神曲奏界ポリフォニカ 第1話
辛い事があると少年は独り屋根に登って歌を歌った。
前に孤児院の先生から『嫌な事や哀しい事が在ったら歌を歌いましょう。歌は元気をくれますよ』と教えられたからだ。効果の程はあやふやで、恐らく教えた本人もその事は忘れているだろうが――それでも他に気を紛らわす方法を知らなかった少年は律儀にそれを実践していた。貧乏な孤児院は娯楽というものに乏しい。いじめられっ子の身ならば尚更の事である。
幼い少年の頭上ではゆらりゆらりと月が揺れている。
肌寒さに耐えながら彼は満月を見上げてか細い歌声を紡ぎ上げていた。
だが今にも消え入りそうな小さな小さな旋律を聴く者は居ない。
彼は独りぼっちだ。
いつも彼は置いて行かれてしまう。要領が悪くて気が小さい少年は孤児院の友達と一緒に遊ぶ際にも何かとドジを踏んでしまい、皆の脚を引っ張ってしまう。
『またお前のせいで先生に見つかったんだぞ』
歌いながら男の子は、昼間友達に言われた事を思い出していた。
『こいつ、何やっても遅いんだよ』
『だから最初からこいつには無理だって言ったんだ』
みんなが口々に少年の悪口を言い始める。
『もう次からお前はくるなよ』
そう言うとみんなは少年を一人残して行ってしまった。
少年は何も言い返すことができなかった。
いつも一緒に遊ぶ仲間たちで計画した孤児院の外への冒険ごっこ。
もちろん子供達だけで勝手に外へいくことは禁止されていた。
だから、見つからないように出ていって、見つからないように帰ってこなければいけなかったのだ。
しかし……。
少年の失敗が原因で、結局みんな見つかってしまった。
敷地を囲むレンガの塀。そこに小さく開いた小さな穴を通る際、運悪く服の裾を近くに生えていた灌木に引っかけてしまい、抜けるのにひどく手間取ってしまったのだ。その結果、じたばたしている処を見回りに来た先生に見つかり、皆が揃ってこっぴどく叱られることになってしまった。
今日はそれから、お休みなさいの時間まで誰も口をきいてくれなかった。
自分のせいだとはわかっている。
ただ、とても寂しかった。
寂しくてお休みなさいの時間になって明かりが消えても眠れなかった。
だから夜中に孤児院の屋根へこっそりあがり月を見上げて歌っていた。
歌うと少しは気が紛れる。
繰り返しているとほんの少し元気になれた様な気もする。
しかし――
「はぁ……」
少年の口から漏れるため息はその幼さと不釣り合いな程に重い。
大きな黒い眼にはうっすらと涙が浮かんでいる。
何をやっても失敗ばかり。
いつもいつも友達の足を引っ張るばかりで、誰かの役に立てたことなんて一度もない。
自分を元気付けることすら、ろくにできない。
そんな自分が歌った歌では元気も少ししかでてこないのだろう。
「…………」
思えば少年は常に置き去りにされる側だった。
友達からも。
先生からも。
両親からも。
自分が愚図だから皆についていけない。もう顔も覚えていないが――両親ですら自分をこの孤児院の前に捨てていった。きっと手間ばかりかかる彼の事が嫌いだったのだろう。最近は孤児院の先生達もドジばかり踏む少年には少し呆れ気味で――声を掛けてもおざなりな調子である事が多い。そしてそれが幼い少年にも分かってしまうのだ。
いつもいつも誰かに置いて行かれる。
誰も少年の側で立ち止まってくれない。誰も少年を注目してくれない。
嗚呼。
このまま自分はいつか誰からも顧みられる事の無い存在になってしまうのではないか。路傍の石の様に居ても居なくても変わらない存在になってしむのではないか。いつか決定的に世界の全てから置き去りにされてしまうのではないか。
少年はぼんやりとそんな事を考える。
だが彼にはどうする事も出来ない。ただほんのわずかでも気を紛らわせる為に夜の屋根に登ってひっそりと歌を歌うだけだ。
その時――
「……?」
少年は何か――気配の様なものを背中に感じた。
吐く息が白く濁る様な冷たい夜であるからこそ、そこに在る暖かさが気配として浮き彫りになる。特に少年にはそうした感覚にだけは鋭敏な処が在った。
先生が彼の歌に気付いて叱りに来たのだろうか。
振り返る少年。
だがそこに立っていたのは――見た事も無い女の人だった。
いや。立っていない。彼女の爪先は空中に在った。何の支えも無いままに彼女は孤児院の屋根からほんの少し離れた虚空に佇んでいるのである。
人間ではない。人間にそんな芸当は出来ない。
まして人間には彼女の様な――『羽根』は無かろう。
まるで大輪の花の様にその女性の背中には数枚の薄く輝くものが広がっている。昆虫や鳥のそれとは明らかに異なる、しかしただ『羽根』としか表現しようの無いものが、大きく分けて六枚――彼女の背中に備わっているのだ。
一体……この女性は何者なのか。
普通であれば怖いと思った事だろう。だが少年は驚愕や困惑を覚えはしたが――不思議と恐怖を感じる事は無かった。
それは女性がとても美しかったからか。
それとも彼女が優しく笑っていたからか。
緩やかに波打つ紅い髪。大きく鮮やかな紅い瞳。身に纏っているのは袖や丈の長い――何処か儀式的なものを想わせる衣装だが、肩や胸の辺りには大きな切れ込みが入っていて惜しげもなくその白く滑らかな肌を寒気に晒している。
少年は瞬間的にその女性に見とれていた。
未だ異性を意識する年頃ではない。それはただ純粋に――感動だった。並外れて優美なるものを前にしてただただ心地よく圧倒される……そんな本能的な感覚だった。
「……だれ?」
我に返った少年は、とりあえずそんな問いを取り繕った。
だが彼女は苦笑を浮かべて首を振る。名乗る意味が無いという事か。彼女は再び笑みを優しいものに戻して囁く様に言ってきた。
「お前の歌に誘われて来た」
「あ…………」
少年は絶句する。
恥ずかしい。今まで誰にも聞かせた事は無かったのだ。孤児院で皆で歌う事は在っても、誰かの前で自分一人で、それも思い付くままに適当に歌う事など無かった。余計な事をしてこれ以上、皆に馬鹿にされたり嫌がられたりするのが怖かったのだ。
少年はただただ黙り込むしかない。
この女性は少年の歌をどう思ったのだろうか。呆れただろうか。馬鹿にするのだろうか。微笑んでいるから怒りはしないと思うのだが。それともただ単にうるさいと文句を言いに来たのだろうか。
不安ばかりが大きくなっていく。
だが――
「恥じる事は無い。お前の歌――良かったぞ」
「…………」
最初……女性の言葉の意味が分からなかった。
褒められた事があまり無かったからだ。少年にとって賞賛の言葉とは自分以外に向けられるものであって、自分が言う事は在っても、言われる事など殆ど無かったのだ。
しかし……
『お前の歌――良かったぞ』
その一言の意味がじんわりと彼の胸の中に浸透していく。
それが女性の本心から言われたものである事は何故かはっきりと分かった。
何か響き合うものが在ったのかも知れない。
例えば同じく独りぼっちである者同士の共感の様なものが。無論、少年には未だそんな複雑な感情に気付くだけの人生経験は無かったが――
「…………ありがとう」
少年は礼を言った。
先生に教えられたからでも、相手がそれを期待していると分かるからでもなく、心の底から自発的に――生まれて初めて自分の感謝を伝えたくてその言葉を口にする。
だが気恥ずかしさも手伝ってかその声はひどく小さなものだった。
「……ん? 聞こえないぞ」
恥ずかしくて俯いた少年をからかう様に女性が声を掛けてくる。
「…………」
「もう一度言ってくれ。恥ずかしがるな。男の子なのだろう?」
少年はしばし懊悩する。
恥ずかしい。でも嬉しいのは本当なのだ。本当に本当に嬉しかったのだ。
だから――
「ありがとう。おねえちゃん」
少年は勇気を振り絞って顔を上げると――相手にちゃんと伝わる様にはっきりとした声でそう言った。
静かに少年の顔を見つめる女性。
その表情が少し変化した。
「泣いていたのか?」
「ち……違うよ」
少年は慌てて顔を伏せながら手で目元を拭う。
それはとても恥ずかしい事だった。
自分が愚図でどうしようもない奴なのだと――だから皆に冷たくされて泣いていたのだとこの女性には知られたくなかった。知られればこの女性も呆れた顔をして彼の前から去っていく様な気がしたから。
しかし――
「そうだな。男の子だからな」
「……そうだよ」
どれだけ誤魔化せたかは分からない。
だが女性は立ち去らず――むしろ少年側へと歩み寄り、目線が同じ高さになるよう、腰を落として片膝をついた。
紅い瞳が真っ直ぐと少年の黒い瞳を見つめる。
全てを見透かすかの様な視線。
女性はしばらく何かを探るかの様に彼の瞳をのぞき込んでいたが――
「お前を私だけのものにしたい」
女性はそう言った。
「……え?」
「お前の描き出す魂の形を私だけのものに。それは――ダメか?」
この時、今までは余裕すら見せて男の子に相対していた女性が、初めて、そしてわずかに、はにかむかの様な表情を見せる。
まるで想い人に恋心を告白する乙女の如く。
だが幸か不幸か――少年がその事に気付く事は無かった。
「……?」
少年は意味が分からずただ混乱するばかりだ。
女性は苦笑を浮かべて言った。
「そうだな。つまり――これからも私のために歌を歌ってくれないか? という事だ」
それはつまり。
彼を置き去りにしないという事か。
彼を見捨てたりしないという事か。
ずっと側に居てくれるという事か。
嗚呼。
少年は戸惑う。
あれ程までに望んでいた言葉。
だがそれがいざ目の前に示されると戸惑わざるを得ない。
彼はあまりにも自分を諦めすぎていた。物心付いてからずっと幾度も置き去りにされ、見捨てられる事を繰り返してきた為に、幼いながらも自分の事を見限っていた。そんな日々があまりに長かった。
だから自然に他者の好意を受け入れられないのだ。
だが――
「うん」
半ば無意識に彼は頷いていた。
自分に何が必要なのか彼は本能的に気付いていたのだろう。
女性は満足げに頷き、そして手を伸ばして少年の頬に指先を触れさせる。
その感触にくすぐったさを覚えて少年は笑う。
女性は――ふと真剣な表情で声を潜めてこう言った。
「では、約束の印だ。目を、閉じろ……」
言われるままに、少年は目を閉じる。
そして――
何故か記憶はそこで途切れていた。
早朝である。
完全無欠に早い――早すぎる位の朝。
未だ辺りは夜の薄暗さを引きずっている。空気は冷たく窓の外の風景は昼夜の境目の曖昧な雰囲気を醸し出していた。太陽ですらまだ起きたばかりで、少し寝ぼけながら、えっちらおっちらとどうにか昇り始めた頃だ。
少年が眼を覚ましたのはそんな時間であった。
「うーん?」
何か懐かしい夢を見ていたような気がするが、よく思いだせない。
意識はまだ夢見心地のまま、殆ど条件反射の様に枕もとの目覚まし時計へと手を伸ばす。
ベルが鳴るように設定した時間までにはまだ少しあった。
その事を確認すると、少年は目覚ましを元の位置に戻し、すぐに腕を布団の中へとしまいこむ。まだ肌寒い時間帯、暖かなベッドの中から右腕だけとはいえ、身体を外に出しておくのは非常に忍耐力がいる。
もともと、朝は強い方ではないのだ。
(目覚ましがなるぎりぎりまで寝よう…)
そう思い、眼を閉じた直後。
「フォロン! 朝だぞ!」
そんな声と共に、何か重たいものが勢い良く腹を圧迫した。
いや。圧迫したなどと表現するとささやかに過ぎる。それはボディ・ブローの様な遠慮の無い速さと重さを備えていた。布団越しでなければ悶絶していたかもしれない。
「ぐえ……」
カエルの潰れたような声をあげて、少年――タタラ・フォロンは閉じたばかりのまぶたを再びゆっくりと開ける。
「やぁコーティカルテ。おはよう……」
視界に入ってきたのは……
外見的にはまだ幼さの残る女の子だった。
非常に可愛らしい容姿である。目鼻立ちはくっきりとしていて可憐。肌は陶器の様に白く滑らかでまさしく『お人形さんみたい』という形容がぴったりくる。鮮やかな紅を湛え優美に波打つ髪を大きなリボンでポニーテールにしている姿がよく似合っていた。
思わず護ってやりたくなる様な――歳の離れた妹の様な雰囲気。
あくまでも『見た目』というか容姿のみに限定しての印象ではあるが。
ともかく。
こんな朝っぱらからフォロンの布団の上に容赦なく飛び乗って来るのは、同居人である彼女――コーティカルテ以外にはいない。歳の離れた妹どころか、専制君主の様な傍若無人ぶりである。
「朝食だ。早く作れ」
コーティカルテは外見とは似ても似つかない不遜な態度でそう言い放つ。
傍目には十代半ばの少女が何やら背伸びしている様で微笑ましかったりするらしいが、実際にその台風の様な言動に振り回される側としては微笑むどころの話ではない。
「まだ早いじゃないか。もう少しだけ寝かせてよ」
眠り足りないフォロンは布団をたくし上げて潜り込もうとしたが、その布団をコーティカルテがむりやり引き剥がした。
「ダメだ。私は今食べたいのだ。今作れ」
「うーん……。それなら、まだパンが残っていたはずだからそれで玉子焼きサンドでも作って食べたら……?」
「ダメだ。お前が作れ」
「たまには自分で作ってみるのもいいと思うよ?」
「食べるのは好きだが、作るのは嫌いだ」
「それじゃ……」
「ダメ」
機先を制する様にきっぱりと言うコーティカルテ。
問答無用である。
「……………………」
どうも彼女は、今すぐフォロンが起きて朝食の準備をしなければ気が済まないらしい。
こうなるとコーティカルテはテコでも動かない。それは一緒に暮らしておよそ一ヶ月――誰よりもフォロンがまず思い知らされていた。
「はぁ」
溜息をつく。
どうやらフォロンは残りわずかの貴重な睡眠時間を諦めるしかないらしい。
「わかったよ。顔を洗ってきたらすぐ作るから」
「うむ」
鷹揚に頷くとコーティカルテはあっさり彼の上からどく。そんな彼女に見送られながら、フォロンはとぼとぼと洗面所にむかった。
「ふぅ」
蛇口をほんの少しだけ捻り、搾り出すように出てきた水で顔を荒ってから、鏡をのぞきこむ。映っているのはまだ眠そうな冴えない自分の顔。
鏡を見ながら、少し伸びてきた後ろ髪を、紐でくくった。
まるで小動物のしっぽのようだ。
「それにしても……。契約した精霊にいいように使われている神曲楽士なんて、他に聞いたことないよなぁ」
その、契約主であるところの神曲楽士をいいように使っている精霊は今、ダイニングのテーブルにつき、朝食を今か今かと待ちわびている。
そう。コーティカルテは人間ではない。
精霊だ。
本当の名前はコーティカルテ・アパ・ラグランジェスという。
フォロンはふとしたことで、数ヶ月前から彼女と精霊契約を交わすことになった。それ以来、彼女は彼の部屋に住み着いているのである。
精霊。
世界に満ちる『知性ある何か』。
だが精霊については諸説在り、実の処その存在には未だに謎が多い。
外見は元より、能力、属性に至るまで精霊は多種多様でまともな統計資料すら集めるのが難しいのだ。人間達はこの『善き隣人』達と共に暮らし様々な側面でその助力を得ながらも、彼等の事については驚く程に無知なままである。
精霊と呼ばれる存在の共通点は二つ。
何対かの輝く羽根を備えるという事。
そして神曲と呼ばれるある種の音楽を糧とする事。
この現在分かっている事は極言してしまえば二つだけだ。
しかしそんな精霊たちの力は今や人間社会に必要不可欠なものとなっており、世界のありとあらゆる処で各種労働力として使われている。
無論、これは奴隷としてではなく神曲という報酬との交換条件であり、その為に神曲を奏でて彼等精霊を使役できる特殊技能職――神曲楽士は、現在のポリフォニカ大陸において多くの者が憧れる職業となっていた。
フォロンもその一人――神曲楽士を育てるトルバス神曲学院の生徒、つまり神曲楽士の卵である。
「まぁでも、彼女のおかげで専門課程に進級できたようなものだから、文句は言えない、か」
実を言えば彼の成績は決して良いといえるようなものではない。
授業は真面目に出席し、受けているのだが、要領が悪く成績に反映されないのだ。しかも実技関係が輪をかけてひどく……いくらやっても下級精霊の一体も呼び寄せる事が出来ない。
特に昨年度の終わりごろは、トルバス神曲学院の、基礎課程から専門課程への進級試験が精霊召喚である為、進級できないかもしれないという非常に危機的状況にあった。
そんな折に彼は一人の精霊と出あった。
コーティカルテである。
出会った時の彼女は、長期にわたり神曲から遠ざけられていた精霊が陥るという暴走状態にあり、フォロンを見るや否や、いきなり襲い掛かってきた。
運悪く、その時彼の側には、トルバス神曲学院を見学にきていた女の子たちがいた。
だが、彼女たちを護らんと無我夢中で奏でた神曲によりコーティカルテを鎮め、フォロンは初めての精霊契約に成功。結果的に彼はその事実を以て進級する事ができたのだ。
神曲を奏で精霊を使役するのが神曲楽士である。
更に一流の神曲楽士となると精霊と専属契約を結び――これが精霊契約である――普段から簡単な作業はいちいち神曲を奏でなくても精霊に命じる事が出来る。
つまりより難易度の高い精霊契約が出来たフォロンは精霊召喚の試験など受ける必要が無いと判断されたのである。しかもコーティカルテの様に人型を採る精霊は基本的に中級以上の精霊であり、その意味では更に難易度が高い。級が上がるにつれ精霊の神曲に対する嗜好も厳密になっていくからである。
だが。
コーティカルテは、契約してから一度たりとも、フォロンの言う事をきいてくれたり、力になってくれたことはない。
あえてもう一度言おう。精霊の力を行使することのできるのが神曲楽士なのだ。
契約出来ようが何だろうが精霊を使役できない神曲使いなど何の意味も無い。
まあ単純にこれはコーティカルテのワガママぶりが度を超しているから――という見方も出来ないではないのだが、こんなに好き勝手振る舞う精霊というのもフォロンは聞いた事が無い。
「おい、フォロン。朝食はまだか? もう待ちくたびれた」
ダイニングから少し不機嫌な声が投げかけられる。
ついでにコツコツと硬い音もする。恐らくテーブルを指先で叩いているのだろう。
本当に彼女が気が短い。
「ごめんごめん、すぐ作るよ」
フォロンはタオルで顔を拭くと、ぱたぱたと音をたててキッチンへと走っていった。
神曲楽士と精霊としての主従関係が完全に逆転してしまっている。
でもそれが、フォロンとコーティカルテの日常だった。
空はどこまでも澄み渡る蒼。
そよりそよりと、揺らぐ風が気持ちいい。
春という季節に目覚めた街に、無数の人が行き交う。
将都トルバス。
帝都メイナードを囲む衛星都市の一つ。人口は二百万にも及ぶ大都市である。
衛星都市とはいえ、現在は都市開発が進み、今では帝都と遜色ない規模と人口に成長している。各種交通の中継点が置かれている事もあり、帝都に本拠地を置き、さらなる発展を目指す企業や、勢いのある新興企業などが数多く進出してきている。
だがこの街の名を最も有名にしているのはトルバス神曲学院の存在だろう。
トルバスの中央街区には政府直轄の第三神曲公社がある。そしてそこからバスで一駅――歩いても半時間と掛からぬ場所にトルバス神曲学院の校舎が在る。
そもそも大きな力を使う精霊達を使役できる神曲楽士は社会に対する影響力が一般人と異なる。平和的に使われれば経済の発展や治安の安定に多大な貢献をするであろう彼等の力も、犯罪的な使われ方をすれば大きな社会不安となるのだ。
故に彼等の仕事は神曲公社が管理する事になる。
ただ――精霊関係の仕事を公社が一社で独占する状態が続くとこれはまた競争原理が働かなくなって経済が停滞してしまう。この為に、この国――メニス帝国では六つの神曲公社を分散して設置し、独立採算制度で互いに競わせる形を採っている。
当然ながら各神曲公社は優秀な神曲楽士や強い精霊の確保に余念が無い。
元々はそれぞれの神曲楽士が個人的に弟子を取り、その指導の下で新しい神曲楽士が育っていく――という徒弟制度が神曲楽士達の間では一般的であった。だが、現在ではより効率的に多くの神曲楽士を育成する為、公社の経営する神曲楽士教育機関が幾つか誕生している。従来の方法では公社における神曲楽士の需要に供給が追いつかないのである。
その中で……最も古くかつ最も多くの神曲楽士を輩出しているのが、このトルバス神曲学院であった。
それはさておき――
「今日の玉子焼きサンド、なかなか美味かったぞ」
フォロンと並んで歩きながらコーティカルテが言う。
精霊は人間と異なり浮遊して移動する事も出来る筈なのだが、何故か彼女は滅多にそういう事をしない。食事にしてもそうだが――普段の彼女はまるで人間の女の子と大差ない振る舞いが多かった。
「そう? ありがとう」
春を迎えて活気に満ちる街――その中を行き交う人々の中に彼等二人の姿もあった。
常緑樹が延々と生え並ぶ並木通り。その傍らには幅広の車道が通っていて、しばしば、自動車が忙しげに二人を追い抜いていく様子が見られた。
フォロンとコーティカルテは揃ってトルバス神曲学院の制服を身に纏っている。
前述の通り神曲学院とは、神曲公社経営の、神曲楽士を養成する専門学校である。基礎過程二年と専門課程二年の計四年制で、入学には中学卒業以上の資格が必要だが年齢制限に関しての上限は無い。
フォロンはその神曲学院の、今年から専門課程一年目の生徒だった。
そんな彼がトルバス神曲学院の制服を着ているのはごく自然なことだが、精霊であるコーティカルテが制服を着ている理由は分からない。
精霊達は基本的に物質的なものにはあまりこだわらない。
だからこそ神曲だけが彼等の報酬足り得る訳だが……巷でも可愛いともっぱら噂されているトルバス神曲学院の制服には、精霊である彼女も興味がわいたのかもしれない。まあ単にコーティカルテが変わり者であるだけの事なのかもしれないが。
ちなみに今のコーティカルテは精霊特有の羽根を展開していない。
どうもあの羽根は出し入れ自由なものらしく――だから傍目には学院の生徒二人が仲良く揃って登校している様にしか見えない。もっともコーティカルテはフォロンと異なり、鞄も持たない手ぶらの状態だが。
「お前、料理の腕だけはマシだな」
「あはは……」
コーティカルテの『だけは』という言葉が耳に痛いが、事実なので言い返せない。仕方なくフォロンは苦笑いを浮かべた。
「でも――ふと思ったんだけど、精霊は別に物を食べる必要はないんだろ? というか、食事をする精霊ってあまり聞いたことないんだけど……」
「うむ。別に必要はないな」
「じゃあ、朝から人を叩き起こさなくても……」
「別に食べる必要はないが、食べてはいけない、というわけでもないのだから、別にいいではないか」
「別にいいって、そのどっちでもいいようなことで毎朝叩き起こされる僕の身にも……」
「ん? 何か言ったか?」
少し表情を険しくしてコーティカルテが言ってくる。
「いえ、なにも……」
絶対聞こえている……、とは思ったが口にはださなかった。彼女と争っても勝ち目がないことはすでに骨身にしみて理解している。
とりあえずフォロンは話題を変える事にした。
「そういえば、コーティカルテ。今日は何か急いでいたみたいだけど、何かあるの?」
朝食をいつもよりもやたらと早く作らされた上に、登校までの余った時間をゆっくり過ごそうとしたら、彼女に引っ張られむりやり部屋を出発させられた。
何か急ぎの用でもあるのかと思ったが、いざ寮を出てしまうと、いつもと同じくらいのペースで、おしゃべりしながら学校へと向かっている。
「いや、別に何もない。ただ少し早く出たかっただけだ」
彼女は気まずそうにそう答えた。あからさまに『何かある』感じだった。
「……?」
フォロンが不思議そうに首を傾げたちょうどその時。
その『何か』がやってきた。
「タタラ先輩〜!」
車道を行き交う車の騒音にも負けない元気な声。
タタラ・フォロン。
孤児院を出る時に便宜的に与えられた姓だが……今ではもう自分のものとしてよく馴染んでいる。反射的にフォロンは声の方を振り返った。
隣ではコーティカルテがなぜか不機嫌そうにムッとした表情を見せている。
で――
「あ。ユギリさん。おはよう」
フォロンたちと同じ制服を着た、金色の髪の少女が肩を弾ませながら走ってきた。
彼女はフォロンの前でぴたりと止まると、まずは上半身を折って呼吸を整える。どうやらかなり長い距離を走ってきたらしい。『ちょっと待ってください』と言う風に片手の掌をフォロンに向けて少女はしばらく荒い息を吐いていたが……ようやく落ち着いた様で、大きく深呼吸をしてから、顔を上げた。
「おはようございます!」
細身に似合わず元々体力は在る方なのか、疲労の様子も無く、いつもの調子ではきはきと声を出す。
「先輩、今日はいつもより早いんですね。いつも先輩が出てくる時間くらいに寮の前にいたんですけど、時間がすぎても来なかったんで、管理人さんに聞いてみたら今日はもう出たって。それで走ってみたんですけど、追いつけちゃいましたね!」
「あ、ごめんね。なんか今日はコーティカルテが急いでいて、早く出たんだよ」
「そうなんですか。コーティカルテさん、何かご用なんですか?」
「別に」
コーティカルテは短く答えるとぷいっとそっぽを向く。
どうにもコーティカルテはこの少女――ユギリ・ペルセルテと折り合いが悪い。というかペルセルテは屈託無くコーティカルテに話し掛けるが、コーティカルテは一方的に彼女を避けている様な部分が在った。
もしかしたら、彼女はペルセルテたちと合流したくなかったから早く家を出たかったのかもしれない。そうだとすれば、その原因たる張本人に理由を聞かれては、コーティカルテではなくてもそっぽを向きたくなるだろう。
「あれ……? 妹さんの方はどうしたの?」
「もうすぐ来ると思います」
彼女が言うのと同時に――銀色の髪の少女が、並木道を走ってくるのが見えた。
「はぁはぁ……。ぺ、ペルセ……、速いよ……」
息が切れている。無理もないだろう。
だがフォロン達が立ち止まって待っていると、よろめく様に駆け寄ってきて停止。
「プリネ、おそい〜」
とペルセルテ。
プリネと呼ばれた少女は応える事も出来ずに、胸を押さえて少し荒い呼吸を繰り返していたが――
「…………」
ペルセルテと同様に深呼吸一つでぴたりと常態に戻った。
ここらはさすがに双子というべきか。
ペルセルテと同じ顔の少女――ユギリ・プリネシカ。髪型も髪の色も異なる上、言動が双子の姉に較べるとやや大人しい感じなので、あまり双子っぽさは無いのだが、やはり体力や体格といった肉体的側面では色々と似通った部分が在るのだろう。
「や、やぁ。おはよう」
フォロンが声をかけると、プリネシカはペコリと頭を下げた。
「プリネ、これくらいではぁはぁしているようじゃダメだよ?」
「そんなこと言っても、ペルセ、速すぎるよ……」
「そうだよ。寮からここまで走ってきたんだよね? だったら息が切れるのが普通だと思うよ」
フォロンの言葉に、プリネシカがコクリと深くうなずき、金色の髪の少女――ペルセルテは、
「そうかなぁ?」と首をかしげた。
ペルセルテとプリネシカ――ユギリ姉妹。
二人は今年トルバス神曲学院に入学したばかりの新入生である。
