PROLOGUE
ケセラテ自然公園は、総面積三四〇平方キロメートルにも及ぶ巨大な公園だ。
潤沢な緑に覆われた楕円形の敷地内には、ジョギング・コースを兼ねた遊歩道の他にもサイクリング・コースが在り、それらの道は緩やかな弧を描きながら他の各種施設――テニス・コートやサッカー・コートを繋いでいる。
これだけでも充分に大規模だが――加えて中心部には、動物園や博物館、更にはキャンプ施設までが備わっている。またそれらの間に人工の池や小川、丘といった変化に富む地形が配置されていて、徒歩であれ自転車であれ、訪れるものを飽きさせない。
しかもこの自然公園――驚いた事に都会のど真ん中に在った。
公園の中からふと視線を転じると、間近にまで迫る高層ビルの群れを見る事が出来る。他の市から訪れる者は皆口を揃えて『不思議な光景だ』という。本来は相容れないもの同土がごく自然に寄り合って、一つの景観をなしているのだから。
ケセラテ自然公園は将都ニコン市に存在するが――その面積の実に七割余りがこの自然公園によって占められており、これを取り巻く様にビル街が構築されているのである。隣接するロナージ市やルシャゼリウス市がこの自然公園の半分の面積である事を思えば、いかにこの公園が大規模なものであるかが分かるだろう。
無論――公園内部への車輌乗り入れは、ごく限られた業務用の精霊駆動車と、巡回警察車や救急車といった緊急車輌を除いては一切禁じられている。
そのせいだろうか――公園の外周には幅三メートル程の歩道を隔ててすぐ大通りが走つているにもかかわらず、ほんの十メートル程公園の内に入つただけでも車の騒音が遠ざかりゆったりした静寂の空気に包まれる事になる。あるいは外周に沿って植えられた大量の街路樹が諸々の無粋な雑音を吸収する役目を果たしているのかもしれない。
何にせよ、公園外の音は耳を澄ませば辛うじて聞こえてくる程度で――誰かと会話を交わしていれば全く気にならない。まるで煩わしい諸々のものを遠ざけられた、秘密の野原を歩いているかの様に。
故に……しばしばこの公園の遊歩道では連れ添って歩く恋人達の姿を見る事が出来る。
もっとも――
(彼女と一緒なら……)
どんなに騒がしい処でも気にならないだろう――とオミ・カティオムは思う。
ゆったりと大きな弧を描く遊歩道を彼は歩いていく。
一人ではない。
自転車を押しながら――『彼女』と共にカティオムは歩いていた。
ただし『彼女』はカティオムの隣を歩いてはいない。自転車を挟んだ向こう側に居る。 自転車は〈リンクス〉――黒い塗装のチボレット製マウンテンバイク。ルシャゼリウス私立高等学校に合格した際、父が祝いにと買ってくれたものだ。フレームは金属ではなくオミテックが開発した精霊鋼で、硬性と弾性を兼ね備えている上に驚く程軽い。高分子ゴム製のタイヤの方が重いくらいだった。
細身で機能性の塊の如きカティオムの愛車。
だが――その愛車の厚みがつまり今のカティオムと彼女の距離だった。
物理的な意味でも。そしてもう一つの意味でも。
「随分――葉が落ちたね」
彼は言った。
遊歩道の両側に植えられた木々の事である。〈リンクス〉の二つの車輪が路面の上に積もった枯葉を踏んで、さりさりと乾いた音を立てている。
「うん。落ちたね」
涼やかな声が応じる。
『彼女』の声はカティオムの耳ではなく胸に屈いていた。深く深く。突き刺さる様に。あるいは染み渡る様に。何気ない一言ですらもカティオムにとっては大事な想い出だ。忘れずそれらを丁寧に積み重ねていけばいつか彼女に届く――そんな気がした。
「もう秋だもんね」
見止げると――空が高い。
「――そうね」
彼の視線を追う様にして『彼女』も空を見上げた。
同じ空を見ている――その事実を思うだけでカティオムは胸が執くなる。
けれど同時にカティオムは気付いていた。彼女の観ている空は彼が見上げる空とは自転車一台分ズレている。同じものを見上げてはいるが全く同じではない。限りなく近い筈なのに手を伸ばせば届く様な距離ではあるのに、自分達は未だ別のものをそれぞれ見ているのだという事に彼は気付いていた。
「……ねえ」
呼び掛ける。
「なに?」
『彼女』は答える。
会話はいつもカティオムから始まる。『彼女』から話し掛けてくる事は無い。
幸か不幸か、その事実の意味が理解出来ない程――彼は愚かではなかった。
「今度さ」
「うん」
「次の日曜日とか」
「うん」
「知り合いが、舞台に出るんだ。ロディウェイの劇場」
「そうなんだ」
断片的な言葉のやり取り。
恐らく他人の耳にはひどく他愛ない会話に聞こえるだろう。
だがカティオムにしてみればそれは――必死に紡く彼女との絆だった。
「『鋼の花摘み』。ヒダ・カスカレットの戯曲。それで……さ」
そこでカティオムは『彼女』を振り返る。
『彼女』の横顔は……まるで木々の間から斜めに差し込む木漏れ日を受けて輝いているかの様だった。何度も見慣れている筈なのに、繊細な線が描き出すその清楚な容貌にカティオムはやはり陶然となる。なってしまう。
だが此処で見とれていてはいけない。
次の一手を――
「チケットが取れるんだけど……」
その言葉は果たして『彼女』の耳に届いたのか否か。
『彼女』の姿が揺れる。
ワンピースの裾が風をはらんで膨らむ様は、大きな花びらの様だった。
長い黒髪を揺らせながら『彼女』は少年の真正面に回り込み、彼を立ち止まらせる。彼女のその行為の意味を彼は知っていた。
「もう……時間?」
少年の言葉に少女は頷く。
美しい――けれと何処か哀しけな笑み。
別れを惜しんでくれている様に見えるのが、カティオムにとってせめてもの慰めだった。
「ごめんね」
ごめんね。
それがいつも彼女の残していく最後の言葉だ。それはカティオムにとって大事な彼女の一言でありながらも――夢の様なひとときの終焉を告げる残酷な宣言でもある。
そして少女は背を向けて駆け出Lた。
容赦なくその華奢な姿が彼の視界の中で小さくなっていく。
「…………」
追い掛けても無駄だという事をカティオムは知っている。
少女の背中はやがて遊歩道を遠ざかり――そして不意に脇へと逸れた。道に沿って生え並ぶ樹木の間にその姿は紛れて……それっきり見えなくなる。
誘いははぐらかされてしまった。
それどころか次に会う約束さえしていない。
だが――
「…………シェルートゥ」
否――だからこそ。
少年はまた此処に来るだろう。
『彼女』に――シェルートゥという名の一人の少女に会うために。
ただそれだけのために。
ACT1 HEARTBREAK
左右から灰色をした建物の列がのしかかる様に迫っている。
いずれも薄汚れていて御世辞にも美しいとは言えない。経年劣化によって細かな亀裂が無数に入った壁や、明らかに漏水の跡と思しき線が上下に走っている壁が、幾つも幾つも続いている。道というよりは建物の裏側と裏側に出来たただの空隙と言った方が正しい印象になるかもしれない。
ロディウェイ大通りから北へ一本入った裏通りである。
表通りは高級レストランや高級ブティックが軒を連ね、歴史的にも有名な劇場や数々の天才画家が個展を開いた画廊もあ在る。道を行き交う人々の衣装は、誰もが上流社会を思わせるきちんとしたもので、道路を走るのも大きく厳つい高級車ばかりであった。
ロディウェイと言えば誰もが想い描くのはこちらの風景だろう。
世に溢れる様々な芸術家志望者達の憧憬を集める『聖地』。
絵画。彫刻。演劇。音楽。種類を問わず成功した芸術家達が最後に君臨すべき場所であり、華やかさにおいてはポリフォニカ大陸屈指と評される芸術の都――その極致。
だから……
「……うわ」
横道を逸れた途端に現れたその光景にタタラ・フォロンは面食らつた。
道路は細く、乗用車が擦れ違う事さえ出来そうにない。信号機も無ければ横断歩道も無い。
交通標識も無い。そもそも歩道が無く――道路の両脇はそのまますぐに建物の外壁だった。
どの建物も古く、その大半は安アパートと雑居ビルである。点在する商店は低所得者層を相手にしているのか、三流ブランドの……あるいは更にその海賊版と思しき商品ばかりを店先に並べている。そういえば同僚のレンバルトが言っていた――ロディウェイの裏通りでは、三百エンかそこらで腹一杯になる量の肉を買えるし、酒だって二百エンばかしで泥酔するくらいに飲めるのだと。無論、品質にこだわらなければ――だが、そういう事を気にする連中はこんな処まで入ってこないのだそうだ。
建物と建物の間の路地にはゴミが散乱している。何処からどう流れ出してきたのか――悪臭を放つ汚水の水溜まりまであった。
要するに裏町なのだ。
あるいは口の悪い連中ならば……いっそ身も蓋も無く貧民街と表するだろう。
一握りの成功者の足元には、無数の屍が横たわっているのが常だ。華やかな芸術の都の裏側となれば、これは当然の有り様とも言えた。ただしそれを当然のものとして受け止めるにはフォロンは未だ若すぎたが。
「これは……何て言うか……」
そんな裏通りに轟くのは――彼の駆る自動二輪の爆音である。
耳にではなく腹の底に震動として直接響いてくる重低音。シートに腰を下ろしてハンドルを握っていると自分の鼓動とエンジンの震動が混ざり合って一つのリズムを奏でている様にも思える。この感覚がフォロンは好きだった。
オンロード・タイプの大型自動二輪である。ゆったりと背を伸ばすライディング・ポジションは長距離のツーリングを想定したもので、後部座席には背もたれも付いている。
大排気量を誇る銀色の巨大なエンジンがフレームに隙間無く詰め込まれていて、その重厚さは自動車にもひけをとらない。車体の形式としては、一分一秒を争う様な競技用とは異なるがーその圧倒的な出力を解放すれば、生半可なレーサー・タイプを遙か彼方に置き去りにするだけの性能を秘めていた。
〈ハーメルン〉――それがフォロンの駆る特殊な自動二輪の名であった。
「――あれかな」
やがて前方に人だかりが見えてきた。
二十人余りの人々が道幅一杯に広がって分厚い人垣を作っている。
粗末な靴。粗末な上着。それだけで誰もがこの裏通りの住人である事が分かる。
化粧をしている女性は一人もいないし、きちんと髭をあたっている男性も皆無だ。〈ハーメルン〉の接近に気付いたのだろう――寝間着の上にカーディガンだけを羽織った老婆が、濁った眼でじろりとフォロン達の方を睨んできた。
フォロンは〈ハーメルン〉の速度を緩めてゆっくりと進んでいく。
前輪で掻き分けているかの様に人垣が左右に割れていく。その奥から出てきたのは――通行規制を敷いていたらしい警官だった。一旦〈ハーメルン〉を停めて身分証を見せると、小さく頷いて通行止めを脇へずらして通してくれた。
『現場』はそこから百メートルほど先に在った。
狭い交差点である。
灰色の作業服に黄色いヘルメットを被った男達が数人、所在なげに道路脇に立っている。その内の一人がフォロン達に気付いて駆け寄ってきた。
交差点の手前――十メートル程で〈ハーメルン〉を停める。
「楽士さんで?」
駆け寄りつつそう尋ねてきたのは、日焼けした大柄な男であった。
胸板は見るからに厚く、袖をまくって剥き出しにした腕も太い。作業服の胸元には『ハダキ』と縫い取りが在った。
「現場監督のハダキ・イエネッツです」
「あ、どうも」
応えてフォロンはヘルメットを脱ぐ。
「タタラ・フォロンです。ツゲ神曲楽士派遣事務所から来ました」
「………」
一瞬――ハダキの表情が拍子抜けした様に緩むのをフォロンは見逃さなかった。
まあ珍しい事ではない。またこうした反応にいちいち不快感を覚える程、フォロンも自意識過剰な性ではなかった。この職業について既に一年余り、自分の容姿と肩書きを並べた時に、どの様な印象を初対面の人間が持つのか――既にフォロンは熟知していた。
同じ男性ながらフォロンの容姿はハダキとは対照的だった。
身長こそ負けていないものの――明らかにフォロンの方が線が細い。骨太さや汗臭さはあまり無く中性的――いや女性的とも言える印象なのである。あるいは長めに伸ばした髪をうなじの辺りで括ってまとめた髪型も、そうした彼の印象を助長しているのかもしれなかった。
「これが書類一式です」
言いながらバイクを降りて上着の内ポケットから書類を取り出す。
ハダキの所属するシャムラ土木工業本社からの工事依頼書。道路交通省並びに建設省からの工事請負認可証明書。第三神曲公社の業務許認可証。そしてタタラ・フォロン自身の身分を示す神曲楽士証明証。
全ての書類にざっと眼を通してから――ハダキの眼に在った怪訝の光は感嘆のそれに変わった。恐らく神曲楽士に直に会うのは今回が初めてなのだろう。
神曲楽士。
それはこのポリフォニカ大陸において他の如何なる職業よりも特殊な存在である。数が少ない事も在るが――何よりその行使する力の大きさとその意味を考えれば誰もが襟を正さずにはおれない相手であろう。
だから実際に神曲楽士に会った事がない者の中では、勝手に想像が膨らんでいく。
それが実際に会ってみると、ちょっと線の細い――しかしそれ以外は何処にでも居そうな青年であったりして、拍子抜けしてしまう訳だ。
もっとも……
「あの……そちらは……?」
怪訝と驚愕の落差でいえば、フォロンはもっと大きな事例を身近に幾つも知っている。彼の所属する事務所の同僚や所長もそうだし、何よりも彼の連れ――未だ〈ハーメルン〉の後部座席に横座りしたままの人物はその最たるものだろう。
少女――である。
オレンジ色のブラウスはフォロンのシャツに色を合わせたものだ。だがその鮮やかな色彩も長く豊かに波打つ彼女の髪に比べると、ひどく地味なものに見えてしまう。
網膜に焼き付く程に鮮烈な――緋色。
それが小柄の少女の背中を覆わんばかりに広がっているのだ。
見るからに気の強そうな――しかし幼いながらも何処か気品の在る顔付きと相まって少女はまるで人の形をした炎の様ですらある。不浄のものを焼き尽くす気高き火焔。そしてその印象は実の所、そう間違ってはいない。
少女は黒いスカートを翻してシートを降りると、そのまま滑る様に歩いて、フォロンのすぐ隣に立った。飾り気のない――無造作とも言うべき仕草である筈なのに何故かその振る舞いには姫君の傲慢さと乙女の可憐さが同居している。
「僕の相棒です」
「相棒……ですか?」
言葉の意味を確かめる様に繰り返しながらハダキが書類をめくったのは、彼女についての書類が添付されていなかったからだろう。神曲楽士公共事業の下請けをする際には、これに直接関与する楽士全員の身分証明が必要となる。また、神曲楽士が楽士以外の者を同行させる場合には、同行者についての記載が認可証明書の該当欄に記入されていなければならない。
神曲楽士は絶大な力を行使し得る。それ故にこそ人々は畏敬を――敬いと同時に畏れをを覚える。そしてその力が正しき道を外れぬ様にと法や理で縛ろうとする。
無理も無い事だ。
神曲楽士の力は世界を奏造《・・》した力であり……それは即ち破壊する力でもある。そして過去には何度かその力が無峯の民の脅威となって吹き荒れた事例が確かに在るのだから。
「しかし――」
「あ……いえ。彼女は……」
径誇そうな表情を浮かべるハダキにフォロンが説明しようとするが――
「書類など必要無い」
少女がその言葉の端を引ったくった。
「我等と人の間に成立し得る契約は――ただ神曲のみ。その様な紙切れに束縛を受ける程私は落ちぶれてはいないぞ」
少女の声は涼やかで愛らしく――しかし語調と発音は何処か古めかしく、そして何より年長者への遠慮というものがまるで無かった。
「………」
きょとん……と少女を見つめるハダキ。
たっぷり五秒はそのまま眼の前の少女を見つめてからようやく彼はその傲慢とも言うべき台詞の意味を理解した様だった。
眼を剥いて『ええっ!?』と驚愕の声を漏らす。
「それじゃ……ええとあの……お嬢ちゃんが……その……?」
「お嬢ちゃんなどと呼ばれる筋合いは無いそ、若造」
少女は肩にかかる緋色の髪を傲然とした仕草で払いながら胸を張った、
同時に隣でフォロンが『あちゃあ……』と呟きながら片手で顔を覆っているが全くお構いなし――少女は朗々と名乗りを上げた。
「我が名はコーティカルテ。コーティカルテ・アパ・ラグランジェスだ」
……太古の昔。
この地上に発生した最初の生命は肉体を持たないエネルギー状の生命体だったと言われている。無論それが発生学者の言う様な量子力学的な、偶然が累積した結果なのか、あるいは奏世神話に記された如く、たった一柱の神が四対の手を使って創り出したものなのかは別にして――だ。
ともあれ……ある学説によれば、そうして誕生した最初の生命は、やがて過酷な環境に打ち勝つために進化を重ね、二つの系統樹へと枝分かれしていったのだという。
枝の一つはエネルギー生命体同士で結合する事で、強大化及び複雑化する道を。
枝の一つは不安定なエネルギーを、物質という殻で包み込んで保護する道を。
いずれの系統も永い永い歳月の後にそれぞれの進化を遂げていく。
その結果――肉体という物質の中にその生命を埋め込み活動する存在は『生物』となり、肉体という『器』を持たずとも強く自らの生命エネルギーを結合させて自存し得る存在は『精霊』になった。
この学説がそのまま真実であるのかどうかは分からない。
だが精霊に最も近しいとされる人々――神曲楽士達の中にはこの説を支持する者も少なくない。元々同じものであるからこそ……道こそ別れたものの根源を同じくする兄弟の如き存在であるからこそ、人間と精霊は手を取り合う事が出来るのだと。
世界に溢れる『知性在る何か』。
人間達の不可思議なる隣人。
それらを人々は『精霊』と呼び――時に畏れ、時に敬い、時に愛した。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
彼女はそうした精霊の一柱なのだった。
「……こりゃ……たまげた」
ハダキは改めてコーティカルテを見つめる。
「いや……こんな精霊さんは初めてだよ」
大柄な土木作業員の言葉にフォロンは苦笑を浮かべた。
初めてコーティカルテと出会った時にも彼はそう思ったからだ。いや――そもそも彼女が精霊であるとは判らなかった。当時の彼女は今とは少々姿が違っていたが、何にしてもただ美しい女性だと思っただけだった。それが人間以外のものなのだと気付いたのは随分後になってからの事である。
それはさておき。
実の所――このポリフォニカ大陸において精霊はそれ程に珍しい存在ではない。日常生活においても精霊を眼にする機会は沢山在る。特に明確な人格を持つ中級以上の精霊には、法に従う限りにおいて人間と変わらぬ人権が保証されている。
その結果として、精霊自身が望めば――更に言えば必要な技能さえ備えていれば――人間と同じ職業に就く事さえ可能だ。昨今は特に法整備が進んできており、精霊の各分野への進出も増えている。あるいはハダキの職場にも精霊が居ても不思議は無い。
とはいえ色々な意味でコーティカルテは精霊の常識から外れている。
人の姿を採る中級あるいは上級精霊も少なくはないが、精霊の象徴とも言うべき光の羽根を隠して完全に人間の姿に擬態している精霊は少数派だろう。
「どういう意味だ」
唇を尖らせるコーティカルテ。
どうやら自分が変わり者の精霊であるという自覚が薄いらしい。
「まあまあ」
苦笑してからフォロンはハダキに向き直る。
「それで……問題の物件は?」
「ああ。それですよ」
言いながらハダキはフォロン達に背を向けて真っ直ぐに交差点の北東を指差した。
狭苦しい交差点――十字路を構成する角の一つ。
木造アパートだ。見るからに旧い印象でフォロンの眼にはいつ倒壊してもおかしくない様な老朽具合に見えた。
だがそれだけだ。
「……?」
フォロンは首を傾げながらもその建物に向かって歩き――そこでようやくその建物の状態がどう『問題』になっているのかを理解した。
「うわ……」
思わず驚きの声が出る。
壁が無かった。
木造三階建てのアパートの交差点に面した外壁がごっそりと扶り取られているのである――しかも直径五メートル程の綺麗な円形にだ。恐らく壁としては残っている部分の方が少ないだろう。
「何があったんですか!?」
「それが分かりゃ苦労はしませんよ」
扶られた奥には、壁や床の断面が見える、そしてよく見ればそれらの断面はまるで鋭利な刃物で切り取られた様に滑らかだった。壁だけでなく中に置かれていた家具の類も同様の状態になっている。
倒壊した訳ではない。切り取られたのだ。
それも――
「………」
フォロンは恐る恐る近付いてみてその惨状を確認する。
見れば見る程に奇妙な状態だった。ただ壁を切り取っただけではない。断面が斜めに湾曲しているのだ。円の外周付近では外壁が挟られているだけなのに対し、円の中心部に向かう程に断面が深い――即ち部屋の奥まで届いている。フォロンは何となくスプーンでアイスクリームを掬い取った後を想像した。
何か球状のものでこの建物を切り取ったのだろう。
だが――
「俺もこの仕事は長いですがね」
忌々しげにハダキは顎の無精髭を撫でる。
「こんなのは初めてですよ。残骸だって残っちゃいないんですから」
つまり扶られた部分は消え失せたという事か。
ハダキの説明によると一昨日の朝に住民が気がついたらこうなっていたのだという。
「あの……怪我人とかは……?」
「そいつは不幸中の幸いって奴ですかね。まあ元々住んでた人間も少ないですし、壁際に寝てた人間は一人もいなかったみたいで」
「そうですか……」
ハダキの言葉に安堵の吐息をつくフォロン。
だがいずれにせよこのままではいつ倒壊してもおかしくはない。元々がかなり老朽化の進んでいる建物なのだ。現にもう切り取られた壁の方向に向かって建物全体が傾いてきているのだとハダキは言った。
だからこそフォロンの出番と相成った訳だ。
つまり彼の所属するツゲ神曲楽士派遣事務所が請け負ったのは、つまり、この建物の取り壊し作業である。
本来ならば専門の土木業者が行う処なのだが――この狭い路地裏では建築物解体用の大型重機が入れない。かといって手作業で解体するには危険が大きすぎる。そこでシャムラ土木工業トルバス南支店は本社に報告、本社は建設省に報告、そこから第三神曲公社に依頼書が回され、更にツゲ事務所へと仕事が回ってきたのである。
「正直我々じゃお手上げでして。よろしく頼みます――楽士さん」
「はい。何とかやってみます」
フォロンはそう答えてから――相棒を振り返る。
「コーティ?」
「任せろ」
少女は得意げな表情で前に出る。
「こんな建物の一つや二つ、一撃で吹っ飛ばして――」
「ちょ……待って待って待って!」
やはりフォロンの懸念通り、この紅い髪の精霊は全く分かっていなかった。
「なんだ?」
「いや……だから単に壊すだけじゃ駄目なんだってば」
「そうなのか?」
「そうなの」
タタラ・フォロンは溜め息をついて――それから苦笑混じりに説明した。
交差点に面している西側と南側はともかくとして、問題のアパートの裏側、即ち北側と東側は隣の建物との問に一メートルの余裕も無い狭陞な路地である。恐らく最も狭い所は五十センチ程しか在るまい。
更にこの辺りは未だ電線の埋設化があまり進んでいないので、家庭用電気の架線は電信柱を用いて空中に張り巡らされている。無論アパートの前にも電柱が在る、下手にこの電線を傷付ければ辺り一帯がいきなり停電しかねない。
「つまりだね」
フォロンは根気よく説明した。
「周りを傷付けない様にしてアパートを壊さなきゃいけないんだよ」
「ほう」
「いや……あの。ほう……って……コーティ。分かってる?」
「分かっている。周りに被害を及ぼさずにあの建物を解体せねばならない。それも出来るだけ早急に。そしてそのためには精霊のカを使う他無い――と。それで?」
「考えられる方法としては大きく分けて二つあるんだ」
フォロンは指を二本立てて言った。
「一つは外側から内側に向けて壊す方法」
「……むむ?」
首を傾げるコーティカルテ。
「元々は高層ビルとかの撤去に使われる方法なんだけども……具体的にはハダキさんが指示してくれるけど、ほぼ同時か、微妙な時間差で、それも別々の角度、場所を壊さないといけない」
そうする事で建物を――まるで空気の抜かれた風船が萎むが如く『外側から自らの内側に向けて』倒壊させるのだ。ただし当然だがこの作業は非常に難しい。わずかに角度や時間が狂っただけでも壁は外側に向かって倒壊し、周囲に被害を及ぼすだろう。危険な方向に危険な速度で破片が飛ぶ場合も在る。
要するにかなりの精密さを要求される作業なのだ。
「もう一つは……大量の精霊を使って解体する方法」
即ち下級精霊を大量に呼び寄せて使役し解体させるのである。こちらは言うなれば蟻の群れが自分達の何倍、何十倍もの獲物を解体して巣に運び込む様なものだ。爆発的な力を使わない分、安全性は高い。また下級とはいえ精霊――建物の倒壊に巻き込まれて死ぬ様な事は無い。
下級精霊達の一体一体は上級精霊に比べると非力だが、数が揃えば一体の上級精霊よりも融通が利く事も多い。
こういうのはレンバルトが得意なんだけどね――と何やら弁解する様にフォロンは言った。ちなみにその同僚レンバルトは現在、別件で出払っている。時間的に余裕が在れば彼の帰還を待っても良かったのだが、建物の状態が状態だけに急を要し――フォロンが派遣される事となったのである。
「それでさ……」
真っ直ぐに彼を見つめてくる紅い髪の精霊から――フォロンは何処か決まり悪そうな様子で目を逸らした。
「これ……ボウライとジムティルに任せられないかなあ――って思うんだけど」
「なに?」
コーティカルテは柳眉を逆立てながら言った。
ちなみにボウライは飛翔型の下級精霊、ジムティルは地中を主な棲息圏とする、やはり下級精霊である。前者を見た事の在る者は多いが後者は少ないだろう。ボウライは時折、ふわふわと空中を漂っていたりするのが日撃されるが、モグラの様なジムティルはわざわざ呼び出さない限り人目に触れる事は先ず無い。
「ほら、やっぱり安全な方を取るべき――」
言い訳する様に慌てて言葉を続けるフォロン。
だが……
「駄目だ」
「コーティ……」
「駄目だ。フォロンの神曲は私だけのものだ。他の精霊に聴かせてやる義理などない」
鳴呼やっぱり――と胸の内で嘆息するフォロン。
予想出来た答えではあった。
「でもね、コーティ……」
「私がやる。一つ目の方法を選択しろ」
「かなり細かい作業だよ?」
元々コーティカルテは大雑把な処が在る上に、外見に似合わず強大な――強大過ぎる程の力を持っているため、どうしても精密作業は苦手なのである。大砲で金貨一枚を狙う様なものだ。確かに金貨そのものは吹っ飛ばせるだろうが、吹っ飛んで欲しくない周りの一切合切も一緒くたに消し飛ばしてしまう。
「コーティ、細かい作業は苦手でしょ。だからさ……」
「………」
コーティカルテは上目遣いにフォロンを睨む。
まるで拗ねた子供の様な――というか実際にその姿は十代半ばの子供そのものなのだが――表情にフォロンは若干たじろいだ。怒鳴られたり殴られたりは覚悟していたが。まさかこういう反応をされるとは思っていなかったのだ。
「いや……あの……」
「………」
「……だから……」
「………」
時計の秒針が一周する。
結局折れたのはフォロンの方であった。
「分かったよ……でも気を付けてね。本当に難しいんだから」
「うむ」
一転して満足そうに笑うコーティカルテ。
「そういう訳だから――ハダキとやら。説明するがいい」
「……はあ。おい――トガク!」
鷹揚に言って寄越すコーティカルテにやや困惑気味の表情で応じてから、路肩にしゃがんで図面を広げるハダキ。彼に呼ばれた技術担当らしき若い作業員が.人やってきて、図面を指差したりしながらコーティカルテに説明を始める。
コーティカルテは素直に説明を聞いている様だ。ハダキ達の隣にしゃがんでトガクの説明に何度も小さく頷いている。
その様子を眺めながら――しかしそれでもフォロンは若干の不安を胸に抱えていた。
やはりレンバルトが先の仕事を片付けて駆け付けてくれるのを待っていた方が良いのではないかという気がしてくる。
サイキ・レンバルトはフォロンと同じ神曲楽士ながら、中級以上の精霊を引き寄せる事が出来ない。明らかに天才であるにもかかわらず、下級精霊しか彼の神曲は惹き付けないのである。
だがその一方で、彼は 度に数百の下級精霊を召喚し、正確に使役することが出来る。
これはレンバルトの能力がフォロンに比べて高いとか低いとかそういう問題ではない。明らかに神曲楽士としての方向性が違うのだ。確かにフォロンはコーティカルテを使役しているが、どんなに頑張ってもレンバルトと同じ様に大量の精霊を迅速で正確に使役する事は出来ない。学生の頃から天才の名をほしいままにしてきた所長のツゲ・ユフィンリーですらも『さすがにアレは無理』と認めていた。
漫画と油絵。童話と小説。あるいは流行音楽と古式楽曲。
同様の技術に立脚していてもその形式はそれぞれ異なり対象とする存在もまた異なる。
百人の神曲楽士が居れば百通りの得意分野が在るのだ。
そして今回の様な現場で在れば――どう考えても適任者はレンバルトだ。
だが前述の様にレンバルトは現在、別件で出払っている。こちらの仕事も緊急を要するとかで――相手はこれまでにもツゲ神曲楽士派遣事務所を懇意にしてくれている大手であり、しかもレンバルトを指名してきたのである。これで断れる筈も無い。
そういう訳でレンバルトは夕方までそちらの仕事に行っていて身体が空かない。
生憎と所長も別件で留守。
ツゲ事務所に残る神曲楽士はフォロンだけ。
そういう状況下でこのアパート解体の仕事が回ってきたのである。
実を言えば神曲楽士の資格こそ持っていないものの、ツゲ事務所には神曲を扱える者がもう一人いる。だが彼女は立場上はアルバイトだし、何より未だ下級精霊を精々五体程使役できるだけなので、まさかこの様な現場に出す訳にはいかない。
そういう訳でフォロンが仕方なく出てきた訳だが――
「………」
フォロンの不安のタネは、やはりコーティカルテである。
彼女は、フォロンの神曲を他の精霊に聴かせることを、極端に嫌う。彼の神曲をとにかく独占しようとするのだ。そして上級精霊である彼女が睨みをきかせている限り神曲を奏でても下級精霊達は遠慮をして寄ってこない。だからどんな現場であっても、フォロンはコーティカルテ以外の精霊とチームを組む事が出来ないのだ。
コーティカルテに不満が在る訳ではない。むしろ自分には過ぎた精霊だと思う事はフォロンとしても多々在る。だがそれでもフォロンとレンバルトがその得意分野を異にする様に精霊にも適材適所、向き不向きというものが在る。
神曲楽士としてフォロンがこれからも仕事をしていく上で、コーティカルテ以外の精霊を使役する事が出来ないのは、明らかに不利ではあった。
だからこそ今回も様子見というかお試しというか、そういう提案をしてみた訳だ。
とはいえ――
『私は、お前を私だけのものにしたい』
『お前の描き出す魂の形を私だけのものに』
『浅ましい願いだという事は分かっている。身勝手である事も承知している。ひょっとしたらお前の神曲楽士としての未来を歪める事にすらなるのかもしれない。だが――私はどうしてもお前を独占したい……だから』
『百万の精霊の代わりに私が働こう。百万の精霊の代わりに私がお前を支えよう。百万の精霊よりもより強大な力となってお前に仕えよう。それでは、駄目か……?』
――かつてコーティカルテが言った言葉。
それをフォロンは覚えている。
一字一句漏らす事なく彼は覚えている。
嬉しかった。震える程に嬉しかった。
だからフォロンはコーティカルテと契約を結んだ。精霊契約。その事によってコーティカルテは自らをフォロンの奏でる神曲に合わせて調律し――精霊風に言えば『フォロンの魂の形』に自らを染め上げる道を選んだ。これが精霊にとってどれだけ危険を伴う行為であるかをフォロンは知っている。それはつまりたった一人の神曲楽士に事実上束縛されるという事なのだから。
だからこそフォロンは、彼を独占しようとするコーティカルテの言葉に逆らえない。
無論――神曲楽士は契約を結んだ精霊の求めに応じて優先的に神曲を提供する義務は負うが、契約対象の精霊以外に神曲を提供してはならない訳ではない。実際、所長のユフィンリーなどは契約を交わした精霊が二柱居るというし、他にも中級上級の精霊を適宜召喚して使役している。
だからこれはコーテイカルテの我が侭と言えなくもないのだ。
だが――
「よし――分かった」
どうやら説明が終わった様だ。
コーティカルテは意気揚々と胸を張り、それどころか余裕の笑みまで浮かべている。フォロンと違って彼女はやる気満々らしい。それがまた余計にフォロンの不安感を刺激するのだが。
「七ヶ所の柱を同時に折ればいいだけだ。楽勝だな」
「大丈夫?」
「何がだ? 私の力は、何度も見ただろう」
「そりゃまあ、見たけど……」
だから余計に……とは言えなかった。
「じゃあ……やる?」
「うむ。早速取りかかるぞ」
一縷の望みを託した最終確認であったが、やはりコーティカルテはやる気らしい。
仕方がない。フォロンは〈ハーメルン〉にとって返すと燃料タンクの上に在る神曲公社の紋章を押し込んだ。
内蔵大型バッテリーによってそれまで眠っていた機構に『火』が入る。
ばしゃり――と響くのは金属音。無数の歯車と発条が一斉に作動して折り畳まれていた各部が展開する。金属製のアームが滑り出し、あるいはレールに沿って部品がスライドし、次々と内蔵されていた部品が『もう一つの定位置』に向かって自動的に移動する。
無骨な大型自動二輪が、花開く様に一回りその大きさを増した。
僅かに数秒――見守る作業員達が、おお、とどよめく中でその大型自動二輪は『変形』を完成していた。
背後から獲物を捉える蜘蛛の脚の如くフォロンを包み込む何本ものアームやレール。その先端にはそれぞれ高出力の小型スピーカーが、演奏情報投影装置が、あるいは数十個のボタンやスライド・スイッチの並んだ制御盤が備わっている。しかもそれらは全てフォロンの手の届く場所に彼を向いて配置されているのだった――まるで戦闘機か何かの操縦席の如くに。
そして――
「――よし」
最後に彼の真正面に回り込んできたのは鍵盤だった。
何十という白鍵と黒鍵の並びはピアノやオルガンのそれと同じである。
そう――これは楽器だ。
単身楽団。
それは――本来は楽団規模の集団が奏でるべき音楽を、たった一人の人間が扱える様にするため、各種最新鋭の自動演奏装置を併用させた特殊なシステムである。
しかも〈ハーメルン〉は本来、背負子の様な形で運搬されていた単身楽団システムを自動二輪の筐体に組み込んである。使い手の機動性を確保するための実験的なシステムで――言うまでもなくこれは試作品である。車種を問わず未だ同様のものは十台と造られていない筈だった。
フォロンはゆっくりと〈ハーメルン〉を動かして交差点の真ん中に進み出る。
無数の視線が彼に集中していた。彼の行動を見守っているのは作業員達だけではない。見れば四方に伸びた狭い道路は、どれも百メートルほど先で通行が規制されていて、その向こうには町の人々が人垣をつくっている。
彼等の視線はいずれもフォロンを向いている。
当然だ。
〈ハーメルン〉の事も在ろうが――何より神曲楽士とはそれだけの注目を浴びるに足る特殊な存在である。ある種の花形職業でありながら、その実体は憶測と風聞の幕に覆われて、神曲楽士を一般人が直接眼にする機会は意外に少ない。
「…………」
じわり……とフォロンは掌に汗が滲むのを感じた。
学生時代と違う。失敗すればそれは自分の恥になるだけではない。彼の能力を認めて雇用してくれている所長や同じ職場で働く同僚にも迷惑がかかる。神曲楽士という職業は明確な能力基準が存在しないため、失敗は、即座にその能力への懐疑に繋がり――ひいてはその神曲楽上の所属する事務所に対する評価にも繋がる。
彼は掌をズボンの太股辺りに何度も何度も擦り付けた。
だが――
「――フォロン」
正面に回り込んで、コーティカルテが彼を見上げる。
「私を信用しろ」
彼女は自信たっぷりの笑みを浮かべている。
未だ容姿に幼さを引きずる少女の様な――実際の年齢はともかく――コーティカルテがそんな表情を浮かべているのは、ある意味で滑稽でもあった。事情を知らぬ者ならば『立場が逆だ』と笑ったかもしれない。
しかしフォロンは気持ちが落ち着くのを感じた。
コーティカルテと契約してから既に三年。彼女が真剣な場面でフォロンの期待を裏切った事は一度も無い。どういう形であれ『やる』と言ったら彼女はやるし――たとえ何かの不都合が起きても最後に必ず帳尻を合わせてきた。
だからフォロンは頷くのだ。
「うん……分かった」
「よし。では支援を頼む」
言ってコーティカルテが背を向ける。
「あ――コーティ、マイク」
「分かってる」
鷹揚な仕草で片手を振って応じるコーティカルテ。
フォロンは苫笑を浮かべてモニタースピーカーの一つをコーティカルテの持っている小型マイクに――正確にはその電波送信機に割り当てた。
建物の内外では音の響き方が変わる。それを調整するために内側でコーティカルテの現に聞いている音を、外側のフォロンも確認しておく必要が在るのだ。
アパートの正面は三段ほどの階段になっていて、玄関は開け放たれていた。
その中へ緋色の髪の少女が入って行くと同時に――フォロンは演奏を開始。
…………ろおん……
最初の音は――『ラ』のシャープ。
そのたった一音に反応して〈ハーメルン〉の単身楽団が作動を開始する。
……………………
……………………
先陣を切るのは淡々としたピアノの旋律。
軽やかに――そして鮮やかに。
硬く鋭くしかし何処か優しい響きが次から次へと繋がっていく。
一音が消え去る直前に次の一音が生まれ、更にその音の消滅と共にまた新たな音が生まれ……それはまるで生命の連鎖の様に延々と連なりながら大きな弧を描いて最初の一音に戻ってくる。
繰り返し。繰り返し。繰り返し。
まるで螺旋を描くかの如く。
やがて――
…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ピアノを追う様にして響き渡る分厚い伴奏。
単身楽団システムに内蔵されていた封音盤が回転を始め、演奏情報を幾つもの電子機器に供給していく。恐ろしく緻密な――時に演奏者の逡巡や躊躇さえも、緊張による指の震えや呼吸の乱れさえ捉えて反映するピーキーなチューニングの装置群は、大量の演奏情報を処理しながら一つの音楽を――音による『風景』を造り上げていく。
基本的な曲調は穏やかなものだ。
川面を渡り行く風の様に、静かに、そして柔らかく、電子的に再現され更には加工されたビアノや各種楽器の音が放たれる。それらは悠然とうねりながらゴミゴミと肩を寄せ合う建物の間をすり抜け、路面を、壁面を撫でて、周囲に拡散していく。
世界が――音楽に染まる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!
