PROLOGUE
例えばこの雨だ。
雨が降らなければ、人間は死ぬ。
単に水が飲めなくなり、渇いて死ぬ、というだけの事ではない。確かに人間の体重の九割は水分であり、水分補給が出来なければ簡単に死んでしまうが……それは人間に限った事ではない。動物や植物にもいえる事だ。それらの食うべきものが無ければ人間は死ぬしそもそも人間は酸素を呼吸しなければ生きていけない以上、その酸素を作る植物が枯れてしまっては、人間も程なくして死ぬしかない。
そしてそれらの水を供給するのは、とことん遡れば雨なのだ。湧き水ですら無から生まれる訳ではなく、山に染み込んだ水分が濾過されて出てきたものにすぎない。
雨は人間の生命を支えるのに無くてはならないものだ。
ところが。
その一方で雨は人間を殺しもする。
シデン地方では毎年――そう毎年だ何百人もの住民が水害で命を落とすという。ケブロイ河流域でも同規模の死者がしばしば出る。ホルカンド共和国の内紛が、深刻な食糧事情によるものである事はよく知られているが――その遠因はホルカンドの食料庫と言われるカルナイ地方の穀物地帯が、二年前の大雨で壊滅的な打撃を受けたためであると言われていた。
そこまで大規模な異常気象でなくとも……雨の日は事故が増える。
狭い視界のために車の運転を誤る者も居るし、濡れた路面で脚を滑らせ、頭を打って亡くなる人間も居る。雨に打たれて体温を奪われ、衰弱死する浮浪者など、珍しくもない。
雨は必ずしも人に恵みをもたらすだけのものではない。
それに――とクダラは思う。
(洗車したての愛車だって汚しやがるな)
左右に往復するワイパーの動きを鬱陶しく思いつつも、彼は手にしたハンドルをゆっくりと左へ回す。身体が微かに右側に引っ張られる感覚と共に、黒く大きな車体は弧を描きながら雨の中を走っていく。
山道であった。
とりあえず舗装はされているものの、街中と違いメンテナンスも滞りがちの様で――路面には経年劣化によるものと思しき細かい亀裂がいくつも走っており、黄色いセンターラインも途切れがちになっている。
そんな荒れた路面を、川の様に水が流れ落ちていく。
雨は――先程から勢いを増して土砂降りとなっていた。
ヘッドライトの投げる光の輪の中で、路面に当たってはじける雨の飛沫がきらめく。その様子はまるで無数の宝石を撒き散らすかの如くに見えて――詩的な情緒の持ち主ならばそれを、美しい、と表するかもしれない。
しかしその美しさも、表面的なものである事をクダラは知っている。
そもそも雨とは、大気中の水分が上昇気流に乗って高空へと舞い上がり、そこで何らかの粒子――大抵は塵や挨の類だ――を核として凝結、そして虚空を漂う雲となり、更には自重に負けて落下してくるものだ。
大気中の水分とはつまり地上から気化したありとあらゆる水分の事である。
海から。川から。湖から。
そして当然――湿った地面や物体から。
当然ながら、それらの水分に清濁の区別が行われる筈も無く――天に昇り行く水分の中には、清流から蒸発したものと同時に、人や獣の吐く息や、あるいは排泄物や汚染物質から蒸発したものも含まれている。それらが遥かな空の彼方で塵や挨を巻き込んでは、雨粒となって落下してくるのである。途中――大気を汚染する物質を、己の身の中にたっぷり溶かし込んで降ってくる場合も少なくない。今でこそポリフォニカ大陸全土で大気汚染は減少の傾向を見せているが……中には未だ環境汚染の事などお構いなしに、『経済発展』の大義名分の元に工場を造りまくり、大気汚染の原因を大量に垂れ流し続けている発展途上国も幾つか在る。
綺麗などとんでもない。
それは見た目だけのものだ。
「…………」
クダラは口元を苦笑の形に歪めた。
ふとハンドルから離した左手を助手席に伸ばす。
そこに在るのは――シートベルトで固定された、分厚い黒のアタッシュケースである。無骨とも言うべきそれを、クダラは骨格の浮き上がった細い指でゆっくりと撫でた。
同じだ――と彼は思う。
美しい銀色に見える雨が、その実、汚れを本質的に含んでいる事と同じだ。
何もかも皆同じ。
誰でも。何でも。
どんな美人もどんな紳士も腹の中には糞を抱えている。
如何に美しく整備された街並みであっても、路地裏には汚物が積まれ、足下には下水が流れている。良くも悪くもそれはそういうものなのだ。そこに善だの悪だのの概念を持ち込む事には意味が無い。
ありとあらゆるものは本来的に汚れを含む。
どんなに素晴らしいものに見えても――世界の裏側には腐敗が潜んでいる。
必ずだ。例外は無い――絶対に。それは単に摂理の問題である。
だから同じなのだ。
神曲も。
精霊も。
そして無論――
「――やれやれ」
嘆息混じりに眩くクダラ。
その吐息にすらも彼自身の腹の底に溜まっている汚物の成分が含まれているその事を彼は意識する。意識してしまう。意識した上で、それを呪うでも嫌うでも忌むでもなく、ましてや賞賛するでもなく、ただ皮肉げな表情で肯定する。
クダラ・ジャントロープとはっまりそういう男だった。
クダラの操る黒い大型四輸駆動車は、大量の雨に――美しさを装う汚水の群れに叩かれながら、うねうねと山肌に沿って蛇行する道を走っていく。
分厚い雨の紗膜を通し、藍か前方に灯が見えてきた。
「着いちまうぜ」
そう告げる声には物憂げな響きが混じっている。
面倒が待ってるに決まっているのだ――とクダラは思う。
こんな風に『奴』に喚び出されて、面倒事でなかった試しなど一度たりとてない。必要だから喚んでいるのではなく、面倒事を押しつけて楽しむ為にわざわざ喚んでいるのではないかと思う時もある。
あるいは――この延々と続く面倒臭い道程も、予め用意された面倒事の一部なのかもしれない。『奴』なら考えそうな事ではあった。
底が、浅いようで居て深いのか、深いようでいて浅いのか、判別がつかない。あるいは全く何も考えていないだけなのかもしれないが。
何にしてもクダラは今ひとつ気が進まない。
だが――彼の同乗者はそうは思わなかったらしい。
「いいわね」
後部座席から歌う様に応じる声。
「いい加減、退屈していたところよ」
涼やかな――しかし何処かねっとりと湿った響きを帯びる若い女の声だ。
蠱惑的と言っても良い。決して美声ではないのだが、奇妙に耳に残り、聴く者の感覚の奥底を刺激するかの様な声音であった。一度聴けば二度と忘れまい――そんな声。
女の声は楽しげに続けた。
「暴れさせてくれるんでしょう?」
「多分――な」
眩く様な口調で応じるクダラ。
すっと――運転席のヘッドレスト越しに白い腕が伸びてきて、クダラの首に柔らかく巻き付いた。何かそれだけで独立した生き物であるかの様に、細い指が奇妙に生々しい動きで彼の頬を撫で上げる。
「無精髭」
気怠い笑いを含んだ声が、からかう様に告げる。
クダラはただ簡潔に応じた。
「七時間走りっ放しだからな」
「――向こうにシャワー位はあるんでしょう?」
「……ああ」
「一仕事が済んだらちゃんと剃ってね。でないと一緒に寝てあげないわよ?」
「分かった」
苦笑しつつクダラはレバーを操作して駆動方式を二輪から四輪に切り替える。
そろそろ――頃合いだ。
「少し揺れるぞ」
宣言した瞬間には、もう四輪駆動車は舗装道路から外れて林道に入り込んでいた。
途端に重量級の車体が上下左右に揺さぶられる。『少し』どころの話ではない。助手席のアタッシュケースがシートベルトの下で何度も跳ねる。迂闊に喋れば舌を噛みかねない。そもそも本来は車で入り込む道ではないのだ。元軍用の愛車――〈パス・ファインダー〉であるからこそ頓挫せずに済んでいるだけである。
だが――
「楽しみだわ」
だが女の声は……その揺れを無視して、涼やかなままだった。
くすくすと密やかに笑ってから、女の声はさらりと何気ない口調で続けた。
「また血が見られるのね」
クダラは答えない。
答えるまでもない事だった。彼の仕事が血と無縁であった事など一度も無い。流してきた犠牲者達の血の量は、そのまま彼の実績であり、信用として彼の評判を支えている。だから女の声が告げるそれは確認でも要望でもなく、単に仕事前の定例儀式の様なものだった。
その事にクダラは殊更に感概は無い。
神曲楽士や精霊にある種の幻想を抱いている人間には信じ難い事であろうが――それらとて、この世界の一部である事には変わりがない。美しい表が在れば、汚れた裏が確実に存在する。自分達はただ、後者寄りだというだけの事だろう。
その事に善も悪もない。
ただそういうのもなのだ。
(――同じだ)
とクダラは思う。
人間も。
そして――精霊も。
ACT1 FIRST JOB
朝はなるべく穏やかに目覚めたい。
それがここ数年来――タタラ・フォロンのささやかな悲願である。
特に夜半過ぎからの陰鬱な雨が綺麗にあがって、暖かな朝の日差しに微かな水の匂いが混じる様な――こんな心地良い朝ならばなおさらだ。
すっぽりと身体を覆うぬくぬくした毛布と、ふんわり柔らかに身体を受け止めて包み込んでくれるシーツとは、まるで赤子を抱く母の腕の如く、優しく彼を微睡みの領域に留めてくれる――もっとも孤児たる彼は母親の温もりというものを知らずに育ったので、これはあくまで想像に過ぎないのだが。
夢と現の端境を意識がたゆたう感覚――ゆらりゆらりと波間に漂う木の葉の如く。
気持ちいい。
この至福の時が永遠に続けば良いのに。
曖昧に輪郭の溶けた意識の底で、そんな事をぼんやりと考えたりもする。本人は無論、自覚してはいないが今の彼の顔には写真にでも撮られれば、強請のネタになってしまいそうなくらい、緩みまくった笑みが浮かんでいる。
しかし。
「――フォロン!」
そういう時間は決して長くは続かないというのが、世知辛い世の中の決まりである。
特にフォロンの身の回りではそれが顕著であった。
「ん――………んん……」
「起きろ!朝だぞ!」
怒号の様に激しい声と共に――腹部に叩き込まれる突然の衝撃。
「おぐぇっ!?」
奇妙な呻きを漏らすフォロン。
だが何が起こったのか――と混乱する事は無かった。
見なくても分かる。『彼女』が彼の腹の上に跨ったのだ。それも天井近くまで一旦跳躍してから。決して『彼女』は重い訳ではないが――小柄な上にむしろ見た目よりも随分と軽い――それでも落下の勢いをそのままに無防備な腹部へ叩き込まれれば、普通は悶絶する程の打撃となる。
「うぬぐぐぐぐぐぐぐ……」
とりあえず悶絶は免れたが――毛布から顔を出すフォロンは涙目である。
寝る前にパジャマの下に仕込んでおいた雑誌が、今朝も最低限ながら防御の役割を果たしてくれた様だった。これはここ数年で彼が学んだ生活の知恵である――やたらめったら限定的で、とても自慢など出来ないが。とはいえ頼んでも乞うても一向に止まない暴挙には、こちら側が賢くなって対策を施すしかない訳で。
「お……おはよう……コーティ」
痛みが拡散しきるのを待って――フォロンは言った。
「おはやくはない! 既に私は空腹だぞ!」
彼の腹の上に跨って傲然とそう宣うのは、小柄な少女である。
ベッドの上で。しかも馬乗り。見方によっては激しく赤面せざるを得ない体勢なのだが……少女は全く気にする様子も無い。フォロンも毎度の事なのでもう慣れた。
年齢は十代前半十三か四といった位に見える。
あくまで人間の尺度を当てはめれば、の話だが。
腰まで届く程の長い髪は、燃える様な真紅。瞳の色も同色だ。それに橙色のミニ・スカートと檸檬色のブラウスという組み合わせなものだから彼女自身がまるで少女の輪郭を持った炎の様に見える。
そしてそれは二重の意味で正しい。
「早く起きて、朝飯を作れ」
微笑を浮かべながら――しかし要求を告げるその口調には、全く容赦が無い。
容姿はひたすらに可憐で。気品も在って。だが言動はどこまでも勝手気ままで尊大で。
その癖……何処か憎めない。
まるで猫か――あるいは御伽噺の姫君の様に。
「起きる。起きるよ」
苦笑を浮かべて応じるフォロン。
傲岸不遜の典型を眼前の少女とするならば――フォロンは優柔不断の好例ではあろう。
色白で線が細く、骨太さなど微塵も無い。男臭さとは完全に無縁の容貌で、それを彼自身認めると共に……多少は気にしていたりもする。何処かのんびりとした柔らかな物腰と相まって、初対面の人間にも打ち解け易い雰囲気が在るのは彼の長所だが彼自身はあまりそれを自覚していない。
舐められはするかもしれない。嘲られる事もあるかもしれない。だが嫌悪感を持たれる事はまず無い。そんな印象である。
まあ要は――見るからに善人なのだ。
「起きるからコーティ。ちょっとどいて」
毎度の事ながら眠気などはとっくに吹っ飛んでいた。
この少女のおかげでフォロンが朝寝坊をした事は一度も無い。もう少し穏やかな起こし方を考えてくれるのならば、もっと素直に感謝できるのではないかと思うのだが――それはどうも無理な話であるらしい。
「うむ」
鷹揚に頷いてからコーティと呼ばれた少女はひょいと身を躍らせる。
ベッドに膝をついてフォロンに跨っていた姿勢から――わずかに腕を振り上げるだけの動きでその身を空中に跳び上がらせ、しかもそもまま身をひねり空中での一回転を経てから、軽々とした様子で床に降り立つ。
とん――とその派手な動きに比すれば、ひどく浅い足音だけが部屋に響いた。
明らかに人間業ではない。
それどころか物理法則さえ無視したかの様な動きである。
だが少女はそれを殊更に誇るでもないし、ベッドを抜け出してパジャマのまま――さりげなく雑誌はパジャマの下から抜いてベッドの脇に置き――台所に向かうフォロンも驚きはしない。
彼等にとってそれは当然の事だった。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
この紅い少女を指すその長い名は――同時に彼女が人に似ながらも人に在らざるものである事を示していた。
「んー……」
フォロンは枯葉色の長い髪を頸の後ろでまとめてからエプロンを着ける。
台所といっても、設備としては小さなコンロが二つと、やはり小さな流し台が在るだけの質素なものだ。テーブルも二人用の小さなもので、フォロンとコーティカルテが椅子に座ってしまえば、背もたれと壁の間には人が通れる隙間さえ無くなる。
元々手狭なアパートなのだ。
台所の他には、やはり狭い部屋が二つとトイレ付きのユニット・バスが在るだけ。コーティカルテの部屋には、家具といえはベットしか無いので、まだマシだがフォロンの方の部屋は、ベッドの他にデスクと本棚が在るので、床には人が一人横たわれる程の面積も残っていない。
もっとも主たるフォロンはこの部屋に満足していた。
此処が本当の意味で自分の部屋だからだ。
誰の施しや恵みを受けるでもなく、本当に独力で自分で稼ぎで借りた初めての部屋だからだ。『自分の城』と呼ぶには多分にささやかすぎる場所ではあっても。
まあ敷金と礼金は先輩に借りはしたが……それも来月には返済出来る事を思えば『僕の部屋だ』と胸を張る権利くらいは在るのではないか、とフォロンは思う。
それはさておき。
「玉子焼きサンド?」
訊ねはするが――既にフォロンの手は慣れた手つきで戸棚から取り出したフライパンをコンロにかけて、油を引いている。答えが分かっているからだ。
「無論だ」
応えるコーティカルテは既に彼の背後でテーブルについている。
両手に握り込んだナイフとフォークをテーブルに立てて。今か今かとその可愛らしい口元には笑みを浮かべて。紅い瞳を期待に輝かせたりしながら。
此処まで楽しみにされては、作らされる側も悪い気はしない。
とはいえ――
「出来たか?」
そう最初にコーティカルテが問うたのは、フォロンが卵を二つフライパンに落とした瞬間であった。
「まだ」
振り返らずに笑顔で告げるフォロン。
これもいつもの事である。もう慣れた。
「むう。私は空腹だ」
僕もだよ――と応えるフォロン。
もっとも、彼はコーティカルテに自分と同じ『空腹感』が無いのを知っている。
彼女が本来摂るべきものは別に在る。コーティカルテにとって人間の食事はあくまで嗜好品に過ぎず、満腹感とも空腹感とも関係はない。食べようと思えば彼女はその小さな身体に十人前の食事でも難なく詰め込んで見せるだろう。
ではどうして、彼女はわざわざ人間の様に朝昼晩の食事の形式を守るのか。
それはやはり彼女にとって、食事が嗜好品であるからだ。
自分一人の食卓で摂る食事程、つまらないものは無い。
その事をフォロンはよく――自らの実感としても――知っている。特に確認した訳ではないのだが、コーティカルテも同じなのだろうとフォロンは思っていた。
共に……独りぼっちの時間がとても永かったから。
「早くしろ」
「うん」
「出来たか?」
「まだ」
「むう」
出会ってから二年と少し。
この会話はフォロンとコーティカルテの間で毎朝、飽きる事も無く延々と繰り返される一種の『儀式』である。
恐らくコーティカルテも解ってはいるのだろう。
玉子サンドが一瞬で作れる様なものでない事をだ。彼女は物分かりが悪い訳でも物忘れが酷い訳でもない。これだけ繰り返せば犬でも覚える様な事を、理解していない筈も無い。
そもそも催促する声にも、特に苛立ちの響きは含まれていない。
では何の為にこんな会話を繰り返しているのかと問われれば、フォロンにも解らないのだが……多分、何か彼女なりの意味が在るのだろうと思っている。
だからこそこれは儀式なのだ。
フォロンとしてもこの他愛ないやりとりは不思議と嫌にならない。
そういう訳で――彼と同居人の紅い少女は今朝も同じ会話を繰り返すのである。
「出来たか?」
「まだ」
「むう」
傍目から見れば物凄く無意味で間抜けな会話だろう。
だがコーティカルテは楽しそうだし、フォロンの顔にも微笑が浮かんでいる。
そして。
実に二十三回目の問いに対してフォロンはようやく『出来たよ』と応え――コーティカルテの前に玉子サンドの皿を置いた。
タタラ・フォロンが間借りするアパートは、住宅地と工場街の境目に在る。
アパートのすぐ東側には、大型トラックやトレーラーが忙しげに行き来する工業用道路が在り、その向こうには海岸線にまで工業地帯が南北に帯の如く広がっている。
そのせいでどうにも此処は閑静とは言い難い。
御陰でアパートの賃料は、相場よりも二割ばかし安かったりするのだが。
西側にはアパートやマンション、二戸建てが雑然と混じり合いながら建ち並んでいる。この街並みは西へ行けば行く程に綺麗に整理され、高級マンションや大きな家が増えていき――やがてオフィス・ビルの立ち並ぶビジネス街に繋がっていく。
アパートを出て、この西側の住宅街を、徒歩で三十分。
ビジネス街と住宅街の境目にフォロンの職場は在る。
だから毎朝、彼はちょっとした散歩気分で通勤する事が出来る。それもコーティカルテのおかげで遅刻の心配も無いから、結構のんびりと――だ。
フォロンの服装はブルー・ジーンズに水色のシャツ。
コーティカルテはフォロンが起き抜けに見た通りの格好だ。
対照的な――けれど歩調を合わせ並んで歩く二人。
並ぶとコーティカルテの頭はフォロンの胸の辺りにくる。フォロンは見た目通りに二十歳過ぎの青年なので、その身長差や互いの顔つきから、傍目には少し年の離れたけれど仲の良い兄妹の様に見えるだろう。
ただし普段の実質的な二人の関係は逆だ。
『兄妹』ではなく『姉弟』――即ち、横暴で尊大な姉と、その理不尽な要求に振り回される気弱な人の善い弟である。かなり一方的で不公平な関係の様にも見えるが……二人の関係は、意外にも破綻する事無く二年以上も続いている。
もう一つの関係性の存在が、二人の間に微妙な均衡を作り出しているのだろう。
「おはようございます」
公園の側を通りながら、毎朝欠かさず公園で乾布摩擦をしている顔見知りの老人に挨拶。
老人は、矍鑠としたリズミカルな動作で背中のタオルを上下に動かしながら「おはよう」と返してきた。大都市圏における住人同士の無関心さが問題だと言われる様になって久しいが――この辺りは下町風情が強いせいか、ただ歩いているだけでも声を掛けたり掛けられたり、様々な住人達とフォロンは挨拶を交わしていく事になる。
これもフォロンとしては楽しい。
「こんにちは。タタラさん。今朝は良い天気ですね」
「おはようございます。雨上がりの朝は気持ちよいですよね」
「これでようやく洗濯物が干せますわ」
例えば毎朝決まった時間に決まった経路で愛犬の散歩をする婦人。
「や。おはよう」
「おはようごさいます――オガーラさん。また徹夜ですか」
「解る?」
「眼が血走ってますよ」
徹夜明けで軋む身体を伸ばすべく家の前で体操する漫画家。
「おう。今朝も元気そうだな――そっちの嬢ちゃんも」
「うむ。おまえも変わらず壮健そうだ。一層鍛錬に励め」
例えば日課のランニングをするプロの拳闘士。
――等々。
本当に雑多な人々が此処には居る。
将都トルバス。
この街は帝都メイナードの周りに配置された、衛星都市の一つである。その人口は実に二百万に達する大都市だ。
フォロンの住むベルノア地区はその外周に近い。
「おはようございます」
そう十人程の『御近所さん』に挨拶しつつ――フォロンとコーティカルテは、民家やアパートに挟まれた一方通行の道路を抜けて、大通りに出た。
途端に通行人の数が増える。
此処までくると、散歩だの何だのの人は殆ど見なくなり、大半の人々は同じ方向に歩いている。恐らくは駅に向かっているのだろう。
片側三車線の大通りも交通量が多い。特にこの時刻――都心部へ向かう車の流れは、渋滞気味だ。少し進んでは止まり少し進んでは止まり……路面を埋める何十台という車がいかにも非効率な動きでじりじりと進んでいく。
そんな中――
「…………」
渋滞した道路の路肩を、一台の自動二輸がすり抜けていった。
軽快な排気音を響かせながら、車の列の隙間を縫って走り行く現代の騎馬をしばし見つめ――ふと思いついたかの様な口調でコーティカルテが言った。
「未だ買わないのか?」
「……何の話?」
「自動二輪だ。苦労して取った免許が泣くぞ」
そう――実はフォロンは自動二輪の免許を持っている。
学生時代――彼は三年生の半ば頃からアルバイトを一本増やした。そのアルバイトで貯めた資金で卒業を半年後に控えた四年生の秋頃から教習所に通ったのだ。
免許取得に半年も掛かったのは偏にフォロンの不器用さによる。
何かにつけ彼は技術の習得が遅い。
コーティカルテは当然ながら毎日教習所までくっついて来ては、遅々として進まない教習課程を見ながら『不器用』だの『運動神経ゼロ』などとフォロンをこき下ろしていたがそれでもフォロンが遂に免許を取得した時には大層喜んでくれたものだ。
無論――フォロンは趣味として自動二輸免許が欲しかった訳ではない。
今はしがない被雇用者の立場だが、いずれ彼は資金を貯めて独立するつもりでいる。
そうなれば当然『アシ』が必要になる筈だ。
汎用性なら自動四輪車の方が上だ。だが小回りが利いて維持費の面でも若干安くあがりそうな自動二輪の方がフォロンには魅力的に見えたし――何というか、自分には分相応に見えたのだ。どっしり構えて悠然と現場に到着するよりも、ちょこまかと街中を駆け回っている自分の方が想像し易かったのである。
「うーん……」
フォロンは苦笑を浮かべて言った。
欲しいのは間違いない。免許は確かに持っているが、仕事に使う道具となると早くから慣れ親しんでおいた方が何かと便利だろう。その意味では独立前でも買って乗り回しておいた方が良い。
ただ――
「まだもうちょっと先……かな?」
「なぜだ?」
玩具を買ってもらえずに拗ねる子供の様な表情で、コーティカルテが訊ねる。
別に彼女に買い与える訳ではないのだが――実際に買えば彼女もタンデムシートに乗る事にはなるだろう。案外コーティカルテはコーティカルテで、フォロンが自動二輪を買うのを楽しみにしているのかもしれない。
「だって高いしね」
「チューコというバイクなら買える、とこのあいだ言っていたではないか?」
言うまでもなく『中古』の意だ。どうも彼女はそれが自動二輪の車種名か何かだと思ったらしい。まあ彼女自身は自動二輸の類には興味が無いらしい上に、時折、常識の一部がすぽんと抜けていたりするので、そういう勘違いも別に不思議ではないが。
「うん。でも今はまだ必要じゃないからね」
「そうか? バイクがあれば毎朝もう少し寝ていられるぞ」
「…………」
一瞬……苦笑を浮かべるフォロン。
玉子焼きサンドを作る時間を省ければ、その分だけ寝ていられる筈なのだが。
「うん、でもさ。楽しくない?」
「なにがだ?」
「コーティと二人で毎朝、てくてく歩くのってさ。僕は楽しいよ」
「…………」
コーティカルテはつかの間きょとんとした表情で彼を見上げる。
戸惑う様に紅い瞳が瞬く事――二度三度。
それから彼女はフォロンから視線をそらすと、何故か拗ねた様に唇を尖らせて言った。
「そ……そうか」
「コーティは楽しくない?」
首を傾げて訊ねるフォロン。
「あー……その。いや。まあ……お前が楽しいのならばそれで……いい」
何とも歯切れの悪い物言いである。頬も若干赤みを増している。
見る者が見れば即座に脳裏に閃くものが在る様な――ある意味では露骨すぎる様な態度なのだが、フォロンには分からない。というかコーテイカルテの態度の意味に気づきもしない。察しが悪いというより、自意識過剰の反対――自意識欠乏なのである。
「それにしても」
車の列を眺めながらフォロンは言った。
「なんだか今朝は……渋滞が凄いね」
さらに五分程も歩くと、前方に先程走り去った筈の自動二輪の姿が見えてきた。
脇道から大通りに合流しようとした乗用車に行く手を遮られ、すり抜ける事も出来ずに停車を余儀なくされている。
いや。その自動二輪だけではない。
都心へ向かう車の流れそのものが、完全に止まっている。
「ここまで酷い渋滞は初めて見るね」
信号侍ちと、あるいは工事による車線滅少が原因の渋滞なら、今までにも何度か在ったが……此処まで流れが滞る事は無かった。単に車の群れの動きが鈍いのではなく、何らかの形で車線が完全に遮断されている様だった。
「事故でも在ったのかな」
そんな事を思いながらフォロンとコーティカルテは歩いていく。
やがて――
「――あ」
フォロンの推測通りの光景が二人の前に広がっていた。
交差点の辺りに人混みが出来ている。十字路を囲む四方の歩道に大勢の人々が集まっているのだ。恐らくは見物客だろう。
そしてその真ん中に――
「む――これは凄いな」
「うん。ちょっと酷いね」
二人の感想通りそれは派手な交通事故であった。
丁度二人が歩いてきた側の道路を大型トレーラーが斜めになって車の流れをせき止めているのである。左側の二つの車線は、コンテナ部分が歩道にまで乗り上げて完全に塞ぎ、一番右側の右折車線にも運転席が突き出ている。とてもではないが、車がすり抜けるのは不可能だ。
どうも接触事故の類らしい。
相手は路肩に停車している黄色い軽乗用車の様だった。幸いな事に、どちらも車体に傷が付いた程度で乗っていた人間は無事であるらしい。作業姿の中年男性と若い女性が、困り果てた様子で立ち尽くしている。
そこへ――
「おおっ――なんだなんだ? お祭りか?」
背後から聞き慣れた声がする。
振り返ると――黒いシャツを着た長身痩躯の青年が一人立っていた。
フォロンと同じく線の細い顔立ちだが、見るからに『癒し系』の穏和な雰囲気を漂わせているフォロンに対し、こちらは若干鋭く、才気走った様な雰囲気がある。顔立ちはまるで少女の様に整っていて――麻色の髪を長めに伸ばしているので、余計に中性的な印象が強い。
ただしその笑みは好奇心満々で騒ぎを覗き込む、悪戯小僧のそれであり――また普段の言動は繊細な容姿に似合わず、かなり男っぽい。
「レンバルト――」
「何だよ、おい。事故か?」
青年の名はサイキ・レンバルトという。
学生時代からのフォロンの友人であり、今は同じ事務所に所属する同僚でもある。
頭の回転の速さや洞察力、そして何よりも大抵の状況に即応できる器用さには、学生時代から定評が在り――それに裏打ちされた、自信たっぷりで余裕のある言動は、この青年の最大の特徴であった。
線の細さという唯一の共通項を除けば、何から何まで本当にフォロンとは対照的な人物ではある。
だが何故か彼はフォロンの事をいたく気に入ってくれているらしく、学生時代は無論、卒業した今も仲良く友達付き合いが続いている。フォロンとしては、ただただ有り難いと思うだけなのだが――案外レンバルトはレンバルトで、自分には無い何かをフォロンに見いだしているのかもしれなかった。
どうやらレンバルトは地下鉄の出口から上がってきた所で、この事故現場に出会したらしい。
毎日代わり映えのしない退屈な通勤路に発生した突発事態に、彼はいささか興奮気味の様子だった。
「人身じゃないみたいだけど……トレーラーが道路を塞いじゃってるね」
ふうん――とレンバルトが振り返るのは、フォロンとコーティカルテが歩いて来た方向だ。もう先が見えない位に渋滞の列が伸びている。こちらの状況が見えないのだろう遠くの方では、渋滞に苛ついた運転手が鳴らすクラクションの音が響いていたりした。
「仕方ねえなあ」
言って――レンバルトは前に出る。
「いっちょタダ働きといくか――」
少し嬉しそうに言うと、フォロン達が止める間も無くレンバルトは人混みを掻き分けて歩き出し――交差点の方へと移動する。
「はいはい一般市民の皆さーん。通して頂戴。神曲楽士の出前ですよー」
道路の真ん中に出ながら、軽い口調でそんな事を言うレンバルト。
何をしているのかと、怪訝そうな眼で歩み出る彼の姿を見つめる者も多い。だが同時に、彼の台詞の聞こえる範囲に居た者達の間から畏怖の感情を含んだ潮騒の様なざわめきが、ゆっくりと広がっていった。
『神曲楽士』。
ざわめきの中心に囁かれるのはその単語だ。
道路の真ん中に立つ彼の手にはディパック程の大きさの、ストラップが付属した金属製の箱が携えられている。
人混みの中に広がる困惑のざわめきが、感嘆混じりのどよめきへと変化する。
人々にも彼の提げているそれが何か分かったのだろう。
何百もの視線が集中している事を、意識しているのかいないのか――レンバルトは飄々とした仕草でストラップに腕を通して、箱を背負った。
「さて!」
景気をつける様に軽く手を打ち鳴らしてから、レンバルトはストラップに付属する金具を引いた。
次の瞬間――ばしゃり、と発条や歯車の立てる金属音と共に箱が展開する。
折り畳まれていた何本ものアームが飛び出し、先端に付属するスピーカーや演奏情報プロジェクタが彼の周りを取り囲む様に配置される。その様子は――まるで巨大な銀色の蜘蛛が背後から彼を捕らえようとしているかの様にも見えた。
それは『単身楽団』と呼ばれる装置であった。
演奏者がたった一人で幾つもの音を制御できる様にと設計された――それは文字通りに『たった一人で楽団の如き音楽を奏でる為の装置』なのである。使用者は事前に記録しておいた演奏情報を併用する事で、幾つもの音色を個別に制御出来る。
最後に一際関節の多い――可動範囲が大きいアームが脇から回り込んできて、主制御用の楽器をレンバルトの前に据えた。
金色に輝くサキソフォンだ。
実を言えばレンバルトは学生時代にはギター奏者だった。それが卒業を間近に控えた冬にいきなりサックスへと転向してしまったのである。
正気の沙汰ではないと誰もが思った。
卒業試験を目前にして、誰もが使い慣れた楽器の演奏技術を熟成させる事に躍起になっている――そんな時期に、今までろくに触った事も無い様な別形式の楽器に転向する事が、如何に大変な事か。誰にでも分かる事だ。基礎的な音楽理論は同じでも、逆に言えば流用出来る技術はその基礎部分しか無いという事である。
だが驚いた事に、レンバルトはあっさりとサックスを使いこなして卒業試験を通過した。
『ちょっとイジってみたら面白くなっちゃってなあ』――とは、突然の転身に対して理由を問うたフォロンに対し、彼が返してきた台詞だ。無論、分野を問わず『興味を持つ』事は技術上達の基本条件だが、普通はいくら『面白いから』といっても即座に使いこなせる様になどならない――というかなれない。
不器用なフォロンの眼から見ればそれは奇跡の様なものだった。
だが……あるいはギターよりはサックスの方が、元々彼の性には合っていたのかもしれない。その転向によって彼の『腕』が上がった事はフォロンにもはっきりと感じ取れたからである。
「――フォロン」
コーティカルテがフォロンの手を掴んで引っ張る。
「少し面白い事になるぞ」
「なに?」
「もう辺りに下級精霊達が集まってきている」
「……え? 演奏の前から?」
言って眼を瞬かせるものの……無論フォロンには見えない。
特に変化らしい変化は肉眼では確認出来なかった。周りの人々も同じだろう。
だがコーティカルテが言うのならば間違いは無い。
眼には見えないが、今この周辺に集まってきているのだ――『精霊』達が。
「常連客なのだろうな」
コーティカルテが苦笑じみた表情で言った。
レンバルトがサキソフォンを構える。
引き結ばれていた唇の中央が、口吻をするかの様にわずかに開き――黒いマウスピースに触れた。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間――
ヴぉあぅらぁあぁああ〜――!!
太く。低く。腹の底に直接響くかの様な旋律が、朝の交差点に鳴り響いた。
同時に単身楽団に予め装着されていた封音盤が回転を始め――そこに記録されていた演奏情報に従って、ベース音、ドラム音といった半自動の伴奏が追随する。
るヴぁう! るヴぁう! るヴあう!
ヴぁらッらッらッら!
個々の音が絡み合い、重なり合って、分厚い音の流れを作り出す。
集合した音の群れは、目に見えない巨大な『音の竜』となって、ねじれ、のたうち、大気を激しく掻き回していた。音は渦を巻き、あろう事か聴衆のざわめきさえもを取り込んで更に成長していく――
「なんて――」
思わず眩きがフォロンの口から漏れる。
「――力強い……」
叩き付ける様な強烈さ。
だがそれは、ただ強いだけではない。軽やかに流転し、変遷し、予想外の旋律に繋がっていくのだ。聴き手は曲がいかなる形へと進展していくのか気になって、眼がはなせなく――否、耳がはなせなくなる。
ただ単に奇を衒って、無茶苦茶に音を並べているではない。
それだけならば此処まで聴く者を引き込みはしない。
あくまで基本に忠実に演奏しつつ――しかし聴衆の反応を伺いつつ、その心の動きを予想して、想定外であろう音を混ぜていくのだ。
そうしてレンバルトの奏でる曲は、聴衆の感覚を心地よい驚きによって裏切る。
大胆な音の強さと旋律の変化に気を取られて、気づかない者も多かろうが――彼の演奏は、最初からそこまで計算され尽くした緻密な構成になっているのである。
聴衆の反応すら予め手の内に捕まえておく程の、緻密さでありながら――それに拘泥せず、現場の空気に即応して様々に調整をも掛ける。
明らかに天才の仕事だ。
だが――ある意味でそれは当然の事である。
そうでなくては人は魅了できても、人ならぬものは魅了できまい。
るヴぁう! るヴぁう! るヴぁう!
ヴぁらららららヴぁッヴぁっ!
レンバルトは両手で金色のサックスを抱え、腰を折っては身を反らし、まるで雄叫びのように『音』を紡いでゆく。
単に音を繋げてみせるだけではない。
彼の動き一つ一つも聴衆を引き込む演舞なのである。
豪放な己の奏でる音に奏者自身が酔いしれているかの様な動き。
ただ聴衆を楽しませるだけではない。
彼白身も好きなのだ――演奏する事が。
「……!」
聴衆のどよめきが微妙に変化する。
レンバルトの周囲に光が生まれたのだ。
それも一つや二つではない。
十や二十ですらもない。
何百という―あるいは千を超えてさえいるかもしれない光芒がまるで蛍火の様に彼の周囲で舞い踊り始めたのである。だがそれらは闇夜にのみ瞬く様な……陽光の下では色擬せてしまう様な淡い光ではない。朝日の中でさえ、はっきりと視認出来る力強い光芒の大群であった。
光はレンバルトの周りで緩やかに渦を巻き始めた。
それらは次第にはっきりとした輪郭に収束していく。実体化を始めたのだ。見ればそれらは球体に一対の小さな――冗談の様に小さな羽根の生えた『何か』であった。しかもよく見るとその球体の表面には子供の落書きかと見紛う様な――きわめて原始的で、しかし妙に説得力の在る『顔』の造作が付属している。
――精霊だ……!
それは意志を持つ力場であり。
それは実体を持つ精神である。
この世界に満ち溢れる『力在る何か』。
神曲楽士と呼はれる特殊な演奏家達の奏でる楽曲――『神曲』を糧とするもの。神曲を報酬として人々に力を貸してくれる不思議な隣人。その生態の多くは未だ謎に包まれているものの――この美しく奇妙な存在に対し、人間達は多くの場合に親愛の情を以て、時には畏怖を以て接してきた。
精霊には数多くの種類がいる。
下級精霊の多くは普段――実体化していない。不可視の精神体として世界中に遍く存在しているのである。強大な力場でもある彼等は、普段は勝手気ままに浮遊しており、一カ所に集まる事さえ希だ。
それが何故にこれほどの数が集まり――実体化したのか。
言うまでもない。
レンバルトの演奏に惹かれてきたのだ。
いや――コーティカルテの言葉を信じるならば、彼等はレンバルトの演奏が始まる前から集まってきていた。
その意味するところを、フォロンは小さな胸の痛みと共に、理解した。
それはつまり――精霊達の間で既に彼の神曲が一定の固定的な評価を得ているという事だ。精霊達にとって『とても美味な』神曲を彼は奏でる事が出来るのである。
レンバルトが神曲を演奏するらしい、とたまたま近くに居て知った精霊達が、我も我もと集まってきて、更には仲間のそんな動きを察知した精霊達もが集まってきて――その結果、わずか数秒で何百という数の精霊達が、彼の周りに集まり、彼の演奏を今か今かと心待ちにしていたという事である。
それだけ彼の神曲は魅力的なのだ。
通常は――平均的な神曲楽士の場合であれば、此処まで劇的な展開にはならない。
実を言えば、フォロンも彼と同じ神曲楽士である。
そして同じ職に就く者としては、その力量に感心すると同時に、ある種の嫉妬と敗北感を感じずにはおれない。同僚であり友人でありながらも、彼は既にフォロンの手の届かない高みに居る――レンバルト本人は否定するが、少なくともフォロンはそう感じていた。
ヴぁヴぁヴぁっヴぁっうぁつ!