そしてフォロンが何かと面倒を見てやらなければならない後輩でもある。
トルバス神曲学院では、生徒数に対して教員の数が圧倒的に少なく、その為に専門課程の生徒が基礎過程の生徒数人の教務窓口や家庭教師的な立場に立つ制度がある。そしてフォロンの担当する新入生の中にペルセルテもプリネシカも含まれていた。
「と・こ・ろ・で」
ペルセルテが腰に手を当てて、フォロンの顔をのぞきこむ。ちょっぴり頬を膨らませているところをみると、何か文句を言いたい事があるようだった。
「え……、なに? どうしたの……?」
思わずフォロンが身を固くする。
相手は後輩なのだからもっと鷹揚に構えても良い筈なのだが、これは彼の生まれついての性格だからどうしようもない。
「フォロン先輩、またわたしのこと、ユギリさんって呼びましたね?」
「あ……」
彼女が何に対してクレームをつけてきているのかに気付いたが、少し遅かった。
「もう、いつもペルセルテでいいって言ってるじゃないですか。それに、ユギリじゃ、わたしのことかプリネのことかわからないですよ」
「そうだね、ごめん」
フォロンが謝るとペルセルテはにっこりと笑ったが、その笑顔のまま視線を移すことなくフォロンの顔を見つめ続けている。
「………………」
「えっと……」
どうやら彼女はフォロンが名前を呼ぶのを待っているらしい。
「ペルセルテ……ちゃん」
そう呼びかけると再び彼女が頬を膨らませた。
「ちゃんはいりません! フォロン先輩は先輩なんですから、ビシッと呼び捨てにして下さい!」
「ご、ごめん……。ぺ、ペルセルテ」
「はいな!」
ようやく満足そうにペルセルテは頷いた。
(女の子を名前で、しかも呼び捨てって、ちょっとやっぱり呼びにくいなぁ……)
フォロンはそんなことを思ったが、口には出さず愛想笑いを浮かべる。
「そうだ。先輩、もちろんプリネも、プリネシカですからね? ちゃんもさんもいりませんよ?」
「う、うん、わかったよ。えっと、よろしくね、プ、プリネシカ」
一度は呼んでおかなければペルセルテが納得しないと悟り、気恥ずかしさを感じながらもプリネシカに呼びかける。
呼ばれたプリネシカも恥ずかしそうに顔を赤らめながら、ペコリとおじぎをした。
彼女の場合はペルセルテとは対照的に、非常に恥ずかしがりやだ。だから、やはり歳の近い男に名前を呼び捨てで呼ばれるのは恥ずかしいのだろう。
「おい。早く学校に行くぞ」
横でずっと不機嫌そうな顔のまま黙っていたコーティカルテが、急にフォロンの腕を引っ張って歩き出した。
「ちょっとコーティカルテ。急になんだよ」
転びそうになったのをどうにかこらえ、歩きながらフォロンが理由を聞くが、コーティカルテは答えない。
「そうですね。せっかく早いんだから、早く学校にいった方がなんかいいですよね」
代わりに、フォロンのすぐ横、コーティカルテとは逆側にペルセルテが当然といった様子で並んだ。だがこれはコーティカルテには面白くなかったらしく――
「む。別にお前に言ったわけじゃない。お前はもっとゆっくりしていいぞ」
ペルセルテにきつい視線をむけながら、コーティカルテがフォロンの左腕を抱きこむようにして引き寄せた。
「うわっ!」
またまたフォロンはバランスを崩して転びそうになるのを、ギリギリのところで持ちこたえる。
コーティカルテはその小柄な身体に似合わずかなり膂力が在るので――まあ精霊なのだから人間的な基準で推し量る事はあまり意味が無いが――彼女が本気になれば、フォロンは抵抗しようが何をしようがそのまま引きずられている事になるだろう。
「えー。どうしてそんな事言うんですか。みんなで歩いた方が楽しいじゃないですか」
彼の右腕を今度はペルセルテがぎゅっと引っ張った。
それを見てコーティカルテが眉を吊り上げる。
「ああ! お前、何やっているんだ! コレは私のだ! その手を離せ!」
「何言ってるんですか。先輩はみんなのモノですよ!」
「違う! 私のだ! 離せ!」
「ダメです!」
「離せっ!!」
「ダメ!」
コーティカルテの気の強さも大概だが――それとまともに張り合えるペルセルテというのもかなりのものではある。彼女の場合は気が強いと言うより、単に思い込みが激しいというか、一途で頑固な性格の様だったが。
「離せというに! この小娘がっ!」
「貴女の方が背丈は小さいじゃないですか!」
「そういう問題ではないっ!!」
「じゃあどういう問題ですか? 胸の大きさですか!?」
「ちょ、ちょっと二人とも、周りの人の迷惑になるから……」
コーティカルテとペルセルテに、コレだのモノだの言われながら引っ張られている張本人は、困った顔をしながらただただオロオロとしているだけ。
そんな三人を、まるで私は関係ありません、と言わんばかりの絶妙な距離分だけ離れて歩いていたプリネシカは、恥ずかしそうに俯いたまま深く大きな溜息をもらした。
そしてポツリと一言。
「……みんな、毎朝よく飽きませんね」
「おいフォロン、次は実習訓練だぞ。急げ」
口調は普段と変わらないが、楽しそうにコーティカルテがフォロンの服を引いて歩く。
「ちょっとコーティカルテ。急がなくても間に合うから、服を引っ張らないで」
そうは言いながらも、フォロンはコーティカルテの歩調に合わせて早歩きでついていく。人がいいのか押しに弱いのか。おそらくその両方だろう。
神曲学院の授業構成は基本的に、午前の前半部と後半部、午後の部の三単位で構成されている。
フォロンは前半部の授業を終え、後半部の授業を受ける教室へと向かっていた。
次の授業は実習訓練である。
実習訓練というと何かしら大仰な内容を想像しがちだが、そんなに難しい内容ではなく、単身楽団という、神曲を奏でる際に使用する装置を使っての、神曲の練習だ。
「それにしても……」
ふと、楽しそうに前を行くコーティカルテの背中に視線を移す。
神曲の実習訓練、ということは同じクラスの生徒全員の神曲を聞くチャンスである。もちろんクラスには、成績の悪いフォロンよりもずっとレベルの高い神曲を奏でられる人がたくさんいる。
(そりゃあ、精霊である彼女にとっては楽しみの授業だよな)
精霊たちは神曲を糧とする。
元より彼等は普通の動植物の様な餓死や枯死は有り得ないが――神曲を聞く事が出来れば彼等は力を得る事が出来る。もっともその得る力の大きさは神曲の種類や精霊の個体によって千差万別であり、定期的に神曲を聞く事が出来なければあっという間に力を使い果たして殆ど仮死の様な状態に陥る様な精霊も在れば、神曲を聞かなくても力を温存して小出しにする事で長期間活動し続ける精霊も居る。
ただ……彼等が超常の力を行使する際には必ず神曲が必要なのである。
神曲にしても、ただ奏でればいいというものではなく、同じような曲を奏でたとしても奏者によって、多くの精霊を惹きつけることもあれば、まったく見向きもされないことある。また神曲楽士の体調や気分も神曲には多分に影響するので、同じ神曲楽士でも常に精霊を召喚する事が出来るとは限らない。
また……引きつける深さ強さといったものも神曲楽士の格に影響する。
力の弱い下級精霊を百体引きつける事が出来る神曲楽士と、一体だけだが恐ろしく強力な上級精霊を引きつけ、専属の契約を結ぶ事が出来る神曲楽士とは、全く精霊使いとしてのスタイルが異なる。どちらが優秀という訳でもないのだが、一般的には前者の方が派手で分かり易い分、優秀とされてしまう風潮が在るのは事実だった。
神曲には幾つかの基本的な法則が存在するが、それ以外は全くと言って良い程に決まりが無く……神曲楽士は何千何万という試行錯誤の中で自分の神曲演奏のスタイルというものを造り上げていく。
より確実に、強く、多くの精霊を引きつけられる者こそが優秀な神曲楽士なのであるが、こうすれば良い、という固定的な方法は見つかっていない。
(あれ? でもよく考えたらコーティって僕と精霊契約を結んだんだから、他の神曲楽士の神曲ってあんまり意味無いんじゃなかったっけ)
神曲楽士と契約を結んだ精霊はその神曲楽士の神曲に馴染む。
よりその神曲楽士の奏でる神曲を効率的に糧と出来る様にと存在自体を微調整していくのである。その事によって同じ神曲を聞いてもより強大な力を発揮できる。これは逆に言えばその神曲を与えられない状態が長期間続けば、禁断症状を起こして暴走する危険性を孕むという事でもあるのだが。
特定の神曲楽士の神曲に馴染んだ精霊にとって、他の神曲楽士の神曲はあまり効率の良い糧ではない。言ってしまえば『不味い』のだ。契約を結んだ者の力量を遙かに凌駕する様な神曲楽士が神曲を奏でればまた別だが――授業に出てくる生徒達は未だ神曲の奏で方を覚えたばかりの連中である。そんな飛び抜けた演奏が出来るとも思えない。
コーティカルテは未だフォロンと契約したばかりなので、そうフォロンの神曲に合わせた調整が進んでいるとは思えないのだが……だからといって他の生徒達の神曲がそうそう彼女のお気に召す訳でもなかろう。人の形を採れる精霊は中級以上の精霊で、好みがうるさいのだと以前、授業で聞いた事がある。
とはいえ――
(誰が奏でるのでも僕のよりはマシか…)
フォロンは、コーティカルテと契約する事はできたが……実は未だに一体の精霊も召喚する事が出来ていないのである。
そのコーティカルテにしても、未だにしっかりと従えさせることができず、逆に振り回されているありさまだ。精霊を使役するのが神曲楽士であるのだから、今の彼は御世辞にも優秀とは言えない。
現実を改めて認識すると、気分が滅入る。
「はぁ……」
「ん? どうした?」
フォロンの溜息に気付き、コーティカルテが振り返る。
「あ、ごめん。なんでもない」
「んん? そうか。まぁいい。さてと、実習室に着いたぞ。早くワンマン・オーケストラを選んでこい。今ならまだ数が残っているから、少しでもいいのを選べ」
相変わらず不遜な態度で、腰に手をあて実習室の入り口をびしっと指差した。授業が待ち遠しくて仕方ないらしい。
「選べって……、鍵盤型のワンマン・オーケストラはギター型やドラム型ほど人気があるわけじゃないし、どのみち数はもともとだいぶ多めに用意されてるから大丈夫だよ」
単身楽団は奏者の好みによってメインに使用する楽器が違う。フォロンが一番得意としているのは鍵盤型の物だ。
「バカ者。同型でも、保存状態の良いもの悪いものがあるだろう。個人所有のものではないのだから、整備や扱いの善し悪しから大きな差が出て当然だ。神曲の善し悪しは必ずしも道具によって決まるものではないが、より良い単身楽団を手にした方が神曲としての完成度も上がる。だから、早く行って、一番よいものを取れ」
「わ、わかったよ……」
自分の演奏技術は、まだまだ楽器の些細な良し悪しが表に出るほどのレベルに達していないから、たぶんどれでも同じだけど……。そう思いながらも、フォロンは苦笑して返事をすると、実習室へと入った。
「お、フォロン。こっちの席空いているぞ」
ロッカーから単身楽団を取り出してきて、どの席に座ろうかとさまよっていたフォロンは、先に実習室に来ていたクラスメイトに呼び止められた。
一見すると非常に優しく穏やかな容姿の少年である。顔の作りの線が細く、麻色の髪を少し長めに伸ばしている為に少女の様な印象すらある。そういう点ではフォロンと共通点が多い様に見えるが……中身はかなり違う。
商家の出の彼はその優男然とした外見に似合わず、相当に図太い神経の持ち主で、気持ちの切り替えも早く、何かと要領が良い。
その上、神曲楽士としては専門課程へ上がる際の試験で、下級ながらも数十体の精霊を召喚してのけたという才能の持ち主である。
要するにフォロンとは殆ど正反対なのである。
だが――
「レンバルトのご指名とあれば、断れないよな」
笑いながらそう答えると、手を振っているクラスメイト――サイキ・レンバルトの隣の席に腰を下ろした。さらにその横にコーティカルテが座る。
座席は基本的に自由だし、数も人数分より多く置かれているので生徒ではないコーティカルテが座っても問題ない。
「相変わらすちびっ子も一緒か」
レンバルトが彼女の頭の上にポンと手を乗せる。
「ちびっ子じゃない!」
そんな彼の手を、コーティカルテがきつく払い落とした。子供扱いされるのがよほど気に障るのか、レンバルトをきつく睨みつける。
もちろん、レンバルトは悪気があってやっているわけではない。もともとの彼の性格からでる自然な行為だ。彼は誰にでも気さくに声をかける同じ調子で、精霊であるコーティカルテにも接しているだけだ。
この性格のせいで何かと友人の多い彼だが、何故かフォロンの事を気に入っているらしくよく声を掛けてきてくれる。フォロンとしては彼と一緒に居ると自分も積極的になれる様な気がして嬉しい。またいつも飄々としている彼が、実はかなりの努力家である事も知っている。彼のそういう点をフォロンはとても尊敬していた。
「ほほう、今日も元気いっぱいだな、ちびっ子!」
わざと子供に対する口調でレンバルトが言う。悪気はない様だが――明らかにコーティカルテをからかう気満々であった。
「貴様っ……! …………!」
身を乗り出して言い返そうとしたコーティカルテの口を、フォロンが慌てて抑えた。それでもまだ彼女は怒鳴る仕草を続けている。
「レンバルト……コーティカルテには冗談が通じないんだから、からかうのは止めてくれって言っているだろ?」
フォロンがそう言うと、コーティカルテは自分の口を抑えている彼の手を噛んだ。
「痛っ! もうなんだよ」
「お前はどっちの味方だ!」
小さな歯型がくっきりとついている手を痛そうにさすっているフォロンに、コーティカルテがくってかかる。彼女にしてみれば、フォロンは絶対的に自分の味方をしなければならないのだ。今の発言は裏切り行為に等しいのだろう。
「はははは。おまえ達二人を見ていると飽きないね」
「え? 何が?」
「いんや、なんでもない」
なにが面白いのかわからずフォロンが聞き返したが、レンバルトは意味ありげににやにやと笑ってそう答えただけだった。なんでもないとはとても思えない。
次にコーティカルテへと眼を向けたが、彼女は、
「別になにもおかしいことなどない」
と、ムスっとした顔で答えてそっぽを向いてしまった。
首を捻るフォロンの肩を、レンバルトがポンと叩く。
「気にするなって。ほら、先生がきたぞ」
「あ……」
騒いでいる間にすでに予鈴は鳴り終えていたようだ。
ラフな私服姿の講師は、出席簿などの荷物を教団の上に置くと室内を軽く見渡した。
「よし、じゃあ始めるぞ。号令」
号令係りの「起立、礼」という声に合わせて生徒たちが一斉に挨拶をする。
「次。出席とるぞ」
生徒たちががたがたと音を立てながら着席している間に、講師はテキパキと次の行動に移った。
非常に手馴れた動きだが、その講師にとって講師という職は副業に過ぎない。
彼の本業は神曲楽士である。
彼に限らず、トルバス神曲学院の講師たちは皆、現役の一流神曲楽士ばかりであった。
神曲は精霊を引きつけてこそ神曲と成りうるもの。
しかし、何かを惹きつけるものに特定のカタチがあるわけではないように、神曲にもまた、コレという明確な答えがあるわけではない。もちろん、音楽の基礎知識や単身楽団の使い方などは技術として学ぶことはできるが、一番重要な神曲に関しては、現役の神曲楽士たちの意見や経験談から生徒たちが自ら学び取っていくしかない。
このトルバス神曲学院の専門課程では、専門課程の授業内容は完全に講師達に一任されている。なので昔の徒弟制度の様に、『俺は教えない。お前等、俺から勝手に盗め』と時間中ずっと煙草を吹かしている様な講師も居れば、自前の神曲論や精霊学を延々と語る講師も居る。
無論、それらは極端な例で、多くの講師はそれなりに筋道だった授業をする。
ただ彼等の言う事は必ずしも一から十まで全部同じとは限らない。時にはある教師が他の教師の教えた事を否定する様な内容を口にする事さえ在る。それらはどちらも間違いではない。単に流儀が違うだけなのだ。
ただ……講師が全員口を揃えて言うのは一つ。
『とにかく演れ』。
数をこなさなければ駄目だというのはどの講師も必ず言う。
決まった形が無いからこそ、自分の中から何かを削り出す様に、膨大な数の曲を演奏して自分の神曲というものを見つけ出していかなければならないのだと。そしてあくまで講師達はその手助けを出来るだけに過ぎないのだとも。
「欠席者四人か。さすがに専門課程になると出席率はいいな。基礎過程だと新学期の半ば過ぎたあたりからバラバラと欠席者が増えていくんだが」
そう言って笑う講師につられてか、生徒側からも笑い声がちらほらと聞こえてくる。
(僕たち生徒側にとってはあんまり笑い事じゃないよなぁ……)
フォロンも愛想笑いはしていたが、ちっともおかしくなかった。
専門課程になって欠席者が減るのは、基礎過程の頃に休みがちだった者や成績の悪かった者は、専門課程に進級できず学院を去るしかないからだ。その手の人間が出席簿から消えれば、当然出席率は上がる。が、出席している人数が増えるわけではない。ただ、クラスの人数が減っただけなのだ。
ギリギリで滑り込むように進級したフォロンにとってはとてもではないが笑える話ではなかった。
「よしと。今日は前回に引き続き、精霊の力を制御する練習だ。制御できなければ当然、精霊の力を行使することはできんわけだから、まずはこの基礎の制御方をしっかりと身につけること」
神曲を奏でることにより、付近の精霊を惹きつけることができるのだが、それだけではまだ完全な神曲と呼ぶことはできない。
呼び寄せた精霊を強く魅了し、彼らの持つ力を奏者の願う通りに引き出すことができて初めて神曲として成り立つ。
今まで基礎過程では、まず精霊が耳をかしてくれる神曲を奏でる訓練をしてきたが、専門課程に入り、力の行使のための基礎訓練ということだ。
「まぁ簡単に言ってしまえば、力の行使っていうのは神曲を使って精霊に何かをしてくれっていうお願いみたいなもんだ。で、お前らは精霊に来てもらうためのお願いはできるようになったが、まだ何かをしてもらうためのお願いの、その仕方すら分かっていない。で、そのお願いの仕方っていうのが、まぁ力の制御ってとこだな。これで簡単なお願いを聞いてもらえるようになれば、その発展と応用でもっと複雑なお願い……つまり力の行使ができるようになる、ってことだ」
フォロンは教師の話をノートにまとめて書き込む。実習室には机がないため、ノートは譜面台に立てかけている。これが実に書きにくかったりもするのだが、不思議と不平不満は出ない。皆、それどころではないのだろう。
「口で言ってもわからんだろうから、さっそく始めるか。一人一人いちいち精霊を呼び出すところからやると時間がないから、まぁ呼び出すのは俺がやろう。ここにいる連中は進級試験を通っているんだから、呼び出すのは全員できるわな」
(うっ……)
心臓を締め付けられるような気がして、フォロンは一瞬びくっと身体を振るわせた。
「どうした?」
レンバルトが肘で軽く突付きながら、声をひそめて聞いてくる。
「あ、いや、なんでもないよ」
フォロンも小声でそう返した。
正直なところ、彼には精霊を呼び寄せる自信すらなかった。たまたまコーティカルテと精霊契約を結ぶことになり、そのおかげで専門課程へと進級できたのだが、彼自身、なぜ彼女と契約することができたのかよくわかっていない。
また、精霊は人間によって、持つ力に合わせて階級付けされており、基本的には力の強い精霊ほど神曲に対する好みが厳しくて契約を交わすことが難しく、逆に下級精霊たちはあまり選り好みをせず比較的簡単に力を貸してくれる。しかしフォロンはそんな下級精霊ですら今までろくに呼び寄せることすらできたことがなかった。
(はぁ……。僕なりに頑張っているつもりなんだけどなぁ)
フォロンの気の焦りなどにはお構いなく、実習は進んでいく 程度はさまざまだが、ほとんどの生徒たちはしっかりと講師が呼び寄せた下級精霊を従わせていた。
「よし、次、サイキ・レンバルト」
「はい」
名前を呼ばれレンバルトが立ち上がる。
「それじゃ、ちょっくら行ってくる」
床に降ろしていた単身楽団をひょいと軽く背負った。フォロンと同じく細身なのにやけにその動きは力強い。内面の自信の差がその仕草にも出ているかの様に。
「行ってらっしゃい。頑張って」
「あいあい。余裕」
レンバルトはくいっと親指を立て、講師の前へと歩いていく(余裕、か)
確かに、優等生であるレンバルトにとっては、これくらいの訓練は余裕だろう。
彼にはコーティカルテのような、専属の契約精霊こそ居ないが、代わりに複数の精霊を同時に誘引することができる。もともと専属契約を結ぶ精霊は非情に珍しく、また神曲楽士は状況に応じて適切な精霊を呼び寄せて力を使い分けられる方が重宝がられるため、神曲公社では多くの精霊をその場その場で使役できる型のダンティストの方が好まれる傾向が在る。
無論――単体での能力やその状況への対応力は契約精霊の方が遙かに高い。
しかしどちらかといえば契約精霊を少数従えている様な神曲楽士は『旧い』という認識が一般にも神曲楽士達の間にも在る。
禁断症状や暴走の一件からも分かる様に、精霊契約は人間にとっても精霊にとっても諸刃の剣だ。わざわざその様な真似をしなくとも、精霊は世界中に居るので、その場その場で適宜呼び寄せて使役しても大抵の作業はこなせるのだ。
かつては暴走を防ぐ為、師匠の神曲楽士が、弟子の神曲楽士に徹底的に――まるで複写するかの様に自分の神曲を教え込み、引退時には弟子に自分の契約精霊を承継させる、という様な事も行われていた様だが……あまりにも効率が悪いし、弟子の神曲楽士の可能性を限定してしまうという事で、これはもう殆ど行われていない。
精霊との付き合いは広く浅く――これが今風の神曲楽士の在り方である。契約を結ぶのではなく、その場で必要な数の精霊を呼び出して必要な力を引き出し、制御する。この方が結果的には便利なのである。
つまりレンバルトはとても真っ当な現代的神曲楽士ということだ。
「では」
素早く単身楽団を展開。
彼の単身楽団はギターのタイプである。もっともアコースティックのギターと違って音の増幅を担当するボディが必要ない為、単身楽団が展開した操作部は、まるでギターの骸骨の様に、必要最低限、弦を張り渡した棒状の部品と、右手首を添える為のパッドが在るだけだったが。 レンバルトの曲が始まる。
ゆっくりと。
次第に激しく。
レンバルトの神曲は精霊ではないフォロンにも何かしら響いてくるものが感じられる。
明るくて、とても力強い曲。
やはり神曲にはその人の性格がでるのだろう、とフォロンは思った。
彼の曲から感じる印象は、レンバルト自身から感じる印象と同じものだ。
しかし――聞いているとふと違和感を感じる事も在る。明るく、力強い中に、時おり顔を覗かせる鋭い何か。鋭く厳しい何かの感情。
レンバルトとは共に行動する事も多いのだが、曲から感じるような表情を見たことは一度も無い。
(やっぱりまだ学生なんだし、不完全な部分がそんな風に感じさせるだけなのかも……)
そう考えた。
それに、彼の性格が神曲を通して伝わってくるということは、それだけ彼の曲がいいものだということなのだ。一説には精霊は神曲そのものではなく、神曲の中に映し込まれた演奏者の心や魂の鏡像を糧とするとも言われる。その意味では彼の神曲は正しく神曲足り得るものであった。
(やっぱり、出来る人の奏でる神曲は違うんだよね)
「よし、もういいぞ」
精霊もそつなく従わせ、合格点をもらったレンバルトが席に戻ってくる。
「やっぱりレンバルトはすごいね」
「そうか? あれくらいならだいたい種の好む傾向を見れば誰でもできるだろ」
「そうなんだ。あはは」
出来る者にとっては簡単なことでも、出来ない人間にとってはとても難しい。フォロンはただ笑って答えるしかなかった。
「次、タタラ・フォロン」
「あ、はい」
フォロンが慌てて立ち上がる。
「ん? お前、専属契約の精霊がいるなら、別にそれでも構わんぞ」
「あ……」
講師にそう言われ、フォロンは単身楽団を持ち上げようとかがんだ姿勢のまま、コーティカルテを見る。
「ということらしいけど、どうする? コーティカルテ」
「うむ。行ってやってもいいぞ」
いかにも仕方なく、といった口調だが、なぜか口元は緩んでいた。さっきまでは退屈そうに授業をきいていたのに、フォロンには彼女の機嫌が何に反応しているのかさっぱりわからなかった。
「それでは、彼女でもいいですか?」
「おう」
コーティカルテは
「彼女でも」の
「でも」に反応して一瞬ムッとした表情をみせたが、珍しく文句を言わなかった。
フォロンは単身楽団を背負って講師の前にでると、早速それを展開し始める。
単身楽団は神曲を奏でるさ際の補助システムで、いくつもの楽器を一人で操れるようにまとめられている。演奏の基本部分は奏者が前もって作った封音盤によって行われ、全体の指揮は、奏者が最も得意とする楽器を使い他の楽器に伝達する仕組みになっていた。
フォロンは鍵盤を自分の手元に引き出す。それが彼にとって一番まともに弾ける楽器だった。ギターの方が手軽に扱えて上達も早いという話は聞くのだが、孤児院にはピアノしか無かったので、覚えられたのは鍵盤の弾き方だけだったのである。
(コーティカルテにお願いを聞いてもらう神曲か……)
フォロンの目の前に立ち、珍しくにこにこしている彼女を見る。
(口で言っても言う事を聞いてくれないのに、神曲で言うこときいてくれるわけないよなぁ……)
はっきり言って自信なんてまるでない。ただ、呼び出すことすらままならない他の精霊よりは、まだ契約を結ぶことができた彼女の方が望があるだろう、くらいの思いで彼女を選んだ。
そんな事を考えながら演奏を始める。
基礎過程の時からずっと、授業は休まず受けたし、ノートもしっかりととった。
教えてもらった通りにしっかりと組み立てた神曲。
うまくいかない理由なんてどこにもない。
ないはずだ。
しかし。
「おい、もういい」
演奏の途中で講師に止められてしまった。彼は首で、お前の精霊を見てみろ、とフォロンに促す。
「あ……」
言われた通り視線を移した先には、不満足をありありと見せ付けるかのように頬を膨らませてふて腐れているコーティカルテの姿があった。
「念のため、聴くが、『彼女の頬を膨らませる』って制御じゃないよな?」
講師が冗談交じりにそう言うと、後ろの方からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「いえ……、違います」
フォロンは視線を落として小さく答えた。
「まぁ、なんだ。評価は言わなくてもわかるわな」
「はい……」
専属契約を結んだ精霊すらまともに制御することができないのだ。評価がいいはずもない。
「お前な、俺たちの神曲の劣化コピーを演奏しても意味ないんだぞ? わかっているか?」
「え……。あ、はい……」
正直、あまりわかってはいなかったが、注意されたので反射的に答えてしまう。
そんなフォロンの心の内を悟ってか、講師がわずかに眉をひそめた。
「本当にわかったのか?
精霊は物じゃないんだぞ。お前だって何か人から頼まれる時に、いかにも誰かの真似をしながらお願いされたって、聞いてやろうとは思わんだろう?
