うと――精霊の巨体が瞬間的に消滅する。
続いて、たん、たん、たん……と建物の壁面を蹴る軽い音が何度か響いた後、その気配も完全に消滅した。熊の様な巨体でありながら信じ難い程の身軽さである。あの精霊なら建物の屋根から屋根へと飛び移りながら街中を縦横無尽に駆け巡れる事だろう。
そして――
「あとは、こいつが何をどこまで知っているか……あるいは何を握っているのか……だな」
女性が手元の紙切れへと視線を落とす。
そこには緊張の面持ちをしたフォロンの顔写真が貼り付けられていた。
耳の中で呼び出し音が鳴る。
「…………」
フォロンは内線電話の受話器を耳に当てながら相手が出るのを待っていた。
実を言えばフォロンは電話が苦手である。
元々顔の見えない相手と喋るという行為自体に違和感が在るのだ。
親類縁者は居ないし、電話を掛けたり掛けられたりする友人知人の類もそう多くないので慣れる事も無い。
また……寮の電話は機械こそ各部屋に置いてあるが、回線は共有のものが一つだけなので、あまり頻繁に、あるいは長時間電話を使って回線を占有していると、他の寮生から文句が出る。
そういう訳で――フォロンとしては電話をしていると、貴重な何かを秒単位で浪費し続けている様な、物凄く無駄な事をしている様な気がして緊張するのだ。
こうして呼び出し音を鳴らし相手が出るのを待っている間などは特に。
「…………」
七回目の呼び出し音が――途中で途切れる。
回線の繋がる音と共に受話器の向こうから声が流れてきた。
『はい……』
回線を通していてもその声がプリネシカのものだとはすぐにわかる。
だがその声音には何処か相手を警戒するかの様な――よそよそしさが含まれていた。
「あ、その……こんばんは。フォロンですけど」
『あ……こんばんは……』
こちらのことに気付いてか、声から少し緊張感が薄れる。
フォロンは内心で安堵の溜め息をついた。
だが――
「えっと、ペルセルテなんだけど」
『……は……はい……』
途端にプリネシカの声が強張る。
フォロンは慌てて言葉を繋ぐ。
下手をすればプリネシカがそのまま電話を切ってしまいそうにも思えたからだ。
「今日はうちに泊まるので、心配しないで下さいと……」
『……そうですか……分かりました。彼女のこと、よろしくお願いします』
プリネシカの声に張り詰めていた緊張は再び緩んだが……ペルセルテがこちらに泊まると言い出した理由を察してか、受話器から聞えてくる声が今度は僅かに沈む。
そのペルセルテは今――バスルームでシャワーを浴びている。
「それと、コーティなんだけど……そっちにいる?」
『はい。フォロンさん達が帰られるまではと思ってこちらに来てもらいました』
「やっぱり……コーティ、帰ってくるのが遅いって言って騒いでいない?」
『えっと…………いえ別に……』
彼女の答えには少々の間があった。
恐らくコーティカルテはかなり騒いだのだろう。
まあその分、プリネシカは意気消沈している余裕も無かっただろうから、結果的には良かったのかもしれないが。
「いろいろ迷惑をかけてごめん。あいつに戻ってくるように言ってもらえるかな」
『あ……。コーティカルテさんは、その、疲れていた様で、もうこちらでお休みになられています』
「え……寝ちゃってるの?」
『はい……なので、今日はもうこのままこちらで……』
考えてみれば学生寮の部屋はそう広くない。
コーティカルテが帰ってきたら寝る場所にも苦労しそうな感じだ。
元々コーティカルテと一緒に住んでいる時点でこの部屋は一杯一杯なのである。
ペルセルテがこちらに泊まると言っている以上、コーティカルテを向こうで預かってくれるのは有り難い。
「そっか。ごめんね。よろしくお願いします」
『いえ、こちらこそ……』
「それじゃあ、また明日ね」
『はい。失礼します』
フォロンは受話器を置くと、壁にもたれかかって天井を見上げた。
(そうだよな……。コーティ、今日は一人であんなでかいやつの相手をしたんだもんな)
実習室で襲ってきた謎の精霊のことを思い出す。
その後のプリネシカやペルセルテのことで失念しかけていたが、あの場に学院長が来てくれていなければ自分達がどうなっていたか分からない。それだけ強大な力を持った精霊だったのはフォロンにも分かる。
コーティカルテはそんな奴の相手を、神曲も無しにしていたのだ。
疲れるのも当然である。
しかし……
(あれはなんだったんだろう……)
実習室の明かりが消えてしまっていたため、はっきりとその姿を確認することはできなかったが、暗闇の中で見た影は人よりも一回り大きい猛獣のように見えた。不気味に光っていた眼を思いだすと、今更ながら背筋に寒いものが走る。
(僕がもっとちゃんと神曲を弾きこなせていればな……)
そうすれば皆を危険にさらす事も無かったし、コーティカルテ一人に負担を掛ける事もなかった筈だ。
結局、優柔不断で浅慮な自分が皆に迷惑を掛けている。
そして落ち着いてからゆっくり考えてみないとその事に考えが至らない。
自分の神曲楽士としての――いや人間として、男としての至らなさを再確認してしまい、気分が落ち込んでしまうフォロンだった。
そこへ――
「あの、フォロン先輩。シャワーとか着替えとか、ありがとうございます」
シャワーを浴び終えたペルセルテが現れた。
フォロンは何気なしに振り返り――
「あ……」
絶句する。
シャワーの後だから当たり前だが――ペルセルテは、いつもは紫色のリボンで二条に結んでいる金髪を下ろしていた。
ただそれだけの事なのに彼女はまるで別人の様な印象が在る。
更に言えば――何かとても大人っぽく見えるのだ。
いつもの髪型もよく似合っているが、あちらはペルセルテの動きに合わせ、小動物の尻尾の様によく跳ねて、彼女の持つ闊達さや快活さを強調している。その姿はとても可愛いが――『美しい』という形容からは少しずれる感じだった。
だが今は違う。
しっとりと濡れた髪はまっすぐ彼女のうなじから肩へと流れ落ち、妙に艶めかしい雰囲気を醸し出しているのだ。
更に彼女が今着ているのはフォロンが貸した彼の寝間着である。
元々男子としては平均か――やや小柄なフォロンであるが、それでも歳下でしかも女子のペルセルテには彼の服は大きすぎる様だった。裾や袖を折り曲げて調節はしている様だが、それでもだぼっとした感じは拭えない。
特に……袖口からのぞく彼女の白い腕が妙に細く華奢に見えた。
そういえば先程追い掛けていた際に握った彼女の腕も、実際に掌や指に残ったのは見た目以上に細く弱々しい感じだった。
それに……
「どうしたんですか……?」
ペルセルテを見て止まっているフォロンに、不思議そうに彼女が話しかける。
「あ……、えっと、ご、ごめん。なんでもない」
フォロンは慌てて反射的に謝ってしまった。
普段自分で着ている時は気にもならなかったし、気づきもしなかったが、彼の寝巻きは暑い季節用ということもあり、通気性の良い生地で作られていた。
別の言い方をすればとても薄いという事だ。
そのために、逆光状態になるとどうしても彼女の体の線が透けて見えてしまう。
今も――彼女の身体の輪郭がぼんやりと布地越しに浮かび上がっている。
普段の制服姿からは想像もつかなかったが……やはりペルセルテも年頃の少女、その肢体は華奢でありながらも女としての柔らかさを備えつつある。
なまじ輪郭だけで細部が分からない分、想像力が刺激される訳で――これには朴念仁のフォロンとしてもさすがに狼狽せざる得ない。
フォロンは眼のやりばに困って顔を背けた。
フォロンの苦悩を知ってか知らずか――彼の様子を見て彼女がくすりと笑う。
「あ、あのさ……時間も遅いし、そろそろ寝ようか」
本当はまだそれほど遅いという訳ではなかったが、とにかく焦ったフォロンはついついペルセルテの身体に向きそうになる意識を切り替えたくて、そう切り出した。
これはこれで洒落にならない提案だったりする訳だが、初めて『異性』としての色艶を漂わせるペルセルテを前にして、平常心を崩されてしまっているフォロンに、自分の台詞の意味を斟酌する余裕は無い。
彼はただ何か――そう何か――過ちを犯してしまう前に寝てしまおうと思っただけだ。
だが。
「はーい」
そんなフォロンの葛藤など知ってか知らずにか――ペルセルテは嬉しそうに微笑を浮かべてそう答えた。
――とはいえ。
(どうしよう……眠れない……)
すぐにフォロンは自分の考えが甘かった事を思い知った。
ベッドに入って寝てしまえばそのまま何事もなく朝が来る――そう思っての提案ではあったが、それは『寝てしまえば』という但し書き付きである。眠れない場合はむしろ妙に身動きのとれない苦況に陥るのだという事に彼は気付いていなかったのだ。
そもそも。
ペルセルテの性格からして自分がベッドに寝てフォロンをキッチンの簡易ベッド――というか何というか――に追いやるなどという事はまず無い。
フォロン自身はコーティカルテに対する場合と同じ様に考えていた訳だが、どちらが本来のベッドで眠るのかという問題に直面した際――ペルセルテは当然といった調子で、自分がキッチンの方で眠ると主張した。自分が押しかけてきたのだから、それが当たり前なのだ……と。
だがフォロンはフォロンで女の子をあんな硬いベッドモドキに寝させるのも抵抗が在ったし、何より今のペルセルテはぐっすり眠って精神的に落ち着いて貰う必要が在る。
フォロンとペルセルテはしばらく押し問答を繰り返した後――
(……うう……)
フォロンがペルセルテに押し切られる形で今の状態に落ち着いた。
即ち。
明かりを落とし、真っ暗になった部屋。
たった一つ置かれたベッド。
そこに……フォロンとペルセルテが並んで寝ている状態である。
はっきり言ってこれはきつい。
朴念仁とはいえフォロンも健康な十代男子である。手を伸ばせば触れられる――どころか体温や息遣いさえ肌で感じられる様な距離に、無防備な状態で可愛らしい女の子が眠っていてはドキドキしない筈が無い。
これで強引な行動に出てしまえるだけの思い切りの良さがフォロンに在れば、また別の未来が開けていたのかもしれないが、幸か不幸か生真面目さでも並外れているフォロンは、『自分を信頼してくれている後輩』に不埒な真似をする訳にはいかないと、自分の中のざわめき続ける部分を頑なに抑え込んでいた。
壁の方を向きながら――ペルセルテには背中を向けながら――フォロンは必死に他の事を考えようとしていた。
(……ええと……そう……今日の、今日の出来事……)
確かに今日は色々な事があった。
謎の精霊の攻撃。
プリネシカの話。
そしてシャワーを浴びたペルセルテの……
(ああああああ……)
思考がそこに戻ってきて煩悶するフォロン。
(……考えるな、考えるな、考えるな……)
そんな風に思えば思う程に考えてしまう自分が居る訳で。
しかもすぐ側にはペルセルテ本人が寝ている訳で。
単純にペルセルテを案じる気持ちも無いではない。
プリネシカの一件を思えば彼女は大丈夫なのだろうか、と心配になってくるのだが……彼女の方に寝返りを打つとそれこそ全身を密着させる様な状態になりかねない。
下手に動いて起こしてしまうのも悪いし……その際に何処かに触ってしまったりする可能性も在るし、それで変に誤解されても恥ずかしい。
また年頃の女の子の眠っている姿を覗いたら悪いような気もする……
「フォロン先輩……。まだ起きていますか……?」
「は――はいっ!?」
悶々としている処にいきなり話し掛けられ――思わず声が裏返るフォロン。
「先輩……?」
「あ……あはははははははははは。なんでもないよ、なんでもない。ええと……その……どうしたの?」
「あの……」
わずかに躊躇う気配が背中から伝わってくる。
そして――
「手……繋いでもらってもいいですか?」
そう頼んでくるペルセルテの声はひどく弱々しいものだった。
とても断れない。断ればそこで何か決定的なものが崩れ去ってしまうかの様な――ひどく儚い響きをそれは伴っていた。
「う……うん……」
躊躇いつつも、手だけなら多分大丈夫――と右手のみを後ろに伸ばす。
その手を、全身でしがみつく様にしてペルセルテが握りしめる。単に手と手が触れ合うだけでなく彼女の吐息や体温までが掌に絡み付いてくるかの様だった。
この指先に触れる柔らかさはまさか――
(…………考えるな。考えるな。別の事を考えよう。ええとその、帝歴一七〇一年・神権戦争終結、帝歴一七〇八年・ダンテ生誕、帝歴一七一四年・<ボルトプスクの奇蹟>、帝歴一七三九年……)
歴史の年表を頭の中で思い浮かべてみるが――その甲斐も無く、フォロンの鼓動は一層早まるばかりである。
しかし……
「こうしていると、小さかった時の事を思いだします……」
そう言ってペルセルテがゆっくりと話し始めた。
フォロンの焦りとは裏腹にこうしていると彼女は落ち着くらしい。
「小さかった頃、何かがあって寂しかったり悲しかったりして眠れなくなると、いつもお父さんがこうして手を握って、歌を聞かせてくれたんです」
「そうなんだ……」
「お父さんの歌を聞くといつも楽しい気持ちになりました。プリネは病気がちでいつも苦しそうにしていて、あまり笑ったところをみたことがなかったけど、一緒にお父さんの歌を聞いているときはとっても嬉しそうにしていたんですよ」
姉妹の父親がどんな容姿をしていたのか、フォロンには分からなかったが、彼の歌を聴いて喜んでいる幼き日の姉妹の姿は何故か容易に想像できた。
「でもそれって、あの子の中に精霊としてのあの子がいたからだったんですかね。ただ単純に精霊として神曲を求めていただけで、お父さんも神曲楽士として歌っていただけなんですかね」
さっきまでは少し明るくなりかけていた彼女の声が、また暗く弱くなっていく。
「なんだか、私、プリネのこともお父さんのことも分からなくなってしまいました……」
「…………」
こうして傷つき悩んでいる彼女を前にして、何を言ってあげればいいのか分からない。ただ、沈黙する事だけは良くないと感じたフォロンは、きちんと考えを整理する余裕も無いままに口を動かしていた。
「そういえばさ……」
その声に反応して、ペルセルテが彼の手を少し強く握る。
彼女も、自分から語るばかりでなくフォロンに何か話してもらいたかったのかもしれない。それがたとえ他愛ない世間話であっても――
「僕とペルセルテたちが初めて会った時のこと覚えてる?」
「はい……あの、わたし達が学校見学で来ていた時ですよね」
「そうそう」
何か糸口を。
ペルセルテの複雑に絡んでもつれた心を解きほぐす糸口を。
そう考えながらフォロンはとにかく言葉を重ねていく。
「僕がまた粗相しちゃって……あの時は本当にごめん」
「いえ、気にしてません、本当に。あの事が在ったから先輩に会えた訳ですし」
「そ……そう? そう思うと僕のそそっかしいのも捨てたもんじゃないかな……とか。いややっぱりそそっかしいのは良くないよね」
しどろもどろに言葉を繋ぎながらフォロンは記憶を遡っていく。
何かペルセルテを慰める出来事は無かったか。
何か――
(僕は――)
当時のフォロンは専門課程進級前で、食堂で給仕のバイトをしていた。
そこへまだ学院生になる前のペルセルテとプリネシカが学校見学で来ていたのだが、あろうことかフォロンはそんなペルセルテと給仕のバイト中に衝突してしまい、トレイに載っていたものを彼女にこぼしてしまったのだ。
いくら今まで失敗ばかりしてきたとはいえ、あれはフォロンの中でもワースト5に入るくらいの失敗だった。
大事に至らなかったから良かった様なものの、高温のスープがペルセルテの顔にでもかかっていたら、痕が残る様な火傷になっていたかも――
(かかっていたら――?)
そういえば。
どうしてあの時……スープはペルセルテにかからなかった?
フォロンが記憶を探る限り、熱いスープを頭から被っていても不思議は無い状態だった筈だ。なのにペルセルテが被ったのは無害なサラダやドレッシングだけで、スープやその器、ナイフやフォークといった彼女を傷付けそうな諸々のものは、不自然な位に遠くに落ちていなかったか?
慌てていたフォロンはその事に気付かなかったが……今思い返してみるとおかしい。
(――!)
見つけた……と思った。
「……先輩?」
急に黙り込んだフォロンを案じる様にペルセルテが声を掛けてくる。
「あ――いや、それでさ、僕がペルセルテにトレイごとこぼしてしまった時さ、熱いスープ類だけは運良くかからなくて、火傷とかの怪我にならなくて良かったって思っていたんだけどね」
「そういえばそうですね……私もびっくりしちゃって、細かい事はあまり気にしてませんでしたけど……幸運でしたね」
「でもそれは幸運とかじゃなかったんじゃないかなって思う」
「――え?」
「今思うとスープとかフォークとかナイフとか……普通に落ちてたら有り得ない様な、不思議な軌道を描いて、君を避ける様な感じに落ちたんだよね」
「あ……」
フォロンが言わんとしていることを察したのか、ペルセルテが小さな声をあげた。
「あれもさ、プリネシカが精霊としての力を使って君を護っていたのかもね」
「…………」
ペルセルテは何も言おうとはしなかった。
フォロンにはこの時彼女が何を思っていたのかは分からなかったが、彼の手を痛いくらい強く握っている彼女の小さな手が、今の彼女の気持ちを語っているように思えた。
「何て言うか。上手く言えないけど――その……」
沈黙に耐えられなくてフォロンは無意味に言葉を続けていく。
だが――
「……フォロン先輩」
「あ――はい」
思わず寝ながらも直立不動になるフォロン。
「…………ありがとう御座います」
とても小さな声だったがペルセルテははっきりそう言った。
未だ躊躇の響きは在る。当たり前だろう。
だが――
「あ……いいえ。どういたしまして」
微笑を浮かべて応じるフォロン。
手は繋いだまま。ペルセルテの呼吸や体温も背中に感じたまま。劣情を刺激する要素には全く事欠かない状態は変わりない。
けれどいつの間にか胸の動悸は収まっていた。
これで朝まで何とかなりそうだ。
フォロンは小さく安堵の溜め息をついた。
「フォロン先輩、起きてください〜」
優しく――しかし何処か甘える様な声と共に身体が揺さぶられる。
フォロンは全身に残る鈍痛の様なものを意識しながら寝返りを打った。
「んん……?」
そこはかとなく沸き上がる不安。
いつもならコーティカルテの乱暴な叫び声に起こされる筈なのだが――今日は何やら声が違うしべしべしと遠慮無く額を叩かれたり背中を蹴られたりする様子も無い。
大体、この身体の軋む様な痛みは何だろう?