るううううううううううううううううううううううううううううううううヴぁっ!
頃やよし、と見てレンバルトの神曲が変化する。
微妙な――しかし明確な意志を伴う変化を、フォロンは敏感に感じ取っていた。
レンバルトが精霊達に『依頼』を開始したのだ。口頭で作業を頼んでも精霊達は受けてくれるだろうが――彼の口は今、サキソフォンを奏でるのに忙しい。だから彼は言葉をも曲に載せて精霊達に振りまいているのである。
ヴぉぶぁる、ヴぉぶぁる、ヴぉぶぁる、ヴぉぶぁる!!
不意に――レンバルトの周囲で渦を巻いていた精霊達の動きが変わる。
下位精霊達は音も無く移動すると、一斉に道路を塞いでいたトレーラーを取り巻いた。
どうなるのかと様子を見守っていた人々が『おお』と歓声を上げる。
動いたのだ――トレーラーが。
あっけなく。まるで重量の無い幻の様に、 音も無くするすると。
あれだけの重量物を無理矢理、力押しで動かそうとするならば、地面との軋櫟や車体の軋みから生じる振動が、近くに居る者にも何らかの形で感じられるものだが――それが全く無いのである。フォロンの位置からは見えないが、あるいは路面から車体が浮いていたのかもしれない。
凄まじい力である。
これが精霊達の力であり――神曲楽士の力である。
下位精霊達自体は実のところ、そんなに大きな力は備えていない。だが彼等は神曲を得れば普段の数倍の力を発揮できる。そしてその倍率は彼等にとって『美味』であればある程に上がっていくという。
時間にしてわずか数秒。
重機を使っても半時間はかかるであろうという作業を、精霊達はたったそれだけの時間で終えてしまった。
無数の光る精霊達は優しくトレーラーと軽自動車を路肩に寄せて停めると――再びレンバルトの周りに集まってくる。
ヴぁヴぁヴぁっヴぁっうぁっ!
るううううううううううヴぁっ!
再び強く訴え掛けるフレーズ。
そして。
ヴぃおぁぁああぁあああああああああああああぁぁあぁぁあぁぁあぁぁあ――っ!!
レンバルトが大きく身を反らせ、ひときわ長く、高らかにサキソフォンを吹き鳴らす。
『ありがとう』――フォロンにはそう聞こえた。
恐らくは精霊達にも同じであったのだろう。
最後に満足げに明滅すると、精霊達は次の瞬間、一斉に姿を消した。
つかの間の高揚感は、余韻を引きずりつつ緩やかに薄れ――日常風景が戻ってくる。
後に残ったのは……
「ま……こんなもんか?」
額に汗を浮かべて――けれど全力で何かをやり遂げた後の、爽やかな笑みを浮かべている、一人の青年。
人々はただ気圧された様に無言で彼を見つめている。
強く強く張りつめた沈黙の中でレンバルトは少し照れた様に頬を掻いた。
そして――
――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!
たっぷり五秒間の静寂の後、交差点は喝采に包まれた。
大通りに面したシャッターを半分だけ開ける。
奥は大きなガラス張りの扉。そこには白い文字で『第三神曲公社公認』『認可番号066249』そして『ツゲ神曲楽士派遣事務所』という名だけが記されている。
素っ気ないといえばあまりにも素っ気無く、広報的な視点から見れば多少の不利は否めない筈だが――それでも、この事務所に依頼の電話が掛かってこない日は無い。所長以下全員が二十代という希有な従業員構成ながら、実力派揃いの神曲楽士事務所として、既にツゲ神曲楽士派遣事務所は有名になりつつあるのだ。
第三神曲公社公認・ツゲ神曲楽士派遣事務所。
その業務内容は読んで字の如く――精霊の力を必要とするあらゆる依頼に対して、神曲楽士を派遣する事。取引先は政府高官から、ご近所の商店街にまで及んでいる。無論、依頼内容も政府の機密事項に抵触するようなものから、迷子の子猫探しや害虫駆除まで、幅広い。
もとい――やたらと幅広い。
何でもありと言っても過言では無かろう。
元来、神曲楽士は超特殊技能であり、その数は少ない為、一般人からは縁遠いものと思われがちだ。しかし此処の所長はそういう現状があまり好きではないらしく、他の事務所ではあまり興味を示さない様な仕事も、条件が合う限りは積極的に引き受けてくる。これもツゲ神曲楽士事務所が業界で注目されている理由の一つであろう。
ともあれ。
フォロンは、そのツゲ神曲楽士派遺事務所の、いわば見習い社員、カッコ研修期間中カッコトジル、なのである。
此処の一員である事にフォロンはいつも誇りを感じるが……同時にひどく申し訳なく感じる事も多い。今朝の様に、自分と他の神曲楽士の差を見せつけられた日などは特に。
それはさておき――
シャッターをくぐり、扉の鍵を開けて事務所内に入る。
手探りで入り口脇のスイッチを押すと、所内にわだかまっていた闇は一瞬で駆逐され、目の前に広がったのは昨夜此処を閉める時に見たのと同じ光景である。
手前には受け付け用のカウンターと待合用のソファ。
その脇には来客が待ち時間を潰すための雑誌がマガジン・ラックに納められている。ちらりとそちらを見てフォロンは思う――ああ、そうだ、今日は『神曲マガシン』と『ブラスト!』の発売日だから、買ってきて入れ換えとかないと。
カウンターの奥にはフォロン達の机が在る。
部屋の真ん中に島を作る様にして、六つの机が寄せられており……それらを取り巻く様にして、書棚だのコピー機だの、事務設備一式が壁に沿って備え付けられている。
まずは他の職員が出勤してくる前に軽く掃除。
これも見習いの仕事である。
「おっはようござーい」
ちょいとふざけた感じで言いながらコーティカルテに続いて入ってくるのは、レンバルトである。ついさっきの大仕事なぞまるで無かったかの様に、彼は涼しい顔でカウンターを抜けて、自分のロッカーに先程使った単身楽団を入れる。
ちなみに机と同じくロッカーは六つ。
一番奥が所長の、時計回りに次がレンバルト、そしてフォロンの順である。所属神曲楽士は以上の三名。他の三つはそれぞれ事務所のマネージャーと、アルバイト二人の為のものであった。
もっともマネージャー――所長の兄は、いつもあちこち出歩いて、営業だの、各種許認可書類の役所への提出だの、公社の社員からの情報収集だの、とにかく脚を使わねばならない作業を一手に引き受けてこなしている。
なので――あまり事務所に顔を出す事は無い。
フォロン達とて顔を合わせるのは数日に一度といった頻度である。
「さってっと」
フォロンは腰を伸ばして、髪をくくり直した。背中まで伸びた髪が、そろそろ邪魔っぽくなってきた。
次の休みにでも切りに行くかな――そんな事を思う。
「急いでやっちゃうからね」
「所長が来るまでに済ませてりゃ大丈夫だろ?」
レンバルトである。すでに自分のデスクに着いて、入ってくる時にポストから抜いた手紙を確認している。その大半は、ダイレクトメールの様だが。
「何だったら、手伝おうか?」
「いいよ、僕の仕事だし。コーティも、ちょっと待っててね」
おう、と応えるコーティカルテは、来客用のソファに座って雑誌をめくっている。
サボっているわけではない。
彼女は、正確にはこの事務所の職員ではないからだ。
「ところでレンバルト。さっきのアレ」
「お、目敏いな」
言いながらレンバルトが笑う。
この青年――黙って立っているだけならいわゆる美形で、近寄り難い位に鋭い雰囲気なのだが、こういう笑顔をすると妙に子供っぽくて、人懐っこい感じになる。
「親父がさ――妙に気を利かせてくれちゃって」
レンバルトは商家の出である。
それも実家はかなりの資産家の様で――親としては家を出て神曲楽士の道を歩き始めた末っ子が可愛くて仕方がない上に、自慢の種らしい。そういう訳で、ねだってもいないのに、しばしば彼の元には両親からのプレゼントが贈られてくるそうだ。
「最新型、だよね」
「おう。リーランド社のやつ。本当に最近のは随分小型になったよなあ。学院で使ってたのが無意味にデカく見えるもんな」
フォロン達が話題にしているのは単身楽団の事である。
本来――たった一人で、楽団規模の演奏を可能とする為の装置である単身楽団は、幾つものユニットを組み合わせて造られる為、どうしても巨大なものになりがちだ。
草創期には小屋一軒程の大きさが在ったとも言われるが、これは年々小型化され、フォロン達が学生の頃でも、大型のトランク・ケース並にまでになっていた。
だが社会の様々な場面で活躍を求められる神曲楽士は、より可搬性の高いものを必要としており、単身楽団の製造会社――楽器会社も、より小型の単身楽団を製造すべく、技術を競っている。
以前は既に在る楽器を組み合わせて小さくまとめるタイプのものが主流だったのだが、最近は専用設計のものもちらほら出だしている。もっとも神曲楽士の数は未だ少ないのでそういう新型は、異様な程に高価であるのだが。
当然――フォロンには高嶺の花だ。
ちなみにこの事務所の所長は、こうした楽器メーカー、ヤマガの依頼で、新型単身楽団の開発にも関わっており、学生時代からこの手の小型単身楽団を使ってはいた様だ。事務所に在るフォロン用の単身楽団も、旧式だがヤマガ製であった。
「僕も早くお金を貯めて自分用のを買いたいんだよね」
当然、フォロン用とはいえ事務所からの借り物である。
だが神曲楽士となったからには、自分で所有したいという気持ちはフォロンにも当然在る。いつか独立を考えているのならなおさらだ。
「その前にバイクじゃなかったか?」
「いやまあ、それもなんだけど」
頬を掻きながら苦笑するフォロン。
「なかなか……ねえ」
ちなみに未だ正職員ではないフォロンは、給料といってもたかがしれている。
レンバルトの様に安定して神曲を扱う事が出来れば、正職員として雇用してもらえるのだろう。だが、今のところ、彼は色々と不安定なところが多く、この為に見習いの地位にそしてそれに見合う給与に甘んじているのである。
まあそういう訳で。
「じゃ――とっとと済ませて、今日も一日、頑張りますか」
レンバルトは、がんばるぞー、と棒読みで言い、コーティカルテはソファで雑誌を読みながら、おう頑張れ、と言った。
事程左様に――
タタラ・フォロンの良いところは真面目で努力家なところである。
そして彼の悪いところは妙に不器用で頑固なところである。
だから彼はしばしば失敗する。しかも頑張る方向を間違えた場合に、彼の様なタイプは傷が大きい。自覚、無自覚にかかわらず、ある種の焦りを感じている――例えば今日の様に同僚たるレンバルトとの実力差を見せつけられたり、自分の至らなさを痛感した時など――はなおさらである。
でもって。
そしてこの日、タタラ・フォロンは、やはり頑張り過ぎて……いや、頑張りどころを間違えてしまうのである。
どうも寝過ごしたらしかった。
クダラが眼を醒ました時――ベッドに女の姿は無かった。
「ヒューリ?」
「――ここ」
応えて――女がテラスから姿を見せる。
そこらのマンションや安ホテルに見られる様な、無機質で四角く素っ気ない『張り出し』ではない。半円を描き、優美に湾曲する手摺りを備えた、古い形式の――まだこの国に貴族が実権を握って君臨していた時代のそれである。
無論テラスだけではない。部屋そのものが前時代の遺物そのものだった。
そもそも単なる客間とは思えない程の面積が在る。
更に天井は高く――そこに吊される照明は、電気ではなく、蝋燭に火を灯す本物のシャンデリアだった。絨毯は足首まで埋まりそうな程に毛足が長く、分厚い本の詰まった書棚も、壁際の燭台も、彫像が飾られたチェストも、全て歴史を経てきたもの特有の風格を醸し出している。
部屋の真ん中に置かれたベッドは天蓋付き――しかもこれを支える柱には、全て精緻な彫刻が施されている。意匠は絡み合う茨と薔薇の花。黒檀の色をしている事が不思議に思える程に、それらは生き生きとしていた。
いずれの家具も名の在る職人の手になるものなのだろう。
全て芸術品と言っても過言ではない。骨董屋でも呼べば導き出される金額に卒倒するかもしれなかった。
だが……
「よく眠ってたわね?」
それらの全てが色褪せて見える程に、テラスの女は優美だった。
否――室内の全てが、彼女の佇む風景を演出する為に用意されたものにさえ見える。ただ美しいだけではない。周りの全てを自らの引き立て役にしてしまう程の存在感が、その女には備わっていた。
女は下着姿であった。
上下共に黒のレース――だが下品さなど全く感じられない。彼女を見た詩人は二度と妖艶という言葉を他では使うまい。毒を含むと分かっていても、見る者が惑わずにはおれない様な――そんな強烈な誘引力を備えた昏い美しさが、その白い肌から滲み出ていた。
「おはよう」
娩然と微笑むその唇は――血の様に紅い。
彼女の肉体の中で、色彩を持つのはそこだけであった。
肌は処女雪の様にどこまでも白く、髪と瞳は深淵の如くどこまでも黒い。
室内の景観と相まって、その姿はまるで色褪せた写真の様な――彼女自身が過ぎ去った過去の住人であるかの様な、何処か退廃的な空気を漂わせていた。
「ああ」
そう曖味に応じて身を起こすクダラ。
彼の方は全裸である。
細身だ。だが貧弱さは微塵も感じられなかった。美術を志す者がこの場に居たならば、スケッチさせてくれと懇願したかもしれない――必要以上でも必要以下でもなく、理想的な状態に引き絞られ、配置された筋肉だという事は、誰の目にも一目瞭然だった。
だがそれらを覆う皮膚は――無数の傷に覆われている。
大きなものも小さなものもある。銃創らしきものも在れば、明らかに何かの刃物で――しかもただ斬られたのではなく、無理矢理に抉られたと思しきものまである。普通の生活を送っていれば、まず身に付く筈の無い類の傷だった。
それらの中でも、ひときわ目立つのは胸のそれであろう。
醜い蛙螂腫れが、腕から肩へ、そして胸を横切って反対側の脇にまで抜けている。
常識的な価値観や審美眼の持ち主で在れば、その惨たらしさに眼を背けるかもしれない。
だが――滑る様に近づいてきたヒューリは、ベッドの上に乗ると、肉食獣の様に音も無く男へと這い寄った。
彼女は白い頸を伸ばして、クダラの胸を真横に切り裂く古傷を――
「ふふ」
――舐める。
深紅の唇と舌が自分の胸を這う淫靡な感触に……しかしクダラの表情は動かない。
それからヒューリはふと顔を上げて小さく笑った。
「――無精髭」
「ああ」
昨夜ベッドに入る前に一応は剃った。
それがもう伸びているのだ少なくともヒューリが気にする程には。
「剃つてこよう」
ベッドを抜け出そうとして、しかしヒューリに押しとどめられた。
「いいわ。大目に見てあげる」
言いながら白い肌が絡み付いてくる。
彼女の寛容さの意味をクダラは正確に理解していた。
興奮である。あるいは期待と言っても良いだろう。
原因は昨夜の一件だ。
昨日夜遅くに指定された場所に辿り着いた二人は、すぐにこの館の執務室に通された。
相手の名前は知らない。
いや――正確に言えば本名は知らない。『奴』は求められれば名乗りはするが、それは間違いなく偽名だろう。あるいは『奴』は単なる代理人で依頼者本人ですらないのかもしれない。その辺りの事情は説明されない。
だが――それで構わない。
相手の事情など知った事ではない。仕事の内容と報酬さえ適正ならクダラに否は無い。
恐らく断る事も出来た。
命令ではなく対等な取引である。拒否権は在った筈だし、クダラに対して無理強いをする程に、相手も馬鹿ではあるまい。『奴』からの依頼はこれで七度目だが、最初の仕事の時から『奴』は、クダラの名を知った上で依頼してきた――中途半端な強制や恐喝が通用しないであろう事も承知しているだろう。
だがクダラは仕事を受けた――自らの意志で。
久し振りの仕事である。
その事実がヒューリを寛容にし、奔放にもしているのだろう。
「…………」
艶めかしく蠢く白い身体を抱き留めながら――クダラは眼を閉じた。
大勢――死ぬ。
くだらない連中が大量に死ぬ。
精霊を『友』と呼び、その真の姿を――真の有様を知ろうともせず、ただ与えられた利便を、享楽を、ひたすらに貧る事しか知らぬ、愚かな有象無象が何十人も何百人も何千人も死ぬ。死にまくる。
死ぬがいい――とクダラは思う。
愚昧な奴等が堕ちるに相応しい地獄の歌を、奏でてやろう。彼等の浅薄な価値観では想像もつかぬ様な、残酷で、醜悪で、汚怪で、悲惨な、どうしようもない真実がこの世界には在るのだという事を、その澱んだ瞳に突き付けてやろう。
この――俺の手で。
ヒューリの激しい愛撫に身を任せながらクダラはひっそりと嗤った。
「ほ――本当ですか!?」
たった四音節の台詞。
だがその間にタタラ・フォロンの声はつっかえて、上ずって、最後には裏返ったりもした。演技ならば『過剰』との誹りを免れないくらいだが……フォロンは至極、真面目であった。
「本当だよ」
そう応えるのはツゲ・ユフィンリー所長。
フォロンの上司であり雇い主である彼女は、椅子に深く腰を下ろし、微かな笑みを浮かべている。直立不動の姿勢で立つ元後輩を眺めるその瞳は学生時代と変わらぬ精気と才気に満ちていた。
「あんたの――初仕事だよ」
何処か相手をからかっているかの様な口調と声音も同じである。
若い。『所長』の肩書きを添えるとどうしても違和感が付きまとう程だ。
それもその筈――彼女はフォロンと二つしか年齢は違わない。
しばしば、直接に事務所まで訪れた依頼者が彼女を所長の秘書か何かと間違えるのも、まあ無理無からぬ事ではある。それだけ若く――そして彼女は整った容姿をしている。
やや短めに整えた髪や、そのやや吊り気味の両眼のおかげで、理知的かつ気丈な雰囲気を醸し出している。愛嬌よりは気の強さや才気が先に目に付くタイプではあるが、それでも彼女を美人と表する意見に、異を唱える者は居ないだろう。
彼女はフォロンの直接的な先輩に当たる。
フォロンがかつて所属していたトルバス神曲学院では、三・四年生の専門課程に対して、一風変わった履修項目が設けられている。
基礎課程の一・二年生を教育する事である。
元々講師の数が生徒数に比して圧倒的に不足しているトルバス神曲学院では、講師不足を補うと同時に、専門課程の生徒達に基礎の復習をさせる意味も在って、こうした体制を敷いている。
もっとも教育と言っても、本格的に講義カリキュラムを組んで指導せよ――という意味ではない。五人ないし六人の新入生を相手に、彼等が日常の講義で修得しきれなかった部分を補助する事が目的である。このために、はっきりとした授業形態が定まっている訳ではなく、自習的な時間枠の中で後輩達からの質問に答えるのが主だ。
当然……自らも基礎をきちんと理解していなければ、質問に答える事など出来はしない。
元々、神曲学院の生徒達は、『神曲』という型式など在って無い様な、ひどく曖昧なものを学んでいるのである。膨大な実例と経験から自分なりの『型』を創り『理論』を組み立てていくしかない。その意味では、専門課程の生徒にも基礎過程の生徒にも、これは意外と意義の在る講義だと言えた。
それはさておき。
フォロンが入学した当時、彼の面倒を見てくれたのが、当時三年生だったツゲ・ユフィンリーである。彼女とはその時からの付き合いだ。
彼女が担当の先輩となった事は、フォロンにとって大きな幸運と言えたろう。
元々天才と評され、在学中から既にプロの神曲楽士として活動していたユフィンリーから、フォロンは多くのものを学んだ。明らかに神曲使いとしてのスタイルは違うのだが、その違いがかえってフォロンに身の丈に合った神曲の作り方、奏で方を教えてくれたと言える。彼女が居なければ、今の自分は無かったと本気でフォロンは思う。
また彼女は卒業と同時――若干十九歳にして独立し、事務所を開設した。
志望者が年間数千人、その中で国家試験にパスしプロとしてデビューするのはたったの数十人、しかも数年後にはその残った数十人の半数までもが、己の限界を知って引退する、と言われるこの業界において……それは異常なまでの早さと成功なのだと言える。
そして二年後、彼女は卒業したばかりで落ち着き先の決まっていないフォロンと、同じく彼の同級生だったレンバルトを、自分の事務所に雇い入れてくれたのである。
ただし……レンバルトとフォロンではその扱いに差が在った。
レンバルトは新入社員。フォロンは見習社員である。
一見――これは不当な差別である様にも見える。
だがこれが資質の違いであり才能の違いだという事はフォロンも理解していた。
レンバルトとフォロン。
神曲楽士――精霊遣いとして見た場合に、この二人のスタイルは明らかに異なる。
レンバルトの奏でる神曲は、上級精霊を呼び出す事は出来ない。また専属契約を結んだ精霊も居ない。彼の神曲の個々の精霊に対する誘引力はフォロンのそれに較べると弱い。
だがその一方で、彼の神曲は下級精霊に限つて言えば、時と場を選ばず、それもほぼ無制限に召喚する事が出来るのだ。
つまりレンバルトの神曲は『広く浅い』のだ。
対してフォロンはといえば、上級精霊と専属契約を結んでいるし――その精霊は上級精霊という大雑把な括りの中で見ても、信じ難い程に強大な存在だ。恐らく単純な力の量から考えれば、下級精霊が百体や二百体集まっても、彼女には敵うまい。そんな精霊が常に彼の側に侍っているのである。
この事実はレンバルトをうらやましがらせたりもする。
つまりフォロンの神曲は『深く狭い』のだ。
これはどちらが上とか下とかいう話ではない。あくまでそれぞれの『流儀』であり『得意分野』の違いだ。
だが、ここで問題が一つ。
神曲楽士という存在を職業人として見た場合……優秀なのはどちらか。
一見すると、上級精霊と契約しているフォロンの方が優秀な様に見えるが、さにあらず。その場に応じて、召喚し使役出来る精霊の数や種類を調整出来るレンバルトの方が、色々と融通が利くため、幅広く仕事を請け負う事が出来るのである。
そういう訳で、フォロンは今日の今日まで数ヶ月の間、見習いという名の雑用係だった訳だが……
「――で。どんな仕事だ?」
尋ねたのはフォロンではない。
自分の席で居眠りをしていたコーティカルテである。
当然の如く事務所内に居るものの……この紅い髪と眼の少女の机は此処には無い。彼女の席といっても、単にいつもそこにコーティカルテが座っているというだけで、彼女の為に用意されたものではない。元々は予備の椅子をフォロンのデスクの隣に置いているだけだ。それもコーティカルテが自分で勝手に。
コーティカルテは職員ではないのだから当然といえば当然である。
彼女のする事と言えば、フォロンの仕事を覗き込んだり、邪魔したり、ごくごくたまに手伝ったりといった程度。はっきり言って居ても居なくてもあまり差は無い存在だ。
少なくとも――普段は。
フォロンがあくまで雑用係としての単調な仕事しか任されない限り、彼女の出番は無い。
だが――
「当然、私の出番も在るのだろうな?」
ひらりとフォロンの机を飛び越えやはり体重など微塵も感じさせない動きで――更にはユフィンリーの机に手をついて乗り出すコーティカルテ。
「コーティ」
事務所の人間なら誰もが見慣れた、いつも通りの傍若無人な態度であるが、今回ばかりは大慌てでフォロンは彼女の襟首を掴んで引き戻した。ユフィンリーが気を悪くして今回の仕事を取り消してしまっては――彼女の性格からしてそんな事はまず無いとは思いつつも――たまらない。
だがやはりフォロンの心配は杞憂だった様だ。
頬を膨らませてフォロンと振り返るコーティカルテと、気圧された様に身を反らせるフォロンを眺めつつ――ユフィンリーは微苦笑を浮かべて言った。
「無論在るわよ。神曲楽士としての仕事だからね」
「うむ」
満足げに腕を組んで頷くコーティカルテ。
「で――どんな仕事なんです?」
「うん。これ」
フォロンの問いに応えてユフィンリーが机の陰から取り出したのは――金属製の四角いケースであった。
四隅を守るゴム・パッドの他に、衝撃吸収用と思しき細長い凹凸が何本もその表面に付いていて、見るからに物々しい印象の代物だった。雰囲気としては現金輸送に使われるトランク・ケースに近い。ただし個人が徒歩で持ち歩く事も考慮されているのか、握りの他にも長い吊り帯が付いていた。
今朝ユフィンリーは、フォロンが掃除を終えた丁度その時に、事務所に出勤してきた。
その際、普段なら自分専用の小型単身楽団しか持ち歩かない彼女が、このケースを重たそうに肩に提げていたのをフォロンは見ている。何だろうと疑問に思いながら掃除用具を片付けていると、机に着いたばかりの彼女に呼ばれ、初仕事を告げられたのだ。
「何だか分かる?」
言いながら彼女は塊の様な金属ケースを机の上に置き、真ん中から二つに割る様にして開く。見るからに重そうな音を立てて開いたその中に入っていたのは――
「……ええと」
思わずフォロンは口ごもる。
中身は三本の円筒だった。
大きさは一抱え程。
金属製らしい事はその表面の光沢を見れば分かる。円筒の上端は半球状に丸められていた。下半分は緩衝材らしき黒い軟質樹脂に埋め込まれていて見えないが、恐らく同様の形状になっているのだろう。
側面の曲面には同じく角を落とした細長い窓が三つ、三方に開いていた。窓には湾曲した透明な素材――恐らくは強化硝子――が填め込まれている。あるいは本体は透明な硝子筒の様な構造で、その上から同じく円筒型の金属製外殻が覆っているのかもしれない。
一見した所、その中身は空っぽだった。
何かを入れるものだろうというのは想像がつく。
だが――一体何を?
フォロンの知識や記憶の中に同様のものは無い。
強いて似たものを挙げるとすれば――
「蓄雷筒か」
答えたのはコーティカルテであった。
「正解。さすがね」
とユフィンリー。
その言葉にフォロンは思わず驚きの声を上げた。
「これがですか?」
大き過ぎるのだ。
確かに形状そのものは従来の蓄雷筒に似てはいる。だが普通の蓄雷筒ならば、どんなに大きくても掌に乗る程度の代物であった筈だ。
精霊雷。
一般的に精霊の放つ力――多くの場合に光を伴う――を総称してそう呼ぶ。
その本質については未だよく分かっていない。
だが電気と同様に様々な応用性を持つ上に、電気には有り得ない程の融通が利く――複雑な装置を介さずとも、様々な物理現象に直接変換が可能である――このエネルギーを利用しようという発想は、かなり古くから在った。
だが、この精霊雷は精霊にしか発する事が出来ず、機械的な方法でこれを再現する事には未だ成功していない。そのエネルギーとしての本質が分かっていないから、これは当然の事だ。
だがそうなると、精霊雷を人間が確実に利用するためには、どうしてもその場に神曲楽士が必要になる。しかも神曲楽士の数は少なく絶対的な安定性にも欠ける。人問である以上、調子の良い悪いが在り、常に安定した演奏を行い、恒常的に精霊雷を精霊に供給する様、要求する事は難しいからである。
では先に精霊が発したこの精霊雷を何らかの方法で蓄積しておいて、必要に応じて随時引き出す様な機構を造る事は出来ないか――そう考えた技術者達によって開発されたのが蓄雷筒と呼ばれるものである。
だが……
完成した蓄雷筒は非常に――物体的な意味でも容量的な意味でも――さなものだった。
これは技術的な限界が在った為である。
精霊雷は精霊の制御を離れた瞬間に、何らかの物理現象に転化しようとする。そしてその総量が大きくなればなる程に、転換しようとする傾向は強まる。
精霊雷の総量と、蓄雷筒の強度や、転換の確率その他を秤に掛けた場合、精霊雷を精霊雷のまま安全に保存出来る限界の大きさと容量が『掌サイズ』だったのである。
だが今フォロン達の目の前にあるものは違う。
大きさにして全長は通常の蓄雷筒の五倍――容積にすれば単純計算で百二十五倍にもなろうかという代物だ。
当然、フォロンもこんな蓄雷筒など見た事は無い。
「これはね」
とユフィンリーは言った。
「今度、実用化を予定されている大型蓄雷筒よ。一通りの技術試験を経たばかりで実際の耐用試験は未だ。言っておくけど単なる業務用じゃないわよ。もっと遥かに大規模の――発電所で使う予定の代物」
「ということは、精霊力発電の……」
「そう。それ関連。で――とにかく試作品が一〇〇本ほど出来たんで、テストすることになったわけ。いい? 公社は通してるけど、これはカグト工業からの正式な依頼なんだからね」
つまり――
技術的な詳細はさておき、とにかく精霊力発電の仕組みが変更となり、そのために必要な大型蓄雷筒が開発された。その実用に先立って、試験が必要である。そこで開発と製造を請け負ったカグト工業は全国の神曲公社に依頼、公社は全国の神曲楽士および神曲楽士仲介業者に試験への参加を呼びかけたのだ。
精霊雷は精霊の個体差により微妙にその質が変わってくる為、可能な限り多くの試験サンプルを集める必要が在るのだろう。
そして今……そのうちの三本が此処にある。
「私と、レンハルトと、そしてフォロン君とで三本」
三本立てた指を順番に折って見せながらユフィンリーは言った。
「耐過負荷のテストだから、とにかく蓄雷不能になるまで、詰め込んで」
「いつまでですか?」
「明日の朝イチ。言っとくけど、事務所を閉めるまでは通常の仕事があるんだからね」
それはつまり――今夜中にという事だ。
無論ただ精霊雷を蓄雷筒に詰めるだけというのならば、難しい仕事ではない。むしろ神曲楽士の仕事としては最も簡単な部類に属するだろう。
だが――
「出来る?」
その問いにフォロンは思わずコーティカルテを振り返った。
紅い髪の少女は唇を結んで肩を竦めただけだった。聞いてみたらつまらない仕事だが、まあやってやらんでもない――そんな感じである。
不安を覚えるフォロン。
彼自身は精霊ではないので、いくら意気込んでみても蓄雷筒を精霊雷で一杯にする事は出来ない。神曲楽士は精霊を使う事で、初めて仕事をこなせるのである。
出来なければ出来ないで断った方が良い。
適当な理由を付けてこの仕事を拒む事は出来るだろう。ユフィンリーもいちいちそれを追求したりはすまい。簡単な仕事だけにユフィンリー一人でも可能な筈だし、一本だけ他の事務所に振る事も出来る。
だが……もしこの初仕事を失敗すれば、フォロンは大恥をかく上に、彼の肩書きから『見習』の文字がとれる日はずっと先の事になる。
コーティカルテが乗り気で無いなら此処は万全を期して断った方が良いのかもしれない。
ひどく後ろ向きな考えが脳裏を過ぎる。
だがそんなフォロンの背中を――ユフィンリーの台詞が押した。
「無理そうなら、一本だけ、よそに振るけど?」
あるいはそれは、彼女がフォロンの内心を見越して放った牽制であったのかもしれない。
ユフィンリーは付き合いが長いだけに、フォロンの心理というものをよく理解している。ついついこういう場面で消極的な選択をしそうになる彼の扱いについても、彼女は熟知しているのだ。
そもそも――無理をしなくていいよと先に気を回されると、つい気が咎めて無理をしてしまうのが人間というものである。フォロンの様な性格の人間は特にその傾向が強い。
なので――
「いえ! やります。やらせてください!」
殆ど反射的にそんな台詞がフォロンの口から飛び出していた。
「そっか」
満足げに頷くユフインリー。
やはりフォロンの反応は全て計算済みなのかもしれない。
「じゃあ、奥の防音室、使ってもいいから」
「はい」
頷いてしまえばもう後には引けない。
「さてそれじゃこれはそういう事で」
言ってユフィンリーはケースを閉じて机の下に降ろした。
「昨日頼んだサニワ興産とこの見積もり――出来てる?」
「あ――はい!」
頷くと書類を取りにフォロンは自分の机に駆け寄った。
日が暮れるのを待って屋敷を出た。
クダラの腕と車であれば夜半には現場に着く筈である。
必要な資料には既に眼を通した。あとは現場に出向いて依頼内容を実行するだけだ。久し振りの仕事だが――これまでに何度も繰り返してきた仕事と実質的に差は無い。
「…………」
黒い四輪駆動車の前でクダラは背後の屋敷を振り返った。
夜空よりもなお黒々とした威容がそこにそびえ立っている。鋭角の屋根が星空を切り裂く闇色の刃の様で――ひどく禍々しい印象が在った。
無論そんな光景に怖気をふるうクダラではない。
ただ……
「――どうしたの?」
四輸駆動車の後部座席のドアに手を掛けたヒューリが振り返って尋ねてくる。
「……いや」
クダラは応えて歩き出す。
「何でもない」
「そう」
特に気にした様子も無くヒューリはドアを開いて後部座席に滑り込む。目的地に着くまでの短い時間は、鮮血色の夢でも観て過ごすつもりなのだろう。
「…………」
クダラも運転席に座ると四輪駆動車のエンジンに火を入れる。
「〈エンプティ・セット〉――か」
何処か皮肉げな口調で眩いてクダラはアクセルを踏んだ。
いささか仕事が長引いてしまった。
残業という程ではないが……それでも普段の退勤時間を、一時間近くも越える超過労働である。内容としてはいつもと大差無い。ただ――落ち着いていつもの如く仕事をこなしている積もりでも、『初仕事』を前にした興奮で事務仕事に対する注意力が落ちていたのかもしれなかった。
ともあれ今日はアパートに戻る訳にはいかない。
フォロンとコーティカルテは近所の食堂で簡単な食事を済ませてから、ツゲ神曲楽士派遣事務所に戻ってきた。
既にレンバルトとユフィンリーの姿は無い。滅多に事務所に姿を見せないユフィンリーの兄も、当然の如く居ない。
戸締りを確認し、入り口の照明だけを残して事務所の電気を全て落して、それから二人で奥の部屋に向かう。ごく普通の――平凡な事務所の停まいの中で、その部屋に通じる扉だけが、やけに物々しく異彩を放っていた。
「さて――」
まるで鉄パイプの様なレバー式の把手を握って、分厚い扉を開く。
密閉されていた空間が開放される際特有の、吐息じみた音が二人を包んだ。
まず、さっさとコーティカルテが部屋の中に歩み入って照明のスイッチを入れ――続いてフォロンが扉を閉める。これがまた普通の部屋とは違う。元々が重い上に、扉には壁との間をぴっちりと埋めるためのゴムが貼られていて、かなり力を込めて押し込まねば閉まらないのだ。
途端に周囲の『音』が変わるのをフォロンの耳は敏感に感じ取った。
正確に言えば完全な静寂が二人の身を包んだのだ。
此処は防音室である。
神曲楽士の事務所ならば大抵は備わっている。個人の邸宅にこうした設備を持つ神曲楽士も多い。神曲の練習用の部屋であり、同時に今回の様に事務所で演奏作業をしなければならない場合のために造られたものだ。
五メートル四方程の、狭い空間である。
中の音は全く漏れない。
外の音も入ってこない。
しかも雑音となる反響や残響を殆ど許さない壁面構造になっている。壁はおろか天井にも床にも無数の穴が開いていて、その複雑な表面構造が音を吸収する。無論、窓は一つも無く、出入りする扉も一つだけだ。
此処に入ると、まるで世界そのものから切り離されたかの様な印象を受ける。
「じゃあ、始めようか」
そう告げるフォロンの声も。
「いつでも」
応えるコーティカルテの声も。
全く反響しない。
全ての音が単独で存在し、純粋なままで耳に届く。それは不思議な圧迫感をもたらす感覚だった。いかに普段、自分達が反響音の溢れる世界に生きているのかを思い知らされる。
防音室の隅には金属製の箱が三つ並べられていた。
登山用のバックパック程度の大きさで、やはりバックパックと同様に背負帯が二本付属している。だがよく見るとその表面は大小様々の角張った凹凸と、縦横に走る細い継ぎ目に覆われていた。
単身楽団である。
レンバルトやユフィンリーの愛用している品に比べると随分と大きいが……これは旧式である為と、可搬性よりも汎用性と操作性を優先させた型であるからだ。フォロンが学生時代に使っていたものに近い。
フォロンは右端の一台を背負って部屋の中央に立った。
その正面ではコーティカルテが蓄雷筒を両手に抱えて彼と向き合う。
「――緊張しているな?」
「うん。 してる」
悪戯っぽく尋ねてくる紅い瞳の少女に、素直に答え、フォロンは両手を背後に回した。
最初に操作するのは、単身楽団の筐体底面に設置された安全装置である。左右の角に埋め込まれたスライド式のレバーを左右同時に引く。
かちん――と硬い金属音を立てて全てのロックが解除された。
次に背後に回していた手を滑らせて、必要な箇所を軽く叩いていく。すると幾つものカバーが展開し、あるいはシャッターが開いて何本もの多関節アームが飛び出してきた。
それぞれのアームの先端にはウーハー・スピーカーや、ツィーター、あるいは演奏情報表示用のプロジェクタが取り付けられており、まるで獲物を捕らえる蜘蛛の脚の如くフォロンを包み込む。
最後にフォロンの胸の前に回り込む様にして移動してきたのは鍵盤である。
既にこの単身楽団は、フォロンの身体に合わせて展開時のアームの位置や角度まで微調整されている。視線を素早く走らせて、それらがいつもの様に適正位置に展開したのを確認すると、フォロンは鍵盤の底部に在る固定スイッチを押し込んだ。
かちんと音を立てて全てのアームが固定された。
過程としては長いが、最初に安全装置を操作してから実質的に二秒弱の事である。
「また早くなったな」
コーティカルテが微笑む。
「まあね」
微苦笑で応じるフォロン。
これでも努力は重ねているつもりだった。
無論――展開速度が速くなったからといって、神曲演奏の善し悪しには直接的な影響は無い。だが道具を使い慣れる事は重要だ。何かと不器用なフォロンだが、学生時代から何故か単身楽団の操作だけは得意で、この機械を操作する感触は好きだった。
まして――中古とはいえ、高価な単身楽団を一台、ユフィンリーは見習いの立場のフォロンに、専用機として用意してくれているのだ。彼女の期待に応えるためならば、仕事が済んでから居残って練習するくらいは何でもなかった。
そしてその努力が……今日遂に形になる。
初めての仕事だ。
事務仕事でも雑用でもない。
プロの神曲楽士としての最初の仕事なのだ。
「いくよ」
フォロンが呟く様に言う。
彼は右手で鍵盤の端に付属する操作卓を叩いて、内蔵された封音盤の一つを呼び出す。単身楽団は一人で楽団規模の演奏を可能にするが――当然その為には、自動演奏に頼らざるを得ない部分が出てくる。その為の演奏情報を刻んだものが封音盤であり、大抵の単身楽団には数枚の伴奏用封音盤がセット出来る様になっている。
神曲楽士はその中から適当なものを選んだ上でそこに主旋律を被せ、アレンジを加える事でその場その場に応じた演奏を可能とするのだ。
「待たせるな」
コーティカルテの返事はいつもの如く横柄だ。
だがそれが、かえって今は心地良い。
フォロンは五指を開いて鍵盤の上に置き、唇を舐め、そして再びコーティカルテと視線を交わしてから眼を閉じた。
指先に――そこから紡ぎ出す予定の音に神経を集中する。
指が白い鍵盤の一つを叩いた。
最初の一音はA『ラ』。
――くぉん。
硬質なピアノの音が迸る。
反響せず。残響せず。ただ純粋な音として空気を震わせる。
そして演奏が始まる。
神曲であった。
その起源は遥かな太古――実に奏世記にまで遡ると言われている。
歴史すら及ばぬ遠い昔。
神は八つの腕で四つの楽器を奏で、四つの口で歌い、世界を創造したのだと言われている。
神の奏でる旋律は混沌の中に秩序を打ち立て、響き渡る音階はそれぞれが空となり地となり水となり風となり、そして命となり光となり死となり闇となった。
奏世である。
そして、この際に奏でられた音楽――ありとあらゆる『もの』の源たる音、あらゆる『こと』の源たる音、全ての『存在』を生み出した偉大なる音の連なり、これをして後世の人々は神なる楽曲――即ち神曲と呼んだ。
そう。世界を生み出したのは音楽であった。
そして――
奏でよ、其は我等が盟約也
其は盟約
其は悦楽
其は威力
故に奏でよ汝が魂の形を
人よりも神に近く、神よりも人に近い『存在』にとっては、この神曲こそが糧であり命そのものとなった。
こるル。
かルる。
るル。
きあン。
くあン。
………
流れる水のように。そよぐ風のように。
フォロンの指が柔らかな旋律を産み出してゆく。
高く。低く。軽く。重く。早く。鈍く。
全てを内包しながら、更にその向こうを目指して志向性を与えられた、音の羅列と重複。それは分厚い流れとなって渦を巻き、空間を支配する。
一音が消えると同時にそれは次の一音に繋がり、途切れる事無く続いていく。
生成し。死滅し。流転し。
一音は千音に分岐し千音は一音に収束する。
世界を生み出したものを神曲と呼び、今彼が奏でるものもまた神曲であるのならば――彼は今、音による極小規模の世界創造を行っているに等しかった。
「…………」
眼を閉じてじっと聴き入っていたコーティカルテの唇が、微かに笑みの形を作った。
次の瞬間――彼女の背に光が弾けた。
鋭く迸った深紅の光は彼女の背後で自ら形を成す。
紅く輝く六枚の羽根。
ゆったりとした曲線を持ちながら、その先端は鋭い。しかもよく見ると、その輪郭は複雑にうねり、切れ込み、ねじれ、複雑な紋章のようでもある。
物質的な、あるいは生物学的な意味での『羽根』ではない。だが多くの者はこれを躊躇も疑問も無く、羽根と呼び、翼と呼ぶ。それは精霊の――『意志を持つ力場』とも言うべき存在が生み出す、力の放散現象であると同時に、彼等の存在を象徴するものでもあった。
そう。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは人間ではない。
一見すればただ生意気なだけの少女にしか見えない彼女こそが――タタラ・フォロンと精霊契約を結んだ精霊なのである。
しかもその背に輝く六枚の翼――これは上級精霊の証だ。
それは雑多な精霊達の中でも、より強大で高貴なるものとして君臨する資格を意味する。
心優しき精霊達は彼女を敬い、慕い、あるいは憧れる。悪意在るそれらでさえ、畏怖と共に頭を垂れる。それがコーティカルテ・アパ・ラグランジェスなのである。
「…………」
コーティカルテが蓄雷筒の両端を支えて手を挙げる。
ぱちん……と何かの爆ぜる小さな異音がフォロンの奏でる神曲に割って入った。
コーティカルテの掌での事だ。
音と同時に彼女の掌からは光が溢れ、それは次の瞬間、深紅の電光となって奔った。
精霊雷である。
それは精霊達を構成する『力』そのもの。
精霊達は自らの一部を精霊雷の形に変換して外部に放つ事が出来る。その力は精霊の意志の下、自由自在に形を様を変え――時に『盾』となり時に『槍』となる。
今朝、レンバルトの呼び寄せた精霊達がトレーラーを動かしたのも、この精霊雷である。
しかし全ての精霊が同等の『力』を持つ訳ではない。
今朝の精霊は下級精霊である。だからトレーラーを動かす為には、あれだけの数が必要だったのだ。下級精霊は自らを構成する精霊雷の総量が少ない。神曲によりそれを一時的に増幅する事は可能だとしても無理な作業は自滅を呼ぶ。
だが……コーティカルテなら。
フォロンの契約精霊であり、上級精霊である彼女ならば、たった一人でも簡単な作業であっただろう。神曲を得た上級精霊の力は、時に山を削り海を割るとさえ言われる。
(……ああ。そうか)
フォロンは半ば没我状態で演奏を続けながらも――ふと心の片隅で気づいた。
(つまりそこのところが僕とレンバルトの違いなんだ……)
彼は状況を一目見るなり動いた。
微塵の躊躇も逡巡も無く、精霊を呼び寄せて、的確な指示を飛ばし、その力を人々の為に役立てて見せた。けれどフォロンは、これだけ強大な力を持つ精霊と一緒に居ながら、トレーラーを動かす事を考えてもみなかったのである。
だがその一方で……その理由も分かってはいた。
それが正当なものかどうかは分からない。
だが――
「いくぞ」
反響が無いせいで音の距離感が掴めない。