誠意が感じられんしな」
「はい、そうですね……」
「それに、専属契約を結んだ精霊っていうのは、他の誰でもない、その契約主独自の歌を聴きたがっているんだから、余計にお前自身の歌じゃないと意味がないだろ」
「はい……」
ただ相づちを打つように、返事をする。
「まずはそこからだ。わかったか?」
「はい……」
「よし、じゃあもう戻れ」
「はい……」
うつむきかげんに、とぼとぼと歩きだす。
(何がダメなんだろう……)
劣化コピーと言われても、決して講師たちの神曲を真似て作っているつもりはない。
もちろん、教えてもらったことに気をつけて曲を構成するのだから、どうしても教えてくれた講師の神曲に何か近いものがあるのかもしれない。しかし、それを言い出せば他の生徒が奏でている神曲もみな同様に失敗しているはずである。
でも現実にはほとんどの生徒がちゃんと精霊を従わせ、出来なかったのはフォロンを含めごく一部の落ちこぼれたちだけ。
「くくっ。あいつ、契約精霊がいるくせに、ろくに神曲使えないなんて、変だよな」
「専属精霊といっても、あの変なちびっ子だろ?」
他の生徒の笑う声が聞こえてくる。声のトーンを下げて聞こえないように言っているつもりなのだろうが、効果はなかったようだ。
別にそれは気にならない。
自分でも何をやっても失敗ばかりという自覚はあったし、小さい頃からけなされるのには慣れっこだった。
ただ、自分の神曲がなぜうまくいかないのかという理由がわからず、それで気が沈んでいた。
(やっぱり僕には素質がないんだろうな)
小さい頃から歌うことが好きで、歌を仕事にできたら良いな――と思っていた。
そしてある晩、コーティカルテと出会い、生まれて初めて歌を褒められた。
その事が彼の道を決定づけたと言っても過言ではない。
歌う事を褒められたのはそれ程までに彼にとっては嬉しい事だった。
しかし……
(好きな事と、出来る事は違う……か)
孤児院を出た後、色々と働きながら神曲楽士を目指し、神曲学院に入ったが――自分には向いていなかったのかもしれない。
昔は歌うことがあんなに楽しかったのに、今ではたまに嫌になる時さえある。
そんな事を考えながら席に戻り、座ろうとした時……。
「おい、ちょっとお前、何するんだよ!」
席の前の方から怒鳴り声が聞こえてきた。その声を封切りに教室がざわざわと騒がしくなる。
「ん……?」
何事かと思い、振り返ったフォロンは絶句した。
コーティカルテが他の生徒の制御中だった球体状の精霊を、まるでマリつきのマリのようにぽんぽんとついていたのだ。
「なっ、ちょっと、コーティカルテ! 何やってるんだよ!」
慌てて駆け寄り、彼女の手から精霊を奪い取る。
「こいつが、フォロンは変なちびっ子精霊しか呼べないって言うから、こいつの制御する精霊はいかに立派なもんだろうと思って試してやっただけだ。確かにご立派な精霊だけあって、まるで本物のボールのように良く跳ねたぞ」
そう言ってニヤリと笑顔を作るが、目が笑っていない。
「コーティカルテ、ちょっと変って言われたくらいで、そんなことしたらダメじゃないか」
フォロンが諭そうとすると、彼女はキッと彼を睨みつけた。
「このバカ」
コーティカルテはフォロンの脛を蹴飛ばすと、先に席に戻っていく。
なぜ自分が蹴飛ばされなければならないのかわからず、フォロンは呆然と彼女の背中を見送った。
「おい、フォロン」
「は、はい」
講師に呼ばれ、ようやく我に返る。
「お前、授業中に騒いだ罰として、昼休みにここの掃除、しておけよ」
「え……?」
「返事はどうした」
「は、はい!」
フォロンは大声で返事をし、がっくりと肩を落とした。
神曲はまるで上手くいかないし、コーティカルテには蹴られるし、掃除当番はさせられるしと、踏んだり蹴ったりの実習訓練となってしまった。
お腹の虫が、鳴いた。
空腹である。当たり前だ――昼飯抜きなのだから。
しかしフォロンは早歩きで教室へと向かっていた。
食事をする時間なんてない。
午後の部の開始を告げる予鈴は先ほどすでに鳴り終えている。
「うぅ、お昼を食べる時間もなかったし、遅刻しそうだし……」
「お前がチンタラやっているからだ」
並んでついてくるコーティカルテが少しきつめの口調で言った。
「昼休みが潰れる原因を作った人には言って欲しくなかったなぁ……」
とほほと肩を落として呟くが、当の本人は聞いていないのか、はたまた聞いていても知らんふりをしているのか、何の反応も返ってこなかった。
彼の昼休みが潰れた理由は、もちろん実習室の掃除をしていたからである。
たいして広い教室ではないが、仮にも教室である。全部一人で掃除をするには広すぎる部屋だった。
それに、要領の良い生徒ならば適当に片付けて昼食でも食べにいけただろうが、真面目で要領の悪いフォロン。掃除だけで昼休みをまるまる潰してしまったのもしかたがないだろう。
今日の午後の部は、担当する新入生への授業をすることだ。
授業をする、といっても教壇に立って何かをしゃべるようなものではなく、一年がそれまでの授業でわからなかった点を質問し、それに専門課程の生徒である彼が答える、という形式のもの。
現役の神曲使いは数が少なく、どうしても生徒数を満足にカバーできないので、現役の神曲使いでなくても指導できる様なこまめな部分は、先輩が後輩を指導するというシステムになっていた。
半ば勉強会のようなその授業は、普段からそれほど多くの質問が出るわけではなく、基本的には自習時間のようなものでみな個別に神曲の練習などをしている。そのため少しくらいなら遅れてもさほど問題ないことが唯一の救いだ。
「それにしても、コーティカルテはすぐ怒りすぎだよ。ちょっとくらい悪口言われたくらいですぐに怒ったりしたらダメだよ?」
そういうと彼女はムッとした表情を見せ、言い返してくる。
「お前が怒らなさすぎるんだ。何を言われても馬鹿みたいににこにこ笑っているから、周りの者がつけあがる。最近は一年でさえお前をなめている奴が居る」
「僕の場合は、言われることの大半は本当のことだから、怒れないんだけど…」
フォロンが面倒を見ている新入生は、ペルセルテとプリネシカを含め、全部で五人いるのだが、この彼女たち以外の新入生はフォロンの頼りなさに気付き始めたのか、入学当初とはだいぶ態度が変わってきていた。
「そういう心構えだからダメなんだ。もっとダンティストらしく、堂々と構えていろ」
「うーん……」
コーティカルテの言い分もわからないではないが、自分の専属精霊にダメだしされている神曲楽士が堂々と構えるというのもおかしな話ではないだろうか。
そんなとりとめもない事を考えながら、ともかくフォロンは教室へと急いだ。
「ごめん、遅くなっちゃって」
謝りながら教室に入る。
この口癖のようにごめんと言う事が、新入生たちになめられる原因の一つになっているのだろう。
「フォロン先輩! よろしくお願いしまーす!」
ペルセルテが一人、元気良くあいさつをする。その隣ではプリネシカもぺこりと頭を下げるが、他の生徒たちはフォロンの事をチラッと見ただけで、すぐにまたそれまでやっていた作業に戻った。
いや、もう一人、フォロンの方を見て口を開いた生徒がいた。
「やぁフォロン。授業に遅れてくるなんて、君もけっこう偉いご身分になったねぇ。さすがは専門課程の先輩だ」
にやにやと笑いながらその生徒は言う。
「ダングイス、そう言わないでよ。遅れて本当にごめん。実習室の掃除をしなくちゃいけなくなって、それに時間がかかっちゃったんだ」
「おお、教室掃除ってことは、また何か失敗やらかしたのかい?」
何故かダングイスは嬉しそうに身を乗り出す。
「う、うん。そうなんだ……」
「そうかそうか。君も相変わらずだね。いやぁ、少し安心したよ。ちょっとドジなところが君のいいところだからね。そこが変わっていないことがわかってボクは本当に嬉しいよ。やっぱり僕みたいな天才は、君の様な凡人に憧れる処もあってね。天才の孤独って奴かな? とにかく嬉しいよ。はっはっはっは」
何がそんなに楽しいのかわからないが、彼はやたらと上機嫌である。
そんな彼をコーティカルテとペルセルテが二人してムスっと頬を膨らませ、じぃっと睨みつけていた。
新入生なのに馴れ馴れしいやつという印象を受けるが、実は彼、コマロ・ダングイスは去年までフォロンの同級生だった男なのだ。
しかし専門課程への進級テストに落ちてしまい、もう一度新入生として入学してきた。そして、何の巡りあわせか、こうしてフォロンの担当する教室に割り当てられたのであった。
本人に悪気はないのであろうが、一度基礎過程を受けているということから先輩風をふかしており、新入生の中でも少し浮いた存在になっている。
また実際に彼はフォロンよりも二つ年上なので、文句も言いにくい。
トルバス神曲学院は種別的には専門学校なので、入学者の年齢制限は非常に緩く、下は十三から上は三十まで、様々な年齢の『新入生』が居る。もっともさすがにあまりに生徒間で年齢差が在ったり、講師よりも年上だったりすると何かと面倒な事も起こるので、学院側も三十近い生徒はあまり受け入れたがらないが。
「それじゃあ、また何かわからないことなどがあったら聞きにきて下さいね」
フォロンが教壇のすぐよこの椅子に腰をおろし、またそのもう一つ隣の椅子にコーティカルテが座る。
「はい! 先輩ここ教えてください!」
席について数分もしないうちに、ペルセルテが作りかけの封音盤をもって駆け寄ってきた。
「まて、お前はダメだ」
そんな彼女に、コーティカルテが横から口を出す。
「えぇ!? ダメってなんですか!」
「ちょっと、コーティ……」
コーティカルテはペルセルテからフォロンを離そうと、片手で彼を押しのけた。そのせいでフォロンはすぐ後ろにあったホワイトボードに後頭部をしたたかに打ち付けて、悶絶する。
しかしそんな彼に構わずコーティカルテとペルセルテの二人は言い合いを続けていた。
「お前はいつも一人だけ質問にくる回数が多すぎるんだ」
「別にいいじゃないですか。他のみんなはあまり質問にこないんだし、もともとこの時間はそのためのものなんですよ?」
「ダメだ。お前は一日三回までだ」
指を三本だけ立ててペルセルテに突きつける。
「なっ、三回って、三回しか質問しちゃだめなんですか!?」
「というか、むしろ三回というのはお前がフォロンに話しかけていい回数だ」
「先輩とお話することは今関係ないじゃないですか! それにそれこそわたしの自由です!」
「いや違う。コレは私の契約主だぞ。私のだ。三回というのも最大限譲歩してやったんだ。ありがたく思え」
「いいえ! 先輩はみんなの先輩です!」
二人は額をつき合わせ、うぅぅと低いうなり声をあげながら鋭い視線をぶつけ合う。今にもスパークが飛び散りそうな迫力である。
と、不意にペルセルテは背後から羽交い絞めにされ、教壇から引き離された。
「ペルセ、他のみんなの迷惑になるから……」
ユギリ姉妹の双子の妹、プリネシカだ。彼女は周りに頭を下げながら、ペルセルテを引っ張って教壇の上から自分達の席へと戻る。
「ふふふ。私の勝ちだな」
そう言っていつの間にか乗っていた教壇の上で勝利の余韻に浸たる……のも束の間で、コーティカルテもまたフォロンによって教壇から引きずりおろされた。
「おい、何をする」
「コーティカルテも、騒いだらダメじゃないか」
「しかしだな……」
「ダメ」
「う……」
いつになくフォロンに強い口調で注意され、珍しくコーティカルテが言葉を詰まらせた。
さすがのフォロンも、さきほどの後頭部殴打の痛みに少し立腹気味だった。
とはいえこれで一件落着――はしなかった。
「いやぁ〜、フォロン。君もたいへんだねぇ〜」
せっかく収まった修羅場に、別の火種が来なくてもいいのにやってきた。
ダングイスは指先で気障に自分の前髪を弄びながら――あまり似合っていないのだが、本人は気付いていない――なぜかまたフォロンの横に並ぶ。
「君も、何か質問かな?」
「まさか。ボクが君に? はは。今さら質問なんてあるわけないだろう? 僕は天才だからねえ」
それじゃあ何しにきたんだよ、と思ったが、フォロンはあえて口には出さなかった。彼が何かにつけて自己主張せずにはいられない性格であることを、基礎過程の二年間でよく知っていたからだ。
「いやしかし。君もさ、こんな訳の分からないヘンテコな精霊に付きまとわれて、本当に大変だよね」
ダングイスはコーティカルテの頭の上に手を置こうとしたが、その前に振り払われてしまった。
行き場を失った手は、しばらく宙をさまよったあと、まるで何事もなかったかのように彼のポケットへと納まった。
「ヘンテコとはなんだ!」
けなされてコーティカルテが黙っているはずもなく、ダングイスに言い返す。相手をペルセルテからダングイスに代え、第二ラウンドが始まってしまった。
「だってそうだろう? 普通精霊っていうのは何か特別な力が使えるものなんだろ? 君は何かできるのかい? 形だけ人に似せて中級精霊っぽく見せているけど、ろくに羽根も展開した姿見た事ないぜ?」
「くっ……」
痛いところを突かれた。
「わ――私が本気を出せば、何だって出来るぞ!」
見るからに苦しい感じの台詞である。逆に言えばそれだけ彼女が追い詰められているという事であり――察しの良い者ならばここで退くのだが、ダングイスに限ってそんな気の利いた真似が出来る筈も無い。
むしろ――
「ほほう。じゃあその本気とやらを見せてみなよ」
ダングイスもムキになって文句を投げ返してきた。
「ぐぐぐ……、い、今は無理だが、適切な神曲さえ在れば私は無敵だ! 世界中のダンティストどもから、コーティカルテ・アパ・ラグランジェスを怒らせた者は屍すら残らないと怖れられて――」
「はい? なに、その見るからに作り話っぽいのは? 嘘をつくならもうちょっと頭使ったら?」
見るからに馬鹿にした様子でダングイスが言う。
「なんだとっ!?」
「はっ――ちゃんちゃらおかしいね。なんでダンティストたちが精霊を恐れなくちゃいけないんだよ。精霊ってのはダンティストに力を貸すのであって、彼らと戦うわけじゃないだろう」
これはダングイスの言う通りではある。
基本的に神曲楽士が精霊と戦う様な事態はまず無い。神曲楽士同士の私闘は法律で固く禁じられているし、その場合でも直接戦うのは精霊同士であって神曲楽士ではない。
暴走した精霊を狩るのを専門とする神曲楽士や精霊は居るが――それは本当に珍しい例だ。常識的に考えれば『世界中の神曲楽士に怖れられた』というのは言い過ぎだろう。
「ぐっ……。そういう貴様こそ、自分では天才とか言っていたが、その天才がなんでまた基礎過程をやり直しているんだ!」
「むむむむ」
コーティカルテの一言で、ダングイスの顔が全体的に引きつった。
これは無意味にプライドの高い『自称・天才』にとっては禁句であったらしい。こめかみのあたりなど、青い血管が浮き上がっている。
「コーティカルテ!」
フォロンが彼女を止めようとしたが、ダングイスによって割ってはいる機会を失ってしまった。
「君はいったい何を言っているのかな!? ボクが精霊を呼べないのではなくて、ボクの回りだけ精霊がいない、いわば精霊の真空地帯になっているんだよ。他のダンティストたちがボクの才能を恐れて、ボクの周りの精霊たちを独占しているからね」
もちろん、そんなことなどありえない。
しかし実際に彼は本気でそう思い込んでいるようだった。
「貴様なんて、どこの誰が恐れるというんだ」
「ぐぐぐ……、ボクはあのシダラ・レイトスを超えうる逸材だぞ!」
ダングイスの口癖が飛び出した。
彼はこの手の話で口論になると、必ずその全てが謎に包まれた都市伝説のような男の名前を口にした。
シダラ・レイトス。
伝説の<四楽聖>と呼ばれる超一流神曲楽士の一人である。
およそ十数年前にそういう名前の天才的神曲楽士が居たのも、彼と同等の神曲楽士が他に三名居たのも事実ではある。だが彼等について分かっているのは名前だけで、詳しい素性はおろか人相風体すら不明のままだ。また世間的に流布する彼等<四楽聖>の噂は、あまりにも突飛に過ぎて――かえって嘘臭い。
例えば上級精霊を十数人も契約して従えていたとか。
例えばその精霊達を使い、皇帝直々の依頼で、悪の神曲楽士を成敗したとか。
例えばその戦いで、山が一つ削り飛ばされ、湖が三つ干上がったとか。
例えば彼等はその才の散逸を惜しむ精霊達の力によって、不老不死になっているとか。
どれもこれも眉唾どころか殆ど絵空事だ。
恐らくは、謎めいた四人の神曲楽士達の存在を面白がった世間が、彼等の話を伝えていく内に適当なエピソードを幾つも付け加えていった結果であろう。いくらなんでもそれらの全てが事実だとは誰も信じていない。
だが……ひょっとしたらダングイスは信じているのかもしれなかった。
さもなければわざわざ事ある毎にシダラ・レイトスの名前を持ちだしてくる意味が無い。
「――シダラ?」
ふとコーティカルテの表情が怪訝そうに歪む。
「ああ。<四楽聖>のあの優男か。笑わせるな。私は奴と戦った事も在るが、貴様とは天と地程の差が在ったぞ。無論、貴様の方が下だ」
「嘘をつくな! だいたい、お前みたいなヘンテコ精霊があのレイトスと戦って無事に存在しているわけがないじゃないか! ウソツキ精霊め!」
「嘘ではない! 何故私が貴様に嘘なぞつかねばならんのだ! 貴様の方こそいちいち他人を引き合いに出せないと自分の程度も語れないとは、下らない男だな」
「何を! ボクのすごさを正当に評価できない愚民どものために、わざわざわかりやすい目安を出してやっているんだ!」
「正当の意味を辞書で調べてこい、しれ者が!」
「なんだと!? このヘッポコ精霊が!」
「だまれ、自意識過剰人間!」
「くそっ!」
「このっ!」
だんだん程度が下がっていく口喧嘩を横で聞きながら、フォロンは頭を抱えている。
「もう勘弁してくれよ……」
彼の力ではもはやどうしようもない。それはよく分かっている。コーティカルテは彼の言う事など聞いてくれないし、ダングイスには他人に合わせて折り合いをつけるという感覚そのものが無い。
結局――二人の罵り合いは、時間中、ずっと続いていた。
赤い空に赤い雲。
沈みかけの夕日が街全体を暖かい赤に染め上げている。
ビルの合間を縫ってきた光で、影の黒と夕日の橙色で交互に染められた並木道は、学校や仕事帰りの人々で賑わっていた。
「それにしても、あのダングイスというやつ、非情に気に食わんな」
腕組みをしたまま、コーティカルテが眉間にしわをよせながら呟く。どうやら彼女の怒りはまだ収まっていないようだ。
「本当ですよね。私もダングイスさん、あんまり好きじゃないです」
コーティカルテの言葉に珍しくペルセルテが同意する。
(いつもケンカばかりしている二人の意見が合うなんて、ある意味ダングイスってすごいやつだよなぁ)
二人を見ながらフォロンは漠然とそう思った。
プリネシカはいつも通り、ペルセルテのすぐ後ろをおとなしく歩いていた。
午後の部の授業が終わり、フォロンとコーティカルテ、そしてユギリ姉妹の四人は一緒に帰路についていた。
トルバス神曲学院のほとんどの生徒は自宅か、自分で借りたアパートなどから通学しているが、学院には小さいながらも学生寮があった。
寮は元々入れる人数も少なく、また建物自体が古い為にあまり生徒達には人気がなく、利用者の数はかなり少ない。住んでいるのはフォロンの様に経済状態に難のある苦学生か、さもなくば余程のケチや変わり者だけである。
「あいつ、この私にむかって、ヘンテコだの無能だの、まったく無礼極まりない」
「クラスでも、何かと威張っててすごく嫌な感じなんですよ」
「しかもあの根拠のない謎の自信が気に入らんな」
「あー、そういうところ、ありますよね。そういえば勝手にダンティストとしての名刺を作って持っていましたよ。最初のホームルームの時にもらいましたもん」
他人事とはいえ、一応元クラスメイトのフォロンとしては次から次にでてくる彼への苦情に、なんとなく辛いものを感じて苦笑いを浮かべている。
「あいつ、名刺なんて配っているの?」
隣に並んで歩いているプリネシカに尋ねると、彼女はコクリと頷いて、鞄から実物を二枚だして見せてくれた。
二枚、というのは、おそらくペルセルテが捨てるか落とすかしたものを律儀に拾って持っていたのだろう。
「これです……」
「隠れ天才ダンティスト、コマロ・ダングイス……」
名刺を読み上げて、フォロンはどうしようもなく恥ずかしい気持ちに襲われた。
なまじ二年間同じクラスだっただけに、彼のことはそれなりに知っている。知り合いのそういう恥ずかしい行為というのはなんというか、とてもきつい。
「あの手のバカは一生治らんな」
「でも、意外と本人は幸せかもしれませんよ?」
確かにフォロンから見ても色々と痛い奴ではある。
しかし、一応知り合いで、また曲がりなりにも二年間共に学んだ学友ともよべなくもない立場のフォロンにしてみれば、さすがに可哀想に思えてきた。
「二人とも。ダングイスは確かにいろいろ変なところはあるけど、根は悪いやつじゃないんだ。そこらへんで許してあげてよ」
そういうと二人は同時に振り返り、詰め寄ってくる。
「おい、お前が一番けなされているんだぞ。お前が一番怒れ」
「そうですよ! いくら元同級生でも、先輩に対してああいう態度はよくないです!」
二人の迫力に、フォロンはついついたじろいでしまった。
そして。
「いやね、えっと、その……。ごめん」
いつも通り謝ってしまう。
「うむ、わかればいい」
そう言うと二人はまたダングイスに対する文句を言いながら歩きだした。
相変わらず押しに弱い彼を見て、横でプリネシカがクスリと笑っている。
(まぁ、ダングイスには悪いけど、二人がケンカしなくなったのなら、いいか。毎朝通学しながらケンカされるの、困るし……)
フォロンは自分にそう言い聞かせ、納得することにした。
翌日の朝。
今日もまた、フォロンは目覚ましの時間よりも少し早めに眼が覚めた。
目覚ましで時間を確認し、布団を被りなおす。
ギリギリまで寝ることにした。
朝のこの、とても眠たい時にまだもう少しだけ眠れるというのは、非常に得したような気がする。
眠れることが幸せだと、強く実感できるわずかな時間。
しかし、その些細な幸せさえも、彼には許されなかった。
「フォロン! 朝だぞ!」
そんな声と共に、何か重たいものが勢い良く腹を叩いた。
「ぐぼぶあぅ……っ」
謎な感じの悲鳴をあげて、悶絶する事、しばし。
身を縮めて痛みが退いていくのを待ってから――ゆっくりと眼をあける。
もちろん視界に入ってくるのはコーティカルテである。
「やぁコーティカルテ。おはよう。今日も早いね……」
もう慣れっこになっていて怒る気力も無い。
「ああ。朝食だ。早く作れ」
もう少し寝かせてくれと言っても、まず聞き入れてくれないだろう。昨日の朝にすでに実証済みである。
こういうことに関しては、悲しいまでに飲み込みのいいフォロンは、あっさりと睡眠を諦めると身体を起こした。
「それじゃあ、顔を洗ってくるから、どいてくれ……」
顔を洗い終え、そのままキッチンに入り朝食の仕度を始める。
すぐ後ろのテーブルではコーティカルテが今か今かと出来上がりを待っていた。
今日も献立のメインは玉子焼きサンドである……。
これ以外を朝食に出すと、コーティカルテが怒るのだ。
「はぁ……」
フライパンの上で黄色く焼けていく玉子を見つめながら、フォロンが溜息を漏らす。
最初は深い考えなどなかった。たまたま、あの日の朝食に作ったのが玉子焼きサンドだったというだけ。
ただ、毎朝、朝食を食べる自分を暇そうに覗いているコーティカルテを見て、なんとなく
「食べる?」と聞いてしまったのが運の尽きだった……。
彼女はその時食べた玉子焼きサンドをひどく気に入ってしまい、その日から毎朝、フォロンに作れと言ってくる。
作らなければもちろん怒る。
違うものを作っても、もちろん怒る。
その上、彼女用に玉子焼きサンドを作り、自分用に別のメニューを作っても、なぜか怒る。
どうも彼女としてはフォロンと同じ物を食べないと気がすまないようだが、玉子焼きサンド以外には別に特に興味はないらしい。だからフォロンにも朝食には玉子焼きサンドを強制してくるのだ。
そして、押しに弱い彼がそれを断ることができるわけもなく……。
結果、その日以来フォロンの朝食は玉子焼きサンドとなってしまった。
(はぁ……。コーティカルテは趣味で食べてるようなものだからいいけど、ご飯を食べないといけない身としては、毎朝毎朝同じものはさすがにキツイかも……)
そんなフォロンの心の内なる悲鳴など、コーティカルテが気付くはずもなく……。
「おい、もう出来たか?」
「今、玉子焼いてるから、もう少し待ってね」
「うむ」
そう返事をするのはいいが、また数十秒もしないうちに……。
「よし、もう出来たな?」
「えっと……、ごめん。まだ……」
「むぅ」
こんなやり取りが、焼きあがるまで延々と続く。それが彼らのいつもの朝食風景だった。
「先輩、おはようございます!」
寮を出たすぐの道路には、すでにペルセルテとプリネシカのユギリ姉妹が立っていた。
「おはよう。ユギリさん。二人とも、早いね」
「セ・ン・パ・イ! また〜!」
ペルセルテがぷくっと頬を膨らませてフォロンに詰め寄る。
「あ……」
今日はすぐに気が付いた。
彼女たちは名前で呼ばなければいけない約束だった。
「ご、ごめん……。おはよう、ペルセルテ。プリネシカ」
少しむずがゆい気がしながらもちゃんと名前を呼んだ。
「はい!」
ペルセルテは満足そうに返事をする。今日もまた元気だ。その隣ではプリネシカがペコリと頭をさげた。
そんなユギリ姉妹を見て、コーティカルテが小さく舌打ちをしてあからさまに顔をしかめる。
コーティカルテとしては、彼女達と遭遇しないように毎朝微妙に時間をずらしてフォロンを連れ出しているのに、ユギリ姉妹、特にペルセルテに先回りをされてしまい、おもしろくないのだ。
「先輩。昨日の夜、先輩に教えてもらったやり方で、封音盤を直してみたんです。また今日の授業の時に見てくださいね!」
ちなみに誤解の無い様に言っておくと、別にペルセルテが夜にフォロンと会っていた訳ではない。ペルセルテから改めて電話で質問が来たので、フォロンが電話越しに答えたのである。ペルセルテは大層喜んでいたが、寒い廊下で長電話を強いられたフォロンとしては少々風邪気味である。寮には部屋毎の電話は無く、廊下に一台旧式の共同電話が在るだけなのだ。
「……先輩?」
「ああ……いやちょっと風邪気味で」
「そうなんですか? 大変、熱とかは――」
そう言ってペルセルテがフォロン近づくと、コーティカルテが反対側から彼の服を引っ張って離そうとする。
「うわわ!」
よろけたフォロンの袖を今度はペルセルテがしっかりと掴んだ。
「ちょっと、二人とも……」
綱引きの綱よろしく右に左にと引っ張られながら、フォロンが困惑げな悲鳴をあげるが、二人ともまったく聞いていない。
「コレは私のだ。許可無く触るな」
「何言ってるんですか! 先輩は風邪気味なんですよ? 熱を測らないと!」
「とか言ってベタベタと触るつもりだろう」
「おでこ触らないと熱が在るかどうかも分からないじゃないですか!」
「許さん。お前がコレに触れて良いのは三日に一度、指先だけだ」
「横暴です!」
フォロンを挟んで視線をぶつけ合う二人。
ダングイスの奇跡により二人の仲がよくなったと思っていた彼の読みは、どうやら甘かったようだ。
プリネシカは、やはり少し離れたところを、顔を赤らめてうつむきながら付いてきている。
まあいつもと同じ一日の始まりではあった。
「おい」
トルバス神曲学院の校舎に入り、ユギリ姉妹と別れたところで、コーティカルテが話しかけてきた。
「どうしたの?」
歩きながら振り返るフォロン。
「その、だな……」
いつも歯切れがよすぎるくらいの彼女が、今はなぜか言いにくそうにしている。
「ん?」
「名前なんだが……」
「名前……?」
「ああ。名前とは、呼び捨てという形で呼んだ方が親しい感じなのか?」
彼女はときどきこういう質問をする。普段当たり前のように思っていて、考えてもいないことだったりすると、急に聞かれてもわからない。
そういった質問をされると、コーティカルテもやはり精霊なのだなぁと思うときもあった。
「うーん、必ずしもそうとは言い切れないけど、そうだね、やっぱり『さん』とかを付けて呼んでいるよりは仲がいい場合が多いと思う。遠慮しない間柄っていうのかな」
「そうか……。では、名前を省略して呼んだりするのはどうなのだ?」
「省略って? ユギリさんたちがお互いのことをペルセ、プリネって呼び合ってるみたいなの?」
「ああ」
コーティカルテもあの二人の呼び方が頭にあったのか、間髪入れずに頷く。
「あれは、省略というか、あだ名みたいなものかな? あれもやっぱり仲がいい人同士で呼び合う場合が多いと思うけど」
「ふむ。そうか……」
そこまで聞くと、コーティカルテは腕組みをして考え込む。
「ならば、呼び捨てとあだ名はどちらが親しいのだ?」
「え……? うーん……、そうだなぁ……。あだ名、かなぁ?」
「そうなのか。なるほど」
そこでもう一度考え込む。
何か重大な事でも考えているのか、コーティカルテは眉間に縦皺を刻み、やたらと深刻そうな表情を浮かべている。怪訝そうに見つめるフォロンの前で、しばし彼女は我慢大会に出ている様な声でうんうんと唸っていたが――
「よ……よし」
どうやら何か結論が出たらしい。
「フォロン」
「は、はい? な――なに?」
思わず立ち止まって背筋を伸ばすフォロン。
