銀月のソルトレージュ4 扉なき仮宿
枯野瑛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銀月《ぎんげつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|扉なき仮宿《ピエタテール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目次
▼obbligato/1
▼scene/1 その宝物には触《ふ》れられない 〜two years later〜
▼scene/2 その手で剣《けん》は振《ふ》るえない 〜dancing hatchling〜
▼promenade
▼scene/3 その地には思い出がない 〜welcome to starting line〜
▼scene/4 その願いには手が届かない 〜old kaleidoscope〜
▼scene/5 だからここには何もない 〜so, I have nothing〜
▼promenade
▼epilogue/1
▼epilogue/2
あとがき
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悪い魔女が倒されても、誰も幸せになんてなれませんでした。
――お話は、その次のページから始まりました。
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いつの日か、悪い魔女のすべての呪いが解けることがあるならば。
――お話は、その次のページに終わるのでしょうか?
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▼obbligato/1
僕《ぼく》は、自分のことを何も知らない。
――いや、もちろん、まったくのゼロというわけじゃない。
年はだいたい十三か十四。背はあんまり高くない。ちょっと赤みの強い、熾《お》き火《び》のような色の金髪《きんぱつ》。暗い赤色の瞳《ひとみ》。性別は……ぱっと見ただけでは分かりにくいけれど、まぁ、間違《まちが》いなく男性。
ただ鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこむだけでも、このくらいのことは分かる。
でもこれで全《すべ》てだ。僕が自分自身について知りうるほとんど全てのことは、鏡のフレームの中にそのまますっぽり収まってしまうくらいに、小さくて少ない。
どこで生まれたのか。どのような両親がいたのか。どのように育ったのか。どんなものを好んでいて、どんなものを嫌《きら》っていたのか。そういったことのことごとくが、僕にはまるで分からない。他《ほか》ならない自分自身のことだというのに、何も思い出せない。
こういう状態《じょうたい》のことを、ええと、記憶喪失《アムネジア》? とかいうらしい。
戯曲《ぎきょく》や小説の中でなら、よくあることなのだという。
めちゃくちゃにショックなことがあって心を閉《と》ざしたとか、あんまりに辛《つら》すぎる記憶《きおく》だから思い出すことを心が無意識に拒否《きょひ》しているとか。まぁそんな感じの展開《てんかい》が、残酷《ざんこく》な運命とか感動的な悲劇《ひげき》とかを描《えが》いた物語の、定番であるのだという。
自分自身のことが分からないというのは、とても心細いものだから。
自分自身のことが信じられないというのは、とても苦しいことだから。だから、物語の中の登場人物たちは、しばしばそういう試練《しれん》に出くわすのだという。
まぁ、少なくともヴィルジニィは、そんなことを言っていた。
「……うーん?」
鏡の中の自分自身をにらみつけたまま、僕は首をかしげる。
鏡の中の僕が、正反対の方向に、同じだけの角度で首をかしげる。
とりあえずその表情を見る限り、心細いとか苦しいとか、そういう感じの言葉に縁《えん》があるようには見えない。少なくとも先のようなことを説明しながらヴィルジニィが目を輝《かがや》かせて期待していた、運命とかそういったものに翻弄《ほんろう》される悲劇の主人公っぽい感じはまるでしない。
たぶん、資質《ししつ》とか素質とか、そういうもののせいだと思う。
僕の知らない僕の正体は、きっと何の変哲《へんてつ》もない小市民だったのだろう。だから、失われたままの過去とかそういうものに悩《なや》まされるというのが体質に合っていないのだ。知りうるものなら知りたいし、思い出せるものなら思い出したいとは思うけれど、まぁそうでないのなら無理をしてまで求めたりはしない。ほどよい諦観《ていかん》は人生をうまく渡《わた》っていくためのコツだって、クリストフだって言っていた。
昔のことなんて何も知らなくても、僕は今ここ[#「ここ」に傍点]にいるのだから。
ケッタが受け入れてくれたこの場所にいて、僕は幸せなのだから。
――むせかえるような若草と花のにおいを、思い出す。
それは、僕が思い出せる中で、一番古い記憶。
細かいところはぼやけているし、ところどころ欠けていたりもするけれど、それでも絶対に忘れることはないだろうと言い切れる、大切な思い出。
広い花畑の真ん中で目を覚ました。
半分|寝《ね》ぼけたままで辺りをうろついて、一人の女の子を見つけた。
白いドレスを着た、銀色の髪《かみ》と水色の瞳の、小さな小さな女の子。
そしてその子が……僕を見た。
その子に見られることで、その時の僕はようやく、僕[#「僕」に傍点]という存在のことに気がついた。
記憶も持たず、ぼんやりとした意識のままでそこを徘徊《はいかい》していた、僕という人間のことに、ようやく行き当たった。
僕に母親の記憶はないけれど、僕という人間に始まりの火を入れたのは、間違いなくあの女の子だ。
エンリケッタ・テレーザ・ヴァルトン。
それが、彼女の――僕にとって誰《だれ》よりも大切なひとの、名前。
「ソル〜?」
開いたままの扉《とびら》がコンコンと指先で叩《たた》かれ、のんびりした声がその名前を呼ぶ。
僕は振《ふ》り返る。度《ど》の強い丸眼鏡《まるめがね》を鼻の上に載《の》せた二十代半ばくらいの女性が、気だるそうに戸枠《とわく》に肩《かた》をもたれて、こちらを眺《なが》め見ている。
「ヴィルジニィ……」
「陛下《へいか》、そろそろ出るみたいよ。あんたは準備できた?」
「ん、今行くよ」
最後に服の襟元《えりもと》をちょいと正してから、僕は鏡の前を離《はな》れる。
壁《かべ》にかけてあった小さな外套《インバネス》を取り上げて、肩にかける。
「念《ねん》のため確認《かくにん》するけど、本気なのね?」
「ん?」
「本気で、陛下についてくのね?」
ぼんやりした声で、ヴィルジニィが問いかけてくる。
「うん」
素直《すなお》に、頷《うなず》く。
「まだピンときてないかもしれないけど、陛下のそばは本当に危険だかんね? いまこの大陸で、他の誰よりも色んな人に狙《ねら》われてるのが陛下なんだから」
「ん、それは聞いたよ」
「聞いただけっしょ。言葉だけだから、実感してない」
言葉の調子をまるで変えずに、
「まぁ、いっか。言って聞くようなあんたでもないし」
「信頼《しんらい》されてるのか放棄《ほうき》されてるのか、どっちなのかなそれ」
「その二つを読み取れてるなら充分《じゅうぶん》。まーせいぜい、陛下の期待を裏切らないように気をつけなさいな」
「期待……」
呟《つぶや》きながら、ヴィルジニィの横に立つ。
「僕は、あの子に、何か期待してもらえてるのかな?」
「それは愚問《ぐもん》。こと陛下に限り、何の期待もできないような駒《こま》なら盤上《ばんじょう》に留《とど》めておくはずがないでしょ?」
「……そっか。そうだよね」
「言っとくけど、そんな明るい顔していいようなことは言ってないわよ?」
「ん、分かってる」
明るく答えると、ヴィルジニィは小さく唇《くちびる》の左右を下げて、
「そんじゃ行ってらっしゃい、ソル」
ぽん、と僕の肩を叩いた。
ソル。それが、本来の名前を思い出せない僕に与《あた》えられた、仮《かり》の呼び名だ。
家名もなにもない、ただの太陽《ソル》。
そんな感じの髪の毛の色だったからという、ただそれだけの理由でつけられたそれが、みんなが僕のことを呼ぶときに使う、僕を表す記号。
今の僕が持っている、たったひとつきりの名前だ。
「うん、行ってくる」
かつん、と高い音をたてて、恥願が願での戯郡を酊る。
城門に向かって、僕は歩いてゆく。
この、狭《せま》く居慣れた王城《パレス》を離れるために。
これから未《ま》だ見ぬ遥《はる》かの地へと向かうあの子《エンリケッタ》に付き添《そ》い、なんとかしてその力となるために。
いまここにある自分の居場所を、自分の在《あ》る理由を、見失わないために。
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▼scene/1 その宝物には触《ふ》れられない 〜two years later〜
1.
劇場が、大きな拍手《はくしゅ》で包まれた。
舞台《ぶたい》の上の役者たちに向かって熱狂的《ねっきょうてき》に称賛《しょうさん》を浴《あ》びせる観衆《かんしゅう》たちを、貴賓《きひん》席に座《すわ》る一人の少女が、冷《さ》めた目で眺《なが》めていた。
ほどけば腰《こし》に届く長い銀の髪《かみ》を、大ざっぱに編《あ》みこんでいる。その一点を除《のぞ》けば、その風貌《ふうぼう》はまさに非《ひ》の打ちどころのない貴婦人のそれだった。銀の髪と翠《みどり》の瞳《ひとみ》に白磁《はくじ》の肌《はだ》。それにあわせた紫《むらさき》のドレス。完璧《かんぺき》を追求し過ぎて、逆に人間らしさを損《そこ》なうまでに美貌《びぼう》を整えられてしまった――そんな印象をすら抱《いだ》かせる、十と半《なか》ばの少女。
「ふん」
少女――ジネット・ハルヴァンは、つまらなそうに鼻を鳴らした。
高いところにいれば、それだけよく観客席の全体が見渡《みわた》せる。千人を超《こ》えようという数の人間が口ぐちに「素晴《すば》らしい」を繰《く》り返すその光景は、どこか空々《そちぞら》しく、そしてまたどこか滑稽《こっけい》なものであるように思えた。
あの中に、本当に感動に心を揺《ゆ》らしている人間はどれだけいるのだろう? ただ場の雰囲気《ふんいき》に酔《よ》って手を打ち鳴らしているのではないと断言できるような人間はどれだけいるのだろう?
こんな疑問が出てくること自体が、彼らと同じものを見て感じることのできなかった証《あかし》だということになるのだろうか。
「……どうやら今の芝居《しばい》は、姫君《ひめぎみ》のお気に召《め》さなかったようだ」
少し距離《きょり》をあけた隣《となり》の席から、背を丸めた小柄《こがら》な老人がこちらを見ている。
「王都《こちら》では人気の劇団なのですがな。はて、演目《えんもく》が悪かったのでしょうか」
その視線も口調も、ともに穏《おだ》やかで優《やさ》しげなものだ。二人の姿《すがた》だけで言うならば、まるで年の離れた孫娘《まごむすめ》を愛《つく》しんでいるようにも見える。
「劇団にも演目にも落ち度はない」
むっつりとした顔のまま、ジネットは答えた。
「ただ、今の私が、作り物の物語を歓《よろこ》べる心境《しんきょう》になかった。それだけだ」
「ほほう。二百を超《こ》える時を生きてなお、そのような心の動きがありなさるか」
「今さら、何をふざけたことを言う」
ふん、と鼻先で笑う。
「動く心も持たぬような化け物を相手だと思っていたなら、劇場の券《チケット》を送りつけなどしないだろうに」
「いえ。それならばそれもまた一興《いっきょう》、とは考えておりましたとも」
対する老人は、豊かな白い髭《ひげ》の下で、くくくと小さく笑う。
「齢《よわい》を重ね、心が擦《す》り減《へ》ったならば、なおのこと人の心が恋《こい》しくなる。私などは、姫君の半分も生きておらぬ若輩《じゃくはい》でありますが、既《すで》に癒《いや》せぬ疲《つか》れに悩《なや》まされておりましてな。こうして、心を動かされた人々の姿を見ることを、数少ない愉《たの》しみのひとつとして日々を過ごしている次第《しだい》です」
老人のその目は、舞台を向いていない。
その舞台に向けて惜《お》しみない拍手を送る、観客の人々へと向けられている。
「同じように老いた心を持つはずの不老の者と、傷を舐《な》め合いたかったか? それは済《す》まないことをしたな。私では、お前の望みには応《こた》えられない。
それより、そろそろ本題には入れないのか。まさかこのような下らない話をするため牢わざわざ友人でもない私を呼び出したわけでもあるまい」
「下らない、と仰《おっしゃ》りますか。まぁ、構《かま》いはしませんが」
老人の白い眉《まゆ》がぴくりと動き、
「本題は二つ。ひとつめは、我《われ》らは今後、魔女《まじょ》の残した力と『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を巡《めぐ》る抗争《こうそう》の全《すべ》てから、原則的に手を引くということ」
「……なに?」
ジネットは振《ふ》り返り、訝《いぶか》しげな声を出す。
「何の話を始めるのかと思ったら、それは何の冗談《じょうだん》だ?」
「冗談などではありません。ええ、ありませんとも」
老人は肩《かた》を揺《ゆ》らし、
「我らゴルヴェリアの者……学術院《ライブラリ》などには茶会《ティパーティ》などと呼ばれている一族の者は、これ以上|貴女《あなた》方とは争わない。というよりも、争えないと正直に答えるべきですかな。それだけの力が、我らには残されていない。
平時は日陰《ひかげ》に潜《ひそ》み静かに動くのを信条《しんじょう》とする我らも、世界が動けば少しばかり派手《はで》に動かざるを得《え》なくなる。また、我らがそう動くようにと、この戦争自体が実に巧妙《こうみょう》に演出されている。そこを片端《かたはし》から狙《ねら》い撃《う》ちにされた」
ジネットは目を閉じて、少し考えた。
茶会《ティパーティ》……主にペルセリオ王国の東北部を拠点《きょてん》とする、魔法書《グリモア》収集組織。学術院《ライブラリ》が教育組織をその表の顔とするように、茶会《ティパーティ》は巨大《きょだい》な犯罪組織を母体《ぼたい》としている。上は腐敗《ふはい》した貴族から、場末のチンピラの一人一人に至《いた》るまでの、とにかく広い影響力《えいきょうりょく》を持ち、しかし決して表舞台に出ることはない。そんな、王国の闇《やみ》の支配者。
その頂点に立つ三人の老人のうち一人が、ここにいるこの老人だ。
言っていることは嘘《うそ》ではないだろうと思う。というより、こんな嘘を吐《つ》くことにはほとんど意味がない。茶会《ティパーティ》はこの大陸西部の勢力図から姿を消す。
「……相手は『古木《こぼく》の庭』か」
「ご明察《めいさつ》ですな。まさにその通り」
舞台の上に役者たちが並んで、順番に一礼してゆく。その度《たぴ》に観客席が沸《わ》き立つ。
「我らの持つ魔法書《グリモア》は既《すで》に半ば以上が奪《うば》われ、それ以上の数の|魔書使い《グリモア・ハンドラ》が傷ついて前線を離《はな》れざるを得なくなった。そして……多くの犠牲《ぎせい》を払《はら》ってようやく入手したあるもの≠奪われた」
「あるもの=H」
「はい。あれにはおそらく姫君も興味を持たれることでしょう……」
「姫君というのは止《や》めろ」
「失礼。とにかくそのもの≠ノついての情報を提供しようというのが、今日ここにジネット様をお呼び立てした理由の二つ目です。なにせ我々は既に抗争からの撤退《てったい》を宣言《せんげん》した身、いたずらに情報を秘匿《ひとく》しておくことにはそれほど[#「それほど」に傍点]価値がありませんからな」
「なるほど。その情報とやらを餌《えさ》に交換《こうかん》条件を出して、こちらからも何かを聞きだそうという肚《はら》か」
「いやはや、話が早くて助かりますな」
くつくつと笑う。
「断っておくが、『庭』が狙ったという時点で、その宝についてもこちらはある程度|推測《すいそく》出来ている。あまり大きな対価を要求されるようなら、私はこのまま席を立たせてもらうつもりだ」
「そうでしょうな。ですから、簡単《かんたん》な質問を、ひとつだけ」
「言ってみろ」
「……『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』とは、何なのですかな」
老人は、ゆっくりと、頷《うなず》く。
「それは、最強の魔法書《グリモア》なのだと言われている。
しかしまさか、本当にただそれだけのものではありますまい。
力を求めるということは、一般《いっぱん》的には、力を求める理由を持つということです。
貴女達は既に人智《じんち》を超《こ》えた力を手にしている。それ以上に望むことがあるとしたら何か。同じく人智を超えた力を持つものをさらに超えることか。なるほど確かに、互《たが》いの力を較《くら》べ合うことがあれば、さらなる力を求める理由にはなりましょう。
しかしそれだけでは説明がつかないのです。貴女方は全《すべ》てが同じではない。ただ力を求めることだけを目的に二百年を戦うような人ばかりではないのだから。
だから、貴女方があくまで世界の裏に沈《しす》んで『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を求めるという理由は分からない――」
「なんだ、そんなことを知りたいのか?」
「あなたがた不死者《レヴナント》にとっては『そんなこと』であるのかもしれませんが、我らにとってはそうではないのですよ。得体の知れない宝物のために大|火傷《やけど》を負わされるというのは、精神的にもなかなか応《こた》えることでして」
「その心境は、分からないでもないが」
運ばれてきた紅茶で唇《くちびる》を湿《しめ》す。
毒を恐《おそ》れる必要はない。不死者《レヴナント》と呼ばれるこの体には、もとよりそんなものは効《き》きはし
ない。そしてそのことは周知《しゅうち》の事実。この老人も、今さらそんな無駄《むだ》なことを試《こころ》みたりはしない。
「最強、か……較べ合うことすら馬鹿《ばか》馬鹿しいあれを指して、そう呼ぶことは果たして正しいのだろうかな」
「と、言いますと?」
「叶《かな》えたい願いがある。我らの意志の在《あ》り処《か》は、つまるところその一言に尽《つ》きる。
その願いのためになら、どれだけの血を流そうが、どれだけの骸《むくろ》を積《つ》み重ねようが、歩みを止めない覚悟《かくご》がある。だから我らは、二百年もの間、飽《あ》きもせずにそれを追い求めていたのだ――」
紅茶を小さく口に含《ふく》み、飲み下す。
淡《あわ》い苦味が喉《のど》に残る。
「――『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』と呼ばれるそれが正確に何であるのかを知っている者は、それを書き著《あらわ》した魔女の本人を除けば、誰《だれ》一人として存在しない。
しかし不死者《レヴナント》には……その体の内を焼けた魔法書《グリモア》に支配された|魔法書の代役《バーント・グリモア》には、ひとつ直観《ちょっかん》できることがある。少なくともそれは、とてつもなく巨大な|夜の軟泥《ワルプルギス》を含む何かであろう、と」
「巨大な……|夜の軟泥《ワルプルギス》?」
「そう。謎《なぞ》多き『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の全貌《ぜんぼう》を理解できずともいい。それをただ手にしただけで、私たちの振るう魔法書《グリモア》の力を極大化《きょくだいか》することができるはずだ。そしてそれは、そのまま私たちそれぞれが持つ望みを叶えることに繋《つな》がる」
〈…………〉
もぞり。
ジネットの膝《ひざ》の上、何かを抗議《こうぎ》するように、小さな人形が身じろぎした。
「私たち不死者《レヴナント》の内に宿《やど》る魔法書《グリモア》は、無作為《むさくい》にそこに収まったわけではないようだ。それぞれの個人が心の内側で求めていた力が、引き寄せられるようにしてそこに収まった。
例えば、王の地位を求め続け、しかし手に入れられなかった男がいた。焼けた幾《いく》つもの魔法書《グリモア》が渦巻《うすま》く中、彼に呼応《こおう》し、その体に入り込んだのは、まさに支配のための魔法書《グリモア》である『|鉛人形の王《アンペルール》」だった。
その力を手に入れた彼は、最初のうちは喜んだ。
しかしすぐに、自分に振るえる力の限界に気付いた。『|鉛人形の王《アンペルール》』の力は強大ではあるが、所詮《しょせん》、自分が直接近づいて刻印《ブランディング》を施《ほどこ》したものを、自壊《じかい》するまでのほんの短期間支配下におけるだけのものでしかない。そんなものは王とは呼べない。本当に王となるのならば、自分の目の届かないはずのところにまで支配を行き届かせ、かつそれを永《なが》く保《たも》つことができなければならない。
畢竟《ひっきょう》――彼は『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を求めたよ。『|鉛人形の王《アンペルール》』の力を極大化することで自分の望みは叶うだろうと、そう信じてな」
「それが、レオネル・グラント……ですか」
「ああ」
頷いて、
「今のはひとつの例に過ぎないが、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を求めるような不死者《レヴナント》であれは、誰も彼もが似たようなものだ。
淘汰《とうた》の魔法書《グリモア》『|三叉の船底《デゼスポワール》』を宿した不死者《レヴナント》は、世界に大規模の災厄《さいやく》をもたらすことを望んでいる。別離《べつり》の魔法書《グリモア》『|争える双子《ソリテール》』を宿した不死者《レヴナント》は、不死者《レヴナント》から魔法書《グリモア》を切り離す力を求めている。『|砕けた胸像《オルロージュ》」も『第十四契約《メディアトゥール》』も似たようなものだ。
皆《みな》がそれぞれに、それぞれの理由で『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を欲《ほっ》している」
「……なるほど。皆がそれぞれに、ですか」
老人は椅子《いす》に背を預《あず》け、白い髭《ひげ》を小さく揺《ゆ》らすと、
「不可解な点もありますし、新たに生まれた疑問も幾つかありますが……それらについては敢《あ》えては聞きますまい。既《すで》に大枠《おおわく》のところは理解できました。どうやら我々が逃《のが》した魚は、思いのほかに大きかったようですな。
それほど大きな魚ならば、不死者《レヴナント》ではない我らの漁船には余ります。身の程《ほど》を弁《わきま》えるのは、いついかなる場所でも通用する、生き残るための究極《きゅうきょく》の定石。漁船を沈められる前に退《しりぞ》くことを決めたのは、どうやら正しかったようだ」
「未練《みれん》は消えたか? ならば対価を出して貰《もら》おうか。
お前たちが入手し、『庭』に奪《うば》われた宝とは何だ?」
「ふうむ……そうですな。そういうことならば、興味深く聞いて頂《いただ》けるでしょう。
ドースの移民街の片隅《かたすみ》に、かつてペルセリオ西部から移っていった小さな商家がありましてな。そこの主が、代々に伝えてきたものだというのですが……」
「前置きはいい。つまり、何を見つけた?」
「これは失礼。では端的《たんてき》に、結論だけを」
観客席から、人が減《へ》り始める。
鎮《しず》まることを知らなかった拍手《はくしゅ》とどよめきが、薄《うす》れて、消えようとしている。
それに合わせてのことなのか、それとも何か別の意図があるとでもいうのか、老人は声を潜《ひそ》めて、呟《つぶや》くように、言った。
「『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の封《ふう》を解く鍵《かぎ》≠、見つけたのですよ」
2.