まるでコーテイカルテの声も耳元で囁かれたかの様に聞こえた。
「うん」
フォロンが応えるなり、コーティカルテの両手が閃光を放った。
紅い。
精霊雷は精霊によってその色が異なる。これはコーティカルテの色だ。単に髪や眼の色だけではなく――混じりけの無い鮮やかな真紅は、彼女の存在そのものを示す色彩だった。
強烈な真紅の光が、稲妻の様に蓄雷筒の周りを這い回る。
少し遅れて、蓄雷筒の中にも光が灯った。
両端から送り込まれた光の奔流が、円筒の中央でぶつかり合い、渦を巻きながら光の球になっていく。それを硝子窓を通して見る事が出来るのだ。
フォロンの知っている蓄雷筒は本来――実用的な製品ではない。
『何だかよくわからないもの』『意志を持つ何か』である精霊が発する、やはり『何だかよく分からない力』が精霊雷である。過去に幾多の精霊の強力を得て積み重ねられてきた研究から、幸うじて生まれたものは、下級精霊一体が、約二分間、全力で放つ精霊雷をため込める程度のものだった。
精霊の制御下ならばともかく、変換効率の悪い機械的な利用では、蓄雷筒が役に立つ場面はあまり無い。あくまで『次の時代に向けて開発された過渡期の技術品』でしかなかった。
だが……
その次の時代の産物が今此処に在る。
既にかつての蓄雷筒の限界は突破している。目の前の巨大な蓄雷筒はコーティカルテの放つ精霊雷を漏らす事無く蓄えている。上級精霊がしかも契約主の神曲を聴きながら発する精霊雷をだ。
(凄いな……今までのものとは全く比べものにならない)
神曲は精霊に力を与える。
少なくとも神曲を得ている間、精霊が放つ精霊雷は通常の倍――神曲との相性が良ければこれが三倍にも四倍にもなる。まして精霊契約を交わした相手の神曲を聴きながらとなれば、等比級数的にその力は跳ね上がっていく。
その精霊雷を、問題なくこの新型蓄雷筒は吸収しているのだ。
それは――ある意味で、科学が精霊という名の謎に手を掛けた瞬間であったろう。
「――そろそろだぞ」
コーティカルテが眩く様に言う。
それはつまり満タン――蓄雷容量ぎりぎりまでという意味だ。
確かに側面の硝子窓から覗く限り、真紅の光は蓄雷筒の中一杯に広がっている。あるいはコーティカルテならば許容限度以上の精霊雷を強制的に送り込んで、蓄雷筒を破壊する事も出来るかもしれない。
「限界って、判る?」
「破裂する寸前、という意味か?」
「そう」
「判る。もうすぐだ」
「じゃあ、その寸前で止めて」
「判った」
応えた直後――コーティカルテの背中で六枚の羽根が消えた。
「限界だ」
フォロンも演奏を終える。
空間一杯に満ちていた神曲が拡散して消滅した。
――………
代わりに耳を刺すかの様な無音が再び防音室の中に充満していく。神曲に慣れた耳にはその静寂は殊更に冷たく硬いものに思えた。
フォロンは深い溜め息をつく。
「疲れたか?」
「大丈夫。コーティは?」
「お前の神曲を聴いていたのだぞ?」
微苦笑を浮かべてコーティカルテは言う。
「これしきの仕事で疲れるわけがなかろう」
精霊雷の行使は、精霊にとって文字通りに『身を削る』行為である。
彼等はその身を構成している『力』を精霊雷として放出している。無論それは精霊本体の構成部分に比べれば、微々たるものかもしれないが――過剰に放出を続ければ、いつかは無くなってしまうのが道理だ。そしてその存在の大部分を『力』によって支えられている精霊達にとって、その消耗は疲弊の同義であり、底をつく事は文字通り存在の消滅『死』を意味する。
もっとも……コーティカルテならば、神曲無しでも蓄雷筒を一杯にしてしまったかもしれない。上級精霊とはあくまで人間達が便宜上に創り上げた区分に過ぎないが、やはりその名を冠される者達は、他の精霊とは明らかに格が違うのである。
それでも。
彼女の言葉はフォロンにとって照れ臭くもあり、嬉しくもあった。
「良かったな」
「――え?」
「お前の初仕事だ。無事に終わった」
言ってコーティカルテはにっこりと笑う。
普段は傲岸不遜を絵に描いた様な彼女なのだが、ごくたまにこうした笑顔を――ひどくあどけなく可愛らしい笑顔を見せてくれる。恐らくフォロンが常日頃コーティカルテの無茶に付き合っても平気なのは、この笑顔を知っているからだろう。
「うん……ありがとう」
少し頬を赤らめながらフォロンも笑顔を浮かべて応える。
こうして彼の初仕事は成功の内に終わる――
「…………」
――筈だった。
だが。
「――どうした?」
怪訝そうにコーティカルテが尋ねてくる。
フォロンの表情が不意に曇ったのに気が付いたのだろう。
「ごめん――コーティ。ちょっとそれ見せて」
言いながら半ばひったくる様にしてフォロンは蓄雷筒を受け取った。
フォロンらしくない仕草だ。単身楽団を背中から降ろすのも忘れて、彼は蓄雷筒の中で流動する真紅の光を食い入る様な眼で見つめた。
そして――
「コーティ」
相棒を呼ぶ彼の声は何処か硬い。
「何かいつもと違う事……した?」
「いや? どうした?」
怪訝そうに尋ねるコーティカルテ。
「これ……駄目だ……」
「なに?」
「やり直そう……これじゃ駄目だよ」
「……はあ?」
コーティカルテの声は――語尾が驚きと呆れに跳ね上がっていた。
「私が何か失敗したとでも言うのか!?」
「判らない。失敗したのは僕の方かもしれない。とにかく――これじゃ駄目だよ」
「言われた通りにしたぞ!?」
叫ぶ様にコーティカルテは訴える。
「手を抜いたりなどしていない!お前の初仕事だ――私も全力でやった!」
「そうだよ」
「なに?」
「初仕事なんだよ……僕の……」
じっと蓄雷筒を見つめながらフォロンは眩く様に言う。
彼の表情にも口調にも焦燥や憤怒は無い。ただただ淡い落胆だけがそこには在った。それは確かな理想を自分の内に持ちながら――それに手が届いていない事を自覚している者の声と貌だった。
誰に対する怒りも無い。
ただただそれは――切ない。
「それは」
コーティカルテは何かを言おうとして口を開きしかしそのまま言葉を発する事無く、飲み込んだ。代わりに彼女は長々と溜め息をついて肩を疎める。
「判った」
「ごめん。だけど――」
「いい――言うな。判った」
「うん」
フォロンは頷く。
こういう時……自分も相手も無駄に言葉を重ねる事を、コーティカルテは好まない。言葉は偽れる。言葉は取り繕える。たとえ相手の事を思っての事であろうとそれは時に真実から人を遠ざける事にもなる。
だから――
「やり直そう」
ただ短く彼女はそう言った。
故にフォロンもただ短く応える。
「ありがとう」
言って彼は、蓄雷筒の端に埋め込まれた小さなスイッチを操作した。
機械弁である。
開放を命じられたそれは、蓄雷筒の密封を解除。
「…………」
「…………」
精霊と。人間と。
二人の見守る中、蓄雷筒の端から鮮やかな真紅の閃光が迸って――消えた。
現場には、予定の時刻丁度に到着した。
既に時計の針は夜半過ぎを指している。世の中の連中の大半は仕事を終えて眠りについている頃合いだ。だがクダラに限って言えば、彼の仕事の殆どはこうした時間に始まる。
「相変わらず……こういうところだけは几帳面ね?」
「仕事だからな」
椰楡する様な口調で言ってくるヒューリにそう返す。
クダラとヒューリの二人が降り立ったのは駐車場である。
きちんと――それこそ几帳面なくらいに駐車スペースの枠線内に停められた黒い四輪駆動車の前で、二人は白い建物を見上げた。
暗夜の空を背景にしたそれは、巨大な幽霊の如く周囲から浮かび上がって見えた。
愛想も何も無い、殺風景な壁と必要最小限の窓で構築された建物である。その景観はまるで刑務所か何かの様で……そそり立つ平坦な壁は見上げる者を音も無く威圧する。
「行くぞ」
言葉と共に吐き出される息が白い。
街とは異なり、山の空気は日没後――急速に冷える。
だがクダラの言葉に応じて歩き出す女は、腕も脚も殆ど剥き出しである。病的な程に白いその肌を夜気に晒したまま、総毛立つ様子も無い。
その身に纏うものといえば僅かな薄絹のみである。ただし黒く丈の長いその衣装は白い肌を闇の色に切り取るかの様で……どんな光にも決して透ける事は無い。
クダラはコートの前を左手で掻き合わせ、右手にはアタッシュケースを提げて建物の正面玄関へと向かう。
意外な事に、正面玄関は施錠されていなかった。
だが不用心と誹られる必要は在るまい。
「どちら様ですか?」
クダラが正面玄関から中に――薄暗いホールヘと踏み込んだ瞬間に声が掛かったからだ。
言葉遣いは丁寧なものだが、その声は警戒心を満載して鋭い。
警備員である。
必要最低限にまで照明を落とした広いエントランス・ホールの真ん中で、水色の制服が浮かび上がって見える。警備員は腰の警棒に手を添えた状態でホールを横切り、クダラの側までやってきた。
「…………」
クダラは苦笑する。
職務には熱心なのかもしれないが、この警備員は明らかに経験不足だ。あるいは危機意識が足りないと言っても良い。
正体不明の訪問者。しかも時刻は夜半。そんな相手に真正面から、しかも警棒に手を掛けただけの状態で近付くなど迂闊もいいところだ。
「けっこう」
応えるクダラの声に緊張はない。
「休んでてくれ。用向きは勝手に済ませる」
「そうはいきません。身分証明を提示してください」
近付いてくる警備員の顔を見ると――どうやらまだ若い様だ。二十代前半といったところだろうか。その手は既に特殊警棒の留め紐を外している。クダラが不審な動きを見せれば、一瞬で抜き放ち、叩き伏せるつもりなのだろう。
つまり……それが自分には出来ると自惚れているらしい。
「死にたくないのなら止めておけ」
クダラの言葉に警備員の脚が止まる。
威嚇とすれば陳腐も極まった台詞だが、クダラの口調には何ら攻撃的な響きは無い。桐喝でも嘲笑でも無い。ただ純然たる事実を事実としてただ告げているだけの喋り方であった。
「彼女は今――機嫌がいい。わざわざ損ねる事も無かろう」
警備員からは、あるいはヒューリの姿が見えていなかったのかもしれない。
彼女がホールに凝る闇の中から悠然と歩み出ると警備員の表情にクダラに相対していた時のそれとは別種の緊張が走った。
「まさか……」
「そうよ――坊や」
ヒューリの言葉に警備員は躊躇無く右手を警棒から離し、代わりに拳を造って己の胸元を叩いた。
何の呪いかと訝しむ必要は無かった。次の瞬間にはホール全体にブザー音が鳴り響き、壁からは回転灯が飛び出してきたからだ。
無線で警報装置のスイッチを入れたのだろう。回転灯の紅い光が創り出すいびつな斑模様が、ホールの中を蠢く。耳障りな警報音はこれでもかとばかりに空気を震わせ、侵入者の存在に異を唱える。覚悟の決まっていない者ならば、それだけでも腰が引けそうな物々しい空気が一瞬にしてホールを満たした。
だが――
「やかましいな」
ぽつりと呟く様にクダラは言った。
「そうね」
気怠いとも言うべき口調で応じるヒューリ。
どちらにも全く緊張する様子は無い。
次の瞬間――ヒューリの背中に黒い閃光が弾けた。
言うまでもなくそれは、精霊の翼だ。
だがそれは……世間一般で語られる精霊の印象と、何とかけ離れた代物である事か。
精霊とは『人の姿をした何か』であり『強大な力を持つもの』であると同時に『人類の良き隣人』であると理解されている――少なくとも世間では。
だがヒューリの背中に展開されるそれは、禍々しいばかりに黒く、不吉な青白い燐光をまとってさえいる。
美しくはある。
だがそれは骸の上に咲く花の、凍える様な美しさだ。
「…………」
ふと――ヒューリが何処かを振り返って瞳を凝らす。
唐突に警報音が鳴りやんだ。
彼女が止めたのだろう。どうやってと問うのは愚の骨頂だ。上級精霊は時に神と同列にすら語られる程の力を持つ。警報機の回路を破断させるなど、彼女にとっては指先を鳴らす程度の作業に過ぎない。
「この灯りは……このままでいいわね」
赤い回転灯の光の下――真っ赤な舌が真っ赤な唇を舐める。
「好きよ――私。この色」
「――左様か」
彼女の言葉を受けたのは――クダラではなく、顔面蒼白で身構える警備員でもなかった。
「ならば、ぶん殴ってやろうか。真っ赤な火花が散って、さぞ美しかろうて」
太く低い――腹の底に直接響く声だ。
二人の侵入者を警備員とで挟み込む様な位置に、声の主は立っていた。
巨体である。身の丈はヒューリの倍はあろう。単純な体積でいえば恐らく十倍近い。
当然だが人間ではない。
肩幅が不自然なまでに広く、胸板も厚い。二の腕はクダラの胴周りの二つ分はありそうだった。上半身は彫像の如く筋肉の線を浮き立たせた裸体。だが下半身は脳褐色の獣毛に覆われている。
そして――非人間の極みはその頭部。
直立歩行する巨体の上に載っているそれは、どう見ても――湾曲する太い角を備えた水牛の首であった。
「大人しくするなら脳天を一発、ぶっ叩く位で許してやらぬでもないぞ」
硬い革を重ね合わせた様な肩口から左右それぞれ二枚ずつ――合計四枚の羽根が光を放っている。短いが幅のある――戦闘機の翼を想わせる羽根であった。
この獣人もまた精霊なのだ。
よく見るとその脇の暗がりに、一人の男が立っていた。
衣装は先の若者と同じく警備員のものだ。ただし装備は全く異なる。
その男の背には単身楽団が在った。既に各アームは展開を終えておりいささか中年太りの気配が見えるその腹の周囲には大小幾つものドラム・パッドが展開していた。
「ミノティアス!」
中年の警備員が叫ぶ。
どうやらそれがこの水牛の頭部を持った精霊の名であるらしい。
「おう」
「捕まえろ」
「承知!」
どんッ――と地響きにも似た足音を立てて獣人型精霊が前に出る。
同時に警備員の制服を着た中年の神曲楽士が演奏を開始した。
速い。
指の付け根で。あるいは指先で。あるいは掌全体で。神曲楽士の両手は目まぐるしく動きながら目の前に展開している六角形のパッドを叩いてゆく。
本来であればドラムはその打音を増幅するための筒が必要だが――この単身楽団は代わりにパッドから様々な信号を生み出し、それが内蔵音源を制御し、スピーカーを経て電子的に再現された音となる。
素人目にはしばしば打楽器の操作は単純な様に見えるが……これは大きな間違いである。
ただでさえ右と左の腕を独立して全く別の動きをさせるのは難しい。例えば右手を左右に動かしながら左手を上下させる――ただそれだけの行為ですら、実際にやってみろと言われて即座に出来る人間は少ない。
これに加え、単身楽団のドラム・パッドは単なる打ち込みの強さだけでなく、その角度や位置によっても信号が代わり、音色が変化する。鍵盤の様に明確に区切られていない分、むしろ使いこなすには、経験に裏打ちされた高度な技術が必要とされるのである。
カッ! カカカ!。
コカッ! コカカ!
カカカカカ! コカカカカッ!
カッ! コカカッ!
コンガの音に似た硬質な打音の連なり
単調な音の羅列の様に見えて、その打音は様々に変化し複雑なリズムを編み上げていく。同時に単身楽団の自動演奏機能が音階を伴う旋律を紡ぎ出し、勇壮な戦の歌を組み立てる――
獣人とクダラ達の間合いが瞬時に詰まる。
戦闘支援用の神曲を受けたミノティアスの力が跳ね上がったのである。牛の頭部を持つものの、その突撃は牛のそれとはまるで違う。力に任せ勢いに任せて突っ込む様な動きではない。その巨体で空気を抉り抜く様にして移動しながら――しかし足音はむしろ軽い。
だが――
「――むうっ!?」
二人同時に掴みかかろうとした左右の巨大な、腕は虚しく空を掻いた。
「何処だ!?」
自らを遙かに上回る速度で目の前から消えた侵入者の姿を求め、獣人は頭部を巡らせる。その姿は力強ければ力強い分だけ、空振りの滑稽さも強調してしまっていた。
「悪いが先に行かせて貰う」
声はミノティアスの斜め後ろから聞こえた。
既にクダラは奥に続く通路の手前に居た。その肩口には、しなだれかかる様にしてヒューリの細い腕が巻き付いている。
「むっ――」
ミノティアスがクダラ達に向き直り改めて身構える。
今の一瞬で、相手の動きが自分を遙かに凌駕するという事実を……恐らくこの獣人も理解しているのだろう。
人間が、神曲を受けた中級精霊を凌駕する動きなど出来る筈が無い。つまりヒューリはクダラを連れた状態で、ミノティアスの動態視力を越える程の動きをして見せたという事である。
だが、ミノティアスの闘志は衰える様子を見せない。
速度が劣らずとも、膂力や耐久力が在る。どれか一つだけが特出している状態は、必ずしも強いとは言えない。戦闘とはただ一つの要素だけで決するものではない事をこの精霊は知っているのだ。
恐らくかなりの戦闘経験を持つ精霊なのだろう。
「待って」
構わず奥に進もうとしたクダラを彼の精霊が引き留めた。
「一分でいいから遊ばせてくれない?」
ヒューリが静かに笑う。
悦楽に焦がれる者の、淫蕩なまでの笑顔だった。
「支援してくれるなら、三〇秒で済むし」
「いいだろう」
クダラは苦笑を返す。
相棒の『悪い癖』はいつもの事だ。だがそれだけに見立ては正確である。三〇秒で済むと彼女が言えば、きっかり三〇秒で事は終わる。少なくとも例外をクダラは知らない。
だから――
「遊んでこい」
言ってクダラはアタッシュケースの把手を引いた。
ACT2 PROBLEM AREA
実の所――ツゲ・ユフィンリーは自分の初仕事が何だったのか憶えていない。
在学中に神曲公社への資格申請手続きが完了した日は、資格証にも記載が在るので憶えているが……これはあくまで公社公認の神曲楽士になった日付に過ぎない。
それ以前にも彼女は仕事として神曲を奏でている。
ただしそれは自分の知人や友人から頼まれて、それに応えていただけの事だ。
科学技術も発達した現代社会においては精霊の力でなければ出来ない事というのは少ない。だが――精霊の力を借りた方が、圧倒的に簡単で、迅速で、しかも確実に済ませられる作業というものは多い。
時には現金で謝礼を受け取る事も在ったが、多くの場合は食事を奮って貰ったり、映画や演劇、コンサートのチケットを貰ったり、以前から顔繋ぎしておきたかった楽士を紹介して貰ったり……つまり彼女は神曲演奏の対価を『報酬』ではなく『御礼』という形で受け取っていたのだ。
だが、それが噂となり友人の友人がツテを辿って仕事を依頼しに来る様になった。
その次は友人の友人の更に友人。
自分の技能が必要とされる事は喜びだった。だからユフィンリーは拒まず頼まれれば神曲を演奏し、その『御礼』を貰っていた。そしていつの間にか依頼者は直接面識の無い人間の割合が増えていき――『御礼』も現金の形を採る事が多くなり、いつの間にか『報酬』になっていた。
気がついたらプロになっていた。
それがユフィンリーの実感である。
だから正直に言えば彼女はフォロンやレンバルトの事が少し羨ましかった。
初仕事がいつだったのか。どんな内容だったのか。報酬がいくらだったのか。
そんな細かな事まできちんと記録に残るのだから。
そしてだからこそ――
「あんた莫迦じゃないの!?」
彼女は怒った。
「そんな事しろって言った? 私、そんな指示、出した?」
ツゲ神曲楽士派遣事務所。
ユフィンリーの机の前には一人の少年が悄然とした様子で立っていた。
彼女にとっては可愛い後輩である。
そして同時に頼りない新入社員だ。
タタラ・フォロン。
二人の間にはユフインリーの執務机が在り――その上には一本の蓄雷筒が乗っている。
「答えなさい――タタラ」
呼び慣れた名前ではなく苗字でユフィンリーは彼を呼んだ。
「……いいえ……」
「聞こえない」
「いいえ。せんぱ……いえ、所長は、そんな指示は出していません」
フォロンはか細い声でそう言った。
見ていて気の毒になるくらいの、意気消沈ぶりである。項垂れ、視線はユフィンリーではなく、机の縁に固定されている。両手は力無く身体の脇に垂れているばかりだった。
しかも彼が一睡もしていないのは一目瞭然だった。
首の後ろで縛った髪は乱れ放題で、注意して見ると眼の下には隈も在る。頬も何処か垢じみて見えた。簡単な見た目を整える余裕も無い程に、彼は樵悴しきっていた。
だが……
「私は、蓄雷筒を満タンに、って言ったよね?」
詰問の鋭い口調で言うユフィンリー。
ここで手を緩める訳にはいかない。
何故なら――これは仕事だからだ。
「……はい」
「コーティカルテの精霊雷でしょ?」
「……はい」
少年の双眸がわずかに動いて脇を一瞥する。
彼の隣には、彼と契約を交わした紅い髪の精霊が立っている。
こちらは明らかに不満げな顔付きであった。普段なら既に喧嘩腰の台詞の一つや二つ飛び出している筈なのだが――彼女が唇を硬く引き結んで一言も喋らないのは、フォロンがその様に強く言い聞かせているからか、それともユフィンリーの言葉と態度を正しいと認めているからか。
「コーティならこの程度の仕事……ものの五分で片付けられた筈よね?」
「――二分だ」
ぼそりと眩くコーティカルテ。
それでも彼女が懸命に我慢をしているのはユフィンリーにも判った。
精霊契約を結ぶという事は、必ずしも利点ばかりではない。ある意味で精霊が、自らの命運を神曲楽士に委ねるという事でもある。生半可な好意や信頼では成立するものではないのだ。
それだけに契約主たるフォロンが糾弾されているこの状況は、コーティカルテにとっても耐え難い苦痛であり屈辱であろう。二年前の彼女ならば既にこの時点で一暴れしていてもおかしくはない。
「そう――二分ね。なのに一晩かかって、このざまなのね?」
ユフィンリーの執務机の上の蓄雷筒。
その中身は全くの空だった。硝子窓の内側はただ暗いままで――莫大な力を貯め込む事が出来る筈のその容器は、今ただ無意味に闇だけを封じ込めている。
今朝ユフィンリーが事務所に出勤した時、フォロンとコーティカルテの姿が無かった。
先に来ていたレンバルトの話では、どうやら防音室に居るらしい。それも昨日の晩から彼等はアパートに帰っていない様なのだ。
「俺も未だ顔を見ていないんですよ」
とレンバルトは言った。
何か嫌な予感がしてユフィンリーはいきなり防音室の扉を開けた。
そこで彼女は見たものは――室内に溢れかえる真紅の閃光であった。
フォロンが蓄雷筒の機械弁を操作して一旦中に貯め込んだ精霊雷を放出――いや棄てているその瞬間であったのだ。
そうしてユフィンリーは一旦作業を中断させ、フォロンとコーティカルテを防音室から引きずり出した。フォロンに関しては本当に襟首を掴んで引っ張って此処まで連れてきた。
一体何を考えているのか。
「どうしても……」
問い詰めるユフィンリーにフォロンは奥歯を噛み締めながら言った。
「どうしても納得いかなかったんです」
「何が?」
「コーティの精霊雷は……もっと……」
――コーティカルテの唇が僅かに動く。
声は聞こえなかったが……ユフィンリーはその唇の形から、ただ短く『馬鹿』と紅い精霊が眩いたのだと気づいた。
だがフォロンは気づかなかった様だ。
彼はそのまま言葉を続けた。
「もっと綺麗な……純粋な光です。あんなの……提出なんか出来ませんでした」
蓄雷筒の中で蠢く光に濁りが見えたのだ――と彼は主張した。
澄み切った水の中にインクを一滴落としたかの様に、透明な光の中にムラが在って、それがぐるぐると動いているのが見えたのだという。
ひどく抽象的な物言いであったが、その意味と理由をユフィンリーは即座に理解した。
緊張だ。
恐らく初めての仕事に対する過度の緊張が、フォロンの神曲に顕れていたのだろう。緊張は適度であれば集中力を高めてくれるが、度を超せば大量の雑念を生む。その結果、フォロンと契約を結び、彼の神曲に合わせて自らを『調律』してしまっているコーティカルテは、その影響をもろに受けてしまったのだ。
そして彼女の精霊雷に濁りが生じた。
契約精霊と神曲楽士は一心同体である。神曲楽士の抱える逡巡や躊躇、不安や動揺は如実に精霊の力として表れる。経験を積み、自己制御に長けた神曲楽士ならば、それを抑え込む事すら可能ではあるが――半人前のフォロンには無理であった様だ。
「だから、やり直したのね?」
「はい」
「何度も何度も」
「はい」
「一晩中」
「いえ……途中で何度か休んで……」
そして結局――間に合わなかった。
途中で休んだから間に合わなかった訳ではない。問題は時間の長い短いや回数の多い少ないではない。たとえ一ヶ月をかけ一万回作業を繰り返したとしても同じ事であったろう。
ユフィンリーは苛立たしげに溜め息をつき――そして視線を横へ滑らせた。
「コーティカルテ」
「なんだ」
ユフインリーの呼び掛けに精霊は無愛想な口調で応える。
「言いたいことがあるなら、あなたは言ってもいいわよ」
フォロンは、ツゲ神曲楽士派遣事務所の社員だ。
つまり彼はユフィンリーの部下である。上司からの指示を無視して部下が勝手な事を行ったのなら、それは理由の如何を問わず叱責の対象となって当然なのだ。
だがコーティカルテは違う。
彼女はユフィンリーとは直接的な繋がりは無い。彼女はあくまでフォロンの契約精霊であり、ユフインリーの部下ではない。いわばツゲ神曲楽士派遣事務所にとっては雇用外の第三者であり、協力者に過ぎない。
ユフィンリーには彼女を叱貢するべき権利も無ければ義務も無いのだ。
まして状況を見れば、この結果が誰の意志によって出てきたものなのかは明白である。コーティカルテは恐らくフォロンの要望に従っただけであろう。
「私は……」
コーティカルテがぼそぼそと喋る。
視界の端でレンバルトが驚きの表情を浮かべるのが見えた。ユフインリーと同じく彼もこんなコーティカルテを見るのは初めてなのだろう。
「フォロンが責められるのを見ているのは、不愉快でならない」
「…………」
ユフィンリーの唇から溜め息が漏れた。
予想通りといえば予想通りの答えである。予想通り過ぎて頭が痛い。
「精霊の貴女に、人間の社会について理解しろとは言わないわ。でもフォロンが人間で、既に社会人である以上、彼は社会の規範に従う必要があるの」
「…………そうかもしれんな」
コーティカルテは眩く様に言う。
実のところ……彼女はフォロンより幼い様に見えるが、実際にはユフィンリーよりも遙かに歳上だ。不老である精霊に対して、人間の価値基準で年齢を当て嵌める事にどれだけ意味が在るのかは判らないが、少なくともユフィンリーやフォロンよりも彼女は長く人間社会というものを見てきている筈だ。
それが精霊の立場からの――人間社会の『外側』からの俯瞰的視点であるとしても、彼女が全く人間社会の有様や規範を理解していないとは思えない。ユフィンリーは『コーティカルテが理解する必要は無い』と言ったが、恐らく未だ二十歳で社会に出たばかりのフォロンよりは遙かに人間社会の規範というものを彼女は理解している筈だ。
ただ、契約主たるフォロンを想う感情が彼女の意識を横方向に引っ張る。
同意も共感も出来ないが、認識と理解は可能――だからこそコーティカルテは大人しいのである。納得は出来るが、したくないといったところだろう。
「仕事が出来ないと規範から外れるか?」
確かめる様にコーティカルテが尋ねてくる。
それは、あるいはフォロンに聞かせる為の質問であったのかもしれないが  本人は俯いたままで、聞いているのかどうかも判らない。
「いいえ。やると言ったのに、やらないことがルール違反なの」
ちらりとフォロンを一瞥してからユフィンリーは言った。
「やったぞ?」
「いいえ」
「やったのに……やっていないのか?」
「そう」
「訳が判らない」
「そうでしょうね」
苦笑を浮かべる。
恐らくコーティカルテは判っている。だがフォロンが判らない以上は彼女も素直な理解を拒む。精霊契約を交わした精霊と契約主とはそういう関係だ。傍らで見ている分には、ただ側に侍って居るだけに見えるかもしれないが。
「きっとフォロンも判ってないと思う」
「そうなのか――フォロン?」
尋ねられてフォロンは唇を噛む。
精霊とは純粋な存在だ。
人間社会の価値観やしがらみを理解してもなお、彼等は――時に残酪な程――率直に振る舞う。そう振る舞わざるを得ない。彼等は『人に似た何か』であって人ではないのだから。
フォロンはただ無言である。
応えないのではなく応えられないのだ。
自分が理解していないという事実を自覚させられる程、辛い事は無い。
無力感は容易く絶望に通じて、心の中に在る様々なものを腐敗させる。人生経験の浅い若者にとって、それは特に致命的な猛毒にさえ成り得る。
恐らく今フォロンはその毒に耐えているのだろう。
「多分――」
言いながらユフィンリーは席を立った。
「時間は掛かるだろうし、何かきっかけは必要かもしれないけれど。理解して貰わないとプロにはなれないわよ」
「…………」
「お出かけですか?」
書類整理に没頭する振りをしていたレンバルトが顔を挙げて尋ねてくる。
「ガクトだったら俺が行ってきてもいいつスけど」
毎論――蓄雷筒を届けに行くのだ。
「そうは行かないでしょ。所長の私が頭――下げてこないと。スジが通らないわよ」
誰が見ても簡単な仕事。
そして三本の約束で講け負った仕事が二本しか出来ていない。
これでは言い訳などとても利くまい。元より精霊だの神曲だのという科学の分析が完全には追いついていない様な――統一的な理論体系すら無く、経験則に頼らざるを得ない様な、ひどく曖昧なものを商売の種にしているのが神曲楽士だ。
彼等の社会においては実績が全てである。
暖昧であるからこそ、結果を出せなければ簡単に信用を失う。
故に――
「俺か所長で今からパパーッと満タンにしちゃったら、駄目ですかね?」
言いながらも――すでに席を立ったレンバルトは開いたケースに蓄雷筒を納めにかかっている。その程度の解決策を彼女が思いついていない訳がないと知っているからだ。
これは質問ではない。確認だ。
自分がフォロンを助けて良いのかどうかという意味の。
「同じのが二本あっても……サンプルとしては意味ないでしょう」
「……あ」
フォロンが声を漏らす。
三本の意味を此処に至ってようやくフォロンは気づいたらしい。
三本と三人。
当初『出来るか』と尋ねはしたものの、ユフィンリーは『フォロンとコーティカルテならば出来る』と確信していたからこそ、三本の蓄雷筒を預かってきたのだ。見習い見習いと言いつつも、彼を一人前と認めているからこそ、彼女は今回の仕事の面子にフォロンを含めたのである。
なのに……
「――じゃあ留守番よろしく」
言ってユフィンリーはケースを受け取る。
その時。
「――僕も」
不意にフォロンが言った。
彼の視線はユフィンリーの執務机に向いたままだ。だがはっきりとした声がカウンターを出ようとしていたユフィンリーの背中に届いた。
「僕も行きます」
互いに背中を向けあったままの二人を、そんな台詞が繋いだ。
恐らくはそれが彼なりの――今思い付く限り精一杯の決着の付け方なのだろう。
「僕がやったことですから、僕が謝ります」
駄目を押す様にフォロンは言った。
「…………」
束の間――カウンターの脇で立ち止まり沈黙するユフィンリー。
これはちょっと想定していなかった。
恐らく彼は未だユフィンリーが怒った事の意味を本当に理解はしていない。ただ目先の状況を何とかする事に精一杯なだけだろう。下手に許せは悪い癖がつきかねない――『どんなに失敗してもとりあえず頭を下げておけば済む』など思い込む様な。
だが。
(うーん……)
ユフィンリーは束の間ながら思案した。
雇用者には雇用者側の責任が在り――それ故の葛藤が在る。
タタラ・フォロン。
不器用で頼りない新入社員。
だが生真面目で何事にも一生懸命な可愛い後輩。
(……やっぱ私もまだまだ甘いかなあ)
少なくとも『自分が行って謝罪する』は今の彼が必死に考えて出した結論だ。それを頭ごなしに否定しても得られるものは少ない。ユフィンリーはそう自分に言い聞かせる。
だから。
「――よし。おいで」
ユフィンリーは振り返ってケースを差し出す。
多少『上司』よりも『先輩』としての感情が優った形ではある。
だが――
「はい!」
振り向き駆け寄ったフォロンが、ケースを彼女から受け取った時――紅い髪の精霊がわずかに表情を綻ばせるのを、ツゲ神曲楽士派遣事務所の所長は見逃さなかった。
床面積はちょっとした講堂程の広さがある。
天井は正確な高さが見当もつかないくらいに、遙かな上。
形状そのものは単純な立方体に過ぎないのだが――床も、壁も、そして恐らくは天井すらも黒大理石となれば、たとえそれらが全て人造大理石であったとしても、相当に高価な造りと言えるだろう。それが企業としての『顔』の一つであるのは確かだが、訪問者がただ通過するだけの場所に、此処まで金を掛けられるのは大企業ならではの事だ。
カグト工業本社ビルーエントランス・ロビー。
フォロンは壁際のソファにコーティカルテと並んで座っている。
眺めるのはユフィンリーの背中。彼女の居る受付カウンターまでは、たっぷり十メートル以上の距離が在り、スーツで正装した彼女の姿もひどく小さく見えた。
「元気を出せ」
ソファが深過ぎるのか、あるいは柔らか過ぎるのか――隣に座ったコーティカルテは、小柄な身体が殆ど寝そべる様な姿勢にまで埋まり込んでいる。
「お前が沈んでいると私まで沈む」
その言葉がソファに半分めり込んだ様なその体勢と奇妙に符号して……フォロンは微かに苦笑を浮かべた。
「……うん。ごめん」
「謝るな。お前は悪くない」
コーティカルテははっきりとそう言った。
だが――
「そう?」
「そうだ」
本当にそうだろうか。
たしかに昨夜は一睡もせずに頑張った。
頑張って頑張って――それでも出来なかった。
それは動かし様の無い事実だ。
まずいと思う。
(仕事なのに――初めての)
それに仕事がきちんとこなせなかったせいでカグト工業にも迷惑がかかる。勿論ユフインリーにも迷惑がかかる。現にこうしてユフィンリーは普段着慣れないスーツまで着て、わざわざ謝罪に来ているのだから。
問題の蓄雷筒はケースに収まって、今、彼の脚の脇に置かれている。
三本の金属製の筒。
一本は――空のまま。
(僕のせいだ……)
それは判っている。確かに悪いことをしたとは思う。
だが何かが引っかかるのだ。
素直に謝る事の出来ない何かが、ずっと胸の奥に在る。その気になれば今此処で精霊雷を蓄雷筒に充填する事だって出来るだろう。神曲無しでもコーティカルテならその程度の事は可能な筈だ。
だがそれがフォロンには出来ない。
コーティカルテにそう命じる事が出来ない。
だって――
(コーティの精霊雷は……もっと…………)
「いや――参った」
突然の声に顔を挙げる。
見ればユフィンリーが受付カウンターからこちらへ戻ってくるところだった。
「社長、出掛けちゃってる」
「――え?」
その意味を理解するのに一瞬の間をフォロンは要した。
そして理解した次の瞬間には、愕然と立ち上がっていた。
「この仕事って――カグト工業の社長から直接請け負ったものだったんですか?」
「そうだよ?」
何を今更――といった口調でユフィンリーは言う。
「公社は通してるけどカグトからの仕事だって……言わなかったっけ?」
確かに言われた。記憶に在る。
しかしまさかそんな意味だとは思わなかったのだ。
こんな大企業の、頂点に立つ人間から直々の依頼。
末端の部署から事務的に回ってきたものではない。仕事の大切さに上下の区別は無いとしても……万が一の失敗によって失墜するであろうツゲ神曲楽士派遣事務所の権威や信用は、普通の仕事の比ではあるまい。
「私が事務所を開く前に、何度か仕事したことがあるんだよね。だから今回もうちにだけは、公社の方に話だけ通して、直に依頼してきてくれたみたいでさ」
知らなかった。
単に仕事上の――事務所の信用というだけではない。ユフィンリーの個人的な信用にまで影響する。そして信用と、それに付随する人脈こそが何よりも強い武器である神曲楽士の業界において、それを失う事がどれ程の損失を意味するのか……その程度の事はフォロンにも判る。
簡単ではあったかもしれない。
だが大切な仕事だったのだ。
「すみません……」
ようやく絞り出す言葉は――しかしユフィンリーの耳には届いていない様だった。
「んんー……どうするかなぁ」
腕を組んで所長の肩書きを持つ娘は眩く。
「事務所の方は、双子がバイトに来る日だから大丈夫だとして。でもちょっと遠出なんだよね……」
普通なら担当者にケースを渡して事は済む。社長には後日にでも連絡を入れて挨拶しておけば良い話だ。
だが――謝罪となると、やはり依頼してくれた本人に直接会ってしなければ誠意が伝わらない。そういう事にはとにかく細かいのがツゲ・ユフィンリーという娘ではあったし、フォロンは彼女のそういうところを何よりも――あるいは神曲楽士としての天才性よりも――尊敬している。
ならばやるべき事は一つしかない。
「追い掛けるんですか?」
「うん。やっぱり今日中に謝っときたいからさ」
でもね――と彼女は続ける。
「発電所なんだよ――出先。ヤワラベの」
微妙な場所である。
車を飛ばせば行けない所ではない。だが半日はかかるだろう。行って帰って――それだけで今日は終わりかねない。いっそ二日三日かかる様な距離ならば諦めもつくのだが。
しかし――
「行きます。所長が行かれるなら、僕も付いて行きます」
フォロンは即答する。
「――そ? 判った」
ユフィンリーの決断も早かった。
「まあ私も噂の発電所にも興味は在るしね。んじゃ車、正面に回すからあんたは事務所に連絡だけ入れておいて」
「はい!」
頷いて駆け出そうとし――フォロンは足下のケースに蹴躓いてよろけた。
「えええええええええええええええええええっ!?」
驚愕ではなく。感嘆でもなく。
やたらと語尾の上がったそれは――純然たる抗議の声であった。
「嘘ぉ!? もうやだ――なんで!? 信じらんない、メイクに二時間も掛けたのに!」
いくら花も恥じらう乙女、身だしなみに気を使うのも当然とはいえ、それは掛けすぎではないか――とサイキ・レンバルトは思う。
それも別にデートだとかパーティだとかではない。ただバイト先に行くだけで毎回そんな手間暇をかけていたら効率が悪くて仕方なかろう。
だが相手はそうは思っていないらしい。
「先輩に会うのだけが楽しみなのにぃー」
率直過ぎるその言葉にレンバルトは苦笑する。
そんな彼の表情を見て、少女の方は自分の失言に気づいた様だ。ぶんぶんと大きく首を振るのに合わせ、後頭部で二条にまとめた長い金髪が慌てた様に揺れる。
「――あ。でもでもそれは違くて。ちゃんと勤労意欲もありますよ、本当!」
大慌てで両手まで振り回す。
頭と腕と――共に残像が残るかと思うくらいの勢いだ。多数の顔に多数の手。まるで奏世神の様だな――と特に脈絡も無くレンバルトは思う。もっとも奏世神は一般的に男性格として語られる事が多いのだが。
「でもフォロン先輩といっしょじゃないと張り合いないって言うか、あ、でもサイキ先輩は眼中にないって意味でもなくて、なんて言うかサイキ先輩もカッコイイけどフォロン先輩は優しいからとか、じゃなくて、えと、サイキ先輩が優しくないとかじゃなくてですね――」
「判った判った」
片手を挙げてレンバルトは眼前の少女を制した。
さもなくば彼女は延々と言い訳だか何だか判らないものを喋り続けたに違いない。
感情表現が豊かな分、自らのそれに引きずられて何かと暴走しがちなところがこの金髪の少女には在る。そこが一途で可愛らしいところでも在るのだが。
「別に気を悪くしたりしてないから」
昼過き――フォロンから連絡が入った。
ユフィンリーと共にカグト工業に出掛けた彼曰く――
所長と一緒にそのままヤワラベの発電所の方へ行く。なので帰りは遅くなる
――との事だった。
ヤワラベというとかなり田舎だ。
そもそも帝都メイナードやその周辺の都市には、〈三国戦争〉の影響で精霊風の地名や人名が付けられる事が多いが……戦争以前の風土を色濃く残す田舎では、古来からの――この国本来の流儀で付けられた名称が多い。
レンバルトの記憶が正しければ、ヤワラベはこの将都トルバスから、車でも半日程度掛かる場所に在る。
恐らく日付が変わるまでにフォロン達が戻ってくるのは難しいだろう。
そういう訳で――その事を、やってきたアルバイトの少女達二人に告げた途端、その片方が前述の様に騒ぎ始めたのである。
金髪の少女の名はペルセルテ――ユギリ・ペルセルテという。
レンバルトやフォロン、そしてユフィンリーの卒業したトルバス神曲学院の専門課程を、現在履修中の三年生。つまりツゲ神曲楽士派遣事務所の三人にとっては後輩に当たる存在だ。
特にフォロンはペルセルテが実習課程に居た二年間、担当の先輩として彼女の面倒を見ていたし、聞いた話では彼女等が神曲学院に入学する以前にも何やら知り合う縁が在ったらしい。
だからという訳でもなかろうが、レンバルトの眼から見るとペルセルテはフォロンにべったり懐いている。お互いが学院生の時も――そして現在でもだ。正直、レンバルトとしてはフォロンとペルセルテが未だ先輩後輩の関係を維持しているのが不思議なくらいだった。あれだけ懐かれれば――しかもペルセルテはかなり可愛らしい容姿をしている――普通は次の段階に進むなり何なりしそうなものなのだが。
ついでに言えば、レンバルトはユフィンリーが学院の在学生向けに『アルバイト募集』をする事を決めた時点から、現在の状況を予測してはいた。
――あの二人が来るんだろうなあ。
そしてその読みは見事に的中――呆れた事に学院の掲示板に募集の張り紙がされた初日の午前中、時間的に言えば一限目の授業が終わった直後の休み時間辺りに、申し込みの電話が掛かってきたのである。
無論……掛けてきたのはユギリ姉妹。
というかペルセルテだった。
そしてその日の放課後には速攻で面接に訪れ、ユフィンリーや、珍しく事務所に顔を出していた彼女の兄と会い、結果――二人に気に入られて採用されたユギリ姉妹は、翌日からツゲ神曲楽士派遣事務所のアルバイトに入っているという訳である。即断即決はツゲ事務所の美徳の一つだが、ここまで早い展開もまあ珍しい。元々姉妹がユフィンリーとも顔見知りであった事も、要因の一つではあるだろうが。
「そっかあ。今日は先輩、来ないのかあ」
思いっきり溜め息をついて、ペルセルテは来客用のソファに腰を降ろし――いや。すとんと落とした。丁度、カウンターの外の待合いスペースの整理をしていたのである。
ちなみに、彼女がただ『先輩』というと基本的にフォロンの事を指す。
レンバルトやユフィンリーも先輩は先輩だが、こちらはきちんと『サイキ先輩』だの『ツゲ先輩』だのになる。ついでに言うと彼女が苗字ではなく名前で呼ぶのもフォロンだけだ。まあそこには彼女なりのこだわりでもあるのだろう。
「来ないんだって――先輩」
「残念ね」
気の毒そうに眉を寄せ――しかし口元には苦笑を浮かべて応えるのは、領収書の束をさばいているもう一人の少女であった。
ユギリ・プリネシカ。
ペルセルテとは対照的にひどく物静かな印象が在る少女だ。
癖無く真っ直ぐに垂らした長い髪は、ペルセルテの黄金色に対して、白銀色。髪型やその色の違いも在ってか――大抵の者は、二人が同じ学院の制服を着ているだけでなく、顔立ちもそっくりである事には、なかなか気づかない。
とにかく対照的な双子なのだ。
どうもこの双子の相互関係については、何やら込み入った事情が在るらしい――という事はレンバルトも気づいていた。だが彼はその事については敢えて尋ねていない。ちょっとばかり妹の方――プリネシカは彼の好みに合うので、学生時代から気に掛けてはいるが、いちいち他人の事情を詮索するのは彼の趣味ではないからだ。
「せっかく今目は講義もお昼までで、ラッキー、先輩と午後からずっと一緒だよーとか思ったのに……」
――それはつまり授業中に化粧してましたか、君は?