瞬きする彼の前で、コーティカルテはひどく生真面目な口調で――何やら背後に轟音でも聞こえてきそうな迫力を背負って言った。
「お前には、その……と……特別にだな、私のことはコーティと呼ばせてや……」
「や、フォロン、おはよ」
コーティカルテが何かを言いかけたところで、二人の後ろからレンバルトが気楽な感じの声をかけてきた。
「あ、レンバルト。おはよう」
「今日も相変わらず二人セットだなぁ」
「うん、まぁねぇ」
苦笑してみせるフォロン。
あまり自覚はないが、コーティカルテは彼と専属契約を結んだ精霊なのだ。だから神曲を奏で、何かしらの指示をださないかぎり基本的にはどこを行くのにもついてくる。当たり前の事ではあるのだが――
(そっか。振り回されててあまり意識しなかったけど……)
こんなにも長く誰かと一緒に居るのは初めてだった。
孤児院でも、あれは単に同じ建物の中に身よりの無い子供達がたくさん居たというだけで、それぞれが『一緒に暮らす』という意識は薄かった様に思う。少なくとも一対一で互いを意識してはいなかった。感覚的には『家』といより『学校』に近い。
だがコーティカルテとの暮らしは違う。
誰かが自分の側に居る。居てくれる。
互いの顔を見ながら一緒に寝起きして同じものを食べる。
そんなささやかな行為の繰り返しが――楽しい。
フォロンがコーティカルテのワガママに根気よく付き合っているのも、彼女が自分の意志で彼を選び、彼の側に付き従う存在だからだ。要するにフォロンは誰かと一緒に暮らすのが嬉しいのである。
「そうだ。コーティカルテ、さっき何か言いかけてたけど、何?」
「バカ者。なんでもない。さっさと行くぞ!」
なぜか彼女はむくれ面で、ズンズンと先へ行ってしまった。フォロンと目を合わせようとすらしない。
そんな彼女の様子を見て、フォロンとレンバルトは顔を見合わせた。
「どうしたんだろ……?」
「さぁ……。今日はまだちびっ子呼ばわりしてないけどねえ?」
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、号令に合わせて礼をし終えると、フォロンは深々と溜息をついた。
「はぁ……」
隣の席では、コーティカルテがふて腐れている。
今日は午前前半部が実習の時間で、つい先ほどまで昨日と同じく神曲で精霊を従わせる訓練をしていた。
しかし、今回もまた、フォロンはコーティカルテを満足させる神曲を奏でることができず、講師が違うにも関わらず昨日と同じような注意をされてしまった。
神曲は精霊から力を借りるために奏でるもの。
今までの授業で習ってきた通りにしっかりと組み立てているし、演奏も失敗せずにしっかりとやった。
自分でわかる範囲ではおかしな点など一つも思い当たらない。
「何がだめなんだろう……」
「元気出せって」
落ち込んでいるフォロンの肩に、ポンと手が乗せられた。
「レンバルト……。ありがとう」
気を使ってくれる彼に笑顔で答えようとするが、どうしても元気のない笑顔しか作れない。そんなフォロンを見つめながら――レンバルトは首を捻った。
「フォロンは真面目だし、曲の構成もしっかりしていると思う。でも、何かが足りないのは確かなんだよ」
「何かって、何かな?」
すがる様な気持ちで尋ねる。
「わからない。わからないから何かなんだよ。何というか、フォロンの神曲は特に欠点とか見当たらないのに、何か物足りない感じがするんだよ。こう、ねぇ」
謎の身振りでレンバルトが表現しようとするが、彼自身、自分で言いたい事を把握できておらず、うまく伝えることができない。仕舞にはもどかしくなったのか両手で、まるで紙をくしゃくしゃにするかのように空気をかき混ぜた。
「あー。駄目だ。こう、喉まで出かかってるのに言えない感じ」
「ありがとう。具体的なことは正直よくわかんないけど、教えてくれて嬉しいよ」
「力になれなくて悪いね」
「ううん、気持ちだけでもすごく嬉しい。本当にありがとう」
フォロンは深く頭をさげた。横ではコーティカルテがずっと黙ったまま、そっぽを向いている。
そんな彼らを……二つほど前の列からちらちらと除いている二人組みがいた。
そのうちの一人は、昨日コーティカルテに制御中の精霊をボール扱いされた生徒である。
二人はこそこそと内緒話をしながら、時折フォロンを指差して笑っていた。
「あいつ、今日もろくに神曲を奏でられないでやんの」
「あれでよく専門課程に進級できたよな。なんか裏金でも使ったんじゃねぇの?」
自分の実習を邪魔された事を根に持っているのか、わざとフォロンたちにも聞こえるような声で話している。
「ばーか。あいつ孤児院の出だろ? そんな金があるわけないだろ」
「それもそうか。じゃあなんでだよ」
「進級試験って、精霊と契約できるかどうかしか見ないだろ? だから、たまたまそこら辺で見つけたあの変な精霊を拾ったおかげだろ」
「なるほど。変わった精霊もいるもんだな。まぁ、アレは確かに見た目から変わったやつだけどな」
二人で品のない笑い声をあげる。
その時――
「弱い犬程よく吼えるっていうけど。本当だねえ」
二人に真っ直ぐ視線を送りながらレンバルトが言った。
口調は冗談めかしているものの、彼の眼は全く笑っていない。
学年きっての才能の持ち主の眼光に気圧されたのか、二人は慌てて視線を逸らす。だが声の調子こそこちらに届かない程度に落としたものの、まだぼそぼそと顔をつきあわせてフォロンの悪口らしい事を言い合っている。
「フォロン、早く次の教室に行こう」
気にするな、とばかりに、レンバルトがフォロンの背中を軽く叩いた。
「ありがとう。でも別に大丈夫だから。ああいうのは慣れているしね」
実際、フォロンは多少は嫌な気持ちにもなるが、これといって怒っても傷ついてもいなかった。
「そっか。まぁでも、さっさと次の教室行こう」
「そうだね。次の授業は教室でだしね。コーティカルテ、行くよ……って、コーティカルテ?」
隣にいるはずの彼女がいつの間にか、いなくなっていた。
「およ? ちびっ子は?」
「おかしいなぁ、さっきまで隣でブスっとしていたんだけど……」
二人で実習室を見渡す。あれくらいの背丈で、あの眼を引く赤い髪ならばすぐに見つかるはずなのだ。
「あ。コーティ……」
彼女が二列ほど前の席付近にいるのが見えたので、呼びかけようとした。
だが次の瞬間。
コーティカルテは一人の生徒の顔を思いっきり殴りとばした。
殴り飛ばされたのは、言うまでもなくさっきからフォロンの悪口を言っていた生徒――つまり昨日彼女に精霊の制御を邪魔された生徒である。
「コーティカルテ! 何をやっているんだよ!」
フォロンは焦って立ち上がった。
「な、な、殴ったな! しかも、グーで殴ったな!? 精霊の分際で!」
殴られた男が、赤くなっている頬を押さえながら涙目でわめき散らした。
「ああ、殴った。それがどうした!? 貴様のその捻じ曲がった性格が直ってちょうどいいだろう!?」
コーティカルテは男を怒鳴りつけると、そのまま掴みかかる。
フォロンはコーティカルテの元へ駆けつけようとするが、すでに二人の周りには野次馬の人だかりができていて、近づくことができない。
「コーティカルテ! やめるんだ!」
仕方なく、人だかりの外から必死に呼びかけるが、彼女の耳には届かなかった。
「あれは、完全に頭に血が上ってるな。気持ちは分かるが、ちょっとまずい」
フォロンと同じく、人だかりの外から状況を見ていたレンバルトが、少しばかり顔をしかめる。
喧嘩は一方的にコーティカルテが押していたが、レンバルトの言う「まずい」とは勝ち負けではない。フォロンの精霊である彼女が、人間を相手に喧嘩を売ってしまったことがすでに問題なのだ。
「レンバルト、どうしたらいい!?」
あたふたとただ慌てているだけのフォロンの肩を、レンバルトが掴んだ。
「あのちびっ子はお前の契約精霊だろ。彼女に命令出来るのはお前だけ。だったらするべきことは一つしかないだろ? 幸いにもここは実習室なんだ。さっきまで使っていたワンマン・オーケストラだってある」
「あ……」
実習室以外の場所での単身楽団の使用は、原則的に禁止されている。
だが、実習室での使用は自由ということだ。単身楽団が使えるのであれば、あとは腕さえあれば神曲が奏でられる。神曲で彼女を従わせることができれば、ケンカを止めさせることも造作ないはずだ。
ただ、決定的な問題はその腕前である。
現に今までだって一度もちゃんと神曲で彼女を抑えられたことなどない。
「考え込んでいても何にもならない。今はやるしかないよ」
「う、うん。わかった。そうだね」
フォロンは席に戻り、まだロッカーに直していなかった単身楽団を背負った。そして手際よく展開していく。
真面目に何度も練習を繰り返していたフォロンの手つきは、成績上位者のレンバルトから見ても見事なようで、感心してその様子を伺っていた。
「お前はずっと頑張っていたんだ。きっと出来る。自信を持てばいい」
「ありがとう」
彼に励まされ、フォロンは演奏を始める。
(一度は彼女との契約に成功しているんだ。きっとできる)
そう自分に言い聞かせる。
(コーティカルテにケンカをやめさせるんだ)
その思いだけで奏でる。
しかし、無責任な野次馬たちで騒がしい教室では、雑音にかき消されて彼の演奏は聞こえない。
教室にいる人間でも、彼が演奏を始めたことに気付いた人は少なかった。
それでもフォロンは弾き続けた。そうするしかなかった。
不意に、雑音が止んだ。
コーティカルテが手をとめたのだ。
彼女は掴んでいた生徒の襟首を離し、既に興味も無いといった様子で相手を見てもいない。彼女はただ真っ直ぐ、野次馬の間からフォロンに向けて視線を送っている。
神曲成功か。
フォロンは束の間そう思う。
だが――
「…………違う」
彼女の呟きは小さく、しっかりとは聞き取れなかった。
「コーティカルテ……?」
異変に気付き、フォロンは演奏を中断する。
もしかしたら自分の神曲が成功したのだろうか、そんな期待を一瞬持った。
だが。
「そんなの神曲じゃない! そんなくだらない音の羅列を得る為に私はお前と契約したんじゃないぞ!!」
コーティカルテはフォロンにむかい、そう怒鳴る。
驚いた事に――気の強い彼女の瞳は薄っすらと涙ぐんでさえいた。
だがフォロンにはコーティカルテの怒りと涙の意味が分からない。
「ご、ごめん……」
彼には、ただそう謝るしかできなかった。
「おい! お前ら何を騒いでいる! 次の授業時間はとっくに過ぎているぞ!」
騒ぎをききつけてやってきた講師が一喝する。
野次馬たちは蜘蛛の子をちらすように退散し始めた。
そして――
「先生、フォロンくんの精霊が……」
扉の近くにいた生徒が講師に事情を説明し始める。
話を聞き終えた講師は、フォロンへと厳しい視線を向けた。
「フォロン、精霊を使ってケンカを仕掛けることは固く禁じているはずだ。お前の意志で仕掛けたのではないとしても、自分の契約精霊を従わせられなかったのであれば同じことだ。精霊を使役する神曲楽士は、精霊の行動にも責任を持たねばならない。それは分かっているな?」
「はい……」
「今回は教室掃除ではすまないぞ。あとで教務室までこい。いいな」
「はい……、わかりました……」
力なく、そう返事をする。
「ほれ、他の連中はさっさと次の授業へいけ」
講師に促され、教室に残っていた生徒たちがぞろぞろと移動を開始した。
「ちゃんと精霊を制御できないやつが専属の精霊を持ってるなんて、危なくてしょうないよな」
「そうだな。その上、その自分の精霊に神曲のダメだしされるようじゃなぁ」
そんなことを口々に話している。
いくらフォロンが悪口を言われることに慣れているとはいえ、今回のことに関してはさすがに辛い。自分の全存在を否定されたかの様な気分だった。
どうして良いのか分からない。
何が悪かったのか。
どうすれば良かったのか。
考えても考えても分からない。
彼はその場から動く事さえ出来ず、ただじっとうつむいていた……。
野次馬たちが好き勝手言いながら教室を出て行く中でただ一人、レンバルトだけはフォロンに視線をむけたまま、考え込んでいた。
(本当にフォロンの神曲は失敗か? 結果だけをみれば、ちびっ子はケンカをやめた)
どんな形であれ、精霊を従わせることができれば、それは神曲となりうるのではないだろうか。神曲楽士は結果のみが評価されるのだ。結果が伴わなければ神曲とは言えず、逆に結果をあげることができれば、過程は問題ではない。
社会が求めているのは優秀な神曲楽士ではない。求められているのは社会のために行使される精霊の力だ。
代価はすばらしい神曲に払われるのではなく、すばらしい力に払われる。
求められている力を行使する、という結果さえ残すことさえできれば、たとえ技術が未熟でもそれはすばらしい神曲楽士なのだ。
商家の一人息子として育ってきたレンバルトは、そう考えている。
周囲の評価に反して、彼は自分自身に神曲の才能があるとは思っていない。
ある程度の実力が在るからこそ見えるものもある。神曲楽士の中にもいわゆる天才と呼ばれる様な超一流の者達が居て、彼等はレンバルトにも理解しきれない程の豊かな才能のほとばしりを見せる。
だがその一方で努力を続け研鑽を積み重ねる事で天才の一歩手前までにじり寄る者達も確かに居る。レンバルトは自分を後者だと理解していた。だから彼は常に自分のやり方を検証し、必要なら節操なく変えて、最善の方法を考え続け――そうして結果を残す事で神曲楽士になろうとしている。そして実際に彼は結果を残し続けている。
だが……それはあくまで『凡人』の戦い方だ。
天才は何気なく、時には本人の自覚すら無く結果を残す。
レンバルトに言わせれば、結果こそが全てである以上、過程は問題ではない。
だとすれば『コーティカルテに喧嘩を止めさせる』という目的を果たしたフォロンの曲は神曲と呼ぶに値するものではないのか。
(それに……、あの雑音の中で、あいつの奏でた音色は完全にかき消されていたはずなのに……)
コーティカルテはフォロンの神曲を否定した。
それはつまり、彼女には彼の奏でた音色が届いていたということだ。
神曲は奏者の心の形を示すものだという。そして精霊は単なる音階ではなく、そこに託された奏者の心を糧として受け入れるのだという。
フォロンの奏でた曲がただの物理的な音の羅列にすぎなかったのであれば、そもそも彼女に届く事など無かったのではないだろうか。
(あれはやっぱり、神曲だったんじゃないのか……?)
レンバルトは首を捻りながら、実習室をあとにした。
トルバス神曲学院最上階――中央。
そこに学院長室が在る。
他の扉とは一線を画する重厚な造りの扉は、其処がこのトルバス神曲学院における最高権力者の居室である事を示していた。
どれだけ大きかろうと学校は学校――単なる学校組織の長であればその権勢などはたかが知れていると多くの者が考える。学校は基本的に内向きに閉じた世界だ。外部に対する影響力は少ない。当然その最高権力者も所詮は『子供』や『生徒』という限定的な相手にのみ君臨する猿山のボスに過ぎない……と。
だが学校組織と一口に言っても多種多様だ。
中には外部に対してもかなり大きな影響力を持つ者も居る。
例えば医大の学院長。彼等は当然ながら医療関係に大きな発言力を持っている。またその権威に多額の金銭が絡む事も少なくない。彼等が一言『これは良い薬だ』と言えばその薬品の売れ行きは桁違いに跳ね上がるからだ。
そして。
これはトルバス神曲学院の学院長も同じである。
数多くの神曲楽士を輩出してきたこの学院の最高権力者ともなれば、その発言には多大な影響力が在る。当然ながらその権威を利用して金儲けを目論む者や、政治的な駆け引きに巻き込もうとする者も居るだろう。場合によっては小国の国家予算並の金銭が動く可能性も在る。
トルバス神曲学院の学院長ともなれば、それだけの権勢を必然的に備える事になるのであった。
だが――
「学院長、聞いておられますか!?」
「あ。うん。聞いてます。聞いてましたよ。大丈夫だから、続けて下さい」
のほほんとした口調で学院長は言った。
神曲公社や帝国議会にも影響力を持つと言われるトルバス神曲学院の学院長。
その肩書きを持つ人物が、この、鼻先に眼鏡を引っかけて呑気に窓の外を眺めている青年だと知れば……脱力感の余りその場にへたり込む人間も居るかもしれない。
非常に美しい顔立ちではある。
仕草の一つ一つにも気品が感じられる。
だが――目の前に立つ学院講師の話を、適当な感じて聞き流しているその青年から、最高権力者としての威厳とか風格とか、そういったものは微塵も感じられない。制服を着せてしまえば生徒と見分けがつかないだろう。彼の前に在る黒檀の執務机も、同じく黒檀製の椅子も、学院長室に相応しい重厚な代物であるのだが、そこに腰掛けている青年の姿だけが周りから浮いている。そしてその事を本人は全く気にした様子も無かった。
はっきり言って彼の前に立っている中年で髭面の講師の方が、年齢といい容姿といい、余程、学院長らしい。お陰で何やら室内の風景は喜劇じみた不自然さまで漂う始末だった。
「それで、そのタタラ・フォロンという生徒なのですが、彼は専門課程に相応しい生徒とは思えません。精霊と専属契約を結ぶことができたので専門課程に進級させられたとの事ですが――私が見た限り、その力を制御できているとは、とても思えません」
「でも、制御法を身につけるのは専門課程で習うことでしょう?」
「そうですが、彼の場合はひどすぎます。精霊が契約主の意思とは無関係に、他の生徒を殴りつけるなど、前代未聞ですよ!」
「それはそうですねぇ。もともと、あの精霊ほど我の強い精霊というのも珍しいといえば珍しいとは思いますが……非常に興味を惹かれます。面白い。実に面白い。そもそも上級精霊の多くは――」
「学院長!」
話をそらそうとする学院長に苛立ちを感じてか、講師がテーブルを強く叩く。
「まぁ、そんなに熱くならないで。そうだ、私、今ポプリにはまっているんですけど、あの匂いをかぐと心が非常に安定しますよ。一つさしあげましょう」
「結構です!」
「まぁまぁまぁ。そう言わずに」
学院長は講師の激昂ぶりなどまるで見えていないかの様な気楽さで、机の引きだしから可愛らしい小袋を一つ取り出すと、それを講師へと差し出した。
さすがに目の前に、それも学院長から差し出されたものを拒む訳にもいかず、講師の男は不承不承と言った様子でその小袋を受け取った。
「あ……ありがとうございます……」
「いえいえ。少しは落ち着きましたか?」
「私はもともと落ち着いてます」
とてもそうは見えなかったが講師は何処か憤然とした口調でそう言った。
「あらら、そうでしたね。失礼しました」
学院長は相変わらず呑気な笑顔を浮かべている。
目の前の講師の反応を楽しんでいるのか、単に鈍いのかは分からないが……まあ尋常な人物でないのは間違いないだろう。
「それで、フォロンという生徒の話の続きなのですが……」
「そうでしたね。それで、あなたとしては結局どうしたいのです?」
「彼にはもう一度再テストをするべきだと思います」
「再テスト、ですか」
「はい。それに合格できないようであれば、退学も視野にいれてもう一度考えるべきです」
「進級資格の取り消しということですか? それこそ前代未聞だと思いますが……」
「彼の場合は特異過ぎます。そも中級以上の精霊を精霊契約で従えているにもかかわらず、他の精霊を召喚する事も出来ない、その上、契約精霊を制御する事も出来ない――こんな能力的に偏った神曲楽士など、存在して良い筈がありません。学院長も精霊の力を使い誤れば、どれだけ危険かおわかりのはずです。このまま制御できないのであれば、彼のためにも退学処置も止むを得なし、と考えます」
「他の先生は何と?」
「……意見が割れております」
講師は苦渋を滲ませる表情で言った。
そもそも神曲楽士達は個性が強い者が多い。中には破天荒とも言うべき性格の者も居り、いくら同じ神曲学院の講師とはいえ、統一的な意見を得る事は非常に難しい。
今回のフォロンの一件にしても、『偏っているからこそ面白い』だの『偏っているからこそ教育のし甲斐が在る』という意見も確かに存在するのだ。確かに偶然にであろうと何だろうとタタラ・フォロンがあのコーティカルテという精霊と契約した事は事実であり、だからこそ彼の潜在能力に期待する講師が居るのも分かる。偏っているというのであれば、その偏りを補正出来るだけの力量を身に付けた時、あの生徒は大きく化ける可能性も在るのだった。
しかし――
その一方で楽観的な可能性論で押し切るには危険すぎるのも事実である。
今回はコーティカルテは素手で相手を殴っただけだが……もし彼女が本気で相手を害するつもりであったなら、喧嘩どころの騒ぎでは無かった筈だ。
中級以上の精霊となれば、腕の一振りで様々な奇蹟を呼び起こす。力の在る精霊達にとって爆炎を呼び出したり、水を瞬時に凍結させたりといった作業はそれこそ朝飯前の行為である。その力が人間に対して破壊的に行使されれば、いとも簡単にそれは致命的な結果を生むだろう。
もしそんな事になれば……あのタタラ・フォロンという少年もお咎め無しという訳にはいくまい。精霊による殺人事件となれば、トルバス神曲学院も生徒や精霊に対する管理責任を問われるだろうし、そもそも神曲楽士達の社会的立場にも影響が出る。
苦言を呈しに来たこの講師とてタタラ・フォロンの事を嫌っている訳ではない。
だが人間的好悪とは別に、彼を含めて周りの人間達の安全と利益を考えれば、このまま放置する訳にはいかない――そう考えた上での、苦渋の選択なのだった。
「わかりました。彼の件はあなたに任せます。ですが、一応他の講師の方ともできるだけ話し合って進めてください」
「わかりました。ご決断、感謝します」
講師は一礼する。
それから彼は手元に在った書類を一枚めくって次の話題に移った。
「次は第二実習室のワンマン・オーケストラの買い替えに時期についてなのですが……」
講師の男がそこまで言いかけたとき、彼の背後で、重厚な樫の木の扉がコツコツと慎ましげな音を立てた。
「今日はお客さんの多い日ですねぇ。どうぞ、開いていますよ」
学院長がそう告げると、扉がゆっくりと開き、一人の男が入ってきた。
講師の表情に固いものが混じる。
新たな客は……何というかひどく威圧的な風体をしていた。
熊とも張り合えそうな、大柄な体躯に帯びるものは上下共に黒のスーツ。黒髪は綺麗に後方へと撫で付けられており、目元は黒レンズのサングラスで覆い隠されている。ネクタイさえ葬儀帰りの様な漆黒色。まさしく墨で描かれたかの様な黒尽くめの装いの中で唯一、胸元の徽章だけが金色に煌めいて存在を主張していた。
短剣と四花弁をあしらった意匠。
政府関係者――それも公安分野の者のみが身に付ける事の出来る代物だ。
「失礼します」
男は慇懃無礼な態度で学院長と講師に会釈する。
「ああ、君か……。先生、すまないけど、席をはずしてもらえるかな?」
講師は無言で深く頷いて部屋を退室していく。これからここで交わされる会話が一介の神曲楽士が聞いて良い類のものではないと既に彼は察していた。
扉が閉まるのを確認してから――学院長は黒尽くめの男へと視線を移す。
「さて。御用の向きは一体何かな? まさか定期連絡が二日遅れた程度で、帝室諜報局の副局長が、わざわざ小言を言いにこんな学舎にまで出向いてくるとも思えないのだけれど?」
「今回は一つ、お伺いしたいことがあって参りました」
学院長の冗談には取り合わず――男は無表情に言った。
「ほう。なにかな?」
学院長は笑みを浮かべたまま。
だが注意深い者ならば気付いたかもしれない。彼の眼鏡の奥で……その眼が何かを睨み据えるかの如く、わずかに細められたのを。
「<神霊>の封印が解かれたという情報が入りましたので、その確認とあなたのお考えをお聞きしたい」
「やはり、その件についてでしたか……」
学院長は中指でメガネのフレームを押し上げる。
男の位置からは見えないだろうが……その掌によって隠された学院長の口元は、なぜか笑みが浮かんでいた。
「それじゃあ、また何かわからないことなどがあったら聞きにきて下さいね」
フォロンはあまり元気のない声でそう言うと、教壇のすぐ横の椅子に腰を下ろした。そのもう一つ隣の椅子にはコーティカルテが不機嫌そうな顔を隠しもせずに座っている。
午後の授業の開始を告げる予鈴がなった。
新入生へのフォロンの授業が始まる。
実は、彼はこの時間の前、昼休みに午前中の件で教務課へと呼び出された。
結局コーティカルテがケンカを始めたのは精霊の暴走と判断され、そのことについてこっぴどく注意された上に、罰として今日の放課後に食堂の掃除、そして腕の未熟さを指摘され、神曲の補講と追試を基礎過程二年と一緒に受けることとなった。
しかし。
罰掃除よりも、追試よりも、補講よりも――他の何よりもフォロンの胸に深く突き刺さったのは、実習室でのコーティカルテの言葉だった。
『そんなの神曲じゃない! そんなくだらない音の羅列を得る為に私はお前と契約したんじゃないぞ!!』
くだらない音の羅列。
言ってしまえば、全ての神曲は音の羅列ではないのか。
そうではないとしたら、一体神曲はなんだというのだ。
わからない。
いくら考えても、わからない。
コーティカルテは最後の一線ではフォロンの事を認めてくれているのだと思っていた。
他の誰が否定しても、コーティカルテだけはフォロンを、彼の神曲を否定しないと思っていた。彼女が唯一彼の神曲楽士としての力を認めてくれたのだ。それが冗談や戯れ事であった筈が無い。精霊にとって契約とはそんな軽い気持ちで出来るものではない筈だ。
なのに――そのコーティカルテに否定された。
そしてその理由が分からない。
フォロンの内部では訳の分からない焦燥感ばかりが渦巻いている。
「やぁフォロン、聞いたよ。午前中は大変だったようだね」
ダングイスが嬉しそうに、気味の悪い笑みを浮かべながら話しかけてくる。
「うん……」
「本当に、いくら精霊を持ったといっても、出来の悪い精霊だと苦労するみたいだねぇ。ま……分不相応だったという事かな?」
普段ならコーティカルテが食ってかかってくるような言葉だったが、彼女は窓の外に眼を向けたまま微動だにしなかった。もう怒るのにも疲れてしまったのかもしれない。そう思うとフォロンは益々気が滅入った。
「え、先輩。何かあったんですか?」
事情を知らないペルセルテが尋ねてくる。
「実はね……」
少しばかり喋りにくそうに話し始めるフォロンの言葉を、ダングイスが遮った。
「ボクが説明してあげるよ。午前の授業の合間にね、なんと、こともあろうに、そこのヘンテコ精霊がクラスメイトに殴りかかったのさ。信じられるかい? 神曲楽士と契約した精霊がだよ!? いやあこの僕と言えども、さすがに驚いたね。その上、彼が止めようとして奏でた神曲に対して怒鳴り散らしたのさ、『お前の神曲はくだらない』って。世の中、自明の理とはいえ、言わない方が良い事もあるだろうにねえ。気配りの無い奴は嫌われるよ、本当」
彼はいつもにもまして雄弁であった。しかもまるで自分がその場に居合わせたかの様に得意げな口調で喋っている。最後の一言辺りは、レンバルト辺りが居れば『お前が言うな』と突っ込んでいた事だろう。
「ま――何にしても、ダンティストを目指している人間が、自分の契約した精霊にダメだしされていたら話になんないよなぁ〜」
お手上げ、と言わんばかりに肩をすくめてみせる。
この仕草がまたやたらと芝居がかっていて実に嫌らしい感じなのだが、恐らく本人は様になっているつもりなのだろう。
「あうぅ……。そんなことがあったんですか……」
驚くペルセルテの後ろで、他の一年生たちがクスクスと悪意の滲む調子で笑っている。どうやら彼らは先に噂を聞いて知っていたようだ。あるいは今の様な調子でダングイスが吹聴して回ったのかも知れない。他人の不幸は密の味と言うが……ダングイスはこういう話にだけはやたらと耳聡い処が在る。
「フォロン先輩、元気だしてください。誰にだって調子の悪い日はありますし、精霊にだって頭にきて誰かとケンカしちゃうことだってありますよ!」
「調子の悪い日ねぇ。いやぁフォロンくん。調子の悪くない日、というのがあるといいねぇ。まぁそっちのヘンテコ精霊が誰かとケンカしない日はいつまで待ってもこないと思うけどね」
ダングイスの言葉にペルセルテがムッとした表情を見せるが、言われた本人たちは何の反応も示さなかったコーティカルテは相変わらず外を見たまま動かないし、フォロンに至っては、彼自身ダングイスと同じ意見だった。
別に調子が悪いわけではなく、今現在のこれがもともとの実力なのだ。こんなにも失敗が続けばそう思うしかない。
そして、その程度の実力しかない自分では、コーティカルテが満足するような神曲は奏でられず、その結果、機嫌が悪くなった彼女が誰かにケンカを仕掛けてしまう……。
その繰り返しだ。
「先輩! あんなこと言わせておいていいんですか!?」
ペルセルテが身を乗り出して訴えてくる。
「うーん、まぁ本当のことだしね」
苦笑いを浮かべながらフォロンがそう言うと、いつも明るく元気なペルセルテの表情が悲しそうに曇った。
「ペルセルテ……?」
「先輩。先輩自身は知らないかもしれませんけど、わたしは知っています。先輩が、聞く者全てを惹きつけるような、とても素敵な歌を歌えるってこと」
「え……?」
普段とは違う、とても静かで、それでいて力強い言葉にフォロンは戸惑う。
「たとえ先輩が忘れてたって、コーティカルテさんが忘れてたって、私は覚えてます。絶対に忘れません。だって、今わたしが頑張ろうって思えるのは、先輩の歌に元気付けてもらったからなんですよ?」
