神曲奏界ポリフォニカ
PROLOGUE
鬱蒼たる樹海の中に舞う人の如き影が在った。
断言をはばかるのは刻限が深夜――即ち大地を暗闇が支配する時間であるからだ。
人の身で灯りも無く深夜の森を行くのはあまりに過酷な作業である。
濃密に生え揃う木々の枝や葉の隙間から白々とした月光が漏れ落ちてくるものの……夜の森の隅々にまで行き渡るにはあまりに乏しい。か細い光によって寸断された闇がそこかしこにわだかまり、複雑な陰影模様を刻んでいる。それは完全な闇よりもむしろ不気味な光景であった。
ただでさえ見通しの悪い場所に無数の闇が凝って更に視界を狭めている。
眼を凝らしてようやく足元が見えるかどうかといった状態だ。慎重に爪先で探る様にしながら歩を進めなければ、数歩ごとに木の根や石の創り出す段差や窪みに脚を取られて転倒する事になるだろうとても『歩いている』などと言える様な状態ではない。
ましてや――走る事など出来よう筈も無い。
だが。
その人影は軽やかに森の中を走り抜けて行く。
舞う様な足取りには何の乱れも無い。罠の様に張り巡らされた凹凸の上を、まるで平坦な道を行く様に進んでいく。跳ぶ。駆ける。時には枝や幹を蹴って更に跳ぶ。行く手を遮るかの様に密に生い茂る草木さえその動きを阻む事は無い。むしろ人影の動きを助けているかの様にさえ見える。
細い手足の何処にその様な力が潜んでいるのか。 この場にもし余人の眼が在ったならば驚愕した事であろう。 時折、闇から闇へ渡る瞬間、か細い月光に照らされて露わになるその姿は――美しく若い娘のものだったからだ。
娘の容姿を端的な言葉で示すのならば『優美』の一語が相応しかろう。
燃え上がる炎の如く紅い髪。同じく炎の色を封じ込めた瞳。対して肌は鮮烈な程に白く――その肢体の描き出す曲線はただただ妖艶である。身に纏うやはり緋色の衣は布をふんだんに使い丈が長いにもかかわらず、胸から腰に至る部分は身体の線をそのままに強調しており、肌を露出する部分も多く……肌と布の描き出す対比は扇情的ですらあった。
ほんの少し何かが狂えば娼婦の如く下品にもなりかねない――そんな華やかさであり艶やかさである。だが彼女の姿には姫君の如き気高さこそ在るが、退廃的な、あるいは享楽的な雰囲気は微塵も無い。
恐らくソレは彼女の表情や物腰にある種の芯が通っているからであろう。誰かに寄り掛かるのではなく、自らの意志で立つ事の出来る者特有の清冽な覇気がそこには在った。
しかも――森を行くその動きそのものがある種の舞踊の如く美しい。
大袈裟な動きではない。むしろ無駄と隙がそこには無い。人間の動きとは思えない程に端的な――それ故にこそ刃の様に研ぎ澄まされた、清水の様に澄み渡る、そんな純粋な動きである。付け加える事でではなく不純物を削ぎ落とす事で得られる美の極みがその娘の動きには宿っているのだった。
だが……
「くっ…………」
不意に美しい顔が苦渋に歪む。
同時に完璧を誇っていたその動きに乱れが生じ――美しい幻影の如く舞っていた娘は自らの生身を突如思い出したかの如く、意地悪く入り組んだ木の根に脚を取られて倒れ込んでしまった。
「…………」
娘は素早く後ろを振り返る。
そこには自分が今走り抜けてきた草木しかない。それ以外は何も見当たらない。だがそれでも彼女の眼には迫り来る何かが視えているのか――その表情には追い詰められた者の焦燥がうっすらと滲んでいた。
「さすがは<四楽聖>――この程度では撒けないか」
忌々しげにそう呟くと彼女は再び走り出そうとして立ち上がる。
だが既に消耗が激しいのか……一瞬前までの超人的な動きがまるで嘘であるかの様に、娘は大きくよろめいてしまう。
そこへ――
「――!」
闇の中に閃光が走る。
何処からか飛来した白い――明らかに月光のそれとは質を異にする光が娘に向かって襲いかかる。流星の様に残像を闇の中に刻みながらその光芒は娘の胸を貫かんと
「なめるなっ!」
叫びと共に右手を振る娘。
次の瞬間、虚空に――今まさに娘に激突せんとしていた光芒の前に、格子状の光る何かが発生し、その突進を食い止めた。光芒はその光る格子に激突してあらぬ方向へと跳ね返され……そこでゆらゆらと力無く揺れている。
よく視ればそれは光そのものではなく光をまとった球体だった。
ただしその球体にはよく視ると蜂の羽根の様に細かく振動する二枚の翼が備わっている。生物にしてはあまりに単純な姿であるが――その動きには自然現象とは明らかに異なる『意志』が備わっていた。
「下級精霊程度でこのコーティカルテ・アパ・ラグランジェスを――」
娘は更に何かを掌から放たんとするかの様に右手を翳す。
同時に娘の背中には六枚の羽根らしきものが――光る球体に備わっているものと同じ様な、しかし決定的に異なる複雑さを備えた、六枚揃って何かの紋章を描き出すかの様な半透明のものが威嚇的に浮かび上がる。
「……くっ……」
短く呻くと娘は右手を降ろしてしまう。
その間に光る球体は常態を取り戻したのか、ふっと現れた時と同じ唐突さで闇の彼方に跳び去っていった。どうやら力の桁が違う相手に再び攻撃を仕掛ける様な愚を犯さないだけの知恵は備わっているらしかった。
しかし
「確かに世界最高の神曲楽士と謳われるだけの事はある――下級精霊にすらあれ程の力を与えるか。それとも……
娘は近くにあった木の枝をつかみ、どうにか体勢を立て直す。逆に、何かに掴まらなければ立っていることさえままならない。それほどまでに今の彼女は消耗しきっているらしかった。
「始祖精霊が一柱と息巻いてみても――神曲がなくてはこんなものか」
自嘲気味な笑みを浮かべる娘。
その紅い眼はなにか深い悲しみが漂っていた。
「仕方ない。<異邦人>の誰かに助けを求めるしかない――か」
娘の表情に混じる自嘲が濃さを増す。
その時……
「――!?」
闇の中に響き渡るか細い――歌。
娘は反射的に身構える。
深夜の森に意味もなく入り込む物好きなど居ない。だとすれば歌の主の可能性として一番高いのは娘の関係者――つまりは彼女を追う追っ手であろう。
だが……
「神曲!? <四楽聖>か!?――いや……」
娘は手近に在った木の幹に背中を預け、眼を閉じる。まるで全身でその歌声を捉え浴びようとしているかの様に――わずかな音色すらも取りこぼさんとするかの様に、彼女はしばし身動きもせずその場で歌を聴いていた。
「違う……この歌は……」
歌は分厚い闇を通してもなお響いてくる。
元々そう大きな声で歌われているものではないのだろう。恐らくは距離も相当に在るに違いない。その旋律は途切れがちでひどく聴き取りにくい。
ただしそこには明確に人の心を打つ何かが在った。
特別な技巧などない。殊更に美声でもない。
ただしかしその声が織り成す音の連なりはひどく純粋で……まるで心の模様をそのまま音に変じて放散しているかの様な飾り気の無い美しさが在った。
それは少し哀しい歌。
しかしそれを支えるのは――奥の奥には歌い手の優しさが伝わってくるかの様な暖かいものがはっきりと息づいている。音楽を、特に歌を生業とする者ならば嫉妬すら覚えたかもしれない。技巧にも美声にも頼らず、ただあるがままを自然に歌い上げるその響きは、多くの歌い手が最初に望み――しかし得られぬままに忘れ果てていた一つの極致であったから。
それはある種の奇蹟と言っても良かろう。
娘はしばらく己の窮状も忘れたかの様に歌を聴いていたが――ふと眼を開けると歌声に引き寄せられる様にして歩き出した。その足取りに最初の様な常識外れの力強さや軽さは無いが……先程までの様な弱々しさも無い。
ゆっくりと――しかししっかりした足取りで娘は森の中を進んでいく。
何が衰弱しきっていた彼女を癒したのか。
「誰だ……一体誰が……?」
何度そう呟いた事か。
幾つもの闇を抜けて歩き続けた彼女は――いつの間にか樹海が途切れている事に気付いた。歌に誘われるままに歩いていて森を抜けてしまったらしい。
まばらになった木々の向こうに一軒の古びた建物が見える。
普通の民家に較べると規模こそ大きめだが……決して裕福な者の住まいではないのだろう。赤茶けた壁には所々亀裂が走り蔓草が無秩序に絡み付いている。廃墟を思わせる老朽ぶりであるが、そこには人が暮らしている独特の香りもあった。
「こんな場所に人間の民家が……?」
建物の周りは申し訳程度に柵が囲っており――その一角にはやはり申し訳程度に低い石の門柱が立っている。
そこには『トルバス孤児院』と書かれていた。
怪訝そうだった娘の表情に納得の色が混じる。建物の老朽振りも、他に民家も見えぬ僻地に立っている事もこれで説明がつく。裕福な孤児院などというものは歴史が始まって以来存在した試しが無い。
娘は建物に歩み寄って視線を上げる。
歌はその孤児院の上部、屋根の辺りから聞こえてきていた。
「…………あそこか」
娘は建物の屋根を見上げながら――軽く地面を蹴る。
ただそれだけの動作が次の瞬間には驚くべき結果を生み出した。
娘の爪先が蹴った地面――正しくはその地面よりわずかに上の虚空――を中心として、まるで水面の如き半透明の波紋が発生する。その波紋が如何なる力を備えていたのか……娘の姿はまるで重力の存在を忘れたかの様にふわりと浮き上がり、まるで深い水底から浮上するかの如くただの一蹴りで屋根の上へと到達していた。
屋上に居たのは……一人の幼い男の子であった。
未だ年齢は四つか五つ位であろう。ともすれば女の子と見間違ってしまいそうな優しい顔立ちである本来なら腕白という言葉が似合う様な年頃の筈なのだが、泥遊びだの取っ組み合いだのをしているよりも、むしろ女の子に混じって人形遊びでもしている方がよく似合うだろう。
男の子は空にくっきりと浮かんだ月を見つめながら、一人で歌っていた。
背中を向けているので娘には気付いていない。如何なる奇蹟の業か――娘の爪先は、空中に浮かんだままで屋根に触れていない。衣擦れの音さえ立てず……彼女はただ黙然と虚空に立っている。
まるで――男の子の歌を無粋な雑音で乱すのを恐れるかの様に。
静かに静かに……息遣いさえも密やかに娘は男の子の歌を聴いている。
たった一人の歌い手とたった一人の聴き手。
屋根の上のささやかな演奏会は程なくして終わった。
「……?」
男の子が一通り歌い終わった処でようやく彼女の存在に気付いたらしい。
びっくりした様子で彼は背後に立つ娘を振り返る。
「……だれ?」
驚くのも無理は無い。
だが娘は苦笑を浮かべつつ首を振った。語るべき言葉は幾らでも在ろうが――無粋な説明や弁明の言葉は歌の余韻を壊すと思ったのかもしれない。彼女はただひどく穏やかな口調で『お前の歌に誘われて来た』とだけ答えた。
「あ…………」
見知らぬ女性を目の当たりにした事よりもその事実の方が驚きであったらしい。男の子は少し顔を赤らめて俯く。殊更に誰かに聴かせようとして歌っていたものではなかったのだろう。この恥ずかしがり様からすれば――ひょっとしたら人前で歌ったのは初めての事なのかもしれない。
黙り込んでしまった男の子を前に娘は優しい微笑を浮かべて言った。
「恥じる事は無い。お前の歌――良かったぞ」
「…………」
その言葉に男の子は戸惑った様子を見せる。すぐには彼女の言葉の意味がわからなかったのだろう。
ゆっくりと理解の色が男の子の表情に広がっていく。だがそれと同時に羞恥の感情も強さを増したのか、彼は益々頬を赤らめて俯くと、小さく『ありがとう』と言った。
ふと……娘が少し意地悪そうな笑みを浮かべる。
「……ん? 聞こえないぞ」
「…………」
「もう一度言ってくれ。恥ずかしがるな。男の子なのだろう?」
もじもじと身体を揺らせながらそれでもしばらく男の子は躊躇っていたが、ようやく決心がついたのか……大きく息を吸って顔を上げると、彼ははっきりと言った。
「ありがとう。おねえちゃん」
そう言った彼の丸く可愛らしい目は、少し赤くはれている。
「泣いていたのか?」
「ち……違うよ」
男の子は慌てて顔を伏せながら手で目元を拭う。
やはり小さくても、女の子の様な顔立ちでも、男の子は男の子――それなりの矜持というものがあるらしい。娘は微笑みながら頷いて言った。
「そうだな。男の子だからな」
「……そうだよ」
男の子はそう言って頷く――顔は恥ずかしげに逸らしたままだったが。
娘は自然な動作で男の子の側へと歩み寄り、目線が同じ高さになるよう、腰を落として片膝をつく。
紅い瞳が真っ直ぐと男の子の黒い瞳を見つめた。
男の子は、見知らぬ女性に対し、恐れを見せることもなく、ただ少し戸惑いと恥じらいの入り交じった表情のまま彼女を見つめ返している。
しばし何かを探るかの様に男の子の瞳をのぞき込み――
「お前を私だけのものにしたい」
娘はそう言った。
「……え?」
「お前の描き出す魂の形を私だけのものに。それは――ダメか?」
この時、今までは余裕すら見せて男の子に相対していた娘が、初めて、そしてわずかに、はにかむかの様な表情を見せるが――少年がその事に気付く事は無かった。
「……?」
男の子は小さな首を横に傾げる。
娘の言葉の意味を理解するには男の子はあまりに幼く――また知識も無かった。だがある種の特殊技能を身に付けた者達であれば娘の言葉に驚きを禁じ得なかっただろう。
それは契約の言葉であったから。
見ず知らずの者同士の間で軽々しく交わされる様なものでは決してない筈のものだから。
しかし――
「そうだな。つまり――これからも私のために歌を歌ってくれないか? という事だ」
娘は苦笑を浮かべて言う。
男の子は多少の戸惑いを示しつつも――すぐに『うん』と頷いた。
娘も満足げに頷き、そして手を伸ばして男の子の頬に指先を触れさせる。くすぐったそうに笑みを見せる男の子に娘は少し声を潜めて言った。
まるで愛を告白する乙女の様に。
「では、約束の印だ。目を、閉じろ……」
言われるままに、男の子は目を閉じる。
娘は束の間、愛おしげに男の子を見つめ――そしてゆっくりとその美しい顔を彼に近付けていった。
将都トルバス。
この街には様々な側面が備わっている。
単に公式書類の上での詳細を語るならば、ここは帝都メイナードを囲むように配置された将都のうちの一つであり、人口二百万にも及ぶ大都市――という事になる。幾つかの交易路が交差する分岐・中継点の都市として栄えており、水路陸路を問わず交通に関しては将都の中でも屈指の利便性を持っている。
交易によって栄える都市はどうしても人の出入りが激しく治安も乱れがちになるのが常であるが、代々の領主たるオノカラ公が治安維持に力を入れている為に、トルバスは比較的、夜でも安心して出歩ける街としても有名だ。
区画整理による道路幅の確保と、街灯の大量設置を実施する事で、市民や官憲の眼の届かぬ『暗がり』を減らすという政策に出たのもこのトルバスが最初である。無論――このやや強引な区画整理に伴う土地収容の利権に絡んで色々と組織犯罪が横行したのも事実ではあるが、それももう百年近く前の事である。現在は地価の変動も街の景観も落ち着き、住民達の生活も穏やかなものになっている。他の将都に較べると税金はやや高いが、他国からの移民が居住を希望する街として、このトルバスは常に筆頭に挙がる。
だが――このポリフォニカ大陸において最もトルバスの名を有名にしている要素は他に在った。
神曲《コマンディア》公社《パブリック・コープ》直営の神曲楽士《ダンティスト》養成機関――トルバス神曲学院《コマンディア・アカデミイ》の存在である。
特殊技能者・神曲楽士。
ポリフォニカ大陸に遍く存在する無数の精霊達を、特殊な音楽『神曲《コマンディア》』によって使役するのを生業とする者達。彼等は時に不可能を可能とする程の力を持っており、人々の畏敬を念を浴びる職業ではあるのだが、その数が少ない事から色々と無責任な噂が一人歩きする職業でもある。
曰く神曲楽士は異常に耳が良く聴診器無しで相手の心臓の音を聞く事が出来る。
