PROLOGUE
窓の外にニコン市の夜景が広がっている。
高層ビルの類も少なくは無いのだが――その全てを、ツゲ・ユフィンリー神曲楽士は見下ろす位置に居た。昼間であれば、眼下を動き回る玩具の様に小さな車や人を見る事が出来たろう。だが今はそれらが放つ諸々の光芒が見えるだけで、詳細は全て夜の闇の中に沈み込んでいた。
特に街の中央には、大きな闇の領域が広がっている。
ケセラテ自然公園である。
要所要所に常夜灯は配置されてはいるものの、やはりそこに広がる闇は他の部分に比べて深く広く――そして濃い。まるでそこだけが黒々とした海原であるかの様にも見える。
人智及ばぬ謎を孕んだ深淵に。
先日……あの闇の真ん中から何かが掘り出された。
それが何なのかは分からない。少なくともユフィンリーは聞かされていない。
単に〈コア〉と呼ばれる秘匿名《コードネーム》を知っているだけだ。
だが今回の一件は全てそこから始まったのだ。
「――失礼」
そんな声と共に背後の扉が開く。
「お待たせしました」
振り返ったユフィンリーが見たのは、この高層ビルの持ち主だった。正確に言えばこの高層ビルを所有する法人組織の頂点に立つ男である。
オミ・テディゴット。
メニス帝国でも有数の大企業――株式会社オミテック工業の社長である。
「すいません――こんな遅くに」
言って頭を下げる。
ユフィンリーがテディゴットに電話したのは、もう日付が変わって更に二時間ばかりが経過した頃だった。正確には、その頃になってようやく連絡が取れたのだ。不躾とは思ったが仕方がない。色々な意味でユフィンリーにも余裕が無かった。
現在は午前四時半。
夏場ならそろそろ空が明るみ始める様な時間帯だ。
「いえ。私の方も御連絡を差し上げようと思っていたんですよ」
とテデイゴットは言う。
「会議が長引いてしまって、こんな時間になってしまいましたが――」
オミテック本社ビルにおいて、重役に緊急招集を掛けて行われた深夜の会議。
その議題は言うまでもなく――〈コア〉強奪という事態にどう対応するかだ。
オミテック社が、トルバス将都庁に特別許可を取ってまでケセラテ自然公園を掘り、その地下から発見した〈コア〉と呼ばれる何か。オミテックの研究員達によれば、それは『精霊と人間の関係を根本から変える』可能性が高いものであるという。
その〈コア〉が、オミテックの研究施設に移送される直前で何者かに奪われた。
護衛にあたっていたツゲ神曲楽士派遣事務所の面々は、これを追跡するも、相手の計略に填って〈コア〉の奪回は為らず――それどころか、所員タタラ・フォロンの契約精霊コーティカルテ・アパ・ラグランジェスが、失調して倒れるという有り様。必ずしもツゲ事務所側に手落ちがあったとは言えないが――黒星である事は間違い無い。
ちなみに、この状況は一般には公開されていない。
報道陣や一般市民は、壮絶な追跡劇の末にツゲ事務所が問題の発掘物を取り戻したと思っている。相手が何者で何を目的に〈コア〉を奪ったのか分からない故の――暫定的な対処であった。また迂闊な情報を公開すればオミテックの株価の大暴落をも招きかねない。だからこそ事実は伏せられたままなのである。
「さて――」
テディゴットはユフィンリーに応接セットのソファを勧めながら、自らも腰を下ろす。
立ち居振る舞いは一見、相変わらずの様に見えるが――テディゴットの口調に若干の疲労が滲んでいるのをユフィンリーは聞き逃さなかった。些細な仕草や口調から相手の様子を察するのは、神曲楽士の基本技能である。まあフォロンの様に部分的に妙に鈍い例外も居るには居るが。
「……失礼します」
秘書が湯気をくゆらせる香茶のカップを二つ、施接セットの卓上に置いて出ていく。
ソファに腰を下ろし、秘書が扉の向こうへ完全に消えるのを――扉が閉じきるのを確認してからユフィンリーは切り出した。
「時間が在りません」
詳細を省いた単刀直入過ぎる一言である。
だが至極当然といった様子でテディゴットは頷いた。
「そうですね」
「警察に任せますか?」
とユフィンリー。
今回の〈コア〉の所有権については、かなり微妙だが――発掘物については幾つかの法律が絡んでくるので、見つけた人間が即、所有者になれる訳ではない――とりあえず現状での管理権限はオミテック社が持っていると思って間違いが無い。
そうなれば、取り戻す為にどの様な行動に出るべきかの決定権もまた、オミテック社が持っている事になる。
「実は私もそれを御相談したかったのですよ」
膝の上に肘を乗せて、テディゴットは僅かに身を乗り出した。
「ユフィンリーさん。貴女は人間と精霊の関係を――どう思われます?」
「――え?」
思わず間の抜けた声が出る。
正直――ユフィンリーは虚を突かれた想いだった。
今ここで話し合うべきは今後の対策である筈だ。
そもそも輸送計画が失敗に終わったのは事実だが――その事実を、どうオミテック社が捉えているかによって、ツゲ神曲楽士派遺事務所の対応も変わってくる。
輸送計画の失敗を、オミテック側は契約の不履行と解釈するのか否か。不履行と解釈するなら、ツゲ事務所に履行を要求するのか否か。あるいはツゲ事務所の過失として、賠償を請求するのか否か。あるいは着手以前の事故として、契約そのものがそもそも無効となるのか否か……
この解釈だけでもツゲ事務所の立場は大きく変わる。
当然――その後に採るべき行動も変わってくる。
だからまず確認すべきは、その点であった筈なのだ。
しかし……
「精霊と人間――ですか……?」
テディゴットから発せられた問いは、それとは全く関係ないものだった。
「ええ、正確には、精霊の『生理』と言うか『生態』と言うか……」
「ご質問の意味がよく判りません」
素直にユフィンリーは言った。
この場面で、テディゴットの様な人間が無意味な世間話を始める筈が無い。だが質問の意図が全く読めないのだ。
勿論、ユフィンリーとテディゴットは敵対している訳ではない。だが、相手が誰であろうとも、意図の読めない問いに迂闊に答えるのは適切ではなかろう。百戦錬磨の企業家が相手なら尚更の事だ。
「ふむ――」
ユフィンリーの言葉にテディゴットは少し考える素振りを見せる。
彼はそして『では』と言ってから言葉を続けた。
「不自然だとは思われませんか?」
「不自然……」
これもまた唐突な言葉ではあった。
「そうです」
ある種の確信を滲ませる仕草でテディゴットは頷いてみせる。
「精霊は神曲を好む――それはいいでしょう。それによって高揚や陶酔を得て――力が増す。それもいいでしょう」
「ええ」
これは神曲楽士や神曲関連企業の人間でなくても、誰もが知っている事実だ。
「自分に合った神曲を奏でる楽士と契約を成し、これを独占しようとする傾向も、まあ適切な表現かどうかはともかく『人間的』であるとも言えます」
「そうですね」
「しかし……そこからが私には、どうしても不自然に思えるのです」
「――ああ」
ユフィンリーは理解した。
「調律」ですか?」
特定の神曲楽士と契約した精霊は、自身の『身体』を契約楽士の神曲に合わせて、調律する。契約楽士の神曲を、より深くより強く己の『身体』に受け入れ――それによって、より多くの高揚と陶酔と力とを得ることが出来る様に、己自身を変化させていく。
これは契約精霊であれば、ほぼ例外は無い。
逆に言えばこの『調整を行わない精霊契約には実質的に意味は無い。相手手が特定されているだけで……実際の効果としては、自由精霊が勝手気儘に、気に入った神曲楽士に手を貸すのと何ら変わりないからだ。
「不自然だとはお思いになりませんか?」
「それは――言葉通りの意味ですね?」
つまりそれは『自然の有り様ではない』という事だ。
もっと正確に言えば――『精霊の生態とは自然発生的なものではない様に思える』という意味である。
「そうです」
「それなら――ええ。思います」
例えば……どんな人間にも好物は在る。人間でなくとも、一部の例外を除いて大抵の生物には嗜好が存在する。積極的に摂取するという意味もあるし、他の食物に比べてより顕著に摂取の効果が現れるという意味もある。
だが何にしても……その好物に合わせて、自身の肉体を変調させる事など有り得ない。
しかし精霊はそれをするのだ。意識的に。
それどころか――
「例えば私はカモ料理が大好きです。目がない、と言ってもいいでしょう。しかし、カモ料理に合わせて自分の肉体を変えたりはしません。だから、カモ料理が何年も食べられなかったとしても、それで身体を壊すことなどありません」
ところが――精霊は失調する。
契約楽士の死や怪我等で、その楽士の神曲を得られなくなった精霊は、飢餓状態に陥ってしまう。調律によって契約楽士の神曲に特化した精霊は、他の楽士の神曲を極めて受け付けにくい状態になってしまうからだ。
そしてこの飢餓状態が一定を越えると……暴走が始まる。
一種の禁断症状だ。その様は麻薬中毒の禁断症状と酷似している。
餓え狂い理性を失った精霊は、神曲を求めて暴れ回る。しかも……本質的に精神エネルギーの塊と言われる精霊にとって『狂気』とは存在の崩壊をも意味する。
即ち――精霊の『死』だ。
暴走状態に陥った精霊を放っておくと確実に死ぬ。
「何故でしょうね?」
テディゴットは言う。
だがそれは問いではない。
「分かりません」
そうユフィンリーが答える様に――それは実の処、神曲楽士達や研究家達の間でも謎とされてきた事柄であるからだ。
単に精霊とはそういうものだという考え方もある。そこで思考を切り上げてしまう者も少なくない。いや――大半の人間がそうだろう。
だが日常的に精霊と関わっている者達にとっては、必ず一度は直面する疑問だ。
何故、精霊はこんなにも奇妙な――異常とも一言える生態をしているのか?
「すみませんがオミ社長、それと今回の件とが関係あるんですか?」
「あります」
オミ・テディゴットは深く頷いた。
それから眼を閉じ――束の間ながら瞑目したのは、この肝の据わった企業家にとっても決して軽くはない内容であったからだろう。
「ユフインリーさん……」
彼は眼を開いて言った。
「我々が発掘したのは、恐らく、その秘密を解くカギなのです」
――それが〈コア〉の正体だった。
大通りに面したシャッターを開ける。
その奥からは大きな硝子張りの扉が現れる。
硝子表面には白い塗料で書かれた三行の文字列。地味とさえ言える大きさと字体なので、客が見逃してしまわないかと、要らぬ心配を招きそうな代物だ。だがこの事務所の経営者の人となりを知っている者は、大抵が『いかにも彼女らしい』と評する。
上から順番に――
『第三神曲公社公認』
『認可番号066249』
そして一番下の行は上の二行に比べて、やや太く大きな字でこう書かれていた。
『ツゲ神曲楽士派遣事務所』
朝――一番に来て事務所を開けるのは当番の者の仕事である。
本来なら今日はタタラ・フォロンがその役である筈だった。
だがシャッターを開け、ガラス戸の鍵を開けたのは彼の同僚であるサイキ・レンバルトであった。タタラ・フォロンは現在、病院につめているからだ。
「…………」
無言でレンバルトは事務所に入り、硝子扉脇のスイッチで灯りを付けた。
続けて受付カウンターの前に置かれたマガジン・ラックの中身を確認し、ざっと掃除をしてから、自分のデスクに座る。
そしてレンバルトは欠伸を噛み殺した。
寝不足なのだ。
正確に言えば――殆ど寝ていない。疲労の為に意識が朦朧とする事は何度か在ったが、きちんと眠りに落ちる事は出来なかった。いざ眠ろうとするとかえって眠気が引いてしまうのだ。
「…………」
レンバルトは溜め息をついた。
彼を知る者達が見れば驚いたかもしれない。レンバルトの友人知人の中にも、自潮めいた溜め息を彼が吐くなどとは想像も出来ない――という者は多いだろう。レンバルトは意識してそういう側面を他人に見せないようにしているからだ。
レンバルトは天才だ。
その自覚が在るし、実際にそう呼ばれるに恥じないだけの実力が在る。
彼が単身楽団を奏でれば、数百もの精霊が集まってくる。そして神曲を使い、それら全てを個別に誘導する事が出来るのだ。大低の神曲楽士がせいぜい数十……召喚も誘導もそれが現実的な限界と言われている事を思えば、レンバルトの技能は一種の奇跡と言っても過言ではない。
だが……その一方で、彼の召喚出来る精霊は下級精霊だけだった。そして彼には契約精霊も居ない。彼が呼び出せるのはいつも自由精霊ばかりだ。
対してタタラ・フォロンは正反対の神曲楽士だ。
彼は常にたった一柱しか精霊を従えない。
だがそれは契約精霊だ――しかも上級の。
それどころかフォロンの契約精霊は、様々な意味で常識外れの存在だった。不安定で特殊な部分も何かと多いが、その本来の『力』は明らかに他の精霊と――上級精霊とすら一線を画す様な強大さである。圧倒的と言って良い。
そして『彼女』はフォロンの神曲に心底から惚れ込んでいる。
だから彼女はフォロンの存在そのものを独占したがる。他の精霊が契約する事はおろかフォロンに近付く事さえ許さない。
それがタタラ・フォロンという神曲楽士の仕事の幅を狭めているのは事実だ。また彼の神曲楽士としての在り方を著しく歪めているのも事実ではあるだろう。恐らくそうした事は彼の契約精霊も分かっているだろう。
しかしフォロンの神曲とは、その契約精霊にとってそれらの事実を理解しても尚、執着せざるを得ない程の価値を持つという事でもある。道理を歪めてさえ――見る者の眼によっては浅ましく映る事を覚悟してさえ、その精霊は彼の神曲を求めるのだ。
切実に。必死に。狂信的とさえ言える強さで。
(俺は――)
だがレンバルトの神曲にそうした部分は無い。
彼の神曲が好みのうるさい上級精霊を惹き付ける事は殆ど無い。下級精霊ですら、懐いてはくれるが精霊契約を――専属を望む者は居ない。広く浅く精霊達に対して訴え掛けるものを持ってはいるが、あまりにも深さが足りない。
精霊達を気持ちよくさせる事は出来る。
だが執着する程の――突き抜けた帰依心を喚起する様なものではない。
はっきり言えば……
(――俺の神曲は安っぽい)
移ろいやすい――大量消費されては消えて行く流行歌の様に。
正確さと。複雑さと。そして直感的な判断と。
それらだけが自分の神曲を支えているのだとレンバルトは思う。
(だがそれは……才能じゃない)
それらは訓練で身に付くものだ。
勿論――レンバルトは他の者よりも遙かに早くそれらを身に付けている。また身に付けたそれらは普通の人間よりも遙かに程度が高い。
だが逆に言えば、それは程度差でしかない。
絶対的に手の屈かない隔たりの向こうにあるものではない。程度差や掛かる手間の違いにさえ眼を瞑れば、誰でも努力次第では手を掛ける事が出来るものだ。少なくともレンバルトはそう考えていた。
実際の処――レンバルトは『天才』と呼ばれる事に、僅かながらも不快感を感じていた。
自分がそうではないと思うからだ。
レンバルトに言わせれば、天才とは断絶の向こう側に居る者だ。
模倣も承継も出来ない。
努力を要しはするだろう。不調に落ち込む事もあろう。そもそも模倣も承継も出来ない、完全に一身専属的な感性と技能は――それ故にこそ、世間一般の努力や理屈が通用しない事も多い。だからこそ彼等はかえって回り道をする事もあるし、凡人なら簡単に出来る事が、むしろどうしても出来ない事が在る。一旦不調に落ち込めばそれを解決するのにやたらと時間が掛かったりもする。
だがそれでも。
天才と呼ばれる者達は最初から違う場所に立っている。
凡人はいくら足掻いてもそこに辿り着けない。
本当の天才とはそういうものだ。
そう――例えば。
(――フォロンの様に)
彼に言えば苦笑して否定するだろう。
自分はただ鈍くさいだけなのだと。
しかし……
(俺は結局、昨日は神曲楽士として何も役立ってない)
そんな無力感がレンバルトには在る。
上級精霊同士の空中戦。
そんな中に下級精霊を操って割り込んだ処でどうなるものでもない。中級たるヤーディオが神曲を受けた状態ならばまだしも……例えばボウライ達ではむしろ脚を引っ張るだけだろう。
ある種の限界を思い知らされた気分だった。
上級精霊を少数惹き付けるのと。
下級精霊を多数惹き付けるのと。
どちらが技能的に上だという訳ではない事はレンバルトも知っている。それは方向性が違うというだけだ。だがそれでもこうやって『自分に出来ない事』が有り、そのせいで役立てなかった現実を突き付けられれば――レンバルトとて自分の才能に、ある種の絶望を覚えずにはおれない。
「…………」
改めて湧き上がってきた欠伸を噛み殺す。
ふと――フォロンの事が気になったが連絡するのは止めておいた。
恐らく、とても手が離せる状況ではないだろう。
「さ、て、と」
気持ちを切り替えるべく独り呟いてみる。
今のこちらの気分がどうあろうと、仕事先の相手には関係の無い事だ。契約内容は果たさねばならない。自分の感情は一旦棚上げ。それがプロフェッショナル――技能で金を貰う者の基本だ。
今日の仕事はキリヤマ電器の改装工事の手伝いだ。
昨日の護送任務を引き受ける為に、わざわざ日程を一日ずらして貰った仕事である。迷惑を掛けた詫びの意味も込めて、きっちり勤め上げねば道理が通るまい。
「今日もいっちょ頑張るか」
立ち上がると、背中の骨がみしみしと音を立てて軋んだ。
北ロナージ。
『ロナージ』の名を冠されてはいるが――この地域は実はロナージ市内では無い。実際にはソゴ市の南端を北ロナージと呼んでいるのである。その昔、マナカダ市に隣接し、高級住宅の多いロナージ市のイメージを借りようとした不動産業者が、新聞広告でその様に呼び始めたのが始まりだと言われている。
そして実際――その後の五十年で、ロナージの住宅地は北ロナージと呼ばれる地域をも越えて広がりつつある。もっともこれを先見の明と呼ぶのか、単に偶然の結果と呼ぶのかはまた別の話ではある。
ともかく……
ユギリ姉妹の住むシャハンダ・マンションはその北ロナージに在る。
誰もが認める高級マンションである。
エントランス・ホールは高級ホテルと見紛うばかりの豪華さだ。管理及び警備のスタッフは二十四時間常駐。しかも住民は管理カウンターに依頼するだけで、衣類のクリーニングから写真の現像、宅配便の手配まで、外出することなく代行してもらえるのだ。挙げ句、マンション住人専用のスポーツジムやプール、屋上の庭園まで完備している。
まさに至れり尽くせり――一般のマンションの価格帯では、到底不可能な設備と管理体制が、これでもかという位に整っている。その気になればマンションを一歩も出る事無く一ヶ月でも半年でも暮らせるだろう。
また――オートロックや、警備会社へ直通の防犯防災装置といった充実の防犯防災設備をシャハンダ・マンションの魅力の一つに挙げる入居者も多い。
だからこそユギリ姉妹の後見人も此処を彼女達の住居として選んだのだ。
実の所――後見人はユギリ姉妹のトルバス神曲学院への進学が決まった時、最初から彼女達を此処に住まわせる積もりだった。
だが二人は――というよりペルセルテはこれを拒否。
専門課程に上がるまでの二年間は、トルバス神曲挙院の学生寮に住んだ。
二年の寮暮らしの後、シャハンダ・マンションに転居を決めた姉妹に後見人は言ったものだ――『ほら。やっぱりマンション住まいの方が快適だし安心でしょう?』と。勿論これは後見人の善意から出た言葉であろうが、後見人は全く分かっていなかった。恐らく後見人はユギリ姉妹が、学生寮にうんざりして転居したのだと思っているだろう。
だが違う。
姉妹がマンションに移ったのは、単に学生寮に住む意昧が無くなったからだ。
そもそも学生寮に入居を決めたのは、ひとえに入学前の学院見学でフォロンと出会い、彼が学生寮に住んでいるという事を聞いたからだし、北ロナージのマンション住まいでは、彼と一緒に通学する事が出来ないからだ。そしてあっさり学生寮を出たのは、単にフォロンが卒業してそこから居なくなったからである。
それはさておき。
「――早く」
双子の妹が『開』ボタンを押したまま、エレベータの中で待っている。
「あ、待って待って」
慌てた様子で姉が飛び込んで来るその瞬間に、ユギリ・プリネシカは押しているボタンを『閉』に切り替える。扉はユギリ・ペルセルテの髪やスカートの端をぎりぎり挟み込まない瞬間で閉じた。見ている者が居ればさすが双子――と感心しそうな位の息の合い方ではあった。
頭上のパネルの階数表示ランプが二十七階から一つずつ横へずれてゆく。
十八階を過ぎるあたりで速度が落ちて――十六階で停止した。
ちん、という軽い音とともにドアが開く。
そこに立っていたのは一組の少年少女《カップル》だった。
ただし片方は人間で片方は精霊だ――一見してそうは見えないかもしれないが。
オミ・カティオムとシェルウートゥ・メキナ・エイポーン。
共にユギリ姉妹の友人である。
だが――
「あ――おはよ」
「おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
四人は互いに朝の挨拶を交わす。
そして――やたらに気まずい沈黙が横たわった。
普段なら昨日見たテレビの番組の内容だの、カティオム達の関係の進捗状況だの、ツゲ事務所の面々の話だの、日常的で他愛ない会話に花を咲かせるのだが――今日ばかりは誰も何も一言おうとしない。
あの大事件の翌日なのだ。無理も無い。
時間的に言えば、未だ二十四時間も経過してはいないのだ。
まして彼等の共通の友達の一人……いや一柱は病院に居る。意識が戻ったという報せも無く、同じく彼等の友人であるタタラ・フォロンも病院につめたままだ。
それぞれが、それぞれの思いを胸に沈めて……だから言葉が出てこない。
(……何も出来なかった)
ペルセルテは思う。
オミ社長の車で現場に着いた時――全ては終わっていた。
現場周辺は交通規制で大混雑していて。何台もの警察車輌《パトカー》と救急車が詰め掛けていて。その何倍もの警官と救急隊員が走り回っていて。更にその何倍もの野次馬や、被害者や、その他諸々の人々で辺りはごった返していて。空には何台ものヘリコプターが飛び回っていて、まともに会語も出来なくて――
ユギリ姉妹が全ての状況を知ったのは、更にそれから数時間後だ。
コーテイカルテが精霊病院に運ばれた事も。フォロンが彼女に同行した事も。敵の精霊が逃げてしまった事も。そして――奪われた荷物が取り戻せなかった事も。
全て後から病院に着いて、そこで聞かされた。
ただ言われるままに移動して。待って。話を聞かされただけだった。
フォロンやコーティカルテやレンバルトやユフィンリーやヤーディオが、必死で動き回っていたというのに――ペルセルテとプリネシカは何もしていない。何の役にも立たなかったのだ。
それは別にユギリ姉妹の責任ではない。
だがそれでも、無力感が二人の上にのしかかってくるのはどうしようもなかった。
そして今――
フォロンはコーティカルテに付きっきりだ。
レンバルトは溜まった仕事を一人で整理するために、事務所に出ているだろう。
ユフィンリーは、今後の対策を相談するためにオミテックに出向いている筈だ。
対してユギリ姉妹は日常に戻るしかなかった。
それ以外に出来る事が何も無いのだ。
学生の本分をおろそかにして良いとは思わない。また所詮はアルバイトの身で他の所員と同様の働きが出来るとは思わない。だがそれでも自分達はツゲ神曲楽士派遣事務所の一員であるという衿持《プライド》はユギリ姉妹の中に在ったし、だからこそ他の所員達がそれぞれの仕事や事情に忙殺されている現在、自分達だけが日常に戻る事には、どうしても後ろめたさが付きまとうのだ。
「…………」
ぼんやりと数字のランプを見上げる。
まるで何かのカウント・ダウンみたいに数字が滅ってゆく。
そんな中――
「大丈夫」
最初に口を開いたのは意外にもシェルウートゥだった。
「大丈夫」
黒髪の精霊はもう一度だけ繰り返す。
彼女が言ったのはただそれだけだった。
しかし――あるいは、だからこそ。
「…………」
プリネシカの頬を一筋の雫が滑り落ちる。
潤んだ瞳から溢れ出る涙は止まらない。何度も何度も頷いて――その度にこぼれ落ちた雫が銀髪の少女の頬を濡らし続ける。
珍しい事だ。
大人しい少女ではあるが――だからこそ、こうもプリネシカが感情を露わにして人前で泣きじゃくるのは珍しい。むしろ感情を暴発させるのは姉のペルセルテの方が多く、プリネシカは常にそんな姉を宥め慰める側であった筈なのだ。
妹の肩を抱き締めるペルセルテも眼に一杯の涙を溜めている。
大丈夫。
今――それは誰もが信じたい言葉だった。
たとえそこに何の根拠も存在しないとしても。
単身楽団は基本的に充電池で駆動する。
極めて過去の品や一部の例外を除いて、全ての単身楽団がそういう機構になっている。そもそも神曲楽士の機動力を上げる為に、単身楽団は開発されている。アダプターを使ってコンセントから電力を得る事は勿論可能だが、常に『ひも付き』では単身楽団の存在意義が薄れてしまうのだ。
駆動時間はメーカーやモデルや年式、さらに主制御楽器の種類や演奏内容によっても異なるが……それでも二〇時間を超えて駆動する機種は、まだ存在しない。あまりに充電池を大容量化すると、これまた重くなりすぎて機動力を削がれてしまうからだ。
そして今――
「…………」
フォロンはちらりと投影装置によって示される演奏情報に視線を向ける。
画面の端で電池を示すアイコンが点滅していた。
彼が演奏するヤマガYWO−202K3Bの充電池が切れかけているという告知だ。
「……くそ」
焦燥感が募る。
だが演奏を乱してはならない。
コンセントから電源をとれば良かったのだが――これは幾つかの理由から現状では不可能だった。
一つは、そもそもヤマガYWO−202K3Bは元々外部電源対応モデルではないという事だ。充電池を再充電する際には、一旦本体から外して專用の充電器に装着しなければならない。
多少、充電池容量が滅るものの、同じモデルのAタイプなら外部電源に対応するし、Bタイプでも別売りのアダプタを用意すればコンセントから電気をとる事は出来る。
だが購入当時、あまり懐事情に余裕の無かったフォロンは、一番安く購入出来たBタイプを選び――またアダプタも買わなかった。そもそもコンセントから電力を得る必要が生じる程の長時間演奏をする機会はないと考えたのだ。
ユフィンリーから〈ハーメルン〉を貸与されている事も在り、その後は改めて予備の充電池やアダプタを買い足す事も、単身楽団を買い換える事も無く、現在に至っている。
今にして思えばそれは重大な失敗――怠慢だ。
だが、もしも彼の使用する単身楽団がAタイプだったとしても、やはりフォロンは充電池モードで演奏した事だろう。
引き出し式の電源用コードは、長さがたったのニメートルしか無いからだ。
それではベッドから離れて――壁際で演奏しなくてはならなくなる。
それはどうしても嫌だった。
冷静な人間がこの場に居れば、延長コードを使うなり、別の機種を何とかして手配して貰うなりすれば良い、と至極真っ当な意見を言った事だろう。
だが今のフォロンは、そんな事を思い付きもしない程に追い詰められていた。
彼はベッドのすぐ脇に座っている。
安っぽい丸椅子に座って、単身楽団を背負い演奏している。
演奏し続けている。
右の膝はベッドの支柱の一本に触れている。そんな距離だ。これ以上近付くのは無理という距離にまで、フォロンは近付いて演奏をしているのだ。
白いシーツの敷かれたベッドには一人の女性が横たわっている。
人間そっくりだが人間ではない。
精霊である。
彼女は眼を閉じている。まるで血の様に紅く長い髪を、白い枕と白い布の上に散らして静かに横たわっている。だがその眠りが安らかなものであるとは到底思えない。
白く整ったその顔には、明らかに苦悶の表情が刻まれているからだ。
「…………」
鍵盤が邪魔だ、とフォロンは思う。
この一晩――じっと彼女の顔を見つめ続けて彼はそう思う様になった。自分の顔と彼女の顔との間に割り込んで存在する鍵盤が、邪魔で邪魔で仕方がないむもっと言えば、その鍵盤が憎らしくて仕方が無い。鍵盤が彼の指を十本とも独占してさえいなければ――ずっと彼女の手を握っていられたろうに。
だが心の何処かで、それが無意味な八つ当たりだとフォロンは理解している。
鍵盤に二人の間に割り込む事と、指を独占する事を許さなければ、神曲が演奏出来ない。そして神曲が演奏出来なければ彼女が『死』んでしまう可能性が高い。だからこそ理不尽な苛立ちを覚えつつも、彼は鍵盤に己の指を与え続けた。
音を紡ぎ続けた。
知っている限りの曲を演奏した。思いつく限りの即興を演《や》った。
その次は知っている限りの曲を思いつく限りの即興でアレンジした。
それから、思いつく限りの即興を知っている限りの曲と組み合わせてみた。
それら全てのネタが尽きると、今度は最初からもう一度、全てを繰り返した。
さらにもう一度繰り返して、おまけにもう一度繰り返した。
「…………」
そのうち――何回めの繰り返しだったか判らなくなってきた。
意識も朦朧としてきた。
その二時間後には、自分の演奏しているのが知っている曲なのか、思いつきの即興なのかも判らなくなってきて、さらに一時間後には自分が何をやっているのかも判らなくなってきた。
演奏しているのが神曲であるということも、意識出来なくなってきた。
最後には、音楽を演奏しているのかどうかさえ自信がなくなった。
だが――不思議と雑念だけは浮かばなかった。
ずっとただ一つのことだけを考え続けていた。
頭の中が、ただそのことだけで一杯になって、ついには思考そのものがなくなった。
そして――
「…………」
ついに充電池が切れようとしている。
フォロンよりも先に充電池の方が力尽きようとしている。
確かに通常ならこんな長時間の連続演奏をする筈が無いし、出来る筈も無い。その意味ではBタイプを買ったフォロンの判断は間違ってはいないという事になる。そんな事実も今のフォロンには何の慰めにもなりはしなかったが。
遂に演奏情報投影装置の画像が、薄れ揺らいで――視認出来なくなった。
鍵盤の隅のインジケーター・ランプも先程から少しずつ暗くなりてきている。
つい数分前からは、点滅さえ始めた。
点いたり消えたりではない。消えかけたり消えたり――だ。
背中の単身楽団から展開したスピーカーは徐々に音量を落としていって、今ではほとんど囁きも同然だ。
それでも彼は演奏を続けた。
充電池を交換しなければ――とさえ思いつくことが出来なかった。
それどころではなかったからだ。
フォロンはただ無心に鍵盤を叩き続けた。
彼の耳には――自らの奏でるそれはもう音楽としては聞こえていなかった。
名前だ。
名前の繰り返しだ。
たった一つの名前――ただ一つの大切な名前。
コーティ。
コーティカルテ。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
