PROLOGUE
メニス帝国の南――将都トルバスのほぼ中央にニコン市は位置している。
トルバス内の行政区画としては最大面積を誇り、都鉄環状線も、都道環状線も、あたかもニコン市を包み込むかの様に配置されている。ちなみに〈ビッグ・ドーナツ〉というニコン市の愛称はこの交通網の形から来たものだ。
トルバス市やルシャゼリウス市等から成るトルバス中央街区の、更に中央に在り――有名企業の本社社屋ビルも数多い。地理的にも文化的にも経済的にも、ニコン市は神曲の都トルバスの中心と言えた。
たが……
そのニコン市の更に中央を占めるのは神曲関連施設でもなければ企業ビルでもない。
ケセラテ自然公園である。
総面積三四〇平方キロ、緑に覆われた敷地はニコン市のほほ七割にも及ぶ。
テニス・コートやサッカー・コート、プールや市民ホール、さらには小規模ながら動物園までが、ジョギング・コースを兼ねた遊歩道でそれぞれ締ばれている。それはメニス帝国全土を見渡しても、有数の巨大公園だった。
「……参った……な……」
その自然公園内の遊歩道を――今一人の青年が歩いている。
冬だというのに額に汗が浮かんでいるのは、ただ単に歩いているだけではないからだ。
青年は自動二輪を押しているのである。それも大型のオンロード・タイプだ。
車体は低く前後に長い。しかも太く分厚い二つの車輪の間には、鋼鉄の塊――銀色に輝く大排気量の空冷式エンジンがぎっちりと詰め込まれている。
威圧的な程の大型車種ではあるが……自動二輸に興味の無い人間が見れば、それは、ただそれだけの代物であろう。一見した限りでは、大きいだけで普通の市販車と大差無い。
だが、それなりに目の肥えたマニアや設計技師等――自動二輪の構造にまで通じた者が見れば、それが通常の市販モデルとは明らかに異なっている車体だと気付く筈だ、べースはヤマガ発動機の〈クルーズ・スター〉シリーズだが――それにしては普通の自動二輸にはあまり見慣れない部品が車体の各部に取り付けられており、〈クルーズ・スター〉シりーズの特徴である筈のフレームも、微妙に通常の市販車と異なっている。
そう。それは大量生産の市販車ではない。
〈ハーメルン〉と名付けられたそれは特注車――いや試作車だ。
〈クルーズ・スター〉シリーズの製造技術を基にして造られてはいる。だがそれは既に『改造』という次元の作業ではない。共通部品が多いというだけで、設計段階からして根本的に違う処を目指して造られた代物である。
ただし――
「結構……距離……あるね……」
エンジンを切れば、重くて巨大な荷物に過ぎないという点においては、普通の二輪車と何ら変わるところはないのだが、
「……やっぱり……朝のうちに……来た方が……良かったかな……」
切れ切れに言いながら、汗だくになって青年は大型自動二輸を押し歩く。
線の細い――どちらかといえば華奢な印象さえ在る青年だつた。
重労働のお陰でどんどん上がる体温を逃がそうというのだろう――脱いだ上着を自動二輪のハンドルに引っかけ、シャツは胸元あたりまでボタンを外している。本来ならば野性味さえ感じさせる格好の筈なのだが――肌を露出させたその婆が、むしろ線の細さを尚更に際立たせていたりする。
顔立ちも何処か中性的な印象だ。
おっとりと穏やかに微笑んでいる様などは、よく似合いそうだが……歯を剥いて怒鳴っている姿などは想像すらし難い。優しく真面目な――ともすれば気弱ともとられかねない性格が、その容貌にもはっきりと顕れている青年であった。
ちなみに――ケセラテ自然公園への車輌乗り入れは基本的に禁止されている。
例外は、ごく限られた業務用の精霊駆動車と、巡回警察車輌や救急車といった緊急車輌だけだ。それ以外の車輌を公園内に入れようと思えば原則としてエンジンを切らねばならない決まりなのである。
実を言えば今朝……市から特別許可を受けた工事の車輌が何台か公園内に乗り入れる際、工事関係者からは『良かったら一緒に運ほうか?』と言われてはいた。たしかに大型といっても所詮は自動二輪――一台や二台、トラックの荷台に載せてしまえば問題なく運び込める。
だが彼はその気遣いに礼を言いつつも辞退したのだ。
「ちょっと…………失敗だった……かな……?」
苦笑を浮かべて――しかし本気で後悔している様子は無い。
選択の自由を与えられる代わりに、自分の言動に責任を取るのが社会人の基本だと彼は自覚しているからだ。
青年の名はタタラ・フォロン。
神曲楽士と呼ばれる職業人である。
ただし――その肩書きの上に被せられた『新米』の一語が取れるまでには、未だ若干の時間が必要であろう。
「だから昨夜の内に、相手に預けておけばよかったのだ」
当然といえば至極当然の――それだけに容赦のない台詞がフォロンの後頭部に当たる。
発したのは一人の少女である。
少なくとも……外見は。
〈ハーメルン〉の後部座席に座り、緋色のスカートの内から伸びる細く長い脚を組んでいる様などは、ある意味でひどく扇情的な筈なのだが――大人の女性の色艶よりも先に、子供が無理に背伸びして大人の真似をしているかの様な、微笑ましさが醸し出されている。
とても可愛らしい少女だ。
小柄な身体に纏っているのは黄色いブラウス。これに緋色の長い髪がよく映えている。
そしてよく整った――そして見るからに気の強そうな顔に瞬く双眸も、見事なまでに鮮やかな緋色である。
殊更に装身具だの何だのを身に付けている訳ではないのだが、この人の姿をした炎の様な配色のせいか、単純にその容姿が優れているからか――とにかくその少女の姿は人目を引く。時折擦れ違う通行人達が、ほぼ例外無く視線で彼女の姿を追うのがフォロンにも分かっていた。
「だってコーティ……」
汗の光る類に笑みを浮かべてフォロンが呼びかける。
コーティ。それが彼女の愛称である。
だがそう呼ぶ事を許されているのはワォロンだけだ。それ以外は相手が誰であろうとも彼女は本名で呼ぶ事を断固として要求する。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
このポリフォニカ大陸において……それは人間の名前ではない。
『人間の善き隣人』『知性在る何か』
『精名』と称される姓と、個を示す名の間に、『柱名』と呼ばれるものを挟んで正式とするそれは――精霊と呼ばれる存在が名乗るべき名前であった。
「これを……預けちゃったら……移動の……アシが……さ……」
「フォロンと歩くのは」
青年の背中に注いでいた視線を、一瞬、逸らしてからコーティカルテは言った。
「きらいではない……ぞ」
単に『好きだ』と言えば良いものを――言えない。
遠回しに否定と否定を重ねて肯定とするこの回りくどい物言いは、彼女の性格を端的に示していた。相手の眼が自分の方を向いている訳でもないのに、つい眼を逸らしてしまうのも同じだった。
尊大な物言いとは裏腹に……細かな仕草が呆れる程に初々しい。
「事務所までは……ね……」
苦笑を浮かべて言うフォロン。
「でも……事務所から……現場までは……電車……とか……」
「電車は嫌いだ」
「……だよね」
コーティカルテは人混みを好まない。
特に一度通勤時間帯の満員電車を体験してからは、都営鉄道は彼女の最も嫌う交通手段だ。
そして尊大で容赦の無いフォロンの相棒は、かつて〈姫〉の名を冠されて呼ばれていただけあって、とことん我が儘に出来ている。『電車が嫌い』となれば頑として電車には乗らない。どうしてもとフォロンが頼めば逆に何でも我慢してくれるのだが――日常的な部分では本当に言いたい放題の『お姫様』なのである。
「だから……ね。電車が……使えないなら……」
「ではフォロンは」
首を傾げてコーティカルテはフォロンの背中を見つめる。
「私の為に今これを押しているのかす」
「いや……別にコーティの為だけって訳じゃ……ないよ……僕も……歩くのは苦にならないんだけど……電車はちょっと……苦手だし……ね……」
人混みが苦手なのはフォロンも同じだ。
「では半分は私の為か?」
「まあ……そんな処……かなぁ」
「…………そうか」
小さく――しかし満足げに頷いてコーティカルテは後部座席からふわりと舞った。
跳び降りたのではない。その証拠に着地の無粋な足音が無い。
引力を無視するかの様に優雅な着地を決めると……そのままコーティカルテは車体を挟んでフォロンの反対側に回る。
〈ハーメルン〉の大きな燃料タンクに触れる華蓉な手。
その途端――
「うわっ……ととと!?」
車体がいきなり軽くなってフォロンは前につんのめりかけた。
今までは岩を押しているかの様に重かった大型自動二輪が、いきなり自転車にでも変化したかの様にするりと、殆ど抵抗も無く前へ動いたからである。
コーティカルテは片手で押しているだけだ。
だが……
「あ……ありがと」
苦笑を浮かべて礼を言うフォロン。
「礼には及ばん。私の分を押しているだけだ」
つまりは半分だけ――という意味なのだろう。
もっとも実際には半分どころの話ではない。フォロンはとりあえず〈ハーメルン〉が倒れない様に平衡をとっているだけで、殆ど押す為の力を使ってはいない。
フォロンの記憶に間違いが無ければ、確か〈ハーメルン〉の仕様書には『乾燥重量/装備重量一二七七kg/二九三kg』とあった筈だが――細かな装備品も入れれば三百キログラムを超えるであろう車体を、実質、コーティカルテは片手で押して動かしているという事になる。
そして……それが彼女の全力ではない事をフォロンは知っている。
恐らくコーティカルテがその気なら、この〈ハーメルン〉を小石の様に遠方までぶん投げる事も出来るだろう。精霊――特に上位、上級等と呼ばれる強い精霊達は、それだけの力を有しているものなのだ。
コーティカルテと共に暮らす様になってもう三年以上になるフォロンだが、未だに彼女がこういう途轍もない力を発揮すると戸惑う事が多い。精霊として現場に出て働いている時はともかくとして――こうした日常生活の延長の様な場面で、唐突に人間には有り得ない膂力を発揮されたりすると、驚いてしまうのだ。
人間を遙かに凌駕する力を持った上級精霊と分かってはいても……何処かで彼女を外見通りの華奢な女の子として見ている部分が在るのだろう。あるいはそれは――フォロン自身の、彼自身無自覚な希望であるのかもしれなかったが。
「ええと。そろそろ……かな?」
呟くフォロン。
遊歩道はゆったりと弧を描きながら左へと湾曲してゆく。
道の両側は芝生と、まばらに植えられた木々が延々と続いていた。何割かは常緑樹で、濃い緑色の葉を繁らせてはいるが、大半は葉が落ちている。芝生も短く、元気がない。
そんな公園風景の中を道なりに歩いて行くと――
「あ。あれだ」
――棄を落した木々の向こうに、目指すものが見えてきた。
『現場』だ。
白い工事現場用のパネルである。
それも――かなり大きい。
一枚のパネルは人の背丈より少し大きい程度だ。だがそれが何百枚も組み合わされて巨大な壁の様になっている様子は――見る者に奇妙な圧迫感を与える。
高さはおよそ五メートル余り。横幅に至っては百メートルを超えるだろう。ちょっとした体育館程度の建造物ならすっぽりと入ってしまいそうな区域が、組み合わされた大量のパネルによって四角く切り取られているのである。
パネルの向こう側には、巨大な工事用の機械の一部が空に向かって突き出ているのが見えた。巨人の腕の如き大型のショベル・アーム。地面に向かって垂直に突き立てられた掘削用ドリル。手前にはプレハブ確築の屋根も見えている。二階建てなのか――あるいは高床式に支柱で底上げされているのだろう。
そもそも工事現場と言っても様々だ。
単に穴を掘ると言っても人力でショベルを使い掘る様な簡単なものから、大型機械を何台も持ち込み、時には爆薬すら使って掘り進む様なものまで在る。そして今回の現場は明らかに後者、それも滅多にお目にかかれない様な、大規模なものだった。
異様な光景と言っても良いだろう。
ケセラテ自然公園のほぼ中央――普段は遊びに来た市民が子供とキャッチ・ボールをしたりお弁当を広げたりする広大な芝生のど真ん中に、それは陣取っているのである。
「何とも仰々しいな」
それがコーティカルテの感想だ。
いかにも彼女らしい素直で直接的なものである。
そして――
「うん……凄いよね」
同意するフォロンの言葉は――しかし若干別の意味をも含んでいた。
本来ならば自動二輪車一台を持ち込む事にさえ、特別許可を受けなければならないケセラテ自然公園である。幾重にも法律や条令で保護されたこの区画は、ある種の『聖地』と言っても過言ではない。
そこにこれだけの工作機械を持ち込み、工事現場を組み上げ、本来の利用者たる市民を閉め出し、そして騒音を辺りに響かせつつ発掘する――これを可能とする為に、関係組織間で一体どれだけの交渉が行われたのか、フォロンには想像もつかない。
さすがはトルバス有数の大企業といった処か。
そこらの中小企業ならば計画書を官庁に提出するだけで正気を疑われかねない。
そんな事をフォロンが考えていると――
「――おっ」
コーティカルテが何かに気付いた様子で声を上げる。
彼女の視線を追って振り向いたフォロンは、関係者の出入りが可能な様にと簡易扉が付けられた一枚のパネルを――そしてその手前に立つ数人の人影を見つけた。
工事関係者だろう。全員が灰色の作業服だ。
そして――その内の二人がこちらに気付いて走ってきた。
一人は少年である。
一気にフォロン達の側にまで駆け寄り――少年はそこで立ち止まって頭を下げた。
「お早う御座います!」
折り目正しくきびきびした動作が清々しい。
オミ・カティオム。
フォロン達とは少し前の事件で知り合った高校生である。何処かあどけなさを残した中性的な雰囲気は、フォロンともよく似ているが――こちらは穏やかさよりも生真面目さが先ず目立つ様な少年であった。
「…………」
少し遅れてカティオムについてきたのは――少女だ。
何処か照れ臭そうに黙礼すると、長く艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
清楚で可憐。見る者に感嘆の溜め息を誘う様なその姿は――深窓の令嬢という言葉がぴたりと当てはまるだろう。もっとも彼女は良家の子女でもなければ人間ですらないが。
カティオム少年も連れの少女も、共に身に纏っているのは灰色の作業服である。
そしてその胸元には赤い糸で企業名が刺繍されていた。
『オミテック工業』
それはカティオムの父が経営する大企業の名称であり――今回の工事の総責任者たる法人組織の名称でもあった。
「……もういいのか?」
何の前置きも無くコーティカルテがそう訊ねる相手は――少女の方である。
少女はカティオムに寄り添う様に立ちながら『はい』と応えた。
「腕のいい医楽士さんを紹介していただきました」
「それに……シェルは契約してた訳じゃありませんしね」
カティオムが補足する。
シェルウートゥ・メキナ・エイポーン。
それが少女の名だ。単なる名の他に柱名と姓名――否、精名を持つ、彼女もまたコーティカルテと同種の存在である。
っまり――精霊だ。
先月フォロン達ツゲ神曲楽士派遣事務所の面々とスキー旅行に出かけた時は、彼女は未だ精霊病院へ週に二度通院しなければならない身であった。『クラト・ロヴィアッド事件』の際に受けた『影響』が完全には抜けきっていなかったせいだ。
「詳しい事は專門的過ぎて分かりませんけど――」
カティオムが苦笑を浮かべながら言う。
「〈天国変〉はあくまで強制支配の楽曲だから、精霊の側から見れば精霊契約した神曲楽士の神曲とは異なるらしくて。シェルは〈天国変〉に対して自己調律していた訳ではありませんでしたから、〈天国変〉途絶を原因とした暴走は起きていません。むしろ先のラシュドージアさんの神曲が途絶した事による暴走を、〈天国変〉への中毒が相殺する形になっていた様です」
「不幸中の幸いだな」
と苦笑するコーティカルテ。同じ精霊であるからか、彼女はシェルウートゥの現況をカティオムの簡単な説明で理解しきった様だった。
「すると結果的に今は無契約状態か」
「そうなります」
頷くシェルウートゥ。
「ふむ……」
コーティカルテが、寄り添う少年少女から――何か言いたげな様子で、ちらりとフォロンの方に視線を投げる。だがその意味が分かる程にフォロンは察しの良い人間ではなかった。
「……え? なに?」
「何でもない」
とコーティカルテ。
彼女の表情は何処か――もどかしげであった。
「とにかく仕事だ――フォロン」
「あ……うん」
今一つ釈然としない表情で頷くフォロン。
言うまでもなく彼はカティオムとシェルウートゥが並んで立つ事の意味を理解していない。
契約も交わしていない自由精霊と、神曲楽士でもない少年が、ごく自然に寄り添つている事の意味――それがどれだけ希有であるのかという事と、その二人の姿を観てコーティカルテが何を思ったのかを理解していない。
良くも悪くもフォロンはコーティカルテやシェルウートゥを人間の少女と同じ様に捉えているからである。
それはさておき……
「こちらです」
作業服の二人に先導されながらフォロン達はパネルの扉をくぐって工事現場の中に入る。
幾つも並んだ工事用車輌。工事現場用の簡易便所。掘り除けられた土の山。諸々のモノの間を縫って彼等が辿り着いた先に待っていたのは――二人の男性であった。
その内の一人は――
「や――先生」
フォロン達の知った顔だった。
シャムラ土木工業のハダキ・イェネッツである。
シャムラ土木はツゲ神曲楽士派遣事務所を懇意にしてくれる大手の一つで、過去にも何度か建築や解体の現場を手伝ったことがある。現場監督のハダキとは、だから事務所の全員が何らかの形で顔見知りなのだった。
「あ――その節は」
フォロンとコーティカルテのコンビは、二度めである。
「いやあ、ツゲ事務所の方が来られるって聞いてて、誰だか楽しみにしてたんですよ」
冬だというのに日焼けの抜けきらない顔は、いかついが愛嬌がある。
大柄で、分厚い胸板を作業服に包み、まくった袖から伸びる太い腕も、日焼けと油で真っ黒だ。いかにも現場一筋の叩き上げ――といった印象である。こういう人物は汚れていても不思議と見る者を不愉快にさせる様な不潔な印象が無い。それが怠慢や放埓の結果ではなく、勤勉な労働の結果であるからだろう。
ただし今回彼が着ている作業服は前に会った時のものと違う。
カティオムやシェルウートゥのそれと同じもので――しかも新品だった。現場の作業指導の為にシャムラ土木から出向しているのである。
「おっとっと。俺が喋ってちゃ駄目なんだな」
言いながらハダキは背後を振り返る。
それを待っていたかの様に二人目の人物が悠然と前に歩み出た。
こちらも揃いの作業服だが……印象はハダキとは全く違う。背の高い、細身の人物である。作業服がいかにも不自然だ。むし背広を着ている方が遙かに似合うであろう――それも吊し売りの安物ではなく、一着一着、仕立屋が着る者に合わせて丁寧に縫製する一品物を。
年齢は、五〇そこそこだろうか。きっちり撫でつけられた髪の、こめかみの辺りに白いものが見える。目尻のシワは深く――そしてその目元には見覚えのある面影があった。
カティオムに似ているのだ。
「よろしく」
低く深みのある声で、作業服の紳士は名乗った。
「オミ・テディゴットです」
新聞の経済欄には特に興味の無いフォロンでも流石に知っている。
それは株式会社オミテック工業社長の名前であった。
ツゲ神曲楽士派遣事務所とオミテックとの付き合いは、ツゲ事務所・所長ツゲ・ユフィンリーのデビュー当時にまで遡る。
当時、封音盤のための新素材を開発中だったオミテック社は、そのサンプルの実験に協力してくれる神曲楽士の派遣を、第三神曲公社に要請した。そこで派遣されたのが、楽士資格を得たばかりのツゲ・ユフィンリーだったのである。
危険を伴わない仕事である事や、オミテック社側の予算の都合で充分な報酬が設定されていなかったことなどから、ろくに実績も無い新人に回されたのだろう。
本人は詳しくは話したがらないが……しかしユフィンリーはこの時、クライアントであるオミテックが期待した以上の働きをやってのけたようだ。以降、オミテック社が神曲楽土を必要とする時は、必ずツゲ事務所を名指ししてくるようになったのである。
現在、オミテック社は封音盤のための新素材開発を更に次の段階へと進めており、後々は単身楽団を含めた音楽機器全般にも業務拡張する予定だと言われている。無論、ツゲ神曲楽士派遣事務所の全面的な協力の上で――だ。
要するにツゲ事務所にとってオミテック社は超重要御得意様なのだ。
そもそもオミテック社はトルバスでは勿論、メニス帝国全土を見ても屈指の大企業である。
同じ神曲関連の事業を手がけているという事、そしてその企業としての異様な急成長振りが似通っている為に、クラト工業と比較される事も多い会社だ。だが会長であるクラト・ロヴィアッドの絶対君主振りが何かと有名な上、色々と解散前は不穏な噂の囁かれていたクラト工業とは異なり――地味ながらも次々と新製品を開発しては市場を広げていくオミテック社は、比較的健全な印象が強い企業ではあった。
「タタラ・フォロンです」
差し伸べられたオミ・テディゴット社長の手を、若干の緊張を覚えつつもフォロンは握り返す。それは管理職らしからぬ――分厚く力強い手だった。
「こっちはコーティカルテ。僕の契約精霊です」
「よろしく――お嬢さん」
「……うむ」
短く応えて握手に応じるコーティカルテ。
その様子を隣で見ながらフォロンは内心で胸を撫で下ろした。この緋色の髪の精霊は、挨拶してきた相手がどんな大会社の社長だろうが、国家元首だろうが、気に入らなければ平然と無視してのけるという事を、彼は知っているからだ。
むしろ……返答どころか彼女が握手にまで応じたのは驚きだった。
人間同士の社交辞令にはあまり価値を認めていない様な節が彼女にはあるからだ。だが逆に言えば、コーティカルテは虚礼を廃した素直な感情には驚く程、誠実に反応する。握手する彼女が何処か照れ臭そうなのは、テディゴットが浮かべる笑みが飾り気の無い、真っ直ぐなものであったからだろう。
海千山千の企業人達の間を生き抜いてきた重鎮には相応しくない様な。
「貴方達の事は、息子達から聞いています」
言いながら社長が振り返るのは、寄り添うカティオムとシェルウートゥである。
フォロンは彼が『息子から』ではなく『息子達から』と言った事に気付いていた。
そして――
「本当にお世話になりました。本来なら、もっと早くお礼にうかがうべきだとは思っていたんですが」
「いえ……お気遣いなく」
同時にもう一つフォロンが気付いた事が在る。
テディゴットの最初の挨拶は取引先の社長としてではなく息子の恩人達に対する父親としてのものであったという事だ。恐らくコーティカルテはそれを敏感に察していたのだろう。
「僕らは友人の為に、したいと思う事をしただけですから」
ならばフォロンもそう答えるのが筋だろう。
そしてそれは嘘偽らざる彼の本音でもあった。
故にこそ――
「そうだ」
そう言葉を続けるのはコーティカルテだ。
「お前が息子の気持ちを判ってやっているのならば――それでいい」
「…………」
眼を細めてテディゴットはフォロンとコーティカルテを見つめる。
自分の前に立つ人間の青年と精霊の少女。彼等二人の姿にテディゴットはカティオムとシェルウートゥの未来を見ようとしているのかもしれなかった。
「ありがとうフォロン君。コーティカルテさん」
そして。
「では――」
瞬時にテディゴットの中で何かが切り替わる。
表情も口調も何ら変化す事無く――しかしまるで別人の様な印象を纏ったオミテックの社長がそこに立っていた。今この瞬間からテディゴットはフォロン達にとって友人の父親ではなく取引先の社長になったという事なのだろう
明確で端的。小気味良いけじめの付け方であるが……なかなか出来る事ではない。
「早速ですが仕事の話に移らせて貰います――よろしいか?」
「はい」
フォロンは頷く。
彼の上司にして雇い主であるユフィンリーもそうだが……こういうけじめのきっちりした人物と仕事をするのは、ワォロンとしては楽しいし嬉しい。自分がどうしても感情に引きずられる傾向があるのを自覚している分、こういう自分自身をきっちりと制御しきれている人物には憧れすら感じているフォロンであった。
彼は書類を取り出して社長に提示する。
素早く一連の文書に目を通して確認――彼はハダキに頷いて見せた。
「では――こちらへ」
そう言うハダキを先頭に一同は『現場』の中心に向かって歩き出した。
ケセラテ自然公園には、不思議な噂があった。
いわく――『ケセラテ自然公園の地下には巨大な遺跡が埋もれている』。
具体的な証拠は無い。完全に都市伝説の類だ。
しかしもしそれが真実であるのならば……幾つかの事実について説明がつく。
先ず将都トルバスの中心地にありながら、都市開発が行われる事無くこの広大すぎる土地が保存されている点。そして首都トルバス市が将都トルバスの中央を南東に大きく外れて位置しているという点。そしてそもそも……この将都トルバスがわざわざ帝都メイナードから見れば山脈を隔てた『辺境』に置かれている点。
これらの点については将都庁側からは何の説明も無い。
だが少なくともこの公園が特別に保護されている事だけは誰の眼にも明らかなのだ。
そしてその理由を説明するのに最も無理が無いものが『地下遺跡説』であった。
無論――フォロンもその噂は知っている。
割とフォロンはこういう夢物語というかトンデモ話は好きな方で、ケセラテ地下遺跡説について書かれた本を読んだ事も在るし、ケセラテ地下遺跡説を検証するテレビの特別番組を見た事も在る。そういった突飛な話を無批判に信じる程、彼も愚かではないが――夢の在る楽しい話であるとも思っていたのだ。
だが……
「う……わ…………」
それが紛う事無き現実として眼の前に広がっている光景を、見せ付けられる事になるとは思ってもみなかった。
「これは……」
パネルで区切られた工事現場の中は更にもう一段――パネルの壁によって区切られていた。上から見れば外側の四角の中にもう一つ、二回りばかり小さい四角が在るのが見えただろう。この工事現場は二重に外側から仕切られているのである。
しかも内側の仕切は壁だけではない。簡易のビニール・シートを張った程度のものではあるが……まるで頭上から見られる事すら怖れるかの様に……天井まで存在するのだ。
そして。
〈ハーメルン〉を押しつつ、その内側の壁についた出入口をくぐったフォロンの前に問題の『現場』が広がっていた。
先ず芝生が剥がされて土が剥き出しになっている。
その土には無限軌道の跡が縦横に刻まれていた。恐らくはボウリング・マシンだのパワーショベルだの――何台もの重機が移動した結果だろう。
そして――その真ん中に。
穴が在った。
巨大な――穴だ。
芝生を剥がされて剥き出しにされた地面が、更に掘られ、挟られ、削られて、直径三十メートルはあろうかという巨大な縦穴を穿たれているのである。擂り鉢状に多少傾斜はしているが……底面でも直径二十メートルはあるだろう。深さも同程度だろうか。
そして――
「……まさか」
フォロンの驚愕を含んだ呟きにオミ・テディゴットは頷いて見せた。
「そうです」
ふと横を見ればハダキは何処か得意気である。また更にその横ではカティオムとシェルウートゥが緊張した面持ちを浮かべていた。
「守秘義務は、遵守していただけますね?」
オミテックの社長は静かな□調で確認してくる。
「ええ……無論です」
頷くフォロン。
テディゴットは満足げに頷くと――おもむろに告げてきた。
「我々は都庁と公社の許可を受けて地下遺跡を発掘」ています」
「実在するんですか!?」
「するぞ」
断言は意外な処から来た。
コーティカルテである。
「トルバスが『神曲の都』として栄えた事には、ちゃんと理由がある。奏世楽器の一つが保管されていた事にもな。随分と旧い話なので精霊の中でも、正確な事実や経緯を知っている者は決して多くないが――」
緋色の髪の精霊は無表情に穴の底を眺めながら言った。
「コーティは……知ってるの?」
「ああ。知っている」
「それって……」
……どんな?
そう訊こうとして――フォロンは止めた。
穴の底を見つめるコーティカルテの横顔が、心なしか寂しげに見えたからだ。
強く尋ねれば彼女は答えてくれるかもしれない。だがそれが時に彼女を傷付ける事もあるのだとフォロンは知っている。彼女がフォロンの何倍――いや恐らくは何十倍何百倍も生きていて、その時間の中で蓄積された思い出の中には、決して幸せとは言えないものも数多く含まれている事を知っている。
だから尋ねられない。
しかし――
「私はな――フォロン」
フォロンの気持ちを知ってか知らずにか……コーティカルテは彼を振り返ると何処か透明な笑みを浮かべて囁いた。
「人間がいつ真相に辿り着くのか……むしろ楽しみに待っているのだ」
「…………」
どう応じて良いのか判らずに黙り込むフォロン。
精霊――『人間の善き隣人』
だが彼等は人間そのものではない。意思疎通は出来るがその在り方が違うものだ。故にその価値観や思考形態は似て非なるものである。彼等が共通認識として持ちながら、決して人間に語る事の無い幾つかの事柄が在るらしい――その程度の事はフォロンも気付いていた。
「――御願いしたいのは、あれです」
テデイゴットが真つ直ぐに腕を伸ばして、穴の底を指した。
穴のほぼ中央に、黄色いテープで円形に囲われた一角がある。土の色に混じって判らなかったが、よく見るとその部分は、どうやら岩のようだ。
差し渡しは、六メートルほどもあるだろうか。ごろりとした岩の塊が、土に食い込む様にして存在している。恐らく見えている部分はごく一部で――土の下には更に大きな岩の『本体』が在るのだろう。
「掘り進む内に、出てきたんです。最初はドリルで破砕して撤去する事も考えたのですが、音波探知にかけたところ、どうやらすぐ真下に何かがある様なのです」
「何か……?」
暖昧な表現にフォロンは首を傾げる。
「ええ。音響探査で調べた限りでは、どうやら結晶構造を持つ物体らしいのですが……下手に岩を破砕しようとすると、その物体まで破壊してしまう危険性が在ります」
「成る程……」
つまり機械の力では真下の『物体』を傷付けずに岩を撤去する事が出来ないのだ。
無論――穴を横に広げて側方からその『物体』に近付く事は可能だろう。だが改めてその為の足場を組んで機械を入れて……となると将都庁から受けた発掘許可の期間を逸脱しかねない上、発掘の為の費用が大幅に膨れあがる。
故に――
「――どければ良いのだな?」
とコーティカルテが尋ねる。
「下のものに熱や震動や圧力を与えずに」
「ええ――そうです。御願い出来ますか?」
テディゴットが言った。
機械の力では無理。
では精霊の力なら――と彼は考えたのだろう。もっとも精霊とてその力は万能でも無限でもない。人間に比べて彼等の力は遙かに強大だが、不可能な事も厳然として存在する。
しかし……
「フォロン次第だ」
コーティカルテは平然と言った。
「我が契約主が神曲と共にやれと命じるならば――私に不可能は無い」
此処はある意味で苦笑するべき処ではあった。
上位精霊といえどさすがに『不可能は無い』などとは大きく出過ぎだ。そもそも精霊の力で簡単にどうにか出来るのならば、病み上がりとはいえ上位精霊のシェルウートゥが既に岩を撤去していた筈だ。
隣接する物体に震動も圧力も与えずに巨岩を撤去するなど……無理難題も甚だしい。ただ力が強ければ良いというものではないのだ。
だがテディゴットは笑わなかった。
カティオムもシェルウートゥも笑わなかった。ハダキも笑わなかった。
そして当然――フォロンも。
この緋色の髪の精霊が今までにどれだけの事をしてきたか知っているからだ。テディゴットは現場に居合わせてはいなかったが、息子達から事の詳細は聞き及んでいるだろう。
「フォロン――どうする?」
「勿論」
フォロンは応えた。
「やろう」
やれるかとは尋ねない。コーティカルテが出来ると断言するならばそれは間違い無く可能なのだとフォロンは知っていた。
「始めます。下がってください」
フォロンは一同にそう言って――此処まで押して運んできた〈ハーメルン〉に跨る。
同時にコーティカルテが穴の縁にまで進み出た。
大きく深呼吸してから若き神曲楽士は〈ハーメルン〉のタンク中央――神曲公社の紋章を真下へと押し込む。
内蔵されたバッテリーが〈ハーメルン〉の内に隠されていた機構に点火。
ばしゃり――と金属音を立てて車体が展開した。
無数の歯車と発条が一斉に作動し、内部に折り畳まれていた『もう一つの姿』へと〈ハーメルン〉の車体を変形させてゆく。
金属製のアームに引き出され、レールに沿って部品が滑り、まるでパズルの様にきっちりと噛み合っていた幾つもの部品が『もう一つの定位置』に向かって移動する。
シートに腰を下ろしたフォロンを、背後から獲物を捕らえようとする巨大な蜘蛛の様に、何本ものアームやレールが包み込んだ。それらの先端にはそれぞれ高出力の小型スピーカーが、演奏情報投影装置が、あるいは数十個のボタンやスライド・スイッチの並んだ制御卓が備わっている。
最後に彼の前に回り込んできた金属のアームは鍵盤を携えていた。
白鍵と黒鍵の規則正しい配列は、ピアノやオルガンのそれと同じである。
上下二段――各八十八鍵のフル・キーボード。
「……ほう」
初めてこの『変形』を見るテディゴットが感嘆の声を上げた。
時間にしてわずかに数秒――大型自動二輪は楽器へと変形していた。
それも『単身楽団』と呼ばれる特殊な楽器システムに。
それは、本来ならば楽団規模の集団で奏でるべき音楽を、その名の通りたった一人の人間が扱える様にする為の装置だ。各種機械装置を使って極限まで自動化を進めた複合楽器であり、神曲楽士と呼ばれる特殊技能者達の仕事道具である。
その起源については諸説在り定かではないが――原始的ながら類似の設計方針を持つと思しきものは歴史上、幾つも存在する――現代において『単身楽団』と呼称されるものは、社会の様々な場所で必要とされる神曲楽士達の機動力を上げる為にと開発された装備だ。いちいち現場に着いて楽器を設置して調整して――という時間を大幅に減らす事が出来る為、今では殆どの神曲楽士がこの単身楽団を使って神曲を奏でている。
その主流となっているのは一抱え程の大きさの、背中に背負う箱形のものだが――技術革新の進む中、次々と小型化や特殊化が進んでいる。
そしてこの〈ハーメルン〉もその特殊形の一つだった。
小型化が進めば進む程に確かに神曲楽士の機動力は上がる。だが楽器の形式上、過度の小型化は神曲楽士の表現力を阻害する恐れが在了例えば鍵盤を小さく少なくすればする程に、楽器としては扱いにくくなる――同時にスピーカー出力やバッテリー容量等の問題で演奏装置としての性能は下がらざるを得ない。
ではむしろ小型化は諦めて人間の機動力を上げる方法は採れないか?