ただ幾重にも音を重ねているだけではない。
ただ大きな音で演奏しているだけでもない。
風の動き、建物の配置。反響物の材質。残響音。温度。そういったものは全て音の伝播に影響を及ぼす。それらを全て考慮しつつ自らの想い描いた音を組み立てていく。
全てを把握し。全てを俯瞰し。全てを理解し。
そして全てに影響を及ぼす。
それは確かに世界を造る事と同義だ。
かつて奏世神はこの神曲によって混沌の中に秩序と意味を与え世界を造り出したのだと言われている。そして伝説が真ならば神曲楽士達はその正当な後継者といえる。
故にこそ彼等は怖れられる。彼等は敬われる。断片的とはいえそれは神の力を行使するのと同じ事なのだから。
そして――
――おお……
いつの間にか眼を閉じて演奏に集中していたフォロンは――聴衆のどよめきに促される様にして瞼を開いた。
アパートが光っている。
紅く。紅く。紅く。紅く。
否――アパートそのものが発光しているのではない。窓から、玄関から、そして何より円形に挟られた孔から、大量の紅い光が漏れている。それらが辺りを照らし眼に見える風景の色彩さえ塗り替えていく。光は周囲の埃にさえ反射しているのか……空気までもが紅く染まっているかの様だった。
(――頼むよ。コーティ)
胸の内でフォロンは呟く。
呟きながら更に彼女のために曲を紡いでいく。
モニターから聴こえる音を頼りにエフェクターの設定を調整し、音色を変更し、あるいは曲の速度を変化させ……ただ一人彼女のために造られた曲を、更にこの場の彼女に最適化して届けていく。
精霊たる彼女のために捧げられる調べ。
――神曲。
本来、その生命形態の違いから殆ど人間社会と接点を持たなかった筈の精霊が、今日、こんなにも有り触れた存在になっているのは、それが精霊にとって『美味』な『報酬』足り得るからだ。人間はこの神曲を奏でて精霊達に提供する事によって、精霊との『取引』を可能としている。
だが音楽なら何でも良いという訳ではない。
例えば磁気テープや封音盤に記録された演奏情報から音楽を再生し流しても、それは神曲とはならない。それはただの音楽でありそれに惹かれてくる精霊は居ない。
あくまで生演奏――どれだけ細部を機械化したところで、演奏者がその場で直に演奏しなければ、それは神曲としての効果を発揮しないのだ。
これがどういう理由によるものかは未だはっきりと分かっていない。一説には神曲というのは単なる媒介物に過ぎず、もっと別のもの――たとえば精神エネルギーの様なもののやり取りが精霊にとっての報酬になっているのではないかと言われている。
また生演奏であれば必ず神曲たり得るのかと言えばこれもそうではない。
精霊にも好みがあるのだ。
料理でも万人向けする味も在れば、一部の者にしか受け入れられない珍味の類も在る。それと同じく、神曲にしても満遍なく多くの精霊を惹き付けるものも在れば、たった一体の精霊しか惹き付けられないものも在る。そしてそのたった一体さえ惹き付けられない場合にはそれは最早、神曲ではない……という事になる。
何にせよ神曲とは精霊と人を繋ぐものであり、それを演奏するのが神曲楽士だ。
それはそのまま今のコーティカルテとフォロンにも当てはまる。
フォロンが現在演奏しているのはコーティカルテのために作曲して彼女に合わせて編曲を繰り返した支援楽曲の一つである。
彼女の心をしず鎮めその感覚を研ぎ澄ませるための音楽。
「………」
フォロンは鍵盤を叩く指先に意識を集中する。
同時に――建物から漏れる深紅の光がひときわその輝度を増した。
フォロンの位置からは確認出来ないが、コーティカルテは恐らく建物の中心部に立って全身にカを――精霊雷を漲らせながら、最適な機微を測っている筈だ。この光は全て制御しきれずに漏れ落ちてきた彼女の力そのもので、言うなれば圧倒的な彼女の力のごく一部、片鱗にすぎない。
フォロンの支援楽曲が更に広がりと深さを増す。
すっ――と光が収まっていく。
彼の支援楽曲の効果によりコーティカルテの力の隅々にまで制御が行き渡ったのだ。その結果として光の形で無駄に放散されていた希薄な精霊雷も収まっていったのである。
そして――
「……よし」
半ば無意識にフォロンがそう呟く。
次の瞬間――
――どんッ!!
安アパートは大きく震えた。
地鳴りめいた轟音に晒され、作業員達や、どうなるのかと注目していた人々がびくりと身を震わせる。
続くのは――静寂。
アパートは何事も無かったかの様に静かにそこに在る。
見守っていた人々は怪詩そうに顔を見合わせた。恐らく失敗したのだと思ったのだろう。
だが――
「おう!」
ハダキが声をあげた。
そして崩壊が始まる。
一瞬、アパートの輪郭がよじれる様に歪んだかと思うと、次の瞬間、見えない手が伏せた紙コップを圧し潰すかの様に――建物の四方の壁が、ぐしゃり、と内部に向かって倒壊し始めたのである。
「やった!」
フォロンが叫ぶ。それは快哉だった。
彼の相棒が――契約精霊がその務めを見事に果たした瞬間だった。
そう。まさしく『瞬間』だった。
瞬間でしかなかった。
次の一瞬で――事態は一変していたからだ。
『――あっ』
モニターから軽い驚きを含んだ声が漏れる。
言うまでもなくそれはコーティカルテの声だ。
「コーティ!?」
地鳴りのような音を立てて、大量の土埃を巻き上げながら崩れてゆく建物。
大量の破片が飛び散り、それを追う様にして塵煙の塊が膨れあがる。
その内部で――
――轟ッ!!
大気そのものが破裂するかの様な爆音を放ちながら、紅い閃光が炸裂した。
「……ッ!?」
愕然と目を見張るフォロン。
青空に向かって屹立する――紅い光の柱。
それが何なのかフォロンは瞬間的に悟っていた。規模や形状こそ違うが、それと同種のものを彼は何度も何度も間近に見ていたからだ。
「なんだッ!?」「何が起きた!?」
悲鳴じみた声を上げる作業員達。
倒壊しつつあった柱が、壁が、床が……そのまま地面の上に折り重なって堆積する筈だった諸々の瓦礫が、光の柱の中で粉々に砕かれる。それでも足りぬとばかりにその烈火の如き光の柱は上空に漂っていた白い雲をも貫き――恐らくは小山程の大きさであった筈のそれを一瞬で消滅させた。
蒸発したのであろう。
信じ難い程の威力であった。
時間にすればほんの数秒――瞬く間と言っても良い程の出来事だった。
ばらばらと小粒の雹の様に、細かく砕かれたアパートの残骸が、道路に、周囲の建物の屋根に、そして人々の頭上に降り注ぐ。作業員も見物人達も最初の轟音の時点で頭を抱えて地に伏せていた。
一体何が起こったのか。
「コーティ……?」
呆然と呟きながら半ば無意識にフォロンは〈ハーメルン〉から降りた。
「コーティー!!」
叫んで彼は駆け出していた。
アパートの残骸――とも最早呼べない様な瓦礫の山に向かって。
ほんの数秒前までそこには確かにアパートが建っていた。小さいとはいえ集合住宅、側に寄れば見上げる様な屋根の高さと視界に収まりきれない程の横幅が在った。
だが今やフォロンの眼の前に在るのは、高さ三メートル程の小山にすぎない。細かく砕かれた残骸が堆積して出来た――文字通りに瓦礫の山だ。
「コーティ!! コーティカルテ!!」
必死の形相で相棒の名を呼ぶフォロン。
彼が思わず手で瓦礫の山を掻き分けようとしたその時――
「――此処だ」
小山の頂上付近がこそりと動いた。
「コーティ!」
駆け寄ろうとして――しかし膝まで残骸に埋まってつんのめるフォロン。
代わりに埃まみれの少女がふわりと宙に舞い上がり、まるで体重が無いかの様な動きで空中を滑って彼の側に降り立った。何やら胸の前で腕を折り畳んで――何かを抱え込んでいる様である。
「……許せ、フォロン」
契約楽士の前に立つと、彼女は何ともバツの悪そうな表情で言った。
「――え?」
「途中で気がついたのだ」
七つの方向への精霊雷の同時発射。
そこまでは何の問題も無かった。フォロンの支援楽曲を得ていた事もあって狙いも正確無比――普段の大雑把な彼女からすれば、神経質とさえ言える精密さで目標点を撃ち抜いていた。あとは迅速な脱出のみ。コーティカルテにしてみればそれは簡単な事だった。
だが……その時。
それまで物陰に隠れていた小さな生き物が、轟音に怯え、恐慌状態でコーティカルテに向かって飛び出してきたのである。
「建物の倒壊くらいなら私は平気だが――こいつはそうもいかんだろうし……」
飛び出してきた生き物を胸元で受け止め、それが何であるかを理解した瞬間、彼女は咄嵯に――つまりは普段の様な制限を掛ける事無く、精霊雷を放っていた。
「……すまん」
項垂れるコーティカルテ。
だが苦笑を浮かべてフォロンは首を振った。
障壁を張るのではなく落下してくる瓦礫を破壊する方を選んだのは、殆ど無意識――つまりは彼女の性格故の事だろう。だがそれでも四方へではなく上方へと精霊雷を放ったのはフォロンの言葉を――周囲に被害をもたらしてはならないという彼の頼みを、咄嵯の状況でもきちんと彼女が覚えていた証拠だ。
その時――
「カナミア! カナミア!!」
女性の金切り声が響く。
驚いてそちらを振り返ると、現場封鎖をしていた警察官の手を振り切って、一人の中年女性がフォロン達の方に向かって駆けてくる。
「カナミア!! ああ、この子は! 心配してたのよ!!」
太ったエプロン姿の女性はそう言って両手を広げる。
コーティカルテが胸に抱いて守っていた小さな生き物は――恐らく生後数ヶ月といった処の子猫は、にあ、と声を上げると彼女の手をすり抜け、女性に向かって走っていた。
「コーティ」
「うむ?」
「お疲れ様。上出来だよ」
「だが――」
コーティカルテは周囲を見回した。
「この有り様だ」
無論……言われるまでもなくフォロンも分かってはいた。
交差点を中心に、舞い上がった大量の粉塵と飛散した細かな瓦礫によって、周辺道路は隈無く汚れていた。フォロンの立ち位置からは見えないが、恐らく周辺の建物の屋根にも大量のそれらが降り積もっている事だろう、ざっと見渡したところ、怪我人や建物の損壊が見当たらない事が唯一の救いではあった。
誰もが埃にまみれていた。
「確かにこれは……どうしようね」
「…………」
コーティカルテは顔をしかめて黙っている。
実の所……ボウライやそれに類する枝族の下位精霊を大量に呼び出せば、比較的短時間で片付ける事も出来るだろう。だがいくらコーティカルテが強大なカを持っているといっても、さすがにこの状況はどうにもなるまい。
とはいえ……
「………」
ちらりと上目遣いにコーティカルテはフォロンを見つめる。
悲嘆する様な。期待する様な。懇願する様な。
何にせよ気位の高い彼女ならば普段はまず見せない表情ではあった。
なので――
「……じゃあ」
フォロンは溜め息混じりに言った。
「とりあえず箒、二本ほど借りてこようか……まあ二人でやれば……多少は早いでしょ」
「………………」
眼を瞬かせてしばしコーテイカルテはフォロンを見ていたが。
「う――うむ!」
嬉しそうに紅い髪の精霊は頷いた。
午後二時に始めた仕事は――目的を果たす事それのみを仕事と呼ぶのならば――たったの数分で終了した。
問題はその後だ。
大量の粉塵に汚れた街角を掃除するのは、想像以上に大変な作業だった、
子猫を救って見せた事が人々の好感を呼んだのか、見物人達も怒る事無く進んでフォロン達を手伝ってくれたが……それでも広がった粉塵はあまりに多く、正直言ってその日の内に片付けてしまうのは絶望的ではあった。
別件の仕事を片付けたレンバルトが様子を見に来てくれなければ、明日もフォロンとコーティカルテは箒を担いで掃除に出向かねばならなかったところだ。結局、レンバルトが呼び出したボウライの群れにも手伝って貰い、その後二時間余りで彼等は掃除を終えた。
集めた残骸の処理をシャムラ土木の人々に任せて、二人がツゲ神曲楽士派遣事務所に戻ったのは、結局、予定から四時間も遅れた午後七時過ぎだった。
すっかり陽は落ちて辺りは暗い。
昼間は交通量の多い事務所前の通りも、そろそろ車の量が減ってきていた。
事務所の前にフォロンは〈ハーメルン〉を停車する。同じく事務所の四輪駆動車で仕事先に出向いていたレンバルトは事務所裏の専用駐車場へと車を回しに行った。
「ふう………」
溜め息を一つついてフォロンとコーティカルテはもう一度身体に付いた埃を払う。
互いに格好を確認してから二人は硝子張りの扉に向き直った。
硝子の上には白い塗料で三行の文字列が書き込まれている。
『第三神曲公社公認』『認可番号066249』『ツゲ神曲楽士派遣事務所』
つまりはこの硝壬扉の向こう側こそがタタラ・フォロン神曲楽士の職場である。
「タタラ・フォロン、戻りました」
扉を開くとすぐにカウンターが在る。その正面に置かれているのは来客が座るためのソファだ。これらの横を通って事務所の奥に向かう途中で――
「タタラ・フォロン」
おっかない声がその奥から響いてきた。
「こっち来なさい」
はい――と応えてフォロンは歩く脚を早めた。
ちなみに後に続くコーティカルテは不機嫌そうに唇を引き結んだままである。
カウンターを抜けると五つの事務用机が並んでいる。二つずつが向かい合っていて、その内の一つがレンバルトの、一つがフォロンの机だ。
そして一番奥には一回り大型の机が、四つの机を監視するかの様に配置されている。
そこに――一人の若い女性が腕を組んで座っていた。
たん端てき的に言えば美人である。それも理知的な印象が強い。
短めに整えられた髪と落ち着いた枯葉色のスーツには、彼女の性格を反映してか一点の乱れもない。
その装いの端麗さや、切れ長の双眸と相まって、一見するとひどく冷淡な印象をも受けるが――それが見た日だけのものである事をフォロンは知っている。実際には炎の様な熱さを持った女性なのだ。そして――それを氷の様に硬い意志力で徹底的に抑え込む事の出来る女性でもある。
彼女のそういう部分をフォロンは心の底から尊敬していた。
ツゲ神曲楽士派遣事務所の若き所長――ツゲ・ユフィンリーである。
「お疲れ様でした」
言ってフォロンは一礼する。
下げた頭からぱらぱらと砂粒が落ちた。
普通に考えれば今まで外に出ていたのはフォロンの方なので奇妙に見えるかもしれないが……これはこの事務所内の決まりの様なものだ。昼過ぎに出勤しようが夕方に出勤しようが『お早う御座います』というのが挨拶になっている職場というものも在るが、それと同じである。
「それで?」
ユフィンリーが少し首を傾げながら言う。
彼女が促しているのは事後報告である。仕事を終えた所員は所長に口頭による報告を済ませた後に、より詳細な内容の報告書を作成する。これもまた決まりだ、
「こんなに時間が掛かった理由は?」
「はい」
先ず頷いてからフォロンは報告を始める。
「現場には定時に着きました。それから現場監督のハダキさんに説明を受けて…………」
とつとつと語るフォロンの隣で、コーティカルテは不機嫌そうな表情を浮かべていた。
挙げ句――アパートが粉々になって吹き飛ぶくだりになると、彼女はとうとうそっぽを向いてしまった。ある意味で不遜とも幼稚ともとれる態度だが、ユフィンリーからのお餐めは無い。彼女はあくまでフォロンの契約精霊であってユフィンリーからしてみれば部下でも何でもないからだ。
「途中――仕事帰りにレンバルトが寄ってくれて。あまりに時間が掛かりすぎるという事で手伝ってくれました。それで掃除を終えて、現場を離れたのが六時四十分過ぎ。そのまま事務所へ戻りました。以上です」
報告を聞き終えたユフィンリーは――無言。
フォロンとしては身が辣む様な気持ちで彼女の言葉を待つ。
ややあって――
「関係者や周辺住民から被害の申し立ては?」
腕組みのまま彼女は尋ねてきた。
「僕は聞いてません。現場を離れる際に聞いた限りでは、シャムラ土木さんの方でも、受けてないそうです」
「物損は?」
「ありません。シャムラ土木の人達も何人か残ってくれて、一緒に確認した上で、作業終了のサインをもらってあります」
「――ん」
僅かにユフィンリーの表情が綻ぶ。
それは笑顔と呼ぶにはあまりに素っ気ないものだったが――これまでずっと鋭い眼で睨む様に見つめられていたフォロンとしては、一気に緊張が解ける思いだった。
「依頼された仕事内容については完遂――何の問題も無し、と理解していいわね?」
「あ……」
そう言われると、言葉に詰まってしまう。
現にアパートの取り壊しは完了した。それは間違いない。
だが……子猫を助けるためとはいえ、予定外の事態を引き起こし、その後始末のためにフォロン達は現場から撤収するのが大幅に遅れた。掃除を手伝ってくれたシャムラ土木の人達は、瓦礫が小さくてかえって撤去が楽だ――と言ってくれたが、彼等にも予定以上の手間と時間を掛けさせた事になる。
レンバルトの助けも借りた。これも同僚とはいえ他人に余計な労働を強いた事になる。
だから――何の問題も無いと胸を張って言うのには躊躇いが在った。
「……いいえ」
フォロンは答えた。
「単に結果オーライだっただけで……問題はありました」
「……それは誰のせい? コーティカルテ?」
「いいえ」
コーティカルテの採った行動は最善とまでは言わなくとも決して責められるべきものではないとフォロンは思う。
「じゃあフォロン……キミのせい?」
少し考えてからフォロンは――
「いいえ。違うと――思います」
あれは不可抗力だ。
もっと彼に力量が在れば回避は出来たかもしれない。だが現時点ではフォロンにそんな力量は無かった、そもそも力量不足が問題なのだと言われればそこまでだが……払うべき注意を払い尽くすべき努力をしたという自負は在る。
自分が失敗をしたとは思えない。
「――よし」
ユフィンリーは此処で初めてはっきりと笑顔になった。
「それが分かってんなら、いい」
彼女はフォロンとコーティカルテを交互に見ながら言った。
「君もコーティカルテも苦手な分野の仕事を充分にこなした。ヤバい事になりかけたのはアクシデントが発生したせいであって、誰のせいでもない」
「はい」
「でもね――」
ユフィンリーは肩を疎めて言った。
「そのアクシデントを未然に防ぐのがプロ。そしてそれでも発生してしまったアクシデントも適切に対処して帳尻を合わせる事が出来るのが一流のプロ。分かる?」
「はい」
フォロンは頷く。
「それと」
ユフィンリーはふと顔をしかめて言った。
「君の今回の問題は別に在るわよ」
「……え?」
眼を瞬かせるフォロン。
「予定外の事が起こったのなら、連絡くらいは入れておきなさい。自分で判断するなとは言わないけど、君の手に余る事態になる場合も在るんだよ? 今回はたまたまレンバルトが寄ってくれたからいいようなものの、そうでなかったら君達、未だ箒片手に現場掃いてた処なんじゃないの?」
「それは……はい」
フォロン達は自分達だけで現場を片付ける事に拘泥した。それが正しい責任の取り方だと思ったからだが――考えてみればそれはフォロンの気持ちを最優先した結果だ。フォロンとコーティカルテだけで掃除を終えれば彼等の気は済むかもしれないが――現場に居たハダキ達作業貝に余計な残業を強いて迷惑を掛ける事になる。
「私達はプロであると同時にチームなんだからね。その事を忘れないように」
「……はい」
「よし!」
ぱん――とユフィンリー所長は手を打ち鳴らした。
「それじゃ、とっとと報告書を書いちゃいなさい」
「はい」
一礼してフォロンは自分の机の方へと歩き出す。
その時――
「ういーっす」
少女じみた顔に似合わぬ挨拶と共にサイキ・レンバルトが入ってきた。
案の定――所長の声が飛ぶ。
「こら! 挨拶は!」
「――おっと」
レンバルトは小さく肩を疎めて言った。
「サイキ・レンバルト戻りましたーっと。お疲れ様でーす」
「……あんたねえ」
何処か不真面目そうなレンバルトの挨拶に顔をしかめるユフィンリー。
だが彼女が更に文句を繋げる前にレンバルトは言った、
「……って所長、帰ってたんですか」
「帰ってちゃ悪い?」
「いえいえ別に。今日は気楽だなーとかそんな事は、ちいとも思ってませんでしたとも」
「お生憎様」
苦笑を浮かべてからユフィンリーは続けた。
「大体今日は仕事って程の用事でも無かったしね。ちょっと警察で人と会ってきただけ」
「所長、ここんとこ警察と仲良しですね」
言いながら――レンバルトはさっさと自分の机に着くと引き出しから報告書の用紙を取り出す。彼はろくに思案したり推敲する様子も見せずに、そのまますらすらとペンで報告書に今日の業務内容を記載し始めた。
「こらこら。口頭の報告が先」
「あー、はい。定時に現場着……」
言いながらも……レンバルトはペンを走らせる手を止めない。
喋りながら報告書にも同時進行で記入を続けているのである。
信じ難い器用さだ。
言うまでもない事だが……報告書に記載される文面と口頭で行う報告の内容とが全く同じという事は有り得ない。報告書には報告書の体裁というものが在る。つまりレンバルトは頭の中で微妙に異なる二つの文面を同時に組み立てているのである。
ちなみに、楽器を弾きながら歌を歌う――それとてかなりの高等技術には違いないのだが、――その程度の事はフォロンにも出来る。ただしそれはあくまで事前に記憶した楽譜なり歌詞なりを再現しているだけにすぎない。訓練を重ねれば可能な作業だ。
だが……レンバルトのやっている事はそれとは次元が違う。
彼は二つの思考を同時に頭の中で走らせているのである。無論、大まかには同じ内容にはなってはいるものの、報告書に書き付ける文面そのものと、口頭で行う報告の台詞そのものは全く別個に組み立てる必要が在る。
それはつまり……右手と左手で全然別の文章を書く様なものだ。
とてもではないが普通の人間に出来る事ではない。
恐らくこの器用さ――というか思考の並列作業能力が、つまり彼の才能であり、数百、あるいは数千もの下級精霊を一度に使役出来る、その秘密なのだろう。
「途中で架線が切れるイレギュラーがありましたが、ジムティルの群れで地面に放電させたので被害なし。電源は落ちましたが、こっちの責任の範囲外と判断しました。その間にボウライとイングに架線を繋がせて、ブツはそのまま移動。以上、終わりです」
文句の付けようの無い仕事ぶりである。
ユフィンリーは苦笑して言った。
「よし……お疲れさん」
「いえいえ」
言ってから――レンバルトが報告書を書きヒげるまでに要した時間は、たったの数分であった。彼は単純に書類を書く速度そのものも早いのだ。
ちなみにフォロンはと言えば彼より十分遅れで報告書を書き上げた。
もっとも書いている最中にコーティカルテが『猫の事を忘れるな』『名前はカナミアだぞ』『飼い主は泣いて喜んでいたぞ』といちいち細かく口を挟んで来なければ、もう少し早く仕上がったかもしれないのだが。
ともかく二枚の報告書を机の上に並べてようやくユフィンリーも安心したらしい。
彼女は満足げな表情で報告書に眼を通しつつ――
「……そういえば今日は双子ちゃん、遅いね」
ふと思い出した様に言った。
「おお――そういえば」
ぽんと手を打ってレンバルトが言う。
「なんか仕事の疲れが抜けねえと思ったら……そっか。今日はうちの事務所の看板姉妹を見てないせいか。やっぱり職場には潤いや癒しが必要だよな、フォロン?」
「……レンバルト。私やコーティカルテでは潤いや癒しにならないとでも?」
横目で部下を睨みながら言うユフィンリー。
「いえいえ。滅相もない。ただ絶対量が足りないと言うか何というか――なあ?」
「いや……同意を求められても」
苦笑して応じるフォロン。
まあコーティカルテやユフィンリーの存在が『潤い』や『癒し』かと問われれば、さすがのフォロンも素直に首肯しかねる。共に相当な美人ではあるのだが……そのきつめの性格や厳しい言動のせいで、緊張させられたり疲労させられたりする事の方が多い感じだ。
それはさておき。
この事務所で『双子ちゃん』と言えば、それはペルセルテとプリネシカのユギリ姉妹のことである。
フォロンとレンバルト、そしてユフィンリーの母校であるトルバス神曲学院の、在学生――つまりは後輩だ。特にフォロンは彼女等との付き合いも深く長い。学院には講師不足を補うのと、基礎課程内容の復習を兼ねて『専門課程の上級生が基礎課程の下級生の面倒を見る』というシステムが在り――彼がユギリ姉妹の担当であったからだ。
彼女等は未だ学生で神曲楽士ではない。
ユフィンリーの様に在学中に神曲楽士としての資格を取ってしまう例外中の例外も居るが、これは本当に希有な例だ。殆どの学生は卒業と同時かそれから若干遅れてその資格を得る事になる。
なのでユギリ姉妹はフォロンやレンバルトと異なり、事務員のアルバイトとしてこのツゲ事務所に来ているのである。もっとも……ただでさえ脱落者が多いトルバス神曲学院の生徒にあまり大量の仕事を押し付ける訳にもいかないので、彼女等に任せているのは書類の整理や掃除といった簡単な雑務が殆どで、時間もフレックス制――彼女等の都合に合わせてある。
だがやはり学生は学生――その生活周期がそうそう変化する訳でもないので、殆どの場合に彼女等は午後六時辺りから事務所を閉める八時までの二時間、アルバイトに来るのが基本となっていた。
だが……今日は既に七時を回っているというのに彼女等の姿は未だ無い。
「でも……そういえばおかしいですね」
とフォロン。
「割といつも同じ時間に来ていたと思ったんですけど」
ユギリ姉妹は割と時間に関しては正確だ、姉のペルセルテだけならば多少の不安は残ったりするが――妹のプリネシカは几帳面な性格なので、二人一緒に行動している限り、大幅な遅刻の類をするとは考えにくい。
「何かあったのかな?」
「おおかたテストで赤点でも取って居残りをさせられているのだろう」
コーティカルテが辛辣な推測で応じた。
「そりゃ失礼だよコーティ」
「何が失礼なものか。そもそも、学業に専念すべきこの時期にアルバイトになど来るような奴だ、そのような甘い考えで神曲楽士になどなれるものか」
「コーティ……それは」
まあ正論だが少々辛辣に過ぎるのではないか。
そんな事をフォロンが思っていると――
「ああ。大丈夫だよ。大丈夫」
レンバルトは気楽な口調で言った。
彼はフォロンと同じく何処か中性的な――少女の様に整った顔立ちで、しかも長めに伸ばした髪は見るからに柔らかそうな亜麻色をしている。だがフォロンと異なり彼は甘さが無い、むしろその言動はイタズラ小僧の様でさえあり――その容姿とはかなりの落差が在る。
いわゆる美形は近寄り難い雰囲気をしばしば醸し出すものだが、彼がそう見えないのはこの言動のせいであろう。才気走った意志の強そうな目元にもかかわらず――そしてそれを裏打ちするかの様に並外れた実力を備えているにもかかわらず――その口調や台詞はひどく轍薄で俗つぽいのである。
「楽士になれなかったら、ここの事務に就職すりゃいいんだから。楽士になれたら、やっぱりツゲ事務所に登録してもらうことになるだろうしな」
そこまで言ってから――
「つまりどっちにしろペルセルテはずーっとフォロンと一緒さ。良かったな、フォロン」
にま……と少し意地の悪い笑みを浮かべてレンバルトは付け加えた。
「なッ――?」
コーティカルテが顔色を変えて立ち上がった。
今回も見事に引っ掛かっている。フォロンとレンバルトがトルバス神曲学院の学生であった頃から数えるともう何度目になる事やら。コーティカルテが学習しないのか――していても反応せざるを得ないのかは分からないが。
「なんだとッ?――そうなのか!?」
振り返って問う相手はユフィンリーである。
ツゲ袖曲楽士派遣事務所の所長はわざとらしく腕を組んでから――頷いて見せた。
「まあそうなるかもね。楽士でなくてもあの双子ちゃんは結構、事務処理能力高いから、うちも助かってるし。うちの兄貴は営業周りで滅多に事務所寄りつかないしねえ」
「ぬぬぬ……」
腕を組んで悩むコーティカルテ。
「よし。フォロン――今すぐこの事務所を辞めろ」
「はあ?」
「手遅れにならない内にこの事務所を辞めるのだ。さもなくばあの厚かましい金髪娘はいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、お前についてくるぞ!?」
「いや……あの……」
「そんな事は私が許さん」
「……だからあの……」
「だからさっさとこの事務所を辞めるのだ」
腕を組んで傲然とそんな事を宣うコーティカルテ。
身勝手も此処まで行くといっそ清々しい。
「さもなくばあの双子を解雇するのだ。そうだ。それがいい。そうしよう」
「……あんたってば本当に途轍もなく我が侭だわね」
呆れた表情で言うユフィンリー。
コーティカルテは悪びれた風も無く大きく頷いた。
「うむ」
「……開き直ってるし」
苦笑するユフィンリー。
「とにかく! これ以上あの厚顔金髪娘がフォロンに付きまとうのはこのコーティカルテ・アパ・ラグランジェスの名にかけて許さな――」
そこまで言った時。
「おはようございまあす!!」
軽やかな声が事務所に響いた。
まるで機を測っていたかの様な登場にコーティカルテは顔をしかめて口を閉じ、レンバルトはそっくり返って笑い、ユフィンリーは苦笑を深め、そしてフォロンは片手で顔を覆った。
「なに? なに? どしたんですか?」
事務所の入り口で声の主が――きょとんとした様子で立ち尽くしている。
金髪の――とても可愛らしい少女である。
白いコートの下に着ているベージュのブレザーは、トルバス神曲学院の制服であった。
晴れ渡る空を想わせる蒼い眼で不思議そうに瞬きを繰り返しながら、少女は左右を見回している。その周囲で、頭の左右で二条にまとめられた長い金髪が、ゆるやかな螺旋を描いていた。
ユギリ・ペルセルテ。
先程から話題になっている『双子ちゃん』の姉の方である。
「え? なに? なに?」
やはり状況が分からず事務所内の四入を見回すペルセルテ。
そんな彼女の後ろから――
「……どうしたの?」
もう一人の少女が顔を出した。
『双子ちゃん』のもう一人……妹のユギリ・プリネシカだ。
姉のペルセルテとは違ってプリネシカの髪はストレートの白銀色だ。しかも元気溌刺といった雰囲気の姉とは対照的に――彼女の物腰は清楚で物静かな印象が在る。
ペルセルテを太陽とすればプリネシカは月であろう。日調や表情や仕草や……何から何まで正反対と言っても良い様なこの姉妹――初対面の人間はそっくりの顔立ちを持つ双子だと気付かない者も多い。
「いいからいいから」
苦笑してユフィンリーが言う。
「早く入っといで。外――寒いでしょ?」
「………」「………」
言われて――しかし二人はその場から動かずに顔を見合わせる。
「どうしたの?」
「あの……」
数秒前の雰囲気から、転しておずおずと――何やら言いにくそうに口を開いたのはペルセルテであった。
珍しい事ではある。
「お客様、を、お連れしたん、です、が……」
自分の言葉を確かめるかの様に、いちいち区切って言うのは――ユフィンリーの顔色を窺っているからなのだろう。
「御客様?――あんた達が?」
「はい。いい、ですか?」
「いいも何も――とにかく入って貰いなさい」
「はい」
そう応えてユギリ姉妹が左右に動く。
二人の後ろには――確かに依頼客らしき人物が立っていた。
ただ……
「――え?」
声を上げてユフィンリーが立ち上がる。
これもまた……珍しい事ではあった。フォロンが知る限り、ユフィンリーは何かとその言動で人を驚かせる事は多いが――驚かされる側に回る事は殆ど無い。それだけ頭の回転が常人よりも早いのである。
「御客様って――キミ!?」
「御無沙汰してます。ユフィンリーさん」
どうやらこの依頼客はユフィンリーと面識が在るらしい――そんなフォロンの考えを裏打ちするかの様に、その人物は大きく腰を折って頭を下げた。
「お願いがあってきました」
紺色のブレザー姿の――それは少年だった。
ツゲ・ユフィンリーという女性を一言で表すなら――『才媛』という言葉が相応しい。
トルバス神曲学院に入学直後から彼女はその才能を開花させた。基礎過程に店る内に講師達は彼女を『十年に一人の逸材』と呼び、専門課程に上がる頃にはその評判は学院の外にまで及ぶ様になった。
専門課程の一年目で公社主催の神曲楽士試験に合格。在学中からプロの神曲楽士として仕事を始め、しばしば講義は欠席がちになったものの――それでいて彼女は卒業試験に関しても満点に近い成績を残している。ただ授業に付いていくだけの事でさえ困難と言われ、毎年大量の脱落者を出すトルバス神曲学院において、ユフィンリーの残したその実績は非常に希有なものだった。
そして彼女の才媛ぶりは卒業後も続いた。
フリーの神曲楽士として業績を積み――そして卒業からわずか二年でツゲ神曲楽士派遣事務所を開設したのである。トルバス神曲学院の後輩であるフォロンやレンバルトが卒業する――丁度その年の事であった。
そしてそれからもうすぐ一年になる。
わずか一年。たった一年。
だがその間にツゲ事務所は数々の――色々な意味で記録的な依頼をこなしてきた。
元々ツゲ事務所は仕事を選り好みしない。
元々特殊職であり社会的にも地位の高い神曲楽士達は、個々人で程度の差は在ってもそれなりに『綺麗な』仕事を選びたがる。だがツゲ事務所は所長の方針で、法律に背かず、報酬さえ折り合えば、その内容についてはあまり拘泥しない。所員のフォロンとその契約精霊コーティカルテは、迷い犬を捜して町中を駆け回った事さえ在る。
ユフィンリーの才覚やツゲ事務所の繁盛ぶりを妬む同業者の中にはツゲ事務所の事を『クズ拾い』などと呼ぶ者も居るが――普通の神曲楽士は見向きもしない仕事を積極的に取るという意味で――所長以下総勢九名の関係者はあまり気にしていない。『元々神曲なんて形の無い曖昧なもので金貰ってんだから。お高くとまっててもしょうがないでしょ』とはユフィンリーの弁である。
そういう訳でツゲ事務所には色々と珍しい依頼も多い。
中には警察からの依頼も在った。精霊課の抱えた難事件にユフィンリーが手を貸したのである。彼女がしばしば市警察に出向くのもそうした縁故が在るからだ。
無論……事件絡みの物騒な依頼ばかりではない。
大企業からの依頼も増えている。
蓄雷筒の一件以来、カグト重工は主な顧客の一つとなった。今ロレンバルトが名指しされたのはヤワラベの発電所から来た依頼だった。例の事件の現場にはいなかったが、ユフィンリー所長の推薦で一度、出向してからは、随分と気に入られているらしい。
ヤマガ自動車工業では、ユフィンリーの契約精霊の一人ヤーディオ・ウォダ・ムナグールが引っ張りだこになっている。何でも衝突実験のドライバーやライダーをやっているのだそうだ。荒っぽいことの好きなヤ!ディオは嬉々として自動車やオートバイを標的に激突させ、ヤマガの方もダミー人形では採取出来ない貴重なデータを採れるという事で彼を重宝しているという話だ。
コーティカルテも何度か重要な現場に出向いている。
その多くは力仕事だが……彼女の強大な力は事故現場で、あるいは災害の現場で大いに役立っている。昨年はシデン地方ケプロイの水害の際、彼女の精霊雷が大河の氾濫を押し戻し数千人の命を救った。
…………もっとも、勢いあまって河の流れを変えてしまい、沿岸地域の道路は修復に一ヶ月を要したそうだが。
ともあれ。
今までは神曲楽士や精霊を投入する事など考えられなかった様々な現場にツゲ神曲楽士派遺事務所の面々は出向き――仕事の幅を広げている。だが逆に言えばこれは神曲楽士業界の外にまで名が通っているからこそ可能な事だ。神曲楽士に縁の無かった人々は個々人の楽士や再務所の優劣など簡単には判断出来まい。どうしてもつい名前の有名な事務所に依頼をする事になる。
その意味で『若き天才神曲楽士』にして『神曲楽士業界の革命児』とも言われるツゲ・ユフィンリーの存在は大きい。今やツゲ神曲楽士派遣事務所は、小規模ながらその名を知らぬ者のない存在となりつつあった。
「で……彼が?」
フォロンの隣でレンバルトが問う。
「オミテックの……」
「そう」
ユフィンリーは少年を振り返ってから頷いた。
「オミテックの社長、オミ・テディゴットさんの息子さん」
「オミ・カティオムです」
少年の一礼に合わせて、フォロンとレンバルトも頭を下げる。
場所はツゲ神曲楽士派遣事務所の事務室の奥――来客用の応接室である。
簡単な内容の依頼ならばカウンターで承る事も在るのだが、時に神曲楽士は柑手の個人的な秘密を抱えた領域に踏み込む事も在るため、こうした部屋が用意されているのだ。
部屋の真ん中には低いコーヒー・テーブルが置かれ、それを革張りのソファと、同じ仕様のニ脚のボックス・チェアが挟んでいる。
部屋の隅には観葉植物、ドア側の壁には天井近くに各種の賞状、さらに壁際には大型のスチール・ラックが組まれており、そこにはユフィンリーが趣味と税金対策で集めた古い単身楽団がいくつか並べられている。リーランド以前の亀身楽団が完動状態で保存されているところなど、ここを除けば神曲博物館くらいだろう。
半年前に謎の解散劇で話題になったクラト産業のモデル一〇四まである。市場に出回った期間が極端に短いため、世界にも数十台しか存在しないと言われる幻のモデルだ。
趣味を仕事現場に持ち込むのは何かと問題が在るが――このずらりと並んだ単身楽団の存在が、依頼客にある種の信頼感を与える事になっているのは事実である。この部屋に入ればいかにも『神曲楽士に仕事を依頼しに来た』という雰囲気になるからだ。
テーブルには煎れたばかりのコーヒーが四つ……湯気をくゆらせている。
フォロンとレンバルトとユフィンリー、それにオミ・カティオム少年の分だ。
フォロンのすぐ隣でソファの肘掛けに腰を下ろすコーティカルテはコーヒーを飲まない。双子の分がないのは、それが彼女達の運んできたものだからだった。
ただし――いつもは来客に飲み物を運んできたらすぐに退出する双子が、今はテーブルから少し離れた位置で立ったまま話を聞いている。今回の依頼客は彼女達が連れてきたからだ。
「………」
フォロンは改めて眼の前の少年を観察する。
きっちりと着込んだカティオム少年のブレザーには糸くず一本付いていない。無造作な切りっ放しに見える髪も、見る人間が見れば結構な手間が掛かっている事が分かるだろう。袖口からのぞく腕時計にしても質素なデザインだが――その文字盤に『バルド』の文字が刻まれている事にフォロンは気付いた。高級腕時計を製造している会社の名だ。あまり詳しくないのでフォロンにはその時計の型番までは分からないが――恐らく彼が買おうと想えばローンを組まなければなるまい。
成金趣味とは正反対――殊更にそれを誇るでも見せびらかすでもない。生まれた時から一流品に囲まれ豊かな環境で育てられてきた者の自然な装いだった。
少年の顔にもそれは顕れている。
優しげな顔立ちであった。しかもまだ幼い印象を顔立ちのあちこちに残している。落ち着いた物腰は一入前の印象が在るが、実際にはせいぜいが高校生……下手をするとまだ中学生なのかも知れない。
「久し振りだね。もう一年くらいになる?」
少年の隣に腰を下ろしたユフィンリーは笑顔で尋ねる。
「そうですね。もうすぐ一年くらいになります」
ユフィンリーとカティオムが知り合ったのは、彼女がトルバス神曲学院に在学中、中央神曲公社の資格試験に合格して学生神曲楽士となった頃だ。
当時、封音盤のための新素材を開発中だったオミテック社は、そのサンプルの実験に協力してくれる神曲楽士の派遣を、第三神曲公杜に要請した。そこで派遣されたのが楽士資格を得たばかりのツゲ・ユフィンリーだったのである。
危険を伴わない仕事であることや、オミテック社側の予算の都合で充分な報酬が設定されていなかったことなどから、デビューしたての新人に回されたのだろう。
そこでユフィンリーはオミテック社の社長と知り合い――彼女の事を気に入った社長は自宅に彼女を招いて何度か夕食を共にしている。そしてそこで彼女は社長の一人息子であるカティオムとも出会ったのだそうだ。
その後――オミテック社長との付き合いはそのまま継続しているものの、カティオムが高校に入って一人暮らしを始めたため、少々彼本人とは疎遠になっていたらしい。
「それで?」
小さく首を傾げてユフィンリーが尋ねる。
「何かお願いが在るって?」
「ええ……」
そう応えたきり……カティオムは続きを話そうとしない。
何やら妙に重苦しい沈黙を挟みながら、しばしユフィンリーは少年を眺めていたが――
「ひょっとして、お父さんにナイショで来てるでしょ」
「……はい」
素直に少年は頷いた。
「こいつらがいると、話しにくい?」
こいつら――と呼ばれてフォロンとレンバルトは思わず顔を見合わせる。彼が信頼して何かを頼みに来たのはユフィンリーなのだろう。初対面の彼等には聞かせたくない内容であっても不思議はない。
だが少年は首を振った。
「かまいません。これはあくまで、仕事の依頼ですから」
「仕事?」
言葉の意味を確かめる様に呟いてから――ふとフォロンは視界の隅に居るペルセルテの様子がおかしい事に気付いた。
腰の前で両手の指を組み……それを微かに、小刻みに上下させている。
まるで『頑張れ頑張れ』と声も無く励ましているかの様に。
まさか彼女のそんな仕草が見えたからでも無かろうが――カティオムはやがて意を決した様子で一つ息をつくと、上着のポケットから一枚の写真を取り出した。
「この人がどこの誰なのか……調べて欲しいんです」
そっとテーブルに置かれる写真、
そこに写っている人物を見てレンバルトが口笛を吹き――ユフィンリーに睨まれて肩を竦める。まあ見るからに深刻そうな様子のカティオムを前にして、不謹慎な真似ではあるだろうが……フォロンとしてはレンバルトの反応も当然の様な気はした。
四角く切り取られた風景の中。
とてもとても美しい――清楚可憐な雰囲気の少女が微笑んでいた。
とつとつと少年が告白した内容は――ある意味で至極有り触れたものだった。
今年の春、名門のルシャゼリウス市立高等学校に入学したカティオムは、親元を離れて独り暮らしを始めることになった。
トルバス市に隣接するソゴ市北ロナージの、シャハンダ・マンションである。偶然にもそこはユギリ姉妹の住むのと同じマンションだったのだが、さしあたりその事は関係が無い。
ともあれ――彼は、北ロナージからルシャ市まで毎朝、バス通学を始めた。
最初は初めて親元を離れての一人暮らしに追われる日々が続いた。朝もその日に始まる授業だの何だのについて思いを巡らせるのに忙しく――バスは有名なケセラテ自然公園を隣に臨みつつ移動する路線を辿っていたというのに、その景観を楽しむ余裕も無かった。
バスに揺られながら窓の向こうに広がる風景を眺める余裕が出来たのは、入学しておよそ二ヶ月が過ぎた辺りだった。
そして……
カティオムが彼女に気づいたのは、夏休み前だったという。
その朝、いつものようにバスに乗り、ぼんやりと外を眺めていると……ケセラテ自然公園の前を歩く一人の少女に目を引きつけられたのだ。
美しい少女だった。
何がどう美しいのか? と問われればカティオムは困惑するだろう。