そして――
「…………」
――切れた。
インジケーターが、ついに真っ暗になって、二度と点かなかった。
鍵盤を叩く。だが樹脂製のそれが軋む、細く乾いた音だけが応えて、スピーカーは震えもしない。完全に単身楽団は死んでいた。
だが――
「…………」
それでもフォロンの指は動き続けた。
完璧な防音と完璧な音響効果を誇る精霊病室に、鍵盤の軋む音だけが連続した。
きし。
きしきし。きし。
ききし。きし。きし。きしきしきし。
きし。
今此処に第三者が居合わせたとしたら、黙々と音の出ない鍵盤を叩き続ける青年の姿に恐怖すら覚えたかもしれない。それは明らかに、道理も常識も振り捨てて狂気の領域に陥る寸前の――いや半歩そちら側に踏み出してしまっている人間の姿であったからだ。
やがて……
「…………」
フォロンの指が止まった。
止めたのではない。止められたのだ。
未だ執拗に動き続けようとするフォロンの掌に――細くしなやかなもう一つの白い掌が添えられていた。押さえるでも叩くでもなく、そっと重ねられたそれが、狂気にも似た執念に促され動き続けていた指を止めていた。
「−もういい」
コーティカルテは微笑んだ。
彼女はベッドに横たわったままだったが――差し伸べられたその手は、改めて彼女の神曲楽士の指を握りしめた。
「いい演奏だった」
「…………」
フォロンは声も出ない。
ただゆっくりと掌を裏返して契約精霊の手をとった。
そのまま――握りしめる。
思わず立ち上がろうとして、よろけた。半ば無意識の内に――しかし苛立ちすら滲ませた動きで左手が動き、自らの身体に重々しくぶら下がる邪魔な単身楽団の固定金具を外す。
充電池が切れていたので、各種のアームが展開したままの高価な特殊楽器は、持ち主の扱いに抗議をするかの様に、がしゃんと大きな音を立てて床に転がったが……フォロンは気にもしなかった。
彼が立ち上がるのに合わせて、緋色の髪の精霊もゆっくりと身を起こす。
フォロンは――彼の精霊を抱き締めた。
彼自身は殆ど意識もしていない動作だ。あるいはそれは単に縋り付いただけの事かもしれない。確かに彼女がそこに存在している事を確かめたかっただけの事かもしれない。
ずっと側に居てくれると彼女は言った。
置いて逝かれるのは嫌だった。
だから……彼女が居なくなるかもしれないという未来は、フォロンにとって途方も無い恐怖だった。幼い日――あの孤児院でコーティカルテと出会った時、初めてフォロンは、誰かが側に居てくれる歓びを知った。学院で十二年ぶりに彼女と再会した時――フォロンは自分がどれだけ孤独に苛まれてきたのかを思い知った。
無論……今の自分には大切な仲間も親しい友人も居る。
ペルセルテも。プリネシカも。レンバルトも。ユフィンリーも。ヤーディオも。カティオムも。シェルウートゥも。
けれど……思えば、初めて『ずっと側に居る』と自分に告げてくれたのはこの精霊だ。そして彼女程に長く側に寄り添ってくれた者も、他には居ない。
彼女のおかげでフォロンは初めて孤独と縁を切る事が出来たのだ。
フォロンにとってコーティカルテは単なる契約相手という以上の存在だった。
「……フォロン」
緋色の精霊も腕を回して彼女の神曲楽士を抱き締める。
抱き合いながらフォロンは安堵と喜悦の吐息が漏れるのを自覚していた。
良かった。本当に良かった。
もうコーティカルテは二度と目覚めないのではないか、とも思ったのだ。
その不安を忘れる為に、ただひたすらフォロンは演奏を続けてきた。その最悪の未来を否定する為に鍵盤を叩き続けたのである。
だが、こうしてコーティカルテは目覚めてくれた。
フォロンは、ただただ歓びを噛み締めるだけだ。
「…………」
しばしの抱擁の後――コーティカルテがフォロンからそっと身を離した。
「……コーテイ……」
まるで親に置き去りにされる幼子の様に――細く切なげな声が漏れる。
だがコーティカルテは優しい微笑を浮かべて彼を見つめていた。
「…………」
美しい――と思った。
間近にコーティカルテの顔が在る。
これまでにも何度となくフォロンは彼女の姿を見ている。その度に彼はこの精霊を美しいと思った。見とれた事も何度か在る。だが今までの自分が、どれだけ彼女の姿に対して不当な評価をしてきたか……フォロンは思い知らされた気持ちだった。
美しい。本当に綺麗だ。
だがそれらの言葉ではフォロンの胸中に在る感動を表現しきれない。足りない。恐らく百万言費やしても未だ足りない。特に互いの吐息を肌で感じる様な距離に在ると――その想いがひたすら強くなっていく。
深紅を湛えた瞳が、すぐ自分の眼の前に在る。
だがゆっくりと降りてきた瞼に、その宝玉の様な双眸は隠されてしまった。
残念に思うフォロンの顔に――代わりにコーティカルテの顔が寄せられる。
紅い唇が何かをねだるかの様に薄く開かれていた。
半ば夢現の状態でフォロンはぼんやりとそれを見つめ……
「……え?」
幸か不幸か――唇が触れる寸前に彼は気付いた。
「コーテイー!!」
フォロンは叫んで彼女の両肩を掴み、身体を引き離す。
「フォロン――」
「身体――戻ってない!」
不満げに瞼を開く緋色の精霊に――しかし彼は愕然と叫んだ。
「――なんだ? 何を言って……」
「身体だよ! 大人の状態のままだ!」
大人の状態のまま意識を失ってしまったからだ――と思っていた。
意識さえ戻れば、またいつもの小柄な少女のコーティカルテに戻るものだと思っていた。
元々がどうあれ、今の彼女にとっては少女形態が一番安定した状態なのだという事をフォロンは知っている。逆に言えば――『大人』のコーティカルテは、それが本来の彼女の姿でありながらも、ひどく不安定な状態なのである。神曲の支援によって一時的に安定する事は在っても、それは常態とは言い難い。
つまり――
「だから何が……」
コーティカルテは半ば膨れっ面で自分の身体を見下ろした。
「…………」
先ず自分の腕を持ち上げて眺める。
更にシーツをめくって中を覗き込む。着せられた病人着の胸元も引っ張って――その内側に在る身体の曲線を眼で見て確かめる。
此処までやって、ようやく彼女も自分がどういう状態なのかを把握したらしい。
恐らく彼女としても、眼が覚めたばかりで多少の混乱は在ったのだろう。
「――フォロン」
困惑を色濃く浮かべた双眸が契約楽士を見つめる。
そして――
「……戻らない」
ぽつりとコーティカルテは呟いた。
戻らない。戻れない。
つまり――
「…………なんで……?」
フォロンは未だ事態が終わってなどいない事を知った。
ACT1 MALFUNCTION
事務所は留守番電話の状態になっていたので、とりあえず伝言《メッセージ》だけを残した。
病室に戻ると――丁度コーティカルテの診察が終わったところだった。
パジャマ姿のコーティカルテはベッドに身を起こしていて、その傍らに担当の精霊医師が座っている。
「あ――どうも」
頭を下げて挨拶するフォロン。
「お早う御座います」
彼に笑顔で応える精霊医師はどことなく馬を思わせる顔付きだった。単純な個性の様に見えるが――あるいはこの精霊医師はセンリメの枝族か何かで、人間形態ではあっても、馬の形状が抜けきっていないのかもしれなかった。
「とりあえずは順調ですね」
言いながら精霊用の診察道具らしきものを白衣のポケットに仕舞う。ガラスで出来た三叉の音叉みたいな道具である。どう使うのか――フォロンには想像もつかなかった。精霊医学に関しては、彼も門外漢に過ぎない。
「異常なしってことですか?」
ええ――と医師は頷く。
顔が長いので、それだけで顎が首の付け根辺りにくっつきそうだった。
「調律も安定してますし、昨夜のような乱れも余計な和音も発生してません。何より、旋律が完壁なサイクルを刻んでます。ひょっとしたら、私よりも健康かも知れませんよ」
そう言って苦笑する精霊医師。
彼の言葉は――しかしフォロンには何の事やらさっぱり判らなかった。どうも音楽用語が頻出していたが、それが精霊にとってはどういう部分を指して、どういう意味があるのかは全く理解出来ない。ある種の隠語である可能性も在った。
判ったのは『医師よりも健康かも知れない』という部分だけだ。
「でも――」
言いかけて……一旦フォロンは口を閉じた。
精霊医師達にとっても今回の事は不可解に過ぎる事例であったらしい。
そもそもコーティカルテ・アパ・ラグランジェスという精霊が特別に過ぎるのである。
精霊にとって物質的な肉体とは、あくまで仮のものである。
これは彼等が人間と関わる為に造り出したものであって、彼等の本質的な部分ではない。
だが人間の肉体が精神に、精神が肉体に影響を受ける様に、精霊達も仮初めのものとはいえその精神と肉体には相互干渉が起きる傾向が強い。自分が創り上げた擬似的な肉体に自分の本質――精神が引きずられる事もままあるのだ。
だからこそ精霊はあまりころころと姿を変えない。
長い時間を掛けて変化していく事は在る。あるいは人格に影響が出る様な強い感情を抱いた場合などは姿が一変してしまう事も無いではない。
しかしコーティカルテの様に二つの形態の間を行ったり来たりする精霊の話などフォロンは聞いた事も無い。伝説では、始祖精霊は獣の形と人の形を任意にとる事が出来ると言われるが――所詮、伝説は伝説である。少なくともフォロンはコーティカルテ以外に二つの形態を行き来する精霊の話など、現実のものとしては聞いた事が無い。
恐らく精霊医師達もそうだろう。
その事惰がどうあれ、要するにコーティカルテは特異例なのだ。そして医療とはその大部分が経験則の積み重ねによって導き出される枝術と理論だ。充分な症例が無ければ、そもそも治療方針すら確立しない事も珍しくない。
だから精霊医師達としても、他の精霊と同じ様な通り一遍の診察をする以上に、出来る事が無いのだ。
また……
今回のコーティカルテの変調に関しては、原因が特定出来ていない。
『地獄変』『天国変』を長時間聴いていたという事は原因の一つとして考えられるが――これら奏始曲自体が世間に広く知られた代物ではない。これらを聴いた精霊の『肉体』と『精神』が具体的にどの様な影響を受けるのか……参考事例が皆無に近く、細かい原理的な部分までは分かっていない。これらが原因の全てであると断言は出来ないのである。
更に……フォロンの記憶に間違いが無ければ、コーティカルテは今回の一件で、奏始曲を聴く前にも一度変調を起こしている。輸送車の進行を止めようと立ちはだかった際に彼女曰く『眩暈』を起こしているのだ――それまでは全く普段通りだった彼女が。
あれは一体何だったのか。
「じゃあ……もう退院出来るって事でしょうか?」
「そうですね。もう少し様子を見て――午後の診察で問題が無ければ」
「ありがとうございます」
そう言ってフォロンは頭を下げる。
医師が病室を出て行くと、フォロンはベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
「どう?」
尋ねるフォロン。
「ん……別に……どうということもない……かも……」
応えるコーティカルテの言葉は  しかし明らかにいつもと様子が違う。
短い沈黙の後、彼女はふと思い付いて付け加える様に言った。
「……いや……少々だるいか……」
言葉面だけ聞いていればそれがコーティカルテの台詞だとは思えない位だ。
先ずいつもの鋭さが失せている。
全体的に口調も声音も間延びしている。人間で言うなら低血圧っぽいというか……特に苦痛を感じている様子は無いが、全体的にひどく物憂げな雰囲気を引きずっているのだ。
また口にする言葉にしても曖昧なものが多い。
普段の傲慢な――それ故に断定的な言葉が多いコーティカルテと比べれば、これはやはり異常と言うしかない。
回復しきっていないのだ。
いつもの彼女なら、『真の姿』になるのはフォロンの神曲を聴いている時だけだ。しかも必要のない場合は――例えば自宅や事務所で演奏を聴いている時などは『変身』したりはしない。いつもの十代の少女を思わせる小さなコーティカルテの姿なのだ。
それが彼女にとっての常態だった。
理由は本人も詳しく語らない。だがコーティカルテにとって少女の姿でいるのが最も安定した状態であるのは間違いがない。
そして――にもかかわらず彼女は今も『真の姿』のままだ。
少女ではなく大人の女の姿をとっている。
いつもの少女の姿に戻れないらしい。
あるいは――だからこそ、先程の精霊医師は『順調』と言う他無かったのかもしれない。
これは彼女の本来の形態なのである。普段は安定を欠くから『仕方なく』少女の姿を採っているだけで……元々こちらの状態で常に居る事が出来るなら、それはそれで喜ぶべき事ではある筈だった。『本来の在るべき状態』を『健康』と呼ぶのならば確かに今の彼女は健康体であるのだろう。
しかし……フォロンには、とてもそう思えなかった。
口調や形態の他にも、細かい処で異常と思える部分は幾つも挙げられる。
例えば――衣装だ。
彼女は買ってきた服を着る事も在れば、自分の力で服を『造』ってしまう事も在る。学院時代に彼女が着ていたのは既製品だったが――咋日の事務所の制服はコーティカルテが自分の力で『造』ったものだ。
だがどちらにせよ彼女が『真の姿』に変わる際に、それらは消滅する。構造が組み換えられてあの優美な紅い衣へと変じるのだ。そしてまた少女の姿に戻る際には元の衣装へと再構築される。
それがいつもの流儀《パターン》だった。
だがコーティカルテが今着ているのは寝間着である。身体の前から着て袖に腕を通し、背中で幾つかのボタンを留める簡単な――典型的な病人着だ。
病院に運び込まれた時、紅い衣は精霊医師が診察の為に『消』した。これは問題ない。問題はその後――コーティカルテは消された衣装を再構築しようとせずに、おとなしく地味な寝間着を着せられているのである。
しかも寝間着の色は水色だ。
清潔感は在るが――青系の衣装は明らかにコーティカルテの趣味には合わない。『髪や眼の色と合わないからな』と彼女がかつて言っていたのをフォロンは覚えている。そしてコーティカルテは趣味に合わない衣装をおとなしく着せられている様な性格ではない筈なのだ――普段ならば。
だがそれは医師には分からない。
当たり前だ。普段の彼女を医師は知らないから。
だがフォロンにはどうしても違和感が付きまとう。そしてその違和感は、そのまま不安感となって彼の後頭部にのしかかってくるのだ。
「だるいの? 辛い?」
「いや……単にだるいというか……」
尋ねても今一つ要領を得ない。
「フォロンは……どうだ?」
「うん、平気だよ」
「ずりと……弾いていてくれたの……だな」
コーティカルテの手がすくい上げる様にフォロンの手をとる。
フォロンの指は、惨擔たる有り様になっていた。
全ての指先で皮が剥けている。血の滲んでいる指も在る。気が張っていたせいか痛みは全く感じていなかったし――そもそも自分の指がどうなっているのか、コーティカルテに言われるまで気付かなかった。
「……ありがとう」
ややはにかみながらもコーティカルテはそう告げる。
同時に反対側の腕が伸びてきて――フォロンの後頭部に回った。
「え、あの、コーティ?」
ぐい……と強引に引き寄せられる。
頭をシーツに押し付けられた。丁度コーティカルテの太股の辺りだ。
「コーティ?」
思わず類を紅潮させながらフォロンは声を上げる。
「少し眠るといい……」
「コーティー……」
普段なら気恥ずかしさが先に立ってフォロンは抵抗していたろう。無論、普段のコーティカルテが本気なら、フォロンが全力で低抗しても押さえ付けられてしまうだろうが。
フォロンはただ――されるがままになっていた。
確かに抗い難い心地よさではあった。しかしそれ以上にフォロンは驚いていたのだ。
コーティカルテの手をはね除けようと思えば出来たろう。その程度の力だったのだ。普段のコーティカルテの腕の力に比べると――それは哀しい程に弱いものでしかなかった。
やはりコーティカルテは弱っている。
「……眠れ」
こちらは意図した優しい仕草で、彼女の手がフォロンの髪を撫でる。
「今度は私が側についていてやる」
「……うん」
下手にコーティカルテに逆らった処で、むしろ彼女が消耗するばかりだろう。
今は彼女の望む通りにしよう――そう思ってフォロンは眼を閉じた。
そして。
「…………」
数分後――フォロンの意識は途切れた。
本当に眠ってしまったのだ。
蓄積した疲労に促され、フォロンはコーティカルテの膝枕で眠り続けた。
レンバルトの素っ頓狂な声が響く数時間後まで。
遙か前方で信号が赤に変わった。
「ああ……もう」
ユフィンリーは、ハンドルを握った手の人差し指で小刻みにハンドルを叩いていた。
いつもは飄々とさえしているその表情にも、苛立ちの色が濃い。
昨日の一件で、今朝の未明まで将都高速の環状線は一部が通行止めの状態だった。そのせいか――今日は一般道路までも渋滞がひどいのである。
「なぁんでニコンからルシャまで二時間もかかっちゃうかな」
眉間に皺を寄せて文句を垂れるが――だからといって車が進む筈も無い。
ユフィンリーは現在、丁度ニコン市とルシャゼリウス市の境にあたる交差点で、釘付け状態となっていた。
前方の信号機が青に変わる処をもう三回も見送っている。それでも車の列は一度に五メートル程しか前進しないのである。
こんな渋滞は今まで――少なくとも都内では経験したことがなかった。
とはいえ……
「……やっぱあれのせいよね」
ユフィンリーはある方向に視線を転じて呟いた。
極めて特殊な道路事情はトルバスの交通網が持つ最大の弱点である。
都の中央にケセラテ自然公園が存在するからだ。
この公園は一般車輌の乗り入れを禁じているだけではなく、その下に地下鉄を通す事も地下道を通す事も出来ない。また自然公園を横断する高架道路の建設も、トルバス都庁とメニス帝国国土管理局から禁じられている。
結果――全ての道路は公園を迂回する事になる。
その混雑を緩和する為の一つの対策が、環状高速なのである。
それが一部とは言え通行止めになったのだから、交通網が混乱するのは当然ではあった。
「……ケセラテ自然公園……か」
実の処――以前から不思議に思ってはいたのだ。
何故そこまでしてケセラテ自然公園を護るのか。
都史に記されているように、単にトルバスの開都を記念するためだけにしては、地下まで開発禁止というのは念が入り過ぎている。また自然を保護するという意味では動物相的にも植物相的にも、もっと肥沃で稀少な土地はいくらでもある。むしろケセラテ自然公園は単にコンクリートやアスファルトに舗装されていないというだけで、動物相も植物相も見るべきものは特に無い。
市民の憩いの場としても広大に過ぎる。
だからこそこのケセラテ自然公園については、様々な噂が以前から飛び交ってきた。
正直言って今回、地下遺跡が実在する事を知らされてもユフィンリーはさして驚かなかった。彼女の感想は『まさかそんなものが?』ではなく『ああやっぱりそうなんだ』程度のものであった。
重要な歴史的遺産を守る為に、周辺地域ごと保護地区に指定するのはよくある話だ。
そしてユフィンリーはつい数時間前に更なる『真実』を聞かされた。
そしてこちらは――掛け値なしに驚いた。
遺跡の噂は本当だった。だがその実態は噂を逢かに超えていたのだ。
現実は虚構《フィクション》よりも奇なり――とはまさにこの事であろう。
古代の王宮の跡? 精霊信仰の名残? 未知の神殿?
とんでもない!
そこから出土した『コア』と呼ばれるものの正体が、本当に現時点でオミテック社研究員達の推察通りなら……ケセラテ自然公園の地下に眠っているものは、現代に生きる者達の認識を根底から覆す事だろう。
精霊と人間の関係が――双方の在り方が変わる。
「……でも……」
続く言葉をユフィンリーは呑み込んだ。
一つだけ気懸かりな事が在る。
精霊達は――人間よりも遙かに長命を誇る精霊達はこの事を知っているのだろうか?
例えばヤーデイオは? 例えばマサードは?
そして例えばコーティカルテは――?
「…………」
遙か前方で信号が青に変わる。
また――しかし五メートル程しか進めなかった。
「さて……と」
キリヤマ電器での仕事を早々に終えたレンバルトは――少し迷ってから愛車のハンドルをルシャゼリウス市に向けた。
本当なら一つの現場を終えた時点で連絡を入れ、可能な限り速やかに事務所に戻るのが規則だった。実際に連絡を入れる処まではいつもと同じ様にやった。
だが――
『お電話、ありがとうございます! ツゲ神曲楽士派遣事務所でございます! 現在、全員、席を外しております! ご用の方は、ぴーっ、という発信音の後に、お名前とお電話番号、ご用件をお話しください! 折り返し、お電話差し上げます! お電話ありがとうございましたっ!!』
もう昼前だというのに受話器から聞こえたのはペルセルテの声だった。
勿論――肉声ではない。留守番電話の録音応答だ。
やたら元気な――しかし半ば棒読みのペルセルテの声を途中まで聞いて、レンバルトは公衆電話の受話器を戻した。
まだ誰も来てない。
フォロンはともかく所長も出掛けっぱなしらしい。
ならば――
「ちょっと位は寄り道してもいいよな」
「いいよな?」「な?」「いい?」「いくない?」
ふよふよと〈シンクラヴィス〉の車内を漂いながら、レンバルトの独り言に反応するのは毎度お馴染みのボウライ達である。微妙に色の異なるボウライ達が四体ばかり居る、殆ど個体の見分けが付かない彼等だが――どうやら特定の個体に懐かれたらしい。
「いいって。な?」
「いい?」「いい」「いいの?」「いいかも?」
会話になっている様でなっていない。
苦笑を浮かべながらレンバルトは〈シンクラヴィス〉を走らせる。
昨日の一件で早朝まで環状が一部通行止めだったせいだろうか――やたらと道が混んでいる。特に中央街区への出入りは大渋滞中だ。
レンバルトは幹線道路を外れると中央街区の外へ出た。かなり遠回りになるが、恐らく中央を通るよりは結果的に早いと踏んだのだ。
途中――目についた商店街に立ち寄って花屋で花束を買った。
相手に合わせて真っ赤なバラにでもしたい処だったが、あまり良いものが入荷していないとかで……仕方なく赤いガーベラにしておいた。
更に車を飛ばして四十分――ノザムカスル大学付属病院に着いた。
無論、レンバルトが直行するのは精霊病棟である。
レンバルトは廊下の表示を確認して、四〇七号室に向かう。
そしてノックをする間も惜しんで病室に飛び込んだ彼の見たものは――
「――ぬおっ!?」
コーティカルテに膝枕されているフォロンの姿であった。
思わずレンバルトは同僚の横顔を指差して叫んだ。
「何だ、このやろ!! 人が心配して来てみりゃ――」
「みりゃ」「みりゃー」「むりゃー」「とりゃー」
ボウライ達がまた意味不明の声を上げる。
フォロンが頭を預けているのは、正確に言えば膝ではなくもっと上――腿の辺りだ。とすると腿枕と言うのが正しいのかもしれない。
(――ってそっちの方が更に間題だろが?)
何故に意識不明だった筈のコーティカルテがベッドに身体を起こしていて、その看病で付き添っていた筈のフォロンが彼女の腿に顔なんぞを埋めて寝ているのか。
「……ん? おお」
何処か一拍遅れた呼吸でコーティカルテが振り返る。
「どうした? 仕事はいいのか?」
彼女は微笑を浮かべて尋ねてくる。
だがその姿はレンバルトも見慣れたいつもの『がきんちょ』ではない。元より端麗で豊満で妖艶極まる容姿の『大人版コーティカルテ』だが――今は何処か気怠い雰囲気をまとわりつかせていて、更に何倍も艶っぽい。
「あ、ああ、いや。ちょっと、み……見舞いにと思って」
さすがのレンバルトも思わずどもってしまう。
異性がどうのという以前に、見る者を男女問わず呑み込むかの様な優美さなのである。
(参ったな――こりゃ)
心中で呟くレンバルト。
(こりゃひょっとして本当に『問題』だった訳か? 俺ってばオジャマ虫?)
その時むう――と唸りながらフォロンが身をよじった。
「ああ……レンバルト……?」
露骨に寝惚けた顔を上げて頭を起こすフォロン。
「『れんばるとー』じゃねえだろが――おい」
言いつつもむしろフォロンが起きてくれた事に安堵するレンバルト。
内心の動揺を隠しつつ歩み寄って――ぺん、と花束で頭をはたく。
「何するんだよう……」
幼児の様に甘えた声である。
やはり未だ寝惚けているらしい。
「なにするんだよう、じゃないだろが」
ぺん。更に一撃。
だが――その花束をコーティカルテが引ったくった。
「やめろ……フォロンをはたいていいのは、私だけだ……」
言いながら花束に顔を寄せる。
その仕草がまた絶妙に艶っぽい。貴婦人の如き上品さの中に娼婦の様な淫靡さが見え隠れしているのだ。勿論コーティカルテに自覚は無いのだろうが――
「ああはいはい。その通りでござんすね」
レンバルトは肩を辣めて言った。
「ざんす」「ざんす」「さいざんす」「ざんすか」
ふよふよと飛び回りながらやはりボウライ達がレンバルトの言葉尻を捉えて輪唱の様に繰り返す。
「……それで?」
心の中でボウライ達に少し感謝しながらレンバルトは尋ねた。
彼等が居ると必要以上に深刻にならずに済む。
「どんな様子なんだ?」
「あ――うん」
ようやく目が醒めたのか、フォロンは両方の掌を揃えて顔を撫でてから、言った。
「先生はもういいって。午後の診察で問題なければ、退院出来るってさ」
「そうか」
「レンバルト……ちょっと頼んでいいかな」
そう言うフォロンの顔は――改めて見れば憔悴しきっていた。
部屋の隅には展開したままの単身楽団が、放り出されるように置かれている。恐らく、充電池が切れるまで演奏を続けたに違いない。
コーティカルテの為に。
「いいぜ。何だ?」
「手が空いてからでいいから――」
フォロンは制服のポケットを探って鍵束を差し出した。
「僕のアパートから着替えを持ってきてくれないかな?」
「今日中に帰れるんだろ? 制服のままでもいいじゃん。よく似合ってるぜ? それ」
「いや……そうじゃなくて。ほら……コーティにさ……」
言われて――その時ようやくレンバルトは気がついた。
そうだ。
何故コーティカルテはこの姿のままなんだ?
なんで大人の姿のまま寝間着なんぞを着ている?
つまり――それは。
「あ……そうね。分かった」
レンバルトは内心の動揺を押さえ込んで鍵束を受け取った。
コーティカルテは未だ復調していない。峠は越えたのかもしれないが――恐らく未だ予断を許さぬ状態なのだろう。気怠い物腰も恐らくはその影響だ。
「他にはあるか?」
「んーと」
しばらく考えてから――フォロンは微笑んだ。
「うん。それだけでいい」
そんなわけあるか――レンバルトは思う。
恐らくこの調子では昨日の夕方から何も口に入れていないだろう。水分補給すらしたかどうか疑わしい。
無論、食事が出来る精神状態ではなかったのだろうが。
コーティカルテの身に重大な異常が起きている事を、誰より理解しているのはフォロンである筈なのだ。そしてコーティカルテがフォロンに依存している様にフォロンもコーティカルテに依存している部分が明らかに在る。
(――まさに『共倒れ』だな)
どちらかの不調は自動的にもう一方までも巻き込む。
フォロンとコーティカルテはそういう関係なのだ。
「…………」
束の間レンバルトは二人を眺めていたが――
「んでフォロン、帰りはどうするんだ? 俺のバギーは二人乗りだけど、ほら、所長の車で送ってやってもいいぜ?」
「いいよ。〈ハーメルン〉があるし」
「ペルセも連れて来るから、あの子に乗ってってもらえばいいじゃんか」
だがフォロンは――今度は考える素振りさえ見せなかった。
「いや……いいよ。いつも通りで」
自動二輸にコーティと二人で、ということだ。
フォロンとコーティカルテは、すれ違うように視線を交わし――そして微笑んだ。
「へぇへぇ。お邪魔はしませんよ」
苦笑でレンバルトは応える。
その冷やかしは……しかし半ば本音だった。
「しませんよ」「邪魔?」「レンバルト邪魔」「じゃまー」
「うるせえなお前等は」
苦笑して言いながらレンバルトは指先でボウライの一体を弾いた。
ぽこんぽこんと玉突きの様に空中でぶつかりあってうろうろする下級精霊達。
(本当――助かってるよ)
レンバルトは思う。
一歩間違えば自分が嫌な思考に陥りかねないのを、この下級精霊達の存在が防いでくれている。勿論、彼等には何の思惑も在りはしないだろうが。
だが……奇妙な嫉妬心が自分の中に生まれつつあるのを、レンバルトは自覚していた。
本物の天才と天才の紛い物。
本物の天才の作品は心を打つ。時にそれは他者の価値観を揺さぶり人生を変え人格すら変えかねない力を持っている。それは一種の宗教であり一種の奇跡だ。作品はそれを識る者の心を作品の向こう側まで――その作者の処まで惹き付ける。
そう。コーティカルテがフォロンに惹かれている様に。
だがレンバルトの神曲にそこまでの力は無い。
たまにこうしてボウライ達やジムティル達が懐いてきたりはするが、それはただそれだけのものだ。人懐っこい犬や猫がじゃれついているのと変わりない。対してコーティカルテのフォロンに対する依存ぶりは、人間同士の恋愛すら色褪せる程の熱烈さであるし――それは程度差こそあれ、ユフィンリーとヤーディオの間にも感じられる事だ。
分かっていた。随分前から自分の特性が偏っているのは。
自分が本物の天才でないという事は。
だが今更、実感する事になろうとは思ってもみなかった。
自分が――学院時代ならともかく、この期に及んでフォロンに嫉妬する事になろうとは。
「んじゃ……そろそろ行くわ」
「え? もう?」
「ああ。実はな――現場帰りの寄り道なんだ」
「あ。それってバレたらヤバいよね」
「そ――ヤバいの」
そしてレンバルトは病室の入り口で一度だけ振り返る。
「んじゃ――後ほど」
「ありがとう」
フォロンの無邪気とも言うべき声に送られてレンバルトは病室を後にした。
受け取ったキーを握りしめて歩くレンバルトの顔から――笑みはとっくに消えていた。
待たされはしたが追い返されはしなかった。
ヅゲ神曲楽士派遺事務所のツゲ ユフィンリーです――そう名乗ったからだ。
多少の効果は在るかと思ったが、予想外にはっきりと受付の婦人警宮は反応した。ぱっと明るい笑顔を浮かべて『貴女が!』とまで言ったのだ。職務中でなければ握手でも求めかねない感じであった。
「お噂は伺ってます。ええとでも――マナガ、出ちゃってるんですよね」
そばかすも可愛い、何処かあどけなさの残る女性である。
何か特別な言葉や表情が在った訳ではない。ただ、とても人懐っこそうなその笑みは、諸々の状況でささくれたユフィンリーの気持ちを癒してくれる様な気がした。
「よろしければこちらでお待ちください」
そして応接室に通されたのである。
それから――もう二時間程になる。