この発想から自動二輪の筐体に組み込まれた試作型単身楽団――それが〈ハーメルン〉なのである。結果的に、単身楽団としては時代に逆行するかの様な大型のものになってしまったが――その出力や各種装備から来る表現力の広さは特筆に値する。
「コーティ」
全ての装置が正常に作動しているのを確認してからフォロンは相棒に声をかける。
「いくよ?」
「いつでも」
コーティカルテの返事と共にフォロンはその指を鍵盤の上に置いた。
もう一度だけ深呼吸。
一瞬の精神統一。
そして――
――ろぉぉおおおおおおおん……
パネルで仕切られビニールシートで覆われた発掘現場に――透明なピアノの音が鳴り響いた。
まずは一音。
続けて鍵盤の上を走るフォロンの指に合わせて、幾つもの音が連ねられていく。
高音の涼やかな響きから低音のまろやかな響きまで――流れる様な音の連鎖がまるで何かのうねりの様に空気を震わせる。
そして――ゆるゆると拡散し広がっていくピアノの音に別の音が重なる。
追随するのは管楽器の音であり、弦楽器の音であり、打楽器の音である。それらは互いに絡みあって重厚な合奏の音を編み上げていく。フォロンの演奏に、単身楽団に内蔵された封音盤が反応して、予め記録されていたフレーズを追奏し始めたのだ。
奏でられる音の群れは厚みを増し幅を広げ――空間に満ちる。
美しい旋律だった。
だが美しいだけの音楽ではない。
神曲――である。
――るおおおおん……るおおおおん……
――るおおおおん……るおおおおん……
神曲という概念には――しかし明確な定義は存在しない。
一般的には『精霊を引き付け、力を与える事の出来る特殊な楽曲』とされている。だがこれは結果に対して行われる定義であって――神曲を神曲たらしめる為の絶対条件は未だ明確になっていない。
これを満たせば神曲であるという形式的な定義が無いのだ。
同じ神曲楽士による同じ楽曲の演奏に対しても、興味を示す精霊もいれば全く無関心な精霊もいる。それどころか、神曲について全く無知な人間の演奏を、精霊が神曲と認めて接触してくる例も――決して多くはないが――確認されているのである。
単身楽団の使用とて絶対条件ではない。それは極論すればただ神曲楽士の表現力の幅を広げ『神曲を奏でやすくする』為の道具に過ぎない。単一の楽器――例えばブルースハープから紡ぎ出されるただ一本の主旋律のみで、神曲を奏で得る超天才級の神曲楽士も極めて少数ながら存在する。
ただし……一つだけ確実なことがあった。
神曲とは、人間と精霊とが心を通わせるための、ある種の『言葉』なのだ。
――るるるるるるるる……るろろおおん……るろろおおん
――ろおぉんろおぉんろおぉん……
――るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……
フォロンの演奏が徐々に熱を帯びてゆく。
「――うむ」
コーティカルテは満足げに頷いた。
「いいな。実に――いい」
その言葉と共に緋色の閃光が弾けた。
コーティカルテの姿が変わる。
ブラウスが消える。スカートが消える。ハイソックスやブーツまでもが消える。
白く小柄な裸体が紅い光の中で大きく伸び上がる。
何かが枷から解き放たれるかの様に――一層明度を増す真紅の光の中で、小さな少女の身体は急速な成長を示していた。腕が伸びる。脚が伸びる。髪が伸びる。そして腰が大きく引き絞られ、胸元の双丘が豊かさを増す。発展途上に在ったその体躯は、余す所無く成長を遂げて絶妙の均衡を創り上げる。
ゆらりゆらりと――水中に在るかの様に緋色の髪が揺らめいた。
同時に虚無より抽出され、成長した体躯を改めて包み込むのも、やはり紅い長衣である。胸元や肩は肌を露出し、扇情的とさえ言える意匠――しかしそこに淫靡さよりも先ず荘厳なまでの神秘感が漂うのは、纏う者の姿の気高さ故か。
まるで人型をした炎の様である。
そして――
「…………」
背中より迸る……一際鮮やかな真紅。
複雑な曲線の組合せによって描かれる実体無きそれは、一見するとある種の紋章の様にも見える。だが注意して見る者は、それが極めて精緻な構造を持つ六枚の羽根だと気付くだろう。
精霊の羽根。
それはいわば精霊にとっての身分証明であり――一説には精霊の本体であるとも言われる器官だった。人間社会で暮らす精霊の中には、幾つかの理由からこれを隠す者も増えてきているが……これを余す所無く展開した姿こそが精霊の本来の姿である。
六枚の羽根は、上位精霊の証。
即ち今此処に晒した姿こそがコーティカルテ・アパ・ラグランジェスという精霊の本質的な容姿なのであった。
「いくぞ」
宣言と共にコーティカルテは穴に――縁の向こう側の虚空に向けて踏み出す。
人間ならば当然に無様な転倒の姿をさらす処だが、緋色の精霊はゆらりと優雅に舞い、そのまま空中を滑る様にして問題の岩塊の真上まで移動した。
次いでコーティカルテは岩の上に浮かんだままくるりと半回転して振り返る。
「――フォロン」
大声を出した訳でもないのに――彼女の言葉は真っ直ぐにフォロンに届いていた。
「よく見ていろ」
笑みを浮かべるその姿は大人の姿に似合わぬ無邪気さで……まるでちょっとした特技を自慢する子供の様にも見えた。フォロンは演奏を続けながらやや苦笑混じりの笑みを彼女に返す。
次の瞬間――
「――!」
見守っていた一同が息を呑んだ。
何の前触れも無く岩が動いたからである。
コーティカルテは手も触れていない。ただ岩の真上に浮かんで、大地を踏みしめるように長い脚を広げ……躯の前から真下へ降ろした掌を岩に向けただけだ。
それだけのことで岩が動く。
静かに。しかし――大きく。
おお……と上がる驚嘆の声はフォロンを除く全員のものであった。
「…………ふっ」
緋色の精霊の発したのは小さな吐息のみ。
だが巨大な岩は、へばり付いていた大量の土と共にごっそりと地面から引き抜かれて空中に浮かんでいた。恐らくただ力任せに引っ張っただけではない。先にある種の力場で岩全体を包んでから――周りの地盤を崩さないよう、じりじりと回転させて螺子を抜くかの様に取り出したのだ。
その証拠に巨岩に付着した士砂は全く崩落しない。
『震動も熱も衝撃も与えず』――その為の処置だろう。フォロン達の肉眼では確認出来ないが、恐らく周囲の地盤にも崩壊を防ぐ力場を同時に展開している箸だ。
コーティカルテが伸ばした腕を、下から前へ、そして真上へと差し上げる。それにつれて引き抜かれた岩と土砂も、回転しつつゆっくりと上昇して……精霊の頭上で停止した。
「この岩は――もう必要ないな?」
その言葉に、フォロンは演奏を続けたまま、振り返った。
頷くオミ・テディゴットの――しかしその視線は、緋色の精霊と宙に浮く岩とに釘付けになっている。ほんの少し誇らしげな気持ちを抱きながらフォロンは相棒に言った。
「いいって」
「判った」
頷くコーティカルテ。
フォロンはてっきり彼女が岩塊を粉砕して何処かに積み上げるのだろうと思っていた。
だが――
「――え?」
フォロンが少し間の抜けた驚きの声を漏らす。
次の瞬間――フォロンですらも予想だにしなかった現象が始まったからだ。
めりめりと音を立てて岩が…………岩が縮んでいく!
岩塊の表面に無数の亀裂が走り、そこから砕け、そして内側に向かって潰れてゆく。途方もない力で――コーティカルテの展開する力場で強引に圧縮されていくのだ。
ちょっとした一戸建て住宅ほどもあった岩が、トラック位に、乗用車程に、さらにサッカー・ボール大にと縮んでゆく。フォロンの演奏に重なるのは鉱石が押しつぶされる、重くも鋭い異音だ。
その音も――しかしどんどん小さくなってゆく。
岩そのものが小さくなるからだ。
反対に――テニス・ボールほどの大きさにまで圧縮されると、それは内側から赤く光り始めた。縮めば縮む程にその光は強くなり、直視を拒む程のものになっていく。
高圧による圧縮で分子間のエネルギーが急速に高まり、赤熱しているのである。
いや――それだけではない。
この場に原子物理学者が居れば蒼白になっていた事だろう。
圧縮過程で収まり切らぬ質量が熱と電磁波に変換されているらしいと気付くからだ。それはつまり――極論を覚悟で言えば、非常に小規模な核爆発である。だが当然ながらそれは観る者を失明させる程の光量と、居合わせた者を即死させる程の熱量と、更には大量の放射線を放つ筈だった。
しかしフォロン達は特に身体の異常を感じない。
コーティカルテの造り出した超高密度の力場がそれら全てを遮断しているのだ。
やがて――
「…………ふむ。こんなものか」
呟くコーティカルテ。
巨大な岩塊はフォロンの位置からは紅い光点しか見えなくなってしまった。
「すまんが少し穴を開けるぞ」
言って彼女は頭上を振り仰ぐ。
次の瞬間――強烈な光条が現場を覆うビニールシートを貫き、天空に向かって突き刺さっていった。長大な筒状に変形させた力場を『砲身』として使い、余剰熱量と圧力、大量の有害な放射線その他を天空の彼方へと逃がしたのである。
そのまま戦略兵器としても通用しかねない破壊的な力を突き刺された空が、遙か彼方で遠雷の様な音を響かせるのが聞こえてきた。
そして――
「終わったぞ」
コーティカルテがふわりと跳躍してフォロンの元に戻ってくる。
着地と同時に彼女の姿は瞬変した。
まるで映画のフィルムの逆回しを――それも高速で――観ているかの様に衣装が入れ替わり、体躯が縮んでブラウスとスカートを着た小柄な精霊の姿が現れる。
変わらないのはその髪と瞳に宿る緋色のみ。
「お疲れ様」
演奏を終えてフォロンは彼女に声を掛ける。
だが珍しい事に彼女はフォロンに一瞥だけ与えて素通りすると――カティオムとシェルウートゥの前に立った。
「あ……あの?」
コーティカルテの行動の意味が分からず戸惑つカティオム。
二人の前にコーティカルテは右手を差し出した。
「未だ熱いぞ。気を付けろ」
掌の上には小さな石が在った。
白い湯気をくゆらせているのは、石の帯びる熱がコーティカルテのいう通り、未だかなり高いせいだろう。それがテディゴットやハダキを悩ませていた巨岩のなれの果てなのだと……『加工』の過程を目の当たりにしていたフォロンですら信じ難かった。
受け取ったのは同じ精霊のシェルウートゥである。
「これは……」
「快気祝いだ」
コーティカルテは、にっ――と笑った。
シェルウートゥの掌の上で小さな石が輝いている。
赤や青や緑や黄や――様々な色が入り交じりながら万華鏡の様な光を放つ、それは誰も見た事の無い艶やかな宝石であった。
ACT1 THE CONFLICT
――『ウェディング・ケーキ』
およそ神曲に携わる者にとってこの言葉には二つの意味が在る。
一つはごく一般的にも通用する意味――婚礼を祝う席で象徴的に飾られる菓子の事だ。
その多くは円筒形を階層的に積み上げた装飾用のケーキである。大きければ大きい程に喜ばれる傾向が在るが、装飾用というからには別に実用的である必要は――全部が全部食べる事が出来る必要は無く、大部分を食べる事の出来ない模造品で構築したものも多い。
まあそれはともかく。
一般的に『ウェディング・ケーキ』といえば前記の通りのものを指し示す訳だが――神曲楽士達が日常的に『ウェディング・ケーキ』と言えば、それは一種の隠語としてある建物を指す。
神曲公社社屋である。
中央部に円筒形の高い塔を持ち、その周囲を少しずつ低くなる円形の建造物で多層的に囲んだ外観は――成る程、婚礼の象徴たる装飾用ケーキによく似ている。
これは第一から第六の神曲公社全てに共通の建築様式だ。
細部のデザインや規模は、公社によってそれぞれに異なるが、全体の形状や白い外観は同じである。奏世神話に材を採ったその形状は、婚礼用の菓子が象徴であったのと同じく、神曲と人間、そして精霊との関わりを象徴するものなのだ。
そんな建物を間近に見上げ――
「やれやれ」
ツゲ・ユフィンリーは溜め息をついた。
「今期もこの日が参りましたよぉ――ほいほい」
投げやりな……それは独り言と一言うより愚痴である。
彼女は車のドアを乱暴な仕草で閉める。流麗な曲面が美しいスポーツ車――ユフィンリーの愛車、ファレス〈シューティング・スター〉は主の無体な扱いに抗議するかの様にほんの少しその車体を震わせた。
駐車場に並んだ車はどれもこれも高級車ばかりだ。
ただしスポーツ・タイプはユフィンリーの〈シューティング・スター〉だけ。その他はディムラーだのケルセラーだのバウディアだの……重厚で体積の高い、いわゆる『重役出勤専用車』ばかりだった。
そんな中に一台だけ並んだユフィンリーの愛車は――喩えるなら、上等のスーツで固めた老人連中の重役会議に紛れ込んだ、ユニフォーム姿のスポーツ選手である。
一言で言うなら場違いだ。
もっとぶっちゃけて言うなら明らかに『浮いて』いる。
そういえば以前――何度か彼女の車の趣味について口を出してきた同業者が居た。
何でもその同業者いわく『神曲楽士たるもの身の回りの装いにも品格というものが求められる』んだそうで『君も暴走族の様な車を乗り回していないで、もっと上品な車に乗りたまえ』とか何とか。どうやらスポーツ・カーは全て暴走族の乗り物だとでも思っているらしい。
その時は未だ神曲楽士となって半年余りで、ユフィンリーは文字通りの新米だった。だからしたり顔で得意げに宣うその先輩をぶん殴ってやりたくなるのを何とか堪え、愛想笑いの一つも浮かべたのだが――今でもこの駐車場を埋める『上品な』車の群れを見ていると、当時の事を思い出して不愉快な気分になる。
「……そんなにウゼぇならよ」
不意に――耳元で声がする。
「俺がシメてやろうか?」
姿は見えない。
駐車場には今見渡す限りユフィンリーの姿が在るだけである。
しかし……
「つかよーいっぺんシメさせろや。な?」
声は変わらずユフィンリーに囁く。
彼女の契約精霊――ヤーディオ・ウォダ・ムナグールである。
物質化していなくても、その□調にはにやにやとした嬉しそうに笑うヤーディオの姿が透けて見える。とにかく暴れたくて仕方がないのだ。特に――先月の事件で暴れさせてもらえなかったのが、余程、不満だったらしい。
「余計な事はしなくてよろしい」
一応……釘だけは刺しておく。
まあ品格云々を問題とするならば一番最初に引っ掛かりそうなのは〈シューティング・スター〉ではなくこの契約精霊の方だろう。ヤーディオにかかれば、それこそそこらの暴走族なぞボーイ・スカウトと大差無い。下品という訳ではないのだが――とにかく言動がとことん荒々しく乱暴なのだ。
「……しなくていいからね?」
改めて釘を刺してから――もう一度溜め息をついて、ユフィンリーはタイト・スカートが突っ張るほどの大股で歩き始める。
彼女の向かう先には第三神曲公社の豪奢なエントランスが在った。
神曲公社とは神曲楽士達を総括的に管理する、言わば統制機関である。
神曲楽士達の中には、少数ではあるが、国際的な軍事バランスさえ狂わせ兼ねない様な強大な精霊と精霊契約を結んでいる者も居る。それらは特異な例としても――一般的に精霊の持つ力は人間のそれよりも大きく、彼等を使役し得る神曲楽士が社会へ与える影響もまた大きい。
人間には過ぎた力だと言う者も居る。
だが利用できる力が在ればそれを使うのが人間である。そしてそれがどれだけ巨大な力だろうと、時間的な裏打ちを経れば日常の中に組み込まれるのが常である。
実際の処、神曲楽士や精霊の存在無くしては立ち行かない産業も少なくない。
故にこそ『正しく』神曲楽士と精霊の力を管理する組織の誕生は必然だった。
楽士や精霊を商業的に利用する際の価格統制や需給管理、ひいては治安の維持や各国間の武力の均衡といった問題までを監視する意味合いも含めて、メニス帝国政府は神曲楽士を国家資格とすると共に――直轄組織として神曲公社を置いている。
メニス帝国の全人口から比較すれば、ごく少数――極めて稀少な人材である神曲楽士も、単純に総数を数えるならば三万とも五万とも言われる数字になる。神曲公社はこれらの神曲楽士を管理する一方で、神曲楽士に対して物的な、あるいは情報面での支援を行うのだ。
ちなみに。
この数字にかなりの幅が在るのは、公社の管理を嫌い、公式登録していない無資格の神曲楽士も少なからず居るからだ。
また歴史的な経緯から管轄が微妙に異なる――あるいは重複する神曲公社が幾つか存在し、場合によっては公社間の軋礫さえ在ると言われている。この為に複数の公社に重複登録されている神曲楽士も居て――尚更に正確な数字が出にくくなっているのである。
それはさておき。
ツゲ・ユフィンリーが呼び出されたのは第三神曲公社の定例報告会である。
年に二回、全ての神曲楽士あるいは楽士事務所の代表者は、当該地区を管轄する公社での報告会に出席する事を義務づけられているのだ。
だがユフィンリーはどうにもこの定例報告会が苦手だった。
「…………」
巨大なガラス張りの自動ドアを抜けると――エントランス・ホールである。
ちょっとした体育館ほどの広さがあり、天井は三階までの吹き抜け構造になっている。
そしてホール中央には一体の銅像が屹立していた。
高さはおよそ六メートル。
四つの楽器を持つ八本の腕。四つの顔。さらに八枚の羽根。一種の異形だが何処か荘厳な雰囲気さえ漂うそれは――神話の中に語られる奏世神の姿だ。
もっともこの奏世神話に関しては諸説在り、四面八臂の異形神ではなく八柱の始祖精霊と呼ばれる強大な精霊達がこの世界を創り上げたのだと――それが一神教的解釈によって奏世神という形にまとめられたのだとも言われている。
銅像の周りにはこれを囲む様に配置された円形のベンチが在り、左右の壁には奏世神話をモチーフにしたレリーフ、更に天井からは四つの奏世楽器を模した巨大な照明が吊り下げられていた。
どれもが神曲公社のシンボルである。
「…………」
一瞬、足を止めて感慨深げに奏世楽器を模した照明器具を眺めてから……ユフィンリーは再び歩き出す。
定例報告会の会場は、今回は第七会議室だった。
公社ビルは円筒形の外側から第一棟、第二棟と分かれている。中央の塔は、中央棟だ。第七会議室は、中央棟に隣接した第四棟の一階、正面玄関から見てちょうど中央棟の真裏に位置している。
従って――玄関から中央通路を直進したユフィンリーは『ウェディング・ケーキ』の直径を突っ切る格好になった。
無遠慮な視線を感じたのはその時――中央棟の一階ホールを抜けて、再び第四棟の通路に出た時だった。
それまで聴こえていた、雑談が、ぱたりと止まる。
二人や三人の雑談ではない。会議室前の廊下で立ち詰をしていた十数人の男女が一斉に□を閉ざしたのである。しかもツゲ・ユフィンリーが姿を見せた途端に……だ。
「…………」
「…………」
「…………」
全員が視線を逸らし、扉を開けっ放しにしてある会議室へと移動して行く。
男性も女性もいたが――総じてユフィンリーよりも年上だ。その殆どは年配で一番多く見られるのは五十代前後である。少なくとも二十代らしき人物はユフィンリー以外には皆無だった。
そして誰もが――身なりが良い。
それも必要以上にだ。
男性も女性も基本的にはスーツである。しかし生地にも仕立てにも相当に金がかかっている事は、素人眼にも明らかだった。ご丁寧に、胸元からスーツと同じブランドのハンカチを覗かせている連中も、一人や二人ではない。
一方でユフィンリーの方は、百貨店の婦人服売り場で購入したスーツである。上品なクリーム色の――決して安物ではないが、しかし大量生産のものだ。
顧客に対して見苦しくなければそれでいい……というのが彼女の主義である。不必要に上等な服を着るくらいなら単身楽団や事務所の設備に充当するべきだし、それでも尚、余裕があれば趣味の車に注ぎ込む方が、余程に『活き銭』になる――ユフィンリーはそう考えていた。
だが他の多くの連中はそうは考えていないらしい。
『神曲楽士たるもの身の回りの装いにも品格云々』――である。
そう。
車だけではない。ツゲ・ユフィンリー本人も此処では『場違い』なのだった。
無論、見栄と体裁にばかり金をかけて、中身が空っぽの成金趣味なんぞと馴れ合う積もりは無いので、彼女に言わせれば『場違い上等』ではある。
ただ……浮いているなら浮いているで放っておいてくれれば良いものを、こういう場ではいらぬチョッカイをかけたがる者が必ず居る。
これが非常に鬱陶しい。
例えば――
「やあ――ツゲ女史。ご無沙汰ですなぁ」
にやにやと笑いながら近づいてくるのは、肥満しきった腹をエルメニの黒いスーツに包んだ中年オヤジである。
誰だか思い出せないユフィンリーに耳元で『声』が囁く。
「相変わらず、いけ好かねえデブだぜ」
それで思い出した。
ナイガル市のクムラで楽士事務所を経営している、ケスカナ・デヴリンだ。あまりにもぴったりな名前だったので、名刺を渡された瞬間に爆笑しそうになった記憶が在る。
「お久しぶりです、ケスカナさん」
とりあえず微笑を取り繕って応じておく。
多少の侮蔑が視線に乗ってしまった様な気もするが――気にしない。どうせ相手だってあからさまな嘲笑を浮かべているのだから。
「いやあ、この季節に、よく焼けておいでですなあ」
(ほら――きた)
挨拶に続く第一声が既に嫌がらせの前振りである。
「ええ。先月、所員とスキーに行って参りましたもので」
ほう――と応えるケスカナは舌なめずりしそうな位に嬉しげだ。
「スキーですか。ホルカンドあたりで? いやいや、貴女程に稼いでおられるなら、ひょっとしたらムルア連峰ですかな?」
どちらもスキーの本場である。
言うまでもないが国外で――しかしメニス帝国からただスキーに出掛けるには、いささか贅沢に過ぎる場所でもあった。国外だからというだけで有り難がる成金趣味か、あるいはスキーが趣味でもう国内のスキー場は滑り飽きた様な、スキー中毒でもなければ候補地にも選ぶまい。
「いいえ、東ソルテムのデランです」
「デラン? ソルテムの? 貴女程のお方が?」
大袈裟に驚いてみせるケスカナ。
「ええ。三日しか時間がとれませんでしたので。近場で」
「いやあ――ソルテムは雪質が良くないでしょう。私も若いころは、よくムルアで遊んだものですが、あそこと比べるとソルテムの雪はどうにもよろしくない。私なら飛行機を飛ばしてでもムルアにしますなあ」
ふふん――とケスカナは鼻で笑う。
十中八九間違いないだろうが――そもそもケスカナはソルテムの雪を知らない。恐らくどこぞの雑誌で読んだ知識を、さも自分の体験談の様に語っているだけだ。
海外旅行に強い旅行代理店が広告主に入っている雑誌などでは、当然の様に、国内を格下に見た様な記事を多く載せる事になる。で――頭の悪い客は、その記事の受け売りを恥ずかしげもなく他人に語って聞かせる訳だ。
「そうですね」
だからユフィンリーは余裕を以て笑みを返す。
「特にデラン峰は余程の腕が無いと大怪我するでしょうね。ムルアみたいな――お上品な山じやございませんから」
むっとしたケスカナの表情を見ることが出来たのは、一瞬だけだった。
ユフィンリーの一撃を受けて、すぐさま背を向けてしまったからだ。
よったよったと会議室に入ってゆく丸い背中を見据えながら――ユフィンリーは密やかに短い溜め息をつく。
「――どうしたよ? 今のは割といい一撃だったぜ?」
耳元で囁いてくるヤーディオ。
どうやらユフィンリーの溜め息の意味が分からないらしい。
苦笑を浮かべてユフィンリーは言った。
「ああいうのでも……一応は神曲楽士なのよね」
「まあ精霊にも悪食は居るからよ」
とヤーディオ。
そう。
嫌味な奴だろうが俗物だろうが神曲楽士である以上――彼の奏でる神曲に惹かれてくる精霊は居るのだ。神曲楽士の魂の形をそのまま示すと言われる神曲を精霊達が認めるという事は、彼の人格や精神を精霊達が認めたという事だ――少なくとも彼が資格を取得した当時は。
「……むしろそれならば良いんだけどね」
ケスカナが今も昔も変わらずああいう性格で、昔からそんなケスカナの奏でる神曲を気に入って精霊達が集まってきていたのなら――まあそれはそれで『悪食』の一言で片付けてしまえるのだ。
あるいはユフィンリーが見ている側面がたまたま嫌な奴なだけで、精霊達に対しては誠実で真摯な――良い神曲楽士なのかもしれない。人間は様々な面を持っている。矛盾するとも思える様な側面を幾つも備えているのが人間だ。
だがそうでないとしたら。
人は――変わる。
真摯な気持ちを持ち続けるのは難しい。誠実さを変わらず持ち続けるのも難しい。対して神曲楽士という稀少な職業に就いているという矜持は、ほんの少しの気の緩みで容易く激慢や増長に化ける。
ケスカナも昔はもっといい奴だったのかもしれない。
だが神曲楽士としての立場が彼を腐らせたのだとしたら――それは悲劇だ。
実際、事務所を構え、複数の後輩を部下として抱えている神曲楽士には、現場から遠ざかり、自らは何年も神曲を奏でていない様な者も居るという。神曲を奏で精霊と交歓するよりも、銀行通帳の残高を眺める方が楽しくなってしまったのだろう。
「自分もああなるかもしれねえってか?」
「まさか」
ユフィンリーは笑う。
返ってきたヤーディオの声も笑いを含んでいた。
「だよな。おめーはそういう事をちまちま心配するタマじゃねえよな」
「ただね。契約してる精霊が居るとしたら――精霊が可哀想だなって」
「……そりゃ確かに哀れだな」
苦笑じみた声でヤーディオは言った。
報告会は予定どおりの時刻に始まった。
奥に向かって細長い会議室である。中央のテーブルは同じく奥に向かって長い楕円形で、その周りにざっと一〇〇人ばかりの男女が座っている。
集まった神曲楽士達の年齢や身なりは、先程廊下で立ち話をしていた連中と似たり寄ったり――全体的に年齢が高く、三十代以下は全体の一割にも満たない。いずれもが見るからに高級そうなスーツを身につけており……足元の鞄や手にした万年筆も高級ブランド製ばかりである。
そんな中――出入り口の扉を背にした席のユフィンリーはやはり浮いた存在だ。
(年の功を否定する積もりは無いけど……やっぱまずいでしょコレは)
などとユフィンリーは思う。
実際の処――事務所を経営している神曲楽士には高齢者が多い。
そしてその傾向は年々強まっているのだ。
理由は二つ在る。
まず一つは神曲楽士としての技能の修得には金が掛かるという事。
ユフィンリーの卒業したトルバス神曲学院などは、比較的授業料が安いので有名だが――それでも普通の高校や大学に比べると高い授業料を払う必要が在る。神曲公社の直営である神曲学院ですらこれなのだから、神曲楽士教育を語っている専門学校などは、その質にかかわらず更に高い授業料を要求する。
そうなれば――相応の財力か、あるいは奨学金等を勝ち取れるだけの、確固たる才能を有する者しか入学出来ない。入学出来てもその後が続かない。
ましてや念願叶って神曲楽士の資格を得たとしても――個人で事務所を経営するとなると、更に桁違いに多額の金を必要とする。単身楽団や防音施設といった設備投資が神曲楽士は半端でないからである。
この時点でまず後ろ盾の無い若手が殆ど残らない。
少なくとも神曲楽士事務所の経営者にはなれない。資格を得た若い神曲楽士はどうしても既に存在する事務所の雇われ――つまりは業界用語で言う処の『居候楽士』になる訳だ。
もう一つの理由は……八年前の資格制度の変更である。
神曲楽士の資格取得に関して、筆記・実技共に難易度が一気に高くなった。この為に現在では新しい榊曲楽士が年間数千人しか出ないと言われているのだ。
逆に言えば、それ以前は現在と比較すれば相当にヌルかったとも言える。
そして四十代以上の『ベテラン』達はいずれもそのヌルい時代に合格した者達だ。
この資格制度の変更には色々黒い噂もまとわりついているが、細かい事はユフィンリーも知らない。
ただ第二次〈嘆きの異邦人〉事件において少なくない数の神曲楽士が違法行為――もっとぶっちゃけて言えば精霊を使った被壊活動――に出た事から、単なる実力以外に、公社は資格申請者の犯罪歴や学歴、家柄まで調べて合否を決める様になったとも言われている。そして試験の難易度引き上げはこれを誤魔化す為なのだと。
また……神曲楽士には『定年』が無い。
この為、老齢の神曲楽士達が既得権益を守ろうと、若手の業界参入を制限するべく、公社に働きかけているのだという説もまことしやかに瞬かれている。試験の難易度を無理矢理引き上げて業界全体の神曲楽士の数を減らし、競争率を下げようと考えているのだと。
真実は闇の中ではあるが――とにかく若手の参入が厳しくなったのは事実である。
この事から、実力の在る新人が資格を取得する事無く、モグリの神曲楽士となって活動する事も多い。更にこれを取り締まるべく、神曲楽士達の業界組合が積極的に警察や帝国議会に働きかけているとも聞く。
単身楽団の購入資格は今の処、特に無いが――つまり神曲楽土でなくても購入する事は可能ではあるのだ――これを神曲楽士のみに規制し、神曲楽士であっても複数購入を制限する法案を帝国議会に提出しようとしている議員が居るそうだ。
此処まで露骨だといっそ清々しいとも言える。
ともかく――こうして若手と年寄の間に横たわる溝は更に開いていく訳である。
神曲業界は『お年寄り天国』への道をひた走っているのだ。
「では、以上で近況報告を終わります」
奥の突き当たり……ユフィンリーから見ると真正面に座る痩せた白髪の人物は、この第三神曲公社の常任理事である。
名を、スダムラ・ティルマンズという。
この場では彼だけが、いささか古風な衣装を身に付けていた。ゆったりとした、濃紺のケープである。神曲公社職員の礼装だ。式典に参加する際には公社職員達はこの礼装を着用する事が義務づけられているが――こうした実務色の強い報告会で着用する職員は、むしろ少数派になっている。
「それでは」
骨ばった手の指をテーブルの上で組んで、スダムラ・ティルマンズは宣言する。
「これより、今期の懸案事項に移ります」
(――さて。今期はどんな愉快な意見が飛び出してくるかしらね)
胸中で呟くユフインリー。
彼女はこの定例報告会における『懸案事項についての検討会議』という奴を、密かに『第二幕』と呼んでいた。
『第一幕』は、ついさっき終了した『近況報告』である。会譲室に集まった楽士事務所や楽士派遣事務所、あるいは単独開業の神曲楽士による、言わば業務報告だ。
もっとも、詳細な報告は前もって書面で済んでおり、実際に口頭で行われるのは報告書提出後に報告すべき案件が発生していた場合の追加報告や、公社側からの簡単な補足質問がある程度だ。時間にして、ものの三〇分もあれば終了するのが普通だし、現に今回もそうだった。
問題は次の『第二幕』だ。
この時に提示される議題によっては、報告会の終了までに数時間はかかる事になる。
ユフィンリーが確認した限り、六年前の第二神曲公社の下半期の報告会で、二八時間に及んだのが最長記録だと言われている。途中で三回の食事休憩だけでなく、四時間の仮眠休憩がとられたとか。しかも、二八時間というのは、それらの休憩時間を除外した純粋な会議時間だったというから驚きだ。
さすがにユフィンリーも、そこまでの長丁場は経験したことがない。
とは言え過去に二度程――心底からウンザリする程度の経験は積んでいる。
提出される議題がまたどうしようもなく下らないのだ。
確かウンザリした一度目は『神曲公社による認可番号を事務所のドアにタテ書きしても良いか否か』で、二度めのウンザリは『事務所に所属する楽士の契約精霊に対する福利厚生費は純益の何割が適当か』だった。
で――順番に意見を求められた際にユフィンリーは言った。
『そんなの適当でいいじゃないですか』と。
だがその意見は即座に却下され――結局、タテ書き問題では二時間、福利厚生問題では三時間かかって、下された結論は『良識の範囲で』というものだった。しかもユフィンリーは『会議に対する真摯さが足りない』と数名の神曲楽士から非難される始末。
そういう訳で――
(きっとみんな真摯で仕事が大好きな人達なんだろう)
などと皮肉たっぷりにユフィンリーは考えている。
でもって今回も、その真摯で仕事が大好きな人達による、どーでもいいよーなくだらなーいお喋りが始まる訳だ。
「お手元の配付資料を御覧ください」
スダムラが確認するのは、参加者全員に配られた紙の束だ。
綺麗に印刷された、今回の報告会のレジュメである。
項目の『3』――『懸案事項に対する検討会議』と書かれたそのすぐ下には、それよりも細い文字で『神曲楽士たる者の威厳について』と印刷されている。
威厳? 一体何のことだか。
その疑問について――
「前回の報告会の直後、複数の事務所より提議されたものですが……」
スダムラが説明を始めた。
「近年、神曲楽士の威厳を貶めると判断し得る行為が、この第三神曲公社の管轄内で頻繁に行われているという指摘があります」
初耳だった。
参加者の多くが同じだった様だ。テーブルを囲んだあちこちで、やや抑えた声のざわめきが広がっていく。
だが――
(……?)
ユフィンリーは、すぐに奇妙な点に気がついた。
互いに怪訝そうな顔で私語を交わしているのは、いずれも比較的若い楽士達だ。さすがにユフィンリー程に若い楽士は他にはいないが、こそこそと言葉を交わしているのは皆、三〇代あたりである。
その一方で古株連中――ユフィンリーがこっそりと『老人組合』と呼ぶ面々は黙ってスダムラの言葉を待っている。
まるで――次に何が話されるのかを知っているかの様に。
「例えば受ける依頼の内容です」
それは奇妙な問題提起だった。
独立開業を果たした神曲楽士は、それが違法行為でない限りにおいて、神曲をどのように用いても自由である筈だった。つまり神曲でどんな仕事をしようと、憂慮すべき問題として議題に上がったりする筈が無いのである。
たとえ神曲楽士が揚げ串の屋台を開こうが、ドブ掃除を請け負おうが、『神曲楽士の威厳を貶めると判断し得る行為』などと言われる筋合いはない。職業に貴賎は無く、支払われる報酬にも尊卑は無いからだ。
しかし――
「報告によると、商店街の掃除や害虫駆除、迷子のペット捜しなどを引き受ける楽士事務所が存在するということです」
(――は?)