強いて言えば全てだった。実際――個々の細かい容姿について子細に観察する様な余裕は無かった。少女の姿が見えていたのはほんの数秒の事であったし、距離もやや離れていた。カティオムが捉える事が出来たのは少女の全体的な姿とその雰囲気だけだ。
だがそれが――何処か優げなその姿がひどく彼の印象に残った。
そして。
翌朝バスに乗った彼は、無意識の内に彼女の姿を探している自分に気づいて驚いた。
そしてその日、さらに翌日、そしてその翌日も彼女の姿を見ることが出来ず、大きく落胆している自分にも気づいてしまったのだ。
無論……二度と彼女の姿を眼にする事が無かったならば、それは『通学途中でびっくりするくらいに綺麗な少女を見た』――ただそれだけの事であったろう。芽生えかけた感情は自覚される事も無く、日々の営みの中で色拠せて消えていく運命であったろう。
しかし……夏休みの前日。
遂に再びバスの窓から彼女の姿を発見した。してしまった。
その時オミ・カティオムは今度こそはっきりと自分の中に在る感情を自覚した。
「そりゃあ……あれだな」
レンバルトが言う。
「一目惚れってやつだな」
カティオム少年は――照れる様子も無くはっきりと頷いた。
「ええ。そうだと思います」
「それで?」
ユフィンリーが先を促す。
「はい。それからすぐに夏休みに入ってしまって、でも理由をつけて実家には戻らなかったんです」
無論――バスから見た少女に会うためだ。
毎朝、自転車を走らせて、カティオムは彼女を見かけた時刻にケセラテ自然公園へ向かった。
彼女の姿を見ればそれで満足して帰宅し、そうでなければ彼女の姿を求めて昼頃までケセラテ自然公園を走り回った。
彼女が自然公園の前の通りに姿を現すのは、不定期だった。
何日か連続して現れたかと思えば、十日以上も姿を見せないこともあった。
そしてやがて……カティオムにもある種の限界が訪れる。
「どうしても、彼女と友達になりたかったんです」
遠くから見つめているだけでは白分の想いが満たされないのだと気付いたのだ。
そしてもうすぐ夏休みも終わろうかといヶ頃……ついにカティオムは彼女に声をかけた。
呼び止めて、自己紹介をした。
それが殆ど初恋と言っても良かったカティオムには、異性との駆け引きの方法など分からない。だから彼は素直に全てを語った。通学途中のバスから彼女を見掛けた事。彼女の事が気になって、夏休みになってもこの公園に来る様になった事。そして遠くから見つめているだけではどうしても我慢出来なくなって声をかけた事。
ただ……自分がオミテックの社長の息子である事だけは黙っていた。
オミテックと言えば大会社だ。そこの社長の息子であるという『肩書き』が良くも悪くも自分の人間関係において影響を及ぼしているという事実を、彼はよく理解していた。金銭的な、あるいは権力的な見返りを求めて彼に近付いてくる同級生や教師は何人も居たからである。
彼等はカティオム個人になど興味が無い。彼等が興味が在るのは彼の背後に透けて見えるオミテック社――更に言えばそこからもたらされる諸々の利益のみだった。そこまで卑しい者達でなくてもオミテック社の看板はあまりに大きく、輝かしく、彼個人の存在を霞ませてしまう。 だが少女にはオミ・カティオムそのものを見て欲しかった。
ただ一人の人間として――ただ一人の男として。
だから彼は自分の父親の職業については一切語らなかった。
最初――少女は少し戸惑った様だった。
当たり前だ。いきなり見知らぬ少年が近付いてきて自己紹介を始めたのだから。ある種の変質者と勘違いされても仕方がない。実際……他人の眼から見れば、名も知らぬ少女の姿を追って公園に通い詰める彼の姿は、滑稽にも不気味にも見えただろう。
だがカティオムが包み隠さず自分の事を懸命に話していると――やがて苦笑にも似た恥ずかしげな笑みを少女は浮かべた、浮かべてくれた。
そして少女は彼に自分の名を教えてくれたのだ。
「シェルウートゥ……」
少年は――大切そうにその名を口にした。
「それが……彼女の名前でした」
「それで?」
身を乗り出すのは当然、レンバルトである。
自分自身は恋愛沙汰に淡泊な癖に――何故か彼は他人のこういう話には眼がない。時にユフィンリーと並ぶ天才神曲楽士と評される彼だが、こういう処は本当に凡俗である。
「オトモダチになれたわけ?」
遠慮のない質問にも少年は真っ正直に頷く。
「でも、それだけです」
「それだけ?」
「はい。毎日、会えるわけじゃないし、それに会えても五分ほど立ち話するだけで、彼女は行ってしまいます。どこへ行くのか分からないし、電話番号や住所を訊いても教えてくれません。それに……」
言い澱んだのは――それが最も辛い事だからだろう。
幸福の裏側にはしばしば残酷な現実が潜む。先に得られた幸福が大きければ大きいだけそれは苦しみとなってその者を締め付けるものだ。
「名前も……ちゃんと知らないんです。シェルウートゥ……とだけで……」
元より遙か彼方に在って手が届かぬものならば諦めもつく。
だがたとえ指先だけでも触れ得るものを諦めるのは――途方もなく難しい。期待と失望の連鎖の中で少年はきっと眠れぬ夜を何度も過ごした事だろう。
「それでねっ!」
我慢の限界がきたのか――それまでうずうずと身じろぎしながらも黙って聞いていたペルセルテが遂に口を挟んできた。
「この子、前から知り合いだったんです。マンションで何度か顔を合わせたりして、挨拶とか。そんで、私とプリネが神曲学院に通ってることとか、ここでアルバイトしてることとか、話したこともあって」
余程、喋りたかったのだろう。
金髪の少女はほとんど息継ぎもしないで説明を続けていく。
「それで、神曲楽士にご用の節はツゲ事務所へ、って宣伝したりとかもしたから。ユフィンリーさんとこだって言ったら、カティ驚いてたよね? 凄い偶然だって、ね? だからシェルちゃんのことをもっと知りたくなった時に、私達に相談してくれて」
彼女達の間では、カティオムの想い人は『シェルちゃん』と呼ばれているらしい。その隣で、プリネシカもうなずく。
「それでね、それで」
「ちょ……ちょっと待って」
言いかけるペルセルテを、フォロンは慌ててに遮った。このまま説明を続けさせていたらペルセルテは呼吸困難でぶっ倒れかねない。ここらで話を整理する必要も在った。
「つまりカティオムくんの依頼っていうのは、そのシェルウ!トゥって女の子の素性を調べて欲しい、っていう事なの?」
「はい」
カティオム少年は頷く。
「一度だけ、彼女の後を尾けたんです」
「はあ……」
フォロンは瞬きしながらカティオムを見つめる。
この育ちの良さそうな少年らしからぬ大胆で――そして非常識な行動ではある。とはいえそれだけ彼女への想いが強かったのだろう。それを責めるのは酷というものだ。
「いけない事だとは分かってたんですけど……どうしても我慢出来なくてだけど見失っちゃって……」
「でも君……自転車だったんだろ?」
単純な移動速度ならば徒歩の少女に自転車の少年が負ける筈は無い。とはいえ入り組んだ街中となれば必ずしも自転車の方が有利とは言えないだろう。建物の中に入られたり鉄道の類にでも乗られれば、かえって自転車は彼の脚を引っ張る事になる。
「はい。だから、とても僕みたいなシロウトには無理だと思って」
「でも、そういう依頼だったら興信所の方がいいんじゃない?」
「それは……」
フォロンの質問を引き受けたのは――
「信頼の問題よね。そうでしょ?」
少年の隣のユフィンリーだった。
興信所……いわゆる探偵は、無論のこと守秘義務を負っている。その意味では興信所は信用には足るだろう。
しかし信用と信頼は微妙に異なる。
信じて頼る。そのためには洗いざらい事情を打ち明けねばならない。だが思春期の少年にとって自分の初恋を語るのは……相当に恥ずかしい事だろう一、見知らぬ大人に自分の気持ちも含めて事情を根掘り葉掘り聞かれるのは、苦痛以外の何物でもない筈だ。
「はい。ユフィンリーさんなら、信頼出来ます。それにペルセとプリネは友達です」
「まあ、だいたいは分かった。出来ない仕事でもないと思うよ。でもね」
言ってからユフィンリーはにやりと笑う。
「払えるの? 仕事となったらきっちり請求するよ?」
「大丈夫です」
そりゃそうだろう――とフォロンは思う。
なにしろ相手は、オミテックの社長の息子だ。身に付けているものを見ただけでも相当に裕福な経済状態が透けて見える。小遣いだってフォロンの月給くらい貰っていても驚くには値しない。
だが……
「引き受けていただけるなら、すぐにアルバイトを探します」
「ふうん。お小遣いで払うんじゃないんだ?」
眼を細めながらユフィンリーが問う。
「はい」
カティオムはきっぱりと言った。
「父や母には内緒で御願いするんです。親に貰った小遣いは遣えません」
「…………」
フォロンは眼を丸くして絶句する。
なんとまあ――この歳でしっかりしたものの考え方をしているのか。
高校生といえば未だ本当の金銭の価値を知らない年頃だ。汗水垂らし責任を負って金を稼ぐという事の意味を知らず――親の金と自分の金の区別もついていない者も多い。
少なくともフォロンがカティオムくらいの年頃に周りに居た連中には、そういう考え方の者が多かったのは事実である。
孤児であったフォロンは『親から金を貰う』という感覚が無かったため、また孤児院を出てからはずっと生活費や学費を稼ぐべく働いていたため、彼等の『当然の様に小遣いを要求する権利』の感覚にしばしば違和感を覚えていたものだった。
それはともかく――
「――いよおしッ!」
膝を打ってユフィンリーが大声を上げる。
思わず何事かと全員が身を退いた。
だが――
「よく言った。それなら受けよう」
「本当ですか?」
カティオムはぱっと表情を輝かせて確認する。
だが既にユフィンリーは『所長』状態に入っていた。カティオムに返事をする前に自分の部下達を振り返って彼等に矢継ぎ早の指示を飛ばす。
「フォロン。あんたが担当しな。双子ちゃんはフォロンの補佐。登校前だから平日でも大丈夫だよね? あ――レンバルト、私のデスクから地図持ってきて」
一瞬にして部屋の空気が変わる。
これもユフィンリーを天才たらしめている能力の一つだろう。彼女は一種の人徳が在る。同時に頭の回転の速さが在る、そしてそれらは一瞬にして周囲を巻き込み、一丸となって目的に進んでいく空気を造り上げる事が出来るのだ。
部下達は――フォロン達は指差された順に『はい!』と応える。レンバルトは長い脚でソファの背もたれを飛び越えて事務室に直行した。
そして――
「それから、オミ・カ一アィオムくん」
「はいっ!」
背筋を伸ばし上体だけ向き直る少年。彼もまたユフィンリーの『空気』に巻き込まれているのだろう。
「報酬は実務で請求します」
「え?」
「どうせアルバイト探すんでしょ? だったら双子ちゃんの代わりにうちの雑務やってちょうだい。調査が進めば、放課後もフォロンの補佐に付けなきゃならないからさ」
この申し出にカティオムは驚いた様だった。
眼を瞬かせながら彼は尋ねる。
「それでいいんですか?」
「違うの。これが請求内容なんだから、これじゃなきゃ駄目なの。休日なしの毎日、放課後から事務所を閉めるまでの勤務、期間は調査が終了するまで。いい?」
「はい」
「よし――じゃあ決まり」
「ほい。所長」
席を立った時と同様、ひらりとソファの背もたれを越えて、レンバルトが戻ってくる。
同時にフォロンが手を伸ばしてテーブルの上に置かれた珈瑳カップと皿を一方に寄せて『空き』を造り――レンバルトはそこに地図を広げる。間髪入れず端に寄せられたカップや皿を手際よく片付けたのはペルセルテとプリネシカであった。
別に打ち合わせしている訳でもない。なのに、自然と息の合った連携が出来上がる、まるでそれが当然の事であるかの様に、誰かが誰かの行動の後を引き継いで滑らかな流れを生み出す。
これがツゲ神曲楽士派遣事務所の強みの一つであった。
そして――こういう『空気』がフォロンは大好きだった。
「――さて?」
ユフィンリーが地図を睨み据える。
カティオムとユフィンリーに向き合う格好のフォロンから見ると、地図は南側が上になっている。それでもケセラテ自然公園は、すぐに分かった。込み入った建物の中で、だだっ広い緑色だからだ。
ユフィンリーの細い指がそのすぐ脇の道路をなぞる。
「ソゴ市の北ロナージからバスって事は――この道?」
「はい」
「彼女を見かけるのは?」
「だいたい、このあたりです」
とカティオムの指先が地図の一部に楕円を描く。
「そっか。じゃあフォロン、明日はまず、ここらで張ってなさい。それから……」
「………」
「フォロン? 聞いてる?」
「あ――はい、聞いてます、すいません」
慌てて頷くフォロン。
明日の調査に向けての指示を聞きながら――フォロンは妙な違和感を覚えていた。
赤い印である。
地図には細い赤マジックで、いくつかの円形が描かれている。小さな赤い丸が、地図上の建物に記されているのである。
多くはない。せいぜいが四つか五つ、場所も地図のあちこちに散らばっている。
ユフィンリーが描き込んだものだろう。それが何を意味するのかはフォロンには分からないし、大した意味のあるものではないようにも見える。
だがそれが、ケセラテ自然公園との対比で見た時に……何か妙な違和感を覚えさせるのだ。何か意味が在る様に思える。だがその意味が判らない。痒い所に手が届かないかの様な微妙なもどかしさが意識の片隅にわだかまっている。
だが――
「……以上。了解?」
「はい」
反射的にフォロンは応える。
その途端に違和感も雑念も消え去ってしまった。
代わりに――彼の顔の脇から細い腕が伸びた。一
コーティカルテだ。
今まで黙って成り行きを見守っていた彼女は……テープルの隅にどけられていた写真を無造作に手にすると、それを眺める。
「コーティ?」
返事は――ない。
紅い髪の上級精霊はただ目を細めて写真の美少女に見入っている。
「どうしたの?」
「……別に」
応えてコーティカルテはカジノのディーラーがカードを配るような仕草で、ひょいと写真をテーブルに投げ戻した。
くるくると回転しながら、写真は地図の上に舞い降りる。
それはケセラテ自然公園の――ど真ん中だった。
既に朝夕が肌寒い季節になってきている。
秋……だ。
間もなく冬が来る。それを否応なく予感させるのは彼自身の吐息だった。朝――〈リンクス〉のペダルを踏み込んでいると唇から漏れる息が白く染まるのだ。
オミ・カティオムはブレザーの袖口から覗く腕時計に視線を走らせた。
午前八時。いつもの時刻だ。
今日必ず彼女に会えるという保証は無い。そんなものは一度だって在った試しは無い。
それでも飽きる事無く毎日公園に通い詰めていた彼を人は嘲笑うかもしれないが――空振りに終わる事に失望を覚える事は在っても無駄だと思った事は一度も無かった。
それに今日会う事が出来れば……会う事さえ出来れば事態は進展する。
する筈だった。
〈リンクス〉の黒い車体を少しだけ傾け、緩やかに湾曲した歩道を滑る様に走って行く。彼が走っているのは巨大な楕円形の――ケセラテ自然公園の外周である。
車道の交通量は、そこそこあるが、歩道には殆ど歩行者の姿はない。
公園と歩道との境目は腰ほどの高さの石垣で、その向こうは密度の高い植え込みで隠されている。常緑樹の分厚い葉には、まだ朝露の名残があった。
その脇を――カティオムは黒い愛車で走り抜けてゆく。
前方に信号機が見えてきた。
その向こうでは湾曲が鋭角になり、さらに先には『自然公園西口前』のバス停だ。
彼女を見かけるのは、いつもその辺りなのだ。
自転車を大きく傾けて、信号機の向こうのカーブを走破する。
「…………」
バス停を少し外れたあたりの路肩に、一台の大型バイクが停まっているのが見えた。二人乗りだ。前のシートにはヘルメットを被ったままの男性が、後ろのシートには緋色の髪の少女が、どちらも誰かと待ち合わせでもしているみたいな風情で跨がっている。
声もかけずに、カティオムは二人の脇を通り過ぎる。
打ち合わせ通りに。
そこからさらに十メートルほど進んだ先で……少年は自転車を停めた。
公園の西口前である。
公園の敷地を囲む石垣が二十メートルほど途切れて、奥へと続くゆるやかな傾斜になっている。ちょうどスクランブル交差点の真正面で、変則五叉路になった道路の向こう側には、ベルカンテ証券とヴォロケッタ銀行の建物が見えた。
いつもの場所だ。
初夏のころ……彼女に心を奪われたのが此処だ。
夏になって自転車で毎日通ったのも。初めて彼女に声をかけたのも。
全部――此処だ。
いつもの場所だ。
会えない日の方が多かったが、会えた日には一緒に散歩するようになった。
公園の遊歩道を――ほんの少しだけ。
五分だけのこともあったし、二十分程も一緒に居られる事もあった。
それ以上の事は一度もない。
やはり人によってはそんな関係を続けるカティオムを嘲笑うかもしれない。あるいは哀れむかもしれない。空疎で実の無い――無意味な行為であると。
だけど――とカティオムは思う。
(だけど今日……それが変わるかもしれないんだ……!)
公園の入り口は、両側が高さ四メートルほどの四角い巨石になっていて、向かって右側の石には『ケセラテ自然公園西口』の文字を彫った金属プレートが埋め込まれている。
その脇に……
「………」
トレーニング・ウェアを着込んで首にタオルを巻いた少女が二人、立っていた。
ウェアの色はどちらも淡いピンクだが、髪の色は片方が金色、もう片方は銀色だ。二人共、長い髪をウェアと同じ淡いピンクのキャップに隠して、談笑している。
時おりカティオムの方に、ちらりちらりと視線を投げるのは、しかし彼の姿が物珍しい訳でも、彼に気があるからでもない。
二人の少女はユギリ姉妹である。
彼女等にとってオミ・カティオムは友人であり依頼主であると同時に――今は監視対象なのである。もっと身も蓋もない言い方をすれば追跡すべき対象を判別しおびき出すための『餌』である。
カティオムは〈リンクス〉のスタンドを立てて、自分は歩道沿いの石垣に腰を下ろした。彼女を待つ時の、いつもの姿勢だ。
毎朝……彼はこうして彼女を待っている。
シェルウートゥという名の美しい少女を。
ここからだと、ユギリ姉妹は死角に入ってしまうが、オートバイの二人はよく見えた。
基本的に尾行は最低二組で行う。互いの死角を補う様にして入れ替わり立ち替わり目標の後を付いて行くのだ。一組の場合はあまり距離を置きすぎると見失う畏れが在るし、かといって近づき過ぎると怪しまれる。
ヘルメットのフォロンはゴーグルまで着けていた、おそらく顔を隠しているつもりなのだろう。精霊にはヘルメットの着用義務がなかった筈だが、彼の背後のコーティカルテまでヘルメットを被っていた。誰のものを借りてきたのか、大き過ぎて目元まで隠れているのが妙に微笑ましかったりもする。
そのヘルメットを……小さな手が、ぐい、と押し上げた。
髪と同じ緋色の瞳が、フォロンの肩越しに真っ直ぐ前方を見据えた。
視線に吊られる様にしてカティオムも同じ方向を見る。
公園西口の――向こう側だ。
途端に心臓が跳ねた。
白いワンピースの。陶磁器の様に白い肌の。長く柔らかな黒髪の。細く長い手足の。美しい瞳と美しい唇の――
「シェル……」
オミ・カティオムは立ち上がった。
ユギリ・ペルセルテがオミ・カティオムに初めて出会ったのはその年の春の事だ。
いつもの様にツゲ神曲楽士派遣事務所のアルバイトを終えてマンションに戻った時――エレベーターから降りてきた見慣れない少年と鉢合わせしたのである。
この時……彼がふと思い付いて背後から声を掛けてこなければ、あるいは三人はただ『同じマンションに住むだけの他人』『単なる御近所さん』のままであったのかもしれない。大きなマンションでは階が違えばお互い顔も名前も知らないなどという事は別に珍しくない。
だが少年は玄関ホールの辺りで振り返って――こう尋ねてきた。
『すみません。このあたりに歯ブラシを売っているところはありませんか?』
振り返った少女達に、引っ越してきたばかりなので何処に店が在るのか分からなくて――と彼は付け加えた。
それからカティオムとユギリ姉妹は三人で近所の量販店まで歩いた。
別に道順だけ教えれば良かったのだが……どうせだから近くの便利な店を道すがら案内してあげようよ、とペルセルテが言い出したのである。
歯ブラシに加えて幾つかの日用雑貨を買って三人はマンションに戻ってきた。
そして――
『じゃあまたね』
と当然の如くペルセルテが言い、
『はい。また』
とカティオムがごく自然に応じる。
出会って二時間も経たないにもかかわらず、そんなやり取りに交わす自分達に全く疑問を感じないくらい……別れ際の彼等はすっかり友達になっていた。
三人の付き合いはやはり至極当然に続いた。
互いの部屋に行き来する事もよく在った。
小説やマンガ雑誌をお互いに貸しあったりもする。
初夏の頃には、妙にテンションの高くなっちゃったカティオムと――つまりはこの時既に彼は問題の少女に対して恋をしていたのだ――三人で映画を観に行ったり水浴園へ遊びに行ったりもした。ペルセルテやプリネシカにしてみれば、少し歳下の弟が出来た様な気分だった。母を亡くし父を亡くし、家族と言えばお互いしか居なかったユギリ姉妹にしてみればカティオムの事は可愛くて仕方なかったのだ。
そんな彼が……急に元気をなくしたのが二週間程前からだ。
ペルセルテもプリネシカも心配した。
だが二人は殊更に事情を聞き出す様な事はしなかった。実を言えばペルセルテは何度もカティオムに直接尋ねようとしていたが――プリネシカに止められて我慢していた。
それが必要な事なら彼から話してくれる筈だから。
そして――一昨日の夜。
ついにその理由を聞かされた。
そして今……プリネシカはペルセルテと。一緒に、ケセラテ自然公園の遊歩道を歩いているのである。
「きれいな子だね」
声を顰めてペルセルテは呟く。
今は問題の少女の背中しか見えない。前方を歩くカティオムと少女の後をユギリ姉妹は二十メートル程離れて尾行しているからだ。
だから――シェルウートゥという名の少女の貌は先程ちらりと見たっきりである。
だがそれでもその印象は強烈にペルセルテの意識に焼き付いていた。
美しい。
美少女――などと俗っぽい言葉で表すると、むしろ彼女の容姿に比べて酷く安っぽく思えてしまう。強いて言えば『清楚可憐』が一番近いのだろうが……手垢の付いた単語など十や二十を並べても恐らく彼女の容姿を正確に表現する事は出来ないだろう。
実を言えばペルセルテ自身……自分の事をそれなりの器量だとは思っている。プリネシカと基本が同じなのだから少なくとも不細工ではない筈だと。恐らく多少の自惚れを差し引いても『美少女』と呼ばれる範疇に自分は居るのではないかと。
だが……シェルウートゥの姿を見てしまった今となっては自信喪失どころの騒ぎではない。同性の自分の眼からみても溜め息が出る程に美しいのだ。カティオムが遠目に見ただけで夢中になってしまったのも頷けた。
「うん……きれいだね」
一緒に歩くプリネシカまでそれを肯定するものだから……なおさらだ。
しかし――
「でも……」
妹は何やら口ごもる。
「なに?」
「ううん。なんて言うか……ちょっと……変な感じ」
「そう?」
「うん」
「どこが?」
「分からないけど……」
遊歩道は、ゆったりと湾曲して伸びている。
ちょっと遅れると前方を行く二人の姿は木々の間に隠れてしまいそうになって……そのたびにユギリ姉妹は小走りに間合いを詰める。その繰り返しだ。
フォロンの姿は見えない。
彼とコーティカルテは〈ハーメルン〉に乗って待機している。シェルウートゥの姿が見えなくなったらその地点を無線で報せる手筈になっていた。
ユギリ姉妹から連絡を受ければフォロンは〈ハーメルン〉で移動――公園を出てくるシェルウートゥを捕捉して尾行する段取りになっている、フォロンが自動二輪で待機しているのは以前、カティオムがシェルウートゥの後を追って見失った事から、彼女が自動車か自動二輪で移動している可能性を考慮したためである。
無論――自動二輪で追尾出来ない場合は今度はフォロンから連絡を受けたユギリ姉妹が彼女を尾行する手筈になっていた。
「なんだか……楽しそう」
プリネシカが呟くのは言うまでもなくカティオムとシェルウートゥのことだ。
二人が互いに相手を振り返る時に、後ろを歩くユギリ姉妹にも横顔が見える。
その横顔が……ずっと笑顔なのだ。
シェルウートゥがカティオムの事をどう思っているのかは分からない。だがペルセルテ達の眼には二人は仲睦まじい恋人同士にしか見えなかった。少なくともカティオムの好意が一方的に空回りしている様子は感じられなかった。
いいなあ――とペルセルテは思う。
そして前を歩く二人の姿を自分とフォロンの姿に置き換えてみたりする。
ペルセルテはフォロンの事が大好きだが――フォロンが彼女の事をどう思っているのかは分からない。大事に思ってくれているのは間違いが無いが、彼の中ではペルセルテは未だに後輩であり妹の様な存在でしかないのではないか――そんな気もする。カティオムが自分達にとっては異性と言うよりも弟的な存在でしかない様に。
はあ……と溜め息をつくペルセルテ。
その時。
「あっ」
プリネシカが声をあげる。
カティオムの横顔が曇って――シェルウートゥの笑顔が苦笑になる。呆れているのでも哀れんでいるのでもない。無理に取り繕った表情が笑みになりきれず苦笑になった――そんな印象が在った。
「フォロン先輩」
プリネシカはトレーニング・ウェアの襟元をつかみ――そこに小型のマイクが取り付けてあって腰のポーチの中の無線機に繋がっている――抑えた口調で囁いた。
「今、シェルウートゥさんがカティオムと別れました。横道に逸れて、道路の方に出るみたいです」
今まさに目の前で起きている出来事を公園の外で待機しているフォロンに告げる。
予定ではフォロンが『了解』と応えて尾行を引き継ぐ筈だった。
だが――
「中止だ」
「――え?」
耳孔に差し込んだイヤホンから聞こえてきたのは予想外の言葉であった。
ユギリ姉妹は互いに顔を見合わせる。二人の持つ無線機は基本的に同じものだ。ペルセルテにもプリネシカにもフォロンからの連絡は同じ様に聞こえている筈だ。
――『中止』
どうやら聞き間違いではない様だった。
それを証するかの様に――
「聴こえてる? こちらタタラ・フォロン。尾行は中止。カティオム君にも言って……西口に集合して」
フォロンがそう告げる。
「……どうして?」
ペルセルテが妹に問うが――プリネシカも不安そうな表情で首を振るばかりだ。
「………」「………」
しばし顔を見合わせてから――二人は頷き合った。
計画が変更になった事はカティオムにもすぐに分かった。
いきなり背後から、ユギリ姉妹が駆け寄ってきたからだ。予定なら二人は、シェルウートゥが離れたらすぐにジョギングを装ってカティオムを追い抜き、彼女がどこへ向かっているのかを確認する筈だったのだ。
なのにユギリ姉妹はカティオムを追い抜かずに――こう言ったのである。
「中止だって」
何のことだか分からなかった。
恐らく――ひどく問の抜けた顔をしていたのだろう。ペルセルテは改めて念を押す様にゆっくりと言った。
「フォロン先輩が、中止だから戻って来いって」
「ど……どうして?」
問うてもユギリ姉妹は首を振るばかりで答えてくれない。
今日こそは――そう思っていたのに。
何か裏切られた様な気分になってカティオムは〈リンクス〉に飛び乗った。後ろからユギリ姉妹が彼を追って走りながら何事かを言ってくるのが聞こえたが――待とうとは思わなかった。
思えなかった。
ケセラテ自然公園の西口にはバイクを降りてフォロンとコーティカルテが待っていた。
「どういうことですか?」
自転車を飛び下りて詰め寄る。
「いきなり中止なんて――どうして!?」
自分でも、言葉に険が在るのが分かる。
だが止められなかった。期待していたのだ。今日こそはもう一歩彼女に近付けるのだと思っていたのだ。その希望が潰えた反動は怒りとなって彼の胸を満たしていた。
「ごめん。悪いけど……契約に不備がある」
フォロンは言った。
「不備……ですか?」
意外な言葉に思わず眼を瞬かせるカティオム。
契約に不備。
一体何の事なのか?
「うん。キミに悪意がないことは分かってるんだけど、キミとの契約は無効だ。このまま計画を続行すると、事務所の不法行為になっちゃうんだよ」
「訳が分からない。どういう事ですか?」
ばたばたと近づいてくる足音に振り返ると――ユギリ姉妹が息を切らせてようやく追いついてきた。
二人もカティオムと同じ想いの様だ。
汗まみれのまま、荒い息の間からペルセルテが抗議する。
「ちゃんと、説明、してくだ、さい」
「……うん」
そう応じるフォロンの顔に哀しげな――いや憐れむ様な陰が差した様にカティオムには見えた。彼とて意地悪や怠慢から尾行の中止を告げたのでない事はそれでカティオムにも分かった。「依頼内容に、間違いがあるんだ」
「間違い?」
「彼女は……」
言いかけたフォロンの言葉を――
「カティオム」
コーティカルテが遮った。
紅い髪の精霊はカティオムの真正面に立って彼の顔を見上げている。
「お前の覚悟が訊きたい」
唐突に彼女はそんな事を言ってきた。
「覚悟って……何の?」
「彼女が何者であっても、それを正面から受け止める覚悟はあるか?」
「はい」
即答する。カティオムにとってそれは迷うまでもない間いだった。
しかし……
「よく考えて返事をしろよ?」
「考えるまでもありません」
「……オミテック社社長の子息というお前の立場を考えれば、相手の素性によっては結婚どころか交際さえ危ういように思うのだが?」
「そうです」
「それでもか?」
「彼女の素性がどうだろうと、誰に反対されようと、気持ちは変わりません」
最初は……きっと彼女の美しい姿に惹かれただけだったのだろう。
だが何度か会う内にそれよりも彼女の表情や仕草に惹かれた。それらに顕れる彼女の穏やかさや優しさにどうしようも無いくらいに惹き付けられた。
姿だけではない。心だけでもない。
両方を含めた何もかも全てだ。
自分は彼女の存在そのものに惹き付けられたのだと思う。
だから――
「分かった」
コーティカルテはフォロンを振り返る。
契約楽士が頷くのを確認してから――彼女は再びカティオムに向き直った。
「カティオム、よく聞け。彼女は人間ではない」
「――は?」
「あれは……精霊だ」
(――え?)
一瞬……言葉の意味が脳裏で空滑りした。
(今……何て言った?)
あれはせいれいだ……って言った?
せいれい?
「精……」
精霊?
彼女が? ――シェルウートゥが!?
シェルウートゥは……人間じゃない?
「そんな事……」
「精霊だ。間違いない」
まちがいない?
嘘だろ?
そうだ。嘘に決まってる。嘘だ。嘘なんだ。そんな事が在る筈がない。だって――
「――嘘だ!」
絞り出したその台詞は根拠在る反論のそれではなく……ただ『そうあって欲しい』という希望に過ぎなかった。
予想外の言葉に意識が乱れ正常な思考が組み立てられない。嘘だと思う。でも懸命に捜してもその理由が見つからない。
「今の無礼は、動揺ゆえと解釈して聞き流してやろう。いずれ落ち着けば、私がお前に嘘をつく理由がないことくらい気づくだろうからな」
「そんな……」
「信じられないか?」
信じられない。当たり前だ。
「ならば本人に訊いて来い」
その言葉に驚いたのは――カティオムだけではなかった様だ。
「コーティ?」
フォロンも驚いた様に声を上げる。
それに応える様に彼女は振り返ると、真っ直ぐに腕を伸ばして前方を指差した。
「この歩道を回り込んだ先に……まだいる」
その言葉を聞くなり――カティオムは自転車に飛び乗った。
ペダルの上に立ち上がり、全体重をかけて踏み込む。みるみる加速してゆく〈リンクス〉の車体を大きく傾け、公園沿いに湾曲した歩道を高速で強引に回り込んだ。
「――ッ!!」
いた。
コーティカルテの言った通りだった。
百メートルほども前方だろうか。公園の敷地を背に、歩道を横切って、白いワンピースの少女が歩いている。見間違えようが無い。他の誰が見間違えようと今のカティオムが見間違える筈も無い。
シェルウートゥだ。
彼女の前方には……黒塗りの乗用車が一台、彼女を待つかのように路上駐車されていな。 あれに乗るのだろうか。
だが大型で何処か物々しい印象のその卓は彼女に似つかわしくない様な気がした。良家の子女と言われれば納得する様な雰囲気がシェルウートゥには在るが……硝子の殆どにスモーク張りが施されたその車には、ただの高級卓とは異なる威圧感が備わっている。
硝子を下げた後部座席の窓越しに――二人の老人がこちらを振り返るのが見えた。
「シェル!!」
思わず叫んでいた。
少年の叫びに白いワンピースの少女が振り返る。
そしてカティオムは――見た。
シェルウートゥの美しい顔に三つの表情が浮かんでは消えていくのを。
最初は――驚き。
次に――哀しみ。
そして最後に――
「シェルウートゥ!!」
――決意。
次の瞬間――カティオムの眼の前に閃光が奔る。
眼が眩む程の光量を持った白い稲妻が彼の前方の路面を。直線に薙いだのだ。
反射的に左右のグリップをブレーキ・ハンドルごと握り込む。瞬間的にロックした車輪が車体の勢いに負け路面を掴みきれずに滑った。
カティオムは転倒し……地面に投げ出された。
したたかにその身体を硬い路面に打ち付けたものの、彼は構わず身を起こして叫ぶ。
「シェル!!」
全ては――ほんの二秒か三秒のことだ。
だがそれだけで全ては終わっていた。
「…………」
シェルウートゥの姿が……ない。
黒塗りの車もいなくなっていたことにカティオムが気づいたのは、ツゲ事務所の面々が追いついてきてからだった。
「カティ!!」
ペルセルテの声が聞こえる。
なんだか――彼女の声がひどく遠い気がした。何もかもが、世界そのものが自分から遠ざかってしまったかの様な感覚が在った。
「大丈夫!?」
カティオムは応えなかった。
応える余裕なんか――無かった。
オミ・カティオムはただ呆然と眼の前の地面に穿たれた一抱え程の窪みを見つめる。
それはシェルウートゥが放った精霊雷の痕だった。そしてカティオムはそれを放つ彼女を――その瞬間に彼女の背に精霊の翼が一瞬ながら浮かび上がったのを、確かに見た。複雑に絡み合った紋様が生み出す光の羽根を。
「シェル……」
コーティカルテの言ったとおりだったのだ。
間違いない。
シェルウートゥは……精霊だ。
フォロンの報告を聞き終えると――ユフィンリーは眼を閉じて短く溜め息をついた。
固唾を呑んで見守る一同を前にしばし沈黙。
そして――
「契約不成立」
言ったのはそれだけだった。
つまりそれがツゲ神曲楽士派遣事務所の結論という事である。
「…………」
フォロンは黙って術いた。
意地悪をしている訳でも勿体を付けている訳でも無論ない。その事は彼にも分かっている。ツゲ神曲楽士派遣事務所は――ユフィンリーはただ法律に照らし合わせて当然の結論を下したに過ぎなかった。
基本的に将都は自治機能を備えており各将都の立法権もそれぞれに独立している。
つまりは全く別の法律が将都毎に施行されている可能性も制度としては有り得る。
だが実際にはいずれの将都も帝都メイナードの法を基礎として流用してお――細かな違いは在っても概括的にはほぼ同じ法律が適用されている。
特に商法に定められる商法上契約については、帝都、将都を問わず完全に同じものが適用される。地域によってころころと商法が変わっては円滑な商取引やその規模拡大が出来なくなるからである。
ともかく――
商法によれば契約の内容に関して何らかの形で精霊が関与する場合には、その旨を明記しなければならない事になっている。口頭による契約であれば告知義務が生じる。無論、契約書上の記載に漏れが在ればその契約は無効となる。
精霊は様々な面で人間と関わりながらも人間とは異なる存在だ。
だからこそ彼等が絡む物事は人間の法で律しきれない部分が多い。このためにいざ裁判となっても常識的な判決を下す事が出来ない場合も在り――結果的に精霊の存在を知らずに契約した側が多大な損害を受ける事が多い。
そのために商法はありとあらゆる条文に『精霊の存在が確認された場合は』と別扱いを明示する但し書きを設けている。
当然オミ・カティオムの依頼も例外ではない。
彼の依頼は調査対象が精霊である事を明示しなかった時点で無効となる。それは依頼者本人が知っていたかどうかとは無関係だ。あくまでこれは仕事を引き受けた側が不測の損害を被らぬ様に守るための法律だからである。
無論――カティオムは本当に知らなかった。
シェルウートゥが姿を消した後、彼の落胆は見ていて気の毒になるくらいだった。がっくりとうなだれて……精霊雷で扶られたアスファルトをただ見つめていた。
フォロン達は声も掛けられなかった。掛けても恐らく彼の意識には届かなかったろう。
やがて――
「……学校が在りますから」
突然そう言い残して彼は去っていってしまったのだ。
一瞬、後を追おうかとも考えたフォロンであったが、掛けるべき言葉も見つからないままでは何の慰めにもなるまい。ユギリ姉妹も同様で――結局、ツゲ事務所の面々はそのまま現場から撤収する事となった。
ただコーティカルテだけが、冷徹とも言える程に平然と、成り行きを見守っていた。
報告は……気の重いものになった。
最初は好奇心満々でフォロン達の帰りを待っていたユフィンリー所長も、真相を聞かされて顔をしかめ――口を閉ざした。そして沈黙の後にただ」言だけ口にしたのが先程の一言――『契約不成立』であった。
所長の机の前に立つフォロンも、フォロンの机に頬杖をついて座っているコーティカルテも、その向かいの席で話を聞いていたレンバルトも、もう何も言わない。
仕事だからだ。
依頼主が以前からの知り合いであろうと、仲のいい友達であろうと、それは関係ない。書面に不備があれば、その契約は締結しない。そして契約が締結されなければ、それは仕事として成立しない。
単純な事なのだ。
そして単純であるが故にそれは動かし難い現実なのである。
「分かりました」
それだけ言って、フォロンは自分の席に戻る。
コーティカルテは……彼の隣に置かれたパイプ椅予に座って、ぼんやりと天井を眺めている。彼女としてもあまり気分の良い出来事では無かったのだろう。
レンバルトも何やら書類整理に忙しそうだし、ユフィンリーはファイルされた資料を広げて考え事をしたり電話をかけたりし始める、ユギリ姉妹はとっくに神曲学院の方に登校していた。
空気が微妙に重い。
だがだからといって仕事をしない訳にもいかない。彼等は皆――プロフェッショナルだ。気分一つで仕事をしたりしなかったりする訳にはいかない。
だから。
今日もツゲ神曲楽士派遣事務所の、いつもと変わらぬ一日が始まる。
それだけの事。
ただ――
――オミ・カティオムとは、冬まで連絡がとれなかった。
ACT2 PREPARAT10N
同じマンションに住んでいるのだから頻繁に顔を合わせるのは当然だ――と思っていた。
それが間違いだったことにペルセルテが気づいたのは、例のケセラテ自然公園での出来事から一週間程経ったころだった。
オミ・カティオムを見かけなくなってしまった。
まるで彼の存在そのものが幻であったかの様に。
そして――ペルセルテは今更ながらに理解した。
彼としょっちゅう会っていたのは同じマンションに住んでいたからではない、彼と友達だったからだ。ユギリ姉妹が彼に会いたいと望み、彼もユギリ姉妹に会いたいと望んでいたから。ただそれだけの事だったのだ。
「……ねえ」
バスローブから覗くうなじに湯気をまといつかせながら、ペルセルテは妹に声をかけた。
今日はプリネシカの方が先にお風呂を使う日である。だから彼女はもう髪を乾かしてベッドに寝そべっていた。
「なに?」
プリネシカが読みかけの大きな本を開いたまま――うつ伏せで振り返る。まだ少し湿気を含んだ銀色の髪が一筋はらりと本のべージに落ちた。
「プリネは、どう思ってるの?」
何の事? ――と妹は訊き返さない。ペルセルテも殊更に説明しない。お互い同じ事を考えているのは分かっているからだ。
カティオムの事を。
「遊びに来なくなっちゃったね」
「遊びに来いとも言わないしね」
言いながらペルセルテは壁際のドレッサーに向かう。プリネシカに背中を向ける格好だが、二人の視線は鏡こしに相手を見ていた。
あの日からカティオムとユギリ姉妹の付き合いは途切れた。
その事に気付いたのが一週間目。
そしてそれからもう二ヶ月近くが経過している。
「……ねえ」
「……?」
改めて金髪の姉が声を掛け――応じる様に銀髪の妹は小さく首を傾げた。
「精霊と人間って……どうなんだろ?」
「どうって?」
ドライヤーに伸ばしかけていた手を引っ込めて……だから振り返ったペルセルテは、まだ頭にタオルを巻いたままだ。ひどく深刻そうな表情で彼女は言った。
「あたし……嫌なこと考えちゃってる」
「だから……なに?」
要領を得ない姉を促す様にプリネシカはシーツの上に躯を起こした。
「あたし、カティのこと応援したい」
「うん。あたしもそう」
「シェルちゃんと、うまくいって欲しい」
「うん。それも同じ」
今更確認するまでもない事だ。
まるで正反対の性格だが根本の部分では驚く程にこの二人は考え方が似ている。ペルセルテの好きなものはプリネシカも好きだし――姉の嫌いなものは妹も嫌いだった。どちらがどちらに合わせている訳でもない。ただ自然と二人は同じ気持ちを共有していた。
だが……
「でも……それって……ヤなの!!」
「――え?」
「ヤなの! カティとシェルちゃんは、うまくいって欲しいの! でも、人間の男の子と精霊の女の子は……くっついちゃ駄目なの! 嫌なの!!」
広い寝室に、少女の声が響いた。
神曲の練習をしても隣室から苦情が来ないくらいだから、防音はしっかりしているはずだ。それでもプリネシカが反射的に首を竦めたので――さすがに我に返ったペルセルテは声を落とした。
「ヤなのよ……」
ああ――とプリネシカの貌が微苦笑を刻む。
「フォロン先輩……ね?」
「…………」
図星である。
ペルセルテは感情を暴発させた事をほんの僅かにだが後悔した。自分の気持ちをプリネシカには判っていて欲しい。だが妹に見透かされるのは少し悔しいのだ。
何より――恥ずかしいし。
「……ペルセはさ」
本を閉じてから――プリネシカはベッドの上にぺたりと座り込む。
「どうしたいの?」
「カティは……うまくいったらいいなって……」
だが銀髪の妹は微笑んで首を振る。
「そうじゃなくて。どうなって欲しいか、じゃなくて、どうしたいか――って」
「……え?」
思わず、妹を振り返る。
突然の難問だった。そもそも質問の意味がよく分からなかった。
「どうなって欲しいか、じゃなくて、どうしたいか?」
「そう」
頷くプリネシカ。
ペルセルテは混乱を覚えた。
違いが分からない。『どうなって欲しいか』――それは分かっている。決まっている。そしてそれは『どうしたいか』と同じではないのか?