と――そこまで寝起きの頭で考えてからようやくフォロンは原因に思い至った。
「…………そっか」
フォロンは身を起こして部屋を見渡す。
いつもと変わらない彼の部屋。
ただ……目の前に立っているのは紅い精霊ではなくペルセルテであった。
彼女を昨晩泊めた事。
緊張して眠りにくかった事。
話をした事。
手を繋いだ事。
他に寝ぼけてでも余計な事をしない様に、あるいは寝返りを打ったりしない様にと、全身に力を込めて眠った事――鈍痛の原因は恐らくこれだろう――諸々の記憶が浮かび上がってくる。
「おはようございます!」
「おはよう」
改めて挨拶してくる元気な彼女につられて、フォロンも挨拶を返した。
どうやら自分はきちんと一晩、後輩に不埒な真似をする事も無く耐えきったらしい。
『よくやった』と自分で自分を褒めてやりたいフォロンであった。
まあそれはさておき――
「ところで、その格好は……?」
目の前のペルセルテは妙な格好をしている。
先に起きて着替えたのか、すでに学院の制服を着ている。
それはいい。
だが彼女はその制服の上に、いつもはフォロンがつけているエプロンをしていた。左手にはおたまも持っている。どう見ても料理中――といった出で立ちである。
「えへへ! せっかくなので先輩に私が作ったご飯を食べてもらおうと思って勝手にエプロンとキッチン、借りちゃいました」
「え……?」
言われてみれば確かにとても美味しそうな匂いが漂ってきている。
「って、もう出来てるの?」
「はい! いつでも食べられます。先輩がお顔を洗ってきたら一緒に食べてください」
そう言うと彼女はフォロンの手を引いて半ば強引にベッドから立たせた。そして背中を押して洗面所へと向かう。
「それじゃ、私は盛り付けしちゃいますね〜」
「あ……。うん、お願いします」
ペルセルテは嬉しそうに台所へと走っていく。
洗面所に一人残されたフォロンはいつもとはまるっきり違う朝に戸惑いながら、洗面台の鏡を見た。そこには困惑気味の、少し間抜けな自分の顔が映っている。
そんな自分自身を見てついつい笑ってしまった。
(こうやって、朝ご飯を作ってくれる人がいるって、なんだか嬉しいなぁ……)
自炊生活がかなり長いフォロンにとってはとても新鮮な朝だ。
本来の同居人――まあ人ではないが――は食べる方が専門で、朝食を作らせる為にフォロンを叩き起こす事はしても、代わりに早起きして朝食を作ってくれるなどという事はまず無い。まあ一度夜食の様なものを作ってくれた事は在ったが。
とにかく誰かが自分の為に食事を作ってくれるというのは嬉しい。
思わず緩む頬をぴしゃぴしゃと叩きながら顔を洗う。
「ふー……」
長い息を吐きながらフォロンが洗面所を出ると、すでに食卓の上にはトースト、スクランブル・エッグ、カリカリに焼いたベーコン、コーンポタージュスープ、それにプチトマトとレタスのサラダが並んでいた。
テーブルの上には他にもミルクの紙パックやバター、ジャムのポットも並べられている。
これ以上は無いという位に立派な朝食の図だ。
「おお……。これ全部ペルセルテが?」
他に誰もいないのだから聞くまでもないが――そこらの食堂や喫茶店で頼む朝食セットよりも遙かに豪華な印象で、こんなものが一般家庭のテーブルに並んでいる状況というのがフォロンには信じられない位だった。
「はい! その、プリネだともっといろいろ作れるんですけど、私はこれくらいしか……」
なぜか少し恥ずかしそうに俯くペルセルテ。
「いやいや、これでも十分すぎるくらいだよ。っていうか凄いよ」
そもそもトーストやスクランブル・エッグ、サラダ、といったものは材料さえ在ればそう面倒なものではない。
だが、ポタージュスープは材料から作ろうと思えばやたらに根気が要る料理である。
フォロンも一度、ミルクとバターとタマネギ、ジャガイモ、セロリ、小麦粉とトウモロコシから作ってみた事があるので分かるが……見た目の単純さに反して、裏ごしだの何だのと細かい作業が幾つもある上、小麦粉がダマにならない様、牛乳を加えながらじっくり延々とかき回す作業は、もう一度やりたいとはとても思えなかった。
少なくとも時間の限られた朝食向きの内容ではない。
無論――暖めればいいだけの、コーンポタージュスープのパックも在るには在るが、特に買い置きしていた訳ではないし、この時間から開いている店が近所に無い事を思えば、ペルセルテの手作りなのだろう。匂いからすれば乾燥粉末をお湯で戻した様なインスタントでもない。
「えへへ……そうですか? 嬉しいです!」
小さくガッツポーズなどとりながら笑うペルセルテ。
「さ、冷めないうちに食べちゃって下さい」
ペルセルテが椅子をひいて勧めてくれた。
「そ……そうだね。それじゃあ……」
ささやかな感動を味わいつつ椅子に座ろうとするフォロン。
その時――
どがんッ!!
一体どれだけ乱暴に開ければそんな音が出るのか――玄関の扉が破壊的な音を立てて蹴り開かれる。壁にぶち当たって止まった扉にはくっきりと小さな靴跡が刻み付けられていた。
同時に――飛び込んでくる小さな人影。
それは。
「フォロンーーーー!」
言うまでもなく、コーティカルテだった。
「あ……コーティ、おはよ――」
「フォロン、貴様、なぜ昨日帰ったらすぐに呼びにこないのだ!」
彼女はいきなりフォロンの胸倉を掴むと、激しく前後左右に揺さぶる。
「なぜって――」
彼女の剣幕にたじろぎながらもフォロンは素直に説明した。
「昨日プリネシカに内線で電話したら、コーティはもう寝ているって聞いたから、起こしたら可哀相だと思って……」
「構わないから呼びにこい! それにお前……昨日はここにあいつも泊まったらしいじゃないか!」
どうやら彼女が怒っているのはそこについてらしい。
「コーティさん、おはようございます」
そのあいつ呼ばわりされている本人がコーティカルテに挨拶をした。
そんなペルセルテをコーティカルテが顔を近づけて睨みつける。
「お、お、同じ屋根の下で、男と、女が――」
「でも同じ屋根って言ってもコーティも同じ寮の別の部屋に居た訳だし――」
「そういう意味ではないわ、戯け者ッ!!」
額をぶつけそうな距離にまでフォロンを引き寄せて怒鳴るコーティカルテ。
だが――
「コーティさん? 一体何を――」
何にも事情を察していない様子で尋ねてくるペルセルテ。
コーティカルテは、何かを探るかの様に、彼女とフォロンの間で何度か視線を往復させてから……ようやくフォロンの襟首を離した。
代わりに彼女は鋭い光を宿した紅い眼をフォロンに向けて尋ねてきた。
「フォロン……何もなかっただろうな……?」
「なっ……」
その手の事には鈍いフォロンでもさすがにこれで分かった。
絶句するフォロンをどう思ったのか、コーティカルテは逆上した様子で再び彼の襟首を掴んでくる。
「なんだその反応は!? あったのか? 何か、何かあったのか!? あったんだな!? おい、フォロン、答えろ、一体どこまで――」
「くっ……苦し……コーティ、落ち着いて、何も、何も無かった――無かったって……」
首を絞められながら手足をばたつかせるフォロン。
だが――
「何も……って、何がですか?」
ペルセルテには意味が通じていなかったようで――彼女は首を傾げてそう尋ねてきた。
「…………」
「…………」
一瞬、状況も忘れて互いに顔を見合わせるフォロンとコーティカルテ。
「何の話です? いきなり――」
まあペルセルテの視点からすればいきなり飛び込んできたコーティカルテが理由も無くフォロンに掴みかかっている様に見える訳で。
「何って……それは……その……」
真顔で聞かれるとさすがにコーティカルテも困るらしい。
彼女は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせている。
しばらく彼女は懊悩する様に、空中に視線を彷徨わせていたが――
「ええい! ともかく! お前は今後フォロンに近づくな!」
まるでヒステリーでも起こしたような声をあげると、コーティカルテはフォロンをペルセルテから遠ざけるように立ちはだかった。
「ええ〜。どうしてそういうこと言うんですかぁ」
理不尽といえば理不尽な要求に、ペルセルテが当然の抗議をする。
「どうしてもこうしてもない! お前はダメだ!」
「ダメじゃありません!」
「ダメだ!」
「嫌です!」
そしていつもの言い争いへと突入していく。
「あの……とりあえずご飯食べないと、冷めちゃうよ?」
そんなフォロンのささやかな呼びかけは双方共に聞き入れられる様子は無かった。
(でも、ペルセルテが元気になってよかったよ)
コーティカルテといつものやり取りをしているペルセルテを見て、フォロンは内心胸をほっと撫で下ろしていた。
――まあそういう訳で。
コーティカルテとペルセルテの舌戦は続いていた。
「――だからお前は横に並ぶなと言っているだろうが」
「そんなこと言わないで下さいよ。私だって先輩と一緒に歩きたいですもん。別に通行人さんの邪魔をしているわけじゃないんですからいいじゃないですか」
「私の邪魔になっているんだと何度も言っているだろう!」
「何も邪魔はしていないじゃないですか!」
部屋からの言い合いをずっと続けている二人の前を、フォロンは一人で歩いている。
彼等が朝のいつもの待ち合わせ場所に向かうと、そこには――プリネシカが一人で待っていた。
一瞬……どう対応すべきか悩むフォロン。
だが彼はすぐに結論を下した。
いつも通りに。
別に何が変わった訳でもない。ただ事実が一つ明るみに出ただけで、フォロン達の知るプリネシカという少女の中身が変わってしまった訳ではないのだ。
ならば慣れ親しんだ日常を維持するのが一番だろう。
だから……
「おはよう〜」
フォロンが努めて気楽な口調で挨拶しながら手を振ると――彼女は一瞬、びくりと身を竦ませたものの、すぐにこちらもいつもの様子を取り戻し、小さく会釈して応じてきた。
「おはようございます」
「昨日はコーティの面倒をみてくれてありがとうね」
いつもの通り、いつもの通り、と頭の中で唱えながらフォロンは言う。
此処でぎくしゃくしてしまったら誰にとっても辛い。
「あ……いえ、こちらこそ……」
「いや、僕の方は逆にこっちがお世話になったかも。ペルセルテに朝食作ってもらっちゃったし」
「いえ、そんなことは……」
そういうとプリネシカは風邪のためか、もともと赤かった顔をさらに少しだけ赤くして俯いてしまった。
普段は互いの相方の面倒をみる立場という点では、フォロンとプリネシカは良く似た者同士なのかもしれない。
二人の元へ、言い合いを続けていたコーティカルテとペルセルテの二人も追いついてくる。
「プリネ、おはよう〜。昨日の夜はごめんね」
(あれ……?)
ペルセルテの声は普段通りの元気で明るい声。
しかし――フォロンはそこに何故か小さな違和感を覚えた。
何かがいつもとは違う。
彼女は笑顔でプリネシカに話しかけている。だがその笑顔からはいままで通りの彼女らしい明るさや元気は伝わってこない。何というか――別人が形だけいつものペルセルテを演じているかの様な。
(そっか……そうだったんだ)
フォロンはようやく今朝からのペルセルテの元気よさの理由に気が付いた。
彼女は本当に元気になったわけではない。ただ周りに心配をかけまいと、元気に振舞っているだけなのだ。
そのことにプリネシカも気付いてしまっているのか、彼女自身の受け答えもどこかぎこちなかった。
「う……うん……あの……気にしないで……」
「フォロン先輩、早く学校に行きましょ」
「ああ……」
そう言ってペルセルテは明るい笑顔でフォロンの手を引いて歩き出す。
文句を言いつつもコーティカルテが反対側の手を引き、三歩程遅れてプリネシカがついてくる。
いつも通りだ。傍目にはいつもの四人に見えた事だろう。
だが決定的に何かが欠落している。
恐らくペルセルテも分かってはいるのだろう。プリネシカに悪意が無かった事。父であるパルテシオも出来る範囲で最善の選択をした事。プリネシカが何者であれ自分達の一緒に過ごしてきた十二年が偽物ではないという事。
だが――理屈での理解は所詮、それだけの事だ。
感情がそれに追随するとは限らない。
(やっぱりこのままじゃダメだよ。なんとかしないと……)
日常を装う何処かぎくしゃくとした空気の中で――フォロンはそんな事を考えていた。
「はぁ……」
一限目の授業が終わると同時に、フォロンは机に突っ伏して溜息を漏らした。
――どうすればペルセルテを本当の意味で元気付ける事ができるのか。
授業を聞きながらずっと考えていたが……まったく答えがまとまらない。そのことに気をとられすぎたせいで、授業その物も結局上の空となってしまった。内容が全く頭に残っていない。後でレンバルトか誰かにノートを見せて貰わないといけないだろう。
ちなみに。
隣の席ではコーティカルテが毎度の如く熟睡中である。
「はぁ……」
フォロンはもう一つ溜息をつく。
そんな彼の背中を叩く手が在った。
振り返ってみれば――手の主はクラスメイトのレンバルトであった。
「よ、フォロン。相変わらず何か悩み事か?」
「レンバルト……。まぁ、悩み事というか、なんというか……うーん。悩んでるのは僕じゃないんだけどね。いや、そうでもないか。ええと」
「なんだよそれ。変なやつだなぁ」
フォロンが曖昧に答えると、それを冗談と受け取ったのかレンバルトが笑い出す。
「そうだ。変といえば、今朝校門のところでダングイスのやつとすれ違ったんだけどさ、なんか様子がおかしかったぞ。何かあったのか?」
「え……? 特に何も聞いていないけど……」
強いて言うならば、昨日講師に注意され罰当番を言い渡されたことだが……ダングイスは結局顔を出さなかったし、それ程、気にしている様子ではなかったと思う。
「そっか……いやな、見かけたから声かけたんだが、一回も返事が戻ってこなくてな。それも無視をしているようじゃなくて、なんか本当に聞えていない感じだったんだ。それに何かぶつぶつ呟いていたし……もともと頭のネジが数本外れ掛かっている様な奴ではあるけどな、ちょっと今日は輪をかけておかしかったからな……暴れ出さない内にふん捕まえて縛り上げといた方が良くないか?」
「レ……レンバルト……」
彼なりに心配しているのかもしれないが――歯に衣を着せない物言いの為か、単に罵倒しているとしか思えない。
元同級生に此処まで言われるダングイスに少し同情を覚えるフォロンであった。
「まぁ、またもし何かわかったら教えてくれ」
「あ、うん……」
「そういや、フォロンは次の時間どうするんだ?」
「次って……あ。そうか」
本来ならば次は実習室での授業のはずだが、今朝の朝礼時に今日は一般教室で自習になったという話を聞いた。
第四実習室が今朝から改装中となっている為に、授業プログラムに対して実習室の数が足りなくなったらしい。
一応建前としては実習室設備の老朽化に対する改装ということになっていたが――本当は昨日フォロン達を襲った襲撃者が室内をかなり破壊したからなのだろう。
急に実習室を改装する事になった件については生徒達の間で色々な憶測が乱れ飛んでいたが、フォロンとしては真相を語るつもりは無かった。改装理由を誤魔化しているという事は学院側が今は真相を語る時でないと判断したのだろう。ペルセルテ達の事も考えれば今は知らん顔をしている方がフォロンとしても都合が良い。
「特に決めてはいないけど……」
「お。じゃあどっか遊びに行かないか?」
「遊びって、どこまで?」
「そりゃ、中央街区の方だろうな」
ちなみに神曲学院も中央街区に含まれるが――生徒達がわざわざ『中央街区』と言う場合は大抵が、繁華街の事である。
「え……午後からだって授業あるのに、そんな短時間で中央街区まで行って帰ってこられるの?」
フォロンがそう聞くと、レンバルトはとても爽やかな笑顔を見せた。
フォロンにはその表情に見覚えが在った。
彼が悪巧みをしている時の顔だ。
「帰ってこられなかった時は、それはそれで」
「それって、最初から戻る気ないんじゃ……」
「何言ってるんだよ。気が向いたら戻るって」
要は一緒にサボる仲間が欲しいだけなのだ。