「議題の提起者は、これらの行為は、長い歴史を持つ神曲楽士の威厳を町の便利屋レベルに貶める冒涜的行為である、と指摘しています」
(はあ?)
「しかも、こういった依頼を安価で引き受けることによって、基準となる報酬額の崩壊を招き、延いては神曲楽士全体の事業を脅かすものであると主張しています」
(はああっ!?)
「以上です。皆さんの忌憚なきご意見をお聞かせいただきたい」
「――はい!」
と――真っ先に挙手したのは言うまでもなくユフィンリーだ。
ここまであからさまな嫌がらせを受けて黙っていられる程、彼女は性格が穏やかには出来ていない。議長たるスダムラに指されるまでもなく彼女は立ち上がっていた。
「今の主張は、つまり、市民の日常的な依頼を断って高額の報酬が支払われる案件のみを業務対象とすべし、という意味に受け取れるのですが、そういう事でしょうか?」
「そう受け取れますね」
スダムラは、否定しない。
それどころか――この老いた理事はしっかりと頷いて見せた。
「しかし神曲楽士憲章には、『神曲楽士は広く人々のために神曲を用い、人と精霊との懸け橋となるべく尽力し、持てる才能と技術の全てをより善き社会の実現に用うべし』とあります」
「ありますね」
「ならば、市井の人々の日常的な依頼にも応える事こそが、我々神曲楽士たる者の本分と考えますが?」
「――しかしですなツゲ女史」
言葉を挟んだのは、すぐ斜め前に座った男だった。
年配で――ブランドもののスーツ。確かロナージの楽士事務所の取締役である。
「同じ憲章には『神曲楽士たる者は常に礼節を重んじ、全ての精霊に敬意を払うべし』ともあります」
そうです――と言葉を継ぐのは、五メートルばかり向こうの席の女である。
やはり年配で――ブランドもののスーツ。いっそ笑える位に型に填っている。
「それに『神曲を道具とするべからず』ともありますよ。つまり神曲を用い精霊を使役して行うべきは、商店街の掃除やペット捜しではないという事です」
「見解の相違ですね」
ユフィンリーは静かに――しかし鋭く言い放った。
「それに私は、精霊の力を借りることを『使役』などと表現する事が、精霊に対する『敬意』の顕れであるとは、とても思えません」
「そう言えばツゲ女史」
さらに向こうの席で、にたりと笑みを浮かべたのは……さっきのスキー談義でやり込められたケスカナ・デヴリンだった。
「貴女は警察にも顔がお広いそうですな。なんでも、警察署で演奏なさったとか?」
「ええ」
ケスカナが言っているのはオゾネ・クデンダル事件での事だろう。
稀代の神曲楽士と呼ばれたオゾネ・クデンダルが、密室にて射殺死体で見つかった事件である。この際――神曲供給の途絶と、自らが容凝者としてトルバス市警精霊課に拘束された精神的な衝撃が原因で、彼の契約精霊が暴走している。
ユフィンリーはこの時、トルバス市警精霊課の要請で精霊拘置所まで出向き、暴走する精霊を宥める為の鎮静楽曲を演奏していた。
「参考までに、お幾らほどの報酬を受け取られたのか、お教えいただけますかな?」
「報酬は受けておりません」
毅然たるその言棄に――ざわめく『老人組合』の面々。
「それは違反行為ではありませんか?」
また別の――『年配ブランドもの野郎』(命名・ユフィンリー)が言う。
「何故です?」
「自身の契約精霊に与える演奏や、練習での演奏を除けば、無償での演奏が許されるのは突発的な事態に対応するために報酬の設定をする余裕がない場合と、神曲公社を通じた正式な要請による公務のみに限られていますからね」
これは憲章ではなく、神曲楽士登録の際に負う職務規定に含まれる条項だ。神曲楽士ならば誰もが一度は眼にする内容である。
だがこの妙に滔々としていて、その癖抑揚に乏しい口調は――まるで規定を丸読みしているかの様な白々しい口調は、ユフィンリーを追い詰める為の武器として、予め、わざわざ丸暗記してきた証拠だろう。
「相手がたとえ警察であっても、報酬を設定し、契約を締結した上でなければ、演奏は許されない筈ですよ?」
「ではお訊ねしますが」
ユフィンリーは切り返す。
「現場に駆けつけた段階で、すでに精霊が暴走状態に入っており、しかも消滅が時間の問題であった場合、これを『突発的な事態への対応』であるとすることは不当ですか? また、警察への協力を市民の義務と考え、これに無償で応じることは不当ですか?」
応えはない。
その代わり、別の『年配ブランドもの野郎』が、声を荒らげる。
「聞けば、君の処の楽士は子供ばかりだそうだが――」
「いいえ、全員すでに成人しておりますが?」
「若造ばかりだと言っているのだ――君も含めてな。そして最近の若造は口ばかり達者になって礼節というものを知らん。屁理屈をこねさせたら一人前だが――」
その『年配ブランドもの野郎』は更に色々と侮蔑の言葉を重ねようとしていた様だが――最後までそれを聞いてやる程、ユフィンリーはお人好しでもない。
「ええ御陰様で――」
ユフィンリーは口元だけで笑って見せた。
「無駄に年齢だけ重ねて自我の肥大しきったクソ野郎など、一人もおりません」
「なんだと!?」
「あら、お気に障りまして?」
殊更に意外そうな表情を示して見せながらユフィンリーは言った。
「まさか、あなたも自我の肥大しきったクソ野郎でいらっしゃいましたか?」
「なッ……!」
立ち上がった『年配ブランドもの野郎』の神曲楽士は――
「な、なな、な、な、なななき、なき、な、き、き、なききき!!」
――と奇声を発した。
別に『泣き』が入ったわけではない。『何だと貴様』と言いたいのだが、怒り狂い過ぎていて言葉にならないのだ。普段から必要以上に持ち上げられている人間は、他人を嘲笑し侮蔑する事には慣れていても、自分がされる側になると途端に冷静さを失うものだ。
ちなみにユフィンリーの耳元では先程から爆笑する声が響いていた。彼女にだけ聞こえる抱腹絶倒の声。ヤーディオが物質化しないままに笑い転げているのだ。
「――ツゲ・ユフィンリー楽士」
割って入ったのは、スダムラである。
気難しげに唇を引き結んではいるが――その両端がかすかに動いている。その痙攣の意味をどう受け止めるかは見る者によって異なるだろうが……ユフィンリーの眼にはそれが笑いを懸命に堪えている姿に見えた。
そして――
「後で私の執務室に来ていただきたい。本案件は、討議の要なしと判断します。以上」
口元を痙攣させつつもスダムラ議長は何とか解散を宣言した。
第三神曲公社の中央棟は『ウェディング・ケーキ』の中央、塔のようにそびえる一七階建ての円筒形のビルである。
一階の大ホールを除いて、その大半が執務施設に充てられている。
そしてユフィンリーが呼び出された常任理事の執務室は、その最上階だった。
「――相変わらずですね、ツゲ君」
部屋の奥に置かれた重厚な執務机の前――接客用の卓を挟んでユフィンリーと向き合ったスダムラは眉こそ顰めているものの、口元には楽しげな笑みを浮かべていた。
「私も長年この仕事をしていますが……」
スダムラとユフィンリーの前にはそれぞれ、スダムラの秘書が煎れた香茶のカップが湯気をくゆらせている。
「まさか公社の中で、しかも君の様な若い女性から『クソ野郎』などという言葉が聞けるとは思いませんでしたよ」
「あー……あの。ええ。すみません」
ユフィンリーは言って肩を竦める。
ただしこちらも口元に浮かんでいるのは笑みだ。
「さすがに、うちの若い子達を若造呼ばわりされちゃ、黙ってられませんでした」
「別に構いませんよ。無礼者に礼節を尽くす必要があるとは私も思いません」
平然とスダムラは言った。
彼自身は神曲楽士ではないが――公社の常任理事といえばそれなりの権力者であり神曲楽士達にも少なからず影響力を持っている。そういう立場の人間としては、それは暴言にも近い正論だった。
しかし――とスダムラは続ける。
「とはいえ……私にも立場というものがあります。役職上、君だけを庇う訳にはいきませんからね」
「はあ……」
「君が君のやり方で仕事をするのは勿論、自由です。しかしそれを快く思わない同業者が居る事も事実ですし――私にはそういった楽士を咎める理由も権限も在りません」
「ええ……判ってます」
どんなやり方で仕事をするのも自由。
そして誰に対して不快感や嫌悪感を覚えるのもまた自由。
良くも悪くも自由とはそういうものだ。
「仮にいがみ合いの結果として、何らかの衝突が生じ――その際に一方が重大な違反行為を犯すのならば話は別ですがね」
「ええ。そうですね」
ユフィンリーは頷き――そして真っ直ぐに相手の双眸を見つめた。
「そしてそれは違反が私達の側であっても――ですね」
「無論です」
これまた平然とスダムラは言った。
だがユフィンリーはむしろ□元の笑みを深める。
「安心しました。公正さを欠く特別扱いってのは、性に合わないものですから」
「でもツゲ君――注意してください」
不意にスダムラの顔から笑みが消える。
六八歳……彼の顔は年齢相応の厳しい顔つきになった。それはつまり公社の職員として、神曲楽士業界の表も裏も、何十年と見つめ続けてきた人間の顔である。
「君のやり方を快く思わない楽士がいる、と言いましたよね」
「ええ」
「その大半は、君達がブロック・バスターとして業界全体の価格基準を下げようとしている事に対して、不満を抱いているだけです。これらは単純に営利競争の問題ですから、言わせておけばいいでしょう。また際限の無い値下げ競争はむしろ業界そのものの質低下を引き起こしかねない事を思えば――彼等の言う事にも一理あります」
「はい」
素直にユフィンリーは頷く。
「しかし……」
スダムラは声をひそめた。
「神曲楽士という存在を不必要に神聖視する人々もいます。問題はこちらです」
「神聖視――ですか?」
問い返しながらも……ユフィンリーの脳裏には、会議室に入る前にヤーディオと交わした会話が浮かんでは消えていった。
神曲楽士は確かに稀少な存在だ。
そして彼等に使役される精霊は確かに強大な力を誇る。
しかし……
「そうです。いかに高度な技術と才能を要するとは言え、それによって対価を得るならば、それは単なる『仕事』に過ぎません。しかし中には神曲を奏でる事そのものを、何か侵すべからざる高邁な行為と錯覚する者違がいるのです」
「…………」
「そういった人々は、キミのやり方を神曲や精霊への冒涜であると感じています」
「ええ。さっきも、聞きました」
とユフィンリー。
下らない事だ――と彼女は思う。
わざわざ自分達の仕事を神聖視したがるのは、実力と自意識に食い違いが在るからに他ならない。本当に素晴らしいものは殊更に自ら吹聴しなくても、誰もが認めてくれる。権威付けに奔走する者達は、自分達の中身が実は空っぽなのだと主張している様なものだとユフィンリーは思っていた。
しかし……
「ああやって口にする人達は、まだ安全なのです。注意すべきは、秘密裏に君達を業界から抹殺しようと画策する者達なのです」
「そんな連中が……?」
さすがにそこまではユフィンリーも想像していなかった。
「確証はありません。しかし過去、そういった古株の楽士達が、先進的な同業者に対して暴行を働いたという記録があります」
「……成る程」
少なくとも前例が在るからこそこうしてスダムラは注意してくれているのだ。
「判りました。ご忠告に感謝します」
ユフィンリーは自分の十倍以上もこの業界で働いてきた老人に心底からの敬意と感謝を込めて頭を下げた。『無駄に年齢だけ重ねて自我の肥大しきったクソ野郎』に下げる頭など無いが、きちんと人生経験を積んだ先輩に礼を尽くすのはむしろユフィンリーの主義である。
そして……
「一つ質問してもいいですか?」
ふと思い付いて彼女は尋ねた。
「なんでしょう?」
「そういう連中が襲ってきた場合、ボッコボコにぶん殴って返り討ちにしてやるのは、アリでしようか?」
その言葉にスダムラは先ず目を剥いて――それから苦笑を浮かべた。
「私の口からは何とも」
「でしょうね」
まさか公社の常任理事が神曲楽士同士の私闘を認める発言は出来まい。
とはいえ――
「でも世の中には正当防衛や緊急避難という概念も在りますからね。それは刑法の領域の問題で――公社がどうこうする問題ではありませんね」
「ですよね」
頷くユフィンリーの背後で彼女の契約精霊がニヤリと笑う気配がする。
「ですが過剰防衛は犯罪ですからね」
「……覚えておきます。ボッコボコで止められる様に」
と言ってユフィンリーは肩を疎めた。
だが……この時の彼女は未だ知らなかった。
二時間後には『ボッコボコ』どころか『ギッタギタ』の『グッダグダ』の『バッキバキ』に――相手を半殺しにしても気が済まない程、自分が怒り狙う事になるのを。
将都トルバスの中央街区――ナイガル市の端、丁度ニコン市やソゴ市との境界にあたる位置にツゲ神曲楽士派遣事務所はある。
此処はツゲ・ユフィンリーにとって二つ目の『城』だ。
トルバス神曲学院の卒業に先んじること半年……既に資格試験に合格していたツゲ・ユフィンリーは、記録上の事務所登録を終えて神曲楽士としてデビューを果たしていた。
非常に珍しい学生神曲楽士である。
ただしこの時は未だ学生という身分もあって、大々的に仕事をしていた訳ではない。学院講師や友人達といった個人的な繋がりから――それは時に兄の人脈を経由してくる事も在ったが――依頼を受けて、それをこなしていただけの事である。特に宣伝もしていなかったし、この時点では未だ明確に将来開くべき『事務所像』が出来上がっていた訳でもない。
その後……実際に物件を構えて『ツゲ神曲楽士事務所』を開設したのが卒業直後。
この時は安アパートの一室に看板を上げただけの細々としたものだった。もっとも、神曲楽士としての仕事が少なかった訳ではない。収入が乏しかった訳でもない。
むしろ逆だ。
既に口コミで広がっていた彼女の評判は、生半可な宣伝よりもずっと多くの依頼者を彼女の元へと連れてきた。次から次へと舞い込む仕事に彼女の予定表は常に満杯――仕方無しに仕事を断れば、需要と供給の理論が働いて、勝手に彼女に依頼する報酬相場が上昇する始末だった。
だが彼女はこの時に得た金銭を殆ど使っていない。生活は学生時代と大差ない慎ましいものであった。
彼女はこの時から収入の大半を次の段階に向けて貯蓄していたのである。
そして更にその二年後――ユフィンリーは今の場所に『ツゲ神曲楽士派遣事務所』を開設し、現在に至っている。つまり個人事業主から彼女は神曲楽士派遣組織の経営者になった訳だ。
現在……ツゲ神曲楽士派遣事務所は、ツゲ・ユフィンリーを所長として、マネージャーを務める彼女の実兄、挙院時代の後輩でもある二人の正社員、さらに同じく後輩の二人のアルバイト事務員の、合計六人がこの事務所の構成人員である。
で……
「よーし。終わった」
二人の正社員の内の一方――タタラ・フォロンは出納帳の整理を終えて大型のバインダーを閉じた。
ツゲ神曲楽士派遣事務所の玄関、硝子張りの扉を開いて中に入ると、すぐに受付カウンターと来客用のソファが在る。そしてカウンターの奥はすぐに事務所。六つの机が三つずつ向き合うように置かれており――フォロンの机はカウンターに近い右側の席であった。
「御苦労」
隣の席で雑誌を眺めながら、尊大な物言いで応えるのはコーティカルテだ。
ちなみに隣の席は本来、同僚サイキ・レンバルトのものだが……彼は仕事に出ていて不在である。ユフィンリーは神曲公社の定例報告会に出席する為にやはり不在。アルバイトの二人の出社時刻は未だ先。ユフィンリーの兄はそもそも滅多に事務所に顔を出さない。そういう訳でフォロンとコーティカルテは留守番がてら事務仕事をしていたのである。
実際の処……フォロンとコーティカルテは現場に出る頻度が他の二人よりも少ない。
これはコーティカルテの――良く言えば特質、悪く言えば偏り具合に起因する。
彼女は細かい仕事が苦手なのである。昨日の発掘現場のような仕事は得意中の得意だ。だが逆に細かく繊細な作業になると、途端に失敗が増えてしまう。
これは一種の『病気』の様なものだった。
元々コーティカルテの持つ『力』は大き過ぎるのである。だからそもそも精密作業には向かないのだ。これに加えて……コーティカルテはとある理由から、常日頃は彼女本来の形態を採っていない。その為にいざ仕事となると、形態変化の際の落差が大き過ぎて錯覚を起こし、彼女自身が自分の力の出し具合を間違ってしまう事が多いのだ。
とにかくコーティカルテは応用力が低い。
勢い――現場にはレンバルトやユフィンリーが出向く事が多くなり、一方で彼女の契約主たるフォロンは留守番を兼ねた事務仕事が主になってしまう。無論、問題はコーティカルテの側に在る為、フォロンが普通に他の精霊を現場で召喚して使役出来れば良いのだが−これはコーティカルテが常日頃から猛反対している為に、未だ実現していない。
そういう訳で……
「さてと」
奥の書棚にバインダーを戻したフォロンは、腰に手を当て事務所を見回した。
午後三時を少しばかり過ぎた時刻である。ユフィンリー所長は、会議が長引かなければ、もうじき戻って来るだろう。レンバルトも、さっき電話で業務終了の連絡を入れてきたから、すぐに帰って来る筈だ。
「お茶の用意でもしてようかな」
とフォロン。
彼は傍らの契約精霊を振り返って尋ねた。
「コーティもお茶飲む?」
「――ん」
雑誌から顔も上げずにコーテイカルテは頷く。
本来――契約精霊は神曲の演奏と引き替えに契約した神曲楽士の側に付き従い、陰に陽にとその手助けを行う存在である。少なくとも一般的な認識ではそうだ。
だがこの緋色の髪の精霊はそんな常識など知った事ではないとばかりに、仕事以外では全く働こうとしない。それどころか朝食は毎朝フォロンが作っている。毎朝、契約精霊に叩き起こされて朝食を作る神曲楽士なぞ、フォロンとしても不自然だとは思うのだが――哀しいかな四年近くも続くと大抵の人間は状況に順応する。最近は彼ももう馴れてきた。
「熱いめでな」
「はいはい」
そんな会話を交わしていると――
「ただいまーっと」
正面玄関の硝子扉が開いて、一人の青年が事務所に入ってきた。
毛皮の襟のついたダーク・ブラウンの革ジャン。革のパンツ。そして革のブーツ。それらを帯びる体躯こそ細身だが、金体的な印象としては骨太で野性味溢れる――かなり男臭い格好である。
ただしその容貌はフォロン以上に甘く――髪の色も柔らかな亜麻色だ。
優男という言葉がぴったり来る青年である。
ただし――
「だあ、もう! 参っちまった!」
言動は顔立ちよりも服装の方に似つかわしい。
ブーツの音を乱暴に響かせてカウンターの脇を横切り――彼は自分本来の席ではなく、フォロンの向かい側の机に、これまた乱暴な仕草で腰を降ろした。ガス・クッション方式の椅子が大きく沈み込んで彼の身体を受け止める。
「ひょっとして――あれか? うちって業界で嫌われてんのか!? ああ?」
元々あまり丁寧とは言えない言葉遣いと口調が――今日は更に荒れている。
サイキ・レンバルト。
フォロンにとってはトルバス神曲学院時代の同級生で――現在は同じツゲ神曲楽士派遣事務所に勤める同僚である。既に六年にも及ぶ付き合いなのでフォロンとしてはかなり気易い相手なのだが――
「ど……どうしたの?」
常にも増して乱暴なその様子に、思わず腰が退けてしまうフォロンである。
レンバルトはその整った女性的な顔をしかめつつ彼を振り返り――
「あ――いや。わりぃ」
と苦笑を浮かべた。
「別にフォロンのせいじゃねえんだよ――いや本当。わりぃ」
そう言う彼の周りを――ふいっと光る球体が三つばかり飛んだ。
一抱え程の大きさで、その表面には記号みたいに単純な顔と、そして小さな一対の羽根が備わっていた。生き物かどうかも首を傾げたくなる様な単純きわまりない形状なのだが、それでもこの光る球体はぱたぱたとオマケの様な小さな羽根を動かしながら、レンバルトの周囲を衛星の様に飛び回っていた。
「レンバルト」「怒る」「怒り」「怒りり」「りり」「わりい」「わりい?」「レンバルトわりい」「レンバルトわりい?」「レンバルトわりり?」
飛び回りながら三つの球体は交互にそんな事を言ったりもする。まるでオウムが喋っているかの様な口調なのだが――その言葉の群れには、僅かながらも意味を理解しているが故の連続性が在った。
ボウライである。
極めて標準的な下級精霊の一種だ。恐らく一般人が最も眼にする機会が多いのもこの枝族だろう。精霊の基本形に最も近いとも言われており、普段は物質化していないだけで、世界中の何処でも大量に居る。
「ああはいはい。悪いのは俺。お前らも悪くないよ」
苦笑してレンバルトは肩を竦める。
どうやらこのボウライ達はレンバルトに懐いて現場からついてきてしまったらしい。これ自体は別に珍しい事ではないが――
「現場で何か在ったの?」
そういえば先程、業務終了の電話を入れてきた時から、既にちょっと不機嫌な感じではあったが……電話越しの声が無愛想に聞こえるのは別に珍しくない事なので、フォロンも特に気にしていなかったのだ。
「あー……まあ……ちょっとな」
とレンバルトは言う。
だがそれが本当に『ちょっと』でない事は長い付き合いなのでよく分かる。そもそもレンバルトが怒っている様な場面など、フォロンでも数える程しか見た事がない。いつも飄々としているこの美形の神曲楽士は、多少の事ならば声を荒げたり顔をしかめたりしない。そういう激情に任せた振る舞いを、格好悪いと思っている節がレンバルトには在った。
だからこそ――これ程露骨に不機嫌を示す彼は、異常といえば異常である。
「いや……ちょっと訊きたいんだがな」
ちょっとな――と一旦は誤魔化したにも関わらず、すぐに話を始めるのも、要するに腹に呑みきれなかった証拠であろう。
「フォロン――お前、現場で他の事務所の連中とカチ合った事って、あるか?」
「フォロン」「フォロン」「あるか?」「あるか?」「あるかあるか?」
今日……レンバルトが担当したのは、マルト河の架橋工事に際する補助だった。
老朽化した橋を架け換えるにあたって、その礎を打ち込む数十秒間だけ、川の流れを変更する必要が在ったのである。そして現場は古い住宅地。その為、地理的にどうしても一ヶ所だけ、重機を置けない位置が生じてしまったのだ。通常の方法では費用対効果の関係で不可能と判断したシャムラ土木がツゲ事務所に依頼――レンバルトが派遣されたのである。
この仕事がレンバルトに振られたのは、彼の才能故だ。
特定の契約精霊こそ持たないレンバルトだが、下級精霊の誘導技術は天才的だった。ボウライやジムテイルあたりの精霊なら、百単位で呼び出し、全てを同時かつ極めて正確に誘導してのけるのである。
しばしば誤解を受けるが――下級精霊だからといって扱うのが簡単な訳ではない。
上級精霊に比べれば下級精霊は確かに神曲の好みはあまりうるさくない。上級精霊を呼び出せる様な神曲楽士なら、下級精霊も間違いなく呼び出せるだろう。
だがその一方で下級精霊は上級精霊に比べて知能が低い事が多い。
もっと具体的には――上級精霊と違って口頭での作業依頼が非常に難しい。事実上は不可能と言っても良いだろう。故に彼等を使役しようと思うのならば、命令をきちんと噛み砕き、それを神曲に載せて与えてやる必要が在る。
更にそれを複数系統同時に神曲に織り込むとなると……途方も無い応用力が必要になってくる。そしてレンバルトの才能はその方面に特化しているのである。
学生時代から天才の名を恣にしてきたユフィンリーですらも、下級精霊の扱いに関してはレンバルトには及ばないとはっきり認めている。
ところが……
「呼ばれてもいないのに、余所の事務所の連中が現場に来てやがってな」
「なに? 仕事を横取りされたとか?」
「ああ、違う違う。それなら、話はもっと単純なんだけどさ」
「単純なんだ」「けどさ」「けどさ」「単純」「単純?」
現場に高級車で乗り付けた数人の男達は、業者と打ち合わせをするレンバルトを遠目に眺めては、にやにやと嘲笑的な態度を隠そうともしなかったという。全員が年配で、中には六〇過ぎと思しき顔もあったそうだ。
「それでも、俺が単身楽団を展開したら車に引っ込んだんで、まあ仕事にかかったんだ」
レンバルトは、二〇〇程のボウライを呼び出した。
ボウライの群れを組体操の様に誘導して、礎を打ち込む地点に円筒形の塞を築く積もりだった。例えるなら――流れる水の中に筒を突っ込む様なものだ。
無論、下級とはいえボウライも立派な精霊である。彼等の発する『力』に巧く流れを作ってやれば、水を塞き止めた上で、更に塞の内部の水を強制的に排水する程度の芸当は、決して難しくない。
ところが――そこから異常事態が発生した。
召喚したボウライが巧く誘導されないのだ。
組み上げた立体陣形はすぐに崩れ、てんでに飛び回り、再び組み直そうとするとまた別の場所へ飛んで行ってしまう。
とにかくボウライがレンバルトの思い通りに動いてくれないのだ。
こんな事は神曲楽士資格を取ってからは初めての事だった。
当然――精霊を制御出来ない神曲楽士など何の存在価値も無い。
ボウライを御しきれないレンバルトを見て、現場の土木関係者だけではなく、集まっていた見物人までが、不安げに囁き始めた。
元々神曲の演奏とは結果以外からは定義出来ない技能である以上……それが結果を出せなければ、神曲楽士という職業への憧憬や畏敬は、容易く不審と侮蔑に転化する。
信用丸潰れであった。
「それって……」
フォロンが思い付く原因は一つしかない。
レンバルトの神曲はいつも極めて安定している。彼が神曲の演泰をしくじるという事は考えられないし――しくじったとしたら自覚が在る筈だ。
ならば……
「ああ、俺もそう思った」
もしや――と思ったレンバルトは、演奏を中止した。
思った通りだった。スモーク・ガラスで車内の見えない例の高級車に向かって、全てのボウライが移動してゆくのだ。
「まあ――あれだ。中で神曲を、やってやがったんだな」
それもかなりキャリアを積んだ楽士だろう――とレンバルトは言った。
要するに現場では二つの神曲が鳴り響いていたのである。それも片方はレンバルトの曲調にある程度合わせながら――わざと崩して演奏していたのだ。
たとえ人間の耳には捉えきれなくても、精霊は敏感に反応する。ボウライの群は似通った、しかし内容的には決定的に矛盾する二つの神曲の間で、混乱していたのである。
契約精霊ではないからこそ起こり得る事態だった。
「それで?」
「ああ。文句言ってやろうと思ってな」
だがレンバルトが近づくと、車は発進して、行ってしまったのだそうだ。
「そんで、また現場に戻って仕事再開だ」
「巧くいった?」
「当然だろ」
「当然」「当然」「当たり前」「前々」「当たり前々」「レンバルト当然」「全然」「全然?」「レンバルト全然?」
「――誰が全然だよ」
とりあえず輪唱めいたボウライ達の台詞に突っ込むレンバルト。
作業を終えると――レンバルトは続けてボウライの群にちょっとしたアクロバットを演じてもらった。
普段ならやらない余計な作業だが、今回ばかりははっきりと信用を回復しておかないと、後々ツゲ神曲楽士派遣事務所の評判にも影響しかねない。
ボウライ達は編隊を細んで宙を舞い、最後には人文字ならぬボウライ文字で空中に『またね』とメッセージを描いてから、花火のように散開して物質化を解いた。今レンバルトにじゃれついているのはその時からの『居残り』だ。
工事関係者も見物人も――拍手喝采でレンバルトと精霊達のパフォーマンスを称えてくれたとしう。
「じゃあ、何とかなったんだ?」
「まあな。依頼主には、ちゃんと事情も説明しといた」……まあうちの不手際にはならんだろ。目撃者も多かったしな」
「でも悪質だよね」
「――別に珍しくもあるまい」
そう言ったのは――コーティカルテだった。
相変わらずレンバルトの席を占領して視線は雑誌に落したままである。
「確か諺にもなっていただろう? 『出る杭は打たれる』――だったか。研鑽を積んで自らを高めようとするのではなく、自分より上位にある他者を貶める事で自己を護ろうとする――全く人間という奴は何百年経っても成長しないな」
「返す言葉がございませんな」
肩を竦めてレンバルトは笑う。
此処でその不愉快な語は終わった――筈だった。レンバルトとしてもわざわざ相手の素性を突き止めて改めて喧嘩を売ろうとは思っていないだろう。
だが。
「ムーカーつーくーっ!!」
そう喚きながら戻ってきたのは――所長のユフィンリーだった。
しかもいきなり背後からの登場だったのでフォロンもレンバルトも少々驚いた。ボウライ達はびくんと跳ねて空中で動きを止め、コーティカルテさえもが雑誌から顔を上げて怪訝な表情を浮かべている。
ユフィンリーが姿を現したのは事務所の奥に通じる扉からだった。
「しょ……所長?」
「あ、お帰り、なさい」
何が何やら判らないなりにも、とりあえず挨拶をするフォロンとレンバルト。
しかしユフィンリーはさっさと二人に背を向けると、また扉の向こうに引っ込んでしまった。要するに、何も言わずについて来い――という事らしい。
扉の向こう側は廊下になっている。
トイレや給湯室に並んで接客室が在り、一番奥が倉庫になっていて、更にその奥――廊下の突き当たりは外へと通じる勝手□である。ユフィンリーが憤然たる様子で立つているのは勝手□と直結した事務所裏――月極の駐車場であった。
「どうしたんですか?」
追いついた二人に彼女が指差して見せるのは、愛車〈シューティング・スター〉だ。
「見てよ――これ!!」
「あちゃあ……」
見た瞬間にレンバルトが顔をしかめて声を上げる。
白金色の車体の右側面に……長い長い傷があった。
何か硬いものを手に持って引っ掻いたらしい。前のウィンカーのすぐ後ろからドアを横切り、更には後部ウィンカーの手前にまでその無惨な一線は続いている。余程に強い力で押しつけられたものか……わずかに蛇行したその傷は、塗装を剥がしただけではなく、車体そのものまで窪ませていた。
「どうしたんですか……これ?」
「どーしたもこーしたもないってーの!」
ユフィンリーの整った顔はまるで茹でたかの様に真っ赤だ。
怒り狂っているのである。それも尋常な怒り方ではない。迂闊に近付いたらそれだけで文字通りに噛み付かれそうであった。よくこんな状態で事故も起こさず戻って来られたものだとフォロンは思う。
「ひょっとして……公社でやられました?」
レンバルトの問いはまさに正鵠を射ていた様だ。
「そうよ! 公社の駐車場でよ! だって降りた時には何ともなかったもの!!」
「てことは……関係者ですかね」
ユフィンリーが駐車したのは、関係者専用の駐車場だ。出人り口にはゲートがあり、身分証明の提示がなければ乗り入れることは出来ない。そして駐車した時にはなかった傷が、戻ってきたら付けられていたのだ。
「決まってるじゃない! あんの『年配ブランド野郎』共――なあにが品格よ! 今時、ガキンチョでもしないような事、恥ずかしげもなくやってんじゃないわよ!」
まるで目の前の敵に向けて怒鳴るかの様に叫び――しかし、そこですぐにレンバルトの台詞の意味に気付いたのは、さすがに天才と呼ばれたユフィンリーならではだろう。
「なんで判ったの?」
「えーと……」
一瞬、躊躇の表情を浮かべてフォロンとレンバルトは顔を見合わせる。
何となく自分達が火災現場に油樽を投げ込んでいる様な気がしたからだ。
しかし――
「な・ん・で・判った・の?」
猛獣の様に歯を剥いて――『言わなければあんたらの耳から手ェ突っ込んで脳味噌掻き出すわよ?』とでも言わんばかりの形相で迫り来る上司を前に、フォロンとレンバルトは三秒で屈服した。
「実はですね……」
レンバルトは自分が現場で体験した出来事を彼女に話した。いくらか手短で事務的にではあったものの――内容自体はフォロンに話した事そのままだ。
そして……
「…………」
ユフィンリーは不気味な位に黙って彼の話を聞いていた。
フォロンもレンバルトも無言で彼女の出方をうかがう。
時計の秒針がちくたくちくたくと一回りして――
「ふっ…………」
ユフィンリーの紅い唇がきゅっと左右に吊り上がった。
笑顔である。
とりあえず形だけは――だ。
猫を想わせるその両眼は笑っていない。むしろ血走ってさえいる。
「ふっ……ふっふっ……ふっふっふ……」
不気味な程に低く力のこもった笑い声が漏れる。
「ふっふっふ……そーかい……そーくるかい……?」
「…………」
フォロンとレンバルトは蒼白になった。
二人は経験上――熟知している。
ユフィンリーがこういう笑い方をする時はやばい。本当にやばい。どうやらフォロン達がユフィンリーという火に注いでしまったのは、油ではなくて爆薬であったらしい。
「所長――あの落ち着いて」
フォロンの声もしかし彼女には届いている様子が無い。
「いいよ。喧嘩売る気なら、買ったろうじゃないの」
彼女はまるで地鳴りの様な声でそう言った。
「……やれやれ」
フォロンが振り返ると――勝手口の枠にもたれて腕を組んだコーティカルテが、苦笑を浮かべながら言った。
「本当に人間は何百年経っても成長しない」
□ではそんな事を言いつつも、彼女は――フォロンの眼には何故か妙に楽しそうに見えた。
まるで迫り来る嵐の予感にはしゃぐ子供の様に。
オミ・テディゴット――オミテック工業社長。
彼は厳格な人物であった。
それは仕事の上だけではない。一人息子の教育についても同様だ。
幼い頃に母親を亡くしたカティオムを――彼は一切甘やかす事無く躾た。
ただし細々とした事にまで、いちいち眼を光らせたり口を出したりしていた訳ではない。彼は常に結果だけを確認し……それがカティオム本人にとって満足なものであったかを問うただけの事である。むしろ他人の眼には、テディゴットの教育方針は放任主義と映ったかもしれない。
満足なものであったなら良し。それ以上の干渉は無い。
だが――そうでないなら、不満が残った理由は一体何なのか徹底的に考えさせた。
そうした積み重ねの末にテディゴットが息子に教えた事は、結局の処――ただ一つと言っても過言ではない。
出来ぬ事は恥ではない。やらぬ事は恥である。
それだけだ。
それはまさにテディゴット自身が自分の父親から教えられた事であり、彼の父も祖父から教えられた事だったという。言わばそれがオミ家の家訓なのだ。
その意味において――
「カティオム……」
テディゴットの息子は忠実にその教えを守っていると言えた。
「よく考えたのか?」
テディゴットはボックス・チェアに座り、正面に立つ我が子を見据えた。
テックホテル・ニコンのスイート・ルームである。
ニコン市の高層ビル街にある、オミテック・グループ傘下の高級ホテルだ。ケセラテ自然公園の発掘現場にも近いこのホテルの高層階に、テディゴットは工事期間中を通して部屋をとっていた。
オミテックの長たる彼がわざわざ長期の宿をとってまで現場に通い詰めるのは、ある意味で異常な事ではある。だがケセラテ自然公園の地下に埋まっているものはそれだけの――いやそれ以上の価値と意義の在るものだと、テディゴットは確信していた。
そしてテディゴットの秘書達は極めて有能である。本社社屋に居らずとも、彼は常日頃と変わらぬ業務をこなしていた。一時的とはいえテックホテル・ニコンのスイート・ルームはオミテックの中枢部として機能しているという事だ。
そこに――突然カティオムがやって来たのである。
それもシェルウートゥを連れて。
しばらく懸案だった大岩をようやく取り除き、本格的な発掘を再開した翌日の事だ。
理由も無く、父の仕事現場に遊びに来る様な息子ではない。
昨日の発掘現場にカティオムが居たのもテディゴットが呼んだからだ。未成年の息子が世話になったのならば、親子揃って礼を述べるのが筋であろうと考えたのである。
「…………」
カティオムはルシャゼリウス市立高等学校の制服に身を包んでいた。通学鞄も持ったままだ。恐らく授業を終えてすぐにホテルにやって来て――多忙な父親が戻るのを待っていたのだろう。
窓辺に置かれたテーブルを挟んでカティオムは立っている。
父が勧めた対面側の椅子には座ろうとしない。その姿はまるで粛々と己の上に下される判決を待つ被告の様だ。傍らの分厚い強化硝子の窓は夜の闇の色を湛え――そこにカティオム少年の緊張した横顔を映していた。
カティオムの隣では黒髪の精霊もまた、少年と同じく緊張をその身に湛えて立っている。
上級精霊といえど精神面では人間と大差は無い。いや――むしろ肉体は仮初めの器に過ぎない彼等は、人間よりも遙かに精神面での影響が大きい。脆いと言っても良いだろう。シェルウートゥにしてみれば、この場に立つ事は非常な疲労を伴うものである筈だった。
「カティオム」
叫ぶでもなく囁くでもなく。
ただ静かに淡々とテディゴットは話し始める。如何なる相手であれ、理を説くにはそれが最適と彼は考えているからである。それで通じ合わねば、喚こうが囁こうが無駄な事だ。
「私がお前をルシャゼリウス高に進ませたのは、つまらない見栄からではない。いずれ私の跡を継がせようと思っていたからだ」
「はい」
「それは、ちゃんと知っているね」
「はい」
「そしてお前も、それは納得したね」
はい――と応える息子の唇が微かに震えているのをテディゴットは見逃さない。
相手との対話で丁寧に理を積み上げていく論法。それが父の『武器』だとカティオムは知っている。それは公明正大さを訴え相手の信頼を得るのにも役立つが――必要とあれば言葉の累積は壁の様に相手を囲んで墓穴に追い込む事になる。
これは単なる父と子の対話ではない。