「…………」
プリネシカはただ静かに微笑んで双子の姉を見つめている。
そして――
「――あ」
唐突にペルセルテは理解した。
「カティを応援したい」
「そっか」
銀髪の妹は嬉しそうに笑った。
「プリネは?」
「あたしも応援したい」
「そうだね」
「うん」
それからペルセルテは鏡に向き直る。
「明日、先輩に相談してみよう」
「うん」
「契約がないから仕事には出来ないけど……友達の恋を応援するのは自由だもんね」
そう言ってから――
「…………」
唇に残る言葉の感触にペルセルテは頬を赤らめる。
(……そうだよね……恋なんだよね……)
だからこんな気持ちになるのだ。
カティオムとシェルウートゥの事も。
そして――
(……私……)
ずっと勘違いをしていたのかもしれない。
初めて会った日からずっとフォロンの事が好きで――大好きで。
それはもう本当に間違いが無い事実だ。
だが……今までペルセルテがフォロンに抱いていた気持ちは、プリネシカやレンバルトやユフィンリーに対する好意の延長上にしかなかったのかもしれない。
そもそも優しくて何度も自分を助けてくれた先輩だから、憧れの神曲楽士だから、素敵な神曲を奏でられるから――そんな理由はフォロンだけに対するものではない。レンバルトやユフィンリーにも程度差は在っても当てはまる。そしてペルセルテはレンバルトやユフィンリーの事も好きだった。
だからフォロンはペルセルテの中で『一番』ではあっても、他に比べるものの無い唯一の――『特別』ではなかった気がする。
これではフォロンの事を朴念仁と責める訳にもいくまい。
彼がペルセルテを『大事な後輩』としてしか認識していないらしいのと同じくペルセルテもフォロンを『大好きな先輩』としてしか見ていなかったのかもしれない。そしてそれを恋愛感情なのだと勘違いしていただけなのかもしれない。
それは恋ではない。なかった。
けれど――
「…………」
ペルセルテは頭にタオルを巻いたままベッドに上がった。
折角、素敵な事に気づけたのだから今はドライヤーの無粋でやかましい音を聞きたくはなかった。静かな夜にその発見を噛み締めたかったのだ。
そういう訳で。
翌朝のペルセルテは――ちょっと風邪っぼかった。
助手席でくすくすと笑う声がする。
「――え? え? 何です?」
丁度、合流地点だったのでレンバルトはそちらに視線を向ける事が出来ない。彼はハンドルを回しながらやや焦り気味に尋ねた。彼の上司がこんな風に笑うのは――大抵ろくでもない事を思い出している場合だからだ。
レンバルトは――ユフィンリー所長を送っていく処だった。
無論いつもそうする訳ではない。今日はたまたまユフィンリーが事務所を閉めてからルシャゼリウス市警本部に車を引き取りに行かなければならなかったのだ。
なぜ彼女の車が市警本部にあるのか、レンバルトは聞かされていない。しかしともかく、ルシャゼリウスなら、ちょっと寄り道になるがレンバルトの帰宅コースに近い。そこで彼女を同乗させる事になったのである。
現在位置は――丁度ルシャゼリウス市に入ったあたりだ。
ベレアの高級住宅地を抜け、サタモナイカ飛行場を右手に見ながら高速道路を走っている。飛行場が近いせいか……道路には自家用車の類よりも輸送用の長距離トラックの様な無骨な大型車の方が多かった。
だがそれらの車の中でもレンバルトの駆る車は更に無骨ではあったろう。
幌付きの四輪駆動車――しかもバギーと呼ばれる不整地走行に特化した車輌だ。低い車高と横に突き出した分厚い四つのタイヤ、そして偏平なノーズに居すわった大型の前照灯は、高速道路の流れの中でもひときわ目立つ存在だった。
〈シンクラヴィス〉。
レンバルトが事務所から支給された彼の専用車であり――フォロンの〈ハーメルン〉と同じくヤマガ発動機が製造した特殊な試作車輌だ。以前は電車で通勤していたレンバルトはこの〈シンクラヴィス〉の支給と同時に通勤方法を切り替えた。
「……とと」
進入路の坂を上がっりきった小柄な車体は、するり、と危なげない動きで本線に合流する。直線に入って進路が安定してから――ようやくレンバルトは助手席を振り返って、質問をし直した。
「何なんです?」
「何が?」
ユフィンリーの横顔が対向車のライトに照らされ浮かび上がるが――その輪郭には一点の綻びもない。いささか疲れているようには見えるが、さっきのくすくす笑いはどこかへ消えてしまった様だった。
「いや……何か笑ってたじゃないですか」
「ああ――あれ」
そしてまた笑みを浮かべるユフィンリー。
「ちょっと……懐かしくなっちゃってさ」
「懐かしく?」
「学院の頃のさ……あの子達がこんな処を見たら、何て言うかと思って」
「ああ、あれ」
瞬時にレンバルトはユフィンリーの台詞の意味を理解した。
トルバス神曲学院に在学中――ユフィンリーとレンバルトが、ちょっとした噂になった事が在るのだ。二人が夜遅く、一緒に夜道を歩いているところを、学院の生徒に目撃されてしまったのである。
事情を明かせば、しかし大した事ではない。当時まだ単身楽団の主制御楽器にギターを使っていたレンバルトが、どうしてもチョークが満足に出来ずに、居残りでユフィンリー先輩に絞られていただけなのだ。
だが問題は……夜道を歩く二人がどちらも学院内で相当な人気者だったという事実だ。
無論、あの二人じゃあカップル成立は時間の問題だったよなあ、と誤解したまま勝手に諦める者も少なくはなかった。だが、そうではない連中も相当な数が居たのである。
翌日から二人の周囲ではつまらないゴタゴタが増えた。
中傷の手紙がロッカーに入っていたり。校舎の裏に呼び出されたり。自宅に無言電話がかかってきたり。実習の時間には単身楽団がへつだけ足りなくなったり。
まあ――そういう類のかなり陰湿なゴタゴタだ。
元々二人とも『天才』の名を冠されるに相応しい才能の持ち主だっただけに、普段から妬みや嫉みを覚えていた者も多かったのだろう。ここぞとばかりに便乗する連中も居てつまらない嫌がらせの類は日増しに増えていった。
無論――当初は二人共莫迦らしくて相手にはしなかった。
だがそれが三日経っても一週間経っても続き、収まるどころか激化の兆候さえ見えてきたものだから……遂にキレた。
レンバルトがではない。ユフィンリーの方だ。
十日目の昼休み、ユフィンリーは放送室に乗り込んでいって――瞬く間にこれを占拠。そして校内放送で、いきなり十数名の生徒の名前を読み上げ始めたのである。
嫌がらせをした犯人の名前だった。レンバルトがただ状況に呆れている間に、彼女は嫌がらせの相手を精霊に探らせて、犯人全員を把握していたのだ。
名前を読み上げた後に彼女はこう付け加えた。
『ただいまの放送内容について、放送部には一切の責任はありません、以上、ツゲ・ユフィンリーがお送りしましたッ!』
無論、彼女は校長室へ呼び出されたが、のんびりおっとりした校長は『おや? 本当に誤解だったんですか。残念ですねぇ』と的はずれな感想を漏らすに留まり、特にお替めらしいお答めは無かった。
そして騒ぎは収まり――噂だけが残ったのだ。
つまり今、彼女が助手席で笑いを漏らしたのは、その時の事を思い出したからであるらしい。結局、事実無根だったために噂も次第に萎んでいき、今では当事者がふとした拍子に思い出す程度の話でしかないのだが。
「あれは俺もびつくりしましたよ」
「私も若かったからなー」
「いや、放送の方じゃなくて――噂の方」
レンバルトは苦笑しながら言った。
「なんで俺とユフィ先輩が、くっついちゃいますかね? フォロンならともかく」
ユフィンリーが後輩の中でも特にフォロンに目を掛けていたのは事実だし尋ねられれば彼女も普通にそれを肯定するだろう。
「そう? 私はキミの事も可愛いと思ってるよ?」
「俺も先輩のこと、美人だと思ってますよ?」
「くっついてみる?」
間髪入れずに出たその言葉は――だからこそ本意でない事はレンバルトにも分かっている。
「そりゃ駄目ですよ。俺はどちらかというと、護るタイプだから」
「私は護られるのは好きじゃないなあ」
「ね? 駄目でしょ?」
「駄目だねえ」
どちらも他愛もない世間話をしている様な口調である。
「そっか。レンバルトは護りたいタイプか」
「ですね」
「だから――プリネシカ?」
「まあ身の回りでは彼女が一番ですかね?」
涼しい顔でレンバルトは言う。
「いきなり核心を突いてみたんだからもうちょっと動揺しなさいよ」
「ご期待に添えず申し訳ない」
苦笑してレンバルトは言った。
プリネシカの事は実の所、学生時代からちょっと可愛いとは思っている。もし彼女から告白でもされたのなら付き合うにはやぶさかではない。
だが――レンバルトは異性に対しての執着心が薄い。元々もてたせいか、若者にありがちな恋愛に対する切羽詰まった感覚が無いのだ。綺麗なものや可愛いものを愛でる様な気持ちや敬う様な気持ちは在っても、積極的に彼氏彼女の関係になってその対象を独占したいという気持ちが無い。
あるいは――自分は恋愛感情というものが欠落しているのかもしれないともレンバルトは思っている。だからこそユフィンリーと彼を結び付けて勝手に盛り上がっていた連中が、ただただ滑稽に見えたのだ。
「――ねえ」
ユフィンリーの声が、ふいに低くなる。
いや――違う。ただ重くなった。
「男の子って、みんな、そうなのかな」
「……というと?」
「護られるのは嫌なのかな――って話」
「ああ……どうでしょう? でも別に、俺限定じゃないとは思いますよ」
「そっか……」
視線を虚空に彷復わせて何事かユフィンリーは考えている様だった。
「……先輩?」
レンバルトは言った。
「えと――俺でよかったら相談にのりますけど?」
「…………」
眼を瞬かせてユフィンリーはレンバルトを振り返った。
彼女は台詞の意味が分からない、といった様子でしばらく怪認そうにレンバルトを見つめていたが――
「違う違う」
噴き出してからそう言った。
どうやらレンバルトも安っぽい勘違いをしてしまったらしい。
「……そうじゃなくてね」
ひとしきり笑いの発作に耐えた後――ユフィンリーは少し静かな口調で言った。
「カティオムだよ。オミ・カティオム」
「ああ……」
あの気の毒な少年の事だ。
見知らぬ少女に一目惚れして。必死の思いで友達にまでなって。でもそれ以上にはなれなくて。思いあまって後をつけたりもして。
挙げ句――調べてみたら相手は精霊だった。
そしてそれが判明してから二ヶ月近く音沙汰がない。
「連絡……取れないんですよね?」
あれから見かけない――とユギリ姉妹も言っていた。
「うん。それとなく探り入れてみたけど、実家にも戻ってないって」
「まあ……仕方ないですねえ」
「そうなの?」
「だって……精霊なんでしょ?」
「ええ」
「精霊と人間の間に、恋愛は成立しないでしょう? 成立したとしても人間同士のそれとは違うものにならざるを得ない。そもそも違うものですし。人間形態を採っている精霊達は確かに居るし、彼等の行動は一見、人間そっくりにも見えますが……それは彼等が人間の社会に居る上で、人間の行動を模倣しているにすぎない」
「……教科書的な解答だね」
「間違ってます?」
「いいや」
肩を竦めてユフィンリーは言った。
恋愛は本能の延長線上に在る。性欲が在るから異性に惹かれるのだ。そしてそれはつまり同種の生命の間にしか恋愛感情は発生しないという事だ。その意味で精霊と人間の間には本来的な意味での恋愛は存在しない。したと思えてもそれは――錯覚の一種であるとレンバルトは考えていた。
彼は精霊を軽視しているのではない。そんな人間は先ず神曲楽士にはなれない。
ただレンバルトは精霊と人間を違うものと認識した上で精霊にも敬意を払っているというだけの事だ。彼等に恋愛感情を抱くかどうかとは全く別次元の話である。
だが――
「オゾネ・クデンダル」
ふと――思い出したかの様にぽつりとユフィンリーが言った。
「はい?」
「オゾネ・クデンダル。知ってる?」
「当然。希代の神曲楽士と言われた人でしょ? こないだ亡くなった。たしか……殺されたとか新聞に載ってましたけど……」
「私、その人の契約精霊に会ったこと、あるよ」
道路の彼方に視線を注ぎながらユフィンリーが言う。
そこに広がっているのは無数の光芒が織りなす優美な夜景だ。ルシャゼリウス市デラウンの灯である。
「へえ。それは凄い。やっぱりあれだけの神曲楽士となると契約精霊も上級――」
「愛してたよ」
やはりぽつりとユフィンリーが言う。
「――え?」
「精霊なのにね……人間の楽士の『男』を……『女』として愛してたよ」
「…………」
返すべき言葉が思い付かずレンバルトは沈黙する。
ユフィンリーも……そのまま口を閉ざしてしまった。
重苦しい沈黙の中で反対車線を擦れ違う車の灯火が流星雨の様に流れて過ぎる。
やがて――〈シンクラヴィス〉は高速の出口にさしかかった。ここから一般道へ降りれば、ルシャゼリウス市警察本部までは三十分とかからない。
下り坂の途中でユフィンリーが――不意に口を開いた。
「レンバルトさあ」
「はい?」
「心の底から誰か女の子を好きになった事って……在る?」
「…………」
「カティオムみたいに……他の物事なんて全部どうでも良いくらいに、誰かの事ばかりいつも考えてしまう――そんな経験って在る?」
「……それは」
微苦笑を浮かべるレンバルト。
痛い問いだ。
好きな異性は居る。大事な異性や守りたい異性も沢山居る。プリネシカも。ペルセルテも。ユフィンリーでさえも。あるいは人間ではなくても良いというのならばその中にはコーティカルテも含まれるだろう。
今のところ、レンバルトとしてはプリネシカが『一番』ではある。
だがそれは程度問題だ。彼女だけが『特別』というものではない。彼女と他をはっきりと区別する一線は特に無い。他者への好意の延長でしかない。
それは恋や愛ではないだろう。少なくともそんな気持ちを『恋愛』と定義づける程にレンバルトは脳天気ではなかった。
やはり自分は何か重要なものが欠落しているのかもしれない。
そんな風にレンバルトは思う。
「……在りませんね」
「……そっか」
溜め息の様に呟くユフィンリー。
それからは――市警本部に着くまで、二人共黙ったままだった。
人間の社会において現在――精霊には一定の権利が認められている。
将都トルバスや帝都メイナードだけではなく、およそ精霊の存在を認め彼等が社会に何らかの形で参加している全ての国家は、精霊に各種権利――基本的人権に準ずるものを認めている。
確かに事実上の例外は在る。
例えばポリフォニカ大陸国家群の中にはブライテン共和国の様に、基本的な権利を認めつつもそこに各種法令を追加して極端な制限を加えている国も在る。
精霊の権利を認める事は国際的な風潮であるため……精霊の存在を無視した法制度を敷いている場合には『発展途上国』というレッテルを貼られ、政治交渉や貿易問題といった外交面で不利を強いられる事が多い。このために形だけでも精霊の権利を認めて、実質的には追加法令で『修正』を加えるというやり方をしているのだ。
だが……やはりブライテン共和国は例外なのである。
大概の国においては精霊は人間とほぼ同等の権利を認められている。
彼等は望みの仕事に就く事も出来れば、各種公共施設を利用する権利も在るし、税を支払ってさえいれば社会的福祉も受けられる。
つまり――それは裏を返せば義務も責任も人間と変わらないという事だ。
無論、トルバスやメイナードにおいても精霊法に代表される特殊な――精霊だけに適用される法令が存在するのも事実だ。
しかしこれらの多くはあくまで罰則規定であって通常生活における精霊達の権利を狭めるものではない。精霊が人間に比べて強大な力を備える以上、これは当然の処置と言えるし――そもそもこの精霊法を定めたのは実は人間ではなく上級精霊達なのだ。彼等は人間と関わる事を望み、人間と精霊の両者の関係が円滑に回る様にとこの精霊法を敷いた。
そして実際……精霊と人間は大きな諍いも無く共に社会を維持している。
その意味では人間も精霊も変わらない。
『人間の善き隣人』――精霊を示すのにそんな言葉が使われる事が在るが、人間も精霊も同じ社会に住んで相互に協力し合える以上、同じ世界に生きる仲間なのだと言える。少なくとも彼等は価値観も道徳も共有出来ない様な異世界の怪物ではない。
精霊と人間。
組成や能力の違いは在れど両者の間には大きな違いは無い。
少なくとも社会はそういう形で回っている。
(……でも)
タタラ・フォロンは思う。
(本当に……そうなんだろうか)
自室の机に座って頬杖をつき……けれど読書するでもなく封音盤作りに精を出すでもなく、フォロンはただぽんやりと目の前の壁を見つめていた。
部屋の電気は消している。点いているのは机の上の電気スタンドだけだ。
すぐ背後のベッドでコーティカルテが眠っているからだ。
彼女の寝室はきちんと別に在る。ベッドもフォロンのものと同じものが置かれている。
だが最近――何故か彼女は彼の寝床で眠りたがる。それも頻繁にだ。猫が飼い主のベッドに我が物顔で眠っている様な感じだった。これも飼い猫の様に、夜中に気がついたら隣に寝ていた――などという事も何度か在った。
そんな時フォロンは彼女のしたい様にさせる。眠りたい場所で眠らせる。代わりに自分は床に毛布を敷いて寝るのだ。コーティカルテはフォロンのそんな対応に何やら不満である様だったが――さすがに一緒に寝る訳にもいくまい。
でもそれは……何故だ?
彼女は精霊だ。
人間の女の子ではない。コーティカルテを始めとして一部の精霊は人間と大差ない姿をしているが……それは極論すれば『擬態』にすぎない。生物的な必然の結果としてその姿をしているのではなく、彼等精霊がそれを必要と認めてその形態を選択しているにすぎない。無論、コーティカルテを見ていると自由自在に姿を変える事が出来る訳ではないのは分かるが、何にしても人間が人間の姿をしている事と、精霊が人間の姿をしている事には、その必然性において大きな差が在る。
人間と精霊。
それは――似て非なるものだ。
そうして想いはまた同じ処に戻ってくる。実の所――それはあの日、去っていくオミ・カティオムの背中を見送った時からずっと、フォロンの胸の内で出口も無いままに回り続けている考えだった。
社会体制は人間と精霊を同じとして扱う。
だが本当に人間と精霊とが同じなのだとしたら……あの時、カティオムはなぜあそこまで動揺し、打ちのめされたように去ってしまったのだろう。彼女の素性がどんなものであっても気持ちは変わらない、と言い切った彼が――だ。
カティオムの覚悟が半端であったとは思えない。思いたくない。
少なくともそれで彼を責めたり嘲ったりする気持ちはフォロンには無い。
むしろ――考えればフォロン自身にも彼と共通する部分は在る。
コーティカルテの事だ。
彼女はフォロンの契約精霊だ。そして彼女はそれを理由に常に彼の側に居る。つまり同居生活が成立しているのだ。
だが相手が人間の少女であったなら――果たしてフォロンは同居など出来ただろうか?
何か違うと思う。
やはり人間と精霊を『同じもの』とは言い切れない。少なくともフォロンの中では同じではないのだ。だからコーティカルテと暮らせる。
同じに扱うという事と同じに思うという事は――何か違う事の様に思える。
「…………」
思わず溜め息が漏れた。
「――フォロン」
コーティカルテの声が彼の背中に触れる。
「まだ寝ないのか?」
そう訊ねる彼女の声にも――しかし寝ぼけた響きはない。彼女自身フォロンのベッドに潜り込んだまま、ずっと起きていたのであろう。
「うん……ちょっとね」
振り返ると――緋色の瞳が真っ直ぐに彼を見つめている。
解いた髪がシーツに広がっていた。何故かフォロンはそんな彼女の姿を見て『まるで深い傷から流れ広がる血みたいだ』と思った。
「考え事か」
「うん」
「あの少年のことか」
コーティカルテに隠し事をするのは難しい。良くも悪くもフォロンの人生の中で最も長い時間を共有している存在が、この我が侭な精霊なのだから。
フォロンはただ肩を竦めて見せた。
「どう思っている?」
「どうって……」
巧く言えない。
そんなフォロンを、緋色の髪の精霊は責めも急かしもしなかった。
二人の間に横たわる妙に硬い静寂の中で……かちりかちりと時計の秒針が回っていく僅かな音が妙に大きく聞こえた。
やがて――
「私は――」
待つ事に飽きたかの様にコーティカルテが口を開いた。
「彼を哀れだと思っている」
「哀れ……?」
「そうだ。あの少年がシェルウートゥに抱く想いと、シェルウートゥが精霊であることとが相反するのだろう。そのことが、哀れでならない」
「よく、分からないけど……」
「分からない……か」
溜め息の様な口調でコーティカルテが言った。
珍しい事ではある。
これまた珍しくコーティカルテはややフォロンから視線を逸らしつつ――言った。
「では……フォロンはなぜ私と同じベッドで寝ないのだ?」
「……え?」
フォロンの意識が一瞬――白濁して止まる。
予想もしなかった言葉だからではない。まさしく同じ事を考えていた自分を見透かされた驚きであった。やはりこの緋色の精霊に隠し事は出来ないらしい。
「いや、あの、それは……」
「なぜ赤くなる? 私は人間ではないそ。精霊だ」
「そりゃそうだけど」
「フォロンは――」
わずかにフォロンから視線を逸らしたままコーティカルテは続けた。
「私を抱きたいと思うか?」
「……え?」
ぎょっ――とした。
その質問の意味が胸に落ちてくるまで、少しかかった。そして理解した途端、心臓が跳ね上がった。耳たぶまで熱くなるのが分かる。
「そんなこと……」
考えてみたこともなかった。
いや――違う。
考えないようにしていた。それはフォロンにとって一種の禁忌だった。その事に考えを及ぼせば――何か決定的なものが壊れてしまう様な気がして。だからフォロンは半ば無意識の内に、それを考える事を自らに禁じていた。
「そう、それだ」
フォロンに視線を戻したコーティカルテは微笑した。
その笑顔は――動揺するフォロンからみれば腹立たしくなる位に屈託が無かった。
「フォロンは私を、人間の女とは違うものとして見ている。当然だ、私は精霊だからな。だが一方で、私を人間の女と同じに扱ってもいる」
分かってきた。
それは一種の矛盾だった。二律背反だ。
両立しない筈の考え方が――感じ方が自分の中で両立しているという事だ。
だがそれを責める様子はコーティカルテには無い。
「それが自然なのだ。人間だからとか、精霊だからとか、そんなものは人間が勝手に作った観念にすぎない。精霊の方は、相手が人間だろうと精霊だろうと関係なく接している」
確かにそれは実感として分かる。
これまで出会った精霊の殆どはそうだった。無論ー良くも悪くもだが。彼等は精霊であろうと人間であろうと区別をしない。だがそれ故に人間の側が負担を強いられるという場合も少なくは無かったし――逆の場合も当然在った。
だがそれが理想的な方法の一つだという事はフォロンにも分かる。
「フォロンのしていることは、それに近い。私が精霊であることを認めて、しかし一方で譲れない一線だけは決して越えようとしない」
「……それは」
「考えてもみろ。それは人間と人間の関係でも、同じ事ではないか?」
そうだ――その通りだ。
例えばフォロンがペルセルテの事を妹の様に扱っているのも同じだろう。
互いに築き上げてきた大切で楽しい日々が壊れてしまう様な気がして、彼はペルセルテに対して今以上に踏み込めない。ペルセルテに近寄れば近寄るだけ今の彼女との関係が壊れてしまう事を怖れ、同時に他の者達との関係まで連鎖的に壊れていくのを怖れた。
孤児院でフォロンは……人と人との関係がどれだけ脆いものかという事を、嫌という程に学んでいたから。
「……そうか」
そう。人間も精霊もその意味においては変わらない。
いつか何らかの決断を迫られる日が来るかもしれないが――それはまた別の話だ。いつか決断せねばならない時のために、今在る全てを否定するのはおかしい。誰かを好きであるために今すぐ誰かを嫌いにならなければいけない様な――そんな二者択一しか許されない関係は寂しい。相手が人間であれ精霊であれ……関係とは、そんな、一か、さもなくば零か、などという機械的なものではない筈だ。
人間も精霊もそれぞれ矛盾を抱えながら、お互い何とかやりくりして『自分ではない誰か』と一緒に暮らしている。そうやって何とか今を生きている。
それだけの事だ。それだけの事で構わないのだ。
フォロンは曲がりなりにもそうしてきた。
そしてカティオム少年は――そうすることが出来なかったのだ。
だからコーティカルテは言うのである。
哀れ……と。
「それだけだ。早く寝ろ」
言うだけ言って、コーティカルテは寝返りを打つ。
フォロンから見えるのは豊かな緋色の髪と、毛布から覗く華奢な肩口だけになった。
「うん……」
応えてーけれどフォロンはまた机に頬杖をつく。
もしもカティオムの抱えているのが、今コーティカルテの言ったとおりのものだとしたらそれは……やはり哀しいことだ。
(誰かが……)
フォロンは思う。
誰かが『それは哀しい事だよ』と教えてあげるべきなんじゃないか?
そして『そうじゃなくてもいいんだよ』と。彼の前にはもっと沢山の選択肢が在る事を――あるいは彼の気持ち次第で、誰もが幸せになれる選択肢だって在るのかもしれないのだという事を、
誰が……?
それはやはり――
「――フォロン」
ふと思い出したかの様にコーティカルテが声を掛けてくる。
言うべき事を言ったためか――既に彼女の声は眠そうに緩んでいた。
「一つ……言い忘れた」
「なに?」
「……しようと思えば出来るんだからな」
「え……?」
訊き返したが返事は無かった。
やがて……規則正しい寝息が聞こえ始める。
その頃になってフォロンはようやく彼女の言葉の意味を理解した。
「…………」
理解して――そしてまた赤面した。
未練ではない――とカティオムは思う。
何をしたところでシェルウートゥが人間でない事に変わりは無いからだ。
だからオミ・カティオムが毎朝此処に来てしまうのは……一種の惰性というか癖の様なものだと彼は考えていた。毎朝続けてきた習慣それ自体が行為の継続を要求する――ただそれだけの事で、意味など無いのだと。
ケセラテ自然公園西口。
そこには幾つもの『初めて』が在った。そこで初めて彼女の姿を見た。そこで初めて彼女と話した。そこで初めて彼女の笑顔を見た。そこで――初めてどうしようも無いくらいの胸の高鳴りを覚えた。
何の変哲も無いその空間はカティオムにとっての『特別』だった。
だがその『特別』はもう壊れてしまった。
あるいは自分は……過ぎ去った日々を懐かしむ様な気持ちで、壊れてしまった『特別』の断片を捜していたのかもしれない。あの朝も。その翌朝も。更にその翌朝も。ずっと今日まで同じ様に〈リンクス〉に跨り、カティオムはケセラテ自然公園の西口前を横切って通学した。
無論……あの朝以来、シェルウートゥとは一度も会っていない。
同じ時刻。同じ場所。だがシェルウートゥの姿を見掛ける事は無くなった。それはつまりこの場所が既に『特別』ではなくなったという事だ。
だから……
「…………」
カティオムはただ『特別だった』場所を今朝も走る。
ケセラテ自然公園の外周に沿って、道路は緩やかに湾曲している。特に西口と東口の周辺は長径側の両端なため、いくらかカーブが急で、道の先が公園に生い茂る緑の向こうに隠れていた。
そのカーブを曲がる時――以前は毎朝どきどきしたものだ。
今日は会えるだろうか、カーブを曲がって視界が開けた時そこに少女はいるだろうか。
でももう……どきどきはしない。
彼女が居ない事がもう分かっているからだ。
あの運命の日の後、最初の一週間ほどは、まだどきどきしていた。あんなことのあった後で、彼女が精霊だったと知ってしまった後で、どんな顔をすればいいのか分からなかったからだ。
だがもう、その心配はない。
彼女が姿を見せなくなって、もう二ヶ月にもなる。
今日もカティオムは、どきどきしないでカーブを抜けた。シェルウートゥに会うためではなく、ただの習慣として。あるいは壊れた『特別』の断片を拾い集めるためだけに。
輝かしい夏と共に始まった少年の恋はこうして終わった。
終わった――筈だった。
けれど……
「あ……」
最初は幻影かと思った。
郷愁が在りもしない虚像をそこに描き出しているのかと。
だが瞬きを繰り返してもそれは消えなかった。
「…………シェル………………」
長い黒髪の少女。
シェルウートゥという名の精霊がそこに居た。
『自然公園西口前』のバス停の――その正面。
歩道と公園とを隔てる背の低い石垣の前に。
いつもの白いワンピースで。
「……シェル……」
ペダルを踏む脚が……止まる。
それでも愛用の黒い自転車は惰性で走り続けた。
後輪のフリーホイールが、ちりちりと音を立てて空回りし、少しずつ速度を落としながら、それでもカティオムを少女のところへと運んでゆく。
シェルウートゥがこちらを見ていた。
冬の朝の陽差しが長い里…髪を艶やかにきらめかせる。
ブレーキを――と思った。
理由は無い。だが半ば本能的に彼は彼女に近付くのを怖れた。水面に映る虚像に触れればそれが失われてしまうのと同じく――近付けば何か決定的なものが壊れてしまう様な気がした。だが彼の意に反して身体は全く動かなかった。
やがて自転車は容赦なく少年を少女の前まで運んで……停止した。
「おはよう」
シェルウートゥの声は変わらず柔らかかった。
カティオムはしかし……彼女の方から言葉を掛けてくれたのはこれが初めてである事に気がついた。
「お……おはよう」
声が震えているのが分かる。ひどく惨めな気分だった。
そんなカティオムの気持ちを知ってか知らずにか――シェルウートゥ静かに続けた。
「……ごめんね」
「な……なに?」
訊き返すカティオム。
だがその質問は正確ではない。正しくは『どれ』と問うべきだろう。
精霊だという事実を黙っていた事か。
連絡先も名前も教えてくれなかった事か。
彼の前から逃げようとした事か。
その際に精霊雷を使って脅した事か。
そして――何も言わずに姿を見せなくなってしまった事か。
彼女がどれを謝っているのか分からない。
「毎日、来てくれてたのね」
「あ……うん」
反射的に頷いてから――気付いた。
「知ってたの?」
「うん。ごめんね」
そうだ。彼女は精霊なのだ。
姿が見えないからと言って、そこにいないとは限らない。人間の視力が届かない様な場所からでも彼を見る事も出来るだろう。視力以外の方法で彼の存在を捉える事だって出来るのかもしれない。
精霊と人間は違うものなのだから。
「見てたんだ?」
「うん……ごめんね」
頷くシェルウートゥを見て理不尽とも言うべき怒りが彼の脳裏を過ぎった。
見ていたなら……どうして。
『弄ばれた』『からかわれた』――そんな嫌な想像が瞬間的に沸騰する。だがそれは何故か持続しなかった。怒りよりも哀しい気持ちの方が大きかった。ただただ彼は深い疲労にも似た哀しみを覚えた。
「もう姿は見せないでおこうと思ったの」
言い訳の様にそう言うシェルウートゥ。
その美しい貌が苦笑を刻んでいる事に、カティオムはこの時初めて気付いた。別れ際にいつも見せていたあの――無理矢理に取り繕ったが故に何処か空疎に見える笑みを。
まるで哀しみを覆い隠そうとするかの様な中身の無い微笑を。
「でも、ちゃんと言っておかなきゃ……って。まだ謝ってもいないし。だから、行く前に謝って、それからちゃんと言ってからにしようって……」
『行く前に』……?
『行く』? 行ってしまう? 何処かに?
反射的にカティオムは問うていた。
「何処へ?」
少女は小さく首を振って、また『ごめんね』と言った。
「言えないの」
精霊だった事を黙っていたのと同じく。
だがきっとそれは意地悪でも何でもなくて。
だって……彼女はこんなに哀しそうだから。無理矢理に笑顔の仮面を被らなければならないくらいに辛そうだったから。
「もう会えないの。ごめんなさい」
「え……?」
「もしまた会えても……その私は、もうカティの知ってる私じゃないから」
とういうこと?
「私……きっともう私じゃなくなるから」
とうしうこと?
「でも……私が私のうちに……言っておきたかったから」
とうしうこと?