不死者《レヴナント》数名から成《な》る組織『古木の庭』は、ペルセリオの外れにある、小さな港湾《こうわん》都市に本拠《ほんきょ》を置いている。ジネッ卜はそれを知っている。
†
――かたん、かたん、と小さく列車が揺れる。
揺れながら、鉄の箱に載《の》せた人と荷物とを、線路の先へと運んで行く。
閉じた硝子窓《ガラスまど》の外には、灰色の霧《きり》に包まれた幽谷《ゆうこく》の風景。
そこに、生きて動くものはひとつとして無い。ミルクをぶちまけたような、べっとりとした厚い霧。そしてその中に時折|浮《う》かび上がる、黒々とした朽《く》ち木の影《かげ》。窓を通して見える風景は、ただそのふたつだけで構成されている。
そして、その風景に重ねるようにして、窓には個室《コンパートメント》の中の光景も映し出されている。
小さな長椅子二つを向かい合わせに設置した、四人用の狭《せま》い部屋。椅子の片方には大きな焦《こ》げ茶色の旅行用|鞄《かばん》が投げ出されていて、もう片方には自分と同じ姿格好《すがたかっこう》の少女が一人。翠《みどり》の瞳《ひとみ》に沈鬱《ちんうつ》の表情を浮かべて、窓のこちらがわ[#「こちらがわ」に傍点]を睨《にら》みつけている。
小さく息を吐《つ》くと、窓の向こうの少女もまた、つまらなそうに嘆息《たんそく》した。
「…………」
ジネット・ハルヴァンは、窓にカーテンを下ろした。
外の風景と自分自身の写し身とが、まとめて視界から消えた。
〈疲《つか》れとるのか?〉
老人の声が、気遣《さづか》うようにそう話しかけてきた。
「……少し、な」
窓を覆《おお》うカーテンに目を向けたまま、ジネットは呟くようにして答えた。
「ここは空気が重い。陽気な気分にはなれない」
〈ふむ〉
旅行鞄の陰《かけ》から、幼い少女を模《も》した小さな人形が、ひょいと頭だけを出してこちらを見てきた。
〈不死者《レヴナント》の言葉じゃ、嘘《うそ》はなかろうが、それだけでもなさそうじゃな〉
人形の口が動いて、老人の声を紡《つむ》ぎだす。
アルト・バルゲリアル。特殊《とくしゅ》な人形の中に|夜の軟泥《ワルプルギス》ごと意識を封《ふう》じた、ジネットの旅の随行《ずいこう》者。
「…………」
〈旅路が辛《つら》いか?〉
「…………」
〈まぁ、楽しい旅ではないのは確かじゃろうな。フェルツヴェンを出てから二年、ろくな目に遭《あ》わんしろくな話を聞かんし、ろくな収穫《しゅうかく》もない〉
フェルツヴェン。
その地名を聞いて、胸の奥《おく》がわずかに揺れる。
そして、二年という数字を聞いて、愕然《がくぜん》とする。
あれからもう、そんなに時間が流れたのか。あの場所で起きたことの全《すべ》ては、つい昨日のことのように思い返せるというのに。
あれからまだ、それだけしか時間が流れていないのか。あの場所で起きたことの全ては、もうどんなに手を伸《の》ばしても届かないほどに遠く感じられるというのに。
この二年の間に、世界は少しだけ有様《ありさま》を変えた。
例えば、あれから半年ほどの時間を挟《はさ》んで、戦争が始まった。大陸西部|随一《ずいいち》の大国であるミルガが、それよりはだいぶ国力の劣《おと》るペルセリオ王国に対して宣戦布告《せんせんふこく》、圧倒《あっとう》的な資力を背景に、力押《ちからお》しの侵略《しんりゃく》を開始した。
そしてその戦争は、始まって二年が経《た》った今に至るも、まだ終わってはいない。ペルセリオが奮闘《ふんとう》しているということなのか、単にミルガの詰《つ》めが甘《あま》いだけなのか、あるいはそれらのどれでもない別の要因が絡《から》んでいるのか……どうあれ、戦争というこの状況《じょうきょう》はしつこく一進一退を繰《く》り返し、終わる気配のないまま今も続いている。
いつか……この時間も、後世の歴史家の手によって、年表の中に埋《う》め込まれた簡素《かんそ》な一文へと封《ふう》じられるのだろうか。それとも戯曲《ぎきょく》家の手によって、涙《なみだ》なしには見られない感動的な物語に仕立て上げられるのだろうか。古き国シュテーブルがかつて迎《むか》えた滅《ほろ》びが、今の時代にはそう伝えられているように。
〈しかし、茶会《ティパーティ》のあの男の言葉を信じるならば、おそらく情勢は近日中に大きく変わる。この放浪《ほうろう》の旅も終わりが近いとなると、こうしてぼんやり揺られている時間が急に惜《お》しく感じられるのう……〉
しみじみと、ぼやくように老人の声は言う。
「同意はできないな。こんなもの、惜しむほど心地《ここち》よい時間とは思えない」
〈……つれないのう〉
ふぅ、と人形の小さな唇《くちびる》が器用に溜息《ためいき》を吐く。
話題のせいだろうか、少し気分が沈《しず》んだ。それを無理やりに振《ふ》り払《はら》うように、勢いをつけて席を立つ。
〈どうした?〉
「小腹が空《す》いた」
簡潔《かんけつ》に答える。
「確か後ろのほうに食堂|車輌《しゃりょう》があった。何か、腹に入れてくる」
〈そうか。では儂《わし》は、しばらくぼんやり揺《ゆ》られているとしよう〉
アルト老はソファの上にだらしなく五体を投げ出して、昼寝《ひるね》の構え。
ジネットは個室《コンパートメント》を後にする。
†
列車の走るこの場所は、ペルセリオとミルガの国境に近い。
戦争が始まってからの二年間、実際の戦火に蹂躙《じゅうりん》された訳ではなくても、ずっと緊張《きんちょう》状態を強《し》いられていた地域だ。そのためか、列車に乗り合わせた他の客たちには、まるで生気というものが感じられなかった。
二人がすれ違《ちが》えば肩《かた》がぶつかるほどに、狭い通路。何人もの乗客とすれ違う。そしてその誰も彼もが申し合わせたように、くたびれた顔で肩を落とし、床《ゆか》を見つめてとぼとぼと歩いている。
ああ、もう、全く。
見ているだけで、そうでなくとも沈んだ気分が、さらに滅入《めい》っていく。
食堂車輌の中に入っても、状況はほとんど変わらなかった。狭い車輌の中に幾《いく》つも並んだ四角いテーブル。ぽつぽつと座《すわ》る利用客たちは、いずれも楽しくもなさそうな顔で皿の上の料理をつついている。
扉《とびら》を開いた音に反応したのだろう、何人かの客が、わずかに顔をあげてこちらを見るが、すぐに目を逸《そ》らして自分たちの前の料理へと目を落とした。
(……ん?)
例外を、見つけた。
隅《すみ》のほうの狭いスペースに、何人もの男たちが詰め寄せて、テーブルのひとつを……その卓上《たくじょう》にあるなにかを覗《のぞ》き込んでいる。年齢《ねんれい》も体格もばらばらではあったが、とにかく男ばかりが狭いところに詰め込まれている光景は、遠目に見ているだけでも暑苦しいものだった。
男たちの隙間《すきま》から、テーブルの上がわずかに覗ける。
そこには、小さな遊戯盤《ゆうぎばん》が見える。白と黒に色分けされたツートーンの盤の上に、やはり白や黒に色分けされた駒《こま》が幾つも載《の》っている。
(……スカッキ、か)
実際の戦争を摸して二人の遊技者《プレイヤー》がぶつかり合う伝統的なゲーム。
小さな盤上を戦場、様々な役目を担《にな》った小さな駒たちを兵力として、互《たが》いに争わせる。そして、先に相手の持つ王《レー》の駒を奪《うば》い取ったほうが勝利する。ルールはやや煩雑《はんざつ》ではあるがその分以上に奥深く、発祥《はっしょう》から何百年も経っている今も大陸全土で親しまれている遊びだ。
ジネットはあまりこういった遊びの類《たぐい》に詳《くわ》しいわけではなかったが、これだけはよく知っている。遠い遠い昔、おてんばな姫君《ひめぎみ》だったころに、守衛《しゅえい》室で暇《ひま》を潰《つぶ》していた兵士たちのところに押しかけて、無理やりにルールを教えさせたのだ。
(…………)
懐《なつ》かしい気持ちと、勝負を覗いてみたいという好奇心《こうきしん》が湧《わ》き起こる。そしてそれをすぐに抑《おさ》えつける。忘れてはいけない、自分はここに、食事をしにきたのだ。
遊戯《スカッキ》盤から目を逸らし、カウンターの前に立つ。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの事務的な声に迎《むか》えられる。
メニューの上に目を走らせる。活字で書かれた料理の名前がいくつも並べられ、その横にべたべたと値段が貼《は》り付けられている。やや高めに思えるその値段をにらみつけながら、幾つかの品を注文する。マッシュポテトとポークソテーに茹《ゆ》でサラダを多めに添《そ》えて。あとコーヒーも。
「しばらくお待ちください」
事務的な声でそう言い置いて、ウェイトレスが調理台のほうへと向き直る。ジネットはエプロンドレスの背中をぼんやりと見やり、さてこの短い待ち時間をどのようにして無為《むい》に潰そうかと鈍《にぶ》く思考を巡《めぐ》らせようとしたところで、
「――――んひゃぁぁっ!?」
あまり品《ひん》が良いとは思えない、その叫《さけ》び声を聞いた。思わずその場につんのめりそうになるのを、慌《あわ》ててこらえる。妙《みょう》に高い声だった。女か、または声変わり前の少年か。
「何が……」
起きた、と呟《つぶや》きながら振り返ろうとしたところで、
「よっしゃ勝負あり!」
「決まりだ決まり!」
「おら有り金まとめて吐《は》き出しちまいな!」
これまたあまり晶の良くない男性たちの陽気な声が爆発《ばくはつ》するように膨《ふく》れ上がって、ジネットの疑念の声をかき消した。
ぱちくりと大きくまはたきをひとつ、声の出所を見やる。予想通りというかなんというか、それは隅のほうで身を寄せ合っていたあの男たちだった。先ほどまでは静かにテーブルの上を凝視《ぎょうし》していた連中が、今はイタズラに成功した子供のように両腕《りょううで》を振り上げてはしゃいでいる。
(……なんだ、スカッキの勝敗で賭博《とばく》でもしていたのか?)
今の歓声《かんせい》の内容からすると、そんなところだろうと思える。
(暢気《のんき》というか、なんというか……)
こんな沈んだ空気の中で、よくもまぁこれだけ明るく盛《も》り上がることができるものだ。あるいは、こんな空気の中だからこそ、重苦しさを振り切るために、より力を入れて騒《さわ》いでいるのかもしれないが。
「どのような形であれ、活気《かっき》があるのは、良いことか……」
投げやりにそんなことを呟いたその瞬間《しゅんかん》、男たちの隙間から、テーブルを挟《はさ》んで座っている二人の打ち手の姿が、ちらりと見えた。
片方は、まぁ、どうということもない男だった。蛙《かえる》を縦《たて》に引き延《の》ばしたような横顔に、蛇《へび》を無理やり胴体《どうたい》にひっつけたような細い両腕。体格のいい男たちに囲まれているという意味では奇妙ではあったが、それ以上のものはない。
だが、もう片方が、少し気にかかる。
まだ幼い、子供だ。
年はせいぜい、十二か十三か。線が細く中性的な顔立ちに、透《す》けるように白い肌《はだ》。短く切りそろえた、赤みの強い金髪《きんぱつ》。少年のような少女にも見えるし、少女のような少年にも見える、そんな不安定な容貌《ようぼう》。
「…………?」
どこかで会ったことがあるような気がする。
目を細めて、記憶《きおく》を探《さぐ》ってみる。
これだけ印象的な姿なのだから、一度会ったらそうそう忘れないはずだと思う。しかし、うまく思い出せない。
もしかしたら、遠い過去に会った誰かの縁者《えんじゃ》だろうか、と思う。
実際、その可能性は十分にありうるのだ。何せ自分は二百年もこの大陸をふらふらしていたのだから、かつての知己《ちき》の子供や孫、あるいはさらに遠い子孫が今この目の前に現れたところで、何もおかしいことはない。
もしそうだとすると、思い出すことはまず不可能だろうと思える。二百年の間に会った無数の人間の顔を思い出すだけでも大変だというのに、さらにその面影《おもかげ》を探すなどということが現実に出来るとは思えない。
傍《そば》まで歩いていき、男たちの隙間からテーブルの上を覗き込んだ。
金髪の子供の細い指が、駒のひとつをつまみあげて、動かす。
今はちょうど、新しい勝負が始まったばかりのようだった。盤の上にきれいに整列した白と黒の駒たちが、ひとつひとつ交互《こうご》にゆっくりと動いて、少しずつ少しずつ、戦場の混乱を創《つく》り出してゆく。
「…………」
こつん、こつん、と駒が動いていく。
男たちに交ざって、ジネットは盤の動きを見守る。
金髪の子供の腕前は、決して悪いものではないと思えた。オーソドックスな定石をしっかりと踏《ふ》まえて、さらにそれを戦況《せんきょう》に応じて応用することが出来ている。しかし対戦相手の男の腕もまた同様のあるいはそれ以上のレベルにある。どちらが有利になるということもなく、勝敗の気配が見えないままに、ゲームは続いていく。
膠着《こうちゃく》し始めた戦況を変えたのは、金髪の子供の一手だった。
騎士《カヴァリエレ》の駒が戦場から引き返し、女王《レジーナ》を守る位置に立った。
確かに、女王《レジーナ》の駒はその時盤上で孤立《こりつ》していたし、放《ほう》っておけばすぐに取られてしまっただろう。そして女王《レジーナ》を取られることは、長い目で見れば、このゲームを不利に導《みちび》くことになったかもしれない。しかし、騎士《カヴァリエレ》が攻《せ》め手から離《はな》れたことが、ゆっくりと戦況を変えた。拮抗《きっこう》していたバランスがじわじわと崩《くず》れていく。ひとつ、またひとつと、前線を支えていた金髪の子供の兵士《ソルダート》たちが盤を離れていく。
ああ、これは、だめだな。
ジネットにはこの先の展開が見えていた。
ここから七手ほどで中央の戦線が崩壊《ほうかい》。十一手以内に戦車《カツロ》に盤《ばん》の端《はし》を切り崩されて、それからずるずると抵抗《ていこう》したとしても、十七手目あたりで詰《つ》み。多少の誤差《ごさ》はあるにしても、せいぜいそんなところだろう。
テーブルを離れて、カウンターで料理を受け取る。
注文していた料理のトレイを受け取る。調理されたというより暖《あたた》めなおされただけのソテーが、申し訳程度の湯気《ゆげ》を立てている。
トレイを手に、手近に空いているテーブルを探す。
「おおおおおっ!」
「まぁなんだ、坊主《ぼうず》、よく粘《ねば》ったな」
向こうのテーブルが盛り上がる。勝負がついたのだろう。
「もう一戦いっとくか、ん? もちろんいっとくよな?」
ばんばんと、大きな手のひらが子供の肩を叩《たた》く音。
灯《あか》りの届いていない隅の方に無人のテーブルを見つけ、ジネットは食事を始めた。
†
食堂|車輌《しゃりょう》で提供されているこの食事が作られるにあたって、鉄道関係者が考えなければいけないことは、色々と多岐《たき》にわたる。
まず、狭《せま》いところに大量に積載《せきさい》できなければならない。次《つ》いで、ある程度以上の期間、腐《くさ》らせたりせずに保存できなければならない。また、調理が誰にでも手早く簡単にできて、出来上がりの品質を一定に保《たも》てるものでなければならない。そしてもちろん、生産コストも出来るだけ引き下げておきたい。
ここまでの理由により、ひとつの事実が導き出される。つまり、味というものの優先《ゆうせん》度は決して高くない……というかあからさまに低い……のだということだ。
(…………)
雑巾《ぞうさん》を噛《か》みしめているような錯覚《さっかく》をこらえながら、それでも皿の上のものをひととおり腹の中に収める。
もそもそと無表情に咀嚼《そしゃく》を繰《く》り返しているうちに、気分が嫌《いや》な具合に沈《しず》んできた。安物の合成|飼料《しりょう》を食わされる豚《ぶた》の気持ちが分かったような気がした。
「ひどいな、これは」
豆の挽《ひ》き方に失敗しているのか、やたらと渋《しぶ》みはかりを感じるコーヒーで、喉《のど》にひっかかるサラダの後味を洗い流す。
妙《みょう》が辺りが静かだなと思って顔をあげた。
あの賭《か》け遊戯《スカッキ》のテーブルの様子がおかしかった。こつん、と駒《こま》が盤《ばん》に触《ふ》れる小さな音が時折聞こえるだけで、それ以外の音はほとんど何も聞こえない。十人近くいるはずの男たちは、まるで呼吸することすら忘れてしまったかのように、盤上に意識を集中させている。
なんともまぁ、熱いことだ。
かたんと小さな音を立てて椅子《いす》から立ち上がり、きしきしと床《ゆか》をきしませながらトレイを下げる。それから再び男たちの集団に近づくと、同じ隙間《すきま》から盤を覗《のぞ》き込んだ。
(…………?)