クスノメ・マニエティカと名乗る婦人警官は、何度か様子を見に来てくれて、その度にお茶を新しいのと取り替えてくれた。そしてその度に――どんどん申し訳なさそうな態度になってゆく。
「すぐ戻ると思いますから」
…………
「すみません、もう少しお待ちくださいね」
…………
「お忙しいところ、お待たせして申し訳ありません。まだ連絡がつかないんです」
…………
「本当に、どこで何してるんでしょうね二人とも」
……でもって。
五回目か六回目に新しいお茶を持って来てくれた時、遂に彼女は憤然とした口調でこう言った。
「全く、鉄砲玉なんですよ! 飛び出して行ったら、戻って来ないどころか連絡だってロクに入れやしないんです。無線の呼び出しにも、一回で応じやしないんですから!」
「……はあ」
ユフィンリーとしては苦笑するしかない。
その時――
「――あ」
マニエティカが振り返る。
ユフィンリーも彼女とほぼ同時に気付いていた。
どがんどがん――と一歩歩く毎に床をぶち抜きそうな足音が遠くから追ってくる。
走っているのだ。
その発生元を知らなければ、地震と勘違いしそうな足音である。床が痛むのが早いだろうな――そんな事をふとユフィンリーが思ったその瞬間、蝶番を引き千切りそうな勢いで、応接室の扉が開かれた。
「すいませぇん!!」
大きな銀のトランクを下げて巨漢が姿を現した。
どうやら受付でユフインリーの来訪を知って、帰ってきたその足で――荷物も置かずに応接室に駆け込んできたらしい。
「いやあ、お待たせして申し訳ありません」
言いながらドアをくぐろうとして――ごつんと額をぶつける。
代わりに、その足元をすり抜けるように入って来た小さな少女は、ソファを立ったユフィンリーと当然の様な仕草で握手を交わした。
「お待たせしました」
黒いケープに長い黒髪。
大きな瞳が愛らしい。
どう見てもまだ十代だが――しかし彼女は現役の警部なのだった。
ルシャゼリウス市警察・精霊課所属……マチヤ・マティア警部である。
神曲楽士の数は少ない。まして『天才』と評される程となると本当に一握りだ。また増え続ける精霊関連の犯罪に対処すべく、各地の警察機構は必死に優秀な楽士警官や精霊警官を確保している。その場合にフマヌビックの契約精霊と契約楽士の組合せは最も望まれる存在であり――更にそれが強力であるのならば是が非でも採用したがる。
多少の法律や条令を『超法規』や『特例』という名目によって無視してでも――だ。
マチヤ・マティア警部はその典型例であった。
「相談がおありだとか?」
二人はテーブルを挟んで、ソファで向き合う格好になる。
いてて――と額をさすりながら巨漢が入って来るのと入れ違いにクスノメ婦警は笑いをこらえて出て行った。
黒コートの巨漢――こちらは同じく精霊課のマナガ警都補だ。
本名はもっと長ったらしいのだが、発音が面倒なのと本人もフルネームで呼ばれるのを嫌がるので、マナガで通っている。
どちらもユフィンリーとは馴染みの顔だった。
「いやあ、すみませんねえ」
マティアの隣にマナガが座ると、ソファが軋んだ。
マナガ警部補の声は、太く、低く、腹の底に響く。独特で――一度聞いたらまず忘れない声だ。美しい訳ではないのだが、とにかく印象に残るのである。
「ごめんね――お忙しいところ、お邪魔しちゃって」
「いいえぇ、こちらこそお待たせしちゃって。ユフィンリーさんからのご連絡は最優先で回すように言ってあるんですがね」
「はあ……」
これはまた、えらく気に入られたものだ。
「いえ、いつもは、すぐに連絡がつくんですよ。行き先もちゃんと報告を入れますからね。でも、よりにもよって今日は急に移動しなきゃいけなくなって、連絡してる暇がなかったもんで。おまけに車から離れてたもんで無線も……」
「…………」
喋るマナガに、マティアが小さな肘鉄をくれる。
巨漢は慌てて仕切り直しにかかった。
「それで、今日はどういったご用で? やはり、昨日の件?」
ユフィンリーは自然に浮かび出る苦笑を押さえつつ頷く。
「ええ。何か、わかった?」
「ええまあ――ちょっとはね」
「教えてもらえるかな?」
「いやあ」
巨漢は、癖の強い髪をかき混ぜるかの様にがりがりと頭を掻いた。
「さすがにユフィンリーさんでも、そいつは――ちょっと。逆に、こっちからお話を伺わなきゃいかんのですよ、実は」
(……やっぱりね)
と内心で頷くユフィンリー。
この程度の事は勿論、予想済みだ。
だから――
「実を言いますとね、オミテックに行ってたんです、今。ツゲ事務所の方々にも明日あたりから、順番にお会いしようと思ってます。とにかく関係者が多いですからね」
「うん。そうね」
「お宅の楽士さんの精霊にも、意識が戻ったらお会いせにゃいけませんし」
「…………」
ふと昨日の夜の――病院でのやり取りが思い出される。
『いえ、御名前は存じておりますがね』
『ええ、タタラ・フォロンさんに関してはそうです。調書で。ただコーティカルテに関しては何と言いますか、まあ以前から少しばかり』
…………
どうやら知り合いではあるらしいのだが、友人知人といった雰囲気ではない。
考えてみればあのフォロンの契約精霊の過去も、色々と謎が多いが――
「いずれにしろ」
マナガの太い声が響く。
「お話し出来るようになったら、真っ先にお知らせしますよ。こいつは、約束します」
「それじゃあ……」
ユフィンリーは、別の方向から攻めることにした。
彼等の職務上の守秘義務に関しては理解している。だが今回ばかりは『話せない』と言われて『はいそうですか』と引き下がる訳にはいかないのだ。
「拘置所の容疑者に面会したいんだけど、手を貸してもらえるかな?」
「捕まった神曲楽士と運転手ですか?」
「そうじゃなくて――別件で逮捕された人間に会いたいの」
捕まった神曲楽士達や運転手が『トカゲの尻尾』である事は間違いが無い。囮役をやる様な連中は逮捕される事も織り込み済みだろう。ならば――重要な情報は持っていない可能性が強い。
「誰です?」
半ば呆れたようにそう言うマナガは――しかしユフィンリーがその名前を口にした途端に目を剥いた。
「クラト・ロヴィアッド」
「本気ですか!?」
「うん」
「なぜまた?」
ルシャ市警の事情聴取は未だツゲ事務所の所員にまでは及んでいない。
それは顔見知り故の――素性も気心も知れた相手であるが故の、気遣いもあっただろう。少し落ち着くまでは、触れないでいてくれているのだ。
だから彼等は未だ知らない。
ツゲ事務所の面々がどういう連中と闘ったかを――
「ニセの輸送車で囮になってた連中だけどさ。運転手一人に、神曲楽士二人と精霊二柱だった――っていうのは説明したよね?」
「ええ、現場の連中からはそう報告されてます」
「神曲楽士の演奏してたのがダンテの奏始曲だってのも説明したわよね?」
「ええ――はい」
マナガが頷く。
ダンテの奏始曲。
かつて精霊と人間の間をつなぐ『神曲』という概念を造り出した偉人。
彼が初期に試作として――あるいは習作として書き上げた譜面の中には、今の神曲とは全く異なる種類のものも多かったと伝説はいう。だがその譜面の実在については疑問視されており、ケセラテ自然公園地下の遺跡と同じく、眉唾物として信じていない者も多い。
だがユフィンリーは少なくとも二種類の奏始曲が存在する事を知っている。
『天国変』
『地獄変』
少なくともこの二曲を彼女は実際に聴いている。それが如何なる効果を及ぼすものであるのかも知っている。それが本当に奏始曲であるのかどうかはともかく、そう呼ばれるに相応しい、奇怪なものであったのは間違いがない。
そして『地獄変』は『精霊発電所事件』でクダラ・ジャントロープが演奏したものだし、『天国変』はクラト・ロヴィアッドが軍事利用しようとしていた支配楽曲だ。
基本的に、この二つの事件に繋がりは無い。
強いて言うなら奏始曲が共に使われたというだけの事だ。
だが――
「連中――『天国変』と『地獄変』を同時に演奏してたわよ」
「二曲、同時に?」
「ええ。アレンジを加えて合奏曲になってたわ」
「たまげたね、こいつは」
ぼりぼりと頭を掻きながらマナガは言った。
つまりそれは、あの精霊に強制力を持つ危険な楽曲が、クダラやクラトだけではなく他の者にも知られているという事だ。あるいはそれらを『供給』している元締めが居るという可能性も在る。
「会える?」
「そりゃまあ、正式な手続きさえ踏んでいただけりゃあ、ね」
「いいよ。何時間くらいかかる?」
「とぉんでもない!」
大声でマナガは否定した。
「何時間、じゃありません,何週間、ですよ」
「そんなに待てないよ」
「頑張ったって、一週間以内ってのは、ちょっと無理ですなあ」
「だーかーら」
ユフィンリーは脚を組み、組んだ脚の上に類杖を突いて微笑んで見せた。
「あなた達を名指ししたわけ、マナガ刑事」
むう――と唸る巨漢の顔には、しかし苦笑が浮かんでいる。
いけると踏んだユフィンリーは駄目を押す様に言った。
「ニウレキナさんの時の貸し、これでチャラにしたげる」
「ユフィンリーさん」
マナガは苦笑を浮かべつつも、とことん困り果てた様子だ。
「判ってるよ。あたしだって、こういうやり方は好きじゃない。でも、今回は特別。あたしの事務所と、事務所で今日まで頑張ってきてくれた子達の、名誉がかかってんの」
「名誉?」
聞き返すのはマナガではなくマティアだった。
ユフィンリーは小さな楽士警官を振り返って頷いた。
「うん――名誉。あたしね、神曲楽士でござい――って踏ん反り返るのは嫌だけど、たかが神曲楽士でございます――ってのも嫌なの。神曲楽士として受けた仕事は、神曲楽士として最後までやり通したい。請け負った仕事は、最後までやり遂げたい」
「荷物を取り返したい?」
「そう」
しっかりと頷くユフィンリーに……不意にマティアは立ち上がった。
「申し訳ありませんが、やはりご要望にはお応えしかねます」
冷やかに言ってのける。
「マティア」
すがるようなユフィンリーの視線を、しかしマティアは無視した。
「マナガ。容疑者に会いに行きましょう」
「容疑者?」
「うん。とりあえずクラト。あたし、今回の事件はあいつと関係あると思うから」
「え? いや、クラトは……」
マナガのごつい顔に困惑が浮かぶ。
だがそれは一瞬だったむ
「……あ、ああ。おう! そうか。よし、行こう。すぐ行こう」
何やら勢い込んで立ち上がる。一瞬、勢い余ってその頭部が天井を突き破るのではないかとユフィンリーは思った。
黒装束の巨漢はユフィンリーを振り返った。
「そうだ……ユフィンリーさん。見学に来ませんか?」
そう勧める口調はどこまでも白々しい。
ようやくユフィンリーも理解した。
「うん。見学――お願いしようかな」
脚をほどいて立ち上がる。
「いやあ、ご相談に応じられなくて、申し訳ありませんねえ」
にやりとマナガが笑う。
ユフィンリーもにやりと笑みを返す。
「いーえいえ。規則は規則だもんね」
小さなマティアも微かな――不当に微かな、しかし何処か得意げな笑みを浮かべていた。
クラト・ロヴィアッドの身柄はリチアル拘置所にあった。
皮肉な事に……精霊を思い通りに操ろうとした男が、精霊拘置所に身柄を拘束されているのである。さらに皮肉なのはそれがクラト自身の要望でもあったという事であろう。
恐れているのだ――精霊を。
実際の処……クラト・ロヴィアッド老人がしてきた事を思えば、いつ精霊の復讐を受けても不思議ではない。その為、彼は全ての罪が露顕し、権力を失った時――自ら精霊拘置所での拘束を希望した。
精霊拘置所は、つまり精霊を拘束する為の施設である。
当然ながら大量に施された精霊文字や、警護役として配置された精霊や神曲楽士等が、精霊の出入りを完壁な程に阻む。精霊と言えど許可無くして外部から立ち入る事も――そして当然クラトに復讐を遂げる事も理論上は不可能な筈だった。
しかし……
「…………」
ユフィンリーは薄暗い廊下に立って手続きの完了を待っていた。
コンクリートが剥き出しになった――見るからに冷たい印象の廊下である。だが殺風景な雰囲気は無い。何故ならば床にも壁にも天井にもびっしりと『文字』が刻まれているからである。
これが精霊文字だ。
基本的にはどの文字も四角い。それに込み入っていて迷路図の様にも見える。だがそれは古代……人間と関わる以前の精霊達が用いていた『言語』なのである。
元より人間はそれを読む事が出来ないと言われている。
その論理構造が人間の脳では理解出来ないからだとも言われているが、詳細は定かではない。ごくごく一部の――神曲楽士よりも更に数少ない、特異極まりない才能の持ち主達、通称『超越者』が直感的にこれらを扱う事が出来る。だがこの『超越者』達はその才能故に尋常の社会生活を送る事が出来ない為、政府機関や神曲公社が保護しているという。
何にしても――それは精霊に干渉する。
ある特定の配列で並べられた精霊文字は、精霊の行動を制限出来る。組合せによってはかなり複雑な『禁則』を掛ける事も出来るらしい。
強大な力を持つ精霊がどうしてただの――少なくとも人間にはそう見える――文字列には力を発揮出来ないのかは分からない。だがこの文字で封禁された場所には精霊は出入りが出来ないし、この文字で『触るな』と記されていれば精霊は触る事さえ出来ない。
ただし幾つかの例外も記録されている。
その内の一例はユフィンリー自身も目撃した。
暴走状態に陥った精霊が身を削りながら放った精霊雷が封禁の精霊文字を破壊する場面である。
一説には『この精霊文字は精霊の深層心理に対する絶対命令として作用する』が、『精霊側が理性を失っていれば、そもそもこの精霊文字の文面を理解出来ない為に、効果が及ばない』と言われている。確かに暴走状態の精霊が精霊文字を破壊した一件は、そう考えれば筋が通る。
だが何にしても……
極めて行使者が限られるという欠点は在るが、現時点ではこの精霊文字が唯一、人間の力で精霊の力を封じる事の出来る方法である事に違いは無い。
(もしかしたら――)
壁に刻まれた文字群を眺めながらユフィンリーは思う。
(これが人間と精霊の関係の――その本質なのかもしれないわね)
同じ心を持つ違う生き物が触れ合うということは……突き詰めれば『力』と『力』の関係に行き着くのかも知れない。
それには、結局二つの有り様しかないのではないか。
利用するか。
さもなくば――ねじ伏せるか。
「済みましたよ。こっちです」
マナガは何やらぎっしり字の印刷された書類を手にしている。
マナガとマテイアに続いて、ユフィンリーは幾つもの鉄格子のドアを抜けて、ようやく面会室へと通された。
やはり精霊文字だらけだ。
部屋のど真ん中がカウンターで仕切られていて、しかもカウンターの上は分厚い強化ガラスの仕切りがある。よく見るとガラスは二重構造になっていて、精霊文字の刻印された薄い樹脂が封入されていた。
「徹底してるわね……」
「そりゃあ、まあ」
当然といった口調でマナガが言い――カウンター前の椅子に座る。
その後ろにマティアと、そしてユフィンリーが立った。狭い部屋なので、背中のすぐ後ろに壁がある。前はマナガの背中、後ろは壁に挟まれて少々息苦しい感じだが、まあ賛沢は言えまい。
二分と待たずに仕切りの奥でドアが開いた。
精霊刑務官に連れられて入ってきたのはユフィンリーも見覚えのある老人だった。
クラト・ロヴィアッド。
かつて奇跡の大富豪と呼ばれた男だ。
だが今は上等なスーツも着ていなければ高そうな時計もしていない。灰色のスウェットの上下である。
ユフィンリーはふと家の近所に在る商店街の、眼鏡屋の店主を思い出した。間もなく息子に店を譲ると言っていた――あの老人がまさにこんな感じだった。もっともあの老人は眼の前の犯罪者の様に、どす黒い中身を持ってはいないだろうが。
「ほう……?」
クラト老人は仕切りの向こうで、どこか楽しげに声をあげる。
「誰かと思えば、お前だったか」
だがそれは――嗄《かす》れた力の無い声だ。仕切りの片隅のスピーカーから、いくらか歪んだ音質でこちら側に届いているが、微妙な口調までは誤魔化せない。楽しげな声はむしろ虚勢だとユフィンリーは見抜いていた。
クラト老人は仕切り板の向こうでマナガと向き合うようにカウンターに着く。
刑務官が出て行くと――マナガは言った。
「いや――私じゃないんだ。今日はこの人があんたと話したいそうだよ」
のそりと立ち上がる巨漢と入れ違いにユフィンリーが席につく。
途端――クラト老人が破顔した。
「おう。おうおう――お前か。憶えてるぞ。そうか。コマーシャルの小娘か」
「久しぶりね――クソ爺い」
「後で聞いたぞ。お前、有名な神曲楽士だったそうだな。いやーわしも世俗に疎うなったもんだ」
場違いな位に楽しげに笑うクラト老人。
その顔が――しかし次の瞬間には笑みを捨てた。
じろりと硝子越しに、その双眸がユフィンリーを睨み付ける。
「それで――何だ? 哀れな老人を笑いにきたか?」
「いいえ」
ユフィンリーの唇に浮かぶのは、嘲笑だ。
「哀れだとも思わないし、笑いにきたわけでもないわ。ただ、あんたに教えてあげようと思っただけ」
「――む?」
「あんたの曲を盗んだ奴がいるよ」
「――なに?」
「そ――あれ。『天国変』だっけ?」
「…………」
クラト老人が黙り込む。
ややあって――彼は短く呟く様に言った。
「馬鹿な」
「失礼ね。本当の事よ。きっちりアレンジ入ってて『地獄変』と合奏してたよ。しかも、あんたがやってたみたいに大袈裟な編成じゃなくて、サックスだよサックス。勿論単身楽団は使ってた訳だけど」
「あり得ん! わしが、あれを復元するのに何年かかったと思ってる!?」
「そんなの知らないって。あたしは事実だけを喋ってんだからさ」
ユフィンリーはカウンターに肘を突く。
「ね――取り引きしない?」
「取り引きだと?」
「あんた……盗んだ奴に心当たり在るでしょ?」
「――!」
老人の顔色が変わった。
浮かびかけた戸惑いと怒りが消え失せたのだ。
「知らん」
「嘘だね」
「知らん。知っていても言わん!」
「ふうん」
「帰れ。わしは何も知らん!」
クラト老人は明らかに怯えていた。
それはつまり――この精霊すら入り込めない拘置所の中に在ってもなお、恐ろしい相手という事か。既に虚勢を取り繕う余裕も無い。
「そっかあ……」
ユフィンリーは心底がっかりした様子を見せて椅子に背を預けた。ついでに溜め息も一つついておく。充分にクラト老人がその意味を咀嚼するのを待ってから――最後に彼女はマナガを振り返つた。
「やっぱ駄目だったわ。マナガさん。ごめん」
「いえ」
「奴ら――来るわよ」
言いながらユフィンリーは片目を瞑ってみせる。勿論クラトの位置からは彼女のその仕草は全く見えない。
「まさか!」
マナガはきっちり乗ってきてくれた。
「いくら奴等でも、拘置所までは来ないでしょう!」
「マナガさん――奴等を甘く見ちゃ駄目だって」
「――おい!?」
クラトが悲鳴じみた声を上げる。
「何の話だ!?」
「…………」
乗ってきた。
つい浮かびそうになる笑みを押し殺してユフィンリーは言う。
「ああ――気にしないで。こっちの話」
ひらひらと片手を振ってみせてから立ち上がったユフィンリーはマナガに近付いて声をひそめる。声量の調節が難しい。あからさまに聞かせるよりも、辛うじて聞き取れる程度の方がクラトの注意を引きやすいだろう。
「マナガさん――いい? 奴等はクラトと協力関係にありたわけじゃないんだよ。利用してただけ。例の件だけ見ても、それは明らかでしょ」
「むう。おつしゃるとおりですなあ」
「でも『天国変』はアレンジ可能な位なんだし……もうクラトは必要ないでしょ? だったら生かしとく危険の方が大きいと思わない?」
「ややあ、たしかに、おっしゃるとおり。ううむ、奴等がクラトを殺しに……」
殆ど棒読みのその台詞を――ユフィンリーは人差し指で制した。
「でもこれはある意味で使えるわよ? 奴等の存在については未だ尻尾も掘めていない状態な訳だけど――此処で網を張つていれば、むしろ奴等は自分からクラトの口を封じにやって来るかもしれない」
ユフィンリーはここで更に少し声を落とした。
まるで謹厳実直な役人に賄賂を勧めるかの様な声で――
「ちょっと警備を緩めてやれば、これ幸いとこっちの張った網に――」
「待て!」
クラトが叫んだ。
拾った声が大きすぎたのだろう――スピーカーが甲高いハウリング音を放つ。何事かと刑務官が扉から顔を出したが、マナガが手で制して下がらせた。
「待て……」
老人はガラスの仕切りに張り付くようにして、言った。
「待て……話す。話してやる。だから……」
老人の細い喉がせわしなく上下する。
「だから……わしを護れ」
「…………」
顔を見合わせるユフィンリーとマナガ。
二人を睨む様に見つめながらクラト老人は焦れた様に言葉を繋ぐ。
「『エンプティ・セット』を――捕まえてくれ」
何者にも非ず《エンプティ・セット》。
それは文字通りに何ら情報を示さない虚無の言葉でしかない。
だが。
「…………」
何か不吉な報せを聞いたかの様に――部屋の隅でマティアがその身を震わせた。
(――考えてみれば)
フォロンは思う。
(コーティとこんな風に時間を過ごすのは初めてかも)
何をするでもない。
ただ――ずっと一緒に居る。
言葉を交わす事すら殆ど無く……しかしそれが苦痛ではない。互いの気配が感じられる様な距離を保ったまま、ゆっくりと無為の時間が過ぎて行く。
そもそもコーティカルテと知り合ってからというもの――いや再会してからというもの、いつもフォロンは彼女に振り回されてきた。気が短くて我が侭なこの紅い髪の精霊は、フォロンののんびりした処や、度が過ぎるお人好しぶりに苛立つ事も多い様で、怒鳴られた事も引っ張られた事も殴られた事も一度や二度ではない。
そもそも……人間よりも遙かに長い時間を持つ筈の精霊でありながら、彼女は妙にせっかちで時間の無駄を嫌う。思い立ったらすぐ実行に移そうとするし、相手の出方を待つとか好機を待つとかいった事が、とにかく苦手だ。前に一度釣りに行った時などは、すぐに焦れて河に精霊雷を叩き込もうとしたので、慌ててフォロンが止めた。
とはいえ彼女のそんな気性を、不愉快に思った事は一度も無い。
フォロンは自分が他人に比べるとのんびりし過ぎている――もっと身も蓋もない言い方をすれば愚図なのだという事を知っている。他者の意見がどうあれ、少なくとも彼は自分の事をそう考えている。
だからこそコーティカルテに引っ張り回されている位の方が丁度良いのだろうし、またそんなに短気な精霊が自分の側に寄り添ってくれている事に関して、言葉には出来ない程の感謝を覚えている。
だからこの四年間を、フォロンとコーティカルテは仲良くどたばたと駆け抜けてきた。
やたらと飛びだして行きたがるコーティカルテをフォロンが止めて。
どうにも腰が重く消極的なフォロンをコーティカルテが振り回して。
そんな風にして二人はやってきたのだ。
だからこそ、こんなにゆったりした時間をコーティカルテと共有するのは、本当に初めてだった。
しかし……
「どうした?」
密やかな微苦笑を漏らしたフォロンに、コーティカルテが尋ねてくる。
コーティカルテは相変わらず大人の姿のままだ。そしてその仕草は全体的に緩慢で――気怠い。薄い疲労の膜が彼女の全身を覆つているかの様で、ただ振り向いたり髪を掻き上げたりする、そんな何気ない動きがひどく億劫《おっくう》そうだった。
「……ちょっとね」
フォロンは少し考えて自分の中の言葉を整理した。
「昨夜――夜中にね。考えたんだ」
コーティカルテを病院に運び込んだその時に。
彼女が大人の状態のまま意識を失っていたその時に。
「今までは……ずっと……僕の方が先だと思ってた」
「……うん?」
「その……人間の方が精霊よりも……寿命が短いから」
正確に言えば老化の仕方が違うのだ。
精霊も不老不死ではない。長い時間を生きれば生きる程に、精神ば摩耗していく。気力は減衰し、好奇心や感動といったものは磨り減っていく。これが一定を越えると精神そのものが死に始める。まるで眠りに落ちる様に緩慢に、ありとあらゆる事に反応しなくなっていくのだ。
精霊の老化は精神の老化だ。
だから個体差が大きい。しかしそれにした処で人間の寿命に比べると大抵の精霊が遙かに長命である。百年や二百年を生きている精霊は珍しくないし――その精神を若く保ったままならば、千年二千年といった規模で生きる事も可能だろう。
もっともその一方で、深い『絶望』や重い『諦念』によって簡単に精霊は死ぬ。
肉に囚われていない純粋な精神は――むしろそれ故に脆い部分も在るのだ。
「……ふむ」
「でも昨夜は違った。コーティにもしもの事があったら――って。もしそうなったらどうしようって」
「私の方がフォロンより先に死んだら……という意味か?」
敢えて避けた言葉を――しかしコーティカルテ本人はあっさりと言ってのけた。
「……うん」
神曲楽士と契約精霊。
彼等の関係において最も重く――そして避け得ない問題がこの寿命の差だった。
つまりは『死』の問題だ。
「精霊ってさ……契約楽士が……その、死ぬ時って、前もって分かるって……本当?」
「――本当だ」
そして精霊は密かに調律を始める。
やがて去り逝く楽士の神曲から少しずつ調律をずらし始める。
それは自らの存在を暴走から守る為の行為であると同時に――契約楽士の死を受け入れる為の準備行為でもある。
「どのくらい前から分かるの?」
「事故や事件による突然の死でないなら、半年かそこいらだな」
「そうか……」
「なんだ?」
気怠い苦笑を浮かべるコーティカルテ。
「心配なのか? 大丈夫だ――フォロンは未だ死ぬ気配は無いぞ」
「そうじゃないよ。そんな事を心配してるんじゃない」
フォロンも苦笑で応じる。
「辛く……ないのかな……って……思ってさ」
「……私がか?」
「精霊が……だよ」
「…………」
コーティカルテが黙り込む。
あるいはそれはフォロンの為を思っての沈黙であるのかもしれなかった。
フォロンにしてみれば肯定されても否定されても辛い。
だが――フォロンは知っている。
意外に契約楽士に殉じる精霊が多いという事を。
精霊の死は精神の死。
度を超えた絶望や悲嘆は、直接的に精霊を殺す。契約した神曲楽士の死を受け入れられず共に消滅してしまう精霊は――多くはないが、少なくもない。一定数必ずそうした精霊は出てくるのだ。
「昨夜は――怖かった」
説明しようとした途端に……昨夜の感情が一気に蘇ってきた。
腹の底に冷たく重いものが広がっていく。
「このままコーティが目を醒まさなかったら……このまま消えてしまったら……そう考えたら……」
自分が普段どれだけ無神経であったか、思い知らされた様な気がした。
精霊達は常にこうした気持ちを心の何処かに持ち続けているのだ。大低の場合に精霊は人間よりも長く生きる。それはつまり――精霊契約を交わした時点で、相手の死を看取り乗り越える覚悟をも求められるという事だ。
だがそれは簡単な事ではないのだろう。
だから『殉死』する精霊が出るのだ。
「だが――フォロンが引き戻してくれた」
優しい微笑を浮かべてコーティカルテが言う。
「でも!」
でも――それは完全ではなかった。
コーティカルテは今も『真の姿』のままである。
少女の姿に戻れないでいる。
それがどれだけ重大な事なのか――フォロンは理解し始めていた。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは強大な精霊である。その力は並の上級精霊では太刀打ちできない程に強大だ。だが一方で彼女は何年にも渉る幽閉と、中途半端な契約状態での半暴走を続けていた為に、著しく安定性を欠いた存在でもあるのだ。
いつも少女の姿で居るのは少しでも安定するためだ。
恐らく――物質化の力を小さく抑える事で、自らを制御し易く保っているのだろう。
そもそも彼女は、物質化を解く事が出来ない。少女形態と大人形態を行き来するのと同じく――精霊本来の生態から比べると、かなりいびつな具合に安定してしまっている為だ。
フォロンの神曲を得た状態ならば、普段の何倍もの力を彼女は発揮出来る。多少の『力』の浪費などは気にせずともいい。だから彼女はフォロンの神曲を耳にしている時だけは本来の姿を取り戻すのだ。
車のエンジンにでも喩えれば理解し易い。
普段の彼女は軽自動車の様な小排気量のエンジンを回している状態だ。それは燃費は良いが出力は低い。当然だ――所詮は軽自動車のエンジンなのだから。
『本来の姿』に戻ったコーティカルテはつまり、大排気量の高出力エンジンを回す様なものである。大出力を得る事が出来る反面、あっという間に燃料が尽きる。補給が無ければ停まるしかない。
そして『停止』とは即ち――『死』だ。
彼女がベッドから出ようとしないのも、いつもより動作が緩慢で喋り方が気怠いのも、恐らくは余計な消耗を避けているからだろう。高出力エンジンを常にフルスロットルで動かしていれば余計に燃料が尽きるのは早まる。
「…………」
フォロンは膝の上で拳を握る。
コーティカルテの『変身』について今まであまり深く考えてはこなかった。単に『元の姿に戻るから大きな力が使える』程度の認識しか無かった。それは彼女が殊更に自分の状態について語らなかったからだが――どうして普段は少女の形態を採り続けているのかについて、あまり真剣に追求した事は無かった。
まさか『変身』が――直結はしないまでも――『死』と無縁のものではないとは、思ってもみなかったのだ。
慙愧の念が強い。
自分は――どれだけコーティカルテに無茶を強いてきたのか。
だがそれよりも何よりも……
「案ずるな」
震える拳をコーティカルテの細い指が優しく包んだ。
「私はお前が望む限り……お前と一緒だ」
「うん……」
頷いて――しかしフォロンには分かっていた。
人間と精霊。
その生と死。
あまりにも両者は存在の仕方が違う。
故に共に寄り添う事が出来るのは、双方にとって一部分だけだ。『共に白髪の生えるまで』――そんな生き方は出囲来ない。決して出来ない。
だから……
(……僕が死んだら……)
大低の場合に精霊が人間よりも長く生きる。
ならば――相手の死を受け止めねばならないのは殆どが精霊の方だ。
タタラ・フォロンは人間だ。
生まれ。成長し。老いて。やがて――死ぬ。
コーティカルテよりも遙かに早く。
フォロンはいつかコーテイカルテを置いて先に逝くべき存在なのである。
残される者の辛さ。
置き去りにされる者の哀しみ。
重ねられた日々が楽しければ楽しい程に、交わされた想いが深ければ深い程に、それは耐え難い重さとなってのしかかってくる。
それを一度も考えなかった訳ではない。だが考えても詮無い事だと今までは深く考えるのを避けてきた。
『コーティカルテが死ぬかもしれない』――昨晩その恐怖と共に初めてフォロンはこの事実を真正面から受け止めた。
実感としてそれを噛み締めたのだ。
(僕は――コーティに対して何が出来る?)
どうすればいい?
やがて来る死別に対して何を彼女に言ってやれる?