そう突っ込みそうになったレンバルトだが、此処は敢えて黙っておく事にした。実技はともかく、退屈な神曲史や精霊史の授業は彼もしょっちゅうサボっていたからだ。
ましてこの少女――才能という意味なら非凡なものが在る。
レンバルトやユフィンリーもしばしば『天才』の名を冠されるが……それでも神曲学院に入って半年も経たない内に、単身楽団を操って精霊を呼び出すなどという真似は出来なかった。
それをこの少女はしてのけているのだ。
今以て、呼び出せる精霊の数も級も低いが、基礎的な能力が異様に高い事だけは判る。
そんな彼女にしてみれば、授業が退屈なのも仕方なかろう。能力も資質も異なる複数の人間を相手にする以上、上からか下からかはともかく、どうしても平均的授業の適正効果範囲からはみ出てしまう人間は生じる。
「ああもう今日は厄日? 厄日ですか? もうこうなったら帰りに〈ミスト〉のイチゴ・タルトを半ラウンド買って厄払いするしか!」
拳を握りしめ、微妙に少女っぽいのか年寄り臭いのか判らない事を言うペルセルテ。
一応、形としては落胆している筈なのだが――それでも妙にテンションが高い。これがまあ良くも悪くもペルセルテという少女の特徴ではあった。
対して――
「太るよ……」
銀髪の少女はやはり静かに柔らかく姉に声を掛ける。
「フォロン先輩の事は残念だけれど――お仕事だもの。そんな事も在るよ」
涼やかな声音と諭す様なその口調がじつによく似合う。
どちらが姉なのか判らない雰囲気であった。
ちなみに……
ペルセルテの名は、精霊側の古語で『太陽』を意味する『ペルシェレイキア』という単語が語源になっている様だし、プリネシカの名は、同じ言葉で『せせらぎ』を意味する『プロイナシェキア』が元になっているらしい。
二人の両親は既に亡くなっているという事くらいしかレンバルトは知らないが、精霊学に通じる上、さぞかし慧眼の人達であったのだろう。
まあ何にせよ――
「元気出して。ペルセ」
「うん。ありがと。プリネ」
ペルセルテが走ってプリネシカが止める――これが彼女等の基本形。
単に双子であるという以上に、名コンビである様だ。
…………まあ迷コンビである可能性も棄て難いのだが。
「あ――ところでサイキ先輩。時間は良いんですか?」
と声を掛けてくる。
言うまでもなくこういう細かいところに気がつくのはプリネシカの方。
「――なに?」
書類整理に戻ろうとしていたレンバルトは……言われて壁の時計を見た。
「あ、やべ。時間じゃん。参ったなあ」
「なにか?」
「いや……実は」
レンバルトは頬を掻きながら言った。
「ヤースン通りのオンダ自動車まで、引き取りに行く約束なんだけどさ、この書類、あと三〇分で先方に送っちまわないとマズいんだよね」
「自動車ですか?」
尋ねるプリネシカ。
レンバルトの視界の端で――何か気になる音でも耳にした猫の様な仕草で、ひょいとペルセルテが顔を挙げるのが見えた。
「引き取り? いや、バイクなんだけどな。よく知らないけど、所長が特注で作らせたとか何とか……」
「私っ!!」
突然――何やら宣誓でもするかの様な勢いでぴょこんと立ち上がったのはペルセルテである。何をそんなに意気込んでいるのか、右手を真っ直ぐ垂直に掲げ、指先まで全部きちんと揃えている。
「私、引き取りに行って来ます!!」
「いや、あの、行ってきますって――」
突然の申し出に、さすがのレンバルトも困惑の表情で応じる。
「でも――免許が無いと」
「あります! 大型!!」
「――へ?」
レンバルトの口から珍しく間の抜けた声が漏れた。
意外や意外――である。
「でも、まさかぺーパーってことは……」
「ふっふっふ。サイキ先輩。見限って貰っては困ります」
「……『見損なう』か『見くびる』だと思うけど」
にま――と笑うペルセルテに、プリネシカが小声で訂正する。
構わずペルセルテはカウンターを抜けてレンバルトに歩み寄りながら、制服のポケットからトルバス神曲学院の生徒手帳を取り出した。
「じゃん!」
自前の効果音付きで、彼女が開いて見せたのは身分証明のぺージである。見開きになっている向かい側がカード・ホルダーになっていて、そこにはとんでもないものが収まっていた。
「国際A級!?」
「はい!」
してやったり――といった様子でにんまり笑みを深めるペルセルテ。
「これって確か……ええと。じゃあペルセルテ、君ってばレースにも出られる御身分?」
「はいな!」
更ににんまり。
「昔……父が少し軍と御縁が在った関係で、普段から軍用バイクに乗っていまして……」
親切にも解説を入れるのは、やはりプリネシカである。
「ペルセや私もたまに一緒に乗せて貰ったりして。それでペルセも自動車は乗れなくても自動二輪免許だけは取るんだって」
「最初は免許とれればそれで良かつたんですけど」
ペルセルテは胸を張って言った。
「何だかハマっちゃって。学院じゃバイク通学禁止だから、愛車は実家に置いてきちゃいましたけどね。でもこれは通学じゃないし。仕事ですし。いいですよね?」
「…………」
なんとまあ。
恐れ入りました。
「――判った。じゃあ引き取り頼める?」
書類一式を机から引っ張り出して示しながらレンバルトは言う。
「はい! プリネ――行こ!」
「うん」
「行ってらっしゃー…………って、おい、あの! プリネシカは残ってて、頼みたい事が色々在――………」
最後まで言う前にさっさと双子は事務所を出て行ってしまい――サイキ・レンバルトの短い溜め息と事務所の扉が閉じられる音が重なった。
トルバスの市街地を西へ抜け――幹線道路から高速に入っておよそ三時間。
シラトバ山を西側へ迂回する様にして回り込む。
将都トルバスは比較的新しい街である為に、市街地から出れば、すぐに手つかずの自然が広がる景色と直面する事になる。木々の濃緑に覆われた風景の中、緩やかに湾曲しつつ伸びていく道路をユフィンリーの運転する彼女の愛車――ファレス社の大排気量スポーツ車〈シューテイング・スター〉は走り続けていた。
右も左も山肌だ。
斜面に沿って鬱蒼と茂った原生林が延々と広がっている。
いい加減変わり映えのしない風景に飽きを憶えてきた時――ユフィンリーが言った。
「――あれだよ」
彼女が指差す方向――助手席のフォロンにもそれは見えた。
山道の先。
山肌の遙かな湾曲の向こうにちらりと白いものが見えた。
建物である。
自然物だらけのこの風景の中ではよく目立つ。もっとも建物自体がかなり大きいからこそこの距離でも見えるのであろうが。普通の民家程度であれば、この峰を覆う濃厚な緑に埋まって目に留まる事は無いだろう。
「あれが?」
「そ。精霊力発電所」
将都トルバスにおいて消費される電力の、実に九割を賄うと言われる巨大発電施設である。
しかも水力発電や火力発電ではない。風力でも地熱でもない。原子力発電では核分裂反応の制御や放射能の封じ込めに精霊の力を借りるという方式も在るらしいが――それとも違う。
その名の通り、精霊から直接的に電力を得る――ポリフォニカ大陸全土でも未だ三カ所にしか無いと言われている最新施設であった。
原理は至極単純である。
先ず専属の楽士が奏でる神曲によって、周囲の精霊を呼び寄せる。主に下級精霊だ。この精霊力発電においては何よりも先ず精霊の数を揃える事が肝要なのだそうだ。
神曲によって呼び集められた精霊達は『ルート』と呼ばれる導管を通って発電所内に入る。
そしてルートの反対側に設けられた出口から外へ出るまでの間に、やはり神曲による誘導と増幅によって精霊雷を発するのである。
だが精霊雷をそのまま電力に転用する訳ではない。
むしろ与えられる神曲に対して、個々の精霊が提供する精霊雷は微々たるものだ。ここでは、導管内と導管外との精霊雷の位相差を利用して巨大なモーターを回転させ……そこから電力を得ているのである。
つまり精霊は、発電所を通り抜けるだけで神曲を得られ、発電所の方は神曲を聴かせてやるだけで莫大な電力を得る事が出来るのだ。どちらにとっても『入力』以上の『出力』を得ることの出来る、ある意味『永久機関』に等しいシステムだった。
無論これは、厳密な意味での永久機関ではない。
精霊は発電所というシステムの『外部』から来るのだし、神曲楽士も六交替制の二四時間シフトという、厳しい勤務体勢が要求される。
しかしそれでも、精霊力発電は、人間と精霊とが科学を介して手を緒ぶ事により初めて可能となった夢のシステムである。およそ空気汚染に代表される公害の類とは全く縁が無いし、神曲楽士の数さえ確保出来れば運用も極めて簡便かつ安価だ。
ちなみに……このシステムは神曲楽士の個々の資質にあまり依存しない。
性や質を問わず、とにかく下級精霊を一定数誘引し続ける事が出来れば、神曲楽士の個性は関係がない。故にこそ所属の神曲楽士は交替も出来るし、欠員が出れば補充も出来る。
「……凄いな」
後部座席で眠っていた筈のコーティカルテが、運転席と助手席の間から顔を出す。
「判る?」
「無論だ。ここからでも、精霊の群が流れとなっているのが見えるぞ」
言われてもフォロンやユフィンリーには見えない。
「…………」
たまに……フォロンは寂しく思う事が在る。
同じ姿をして、同じ言葉を喋ってはいても、コーティカルテはフォロン達とは違う存在である。彼女の眼に映るものとフォロン達の眼に映るものは、同じ様でいて微妙に違う。全て分かり合えた様でいても……最後の一線で『違う存在である』というある種の溝は、どうしても残るのだ。
ただ……
「なるほど……よく考えたものだ」
眩くコーティカルテの顔には微笑が浮かんでいる。
「皆――嬉々として発電所に入っていく」
「…………」
良かった――とフォロンは思う。
最新式とはいっても、この精霊力発電の原理が開発され、実用化されてから既に十年近い歳月が経過している。
実を言えば子供の頃、初めて精霊力発電の事を知った時には胸が痛んだ。精霊を道具の様に利用している……そんな風に思えたのである。子供故に原理もよく判らなかったフォロンは、まるで強制労働現場の様な――発電所の機械の中に閉じ込められ、身を削りながら延々と精霊雷を放出させられる精霊のイメージを思い描いていた。
成長し学校で精霊力発電の実際を習った時にもすぐには納得が出来なかった。
何処かに欺瞞が紛れ込んでいる様な――そんな気分になってしまったのだ。
だから今……コーティカルテの言葉が純粋に嬉しかった。
(そうか……精霊達も喜んで協力してくれているんだ……)
精霊。
知性在る何か。人類の善き隣人。
そうは言われていても、やはり人間は精霊に比べて非力で脆弱だ。善良で温厚な彼等に対して人間はつけ込み、ひたすら寄り掛かり、一方的に利益を得ている様な……そんな不安感もフォロンの中には在った。
どうしてそんな風に思う様になったのかはよく判らない。
あるいは孤児院育ちの経験が彼にそう思わせているのかもしれない。あそこではフォロンはひたすら搾取される側だったからだ。
それはコーティカルテと知り合い、他の精霊達とも出会い、交歓し、あるいは戦った経験を経ても……いや、だからこそ消えずに彼の心の何処かに残っていた。それがある種の遠慮となってコーティカルテを怒らせる事も未だに在る。
しかし。
お互いに利益を共有出来る。喜びを分かち合える。
この世の中にはそういう事もちゃんと在るのだ。
それはきっと――とてもとても素晴らしい事だ。
(やっぱり僕は……)
そして同時にフォロンは思う。
自分は未だ精霊達の事を――コーティカルテの事をもきちんと理解しきれていないのだと。いや。自分はきっとまだ何も判っていない。社会の事も。他人の事も。仕事の事も。万能ならぬ人の身で、それら全て認識し理解する事は出来ないにしても……それを行う努力を怠ってはならないと思う。
そうやって諦めず営々と続けられた努力の、素晴らしい成果が今フォロン達の目の前に在るのだから。
ユフィンリーの運転する〈シューティング・スター〉は蛇行する山道を滑る様に滑らかな走行で発電所へと近付いていく。
恐らくは発電所職員の通勤や施設維持用資材の運搬に使われるからだろう――路面は綺麗に舗装されており、〈シューティング・スター〉の低い車高も特に間題は無い。むしろ幅広のタイヤでしっかりと路面を噛みながら、右へ左へと流れる車体が独特のリズムを刻み、快調な大排気量エンジンの音と絡み合って、ある種の鼓動の様にも――そしてそれを模した音楽の様にも聞こえる。
山の緑と空の蒼がその音の連なりに華を添える。
低く太いが何処か安心出来る響きであった。
排気量五リッターの水平対抗十二気筒エンジンや、低く幅広の車体は、元々せせこましい街中では持て余す程の代物である。先端技術の塊の様な車だが、こうして大きく開けた自然の中を走るのは、意外とこの車に相応しいのかもしれない。
それはさておき――
「…………」
精霊力発電の事で少し安堵を憶えたフォロンは、ゆったりとその音に身を任せていると――不意に昔の事を思い出した。
孤児院の頃の事だ。
いじめられて登った孤児院の屋根。
独り仰ぎ見た夜空の月。
か細い声で紡いだ憶えたての歌。
そして――不意に現れた緋色の髪の女性。
『お前の歌に誘われて来た』
そう見慣れぬ彼女は言った。
意味が分からず戸惑う幼い少年に彼女は念を押す様に言った。
『お前の歌』
『良かったぞ』
あやすでもなく。慰めるでもなく。
ただただ……真撃に。
そうだ。
フォロンは改めて思う。
あの言葉。あの声音。あの微笑。あの――瞳。
あの記憶が在るからこそ…………僕は…………
…………
「――おい」
呼ばれてフォロンは眼を開いた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「あ――はい!」
「着いたぞ」
助手席のドアを開き彼の顔を覗き込んでいるのはコーティカルテだった。
「…………」
「な……なんだ?」
ひどく真撃なフォロンの視線を受けて、少したじろいだ様にコーティカルテが身を反らす。その頬が若干赤く染まっているのは――気のせいだろうか。
「いや。ごめん――なんでもない」
苦笑してフォロンは車を降りた。
見るとユフィンリーは既に〈シューティング・スター〉の後部に回り、トランクから荷物を取り出そうとしているところだった。
例の――あの蓄雷筒三本を収めたケース。
(……そうだ)
微睡みの気持ち良さなど瞬時に吹っ飛んだ。
フォロン達はわざわざこんな山の中までドライブに来たのではない。謝りに来たのだ。
慌てて彼はユフィンリーの元に駆け寄ってケースを受け取る。
すると――
「――あれま」
ユフィンリーが駐車場の片隅を眺めながら何かに気づいた様子で声を漏らす。
「どうしました?」
「珍しい。サコールの〈パス・ファインダー〉じゃん。未だ乗ってる奴も居るんだね」
彼女の視線を追うと……そこにはずんぐりとした見るからにいかつい四輸駆動車の姿が在った。ただでさえ大きくて威圧的なその車体は艶消し黒に塗装されており、ただそこに在るだけで圧追感の様なものを周囲に放散している。
「珍しい車なんですか?」
フォロンはあまりこの手の車種だの何だのには詳しくない。
対してユフィンリーは女性にしては珍しく、車だの自動二輪だのは元より、機械類は一通り好きという性格だ。〈シューティング・スター〉も彼女自慢の愛車だそうだ。フォロンが助手席に乗っている分には『乗り降りし辛くて平べったい車』という印象しか無いのだが。
「軍用車だよ。もう軍じゃ次の世代のに替わってるけどね。あんなガタイの癖にアプローチ・アングルもデパーチャ・アングルも大きくて走破性が高いし、とにかく頑丈で力も在るから、どんな荒れ地でも走れるんだけどさ。補修するにも部品が高いわ、ただ走らせるにも燃費も悪いわで、とても一般人が乗れる車じゃないよ。金ばらまきながら走ってる様なもん」
「はあ……」
よく判らない単語が幾つか在ったが……まあ凄い車なのだろう。
「職員の車かしらね。神曲楽士の。だとしたら此処の総料って実は物凄く良いのかな。私も雇って貰おうかな」
「…………」
苦笑するフォロン。
その〈パス・ファインダー〉に負けず劣らずの――街を流せば誰もが振り向く様な超高級車を乗り回している人間の台詞ではなかろう。
「ま――それはともかく」
言って彼女は発電所正面玄関へと歩き出す。
フォロンとコーティカルテも彼女の後に続いた。
そして――
「…………うわあ」
改めて見上げれば――思わず声が漏れる。
近過ぎるとただの壁の様に思えて、その大きさに実感が伴わないが……正面玄関に回ってその全容を眼にするとやはり驚かざるを得ない。
まるで御伽噺に出てくる王の居城だ。
とにかく白くて大きい。
ただ、城よりも平面的で、窓も小さなものが何ヶ所かに点在するだけで、尖塔もなければ跳ね橋もない。門の代わりに正面にあるのは、大きなガラス張りの玄関だけだ。
壁にも窓の類は殆ど無く無味乾燥とした印象が強い。
実用性一点張りの施設とは大概がこんなものなのかもしれないが。
ただ……
「……あ」
正面の壁のかなり高い位置に、巨大な円形が埋め込まれている。
距離が遠いのではっきりとは判らないのだが、直径は――ひょっとしたら五メートル以上も在るだろうか。分厚い環状の枠には古代文字を思わせる模様がびっしりと彫り込まれていて……そこだけ他の部分から浮いている様にも見えた。
巨大な空気の取り入れ口にも見える。
だがよく見れば円形の内側には金属製の蓋が在った。
「――あれが」
フォロンの視線に気づいたのかユフィンリーが立ち止まって説明してくれた。
「精霊の入り口」
「ええと――その導管の、ですか?」
「そう」
「塞がってますよ?」
「塞いどかなきゃ、ゴミとか入るじゃん」
何言ってんの――といった口調でユフィンリーが言う。
「でも、精霊が……」
「精霊だよ? 皆、あの金属板をすり抜けて、導管に入ってくの」
「あ……そうか」
そうだった。
物質化していない精霊なら、どんな物体でも透過することが出来る。コーティカルテの見た精霊の流れがフォロンには見えていない以上、精霊達はこの導管を、物質化せずに通り抜けているのだ。
どうもフォロンはコーティカルテが側に居る為に、精霊に対する認識が偏っている部分が在る。彼にとって一番身近な精霊は言うまでもなく彼女だが、コーティカルテは精霊達の中でもかなり特殊――というかぶっちゃけ変わり者に属するらしく、彼女を基本として考えると色々と誤解する事も多い。
物質化もその一つだ。
元々精霊は『生きている力場』とも言われる様に、エネルギーの塊の様なもので、物質的な肉体を持っていない。彼等が人間の前に現れる場合は、改めてその物質的肉体を構成――つまりは物質化する事になる。
精霊達にとっては非物質状態が通常なのである。
四六時中物質化している――というか普段からずっと人間の形態を採っている上に、飯は喰う、水を飲む、他人を殴る、服は買う、トイレに――行っているのは実は見た事が無いのだが、とにかく人間とほぼ変わらない生活を送るコーティカルテは、むしろ少数派、例外に属する存在である。
ちなみにフォロンの身の回りにはもう一人精霊が居るが……こちらもとある事情から特殊な存在で、ずっと物質化し人間の少女を演じ続けているため、一般的な精霊とは異なる。
まあそれはさておき――
「行くよ」
言い置いてユフィンリーはさっさと玄関口へ歩いて行く。
「あ、はい!」
あわてて後を追おうとするフォロン。
だが――
「おかしい」
コーティカルテの声に彼は引き止められた。
「コーテイ?」
建物を見上げたまま……彼女は動かない。
その貌に先程、車中で見た微笑は最早無く、警戒心も露わな表情で彼女はその紅い瞳を精霊力発電所壁面の円環に向けている。
「どしたの?」
ユフィンリーも、入り口のすぐ手前でこちらを振り返り尋ねてくる。
「コーティが何か……おかしいって……」
「なにが?」
ユフィンリーは足早に戻ってきてフォロン達の隣に並ぶ。
「判らない。だが――何か変だ」
「…………」
ユフィンリーはコーティカルテの瞳を見つめ……それから無言で愛車の元に戻る。
トランクを開けて彼女はそこから一つの荷物を取り出した。
ディパック程の大きさの金属箱。
小型の単身楽団である。
彼女のそれは楽器メーカー、ヤマガ社のもので、学院生時代に試作品のモニターをして以来ずっとお気に入りの品だ。事務所以外にも車と自宅にそれぞれ予備を一台ずつ置いており、彼女が現場に出る時は大抵これを使うという。
「所長……?」
驚くフォロンを尻目に、彼女はさっさと背負帯に腕を通してこれを背負った。
神曲楽士がこの状況で単身楽団を背負うという事は――つまり『警戒し身構えている』という事を意味する。
「……一つ訊くが」
コーティカルテの紅い瞳は真っ直ぐに建物を見上げたままである。
「此処が入り口だと言ったな」
「ええ――そう」
頷くユフィンリー。
無論――コーティカルテが見ているのは玄関ではない。例の円環だ。つまり入口とは人間用のものではなく精霊達の――という意味である。
「では出口は何処だ?」
「上よ。建物の屋上にそこに見えてるのと同じ様なのが在って――そこが出口の筈。まあ私も現物を見るのはこれが初めてなんだけど」
つまり……ユフィンリーの知識が正しいとするならば、呼び集められた精霊の流れはそのまま空へと抜けて散っていくという事になる。
だが……
「いないぞ」
「え……?」
「出てくる精霊が、いない」
「…………」
普段からいくらかツリ気味のユフィンリーの眼だが――それが細められて鋭さを増す。
「――フォロン」
「は――はい」
久し振りに見た。
ユフィンリーの『戦闘態勢』を。
トルバス神曲学院の生徒達は戦闘訓練を一通り受けている。
また学院出の神曲楽士でなくとも、ある種の体術や、護身用の特殊な技術を身に付けている者は多い。犯罪、事故、あるいは精霊の暴走など――神曲楽士は大きな力を使う為に、望む望まぬに関わらず危険にさらされる事が多いからだ。
それ故に、平和主義者の見本の様なフォロンですら戦闘支援用神曲を使った戦闘術は勿論、一定の格闘術や棒術、射撃術の教育は受けている。
「そっちの荷物――頼むね」
緊張に身を固くする後輩にそう言うと、ユフィンリーはそのまま二人に背を向けて歩き出す。
大股で――しかししなやかな肉食獣の動きで近付いていく先は、発電所の正面玄関である。
何か在るのだ。
ユフィンリーが戦闘態勢まで採らざるを得ない何かが。
慌てて蓄雷筒の収められたケースを抱え、彼女の背を追ってフォロンも走り出す。
「…………」
ふと。
何か普段と違う気配の様なものを感じてフォロンは相棒を振り返る。
(コーテイ……)
彼のすぐ後ろについて走る紅い精霊の瞳は――怒りの予感に燃えていた。
ペルセルテの国際A級ライセンスは伊達ではない様だった。
何やら聞き慣れない重低音が近付いてきて事務所の前で止まったかと思うと――唐突に消える。明らかに大排気量の、それも剥き出しのエンジンが放つ駆動音である。
レンバルトがその正体に気づいて『おい。マジかよ』と呟いた瞬間――
「ただいまですっ!」
と――けたたましいくらいに元気な声が事務所に飛び込んできた。
レンバルトの予想した二人の帰還時刻より三十分は早い。
一体どんな走り方をしたのやら。
「お帰り――お疲れさん」
言ってから気づいた。
事務所の入り口に立つ双子はお揃いのヘルメットを抱えている。
「あれ? それ……」
二人共手ぶらで出掛けたのではなかったか。
よく考えれば、彼女等が事務所を出る前に気づくべき事であるが――免許は持っていても普段の移動は電車、たまに乗っても四輪が殆どのレンバルトは、すっかりヘルメットの事を忘れていたのである。
「向こうで買っちゃいました」
事も無げにペルセルテは言った。
「ここに置いていきますから皆さんで使ってください」
「あはは。あ――いや、ありがと」
と苦笑を浮かべて言うレンバルト。
ちなみに。
ペルセルテの父親は優秀な神曲楽士だったらしく、彼の遺した財産は娘達が成人するまで何不自由なく暮らせるだけのものなのだそうで。故にこの双子は見掛け以上に裕福なのである。
では何故にわざわざアルバイトなんぞをしているかと言えば――今更問うまでもない事なので、レンバルトもいちいち突っ込まない。
「んで――バイクは? もう駐車場に回した?」
問われたペルセルテはプリネシカと顔を見合わせてから、えヘヘぇ――と笑う。
それから彼女はレンバルトに向かってちょいちょいと手招きをした。
「な――なに?」
「サイキ先輩は未だ見てないんですよね?」
「ああ」
頷くレンバルトを見てまたペルセルテがにへら、と笑う。
「カッチョイイですよぉ」
言いながら玄関のドアを開いて見せるのは、つまり、見に来い――という意味だろう。
レンバルトは素直に席を立った。
元々このツゲ神曲楽士派遣事務所の機材として購入されたものである。興味は在る。
で――
「――おおっ!?」
問題の自動二輸は事務所の真正面の歩道に停められていた。
「成る程……これは特注だ」
さすがのレンバルトも感嘆混じりにそう呟く。
全体の形状はオンロード仕様。競技タイプではなく、ゆったりと背筋を伸ばして乗れるツーリング向きのものだ。前後のタイヤは太く、分厚く、フレームから覗く銀色のエンジンも重厚で……まるで金属の塊がそのまま詰め込まれているかの様だった。
だが…
「しかしこりゃ何だ……?」
それよりも目を引いたのは、横に張り出した独特の形状を持つタンクと、後輪の両脇に備えつけられたサイド・ケースである。
実を言えば引き取り役こそ任されていたものの、今回の特別注文について、レンバルトは多くを知らされていない。何やら製作にはヤマガの本社が――この会社は楽器メーカーであると同時に自動二輪のメーカーでもある――噛んでいるらしい事は知っていたが、それ以上の事は秘密にされていた。
見てから驚きな――とはユフィンリーの弁である。
「あれ?」
タンクのど真ん中、ちょうどハンドルを握って視線を落とせば真正面から見下ろすことになる位置に、見覚えのある紋章が刻印されている。
翼と音符の意匠。
それは――
「まさか……いや。じゃあこれって」
「――あ」
不意に声をあげたのはプリネシカである。
にまにまと笑みを浮かべてオートバイを眺めていたペルセルテの、その背後で、こちらはつい先程までオモチャに夢中の我が子を見守る母親の様な笑みを浮かべていた。
そのプリネシカが事務所の方を振り返っている。
「ん? どうしたの?」
尋ねながらレンバルトも事務所の方を振り返り――すぐに気づいた。
「電気が……?」
事務所の中が暗い。
照明が――全て落ちている。
言うまでもなく、たった今、バイクを見に出てきた時には確かに点いていた。消した記憶も無い。最後に出てきたのはプリネシカだが――彼女が消したのならばわざわざ声を上げる意味が無い。
「参ったな。ヒューズでも落ちたか?」
そう呟きながらレンバルトは事務所に戻ろうとして。
その時――
「――!?」
レンバルトと双子は驚いて振り返った。
彼等を振り向かせたのは――唐突に彼等の耳に切り込んできたのは、甲高い急ブレーキの音である。そしてそれは彼等が振り返りきった瞬間に、ひしゃげる金属の上げる悲鳴と、衝撃すら伴うかの様な激突音へと変化していた。
交通事故である。
百メートル程先の交差点からそれは聞こえてきていた。それも一度ではない。一台や二台ではなく何台も――激突音が幾つも幾つも運続して聞こえてくる。
更には……悲鳴と絶叫まで。
「……信号機が」
呻くかの様なプリネシカの台詞。
その意味を悟ってレンバルトは呟いた。
「嘘だろ……」
次々と衝突して破損する自動車の群れ。
それらの上で――交差点の交通の流れを捌き、通行する車と人の安全を確保する筈の信号機は、全ての光を失い、無意味なガラクタとしてただただ沈黙するばかりだった。
時刻――午後五時八分四十秒。
この日トルバス全体を襲い、死者二十八名、重軽傷者合わせて千二百名余りを出した大停電の、それは始まりであった。
ACT3 CONFLICT
「……参ったわね」
ツゲ・ユフィンリーはそう呟いた。
「何があったのか……一目瞭然って感じ」
精霊力発電所――エントランス・ホール。
内装が質素で機能的に過ぎる事を――床がリノリウムで壁や天井が打ちっ放しのコンクリートである事を除けば、広さも形状もカグト工業のエントランス・ロビーによく似ている。それらはひたすらに巨大で……その中に入った者の矮小さを見せ付ける程の規模であると同時に、人間という生物が、その気になればどれだけの事が出来るのかという一つの証明であった。
ホールは薄闇に満たされていた。
必要最小限の照明しか点いていないらしい。天井を見上げると、そこに埋め込まれた無数のランプが見えるが――それらは全て灯っていない。この広大な空間に光を供給している大半は、壁と天井の際に設置された幾つかの非常灯である。
まさか省電力のためという訳でもなかろう。
残りの光源は壁際で回転している赤いランプの光だった。
どう見てもそれは、非常事態を告げる警告灯の類だ。実際……その赤い光がホールの床や壁を延々と這い回る様は異様な雰囲気を醸し出し、見る者の危機感を妙に刺激する。