あの子供がだいぶ薄着《うすぎ》になっていた。ほっそりとしたその体格がはっきりと分かる。先ほどは分かりづらかった性別も、今なら、おそらくは男性なのだろうと、それなりの自信をもって推測することができる。
車内だとはいえ、ここは霧《きり》の出ている高山だ。気温は決して高くない。ぶるりと小さく肩《かた》を震《ふる》わせているのは、決して武者震《むしゃぶる》いのような理由ではないだろう。
何があったのかに、興味はあった。しかしそれよりも、テーブルの上の盤の状況《じょうきょう》がジネットの目を惹《ひ》いた。
乱戦だった。
多くの駒が盤上を離れていた。
それよりも多くの駒が、今にも盤上を離れそうなところに配置されていた。
難《むずか》しい局面だと思った。
どちらが有利な局面かという話なら、ほぼ互角《ごかく》。互《たが》いの首にナイフを突《つ》きつけたような状況、ほんのわずかな隙がそのまま終わりに直結する。その意味で、二人に与《あた》えられたチャンスは等価《とうか》。だからこそ、戦況は互角だと言うしかない。
金髪《きんぱつ》の子供――少年が、真剣《しんけん》な目で盤を睨《にら》んでいる。
その指が、ふるふると震えながら、ゆっくりと盤上に伸《の》びる。
指先が、黒い女王《レジーナ》の駒に触《ふ》れそうになる。
ジネットには見えていた。それは、絶対にとってはならない一手だった。今この女王《レジーナ》がその場所から離れてしまうと、相手の司教《ヴェスコヴォ》が自由になる。そうなれば、今この盤上にある薄氷《はくひょう》の均衡《きんこう》など、一瞬で崩《くず》れ去って跡形《あとかた》もなくなることだろう。
それが見えていたから――やってはならないことだと理解していたのに――
「違……っ」
気付けば、そう小さく声が漏《も》れていた。
ぴくり、と少年の指先が硬直《こうちょく》した。
男たちの首が全《すべ》て同時にぐるんと回ると、こちらを見た。勝負に集中していた男たちの、真剣そのものの視線が槍《やり》のようにジネットに突き刺《さ》さる。
「え、あ……」
気圧《けお》されて、思わず半歩ほど後ずさる。
真剣勝負の最中に、横から口を挟《はさ》んでしまった。とんでもない不作法《ぶさほう》だ。大慌《おおあわ》て.で、頭を下げる。
「す、すまない、悪気はなかったのだが、つい……」
この視線と沈黙《ちんもく》が怖《こわ》い。素直《すなお》にそう思う。
「しょうがないわねぇ」
少年の対戦相手である蛙顔《かえるがお》の男が、ねっとりとした甘《あま》い声でぽつりと呟《つぶや》く。
男は骨のように細く長い指で自分の頬《ほお》を撫《な》でて、
「どうするの、坊《ぼう》や? その女王《レジーナ》、動かすの?」
「…………」
少年は、伸ばした指を硬直させたまま、無言で盤を睨み続けている。自分が打とうとしていた一手が自殺|行為《こうい》であることに気付いたのだろう、その額《ひたい》からはダラダラと滝《たき》のような汗《あせ》が流れ落ちている。
そのまま放《ほう》っておいても、状況が進展するようには見えなかった。
「ほんと、しょうがないわねぇ」
蛙顔の男は、妙に熱のこもった溜息《ためいき》を吐《は》き出すと、
「なら、選手交代、というのはどうかしら?」
ジネットの周囲、観客をしている男たちに向かって声をかけた。
数秒ほどの時間を、男たちほその言葉の意味を咀嚼《そしゃく》するのに費《つい》やした。
その次の数秒を、互いの顔を見合わせて頷《うなず》き合い、どうやら皆《みな》考えていることは同じらしいと確認《かくにん》することに費やした。
そしてその後に、彼らはとてつもなく俊敏《しゅんびん》な動きを見せた。丸太のような腕《うで》が椅子《いす》の上から少年を抱《かか》えあげ、ぽいと傍《かたわ》らに放り捨てる。そして別の腕が、有無《うむ》を言わさず――その暇《ひま》さえ与えずに、空《あ》いた椅子にジネットを押《お》し込んだ。
あまりに突然《とつぜん》のことだったので、ジネットには状況が理解できない。
薄《うす》いクッションの上で、童女《どうじょ》のようなきょとんとした顔になる。
「……何?」
「あら、当《とう》の本人だけずいぶんと察しが悪いのね」
蛙顔の男はくねくねと体を揺《ゆ》らしながら、
「盤の状況はこのまんま。賭《か》け金の条件もそのまんま。そこの坊やがここまで進めたゲームを、ここからは貴女《あなた》が引き継《つ》ぐのよ、綺麗《きれい》なお嬢《じょう》さん」
「私、が?」
「そうよ」
蛙顔が片目をつぶり、
「このまま坊やが続けて勝負がついても、不正があったみたいで、あたしたちどっちも気分よくないもの。だったら原因になった人に代理に出てもらうしかないじゃない。不利な状況からの参加になるけど、そのへんは不作法のペナルティということで。思わず声に出ちゃうくらいなんだから、貴女もそこそこ打てるんでしょ?」
それは……
「道理《どうり》ではある、な」
「でしょ?」
「分かった。それで不作法を償《つぐな》えるというならは、その提案《ていあん》、乗らせてもらう――すまないが、そういうことでいいか、少年」
くるりと首を巡《めぐ》らせて当事者のひとりに問いかけてみた。きょとんとした顔でこちらを見ていた少年は、問われて初めて我に返ったようになって、「は、はい!」と高い声で頷いた。
ならば、今はこの盤の上に意識を集中させるのみ。
改《あらた》めて駒の配置に目をやる。ここからなら、さほど長い勝負にはならないだろう。先に隙を見せたほうが負ける。あるいは、隙に見せかけたフェイントにひっかかったほうが負ける。
まず女王《レジーナ》は動かすべきではない。右の戦車《カツロ》も今の場所で睨みを利《き》かせておいたほうがいいだろう。となると次の手として考えられるのは、兵士《ソルダート》の配置を変えて盤面左の戦力を補強《はきょう》して、そちらに相手の注意が逸《そ》れた隙に騎士《カヴァリエレ》で中央を突破《とっぱ》するというものだが――
考えの途中《とちゅう》、ふと思い浮《う》かんだことを、尋《たず》ねてみる。
「先ほど言っていた、賭け金の条件とは何だ?」
「『負けたら身ぐるみ置いてけ』よん」
ああ、なるほど。
少年が薄着になっていた理由が、これではっきりした。これまでの勝負で、負け分のカタに上着を取り上げられ済《ず》みだということか。
この蛙顔は、おそらくこういう賭け遊戯《スカッキ》の玄人《くろうと》なのだろう。
鉄道に乗り込み、単純そうなカモを探して、暇《ひま》つぶしに勝負でもどうかと持ちかける。
最初は小銭《こぜに》をやりとりする程度の遊び。だがそれは次第《しだい》に白熱して、やがてカモが気が付いた頃《ころ》には、完全にすってんてんになるまでむしり取られているというわけだ。
つまり、もし自分が口を出さずにあのまま放っておいたら、あの少年は上着のみならず、ほとんど半裸《はんら》に剥《む》かれて放り出されるはめになっていたことだろう。
こうして自分が肩代わりしてやれたのは、彼にとって救いだったかもしれない。
肩代わり。
身代わり。
すってんてん。
「…………」
「…………」
「…………」
「……って、少し待て」
顔を上げた。
周りを見渡《みわた》した。
盤上を晩みつけていた男たちが、そろってゆっくりとこっちの顔を見て……それから、にんまりと嬉《うれ》しそうに、笑った。
ようやくジネットも理解した。先ほどの『選手交代』の言葉に対して、周りの男たちが異常なほどに団結していた理由が、つまりはこれなのだと。
「いや、待て! 冗談《じょうだん》ではない! 聞いていないぞそんな条件は!」
冗談じゃない。そんな条件の勝負など受けられない。慌てて抗議《こうぎ》する。
「あら、勝負は始まっちゃってるわよ?」
「そんなものは無効だ! 放棄《ほうき》だ!」
異議は聞き入れられなかった。
妙にテンションの上がった男たちが揃《そろ》って意味不明のおたけびをあげて、うやむやのうちに勝負はそのまま続けられることとなった。
†
勝負ごとに、動揺《どうよう》は禁物だ。
それは判断を狂《くる》わせ、隙を生んで、速《すみ》やかな敗北を呼ぶ。
五手目にジネットはミスをした。
九手目を打つ時になって、ようやくそれがミスだったことに気付いた。
十三手目まで、そのミスをフォローしようと動いた。そして傷口を広げた。
十七手目で、もう盤上《ばんじょう》にある自分の駒《こま》のほとんどが死《し》に体《たい》であることに気付いた。
二十一手目を指す時には、どのような魔法《ウィッチクラフト》をぶちかませばこの場から後腐《あとくさ》れなく逃走《とうそう》できるだろうかと、冗談混じりに考えていた。
二十三手目で悩《なや》んでいた最中に、自分の唇《くちびる》が無意識のうちに「果てのない白の荒野に一人立ち――=vなどと導きの言葉を詠唱《えいしょう》し始めているのに気付いた時には、もう何もかもがどうでもいいからこの車輌《しゃりょう》をまるごと破壊《はかい》してしまえば万事《ばんじ》解決だなどと、半ば近く本気で考え始めていた。
そして、二十五手目。
敵地の真ん中で孤立《こりつ》していた騎士を逃《に》がそうと、伸《の》ばした指先で駒に触《ふ》れて、それをつまみ上げようとしたその瞬間《しゅんかん》に、
「そうじゃない」
その小さな呟《つぶや》きを聞いた。
†
指先を引っ込めて、声の聞こえてきたほうを見た。
少年と同じか、さらに幼《おさな》い――せいぜい十二か十三といったところだろう――女の子が一人、立ち並ぶ男たちの隙間《すきま》から、まっすぐに盤上を見据《みす》えていた。
ぐるり、と男たちの目がまっすぐに女の子に向いた。しかし女の子はまったく動じた気配も見せず両目を伏《ふ》せると、憂鬱《ゆううつ》そうな仕草で首を左右に振《ふ》った。
ふわりと軽く波をうつ、長い銀色の髪《かみ》。晴れ渡《わた》った空のような、水色の瞳《ひとみ》。
(この子も……どこかで会った……?)
見覚えのある顔のような気がした。けれど、やはり思い出せなかった。
「エンリケッタ……」
当惑《とうわく》のこもった声で少年が呟いたそれが、この子の名前なのだろうか。
その女の子――エンリケッタは、男たちの隙間を強引に潜《くぐ》り抜《ぬ》けて、テーブルのそばまでやってくると、身をかがめるようにして、少年の顔を覗き込んだ。
こんなところで、何やってるの。
無言の視線が、周りにいる人間にもそうと理解できるほど分かりやすく、少年を問い詰《つ》めている。
「いや、その……なりゆきで……」
なりゆきで?
「なんていうか、男には戦わなきゃいけない時があるっていうか……」
うん、だから?
「……………………ごめん」
はぁ。
エンリケッタは小さく息を吐《つ》いて、ジネットに向き直る。
「な、何だ?」
どいて。
無言のまま、エンリケッタはジネットを椅子《いす》から押《お》しのける。
空いた椅子に自分が座《すわ》り、迷うことなくその小さな指を伸ばすと、無造作に戦車《カツロ》の駒をつまんで、動かした。
「なっ……!?」
それは、ありえない一手だった。
戦力の均衡《きんこう》だの敵陣《てきじん》への睨《にら》みだの、そういったものを全《まった》く考えない、ただ駒に無駄死《むだじ》にさせて犠牲《ぎせい》を増やすことになるだけの、つまりは明確な敗北に向かって一直線に突《つ》き進む、最悪の手だった。少なくともジネットにはそう見えた。
「こら、勝手なことをするな、この勝負は遊びじゃない……」
慌《あわ》てて制止しようとしたところに、
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
少年の声が割り込んできた。
「あの子に任せてください。絶対に大丈夫だから」
「いや、いくらなんでもあの一手は」
「大丈夫。本当に、大丈夫なんですよ」
確信に満ちた、力強い断言。ジネットは言葉を失う。
――この突然《とつぜん》の闖入者《ちんにゅうしゃ》に対し、なぜか蛙顔《かえるがお》は何も言わなかった。
真剣《しんけん》な顔で、たった今動かされたばかりの戦車《カツロ》を晩んでいる。
周りの観衆たちもまた文句ひとつ言わず、静かに成り行きを見守っている。
たっぷりと思考時間をとった蛙顔が、やがてその指をまっすぐに伸ばすと、兵士《ソルダート》を動かし、戦車《カツロ》を盤上から取り除《のぞ》いた。この瞬間、二度目の選手交代が成立した。
間髪《かんはつ》入れずにエンリケッタの指先が素早《すばや》く動いて、今度は司教《ヴェスコヴォ》を死地へと運ぶ。蛙顔はしばし逡巡《しゅんじゅん》してから、自分の駒を動かしてそれを除去《じょきょ》する。
そんなことが、何度も繰《く》り返される。
生贄《いけにえ》が次々に積み上げられて、盤上から黒の駒が次々に減ってゆく。
「あ、あ、あ……」
時計を早回しにしたようなとんでもない速さで、自軍がぼろぼろになっていく。それを見守るジネットは絶望的な気分になっていた。だから、
「しょうがないわね……降参《こうさん》よ、降参」
蛙顔がぼやくように言い放ったその言葉を、すぐには理解できなかった。
「は?」
何が何だかわからないという風の観客たちと一緒《いっしょ》になって、盤上を見直す。
黒の兵士《ソルダート》が、白の王《レー》を狙《ねら》っている。そして、白の側の陣営《じんえい》には、黒よりも圧倒《あっとう》的に多くの駒を盤上に残していながら、その狙いをかわす手段が残されていなかった。
勝っている。
ついさっきまで、圧倒的に劣勢《れっせい》だったはずなのに。いや、それどころか、敗北に向かって一直線に突き進んでいたはずだったのに。どのような詭計《きけい》を使えば、いやどのような魔法《まほう》を使えば、こんな不思議なことができるというのか。
誰もが呆然《ぼうぜん》となって、この結果を受け入れられずにいる。例外はエンリケッタと蛙顔、そしてどうやらこうなることを確信していたらしい少年の三人だけだ。
「…………」
勝者であるエンリケッタは、まっすぐに蛙顔を睨みつけている。
「そんな顔しなくても、分かってるわよ。怖《こわ》い子ね、もう」
蛙顔は苦笑《くしょう》し、やれやれと肩《かた》をすくめる。
「ちゃんと、そこの子の負け分は返す。こんだけ格《かく》の差みせつけられちゃ、もうなんべんやっても勝てる気がしないし、今日のところはそれで勘弁《かんべん》してちょうだい」
「ん」
つまらなそうに、エンリケッタは頷《うなず》いた。
†
蛙顔は、「けっこう楽しかったわよん」などとウィンクしつつ去った。
観客の男たちは、がっくりと肩を落として(まったく何を期待していたやら)、それぞればらばらに食堂車輌を出ていった。
小石か何かでも撥《は》ねたのか、がたたん、と車輌が一度、大きく揺《ゆ》れた。
「……なんというか、まぁ」
疲《つか》れた。
何だかよくわからないが、異様《いよう》に疲れた。
とりあえず個室《コンパートメント》に戻《もど》ろうかと思う。今頃《いまごろ》のんびりと惰眠《だみん》をむさぼっているであろうアルト老《ろう》を蹴《け》り飛ばして、ソファにもたれて少し眠《ねむ》ろう。
歩きだそうとした――その袖《そで》を、引かれた。
振《ふ》り返る。あの少年が、こちらの袖を掴《つか》んでいる。
「あ、あの」
「礼ならいらない、結局私は何の役にも立たなかった」
「あ、いえ、そういうのじゃなくて……あああもちろん、ええと、助けてもらったのは嬉《うれ》しかったのでありがとうございますなんですけど、その」
ごくんとつばを飲みこんで、少年は息を整える。
「……変なこと、聞くみたいですけど、」
「何だ?」
すううと大きく息を吸って、はああと大きく息を吐いて、それから改めて、
「もしかして、僕のこと、知ってたりしませんか?」
その少年は、そう尋《たず》ねてきた。
3.