決して授業態度は真面目ではないし、欠席や自主休講も目立つ癖に、このサイキ・レンバルトという少年は常に成績は上位を保っている。成績下降を理由に素行の更正を求める事が出来ない分、非常にタチが悪い。
まあ何にしても要領の悪いフォロンには真似が出来ない学生生活だ。
そういう訳で――
「ごめん。僕は遠慮しておくよ……」
フォロンは彼の誘いを丁重にお断りした。
二限目開始直後。
フォロンは人気のほとんどない廊下を歩いていた。
自由時間となったこの時間は、静かな中庭に行ってペルセルテたちを元気付ける方法をゆっくりと考えることにした。
しかしいくら自分の授業が無いとはいえ、授業時間中に校内を出歩くのは何故か気が引けてしまい、気付かないうちに足音を殺して歩いている。
「フォロン。どこに行くのだ?」
後ろについてきているコーティカルテが眠たそうに目を擦りながら聞いてきた。
本当は休み時間内に移動したかったのだが、熟睡していた彼女がなかなか起きてくれなかったために授業時間が始まってから移動するはめになったのだ。
「中庭のベンチにでもと思ってね」
「お。飯か?」
彼女は急に目を覚ます。
今は食堂が混雑している時はたまに購買部で食べ物を買って中庭で食べることもある。
だが残念ながら今回は違う。
元々コーティカルテと知り合う前は、フォロンは一人で中庭に行っては考え事をしたりする事が多かった。静かで涼しい上に、人の出入りも少ない中庭は、考えを整理するのにうってつけだったのである。
「昼食の時間にはまだ早いだろう? ちょっと静かなところでゆっくりと考えたくてさ」
「なんだ、飯ではないのか」
そうと分かると再び眠たそうな目に戻り、欠伸をした。
「まぁあそこは静かで温かいから寝る場所としても申し分ないな」
(君ねぇ……。寝ることと食べることしか頭にないの……? というか、どっちも精霊には無縁のものだよね……)
溜息混じりにそう思ったが、言葉には出さない。
それに頭の片隅では彼女らしくて良いとも思っている。
と――
廊下の奥の方から一人の女性が歩いてくるのが見えた。
私服を着ているところを見ると、講師か、何かしら学校の来客か。どちらにしても生徒ではない。
フォロンはすれ違い様に、女性に向かって軽く頭を下げる。
講師にしても来客者にしても、とりあえず会釈しておけば問題はなかろう。
フォロンとしては考え事をしていた事もあって――その女性の方をはっきり見ていた訳ではなく、無難な対応を採ったに過ぎなかった。
だから――
「あれ? フォロンじゃない!」
ふとその女性がフォロンの側で立ち止まり、彼の名前を口にした時には驚いた。
「え……?」
驚いて視線をあげると、そこには見覚えのある顔があった。
「ユフィ先輩!?」
「うい。久しぶりだね。学年末以来かな?」
「うわ……お久しぶりです。私服姿の先輩、初めて見たので気付きませんでした……すいません」
フォロンは素直に頭を下げて謝った。
「あははは。相変わらずだね、フォロンは」
そう言って彼女はフォロンの額を人差し指で突付きながらけらけらと笑った。
ツゲ・ユフィンリー。
フォロンよりも二学年上の先輩で、彼が基礎課程の一年だったときに面倒を見てくれたのが彼女だった。 学院の歴史の中でも屈指の実力を持つと言われる才媛で、フォロンは随分と沢山の事を彼女から教わった。
在学中から既にプロの神曲楽士として活動していた彼女は、卒業後はベテランの神曲楽士達と肩を並べて活発に仕事をこなしていると聞いた。
「それで、後ろにいる子があなたの精霊?」
ユフィンリーがコーティカルテを指差した。そのコーティカルテは怪訝そうに彼女のことを凝視している。
「あ、はい。コーティカルテです。コーティ、この人は僕の先輩で、ユフィンリーさんっていう人なんだ」
「よろしく。コーティカルテ」
そう言ってユフィンリーが差し出した手を、コーティカルテはしばらくじっと見つめた後、ぷいっと顔を逸らした。
少しばかりその顔はむくれている。
「ちょっとコーティ、失礼だよ?」
コーティカルテはフォロンが親しげに話しかける女の先輩を一種の『敵』とみなした訳だが――色恋沙汰にはとことん鈍いフォロンがその事に気付く筈もない。
「あはは。話に聞いていた通り、おもしろい子だね」
ユフィンリーはというと、コーティカルテのそんな態度に特に気を悪くした様子もなく面白そうに笑っている。
フォロンとしては、『話に聞いていた』というその話の出所と内容が気にはなったが直接聞こうとはしなかった。
卒業生である彼女が持っている学院内の情報というのはおそらく大半が付き合いのある講師経由のものだろう。ならばコーティカルテに関する話題はほぼ確実に全てフォロンの失敗談のはずだ。聞かない方が自分の精神衛生の為だった。
「ところでさ、フォロン。なんでこんな時間に廊下歩いているの? 授業は?」
当然の質問が飛んでくる。
この学院の時間割を知っている人物ならば誰もが真っ先に思う疑問だろう。
「えっと、本当は実習訓練の授業だったんですけど、実習室が急きょ改装することになってしまったので今は空き時間なんですよ」
「ああ、なるほど」
「先輩は?」
「私は今回学院長に紹介してもらった仕事を受けているんでね。その途中経過報告とかも含めて顔を出したの」
「へえ、そうなんですか」
学院長から仕事を紹介されるなんてさすが先輩だ、とフォロンは思う。
単なる仕事と異なり――学院長経由の依頼という事は、『一神曲楽士ツゲ・ユフィンリー』に対するものではなく、『トルバス神曲学院の卒業生ツゲ・ユフィンリー』に対するものである可能性が高い。
当然ながらその仕事ぶりは学院の風評にも関わるので、学院長としても自分の知る限り出来るだけ優秀な卒業生を選ぶだろう。
「それじゃあ、これから学院長のところに?」
「うん。そんなところ。フォロンは?」
「僕は少し中庭に行ってゆっくりしようかなぁと……」
フォロンがそう言うと、急に彼女はにんまりと怪しい笑みを浮かべた。
「はは〜ん、さてはまた何か悩み事だな?」
いきなりユフィンリーに言い当てられ、フォロンは驚いてしまう。
「どうして分かったんですか……?」
「あんた、昔から何かじっくり考え事する時は、あそこにふらふら〜って行ってたじゃない」
「あ……」
どうやらフォロンの癖はユフィンリーに見抜かれていたらしい。
まあユフィンリーの様な頭の良い相手には見抜かれて当然という気もするが――相手が誰であれ内心を見透かされるのは恥ずかしい。
そうでなくても、彼は割と頭の中で考えている事が外に漏れ易いらしいのだ。表情。仕草。口調。声音。歩調。特に何処から――という自覚はないのだが、観察眼の鋭いレンバルトには考えを見透かされる事がしばしばあった。
「よし、可愛い後輩のためだ。お姉さんが相談を聞いてあげよう」
そう言って彼女はフォロンの肩に手を回した。
相談に乗る、というよりは面白そうな話に飛びついただけのようにしか見えない。こういう処はユフィンリーとレンバルトはよく似ている。
コーティカルテが一瞬、ムっとした表情を見せるが――底抜けに明るい感じで笑うユフィンリーには毒気を抜かれたのか、特に何も言ってこなかった。
「あの、学院長のところへは……?」
「あとで行くから大丈夫!」
そう言い切ると彼女はフォロンを押して強引に中庭へとむかって歩き出した。
「……なるほど、それで落ち込んでいる後輩を元気付けてあげたいと」
「はい」
フォロンが掻い摘んで説明した話を聞いて、ユフィンリーはうんうんと頷いている。
中庭は、丁度真上から陽の光が入ってくる時間帯だけあって、寒くもなく、かといって暑くもなく、湿度も程良く――気持ちの良い空気に満ちていた。
コーティカルテはフォロンを挟んでユフィンリーの反対側に座っている。
最初はまるで警戒するかのように彼女を睨んでいたが、フォロンの説明が続くにつれて舟をこぎはじめ、今ではすっかり彼に寄りかかって眠ってしまっている。この中庭の空気ではしかたのない事だとも思うが。
ユギリ姉妹の話に関して、フォロンも全てを話したわけではない。その程度の配慮はフォロンにも出来る。特にプリネシカのことなど、個人の事情に関わることは適度に誤魔化してある。
とはいえ相手はユフィンリーである。断片的な情報から事情の全てを見抜いていてもフォロンは驚きはしないが。
「それにしても、フォロンも後輩の心配をするような立場になったんだなぁってしみじみ思ったよ」
「あはは……」
どうも彼女が納得していたのは本題とは少し違うところだったようだ。
「それで、その……その子もすごく良い子なので、周りに心配をかけないようにしているのか無理をして明るく振舞っているところがあって、余計に心配というか……」
「まぁ確かにね。外に出してくれる子なら分かりやすいし対処の仕方もいろいろとあると思うけど、我慢して内に溜め込んでしまう子だとね。せめてその子が本音の部分でどう思っているのか、少しでも話してくれればいいんだけど……」
彼女はさっきまでの少し冗談めいた雰囲気も消え、真剣に考えてくれている。
普段、何かとふざけた感じの言動が多いユフィンリーであるが、決して根は軽薄でもないし無責任でもない。フォロンがまだ彼女の授業を受けていた頃も、よくこうやって何かと相談に乗ってくれた。
「あ……その子も問題の事態があった直後は動揺していたこともあってか、いろいろと話してはくれたんですが……」
「な……に……?」
フォロンの話を聞いて、ユフィンリーがいきなり怖い顔をして振り向いた。
「いろいろって、本音みたいなこと?」
「え、ええ、たぶん」
彼女の迫力に押されて、しどろもどろに答える。
「それで?」
「え?」
「それでフォロンはどう思ったの?」
「どうって……そうですね。最初は、彼女、神曲楽士としての父親を英雄視していて、それが崩れたことにショックを受けたのかなって思っていたんですけど、どうも話を聞いていると、本当は純粋にお父さんのことが好きで、だから自分に本当の事を話してくれなかったことに対して傷ついているのかなぁって。ただいろいろあって本人もそのことに気がついていないようなんですけど……」
そう答えるフォロンの頭を、ユフィンリーがぺしっと軽く叩いた。
「いたっ……何するんですか」
「そこまで気付いているのなら、それをそのまま伝えてあげればいいでしょ?」
「そんな……だって口で言ってあっさり納得してくれるならこんなに迷っていませんよ」
口答えをするフォロンの頭を、もう一度ぺしっと叩く。
「いたっ……」
「あなたが目指しているのは何?」
「……? 神曲楽士ですけど……」
「だったら、言葉では伝えられないのなら、行動で伝えてあげればいいじゃん?」
「行動……ですか?」
「例えば――」
指を一本立てて見せながらユフィンリーは言った。
「神曲で」
「え……? で――でも相手は精霊じゃなくて人間ですよ……?」
フォロンの反応を見てユフィンリーは大きな溜息を漏らした。
「あのね、フォロン。神曲はね、精霊ほどじゃないにしろ、人間にも影響を与えるんだよ。それが、その人が強く想っていることに訴えかける神曲であればより強く、ね」
「あ……」
言われて見れば思い当たる節がある。フォロンも講師などの神曲を聞いて何度も心を動かされたことがあった。
いや……
そもそも神曲も音楽の一種だ。
そして優れた音楽には元々、人の心を動かす力が在る。眠れる感動を呼び覚まし、喜怒哀楽を引き出し、心を豊かに潤してくれる。精神体である比重の大きい精霊達に音楽の一種である神曲が『糧』であり『報酬』となるのもそのせいだ。
だから――
「もちろん、人の心に直接影響を与えるのだから、使い方次第では毒にも薬にもなるのだけれど、あなたなら使い方を間違わないわよね?」
「……はい」
「大事なのは、相手が何をどう思っているのか、考え、感じる事。自分の考えを押し付けるのではなくて、どう伝えれば相手がどう受け止めてくれるか、想像力を駆使して考える――神曲の基本でしょうが!?」
「あ――はい!」
フォロンが力強く頷くと、ユフィンリーは『よしっ』と満足げに頷くと、くしゃくしゃとフォロンの頭を撫でた。
「それじゃあ僕、どこまで出来るかはわかりませんが、一度頑張ってみます」
そう言ってフォロンが立ち上がる。
現金なもので――つい先程までは途方に暮れていたというのに、やるべき事が見つかった今はすぐにでも行動に移りたくて仕方なかった。
一分でも一秒でも早くペルセルテに聞いて貰う為の曲を作りたい。
逸る気持ちを自覚しつつ――フォロンは神曲楽士としての自分を意識する。才能云々は正直まだ自信が無いのだが、自分はやはり音楽が好きで、神曲が好きで、この神曲楽士という職業を目指して良かったと思う。
「うい。頑張れ後輩!」
「ありがとうございました! コーティ、行くよ!」
「ん……? おおう!?」
フォロンはユフィンリーに向けて深く頭を下げると、寝ていたコーティカルテの腕を引いて立たせ、足早に歩きはじめる。
突然のことでコーティカルテは何が起きたのか理解していない様子だったが――引っ張られるまま慌ててフォロンの後についていった。
校内へと消えていく後輩と、その精霊の後姿を見送りながらユフィンリーはベンチの背にもたれ掛かって空を見上げた。
「あの子も昔に比べればだいぶ明るくなったねぇ」
彼女の知っているフォロンは、いつも失敗を恐れておどおどしている少年だった。
何をするにも自信が無く……いつも成功より先に失敗と、それにまつわる他者からの叱責や揉め事を予想してしまい、実力を出し切れないままに終わってしまう、そんな生徒であったのだ。
勿体ない――心底そう思ったのをユフィンリーは覚えている。
素直で、妙に傲った処の無い分、自信さえつけば良い神曲楽士になるのではないか……そんな風に彼女は考えたのだ。
フォロンは、自分や一部の神曲楽士の様に生まれつき備わった感性に頼って強引に前に進む芸術家タイプ、天才タイプではない。そういう意味では彼には才能は無いのかもしれない。だが彼はコツコツと努力を積み重ねて確実に前に進む。そしていつしか中途半端な天才を抜いてしまう様な実直さと堅実さが在る。
そしてそれは――とても強い武器になる筈なのだ。
ユフィンリーの目から見れば、まだ少しおどおどしているところがフォロンには残っているが、何事にも積極的になった様に感じられた。
それは面倒を見るべき後輩ができたからなのか、あのコーティカルテという精霊と契約をしたからなのか……。
どちらにしても彼にとっては良い傾向だと思う。
その事についてはユフィンリーも嬉しく思う。
ただし――
「ちょー……と……妬けるかな」
ユフィンリーにはどうしても出来なかった事をした者が居るという事だ。
「まぁ、それでもあの子にはまだまだ教えなくちゃいけないことがたくさんありそうだけどねぇ〜。やれやれ」
「そう言う割には嬉しそうですよ?」
空を見上げていた彼女の顔の上に、突然、涼やかな笑みを湛えた青年の顔が現れた。
学院の最高権力者――学院長である。
「うわっ! が、学院長!」
さすがのユフィンリーも慌ててベンチから立ち上がる。
そんな彼女を学院長は楽しそうに眺めていた。
「こんなところに何をしに来たんですか?」
「ちょっと野暮用で。でもうちの卒業生が優秀なので私の出番は無くなってしまいましたが」
「はい……?」
「いえいえ。なんでもありません。しかし、本当に我が学院には優秀な生徒が多いですねぇ。喜ばしいことです」
「ん……?」
学院長はフォロンが入っていった校舎を見つめると満足そうに頷いている。
それはつまり――フォロンが学院長が気にする程に将来有望な生徒という事なのだろうか。まあ確かにこの年齢不詳の学院長は、一部の生徒に必要以上に肩入れするという、教育者にあるまじき悪癖が在るが――実を言えばユフィンリーもその肩入れされた一人である――それは自分の様に、天才型、芸術家型といった極端なタイプの生徒に限られているものだと思っていた。
ひょっとして単にユフィンリーが読み間違えているだけで……フォロンは彼女をも遙かに凌ぐ天才型の逸材なのだろうか?