「ぼくが……?」
「はい。先輩とコーティカルテさんが契約した時の歌……。あの歌を聞いていたときの気持ちを思い出すと、今でも勇気付けられるんです。ああ、人間にはこんなに素晴らしいものが作り出せるんだって――だから、頑張ろうって気持ちになれるんです」
「ペルセルテ……」
「だから、自信を持ってくださいね!」
最後ににっこりと笑った彼女の声は、もういつもの明るく元気なものに戻っていた。
「……ありがとう」
純粋に、元気付けようとしてくれている彼女の気持ちが嬉しかった。
しかし、同時にそれがとても辛かった。
(僕は君が思っているような先輩じゃないんだ……)
彼女は、フォロンとコーティカルテの契約を見て、彼には神曲楽士としての才能が在ると思い込んでいるのだろう。しかし、あれはフォロンから見ても、もう偶然としか思えない。何かの間違いでたまたま契約出来てしまっただけなのだと。
そうでなければ、落ちこぼれの自分が契約など結べるはずがない。
実力よりも高く評価されてしまうことの重圧が、フォロンの胸をきつくきつく締め付けていた……。
「お前なぁ。専門課程になってまで、ここに掃除に来るんじゃねぇよ」
そう言いながら、恰幅のいい中年のオヤジがモップを渡す。この学院の食堂を仕切っているコック長だ。やたらと口は悪いし特に優しくもないが、きっちりと物事の筋は通す人物で――フォロンは彼のそういう処を尊敬している。
「すいません……」
フォロンは頭を下げながらそのモップを受け取った。
「今回は罰掃除と聞いているから、バイトのやつらは先に帰したぞ」
「はい……」
「連中、『毎日罰掃除に来てくれればいいのに』なんてほざいていやがった。お前、こんなことばかりしていると、後輩どもになめられるぞ?」
「はい……。すいません」
「まぁ俺はちゃんとここを掃除するやつがいるなら、それでいいんだがな。掃除の仕方は……、いちいち説明せんでも、もうよく分かっているな」
「はい」
「よし。俺は調理場で明日の準備をしているから、掃除が終わったら呼んでくれ」
「はい、わかりました」
そこまで言い終えると、コック長は調理場へと入っていく。
フォロンはふぅと一息つき、すぐにモップがけを始めた。
午後の部の授業を終えると、フォロンは先に帰り支度を済ませ、その荷物を持って与えられていた罰当番をするために食堂へと来ていた。
すでに本日の営業を終えた食堂には、窓から夕日が差し込んできている。
生徒のいない学生食堂はただ無駄に広く、静かすぎてどこか寂しい雰囲気が漂っていた。
フォロンは黙々とフロアの端から掃除を進めていく。
その手つきはとても手馴れたものだった。あまり喜ぶべき事でも無かろうが。
(なんか少し懐かしいな……)
彼はついこの前まで、約二年間ここでバイトをしていた。トルバス神曲学院では元則としてアルバイトのたぐいは禁止されているのだが、何らかの理由で入学金や授業料が支払えない生徒への、奨学制度としてのバイトだけは例外だった。奨学制度を受けた生徒は、この食堂で働きながら学校に通い、卒業してお金を稼ぐようになってからそれまでの入学金と授業料を支払う。
ただアルバイトができるのは基礎過程の二年間のみで、授業数や校外実習が増える専門課程では続けられなかった。
孤児院出身のフォロンは、その制度を受けている数少ない生徒の一人だ。
(ここでも失敗ばっかりだったなぁ……)
バイト時代のことを思い出し、ため息を漏らす。
他の人に比べ作業が遅くて怒られ、料理を運ぶ相手を間違えて怒られ、掃除用のバケツをひっくり返しては怒られ……。
コック長に怒られた記憶ばかりが蘇る。
(ユギリさんたち――じゃなくて、ペルセルテやプリネシカと初めて会ったのもここだったなぁ。僕が彼女の服に料理をトレイごとこぼしてしまったんだよな)
基礎過程二年の終わり頃、当時まだ学院の生徒ではなかったペルセルテとプリネシカのユギリ姉妹はその日たまたま学院見学としてここにきていた。
そんな彼女に料理をぶちまけてしまったのが二人との出会いなのだ。はっきり言って最悪である。その事を思えば今のユギリ姉妹とフォロンとの関係は奇跡に近いものと言えるだろう。
(そういえば、コーティカルテと出会ったのも同じ日だったっけ)
食堂の椅子に座り、珍しいことに大人しくしているコーティカルテを見る。
思い出してみればまだ出会ってから一ヶ月程しか経っていないが、毎日のように顔をつき合わせているせいか、ずっと前から知っていたような気がした。
「どうした?」
視線に気付き、コーティカルテが声をかけてくる。
「あ、ごめん、なんでもない」
そう言うと彼女は怪訝そうに眉をひそめた。さっきからずっとフォロンが掃除をしている光景を見てはいるが、彼を手伝うという発想は無いらしい。まあコーティカルテらしいと言えばらしいが、主の役にも立たない契約精霊に何の意味が在るのか。
「フォロン。何か歌え」
コーティカルテが唐突にそんな注文をする。
まぁ彼女の行動はいつも唐突なのだが。
「え……?」
またいきなりの事に、掃除をしていたフォロンの手が止まった。
「なんでもいい。歌え」
テーブルの上に肘をついて手を組み、そこにあごを乗せている。何か考え事をしている、というよりは、退屈だと言わんばかりのポーズだ。
「歌えって、今掃除中なんだけど」
「掃除に口は必要ないだろう。やりながら歌え」
「まぁそうだけど、これでも一応罰当番の身だからさ。楽しそうに歌いながら掃除していたらいろいろとね、ほら、まずいだろ?」
罰当番なのに楽しそうにやっていたら罰にならないのではないか、と思う。いかにも真面目な彼らしい考え方だ。
「別に」
しかし、コーティカルテはあっさり否定する。いかにも彼女らしい答えだ。
「いや、まずいんだって」
「何がまずいのだ。歌いながらやろうと踊りながらやろうと、掃除さえ終わらせたらいいのだろう?」
踊りながらはさすがに掃除できないだろう……、と思ったが口には出さない。
「罰当番なんだから、ただ掃除をすればいいってわけじゃなくてさ、反省していることを態度でしめさないとダメだろ? 歌ったり踊ったりしているのを見たら、誰も反省しているなんて思わないじゃないか」
「反省なんて、自分の中でするものだろう? そもそもお前は何で反省させられているんだ?」
反省の原因を作った本人が厚かましくそう言ってのける。
「あのねぇ……。僕が教室で怒られている間、君も横で聞いていただろ」
「ん?」
コーティカルテは首を横にして考えこむ。一緒になって怒られていたはずだが、どうやらまったく聞いていなかったようだ。
時々、フォロンには彼女の性格がとても羨ましく思えるときがある。しかし同時に、絶対自分はこういう性格になれないという事も自覚させられた。
「……。君がケンカを始めても、それをとめられないのは僕の神曲が未熟だから反省しろって」
「なるほど。確かにそれは反省しろ」
さすがのフォロンも彼女のその物言いには少々かちんときた。
そして。
「あのね!」
フォロンはコーティカルテに向き直って言った。
「そりゃ僕は未熟だけど、罰当番までさせられているのは君にだって責任があるんだからね!」
強い口調でそう言い放つ。
コーティカルテは――驚いて眼を丸くしていた。
彼女はフォロンが怒ったところを初めて見たからだ。だが逆に言えばそれだけフォロンは彼女に舐められていたという事にもなる。何を言っても怒らない、何をしても怒らない、そんな主であるのだと。
「そもそもどうして君は僕と契約したんだよ!? ろくに神曲も奏でられない様な未熟者と契約してもしょうがないだろ? それとも僕が分不相応な立場に四苦八苦する様子がそんなに面白いのか!?」
まずい。
こんなのはただの八つ当たりだ。言うべき事ではない。心の何処かでそんな風に思う自分が居る。だが鬱積していた不満はここぞとばかりにコーティカルテに向かって噴出していた。
「わ……私は――」
フォロンに怒鳴られた事が余程に衝撃的だったのか……コーティカルテは珍しく途方に暮れた様な表情を浮かべている。
そんな彼女の様子を見てフォロンの意識が瞬間的に冷え込んだ。
「あ……いや……ごめ――」
しかし落ち着きを取り戻した彼の謝罪の言葉は、次の瞬間には厨房から飛んできた怒声に掻き消されてしまった。
「おいフォロン! 何を騒いでいるんだ! お前、自分が罰当番で掃除させられているってこと、わかっているのか!?」
「あ……、す、すいません!」
怒られ慣れている者の悲しさ――反射的に厨房に向かってそう叫び返し、頭を下げる。
どろどろとした怒りはすっかり消え、代わりに前にも増して重苦しい自己嫌悪感ばかりが募ってくる。
(僕って奴は……)
本当にどうしようもない。
せめてちゃんとコーティカルテには謝ろうと顔を上げて振り返る。
だが。
「コーティカルテ……?」
そこに紅い精霊の姿は無かった。
「はぁ……」
夜の校舎をうつむきかげんに歩きながら、フォロンが深いため息を吐く。なんだか最近、溜息ばかり漏らしているような気がした。
コック長にも長々と説教をされ、それからようやく掃除を再開した。しかし、いくら慣れている事とはいえ、普段は数人でやるところを一人でやらなければならないのだから、とても時間がかかってしまった。
精神的にも肉体的にも、もうクタクタである。
おまけに……契約のあの日以来、いつも側に居たコーティカルテの姿が見えない。
この一ヶ月余りの間、常に側に寄り添っていた紅い精霊の姿は、フォロンにとって既に当たり前のものとなっていた。だからこそ彼女が居ない身の回りの風景は妙に寒々しく、自分が独りである事をやけに意識させる。
ひょっとしたら彼女にも愛想を尽かされたのだろうか。
契約精霊にまで見捨てられる神曲楽士。
まさしく前代未聞だ。
「ふぅ……」
また一つ、溜息をついた。
すると――
「いけませんね。ため息ばかりついていると早く老けるらしいよ?」
「え……?」
唐突に掛けられた声にフォロンは立ち止まって辺りを見回す。
先程まで自分しか居なかった筈の廊下に、一人の青年が微笑を浮かべて立っていた。
長身痩躯に黒い外套を羽織り、鼻先にはまるで演劇の小道具の様な丸眼鏡を引っかけているその人物――
「あ……」
フォロンは彼の端整な顔に見覚えがあった。
当たり前だ。彼はこのトルバス神曲学院の学院長だ。フォロンに限らず、この学校の生徒ならば皆知っている。全校朝礼や何かの行事の際にしかその姿を見る事は無いが――親しみ易い飄々とした物腰の彼は、名物学院長として講師達は無論、生徒達にも人気が在った。
とはいえ――学院長は学院長。
つまりはトルバス神曲学院で一番偉い人である。一対一で向き合えば緊張しない生徒は居ない。フォロンの様な性格ならば尚更だ。
「お、おはようございます! じゃない、こんばんは……?!」
普段、学院内では時間帯に関係なく全て「おはようございます」であいさつをしている。しかしさすがに外はどっぷりと日が暮れている中でおはようございますと言うのもおかしい気がして、フォロンは言葉に詰まってしまった。
「ははは。はい、こんばんは」
そう言って学院長が優しくあいさつを返してくれたので、フォロンは少し落ち着きを取り戻す事が出来た。思えばこの学院長が挨拶のしくじり程度で怒ったりする筈が無い。いつものんびり微笑んでいる彼を見て『一度思いっきりぶん殴って、怒った顔をさせてみたいね』とレンバルトが言うくらいだ。
まあそれはさておき――
「えっと、君は確か、専門課程の一年生、タタラ・フォロンくんだったよね?」
「え、あ、はい、そうです!」
学院長が自分の名前を知っていたことに、少なからず驚きを覚える。
もしかして、学院の生徒全員の名前を覚えているのだろうか。そんな疑問がフォロンの脳裏に浮かぶ。
「あの……どうして僕の名を?」
「ああ。いや……実は私は暇な時には名簿を眺めるのが趣味でね。だから大抵の生徒の名前と顔は覚えているんだよ」
事も無げに学院長は言った。
だが――それがいかに凄まじい事か。
全学年を合わせると二千人近い生徒がいる。その上毎年新入生が入学してくるのだ。普通の人間にはとてもではないが覚えられる量ではない。
神曲学院の学院長を務めている以上は彼も一流の神曲楽士なのであろうが――それだけでも一般人から見れば充分に非凡なのに、この怪物じみた記憶力を見せつけられると、改めてこのトルバス神曲学院の長という存在がどれだけ凄まじい人間かが分かる。
同時にそれはフォロンにとって、己の身の卑小さを改めて思い知らされる事実でもあったのだが。
「それで、タタラくん。何か元気がないようだけど、何かあったのかい?」
学院長は友人に話し掛けるかの様な気さくな口調でそう尋ねてくる。
「え……。あ、その、どうしてですか?」
正確には『どうして元気が無い様に見えたのですか?』と聞きたかった訳だが、緊張のあまり言葉がうまくまとめられない。
「どうしてというのは、何故元気がないように見えたか、ってこと?」
「はい、そうです。すいません……」
「あはは。それはね、溜息をつきながら歩いているし、私が反対側から歩いてきたのにも気付いていないみたいだったからね。普通じゃないっていうことはすぐわかるだろう?」
「そ……、そうですね」
確かに、言われてみればいかにも落ち込んでいますといった雰囲気で歩いていたのだろう。
元々フォロンは気持ちが顔や態度にはっきりと出る方である。だからレンバルトや先輩のユフィンリーなどと賭け札遊びをやると、いつもこてんぱんに負ける。彼等に言わせると『フォロンの顔を見ていると手にした札一枚一枚の種類まで分かる』そうだ。
「それで、何があったんだい? こんな時間まで校舎に残っていたこととも何か関係しているのかな?」
そう言って微笑みかける。
フォロンは緊張が薄れるのを感じた。不思議な感覚である。どうもこの学院長の周囲には相手の緊張や警戒を解く独特の空気が漂っているらしい。
「その、実は……」
最近、先生には同じ指摘ばかりされていること。
コーティカルテのケンカが元で、昨日は実習室、今日は食堂の掃除をさせられたこと。
そして、その全ての原因となっている、自分自身が神曲をうまく奏でられないということ……。
学院長は笑顔のままうんうんと相づちを打ちながら聞いている。ひどく気楽な、世間話でも聞くかの様な態度である。だが変に大袈裟に反応されてもむしろ気後れする。少なくともフォロンは学院長のそんなざっくばらんな態度が有り難かった。
「なるほど」
最後まで聞き終えると、一際大きく頷いて言った。
「つまり今一番悩んでいるのは何度やっても上手く神曲が奏でられないことなんだね?」
「はい……。その、これは素質の問題ですし、先生に相談するようなことじゃないというのはわかっているんです」
「素質……ねえ」
そう呟いて学院長は少しだけ間を置く。
「問題はそこではないと思うんだけどな」
「え……?」
はっきりと断言され、フォロンは戸惑った。
自分の曲の構成は何度も見直した。授業で教わった点に関しては全てクリアしている。それでも上手くいかないというのは、もともと神曲を奏でる素質がなかったのだ、そう思っていた。
「素質ということを言うなら、君は少なくともそれを持っているはずだよ。なぜなら、君は一度彼女と契約するときに神曲を奏でたのだから」
それはその通りかもしれない。
だが、それならばたった一度しか神曲を奏でられなかった事実をどう説明するのか。一度しか神曲を奏でられない――そんなものが素質と言えるのか。繰り返しそれを可能とするから素質なのであって、一度しか出来なかった場合は『偶然』や『間違い』の部類に属する出来事ではないのだろうか。
「でも、それはきっと何かの間違いで…」
「間違いで精霊が契約を結ぶとでも思っているのかい? 精霊達にとって神曲とはそんな安っぽいものではないよ」
「あ……」
学院長の声はとても穏やかで優しいものだったが、その言葉はフォロンの胸に鋭く付きささる。
神曲は精霊の力の源。それをより多く得る為に不自由を覚悟で特定の神曲楽士と専属契約を結ぶ――それが契約精霊達だ。彼等にとって神曲とは自分の在り方さえ変えるものである。自分好みの神曲を手に入れるという事は、精霊としての格を一段挙げてしまう程の効果が在る。
そんな大切なものが、間違いや気まぐれでどうこうなるものではない。
ならば、コーティカルテと契約することができた時の神曲は、少なくとも彼女にそうした決断を下させるに足るものだったはずだ。
「在るものの量を見間違う事は在るかもしれない。でも無いものを在る、と錯覚する事はまず無いよ。精霊が、神曲楽士の才に対してならば、尚更の事だ」
つまり、神曲楽士の素質という意味では、決して欠如している訳ではないのだろう。
しかし、ならばなぜ今の自分は神曲を奏でられないのだろうか……。
「それじゃあ……、なんで……」
自分の神曲がなぜ上手くいかないのかわからず、フォロンはうつむいてしまう。そんな彼の頭を、学院長が優しく撫でた。
「きっと、原因は君自身の中にあると思うな」
「僕の中に……?」
言葉の意味を理解しきれず、フォロンが聞き返す。
学院長は相変わらず、静かに微笑んでいる。
「君は、何を想い、何のために神曲を奏でるんだい?」
「え……?」
フォロンはその問いに、すぐに答えることができなかった。
神曲楽士が神曲を奏でるのは、精霊の力を借りるためではないのだろうか。
しかし、学院長がそんな単純なことを言っているとはとても思えない。そうすると、他に何か理由があるということなのだろうか。
必死に思考をめぐらせるが、答えはでなかった。
困惑して更に俯いてしまうフォロン。
だが――
「ああ、いやいや、今すぐに答えなさいという意味ではないよ。ただその事が分かれば案外簡単に壁は越えられるのではないかと思うんだよ」
「は……? はあ……」
「さてと、ちょっと話し込んでしまったね」
学院長がそう言ってフォロンの肩をポンと叩く。
「私もそろそろ学院長室の方へと戻らないといけないので、この辺で失礼させてもらうよ」
「あ、はい。引き止めてしまってすいませんでした」
「気にしなくていいよ。それじゃあ、気をつけて帰ってね」
学院長は背中越しに手を振りながら歩いていった。
「はい、ありがとうございました」
その背中が見えなくなるまで、フォロンは頭を下げていた。
寮に先に戻っているかとも思ったが――部屋の中にもコーティカルテの姿は無かった。
一人きりの部屋がやけに寒々しい。
食事はなんだかんだでコック長が賄いを出してくれたので済んでいる。
コーティカルテの事は気になったが――今、彼女が何処に居るのかフォロンには想像もつかないのだ。探しに出ようにも全くあてが無い。とりあえずこの部屋の鍵は持たせてあるので、その内ひょっこり帰ってくる可能性もある。時間も遅いし今日は勉強する気にもなれないので、フォロンはとりあえず寝てしまう事にした。
「何のために神曲を奏でるのか……か」
電気を消し、ベッドに入ったフォロンは、自分の部屋の天井を見つめながら学院長に言われた言葉を思い出していた。
神曲を奏でるのは、精霊から力を借りるため。
より強く、より多くの精霊から力を借りられる者が、より優秀な神曲楽士である。
だから、神曲を奏でるのは、みんな神曲楽士になりたいからなのではないか。
(でも……、じゃあすでにダンティストになっている人たちは?)
神曲を奏でる理由が、神曲楽士になりたいからということであれば、すでに神曲楽士である人たちは何のために神曲を奏で続けているのだろうか。
(それはやっぱり、仕事を続けなければ神曲楽士ではなくなってしまうからなのかな)
そう結論付けてみたものの、彼自身あまり納得がいかない。
神曲楽士であり続けるために神曲を奏でる。
今の考えではそういうことになる。だが、それでは何かとても殺伐としていて、寂しい気がした。
彼は自分が知っている神曲楽士たちの姿を思い出してみた。知っている、といっても、彼が見たことのある現役の神曲楽士は学院の講師たちだけなのだが、彼らは皆、一流の神曲楽士たちである。
(なにか……、違うんだよな……)
思い出してみて、漠然とそう思った。
何が違うのかをはっきりと言葉に表すことはできないが、強いていうならば、彼らの力強さだろうか。
力強さといっても、筋力的なものではなく、なにかこう彼らを見ていると何かが伝わってくるような気がするのだ。
もし、神曲楽士であり続けるために神曲を奏で続けているとしたら、そういうものは伝わってくるのだろうか。
いくら考えても、思考がループするばかりで、答えはみつからない。
(やっぱり、わからないよ……)
フォロンはもう寝てしまおうと思い、眼を閉じた。
今日は朝から少し曇りがちの天気だった。
雨が振るほどではなさそうだが、街を行く人々の中には傘を持っている人の姿もちらほらと見える。
「ふわぁ〜」
フォロンの大きなあくびを、バスの走る音がかき消していく。
トルバス神曲学院は都市の中心地区にあるため、その付近の道路はいつも車で溢れていた。
いつもの朝と同じくユギリ姉妹と共に歩む通学路。
見慣れた風景である。
だが――その中にコーティカルテの姿だけが無い。
その事についてペルセルテとプリネシカは何か気付いた様ではあったが、敢えて口に出してくる事は無かった。
「あ、フォロン先輩、大きなあくび。寝不足なんですか?」
眠たそうに眼をこすっているフォロンとは対照的に、ペルセルテは今日も朝から元気いっぱいだ。
「う〜ん、昨日ベッドの中でちょっと考え事しててね、それでついつい」
結局、フォロンは一睡もしていない。
ベッドの中で色々と考えていた事も在るが、結局コーティカルテが帰ってこなかった事も彼が眠れなかった原因の一つである。心配ではあったが愛想を尽かしてコーティカルテが出ていったのであれば、探すだけ無駄だろう。
「考え事ってなんですか?」
「えっと……」
一瞬、ペルセルテに
「何のために神曲を奏でるのか」という質問をしてみようとも思ったが、結局やめた。それは他人に聞くべき事では無い様に思えたのだ。ただ聞いて分かる事なら昨晩、学院長が教えてくれていただろう。
「たいしたことじゃないんだ」
「そうなんですか……?」
彼女は少し物足りなさそうな顔をしたが、それ以上は聞いてこない。
代わりに――
「そうだ。先輩先輩」
ペルセルテは急に眼を輝かせて話しかけてきた。
「どうしたの?」
「今日から基礎の実習訓練に入るんですよ!」
そういう彼女はとても嬉しそうだ。
もっとも実習と言っても実際に神曲を奏でる訳ではない。
神曲学院に入ったばかりの一年生にそれはいくらなんでも無理だろう。ただ単身楽団の操作や、発声練習といった神曲の演奏を支える幾つかの基礎技能は一年の内から慣れる様にと実習訓練が設けられているのだ。
「そっか……ペルセルテは、実習訓練楽しみなの?」
「もちろんですよ! だって、ダンティストになるために学院に来たんですから、早く神曲に挑戦してみたいです!」
「あはは。そうだよね」
神曲楽士になるため……。そのために神曲を奏でる……。
やはり皆そうなのではないだろうか。
他に何か理由があるのか。
他にどんな理由が必要だというのだ。
昨日からの悩みが再び頭をめぐる。
「先輩は、初めて実習訓練をした時ってどんな気持ちだったんですか?」
「――え?」
いつの間にか考え込んでしまっていたフォロンは、ペルセルテにそう問われて我に返った。
「先輩は初めての実習訓練、楽しみじゃなかったんですか?」
「あ、うーん、どうだったんだろう」
フォロンにとってはもう二年も前のことだ。
言われてみれば、確かに自分も楽しみにしていたような気がする。いや、楽しみにしていた。初めて単身楽団に触った時は、神曲楽士に近づけたような気がして、興奮のあまり夜も眠れなかった。
改めて思い出してみると、懐かしさのあまり自然と口元が緩んでしまう。
「いや、僕もやっぱりすごく楽しみにしていたよ」
「やっぱりそうですよね。って、今は楽しくないんですか?」
「――え?」
ペルセルテの言葉に、どきりとした。
「え、いや、そんなことはないよ」
とりあえずそんな風に言い繕う。
「そうですよね!」
ペルセルテは何か安心したように笑顔を見せる。
それに応えるように、フォロンも微笑んで見せた。
しかし……
本当に自分は、今でも楽しいと思っているのだろうか。
単身楽団の操作。神曲を奏でるという事。精霊を使役するという事。
それを自分は自分の中で肯定できているのか。
それとも――
『何のために?』
その一語が重くのしかかる。
結局――通学の間中、彼は考え続けていたが、答えは出なかった。
午後の部の授業も終わり、帰り支度を済ませた生徒達で賑わっている廊下を、フォロンはとぼとぼと歩いていた。
今日は一日、あまり授業に身が入らなかった。
ついつい授業とは違うことを考え込んでしまい、先生にあてられても何を聞かれたのかもわからず注意された。
実習訓練はいつも通りうまくいかず講師に怒られ、クラスメイトたちに笑われた。
午後からの一年の質問会では、質問にきたはずのペルセルテに、逆にどこか調子が悪いのかと心配される始末である。
このあと、さらに補講をうけなくてはいけないと思うと、常にも増して気が重たい。
いつもはコーティカルテの小言だの文句だのに辟易していたフォロンであるが、思い返してみれば彼女に振り回される事で、必要以上に深く沈み込む事が無かった様に思う。彼女が意識して憎まれ口を叩いていたかどうかは分からない――というかあれが地ではあるのだと思うが、それでも彼女の存在がフォロンに落ち込む暇や余裕を与えていなかったのは事実だった。
「おはようございます」
今回の補講用に割り当てられた教室の扉をあけ、フォロンはあいさつをしながら中に入った。
学院内でのあいさつは時間帯に関わらず基本的にみな「おはようございます」だ。
先に教室にきていた生徒たちも「おはようございます」と返してくる。
しかし、基礎過程の二年にとって一つ上のフォロンは当然見知らぬ人間だ。皆ひそひそと「誰だろう」と話し合っている。
フォロンにしてみても、一学年下の生徒たちと一緒に補講を受けなければいけないということもあって、非常に居心地の悪い気がしながら、教室の一番端の席に腰をおろした。
「はぁ……。やっぱり浮いてるよなぁ」
予想はしていたが、やはり実際に周りの反応を見ると恥ずかしい。
補講の開始時間はわりと遅めに設定されていて、まだ少し時間があった。おそらく掃除当番などを考慮してのことだろう。
フォロンは今日の授業の復習でもしようかと考えたが、あまりやる気が出なかったので止めた。
だからといって知り合いも居ないこの教室では話で時間を潰す事も出来ない。結局――何をする気にもなれず、フォロンはただぼんやりと座って教室の雑音を聴く事になった。ここのところコーティカルテに振り回されていたお陰で、安穏とした時間とは疎遠になっていた。たまにはこうしてただボーっとするのも悪くはない。
「なぁなぁ、アーグナの新しいアルバム、聴いた?」
ふと、前の席に座っている三人組の会話の中で知っている単語を聞き、フォロンは耳をかたむけた。
「あれってもう発売しているの?」
「もち、フライングゲット!」
「うわ、ずるい〜。俺の家の近く、発売日前に売ってくれる店ないんだよなぁ」
「え、なになに? アーグナのニューアルバム? 俺も昨日手に入れたよ」
人気音楽グループの話だ。前に一度、レンバルトから勧められて聴いてみたことがある。
全体的にかなり早いテンポの激しい曲が多く、歌詞の内容がまた過激な為に――性的な表現が結構あるのだ――年かさの『自称・有識者』には非常に評判が悪いのだが、そうした音楽の常で、若者には非常に人気が在る。
フォロンは特に好きでも嫌いでもないが、彼の感想ではむしろ高齢の評論家達が言う様に『乱暴なだけで風情も情緒も無い』様なものには思えなかった。確かに攻撃的な旋律や歌詞は多いのだが、むしろ音楽技能としては基本に忠実でトリッキーな演奏は少ない。そしてだからこそ耳に残り易く、若者達の間でも評判になるのだろう。
どの曲も途中に入るエレキギターがメインの間奏が全体の三割近くを占めており、やたらと早弾きを繰り返しているのが印象的だった。
まあ要するに曲の善し悪しではなく趣味や嗜好の問題だ。
そのアーグナーというグループも別に中年以上の人々に聴かせるために造っている訳ではなかろうし……好き嫌いというものは誰にでもある。
「今回のアルバムは今まで一番いいぜ。俺は感動した」
「そうなの?
アーグナってさ、前回のアルバム出す前にメンバー五人のうち、ボーカルも含めて三人も変わったじゃん? ぶっちゃけもう違うグループだよね」
「何言ってんだよ。あのグループはエレキギターの神様キロコのためのグループなんだから、キロコがいればもう十分アーグナなんだよ」
「そうそう。あの間奏のギター、カッコイイよな。俺さ、『俺のギターに聞き惚れろっ!』って言いながら神曲を弾きたいんだ」
「おお! それカッコイイな!」
「だろ!?」
フォロンは三人の話を聞きながら、妙に長かった間奏の理由を知ってなるほどと納得している。意外な収穫だ。これで、次にレンバルトに話を振られた時に、少しは話を合わせられるかもしれない。
「アーグナのアルバムって、いつもかなり売れているけど、どれくらい儲かってるのかな? ちょっと前にメンバーの一人がめちゃくちゃ大きな豪邸建てたって聞いたし、すごいよなぁ」
「確かに。でもぶっちゃけアーティストよりもダンティストの方が楽できていいって。アーティストはさ、メガヒットする曲作ったり、それをあっちこっち行ってライブしたりしなくちゃいけないだろ?