それなのに音が無い。
通常――こうした警告灯が回れば、同時に警報音も鳴り響く筈だ。だがそれが全く聞こえない。ただ血の様に赤い光だけが、ぐるぐると音も無く回転しながら広大なホールの壁や床を舐め回している。
だが異様な事の極めつけは更に別に存在した。
疵痕である。
「これって……まさか」
不吉な予感を孕んだフォロンの言葉。
それをあっさりと肯定したのは……彼の契約精霊であった。
「精霊同士が戦ったな」
壁に。床に。そして天井にさえ。
幾つも幾つも……ざっと数えてみただけでも二十を超える数の窪みが存在する。長径一メートル、短径が五〇センチ程の、楕円形をした傷痕。
驚くべき事に――それらのいずれもが、抉られたものでも弾けたものでもない。
窪みはその回りに微細な亀裂を無数に伴っていた。つまりこれらの疵痕は、全て強大な圧力によってコンクリートが部分的に圧縮され、破砕されて陥没した跡なのだ。
「ミノティアスの拳骨ね、これ」
「ミノティアスを知っているのか?」
コーティカルテの問いに壁の陥没に指を這わせながらユフィンリーは頷いた。
「ここの警備会社と契約してたの。あんたも知り合い?」
「馴染みという訳ではないが。互いに顔を見れば挨拶を交わす程度には……な」
だが――と続ける赤い精霊の視線は油断無く周囲を見回している。
「奴はそれ程頭が良い訳ではないが……決して馬鹿ではない。奴が此処を護る契約を締結していたのだとしたら、事態は些か重大なものになる」
「どういう事?」
尋ねるのはフォロンである。
ちなみに此処でコーティカルテやユフィンリーが言う『契約』とはフォロンがコーティカルテと結んだ様な精霊契約の事ではない。
以前には有り得なかった事だが……最近は人間の様に企業や公共機関に『雇用』される精霊も増えてきている。精霊でも――否、『人間の善き隣人』と言われる精霊達だけに、人間社会の変革とは無縁で居られないという事だ。定期的な神曲の供給や好みの神曲を演奏する神曲楽士を用意する事を条件に、特定個人や特定組織の為に働く約束をする精霊達は既にかなりの数が存在する。
ユフィンリーの言からすれば、そのミノティアスという精霊は、この精霊力発電所を護る警備会社と雇用契約を結んでいたのだろう。精霊力発電所ともなれば神曲楽士は常駐している訳だし、その精霊にとっては悪くない取引だった筈だ。また人間側にしても強大な精霊一体を常に警備係として配置できれば、完全武装の一個小隊を駐屯させているのと同じ事であり――それに比べれば費用はむしろ安く済む。
だが……
「厄介事が今もなお進行中という事だ」
コーティカルテはフォロンを振り返って言った。
彼女によれば、ミノティアスという精霊は頑強な巨体と豪腕を誇る中級精霊なのだという。
しかも戦いに関しては、猪突猛進どころか、外見からは想像し難い程の狡知を見せるのだそうだ。そのミノティアスが、警備係としてこの精霊力発電所に常駐しており――そして今この時点で姿が見えない。明らかに異常事態である上に、無断で踏み込んできたフォロン達に対応する様子も無い。
そして――
「ああ見えてミノティアスは妙に義理堅いからな」
コーティカルテは言う。
「一旦、此処を護ると決めれば奴に『逃げる』という選択肢は無い」
そうなると――可能性は二つしかない。
侵入あるいは侵攻してきた何ものかと交戦して敗退、その結果として拘束状態にあるか。
あるいは――『死亡』したかである。
精霊は強大な力を持つ上に、事実上、不老ではあるが……決して不死ではない。
特に精霊達の戦闘は文字通りに相手との体力の削り合いであり、物質的な肉体ではなく、『力』そのものによって存在を支えている彼等は、一定以上に消耗すると自らを維持出来なくなる。
場合によっては存在の規模そのものを――『身体』の大きさを縮小し、再組織化する事でこれに対応する事も出来るが、それとて無限に可能な事ではない。
本当の限界が来れば、精霊とて消耗して『死』ぬ。
「相手が誰かは知らんが、ミノティアスにこれだけの手数を出させ、その結果としてこの現状があるなら……余程の奴だぞ」
「そうね。でも……もっと問題なのは」
ユフィンリーの視線は壁の突き当たり、施設の奥へと向かう通路に注がれている。
「……コーティ。本当に発電所から出てくる精霊は居なかったのね?」
「ああ。間違いない」
念を押すユフィンリーにコーティカルテは頷いて見せた。
入っていく精霊は居た。
出ていく精霊は居ない。
つまり神曲で呼び出された精霊達は、出ていく事も出来ずにこの建物の中に閉じ込められているという事になる。
ならば……
「どうなるんですか?」
フォロンの問いに、ユフィンリーは、ぼそり、と呟ように応えた。
「暴走よ」
「……!」
フォロンは息を呑んだ。
暴走。
それは、およそ人と精霊との関係において、最悪の『結末』を意味する。
神曲は精霊にとって糧となる。しかし実際のところ、それは人間の摂食や呼吸とは異なり、得られなければ死滅するというものでもないのだ。
ある意味それは……麻薬に近い。
神曲によって『力』を得る時、精霊達が感じるのは悦楽なのである。そしてこの悦楽が恒常化すると、神曲を得られないことが苦痛となるのは半ば必然とも言える。つまり、禁断症状が出るのだ。
これを認めた上で逆手に取るのが、精霊契約と呼ばれるものである。
つまり定期的に好みの神曲を得る事を前提として、その神曲に合わせて自らの存在を『調律』してゆく。当然その結果として得られる悦楽と力の増幅率は跳ね上がり、精霊はより深い満足を得る。だがその代わりに、定期的な神曲の供給が無ければ、いずれ半身を削られたかの様な苦痛と恐怖が精霊を蝕む事になる。
だからこそ精霊契約を行う精霊達は契約主を慎重に選ぶし……契約を違えた神曲楽士が暴走した精霊に殺されるという事態も充分に有り得る。
実際、フォロンも一度は暴走して我を失ったコーティカルテに殺され掛けた事が在る。
ただ……
「でも、発電所に協力してるのは、精霊契約をしていない精霊なんでしょ?」
「そうよ」
「じゃあ、暴走なんて」
「するぞ」
コーティカルテだ。
「精霊にとっての神曲は、人間にとっての音楽と同じではない。人間の音楽は、一人で聴こうと一万人で聴こうと同じだ。だが神曲は、厳然と定量的な『力』なのだ」
それはフォロンとて知っている。
楽士の技量によって、召喚し得る精霊の等級だけでなく数も変化するのは、そのためだ。神曲には『質』と同時に『量』があるのだ。それを測る為の方法も器具も無いのでしばしば神曲楽士達ですら忘れがちな事だが。
「実体化していない精霊には物質的な『体積』がないから、理論的には一定の『空間』に無限に押し込めることが出来る。だがそれが精霊にとって苦痛ではないかと言われれば、断じて否だ。そもそも精霊は自然の状態では極めて低い存在密度なのだから。一時的ならばともかく、恒常的にその異常な密度を維持させられれば、相互干渉しあって消耗もする。精霊は物理的な物体を透過する事は出来ても、同じ精霊をすり抜ける事は出来ないしな」
「…………」
「しかも」
コーティカルテは眉間の皺を深めて言った。
「そこに与えられる神曲の『量』が一定なら、精霊の『密度』が上昇すればするほど、一体の精霊に与えられる神曲は滅ってゆく事になる。神曲が与えられるからこそ精霊達はこの狭い導管の中に飛び込んでいくのだ。神曲が高い存在密度から来る苦痛を和らげ、それを越える悦楽を与えてくれるからだ。だがそれがどんどん目減りしていけば――」
逃げられず。身動きもならず。
そして与えられる神曲すらどんどん減っていく。
残るのは飢餓と苦痛と――そこから発生する狂気だけだ。
即ち暴走である。
「ひどい」
蓄雷筒のケースの把手をフォロンは思わず強く握りしめていた。
「誰が、そんな……」
「さて。それは判らないけれど」
ユフィンリーは、単身楽団の制御卓に素早く指を走らせながら言った。
「やるべき事は明らかね。そいつを探し出して取っ捕まえるの」
「は――はい」
フォロンが頷く。
平和主義者の彼ではあるが、それは決して怒りを憶えないという事ではない。むしろ争いが嫌いだからこそ、その種となる非道や無茶を許せないと思う気持ちが彼は強い。
だが……
「違うな」
コーティカルテは異論を唱えた。
「……コーテイ?」
「取っ捕まえる――ではない」
紅い瞳を奥に向けながらフォロンの契約精霊は言った。
「探し出して――叩きのめす」
三度試みて三度共に駄目だった。
「電話も通じてない」
呻く様に言ってレンバルトは受話器を戻した。
ツゲ神曲楽士派遺事務所内。
連鎖的に発生する交通事故を――そしてその原因となった大停電を目撃したレンパルトと双子は、すぐに事務所内に戻ってまず事態の把握に努めた。
だがこれは全て空振りに終わった。
テレビがつかない。ラジオも鳴らない。電話も通じない。
当たり前と言えば当たり前だが――
「電池式のラジオでも買ってきましょうか?」
プリネシカが提案する。
だがレンバルトは首を振ってそれを制した。
「多分、無駄だよ。ラジオ局そのものが駄目になってる可能性が高い。それに――今は迂闇に外に出ない方がいい」
先程から救急車や消防車、それに警察車輌のサイレン音がひっきりなしに聞こえてきている。それも……あちこちからだ。いきなり電力供給の全てを絶たれれば、都市機能はその瞬間から麻痺してしまう。当然――レンバルト達が見た様にあちこちで事故が頻発している事だろう。
それに。
こういう異常事態になると必ず妙な行動に出る連中が居る。
錯乱した人間はある意味で事故よりも始末が悪い。以前……暴風雨で将都の一つが麻痺状態になった際も、救援に向かった軍のヘリコプターにライフルで銃撃してきた者が居たそうだ。
助けに来た相手に銃を向けるなど意味不明も良いところだが、どうも極限状況に追い込まれた人間は、恐怖から逃れようとする余りに、恐怖と同化しようとするらしい。自らが他者の恐怖に――脅威になろうとする様な、おかしな心理が働くのだそうだ。
それでなくとも、どさくさ紛れに犯罪行為に走る者も少なくない。
人間の理性や道徳など脆いものだ。
それはちょっとした事でひび割れて、その下に隠していたものをさらけ出してしまう。
「とりあえず電源供給が回復するか、朝になるまで事務所に居た方がいいと思う」
単身楽団を背負ったレンバルトは、自分の机に腰を預けて腕を組んだ。
ちなみに単身楽団は未だ展開していない。これとて機械部分は電池で駆動するのだから、意味もなく展開して待機状態を維持していたら、肝心の時に電池切れなどという笑えない事態も有り得るのだ。
「何が起きてるんでしょう……」
これはペルセルテの台詞だった。
さすがにいつもの元気は消え失せて、声は細く不安げに揺れている。
照明の落ちた事務所内には、レンバルトの召喚した精霊が七体ほど、ゆったりと飛び交って光を放ってくれていた。今朝、トレーラーを動かすのに呼び寄せたのと同じ、ボウライと呼ばれる枝族の下級精霊である。お陰でレンバルト達は、全てを闇に閉ざさんとする夜の暗さに怯える必要は無い訳だが……
「少なくとも、都市の電気の大半が落ちてる、と考えた方がいいな」
「ただの停電じゃなしに?」
とペルセルテ。
「ああ。俺もそんなに詳しいわけじゃないけど、電話が通じないってのは通信施設の電気も落ちてるってことだ」
「電話局ですか」
こちらはプリネシカ。
だがペルセルテの声にいつもの活気が無いので、声だけ聞いていると聞き分けにくい。
「いや。電話局は、たぶん活きてる。非常電源があるはずだしな。問題はむしろ、中継局の方だろう」
中継局には、そういった代替電源施設はなかったはずだ。
でも――と異論を挟むのはプリネシカである。
「たしか都内だけでも二六局あります。中継局が停電に対する備えを必要としてないのは、一つの局が停止しても自動的に別の局へ回線が割り振られる仕組みだからで……」
そこで、言葉が途切れた。言いながら、途中で自分でも気づいてしまったのだろう。
そう。全ての局が同時に停止すれば、それも不可能だ。つまり……
「将都のほとんどが……いや、恐らく将都全体が停電してる、ってことだ」
言ってしまってから――何かが引っかかった。
(待て。待て待て。ちょっと――待て)
レンバルトは頭の中で閃いたものを思考の領域にまで引っ張り上げる。
(何か今……嫌ぁな感じがしたんだよな。ええと)
およそ考えにくいことだが、将都全体の通電がダウンしている可能性が高い。
ここまでは、いい。
だとしたら――その原因は一体、何なのか?
「あの……サイキ先輩……」
まるで生徒が教師に質問をするみたいに、プリネシカが、そろりと片手を挙げた。
「それって、つまり……発電所に何かあった、ってことでしょうか」
(――それだ!)
脳に走った言葉を彼が声に出す前に
「フォロン先輩!!」
悲鳴のように声をあげたのはペルセルテである。
「フォロン先輩――発電所に行ったんですよね!?」
「そう言ってたな」
つまり……時間的にはとっくに彼等は、発電所に着いている筈なのだ。
そしてもし今回の大停電が、発電所そのものの停止なのだとしたら、その現場に彼等は今まさに居合わせている事になる。
だが……
「何か事故でも在ったんじゃ……」
「いや――それはいい」
レンバルトの言葉にペルセルテとプリネシカが眼を瞬かせる。
「事故は在った方が――むしろ事故であった方がいい。問題はその後だ」
「……え?」
「フォロンだけじゃなく、所長もいっしょなんだ。それにコーティカルテも同行してる」
「だから……」
「違うよ。判らないか?」
レンバルトは口調を殊更に緩めて言った。
「『だから』ではなく『なのに』だよ。そもそもあの三人だけじゃなくて、発電所には専属の神曲楽士も何人か常駐して居るし、警備係として発電所と契約を結んで常駐している中級精霊だって居た筈だ。無論、機械のメンテナンス要員だって居るし、そもそもこういう事態に陥らない様に、何重にも発電施設には安全装置が組み込まれている」
「……あ」
「確かにおかしいですね」
ペルセルテが驚いた様に掌を自分の口元に当て、プリネシカが真剣な表情で頷く。
「たとえ何があったにせよ……それだけの条件が揃っていれば、精霊達の力を借りて迅速な対処が可能なはずですよね」
その通りだ。
逆に言えばそれでも尚、停電が続いたままであるという事は
「フォロンとコーティカルテにも、ユフィンリー所長にも、発電所の神曲楽士にも技術者にも精霊達にも、彼等が束になって掛かってもすぐには手が打てないくらいのヤバい事態が起きてるってことになる」
(――あるいは)
とレンバルトは胸の内で呟く。
(単純に……もう手遅れっつーか手の打ちようが無い事態なのかもしれないけどな)
だがその考えは口に出さずに、自分の胸に留めて置いた。今、双子を無意味に不安がらせても益は無い。
「ペルセルテ」
「はい」
「プリネシカ」
「はい」
二人を順番に見回してから、レンバルトは噛み含める様な口調で言う。
「俺――ちょっと出掛けてくるわ。二人は此処に待機。火災とか倒壊とか、この建物の中に留まった方が危ない様な事態にでもなれば別だけど――とりあえず、電気が戻るまでシャッターを閉めて外に出ない事」
言いながら単身楽団を背負い直すレンバルトに――しかし『はい』と素直に応えたのはプリネシカだけだった。
「待った! ――待ってくださいサイキ先輩!」
詰め寄る様にして前に出るペルセルテ。
精霊ボウライ達が放つ青白い光の中でもはっきりそれと判るくらいに、彼女の頬は紅潮していた。
「私が行きます」
「――あ?」
意表を突かれた――といえば嘘になる。実はこの少女の性格からして言い出すのではないかとレンバルトは予想していた。だからこそ柄にもなく、殊更に噛んで含める様な言い方をしたのだが――
「発電所へ行くんでしょ? バイクで」
「あ――ああ」
「街中の電気が消えてるとしたら、途中、何があるか判んないですよ」
「そうだよ。だから……」
「だから私が行きます!」
宣言しながら彼女がレンバルトに突き付けるのは先の生徒手帳だ。
身分証明と――その隣に並ぶA級ライセンス。
「ちょ――ちょい待ち」
半ば予想していた事とはいえレンバルトは若干慌てながら言った。
「あのな。キミらはこの事務所のアルバイトで、事務所にはキミらの安全を保証する義務があるんだよ。判る?」
アルバイトの、しかも女の子に危険な仕事をさせた上、自分は安全な事務所にこもっている、では職業倫理としても一般道徳としてもまるで筋が通らない――というかレンバルトにも面子や矜持が在る。
「それは……」
するり――とペルセルテの隣に銀髪の少女が並ぶ。
「業務上の責任ですよね?」
「おい――プリネシカ。君まで……」
顔をしかめるレンバルトに、プリネシカはひどく真撃な表情で言った。
「失礼ですが――少なくとも自動二輪の運転技術に関しては、危機回避能力も含めてサイキ先輩よりもペルセの方が上位に在ると思います」
それはその通りだろう。
レースにも出る事が出来るという事は――それだけ過酷な状況で自動二輪を乗り回せるだけの技能が在るという意味である。日常の脚や趣味で適当に乗り回している者とは根本的に次元が違う。
「それにこれは業務の範疇ではありませんから、事務所にも社会的責任は生じません」
「いや――あのな。社会的責任とかそういうのだけじゃなくて」
「それにもう一つ」
プリネシカはひどく冷静な口調で続けた。
「このトルバスでは、恐らく今も大量の事故や事件が進行中です。この非常事態に必要とされるのは何より神曲楽士と精霊の力です。例えばサイキ先輩の様な」
「う……」
そう――これもその通りだ。
今朝の一件からも判る通り、レンバルトと精霊の力ならば事故に遭った者達を迅速に救助出来る。電気を用いる機械装置が、電池式のものを除いて全滅の状態では、確かに最も頼れる力は精霊と――彼等を召喚し支援出来る神曲楽士のそれだ。
「適材適所です。私達ではサイキ先輩の様に上手く精霊を扱う事は出来ません」
「…………」
苦渋の表情で黙り込むレンバルト。
更に――
『御願いします――行かせてください!』
ペルセルテとプリネシカが身体を折って懇願する。
まるで事前に示し合わせていたかの様に声まで綺麗に揃ったユニゾンだった。
「…………」
短い沈黙が事務所内に満ちる。
頭を下げたままの双子とレンバルトの間を――照明代わりのボウライがゆらゆらと何処か呑気な様子で通り過ぎていった。
やがて――
「――判った」
そう言うレンバルトの声には多分に溜め息が混じっていた。
満面の笑みで顔を挙げるユギリ姉妹に――しかしレンバルトはやや語調を強めて言った。
「ただし二つ――約束してくれ」
「はい」
「一つめ。俺も詳しい事は知らないが、あのバイクは所長がフォロンの為に造らせたものらしい。本人もその事は未だ知らないけどな。だがツゲ所長の見立てが正しければ、あのバイクは必ずフォロンの『力』に成る。あるいはこの現状をも打ち破るくらいの。だから――必ずあいつに届けてやってくれ」
「はい!」
「それからもう一つ」
言いながらレンバルトは真新しい鍵を差し出す。
ペルセルテが差し出す掌にそれを落とす――のを途中で止めてレンバルトは言った。
「正直――俺としちゃこっちの方が重要だ」
「……?」
「無理するなとは言わない。けど二人とも必ず無事で帰ってこい」
返事は二人一緒――やはり綺麗なユニゾンだった。
『はい!』
そして。
華奢な指の上に涼やかな音を立てて銀色の鍵が落ちた。
警備室はエントランス・ホールの脇――受け付けカウンターの隣にあった。
無人である。
正面の壁には十数個の受像機が並んでおり、その手前は操作卓だ。操作卓のパネルには齧りかけのドーナツが放置されたままになっていて、その脇には紙コップがある。まるで数秒前まで、此処に誰か居たかの様な状態である。
ただし――
「駄目です。電話――通じません」
壁掛け電話のフックに受話器を戻してフォロンが報告する。
「つまり」
ユフィンリーは瑚排の紙コップを軽く揺すってみる。
紙コップの中の瑚排はすっかり冷めているようだった。
「何かが起きたけど外部との連絡もつかず、警備員はここを出て戻って来ていない。さらに警備の精霊も行方不明。そういうことね」
ユフィンリーは操作卓の前の椅子に座り、紙コップをその上に戻す。
その『何か』が起きた時、警備員はこの席を立ったのだ。
自分がその警備員になって動きをなぞろうとするかの様に、彼女はしばしそこに座って目の前の操作卓と受像機を眺めていたが――
「――妙ね」
「なんですか?」
フォロンも覗き込む。
ユフィンリーが指すのは、操作卓の片隅にある、いくらか大振りのランプだ。
赤く点灯している。
「非常電源に切り替わってる」
「発電が停まってるんですか?」
「そうだとしても、不思議はないわね」
ユフィンリーが操作卓に指を走らせる。
受像機に映し出される光景が、順番に、次々と切り替わってゆく。
全て天井近くからの映像で、多くは通路や階段、その出入り口だ。防犯用の監視カメラからの映像なのだろう。視界の広さを確保する為か、画面の端には広角レンズ特有の歪みが見えた。色調が妙なのは暗視機能で像を結んでいるからかもしれない。
食堂。喫煙室。テレビやゲーム機の置かれた娯楽施設も在る。中は見えなかったが、シャワー・ルームや仮眠室も備わっているらしい。確かにこんな山の中に在る施設なのだからどれも備わっていて当然のものだ。
だが……どの映像にも人影は映っていない。
「発電施設の監視は別系統? いや――そんな無駄な造りになんかしないか」
言いながらもユフィンリーは何かを探し当てた様で操作卓の端に手を伸ばした。
「あ――これね」
次の瞬間――受像機の映像が一斉に変わった。
先程までの映像はフォロンにも何が映っているのか理解出来た。だが――今受像機に映っている諸々の映像はさっぱり判らない。
どの受像器にも、機械装置の全部かあるいは一部が映し出されているだけだ。
パイプ。ケーブル。バルブ。パネル。
太いものや細いもの、大きいものや小さいもの、長いものや短いもの……形状や色も様々で、知識の無い者には何がどうなっているのかさっぱり判らない。何やら文字の書き込まれたパネルが貼り付けてあるパイプも目についたが――この受像機の映像では、解像度が低くて何が書いてあるのかまでは読めない。もっとも読めたところできっと素人のフォロンには意味なんか判らないに違いないのだが。
だがわざわざカメラを向けて監視する以上は、そこがそれぞれの機械装置の重要部分であるという事は想像がつく。要するに――『此処が壊れたらやばい』という様な部分をいつでも監視出来る様になっているのだ。
他にも……幾つかは通路らしき映像も在ったが、それらも似たようなものだ。
映っているのは装飾性に欠けた通路と、その周囲を走るパイプばかり。
人が居ない事を除けば特に異常らしい異常は見受けられない。
「ふん……?」
ユフィンリーの指が操作卓の上を忙しげに踊って映像を次々に切り替えていく。
だがやはりどれも似た様な光景で――異常無し。
やがて……
「――いた」
呟いてユフィンリーの指が止まる。
同時に受像機が一斉に――まるで昆虫の複眼の様に同じ光景を映し出した。
たった一つの理解出来る映像。
そこには確かに異常が在った。
発電施設の――恐らくは隅なのだろう。パイプだらけなのは同じだが、その奥に部屋の角が見える。かなりの広さがある様だった。
そこに探していたものがあった。
人間の姿である。
大勢居る――ざっと数えて二十人余り。
大半は男性だが、女性の姿も見える。数名を除いて殆ど全員が同じ仕立ての衣装を着ているという事は――つまりそれが制服で、彼等はこの発電所の職員なのだろう。ひょっとしたら常駐しているという神曲楽士も混じっているのかもしれない。
誰もが憔悴した表情で、力無く床の上に座っている。
単純に疲労が激しいのか――それとも絶望に蝕まれているのか。
「……成る程ね」
ユフィンリーの指が更に操作卓の上を滑ると――幾つかの受像機の画面が切り替わる。
カメラからの映像ではない。どうやらこの発電所の平面図らしい。だとしたら図面の片隅で点滅している光は――問題の職員達を捉えた監視カメラの位置を示しているのだろう。
「――フォロン」
画面を睨み据えたままユフィンリーは部下を呼んだ。
「はい」
「あんた――この場所まで行ける?」
「あ――えと。はい。大丈夫だと思います」
図面を記憶しようとしてじっと眺めながらも、フォロンは頷く。
ユフィンリーもやはり受像機に視線を据えたまま、静かな口調で言った。
「行って、この人達を開放してあげて」
「はい。え……でもユフィ先輩は?」
「私は……」
「手ごわいぞ」
ユフィンリーの台詞を遮ったのは、先程から沈黙を守っていたコーティカルテである。
彼女は受像機の映し出す映像の群れではなく、開け放った警備室の扉の側で、外に視線を投げている。いや――恐らく彼女は『視て』いるのではなく感知しているのだろう。人間には感じる事の出来ない何かを。幾つもの壁や障害物を越えて。
「感じるの?」
「感じるも何も――此処まで大きければ、目の前に立たれているのと同じだ。力の総量が巨大すぎるのか、その制御がぞんざいで漏れ落ちる量が多いだけなのかは判らないが。しかも何をやっているのか知らないが、どんどん力を増している様だぞ」
「……大体の想像はつくわ」
うんざりした口調で言うユフィンリー。
彼女は立ち上がりながら更に続けた。
「だから――私が行く」
この場で単身楽団を持っているのはユフィンリーだけだ。
いくらコーティカルテの力が強大だとは言っても、フォロンの支援を受けられない状況での戦闘は少々危険である。相手が同じく強大だと言うのならばなおさらだ。
そして単身楽団は使い手によってかなり独特のチューニングが施されるし、主制御用の楽器も神曲楽士によって異なる。無論、それなりの時間と部品、工具が在ればいずれも変更なり換装なりは可能だが――何にしても今フォロンがユフィンリーの単身楽団を借りて使うという訳にはいかないのだ。
「そいつの居場所って、導管のところでしょ?」
「それは、どこだ?」
振り返る緋色の髪の精霊に、少し考えてから、ユフィンリーは空中を指差した。
建物の中央――上方である。
コーティカルテは頷く。
「やっぱりね……そういうことか」
その言葉の意味をフォロンは問わない。ユフィンリーも説明しない。
お互いにやるべき事は決まった。
後は全力にて実行あるのみ。
「じゃあ――行こうか」
「はい」
「うむ」
部下と精霊の返事を確認すると――ユフインリーは紙コップに手を伸ばし、冷めた瑚排を強引に喉へ流し込んだ。
「裏道を行こう」
そう言ったのはプリネシカの方だった。
そしてそれは正解だった。
信号の消えた大通りはあちこちで事故が起き、渋滞した車の列は、とてもまともに流れてくれそうになかった。きちんと車輌の通れる車線は、普段の半分以下である。
バイクはそれでもまだ車輌の間を縫って走れるので、渋滞の影響を受けにくいが、それにしても限度というものがある。非常事態とあって四輪車は互いに無理矢理割り込みまくるために、それぞれの間には自動二輪が通り抜ける隙間さえ無い事が多かった。
無論――同様に考えて裏道を選択する者も多く、そちらはそちらで渋滞が起きてはいたが、それでもこちらは未だ完全に道が塞がれる事だけは無い様だった。さすがに大した速度は出せないが、歩行者にさえ注意していれば、自動二輪は路肩を走って行く事も可能だ。
さすが――と誇らしげにペルセルテは思う。
さすが私の『妹』。
その妹は今――後部シートに居る。
彼女はこの暗闇に支配されつつある状況下ながら、震動をものともせず、灯りも無いのに手にした地図を素早くめくり、姉に適切なルートを指示していく。ペルセルテは運転に集中するのに精一杯で細かい道筋を確認している余裕が無いため、ナビゲーションは完全に妹に任せているのである。
何しろ単にすり抜けて走ると言っても、実際に実行するにはそれなりの技量を要求される。彼女等が転がしているのは大型二輪――自転車とは訳が違う。車体は元々大きいし、その重量故に、少なくない慣性が働く為、ハンドルやブレーキの操作にはある程度の余裕を確保する為の『先読み』が必要となってくる。
ひょっとしたら後日、事務所にあちこちから請求書が来たり、あるいは警察からの出頭命令が届くかもしれない。此処へ車でだけでも既に、何台かの車の側面をペダルで引っ掻き、サイドミラーをハンドルで叩き折ったりしてしまったからだ。
事務所を出てから二時間近く。
それでも……未だ半分も走っていない。
「…………!」
前方に――大通りと交差する片側二車線の道路が見えてきた。
ぎっちりと車で詰まって動かない。
「――ととっ!」
ペルセルテは目の前の乗用車とトラックの隙間に滑り込み、強引に道を横切った。クラクションが背中に叩きつけられたが――知ったこっちゃない。
(こっちは二人の先輩と一人の友人と、ひょっとしたら発電所の人達の安全がかかってんだから!!)