対立する利害を各々背にした一つの対決であった。
だからカティオムの表情には緊張が満ち……その唇は戦慄いているのである。
しかし。
「…………」
しっかりとシェルウートゥの手を握りしめるカティオムの手は震えていなかった。
テディゴットはそれを確認してから再び口を開く。
「――私は精霊に対する偏見は持っていない積もりだ」
だからこそテディゴットは息子が精霊と交際する事を許した。独り暮らしのマンションに同居する事を――同棲する事をも許した。
オミテック社は神曲と精霊に関する製品を扱っている。その社長ともなれば当然に、精霊と人間の関係にも詳しくなる。あまり表沙汰にならないだけで……長い長い人間と精霊の歴史の中で、こうした出来事はさして珍しくないのだとテディゴットは知っていた。
だが――
「だが精霊が人間とは似て非なる存在である事は否定しない」
交際は許すがそれ以上は認めない――という事だ。
友人として付き合うのは構わない。恋人として寄り添うのも構わない。それらは微細な影響を相互に及ぼすとしても――オミ・カティオムという人間の立ち位置までも変えるものではないからだ。オミ・テディゴットの息子であり、オミテック社の跡取りであり、オミ家の跡取りであるという彼の素性や立場を変化させるものではない。
だがそれ以上となると話が異なる。
本人達だけの問題ではない。
連綿と受け継がれてきたオミ家という血統に対する責任と……国内国外を併せて従業員総数十五万を誇るオミテック社に対する責任が絡んでくる。そして己の立ち位置を変えてしまうという事は、それらを全て放棄するという事に他ならない。
「はい」
カティオムは首肯する。
そしてはっきりと父の顔を見つめながら――
「僕もそう思います」
と付け加えた。
「そうか。では、それを承知した上での決定なんだね?」
「はい」
「私の気持ちも?」
「はい。申し訳ないと思ってます」
その唇は未だ震えている。
だが息子の双眸に宿る眼光は微塵も揺らいでいなかった。
故に――
「――よし」
短い言葉に少年と少女が顔を見合わせる。
テディゴットは微笑を浮かべていた。
息子が『決心』を打ち明けてから……初めて示す笑顔だった。
「好きにしなさい」
カティオムが考えて考えて考え抜いた末の結論であるならば、元よりテデイゴットが口を差し挟む余地は無い。その意味では彼は息子を信頼しているし――自分の教育方針の正しさを確信していた。
少なくともカティオムは、苦悩する事から逃げて安易な結論を出す様な少年ではない。
ただ……
「だが、これだけは憶えておきなさい」
「は――はい!」
「強く願えば夢は叶うとか。諦めなければ夢は実現するとか。そんなものは嘘だ」
やはり淡々と理に満ちた口調でテデイゴットは言う。
それは教示ではない。互いに理解している事に対する確認の儀式だ。
「どれだけ切実に願おうと、どれだけ食い下がろうと、才能や技術が不足していれば夢は決して叶わない。それが現実だ」
「はい!」
「お前の思いがどれだけ切実だろうと、お前にその力が不足しているなら、決して叶わない。そして全ては、お前自身の責任であって他の誰の責任でもない」
「はい!」
出来ぬ事は恥ではない。しかしやらぬ事は恥である。
故に……力及ばぬ事は決して恥ではない。
不足を補う為の努力を怠る事こそが恥だ。
「期限は四年だ。それで先が見えなかったら――私との約束を果たすんだぞ」
「はい!!」
よし――とテディゴットは立ち上がる。
「食事にするか」
父と息子と精霊は、最上階の展望レストランで、やや遅い夕食をとった。
オミ・カティオムが名門ルシャゼリウス市立高等学校を中退し、トルバス神曲学院に入学するのは、次の春の事であった。
授業を終えればアルバイト先に直行――それがユギリ姉妹の日課である。
別に懐具合に問題が在る訳ではない。
その証拠に学生食堂でのアルバイトしか許されなかった一般課程の二年間は、ユギリ姉妹は全くアルバイトに興味を示していない。
そもそも腕の良い神曲楽士であった彼女等の父は、姉妹が働かなくても一生食べていける程の財産を残しているのだ。また第一次〈嘆きの異邦人〉動乱において英雄的な活躍をした彼には、メニス帝国からもそれなりの恩給が出ている。放蕩三昧の生活でもしない限り、ユギリ姉妹に経済的な困窮は無いのだ。
では何故に専門課程に上がってから急にアルバイトを始めたのか。
アルバイトそのものがしたかった訳ではない。
『此処』がアルバイトを募集していたから応募したのだ。
つまり『此処』である事が重要なのだ。
何故なら――
「おはようございまーっす!!」
此処にはタタラ・フォロン先輩が居るからだ。
大通りに面したガラス張りの扉には三行の文字が白い塗料で書き込まれている。
『第三神曲公社公認』
『認可番号066249』
そして――
『ツゲ神曲楽士派遣事務所』
それがユギリ姉妹のアルバイト先……と言うより、フォロン先輩の勤務先だ。
挨拶とともに扉を開けたのはユギリ姉妹の姉である。
ユギリ・ペルセルテ。
誰の眼から見ても文句無しの美少女である。
腰まで届く赤みがかった金髪を、お気に入りの薄紫のリボンで二条に結い、胸元では制服の赤いリボンが元気良く揺れている。
その言動は闊達で前向き。くるくると子犬の様によく動く双眸と表情が、見る者を微笑ましい気分にさせてくれる。何か重苦しい空気に満ちた場でも、彼女一人が居るだけで人々の表情に明るさが戻る――そんな少女であった。
難点と言えば……その積極性に時折、歯止めが利かない事位であろうか。思い込んだら命懸け、猪突猛進、金髪の暴走機関車……それもまたユギリ・ペルセルテではあった。
そんな姉とは対照的に――
「おはようございます」
控えめな挨拶と共にペルセルテの後から入ってくるのは銀髪の少女だ。
双子の妹ユギリ・プリネシカである。
髪の色と型――プリネシカはその髪をストレートに背中へ流している――の他は、顔だちも瓜二つだし制服もお揃いだ。しかし意外な事に、初対面の人間の多くは二人が双子である事に気づかない。
要するに、それほど性格が対照的なのである。
両極端と言っても過言ではない。
いつも穏やかに――少しはにかむ様な微笑を浮かべているのがプリネシカという少女なのだ。双子でありながら物静かで楚々たる雰囲気は、姉とは真逆。例えば木陰に座らせて膝の上に詩集なぞ開かせれば、その様子はきっと一枚の絵画の様なはまり具合を見せる事だろう。
ユギリ姉妹――ツゲ事務所での通称は『双子ちゃん』。
彼女等の此処での仕事は主に事務処理だ。
春にはトルバス神曲学院の専門課程を終える予定の二人だったが、未だ神曲楽士としての資格は共に取得出来ていない。故にフォロンやレンバルトの様に現場に出る事はまず無い。
ちなみにペルセルテは非常に才能に恵まれた少女であるが、多分に不安定な処が在り、試験に――『本番』に弱い。ボウライ一体とはいえ既に一般課程の段階で精霊を引き付ける神曲を奏でた実績が彼女には在るが、これは公式記録には残っていない為、彼女の成績は他の学生達と比較しても凡庸なものに過ぎない。
またプリネシカに至っては――とある理由から壊滅的な程に神曲の演奏そのものが苦手である。演奏出来ない事も無いのだが、すぐに体調を崩して倒れてしまうのである。
そんな彼女が曲がりなりにも姉と共に専門課程へと進級出来たのは、妹想いの姉の活躍――というか暗躍――や諸々の裏事情が在っての事だが、それはまた別の話で、とりあえずツゲ神曲楽士派遣事務所には関係が無い。
とにかくそういう訳で。
今日も双子の姉妹は(主に姉が)元気に事務所にやってきた訳だが――
「んー」
「あー」
「おはよー」
――二人を迎えたのは何処か投げやりな返事であった。
「………」
「………」
顔を見合わせるペルセルテとプリネシカ。
いつもと異なる――何やら非常に怠惰で物憂げな事務所の空気に、ペルセルテは首を傾げながらカウンターの奥を覗き込んだ。
「えっと……」
事務所は、右奥から時計回りにツゲ所長、レンバルト、フォロン、そして対面に飛んで『双子ちゃん』と、それから事務所には滅多に顔を出さないマネージャーの為の机が並んでいる。これはいつもと変わらない。
ただ……その六つの机の右半分に、ツゲ所長を舎む三人の所員が座って、ううむううむと壊れた空調機みたいに唸っているのだ。
これは色々な意味で珍しい光景である。
そもそも普段から忙しいツゲ神曲楽士派遣事務所に、所属楽士全員が揃っている事そのものが珍しい。ユギリ姉妹が出勤する時間といえばレンバルトやユフィンリーはばたばたと出入りを繰り返している事が多く……こうして机についている事はまず無いのだ。
また……ユフィンリーやレンバルトが困惑の表情を浮かべて唸るという場面が珍しい。
ユギリ姉妹に言わせれば、このツゲ神曲楽士派遣事務所の所員達は全員が――フォロンも含めて――天才級の神曲楽士だ。得意分野は異なれど、それぞれ神曲楽士の平均を大きく凌駕する様な長所を何か一つは備えている。
そして性格的に『奥ゆかしい』(ペルセルテ談)フォロンはともかく、ユフィンリーやレンバルトは自分達の才能をきちんと自覚している。
だからこそ彼等は普段から物腰が自信に満ちているし……物事に対する自分の判断基準に自信を持っている為、滅多な事では苦悩しない。たとえ苦悩してもあまりそれをユギリ姉妹の前に晒したりはしない。
なのにこれは一体どうした事か……?
「何かあったんですか?」
ユギリ姉妹はカウンターをすり抜けて自分達の席に向かう。
事務所中央に机を寄せて作られた『島』の上には――何十枚もの紙が散乱していた。唸っている三人の机の上は言うに及ばず、ユギリ姉妹の机の上や、マネージャーの机の上にも大量の紙が乱雑に置かれているのである。
それも白紙ではない。
「え……と?」
何だろうと覗き込む二人。
しかしフォロンもユフィンリーもレンバルトも、いずれも精根尽き果てた様了で顔も上げない。ユフィンリーなどは机の上に突っ伏したままだ。
当然ペルセルテの問いにも答える様子は無い。
代わりに――
「デザインだ」
そう言ったのは……フォロンの後ろから肩越しに顔を出したコーティカルテだった。
「デザイン?」
聞き返すペルセルテに、コーティカルテは顎で机の上を指す。
見てみろ――という意味だろう。それはペルセルテにも判ったが――判らないのは緋色の髪の精霊が浮かべている苦笑めいた表情である。その無茶で強引な言動から、他人に呆れられる事はあっても、彼女が他人に対して呆れ顔をするのは――それもユフィンリーやレンバルトに対してまで――これまた珍しい事ではあった。
でもって。
「……うわ」
驚きの声を漏らしたのはプリネシカの方だった。
紙の上に描かれているのはコーティカルテの言う通りのものだった。散らばった紙にはどれもこれも何やら人間の姿が描き込まれている。その全てが異なる仕立ての服を着ているところを見ると――成る程、確かにこれは何かの衣装デザインであるらしい。
しかし……
「へたくそ……」
ぽそり――とそんを言葉を漏らすペルセルテ。
その瞬間、三人の喉から漏れていた唸りが一斉に停まった。
「あ…………」
これまた一斉に顔を上げた三人の視線を受けてたじろぐペルセルテ。
「あ……あの……その……ごめんなさい」
だが三人は怒った訳ではない様だった。
フォロンもユフィンリーもレンバルトも眉を寄せて――それはもう困って困って困り抜いて困り果てた表情だった。
「そうなのよぅ」
ユフィンリーが捨てられた子猫の様な眼で双子に訴える。
……はっきり言ってこれだけでも異様な光景だった。
「ここまで絵心のない連中揃いだとは思わなかったのよう」
「所長もじゃないですか」
と突っ込むレンバルトの声にも元気が無い。
「そりゃまあ……僕等は楽士だし……」
溜め息混じりでそう言うフォロンの顔には色濃い諦観が滲んでいた。
「……えっと」
改めて双子は机の上の紙を眺めた。
数十枚の紙はどうやらコピー用紙の様だ。その全てに、マジックやらボールペンやら鉛筆やらでデザイン画が描かれている。しかしそのどれもが幼児の落書き並の画力なのだ。そもそも……まともな人体のバランスをしているものが一枚もないのである。
しかも――これは一体、何の衣装デザインなのだろうか。
マントらしきものを背負っている絵や、肩からトゲみたいなものが張り出してるものや、腹巻みたいに太いベルトを巻いている絵もある。女性らしき絵も混じっていて、そこには『お姫様』みたいな巨大なスカートや、アニメの『魔法少女マリリン・マァリン』みたいなフリフリヒラヒラの衣装も混じっている。
「これ……何なんですか?」
ペルセルテの問いにコーティカルテは恐るべき回答を投げ返してきた。
「制服だ」
口元が痙攣を起こしている。
怒り狂っているのでもない限りそれは――爆笑寸前の兆候だった。
「お前達が着る制服だ!」
「えええええええええええええええええええええっ!?」
ユギリ姉妹は驚愕の声を上げる。
ペルセルテだけではない。プリネシカまでがこんな大声を上げるのはやっぱり珍しい事ではあった。つまり――それだけ明かされた真相が衝撃的だった訳だが。
「こここ、これ、これを、きき、着るんですか!?」
尋ねるペルセルテの声は恐怖に裏返っている。
はっきり言って――先輩方には失礼極まりないが――これを着て人前に出る位なら下着姿で繁華街を歩き回った方が未だマシだ。変わった格好というだけではない。とにかくどれもこれもが壊滅的な位にダサいのだ。
だが――
「着せないわよ」
ユフィンリーの台詞はとりあえずの安堵を双子にもたらした。
「もっと格好イイのを着せたげるわよ」
「そ……そうですか。そうですよね」
あはははは――と若干引きつりの残った笑顔で言うペルセルテ。
「もっとも……」
陰々滅々とした口調で続けるのはレンバルトだ。
「その『もっと格好イイの』が出来ないから、困ってる訳でね」
「やっぱり専門家に任せた方がいいんじゃないですか?」
フォロンの至極もっともな提案は速攻で却下された。
「駄目よ!」
がたん――と椅子を鳴らしてユフィンリーは立ち上がる。
まるで不退転の決意を示すかの様に、両手は固く固く拳を握ったりなんかしている。
「私達が私達の手でデザインするから意味があるの! お仕着せのブランドものや旧態依然の仰々しい衣装じゃなく、市民に信頼と安心を感じてもらえるような、私達の気持ちがストレートに伝わるような、そういうのが必要なのよ!!」
「フォロン先輩……」
ペルセルテが身を乗り出して瞬く。
「所長……いつになくハイテンションなんですけど……?」
「あはははははは……」
力無く笑うフォロン。
「……所長」
呟く様にレンバルトが言った。
「所長ってば……実は喧嘩の際は自分の拳でぶん殴らないと気が済まないタチでしょ。誰かに助っ人頼むとか……策を巡らせて相手を陥れるとかは駄目で……」
「当たり前でしょ。それがどうしたのよ?」
「いや……いいです。判ってたんです。ちょっと確認しただけ」
そう言ってレンバルトは机の上に突っ伏した。
いわゆる天才にありがちな落とし穴ではある。
元々の能力がべらほうに高いので、細かい事まで他人任せに出来ず――いちいち他人に細かく説明してやって貰うよりも、いっそ自分でやった方が早いし手間も省けるし正確だから――何でもかんでも自分でやってしまう癖がついてしまっているのだ。
だがさすがに神曲関連外となると天才ユフィンリーもただの人だ。
自分で全て片付けてしまおうというこだわりは、むしろ本人の足を引っ張る。
「……つまりね」
苦笑気味にフォロンが説明する。
どうやら他の神曲楽士……特に上の世代の楽士達に、ツゲ事務所は嫌がらせを受けたという事らしい。ユフィンリーのハイテンションはその反発である様だった。
もっともその憤怒が、相手への直接抗議や嫌がらせではなく、自分達の仕事のレベルを更に上げる事で対抗しようという考えに結びつくのは――何というか実にユフィンリーらしい。
制服を決めようと言うのは営業力強化の一環であるらしかった。
揃いの『格好イイ』制服を着て現場に出張れば人々の印象に残る。元々神曲楽士の仕事は人々の注目を浴びやすいから尚更の事だ。そして話題になればそれは依頼の増加を見込めるし――依頼の数が増えれば実績の積み上げにも有利となる。
まあそういった理性的な理由の他にも、ユフィンリーの頭の中には『年配ブランド野郎』達への反発や嫌悪が多分にある様だったが。要するに彼等が揃って判で押したかの様に身に付けている高級ブランドのスーツに、ある種の対抗意識を燃やしているらしい。
「えっと――それじゃあですね」
ふと思い付いた様子でペルセルテが言った。
「プリネにやらせてみる――ってのはどうでしょう?」
「えええっ!?」
素っ頓狂な声を上げたのはプリネシカ本人である。
「私――駄目。無理だよ」
「またまたぁ」
にまにまと笑いながら双子の姉は言った。
「別に内緒にする必要ないじゃん――ね?」
「で……でも……」
「いいからいいから」
気楽な様子でペルセルテは机の上に手を伸ばすと、未だ何も描かれていない白紙を一枚と鉛筆を一本取って――それをプリネシカの席に置いた。
「座って座って」
「でも……」
「いいからいいから」
「でも……」
「大丈夫大丈夫」
手早く散乱する紙を片付けてプリネシカの作業スペースを確保するペルセルテ。
彼女はきょとんとした表情で双子を見つめていたフォロン達に、にっこりと笑って見せた。
「プリネは結構――描けるんですよ。絵」
「そうなの?」
と尋ねるのはユフィンリーである。
その眼には――飢えた獣の様な光が在る。
「ええ。あたし以外には見せないし、あたしだって殆ど見せてはもらえないんですけどね。でも保証します――かなーり巧いですよ?」
「ペルセ……そんな……」
プリネシカは耳まで真っ赤に染めながら顔の前で手を振った。
しかし――
「ユギリ・プリネシカッ!!」
眼の前に仔ウサギを見つけた餓狼――もといユフィンリーは当然ながら容赦しなかった。
「は……はいっ!?」
「業務命令ッ!! 描け! 描いて頂戴! っていうか描いてください!!」
「腰低ッ!?」
とレンバルト。
「いやあの……」
「無論――別途手当支給ッ!!」
おおっ――と一同がどよめく。
「だからその……でも……」
もじもじと両手を膝の上で摺り合わせながらプリネシカは上目遣いに全員の顔を見渡す。
だが彼女が切望する表情を浮かべている者は誰一人として居なかった。むしろツゲ事務所の全員が眩しすぎる程の期待に満ちた眼で彼女を見つめているのである。
最後にプリネシカの視線はコーティカルテで停まり――
「…………」
緋色の髪の精霊が肩を竦めて首を振ったのを見て、ようやく諦めがついたらしい。
「――判りました」
唇を引き結んで頷くプリネシカ。
銀髪の少女は席につく。
すぐさま残る全員がその周りを後ろから半円状に囲んだ。コーティカルテだけは少し離れた処から――しかし楽しげにその様子を眺めている。
「では……えっと……どういうイメージでしょう?」
視線は紙に注いだままそう尋ねるプリネシカ。
その途端――
「とりあえず清潔感が第一!」
「格好いいのがいいよな。子供の頃に変身ヒーローに感じたみたいな、頼もしさとかさ」
「でも現場で着る事を考えたら動きやすさがやはり第一で――」
「こう太めのベルトがポイントとかで入っていると格好良くね?」
「うちの事務所のだって一目で分かる特徴が――」
「どうせだったら各人色遠いとかな」
「あとは男女出来れば同じ雰囲気で統一――」
「そうだ。ゴーグル。ゴーグルとか。あとヘルメット――」
……………
怒涛の様に挿し寄せる注文の嵐。
これでは各人に画力が在っても、まるでまとまらなかったろう。そもそも制服というものに対する意見統一がまるで出来ていないのだ。特にどうもレンバルトは子供の頃に見た変身ヒー口ーに妙な思い入れが在るのか、マントだのヘルメットだのマフラーだのと明らかに偏った意見を出してくる。
でもって――
「――やめろ」
どん! と爆音がツゲ事務所に響いた。
「…………」
さすがに驚きの表情を浮かべて振り返る一同。
そこには壁にもたれかかりながら紅い電光を――精霊雷を右手に纏わりつかせているコーティカルテの姿が在った。どうやら今の爆音は彼女が精霊雷で生み出したものらしい。
「せめて意見統一しないと、いつまで経っても終わらんぞ」
コーティカルテは呆れ顔で言った。
「…………そうね」
溜め息をついて頷くユフィンリー。
「先ず目的をはっきりさせましょ。そこから優先順位の設定」
「……はあ」
と頷くフォロンとレンバルト。
「元々これは他の神曲楽士事務所からの嫌がらせに対抗しようって話よね」
「ですね」
「連中はとにかく神曲楽士って職業に勿体を付けたいのよね」
「成る程」
「だから連中の古臭くて選民意識に凝り固まった考えを否定した上で、正々堂々と業績アップで闘う為の一助として、今回の制服を考えた訳で――」
そもそも神曲楽士に服飾規定は無い。
弁護士だの会計士だのに制服が無いのと同じ様なものだ。世間的には背広が事実上の制服になってはいるが……別に業務に差し障りが無ければシャツとジーンズだろうが礼服だろうが水着だろうが構わないのだ。
だがそれでは依頼者の信用を得にくい。
元々……わざわざ神曲楽士派遣事務所の扉を叩く依頼者は、何か不都合を抱えている事が多い。精霊の力でなくては解決出来ないか、解決出来ても引き合わない程の費用や時間が掛かってしまう――そんな問題を解決して欲しくてやってくるのである。
そこで出会う相手が素っ頓狂な格好をしていると、流石に『本当に頼んでも夫丈夫か?」と不安になってくる。回れ右して事務所を出る人間も多いだろう。
逆に大した力量の神曲楽士でなくても、ぱりっとしたスーツを身に着けてもっともらしい専門用語をまくしたてれば、依頼者の信頼は増す。
つまり衣装とは……職業に対する一種の信用保証として機能するのだ。
その意味では『老人組合』――『年配ブランドもの』達の主張にも一理は在る。
神曲楽士が神曲楽士としての信用を得られる様な、きちんとした衣装を着ていた方が、仕事はやりやすいし、世間一般が業界に対して持つ印象も良くなる。
しかし『年配ブランドもの』達は手段と目的が逆転しているというか――ブランドものの高級服を着ていなければ神曲楽士にあらず、などという妙な選民意識を生じさせてしまっている。これがユフィンリーに言わせると非常に鼻に付くのだ。
ならば……
「目的は『顧客の信用を得られる』制服」
ユフィンリーは人差し指を立てて言った。
「それはつまり清潔感が第一。その次に機能性。ごてごて派手にするだけじゃ、それこそ成金連中と変わらないから」
「そりゃそうですね」
とレンバルトが頷く。
「でも――同時に独自性は欲しいのよ。それを見た瞬間に『あ、ツゲ事務所の職員だ』って判って貰える様な。そうでなければ結局はスーツ着てれば良いって事になるし」
「でもあんまり突飛なものはまずいですよね」
これはフォロンの意見。
「そうね。道化みたいな格好だと、それこそ顧客の信用なんて得られないし。その意味では軍隊とか警察とかの制服は丁度いいんだけど――」
「威圧感があるとさすがにまずいんじゃ?」
「そうなの」
己の額を人差し指で突きながらユフィンリーは言う。
「で――欲を言えばさ」
彼女はぐるりと一同を見回した。
「うちは若手ばっかりでしょ? これで何て言うか重厚な格好させても、むしろ似合わないと思うのよね。むしろ何て言うか――アイドルみたいな……うーん。違うかな」
「アイドル――ですか?」
「そう。若者の間で話題になりそうな。口コミって大きいからね」
「……成る程」
「別にワリフリヒラヒラ付けたり、金ラメだの銀ラメだの入れたりして派手にしろって意味じゃなくてね。例えば何処かの学校の制服みたいに……それこそ『あんな制服着てみたい!』って理由でうちの事務所の面接試験受けに来る子が出る様な。着ている事に一種の矜持を持てる様な、格好良さが在ったらいいかなって」
そこまで言って――さすがのユフィンリーも要求が無茶である事に気付いたのだろう。
苦笑を浮かべながらプリネシカを振り返る。
「まあそこまで突き詰めなくてもいい――」
そこでユフィンリーは言葉に詰まった。
「…………」
プリネシカは黙々と手を動かしていた。
いつの間にかその傍らには数枚の『書き損じ』が積まれている。それらはどれも絵としてはそれなりの完成度を持っていた。ただ――プリネシカが『要望に合わない』と判断して破棄したデザインなのだった。
「…………」
今度は一同が顔を見合わせる番だった。
ただペルセルテだけがまるで自分の事の様に得意げな様子でプリネシカの隣に立っている。そしてプリネシカがまた一枚絵を破棄すると、待ち構えていたかの様に新しい白紙を妹の前に差し出すのだ。
そして――
「……ええと。他には?」
プリネシカが顔を上げて尋ねてくる。
一同は黙って首を振った。
「それじゃ――やってみます」
プリネシカは言った。
どうやら今までのは『肩慣らし』でしかなかったらしい。
そこから先は――誰もが固唾を呑んで銀髪の少女の作業を見守っていた。
迷い無くペンが紙面を滑ってゆく。
黒い線が少しずつ形を描き出してゆく。
白い虚無に幾つもの面が切り出される。それが更に別の線によって次々と繋がって行き立体を描き出す。たった一方向から見ている筈の絵が――しかし細かな線のうねりによって、別角度からの図さえ容易く想像出来る様な、立体感と現実昧を帯びていく。
しゅっ。しゅっ。 しゅっ。
鉛筆が紙面の上を滑る音だけが事務所に響く。
やがて――
「…………こんな……感じ?」
呟きながらプリネシカは手を止める。
誰も何も言わない。
重苦しい程の沈黙の中でプリネシカはほんの少し首を傾げ――そして最後に線を三本ほど描き足した。
「出来ました」
完成したらしい。
だが全員がやはり無言だった。
「あ……あの……?」
まるで憑き物が落ちたかの様に、不安げにプリネシカは一同を見回す。
だがツゲ事務所の面々は彼女の様子などまるで気にした風も無く――ただじっと魅入られたかの様に絵を見つめている。
そして――
「――やるなぁ」
最初に――溜め息の様な声で感想を漏らしたのはレンバルトだった。
次にその隣でフォロンが何度も頷く。
プリネシカが描いたのは――驚いた事に全員分の衣装だった。
ユフィンリー。フォロン。レンバルト。ペルセルテ。プリネシカ。
そしてコーティカルテも。
明らかにそれと判る人物が、それぞれ微妙に仕立ての異なる制服を着ている。基本的な意匠は全部同じなのだが、アレンジがそれぞれに異なるのだ。それらはほんの僅かな『部品』の変更でしかないのだが、着る者の容姿や性格に対して実によく馴染んでいた。
しかもその場に在った色鉛筆で簡単な彩色までされている。
基本は白系のジャケットである。
黒いインナーシャツと組み合わせる事で清潔感を出すと同時に、引き締まった機能的な印象を見る者に与える。更に要所要所にファスナーや金属パーツらしき部品が配されており、独特の雰囲気を創り上げていた。
誰もが思った事だろう――まさかここまでとは。
「……あ。色ですけれど……」
おずおずとした口調でプリネシカは付け加える様に言った。
「実際にはややベージュに寄った色を想定しています。完全な白は鮮やかですけど、むしろ眼に痛いというか……それに実用性を考えると、汚れが目立ちますし……」
「――よしッ!!」
ぱんっ――と右の拳を左の掌に叩き付けてユフィンリーが言った。
ぴくりとプリネシカが身を震わせる。
「レンバルト! これ持ってプリネシカといっしょに、イシダ衣装に直行!!」
「あい――了解!」
「え? あ――あのこれは未だ試しに描いてみただけで――」
「充分っ!! 型紙起こすのに判らない部分はその場で説明っ!! 生地の選定も任す! 多少高くついても構わないから! 革でも可ッ!!」
「で……でもでも」
「とりあえず全員分、一着ずつ! 可能な限り早急に! 近日中に追加注文を確約するって言っといて! それから……」
「いや……でも……いいんですか本当に……?」
狼狽えるプリネシカ。
まあ――彼女にしてみれば相手の要望を聞きながらちゃちゃっと走り描きした絵を基に、いきなり制服を発注すると言われれば、戸惑うのも当然である。恐らくまだまだ何度も意見交換をしながらデザインを修正していく積もりだったのだろう。
「大丈夫。本当に――恰好良いよ」
フォロンが笑顔で保証する。
「でも……」
「即断即決はうちの売り。行くぞ!」
レンバルトがポケットから彼の愛車――〈シンクラヴィス〉の鍵を取り出しながら言う。
その時……
不意に電話が鳴った。
三台置かれた電話機の――たった一台。
それはユフィンリーの席に置かれた電話機であった。つまり事務所に対して掛けられた電話ではなく、ツゲ・ユフィンリー所長への直通電話であるという事だ。
素早く伸びた手が受話器を上げる。
「はい――ツゲ・ユフィンリーです」
席を立って出かける準備を始めていたレンバルトも、その場で立ち止まって様子を窺っている。急ぎの仕事である可能性を考慮しているのだろう。
「お世話になっております……はい。ええ。はい。いえいえ」
……どうやら友人や家族が相手ではなさそうだ。
しかし或る程度は親しい人物の様だった。言葉遣いは丁寧なままなのだが、ユフィンリーの声には世間話をしているかの様な気安さが在る。
しかし……
「え……?」
それが唐突に――変わった。
「うちに――ですか!?」
驚愕がユフィンリーの声に滲むのを聞いて一同は直感した。
大きな仕事だ。
「はい。はい。ええ。では打合せは――はい。はい。判りました。はい」
電話の時間そのものは二分余りだった。
その間――ユフィンリーはたまに簡単な質問を相手に投げるだけで、それ以外はずっと『はい』という返事を繰り返していた。
そうして彼女は受話器を置く。
置いて――
「…………」
その姿勢のままユフィンリーは電話機を睨んで動かない。
「所長……?」
レンバルトが恐る恐る尋ねる。
「どうしましょう? 俺――イシダ衣装に行っちゃっていいですか?」
「…………」
だが彼女は応えない。
ただその肩が小刻みに震えている。
「…………」
フォロン達は顔を見合わせた。
そして――
「……ふっ……ふふっ……ふふふふふっ……」
漏れてくる低い笑い声。
それは次第に熱を帯び――狂おしい響きを帯びて。
「ふふふ……うふふふふふ……ふふ…………あーっはっはっは!! はは! あははは! あはははははははははははははッ!!」
弾けた。
反っくり返って天井を振り仰ぐ様な大笑いである。
「所長が壊れた……?」
呟くレンバルト。
だが――
「ざまーみろジジババ共ッ! 来た! 来た来た来た来た来たッ!! 何たる――なぁんたるタイミングッ! 天は我々に味方した!!」
「…………」
全員が――コーティカルテですらも――怯えた様にそれぞれ数歩分後ずさる。
狂気にも通じる喜悦の気配が彼女の全身から迸っていたからだ。
だが彼女はそんな部下達の反応に気付いているのかいないのか――事務所内の全員を見回してから大声で宣った。
「レンバルト!」
「は――はいっ!」
「何してんの――とっとと行っといで! 来週の土曜には納品! それが出来ないなら余所に振るって言ってきなさい!」
「いやそれはいくらなんでも無茶――」
「復唱ッ!!」
「……ら、来週の土曜日には納品ッ! 不可能なら余所に発注ッ!!」
「よし! 行けッ! プリネも!!」
「は……はい……!」
「はいっ!」
弾かれた様にあたふたと事務所を出て行くレンバルトとプリネシカ。
でもって――
「フォロン!」
「は……はい!」
「スケジュール調整! 来週の日曜日は全員、何の仕事も入れないこと!」
「は……いや、えっと……キリヤマ電器さんの改装の手伝いが入ってますけど……」
「前か後ろにズラしてもらうように連絡して! 何だったら違約割り引き可! 必要なら私からも後で謝罪の電話入れるッ!」
「はい……!」
「ペルセ! 兄貴に電話して! この時間だったらホムラ建築かトツメ産業を回ってる筈だからッ!! 何としてでも一時間以内に捕まえて!」
「あ……はい!」
これまた慌てて電話の受話器を掴むフォロンとペルセルテ。
一瞬にして事務所内は慌ただしい空気に満ちた。
ひとしきり指示を出し終えたユフィンリーは自分の席に腰を下ろして腕を組み――再び不気味な笑い声を上げ始めた。
「ふふふふふふふふふふふ……ふははははははははははは」
「…………」
所員ではないという事で、ただ一人ユフィンリーという名の暴風に巻き込まれずに済んだコーティカルテは、呆れた様に天才と呼ばれた女性神曲楽士を眺めている。
「見てなさいよ――『老人組合』のジジババ共。最近の若造を怒らせるとどうなるか――たっぷりと正攻法で教育してやるわよ」
無論――
空中を睨み据えながら、色々な意味で危険な台詞を宣うユフィンリーに、フォロンやペルセルテは突っ込む余裕など在る筈も無く……コーティカルテもただ苦笑して肩を竦めただけだった。
ACT2 THE CHASE
高く鋭く晴れ渡る冬の空に、巨鯨の様な雲が幾つも遊弋していた。
快晴である。
冷たく乾いた空気は光と音を歪み無く綺麗に通す。故に雲の下をゆったりと旋回する影とそれに伴う轟音もくっきりとした輪郭で地上まで届いていた。
悠然と虚空を行く鋼鉄の飛行機械――ヘリコプターである。
新聞社や放送局の名前と紋章を付けたヘリコプターが何機も上空で待機している。流石に地上から見上げても詳細は判別がつかないが――恐らくヘリコプターの中では何台ものカメラがレンズを地上に向けている事だろう。
「うわ……すごいな。これは」
上空だけではない。
路肩には報道関係の大型車輌が何台も停車している。いずれの屋根にもレポーターやらカメラマンやらが陣取って準備万端といった有り様だ。歩道はといえば見物人で溢れかえっており――道路では何人もの警官達が交通整理に忙殺されている。周囲の建物の窓にはやはり見物人達が貼り付き、屋上やら歩道橋からは今にも野次馬達がぼろぼろとこぼれ落ちそうだった。
「まるでお祭りだね」
フォロンは狂騒とも言うべき状況に、感嘆の溜め息を漏らした。
彼が居るのは先日も訪れたお馴染みの場所――ニコン市のケセラテ自然公園である。更に細かく言えばその西口付近だ。
周辺には大量の人。人。人。人。人。
多数の警官と、その十倍の数の報道関係者と、更にその千倍の見物人が極めて狭い範囲にひしめいている。更には上空で延々と数機のヘリコプターが旋回を続けている。
フォロンは――その人の渦のど真ん中に居た。
公園西口の真正面に一台の輸送車が停車している。
一見すれば宅配便会社の中型トラックと大差無い。
ただし貨物部側面に描かれている社名は宅配便会社のものではなかった。
『オミテック』
それはオミテック工業の輸送車輌なのである。
フォロンは〈ハーメルン〉に跨がって輸送トラックの前に位置している。輸送が始まれば彼がトラックを先導する手筈になっていた。
一方輸送車の斜め後方には、一台のバギー車が停止していた。
レンバルトの〈シンクラヴィス〉だ。
バックミラーごしに覗くと、運転席に収まったレンバルトが見える。彼はこちらに気づいたのか――ニヤリと笑って片手を挙げてきた。
フォロンとしては見慣れた友人の姿であったが――それでも今日ばかりは印象が異なる。
出来上がったばかりの制服を着ているからだ。
薄い亜麻色ジャケット。黒いインナーシャツ。ジャケットのやや膨らませた肩と袖口には真鍮製の金属パーツがあしらわれて、独特の印象を醸し出している。腰から下はレンバルト個人の趣味で革のスラックスであった。
(――やっぱりよく似合ってるな)
とフォロンは思う。
かくいう彼も制服姿ではあった。ただし細部がレンバルトと異なる。ジャケットはほぼ同じだがフォロンのズボンはジーンズで――しかも自動二輪に乗る彼は腰や太股に幾つか小物入れをベルトで固定している。
レンバルトの様に何を着てもよく似合うと自惚れている訳ではないが、やはり皆で揃いの服を着て人前に出るのは――何かこう高揚感が在る。
更に――
「――フォロン」
後部座席のコーティカルテも何処か楽しげだ。
「注目度満点だな?」
「そうだね」
フォロンは苦笑で応える。
注目を浴びるのが不愉快だとは思わないが――まさか此処まで大勢の人間に注目される事になるとは思ってもみなかった。少々照れ臭い。しかも見物人の何割かは無遠慮にカメラのレンズをこちらに向けてくるし――何より報道関係者は当然とばかりにごっついテレビカメラを右に左にと動かし、望遠レンズでフォロン達を狙っている。
「格好いいからね――制服」
「うむ」
満足げに頷くコーティカルテも――なんと同じ制服を着用していた。
ただしこれはイシダ衣装が突貫で制作してくれたものではない。いつもの服装と同じく、彼女自身がプリネシカのデザインから勝手に『作った』ものだ。
基本的なデザインはユフィンリーやユギリ姉妹と同じだが――コーティカルテの制服には袖が無い。細く白い肩が剥き出しになっているのである。下は短いプリーツスカート。この組合せがまた――彼女をとても可愛らしく見せている。
何にせよコーティカルテの言う通り――そしてユフィンリーの計算通りこの制服が人目を惹いているのは事実の様だ。そしてそれはつまり、制服を着用しているフォロン達自身も周囲の視線を集めている事になる。
「……まだかな」
フォロンが呟いた時――
きゃあーっ!