でもダンティストは適当に神曲弾くだけで精霊が大金がっぽり稼いでくれるんだから」
「うわ……。お前それ、なんか感じ悪いな」
「でもぶっちゃけ、みんなお金好きだろ? 俺、楽してお金持ちになりたいし。それに、メガヒットはすっげぇ才能ないとできなさそうだけど、ちょっと強力な精霊との契約なら運がよければできそうな気がするしなー」
「うははは。た〜しかに」
「そういえばなんか専門課程の一年に、そういう奴居るって聞いたぜ? なんか偶然か何かで精霊と契約交わした奴」
その台詞にフォロンの心臓がどきりとはねる。
言うまでもなく『偶然か何かで精霊と契約交わした奴』とはフォロンの事だろう。どうやらあの騒ぎの噂はこんな処にまで広まっているらしい。
フォロンは顔を真っ赤にして俯く。
まさか彼等も自分達の側で小さくなっている少年が件の専門課程一年とは気付いていないのだろうが――
「はーい。おはようございます」
ちょうどそこで、ガラガラガラと音を立てて扉を開けながら、講師が教室に入ってきた。いつの間にか補講開始時刻をすぎていたようだ。
前の席の三人組はおしゃべりをやめ、きっちり前を向く。
フォロンも姿勢を直し、ノートと筆記用具を机の上においた。
「全員、ちゃんといますか? それでは補習授業を始めます」
寝巻きに着替え、歯を磨いてから部屋へと戻ってきたフォロンは、そのまま倒れこむようにしてベッドで横になった。
「ふぅ。今日は疲れたなぁ〜」
上半身を少し捻ると、背中がぽきぽきと小気味良い音を鳴らす。
普段の授業に加えて、補講まで受けるというのは思っていたよりも疲れた。
しかも、その補講の内容はあまり役に立ちそうなものではない。基礎知識の授業で、もちろん神曲楽士になるためには知っておかなくてはならないものだが、普段から真面目にノートを取り、予習復習をかかさないフォロンにとっては、全部すでに知っているものばかりだった。
フォロンは実習授業の成績は飛びぬけて悪かったが、基礎知識の成績に関してはいつも上位に位置している。教師の一字一句を残らずノートに書き記す几帳面さがこういう処では役に立つのだ。
(技術面や知識に関しては問題ないはずなんだもんなぁ。やっぱり学院長の言っていた、何の為に神曲を奏でるかっていう事を考えないといけないのかな)
そのことについて思考をかたむけるが、昨日と同じでやはり答えは見つからない。
(そういえば、補講を受けにきていた子たちは、何の為に神曲を弾いているのかな)
なんとなく、そんな事が気になった。そして、なんとは無しに聞いていた、前の席に座っていた人たちの話を思い出す。
(俺さ、『俺のギターに聞き惚れろっ!』って言いながら神曲を弾きたいんだ)
彼の場合は、ギターの腕前を見てもらうため、だろうか。
演奏技術に自信があるのなら、その腕前を見てもらいたいと思うのは自然なことだと思う。
(俺、楽してお金持ちになりたいし)
確か、もう一人はそんな事を言っていた。
彼はそのまま、お金持ちになるため、だろう。
シンプルで非常にわかりやすい理由だ。
二人とも別々の理由で神曲を奏でているが、自分とは違い、その理由がはっきりとしている。
やはり、ただ神曲楽士になりたいから……、という理由ではダメだということなのだろうか。
(あ……、でも、二人とも補講を受けているということは、神曲ができていないんだよね?)
その事をすっかり忘れていた。彼らは自分と同じく、神曲を奏でるには何かが足りない側の人間だ。
未だ基礎課程ではあっても、二年になれば実際に単身楽団を使って神曲を奏でる事になる。レンバルトなどは二年の頭ですでに下級ながらも数体の精霊を短時間で召喚して教師を驚かせたものだ。通常は延々と神曲を奏でてようやく、下級精霊を一体召喚出来るのが関の山なのである。
(必要なのは、はっきりした理由ではないってこと……? 逆に、僕と彼らに共通して欠けているモノって、なんなんだろう……)
考えれば考えるほど深みにはまっていってしまう。
結局、朝方まで思考のどうどうめぐりをするはめになってしまった。
昨日とはうってかわり、空は綺麗に晴れ上がっていた。
暖かな日差しがぬくぬくと温かくて、とても気持ちがいい朝だ。
しかし……。
眼の下に大きな隈を二つ作り、あくびを噛み潰しながら歩いているフォロンには、そんな朝の気持ちよさを感じる心のゆとりはなかった。
逆に、寝不足で充血した眼には、強い日差しがちくちくと痛い。
「先輩……、今日も眠たそうですね。大丈夫ですか?」
ペルセルテが心配そうにしている。
「うん。ただの寝不足だしね……」
「また考え事ですか?」
「うん。昨日はうっかり朝方まで……」
そう言って、フォロンはまた一つ欠伸をした。一瞬でも気を抜けば、歩きながらでも眠ってしまいそうなほど眠たい。
「うわぁ……、朝方まで起きていたんですか。それでよく今朝起きられましたね」
「いや……なんか朝方、部屋の扉がガンガン叩かれてさ」
「はあ……」
「大きな音で、しつこく何度も何度も。コーティカルテが帰ってきたのかと思って出てみたら、誰も居なくて。よく考えたらコーティカルテ、鍵は持ってる筈だから扉叩く必要なんて無いんだよね」
「…………」
ペルセルテは微妙な表情を浮かべて沈黙する。
その時になって、ようやくフォロンは彼女がずっとコーティカルテの話題には触れない様に気を遣ってくれていたのだと気付いた。
だが……
「……コーティカルテさんじゃないんですか?」
ふと思い付いたかの様にプリネシカが言ってくる。
「なにが?」
「その扉叩いた人……先輩を起こそうとして……」
「まさか。コーティカルテだったらそのまま入ってきて飛び乗ってくるよ。朝ご飯つくれってさ」
言ってフォロンは肩をすくめる。
「それに――」
コーティカルテが居なくなったのはフォロンを見限ったからだとすれば、彼女がわざわざフォロンを起こしに来る意味が無い。精霊契約について細かい事は分からないが、契約も初期の段階なら――つまり特定の神曲楽士の神曲に、精霊が自らを微調整し終える前ならば、暴走も起こらず、放棄し易いという話は聞いた事が在る。フォロンとコーティカルテが契約を行ったのは十二年も前の事だが、その後フォロンが彼女に神曲らしい神曲を聞かせたのはたった一度である。これでは禁断症状も――
(――あれ?)
そういえば。
コーティカルテは何故、暴走したのか。
フォロンの神曲に合わせて自らを微調整していなかったのならば、彼女は他の神曲楽士の神曲を聴く事も出来たであろうし、そもそも禁断症状を起こす筈が無いのだ。
そもそも再開するまでの十二年間……彼女は一体何処で何をしていたのか。
「――先輩?」
「あ……いや。何でもないよ。まぁとにかくコーティカルテではないと思う」
笑顔を取り繕ってそう言うフォロン。
だが――
「うーん……」
プリネシカは何か困った様な表情で首を傾げている。
フォロンは、自分が何か悪い事でも言ったのかと気まずさを感じたりするのだが、やはり何がいけないのかが分からない。
仕方なく話題を変える事にした。
「そういえば、ペルセルテたち、昨日から実習訓練始まったんだよね? どうだった?」
「はい! 初めてワンマン・オーケストラを背負って、ちょっと感激しちゃいました!」
「そうだよね。初めて持ったときって、ちょっと感動するよね」
「はい! でも、昨日は結局、ワンマン・オーケストラの展開と片付けでほとんど時間使っちゃったんですよね。フォロン先輩みたいに、ささっと展開できたらカッコイイのになぁ」
単身楽団にはいろいろな補助演奏装置が収納されていて、必要に応じて使うものだけを展開する。
その展開や収納をすばやくこなすには少しコツが必要で、初めて持った生徒は大抵、ペルセルテのように展開と収納だけで授業時間を費やしてしまう。
「まぁ、あれは慣れだからね。何回も練習しているうちにすぐ上達するよ」
「そうなんですか? でも出来れば早く上達したいです。ワンマン・オーケストラの展開や収納に使う時間が少なくなれば、神曲を練習する時間が増えるじゃないですか」
「そうだね」
確かに彼女の言う通りである。
別に単身楽団を早く展開しなければならないという決まりが在る訳ではない。だが当然授業時間には限りがあり、組み立てや収納をゆっくりやっていると、それだけで時間が終わってしまう。
フォロンが展開の練習を何度もやったのも同じで、少しでもたくさん神曲の練習ができるように、という理由からだった。
「そうだ。先輩、何かコツとかってありますか?」
「うーん、コツねぇ」
「はい!」
ペルセルテは期待したような眼差しをフォロンに向けてくる。特にコツと呼べるようなものは思いつかなかったが、彼女の期待を裏切らないように必死に頭をひねる。
「そうだ。ワンマン・オーケストラって、結果的に同じように展開する場合でも、そこまでの展開の手順っていろいろあるだろう?」
「あ、はい」
「あれでね。普段はみんな、一つ何かを展開するのに、最短で展開するやり方を選んでいるけど、実はその時に他の最短じゃない展開のやりかたも覚えておくといいよ」
「えっと、どういうことですか?」
ペルセルテが首をかしげて聞いてくる。確かに今のでは説明になっていないとフォロン自身も反省した。
「えっと、ごめん。たとえば、複数の補助楽器を展開するときにね、一つ一つを一番早い手順で展開するのもいいんだけど、例えば一つの手順をすこし遠回りさせることで、他の補助楽器も同時に展開できる場合があるんだ」
「え……? え……?」
今の説明でもうまく伝えることができなかったようで、ペルセルテは頭を抱えて考え込んでしまった。
「ごめん。あ、そうだ。よかったら今日の質問会の時に、実演しながら教えてあげようか?」
「あ、はい! お願いします!」
彼女の顔がぱっと輝いた。やはり実際に見たほうが分かりやすいのだろう。
「わかった。それじゃあ質問会の時にね」
「うへへ、やったぁ! プリネ、先輩が実演で教えてくれるって!」
ペルセルテはよほど嬉しかったのか、プリネシカの手をとってぶんぶんと振る。
「よかったね、ペルセ」
そんな彼女にプリネシカは優しく微笑みかける。これではどちらが姉でどちらが妹かわからない。
「じゃあ先輩! 午後の授業、楽しみにしていますね!」
「うん」
フォロンもここまで喜んでもらえると、ちょっぴり嬉しかったりもする。
コーティカルテの事や神曲の事で落ち込んでいた気持ちが少し晴れるのを彼は感じた。
昼休みも終わりに近づき、そろそろ生徒たちは皆午後の授業の教室へと移動を始めている。
フォロンもそんな生徒の一人だ。
ただし、他の生徒と違い、背中には単身楽団を背負っている。
「あー。結局昼飯抜きか……」
呟きながら彼は廊下を歩いていく。
というのも、今フォロンが背負っている単身楽団は、持ち出し許可をもらうのに大変苦労したのだ。
元則として基礎過程では実習室以外での使用、及び持ち出しが禁止されている。専門課程になると、教務課の許可をもらえば校内に限り持ち出し可能となっている。
それでフォロンは教務課へと許可をもらいにいったのだが、さすがに日頃の成績の悪さが響いて、非情に厳しい顔をされた。
生徒が単身楽団を持ち出した先でなんらかのトラブルを起こすと、本人が怒られるのはもちろんだが、貸し出しを許可した教務課の担当者も学院の上の人間から睨まれてしまう。
そのような中で、フォロンのような精霊を使っての問題を何度か起こしたことのある前科者に貸し出しを許可するということは、非情にリスクが高い。
だから、なかなかウンと首を縦には振ってくれなかった。
フォロンは単身楽団の展開の仕方を教えるだけで、神曲を奏でるために使うわけではないことを何度も説明し、ようやく持ち出しの許可を勝ち取ったのだ。
だがそのために今日もまた昼休みをまるまる潰してしまった。
彼の腹の虫が、ぐぅと分かり易い音で鳴く。
「ワンマン・オーケストラを持ち出したの、初めてだけどさ。これ、持ち歩くとやっぱりけっこう重いね」
実習室から教室へと移動するだけだが、正直少し息があがってきている。
「お前も人が善いね。普通そこまでしないよ」
隣のレンバルトが苦笑して言ってくる。
彼が担当する一年は無論、別の教室だが、途中までは一緒なので、こうして並んで歩いているのである。
「いや。でも見たいって言うから」
「そんなの『自分で考えろ』って突き放したらいいんだよ。何でもかんでもすぐに正解とかお手本見せてるとあんまり後輩の教育にならないよ。フォロンは人に気を遣いすぎ」
「そ……そうかな」
言われてみるとそんな気もする。ましてフォロンから見れば紛れもなく天才のレンバルトの言葉なら尚更だ。
「ま……可愛いからねえ、あの双子。瞳うるうるさせながら『御願い、先輩』とか言われたらそりゃ断れないだろうけどさ」
「へ……? あ、いや、別にそういう訳じゃ――」
「で。フォロンの本命はどっち? 金髪の方? 銀髪の方?」
耳元に口を寄せてレンバルトはそんな事を囁いてくる。
「ち、違う、違う、そういうのじゃなくて――彼女等は純粋に、この」
「またまた。『そういうの』じゃなかったらあんなに懐いたりしないって。っていうか本当に気付いてない? だったらフォロン、お前って結構ひどい奴だよ」
「う……そ、そうなの?」
「多分ね。朴念仁もたまには罪だよね。ま――いいけど。俺としてはちょっと銀髪の方がいいかなあと思ってるんだよね。だからフォロンが金髪の方といい仲になってくれたりするととても有り難いと思う俺が居たりする訳で」
「……あのね。そう思うなら自分で直接声掛ければいいじゃないか」
少し呆れて言うフォロン。
レンバルトはもてる。それはもう呆れる位にもてる。
何しろ成績優秀、容姿端麗、おまけに実家は大きい商家で育ちも良く、かといってのほほんと育てられてきた苦労知らずのお坊ちゃんという訳でもない。むしろフォロンよりも余程に男らしい側面を持っている。更に言えばそこまで好条件が揃っているのは本人も自覚しているであろうに、それを全く鼻に掛けない。
これでもてない筈が無いのだ。
実際、レンバルトに交際を申し込む女生徒は上級生から下級生まで何人も居た。だがレンバルトは特定の相手と付き合うという事を未だしていない。理想が高いのか、単に特定の相手に縛られるのが嫌なのか、フォロンには分からないが、どうも今の言動を見ていると前者であったらしい。
ともかく。
そんなレンバルトが声を掛ければ、プリネシカも無視は出来ないのではないかとフォロンは思う。
だが――
「駄目駄目。俺って実は恥ずかしがり屋さんなの」
「…………レンバルト。嘘は駄目だよ嘘は」
「うわっ。嘘つき呼ばわりされてるっ!? 酷いなぁ〜」
けらけらと笑いながらそう言うと、レンバルトはぽんとフォロンの肩を叩いた。
「じゃあ俺はこっちだから。ま――頑張って」
「うん。じゃあまた」
そう言って片手を挙げると、フォロンはペルセルテ達の待つ教室に急いだ。
「おはようございまーす」
あいさつをしながら、フォロンはペルセルテたちが待っている教室に入った。
「おはようございます! 先輩、本当に持ってきてくれたんですね!」
ペルセルテがフォロンの背負っている物を見て、感激とばかりに瞳を輝かせる。
いつもは感心無さそうにしている他の一年生たちも、今日はフォロンの方をまじまじと見ていた。もちろん、彼らの興味の対象はフォロンではなく、単身楽団なのだろうが。
「それじゃあ、ペルセルテ、朝言っていたことだけど……」
「はい!」
ペルセルテが教壇の正面に、膝をきっちり合わせて座る。すぐ隣にはプリネシカも並んでいた。
「たとえば、鍵盤だけを引き出すならこう……」
「おお!」
フォロンはあっさりと単身楽団から鍵盤を引き出したが、これだけでも慣れないとすぐには出せない。
「で、ここから単独で補助演奏装置も展開すると……」
彼の左上方の空間に、補助演奏装置の作動状況をしらせる画面が浮かび上がった。
単身楽団は単身とあるくらいだから一人で使うものなのだが、楽団とあるように複数の楽器の音を使うことができる。もちろん奏者が奏でるのは一つの楽器だが、それ以外の楽器は封音盤に記録しておき、それを必要に応じて音の高低、強弱、音色を調整する必要がある。そのために必要なのが奏者の周りに散りばめられた各種の補助演奏装置である。
「と、まぁこんな感じでこれだけの動作が必要だよね?」
「あの、まずそんなに簡単にできないんですけど……」
ペルセルテが申しわけ無さそうにそう言うと、いつの間にか回りに集まってきていた他の一年生たちもウンウンとうなずいた。いつもは何処かフォロンに対して小馬鹿にした様な視線を送ってくる彼等だが、今はやけに真剣な表情である。
「えっと……、そっか、ごめん。でも最初はゆっくりでいいからさ。練習すればすぐにできるようになるよ」
「はーい」
「それで、さっきの話の続きだけど、今度は鍵盤を少し遠回りの手順で出すよ」
今度は鍵盤部分を引き出す前に一度下へさげ、そこから引き出して、その後、先ほどと同じ高さに上げる。すると、最後の上へ押し上げる動作と同時に、補助演奏装置の画面が開いた。
「おお!?」
ペルセルテが驚いて眼を丸くした。他にも何人か、彼女と同じような反応を示している。
「最初の鍵盤を下げる動作と最後の上げる動作が、補助演奏装置を開く動作と連動しているんだ。だからこうすれば一つの楽器を展開する動きで複数展開できるだろう? 一見遠回りのように見えるけど、全体的にはかなり手順が省けているはずだよ」
「な、なるほど……」
「今のは僕なりのやり方だけど、他にも例えばいつもは左手でスイッチを押し込みながら、右手でパーツを押し出す場合とかでも、右腕の肘でスイッチを押し込みながらその手で引き抜けば左手はフリーになる。なら、その間に左手でもう一つの動作を同時にできるしね」
ペルセルテたちはふむふむとうなずきながら聞いている。
「あとは、自分の背の高さや手足の長さ、メインで使う楽器に合わせて、効率のいい展開のやり方を考えていくというのも有効的だよ。名前は聞いていると思うけど、僕の同級でサイキ・レンバルトって奴はまた全然違う方法で展開するし。彼はギターがメインの楽器だけどね」
「さすがフォロン先輩! とっても勉強になりました!」
「それならよかった」
フォロンも少しばかり満足そうににっこりと笑う。
「それじゃあみんな、席にもどって各自もとの作業に戻ってね。何か質問があればどうぞ」
そう言いながら、フォロンは単身楽団を降ろした。昼休みからずっと背負っていたせいか、少し肩がこる。
何はともあれ、無事説明を終え、椅子に座った途端。
「先輩、他には何と何が連動しているんですか?」
今まで一度も質問にきたことのなかった生徒が、早速質問を浴びせてきた。
彼以外にも何人か、同じ事を聞きたそうにフォロンを見ている。
これまでフォロンの事をダメな先輩としてしか見ていなかった彼らも、さっきの一件でフォロンに対する見方を変えたのだろう。
現金なものだがフォロンは単純に嬉しかった。
自分に出来る事がある。教えられる事がある。それで後輩達が喜んでくれる。それを自覚すると嫌な気持ちもそれで少しは和らぐのだ。
しかし――
「やぁフォロン」
そこへ、一人評価を変えようとはしなかった男が、その存在を割り込ませてきた。
「相変わらずその手の細かい作業は得意みたいだねぇ」
ダングイスである。彼はいつもの様に前髪を弄りながら近づいてくると、教壇の上に手を置き、フォロンに詰め寄った。
「それだけ出来る君が、なぜ未だに追試を受けなければならないのか、理解に苦しむよ」
彼の言葉をきいて、集まってきていた一年生たちの表情がわずかに曇る。
「おっと失礼。今の話はタブーだったのかな?」
今更になってわざとらしく手で口元を覆い、驚いてみせる。
「別に事実だし、隠しているわけじゃないから」
フォロンは苦笑しながらそう言った。
「そうかい。それは良かった。いやね、もし秘密にしているのだったら、他の一年に悪いと思ってねぇ。だってそうだろう? 神曲をちゃんと奏でることができずに追試を受けている先輩にいろいろ聞いても、ちゃんとした答えが返ってくるとは思えないじゃないか。いくら専門課程といっても、ヘンテコな精霊一体だけとしか契約できない、中途半端な神曲使いなんだからさ」
さすがに悪意が滴ってくる様な物言いに他の一年生達が表情を強張らせた。
そして――
「ダングイスさん! フォロン先輩に失礼です! 謝ってください!」
大声をあげ、ペルセルテが教壇に身を乗り出した。
「な、なんでこのボクが謝らないといけないんだい? ボクは本当のことを言っただけで、何も失礼なことなんて言っていないよ?」
「いいえ、言いました! フォロン先輩は中途半端な神曲使いなんかじゃありません! 立派なダンティストです! ダングイスさんはただ、自分よりも頑張っているフォロン先輩を認めたくないだけなんじゃないですか!?」
「なっ、なっ、なっ……」
頭に血を上らせたダングイスの顔が、真っ赤に茹で上がっていく。
「凡才以下のフォロンがいくら頑張ったって、天才であるボクには到底敵わないんだ!」
「才能なんて知りません! でも、頑張ってる先輩の方がずっと凄いです!」
「いや、ボクの方が凄い!」
「先輩です!」
「ボク!」
「先輩!」
二人は低い唸り声をあげながら、激しく視線と視線をぶつけ合っていた。
「ちょ、ちょっと、二人とも……」
フォロンはどうにか二人を止めようとするが、彼女たちの剣幕に押され、最初から腰が引けている。
いつもなら慌ててペルセルテを止める役目のプリネシカも、なぜか今回に限り座ったまま黙っている。その表情はどことなく怒っているようにも見えた。もしかしたら、今の彼女はペルセルテと同じ気持ちでいるのかもしれない。
「ボクはあの伝説のダンティストで<四楽聖>最強の男、シダラ・レイトスを超えうる逸材だぞ! すごいだろ!? 尊敬するだろ!?」
「そんなの、何がすごいのか全然わかりません!」
「なんだとっ?!」
ダングイスが羞恥と憤怒に歪みまくった形相で叫ぶ。
それはもう殆ど狂気を感じさせる表情で、周囲の一年生達も思わず後ずさっている。だがペルセルテだけは一人退かず、負けじと強い口調で言い放った。
「でも、わたしはフォロン先輩のすごいところは知っています! わたし、先輩がコーティカルテさんと契約したとき、その場にいましたけど、あの時の先輩の神曲は、なんていったらいいかわからないけど、聴いていたらとっても切なくて、それでいて優しい気持ちになれる様な、とてもとても素敵な曲でした!」
「ペルセルテ……」
フォロンは言い争いを止めなくては、と思いつつも、ペルセルテの言葉が素直に嬉しかった。それが偶然奏でられた神曲であったとしても、今は何故かその事を受け入れる事が出来る様な気がしたのだ。
「ぐぐぐぐぐ……!」
だがそれは、ダングイスの苛立ちにいっそう油を加えるようなものだ。
「精霊と契約する神曲なんて、ボクにだって余裕でできるさ! 見てろよ!」
ダングイスはフォロンが持ってきた単身楽団を勝手に背負い、展開し始めてしまった。
「ダングイス! ダメだって! 君がここでそれを使うのは校則違反だぞ!」
あくまでフォロンは『展開作業の手本を見せる』為に特例として持ち出しを許可されたのであって、此処で実際に神曲を演奏する許可を貰った訳ではない。
まして――此処は実習室ではない。
中途半端な神曲を演奏しても、それを外部に漏らさぬ様、遮断する防音壁が無いのだ。
精霊が来ないだけならばいい。
だが、あまりに酷い神曲であればかえって精霊を怒らせる事さえ在るのだ。神曲は精霊の糧と言うが――人間と同じで、美味なものを食せば心安らかになるが、不味いものを無理矢理喰わされれば不機嫌になるのは当然である。
コーティカルテの一件が問題になった事から分かる様に精霊が直接人間に危害を加える様な場合は殆ど無いが……それでも彼等の機嫌を損なうと命じられた作業を中断してしまったり、腹立ち紛れに周囲のものを壊したりと、色々と支障が出る。この神曲学院の様に上級下級を問わず精霊が多数居る場所ならば、尚更だ。
しかし――
「うるさい! うるさい! うるさぁぁぁぁいい!!」
フォロンは彼を止めようとすぐに駆け寄ったが、蹴り飛ばされ、教室の壁に背中を強打する。
「うっ……」
「ちょっと、何するんですか!」
すぐにフォロンの元へと駆け寄ったペルセルテがダングイスに猛抗議するが、もはや彼の耳には聞こえていない。
「さあ! この学院の周囲に居る精霊共よ! ボクの神曲を拝聴したまえ!」
一方的にそう告げると、ダングイスはメイン楽器として展開させていたギターを掻き鳴らし始めた。
皆、黙って彼の曲を聴いていた。
非常に個性的な曲だ。
意外にも、曲として破綻している部分はない。天才を自称するだけあって、むしろ技巧としてはそれなりに高度な部分が在る。
だが……。
「止めて」
鋭く飛び込んでくる一言。
その声の主を振り返って――フォロンや一年生達は無論、ペルセルテですら愕然とした表情を浮かべた。
プリネシカ。
彼女は椅子に座ったまま静かな怒りの表情をダングイスに向けていた。
「耳が腐るわ」
「…………!?」
フォロンは自分の耳を疑った。
いつもおとなしく、はにかんだ様な表情ばかり浮かべているプリネシカが、その様なきつい言葉を言ったのが信じられなかったのだ。これはペルセルテも同様らしく、彼女はいつもと違う側面を見せる双子の妹を呆然とした表情で見つめている。
「なん……だと……?」
演奏を途中で止めたダングイスの顔から表情が消える。
「精霊の反応を見るまでもありません。貴方のそれはただの自己満足の垂れ流しにすぎない。聴いているだけで非常に不愉快です」
プリネシカが静かに言う。
だが普段の彼女の穏やかな言動と比較すれば……その辛辣な内容は大声の罵声よりも遙かに深く相手に突き刺さる。
「な……、な……」
彼の肩がわなわなと震え始める。
そして次の瞬間、彼は単身楽団を投げ捨てた。
高価な――高級車一台分にも匹敵する精密機器が、がしゃんと耳障りな音を立てて床に転がる。だがダングイスはそれでも我慢ならないのか、プリネシカの方に詰め寄った。
「精霊でもない癖に! 神曲楽士でもない癖に! お前みたいなレベルの低い奴に、ボクの天才的な神曲の良さがわかってたまるかよぉぉぉおお!!」
口の端から泡を飛ばしながら彼は平然と座ったままのプリネシカに手を伸ばす。
だが、その手は走り寄ったペルセルテによって払われた。
「なんだよ、おまえ!」
そう喚くダングイス。
彼は相手をペルセルテに変えて掴みかかろうとしたが――
「やめろよ、コマロ」
他の一年生達からも声が上がる。
「ちょっと批判されたら暴力かよ。大体お前、前から僕ちゃん天才天才、君等と違うって――何様だよ、お前」
「そうよ。名刺なんか作って配っちゃってさ。自意識過剰なんじゃないの?」
「専門課程に上がれなかったから再入学したんだろうが。何が天才だよ。ちょっとは身の程を知れっての」
どうも普段から他の一年生達もダングイスの言動にはうんざりしていたらしい。
ここぞとばかりに彼を避難する言葉が噴出する。
「な……な……なんだよ、おまえら! おまえらみたいな――くそ、くそ!」
反論しようとするが、冷え冷えとした同級生達の視線に晒され、言葉を浴びせられ、屈辱の余り彼は言葉が出てこない。結局、彼は散々意味不明の言葉を喚き、椅子に机に床に壁に、眼に止まるモノすべてに当たり散らし、教室を出ていってしまった。
「ダングイス!」
慌てて彼の後を追おうとするフォロン。
確かにダングイスの性格には彼も不愉快に思う処が在るが、それでも容赦ない同級生からの言葉を浴びせられる彼を見ていると、気の毒になってきたのだ。理想に自分が追いつかない辛さをフォロンはよく知っている。ひょっとしたらダングイスはそんな自分を誤魔化したくて、あんな傲岸不遜な言動を繰り返していたのかもしれない。
だが――
「追っても無駄です」
プリネシカが言う。
「え……?」
「タタラ先輩もお解りなのではありませんか? 彼の演奏した曲を聴いて」
「…………あ」
何となく脳裏に閃くものがある。
『何の為に』
自称・天才。伝説の神曲楽士との比較。過剰な程の自画自賛。
つまり――
「彼は神曲を奏でたいのではありません。精霊と交歓したい訳でもありません。ただ彼は神曲楽士という立場に立って誰かに崇めて貰いたいだけです」
冷え冷えと響く銀髪の少女の声。
だがその言葉は何よりも痛い弾劾の矢となってフォロンの胸にも突き刺さる。
何の為に――それは神曲楽士になる為に。
では何故に神曲楽士を目指すのか。
お金を儲ける為?
崇敬を浴びる為?