曰く神曲楽士は精霊を虜にする為の曲を弾きすぎて自分も中毒症状を起こしている。
曰く神曲楽士は変わり者が多いので多少の無茶をしても官憲は視て視ぬ振りをする。
曰く神曲楽士は大変に儲かる職業なので傲慢な者が多く金遣いも荒い。
曰く――
等々。
大抵は大変な誤解だが、大きな力を行使する上に、社会的地位が高く、その一方で数が少ない為にこうした好奇の視線を浴びる対象にもなりやすいのが神曲楽士なのである。
当然ながら人々はそんな神曲楽士を目指す者の集うトルバス神曲学院にも好奇の眼を向ける事になる。一体どんな変な奴らが学んでいるのだろう――と。
だがこれも基本的には誤解だ。
トルバス神曲学院に変な人間が多いのは事実だが……殊更に奇人変人が集っている場所ではない。それぞれの事情は在れど、トルバス神曲学院に在籍する生徒の多くは神曲楽士という職に憧れ、それを目指す、しかしその他はごく平凡な少年少女なのである。
例えば――
「『トルバス神曲学院前』ッ!」
――と書かれたバス停の看板を元気良く読み上げる金髪の少女の様に。
あるいはその隣で静かに微笑んでいる銀髪の少女の様に。
共によく似た顔立ちとよく似た背格好から姉妹――それも恐らくは双子と分かる。
ただし髪型は異なるし何よりもその立ち居振る舞いが明らかに違うので、雰囲気は似ているどころかはっきりいって正反対の印象が在る。容姿が似ている分、余計にそれが際立つ感じではあった。
「来たよ来たよ遂に来たよっ! ねぇねぇプリネ、遂に本物のトルバス神曲学院まで来ちゃったよ!?」
金髪の少女はまるで体温の高い小動物の様に、落ち着き無くきょろきょろと辺りを見回している。明らかに興奮している様子で放っておけばその場で駆け足でも始めそうな感じではあった。
未だ幼い感じを顔立ちや物腰の何処かに引きずっていて――薄紫のリボンで二条に結んだ長い髪が、尻尾の様にせわしなく揺れている様子が妙に微笑ましい。
「嬉しそうだね……ペルセ」
自分と同じ顔の少女がはしゃぐ様を何処か困った様に見つめながらプリネと呼ばれた銀髪の少女がそう声を掛ける。
金髪の少女を動とするのならばこちらは間違いなく静である。同じ色のリボンを結って髪を飾っているものの、こちらは全体的に地味で大人しめな感じだった。だがそれだけにすっきり整った目鼻立ちと相まって清楚な印象が強い。
金髪の少女と異なり、銀髪の少女の方はバスから降りたその位置から全く動いていない。ヘ @5 ただ機嫌や身体の具合が悪い訳ではないらしく、口元には穏やかで自然な笑みが浮かんでいて――それがまた実に愛らしい。
銀髪の少女の声はまるで呟く様な小さなものであったが……耳が良いのか、あるいは単にこうしたやりとりに慣れているのか、ペルセと呼ばれた金髪の少女は即座に金髪の端を舞い上がらせる程の勢いで振り返って言った。
「だって、神曲学院だよ? 第三神曲公社付属の、神曲楽士専門学校! ここにくれば私達の夢に向かって大きく前進、って感じでしょ?」
金髪の少女の名はユギリ・ペルセルテ。
銀髪の少女の名はユギリ・プリネシカ。
共にトルバス神曲学院への入学を希望して田舎から出てきた双子の少女達である。
「でも、今日はただ学校見学にきただけで、まだ入学するわけじゃないから…」
「わけじゃなくても! まずは入学試験前に敵状視察!」
「敵状って……。普通、学校見学とか下見とかって言わない……? 別に敵対してる訳じゃないんだし……」
「何言ってるの!」
ペルセルテはびしりと音のしそうな動きでその神曲学院の偉容を指差しながら言った。
彼女等の前には問題のトルバス神曲学院の巨大な建物が傲然とそびえている。とある古城を改装したと言われるこの建物は、見るからに古色蒼然とした――周囲の現代的な街並みからすれば違和感さえ醸し出す程の重厚な雰囲気を持っているが、内部はすっかり近代設備に変更されていて、普通の学校と大差無い。
「ダメだよプリネ! そんな事じゃ生き残れないよ!? 試験はアカデミイとの戦いなんだから、試験を受けて入学するまでは敵だよ! 倒すべき敵! まいえねみー!」
手をぐっと握り締めて神曲学院の校舎を熱いまなざしで見つめるペルセルテ。何となく気合いが空回りしている感も在るが、彼女のトルバス神曲学院に対する――そして神曲楽士に対する想いがただならぬものである事はその姿を観るだけでもよく分かる。
「あはは……ペルセらしいね」
そんな返事をしながら、プリネシカは鞄の中から取りだした学院案内の冊子をめくる。
冊子はペルセルテの代わりにプリネシカが前もって取り寄せておいたものだ。思い付いたらそのまま周りも見ずに突進する様な性格のペルセルテが、とりあえず大きな失敗も無くこれまでやってこれたのは、この双子の妹のそつの無さに負う処が大きい。
「でも……ペルセ。入学要項には、試験は基礎教養と一般常識をみるものであって、基本的に入学希望者は全員受け入れる、みたいなこと書いてあるよ……? だから、そこまで気合をいれなくてもいいんじゃ……?」
双子の妹の冷静な指摘に、ペルセルテは拳を握ったまま固まる。
しばし思い悩んだ後――金髪の元気少女は誤魔化す事にしたらしく、何処か明後日の方角を指差しながら言った。
「つまりね、要するに、心構えの問題なんだよ! よし、来年からはここでがんばるぞ! って言う、気合をいれるためにさ、ほら、だって。運がよければ、本物のダンティストにだって会えるかもだしね。ここの先生って、みんな現役のダンティストたちなんだからさ!」
ついに本音が出た――といった処か。
プリネシカが静かに苦笑する。
もちろん、ペルセルテの言葉は全て彼女の本心だが、今は本物の神曲楽士や神曲学院の生徒に会えるかも、というミーハーな気持ちが一番強いのだろう。
もっとも……よく考えればペルセルテの気合いの入り様もあながち間違いではない。
プリネシカの指摘した通りトルバス神曲学院は基本的に毎年の入学希望者の殆どを受け入れる。だが大量の入学者に比して卒業生の数は異様な程に少ない。神曲楽士の数も少ないまま。これはつまり入学後の中途脱落者がいかに多いかという事実を物語っていた。生半可な覚悟で入っても志半ばで学舎を去る事になるのは目に見えていた。
「……そういう前向きな処はペルセの良い処だよね」
プリネシカがそう言って笑う。
ペルセルテはペルセルテで、双子の妹にそんなふうに微笑まれたのがなんとなく恥ずかしくて、ごまかす様に足早に歩きだした。
「と、ともかく。早く受付済ませて学校見学しようよ!」
「そうね……」
大きく左右に門扉を開いた校門は彼女達を歓迎している様にも見える。
楽しげに頷き合うと二人はトルバス神曲学院の大きな門をくぐった。
校内に入ってもペルセルテのはしゃぎっぷりは変わらなかった。
「ほえ〜。これが神曲学院の校内かぁ」
そう言ってはあっちを向いてきょろきょろ。こっちを向いてきょろきょろ。田舎者丸出しの仕草なのだが不思議とこの少女がやると野暮ったさよりも微笑ましさが先に立つ。
外観こそやたらと厳めしいが校内の様子は普通の学校と大差無い。
廊下の壁も床も天井もありきたりの内装である。彼女等が少し前まで居た田舎の学校と何が違う訳でもない。さすがに校舎の規模は大きいのだが、一見して分かる違いは今の処それだけだ。
だがそれでも注意して見ればたまに神曲学院ならではのものが見つかったりもする。ヘ @s それが嬉しくて仕方ないらしく、ペルセルテはプリネシカに促されながらも、何かちょっとしたものを見つけては騒いでいた。
例えば――
「それにしてもさ、さすが神曲学院だよね。まさか学校案内まで精霊がやってくれるなんて感激」
ペルセルテは自分たちの前をふわふわと浮かびながら進んでいる、透明な一対の羽をつけた手の平サイズの光る球体を、熱い眼差しで見つめている。ひどく単純な形状で生き物かどうかも怪しい感じなのだか、よく見ると光る球体の表面には何やら眼らしき点や口を想わせる線が浮かんでいたりする。それが本当に眼や口かどうかは大いに疑問で、それこそ子供の落書きと大差ない様な代物だが……この為にどことなくこの光る球体には親近感が湧くのも事実だった。
ボウライという下級精霊に位置づけられている精霊の一種だ。精霊の中ではそう珍しい存在ではないのだが、確かに下級と言えわざわざ精霊を学校見学の案内役になんぞ使うのは、ポリフォニカ大陸広しといえども、このトルバス神曲学院位のものだろう。
「こんな間近で顕在化した精霊を見たのなんて初めてだよ〜。これだけでもわざわざ下見に来た甲斐があったね!」
その場で妹の両手を取って踊り出しそうな雰囲気のペルセルテに対し、プリネシカはというとあまり感激した様子も無く落ち着いて『そうだね』などと答えている。つまらないと思っている訳ではなく――どうも何かと舞い上がるのはペルセルテ、それを冷静に見据えて暴走しそうなら引き留めるのがプリネシカ、という役割分担がこの双子の間では出来上がっているらしい。
「えっと、ボウライさんだっけ? よろしくね」
「くぴ」
下級精霊が応えるように鳴いた。
精霊。
それは世界に満ちる『知性ある何か』。
彼らは神曲楽士たちによって世界のありとあらゆる処で各種労働力として使われている、社会の一部である。ただし一方的な隷属ではなくあくまで彼等の働きは人間と対等なものだ。彼等は彼等の意志で人間に協力してくれているのである。
属性、能力、外見は固体によりまったく異なる。ペルセルテ達の前に浮かぶ単純極まりない形状のものも居れば、外見上人間と殆ど区別出来ない様なものも居る。一般に上位の精霊ほど能力が多様化し、その力も強く、また形状も複雑化すると言われているが、これには例外も多く定説と呼ばれるには至っていない。
精霊と呼ばれるものの共通点は背に生やした何対かの透明な光る羽と――そして神曲と呼ばれる特殊な楽曲を糧とする、ということのみ。彼等の労働に対して人間側から支払われる対価は殆どの場合がこの神曲なのである。
そのため、唯一精霊たちを使役して大きな力を操ることのできる新曲楽士という職は、現在のポリフォニカ大陸において人々の憧憬を集める職業となっていた。
「ココガ一般科ノ教室」
ボウライがたどたどしい口調で説明してくれる。
「ふーむ、なるほど」
ペルセルテは紹介された教室を廊下から窓越しに覗き込んだ。
中で授業を受けている生徒たちも、何名かは彼女に気付き――いちいちペルセルテの声と動きが大きいのである――ちらちらと視線の端で彼女を見ている。ペルセルテはペルセルテで視線が合ったりすると、にこやかに微笑んで手を振ったりするものだから、生徒達、特に男子は気になって仕方ないらしい。
「ペルセ……。あんまりじろじろ見ると、授業を受けている人達の邪魔になるよ……?」
そんなペルセルテの服の襟を、プリネシカが後ろから引っ張る。
おずおずとした口調と動作だが――そこは長年、暴走しがちな片割れの抑止役を務めてきた双子の慣れなのか、引っ張る力に中途半端な容赦は無い。猫の子が親にくわえられる様な恰好で窓から引き剥がされたペルセルテはじたばたと暴れながら言った。
「あうぁ、首がしまる、しまる!」
「あ。ごめん……」
窓から一歩さがったところでようやく解放されたペルセルテは、ケホっと咳をつきながら、乱れた襟元を直す。
「ねね、プリネ! やっぱりアカデミイはすごいね。教室からすでになんかちょっと高級な感じだよ!」
確かに言われてみれば彼女達が以前通っていた学校よりも教室はやや大きく、座席同士の間隔も広い。要するに細かい配置は普通の学校と同じなのだが、全体的に余裕を持ってゆったりと造られているのだ。その上、音楽を扱う学院だからか、教室の壁も防音効果のある素材が使われている様で――窓硝子もよく見ると分厚く二重になっている。
逆に言えばそれでも中の生徒が双子の存在に気付く訳だから――いかにペルセルテがはしゃいでいるのかがよく分かる。
「そうだね。さすが神曲公社付属の学院、って感じだね」
プリネシカも感心して頷いていた。
神曲公社。
神曲楽士達に仕事を斡旋する公立の会社組織である。
基本的に神曲楽士達は、国家資格としてその存在を管理されている。
かつて『大戦』において精霊達がどんな兵士よりも兵器よりも優る働きをしたという事実は、彼等を操る神曲楽士達が国家にとって潜在的な脅威たり得る事を示しているからだ。
民間の神曲楽士達の動向を詳細に把握する為、帝国は神曲楽士達の仕事は神曲公社を介して受けねばならないとする法律を制定し、その報酬の一部を中間搾取する代わりに神曲楽士達の仕事に付随する多くの雑事を神曲公社が担当するという制度を敷いた。
その結果――年々増える神曲楽士達への需要に伴い、神曲公社の収支決算も毎年大幅な黒字を続けている。その潤沢な経済力によって造られたこのトルバス神曲学院が、充実した設備を持っているのもある意味では当然だった。神曲公社にとっては優秀な神曲楽士の『量産』が組織の安定した未来を約束するからである。
それはさておき――
「くぴ。ココハ、主ニ、基礎知識ナドノ、講義ニ、使用サレル」
「おおお。じゃあ、今ここでやっているのはまさに神曲に関する知識の授業なんだぁ……!」
そう言ってペルセルテが再び教室の窓に張り付いた。
「ツギハ……」
「ペルセ。次に行くみたいだよ……」
しがみ付くように教室を覗き込んでいたペルセルテを置いて、ボウライは次へと進み出している。ここら辺の融通の利かなさ加減が下級精霊の下級精霊たる所以である。
「あ……。ちょっと待って! 待ってってば!」
ペルセルテは慌ててボウライの後を追いかける。そして更に溜め息をつきながらその後に続くのは言うまでもなくプリネシカである。
「そういえばさ、プリネ。ふと思ったんだけどね」
「……どうしたの?」
「あのボウライさんをさ」
ペルセルテがふわふわと前を飛んで行く下級精霊を指さした。
「あのボウライさんをね、ボウライさんって呼ぶのって、変じゃない?」
「え……?」
ペルセルテの言わんとする事が今一つ掴めないらしく、プリネシカが首を傾げた。
「だってさ、ボウライさんをボウライさんって呼ぶのって、わたしたちを『おい、人間さん』って呼ぶのと同じことでしょ?」
「あ……うん。そうだね……」
「それって、変じゃない?」
「そうかもしれないね……」
曖昧に笑うプリネシカ。
傍目にはいつも双子の姉に振り回されているだけの感のあるプリネシカだが、時折妙に余裕めいた部分というか、ペルセルテの言動を一歩離れた処で見守っている様な表情を、仕草を示す時が在る。
「あのボウライさんだけの名前ってないのかな?」
「あるとは思うけど、下級精霊は自らの意思を人間の言葉に直すことがみんな苦手だから……。それに……彼らにとって、私たちに名前を伝えることって、きっとそんなに大切なことじゃないから……」
どう説明したらいいのか分からないらしく、プリネシカが「うーん……」と立ち止まって考えこんでしまう。
「そうなの? でもボウライさん、さっきからちゃんと説明してくれてるよ? わたしたちにわかる言葉で」
「あれは……教えられた通りに喋っているんだと思う。意味も、わかっていないことは無いと思うけど、ほとんど覚えた通りを口にしているだけなんじゃないかな……例えば『外国人の小部屋』って概念が在るんだけど、たとえ喋っている言葉の内容が分からなくても、特定の問いに特定の答えを返す、その為の決まりというかマニュアルが充分たくさん在ったら、傍目には意味が分かっている様に見えるから……」
「なるほど〜」
いかにも適当な感じの相槌を打つペルセルテ。
決して頭が悪い訳ではないのだが……この少女は概念的な内容の会話はどうにも弱い。恐らくは単に性格の問題だろう。何かについて深く思索するよりはつい直感で動く様な処が彼女には在る。
「頼もしいな〜」
「え? な……なに?」
双子の姉のきらきらした眼に見つめられて、戸惑う様な表情を見せるプリネシカ。