黄色い歓声が後方から飛んでくる。
見ると――レンバルトが見物人の女の子達に手を振っている処だった。
「……あはははは」
苦笑を浮かべるフォロン。
殆ど芸能人扱いである。まあレンバルトは学生の頃から女子によくもてたので、慣れているのだろう。こういう場面でも堂々としている。し過ぎているというか――さすがに手を振るのは何かやり過ぎの様な気もしないではなかったが。
「……む」
何やら不機嫌そうにコーティカルテが声を漏らす。
「どうしたの?」
「――格好良いのも考え物か」
呟く様に彼女は言った。
そんな彼女の紅い瞳が見つめる先には――見物人の中にやはり少女達が数名かたまっていた。
「……あれ?」
コーティカルテの視線を追ったフォロンはその少女達に見覚えが在った。
フォロンの視線が自分達に向いた事に気付いたのだろう。少女達はぱっと表情を輝かせ、一際高く揃って歓声を上げた。
「フォロン先輩〜ッ!!」
「タタラ先生〜ッ!!」
「…………あ」
フォロンは真っ赤になる。
見覚えが在るのも当燃だ――彼女等はフォロンの後輩であり生徒である。
トルバス神曲学院の生徒達だ。ユギリ姉妹の同級生も居るし――基礎課程の生徒達も居る。卒業しプロになった後、何度かフォロンは学院からの要請で臨時講師として出向いた事があり、その時に授業に出ていた生徒達だ。
ちなみに専門課程の生徒達はユギリ姉妹が『フォロン先輩』といつも呼んでいるので、同じ様に名字ではなく『フォロン先輩』という呼称が定着してしまっている。
「えっと……」
フォロンは狼狽えながら救いを求める様にコーティカルテの方を見るが、彼女は不機嫌そうに少女達を睨んでいるだけだ。どうもこういう場面で役に立つ意見を聞けそうにない。
「…………」
何もしないのも手を振る少女達に悪い気がして――ちょっと控えめに手を振り返す。レンバルトの事を『やり過ぎ』などと言えた義理では全くないフォロンであった。
「……双子の金髪だけと思っていたがこれからはあの学院の生徒も要注意だな……」
ぶつぶつとコーティカルテは顔をしかめて呟いている。
だが――
「コーティカルテさーん!!」
少女達は続けて彼女の名も呼んで手を振ってくる。
「…………」
一瞬、気圧された様に眼を瞬かせて彼女らを見つめていたコーティカルテだが……
「コーティ」
苦笑混じりのフォロンに促されて『ふんっ』と鼻を鳴らす。
そして――
――おおおっ!?
少女達のみならず見物人が一斉に沸いた。
コーティカルテがその背に紅く複雑な線で構成された六枚の羽根を展開して見せたからだ。
これが生徒達に一番『受ける』のだという事を彼女も知っている。そして下心だの計算だのが絡まない素直な感情には、妙に弱いというか……素直ではないのだが、律儀に反応する処がこの上級精霊には在った。
「ありがとうね。コーティ」
フォロンは微笑した。
「――え?」
「なんて言うか……コーティが羽根を皆に見せてくれると、ちょっと誇らしかったりするんだよね。僕はこんな凄い精霊と契約できてるんだぞって。それだけで皆に自慢出来るみたいで。幼稚だとは思うんだけどさ……」
照れた様にフォロンは頬を掻く。
勿論――彼のその台詞は偽りも飾りも含まない率直なものだ。お世辞でも何でもなく彼はコーティカルテの存在を誇りに思っているのである。
だから――
「そ……そうか」
自分の膝元に視線をそらして呟く様に言うコーティカルテ。
「それは――……ああ……何というか。良かったな……」
「うん。だからありがとう」
朗らかに笑うフォロン。
「……いや……まあ……気にするな。それが、契約だ」
そう言い――まるで人間の乙女が恥じらうかの様に、緋色の髪の精霊は俯いて自分の両膝を握った。
――もし自分が軍人や警官ならびしりと敬礼の一つでも決めてみせるべき場面だろう。
だがツゲ・ユワィンリーは神曲楽士だ。
だから彼女は敬礼の代わりに小さく会釈してから、オミ・テディゴットのサインした書類を受け取った。
笑って見せるでもなく、手を振る訳でもなく、随分と地味な図ではあった筈だが――それでも巨大企業のトップと天才神曲楽士を囲んだ報道陣は、惜しげもなく大量のフラッシュを焚き、シャッターを切りまくった。テレビカメラの脇では興奮した様子のレポーターが何やらマイクに喋っているが、ユフィンリーの処までその内容は聞こえてこなかった。
ケセラテ自然公園内――パネルに囲まれた発掘現場の前だ。
向き合う二人を囲んで、報道陣と、その外側には大勢の作業員達がいる。オミ社長は作業員達と同じ作業服姿だったが――しかしユフィンリーは出来上がってきたばかりの制服を身に帯びていた。
フォロン達、男衆の制服との最大の違いは首元に下げた紅いネクタイである。これがワンポイントとなって元々は地味になりがちな配色の制服を目立たせている。また肩には竪琴をあしらったツゲ神曲楽士派遣事務所の紋章が入っていた。
(はいはい。じゃんじゃん撮ってね)
騒々しい程のシャッター音を聞きながらユフィンリーは内心でほくそ笑む。
報道されればされる程に事務所の宣伝になる。
そしてこの制服とそれを着こなす若い神曲楽士やその仲間達が、マスメディアに載れば話題にならない筈はないとユフィンリーは考えていた。
何しろ――
(うちのメンツは粒揃いだからね)
ユフィンリーの背後には彼女に付き従う様にして二人の少女が立っている。
これまた制服を着た『双子ちゃん』――ペルセルテとプリネシカだ。
ちなみにユフィンリーの制服がミニのタイトスカートなのに対して、ペルセルテは健康的な太股を露わにしたホットパンツ、プリネシカはフレアスカートという仕様になっている。
堂々と振る舞うユフィンリーとは対照的にどちらも緊張感漲る直立不動の体勢である。
「……恥ずかしい…………」
「しっ。もうじき終わるから」
そんな姉妹の囁きに内心で苦笑しながらユフィンリーは依頼書のサインを確認。
「確かに承りました」
改めて一礼すると再び大量のフラッシュの光とシャッターの音がユフィンリー達を押し包む。
挙げ句、報道陣から『すいません――ちょっとお二人並んでこちらを向いて頂けませんか』などと注文が入ったので、ユフィンリーとテデイゴットがわざとらしく握手なんぞ交わしてみせる一方、当然ながら同じフレーム内に入って撮影されている筈のペルセルテとプリネシカは益々緊張し赤面していた。
やがて――
「ではよろしく御願いします」
テデイゴットが示した先には一つの箱が置かれていた。
縦横二メートル程の金属製ケースである。色は鈍い銀色。補強の為に『×』字型の凹凸が六つの面全てに施されている。
色こそ違うが、メニス帝国陸軍が軍事機密を輸送する際に用いるケースと同じ仕様だとユフィンリーは聞かされていた。外装は精霊によって精錬された厚さ五センチの高張力合金によって出来ており、更にその内側には二重の対衝撃機構が組み込まれた三重構造になっている。真下で対戦車地雷が爆発しても中の卵は亀裂一つ入らないという代物だそうだ。
ただし六面全てに耐水塗料で描かれているのは陸軍の紋章ではなく『オミテック』の文字だ。
そして中身は――『コア』。
無論これは正式名称ではない。秘匿名称である。
実を言えばユフィンリーもこの仰々しい耐爆仕様のケースに何が納められているのかを知らない。オミテック社が発掘していた『遺跡』から出土したものには違いないが、それがどんな形をしていてどんな研究価値が在るのかさえ知らされていない。
だがそれは然したる問題ではなかった。
重要なのはツゲ神曲楽士派遣事務所が『コア』の護送を請け負う事そのものだ。
先週――制服のためのデザインが完成したその時、まるで狙い澄ましていたかの様にオミテックからの仕事の依頼があった。
それもオミテック社社長自らの業務委託である。
『ケセラテ自然公園の発掘現場から出土したものを、研究施設まで輸送する。ついては、輸送中の護衛をツゲ神曲楽士派遣事務所に依頼したい」
大企業からの――神曲公社経由ではなく名指しの直接依頼である。
これだけでも充分に実績にはなる。
しかも――オミテック社は研究施設でのしかるべき調査の後、その調査結果とともに出土品を大々的に発表する事を計画しているとか。どうやらそれは既存の価置観をも一変させかねない様な大発見であったらしい。
場合によっては……オミテック社は歴史に名を残すだろう。
大仕事だった。
そしてそれはツゲ事務所にとって願ってもない好機でもあった。
既にオミテックが『聖地』とも言うべきケセラテ自然公園で発掘作業を行っている事は話題になっている。
関係者以外立入禁止、現場の中心部は上空からの撮影をも拒む様にビニールシートが常に張られているという徹底振り、挙げ句に先日観測された光の柱――これはコーティカルテの仕業だとフォロンから聞いていたが――こうした諸々の事実から憶測が憶測を呼び、トルバスのみならずメニス帝国全国民の興味がケセラテ自然公園に集中しつつある。
ならばその成果たる発掘物の輸送が注目されない筈が無い。
では――むしろその輸送そのものを一つの催事として利用出来ないか。
ユフィンリーはそうオミテック社に提案した。
故意に――しかし当たり障りの無い程度の情報を漏洩させて、報道関係者を食い付かせるのである。これはオミテック社にとっても悪い話ではない。後々の公開に向けて世間の関心を高めていけば、オミテック社としても株価を含め発表時の様々な経済的効果を制御し易いからだ。
恐らくその輸送の様子は全国規模で報道されるに違いない。
そして目立つ制服を着て颯爽とこの護送任務をこなす若者達の姿はツゲ神曲楽士派遣事務所の名を全国的に知らしめる事になるだろう――業界のみならず一般人の間にすらも。
オミテック社はユフィンリーの提案に乗ってきた。
こうして――ユフィンリー達ツゲ神曲楽士事務所の面々は出来たばかりの制服を身に纏い問題の輸送日を迎える事となったのである。
正直言ってユフィンリーは名声そのものにあまり興味は無い。
既に彼女は業界では知らぬ者の居らぬ天才だし――普通に仲間達と事務所を経営して行くには今の状態でも特に不自由は無い。
だが彼女が見ているのは業界の未来だった。
一般市民に名が知られれば、公的な発言の機会も増える筈だ。
そしてその中で、旧態依然とした神曲楽士の傲慢を指摘し、彼女の信じる神曲楽士のあり方を……精霊達と共に市井の人々の力になる事こそ、神曲楽士の真の使命であるという考え方を説けば、あの年寄り達によっておかしな形に牛耳られている業界そのものに風穴を開ける事位は出来る筈なのだ。
だからこそユフィンリーはこの『お祭り騒ぎ』に乗じる事を決めた。
ある意味で敵も増えるだろう。
道化と彼女を嘲笑する者も居るだろう。
売名行為だと非難される事も在るだろう。
だが…………
「行きましょうか」
オミ社長の宣言で、自走式の輸送台がケースを乗せて、するりと前へ出る。
運転するのは、虎の頭をした筋骨隆々の大男である。
ラマオ枝族の精霊だ。
輸送台はどうやら彼自身の『力』を動力として動く精霊駆動車であるらしい。
打合せどおりペルセルテとプリネシカが二手に分かれ輸送台の両側に付く。もっともこれはさして意味のある動きではない。いかにも少女達がケースを護衛している様にも見えるが、ツゲ事務所が責任を持つのはあくまでケースを積んだ輸送車が走り出してからである。
まあ――単に見栄えの問題だ。
「……あ」
ふと思い立ったユフィンリーはラマオの精霊を振り返る。
精霊の視線が自分を向いた瞬間を見計らって、彼女は手と表情で合図を送った。自分の顔の左右で、それぞれの手で空気をつまみ上げる動作をしてから、その両手を顔の前に移動して見せたのである。
虎頭の精霊は察しの良い奴であったらしい。
すぐにユフィンリーの動作の意味を理解して楽しげに笑うと――虎そのものの顔が歯を剥く様はかなり迫力が在った――彼は太く長い腕を左左に伸ばした。
「きゃっ?」
「ひえっ!」
声を上げるのはユギリ姉妹である。
何の打合せも無く、制服の襟元を後ろから、獣人型精霊の大きな手でつまみ上げられたのだから驚いて当然だろう。だがじたばたと手足を動かす二人の少女を、精霊はあっさりと輸送ケースの上に座らせてしまった。
「あ、あの、あの!?」
「しよ、所長〜っ!?」
動転するユギリ姉妹に『頑張れ』とばかりに親指を立てて見せてから、彼女はテディゴットを振り返った。
「お待たせしました」
「思った以上に華やかになってきましたね」
テディゴットは笑いながら言った。
「では――」
移動が開始された。
ユフィンリーとテディゴットが先頭。その後ろにケースに双子を乗せた輸送台。更にその後ろを歩くのは作業員――の格好をしているが、その半数は実は警備員である。一行の周囲をちょろちょろと走り回るのは報道陣だ。
遊歩道に出ると――両脇には黄と黒のストライプのロープが張られ、その外側は見物人の姿で溢れかえっていた。彼等はユフィンリーやテディゴットの姿を見ると歓声を上げる。そしてそれはケースに腰掛けた美少女二人と虎の頭を持つ精霊の姿を見るに至って更に盛り上がりを見せた。
ちょっとしたパレードである。
ケースの上に座らされたペルセルテは、もうヤケクソ気味の笑みで観衆に手を振り、プリネシカの方も真っ赤な顔を伏せてはいるものの、やはり小さく手を振った。
一行は悠然と輸送トラックの待つ西口へと移動する。
そんな中――
「――ツゲ女史!」
突然……聞き慣れた声がした。
反射的に振り返ったユフィンリーは、張り渡されたロープの向こうに、あまり見たくない顔を見つける事になった。
白い二重顎を揺らしながら下品な嘲笑を浮かべる男。
ケスカナ・デヴリン。
いや――ケスカナだけではない。彼の周囲には公社の会議室でしか顔を合わす事の無い様な顔が、幾つも幾つも嫌らしい笑みを浮かべながら並んでいるではないか。
「巧くいくといいですなあ!」
聞えよがしにケスカナ・デヴリンが怒鳴る。
「これで失敗でもしようものなら、メニス中の恥さらしですからなあ!」
見物人達がざわめく。
早速面白い画が撮れると期待したのだろう――テレビカメラを担いだ連中がユフィンリーとケスカナ達を交互に撮影し始めた。
望む所である。
ユフィンリーはじっくり機を見計らって微笑した。
「ご心配なく」
悠然と彼女はケスカナの前を通り過ぎながら言った。
「最後に勝つのは、格好イイ方と決まってますから」
どっ――と見物人が爆笑し『年寄り連中』は渋面になる。
隣でもオミ社長が小さく噴き出していたが、ユフィンリーは気付かないふりをして歩き続ける。こういう場合は澄ましていた方が絵になる。
ゆったりと弧を描く遊歩道に沿って進む事およそ五分。
やがて前方に公園西口が見えてきた。
こちらに尾部を向けて停車しているのは、バギー車と中型トラックがそれぞれ一台ずつ。更にユフィンリーの位置からは見えないが、トラックの向こうには更に大型自動二輪が一台停車している筈だ。
〈シンクラヴィス〉と輸送車とそして〈ハーメルン〉である。
「三人とも出迎え用意」
歩きながらユフィンリーは胸元に差したピン・マイクに声をかける。
「ブツが到着するわよ」
『了解』
『了解』
『うむ』
応える声は耳に差したイヤホンから来た。ちなみにレンバルト、フォロン、そしてコーティカルテの順である。コーティカルテはツゲ事務所の所員ではないのでユフィンリーの指示に従う義理は無いのだが――今回ばかりは揃いの制服を着て所員らしく振る舞う事で、華を添えてくれているのだ。
ちなみにヤーディオは物質化していない状態でユフィンリーの側に居る。
これは彼を万が一の場合――即ちこの輸送任務が何者かによって襲撃などされた際、伏兵として使う為だ。
輸送台が輸送車の側で停止する。
既に制服姿の三人は輸送車の脇に並んでいた。
これにユフィンリーが加わってオミ社長を振り返ると、それは制服の四人の列になる。さらに虎の顔をした精霊にケースから降ろして貰ったユギリ姉妹が駆け寄って――これで全員集合である。
一列に並んだツゲ神曲楽士派遣事務所の面々を、オミ社長は目を細めて見渡す。
「では」
と社長。
「はい」
とユフィンリー。
フォロンとレンバルトが輸送車の貨物部を左右に開く。
輸送台の運転席から降りたラマオ枝族の精霊が、金属製の輸送ケースを軽々と抱えて、コンテナに運び込んだ。
先ずは床の留め金でケースを固定。更に四方の壁面から伸びたワイヤーで固定。固定が完全かどうか前後左右に力を加えてみて確認――異常無し。
作業を終えて貨物部を降りて来ると、虎頭の精霊は肉球のある親指を立てて見せた。
準備完了だ。
「いよいよ――積み込みが完了しました!!」
妙に滑舌の良い女性の声が聞こえてくる。
恐らくはどこかの局のレポーターだろう。
「ケセラテ自然公園の地下から出土したのは、果たして噂通り地下遺跡なのか!? オミテックの研究施設へ運ばれる『遺物』の正体は何なのか!? 全ての謎の解明は、この大輸送計画の成否にかかっています!!」
『大輸送計画』という言葉にツゲ事務所の面々は苦笑しつつ顔を見合わせる。
とはいえレポーターの感性を責める訳にもいくまい。実の所、『オミテックが歴史に残る様な何か凄いものを発掘したらしい』という噂が流れているだけで、彼等もろくな情報を持っていないのだ。
一般市民の関心が高まる中で報道しない訳にもいかないのだろうが――殆ど何も知らされないまま間を持たせようと思えば、誇大広告の様な言葉でも連ねて盛り上げるしかあるまい。
「今回この輸送計画の護衛を担当するのはツゲ神曲楽士派遣――」
レポーターの声に――エンジン音が被る。
轟くそれは輸送車から発せられていた。
「――なにっ!?」
振り返ったユフィンリーの足元から排気ガスが噴き上がる。
「誰が乗ってるの!?」
だがユフィンリーの問いに答える者は居ない。
輸送車の運転はオミテックの社員が担当する筈だった。
だが本来の運転手はテディゴットの傍らで呆然としている。あまりに突発的な状況に判断力が追いついていないのだろう。
誰もが思った事だろう。
まさか――こんなに堂々と!?
愕然とする一同を嘲笑うかの様に、一際高く高々と排気音を響かせて輸送車は走り出した。
「――ッ!!」
意外な事に――誰よりも早く動いたのは、のんびり屋のフォロンだった。
彼は咄嗟に輸送車の運転席に飛びついた。中から扉はロックされてはいたが――硝子は叩き割る事が出来る。左腕一本で輸送車のサイドミラーを掴みながら、フォロンは右手で腰のポーチから小型のレンチを取り出した。
同時に――彼の契約精霊も飛び出している。
ただしコーティカルテはフォロンを追うのではなく、ふわりと空中に舞い上がると、弧を描いて輸送車の正面に滑り込んだ。
出鼻をくじこうというのだろう。
緋色の髪の精霊は悠然と片手を掲げる。
その掌に絡み付くのは紅く細い稲妻だ。精霊雷――精霊の持つ『力』の最も純粋な形である。無論その威力の上限は精霊によっても異なるが、元々上位精霊であるコーティカルテにしてみれば、輸送車を一台停める程度は造作もない事だったろう。タイヤなりシャーシなりを破壊すれば良いだけだからだ。
しかし――
「…………!?」
一瞬――コーティカルテの表情に驚愕と苦痛の色が混じる。
そして彼女は大きくよろめいた。
「コーテイ!?」
今しも運転席横の硝子にレンチを振り下ろそうとしていたフォロンは、思ってもみなかった相捧の変調にその動きを止める。
運転席の者はその隙を見逃さなかった。
どん――と運転席の扉が蹴り開かれ、扉に打たれたフォロンは輸送車の前方へと跳ね飛ばされる。幸か不幸か……彼が転がったのはコーティカルテと、そして愛車〈ハーメルン〉の側であった。
「コーティ!?  コーティ!!」
地に伏した少女を抱き起こしながら叫ぶフォロン。
そこに――
「フォロン先輩――危ないッ!!」
ペルセルテの悲鳴じみた叫びが飛ぶ。
轟――と排気音を響かせながら走る輸送車。
中型とはいえ、充分に人間を押し潰し得る鋼鉄の車体がフォロン達に容赦なくのしかかる。
その瞬間――
「フォロンッ!!」
レンバルトの叫びと同時にふわりと紅い光が舞い上がった。
コーティカルテとフォロンとそして〈ハーメルン〉。
紅い精霊雷の力場で覆われた二人と一台は、辛うじて輸送車との激突を避け、緩やかな弧を描いて着地した。
「コーティ? どうしたの――コーティ?」
「大丈夫だ――」
顔をしかめつつもコーティカルテは言った。
「少し……そう……眩暈がしただけだ。大丈夫」
「眩暈――」
精霊が眩量を起こす?