『笑って見送ってくれ』? ――そんな事とても言えない。
『一緒に死んでくれ』? ――そんな事、全くの無意味だ。
では……
「フォロン」
コーティカルテが囁く様に声を掛けてくる。
「うん」
「一日でも一時間でも……一秒でも長く生きろ」
「うん」
「私を……哀れと想うなら」
「……うん」
「私の為にだ」
「うん……」
暖昧に頷いてから――改めてフォロンは言葉にして言った。
「約束する」
そして……
例の顔の長い精霊医師が再び診察に訪れたのは、窓の外が夜色に陰り始めた頃だった。
『異常なし』――やはり診断は変わらない。
何処か申し訳なさそうに医師がしているのが、フォロンにも分かった。
彼とて現状のコーティカルテが全くの健康体だとは思っていないのだろう。だがその一方で精霊医師として彼が施せる治療は現状――皆無に等しい。ならば住み慣れた家に戻って契約楽士の神曲を聴きながらゆっくり過ごす事、その程度しか指示は出来ないのだ。
「御大事に」
そう言って医師が出ていくのとほぼ入れ違いにレンバルトが病室を再訪した。
「――よ。これでいいか?」
とレンバルトは紙袋を差し出してくる。
中身を確かめると、コーティカルテの為の着替えが入っていた。衣服だけでなくブーツも持ってきたのはさすがにレンバルト、気が利いていると言えるが――
「……?」
コーティカルテが首を傾げる。
びろーんと彼女が両手で引っ張っているのは下着だ。
それも――フォロンの。
「……どっちが前だ?」
「いやっ――それは違っ……!」
慌ててひったくるフォロン。
「レンバルト!」
「あ――いや。悪い」
苦笑して頭を掻くレンバルト。
「楽で動きやすそうなのを選んだ積もりだったんだが――」
確かにジーンズとセーターもフォロンのものだ。
そもそも普段、コーティカルテが着ている服は、全て今の彼女にサイズが合わない。つまり着替えといっても、フォロンのものを借りるしかない訳で――その流れでついつい下着もフォロンのものを詰め込んでしまったらしい。
「フォロン」
言ってコーティカルテは億劫そうに片手を差し出した。
「――え?」
「渡せ。はく」
「え? いや、ちょっと待ってそれは」
「私に下着無しで帰れと?」
「え? いや別にその」
「……まったく。女に下着無しで服を着させるのが良いとはフォロンもとんだ変態――」
「わあああああっ!?」
慌てて首を振るフォロン。
苦笑してそれを眺めるレンバルト。
気怠くも――しかし少し意地の悪い笑みを浮かべているコーティカルテ。
重苦しかった空気が、ほんの少しだけ和らいでいた。
数分後。
廊下の壁に背中を預け――フォロンとレンバルトは並んで立っていた。
着替えの為に病室から追い出されたのだ。
もっとも『出て行け』と言われたのはレンバルトだけで、むしろフォロンは『残って手伝え』などと言われて困ったのだが……結局、丁度通り掛かった女性看護師に頼んでとりあえず事なきを得た。コーティカルテは何やら不満そうではあったが。
そういう訳で男二人は外でコーティカルテの着替えが終わるのを待っているのだ。
「……有り難う、レンバルト」
展開状態で放り出されていた単身楽団の鍵盤やアームを、手動で畳んで収納しながらフォロンは言った。
「なんだよ? 改まって」
「あ……いや。何となく」
苦笑して頬を掻くフォロン。
「思えば学生時代からレンバルトにも随分迷惑かけてるなって思ってさ」
「本当に今更だな、おい」
苦笑を返すレンバルト。
その後はしばし沈黙が二人の間に横たわるが――
「――そんなにキツかったか」
「え? あ……うん」
ふと思い出したかの様に言ってくるレンバルトの台詞に、フォロンは頷いた。
人間が、普段振り返らない様な過去を改めて振り返るのは、大低が現状の辛さに追い詰められた時だ。過去の幸せな記憶を探って自分を慰めようとする。あるいは過去の経験に照らして現状打開の方法を探ろうとする。死者が今際の際に自分の人生を回顧するのも同様の事だろう。
「俺には分からない悩みだが……な」
呟く様にレンバルトは言う。
いちいち説明されなくてもフォロンを悩ませるものの正体を、おおよそレンバルトは悟っている様だった。一年や二年の付き合いではない。コーティカルテを除けば、フォロンにとって最も顔を合わせていた時間の長い他人であり――友人である。
「レンバルト?」
「ほら。俺には契約精霊が居ないから。実感として分からないんだよな」
自嘲的に肩を疎めてみせるレンバルト。
「お前と同じ処に立って同じ悩みを共有してやれない――これが俺の限界なのかもな」
「あ……」
驚いた様に眼を瞬かせるフォロン。
口調も表情もいつものレンバルトと大差無い。だが――付き合いの長いフォロンは、今の彼が少々気を滅入らせているのだという事に気付いた。そもそもレンバルトはこんな自嘲的な……いや自虐的な事を言う人間ではない。
「レンバルト……どうしたの?」
「いや……別に?」
苦笑してレンバルトは言った。
そこへ――
「……待たせたな」
言って看護師と共にコーテイカルテが出てくる。
「――さてと」
強制的に話を切り上げるレンバルト。
ついでに区切りをつける様に、ぱちんと手を叩いて彼は言った。
「じゃあ撤収するか」
「あ……うん」
「単身楽団は俺の車に積んでやるよ。そんで、なんか食うものとか買ってってやるから、お前らは先にアパートに帰ってな」
「うん……悪いけど、甘えさせて貰うよ」
若干の躊躇を覚えつつもそう応えるフォロン。
その時――
「――ちょっと待ってくれる?」
廊下の奥から鋭い声が飛んできた。
「あんたが今此処に居るって事は――今、事務所は空な訳?」
大股で歩いて近付いてくるのは……ツゲ神曲楽士派遣事務所の所長である。
レンバルトは一瞬、救いを求める様に左右を見回してから――若干引きつった表情でユフィンリーに視線を戻した。
「あ。ああ……えーと。おはようございます」
「………」
手を伸ばしてレンバルトの額をぺちんと叩き――ユフィンリーは腰に手を当てて一同の前に立った。コーティカルテ、フォロン、そしてレンバルトの順に眺めてから彼女は小さく溜め息をつく。
「成る程――そういうことか」
「あ……すいません、所長、僕がレンバルトに、着替えを頼んで……でももうすぐペルセとプリネが……」
「――フォロン」
ユフィンリーはフォロンの台詞を遮り――
「助けが欲しければ遠慮せずに言いなさい。これは貴方だけの間題でも無いし……部下に頼られるのも上司の甲斐性だしさ」
微苦笑を浮かべて言った。
「はい……すいません」
「それじゃあんた達はとっとと家に帰りなさい。もう退院なんでしょ? 手続きは私達が適当にやっとくから」
まるで邪魔者を追い払うかの様にひらひらと手を振るユフインリー。
「でも支払いとか――」
「いいよ。来月分から天引きしとく」
「はい」
「レンバルト」
「はいな」
「あんたは、私と一緒に事務所においで」
「あー……でも」
「いいよ。買い置き……まだあるし」
躊躇の表情で一瞥を投げ掛けてくるレンバルトに、苦笑してフォロンは言った。
「そっか? 悪いな」
「こっちこそ」
笑顔を取り繕いつつ――フォロンは気付いていた。
レンバルトの態度も何処かおかしいが、ユフィンリーのそれも少々普段とは違う。いつも通りに振る舞おうと――わざわざ意識しているので、むしろ何処か白々しい部分がフォロンの眼には透けて見えるのだ。
やはり皆、色々と追い詰められているのだろう。
昨日の一件は、ツゲ神曲楽土派遣事務所にとって初めてと言っても良い位の大黒星であったし……コーティカルテの姿が普段と違うという事も、何気ない日常を取り戻す弊害になっているのだろう。
「じゃあ下まで一緒に行こうか」
ユフィンリーの提案で一同は歩き出した。
一緒にエレベーターで一階に降りて――そこで別れる。フォロンとコーティカルテは駐車場へ。ユフィンリーとレンバルトは退院手続きと支払いの為に受付カウンターへと向かつていった。
「…………」
駐車場に着いたフォロンは、まず単身楽団を〈ハーメルン〉の後部に金具と紐で固定した。続けて彼はコーティカルテに手を貸して〈ハーメルン〉の後部座席に座らせる。
そこでふとフォロンは気付いた。
廊下を歩いている間もエレベーターの中でも……ユフィンリーは一言も口を利いていない。不自然な位に彼女は沈黙したままだった。
そして彼女がそういう態度の時、原因として考えられる可能性は二つしかないという事をフォロンは知っていた。
一つはとことん機嫌が悪い時。
一つは何か隠し事をしている時。
では今は…………
「……フォロン」
コーティカルテが首を傾げて彼の顔を覗き込んでいた。
「どうした……? 心配ごとか……?」
「いや……大丈夫」
フォロンは首を振る。
今はユフィンリーの態度よりもコーティカルテの体調の方が遙かに気懸かりだ。二兎を追う者は一兎をも得ず――両方を気にして両方にきちんと対応出来る器用さが自分には無い事を、フォロンは自覚していた。
だから……
「何でもないよ」
そう言って愛車に跨った。
コーティカルテの腕が自然に腰に回される。
「うちに帰ろう」
「ああ。帰ろう」
フォロンは後ろ髪を引かれる思いを振り切ってセルモーターに点火した。
ACT2 COUNTERBLOW
ふと――視線を傍らの空中に向ける。
いつの間にか柔らかな光を帯びた球体がふわふわと辺りを漂っていた。
全部で四つ。
「レンバルト」「レンバルト」「レンバルト」「レンバルト」
笑ってしまう位に単純な造形の『顔』がレンバルトの周囲をゆらゆらと巡っている。
言うまでもなくボウライ達だ。
「……ああ。お前達か」
呟いてレンバルトはボウライの一体を指で弾く。
ぽこんぽこんとぶつかり合って――ボウライ達はしかしすぐにまたふわりふわりとレンバルトの回りを飛び始めた。
「下級精霊――か」
彼が召喚出来る限界。
彼の才能の――限界。
〈シンクラヴィス〉を運転して事務所に戻りながら彼は溜め息をつく。
「レンバルト?」「レンバルト?」「溜め息?」「心配?」
ボウライ達が声を掛けてくる。
「いや。大丈夫だ。心配ない」
レンバルトは苦笑して言った。
ボウライ達に心配されるとは――余程に自分は暗い顔をしていたらしい。
自分の才能が、いわゆる本物の天才でない事は以前から自覚していた。少なくとも、彼の中の基準では、彼自身のその能力は天才に値しない。努力と経験を積み上げて達する事が出来る――それだけのものでしかない。
下級精霊しか喚べない自分の神曲。
契約精霊の居ない自分。
それは――
「レンバルト」「レンバルト」「レンバルト」「レンバルト」
ボウライ達が車内を飛びながら声を掛けてくる。
「笑う」「笑う」「見る」「見る」
「……ん?」
空中を漂っていたボウライ達が一ヵ所に集まった。
彼等の身体が――球体がぐにゃりと歪む。
そして……
「おわっ!?」
いきなり眼の前に出現したものを見て――思わずレンバルトはハンドルを切り損ねる処だった。
それはボウライだった。
ただし直径が倍になつたボウライだった。
普段から見慣れていると――やはりいきなりそれが倍の大きさになると、かなりの違和感が出る。
「なんだ……? 合体出来たのか……お前ら?」
言ってから。
レンバルトの脳裏に以前見た光景の一つが蘇った。
ボウライ達が合体して出来上がった光る巨人。
「そういや出来るんだったな……」
「出来るよ」
とボウライが応える。
「ボウライ――合体出来る。出来る。レンバルト笑う。面白い」
「……ふむ」
レンバルトはふと路肩に〈シンクラヴィス〉と停めて腕を組んだ。
心なしか断片的な言葉を言うだけのボウライが、多少は会話めいた一文を口にしている。複数のボウライが合体すればそれなりに知能も上がるのかもしれなかった。
「そうか」
レンバルトは苦笑する。
このボウライ達は確かにレンバルトと契約はしていない。
だが彼の事を心配して気を紛らわせようと『合体』してくれた様だ。
その気持ちは……別に下級精霊のボウライ達だからといって価値が下がるものではない。
ならば――
「才能が足りないなら補えばいいんだよな」
自分に言い聞かせる様にレンバルトは言った。
「補いきれなければ、別の方法を捜せばいいんだよな。足りなければ足せばいいんだよな。それは別に恥ずかしい事じゃない。卑下する必要も無い」
そう。何もたった一つの方法にこだわる必要は無い。
「……ちとごっちゃにしてたか」
フォロンへの嫉妬。自分への不満。
それは必ずしも同じではない。
天才でない事が辛いのではない。
天才であるフォロン達の役に立てない自分が歯がゆいのだ。場合によっては足を引っ張ってしまうかもしれない自分が情けないのだ。
しかし天才は天才であるが故に出来ない事が在る。
天才でないからこそ出来る事も在る。
だから――
「……そうか。そうだな」
「そうだな? なにが――そうだな?」
四倍体のボウライが尋ねてくる。
「まあ色々と」
曖昧に笑って誤魔化すとレンバルトは再び〈シンクラヴィス〉を発車させる。
彼の中で一つの案が形を得つつあった。
学院に登校して――ユギリ姉妹は自分達がちょっとした有名人になっている事を知った。
例の輸送計画の中継を大勢の生徒が観ていたのである。
いや。『大勢の』とは控えめに過ぎる表現かもしれない。
『殆どの』――と言うべきだろう。
現場まで見に来ていた生徒達を含めれば、生徒の八割以上があの輸送計画について何らかの形で眼にしており、テレビの画面で、新聞の紙面で、あるいは直接、真新しい事務所の制服を着たペルセルテとプリネシカの姿を観ているのである。
元々ツゲ事務所といえば、トルバス神曲学院の中でも有名だ。注目度が低い筈が無い。
控えめな生徒達や、気の回る生徒達は、ただ短く『観たよ』と言う程度だつたが――彼等もその後の追跡劇について、詳しい話を聞きたがっている事は明白だった。勿論、無遠慮に色々質問を浴びせ掛けてくる同級生達もいたが、それはむしろ少数派だ。多くの生徒達は、声を掛けてくる事こそ無かったものの……二人の姿を見掛けると、ひそひそと声を顰《ひそ》めて何事か言葉を交わしていた。
月曜日は丸一日そういう状態だった。
「仕方ないよ……」
そう言ったのは、プリネシカである。
「あんな大事件になっちゃりたんだもん」
予め話題になる事は分かっていた。だから多少の覚悟はしていた訳だが――まさかあんな大事件になるとは、ユギリ姉妹も思っていなかったのである。
輸送ケースの上に座らされただけであったなら……そして輸送が無事に終了していたならば、この様な状態にはならなかったろう。
何人かの友達に冷やかし半分の言葉を掛けられて。ひょっとしたらファンレターだかラブレターだかを受け取ったりして。でも精々がその程度であった筈だ。
しかし輸送車が乗っ取られ――街中を走り回り、将都高速までをも舞台にしての大追跡になってしまったのだ。巻き込まれて事故を起こした車輌の数や被害総額は、未だ算定されていない。少なからず怪我人も出ている事だろう。
大事件だ。
そしてペルセルテとプリネシカはその当事者なのだ。
表向き――輸送ケースがどうなったのかについての報道は無い。むしろいずれのメディアでも暗に『ツゲ事務所は荷物を取り返した』と錯誤を誘導する様な論調や文面になっている。これは騒ぎを大きくするのを避ける為だった。
だが……
それでも受け取る直前で荷物をかっさらわれ、更には警察を差し置いて強奪者を追跡したツゲ事務所の面々を『良識が無い』『そもそも危機管理意識が薄い』云々と、したり顔で評する『自称・有識者』だの『自称・評論家』だのが、テレビにも新聞にも大量に湧いて出てきた。
元より出る杭は打たれる。
成功者は誰かに必ず妬《ねた》まれる。
注目度が高いという事は――ツゲ事務所の失敗を手ぐすね引いて待っている者も、それなりに居るという事である。そして彼等にとっては事実はどうでも良い。ツゲ事務所を非難する為の糸口さえ在れば、後は牽強付会に持論を提示するだけでいいのだ。どうせ何を言おうとも、その事で自らが責任を取る事は無いのだから。
そしてこれは社会人の間だけの話ではない。
単純に興味からユギリ姉妹に視線を向けてくる者も居るが、囁き合う言葉の中には明らかにツゲ事務所を――そしてそこにアルバイトで出入りしているユギリ姉妹を誹謗中傷するものも、含まれている様だった。
面と向かって何か言われた訳ではない。
だが――だからこそ余計に疲れる。プリネシカはともかくペルセルテの様な性格だと余計にそういった陰口の類に耐性が無い。
「ああもう……」
げっそりした表情と口調でペルセルテは言った。
「こっちは……それどころじゃないんだから……」
早々に学院を辞したユギリ姉妹はバスの中に居た。
トルバス市営の巡回バスである。
アルバイトに行く際にいつも使う交通機関だ。
ツゲ事務所の近くにも停留所が在る為に感覚的には直行便として使えるし、終業直後に乗ればきちんと空席に座る事が出来る。授業を終えるとすぐにアルバイトに向かう姉妹にとって――だから一番前の席は指定席だった。
そう。彼女等が座っているのは、いつもの席だ。
だが彼女等を取り巻く空気は、いつもと違っていた。
ひそひそ。こそこそ。不自然に横たわる硬い空気の合間を縫って――あちらこちらから話し声が聞こえてくる。誰もが声をひそめて会話している。ちらりちらりと視線をユギリ姉妹に投げてくる。よく見ると運転手までがミラー越しに視線を向けてくる。
「もう……やだ」
ペルセルテの泣き言に、プリネシカはその手をとって応えた。
二人の感覚からすれば、普段の倍近い時間をかけてバスは『ヤジナ商店街東』の停留所に辿り着いた。実際、道路事情はあまり良く無かった様で――バスも苛立ちを感じる程にのろのろとしか走らず、余計に時間の進みが遅く感じたのである。
定期券を見せながら半ば逃げ出すようにバスを降りるユギリ姉妹。
辺りは既に暗くなっていた。
すぐ先の交差点の――その向こう側がツゲ事務所である。
距離にして百メートル余り。歩けば一分と掛からない。
ところが。
「なに……あれ……?」
見慣れた事務所の周囲に人だかりが出来ている。
人数は二十人位だろう。よく見ると何人かずつの集団が幾つか集まっている様だった。
そしてどの顔も――若い。
高校生か。あるいは大学生か。その程度の年齢だ。
彼等は無遠慮にツゲ事務所の中を覗き込んでいた。カメラを向けてシャッターを切っている者も居る。彼等が玄関の真正面に陣取っているせいで、彼等の真ん中を突っ切らなければ事務所にも入れそうにない。
明らかに正規の報道陣ではなかった。営業妨害で訴えられても仕方の無い様な傍若無人ぶりである。
「……ペルセ」
プリネシカがペルセルテの制服の袖をそっと引っ張りた。
「裏から回ろう……」
今なら未だたむろしている連中はこちらに気付いていない。
だが……
「――行く」
既にペルセルテは妹と違って我慢の限界に達していた様だ。
「え?」
「行く。真っ正面から、行く!」
まるで彼女がそう宣言するのを待っていたかの様に――交差点の歩行者信号が青に変わる。金髪の少女は憤然たる表情で、ずんずんと大股に横断歩道を渡り始めた。
「ペルセ!? ねえ……ペルセ!!」
「行くったら行くっ!」
「ちょっと……ペルセ!」
慌てて追い掛けるプリネシカ。
「こそこそ噂して! にやにや笑って! もう我慢出来ない――何で私達が気疲れしたり逃げ回ったりしなくちゃいけないのよ!? こっちは別に恥ずかしい処なんか何も無いんだから!」
「そ――それはそうだけど」
真っ直ぐ事務所に向かうペルセルテ。
彼女に引きずられる様にしてついていくプリネシカ。
「…………」
高校生らしき少女がユギリ姉妹に気がついた様だ。
仲間をつついて、こちらを指差している。さらに周囲の連中も、横断歩道を渡ってくる二人の少女を振り返った。案の定――いきなり何の断りも無くカメラを構える奴もいる。
それでもペルセルテは堂々と進み続けた。
その後ろに隠れる様にプリネシカが続く。
「プリネ……」
「…………」
カメラのフラッシュが無遠慮に焚かれる。
その時――
「――あっ?」
全てのカメラが持ち主の手から消えた。
間抜けな声を漏らす少年少女達の足元で、被等の手から叩き落とされたカメラががちゃりと危険な音を立てて転がった。いずれもフレームやレンズが割れたり砕けたりはしていない様だが――やはりそこは精密機械である。恐らく殆とのカメラは壊れただろう。
呆然と空の手と足元のカメラを見つめる少年少女達。
その背後に――
「おう。邪魔だよ、邪魔」
一人の男性が……いや、精霊が立っていた。
蒼銀の髪。鋭い双眸。襟元に毛皮をあしらった黒い袖無し外套。そして――背中にはナイフの様な銀の羽根が四枚。
ヤーディオである。
慌てて振り返る連中を見回し――ツゲ・ユフィンリーの契約精霊は低い声で言った。
「営業妨害なんだがなあ。ガキはとっとと帰って小便でもして寝てくんねえかい」
「お……おま……」
言い返すのはカメラを叩き落とされた一人だ。
「お前……カ……カメラ」
「カメラがどうしたぃ? ああ!?」
眉根を寄せて。顎を上げて。元々背の高いヤーディオが――より威嚇的な姿勢と表情で相手を見下ろす。口調と声音にも相手を桐喝するかの様な剣呑さが在った。
少女達が短く悲鳴を上げて後ずさった。
だが声を上げた若者の方は、それでむしろ引くに引けなくなったらしい。彼は恐怖に表情を引きつらせながらも、唾を飛ばして喚いた。
「お、お前……お前! せ……精霊の癖に!」
「精霊の癖に――何だ? ああん?」
わざわざ身を折って視線を合わせるヤーディオ。
この蒼銀の精霊がやると――下手に見下ろされているよりも遙かに迫力が在る。本職の極道でもびびりかねない様な威圧感が、若者の上にのしかかっていた。
「う……訴えてやるぞ!」
そう叫ぶ若者は――半泣きである。
「ああ? 誰にだ? ママにか?」
ヤーディオは歯を剥いて笑った。
「何でもいーから訴えてみろよ。おめえのツラぁ憶えてやったからよ?」
「……ッ!」
そこまでが限界であったらしい。
ばらばらと無礼者達の集団が崩れる。
彼等は何度も何度も、恨みがましい目つきでヤーディオを振り返りながら――しかしヤーディオが改めてそちらに視線を向けると、そそくさと散っていった。
ユギリ姉妹が交差点を渡りきって事務所にたどり着くまでの……時間にすればほんの数十秒の出来事である。
呆気にとられているペルセルテとプリネシカに――
「よっ――双子ちゃん」
にぃ――と精霊が笑う。
その背後で事務所の扉が開き――げっそりした表情でユフィンリーが顔を出した。
「ヤーディオ」
「おう」
堂々と胸を張る契約精霊にユフィンリーは言った。
「あんた、やりすぎ」
「礼儀知らずの小僧共にゃ、あれぐらいで丁度いいんだよ」
「黙れこの格闘馬鹿ッ! カメラの損害賭償求められたら誰が払うと思ってんの!?」
「まぁたケチ臭え事を――」
「高いのよ、ああいうカメラは!」
………………等々。
そんな一人と一柱のやり取りを聞いて――この日初めてユギリ姉妹は笑った。
「――状況を説明するわね」
そう言うユフィンリーが立つのはいつもの彼女の席ではない。
六つの机を前に。壁を背に。両手を背に回して立つその姿は、軍隊を指揮する司令官の偉容に通じるものがあった。机の上が全て綺麗に片付けられ、六つのそれが一枚の大きな作戦盤の様になっているものだから、尚更である。
無論――片づけたのはレンバルトとユギリ姉妹である。
彼等はユフィンリーと共に机を囲む様にして立っている。壁際には腕を組んで立つヤーディオの姿も在った。
「まず……昔話から聞いてもらうわ」
それは――こんな話だった。
それがどの位、以前の事なのかは未だ判っていない。
しかし各種の歴史的記録すら及びかねる様な――少なくとも何百年も前の出来事である事はほぼ間違いない。
ポリフォニカ大陸の南部で……巨大な建造物が地中に埋没した。
詳細は不明。勿論――原因も不明。
この建造物は、現在の文明とは異なる技術体系によって造られた様で――それは現代の人間にとって未知のものであるらしい。だが諸々の発掘資料から類推するに、この時代から既に人間と精霊が関わり合っていた事だけは、確実である。
ともあれ――建造物は埋没して遺跡となった。
そしてその上に街が出来た。
それが将都トルバスである。
どういった政治的力学の末にかは分からないが――この遣跡はそれ以後、ずっと時の為政者達によって守られてきた。
具体的に言えば、トルバスの為政者は、埋没した遺跡を護るように都庁を構え、都市を広げていった。トルバス市が将都トルバスの中心地を外れているのはこの為だ。そして遺跡の上を不可触領域とし、これをケセラテ自然公園として護り続けてきたのである。
この事実を知っている者は限られている。
歴代の将都長と。帝国政府関係者の一部と。そして――各神曲公社の一部の幹部のみ。
こうして非公然に遺跡は封印され続けてきた。
この事情が変わったのはこの三年余りの事だという。
詳細は判らない。しかし帝都と各神曲公社は遺跡の一部を発掘する事を決定し――将都長もこの決定に従って許可を出した。
永年、不可侵とされてきた古代の秘密に解明のメスが差し込まれる事となったのだ。
そしてその最初の発掘が――即ちオミテック社によって現在進行中の、あの発掘工事なのである。
「じゃあ、俺達が運ぶ予定だったのは……」
レンバルトにユフィンリーは頷いて見せた。
「そ。古代遺跡の遺物よ」
コーティカルテが移動した岩塊の――その直下にあったもの。
だがそれが、単なる壺だの皿だの金貨だのといったものではないのは明らかだ。そんなものを不可侵として守り続ける意味が無い。むしろ文化遺産と言うならば早々に発掘してしかるべき保存方法を採るべきだろう。
「何なんですか?」
ペルセルテが尋ねる。
だがユフィンリーは肩を辣めて首を振った。
「まだよく判らないらしいわ。何でも、巨大な結晶体の一部らしいわね。しかもね、結晶の構造が、どうも何かの電気回路に似た構造をしてるらしいの。どう見ても鉱石の結晶なのに、それが回路を形作ってるわけ」
「…………」
眉をひそめて黙り込むペルセルテ。
古代遺跡と電気回路。
どうにも結びつかないのだが――
「とにかくそれが奪われた――と」
レンバルトが促す様に言う。
「情報が漏れてたらしいわね。で、オミテックでも警察でも、その行方を今もって捜査中と――まあこういうわけ」
「で……どうするんです?」
尋ねるレンバルト。
その秀麗な顔には苦笑めいた表情が浮かんでいる。
ただの昔話を聞かせる為にユフィンリーは机の上を整理させた訳では無かろう。
「そうね。だから――ここからが打ち合わせ」
「はいな」
「その結晶体だか何だかを――取り返しに行くわよ」
誰も驚きの表情を浮かべなかった。
彼女の性格からしてそう言い出す事は――ツゲ事務所の面々にしてみれば自明の理であったからだ。
しかし……
「取り返しに行くったって……相手が誰かも判らないのに」
レンバルトの当然とも言うべき意見に――しかしユフィンリーはにやりと笑って見せた。
「見当はついてるのよ」
「……一体どうやって……」
と呟いてから、すぐに彼の顔に理解の色が広がった。
「そっか――あのごっつい精霊課のおっさんか」
「まず、ここまで車で接近。ここから先は、徒歩ね」
作戦盤となった事務机にユフィンリーが広げて見せるのは、アロニア湾周辺の地図だ。
マナカダ市の南西――ヨルドン河の河口付近である。
拘置所でユフィンリーはクラト・ロヴィアッドから幾つかの『拠点』について聞き出すことに成功した。驚くべき事にそれは都内各所に点在し――しかもそれらはあくまでクラトが知っている範囲に限っての事なのだ。
もっと多くの拠点があるかも知れない――とマナガ警部補は言っていた。
しかしユフィンリーが目をつけたのは一ヶ所だけだ。
それがつまりマナカダ市のクムリ港なのである。
「ここだと思う根拠は?」
地図を覗き込みながら尋ねるレンバルト。
「輸送車を見失ったのがカエバ市。その周辺には『拠点』はない。しかもニセの輸送車は高速に乗って北上するコースをとった。つまり――」
つまり本物の荷物から目を逸らすために囮を用いたなら、それは本物から可能な限り遠ざかるコースをとった筈だ――という事である。いくら本物そっくりに擬装した囮を使ったとしても……すぐ近くを全く同じ車がうろうろしていては意味が無い。
「で……この船は明日の未明に出向予定のホルカンド船籍の輸送船。入港したのは日曜の朝。荷下ろしも荷揚げもしてない。あからさまでしょ? ついでに言えばこの付近で例の『黒い精霊』の目撃例が在るの」
コーティカルテやヤーディオと闘りたあの異形の二柱だ。
テレビ報道であの二柱も何度か画面に映っている。だからこそ異形の精霊を目撃した市民が警察に通報してきた様だ。
勿論――物質化を解いて移動すれば良い筈の精霊が、わざわざ姿をさらしている事を考えると、当局の眼を間違った方向に向ける為の行為である可能性も高い。
だが、それならもっと人目の在る場所で派手に出現して見せるだろう。
そう考支えるとむしろ何かを――何かは判らないが――あの精霊達は運んでいた可能性が高い。物質化しなければ物質は運べないからだ。ならば目撃報告も筋が通る。
「了解――納得」
「じゃあ続きね」
言って新たに別の地図をユフィンリーは広げる。
こちらは問題のクムリ港周辺の港湾地図である。港付近の倉庫や、荷の積み降ろしに使う固定式大型クレーンといったものの配置まで書き込んである。
「ここから――単身楽団装備で船に接近。多分こっち回りでいけば倉庫の陰になってかなりの距離まで近づけると思つ」
「成る程」
「船への侵入は、ヤーディオ、よろしくね」
「おう」
「侵入したら、ヤーディオは陽動を開始して」
「おう」
蒼銀の髪の精霊はにたにたと笑いながら頷いた。
「私とレンバルトは、その隙に船内を探す」
「目星は付いてます?」
「それは――こっち」
港湾地図の上に――更に別の紙を広げる。輸送船の青写真だ。
「……よくこんなの手に入りましたね」
昨日の今日である。
他国籍の輸送船の青写真なぞ、普通に手配しても半日やそこらで手に入れるのは無理だ。貪欲に仕事をこなし、各業界に幅広くコネを持っているユフィンリーならではの力業が何度となく使われたのだろう。
「割と数多く作られてる型の船だからね。まあ細かい艤装なんかは違ってると思うけど」
「そりゃそうでしょうけど」
「まず――こっちの平面図ね。この階段から三フロア降りると貨物フロア。その中のどこかにあると思う」
「どっちでもいいけどよ」
ヤーデイオが口を挟んでくる。
「俺は暴れてりゃいいんだな?」
「うん、そう。こっちもヤバくなったら、マサードに頼むから」
「ふん」
鼻を鳴らすヤーデイオ。
同じユフィンリーの契約精霊という立場ながら、彼は何かそのマサードという精霊に思う処があるらしい。実はレンバルトすら知っているのは名前だけで――直接会った事は無い精霊なのだが。
「昨日の連中もいる筈だから注意してよね。私の支援なしなんだから」
「あいよ」
「そう言えば――」
レンバルトが、口を挟む。
「この件について警察はどう言ってんです? まさか警察公認じゃないでしょ?」
「まあね」
そしてユフィンリーは抑揚を抑えた静かな口調で言った。
「『警察としては、まだ令状を取れる段階にありませんし、あなた方を強引に引き止める権限もありません。ただ、おやめなさい、と言う事しか出来ません』――だそうよ」
どうやらマチヤ・マティア警部の台詞らしい。
「……成る程」
「黙認――てとこかしらね」
「失敗したらえらい迷惑がかかる――ってことですか」
「失敗なんかしないわよ?」
「俺もその積もりですけどね?」
自信満々で猛々しい笑いを交わす二人。
しかし……
「あのぉ……」
それまで静かに自分の席で成り行きを見守っていたペルセルテが、恐る恐るといった様子で、片手を挙げた。
「――なに?」
「ええと……フォロン先輩達……は?」
さすがにその襲撃作戦に、学生の自分達が連れて行って貰えないであろう事は、ペルセルテも理解している。しかし万全を期すのであれば、コーティカルテの回復を待ってフォロンとコーティカルテも戦力に加えるべきだろう。諸々の問題は在るものの、ツゲ事務所における最大戦力は誰が何と言おうとコーティカルテなのである。
しかし……
「ああ」
思い出した様にユフィンリーが笑う。
「あの子達はね、自宅待機」
「コーティカルテさん――退院したんですか!?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよっ!!」
さすがに怒った様に叫ぶペルセルテ。
彼女にとってフォロンは大好きな先輩だし、コーテイカルテは――しょっちゅう口喧嘩はしているが――友人なのである。気にならない訳が無い。
学業や仕事をないがしろにするのはフォロンもユフィンリーもコーティカルテも嫌うから、我慢していたが……本当なら学校もアルバイトも放り出して、フォロンと同じく病院につめていたい位だったのだ。
「…………」
「…………」
ユフィンリーとレンバルトは顔を見合わせる。
そして――
「ごめん」
とユフィンリー。
素直に謝ってくる雇い主に――かえってペルセルテの方が狼狽の表情を浮かべた。
「あ……いえその。別に謝って貰う様な事は……」
「……とにかく」
ユフィンリーは一同を見回して言った。
「コーティカルテは未だ体調が万全じゃないし、フォロンも疲れてる。あの子達をこの作戦に加えるのはむしろ危険。かといって明朝にこの船は出航予定だから、二人の回復を待っている暇も無い。だから私達だけでやるわ」
「……はい」
そう言われてはペルセルテも返す言葉が無い。
「じゃ――レンバルト、ヤーディオ、それぞれ準備して。ペルセルテ、プリネシカはレンバルトの準備を手伝って――それが終わったらフォロン達の様子を見てきてやって。差し入れとか持ってってやるのがいいわね。いつもならともかく、どうも今のあの二人――危なっかしいから」
ユフィンリーの指示に一同は黙って頷いた。
フォロンとコーティカルテの住んでいるのはあまり高級なアパートではない。
つまり壁も薄いし、天井や床もそれなりだ。
フォロンが神曲楽士である事は御近所も理解してくれているので、神曲の演奏も深夜でない限りは大目に見て貰っている。どうしてもその必要が在って夜に演奏する時は、極力その音量を絞る様にもしている。
元より――ただ耳で聞くのではなく全身で神曲を『浴びる』精霊にとって、小さな音で奏でられる神曲は決して満足のいくものではない筈だ。大きければ大きい程良いなどという単純なものではないが、何事にも『適量』というものが在る。それから外れれば神曲の効果もやはり落ちるのだ。
だが――
「…………」
ベッドに座るコーティカルテは気持ち良さそうに眼を閉じて――唇には微かに笑みを浮かべてくれている。
元は勉強机だった作業台とベッドしか無い狭い部屋で、静かに流れるのはフォロンが演奏する神曲である。出来るだけ絞った音量でも聞き苦しくない曲を選び、スピーカーの指向性を調節してコーティカルテに届けている。
病院を出てアパートに着いた時――フォロンは自分の推測が当たっていた事を知った。〈ハーメルン〉の後部座席から降りたコーティカルテがよろめいたからである。単に躓いたとかそういうものではない。膝に力が入っていない様だった。
だからフォロンは部屋に入るなりすぐに単身楽団の充電池を急速充電器に差し込んで充電し――半時間後には単身楽団を開いて演奏を開始した。
それから……もう一時間近くになる。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは強大な精霊である。
それ故、その存在を維持するだけでも莫大なエネルギーを消費する。彼女が普段、小さな少女の姿をしているのは、そのためだ。物質化を含めて、存在の維持に要するエネルギーを限界まで抑制する為である。
つまりフォロンの神曲無しに長時間コーティカルテが『真の姿』で居る事は恐ろしい程に彼女を消耗させる。ただそこに存在するだけでもじわじわと存在自体が磨り滅っていく様な状態だ。
だから定期的に――それも極めて頻繁に彼女に神曲を聴かせて消耗を食い止める必要が在る。
「ありがとう」
不意にコーティカルテが言った。
「もういいぞ。随分――楽になった」
言ってから彼女は僅かに顔をしかめた。
余計な事を言ってしまった――といった表情だ。これでは今までがとても幸かったのだと弱音を吐いたも同然である。
フォロンはとっくの昔に彼女の消耗に気付いていたが――彼女自身は一度も『辛い』と口に出してはいない。彼に心配をかけまいとしていたのだろう。
「そう? 良かった」
フォロンはただ笑みを浮かべて言う。
だが――内心でフォロンはある種の焦りを覚えていた。
神曲の効きが弱い。そんな気がするのだ。
将都高速での追撃戦の際にもこんな感覚は在った。
そして、それは今も続いているのだ。
どうにも手応えが浅い。まるで契約関係に無い精霊に聴かせている様な――そんな感じがする。精霊との一体感がどことなく薄いのである。フォロンはコーティカルテ以外にはまともに神曲を聴かせた事が無いので、今一つ断言は出来ないのだが。
しかしこの事をコーティカルテ自身は判っているのだろうか……?
フォロンは単身楽団を収納して席を立った。
「お茶でも入れてくるよ。それともお腹すいた?」
「……玉子焼きサンド?」
「うん。玉子焼きサンド。作ろうか?」
「いや――いい」
首を振るコーティカルテ。
「そっか」
やはり――とフォロンは思う。
コーティカルテにとって、玉子焼きサンドを食べる事は栄養補給というより、嗜好を満たす意味の方が強い。人間に酷似した肉体構造を物質化させている以上、摩耗を防ぐ為に一定の栄養補給はやはり精霊にも必要になるが――人間のそれ程に精霊の食事は切実なものではない。
しかし、だからこそ今……コーティカルテが好物の玉子焼きサンドを拒否したのは重大な間題だった。嗜好品すらも嗜めない程に体調が悪いという事だ。
「ちょっと休んだら、もう一度、演るよ」
「いや――いい。それよりも早く着替えろ」
言われて気がついた。
フォロンは未だ昨日の制服のままだった。
「あ……そうだね」
「ついでにシャワーでも浴びてこい」
「え? に――匂う?」
「いいから……!」
そう言うコーティカルテは何処かもどかしげだ。
何か――様子がおかしい。
「コーティ?」
尋ねると彼女は俯いてしまった。
「だ――大丈夫?」
あわてて近寄ろうとするフォロンを――しかしコーティカルテは腕を伸ばし掌を向けて制止した。まるで『寄るな』とでも言うかの様に。
しかし……
「フォロン」
「うん?」
「いつか言った事を――覚えているか?」
「え? なに?」
何の事なのかフォロンには判らない。
「ごめん――判らない。何の話?」
「だから……」
緋色の髪の精霊は俯いて自分の傍らに視線を落としながら言った。
「しようと思えば――出来るんだ」
「しようと思えばって――」
何を? ――と問い掛けて。
そこでフォロンは唐突に思い出した。
「……え? あ! いや……あの?」
「たわけ! とっととシャワーを浴びてこい!」
「いや……あの……そんな場合じゃ……」
慌てて言いながら。
しかしフォロンは気付いた。
違う。『そんな場合』なのだ――コーティカルテにとっては。彼女は酔狂や退屈凌ぎにこんな事を言う性格ではない。ならばそこには必然としての理由が在る。
それは何か……?
(…………まさか)
精霊は契約楽士の死期を感じ取る事が出来る。
ならば――自分自身の死を予感出来ない筈が無い。
「コーティ……!?」
愕然と自分の契約精霊を見つめるフォロン。
もし自分がコーティカルテの立場であったなら――自分の死期が迫っている事に気付いてしまったのなら。そして死を回避する術が無いと悟ってしまつたならば。
次に望むのは何だ……?