とにかく大義名分が在れば人間は強い。
更にペルセルテは大通りの交差点に無理やり飛び込んでいく。
車の列を力ずくで抜けると……前方の道路が上へと傾斜しているのが見えた。
高速道路の入り口だ。
料金所の手前――いつもなら道路情報を表示している電光掲示板が、真っ黒に消えている。そしてその真下では、黄色と黒の縞模様に塗り分けられた遮断機の横棒が閉じていた。
だからスロープには一台の車もない。
どの車も閉鎖された進入路の手前で、地道の方へ迂回しているのだ。
「――プリネ」
覚悟を促す様に背後の妹に声を掛ける。
「行くよ」
「うん」
返ってくる妹の声に、微塵の躊躇も逡巡も無い事をペルセルテはまた誇りに思った。
そして――
「だあああああああああああああああああああああああっ!!」
ペルセルテの叫びが夜気を叩く。
店から引き取ってきたばかりだというのに、もう傷だらけになった新品で特注の自動二輪は、渋滞の列を抜け出して一気にスロープを駆け上がり――そしてその頑強な車体による体当たりで遮断機を粉砕した。
遙かな山稜の高みから遠くの街を見下ろす。
普段は大量の光で溢れかえっているその風景が――今はほぼ闇の中に沈んでいる。所々に灯りらしきものは見えるが、その大半は無粋な電灯の類ではなく、燃え上がる炎によるものだという事を『彼』は知っていた。
――『彼』。
クダラがただ『奴』と呼ぶ人物。
『彼』は便宜上のものならば幾つもの名を持つが――その中でも最も多くの人間が知っているものは〈エンプティ・セット〉という名前であろう。それとて極めて限られた数でしかないのだが。
ふざけた名前だとはよく言われる。
『何者にも非ず』――名乗っていながら名乗っていないのと同じだ。
「……美しい夜だ」
窓辺に立ってトルバスを眺めながら彼はそう呟くいた。
「無粋で無駄なものが無い」
歌う様な声である。
あの暗闇に覆われつつある街で、何が起こっているのか――それを知った上で『彼』は悦楽を感じている。暗闇に巻かれた者達の悲鳴も怒号も此処には届かない。ただ濃密な闇の中でわずかな光が静かに揺れているだけだ。
「――クダラ・ジャントロープは予定通りに仕事をこなしている様で御座いますね」
背後からの涼やかな声に――『彼』は手にしたグラスをわずかに掲げて応じた。
「扱いにくい一匹狼――僭越ながら、果たして役に立つかとうかと懸念致しましたが」
「犬はそれ位の方が良い」
『彼』はわずかな笑みを浮かべて言った。
「家畜化されきった愛玩動物に、野生の獣が仕留められる筈もなし。牙持つ凶獣を凶獣のまま使いこなしてこそ――狩りの醍醐味も得られるというものだ」
「左様で」
背後で律儀に頷く気配が在った。
「されど長引いては〈楽聖〉が動き出しはしませぬか」
「先代の老人共は〈神器〉のお守りで忙しかろう。〈嘆きの異邦人〉の一件も未だ記憶に新しい。かといって新しい世代が襲名したという話も聞かん。この国も平和が長かったからな。人材不足は否めんだろう」
「御意」
「何にしてもこれは未だ小手調べに過ぎない」
『彼』は楽しげに言った。
まるで――舞踏会を明日に控えた舞い手の如く。
「足掻け――衆愚よ」
両手を広げて『彼』は言った。
「きっと『次』には、今夜とてまだ自分達は幸福であったと思い知るであろうから。今は足掻いて生き残るがいい。歴史の――証人として」
芝居がかった台詞が山の空気に拡散する。
『彼』の背後で静かに一礼する気配と共に――主人の満悦を乱さぬ様に、そっと扉が閉じられる微かな空気の揺れが伝わってきた。
非常電源に切り替わっているというのは本当らしい。
通路が暗い。天井に設置された本来の照明は全て消えていて、壁の低い位置に埋め込まれた常夜灯だけが足下を照らしている。眼が慣れれば歩くのに不自由は無いが、暗視画像を映していた受像機越しと違って――闇の奥へと伸びていく通路はひどく不気味だった。
「――震えているな」
そう言うのはコーティカルテである。
朝の散歩の時と同様に、彼女はフォロンと手を繋いでいる。せめて彼女と繋いでいる手だけはと、なけなしの意志力を動員して抑え込んでいたのだが――感覚の鋭敏な彼女はフォロンの微かな震えを察知していた。
「ああ……うん」
「寒いのか?」
「ちょっとね」
曖昧に笑う。
しばらくそのままコーティカルテは黙っていたが――
「怖いのか?」
「…………うん。ちょっとね」
素直にフォロンは言った。
身の震えまで知られていては中途半端な意地など張っても仕方が無い。
だが――
「何故だ?」
コーティカルテはそんな事を聞いてくる。
「何故って……」
当たり前だ――怖いに決まっているではないか。
眼の前に延々と続く薄暗い通路。
しかもその先は『安全かどうか判らない』どころか『ほぼ間違いなく危険が潜んでいる』と判っているのである。しかもその危険の正体が、今もって判然としない。どうやらこの状況は精霊の行った破壊活動の結果らしいが――何故に精霊が此処でそんな行為に及んだのかが、判らない。理由は何なのか。目的は何なのか。あるいはそもそも理由や目的など無いのか。どれだけの力を持っているのか。交渉の余地は在るのか。
考えれば考えるだけ不安になってくる。
そんな状況で恐れを抱かずにいられる筈も無い。
だが――
「私が一緒に居る」
彼の精霊はそうは思っていない様だった。
「それなのに怖いか?」
「……え?」
「忘れたか」
その美しくも鋭い視線をわずかにフォロンから逸らしながら――ひょっとしたら、照れているのかもしれない――コーティカルテは言った。
「何が在ってもお前は私が護る。だから怖がる必要など無い」
「…………」
フォロンはしばし言葉に詰まり……やがて笑顔を取り繕って言った。
「うん。そうだね。ありがとう」
「礼などいらん」
益々フォロンの視線から顔を背けながらコーティカルテは言った。
「……私がしたいから……そうするだけの事だ」
「そうだね。だからなおさら。ありがとう」
「…………」
コーティカルテは黙り込む。
しかめっ面だがその頬は赤い。何やら照れているらしい。そんな微笑ましい姿を見ていると――彼女が強大な力を持つ精霊などではなく、外見通りの、ごく普通の少女であるかの様にさえ思えてしまう。
ただ……
(――でもね)
とフォロンは思う。
(だから僕は怖いんだよ……)
――『何が在ってもお前は私が護る』
その言葉通り、彼女は何が起きても全力でフォロンを護ろうとするだろう。
神曲の支援が在ろうと無かろうと、お構いなしに――だ。実際フォロンが彼女に命を助けられたのは一度や二度ではない。かつて〈嘆きの異邦人〉一派との戦いになった際も、彼女はフォロンを護ってきた。
彼女は上級精霊だ。
時に、神にも等しいと語られる事も在る、強大な存在だ。
だがそれは、必ずしも不滅や不死を意味するものではない。絶対でもなければ万能でもない。限界は在る。そしてある意味では、人間よりも遙かに脆い部分を精霊は抱えているのだという事をフォロンは知っている。
だから……
「……ここだね」
通路突き当たりの扉を開くと――その先は階段になっていた。
右側が上階へ。左側が下階へ。
迷わず左の下り階段を選んで降り始める。
受像機の図面で確認した限り、目的地は地下三階の北東に位置する事になる。
それが何の為の施設なのか――フォロンは知らない。判っているのはそこに何人もの人々が拘束されているという事だけだ。
聴く者の不安を喚起する冷たい静寂の中に、フォロンとコーティカルテが階段を下りていく足音だけが響く。
地下三階にはすぐに着いた。
閉ざされたままの扉の前で――不意にコーティカルテが立ち止まった。
「フォロン」
「――なに?」
「一つだけ言っておく」
その大きな真紅の瞳に――今は照れも陰りも無い。
「私は何が在ってもお前を護る」
「……うん」
素直にフォロンは頷いた。
ここで変な遠慮をすれば彼女は怒る。
「お前のためなら、私は自分を犠牲にすることもいとわない」
「……それは」
無論、判っている。
判っているのだが……それを素直に享受する事はフォロンには出来ない。たとえ彼女が怒るのを知ってはいても素直には頷けない。
だが――
「だが、お前以外の者まで護る気は無い」
「……コーティ。それは」
「聞け」
フォロンを黙らせ――しかし彼女が続きを口にしたのは、たっぷりと三十秒程の沈黙を置いた後であった。
「正確に言おう。お前が望むなら、私は他の者達も助ける。だが他の者を助けるためにお前を犠牲にする気はない。お前を犠牲にしなければ他の者を助けられないなら、私は躊躇い無く他の者達を見捨てて、お前を護る」
「…………」
「お前の望みは私の望みだ。その事に偽りは無い。だがその優先順位は『お前を護る』事よりは常に下だ。それを憶えておいてくれ」
「コーテイ……」
本来は喜ぶべきなのかもしれない。
精霊に此処まで言われれば神曲楽士冥利に尽きるというものだろう。
しかし……
「判ったか?」
「…………」
しばらく黙考した後――フォロンは頷いた。
「判った」
「よし」
満足げに頷く紅い精霊。
だが――
「それはつまり」
フォロンの台詞は終わっていなかった。
「僕がコーティに護って貰わなくてもいいように頑張れば、コーティは他の皆も助けてくれるって事だよね?」
「…………」
先ず少女の顔に浮かんだのは、単純な驚きだった。
口をぽかんと開けて、紅い眼を見開いている。珍しい事ではあった。コーティカルテに限らず、歳経た上級精霊の呆気にとられた顔など、滅多に見られるものではなかろう。
それから――
「フォロン」
コーティカルテの表情は苦笑になった。
「馬鹿だ――お前は」
「今頃気づいた?」
フォロンも少し悪戯っぽく苦笑を返す。
「…………」
「じゃあ――行くよ」
フォロンは言って扉のノブを握る。
「……うむ」
溜め息の混じるコーティカルテの返事を聴きながら彼は扉を開いた。
温度の違う空気が混じり合う。
そして――
「うわ……」
二人を出迎えたのは巨大な機械だった。
見上げんばかりに巨大な鋼鉄の円筒――大まかに言えばそれはそんな形状をしていた。
二人が目にしているのは、恐らくその底面だろう。
円形には等間隔に三ヶ所、扇形にくり抜かれた部分があり、その内部には太いケーブルを巻き付けたコイルの様なものが覗いている。
それが何なのかはフォロンにも一目で判った。
モーターだ。
精霊雷には、位相の高い空間から低い空間へと移動しようとする性質がある。
一方で、電流はモーターを回転させる事が出来るが、逆にモーターを回転させる事で電流を発生させる事も出来る。
この二つを組み合わせたのが、精霊力発電だ。
導管に導いた精霊が発生する精霊雷と、その外部に垣常的に存在する微量の残存精霊雷との間には、位相の高低によって流れが生じる。この流れをケーブルで誘導し、モーターを回転させて発電しているのである。
これがそのモーターなのだろう。
しかし――
(……なんて……でっかい……)
理屈では理解出来ても、その現実的な規模を目の当たりにすればフォロンとて感嘆に身動きを忘れる。
直径は……つまり高さは一〇メートル以上はあるだろう。しかもそんな巨大な構造物が、右側にも一つ、左側にも一つ、合計三つも並んでいるのである。
通常、発電『室』といい地下『室』という。
だが此処は――『室』と呼ぶにはあまりに広大だった。『地下室』と言うよりも『地下空洞』あるいは『地下壕』と呼んだ方が、正しくその印象が伝わるだろう。
「すごい……」
思わず漏らした次の瞬間――フォロンは異常に気づいた。
静か過ぎる。
「このモーター……回ってない!?」
「うむ。停まっているな」
コーティカルテが平然と頷いた。
「じやあ……」
モーターが止まっている。
だが精霊達は解放されていない。
では――
「精霊雷は何処に流れ込んでるんだろう?」
「それを考えるのはお前の役目ではないぞ?」
コーティカルテはそんな事を言う。
「でも……」
嫌な予感がする。
そして嬉しくない事だが……彼の嫌な予感というものはよく当たる。
「ユフィ先輩と合流した方が……」
「フォロン!」
鋭い声でコーティカルテが彼を呼ぶ。
同時に――頬を両方から掌に挟まれて無理矢理振り向かされた。
コーティカルテだ。無論彼女はフォロンよりも背が低いので、若干背伸びをした状態である。見ようによっては微笑ましいとさえ言える体勢ではあった。
だが、フォロンを見据える彼女の表情はひどく真剣である。
「こういう時に事態を悪化させるのは、仲間が打ち合わせにない動きをすることだ」
「でも」
警備室でコーティカルテは、とんでもない奴がいると言った。それも、どんどん力を増していると。もしもその理由がフォロンの考えたとおりなら……。
「先輩が危ないかも知れないんだ」
「ああ。死ぬかも知れんな」
平然とまたそんな事を言うコーティカルテ。
「判ってるんだったら……」
フォロンの言葉は紅い精霊の強い言葉によって遮られた。
「お前もだ――フォロン! 行けば、お前も死ぬかも知れない! お前が死ねば、ここに捕まっている者達も、どうなるか知れたものではないぞ?」
「…………」
だが――とコーティカルテは続けた。
「お前がユフインリーに言われた仕事をこなせば、少なくとも職員は助かるし、お前も死なない――違うか?」
「…………」
「未だ説明が必要か?」
「……いや」
呟く様に言うが、それできちんと相手には届いたらしい。
少女の手がゆっくりと離れた。
タタラ・フォロンはコーティカルテの顔を見つめて――それから小さな声で続けた。
「ごめん。判った」
自分がするべき事も。
先程コーティカルテが宣言した事の意味も。
(……そうだね)
何がしたいか――ではない。
何をするべきなのか――だ。
感情に流されて目的を見失ってはならない。
「こっちだ」
コーティカルテが指差すのは発電室の北東の角。
歩き出す時――肩に掛けた吊帯のズレを、半ば無意識に直した自分に気づいて、フォロンは苦笑を浮かべた。こんなところにまで荷物を持ったまま来てしまった。最早、蓄雷筒云々を問題にする様な状況では無さそうだが――今更置いていく訳にもゆくまい。
二人で右側のモーターまで歩き、通路に沿って回り込む。
「――あ」
……居た。
発電所の職員達の姿が見えた。ある者は壁にもたれ、ある者は座り込んで項垂れ、またある者は床の上に横たわっている。見たところ、死者や重傷者の類は居ない様だ。
フォロンは胸を撫で下ろし――そして声を上げた。
「みなさん! ――大丈夫ですか?」
全員が一斉に顔を挙げる。
何が在ったのか――どの顔も一様に疲労している。だが駆け寄るフォロンとコーティカルテの姿を確認すると、彼等は一様に歓喜の声を上げた。
「ああ!」
「助かった……!」
「おう!」
「これで帰れる!」
口々に言いながら立ち上がり、抱き合い、互いに肩を叩き合う。
「みなさん――無事ですか? 怪我は?」
「大丈夫だ」
応えたのは他の大勢と異なり、水色の制服を着た中年男性だった。
制服の腹が少々出っ張り気味で、あまり機敏そうな印象は無いのだが――腰に警棒のホルダーが在るところを見るとどうやら警備員らしい。もっとも警棒は取り上げられているらしく、ホルダーは空になっていたが。
「あ――ちょっと待て」
近付くフォロン達を警備員は片手で制した。
「足下を。そいつのせいで俺達は此処から動けないんだ」
警備員の指差す先。
コンクリートで固められた床に――一本の『線』が引いてあった。
厚みは無い。紐や糸の類ではない。恐らくは床に直接書き込まれたものだろう。だが一体どんな塗料を使っているのか……その線は光を一切反射しない深淵の漆黒を示していた。
線は半円形に職員達が押し込められた床を囲んでいる。
「……結界か」
言いながらコーティカルテが前に出る。
「だから待て! それは――」
警備員が慌てて制止するも――既に彼女の爪先は黒い線の上に掛かっていた。
その途端……
「――!」
フォロンが息を呑む。
細い――まるで髪の毛の様に細い線が、床の上の黒線より分岐する。
それらはまるで生きているかの様に自ら動いて、コーティカルテの身体に巻き付いていく。瞬く間に何十本――いや何百本という『線』に絡み付かれたコーティカルテは、一歩『結界』の中に踏み込んだ位置で止まった。
「まずい――早く戻れ!」
警備員が叫ぶ間にも、それらの『線』――つまりは極細の黒い糸は、コーティカルテの身体に食い込んでいく。
それが紐や縄ならこうまで警備員も慌てなかっただろう。
だが自ら締まりつつ、彼女の身体に潜り込もうとしているのは、細い細い糸状の『線』だ。
それは一定の強さと細さを越えた瞬間――『刃』になる。
「――!!」
発電所職員の数名が悲痛な表情で眼を逸らした。
恐らく彼等は、コーティカルテが『線』によってばらばらに寸断される様を想像したのだろう。確かに普通の人間であれば、生半可な刃よりも遙かに鋭いその『線』によって、全身を切断され、幾つもの肉塊となって床にぶちまけられていた事だろう。
だが――
「悪趣味な代物だな」
平然とコーティカルテは言った。
彼女は食い込む『線』などものともせずに更に一歩を踏みだし――
異音。
金属が弾け飛ぶ様な、甲高い硬質の音を響かせて黒い『線』は分解した。無数の細片に分断され、次の瞬間にはその破片でさえも虚空に融けて消滅する。『線』が破断するその刹那、文字通りに一瞬だけ彼女の身体から迸った紅い光を――さてフォロン以外の何人が、目視出来ただろうか。
「お……」
呆然と彼女を見つめる職員達。
既に彼女の足下の黒い線も無くなっている。コーティカルテは一瞬でその『結界』を根本から破砕してのけたらしかった。
「おおっ!!」
すたすたと歩いて近付いてくる彼女を見て、職員達が歓声を上げた。
「あんた――精霊か!」
「君も精霊か? それとも神曲楽士?」
職員達はコーティカルテとフォロンに駆け寄ってきた。
何本もの手が伸びてきて二人を握手責めにする。その中の一本――中年太りの警備員の握手に応じながら、コーティカルテは言った。
「神曲楽士だな?」
「ああ。一応な」
満面の笑みを浮かべて警備員が頷く。
だが――
「ミノティアスはどうした?」
そう尋ねられて彼の表情が曇った。
「奴は……」
「やられたか?」
「いや……」
警備員は首を振った。
「だがかなり手酷くやられたのでな。俺が強制的に『送り返し』た」
「そうか……」
ちなみに『送り返す』というのは慣用的な表現である。
精霊は元よりこの世界に由来する存在であり、何処か別の世界から現世にやって来るものではない。ただそう信じられていた時期が過去に在り――その為に、精霊の物質化を解除する様に誘導する神曲を聴かせる事を『送り返す』と、しばしば神曲楽士達は言うのだ。
この場合……物質化していた『肉体』部分を『力』に戻して自己の維持に使えるので、かなり損耗の激しい精霊でも、この処置をされる事で消滅を免れる場合が多い。
「賢明な判断だ」
そう言うコーティカルテの視線は警備員ではなく彼の頭上を見上げていた。
「奴の事だ――次に会った時は『何故最後まで戦らせなかったのか」と文句の一つも言うだろうが、奴とて馬鹿ではない。お前の行為そのものには感謝している筈だ」
「精霊の嬢ちゃん――あんたミノティアスと知り合いか?」
まあな――と応えるコーティカルテ。
「とにかく――みんな此処を出ましょう」
促すフォロン。
だが――
「それは困る」
彼の言葉に応えたのは全く知らない声だった。
愕然と背後を振り返るフォロン。
「そいつらには未だ用が在るんでな」
薄い唇を歪めて――そいつは陰惨に笑った。
「あ――しまった」
非常電源でもエレベーターは動いていたのではないか――そんな風に気づいたのは、階段を三階分も駆け上がった後の事だった。
戦闘をする予定なら、体力は極力温存しておくべきなのだ。
たとえ直接的に戦闘を行うのは精霊だとしても、神曲楽士は彼等の脚を引っ張らない様に敵の攻撃をかわして動き回る必要が在る。まして戦闘中は文字通りに全身全霊で神曲を奏でなければならない以上、戦闘の矢面に立たずとも神曲楽士の消耗は意外と激しい。
とはいえ――
「……まあいいか」
呟いて呼吸を整えるユフィンリー。
体力を消耗する前に、一気に相手を叩きのめせば済む事だ――と天才故の強引な理屈を自分自身に言い聞かせる。そして強引だろうと何だろうとそれを現実化出来るだけの才能が彼女には在るのだった。
ユフィンリーの眼の前には一枚の扉が在った。
『精霊雷誘導室』
扉にはそう書かれたプレートが填め込まれていた。
発生した精霊雷を、位相の高位から低位へと誘導する、その導線を制御する部屋だ。発電所には重要施設は多々在るが――中でも中枢の更に中枢となると、此処以外には無い。
居るとしたら……まず間違いなく此処だ。
「さて。それじゃあ」
階段を駆け上がる間は収納状態に在った背中の単身楽団を、改めて展開する。
ユフィンリーの主制御楽器はヴァイオリンである。
単身楽団の底面から弓を引き出し、本体を構えてから軽く揺すって顎の位置を調整。弦の上で指を何度か動かして関節をほぐしてから息を止める。
ゆっくりと、吐き出す。
弦に弓を乗せる。
そして……一気に引いた。
――きォん!!
会心の一音。
その初音を追いかけて第二音が、そして第三音が、さらにおびただしい音の奔流が、狭い階段スペースに流れる。
美しい曲である。
だが荒々しくもある。
ゆるゆると流れる川面の下で圧倒的な水流が渦を巻くように――
きォおおおン! きァん! き! き! きるるルルるる――ッ!
――その曲には奇妙な二面性が在った。
そもそも……一口に神曲と言ってもその態様は様々だ。いかに優秀な神曲楽士の奏でる曲であっても、全ての精霊を誘引する事はまず出来ない。精霊にも個性があり、嗜好の別が在る。極言するのならば、精霊の数だけその嗜好というものも在り、緻密にそれらに対応しようと思えば神曲も多彩にならざるを得ない。
逆に言えば……
きオるるるるるル、きオるるるるるル、きぃ〜〜あ〜〜るゥ〜〜〜〜!
……二面性を備えた特殊な神曲に惹かれてくる精霊が、同じ特性を持っていても、それは何ら不思議な事ではない。
不意に――
(――来たか)
ユフィンリーの背後で大きな布が空気を叩いた。
ばたばたと――それはまるで風にはためく巨大な旗の様だった。
旋回している。
黒い――丈長い衣装を身に纏う何かが。
やがて回転は唐突に停止し、重力の摂理に従ってふわりと下がる黒い布の中から、一人の男の姿が生み出される。同時に巨大な黒い布は、自ら幾重にも折り畳まれてその男の身体に寄り添い、衣装となった。
演奏を終えたユフィンリーが振り返る。
「いつもながら派手ねえ」
「…………」
応じる言葉は無く、ただ、ふふん――と鼻を鳴らして不遜な笑みを浮かべるのは、美しい青年である。
蒼銀色の長い髪を無造作に背中へ流し、素肌の上に着込んだ黒いジャケットにも飾り気はない。だが、女かと見紛うほどの美貌には一点の曇りもなく、露出した胸や腹部にも一切の無駄がない。その出現を派手とユフィンリーは評したが、この美青年に関して言えば、そのくらいでなければ釣り合うまい。
無論――人間ではない。
精霊だ。
この美しい青年の姿をした精霊こそ、天才神曲楽士ツゲ・ユフィンリーと精霊契約を結んだ彼女専属の契約精霊である。
名をヤーディオという。
ヤーディオ・ウォダ・ムナグール。
「いきなりで悪いんだけどさ――ちょっと荒っぽいの頼めるかな?」
「…………」
ヤーディオは黙ってその美しい唇に笑みを浮かべる。
好戦的なものではない。
相手がユフィンリーでなければその場で失神しかねない様な――見る者の、特に女性の感性直撃するかの様な、艶やかな笑顔である。
「叩きのめせば、いいんだな?」
ややあって発せられたその声は、美しいが……意外にも、太い。
バリトンである。
「うん。でも建物は出来るだけ壊さない様にね」
「判った」
言葉少なに言うなり、ヤーディオは無造作に長い右足を振り上げた。
その秀麗な容姿からはとても信じられないくらいに、乱暴な動きである。
そして次の瞬間――『精霊雷誘導室』と書かれた分厚い扉は蝶番から引きちぎられ、ヤーディオのブーツの靴底の形にへこみながら、奥へと吹っ飛んでいった。
いつもならここで苦笑するところである。
だが――
「――!」
今回のユフィンリーに、その余裕は無かった。
扉が――何の脈絡も無く空中に静止する。
そして次の瞬間、鋼鉄製の扉は音も光も無く、ただ崩壊した。輪郭が緩んだかと思うと、次の瞬間には扉を構成していた物質が、微粒子となって、空気中に飛散していったのだ。
無論――人間にも機械にも不可能な所業である。
風に吹かれた霧の如く、さらさらと散りゆく金属粒子の……向こう。
精霊雷誘導室の奥の奥。
「……こいつか」
呟くユフインリー。
そこに、敵が居た。
まるで骸骨みたいな男だ――とフォロンは思った。
過度に痩せ細っている訳ではない。長身痩躯には違いないが、黒いロングコートの内側では分厚い胸板が自己主張しているし、袖やスラックスにも余計なダブつきは見られない。
しかしそれでも男の印象は髑髏を想わせる。
彫りが深いという表現ではとても足りないくらいに、双眸は落ちくぼんで見える。また賛肉が無いという言い方では説明がつかない程に、頬骨が張って見える。
あるいは……
「ふむ……」
それは憔悴なのだろうか。
または絶望なのだろうか。
何処か末期の重病人を思わせる風情が、その男には在った。
「夜までは余裕があると思っていたんだがな」
溜め息と共に苦笑すると、益々髑髏の様な顔になる。
「計画にミスが在ったとも思えんが――ひょっとしたら偶然か?」
「…………」
その通りだ。
フォロンの失態が無ければこんな処に来る筈ではなかった。
そう――全て偶然だ。
今日この場にフォロンが居合わせた事も。
そして彼に付き従う精霊がコーティカルテという強大な上級精霊であるという事も。
無論……フォロンは相手の問いには答えない。
コーティカルテが彼を庇う様に前に出た。
「お前は……誰だ」
男の顔に苦笑が浮かぶ。
それはさっきの様な自嘲的な笑みではなく……どこか冷笑に近かった。
「俺は、クダラ・ジャントロープ。と言っても判らんだろうがね――お嬢さん」
「……そうか?」
冷笑には冷笑を返すのがコーティカルテの流儀であるらしい。
「貴様、評判が悪いぞ。ヒューリエッタのことで貴様を八つ裂きにしたがっている精霊も、少なくないからな」
「…………」
クダラと名乗った男の顔から、笑みが消える。
目を細めると、後には黒い影だけが残る。まるで眼球を抉り出された眼窩の様だった。
「小娘。何者だ」
言いながら、右手で下げたアタッシュケースに左手を添える。そのまま右手で把手を引くと、長いストラップが引きずり出されてきた。
「コーティカルテ・アパ・ラグランジェス」
クダラの顔に驚愕が浮かんだ理由は、フォロンにも判る。
この男はそれなりに知識が在った――それだけの事だ。一般にこそあまり知られていないが、コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは、ある種の領域に住まう者達の間では、今なお多大なる畏怖と共に囁かれる……忌み名である。
だが――
「――そうか」
それならば続く喜悦の表情は……一体何を意味するのか?
「そうかそうか……そういうことか?」
嬉しそうに、クダラは引き出したストラップに頭と右腕を通す。ショルダー・バッグをたすき掛けして、躯の前に抱えたような格好になった。
「コーティカルテ・アパ・ラグランジェス――〈ブラッディ・ダチェス〉!  〈ウェイワード・クリムゾン〉! 〈嘆きの異邦人〉の一件以来、どこに雲隠れしていたかと思いきや、そうかそうか、そんな小僧のものになっていたか」
「違うな」
コーティカルテは静かな口調で言った。
「私が彼のものになったのでも、彼が私のものになったのでもない」
「ふむ?」
クダラは小さく首を傾げて見せた。
「美しきパートナーシップか? それで? そのパートナーシップでどうする?」
「私の契約者は此処の人々の解放を望んでいる」
「それは――」
クダラの表情が嘲笑の形に歪む。
「無理だなあ?」
次の瞬間――男の抱えたケースが展開した。
ネックが飛び出す。ヘッドから飛び出した金具が、スライドしながらボディヘと一瞬で移動する。更に突出してきたブリッジに固定して六本の弦を張る。展開を続ける本体からは、他にもトレモロ・アームが現れ、開いたカバーはそのまま裏返ってピックガードになる。
ギターだ。
だがこれは――
「…………!」
フォロンが息を呑む。
単にギターへと変形しただけではない。
ボディの下部から滑り出てきたのは三つのスピーカーだ。またヘッドから回り込んでくるアームは情報投影装置だ。
そう。これは単身楽団である。
だが――こんな型式のものは今まで見た事が無い。
本体が無いのだ。
本来――単身楽団は、自動演奏装置や各種情報処理装置が一体となっている為に、それなりの容積をとる。
また……神曲は、その効果を最大限に発揮しようとすれば、精霊の反応や音の反響といった各種の環境に合わせて、モジュレーションやピッチ、あるいは曲そのものの早さといった各要素の微調整を行わねばならない。
この為に単身楽団の本体は、通常、神曲楽士の背中に背負われ、常に演奏情報を提示する情報投影用のプロジェクタや操作卓は、演奏者の身体にまとわりつく様な形で配置される。
どうしても見た目として目立つのは主制御楽器の方だが、あくまでそれは曲を制御する為の『要』に過ぎない。単身楽団としての本体は別に存在する。
このクダラという男の単身楽団には――しかし、その本体部分が無い。
つまりこのギター部の中に単身楽団の本体が組み込まれてしまっているのだ。
最近の小型化が激しい単身楽団なら不可能ではないのだろう。
だが――
(これは……まさか)
殆ど反射的にフォロンは悟る。
何故、単身楽団本体を楽器に内蔵させたのか?
安定した演奏をする為なら、背負い子型でも全く問題が無い。携帯性もむしろそちらの方が荷物として安定している分、便利なくらいだ。
ならばこれは。
あくまで現場での扱いの簡易さと、身動きのし易さを優先した、この単身楽団は――つまり。
(……戦闘用!?)
戦闘現場での使用に特化した単身楽団。
それはつまり神曲を――精霊を兵器と見なして運用するという事に他ならない。
「ここを出たければ……」
クダラはギターのボディ下部のスリットからピックを抜き出す。
銀色の小さな三角形。クダラ・ジャントロープと名乗った男は、まるでフォロン達に見せ付ける様にそれを頭上に翳し――そして叩き付ける様な勢いで六本の弦を薙いだ。
「俺を殺さなきゃあ――なァ!?」
ぎゃいいいイイイイイいぃぃぃ――……ッ!!
「――!」
ぞくり――と鳥肌が立った。
たったの一音だ。
だがそれだけで周囲の空気が一瞬にして冷え込んだ様な衝撃をフォロンは受けた。
敵意? 殺気? 害意?
いや……違う。
それらを包括してなお恐ろしいくらいに純粋なもの。
これは悪意だ。
本物の悪意というものが――混じりっ気無しの、純然たる悪意の込められた音というものが、一体どれだけの事を可能にするか、フォロンはこの時、初めて知った。
以前〈嘆きの異邦人〉と戦った時ですら、これ程の悪意に触れた事は無かった。
彼等はむしろ一種の求道者だったと言っていい。彼等の価値観に従った上で行動していた。世間的にどうあれ、彼等は彼等自身にとっては善であったのだろう。
だがこれは――この男は。
「フォロン」
前に立つコーティカルテが振り返る。
眼が合うと――彼女は視線を下げた。
彼女の手へと。
ゆったりと緊張感無く自然に降ろされた彼女の右手が……しかし微かに動いている。
掌がこちらを向いて僅かに押し戻すような仕種をした後、人差し指でぐるりと、半円を描く
――
「……判った」
その意味をフォロンは即座に理解した。
二年以上も一緒に居たのだ。そもそもこの場で彼女が言いそうな事は、サインが無くても判る。『そのまま後ろへ退って、モーターの背後から回り込んで、逃げろ』――彼女はそう告げているのである。
「気をつけて、コーティ」
「…………うむ」
頷いてから正面に向き直る時。
紅い精霊の頬に笑みが浮かんだ様に見えたのは――錯覚だろうか。
「クダラ・ジャントロープ!」
コーティカルテは更に前へ出る。
「神曲の戦闘支援が無い私になら、勝てると踏んでいるのか?」
無論――これは挑発だ。
喧嘩から戦闘まで、大抵の場合、宣戦布告や見栄を切るよりも先に手が出る――というか出てしまうのがコーティカルテだ。逆に言えば、彼女が相手に先ず言葉を投げている状態というのは、本気で怒っていないか、あるいはその必要を彼女が認めているかである。
「愉快なオモチャだな? だがそんなオモチャでどんな精霊を呼び出そうとも、私を地に伏させる事など出来んぞ」
正直言ってコーティカルテの挑発は上手いとは言えない。
そもそも、彼女はどちらかといえば口下手だ。だがそれでも彼女は相手の憤怒や動揺を誘ってフォロン達が逃げ出す為の隙を造ろうとしているのである。
そして――
「ふむ……?」
クダラは一瞬――愉快そうに笑った。まるでコーティカルテの意図を見透かしている様にさえ見える。その表情にも立ち方にも相手を脾睨するかの様な余裕が在った。
……駄目か。
コーティカルテ本人ですらそう思っただろう。
だが――
「出来ないか? そう思うか?」
(――乗った!)
コーティカルテが畳み掛ける。
「出来ない。貴様の外道ぶりは聞き及んでいるぞ――クダラ・ジャントロープ。〈七楽門〉クダラの名の面汚し。最低最悪の精霊遣い。貴様如き道を外れた半端者に、このコーティカルテを倒す事が出来ると? 思い上がりも甚だしい! 本気でそう思っているのならば貴様は救い難い阿呆だ」
「…………」
フォロンは周囲の人々に目配せをする。
それは無言の内に次々と職員の間で連鎖していって――やがて幾つもの小さな頷きとなってフォロンに返ってくる。大丈夫。皆はコーティカルテとフォロンの意図を判ってくれている。
だが――まだ動けない。
全員がクダラの視界に入っている。あの髑髏の如き男がどんな攻撃手段を持っているのかは判らないが、迂闊に動けば即座に致命的な攻撃が飛んでくる可能性が在る。
その事にコーティカルテも気がついているのだろう。
「――フォロン!」
殊更に大きく彼女は叫んだ。
「命じろ! この私に――コーティカルテ・アパ・ラグランシェスに、この愚か者を倒せと命じるがいい!」
「――!」
反射的に、拒否感がフォロンの脳裏を走る。
彼にとってコーティカルテは親友であり、相棒であり、幼馴染みであり――そしてとても大事な存在だ。世間では神曲楽士と精霊の関係を主従になぞらえる事が多いが、フォロンは彼女を自分の従者と思った事など……ましてや心無い人々が言う様に、所有物と思った事など一度も無い。常に対等と思うからこそ、彼はこの傲岸不遜とも言うべき紅い精霊と一緒に暮らす事が出来るのだ。
彼女に命令したいなどとは思わない。思えない。
まして――
コーティカルテの過去には暗く血塗られた部分が在る。
〈血塗れの女公爵〉、あるいは〈鮮血色のじゃじゃ馬〉――かつてそう呼ばれた彼女の全てを、フォロンは知っている訳ではない。ひょっとしたらクダラの方が遙かにコーティカルテの過去をよく知っているかもしれない。
だが……それでもフォロンは、彼女がその過去と決別したがっている事を知っている。
だから戦わせたくないのだ。
ましてや彼の命令によってなど。
だが……
(……戦う……命令)
それは直接その手を汚さずとも、自分の意志で目的を見据え、手段を選択するという事だ。
壊すのも。叩くのも。潰すのも。歪めるのも。傷付けるのも。あるいは――殺すのも。
その覚悟の在る者だけが、命令する権利を得る。
同時に――それを罪業と呼ぶならば、命じられる者と命じる者、並んで共にそれを背負う意志、『共犯者』となる覚悟が在る場合にのみ、許される事だ。少なくともフォロンはそう理解する。
だから……
「…………コーティ」
大きく息を吸って。
それから――ほんの少しだけ腰を落して。
「命令だ――そいつを倒せ!」
「承知!!」
同時に――幾つかの事が起きた。
閃光と奇音。
コーティカルテから迸る紅い精霊雷の光が、空間を縦横無尽に荒れ狂う。クダラのギターから放たれる旋律が空気を震わせて一同の耳に突き刺さる。
そんな中へ――更に『走って!』というフォロンの叫びと、それに続く幾つもの乱れた足音が加わる。
フォロンは職員達を引き連れて巨大なモーターの裏側を走り抜けた。
その間も、閃光と旋律は止む事無く荒れ狂っている。
女性職員が悲鳴を上げる。足音が乱れに乱れる。息が切れる。距離にすればほんの数十メートルである筈なのに、目的地が無限の彼方の様に思えてくる。
だが遂に眼の前に地上への扉が見えてきた。
そして――………………
どさりと何かの倒れる音がする。
一瞬――何が起こったのかフォロンには判らなかった。
眼の前の光景の意味が理解出来なかった。
だが――
「コー……」
愕然と立ち止まるフォロン。
その眼の前に――コーティカルテの身体が転がっていた。
精霊力発電所の最上部は、ルートと呼ばれる導管になっている。
神曲で誘導した下級精霊を取り入れ、そこで生じた精霊雷を地下のモーターへと誘導しつつ、精霊達を上空へ向かって開放する装置だ。
文字通りに精霊の『通り道』である。
基本的には直径一〇メートル程の筒状で、精霊雷誘導ケーブルの先でゆるやかに湾曲し、天井を貫通して外へと通じている。
その――丁度、湾曲の始まる辺り。
精霊雷誘導ケーブルの前にそいつは……居た。
「なるほどね」
ユフィンリーの呟きは低く硬い。
そこには明らかな怒りがある。
「そういうことか」
敷地面積いっぱいの――広大な部屋である。
そのど真ん中に一本の巨大な筒が横たわっていた。
導管である。
真鍮色の金属製。その表面は無数の古代文字で埋めつくされている。導き入れた精霊を、導管の外へ出さないための……いわば人間にとってのガードレールの様なものだ。
ちなみに。
この文字は、とある上級精霊によって伝えられたとされているが……現代においてこれを『文章』として読める人間は殆ど居ない。せいぜいが単語を拾う事が出来るだけである。人間の扱う言語と文法構造が違い過ぎて、理解が出来ないのだそうだ。
ユフィンリーも細かい事は知らないが、関節代名詞の入り組み方や関係節の組合せ方が、理論的に見て人間の脳で理解出来る限界を超えているとかいないとか。難しいとかややこしいという話ではない。そもそも『規格』が違うのである。
この導管の文字も恐らくは精霊か――あるいはごく一部の狂人にも等しい『超越者』の協力で刻まれたものであろう。
だが――
「無茶な事を……」
精霊雷誘導ケーブルの手前に、別の細かな文字群が環の様に書き加えられていて――導管を一周している。
黒い文字だ。
周囲の光を吸収しているかの様に、一切の反射がない。
結界の一種である。
黒い文字の描かれた先へは、下級精霊は入ることも出ることも出来ない。水の流れる水道に、栓をしてしまっているようなものだ。
これでは溜まりに溜まった精霊雷は、地下のモーターへ誘導されない。おそらく今ごろ、トルバス中が大規模な停電にみまわれているはずだ。
単に停電といっても、規模が大きくなれば大惨事を引き起こす。
少なくとも今夜の事故と犯罪の件数は、トルバス史上稀に見る数値を記録するだろう。
紛れもなくこれはテロリズムだ。
「よくやるわね」
吐き捨てる様にユフィンリー。
だが相手はむしろ愉しげに応じてきた。
「すごいでしょ?」
黒髪の女である。
美しい。美しいがひどく不自然な印象が在る。白と黒のみで構成された――ありとあらゆる色素が抜け落ちたかの様な容姿は、まるでモノクロームの写真かある種の絵画の様に、美しくはあっても現実味が無い。まるで幽霊の如く――生身の俗臭が恐ろしく欠落していた。
一目で精霊だと判った。
導管に背を向け――故に真正面からユフィンリーと向き合う格好で、四枚の羽根を広げているのである。
青白い燐光に包まれた――黒い羽根だ。
幾重にも湾曲し、複雑に入り組んだ輪郭を持つ、それは間違いなく精霊の羽根である。
だが通常その翼を構成するものは、光だ。彼等の羽根は、光を以て直接虚空へと描かれる。学者によってはその羽根こそが彼等の本体であると主張するが――真実が何であるにせよ、それは精霊達の個性や特性を如実に顕す。
では……
光ではなくその真逆、即ち闇の羽根を持つ精霊は、一体どんな性を持つのか。
「この子達の悲鳴と怒号が全て私の力となるのよ」
一般に精霊は善良とされているが、これは間違いだ。
精霊同士で戦う事も在るし、ごく稀に精霊が人間に害を及ぼす場合も在る。大抵の場合に精霊は人間の価値観に縛られない為、あまり人間の生活には干渉してこない訳だが――神曲楽士の求めに応じて人間の手助けをする事が多い為、『善き隣人』という認識が広まっているだけの事だ。
実際、暴走した精霊は人や精霊の区別無く相手を襲うし、利害が一致すれば人間の社会においては『悪』や『罪』とされる行動に出る精霊も居る。事実――〈嘆きの異邦人〉達に付き従っていた精霊達は、人類社会に対し、過去に二度も局地紛争規模の戦闘行為に及んでいる。
つまり精霊は善でも悪でも無い。
人間と同じくとちらでもないが故に――理由さえ在ればどちらにも染まる。
導管に誘導され、神曲を得る事を前提に精霊雷を放出していた精霊達は、この導管の中に強制的に閉じ込められた結果――苦痛に呻き飢餓に吼える状態となる。その結果として彼等は暴走し、触れるもの全てに対し攻撃性を剥き出しにする様になる。
女の背中で展開する四枚の羽根――その先端が全て導管の表面に触れている事にユフィンリーは気づいていた。
恐らくは吸収しているのだろう。
飢えと痛みに狂った精霊達の攻撃性を。
彼等の悲鳴と怒号を――そこに含まれている『悪意』を。
力に善悪の区別は無い。
ならば――
「大事なことを二つ、教えておいてあげるわね――お嬢さん」
にたり……と微笑む女の唇は、そこだけが血を塗りたくった様に赤い。
「羽根が四枚だからといって甘くみない事。私の力はもう上級精霊にも負けないくらいに増大しているの」
「ふうん」
ユフィンリーに動揺する様子は無い。
「で――もう一つは?」
「私はもっともっと強くなりたいの」
女は婉然と笑みを深めた。
「遠慮無く躊躇も無く……目につくものを片っ端から引き裂いてしまえるくらいに。精霊も人間も動物も一切合切容赦なく。完膚無きまでに」
「…………」
「だからね?」
駄々っ子を諭す様な口調だった。
「邪魔するなら容赦しないわよ?」
「了解。よく判ったわ」
肩を竦めてユフィンリーは言う。
彼女は導管とそこに寄生する黒い精霊にあっさりと背を向ける。
そして――言った。
「ヤーディ」
呼ばれて、するり、と風のような身のこなしで前へ出るのは、蒼銀の髪の美青年である。
切れ長の瞳が真っ直ぐに女をとらえ、その唇には微かな笑みさえ浮かべている。
黒髪の女が一瞬――嬉しげに表情を綻ばせる。
「貴女の契約精霊?」
ユフィンリーは背を向けたまま答えない。
代わりに蒼銀の髪の精霊が名乗った。
「ヤーディオ・ウォダ・ムナグール」
「ヒューリエッタ・ミナ・ゼノサディスよ」
「名前は聞いている。〈闇姫〉ヒューリエッタ――よろしくな」
「よろしく、ヤーデイ」
まるで貴族同士が出会ったかの様に優雅に一礼を交わすヒューリエッタとヤーディオ。
そして……
「名高い精霊と相まみえるのは光栄の至り。故に――」
言ってヤーディオはそのピアニストを思わせる細い指で拳を握った。
「最後まで、とことんお相手してもらうぜえッ!!」
――どんっ。
鈍く重い打音と共にヤーディオの姿が揺れて――消滅した。
床を蹴り飛燕の遠度で一気に間合いを詰めたのである。
同時に――
鮮やかなヴァイオリンの音が澱んだ空気に切り込む。
振り返ってユフィンリーは戦闘支援用の神曲を全力で奏で始めた。
俗に眼にも留まらぬというが――元よりその領域に達していたヤーディオの速度が更に倍加する。無論、速度だけではない。契約主からの神曲を与えられた契約精霊はそれ以前とは全く別次元の存在になる。
それは『強化』『増強』というよりも『変異』であり『進化』と言うべきであろう。
上級精霊とて怯まずにはおれない筈だ。
だが――
「…………」
何たる事か。
弾丸の速度で壁を蹴り、天井を蹴って、己に肉薄するヤーディオを前にして――ヒューリエッタは退くどころか前に出た。しかもその口元の笑みは微塵も揺るがない。
空中で二体の精霊が接触した。
「……くっ」
ユフィンリーは呻いた。
並ならぬ動態視力を誇る彼女の瞳にも、ヤーディオとヒューリエッタの動きの全てを把握する事は出来なかった。速すぎる。捉えたとしてもそれは殆ど残像だ。しかもヤーデイオの動きは見慣れた彼女ですら、二体の精霊の動きがどう変化していくか予測がつかない。
それは異世界の格闘技だった。
それは重力を無視し、慣性を無視し、ありとあらゆる物理法則を嘲笑しつつ繰り広げられる精霊達の――精霊達にのみ可能な、まさしく神業。
「ちっ――これじゃ」
支援どころか、自分の方がヤーディオの脚を引っ張りかねない。
無論――ユフィンリーは相手が戦闘に長けた精霊である事は予想していた。だからこそ御するのが難しい事を承知しつつ、ヤーディオを喚んだのだ。
しかし――これ程とは。
ヤーディオはユフィンリーの頼みをきちんと憶えている様だ。精霊雷の直接放射やそれに類する中距離攻撃は一切行っていない。完全に格闘技に限定された白兵戦を展開している。
だが……
鈍い轟音が精霊達を包んでいる。
二人の精霊の間で無数の攻撃が交差する。突き。蹴り。手刀。肘打。輪郭が滲んで見える程の超高速攻撃。両者を包む轟音の半分は、それぞれの動きに抉り抜かれて発生した真空へ、空気が流れ込む音である。
そして――
がががががががががががががががががががが!
広大な室内に反響する残り半分――機関銃の連射を想わせる硬質の打撃音。
超高速の打ち合いにもかかわらず、ヤーディオとヒューリエッタはそれを一打残らず捌いているのである。止める。受ける。流す。目にも留まらぬ上に精緻極まる攻防を、秒間数百回という規模で延々と続けているのだ――この精霊達は!