一瞬そんな疑問がフォロンの脳裏を過ぎったが、状況が状況だけに彼はその事をあまり細かく追究はしなかった。
輸送車は更に轟々と排気音を響かせながら走り出す。
突っ込んでくる鋼鉄の凶器に見物人達が慌てて左右に退くのが見えた。
「やられた!」
ユフィンリーは怒鳴った。
(やりやがった――あの野郎ッ)
ケスカナ・デブリン。
あのいけ好かない神曲楽士が言っていたのはこの事だったのだ。
輸送車は猛然と道路に飛び出すと、制止しようと駆け寄ってきた警官達をかすめるようにして右折。車体を大きく傾け派手にタイヤを鳴らす程の勢いで、そのまま走り去ろうとしていた。
「なんという事でしょう!」
何処かで女性レポーターが叫んでいる。
「輸送車が奪われました! 輸送開始の寸前で、輸送車が奪われてしまいました!!」
見れば判る事をいちいち喚き散らすレポーターには、一言怒鳴ってやりたい気分であったが――とりあえずその前にユフィンリーにはやるべき事が在った。
「レンバルト!」
「はいよ!」
応えるサイキ・レンバルトは、すでに〈シンクラヴィス〉に飛び乗ってエンジンをかけている。助手席側のドアを開けっ放しにしているのは、ユフィンリーの為だ。
「ペルセ!・プリネ!」
〈シンクラヴィス〉に身を滑り込ませながらユフィンリーは双子を振り返った。
「あんた達は社長といっしょにいて!」
『はい!』
ユギリ姉妹が声を揃えて応じる。
「――ツゲ先生!?」
テディゴットは驚きの表情でユフィンリー達を見つめている。
彼は察しているのだろう――この若い神曲楽士達が何をしようとしているのか。
だがユフィンリーは周囲にひしめいている報道関係者に聞かせる意味でも、改めて声を張り上げた。
「大丈夫――必ず取り戻します!」
にっ――とユフィンリーは笑みを見せる。
焦っても慌ててもしょうがない。
やるべき事をやるだけだ。
いや――ものは考えようである。此処で輸送車を取り返して見せれば、単につつがなく輸送を終えるよりも遙かにツゲ神曲楽上派遣事務所の評判は高まるだろう。
だから……
「フォロン!」
彼もまたユフィンリーの考えを察しているのだろう。ツゲ事務所の若き神曲楽士は相棒と共に当然の如く〈ハーメルン〉に跨った処であった。
「格好イイとこ見せるわよ!」
「はいっ!」
頷いてフォロンはヘルメットを被る。
ユフィンリーも〈シンクラヴィス〉の扉を閉めながら――叫んだ。
「――出撃ッ!!」
タイヤの焼ける匂いを残して一台の自動二輪と一台のバギー車が飛び出していく。
その後ろ姿を――人々の歓声が叩く。
お祭りの始まりだった。
ルシャゼリウス市立高等学校は名門である。
トルバス中央大学への進学率が七割を超える高校など他に類を見ない。またその教育機関としての歴史は古く精暦七〇二年創立の『クザキ貴族学院』にまで遡る事が出来ると言われている。時代を超える程の長い伝統と、高い進学実績を兼ね備えた――文字通りに名門校なのである。
しかし一方で……あるいはだからこそ、その校則は非常に厳しいものでもあった。
例えば、欠席は病気や怪我、さらに三親等以内の肉親の不幸などの事情を除いて、一切認められない。無論、どちらの場合も何らかの証明書類を必要とする。そして書類に不備があったり、そもそも書類の提出がなされなかった場合には……容赦なく単位が削減されるのだ。
そう。
高校であるにもかかわらずルシャゼリウス市立高等学校は単位制なのである。
単位は出席日数や学業の成績、授業態度を含めた素行などを基に、複雑な計算のもとに算出される。そのため、ぎりぎりで進学可能と思っていたら全く単位が足りなかった、などといった悲劇も毎年、少なからず発生していた。
学業努力を怠ろうとする者はそもそも進級出来ない構造になっているのだ。
だからその日も――オミ・カティオムはいつも通りに登校した。
教務課に相談してみたが『父の会社で行われる発掘品の輸送を見に行きたい』という欠席理由は、思った通り認められなかったのだ。
無論……次の春には中退する予定の高校である。
その事については父とも先週きちんと話がついた。
だが――それとこれとはまた別問題だ。辞めるからと言って適当に流していい訳ではない。そんな事を父が許すわけがないし――何よりカティオム自身がそんないい加減な真似をしたくはなかった。
しかし――
「……え?」
学生食堂に入るなり眼に飛び込んできた光景に、彼は愕然と立ち尽くした。
輸送開始はきっかり正午の予定だった。
複数の局でテレビ中継される事も知っていた。
だから四時間めの授業を終えて食堂に直行すれば、そこのテレビで輸送が開始された直後の様子を観る事が出来る筈だったのだ。
だが……
『見えますでしょうか。何者かによって強奪された輸送車は、現在――』
食堂の四隅に設置されたモニターが映し出していたのは、思いもよらない場面だった。
見覚えのある輸送車が街路を暴走している。
信号を無視して。目茶苦茶な車線変更を繰り返して。合法非合法を問わず、およそ速く走る為には、考え得るありとあらゆる方法を用いて――ひたすら走り続けている。
その様子を真上から撮影した映像がテレビに流れているのである。
ヘリコプターからの空撮だろう。
「何だ……これ?」
思わず呟いたカティオムに応える様に画面の隅へテロップが現れた。
『輸送車強奪! 真昼の追跡!!』
「何だよ――それ!?」
愕然とするカティオム。
まさかいきなりこんな事になっているとは。
しかも――
『――現在、本来この輸送車の護衛を担当する筈であった、ツゲ神曲楽士派遣事務所の所員達が、強奪された輸送車を遣跡中で――』
アナウンスの言葉通り――輸送車から一〇〇メートルばかり離れて、これを追跡するものがあった。
大型自動二輪とバギー車だ。
画像は粗い。しかも画面が小刻みに揺れる上に距離が遠い。しかも角度は真上。だから乗っている人物が誰なのかはよく見えない。
だが見えなくてもカティオムには判った。
知っている人達だからだ。
こんな風になりたいと憧れた人達だからだ。
「大変だ……!」
反射的に身体が動いていた。
踵を返して食堂から飛び出す。廊下を走るのも単位削減の対象となる違反行為だが、カティオムは気にしなかった。
廊下に出た途端に――彼は何かにぶつかった。
「あっ……!」
顔を上げると背広を着た大柄な中年男性がカティオムを見下ろしている。
教務課の先生だった。
「あのっ……これは」
皆まで言うまでもなく、先生の表情に理解の色が広がる。恐らくカティオムが昨日欠席申請の相談に来た生徒だという事を思い出したのだろう。彼はちらりと食堂のテレビを一瞥してから――カティオムを見据えた。
「オミくん」
「はい」
「行きなさい。早退の手続は私がやっておきます」
その言葉を聞くやいなやカティオムは脱兎の如く駆け出した。
先生に礼を言い忘れていた事に気付いたのは校舎を飛び出してからだ。
そして――
「――カティ」
校門には一人の少女が彼を待っていた。
〈ハーメルン〉はただ大きなだけの自動二輪ではない。
排気量一一六三CC。空冷式並列二気筒エンジン。最高出力七〇馬力。
形状こそ長距離のツーリングに適したクルーザー・タイプであるが、その出力は非常に高く、直線での純然たる競走ならば、生半可なレーサー・タイプなど遙か後方に置き去りにし得る。
少なくとも取り扱い説明書の性能諸元を見る限りはそう読めたし――自動二輪の国際A級ライセンスを持っているペルセルテも、自動二輪としての〈ハーメルン〉の性能を高く評価していた。
だがフォロンがその性能を実感したのはこれが初めてだ。
普段はせいぜい現場への移動に使うだけで――真面目なフォロンは法定速度を守った安全運転を心掛けてきたからだ。
しかし……
「――くっ」
猛烈な加速感と身体に叩き付けられる風圧にフォロンは短く呻く。
今――〈ハーメルン〉の重く巨大な車体は、街を吹き抜ける烈風と化していた。
路面を吹き抜け、ビルの谷間を吹き抜け、先行する車両の間を次々と吹き抜けてゆく。
目標は逃走する輸送車一台。
〈ハーメルン〉の性能ならば程なくして追いつき前方に回り込む事も可能だろう。
呆気ないといえば呆気ない。
ただ……
「――変だ」
ヘグタ市の大通りを南下しつつ、フォロンは呟いた。
その声はヘルメットに内蔵されたマイクを通じて、後部座席の――驚くべき事にこの速度でも横座りしたままの――コーティカルテが耳に装着したイヤホンに届く。
『何がだ?』
応える精霊の声は同じく彼女の胸元のマイクからフォロンの被るヘルメットのスピーカーへと送られる。耳元で轟々と唸る風のせいでこの距離でも互いの肉声は届かないのである。
「どんどん奥まった方に向かってる」
ヘグタ市を南北に走る大通りは、やがてカエバ市に入る。
だがカエバ市は中央街区の中でもやや特殊な街である。
アロニア海に面したマナカダ市の開発に押される格好で、カエバ市には古い町並みがそのまま残っている。言うなればカエバ市は『開発の遅れた町』なのである。
当然――道路事情はあまり良くない。
大通りは途中で途切れて、車線のない対面通行になる。しかもその両側は古い宅地に挟まれており、道を一本逸れれば一方通行の連続なのだ。
更に言えば、将都高速環状線の高架周辺では、初めての人間が入り込めば二時間は脱出不能という笑い話がある程、複雑に循環した一方通行が待っている。
「二輪の方が圧倒的に有利なのに……」
わざわざそんな区域に入ろうとするのはおかしい。
まさかフォロン達が追ってきている事に気付いていない訳でもなかろう。
となると――
『捲く積もりか?』
「多分ね……」
相手は――意外と土地勘の在る人間なのかもしれない。
迷路の様な街並みも『正解』さえ知っていれば、それはむしろ、追っ手を捲く為の道具としても使い得る。
『では、離されないようにしなければな』
「うん」
フォロンは、右のグリップを回した。
「判ってる」
オーバー1リッターのエンジンが轟然と咆吼する。
その瞬間を待っていたかの様に、輸送車が強引に先行車輌――タンクローリーの前へと回り込んだ。接触事故寸前の危うい動きである。
当然タンクローリーは速度を落とさざるを得ない。
「――!」
加速と減速。
相対速度の関係で――飛び出そうとした〈ハーメルン〉の前に、タンクローリーの車体が急速に迫る。だが加速を始めた瞬間の〈ハーメルン〉は、これを満足に避けられる体勢に無い。
「くっ――」
フォロンは車体を傾けて回避を試みる。横滑りを起こしそうな車体を何とか押さえ付けながらタンクローリーの脇をすり抜け――
鋼鉄製の車体後端がまるで必殺の鈍器の様にフォロンの頭部へと迫る。
避けきれない。
だが――
『――むッ!』
紅い閃光が奔る。
フォロンの肩越しに放たれた精霊雷はほんの僅かだがタンクローリーの車体を削り取り、その結果として出来た空隙をフォロンの頭部は辛うじてすり抜けた。
「コーティ……助かったよ」
『気を抜くなッ』
叫ぶコーティカルテ。
頷いてフォロンは更に加速。
〈ハーメルン〉の周囲を流れ飛ぶ風景が更に勢いを増し、輸送車の尾部が一気に迫ってくる。
その時――
「――!?」
輸送車の車体が大きくぶれる。
いや――違う。
「しまった!」
フォロンは慚愧の叫びを上げた。
輸送車が左折したのだ。
それも方向指示器どころかブレーキ・ランプさえ点けずに――二軒の雑居ビルが並んだその隙間へ、無理矢理その車体を突っ込ませたのである。
道路脇に置かれていたゴミ箱が跳ね飛ばされ、更には車体に接触したビルの壁面からコンクリート片が飛び散る。大量の火花と粉塵を撒き散らしながら、輸送車は狭隘な空間へと逃げ込んでいった。
「くっ――!」
目一杯にブレーキ。同時にクラッチを握って車体を左へと倒す。
アンチロック・ブレーキである事が逆に疎ましかった。タイヤのグリップ力が慣性の法則に杭しきれず車体が横滑り――これをフォロンは強引に立て直しながら、いきなり左手を開いた。
クラッチ接続。
未だ斜めになったままの車体が、後輪を蹴り上げられたかの様な勢いで飛び出す。路面にゴムの焦げ跡を黒々と残しつつ〈ハーメルン〉も輸送車の潜り込んだ道路脇の路地に、突っ込んでいった。
路地に飛び込む寸前――バックミラーに猛烈な速度で通過していく〈シンクラヴィス〉の姿が見えた。
だがこれは別に曲がりきれなかったからではない。長い付き合いのフォロンはレンバルトが何を考えているか言葉を交わすまでもなく理解していた。
彼の予想を証する様に――
『フォロン』
ヘルメットの中に無線を介してレンバルトの声が響く。
「判ってる!」
見れば輸送車は路地を抜けつつある。『オミテック』の文字を配された車体は木造二階建て住宅の手前で右折する処だった。
「――西ッ!」
フォロンの指示に――
『応ッ!』
――レンバルトが応える。
相手が何処に向かっているにしろ――目的地がこの旧い住宅の建ち並んだ街区の中に在るとは思えない。だとしたら途中どの様な経路を辿るにせよ、最終的には必ずまた大きな通りに出る筈だ。
ならばフォロンが追跡しつつ輸送車の向かう方向を逐次伝えてやれば、レンバルトが先回りする事も不可能ではない筈だった。〈シンクラヴィス〉は決してレース向きの車体ではないが――その広い可動範囲を持つサスペンションと、大口径のスパイク・タイヤは、一般車輌とは別次元の走破性と機動性を生み出す。路肩だろうと階段だろうと構わず走り抜けられるバギー車ならば、先回りの為に選べる経路も一般車両よりも遙かに多い。
とはいえ……
『――まずいな』
ふと頭上を見上げながらコーティカルテが呟いた。
上空を何機ものヘリコプターが飛び過ぎていく。
だがその動きはばらばらだった。右往左往していると言っても良いだろう。上空のテレビ・カメラは輸送車を見失ってしまったらしい。
この街区は建物の高さに対してかなり道幅が狭い。路地なら尚更だ。その結果……処狭しと建てられた建物が、大量の死角を生み出すのだ。真上からならばともかく――少し斜めから見下ろすと建物の陰になつて視線が届かない場所は多い。
「僕らが何とかしなくちゃならない――って事だね」
木造家屋の手前でフォロンも輸送車を追って右折する。
五〇メートルばかり先の四つ辻で更に左折してゆく輸送車の尾灯が見えた。
「次は南!」
『判った!』
打てば響くかの様なレンバルトの声。
だが――
「……え!?」
一方通行の標識にしたがって左折したフォロンは――〈ハーメルン〉を急停止させた。
無い。
彼の視界の何処にも追っていた輸送車の姿が見当たらない。
消えてしまった。
「そんな!?」
前方の道は一〇〇メートル程先の四つ辻まで直進である。その手前に交差する道も二本ばかりある様だが、どちらも合流になっていて、左右へは進入禁止になっている。
無論、標識を無視して突っ込むことも不可能ではない。
だが、こんなところで対面からの車と鉢合わせしてしまったら、衝突は免れても身動きがとれなくなってしまう。
そんな危険をわざわざ冒すだろうか……?
「まさか――」
『フォロン!』
呼ばれて後部座席のコーティカルテを振り返る。
そこでフォロンは驚愕に凍り付いた。
その『まさか』だった。
後方を指すコーティカルテ。彼女の人差し指が示す先に輸送車が現れたのだ。右側の建物の陰から飛び出してきたのである。フォロン達は輸送車が隠れた路地を気付かずに素通りしてしまったらしい。
やはりあちらこちらの壁を車体で擦るのも構わず、輸送車は強引な動きでフォロン達に尾部を向けた。
「レンバルト! 北だ!」
『なにい!?』
「ごめん――やられた! 戻る気だ!」
『こン畜生……マジかッ!?』
その言葉だけでフォロンは状況を理解した。
どうやらレンバルトの〈シンクラヴィス〉は、簡単に回頭出来ない状況にあるらしい。一方通行の塊の様なこの街区では珍しい事ではない。強引に逆行する事も出来るが――他の車が来れば狭い道路では擦れ違う事も出来まい。
だがそれはフォロンも同じ事だった。
追いかけようにも相手は真後ろだ。しかもみるみる遠ざかってゆく。更に言えば切り返しを繰り返して方向転換するには、〈ハーメルン〉は大き過ぎる。また一方通行の連続するこのあたりで道を大回りしていては、確実に相手を見失う。
いや……今この瞬間にも見失いつつあるのだ。
全て相手の計算の内だろう。
してやられた。
だが――
「コーテイー!」
恐らく相手が読み違えている事が――計算に組み込み忘れている要素が在る。
フォロンが神曲楽士である事。
そして彼の背には常に緋色の髪の上位精霊が居る事だ。
『承知!』
唐突にふわりと車体が浮いた。
まるで見えない巨人の手が上から〈ハーメルン〉を掘み上げているかの様である。空中に浮かんだ大型自動二輪は一瞬にしてぐるりと百八十度方向転換。音も無く着地。そして接地した瞬間にはもうフォロンはアクセルを開いていた。
「ありがと!」
『礼はいい。急げ』
言われるまでもない。
どん――と爆音じみた音を立てて〈ハーメルン〉が急発進する。
輸送車を追って瞬く間に大通りに復帰。見れば輸送車は、赤信号の交差点に強引に突っ込み――そのまま直進していく処だった。
「……?」
おかしい。
本当に戻る積もりであるらしい。
だが元々の目的地がニコン市ならばこんな処まで追っ手を引っ張り回すのはあまりに無駄が多い。あと数分もすれば通報を受けた警察の車輌も追跡に加わってくるだろう。時間が経過すればする程に、強奪者側が不利になるのは眼に見えていた。
ならば目的地はルシャゼリウス市か?
あるいはイグロック市の方へ――
「……あ!」
そこで――気付いた。
「レンバルト! 高速――高速だ!!」
恐らく強奪者は高速道路の環状線に乗る積もりなのだ。
だが……
「レンバルト! レンバルト!!」
返事がない。
聞えてくるのは、砂が流れるかの様にざらざらとした雑音信号だけだ。
どうやら離れ過ぎたらしい。
元々フォロン達の装備している無線機は高出力のものではない。小型の――蓄電器と送受信機本体を収めたケースが掌の上に載ってしまう程度の代物だ。これを腰に装着してフォロン達は使用していた。
当然ながら通信可能距離は短い。
元々が民生用――ドライブ用あるいはツーリング用として販売されているものなのである。
〈ハーメルン〉と〈シンクラヴィス〉は輸送車の前後を挟んで移動する予定だった為、これ程に互いの距離が離れる状況を想定していなかったのだ。
「……コーテイ」
輸送車の尾部をひたと見据えながらフォロンは呟く様に言った。
この孤立無援の状況下で――フォロンはしかし奇妙に落ち着いていた。
「僕らだけだ」
『判っている』
バックミラーの中に動くものがあった。
コーティカルテがフォロンの肩越しに顔を出したのだ。
『お前と私だけだ』
「うん」
『――好都合だ』
言葉とは裏腹にコーティカルテの顔には笑みが浮かんでいる。
慰めでも諦めでもない。
猛獣が牙を剥くかの様な――不敵な程の笑顔だった。
『他の者と足並みを揃える必要は無い』
「うん」
『他の者を庇う必要も無い』
「うん」
『ならば――』
緋色の髪を風に乱しながらフォロンの契約精霊は言った。
『お前と私はこの上も無く無敵』
「……うん」
不思議と何の躊躇も抵抗も無くフォロンは頷いていた。
「そうだね」
前方の交差点の信号は未だ赤だ。
だが――
「行くよ」
『行け』
左手でクラッチ・レバーを握り込む。左の爪先でシフトを一段蹴り上げる。
クラッチを繋ぐと――〈ハーメルン〉は更に大きく加速した。
あるいは――校門に駆け付けていたのがシェルウートゥだけならば未だ理解出来た。
いつもの様にマンションでカティオムの帰宅を待っていた彼女が、テレビかラジオでこの事件を知る可能性は低くなかったし――知れば彼女は当然カティオムに報せようとするだろう。それも電話で連絡してくるのではなく、自分で直接報せに来るだろう。これも別に不思議な事ではない。
彼女はそういう精霊だからだ。
だが彼女の背後――校門の真正面に、見慣れた黒塗りの大型乗用車が停まっているという事態は全くの予想外だった。観る者に威圧感すら与えるセダン。それがただの乗用車ではなく父の使う社用車である事をカティオムは知っていた。
早く――とシェルウートゥに促され一緒に後部座席に乗り込む。
運転席にいたのは思った通りの人物が座っていた。
「キリナさん?」
父の運転手である。
毎朝この車でテディゴットを迎えに来るのでカティオムもよく知った相手だ。
「事情はご存知ですね?」
座席越しにキリナは言った。
「お父様から言いつかりました。現場にお連れします」
「現場?」
思わず聞き返した。
意味が判らなかったからだ。
だが――質問を口にした直後にカティオムは理解した。
キリナが言う『現場』とは発掘現場の事ではない。
「御父様から――御伝言がございます」
キリナは制帽を被り直してエンジンをかける。
いつもはテディゴットが社用に用いる専用車は――後部座席に彼の息子とその恋人を乗せて滑る様に発進した。実を言えばカティオムがこの車に乗るのは初めてだが……四輪で走っているとは思えない様な、まるで腹を地に擦り付けて這っているかの様な安定度である。これは車体の性能も在るだろうが――キリナの腕に依る処も大きいのだろう。
「本物の神曲楽士の仕事を見ておけ――とのことです」
「本物の……」
神曲楽士の――仕事。
精霊と共に歩む者達の生き様。
それは…
「…………」
膝の上に置いたカティオムの手の中に柔らかなものが滑り込んできた。
シェルウートゥの白く小さな掌だ。
傍らの彼女を振り返れば――澄み渡る夜色の瞳が真っ直ぐに少年を見つめている。
「……うん」
カティオムはしっかりと頷いて見せた。
輸送車は料金所の遮断機を躊躇いも無く粉砕して高速道路に侵入した。
けたたましく警報が鳴り料金所の係員が何事かを喚いている。
そんな中――
「すみませーんっ!!」
などと叫びながらフォロンの〈ハーメルン〉が続く。
貨物部に『オミテック』のロゴを描いた輸送車は、ゼブラ・ゾーンも殆ど無視して強引に本線へと合流していく。急ブレーキとクラクションの音が鳴り響き、驚いた車が何台か合流地点の周囲で速度を落とした。
それはつまり――
「――!」
あるいはこれも強奪者の計算の内か。
殆ど全速で突っ込むフォロンの前に、いきなり交通渋滞が発生した事になる。
「くっ!」
奥歯を噛み締めて動揺を押し殺し――一気にシフトを三段落とす。同時に後輪のブレーキを踏み込みつつ、瞬間的に彼は『隙間』を捜した。この相対速度では、相手は停まっているも同然――〈ハーメルン〉の横幅より大きな間隙さえ在れば、抜けきる事は出来る。
言うまでもなく極めて危険度は高い。
だがフォロンは尋常でない集中力でこれを制した。
二台めの後端と三台めの前端の間に自動二輪の鼻面を向けて、クラッチを繋ぐ。
背中をぶん殴られたかの様な衝撃――大排気量エンジンの強烈な加速である。
次の瞬間〈ハーメルン〉の車体は渋滞をすり抜けて本線に飛び出していた。
だがそれで終わりではない。
追い越し車線を――後続の車が突っ込んでくる!
「――ッ!!」
更にシフトを蹴り落としてアクセルを解放。
追突される直前で何とか〈ハーメルン〉は後続車を引き離した。
当然ながら背後からは悲鳴じみたブレーキングの音と、怒鳴りつける様なクラクションの音が投げ掛けられる。
「すいませんすいませんすいませんッ!!」
呪文の様に繰り返しそう叫びながらもフォロンは輸送車を追う。
尋常でない緊張感に心臓が破裂しそうだった。
だが……
「すいませんッ!!」
そう叫ぶフォロンの表情に恐怖の色は無い。
むしろ彼は無表情だった。
この極限とも言うべき状況下で、彼は集中しているのだ。意識を輸送車の追跡と〈ハーメルン〉の運転に向けて収束させる余りに、表情を浮かべている余裕が無いのである。緊張感を感じてはいても、フォロンは恐怖そのものを感じてはいない。むしろ強烈な集中力が生み出す感覚に――自分がまるで標的を追って飛ぶ一本の失になったかの様な感覚に、彼はある種の喜悦さえ覚えていた。
これがタタラ・フォロンという神曲楽士なのだ。
普段はおっとりのんびりしていて要領も良くない。気が弱く押しが弱く、何かと貧乏くじを引く事も多い。挙げ句――契約した精霊にこき使われたり振り回されていたりもする。
しかしそれは些末事だ。
この極限状況下で遺憾なく発揮される異常な集中力。
これは間違い無くタタラ・フォロンという青年の特異な才能だった。
もっとも本人にその自覚は無いのだが――
「……ペルセルテに感謝しなくちゃね」
呟くフォロン。
彼自身はどうもこのアクロバットじみた運転の成功を、ペルセルテが折を見て教授してくれていた運転技術のお陰であると考えているらしい。勿論それが活きているのは間違いないのだが――ペルセルテ本人が見れば、真っ青になって『それだけじゃ有り得ません』と首を振るだろう。
『フォロン』
ふと――肩越しにコーティカルテが腕を伸ばす。
彼女の指先は真っ直ぐに輸送車を指していた。
『いけるぞ』
いつの間にか前方が開けている。
将都高速の環状線――これはその名の通り、中央街区の輪郭をなぞるような格好で東西に長い楕円形を描く環状道路だ。朝夕は通勤ラッシュで混雑するものの……他の時間帯は比較的よく流れている。
そして今――時刻は正午過ぎ。
昼食時だ。まして曜日は日曜日。高遠道路よりも市街地の路肩や飲食店の駐車場が混雑する時間帯である。
既に車線変更を繰り返して車の列をすり抜ける必要は無くなっていた。しかも対向車線は中央分離帯の向こう側に隔離されている。対向車に気を使う必要も無い。
あとはただひたすらに追い縋るのみ。
「コーティ」
『うむ』
フォロンの腰に回されていた細い腕がするりと解ける。
バックミラーの中では……自分の肩越しに、コーティカルテのプリーツ・スカートが風を受けて激しく翻るのが見えた。
彼女が後部座席の上に立ち上がったのだ。
『行ってくる』
とん――と信じられない程に軽い震動は、コーティカルテの跳躍だ。
だが軽々とフォロンの頭上を飛び越えた精霊の少女は、その放物線の頂点を過ぎても下降線に移行しなかった。その小柄な体躯は物理法則を無視したかの様に、宙を滑って輸送車に接近していく。
軽業は精霊の得意分野である。
ましてコーティカルテならば輸送車の運転席の屋根に取り付いて穴を開ける事も――それどころか一時的に物質化を解除して屋根をすり抜け、運転席に侵入する事も可能だ。
ただ……
『むっ…………?』
コーティカルテが輸送車の貨物部の上に降り立つ。
だが彼女は何故か一瞬、怪訝の表情を浮かべて自分の足元を見た。
「コーテイ?」
相棒の反応にフォロンも怪訝の表情を浮かべる。
その時――
『!!――フォロン!』
ぼん――と音を立てて輸送車の後部が煙を噴いた。
貨物部の後端、両開きの鉄扉を支える蝶番部分四ヵ所……それが一斉に。
『避けろッ!!』
コーティカルテの声がヘルメットの内側に響く。
何が起きたのか理解しないまま――ただ彼女の言葉に従い、フォロンは体重を左に寄せて〈ハーメルン〉を横滑りさせた。
彼のすぐ傍らを何かがすり抜けていったのは次の瞬間だった。
がっ……ががんっ……ごんっ…………がんっ………………!
破壊的に重く硬い音を立てて遙か後方に転がり去っていくのは、輸送車から千切れ飛んだ鉄扉である。恐らくは蝶番ごと火薬か何かで吹っ飛ばしたのだ。
ただでさえ重量の在るそれは、この速度下では文字通りに必殺の凶器となる。まともに喰らっていたらフォロンは〈ハーメルン〉ごと吹っ飛んで即死だったろう。
路上を跳ね転がる鉄扉を避け損ねたのか……後続の車が何台か派手な衝突音をたてて急停車するのが見えた。とりあえず爆発炎上したりする様子は無いが――あの様子では死者が出ていても不思議は無い。
「なんてことを……」
フォロンは呻く様に呟いた。
『フォロン』
ヘルメットの中にコーティカルテからの通信が入る。
『大丈夫か!?』
輸送車は貨物部から煙を噴いている。
そのせいでコーティカルテの側からはフォロンの姿が視認しにくいのだろう。運転に不安を感じる程のものではないが――フォロンの側からも一部の視界が遮られて輸送車そのものの輪郭は煙の向こうで曖昧に揺れていた。
「大丈夫! そっちは!?」
『…………ちと厄介な状況だな』
期待していたのとは異なる言葉だった。
同時に風が白煙を吹き千切り――視界が急速に晴れていく。
フォロンはヘルメットのバイザーをドライビング・グローブの甲で軽く拭った。
そして――
「なっ……!?」
輸送車の上には片膝をついているコーティカルテの姿が見える。
それはいい。
輸送車の貨物部後端は鉄扉を失ってぽっかりと四角い穴を晒している。
これもいい。
間題は――
「……なんで?」
その穴の縁に二つの人影が立っていた事だ。
どういう事なのか……?
輸送用の耐爆ケースを積み込んだ際には誰も乗っていなかった。またあの輸送車は運転席から貨物部に移動できる構造にはなっていない。
無論……有り得ないとまでは言えない。その人影が精霊ならば運転席側から鉄壁を通り抜けて貨物部に入り込む事も不可能ではないだろう。
しかし……
『フォロン――気をつけろ』
注意を促すコーティカルテの声は――しかしどこか楽しげだ。
『少しばかり面倒な事になりそうだぞ?』
「…………そうだね」
輸送車に接近しながらフォロンは言った。
彼我の距離が詰まるにつれて人影の詳細が露わになる。
それは黒い背広姿の――男二人だった。
向かって左は細身の長身。向かって右側は小太りの短躯。
まるで絵に描いた様なデコボコ二人組である。
だがフォロンにはそれを面白がる余裕は無かった。
二人組が手にしているものを見たからである。
いずれの手にも金属光沢を放つ小道具が握られている。銃ではない。剣でもない。そもそもそれ自体は武器ですらない。単体では威嚇の道具にもなりはしない。
楽器である。
長身の方がサキソフォン。小男の方がトランペット。
そして何よりも問題は――それらの楽器から金属製のアームが伸びており、それぞれの背中へと回り込んでいる事である。いやそれどころか更に背後から別のアームが伸びてきて制御用の操作卓を、表示装置を、そしてスピーカーを男達の周囲に展開させている。
単身楽団――!
フォロンは二人の男達がにたりと笑った様に思った。
そして揃いの動作で彼等は黒いマウスピースを口元へと運ぶ。
――るううううううううううううううううううううううううううううううぁッ!
――ふぉぉぉぉおおおおおおおおおおおッ! ふぁおぅッ! ふぁおぅッ!
二つの管楽器が振れた旋律を高々と噴き上げる。
轟々と唸る高速道路の風を貫いて、それは冬の空に広がった。
呼んでいる。喚んでいる。
『力在るもの』を。
「知性ある何かを」を。
そして――!
『……来た』
コーティカルテが呟く。
空間を薙ぐ閃光。
輸送車の上にコーティカルテと向かい合う様にして――二桂の精霊が立っていた。
遠くから幾つものサイレンが響いて来る。
音の種類から判じる限り警察車輌だけではない。救急車や消防車も数多く混じっている様だった。
「……事故が起きている様だね」
ええ――と応えるのは運転手である。
キリナ程ではないが、テディゴットが信頼を置いている運転手だ。
キリナが運転するいつもの社用車は、カティオムを迎えに学校へやらせた。これは二台目の公用車だ。主に賓客の送迎や式典に参加する際に用いるもので――わざわざ本社から呼び寄せたのである。
「来るまでにも何度か交通規制に引っ掛かりました。オミテックの社証を見せると素直に通してくれましたが」
この車を呼び寄せたのは『現場』に居合わせる為だ。
ゆったりと前後に長い車体は追跡劇には向かないが――元々その積もりは無い。状況の推移が気がかりではあるが、自分に直接何かが出来ると思う程、テディゴットは倣慢ではなかった。
ただどういう結果に落ち着くにせよ――終わった時にはその場に居たかったのだ。
今回の発掘物は単なる出土品ではない。
詳細な分析に掛けなければ確固たる事は言えない。だがあの『コア』はオミテック社どころか――事によると人類と精霊の未来まで変えかねない可能性を持っている。少なくともテディゴットは研究者達からそう聞いていた。
「…………」
ふとテディゴットは傍らを振り返る。
賓客の送迎を想定した車である為に、その車内は社用車よりも更に広い。お陰でテディゴットの他にツゲ事務所の可愛らしい双子が乗り込んでも、随分と空問的に余裕が在った。
だが……ユギリ姉妹はまるで猫の子の様に身を寄せ合って、テレビを見ている。
「…………」
「…………」
二人は無言。
音声は絞ってある上に車載用とあって、前席の背面に埋め込まれたテレビの画面は随分と小さいが――それでも流れる映像を見ているだけで、充分に状況は把握出来る。
「環状に入った様だね」
「判りました」
テディゴットの言葉に応えて運転手が大きくハンドルを回す。
黒く長い車体が悠然と――しかし必要最小限の半径で方向転換して交差点を右折した。
画面には高速道路を見下ろす光景が映っている。画面が大きく回り込んでいく事からすれば、ヘリコプターからの空撮映像だろう。
この時間帯――交通量は控えめだ。お陰で粒子の粗い望遠撮影の画面でも目標を見つけ出しやすい。
問題の輸送車は次々と先行車輌を追い抜いて走っていく。
その背後に追い縋るのは――一台の自動二輪だ。
比較的交通量が少ないといっても、高速で行われる逃走と追走はそれだけでも恐ろしく危険である。まして長距離輸送用の大型車の姿が目立つ高速道路上では、大型とはいえその自動二輪の姿はひどく弱々しく見えた。
時速八十キロを超える平均速度では、ちょっとした接触ですら文字通りに致命的だ。
見ると――テディゴットの隣に座る二人の少女は互いに手を取り合って食い入る様に画面を見つめている。
その真摯な眼差しに――オミテックの社長は微笑を浮かべた。
「ユギリさんご姉妹――でしたね」
声を掛けると少女達は二人同時に振り返った。
しかも――
『――え?』
と漏らす声も同時。
『あ――はい』
と返事も同時。
本当に仲の良い姉妹なのだろう。
微笑ましい気持ちになりながらテディゴットは言った。
「お二人には、もっと早くお会いしたかったんですが……随分と、ご挨拶とお礼が遅れました。ご容赦ください」
「はい……え?」
金髪の少女――確かペルセルテという名前だった筈だ――がきょとんとした表情を浮かべる。プリネシカという名の銀髪の妹も、不思議そうに瞬きを繰り返していた。
「息子がいつも、お世話になっているそうで」
彼女等は息子と同じマンションに住んでいる――とテディゴットは聞いていた。
実の所、どうもこの姉妹とは初対面という気がしない。
カティオムからの手紙には頻繁に彼女達の事が登場するからだ。親しい間柄だというのは間違いが無い。あまりにしばしば彼女らの事が書いてあるので、テディゴットは息子がどちらかに――あるいは両方に恋愛感惰を抱いているのだと思っていた。
だがそうではなかった。
ユギリ姉妹には好きな青年がいるという。
しかも彼女達は、裕福な家庭の子女であるにもかかわらず、当時まだ学生だったその青年と同じ通学路で学校に通うためだけに、寮生活を選んだというのだ。現在、双子がマンション住まいなのは、その青年が卒業してしまった為らしい。
今時……珍しい一途さである。
その意味ではカティオムが別の相手を選んだのは正解と言えるだろう。もし彼が彼女達に想いを寄せていたとしても――そこまで徹底的な思慕の情に割り込む余地など無かったであろうから。
「ああ、いえ――その。とんでもないです」
ペルセルテが顔の前で何度も手を振る。
「私達の方こそ、カティ……カティオムくんには、仲良くしてもらってまして、ええと、こちらこそお世語様です」
その必死な様子がまた微笑ましく――テディゴットは益々相好を崩した。
「シェルウートゥさんとの時も、随分とご尽力いただいたと聞いてますよ」
カティオムからだけではない。警察からもだ。
もう少しでオミテックは営利誘拐の標的となる処だったのだ。
ルシャゼリウス市やソゴ市、ニコン市は比較的治安が良いという事もあって……テディゴットにも息子の安全に対して油断が在った。
「いえ……私達は、あんまり」
そう言って金髪の少女は画面を指した。
「頑張ってくれたのはフォロン先輩です!」
そう言うペルセルテの表情には誇らしげな色が在る。
タタラ・フォロン。
彼はカティオムが神曲楽士を目指す事を決めた理由の一つだ。最大のものは言うまでもなくシェルウートゥの存在だろう。だがその若い神曲楽士への憧憬がカティオムの中に在ったのは間違いが無い。
小型テレビの画面では……まさにそのフォロンの運転する自動二輪の後部座席で、彼の契約精霊であるコーティカルテが立ち上がるところだった。
脚を揃えて――真っ直ぐに。
「……成る程」
テディゴットは呟く。
フォロンの表惰はヘルメットの奥に在って見えない。
コーティカルテの表情も距離や負度の関係で見えない。
だが――人間や精霊の内面は、ただ顔に表れるだけではない事をテディゴットは知っている。
自動二輪を駆る人間の青年と。
悠然と立つ精霊の少女と。
共にその姿からは微塵の不安も窺えない。一歩間違えば死が待つ――それも自分の些細な失敗が相棒まで巻き込みかねない様な――そんな状況下に在りながら、両者はしかし怯みも怖れも示してはいない。互いへの信頼が無ければとても有り得ぬ姿だった。
(……カティ)
胸中でテディゴットは呟く。
(しっかりと見ておきなさい)
画面の中で緋色の髪の精霊が跳躍した。
高速走行中の――危険極まりない軽業である。
「あ――っ!」
ペルセルテが声を上げる。
だがそれは悲鳴ではなく歓声だ。
「いっけえ! やっちゃえ!」
姉が声を上げるのと同時に銀髪の妹も小さく励ます様に頷く。
その時――
「あっ!?」
突然……輸送車の後部から鉄扉が吹っ飛んだ。
何度も高速道路の路面で跳ねつつ、殺人的な速度で転がってくるそれを間一髪でフォロンが避けた。だが鉄扉はそのまま転がり続け、後続の車に食い込む――
「ひっどい!!」
怒りの声をペルセルテが上げる。
鉄扉の一撃を食らって制御を失い、高速道路の中央分離帯に乗り上げて横転する車の姿が映っている。他の車も何台かその事故に巻き込まれ、対向車線でも恐慌状態に陥った何台かが急ブレーキを掛けた結果、衝突事故を起こしていた。
大惨事である。
「高遠に入ります」
事故など知らぬかの様な淡々とした口調で運転手が宣言する。
細長い公用車の車体が斜路に入って上を向いた。
「見て……!」
銀髪の妹――プリネシカが言う。
その白い指が指し示す画面にとんでもないものが映っていた。
貨物部の屋根に描かれた『オミテック』の文字――これを踏みしめて立つ二つの大きな影が映っているのだ。それはテディゴットが今まで見てきた如何なる生物とも異なる奇怪な輪郭を晒していた。
「なんだ……これは?」
思わず漏らした彼の言葉に応えたのは――銀髪の少女だった。
「精霊です」
それも――異形の。
精霊の定義に関しては色々な学説が在る。
実の所人間はこの『隣人』達に対して呆れる程に無知である。元より人間側の科学が、未だこの不可想議な存在を解析し得るだけの段階に達していない事も在るが……精霊達の方もあまり細かい事を人間側に教えたがっていない様な節が在る。
まるで――真実が両者の関係に亀裂を入れると怖れているかの様に。
何にしても、精霊に関する研究というのは未だ机上の空論でしかないものが多く、その定義――その発生過程から存在特性に関しても、細かな学説が幾つも入り乱れている。
だがそれら諸説の中でも大まかに共通している部分も在った。
精霊とはエネルギー生命体である――という見解だ。
物理的な実体を持たない『思考する力場』。
その姿は本来、人間の眼には見えず触れる事も出来ない。
しかし精霊は人間との共存を選択し――その為の手段として膨大なエネルギーを高密度に圧縮して物質に擬態する術を得た。
これが実体化である。
故にその姿を決定するのは生物学的必然ではなく精霊自身の意志と性質だ。
逆に言えば、似た性質を持つ精霊ならば自然と似た形状を採る事になる。この類似牲を持つ個体群を便宜的に『枝族』と呼ぶ。
枝族は肉体を持つ生物の様な進化を経たものではない。
だが存在の必然が不適切な形態を排除したという意味では、生物の進化と同様の試行錯誤が生み出した集合体とも言える。
事実――ノザムカスル大学精霊学科の研究者達によれば、この枝族を形成する過程で精霊である事を放棄してしまった集団さえ、理論上は考え得るそうだ。例えば生物の進化の過程で、その本来の機構である繁殖能力さえ失い、他の生物の機構無しには存続し得ない種――濾過性病原体の様に。
何にせよ……
「あれは……」
精霊の持つ『心』の宥り様は精霊自身の姿形へ如実に反映される。
ならば――あの輸送車の上に現れた二柱の精霊は一体どんな『心』の持ち主なのか。
端的に言えばそれは『異形』だ。
無論全ての精霊がコーティカルテやシェルウートゥの様に人間と変わらない姿をしている訳ではない。むしろそれは精霊全体の数から見れば少数派だ。
またそれぞれの枝族はその形状に類似する傾向を有するが――必ずしもその形状は単一ではない。『枝』族と呼ばれる所以だ。
例えばセイロウの枝族の場合……ベルストという学術用語で括られる一群は巨大な狼に酷似した姿を持つ一方、同じ枝族のフマヌビックと呼ばれる一群は、羽根さえ展開しなければ見分けがつかない程に人間とよく似た形状をとる。そしてこの二つを両極端として近似の性向を持つ個体群をまとめてセイロウの枝族と呼ぶのだ。
故にベルストとフマヌビックの中間形態――つまり半獣半人の姿を採る精霊も居る。先の虎頭の精霊などがその典型例だ。
精霊は普通の生物程にはその姿形の制限は無い。
しかし……
「…………」
それを考慮してもその姿はあまりに異様だった。
どんな枝族に属するのかも判らない。
一方は獣型――それも強いて言うなら爬虫類型だ。
全長はおよそ三メートル。全身が黒味がかった紫のウロコに覆われている。
長い胴体からは短い手足が生えていた。頭部はウロコに覆われた人面で、しかしその頭からは二本の長い角が伸び、頬から顎にかけてモミアゲのようにトゲが並んでいるのだ。
凶悪だ。そして醜悪だ。
一体……何を望んでこの精霊はこんな形状を採ったのか。
だがもっと異様なのはその隣の精霊だった。
身長こそ普通の人間と大差無い。しかも先の個体に比べるとより人型に近い。ゆったりとした白い衣が胸から下を覆う様は民族衣装を着た異国の民の様に見える。
しかし……間題はその腕だ。
異常だった。数も長さもだ。
人間そっくりの胴体から八本の腕が生えているのである。しかも、そのいずれもが異様に細い上――そのままの姿勢で地面を撫でられそうな程に長い。その姿は、まるで人の形をした蜘蛛だった。
なまじ胴体部分が人間と似ているだけに、その奇怪さは隣の精霊よりも上だ。
ただし……全く傾向の異なる姿をした二柱の精霊には、一つの明確な共通点が在った。
黒い。
羽根が――精霊の証たる羽根が黒いのである。
黒い羽根の精霊が居ない訳ではない。奏世神話に語られる始祖精霊の八栓には、それぞれの色が振られているが――そこには『黒』を司る始祖精霊も居ると言われる。そしてその始祖精霊を文字通りに祖として発生した直系の精霊達は当然に黒い羽根を持っているとも。
暗色の羽根を持つその事自体は珍しくもないし忌まわしい事でもない。
だが……この精霊達の黒さは何か違う。
どす黒い。
夜の闇の様な純粋な黒さではない。
透明感が無い。
汚濁と汚濁を混ぜ合わせた末に出来上がる様な――濁りきった色だ。それは恐らく黒に見えるというだけで、本来はもっと別の何かなのだろう。
二柱の精霊はどちらも上級精霊だ。
爬虫類似の精霊も、蜘蝶似の精霊も、共に背中に六枚の羽根を展開している。だがどちらの羽根も醜く歪み、捩れ、しかも何か陰湿な空気が漂っている。
ヒューリエッタという名の精霊をフォロンは思い出した。
(まさか――)
「コーティ!」
戦慄含みの声で呼び掛けるフォロン。
だが――
『ああ――頼む』
応えるコーティカルテはむしろ楽しげである。
〈紅の殲滅姫〉――それはコーティカルテ・アパ・ラグランジェスの二つ名だ。戦場に臨んで怯む性根など、そもそも持ち合わせていない。
しかし……
(……出来るか?)