「同じ様に勉強してる筈なのに、私よりずっとそういう事に詳しいんだもの、プリネシカ。特に精霊学なんか全然勝てないし」
「え、あ、そんなことは、ないと思うけど……」
「これからこの学院に通う事を考えると、すっごく頼もしいよ!」
まるで聞いていない様子でペルセルテがポンとプリネシカの肩を叩く。
此処で双子の妹に嫉妬や羨望を抱くのではなく単純に頼もしいと思えてしまう屈託の無さが良くも悪くもペルセルテらしい。
そんな双子の姉の言動にある種の不安を抱いたのか――プリネシカは少しばかり困った様な眼をペルセルテに向けた。
「あ……。ペルセ、勉強はちゃんと自分でやらないと、ダメだよ……?」
「も――もちろん!」
若干表情を引きつらせながらペルセルテは頷く。
そして――
「ただ、その――ええと、わからないところは教えてくれるよね!?」
「……はいはい」
そうは口でいいながらも、プリネシカは嬉しそうに微笑んでいる。
まあプリネシカはプリネシカでペルセルテに頼られる事は嫌いでないのだろう。単に双子であるという以上に、相性の良い二人組ではあった。
「ではとりあえず、ボウライさんをボウライさんのままじゃ可愛そうだし、何か呼び名つけてあげよう!」
思い立ったら吉日な少女は、さっそく腕を組んでうんうんと悩み始めた。
つられてプリネシカも名前を考える。
「うーん、やっぱりくぴって鳴くから、クピさんかな……?」
「プリネ。それはひねりが足りないよ」
「そ……そうかな」
プリネシカが自信無さそうに呟く。
だが――
「よし、決めた! 命名――『ギガちゃん』!」
改心の出来、と言わんばかりの笑みをプリネシカに向ける。
「え……?」
ひねりすぎである。
「ギ……ギガちゃん……? その、ギガはどこから……?」
「何か強そうだから!」
プリネシカの戸惑いなんぞ全く理解していない様子でペルセルテは言う。
「強そうって……うーん……」
ペルセルテの発想がいつも突拍子のないものだということは十分にしっているはずだが、それでもやはりプリネシカは困惑していた。そもそもあの微笑ましい姿を見て、『強そう』という発想に行き着く処が、常識的感覚では理解不能だ。
「やっぱり精霊さんなんだから、強そうな名前がいいかなと思って。でもやっぱり可愛さもあるから、ちゃん。で、ギガちゃん!」
満足そうにペルセルテが下級精霊を撫でる。
まるでわざわざ激辛スパイスを砂糖で中和するかの様な無理矢理っぽい感性なのだが、まあこれもペルセルテらしいと言えばらしい。
「ではでは、引き続き学院案内、お願いします! ギガちゃん!」
「くぴ!」
下級精霊の鳴き声がさっきまでよりも少し元気に聞こえた。単にペルセルテのノリに引きずられただけなのだろうが、もしかするとギガちゃん(命名)がお気に召したのかもしれない。
そんな光景を見ていて、一人困惑した表情を見せていたプリネシカも安心した様子でにっこりと微笑んだ。
「ココ、食堂。コダワリコック長オススメ日替ワリ定食、ニンキニンキ」
校内をだいたい半分くらい回ったところで、ペルセルテとプリネシカの二人は食堂の前へと案内された。
「学校の食堂にコック長がいるの!? さすが神曲学院……」
ペルセルテが感心してうんうんと頷く。
「呼び方の問題で、どの現場にもそこで一番偉い人はいると思うけど……」
そう小さな声でプリネシカが呟く。
とはいえ……大抵の学校食堂は責任者をわざわざ『コック長』とは呼ぶまい。
下手に食堂で一から十まで調理するより、食品加工会社や給食会社から半調理状態のものを買い、多少手を加えて出す方が味も栄養も安定し易いし、何より大量生産によって経費が節約できる。大抵の学食はそういう方式を採っている筈だった。この場合には食堂の従業員にはそう高い料理技能は要求されないので、近所の主婦がアルバイトやパートで務めている事も多く、本職のシェフやコックが何人も居る場合はむしろ稀だ。
「あ〜。おいしそうな匂い〜」
ペルセルテは鼻をひくひくと動かして匂いを嗅ぎ取っている。
その言葉に応じる様に、彼女の胃腸の辺りが、ぐう……と分かり易い音を立てた。
「あ……」
「ペルセ……」
ペルセルテよりもプリネシカの方が恥ずかしそうに顔を赤くしている。
「い……いいじゃない! お腹が鳴るのは胃腸が健康な証拠!」
「それはそうだけど……」
「ねね、お昼ご飯もまだだし、せっかくだからここで食べていこうよ!」
そう言い出すと、ペルセルテはプリネシカの返事をまたずに食堂へと入っていってしまった。
「あ、ペル……。……行っちゃった」
残されたプリネシカは下級精霊を見た。
相変わらず、ただふわふわと浮いている。顔に見える部分は在っても、そこには表情らしい表情も無いので、あまりこちらの状況を理解している様には見えないが――
「ツギ、ツギ、ツギ」
「ごめんなさい。ギガさん。またすぐ戻ってきますから、少しまっていて下さい」
プリネシカは小さく頭を下げると、ペルセルテの後を追って食堂へと入っていった。
「コダワリコック、コダワリコック」
後にぽつんと残されたギガ(命名・ペルセルテ)は、プリネシカの言葉が通じたのか、単に最初からそういう対応を教え込まれているのか――単調に繰り返しながら、その場にふわふわと留まっていた。
ちょうど昼食の時間ということもあって、食堂内はとても賑わっていた。
ほとんどは学院の生徒たちだが、その中にまじって、学校の食堂にしては珍しく二、三人ほどの給仕がテキパキと動き回っている。これも自前の配膳が基本の学食では珍しい光景と言えよう。
何か採用に年齢基準でも在るのか――給仕たちはみな、生徒たちと同じような年頃の若者たちばかりである。生徒たちが学院の制服を、あるいは給仕達が給仕の制服を着ていなければ、どちらがどちらか分からないだろう。
「ねぇねぇプリネ! 見て見て!」
ペルセルテが眼を輝かせながら辺りをキョロキョロと見渡している。
「神曲学院の制服を着た人がたくさんいるよ!」
「それは、だって、神曲学院の中なのだから、当たり前だと思うけど……」
「やっぱり、ここの女子の制服ってかわいいよねぇ〜」
プリネシカの冷静な意見を聞いているはずもなく、ペルセルテは学生とすれ違うたびに、「うわぁ」とか「はふぅ」といった溜息を漏らしている。
「わたしも早く着てみたいなぁ〜」
「ペルセ、余所見ばかりしていると……」
プリネシカがそう注意しようとした、その瞬間。
「きゃっ!?」
「うわっ!?」
ペルセルテは、横から大きなトレイにめいっぱい料理を乗せてふらふらと歩いてきた給仕の少年とぶつかり、勢いよく転倒。
床にしりもちをつくペルセルテの上に、追い討ちをかけるように給仕の少年が運んでいた料理の数々が降り注ぐ――
「ペルセ!」
普段とは打って変わった鋭いプリネシカの声。
次の瞬間。
だばだばだばだば〜〜〜〜。
ペルセルテは見事にトレイの上に載っていたジュース、更にはサラダやドレッシングなどを頭からかぶってしまった。
「ひゃあああああっ!?」
ペルセルテは素っ頓狂な悲鳴を上げて床の上で跳ねた。どうやらジュースに浮いていた氷が、襟首から背中に入ったらしい。ひとしきりばたばたと床の上で転がり回った後、彼女はようやくゼンマイの切れた人形の様に動きを止めた。
「ペルセ……大丈夫?」
「うえぇ〜。ベトベトする……。サイアクだ〜」
髪や顔についた料理を手で拭いながらペルセルテがうめく。唯一、湯気をたてていた熱そうなスープだけは不思議と彼女を避けるように落ちてくれたのが不幸中の幸いだった。
「だから、余所見してると危ないって…」
「うぅ、そんなこと言われてもぉ」
そう言いながら差し伸べられたプリネシカの手につかまり、ペルセルテが立ち上がる。
「ご、ごめんなさい。えっと……、大丈夫?」
ぶつかってきた張本人、給仕の少年がおどおどとしながら申しわけなさそうに声をかけてきた。
優しそう……というよりは、気弱そうな印象の少年だ。やや長めに延ばした枯葉色の髪を、首の後ろで短く括っている。少し細身で背丈は普通か、心持ち高めくらい。給仕服が妙によく似合っていた。
「あ、わたしの方こそ、ちゃんと周りを見てなくて」
ペルセルテは料理まみれの顔でも笑顔をつくり、そう明るく答える。
実際にペルセルテも余所見をしていたのだから非がないわけではない。
それに、その給仕の少年――おそらくペルセルテたちよりも一つか二つほど年上なのだろうが、それにも関わらずとても頼りない感じがする。ペルセルテの惨状を前におろおろとしている様を見ていると、逆に彼の方が憐れむべき被害者の様に思えてきたのだ。
「本当にごめんね。あ、僕が拭くよ」
給仕の少年がポケットからハンカチを取り出し、ペルセルテの服についた汚れをふき取ろうとする。彼にすれば純然たる善意からの行動であったろうが――
「あ……」
「こらフォロン! 拭いちゃダメ!」
プリネシカが何かを言おうとする前に、がくんとのけぞる様に少年の動きが止まる。
誰かが後ろから少年の後ろ髪を――尻尾の様に括られた一房を掴んで引っ張ったのだ。
ペルセルテ達は驚きながらその声と手の主に視線を向けると、そこにはトルバス神曲学院の制服を着た一人の女子生徒が立っていた。
何というか――快活を絵に描いた様な少女である。
『女の子』という言葉から連想される様な繊細さや脆弱さは微塵も無い。別に大柄な訳でも無いのに――体格としては平均的だ――その場に居るだけでやけに存在感が在る。黙って立っていても自然と内側から溢れ出てくる様な活力が、その姿に大型の獣の様な、独特の雰囲気を与えているのである。何処か猫を思わせる吊り上がり気味の黒瞳も、ざっくりと肩口で思い切り良く切って揃えられた髪も、彼女のそういう雰囲気を形作るのに一役買っている様だった。
「あ、ユフィンリーさん」
髪を引っ張られるのはいつもの事なのか、振り返って相手を確認する事もせずにフォロンと呼ばれた給仕の少年が言う。女子生徒――ユフィンリーは彼の髪を掴んでいた手を開いて解放すると、そのまま続く動作でフォロンの肩をぽんと叩く。多少乱暴だが動作のそのざっくばらんさに、女子生徒の性格がよく出ていた。
「あのね、フォロン。こういうシミは拭き取ろうとするとかえって他に汚れを広げてしまうの」
「え、あ、そうなんですか?」
「大体君さ、何処を拭くつもりだったわけ?」
「え?」
と言われてフォロン少年はペルセルテの姿をもう一度改めて眺める。
被害は全身に及んでいるものの――正面から衝突したので、彼女の姿で一番汚れが多い部分は顔から胸の辺りにかけてである。
「あ――いや、ぼ、僕はそんなつもりじゃあ!?」
顔を真っ赤にして弁明するフォロン。
ユフィンリーは狼狽しまくる彼を苦笑混じりに見つめる。
「まあ君がそこまで大胆な事出来るとは思ってないけどさ。この子のことは私がやっておくから、あんたは早くコック長のところに行ってきなさい」
「え?」
「コック長、かんかんよ? 早く行って謝ってきなさい」
「あ……」
フォロンの顔からすっと血の気が引いていく。
どうやら此処のコック長という人物、かなり怖い人らしい。
「すいません、よろしくお願いします!」
彼はユフィンリーとペルセルテに頭を下げると、調理場の方へと走って行った。
直後。
「フォロン! お前はまたやったのか!」
待ちかまえていたかの様に、調理場の方からとてつもない音量の怒鳴り声が響いてきた。彼の失敗はいつもの事のようで、コック長は延々と怒鳴り続けている。
「ええっと……?」
なんとなく状況に置いていかれたペルセルテとプリネシカは顔を見合わせて首をひねった。
「ごめんね。あの子、いい子なんだけど、ちょっと……、というか、かなりドジでねぇ」
「は、はぁ……。そうなんですか」
ユフィンリーに説明されても、どう答えれば良いのか分からず、ペルセルテが曖昧に相づちを打つ。
「あなたたち、学院見学の子よね? まだもうしばらくは校内を見て回るの?」
「はい、そのつもりですけど」
「それならよかった。その服、洗わせてもらうから、その間はうちの制服で学院見学続けててくれないかな?」
「え!? 制服って、神曲学院の制服ですか!?」
ペルセルテが身を乗り出して聞く。
「それは当然そうなるけど」
「はい! 着ます! 着たいです!」
「そ。良かった。それじゃ、ついてきて」
にっこりと笑ってそういうと、ユフィンリーはペルセルテとプリネシカを促すようにして歩き出した。
「まさか神曲学院の制服を着られるなんて〜! ラッキーだね!」
嬉しそうに双子の妹に言うペルセルテ。
「そ……そうだね……」
全身料理まみれの壮絶な自分の格好など、完全に忘れ果ててはしゃぐ双子の姉を前にして――プリネシカは一人小さく溜め息を漏らした。
「やっぱり何度みてもここの制服かわいい〜」
シャワー室で軽く髪を洗ってきたペルセルテが、下着姿でにやけている。前と後ろを何度もひっくり返して眺めてみたり、鏡の前で自分の身体に当ててみたりして、御満悦の様子である。
「ペルセ、早く着替えたほうがいいよ。いくら更衣室だからって、いつまでもその格好じゃ……」
プリネシカが少し恥ずかしそうに注意した。
「うん、分かってるよ〜。でもなんかこう、着るのがもったいないような気もしてさぁ」
ペルセルテが再び神曲学院の制服をながめながら、うふふふと気味の悪い笑い声をあげる。まあ余程にこの制服が憧れであったのだろうが――傍目には女学生の制服に欲情する変態中年と大差ない様に見える笑い方であったりする。
「いくつかあった予備の制服のうちの一着なんだから、そんなにもったいぶらなくても大丈夫」
ペルセルテに制服を持ってきてくれたユフィンリーは、今は代わりにペルセルテの汚れてしまった服を預かっていた。
「え、じゃあまだあと何着かあるんですか?」
「あるわよ」
その答えを聞いて、ペルセルテがポンと手を打った。
「じゃあさ、プリネも制服借りて着ようよ! せっかくの機会なんだからさ!」
「え……。わ、私は別に服も汚れてないし、いいよ。それに何着も借りたらわるいから……」
ペルセルテの突拍子もない提案に、さすがのプリネシカも困惑している。ただ服が汚れてしまったから制服を貸してくれるというだけで、決して体験入学の一環として着るわけではないのだが、すでにペルセルテは勘違いしている。
大体そんな厚かましい提案をしたら折角、親切にしてくれているユフィンリーの気分を害しかねない――
「それは別に構わないわよ」
――筈なのだが、ユフィンリーはあっさりとそう言うとロッカーの中からもう一着の制服を出してきた。どうやら本当にざっくばらんな性格らしい。
「ほら、先輩もああ言ってることだし、プリネも制服に着替えよ〜う!」
「あ、ちょっと、ペルセ……」
ペルセルテがプリネシカを着替えさせるためにと、服を無理矢理に脱がそうとする。プリネシカは抵抗したが――共に育って十数年、こういう場面においてプリネシカがペルセルテに勝った試しは一度も無い。
「わ、わかったよ。着替えるから。お願い、やめて……」
プリネシカはあっさりと降参する。
それを聞いてペルセルテは満足したらしい。プリネシカから手を離すと、そそくさと制服の袖に腕を通す。スカートのホックを留めて、チョッキのボタンを留めて、最後にリボンを結んで――出来上がり。
「ねぇねぇ。似合ってるかなぁ?」
ペルセルテがその場で小さく一回りしてみせた。
「うん」
同じく制服のボタンを留めながらプリネシカがこくりとうなずく。
「やっぱりコマンディア・アカデミイの制服は着心地も違うなぁ〜」
制服を着られたことがよほど嬉しいようで、ペルセルテは鏡を見ながらずっとにやにや笑っている。
「それじゃ、あなたの服、汚れを落としたらそこのロッカーにいれておくから」
「あ、はい! ありがとうございまーす!」
「帰り際に着替えて、制服はそのまま代わりにロッカーにいれておいて。これは予備の鍵。使い終わったら教務に渡しておいてくれればいいから」