食堂車輌のテーブルに座りなおした。
さすがにただ座っているだけというのも息苦しいので、ウェイトレスを捕《つか》まえて、人数分のオレンジを注文した。しばらくしてからグラスで運ばれてきた橙色《だいだいいろ》の液体は、予想通りというか何というか、すこぶるつきにまずかった。
「何からどう説明すればいいのか、迷うんですけど――」
頬《ほお》を指先で掻《か》きながら、少年はためらい混じりに話し始めた。
「自分が何者なのか知らないんですよ、僕。
二年前に、この子……エンリケッタに拾《ひろ》ってもらった時には、自分の名前も、どこから来たのかも、何もかもが全然思い出せなくて」
ちらりとその視線が示した先には、両手でオレンジのグラスを持って、眉《まゆ》をひそめて微妙《びみょう》な顔をしている幼い少女。遊戯盤《ゆうぎばん》を離《はな》れてよく見てみれば、その小さな仕草のひとつひとつに育ちのよさがにじみ出ている。この少年を拾ったという話からしても、相当に良い家の生まれであることは間違《まちが》いなさそうだった。
良い家の生まれであれば、美味《うま》いものも飲み慣《な》れていることだろう。
「あ、すみません、自己紹介《じこしょうかい》忘れてました。僕は、ソル、って呼ばれてます。もちろん、本当の名前は思い出せないから、ケッタにつけてもらった仮《かり》の名前なんですけど……でも二年間慣れ親しんだ、大事な僕の名前です」
ケッタ。少年の口から自然に滑《すべ》り出てきたそれが、この女の子の愛称《あいしょう》なのだろう。それを聞いただけで、この二人がどれだけ親しい間柄《あいだがら》であるか――少なくとも少年側のほうがどれだけ気安く接しているかは窺《うかが》い知れた。
「……ジネットだ」
どう答えるべきかに迷い、素直《すなお》にそのまま自己紹介を返した。ぴくりとエンリケッタの肩が震《ふる》えた気がした。が、その表情には何の変化も見られない。相変わらずオレンジのグラスを睨《にら》みつけたままだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「それで、なぜ私を呼びとめた? 君に複雑《ふくざつ》な事情があるということは分かったが、それと行きずりの私とがどうつながるのかが分からない」
さっさと個室《コンパートメント》に戻って休みたい。
だから、冷たい言葉づかいになってしまうのは、仕方がないと思う。
「それはまぁ、なんとなく、としか答えようが……ああああああ待ってください待ってください行かないでください」
今にもしがみついてきそうな少年――ソルに免《めん》じて、立ち上がるのをやめる。
「さっき、あなたの顔を見たときに、何か思い出せそうになったんです。なんていうか……僕の中の誰かが[#「僕の中の誰かが」に傍点]、あなたを見て驚いた[#「あなたを見て驚いた」に傍点]……」
「は?」
余計にわけが分からない。
「……つまり、それで、私が、君の失われた記憶《きおく》の知人かもしれないと?」
「僕自身、よく分からないんです。
でも、そんなよく分からない焦《あせ》りみたいなのが、消えてくれなくて。
うまく言えないんですけど、このひとを放っておいちゃいけないって[#「このひとを放っておいちゃいけないって」に傍点]」
違和《いわ》感。
何かが、心にひっかかる。
いま交《か》わした言葉の中に、聞き逃《のが》してはいけないものが混じっている。
姿勢《しせい》を正し、いま聞いた言葉を心の中で反芻《はんすう》する。何がこの違和感の源《みなもと》なのかを確かめようとする。
「二年前、と言ったか?」
そう。それがキーワードだ。
「あ、はい」
「それ以前の記憶がないと?」
「そうです」
二年前までの記憶がない。
二年前からの記憶だけがある。
そのことばが、ぐるぐると頭の中を巡《めぐ》る。
突拍子《とっぴょうし》もない仮説《かせつ》がひとつ、浮《う》かび上がってくる。
「まさか、それは、秋|頃《ごろ》のことか?」
「ええと」
ソルは意見を求めるように、エンリケッタを見る。
エンリケッタは――瞳《ひとみ》だけを動かしソルとジネットの顔を交互《こうご》に見てから――どことなく不本意そうに、小さく頷《うなず》く。
二年前。秋頃。
キーワードが揃《そろ》っていく。仮説が説得力を増していく。
「手を……」
「はい?」
「手を出して、くれないか」
差し出された指先に、おずおずと、指先で、触《ふ》れる。
軽い酪酊《めいてい》にも似た感覚が、ジネットを包み込む。
肌《はだ》と肌を触れ合わせたことで、分かる。ジネットの体内に溶《と》けた『|琥珀の画廊《イストワール》』が、五感のどれでもない感覚を使って、ひとつの結論を伝えてくる。
フィオル・キセルメルの魔法《ウィッチクラフト》の気配。
二年前、リュカ・エルモントの内側に感じたのとまったく同じものを、この少年もまた、その体の内側に抱《かか》えている。
――『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』というシステムには、色んな側面がある。
それはあなたのお姉さんの創《つく》った最後の魔法《まほう》であり、この世界そのものが自然発生させた自動的なメカニズムであり、また結果的には人の心を集積して創られるナニモノカでもある。
――それは時に、既《すで》にいない――あるいは最初からいない人間に、偽《いつわ》りの存在を与《あた》えることがある。私にその話を教えてくれた人は、妖精《フェイ》≠チて呼んでた。
そう、それはライア・パージュリーの言葉。
――一度|嘘《うそ》を暴《あば》かれて消えた妖精《フェイ》≠ェ、同じ姿、同じ記憶を保ったまま、この世界にもう一度発生したケースが、過去に幾《いく》つかある。
――嘘じゃないわよ? 昔、妖精《フェイ》≠竄チてた当の本人に聞いたんだから。
(――ああ、)
歓喜《かんき》が背筋を走り抜《ぬ》ける。フェルツヴェンを離《はな》れて二年。強く求めて探し続けていたものを、自分は見つけることができたのだ。
リュカはここにいる。
二年前に消えたリュカは、外見《そとみ》を変えながら、こんな場所にいたのだ。
そして、自分のことを、忘れないでいてくれた。
(――ああ、)
絶望が胸を締《し》め付ける。フェルツヴェンを離れて二年。その間ずっとしがみついていた希望が、今この時になって、ようやく砂の柱となって崩《くず》れ落ちた。
リュカはここにいる。
けれど、それはもう既に、リュカではないのだ。記憶をわずかに留《とど》めているにしても、リュカという人物そのものではない。自分の会いたかった彼は、ここにはいない。そして、世界中のどこにも、いない。妖精《フェイ》≠ェここにいるということは、つまりそういうことのはずだ。
彼に会ったら言ってやりたかったことが、山ほどあった。
顔をあわせたらまずは引っぱたくと心にも決めていた。
けれどその願いが果たされることは、決して、ない。
思わず、小さく息を呑《の》んで――
「ジネットさん?」
きょとんとした顔で、名前を呼ばれた。
「どうかしました?」
「……いや」
軽く首を振《ふ》って、
「ひとつ聞こう。君には今、大切にしたい人はいるか?」
「えっ」
よほど意外な質問だったのだろう。ソルは背をのけぞらせて驚《おどろ》いて、そして反射的にその目がエンリケッタのほうを向いた。そして当のエンリケッタがむっつりと何やら不機嫌《ふきげん》そうな顔をしているのを見て、小さく肩《かた》を落とす。
ああ――なんて、分かりやすいんだろう。
「ならば、私としては何も話したくはないところだがな」
論理的ではない望みがひとつ、抑《おさ》えようもなく頭に浮かぶ。
リュカではないこの少年が、リュカと同じ望みを抱《いだ》いている。ならば、この少年にはそれをやり遂《と》げて欲《ほ》しい。
「そんな、なんで」
「君は何も知らないほうがいい」
知らぬまま幸せに生きていけるのならば、それが一番なのだ……と、この言葉は声には出さないでおく。
「ふたつだけ、忠告《ちゅうこく》しよう。まず、その子のことが大切だというなら、何があろうと絶対に、そのそばを離れるな。いいな、何があろうと絶対に、だ」
ふてくされていたエンリケッタが顔を上げて、こちらを見る。
どういうこと、とその目が無言のまま問いかけてくる。
「そしてもうひとつ。熱くなる気持ちは分からないでもないが、賭《か》け事はほどほどにしておけ。どうやら今の君にはもう、勝負ごとの才能はないようだからな」
「それは、なんというか、身に染《し》みてよくわかりました」
少年は苦笑《くしょう》しつつ、
「……今の[#「今の」に傍点]僕にはもう[#「もう」に傍点]、ですか」
「ああ。今の君にはもう、だ」
ジネットは軽く首を振って、
「過去のことなど考えるな。今ここにいる自分自身を受け入れてしまえ。それが何より、君のためであるはずだ」
†
「妖精《フェイ》≠見つけた」
個室《コンパートメント》に戻《もど》って、開口一番、アルト老にそう報告した。
アルト老は、ソファの上からずり落ちた。
〈……そ、〉
頭から床《ゆか》に落ちた愉快《ゆかい》な姿勢のまま、人形のつぶらな瞳《ひとみ》が、ぱちくりと瞬《またた》いて、
〈そりゃいったい、どういう仕込みのネタじゃ?〉
呆《ほう》けたような声で、そう聞いてきた。
「嘘でも冗談《じょうだん》でもない。私達はそんな気の利《き》いたものには無縁《むえん》だろう。何の誇張《こちょう》も修飾《しゅうしょく》もなく、ただ文字通りの意味だ。妖精《フェイ》≠見つけた」
〈食堂|車輌《しゃりょう》でか?〉
「ああ」
〈それはまぁ、随分《ずいぶん》と突然《とつぜん》な偶然《ぐうぜん》もあったもんじゃな。見つけるまであと何十年かは覚悟《かくご》しとったもんが、わずか二年目でバッタリとは、なかなか素晴《すば》らしい話じゃよ〉
アルト老はぐるりと前転して体勢を直すと、どういう意味があるのか、ぽんっ、と一度その手のひらを打ち鳴らして、
〈しかし……念願のものを見つけられたというには、あまり嬉《うれ》しそうな顔をしとらんのじゃな、お主は?〉
「ああ」
〈見つけた妖精《フェイ》≠ヘ、お主の望んだ姿ではなかったのじゃな?〉
「ああ」
〈そうか……〉
呟《つぶや》くようにそう言って、アルト老はソファに飛びついた。短い手足をつっはって、器用によじのぼる。
〈やはり、辛《つら》いか?〉
「ああ」
〈ラヴか、ラヴなんか?〉
「そうかもしれないな」
アルト老は沈黙《ちんもく》した。
クネットはアルト老に向かいあうソファに腰掛《こしか》け、壁《かべ》に頭をもたれた。
そのまま窓の外に目を向ける。
白く濡《ぬ》れた窓硝子《まどガラス》の向こう、少しだけ霧《きり》が薄《うす》れてきているのが見える。
黒い木立ちが次々と、右から左へ走り去る。
無数の墓標《ぼひょう》の中を延々《えんえん》と彷徨《さまよ》っているかのような、そんな錯覚《さっかく》を覚える景色。
「……どうした?」
なかなか話を続けようとしないアルト老を訝《いぷか》って、こちらから声をかける。
〈いや、なんつーか、予想外の反応なんで驚いとったんじゃが〉
呆《あき》れた声で、アルト老は答えてくる。
「ああ、なるほど」
確かに、今のは、あまり自分らしくない言葉だったかもしれない。
けれど、本人にとっては、それは、自然に出てきた言葉だったのだ。
「……ずっと、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を追ってきた。そんなものを手にでもしなければ届かない、身勝手な夢を追いかけていた」
アルト老が何とも言葉を挟《はさ》んでこないのをいいことに、そのまま続ける。
「けれど、願いが増えてしまった。
なんのことはない。人が人として生きているかぎり、願いは増えていく。その中には容易《たやす》く叶《かな》うものもあれば、決して届かぬものもあるだろう。そうやって人は、希望と絶望のカクテルの中で生きていく。それが当たり前だ。
きっと、気づくのが遅《おそ》すぎただけなのだろうな。|魔法書の代役《バーント・グリモア》だろうとなんだろうと、当たり前からは逃《に》げられない」
肩をすくめて、目を閉じる。
「私は――彼に会いたい。彼と話したい」
そのまま、自分の中にある言葉を、ひとつひとつ拾い上げる。
〈ずいぶんと変わったもんじゃの、ジネット・ハルヴァン〉
「ああ。私自身、少なからず驚《おどろ》いている。
フェルツヴェンで迎《むか》えた、あの夜が境《さかい》だった。あの夜に私は、変わってしまった。そして今に至るまで戻れていない」
まったく愚《おろ》かな話だと小さく自嘲《じちょう》し、
「本当に、気づくのが遅すぎるのだな、私は。諦《あきら》めなければならない今になって、ようやく分かった。私は彼を必要としているのだと……いや、欲《ほ》しがっているのだと、今なら素直に認《みと》められる。
これが、私が今追い求めている望みのひとつなのだと、躊躇《ためら》わずに口にできるよ」
心は、驚くほどに穏《おだ》やかだった。
口元には、微笑《ほほえ》みすら浮《う》かんでいた。
「さて、アリスには何と謝《あやま》ったものかな。必ず連れ戻すと約束してしまったが、どうやらその約束は守れそうにないようだ――」
頬《ほお》を――なにか熱い雫《しずく》がひとつ、伝い落ちていった。
〈……諦める、のか?〉
いつになく重たい声で、アルト老が訊《き》いてくる。
「他《ほか》にないだろう? いまこの世界に在《あ》る妖精《フェイ》≠ヘ、既《すで》にリュカではないのだから」
〈まぁ、そうじゃな……
ライア・パージェリーの説明をそのまま信じるならば、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』がこの世界を欺《あざむ》いて実現させた虚像《きょぞう》である妖精《フェイ》≠ヘ、わずか一つきり。ここでお主が見つけた妖精《フェイ》≠ェ別人であるというのなら、お主の求めるあの少年《リュカ》は、もはやこの世界のどこにもないということになる。
……お主が何もしなければ、の話じゃが〉
「何?」
〈気付いとらんのか? それとも考えんようにしとるだけか? リュカ・エルモントは取り戻せる。お主には、その手段がある〉
目を丸くした。
〈どうやら前者か。本格的に鈍《にぶ》い娘《むすめ》じゃな、まったく〉
それはどういう意味かと、問い返そうとした瞬間《しゅんかん》に――
大きく列車が揺《ゆ》れた。
鉄と鉄がこすれ合う、耳ざわりな音。丸くなった姿勢のまま転がっていきそうになったので、慌《あわ》てて体を支えた。突然の急ブレーキ。列車が速度を失っている。あちこちで、乗客たちの悲鳴があがる。
〈のおおおおおおおおわっ!?〉
アルト老の小さな体がころころとソファの上を転がって、べしゃりと壁にぶつかって、そのままずるずると床へと崩《くず》れ落ちる。
4.
ジネットは個室《コンパートメント》の扉《とびら》から首を出して、左右の様子を窺《うかが》う。
通路には、何人もの人間の姿があった。急な停車に驚いた客たちが様子を見に出てきたというところだろう、その誰もがきょろきょろと左右を見渡《みわた》しながら、いったい何がどうなっているのかを探《さぐ》ろうとしていた。
足元で同じように首を通路に出しているアルト老を見下ろして、
「……で、これはいったいどういう状況《じょうきょう》だろうな」
訊《たず》ねてみた。
〈うむ……〉
ひととおりの様子を見終わったか、首をひっこめたアルト老は腕組《うやぐ》みをして、
〈こりゃどうやら、武力占拠《ハイジャック》――いや違《ちが》う、要人《ようじん》暗殺か略取《りゃくしゅ》のどちらかといったところじゃな〉
「なぜそう思う?」
〈なにせこの霧の中じゃ、前方に何かを見つけてから急ブレーキをかけたところで事故は免《まぬが》れん。線路が壊《こわ》されていたにせよ大岩が行く手を遮《さえぎ》っていたにせよ、もっと分かりやすい大惨事《だいさんじ》になっとったはずじゃ。
あれだけ急にブレーキをかけて、それ以外に目立った被害《ひがい》がなく、さらにはこれだけ乗客が不安になっとるというに車掌《しゃしょう》が現れる気配がない。となると、この状況が偶発《ぐうはつ》的な事故だというのは考えづらい。むしろ人為《じんい》的にコントロールされとると考えるのが妥当《だとう》じゃろ。今頃《いまごろ》どこかの車輌で銃撃戦《じゅうげきせん》でも起こっとるんじゃろな》
「……武力占拠《ハイジャック》ではないという推論は、どこから来た?」
〈それなら、一人くらいそこの通路で銃を振《ふ》りまわしとってもよかろうが?
とかく武力を振るう作戦においては、不確定要素をどれだけ丁寧《ていねい》に排除《はいじょ》できるかが成否を大きく左右する。どう弾《はじ》けるかもわからん客を全員ほったらかしにしての武力占拠《ハイジャック》なんぞ幼稚《ようち》すぎて笑えんぞ。逆に、それがないということは、他の限定される一か所……まぁ複数かもしれんが……に戦力をいっきに投入した短期決戦が敵《てき》さんの狙《ねら》いと見てまず間違いはなかろう。
それをふまえ、わざわざ列車を止めるという大じかけの意味を考えれば、目的もおのずと絞《しぼ》られてくる。ここで何かとんでもなく重要なものを奪《うば》い、そのままこの霧に乗じて逃《に》げるつもり――というのがまぁ、ありがちなラインじゃろか。
あともうひとつ言えることがあるとするなら、その目的は儂《わし》らとは別件っぽい〉
「……まったく」
迷いなく紡《つむ》がれる、アルト老の情報|分析《ぶんせき》の言葉。いまさら呆《あき》れる気にもならないが、それでも冷たいため息は漏《も》れる。
「よくもこれだけの状況から、そこまで細かいことを読み切るものだ」
〈今はそれも儂の役割じゃからな。もう少しでもお主が物事を考えて動くようになったなら、儂もこんな屈理屈《へりくつ》ジジイの役から解放されるというもんじゃが〉
「そうだな」
一度|頷《うなず》いてから、
「……今、さりげなく私を馬鹿《ばか》にしたか?」
〈いや、今のはむしろあからさまじゃったと思うがへぶほっ〉
足元にあった喋《しゃべ》るゴミを踏《ふ》みつけた。
「さてそうなると、首を突《つ》っ込むなら早いほうがいいという話か」
〈ううう……まあ、確かにそうじゃが、突っ込む気なんか?〉
「放《ほう》っておくわけにもいかないだろう。
……向こうの車輌《しゃりょう》には、先ほど話した妖精《フェイ》がいる。銃撃戦に首を突っ込んで一度[#「一度」に傍点]死なれでもしたら、また、あとあと面倒《めんどう》なことになるだろう」
〈なんじゃ、今回の妖精《フェイ》はまたそーゆー性格なのか?〉
「歯がゆいことにな」
アルト老を胸元《むなもと》に抱《かか》えて、通路に出る。
どこか離《はな》れたところから、銃声が響《ひび》く。まずは一度。それに続いて、二度、三度。
「……向こうの車輌か」
〈そーじゃな〉
通路に出ていた乗客たちが、我先にと悲鳴をあげて個室《コンパートメント》に逃げ帰る。
胸元に可愛《かわい》らしい人形を抱えたジネット一人だけが、その音に向かって歩き出す。
†
案の定、隣《となり》の車輌は、まさに銃撃戦の真っ最中だった。
まず、通路側面の窓が豪快《ごうかい》に割れている。そこから入りこんだ冷気が、渦《うず》を巻くようにして通路に満ちている。なかなかに寒い。
そして、同じ穴から入りこんだと思われる暗灰《あんかい》色の軍服に身を包んだ男たちが、ちょうどジネットに背を向ける形で陣形《じんけい》を組み、彼らの敵に向かって小銃を構えている。
規則正しい銃声。
吐《は》き出された銃弾《じゅうだん》が、正確に彼らの敵を――灰色のマントを着こんだ人影《ひとかげ》を穿《うが》つ。
着弾の勢いを受けて、その人影は体勢を崩す。
ぐるんと大きく首を回し、背が見えそうなほどに肩《かた》を引いて、脊椎《せさつい》のきしみが聞こえそうなほどの角度で背をのけぞらせて――が、それでも倒《たお》れない。
血の一滴《いってき》もこぼれなければ、悲鳴のひとつも聞こえない。
「……ん?」
〈む?〉
ジネットは首をかしげる。アルト老がうなる。
マントの人影は倒れない。
それどころか、崩れた姿勢を正そうとすらしなかった。
おかしな形になった上半身のまま、ただ下半身の力だけで、恐《おそ》ろしいほどの速さで軍服の男たちへと駆《か》け寄ってくる。
およそ人の体で可能だとは思えない、おぞましくも奇妙《きみょう》な動き。
「んん?」
〈……むう?〉
再びジネットは首をかしげる。アルト老もうなる。
マントの人影が腕《うで》を振るい、手のひらを伸《の》ばす。
金属の光が小さく閃《ひらめ》く。軍服の男は小銃の銃身でそれを受け止める。
金属同士が噛《か》み合う、激しく耳障《みみざわ》りな音。
手のひらと見えたものは、しかし手のひらなどではなかった。いびつにねじくれたフォルムの、五本のナイフ。それがまるで人の指であるかのように自在に曲がり、銃身をしっかりと握《にぎ》りしめる。軍服の男と人影との力比べが始まる。
ばさり、と、人影の頭を覆《おお》い隠《かく》していたフードが外れる。
その下から露《あらわ》になったのは、人の顔ではない。
人の頭を摸して彫《ほ》られた、木製の人形。そして、人ならは左目があるはずの位置が大きくえぐれて、そこに暗緑色の水晶球《すいしょうだま》が埋《う》め込まれている――
人のように動く人形。
眼窩《がんか》に埋まった暗緑色の水晶球。
記憶《きおく》と思考とが噛み合った。ジネットの心の中で、何かがめらりと燃えた。
(帯剣騎士《カヴァリエレ》、クリストフ・デルガル――!)