「コーティ!」
フォロンは両手でコーティカルテの肩を掴んで叫んだ。
だが緋色の精霊は何も言わない。
ただ俯いたまま沈黙を守っている。まるでフォロンの不吉な想像を『全てその通りだ』と肯定するかの様に。いや――実際にその通りなのだろう。
「嫌だ……そんなの……」
コーティカルテが――フォロンの想い出になろうとしている。
自分が此の世を去る事が不可避ならば、せめて大切な相手の心の中に、自分の存在を焼き付けて遺《のこ》しておきたいと思うのは……多分、人間も精霊も同じだ。自分がこの世界に存在した証を刻んでおきたいと思うのは当然だ。
それも出来るだけ深く。強く。鮮やかに。
その為に――
「嫌だよ……!!」
コーティカルテが逝ってしまう。
ずっと側に居てくれると誓ってくれた彼女が居なくなる。いつも誰からも置いて行かれるだけだった孤独な自分に――初めて手を差し伸べてくれた彼女が消えてしまう。
「駄目だよ……嫌だよ……!」
何処かで呼鈴が鳴っている。
「嫌だよ……コーティー 駄目だ……そんなの!」
何処かで呼鈴が鳴っている。
「コーティ! 何とか言ってよ――コーティ!」
何処かで呼鈴が鳴り続けている。
「―フォロン」
黙ってフォロンに揺さぶられていたコーティカルテがふと顔を上げた。
焦燥の色が濃い顔には……苦笑が浮かんでいる。
「誰か来たぞ」
「……え?」
その時になって初めてフォロンは呼鈴が鳴っている事に気付いた。
「あ……ああ。うん」
しかしフォロンは動かない。
一瞬でもコーティカルテの側を離れたくはなかった。離れれば――触れていなければ次の瞬間には彼女の存在そのものが消え去っていそうで。
精霊に人間の様な肉体は無い。
あくまで物質に――肉体が在る様に擬態しているだけの事だ。だから精霊が死ねば死体すら残らない。それをフォロンは知っている。何度か精霊の死は見ているからだ。
「フォロン」
コーティカルテが促す。
「やれやれ。まるで子供だな――もうお前は大人だろうに」
コーティカルテはベッドを降りる。
彼女は右手で優しくフォロンの背中を押して――むしろ彼女の方が病人に付き添つ様な格好で、渋るフォロンを玄関まで連れて行った。
「……ほら」
「あ……うん」
コーティカルテに促されフォロンは玄関の扉越しに『はい』と応えた。
「フォロン先輩?」
扉越しに返ってきたのは知っている声だ。
「私です――ペルセルテです」
フォロンは特に深く考える事も無く鍵を外して扉を開いた。
「こんばんは――……!?」
扉が開くなり――ユギリ姉妹がぎょっとした表情を浮かべた。
大人の状態のコーティカルテの姿を見たからだ。
元々、難しい仕事の現場や切迫した場面で彼女の『本来の塗を観る事は在っても、日常風景の中でこの状態のコーティカルテを見る事が先ず無い。しかもこの状態の時のコーティカルテはいつも紅いドレスの様な衣装を着ているのに――今はフォロンのジーンズとセーターという服装だったから尚更に違和感は強い。
「ちょ……ちょっと!」
ペルセルテにはそれ以上に――別の事が問題であったらしい。
「ど……どーして。何なんですか……それ!? 何なんですかその体勢……!?」
顔を真っ赤にしてペルセルテはフォロンとコーティカルテを指差す。コーティカルテの左手はフォロンの肩に添えられているので、状態としてはフォロンの身体を彼女が背後から抱き締めている様にも見える。
「ふふん――常日頃から言っているだろう」
得意げな口調に――フォロンは弾かれたかの様に振り返った。
いつものコーティカルテの口調だ。
あまりにも――いつも通りの。
今の状態ではまず有り得ない程の……
「フォロンは私のものだからな?」
それはつまり。
彼女が必死に――無理をしてでも日常を装っているという事だ。
恐らくはペルセルテ達に心配をかけまいとして。
だが……
「違います! フォロン先輩は、みんなの先輩です!!」
「残念だな。フォロンはお前達に会うより前に、私と契約を済ませているのだ」
「そんなの関係ないです!」
「関係ある」
「ないです!」
「ある」
「ないです!」
「ある」
「――ペルセ」
フォロンが言う。
「ないです!」
「あるったらある」
「ないったらないです!」
「ペルセルテッ……!」
ぎくりとしてペルセルテが驚き――身を強張《こわば》らせる。
フォロンの叫びにひどく悲痛なものが含まれていたからだ。
「……フォロン……先輩……?」
戸惑いの表惰を浮かべるペルセルテ。
フォロンが怒って叫んだのではない事は彼女にも判っているだろう。むしろフォロンの発したその声は慟哭の様で――誰かを責めると言うより、誰かに縋り付くかの様なものだったからだ。
「フォロン……」
答める様にコーティカルテが声を掛ける。
だがフォロンは首を振って――言った。
「ごめん。でも今は……」
とてもコーティカルテの様に日常を装う事など出来ない。
ペルセルテ達に心配を掛けるのは良くないと判ってはいるのだが……とても今のこの心情で呑気に笑ってなど居られないのだ。
「…………」
ペルセルテはフォロンとコーティカルテの顔を交互に見つめる。
フォロンは、何かを耐える様な表情で唇を噛んで眼を伏せている。
そしてコーティカルテは、いつもと違う何処か気怠げな苦笑を浮かべている。
さすがにペルセルテも何か気付いたのだろう――そもそもコティカルテは一晩とはいえ入院していたのだ――小さく息を呑み、彼女は表情を強張らせた。
黙り込んでしまった姉の代わりに、プリネシカがそっとビニール袋を差し出す。
「あの――これ」
スーパーマーケットの名が印刷された白いビニール袋だ。
「サイキ先輩が、代わりに持っていってくれって――」
「すまんな」
黙り込んでしまったフォロンの代わりにコーティカルテが言う。
「……奴は未だ忙しいのか?」
恐らくコーティカルテとしては、フォロンと自分が休んでしまったしわ寄せをレンバルトが引き受けているのか――という程度の問いであった筈だ。いつも傲岸不遜な言動の彼女にしては珍しく、しおらしい発言ではあったが……何気ない会話の延長の積もりで出た台詞であったろう。
ただ……
「…………」
「…………」
ペルセルテがはっとして身を強張らせる。プリネシカが憧かに眼を伏せる。
不自然な沈黙が四人の間に横たわった。
「……何処に行った?」
コーティカルテはやや語調を強めて問うた。
だが双子は答えない。
「…………」
「…………」
ただ――互いに視線を交わして駄り込んでいる。
「何処に行った? ユフィンリーも一緒か?」
改めて問い直すコーティカルテ。
だがやはり双子は無言。
「ペルセルテ……? プリネシカ……?」
怪訝そうにフォロンがユギリ姉妹を見つめる。
そして――
「港です」
そう告げたのはプリネシカの方だった。
驚いた様に妹を振り返り――しかしペルセルテは止めなかった。
「マナカダ市の――クムリ港に」
「港って……なんでそんな処に?」
とりあえずフォロンが覚えている限り、予定表ではそんな場所での仕事は入ってはいなかった筈だ。そして今のツゲ事務所に、新たな仕事や飛び込みの仕事を引き受けている余裕は無かろう。
おかしい。
こんな時間なら港湾事務所も閉まっている筈だ。夜間の荷の積み降ろしや、その他の作業が無い訳ではないだろうが……
「……ペルセ」
プリネシカが確認するかの様に姉の顔を盗み見る。
ペルセルテは頷いて――そして言った。
「荷物を取り返しに行ったんです」
「荷物って――」
一瞬、フォロンは意味が分からなかった。
だが今のツゲ事務所が『取り返す』ものと一言えば一つしかない。
「……そんな!」
無茶だ。
神曲楽士二人を含む『囮』の実行犯三人は確かに捕まった。だが異形の上級精霊二柱は逃走したままだ。
ダンテの〈奏始曲〉が精霊の意志に関わりなく制御を可能とするものであるのは既にフォロン達も知っている。ならば別の神曲楽士でも、あの上級精霊を操る事が出来るだろう。囮役に神曲楽士を二人も使う連中だ。他に――しかももっと技量が上の神曲楽士が居ても不思議はないし、更にはもっと何柱も奏始曲の虜になった上級精霊を揃えていてもおかしくはない。
いくらヤーディオが戦い慣れているといっても限度が在る。上級精霊が二体も居れば、たとえ神曲で力を増大させていたとしても中級精霊の彼では全く歯が立たないだろう。
また契約状態にない精霊では、幾ら沢山呼び出しても、片端から敵に操られてしまう。
ならば……レンバルトが従える事の出来る下級精霊達は、実効戦力にはならない。
確かにユフィンリーにはもう一柱――契約精霊が居る。
だがマサードの召喚は最後の最後……殆ど禁じ手の様な存在だ。ユフィンリーがその精霊を滅多に喚ばないのは――フォロンですらも名前を聞いた事が在るだけで会った事が無いのだ――あまりにもその力が強大過ぎて、精密さに欠け、むしろ扱いにくいからだと聞いた事が在る。
その意味で実効戦力としては小回りが利き、精密な攻撃も可能なヤーディオの方が優秀なのだ。特に今回の様な奪還作戦ならば尚更だろう。
どう考えても勝てない。勝てる要因が無い。
将都高速であれだけの事をした相手だ。ユフィンリー達に正面から戦う積もりは無くとも、乗り込んで行けば間違いなく殺す積もりで迎え撃ってくるだろう。
「どうしてそんないきなり……僕等に一言の相談も無く……」
「フォロン先輩達は自宅待機だって――所長が」
ペルセルテが申し訳無さそうに言う。
「…………」
フォロンは唇を噛む。
気を遣ってくれたのは分かる。ユフィンリー達の気持ちはとても有り難い。普通の仕事なら彼女等に感謝して、フォロンはゆっくりコーティカルテの看護をしていた事だろう。
しかし……
「――フォロン」
フォロンの手を握るコーティカルテの指に力がこもった。
「躊躇《とまど》うな。己を騙すな。思いを押さえ付けるな」
「コーティ……」
「お前はただその思いを真っ直ぐ神曲に乗せればいい」
紅い髪の精霊は悠然とした口調で言った。
「乗せて――余じろ。ならば私とお前に不可能は無い」
湾岸道路からクムリ港搬出入口に入る手前で車の灯火を消した。
そのまま――月明かりと港湾施設に点在する常夜灯を頼りに埠頭へと滑り込んでいく。
ユフインリーの〈シューティング・スター〉に続くのは言うまでもなくレンバルトの〈シンクラヴィス〉である。二台は手前の倉庫に接近――二度程切り返して港湾道路に鼻面を向けて後退。数メートル後退して停止した。
エンジン停止。
元より低く抑え込まれていたエンジン音だが、停止と同時に周騒の雑音が――港湾施設の間を吹き抜けていく風の音や、コンクリートの岸壁を掻く微かな波の音が改めて聞こえてくる様になった。
車を降りる。
レンバルトはバギーの幌を開いたまま。ユフィンリーもドアはロックしないでおいた。運が悪ければ盗まれるかもしれないが――撤収の際におけるキー解除の手間を考えると、やはり開けておいた方が安全だろう。数秒の手間取りで命を落とす事も有り得る。
わざわざ二台で来たのも念の為だ。
何らかの事情で片方が使えない――盗難も含めて――状況となってももう一台が使える可能性が残る。二台とも盗まれてしまえばそれまでだが、適当な処で割り切らないと何も出来ない。
「行くよ」
「はいよ」
小型の単身楽団を背負ったユフィンリーに、同じく小型の単身楽団を背負ったレンバルトが続く。小型な分、少々スピーカー出力や各種エフェクタの設定項目が心許ないが、動きが阻害される様な大型のものを携えての隠密行動には無理が在る。実の処、単身楽団はあくまで念の為の装備に――最悪の事態に対する備えに過ぎない。正面から精霊達の戦闘になれば、もうその時点でこの作戦は失敗である。
ちなみにヤーディオの姿がないのは、まだ完全に物質化していないからだ。
姿を消しているのとは違う。同じ空間に『存在』してはいるが――完全に肉体として結合していない。物質化して肉体を収東させる途中で止めた――非常に密度の荒い状態である。別の言い方をすれば気体の様な状態だ。
これは偵察のためである。
勿論、相手が精霊を見張りに立てているならば無意味だが――物質化していなくとも精霊は精霊の存在を感知は出来る――人間の見張りならばまず気付かれる事は無い。
種類の異なる感知器《センサー》を幾つか併用すれば、非物質化精霊の存在を察知する事も不可能ではない。だが軍事施設でもない限り、そこまでの警戒態勢はまず敷くまいし、敷いていたとしても複数の感知器からの情報を俯瞰して、そこに非物質化精霊の存在を察知するには経験と勘が必要になる。
「――大丈夫だ」
ヤーディオの声がユフィンリーの耳に届く。
「右っ側から回り込め」
倉庫の脇にわだかまる闇に身を潜めつつユフィンリーは言った。
「見張りは?」
「三人。人間だ。それに死角がある」
「誘導よろしく」
「任せろ」
ヤーディオの指示に従って右側へと回り込む。
夜の黒々とした海原の向こう側に――空港の灯が見えた。夜間飛行の旅客機が着陸態勢に入っているのだろう。光の点が二つ間隔を保ったままゆっくりと下降していく。さすがに距離があるので、ジェット・エンジンの轟音も耳を圧する程ではないが――それでもユフィンリー達にとっては有り難い。足音や物音を消してくれるからだ。
倉庫の周辺には貨物のコンテナやフォークリフトが放置されていて、あちこちに光の届かない闇がわだかまっているが、ユフィンリー達の他に動くものは見当たらない。当然、他に人影も見当たらない。
「――止まれ」
四棟ほどの倉庫の前を一気に駆け抜けた処でヤーディオの声に制止された。同時にレンバルトの足音も停止したのは、彼の耳にもその囁きが届いていたからだ。
ユフィンリーとレンバルトは積み上げられたフォークリフト用パレットの陰に隠れる。
その五メートルばかり先で倉庫の列は途切れている。その向こうに見えるのは間題の船――ホルカンド船籍輸送船〈オルニキア〉号の船尾だ。
思ったよりも周囲が明るい。
付近で照明が点いているのは、船の甲板や桟橋だけだが……やはり月明かりが全体的に風景の明度を上げている。船の脇にそびえるクレーンの影がくっきりとアスファルトの地面に描き込まれて見えた。
「覚悟は決めたか?」
不意に――ユフィンリーとレンバルトの背後の空間が揺らめく。その揺らきが生み出した風景の歪みは、次の瞬間に色を帯び、厚みを帯びて、ヤーディオの形へと変化していた。
「いいわ」
「こっちも勿論」
ユフィンリーとレンバルトが応える。
頷いてヤーディオは二人に腕を伸ばして腰を抱き――足音も立てずに地を蹴った。
舞い上がる三人分の人影。
ヤーディオは二人を抱えたまま――というかユフィンリーやレンバルトの側からすれば殆ど吊り下げられている様な気分だが――一気に上昇する。一見不必要な程に高度をとるのは、先に彼が言っていた『見張りの死角』に滑り込む為だ。
遙か彼方に船の甲板が見える。
ヤーディオの言った通りだった。見張りが甲板の上に三人。一人は船首付近。一人は船尾付近。一人は真ん中。ただしいずれも左舷側で埠頭の方に視線を向けている。要するに彼等の警戒心は陸の方だけを向いているという事だ。
服装は特に統一されていない。いかにも船乗りにありがちな暗色の防寒着であるという点だけは共通している。一見しただけではただ船員が甲板の上に居る――ただそれだけの図に見えるかもしれない。
ただし――
「――銃だ」
レンバルトが呟く。
よく見ると、三人は手に黒く細長いものを携えている。殊更に構えていないのは、単なる船員を装う為だろう。角度の関係で埠頭の方から見上げる限り、船縁の陰に隠れて彼等が銃を提げているのは見えない筈だ。
「心配すんな」
ヤーディオが言った。
「ちゃんと目立たねえとこに降ろしてやるよ」
その言葉通り――するするとヤーディオ達が降下していく先は右舷側だ。しかも船橋を挟んでいるので、三人の見張りからは完全に死角に入る位置である。
船橋の屋根あたりで減速して降下の勢いを殺し――ヤーディオは音も無く着地。抱えている二人の姿勢を確かめてから……これまた音を立てない様に腕を緩めて降ろした。
「うげ……」
レンバルトが口元を押さえる。飛行酔いだ。
契約精霊が居ない彼は、こういう形での移動に慣れていないのだ。無論――たとえ契約精霊が居たとしてもこんな移動をせねばならない場面は極めて限られるだろうが。
「大丈夫……?」
ユフィンリーの囁きに――
「平気です」
苦笑を浮かべて囁きで応える。
「ここから入れる。さっき偵察に来た時に鍵は外しといた」
言いながらヤーディオが肩ごしに親指で指して見せるのは――甲板から船橋内部へと続く扉だ。
「戦場への入り口――って訳だ」
にやりと笑うヤーディオ。
その額にユフィンリーの掌がぺちんと叩き付けられたのは次の瞬間であった。
「あだ」
「そういう事を嬉しそうに言わないの」
苦笑するヤーディオ。
彼は『じゃあな』と言い残して甲板を蹴った。
蒼銀の髪の精霊が一気に垂直上昇していく。
「行くわよ」
ユフィンリーは船橋の扉に手を掛けた。
「所長……」
レンバルトの声に振り返るユフィンリー。
「なに? 忘れ物でも思い出した?」
「冗談言ってる場合じゃなくて――念の為に限いますけど。ちゃんと判ってますよね?」
「なにが?」
「戦いに来たんじゃなくて。盗みに来たって事」
昨日の――将都高速道路での上級精霊や、それと同等の戦力が出てくればヤーディオ一柱ではまず勝てない。どういう形であれ、事が『戦闘』によって決する状態に陥ってしまえばユフィンリーやレンバルトに勝算は無い。マサードを呼ぶ事も出来るだろうが――その力の巨大さと反比例して精密さに欠ける彼では、問題の〈コア〉を船ごと破壊しかねない。
「判ってるよ」
ユフィンリーは言った。
「ヤーディオもね。だからあの戦闘馬鹿が派手に暴れている間にとっととブツを回収。とっとと撤収。いい?」
「了解です」
レンバルトが頷くのを見屈けてからユフィンリーは扉を開く。
同時に――ヤーディオの放つ銀の精霊雷が甲板上に炸裂した。
将都高速から一般道へ降りる。
クムリ港は基本的には工場地帯に隣接する貨物港である。港へと続く道路は幅が広く一般の乗用車の姿は殆ど観られない。昼間であれば大型トラックの度重なる行き来で二本の溝めいた窪みが――轍《わだち》の付いた路面を確認する事が出来ただろう。
フォロンの運転する〈ハーメルン〉は、路肩に駐車した長距離トラックの列や、空き地に積み上げられたコンテナの群れを横目に、灯の消えた港へ向かって走る。
バックミラーを見るとペルセルテとプリネシカを乗せたタクシーもきちんとついてきているのが確認出来た。
正直、フォロンとしては未だ学生である彼女等を連れて来る事に抵抗も在ったが……どうしてもついていくと言われると拒みきれなかった。特にペルセルテの性格からすれば置いていった処で勝手についてくるだろう。ならば未だ自分の目の届く範囲に居てくれた方が安心出来る。
「――もうすぐだよ」
フォロンは言った。
「うむ」
と応じるのは後部座席に乗るコーティカルテである。
気丈に振る舞ってはいるが――やはりその声にはいつもの力が無い。
本当ならばこんな場所に来る事が出来る状態ではないのだ。
「でも本当に――」
「くどいぞ」
フォロンの台詞に覆い被せるコーティカルテの声は苦笑が混じっていた。
ユフィンリー達の『奪還作戦』とその危険性について知ったフォロンは――しかしそれでもコーティカルテを連れてその現場に行く事には、躊躇を覚えていた。フォロンにとってはコーティカルテもユフィンリー達と同様に――いや、ある意味では彼女等以上に大事な存在だ。死の危険さえ感じられる状態の彼女を連れて『戦場』に行く事に、逡巡を覚えない筈が無いのだ。
だがコーティカルテはそんなフォロンに溜め息を一つついて告げた。
今すぐ自分は死ぬ様な状態ではない……と。
今のコーティカルテは『大人』状態の自分を制御し切れていない。故に彼女はただ存在しているだけで『力』を無意味に放散してしまい――消耗していく。『力』が漏れ続げている状態だ。これが恒常的に続けば、最終的に彼女は衰弱する。
だが他の身体的機能に関しては精霊医師が言った通り基本的に問題は無い。
エネルギーの収支における均衡が崩れているだけで、毒や病によって身体の各種機能が破壊されている訳ではないのだ。
故にフォロンの神曲さえ得ていれば短期的な活動――例えば数時間の戦闘には何ら問題が無いし、その結果として状態が悪化するという事も無い。
少なくともコーティカルテはそうフォロンに説明した。
だから――見当違いの遠慮をせず、ユフィンリー達を助けに行くべきだと。
『私に気を使ってくれるのは嬉しい。だが――その結果としてお前が、一生残る激しい後悔を背負う事になればそれは……私にそれは耐え難い苦痛だ」
コーティカルテはそう言った。
今も――
「お前の後悔は私の後海だ。お前が私のものである様に私はお前のものだ――精霊契約とはそういうものだ」
共に寄り添う事。
共に力を共有する事。
共に束縛し東縛される事。
「…………」
契約。
その言葉が――ハンドルを握る今のフォロンにはひとく重い。
背中に寄り添うコーティカルテの……その温もりと共に、ずしりとした重みとなってのしかかってくる。支えきれないとは言わない。だが――ひどく重い。
そも……どうしてこんな関係が成立し得るのか。
人間は精霊の持つ力を求める。精霊は人間の演奏する神曲を求める。それ故に互いに寄り添い――ある一線を越えた時それは、契約という義務と権利を伴う形に結実する。
だがその関わりの不自然さにフォロンも気付いてはいた。
本来……神曲は精霊にとって必要不可欠なものではない。
そして精霊の持つ力も人間にとって必要不可欠なものではない。
神曲は精霊に陶酔と力を与えるが――引き換えに暴走の危険牲を突き付ける。精霊の力は人間に利便と豊かさを与える一方で――羨望と憎しみと争いを呼ぶ。
では精霊契約など本来は無かった方が良いのではないか?
そもそも人間と精霊は関わり合うべきだったのか?
(もし……)
フォロンはふと考える。
コーティカルテとの精霊契約を解消するとしたら――どうなる?
元々、『変身』する事も含めて彼女がこんな不安定で特殊な状態になったのは、フォロンとの契約が原因だ。初めてあの孤児院の屋根の上で出会った時、中途半端な契約状態で引き離され、永い封印期間を強制されたが故にその在り方が歪んでしまった。
再会し契約を完全な形にした後も、彼女の不安定さと特殊性は残った。
だが――全ての原因であるフォロンとの精霊契約を解除すれば彼女はどうなる?
あるいはフォロンと出会う前の『健康体』に戻る事が出来るのではないか? 本当に彼女の事を思うなら――彼女に死んで欲しくないなら、何かと束縛の多いこの精霊契約を解消し彼女を自由にしてやるべきではないのか?
(でも……)
この事件が終わったらコーティカルテとの精霊契約を解除する――それが果たして自分に可能だろうか?
事情を説明すれば恐らく彼女は拒否はしないだろう。
すぐに再調律を開始して、きっと半年後には正式な契約解消が成立した事を告げるに違いない。最早、自分はフォロンの神曲無しでも生きていけると。
その時コーティカルテはどんな顔で……その事実を告げるのだろう。
その時フォロンはどんな顔で……それを受け入れるのだろう。
それは一つの蜜月の終わりだ。
しかし……
「フォロン」
ハンドルを握る腕の脇からコーティルテの手が伸びて前方を指す。
「いる。あそこだ」
海岸沿いの道路が大きく左へ弧を描いて港湾口へと続いている。道路脇の植え込みのせいでよく見えないが――コーティカルテはその先を指しているようだ。
埠頭である。
クムリ港の敷地にフォロン達は入った。
ウィンカーを点けて車体を左へ倒す。闇に沈む港湾施設を、前照灯の光が舐める様に横切っていき――
「あ……!」
前方の倉庫の手前に見慣れた車が二台――白い光に照らされて浮かびあがった。
〈シューティング・スター〉と〈シンクラヴィス〉だ。
フォロンは二台の車に近づくと〈ハーメルン〉を停車させた。
既に車内にはユフィンリーやレンバルトの姿は無い。〈シンクラヴィス〉は幌も開いたままで――いつも後部に積まれている予備の小型単身楽団や護身用の銃も見当たらない。
「先輩!」
タクシーから降りてペルセルテとプリネシカが駆け寄ってくる。
「もう所長達は……?」
「うん。さすがに間に合わなかったみたいだ……」
出来ればユフィンリー達が船に乗り込む前に合流したかったのだが……こうなってはフォロンはフォロンで個別に作戦を立てて乗り込むしかない。
その時――
「――!」
フォロンの視界の端を閃光が過ぎった。
閃光を追う様に振り返るフォロン達。彼等の視線の先――埠頭の先に一隻の大型貨物船が接岸しているのが見えた。
「――あれか」
船名を確認するまでもない。
瞬く銀の光はヤーディオの精霊雷だろう。
「遅かった……」
「いや――まだだ」
振り返ると――コーティカルテは緋色の瞳を細めて甲板上を凝視している。彼女の双眸には銀色の閃光が連続して瞬いていた。
「未だ陽動を始めたばかりだろう」
一応……ユギリ姉妹からユフィンリー達が行う作戦のあらましは聞いている。
ヤーディオが陽動を行い――その隙にユフィンリー達が潜入して荷物を取り返す。ただそれだけの荒っぽい作戦である。それはつまり、現時点でユフィンリー達が行使出来る最大戦力であるヤーディオが早々に倒されてしまえば、ユフインリー達は身を守る術も無く敵中に孤立する事になる。ヤーディオの陽動が敵に察知された時も同様だ。
はっきり言ってしまえば、あまりに危うい作戦である。
しかし――
「今すぐヤーディオに合流して――フォロン、お前が支援をしてくれれば何とかなる」
陽動と気付かれようと気付かれまいと大差無い。
圧倒的な力で攻め立ててやれば、ユフィンリー達に回す敵の兵力は相対的に減らざるを得ない筈だ。それはつまり彼女等の生存確率が上がる事を意味する。
「そうだ。お前と私なら出来る」
自信を漲らせて緋色の髪の精霊は断言した。
「コーテイ……」
無理だ――と思った。
闘う事がではない。それに関してはもうフォロンは覚悟を決めた。
ただ……
(……契約解消なんて……できっこない……)
確かに不自然だと思う。
互いに関わり合い無く存在出来る筈の両者が互いに依存し合う関係は――ある意昧で不健全ではあるのだろう。違う存在同士が寄り添うが故の問題点は常に山積みにされていくだろう。
だが……それでも。
手を取り合い高みに昇る愉悦。不可能を可能に――一人では決して行く事の出来ない場所に行く事が出来る喜びを、それを互いに共有出来る歓びを、最高の相棒を得たが故の安心感と高揚感を……多分手放す事はフォロンには出来ない。
次に襲い来る喪失感にきっと自分は耐えられない。
だから――
(だからもし……どうしてもコーティの死が避けられないのなら)
コーティカルテがフォロンを見送るのでもなく。
フォロンがコーティカルテを看取るのでもなく。
三つ目の可能性が――そこには残っている。
「コーティ」
「うむ」
「判った。一緒に――いこう《・・・》」
決然と告げる神曲楽士の青年に――緋色の髪の旧い精霊は苦笑して見せた。
「当たり前だ」
苦笑が優しく溶ける。
労る様な。慈しむ様な。
初めて出会った時の彼女が浮かべていた様な。
「私とお前は……ずっと……一緒だ」
それは契約ではない。
それは――約束だった。
セイロウの枝族の中でも人間に酷似したフマヌビックの形態をとる者は少数派である。
特にウォダの柱名を持つ者の中でフマヌビックとなった者は、少なくとも記録を紐解く限りわずかに数柱が確認出来るのみだ。勿論、人間側の記録に残っていない精霊達も数多いが――それでも記録の中の割合はそのまま精霊全体にも当てはまる。セイロウの枝族は比較的数多いが、フマヌビック形態に落ち着いた個体は極めて少数――言ってみれば例外に属する。
その一柱がヤーディオ・ウォダ・ムナグールである。
温厚で物静かな者の多いセイロウの枝族にあって……彼の好戦的な性格はその姿と共にまさしく特異だ。しかもフマヌビックである理由が『格闘技は人間のものが最も面白い』というものなのだから――もはや異端であると言った方が正しいかも知れない。
つまり格闘技を楽しむ為だけに、彼は自らをフマヌビック形態に固定したのだ。
とはいえ、己の嗜好の為に神曲に集い、時に自らの存在を調律までしてしまう精霊達――その意味ではヤーディオという存在は実に精霊らしいとも言える。
ともあれ――
「おうおう――出てきた出てきた」
ヤーディオは舌なめずりせんばかりの笑みで周囲を見回した。
甲板と船の周囲の海面に精霊雷を何発か叩き込んだ。
ただし威力はやや抑えて光と音を放つ事に重点を置いたものだ。見張り三人は直撃を喰らって昏倒し、船体は轟音と共に僅かに揺れはしたが――実質的な被害は無い筈である。ヤーディオの役目は船を破壊する事ではないし……何よりも『体力』を温存する必要も在ったからだ。
今のヤーディオにユフィンリーの支援神曲は無い。
文字通りの孤軍奮闘だ――最初から全力でトバしていたらすぐにバテる。
とにかく目論見通り、敵は反応してくれた。
船橋や甲板のハッチからぞろぞろと人影が吐き出される。
五人……一〇人……十五人……二〇人……二〇人そこそこ。
全員が人間である。
しかも――
「おっ――判ってるじゃねえか」
ヤーディオは嬉しげに笑う。
銃を手にしている者は僅かに数名。大半が刃物か――棍棒の類だ。まさか武器が足りない訳でもあるまいし……恐らくは船体に弾痕を残すのを嫌っての事なのだろう。当たり前だが弾痕が付いた船は何処の国でも臨検の対象になり易く、官憲もうるさい。
「そうそう……銃は無粋でいけねえや」
船首を背にした蒼銀の精霊を――武器を手にした二〇人程が扇型に包囲する。
幸い精霊である事に気付かれた様子は無かった、わざわざ羽根を隠しておいた甲斐が在るというものだ。
あるいは先の精霊雷を見て気付いている者や、将都高速の一件を聞き及んでヤーディオの存在を知っている者は居るのかも知れないが――未だ眼の前に立つ蒼銀の精霊の素性について、確信を持ててはいない状態だろう。
左体側を前に――脚を軽く前後に開く。
「そんじゃ――いっちょ遊んでもらいましょうかね」
どん……と金属製の甲板を蹴る。
敵のど真ん中に向かって一気に間合いを詰めてゆくヤーディオ。
振り上げられた鉄棍が彼を迎えた。空気を切る音をたてて、振り下ろされる凶器。頭都狙い――明らかに殺気のこもった一撃だ。
かすりもしなかった。
優雅とさえ言える動きで身をひねって、殴った当人の脇をすり抜ける。そのついでに後ろから平手で、はたいてやっただけで――鉄視の男は後頭部を抑えて転げ回った。
「ありゃ――悪い、もっと手加滅しなきゃ駄目か?」
「この野郎ッ!!」
芸のない罵声と共に背後から突き込まれるのは――出刃包丁程も長さの在る、大撮りのハンティング・ナイフである。ひょいと腰をずらして回避すると、刃物を握った腕はヤーディオの脇の下から勢い余って前方に突き出した。
その手首を掘んで――無造作にひねる。
「ぎげっ!」
濁った悲鳴と共に一回転して男の身体は背中から甲板に叩きつけられた。そのまま男は起きあがって来ない。甲板の上で身を縮めて呻くばかりだ。
「…………!!」
実質、十秒にも満たない時間で二人を無力化されたのを見て――残った男達の間に改めて緊張が走る。裸の上半身に、袖無し毛皮付きの外套と、格好こそ妙に傾いているが……自分達が相手にしている存在がそんじょそこらのチンピラの類ではないとはっきり認識したのだろう。
男達も全くの素人ではないという事だ。
改めてそれぞれの武器を構え直し――そして一斉に、しかし微妙に機をずらしてヤーディオに押し寄せた。数で押し包んで倒そうという算段だろう。
いちいち打ち合わせも無く、そうした戦術に出たのは見事な連携と言える。一応ながら何らかの集団戦闘訓練を受けた者達なのだろう。
しかし――
「へっ――」
ヤーディオが踏み込んだ。
殺気立って押し寄せて来る大勢を前にすれば、普通は反射的に後退する。そこを一気に押し包んで身動きそのものを封じるのが、こうした多対一の多数側が取る基本戦術である。
だがこれは――相手が冷静に対処してくれば途端に弱点を露呈する。
混戦になってしまうのだ。
「――っ!!」
「だあッ!!」
「うおっ!?」
鉄棍だのナイフだのが入り乱れ――悲鳴と呻きが交錯する。
相手を押さえ込み損なって隊列を乱し、ただの人の『塊』になってしまった男達の真っ只中で、ヤーディオが踊っていた。舞う様に身を捻り、旋回し、ばらばらに叩き付けられるぞれぞれの攻撃を流して捌く。男達は仲間の外れた攻撃に傷付けられて苦鳴や驚樗の叫びを漏らしているのだ。
更に、その中へたまにヤーディオが反撃を混ぜると益々苦鳴が増える。
男達はたった一人のヤーディオをその十倍以上の人数で包囲しながら……しかしそのたった一人によって完全に翻弄されていた。
「くっ――」
銃を持っている者は――構えはするものの引き金を引けない。この混戦状態では迂闊に撃てば味方に当たる。いや。それどころか十中八九味方に当たる。何しろ混戦とは言っても敵はヤーディオ一人なのだから。
「どーしたどーした? ちーとも当たんねーぞ」
右へ左へと目まぐるしく動きながらヤーディオは挑発する。
「頼むから本気出してくれよ」
ついでに彼は大袈裟に――欠伸までしてみせた。
ヤーディオの役目はあくまで陽動である。その戦闘の目的は敵の殲滅ではなく、少しでも長い間、少しでも多くの敵を自分の側に引きつけておく事にある。背中の羽根を隠しているのも挑発もその為だ。
すっぱり素早く倒してしまうとそれはそれでまずい。
その意味で確かにヤーディオの挑発は多少の本心を含んではいた。有り体に言えば彼は戦いを長引かせる為に手加滅しているのである。ヤーディオが本気で『楽しんで』いればとっくに勝負は終わっている。
だが……
「気をつけろ!」
一つだけ誤算が在った。
混戦の外側で誰かが叫んでいる。
(――やべ)
顔をしかめるヤーディオ。
見張りの一人である。精霊雷を叩きつけて失神させた筈だったのだが……ちと手加減し過ぎた様だ。精霊弾を使うならともかく、精霊雷の直接投射は威力や精度の調整が難しいのである。
「精霊だ!」
救命艇を吊り下げる鉄柱に縋って立ちながら見張りが叫ぶ。
「そいつは精霊だ!!」
(もうバレちまったか)
混戦状態が突然――停止する。
まるで時が止まったかの様だった。文字通りにわずか一瞬ではあるが……自分達が闘っている相手に対する認識を改め、戦術を切り替えるのに男達は時間を要した。
「しゃあねえな」
ヤーディオが呟くなり――武器を振り上げて固まっていた連中が四方へと弾かれた。全員が全方位に向けて発生した衝撃波に吹っ飛ばされ、放射状にひっくり返ったのである。
立っているのはヤーディオだけだ。
その背中に――羽根が輝いている。
ナイフの刃を想わせる銀色の羽根が四枚。それは紛う事無き中級精霊の証だ。
「精霊だ!」
「精霊が侵入したぞ!」
「楽士を呼べ!」
やれやれ――とヤーディオが苦笑を浮かべた時だ。
「……呼ぶ必要はない」
ぼそりと声が呟いた。
「ここにいる」
何時の間に――何処から出てきたのか。
見覚えの在る男が二人、船橋を背にして立っている。
向かって左は細身の長身。右側はずんぐりとした小男。
絵に描いたようなデコボコ二人組――偽の輸送車に乗っていたあの男達だ。
「――お?」
ヤーディオが怪訴そうに声を上げる。
「お前等――捕まった筈じゃなかったか?」
「さてな」
と小男の方が言った。
(――脱走してきたか)
ヤーディオは考える。
精霊に対するものに比べて、人間の神曲楽士に対する警戒は緩い。楽器を取り上げてしまえば基本的に彼等はただの人間でしかないからだ。
契約関係に無い精霊にも強制支配を及ぼす事が出来る奏始曲であるからこそ、あの異形の精霊二柱は、この二人組の神曲楽士と精霊契約を結んでいないのではないか――ヤーディオ達も精霊課もそう考えていた。
だがもし精霊達がこの楽士達と精霊契約を結んでいたのならば……暴走を回避する為にも、精霊達は楽士達を奪還しようとするだろう。
ましてイグロック市の市警に精霊課は無い。
その関係でルシャゼリウス市の精霊課がイグロック市の事件も担当する事になる訳だが、逮捕された楽士達がルシャゼリウス市の精霊課施設へと正式に身柄が移送されるまでには、当然ながら幾つかの細かな手続きだの何だのが必要だ。それまでは一般の犯罪者と同じ施設に楽士達は留置される事になる。
専門設備が無く、関係者もあまり精霊絡みの犯罪に通じていないイグロック市警察の留置場は、上級精霊達の眼から見ればいくらでも付け入る隙が在ったに違いない。
「さて――」
上着を脱いでネクタイも緩めているのは、くつるいでいたのだろうか。だが二人共その表情に油断は無く――当然ながら共に単身楽団を背負っている。
楽士達の背中でばしゃりと金属音が弾けた。
アームの先端に取り付けられた主制御楽器が、回転しながら楽士達の脇を抜けて、その胸元に据えられる。長身の方がサキソフォン。小男の方がトランペット。共に単身楽団は逮捕の際に押収されている筈だから、これは予備のものだろう。
楽士達はそれぞれの楽器を手にし黒いマウスピースを口元に運び――
「あー、ちょい待ち」
ヤーディオは掌を突き出してその動きを制止する。
「なんだ」
不機嫌そうに応えるのは長身の方である。
小男の方も動きを止めて怪諾そうにヤーディオを眺めている。別に無視してしまっても良かろうに――案外、律儀な運中なのかもしれなかった。
「テレビを観てたんだ。とっとと終わらせたい」
「ザイツ・ベクスレイの打席なんだよ。ホームラン打てばサヨナラなんだよ」
長身と小男がそれぞれに言う。
「いや――わりい。丁度いいから、ついでにちょっと訊きたい――てか確かめたい事があるんだわ」
「言ってみろ」
と小男が言う。
「あんたら、うちに何か恨みがあって――それでやってる? それともそういう奴に雇われたとか、そんな感じか?」
「うち……というのは何だ?」
「ツゲ神曲楽士派遣事務所の事だろう」
怪諾そうな長身の楽士に――小男の楽士が言う。
つまり彼等にとってツゲ事務所の名は改めて告げられなければ意識に登ってこない程度のものであるという事だ。
(――成る程)
胸中で頷いてからヤーディオは言った。
「いや――いい。今の返事で判ったから」
やはりこの連中は問題の『荷物』――〈コア〉そのものが狙いだった訳だ。ツゲ事務所の存在はあくまでその過程の排除すべき障害という認識でしかない。
だが……逆に言えばそれは、極めて危険な意味も含む。
放っておけば、この連中がツゲ事務所の面々に手を出す事はもう無かった。特にこの神曲楽士の二人組は単なる雇われ――プロフェッショナルである筈だ。目的を達成した後、個人的な遺恨などという、金にならない事情でわざわざ襲ってくる事は無かったろう。
だが『荷物』を奪還しようとしているユフィンリー達を見つければ……ただ放り出す程度で済ませてはくれまい。確実に『荷物』を守りきるには余計な考えを起こす連中を徹底的に――文字通りに存在そのものから排除するのが、一番効率が良いからだ。
「あと――もう一個だけ」
「何だ。早く言え」
応える長身の男は――見ると立ったままで右脚をかくかくと貧乏揺すりしている。余程、試合の続きが気になるらしい。
「始める前に言っとかねえとな?」
ヤーディオは拳を握る。
「お前らは――ベクスレイのホームランを見逃すぜ」
「…………」
「…………」
神曲楽士達は無言。
代わりに応えたのは――二つの金管楽器であった。
――るううううううううううううううううううううううううううううううぁッ!