だが――
「――!」
不意に轟音が途切れる。
二人の精霊は互いに飛びさすって距離をとっていた。
無論――戦いに決着がついた訳ではない。どちらも両腕こそ悠然と降ろしてはいるが、その体は半身に構えて立ち、両の眼は相手を見すえたままだ。
「――いいな」
ぽつりと呟く様な台詞。
ヤーディオである。
容姿に似合わぬ伝法な口調で彼は続けた。
「いいな。あんた――いいな! いいぜ! すげえ! こんなに打ち合ったのは久しぶりだ!」
彼の言う通りである。
ユフィンリーとヤーディオとはここ一年半程の付き合いだが、共に踏んできた修羅場は一つや二つではない。そしてユフインリーはヤーデイオが三打以上相手に打ち込むところをこれまで見た事が無かった。
総合的な精霊としての力はあくまで中級のそれに準ずるものの、事、格闘戦に限って言えばヤーデイオ・ヴォダ・ムナグールは上級精霊をも凌ぐ天才と言っていい。
もっとも――
「カハハハハッ!」
美青年の姿をした精霊は高らかに笑った。
「もっと、やろうぜ! 人間みてぇに血反吐ぉ吐き散らかすまで、徹底的に殴り合おうぜ!!」
ヤーディオの背中で、ナイフを思わせる銀色の羽根が四枚、不規則に明滅している。
「ヤーディオー!!」
思わずユフィンリーは叫んだ。
「正面から打ち合うな!」
上機嫌ではあるものの――既にヤーディオは相当のダメージを受けているのだ。
それも相手の攻撃を受け止め、弾き、あるいは流し続けた、それだけの事で。互角に見えたが――やはり基本的な力の総量が違い過ぎる。
「状況は判ってるでしょう!?」
その程度の事は無論――ヤーディオも気付いている筈だ。
彼は天才なのだから。
だが返ってきた言葉は――
「うるせえ!! 邪魔すんじゃねえ!!」
これだ。
これがヤーディオという精霊なのである。
天才とはこういう事を含めての話である。それは技量であると同時に、限りなく能力に近く――更に言えば性質に近い。それ故に、一度猛れば歯止めが利かない。
「こんな面白ぇ事、途中でやめられるか!!」
視線は、相手を見据えたままだ。
そう――精霊は神曲楽士の奴隷でもなければ所有物でもない。それがたとえ契約精霊でも彼等には自由意志が在り、契約主の言葉が届かない事もままある。
「てな事だ、ヒューリ。もいっちょ、いこうぜ」
「いいわよ、坊や。絞りつくしてあげる」
モノクロームの精霊もまんざらではない様だ。
「――!」
先に動いたのはまたしてもヤーディオの方であった。
仕方無くユフィンリーも神曲の演奏を再開する。
だが――
(考えてみれば……先に仕掛ける彼を見るのも初めてね)
つまり。
それは仕掛けざるを得なかったという事ではないか?
ならば――
(彼は、勝てない――!)
「くっ――」
単身楽団の出力を上げ、運指を速めて曲調を変える。もっと多くの『力』を、もっと迅速に、彼女の契約精霊に注ぎ込むために。速さよりも『力』に重点を置いた神曲が響き渡り、ヤーディオの背の銀翼が輝きを増す。
だが――
ががががががががががっがっがっががっががががっがっ!!
攻守双方がまるで示し合わせていたかの様に規則正しく響いていた打音の連なりに、乱れが混じり始める。
押されているのだ――ヤーディオが。
ヒューリエッタの羽根の黒はさらに深みを増し、ヤーディオの羽根の銀色は輝きを失ってゆく。撃ち込まれる連打が、彼の生命力を削ってゆくのだ。
精霊は『生きた力場』と言われる。
彼等の体はその生命力から直接的に構築され、その打撃力もまた「存在する為の力」の一部を直接変換して、生み出されている。彼等の戦闘は文字通りに「身の削り合い」であり、力尽きればそれは即座に「死」に繋がる。
即ち――このままの状態が続けば、たとえ決定的な一打を受けなかったとしても、いずれヤーディオは衰弱の末に「死」ぬ。
(あの格闘馬鹿、判ってんでしょうね!?)
焦るユフィンリー。
だが彼女の苛立ちとは無関係に、ヤーディオは防戦一方に追い込まれていく。
既に攻撃の手数は最初の半分も無い。殆どはただ腕を揃えて胸の前に立て、叩きこまれる拳を、蹴りを防御し続けている。
だが基礎戦力において劣る側が一旦守勢となれば、後は坂を転がり落ちるが如く、加速度的に劣勢となるのが戦いの常。
限界はすぐに訪れた。
――どんッ!
遠雷じみた重い音と共に、双方の動きが止まった。
「がは!!」
喉の奥から絞り出す敗北の声は――ヤーディオのものだ。
二つに折った躯の、その腹のど真ん中に、ヒューリエッタの拳が手首までめり込んでいるのである。
しばしば誤解を受けるが、精霊が物質化する際――例えばヤーディオやコーティカルテの様に人間と酷似する肉体を形成する場合、その肉体はただ形状を真似ただけの人形的なものではない。その内部構造も人間に極めて近いものが形作られる。人間と同じ活動様式を再現するにはそれが最も合理的であるからだ。
つまり――物質化した精霊は、当然の如く人間と同様の部分に急所を持つ事になる。
だが……
「ヤーディ!」
蒼銀の髪の精霊は倒れない。
「……っぁらッ!」
叩き込まれた拳を払い落として蹴りを打ち込みに行く。
だがこれは明らかに悪足掻きだった。
「ぐおッ!?」
ヤーディオの身体が飛んだ――いや飛ばされた。
飛んでくる蹴りをかわしもせず、交差気味にヒューリエッタの放った蹴りがヤーディオの胸を打ち据えたのである。
「ヤーディ!」
駆け寄るユフィンリー。
ごろごろと転がってきた精霊は――しかし呆れた事にユフィンリーの足下、その少し手前で跳ね起きて叫んだ。
「だぁ! こンのくそ、効いたぜ!!」
とはいえ、さすがに立ち上がる事は出来ない様だった。辛うじて膝をつき倒れる事だけは踏み止まる。だがそれが精一杯――その証拠にユフィンリーの目の前で、彼の背中の四枚の『ナイフ』が消えかかっている。
「駄目、ヤーディ! 退きなさい! 代わりにマサードを出す!」
「ざけんじゃねえや」
言いながらヤーディオは膝に手をついて立ち上がる。
「途中で引っ込めるくれえなら、最初っから呼ぶなっつーんだよ」
膝が震えている。
無論――恐怖ではなく既に己の身体が言う事をきかなくなっているのだ。
これは人間のそれとは似て非なる状態だった。単に疲労や苦痛の問題ではない。肉体も精神も元より同じものの一側面であって不可分の精霊にとって、『肉体の制御が利かなくなる』事は即ち、その身が半ば引き裂かれている事を意味していた。
今すぐにでも物質化を解いて『送り返す』様にせねばもう保たないのではないか。
「…………」
黒髪の精霊の――無限の奈落を想わせる黒い瞳が細められる。
その美しい顔に浮かぶ歪みは軽蔑か。それとも嫌悪か。
「つまらないわ――貴方」
女の形をしたそれは言った。
「思ったよりもずっと弱い。弱すぎ」
「そう言うなって」
立ち上がったヤーディオはヒューリエッタに近付いていく。
だがその足下は全く定まっていない。ふらふらよろよろと――両手を相手に向かって伸ばし近付いていく。まるで女性に絡む酔っ払いの様で、この美しい精霊には似合わない事おびただしい姿だった。
何故か――ユフィンリーは彼を止めなかった。
「もっとやろうぜぇ――なあ?」
ヤーディオの手がヒューリエッタの胸元に伸びる。
誰が見ても最早とても戦える状態ではない。放っておいても彼はその場に倒れ伏していただろう。
しかし――
「…………」
声なき嘲笑と共にヤーディオの身体は跳ね上げられていた。
上へ――いやヒューリエッタの後方へ。
投げ飛ばされたのだ。いとも無造作に――まるで汚物でも投げ捨てるかの様に。ヒューリエッタの表情は、既に嘲りを通り越して苛立ちの形に歪んでいた。
だが。
「――まったく」
まるで場にそぐわぬ溜め息をついて言うのはユフィンリーだった。
ボロ布の様に投げ飛ばされた相棒を、慌てるでも怯えるでもなく、平然と眺めながら彼女は言葉を続けた。
「いつもながらあんたのやり方は危なっかしいのよ!」
「うるせえ」
応じる声はむしろ愉しげだ。
「――!?」
愕然と振り返るヒューリエッタ。
そして――
「貴様、まさか!」
「おうよ」
空中で逆さまに舞い上げられながら、ヤーディオはその秀麗な顔に野太い笑みを刻んだ。
「今更気づいても遅いがな!」
ACT4 KNOCKS!
異音。奇音。あるいは怪音。
ギゃイいいい……いいいぎいいいィ……ギゃいイイいぎぎぎいいいいぃ……!
適切な言葉が見つからない。
それはフォロンが全く聴いた事も無い旋律だった。ギターが出しているとは思えないくらいに、低く――しかも刺々しい音である。雑音や騒音に近い響きでありながらも、そこには厳然とある種の法則性が在る。在るのが感じられる。
それは確かに旋律であり音階なのだ。
だがこれは一体何なのか。
聴く者の神経を逆撫でする様な不快感が、コンクリートの壁に、床に、天井に跳ね返り、嘲笑の如く一同の上に降り注ぐ。職員達の数名は顔面を蒼白にしてよろめき、更に数名は口元を押さえて身を折った。
そんな中――
「コーティ!」
床に転がった精霊に駆け寄るフォロン。
「大丈夫だ」
応えてコーティカルテは立ち上がる。
だがその言葉はとても信用出来なかった。立ち上がりはしたが明らかにその膝には力が入っていない。よろめいた彼女をフォロンは慌てて支えた。
耳障りなギターの音は未だ止まる事無く響いている。
その中心で――
「なんだ。出来たじゃないか」
神曲――なのか? ――を掻き鳴らしながらつまらなさそうに言うクダラ。
その彼の周囲を、何かが飛び交っている。人の頭ほどもある真っ黒な何かが、幾つも幾つも巨大な羽虫の様に、物凄い勢いで飛び回っているのだ。
「な…………」
フォロンは呻く様に言った。
「なんだよ……何だよこれ……?」
「判らないか?」
クダラが嘲りを含んだ口調で言って寄越す。
「判らないのか――坊や?」
「…………」
いや。判っている。
ただ信じられなかったのだ。出来れば理解もしたくなかった。だから問うた。誰にでもなく――だが自分の嫌な理解を否定してくれる誰かの言葉を求めて。
それは精霊の群れなのだ。
形状はボウライに似ている。昨日の朝、レンバルトがトレーラーを動かす際に呼び集めた、多くは固有の名前も持たない下級精霊の一枝族である。球体を基本とする形状も一対の羽根もボウライと同じである。
だが。
それが本当にボウライの群れだとしたら……一体何が起きたというのか。
本来、ボウライは小さな光の球体として物質化する。
だが今――クダラの周囲を飛び回るそれは、光るどころかひたすらにどす黒く、その表面はねじくれた無数の棘で覆われ、丸みを帯びた可愛らしかった羽根も、無惨に歪みきっている。
光を吸い込むかの様な黒く異様なその身体の中で――ただ一点、愛らしくまん丸だった筈のその『眼』は、切れ込みの様なものに変化し、禍々しい狂気を秘めて爛々と輝いているではないか。
「何をした……?」
フォロンは食いしばった歯の奥から辛うじて言葉を押し出した。
「貴方は――一体何をしたんだっ!?」
これが神曲か。
聴く者の神経に不快感を生じさせ、精霊を怪物の如く変形させてしまうこの耳障りな旋律がまさか――神曲なのか? こんな神曲が有り得るのか?
(……『外道』……)
つい先程――コーティカルテが口にした言葉だ。
これがクダラの神曲なのだとしたらまさしく彼は外道以外の何者でもない。
「教えてやるよ、コーティカルテ・アパ・ラグランジェス」
異様な神曲を奏でながらクダラは言った。
フォロンの事など彼は全く眼中に無いのかもしれない。
「それが神曲を受け入れた精霊の、最大の弱点だ」
「なんだと……?」
フォロンの肩に掴まって立ちながら、コーティカルテはクダラを睨み据える。
彼女の炎の如き視線を真正面から平然と受け止め、更に黒い渦を従えて悠然と前に出る男の顔は――薄暗い笑みを浮かべていた。
「楽士と契約し、その神曲に自らを調律するということは、つまり神曲に依存するという争だ。強大な力を自ら放棄し、自らに枷を嵌めるという事だ」
「違う」
「違うものかよ。その証拠に、たかがボウライの群如きにお前は敗れた」
「私は……」
フォロンの手を振り払って身構えるコーティカルテ。
その両の拳を紅い稲妻が這い回る。
「まだ破れてなどいない」
「ほう?」
にやり――と笑ってクダラが立ち止まる。
何を考えているのかは、フォロンにも判った。
コーティカルテとクダラとの距離は、およそ五メートル。
その丁度中間の辺りに、階段へと続く出口が在る。
そしてコーティカルテはクダラと正面から対時し――彼女の背後にはフォロンが、そして囚われた人々がいる。
フォロン達を逃がしたければコーティカルテは前に出ざるを得ない。
だが黒いボウライ達を従えるクダラは、いわば無数の武器を帯びている様なものだ。距離をとっていればまだ対応も出来ようが、接近戦に持ち込まれて押し包む様に攻撃されれば、いくらコーティカルテでも危ない。
それを承知の上でクダラは誘っている。
来い――と。
『後ろの者共を助けたければ貴様が率先して死にに来い」と。
「――フォロン」
両の拳を這い回る電光を成長させながら、コーティカルテは言った。
「私が護るのは……お前だけだ」
「……判ってる」
自分達を庇う様にして立つ精霊の背中にフォロンは言った。
「ならば、いい」
言うなりコーティカルテは電光を帯びた両腕をそれぞれ大きく振りかぶり――
「――ッ!!」
――投げた。
左右同時――精霊雷の投射による遠隔攻撃。
空中で物理現象に転化された精霊雷は、本物の電光を空中に走らせながらクダラに向かって真っ直ぐに飛ぶ。
しかし……
「――なにっ!?」
コーティカルテの雷撃はクダラに届く事無く四散した。
立ちはだかるのは――黒い盾。
ぎィるギィる、とネックを滑るクダラの指が紡ぎ出す奇音に従い、数匹の黒いボウライが彼の真正面に移動――雷撃を受けたのである。
だが神曲を受けているとはいえ、下級精霊。
コーティカルテが放つ揮身の雷撃を受け止めるには、あまりに『力』の総量が足りない。
当然ながら彼女の攻撃を相殺した彼等は、自らも限界を超えて瞬時に消耗、そのまま空中に溶ける様にして消え去った。
精霊を――精霊自身を防壁に用いたのだ。
「この外道!」
怒気を孕んだコーティカルテの叫び。
「甘いぜ!」
嘲笑と共にクダラは狂ったかの様なアドリブのギター・リフで応じた。
刃物の如き銀色のピックが六本の弦を掻き回し、トレモロ・アームが旋律に異様なうねりを与えると――黒いボウライの動きが一斉に変化した。
迸る闇色の濁流。
黒いボウライは一斉にコーティカルテに向かって押し寄せた。
「――くっ!」
コーティカルテは咄嵯に精霊雷によって編んだ防壁を展開。
紅い緻密な網目模様が空間に出現し、殺到するボウライを受け止める。
だが――止まらない。
防壁に真っ直ぐ激突するボウライの群れ。自らの身を防壁に叩き付け、棘を砕かれ羽根を削られ、破片と精霊雷をまき散らして弾き飛ばされ――しかし即座に空中で反転して襲い掛かってくる。
酔っている。狂っている。
外道の神曲に本来の意志を歪められ、狂気の突撃を繰り返している。
見ている間に数体のボウライが消耗しきって消滅した。
だがそれでもボウライ達は止まらない。
「貴様あッ!!」
コーティカルテが怒鳴る。
叫びこそしなかったが――フォロンも彼女と同じ怒りを抱いていた。
(精霊を道具にするなんて……それも)
使い捨ての……!
『人間の善き隣人』
『知性を持った何か』
彼等を一体この男は何だと思っているのか。
(……許せない)
そう思う。
だが今のフォロンにはどうする事も出来ない。フォロンには外道の神曲に惑わされたボウライ達を救うどころか、自分の契約精霊を助ける事さえ出来ないでいる。
「むッ……くぅッ……」
呻くコーティカルテ。
ボウライ達の体当たりは休む事無く続いている。
その様子を絶望的な気持ちで見つめていたフォロンは――妙な事に気づいた。
(――コーティ?)
こんなにコーティカルテは弱かっただろうか?
何度も述べた通り、神曲の支援無しに闘うという事は……特に精霊雷を使うという事は、精霊にとって文字通り『身を削る』事に等しい。
だが彼女が神曲の支援なしに闘うのは、これが初めてではないのだ。以前も何度か、それで苦戦を強いられたフォロンは彼女を見てきたが、これ程に苦戦するコーティカルテを眼にするのは初めてなのである。
揮身の力を振り絞って精霊雷の障壁を展開する、その姿が今まで見たこともない程に辛そうで――ひとく痛々しい。
何故か……?
「――!」
その理由にフォロンは気がついた。
この発電所に来る途中……車の中で彼女はどうしていたか?
ずっと眠ってはいなかったか?
(まさか……まさか……!)
気が狂いそうな恐怖がフォロンを襲う。
そう――元よりコーティカルテは消耗していたのだ。
その原因は一体何か?
それは勿論――
「コーティ!!」
「そろそろ飽きてきたぞ」
クダラが言った。
「反撃が出来ないなら、これ以上続けても意味は無いな」
言いすてて――彼は演奏を中断する。
黒いボウライが攻撃をやめて再び彼の周囲を飛び交い始めた。
同時にコーティカルテの維持していた精霊雷の防壁が、揺らめいて――消える。
「……くっ……」
コーティカルテは遂に床に膝をついた。
明らかに限界が近い。
「これで最後にしようか」
クダラの右手が――ゆっくりと上がる。
「くたばれ」
ピックが六本の弦を掻き鳴らし、黒いボウライの眼が一斉に禍々しい光を放った。
次の瞬間――
――轟ッ!!
突然に鳴り響いた轟音はクダラの演奏ではなかった。
クダラの神曲よりも遙かに秩序だった、低くも力強い唸りが建物全体から伝わってくる。
「――なに!?」
回転を始めたのだ――巨大な発電用モーターが。
「ヒューリエッタめ――何を……」
そう言いつつもクダラの手の動きに乱れは無い。
流石に場数を踏んだテロリスト――突然の事態にも『武器』を手放す様な無様な真似はしない。その徹底ぶりはある意味で見上げたものだった。
だが……
「……む……むッ!?」
クダラの演奏が乱れた。
音程が歪み、更にはざらざらとした雑音が混じって、その旋律が途切れ始める。
クダラは一瞬、その表情を怪訝そうに歪め――
「――電磁干渉かッ!?」
近くで巨大なモーターが回転しているのだ。
その結果として発生する電磁場がクダラの単身楽団に干渉し、内部の精密機器部分の作動を狂わせているのである。
無論――即座にクダラは移動する。
いくら巨大なモーターの生み出す電磁場とはいえ、この部屋の隅々にまで影響を及ぼす程のものではないだろう。少しモーターそのものから離れれば、単身楽団に施されている防磁処理でその影響を排除する事も出来る筈――恐らくはそう考えての事だ。
だが――
「コーティ!!」
「――ッ!」
フォロンの叫びに応じて真紅の精霊雷が迸る。
今度こそ真正面から叩き付けられ――クダラの身体は真後ろに弾き飛ばされた。電撃に反応した筋肉が急速に収縮、クダラ本人の意志に関係なく彼の身体を跳ねさせたのだ。
「――ぬっ……!」
床に転がるクダラ。
電撃の後遺症で身体が言う事をきかないのだろう。立ち上がろうとしても立ち上がれず、床の上で無様に這い回っている。
空中を飛び回っていた黒いボウライの群れが消えた。
完全に神曲が途切れた事で、その効力から逃れ、物質化を自ら解いたのだろう。
「今だ! 走って!」
フォロンが叫ぶよりも早く、発電所の職員達は走り出していた。
開けっ放しだった扉を駆け抜け、更に階段を駆け上がる幾つもの足音が聞こえてくる。
「お……のれ……!」
身を起こそうとするクダラ。
だがそこにコーティカルテの一撃が追い打ちを掛ける。
「――ぐがっ!?」
真紅の精霊雷は空中で衝撃波に変じて彼を打ち据え、突き当たりの壁に叩き付けた。
今なら確実に勝てる。
だが――
「コーテイ!」
最早――コーティカルテも限界だった。
駆け寄るフォロンの眼の前で膝をつき、床に手を付つき、殆ど四つん這いの様な格好を晒すコーティカルテ。気高い彼女にすれば、それは身を捩る程の屈辱であろうに――しかし今はそれを気にする余裕も無いのか、フォロンに助け起こされて弱々しく呻くだけだ。
「だ――大丈夫!?」
「連中は……どうした……? ……発電所……の……」
明らかに言葉を紡ぐだけでもひどく苦労する様な状態だ。
だが荒い息の合間から彼女が口にしたのは――護る気は無いと宣言した筈の人々の、安否を問うものだった。
「大丈夫。みんな逃げたよ――ありがとう」
「……よし……私達も……急……」
「いい。喋らないで」
言ってフォロンはコーティカルテを抱き上げた。
彼にも判っている。
クダラはすぐに立ち直るだろう。
いや――既にクダラは壁際で呻きながら、身を起こそうとしている。
この部屋を出れば電磁場はすぐに遮断されるだろうから、追いつかれてしまえば状況はまた振り出しに戻ってしまう。いや――むしろコーティカルテのこの消耗の度合いを考えれば、更に悪化した状態になるだけだ。
かといってここに踏み止まって戦っても、勝ち目は薄い。
コーティカルテに戦う力などもう残っていないし、フォロンにしてもクダラを完全に制圧する自信は無かった。クダラ自身、荒事に従事する以上、何らかの格闘訓練は受けているだろうし――手なり足なりが届く距離まで近付く前に、再び黒いボウライの猛攻に晒される可能性が高い。そして生身のフォロンにあの狂気の突撃を防ぐ手段は無かった。
何より――敵を倒すよりも今はコーティカルテの回復を図る方が優先だ。
「行くよ!」
そう言ってフォロンは走り出した。
(――軽い)
自己嫌悪と悲壮感に潰されそうな胸の内でフォロンはそう思う。
コーティカルテの身体が――だ。
元より彼女は軽いが――今の彼女は普段にも増して軽い。肩から提げたままのケースの方が重い位だった。
精霊の戦いは文字通りに身を削る事。
こんなになるまで――彼女は戦ったのだ。
延々と徹夜で精霊雷を放出する作業を行って、疲労しきった身体で。
神曲の支援も無いままに。
戦ってくれたのだ――他の誰でもない、フォロンの為に。
「しっかり掴まってて」
コーティカルテの細い両腕がフォロンの頸を抱く様に巻く。
「…………」
既に声も出ないらしい。
ただ震える様に動いた唇は『すまない』『頼む』と言葉を紡いだ様に見えた。
(……僕は……)
情けない。
大事な大事な相棒をこんな風にしてしまった自分が、自分の我が儘が憎い。
泣き出したいのを堪えて――フォロンはただ必死に階段を駆け上った。
無論――ヤーディオは最初から狙っていたのだ。
恐らくはこの部屋に踏み込んだその瞬間から。
それはユフィンリーにも判っていた。判っていたが正直、最後の一線で信用しきれなかった部分が在るのも事実である。ヤーディオの性格からすれば、途中で戦いに熱くなる余り、当初の目的が頭の中からすっ飛んでいる可能性も無くはなかったから。
そう。
最初からヤーディオは相手を倒すつもりは無かった。
戦いへの執着を殊更に装って見せただけである――ヒューリエッタの眼を欺く為に。
「今更気づいても遅いがな!」
ぼろ布の様に宙を舞っていた彼の身体――その軌道が瞬間的に変化した。
放物線から直線へ。
空を蹴っての移動は精霊のみに可能な脅威の体術である。
ヤーディオが飛んだ先には真録色の巨大なパイプが在った。
導管である。
そこに新たに書き込まれ、精霊達を閉じ込めていた黒い結界の文字に――彼の拳が突き刺さる。瞬間的に結界も反応し、細い糸の如き線が浮き上がって迎撃の様子を見せたが……空を蹴って迫る勢いを乗せたヤーディオの拳の方が明らかに疾かった。
銀色の閃光は――わずかに一瞬。
だがそれだけで結界は呆気なく消滅していた。
最初からヤーディオが狙っていたのはこれなのだ。
――ご……ん…………んん…………んんんん………
床下から伝わる微かな震動と轟音は、地下で巨大な三基のモーターが回転を再開した証拠だった。導管の中に閉じ込められていた精霊が解放され、結界の先にあった雷誘導ケーブルが精霊雷を地下へと誘導し――モーターを再動させたのである。
「やるわね――坊や」
冷やかに微笑むヒューリエッタ。
「おうよ」
応えてヤーディオは肩凝りをほぐすかの様に腕を回した。
もしも彼が真っ直ぐに導管へ向かっていたならば、ヒューリエッタはそれを阻止しようとしただろう。それも、全力で――つまりは圧倒的な力量差でだ。
だから彼は真正面から、ダメージを受ける事を承知の上で闘いを挑み、挙げ句には意図的に無様に振る舞う事で相手の嫌悪感をかきたてた。
投げ捨てられる事さえ計算の内。
単純な強さだけではない。目的の為ならば己の流儀さえ素知らぬ顔で曲げ、敢えて恥辱にもまみれて見せる――本物の戦巧者とはこういう者の事を言うのだろう。
しかし……
「でも、もう遅いわよ」
「そうかい? 俺としちゃあ上出来だと思ってるんだがね」
無論――ヤーディオは最初から発電を再開させて街を救う事しか考えていない。
その意味では彼は立派に目的を達したと言える。
だがヒューリエッタを倒すという意味では……確かに遅きに失したとも言えた。
「ちょっと反省しちゃったかな」
黒い羽根の周囲で青白い燐光が輝きを増した。
強く。強く。強く。強く――
既に彼女は充分に、幽閉した精霊達から力を搾り取っていたのだ。ヤーディオとの戦いの間ですら温存していたそれを、ヒューリエッタは今、解放した。それは恐ろしい程に強大で――ただ彼女の身体から滲み出る、ほんの一部分ですら、まるで陽炎の様に彼女を含む光景の一部を歪ませる程だった。
「だから……」
紅い舌が唇を舐める。
檸猛な獣の様に――
「二人とも一瞬で殺してあげるわ」
宣言と共に突き上げた両手の間に、黒い光が生じる。
「そうはいくかよ!」
瞬間――ヤーディオは床を蹴って突進した。
敵に向かってではない。
「ヤーディ!!」
ユフィンリーに向かってである。
全身を叩きつける勢いで、彼女が構えた単身楽団ごと、その細い躯を抱き締める。一瞬でその意図を悟ったユフィンリーも、ほぼ同時に彼の身体へ腕を回してしっかりと抱き締めた。
そして。
何もかもを委細構わず粉砕する、強大な衝撃が炸裂する中――抱き合う精霊と神曲楽士の身体が木の葉の如く舞った。
階段を駆け上がる。ただひたすら駆け上がる。
コーティカルテを抱いて。
フォロンの首筋に顔を埋めて――彼女はまるで泣き疲れた子供の様にしがみついている。
(とにかく――ここを出るんだ)
出来るだけ離れて。
何とかして単身楽団を手に入れて――
「…………」
そこまで考えてフォロンは首を振った。
自分は一体、何を考えている?
自分の我が儘で憔悴したコーティカルテをこんなになるまで戦わせ、消滅の危険にまでさらしておきながら……まだ自分は彼女を戦わせる事を考えているのか?
だとすれば自分に、あのクダラという神曲楽士を責める筋合いは無い。
兵器の様に武器の様に精霊を使役する――ついそんな考えになりそうだった自分にフォロンは戦慄した。
もっとも……それは杞憂ではあったろう。
一階の通路を抜けてエントランス・ホールへと飛び出したフォロンは、どちらにせよ自分の考えが実現不可能である事を知ったからだ。
「……なんて事だ……」
外へと通じる大きな硝子扉の前で、逃げた筈の人々が呆然と立ち疎んでいる。
硝子の向こう側は漆黒だった。
暗いのではない。黒いのだ。
「……ボウライ…………」
あの黒いボウライの群れが、欄々と眼を輝かせて扉全体を外側から覆っているのだ。
「甘いぜ――坊主」
エントランス・ホールの奥からそんな声が漂ってくる。
フォロンがたった今駆け抜けてきた通路から姿を現したのは、言うまでも無く――髑髏の如き神曲テロリスト、クダラ・ジャントロープだ。
「逃がすわけにはいかんと言わなかったか?」
「――!」
コーティカルテが身をよじり、するりとフォロンの腕を抜け出して、床に降りる。
だが身構える彼女を背後からフォロンの腕が抱き締めた。
「フォロン――何を」
「駄目だ、駄目だ、戦っちゃ駄目だ!」
叫ぶ様にフォロンは言った。
この数分で多少の回復はした様だが――彼女はとても戦える状態ではない。
「ごめん、コーティ……」
「何を謝る? 離せ――フォロン。このままでは……」
「ごめん……」
言いながらしかしフォロンは腕を解かない。
全て自分の責任だ。
自分がつまらない意地を張って、コーティカルテに何度も何度も精霊雷を蓄雷筒に充填させては放出するという真似をさせた。
彼女の精霊雷は美しい。
本当に美しいのだ。
まるで紅玉を想わせる透き通った真紅に、しばしばフォロンは魅せられたものだ。
だからそれを他人にも自慢したかった。初仕事だから最高の精霊雷を蓄雷筒に詰めて、見た者を感嘆させたかった。こんなに美しい力を秘めた精霊を、自分は相棒にしているのだと誇りたかった。
初仕事だから。
最初の最初――自分のプロの神曲楽士としての第一歩だから。
誰かに誇れる結果を残したかった。
だが……そんな子供っぽいこだわりが、コーティカルテを疲弊させたのだ。
恐らくあの蓄雷筒はフォロンの想像以上に大量の精霊雷を充填出来るのだろう。神曲を得た上級精霊ですら、何度も満タンにしていれば疲弊せざるを得ない程に。
そしてコーティカルテの性格からすれば、かなり消耗しても弱音など吐くまい。ましてやフォロンの初仕事とあって、言葉にこそ出さないが、彼女も随分と張り切っていた。その事をフォロンは感じ取っていた。それが嬉しかった。
だから……切り上げ時を見誤った。
「僕のせいだ……なのに君を……これ以上……」
戦わせる事など出来ない。
これ以上戦えば、間違いなく彼女は『死』ぬ。
「フォロン……前にも言ったろう」
そっと自分を抱く彼の腕に触れながら――まるで聞き分けの無い我が子を諭す慈母の様に、ひどく優しい声でコーティカルテは言った。
「私はな……あの夜……お前と孤児院の屋上で初めて出会った、あの夜……あの時、本来は死ぬ筈だったのだ。敗残の兵として……」
知っている。
「……それをお前の歌が救った……あの、夜空を見上げながらお前の紡いだ歌声が、瀕死の私を救った……あれは今にして想えば、とても神曲とは言えない稚拙なものだったかもしれないが……あの歌を聴いて私が消滅を免れたのは、紛れもない事実だ……」
それも知っている。
だが――
「……お前に貰った命だ……ならばお前を助ける為に散らしても、当然……そう――私はただ借りたものを返すだけだ……お前が気に病む事ではない」
違う。違う。違う。
そういうものじゃない。
命は貰ったり返したりするものじゃない!
「僕は――!」
フォロンの叫びは――しかし中断を余儀なくされた。
突然、轟音と共に天井が崩落したのだ。
「……!?」
フォロンもコーティカルテも職員達も――クダラでさえも愕然と頭上を振り仰ぐ。
職員達が上げる悲鳴の中を落下する、大量のコンクリート片。直撃すれば即死は免れない様な巨大なものも少なくはなかったが――幸い、崩落した部分は職員達の頭上からもフォロン達の頭上からも外れていたらしく、直接的な被害を受けた者は居ない様だった。
だが天井と床と――激突して砕けたコンクリートが大量の粉塵を舞い上げる。
エントランス・ホールに満ちて著しく視界を制限する灰色の靄。
そんな中に……光る何かが在った。
「……あれは」
精霊雷である。
藤籠の様に編まれた銀色の精霊雷が、抱き合った二つの人影を包み込んでいた。
「ユフィ先輩!」
フォロンが叫ぶ。
人影の一方は上階の導管へと向かった筈のツゲ・ユフィンリーであった。庇う様にして彼女を抱き込んでいるのは――恐らく彼女の契約精霊だろう。フォロンも何度か話には聞いていたが、その姿を見るのは今回が初めてだった。
一体、上階で何が在ったのか。
詳細や課程は判らないが――恐らくは床をもぶち抜く程の破壊的何かから、自分と自分の契約主を護る為、精霊が自分の精霊雷で包み込む様に防御壁を編んだのだろう。
破壊的な何か。
それはつまり――彼女等を攻撃する者が上に居たという事だ。
「ユフィ先輩!」
銀色の精霊雷が弾ける様に消える。
ヤーディオはユフィンリーを抱いたまま跳躍――だが着地に失敗して、契約主を抱いたままフォロンの前まで転がってきた。どうやらこちらも満身創痍の状態らしい。
「――起こすな」
駆け寄ってくるフォロンを、ユフィンリーを床に横たえたヤーディオがじろりと睨む。
「やっと寝かしつけたんだからよ」
ユフィンリーは気を失っていた。
単身楽団の本体が歪み、部品が幾つかはみ出ている。精霊雷の防御壁に護られていてさえこの状態なのだ。相当な衝撃が彼女等を襲ったのだろう。
だがそれでも左手に折れたネックを握りしめたままというのがユフィンリーらしいといえばらしい。
「あら。みんな、お揃いなのね」
上から愉しげな声が振ってきた。
天井の穴は幾つかの床を貫通して真上へと伸びている。その垂直の孔道を通ってゆっくりと――空中ではなく、まるで水底に沈むかの様に緩慢な速度で一人の女が降りてくる。
無論――人間ではない。精霊だ。
「やれやれ……だな」
ヤーディオが苦笑を投げる相手はコーティカルテだ。
一目で彼女の状態を見抜いたのだろう――自分と同じく最早、限界寸前であると。
「お互い、契約者がガキんちょだと苦労するよな」
そう言うヤーディオの口調に、しかし悲壮感は微塵も無い。
まだ諦めていない証拠だ。
「私の契約者をガキ呼ばわりするな」
応じるコーティカルテの視線は――しかし真っ直く正面に向けられたままだ。
視るものを突き刺すかの様な視線を平然と受けて、クダラが歩いてくる。
「不始末だな――ヒューリ」
立ち止まってぼそりとクダラが言う。
そのすぐ隣に黒い羽根の精霊が降り立った。さっきクダラが口にした『ヒューリエッタ』というのが彼女なのだろう。
「お前らしくもない」
「あら。そっちだって、あんまり言えないんじゃない?」
からかう様な口調で言って、ヒューリエッタが肩を竦める。
どちらも――笑っている。
嬉しそうだった。
愉しそうだった。
逃げ場無く追い詰められた獲物の絶望を愉しむ、異常者の笑顔だった。
「まあ、それでも目的は達したわ。貴方の御望み通り、今の私は上級精霊以上の力を手に入れたもの」
言いながらヒューリエッタが顔の前に手をかざすと、ばちん、と音をたてて黒い電光が迸る。『ちっ』――とヤーディオが小さく舌打ちするのを、フォロンは聞き逃さなかった。
つまりヒューリエッタの台詞はハッタリでも強がりでもない。事実なのだ。
「付け焼き刃は怪我のもとだぜ」
それでも言って――ヤーディオは身構える。
「分相応――あるいは不相応という言葉が在る。過きた力を手にしても、結局、最後に滅ぼすのは自分自身だ。そんな事も判らないか?」
更に蒼銀の髪の精霊の煎に出てコーティカルテが言った。
「精霊の台詞ではないわね?」
婉然と余裕の微笑みを示しながらヒューリエッタが言った。
無論彼女が言っているのは、神曲を得た精霊の事である。確かに神曲を得た契約精霊は本来の何倍もの力を発揮する。それを『分不相応』と言い『過ぎた力』と言うのならば、確かにコーティカルテの言葉はそのまま彼女やヤーディオにも当てはまる。
しかし……
「哀れな奴だ」
コーティカルテは吐き捨てる様に言った。
「強奪と信託の違いすら判らないか」
「詭弁よ」
嘲笑混じりの台詞が断じる。
「無理矢理に奪い取ろうと、媚びへつらって貸し与えられようと、得てしまえば力は力。所詮、方法など問わずより多く集めた方の勝ち」
「……だから哀れだと言っているのだ」
呟く様にコーティカルテは言った。
その口調にある種の諦念が滲んでいるのは――たとえ言葉を百万言重ねても互いの主張が平行線を辿るという事が判っているからだろう。
「そう? まあ好きに哀れんで頂戴な――短い短い残り時間で」
にたり――と笑ったヒューリエッタの両腕が黒い光に包まれた。
既に逃げ場は無い。
もう打つ手も無い。
だがそれでも二人の精霊は全く退く気配を見せない。
真正面から敵に対時して身構えるのみ。
怯えきった人々の声を背後に聞きながら、フォロンは歯を食いしばった。
今の彼に出来る事は殆ど無い。
ならばせめて自分も、逃げず、泣かず、最後まで此処に立って精霊達の戦いを見届けるのだ。そうでなくてはコーティカルテの契約主などと二度と名乗れまい。
「コーティカルテ」
ふと思い出した様にヤーディオが言った。
「話には聞いてる。あんたとは一度でいいから、じっくり話がしてみたかったぜ」
「…………」
まるで遺言の様な台詞に――しかしコーティカルテは応えない。
その顔には怪訝の色が滲んでいた。
無論それはヤーディオに対してではない。
彼女は――
「――!」
あろう事か正面の敵から眼を逸らし、弾かれた様に背後を振り返った。
背後――大きな硝子扉を。
「そこをどけ!」
怒号じみた勢いでコーティカルテが叫ぶ。
フォロンも、それ以外の人々も、すぐには反応出来なかった。何を言われているのか判らなかったからだ。
即座に反応したのは――ヤーディオだった。
「ふんッ!」
背中の四枚の翼を銀の色に輝かせて片手を突き出す。
衝撃波。
次の瞬間――硝子扉の近くに立ち竦んでいた全員がまるで箒で乱暴に掃かれるかの様に左右へと弾き飛ばされていた。
乱暴な方法だ。だが文句は言えまい。 フォロンは視た――意識を失ったユフィンリーを抱きかかえて床を転がりながら。
「せんぱぁああぁああぁあぁあああぁあい!!」
そんな聞き覚えの在る声と共に――硝子扉を粉々に粉砕しつつ一台の大型自動二輪がエントランス・ホールに飛び込んでくる様を。
巻き込まれた黒いボウライの群れが雪崩となってホールに流れ込み、硝子の破片が横殴りの雨の如く煌きを撒き散らす。本来ならば乱暴極まりないその侵入者の上にもガラス片の洗礼は降り注いでいる筈だが――しかし不思議な事に、それらは全て自動二輪の脇へ流れて落下した。巻き込まれたボウライ達ですら、不自然な跳ね飛び方をして、その自動二輸には全く触れる事は無かった。
まるで何かにその自動二輪が護られているかの様に。
あるいは――コーティカルテやヤーディオ、そしてヒューリエッタならば視認しえたかもしれない。その自動二輪の後部座席に座る銀髪の少女から、鮮やかな光が一瞬、迸っていた事を。
「先輩!!」
意図しての事か単なる偶然か――二人の少女を乗せた大型自動二輪は、リノリウムの床に大きな弧の形にタイヤ跡を刻印しながら、床に転がるフォロンを櫟く寸前でぴたりと停止した。
「フォロン先輩! 大丈夫ですか!?」
「ペルセルテ……プリネシカ……!?」
フォロンは呆然と呟いた。
何故この双子がこんな時にこんな場に居るのか!?