それは、二年前、消耗《しょうもう》していた自分をドースにて襲撃《しゅうげき》してきた男。
そして――リュカ・エルモントが消滅《しょうめつ》することとなった原因のひとつ。
(やつが、ここにいる!)
そうと思いだした次の瞬間《しゅんかん》には、体が勝手に動いていた。
手の中にあったものを放《ほう》り捨て、通路の床《ゆか》を踏《ふ》み砕《くだ》いて大きく跳躍《ちょうやく》。身をひねりながら男たちの頭上を飛び越《こ》えて、人形へと迫《せま》る。口付けの寸前にまで距離《きょり》を詰《つ》めて、人形の顔面、いや水晶球の部分に拳《こぶし》を押《お》し当て、突撃《とつげさ》の勢いを乗せて鍔迫《つばぜ》り合《あ》いの相手から引きはがし、そこで力を込める角度を変え、人形の後頭部を地面に対して垂直《すいちょく》に――薄汚《うすよご》れた絨毯《じゅうたん》に向かって打ちつける。
巨大《きょだい》な槌《つち》で杭《くい》を打ちつけるような音。灰色の埃《ほこり》が、薄《うす》く舞《ま》い上がる。
絨毯が破《やぶ》れ木の床が砕《くだ》け、水晶球はあっけなく砕け散る。人形が動きを止める。
男たちはあっけにとられ、いま目の前で起きた出来事に対して反応できない。
その目の前で、ジネットは立ち上がり、ゆっくりと振《ふ》り返る。
ぱらり、ばらりと、砕けた木材のかけらが拳から落ちる。
「……答えろ」
ジネットは、問いかけた。
あまり友好的な声は出せなかったなと思った。が、それはこの際どうでもいい。
「貴様《きさま》らの目的は何だ。貴様らは、何と戦っている?」
男たちが、気圧《けお》されたように半歩ずつ退いた。シネットはその半歩を前に詰め、
「クリストフが、ここにいるのか?」
「くっ――ッ!」
男の一人が歯がみして、近づくジネットに向けて銃を構えた。残りの二人が慌《あわ》てたようにしてそれに続く。そしてそのまま全員で、警告のひとつもなしに一斉射《いっせいしゃ》。
「弾け[#「弾け」に傍点]」
ぽつり呟《つぶや》いたその言葉を鍵《かぎ》にして、ジネットのすぐ目前の空間が変質した。
|夜の軟泥《ワルプルギス》によって書き換《か》えられたその世界に踏み込んできた銃弾は、その瞬間に、内包していた運動力をぐちゃぐちゃに捻《ね》じ曲げられ、自壊《じかい》し、あさっての方向へと放《ほう》り出された。
手が届くだけの至近距離、かつこの程度の芸当であれば、わざわざ導きの言葉などを使って広く|夜の軟泥《ワルプルギス》を展開せずとも、呪文《じゅもん》となる言葉ひとつで自在に起こすことができる。そしてむろん、わざわざこのように防御《ぼうぎょ》などせず傷を受けていたとしても、その傷はまばたきひとつほどの短い時間の内に塞《ふさ》がってしまうことだろう。
|魔法書の代役《バーント・グリモア》。不死者《レヴナント》。呼ばれ方は色々あるが、とにかくジネットのこの身は人のそれではない。人と同じようなやり方では殺せない。
「……まあいい。奴《やつ》がここにいるというなら、見つけて仕留《しと》めるまでだ、が」
ジネットはその手の中に剣《けん》を呼び出し、軽く振って、また一歩を歩み寄る。
「それはそれとして、状況《じょうきょう》が状況だ。こう賑《にぎ》やかでは、のんびり列車の旅を楽しむこともできん。一人の乗客として、ささやかな抵抗《ていこう》もさせてもらおうか……」
凶悪《きょうあく》な笑顔《えがお》が浮《う》かぶ。
兵士達が、怯《おび》えたようにして、また一歩を退く。
「運が悪かったな。ここはひとつ、犬に噛《か》まれたとでも思って――いや大鬼《トロル》に食われたとでも思って、諦《あきら》めろ」
5.
ペルセリオの西の外れにその村はある。
小さな村だ。
人口は百人を切っている。
これといって目立った産業があるわけではない。交通の要《かなめ》となる位置にあるわけでもない。これといって栄《さか》える理由がなかったから、大陸中が賑やかに沸《わ》き立つ今この時代にあっても、その村は小さいままだった。
村の中で生まれた者は、村の中で育ち、村の中で死んでいく。それが当たり前のサイクルとしてその場所では根付いていた。
鉄道の普及《ふきゅう》により交易《こうえき》というものの形が根底《こんてい》から変わってしまって以来は、こんな辺鄙《へんぴ》なところをわざわざ訪《おとず》れる行商人もいなくなってしまった。
訪れる者はいない。去る者もいない。
村人は久しく、同じ村人ではない人間を見ることがなかった。
――だからその老人の姿は、この村の中で、とても目立った。
体格の良い老人だ。
横に並べば大抵《たいてい》の人間を見下ろすことになるだろう長身。それを無理なく支える、鍛《きた》えられた筋肉。これで服装が粗野《そや》であれば熊《くま》か何かが森から迷い出てきたのだと勘違《かんちが》いされそうなところだが、その巨《おお》きな身を包む黒のコートの仕立ては実に立派なものであったし、何よりそのしっかりとした歩みからは、人にしか持ち得ない理知《りち》というものが確かに窺《うかが》えた。
「……ふむ」
突《つ》き刺《さ》さるような奇異《きい》の目を浴びながら、老人は村を抜《ぬ》けた。
その視線の先には、ひとつの屋敷《やしき》がある。
大きくも小さくもない。石造りの上に漆喰《しっくい》を塗《ぬ》り重ねた、ごくありふれた、普通《ふつう》の屋敷だ。ところどころの漆喰が風雨に剥《は》がされているところは、みすぼらしいと評《ひょう》してもいいだろう。窓の外に張り渡《わた》された紐《ひも》には洗濯《せんたく》物が吊《つ》り下げられているし、小さな煙突《えんとつ》からはごく色の薄い煙《けむり》が立ち上っている。そこに人が住んでいることは間違いない。
老人はその屋敷へと近づいていく。
扉《とびら》の前に立ち、ノッカーの鉄輪へと手を伸《の》ばし……そこでその手を引き、その体を横にどける。その直後にバンという大きな音とともに扉が開き、老人の腹ほどまでの背丈《せたけ》の少年が一人、勢いよく飛び出てきた。
「せんせー、またねー!」
少年の背中が元気の良い声を残しながら走り去っていく。
見るからに腕白《わんぱく》そうな後ろ姿を、老人は表情を変えずに見送り……改めて、開いたままの扉に向き直る。
改めてノッカーを鳴らすまでもない。小屋の中の住人は、既《すで》に老人の姿を認《みと》めている。二十そこそこと思われる娘《むすめ》が一人、緊張《きんちょう》感のない目で老人を見ながら「あらあら」と口元に両手をあてていた。
「……失敬《しっけい》。こちら……」
「村の外の方ですね。もしかして、先生のお知り合いですか?」
「む」
質問の声を途中《とちゅう》で切られ、老人は口をつぐむ。
「お知り合いですよね。ええと、少し待ってくださいね、今呼んできます」
老人の言葉のことごとくを遮《さえぎ》り、ぱたぱたと奥《おく》に向かって飛んでいく――と思ったら途中で足を止めてくるりと振り返り、
「お夕飯は食べていかれますか? いかれますよね?」
「あ、いや……」
「今夜は腕《うで》を振るわせて頂きますね。村の外の方を招《まね》いての食事なんて初めてなんですよ、とても楽しみです」
再び、ぱたぱたという足音が奥へと向かう。
娘を制止しようと伸ばしかけた老人の手は、結局どこにも届かず、空《むな》しく虚空《こくう》を撫《な》でただけだった。
†
テーブルの上にどかんと置かれた大鍋《おおなべ》から、シチューの良い匂《にお》いが漂《ただよ》っている。
その隣《となり》に置かれたボウルの中には、水洗いされた野菜をそのまま盛り合わせただけのサラダ。さらにその隣の皿にはスライスされた黒パン。グラスには村の小さな葡萄《ぶどう》畑で造られたワインが注がれている。
何ひとつとして飾《かざ》ることのない、素直《すなお》に素朴《そぼく》な食卓《しょくたく》だった。
「それでは、いただきます」
食前の祈《いの》りを終えて、とても楽しそうに、娘が宣言《せんげん》する。同じテーブルについた残りの二人――巨躯《きょく》の老人とこの屋敷の主は、半ば近く圧《お》されるようにしてそれに続く。
屋敷の主は、齢《とし》の分かりづらい――二十代と言われれば二十代だと、四十代と言われれば四十代だと納得《なっとく》してしまいそうな、そんな風貌《ふうぼう》の男だ。背は特に高くも低くもないが、特に大柄《おおがら》な老人と比べるならば妙《みょう》が小さく見える。男性らしくないほっそりとした手足がまた、その印象を少なからず強めていた。
まぐ、と娘がシチューの肉をひとかじりし、幸せそうに顔をほころばせつつ、
「――もしかして、先生のお父さまですか?」
唐突《とうとつ》に、老人に向かってそんなことを尋《たず》ねた。
老人が喉《のど》を詰《つ》まらせ、屋敷の主はワインを吹《ふ》きだしそうになった。
「あら、違いましたか。どことなく雰囲気《ふんいき》が似てましたもので、てっきり」
「……つうかそれ以前の問題として、素性《すじょう》を確認《かくにん》するよりも先に来訪《らいほう》者を食卓に案内するというのは、色々な意味でどうかと思うんだけど」
屋敷の主が、若い声でぶつくさとぼやく。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
「そうですか……」
村の外には変わった習慣があるんですね、などと呟《つぶや》きながら首をひねる娘には構わず、老人は屋敷の主に向き直り、
「先生、と呼ばれているのか?」
「ああ。色々あって、ここでは医者をやってるんだ。もともとかなり排他《はいた》的なところのある村なんだが、一度|流行《はや》りかけた風土病《ふうどびょう》を俺《おれ》が抑《おさ》えた辺りから、なんとかまあ受け入れてもらえるようになった」
それでも住処《すみか》はこの通り村外れなんだけどな、と肩《かた》をすくめる。
「医術など、いつの間に修《おさ》めた?」
「以前、暇《ひま》な時に。俺には時間ならいくらでもあったからな」
「なるほど。そうして腰《こし》を落ち着け、家庭を持つことにしたわけか」
再び、屋敷の主はワインを吹きだしそうになった。
「違うのか? 私はてっきり……」
「……この娘《こ》は村から通いで手伝いに来てくれているだけだ」
ちらりと目を向けると、娘は不満そうに唇《くちびる》を尖《とが》らせて、
「私はもうほとんどそのつもりなんですけど、先生ったら受け入れてくれないんですよ。ちゃんと村の中で式をあげちゃえは、お祖父《じい》ちゃんたちも今度こそ先生を村の一員として認めてくれると思うんですけど。
……そういえば、あんまりに女性に興味なさそうだからって、もしかして男性がお好きな方なのかもって勘違《かんちが》いされたこともありましたっけ」
「やめてくれ思い出したくない」
力なく首を振《ふ》る。
老人は小さく笑い、
「楽しく暮らしているようじゃないか」
「ああ、そうだな――」
言葉の内容とは裏腹に、苦々しげな声で、呟く。
「――だからこそ、今君がここにいることが、疎《うと》ましくてたまらない」
†
食事が終わり、後片付けが済んで、娘は村へと帰っていった。
屋敷の中には、その主と老人との二人だけが残された。
結局あの娘の名前も聞いていなかった。そう老人が呟くと、
「会う人間が全《すべ》て知己《ちき》というのが当たり前の場所だからな。自己紹介《じこしょうかい》という習慣自体がないんだ、この村には」
「ならば素性の知れない者には、もう少し警戒《けいかい》してみせるものではないか?」
「他の村人は全員そうしてるさ。あの娘《こ》は少し変わり種《だね》なんだ」
そうだろうな、と老人は頷《うなず》く。
屋敷の主は、頬《ほお》に含《ふく》んでいた綿《わた》を吐《は》き出し、顔に描《か》いてあった皺《しわ》を水で洗《あら》い流した。年齢《ねんれい》の分かりにくかった男の顔はきれいに消えて、その下からはまだ少年と言ってもいいだろう、若々しい顔が姿を現した。
「大した変装《へんそう》だ」
「……苦し紛《まぎ》れの小細工《こざいく》だ。十八の若造《わかぞう》の顔のままじゃ、あんまり長くひとつところに留《とど》まるわけにいかないからな。どうせ不老になるんだったら、もう少し老《ふ》けてからのほうが便利だった」
タオルに顔を埋《うず》め、水気を拭《ふ》き取りながら、少年は答える。
「ふん。不死者《レヴナント》がひとつところに留まろうということ自体に元から無理がある。やろうというなら、何十年だろうと自分を隠《かく》し通す覚悟《かくご》でやるべきだ」
「その辺りの考え方については、どうやら分かり合えそうにないな。残念だとはちっとも思わないけど」
「同感だ。……そろそろ本題に入ってもいいか?」
「ああ。そうしてもらえるとこちらもありがたい」
「これから『古木《こぽく》の庭』を潰《つぶ》しに行く。そのためにお前の力を借《か》りたい」
タオルから顔を上げ、少年は眉《まゆ》をひそめて、
「……サリムたちを? なぜ?」
「『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の鍵《かぎ》が発見された。そして今それは『庭」が所有している」
短い沈黙《ちんもく》。
「私はお前の願いを知っている。お前は私の願いを知っている。二人ともが、それら二つが問題なく両立できることを知っている。
何も迷うことはないだろう? ここの楽しい生活を捨てなければならないこと。かつての同胞《どうほう》をその手にかけねばならないこと。そんなもの、お前が抱《かか》えている宿願《しゅくがん》の重さに比べれば、痛痒《つうよう》として数えるにも小さすぎる。そうだろう?」
「……確かに、その通りだ。けれど君に言われると心の底から腹が立つよ」
「お前の感情はこの際どうでもいい。重要なのは行動だ。行くのか。それとも留まるのか。今すぐに決断しろ」
わずかに、逡巡《しゅんじゅん》の時間が挟《はさ》まれる。
少年は、考えこむように閉じていた目をゆっくりと開いて、
「はじまりの魔女《まじょ》が創造した永遠の呪《のろ》い……|英雄たちを惑わし続ける非業の運命《ソール・トー・レジェンデール》を打ち払《はら》う。
どれだけ時間がかかっても、どれだけ汚名《おめい》を被《こうむ》ることになっても、どれだけ無駄《むだ》に血を流すことになっても、必ずそれをやり遂《と》げてみせる。
……二百年前、あの月の下で、俺たちは、そう決めたんだったな」
固めた拳《こぶし》に目を落として、
「行こう。『庭』が相手なら、まずは戦力になりそうな全員を分断するところからスタートだ。一度に相手にする人数が二人以下なら、俺一人でもなんとかなる」
老人は、言葉では答えなかった。
ただ、唇を曲げて薄《うす》く笑うことで、少年のその宣言を受け入れた。
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▼scene/2 その手で剣《けん》は振《ふ》るえない 〜dancing hatchling〜
6.
ものすごい美人だったなとソルは思った。
世界って広いんだなと改《あらた》めて感心した。
ちょっと王城《いえ》を離《はな》れて列車に乗っただけで、あんな童話《どうわ》の登場人物みたいな人と会うことができるなんて。この分だと、今回の旅路の中で、人食い竜《りゅう》とかひとつ目|巨人《きょじん》とか、悪い魔女《まじょ》とか、そんな感じのものにも出会えるかもしれない。
そう思うと少しだけ胸が高鳴って――
すぐに、その高揚《こうよう》から醒《さ》めた。
エンリケッタが不機嫌《ふきげん》だった。
もともと、饒舌《じょうぜつ》な子ではない。そして、こうして機嫌を悪くしていても、言葉の数が増えるわけではない。ただ憮然《ぶぜん》とした顔で、こちらを睨《にら》みつけてくるだけだ。
けれど、その視線が、怖《こわ》い。
何も言わないからこそ、エンリケッタが何を言いたがっているのかが、ストレートにそのまま伝わってくる。それは、百や万の言葉に問い詰《つ》められるよりもよほど厳《きび》しいことだ。
「……あの、ケッタ?」
なに。
「もしかして、怒《おこ》ってる?」
なんで。
「いや、なんか凄《すご》く目が怖いから……」
気のせいじゃない?