――ふぉぉぉぉおおおおおおおおおおおッ! ふぁおぅッ! ふぁおぅッ!
二つの管楽器が捩《よじ》れた旋律を高々と吹き上げる。
潮風を貫いて響き渡る音。
そして――
――轟ッ!!
大気を震わせて二つの異形が現れた。
「――始まった」
ユフィンリーが呟く。
轟音が立て続けに数回響いて船が揺れたのは、二人が船橋からさらに下へと続く階段を降りきった時だ。拙嵯に階段の下に積まれた木箱の陰に身を潜めたユフィンリーとレンバルトの側を、何人もの男達が刃物やら棒やらを片手に甲板へと上がっていく。
念の為にと彼等の姿が消えてから――待つ事およそ三十秒。
油臭い鋼鉄製の通路に、人影は完全に絶えていた。恐らく船に乗っていた連中の大半が甲板に出てしまったのだろう。
ヤーディオの陽動は上手くいっている様だ。
「…………」
「…………」
頷き合ってユフィンリーとレンバルトは船の中を進んだ。
更に階段を二層分程降りた処で――次の揺れが船体を襲った。
精霊雷によるものではない。
単に船が揺れただけではなく……大気そのものが小刻みに震動している。しかも爆音の類とは音量の変遷がまるっきり逆だ。突発的に発生した最大音が急速に滅衰していくのが通常の爆音だが、これはむしろハウリングの様に、あるいは近付いてくる航空機の轟音の様に――元は小さかった音が、急速に成長し最大音量に達するのだ。
召喚である。
それも緊急召喚と呼ばれる類のものだ。神曲楽士の非常要請に応じ――精霊が急遽、物質化したのである。
「急ぐわよ」
ユフィンリーは言った。
緊急召喚の際に震動と異音が発生するのは神曲楽士の間ではよく知られた事だ。精霊の持つ『カ』が大きければ大きい程に――物質化に際して周囲に与える物理的影響は大きくなって当然である。
だからこそ通常、精霊達はそれらを抑えて物質化するのだ。
緊急召喚はその手間をも惜しんだ出現方法であると言える。ならば現れる現象――震動の大きさは当然ながらその精霊の持つ『力』に正しく比例する。
ユフィンリーは召喚されたのが上級精霊である事を確信していた。
それも一柱ではない。
あるいはあの――昨日将都高速で対時した異形の二柱か。そうでなくとも震動の大きさからして上級精霊が来た事は間違いが無い。そして同時に緊急召喚をした神曲楽士がそこに居るという事も間違い無い。
ならば……急がねばヤーディオが危ない。
「――所長」
先に通路の曲がり角に着いていたレンバルトが、その先を覗き込んだまま囁いてくる。
「ありました」
そう言って引っ込むレンバルトと入れ違いに、ユフィンリーは曲がり角の先を覗く。
通路は真っ直ぐに伸びて突き当たりが扉になっていた。見るからに頑丈そうな鉄の扉である。そしてその脇には安っぼい丸椅子と――短機関銃を吊帯で肩から提げた男が一人。
今まで見張りの居る部屋は無かった。
ならば此処がやはり『当たり』だという事だろう。
「どうします?」
護身用の拳銃はレンバルトもユフィンリーも持ってきている。だがこの距離で命中させられるだけの自信は無いし――何より二人共、人を殺したい訳ではない。順当なのはレンバルトが下級精霊を召喚する事だが……単身楽団を展開すると、それだけでも小さくない音が出るし、演奏情報投影装置も光を発する。精霊達を喚んで攻撃を開始するまでに相手が気付いてしまうだろう。
「…………」
ユフィンリーはもう一度見張りの様子を覗いてみる。
緊張してはいる様だ。まあ状況からすれば当たり前である。二階層も下れば甲板上の音は殆ど聞こえないが、殆どの船員が甲板に殺到している今、まさかこの見張りだけがのほほんと油断してくれている筈も無い。
しかし……
「――よし」
ユフィンリーは上着のジッパーに手を掛けて引き下げる。
「……所長?」
「しっ」
慌てるレンバルトに脱いだ上着を押し付けて黙らせ――更にユフィンリーはポケットから小さな折り畳み式ナイフを取り出してインナー・シャツに切れ目を入れる。その左右を握って引っ張ると……黒いシャツは縦に破けて、その下に隠されていたブラと、胸の谷間が露わになった。
「な――なにやってんですか!?」
囁きながらレンバルトは顔を両手で覆って――けれど指は五本とも開いている処が彼らしいといえばらしい。そんな彼の足をユフィンリーはブーツのヒールで踏んだ。
「……いてっ?」
「じろじろ見ないでよ、馬鹿」
さらに少し考えて――ユフィンリーはタイト・スカートに手をかけると、側面の縫い目にもナイフを入れてから引き千切る。裂け目はドレスのスリットの様に下着のすぐ手前まで広がった。
なかなか扇情的な姿である。
「そこで持ってて。いいわね?」
「いや――あの」
返事を聞く前に、ユフィンリーは通路の角から飛び出した。
一直線に突き当たりのドアに向かって走る。
見張りが――顔を上げた。
「助けて!!」
短機関銃の銃口が上がり――だがそれが自分の方を向ききる前にユフィンリーは悲痛な声で叫んだ。表情も今にも泣き出しそうなそれに取り繕ってある。
見張りが怪諾の表情を浮かべると共に銃口が揺れた。
我ながら名演技……と内心でほくそ笑むユフィンリー。
「助けて――お願い!」
見張りにすがりつく。
「助けて! 犯られちゃう……!」
「な? ――おい?」
「お願い! 助けて……!」
言いながらユフインリーは男に胸を押しつけて――震える手で背後を指差す。
レンバルトの隠れている方向をだ。
「ああ? な――何だ?」
まだ状況が判っていない男の顔をユフィンリーは身を反らせて下から見上げた。無論、その際に眼を潤ませて唇を震わせるのも忘れない。
男の視線が彼女の顔と――それから胸元を往復する。
「お……お前は何だ?」
「呼ばれたのよ。一晩――十万って言うから」
「あ? あ……ああ」
その一言で見張りの男はユフィンリーを娼婦か何かと錯覚してくれた様だ。
「わざわざ来たのに……上で何か揉めてて」
たまたま『出張』してきたら、甲板上の戦闘に出くわしてびっくり……と何も知らない娼婦を装いながら、ユフィンリーは続けた。
「突然、黒い服の男が襲ってきて」
言いながらそのまま見張りの男の背後に回り込む。
この段階で、ようやくユフィンリーの言わんとする事を見張りも理解したようだ。短機関銃を改めて構え直し、彼女を振り返って通路の先の曲がり角を指した。
「誰かいるのか?」
ユフィンリーは、思いっきり何度も何度も頷いてみせる。怯えた女の演技だ。
「よし――そこで待ってろ」
男は短機関銃を構えてゆっくりと通路を歩き始める。
ユフィンリーは傍らに在った丸椅予を掘んでそれを振り上げ――
――ごんっ。
後頭部を強打された見張りは呆気ない位にあっさりと床に倒れた。
「ひでぇ……」
気の毒そうに言いながらレンバルトが角を曲がってこちらへ歩いて来る。
彼は男のズボンからベルトを引き抜いて後ろ手に縛り上げた。更に足から靴と靴下を脱がせると、靴下を丸めて履いていた本人の口に押し込んだ。
「あんたの方が、ひどいじゃない」
「だって、目を醒まして騒がれたら困るじゃないですか」
そう言うレンバルトからユフィンリーは上着を受け取って着直す。襟元の紅いネクタイの事もあって、シャツの裂け目は上着の前を合わせれば目立たなくなったが――スカートのスリットだけはそのままだ。
「断っとくけど、じろじろ見たら、あんたも同じ目に遭うからね?」
「判ってますよ」
言ってからレンバルトは単身楽団を展開。
扉にスピーカーを近付けつつ――音量を絞って短いフレーズを演奏する。
「――よし」
レンバルトが呟いた瞬間、かちりと音がして鍵の外れる音が響いた。
体重を掛けて分厚い鋼鉄の扉を開く。隙間から四柱のボウライがころりとボールの様に転がり出てきた。レンバルトが彼等を召喚し――鍵を外させたのである。
「かぎ」「かぎ」「はずした」「はずれた」
「御苦労さん」
言ってからレンバルトとユフィンリーは貨物室に踏み込んだ。
思った以上に広い。
ちょっとした体育館か公民館程度にも相当する大きな空間が横たわっている。壁際には幾つかのコンテナや木製パレット、木箱の類が積み上げられてはいるが――貨物室の殆どを満たすのは空虚である。
だからこそそれは目立った。
貨物室の真ん中――床の金具とワイヤー数本によって固定された縦横二メートル余りの輸送用コンテナ・ケースは。
「中身――確認するわ」
ユフィンリーはケースに駆け寄って周囲の床から伸びる固定用のワイヤーを外した。
続けて予めオミテック社から教えられていた番号でダイアル・ロック式の錠を外し、六つの留め金をも外してケース側面の蓋を外す。
そして――
「……!?」
そこで凍り付いた。
「所長?」
レンバルトも彼女の側に駆け寄ってケースの中身を覗き込む。
「な……?」
「こ…これが?」
呻く様に呟くユフインリー。
そこには二人が想像もしなかった代物が在った。
「――それはな」
ふと響く声。
ぞっ――と全身の体毛が逆立つ感触がユフインリー達を襲った。
「『聖骸』だ」
振り返った二人が見たものはうっそりと貨物室の片隅に立つ人影だった。
いや――違う。
人に似た輸郭をしているが人ではない。
精霊だ。
(……しまった)
ユフィンリーは自分の迂闊さ加滅に臍を噛む思いだった。
そもそも他の精霊の存在は想像していた。囮に――言うなれば捨て駒に神曲楽士二名と上級精霊二柱を使う位の連中である。本戦力として他に上級精霊が居る事は充分に考えられたのだ。そしてそれを承知で――上級精霊ともやり合うのを承知でヤーディオは陽動を行っていた。
しかし……本当に奪った『荷物』が大事であるならば、敵側の持つ最大戦力は決して『荷物』の側を離れまい。たとえ船が沈んでも、上級精霊が『荷物』の側についていれば、それを無傷で回収する事も難しくない。
むしろ見張りが人間一人である事を訝しむべきだったのだ。
「離れろ――神曲楽士」
ゆらりと壁際から離れて歩きながら精霊は言った。
「大事な荷物を血で汚したくない」
異様な姿だった。
四肢が在る。首が在る。基本的な輸郭を見る限りでは人間とほぼ変わらない。フマヌビックである事は間違いない。
だがしかし――何の枝族に属するものか全く見当がつかない。
いやこの個体形状をフマヌビックと解釈していいのかどうかさえ――分からない。
本来フマヌビックの定義とは『極めて人間に近似の姿を採る精霊』だ。それらの多くは羽根を隠してしまえば普通の人間と殆ど見分けがつかない。
だがこいつの姿は……人型ではあるが、とても『極めて人間に近似』とは言えなかった。
「あんた……なに?」
ユフィンリーが呻く様に問う。
身に着けた衣装の輪郭はヨットパーカーにも似ている。黒いフードのようなもので頭の大半を隠しているので余計にその印象が強い。
ただし衣装の質感は布ではなく革だ。しかも何本もの革のベルトと金属製の留め具が付いている。ひどく威圧的で禍々しい印象を放散してはいるが――此処までは未だ、単なる『趣味』の範囲内だろう。どこぞのロック・ミュージシャンのステージ衣装に見えなくもない。
ただし……
だがそのフードの中に収まった顔。
それは明らかに人間のものではなかった。
肉が無い。
骸骨なのである。
白く――まるで洗い磨いたかの様に白く艶やかな人間の頭蓋骨がそこに在った。
「なんなの……!?」
「…………」
ユフィンリーの問いに、そいつは声も無く笑った。
硬い骨では絶対に有り得ない動きだった。剥き出しの歯列を歪め、眼窩の真上の――眉に相当する盛り上がりを動かしてそいつは嘲笑にも似た笑みを浮かべて見せたのだ。
「ご覧のとおり――精霊さ」
「うそ」
信じられなかった。
昨日の二柱も確かに異形ではあった。
しかし――例えば八本腕はラクナの枝族だろうし、竜のように見えたのはロチの枝族だと思えば理解は出来る。それが奏始曲の……特に『地獄変』の影響で変異したと考える事が出来るからだ。
そも大抵の精霊の姿は基礎となる模倣元が在る。
物質世界において生きる効率を追求した場合に――必然的に何万年何億年という自然淘汰を経て残った生物の形状を模するのはある意味で当然の事である。そこには必ずある種の必然が在るからだ。
しかし……ではこいつは一体何なのか?
精霊が屍に擬態するなどという事が有り得るのか? 生存戦略としては、いわば失敗の結果である死体を模して、自らを創り上げる事に――一体どんな必然性が在る?
「お嬢さん。あんた位の楽士なら……もう三〇年か四〇年も精霊と付き合ってれば見えてくるとは思うがね」
骸骨が――笑う。
「あんたら人間は精霊の事を何も判ってない。人間の善き隣人だ? 冗談じゃない。あんたらはダンテという名の意味すら理解していないだろう?」
「どういう意味?」
ユフィンリーはゆっくりと背後に手を回し――単身楽団の起動レバーに手をかける。
いざとなつたら〈コア〉を含め周囲への被害を覚悟でマサードを召喚するしかない。
「言葉通りの意味さ」
剥き出しの歯の隙間から――青黒い何かが滑り出してきた。紫がかった巨大なナメクジの如き……それはそいつの舌だった。
だらりと長い舌が歯の間から垂れ下がる。
「ここを生きて出られたら……いずれ分かるかもな」
骸の如き精霊の背中に白いものが悠然と広がる。
それが羽根なのだとユフインリーは理解出来なかった。
白く細い節の在る――それはむしろ『骨』と呼ばれた方が印象が近い。人間の背骨を放射状に配置したかの様な、異様な羽根が展開していた。
数は六枚――六本。
上級精霊である。
「まあ……無理だろうけどなあ?」
髑髏の口から滑り出る嬲《なぶ》る様なその言葉に応えたのは――
――るうぁうっ!!
叩き付ける様なサキソフォンの音であった。
――るううううううううううううううううううぁっ!!
レンバルトである。
「ふむ……?」
死神の如き容貌の精霊がわずかに身じろぎする。
周囲の気配の変化を感じ取ったのだろう。
次の瞬間――貨物室の壁を透過し、室内の空気を大きく歪ませながらそれらは現れた。
無数の……貨物室内の空間を埋めつくさんばかりのボウライである。先に居たボウライ四柱も加わり、数百――いや千を超える大量のボウライ達の群れが、渦を巻き、飛び交い、閑散としていた貨物室は俄《にわか》に混雑時の催事場の如き様相を呈していた。
しかも――
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
曲調が変わる。
サキソフォンの音に追随した自動演奏装置の音が絡み付き――軍歌の如き勇壮な曲が貨物室に鳴り響く。
応じてボウライ達の流れが変わった。
縦横無尽に――つまりは無秩序に飛び交っていただけのボウライの群れが幾つかの流れを作り始めたのである。
「これは――」
呟いて。
次の瞬間ユフィンリーの脳裏を過ぎったのはクラト事件の際に見た光景だ。
レンバルトの演奏からその裏側に込められた意図まで瞬時に読み取り――その光景を記憶から引きずり出したのは、やはりユフィンリーの才の成せる業だろう。
「レンバルト!」
振り返ると――目が合った。
演奏を続けたままレンバルトは微かに頷く。
ユフィンリーは輸送ケースの中に飛び込むと、両腕を回し、保護用のビニールに覆われていた〈コア〉を――あの髑髏の精霊が言う処の『聖骸』を抱える。
初めて見た。
どの様な性質と素性のものなのか――推論に関してはオミ社長から聞いてはいた。
だがその外見については特に聞いていなかった為に、ユフィンリーは驚いたのだ。
まさかこんな……
「ふうむ」
死神姿の精霊が興味深げに唸る。
しかし自らは攻撃に出ないのは――別にボウライの群れに怖れをなしたからではない様だった。その態度には未だ小憎らしい程の余裕が在る。
現に――
「これは面白いな」
髑髏の精霊はそう言った。
その瞬間――突如としてボウライの流れが垂直に転じた。
空中から床に向かうそれは光の柱の様だ。しかもそれは四本在った。髑髏の精霊を囲む様に四つ……ボウライ達が上から下へと奔流を作っている。
しかも床の上では別の現象が起きていた。
垂直に急降下してきたボウライ達。床を回避するでもなく。床下へすり抜けるでもなく。はたまた叩きつけられるでもなく。ただ――彼等はその場に積み上がってゆく。後から降下してきたボウライが前のボウライと次々融合して……別の形を形成しつつあるのだ。
ずんぐりとした――それは足首に見える。
次々と融合は続く。足首に見えたそれはみるみる成長し――さらに伸びて、ふくらはぎとなり、膝となり、太腿となり、一本の脚になる。
やがて腰が出来上がる。続けて胴が出来上がる。
まるで見えない鋳型の中にボウライという液体を注ぎ込んでいるかの様に。
そして……
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
出来上がったのは四体の巨人であった。
身長は三メートルばかり。肩幅もニメートルはある。だが淡く輝くその身体には、体毛はおろかシワ一つない。いや……一切の造作がないのである。
それは極限まで記号化され単純化された『人』の形であった。
頭部が在る。胴体が在る。腕と脚がある。だがそれ以外には目も鼻も口もない。つるりとした――何処か見る者の苦笑さえ誘う様な奇妙な人体の模倣。頭身としてはかなり寸詰まりの四頭身である。
「こういうものは……初めて見るな」
やや感心した様子で髑髏の精霊は言った。
「完成――合体巨人戦隊ボウレムズ!」
レンバルトがマウスピースから口を離して宣う。
「なんつってな」
彼の台詞に合わせるかの如く『完成』した巨人の頭部に――ぽんっと小さな羽根が生えた。そこだけはボウライのままの羽根だ。もっとも巨人の大きさからすれば頭頂に毛が生えている様な感じに見えるが。
しかも四体がそれぞれ色違いである。
赤と。青と。黄と。緑と。
まあその外見に似合わず、妙にテレビのヒーロー番組が好きらしいレンバルトとしては非常に分かり易い名付け方ではあった。
「ほほう」
骸骨の顔に苦笑が浮かぶ。
「それで? この漫画みたいなもので――どうする気だ?」
「決まってるだろ。こうするんだよ」
後方に――ユフィンリーと〈コア〉の入った輸送ケースに向けて下がりながらレンバルトは言った。続けてマウスピースを加えて演奏を再開。
――〜〜〜〜〜ッ!!  〜〜〜〜〜ッ!!
――〜〜〜〜〜――〜〜〜〜〜ッ!!
更にサキソフォンの曲調が僅かに変化する。
『心得た』
四体の巨人が応じる。
次の瞬間――巨人達は輸送ケースに向けて殺到した。
ACT3 TRANSIENT MIRACLE
「あれだ」
コーティカルテが指差す。
月明かりの下で――最初それは滑り台に見えた。
だがよく見ればそれにしては階段も無ければ手摺りも無い。ただ細く長い板状のものが、長さ一〇メートルばかりの斜面となっているのである。太い金属製の支柱で支えられたその根元には車輪らしき物が取り付けられていて……喩えるなら空港で旅客機に着けて乗客を搭乗させるためのタラップにも似ている。
だが近づけばフォロンもすぐにその正体を理解した。
移動式のベルトコンベアだ。
恐らく貨物船から小さな貨物を下ろすためのものだろう。滑り台の斜面の様に見えたのは幅一メートル程のゴム・ベルトだった。
「コーティ……まさか」
「それしかないだろう」
確かにベルトコンベアの描く傾斜はジャンプ台の様に――宙に向かって伸びている。傾斜のラインを延長すれば、ちょうど船首に向かって届きそうに見えなくもない。
だが。
「これって……オンロードだよ?」
つまりは大きくて重いという事だ。
勿論それだけ舗装道路においては安定性が在るという事なのだが……
「だが馬力は並の自動二輸の比ではない筈だ」
その通りだ。仕様書を見れば本当に二輸かと疑いたくなる様な数値が載っていた。
それに――
「そうだな?」
コーティカルテがペルセルテを振り返って確認する。
「あ……はい」
見掛けによらず二輸の国際A級ライセンスを所持しているペルセルテ――彼女は実際にこの〈ハーメルン〉を乗り回した事が何度か在る。その上での評価とならば、そこらの雑誌だの仕様書だのよりも余程、信頼性が高い。
「車体重量は確かに重いですけど――かなり丁寧なチューンがしてありますから、エンジン本来の出力限界まで馬力は出せる筈です」
その馬力で強引に跳べとコーティカルテは言っているのだ。
「迷うな。単身楽団はこれしかない」
自前の単身楽団は未だ充電池が充電しきれていなかった。電池が無ければ単身楽団もただの箱だ。予備の専用充電池を買っておかなかった迂闊な自分をフォロンはぶん殴りたい気分であった。
今――神曲を奏でる道具となるのは、この移動式可変単身楽団……〈ハーメルン〉しかないのである。
ずん……と異様な衝撃が大気を震わせた。
緊急召喚特有のそれをフォロンは正確に察知した。
ヤーディオの筈が無い。マサードなら衝撃程度で済まない。ボウライ達の様な下級精霊ならここまで音が大きくない。
上級精霊が来たのだ。
それも十中八九間違いなく――敵側の。
「でも――」
プリネシカが口を挟む。
「このベルトコンベア――右向が」
確かに彼女の言う通り、ベルトコンベアは微妙に方向が問題の船からずれている。
このままベルトコンベアに乗って跳んでも角度的には船には到達出来ず、海面に落ちてしまう可能性が高い。また風の影響も在る。確実に船の上に達するには角度を調整してやる必要が在った。
だが――荷物の搬入に使うだけあって、ベルトコンベアは見るからに重そうだ。本来は車か何かに繋いで動かすものであるらしいが、肝心の車が何処にも見えない。
「私が動かす」
とコーティカルテ。
しかし……
「今は少しでも力を蓄えておかないと……」
不安げな口調で言うプリネシカ。
そもそもコーティカルテが完調ならば彼女は〈ハーメルン〉を吊り下げて跳ぶ事だって出来ただろう。ただでさえ消耗が激しいのだ。力は温存しておかねばなるまい。
「瞬間的に、爆発的な力を出すならともかく――小出しの、継続的な力の行使はより消耗が激しい筈です」
とプリネシカ。
人間のフォロンには感覚的な細かい部分は判らないが――半分とはいえ、精霊であるプリネシカの意見は正しいらしい。コーティカルテが顔をしかめて黙り込む。
その時――
「――そうだ! あれ! あれ使えませんか!?」
ふと思い付いた様子でペルセルテが声を上げる。
彼女が指差したのは――船のすぐ側に設置された固定式のクレーンだった。大型のコンテナを積み降ろしする際に使うもので、先端には鋼鉄製のフックがぶら下がっている。
「私達があれを使ってベルトコンベアを動かせば……!」
「――すまん、頼む」
珍しく素直にコーティカルテが言った。
一瞬、ペルセルテとプリネシカは顔を見合わせ――
「はい!」
笑顔で頷いてから、ユギリ姉妹はクレーンに向かって走り出した。
その後ろ姿を束の間見送ってから――コーティカルテはフォロンを振り返った。
「フォロン」
「……判った」
やるしかなかった。
吐き気がする。
(腹ん中に生ゴミでも突っ込まれたみたいだぜーったくよ)。
おまけに脚も腕も重い。目眩もする。
最悪だ――とヤーディオは思う。
先程からがんがんと節操無く鳴り響いている二つの奏始曲のせいだ。
『天国変』と『地獄変』である。
――るうぁッ! るうぁっうぁっうぁっ!
――ふぁおぅっ! ふぁおぅっ!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
旋律に誘われる様にして沸き上がる歓声。
先程までヤーディオに翻弄されていた連中のものだ。今は巻き込まれぬ様に遠巻きにして観戦中である。
そして彼等の真ん中に長身と短躯、二人のデコボコ神曲楽士。
更にその前には二柱の異形精霊が立っていた。
よじれた角と逆立つ棘。鋭利な刃物となって屹立する闇色の鱗に覆われた――『竜』。
人型を覆う剛毛。八本の腕に四十本の鈎爪。巨大な単眼を光らせ直立する――『蜘蛛』。
『天国変』に酔い『地獄変』で変異した異形の精霊だ。
勿論……正面から戦いを挑んでもヤーディオに勝ち目は無い。全く無い。
それは根性だとか気迫だとかとは別次元の問題だった。単純な数字の比較である。
精霊の羽根の数は等級に比例する。
即ち――二枚の羽根を持つ下級精霊。四枚の中級精霊。六枚の上級精霊である。
これはしかし何らかの階級を意味するものではない。精霊の等級とはエネルギーの総量なのである。神曲などの外挿的な支援を得ていない状態では、下級精霊よりも中級精霊の方が、中級精霊よりも上級精霊の方が、その『身体』を構成するエネルギーの総量は大きいのだ。
真正面からぶつかれば力の大きい方が勝つ。
四よりも六は絶対的に大きい。
ましてや神曲の支援を受けたならば、羽根の数こそ変わらないが、それが実際的な数字としては十にも二十にもなる。
対して今ユフィンリーの居ないヤーディオの力は素のまま――四のままだ。
しかも『天国変』と『地獄変』はヤーディオの動きを阻害する。隙あらば彼の意識を支配し真っ黒に染めてしまおうと喧しく鳴り響いている。
「…………ぎじゃ」
黒い『竜』が前へ出る。
それだけの事で甲板が怯える様に震動した。
(――やべぇな)
ヤーディオは考える。
(さすがに勝てる気がしねえが――)
問題は――しかし勝ち負けではなかった。
ここであっさりと負けてしまったら、陽動にも何にもならないという事だ。ヤーディオが倒れた後……敵が慎重なら船内の捜索を開始するだろう。仮に信じられないくらい呑気な連中だったとしても、無意味に甲板に留まる必要は無い。ならば再び船内に戻って行くに違いない訳で。
ユフィンリーとレンバルトが発見されてしまう確率がどちらにしろ跳ね上がる。
つまり――
「粘れるだけ粘るしかない……って事だぁな」
ヤーディオ・ウォダ・ムナグールは左右の拳に精霊雷をまとって身構えた。
何らかの隙を見つけて白兵戦に持ち込めれば勝機が無い訳ではない。『技』に載せて直接に精霊雷を叩き込めれば、眼の前の上級精霊でも沈むのは昨日で確認済みだ。
だが問題は……相手が二体居るという事。
まさか行儀良く一人ずつかかってきてくれる筈も無かろう。
さてどうやって粘るか……そんな事をヤーディオが考えたその時。
「――!?」
聞き慣れた爆音が轟いたのはまさにその時だった。
一瞬――唖然とするヤーディオ。
何度も聞いた音だ。だからそれそのものは別に驚きの対象ではない。
ただ振り返った先には何も無かった。船が大きく揺れて海面が激しく波立ち――舞い上げられた水が大量に降り注ぐ。だがそこにヤーディオが脳裏に想像した存在は影も形も無かったのだ。
ではそれは何処に?