「ありがとうね、カティ」
言葉が出ない。
止めないと――とカティオムは思った。
その先を言わせてはならない。今なら未だ引き返せる。今なら未だ気付かないでいられる。シェルウートゥとの事はいつか想い出にする事が出来る。
だが聞いてしまったらもう後戻り出来ない。後は坂を転げ落ちていく様に――止められない。哀しい結末に向かって落ちていくだけだ。それがカティオムには分かった。
だから止めないと。
そう思う。なのに言葉が出ない。
そして――
「私、カティのこと、好きだったよ」
精霊の少女は微笑みながらそう言った。
見事なまでに柔らかく美しい笑みをその貌に取り繕いながら――けれど仮面に入る亀裂の様に、その双眸から落ちた小さな雫が全てを台無しにしていた。
「シェル…………?」
「本当は、もっといっぱい会いたかったよ。もっといっぱいお喋りしたかったよ」
「シェルウートゥ?」
必死の響きを帯びる自分の声を……カティオムは何処か遠くで響く他人のものの様に聞いていた。現実味が無かった。何かが大きく歪んで変わっていくのが分かった。
「でも、もうおしまいだから。もう会えないから。さよならだから」
「シェル? それって、なに? どういうこと?」
少女が首を振る。
雫が宙に舞い――黒髪が彼を拒むかの様に波打って小さな螺旋を描いた。
「ごめんね。ごめんなさい。許してもらえなくても仕方ないけど」
それから、
「さようなら」
ふいにシェルウートゥの姿が揺らぎ――
「シェル――!!」
――消えた。
後には何も残らない。ただ茫漠たる虚空だけが彼の前に横たわっているばかりだった。
行った。行ってしまった。
もう会えない。
そんな事は分かっている。むしろ何日も前に理解していた筈だ。この二ヶ月で……もうカティオムの中でシェルウートゥの事は懐かしむべき過去になっていた筈だった。
なのに――
「シェルウートゥ?」
少年は問うた。
眼の前に立ちはだかる残酷な虚無に向かって。
答えは……ない。
「シェルウートゥ!」
叫んだ。
やはり返ってくるのは静寂ばかりだ。
代わりに通行人達が怪認そうに振り返るが、カティオムにはどうでもいい事だった。世界の全てが心底どうでも良かった。
「シェルウートゥ!!」
叫んで。
泣いて。
そうして……ようやく彼は理解した。
精霊だとか。人間だとか。
そんなものは本当にどうでもいい。関係ない。この気持ちの前には全く意味が無い。
終わっていなかった。未練でも習慣でも郷愁でもなかった。
今でもどうしようもなく好きだった。
なのにそれを否定しようとしていた。忘れようとしていた。終わった事にしようとしていた。自分一人で勝手に。自分自身の気持ちさえ無視して。小賢しくも分かった様な理屈をこねくり回して。
「シェル……」
このまま座り込んでしまいたかった。此処で何もせずに泣いているのはきっと楽な事なのだろうとも思った。そうやって落ち込んでいればいつかはこのはち切れそうな哀しい気持ちですらも緩やかに枯死していってくれるのではないか……とも思った。
けれど――
「…………」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭いもせずにカティオムは憤然と顔を上げた。
そして――彼は〈リンクス〉のペダルを踏み込んだ。
「――あんた学校はどうしたの!?」
何よりも先ずツゲ・ユフィンリー所長はそう問うた。
午前九時――ツゲ神曲楽士派遣事務所内。
フォロンは丁度朝の雑務を終えた処であった。ついでに言えば所長のユフィンリーはコートをロッカーに仕舞った処で、レンバルトは定時ぎりぎりに滑り込んできた処で、更に言うならコーティカルテはいつもの様にカウンター前に置かれた待合用のソファで来客のために常備されている雑誌に眼を通している処だった。
そこに――オミ・カティオムが飛び込んできたのである。
彼の顔を見るのはほぼ二ヶ月ぶりだ。
頬を紅潮させて息を切らしているのは――恐らく例の自転車を全速力で飛ばしてきたからだろう。頬が少し汚れて見えるのは……涙を拭った跡なのだろうか。何にしても尋常の様子でない事は一目瞭然だった。
まるで殴り込みに来たかの様な気迫がそこには漂っていた。
何にせよ……学生であるカティオムは本来学校に居なければならない時刻である。ユフィンリーの台詞はそれを答めるものであったが、カティオムはこれを無視した。あるいは聞こえていなかったのかもしれない。
「御願いします」
扉を開け放ったそのままの姿勢で――彼は言った。
「シェルウートゥを探してください」
「…………」
フォロンが事務所内を振り返ると――ユフィンリーはただ呆然と眼を丸くして少年を見つめていた。レンバルトも同じだ。多分自分も似た様な表情を浮かべているのだろうとフォロンは思った。
「悔しいけど僕にはその方法が無い。精霊の事も良く知らない。だから御願いします。報酬はどんな事をしてでも払います。どんなに高くても構いません。シェルウートゥを捜してくださいッ!」
決然と――覚悟を決めた男の貌で少年は言った。
そんな彼の前に鮮やかな緋色が舞った。
「――コーティ?」
フォロンが声を漏らす。
緋色の髪の精霊は体重を感じさせない優美な動きでふわりと宙に舞い上がると――行儀悪くもカウンターに腰を下ろして首を傾げた。
「本気か? いや――正気かと聞こうか?」
尋ねる口調は何処か傲然としたものだった。
中途半端な決意ならば、その嘲る様な一言で躊躇を覚えていただろう。
だが……
「本気です!」
少年は即答した。
「彼女が精霊でもか?」
「そんなの関係ない!」
叩き付ける様に彼は叫んだ。
「――よし」
座ったままの姿勢からまるで予備動作も示さず、見事な後方宙返りを打つと――コーティカルテは未だ呆然と掃除機を抱えたままのフォロンの横に降り立った。
着地の足音はしない。精霊にそんな無粋なものは無い。
「ならば契約など要らん。私が探してやる」
ツゲ神曲楽士派遣事務所の裏手は月極の駐車場になっている。
フォロンの自動二輪も、レンバルトの四駆も、ユフィンリーの愛車も全て此処に停められている。来客の車を停める場所も含めて全部で六台分の場所をツゲ事務所が借りていた。もっとも少々表通りからは入り組んで遠い事も在り、全部で二十台分ある場所の内、半分は借り手もいないままの状態であった。今も塞がっているのは三つだけで他に車の姿は無い。
お陰で此処は妙に閑散とした印象が在る。
そんな駐車場へとツゲ事務所の裏口から出てきたのは――先ずコーティカルテだった。
小柄な少女の姿をしている癖に、何処か女王然とした傲然たる態度で歩く彼女の後ろに続くのは、ツゲ事務所の神曲楽士達と一人の少年――即ちフォロン、レンバルト、ユフィンリー、そしてカティオムだ。
「……ふむ」
コーティカルテは駐車場を見回すと小さく鼻を鳴らした。
「いささか手狭だが、贅沢は言えんか」
駐車場の前は対面通行の細い裏道で、その正面には雑居ビルの裏側が見えている。とりあえず場所として空いてはいるが……何処か圧迫感は在った。
『私が探してやる』
そう言ったコーティカルテは続けてフォロンに『何処か近くに広い場所は無いか?」と尋ねたのである。曖昧な条件なのでフォロンとしても細かく考える事は出来ず、咄嵯に思い付いた事務所裏の駐車場を推した。するとコーティカルテはそのまま細かい説明もせずに裏ロへと向かい――仕方なくフォロンや他の面子もその後を追った。
そういう訳で 同は此処に居るのだが……
「どうするの?」
フォロンが訊ねるとコーティカルテは振り返って言った。
「言っただろう? 捜すのだ」
「…………」
実を言えば神曲楽士たるフォロンには大体の想像がついていた。
恐らくユフィンリーやレンバルトも同様だろう。だから、わざわざ事務所の玄関を施錠して――御丁寧に扉のノブには『休憩中』のボードまで下げてついて来たのだ。
無論コーティカルテはいつもの如く唯我独尊といった様子で何をするつもりなのかも説明しない。実際……カティオムなどは怪訴そうな表情を浮かべたままだ。
だがもしフォロン達の想像通りなら――これから起こる事は神曲使いにとっては見逃せないものになる筈だった。
「久方振りなので――少々手こずるかもしれんがな」
言いながら緋色の髪の精霊は駐車場の真ん中へと歩いてゆく。
何となくその後を追おうとして――しかしフォロン達は振り返ったコーティカルテに注意されてしまった。
「駄目だ――来るな。全員壁際に寄って――いや貼り付いていろ」
フォロン達は素直に従った。
そう――想像通りの事がこれから起きるのならば、コーテイカルテの言う通り、出来るだけ彼女から距離を取って壁際に居るのが最も安全だろう。
駐車場の真ん中――こちらに背を向けたままコーティカルテは立ち止まる。
彼女は四肢の力を抜いて自然体で立ちながらわずかに天の方を向く。
そして――
「我コーティカルテ・アパ・ラグランジェスの名を背に召還す」
朗々と詠唱を開始した。
静かに。流れるように。
「名を問わず・柱を問わず・枝を問わず・これ数多なる精霊の女王が命なり・我が名に仕えし誉れを欲するなれば・速く馳せ参じよ……アパの柱名、ラグランジェスの精名、コーティカルテの名の下に集い顕れよ」
それは命令の句でありながら……何処か子守歌の様に柔らかく優しい響きを帯びていた。
詠唱が終わる。
そして場にわだかまるは鼓膜を刺すかの様な数秒の静寂。
不自然だとフォロンは感じた。ただ静かなのではない。まるで『無音』で空間を埋め尽くしたかの様な――奇妙な緊張感を伴う沈黙だった。空間そのものが何かの予感に怯えているかの如く。
やがて――
「…………!」
空間の向こう側から滲み出る様に――ぽつりと光が灯る。
一つ。二つ。三つ。四つ。
数えられたのはそこまでだった。
次の瞬間、爆発的な速度で虚空に発生した光芒の群れは、文字通り一瞬にして駐車場を埋め尽くしていた。コーティカルテの言葉に従ったのは正解だった。迂闊な場所に立っていればフォロン達はその光の群れに跳ね飛ばされていたに違いない。
轟――と空気が啼いた。
あるいはそれはフォロン達の神経の上に生じた幻聴であったのかもしれない。震動も衝撃も無い。実際にはそれはごくごく自然な現象としてそこに発生していたのだろう。
駐車場を埋め尽くす数百……いや数千数万の光。
それは精霊だった。
「うわ……」
声を漏らしたのは、ユフィンリーだった。
彼女程の神曲楽士でさえこれ程の数の精霊を目にするのは初めてなのだろう。
しかも――
『我等コーティカルテ・アパ・ラグランジェスの御名にお仕えいたすを欲するものなり』
精霊達が一斉に唱和した。
「……そんな。莫迦な」
呆然と呟くのはレンバルトである。
確かに彼でなくとも信じ難い光景だったろう。
駐車場を埋め尽くしているのはいずれも下級精霊だった。数で言えば球体に二枚の小さな羽根を付けた形状の個体が――ボウライが最も多い。その事に関しては別に驚く事ではない。ボウライは最も数が多く精霊の中では有り触れた存在だからだ。
だがボウライは下級精霊だ。
彼等の知能は実の所そう高くない。だから普通――こんな喋り方はしない。扱えるのは短い片言の台詞だけで……彼等がこんな長く、しかも時代がかった言葉を操れる筈が無いのだ。少なくともフォロンもレンバルトもユフィンリーもそんな場面は見た事が無い。
「――ご苦労」
そう応える小さな緋色の精霊の姿は、精霊の群れの中に埋もれてしまって長身のフォロンでも殆ど見えない。
「精霊を一柱……探し出せ」
女王然とした口調でコーティカルテは宣った。
「名はシェルウートゥ。柱名と精名は不明だ」
その言葉に無数の精霊達が唱和で応える。
『御意』
大気そのものが鳴動するかの様な音だった。
一体彼等全てが力を合わせればどれだけの事が可能になるのか――集められた力の巨大さに思わず怯むツゲ事務所一同とカティオム。
「ああ――それから」
だがその中心に居るコーティカルテは気易い苦笑を声に滲ませて言い添えた。
「報告に来る時は、いちいち物質化するな。仰々しくていかん」
『心得たり』
三度――空間そのものを揺るがせる様な唱和。
そして精霊の群れは消え失せた。
一瞬で……音もなく。
まるでその出来事の全てが幻影であったかの様に。
後には――駐車場の真ん中にコーティカルテの姿だけが、ぽつん、と残されていた。
「さて。後は待てばいい」
まるで焼き上げたケ…キが冷めるのを待つかの様に、何気ない口調でそう言いながら、コーティカルテはフォロン達の処に戻ってきた。彼女にとってはきっと今の現象はその程度の事でしかないのだろう。
「コーティカルテさ……」
呻く様にレンバルトが言う。
若干その声が震えているのは――この天才と呼ばれた神曲楽士ですら興奮が冷めやらないためだろう。下級精霊を召喚し使役する事にかけては恐らくユフィンリーをも凌ぐ彼ですらも、万に達しようかという精霊を一度に見た事はあるまい。
ましてそれらを短い言葉で使役するなど――
「なんで仕事の時は、それをやらないんだ?」
「莫迦者」
言って――しかし精霊の女王は少し得意げな笑みを浮かべた。
「仕事をするのはフォロンで、フォロンの契約精霊は私だ。連中ではない」
「……御立派」
ユフィンリーが苦笑を浮かべて言った。
コーティカルテの口にしたそれは――ある意味でプロフェッショナルの言葉だったからだ。プロの神曲楽士である事にこだわりの在るユフィンリーとしては、共感するものが在ったのだろう。
それからコーティカルテはカティオムを振り返った。
「今のは仕事ではない。お前の心意気に応じて私が勝手にやった事だ」
「コーティ……」
恐らくカティオムは『ありがとう』と続けるつもりだったのだろう。
だが彼の台詞を制する様にコーティカルテは人差し指の先を少年の鼻先に突き付けた。
「コーティカルテと呼べ。コーティと呼んでいいのは、フォロンだけだ」
「あ……はい」
眼を瞬かせながら頷くカティオム。
「とっとと学校に行け。お前が此処に居ても何の足しにもならん」
容赦ない物言いである。
だが――フォロンはそこに別の意味を読みとった。
『後は私に任せておけ』と。
恐らくそれはカティオムにも分かったのだろう。彼は自分よりもなお小柄な精霊に敬意と感謝を込めた視線を送り――それから頷いた。
「うん。そうする。ありがとう――コーティカルテ」
「礼を言うのは未だ早い」
コーティカルテは無愛想な口調でそう言うと――さっさと事務所の中に戻っていった。
むう……と男はテーブルの上に広げた地図を睨んで唸った。
その両眼はサングラスに隠れて見えない。だが左右の眉がそのまま繋がってしまいそうなくらいに寄っている処を見ると――どうも困惑しているらしい。
もっとも常識的な外見上の判断が、どれだけこの男に当てはまるかは疑問なのだが。
何故なら――
「何だこりゃ……って感じですねえ」
そう言って頭を掻く男の名は――シャドアニ・イーツ・アイロウという。
顔を構成する鼻や口や髭や顎も。やや大柄な体躯も。その体躯を覆っている暗色系のスーツも。いずれも人間のものに酷似してはいるが――それらは全て擬態だ。
彼は人間ではない。
精霊である。
「どう思います?」
場所はツゲ神曲楽士派遣事務所の応接室である。ボックス・チェアに収まったシャドアニは救いを求める様に地図から顔を上げた。
「どうもこうも……」
向かい側のソファでそう応えるのは所長のツゲ・ユフィンリーである。
「警察でも意味不明なんでしょ? 私、神曲楽士だし」
「ああ、まあ、そうですねえ」
そう言って腕組みして、またしても、むう――と唸る。
彼は精霊課の精霊警官なのだ。
私服の――精霊刑事。
刑事事件の中でも精霊の関与が認められるもの、あるいはその可能性が高いもののみを対象として捜査を行うのが精霊課と呼ばれる部署だ。この法整備された現代社会において精霊という『人間とは異なるが人間と共に社会に在るもの』の存在が必然的に生み出した組織だった。
ただし――しばしば誤解を受けるが――精霊課と精霊刑事あるいは精霊警官が等号で結ばれる訳ではない。交通課にも殺人課にも警邏課にも精霊警官は居る。必要な知能と技能を持っている限り法は精霊が如何なる職に就く事も制限しない。
また一方で精霊課にも人間の刑事は居る。
ただしそれは神曲楽士の資格を持つ楽士警官に限られており……さらに言えば自身の契約精霊が精霊警官であることが条件付けられていた。
この厳しい条件故か――楽士警官と精霊警官のコンビは帝都及び全ての将都を含めても、わずかに十数組しか存在しないと言われている。精霊警官の多くは人間の警官と同じく単独で勤務し、普通に給料を貰って仕事をしている。福利厚生だって受けている。もっとも彼等の多くはその給料を馴染みの神曲楽士に神曲を奏でて貰う事につぎ込んでいるが。
それはともかく。
シャドアニ・イーツ・アイロウは、多数派の一人だった。
精霊課に所属してはいるが、彼は楽士警官とコンビを組まない単独の精霊警官である。
「でもね」
シャドアニは唇を歪めて苦笑を見せる。
「ぶっちゃけ、民間でなきゃ入って来ない情報、ってのもあるんですよね、これがまた」
「お役に立ってるかな?」
「無論です。ユフィンリーさんのご協力のおかげですよ、これだって」
言いながら――シャドアニが指すのはテーブルの上の地図である。
最初にカティオムが依頼に来た時、レンバルトに持って来させた、あの地図だ。
あの時、地図に記された赤丸は五つほどだった。当時は未だ、個人的に気になって独自に調査し始めた段階だったからだ。だからフォロンもレンバルトもその赤丸の意味は知らなかっただろう。
その後――ふとしたきっかけから、警察でも同様の事件を調査中である事をユフィンリーは知った。そして顔なじみの精霊警官から依頼を受けて、調査に協力することになったのである。
今、目の前の地図には……数十個の赤い丸があった。
ここ一ヶ月でかなり増えている。
「物損が大きければ警察に通報が入るんですけどね……そうでないと被害者は自分で処理したり、せいぜい業者に処理を任せたりするくらいで、こっちには情報が入ってきませんから」
その『業者』の中に、つまり神曲楽士も含まれているのである。
タタラ・フォロンに担当させた安アパートの取り壊しも、そういった例の一件だ。他にもレンバルトが処理したものや、ユフィンリー自身が担当した件もある。さらに同業者同士の横の繋がりで情報を収集したりもしている。
その結果が――この地図である。
点々と地図上に散った赤丸は、最早、無視出来ない数になっている。しかも地図全域に分布している。かろうじて空白になっているのはケセラテ自然公園の周辺くらいで、それ以外の……つまり都市部や住宅地は片っ端から標的になっていた。
実際にはさらに二人の知らない『事件』があるに違いない。それらをも残らず記載したならば、この地図は中央部を残して真っ赤に染められてしまうだろう。
「同一犯、なのかな?」
「間違いないでしょう」
「精霊?」
「うちでは、そう考えてますがね」
全ての『事件』に厳然たる共通点があるのだ。
破壊される物は特に決まっていない。建物であったり、道路標識であったり、道路であったりする。時には公共のゴミ捨て場が壊されていたり、路上の放置自転車が破壊されていた事もあった。
そもそもユフィンリーが事件を調べ始めるきっかけとなったのは、彼女の車がやられたのを届け出たからだ。
ボンネットに拳大ほどの穴が開けられていたのである。
しかも覗き込むと、そのまま路面が見えた。車体を、穴が筒状に貫通していたのだ。
それが即ち『事件』の共通点であった。
壁面を挟られた建物も、途中で寸断された道路標識も、穴を開けられた道路のアスファルトも、削り取られたゴミ捨て場も切断された放置自転車も、みな同じだ。破片や断片が一切なく、しかも断面は磨き上げたように完全な平面なのだ。
最初はただ頭に来て――何しろ既に生産中止されたビンテージものの高級車、そのエンジンとシャーシを丸ごとぶち抜かれたのだから、修理にはとんでもない費用が掛かったのだ――調べ始めたユフィンリーだが、すぐにこれが異様な事件なのだと気付いた。
被害の数が多すぎる。
「まあ、これが一件だけなら、人間にも不可能じゃないかもしれませんけどね」
だがそれには、相応の準備や段取りが必要なはずだ。
これだけ短期間にこれだけの数をこなすのは人間には不可能――それが精霊課とユフィンリーの共通見解だった。
「とにかく、了解しました」
言いながら、シャドアニは席を立った。胸ポケットに仕舞い込むメモ帳には、地図に新しく加えられた赤丸の位置が控えてある。逆にシャドアニの方からもたらされた警察側の情報は、既に地図上に書き加えられていた。
「また進展があったらご連絡します」
ユフィンリーはシャドアニと揃って応接室を出る。
机について仕事をしていたフォロン達に軽く会釈しながら事務室を通り抜け、玄関に達した所で――ふと何やら思い出した様子でシャドアニは立ち止まった。
「ああ――そうそう」
ユフィンリーを振り返ってサングラスの精霊刑事は言う。
「忘れてた――またどやされる処だ。マティア警部とマナガ警部補が、よろしく伝えてくれって言ってました」
「じゃあ、そちらも気をつけて頑張ってください、と伝えてもらえる?」
苦笑しながらユフィンリーは言う。
「忘れずに」
このシャドアニ刑事……警官としては少々不安を覚えるくらいに細かい事をよく忘れる。まあ彼の得意分野は実の処、事務仕事でも無ければ聞き込み調査でも無いのだが。
「忘れずに。了解です」
苦笑で応じてシャドアニは敬礼してみせる。
送り出しが済むと、ユフィンリーは事務所を振り返って溜め息をついた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
レンバルトとフォロンが声を掛けてくる。
「ありがと。ああ、悪いけど応接室、片しといてくれる?」
はい――と応えて席を立つのはフォロンだ。
ふと見ると紅い髪の契約精霊の方は、彼のデスクの隣で椅子に座り、うたた寝でもしているみたいに目を閉じていた。
『報告』を待っているのだろう。
「…………」
ユフィンリーは小柄な少女の姿をした精霊を改めてまじまじと見つめた。
来客のお陰で忘れかけていた光景が再び脳裏に蘇ってくる。
ぎっしりと駐車場を埋め尽くした――精霊の大群。
その真ん中に悠然と立つコーティカルテ。
普段その我が侭な子猫の様な言動に接していると、ついつい忘れがちになるが――コーティカルテはユフィンリーが知る限りでも屈指の強大な精霊だ。
どうやら幾つかの事情から本来の姿は封印されていて、全力の行使には幾つもの制限が付きまとっているらしいが、その気になれば今朝の様に、どんな神曲楽士でさえ不可能な真似をこの小さな精霊は平然としてみせるのである。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
〈ブラッディ・ダチェス〉。あるいは〈ウェイワード・クリムゾン〉。
彼女を本来の姿で使役する事が出来れば――あるいは一夜にして一国をも滅ぼす事さえも可能かもしれない。少なくとも本来の力を取り戻した彼女を制圧出来る精霊は殆ど存在しないだろう。まさしく彼女は精霊の女王なのだった。
その事実を理解しているのかいないのか――
「――所長」
使役どころか四六時中彼女に振り回されている感の在る契約楽士が、何やら思案の表情で事務室に戻ってきた。
手にしているのは広げたままの地図である。
「なに?」
「これって……警察の人と見てた地図ですよね?」
「あ? ああ。それね」
そう言えば未だその赤丸の意味を説明していなかった事をユフィンリーは思い出した。
警察からの依頼を受けた時点でこの調査はユフィンリーの個人的行動からツゲ事務所の正式な業務に組み込まれてはいたが――ツゲ事務所では若手の楽士達に仕事に集中させるため、基本的に、担当した仕事以外のことはあまり知らせないようにしているからだ。
ユフィンリーは改めて『事件』の概要をフォロンとレンバルトに語って聞かせた。
だが――
「……?」
怪認の表情を浮かべてユフィンリーはフォロンを見つめる。
レンバルトは普通に相槌を打ちながらユフィンリーの話を聞いていた。だがフォロンの方は地図を睨み付けたまま全くの無言なのだった。
元々この青年は一旦その気になると尋常でない集中力を発揮する。
途中からユフィンリーの解説もその耳に届いていない可能性は在った。
「……てな事なんだけど。フォロン、納得した?」
「…………」
「フォロン?」
「…………」
ユフィンリーは両手の指を胸元で祈る様に組んで――言った。
「フォロン。愛してるわ」
がたん、と視界の隅でレンバルトが椅子ごと斜めに傾くのが見えたが――肝心のフォロンは全く無反応である。やはり聞こえていないらしい。
「冗談でもここまで見事にシカトされたらムカつくわね」
言ってユフィンリーは平手でフォロンの頭部を叩いた。
「……あ」
夢から醒めたかの様に眼を瞬かせるフォロン。
「ちゃんと話聞いてた?」
「え……ええ……まあ……」
それでもやはり返事は曖昧だ。
そのままたっぷり五秒ほど地図を睨んでから――彼はようやく自主的に顔を上げた。
「何かあるの?」
「いえ……実は最初に見た時から気になってるんですけど……」
でも何が気になるのか分からない――とフォロンは言った。
「分かったら言います」
「そうして」
呆れた表情でユフィンリーが言う。
その時――
「おはようございます!!」
蝶番ごとぶっ飛ばす様な勢いで扉を開けて飛び込んできたのは――ペルセルテだった。
そのまま彼女はカウンターの脇をすり抜けてユフィンリーに向かって一直線。慌てて後を追うのは言うまでもなくプリネシカである。
「直訴しますッ!」
何事かと見守るフォロンやレンバルトの視線を跳ね飛ばしながら突進したペルセルテはユフィンリーの眼の前で急停止。
「御願いッ!!」
「……なんだか激しく既視感を覚えるけど……」
呻く様に呟くユフィンリーの台詞が聞こえているのかいないのか――ペルセルテはまるで殴り込みにでも来たかの様な気迫を背負ってユフィンリーに言った。
「カティとシェルちゃんを――」
「――何か分かりましたかッ!?」
まるで出番を待ちかまえていたかの様に――再び事務所の扉をぶち抜かん程の勢いで開けながら入ってくる人物が一人。
「――あれ?」
「――あれ?」
当のカティオムである。
振り返ったペルセルテとカティオムが顔を合わせて困惑する。
「カティ――え? な――なんで!?」
「な……なんでって……何が!?」
「だって……ええと……え? あれ?」
眼を白黒させている二人。
状況を把握するのは周囲の人間の方が先であった。
「――ああ」
とユフィンリーが頷き。
次いでプリネシカが、ぽん、と納得の表情で手を合わせる。
次いでフォロンもようやく理解した。げらげらと容姿に似合わぬ大爆笑をしている処を見るとレンバルトも既に分かったらしい。
どうやらユギリ姉妹は……と言うよりペルセルテは、カティオムとシェルウートゥの仲を何とか取り持ちたいと思ったようだ。それには、まずツゲ事務所の協力を得てシェルウートゥの素性を調査する必要がある。その上で、おそらくカティオムとも話し合うつもりだったのだろう。
結局の処……採った行動はカティオムと同じだ。
ペルセルテの場合は決心するのが半日ばかり遅かったというだけの事である。
「な……なんですか、みんなっ!?」
どうやら未だに理解出来ていないのはペルセルテ本人だけらしい。カティオムですらこの間の抜けた再会の意味を理解して苦笑を浮かべている。
そうして全員が笑顔を見せる中――
「…………あの」
ふとカティオムはその顔から笑みを消す。
彼はそのまま事務所の中を歩いて――一人だけ今の騒ぎとは全く無縁の様子で静かに眼を閉じている少女の前に立った。
コーティカルテである。
ゆったりと背もたれに背を預けてはいるが……きちんと揃えた膝に指を組んだ手を置いて、その様子は普段の彼女からは想像もつかない程に落ち着いたものだった。
「コーティカルテ……さん?」
「あれからずっとこんな感じだよ」
おずおずと声を掛けるカティオムにフォロンが苦笑を浮かべて言った。
ユフィンリーは何となく彼女が何をしているのかを理解していた。
恐らく……彼女は現在、無数の下級精霊達の司令塔として活動しているのだ。
一説には精霊達は人間に比べると、やや『個』の概念というか境界面が甘い処が在ると言われている。特に下級精霊はその傾回が強いとも。
人間と異なり肉体という変更不可能で強固な『器』が無いからなのかもしれない。
これがどういう争かというと……彼等は個体でもそれぞれの意志を持って活動する事が出来るが、複数が集まってまるで一個体の生物の様に――いわば群体の様に活動する事も出来るらしいのだ。
恐らく一体一体では知能の低い下級精霊でも、一定数がまとまり一つの目的のために動く時、そこには個々の能力を超えた知性が――集合知性とも言うべきものが生まれるのだろう。
これであのボウライ達の奇妙な口調も説明がつく。
そして……上級精霊ならばその群体精霊の核、即ち肉体で言う処の『脳』として他の下級精霊達を統率する事も出来るのではないか。
恐らく今、コーティカルテの意識は精霊達が編み上げた巨大なネットワークの中に組み込まれているのだ。そしてそちらの作業に忙殺されて身体の方は休止状態になっているのだろう。
人間と異なり精霊達の『実体』は物理界面に影響を及ぼすため、便宜的に組み上げている仮の器にすぎない。なので意識がそこを留守にしていても問題ないらしい。
とはいえ……
「カティ」
ユフィンリーは縋る様な眼でコーティカルテを見つめる少年に声を掛けた。
「奥で待つ?」
「いえ……」
少年は首を振った。
「お邪魔でなければ、ここで……」
「でも……どのくらい時間かかるか分かんないよ?」
「――時間はかからない」
唐突に――コーティカルテが告げた。
ゆっくりと瞼を開くと髪と同じく鮮やかな緋色の瞳が露わになる。ずっと眼を閉じていたせいで眩しいのか、何度か瞼を瞬かせてから――彼女は言った。
「済んだ」
途端に――ざわりと空気が蠢く。
「……!」
思わずフォロン達は周囲を見回した。
実体化していなかったから分からなかっただけで……恐らく今この瞬間まで事務所の中には多数の精霊達が居たのだろう。そしてそれらが一斉に去っていったのだ。急激な精霊密度の低下に伴って発生した気配の流れをフォロン達は捉えたのだ。
そして……
「――いない」
コーティカルテはそう言った。
「シェルウートゥは……いない」
告げるその声はひどく沈鬱だった。
「いないって……どういう意味ですか!?」
「言葉通りだ」
立ち上がったコーティカルテは大きく伸びをする。
「精霊達が世界中を探した。シェルウートゥなる精霊は現在、この地上に存在しない」
「そんな! だって……!!」
激昂し掛けた少年に――コーティカルテは今朝した様に人差し指を突き付けて言った。
「焦るな。一定の探索方法を採ったらとりあえずそういう結果が出た――それだけの事だ。考えにくい事だが、シェルウートゥという名が偽りであったかもしれないし、ひょっとしたら……こちらの力が及ばなかったのかもしれない」
「どういう事?」
尋ねるのはフォロンである。
彼にしてみればコーティカルテの『力が及ばない』という状況は余程の事だ。
「精霊にしてみれば外見は必ずしも固定されていないからな。あまり頻繁に変更すると中身まで変に影響を受けるから……そうそう気易く変えられるものでもないのだが。何にしても見た目は必ずしも捜索の手掛かりにはならない。だから名前で捜させた。余程の事が無い限り精霊が偽名を名乗る事は無い」
精霊達にとって名前とは『器』の一部を成すものであるらしい。
だからこそ偽名を名乗る精霊は少ない。迂闊に名乗ればそれは自らの変質をも誘発する可能性があるのだとか。だからこそコーティカルテはシェルウートゥの名前を手掛かりとして精霊達に探索させたのだ。
もっとも……名を変えるのも姿を変えるのも『難しい』だけで不可能ではない。
「それに……名も姿も変えていないとしても、シェルウートゥが上級精霊であった場合には下級精霊の探索網から身を隠す事も出来るだろう」
「そういうものなの?」
「うむ。この場合……私が直接出向くのでもない限りは発見出来ないだろう」
つまり『力が及ばない』とはそういう事であるらしい。
「じゃあ……打つ手は無しって事?」
「いや」
コーティカルテは首を振った。
「それならそれでまた捜しようは在る。中途半端な勝算で任せろなどとは言わない」
「…………」
明らかにほっとした表情をカティオムが見せる。
「だが……」
そう続けながらコーティカルテはそのまま椅子に座り込んだ。先程とはうってかわってだらりと脚を投げ出した、だらしのない座り方である。いつもの彼女とてあまりお行儀の良い方ではないが――
「さすがの私もいささか疲れた。続きは明日にしたいのだが――どうだ?」
「はい」
カティオムは素直に頷いた。
未だ希望は在る。ならば待つ事も出来る。
「すみません……大きな声を出して」
「気にするな。それよ――フォロン」
「なに?」
「神曲を聴かせてくれ」
やはり相当消耗していたらしい。
振り返って視線で伺いを立てるフォロンにユフィンリーは笑顔で頷いた。それこそ千人の人手にも優る仕事をコーティカルテはやったのだ。労ってやるのは当然だろう。
「いいよ。防音室、使いなさい」
「ありがとうございます」
一礼して――フォロンはコーティカルテの手を引いて彼女を立たせる。
「ほら。行こう――コーティ」
「……うむ」
頷くもコーティカルテは足元がふらついている。
フォロンは彼女に肩を貸そうとして――
「フォロン」
「……何?」
「抱っこ」
「…………」
絶句するフォロンの背後で――ペルセルテが眦を吊り上げ、カティオムとプリネシカが当事者でもないのに赤面し、レンバルトとユフィンリーが爆笑する。
「だだだだだ抱っこって! コーティカルテさん!」
「ああ疲れた疲れた」
ペルセルテの抗議などまるで聞こえない様子で、わざとらしく宣うコーティカルテ。
普段はペルセルテの行動にコーティカルテが激昂する場合が多いのだが――今日ばかりは珍しく攻守が逆転している感じだった。
「お姫様抱っこでもコアラ抱っこでもしてやれよ。それくらいしても罰はあたんないぜ?」
「心を込めて演奏してやんなさいよ――タタラ・フォロン神曲楽士クン?」
げらげらと笑う合間にそう言うレンバルトとユフィンリー。
怒るペルセルテと宥めるプリネシカ。
そして苦笑を浮かべているカティオム。
無論……
この時の彼等は予想もしていなかった。
コーティカルテの苦労も。フォロンの善意も。ユフィンリーの厚情も。カティオムの焦燥も。そしてユギリ姉妹の友情も。レンバルトの達観も。
その夜の内に全て――無駄になってしまうという事を。
ソゴ市北ロナージのシャハンダ・マンションはいわゆる高級マンションである。
いや――違う。厳密に言えばシャハンダ・マンションは高級マンションではない。
超高級マンションだ。
エントランス・ホールからして高級ホテルそこのけの豪華さである。住民か彼等に招かれた者以外の入場を拒む自動扉は無論の事、三階層分の吹き抜けや、警備と管理を担当するスタッフが二十四時間待機しているカウンターも在る。住人はわざわざ外に出向かなくてもこのカウンターのスタッフに頼めば、衣類のクリーニングから写真の現像や宅配便の手配まで代行して貰えるのだ。至れり尽くせりとはまさにこの事であった。
各フロアの天井も三トーメル近い高さがあり、廊下には足音を吸収する毛足の深い絨毯が敷かれている。さらに最上階には入居者専用のフィットネス・ジムとプールを備え、マッサージ師の常駐するリラクゼーション・ルームまである。
はっきり言って高校生が親元を離れて暮らすだけの仮住まいとしては、贅沢に過ぎる。
とはいえ……カティオムの父はシャハンダ・マンションでなければ独り暮らしなど許さないと主張したし、此処での暮らしは確かに便利で快適だった。
「じゃあまた――明日」
そう言ってカティオムは十六階でエレベーターを降りる。一緒に乗っていたユギリ姉妹の部屋は居住フロアとしては最上階の二十七階なので、彼女等は乗ったままだった。
コーティカルテの捜索が一段落した後――すぐにカティオムは帰宅する様に言われた。
同時にユフィンリー所長は出勤したばかりのユギリ姉妹にも『今日は特に仕事は無いからあんた達も帰りなさい』と言った。いかにもついでといった感じの口調ではあったが、それが彼女なりの気遣いである事はカティオムにも分かった。
そういう訳でカティオムとユギリ姉妹は三人でマンションまで歩いて帰ってきた。
ユギリ姉妹が普段使っているバスに乗らなかったのは、カティオムが自転車であったからだ。わざわざ付き合ってくれたのである。
徒歩で二時間近くもかかったが――しかしカティオムはその時間を長いとは思わなかった。特に疲れたとも思わない。久し振りに三人で話しながら歩くのは楽しかった。
話は自然とシェルウートゥの事になった。
自分の決意を改めて話すと二人は揃って『頑張って』と励ましてくれた。
特にプリネシカは姉のペルセルテにも増して真摯な表情で彼の覚悟に頷いてくれた。ひょっとしたらプリネシカも精霊に対して恋心の様なものを抱いた事が在るのかも――とカティオムは思った。
「ありがとう」
カティオムは改めてそう言った。
「本当に――ありがとう」
エレベーターのドアが閉じてゆく奥で、プリネシカは微笑みペルセルテは手を振る。それを最後まで見送ってから……カティオムはエレベーター・ホールを出た。
長い廊下が前方に続いている。
カティオムの部屋は廊下の突き当たりに在る。
そこに……
「……え?」
ほっそりとした人影が在った。
まさか――と思う。
そんな都合の良い事が在る筈は無い。
だが……
「シェル?」
白いワンピース。長い黒髪。
「シェルウートゥ!!」
気がついたら、廊下を駆け出していた。
深い絨毯に足がめり込むようで、初めてその高価な内装を恨めしいと思った。途中で何度か転びそうになったが何とか堪えた、転がる事で無駄に過ぎる時間が惜しかった。
「シェルウートゥ!!」
叫びながら駆け寄って――抱き締める。
以前なら考えもつかなかった行為だ。今も実を言えば意識しての事ではない。ただもう二度と離したくなかった。また眼の前から幻の様に消えてしまわない様に――しっかりと捕まえていたかったのだ。
だが……
「シェル!」
「…………」
彼女は何も言わなかった。
ただ黙って彼に抱かれているだけだ。
最初はそれを彼女も彼を受け入れてくれた証だと思った。しかしまるで人形の様に彼女は何の反応も示さないまま――三分近くの時間が経過した。
「シェルウートゥ……?」
さすがにカティオムの脳裏にも怪訴に思う意識が生まれる。
彼は身体を離すと――女の貌を覗き込んだ。
黒髪の精霊はただ微笑を浮かべて彼の視線を真正面から受け止めている。
無言で。意志無き人形の様に。
「……どうしたの?」
そう言った時。
「――?」
不意に彼女が動いた。
白く冷たい手が左右から彼の頬を挟む。驚く程に強い力で引き寄せられながらもカティオムは彼女の意図を知ろうとその瞳を覗き込み――
「んっ……」
唇が重ねられる。
心がとろけてしまうかと思うくらいに柔らかな感触に――むしろ少年は身を強張らせる。
初めての口吻。それも愛しくて愛しくてたまらない相手からの。
状況の不自然さを諺しむ気持ちなど一瞬にして吹き飛び――ただカティオムはとめどもなく溢れてくる幸福感に陶然とする。
だが……
「――がっ!?」
次の瞬間――強烈な衝撃が彼の身体を貫く。
(……どうして……?)
その言葉だけを無意味に闇へと放散しながら――カティオムの意識はそこで途絶えた。
涼やかなベルの音を立ててエレベーターが二十七階のフロアに止まる。
ユギリ姉妹は廊下に出て――
「――待って」
そこでプリネシカだけが急に立ち止まった。
「なに?」
三歩程先に進んでいたペルセルテが立ち止まって妹を振り返る。
「おかしいの。何か……変……」
右手をこめかみに添えてまるで頭痛を堪「える様に――あるいは何かを探ろうとするかの様に銀髪の少女は視線を空中に彷復わせている。
「何かって……?」
ペルセルテは表情を引き締めながら尋ねた。
彼女は妹の感覚を全面的に信頼している。プリネシカが何か変だと言えば絶対に何処かに異常が発生しているのだ。それも自分達に関係する何かが。
それはつま――
「カティオム……?」
「――!」
姉の呟きと同時に――プリネシカは弾かれた様に窓へと走った。
エレベーター・ホールの隅には縦に長い明かり取りの窓が設けられている。あまり視界は良くないがそこからマンションの周囲を見渡す事も出来た。
「なに? カティに何か在ったの?」
慌ててペルセルテも妹と頬を寄せ合うようにして覗き込む。
ほとんど真下――エントランス正面の植え込み辺り。
そのすぐ側に黒塗りの大型乗用車が停まっている。
後部座席のドアを開いて――何かを待ちかまえるかの様に。
「……なっ……!?」
そこに独りの少女がゆらゆらと近付いていく姿が見えた。
白いワンピースがすっかり陽の落ちたエントランス前で、ぼんやりと浮かび上がって見える。少女は脇に何か大きなものを抱えている様だった。
鞄? ――いや違う。
あれは……人間だ。
「あれって……」
オミ・カティオムだった。
意識がないのか、彼はぐったりと少女の腕に身を委ねている。
そして彼が抵抗しないのを良い事に――白いワンピースの少女はまるで怪物の顎の如く大きく開いた乗用車の後部座席に少年の身体を押し込んだ。いくらカティオムが細身だといっても人間の少女には有り得ない力だった。
「プリネ……これって……」
誘拐……!