ふんっ、と少女はそっぽを向く。
ああ、これは、もうだめかもしれない。ソルは覚悟《かくご》を決める。
二年間。世の中的には短い時間かもしれないが、自分にとっては覚えている限りの全《すべ》ての人生を、エンリケッタのそばで過ごしてきたのだ。だから分かる。一度この状態になってしまったエンリケッタは、なんというかこう、いつもより数段、手に負えない。
(……ちぇ)
人の気も知らないでさ、と、少しばかりこちらの機嫌も悪くなる。
エンリケッタには、嫌《きら》われている。
少なくとも好かれてはいないだろうと思う。
笑顔《えがお》を見せてくれることはないし、いつもこんな風に不機嫌そうな顔ばかりでこちらを見るし、そもそもまともに会話をしてくれることすらほとんどない(もともと無口な子なのでこれは仕方がないのかもしれないけれど)。
それでいて、こうして近くにいることは許《ゆる》してくれる――こんな旅路にも連れてきてくれている辺りは、どういうことなのか分からない。年ごろの女の子というやつは色々と複雑なのかな、などと思う。
「最初は、ちゃんと、食べ物だけ買って、すぐ戻《もど》ってくるつもりだったんだ。本当だよ。でもあそこに着いたら、あの人たちの声が、聞こえたんだ。
……戦争の話、してたのが、聞こえちゃったんだ」
機嫌が悪いのは仕方ない、と思う。
けれどそれでも、言い訳だけはしておきたいと思った。
「戦争がこんなに長引いて、市井《しせい》の民草《たみくさ》ばかりが苦しい思いをしてるのは、女王《レジーナ》のせいだって。お城の中にひきこもって、遊戯《ゲーム》感覚で世の中を見てるから、誰《だれ》がどこで苦しんでても全然それが分かんないんだって。
それ聞いて、かっとなって、取り消せって言ったら、なんていうか……気がついたら、あんな勝負する羽目《はめ》になっちゃって」
ちらり、とエンリケッタの様子を窺《うかが》う。
やっぱり不機嫌そうな顔のまま、エンリケッタの唇《くちびる》が小さく開いて、
「――ソル」
名前を、呼んできた。
めったにないことだ。驚《おどろ》いた。
「う、うん」
「自分が何をしていたか、分かっているの?」
罪を咎《とが》めるような――いや、罪を咎めている声。
「う……うん……」
「あれ以上負けていれば、貴方《あなた》は裸を晒《さら》すことになっていた。その意味は分かっているの? あのようなただの座興《ざきょう》の席で、どれだけ危険なものを暴《あば》かれようとしていたのか、本当に理解しているの?」
「…………」
そこまで問い詰められれば、まさか首を縦《たて》には振れない。
女王《エンリケッタ》の悪口を言われて、頭がかっとなって、それ以上あまり何も考えられなくなっていたのは事実なのだ。
自分の脇腹《わきばら》、暴かれずに済んだ秘密[#「暴かれずに済んだ秘密」に傍点]に、服|越《ご》しに手を当てる。
「ごめん」
素直《すなお》に、頭を下げた。
「それと、ありがとう。ケッタが来てくれて、助かったよ」
「…………」
エンリケッタは再び言葉を閉《と》ざし、ますます不機嫌そうな顔になって、そっぽを向いた。
ますます嫌われちゃったかなあ、と思う。
それでも、まあ仕方がないかな、とも思う。悪いのは自分自身なのだ。手がかかる荷物を抱《かか》えて苦労をさせられているのはエンリケッタなのだ。この子には、その荷物を嫌う権利《けんり》がある。
変わりたいな、と思う。
ちゃんとこの子の力になりたい。小さな肩《かた》にめちゃくちゃ重たいものを乗せた女王《レジーナ》の、その重荷を少しでも軽くしてやれるような自分になりたい。その何をどうやったらいいのかは分からないけど、とにかくその夢だけは必ず叶《かな》えたい。
あまり時間は残されていないけれど[#「あまり時間は残されていないけれど」に傍点]、それでも、この夢だけは――
突然《とつぜん》、大きく列車が揺《ゆ》れた。
驚いている暇《ひま》はなかった。エンリケッタの小柄《こがら》な体が椅子《いす》から投げ出された。ソルはそれを支えようと自分も飛び出したが、その手は届かずに宙《ちゅう》だけを握《にぎ》りしめた。宙を舞《ま》うグラスからこぼれ出たオレンジジュースが、空中にきれいな孤《こ》を描《えが》いた。
それから一瞬《いっしゅん》遅《おく》れて――床《ゆか》にぶつかったグラスが割れて、衝撃《しょうげき》とともにソルの肩が鈍《にぶ》い痛みを訴《うった》えて、エンリケッタが「んぎゅ」と珍《めずら》しい悲鳴をあげた。
「ご、ごめん!」
慌《あわ》てて身を起こし、エンリケッタを助け起こす。
「大丈夫《だいじょうぶ》、怪我《けが》とかしてない!?」
両肩をソルに掴《つか》まれたまま、エンリケッタはこくんと頷《うなず》く。そしてそのまま、視線を左右に巡《めぐ》らせて、窓の向こう――薄《うす》れてきた霧《きり》の向こう側に何かのシルエットがぼんやりと見えている――を見やり、次《つ》いで懐中《かいちゅう》から取り出した機械《きかい》時計を一瞥《いちべつ》し、
「事故じゃない……」
ぽつり、囁《ささや》くように言う。
「え?」
言葉も少なければ声も小さい、そんなエンリケッタの声を聴《き》き逃《のが》さないようにと、ソルは少女の口元に自分の耳を寄せる。
「急ブレーキだけど、事故じゃない。計画的に引かれたブレーキ」
ぽつぽつとした小声をつなげて、言葉を読みとる。
言っていることを聞きとれはしたと思う。しかし、いまいち意味が分からない。
「……ってことは、つまり?」
「人為《じんい》的にここに停《と》めさせられた」
「どういうこと?」
エンリケッタは呆《あき》れのため息をひとつ挟《はさ》んでから、
「誰かが目的達成後に途中《とちゅう》下車するための、準備《じゅんび》」
ばごん、という遠く大きな爆発音《ばくはつおん》。続いて、がしゃん、がらがらん、と窓やら何やらが壊《こわ》れるような音。老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》の悲鳴に――銃声《じゅうせい》が続く。
さすがにここまで情報が出そろえば、ソルにだって状況《じょうきょう》は分かる。
「……れ、列車|強盗《ごうとう》ってやつ!?」
裏返りかけた声でそう確認《かくにん》すると、エンリケッタはわずかに目を細めた。半分正解で、半分不正解。この仕草は、そういう意味のサインだ。
『まだピンときてないかもしれないけど、陛下《へいか》のそばは本当に危険だかんね? いまこの大陸で、他《ほか》の誰よりも色んな人に狙《ねら》われてるのが陛下なんだから』
王城《パレス》を出立する前に、ヴィルジニィにそう釘《くぎ》を刺《さ》されていたことを思い出す。確かに今まで、ピンときてはいなかった。たった今、ようやく、ピンときた。
襲撃者《しゅうげきしゃ》であるという点は正解だけど、連中の目的は、強盗なんかじゃない。少なくとも、そんな楽観《らっかん》をしてはいけない。エンリケッタ・テレーザ・ヴァルトンは、そういう立場にある人物なのだ。
「大変だ」
ごくりとつばを飲み込んで立ち上がると、ソルは周りを見渡《みわた》した。
人気《ひとけ》のない食堂|車輌《しゃりょう》、ウェイトレスはおろおろしていて何の役にも立ちそうにない。隠《かく》れられそうな場所を探す。机《つくえ》の下? カウンターの陰《かげ》? ダメだ、どちらもあまり意味があるように思えない。そんなすぐに思いつくような隠れ場所に潜《ひそ》んでも、すぐに見つかってしまうに違《ちが》いない。隠れる手は使えない。
じゃあ、どうする。
逃《に》げるのか。どこに。さっきから爆発音や悲鳴や銃声のカクテルが聞こえてきているのは、前後両方の車輌からだ。窓《まど》を破《やぶ》って外に出るのか。どうやらそれも難《むすか》しい。手近な椅子《いす》でも叩《たた》きつけてやれば窓の硝子《ガラス》そのものは割れるだろうが、そこから脱出《だっしゅつ》するなら少なからず怪我《けが》を抱えることになるのは避《さ》けられないだろう。そんな状態で、すぐ後ろから迫《せま》ることになる追手《おって》から逃げ延《の》びられるものか。
戦うのか。それこそ考えるだけバカバカしい。武器のひとつも持っていないこの小さな手で、銃で武装《ぶそう》した集団を相手に、何をしようというのか。
何か。何か手段はないのか。
この状況からエンリケッタを守る方法はないのか。
「…………」
ぽん、と肩に手を置かれた。
エンリケッタは、ふるふると首を横に振《ふ》った。
「……どういう意味?」
黙《だま》ってエンリケッタはもう一度首を振る。
「何もしなくていい、ってこと?」
頷《うなず》く。
前後の扉《とびら》の向こう、激《はげ》しい足音が走り回っている。かなりの人数だ。ついでにダミ声も聞こえる。いわく、我々は手荒《てあら》な真似《まね》を好まない。無駄《むだ》な抵抗《ていこう》をせず、おとなしく客室で静かにしていれば危害《きがい》は加えない。ちょっとした用件が済《す》めばすぐにでも立ち去るつもりだ――ほんの少し訛《なま》った声が、そんなことを呼びかけている。
こうしている間にも、足音も、声も、どんどん近づいてきている気がする。
「時間がないよ」
エンリケッタは頷く。
落ち着いたその仕草を見て、ソルはわずかに苛立《いらだ》つ。
「じゃあ、どうするんだよ。何もしなかったら何もできないんだよ? このまま黙って、やつらが来るのを待つ気?」
返事はない。
「そんなの――」
銃声。目の前にある扉の、すぐ向こう側からだ。
怒号《どごう》。何かの苛立ちをそのまま吐《は》き出すような、濁《にご》った声の男の叫《さけ》び。
銃声。銃声。銃声。ソルは反射的にエンリケッタを抱《だ》きしめ、自分の体の下に庇《かば》った。ちっちゃいなぁとか柔《やわ》らかいなぁとか温《あたた》かいなぁとか、そんな素直《すなお》な感想のすべてを心の奥底《おくそこ》に封《ふう》じ込めて、ただ一心不乱《いっしんふらん》にこの小さな少女の無事を祈《いの》る。
もちろん扉はまだ閉じたままで、銃弾《じゅうだん》などひとつも飛んではこなかったが、そうしないではいられなかった。
「――あ」
そのソルの腕《うで》の中で、エンリケッタが小さく声をあげる。
「しまった――忘れてた――」
「な、なに? どうしたの?」
銃声の切れ間に、エンリケッタを抱きしめる力を少し緩《ゆる》めて、ソルは尋《たず》ねる。
「襲撃タイミングは霧の出ている渓谷《けいこく》、襲撃者は白兎部隊《コニグリオ・ビアンコ》≠フ十人前後、電撃的に列車全体を制圧《せいあつ》し目標を確保しすぐに離脱《りだつ》。ここまで、こっちの読みは当たってる。先に配置してた駒《こま》で、帯剣騎士《カヴァリエレ》クリストフ・デルガル単騎《たんき》で充分《じゅうぶん》に対処《たいしょ》できる相手。
けれど……今ここで彼を動かしたら、最悪の敵《てき》が、一人増えてしまう……」
「え? え、え?」
エンリケッタの呟《つぶや》きの意味がよく分からない。
「行かなくちゃ……」
ぐい、とエンリケッタの腕がソルを押《お》しのける。細い腕にふさわしい弱々しい力ではあったが、ソルはそれに抵抗できず、エンリケッタを解放《かいほう》する。
「ケッタ! だめだ、この部屋の外は危ないんだ!」
制止の声も無視して、エンリケッタは立ちあがり、扉を……そのさらに向こうをまっすぐに見据《みす》えて、呟くようにして、言う。
「このままだと、ジネット・ハルヴァンが、敵になる――」
7.
さて。
ここに、クリストフ・デルガルという男がいる。
彼は両親の顔を知らない。
物心《ものごころ》ついたころには、田舎《いなか》の小さな孤児院《こじいん》で育てられていた。
院長からは、両親の死は病気のせいだったと聞いた。が、それは嘘《うそ》だった。麻薬《まやく》中毒の強盗に刺《さ》し殺されたというのが真実だった。助かったクリストフは、ゴシップ好きの家政婦《かせいふ》からそれを知らされた。
その孤児院は、クリストフが七つの時に潰《つぶ》れた。近所の牧場主の圧力によって潰された。牧場主の狙いはそこそこ広かった敷地《しきち》だけであり、孤児院の建物そのものは、立ち退《の》かされた翌日にはもう撤去《てっきょ》作業が始まっていた。それまでの度重《たぴかさ》なる嫌《いや》がらせに心労を溜《た》めこんでいた院長には、それがとどめになった。院長はその場で気を失い、そのまま静かにこの世を去った。
住み家を失ったクリストフは、同じ境遇《きょうぐう》にある孤児院の仲間たちと別れて、独《ひと》りになる。畑|荒《あ》らしやら家畜泥棒《かちくどろぼう》やらを続けて食いつなぎつつ、ひとつの小都市に流れ着いた。地元の不良少年グループに参加し、万引きやらかっぱらいやら追い剥《は》ぎやら、ありふれた犯罪にひと通り手を染《そ》めた。そしてその生活も、十の時に市長が敷《し》いた治安|維持《いじ》政策によって終わった。抜剣《ばっけん》した軍人たちに全《すべ》てアジトを追われ、仲間たちのほとんどを失って、彼はまた一人になった。
同じようなことは、それから何度も繰《く》り返された。
娼館《しょうかん》の下働きをしていたら、突然《とつぜん》の手入れによってその娼館は潰された。
縫製《ほうせい》工場で働いていたら、放火によって工場そのものが無くなった。
傭兵《ようへい》団にその身を連《つら》ねてみたら、無能な雇《やと》い主《ぬし》のせいで仲間は全員死んだ。
人の良い老人に気に入られ、その養子《ようし》となったら、その老人は国の政変のゴタゴタに巻き込まれてあっさりと暗殺されてしまった。
クリストフは色々なところに居場所を作り、そしてその度《たび》にそれを失ってきた。
……自分のことを、特別に不幸だと思ったことはない。
この境遇を悲劇《ひげき》だというのなら、同じような悲劇は世界にいくらでも転がっている。自分がそれに遭《あ》わなかったならば、他の誰かが代わりにそれに直面していたことだろう。たまたま自分のところにその機会が多めに来ているだけ。それ自体は特に嘆《なげ》くようなことではないだろうと、そう理解した。
麻薬中毒の強盗が金を求めたなら、誰かが刺し殺されるのだ。
牧場主が土地を求めたなら、誰かが居場所を奪《うば》われるのだ。
自分が空腹になった時に、たまたま近くにあった鶏《とり》小屋を荒らした時のように。この世の中には貧乏《びんぼう》クジというやつはどうしようもないほど存在していて、後はそれがどのように人々の元に配分されるかだけの問題なのだ。
ならば、せめて。
もう既《すで》にクジを引き慣れてしまったやつに、できるだけ多くのクジを押し付けてしまうのが、この世の中から不幸というものを少しでも減らすための、唯一《ゆいいつ》の手段なのではないかと……クリストフ・デルガルは、そんなことを考えている。
†
それはそれとして、とりあえず今の自分は不運なのではないかと思う。
帯剣騎士《カヴァリエレ》というのは、確かに役職名だけはそれらしいが、とどのつまりは単純な宮仕《みやづか》えの身分である。上からの命令を忠実《ちゅうじつ》にこなすことこそがその仕事だ。その命令が無茶であったり理不尽《りふじん》であったりしたとしても、原則として拒否《きょひ》は許されない。言われた以上は、ただそれをこなすだけ。
クリストフは、今自分が請《う》け負《お》っている任務《にんむ》について思い出す。
『峡谷の半ばにて[#「峡谷の半ばにて」に傍点]、陛下の乗る列車は襲撃を受けるでしょう[#「陛下の乗る列車は襲撃を受けるでしょう」に傍点]』
伝令役は、上からの指令を、そのような言葉で伝えてきた。
『推定される戦力は十人前後。武装は通常兵器。目的は陛下《へいか》の拉致《らち》であり、そのための輸送手段を近くに待機《たいき》させるらしいです」
『らしいです、ってなぁ何だ。随分《ずいぶん》といい加減だなオイ』
『……んなこと言われたって、自信満々になんて言えないわよこんなの!