「はーい!」
「あとは、残りの学院見学、適当に楽しんできて」
「はい、楽しんできます!」
「わざわざありがとうございます」
ペルセルテが元気良く手を挙げて返事をし、その隣ではプリネシカが深々と頭を下げている。
二人の返事を聞くと、ユフィンリーはひらひらと気楽な仕草で手を振って、更衣室を出て行った。何というか――美人は美人なのだが、仕草といい、口調といい、何処か『男前』な雰囲気が在る少女であった。
「それじゃ、制服も着たし、気分新たに校内見学に行こっか」
ペルセルテが笑顔で双子の妹を振り返って言う。 だが――
「あ……」
何かを思い出したのか、プリネシカが手を口にあててそう漏らした。
「どうしたの?」
「ギガさん、食堂の前で待たせたまま……」
「ああ! そうだった!」
プリネシカに言われ、ペルセルテも道案内をしてくれていた精霊のことをようやく思い出す。
「ギガちゃん、まだ食堂の前にいるのかな?」
「たぶん、大丈夫だと思う……。お願い、してきたから……」
「さすがプリネ! とりあえず急いで戻ろう」
「うん……」
二人は顔を見合わせてうなずくと、足早に更衣室をあとにした。
「ねぇギガちゃん、本当にごめんね」
「ツギ、実習室、実習室。神曲ノ練習、スルトコロ」
「えっとね、その、いろいろとトラブルがあってね」
「ツギ、実習室、実習室。神曲ノ練習、スルトコロ」
ペルセルテが何を言っても下級精霊は同じ反応しか示さなかった。
「うぅ、やっぱりずーっと待たせてたこと、怒ってるのかなぁ?」
「大丈夫だよ。ギガさん、怒ってないよ」
さっきから頭を悩ませているペルセルテに、プリネシカが微笑みながらそう言った。
「本当に?」
「うん」
「そっか。プリネがそういうなら、大丈夫だよね。よかったぁ」
ペルセルテがホッと胸をなでおろす。それを見ながら、プリネシカはくすくすと笑っていた。
二人が食堂前の廊下に戻るまで、下級精霊はずっとそこで浮かび続けていた。そして、二人を見つけると何事もなかったかのように、学院案内の続きを始めた。
そんな下級精霊に対し、なんとなく気まずい感じがしたペルセルテが先ほどから謝っていたが、ずっと同じようなやり取りが続いていたのである。
「ココ、実習室。わんまん・おーけすとらヲ使ッテ、神曲ノ練習」
下級精霊の「わんまん・おーけすとら」という言葉に、ペルセルテの耳がピクンと反応する。今日の中でも一段と強い反応だ。
「ここで……! ここであの単身楽団《ワンマン・オーケストラ》を使っての練習をするんだね!」
一人で黄色い歓声をあげながら、ペルセルテは実習室の扉に張り付く。
「うぅ〜。実際にはどんな練習しているんだろ!?」
好奇心満載の瞳が扉に付いた硝子窓から中をのぞき込むが――
「あれ……? 誰もいない……?」
「そうみたいだね。今の時間はここでの授業がないみたいだね」
「うーん……。実習しているところが一番見たかったよ」
名残りおしそうに、ペルセルテは実習室の扉に張り付いている。その様子を見て溜め息をつくプリネシカ。このままではペルセルテは実習時間が来るまでこの扉の前に居座りかねない。他の事ならばともかく――神曲楽士とそれに関連する事柄について、ペルセルテのこだわりがいかに強いかを、プリネシカはよく知っている。
「そうだ」
ペルセルテは急に何かを思いついたらしく、扉からピョンと離れた。
「今誰も使っていないなら、実習室の中を見学してもいいよね?」
「え……、だ、ダメだよペルセ……」
止めても無駄だということを予感しているのか、プリネシカの声はいつもよりもさらに小さい。
「大丈夫だよ。少し見せてもらうだけだから。鍵もかかってないし。って事は見ても良いって事だよね!? ほら、ギガちゃんも何も言わないし! だからプリネも行こう!」
「あぁ、ペルセ、ちょっと待って……」
ペルセルテは有無を言わさず左手でプリネシカの手を握り、右手で躊躇いも無く実習室の扉を開いた。
「ギガちゃん、またちょっとだけ待っててね!」
一度振り返ってそう告げると、微かな抵抗を見せるプリネシカの手を引いて実習室へと入っていく。特に禁止された事では無いからか、それとも単に状況が分かっていないのか……ギガちゃんはペルセルテに言われた通り、ただのんびりとその場に浮かんだままだった。
「くぴ」
「ほほ〜。ここで神曲の練習をするんだね〜」
実習室の中を見渡して、ペルセルテが半ば呆然とした様な口調で言った。
此処で実際に毎日、神曲が奏でられているのだ。
その事を思うとペルセルテは感極まって他に言葉が出てこない。ただじっとしているだけなのに鼓動が高まり息苦しさまで覚えてしまう。に来る事。此処に来て神曲を演奏し神曲楽士になる事。それは物心付いた時から彼女の目標だったのだから。此処から全てが始まる。此処に立つ事で、今までただ憧れるだけだったものに対して実際に手を掛ける事が出来る。
ここはいわば彼女の夢の孵る場所なのだった。
「はうぅ…………」
胸を押さえながら長い溜め息をつくペルセルテ。
実習室は、特に変わった造りではない。ぱっと見た限りでは他の教室と同じだ。強いて違う点を挙げれば、椅子と譜面台のみで机が無い事、教室の中央に広場の如く何も置かれていない場所が造られている事から、座学用の教室よりもやや広く感じられた。
「……お?」
感慨深げに室内を見渡していたペルセルテは、ふと一番奥に並んでいるロッカーの一つが開いていることに気付き、近くに行ってみた。
鍵はかかっていない。ノブをいじると扉はあっさりと開いた。
そして――
「どうしたの……?」
プリネシカも近寄ってきてペルセルテの肩越しにロッカーの中をのぞき込む。
そこには何やら機械らしき形状の、一抱え程もある塊が置かれていた。
「ねぇねぇ、プリネ! これって、本物の単身楽団だよね!」
ロッカーの中にあるその塊を指さし、ペルセルテが今まで以上に高い声で呼びかける。
「だね……」
彼女の後ろから覗き込むような形でそれを確認したプリネシカが頷いた。
「ワンマン・オーケストラの本物って初めて見たよ。これを使って神曲を奏でるんだよね。あれ、でも前に本で見たのとは少し違うような……」
ただの四角い箱のような形をしたソレを見つめながら、ペルセルテは首をかしげる。
目の前の塊は、彼女の記憶の中に在る単身楽団の形状と共通する部分は多々在るのだが、合致しない部分も多い。実習室に在ったのだから単身楽団には違いないのだろうが――
「なんかこう、もっといろいろ周りに付いていた気がするけど……」
初めは彼女が何に首をかしげているのかプリネシカには分からない様子だったが、その呟きを聞いてようやく納得したようで、ペルセルテの背中をツンツンとつついた。
「ペルセが本で見たのは、たぶん展開されたワンマン・オーケストラだと思うよ……」
「てんかい?」
「……うん」
プリネシカがこくりと小さく頷く。
「ワンマン・オーケストラは神曲を奏でるとき、必要な装置を今の状態から展開して使うみたいなの。今の状態は全部を仕舞いこんだ、持ち歩くための状態だと思う……」
「あ、そっか。わたしもなんか聞いたことがある! へぇ〜、これが変わるんだ。変形するってことなのかな? 見てみたいなぁ〜」
ペルセルテはそう呟きながらしばらく単身楽団をしげしげと見つめていた。
しかし、不意に彼女はプリネシカへと振り返ると、えへへと笑いだす。
プリネシカはペルセルテの笑いが何を意味するのか分かったらしく困った顔をしてみせる。ペルセルテのこの笑顔は――双子の妹を何かの悪戯に巻き込もうとする時のものであった。何度この笑顔に押し切られてプリネシカは共犯にさせられた事か。
「ちょっとさ、展開っていうの、やってみてもいいかな?」
「やっぱり……」
彼女は小さい吐息を漏らした。
「ペルセ。ワンマン・オーケストラはダンティスト以外、触ってはいけないものって聞いてるよ……。ちゃんと制御できる人じゃないと危ないって……」
「うーん、別に神曲をやってみたいなぁって思ってるんじゃなくて、ちょっとだけ、どんな形になるのか見てみたいなぁって」
ペルセルテはそう言って、誤魔化すように笑った。もちろん、本心では単身楽団を実際に使ってみたかったのだ。神曲を演奏するのは無理だとは分かっているが、神曲楽士の気分だけでも味わってみたいとペルセルテは思ったのである。
「展開してみるだけなら、いいよね?」
「ダメだよ……。展開するだけでもすごく難しいらしいよ。もし勝手にいじっちゃって、元に戻せなくなったらどうするの……?」
「あうぅ」
ペルセルテはあまり手先の器用さには自信がない。更に言えば機械の類にも強くない。家に在った食器洗い機をいじくり回した挙げ句に壊した経験まで在る。確かにプリネシカの言うとおり、下手にいじってしまうと戻せなくなってしまいそうだった。
「わかった。触らない。うん、アカデミイに入学してちゃんと授業を受ければ触れるようになるんだもんね。それまでガマンガマン!」
何処か白々しい口調で自分にそう言い聞かせると、ペルセルテは未練を断ち切るようにロッカーの蓋をパタリと閉じた。
ちょうどそこへ。
「おはようございまーす」
ペルセルテとプリネシカの二人は声に驚いて振り返った。
実習室内に学院の制服を着た、一人の男子生徒が入ってくる。
「お、君たち早いね」
彼は二人に気付き、明るく声をかけてきた。しかし、見知らぬ二人を見て、すぐに怪訝そうな表情に変わる。
「あれ? 君たち何年のどのクラスの子? たしかここは次、俺たちが使う教室のはずだけど……」
そのまま彼は一度廊下に戻った。おそらく教室の表札を確認しに行ったのだろう。
「あうぅ! 待って下さい! その、わたしたちが教室間違えました! すいません!」
男子生徒に向かってペルセルテが慌てて声をかける。
「あれ? そうなの?」
「はい、すいません! ほら、プリネ! 行くよ!」
「あ……、う、うん」
ペルセルテはプリネシカの手を握ると、全速力で実習室を出て行った……。
「ふはぁ〜〜〜。びっくりしたぁ」
実習室から飛び出し、校舎内を走りに走り――角を二階曲がり、階段を一階分上がった処で、ペルセルテはようやく足を止めた。
彼女に手を引かれて走り続けていたプリネシカは息を切らせて苦しそうに胸を抑えている。その隣には、しっかりとついてきてくれた下級精霊がふわふわと浮かんでいた。
「そういえば、適当に走って来ちゃったけど……。ギガちゃん、ここも案内のコース?」
「くぴ……、くぴ、くぴ。ココハ、学院長室前くぴ」
まるで少し考え込んでいたかのような間をおいて、下級精霊がそう答えた。
「学院長室前くぴか。って、学院長室!」
驚いてペルセルテが振り返ると、そこには明らかに他の部屋とは違う、風格のある感じの扉があった。今までの扉は全て簡素なデザインの扉で、吸音材を詰め込んだ金属製のものであったが――この扉だけは樫の木らしい重厚な木製のもので、同じく凝ったデザインで真鍮製のドア・ノブが付いていた。
「おおおお、さすが学院長室だね……。なんか強そうだよ」
再びペルセルテが興味津々といった感じで扉を見つめている。
突き破るつもりでもあるまいに――ただ扉を見て何の脈絡も無く『強そう』という感想を持つペルセルテの感性に苦笑を浮かべるプリネシカ。
「ペルセ……。今度は勝手に開けて入ったりしたらダメだよ……?」
プリネシカの声はとても心配そうだ。
「うん、わかってるよ。でも、アカデミイの学院長かぁ。どんな人なんだろうね?」
「そうだね。どんな人なんだろうね……」
ペルセルテの返事を聞いて、プリネシカはホッと一息胸をなでおろし、話を合わせる。一応、学院案内の冊子を調べてみたが、それらしき写真は載っていなかった。
「お嬢さん方。学院長室に何かご用ですか?」
「ほえ!?」
またしても急に背後から声をかけられ、ペルセルテは慌てて振り返った。
二人の後ろには、いつの間にか、背の高い、黒い外套を羽織った男が立っていた。非常に整った顔立ちの、眼鏡をかけた美青年である。
「えっと、あの、その……?」
ペルセルテは何か話そうとしたが、慌ててしまいうまく言葉にならない。そんな彼女を見て外套の男は優しく微笑んだ。
「ああ。これは失礼しました。私はここの学院長をやっている者です」
彼の意外な言葉に、ペルセルテもプリネシカも目を丸くしている。
「あなたが、学院長なんですか?」
ペルセルテは何となく学院長というと恰幅の良い老紳士を想像していたのだが――まさかこんなに若く美男子だとは。
だが青年の物腰はペルセルテ達の様な少女を相手にしても全く揺らがぬ丁寧さと上品さを備えており――そこには大物らしい自然な余裕と風格が確かに感じられる。ペルセルテの様な人生経験の浅い少女にも『本物』だと確信させる説得力が彼の纏う空気には在った。
「はい。君たちは……。うちの制服を着ているけど、見掛けない顔ですね。ひょっとして学院見学の方ですか?」
「あ、はい! えっと、来年の入学希望をしている、ユギリ・ペルセルテです。こっちが双子の妹のプリネシカです」
彼女に紹介され、プリネシカがぺこりと頭を下げた。
「ああ。君たちがユギリくんの娘さん……たちか」
二人の名前をきいて、学院長はなぜか一人で納得している。
「あの……?」
「ああ、ごめんごめん。一人で納得していてもわからないよね」
少しくだけた――親戚の子供に話し掛けるかの様な、親しみの在る口調に切り替えながら学院長は言った。
「えっとね、今回の見学希望者の中に、以前私の生徒だった子の娘さんがいると聞いていたので、名前を覚えていたんだよ」
「あ……。お父さんを、じゃない、父を知っているんですか?」
「もちろん。彼はとても優秀な生徒だったからね」
「ありがとうございます!」
学院長の話を聞いて、ペルセルテは嬉しそうに口の端をわずかに緩める。 ペルセルテにとって父は英雄だ。
<四楽聖>や、<大戦>で活躍した<三大聖霊>達といった歴史的な英雄達よりも誰よりも、ペルセルテは父を尊敬している。それは物心付く前に父と死別したが故の、美化作用も多分に働いてはいるのだろうが――
「そうか。彼の娘さんがもうこの学院に入学してくるような時期になったんだねぇ」
そう言って学院長は二人の頭を撫でる。まるで幼児にするかの様な扱いだが……不思議とペルセルテは悪い気がしなかった。それこそ父に撫でられているかの様な気分である。彼女が覚えている父の面影と、この学院長では似ても似つかなかったが。
「二人とも、頑張るんだよ」
「はい!」
ペルセルテが元気良く返事をし、プリネシカはコクリと力強く頷く。
「それじゃあ、来年を楽しみにしているよ」
しばし二人を柔らかな眼差しで見つめてから――学院長は重そうな学院長室の扉を開け、中へと入っていった。
後に残っていた二人は、ゆっくりと閉まる扉を見つめている。
「今の人が学院長かぁ。お父さんもここであの人に教えてもらったんだね」
「うん……」
しみじみと、感慨深げにそう呟く。
しかし――ふとそこでペルセルテは胸の内に何か引っ掛かりを覚えた。
「あれ?」
「……どうしたの?」
「学院長さんさ、お父さんも教えたって言ってたよね?」
「うん……」
「ということは、お父さんがわたしたちくらいの年齢のときからすでに先生だったんだよね?」
「そうだと思うけど……?」
「それにしては、すっごーーーく、若く見えなかった?」
ペルセルテの感じた学院長の印象は、少し歳の離れたお兄さんという感じだった。とても、父親が子供の時から先生をやっているような歳には見えない。
「そうだね……」
ペルセルテはもう一度学院長室の扉に目を向ける。が、当然そこにはもう閉まった扉しかない。
「すっごく若く見える人なんだね、学院長さんって。さすがアカデミイの学院長さんだ」
「アカデミイの学院長と見た目は関係ないと思うけど……」