その単語が脳裏に閃いた瞬間、ペルセルテは駆け出そうとする。
だが――白い手が伸びて彼女の手首を掴んだ。
プリネシカである。
「ペルセ! すぐ事務所に連絡して! まだ誰かいるはずだから!!」
「わ……分かった! プリネは!?」
「私は――」
言いながら――既に姉の手を放したユギリ・プリネシカは、普段の物静かな雰囲気とは裏腹の、疾風の如き動きで非常階段の処へ駆け寄っていた。
「追いかけるから!!」
叫ぶ様な声と共に――プリネシカの姿は非常階段に続く扉の向こうへと消えた。
部屋に走って戻ると妹に言われた通り事務所に電話した。
三十二回めのコールで、ようやく電話に出たのはレンバルトだった。所長もフォロンもすでに帰宅して、最後に残った彼も事務所を閉めて帰る処だったのだ。シャッターを閉めかけていて、電話に気づいたのである。
レンバルトの決断は早かった。
ペルセルテがしどろもどろになりながらも事情を説明すると……余計な言葉を重ねる事は無く、ただ『すぐに行く』とレンバルトは言った。それからユフィンリーとフォロンにも連絡しておくようにと告げて彼は電話を切った。
「…………」
受話器を置くと――途端に震えが足元から這い上がってきた。
止まらない。
それを懸命に押さえつけて電話をかける。
だがユフィンリーもフォロンもまだ帰宅していない様で――捕まらなかった。ユフィンリーの方は留守番電話だったので、メッセージを残したが、受話器を置いてから考えると何をどう喋ったのか思い出せなかった。
それから寝室へ逃げ込んだ。
ベッドの上で一人で震えていた。
三十分ほどもしてから、ドア・チャイムが鳴った。
サイキ・レンバルトだった。
その胸に飛び込んで泣きじゃくった。
怖くて仕方なかった。
レンバルトはそんなペルセルテを抱き締めてくれて……彼女が落ち着くまで辛抱強く待ってから、改めて事情を尋ねてきた。
だがペルセルテも何が何だか分からないのだ。
シェルウートゥらしき少女がカティオムを黒い大型乗用車に押し込んで連れ去った。はっきりしている事実はただそれだけなのだ。そしてだからこそ――押さえ付けても押さえ付けても得体の知れない不安がペルセルテの中で大きく膨らんでしまうのだ。
何かがおかしい。
何かが狂ってきている。
そんな予感にペルセルテは怯える。
とっても良い事だった筈なのに。カティオムの初恋を皆で応援する、ただそれだけの事だつた筈なのに、どうしてこんな事に。
不意に――
「――ッ!?」
電話のベルが鳴る。
神経質になっていたペルセルテは身を強張らせて悲鳴を上げる。
怯える彼女の代わりにレンバルトが受話器をとった。
電話の相手は――
『ペルセ! 先輩達に連絡は取れた!?』
――プリネシカからだった。
ACT3 CONSPIRACY
タタラ・フォロンがコーティカルテと暮らすアパートは、住宅地と工場街のちょうど境目の辺りにある。
アパートのすぐ西側はマンションや一戸建てが並んでいる。
対して東側には工業用道路があり、窓の向こうには工場が幾つも軒を連ねて建っているのが見える。もっともそれらの大半は中小企業の町工場で……防音設備も行き届いた大企業の生産工場はもっと東の奥に行かなければ見る事は出来ない。
そういう訳で昼間はいささかこの辺りは騒々しい。
だがそのお陰でアパートの家賃も相場より随分と安いのだから、フォロンとしては文句を言える筋合いではない。それに工場が稼働している平日の昼間はフォロンも仕事に出てアパートを空けているから、日中の騒音はあまり問題ではない。
そして夜はむしろ昼間の喧噪が嘘の様に静寂が横たわる。
諸々の工作機械は死んだかの様に動きを止め、轟々と排気音を撒き散らしながら資材を運ぶトレーラーやトラックの姿も日が暮れる頃には大方消えてしまう。稀に……例えば年度末の追い込みの時期には夜半過ぎまで機械の音が響いている事も在るが、それ以外は静かなものだ。
その閑静さは――むしろ廃墟にも通じるものが在る。
だから彼のアパートの前に停車しているその車は異様な程に目立つ存在だった。
「あれ?」
夜目にも鮮やかな銀色に塗装された流線型の車体である。一目で判別出来た。ユフィンリー所長の愛車――〈シューティング・スター〉だ。以前はワインレッドに塗られていたのだが、先日修理に出した際、ゲン直しに別の色へ塗装し直したのだという話をフォロンは聞いていた、 フォロンが近付くと消えていたライトが合図をする様に二回ばかり点滅した。
怪訝に思いつつも〈ハーメルン〉を寄せて停止すると――運転席側の窓が音もなく下りてユフィンリーが顔を覗かせた。
で――
「遅い!」
いきなり怒鳴られる。
「あ、すみません」
何のことだか分からないうちからほとんど条件反射で謝ってしまうのはフォロンの悪い癖だ。後になってから、さて何を怒られたのだろう、と考えるのである。
(……ええと………)
フォロンは頭の中で可能性を一つずつ検証していく。
今日はレンバルトが居残りだったから、事務所の後始末や戸締りの事ではない筈だ。それに今日は仕事の依頼で出かけていないのでクレームが入った訳でもないだろうし。昨目以前の仕事にも大したミスがあった訳ではない筈だ。
だから普通に事務所を出て、夕食の買い出しのためにマーケットに寄って、でもコーティカルテがハンバーガーを食べたがったのでレオナルド・バーガーに寄り道したけれど、でもいつも帰宅するのはこのくらいの時刻で――
そこまで考えてから気付いた。
「あの……待ってたんですか?」
だが真っ直ぐ帰宅した筈のユフィンリーがどうして此処に居る?
怪詩の表情を浮かべるフォロンにユフィンリーは短く言った。
「――カティオムが誘拐された」
「……え?」
全く予想外の言葉である。
「誘拐……え?……いつ!? 誰に!?」
「いいから黙って聞きな、時間がないんだから。少なくとも犯人の一人は、シェルウートゥだ。双子ちゃんが目撃してる。プリネシカが後を追って、現場は特定した。ペルセルテはレンバルトが拾って、今、現場に向かってるとこだ。私もすぐに行く、以上。あんたは、どうする?」
「行きます」
反射的に答える。
だがこちらはきちんと意識しての返事だ。躊躇いが無い――というかわざわざ考えるまでもないだけの話だ。
満足げに頷いてユフィンリーは言った。
「よし。じゃあ私の車についといで」
「あの……警察には連絡してないんですか?」
「まだ。プリネやレンバルトにも、連絡しないように言ってある」
「した方がいいんじゃあ……」
「駄目だ」
ユフィンリーは断言した。
「ほとんど犯罪行為なのは確かだけど、まだ本当の犯罪かどうか分かんない。シェルウートゥが何か思い余っちゃっただけって可能性もある。でもそれで精霊課が動いてしまえば、彼女は速攻で逮捕だ。判るだろ?」
「……はい」
フォロンは頷いた。
精霊法の制定は――その存在理由は、いわば精霊達が人間達の社会で生きていく際、自らを『人間の善き隣人』であることを証明するためのものだったと言える。そのため、精霊に対しては非情とも思える程に厳しい法となっているのだ。
犯罪に関与した可能性が認められた場合、精霊は立証よりも先に逮捕、拘留されてしまう。そして、人間の定めた法のもとに裁かれるのだ。人間とは桁違いの『力』を持つ者を法的に裁くために、それは必要な措置なのである。
「質問はないね? じゃあ、行くよ」
「はい。コーティ、いいね?」
フォロンは背後を振り返る。
後部シートの精霊は何を今更――といった表情で言った。
「お前がそうしたいのだろう?」
「うん」
「ならば私に否は無い。付き合ってやる」
「うん。有り難う」
微笑んでフォロンはヘルメットを被り直し――コーティカルテは改めて彼の身体に両腕を回して抱き付く。
そして二つのエンジン音が夜だけは閑静な筈の工場町に轟いた。
レンバルトの運転するバギー〈シンクラヴィス〉は、イグロックを抜け、『動物園』と描かれた矢印の標識を横目に見ながら、北へと走ってゆく。
「…………」
昨夜もルシャゼリウスへ寄り道した事を思い出して、彼は苦笑した。
どうにもルシャの町には妙な縁があるらしい。
『サマリーノの北東』――とプリネシカは電話で伝えてきた。
住宅街を抜けて、山の手前で国道を降り、そこからさらに北へ。目的地が殆ど民家も無い山の中である事を、レンバルトは電話を切った時点で把握していた。
完全に街外れだ。開発の手が及ぶとしても十年後か二十年後か――そんな場所である。
案の定、指示通りに国道を降りると、周囲はいきなり暗くなった。
人工の照明が、ほとんどない。道にはガードレールも無く、アスファルトの路面は荒れ果てていて、その両側は点々と並木が植えられている以外は、荒野の様相である。
街からたった一時間程しか走っていない事が、信じられない程であった。
道路は大きく弧を描きながら山道へと続いてゆく。
坂道を登り始めたあたりで……助手席のペルセルテが呟いた。
「こんな処に住んでるの?」
「…………」
一瞬ながら考えて――レンバルトは理解した。
シェルウートゥの事をペルセルテは言っているのだ。
「本当に……そのシェルウートゥとかいう精霊の子だったのか?」
レンバルトは写真こそ見ていたが、シェルウートゥ本人を直接見た訳ではない。確かに美しい少女だとは思ったが――美しいという事はつまり、極端に標準から外れた特徴が無いという事でもある。見間違う事だってあるだろう。
だが――ペルセルテは未だ怯えの色の表情に残しながらも、はっきりと頷いた。
「間違いないです」
「ふむ……? 一体どうなってんだ……?」
少年の一目惚れの相手が精霊だった――という処までは、レンバルトとしても理解の及ぶ範疇だ。よくある事とは言えないまでも、考えられない話ではない。
相手が精霊と分かった後でもまだ御執心――という辺りも未だ理解できないではない。レンバルトは精霊と人間の間の恋愛についてはやや否定的な見解を持っているが、人間そっくりの外見をした精霊に思慕の情を抱く者の感覚は分からないではない。
ただ……
あの精霊の女王たるコーティカルテが何万という精霊達を使って造り上げた探索の網にさえシェルウートゥは引っ掛からなかった。
この辺りから話が奇妙な方向に歪んでいる様な感じは在った。
挙げ句――そのシェルウートゥがいきなり現れて少年を誘拐したというのだ。
もう何が何だかさっぱり分からない。
「あ――あれ!」
不意にペルセルテが前方を指差した。
道が大きくカーブする辺りに、閉鎖された小さなコーヒー・スタンドが建っている。そしてその手前に、古びた電話ボックスが在るのが見えた。
その脇で――
「プリネ!!」
プリネシカがこちらに向かって手を振っている。バギーを手前で停めると、銀髪の少女は駆け寄ってきた。
車を降りてレンバルトとペルセルテが彼女を迎える。
双子の姉妹は、互いに抱き合った。
「大丈夫? 平気だった?」
「うん、平気。大丈夫だよ」
ひとしきり安否確認の言葉を交わし合ってから、プリネシカは坂道の上を指差した。
「この先です。周囲に電話がなかったので、ここまで戻って来ちゃいましたけど」
「距離は?」
「ニキロ程。でも道なりなので、すぐに分かります、廃墟です」
「――廃墟?」
レンバルトは陣く様に言った。
誘拐。そして廃墟。
組み合わさって益々不吉さが増す単語だ。
「……まさか心中でもするつもりじゃないだうな」
レンバルトの呟きにペルセルテがぎょっとした表情を浮かべる。
だが――
「違います。二人以外に……何人も人が居ます」
「……ふむ?」
ペルセルテの言葉に認識を改めるレンバルト。
確かに集団自殺でもない限り、何人もの他人が見ている中で心中する者も居まい。
では――一体?
「よし」
レンバルトは小さく頷くと二人に言った。
「いいか? ここでじっとしてろ。じきに所長とフォロンが来る筈だから、二人が来たら所長の指示通りにするんだ。いいな?」
二人にそう言い残すと――レンバルトは〈シンクラヴィス〉を発進させた。
老人にとってそれは悲願であった。
老人にとってそれは復讐であった。
そのためには如何なる悪事に手を染めようと悔いは無かった。
そのためには如何なる犠牲を払おうと微塵の畏れも無かった。
それ程に彼は憎んでいた。存在そのものを許せなかった。
だから――彼は嘲笑う。
精霊を。あの人の様でいて人でない『知性在る何か』を。
いびつな存在を。
そしてそんな――化け物共を愛してしまった少年を。
「ようこそ、オミ・カティオムくん」
そう言って老人が見透かすのは鉄格子である。
奥の部屋はひどく質素だった。
天井も壁も床も、打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しだ。薄暗く……そして何よりも冷たい。唯一の家具と言えば突き当たりに置かれた粗末な寝台だけである。他には本当に何も無い。下の用を足すための施設も道具も無い。
牢獄としてすら、そこは質素に過ぎた――人間用の牢獄としては。
寝台の上で一人の少年が身を起こしていた。たった今意識が戻ったと部下から報告を受けたので老人はわざわざ面会に来たのだ。
嘲笑うために。
「心配するな。別に殺そうとは思っておらん。お前の出方次第ではな」
「卑怯者ッ……!」
悪意が腐液の如く滴る老人の言葉に応えたのは――カティオムではない。
彼に寄り添う様にして寝台に腰を下ろしたシェルウートゥである。老人を睨み据えるその瞳には明らかに憎悪の光が在る。普段が清楚で穏和な雰囲気だけに――その恨み辛みの深さが際立って見えた。
「ここは……? あなたは……? シェル?」
少年は明らかに混乱していた。
周りを見回して口から出るのは疑問ばかりだ。無理もない。
「カティ……」
しかしシェルウートゥの方は、しかしその質問に答える事も出来ずに彼の手を握るばかりだ。老人に注いでいた憎悪の視線が瞬時に霧散――ひどく哀しげな眼で少年を見つめる精霊の姿は滑稽で、そしてまた老人を愉快にさせるのだった。
老人は……腹の底からこみあげる笑いを抑えようともしなかった。
鶏のトサカを思わせる喉元が震える。瑞々しさを失った唇が三日月の様に歪んだ。
老人は痩せさらばえていた。
既に三桁に近付いた年齢のために肉体は衰えきっている。あつらえものの上等なスーツに包まれているのは骨に渋皮を貼り付けたかの様な小さな体躯だ。
顔も髑髏よりは幾分かマシといった程度の――痩せ細った異相である。既に頭髪も残り少なく……他人から見ればそれは、骸骨にまとわりついた骸布の残骸にも見えるかもしれない。これも枯れ枝じみて筋張った手が黒檀の杖でその身体を支えていた。
「彼を……解放して」
シェルウートゥの……それは哀願である。
老人への憎悪よりも少年への愛情の方が優っているのだろう。
「お前が解放してやればいい」
老人は嘲る。
「出来るものならな?」
無論――老人の言葉は不可能を確信しての台詞である。
カティオムとシェルウートゥが囚われているのは、単なる独房ではなかった。ろくに設備もない殺風景さを償うかの様に――壁にも床にも天井にも、そして鉄格子にも、奇妙な図形がびっしりと彫り込まれているのだ。
四角を基調とする、迷路のように複雑な……それは文字である。
精霊文字だ。
この文字で彫られた封禁呪文には、精霊の持つ『力』は一切通用しない。
まさしくそれは『呪』文。
すり抜けることも、精霊雷で破壊する事も、それどころか触れる事さえ出来ないのだ。この部屋にいる限りシェルウートゥは自分の力で外へ出る事が出来ない。それどころか精霊文字に素手で触れる事さえ出来ないのである。
そういうものだ……と老人は愉悦混じりに思う。
精霊とは所詮――その程度のものなのだ。
人によっては精霊を『肉の束縛から解放された人間の上位存在』と言い彼等を崇め奉る事も在る。だが老人に言わせればそれは肉の鎧を失った不安定な異物でしかない。確かに多くの場合に精霊達の発する力は強大だが――彼等はある一面ではひどく脆い。
たかが音楽に縛られ、名称に縛られ、約束に縛られ、文字にさえ縛られる。精神のみでそれを縛り付ける肉体を持たないという事は――代わりに自らを縛るものを幾つも抱え込むという事だ。
現に眼の前の精霊は一瞬で老人を殺す力さえ持ちながら……ただ耐水性塗料で書き込まれただけの文字列にすら抗う事が出来ない。
なんといびつな存在なのか。
「逆らっても無駄だ……シェルウートゥ」
老人は微笑む。
「お前は私のものだ」
シェルウートゥの視線が老人の言葉に応える。
拒絶と。憎悪と。軽蔑と。
だがそれさえも老人にとっては心地良い。それを浴びるのは支配者の特権だ。現に独裁者としてシエルウートゥの上に彼が君臨しているとい――何よりの証拠だった。
不意に――
「……御老」
老人の背後で壁際に取り付けられたスピーカーが空電雑音と共に声を吐き出した。
「何だ?」
「警戒区域内に侵入者です。例の神曲事務所の人間の様ですが」
「……ふむ?」
老人が小さく首を傾げる。
同時に――
「えっ……?」
オミ・カティオムが声を上げた。
彼がツゲ神曲楽士派遣事務所に出入りしていた事を老人は知っていた。その理由がシェルウートゥに対する調査依頼である事も分かっていた。そういった周辺情報の入手には抜かりは無い。商売の基本だ。
だが……まさかカティオムを拉致した事まで知られ、この場所まで知られているとは。
予想外の事態ではあった。
だが修正が効かない程のものではない。
「やり過ごせ。無理なようなら捕獲しろ。それから付けられた者には厳罰を」
「了解」
ぶつりと切断の音がしてスピーカーが沈黙する。
振り返ると……予想通り鉄格子の奥でシェルウートゥが驚愕の表情を浮かべていた。
「そうだよ」
老人は殊更に優しげな――嬲るための優しげな笑みを浮かべる。
「見られたのだよ。お前が呼び寄せてしまったのさ……シェルウートゥ」
一拍置いたのは自分の言葉が相手の心の隅々にまで染み込むのを待ったからだ。
「そう――新たな犠牲者をねぇ?」
「…………ッ!」
激昂と――そして落胆。
少女の姿に擬態した精霊はがっくりと肩を落とした。それを見届けて深い満足を覚えながら老人は鉄格子に背を向けた。
「…………」
長く暗い廊下を歩きながら……かつて奇跡の大富豪と呼ばれた男は、その干からびた顔に静かで昏い笑みをべったりと貼り付けていた。
伸び放題に伸びたままで立ち枯れた雑草の群れ。
その陰に身を隠しながら――サイキ・レンバルトは思わず感嘆の溜め息を漏らした。
「凄いな、こりゃ……」
プリネシカの言った通り、電話ボックスからニキロ程の地点に、それはあった.。
深淵の如き暗い夜空を背景にして建つ廃墟。
黒々とした陰に覆われていて詳細は見て取れないが――恐らく鉄筋コンクリート製の、四角い建物である。高さは四階建て程度。窓ガラスは全て割れている様で建築途中で放棄された物件のようにも見える。
だが――違う。此処はかつて稼働していた施設だ。
よく見れば建物の少し手前に、雑草に埋もれる様に門柱の残骸らしいコンクリート塊が在るのが分かる。その側には太い金属パイプを溶接した門扉らしきものまで転がっていた。
更に眼を凝らせば――門柱に打ち込まれた金属パネルが見える。
そこに刻まれた名にレンバルトは覚えが在った。
『クラト工業研究所サマリーノ分室』
クラト工業と言えば、つい半年かそこら前まで単身楽団や封音盤プレッサーではトップ・クラスの大企業だったところだ。ユフィンリー所長のコレクションの中にも、一台ある。たしか、幻のモデル一〇四だった筈だ。
「……偶然か?」
呟いてはみるものの……とてもそうは思えなかった。
オミ・カティオムの父は、オミテックの社長だ。オミテックは封音盤のための新素材開発を進めており、後々は単身楽団を含めた神曲楽器にも業務拡張する予定だと言われている。そしてカティオムは、精霊に恋をした。
さらにプリネシカの見たものが何かの間違いでないなら、カティオムを誘拐したのは問題の精霊で、カティオムが連れ込まれたのは神曲関連の大企業が所有していた施設なのだ。
妙だ。どう考えても妙だ。偶然にしては符号が合いすぎる。
自分達が神曲楽士なのでついつい忘れがちになるが、神曲や精霊というものは人間社会において大きな影響力を持ってはいるものの――大多数の人間はそれとは直接関わりを持たない。社会は神曲や精霊とは直接的な関係を持たない圧倒的多数によって成り立っている、だからこそ神曲楽士は稀少な才能として重宝されるのだ。
だが今回――全ての出来事に、神曲と精霊が関わっている。
偶然としてはあまりに出来過ぎではないか?
「……陰謀の匂いがするよな」
注意して見ればこの建物が単なる廃墟でない事はすぐに分かった。
時折――微かな光と人影がちらつくのだ。
恐らく廃墟に見えるのは単なる擬装なのだろう。此処にカティオムが連れ込まれたというプリネシカの報告が在ったればこそレンバルトも気付いたが――事前の知識が無ければ彼とて単なる廃墟と見て通り過ぎていたに違いない。
しかも更にじっと観察していると……人影は何やらいびつな輪郭を帯びている。
手元と。そして腰回りと。
小銃かそれに類するもので武装しているのだ。腰周りのそれは予備弾倉や戦闘用ナイフと無線機の類だろう。そこらのチンピラやゴロツキの格好ではない。さすがに程度まではレンバルトにも分からないが……軍隊と同等かそれに準じる戦闘訓練を受けた連中の装いだった。
「……戻った方が良さそうだな」
〈シンクラヴィス〉の処まで――だ。気付かれない様に少し離れた処に置いてレンバルトは此処まで徒歩で接近してきたのである。
だがレンバルトは相手を少々侮っていたらしい。
「……!」
レンバルトは身を強張らせる。
武装した人影が四人程――周囲を警戒する様に腰を落とした姿勢で建物から出てきたのである。頭にはヘルメットを被っており……しかも手にしているのは突撃銃の様だった。
「やべっ……」
突撃銃は軽量高速弾を使用するため、射程は短く一撃必殺の威力にも欠けるが、射程距離内の貫通力に優れ、機関銃の様にスイッチ一つで高速連射が――掃射が出来る。
草むらに潜んでいる敵を燥り出すには最適の武器と言えた。
「…………気付かれたか」
男達は何かを捜す様に――いや誰かを捜す様に一定間隔をとって展開しながら移動していく。単なる警戒ではなく侵入者を想定した行動だというのは一見して分かった。
しかも最大の問題点は、男達が誰一人として照明を手にしていないという事だ。
彼等の目元にはヘルメットから吊り下げる様な形で装着された双眼鏡の様なものが覆っている。赤外線暗視方式か微光増幅方式かは分からないが……とにかく暗視装置だろう。
要するにこちらは闇に紛れたつもりでも相手側からは丸見えという事だ。特に赤外線暗視ならば枯れ草越しに体熱まで感知されてしまう可能性は在った。
この状況で逃げるのは無理だろう。かといってじっとしていても見つかるのは時間の問題。突撃銃で武装した相手……しかも複数となると抵抗などは問題外だ。
フォロン達が来るまでの間、単に情報収集をするだけのつもりだったので、単身楽団は〈シンクラヴィス〉に置いてきた。小型とはいえやはり機械装置――隠密行動をするには少々嵩張り過ぎるのだ。
だがこれは失敗だった様だ。精霊さえ喚べれば未だ状況打開の可能性は在ったのだが。
「………そうなると」
状況を分析し把握した後は――レンバルトの決断は早かった。
いきなり立ち上がって声を上げたのである。
「おーい――何かお探し?」
そう言って草陰から立ち上がり手まで振ってみる。
捕まるのが時間の問題ならば、迂闊に抵抗しない方が良い。いきなり口封じに撃ってくる可能性も無いではなかったが――こればかりは相手が無意味な殺傷を好まないプロフェッショナルである様にと期待するしか無かった。相手が最初から殺すつもりならこのまま隠れていても数分生命が延びるだけの事でしかない。
暗視装置の四人が一斉に振り返ってくる。
四つの――それも銃声抑制器の着いた銃口は真っ直ぐレンバルトの胸元を狙っていた。レーザー照準器の紅い点が自分の胸元を這い回るのをレンバルトは微かな不快感と共に見つめた。
やはり素人ではない。狙撃手でもない限りいきなり頭を狙おうとするのは素人だ。突撃銃の強みである連続射撃はどうしても反動で銃口がぶれる。また軽量高速弾は一撃必殺の威力に欠けるので、確実な殺傷を狙うなら複数を命中させる必要が在る。このため――一番面積の広い胴体部を狙っているのだ。
「撃つな!! 抵抗はしない!」
「…………」
無言で男達は駆け寄ってきた。
二人が少し離れた距離で照準し――二人がレンバルトの側に来て彼が何か武器の類を持っていないかと調べる。
「――歩け」
三分後――レンバルトは両脇を銃口に小突かれながら建物の中に連れ込まれた。
ごめんなさい――とシェルウートゥは言った。
何が何だか分からない。
自分はただ公園で出会った彼女に惹かれて……ただそれだけだったのに。どうしてこんな処でシェルウートゥと一緒に閉じ込められているのか。
自分がオミテック社社長の息子である事の自覚は在る。だから最初は身代金目的の誘拐かとも思ったのだが――ただそれだけの事件ではない様だった。それだけの事ならばシェルウートゥが絡んでくる意味が無いし、何よりもあの老人は金に困っている様にはとても見えなかった。
「ごめんなさい……」
シェルウートゥはただそう繰り返すばかりだ。
分からない事だらけの中で一つだけはっきりしている事が在る。それは彼の意識を奪い此処まで連れてきたのが他ならぬシェルウートゥ自身だという事だ。
だがその彼女が今はカティオムと一緒に閉じ込められ彼に謝罪を繰り返している。
「どういう事なの?」
「逆らえないの」
少女の声は震えていた。
「騙されたの……」
シェルウートゥには契約楽士がいた、名をモノミ・ラシュドージアといった。一流の楽上とは言えなかったが――彼の奏でる独特の神曲をシェルウートゥは気に入って、専属の精霊となる契約を結んだのだ。
それからは平和で満たされた日々だった。少なくともシェルウートゥはラシュドージアの側に侍って暮らす目々に満足を覚えていた。
だが半年前のある日……突然ラシュド…ジアは有力なパトロンを得た。
ヤマガ工業の代理人と名乗る男が、事業に神曲楽士としての力を貸して欲しいと申し出てきたのである。
神曲楽士は一般人からの畏敬を浴びる職業だが……それはあくまで一般人と比較しての事である。一度『業界』の中に入ってしまえばラシュドージアは業界の底辺近くを這い回る有象無象の一人にすぎない。そしてシェルウートゥの様な上級精霊を自分に付き合わせている事を彼はひどく気に病んでいた。『貧乏くじを引かせたなあ』は彼の口癖だった。
だからこそラシュドージアはその申し出に飛びついた、
長年勤務していたクラト工業が謎の解体劇で消滅し――失業中だった事も影響しているだろう。個人で事務所を開いてやっていける程、ラシュドージアの知名度は無く、蓄えも心許なかった。
二人は喜んでパトロンから指定された場所に出向いた。
だが――
「全ては罠だったの……」
ヤマガ工業の代理人と名乗った男は――武装した男達と共に姿を現した。
無論、上級精霊たるシェルウートゥにしてみれば銃で武装した人間の五人や十人は怖れる程の相手ではない。だが男達は荒事の専門家だった。一瞬の隙を突かれラシュドージアを人質にとられたシェルウートゥは……相手の言いなりになるしかなかったのである。
彼女は精霊文字で封禁されたこの独房に閉じ込められた。
そして……実験が始まったのだ。
「実験?」
「ええ。カティ……ごめんなさい。私……貴方を恐ろしいことに巻き込んでしまった」
クラト卿の目的は……新たな神曲の確立だった。
彼は、ラシュドージアがクラト産業で働いていた時から、シェルウートゥを研究対象として選出していたのだ。他にも数体選び出された上で実験に供された精霊達が居る様だったが――その殆どは死滅してしまったらしい。
精霊とて傷つきもすれば死にもする。
しかも――
「あの男は……クラト卿は、神曲で精霊を挨じ伏せようとしているの」
「そんなこと……」
「出来るの。あいつは……!」
叫ぶ様に言って――シェルウートゥは頭を抱えた。
その時――
「――あいてっ。抵抗しないからさ。もうちょっと丁寧に扱ってくれないかな?」
「そう思うのなら黙って歩け」
何人分もの乱暴な足音と共にそんな会話が聞こえてくる。
鉄格子の向こうに続く長い廊下を、誰かがこちらに向かってやってくるのだ。
そして――
「――お。とりあえず無事だったか」
鉄格子越しに対面したその相手は場にそぐわぬ笑顔を見せてそう言った。
「サイキ……レンバルト……さん?」
確かそんな名前だった筈だ。
驚きの表情を浮かべるカティオムに、若い神曲楽士は苦笑を浮かべてみせた。
「しかし……こりゃまた、えらい処に入れられてるね」
両手を頭の後ろで組まされたまま、レンバルトは涼しげに言う。
彼が銃口で、黙れ、と突つかれている内に、濃紺色の戦闘服を着込んだ別の一人が鉄格子の一部を開いた。
「――入れ」
「はいはい。まあ寂しくなくていいよな」
何処か緊張感に欠けた口調で言いながらレンバルトが牢獄の中に入る。
鉄格子の締まる音が響き――そして足音が遠ざかっていく。
「レンバルトさん……」
「…………」
カティオムの台詞を――しかしレンバルトは口元に人差し指を立てて遮った。
遠くで鉄製の重そうなドアの閉じる音がする。
それから彼は人差し指を立てたまま部屋中を見回した。
壁に手を這わせ、天井を見上げ、ベッドの下を覗き込んでクッションをめくる。五分程もそんな怪しい作業を続けてから――ようやく彼は笑みを浮かべた。
「よっしゃ。盗聴器も監視カメラもないみたいだな」
言って、床に座る。彼が何をしていたのかやっと理解したカティオムとシェルウートゥは、ほっと安堵の溜め息をついた。最初――彼が恐怖の余り錯乱したのではないかと思ったのである。
「レンバルトさん」
「はいよ」
「すみません、僕のせいで……」
「いやあ、キミのせいじゃないだろ? あの爺ぃのせいだろ?」
牢獄の中でもレンバルトは飄々としている。
「会ったんですか?」
「まあ――ちらっとだけね」
戦闘服の男達に連行されてレンバルトは廃墟に入ったのだという。すぐに地下へと連れてこられたが、その際――さっきカティオム達の前にいた老人と行き違ったらしい。
「ありゃあ――あれだな。クラト・ロヴィアッドだな」
「あっ……!」
ようやくカティオムも理解した。
どこかで見た顔だと思ってはいたのだ。
「それで何となく想像はつくな」
ええ――と頷いてカティオムは彼に説明した。たった今シェルウートゥから聞いたばかりの話である。そこにクラト・ロヴィアッドの名が加われば、おぼろげながらも今回の非常識な事件についても見えてくるものが在った。
「要するに、半年前の謎の解散から事は始まってたってことか」
「たぶん……」
シェルウートゥが頷く。
「何年もかけて準備してたんだと思います。ひょっとしたら会社そのものが、その計画の一部だったのかもしれません」
「資金源か。それに爺ぃの目的が神曲そのものだったなら……クラト工業は裏で研究を進行してたのかもしれないな」
でも――とカティオムが続ける。
「研究とか実験とかって……どんな? 精霊を神曲で捩じ伏せるなんて」
「それは……」
シェルウートゥは辛そうに傭いて……それから顔を上げてカティオムを見つめる。
やがて決心したかのように溜め息をつくと、彼女は坤く様に言った。
「ダンテの――奏始曲です」
ユフィンリーの運転する〈シューティング・スター〉の尾灯を追ってひたすらに走る。走る。走る。
イグロックを抜け、『動物園』と描かれた矢印の標識を横目に見ながら、さらに北上する。住宅地を抜けて山の手前で国道を降りた時……ようやくフォロンは、ユフィンリーがサマリーノを目指していることを理解した。
周囲は暗く建物もまばらで街灯もない。印象はまるで荒野だ。
道路は道なりに山道へと続いた。
シューティング・スターが左のウィンカーを点滅させたのは、山道を登り始めて一〇分程も経った頃だろうか。だが前照灯に照らされていた前方のカーブは反対側――つまり右へと折れている。停止するつもりなんだ――とフォロンが理解した途端、ウィンカーの点滅はハザード・ランプのそれに切り替わった。
白銀色の車体がするすると路肩に寄ってゆく。すぐ後ろに続いたフォロンの顔の横から、コーティカルテが腕を突き出して前方を指した。
「いたぞ」
そこに――ユギリ姉妹の姿が在った。
カーブで道が大きく膨らむあたりに、掘っ建て小屋みたいなものが建っている。コーヒー・スタンドか何かだったのだろう。その建物の手前にペルセルテとプリネシカが立って両腕を大きく振っているのが見えた。
金髪の少女は駆け出すと、ユフィンリーの車の脇を素通りし――
「フォロン先輩!!」
「うわっ……たったっ――」
そのままの勢いでフォロンの首っ玉にしがみついた。
「フォロン先輩フォロン先輩フォロン先輩フォロン先輩フォロン先輩フォロン先輩!!」
抱き付いたまま連呼するペルセルテ。
案の定――後部座席のコーティカルテから不機嫌の気配が漂い出るのをフォロンは背中で感じ取った。
「こら! 離れろ! フォロンは私のものだと何度言えば分かるのだ――お前は!?」
「べーっ! 先輩は誰のものでもありません! コーティカルテさんこそ何度言えば分かるんですか!?」
ペルセルテがフォロンにしがみついたまま舌を出して応戦する。
彼女の背後でプリネシカが苦笑を浮かべているのが見えた。この切迫した状況下でもいつものやり取りをする二人の存在は――随分と周囲の緊張を和らげてくれる。まあ本人達には全く自覚が無かろうが。
「それにフォロン先輩は私を助けに来てくれたんですからね!」
「違う! カティオムを助けに来たのだッ!」
その言葉に――
「そうよ」
場をまとめる様に応えたのはユフィンリーである。
彼女は車から降りてフォロン達の側に歩み寄った。
「カティを助けなきゃ。どこなの?」
「あ……はい。ここから道なりにニキロ程行った処です。そこに廃墟が在ります」
「廃墟……」
その言葉に――フォロンは何か引っかかるものを感じる。
だが微妙にもつれて絡まった思考の糸を解くきっかけは、次の瞬間、ユフィンリーから与えられた。
「この先って、たしかクラトの研究所か何かがあった場所でしょ?」
「――あっ!!」
掌と拳を打ち合わせてフォロンは声を上げた。
「ユフィンリー先輩! 地図!!」
「――は?」
怪諦そうな表情を浮かべる上司に向けて、フォロンは畳み掛ける様に言った。
「地図です、あの地図! 赤い丸のついたやつ!」
最初に見た時から……ずっと引っかかっていたのだ。
「赤い丸は、みんな謎の物損事件ですよね。それで、地図全体に、ばらっと散らばって」
「そうだよ?」
「でも、ケセラテ自然公園の中には、印が一つもない」
そう。
まるでドーナツの様に赤丸が重なり合う領域は公園を取り巻きながら――しかし公園の中には決して入ろうとはしていなかった。
「公園の中じゃ壊すものなんてないからじゃない?」
「なぜ? 樹はいっぱい生えてるし、街灯もある。プールも動物園もある。管理施設の建物だってある。外と大差ないはずですよ? それに、夜になれば人目につかないという意味なら、公園の方がよっぽど合理的だ」
「ふむ。続けて」
ユフィンリーは思案の表情を浮かべながら言った。
「それはつまり、何か理由があって、公園で事件を起こしても意味がないか、あるいは公園にある物では壊しても意味がないってことでしょ?」
「壊す物には共通項があるってこと? 例えば材質とか……」
「あるいは、場所とか!」
「……場所……」
「ユフィンリー先輩」
フォロンは、いつの間にかオートバイのハンドルを力一杯握りしめていた。
「事件のあった場所には、注目が集まります。警察だって捜査に来ますし、僕がやったみたいに神曲楽士が来ても人が集まってしまいます。公園で事件を起こしたら、やっぱり公園にも人が集まりますよね」
ふいにユフィンリーが、目を細めて笑みを浮かべる。
片方の唇だけを吊り上げた――見るからに不敵な肉食獣の笑みだ。何か重大な事実に気づいた時に出てくる、それは彼女の癖らしい。
「フォロン。あんた――サエてるよ」
「ええ。間違いないと思ってます」
フォロンは頷いた。
「カティが初めてシェルウートゥを見かけたのが、初夏のころだ。物損事件も、そのころから始まってる。誘拐されたカティが連れ込まれたのは、クラト産業の研究所の廃墟。そしてクラト産業が謎の解散劇を演じて世間を騒がせたのが、半年前」
つながった。
全ての断片が一枚の絵の中に填り込んだ。
「僕は、回収場所だったんだと思います。公園での破壊を避けたのは、そこに壊すものが無かったからではなくて、そこに人が集まるのを避けるため。そしてそれは人目につかない様に彼女を問題の『黒い車』が回収するため――」
「うん。そうだね」
「赤丸の印は、どれもケセラテの公園から一定範囲内にあります。シェルウートゥは何らかの理由で、次々と物を破壊して回っていた。そして彼女は、朝になってからケセラテ自然公園で待機していた誰かに回収されていた」
「カティが彼女に精霊雷を撃たれたのは、回収の瞬間を見られたから」
「そうです。そして、これが肝心なんですが、ケセラテ公園を外周する道路は、イグロックからサマリーノへ向かう高速道路にアクセスするには最適なんです」
「あ……あの……」
ぽかん……と口を開けて二人の会話を聞いていたペルセルテがようやくそこで割り込んできた。
「えっと……なんでシェルちゃんは、そんなことしてた、のか、な? なんて……」
「それは分からないけど……」
とフォロン。
だがユフィンリーは不敵な笑みを深めて言った。
「想像はつく。くっだらない――ゲスっぽいのがさ。まあそれは今はどうでもいい。とにかく今はカティオム達を助け出さないといけない。ふざけた真似をしてる連中をとっちめてね」
言って――ユフィンリーは電話ボックスに滑り込むと何処かに電話をかけ始める。
恐らく警察だろう。まあ確かに事が刑事事件としての性質を帯びていると確定したならば彼等に通報して任せてしまうのが一番楽で確実な方法ではある。
だが――
「手早く済ませろ――ユフィンリー」
コーティカルテがヘルメットを脱ぎ捨てながら言う。
「コーティ?」
「先に行くぞ。もう待ちきれん」
紅い髪の小柄な精霊は――ユフィンリーにも負けず劣らずの猛獣めいた笑みをその可愛らしい顔に浮かべていた。
〈血塗れの公爵夫人〉、〈ウェイワード・クリムゾン〉あるいは〈紅の殲滅姫〉……彼女は元より気位が高い上に、精霊達の間でも屈指の戦績を持つ歴戦の強者なのだ。こういう鉄火場の雰囲気には心が騒ぐのだろう。
戦争と狩猟は……貴族の義務であり嗜みだ。
「コーティ……」
「心配するな――フォロン、私は以前の私とは違う」
コーティカルテは不安げな己の契約主を振り返って言った。
「ただ……正直言って、今はカティオムをさらった馬鹿者共に腹を立てているのも事実だ。精霊を何やらくだらん事に利用しているらしい連中にもな」
「…………」
「だから」
言ってコーティカルテは歩き出す。
「片っ端から……莫迦共の尻を蹴飛ばしてやる」
ダンテ・イブハンブラは伝説の人物である。
神学者も歴史学者も、その解釈にこそ相違はあるものの、ダンテこそが全ての神曲の始祖であるとの見解で意見の一致を見ている。ただダンテ・イブハンブラがどういう人物であったのかという事については諸説が入り交じり正確な処は分かっていない。
生誕地。生没年月日。両親。嗜好。経歴。配偶者の有無。挙げ句には――性別。
ただ名前だけが残っている様な存在だ、
そしてそういう人物には――往々にしてその不明の空虚を埋めようとするかの様に様々な伝説がまとわりついていく。真偽さえ定かでないそれらは互いに呼び合って増殖を続けて勝手に人物像を造り上げていく。
『ダンテの奏始曲には楽譜が存在する』――これもそうした伝説の一つだった。
「まさか……そんなものが」
カティオムの言葉を――しかしレンバルトは否定した。
「いや。俺も最初は、まさかと思った。だがダンテの楽譜は、実在するらしい」
「らしい……って……?」
「ちょい前のことだけどな、所長やフォロンが、それでえらい目に遇ってるんだ」
ヤワラベ発電所の事件である。
そこでフォロン達は『ダンテの楽譜を手に入れた』と主張するテロリストと戦っている。
「そんでシェルウートゥ、連中はその、ダンテの楽譜を手に入れたってんだな?」
「そうです。全てかどうかは分かりませんが、少なくともその一部は……」
ユフィンリーやフォロンによれば、彼等が実際に体験したダンテの神曲は、現在の神曲と大きく異なるものだったという。
現在のもののように特定の意志や特定の想念を伝えるものではなく、演奏者の情念を無差別に、ナマのまま精霊に向けて叩きつけるようなものだったのだ。
そこには善と悪の区別さえない。在るのはただ……凶暴なまでの純粋さだ。
故にこそそれは使い手の意志によって善悪を帯びる。
他者に差し伸べる掌にもなれば、他者を殴り付ける拳にもなるのだ。
少なくともフォロンやユフィンリーはそう結論付けている様だった。
だが――
「私には……」
シェルウートゥの声は震えていた。
「ダンテが、伝説に語られるような聖人だったとは……とても思えません。彼は精霊を神曲で捩じ伏せ……従わせようとしていたのだと思います」
「シェル……?」
少女の肩をカティオムが抱く。
だがそれでも彼女の震えはおさまらなかった。
「恐らく……それはダンテにも叶わぬ夢だったのでしょう。けれどクラト卿は、手に入れた楽譜を研究し、編曲を重ね、支配するための楽曲を作ろうとしたんです」
「そんな事が……可能なんですか?」
カティオムがレンバルトを振り返って問う。
「さあな。だがフォロン達が出会ったテロリストの神曲は……実際にボウライの群れを強制的に操っていたそうだし、ボウライを『変質』させてすらいたそうだ」
「……!」
「あるいはもし――それすらもが『実験』の一環だったとしたら」
完成した支配神曲は上位精霊さえ自由自在に操ってしまう可能性は在る。
「その実験台に、君が……?」
シェルウートゥは口元を手で押さえて何度も何度も頷いた。
「私を……ダンテの神曲で……操ろうとしたんです」
「ひどい……」
「抵抗しました、最初は……抵抗出来たんです……でも……そのせいで……そのせいでラシュドージアが……」
そこまで言ってシェルウートゥは唇を噛みしめる。
「シェル……」
「クラト卿はラシュドージアを……私の契約楽士を殺しました。私を飢餓状態にするために。ダンテの神曲を聴かせるために。それだけのために……!」
神曲は精霊の糧となる――と言われる。
そしてそれ故にその提供を対価として神曲楽士は精霊を操れるのだと。
これは一面で間違ってはいない表現だが――必ずしも事実に正確ではない。
精霊達にとってそれは悦楽なのだ。
最も近い概念は『麻薬』であると言われている。
精霊の嗜好に合った神曲は精霊の感性と能力を何倍にも高める。人間には実感出来ない感覚ではあるが――精霊達に言わせるとそれは『喩えようも無いくらいの全能感』なのだという。地を這う小虫が突如として地上を見下ろす巨人になったかの様な。
故に――精霊の中には自分好みの神曲を奏でられる楽士を、積極的に探し回る者も居る。見つけた後は更に強く神曲の影響を受けられる様にと、自らを相手の神曲に合わせて『調律』する事さえ在る。
これがいわゆる『精霊契約』だ。
故に精霊契約を交わした精霊は強い。上級精霊ならばなおさらだ。
だが……神曲は精霊にとって『麻薬』だ。
契約した相手の神曲に慣れ――自らを調律すらした精霊にとって、その途絶は途方もない飢餓感を生み出す。禁断症状と言っても良いだろう。だからこそ精霊達は慎重に精霊契約の相手を選ぶ。それは生涯の伴侶を選ぶにも似た――重要な選択だ。
だが無論……精霊と異なり人間には寿命が在る。
いつかは楽士は老いて死ぬ。病でも死ぬ。
故に相手の死期を察知した精霊は少しずつ少しずつ契約楽士の神曲に対する依存度を軽減してゆく。いわば――『リハビリ』だ。契約楽士からの神曲以外にも共振し得るように、再調律に入るのだ。
それは己が身を護ると同時に……契約楽士を見送る儀式の始まりでもある。
神曲楽士側も余裕が在れば少しずつ相方を『解放』するための神曲に演奏を切り替えていく。そうやって精霊と楽士は永久の別れの準備をするのだ。
だが……
契約楽士が事故や犯罪で突然死亡した場合はこの処置がとれない。再調律は間に合わない。その結果として――精霊は容易く飢餓状態に陥る。理性が恐ろしい勢いで摩耗して行き、飢えに狂った怪物の様に、手当たり次第に破壊を撒き散らし、そして自らの存在そのものをも摩耗させて――死ぬ。
即ち――暴走である。
「半ば暴走状態の私に……あの男はダンテの神曲を与えました。そして私は、それを受け入れてしまった……ラシュドージアを殺した奴の神曲を、そんなものを……私は受け入れたッ!」
「それは君のせいじゃないだろう」
レンバルトが言う。
実際……暴走する精霊は飢餓状態に在るため、神曲の影響を受け易い。飢え狂った者が毒かどうかも確かめずに食べられそうなものを口にするのと同じ理屈だ。
クラト卿がラシュドージアを殺したのもそれを狙っての事だろう。支配用神曲をシェルウートゥが受け入れ易い状況を造ったのである。
通常はこの理屈を逆手にとって、沈静作用の在る楽曲を送り込む事で暴走する精霊を宥めたりもする。もっともこの場合 ――『効く』までの時間差で神曲楽士が殺されてしまう可能性も在るため、暴走精霊を取り押さえる際には、同等かより上級の精霊を複数用意して取り押さえてから行うのが鉄則だ。
「あの爺ぃが君より悪知恵が回っただけの事だよ」
そんなレンバルトの言葉も――しかし彼女には意味の無いものだった。
「あいつは、ラシュドージアを殺した。殺してしまった、何も悪いことしてないのに。でも私は、彼の仇を討つことさえ出来なかった。彼の神曲を断たれて、苦しくて、だからダンテの神曲を受け入れるしかなくて……ラシュドージアの仇に、いいように使われて……あいつの言う通りに……色々な……」
「シェル……」
「あの男は……私を簡単に操ってしまう。支配楽曲を奏でられたら、私は抵抗出来なくなってしまう。自分が何をしているか、何をさせられているか、ちゃんと分かっているのに抵抗出来ない! 抵抗したいとさえ思えない!! あいつは、あいつは、私を道具にして、あいつは……!!」
「シェル!」
叫んでカティオムが動いた。
錯乱寸前のシェルウートゥを、正面から抱き締めたのだ。
「もういい……もういいから……」
「…………」
悲鳴のような少女の言葉が途切れる。
躊躇う様に……怯える様にその両腕が空中を彷徨う。
だがやがてその指先はそれぞれ少年の髪と肩に触れた。躊躇いは数瞬。そしてそこからは滑る様に――当然の結果を求める素朴な動きで両腕が彼の身体を抱き締めていた。
後に続くのはただ鳴咽のみ。
ただ抱き合う――それだけの事にこんなにもこの二人は時間が掛かったのだ。
「…………」
レンバルトは二人に背を向けて離れた。
(……人間と……精霊――か――)
鉄格子の向こうを彼はぼんやりと眺める。
そこにはただ暗い廊下が在るだけだ。
(……フォロン……お前……分かってるか?)