何かの犯行声明とかがあったってんなら分かるわよ、それならそりゃあ誰かが狙《ねら》ってくるかもしれないなーとか予想できるかもしれないわよ、でもそーでもないのに、なんでこんな細かいトコまで自信満々に予言できんのよあの子!』
『何に今さらキレてんだよ。そんなん今さらのこったろ?』
『非常識な無茶苦茶が今さら扱《あつか》いになってるから、一人の常識人として危険を感じてるんじゃないの……』
『それこそ何を今さら、だ。それはともかく、任務の具体的な内容は?』
『……人間に偽装《ぎそう》した人形を六体|伴《ともな》いその列車に同乗。襲撃《しゅうげき》発生時には応戦を開始、速《すみ》やかにそれを撃退《げきたい》すること』
『六体? そんだけかよ?』
『その質問、予想されてたわよ。一体ごとに客席とらないといけないからお金かかってもったいない、って言ってた』
『てめこら、それ本気で一国の女王《レジーナ》が出す指令かよ!?』
『あたしに言わないでよ!?』
…………。
「はぁ」
ひどい職場だと思う。
まず自分には、憂鬱《ゆううつ》になる権利があると思う。
任務そのものは、それほど難しいものではなかった。
クリストフは帯剣騎士《カヴァリエレ》であり、それはつまり人間の身でありながら魔法書《グリモア》を読み解きその力を振《ふ》るうことができる存在ということだ。
彼の力である『|木棺の宣誓《アニュレール》』は、下僕《げぼく》となる人形を創造する。
まず、木彫《きぼ》りの人形を用意する。それに魔法《ウィッチクラフト》を施《ほどこ》し、刻印《ブランディング》で固着させる。この処理によって、その人形は、クリストフの命令に従《したが》い自動的に動くようになる。しかもその際、ある程度|自律《じりつ》的に行動できるだけの判断力と、人間という生物の水準《すいじゅん》を大きく上回る運動性能というおまけがついてくるのだ。
膂力《りょりょく》、速度、そして体の硬度《こうど》。これだけの要素が揃《そろ》っていれば、常人《じょうじん》相手の戦闘《せんとう》で後《おく》れをとることは考えにくい。
女王《レジーナ》の計算は、常人には理解できないレベルで、精密《せいみつ》で正確だ。そしてその女王《レジーナ》の言葉の通り、並の兵士の十人程度が相手ならば、多少|散開《さんかい》して襲《おそ》いかかられたとしても、六体あれば確かに充分に撃退できるのだ。
だからこの任務は、少し面倒《めんどう》ではあるけれどただそれだけで、今夜の酒に少し愚痴《ぐち》が混じる程度のもので済む筈《はず》だった。
その筈だった。
けれど、そうはならなかった。
列車が峡谷《きょうこく》を走っている最中、予想通りに襲撃が起こった。
クリストフはあちこちの車輌《しゃりょう》にばらばらに待機させていた人形たちに命令を飛ばし、それの迎撃《げいげき》を始めさせた。そしてクリストフ自身は、直接|機関《きかん》室に乗り込んで、そのコントロールを賊《ぞく》から奪いかえした。
それからこの列車に同乗している陛下《へいか》の様子を見に行くことにした。すぐ隣の個室《コンパートメント》に護衛用の人形の一体を控《ひか》えさせておいたからまずその身に心配はないだろうが、だからといって放《ほう》っておくわけにもいかない。
我《われ》ながら勤勉《きんべん》な騎士《きし》だぜなどと内心でぼやきながら、戦いの終わり始めた通路を行く。傷を負ってうめいている襲撃者を一人一人列車の外に蹴《け》り出しながら、車輌をひとつひとつ奥《おく》へと向かっていく――
その目の前で、一枚の扉《とびら》が開いた。
扉の向こうからは、ジネット・ハルヴァンが姿《すがた》を現した。
「…………」
完全に、意表を突《つ》かれた。
予想も想像もしていなかったせいで、反応が出来なかった。
ぽかん、と口を開いて立ち尽《つ》くし、そのまま幾秒《いくびょう》かは費《つい》やしてしまっただろう。その幾秒かの間に、ジネットは嬉《うれ》しそうに笑った。とても穏《おだ》やかで、見る者をただそれだけで幸せな気分にしてしまう、いい笑顔《えがお》だった。
反射神経がクリストフに尻《しり》もちを突かせた。
その前髪《まえがみ》が何本かちぎれて宙を舞《ま》った。それから少しだけ遅れて、ジネットの剣《けん》が宙を切り裂《さ》く、ヒュッという小さな音が聞こえた。
「ま……――」
慌《あわ》てて両手を前に突き出して、
「ままままま待ってくれ姫《ひめ》さん、いやまじでちょっと待ってくれ!?」
「……ほう」
ジネットは変わらず笑顔のままだったが、その声は氷のように冷たかった。
「面白《おもしろ》いことを言う。二年前、私が追われる立場にあった時、私が猶予《ゆうよ》を請《こ》うたならば、貴様《きさま》はそれに応《こた》えたのかな?」
「え、いや、そりゃまぁ、なぁ……」
「ならば素直《すなお》に歴史を繰《く》り返そうではないか、クリストフ・デルガル。
脚本《きょくほん》の変更《へんこう》は二か所だけだ。私は貴様と鬼《おに》ごっこなどに興《きょう》じるつもりはないし、そもそもこの場から生かして逃《に》がすつもりが毛頭《もうとう》ない」
「だだだからちょっと待てって!」
大急ぎで、腰《こし》に差した剣の柄《つか》、正確にはそこに埋《う》め込まれた暗緑色の水晶《すいしょう》を軽く指先で撫《な》でる。水晶が一度だけ昏《くら》く輝《かがや》くと、人形≠ニしての能力のスイッチが入った剣はひとりでに鞘《さや》から飛び出して、
――金属音。
ジネットの斬撃《ざんげき》をなんとか防《ふせ》いだその剣は、しかし化け物じみた勢いで打ちこまれたその力を完全には支えきれず、弾《はじ》き飛ばされると天井《てんじょう》に深く突き刺《さ》さった。
「覚えているぞ、クリストフ。その剣に不意を突かれ、私はあの時、貴様に敗《やぶ》れた。そして、そのせいで……リュカは失われてしまったのだったな」
「……リュカ?」
思い出すの紅はんの少しだけ時間がかかる。
「ああ……あの糸目の坊《ぼう》やか」
確かそれは、あの時ジネットと一緒《いっしょ》にいた少年。少しだけ話す機会があったが、なかなかに面白い奴《やつ》だった記憶《きおく》がある。
そして、おそらく故人《こじん》だ。
アジェ・ヴィルトールを呑《の》みこんだあの時の《なぞ》謎の爆光《ばっこう》。同じ場所にいたはずのあの少年も、やはり同様に光に呑まれてしまったのだろうから。少し離《はな》れたところにいた自分でも死にかけるはめになったのだ。まさかその中心点に居《い》た者たちが、生き延《の》びられるはずがない。
(……魔法《ウィッチクラフト》ってのは、本気でどうしようもねぇ貧乏クジだな。一度|関《かか》わったら最後、笑えねぇ悪夢が雪だるま式に降ってくる……)
まぁ、こうなったなら、仕方がない。
自分はこの少女の敵で、そのリュカ少年とやらの仇《かたき》なのだ。
この少女には自分を殺す理由があり、殺さない理由はない。『|木棺の宣誓《アニュレール》』による魔法《ウィッチクラフト》は人形しか作れず、このような状況《じょうきょう》の打開にはさっぱり役立たない。
(せめて、ケイトかアデルがここにありゃあもうちっとなんとか……いや、こんだけノリノリの姫さんが相手じゃ、どのみち無茶か……)
隣人《りんじん》の死に塗《まみ》れて、今日まで生きてきた。
だから、いつかは自分の番だろうと、そしてその時は驚《おどろ》くほど唐突《とうとつ》に訪《おとず》れるだろうと、そう覚悟《かくご》は済ませていた。
そして……改めて、思うのだ。
今の自分には、いや今の自分にならば、せめて我《わ》が身の不運を嘆《なけ》く権利くらいはあるだろう、と。
†
喉《のど》もとに、剣が突き付けられる。
クリストフも職業|柄《がら》、刃物《はもの》には慣れているつもりだ。が、それはそれとして、これはなかなかに怖《こわ》い。直視《ちょくし》しているのが辛《つら》い。
剣から目を逸《そ》らし、コートの内ポケットを探《さぐ》る。よれよれの煙草《たばこ》を引っ張り出すと、口にくわえる。マッチを後ろ手に壁《かべ》にこすりつけて火を熾《おこ》し、煙草に火をつける。
深く吸いこんで、そして吐《は》く。
重たい煙《けむり》が細長く伸《の》びて、そして渦《うず》を巻く外気の風に吹《ふ》き散らされて消える。
「……どうした」
様子がおかしいと思って、声をかけた。
「殺さねえのか?」
ジネットは答えなかった。
先ほどまで浮《う》かべていたあの微笑《ほほえ》みは、いつの間にか剥《は》がれ落ちていた。その代わりに、少女の顔色が、傍目《はため》にもそうと分かるほどにはっきりと、青ざめていた。
「……おい?」
いったいどうしたのかと声をかけたところで、
「ク、クリストフ!? それに、さっきの、ええと、ジネットさん!?」
あさっての方向から、素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫《さけ》び声が割り込んできた。
ジネットの肩《かた》が、びくりと大きく震《ふる》えた。切っ先が揺《ゆ》れて、クリストフの喉《のど》に鋭《するど》い痛みが走った。血の雫《しずく》が肌《はだ》を伝い、首筋を伝い落ちてゆく感覚。
「あー……こっちくんな、坊主《ぼうず》」
よく知っている声だったので、クリストフは振《ふ》り返らずに、声だけをその闖入者《ちんにゅうしゃ》に向かって投げかけた。
「ここにいても、あんま楽しい見世物《みせもの》にゃならねぇぞ」
「な、何やってんの!? 血、血が出てるよ!?」
「……聞けよ人の話を」
「ジネットさんやめてください、そいつは確かに下品で乱暴《らんぼう》で馬鹿《ばか》で助平《すけべい》で美点のほとんどないダメ男ですけど、実はいい人なんです! 何をされたかは分かりませんが許《ゆる》してやってください、僕《ぼく》も一緒《いっしょ》に謝《あやま》りますから!」
「ブッ殺すぞ坊主《ぼうず》」
「なんでだよ! フォローしてやってるんじゃないかあ!」
無言のジネットの構《かま》える剣が、小刻《こきざ》みに揺れ続けている。肌の下に潜《もぐ》りこんだ切っ先にえぐられ、クリストフの喉の傷は少しずつ大きくなっていく。
「いいからさっさと消えやがれ。
別に俺たちゃ、特別なことをやってるわけじゃねぇ。帯剣騎士《カヴァリエレ》なんてやってあちこちで暴れてりゃ、遅《おそ》かれ早かれこんな感じに終わんのは分かってた。たまたまそれが今日だってだけの話だ。
……なぁ、姫さん。なんか面倒《めんどう》くせぇのが増えたし、殺《や》んならさっさと殺ってくんねぇか。正直、こうしてんのも、そろそろ喉が痒《かゆ》くて仕方ねぇし……」
ジネットは答えない。
青い顔のまま目を伏《ふ》せている。
クリストフの生死をその手中に収めたまま、生の方向にも死の方向にも解放せず、ただそこに立ち尽《つ》くしている。
「どしたんだよ、おい?」
問いかけてみても、返事はない。
「――その剣を引いてください、ジネット・ハルヴァン」
静かな声が、また新たにその場に加わった。
凛《りん》とした、しかし隠《かく》しようもなく幼い、少女の声。
「クリストフ・デルガルは我が王城《パレス》に剣を捧《ささ》げた騎士《カルヴァリエレ》です。その者が負うべき罪があるというならば、それは私の責《せき》でもあるはず」
「ケ……ケッタ?」
ソルを押《お》し退《の》けるようにして、小さな少女が前に出る。
ジネットの顔が、ゆっくりとそちらを向いた。それぞれに凍《こお》りついたような表情を浮かべた二人の少女の視線が、正面から絡《から》み合った。
「……エンリケッタと言ったか。今の口上《こうじょう》は、つまりそういう意味だと受け取っても良いのか?」
「はい」
はっきりと頷《うなず》き、エンリケッタは小さな胸を張って、
「ペルセリオ王国、第二十三代|女王《レジーナ》、エンリケッタ・テレーザ・ヴァルトン。
あなたもご存じの魔法書《グリモア》収集組織|王城《パレス》の主《あるじ》。それが私です」
ぎしり、という幻聴《げんちょう》すら伴《ともな》って、辺りの空気が温度を下げた。
「王城《パレス》には、これまで散々《さんざん》と煮《に》え湯《ゆ》を飲まされた。その女王《レジーナ》が私の前に出てきたということは、つまりこの場で切り捨てられたいということか?」
低い声で、ジネットは問う。
「ケッタ!」
ジネットの放つ殺気が本物だと気づいたのか、それともただ状況の深刻さに追い立てられただけなのか、とにかくソルが動いた。エンリケッタの前に飛び出すと、両手を大きく開いて、ジネットの前に立ちふさがる。
「……や、やめてください、ジネットさん。事情は分かんないですけど……」
「どきなさい、ソル」
「ど……どきたいよ!」
冷たいエンリケッタの声に、しかしソルは大声で反論する。
その足元は、恐怖《きょうふ》でがちがちと震《ふる》えている。
「どけるもんなら、どきたいよ!
でも、そんなの、できるわけないじゃんか!
ケッタが危ない時くらい前に出られないと、僕は何のためにここまでついてきたのか、分かんなくなるじゃんか――!」
ソルのその言葉に、何か感じ入るものでもあるのか。ジネットが小さく息を呑《の》んだのを、クリストフは確かに見た。
それから数秒の時間を挟《はさ》んでから、クリストフの喉に突き付けられた剣が、氷の欠片《かけら》のように細かく砕《くだ》け、そのまま蒸発《じょうはつ》するように消えてしまう。
「……ジネットさん……」
「ただの気まぐれだ。次があるとは思うな」
そうジネットは宣言《せんげん》し、背を向けようとする、が、
「こちらへは、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の鍵《かぎ》を探しての来訪《らいほう》ですか?」
エンリケッタの言葉に、「何?」とその足を止めた。
「情報源は茶会《ティパーティ》でしょうか。となると、発見当時にそれが収まっていた小箱の外観《がいかん》は聞いていても、中身の形状までは知らないのではありませんか? 『古木の庭』のサリム・ガールマールが箱を破壊《はかい》し中身を取り出した今、手がかりらしい手がかりは何もない……そうではありませんか?」
ジネットは目を丸く見開いた。
「な、ぜ……?」
かすれた声が、途切《とぎ》れ途切れに言葉を紡《つむ》ぐ。
「何故《なぜ》、そんなことを知っている……? お前は、一体……」
「『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の鍵とは、髪《かみ》の毛の束《たば》です」
表情を動かさずにエンリケッタは告げる。
「これは、取引です。貴女《あなた》が気まぐれで私たちを見逃《みのが》すというのなら、私たちはその気まぐれに対する対価を支払《しはら》う。これで私たちは、同じ高さから貴女に提案をすることができる」
「だから、お前は何を言って……」
「他にも幾《いく》つか、貴女の知らないことを私は知っています。それを全《すべ》て貴女に明かしても構いません。その代わりに……ほんの数日の間だけでいい。どうか私たちに力を貸してはいただけませんか?」
ジネットは息を飲む。
触《ふ》れれば切れそうなほどに冷たく硬質《こうしつ》化した空気が、辺りに満ちる。
(……あー)
そうして目の前で繰《く》り広げられる会話を、クリストフは他人事《ひとごと》のように遠い目で眺《なが》め見ていた。
(珍《めずら》しくよく喋《しゃべ》ってやがんなー、うちのちっこい女王様《レジーナ》は)
それは、滅多《めった》にないことだった。
エンリケッタ・テレーザ・ヴァルトンは、基本的には無口な少女だ。私事《わたくしごと》に関してはほとんど口を開くことがないと言っていい。女王《レジーナ》としての公務《こうむ》の最中だけは、必要なことを必要なだけ声にして出す……が、それもまさに必要最小限に抑《おさ》えられた簡潔《かんけつ》なものだ。これほどの長さに旦《わた》り会話を続けるなどということは、クリストフの知る限りでは、一度もなかった。
あるいは、今ここで口にしている言葉の全てが、まさに今ここで求められている女王《レジーナ》としての公務のための、必要最小限の言葉……なのかもしれないが。
(まぁ……何にせよとりあえず生き残れた、か)
くわえていた煙草《たばこ》を、床《ゆか》に押し当ててもみ消す。と、
〈ううう、やっと出られた……〉
何やら打ちひしがれたような老人の声が、やたらと低いところから聞こえてきた。
〈……ダストシュートというのはあれじゃな、新時代の牢獄《ろうごく》に使える設計じゃな。
外からは簡単《かんたん》にものを放《ほう》りこめるくせに、内側からは並大抵《なみたいてい》のやりかたでは開かないとか、ちょっと工夫《くふう》したら充分|拷問具《ごうもんぐ》としての実用に耐《た》えると思うんじゃよ……〉
「じ、じいさん?」
何かの小枝を杖《つえ》にして、ぼろぼろに汚《よご》れた人形が、よろよろと近づいてくる。
〈どういう状況《じょうきょう》だったかを説明するとじゃな。どっかのバカ娘《むすめ》が逆上する時に儂《わし》を気前よく放り捨ててくれおってな。通路の端《はし》でたまたま開いとったダストシュートに叩《たた》き込まれて、しかも弾《はず》みで蓋《ふた》が閉じられてしもうてな。暗いわ狭《せま》いわ汚《きたな》いわ臭《くさ》いわ出られないわで、ちょっとした地獄《じごく》体験じゃったんじゃよ……もう儂、泣きそー〉
そこで人形は歩みを止めて、きょろきょろと辺りを見回して、
〈……時にじゃな。状況がさっぱり読めんのじゃが、儂のおらん間に何がどうなったんか、誰か説明してはもらえんかの?〉
「状況より先に空気読めよ、じーさん……」
その場の全員の心境《しんきょう》を代表してクリストフが呟《つぶや》くと〈うむ?〉、と分かっていない顔の人形が首を傾《かし》げた。
8.
襲撃者《しゅうげきしゃ》たちのことごとくを退《しりぞ》け、乗客への被害《ひがい》がほとんど出ていないことを確認《かくにん》し、それから列車は再び走り始めた。
あちこちの壁《かべ》や床に弾痕《だんこん》が穿《うが》たれている。窓|硝子《ガラス》が何枚も割れている。とてもそれまで通りとは言えない旅にはなったが、それでもあのまま霧《きり》の峡谷《きょうこく》に閉じ込められているよりは遥《はる》かに良い。あからさまにほっとした雰囲気《ふんいき》の乗客達を乗せて、列車は一路、目的地への疾走《しっそう》を再開する――
そして、ジネットは不機嫌《ふきげん》だった。
狭い通路に一人立ち、窓の外を睨《にち》みつけている。
流れる景色は先ほどまでと何も変わらない。ミルクのような濃《こ》い霧と、時折その中を泳ぐように通り過ぎる黒い木立ち。まるで同じ場所をぐるぐると廻《まわ》っているような幻想《げんそう》の中を列車は走り、そしてジネットはその幻想を睨みつけている。
「……私は」
窓に押《お》し当てていた手のひらを、軽く握《にぎ》りこむ。
硝子《ガラス》の曇《くも》りが、小さく削《けず》れる。
「私は、何に苛立《いらだ》っているのだろうな……」
それが、どうにも分からなかった。
妖精《フェイ》を見つけたのに、リュカは取り戻《もど》せない。仇《かたさ》を見つけたのに、殺すわけにはいかない。敵の首魁《しゅかい》が姿を現したのに手を出せず、それどころかその手のひらの上で踊《おど》らされているような展開になってしまった。
このように、不機嫌になる理由ならいくらでもある。そしてその全《すべ》てがぐるぐると入り混じって、ジネットの胸の中に乱気流を巻き起こしていた。
窓に触《ふ》れたままの拳《こぶし》を見やって、考える。この拳を思い切り窓|硝子《ガラス》に叩《たた》きつけたなら、少しはこの気分も晴れるだろうか?
〈おい、バカ娘《むすめ》〉
「誰がバカだ、誰が」
振《ふ》り返らずに、抗議《こうぎ》の声だけを返す。
〈お主の他《ほか》に誰がおるか。こんなところで何をしとる?〉
「……別に、何も」
まともに取り合う気になれず、投げやりに答えた。
「強《し》いて言えば、窓の外を眺《なが》めている」
〈それだけか?〉
「それだけだ」
嘘《うそ》ではない。ぼんやりと外を眺める以外のことを、自分は何もしていない。そんな気力は湧《わ》いてこない。
窓に触れたままの拳を見やって、考える。この拳を思い切りアルト老に叩きつけたなら、少しはこの気分も晴れるだろうか?