それとも――
「学院長。また何か企んでないですか?」
「いえ? まさか。『また』などと人聞きの悪い」
笑いながら首を振る学院長。
何処からどう見ても穏和で愛想の良い青年だが……ただそれだけの人物でない事をユフィンリーはよく知っている。というか嫌という程に思い知らされている。
「まあ何でもいいですけど――私の可愛い後輩で遊ばないでくださいね」
「無論です」
頷く学院長。
何処まで信用できるやら――そんな事を思いながらユフィンリーは溜め息をついた。
午後の授業。
フォロンが基礎課程一年生達に授業をする時間だが、その室内は珍しく……というよりはむしろ異様という言葉がぴったりと当てはまるほど静かだった。
皆黙々と各々の勉強をしている。
その中でも一番集中しているのは誰がどうみても質問を受け付ける側であるはずのフォロンだった。
彼は虫眼鏡やランプ、針のように先が尖った専用の工具を使って封音盤を加工している。封音盤とは単身楽団専用の一種のオルゴールであり、そこには各種の演奏情報が組み込まれていて、それを単身楽団の読み取り機が読みとって音を鳴らす。単身楽団を使って神曲を奏でる際には欠かせないものだ。
補助演奏部分は、磁気記録媒体でも構わないのだが、主演奏部分の自動演奏はどうしても人の手で直接封音盤を加工せねばならない。原理は分かっていないのだが、『手作り』にしか出せないある種の『揺らぎ』が神曲には重要らしいという事が分かっている。
この為、神曲を録音したものを再生しても精霊は反応を示さない。
単身楽団が高度な自動化を施されながら、最後の一線でどうしても人の手による演奏を要するのは、精霊が摂取しているのは神曲そのものではなく、神曲という媒体に仮託された人間の精神そのものだからではないかとも言われている。
演奏が完全に自動化されれば、それは空虚な魂の複製品が出来上がるだけで――精霊が最も欲するものがそこには欠けているのだと。
まあそれはさておき……
「フォロン先輩、どうしたんですか?」
ペルセルテがフォロンの隣に座っているコーティカルテに小声で尋ねる。
実を言えばペルセルテを含め、フォロンに質問したい事柄が在る生徒は数名居たのだが……フォロンの集中する様子が尋常でない為、誰も近付けない状態なのである。
無論フォロンはただ黙々と作業をしているだけだ。
だが普段ののんびりしたフォロンを皆がよく見知っているだけに、別人の様な気迫を背負っている彼が『何か違う』というのは誰にでも分かるのだ。
「見ての通りだ。昼休み前からずっとここであれを作っている」
そのために巻き沿いをくらってコーティカルテも昼食抜きとなってしまった。
普段のコーティカルテなら、フォロンをぶん殴ってでも昼食を要求する処だが――
「こうなると何が起きてもフォロンは反応しないぞ? 一応授業開始の鐘が鳴ったら教えてとは頼まれたので、話しかけてみたがやはりダメだった」
「そうなんですか……。すごい集中力なんですね」
「ああ」
そのせいで昼食が食べられなかったにも関わらず、コーティカルテは上機嫌だ。
やはりなんだかんだと言っても彼女も精霊――どんな内容であれ、契約した神曲楽士が神曲作りに打ち込む姿を見るのは嬉しいのだろう。
「そっちこそ、あれはどうした?」
今度はコーティカルテ教室の隅を指差した。
そこに大人しく――これまでの事を思えば奇跡的な位に静かに座っているのは、コマロ・ダングイスであった。
彼が静かなのは普通に考えれば良い事だ。授業をかき乱されずに済む。
だが……
「分かりません。朝からずっとあんな感じなんですよ」
何か怯える様に言うペルセルテ。
ダングイスは――変わり果てていた。
その顔は何故か酷くやつれていて、目も虚ろ。声は発していないのに口を常に動かしているのがとても不気味だ。まるで重度の麻薬中毒患者の様にも見える。
「ふむ、そうか。まぁ静かでいいのだが」
「そうですね」
頷き合う二人。
まあダングイスの場合、普段の言動が言動だけに、心配して貰えないのは自業自得ではある。
だが……
夜の気配が教室の中に染み入ってくる。
既に校舎の大半は静寂に満たされている。照明も非常灯や常夜灯を除けば全て落とされ、校内は薄く淡い闇に満たされていた。廊下を行き来するのも校舎施設の点検を行う事務員や用務員ばかりで、生徒や講師の姿は殆ど見られなくなっていた。
だが――
「…………」
フォロンの作業は……未だ続いていた。
彼はただひたすら、脳裏に描いた譜を封音盤へと刻み込んでいく。
周囲の時間経過などまるで気付いていない様子で、彼は両手を動かし続けている。彼の担当の後輩生徒達は、初めてフォロンのこうした姿を見たせいか――畏怖の様な表情を浮かべて一人、また一人と、音を立てない様に教室を出て行った。
ペルセルテに曲を聞いて貰おうと思った時に、フォロンの脳裏にはある曲が即座に思い浮かんでいた。
新たに考えた曲ではない。
実を言えばそれは幼い日のフォロンが両親の事を想って口ずさんでいたものである。
誰に教わったのでもなく自然に彼の中から出てきた旋律。
それは無論――子供が思い付く様なものだから基本的には単純で拙いものだ。
だがそれだけに不純物を含まない真摯さが在る。
そして父親への想い、家族への想いに揺れているペルセルテに大事な事を伝える為には、最も相応しい曲であるとフォロンは考えていた。だからこそこの曲を編曲して神曲の形にしようと想ったのだ。
「…………」
今自分に持てる感覚と技術の全てをつぎ込んで曲を編み上げる。
もっと。もっと。もっと。
修正。修正。更に修正。全体のバランスを見てまた修正。
わざわざノートに譜面を起こす手間も惜しく思えて、頭の中で完成させた譜面をそのまま直接封音盤へと刻んでいく。
もしフォロンのこのやり方を他の神曲楽士が聞けば、素人のする事だと笑うかもしれない。編曲とはいえ――頭の中だけで曲の構成から細部までを作り上げ、それを余す所無く封音盤へと刻み付けるのは、それ程に難しい事なのだ。
だが現にフォロンはそれを今やり遂げつつある。
脳裏で連なる何百という符全てを管理編集し、一つも漏らさずに再現していく。
尋常の集中力ではない。
だが幸か不幸か――フォロン自身は過度の集中の余り、自分の行っている作業がどれだけ非凡なものかを理解していない。
そして……
「――よし、できた!」
たん! と道具を机の上に置いてフォロンは宣言する。
彼は完成したばかりの封音盤を愛おしげに見詰めながら――半ば無意識に肩を回す。どうも熱中しすぎたせいで、気がつかない間にかなり腕を酷使したらしい。鈍い痛みが肩から首に掛けて貼り付いていた。
「あれ……?」
その時になって彼はようやく教室の異変に気付いた。
「あ、先輩。終わったんですか?」
いつもの席に座っているペルセルテが声をかけてきた。
彼女の隣にはプリネシカ。そして自分の隣には退屈そうな表情のコーティカルテが腕組みをして座っていて――
「…………ええと」
それだけだ。
教室には他の生徒の姿は見当たらない。
「他の皆は?」
とうとう集団ボイコットされてしまったのかと焦り、恐々と尋ねる。するとペルセルテは少し困った様子で視線を泳がせながら、言いにくそうに答えた。
「もう皆、帰っちゃいましたよ?」
「は……?」
フォロンは一瞬ペルセルテの言葉の意味が分からず――窓の外へと視線を移した。
そこには夜の黒に染められた風景が静かに広がっている。
「うそ!?」
今度は教室内の時計を見た。
誰がどう見ても既に夕暮れ時を大幅に通り過ぎて完全に夜だ。
「も、もしかして僕、チャイムとか気付かずにずっとやっていたの……?」
「はい」
ペルセルテが控えめに頷いた。
フォロンはしまった――と頭を抱えて腰を降ろす。教える立場の人間が教壇でずっと自分の作業に没頭している姿を想像すると非常に恥ずかしく、また申しわけなかった。
「コーティ、チャイムが鳴ったら教えてってお願いしたのに……」
「待て! 私はちゃんと言ったぞ! お前が聞いていなかっただけだろう!?」
フォロンが恨めしそうにコーティカルテを見ると、彼女は心外だと言わんばかりに目を見開いて言い返してきた。
「え……そうなの?」
「そうだ! そこの二人もちゃんと見ていたぞ」
コーティカルテが指を刺した二人、ペルセルテとプリネシカの方を見ると、二人とも同時に首を縦に振った。
「あう……そうだったんだ。ごめんね、コーティ」
「ま、まぁ別に気にしてはいないが……」
フォロンが謝ると何故かコーティカルテは頬を少しだけ赤く染めて、そっぽを向いてしまった。彼女が照れている事そのものは分かるが――何に彼女が照れているのかはフォロンには分からない。
「そ、それで、お前は何の曲を作っていたのだ?」
まるで話を逸らすかのように、コーティカルテが聞いてくる。
「あ。これはね、ちょっとペルセルテに聴いてもらいたくて……」
「えぇ!?」
「なに!?」
二人が同時に声を上げた。ペルセルテは少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに。コーティカルテは目を吊り上げ頬を膨らませて怒っているかのように。
「せっかく学校にいるんだし、良ければ聴いていってくれないかな?」
「はい!」
フォロンが控えめに誘うと、ペルセルテは元気良く頷いて答えた。
コーティカルテはそっぽを向いて完全にふて腐れきっている。
まあコーティカルテとしてはフォロンが自分の為に神曲を造っていると思い込んでいただろうから――当然と言えば当然である。
「プリネシカも一緒にどう?」
「私は……、いいです」
「え、あ……そっか」
ペルセルテが聴いてくれるといった時点でプリネシカも一緒にきてくれるものだと思っていたフォロンは意外な返答に少し寂しい気がした。
フォロンのそんな様子に気付いたのか、プリネシカが彼女にしては珍しく慌てて言葉を続ける。
「あの、聴きたくないというわけではないんです……本当にありがとうございます」
そう言って彼女は深々とお辞儀をした。
「そっか。うん、分かった。じゃあプリネシカはまた次の機会に」
「はい……お願いします」
彼女は、ペルセルテの為に作ったと言ったにも関わらず『ありがとう』と言ってくれた。それはつまり、フォロンが何のために作った曲なのかということを察してくれたのだろう。その上で、今日は聴かないと言うということは何か理由があるに違いない。
フォロンはそう判断してそれ以上は誘わなかった。
「それじゃあペルセルテとコーティは僕と一緒に実習室へ行こうか」
「はい!」
そう言って教室を後にするフォロンの後に、元気良く返事をするペルセルテと、無言のまま、しかしフォロンの背後にぴったりとくっついてコーティカルテが続いていった。
フォロン達と別れたプリネシカは、昇降口で三人を待つことにした。
さすがにここまで時間が遅くなってしまうと、昇降口といえども生徒の姿はまるっきり見当たらない。
プリネシカは壁に寄りかかって外へと視線を向ける。
彼女はフォロンが自分たちの為に曲を作ってくれたのだと気付いていた。
だからこそ、自分はいない方がいいと思ったのだ。
おそらく彼が奏でる神曲はペルセルテの気持ちに訴えるもの。
より自分に素直な時の方が曲にこめられた気持ちを受け取りやすい。しかし今のペルセルテは自分が近くにいたら無意識のうちに自分を偽ってしまうだろう。そうなってしまうとせっかくフォロンが作ってくれた神曲も効果が半減してしまう恐れがあった。
だから彼女は一緒に行く事を拒んだ。
それに、彼の神曲は自分にとっても影響力が強すぎる。
彼の曲は聴いているととても心地が良い。身体の隅々にまで澄み渡っていく。
だがそれを、かつてのドーリスラエが持っていた記憶が拒否しようとする。彼女にとっての神曲楽士はユギリ・パルテシオ、つまりプリネシカの父親だけなのだ。
今の自分自身とは関係ないことだと思おうとしても、どうしても心のどこかが彼の神曲を恐れている。彼の神曲に心を開いてしまうことを恐れている。
それをパルテシオへの裏切りだと考えてしまう自分が居る。
「父さん……パルテシオ……」
彼女の記憶には父としての彼と、最愛の契約主としての彼の、二つの記憶がある。
そういう意味においては、プリネシカの感情は、ペルセルテの父に対する想いよりもずっと複雑に屈折し絡み合っている。
プリネシカは長々と溜め息をついた。
分かっている。
このままでは自分の中の精霊――ドーリスラエの部分はやせ細っていくばかりだ。
風邪を引いたのもその兆候である。
正確には風邪を引いたのではなく精霊部分の衰弱に伴って辛うじて保たれていた均衡が崩れ始めているのである。
何とかせねばならない。
人間と精霊双方の属性を持つからこそ、プリネシカは通常の精霊の様に、飢えて暴走する事は無い。
だが契約相手たるパルテシオの神曲に自らを最適化したドーリスラエの部分は、既に生半可な神曲では満足出来なくなっている。
パルテシオのそれを桁違いに上回る素晴らしい神曲。
それさえ在ればドーリスラエの部分が餓死してしまうのを防げる。
だが……
もしフォロンのそれを受け入れてしまえば、それはドーリスラエがパルテシオよりもフォロンを優秀だと認める事になるし――それはドーリスラエとしてもプリネシカとしても受け入れ難い事ではあった。
どれだけフォロンに好感を抱いていても彼女にとって最高の神曲楽士の座は揺るぎなくパルテシオのものなのだ。
とはいえ――
「…………?」
ふと――
彼女は校門からこちらへと歩いてくる人影に気付いた。
見た限り人影の輪郭はただの人間だ。プリネシカの精霊としての感覚もそれを裏付けている。
だが――それでも何か異様なものを感じてプリネシカは人影から視線を外すことができなかった。何かがおかしい。ふらふらとしている動きも普通ではないが……もっと積極的に感覚を逆撫でする様な異常な空気がその人影の周りには漂っている。
昇降口へと入ってきたその人物に――プリネシカは見覚えがあった。
「ダングイス……さん……?」
歩いてきたのは確かにダングイスだった。
だが彼の顔は痩せこけていて目も虚ろ。まるで別人に見える。
昼間見た際にも彼はかなり衰弱した様子だったが――今は更にその状態が進行している。
もう一度プリネシカは彼の名を呼んでみたが、反応は無い。
ただ何かをぶつぶつと呟きながら、プリネシカに一瞥もくれることなく『自称・天才神曲楽士』の少年は彼女の前を通り過ぎていった。
無視ではない。
彼女に限らず、おそらく彼は何も見ていないのだろう。両目の焦点が無限遠の彼方に結ばれてしまっている。およそ正気とは思えない目つきであった。
――怖い。
単純にプリネシカはそう思う。
彼の姿が見えなくなると同時に、足の力が抜け――プリネシカはその場に座り込んでしまった。
ダングイスは何をしたのでもない。ただ彼女の前を通り過ぎただけだ。
しかし――
「なに……これ……」
なぜ自分が座り込んでしまったのかも分からない。
ただ、言いようのない不安だけが彼女の中に残っていた。
「先輩、立ち入り禁止って書いてありましたけど、大丈夫ですか?」
おっかなびっくり――といった様子で一番最後に実習室の中に入ってきたペルセルテが不安と期待が入り混じる声で聞いてくる。
「たまには大丈夫だと思うよ」
返ってきたのはとてもフォロンのものとは思えない様な大胆な回答だった。
彼は早く新しい曲を奏でたいという気持ちで一杯なのだろう。
ペルセルテの為に編曲したという事実はあるが――それと同時にフォロンは元々神曲を含めた音楽全般が好きなのだ。作曲も編曲も。奏でる事も。それは実の所、創作の側から音楽に関わる者としては最も基本的で最も得難い才能でもある。
「そうですよ……ね」
頷くペルセルテ。
彼女もまたフォロンの曲を早く聴きたいという気持ちが強い。何しろ憧れの先輩がわざわざ自分の為に造ってくれた曲なのだ。多少の無理や無茶などこの際気にならない様子であった。
「ここかな……? あった」
フォロンが明かりのスイッチを入れる。
次の瞬間――真っ暗だった実習室に白い光が満ちた。
「電気系統は昼間のうちに直されてあったみたいだね」
フォロンは明るくなった部屋を見渡した。
言うまでもなくこの実習室は昨日、精霊の襲撃を受けた際にフォロン達が居た部屋だ。
他の実習室は既に鍵が掛けられていて入れなくなっていたが、此処だけは備品の撤去や資材搬入の関係で鍵がかかっていなかったのである。
ちなみに昨日まではそこら中にあった椅子や譜面板が全て撤去されている。
そのためか今日の実習室はやたらと広く感じられた。
「椅子がなくてあれだけど……二人ともそこら辺に適当に腰を降ろしておいて」
「はい」
彼に言われてペルセルテがその場に腰を降ろす。
返事はしなかったが、コーティカルテも膨れ面のまま言われた通り床の上に直接座った。
フォロンは教室の一番奥のロッカーに歩み寄って扉を開く。
ひょっとしてもう運び出されて無いのではないか――という不安も在ったが、単身楽団は未だロッカーの中に置かれていた。
フォロンはいつもの如く主演奏装置が鍵盤型のものを選ぶと、先程完成させたばかりの封音盤を挿入し、それを担ぐ。ペルセルテ達の側に歩いて戻りながら彼はゆっくりと単身楽団を展開させた。
彼を包み込むかのようにアームが伸び、周囲には各種演奏用情報を示す『計測窓』が投影されていく。最後に主演奏装置である鍵盤がフォロンの両脇から延びて彼の両手の下へ収まった。
全ての装置の展開が終わり、『計測窓』からの情報をチェックし終えたフォロンは、少し芝居がかった仕草で一礼した。
「それでは、ゆったりと寛ぎながら聴いてください」
深呼吸を一つ。
そして――フォロンは最初の一音を生み出すべく指先を鍵盤に走らせた。
始まりは静かな音色。
夜の孤独をそのまま示すかの様な響き。
続く音は滑らかに――しかし次第に強さを増していく。
聴き手の感性に訴えかける様に。閉ざされた心の内側に浸透する様に。
孤独は不安を呼び不安は恐怖に成長する。
闇の中に取り残された子供。
たった一人――誰にも愛されず顧みられずに佇む孤児。
けれど。
「――…………」
それは本当に?
本当にその子供は独りぼっちなのか?
子供は本当に傍らを見ただろうか。
子供は本当に周りを見ただろうか。
彼はただ孤独であると思い込んでいるだけではないか?
ずっと自分が見守られている事に気付いていないだけではないか?
嗚呼。子供よ。
孤独な孤独な子供よ。
先に背を向けたのは――どっち?
貴方か? それとも世界か?
さあ夜の闇をもう一度見てみよう。
恐ろしい筈の暗黒をその眼で見通そう。
そこには本当に虚無しか無いか? そこには星の明かりが見えないか? そこには虫達の歌が聞こえないか? 闇は本当に冷たく貴方を威嚇するものか? 夜は本当に貴方を拒んでいるか?
見る者の心次第で世界は色を変える。
だから。
絶望に目を閉じる前にもう一度見てみよう。
恐怖に耳を塞ぐ前にもう一度聞いてみよう。
貴方は本当に独りぼっちか…………?
フォロンの曲を静かに聞いていたペルセルテは、幼い日のことを思い出していた。
お父さんがいて。プリネシカがいて。そして自分が居る。
あの日――自分は何を見ていたのか。
そして何に感動していたのか。
記憶の奥底にうずまってしまい、忘れつつあった思い出が在る。
いつもベッドの中から外を見つめていた、同じ顔をした妹。
最初は妹が一緒に遊んでくれなくてつまらないと思っていた。
でも、自分が病気をして寝込んでしまったとき、何処にも遊びにいくことができなくてもっとつまらないと思った。
同時に、いつもベッドに寝ている妹は、楽しいことを知らないんだと思って悲しくなった。
だから、彼女にも面白い事をいっぱいいっぱい教えてあげようと思った。
彼女の笑った顔が見たくて、いろんなことをたくさんした。
でも妹を笑わせることはできなかった。
一生懸命に頑張ったのに全然ダメだった。
急に寂しくなって泣き出してしまった私。
つられて泣き出してしまったプリネ。
二人で泣いていたら、お父さんが部屋に入ってきた。そして歌を聴かせてくれた。
私は笑い、彼女も笑った。
初めて見た妹の笑顔。
父親とプリネシカと自分の三人で過ごした日々。いつもみんな笑っていた。
お父さんが帰ってこなくなった日。
一日目は我慢して、二日目も我慢したけど、三日目には我慢できなくなって泣いてしまった。
私が泣くと、彼女も一緒に泣いてしまった。
そして、プリネシカと二人きりで過ごした日々。最初はずっと泣いていたけど、二人で笑おうって決めて、一生懸命笑った。
それから、何をするにも二人で一緒だった。
嬉しかったこと楽しかったこと。寂しかったこと悲しかったこと。
そのそれぞれの時にもいつも側にいた、妹……。
ペルセルテは最初――自分が泣いているとは気付かなかった。
頬を流れ落ちる雫の感触に初めて彼女は自分が涙を流しているのだと知った。
それは――何を想ってのものなのか。
亡くなった父への思慕?
楽しかった昔日への郷愁?