だがそれならば他にも目指すべき選択肢は幾つも在った筈なのだ。
神曲楽士でなければならない理由ではない。
では。
どんな理由であれば神曲楽士を目指すのに相応しいのか。
そしてその理由がどういう影響を神曲に与えるのか。
「…………」
フォロンには返す言葉もかける言葉も見つけられなかった。
彼だけではなく、教室にいるもの全員が、それ以上何も言うことができない。
投げ捨てられた単身楽団が、ただカラカラと音をたてて揺れていた。
午後の部の授業も終わり、第二回目の補講の時間がやってくる。
「こうやって補講を受けてみるっていうのも、何か新鮮だよなぁ」
隣の席に座っているレンバルトが小声でそう告げてきた。
「どうでもいいけど、目立つような事だけは絶対にしないでよ?」
フォロンも小声で答える。
もちろん成績優秀なレンバルトは、補講を受けさせられているわけではない。
「たまには補講に潜り込んでみるのも面白そうだな」と言って遊び半分で勝手についてきたのだ。
講師は部外者がいることに気がついていないのか、または特に気にしていないのか、彼に対して何の注意もしなかった。
昨日に引き続き、講義の内容は一年前に習ったことの復習だった。
それでもフォロンは真面目に授業を受けるつもりだったが、さっきのプリネシカの言葉が耳から離れなかった。
(彼は神曲を奏でたいのではありません。精霊と交歓したい訳でもありません。ただ彼は神曲楽士という立場に立って誰かに崇めて貰いたいだけです)
それは彼だけに言えることなのだろうか。
一昨日の夜、学院長に問われ、その答えをずっと考えていた。
何のために神曲を奏でるのか。
その問いに対し、神曲楽士になりたいから、という答えしか出せない自分は、ダングイスと同じではないのか。
今の自分にとって、神曲楽士になることが重要であり、神曲を奏でることは手段となってしまっている。
ここで一緒に補講を受けている生徒たちも同じ。
演奏技能を褒めてもらうためだけの、手段。
お金持ちになるためだけの、手段。
しかし、本当に神曲を奏でるということは手段なのだろうか。
もしかしたら、学院長の問いの真意は、何のために神曲を奏でたいのか、ということなのではないだろうか。
講師たち現役の神曲楽士たちが神曲楽士たりうるのは、神曲楽士であり続けるために神曲を奏でているからではなく、逆に、神曲を奏で続けているからこそ、神曲楽士と呼ばれているのではないか。
少なくとも、講師たちはみな、神曲を奏でることが好きで仕方がないはずだ。
口ではどんな風に言っていても、神曲についての話をしている時の彼らは、いつも楽しげで――とてもフォロンの眼からは眩しく見えた。
(だとしたら、僕は……)
フォロンの表情がわずかに陰る。
(僕は神曲が好きなんだろうか……)
学院生活を送っている間に、漠然と心に浮かんでいた問い。
しかし、今までその疑問を無視し続けていた。
好きではないかもしれない……。
そう考えることが怖かった。小さい頃から歌が好きで、その延長で学院に入学した彼にとって、好きではないと考えることは、それまでの自分自身を否定することになってしまう。
そもそも、なぜ自分は歌が好きだったのだろうか。
本当に好きだったのだろうか。
だんだん自信がなくなっていく。
まるで、何も見えない暗闇の中で、自分自身さえも見失ってしまうような感覚に襲われる。
「はい、では今日の補講はここまでです」
講師の声に、フォロンはようやく我に返った。
どうやら意識の半分ほどは眠りに引きずり込まれていたようだ。二日続けて寝不足をしていた疲れが出たのかもしれない。
「明日はこの二日間の成果をみる実習テストです。今日と同じ時間に実習室へ集まってください。今日と昨日の授業内容で十分できる内容の簡単なテストですから、復習を怠らないように」
講師はそれだけ言い残すと、教室を去っていった。
「なあ。気分でも悪いの?」
隣の席に座っていたレンバルトが声を掛けてくる。
「――え?」
「いや。なんか凄く青ざめてるっていうか。具合悪そうだったから」
「い……いや。大丈夫だよ。大丈夫」
慌ててそう言って誤魔化す。
「そう? いや……なんか一年の教室で一騒ぎあったって聞いたからさ。その事で落ち込んでるのかと思ったんだけど。ダングイスの奴がなんか暴れたんだって?」
「いや、違う、違うんだ。彼が暴れたのは事実だけど。でも僕が考えていたのはその事じゃないよ。彼のせいじゃない」
「ふうん……」
レンバルトはフォロンの顔をのぞき込みながら言った。
「なんて言うか、フォロン、ガード甘そうに見えて絶対に他人を立ち入らせない一線ってあるね」
「へ? ……そ、そうかな?」
「何でも一人で悩んで背負い込む様な処っていうのかな。側に居る者としては結構それって辛いよ?」
「ご……ごめん」
「ま……俺よりも相談役に相応しいのはたくさん居るだろうけどさ。ちびっ子とか。双子とか。何にしても、少し肩の力抜いて誰かに寄り掛かるってのも手だよ?」
苦笑を浮かべてレンバルトが言う。
フォロンは――しばし彼の顔を見つめていたが、短い溜め息と共に笑顔を浮かべた。
「ありがとう。でももう少しだけ自分で考えてみたい」
「そっか。まぁいいや。明日の試験、頑張れよ」
言って彼は立ち上がり、励ます様にぽんと肩を叩くとそのまま教室を出て行った。
もしかしたら、彼はこの話をするためにわざわざ補講にも付き合ってくれたのかもしれない。
「本当に――ありがとう」
廊下に消える級友の背中に向けてそう呟き、フォロンも筆記用具を鞄に押し込で帰り支度を始めた。
「先輩!」
廊下に出た途端、フォロンは明るい声に呼び止められた。
彼が振り返った先で待っていたのは、言うまでもなくペルセルテとプリネシカのユギリ姉妹だ。
「あれ? 二人ともどうしたの?」
フォロンが足を止める。
「えへへへ〜」
ペルセルテは嬉しそうににんまりと笑ったまま、身体を左右に揺らしていた。
「ペルセ、もったいつけてないで早く言ったほうがいいよ……。先輩も忙しいんだから……」
珍しくプリネシカが姉を急かす。
ダングイスの一件ではまるで別人の様な側面を見せたプリネシカだが、今はフォロンのよく知る、いつもの何処か大人しい感じの少女に戻っていた。むしろあの時の彼女の言動は何かの見間違い、聞き違いであったのではないかと思えてくる。
「わかってるよ」
彼女はすっと一歩前に出て、フォロンの手をがっちりと掴んだ。
「先輩! 見て欲しいものがあるんです! ちょっと来てください!」
ペルセルテはそう言うと、フォロンの返事を待たずして、彼の手を握ったまま走りだした。
「ちょっと、ペルセルテ??」
「こっちです、こっちです!」
転びそうになりながらもフォロンはなんとかついていく。
その後に『すみません。いつも強引で』とか何とか言って謝りながらプリネシカが続いた。
フォロンが連れてこられたのは実習室だった。
教室の真ん中の席には単身楽団が置きっ放しにされている。ついさっきまで誰かが使っていたようだ。
彼ら以外には誰もおらず、いつも何らかの音で溢れている実習室が、今はとても静かだった。
「ここが、どうしたの?」
「えへへ」
フォロンが聞いても、ペルセルテはただ笑うだけで答えない。
「先輩、ちょっとこっちに来て座っていてください」
彼女に手を引かれ、席へと案内される。
理由は分からないままだったが、椅子に腰を下ろした。
「それじゃあ、少しの間だけ、聞いていてくださいね」
そう言うと彼女は置きっ放しになっていた単身楽団を背負った。
「あ、もしかして、ずっとここで練習していたの?」
隣に座っているプリネシカに尋ねると、彼女はコクリと頷いた。
「それじゃあ、練習の成果を見せてくれるってことだね」
「はい。無理矢理連れてきてしまってすいません……。でも、ペルセも頑張っていたので、その、見てあげて欲しいんです……」
「うん、もちろん」
フォロンがそう答えると、プリネシカは柔らかに微笑んだ。
二人がそんな会話を交わしている間に、この小さな発表会の主役は、舞台となる場所で一生懸命単身楽団を展開させていた。
まだぎこちない手つきだが、今日フォロンが教えたばかりのやり方で頑張っている。
「もう連動式の展開方法も練習したんだ」
「はい」
いつも一生懸命なペルセルテには、フォロンもよく驚かされたり感心させられたりしている。
「よっと」
ようやくペルセルテが単身楽団の展開を終え、会場となっている教室を見渡した。
「お待たせしました! 練習の成果、見てください!」
そう言うとペルセルテは大きく深呼吸をし、演奏を始めた。
夕暮れの気怠い光の中に鮮烈な響きが切り込む。
「……!」
フォロンは単純に驚いた。
ペルセルテの曲をきちんと聴くのはこれが初めてなのだが――上手い。
単純な単身楽団の操作技術は何処かぎこちないのだが、自己表現の能力という意味ではペルセルテのそれは余す所無く彼女の個性を描き出している。
まだ細部には荒削りな処もあるのだが――とても明るく綺麗な曲だ。
曲を聴いているだけで眼を閉じていても彼女が元気に演奏している姿が目に浮かぶ。
意外にも彼女がメインの操作楽器に選んだのは打楽器だった。
パネルドラムと呼ばれるもので、ドラムという名が付いているものの、形としては掌大の升目が八つ程並んだものだ。
これがそれぞれバスドラム、スネアドラム、ハイハットシンバル、ロウタム、ハイタム、フロアドラム、といった幾つもの打楽器に相当し、必要とあれば音色配置のパターンを切り替える事でカウベルやコンガ、より高い音のタムといった他の音色を割り当てる事も出来る。
一見すればこのパネルドラム、鍵盤楽器や弦楽器に較べて大雑把で簡単そうに見えるが、実は相当に技量を要求される。基本操作の部分が少ない為に、音色の切り替えや効果を制御する手順が増えるのだ。
また――ドラムは基本的にベースラインであって、あくまでメロディラインは事前に封音盤に記録した自動演奏情報と、自分の歌声が頼りとなってくる訳だが、これがまた厳密な計算とそれを単調にしないだけの豊かな感性が必要とされる。
ただ……その技術的な難点を克服すれば、鍵盤楽器や弦楽器よりもずっと素直に『ノリ』を表現し易い楽器でもある。
「そっか……これが彼女の神曲か……」
良い曲だという事はフォロンにも分かる。
上手くサイズ調整が出来ていないのか、音色切り替えやエフェクタを操作する際に、無理矢理手を伸ばしてよろめいたりもするが――そこで踏ん張って堪えたり、あるいはぴょんぴょん跳ねてスイッチを操作したりと、実に微笑ましく彼女らしい演奏である。
たまに演奏そのものをとちったりする部分も無いではないが、それが不思議と気にならない。
そして――
「……あ」
ペルセルテの正面の空間に小さな光が生まれる。
その光は徐々に大きく膨らんでゆき、最終的にはサッカーボールほどの大きさになって落ち着いた。その光の球体には二つの光る丸い目と、精霊の証である、一対の薄くて透明な羽がついている。
それはボウライと呼ばれる種の、下級精霊だった。
「精霊を呼び寄せた……!」
フォロンは驚きながら呟く。
下級精霊一体だけではあるが、ペルセルテは精霊を自分の奏でる神曲で呼び寄せた。未だ学院に入ったばかりの一年生としては快挙どころか驚異だ。恐らくはレンバルトやユフィンリーに匹敵する才能だろう。
彼女の演奏が終わると、フォロンは自然に拍手を送っていた。
精霊を呼び寄せられたことに対して……というよりは、純粋に彼女の曲へ送る拍手だ。
フォロンも彼女の元気を分けてもらったような気がした。
自分の曲になくて、彼女の曲にあるもの。
それがおそらく神曲となりうるかどうかの境界線なのだろう。
それが何なのかはわからない。だが、確かなのは、彼女の曲には自分にない何かがあるということ。
彼女の曲を聞いていて元気が伝わってきたが、おそらく自分の曲には聴き手に伝えるものがないのだろう。
(聴き手に伝えるもの……?)
何かが彼の胸に引っかかり、フォロンは自分の思考をさかのぼり始める。
(今……何か大切なものを思い出しかけたような……)
彼が思考をめぐらせている間に、ペルセルテは単身楽団を降ろし、フォロンたちに向かって深々とお辞儀をする。
そのあと、くるっと身体を下級精霊へと向け、またお辞儀をした。
「ギガちゃん、私の曲を聴いてくれてありがとう。どうでした?」
「くぴ!」
下級精霊がゆっくりと二度、明滅する。それは肯定しているときの仕草だ。
「ギガちゃん……?」
聴きなれない名前に違和感を覚え、隣のプリネシカに尋ねる。
「あ……。あの精霊さんは、私たちが学院見学に来たときに、案内してくれた精霊さんなんです……。それで、その時、ペルセがギガさんという名前をつけました……」
「へぇ。そうなんだ。それなら彼女にとって一番親しい精霊だものね。なるほど……。でもどうしてギガちゃん……? クピって鳴くから、クピちゃんとかならまだわかるけど……」
「えっと……」
名前の由来が謎でプリネシカに尋ねると、彼女はとても困ったような顔を見せる。
「たしか、精霊さんなので、強そうな名前の方がいいとか……。それで、可愛さもあるのでちゃんをつけて、ギガちゃんらしいです」
「な、なるほど……。ペルセルテらしいといえば、らしいね。うん」
フォロンがそういうと、プリネシカはまるで自分の事のように顔を真っ赤にして、コクリと頷き、そのままうつむいてしまった。
そんなやりとりなど知る由もないペルセルテは、下級精霊との会話を続けている。
その顔はとても楽しそうで、なぜかフォロンには眩しくさえ感じられた。
(すごく嬉しそうだな。そうだよね、自分の曲を認めてくれる精霊がそこに居るんだから)
本当に嬉しそうにしているペルセルテを見ていると、心の底から、よかったと思う。だが、同時に、自分の力のみで下級精霊を呼び出したことの無い自分には、わからない嬉しさだろうとも思う。
思うのだが……
(僕にはわからない嬉しさの筈なのに、なんだかとても懐かしいモノのように感じる……)
なぜか、自分も昔は彼女のように喜べたような気がする。
しかし、何故そんな喜び方ができたのか、わからない。
何が、嬉しかったのか……。
「あははは。ギガちゃん、くすぐったい、くすぐったいよ!」
ギガちゃんと命名された下級精霊がペルセルテの周りをくるくると回り、じゃれている。それだけ、彼女の曲が気に入ったのだろう。
「ペルセルテ、ペルセルテ」
「そう? えへへへ。わたしも、ギガちゃんに喜んでもらえて、嬉しいよ!」
あまり会話が成立している様にも見えないのだが、ペルセルテはギガちゃんに向けて色々と話し掛けている。
(あ……)
そんな彼女を見ていて、フォロンはずっと忘れていたことを思い出した。
(そうだった……。僕は……、自分が歌を好きだった理由をいつの間にか忘れていた……)
それはまだ、彼が孤児院で暮らしていたときのことだ。
彼は何をやっても失敗ばかりで、いつも一人ぼっちだった。
寂しくて眠れない夜は、よく孤児院の屋上にあがり、お月様を見ながら歌っていた。
自分に自信を持てなかった彼は、人に聴かれることを恐れ、いつも一人で歌っていた。
歌が好きなのではなく、単に彼は他に気の紛らわせ方を知らなかっただけだった。
いつも他人に怒られたり叱られたりしていた彼は、自分の気持ちを率直に表現する方法を他に知らなかっただけなのだ。
しかし、そんな彼の歌を、聴きたいと言ってくれた人がいた。
彼は人から求められたのは初めてだった。
だから、その人に喜んでもらいたくて、一生懸命歌った。
そうしたら、不思議とその気持ちが伝わって、その人は満面の笑みを見せてくれた。
彼はその時初めて、心から嬉しいという気持ちを知ることができた。
その日から彼は、歌うことが好きになった。
(初めて歌を聴いてもらって、そして喜んでもらったとき、あんなに嬉しかったのに、いつどこでその気持ちを忘れてしまったのだろう……)
物心が付いた頃に、初めて自分の歌を聞いてくれた女性が精霊だったことを知った。
彼女とはそれ以後何年も会う事は無かったが――その女性が精霊だった事を知ったとき、自分の歌でもっと精霊たちに喜んで欲しいと思った。
だから神曲楽士(ダンティスト)を目指した。
そんな単純な理由。
しかし一番大切な気持ち。
それなのに、神曲楽士を目指して神曲学院(コマンディア・アカデミイ)に入学し、授業や訓練を受けて神曲を学んでいくうちに、いつの間にか神曲楽士になることが目的となってしまっていた。
本当の目的を見失ってしまった者に、神曲が奏でられるはずがなかったのだ。
今まで自分の中にたまっていたわだかまりや迷いが吹っ切れ、フォロンはとても清々しい気持ちになっていた。
(そういう事か――)
奏でよ、其は我等が盟約也。
其は盟約。
其は悦楽。
其は威力。
故に奏でよ、汝が魂の形を。
神曲学院の正門脇に置かれた石碑。
そこに書かれた一文をフォロンは思い出す。
あの一文の意味を彼はようやく実感として理解できた様な気がした。
それと同時に、急に今の気持ちを込めて新しく神曲を奏でてみたいという気持ちがわいてくる。
一度あふれ出した気持ちは留まる事を知らず、どんどん彼の中で膨らんでいく。
「フォロン先輩!」
ペルセルテが下級精霊を抱きかかえながら駆け寄ってきた。
「あ、ペルセルテ、実は……」
「先輩! いろいろ教えてくれてありがとうございます! 先輩のおかげでギガちゃんを呼べるようになりました!」
「くぴ!」
彼女がそう言って元気よく頭をさげると、彼女に抱きかかえられている下級精霊も可愛い泣き声をあげる。
「いや、僕のほうこそ、君に大切なことを教えてもらったよ。ありがとう」
「え……?」
何についてお礼を言われたのか分からず、ペルセルテが首をかしげた。
しかし、今のフォロンは新しい新曲を作りたいという気持ちでいっぱいで、彼女のそんな仕草にも気が付かなかった。
「それでね、急で悪いんだけど、帰ってやりたいことができたから、今日は先に帰るね」
「え……、あの、先輩?」
「ごめん、じゃあね!」
脱兎の勢いでフォロンが去っていった実習室は、束の間――シンと静まり返った。
取り残されたペルセルテとプリネシカは互いの顔を見合わせる。
「フォロン先輩、急にどうしちゃったのかな?」
「さぁ……?」
プリネシカもペルセルテも彼の様子の変化の意味が分からず――だた首を傾げるばかりだった。
「ただいま!」
フォロンは誰もいない部屋にむかってそう呼びかけた。
そして駆け込むようにして中に入ると、鞄をベッドに投げ入れ、すぐさま新しい楽譜の製作にとりかかった。
時間が惜しい。
別に期限が区切られている訳ではないのだが、この気持ちが散逸してしまう前に神曲を形にしたかった。いや――違う。自分の中に在る衝動が未だか未だかと彼を急かしているのである。出口を見つけられずに無意味な圧力を高めていたそれは、今、ようやく吹き出る為の道を見つけたのだった。
ノートをめくる。
譜面を書き付ける。
自分の手が二本しかないのが恨めしい。指の動く速さが気持ちに追いつかないのがどうにももどかしい。
もっと。
もっと。
書き出すべき事はたくさんある。
恐らく今のフォロンをレンバルトや同級生達が見たら驚くだろう。普段の彼とは――いつも何かに怯えて、いつも誰かに申し訳なさそうにしているフォロンとはまるで別人だった。彼はひたすら楽しげにペンをノートに走らせている。彼は自分で知らず知らずの内に鼻歌まで口ずさんでいた。
だが――その一方で彼は凄まじいばかりの集中力を発揮している。
彼には自分の中から沸き上がる音無き音と、目の前の譜面しか聞こえていないし、見えていない。他の物事は全て無視してしまえる様な雑事に過ぎなかった。
だから……
窓の外でひょっこりと動いた紅いものにも彼は全く気付いていなかった。
トルバス神曲学院学生寮の裏手。
四号室の外壁に背中を預けて座り込んでいる影が在った。
中腰になれば窓硝子を通して中の様子が伺える――そういう場所である。四号室に住んでいるのが女生徒であれば、痴漢かと疑われる処であろうが、今現在中に居るのは男子生徒がただ一人――タタラ・フォロンであった。
「…………」
顔をしかめて溜め息をつくその影は燃える様な紅い髪をしていた。
言うまでもなくコーティカルテ・アパ・ラグランジェスである。
そっと彼女は頭を上げ……猫の子がぶら下がる様な格好で、窓の硝子越しにフォロンの居る室内を見る。
フォロンが自分の覗いている窓の方向を向いていると気付いて、慌てて頭を引っ込めるが――しかし部屋の中のフォロンはフォロンで全く反応しない。彼は手元のノート以外は全く目に入っていないらしかった。
「……フォロン?」
恐る恐るといった様子で再び顔を出すコーティカルテ。
しかしフォロンは気付かない。
ただひたすら、物凄い勢いでノートに譜面を書き付けていく。
コーティカルテの表情が怪訝そうに曇る。
普段と異なる彼の様子に、コーティカルテはふと心配になったのだろう。彼女は覗くのを止めて玄関に回り込むと、そのドアノブに触れた。
一瞬、彼女の背に紅く輝く六枚の羽根が浮かび上がる。
次の瞬間、がちゃりと音を立てて扉の鍵は外れていた。
フォロンから鍵を貰ってはいるのだが、上級精霊たる彼女にとってはいちいち鍵穴に鍵を突っ込んで捻るよりも、自分の力で鍵の中身に干渉した方が手っ取り早い。
「……おい。フォロ……」
何処か躊躇いがちに声を掛けながら一歩踏み込んで。
そしてそこでコーティカルテは絶句して立ち尽くした。
彼女は精霊だ。
空間に満ちる気配には人間よりも遙かに敏感である。この部屋に満ちている何か異様な位に高まった気配を彼女は察知したのだ。そしてその気配の主は一人しかいない。
驚いた様に何度も眼を瞬かせながら彼女はフォロンを見つめていた。
フォロンは振り返らない。
ただ彼はコーティカルテの方に背中を向けているだけだ。恐らくコーティカルテが帰ってきた事にも気付いていないだろう。
「…………」
足音を忍ばせて室内に入る。
傍若無人な彼女が、迂闊に声を掛けたり、物音を立てるのを躊躇う程、フォロンは目の前の作業に集中しているのだ。後ろ姿を見ているだけでもそれが分かる。
彼の背中にコーティカルテは手を伸ばし掛けて――そして力無く降ろした。
「うーむ……」
外はもうすっかり日も暮れて夜になっている。フォロンは補講を受けた後でさらに実習室によってきたのだから、もうかなり時間的には遅い。
「夕食も食べていないだろうに……」
実は――コーティカルテはフォロンに愛想を尽かして出ていったのではない。
ただ彼に初めて怒鳴られた事から、気まずくて近寄れなくなっていただけだ。
なので彼女はフォロンの眼に止まらぬ様にと、一定の距離を置いて彼の行動を見守っていたのである。言うまでもなく玄関の扉を叩いて彼を起こしたのは、プリネシカの読み通りコーティカルテだ。
だからフォロンのここしばらくの行動は全て彼女も知っている。
何やら尋常でない様子でフォロンが家に帰ってきた為、さすがにコーティカルテも我慢出来なくなって様子を窺いに近付いてきた訳だが……
今度はフォロンが彼女の存在に気付かない。
いつものコーティカルテであれば背後から蹴りの一つもかます処なのだが――
「はぁ……」
譜面作りに熱中する彼の姿を見て、コーティカルテは溜息を一つもらした。
だがその顔はどことなく嬉しそうである。
いつ気付くかとしばらく彼女はその場に立っていたが……全くフォロンは気付かない。振り返る様子すら見せずにひたすらノートに譜面を書きつづっている。
そのまましばらく作業中のフォロンを見たあと――紅い精霊はもう一度溜め息をついてから、仕方なく台所へと向かった。
フォロンは、はやる気持ちを抑えるのに苦労していた。
完成した楽譜に合わせて、今度は封音盤をつくる作業に移る。
既に譜面を起こす作業だけで五時間を費やしている訳だが、彼には全くその実感が無い。まして自分の書き連ねた譜面が普通なら二日三日はかかるであろう量だという事もまるで意識していない。
異常な集中力だ。
彼は未記載の封音盤を取り出すとその調整に入った。
封音盤は言ってみれば一種のオルゴールである。ただし直接にその凹凸が楽器を動かすのではなく、単身楽団の読み取り機がそこに刻み込まれた各種演奏情報を読みとって音を鳴らしていくのだ。
当然、この譜面を封音盤に落とし込む作業は非常に繊細なものになる。
虫眼鏡とランプ、針の様に先端の細かな専用工具を使って、真っ新の封音盤を手作業で加工していくのである。何故かこの作業、工作機械を使うといくら精密に扱っても神曲にならず、単身楽団が最新鋭の電子技術を搭載しているにもかかわらず、この封音盤の加工だけはどうしても神曲楽士が手で行わなければならないという厄介な代物だった。
「…………」
言うまでもなくこの作業には注意力が必要で、落ち着いてやらなければならない。
だがフォロンは早く奏でてみたいという気持ちが焦りとなって、ついつい力が入りすぎてしまう事も何度かあった。
逸る気持ちを辛うじて抑えながら、しくじった処を修正する。
その作業も妙に楽しい。
こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
ずっと忘れていたものが急に目覚めたような感覚。
心が躍る。
彼はただ、自分の曲を聴いてくれる人が、どんな曲ならば一番喜んでくれるか、ということだけを考えていた。
自分の曲を聴いて、喜んでくれる人の顔がみたい。
彼はその瞬間が一番好きだった。
一番好きだったのに、今まで忘れてしまっていた。
最初はなんで忘れてしまっていたのだろうと思ったが、だんだん、そんなことよりも忘れていた自分に腹がたってきた。
せっかく楽しいことなのに、忘れていたなんてとても損した気になる。
だから、今まで損していた分も含めて、曲を聞いて喜んでくれる人の笑顔を見たいと思った。
今の彼には、彼の歌をずっと待ち望んでくれている相手がいる。
契約をしてからの数ヶ月、一度も彼女に喜んでもらえるような曲を奏でることができなかった。
それでもまだ、彼女は彼の側にいてくれた。
今は彼女はフォロンの側に居ない。
だが何故かこの曲が完成した時には笑顔と共に戻ってきてくれる――そんな確信があった。
わがままで気が短くてケンカっ早くて、それでも何故か憎めない。妹の様でもあり姉の様でもあり友人の様でもあり――そのどれとも違う存在。
側に居てくれるひと。
今はそんな彼女の喜ぶ顔が見たい。
フォロンはただそれだけを願い、作業に没頭していた。
「よし、できた!」
ついに新しい封音盤も完成させたフォロンは、椅子の背もたれに寄り掛かって思いっきり手足を伸ばす。
ポキポキポキ……っと、気持ちがいいくらいたくさん音が鳴った。
楽譜も封音盤も完成した。あとはワンマン・オーケストラさえあれば曲を奏でられる。
「そういえば、今日の補講は実習テストだって言ってたっけ」
これで、曲を披露する場所もきまった。
勝負は今日の夕方、実習テスト本番。
「ん……?」
ふと窓の外に目をやると、温かそうな日差しが差し込んできている。
「え、もしかして、もう朝!?」
フォロンは慌てて時計を確認した。いつも起きている時間はとっくに過ぎてしまっていた。急いで出掛けないと遅刻してしまう。
「うわ。やばいよ、すっかり時間を忘れていた……」
幸い、制服は着たままだ。
鞄も手元に在る。ノートと筆記用具を突っ込めばそれだけで登校できる状態だ。
とはいえ――
「……うっ」
フォロンは初めて自分が猛烈な空腹感を抱えている事に気付いた。
まあ尋常でない集中力のまま丸一晩作業を続けていたのだから、腹が減って当たり前だ。だが今から朝食を用意している様な時間は無い。此処は空きっ腹を我慢して登校するしかないだろう。ユギリ姉妹に腹の虫が鳴るのを聞かれはしないかと少し心配だったが。
フォロンは立ち上がり、出掛けようと玄関の方を振り返り――
「……え?」
そこで呆然と立ち尽くした。
彼のすぐ背後――作業していた机から三歩と離れていない処に置かれたベッドの上で、小さな寝息を立てて眠っているコーティカルテの姿が在ったからだ。
何時の間に帰ってきたのか。
全く気付かなかった。
「帰ってきてたんなら一声掛けてくれればいいのに……」
こんな距離に彼女が居て気付かない自分も自分だが、声も掛けずに勝手に眠っている彼女も彼女だ――そんな事を思いながら、フォロンはせめて毛布を掛けてやろうとベッドに近付く。
すると。
「――あれ?」
思わず蹴飛ばしそうになったものがある。
視線を下げるとそこには、不格好な卵焼きサンドが皿に載っかって置かれていた。更にそのすぐ横には一枚の紙が置かれており、そこには乱暴な字で一言――
『喰え』。
いかにもコーティカルテらしい。
だが恐らく彼女はフォロンが作業をしている間、ずっとそこで終わるのを待っていたのだろう。声を掛けなかったのも、邪魔しては悪いと思ったからに違いない。
そう思ってみると……眠る彼女の顔がやけに可愛らしく見える。
(いつもこうだったらいいのにね……)
微笑みながらそんなことを考え、置かれていた不恰好な玉子焼きサンドを食べた。
いつも彼女に作らされる玉子焼きサンドだが、まさか彼女が作った玉子焼きサンドを食べることになるとは夢にも思わなかった。
(そのうち、ちゃんと作り方も教えてあげないとね……)
本当は甘いはずなのに、ちょっぴりしょっぱい。それでも、フォロンにとってはとてもおいしいく感じられた。
ゆっくり味わって食べたかったが、さすがに今はそんな余裕もない。
最後の一切れを飲み込んで無理矢理飲み下すと――フォロンはゆっくりと深呼吸。
そして。
「コーティカルテ、もう学校にいく時間だよ。起きて!」
大声で叫んだ。
いつもとは逆である。
「んおっ……?」
がば! と殆ど反射的に身を起こし――だが意識の方が付いてこなかったのか、そこで彼女は半分寝ぼけながら目をこすった。