神曲公社の紋章に手を伸ばすフォロンの脳裏を躊躇の念が過ぎる。
〈ハーメルン〉の取扱説明書の中にこんな一文が在った。
『転倒の危険が在るので走行中の変形はお控えください』
そう。本来〈ハーメルン〉の走行機能はあくまで現場に移動する為のものだ。実際に今まで何度か彼は〈ハーメルン〉を使ってきたが、それは現場にたどり着いてからの事である。少なくともこんな高速走行中に単身楽団機能を使った事など――ましてや走行中に変形させた経験など無い。
変形するという事は――車体の重量配分が変化するという事だ。
取扱説明書の注意書きも当然である。まして〈ハーメルン〉はあくまで試作品――参考とすべき前例は無い。走行中にその重量配分が変化すればサスペンションやフレームにどんな影響が出るか判らないのだ。
しかし――
(いや……やるんだ)
コーティカルテは彼の神曲を待っている。
二柱の――しかも異形の精霊と相対しながら彼の支援を待っている。
何の為に? と問われればそれは結局の処、フォロンの為にだ。
ツゲ神曲楽士派遣事務所で働く新米神曲楽士タタラ・フォロンのすべき事を支え、助ける為に、彼女はその身を張って敵と対時しているのだ。
ならばフォロンも彼女の期待に応えない訳にはいかない。
一瞬でも躊躇を覚えた自分をフォロンは恥じた。
伸ばした手に拳を握り――
「いくよっ!!」
フォロンはタンクの上の紋章を叩いた。
がじゃっ――響く金属音は、複数の変形機構が同時に作動する音だ。
重心が一気に移動する。バランスが崩れる。
だがそれは想定の範囲内だ。
「……このっ!!」
大きく震えて蛇行を始める車体を、フォロンは強引に押さ支込んだ。あらぬ方向を向きそうになるハンドルを引き戻す。右に左にと揺れる車体を体重移動で立て直す。
時間にして僅かに数秒。
しかし極めて危険な数秒。
フォロンは渾身の力と集中力でそれを乗りきっていた。
「――よし!」
変形――完了。
だが〈ハーメルン〉の変形はフォロンの想定外の事態をももたらしていた。
「あっ――」
気がつけば輸送車の後ろ姿が遠い。
変形に彼がもたついている間に大きく距離を開けられていたのだ。しかも変形を終えた――つまりは幾つもの装備を大きく展開した〈ハーメルン〉は、やたらと空力抵抗を受ける形状になっている。エア・ブレーキを開いた航空機同様だ。
しかも――
「くそっ――」
慌てて回した右のグリップが抵抗無く空回りする。
「……そうか」
変形によって操作系が変わっているのだ。
フォロンは右の爪先でペダルを踏み込む。途端に単身楽団へと変形した〈ハーメルン〉が加速した。クラッチが遠心自動クラッチに切り換えられ、さらにアクセル操作が右のペダルへ移動しているのである。
だが問題はステアリングだった。
演奏中ほ両手が塞がる為にハンドルも固定されているのだ。
(……うっわ……)
思わず冷や汗が出た。
ハンドルはどうやら最後の最後に固定された様だが――もし変形途中で固定されていれば、どうなっていた事か。『走行中の変形はお控えください』と説明書に書かれるのも当然だ。
「ええと――確か」
説明書の中身を思い出すフォロン。
単身楽団モード時のステアリング操作。
「これか――」
爪先にフォロンは力を入れる。
確か説明書には、単身楽団モード時のステアリング操作は、左のシフト・ペダルで行う――とあった。即ち爪先でペダルを左右に動かす事で内蔵されたモーターが駆動し、フロントホイールを動かすのだ。
「…………」
高速走行中にハンドルから手を離すのは、それなりに勇気が要った。
位置的にはそろそろイグロック市の上を通り過ぎる辺りにさしかかっている様だ。前方で大きく路面が右へと湾曲しているのが見えた。
両手を離して鍵盤に置く。
同時に――左の爪先でペダルを右へと傾けた。
眼の前でフロント・フォークとホイールがわずかに右を向くのを確認。フォロンは意を決してタンクを両方の膝で挟み込み――大きく体を右側へ倒す。
〈ハーメルン〉の車体がするりと右側へ滑った。
「いける!」
フォロンは素早く制御卓に指を這わせて演奏機能を起動。
「コーティ!!」
『早くしろ。待ちくたびれた』
言いつつ――コーティカルテは輸送車の上で右に左にと跳ねている。
先ずは小手調べとでもいうのだろう。蜘蛛の精霊が彼女に向けて精霊雷を纏い付かせた拳を何度も何度も突き込んでいる。だがそれらはいずれも小柄な少女の身体に触れる事無く、空を切るばかりだ。
もっとも……コーティカルテ側からの反撃は無い。
現状の不利を彼女はよく心得ているからだろう。フォロンからの支援楽曲が無い彼女は上級精霊といってもその力を完全に引き出す事は出来ないのだ。
しかし――
「ごめんよ――待たせた!」
――こぉおおおおん……!
まずは一音。
高音の鋭い響きが迸る。
待ち望んだ契約者の神曲を受け、緋色の精霊の姿が少女のそれから大人のそれへと――
「ぎじゃあっ!!」
黒い閃光が迸る。
待ち構えていたかの様に――爬虫類の精霊が口から放った精霊雷が、姿を変えつつあったコーティカルテを直撃していた。
先に蜘蛛の精霊に手数多く攻撃させる事で、一定パターンの動きに馴れさせておいてから、注意が逸れていた爬虫類の精霊が本命の一撃を放つ――蜘蛛の精霊の乱打は小手調べどころか、作戦の一端であったらしい。
強大な精霊雷が四方八方に飛び散り高速道路上に大量の火花を降らせる。
コーティカルテは輸送車の上から吹っ飛ばされていた。
そして――
「コーテイ!!」
悲鳴じみたフォロンの叫び。
だが次の瞬間――ヘルメットの中に聞き慣れた相棒の声が満ちた。
『案ずるな』
――だん!
足音と呼ぶにはあまりに鋭く強い音が響く。
そして――フォロンは見た。
虚空を貫いて飛ぶ紅い〈殲滅姫〉を。
先の足音は、吹っ飛ばされ空中に在る間に『変身』を終えたコーティカルテが、身を捻りつつ路面を蹴った音である。さすがにフォロンに後方を振り返っている余裕は無かったが――どれ程の脚力が炸裂したものか、彼女が蹴った高速道路の路面は直径二メートルに渡って陥没した上、その倍近い範囲に無数の亀裂を刻まれていた。
「続けろ」
そう告げるのは既に完全な姿となったコーティカルテである。
伸びやかな四肢。優美な曲線を描く体躯。鮮やかかつ艶やかな衣装。
そして何よりも――大きく広げられた六枚の紅い羽根。
これこそがコーティカルテ・アパ・ラグランジェスの真の姿だ。
彼女は――飛んでいた。
猛烈な速度で空中を飛行して輸送車に追い縋っているのだ。
勿論……精霊が空を飛んでも別に驚く程の事ではない。だが多くの場合、彼等のそれは基本的に空中に『浮く』程度の事であって『飛行』とはまた別の行為だ。気球と飛行機の『飛ぶ』が随分と異なる印象になるのと同じ事だ。
飛行するとはこの場合――立ちはだかる空気抵抗をやり過ごし、あるいは強引にその力でぶち抜いて移動する事であり、その為の推力を精霊雷によって生み出すという事である。
そして鳥だの飛行機だのと異なり、空力抵杭をやり過ごす為の形状も、揚力を生み出す為の翼も持たないフマヌビック形態の精霊が高速飛行するとなると……単に空中に浮かぶ事とは桁違いの力を必要とする。
短時間。短距離。あるいは浮遊に毛の生えた程度の低速。
条件を限れば多くの精霊にも可能だろうが――時速百キロを超える速度で飛行しながらの戦闘ともなれば、それは契約者の神曲を得た精霊のみが可能とする神業と言えた。
逆に言えば。
契約楽士の神曲に合わせて自らを調律した精霊は、自由精霊とは比べものにならない力を発揮する。比類無き開放感と万能感――この愉悦を得たいが故に彼等は暴走の危険を覚悟で神曲楽士と契約するのだ。
「ごぅあっ!」
蜘蛛の精霊が放つそれは威嚇の声であろうか。
一瞬遅れて爬虫類の精霊が再び黒い精霊雷を放った。
轟――と唸りを上げて襲い掛かる力の奔流。直撃すれば車の一台や二台は軽々と消し飛ばされるだろう。先程のコーティカルテが吹っ飛ばされた程度で済んだのは、彼女もまた上級精霊であるからだ。
しかし。
『――ぬるい』
そんな言葉と共に黒い光は四散した。
びしゃりと地に落ちた廃液の様に四方八方へと精霊雷は飛散し――その下から悠然と浮かび上がるのは真紅に輝く防御壁である。言うまでもなくコーティカルテが己の精霊雷を以て編み上げたものだ。
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
左右の脚で慎重に〈ハーメルン〉を操りながらフォロンは演奏を続ける。
高く。低く。
強く。弱く。
ピアノの主旋律に自動演奏装置の伴奏が絡み付き、どこまでもどこまでも分厚い多重奏が肌える風に負けじと響き渡る。それは次第に熱を帯び――同時に鮮やかな輪郭を際立たせて紅い精霊を覆っていた。
コーティカルテが跳びながら右手を挙げる。
己の首に右腕を巻こうとするかの様に深く大きく曲げ――次の瞬間、彼女は引き絞った矢を放つかの様な鋭さで、その右腕を薙いでいた。
空間が悲鳴を上げる。
扇状に放たれた精霊雷が輸送車の上の二柱に叩き込まれた。
紅い閃光が炸裂し、腹の底に響くかの様な轟音と共に、異形の精霊達が後退する。
爬虫類の方は危うく輸送車の上から転げ落ちそうになり――寸前で踏み止まった。蜘蝶の方はといえば後退量は相方よりも少ない代わりに、その八本の腕の内、上の四本が消失していた。コーティカルテの攻撃を受け止めそこねて破壊されたのだろう。
対するコーティカルテは余裕の笑みすら浮かべている。
力量が全く違う。
真の姿となったコーティカルテに歯向かうならば、たとえ上級精霊といえど消滅を覚悟せねばならない。〈紅の殲滅姫〉の名は文字通りの意味――彼女の紅い精霊雷は立ちはだかる一切合切を殲滅する。
勝負はあった。
余程の愚か者でもない限り、これだけの力の差を見せ付けられれば投降せざるを得まい。
少なくともフォロンはそう思った。
しかし同時に……
(――?)
ふと違和感の様なものがフォロンの感覚を撫でる。
何か……普段と違う。
学生時代からフォロンは何度と無く――それこそ数え切れない位に神曲をコーティカルテに聴かせてきた。戦闘時に彼女を支援すべく奏でた事も一度や二度ではない。
そも神曲の演奏は精霊との『交歓』であると言われる。
これは文字通りの意味で――フォロン自身も実感として、神曲の演奏とは一方的なものではないと考えていた。
実際、神曲を演奏しているとある種の手応えが確実に感じられるのだ。ただ無意味に音楽を撒き散らしているのではない。ひどく曖昧で感覚的なものだが――精霊の側の反応が自分の方に神曲を介して伝わってくるかの様な印象が在る。
だからフォロンはそれを手掛かりにして更に旋律を調整し、よりコーティカルテに合った神曲へと演奏を変化させるし、契約精霊たるコーティカルテは、よりフォロンの演奏を深く受け入れる為に自らを調律する。
フォロンとコーティカルテに限らず神曲楽士と契約精霊の関係はこの繰り返しだ。
だからフォロンも演奏をしているとコーティカルテの反応が肌で感じられる事が多い。
しかし……
(……なんだ……?)
コーティカルテからの反応が鈍い。
恐らくそれは契約者だからこそ気付く程度のものであったろう。
何か普段と違う。
きちんと神曲が届いていないかの様な――
(いや……違う。届いてる。届いてるけど……)
戦闘中であるからかコーティカルテはあまり気にしていない様だ。
あるいは……この違和感は単にフォロンの気のせいなのかもしれない。慣れない状況下で緊張していて普段と感覚がずれてきているだけかもしれない。
「――む?」
コーティカルテの不審げな声を耳にし――フォロンは我に返って彼女の視線を追った。
輸送車貨物部の男達。
長身と短躯の二人は頷き合って再び主制御楽器を構えた。
サックスとトランペット。
そこでようやく――フォロンは気付いた。
いつからこの二人は演奏を止めていた?
今――この二人は戦闘支援用の神曲を演奏していたか?
ひょっとしたら二柱の精霊を呼び出す際に――実体化させる際に、ほんの数フレーズ程を奏でただけだったのではなかったか?
「…………」
「…………」
二柱の黒い精霊達がゆらりと輸送車の屋根を蹴って空中に躍り出る。
同時に――演奏が始まった。
――るううううううううぁッ! うぁうぁっうぁっうぁっうぁ!
――ふぁおッ! ふぁおぅッ! ふぁおぅッ! ふぁあああああああおぅッ!
瞬発的なトランペットの音が空気を刻む。そこへうねる様なサキソフォンの音が絡みついてゆく。二つの音は混じり合い、分離しては再び重なり……一つの太く巨大な音の流れを編み出した。
途端――
「ごヴ!!」
「じゃ!!」
二柱の異形に――異変が生じる。
黒い精霊達の身体が、みちりみちりと膨張して大きくなっていく。いや――単に膨らんでいるのではない。彼等の異形を構成する要素一つ一つが位置を変え、大きさを変え、更に形状を変えていく。
変身。
だがそれはコーティカルテの様な『本来の姿』、自らの存在の延長へと移行する様な収束感は無く――何かひどくデタラメな印象を伴っていた。
そして――
「なんだ!?」
いきなり視界が歪んだ。
同時に全身の感覚が一斉に狂う。
〈ハーメルン〉の上でフォロンは大きく姿勢を崩していた。体勢を立て直そうと咄嵯にハンドルに手を伸ばし――だがそれは固定されていて動かない。
「――!!」
遅かった。
次の瞬間には我に返って左足でペダルを操るが――既に後輪は路面を掴みきれずに横滑りを始めていた。
(転倒する……!)
緊張で引き延ばされた一瞬の中、フォロンは路面に叩き付けられ血と肉片を撒き散らしながら転がっていく自らの姿を想像した。
だが――
『――気を付けろ』
ぎりぎりの瞬間に車体は体勢を立て直していた。
フォロンの操作が間に合ったのではない。横手から伸びた手が強引に倒れ込んでいく車体を引き戻したのだ。
瞼を開いたフォロンは、そこで初めて自分が眼を閉じてしまっていた事に気付く。
彼の瞳には〈ハーメルン〉の隣を併走する様に飛ぶコーティカルテの姿が映った。
「あ……ありがとう……今のは……」
『衝撃波だ。少々厄介だな』
コーティカルテは言った。
そう――それは異形の精霊が放った衝撃波だった。
広範囲に拡散し、距雌に応じて急速に滅衰するそれは……直接的に人体や車体を破壊する力は無い。だがそれでも充分だ。強い衝撃波を間近に浴びると人間の眼球は歪み、視界が狂うという。同時に皮膚感覚や、三半規管も当然に影響を受ける。フォロンはヘルメットをつけてはいるが――完全密閉でもないそれでは、衝撃波の影響を完全に排除する事は出来なかった様だ。
広範囲に広がる分――避けるのは困難だ。
何度も何度も今の攻撃をされてはいつかフォロンは転倒するだろう。
だが……
『――見ろ』
コーティカルテが前方を睨み据えている。
彼女の視線が向かう先には二柱の精霊が――
「…………!」
いや――二匹のバケモノが居た。
爬虫類の様な精霊は今や神話上の怪物――竜の如くに変じていた。
角は捩れ、棘は逆立ち、鱗は全て鋭利な刃物となって屹立している。暗紫から漆黒へと染まりきったその体躯はおよそ六メートル――先程の倍はあるだろう。
人型の蜘蝶も更なる異形へと変化していた。
既にその体躯には人間に似通った部分など欠片も残っていない。全身は剛毛に覆われ、八本の手の先に付属する四十本の指は、全てその先から黒い鈎爪を生やしていた。胴体部分は球体の様に膨れ、しかも先程までは人間のものと変わらなかった両眼が――今では黒く巨大な単眼へと変化している。
それは最早――精霊の姿ではなかった。
バケモノ。そう呼ぶしかない。
「……まさか……!」
フォロンの全身の体毛が逆立った。
彼はこの異様な『変身』――いや『変形』に見覚えが在る。
精霊をどす黒く染めて異形のものに変える。
それは……
『……そうだ』
コーティカルテが忌ま忌ましげに呟く。
『ダンテの奏始曲だ』
「『地獄変』……!」
奏者の剥き出しの心を叩きつけ、精霊を凶暴なバケモノに変異させてしまう……それは異端の、しかし原初の神曲の一つだ。
この曲を受けて、あの愛くるしいボウライ達が狂暴な怪物に変じていく様をフォロンはかつて目撃している。
しかもこの『地獄変』は精霊の自由意志を侵食する。
通常、精霊は神曲の演奏者の意志に従う。だがこれは神曲の提供を対価とする一種の契約であって精霊を隷属化するものではない。これはたとえ契約精霊と契約楽士の間においても同様だ。故に――例えば精霊に対して『自殺』あるいは『殉死』を強制する事は出来ない。
だが――かつてフォロンが目撃した怪物化ボウライは、コーティカルテの精霊雷を、自らの身を眉にして遮り神曲楽士を守った。そしてそれは麗しい献身の結果ではなく、神曲楽士の強制支配の結果だというのは現場の状況から明らかだった。
という事は……
「コーティ」
『なんだ?』
怪訝そうに緋色の髪の精霊は契約主を振り返る。
あるいは――彼女は次に来る台詞を半ば予測していたのかもしれない。
「戦わないで」
『…………』
「僕らの目的は荷物だ。あれを取り返せるのなら――無理に戦うことはないよ」
『弱気か……フォロン?」
それもある。
いや。それが最も大きい理由ではあった。
あの精霊達もひょっとしたら無理矢理に姿形を変えられ、望まぬ戦いを強いられているのではないかと考えたのだ。もしそうなら戦いたくないとフォロンは思う。だが『地獄変』の虜となつた精霊達は、己の身が引き裂かれても戦いを止めないだろう。
彼等を殺したくない。
フォロンは痛切にそう思う。
それは確かに一種の弱気ではあるだろう。
精霊殺しの罪を背負いたくない――つまりはそういう事なのだから。
だが……
「違うよ」
フォロンは言った。
弱気も確かにある。
だがそれだけではない。
それだけならばそもそもフォロンは今此処に居ない。
「荷物を無事に送り届けるのが――僕らの仕事だからだよ」
彼等を倒す事はフォロン達の仕事ではない。
まして裁く権利はフォロン達には無い。
目的を見据える事。手段と目的を取り違えない事。過程を目的と取り違えない事。
それはフォロンがこの四年で学んできた事だった。
〈嘆きの異邦人〉と呼ばれる者達の犯した過ちから、痛切に学んだ事だった。
「……判った」
コーティカルテの横顔に諦めの色を含んだ苦笑が浮かぶ。『しょうがない奴だ』と言わんばかりだが――緋色の髪の精霊はまんざらでもない様子ではあった。
『奴らの隙を突いて荷物を奪い返し――逃げる。それでいいな?』
「うん」
フォロンは頷く。
それから――
「ごめんね」
――と付け加えた。
『言うな。お前がそう命じるならば、私は従う』
コーティカルテは艶やかに笑う。
『それが契約というものだ』
次の瞬間――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは弾丸となった。
轟ッと一際激しく虚空が鳴く。
逆風に真空の穴を穿つ程の勢いで、緋色の精霊は真っ直ぐ輸送車に向かって飛翔する。速攻勝負で二人の神曲楽士を蹴散らし、一気に輸送ケースを奪い返す積もりなのだ。
しかし――
「――!」
彼女の行く手を遮る様に――異形の『竜』が割り込んだ。
精霊雷を絡めた太い尾を、真正面からコーティカルテに叩き付けてくる。
腕を交差させその上に精霊雷の防御壁を展開してこれを受けるコーティカルテ。
紅と黒――二柱の精霊の力が空中で拮抗し、双方の精霊雷が四方八方に弾け飛ぶ。
『この紛い物めが――』
顔をしかめつつもコーティカルテが不敵に笑う。
『事も在ろうに――聖獣たる竜をその様に不細工に象った上、この私に牙を剥くか? フラメルが見たら嘆くだろうな』
「――がらあっ!!」
鱗に覆われた顔の真ん中で牙にまみれた口が開く。
炎の如く噴出したのは――それも精霊雷だった。
そも精霊雷とは精霊の力であり身である。彼等はこれに指向性を与えて放つ事で、離れた物体を掴む為の『腕』として用いる事も在れば、標的を直接粉砕する『弾』として用いる事も出来る。
至近距離から放たれた、どす黒い炎の様な精霊雷を――しかしコーティカルテは横へ飛びつつ回避。攻撃を放つ前の動作が大きすぎる。防御壁で弾く必要すら無いとの判断だろう。
だが……彼女が相手の攻撃を先読みしたのと同様に、相手も彼女の行動を先読みしていた。
彼女の回避した先に――蜘蛛が待ち構えていたのだ。
『――むっ!?』
まるで棘付き鉄球の様に――鋭い鈎爪を生やした拳が八つの方向から同時にコーテイカルテを襲う。無論、精霊が必殺を期して放つそれが単なる打撃である筈も無く、爪の先端は収束された精霊雷の黒光を灯していた。
相手の下に滑り込む動きで更に回避するコーティカルテ。
だが――八本腕の方が速い。
「――コーテイ!!」
フォロンが叫ぶ。
八発の拳打を受けたコーティカルテの姿が沈んだ。
どんっ――と異様な音を立てて路面がへこむ。
路面に叩き付けられた緋色の髪の精霊は、大きく跳ねてフォロンの眼の前へと飛んでくる。だが彼女はフォロンに激突する寸前で、辛うじて体勢を立て直し、彼を庇う様に上方へと舞い上がった。
『……くつ……』
表情を歪めて呻くコーティカルテ。
精霊たる彼女は流血こそしていないが――上級精霊の精霊雷を乗せた打撃を八発も喰らったのだ。無事である筈が無い。むしろ再び姿勢を制御して飛行を再開したのは脅威と言えた。
「コーティ! コーティ!?」
『……大丈夫だ。途切れさせるな」
黒い異形を睨み付けながらコーティカルテは言う。
だが彼女が相当な深手を負ったのは間違いが無かった。
(――駄目だ……!)
このままでは駄目だ。
ケースを奪還するどころかコーティカルテが殺されてしまう。
フォロンは素早くイコライザの操作卓に指を走らせて音質を調整し――曲調を変えた。
もっと速く。
もっと強く。
コーティカルテに力を!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……ッ!!
――〜〜〜〜〜ッ!! 〜〜〜〜〜〜ッ!! 〜〜〜〜〜〜ッ!!
(……でも……これは……)
疑問が一つ在った。
確かに『地獄変』は精霊を狂暴化させる。
その楽曲に抵抗しながら戦うコーティカルテが不利である事もまた事実だ。
だが……それだけではコーティカルテの苦戦は説明がつかない。今までに二度ばかり、ダンテの奏始曲を受けた精霊と彼女は闘っている。相手が上級精霊であった事も在る。だがいずれの場合もフォロンの神曲の支援が届いている状態の彼女が、ここまで一方的な痛打を浴びた事は無い。
それは『地獄変』でも『天国変』でも同じだった。
「――まさか」
『地獄変』と『天国変』。
同じくダンテの奏始曲。
そして『地獄変』の使い手であるクダラ・ジャントロープは『地獄変』をフォロンの神曲に被せて相殺する様な芸当までして見せた。
ならば……
「まさか……!」
ようやくフォロンは気付いた。
敵の演奏は『地獄変』だけではない。
もう一つ別の神曲が被せられている。
「コーティー」
『ああ――私も今気付いた』
トランペット主体の『地獄変』に合わせてサックスが奏でるもう一つの神曲。
そのうねる様な旋律は『地獄変』との合奏に合わせてか、いくらか簡略化されているものの
『『天国変』だな。併せて『地獄極楽変』とでも呼ぶか?』
忌々しげにコーティカルテが言った。
『あるいは元よりこれが完成形か……? ダンテめ……」
「ぎじゃー」
「ごばぁ!!」
咆吼と共に二匹のバケモノが再びコーティカルテに襲い掛かる。
必死になってフォロンは鍵盤を叩いた。
相手は二柱。上級精霊。そしてダンテの奏始曲の支援を受けている。しかも『地獄変』と『天国変』――片方だけならばともかく二つの奏始曲は敵側の精霊の力を飛躍的に高める一方で、コーティカルテの動きを著しく阻害する。
これではまるで勝負にならない。
自分と同じ力量の、武装した相手二人に対して、素手で――しかも手足に重りをつけられて闘う様なものだ。
せめてもう一柱――精霊が居れば。
だがコーティカルテへの支援楽曲で手一杯のフォロンに、他の精霊を呼ぶ為の神曲を奏でる余裕は無い。一瞬でも手を抜けばコーテイカルテは今度こそ倒されるだろう。
どうすればいい?
どうしたらいい!?