「――っておいまさか!?」
愕然と頭上を振り仰ぐ蒼銀の精霊。
彼の見上げた先――夜空の月を背にして大型の自動二輸が宙を跳んでいた。
――ヤーディオが唖然とする三分ばかり前。
フォロンは三回の切り返しで〈ハーメルン〉を方向転換させると――そのまま港湾の入り口まで戻った。湾岸道路との境目である。
そこで道幅一杯に回頭する。
ちらりと視線を飛ばすと――クレーンを操作しているユギリ姉妹の姿が見えた。重いベルトコンベアはクレーンによって引きずられ、方向を変えつつある。適度な方向に落ち着くまであと数秒といった処だろう。
フォロンは〈ハーメルン〉の鼻面を埠頭に向けて――
「――!?」
「まずいな」
愕然とするフォロンと――顔をしかめるコーティカルテ。
鈍い振動音が聞こえてくる。
〈オルニキア〉号が出航しようとしているのである。
現時点で〈オルニキア〉号側に若千の逡巡が在るのは間違いが無い。大規模な戦闘になれば堂々と精霊課が介入してくるからだ。故に上級精霊達もあまり派手な攻撃をしている様子は無い――そもそも銃器や爆弾を使った戦闘にもなっていない。
しかし湾外に出てしまえば語は変わる。
複雑に絡んだ管轄問題で警察の動きが鈍るのは間違いないし――洋上となれば目撃者は当事者以外には居なくなる。
「急げ!」
コーティカルテが叫んだ。
幸い――『コア』輸送の時に使っていた通信機を今回も持ってきているので、ユギリ姉妹とも連絡がとれる。フォロンのヘッドセットにもペルセルテの声が聞こえてきた。
『はい!』
鈍い駆動音を引きずりながら――クレーンが止まる。
ベルトコンベアは丁度、動き出した船の真ん中辺りにその先端を向けていた。
『どうぞ!』
そうペルセルテが叫ぶ間にも、じりじりと船は岸壁から離れていく。
「コーティ」
「うむ」
名を呼べば、いつもの様に鷹揚に彼の契約精霊は頷く。
アイドリングの震動がハンドルを握る手に伝わってくる。
己に託された力の大きさを噛み締める様に、フォロンは一度眼を閉じて――そして改めて眼を開いてから、後部座席のコーティカルテを振り返った。
「帰ったら、玉子焼きサンド、作ったげるよ」
「ならば――無理をしてでも食べねばならんな」
苦笑ではない。挑む様な笑みだ。
コーティカルテの紅い髪と瞳にそれはよく似合っていた。
クラッチレバーを握る。左の爪先でシフトをローまで蹴り落としてから――
「いくよ!」
「うむ」
――左手を開きながらアクセル。
後輸が束の間、白い煙を吹き上げつつ空回りしてから……アスファルトを掴んだ。
背中を蹴り飛ばされる勢いで急発進する。
アクセルを全開したまま更にシフトを上げていく。
〈シューティング・スター〉と〈シンクラヴィス〉の脇を一瞬ですり抜け、立ち並ぶ四棟の倉庫の前を一瞬で駆け抜け――フォロンの操る大型自動二輪はベルトコンベアのジャンプ台に真正面から突っ込んだ。
〈ハーメルン〉が鼻面を撥ね上げる。
だが――
「あっ……!?」
それは予想すべき事態だった。
〈ハーメルン〉がベルトの上を一気に駆け上がろうとする一方で――ベルトが反対方向へと動くのである。ベルトは固定されていなかったのだ。〈ハーメルン〉が地を蹴る力の幾らかがベルトコンベアに流れていってしまうのである。
当然――速度は一気に落ちた。
跳び出せない速度ではない。しかし予想よりもはるかに遅い。
そして最悪な事に――今更止まれる速度ではなかった。
『フォロン先輩!!』
悲鳴じみたペルセルテの声。
そして――
「駄目だ!」
思わずフォロンが叫んだ瞬間……〈ハーメルン〉の車体は跳んでいた。
放物線が――短い。
瞬間的に上昇の頂点に達した。フォロンを束の間の浮遊感が包む。勢い余ったタイヤが空中を無意味に掻きながら――しかし次の瞬間には無慈悲な重力がフォロン達を再びその手に掴んだ。
後は落ちるだけだ。
急速に鋼鉄の絶壁が――船体の横腹が近付いてくる。
「ぶつかる……!!」
絶望の叫びを上げるフォロンに――しかしコーティカルテが言った。
「いや。ぶつからない。ぶつけさせない」
紅い閃光が真下に流れた。
そして――轟音が海面を叩く。
「――!!」
まるで沸騰したかの様に海面が大きく弾けた。
コーティカルテが放った精霊雷が海面に接触した瞬間に爆裂へと変じたのである。
通常――爆風や衝撃は下方よりも上方に向かう。
海面より跳ね返ってくる衝撃波と爆風に押されて〈ハーメルン〉の落下軌道は大きく上方修正された。
「コーティ!」
「着地の姿勢に注意しろ」
そんな言葉を交わしながら二人はむしろ高々と舞い上がり、甲板の上に達した。
見上げるヤーディオと眼が合った。
途端に〈ハーメルン〉の上昇は終了――車体は急速に落下を始め、敵の集団の真ん中へと斜めに突き刺さる様に落ちていく。
どんっ――と鈍い音を響かせて着地。
同時に空回りの状態だった後輸が甲板を噛む。驚いて後ろ脚で立ち上がる馬の如く、前輸を高々と掲げて跳ね上がりかけた〈ハーメルン〉の車体を、フォロンは強引に押さえ込んだ。
僅かに蛇行してから〈ハーメルン〉はそのまま大きく後輸を振って――停止。
意図した訳ではないがヤーディオの真横であった。
「…………」
心臓が早鐘の如く鳴り、呼吸が乱れきっている。
それでもフォロンはコーティカルテを振り返って尋ねた。
「……コーティ……大丈……夫っ!?」
「大丈夫だ」
返ってきたのは不敵な笑みである。
緋色の髪の精霊は長い脚を翻す様に後部座席を降りると――ふと思い出したかの様にフォロンの耳に唇を寄せて囁いた。
「フォロンと一緒だからな」
「…………」
深呼吸をして――余計に跳ね上がりそうな鼓動を必死に抑えるフォロン。
こんな処で赤面している場合ではない。
とりあえず突然の出来事に、場に居合わせた全員ははただ唖然としていた様だが――
「やれやれ」
そう言ってヤーディオは苦笑を浮かべた。
だが――
一方――クレーンの操縦室。
「船が……船が行っちゃう」
ペルセルテが狼狽の色も露わに言った。
船が洋上に出てしまえば――湾を出てしまえば明らかにフォロン達に不利に働く。細かい法律や事情は知らずとも、その程度の事はユギリ姉妹にもはっきりと判った。
だから――
「ペルセ。ワイヤーを伸ばして」
プリネシカが姉の右手を握ってそう言った。
「――ワイヤー? ワイヤーって」
「このクレーンのワイヤー。御願い」
そう言って――微笑するとプリネシカはクレーンの操縦室から飛び出した。
「プリネ!?」
「ペルセはそのまま操作してて……!」
いつものプリネシカを見慣れた者は己の眼を疑ったろう。
普段は姉の後ろについて歩いているばかりの銀髪の物静かな少女が、身を翻してクレーンのブーム――即ち『腕』の上に飛び乗ったからだ。
それだけではない。
鉄骨で組み上げられた傾斜四十度以上の、一杯一杯に伸ばされたブームの上をプリネシカは駆け上がっていく。
「プリネ――プリネ!?」
悲鳴じみたペルセルテの声も当然だ。
クレーン先端の高さは実に十数メートル――海面からなら二十メートルにも達しようかという高さである。その上を何の支えも命綱も無く走っていくなど……人間ならば、それは自殺行為そのものだった
しかも――
『ペルセ! クレーンのワイヤーを伸ばして!』
通信機越しにプリネシカはそう叫んだ。
「でも――」
『御願い――早くっ!』
そも――四十五度の斜面はその上に立つ者にとっては垂直に等しく感じるという。
殆ど体感的には垂直の壁を登坂するに等しい筈であろうに……しかしプリネシカの勢いは止まらず、台詞を終える頃にはその先端をも蹴って、小柄な体躯は空中に舞っていた。
「プリネッ!?」
ペルセルテが叫ぶ。
訳が分からないなりに……しかしペルセルテは言われた通りにレバーを操作。
同時にプリネシカはブーム先端から伸ばされたワイヤーを――正確にはその先端についている鋼鉄製のフックを掴んでいた。
プリネシカの背で光が弾ける。白いそれは――四枚在った。
ユギリ・プリネシカ。
半人半精霊の――少女。
その力はコーティカルテ以上に不安定で、下級精霊並みに小さい。
だが……
『…………ッ!』
跳躍の勢いを利用してプリネシカはフックと共に飛翔する。
岸壁から離れつつある〈オルニキア〉号に向かって――
「…………」
呆然と妹の人間離れした――当然と言えば当然だが――跳躍を見つめながら、ようやくペルセルテはプリネシカの行動の意味を悟った。
釣りと同じだ。
フックが釣り針。ワイヤーが糸。クレーンが竿。そして〈オルニキア〉号が――魚。
逃げられて困るのなら逃げられないようにすればいい。
離れられて困るのなら離れられない様に繋いでおけばいい。
つまり――
『…………』
銀髪の少女は不規則に明滅する白い光の羽根を背負いながら、ワイヤーの尾を引いて空を跳ぶ。
そして――
「…………」
さすがのヤーディオも今度こそ馬鹿みたいにぽかんと口を開けて――それどころか敵の一同も一瞬、呆然として頭上から降ってくる少女の姿を見つめていた。
プリネシカの背中で精霊の羽根が瞬く。
彼女の身体から迸った精霊雷が空中で力場へと変換され――彼女自身を受け止めた。
半人半精霊の精霊雷はやはり出力が低いのか……彼女自身は力場を突き抜けて甲板上に落下。ただし落下遠度は大幅に殺されていた様で――彼女は二度三度甲板の上を転がった程度で、傷つく事無く立ち上がった。
彼女がフックの先端を船橋の一部に引っかけて固定するまで……誰も動かなかった。
そして。
「――!」
がくん――と鈍い震動が一同の足元を揺らす。
ワイヤーが跳ね上がる様にして張り、ぎじぎじと異音すら立てながら〈オルニキア〉号を引っ張っている。反対側は言うまでもなくコンクリートの地面に直接設置された固定式の大型クレーンである。
まるでアタリのあった釣り糸を巻き戻すかの様に、クレーンはワイヤーを巻き取ろうとしている。その力は〈オルニキア〉号のエンジンのそれと拮抗し……船体は岸壁を数十メートル離れた辺りで停止した。
「フォロン先輩……!」
一同が船の停止に驚いている隙にプリネシカはフォロン達の処に駆け寄った。
「……次から次へと……一体この船の警備はどうなってるんだ?」
ようやく――ふと思い出したかの様に言うのは長身の神曲楽士である。
その声には若干の呆れが在る。
「そう責めてやるなって」
ヤーデイオが応じる。
にやにやと笑いながら微妙に勿体をつけた口調で彼は続けた。
「喧嘩を売った相手が悪かったのさ……相手がな」
彼はプリネシカを振り返る。
「さすがに双子ちゃんの片方が、此処まで思い切った事をしてくれるとは俺も思わなかったがよ――なあ?」
「あ……いえその」
(……あ)
フォロンにはヤーディオの考えている事が判った。
時間を稼いでいるのだ。恐らく未だ中でユフィンリーとレンバルトが目的の荷物を捜しているのだろう。
「喧嘩を売った憶えはないぞ」
ずんぐりした短躯の神曲楽士が言う。
「むしろ喧嘩を売られたのは、我々の方だ。盗人猛々しいとは、このことだな」
「盗人――ときたか」
するり、とコーティカルテが前へ出る。ヤーディオの横に並んだと言うよりは、フォロンやプリネシカを庇う様な位置関係だ。
いや――実際に庇っているのだ。
人間のフォロンや半人半精霊のプリネシカはコーティカルテやヤーディオに比べて非力で脆い。
また同時にフォロンの跨っているのは切り札である単身楽団なのである。フォロンと〈ハーメルン〉を攻撃されればこちらの勝機は消える。
ただ……
「あれ《・・》はお前達のものではない」
コーティカルテは、胸を張る。
「いや――誰の物でもない。あれはレブロスのものだ」
「見解の相違だな〈繊滅姫〉――コーティカルテ・アパ・ラグランジェス」
長身の神曲楽士が揶揄するかの様な口調で言う。
恐らく彼女の〈嘆きの異邦人〉時代の噂をこの男は知っているのだろう。表沙汰にこそなっていないが……裏事情に通じた者達の間では〈紅の織滅姫〉あるいは〈血塗れの公爵夫人〉と呼ばれた紅い精霊の事は、それなりに有名だ。
普段の少女形態を採っているコーティカルテと、それらの物騒な綽名を繋げて考える者は少なかろうが――
「私を知っていたか――神曲楽士?」
「調べたさ」
短躯の方が台詞を継いだ。
「色々とな。雇い主からも少なからず聞いた。敵の戦力を知るのは基本中の基本だ」
「殊勝な心掛けだ――だがな」
コーティカルテは言った。
「道を外した者が軽々しく私の名を口にするな」
次の瞬間――彼女の背中に羽根が展開した。
複雑な曲線が絡み合った真紅の光の羽根だ。
応じる様にフォロンが〈ハーメルン〉のタンクを叩く。拳に押し込まれた神曲公社の紋章は変形機構を起動させ――車体はわずか二秒半でその姿を変じた。
単身楽団である。
「ごばぁああ!!」
黒い『竜』の口から炎の奔流の如き精霊雷が迸った。
瞬間――前へ出たのはヤーディオである。
「はっ!」
銀色の障壁が展開。ヤーディオ自身とコーティカルテ――そしてその真後ろのフォロンやプリネシカと〈ハーメルン〉を護る。
だが中級精霊の障壁が上級精霊の攻撃を真正面から防ぎきれる筈も無い。
じわりと障壁がたわみ――
「――ふっ!」
コーティカルテの展開する紅い障壁がヤーディオのそれに重なった。紅と銀の光が明滅しながらも黒い精霊雷を四方八方へと散らしていく。
「コーティ!」
フォロンは鍵盤を叩いた。
――〜〜! 〜〜!〜〜! 〜! 〜! 〜! 〜! 〜〜〜〜〜〜!!
途端に紅い障壁が厚みを増す。
フォロンの神曲がコーティカルテに力を与えているのだ。
だが……
「ほほう。では、こちらもいくか」
言うなり――二人の『外道』が二つの管楽器を構えた。
――るうぁうッ!
――ふぁおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!
高々と奏でられる――奏始曲。
同時に管楽器の音色がフォロンの演奏にねっとりと絡みつく。炎の様な精霊雷の奔流が勢いを増し――逆にコーティカルテの紅い障壁が弱まるのがはっきりと分かった。
コーティカルテが表情を歪めて歯を食いしばる。
「くっ……!」
押されているのだ。
理由は明白――『地獄変』だ。
精霊力発電所の時と……あのクダラの時と同じだ。フォロンの神曲がコーティカルテに、満足に届いていないのだ。
幸い――相手がクダラ・ジャントロープ程の力量を持っていないせいか、あるいは『天国変』とのセッションのためのアレンジのせいか――発電所の時程に酪くはない。だがフォロンの演奏は確実に妨害を受けている。
フォロンの演奏に対して、同じ旋律を、わずかにズレた構成で追ってくる。聴くまい聴くまいと思っていても、自分の神曲やコーティカルテの反応を得る為にフォロンは耳を塞ぐ訳にもいかず――『地獄変』特有の奇妙な音にフォロンは調子を乱される。朗々と流れる筈の神曲は揺らぎ、和を崩され、契約精霊に充分な『力』を与えられない。
「コーティ……!」
敵の精霊雷は止まらない。
しかもフォロンは――信じられないものを見た。
コーティカルテの羽根が……明滅している。それもただ明るさが増滅しているのではない。羽根の輸郭すらもが揺らいで崩れつつある。まるで水面に映った虚像の様だった。
「コーティ!!」
叫ぶフォロンの胸中を慙愧の念が吹き荒れる。
無理だった。やはり無理だったのだ。
コーティカルテはフォロンの為に適当な理屈をでっち上げて完調を装っていただけだ。
「逃げて――コーティ!! ヤーディオも!!」
「馬鹿か……こら!!」
振り返らずに怒鳴り返すのは蒼銀の髪の精霊である。
「尻尾ぉ巻いて逃げるくらいならハナッから出て来んじゃねえや!!」
「でもこのままじゃ……!」
「駄目だ」
コーティカルテだった。
「逃げない」
苦しげに――しかし決然と。
しかしその言葉を言い終えた次の瞬間。
「……く」
遂にその背から六枚の羽根が消滅した。
精霊の羽根。
それは一説には精霊の本体とも言われる重要器官だ。自ら出し入れする事は可能だが、それが本人の意志とは無関係に揺らいで消えるとは尋常の状態ではない。
それを証するかの様にコーティカルテが膝を折った。
プリネシカは既に甲板上に倒れ――頭を抱えながら痙攣している。
「おいおい……マジかよ」
彼女達の前に咄嵯に回り込んだヤーディオが苦笑を浮かべる。
勿論――彼も余裕が在る訳ではない。無理矢理に浮かべた笑顔だ。彼は両腕を前方に伸ばし渾身の力で精霊障壁を展開しながらコーティカルテと更にその後ろのフォロン達を庇っていた。
だが……それも限界に近い。
「中級の俺があの〈紅の磯滅姫〉を護ってるなんざ――誰も信じねえだろうな」
コーティカルテは応えない。
フォロンも応えない。プリネシカも応えない。
誰もその余裕は無かった。
コーティカルテは甲板に片膝をついたまま荒い息を吐いており、フォロンは――
「…………」
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜!
――……〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
フォロンは無言で鍵盤を叩き続けた。
可能な限りの全ての技術を駆使して――思い付く全てを注ぎ込んで単身楽団を操った。
届け……
屈け……!
届け……!!
だが――浅い。
手応えが浅いのだ。
『地獄変』の影響もあろうが、それだけではない感じがする。これはここ数日ずっと感じていた事だが、まるで調律が合っていないかの様な――
「調律?」
まさか。
「そんな……!」
フォロンは突然――全てを理解した。
そう考えれば辻棲が合う。
調律がずれているのだ。
契約状態が――半ば解除されかかっている。
完全に解除はされていないのだろう。だからコーティカルテは不調なのだ。契約に縛られ暴走の危険にさらされているにもかかわらず――その一方でフォロンの神曲は本来の形で彼女の中に浸透しない。
だが一体これはどうした事か……?
まさかコーティカルテの意志ではあるまい。自分の生命の危険を冒してまで彼女が調律をずらす理由が無い。
では何が原因なのか?
判らない。
判らないが――
(駄目だ……本当にどうしようもない……!)
こんな事を今になって気付いても本当に打つ手が無い。
「…………」
ぞろり――と不気味な動きでもう一柱の異形精霊が動いた。
人型の『蜘蛛』である。
ぎじゃ……と口を開くと湾曲した一対の牙が剥き出しになる。防戦一方のコーティカルテとヤーディオに攻撃を仕掛ける積もりなのだろう。
(駄目だ……!)
ヤーディオは敵の精霊雷を防ぐので精一杯。コーティカルテは立ち上がることさえ出来ない。プリネシカは論外。ここでさらに攻撃を受けたら――防ぐどころか避ける事さえ出来ないだろう。
(――だったら)
意外と簡単に腹は決まった。
フォロンは右足を〈ハーメルン〉の右のペダルに乗せた。
単身楽団に変形中――〈ハーメルン〉の自動二輸車としての操作系は、全て左右のペダルに割り振られる。両手は鍵盤の操作に塞がれているから足を使うしかないのである。左のペダルがステアリング。そして右のペダルがアクセルとブレーキだ。
左のペダルを爪先で倒す。
連動してゆっくりとハンドルが左へ回転してゆく。
「フォロン……」
彼の考えに気づいたのは――やはりコーティカルテだった。
「やめろ……!」
だがタタラ・フォロンは首を振った。
微笑を浮かべて彼は契約精霊を振り返る。
そして――
「約束しただろ?」
右足を一気に踏み込んだ。
急発進した〈ハーメルン〉は防戦状態の二人の背後からほぼ真横に飛び出す。左足で更にハンドル・ワーク。タイヤを鳴らして自走型単身楽団は音楽を奏でつつも黒い『竜』の巨体を回り込んでいく。
狙うのは――勿論精霊ではない。
その真後ろ。
二人の管楽奏者……!
「だああああああああああああああああああああああああああああっ!」
横手からぶつけるつもりだった。
一瞬でも敵の演奏が途切れてくれれば……ヤーディオが何とかしてくれる可能性が出てくる。逆転はさすがに無理だろう。だが脱出する位なら何とか可能になるのではないか。
また混乱が大きければユフィンリーとレンバルトが逃げる隙も出来るだろう。
その後の事はどうでも良かった。
いや――むしろ出来れば〈ハーメルン〉が爆発炎上してしまう位が丁度いい。
その方がコーティカルテ達も見切りをつけて逃げ易いだろう。
「馬鹿者! 一緒だと――」
約束したのはお前だろう……!
コーティカルテの声にならない叫びがフォロンの背を打つ。
同時に――
「避けろ!!」
そう叫んだのはヤーディオだった。
フォロンの頭上で何かが動いた。
刃物の様な鱗に覆われた『竜』の尻尾である。
太く。長く。黒く。大きく。それは恐ろしく威圧的で――そして文字通りに凶器だ。上下左右何処からどの様に叩き付けても犠牲者を容易くずたずたに引き裂く。
来る。真上から。
フォロンは覚悟を決めつつも更にアクセルを踏んで加速。
そして――
「――!」
衝撃が叩き付けられたのは――しかし真下からだった。
船首の甲板が――裂けた。
あるいは弾けたと言っても良いかもしれない。
下から上へと向かって分厚い鉄板を引き裂き……何かが飛び出してきたのである。
それは全く突然の事であった。
だから全員が思わず愕然と動きを止めた。
一瞬。
衝撃によろめき――演奏を中断させる神曲楽士の二人。
コーティカルテ達に向けて攻撃の機を見計らっていた人型の『蜘蛛』。フォロンを叩き殺そうとしていた黒い『竜』。歓声を上げながら彼等を見守っていた船員達。
そしてフォロンとコーティカルテとヤーディオも。
それは文字通りに瞬き一度分程度の時間ではあった。
だが絶望の図に向かって収束し、填め込まれかけていたパズルの最後の断片は――填る事無く滑って消えた。ぽっかりと空いた虚無に流れ込む諸々の事象。だがそれらは既に大きく機をずらされていた。
炎の如き精霊雷の奔流は停止。
黒く巨大な尾は標的を外れて、間一髪で方向転換したフォロンの〈ハーメルン〉のすぐ脇をかすめた。四つあるスピーカーの内の一つをかすめた尾にもぎ取られはしたが、自走単身楽団は、それでも体勢を立て直して方向転換に成功した。
大きく彼が回り込んだのは、甲板に空いた巨大な穴だった。
花弁が開くかの様に鉄板がめくれあがり……その結果として直径五メートル程の穴が甲板に穿《うが》たれる事となったのである。
結果的にフォロンはコーティカルテの側に戻ってくる事になった。咄嵯に方向転換していなければ無意味にその穴に突っ込んで落ちていただろう。
「コーティ――」
「見ろ」
コーティカルテが頭上を指さす。
上空を見上げているのは彼女だけではなかった。
ヤーディオも――いや二柱の異形精霊も敵の神曲楽士も、その後ろで成り行きを見守っていた船員達も、全員が夜空を見上げている。
フォロンも彼等の視線を追って空を見る。
そこに居たのは――
「……あ」
四体の巨人だ。
のっぺりとした――目鼻立ちもないぼんやりと光る人型である。
多少頭身や手足の長さが異なるが、似た様なものをフォロンは見た事が在る。クラト事件の際にコーテイカルテが呼び出したボウライ達が、合体して出来た巨人である。
ゆっくりと降下してくる四体の巨人。
彼等はまるで護り掲げるかの様に――見覚えのある物体を支えていた。
輸送用のコンテナ・ケース。
その上に立って神曲を演奏し続けているのはレンバルトだった。
ケースがフォロン達の側に降ろされる。側面の蓋が開きっぱなしで――そこから出てきたのはユフィンリーであった。
「ったく――無茶するわね!」
ユフィンリーはケースの上に立つレンバルトに向けて怒鳴る。
レンバルトは肩を竦めて言った。
「咄嗟だったんで……他に思いつかなかったんすよ」
「レンバルト! 所長!」
呼ばれて振り返る二人。
そこにフォロンとコーティカルテ、それにプリネシカまで居るのに気付いて――二人は顔色を変えた。
「フォロン!」
「プリネシカまで……あんたらどうして……?」
『…………』
再会した一同を護る様に――四体の巨人が一列に並ぶ。
改めて攻撃を仕掛けようとしていた異形の精霊二柱が、警戒して動きを止めた。
「――ブツはどうしたい?」
ややこしいやり取りになるのを察し――一同を制する様にヤーディオが言う。
「勿論――」
言ってユフィンリーがケースの中から一抱え程の物体を引きずり出して見せた。
物質としては――ある種の鉱物なのだろう。半透明のそれは水晶の仲間なのかもしれない。だがその形状が明らかに異様だった。自然に――偶然に出来たものとは到底思えない形をそれはしていた。
脳髄なのだ。
直径六十センチばかりの――半透明の鉱物で出来た脳の模型なのだ。正確に言えば脳を意匠として創り上げられた前衛芸衛に近い。大きさは元より細部も人間の脳とは明らかに形状が違う。
だがその表面に深々と刻まれた迷路の如き模様と、全体的な形状は明らかに脳髄を連想させるのだ。
これが〈コア〉と呼ばれていた物体なのだ。
そして――
「――いやいや、お見事、お見事」
ぱんぱんと乾いた拍手の音と椰楡するかの様な声に全員が振り返った。
甲板に空いた穴からゆっくりと――何者かが上昇してくる。
「そうくるとは予想外だったよ」
黒いフードを被った黒ずくめの男…………いや違う。精霊だ。
背骨を思わせる六本の羽根を背中で鈍く光らせつつ、するすると穴の真上に浮き上がったその顔は……死神の如き髑髏の面相を備えていた。
「だが……そこまでだな」
硬い筈の髑髏を歪めて――精霊は笑う。
「まあ、ここまでよく頑張った……と褒めておいてもいいだろう」
悠然と甲板の上に降り立つとその髑髏の精霊は辺りを見回した。
眼球など無いのに――ねっとりと舐める様な視線を感じてフォロンは身を震わせる。どうやらこの精霊は他の連中とは別格であるのか、神曲楽士達や船員達も緊張の表情を浮かべて黙り込んでいる。
「…………」
レンバルトが改めて単身楽団のサキソフォンを構える。
同時にばしゃりと音を立ててユフィンリーも背中の単身楽団を展開――脇から胸元に回り込んできたヴァイオリンをぴたりと構えた。
「だがいつまでも好き勝手に暴れて貰う訳にはいかないな」
髑髏の顔の精霊は神曲楽士達を振り返った。
「さて――とっとと片付けようか?」
応えるように……夜の海に奏始曲が鳴り響いた。
『天国変』及び『地獄変』。
二つの奏始曲が緊張に冷える空気を震わせる。
対してフォロン達もそれぞれの楽器を――
「――っ!!」
ヤーディオが跳んだ。
空中で身を捻る彼を――更に追って巨大な拳が空を抉る。
突如として彼に躍り掛かったのは、しかし彼が見つめていた前方の敵ではなかった。
「何しやがんでえ!!」
怒鳴る彼の身体を更に巨大な拳がかすめて抜ける。
「なっ……!?」
レンバルトが呻いた。
空申のヤーディオに向かって、ぶんぶんと拳を振り回すのは――四体の巨人である。レンバルトがボウライを集めて合体させたその巨人が……味方であるはずのボウレムが味方のヤーディオを攻撃しているのだ。
「てめえ、レンバルト!! このガキ、なにやってる!!」
「違う! 俺じゃない!」
「奏始曲ッ!!」
悲鳴じみた声で叫ぶユフィンリーの台詞で、レンバルトとヤーディオの表情に理解の色が広がった。
同時に一同の視線の先で四体の。ボウレムが変色していく。
赤が。青が。黄が。緑が。
透明な水にインクを落とした様に――ぞんざいな造形の四肢の先から、どす黒く変わってゆくのである。
いや。違う。色だけではない。
全身が……ねじくれたトゲの様な突起で覆われてゆく。手が伸び、足が伸び、まるで当初からそういう形状の怪物であったかの如く、奇怪な輸郭に変形していく。
「黒ボウライ……!」
フォロンが呻く。
それはまさに精霊力発電所で見たものと同じだった。
クダラ・ジャントロープの神曲『地獄変』は、ボウライを変質させた。黒く禍々しい凶暴な獣の群れに変えてしまったのだ。
それと同じことが今――起きている。
それも千柱以上ものボウライが合体した巨人の全てにだ。
ヤーディオは素早い動きで拳をかわしていたが――不意に動きを止めた。
自分が避ければ、勢い余ったボウレムの拳がユフィンリーを直撃する位置だったからだ。
鈍い音を立てて拳がヤーディオの腹部を直撃する。
「ぐはっ……!」
蒼銀の髪の精霊は空中でよろめき――しかし己の契約楽士への被害を防いでいた。身体を張ってその拳を受け止め、軌道を逸らしたのである。
ボロ布の様にヤーディオの身体が落下する。
「ヤーディ!」
「酒落になんねえぞ……こりゃあ……」
ユフィンリーの神曲を背に受けていたからだろう――悶絶する事も無くヤーディオは起きあがってきたものの、その表情には焦燥が色濃い。
絶望的な状況だとこの精霊も認めているのだ。
『…………』
四体の黒い巨人達がフォロン達を振り返る。
そのすぐ後ろには空中に浮かんだ髑髏の精霊。
更にその後ろには二柱の異形の精霊と二人の神曲楽士達。数十人の船員達も居る。
圧倒的なフォロン達の劣勢である。
(これまでか……)
フォロンは唇を噛みながら考える。
(本当にもう……これまでか……)
――否。
くじけそうになった彼の内心を否定するかの様に――彼の手に白い繊手が重ねられる。
顔を上げるフォロンに、傍らに寄り添っていた彼の契約精霊が首を振ってみせた。
(そうだ)
フォロンは自分に言い聞かせる。
(未だだ――未だ何か出来る事は無いか……?)
同時に……
「おおぉおおぉおおぉおおぉぉぉおおおぉぉおおお!!」
咆哮が響き渡る。
地の底から響く様なそれは……四体の巨人の声であった。顔のない筈のボウレムの、その頭部にばっくりと裂け目が現れている。そしてそこから野太い霧笛の様な声が漏れているのだ。
神曲楽士ならば誰もが一瞬で悟る。
それは――苦痛の声だ。
無理矢理に捩じ曲げられる苦しみと、無理矢理に操られる痛みに、数百の精霊達が揃って悲鳴をあげているのだ。
「てめぇ……!」
レンバルトが改めて怒りの形相でサキソフォンを構える。
ユフィンリーもわずかに姿勢を変え――曲調を変える。
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
長い長い――怒号の様な神曲。
揃えて二人が演じるのはただひたすらに『否定』。
二つの邪悪な奏始曲に対する断固たる否定の旋律でありその意志である。精霊達の上にのしかかる強制支配を僅かでも緩めようとする神曲だった。
しかし……
――〜〜! 〜〜! 〜〜! 〜〜! 〜〜〜〜! 〜〜〜〜! 〜〜! 〜〜!
それを遮る様に――嘲る様に敵の神曲が禍々しく鳴り響いた。
無数の断音が叩き付けるかの様に紡ぎ出され、威圧的な旋律へと連なっていく。
対してユフィンリー達の演奏する神曲も高く高く夜空に突き刺さる。
それは――死闘だった。
音楽による死闘だ。
「…………っ!」
フォロンもまた鍵盤に向かっていた。
判っていた。
この場における勝機はもう無い。全てを見渡してもフォロン達が勝てる要素は無い。
だがそれでもただ黙って敗北を喫する訳にはいかなかった。
何より奏始曲によって苦痛を与えられている精霊達を見捨てる事は出来なかった。
ボウレム達も。ヤーディオも。
そして誰よりもコーティカルテを。
だからフォロンはレンバルトやユフィンリーに揃えて鍵盤を叩き音を紡ぐ。
出来る事をする。
最後まで諦めずに抗う。
それはただそれだけの事ではあった。
しかし――
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!
強く強く。
征服を拒み。純望を拒み。死滅を拒み。敗北を拒み。
三人の神曲楽士達が必死に奏でる即興の演奏は――奏始曲にどこまでも抗った。
ユフィンリーの奏でる鋭くも優美な音に、レンバルトの野太くも細やかな変遷を示す音が絡み付いていく。その全てを支えて音を広げていくのはフォロンが虚無より引き出す涼やかな和音である。
「ぎじゃっ!」
「ごばっ!」
二柱の異形の精霊が顎の中に、そして掲げた手の先に、黒い精霊雷を収束させるや否や、それを矢継ぎ早に撃ち込んでくる。
ヤーディオとコーティカルテが再び精霊雷の障壁を展開しこれを防御。
はじき返され、あるいは拡散した精霊雷は、周囲の甲板や艤装に命中して火花を上げる。既に弾痕だの何だのというものを気にしている場合ではないと考えたか、船員達も銃を構えて銃撃を開始した。
精霊雷。そして銃弾。
大量の致死的な攻撃が横殴りの雨の如くフォロン達に叩き付けられる。
二重の障壁は辛うじてそれを食い止めてはいたが――
「なかなか頑張る――しかし」
髑髏の精霊が嘲る様に言って片手を挙げた。
その掌に冷たく白い光が渦を巻く。収束した精霊雷で一気に薙ぎ払おうというのだろう。
ヤーディオが。コーティカルテが。
障壁だけでなく己の身を挺してそれぞれの契約主を護ろうと身構える。
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!
半ば没我の境地にて演奏を続けるフォロン達。
高まり高まったその果てで――
駄目だ。嫌だ。許せない。
緊張と焦燥に引き延ばされた一瞬の中でフォロンは思う。
(でも……どうして自分はこんなにムキになっているのだろう……?)
ふと――そんな場違いな思考が何処かで囁く。
死ぬこと。終わること。無くなること。
それは宿命だ。
生命として存在した以上……避けられない未来だ。
生きて死ぬ。その事に然したる意味は無い。ただの自然現象に過ぎない。
家族や友人に囲まれた穏やかな死も。達成感に満ちた死も。屈辱と苦痛にまみれた死も。志半ばで迎えねばならぬ死も。
全て現象としては等価でしかない。
では何故に人は死を拒もうとするのか……?
人は己の存在が無意味に堕するのを怖れる。
人は己の意志が無価値に還るのを忌み嫌う。
意味と価値。
それが人の人たる所以だからだろう。
他者が居なければ意味というものは必要が無い。他者が居なければ価値というものも必要が無い。智恵在る存在として寄り添い、繋がり、手を取り合って生きていく為に――それは必要なものだ。そしてそれらは結びつき合って、より大きな意味と価値を生み出していく。
それが人だ。獣には出来ない――人にしか出来ない事だ。
ならば。
それは何時か来る『終わり』に抗する唯一の手段ではないか?
絶対的な無意味と無価値に歯向かう為に、人は意味と価値を承継する。少しでも長く生きて『次』に何かを渡そうとする。そしてバトンの様に手渡され続けた意味と価値の中で人は『生き』続ける。
そして承継され続けた意味と価値は、遙かな時の彼方で、何か絶対的なものに達する事が出来るのではないか……?
(……故に……)
何処からか紛れ込む声が在る。
(……我等は断絶を怖れる……承継無き途絶を……憎む……それは……人間も……精霊も同じ事……)
(……?)
(過ちも……それは貴重な経験となる……積み重ねられた時間と経験は……何よりも……貴重な…………故に……我等は…………怖…………ダンテ…………繰り返…………終わりと始まりの………………失われた……生と死の………………)
(誰……!?)
まるでそれは夢の中の会話の様に要領を得ない。
しかし――
(……若き……楽士……汝等の………………未来に……尊き……承継を…………)
切れ切れの言葉。
それさえもが曖昧に溶けて……
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ」
フォロンの叫びが夜気を打つ。
それは邂逅《かいこう》の喜悦と別離の悲哀をない交ぜにしたものだった。
生と死。
一瞬のそこに込められた――全て。
「――!!」
何処かで何かが揺らいだ。
それはひどく小さな――小石が水面に生み出す波紋の様なものであったろう。だがそれは消える事無く周囲に伝播し広がっていく。僅かに――しかし確実な変化を伴う波が、周囲の空気を一変させながら世界を染め変えていく。
世界の意味と価値が変わる。
『――!?』
精霊達が揃って――ボウレム達ですらもびくりと身を震わせた。
音も無かった。光も無かった。
なのに何かが決定的に変わった一瞬がそこには在った。
それは本当に一瞬でしかなかったが――
「――どうした?」
「おい……?」
敵方の神曲楽士二人が怪諾そうに声を上げる。
異形の精霊二柱も何か不安を覚えたかの様に辺りを見回している。
そして……
「――フォロン……」
最初に気づいたのはコーティカルテだった。
「お前は……いつも私を驚かせてくれる」
「……え?」
そっと――愛おしげにコーティカルテの手がフォロンの頬に触れる。
「まさかレブロスを……目覚めさせるとは思わなかったぞ」
そう言うコーティカルテの姿を下から照らすものがある。
何かが光っている。
決して強い光ではない。柔らかく暖かい。まるで虚空からひっそりと滲み出るかの様に、方向性を持たずただ辺りを照らすだけの、穏やかな光だった。
だがそれは――
「あっ……!」
フォロン達の足元で半透明の脳髄が光っている。
――〈コア〉だ。
ユフィンリーが輸送用のコンテナ・ケースから引っ張り出したあの発掘物が光を放っているのである。
それは見た目にはただそれだけの事だった。
しかし……
「…………」
悠然とコーティカルテが前に出た。
その足取りに――先程までの不安定さは微塵も無い。
「え……?」
しっかりと甲板を踏みしめて歩くその姿は――圧倒的な力を背に他を睥睨《へいげい》する女王の偉容であり、同時に戦場に赴く騎士の堂々たる威容であった。
「演奏を続けろ」
そして傲然とした仕草で彼女はフォロンを振り返って言った。
「フォロン――お前はやはり最高だ」
「…………!」
手応えが戻ってきた。
フォロンの神曲楽士としての感覚が告げていた。
調律のずれが――消えたのだ。
屈く。神曲が届く。思いの丈を込めた旋律が――コーティカルテに届く!