「サイキ先輩からのお届け物です!」
ペルセルテが身軽な動作で自動二輪から降りて言った。
「これが?」
「はい!」
得意げに頷くペルセルテ。
思わず立ち上がった途端――フォロンの眼前で幾つもの閃光が弾けた。
黒と。銀と。蒼と。そして紅と。
ヒューリエッタがフォロンとペルセルテに向けて放った精霊雷を、精霊達が同じく精霊雷を放って弾いたのだ。
「焦るな――小娘」
「せっかく面白くなってきたんだ、最後まで見せろや――な?」
コーティカルテもヤーディオも共に息が荒い。
本当に最後の最後――使える力は今の防御で全て使い切ったのだろう。後はもう僅かな損耗でも、二人の精霊は存在の均衡を失って崩壊を始めるだろう。
それなのに共に彼等は笑顔を浮かべている。
彼等は気づいたらしい。
姉妹の届けたそれが――自動二輪の形をした何であるのかを。
「判った。ありがとう」
自動二輪の鼻面はクダラとヒューリエッタの方を向いている。
手を差し伸べてきたプリネシカに肩のケースを預けると、フォロンはその座席に跨って姉妹を退らせた。
(まさかとは想ったけど――)
乗ってみて確信する。
ユフィンリーがわざわざ特注で造らせていた事務所の備品。
それがただの自動二輪である筈が無いのだ。
フォロンの推測は、彼の跨った座席の前――タンクの真上に刻まれた小さな紋章が証明していた。
製造会社の――ヤマガのものではない。
抽象化された『翼』と『音符』の組み合わさった図案。
それは神曲公社の紋章であった。
「コーテイ!」
叫びながらフォロンはタンクに刻まれた紋章を拳で叩いた。
「行くよ!」
タンクが四方へ展開する。
同時に何本ものアームが飛び出し、演奏情報プロジェクタを、イクォライザーを、複合エフェクターを、サンプラーを、リズムモジュールを、シーケンサーを、そしてフォロンが最も得意とする主制御楽器――ピアノの鍵盤を彼の前に広げる。
それだけではない。
跳ね上がってきたタンデム・シートはフォロンの背に密着すると、肩越しにアームを降ろして彼の身体を固定した。シートと共に起きあがってきたサイド・バックが展開し、中から扇の様に広がったのは大型のスピーカーである。
時間にしてたったの二秒。
彼は自動二輪の座席に跨ったまま――周囲を最新鋭の演奏支援機器と鍵盤に囲まれていた。それも三分割された左右の鍵盤は上下二段。扱いこそ難しいが、幾つものオクターブに渡って旋律を紡き出す事の出来る――上級者向けの仕様だ。
そう――これは単身楽団だ。
自走式可変単身楽団。
それがユギリ姉妹の運んできた大型自動二輪の正体であった。
「あらあら。大袈裟なオモチャね」
ヒューリエッタが言いながら片手を挙げる。
「でも――もう貴方の精霊は駄目みたいよ?」
弾丸の如き黒い光がその掌に渦を巻いた。
必殺の意図を込めた黒い精霊雷。
だがそれが放たれるよりも早くフォロンの指は最初の鍵盤を叩いていた。
……ぉぉぉおおおおん……!
その一音。
たったの一音で――
「待ちかねたッ!」
嬉々として叫ぶコーティカルテの背中に、真紅の閃光が弾けた。
同時に、ぢぃんッ――と重い鋼が鋼を弾くかの如き音が響く。
それはコーティカルテがヒューリエッタの精霊雷を弾いた音だった。
無造作に。
まとわりつく羽虫を払い落とすかの様な腕の一振りで。
「……!」
愕然とするヒューリエッタ。
だが彼女が真に驚愕の表情を浮かべたのは、次の瞬間であった。
「フォロン……お前は」
苦笑じみた口調で紅い精霊は己の契約主を振り返った。
「……いつも私を待たせる」
そこに――それまでのコーティカルテの姿は無かった。
涼しげな笑みを浮かべるその顔はもう十代の少女のものではない。
コーティカルテと同じ髪の、コーティカルテと同じ瞳の、コーティカルテと同じ笑顔の、しかしそれは、大人の女性なのである。
身に纏う緋色の衣は豊かな胸元と細い腰を強調し、しかし淫靡さとは無縁の優雅な流れで彼女の身を包む。伸びやかな腕も、つややかな脚も、抜ける様に白い。
コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。
それこそが彼女の――精霊としての本当の姿なのだ。
「あ……ああ……ああああああ!」
何か――精霊としての本能の様なものが告げるのだろう。
恐怖を。これは『やばい』のだと。
ヒューリエッタは悲鳴じみた声を上げながら、黒い精霊雷の奔流を放つ。
螺旋状に渦を巻きながら殺到する精霊雷を――しかし緋色の精霊は眉一つ動かす事なく片手で受け止めた。
いや。
正確には指二本だ。
恐らくは発電所の床を何層もぶち抜いたのと同じ威力を持っているヒューリエッタの攻撃を、コーティカルテは無造作に立てた二本の指で摘むかの様に止めている。続けざまに押し寄せる破壊的な精霊雷は、しかし滴り落ちる雫の如く、あっさりと飛散して虚空に消えていった。
誰にでも判る。
強いとか弱いとか――そんな区別は無意味だ。
ただひたすらに、圧倒的にして絶対的。
小細工や付け焼き刃などでは越える事など到底不可能な力の差がそこには在った。
「ああああ……あああああああああ!」
「うるさい」
残りの三本の指を開いてコーティカルテが言う。
次の瞬間――ヒューリエッタの黒い奔流を真紅の激流が瞬間的に押し戻した。
防御などまるで間に合わない。恐らくはしても意味が無かったろうが。
「ひあっ!?」
ヒューリエッタは紅い飛沫を散らしながら跳ね飛ばされ、その身体は延々とリノリウムの床を滑り――壁に当たってようやく止まった。
ひゅう――とヤーデイオが感嘆の口笛を吹く。
形勢逆転である。
既にフォロンの奏でる神曲は、その鮮烈な調べをホール中に響かせている。
「…………」
指が――走る。
高く。低く。強く。弱く。
千変万化する旋律の中で――しかし一本通った芯が鮮やかに色づいている。
続けざまに綴られる音は列を成し、行を成し、緻密でしかし雄大な音の世界を描き出していく。それはコーティカルテのみならずペルセルテやプリネシカ、そしてヤーディオにすらも陶然たる表情を浮かべさせるものだった。
「はは――こいつあ極上だ。俺ですら、くらりとくる。ユフィが可愛がる訳だわな」
フォロンのこの神曲が高々と鳴り響く限り、彼の紅い精霊は限りなく無敵と言っていい。少なくともヒューリエッタでは勝ち目が無い事は誰の眼にも明らかだった。
だが――
「やれやれ――」
場にそぐわぬ物憂げな声が言った。
クダラである。
「ちょっとは楽が出来るかと思ったが、俺も仕事しなきゃ駄目ってことか」
言いながら長い脚を肩幅に開き、ギター型の単身楽団を構え直す。
「無駄な足掻きは止せ」
コーティカルテが冷然と告げる。
「貴様も神曲楽士ならば、精霊の力の見極めくらいは出来るだろう? 今更、貴様の神曲で支援したところで、あの小娘が今の私を凌駕する事など有り得ない」
「そうかな?」
にたり――と髑髏の顔が笑う。
「コーティカルテ・アパ・ラグランジェス――あんた結構旧い精霊の様だが。ダンテの演奏は生で聴いた事があるかい?」
「……なに?」
「ダンテ――ダンテ・イブハンブラ。神曲の創始者。史上初の契約者。この現代文明を創り出した最初の一音を奏でたる偉人」
知らない筈がない。
およそ精霊や神曲に関わる者ならば知らぬ者は無い名だ。
それは神曲学や精霊学の教科書に登場する最初の人名であり、全ての神曲楽士の祖となる者の名前である。そも神曲楽士――ダンティストとはその名を語源とする。
それは既に歴史であり伝説である。
誰もが知りながら――しかし遙かに遠く手の届かない存在。
だが。
「『我々』は、ダンテの奏始曲――その譜面のいくつかを手に入れたのさ」
「なんだと……?」
いつの間にか、クダラの隣にはヒューリエッタが寄り添っていた。
先程までその貌を染めていた狼狽の色は、既に無い。むしろ、勝ち誇るかの様な笑みさえ浮かべている。あんな無様な敗北を晒しておきながら――このモノクロームの精霊は、一体何を以てそんな笑みを浮かべる事が出来るのか。
「驚いたね。ダンテの神曲は――まるで今の神曲と違った。制約が無い。志向性すら無い。今日の神曲の様に、特定の意志を、特定の想念を託して奏でるものではなかったのさ」
「…………」
「それは人や精霊の心の中にあるものを無差別に増幅する。正邪の区別なくな。それはまさに――心の形を巨大化し具象化して外部に叩きつけるものだった」
「…………」
コーティカルテは無言。
否定すらしない。
それをどう思ったか――クダラは愉しげに続けた。
「そう。本来――此の世の物事に正も邪もない。善も悪もない。清濁は常に表裏一体であり、切り離して考える事は無意味だ。滑稽ですらある。それはもともと同じものであるのだから。ならば神曲だけが例外である筈もなし――」
つまりそれが――神曲の裏側、邪の側面があの黒いボウライを生んだクダラの曲という事なのか。それがクダラの曲の基本形だというのだろうか。
だが今更、あの曲を彼が弾いたところで形勢が逆転するとも思えない。
ならばこのクダラの余裕に満ちた態度は何だ?
「お聞かせしよう」
クダラ・ジャントロープの右手が優雅に上がる。
それは演奏開始の合図だ。
「ダンテの神曲――〈地獄変〉!!」
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……!!
その音が耳を打った瞬間、フォロンは吐き気がこみあげた。
これは何だ。
これが音楽か? 神曲か?
吐き気がする。背筋が凍る。不協和音が、何の脈絡もない別の不協和音に繋がる。狂ったかの様に、意味もまとまりもないフレーズが飛び交う。
あまりの不快感の為か、耳でまともにその音を追う事さえ出来ない。ただ周囲から自分達を押し包む様にして響く異質な波動に、フォロンは思わず苦痛の呻きを漏らした。
「――しゃっ!!」
獣じみた呼気と共にヒューリエッタが精霊雷を放つ。
殺到する黒い光条を――コーティカルテは真正面から受け止めた。
両手で。身構えすらして。
それどころか、今や神にも等しい力を持つ筈の上級精霊は……よろめきさえした。
「ぬ……」
「――コーティ!」
フォロンの指が鍵盤の上で躍る。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
戦闘支援楽曲!
強く! 強く! ひたすらに強く!!
我が精霊に力を! 邪を討ち悪を裂く力――立ちはだかる敵を打ち倒す力を!
フォロンの演奏は完壁だった。
彼は土壇場に強い。まして今の彼に与えられている自走式可変単身楽団は、可搬性を自動二輪部分に託す事が出来る為、通常の単身楽団よりも更に多彩な演奏補助装備を満載している。
コーティカルテの力は……それこそこの発電所を山ごと吹き飛ばしても余る程のものになっているだろう。
だが……
「……ぬ……う……!」
フォロンは信じられなかった。
コーティカルテが押されている。フォロンの神曲を受け、本来の姿を取り戻した彼女が単純な力押しで劣勢になっている。
「くっ!」
押し寄せる黒い光を強引に逸らして、コーティカルテは跳躍した。
同時にヒューリエッタも跳躍する。
紅い精霊を空中にて邀撃する黒い精霊。
空中から撃ち込まれる黒い精霊雷。これを弾いて体勢が崩れたところを――背後に回り込んだヒューリエッタの蹴りが捉える。空を踏み、空を蹴り、有り得ない方向から破城槌の威力を秘めて叩き込まれる足刀。コーティカルテは咄嵯に左腕を立ててこれを防御するが――空中で彼女は大きく横に流れた。
「あはははははははははっ!!」
高らかに笑いながらヒューリエッタの放つ精霊雷が追撃する。
まるで散弾――放たれた精霊雷は空中で数十に分離。黒い光の礫が面の攻撃となってコーティカルテに押し寄せる。これを彼女は防壁を展開して遮断するも、数発が貫通。肩と腹に直撃を受けてぐらりと空中でその肢体が傾いた。
「――どうして!?」
悲鳴じみた声をフォロンは上げた。
彼は必死になって鍵盤を叩き、戦の曲を紡ぎ続ける。
だがコーティカルテの劣勢が覆らない。
壁を、床を、天井を、そして虚空を蹴って飛び回るコーティカルテ。その動きは驚異的な速さと、慣性を無視した超絶の機動性を誇っている。しかもその動きをしながら彼女は精霊雷を撃ち、近付いては掌打、肘打といった直接打撃を織り交ぜながらヒューリエッタと戦っている。
だが。
それでもヒューリエッタの攻撃の方が手数が多く、しかも重いのがフォロンの眼から見ても判った。それにコーティカルテとヒューリエッタ――彼女等の表情は明らかに対照的だった。
焦燥に表情を歪めるコーティカルテと。
喜悦に表情を歪めるヒューリエッタと。
「コーティ!!」
「フォロン!」
何度目かの精霊雷を防御平面を形成して弾くと、食いしばった歯の間から唸る様にコーティカルテは叫んだ。
「曲が――届いていない!!」
「な……!?」
次の瞬間――気づいた。
ようやく気づいた。曲の演奏に気をとられていて――周囲に対する注意がおろそかになっていたのだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
フォロンの演奏に――
…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
クダラの演奏が絡み付いているのだ。
同じ旋律を、僅かな遅れで組み立て、更には微妙にねじれた音階で合わせて……いや、崩しているのである。
「くそっ……!」
フォロンは、旋律を変更した。
主旋律を転調し、リフに入ると見せかけてサビヘと繋ぎつつ、さらに別の楽曲へとメドレーしてゆく。可能な限りに早弾きし、指が絡むかと思う程の速さで、クダラの音を振り切ろうとする。
だが、無駄だった。
クダラも驚くべき正確さでフォロンの音を追い、あるいは先回りするのである。
腐っても現役の神曲楽士――感性的なものを除き、単純に技術的な巧拙を論じるならば、クダラのそれはフォロンを大きく越えるものがあった。
「そんなに嫌うなよ、小僧」
にたり――と骸骨が笑った。
「セッションを楽しもうぜ」
「…………」
既にフォロンはコーティカルテの力が出ない原因を悟っていた。
相殺である。
(……なんて奴だ…………)
自分は自分の精霊への支援演奏を維持しつつ、その遊びの部分でフォロンの演奏に音を絡みつかせて、異なる位相の楽曲をぶつけることにより、フォロンの支援演奏を無効化しているのである。
無論それは、精緻な演奏技術の上に成立するものではあっただろう。
だがそれ以上に、クダラの演奏するダンテの神曲は……地獄変は、そういったアレンジを可能にする驚異の楽曲なのだ。
(駄目だ! 勝てない……!)
全く振り切れない。
フォロンはクダラを。
コーティカルテはヒューリエッタを。
劣勢が変えられない以上――このままではいずれこちらが負ける。
(何か……何か手は無いのか……!?)
演奏を続けながらフォロンの視線は助けを求めて周囲を彷徨う。
誰かがクダラの演奏を少しでも邪魔してくれれば。
そう思ったが――
「……!」
居合わせる全員が耳を塞いで身をよじっていた。
ユギリ姉妹や職員達は勿論、気を失っている筈のユフィンリーまでが、苦痛に顔をゆがめて身をよじらせている。
最も戦闘力を期待出来る筈のヤーディオは、しかし最も大きな苦痛と損耗を受けているようだった。腰を折り、口を開いて喘いでいる。その瞳には、殆ど光がない。
精霊だからだ。
人間よりも彼等はより敏感に神曲に反応する。
叩きつけられる〈地獄変〉に――そこに載せられたクダラの強烈な悪意に、必至で抵抗しているのだ。
抵抗を放棄すればどうなるかは、床に転がっていた筈の黒いボウライを見れば一目瞭然だった。不意に活気を取り戻して乱舞するボウライは、どれもトゲをさらに伸ばし、羽根をさらに歪めて、見るも禍々しい姿へと変貌しているのである。
「がっ――」
ヒューリエッタの攻撃を捌くのに精一杯だったコーティカルテは、真横から数体のボウライに体当たりを喰らって吹っ飛んだ。
フォロンの神曲が届かず、精霊の存在そのものを書き換える猛毒の如き〈地獄変〉に晒されているのだ。ヤーディオの如く悶絶しないだけでも彼女は段違いに強靭と言える。
しかし駄目だ。
もう――駄目だ。
「先輩……」
縋るような響きを含んだ苦痛の声がすぐ後ろから届いた。
「助けて……フォロン先輩……」
ペルセルテである。
片方の耳をふさぎ、座り込んで、彼女の顔は苦痛の涙に濡れていた。唇は紫色になって喘ぎを垂れ流し、その爪先や頬は断末魔の様な痙攣を示している。
だが――その右腕だけはしっかりと妹を抱き起こしている。
姉の腕の中で、プリネシカは陸に打ち上げられた魚の様に全身で痙攣を示していた。
「死んじゃう……プリネが……死んじゃう……!」
確かに一番危険な状態なのはプリネシカだろう。
だが悶絶する少女を――フォロンには救う手だてが無い。
痛ましさに思わず逸らした視線が、銀色の箱を捉えた。
先程、フォロンがプリネシカに預けたケースである。
中身は三本の蓄雷筒。
二本には精霊雷が満たされているが  一本は空だ。
(……僕がちゃんと仕事を……言われた通りの事をちゃんと出来ていたら……)
慙愧の念がフォロンを苛む。
もし彼が仕事をしくじらなければ、こんなところでこんないかれた相手と戦う事など無かった。
またコーティカルテが大量の精霊雷を無駄に消費する事も――
「――あ」
一つの発想がフォロンの脳裏に弾けた。
「ペルセルテ……!」
喉元にまで迫る吐き気を堪えながらフォロンは叫んだ。
「ケースを開けて!!」
「……先輩……?」
苦痛と恐怖に苛まれながらも――フォロンの可愛い後輩は、健気に彼の言葉に従った。何故にとは問わない。その余裕が無いという事もあろうが、それだけ彼女はフォロンの事を信頼しているのである。
手が滑ったのだろう。
がらんと音を立ててケースからこぼれ出た蓄雷筒がフォロンの足下に転がってきた。
そして――
「…………」
神曲を聴いている際の精霊の気持ちはフォロンには分からない。
暴力に喜悦を憶える様な、異様な感性の持ち主ならばなおさらだ。
だが――その時のヒューリエッタが何を思ったのかは大体の想像がついた。
軽い驚きと嘲りだ。
彼女はクダラの支援を受けて上級精霊を圧倒している。鼠をいたぶる猫の様に愉しみながらじわじわと相手の力を――存在そのものを削り取っていく。あるいはまるで神になったかの様な万能感をも覚えているかもしれない。
故にこそ、自分に加えられたその意外な――しかしあまりに矮小な『攻撃』には失笑を禁じ得なかっただろう。
それは金属製の円筒だった。
言うまでもなくフォロンの投げ付けた蓄雷筒である。
飛んできた円筒を一瞥すると、ヒューリエッタは左手で機銃の様にコーティカルテヘと精霊雷を撃ち込み続けながら――無造作に右手を挙げた。
精霊雷で打ち落とすつもりなのだろう。
フォロンの予想通りに。
「コーティ!!」
蓄雷筒を投げたその手を引き戻し――
「今だ!」
フォロンは鍵盤を叩く。
次の瞬間――それは起きた。
黒い精霊雷が唐突に消滅した。
「――!?」
まずヒューリエッタが金属筒を叩き落とそうと放った精霊雷が。
そして――コーティカルテに向けて放たれていた精霊雷も。
蓄雷筒は狙い違わず、コーティカルテとヒューリエッタの間――黒い精霊雷の射線上に割り込んだのである。
そして吸収した。
当然の如くに――黒い精霊雷を。
そう。精霊雷は位相の低い方に流れる。故にこそ精霊雷の詰まっていない空の――しかも超大容量の蓄雷筒は、まるで真空ポンプの様にヒューリエッタの精霊雷を吸い込んだのである。
「え……?」
驚愕のあまりに間の抜けた声を漏らすヒューリエッタ。
その足下に蓄雷筒が硬い音を立てて転がった。
無論、彼女の精霊雷を蓄雷筒が吸収し遮断したのは時間にすれば一秒弱――文字通りほんの一瞬に過ぎない。
だが精霊達の戦いにおいてその一瞬は状況を逆転させるに足るものだった。
「はッ――!」
裂帛の気合いと共に真紅の精霊雷が迸る。
狙いは――クダラのギター。
空中で衝撃に変換されたコーティカルテの精霊雷は、クダラを直撃する。
「――がっ!?」
単身楽団が木っ端微塵に粉砕され、衝撃で仰け反った姿勢のままテロリストは後方へと吹っ飛んでいった。
鈍い音と共に壁に激突。
そして――男の身体はずるりと壁に沿って崩れた。
それで終わりだった。
「……え? え……?」
消える〈地獄変〉。
クダラは動かない。
恐らくは気絶したのだろう。何処かの骨でも折れているかもしれないが――この男に限ってはたとえ首の骨を折って死んでも自業自得だろう。
後に残るのは、ただただ狼狽するばかりのヒューリエッタである。
状況を理解しているのかどうかさえ疑わしい。新型蓄雷筒の事を知らない彼女にしてみれば、どうして自分の精霊雷が掻き消えてしまったのか、想像もつかないのだろう。
そんな彼女の前に……
「――さて」
悠然と立ったのはコーティカルテであった。
「相棒は寝たぞ。そろそろお遊びはお終いだ――小娘」
「――ちいッ!?」
モノクロームの精霊はやはり状況を理解していなかった。
真正面。至近距離。その状態で精霊雷を叩きつけたのだ。
「…………で?」
コーティカルテは避けもしなかった。
フォロンの神曲は最早遮るものもなく、朗々と響き渡っている。
苦し紛れに放った一撃など、瞬間的に形成された防壁に阻まれて、コーティカルテに届く事も無く……ただ空中に散った残滓が、髪の毛を数本揺らす程度に留まった。
「……ああ……あああああああ…………」
他者の恐怖を弄ぶ者は――意外に自らの恐怖には脆い。
ヒューリエッタは眼の前の現実を否定しようとするかの様に、無意味に首を振りながら後ずさる。
「……やれやれ」
コーティカルテは溜め息をつくと一歩前に踏み出した。
「小娘が悪い男に騙されるのはよくある事だが――」
何処か自嘲的に言うコーティカルテ。
「だからといって、してきた事に責任が無いとは言えまい」
「く……来るな……っ!」
「お仕置きが必要だな」
言って手を伸ばす。
恐怖に見開かれたヒューリエッタの額にコーティカルテの掌が押し当てられ――
「――ひあっ!?」
短い真紅の閃光と共にヒューリエッタは硬直した。
接触した状態で精霊雷を叩き込まれたのだろう。
硬直したまま――ヒューリエッタは棒の様にリノリウムの床へ倒れ込んだ。
そのままやはり動かない。
そして……
「これで終わった――かな?」
コーティカルテは言ってフォロンを振り返る。
「うん……多分ね」
「そうか」
コーティカルテは長い長い溜め息をついた。
「全く……フォロン。次から次へとお前は厄介事に巻き込まれるのが好きだな。天性の才能を感じるぞ」
「いやあの。別に好きで巻き込まれている訳じゃ無いんだけど」
全く以て言いがかりである。
「そうか?」
「そうだよ」
「……まあしかし」
コーティカルテは肩を竦めて言った。
「お前の側に居ると退屈だけはしないで済むな」
「……そうですか」
つい先程まで瀕死であった癖に、平然とそう言う契約精霊を見つめ――フォロンは苦笑を浮かべる。コーティカルテも同時に苦笑を返してきた。
「……疲れた」
「そうだね」
言って脱力するフォロン。
鍵盤から指を降ろす時、指先が引っかかって――ラのシャープがホールに響いた。
EPILOGUE
一人窓を閉め切った室内に佇み――たちこめる濃密な闇を愛でていると、部下が『彼』を呼ぶ声が響いた。
「――旦那様」
「何だ?」
鷹揚に尋ねる。
「クダラ・ジャントロープが捕まりました」
「そうか」
殊更に驚きは無い。
多少、意外ではあったが痛手ではない。
所詮はフリーランス――『彼』にとっては単なる使い捨ての駒だ。部下でも配下でもない男がどうなろうと知った事ではない。もっとも……たとえ部下や配下であっても、『彼』は気にしなかったかもしれないが。
「精霊力発電所は運転を再開。トルバスの状況は回復に向かつております」
「被害状況について、後でソラリスに報告書を提出させなさい」
「御意」
闇の奥で一礼して何かが遠ざかる気配が在った。
「――さて」
『彼』は改めてソファに身を深く沈めながら……誰にともなく言った。
「小手調べとしては上々か。次はもう少し工夫を凝らしてみよう」
無論、そんな独り言に応える者は居ない。
だから――
「…………く……くは……はははは……は……ははははは…………」
『彼』――〈エンプティ・セット〉はたった独り闇の底で――低い笑い声を漏らし続けた。
ユギリ姉妹の届けてくれた大型自動二輪――自走式可変単身楽団にもたれ、地面に腰を下ろしたまま、フォロンはぼんやりと作業を眺めていた。
「…………」
精霊力発電所の正面――駐車場の片隅である。
何人もの人達が、駆け付けた救急車に乗せられ次々と病院へ運ばれていく。クダラの曲の影響を強く受けて、肉体に変調をきたしてしまった職員達だ。
何とか動ける職員達は、状況復旧の為に持ち場に戻っていった。
すくに緊急交替の要員が来る手筈になっているらしいが――それまでは送電を維持しなければならないからである。
「ところでフォロン」
彼の顔の横で細く白い脚がぷらぷらと揺れている。
「腹が減ったぞ。卵焼きサンドは未だか」
言うまでもなくコーティカルテである。
走行形態に戻った自走式可変単身楽団――その座席の上に腰掛けた彼女もまた、少女の姿に戻っていた。
「無茶言わないでよ」
疲労困憊の力無い声でフォロンは言った。
「帰ったら作ってあげるから」
「馬鹿。冗談だ」
「…………」
半分は本気なんじゃないかなあ――と思ったが敢えてフォロンは口に出さない。
代わりに彼はすっかり陽の登り切った空を見上げながら言った。
「僕もお腹空いたよ……」
そんな中――
「〜〜〜?」
「〜〜〜!」
「〜〜〜!」
駐車場に停まった数台の警察車輌から、無線の音が漏れてくる。
そちらに視線を向けると数名の男女が立って何やらユフィンリーと話し合っていた。
いずれも私服警官で――この距離では判らないが、恐らくその中の最低一人は、精霊警官の筈だった。数こそ少ないが、精霊の絡む犯罪に対処するべく、警察は精霊と神曲楽士を警官として採用している。精霊が犯罪者として絡んだ事件には必ず彼等が出張ってくる。普通の人間ばかりでは精霊を安全に護送する事も出来ないからである。
「……しかしニウレキナさんの件といい、今回の事件といい、貴女も何かと厄介事に巻き込まれますなあ、ツゲ先生?」
何やら――後ろ脚で立ち上がった熊の様に、やたらと大柄な体躯を黒いコートに包んだ男の刑事が、後頭部を掻きながらユフィンリーに言っているのが聞こえる。口調と内容からしてどうもユフィンリーとは面識が在るらしい。
お陰で事情説明も滞りなく進んでいる様だ。
ユフィンリーはユフィンリーで肩を竦め、気軽な口調で応じている。
「日頃の行いは悪くないつもりなんだけどね。まあ何だかそういう傾向が在るみたいよ、私に限らずうちの面子は、何故か」
「それはまた面倒な。ああ――そういえぱコヅカの公判期日が決まったそうですよ」
「そうなんだ」
…………
フォロンは視線をふと彼女等からその傍らの警察車輌へと移した。
一台だけ他の車と明らかに造りが違う。
護送車である。
これも精霊犯罪用の専用車輌であるらしい。導管に描かれていたのと同じ古代文字が整然と車体に描かれている上に、車輪よりは無限軌道の方が似合いそうな重装甲を施されている。
後部の窓には鉄板が填っていて中身は見えないが――その中にはクダラとヒューリエッタが載せられている筈だ。
「…………」
漠然とだが……フォロンは暗澹たる気分を覚えた。
精霊警官。精霊犯罪者専用護送車。
人員であれ装備であれ、そんなものが存在するという事は――精霊の絡む犯罪がそれなりの数に達しているのだという事を示している。
クダラの言う通り、世の中の善と悪、正と邪は渾然一体となっていて不可分のものなのかもしれない。『人間の善き隣人』達にも必然的に灰暗い裏側というものが在り――それは甘ったるい善良さなどとは縁遠い殺伐とした領域なのかもしれない。『善き隣人』などというレッテルは、人間が自分達の都合で精霊達に押し付けた勝手な幻想に過ぎないのかもしれない。
実際……先程知ったが、無事解決した様に見えたこの事件にも一名の死者が出ている。
若い警備員が一人。発電所の片隅で全身をずたずたに切り裂かれた遺体が見つかったそうだ。恐らくはヒューリエッタの仕業だろう。
停電によって、トルバスの方にも様々な事故や事件が発生しているに違いない。
彼等が引き起こした事態は間違いなく、少なくない人々の生命や財産や健康を奪うものだ。それを『悪』でないとは……とてもフォロンには言えない。
しかし。
それを理解しても尚、フォロンは精霊には『善き隣人』で居て欲しかった。
彼は精霊が好きだった。
彼の神曲楽士の道に進ませる契機となった――幼い日からずっと。
あの美しく気高く優しい真紅の精霊と出会ったあの夜からずっと。
理想と現実は違うかもしれない。
だが理想ばかりを追って現実から眼を背ける事と――現実を受け入れた上で理想に近付けようと努力する事は違う。違うと思う。その時『理想』は逃げ込む先ではなく追い掛ける目的となる。
その差さえ判っていれば大丈夫なのではないかとフォロンは思う。
クダラは笑うかもしれない――青臭い小僧の理屈だと。
だがそれならそれでフォロンは言うだろう。
現に僕の側にはその理想の体現者が居るのだと。
それは決して永遠に手の届かない蜃気楼ではない。
「な……なんだ?」
いつの間にか、自分でも意識しないままに、気がつくとコーティカルテを見つめていた。
彼の精霊はまるで人間の少女の様に頬を赤らめて視線の意味を問うてくる。
「ありがとうね――コーティ」
僕は君が居るから理想を信じる事が出来る。
君が居てくれるから頑張れる。
だがそんな言葉は、さすがにフォロンとしても照れ臭く、言葉には出来ずに胸の内で呟くのみだ――誓いの言葉の如く。
「なんだいきなり?」
「なんでも」
「…………」
コーティカルテは顔をしかめて逃げる様に眼を逸らす。
代わりに彼女は座席から降りて――ひょいとフォロンの膝の上に腰を下ろした。
何を思ったか、ぐいぐいと背中をフォロンの胸に押し付けてくるコーティカルテ。彼女の紅い髪がフォロンの鼻先に触れて――やたらとくすぐったい。
「ちょっとコーティ――」
「――お疲れ様」
そこへ――刑事達との話が終わったらしいユフィンリーが戻ってきた。
彼女の額には真新しい包帯が巻かれている。見るからに痛々しいが、発電所の床を何枚も貫通する様な破壊力に巻き込まれた結果とすれば、むしろ軽傷と喜ぶべきだろう。
「彼から聞いたよ」
そう彼女が親指で指す背後には蒼銀の髪の美しい精霊――ヤーディオが居る。
「蓄雷筒――ぶん投げたんだって?」
「あ、ええ……その……すみません」
それは咄嗟の機転だった。
蓄雷筒は、その名の通り精霊雷を吸収し、蓄積するためのものだ。ならば、蓄雷筒を破壊しようと叩きつけられた精霊雷も、そのまま吸収してしまうのではないかと閃いた。
事実その通りだった訳だが……今にして思えばあまりに無茶な賭けではあった。
今回の蓄雷筒は、性能こそ高いが、型式としては実用に供される前の試作品だ。
ヒューリエッタはそれが何なのか知らなかったし、それに向けて自分の放った精霊雷がどうなるのか理解出来ずに隙を作ってしまった。その一方で知識の在ったコーティカルテは瞬時にフォロンの考えを理解して先手を打つことが出来たのである。
「作戦勝ちだね」
「いえ……て言うか……」
事件が終わって改めて考えれば――貴重極まりない試作品をぶん投げるとは乱暴にも程が在る。特に傷も付かなかったから良かったものの……万が一、破損でもしていたら益々カグト工業に申し訳ない事になっていただろう。
それに――
(そっか。そうだよね)
ようやくフォロンは理解していた。
「今朝のこと、すみませんでした」
「ん? なに?」
と首を傾げてみせるユフィンリー。
そういえばもう今朝ではない。昨日の朝だ。
「いえ。何て言うか……やりたいことと出来ることは違うって言うか、駄目と判ってることに固執すると本来の目的が見えなくなるって言うか……」
どう言えばいいのか、判らなかった。
けれど同じ何かを含んでいるのだという事だけは判っていた。
今朝の事と。そしてたった今の終わった闘いとが。
「ああ、それのことだけどさ」
苦笑しながらユフィンリーは言う。
「フォロン――よくやった」
「え?」
「あんたの投げた蓄雷筒、さっき見たよ。奴の真っ黒けな精霊雷で満タンだった」
「――あ!」
くすくすと誰かが笑っている。
振り返るとコーティカルテの後ろに双子が立っていた。
「でもそれは――あれ?」
少し混乱する。
これでいいのだろうか?
「いいのよ。未だ、いまいちモヤモヤしてる様だからこの際、言っちゃうけどね」
とユフィンリーは腰を屈めてフォロンの顔を覗き込んだ。
「私らはプロなの」
「はい」
「プロは目的を果たして結果を残せる人の事。白己満足の為に過程や手段にこだわって、目的をないがしろにしたりとか、視野狭窄を起こして目的を見失う人はプロじゃない。そんな人間には何も出来ない。プロってのは――途中でどれだけ迷おうが、戸惑おうが、目的を見据えて、最後には帳尻を合わせる事が出来る人の事よ」
「……はい」
そう。その通りだ。
目的を見失った存在程――信用ならないものは無い。自己満足は文字通り自分以外の誰も幸せにしない。度が過ぎれば周囲を傷付け、自分自身に対してさえも、その脚をすくう罠になる。
「まあつまり――」
「結果オーライですね」
ペルセルテがユフィンリーの言葉を引き取って言い――
「初仕事、お疲れさまでした」
プリネシカがそう締めくくった。
「…………」
なんだか照れ臭い。
何か言わなければと気の利いた言葉を探すのだがこれがまた、なかなか出てこない。
悩むフォロンを救ったのは――発電所の建物から聞こえてきた声だった。
「うおーい!」
間延びした男性の声である。事件の直後だというのに緊張感が全く無い。
見れば――発電所の硝子の砕け散った正面玄関から職員の制服を着た男が出てくるところだった。彼の背中には収納状態に閉じた単身楽団が背負われている。
「これ――どうなってんの? 一体何があったの?」
その男性は呑気な口調で行き交う同僚や刑事達にそう尋ねている。
「あれって……」
「発電所の楽士だ」
コーティカルテがフォロンの想像を裏打ちした。
「騒ぎの間もずっと演奏を続けていた。彼もさぞ疲れた事だろう」
「え? 聴こえてたの?」
「当然だ。私は精霊だぞ」
何を今更――といった口調でコーティカルテは言う。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!!」
考えてみれば当然ではある。
ヒューリエッタが精霊達を閉じ込め、その精霊雷を搾取している間も、ずっと新たな精霊達は神曲によって呼び寄せられていた。そうしなければそもそも精霊の密度を高めていく事など出来はしない。
だとしたら。
その神曲を演奏していたのは……
駆け寄った救急隊員に、男が懸命に説明している。
「……いきなり非常体勢になって演奏室に閉じ込められちまって。ああもう、私は一四時間も演奏しっ放しだったんだぞ!? そしたら今頃、急に交替が来て…………」
恐らくクダラ達は、あの神曲楽士だけは敢えて事件そのものに気づかない様、ただ部屋に閉じ込めるに留めたのだろう。彼はクダラ達の顔さえ見ていないに違いない。
「…………あのさあ……コーティ」
くだくだに脱力して――フォロンは呻いた。
ユフィンリーもようやく今、気づいたらしく、その顔に浮かぶのは虚ろな笑みだ。
「なんだ?」
「ここに着いた時点で、あの人の演奏を止めてたら、どうなったと思う?」
「…………」
きょとん――とした顔でフォロンを見つめるコーティカルテ。
次に宙へと視線を彷徨わせる事、数秒。
それから再びフォロンに視線を戻して――
「おおっ!」
ぽん――と手を打った。
「なるほど!!」
「なるほど――じゃないよ……」
脱力しきったフォロンの肩を、ぽんぽんとコーティカルテは叩く。
「結果オーライだ」
「…………」
「ま――まあ記念に残る初仕事になったではないか」
珍しく取り繕う様な口調で言うコーティカルテ。
だがフォロンはじっとりした恨みがましい横目で契約精霊を見つめた。
「…………」
「…………」
コーティカルテの表情が引きつる。
――で。
最初に吹き出したのはヤーディオであった。
咎める様に振り返ったユフィンリーも――堪えきれなくなったのか笑い出した。
ユギリ姉妹は元より苦笑を浮かべているし、コーティカルテは何とか誤魔化そうとしているのか不自然なくらいに明るい笑みを浮かべている。
そうなればフォロンとしてももう笑うしかなかった。
閑話休題。
この後――ユフィンリーの〈シューティング・スター〉と自走式可変単身楽団に分乗して帰路につこうとした一同は、発電所の職員に呼び止められ、ユフィンリーが一本の電話に出る事になる。
それはレンバルトからの電話で、肝心のカグト工業の社長が停電で発生した大渋滞に巻き込まれ、現時点でまだトルバス都内から出てもいなかったという報告なのだが――その話を聞いたツゲ神曲楽士派遣事務所の面々がどうしたのかは言うまでもないだろう。
そう。
徹夜の上に過酷な『労働』でいわゆる躁状態になっていた彼等は爆笑したのだ。
双子のアルバイトも。精霊達も。そして若き神曲楽士達も。
そういう訳で。
後に『ヤワラベ精霊力発電所テロ事件』と呼ばれる事になる事件と、それに偶然にも関わる事になったツゲ神曲楽士派遣事務所の面々の物語は……これにてひとまず幕を閉じるのであった。