いや――違う。
何時の頃からか大事な事を意識しなくなった自分が哀しかったからだろう。
「先輩……私は……」
そう言って話し出す彼女。
フォロンはただ黙ってただ優しげな笑みを見せる。下手な言葉を百万言重ねられるよりも遙かに強く――彼の静かな笑顔はペルセルテの心を揺さぶった。
「精霊とか……人間とか……そういうのじゃなくて……そういうのは関係なくて……私がずっと一緒に育ってきたのはプリネですよね。一緒に、泣いたり笑ったり、ずっと、お父さんが亡くなった時も、その後も、一緒に、一緒に――ああ……本当に……どうして私は……」
プリネシカと共に重ねてきた日々。
確かに彼女を疑う気持ちで見ればそれは欺瞞に満ちた日々と映るだろう。
事実は事実だ。
プリネシカが本当の事を黙っていた事は揺るがない事実。
しかし……それでもやはり事実は事実に過ぎない。
そこにどういう意味を見出すのかは見る者の自由なのだ。
だから――
「それに……小さい頃笑わなかったあの子を、笑顔にしたお父さんの神曲に憧れて神曲楽士を目指したのに……私……そんな事まで……忘れてて……」
言葉が途切れる。
ペルセルテの中では未だ整理し切れていない感情も在る。
元より言葉になどしようのない感情も在る。
しかし……
「フォロン先輩――」
ゆっくりと顔を上げた彼女の頬には未だ薄っすらと涙の痕が残っている。
しかし、満面に浮かべたその笑顔は、いつもの元気なペルセルテの顔だった。
「ありがとうございます!」
彼女はそう言って、勢い良く頭を下げた。
トルバス神曲学院最上階、中央。
学院の最高権力者の部屋――学院長室。
その部屋の主、学院長は黒壇製の椅子に座り、同じく黒壇製の執務室の上で手を組んでいる。眼鏡の奥の彼の瞳はまるで何かに耳を傾けるかの様に閉じられていた。
「……ふむ?」
学院長の瞳がゆっくりと開く。
「なるほど……それが君の解答ですか」
呟く彼は――普段の優しく明るい学院長とはまるで別人だった。
未だ青年としか言えない様な若い姿でありながら、全身に漂う威厳は幾多もの戦いを経た老将のそれである。
「さて――そろそろあちらも動きますか。今夜は誰の手助けもありませんよ。君の資質を見せてもらいましょうか?」
低い唸り声に学院長はふと視線を動かした。
彼の隣には蒼い狼型の精霊――ウォルフィスの姿が在った。
強い警戒色を含んだ声で<セイロウ>枝族の精霊は何事かを告げる。
「彼等が心配ですか?」
学院長の質問に、肯定とも否定ともとれない仕草で応じるウォルフィス。
「しかし、『彼女』と精霊契約を交わした以上、彼はそう遠くないうちにより強大な壁に突き当たります。必ずね。その時に彼の手助けをできる人が側にいるとはかぎりません。だから彼は力をつけねばならないのです」
ウォルフィスが短く唸り声を上げる。
あまり学院長の言葉に賛同している雰囲気ではなかった。
だが――
「今回の事でもし死ぬ様なら――彼にとっては案外その方が幸せかもしれませんよ」
「…………」
楽しそうに話しているフォロンとペルセルテをちらちらと忙しなく覗き見しながら、コーティカルテは一人不貞腐れていた。
面白くない。
フォロンが自分以外の誰かの為に曲を作る。
これは――彼の神曲を独占したいが為に他の精霊を追い払い、彼と精霊契約をしたコーティカルテにしてみれば、面白い筈が無い。契約違反とまでは言わないが――夫に浮気された妻の様な心境ではある。
とはいえ先程彼が奏でた神曲そのものを否定する事はコーティカルテには出来なかった。まだまだ荒削りな部分は残っているが――あれは良い神曲だった。直接的にコーティカルテに向けられた神曲ではないものの、傍らであの曲を浴びているだけで彼女は深い充足感を味わった。
しかも――あの曲はコーティカルテにとっても特別な曲だ。
あの神曲が、十二年前に孤児院の屋根の上でフォロンと出会った時、彼が口ずさんでいたメロディが基になっているという事にコーティカルテは気付いていた。
その意味でもコーティカルテにはあの曲を否定できないのだ。
あれは彼女とフォロンを出会わせた――そして彼女にそれまでの日々を捨てる決心をさせた曲なのだから。
そういう訳で。
不機嫌ながらも仕方なくコーティカルテは黙って曲の余韻に浸ることにした。
しかし……
「……ん?」
彼女の耳に違和感が這い上がる。
小さな小さな異音。
精霊だからこそ聞き取れるくらいの、ほんの微かな音。
それがどこからか響いてくる神曲だという事にコーティカルテは気付いた。
しかも――旋律の流し方、リバーブやコーラスといった各種エフェクトの掛け方の癖に、彼女は聞き覚えが在った。
「フォロン! また奴が来るぞ!」
叫んで立ち上がるコーティカルテ。
「え……?」
彼には何のことかすぐに理解できなかったのか、聞き返してくる。
精霊の羽根を背中に展開し戦闘準備を整えながら――コーティカルテは更に叫んだ。
「昨日襲撃してきたやつだ!」
その言葉と――そしてコーティカルテの背中に広げられた紅い羽根を観て、フォロンはようやくコーティカルテの警告内容を理解した。
あの精霊が来るのだ。
黒く――凶気に満ちたあの精霊が。
(どうする!?)
自分自身に問いかける。
昨日の一件があったばかりだというのに自分の行動は軽率すぎたのかと悔いる。
まさか二日続けて事件に巻き込まれるとは思ってもいなかったのだ。
いや。
果たして本当に巻き込まれているだけなのだろうか。
昨日の襲撃者はなぜ自分達を襲ってきたのか。
よく考えてみればあの精霊の行動は、不法に侵入した先でそこの住人と出会ってしまい場当たり的に襲った、といった雰囲気ではなかった。明らかにこちらを意識して近付いてきていたし――実際に学校側が何らかの盗難被害を受けたという話も聞かない。ただあの精霊が暴れてその際に学校の備品が壊されたくらいだ。
まさか――
(狙いは――僕等?)
その可能性は考えてしかるべきだった。
昨日の今日だというのに、警戒する事も無く遅くまで学院に残っていたのも、我ながら軽率な行動と言わざるを得ない――
「来るぞ!」
緊張感の漲る声でコーティカルテが叫ぶ。
フォロンの耳には未だ何も聞こえない。だが神曲に対しては精霊たる彼女の方が遥かに敏感である。その彼女が言うのだから、間違いあるまい。
フォロンは改めて単身楽団を展開する。
相変わらず戦闘支援の為に神曲を奏でるのは気が進まないが――昨日の様にコーティカルテだけに負担を掛ける様な事はしたくない。
ペルセルテもただならぬ空気を感じ取って身構えていた。
一同は実習室の扉を凝視する。
そして――
「え……?」
開かれた扉の向こうに居る者の姿を見て――ペルセルテが驚きの声を漏らした。
「なに……?」
コーティカルテにとってもそれは意外な相手だったのだろう。彼女は若干気の抜けた表情でその人物を見詰めていた。
人物。そう――昨日の精霊ではない。
「ダングイス……?」
フォロンもまた驚いてその相手の名前を口にする。
そこに立っていたのは彼等が嫌という程によく見知った人物――ダングイスだった。
「馬鹿な……」
一番驚いているのはコーティカルテのようだ。信じられないといった様子で彼を見ている。昨日の精霊が来ると断言したのは彼女だ。フォロンに精霊の感覚はよく分からないが、彼女には近付いてくるのが昨日の黒い精霊であるという確信が在ったに違いない。
なのに――
「ダングイス、こんな時間にどうしたの?」
とりあえず声を掛けてみるフォロン。
「フォロン……、どこだ……?」
彼はどこを見ているのかすらわからない虚ろな表情で淡々と答えた。
その様子はまるで幽霊の様で――普段の彼とはまるで別人の様に見える。良くも悪くも傲慢な位に漲っていた覇気が今の彼には無い。重症の麻薬中毒患者の様に、表情はとろけ、視線も焦点を定めずふらふらと彷徨っている。
「ダ、ダングイス……?」
「待てフォロン!」
様子のおかしいダングイスの元へ駆け寄ろうとしたフォロンを、コーティカルテが制止した。
「あいつ、何か――危険だ」
「危険って……?」
「分からない」
彼女はダングイスから視線を外そうとはしない。かなり警戒しているようだ。
だが精霊たるコーティカルテがダングイスの何を警戒するというのか。
曲がりなりにも彼も神曲を学ぶ者とはいえ……今は単身楽団も持たず、凶器の類も持ってる様子はない。危険どころか……ただの重病人の様にしか見えない。
ダングイスは夢遊病者の様な動きで実習室を一望し――
「勝負だ……フォロン……どちらの神曲が上か思い知らせてあげるよ……」
彼はフォロンにその虚ろな眼を向けてそう言った。
「ちょっと、本当に――どうしたんだよ?」
この状態で勝負も何もあったものではない。
今のダングイスに必要なのはどう見ても勝負する事ではなく、病院に行って精密検査を受ける事だ。
しかし……
「……やれ」
ダングイスが狙いを定めるようにフォロンを指差す。
次の瞬間、彼の背後から何かがフォロン目掛けて飛び掛った。
「え…………」
「フォロン!」
呆然と立ち尽くすフォロンの前にコーティカルテが割って入る。
瞬間的に光が弾け、糸状の精霊雷がコーティカルテの前面に『盾』を編み上げる。凄まじい勢いで突っ込んできた何かは――その『盾』に弾き返され、床に転がった。
そして。
「またてめえか――ガキめが!」
弾き返されたそれ――バルゲスがそう忌々しげに吐き捨てた。
褐色の獣、ダングイスと契約を結んだという精霊。
精霊契約を交わした精霊は、契約主たる神曲楽士の意志に従う。つまりバルゲスはダングイスの意志に従ってフォロン達を攻撃したという事になるが――
「ダングイス、どうしてこんなことをするんだよ!」
フォロンがそう呼び掛けるも彼は反応を示さない。
ダングイスは大股で実習室奥のロッカーに歩み寄ると、そこからぎくしゃくとした機械的な動作で単身楽団を取り出し、背負った。
「勝負だフォロン……どちらの神曲が上か思い知らせてやろう……勝負だフォロン……どちらの神曲が上か思い知らせてやろう……勝負だフォロン……どちらの……」
同じ言葉を繰り返す様は――まさしく壊れた録音機械の様である。
単身楽団が咲き誇る花の様に展開――ダングイスを包み込む。明らかに精神に変調をきたしていてもさすがに動作は身体が覚えているのか、手際よく計測窓や補助装置のアームを展開し、ダングイスは最後に彼が最も得意とする楽器――ギターを構えた。
「勝負だフォロン……」
彼は最後にもう一度そう呟くと、ギターを掻き鳴らし、演奏を開始する。
同時にバルゲスがコーティカルテ目掛けて襲い掛かった。
「なにっ……?」
呻く様な声を漏らして飛び退くコーティカルテ。
彼女とバルゲスの軌道が交差し――ダングイスの精霊が通り過ぎた後には、コーティカルテの制服のスカートに鋭い切れ目が走っていた。
コーティカルテの反応が遅れたのか。
いや――それとも。
「強化されたのか……? 馬鹿な――あんな、神曲とも呼べない様な――曲で?」
コーティカルテはフォロンに襲い掛かった時の速度が相手の最高速度だと考えていたのだろう。そこに油断があったのかもしれない。
しかし――
「ほう。神曲もなしによく避けたもんだ。基礎能力が妙に高いが――貴様、ひょっとして普通の上位精霊ではないな?」
バルゲスが狂気に満ちたおぞましい微笑を浮かべる。
コーティカルテの力を評価しながらもまるで焦った様子が無い。まるで獲物は歯ごたえが無ければ面白くないといわんばりだ。彼の指先にはいつの間にか神曲による強化の表れなのか長く鋭い爪が備わり――精霊雷の青白い光がまとわりついていた。
「やつの曲が神曲だというのか……? あんな曲が神曲となりうるわけがない……」
彼女は独り言のようにそう呟くと、明らかな嫌悪感を含んだ眼でダングイスを見た。
フォロンも彼の曲に耳を傾ける。
実を言えば彼の曲は決して破綻しているわけではない。
むしろ技巧的な面では高等な技術も見受けられる。普段のダングイスの言動も全く裏打ちの無いものではなかったのだ。早弾きやエフェクター操作の素早さだけで言えばフォロンよりも上手いかもしれない。
しかし……
それでもフォロンはコーティカルテの言葉通りそれが神曲であるとは思えなかった。何かが違うのだ。何がと問われれば即答出来ないのだが――そこには必ずあるべきはずの何かがすっぽりと抜け落ちてしまっているような気がした。
「フォロン、神曲を!」
再び襲い掛かってくるバルゲスの鋭い爪を避けながらコーティカルテが叫ぶ。
「で……でも……」
だが、フォロンは神曲を奏でない。いや――奏でる事ができなかった。
昨日と同じだ。
いや。それどころか……今日の敵は正体不明の精霊ではない。ダングイスとその精霊である。見知った相手を敵にして闘うのは、見知らぬ相手との闘いに較べて数段、精神的な重圧を受ける。フォロンの様な性格なら尚更だ。
神曲の代わりに――彼はかつてのクラスメイトに向かって叫んだ。
「ダングイス! 止めるんだ!」
だがダングイスは神曲を弾き鳴らすその手を止めようとはしない。やはりフォロンの声が聞こえている様子すらなかった。
「ダングイス!」
確かに昨日の一件で、フォロンももっと神曲を使いこなせる力が欲しいと思った。
一人でも戦えるだけの力が。
しかし彼が求めているのは大切な人たちを護るための力だ。決して友人知人と戦うための力ではない。
不安と焦燥に揺れる心では神曲など扱える筈がない。
今のフォロンには自分が奏でるべき神曲が聴こえない――
(どうしたらいいんだ……!)
フォロンは何もできないもどかしさから、目の前の鍵盤を力任せに叩いた。
壁にもたれ掛かるようにして、プリネシカはゆっくりと立ち上がった。
さっきのダングイスを見てなぜ自分がこれほどの不安を感じているのかわからない。
しかし全身は寒気を感じているのに、鼓動だけは違う生き物のように強く早く脈を打ち続けている。彼女の中の精霊の部分があのダングイスという少年に起こった何かを怖れている。何かを拒み何かを倦んでいる。それが肉体の不調として現れているのだ。
今のプリネシカは人間でも精霊でもない。
奇跡的なバランスでその双方にまたがっている存在だ。そうする事で精霊としての死も人間としての死も彼女からは遠い。だがそれ故に、ほんの些細な事でそのバランスは崩れてしまい、彼女の肉体と精神を苦しめるのである。
プリネシカがペルセルテに較べて大人しく華奢に見えるのはこの為である。
元々が彼女は不安定な存在なのだ。
だが――それにしてもここまで息苦しさを覚えるのも珍しい。
(あれは何……? 彼はいったい、何をしにきたの……?)
もうこの学校には自分と、ペルセルテ達以外は残っていないはずだ。
そう考えた瞬間――背筋に悪寒が走った。
(ペルセ……!)
彼女は息苦しさを無理矢理、胸の奥に押し込んで、実習室へと向かった。
鋭い断音。
フォロンの叩き鳴らした音が実習室の中に響き渡る。
(フォロン先輩……)
フォロンが苦悩している。
元より彼が争い事向きの性格でないのはペルセルテにも分かる。
穏やかで優しい彼はそもそも暴力沙汰を嫌うし――何より見知った相手を傷付けるなどという事はとても出来ないだろう。それがダングイスであってもだ。また同時にコーティカルテを兵器の様に操って闘うなどという事も彼には出来まい。
人によってはそんな彼を臆病者と呼ぶかも知れない。
だがフォロンに――フォロンのその優しい性格に救われたペルセルテは、彼の力になりたいと想う事はあっても、闘えない彼を責める気にはなれなかった。
彼は自分を助けてくれた。
だから。
今度は自分が彼を助ける番だ。
殆ど逡巡も無くそう決心したペルセルテはダングイスに向かって走り出す。
(言っても聞いてくれないのなら、ちょっと乱暴だけど力ずくで演奏を止めてもらうしか……!)