脳裏に描いた親友に彼は問うた。
(本当に……きちんと分かって……お前は神曲楽士をやってるか?)
カティオムとシェルウートゥの姿を見ても尚――レンバルトは精霊と入間の恋愛に関してはあまり肯定的な意見を持てないでいた。
やはり精霊と人間は違うものなのだ。
それは底の浅い差別主義者の論調とは全く別次元の――神曲楽士としての実感だった。
レンバルトは神曲楽士である。
彼は精霊の事が好きだ。彼等を自分の神曲で愉しませるのが好きだ。そうやって一緒に精霊達と物事を何か一つずつ成し遂げていく事は彼にとって最高の愉悦だった。
だから彼は神曲楽士でいられる。
だが精霊は確かに仲間ではあるかもしれないが……それでも人間ではない。
人間と同じ感情をそこに向けてはいけない。相手に人間と同じ付き合いを期待してはいけない。精霊は精霊として。人間は人間として。それぞれ別に扱い別に付き合うべきだ。
精霊契約を交わした楽士と精霊の関係性を見ても分かる通り、人間同士なら至極当たり前に出来る事にさえ、精霊と人間の間ではひどく困難なものになる。
そしてそれは時に精霊も人間も不幸にしかねない。
カティオムとシェルウートゥはとりあえず上手くはいった。
だがこれからはどうだ? 彼等は恐らく普通の人間同士の何倍もの苦労を背負っていく事になるだろう。ただ抱き合う事さえもこんなに難しかった二人なのだから。
そして――フォロン。
そして――コーティカルテ。
レンバルトの眼から見れば彼等の関係も酷く危なっかしい。そしてその危なっかしさを彼等自身が本当の意味では自覚していない様にも思えるのだ。
恋愛ごっこならまだいい。
戯れになら唇を重ね肌を重ねるのも良いだろう。
だが――それが遊戯でなくなった時。
それはきっとフォロン達の人生において多大なる軋礫となる。
その事がレンバルトはひどく心配だった。
「……って。俺もいい加減、お節介なのな」
苦笑して呟くレンバルト。
その時――不意に鈍い振動音が伝わってきた。
「な……なんでしょう?」
カティオムが不安げに尋ねてくる。
だが――レンバルトとしては何となく想像が付いていた。
「ま――騎兵隊が間に合ったって処じゃないかな?」
遠雷の様な――やや離れた場所から響いてくる轟音。
どうやら鉄の扉が吹き飛んだらしい。続いて廊下を跳ね回りながら伝わってくるのは、何人もの男達が叫ぶ声と、断続的な銃声と、そして……足音。
それも途方もない重量級の。
「……うん?」
さすがにレンバルトも怪評の表情を浮かべる。
てっきりコーティカルテかヤーディオ辺りが殴り込んできたのだろうと思っていたからだ。だが彼等は間違ってもこんな足音を響かせたりはしまい。
では――一体何が来たのか?
次の瞬間、鉄格子の向こう側に解答が顕れた。
「うわ!?」
悲鳴じみた声を上げるレンバルト達。
そこに居たのは――つるりとした巨人だった。
身長は三メートル余り。しかも肩幅もニメートル余り。ぼんやりと輝くその身体には体毛も破も無く、目鼻立ちすらも無い。ただ頭部が在って胴体が在って四肢が在るというだけの――もっとも原型的な人型でしかない。
巨人は通路一杯に広がる身体を窮屈そうに折り曲げて――言った。
『退がれ。精霊文字には触れられん。周囲の壁ごと外から破壊する』
「あ……あんたは?」
レンバルトの問いに……巨人のつるりとした頭部に細波が走る。
あるいはそれはこの巨人の笑みだったのかもしれない。
『我等は人に名乗る名を持たぬ精霊である』
「…………?」
『コーティカルテ・アパ・ラグランジェスの命により……汝らを救出に参じた』
「……って。おい。まさか」
レンバルトの脳裏に駐車場での光景が蘇る。
まさかこの巨人は……
――ごおん!
巨人の繰り出した無造作な一撃は天井の壁ごと鉄格子を粉砕した。
そこへ――
「この……化け物ッ!!」
廊下の奥からまろび出てきた戦闘服の男が、手に抱えた筒を巨人に向ける。
迫撃砲か。あるいはミサイル・ランチャーか。何にしてもこんな場所で使うものではない。恐らくこの巨人に蹂躙されて正常な判断力を失っているのだろう。
『……むっ』
巨人はレンバルト達を守るかの様に両腕を広げる。
そして――
「くたばれっ!!」
ぽん……と何処か間抜けな音と共に榴弾が吐き出される。
それは狙い違わず巨人の胸元に命中――そして爆発。 轟音と爆風が弾け……ない。
まるで湿気った火薬の様に、ぽぽんと間抜けな音を立てながら光が小さく瞬いたが、それだけだ。爆発力の大半は巨人の中に吸収されてしまっていた。
代わりに――
「わああああああああっ!?」
男が悲鳴を上げる。
巨人が――ばらけたのだ。
無数のボウライに。
「……やっぱり」
呻く様に呟くレンバルト。
「駄目」「駄目」「攻撃」「駄目」「痛いの」「駄目」「駄目」「駄目」「駄目」「攻撃」「駄目」「痛いの」「駄目」「駄目」「駄目」「駄目」……
ボウライの群れがそんな事を口々に言いながら男に向かって押し寄せる。
このボウライと呼ばれる下級精霊は、元々愛くるしいとも言うべき外形をしている。
球体にぽつんと落書きの様な小さな黒い目が二つくっついて、他には頭頂部――と言って良いのかどうか疑問だが――に二枚の、冗談の様に小さい羽根がついているだけだ。
まあ大抵の人間にこの容姿は好意的に受け入れられる。
だが。
これが何十何百という群れとなり、廊下を埋め尽くしながら迫ってくるとすれば……?
「ひぎゃああああああああっP」
とても戦闘訓練を受けたとは思えない様な、情けない悲鳴を上げながら男はボウライの群れに飲み込まれていく。光る球体の間から助けを求める様に手が一本、必死の様子で突き出て暴れていたが――やがてそれは力尽きた様子でボウライの群れの中に沈んでいった。
そして。
「合体」「群体」「合体」「する」「合体」「合体」「合体」「合体」「する」「する」「合体」「合体」
「合体」「群体」「群体」「合体」「する」「する」
…………
『――失敬』
廊下の奥に泡を噴いて痙攣する戦闘服の男を残し、するすると戻ってきたボウライの群れは、再びかなりいい加減な感じに結合して巨人の形態を採った。
『つい動揺してしまった』
「……なんて適当な……」
怖れおののく様に呟くカティオム。
「せ……精霊が全部こうじゃないから」
とシェルウートゥ。
まあコレと一緒だと思われたら彼女も立つ瀬が無かろう。
「と……とにかく脱出しようか」
何やら深刻な空気が根刮ぎ洗い流されそうな状況で――辛うじて表情を引き締めたレンバルトはそう言った。
ユフィンリーの言った通りそこは『クラト工業研究所サマリーノ分室』の廃墟だった。
中は荒れ果てていて、床にはガラスの破片やコンクリートのかけらが散乱している。ドアは全て枠から外れて床に倒れ、窓ガラスは一枚も残っていない。見るからに廃墟の様相を呈している。
いかにも廃墟――らし過ぎる。
それらは全て偽装だった。
建物は言わば二重構造になっていたのだ。外壁に面した全ての廊下と全ての部屋は、荒れ果てた廃屋である。だがその奥……建物の中心部は隠し部屋になっていたのだ。
そこは廃墟の皮を被った要塞だった。
壁の隠し扉から武装した戦闘服の男達が次々と吐き出されてくる。彼等は迅速に建物の正面玄関前に展開し――門を越えて入ってきた侵入者へと銃を向けた。
男達は自信と落ち着きに満ちていた。
自分達が素人相手に遅れを取る筈も無いのだと。
実際……それは見事な動きであり作戦だった。人間ならばあっという間に包囲され職滅されていた事だろう。たとえそれが精霊を連れた神曲楽士であったとしても――だ。
彼等の誤算はフォロン達の側に精霊の女王が居た事だろう。
「……!!」
男達の周りに――幾つもの光芒が舞い踊る。
「下級精霊!?」
ボウライ達である。
彼等は口々に『ここ』『ここ』『てっぽう』『ここ』などと言いながら男達の周りを飛び回ってその視界を遮る。男達が実体化した精霊達を突撃銃の銃床で払い、あるいは叩き落として銃を構え直すと――
「――眠れ」
紅い閃光がその顔面に炸裂する。
男達はそのたった一撃で吹っ飛んで気絶。
一人一人……全てその繰り返しだ。
衝撃を伴うその光は言うまでもなくコーティカルテの精霊雷だ。それらは男達の鼻面に叩き込まれてその頭部を揺さぶり、脳震盈を引き起こす。無論――彼女がその気なら一撃で彼等の頭部を跡形も無く吹っ飛ばす事も出来る。だが今回は敢えて力を抑制し調整して男達を精霊雷でぶん殴って回っているのである。
「……しかし凄いね……」
建物の前に乗り付けた〈ハーメルン〉に跨ったままフォロンは呻く様に言った。
辺り一面……無数のボウライ達がひしめいている。万にも届こうかという数の彼等の放つ光で辺り一帯は昼間の様に明るい。それらが兵士にまとわりついてはその動きを邪魔して作戦行動を分断しているのである。
兵士達にしてみればボウライの海に飛び込んだ様なものだ。手足にじゃれつく下級精霊達が邪魔になって銃を構えるどころかまともに歩く事さえままならない。
そしてそんな中を――
「やはり空振りだけでは、こやつらも立つ瀬がなかろうからな」
得意げに笑いながら、コーティカルテは騒乱の中を女王然とした態度で悠然と歩いてゆく。歩いては次々と精霊雷をぶちかまして兵士達を昏倒させていくのである。
殆ど殲滅作戦だ。
実の所……廃墟に近づいた際、当然フォロンは、こっそり潜入する作戦を提案した。何しろ相手の武器も人数も分からないのだ。ここは慎重に動くのが得策だと思ったのである。
だがコーティカルテはそれをあっさりと却下。
止める間も無く何干という下級精霊を召喚してしまったのである。
しかもその中の一部はあれよあれよという間に合体して薄く光る巨人となった。
「私が残りの者と陽動を行う。お前達は施設内を探索の後――私の友人達を救出しろ」
『――承知』
そうやって――大騒ぎの中を巨人は建物の中に消えていったのである。
何しろ見渡す限りをボウライの群れが埋め尽くし、視界さえまともに確保出来ない有り様だ。三メートル近い巨人が建物の中に入っていっても、止めるどころか、その存在に気付かぬ者達も多かったろう。そもそも形態はともかく色は他のボウライ達と同じなので、この状況では巨体も保護色となって場に紛れてしまう。
「この――」
ボウライの群れを掻き分けながら兵士の一人がコーティカルテに飛び掛かった。
「化け物がっ!」
銃口がコーティカルテの顔面に突き付けられる。
そして
「コーティッ!!」
フォロンの叫びと銃声が被った。
まるで巨大な鉄槌で殴られたかの様に――コーティカルテが大きく仰け反る。
「ははっ!」
勝利を確信した兵士は獰猛に笑い――
「ははっ――」
――それは次の瞬間に凍り付いた。
獰猛に笑うコーティカルテがゆっくりと姿勢を戻したからである。
その顔には一筋の傷さえ無い。
代わりに……兵士が放った筈の銃弾が彼女の鼻に触れるか触れないかの状態で浮かび、そこに細く紅い稲妻がまとわり付いていた。
コーティカルテの精霊雷が銃弾を絡め取ったのである。
「…………は……は……」
「十年だか十五年だか前に……同じ武器で撃たれた覚えが在る。二六式突撃小銃。確か一世代前の――軍の制式銃だな。放出品か?」
にやりと笑いながらコーティカルテは言った。
「意外に貴様等の雇い主はケチらしいな」
「…………は……」
銃を構えながら兵士が後ずさる。
「貴様の私に向けた暴言と暴力……本来なら死罪にも値する。だが生憎と私はもう〈異邦人〉時代とは違う。今の私の主は殺生の類を好まない」
「……貴様……貴様は……」
「だから」
コーティカルテは、にい……と邪な感じで笑みを深める。
「まあ死なない程度に後悔させてやろう」
「……ひっ!?」
兵士が逃げようとするものの――まるで壁の様に密集したボウライ達がそれを許さない。
「ちょ……ちょっとコーティ!? あんまり酷いことは――」
「くすぐってやれ」
『――へっ?』
揃って間の抜けた声を漏らす兵士と――フォロン。
そして……
「くすぐる?」「くすぐる?」「くすぐる」「くすぐる」「くすぐる」「くすぐる!」「くすぐる!」
「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる!」「くすぐる――!」「くすぐる――!」「こちょこちょ」「こちょこちょ」「こちょこちょ」「こちょこちょ――!」
嬉々として言いながらボウライの群れは兵士にのしかかった。
「ちょ……ま……ま……ひ……ひやああああああっ!?」
「…………」
そつとしながらフォロンはボウライに――手足の無いボウライがどうやってその命令を実行しているのかは謎だが――すぐられて痙攣丁る兵士を眺める。
まあ半殺しだの全殺しだのにするよりは罪が無かろうが。
「ちなみに」
コーティカルテがふと思い出した様に人差し指を立てて言った。
「くすぐりは古来より使われてきた由緒正しい拷問方法だ」
「…………」
フォロンが色々な意味で自分の契約精霊に対して恐れおののいていると――
「いやあ、まいったまいった」
そんな聞き慣れた声がする。
コーティカルテがそちらに視線を飛ばすと、一斉にボウライの群れが左右に割れ、建物を回り込んで――恐らく裏口の様な場所から脱出したのだろう――駆け寄ってくるレンバルトの姿が見えた。
その後ろにはシェルウートゥの手を引いたカティオムの姿も在る。
「レンバルト! カティオム君!」
「おお――フォロン。お迎え感謝」
片手を挙げてレンバルトが言う。
見ればもう兵士達の方はあらかた片付いてしまっている様だった。どこか遠くで散発的に銃声や悲鳴は響いているが……それもまたすぐに聞こえなくなった。
「無事だった?」
「ああ。この――なんつうか――でっかいのが助けてくれた」
とレンバルトが背後を指差すと、そこには最初に建物の中に入っていたボウライの合体巨人が黙然と立っていた。
「良かった……さあ。早く逃げよう。所長が警察にも連絡したみたいだし僕達が此処に留まっている理由は無いよ」
笑顔でフォロンがそう提案する。
カティオムもレンバルトもコーティカルテも笑顔で頷いた。
だが――
「――駄目」
ただ一人……シェルウートゥだけが蒼白になっていた。
彼女は何度も何度も首を振り、己の頭を抱えて叫んだ。
「駄目……駄目……駄目ッ……! 早く! みんなを! 逃げて! 早く!」
まるで何かから逃れようとするかの様に。
まるでー何かを聞くまいとするかの様に。
「ど……どうしたの……シェル?」
「駄目ッ! ここに居る全員が――」
それは殆ど悲鳴に近い叫びだった。
「全員が敵になるッ!」
「――!」
意味を最初に悟ったのはレンバルトだった。
「やばい――フォロン、いや、コーティカルテ! こいつらを全部引っ込めろ! 散らせ!ここに精霊が居たら――まずい!!」
遅かった。
音を立てて建物の各所が開く。恐らくは隠し扉と同じく最初から仕込んであったものなのだろう――そこから幾つもの大型スピーカーが顔を出した。
「聞くな――支配されるぞッ!!」
そんなレンバルトの声を押し潰す様に。
――〜〜〜〜ッ!!!
轟々と夜の廃墟にフル・オーケストラの神曲が響き渡った。
コーティカルテがボウライの群れを召還した時には……正直どうなることかと思った。
ユフィンリーが警察に電話をして事情を説明し、精霊課の出動を要請している間に、コーティカルテは配下のボウライ達を使って相手の本拠へ殴り込みを掛けてしまったのである。
まあ……あれで結構コーティカルテは頭が回るし、義理にも人情にも厚い。人質の――それも自ら『友人』と呼んだ者達の安全を無視して無茶をしたりはすまい。そんな最低限の安心は在ったが……あの紅い精霊は最後の一線で妙に大雑把な処が在るのも事実だ。それこそその『友人』達を助けるために、問題の廃墟を丸ごと吹っ飛ばしかねない。
だが……
事態は更に予想外の展開を見せた。
それも――最悪の。
路面の舗装状態が悪いため、車高の低いユフィンリーの〈シューティング・スター〉は問題の廃墟近くまで登って来る事は出来ない。仕方なくユフィンリーとユギリ姉妹は徒歩で現場までやってきた。
「――ふむ」
ユフィンリーは草むらに停められた〈シンクラヴィス〉を発見する。
どうやらレンバルトは居ない様だ。やはり全員もう廃墟の中なのだろうか。
「――なに?」
轟――と廃墟が哺いた。
まるで辺り一帯が震えるかの様な大音量。
ユフィンリーは瞬間的にそれが神曲なのだと察した。神曲に絶対の定義は無い。明確に定められた形式も無い。だが神曲楽士達はそれを感性で察する。その感性こそが一般人と彼等を峻別する『才能』だった。
同時に――
「――っ!?」
側にいたプリネシカがよろめいて――膝をつく。
ペルセルテが驚いて妹の傍らにしゃがんだ。
「プリネ!?」
「神曲――そう。神曲だ。だがこれは……?」
ユフィンリーは道の向こうにそびえる廃墟を睨み据えて呟く。
異様にねじくれた旋律が夜空を覆う。
奇妙な圧迫感を伴う――それは音の連なりだった。
「プリネ! プリネ! どうしたの!? プリネ!」
「う……つ……」
銀髪の少女は己の耳を押さえて陣いている。
その姿に――既視感がかすめた。
「――まさか」
ヤワラベ発電所。
クダラ・ジャントロープ。
黒い――ボウライ達。
そして……
――爆音。
それが常識外れの巨大な精霊雷によるものだとユフィンリーは咄嵯に理解した。
白い白い閃光が弾け……衝撃に引き裂かれた空気が鳴動する。どれだけの威力であったのか、灰色の爆煙の塊が直径数十――いや百メートル余りにも膨らんでいた。
そして……
「……!」
爆煙の中を何かが近付いてくる気配にユフィンリーが身構える。
一瞬にして単身楽団を展開すると同時に――彼女はポケットから小型の拳銃を引き抜いた。何度か危険な現場に立ち会った事の在る彼女は単身楽団以外に護身用として拳銃を持ち歩く様になっていた。もっとも掌に載る様な大きさで弾が四発入るだけの――玩具の様な代物ではあったが。
煙の幕を突き破りまろび出る――塊の様な何か。
「フォロン?」
それはふらふらと近付いてきて――そこで分解した。
ばらばらと花びらが落ちる様に塊から剥がれ落ちて地面に転がったのは、それぞれカティオム、レンバルト、そしてコーティカルテである。残ったのは〈ハーメルン〉に跨ったフォロンだが……彼もどうやら相当疲弊しているらしく、着ているものはぼろぼろ、〈ハーメルン〉のあちこちにも傷が付いていた。
どうやら〈ハーメルン〉に無理矢理全員を乗せて――いや載せて、現場から脱出してきたらしい。
「ユフィンリー先輩……!」
はっと気付いた様子でフォロンが声を上げる。
「神曲を! 僕一人では到底……」
「なに? 一体何が在ったの?」
「鎮静楽曲を――早く! シェルウートゥが――」
悲鳴じみた声でフォロンが喚く。
だが――
「――無駄だ」
コーティカルテが身を起こしながら言う。
ゆっくりと――膝を手で押さえて、まるで自分自身の体重を支える事にさえ苦労しているかの様にその動きが鈍い。
「……契約楽士の神曲でもなければ……到底押さえられない」
そう告げる彼女の表情は苦痛に歪んでいた。
「これは……」
ユフィンリーは虚空を振り仰ぎながら呻く様に言つた。
なんという音の厚み。
なんという複雑な構成。
本来ならばその精緻な調べに感嘆するべきであろう。出力云々の話は別にしても――恐らく単身楽団一機ではこの神曲は再現しきれまい。重ねられた音の数が半端ではない。恐らく個別に分解していけば百近い数の音色が同時に発音されている事だろう。
だが……何とその楽曲のいびつな事か!
美しい。それは間違いが無い。
だがその美しさには毒が在るのだ。
極彩色を思わせる艶やかな音色は様々に変転しながら聴く者の意識を惹き付ける。だがそれは何処か狂気を含んでいた。それを耳にする者を陶然とさせながらも――容赦なく破滅へと導く高圧の狂気を。
ユフィンリーでさえ聴いているだけで身体の奥が――うずく。
居ても立ってもいられなくなる。全身をちりちりと濃密な快楽が這い回り意識を溶解させようと刺激する。何もかも考えずにその旋律に従って踊り狂いたくなる。
人間に対してすらこの影響力だ。
こんなものを精霊が聴かされれば……
「支配楽曲か……!」
発電所の事件で、ダンテの楽譜が現存していることを知ったユフィンリーは、その後、独自の調査でいくつかの事実を知った。
ダンテの楽譜は、これまでに少なくとも十三が非公式ながら確認されている事。
それらはいずれも断片的なもので、完全な形で残っている譜は無く、残存部分だけを演奏しても何の効果もないということが確認されている事。
そして……確認された楽譜の中には後に行方不明となったものが存在すること。
公にはされていないが、彼女がかつて関わった事件の被害者――オゾネ・クデンダルのコレクションからも、ダンテの楽譜が紛失しているという。
そして。
いつの頃からか、そういった楽譜の中には『支配楽曲』と呼ばれる一連の作品群があると言われ始めたのである。
無論――伝説だ。
だが非公式とは言えダンテの楽譜の現存が確認されている以上、伝説が真実であった可能性までは否定出来ないのだ。
「……くっ」
ユフィンリーは既に装着していた携帯用の小型単身楽団を操作。
ばしゃり――と音を立てて彼女の背中からアームが展開。まるで精霊の羽根の如く四方に展開したアームが、彼女の周囲に各種演奏補助装置を配置する。
最後に回転しながらアームによって差し出されたヴァイオリンが彼女の首の横でぴたりと停止。筐体から弾き出された弦が彼女の手に収まった。
だが――
(即興で……しかも携帯用じゃ……)
コーティカルテの言うとおり、気休め以上のものにはなるまい。
相手の楽譜や演奏装置やその他諸々を全て知った上で、同等の出力の演奏装置を用意出来ればあるいはまともに対抗出来るかもしれない。しかし携帯用の単身楽団では明らかに出力負けするし、相手の神曲がどの様に展開するかも判らない。
これでは応急手当の様な神曲を奏でるのが精一杯だろう。
とはいえ――
――〜〜〜ッ!
弦と弦が擦れ合い生み出す鮮烈な一音。
悪夢の神曲に挑み切り込むその音に続けて――痛切なる旋律が連なっていく。
――〜〜〜ッ! 〜〜〜〜〜――…………
ユフィンリーは技量の全てを使って、相手の支配神曲に対抗する鎮静楽曲を即興で組み立て、演奏していく。せめてこれ以上状況を悪化させない為に。
だが……
「……きた……!」
フォロンが呻く様に呟く。
道の彼方――禍々しい神曲を奏でる廃墟を背にして異様な集団が姿を現した。
薄く光る巨人の群れ。
ボウライが群体となって造り上げた巨人精霊である。
それらは死者の葬列の如くやや俯き加減でぞろぞろと――そして何処かふらつく様な足取りでこちらに向かってくる。
そしてその真ん中には――
「シェル!」
カティオムが叫ぶ。
集団の中央に立っているのは、他ならぬシェルウートゥであった。
彼女は――訊笑っていた。
晴れやかに。
そして淫らに。
清楚可憐な黒い髪の精霊は――どこかタガの外れた笑顔でふらふらと歩いてくる。
「シェル! シェル!」
ユフィンリーは、ほとんど反射的に動いていた。そうでなければ、シェルウートゥに駆け寄ろうとするカティオムを引き戻す事は出来なかっただろう。
「離してください! 離せ! シェルが!!」
「無駄だ! 君の声なんて聞えちゃいない!!」
恐らく彼女の耳に響いているのはダンテの支配神曲――それだけだ。
ユフィンリーがカティオムを〈シンクラヴィス〉の処まで引き戻す一方で、車の陰ではのたうつプリネシカを抱き起こしレンバルトが叫んでいた。
「プリネ! プリネシカ!! どうしたんだよ、おい! プリネ!!」
「プリネ!」
傍らから心配そうに覗き込むのは、ベルセルテである。
プリネシカは、レンバルトに抱かれたまま、両手で頭を抱えて呻いていた。固く目を閉じ、歯を食いしばって、身をよじり続けている。
「ユフィ先輩! プリネが! プリネシカが!!」
「分かってる――支配楽曲だよ」
表情を歪め、抵抗すべき神曲を素早く演奏しながら――ユフィンリーは言った。
「……え?」
「支配楽曲に抵抗してるんだよ」
「……って。何故!?」
レンバルトが驚きの表情で尋ねる。
そう――影響力皆無とは到底言えないが、この支配楽曲は人間には効かない。少なくとも少し緊張して気力を絞れば抵抗出来る程度のものでしかない。
なのに――
「……そっか。あんたは知らなかったよね」
ユフィンリーが呟く。
そして――
「半分精霊だから……!!」
「――え?」
「プリネは半分人間で、半分精霊なの! 私を助けるために、そうなったの! そうなってくれたの!!」
ペルセルテが叫んだ。
呆然とする――レンバルト。
一方――
「フォロン……お前の……神曲を……お前の支援無しでは……私もいつまで正気で居られるか……判らない……」
苦しげに表情を歪めながらコーティカルテがそう訴える。
「あ……ああ!」
頷いてフォロンは〈ハーメルン〉の燃料タンク上に刻まれた神曲公社の紋章を押し込む。
同時に――彼の跨る自動二輪は花開く様に変形を開始した。
折り畳まれていた幾つもの装置が展開し本来の形へと変化していく。
飛び出すのは何本ものアームだ。それらは情報投影装置を、音響増幅装置を、音質調整装置をフォロンの前に差し出していく。跳ね上がってきたタンデム・シートは演奏者たるフォロンの背に密着すると肩越しにアームを降ろして彼の身体を固定。シートといっしょに起き上がってきたサイド・バッグが展開し、中から扇のように広がったのは大型のスピーカーである。
最後に――半円を描き滑る様にして彼の前に配置されたのは主制御部たる鍵盤である。
上下二段のフル・キーボード。
移動型変形単身楽団〈ハーメルン〉――演奏モード。
わずか二秒余りの変形時間を経て彼は幾つもの装置に囲まれていた。それはまるで戦闘機か何かの操縦席を思わせる。
フォロンは素早く呼吸を整えて白い鍵盤の上に指を置いた。
「フォロン!! 早く……!」
コーティカルテが彼を庇う様に〈ハーメルン〉の前に立つ。
彼女が睨み据える先――そこでは巨人の群れが大きく『口』を開いていた、
冗より目鼻も無い巨人の頭部に切れ込みが走り、それが円形に広がる。その奥でゆっくりと精霊雷のものらしい光が膨れあがっていくのが見えた。
同時にシェルウートゥの右手が挙がる、
その掌に――やはり膨れあがっていく精霊雷の白い光。
「コーティ!!」
フォロンが叫ぶ。
ただ演奏するだけではない。それだけならばこの圧倒的な支配楽曲に――それに支配された精霊達に抗する事が出来ない。いつもの様にただ神曲を演奏してコーティカルテを支援するのではなく――この劣悪な条件下でもコーティカルテを最高の状態にするための支援楽曲を奏でねばならない。
基本はいつもと同じだ。
だがいつもよりも遙かに神経を使う。だからこそフォロンはこの切羽詰まった状況下に在りながらも各種エフェクタの調整に時間を掛けたのだ。
必要なのは目的を見据える事。
そのために何が必要かを考えてそれを実行出来る事。
それをフォロンは以前の事件で改めて学んでいる。
だから――
こぉおおぉおおおぉおぉおぉおおぉおん……!
高々と宵闇に響き渡る最初の一音。
精霊の群れから何十本という精霊雷の光条が避るのと――それは全くの同時だった。
たった一撃で地形すら変える程の破壊力に虚空が喰る。
だが――
「あああああああああああああああ――ッ!」
吼える――深紅の精霊。
一瞬遅れてコーティカルテの真正面で巨大な火焔が炸裂した。
言うまでもなく精霊雷だ。
叩き込まれた何十という精霊雷をコーティカルテが放った精霊雷が正面から迎撃し――双方共に空中で物理現象に転化。爆発したのである。
「……やれやれ」
爆風の中に紅い平面が浮かび上がった。
コーティカルテが造り上げた防御障壁である。爆発.の衝撃や熱からフォロンと、そしてその仲間達を守るべく、瞬時に彼女が編み上げたのだ。
「いつものことだが……もう少し余裕というものが欲しいな」
苦笑混じりに、しかしコーティカルテの声には、もう苦渋はない。
涼やかで、優雅で、そして優しい。
緋色の髪、緋色の瞳、だがその姿はいつものコーティカルテではなくなっていた。
細い腕も、長い脚も、豊かな胸と細い腰も、もはや十代の少女のものではない。
大人の女性なのだ。
オレンジ色のワンピースさえ、優雅な緋色の衣装へと変じていた。それは彼女の見事なまでの肢体を申し訳程度に隠し――けれど淫靡よりも優美を主張する。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
精霊の女王。
ただ一人の契約楽士の、ただ一つの神曲を受けて、彼女の見せる真の姿には炎のような六枚の羽根が輝いていた。
――〜〜〜〜〜!