一人なぜか感心し、納得してしまっているペルセルテの横で、プリネシカは首をかしげている。
「くぴ。ツギ。ツギ」
「あ。ギガちゃんごめんね。うん、次のところお願いしまーす」
ペルセルテがそう言うと、下級精霊はふわりふわりと移動を再開した。
後に続いてペルセルテとプリネシカの二人も歩き出す。
「そうそう、話変わるけどさ」
いきなりペルセルテがそうきりだした。
「どうしたの……?」
「わたしたち、こうやって制服着て歩いているとさ、周りからはこの学校の生徒みたく見えるかな?」
「うーん、それはたぶん見えると思うけど……、どうして?」
「ほら、実習室ではここの生徒に間違えられたみたいだったけど、学院長さんはすぐに生徒じゃないってわかっちゃったでしょ?」
「あ。そうだね……」
「だからさ、制服着ただけじゃ、やっぱりアカデミイの生徒には見えないのかなぁと思ってね」
「どうなんだろう……。私は、たぶん、やっぱり制服着ていると、生徒に見えると思うよ……」
「お、そっか、やっぱり見えるか〜〜。そうだよね、学院長さんは特別だもんね!」
ペルセルテはなぜかとても嬉しそうに一人で笑っている。
だが……彼女が自分の言った言葉の意味を真に理解していない。
トルバス神曲学院の生徒総数――一般教養課程、専門実習課程、併せて約二千。
そして学院長はこうも言ったのだ。『見掛けない顔ですね』と。
それはつまり……学院長は二千の生徒の全てについて顔を覚えているという事ではないのだろうか。それも何年も掛けて覚えている訳ではない。ただでさえ神曲楽士への道は険しく、このトルバス神曲学院でも大量の脱落者が出る。専門課程に上がれる生徒は事実上十人に一人である事を考えれば、毎年千人以上入れ替わる生徒達の顔を把握する為には、一瞥で相手の顔を覚えてしまう程の記憶力が必要だ。
単に容姿が若く見えるという事以上に、これは尋常ならざる事であった。
「あ、向こうから女の子が来るよ。あんな小さな子も見学にきてるんだね」
ペルセルテの興味はすぐに別の処に移ったらしい。
廊下の反対側から、幼い雰囲気の少女が歩いてくる。年齢は五、六歳位だろうか。背丈はペルセルテ達の半分も無い。どう見ても生徒として入学できる年齢ではないし、制服ではなく何やら巫女服の様な、独特の衣装を着ている事からすれば、此処の生徒ではなく、何らかの事情で連れられてきた幼児なのだろう。
「やっぱりさ、あの子から見たら、わたしたち学院の生徒に見えちゃうよね? ならしっかりとした生徒に見えるようにしておかないとね」
そう言ってペルセルテは背筋をぴんと伸ばした。
「あ……。あの子、違う……」
少女とすれ違い様に、プリネシカがそう呟く。
「え?」
その声につられてペルセルテが振り返る。そしてプリネシカの言った意味が分かった。
「あ、羽……」
少女の背中には、薄く透明で綺麗な羽根があった。
羽根と言っても背中から直接生えている訳ではなく、まるで何かの幻影の様に背中の付近にそれが浮かんでいるのである。
当然――人間にそんな羽根はない。あれは精霊特有の器官だ。
精霊の形態は基本的に個体差が激しく、その背中に備わる羽根の形状も様々だが、とにかく精霊は全て羽根を持つので、擬人的な形態を採る上級精霊と人間を見分けるには、この羽根が最も明確な差となるのだ。もっとも上級精霊ともなると自分の姿形をある程度いじる事も可能なので、羽根を隠したり形を変えたりして人間に偽装する事も出来るが。
「あの子も精霊だったんだ」
ペルセルテの言葉に、プリネシカがこくりとうなずく。
恐らくはこの神曲学院の講師の契約精霊なのだろう。
神曲を糧とする精霊は、神曲の演奏を報酬として人間に協力するが……精霊にも好みがあるので同じ神曲を演奏しても協力してくれる精霊と協力してくれない精霊が居る。逆に特定の神曲やその弾き手――神曲楽士に惚れ込んだ精霊は、特定の神曲楽士と専属契約を結び、常にその神曲楽士の近くに居る事になる。この精霊を契約精霊と呼ぶのである。
「精霊が普通に廊下を歩いていたりするのを見ると、やっぱり神曲学院なんだなぁってしみじみ思うよね〜」
「そう?」
「うん。なんかすっごくわくわくしてきた! さ、どんどん見学行くよ!」
そう言ってペルセルテは小さく気合をいれると、少し前をいくギガに小走りで近づき、横にならんだ。そんな彼女をみて、プリネシカはのんびりと微笑んでいる。
「さぁギガちゃん。次はどこに案内してくれるのかな?」
「ツギ、体育館、体育館。広サト、設備、ジマンジマン」
「おし!」
プリネシカとペルセルテの二人が宿泊しているホテルに戻ったのは、もうすっかりと日が暮れてしまったあとだった。
「学校見学だけだったのに、ずいぶん遅くなっちゃったね。プリネシカの言った通り、今日までホテルとっておいてよかったよ」
「ふふ」
ペルセルテはベッドに腰を下ろすと、両手をあげて背中を後ろにそらせた。
「う〜〜。ぷはぁ〜。ちょっと疲れちゃった。でも、楽しかったねぇ。トルバス神曲学院……。あれがお父さんの通っていた学校かぁ」
「うん……」
プリネシカの表情がわずかに曇る。
その意味にペルセルテは気付かない。
二人の父が死んだのはもう十年以上も昔の事でありペルセルテは既にその事実をきちんと受け入れている。だがプリネシカは時折、父の死についてはひどく感傷的な処を見せる事が在った。
「わたしたちも頑張って、お父さんのような立派なダンティストにならなくちゃね」
「そうだね……」
ほんのわずかの間、しんみりとした空気が部屋全体に満ちる。
湿っぽい事が嫌いなペルセルテがそれを振り払うかのようにベッドから跳ね起きた。
「よっと。とりあえずシャワーでも浴びてさっぱりしてくるか〜」
彼女がそう言うと、プリネシカもにっこりと笑ってこくりとうなずく。
「うん……」
「じゃ、わたし先はいるね」
「うん」
そのままペルセルテはシャワールームへと入っていった。
そして。
「あーーーーーーー!」
そのシャワールームから大音量の叫び声が響いてきた。
「どうしたの……?」
プリネシカが慌てて駆けつける。
ペルセルテは服を脱ぎかけた姿勢のまま鏡の前で固まっていた。
「学院の制服、そのまま着てきちゃったよ!」
「あ……」
プリネシカも自分の服装を確認する。
やはり、ペルセルテと同じく神曲学院の制服を着たままだった。
普段、よく気のつくプリネシカにしては珍しい失敗である。
「ど、どうしよう!?」
「明日、帰る前にもう一度学院によって、事情を説明して服を返してくればいいと思うよ。そんなに慌てなくても……」
必要以上に取り乱しているペルセルテをプリネシカが落ち着かせようとする。
が、しかし、ペルセルテにはいっこうに落ち着く気配がなかった。
「だって、わたし、学院のお姉さんに服を渡すとき、財布をいれたままだとアレだと思ってロッカーに入れてきちゃった……」
「えっ……?」
その話をきいて、さすがにプリネシカも驚いた表情をみせた。
二人は、小銭要れならそれぞれ別々にもっているが、大きいお金をいれた財布はペルセルテがまとめて持っていたのだ。
「それじゃあ、明日、チェックアウトの時に払うお金、ないの……?」
「うん」
さすがのペルセルテも表情が引きつっている。
「どうしよう……」
そのまま双子は黙り込んでいたが……
「じたばたしてもしょうがない! 今から取りに戻ろう!」
再び制服の袖に腕を通しながらペルセルテが言う。
既に表情はいつもの彼女であった。
この切り替えの速さはペルセルテの長所の一つである。何かと積極的に過ぎて暴走し失敗する事も多いが、この少女はそれで立ち止まったりはしない。
「え……。でもこんな時間ではもう開いてないよ?」
「その時はその時! とりあえず急いでアカデミイに行こう!」
「で、でも……」
尚も渋るプリネシカの腕を問答無用でひっつかむと、彼女を引きずる様にしてペルセルテは部屋を出て学校へと向かうのだった。
「ねぇ、ペルセルテ。勝手に学校の中に入ってきたりして、見つかったら怒られるよ?」
明かりのない、夜の校舎の廊下を歩きながら、尚も納得の行かない様子でプリネシカが言った。
「仕方ないでしょ。わたしたちが戻ってきた時にはもう開いてなかったんだから。昇降口の扉に鍵がかかってなかったのは運がよかったよね」
ペルセルテが笑う。
つまり、彼女たちは学校に無断侵入しているのだ。
「昼間、精霊さんについて散々歩きまわったのに、夜に通ると全然道わからないなぁ」
ペルセルテがぽりぽりと頭をかく。
「え……。それじゃ今はどこにむかって歩いているの?」
「適当」
「ペルセ……」
彼女の答えをきいて、プリネシカがハァと深いため息をもらした。
楽天的なのにも程がある。
だが彼女がこういう性格なのは、生来のものもあるが――いつもプリネシカが何かにつけ暴走しがちな姉をフォローしていて、適当でも何とかなるからだ。要するに懲りる機会に乏しいのだ。そういう意味ではこの困った積極的思考に関して、責任の一端はプリネシカにもある。
「大丈夫! なんとかなるよ!」
二人はそんなやりとりをしながら歩いていたが……不意にプリネシカが足を止めた。
「どうしたの?」
振り返ったペルセルテが聞くと、プリネシカは人差し指を口元に当てて「静かに」と合図する。
「……ペルセ、何か声のようなものが聞こえない?」
「――え?」
ペルセルテも耳を澄ませた。
聞こえる。確かに何か声のようなものが聞こえた。
真っ暗闇の校舎のなかで、かすかに聞こえてくる声……。
ペルセルテの顔が青ざめる。
「プ、プリネシカ、こ……これってもしかして、お化け!? やっぱりコマンディア・アカデミイには精霊もたくさんいるし、お化けの類なんかもいるのかな!?」
しかし尋ねられたプリネシカは何も答えない。
というよりは、ペルセルテの言った事を聞いていなかったのだろう。ずっと眼を閉じて意識を耳に集中させていた。
「こっちの方から聞こえる……。行ってみよう……」
そう言うとプリネシカはペルセルテの返事も聞かずに歩き出す。
「え、プリネシカ……? ちょっと待ってよ!」
慌ててペルセルテがその後に続いた。
意外にもすたすたと怖れ気も無く歩いていくプリネシカ。彼女に追いつくと、ペルセルテは縋る様に妹の服の袖を掴む。いつもとは立場がまるで逆だ。
プリネシカは声を頼りに、階段を昇り、廊下を進んでいく。
歩いていくにつれ……次第に声がはっきりと聞こえるようになってきた。
「これは……。歌?」
ペルセルテが尋ねる。確かにそれは歌だった。
「うん……。しかもこれは、たぶん神曲だと思う……」
真っ直ぐに前を向いたまま、プリネシカがそう答えた。
「神曲? 本当に?」
「うん」
こくりと小さく、だが迷うことなくうなずく。
「よかったぁ〜」
一安心と言わんばかりにペルセルテが胸をなでおろした。
「神曲ってことは、声の主はお化けでもなんでもなくて、人間ってことだよね。確か神曲は人にしか奏でることのできないもの、だもんね」
「そうだね」
「でもそうなると、その人はこんな夜の校舎で何しているんだろうね?」
お化けじゃないとわかったせいか、急にペルセルテの好奇心に火がついたらしい。
「わからないよ……」
「もしかして、ダンティストが神曲使っているところ、見られるかもしれないね!」
ペルセルテの眼がキラキラと光っている。足取りもさっきまでとは打って変わって、とても軽い。
「たぶん、あの教室だと思う……」
プリネシカが一つ先の教室を指差した。
電気もなにもつけていない、真っ暗な教室。確かに歌はそこから聞こえてきている。
二人は開いていた教室の後ろの扉から中をそっと覗いた。
教室の中には一人の少年がいた。
窓から差し込むわずかな月明かりの中に、一人ひっそりとたたずみ、歌っている。
「あ。あの人は……」
ペルセルテは彼に見覚えがあった。
「昼間の、給仕の人だ」
「……だね」
その少年は昼間の、ペルセルテに料理をこぼした給仕の少年だった。
「給仕の人が……。なんで?」
わからない、とばかりにプリネシカが首を振って答える。
少年の歌う歌――それは旅人の歌だった。
長い長い放浪の旅の果てで置き去りにした昔日を懐かしむ者の歌。
「それにしても、なにか……切ない歌だね」
「うん……」
殊更に美声という訳ではない。
技巧に優れている訳でもない。
だがひどく率直なその響きには聴く者の胸に郷愁の様な感覚を生み出すのだ。遙かに遠く離れた故郷。そこに待つ家族。幼い日々の追憶。母の笑顔。父の背中。そういった二度と戻らぬ諸々のものに対する憧憬がそこには在る。
ひどく純粋な歌。
心の形をそのまま旋律に乗せたかの様な歌声に、ペルセルテとプリネシカは己の吐息の音さえ抑えて聞き入った。無粋な自分の呼吸音が、この哀しい程に純粋な歌をかき乱して仕舞わぬ様に。余計な物音が歌の持つ透明さに濁りを与えて仕舞わぬ様に。
ずっとこの歌を聴いていたい。
ペルセルテはそう思う。
歌声が耳に触れるたびにその気持ちが強くなっていく。
プリネシカも同じ気持ちなのだろう――いやむしろ陶酔の度合いはペルセルテよりも強いかもしれない。まるで自分達が不法侵入中だという事も忘れ果てたかの様に、不安も困惑も無く、ただぼんやりとした表情で少年の歌を聴いている。
そして――
ドクン……。ドクン……。ドクン……。
深い深い闇の底。
絶望をそのまま色彩として塗り込めたかの様な……一片の光さえ存在を許されない濃密な闇ばかりが在る。常人であれば三日と留まれぬ場所であろう。ただ暗いというだけではない。闇は即ち断絶の証であった。時間でさえも此処では無意味であろう。他と繋がれぬ場所ではたとえ生き死にですら独り善がりの戯れ事に過ぎない。
だが……
必然か。偶然か。それは分からない。
だがその闇の封印に今、亀裂が入りつつあった。
圧力さえ伴う暗黒の中で一つの意識が覚醒を開始する。
(あれだ……。あの歌だ……)
存在の再構築。
意識と身体を構成するものがゆっくりと互いに結合し意味を持ち始める。それは次第に複雑化し闇を押し退けて自己主張を始めていた。
より緻密に。より精密に。そしてより強大に。
復元されていくもの。
それは――
(私はあの歌を……、あの歌だけをずっと待っていた……)
闇の亀裂が音も無く広がっていく。虚無が己の内に生じた異物に絶えきれずに弾け飛び、そこに生まれた存在がゆっくりと世界へと這いだしていく。
そして――
ペルセルテとプリネシカの二人はすっかり少年の歌に魅入られていた。
要するに自分達が勝手に学校に入ってきたという事実も、その少年の歌を盗み聞きしているという状況も忘れて、その場に呆然と佇んで彼の歌を聴いていたのである。
お陰で彼女等は歌が止まってもその場を動こうとはしなかった。歌の余韻に浸ったまま溜め息をつくばかり。特にプリネシカなどは時折、ぶるっと無意識に身を震わせる。感動の余りに総毛立っているらしかった。
だから――
「君たち、こんなところで何をやってるの?」
当然、少年が帰り支度を終えて教室から出てきた処で、ユギリ姉妹は彼と鉢合わせしてしまったのである。
「きゃあっ!?」
声を掛けられて初めて少年の存在に気付いたらしく、ペルセルテが悲鳴のような声をあげる。プリネシカはプリネシカで急に夢から覚めたかの様に、びくりと身を竦ませて瞬きを繰り返していた。
少年は双子の反応に思わず身構えていたが――
「あれ、もしかして君たち、昼間の食堂の?」
「あ、えっと、は、はい」
冷や汗を流しながらペルセルテがしどろもどろに答える。その後で、「どうしたらいい!?」と視線でプリネシカに合図を送ったが、彼女にもいい考えがないようで、小さく首を横に振った。
「昼間は本当にごめんね。ところで、こんな時間にどうしたの?」
少年が優しい口調で問いかける。
少なくとも無断で歌を聴いていた二人を責める気は無い様だった。
しかし――
「えっとですね、その、つまり……」
口ごもるペルセルテ。