コーティカルテとバルゲスの間で最も大きな力の差を生んでいるのは神曲の在る無しだ。
ならば――ダングイスの演奏さえ止めればコーティカルテにも逆転勝利の可能性は在る。
「ダングイスさん! ごめん!」
律儀にもそう叫びながらダングイスを突き飛ばそうとペルセルテは手を伸ばす。
だが。
「――きゃっ!?」
鋭い音と共に指先に焼ける様な痛みが走った。
思わず手を引き戻すペルセルテ。見れば彼女の指先は熱湯でもかけられたかの様に真っ赤に腫れ上がっていた。
「な、なに……?」
「ペルセルテ! 危ないから下がって!」
彼女の行動に気付いたフォロンが呼びかけてくる。
「演奏中の単身楽団の周囲は計測窓や装置の関係で軽い放電状態になっているんだ! 触れると危ない!」
「放電状態……」
単身楽団は神曲の演奏を補助するだけの装置ではない。
神曲は、精霊だけでなく、良くも悪くも人間の神経にさえ影響を及ぼす。そして誰よりもまずその影響を受けるのは一番近くでその神曲を聴く者――演奏者自身である。
一度や二度――短い時間ならさして問題はない。
だが長時間神曲を耳にし続けていたり、強い影響力を持った神曲を何度も繰り返し聴いていると、人間はある種の精神的な中毒症状を起こす事が在る。そして当然ながら職業として長時間、繰り返し神曲に触れる神曲楽士は、常にその危険にさらされているのだ。
昔の神曲楽士はこれを防ぐ為に耳栓をしながら神曲を奏でたという。
だが耳栓だけでは骨伝導等で鼓膜に届く神曲を完全に中和出来ない。
故に――単身楽団はある種の神曲中和用の干渉場を発生させる機能を持っている。
これは同時に神曲演奏中の無防備な神曲楽士を守る為の『盾』としても機能するもので、時に危険な現場――事故現場、特殊環境、あるいは戦場など――に出向く事の在る神曲楽士の防御手段の一つとしても使われているものだった。
この事は無論――ペルセルテも知っている。
前に一度授業でそんな話を聞いた。演奏中の単身楽団は下手に触ると危険だからあまり近付かない様に――と。
だが今まで誰かの演奏の邪魔をした事も無かったし、干渉場といってもそんなに攻撃的なものではないとペルセルテは思っていたのだ。
実際、この干渉場は精霊の力を一部引き込んで利用するもので……未だ精霊を召喚する事が出来ない大半の一年生達は、単身楽団を使用してもこの干渉場は発生しない。ただ神曲モドキを鳴らしているだけの単身楽団には干渉場機能は働かないのだった。
するとやはり信じ難いがダングイスのこの曲は神曲として完成しているのか。
だが――
「よぉし……」
ペルセルテはゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
彼女は全く懲りていなかった。
いや――むしろ今の干渉場に触れた感触からして、それが致命的な程に強力なものではないと悟っていた。
これなら自分にも出来る。
フォロンの手助けが出来る。彼のしてくれた事への恩返しが出来る。精霊を闘ってこれを倒す事は出来ないが――この位の事ならば。我慢すれば自分にもきっと出来る。
一途な想いは彼女に痛みへの恐怖を忘れさせた。
「このぉぉおおっ!」
掛け声と共に、駆け出すペルセルテ。
先程と同様に伸ばした指先に痛みが走るが――彼女は身を引かず、逆にそれを機として大きく床を蹴り、ダングイスへと飛び掛っていた。
「ペルセルテ!?」
全身に痛みが走ると同時にフォロンの声が聞こえた。
我慢出来ずに悲鳴が自分の口から漏れるのをペルセルテは意識する。だがそれでも彼女は目的を見失う事なく、ダングイスを床の上に押し倒していた。
がしゃん――と音を立ててダングイスの手からギターが落ちる。
同時に単身楽団も何処かを強く打ち付けたのか、計測窓が揺らぎ、次の瞬間には音も無く消えていた。元々精密機械――衝撃には弱いのだろう。
ダングイスの演奏は完全に止まっていた。
「うぅ……。いたたたた……」
身体中のあちこちに痺れを感じながら、ペルセルテはゆっくりと身体を起こす。
「ペルセルテ、大丈夫!?」
フォロンが驚いて声を掛けてくる。
本当ならすぐにでも駆け寄っていきたいのだろうが、彼やコーティカルテと、ペルセルテの間には戦意満々で身構えているバルゲスの姿が在る。
「あはは、はい。ちょっと乱暴ですけど、ダングイスさんの演奏、止めてもらいました」
フォロンにそう笑顔で答えるペルセルテ。
だが――そんな彼女に次の瞬間、小柄な黒い影が飛び掛かった。
バルゲスだ。
「このガキがっ!」
精霊とは思えない位に形相を凶悪に歪ませて、バルゲスはペルセルテを襲う。
体格としては小柄だが――コーティカルテのスカートを切った事からも分かる様に、精霊の力は外見と必ずしも一致するとは限らない。
「くっ……!」
コーティカルテが光弾を放つが――的が小さいせいか彼女の一撃はバルゲスをかすめただけでその動きを止めるには至らなかった。
「ペルセルテ!」
フォロンが必死に声を張り上げる。
精霊雷をまとわりつかせた爪がペルセルテの顔に迫る。
そして――
「え…………?」
薄闇に閃く銀の光。
バルゲスの攻撃がペルセルテに届く――その直前。
飛び込んできた人影がバルゲスに体当たりし、その攻撃の軌道を逸らした。
さすがに小柄な分、踏ん張りが効かないのか、バルゲスはボールの様に跳ね飛んで壁に激突。短い呻き声を漏らした。
さらりと流れる銀髪の間から二対の輝く羽根が延びる。
「プリネ……」
ペルセルテの前に膝をついて荒い息を繰り返しているのは――プリネシカだった。
双子の姉の無事を確認すると、プリネシカは言葉も無くその場に崩れた。光る羽根も細かく明滅を繰り返した後――消えてしまう。
「プリネっ!?」
ペルセルテは慌ててプリネシカの身体を抱き起こす。
「プリネ! 大丈夫!?」
「大丈夫だよ…………」
そうは答えるが――彼女の顔にはまるで血の気がなく、息も非常に荒い。
触れている身体からは信じられない程に冷たい感触が伝わってきた。
ペルセルテにも分かる。今のプリネシカは瀕死の状態だ。
ただでさえ神曲の補給も無く十数年を過ごしてきた彼女が、精霊としての力を此処まではっきりと行使すればどうなるか――良くて衰弱、悪くすれば精霊部分の死滅に引きずられて命を落とす。
「くそがっ……!」
弾かれたかの様に飛び起きるバルゲス。
「どいつもこいつも、神曲もなしに良くやりやがる」
バルゲスが不愉快さを露にしてそう吐き捨てた。
「だが、神曲なしでは今のが精一杯といったところか。もう力なんぞ残ってはいないだろうが?」
荒い息づかいのままバルゲスを見据えているプリネシカに、その褐色の獣は鋭い爪を突きつける。プリネシカが答えない事がバルゲスの言葉をそのまま肯定していた。
そんな二者の間に――
「ペ……ペルセ……駄目……逃げて……」
今度は――プリネシカをそっと床に横たえてから、ペルセルテが立ちはだかった。
「…………」
「あぁ? なんだ? お前から始末して欲しいのか?」
苛立たしげにバルゲスが爪を鳴らす。
精霊雷を帯びた爪が火花を散らして見る者を威嚇するが――しかしペルセルテは全く怯む様子も無くバルゲスを睨み付けていた。
「私の妹にこれ以上手を出すな、このタヌキモドキ!」
ペルセルテは人差し指をバルゲスに突き付けながらそう叫んだ。
「タヌ………………て……てめえっ!?」
この期に及んでもなお、しかも口の悪いコーティカルテならまだしも、ペルセルテにまで真正面タヌキ呼ばわり(しかもモドキ)されたバルゲスが、怒りの余りに絶句する。
対して――
「ペルセ……」
双子の姉の言葉に、プリネシカの表情がくしゃりと歪む。
笑う様な。あるいは泣く様な。どちらでもありどちらでもない表情で精霊と人間の間に在る者は身を震わせた。
「はっ。妹? 何寝ぼけたことを言っていやがる。貴様は人間でそいつは精霊だろう」
嘲り笑うかのような口調でバルゲスが言う。
「いんや。知ってるぞ。そいつは<嘆きの異邦人>が創り出した精霊奇兵と同じ技術の産物だ。人間でも精霊でもない中途半端な代物さ」
確かにバルゲスの言うとおりではある。
この自分と同じ顔をした銀髪の少女には人間としての側面と精霊として側面が在る。そしてそれは忌まわしい技術の行使によって生み出されたものだ。
だけど――
「それがどうしたのよ」
ペルセルテははっきりとそう言った。
「プリネシカは私の妹よ。それ以上でもそれ以下でもないわよ」
人間であろうと。
精霊であろうと。
ペルセルテとプリネシカの関係においてその違いはさしたる意味が無い。
小さい頃からずっと苦楽を共にしてきた家族――ただそれだけだ。それだけは間違いの無い事実の記憶としてペルセルテの胸の中に在る。
血が繋がっていなくても。
種族さえ異なっていても。
互いにそれと認めて結びつく『家族』に誰が異を唱えられようか。
事実は事実でしかない。
そこに意味を構築出来るからこその知性であり意志であり――それらを備えるからこその人間である。
またそれを可能にするからこそ精霊は人の友人たる事を選ぶのだ。
単なる事実としての音の羅列ではなく――『魂』という意味を込められたものを神曲と呼ぶが故に。
奏でよ、其は我等が盟約也。
其は盟約。
其は悦楽。
其は威力。
故に奏でよ汝が魂の形を。
「プリネ、ごめんね。私、自分でも気付かないうちにプリネに酷い態度とっていたよね」
「ううん……ありがとう……ペルセ……」
自分を庇って立つ双子の姉の背中を見詰めながら――プリネシカはそう言った。
「訳の分からねえ事を……」
掃き捨てる様に言うバルゲス。
「まあいい。お前らは姉妹ごっこだろうが何だろうが好きにしてな。俺はただ、お前らを切り裂くだけだ――こんな風にな」
言って――バルゲスは再び凶悪な曲線を描く爪を振り上げた。
その瞬間。
――ろぉん……!
場に切り込んでくる鋭い音。
だがそれは単音ではなく――続く静寂をも自らの内に巻き込んでめまぐるしい旋律に変化していく。
強く。深く。
意味と意志を込められた音の連鎖が周囲の空間を圧して響き渡る。
それは――
「――神曲!」
愕然と振り返るバルゲスの顔面に――紅い光が命中したのは次の瞬間であった。
「げえっ――!?」
悲鳴を残して吹っ飛ぶバルゲス。
彼を吹っ飛ばしたのは――
「………やれやれ」
蹴り脚を優雅に降ろしながらコーティカルテは溜め息をつく様に言った。
「ようやくその気になれたか。火付きの悪い契約主だと苦労する」
「ごめん――ありがとう」
言いつつも彼の手はめまぐるしく鍵盤の上を踊っている。
封音盤を用いない――自動演奏装置に一切頼らない純然たる生演奏。
本来ならば緻密な計算と設計の元に組み立てられる筈の神曲を、しかも単一の楽器と己の声のみで、フォロンはこの場に創り上げていた。
そう。
単身楽団は所詮――神曲をより確実に効率よく奏でる為の装置に過ぎない。
それはあくまで手段であって本質ではない。
たとえたった一本の笛であろうと。たとえ旋律を持たないドラムのみであろうと。そこに奏者の魂がはっきりと込められていればそれはそれだけで神曲たり得る。
十二年前――一人の孤児が傷ついた上位精霊を癒した時の様に。
「この……クソガキどもがぁぁ……」
コーティカルテによって蹴り飛ばされたバルゲスがゆっくりと起き上がる。
その眼は赤黒く光り、褐色の毛は全て逆立っていた。
「バルゲス! もう止めろ! 神曲の無い君ではもう勝てない!!」
フォロンが叫ぶ。
今のコーティカルテにはフォロンの神曲が在る。対してバルゲスの契約主であるダングイスはペルセルテに押し倒された状態のまま、虚空を見詰めてぶつぶつと呟いているばかりだ。彼の背の単身楽団も壊れていて――修理無しには使えそうにない。
咄嗟に神曲を奏でる事が出来たとはいえ……フォロンは未だ精霊を使役しての戦闘に、いや戦闘行為そのものに抵抗が在った。
出来る事なら説得してバルゲスを大人しくさせたいと思ったのだ。
だが――
「ああ……?」
バルゲスは、重病人の様なダングイスを一瞥すると、すぐにまたフォロンへと視線を戻す。その眼には未だ凶気がはっきりと宿っていた。
「さぁて、そりゃーどうかな?」
バルゲスが牙を剥いて笑う。
そこで――ようやくフォロンは気付いた。
コーティカルテは最初に『神曲が聞こえる』と言った。
だがダングイスはこの実習室に入ってきた際、単身楽団を背負っていなかったし、歌を歌っている訳でもなかった。ただ虚ろに同じ文句を繰り返していただけだ。
つまり――
「フォロン、こいつはあの馬鹿と契約していたわけじゃなかったのだ」
コーティカルテがバルゲスを見据えたまま言った。
「こいつの契約主は他にいる。ダングイスもその神曲楽士に操られていたのだろう」
「けけっ――てめえ、ガキの癖に察しが良いじゃねえかよ」
バルゲスは下卑た声で笑う。
「だいたいその男が神曲なんぞ使えるはずがねぇだろ。自意識過剰な馬鹿は何かと操りやすかったんで利用しただけだ」
「操るって……、そんなことが……」
「お前もペルセルテのやつに神曲を聴かせたのだ。神曲が人に影響を与えることは理解しているだろう。より大きな心の隙間に悪意を持って神曲を聴かせ続ければ人間だって操ることができる」
「そんな……」
フォロンは床に転がったままのダングイスに視線を向ける。
やはり彼は何をするでもなく――床の一点を見詰めたまま意味不明の呟きをぶつぶつと口の端からこぼしているだけだ。その姿はさすがにダングイスといえど痛まし過ぎる。
「だって……でも君はダングイスと精霊契約を結んだんだろ!?」
いくらダングイスが自意識過剰だからと言っても口先だけで騙されたりするものだろうか。ダングイスは実力が伴わない代わりに知識に関してだけはやたらと豊富だ。精霊契約の何たるかを知らない筈は無い。
「ああ。したぜ? ちゃんと正式の契約手続きをな」
身体の一部を接触させて契約の言葉を詠唱する。
精霊契約の手続きそのものはただそれだけの事だ。人間の身からすれば拍子抜けする位に簡単な作業だが――多分に精神体の比率が大きい精霊にとって『契約』とはただの言葉であっても実効性を持つのである。
だが――
「じゃあどうして……」
「簡単な話だ。たとえ正式な手順であろうとなんであろうと、二重契約はできないってことさ」
「な……」
フォロンはようやく、目の前の獣がダングイスに何をしたのか理解した。
バルゲスはすでに違う神曲楽士と専属契約を結んでいたのにも関わらず、ダングイスと契約を結ぶ振りをしてみせたのだ。だがそれは二重契約となり成立しない。しかしダングイスは契約の手続きが正式だったことで何も疑うこともなくバルゲスを自分の精霊だと思い込んだ。
そして、初めて契約できたという喜びからくる心の隙をつかれ、バルゲスの本来の契約者である神曲楽士から、神曲による精神操作を受けてしまったのだろう。
神曲は毒にも薬にもなる――
フォロンはユフィンリーの台詞を思い出す。
いや――神曲に限らない。
酒や薬……いや、生命が生存するのに必須の要素である水や酸素ですら強制的に過剰摂取させられれば毒となる。大量の水を一度に飲めば脳水腫を起こして死ぬ場合が在るし、純粋酸素は過剰摂取すれば酩酊作用を引き起こし、殺菌剤として使われる事も在る。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
使い方によっては神曲そのもので人を壊す事が出来る。
その実例が今のダングイスだ。
「じゃあ……、ダングイスの身体に悪い影響が出る事を知っていて、それでも君達は彼を利用していたって言うの?」
いつになくはっきりとした力強いフォロンの口調。
その奥底には深く静かな憤りが在る。
「さぁねぇ? おい、そう聞いているがどうなんだ?」
バルゲスはどこへともなく声をかける。
恐らくは未だ姿を見せない彼の本来の契約主――神曲楽士だろう。
「もうネタはバレちまったんだし、こそこそ隠れる必要もねぇだろ?」
その言葉と同時に、バルゲスのすぐ後ろの空間が揺らぎ始める。
風景がまるで融解するかの様に輪郭を崩して溶け合い――色彩が入り交じって別の色彩を調合する。
やがて虚無の中から醸成されるかの様に一人の人間の姿がそこに出現していた。
「なに……これ……?」
目の前の光景が信じられないといった様子でただ呆然としているペルセルテ。
フォロンも彼女と同じ心境だった。
そこにいたのは長身の女性だ。
彼女の周りには単身楽団独特のアームや計測窓が展開されている。彼女は姿を隠して最初からこの部屋の中に――バルゲスの近くに居たのだ。
恐らく――姿を消していたのは干渉場の応用だろう。単身楽団に引き込んだ精霊雷の力で光を曲げていたのだ。原理的にはそれ程に複雑な作業ではない。
女は鋭い視線でバルゲスを一瞥した。
「どういうつもりだ?」
「そんな怖い顔で見るなって、ライカ。ネタがばれた以上、どうせ全員消すんだろ? ならもう隠れている必要は無いじゃねぇか」
「貴様の勝手な判断で動くなと言っておいたはずだ」
ライカと呼ばれた女性がバルゲスを睨みつけると、彼は舌打ちして肩をすくめた。
「まぁいい。この子達に消えてもらわなければならないことは確かだからな。追い詰めればあれのある場所へと逃げ込むと思っていたのだが、そうしないところを見ると本当に知らないようだ」
「あなたは………………?」
フォロンには彼女達が何のことを話しているのかまったく理解できない。
「だから言っただろうがよ」
「レイトスが見出した神曲楽士の一人であることには違いない。我らの脅威となる前に今ここで消えてもらう」
彼女は淡々と語り、再び視線をフォロン達へと向ける。
その視線を正面から見返してフォロンが口を開いた。
「あなたがバルゲスの本当の契約主ですか……?」
「ん? ああ」
女性は平然と頷く。
「では、ダングイスを神曲で操ったのもあなたですか……?」
「そうだ」
彼女はあまりにもあっさりと認めた。そこにはダングイスに対する罪悪感など微塵も感じられない。まるで――そんな事はありきたりの行為だとでも言う様に。
「どうしてそんなことをしたんですか!?」
「どうしてだと……?」
ライカと呼ばれた女性が初めて感情を表した。不愉快そうに聞き返してくる。
「校内で君に見られてしまったからな。私が直接探索に行けなくなったからだ」
(校内……? 僕に見られた……?)
必死に記憶をたどる。
確かにフォロンはこの女性の顔に見覚えがあるような気がしていた。
校内で、学院の生徒以外と出会った場所を思い出していく。それほど数はない。今いるこの実習室と、あとは……。
「あ……開かずの扉の向こうで見た神曲公社の……!」
そう。
彼女はかつてコーティカルテと共に立ち入り禁止となっていた開かずの扉の向こうに忍びこんだ際、そこで見かけた女性だった。
「どうして神曲公社の人がこんなことを!」
フォロンの言葉を聞いて女性が薄っすらと笑う。
「これは……私の早とちりか。君は本当に何も分かっていなかった様だな」
女性は肩を竦めて見せる。
「答えは簡単――公社の人間じゃないからだ。あれはある物を探すために公社の人間になりすましていただけにすぎん」
「じゃあ……何を探しているのかはしらないけど……それのためだけに僕たちを襲ったりダングイスを操ったりしたんですか……?」
それのためだけに、という言葉に女性は眉をひそめた。
「それだけの為に――とは言ってくれるな。我々が捜しているのは人の命などとは比較にならん重要物件だ。この神曲学院の校舎内に秘匿されている事までは掴んだのだがな、では何処に在るのか――となるといくら外から調べても分からない」
「重要物件……?」
「知らないなら知らないままでいい。まあ――おおよその場所は掴んだ。後は邪魔が入る前に全員消えて貰う」
女は単身楽団の操作卓上に指を滑らせた。
ダングイスのものとは比較にならない位に完成された神曲が、彼女の単身楽団から紡ぎ出される。朗々たる彼女の声と絡み合い、それは異様な密度で実習室中に鳴り響いた。
「…………」
フォロンは――呆然とその神曲を聴いた。
神曲だ。確かに神曲だ。ダングイスのそれには無かった――相手の心に直接切り込んでくる様な何かがその音の連なりには在った。
しかし。
これは――何という邪悪な神曲か。
確かに他者を感動させ優しい気持ちにさせる音楽が在る一方で――狂暴な気分にさせる音楽や、苛立たせる音楽も確かに在る。そういうものをわざわざ好んで聴く者が居る事も知っている。
しかし……さしたる根拠も無くフォロンは神曲とそれらの音楽は別だと考えていた。
心に響くものが無いものは神曲たり得ない。
ならば他者に対する敵意や悪意を満載した曲など、いくら奏者の精神を忠実に反映していても、神曲にはならないのだと思っていた。
だがそれならば……これは一体何だ。
この禍々しく他を威嚇する様な神曲は――?