――〜〜〜〜〜〜〜!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
高く。高く。そして伸びやかに。
どこまでもどこまでも。
コーティカルテのために――ただ彼女の力と成すためだけに組み上げられ、調整され、渾身の集中力を以て奏でられる音の連鎖が響き渡る。
たった一つの目的のために放たれるそれは何よりも純粋で――そして力強い。
もし……音を視覚として捉える事が出来る者が居るならば気付いたろう。
邪で淫靡な神曲は怒涛の様に彼女を包み込もうと押し寄せるが、優美な紗の如くフォロンの神曲を纏ったコーティカルテは、身じろぎもせず平然とこれに抗している。
わざわざ弾くでも除けるでもない。遮るでもない。
フォロンの――それも渾身の神曲を得たコーティカルテには、ダンテの支配楽曲ですらも触れる事が出来ないのだ。コーティカルテにとっては、殊更に意識する程の事さえ無い微細な――まるで体温の様に漏れ落ちる余剰の精霊雷が、支配楽曲さえ侵食出来ない彼女の『領土』を造り上げている。
「ダンテの神曲――『天国変』か」
呟くその言葉すらも余裕に満ちて楽しげだ。
「契約者を持たぬ者には……少しばかり酔いのきつい代物だ」
巨人精霊達が押し寄せる。
精霊雷を投げるだけでは効果が無いと分かって格闘戦に切り替えたのだろうか。いずれも三メートルを超える巨体がコーティカルテに向かって走る。その様子はまるで移動する城壁だ。普段に比べると成長した姿とはいえ、それでもやはり小柄なコーティカルテなどは「瞬で吹き飛ばされそうにも見えた。
だが――
「だが己を委ねるに足る神曲を持つ精霊には、酔漢の放歌にも劣る愚昧さだな」
言って――コーティカルテは跳躍。
一瞬で迫り来る巨人精霊の一体に肉薄した彼女は……
「目を覚ませツ!」
ぶん殴った。
拳で――己の倍近い身の丈の巨人精霊を。
次の瞬間、ばらりと巨人精霊は無数のボウライへと分解――ボウライ達はふらふらとその辺りを漂う。だがその様子には最早、目もくれず、コーティカルテは跳躍して次の巨人精霊へと接近する。
瞬く間に三体が彼女に殴られ、あるいは蹴られ、そして精霊雷を撃ち込まれて分解した。
だがそれでも飽きずに彼女を捕まえようと腕を伸ばす巨人精霊達。
彼等は精霊の女王を包囲――次の瞬間にはそれが一気に絞られた。
全方位から迫り来る巨大な掌。
だが次の瞬間送った爆発の如き紅い閃光がその全てを打ち落とし、残りの巨人精霊達も一斉に分解した。だがそれでも無論、ボウライ達は辺りを飛び続けているし、支配楽曲も鳴り響いてはいる。相手はただばらけただけで……むしろ数が増えただけ厄介になった印象すら在った。
だが――
「我、コーティカルテ・アパ・ラグランジェスの名によって汝らに命ず!!」
精霊の女王は右手を上げた。
「アパの柱名、ラグランジェスの精名、コーティカルテの命に従い、己が誉れがために立ち去るべし!」
その声は涼やかなまま――しかし雷鳴のごとき大音声となって大気を震わせた。
一斉にボウライ達の動きが止まる。
そして――
『……御意』
地鳴りの様な唱和を残して下級精霊達は消滅した。
実体化を解いたのであろう。
残るは――二柱の上級精霊のみ。
一人はコーティカルテ。
一人は―――
「シェル……!」
消え失せた精霊の群れの中で――シェルウートゥの姿だけが残されていた。
だが……
「……そんな……」
カティオムの声を蝕むのは絶望だ。
シェルウートゥはゆっくりと近付いてきた。
何処か淫蕩にとろける様な――ひどく歪んだ悦楽の笑みを浮かべたままで。
事情は至極単純ではあった。
シェルウートゥだけが支配楽曲から解放されていないのだ。
「なんで……?」
呆然とフォロンが呟く。
「……当然か」
それは――コーティカルテにとっては予想の範囲内であるらしかった。
「コーティ? これって……」
「先程の連中は元々私の『言葉』で召喚したからな。充分な『力』を伴う私の言葉は、連中にとって神曲と同じだ。私がフォロンの神曲を得て充分に力を発揮出来るなら、私の言葉を与えてやるだけで連中は支配楽曲の影響を振り切れる」
コーティカルテはフォロンを振り返って言った。
「無論――長時間となると無理だろうがな。まあ実体化を解いてこの場から離れる程度の時間ならば正気に戻す事も可能だったという事だ。ただし……」
コーティカルテは視線をシェルウートゥに向ける。
「奴は違う」
「違うって……一体」
「言ってしまえば中毒の程度差だ」
カティオムの問いにコーティカルテは言った。
「人間の麻薬と同じだな。既にシェルウートゥはあの支配楽曲をかなり深い処まで受け入れさせられている。こうなれば一旦、支配楽曲を聴かせられるだけでしばらくはその影響下から抜け出せなくなる。そして回数が増えれば増えるだけ支配楽曲の影響下に在る時間が増えていき――いつか」
コーティカルテは吐き捨てる様に言った。
「正気と狂気が入れ替わる。支配楽曲に酔ったままのシェルウートゥが常態となりお前の知っているシェルウートゥの意識は消滅する。形は変わらずともそれは事実上の死だ」
「…………!」
カティオムは息を呑んだ。
『私が私で居る内に』――確かシェルウートゥはあの別れの場面でそう言った。
つまりあれはこういう事だったのだ。
「無論、シェルウートゥは私が召喚した訳ではないから、私の言葉で酔いを覚ます訳にはいくまいし――あそこまで深く蝕まれていれば、どちらにせよそう簡単に眼を覚ましたりはしないだろう」
「カティオムくん!」
フォロンが叫ぶ。
はい――と応えて少年は単身楽団に変形したオートバイのすぐ脇へ駆け寄ってきた。
「彼女は契約精霊なの!?」
「は……はい。でも、神曲楽士は殺されたと……」
「そういう事か……」
厄介だ。
どうしようもないくらいに厄介だ。
考えてみれば――シェルウートゥが市内で色々なものを壊しまくっていた時、この神曲が鳴り響いていたとは思えない。そうなれば他の精霊にも影響が出て、大騒ぎになっていただろう。
つまりこの支配神曲は既にシルウートゥの内側、相当深い部分にまで食い込んでいて、一度聴かせてやればその支配は、曲そのものが途切れても一定時間続くのだ。
『あの支配神曲を奏でているスピーカーを壊せば』とフォロンは最初思ったのだがーこれでは意味がない。原因を排除するだけでは駄目だ。改めて彼女を正気に戻してやる必要が在る。
まして――コーティカルテをスピーカーの破壊に向かわせれば、その隙にシェルウートゥはこちらを攻撃してくる可能性も在る。支配楽曲とはいえ神曲は神曲、元より上級精霊である上に神曲で力を増幅させているシェルウートゥを相手に、フォロン達の防御とスピーカーの破壊、二つの事をしてのける余裕はコーティカルテにもないだろう。
ならば……
「ユフィンリー先輩!」
鍵盤を叩いて再び神曲を奏でながら――フォロンは叫ぶ。
「分かってる!」
ユフィンリーは叫んで演奏を続ける。
フォロンは彼女が市警察に協力した時の話を思い出す。その時ユフィンリーは、精霊の暴走状態を、神曲によって沈静化したという。同じ事が出来るのではないかと期待したのだ。
フォロンがコーティカルテに神曲を奏でてその力を増大させ、コーティカルテがシェルウートゥを抑え込む。そこにユフィンリーが鎮静のための神曲を聴かせれば――とりあえず支配状態からは抜けられるのではないか。
だが……問題が一つ在る。
先の事件で精霊を沈静化させたユフィンリーは――その精霊の契約楽士の神曲を聴いた事が在ったのだ。全てとまでは言わないまでも高い技術が在ればある程度までは他人の神曲を模倣する事が出来る。そして同じ沈静化の神曲でも契約楽士の癖を編み込んだものの方が自然にその精霊に染み込むだろう。
だが……今は状況が違う。
ユフィンリーはシェルウートゥの契約した神曲楽士の曲を知らない。
彼女は手探りでシェルウートゥに合う神曲をこの場で組み立て――奏でなければならないのである。はっきり言って無茶だ。いっそ無理と言っても過言ではない。
「…………」
ゆらりと踏み出すシェルウートゥの身体が青白く輝き始める。
「コーティ!」
「――承知」
彼女が応えるなり、フォロンの視界は真っ赤に染まった。
コーティカルテの精霊雷である。巨大な精霊雷の障壁でフォロンと傍らのカティオムを、ユフィンリーを、そしてユギリ姉妹とレンバルトを護ったのだ。
シェルウートゥの精霊雷が障壁に叩きつけられたのはその直後だった。
水の飛沫のように、それは四方へ飛び散り、空中に電光を走らせた。
枯れ草にあちこちで火がつき――
「む……」
コーティカルテが――捻る。
送った幾条もの紅い精霊雷が燃える枯れ草を直撃する。炎の様な閃光は――しかし見た目に反して燃えている部分を根刮ぎ吹き飛ばして火そのものを消してしまった。油田火災等において、消化剤を使うのではなく爆風と衝撃で炎を消すのと理屈的には同じだろう。
こんな状況で更に火事となっては最早手の付け様が無い。
コーティカルテの対応は適切なものと言えた。
だが――
「コーティ!!」
フォロンの悲鳴じみた声に正面を振り返るコーティカルテ。
その眼の前――互いの吐息が触れる程の超至近距離に娩然と微笑むシェルウートゥの顔が在った。
「――!」
「…………」
瞬間的に膨れあがった白い精霊雷が紅い精霊を吹っ飛ばす。
突撃銃の零距離射撃すら平然と停めて見せたコーティカルテが――いや更に数倍、数十倍に力を増している筈の彼女が、為す術も無く空中に舞い上げられていた。
一度彼女の身体は地面の上で跳ね――そしてフォロンの側に転がってくる。
だが彼が慌ててそちらに視線を向けた時には既に、精霊の女王はすっくと立ち上がっていた。気位の高い彼女は――フォロン以外の眼も在る場所で無様な姿を長々と曝していたりはしない。
「コーティ――」
「演奏を停めるな。もっと――神曲を」
コーティカルテは最早――笑ってはいない。
「いささか以上に……手強いぞ」
無論――それはコーティカルテの力不足を意味するものではない。その証拠に、彼女は先の巨人精霊十数体分の精霊雷を撃墜している。恐らくその際にはシェルウートゥは全力を発揮していなかったのだろう。
ゆらりと歩くシェルウートゥの背中に――輝く翼。
それは六枚在った。
ただ等級を問うならばそれは――コーティカルテと同じという事だ。
だが今のコーティカルテには不利な要素があった。
フォロンの神曲はコーティカルテに、スピーカーから流れてくる支配楽曲に易々と耐える『力』を与え、同時に数十人分の中級精霊の攻撃を弾くだけの『力』も与えた。
だが……相手が同じ上級精霊となった時、支配楽曲で『力』を与えられているシェルウートゥと、支配楽曲に抵抗しながら闘うコーティカルテとでは、前提条件が違い過ぎるのだ。
「レンバルト!」
ユフィンリーが叫ぶ。
「あんたはちょっと戦線離脱しな!」
「――え!」
「双子ちゃんを逃がした方がいい!」
「…………」
一瞬――レンバルトは逡巡する。
実の所、この緊迫した状況下で戦線離脱するという事はフォロン達を見捨てるに等しい。
だが――
「プリネが壊れる! 早く!」
「――悪いっ! 後を頼む!」
フォロンの背中を押す言葉に決断し――レンバルトはユギリ姉妹を乗せて〈シンクラヴィス〉を後退させる。太いタイヤで枯れ草と土砂を派手に巻き上げながら彼は現場から急速離脱を開始。
同時に――
「ペルセ! ハンドル頼む!」
レンバルトはダッシュボードに付けられた神曲公社の紋章を拳で叩き込んだ。
「――え!?」
眼を瞬かせながらも慌てて〈シンクラヴィス〉のハンドルを横から握るペルセルテ。
同時に――変形が始まった。
跳ねるように幌が開き、車体のボンネットが展開する。
ドアに隠されたシャッターからは、扇状のスピーカーが広がる。ボンネットの中からリトラクタブル・ライトの様にポップアップして顔を出すのもスピーカーだ。
レンバルトの座る運転席が若干後部へとスライド。
車内の各部に格納されていた操作卓がくるりと回転しながら顔を出し、フロントグラスへと――ヘッドアップ・ディスプレイへと各種演奏情報が提示された。
最後にカー・ステレオのパネルが左右に割れて中から突き出てきたのは金色の輝く管楽器――サキソフォンである。
「せめて――影響圏の外側に出るまで」
ハンドルをペルセルテに任せ――レンバルトは足元のアクセルを踏み込むと同時に即興で鎮静用の神曲を演奏し始める。野太いサックスの音が機械的に増幅されて迸り、レンバルトの奏でる『魂の形』が〈シンクラヴィス〉を包み込む。
無論、これで何処まで通用するのかは分からない。
そもそも下級精霊しか惹き付ける事の出来ない彼の神曲がきちんと中級――あるいは上級精霊であるプリネシカに効くのかも分からない。気休めにすらならないかもしれない。
だがこのままではプリネシカが危ないのは明らかだった。
「自分の偏った才能を――今日ばかりは恨むぜ」
「きゃあああああっ!?」
無理矢理ハンドルを任されたペルセルテの悲鳴じみた声を尾の様に引きながら――猛然と道とも草地ともつかぬ処をすっ飛ぶ様に走り去っていく〈シンクラヴイス〉。
「…………」
シェルウートゥがふとそちらに視線を向けて――更に右手を掲げる。
だが次の瞬間、横殴りに彼女を直撃した紅い精霊雷がその細い身体を吹っ飛ばした。
「お前の相手はこちらだ! よそ見をするな!」
コーティカルテが前に出ながら叫ぶ。
シェルウートゥは何事も無かったかの様に起きあがった。
夜空には尚もあの美しくも禍々しい支配楽曲が響いている。この神曲が在る限り――シェルウートゥを押さえ付けるのは難しいだろう。
白い精霊が跳躍し――紅い精霊も跳躍してこれを迎え撃つ。
神曲が高々と鳴り響く中、空中で幾度も幾度も精霊雷が弾け、その中で残像の様に精霊達の姿が瞬く。
それはとてもとても美しく――しかし凄惨な光景だった。
〜〜〜〜――ッ!
――ッ! ――ッ! ――ッ! ――ッ! ――ッ! ――ッ! ――ッ!
シェルウートゥに動作の大きな中距離、あるいは遠距離攻撃をさせぬ様にとコーティカルテは間合いを詰めて攻撃を繰り返しているのだが、ただでさえ精霊雷の撃ち合いは消耗戦の様相を呈する。神曲を得ていればいわゆるスタミナ切れは双方に無いが――その場合は代わりに戦意と集中力が摩耗せざるを得ない。
そしてそうなれば……支配神曲に精神を抑え込まれているシェルウートゥの方が明らかに有利だ。今の彼女は飽きるという事も倦むという事も無かろう。ただ機械の様に支配神曲に従って戦い続けるだけだ。
恐らく……本気で戦えばコーティカルテの方が強いだろう。あるいは渾身の一撃でシェルウートゥを破る事も出来るかもしれない。
だがコーティカルテはシェルウートゥを叩き潰すつもりで相対している訳ではない。
相手を殺さずに押さえ付けるつもりの――それ故に大きく手加減せざるを得ないコーティカルテと、ありとあらゆるしがらみを忘れて機械的に己の全力を振り絞るシェルウートゥと……共に上級精霊ならばどちらが有利かは言うまでもない。
「くそっ――なんて……」
フォロンは演奏しながら吐き捨てる様に呟く。
なんて嫌らしい戦いなのか。
そしてそれを強いるのは――結局の処、この異様な神曲なのだ。
コーティカルテはそれを『天国変』と呼んだ。
ダンテの神曲――と。
これもかつてクダラ・ジャントロープが奏でた『地獄変』と同じものなのだろうか。
だとしたら……そんなものを許してはおけないとフォロンは思う。
それは精霊を狂わせる。人間達の愛すべき『隣人』達から意志を奪い正気を奪い、挙げ句にはその肉体までも別の『モノ』に変質させてしまう。あのヤワラベの発電所で見た黒いボウライ達の様に。
「くそっ……!」
「駄目だ!」
ユフィンリーが呻いた。
「まるで……手応えが無い!」
先程から演奏している鎮静楽曲が通じないのだ。
彼女の神曲は、虚しく拡散してゆくだけで、シェルウートゥに全く届いてはいないのである。恐らく彼女は支配楽曲に自らを調律しているため、逆に他の者の神曲を受け付けにくくなっているのだろう。まして本来――鎮静のための楽曲は神曲を失って暴走している精霊に聴かせるものだ。今のシェルウートゥには支配楽曲が在る。他の神曲が彼女の中に届く余地が無いのである。
打つ手が無い。
このまま消耗戦を続けるしかないのか。
だがそれで本当にシェルウートゥが救えるのか?
(どうしたら……!)
焦燥感がフォロンの胸を満たす。
その時……
「シェル……! シェルウートゥ!」
叫びが荒れ狂う神曲の隙間に切り込んでくる。
カティオムの声だ。
彼は悲壮な表情で声を振り絞っていた。
「もうやめてくれよ……御願いだよ……シェル!」
それは一種の錯乱であったろう。
「やめてくれよ――シェルッ!!」
最愛の少女が今自分達を殺そうとしている。
最愛の少女が今その心を失おうとしている。
そしてその最悪の事態に対して自分は何も打つ手が無い。
それはカティオムの様に真摯で真面目な少年にとって、気も狂わんばかりの苦況であるのだろう。半ば理性を失ってしまうのも無理はない。
だが……それはだからこそ。
条理も常識も世間体も見栄も体裁も理性も……何もかもありとあらゆるものを振り捨てた、この上も無く純粋な心からの叫びであったとも言える。
「――!?」
紅い閃光が送る。
それまで拮抗していたコーティカルテとシェルウートゥの精霊雷が一方的に流れたのだ――シェルウートゥの方へと。一瞬だが勢いを失ったシェルウートゥの精霊雷は送るコーティカルテの精霊雷に押し戻されて飛散、シェルウートゥは紅い精霊雷の直撃を喰らって吹っ飛んだ。
「なんだ!?」
何が起こった?
「……カティオム!?」
フォロンは傍らに立つ少年を振り返る。
まるで彼の声に――『やめてくれ』と懇願する彼のその言葉に一瞬ながらシェルウートゥが応じたかの様に見えた。
言葉。声。音。神曲。
フォロンの脳裏に断片的な言葉が過ぎる。
そして――
奏でよ、其は我等が盟約也
其は盟約
其は悦楽
其は威力
故に奏でよ汝が魂の形を
――それならば。
もしその通りであるならば。
「……カティオム」
フォロンは声を掛ける。
「カティオム! カティオム!!」
「は――はい!」
フォロンのものとは思えない程に鋭い声を浴びせられ――我に返って少年が応じる。
「キミ、楽器は!?」
「……え?」
「楽器は出来る!?」
質問の意味を、少年はすぐには理解出来なかった様だ。いや……彼だけではない。駄目でも元々と鎮静楽曲を弾き続けていたユフィンリーも驚いた表情でこちらを見ている。
だが構わずフォロンはカティオムに怒鳴った。
「楽器は出来るのか!?」
「は……はいー・ピアノだったら……!」
「よし! こっちへ来て!」
フォロンはコーティカルテへの演奏を続けたまま、左脚でタンクをまたいで、オートバイの右側へ降りた。言われるままに、カティオムはタンクの左側に立つ。フォロンとカティオムで、オートバイの車体を左右から挟んだ格好だ。
「弾いて!」
言いながらフォロンは鍵盤の一段をカティオムに向けて弾いた。
アームに支えられた鍵盤はすい――と動いて彼の前で止まる。
だが……
「え……ええ?」
「弾くんだよ! 彼女のために!!」
「そんな! 僕に神曲なんて……」
神曲楽士とは特殊技能者だ。
基本的に神曲を奏でる事が出来るのは一部の――本当に一部の才能を持った者のみと言われる。だからこそ神曲楽士は敬われ怖れられる。逆に言えば神曲とは素人がちょっとやそっと聞きかじった程度でどうにかなるものではないという事でもある。
しかし――
「関係ない!」
あろう事か――神曲楽士たるフォロンはそう断言した。
暴論を覚悟で言えば、曲は……結局の処、媒介物にすぎない。
本当に精霊に通じる事が出来るのは神曲楽士の意志そのものだ。あるいは精霊達ならばそれを『魂の形輪と呼ぶかもしれない。だからこそ録音された神曲は神曲として作用しない――そこに意志を持った演奏者が居ないからだ。
ならば――
「でも何を――」
「何でもいい! 君が弾くんだ――シェルウートゥに向けて! 彼女のために!」
「…………」
「歌え! 弾け! それが君の『魂の形』だ! 恐らくそれだけが――彼女を救う!」
そうだ。
神曲とは技術ではない。
神曲とは才能ではない。
神曲とはそれは――音楽の形式に仮託された精神そのものなのだ。
無論、職業としてそれを奏でるには、相応の技術は要求される。
技術を身に付けて使いこなすには、相応の才能は要求される。
だがその根本に立ち返った時、その根幹に横たわるのは技術でも才能でもなく、ただ精霊と心をつなぐことを望む意志、それだけにすぎない。
かつて第一次〈嘆きの異邦人〉動乱の最中――〈血塗れの公爵夫人〉と呼ばれた深紅の上級精霊は、敗走の際、たった一人の少年が口ずさむ、ただそれだけの歌に惹かれて少年との契約を結んだ。それは神曲とは到底呼べない様な、技術としても拙いものであった筈なのに、彼女はそれまでの全てを棄ててでも少年を――彼の魂を得ようとした。
そして――今。
鎮静楽曲すら受け付けなかったシェルウートゥは――少年の叫びに一瞬動きを止めた。
つまりはそういう事だ。
「シェルの……ために」
それでも少年には躊躇が在った。
どうしてよいのか判らない。
何でも良いなどと言われてはなおさらだ。シェルウートゥのために鍵盤を叩く。それは一体どういう事か。確かにカティオムにピアノの経験は在るが、それはあくまで嗜み程度で、作曲を丸ごと出来る様なものではない。ましてこの緊迫した状況下で、一体何をどうすれば―― 最初の一音は? 続く一音は? 更にその次は?
ラか? ドか? ソか? レか?
本当にそれでいいのか? ♯は? ♭は?
それが本当に彼女を止める事になるのか? そんな――ただの音の連なりが?
「難しく考えなくていい」
ユフィンリーの声にカティオムは彼女を振り返った。
「あんたはシェルウートゥと話す時にどうしていた? どんな言葉を掛けたら彼女が微笑んでくれるか、どんな口調で話し掛ければ彼女が喜んでくれるか、どんな声音で言えば彼女に伝わるのか、悩んだりしなかったか?」
「…………あ」
でもそれは。
彼女に嫌われたくなくて。彼女に好かれたくて。臆病で意気地の無い自分が、何度も何度も想像の中で繰り返してきた――そんなくだらない悩み事ではなかったか。
「くだんない事だよ。そうだよ。それだけの事なんだよ」
ユフィンリーは尚も鎮静楽曲を奏でながら言った。
「私達は聴いて欲しいんだよ。相手に伝えたいんだよ。一緒に何かを感じたいんだよ。だからたかが五線譜の上のオタマジャクシに必死になってんだよ。どうやったら喜んで貰えるか、どうやったら笑って貰えるか、どうやったら――ああしたらどうだろう、こうしたらどうだろう、そんな事ばっかり考えてるんだよ。結局それだけなんだよ」
言ってユフィンリーは初めてカティオムを振り返った。
「それだけで充分だろ?」
「……はい」
「最初は? どんな音なら彼女は聴いてくれる? どんな音なら彼女に届く?」
「…………」
きっと最初は――ファ。
太く力強いドはもっと後だ。やはり何処か優しく静かなファからだ。
次は? その次は? きっと――
「…………」
躊躇いがちに。しかし――やがて大胆に。
音が連なる。次々と放たれる響きが夜の闇に溶けていき――しかし消え去る前に次の音が後を引き継ぐ。引き継いで更に先へと繋げていく。幾つも。幾つも。幾つも。幾つも。
(……ああ)
カティオムは理解した。
これなのだ――フォロンやユフィンリーやレンバルト達が居る世界とは。そしてシェルウートゥが棲む世界とは。それはこんなにも――
「…………」
始まれば……止まらない。
支配楽曲は聞こえない。フォロンの神曲も聞こえない。
全ての物音が遠ざかっていく。
在る筈の無い静寂の中で――何かに手を引かれる様に音を連ねていく。
彼女に伝えるために。
「……シェル……」
やがて。
「…………」
弾け続けていた光が消える。
ふらりと空中で白い精霊は揺らいだ。
狂気の悦楽に緩んでいたその表情に――理性の苦悩と困惑が混じる。
全てを遮蔽する分厚い狂気の支配楽曲の壁に、カティオムの紡ぎ上げる旋律が突き刺さり、亀裂を呼んだのだ。そこにすかさず滑り込むユフィンリーの鎮静楽曲。
さらにふらりふらりと白い精霊は揺らめく。
そして……
「――シェルウートゥ」
呼ばれてふと顔を上げるとそこに紅い精霊がいた。
「戻るぞ。お互いの戻るべき場所に」
「…………」
「だから――少し我慢しろ」
伸ばされたコーティカルテの右手がシェルートゥの胸元に添えられる。
送る閃光。
零距離で注ぎ込まれた紅い精霊雷が――シェルウートゥの中の歪んだ法悦を駆逐した。
「シェル!」
フォロン達が止めるのも聞かずに駆け寄ったカティオムは、ゆらりと揺れて倒れる少女の身体を抱きとめる。
「シェル! シェルウートゥ!!」
少年の腕に抱かれて、シェルウートゥはその肩にしがみつき、肩を震わせた。
「ごめんなさい……」
白い精霊は喘ぐ様に言った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい……!」
そんな――抱き合う少年と少女を、バイオリンを降ろしたユフィンリーが溜め息をつきながら見つめている。
一方――
「……さて」
ふわりと上空へと舞い上がりコーティカルテは掌の上に球状の精霊雷を生み出した。
「耳障りだ。消えろ」
その言葉と同時に精霊雷が――弾ける。
砕け散ったそれらは瞬時に軌道を変えながら夜空を切り裂き、そして尚も支配楽曲を放散していた建物の方へと殺到した。
轟音と共に無数の光が瞬いた。
建物に備わっていた大小五十近いスピーカーは全て一瞬にして破壊されていた。
「……ふん」
精霊の女王はふわりと身を翻して降下。
己の契約楽士の側に降り立った時には――いつもの少女の姿に戻っていた。
「――フォロン」
少し疲れた様子で彼にもたれかかりながらコーティカルテは言った。
「覚えの悪いお前も――少しは分かってきた様だな」
「……まあね」
苦笑を浮かべて応じながら、フォロンはそのまま地面に座り込んでしまいそうなコーティカルテの身体を抱き留めた。
そこに――
「…………あ」
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
一瞬……何事かと顔を見合わせてから、ユフィンリーがぽんと手を打った。
「そっか。忘れてた。警察――呼んであったんだっけ」
「今頃来ても遅いですよ」
苦笑して言うフォロン。
だが――コーティカルテの意見は違う様だった。
「戯け者。今だからむしろ助かったのだ」
「……へ?」
「ユフィンリーが呼んだのは精霊課の刑事なのだろう?」
「ええ。シャドアニ刑事に連絡がついたから。すぐ来てって――」
頷くユフィンリー。
「…………」
フォロンはしばし視線を空中に彷径わせる。
そして――
「……あ。そうか」
気がついたらしい。
もし、専用装備で武装し、対精霊戦闘にも精通した精霊刑事達が未だ支配神曲の鳴り響いている場所にやって来ようものなら――そしてもし巨人精霊達の様にそれに酔ってしまったら、一体どうなっていた事か。
「……やはりまだまだか」
コーティカルテが溜め息をつく。
そして――
「――無事か!?」
そんな叫びを上げながら――数台の警察車輌を先導しているのは、〈シンクラヴィス〉に乗ったレンバルトであった。その背後には窓から身を乗り出しているシャドアニ・イーツ・アイロゥ刑事の姿も見えた。
「大丈夫ですか!?」
銃を両手に携えながら車輌から飛び降りてくるシャドアニと精霊刑事達。
拳銃だけでなく大型の銃器を携えている精霊刑事や、突入用の盾を持っている精霊刑事も居る。あるいは精霊課以外の一般警官も混じっているのかもしれない。
「申し訳ありません――鎮圧用装備持ち出しの手続きに手間取ってしまいまして」
「…………」
顔を見合わせるフォロン達。
「で――状況は?」
「いや……まあなんていうか」
頬を掻きながらユフィンリーが言った。
「遅れてきてくれて、助かったわ」
「……は?」
シャドアニ・イーツ・アイロウ刑事は、きょとん、とした顔で一同を見渡した。
10
隠し扉の奥は――地下へと続く階段になっていた。
どうやら廃墟の下に広大な施設があり、そこから四方へ隠し通路が伸びていた様だ。見た目以上に大規模な研究施設である様だった。
「この建物はね」
廊下は暗く――そして長い。
コーティカルテの精霊雷がスピーカーを破壊した際、余剰電流が逆流して回路が破砕されてしまったらしい。館内の全ての電気系統が落ちている様だった。
「事故で、放棄された物件なんですよ」
探照灯を片手に先頭を行くシャドアニが言った。
「細かい事までは憶えてませんが……確か実験に協力した精霊が事故を起こしたとかで、その時にクラト・ロヴィアッドの妻と娘が、娘婿と一緒に死亡してます」
「私もその話――聞いた事があります」
シャドアニのすぐ後ろを歩きながらユフィンリーが応じる。
「娘婿が神曲楽士だったそうですね」
「あまり評判が良いとは言えない人物だった様ですがね。腕も性格も。大方――義父にイイトコを見せようとして精霊に無茶な楽曲を押し付けたんじゃないですか」
「……愚かな」
呟くのはコーティカルテである。
ちなみに彼女の頭上には紅ぐ輝く精霊雷の光球が浮かんでいるため、シャドアニの後ろを歩く者達も足元に不安は無い。
「だから、復讐……ですか」
最後尾はフォロンだった。
レンバルトはユギリ姉妹共々地上に残っている。支配神曲のせいで疲弊したプリネシカの保護のためだ。カティオムとシェルウートゥも、無論、地下には降りて来ていない。彼等こそ最優先で保護される対象なのだ。今頃は警察の車の中で温かい飲み物でももらっているだろう。
シャドアニの同僚である他の精霊警官達は、現在この施設を隈無く探索しており――残党の逮捕に駆け回っている。だがあまりに規模の大きいこの施設を限られた人数で調べきるのは難しい。
そういう訳で増援が来るまでの間……シャドアニ刑事の手伝いをユフィンリー達が申し出たのである。
「……とと」
突き当たりの部屋の前でシャドアニは立ち止まる。
「ちょっと待っててくださいね?」
言って、サングラスを外すと――その瞳は十字型だった。
驚くフォロンにシャドアニは苦笑する。
「ほら――まあ変な話、精霊ですから」
照れ隠しなのか、そのまま妙に気合いの入った動きで上着の下から二丁の銃を抜き出すと、精霊課の刑事は一気に扉を蹴破った。
コートの裾を翻して真っ暗な室内に飛び込んでいく。
そして――轟音。
「――!」
びくりとして身を竦めるフォロン。
轟音は連鎖的に続いた。
断続的な閃光の中で、四方へ向けて発砲するシャドアニ刑事の姿が見えた。ストロボ撮影さながら、その動きは華麗なダンスのようだった。
やがて――銃声は収まり、代わりに何かが倒れる様な音がいくつも連続する。
再び真っ暗になった部屋からのっそりと出てきた精霊刑事は、二丁の拳銃を器用にガン・スピンさせてから――また照れ笑いを浮かべた。
「精霊銃は――得意ですから」
「はあ……」
呆然と頷くフォロン。
精霊雷を収束し、効率的かつ高精度で用いる特殊武器――精霊銃というものが存在するという話は彼も聞き及んでいたが、現物を見るのは初めてである。弾丸の形に絞り込んだ精霊雷を撃ち込むため、威力が拡散せず、周囲への無用な被害が出ないのが利点だ。元々警察用途――特に精霊課のために開発されたものだとか。
「もう大丈夫です。どうぞ」
シャドアニに言われて室内に入る。
広い部屋だった。
そして異様な部屋だった。
シャドアニの探照灯とコーティカルテの精霊雷の光が全てを照らし出す。
壁面も床も、四角錐の突起で覆われている処を見ると――どうやら防音室らしい。床には、いくつもの楽器が転がっている。どれも単身楽団で、管楽器、弦楽器、鍵盤楽器、打楽器、全ての形式の主制御楽器が揃っていた。
更に――数人の男達が床に倒れていた。
死んでいるわけではない様だ。力を弱めた精霊弾を受けて失神しているのだろう。こういう使い方も精霊銃ならではと言えた。
そして――
「……やつか」
ぼそりとコーティカルテが呟く。
部屋の奥――その中央。
そこに一人の老人がいた。
巨大なデスク型の単身楽団の中央に陣取っている。制御盤の中央には譜面台があり、そこには古びた楽譜が立てられていた。
恐らくはそれがダンテの奏始曲。
その名も――
「『天国変』……」
思わず漏らすフォロンの言葉に――
「そのとおりだ、坊や」
――老人は弱々しく応えた。
「ダンテの神曲。失われた調べ。世の始まりより見いだされしもの。これが、そうだ」
だが全ての電気が落ち、奏者の大半を失った今、それは単なる古い紙切れだった。
「クラト・ロヴイアッド」
前に出ながらシャドアニが言った。
「貴方を誘拐、暴行、監禁、その他の容疑で現行犯逮捕します」
「……安易な手段に出たのが命取りか。実を言えばさすがに資金繰りに苦しくなってきてな……あの小僧がオミテック社長の息子と知って、資金調達に利用出来るかとも思ったのだが。オミテックの技術も魅力的だったしな」
「……一体何を?」
フォロンは尋ねた。
あんな邪悪な神曲を造り上げて――この老人は一体何がしたかったのか。
ただ単に復讐と呼んで片付けてしまうには、あまりにそれは迂遠だった。
「…………」
老人は笑った。喉に痰の絡むような音だった。
その笑いが――
「あんな汚らしい神曲で何がしたかったんですか――貴方は!!」
フォロンの叫びにぴたりと止まる。
「ダンテの時代に試みられたこと。ダンテの時代に済ませるべきだったこと……」
ぜいぜいと喉を鳴らしながら……しかしまるで秘密めかして耳元に囁くかの様な口調で老人は告げる。
「精霊は『人間の善き隣人』などではない。人間が、そのように思い込もうとしたに過ぎぬ。精霊の持つ強大な『力』を畏れ、しかし従わせる術を持たぬ以上、そう信じるしかなかったからだ。だが――」
言って――老人は手を伸ばす。
反射的にシャドアニが銃を構え直す。だが枯れ枝の様な手が掴んだのは銃でも刃物でもなくダンテの楽譜だった。
「精霊も、人を傷つける。精霊も、人を殺す。強大な『力』は、制御されねばならんのだ。精霊が人を殺す『力』を持つなら、人も精霊を支配する『力』を持たねばならん。それが均衡というものだ……」
「だからシェルウートゥを実験台にしたんですか」
老人の目が――不意に細まった。
そして浮かぶのは嘲笑だ。
深く深く濁ったその眼はフォロンと――そして彼に寄り添う様にして立つコーティカルテを見つめていた。
「シェルウートゥ。私の可愛いシェルウートゥ。アレは私のものだった……アレこそが完成品……アレこそが――」
「――戯け者」
コーティカルテの苛立たしげな声が老人の独白めいた台詞を遮った。
「あの精霊が貴様のものだった事など一度も無い」
「…………」
老人が――のけぞって声も無く笑う。
コーティカルテは念を押す様に言った。
「貴様の汚らわしい意志が精霊を支配した事など一度も無い」
「だがアレは」
老人はひたりとコーティカルテに視線を据えて言った。
「私が命じるままに破壊した。鉄を裂き、石を挟り、木を砕いてみせた。紅い精霊よ――貴様とてアレと同じ立場に置かれれば私の前に屈し、私の奴隷となって様々なものを壊してみせた事だろうよ」
「…………」
「認めるがいい――精霊よ。私は精霊を支配した。それは紛れもない事実だ」
「コマーシャルのためにな」
全員が――ユフィンリーを振り返る。
その言葉の意味を、すぐには理解出来なかったからだ。
「なあにが、人間も力を持たねばならぬ、だよ」
腰に手を当ててユフィンリーは言った。
「あんたの目的は復讐ですらない」
「…………」
「あんたは、ダンテの神曲を兵器として売りたかったんだろ? 精霊を命令どおりに操って、あんなモノも壊せます、こんなモノも壊せます、ってCMを打ちたかったんだろ? ただの実用試験なら人目に付かない山奥でだって出来たもんね?」
それから……不意にユフィンリーの口調が変わる。
妙に明るく。しかし妙に事務的で。
まるでテレビの通販番組の様に――
「敵の戦闘機も敵の戦車も、精霊雷で一網打尽。敵国が精霊兵を繰り出してきても大丈夫、我が社の神曲は敵の精霊兵まで操る事が出来ます♪ あなたはただ単身楽団を演奏するだけ。効果絶大、絶対無敵。今ならダンテの『天国変』もお付けして驚きのこの価格!」
老人は……何も言わない。
「……それがやりたかったんでしょ?」
嘲る様に言い放つユフィンリー。
彼女に老人が向ける視線には明らかな憎悪があった。
「あんた――最低だよ」
「…………」
「さて――」
締めくくる様にシャドアニが口を挟む。
彼は老人に歩み寄ると懐から取り出した手錠をその枯れ木の様な両手に掛けた。
がちゃりと自分を拘束する鋼を見つめ――ふと老人はシャドアニを見つめる。
「……走狗めが。貴様も精霊だな」
「なかなか堂に入った演説でしたがね。生憎と私の様な権力の犬にはとんと分からないお話ですな」
呟く老人にシャドアニは肩を疎めてみせる。
「クラト・ロヴィアッドさん、あなたには弁護士を呼ぶ権利があります。これから先、あなたの発言はあなたに不利な証拠となる可能性があります。あなたは……」
権利の朗読をするシャドアニ。
それは犯罪者に対する最低限の人権の保証だ。たとえ相手が最低の人間であろうとそれだけは守られるのが法治国家というものである。
「…………」
最初に背を向けたのは、ユフィンリーだった。
続いてフォロンとコーティカルテも部屋を出る。
コーティカルテの精霊雷に照らされて……四人は黙って暗い廊下を引き返した。
フォロンが振り返ると、真っ暗になった部屋の中から、まだシャドアニによる権利の朗読は続いていた。
EPILOGUE
人使いの荒いツゲ神曲楽士派遣事務所にも……驚くべき事に福利厚生という概念は在る。
ただ悲しいかな――そこは慢性的に人手不足のツゲ事務所。その適用頻度が著しく他の職業に比べて低いのが問題ではあった。フォロンがこの事務所に入ってもう一年以上になるが、福利厚生の名目の下に何か特別な待遇や処置を受けた覚えは一度も無かった。
とはいえ……やる時はやるのがツゲ・ユフィンリーという女性である。
突然彼女は『スキー旅行に行くぞ』と言い出したのだ。
「アルバイトを含めて全員参加。ただし費用は全て事務所が負担。いいでしょ?」
「はあ……でも」
「文句のある奴ぁタイマンで来い!」
「…………」
まあしがない被雇用者であるフォロンには所詮、所長の決定を覆す事など出来ない訳で。
その結果――わずか三連休の時間を捻り出すために三人は必死になって働かなければならなかった。当たり前の事である。そもそも数日前まではそんな予定は全く無かったのだからして、びっしり埋まったスケジュール表に七十二時間分の空白を造り出すには、強引に仕事の密度を上げるしかない。
予定を前倒しし、あるいは後ろへずらし、クライアントをなだめすかして、時には韜晦したり開き直ったりしながら、フォロン達は何とかかんとか三日間を確保したのである。
そういう訳で――その慰安旅行当日の朝。
事務所の前にはレンバルトが手配した大型バンが停まっている。
「ほらほら! 早くしないと道が混むよ!」
バンの前で、ぱんぱんと手を叩いて急かすユフィンリーはまるで小学校の先生だ。
「んなこと言ったって、コーティカルテが、なんか今になって荷物増やすんだから」
ぶつぶつ文句を言いながら、レンバルトが運び出すのはスキーとストックだ。しかも三人分である。残る三人分は当然、フォロンの担当であった。
「フォロン! 自分の相方の面倒くらい、ちゃんと見なさいよ」
「あの……でも僕だってまさか……今になって単身楽団を持って行けなんて言うと思わなかったんですよ」
「何だと、フォロン!」
事務所の中から、単身楽団を背中に引っかけて、コーティカルテが姿を現す。
「月夜に雪見で一杯やりながら神曲をやるのも良いかも知れぬと、お前が言い出したのだろう!? 男なら言った事には責任をだな」
「確かに言ったけど……」
「ちょっと――!?」
不意にユフィンリーが悲鳴を上げる。
彼女はコーティカルテの持ち出してきた単身楽団を指差しながら喚いた。
「あんた! それ! 駄目――それ! リーランドの初期モデルじゃない!! 戻してらっしゃい!! あああああああ傷つけないでってば!!」
でもって。
「あーもう……出口でうろうろしないでください!」
これまたコーティカルテに抗議するのは段ボール箱を抱えたペルセルテだ。中には三人分のスキー靴が突っ込んである、
「ここは出口専用ではない。出入り口だ。出るのも入るのも平等だ」
「だったら、とっとと出るか入るかしてくださいって言ってるんです!」
そんなペルセルテの後ろでプリネシカが苦笑する。
「こら! 駄目! 初期モデルは筐体が――あああそんな持ち方したら――」
「フォロン。そういえば封音盤は持ってきたか?」
「あ――いやそれは」
「だから邪魔なんですってば!」
「おーい。ワックスは持ってくか?」
もう何が何やら……ぐだぐだである。
そこへ――
「すみません! 遅れました!!」
駆けつけた二人にフォロンは思わず声をあげた。
「――あれ? 君達……!」
そこに仲良く手を繋いで立っていたのは少年と少女。
オミ・カティオムとシェルウートゥ・メキナ・エイポーンだった。
共に肩からは大きなお揃いのスポーツバッグを提げ、更にはこれまたお揃いのスノー・ジャケットまで着ている。見ているこっちが恥ずかしくなる様な――典型的な恋人同士の装いであった。
「ああ――特別ゲスト」
あっさりと、ユフィンリーは言ってのける。
だがどうやらこの特別参加者を知らなかったのはフォロンだけではなかったようだ。
「うわーっ! お似合い! すんごくお似合い!!」
嬌声を上げるペルセルテ。
コーティカルテは――ふふん、と鼻を鳴らしながらも眼が笑っている。
レンバルトはプリネシカと顔を見合わせてから――笑顔で肩を竦めた。
「…………」
ふとフォロンはレンバルトとプリネシカの方に視線を飛ばす。
レンバルトはプリネシカが精霊であったという事に――正確には精霊と人間の融合体なのだが――かなりの衝撃を受けた様ではあった。
だが彼は彼なりにきっちりと自分の中で割り切りを付けたのだろう。
プリネシカに接する彼の態度は以前と変わらない。
「ほらほら、行くよ! 乗って乗って!」
また手を叩いて場をまとめながらユフィンリーが言う。
「あ――俺が運転します」
「駄ぁ目。あんたは帰りに運転して」
「ええー!? だって帰りの方がキツいじゃないですか!」
「じゃあ、あんたは所長の私に、キツい方の仕事を振ろうっての?」
所長とレンバルトの会話もいつもの調子である。
「よしフォロン、お前が奥だ」
「ちょっと、なんでフォロン先輩が端っこなんですか。真ん中に座ってもらいます!」
「駄目だ。フォロンの隣は私だけだ」
「どうしてコーテイカルテさんはいつもそう意地悪なんですか!」
「お前がいつも我が侭なのだろうが!」
「それはコーティカルテさんでしょ!?」
コーティカルテとペルセルテの――これまたいつもの会話。
ただ……
「フォロンさん。ツゲ事務所って、いつもこんな感じなんですか?」
呆れた様子でカティオムが尋ねてくる。そういえば彼はオフの時のユギリ姉妹やレンバルトを見るのは初めてだろう。
フォロンは少しだけ考えて――答えた。
「いつもこんな感じだよ」
(でも――)
続く言葉を――しかしフォロンは胸の内に留めておいた。
(いつまでも同じ……ってことでもないんだろうけどね)
まだまだこれからだ。
人間と精霊。
互いに全く違うけれど――ひどく近しい者達。
カティオムとシェルウートゥの未来にもまだまだこれから色々な事が起こるだろう。
フォロンとコーティカルテの関係も未来永劫変わらない訳ではない。恐らく変わらざるを得ない場面はこれから幾つも出てくるだろう。
常に否応無く状況は変化していく。当たり前だ。違う者同士なのだから。軋櫟も起こるだろう。争いも諍いも起こるだろう。『隣人』は必ずしもいつも仲良い友人でいてくれるとは限らない。常に全ては変わり続ける。あるいはその先には破局や悲劇が待っているのかもしれない。
だって人間と精霊は違うものだから。
でも――
「どうした? フォロン?」
ペルセルテと互いの服やら髪やらをつかみ合った挙げ句に、関節技を仕掛け合って膠着状態に陥るという、色々な意味で凄まじい体勢のまま――ふと首だけで振り向いてコーティカルテが尋ねてくる。
「いや……別に」
噴き出すのを堪えつつフォロンは首を振る。
隔たりが在るならば溝を埋めればいい。違うというのならその差異を理解すればいい。状況が変わればその都度最善と思える方法を採り続ければいい。
神曲楽士達はずっとそうやって精霊と付き合ってきた。
それだけの事だ。
そんな事を考えていると――不意に。
「――がんばりましょう」
妙に頼もしい表情でカティオムが言ってくる。
一瞬、呆気にとられた表情でフォロンは彼を見つめ――「うん。お互いにね」
そう言って彼は笑った。