今更になってプリネシカの反対の意味が彼女の上に重くのしかかっている。
自分たちは無断で学校に侵入した。決して褒められた行為ではない。厳密に言えば不法侵入――つまりは犯罪だ。もしそれが知られてしまえば、来年この学校に入学できなくなってしまうかもしれない。
それだけはどうしても避けたかった。
ペルセルテにとってこのトルバス神曲学院に入り、父と同じ神曲楽士になる事は人生の目的と言っても過言ではない。こんな些細な失敗で自分の未来が閉ざされてしまうのは我慢がならなかった。
必死で言い訳を考えるものの……焦りの為に考えが全くまとまらない。ぐるぐると思考が無駄に回り続けるだけだ。
懊悩する事しばし。
そしてペルセルテは諦めた。
元々嘘や誤魔化しの類が得意な少女ではない。
故に――
「ごめんなさい!」
ペルセルテは勢いよく頭を下げて、潔く謝ったのであった。
「なるほど、そういうことだったんだね」
ペルセルテたちが学校に侵入することになったいきさつを聞いて、少年は苦笑混じりにうなずいた。
「それで、その……。できれば今回のことは他の人に秘密にしておいてもらえると、とっても助かるんですけど……」
ペルセルテが上目遣いで少年を覗き見る。
「うん。それはもちろん。たぶん、勝手に校舎内に入ったくらいで入学を拒否されるなんてことはないと思うけどね」
少年は彼女の申し出を快く引き受けてくれた。
「ああ、よかったぁ〜。ありがとうございます!」
そう言ってペルセルテが頭を下げる。その横でプリネシカも黙って頭を下げる。
「いえいえ。もとはと言えば、僕が料理をこぼしたのがいけないんだから。本当にごめんね。お詫び、と言ってもあれだけど、よかったら更衣室まで案内しようか?」
校舎の中で、半ば迷子になっていた二人にとって、少年のその申し出はとてもありがたいものだった。
「ありがとうございます! お願いします!」
「いえいえ。それじゃ、こっちだよ」
先頭に立って歩き出した少年の後に、ペルセルテとプリネシカの二人も続く。
「そういえば、その、えーっと」
ペルセルテは少年に話しかけようとして、どう呼んだらいいかわからず言葉につまってしまった。
彼女が何を言いたいのかに気付いた少年が口を開く。
「ああ、僕の名前はフォロン。タタラ・フォロン。フォロンって呼んでね」
「あ、はい! わたしはユギリ・ペルセルテです。こっちがユギリ・プリネシカ」
プリネシカが小さく会釈をする。
「ユギリ・ペルセルテさんに、ユギリ・プリネシカさん……。ということは、やっぱり二人は姉妹……、いや双子なのかな? その、二人ともよく似てるからさ」
「はい!」
元気よくペルセルテが答えた。
「やっぱりそうなんだ」
「はい。あの、ところで、どうしてフォロンさんはこんな時間に教室にいたんですか? その、食堂で働いてる方ですよね?」
そう尋ねたプリネシカの服を、プリネシカがくいくいと引っ張り、小さな声で耳打ちする。
「その人の、格好……」
「え……?」
プリネシカに言われて、ペルセルテはフォロンの格好を改めて確認した。
彼が着ているのはトルバス神曲学院の制服である。
「って、えぇ!? 制服を着てるってことは、フォロンさん、ここの学生さんなんですか!?」
驚いて大きな声でそう聞いた。
「ペルセルテ、気付くの遅いよ……」
プリネシカがまるで自分の事のように、恥ずかしさで顔を赤らめている。
「す、すいません、ずっと食堂のバイトの方だと……」
「あはは。うん、制服を着ててもよくらしくないって言われるんだ」
苦笑いを浮かべるフォロン。
「あぁ、えっと、別にそういうわけじゃないんです!」
ペルセルテは慌てて話題を変えた。
「それじゃあ、なんで学生さんが食堂で? たしかアカデミーってバイト禁止でしたよね?」
「基本的にはそうなんだけど、トルバス神曲学院には学費を払うことのできない人でも入学できるように、卒業して働いて返せるようになるまで学費の納付をまってくれる制度もあるんだ」
「それは知ってますけど……」
「パンフレットにも在りましたね……」
「でも学生だからって学費の他にお金を使わない訳じゃないし。学費払うのにも困る様な生徒は、普段の生活でも決して余裕が在る訳じゃないからね――その制度を受けている生徒は、申請すれば特別にあの食堂でバイトさせてもらえるんだよ」
実を言えばトルバス神曲学院の授業料はそう高いものではない。
そもそも此処は神曲公社が次世代の神曲楽士を育成する為に設置している教育機関なので営利を上げるのが目的ではないのだ。だから授業料はその内容や設備から考えれば驚く程、安い金額に設定されている。
逆に言えばその最低限の授業料すら払えないという事は、経済的には相当に苦しい状態にあるという事になる。
つまり――
「それじゃ、フォロンさんは……」
貧乏なんですね、とも言えずにペルセルテは口ごもる。
だがフォロンは気分を害した様子も無く、人差し指で頬を掻きながら苦笑した。
「あ、うん。僕は孤児院の出身だから。他にもあそこでバイトしているのはそれぞれ事情をもった、みんなここの生徒なんだよ」
フォロンによると彼は物心付く前に孤児院の前に棄てられていたのだという。
だから彼は実の父の顔も母の顔も知らず、名前すら分からない。フォロンという名前は孤児院で付けられたものだし、タタラの姓は孤児院を出る際、便宜的に付けられたものなのだそうだ。
「そうだったんですか……
ペルセルテもプリネシカも表情に深刻な色が在る。
父の遺してくれた財産が在るので、二人が生活に困った事は無いが――それでも側に親の居ない辛さは知っている。
「あはは。なんかしんみりしちゃったね。ごめんね」
「いえ、フォロンさんの話をきいて、わたしも頑張らないとって思いました!」
「え?」
「わたしたちも両親、いないんです。お母さんは、わたしたちが物心つくまえに病気で死んじゃって、お父さんは…」
ペルセルテはそこで一度話をきり、校舎を見渡した。
「お父さんはわたしが四歳の時、仕事中の事故で……。お父さん、このトルバス神曲学院出身のダンティストだったんですよ。それで、ここにくればお父さんのような立派なダンティストになれるかなって思って」
「ユギリさん……」
「でも、わたしにはお父さんとの思い出もあるし、プリネだっている。今でもお父さんがダンティストとして働いてためたお金が月々神曲公社から届いて、それで学校にも入れる。それを考えればわたしはまだ恵まれてるんだから、もっと頑張れるって思ったんですよ」
しゃべり終えたペルセルテの腕を、プリネシカがきゅっと抱きしめる。
「え、ちょっと、プリネ? どうしたの」
「なんでもない……」
「なんでもないなら離してよ。恥ずかしいでしょ!」
少しばかり顔を赤くしながらペルセルテがそう言うが、プリネシカは抱きしめたまま離さなかった。
そんな二人を見てフォロンは優しげに微笑んでいる。
「でもフォロンさんって偉いですよね!」
プリネシカを引き剥がすことは諦めたのか、彼女を腕につけたままペルセルテがフォロンへと顔を向ける。
「え?」
「だって、バイトが終わったあとも、一人で残って練習してるなんて」
「あ……」
急にフォロンの顔が赤くなった。
「もしかして、さっきの、聞いてたの?」
「はい!」
フォロンが恥ずかしがっていることにはまったく気付かず、ペルセルテが明るく返事をする。
「あんなに上手く歌えるのに、それでも一人で残って努力してる……。なかなかできることじゃないですよ!」
ペルセルテが尊敬の念をこめた、熱いまなざしをフォロンに送る。フォロンはなぜかそれに耐え切れず、目線をそらした。
「う……。実は僕、成績いつも悪くて、進級テストにも落ちて、今度追試なんだ。それに受からないと進級できなくて、それで……」
「ええ!? そうなんですか!? あんな素敵な曲を奏でられるのに?」
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ。でも、今まで一度も精霊と契約できたことがないんだ。たぶん、神曲としてまだまだ足りないものがあるんだろうね」
フォロンはがっくりと肩を落とす。自分で説明していて、余計に落ち込んでしまったらしい。
「それって、本当なんですか……?」
今まで静かに話を聞いていたプリネシカが、信じられないといった顔で聞いた。
「うん。恥ずかしい話だけどね」
「そう……ですか」
彼女はどうも納得がいかない様子で、そのまま首をかしげて考え込んでしまった。
「まぁ、なんというか、僕は神曲以外でもいろいろ失敗ばかりでね。その、なんて言うか失敗には慣れているから別に気を遣ってくれなくていいよ」
特にいじけた様子もなく、フォロンは自然な口調でそう言った。
だが逆にそれが、いかに失敗が彼にとっての日常茶飯事であるかということを物語っているようで、ペルセルテはかける言葉が見つけられない。
「ほら、昼間、食堂でペルセルテさんにぶつかってしまったけど、実は食堂でもいろんな失敗ばかりで、よくコック長に怒鳴られているしね」
「あうぅ」
言われてみれば、彼は確かに『また』とか『今日も』と言って怒られていた。
「ごめんなさい……私がよそ見していたせいで」
「いや、気にしないで、お互い様だから。本当、何かにつけ僕は不器用っていうか……要領が悪くてさ。自分でも哀しくなってくるよ」
そう言ってフォロンは溜め息をつく。
「でも! 大丈夫ですよ! フォロンさん、頑張ってるんですからきっといつか神曲だっできるようになります! 失敗だってしなくなります!」
「はは。うん、ありがとう」
ペルセルテにはそう言葉をかけることが精一杯の励ましだったが、またフォロンの顔に笑みが戻ってくれた。
彼の笑顔をみてなぜかちょっと安心した。
この人は笑っている方がずっといい――と、ペルセルテは思う。物凄い美男子という訳ではないのだけれど、彼のはにかむ様な笑顔には見る者を無意識の内に優しい気持ちにさせる様な純朴さが在った。
「そうだ。またフォロンさんの歌聴かせてください。練習ということでちょうどいいじゃないですか!」
「あ、うーん、実はね、さっきのは練習のために歌ってたんじゃないんだ」
また少し恥ずかしそうにフォロンが告白する。
「あれ? そうなんですか?」
「うん。僕、小さい頃はよく落ち込んだ時とか、空を見ながら歌うと元気がでるような気がして歌っていたんだ。それで、最近いろいろあって少し落ち込んでいたから、それで久しぶりにちょっと……って。でも寮は壁が薄いから歌とか歌うと隣に迷惑になるし」
「へぇ。なんかステキなお話ですね。それじゃあ、自分を元気付けるためでもいいから、また歌ってくださいよ。わたし、フォロンさんの歌、好きですよ」
ペルセルテに面と向かってそう言われて、フォロンは耳の裏まで赤くなった。
こういう事を臆面も無く言うのはペルセルテの長所でもあり短所でもあるのだが、本人はあまり自覚していない。
「えっと、でも……」
「お願いします!」
「う。そ、そこまで言ってくれるんだったら……」
「おお、やった! プリネもフォロンさんの歌、ききたいよね?」
「……是非」
珍しくプリネシカも力のこもった声でそう言う。
「そ、それじゃ……」
フォロンが意を決して、歌おうとした時……。
「きいいいいいいあああああああああああああああああああああああああ!」
耳をつんざく奇声が学校全体に響き渡った。
窓という窓、全てのガラスがびりびりと震えている。ただ音量が大きいというだけではなく――校内の空間の隅から隅にまで切り込んでいくかの様な、鋭い響きが在った。
「なに!? 今の!?」
何か言いようの知れない恐怖を感じて、ペルセルテは少し震えていた。プリネシカはそんな彼女に寄り添う様に――まるで双子の姉をその身で守ろうとするかの様に立っている。
「わ、わからない」
神曲学院の生徒であるフォロンにも、何の声だったのかまったく見当がつかなかったらしい。
「もしかして……、今度こそ本当にお化け!?」
ペルセルテの顔が青ざめる。
「違う……みたい」
プリネシカが廊下の先の暗闇に視線を投げる。
ペルセルテとフォロンもつられる様にしてそちらを見つめ――そして愕然と凍り付いた。
未だ何が見えた訳でもない。
それなのに何かが近付いてくるのははっきりと分かった。
確かにこれは幽霊などという曖昧なものではない。大きい――あまりにも大きく威圧的な気配が津波の様に押し寄せてくるのだ。音も光も伴わないのに爆発の様に圧倒的な力が迫り来る様子が手に取る様に分かる。半ば無意識の内にその場にへたり込みそうになるペルセルテをプリネシカが支えた。
やがて。
ぺた……。ぺた……。ぺた……。
ゆっくりとした足音が――裸足の脚の裏が床を踏む聞こえてくる。
窓辺から差し込む月光の中に、闇の奥から滲み出る人影が一つ。
闇の中から姿を現したのは少女だった。
年の頃は十三か四か――ユギリ姉妹よりも僅かに幼い印象が在る。
だが隙無く整った目鼻立ちに加え、燃え上がるかの様に紅く、そして優雅に波打つ髪は、既にある種の完成形としてそこに存在していた。少女とは童女から大人の女性へと移行する過渡期の存在であるが――成長の余地を残すが故の未熟さがそこには付きまとう。
しかしその紅い髪の少女にはそれが無い。
愛らしい顔立ちの中に女王を想わせる峻烈な気品と華美が在るのだ。
妖艶ではなく。
清楚ではなく。
華麗でもなく。
可憐でもなく。
その全てを含み――それ故にその全てを否定する姿。ただ『美しい』としか表現できないのに、それでは全く足りないと誰もが感じる鮮烈な存在感。
「おんなのこ……?」
「違う。よく見て」
「え? あ……」
少女の背には淡く光る半透明の羽が明滅していた。
「精霊……」
呆然と呟くペルセルテ。
「でも、様子がおかしい」
少女の紅い瞳は狂気に濁った光を放ち、口は喘ぐ様に大きく開かれている。
身体全体は細かく震え、背中の羽根も痙攣するかの様な明滅を繰り返している。この少女の姿を採った精霊が、明らかに尋常な状態でないのは誰の目にも明らかだった。
「ミツケタ……。ミツケタ!!」
喘ぐ様な呼吸の合間からそんな言葉が漏れる。
「……『見つけた』?」
「きいいいいいいいああああああああああああああああああああっ!!」
少女が、再びあの奇声のような唸り声を上げた。
「きゃっ!?」
ペルセルテはビクッと身体を振るわせる。
同時に廊下の窓が一気に全て砕け飛ぶ。粉状にまで粉砕された硝子が月光を反射して霧の様に舞う。見ようによってはとても美しいが――無論、フォロン達にそれを鑑賞している余裕など無い。
そして。
「ああああああああああああああああああああっ!!」
不意に――絶叫じみた声を発しながら精霊が突っ込んで来た。
だん! と一蹴りで信じ難い距離を跳躍し、矢の様に飛びかかってくる。
「危ない!」
プリネシカがペルセルテを庇ってその場に伏せ、同時にフォロンも飛び退く。
三人が動いて出来た空隙を紅い髪の精霊は一直線に貫いて飛び去り、廊下の奥に着地。勢い余ってそのまま壁に激突するが……まるで気にしていない様子でゆらりと身を壁から剥がしてフォロン達に向き直った。
「うわ…………」
フォロンが呆然と自分の制服の胸元を見る。
すれ違い様に引っかかれたのだろう。彼の制服の胸元は刃物で切り裂いたかの様に一直線の切れ目が入っていた。飛び退かなければ一体どうなっていた事か。
「なに……あれ……」
呆然とペルセルテが呟く。
「ねぇ! あの精霊、どうしてこんなことするの!?」
彼女は酷く混乱していた。
ペルセルテにとって、精霊とは神曲楽士に力を貸してくれる親切な友達だった。父の盟友であり人類の愛すべき隣人であった。
これは多くの人間達とも共通の認識だ。<大戦>の際に精霊は人類にとって多大な貢献をしてくれた戦友である。それ故にこそこのポリフォニカ大陸では<大戦>以後、人の名にも地名にも、敬意と親愛を込めて精霊風の発音の名前を付ける事が多くなった。