「ほらコーティカルテ。学校にいく時間だから、起きて」
「むぅ……。私の特盛り卵焼きサンドはどうした……?」
半分どころではなく、完全に寝ぼけていた。
何というか精霊も寝ぼけるのだという事をフォロンは今初めて知ったのだが、新たな知識の獲得に感動している余裕は無い。
ただ――
「コーティカルテ。今日こそ、君が喜んでくれる曲を奏でてみせるよ」
コーティカルテの腕を引っ張って立たせながら、フォロンは言う。
彼女に喜んで貰う為に作った神曲。
未だ一度も演奏していないが、フォロンには確信があった。
今度こそ上手く行く。
だが――
「んー?」
尚も寝ぼけるコーティカルテにその言葉がきちんと届いたかどうかは少し疑問だった。
午前、午後の授業が終わり、ついに補講の時間がやってきた。
フォロンは新しく作り上げた封音盤をしっかりと握り締めて、実習室へと向かっている。
今日は追試の合否テスト。
これに受からなければ、今後の学院生活も危ういかもしれない。なにせ、基礎過程二年向きの追試なのだ。
しかし、不思議と焦りは感じなかった。不合格になったときに不安がまったくないといえば嘘になる。だが、それよりも早く新しい曲を奏でてみたいという気持ちがずっと勝っていた。
「やぁ――タタラ・フォロンくん」
そんな風に呼び止められて、足を止める。振り向くとそこには黒い外套を羽織った長身の青年が立っていた。
トルバス神曲学院の学院長。
そういえばフォロンは自分が彼の名前を知らない事に気付いた。思えば誰もが彼の事を学院長と呼ぶだけで名字や名前で呼んでいるのを聞いた事が無い。
不思議に思いながらも彼はとりあえず失礼の無い様に頭を下げた。
「学院長。おはようございます」
「はい、おはよう」
学院内のあいさつは昼でも夜でもおはようなのだ。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
「そうです……ねぇ?」
今フォロンが歩いているのは教室から実習室へと向かう廊下。そこを生徒であるフォロンが通っているのはごく自然である。むしろ、学院長である彼がいるほうが遥かに不自然ではあった。
「あ、学院長」
「なんだい?」
「先日はいろいろとありがとうございました」
フォロンは深々と頭をさげた。
「いえいえ」
そう言って学院長はにっこりと微笑む。
「それで、この間の問いに対する答え、見つかったのかい?」
「はい」
頷くフォロンの表情にもう困惑や躊躇は無い。
「ほぅ」
学院長が目を細めた。
ただそれだけで印象がだいぶ変わる。
飄々とした優しい感じの青年から――何処か底知れぬものを秘めた謎の存在へと。
鋭い刃物の様な眼光がフォロンを射抜く。
嘘や偽り、その場凌ぎといった戯れ言など一切許さぬとでも言うかの様に。
「じゃあもう一度聞こう。君は何の為に神曲を奏でるんだい?」
口調こそ変わらず穏やかだが――それは審問だった。
理由はない。だがフォロンは反射的にそれを悟っていた。これは単なる問い掛けではない。迂闊に答えればそれなりの応報を受けねばならない。
しかし――
「僕は……」
フォロンはそこで一度一息入れる。
逡巡の為の間ではなく自分の中の答えを今一度確認する為の作業。
「すごく単純な理由ですけど、僕の曲を聴いてくれる人に喜んでもらいたいからです」
学院長はフォロンの目をじっと見つめた。フォロンも緊張しながらだが、その目を見つめ返す。
「聴いてくれる人……ですか。彼女は人ではなく、精霊ですよ?」
「……あ。そうですね」
しかしフォロンはそう言ってテヘヘと笑うだけで、言葉の訂正はしなかった。
そんな彼を見て、学院長は――優しく微笑む。一瞬垣間見せた鋭い眼光は既に何処にも観られない。
「なるほど、それが君の答えなんだね?」
「はい」
力強くうなずく。
それは彼の中の揺るぎない真実だ。たとえ自分の口にしたそれが学院長の期待したものではなかったとしても、恥じるべき理由は何も無い。
「うん。それもいい答えだと思うよ。頑張りなさい」
「ありがとうございます!」
学院長は励ますようにフォロンの肩をトンと叩くと、どこかへと歩いていった。
「うーん?」
傍らでコーティカルテが首を捻っている。
「……どうしたの?」
とフォロン。
「今の男、何処かで見たことあるような気がするのだが……」
「それは、だって、この学院の学院長だよ? この学校に一ヶ月も居れば見たこと無い方がおかしいよ」
「……いや、もっと以前だと思うのだが……気のせいか?」
学院長の背中を見送りながらコーティカルテが独り言のように呟く。
「いいから。コーティカルテ、僕たちもいくよ」
「あ、待て」
怪訝そうな顔つきで悩んでいたのも一瞬のことで、コーティカルテはフォロンを追って小走りで駆けていった。
フォロンたちと別れた学院長は一人、廊下をゆっくりと歩いていた。
(聴いてくれる人……ですか)
神曲楽士は精霊の力を行使することによって、初めて神曲楽士となりうる。
そのため、精霊の力を使うことばかりに意識が偏ってしまい、精霊を道具のように見、扱ってしまいかねない。
それは一流の神曲楽士でも見習いでも同じ。
ただ一流の神曲楽士は、自らの陥ってしまった視野狭窄に気付き、その見方を直すことができるからこそ、一流の神曲楽士なのだ。
彼等は常に自らの驕りと戦っている。
自分に自信を持てなければそもそも神曲など奏でられない。奏でられたとしても精霊を引きつける事など出来ない。
だが同時に自信が過ぎて慢心に変わる時、彼等の神曲は腐敗を始める。
精霊を道具としてしか見ない者、神曲を小手先だけの技術で誤魔化す者、彼等の歌は醜悪だ。
中にはそういった慢心すらも超越する凄まじい技術を備えた神曲楽士も存在する。彼等の奏でる神曲は邪な響きに満ちているが、だからこそそこには負の魅力というか――まさしく麻薬の如く精霊を引きつけるものがある。
しかしそうした怪物じみた天才神曲楽士は本当に一握りだし――大抵の場合に、そうした神曲楽士は、自分への自信の余りに世間を見下し、他人との協調を忘れて孤立する。
(そう――かつての私の様に)
自嘲混じりに学院長はそんな事を考える。
天才であるという事は必ずしも誇るべき事ではない。場合によってはそれは恥ずべき事にもなる。それはつまり誰にも歩み寄る事が出来ず、分かり合う事も出来ず、たった一人孤独に生きて行かねばならないという事なのだから。
(しかし……。あの子は自然と精霊を人間と同格に考えている……)
最初からそう思っていたのか、今だからそう思えるのか、それはわからない。
だが、そう思えるということはよい性格的資質がある、ということである。
(フォロンくん。君はやはり良い素質を持っているよ)
学院長はメガネを指先で上げ直し、満足そうな笑みを浮かべた。
初日、二日目とは違い、補講を受けに来ている生徒たちは多かれ少なかれ皆緊張していた。
現役の基礎過程二年生たちはここで合格点をとれないと、年度末の進級試験の査定にマイナス点が入ってしまう。トルバス神曲学院には留年という制度がない。進級できなければ学院を出ていかなければならいので、たかが追試と言ってバカにすることはできないのだ。
現在専門課程のフォロンにとっては、どんな罰則があるか分からなかったが、基礎過程二年の子たちよりも重い減点があることは間違いなかった。
場合によってはその場で即退学を言い渡される可能性も在る。
だが――
もう後が無い位にぎりぎりまで追い詰められている筈なのに、フォロンはあまりその事が気にはならなかった。
「それでは追試験を始めましょう。名前を呼びますから、呼ばれた生徒は一人ずつ前に出てきてください」
一人目の生徒の名前がよばれ、呼ばれた者が前にでていく。
フォロンは一人専門課程の人間であるためか、補講時の出席順ではいつも最後に名前を呼ばれていた。
早く奏でてみたい。
そう思うフォロンにとって、一番最後という順番が待ち遠しくて仕方がない。
一人目の生徒が演奏を始めた。
メイン楽器にフルートを選んだ、軽快な曲。
その構成自体はさほど問題はないが、やはり響いてくるモノがほとんどない。
講師も採点用紙とにらめっこをしながら渋い顔をしている。
基礎過程二年といっても、まだ新学年が始まって間もない。そのため彼らの合格基準は精霊を引き寄せられるかどうかという判断基準よりも低めに設定されている。
しかし明確な判定基準がないため、講師の感じ方で判断せざるをえない。
そんな微妙なところで採点をしなくてはならないのだから、渋い顔になってしまうのも仕方がないのだろう。
逆に専門課程であるフォロンの合格基準は精霊を引き寄せられるかどうかという単純明快なもの。精霊が引き寄せられてくれば合格。そうでなければ不合格。誰の目からみても合否は一目瞭然だ。
一人目の演奏を聞き終え、教師は採点用紙に何かを書き込んでいる。合否はこの場では発表されないようだ。
「はい、次の人」
二人目が呼ばれ、前に出て行く。
(あ、彼は……)
二人目の生徒はフォロンの知っている顔だった。補講の時、前の列に座っていたギターの少年だ。
やはり、メイン楽器はギターだった。
彼の弾く曲は、彼らが話題にあげていた音楽グループの曲と非情に良く似ていた。
確かに彼のギターの腕前は凄い。
フォロンの同級生にも彼ほど弾ける人はそうそういないだろう。
しかし、彼の曲もまた、胸に響いてくるものがなかった。
自分の演奏技能を見てもらうために神曲を奏でる、それでもいい。
でも、独りよがりの演奏になってしまっては意味がない。神曲は奏者と聴き手がいて初めて成立する。聴き手のことも考えて奏でなければ、それは神曲とはなりえない。
それが、この三日間でフォロンが学んだことだった。
口で言ってしまえばとても単純で、当たり前のことだ。授業でも毎日のように講師たちから注意される。
しかし、それを実感として理解するのはずっと難しかった。
それが当たり前のように出来てしまう人間は、簡単に神曲楽士となれるのだろう。だが分かっていない人間が気付くには時間がかかる。下手をすると一生気がつくことが出来ないのかも知れない。
フォロンは結局、それに気付くのに、入学したときから数えれば二年と数ヶ月かかった。しかも、またいつどこで忘れてしまうかわからない。常に気をつけていなければ簡単に両手の隙間からこぼれ落ちていってしまう。事実、彼はそのことを知っていたはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていたのだから。
神曲楽士で居続ける事というのは――おそらくそういう事なのだろう。
試験は次々に進んでいく。
ひとり、またひとりと追えるたびに、講師の表情は険しくなっていった。
おそらく全体的な成績が芳しくないのだろう。
そして、ついに基礎過程二年生の試験が全て終了した。
「次、タタラ・フォロンくん」
「はい」
フォロンは新しい封音盤を持って立ち上がった。
「フォロン先輩! 頑張ってください!」
いきなりペルセルテの声が聞こえてきたので、フォロンは驚いて辺りを見渡した。
「あ……」
彼女はいつの間にか実習室の入り口から中を覗いていた。その後ろにはプリネシカも居る。更にその向こうにはレンバルトの姿も在った。
先輩、と言って手を振っているペルセルテに、フォロンは少し困惑しながら振り返した。
「えーっと……。フォロンくん。可愛い彼女も応援にきてくれているようだし、頑張って」
勘違いをして、講師がそんな言葉をかけて来る。
「え? あ、いえ、そ……そういうのじゃないですよ」
フォロンは真っ赤になって答えるが、声が小さくほとんど誰にも聞こえなかっただろう。
「フォロン先輩、ふぁいと〜!」
ペルセルテはペルセルテで、いたって普通に声援を送り続けている。もしかしたら、講師の言った『彼女』の意味をちゃんとしたニュアンスで受け取っていないのかもしれない。
「痛っ……?」
赤面しながら困り果てていたフォロンの足を、なぜかコーティカルテが踏んづけていった。
「コーティカルテ……何するんだよ?」
「足が滑っただけだ」
とても不機嫌そうにそれだけ言い残す。
足が滑って、どうして人の足を踏めるんだろう……と思ったが、フォロンは口には出さなかった。
「コホン……。フォロンくん、そろそろいいかな?」
「あ、すいません」
彼は謝りながら急いで前に出た。
フォロンは前に出ると、単身楽団に封音盤を入れ、ゆっくりと背負った。
早く奏でてみたいという気持ちがあったから、逆に自分を落ち着かせるために、いつもよりもゆっくりと、慎重に準備をする。
単身楽団を全て展開し終えると、フォロンはコーティカルテを見た。
彼女は目の前で、黙って立っている。
フォロンはゆっくりと目を閉じ、静かに演奏を始めた。
フォロンが演奏を終え、ゆっくりと目を開いた時、目の前にいたのは一人の大人の女性だった。
コーティカルテと同じ、燃えるような赤い色の髪。顔立ちも、彼女と実に良く似ている。
しかし、彼女はフォロンが知っているコーティカルテのような少女ではない。
美しい……見方によっては妖艶ささえ感じられる大人の女性だ。
その背中には力強く光を放っている三対の羽根。
彼女は真っ直ぐにフォロンを見つめている。
「ああ……」
フォロンは、まるで吸い込まれるかのように彼女を見つめていた。
彼女の、神秘的なまでの美しさに見とれていたのではない。
――ようやく会えた。
その想いで言葉が出てこないのだ。
フォロンは、その女性をずっとずっと昔に知っていた。
自分がとても幼かった時。
孤児院でいじめられて、よく一人で屋上にあがり、歌っていた時。
初めて自分の歌を聴いてくれた相手が彼女だった。
自分の歌を聴いて、褒めてくれた初めての相手が彼女だった。自分の歌が人を喜ばせる事が出来るのだと彼女に教わった。
彼女は側に居てくれると言った。
親に捨てられ、友達にも見放され、孤児院の先生にも呆れられていた彼を必要だと言ってくれた。
思えばあの時初めてフォロンは自分で自分を肯定する事が出来たのだ。
あの時の事が在ったからこそ今フォロンは此処に居る。
此処に居て神曲楽士を目指している。
そして。
「コーティカルテ……」
信じていなかった訳ではない。
だがあまりにも違うその姿にフォロンはあの時の精霊とコーティカルテを重ねる事が出来なかった。だからこそ彼女に捧げる神曲を一つ奏でるにも、ひどく遠回りをする事になったのだ。
「ごめん。ずいぶんと待たせちゃったね」
「まったくだ」
彼女は素っ気無く答えるが、その顔は穏やかに綻んでいる。
「孤児院でのあの夜、僕の歌を聴いてくれた君が、また僕の歌を聴きにきてくれていたのに、僕はあの時の気持ちをずっと忘れていたよ……」
ずっと彼女は待っていたのだ。
十二年。
それは精霊である彼女にとっては人間とはまた異なる意味を持つだろう。
しかし決して短い時間では無かった筈だ。
この気位の高いコーティカルテが、敢えて自らの身を削り、姿を変えてしまわねばならない程に。
そう考えると――フォロンはとても切なかった。
「本当にごめん……」
「長い間待った。本当に長かった。だが……」
コーティカルテはそっとフォロンの頬に手を添えた。
「お前は思い出した。思い出して約束を果たした。私はそれで満足だ。もう他の事はどうでも良い」
「コーティ……」
いつもと変わらない尊大な口調。でも、なぜかいつもよりも、とても優しい声。
「そうだ……。十二年ぶりに聴いてくれた僕の歌、どうだったかな?」
「戯け者。今更そんなことを聞くな。私を見て察しろ」
コーティカルテの顔にほんのりと朱色がさした。彼女が照れている様は初めてみる。
それがなんだかおかしくて、フォロンは小さく笑った。
「それに――見ろ」
コーティカルテが悠然と両手を広げる。
そこで初めてフォロンは気付いた。
やけに周りが明るい。
無数の明滅する光。
それが二人を取り囲む様にして浮かぶ、たくさんの精霊達の羽根である事を理解するには更に若干の間が必要だった。
ギガちゃんの様な下級精霊が最も多いが……中には人や獣の姿をした中級精霊も混じっている。ひょっとしたら上級精霊も居るかもしれない。
その数およそ――百。
有り得ない程の数だ。恐らく神曲学院の講師達とてこれ程の精霊が一同に会した場面は見た事が無いに違いない。遮音設備のある実習室ですらこの数である。野外で奏でていれば一体どれだけの精霊が集まってきただろうか――見当もつかない。
精霊達はただ無言でフォロンを見つめている。
彼等の羽根の放つ途方も無い光圧で辺りの色彩が逆転して見えた。
「これだけの精霊がお前の歌に惹かれて来たのだ。それでも出来はどうかと問うのか? それはむしろ傲慢というものだぞ」
「あ……ご、ごめん」
反射的にいつもの癖でそう誤ってしまう。
そんな彼を見てコーティカルテは慈しむ様な微笑を浮かべる。
「皆――お前との契約を望んでいる。お前の歌と引き替えにならば己の存在そのものを託しても良いと言っているのだ」
一同を代表するかの様にコーティカルテが言う。
だが――
「彼らと契約をすれば、お前も一流のダンティストだ。恐らくこれだけの数の精霊を従えたダンティストは歴史を紐解いても数える程しか居まい。……しかし」
コーティカルテは、まるで他の精霊たちがフォロンに近づく事を制止するかのように、腕を横へまっすぐに伸ばす。
「しかし……」
彼女は一度視線をそらし、少しの間、顔を赤らめながら視線を泳がせた。
そして再び、フォロンの瞳を見つめなおす。
その表情には――常に余裕の様なものを漂わせている彼女にはあまり似つかわしくない、ひどく切実なものがあった。
「私は、お前を私だけのものにしたい……」
ゆっくりと――大事に大事に言葉を紡いでいく。
それはかつて孤児院の屋上で聞いたのと同じ言葉だ。
「お前の描き出す魂の形を私だけのものに……」
それは、彼女がフォロンと出会って以来、ずっと想い願っていたことだろう。
「浅ましい願いだという事は分かっている。身勝手である事も承知している。ひょっとしたらお前のダンティストとしての未来を歪める事にすらなるのかもしれない。だが――私はどうしてもお前を独占したい……だから」
祈る様な口調でコーティカルテは言う。
「百万の精霊の代わりに私が働こう。百万の精霊の代わりに私がお前を支えよう。百万の精霊よりもより強大な力となってお前に仕えよう。 それでは、駄目か……?」
そう問いかけてきた彼女は、どこか小さく、とても頼りなく、脆く崩れそうな足場の上に一人で立っているようにみえた。
怖いのだろう。
フォロンの答えが。
まるで初めての告白の結果に怯える乙女の様に。
だが――
「…………何を今更」
フォロンは小さく、だがはっきりと、首を横に振った。
びくりとコーティカルテが身を震わせる。
「契約は――十二年も前に交わしてるだろ?」
その言葉の意味がコーティカルテの中に浸透するには若干の間が必要だった。
初めは戸惑い。
そして――大輪の華が開くかの様に紅い精霊の顔に純粋な笑みが広がっていく。
「……汝の魂は悦びであり慰みであり癒しである。汝が汝である限り我は汝の力となって常に寄り添うであろう」
それは改めて行われる誓いの儀式。
紅い精霊は厳かな口調で告げると――誓約の通り彼の元へとそっと身を寄せた。
三日後。
個人の身に何が起ころうと世界は世界。
周りが変わらないのならばそう簡単に人生も変わらない。
朝が来れば日が昇り、夜が来れば日が沈み、怒って泣いて笑ってそれぞれの営みを繰り返しているといつの間にか代わり映えのしない日が強制的に過ぎていく。
これをして人は日常という。
大いなる諦めとそして僅かばかりの親しみを込めて。
それはともかく。
「やばいって! ほらコーティ! 急いで!」
フォロンはコーティカルテの手を引いて全力で廊下を走っていた。
引かれているコーティカルテの手には食堂の玉子焼きサンド。
「落ち着け。もう鐘は鳴ってしまったんだ。今更急ごうがゆっくり行こうが遅刻にかわりはない」
「かわりないわけないだろ! だいたい、君がその玉子焼きサンドを買い忘れて、一度食堂に戻ったから遅れているんだろ!? 少しは君も慌ててよ!」
「わかった」
口ではそういうが、全然急ごうという気配がない。絶対、わかっていない。
「もぉ〜。次は一年生たちに授業しなくちゃいけないのに、また遅くなっちゃったよ」
「ふむ。なんだ、次は一年坊主どもか。なら別に問題ないな」
そう言って玉子焼きサンドをもう一口ぱくりといった。
「だから、問題あるって!」
先日の追試を無事パスし、フォロンは今まで通りの学院生活を送っていた。
しかし、あの百以上もの精霊を呼び寄せた、追試テスト時の彼の記録は日の目を見ることがなかった。
神曲を糧とする事からも分かる通り――精霊は物質的な部分よりも精神生命体の様な部分の方が大きい。彼等の存在は大なり小なり人間にも影響を及ぼすが、通常はそれは無視できる様な微弱なものに過ぎない。
だが先日の様に百体を越える精霊が、それもあの実習室の様に限定された空間に集まってくればどうなるか。
大量の精霊に間近で晒された結果として――講師や一緒に補講を受けていた生徒達は記憶に混乱や欠落が生じる事になったのである。この為、フォロンが大量の精霊を呼んだという事実は正式な記録として残る事は無かった。
何故か現場に居たにもかかわらず、何の影響もなかったユギリ姉妹が、当時の状況を証言はしたのだが、あまりに突拍子のない話で誰も信じる者はいなかった。
それはそうだろう。先日まで落ちこぼれ寸前だった生徒が、講師達にも不可能な数の精霊を呼び寄せたなどと信じる方が難しい。
また……
フォロン自身が呼び寄せた精霊達と一つも契約を結ばず、使役させる事も無く帰してしまった事も記録を正式なものにする妨げとなった。契約をしていればその精霊の存在が証拠となるし、何か使役させているだけでもその痕跡は残った筈だ。
そして更にコーティカルテの姿の事が在る。
フォロンの神曲を聴き、一度は元の姿に戻った彼女だったが、その後再び今の少女の姿へとなってしまった。
長い間、少女の姿でいたために、元の姿を維持することが難しくなったのか、はたまた、本人の気まぐれで今の姿になっているのか……。
原因はわからなかったが、コーティカルテ本人はそのことについて何も言わないし、フォロンも何も聴かなかった。
そういう訳で――
「おはようございます。その、遅れてごめん……」
教室に入るやいなや、いきなり謝るフォロン。そんな彼の元にダングイスがニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「やあフォロン。相変わらず遅刻してくるなんて、いいご身分だねぇ」
「う、ごめん……」
反射的に誤ってしまうフォロン。
ついこの前、教室で散々暴れて、最後には教室を飛び出していくといった行為をしでかしたくせに、いけしゃあしゃあと絡んでくるダングイスの神経は、フォロンとしてはむしろ羨ましい位だった。あの一件は、彼の中ではすでになかったことになっているらしい。
懲りない奴である。
まあ――これも彼独特の持ち味と言えない事も無い。
神曲とは魂の影であり心の形。
ならば、技巧にばかり走らないでこういう彼の性格を素直に神曲として奏でる事が出来れば、あるいは惹かれてやってくる悪食な精霊も居るかもしれない。
もっともダングイスとそういう悪食な精霊が組んで好き勝手絶頂に暴れ回る様を想像するだけでフォロンは少し頭が痛いが。
それはさておき――
「追試はどうにか受かったようだね。まぁ基礎過程レベルの追試だから、落ちる方が難しいけどね」
その基礎過程レベルの試験でまともな成績を残せなかったから、彼はもう一度一年からやり直しているのだが、それもすでになかった事になっているらしい。
「でも、追試に受かったワリには、まだそのヘンテコな精霊一体としか契約できていないのかい? 相変わらず中途半端なダンティストさんだよね」
そう言って前髪をいじる。
いい加減、誰か『似合ってないよ』と注意してやった方が良いのかも知れない。
「ちょっとダングイスさん! 今の言葉取り消して下さい! フォロン先輩はですね……!」
ダングイスの嫌味な言葉に腹を立てたペルセルテが、フォロンに代わって抗議しようと立ち上がったが、すぐに後ろからプリネシカによって取り押さえられてしまった。
「もごっ! もごっ! もごーーー!」
「はいはい。あなたが出て行くとややこしくなるから……」
そんな二人をみて、フォロンは笑う。
「おい、フォロン! 人の話を聞いているのかい?」
彼の仕草を見て、ダングイスがしつこく絡んでくる。
「あ、ごめん、コーティのことだっけ?」
「うむ。君もまったくかわいそうなやつだよ。あんなヘンテコな精霊に付きまとわれてさ」
当のコーティカルテは、すぐ横の席で玉子焼きサンドを満足そうに頬張っている。食べるのに夢中でダングイスの悪口は聞こえていないようだ。
「ヘンテコ?」
フォロンは笑いながらダングイスの言葉を繰り返す。
確かに変と言えば変な精霊ではある。
改めて思い起こせば、フォロンが今まで知識として学んできた精霊達とコーティカルテでは何かと異なる部分も多い。これは単に精霊としての個体差なのか、それとも彼女に何か特別な事情があるのか、それは分からない。
そもそも彼女についてフォロンは殆ど何も知らないのだ。
ただ――
自信を持って言える事が一つだけ在る。
「まぁ――僕の精霊は特別だからね」
そう言ったフォロンの顔は、とても晴れやかなものだった。
まるで冬の夜空の如く磨き抜かれた黒檀の執務机。
その上に数枚の資料が置かれている。
昨日の実習室で起こった集団記憶障害の報告書である。その中には『信憑性に疑問あり』と注意書きが添えられながらも、ユギリ姉妹の証言も掲載されている。
「なるほど……そうなりますか」
机の主――学院長は眼を細めて満足げに頷いた。
その時――
「どうぞ。開いてますよ」
まるで予め来訪者の存在を知っていたかの様に、ノックの音とほぼ同時に学院長は声を掛けた。
驚くかの様な若干の間を置いてから、分厚い扉がゆっくりと左右に開き、上下共に黒のスーツ、更に黒ネクタイに黒レンズのサングラスと黒尽くしの格好をした大柄な男が室内に入ってくる。
その体躯からすれば愚鈍そうな印象を受けかねない筈なのだが、この男にはそうした雰囲気が一切無い。きびきびした隙の無い動きのせいか、むしろ彼の存在は大型の肉食獣を想わせるものだった。
先日も学院長室を訪れていた政府関係者である。
学院長の台詞が確かならば帝室諜報局の副長という立場にある人物だった。
「失礼します」
男は抑揚に乏しい声でいかにも事務的な挨拶を口にする。
だが学院長は気分を害した様子も無く、いつもの笑顔でひょいと手を掲げて見せた。
「最近ねぇ、ポプリにこっているんですよ。君もどうですか?」
女性の様に白い指先が小さな布袋を振ってみせる。
「いえ。結構です」
「そう? 君もつれない人ですねぇ」
そう言って学院長は手に持ってる可愛らしい小袋を自分の顔に近づけた。
「うん、いい香りですよ。優しい香りというものは気持ちを落ち着けてくれますねぇ」
いろいろと話しかけても、男は一切興味をしめさない。だが学院長が全く気にした様子も無い処を見ると――どうも男の無愛想さを承知の上で、あえて無駄なちょっかいをかけて楽しんでいるようにも見えた。
「学院長」
男は鋼鉄の軋む様な声で眼前の青年を呼んだ。
「なんでしょう?」
「<嘆きの異邦人>たちに、新たな動きがあります」
「そうなんだ」
気の乗らない返事を返す。
話に興味がない、というよりは、すでに知っている情報だったのかもしれない。
何を知っていようと、何をやっていようと、この人物に関してはわざわざ驚くには値しないだろう。精霊の力を借りて不可能を可能にする神曲楽士達――間違いなくその頂点にこの青年は居るのだから。
「<神霊>の封印が解かれてしまった今、彼らが大きな行動を起こすのも時間の問題かと」
「そうですねぇ」
「あなたはいつまでこんな学校遊びをしているおつもりですか」
男の言葉に、学院長が眉をひそめる。
「学校遊びって、君も酷い言い方しますね。うちは毎年優秀なダンティストを世に送り出しているんですよ」
「優秀だの一流だの、その程度の神曲使いならば、掃いて捨てるほどいます。あなたが手を煩わせてまで行う様なことではありません」
これ程の暴言を吐く人間も珍しい。
神曲楽士の数は決して多くない。たとえ望んだとしても千人に一人もなれない超特殊職だ。それを『掃いて捨てる程に居る』とは。神曲楽士の確保に多大な費用と労力を割いている神曲公社の者達が聞けば大いに憤慨する事だろう。
だが学院長は特に気にした様子もなく笑みを浮かべたままだ。
そして――
「神霊使いになりうる逸材を見つけた……と言ったら?」
「…………」
微かだが――本当に微かではあるが、初めて男がその岩の様な顔に表情を浮かべた。
「なるほど。あなたもただ学校遊びをしていたというわけではない、ということですか。さすが<四楽聖>のお一人ですね。シダラ・レイトス」
久しく聴かなかった自分の名前を呼ばれ、レイトスは鋭い視線を男に投げかけた。
「私はもう少し彼女たちを観察することにします」
「わかりました。では<嘆きの異邦人>たちは引き続きこちらで監視します」
「はい。よろしくたのみます」
「では――」
男は一礼すると、学院長室を出て行った。
再び沈黙の満ちる部屋の中で、しばし学院長は――伝説の<四楽聖>の一人シダラ・レイトスはぼんやりと空中を眺めていたが、ふと思い付いたかの様に視線を机の上の資料に向ける。
そこにはフォロンと……そしてコーティカルテの写真が添えられている。
「やれやれ。悪夢再び……か」
呟くレイトスの口元には――何故か、その『悪夢』の再来を楽しむかの様な、不敵な笑みがゆっくりと浮かび上がっていた。
神曲奏界ポリフォニカ 第1話 FIN