どうして……という疑問は溢れ出す歓びの前に押し流された。
「コーティ……!」
「今度ばかりは私が待たせたな」
言ってコーティカルテが跳んだ。
いや――飛んだ。
同時に背中で弾ける深紅の閃光。避るそれは瞬時に広がり自ら形を成して――眩いばかりに煌めく六枚の羽根へと変化していた。
『……!!』
場に居合わせた全員が息を呑む。
変化は彼女の肢体の上にも現れていた。
セーターが。ジーンズが。スニーカーが。
フォロンから借りて彼女が身に付けていた諸々が消え失せる。白い裸身がさらけ出されたのはまさしく一瞬――改めて光の粒子が彼女の周囲で渦を巻き、新たな色彩と形状を造り出していく。
彼女の着ていた全てが瞬間的に分解されて新たに組み直されてゆく――
そして。
「…………ふふん」
緋色の精霊がそこに居た。
ゆったりと風を孕む長い衣。緋色の髪。緋色の羽根。そして長い腕と長い脚。その全てが――内側から光を放っているかの様に瑞々しく力に満ちている。
「…………」
一瞬ながらフォロンは己の契約精霊に見とれた。
美しい。
今まで何度も何度も彼女を見てきた。
だがそれでも――今までにも増して今の彼女は美しかった。こんな美しいコーティカルテを見た事が無かった。何処までもその姿は気高く神々しく――精霊ですらないかの様に思えた。既存の言葉に彼女の存在を押し込める事は冒涜的とさえ思えたのだ。
「貴様……」
空中で対時する髑髏がその顔を歪める。
今度ばかりは、さすがに笑みではなかった。
「私を貴様呼ばわりするとは……お前も偉くなったものだな」
コーティカルテのその言葉は涼やかで――しかし同時に聞く者の全身を震わせる。
「なあ……ディエス・ゴル・アルバークライド?」
「……!?」
髑髏の精霊が空中でわずかに揺れる。
「貴様……馬鹿な。だが俺を知っているという事は……貴様、原型《オリジナル》のままなのか!? しかし羽根が――」
「勿論、騙《かた》りでもなければ偶然でもないぞ。貴様は知っている筈だな? ――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスの名の持つ本当の意味を」
「…………!」
「断っておくが……今の私は音よりも狭量だぞ?」
突然――コーティカルテの左右で轟と空気が鳴った。
四体の巨人が彼女の両側から二つずつ――合計四つの巨大な拳を叩きつけにきたのだ。
だが……
――るううううううううううううううううううううううううううううううぁっ!
拳は触れられなかった。
高々と響くレンバルトのサキソフォンの音と共に空中でそれは分解した。
黒い巨人は瞬時に本来の輝きを取り戻し、次の瞬間、千にも達するボウライに戻って空中に四散していた。
「おお……おお……?」
奏始曲を演奏していた二名の神曲楽士は元より……異形の精霊達や船員達、果ては髑髏の精霊まで驚愕と困惑の声を漏らす。
「まだ判らんか」
コーティカルテの言葉には明らかな憤怒と――そして裏腹の嘲笑があった。
「レブロスが目覚めている。それは仮初めではあろうが――死の向こう側から戻ってきて我等に影響を及ぼしている」
「……ば……馬鹿な……」
「お前達が私に喰らわせた様な……『聖骸』を無理矢理に利用する邪な方法とは違うぞ。レブロス本来の――精霊を精霊として生まれ変わらせる為の力が働いている。私の復調が何よりの証拠だ」
「あり得ない! レブロスは……レブロスはもう……」
髑髏の顔には苦痛が浮かんでいた。
「ああ――そうだ。レブロスは一度は失われた。それは間違いなかろう。だがそれがどうした? 現に今――眼の前で起きているこの事がお前には理解出来ないのか?」
「そんな馬鹿な……精霊島は……」
――るううぁッ! るううぁッ! るううぁうぁうぁッうぁッうぁ!
――ふぁあああああああああああああああああああああああああおうッ!!
異を唱える様に――奏始曲が轟いた。
「ごがあ!!」
「じゃっ!!」
応じて二匹のバケモノと化した黒い精霊達が動く。
人型の『蜘蛛』が一直線に突進してくる。二本の脚と八本の腕ががりがりと甲板に爪をたてて火花を散らしていた。その奇怪な姿を前にすれば誰もが尻込みしかねない。
だが……悠然とその正面に滑り込む影が一つ。
「おっと」
ヤーディオである。
「じゃあ!!」
八本の腕が八つの方向からヤーディオを急襲した。
同時の様でありながら微妙に機をずらした高速の――否、神速の八連撃。全くの同時よりもそれはむしろ避け難く、極まれば八発の打撃が累積して一気に相手の戦闘力を奪う。
しかし……
「うっせえよ!!」
驚くべき動きだった。八つの攻撃の全てをヤーディが叩き落としたのだ。
突きで。打ちで。払いで。そして蹴りで。弧を描く様に繰り出されたその四肢が八発全ての攻撃を迎撃しきったのである。
最後に繰り出された一発は――拳だった。
「おっしゃあ!!」
銀色の精霊雷をまとった拳が――巨大な眼球の埋まった顔面に真正面からめり込む。
「げじゅ!!」
人型の『蜘蛛』は突進してきたのと同じ速度で後方に吹っ飛んだ。黒い巨体は甲板上で二度ばかり跳ね、さらに数メートルを転がって――動かなくなった。
「ふふん。気分爽快――ってとこだな」
その背中では銀色のナイフが四枚――輝いている。
直視が困難な程の強烈な光だ。
「……中級精霊が……上級精霊を真正面から……だと?」
「まだ判らんのか――ディエス」
呆然と呟く髑髏の精霊にコーティカルテがむしろ憐れむ様な口調で言った。
「お前は……お前達は精霊と人間との不自然な関係に付け込んだ。だが全てのものは、つねに『あるべき姿』に還ろうとするものだ。レブロスの骸は、ただその手助けをしているに過ぎない。お前達のしていることは『存在』そのものへの反逆なのだ」
「黙れ!」
髑髏の精霊――ディエスは叫んだ。
何処か余裕を気取る口調は既に吹き飛んでいた。恐らくこちらがディエスと呼ばれる精霊の本当の喋り方なのだろう。
「あるべき姿だと? ほざくな! 貴様が本当にコーティカルテ・アパ・ラグランジェスであるというのならば――俺の知る〈紅の女神〉であるならば、死の洗礼を経ぬ〈原型〉であるのならば、知らぬ筈が無かろう! ダンテの名の意味を!」
「…………」
コーティカルテは無言。
「そも――その意昧を理解していたからこそ、貴様は〈嘆きの異邦人〉などという痴れ者共の、たわけた計画に乗っていたのであろうが!?」
叫びと共にディエスが動いた。
背骨の様な六本の羽根がまるで何かを捧げ持つかの様に上方へと掲げられる。
それらの先端から僅かに先……その空中に白い電光が渦を巻きながら収束していく。
精霊雷だ。それも恐ろしく強大な。
「違うか――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスッ!!」
虚無の白さを孕んだ精霊雷がコーティカルテに向けて叩き付けられる。
それをむしろ静かな眼で見据えつつ――
「……たわけ」
ただその一言と共にコーティカルテは腕を払った。
異音。
金属の裂ける様な耳障りな音が轟いた。
ディエスの精霊雷は無造作に振り払われたコーティカルテの腕に弾かれて飛び去った。一瞬遅れて……彼方の海面で、まるで大型爆弾が炸裂したかの様な、巨大な水柱が噴き上がる。
「理を説いても分からぬなら――お前にやるべきものはこれだけだ」
それは宣言だった。
続く現象がフォロンには見えなかった。
ただ――紅い閃光が残像として全てを覆い包んだのが見えただけだった。
そして重い衝撃音。
残像が収束し――コーティカルテは片腕を真っ直ぐ伸ばした姿勢でそこに居た。
対してディエスの姿が無い。
ただ……コーティカルテの前方、船橋のど真ん中に直径ニメートルばかりの穴が開いているのが見えるだけだった。ぱらぱらと穴の縁から砕けた部品や構造材が落ちる。
「ぎいいいううううぅぅぅぅ…………」
奇声を上げつつ――黒い『竜』にも異変が生じていた。
黒い色がみるみる薄れ……それと共に縮んでゆくのだ。
『地獄変』の力が消えてゆく。
いや……それだけではない。『地獄変』が鳴り響く前の形態をも通り越して更に小さくなっていき、輪郭から禍々しさが抜けていくのだ。
この変化は引っ繰り返ったまま動かない人型の『蜘蛛』も同様だった。
それが……恐らく彼等の本来の姿なのだ。
巨大なトカゲは、今やトカゲの頭をした人間の如き姿に変じていた。背中の六枚の羽根も薄い緑色のウロコのように変わって――やがて消える。
クモの方は少々異様な姿だった。胴体だけで五〇センチはありそうな――それは人の顔をしたクモだったのだ。それでも背中にはやはり六枚の羽根があった。
悠然と空中から滑り降りてきたコーティカルテが精霊達の前に立つ。
「お前達もお前達だ。神曲楽士の質も見極めずあっさりと神曲に飛びつくから――いい様に利用される」
辛辣な言葉に――人頭のクモは恐縮しきった様子で身を縮める。
だがトカゲ精霊の方は違った。
「――ッ!」
甲板を蹴って船の外へと飛び出したのだ。
反省の色無し――といった処か。
「あっ!」
思わずフォロンは声を上げる。
腐っても上級精霊――トカゲの姿はそのまま空中を飛んで遙か彼方に遠ざかっていく。
「逃げちゃった……いいの?」
とフォロン。
彼としては逃げる者まで追う気は無いのだが――コーティカルテの性格からすれば、追って一発ぶん殴る位の事はすると思っていたのだ。
「……いや」
コーティカルテは苦笑を浮かべた。
「逃げられん」
何処か遠くで――高く細い旋律が響いた。
ブルースハープだ。
その音色はどこまでも哀しくどこまでも切ない。荒くれ者が、酒場の片隅でそれを聴きながら鳴咽を堪えているかの様な……単音の連なりでありながらも、そんな情景が背景に透けて見えるかの様な、豊かさがその音には在った。
そして。
突如――飛び去ろうとするトカゲの精霊の正面に、黒い影が垂直に跳び上がってきた。
距離が在るので詳細は見えない。だが続く動きでそれが人影である事は判った。
拳を振り上げて、逃げる精霊を真上から殴り落としたからである。
ずどん……と精霊が地面に激突する音が聞こえた。
「……奴が来ない筈が無いからな」
「奴って……?」
尋ねながら振り返る。
そこでフォロンは眼を丸くした。
コーティカルテはいつもの姿に戻っていた。
緋色の髪と緋色の眼は変わらず――しかし小柄な少女の姿に。
「コーティ……」
「フォロン」
ゆっくりと近づいてくる少女をフォロンは〈ハーメルン〉を降りて迎えた。
どこか照れ臭そうな笑みで少女は彼を見上げる。
「少々疲れた」
「そうだね。お疲れ様」
優しく微笑むフォロン。
そして――
「抱っこ」
コーティカルテは言った。
いつものフォロンなら赤面して焦って狼狽えていた事だろう。
だが今夜の彼は躊躇する事無く応えた。
「いいよ」
伸ばした両腕の中に――コーティカルテの小さな身体が飛び込んでくる。抱きしめると、それは腕の中で溶けてしまいそうに柔らかだった。
「さて――と」
腕を腰にあてて周囲を見回すのはユフィンリーである。
「これで仕事は片づいた――って事かな。予定とは違っちゃったけど」
「おうよ」
プリネシカに手を貸して立たせてやりながら――ヤーディオが頷く。
残った船員達を、じろり――と脾睨する。
「こいつらが余計なことしなけりゃあ――な!」
ヤーディオは船員達に向けて歯を剥き出した。牙の様な白い歯が威圧感満点に煌めいた。
「…………」
誰も今更、逆らおうとする者は居ない様だった。
恐らくは全員がただ雇われただけの者なのだろう。肩を竦めて船員達は手にした棍だの刃物だの銃器だのを甲板の上に放り出した。
「んー……」
まるで飼い主に甘える猫の様に――抱き上げられたままのコーティカルテがすりすりと頭をフォロンの胸に擦り付ける。彼女の身体の温もりを感じながらようやくフォロンは安堵の溜め息をついた。
終わった。とりあえずは。
そう思った時――
「所長」
レンバルトである。
「これって……まずいですよね……」
彼は甲板の上に片膝をついて不安げな表情を浮かべている。
全員の視線が彼の傍らに集まった。
「これって……」
呻く様に言うユフィンリー。
だが――
「ふふん。そうきたか」
ヤーディオはしかし気楽そうにそう言った。
「当然だ」
更にフォロンに抱き上げられたままのコーティカルテが言う。
どこか――満足げな声だった。
「レブロスはとうの昔に死んでいる。遺骸を一時活性化させたとしても……それはやはり仮初めの『生』だ。何処かに無理が出る。掘り起こしてどうにか出来る様ならとっくにやっている」
遠くから――サイレンの音が幾つも近付いてくる。
コーティカルテの台詞を聞き、甲板の上で粉々に砕けた『コア』を眺めながら――フォロンはぼんやりと考えた。
精霊には秘密がある。
人間には知らされていない事がある。
精霊達が知っていて――しかし人間達が知らない事が在るのだ。
それはある意味で驚きではあった。これだけ長い歳月を人間達と共に歩んできた彼等が隠し事をしていたのだから。
だが……裏切られたとは不思議と思わなかった。
人間と精霊とは決して同じではない。
人間の理屈と感情を精霊に全て押し付ける訳にはいかない。
そして――だからこそ人間と精霊は寄り添うのだ。
違う者同士。
手を取り合った先に在るものが見たくて。
承継に承継を重ね……意味と価値を積み上げた先に在るものが見たくて。
「…………フォロン」
コーティカルテがフォロンの首に腕を回し、耳に唇を寄せて、囁いた。
「ありがとう」
「…………」
応えるべき言葉が、フォロンには見つからない。
だからただ彼は気持ちを込めてコーティカルテを抱き締めた。
結局これは――信用されていなかったという事だろうか。
それとも逆に信用されていたからこそ――と解釈すべきだろうか。
ともかく貨物船は警察に包囲されていた。
精霊警官が次々と甲板に飛来しては武装解除した船員達を拘束してゆく。船員達もやはり今更抗う積もりは無い様で、大人しく精霊警官達に従っている。その意味では被等も割り切りの良いプロフェッショナルであるのだろう。
で――
「やあやあ、どうもどうも」
船を降りたユフィンリー達は、見覚えのある笑顔に迎えられた。
「お疲れ様です」
のっしのっしと大股で歩いて来るのはルシャゼリウス市警・精霊課のマナガ警部補だ。その少し後ろを小さなマティア警部と――ペルセルテが小走りに走って追いついてくる。
「いやあ、心配しましたよ」
回りには何十台もの警察車両が停車し、手錠をかけられた船員達が次々と護送車に押し込められてゆく。精霊文字を刻んだ手錠をかけられて、トカゲの顔の精霊が顔を腫らしているのは――マナガにぶん殴られたからだった。
蜘蝶の方は、精霊文字の描かれた護送ケースに入れられて、ラマオ枝族の警官に抱えられていた。精霊は本当に形態が様々なので、精霊課は大小様々な護送ケースや手錠を普段から用意して現場に向かうのだ。
それはさておき……
「どーだか」
ユフィンリーは半眼で巨漢を見上げる。
「そんなら――どうして、とっとと踏み込んで来てくれなかったわけ?」
「あいやぁ、大半が契約者のいない自由精霊なもんでしてね。そんなのが奏始曲の鳴ってるとこへ飛び込んでったら、えらいことになりますからなあ」
「マナガさんなら平気じゃないの?」
「いえ、私ゃ応援に来ただけなんですよ。ここはうちの管轄じゃありませんから……」
そこまで言った時だ。
「マナガ!?」
素っ頓狂な声が会話を遮った。
声の主はコーティカルテである。ちなみに未だ彼女はフォロンに抱っこされたままだ。
「マナガリアスティノークル!?」
呼ばれて――
「はあ」
一瞬、きょとん――とした表情を浮かべるマナガ。
だが……次の瞬間、巨漢の顔に、みるみる驚愕が広がってゆく。
「あ……え? まさか。コーティカルテ!?」
そして続く言葉は――まるで揃えたかの様に二人共、全く同じものだった。
『その《・・》姿《・》……!?』
硬直する二柱の精霊。
意味が分からず怪訝の表情で成り行きを見守る一同。
コーティカルテもマナガもまるで異様なものを見たかの様な表情を浮かべている。マナガの台詞からすれば双方共に顔見知りであった筈なのだが――
「まいったなあ……」
マナガはぼりほりと頭を掻く。
コーティカルテは頼を赤らめてフォロンの腕から滑り降りてしまった。
「え? なに? なに?」
巨漢とコーティカルテとを交互に見ながら――何が何だか分からないフォロンは間の抜けた声を上げるしかない。
「ええと……ともかくですね」
苦笑を浮かべてマナガ警部補は言った。
「とにかく連中は連行します。以降はこっちの仕事になりますが――何か判り次第ご報告はしますから」
「じゃ、私達はもう行っていいのね?」
「ええ。後日、こちらからご連絡しますんで」
「判った」
ラマオ枝族の精霊警官二柱が、フォロンの〈ハーメルン〉を左右から抱えてふわりと地面に降り立つ。かなり無茶をしたからか――改めてみると〈ハーメルン〉はまるで廃車寸前の様相を呈していた。恐らくフレームから直す様な本格的修理が必要だろう。
ちらりとそちらを見てから――ユフィンリーは言った。
「んじゃ――全員ここで解散。私は〈コア〉をオミテックの研究室に届けて帰るから何かあったら留守電に入れといて」
「いえ――一緒に行きます」
フォロンが言った。
「いいよ。とっとと帰って、コーティカルテといちゃいちゃしてなさい」
「い……いちゃいちゃなんてしませんよっ!」
さすがのフォロンも真っ赤になって叫ぶ。
「いいからいいから」
「ユフィンリー」
にやにやと笑うユフィンリーに――しかし改めて真面目な声で応じたのは意外にもコーティカルテだった。
「フォロンはこれでもプロなのだ。最後まで仕事をさせてやれ」
フォロンの手を握りしめてコーティカルテは微笑を浮かべた。
見ればレンバルトも微苦笑を浮かべつつ頷いている。
「ん――そうか。そうだね」
満足げにユフィンリーは頷く。
「分かった。んじゃ――護衛、よろしくね。つっても〈ハーメルン〉は使えそうにないから私の車とレンバルトの車に同乗かな」
フォロン。コーティカルテ。そしてレンバルト。
全員が『はい』と清々しい口調で応える。
ただ……
「――すみません、ユフィンリーさん」
精霊警官の一人から耳打ちを受けたマナガが、やや申し訳なさそうに割って入った。
「犯人側の精霊は三柱――でしたよね?」
「うん」
トカゲ。クモ。そして骸骨。
他にも居たのかもしれないが、ユフィンリー達が目撃したのはこの三柱である。
「三柱目が――いません」
「……うそ」
呻く様に呟くユフィンリー。
トカゲとクモは先程連行されていく姿を観た。
ならば居なくなったというのは、あの髑髏の精霊だ。
これはユフィンリーの勘であったが――あの三柱の中では最も髑髏の精霊が難物である様に見えた。それも桁違いに。上級精霊といっても全てが全く同じ力の大きさという訳ではない。まして己の力の使い方を知っているか否かでその強さはまた変わる。
「――そうだろうな」
そう言ったのはコーティカルテである。
「三人めは――ディエスだ」
「ああ……なるほど……」
マナガは船を見上げた。
「そいつぁ、厄介ですなあ……」
如何なる感慨を抱いているのか――黒い精霊警官の太く重い声が潮風に響く。
黒々とした船影の真上に、白い満月が輝いていた。
EPILOGUE
割れんばかりの拍手の中で、ツゲ・ユフィンリーは類を引きつらせて一礼した。
まるで発条《バネ》仕掛けの人形の様な――かきんと音がしそうな仕草である。天才と呼ばれ様々な舞台に引っ張り出されてきた経験の在る彼女としても、緊張する時はするのだと知って――むしろフォロンは自然と笑みがこぼれた。
ユフィンリーは小走りに壇上から降りて卓に戻ってくる。
彼女が席に着くまで拍手は鳴りやまなかった。
いや――
「いつまで拍手してんのっ!」
肘で小突かれるのは隣の席のレンバルトである。
「いやあ……俺達の所長に敬意を表してるんですよ?」
「いいからやめなって」
まだ拍手を続けようとするレンバルトの手をユフィンリーが押さえつける。
くすりと笑みを漏らしたフォロンは――ユフィンリーに睨み付けられて慌てて生真面目な表情を取り繕った。
オミテックの創立四〇周年パーティの会場である。
それも生半可なパーティではない。トルバス神曲会館のパーティ会場を三つ――ぶち抜きで借り切った収容人数八○○人の大会場なのである。
その最前列にツゲ神曲楽士派遣事務所の面々は招待されていた。
すなわちユフィンリーを筆頭に、フォロンとコーティカルテ、レンバルト、そしてペルセルテとプリネシカのユギリ姉妹である。
会場に整然と並べられた円形のテーブルはざっと一〇〇。その全てに、世俗に疎いフォロンでも見分けのつくような有名人が着いているのだ。
そんな中で、開会宣言の直後にいきなり壇上から声を掛けられ――それも事前の打ち合わせも無く――さすがにユフィンリーも緊張してしまったという訳だ。
何しろオミテック社長オミ・テディゴットは、彼女を『コア強奪事件』解決の功労者として紹介し、彼女とその事務所の働きがなければ今日のオミテックは存在し得なかった、とまで言った。当然に参加者の視線は壇上に呼ばれたユフィンリーに集中する。
とはいえ――二ヶ月も前の事件である。
ユフィンリーにしてみればもうすっかり過去に分類されていた出来事だ。今更いきなり話題にされるとは思ってもみなかったのだろう。
それでもきちんとスピーチをこなして来たのだから、大した度胸ではある。
しかも世間話に毛の生えた程度の内容でお茶を濁してきた訳ではない。彼女は旧態依然たる神曲楽士の姿勢を批判し、神曲楽士は人間と精霊との架け橋たるべき存在である事を主張した。そして『コア強奪事件』の解決も、英雄的行為などではなく、単にプロとして仕事をしただけである事を強調したのである。
会場を満たす無数の拍手が、彼女のその姿勢に対するものである事をフォロンは理解していた。勿論それだけで何が変わる訳でもあるまいが――少なくとも彼女の意見は肯定的に受け容れられているのだ。少しずつでもまた神曲楽士業界に変化が現れるに違いない。
つまり……神曲公社にたむろする『年寄り連中』に、ユフィンリーは遂に一矢報いたという訳である。
「やれやれ――だわよ」
ユフィンリーは一気にグラスを干した。シャンパンだ。
壇上では、オミテックの重役らしき人物の挨拶が続いている。ユフィンリーは盆を片手に歩いてきた給仕から新しいシャンパン・グラスを受け取った。
同じグラスに手を伸ばそうとするコーティカルテに給仕が目を丸くする。
「あ、いいんですよ」
フォロンが言い添えた。
「彼女、精霊ですから」
「あ――これは失礼しました」
給仕が腰を屈めてグラスの並ぶ盆を差し出す。
うむ――と鷹揚に頷いて受け取るコーティカルテ。彼女はシャンパンのグラスをゆっくりと舐めつつ満悦の表情を浮かべていた。
あの日以来――もう異常は起きていない。
フォロンの神曲による支援のない限り、コーティカルテが『真の姿』に変わる事はもうなかった。今も彼女は少女の姿である。
ちなみに……彼女は今、フォロン達と同様にツゲ事務所の制服を着ているが、これは『コア』輸送の際にコーティカルテが着ていたものとは別だ。これは彼女が『造った』ものではない。あの事件の後でユフィンリーが正式に発注してくれたのである。
快気祝いよ――と所長は言った。
壇上では最後のスピーチが終わった様だった。ステージの上では弦楽四重奏の生演奏が始まり、会場は会話にざわめき始める。給仕達が忙しく立ち回り、それぞれの席に料理が配られ始めた。
「フォロンは飲まないのか?」
コーティカルテが首を傾げて尋ねてくる。
「ああ……僕はこれがあるから」
オレンジ・ジュースだ。
「いい歳をして、何を子供みたいなものを飲んでいる」
「いや――ほら。帰りは運転もあるしね」
そんな話をしているところへ――
「失礼します」
後ろからこっそり声をかけられた。
ペルセルテが、嬉しそうに声をあげる。
「あ。カティ」
そこに立っていたのはオミ・カティオムだった。
きっちりタキシードで正装して――しかも隣にはイヴニング・ドレスのシェルウートゥを連れている。元よりシェルウートゥは美しい精霊だが、普段は清楚な印象の彼女がこうして艶やかな衣装で着飾っていると、また見る者の溜め息を誘う程に美しい。
ユフィンリーに薦められて二人は空いていた席に並んだ。
あるいは最初から二つ多めに用意されていた椅子はこの為のものだったのかもしれない。
「その後――どう?」
「ええ。おかげさまで」
照れ臭そうに――二人は視線を交わし合う。
それからカティオムは再び声を潜めた。
「僕――皆さんに報告しておかなければならない事があります」
二人で、手をとりあって。
「お二人はもうじき、卒業ですよ――ね?」
尋ねる相手はペルセルテとプリネシカだ。
「うん。その予定」
頷くペルセルテ。
実際の処、もうそれは決定であると聞いている。ペルセルテはストレートで卒業試験に合格し――諸事情在って神曲の演奏能力には難のあるプリネシカも『裏技』を駆使して何とか目処が立っている。
「じゃあ入れ違いだ」
そう言って――カティオムは笑う。
それは見ている者が引き込まれそうな晴れやかな笑顔であった。
「僕、この春からトルバス神曲学院に通うんです」
「ええっ!?」
全員が声をあげて、周囲のテーブルで何人かの招待客が振り返った。
「マジ?」
ペルセルテに、カティオムは頷く。
「それって、やっぱ、シェルちゃんのために?」
シェルウートゥは笑みを浮かべながらも赤面して俯いてしまったが――カティオムは真っ直ぐにペルセルテを見つめて頷いた。
「神曲楽士になれるかどうかは判りませんし、なれたとしても僕の神曲が彼女に合うかどうかも判りません。でも、やってみたいと思ったんです」
そしてその真摯な少年の瞳は――憧れの色を湛えてフォロンとコーティカルテを見つめた。
「フォロンさんとコーティカルテさんみたいになれたらいいなって……」
「ちょっとちょっと――カティオム?」
ユフィンリーが苦笑を浮かべて尋ねる。
「あたしとヤーディは、手本にならないわけ?」
「あ――いえ。そういう意味じゃなくて」
「いや。ならねえな」
ぼそりと小さな声が……声だけがした。
ヤーディオだ。
「こいつ契約の時になあ、俺がキスしてやろうとしたら殴りやがったんだ。それもグーだぞ、グー!」
「あ――こら! 黙れ、馬鹿!!」
全員の笑いの中、それっきりヤーディオの声は聞こえなくなった。
「ま……そか。うん」
ユフィンリーの頬が微かに紅い。
「いいんじゃない? 応援なんて見え透いた事はしないけどさ――いつでも後輩の相談には乗るよ」
「はい」
「ありがとうございます」
そう付け加えるのはシェルウートゥだ。
「――ああ、それから」
カティオムは席を立つ前に内ポケットから一通の封筒を取り出して、テーブルに置いた。
「父から預かってきました。後日、改めてご連絡すると言っております」
そして、カティオム達は改めて一礼し――次の席に挨拶に向かった。
要するにそれはオミテックの社長の息子としての仕事である様だ。
「――何です?」
ユフィンリーが受け取った封筒をレンバルトが覗き込む。
「さあ?」
封を切ると中から現れたのは畳まれた青写真らしきものと――そして手紙だった。
ざっと手紙に目を通すユフィンリー。
彼女の眼が険しい光を湛えたものに変わってゆく。
「どうしたんですか?」
「解析したって……」
何の事か――フォロンにはすぐに悟った。
あの石だ。
脳髄の様な形をした半透明の結晶体。
フォロン達の神曲に共振して輝き……なぜかヤーディオにいつも以上の腕力と俊敏さを与え、それどころかコーティカルテの異常さえ治してしまった、あの謎の物体だ。
コーティカルテによれば、そもそも彼女の異常も、あの『聖骸』と精霊達が呼ぶものの性質を悪用した『攻撃』の結果であったらしい。
「解析……ですか」
「ええ。出土したのはあくまで一部なので、全体像は分からないにしても、それが何なのかはだいたい分かったそうよ」
情報処理装置だ、とユフインリーは言った。
入力された情報を電気信号に変換し、計算し、再び出力する。言わば思考機械の一部だった、というのが解析結果なのである。
「『賢者の石』の一種って事ですか?」
とレンバルト。
単身楽団や一部の機械に用いられている――極めて高価な思考性電気回路。
その中枢部にはある種の鉱石が使われている。これを一般的に『賢者の石』と呼ぶ。もっともあまりにもこれは高価で――写真はともかく、現物を自分の眼で見た事の在る者は少数だろう。
神曲楽士達ですら、わざわざ自分で単身楽団を分解しない限り見る事は無い。
費用対効果をあまり考えずに済む様な、軍事や先端医療といった方面では活用が進んでいる様だが、希少性から来る高価さを理由に、一般的な機材には全くといって良い位に使われていない。
「みたいね。あるいは『賢者の石』の大元かも――って話だけど」
「じゃあ、解析が済んだら大々的に発表するって言ってたのは……」
レンバルトに、ユフィンリーは頷いた。
「多分、出土した時点で、概ねの処は判ってたんでしょうね」
情報処理装置。
思考機械。
そんなものが、どうして奇跡の様な現象を起こせたのか……?
フォロンには、思い当たる節があった。
あの時――コーティカルテは言った。
『これはレブロスのものだ』
『レブロスは既に死んでいる』
その言葉の細かな意味は勿論フォロンには理解出来ないが――
「こっちは、何なんです?」
レンバルトが折り畳まれていた写真を開く。
「表向きにはこっちを発表する気みたいね」
と苦笑するユフィンリー。
そこに写っていたのは――何やら無骨な機械であった。
パイプやら歯車やらが幾つも組み合わさって二抱え程も在る物体を形成している。
そしてその端には何やら鍵盤らしきものが付属していた。
「原始的な単身楽団――どうやら遣跡の時代にも今と同じ様な事を考えている連中が居たんでしょうね。これは完全に発条とか歯単で動く方式みたいだけど」
これも例の〈コア〉と同じく遺跡から発掘されたものらしい。
不可抗力ながら〈コア〉が砕けてしまった為――こちらを発掘物として発表する事になったのだ。破片の解析と研究は更に進んでいるが、粉々の破片を発表しても今一つ盛り上がりには欠けるだろう。そういう訳で急遽発表内容の差し替えが行われる事に決まったらしかった。
「遺跡時代の単身楽団……か。案外――」
ふとユフィンリーが言う。
「人間と精霊ってのは、とんでもなく昔から同じ様な事、飽きずに繰り返してきたのかもしれないわね……」
「…………」
コーティカルテが何か感慨深げな表情を示す。
「コーテイ……?」
フォロンはその表情の意味を問おうとして――しかし止めた。
必要ならいつか彼女の方から話してくれるだろう。
あるいは以前言っていた様に――彼女は人間が自力で全て突き止めるのを気長に待ってくれているのかもしれない。
「…………フォロン」
コーティカルテの手がそっと卓の下でフォロンの膝に置かれる。
「コーティ?」
「大丈夫だ」
コーティカルテは真っ直ぐにフォロンの顔を見つめて言った。
「我々は寄り添える。我々はいつでも――いつまでも一緒だ」
それは人間と精霊がという意味か。
それともタタラ・フォロンとコーティカルテ・アパ・ラグランジェスがという意味か。
問い返す無粋は避けて――フォロンは膝の上に置かれた精霊少女の手に己の掌を重ねる。
「一緒だ」
「うん」
繰り返すコーティカルテにフォロンは頷く。
だが――
「あーっ!?」
素っ頓狂な声が上がる。
フォロンを挟んでコーティカルテとは反対側に座っていたペルセルテが目敏《めざと》く重ねられた手を見つけたのである。
「何やってるんですか、コーティカルテさん! そんな――そんな」
「そんな、なんだ?」
にたりと勝ち誇る様に笑いながら――コーティカルテが重ねられたフォロンの手を取って自分の方に引っ張る。それどころか自分の胸元に彼の掌を引き込んで腕ごと抱き締めてみせる。
当然フォロンは体勢が崩れる訳だが――
「ああっ!? そんな――ええと。ええと。と――とにかく駄目です!」
言って今度は反対側の手をペルセルテが取って引っ張る。
コーティカルテの方に傾きかけていたフォロンの姿勢は今度はペルセルテの方に大きく傾いて――しかし次の瞬間にはコーティカルテが引っ張り直して中間に戻る。
「痛い、痛い、痛いって二人とも――」
「いい加減に諦めろ。フォロンは私のものだ」
「そっちこそいい加減に判ってください!」
「そもそもこの間もお前が邪魔しなければ――」
「抜け駆けとか卑怯です!」
「何が卑怯か!」
「契約精霊でいつも一緒に居るからって……ずるいですよ!?」
「お前だって先輩先輩といつもいつもいつもいつも……!」
「ちょっと、痛い、痛い、二人とも――」
悲鳴じみた声を上げるフォロンだが――二人はあまり聞いていない様子。
代わりに……
「…………」
無言で立ち上がったユフィンリーが、拳骨を造ってペルセルテとコーティカルテを順番に殴った。
「痛っ!? 所長!?」
「む、ユフィンリー、何をす――」
振り返る二人にユフィンリーは黙って自分の背後を示した。
会場中のテーブルから集中する視線。
その数――五百以上。
まあ当然と言えば当然である。
「…………静かに」
ユフィンリーは笑顔で――無理矢理取り繕ったのはその顔色から明らかだ――言った。
ペルセルテはすぐに赤面して俯くが、コーティカルテはそうはいかない。彼女はフォロン越しにペルセルテを指差し――
「そもそもこの小娘が性懲りもなく――」
「静かに」
「しかし…………」
「静かに」
「…………」
「判った?」
小柄なコーティカルテの上にのしかかる様にしてユフィンリーは言った。
「…………ふんっ」
さすがに場をわきまえるべきと気付いたのか、コーティカルテはそっぽを向いてフォロンから手を離した。
静まりかえる会場。
集中したままの視線。
そして――
「――っ」
最初に吹き出したのは――シェルウートゥだった。
次の瞬間、彼女の小さな声を引き金として、会場が笑い声で溢れかえる。
徴笑。苦笑。爆笑。
程度は様々だが、誰もが笑顔を浮かべてツゲ神曲楽士派遣事務所の面々を眺めている。
人間も。精霊も。
ユフィンリーは赤面して頭を下げ、ペルセルテとプリネシカはやはり赤面しながら身を縮めている。コーティカルテは明後日の方向を向いたまま顔をしかめており、レンバルトは苦笑しながら頬を掻いていた。
そしてやはりユフィンリーらと同じく恥ずかしさに赤面しつつ――けれど。
「…………」
ようやく戻ってきた。
自分達に相応しい日常の空気を――フォロンはしみじみと噛み締めていた。