だがその精霊が今――人に狂気を敵意を剥き出しで相対している。
それはペルセルテにとって受け入れ難い出来事であった。
「彼女は、暴走してる」
緊張した表情でフォロンは言った。
「暴走?」
フォロンの言葉をペルセルテがすがる様にして聞き返す。
「うん。精霊にとって神曲は糧のようなものでもあるんだ。人が物を食べることができずに飢えるように、精霊も長い間、神曲を与えられずにいると我を失い暴走しうることもあるんだよ」
フォロンが手早く説明する。
だが厳密に言えばこれは正確な説明ではない。
実の所……神曲とは精霊にとって一種の麻薬である。
神曲が無くても精霊は飢えて死んだりはしない。そもそも普通の生物の様な形の死は精霊には無いのだ。
だが神曲を得た精霊は強大な力を得る事になる。神曲との相性が良ければ良い程に精霊はその力を増す。これは精霊にとっては非常な快楽であり――それ故にこそ精霊達は神曲楽士の神曲を報酬として人間の協力する。
だが、これが長期化・恒常化すると――『強化』された状態が通常となってしまい、精霊の存在自体がその状態に最適化されでしまう。そうなれば……逆に長期間、神曲が欠乏すると、人間には想像を絶する苦痛が精霊を苛むのだという。
悪い言葉を使えば、より強大な力を得る事と引き替えに精霊は『神曲に対して中毒症状を起こす』という事だ。
特に――契約精霊などは定期的に神曲を得ている関係上、非契約の精霊に較べて神曲中毒を起こし易い。それは即ちより強大な精霊として『進化』する事でもある訳だが、定期的に神曲を与えられなければ――長期間の神曲欠乏状態に陥れば、精霊はその存在としての均衡を失う事になる。
要するに禁断症状が起きるのだ。
禁断症状を起こした精霊は、苦痛によって正気を失い、攻撃的になり周囲の存在を手当たり次第に襲う事になる。
これが暴走だ。
無論……これは滅多に見られない状態である。そもそも契約精霊自体が精霊全体の数からすれば少数である上に、精霊が神曲の禁断症状を起こす様な状況など滅多に起こり得ない。だが稀に契約対象である神曲楽士の急死や、結界による精霊の幽閉等、特殊な状況下では、この暴走が発生する事が在る。
「暴走した精霊を止めることはできないんですか!?」
少女の姿をした精霊がゆっくりと近づいてくる。
「暴走した精霊を止めるには、その精霊の満足する神曲を奏で、契約修正する必要があるんだけど……」
フォロンはそこで言葉を止めてしまった。
「あるんだけど、どうしたんですか!?」
「神曲を奏でるための単身楽団がないし、あったとしても僕みたいなおちこぼれに、彼女を満足させられるような神曲は奏でられそうにはないから……」
暴走状態を止めるには神曲に対する精霊の『飢え』を満たしてやれば良い。
理屈としては簡単な事だ。
だが――契約精霊は特定の神曲楽士の奏でる神曲に対して最適化されている事が多く、他の者の奏でる神曲では満足しない可能性が高い。単純に神曲を奏でれば良いというものではない。
先の契約主が精霊に貢いでいたものを質的に凌駕する神曲を奏でなければ正気を取り戻させる事も出来ないのである。
要するに単純に神曲を奏でる事よりも数段難易度が高いのだ。
精霊が正気さえ取り戻してくれれば、あとは契約の対象を変更するなり、ゆっくりと時間を掛けて非契約時の状態に戻すなり、対処の方法は幾つも在るのだが――
「何言ってるんですか、フォロンさん! やってみる前から諦めたらダメですよ! 成績が悪くても諦めずにずっと頑張ってるんですよね? それなのに、こんなところで簡単に諦めたら絶対ダメですよ!」
そうこう言っている間にも、少女は美しい顔に狂気の相を浮かべて少しずつ間を詰めてきている。恐らく先程は攻撃をかわされたので、今回は外れないように近付いてから攻撃するつもりなのだ。中途半端に理性が残っているのが余計に厄介だった。
「それに――」
ペルセルテが表情を曇らせて紅い髪の精霊を見つめる。
「このままじゃ彼女、可哀想です!」
「――え?」
意外な言葉にフォロンは瞬きする。
だが次の瞬間、彼はペルセルテの言葉の意味を悟って呆然と目の前の少女を見つめた。
この状況下でペルセルテはあの暴走した精霊の事を案じているのである。
あの精霊とて自ら望んで暴走した訳ではなかろう。むしろかつては人と共に在る事を望み、人の善き隣人として、愛すべき友人として、人間の側に寄り添ってくれていた存在なのだ。
だが神曲楽士と精霊――双方の盟約であり絆であったものは何らかの理由で絶たれた。
恐らくは契約を解除する間も修正する間も無くひどく唐突に。
それがどれだけの悲しみと苦しみをあの精霊に与えたか。
最初から失うものが無い存在が狂いはしない。
友愛を知っているからこそその喪失に狂うのだ。かつて己を満たした温もりに恋い焦がれるからこそ、己の中に横たわる虚無を恐れ、正気を失う程に苦しむのだ。
それは人間も精霊も変わらない。
ならば――
「ペルセルテさん……。ごめん、そうだね」
フォロンの返事を聞いて、ペルセルテはにっこりと笑った。
自分の身が危ない時ですら――あの暴走し、攻撃衝動を剥き出しにしている精霊を前にしてすら、彼女は彼等の本質を見誤っていない。彼女の中には精霊に対する信頼と友愛が確かに在る。
フォロンは未だ半人前とも言えない未熟者だが――ペルセルテが将来、良い神曲楽士になるだろうという確信を持った。彼女は天才だ。凡才であるからこそフォロンにはそれがよく分かる。
だがそれは未来の事。
今は彼女は神曲の基礎も知らない素人でしかない。
この場を収める可能性を秘めているのは、少しでも神曲の演奏技能を身に付けているフォロンだけだった。
「とりあえず、どこかで単身楽団を手に入れないと……」
「あの……」
プリネシカが少女の姿をした精霊を見据えながら、口を開く。
「今日、学校を見学した時に……実習室でワンマン・オーケストラを見かけたのですけど、あれは使えませんか……? 教室にもロッカーにも鍵がかかっていなかった様ですけど……」
「あ、そうか……。第四実習室だね。あそこ、ロッカーの鍵が幾つか壊れてて、かからないんだ」
「そうなんですか……?」
「うん、いけるかもしれない。行ってみよう。こっちだ、ついてきて!」
フォロンは踵を返し、少女がいる方向とは逆に向かって走り出した。その後にペルセルテとプリネシカの二人も続く。
「ぎいいいおおおおおおっ!!」
去っていく三人を見て少女はまたあのうなり声を上げ、彼らを追って走り出した。
第四実習室にはすぐに辿り着く事が出来た。
最悪、実習室の中に入るのに硝子をたたき割る事もやむなし――と考えていたフォロン達であったが、幸いにもフォロンが歌の練習をする為に教務課から借りてきていた鍵束の中には第四実習室のものも在り、難なく部屋の中には入り込む事が出来た。
フォロンは実習室に入るとすぐに練習用の単身楽団がしまわれているロッカーへと走り、ペルセルテとプリネシカは入ってきた扉を閉め、鍵をかける。
「これで少しは時間が稼げるね」
「うん」
二人は念入りに鍵がかかっていることを確かめると、フォロンのもとへと駆け寄る。彼は幾つも並んだロッカーを次々に開いて単身楽団を物色していた。
「あ、ワンマン・オーケストラってたくさんあるんですね」
それぞれのロッカーを見ながらペルセルテが呟く。
基本的な形状は同じく背負子の様になっているのだが、よく見れば構成部品の形状がそれぞれ微妙に違うのだ。
「うん。これは奏者が担当する楽器別に種類に分かれているからね」
フォロンはロッカーの一つから単身楽団を引っ張り出し、それを背負った。
彼が取り出したのは奏者が鍵盤を奏でる型の単身楽団だった。それが彼の一番の得意楽器なのだ。
「下がって」
フォロンはそう言ってユギリ姉妹に距離をとらせると、素早く指先を単身楽団に伸ばす。
次の瞬間――単身楽団という名の塊がフォロンの背で弾けた。
歯車と発条の音を立てながら花が開く様に、あるいは蜘蛛がその脚を開くかの様に、幾つもの部品が展開し――弧を描いてフォロンの上半身を包み込む様な位置に定位する。更に幾つもの『計測窓』が空間に幻像の如く投影され、単身楽団の状態や周囲の状況を提示する。
気温。湿度。時間。磁場。空間形状。そういった諸々の環境要素も厳密な神曲の演奏には影響するからだ。気温が異なれば空気の中で音の伝わり方も変わる。たった一人で強大な力を持った精霊を従わせる為の神曲を奏でる為には、そうした些細な変化すら己の内で調整してやる必要が在るのだった。
「――よし!」
まるで何かの操縦席の中に居るかの様に単身楽団の延ばした各種端末に包まれるフォロン。その姿を見てペルセルテは呆然と呟いた。
「あれが展開された単身楽団……」
写真では何度か見た事は在るが、現実にそれが展開され、神曲を演奏する状態になるまでを眼にするのはペルセルテも初めてである。
だが最も彼女にとって印象的だったのは、それを展開させて操るフォロンの姿だった。
自信が在るのではない。余裕が在るのでもない。
ただ――ひどく自然だった。それが当たり前の事であるかの様に、本来の自分を取り戻したかの様に、彼は何の気負いも躊躇いも無くこの演奏装置を扱っている。
おどおどした少年の姿ばかりを見てきた彼女にとって、この切迫した状況下でありながら、むしろ生き生きとして単身楽団を操る彼の様子は、全くの別人に見えた。
「フォロンさん……」
ペルセルテの呟きと同時に――実習室の扉が爆音と共に砕け散った。
たちこめる煙の中から姿を現したのは、言うまでもなくあの紅い髪の少女である。
「ミツケタ……。ミツケタ……」
少女の足元には粉々になった扉の破片が散乱している。
狂っていてさえ、そして神曲無しでさえこの威力――どうやらこの紅い髪の少女は外見とは裏腹に相当強大な力を秘めた精霊であるらしい。
「ぎぎぎぎぎいぎいいいいいあああああああああああああ!」
まるで放散される狂気の圧力に耐えかねたかの様に、窓に、蛍光灯に無数の亀裂が走り、次の瞬間にはそれら全てが粉塵と化していた。
それを見たフォロンの表情が引きつる。
単身楽団の中で見せていた自然さが失われ――彼はいつもの不器用で凡庸な少年に戻りつつあった。
(あんな強力な精霊を鎮めることなんて、僕にできるはずが……)
心を覆う恐怖心が彼の身体に、精神に無用の緊張を強いた。
あの紅い髪の精霊の力は強大に過ぎる。
神曲の演奏が失敗したら。あるいは成功しても彼の奏でる神曲があの精霊の好みと全くかけ離れていたら。その場合はあの精霊はより一層凶暴化して襲いかかってくるだろう。
あまりに分の悪い賭だ。
自分の未熟さのせいでユギリ姉妹をより危険な状況に追いやるかもしれないのだ。
それを想うと恐ろしくて手が動かない。
最初の一音は何が良い?
ぐるぐると逡巡の思考がフォロンの中で渦を巻く。
次の一音は何が良い?
それが本当に最適か?
この精霊はそれを心地よいと想ってくれるか? 本当に?
更にそれに続く音は?
掛けるべき効果は?
コーラスか? ディレイか? それともディストーションか?
それらの設定は本当に最適か? 減衰時間は? チューニングは? 余計な反響物が無いかどうか確認したか? 音の反射を考慮して最適な場所に占位しているか?
考えなければならない事が次から次へと浮かんでくる。
「フォロンさん、早く神曲を!」
「う、うん……」
そう返事はくるが、いっこうに演奏を始められない。
「フォロンさん……?」
ペルセルテもフォロンの手が震えている事に気付いたらしい。
フォロンは動けない。弾けない。最初の一音ですら何か壊滅的な間違いをしでかしそうで、恐ろしくて鍵盤を叩けない。自分の未熟な一挙手一投足が事態を致命的に悪化させそうな気がして――
だがフォロンの気持ちなどまるで関係なく、少女の姿の精霊はじわりじわりとこちらに詰め寄ってくる。
「こうなったら……!」
ペルセルテはロッカーに駆け寄ると、中から単身楽団を引っ張り出し、それを背負った。
「ペルセルテ……? 何をする気なの……?」
「決まってるじゃない! わたしが神曲を弾いてあの精霊さんを止めてみる!」
「待って! まだあなたに使えるわけがないでしょう……!」
プリネシカが止めるのも聞かず、ペルセルテはフォロンのように単身楽団を展開しようとするが、そもそも素人が見よう見まねで扱えるような代物ではない。アーム一本を引っ張り出すことすらままならず、ペルセルテは焦燥と困惑の表情で筐体のあちこちを叩いている。
(ペルセルテさん……)
彼女の言葉が、彼女の行動が、フォロンの胸に深く突き刺さる。
「なんで!? なんで動いてくれないの!? こんなところで諦めるわけにはいかないのに!」
「ペルセ……」
「お父さんのような、立派なダンティストにならなくちゃいけないのに! 絶対になるんだから! だからこんな処で諦める訳にはいかないのよ!」
「あ…………」
フォロンの脳裏に旧い記憶が過ぎる。
夜の闇に浮かび上がる紅い髪と紅い瞳。
炎の様な。血の様な。
ひどく純粋で力強く――何より美しい紅。
彼は何の為に神曲楽士を目指したのか。
『恥じる事は無い。お前の歌――良かったぞ』
そう言って貰えたのが嬉しかったから。
『これからも私のために歌を歌ってくれないか?』
そんな事を言われたのは初めてだったから。
『お前を私だけのものにしたい』
誰かに初めて必要とされた事がどうしようもなく嬉しかったから。
自分が好きな事を認めて貰えたから。自分の好きな事が誰かを喜ばせる事も可能なのだという事を知ったから。あの美しい女性にそれを教えて貰ったから。
だから――
(そうだよ……僕は)
その為に神曲楽士を目指した。
あの時の約束を果たすために。今はもう何処に居るのかも分からない彼女にもう一度自分の歌を、今度は自分に出来る全てを費やした上で奏でる曲を、聴いて欲しいが為に。
彼女に喜んで貰う為に。
だから此処で彼は終わる訳にはいかない。
狂った精霊を鎮める――その程度で立ち止まる訳にはいかない。
目指すべきものはもっと遠い。遙かに高い。
ならば……
響き渡る透明な一音。
「フォロンさん……?」
はっとしてペルセルテはフォロンを振り返る。
音はゆっくりと減衰して消えていく。
だがそれに連なる音が次々に沸き上がりゆっくりと旋律を形作っていく。
嗚呼。
それは未だ荒削りではあるけれども。
それは決して最高でも極致でもないけれども。
確かにフォロンの中に在るもの。心の色。魂の形。感じたもの――それをただ衝動のままに音に換えて描き出していく。嘘偽り無い彼の内側。迸る彼の存在そのもの。
「フォロンさん……!」
何か衝動の様なものに駆られてペルセルテはフォロンに駆け寄ろうとするが――それを引き留める手が在った。
プリネシカである。
双子の妹はペルセルテでさえ初めて見るかの様な厳粛な表情を浮かべて首を振った。
「邪魔しちゃ、駄目」
「プリネ……?」
「彼に任せて……」
プリネシカの声には確信が在った。
(そうだ……出来る出来ないじゃない……)
出来る事を全てやり尽くせば良いのだ。
どうせそれ以上の事は出来ない。ならば飾らず、謀らず、ただ素直に自分に出来る事を全てやってしまえば良い。
フォロンの中から迷いは消えていた。
彼の決意を象徴するかの様に、透明さを増す旋律が実習室の中に響き渡る。
鮮やかに。滑らかに。高く。そして低く。
単身楽団が彼の歌声に追随する。機械が機械である事を辞めたかの様に――まるで生き物であるかの様に複雑に絡み合った瑞々しい音を生成する。重ねられる幾つもの音が旋律に分厚さと深みを与え刻まれるリズムが悠然とうねる。
(君が求めるものは何?)
紅い髪の少女を見据えながらフォロンは想う。
(君を癒したい。君を喜ばせたい。だからこれを君の為に捧げる。これが今の僕に出来る全てだ。僕を君に捧げる。君は――気に入ってくれるだろうか?)