勝つどころか……この戦いから脱出する方法さえフォロンには思いつかない。恐らく此処までやり合ったのだ――たとえ退いても相手は見逃してくれまい。そもそもそんな道理が通用する相手とも思えない。相手は明らかにフォロンとコーティカルテを殺す積もりだ。
「……! ……!!」
最早、声にもならぬ短い苦鳴はコーティカルテのものだ。
乱れ飛ぶ黒い精霊雷の間で彼女は翻弄されていた。
辛うじて致命の一撃は防いでいる様だが、防戦一方で反撃の糸口すら掴めていない。あの強大な力を誇る上級精霊が――かつては〈嘆きの異邦人〉の元で最強の精霊姫として怖れられていた彼女が、敵の攻撃を正面から受けないでいるだけで精一杯なのだ。
「ぎじゃあっ!!」
よろめいたコーティカルテにとどめとばかりに『竜』が顎を開く。
黒い精霊雷がその口腔で渦を巻き――
――爆音。
仰け反ったのは『竜』の方だった。
『――フォロン!!』
その叫びは――コーティカルテのものではなかった。
振り返る余裕などは無論無かったが、声の主が誰かに気付いてフォロンはバックミラーに視線を飛ばした。
見覚えのある影が、遙か後方から猛烈な速度で近づいて来る。
太い車輪と大きな前照灯の――バギー車だ。
〈シンクラヴィス〉である。
『ようやく追いついたぜ!」
「レンバルト……!」
通信機から届く声はフォロンの親友のものに違いなかった。
しかも――
「ハッハァ!――活劇には間に合ったか?」
そのボンネットに立つ人影が在った。
いや――人ではない。
蒼銀の長い髪と黒いロング・コートの裾を風にはためかせ、傲然と腕を組んで、高速走行する車の上に立っているのは――
「ヤーディオ!!」
ツゲ・ユフィンリーの契約精霊――ヤーディオ・ウォダ・ムナグールだった。
猛烈な風圧にも構わず屋根の幌を跳ね上げる。
ユフィンリーは立ち上がり助手席の背もたれに腰を下ろした。とりあえず少しでも安定した演奏姿勢をとる為だが――傍目から見れば疾走するバギーの車内に突っ立っているのと大差無い。心配性の彼女の兄が見れば半狂乱になるだろう。
実際――
「転げ落ちないでくださいよお!!」
レンバルトもそう叫んでくる。
「いいから早く追いついて!」
とユフィンリー。
今此処で速度を緩める訳にはいかない。
再び見失えば、もう一切合切の事が終わってからしか追いつけまい。実際――ここまで追いつけた事さえも幸運だったといえるのだから。
もっとも奇跡に等しいそれを呼び込んだのは、レンバルトの機転である。
通信が途絶え、輸送車もフォロン達も見失った時……レンバルトは突然〈シンクラヴィス〉を繁華街へと走らせた。そして商店街を見つけると、車を降りて電器店に飛び込んだのである。
駆け出してきた彼が手にしていたのは、包装もされていない箱だった。
小型の携帯用テレビだ。
〈シンクラヴィス〉のダッシュボードから電源を得て、慌ただしくチャンネルを変え――走りながらの受信は雑音信号が多かったが、しかし必要な情報を中継番組から得る事は出来た。
位置さえ判れば後は全力で追いつくだけだ。
そしてレンバルトとユフィンリーを乗せた〈シンクラヴィス〉は将都高速を全速力で飛ばしてきたのである。もっとも……たまたまフォロン達の位置を特定できたその時、眼の前に高速道路の入り口があったからこそ、今この瞬間に間に合ったとも言える。
「――返すぜ」
ぽいっ――と投げ捨てられた拳銃が座席の上で跳ねた。
レンバルト所有の大口径の自動拳銃である。
本気で使う機会が在ると思った訳ではないが――シェルウートゥの一件が在ってから、念の為にと彼は〈シンクラヴィス〉に一挺、護身用として放り込んでいたのだ。
ちなみに現在その弾倉は空っぽだ。ヤーディオが弾を抜いてしまったのである。
精霊弾。
先に竜の頭部に爆発を発生させたのはそれだ。
銃の構造を利用して精霊雷を収束して放つ――それは一種の『業』である。
元々拡散し易く射程距離の短い精霊雷を、効率良く使用し応用範囲を広げる為に、一部の精霊が編み出した特殊な技法だ。同じ量の精霊雷を用いてもその精度と射程距離が著しく向上する。職務上の要請から――周囲の人間や施設に被害を出さず対象のみを正確に攻撃しなければならない――精霊警官達にこの技法の使い手は多い。
そしてヤーディオも精霊弾の使い手の一人なのだ。
彼は己の精霊雷を収束し、今しもコーティカルテに放たれようとしていた竜の精霊雷を狙撃――これを誘爆させたのだ。
高速走行中。三百メートルもの距離。おまけに銃身の短い拳銃。
恐るべき腕前と言えた。
だが――
「……やっぱぶん殴る方が性に合う」
「ヤーディオ!」
ボンネットに立つ精霊に声をかけながら、ユフィンリーは背中の単身楽団を展開した。
ディパックほどの大きさの、金属製の箱に切れ目が走り、まるで組木細工がばらけるかの様に移動して劇の形状を生み出す。瞬時に展開したそれは肩越しに回り込む様にして簡易制御卓と演奏情報投影装置を配置。
最後に滑り出して彼女の肩にぴたりと据えられたのはヴァイオリンであった。
「いい? ブツの回収を最優先! 敵を倒そうなんて思わなくていいからね!」
「てぇことは――だ」
契約主を振り返りもせずにヤーディオは言った。
その端整な――美しいとさえ言える顔には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「ブツさえ回収しちまえば、二匹とも叩きのめしていいってこったな?」
「そうよ」
半ば諦めを含んだ□調で言いながらユフィンリーは単身楽団の底部から弓を引き出した。
「判った。任せな」
するりと――まるでナイフを抜いて構えるの如くヤーディオの背中に羽根が展開する。
色は白銀。数は四枚。
ユフィンリーは弓を弦に当てて――一気に引いた。
「GO!」
「行くぜえ!!」
ずどん――とまるで砲声の如く大気を震わせて蒼銀の髪の精霊は跳んだ。
八本腕の猛打がまるで壁の様に迫る。
『吐息』を暴発させられた『竜』からは逃れられたものの、コーティカルテの苦況は続いていた。やはり二重の奏始曲に曝され続けているのは、彼女とても耐え難い苦痛なのである。『地獄変』の苦痛と『天国変』の恍惚が交互に襲ってくるのだ。
まさしく精霊にとっては強烈なアメとムチ――フォロンの神曲を背に受けていなければ彼女とてとっくの昔に『堕ちて』いた事だろう。
空中で身を翻し防御壁を展開して打撃を受ける。
だが超高速の七連打は、彼女の防御壁を大きくたわませる。更に――びゅるりと音を立てて伸びた一本が大きく回り込んで真下から彼女を狙った。
『くっ……!』
コーティカルテに避ける余裕は無い。
そこへ――
「だぁああぁあぁああらあ!!」
雄叫びと共に銀色の疾風が割り込んだ。
ヤーディオである。
「ぎじゃっ――」
「ごがっ……」
二匹の怪物と化した精霊は、新規参入の戦力を警戒し咄嗟に距離をとった。
やはり姿形は異形と化していても知能は残っているらしい。あるいは単に神曲楽士達に反射行動まで制御されているだけなのかもしれないが。
『何だよ――こりゃあ!? 吐きそうだな、全く!』
緋色の髪の精霊を庇う様に空中に定位したヤーディオが、吐き捨てる。
恐らくユフィンリーとの意思疎通を行う為か、彼も同じ周波数の通信機を使っている様だった。コーティカルテに話し掛ける蒼銀の精霊の声も、同様に通信電波がフォロンのヘルメット内に届けてくる。
『奏始曲だ。二曲が相乗している、長時間聴き続けると正気を失うぞ』
『長く?』
へっ――と端正な顔に浮かぶのは獰猛な笑みだ。
『あんたと俺が組んで、時間が掛かる訳ねえだろ』
『……違いない』
苦笑するコーティカルテ。
だが――通信機を介してフォロンに届く彼女の声には明らかな疲労が滲んでいた。
『……訊いときてぇんだがよ』
ふと思い出した様にヤーディオが言う。
『あんた――例の精霊発電所での俺の活躍ってのは、聞いてるか?』
『おおよその処はな』
『そうかい。安心したぜ』
ヤーディオは頷き――
『俺に任せろい!!」
――そして飛び出した。
「じゃあっ!!」
「ごぶる!!」
同時に二匹のバケモノが彼の行く手を塞ぐ。
無茶だ――とフォロンは思った。
精霊の羽根の数はその等級に比例し――等級はすなわち力に比例する。つまり四枚羽根のヤーディオは、純然たる力の量では六枚羽根の敵一体にさえ及ばないのだ。
いくらユフィンリーの支援楽曲を受けていても、それは相手の精霊達も同じだ。真正面からぶつかれば全く勝算は無い。
現に――
『おっしゃあ!!』
ヤーディオが八本腕の異形に拳を叩きつける。
だが。
――ずぶん。
鈍い音と共に拳を喰らったのはヤーディオの方だった。
三本の腕が折り重なって彼の拳打を遮り、二本の腕が揃って下から上へと抉る様に、その拳を腹に叩き込んでいたのだ。それは異形ならではの『業』だった。
だが――
「――!」
フォロンは見た。
空中高く跳ね上げられたヤーディオが笑うのを。
『もらった!』
その体躯は力無く宙を舞いながら――しかし強烈な銀の精霊雷が迸る。
狙いは輸送車の貨物部。
真上から垂直に叩き付けられる実体無き斬撃。
まるで巨大な剣を振り下ろすかの様だ。
命中すれば銀の精霊雷は輸送車を前後に両断していただろう。動力の無い後部は問題の荷物を載せたまま停止せざるを得なかった筈だ。
最初からヤーディオの狙いはこの一撃を放つ為だったのである。
受け止め易い真正面からの素直な拳打は、相手の油断を誘う為だ。実の処、人間の体術に興味を持って色々と研究しているヤーディオは、その気になれば蹴り技、投げ技、絞め技と変幻自在の攻め手でもって相手を翻弄する事も出来るのだ。
「ごうるぁ!」
ぐるりと長い首で振り返った黒い『竜』はその口から精霊雷を噴いた。
振り下ろされる銀の長剣を、撃ち上げられる黒の砲弾が迎え撃つ。二発の精霊雷は激突して更に強烈な閃光を辺りに振りまいた。
輸送車に損傷は無い。
ヤーディオの斬撃は完全に防がれていた。
だが――実のところヤーディオの狙いは輸送車の車体を斬る事ですら無かった。
『―どこを見ている』
コーティカルテの低い声がバケモノ達の背に触れた。
銀の斬撃が防がれる事さえも織り込み済み。
ヤーディオ。そして精霊雷の激突。
この二つにバケモノ達が気をとられていた一瞬に彼女はその背後に回り込んでいたのだ。
『竜』の長い首が振り返るが――遅い。
至近距離から放たれた真紅の閃光が黒い異形の顔面に炸裂した。
「ぐがッ……」
ぐらりと『竜』の巨体が揺れる。
そこへ――
『失せろ。二度と私の前にその姿で立つな』
駄目押しの様に更に強力な精霊雷が叩き込まれる。
『竜』の巨体が高速道路の路面に叩き付けられて――跳ねた。ごろごろと転がっていくその巨体は急激にしぼみ、元の大きさと形に戻っていく。
そして――
「――ぎじゃっ!」
蜘蛛の精霊がコーティカルテに向けて八本の腕を振り上げる。
その背中をぽん――と叩く手が在つた。
『おい。こっちだってばよ』
ヤーディオ・ウォダ・ムナグール。
『おうら!!』
半ば反射的に振り返った蜘蛛の精霊――その単眼に銀色の拳がぶち込まれた。
精霊弾と同じく精霊雷を効率良く使う方法は幾つか在る。
修得が面倒なのであまり使う精霊は居ないが――人間の格闘技の動きに乗せて精霊雷を相手に叩き込むのも、そうした技法の一つである。単に拳に精霊雷を纏い付かせるのではなく、一つの『業』の流れの中に精霊雷を循環させて収束し、加速し、増幅して、叩き込むのだ。
たとえ中級精霊の精霊雷といえど、防御の間も許さずこの『業』で叩き込まれては、上級精霊も沈まずにはおれない。
しかも――
『―うらっ!』
高々と上がった銀色の脚が叩き斬る様な勢いで蜘蛛の脳天にぶち込まれた。
見事な踵落としである。
八本腕の異形はやはり路面に叩き付けられ――しかしこちらは跳ねずに路面へめり込んで停まった。
「コーティ!」
フォロンの叫びに振り返るコーティカルテ。
『こちらは片付いた! 行け!』
「判った!」
半身を路面に埋めて痙攣する八本腕の精霊をかわし、フォロンは精霊達を置き去りにして去ろうとする輸送車に追い縋る。
タンクの紋章を再び叩くと、展開していた単身楽団がわずか二秒で収納されて、〈ハーメルン〉は大型自動二輪に戻る。既に一度変形を経ていた事と、走行に特化した自動二輪の形態へ戻った為か、今度は体勢を崩す事も無かった。
『フォロン!』
レンバルトの声と同時に〈シンクラヴィス〉が追いついてきて併走状態となった。
『陽動――頼む! 右側から前に出てくれ!』
ただそれだけの台詞でフォロンは成すべき事を理解した。
「判った!」
シフトを蹴り落し、発生したトルクで強引に加速する。
輸送車の尾部が近づいてくる。
前方はほぼ直線道路だ。しかも他に車の姿は見当たらない。
『いいか!?』
尋ねてくるレンバルトに――
「行く!」
応えてフォロンは〈ハーメルン〉を加速した。
輸送車は右の追い越し車線だ。その車体と中央分離帯のガードレールとの間に、〈ハーメルン〉の車体を突っ込ませる。
右のシフト・ペダルがガードレールに火花を散らし、左のハンドルのグリップ・エンドが輸送車の車体をこすった。
フォロンはしかし更にアクセルを開く。
強引な加速で〈ハーメルン〉は輸送車を追い抜いた。
そして――
「――やあっ!」
掛け声と共にフォロンはハンドルを大きく左へ切った。
前へ飛び出した大型自動二輪を避けようとして、輸送車の鼻面が左を向く。急角度の車線変更だ。当然の動きである。
その輸送車の後部へ――
『行くぜっ!!』
躊躇いも無く〈シンクラヴィス〉が後方から激突した。
鋼鉄とゴムの異音を発する車体と車体。
だが構わずレンバルトはアクセルを踏み込んだ。
これが彼の作戦だからだ。左を向いた車体を後方から右側へと更に押してやる事で、輸送車をスピンさせるのが狙いだ。重量で劣るバギーと自動二輪では、中型トラックを力押しで押さえ込む事は出来ない。何とかして自分からブレーキを踏ませなければならなかつた。
〈ハーメルン〉のバックミラーに、タイヤの焼ける白い煙に包まれた輸送車の車体が、ぐいぐいと横を向く様が映っていた。
作戦は成功したかに見えた。
だが――
『やばい!』
無線を通じて、焦燥に濁ったレンバルトの声が飛んできた。
輸送車の後部を押していた〈シンクラヴィス〉の鼻面がそれて、分離帯のガードレールに火花を散らす。
外れた。
角度が深過ぎたのである。
輸送車はわずかに蛇行しただけで、あっさりとコントロールを回復した。
『フォロン! 逃げろ!!』
レンバルトが叫ぶ。
左側の走行車線を走る輸送車は、追い越し車線のフォロンヘと鼻面を向けた。
後方から追突する気なのだ。いくら大型とはいえ自動二輪と輸送車では重量が全く違う。跳ね飛ばされるか。轢き潰されるか。どちらにせよただでは済まない。
フォロンは加速して迫り来る輸送車を振り切ろうと――
「――え?」
何処か間の抜けた声はレンバルトの発したものだ。
それに続いて――
衝突音。
重量の在る金属と金属がぶつかり合う異音が響く。同時に〈ハーメルン〉のバックミラーに映っていた輸送車の車体が大きく揺れた。
「――!?」
何が起こったのか。
フォロンにも判らない。
輸送車はそのまま――再び白い煙を上げて更に前進する。
車体はフォロンの背に肉薄し……
「え? え?」
そのまま物凄い速度で彼の脇をすり抜けていった。
驚くフォロンの視界に黒い塊が映る。
「……一体誰が?」
そうフォロンが呟いたのは、輸送車の車体に斜め後方から食い込むその塊が、黒塗りの高級乗用車であると判ったからだ。
しかも単に現場に居合わせた人間が巻き込まれたという訳ではないらしい。その高級車はそのまま停止する事無く――むしろ物凄い力で輸送車を押している。事故でも何でもない――明確に輸送車に敵対する意志がその黒い高級乗用車には在った。
だが最もフォロンを驚かせたのは別の事実だ。
よく見ればその黒い車は――白い光に包まれていた。
薄い膜の様な光が車体を覆っているのである。
「精霊雷……!?」
前方の路面はゆるやかに右へ向かうカーブだ。
だが精霊雷に包まれた車は容赦なく直進を続けた。
高級車は基本的にゆったりと走行する為に、車としての純然たる性能がそう高い印象は無いが――その悠然たる走行を支えるのは、大排気量大出力のエンジンから生まれる余裕である。空力抵抗の関係でスポーツ車には速度や加速で及ばない事も多いが、単純な馬力ならば決して劣るものではない。
輸送車は――逃げられなかった。
『オミテック』の文字の書かれた輸送車の車体が、高速道路の外壁と黒い車に挟まれ、金属の悲鳴を上げながら歪んでゆく。更には大量の火花を放ちながら削られていく。路面を擦り白煙を上げ続けたタイヤは、やがて甲高い破裂音と共に裂けた。
がくんがくんと輸送車の車体が跳ねた。
速度が――落ちる。
更に散る火花。更に響く異音。
そして……
「…………」
輸送車がやや傾いた状態で停車した。
辺りにもうもうと立ち込めるのは焦げたゴムの刺激臭を伴う白煙である。
「これは――一体?」
輸送車の横にフォロンは〈ハーメルン〉を停めた。
〈シンクラヴィス〉もフォロンのすぐ後ろに来て停車。レンバルトとユフィンリーが拳銃を片手に降りてきた。
「……どうなってるの?」
「僕にも何が何だか」
そうフォロンは答えるしかない。
黒い高級乗用車もまた、輸送車に食い込んだままの体勢で停まっていた。
ただし車体を包んでいた白い光は既に消えている。
そして――おもむろにその後部座席の扉が開いた。
「――え?」
中から出てきた人物を見て三人が揃って声を上げる。
「カティオム?」
「――皆さん」
照れ臭そうな笑みで少年は一同を見渡した。
「大丈夫でした?」
「いや……大丈夫って……君?」
フォロンは言葉がなかなか出てこない。
レンバルトとユフィンリーに至っては絶句している。
「一体……?」
フォロンの問いはどうして此処に居るのかという意味だったのだが、カティオムは少し勘違いした様だった。
「いえ。彼女が――」
「……彼女?」
カティオムが車内に向けて手を伸ばすと――その手に縋る様にして一人の少女が姿を現す。ぐったりと疲れ切った様子だが、その白く愛らしい顔には微笑が浮かんでいた。
シェルウートゥである。
「じゃあ今の精霊雷は――貴女?」
ユフィンリーの問いに、黒髪の精霊は力ない笑みで頷いた。
「病み上がりでもさすがは上級精霊か……」
レンバルトが感心した様子で言った。
どうして二人がこんな処に居るのかは判らないが――そもそもカティオムは本来なら学校に居る筈の時間帯だ――何にせよシェルウートゥが精霊雷の防壁を展開して車体を保護、その状態で突っ込んだ高級乗用車が輸送車を停めたのは事実である。
三人の神曲楽士と二柱の精霊が停め損なった輸送車を――だ。
無論、異形の黒い精霊達が居らず、好機に恵まれた事も在ろうが。
「――まあ詳しい事は後で聞くとして」
レンバルトは拳銃を携えて歩き出した。
ヤーディオに抜かれた弾倉は既に装填し直してある。改めて遊底を操作して初弾を薬室に装填しながら彼は言った。
「みんな――退がってて」
銃を構えつつ輸送車の前に回り込む。
奇跡的に割れ残っていたフロントガラス越しに運転席の中を覗き込み――更に側面に回り込みつつ後端へと移動。今度は貨物部の中を覗き込んだ。
「……所長」
呻く様な声でレンバルトが言う。
銃は構えたまま。視線も貨物部の中に向けられたままだ。
「なに?」
「一杯食ったみたいですよ――俺達」
レンバルトの言葉は食いしばった歯の隙間から漏れた。
「ブツが在りません」
慌ててユフィンリーとフォロンは輸送車の後部に回り込んだ。
扉が吹っ飛ばされて開かれたままの貨物部後端。
そこには例の長身と短躯の神曲楽士が気絶して倒れていた。どうやら強制的に停止させられた際に何処かで頭をぶつけたのだろう。これはおおよそ問題ない。
だが……
「……そんな馬鹿な」
呟くフォロン。
神曲楽士二人組の向こう――貨物部の奥に厳重にワイヤーと金具で固定されていた筈の耐爆輸送ケースは影も形も見あたらなかった。
一体ケースはいつ消えたのか?
精霊に持ち去らせる事も可能ではあったろうが――そもそも精霊自身は一時的に自分自身の物質擬態を緩めて物質を透過する事も可能だが、何かを持ったまま壁を抜ける事は出来ない。ましてそんな大きなものを抱えた精霊が抜け出ればフォロンが気付かない筈が無い。
何にしても――
「…………最悪」
顔を引きつらせながらユフィンリーが呟く。
遠くから警察車輌のものらしきサイレンの音が近付いてくる。
そして――
「いいや」
全員が背後から投げられた声に振り返った。
「簡単に『最悪』なんて言うんじゃねえよ」
「――ヤーディオ?」
「もっと悪い事が起こった時に、なんて言って良いのかわからねぇだろが」
彼は両腕に精霊を抱いていた。
紅い紅い髪の――
「コーティ!?」
愕然とフォロンが叫んで駆け寄る。
ヤーディオが抱き上げているのはコーティカルテだ。緋色の髪の精霊は意識を失っているらしく――ぐったりとしたまま動かない。
相当に消耗したのだろう。
無理も無い。
だが……最大の問題は彼女が気絶している事ではなかった。
「すまねえ――坊主」
動揺するフォロンを前にヤーディオは言った。
「俺がついてながら、こんな事になっちまって……」
「一体……どうして……?」
コーティカルテは先程と変わらぬ姿だった。
大人の――『真の姿』のままなのだ。
コーティカルテは、必要の無い時は神曲を得ていても本来の姿には戻らない。
そもそも彼女が『変身』するのは伊達でも酔狂でもない。
中途半端なまま十年以上も放置された契約。そして十年を超える封印期間。更には激しい戦闘の後遺症。その他諸々……諸般の事情から彼女はかなり精霊としては不安定な状態なのである。
彼女が普段、少女の姿を採っているのは少しでも安定する為だ。
本来の姿は彼女にとって、強大な力を操れる反面、あまりにも不安定で――それ故に無駄が多く消耗が激しい。この為、コーティカルテはフォロンの神曲の支援が無い場合はまず本来の姿に戻らないし――戻れない。
そして今……既にフォロンは神曲の演奏を止めている。
敵も倒した。
今の彼女が大人の状態でいる意味も必要も無い。
なのに少女の形態に戻っていない。
それはつまり――彼女が自分の身体を制御出来ない状態に陥っているという事だ。
「コーティ……」
ヤーディオからコーティカルテの身体を受け取ってフォロンは抱き締める。
普段より大きい筈の緋色の精霊の身体は――彼の想像以上に軽かった。
「コーティ……!」
駆け付けた警察車輌のサイレンの音と回転灯の光が辺りに満ちる。
警官達が駆け回る慌ただしい足音と、上空を飛び回るヘリコプターの爆音が、まるで糾弾するかの様に一同の背中にのしかかってきた。
「コーティ……!」
悲痛な声で叫ぶフォロンに――しかし緋色の髪の精霊は応えない。
こうして……
追跡劇は一旦の幕を下ろした。
一同の胸に重苦しい敗北感と、最低最悪の結果を残して。
EPILOGUE
ノックの音に彼は振り返らずただ応じた。
「――入れ」
扉の開く気配が背中に触れる。
恐らく振り返れば黒い燕尾服の執事が一礼している様子が見える事だろう。だが彼は窓の外を眺めたまま微動だにしない。する必要を認めない。彼にとって他者とはただ単に『自分でない』だけの存在だ。環境の一部でしかない。他人の声も――それが働突であれ罵声であれ鳴咽であれ――雨や風の音と本質的に差など無かった。
「『コア』の奪取――成功致しまして御座います」
「御苦労」
労いというよりも単に会話を促す為だけに彼はそう言った。
「しかし囮役を務めたイトムロとマガキリ、サクテは当局の手に掴まりました。いかがなさいますか?」
「奴等は何も知らん」
彼は眼前に広がる夜景を見つめながら言った。
以前のクダラ・ジャントロープと同様――所詮は金で雇った使い捨ての駒だ。救出する理由は無い。ましてやわざわざ口を塞ぐ手間を掛ける必要も無い。蜥蜴の尻尾ですらない連中だ。無資格の神曲楽士が増えつつある現在、あの程度の連中はいくらでも補充出来る。
「放っておけ」
「御意」
執事が一礼し――退出する気配。
扉の閉じる小さな音だけがやはり彼の背に届いた。
「『コア』――か。さて」
彼は呟く。
「先代《・・》が苦労して葬ったものだが――今回はどうしたものか」
実の所、彼は『コア』に興味は無い。ただあれがオミテックの――彼の影響下に無い企業や国家の手に渡ると色々と計画に支障が生じる。
だから奪わせた。その程度の事だ。
「しかし……」
ふと彼は報告書の中に在った幾つかの名前を脳裏に思い描く。
コズカの時。発電所の時。クラトの時。何かと妙な因縁を以て絡んでくる連中だった。
しかも何やら『懐かしい』名前も幾つか絡んでいる様だ。
彼自身は《・・・・》会った事も《・・・・・》無い連中だが《・・・・・・》。
「……まあいい」
個々の人間や精霊がどう足掻いた処で止められはしない。
今までがそうであったように。
これからもそうであるように。
彼は密やかに徴笑みながら暗い暗い夜の空を見上げていた。
岩を降ろすかの様な重い足音に――ユフィンリーは顔を上げた。
ノザムカスル大学付属病院の待合ロビーである。
病室を出て駐車場へ向かう途中――全員がそこで動かなくなってしまったのだ。
誰かが休んで行こうと言った訳ではない。ただ……そこで皆の気力が揃って尽きてしまったのである。
レンバルトは無人の受付カウンターに肘をついて。
双子は自動販売機にもたれるように。
そしてユフィンリーは待合のソファに座り込んだ。
独特の重い足音が近付いてきたのは――彼等が骸の様に動かなくなってから、およそ半時間が経過した後の事である。
「マナガさん……?」
シャッターを下ろされた大きなガラス戸の脇――普段は施錠されている夜間用の通用口をくぐって巨漢が入って来た。
身長はゆうに二メートル半を超えている。一見した印象は人間というよりは、後ろ脚で立ち上がった熊に近い。分厚い胸板に広い肩幅。岩の塊に目鼻を掘ったかのような厳つい顔。ただそこに立っているだけでも周囲に圧迫感を振りまくかの様な容婆の中で――優しく瞬く小さな眼は不相応故の愛嬌を醸し出していた。
マナガリアスティノークル――通称マナガ。
ルシャゼリウス市警察・精霊課の捜査官だ。
「驚いた。なんでマナガさんが?」
マナガとユフィンリーとは顔見知りである。
だが彼女にはもう知人を前にして立ち上がる気力もない。
「そりゃあ、事件の最終地点がうちの管轄で、私がここの精霊課だからですよ」
ぼそぼそと声をひそめていても彼の声は腹の底に響く。
「イグロック市警にゃ精霊課は在りませんからね。うちの管轄になるんです」
「ああ……そっか」
「どんな様子ですか……?」
そう尋ねるマナガ警部補の表情は、社交辞令抜きの純粋な心配に曇っている。
ユフィンリーは首を黙って振って見せた。
それでもマナガは気遣わしげな瞳で見つめてくる。彼女は短く溜め息をついてから、気怠い口調で知っている限りの事を説明した。
「病院の医楽士は、調律が狂った可能性が高い――って。強い強制力のある奏始曲を二つも同時に、長時間受けていたせいで、彼女の『身体』の構造そのものに影響が出たんじゃないかって話。でも、そもそも奏始曲を長時間聴いた精霊の状態資料が無いから確定的な事は何も言えない――だそうよ」
これだけだ。
『らしい』『多分』『かもしれない』――そんな曖昧かつ無責任な言葉ばかりで、実際には何も判っていないに等しい。それは医楽士達の責任では無いと、ましてやマナガのせいなどではない事は判っていても、つい説明する口調に棘が生えるのをユフィンリーは押し留める事が出来なかった。
そもそも――医楽士や精霊医の見立てが正しいとは限らない。
フォロンによるとコーティカルテの様子は追跡当初、公園出口の辺りから既に何かおかしかったという。ならば彼女の変調は『地獄変』『天国変』を聴き続けた為ではない事になる。何か他にも原因が在るかもしれないのだ。
「助かります……よね?」
「それは、あたしが訊きたい事よ」
憂鬱な表情を深めるユフィンリー。
巨漢は困り果てた顔でただ『そうですね』と言った。
「そんで? そっちは?」
「え――ああ」
気を取り直した様にマナガ警部補は姿勢を正す。
「やはり、あなた方が追跡していたのは、輸送車ごと偽物でした。本物の方は、カエバ市の住宅地の空き地で乗り捨てられてるのが発見されました。元々、そこですり替わる計画だったようです」
そしてユフィンリーとその仲間達は、まんまと相手の策にハマった。
ちなみに……バケモノみたいな二柱の精霊は物質化を解いて逃走した。警察が到着した事と、コーティカルテの不調の為、ヤーディオが連中から眼を離したわずか数秒の間の事である。
神曲楽士二人と輸送車を運転していた者は逮捕されたが――彼等は最近増えてきたモグリの神曲楽士とその仲間で、単に金と『天国変』『地獄変』の譜面を報酬として仕事を請け負っただけの人間だった様だ。詳しい事は何も知らされていないらしい。
クダラ・ジャントロープの時と同じだ。
雇い主は今頃、ほくそ笑んでいる事だろう。
「……きついわね」
徒労感ばかりが募る。
命懸けの戦いの末に取り戻したのは偽物。
その時、本物の輸送車は何キロも離れた場所に隠されていたのだ。
「中身は?」
無駄と判っての質問だった。
「ありません。痕跡も無しです」
そして捕まえたのは何も知らない蜥蜴の尻尾。
予想はしていたが、改めて耳にすると気が滅入る。聞かなければ良かったとユフィンリーは本気で後悔した。
「追跡しておられた当人に、お話を聞く必要がありますが……」
「そっか。まだ、あの二人の事は紹介してなかったっけ」
フォロンとコーティカルテの事だ。
そういえば――ツゲ事務所の中ではフォロンとコーティカルテ、そしてユフインリーの兄だけがマナガと面識が無い。
以前、マナガはツゲ事務所の面々と食事を共にした事が在る。その際にユフィンリーはレンバルトやユギリ姉妹を紹介している。ただその際――連絡がつかなかった為、フォロン達とユフィンリーの兄は直接顔を合わせた事が無いのだ。
ヤワラベ発電所の事件の際にもマナガはヒューリエッタの護送に出向いてきていたが、事情聴取は別の警官がしていたので、やはりフォロンやコーティカルテと直接話をした事は無い筈だ。フォロン達の側は、この大柄な精霊課刑事の顔を知っているかもしれないが――何しろマナガはただ突っ立っているだけでも異様に目立つ――マナガの方ではフォロンやコーティカルテの顔までは知るまい。
ただ――
「いえ、御名前は存じておりますがね」
マナガは肩を竦めて言った。
「そうなの? ああ――発電所事件の調書?」
「ええ、タタラ・フォロンさんは、そうです、調書で。ただコーティカルテに関しては何と言いますか、まあ以前から少しばかり」
「ふうん?」
意外と言えば意外ではある。
あまりこの大柄な精霊警官とコーティカルテでは接点が無い様にも見えるが――
「それはまた後ほど」
とマナガ。
とても事情聴取出来る状態ではないと病院から聞いているのだろう。
「シェルウートゥは?」
「ええ、ご帰宅なさいました。あちら、最近まで医楽士の治療を受けておられたそうで、そのおかげで今回の消耗も意外と楽に復調なさったそうです」
「じゃあオミ社長とも……?」
「ええ、会いました。詳しい話は後日また伺う事になると思いますが、少なくとも先方はツゲ事務所を訴えるお積もりは、無いようです」
「安心したわ」
勿論――嘘だ。
元々そんな事は欠片も心配していなかった。
それどころではない。全くそれどころではないのだ。
「ああ――それと」
マナガは続ける。
「ケスカナ・デヴリン神曲楽士と、彼のお友達も身柄を押さえました。もっとも――ありゃあ無関係ですな」
「ええ……」
ユフィンリーはぐったりと背もたれに沈み込む。
「私も馬鹿だったわ。よく考えたらあの連中の筈がないもんね」
彼らの望みはあくまでツゲ・ユフィンリーとその事務所の面々が恥をかく事だ。
だとしたら輸送が始まって全ての責任がツゲ事務所に移行してから、妨害してくるべきだろう。未だ管理責任の所在が曖昧だったあの状況で、強奪に出るのは変なのだ。輸送が始まる前に荷物を奪ってしまったら――それもあれだけ大勢の目撃者の前で強奪してしまったら、それは『事件』であって『ツゲ事務所の不始末』にはならない。
それに……
「あの連中にそんな根性あるわけないしね」
諦めた様に溜め息をつくユフィンリー。
そんな彼女に――
「ユフィンリーさん」
語り掛けるその声はマナガのものではなかった。
重くない。低くない。腹に響きもしない。
それは小さな、静かな、そして細く透明な少女の声だ。
――いつからそこに居たのか。
マナガの足元に、小柄な少女が立っていた。
黒いケープと長い黒髪が、白い肌に映える。
幼さを残すその愛らしい顔立ちからは想像もつかないが――この少女はルシャゼリウス市警察・精霊課所属の警察官、マチヤ・マティア警部である。
マティアは体重を感じさせない静かな動きで、一歩前へ出た。
「今日のあなた方の行為は、道交法上、明らかに違法行為です。将都交通局は態度を保留していますが、起訴されれば、かなり不利でしょう」
その整った顔立ちには何の表情も無い。口調もひたすらに事務的でおよそ感情というものを感じさせない。ただしこれが憤怒や嫌悪の感情から来るものではなく、マティアの常態であるという事をユフィンリーは知っていた。
「そうね。ごめんね」
とりあえずユフィンリーは苦笑する。
起訴でも何でもすればいい。
今のユフィンリー達は本当にそれどころではないのだ。
「いえ。でも、お願いがあります」
「なに?」
「これ以上、無茶はしないでください。犯罪の捜査は、私達の仕事です」
ユフィンリーの顔から笑みが消える。
そして彼女は――小さな黒い捜査官に向き直った。
「一つ……訊いていい?」
「どうぞ」
マティアは無表情に応じる。
「依頼された荷物を無事に目的地に送り届けるのは、誰の仕事?」
マティアは、じっとユフィンリーの瞳を見つめる。
そして微かに――本当に微かに笑った。
「それは――あなたの仕事です」
「ありがとう」
「いいえ」
それから……二人の刑事は、事情聴取の段取りや今後の捜査の方針などを大雑把に話してから、去って行った。
先に小さな刑事が通用口に消え、続けて巨漢の刑事が額をごつんと通用□の上端にぶつけて出て行く。
がちゃん――と無粋な音を立てて金属製のドアが閉じるのを見届けてから、ユフィンリーは溜め息をついた。
「レンバルト」
「はい」
「携帯テレビのアイデアも、表彰ものだったわ」
「どうも」
「ペルセ」
「はい」
「社長に同行、お疲れさん。苦情とか、言われなかった?」
「いいえ」
「そか。プリネ」
「……はい」
「あんたのデザイン、これ、やっぱイケてるよ。うちの知名度、急上昇間違いなし」
「……ありがとうございます」
それから――
(フォロン、あんた頑張ったよ。コーティカルテ、あんたもね)
その言葉はユフィンリーの胸の奥に留まったままだった。
そして沈黙を噛み締める事――およそ五分。
「――さて」
ユフィンリーは両手を膝について強引に立ち上がる。
休憩時間はこれで終わりだ。
此処に居てもユフィンリー達に出来る事は何も無い。
だから――
「とにかく今日は帰ろう。明日から忙しくなるから」
レンバルト。ペルセルテ。プリネシカ。
三人の視線が真っ直ぐに、ユフィンリーに集まる。
彼等の瞳に在るのは期待と――ほんの僅かの不安。
(――上等)
胸の内で笑った。
期待を抱くという事は、つまり諦めきっていないという事だ。未だ座り込んで嘆く以外に何か自分達に出来る事が無いかと捜しているという事だ。
(それでこそツゲ神曲楽士事務所の職員だよ)
そして――だからこそユフィンリーは彼等の期待に応える義務が在る。
彼女は彼等の上司なのだから。
「ブツは必ず取り返すよ――私達の手でね」
不敵な笑みを作って彼女は言う。
間髪入れず――三人はただ『はい』と応えた。
ノザムカスル大学付属病院の西側の一角は、精霊科病棟である。
三人の医楽士と五柱の精霊医師を擁し、常に精霊達の治療に備えている。
偶発した『神曲』に悪影響を受けた精霊や、契約楽士の突然の死による緊急の再調律、さらにはごく稀だが悪質な神曲による『中毒』や、不用意に大量の精霊雷を放った為に起きた『欠損』などが、治療対象である。
無論――その頻度は決して高くはない。
だが一度そういった異状が精霊の身に起きれば、それは高い確率で『消滅』へと繋がる。人間に比べると遙かに長い寿命と強大な力を持つ精霊は、しばしば人間よりも遙かに頑健だと誤解されるが――そんな事は無い。むしろ一旦、異常状態に陥ってしまえば人間よりは遙かにあっさりと死んでしまう事も多い。
その為――精霊科は常に緊急処置に対応可能な環境を整え、精霊達の『命』を救ってきたのである。
その精霊科病棟の一室に、今、一柱の精霊が身を横たえていた。
防音病室だ。
中の音は、外には漏れない。
外の音は、中には届かない。
ラジエーターの放熱板を思わせる整音壁に囲まれた白い――どこまでも白い部屋だ。
彼女の身に起きた事を、三人の医楽士と五柱の精霊医は未だ正確には把握していなかった。原因らしい事実の報告は受けているが、その間に在るべき因果関係がはっきりしない。
照らし合わせるべき前例が無いのである。
そも医学とは膨大な実例の上に成り立つ学問である。
だからこそ前例の無い症例には極めて弱い。まして相手が精霊となると迂闊な治療はむしろ逆効果――即死すら招きかねない。そして人間が未だ人間について全知になれない様に、精霊達ですら自分達自身の事を隅から隅まで知っている訳ではないのだ。
たった一つの望みは――彼女自身の契約楽士の存在だった。
まだ若い。青年だ。
医楽士と精霊医は彼に言った。
『眠り続ける精霊に、神曲を聴かせる事』
『時間と共に衰弱してゆく彼女に、全身全霊を込めて神曲を聴かせ続ける事』
それ以外の策を医師達は持たなかった。
故に――
「…………」
青年は神曲を奏でる。
奏で続ける。
たった一人で――横たわり、眠り続ける精霊に向けて。
既に青年が神曲を演奏し始めてから十時間が経過している。だがその間彼は殆ど休みらしい休みをとっていない。食事すらとっていない。呼吸する事すらもどかしく感じながら全神経を神曲の演奏に集中させている。
彼の視線はただただ眠り続ける美しい精霊に注がれている。
「…………コーティ…………」
呟きに――しかし応える声は無い。
ただ青年の奏でる物悲しい調べが部屋に満ちるばかりである。
「……コーティ……コーティカルテ……」
白いシーツにまるで鮮血の如き緋色の髪を広げ、〈紅の殲滅姫〉コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは眠り続けていた。
『消滅』という名の『死』の――その淵で。