「けけ、ようやくこの窮屈な身体ともお別れだな」
ざわりとバルゲスの体毛が逆立った。
変貌が始まる。
身体の全ての部位がより太さを増し、大きさを増し、より力強く獣性を強調した輪郭へと変化していく。体毛の色さえその濃さを増し、黒に近い褐色へと変貌していく。
そして。
最後に仕上げとばかりに光が割れた。
精霊の位階を示す羽根が開き――二枚から四枚へと変化する。
「ああ……!」
変貌を終えたバルゲスの姿を見てペルセルテは言葉を失っていた。
それは、昨晩フォロン達を襲った精霊だった。
「なるほど――下位精霊にしては妙な感じだと思っていたが……そういうことか」
「おう。とりあえず下位精霊に擬装してただけさ。その方が相手が油断するからな。だが――この姿に戻れば下手に擬装に力を割く必要がねえ。けけっ――おい、坊主、さっきは面白い事を言っていたな? 俺に勝ち目がない? 馬鹿いえ。これでようやく対等さ。やっと本気で暴れる事が出来るってえもんだ」
歯を剥いて凶悪な笑顔を作るバルゲス。
フォロンは――愕然としてその黒い精霊を見詰めていた。
彼にとって精霊とは『人間の善き隣人』だった。コーティカルテもウォルフィスもギガちゃんも――他の精霊達も。多少の違いはあれど皆が共に人間と手を取り合って歩む仲間だと考えていた。
だが。
人間が人間を憎み恨み殺す様に――人間同士ですら争うのであれば、精霊もまた必ずしも人間にとって善良なだけの隣人ばかりではないのだ。
悪辣な性格を備え他者に対する害意や敵意を満載した邪悪な神曲を悦ぶ精霊も居るという事だ――この目の前のバルゲスの様に。
「けけっ――」
バルゲスが、より凶悪な形状に変化した爪をその太い腕ごと振り上げる。
「フォロン!」
「…………!」
プリネシカがペルセルテを、そしてコーティカルテがフォロンを抱きかかえて飛び退いた。
次の瞬間、強烈な破砕音が響き渡る。
その直後に彼等が立っていた床一面がバルゲスの爪によって大きく削り取られていた。
神曲の支援が在るとはいえ――とんでもない破壊力である。バルゲス単体でもそこらの家屋なら解体出来るだろう。
「ペルセ、大丈夫……?」
「うん。ありがと」
ペルセルテはそう答えながら、穿たれた実習室の床を見て愕然とする。
「あれが、神曲を得た精霊の力……?」
「うん……そう」
プリネシカが小さく頷いて答える。
彼女は――何処か怯える様な口調で続けた。
「ひどく脆い部分を持つ一方で――神曲を得れば、強大な力を発揮して、怪物に成り果ててしまう可能性をも持った存在。それが精霊よ……」
人間と精霊の間に立つ彼女にしてみれば忸怩たる気持ちが在るだろう。
精霊は精霊だけで存在する限り、それ程には特出した存在ではない。大きな力を発揮する事は出来るが、それは彼等の存在自体を消耗させかねない。
人間が居て神曲が在って――初めて彼等は怪物じみた力を安定して発揮出来る。
では。
巨大な力を奮う精霊を『怪物』と呼ぶならば。
本当の怪物をその身の内に飼うのは精霊か。
それとも――人間か。
「コーティ……」
コーティカルテにフォロンが囁く様な声で呼びかけた。
「なんだ?」
「……僕は……あの人たちだけには負けたくないよ……」
「フォロン……?」
怪訝そうにコーティカルテがフォロンを振り返る。
フォロンは――唇を噛んでバルゲスと女の神曲楽士を睨んでいた。
こんなに誰かを許せないと思ったのは初めてだった。
自分達の勝手な都合で誰かを騙し、傷付け、更には使い棄てて顧みない。その事に何の逡巡も無ければ躊躇も無い。むしろ当然と言わんばかりの様子で酷い事を更に積み重ねる。
こんな連中に――こんな事に精霊や神曲を使う人間に負けたくはなかった。
ペルセルテが神曲楽士に理想を見ているのと同じく――フォロンにも神曲楽士への憧憬が在る。それを目指す人生を選択し、努力を重ねてきたからこその、譲れない最後の一線というものが在る。
それを真正面から最悪の形で汚されては温厚な彼とてさすがに我慢ならない。
「コーティ、君だけを戦わせて本当にすまないと思う。だけど力を貸して欲しいんだ」
「フォロン……」
コーティカルテは一瞬呆れている様な表情を見せ……しかし次の瞬間には妙に嬉しそうに笑った。
「ダメ……かな?」
「神曲楽士がいちいち言葉で問うな」
そう言って彼女はフォロンの横を通り過ぎて――彼を庇う様に前へ出た。
「あ……」
――大事なのは、相手が何をどう思っているのか、考え、感じる事。自分の考えを押し付けるのではなくて、どう伝えれば相手がどう受け止めてくれるか、想像力を駆使して考える――神曲の基本でしょうが!?
ユフィンリーの言葉が脳裏に浮かんだ。
(コーティがどう思っているのか……)
それは普段、何気ない会話の中ではいつもフォロンが自然と感じていたものだった。
彼女の喜び。彼女の怒り。彼女の哀しみ。それらをいつも身近に感じていたはずなのに、神曲を奏でようとする時だけは分からなくなっていた。難しく考えすぎて見えなくなっていたのかもしれない。
思い出せ。
小さな仕草。短い言葉。一瞬の視線。
それらにも彼女の心は映り込んでいる。
考えろ。考えろ。考えろ。
共に彼女に喜んで貰いたいならどうすれば彼女が喜んでくれるかを考えろ。
共に彼女に怒って欲しいのならどうすれば彼女が怒ってくれるかを考えろ。
使役するのではない。
闘わせるのではない。
気持ちを共有する事が出来れば――己の望みは彼女の望みとなる。命じて闘わせるのではなく、共に自然な帰結として目的や行動をも共有出来る。
その時……精霊は神曲楽士と一心同体となる。
「あ……」
何か……霧が晴れた様な気がした。
「コーティ。少しの間だけでいい。時間を稼いで」
「――分かった」
何故にと問わない。
故にと語らない。
信頼とはそうしたものだろう。
「けけっ――ガキ共が逃げる為の相談か? それとも命乞いの文句でも考えてるか? まさか俺を倒すための相談じゃねえよなあ? てめえらみたいなガキがよ!?」
言って黒い精霊が跳躍する。
雪崩落ちる黒の凶爪を紅い閃光が迎え撃った。
「――ぬっ!?」
ばし! ――音をたててコーティカルテの展開した『盾』がバルゲスの爪を食い止める。弾ける様な音は互いの精霊雷が反発しあって空気を引き裂いた音だ。
間髪入れずコーティカルテは身をひねり、蹴りを放つ。
しかも――
「――ぐおっ!?」
バルゲスの側頭部にコーティカルテの爪先が食い込み――更にそこに爆発が発生した。
蹴りが激突する瞬間に、指向性を持たせた精霊雷の光弾を放ったのだ。銃砲をゼロ距離射撃する様なものである。
「て……てめえ……なんて使い方を……」
打たれ強いバルゲスもさすがにこれは効いたのか、ふらふらとよろめく。
「だが……肝心の契約主は逃げちまったぜ? 神曲もねえのに、そんなにガンガン、精霊雷を使ってたらへばるのも早そうだなあ?」
バルゲスの言葉通り――フォロンの姿は実習室から消えていた。
だが。
「そう思うなら遠慮せずにかかってこい」
コーティカルテは傲然とした口調で言いながら笑った。
「それとも神曲無しの私が怖いのか? タヌキモドキ。瞬殺されてはへばるへばらないの話ではないからな」
「…………」
バルゲスは一瞬――怒りに身を震わせる。
そして。
「ほざくなっ!!」
黒い巨体が風を巻いてコーティカルテに襲い掛かった。
コーティカルテがバルゲスと格闘を始めた瞬間、フォロンは彼女等に背を向けて全力で走り出した。実習室の扉をくぐり抜け、廊下に出てコーティカルテ達から距離をとる。
無論――逃げる為ではない。
封音盤を交換し微調整する時間を稼ぐ為だ。
闘う以上は勝たなければ意味が無い。あの女神曲楽士とバルゲスはフォロン達を殺すつもりだ。勝算も無く勢いだけで突っかかっていっては、浅慮のツケとして自分だけでなく、コーティカルテやペルセルテ、プリネシカ、ダングイスの命まで支払う事になる。
故に――闘うなら万全を期して。
そう考えたからこそフォロンはコーティカルテに時間稼ぎを頼んだのだ。
「――コーティ」
不安が無いと言えば嘘になる。
だが今は自分のやるべき事をやるだけだ。
フォロンは単身楽団を降ろすと固定金具を外して整備用パネルを解放し、封音盤の入れ替え作業を始めた。
黒い烈風がコーティカルテ目掛けて迸る。
抉り抜かれて悲鳴を上げる空気。まともに喰らえば鉄板でもひしゃげた上に細片にまで切り裂かれてしまうだろう。
だが……
「コーティさん!」
ペルセルテが悲鳴のような声をあげた瞬間――
「……!?」
「なんだと!?」
愕然とする女神曲楽士とバルゲスを平然とした眼で見据えながら、コーティカルテは自動車でも一撃で解体しかねないバルゲスの一撃を受け止めた右手をひねった。
面白い様に軽々とバルゲスの巨体が宙に浮き、そして落下。
轟音をたてて黒い精霊は実習室の床にめり込んだ。
「馬鹿な――なんだこの力――」
驚愕に見開かれるバルゲスの瞳にコーティカルテの羽根が映る。
彼女の背中で優雅な光を放つ――六枚の羽根を。
「貴様先程言ったな?」
床に這う精霊を見下ろしながらコーティカルテは言った。
「『これで対等』――未だ同じ台詞をほざく元気が残っているか?」
「六枚羽根……こいつ、そんな、まさか上位精霊……!?」
「バルゲス、一度下がれ!」
女が緊迫した声で叫ぶ。だが彼女の精霊は命令に従わない。
「こんなガキが上位精霊なんかでたまるかよ! はったりに決まっている!」
床から跳ね上がりながら喚くバルゲス。
神曲の支援が在る為にその体力は殆ど底なしだ。多少の打撃などものともしない。
だが――
「ガアアアアアアアアアアアアッ!!」
獣そのものの咆吼と共に振り下ろされる爪。
だが必殺の一撃は斜めに展開された『盾』によって軌道を逸らされて虚しく空を切り、無様に泳いだバルゲスの体躯へ――その真ん中へコーティカルテの強烈な回し蹴りが叩き込まれた。
再び爆発。
「がはっ……」
コーティカルテの二倍はあろうかという巨体が二つ折りになって壁に叩き付けられる。
「コーティさん、すごい……」
「でもあれでは……」
目の前の光景をただ見つめるだけしか出来ないペルセルテ。その隣ではプリネシカが不安に満ちた眼で、赤い髪の少女を見つめている。
「貴様、私の命令を無視するからこの様だ」
女はバルゲスの元へと駆け寄ると、そんな罵倒を浴びせた。
「ぐっ……やつは本当に上位精霊なのか……? だったらなんで今まで隠していやがったんだ!」
苛立たしげに壁を叩くバルゲス。
コンクリート製である筈の壁があっさりと陥没しばらばらと破片が剥がれ落ちる。
バルゲスが弱いのではない。
コーティカルテが強すぎるのだ。
とはいえ――
「そうか……」
女は何かに気付き、もう一度コーティカルテの姿を確認する。
圧倒的な力の差を示しておきながら、しかしコーティカルテの表情にはあまり余裕が無い。顔色や立ち方からは、疲弊しきった様子が見て取れた――時間にすればほんのわずかの戦闘を経ただけだというのに。
「そういうことか」
「……なんなんだよ?」
「やつは確かに上位精霊だが、やつには力の供給源たる神曲がない。その上一度に使用する力が大きい。お前が先に言った通りだ。奴は燃費が悪くてすぐに力を使い果たしてしまうのだ。だから今まで本来の力を使わなかったのだろう」
「つまり、このまま持久戦に持ち込めば勝手に奴は力尽きると?」
「ああ」
女が頷く姿を見て、バルゲスがにたりと歯を剥いて笑った。
本来、表情らしい表情を刻まぬ筈の獣の顔が、まるで野卑な人間の様に醜く歪む。
神曲の支援がある限りバルゲスは全力で――いや普段のそれに数倍する力で戦い続ける事が出来る。だが相手は既にへばり始めているという事だ。
わざわざ六枚羽根を見せたのはハッタリだろう。
バルゲスに図星を突かれ――それを誤魔化す為の苦肉の策だ。
「くっくっく。つまりこの俺様にもさしで上位精霊を倒せるってことか」
「そうだ」
「こんなに面白いことはない。ライカ、俺がくたばらないように神曲頼むぜぇ」
「そのつもりだ」
「よし。行くぜクソガキィィィイイ!」
黒褐色の獣が狂気を帯びた咆哮をあげ、コーティカルテへと襲い掛かる。
同時に女の両手がめまぐるしく鍵盤上を滑り、派手で勢いの在る神曲を演奏する。
「――ちっ!」
コーティカルテは舌打ちをしながら、バルゲスの攻撃を逸らし、反撃の一撃を当てる。
彼女の一撃を当てられたバルゲスは床に激しく叩きつけられる。
だがすぐにまた立ち上がると攻撃を繰り出してきた。
投げられて倒れ。
蹴られて倒れ。
殴られて倒れ。
……
だが何度地に這わされようがバルゲスは獰猛な咆吼を放ちながらしつこくしつこく襲い掛かってくる。
「くっ……こいつら……」
相手の目的が消耗戦であることが分かっていても、コーティカルテにはそれに付き合うしかなかった。神曲を得られるまでは相手を完全に叩きのめすことはできない。
「けっけっけ。おやおや――上位精霊様は、随分とお疲れの様子ですなあ!?」
バルゲスは笑う。
笑いながら彼が繰り出した一撃は、やはり盾に阻まれてコーティカルテには届かなかったが、明らかに残り少ない彼女の力をごっそりと削り取っていった様だった。
コーティカルテの背中の羽根が不安定に明滅する。
「動きに最初のような鋭さが無いぜぇ?」
「だまれ」
鋭く言い返すも――更に立て続けに叩き込まれた攻撃を捌ききれず、遂にコーティカルテは吹っ飛ばされて実習室の床に転がった。
「けけけっ。神曲さえ在れば勝てただろうになあ? 何せ上位精霊だ。俺達の様な中位精霊とは格が違うわなあ? 残念だろうなあ? けけけけ」
「…………」
コーティカルテは無言。
「恨むならまともな神曲楽士に出会えなかった自分自身を恨めよ?」
バルゲスが舌なめずりをする。
勝利の予感に酔っているのだろう。本来――同じ条件ならば下位精霊が中位精霊に、中位精霊が上位精霊に、戦闘において負ける事は先ず無い。位階が上になればなる程に精霊雷の使い方は多彩となり、また基本的な力の保有量も高くなるからだ。 だが神曲の存在がこの絶対性をあっさりと覆す。
中位精霊の自分が、ネズミをなぶる猫の様に上位精霊を蹂躙出来る。
バルゲスの様な性格の精霊にとってそれはたまらない位の喜悦であるのだろう。
だが。
コーティカルテは黒褐色の獣を見上げながら不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、本当だな。ろくな神曲楽士に出会えなかったことを恨めよ」
「なにぃ……?」
――鮮烈な音が響く。
まるで鉄槌を叩き付けるかの様な――分厚い重奏音。
オーケストラ・ヒット。
力強い一音は瞬間的に解け、幾つもの楽器がそれぞれ続く旋律を奏で始める。
連なるのは重く深いドラム。
駆け抜けるのは鋭いピアノ。
弦楽器が。管楽器が。その他何種類もの打楽器が。
怒涛の勢いでそれぞれの音を綴っていく。それらは個別に見ればただの音の羅列に過ぎないが、互いの残響が絡み合い、あるいは反発し合い、大きな流れを創り出していく。
神曲だ。
それも――戦いの歌だ。
「……やれやれ。やっとか」
コーティカルテの羽根が閃光の様な光を放つ。
「馬鹿な!?」
バルゲスは呻きながら後ずさった。
回復どころではない。コーティカルテの力は瞬間的に数倍に跳ね上がっていた。
彼女は何をしているでもないのに――バルゲスは全身の毛が逆立つのを感じていた。理屈ではない。本能的な部分で彼はコーティカルテの中に満ちるものの巨大さを知ったのだ。
勝てない。
攻撃を仕掛けるまでもない。較べるまでもない。力の差は歴然――こんなバケモノに勝てる筈がない。小細工や戦術など全く入り込む余地も無い。
これはこの精霊の力か?
それとも――あの神曲楽士見習いの小僧の力なのか?
「いつまでのしかかっているつもりだ」
コーティカルテは冷ややかな口調で言った。
「邪魔だ、デカブツ」
まとわりついてくる羽虫を払うかの様な――無造作な手の振り。
だがそれは今まで喰らったどの攻撃よりも重く早くバルゲスを打ちのめした。彼の巨体は後方に吹っ飛んだが――それは半ば以上、彼が自ら跳躍した結果だ。打撃方向に合わせて飛ぶ事で威力を半減させていなかったら、それこそ彼の身体は胴体部分で真っ二つになっていたかもしれない。
着地したバルゲスは――しかしぐらりとよろめいた。
かすっただけでこの威力。
まともに喰らえばたとえ神曲の支援を受けていても一撃で沈むだろう。消滅すら有り得るかもしれない。
そして――
「うっ――!?」
強烈な紅の光がバルゲスの眼を灼いた。
神曲を奏でていると一種の恍惚感が在る。
自らの魂を音に載せて無限に拡大していく快楽。それは性的な快感にも似たものだ。自分という存在の枠を越え、自分の中で形作られた何かを世界に向けて解き放つ。これ以上の快楽をフォロンは知らない。
いや――知らなかった。
しかし今の彼は知っている。
それまで自分が得てきた恍惚感は――むしろ半分でしかなかったのだと。
広がっていく魂の外縁が異質な何かと触れ合う。
紅い紅い――燃える様な激しさと微睡みを誘う暖かさを同時に備えた光。
それは彼のよく知る声で語りかけてきた。
(まったく、貴様はいつも私を待たせる)
(ごめんね)
(だが……それを含めた全てがお前の魂の形なのだな)
理解して貰える喜び。
ただ一方的に解き放つのではなく――受け止めて貰える喜悦と、同時に自分自身が投げ渡されたものを受け止める喜悦。かつては一方的に拡散していくだけだった快楽は、より複雑に影響しあい、何倍にも高められていく。
フォロンは精霊が神曲を糧とする理由が分かった様な気がした。
血の様に炎の様に紅く激しい光。
それがゆっくりと収束していった後、そこに立っていたのは――いや、浮かんでいたのは一人の女性だった。
コーティカルテと同じ燃えるような赤い髪。顔立ちも彼女と良く似ている。
しかしその姿は先ほどまでの幼さを引きずる少女のものではない。
妖艶とさえ感じられるような美しい大人の女性だ。
その背には力強い光を放つ、三対、六枚の羽根。
それが彼女の本来の姿だ。
「それが……てめえの……本来の姿か……!」
バルゲスが絶望にもにた叫び声をあげる。
「なんだ……なんなんだてめえは……上位精霊……? いや……てめえ本当に……」
恐怖の故か困惑の為か。
何にしてもバルゲスは言葉が続かない。
同時に彼は――自分の中で滾っていた高揚感が急速に萎んでいくのを感じていた。
単にコーティカルテの力を見せ付けられたからではない。神曲が――彼を支援している筈の旋律がいつの間にか止まっていたのだ。
「ラ……ライカ、ライカ! おい! ライカ!」
「なんだと………………」
彼の契約主たる女神曲楽士――ライカも呆然とした表情を浮かべていた。
コーティカルテの姿が余程に意外だったのか、彼女は神曲を演奏する手を止めてただ瞬きを繰り返しながら、自分達の眼前に浮かぶ紅い精霊を見詰めている。
「くそぉぉぉおお」
何をそんなに驚いているのか――いつも怜悧な筈の相方の反応にバルゲスは絶叫する。
完全な敗北である。
勝ち目は無い。全く無い。それどころか――この圧倒的な力の前では逃げる事すら覚束ない。背中を向けた途端に光弾の一撃で消し飛ばされかねない。
信じ難い事態だった。
バルゲスとてライカと共に幾つもの荒事をこなしている。上位精霊に会った事も何度か在る。彼等と自分の力の差がどの程度であるのかも大まかに把握しているつもりだった。
しかし。
違う。あまりにも違い過ぎる。
目の前の紅い精霊は、バルゲスの知る他の上位精霊と較べても桁違いの力を持っていた。
(こいつは本当に――精霊か!?)