「なに……?」
ペルセルテが身を震わせて立ち竦む。
「さっきの歌とも違う……これが…………本物の」
「――神曲」
プリネシカが呟く様に言う。
そして。
「………………」
紅い髪の少女は動きを止めていた。
怪訝そうにその場に立ち――辺りに立ちこめる優しい旋律に身をゆだねている。その姿にはもう狂気のもたらす緊張は無い。華奢な四肢に満ちていた禍々しい強張りはゆっくりと溶けて行き、佇む少女の姿に自然な柔和さが漂い始める。
紅い髪の精霊。
ペルセルテ。
プリネシカ。
少女達が当然と立ち尽くす中をフォロンの歌声が――神曲が流れていく。
そして。
「…………」
最後の一音を弾いてフォロンは押し殺した息を吐く。
辺りを満たしていた音はゆっくりと薄れ消えていくが……何か余韻の様なものがいつまでも漂っている。静寂でありながら静寂でない無音。ただ音が無いのではなく――旋律との落差によって意味を与えられた沈黙が最後に曲の終わりを告げているのだ。
フォロンは一つの事をやり遂げた満足感に頬が緩むのを感じた。
目の前には少女の姿をした精霊。
今はまだ動く気配がないが――
「……っ!」
フォロンの曲の余韻に浸っていたペルセルテが我に帰ったらしい。
「……フォロンさん……う……うまくいったんですか?」
近寄ってこようとしたペルセルテを、フォロンは片手で制した。
「まだわからないから、離れていて。いざという時はすぐに逃げてね」
フォロンがペルセルテを制した片手をそのまま泳がせて紅い髪の少女に向ける。
招く様に。
誘う様に。
差し伸べられた彼の手に少女の紅い眼が焦点を合わせる。
ゆらりと舞う様な軽やかさで少女はフォロンの方へと引き寄せられていった。まるで恋人の胸に飛び込む乙女の様に。
そして――
――ごがっ。
フォロンの目の前で立ち止まった少女は、いきなり拳を固めて彼の頭を殴り付けていた。
「痛っ!?」
「ま、まさか神曲失敗!?」
焦るフォロンとペルセルテ。ただ驚いて眼を瞬かせているプリネシカ。
だが精霊の少女はユギリ姉妹など眼中に無いらしく、ただその紅い眼でフォロンを睨み据えながら――怒鳴った。
「いったい何年待たせる気だ!」
「…………え?」
フォロンは状況が理解できず、ただきょとんとしている。
少女は両手を腰に当てて彼を睨んでいる。
既に彼女の表情からは先程までの危険な雰囲気が抜け落ちている。狂気という濁りが払い落とされて本来の姿を取り戻した彼女の姿は、愛らしいの一語に尽きた。辺りを威圧するかの様な存在感はもう何処にも無く、この場の誰よりも小柄な彼女が、眦をつり上げて怒る様は――本人にすれば心外だろうが――妙に微笑ましい感じがした。
「え…………ええと……」
やはりどうして良いか分からず曖昧な声を漏らすフォロン。
そんな彼の頭を、少女がもう一発、拳骨で小突いた。
「おいフォロン、私だ。コーティカルテだ。まさか、忘れたとか言うのではないだろうな!?」
コーティカルテと名乗った少女が更に可愛らしい顔を怒りで紅潮させてフォロンの襟首を掴む。
「えっと、ごめん……」
今度はコーティカルテの右ストレートが顔面に炸裂した。
「痛っ!?」
よろめきながら鼻を押さえるフォロン。
「お前は、自分が契約した精霊のことも覚えていないのか!? 十二年前、満月の夜、森の中の孤児院の屋上で……」
十二年前。
孤児院の屋上。
幾つかの言葉がフォロンの中の記憶を引き上げる。
「では、約束の印だ。目を、閉じろ……」
そう言う彼女の表情が印象に残っている。
素直に目を閉じるフォロン。
その額に暖かく柔らかなものが触れる。
それが彼女の唇であったのだと――口づけであったのだと気付いたのは実は何日も後の事である。そしてそれが約束の印であり、一人の神曲楽士と、一体の精霊との、契約の証であるのだという事を知ったのは、更に十年の後、このトルバス神曲学院に入学してからの事である。
だが――
「あ……。あの時の女の人!?」
フォロンが今にも裏返りそうな声で尋ねた。
「そうだ。ようやく思い出したか」
憤然と両腕を組みながら少女は――コーティカルテは言った。
「いや。その、確かに思い出したけど」
無論、フォロンはあの時の事は覚えている。
先程の神曲を奏でる事が出来たのも、彼女の事を思いだしたからだ。フォロンにとってあの紅い髪の精霊との出会いは心の奥に焼き付いた原風景であり――言ってみれば既に今の彼という人間を成す重要な要素の一つであった。
しかし、その一方でフォロンはあの時の出来事を、素直に全て信じる事は出来なくなっていた。
何しろ神曲の事など単語すら知らなかった子供と、人の姿をも採り得る様な上級精霊が契約するなどという事が在る筈が無い――成長し、精霊や神曲に関する知識が増えるにつれ、そう考えざるを得なくなっていったのである。
ひょっとしたら悪戯好きの精霊にからかわれたか、あるいはその場限りの慰めでも受けたのではないか――彼はそんな風に想っていたのである。だからこそ、今度こそ本当の神曲を彼女に聴かせて喜ばせたいと思い、神曲楽士を目指した。
それに――
「でも、確かにあのときの女の人と君は似ているけど、彼女はもっと大人っぽい女性だったような……」
「…………」
コーティカルテがフォロンのスネを思い切り蹴飛ばした。
相手が小柄でもさすがにこれは痛い。思わずその場にしゃがみ込んで悶絶するフォロンを憤然と見下ろしながら、コーティカルテは喚いた。
「誰のせいだと思ってるんだ!? 私の身体が縮んだのは、お前が十二年間も私の事を忘れて神曲を聴かせなかったからだろうが!? お前のせいだからな、責任とれ!」
「ご、ごめん……?」
フォロンは理由がわからないままコーティカルテに小突かれ続ける。
実を言うと十二年前の出来事については、契約の後の記憶が曖昧で、彼もその後、どうしてコーティカルテが居なくなったのか覚えていないのである。
だがそれを言えば更に激しい打擲が加えられそうな気がしたので、とりあえずフォロンは黙っておく事にした。
で――
「えーっと、これってどういうことなんだろう?」
げしげしと契約主(?)を蹴り続ける精霊コーティカルテと、ごろごろ床を転がって彼女の脚から逃げ回るフォロンを眺めながら、ペルセルテが呆然と呟く。
「フォロンさんの神曲は成功だった、ってことかな?」
「たぶん……」
とうとう立ち上がって逃げ始めたフォロンと、両足を揃えてドロップキックをかますコーティカルテの姿を何処か自信なさげに眺めながらプリネシカが頷く。
「じゃあ、とりあえず一件落着かな?」
「たぶん、そうだと思う」
「そっか。ならよかったよかっただね」
ペルセルテは、とうとう土下座して何度も何度も謝らされる羽目になったフォロンを眺めながら、元気良く笑う。
「そうかなあ……」
フォロンとコーティカルテの様子を見ながら、疑わしげに呟くプリネシカではあったが――二人の間に割って入ろうなどという無謀な試みをするつもりは全く無い様だった。
それから季節は変わり、春が訪れる。
深呼吸してから――軽く拳を握って手を挙げる。
目の前に在る扉には『学院長室』の文字を刻んだ真鍮プレートが填っていた。
別にノックに慣れていない訳ではないが、場所が場所だと緊張してどうにも加減が分からなくなる。必要以上に強く叩くと不躾な感じがしそうだし、かといってこんなに分厚い樫の扉だと、弱ければ相手に聞こえないのではないかという不安も在る。
フォロンがそんな事を考えながら短い逡巡をしていると――
「何をぐずぐずしている?」
などと言いながら、傍らに立っていたコーティカルテが拳を固めてがんがんと扉を叩き始めた。ノックというより、拳で扉をぶち抜こうとするかの様な勢いである。
「ちょ……ちょっと、コーティカルテ!」
慌てて彼女を羽交い締めにして扉から引き離すフォロン。
「何をする?」
「何をするじゃないよ……乱暴だな。そんなに強く叩いたら失礼だろ」
とはいえいきなりノック無しに扉を開けなかっただけでも未だマシだ。
ここしばらく一緒に行動していてフォロンは思い知っていたが――この紅い髪の精霊少女はとにかく気が強く傍若無人な行動が目立つ。言う事や、やる事にはそれなりに筋は通っているのだが、それだけに『何が悪い』と言わんばかりの態度で周りと折り合いをつける事が無いのである。この為、何かとコーティカルテがらみの揉め事が頻発し、その度にフォロンは彼女の代わりに謝って歩くのが日課になっていた。
だが――
「どうぞ。開いていますよ」
扉越しに聞こえてきた学長の声に怒りの色は無い。
『ほら見ろ』と言わんばかりの表情で自分を見つめてくるコーティカルテ。フォロンは溜め息を一つついてから、学院長室の扉を開いた。
「失礼します。タタラ・フォロンです」
一礼して学院長室内に入る。
彼に続いて会釈も無しにコーティカルテが入ってきた。
一時期は専門課程への進級が危ぶまれたフォロンであるが――現実にコーティカルテという精霊を暴走状態から鎮め、更には契約まで結んだという事実が実績となって、無事に彼は専門課程へ進む事を許可された。
ちなみにコーティカルテにまつわる騒動と、その際に破損した諸々の学校設備は、『不可抗力』という事でおとがめ無しという事になり、これにもフォロンは胸を撫で下ろした。彼が壊した訳ではないのだが、その下手人は今彼の契約精霊な訳で――巡り巡って請求書が自分の処に来たらどうしよう――などと心配していたのである。ただでさえかつかつの生活をしている上に、何故か精霊の癖に一人前に飯を食うコーティカルテのお陰で、食費がかさんでおり――とてもではないが硝子だの蛍光灯だのの弁償をする余裕など彼には無かった。
それはさておき――
「おお、フォロンくんですか。待っていましたよ」
大きな執務机の向こう側から学長が人懐っこい笑顔で出迎えてくれる。
「まずは、専門課程への進級、おめでとう」
「ありがとうございます」
フォロンが深々と礼をする。
どういう意見のやりとりが教務課やその他の上層部で在ったのかはフォロンの知る処ではないが、コーティカルテの一件に対する寛大な処置に最終的な許可を与えたのは間違いなくこの学長である。礼を言って言い過ぎる事は無かろう。
学長はやはりにこにこと柔らかな笑みでフォロンとコーティカルテを眺めていたが――
「さて、ここからが本題なのですが」
「は――はい」
緊張で背筋を正すフォロン。
学長が意味もなく一生徒を呼び出す事は無い。此処にわざわざ指名で呼ばれたからには、良くも悪くも何か特別な事情が在るのだろう。
「専門課程一年目の生徒は、基礎過程の一年生として入学してくる新入生五、六人の面倒をみる、というシステムは当然知っていますよね?」
「はい」
「そこでですね。今年の新入生の中で――いやまぁ明日の入学式で正式に我が学院の生徒となるわけですが――とにかくその入学予定者の中で、あなたを指名している生徒がいましてね。本人たっての希望ということですし、あなたさえ良ければ特例として認めようと考えているんですよ」
「僕を、ですか?」
フォロンの後ろではコーティカルテが退屈そうにあくびをしている。精霊である彼女にとって人間社会の手続きなんぞは興味の対象外なのだろう。
「ええ。それで、君は構いませんか?」
「はい。僕は構いませんが、それにしてもどうして僕なんですか?」
そんな名指しされる理由が思い当たらなかった。
コーティカルテと契約できたから良かった様なものの、それが無ければ追試、最悪その失敗で退学――という可能性も少なくは無かったのだ。
要するに専門課程の生徒には進級試験を難なくパスしたもっと優秀な成績の者が何人も居る筈だった。中にはユフィンリーの様に在学中からプロの神曲楽士として仕事を受け、各地を飛び回っている者さえ居る。新入生としてはそうした優秀な生徒に面倒を見て貰いたいと思うのが自然な感情だろう。
「理由は、本人たちに聞いてください。ちょうど今ここにきてますから」
学長は部屋の奥の扉に向かって声をかける。
「お二人さん、フォロンくんの許可が下りましたよ。どうぞお入りなさい」
扉が元気良く開け放たれる。
そこから入ってきたのは――とても見覚えのある二人組みだった。
「今度、トルバス神曲学院の一年として入学することになりました、ユギリ・ペルセルテです。よろしくお願いします!」
「同じく、ユギリ・プリネシカです。よろしくお願いします……」
金色の髪の少女が元気良くあいさつをし、銀色の髪の少女は恥ずかしそうに頬を赤らめてうつむいている。
「あ、二人とも入学が決まったんだね。おめで……」
「お久しぶりです! これからよろしくお願いしますね、フォロン先輩!」
フォロンがしゃべり終わる前に、ペルセルテがフォロンに駆け寄ると――何の躊躇も見せずに抱きついた。
「――!」
「――!!」
抱き付かれた当のフォロンと――そして今まで退屈そうに窓の外を眺めていたコーティカルテの表情が一変する。
コーティカルテは猫が飼い主にじゃれつく様にフォロンにしがみついているペルセルテに足音も荒く歩み寄ると、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お……お前、な、なれなれしいぞ! 離れろ!」
怒りに震える手でコーティカルテがペルセルテを引き離そうとするが、するりとユギリ姉妹の姉は身をかわしてフォロンの後ろに回り込んだ。フォロンの背中に隠れる様にして、顔だけ出しながらペルセルテは言った。
「お前じゃありません、ペルセルテですよ。コーティカルテさんも、よろしくお願いしますね」
「よろしくしなくていいから離れろ!」
「あ、先輩はみんなの先輩なんですから、独り占めはだめですよ?」
「ちょっと、二人とも……」
間に挟まれて困り果てながらフォロンが止めようとするが、もともと押しの弱い彼に二人を止められるわけもない。
「おやおや。若いっていいですねぇ」
学長がのほほんとお茶をすする。
フォロンは学長の良識に期待していたのだが……どうやら彼は止めるつもりなど全く無いらしかった。
「騒がしくてすいません……」
その横でプリネシカがやはり顔を赤らめたまま頭を深く下げた。だがこちらも止めるつもりは無さそうだった。まあ賢明な判断だが困るのはフォロンである。
そういう訳で――
「離れろ!」
「二人とも、止めなってば」
言ってはみるが既に二人とも彼の言葉など聞いていない。
「独り占めはダメです!」
「いいから離れろ!」
「嫌です! 先輩は私達の担当になってくださったんですから、これからはずっと一緒ですよ!」
「ふざけるな、そんな話は取り消しだ取り消し! おい、そこの金髪眼鏡! 取り消せ!」
よりにもよって無礼極まりない呼び掛けにフォロンが卒倒しそうになるが、学長は特に気分を害した様子も無く、にこにこしながら言った。
「はっはっは。駄目ですね。もう決めちゃいました」
「貴様――」
「コーティカルテ! 止めろ、っていうか止めて、頼むから!!」
学長に飛びかかろうとしたコーティカルテを背後から羽交い締めにするフォロン。
「そうですよ、諦めてください! もう決まっちゃった事ですから!」
勝ち誇るペルセルテ。
そして。
とうとうコーティカルテの我慢の限界に到達した。
ばしん、と音を立てて彼女を羽交い締めにしていたフォロンが吹っ飛ばされる。精霊の証でありその力の象徴でもある羽根がコーティカルテの背中に浮かび上がり、燃える様に激しい光を放つ。
それは見る間に危険な程の高まりを示し――
「コレは私のだーーーー!!」
駄々っ子の様な叫びと共に学長室の硝子が全て吹っ飛んだのは次の瞬間であった。
一ヶ月ぶりに学院に帰ってきていたユフィンリーは校庭を歩いていた処だった。
専門課程の生徒の中でも飛び抜けて優秀な彼女は、学生の身分ながらも既に一人前の神曲楽士として公社から仕事を依頼される事も多く、その結果として学院に登校してくる日よりも、学院外で活動している日の方が遙かに多いのである。
当然、一流の上に超がつく位、優秀な生徒を出席日数不足で脱落させたり退学させる様な真似を学院がする筈も無く――ユフィンリーはこうして仕事の合間に登校するという奇妙な学院生活を送っている。
それはさておき――
「……ん?」
轟音に反応して視線を上げる。
見れば――校舎の一郭、それも学長室の在る処からもくもくと何やら黒い煙が立ち上っている。
火災でも起きたのかそれとも爆弾テロでもあったのか。
顔色を変えて駆けだしていく生徒や講師や精霊達の中で――しかし彼女は平然と苦笑を浮かべていた。
「まーたあのクソジジイ、弄り甲斐のあるオモチャを見つけた訳ね」
でもって学院長室。
コーティカルテ本人も含めて――狭い場所で力を解放したので、跳ね返ってきたのである――一同が揃ってもみくちゃになり転がっている学長室の中、何故か無傷で煤一つついていない学長がにこにこ笑いながら風通しの良くなった窓の外を見上げていた。
「いやあ。春ですねえ」
誰にともなく宣う声が温かな風に舞う。
それは始まりの季節だった。
神曲奏界ポリフォニカ PROLOGUE FIN