恐怖に震えながら立ち尽くす――精霊としてこの世に生まれて初めての経験をしながらバルゲスはただ魅入られたかの様に、コーティカルテと呼ばれる精霊を見詰めていた。
「なるほど。己と相手の力量差くらいは理解できるのだな」
小刻みに震えるバルゲスを見て――コーティカルテが冷たく言い放つ。
「だが遅かったな。決定的に」
コーティカルテが右腕を掲げた。
彼女の細くしなやかな掌の先に、赤く光る光球が生まれる。単なる光弾ではない証拠に、ゆっくりと回転するその光球の周囲では渦状に風景が歪んで見えた。
熱による陽炎ではない。
圧倒的な力が空間そのものに対して飽和している為――空間が耐えきれずに大きく歪んでいるのである。これが解放されれば一体どうなるか。恐らくバルゲス程度の存在なら跡形も残らず消し飛ぶだろう。
「ま、まってくれ……! 俺は――俺達は別にあんたと敵対しようと思っているわけじゃないんだ!」
今更の様にそんな事を言うバルゲス。
だがコーティカルテは黒い精霊の命乞いをたった一言で切って捨てた。
「だまれ」
絶句して立ち尽くすバルゲス。
そして――
「ふ……ふふ……」
場にそぐわぬ楽しげな声が割って入ってきた。
「ふふふふ……あはははは!」
笑っている。
バルゲスにライカと呼ばれていた女の神曲楽士である。
彼女はコーティカルテを見詰めながら、堪えきれないといった様子で高々と笑い声を発していた。
「ラ、ライカ……?」
「恐怖でおかしくなったか?」
確かに誰の目から見てもそう思えた。
だが――
「なんという偶然! あるいはこれこそ必然か!? ははははは!」
ライカは笑いながら続けた。
「まさか我々が捜し求めていたもう片方の物がこんなところで見つかるとはな!」
「なに……?」
眉を顰めるコーティカルテ。
そんな彼女にライカは――恭しく一礼した。
「まさか斯様な場所で貴女にお会いする事になるとは――<紅の殲滅姫>コーティカルテ・アパ・ラグランジェス」
「…………!」
コーティカルテの紅い双眸が細められる。
「――貴様、何者だ?」
「クチバ・カオルの後継者――と言えばご理解いただけるでしょうか?」
女の口元が微かに緩む。
まるで――勝ち誇るかの様に。
「な……に……?」
その名にどんな覚えが在るのか――コーティカルテは激しく動揺した。
無論それは一瞬の事ではある。
だがその一瞬をライカは狙っていたのだろう。
「バルゲス!」
「あいよ!」
バルゲスはその巨躯からは想像し難い程の俊敏な動きでライカを抱え込む。
反射的に追おうとしたコーティカルテに――物凄い勢いで飛来する物体。
瞬間的に発生したコーティカルテの紅い防御障壁に激突して砕け散ったのは、ライカが使っていた単身楽団である。バルゲスがぶん投げてきたのだ。
内蔵電源が壊れた拍子に火花と白煙を放つ。
コーティカルテの視界が一瞬遮られ――
「む……!」
硝子の砕ける音が響き渡る。
コーティカルテの力が白煙を押し退けた時には……既にバルゲスとライカの姿は実習室の中に無かった。どうやら先日と同様に窓を突き破って逃げたらしい。
「しまった……!」
咄嗟にコーティカルテは窓辺へと駆け寄る。
神曲学院の校門の辺りに全速力で遠ざかっていく黒褐色の獣の姿が見えた。
「逃がさん……!」
コーティカルテの周囲に蛍火の如く幾つもの光弾が発生する。
今のコーティカルテの光弾ともなれば、小さな一発でも民家の一軒や二軒は吹っ飛ばせるだろう。それが十発以上。多少狙いが逸れてもバルゲス達は粉々に粉砕される筈だ。
だが――
「コーティ! もういい! もういいよ!」
フォロンの声に、光弾を放つ寸前でコーティカルテは我に返った。
「あ……」
花が萎む様に――コーティカルテの周囲に浮かんでいた光弾が消滅していく。
振り返ったコーティカルテは何故か、いきなり親から叱られた幼い子供の様に、不安と困惑を露わにしていた。揺れる真紅の瞳が狼狽する様にフォロンの顔とバルゲス達の後ろ姿を見比べる――
いつも自信たっぷりの彼女にしては珍しい状態だった。
だが。
「相手は逃げたんだから僕たちの勝ち。それでいいだろ?」
そう言ってフォロンは穏やかに微笑みかけた。
「フォロン……私は」
言葉に詰まりながら――コーティカルテはその場に立ち尽くす。
彼女の輪郭が緩やかに溶けて、いつもの少女の姿に再構成されたのは次の瞬間だった。
「あのな……フォロン、私は……今の…」
「まあみんな無事で何より――かな」
コーティカルテの言葉に覆い被せる様にしてフォロンは言った。
今はその先を語るなとでも言うかの様に。
「…………フォロン」
コーティカルテは短い溜め息をついた。
「ありがとう……」
彼女の声が聞こえているのかいないのか――フォロンはコーティカルテの言葉には応じず、部屋の隅に座り込んでいたユギリ姉妹を振り返って声を掛ける。
「あ――ペルセルテ、プリネシカ、二人とも大丈夫?」
「あ……はい……なんとか」
「私も……」
ユギリ姉妹は半ば呆然とした様子で頷いた。
まあ――本気全開のコーティカルテを間近で見てしまえばこうなるのも無理は無い。むしろ気配りの結果とはいえ普段通りに振る舞えているフォロンの方が特殊だろう。
「…………」
コーティカルテはしばらくフォロンを潤んだ瞳で見詰めていたが――
「おい、フォロン。寮に帰るぞ。いいかげん腹が減った」
普段の尊大な物言いに切り替えて彼女は言う。
「そうだね。帰って夕飯にしようか」
フォロンはコーティカルテを振り返ると、いつも通りののんびりした笑顔でそう言った。
――でもって翌日。
「先輩、ここなんですけど、いまいちよく分かりません」
「あー、うん、これはね……」
一年生への授業時間。
珍しくフォロンは質問攻めにあっていた。
彼もようやく皆に認められてきた……というわけではなく、ただ二日分の質問があったのでいつもの二倍になっているだけなのだろう。
昨日、封音盤作りに熱中してしまって教える側の立場を放棄してしまった結果だから、フォロンとしても文句は言えない。
「……こういうことなんだけど、これでいいかな?」
「あ……なるほど、はい。わかりました。ありがとうございます」
そう言って少し小柄な少年は頭を下げて席に戻っていった。
そんなやり取りを教壇の傍らで見ながら――
「相変わらず机の上のお勉強だけはマシだな」
コーティカルテが毎度の如く容赦ない台詞を投げてくる。
「だけって……」
「なんだ、文句があるのか?」
「いえ……ありません……」
フォロンはコーティカルテの額を見ると何も文句が言えず、素直に引き下がった。
彼女のおでこには赤い痕がついている。
午前中の戦闘訓練でフォロンはレンバルトと対決する事となり――彼の率いる<ボウライ>枝族精霊達にこてんぱんにやられてしまった痕である。
レンバルトは上位精霊こそ未だ召喚出来ていないが、下位精霊を最大五十八体も召喚した実績が在る。未だ学生の身ながら、単純な物量がものを言う様な状況では、生半可な精霊を一体か二体連れている様な神曲楽士よりも、遙かに強い。
加えて、フォロンはフォロンで昨日の気迫などまるで忘れ果てたかの様に、戦闘支援用の神曲が弾けず――コーティカルテは<ボウライ>の群れの体当たり攻撃の前に為す術も無く沈んだ。
「はぁ……」
昨日は戦いのための神曲もしっかりと奏でられたのに、今日の実習訓練ではからっきしだめだった。
相手がクラスメイトということもあって気持ちの何処かで遠慮してしまっているからなのかもしれないが――必要とあれば気持ちを自由自在に切り替える事が出来てこその玄人《プロフェッショナル》である。
彼が一人前の神曲楽士になれるのは未だ未だ先の様だった。
「先輩先輩〜! 質問〜!」
溜息をつくフォロンの元へペルセルテが駆け寄ってくる。
実はすでにこの時間だけで八度目の質問だ。
とはいえ彼女が持ってくるのはいつものフォロンに話し掛ける為だけに捻り出した様な質問ではなく、フォロンもたじろぐ様な神曲演奏に関する細かい技術的な質問を幾つも幾つもぶつけてくる。
どうやら……彼女の中で何か明確な目標が出来たらしい。
目指すべき場所を具体的に定めた人間の進歩にはめざましいものがある。未だ昨日の今日で成果が出る訳ではないが――前向きな彼女を見ているとフォロンも元気を分けて貰った様な気分になるのだった。
とはいえそもそもペルセルテとフォロンが仲良く喋っている事そのものが面白くないコーティカルテとしては、それを黙ってみている筈も無く――
「おい、お前は質問のしすぎだと言っているだろう!」
「知りたいことがたくさんあるんですから、仕方ないじゃないですか!」
そう言って二人で睨みあう。
以前ならそこで終わりの無い舌戦が繰り広げられる事になったのだが……
「こら、コーティ」
フォロンは教壇の上に身を乗り上げているコーティカルテの身体を抱きかかえると、隣の席にすとんと座らせた。
「むぅ……」
座らされた彼女は不機嫌そうに頬を膨らませている。
だが殊更に文句を言ってくる様子は無い。こちらも何か心境の変化でも在ったのか、昨日までに比べると随分と大人しくフォロンの言う事を聞いてくれる様になった。ペルセルテからの七度の質問も、この調子で喧嘩になる事無く片付ける事が出来たのだ。
とりあえずフォロンはペルセルテに話しかける。
「なんか今日はいつにも増してやる気満々だね」
「はい!」
そう言われてペルセルテは元気良く返事をする。
「実は秘密の計画があるんですよ」
彼女はフォロンに顔を近づけると声のトーンを下げた。
「秘密の計画?」
「はい。ちゃんとした神曲を弾ける様になったらプリネに聴かせて驚かせたいなぁって」
「おお、なるほど」
プリネシカに関しては――随分と体調は良くなった様だった。
ひょっとしたら衰弱していた精霊の部分に、昨日のフォロンの神曲が効いたのかもしれないが、詳しい事は分からない。プリネシカも曖昧に笑って答えようとはしなかった。
だが――
「昨日先輩が聞かせてくれたような、とっても心地良い曲を奏でられるようになりたいんです!」
「いや、まぁ、うん……。頑張ってね」
正面きって自分の曲の事を褒められると――やはり恥ずかしい。
「おい、ひっつくな!」
そこに再びコーティカルテが割り込んできて、顔を近づけていたペルセルテを引き離そうとする。
「あう。秘密の相談なんですから、いいじゃないですかぁ」
「なに!? 余計ダメだ!」
秘密の相談ときいてコーティカルテがさらに怒り出す。
そこへ――
「やぁやぁやぁ。相変わらず君達は元気が良いねぇ。きっと頭の中身が単純で悩み事とかが無いからだろうね。羨ましいよ」
などと明るい声で毎度お馴染みの傲慢トークをかましながら近付いてきたのは――言うまでもなくコマロ・ダングイスその人である。
一瞬……フォロンもコーティカルテもペルセルテも面食らった様に顔を見合わせる。
「や……やぁダングイス。もう調子はいいの……?」
一同を代表してフォロンがとりあえず尋ねてみた。
昨日までどう見ても重病人だった筈の自称・天才神曲楽士は、これまたいつもの如く前髪を気障に書き上げて見せながら言った。
「調子……? 何のことだい? ボクはいつでも絶好調だぜ?」
「ひょっとして……」
コーティカルテが何処かうんざりした口調で言った。
「こいつの中では昨日までの事……完全に、無かった事になってるんじゃ…?」
「有り得ますね」
顔を寄せて囁くペルセルテ。
ダングイスはとにかく懲りないと言うか――自分に都合の悪い事は本気で忘れてしまえる便利な記憶構造の持ち主である。とにかく嫌な事は彼の中では完全に『無かった事』になっているのだ。
まあ当然と言えば当然――そうでもなければこんなに自分勝手で傲慢な人間が育つ筈も無いのだが。
しかし……
「昨日はあんなにやつれていたのに、今日はもう元に戻っていますよ」
「まさか、肉体的な疲労もなかったことに出来るのか……?」
此処で初めてコーティカルテの表情と声音に戦慄の色が混じった。
「まったく、君達はさっきから何の話をしているんだい? レベルの低い人たちの会話には正直ついていけないね」
…………どうやら無かった事になっているらしい。
「……今初めてこいつをすごいやつだと思ったぞ?」
「わ、私もです……」
「ある意味で一番敵に回したくないな…」
「はい……」
「…………二人とも、言いすぎだよ」
本気な顔で話し合う二人を止めながら――ようやく慣れ親しんだ日常に戻ってきた様な気がしてフォロンは顔を綻ばせる。
とはいえ……
「…………」
ふと窓の外に視線を向けてみれば空の青がとても濃い。
同じ様な日々を繰り返している様でも、季節は確実に移り変わっていく。
暑い季節はもうすぐそこまできている様だった。
薄闇に満ちた広い空間に一人の男が立っていた。
黒い外套に身を包み鼻先には何処か間の抜けた印象を醸し出す丸眼鏡を引っかけた青年。並外れて整った顔立ちは、ともすれば冷たく近寄り難い印象を醸し出すものだが、どこかのんびりと日向で微睡む猫の様な風情がこの青年の印象を親しみ易いものに変えている。
年齢不詳。本名不祥。出身不祥。
だが多くの者はその事を何故か気にも留めない。
神がしばしば固有名詞ではなくただ『神』と一般名詞で呼ばれる様に――彼を知る殆どの者は彼の事をただこう呼ぶのだ。
トルバス神曲学院・学院長。
学院関係者ならばこの名物学院長を知らぬ者は居ないだろう。ともすれば生徒と間違えられそうな若々しい姿や、のほほんとした癒し系の言動は、生徒達から職員まで皆によく知れ渡っている。
だが。
彼等が知っているのは彼の全てではない。
少なくとも今の学院長を――全てを遙かな高みから見下ろしているかの様な、鋭く冷たい笑みを浮かべる彼の姿を知っている者はごくごく少数だろう。
「エレインドゥース」
彼の呼び掛けに応じて薄闇の中に一人の女性の姿が浮かび上がった。
長い深緑色の髪を腰まで垂らした清楚な印象の容姿である。
美しい。見る者に対して積極的に訴えかける派手さは無いが、一度眼にすれば知らず知らずの内に視線で追ってしまう様な――そんな静かな蠱惑に満ちた姿であった。
ゆったりとした長衣の背中に三対の光る羽根が浮かんでいる。
「彼等がまた動き始めた。済まないがまた君の力を借りる事になるかもしれない」
「これはまた他人行儀な」
薄い苦笑を浮かべて緑の髪の女性は言った。
「レイトス様はただ一言『来い』とおっしゃってくだされば良いのです。さすればこのエレインドゥース・オル・タイトランテル――何時、何処へでも馳せ参じましょう」
女性は優美な仕草で僅かに腰を引き、一礼した。
「もっともコーティカルテの契約主もゆっくりとではあるが成長している。今のところ順調に事は運んでいると言えるが……」
「では今度こそ?」
「ああ……」
緑の髪の精霊――エレインドゥースの言葉に、学院長は僅かに首肯した。
「だが、彼等も多少の事では諦めまい。油断は禁物だ」
「それは無論――」
「――結局」
そう呟いて彼は傍らにそびえる巨大な物体を見上げた。
一見すればそれが何か分かる者は少ないだろう。明らかに常識的な大きさを逸脱している。何本もの石柱が絡み合い、一本に束ねられ上方に向かって伸びていく様は、まるで岩石で出来た巨大樹の様である。
だがそれはこの物体の本質ではない。
この物体の正体を何より明確に物語るものは……樹木で言えば根本の部分に在った。
「これが存在する限り、本当の終わりなどはないのかもしれないな……」
呟く学院長の目の前――石柱群の基部には白と黒に彩られた鍵盤がずらりと並んでいた。
八十八鍵が三段。
そう。
これは楽器だ。辞書的な概念からすればあまりにも巨大に過ぎるが――それでもこの物体の本質は楽器であった。
神曲や精霊について学んだ者ならば誰もがその名を知っているだろう。
だがその実在を信じている者は少数だ。
そして知っている者は更に少ない。
神器――奏世楽器。
かつて神が世界を創り上げる際に使ったとされる<始まりの楽器>は薄闇の中で静かに眠り続けているのだった。
神曲奏界ポリフォニカ 第2話 FIN