……いや、もちろん、本当に実行するつもりはないが。
「あ、あの……」
少し甲高《かんだか》い少年の声。
振り返ると、アルト老を胸元《むなもと》に抱《だ》いたソルが、所在《しょざい》無さそうな顔で立っている。そうでなくとも華奢《きゃしゃ》なソルの風貌《ふうぼう》のせいで、何やら倒錯《とうさく》的な雰囲気が漂《ただよ》っていた。
「その……ジネットさんのこと、聞きました……」
〈うむ、一通りは話した〉
「なんていうか……大変だったんですねっていうか、その……うまく言葉が出てこないんですけど、その……」
「別に構わない」
不機嫌に濁《にご》ったままの声で、ソルの言葉を遮《さえぎ》った。
「私の過去がどうあれ、同情を請《こ》うつもりはない」
「あ……そ、そうですか……」
〈うわちゃあ、こりゃ本格的にご機嫌|斜《なな》めじゃな〉
「当然だ。用がないならさっさと去れ。さもなくばそこの穴に放《ほう》り込む」
視線だけで、通路|脇《わき》のダストシュートを示す。アルト老が〈ひぃっ〉と悲鳴を上げてソルの胸元にしがみつく。
しかし、それでもソルは、去ろうとしない。
「どうした?」
「あの……聞いてほしい話が、あるんです」
「私には、聞きたい話など、ない」
「ケッタのこと、なんですけど」
「…………」
エンリケッタ・テレーザ・ヴァルトン。
あまりに年若き女王《レジーナ》。
文字通り、代々ペルセリオを治める王家の一族に生まれた娘。
同時に魔術書《グリモア》収集組織のひとつ王城《パレス》の頂点にも立っているが、やはり幼すぎるせいか、同組織は二年前までほとんどレオネル・グラントの傀儡《かいらい》のようなかたちに収まっていた。そして今も、王城《パレス》は戦力や情報収集力などにおいて他組織に大きく後《おく》れをとっている。
……そう、信じられている。
「すごく、頭の良い子なんです。
これまでほとんど王城《パレス》から出たことがないのに、世界中のことを誰よりよく知ってるし。未来のことを何か予想したら、百発百中で絶対に外れないし。
この前本人に聞いたら、世界の状況《じょうきょう》を読むのもスカッキ盤《ばん》の駒《こま》の並びを読むのも、駒の数が違《ちが》う以外はほとんど一緒《いっしょ》だ、とか言ってたんです。たぶんそんなふうに考えてるのって世界でケッタだけだろうなって思うんですけど、それでも、それがケッタにとっての普通《ふつう》≠セっていうのは間違いないんです。
けど……頭がいいせいなのかな。すごく、可哀《かわい》そうな子でもあるんです」
そこでソルはいったん言葉を切って、ジネットの顔色を窺《うかが》ってくる。
ジネットは無言のまま目を閉じて、先を促《うなが》す。
「……僕にとっても、二年より前のことは、聞いた話でしかないんですけど」
ためらい混じりに、ぽつぽつと、ソルは話し出す。
「知ってますか? 今のペルセリオは、女王《レジーナ》を完全に無視して動いてるんです」
「……?」
「七年前、前の王様……ケッタのお父さんが亡《な》くなってすぐに、実権の全部を貴族たちにとられちゃったんですよ。女王《レジーナ》は生きて玉座に座《すわ》っていてくれればいい、ってことで田舎《いなか》のお城に閉じ込めちゃって。
形の上では、ここはまだ、王国《ペルセリオ》です。けど形だけです。
リーグナット市なんて、ほとんど悪いジョークですよ。女王はとっくの昔に追い出されてる。あそこにあるのは空っぽになったお城だけ。だってのに、いまだにあそこは王都≠ネんて呼ばれてる…――」
「初耳だ、な」
ジネットは小さく呟《つぶや》いて、
「しかし閉じ込められているというなら、何故《なぜ》今ここにいる?」
「脱走中《だっそうちゅう》なんです。ケッタ自身が行かなきゃいけない場所があるって言うから、クリストフたちが王城《パレス》の全力を注《つ》ぎ込んで、お城から連れ出したんですよ。
さっきの兵隊たちは、脱走に気付いた貴族側が追手に差し向けた傭兵《ようへい》。
すぐ傍《そば》に帯剣騎士《カヴァリエレ》の護衛《ごえい》がついていること、あとで面倒《めんどう》になるような数の目撃者《もくげきしゃ》を出してはならないこと、この二つの制限がある貴族たちがケッタを捕《つか》まえようとしたから、ここで、ああいうふうに襲《おそ》ってくることになった……みたいです」
――にわかには信じがたい話だ、とジネットは首を振《ふ》って、
「玉座の簒奪《さんだつ》に、女王の放逐《ほうちく》か。もしそれが真実であるならは、国そのものを揺《ゆ》るがしかねない一大|醜聞《しゅうぶん》だ。だがそれだけに不自然でもある。
それが真実だというなら、なぜ未《いま》だに世に知られず、伏《ふ》せられたままでいるのだ?」
「知ってる人は少ないし、その全員が口をつぐんでるからですよ。僕だって、こんな話を人にしたのは、これが初めてです」
「……何故だ。玉座を取り戻《もど》すつもりでいるのなら、まずはそれを公《おおやけ》にするところからだろう。それとも全てを諦《あきら》めて、泣き寝入《ねい》りを決め込んだとでも言うのか?」
〈何寝ぼけたことゆーとるか。お主、本当に王女経験者なんか?〉
呆《あき》れたようなアルト老の声に、ソルが続けて、
「ジネットさん、さっき自分で言ったじゃないですか。国そのものを揺るがす醜聞だって。だったら、ケッタはそんな手は指しませんよ」
そう語るソルの顔は、少しばかり辛《つら》そうに歪《ゆが》められていた。
「ケッタはいつだって[#「ケッタはいつだって」に傍点]、この国のための最善手を打っている[#「この国のための最善手を打っている」に傍点]。
そのためには、何もかもを駒として扱《あつか》って、動かす。
自分自身のことだって例外じゃない。勝つためにそれが必要だと思ったら、女王《レジーナ》の駒だって迷わず捨て駒にするはずです。ケッタはそういう子なんです」
そこで、ソルは言葉を切った。
続きがあるのではないかと少し待ってみたが、ソルは静かなままだった。
「それを私に話すことで、何を求めている?」
「……それは」
「共闘《きょうとう》を承諾《しょうだく》させやすいように、同情でも惹《ひ》こうと考えたか?
ならば、断《ことわ》っておこう。彼女の過去がどうあれ、同情するつもりはない。事情は誰にでもあるものだ、そんなものでいちいち心を揺らしていては戦えない」
「それは……そう、ですけど……」
ソルは寂《さび》しげにかぶりを振って、目を伏せた。
「それでも、いいです。あの子のこと、知っておいてほしかっただけですから」
ふと――そのソルの肩《かた》の辺りに、小さく、霧《きり》のような虹《にじ》色の光が浮《う》かんでいるのが見えたような気がした。
まずは瞬《まばた》きをひとつ、それから改めてよく見てみれば、そこには何もなかった。
何かの見間違えだろうと思う。
†
話を終えたソルが去り、通路は再び静かになった。
ジネット・ハルヴァンは引き続き不機嫌《ふきげん》だった。
「……本当に、私は、何に苛立《いらだ》っているのだろうな……」
ぼやいてみても、当然、答えなど見当たらない、と思ったら、
〈そりゃ、こうあろうと思っている理想の自分と、現実の自分との間のギャップが、大きくなってきたからじゃろ。いかにも若者っつー感じの悩《なや》みじゃな、うん〉
「なんだ、いたのか」
〈ふ、ふん、その扱《あつか》いにはもう慣れたからのう。今さら拗《す》ねたりなどはせんわ〉
どうやらソルが戻る時に、腕《うで》の中にあった荷物は置いていかれたらしい。壁際《かべぎわ》にちょこんと腰《こし》かけたアルト老が、何が誇《ほこ》らしいのか控《ひか》え目に胸を張った。
「それで? 何が言いたい?」
〈別に。言葉の通りじゃよ。遂《つい》にお主も、嘘《うそ》が吐《つ》けなくなる頃合《ころあ》いかと思うてな。もうしばらくは保《も》つかとも思うとったんじゃが、世の中はままならんもんじゃ〉
「ふん。何を言い出すかと思えば」
鼻先で笑う。
「嘘など。この身を魔法書《グリモア》に喰《く》われた時から、吐けた例《ため》しがない。それは我々|不死者《レヴナント》、いや|魔法書の代役《バーント・グリモア》の大前提《だいぜんてい》だろう」
〈その表現は間違ってはおらんが、正確でもない〉
短い腕を頭の後ろで組み、軽くこちらを見上げながら、アルト老は言う。
〈そのルールに抜《ぬ》け道はいくらでもある。それは分かっとるじゃろ?〉
分かっている。
不死者《レヴナント》は嘘を吐けない。だが、自覚的に自分の知っている内容と違うことを口にしなければ、それは嘘とはみなされない。だから事実の一部だけを語って積極《せっきょく》的に相手の誤解《ごかい》を招《まね》くことは可能だし、自分が正しいと信じていることであればそれを口にすることは決して嘘にはならない。
「……それが、どうした」
〈己《おのれ》で正しいと信じてさえいれば、何を口にしても嘘にはならん。つまり、最初に己を騙《だま》すことさえ出来ていれば、どんな嘘をどれだけ吐《は》き散らしたところで、ルール違反《いはん》にはならんということじゃ。
そして、お主は単純じゃからな、簡単に物事を思いこむことができる。つまり、簡単に自分自身を騙すことができる……〉
「だから、貴方《あなた》は何を言いたいのだ、アルト老――」
その言葉を遮《さえぎ》るように、
〈のう、ジネット。お主、人を殺せるか?〉
「……当たり前だ。これまで私が何百人を殺《あや》めてきたと思っている!」
〈過去の話はどうでもええんじゃ。今のお主はどうなのかと聞いとる〉
「過去も未来も関係ない。私は人を殺してきたし、これからも殺していくだろう」
〈ならば何故《なぜ》、先刻《せんこく》はクリストフ・デルガルを殺さなかった?〉
――――――――っ!
〈その機会はあったんじゃろ? 喉《のど》に剣《けん》を突《つ》き付けるところまで追い詰《つ》めておきながら、なぜあと指一本分、剣を押《お》し込まんかった?〉
それは、邪魔《じゃま》が入ったからだ。
自分は間違《まちが》いなく、あの男を殺そうとしていたのだ。けれどその前に、ソルとエンリケッタが現れた。結果的にあの男が生き延びたのはそのせいだ。そう、全《すべ》てはタイミングのせいでしかない。自分が彼を殺さなかったことに、深い意味などないのだ。
「――――あ――――」
そう答えようとしたが、声が出なかつた。
喉がその役目を放棄《ほうき》したかのように、肺《はい》からの息を全て素通《すどおり》りさせている。わけのわからない深呼吸を何度も繰《く》り返す。そしてどれだけ試しても、言葉は声にならない。
〈やはり、な〉
アルト老は嘆息《たんそく》し、
〈今、お主が言おうとしたことは、嘘じゃよ。そしてお主自身が、それを嘘だと看破《かんぱ》してしまったから、声に出せずにおるわけじゃ》
「何の――話、だ?」
疑問の声は、何の問題もなく出てきた。
〈だから言葉の通りじゃよ。お主があの男を殺せんかつた理由は、今お主の頭にあるものとは別に存在する。そしてお主は無意識のうちにそのことに気付いとる〉
淡々《たんたん》とした声で、アルト老は言う。
〈己の悲願を果たすまではたとえ誰を踏《ふ》みつけ、誰を殺めることになろうと、躊躇《ちゅうちょ》はしない……お主は二百年前にそう心に決めた。そしてその誓《ちか》いの通りに、自身の心を刻《きざ》み潰《つぶ》しながら、剣を振《ふ》るいここまで歩いてきた。
その手の剣で、確かに、幾度《いくど》となく人を殺してきた。
どれだけ辛《つら》くとも、苦しくとも、殺すことを躊躇せんかった。泣くことも、許しを請《こ》うこともせずに、殺人者としての自分を受け入れとった。死から目を背《そむ》けることも、どこかに押し付けることもせずにな。そうすることが必要なのだと、お主自身が固く信じとったから、それが出来た。が……〉
あのフェルツヴェンの地で、お主はあの少年に会った――
アルト老はそう言って、一度言葉を切った。
「……リュカ……?」
〈忘れたか? お主は一度[#「お主は一度」に傍点]、あやつを殺しとるんじゃよ[#「あやつを殺しとるんじゃよ」に傍点]。
その上で[#「その上で」に傍点]、お主は[#「お主は」に傍点]、あやつに生きていて欲しいと願ってしまった[#「あやつに生きていて欲しいと願ってしまった」に傍点]〉
はっと、息を飲んだ。
アルト老の言わんとすることが、ようやく見えてきた。
〈お主の決意は、そこで一度折れとるんじゃよ。
どんな立派な理屈《りくつ》をつけようが、お主には、人を殺すことを納得《なっとく》などできない。それまで誰を殺す時にも、お主は必死になって、死なせたくないという感情を抑《おき》えこんできたはずじゃ。ならば、確かに刺《さ》したはずのあやつが生きとったことは、お主を揺《ゆ》らしたじゃろう。
その揺れが、お主に、あやつを助けさせた。
生き続けて欲《ほ》しいと願わせた。
しかもさらには、恋愛《れんあい》感情のおまけまでついてきた。
そこまで取り戻してしまえば、もうお主は立派な、ただの小娘《こむすめ》じゃよ。人を殺すことに臆病《おくびょう》になったとしても、何の不思議《ふしぎ》もない。誰もそれを責められん〉
「…………」
〈あの女王《レジーナ》や妖精《フェイ》の少年の扱いについても、そうじゃな。
助けたいと、思っとるんじゃろ?
しかしその感情がうまく理屈に沿《そ》わんから、もどかしくて、苦しいんじゃろ?〉
「…………」
窓に触《ふ》れていた手に、知らず、力がこもっていた。
硝子《ガヲス》が割れる。いくらかの破片《はへん》が、きらめきながら霧《きり》の森の中へと散る。そして窓枠《まどわく》に残った硝子の縁《ふち》が、ジネットの白い肌《はだ》を赤く裂《さ》く。
開いた傷口から、ぽたり、と血がこぼれて――
それで終わりだった。すぐにその傷はふさがり、跡《あと》も残さずに消えてしまう。
「私は、化け物だ」
せめてもの抵抗《ていこう》として、ジネットは呟《つぶや》いた。
〈そうじゃな〉
アルト老はこくんと小さく頷《うなず》くと、
〈しかしな。化け物が人の心を持ってほならんという法はないんじゃよ〉
そんな意地の悪いことを、言った。
9.
マルキ・リンサイゼンは死にかけていた。
脇腹《わきばら》を潰《つぶ》され、両足の筋《すじ》が断《た》たれている。
身動きがとれない。そして、流れ出る血が止まらない。
最初は堪《こら》えきれなかった痛みが、少しずつ薄《うす》れていく。自分が意識を失いかけているのだと気付いて、慌《あわ》てて気を取り直す。
「……糞《くそ》……」
軽くそう言葉をこぼすだけでも、切り刻まれるように胸が痛む。折れた肋骨《ろっこつ》が肺を傷つけでもしているのだろうか。
こりゃあもうダメだな。そう、ぼんやりと考える。
思えば、もともとはただの樵《きこり》だったはずの自分が、随分《ずいぶん》と奇妙《きみょう》な人生を送るはめになったものだ。今となっては遥《はる》かな大昔、住んでいた山小屋の近くをたまたま騎士《きし》たちが通りかかったせいで、魔女|討伐《とうばつ》の一隊に加わることになった。魔女が死んで大火事に巻き込まれて、気がついたら不死者《レヴナント》なんて代物《しろもの》になって……
その間に、ただ重傷を負ったことなら、何度でもある。しかし、どれだけの傷を負おうと、自身の死を身近に感じることは、これまでの間、一度もなかった。
つまり、これが、自分にとって最初で最後の、死の体験。
命が、こぼれていく。
自分の人生は、もうすぐ、終わる。
――すぐ目の前に、誰かが立った。
ぼやけた頭で考える。これは、誰だろう。
これは、敵だ。自分を殺す男だ。あるいは、既《すで》に致命傷《ちめいしょう》を受けているのだから、自分を殺した男だと言うべきか。いずれにせよそういう相手だ。
その男の顔を見上げて……もう既に視界が霞《かす》みかけていることに気付いて、苦笑《くしょう》したくなった。どうやら、もう本当に本格的に、自分には時間が残されていない。
「誰、だ……?」
胸の痛みをこらえながら、そう問いかけた。
おかしな話だが、ここまで追い詰められるまでの間、自分は一度もこの男の顔を見ることが叶《かな》わなかったのだ。
素性《すじょう》についての予想は出来る。というか、仮にも不死者《レヴナント》の、しかもどちらかといえば武闘派《ぶとうは》である自分をこうも簡単に仕留《しと》められるのだから、候補《こうほ》となるような者はそう多くない。同じ不死者《レヴナント》の、しかも特に強大な|夜の軟泥《ワルプルギス》をその身に宿《やど》すこととなった者の、誰かであるはずだ。
ニルス・ディデクか? アルト・バルゲリアルか? レオネル・グラントか?
……違《ちが》う。彼らではありえない。既にこの大陸にいない者。自らの肉体を失ってしまっている者。そもそも既にこの世を去ってしまっている者。彼らの誰も、決して、この場所に立つことはできないはずだ。
しかし、それならば、これは一体、誰なのだ……?
「鍵《かぎ》はどこにある」
声が、聞こえた。
「鍵を渡《わた》してくれ、マルキ・リンサイゼン。今さら君たちの命を助けることはできないし、それの代わりにもならないかもしれないが……俺《おれ》たちは、必ず悲願を成就《じょうじゅ》することを誓《ちか》おう」
誰の声だろう、と思った。
それは、予想していた誰の声とも違っていた。
けれど、確かに、聞いたことのある声だった。自分と親しかった誰かの声だった。
「……まさか、てめぇ……?」
ごぼごぼと血の泡《あわ》が喉《のど》の奥《おく》から溢《あふ》れだしてくる。
「生きてやがった、のか……お前も、不死者《レヴナント》になって……」
「ああ」
声は静かに、マルキの想像を肯定《こうてい》した。
「……そうか……なら、これでいいことにしよう……」
頬《ほお》の筋肉をなんとか動かして、マルキは笑顔《えがお》を作り、
「鍵は、クロアが運んでる。
そろそろ、王城《パレス》の人間のところに届いているはずだ……」
「……王城《パレス》」
「ああ。後は自分で調べろ。どうせ、てめぇも一人じゃねぇんだろ……?」
そろそろ、声を出すのも限界だ。胸の中の傷口が開いたか、血の泡に溺《おぼ》れて、喉もまともに動かない。
ならば、もう、眠《ねむ》ってしまおうか。マルキはそう考える。心残りは山ほどあるが、それでもまあ、最後の最後で、意外と救われた気分になれた。こんな自分などの死に様《ざま》としては、随分《ずいぶん》と上出来な部類《ぶるい》だ。
「……んじゃ……後は頼《たの》んだ、ぜ……」
最後の言葉を、なんとか口に出すことができた。
そのことに満足して、マルキ・リンサイゼンは、笑顔のままで死んだ。
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▼promenade
ジネット・ハルヴァンがまだ十一|歳《さい》の頃《ころ》。
春の朝のことだった。
窓から見上げた空が、よく晴れていた。
真っ白な画布《がふ》の上に刷毛《はけ》で撫《な》でつけたような、見事な青のグラデーション。
小さな糸くずをちりばめたような雲が、ぽつぽつとその青の中を泳いでいる。
名前も知らない小さな鳥が、穏《おだ》やかにさえずりながら気持ちよさそうに辺りをくるくると飛び回っている。
「ううむ……」
窓《まど》の外のそんな景色をにらみつけながら、考えた。
こんな日に部屋に閉じこもっているのはもったいない。
礼法やら史学やら経済学やら帝王《ていおう》学やら、そんなつまらない勉強なんかで、この素晴《すば》らしき一日を遣《つか》ってしまっていいのだろうか。いやよくない。いいはずがない。それはこの見事なまでに青い空に対して失礼な行為《こうい》であり、まばゆく輝《かがや》く白い太陽に対する冒涜《ぼうとく》ですらあるのではないか!――とまぁ、そんなふうに考えた。
「……よし!」
決めた。今日の勉強はさぼってしまおう。
ブリュエットや姉様を誘《さそ》って、西の丘《おか》までハイキングに行こう。
そうと決めてしまえば、善は急げ。家庭教師に捕《つか》まる前に、部屋を抜《ぬ》け出した。
仲の良い侍女《じじょ》にこっそりと近づいて、サンドイッチをバスケットに詰《つ》めさせた。
いつもなら、この時間の姉様は、中庭で本を読んでいるはずだ。頭の中に叩《たた》き込んである城内の地図をめくり、中庭まで誰《だれ》にも見つからずに行けそうなルートを探し出す。茂《しけ》みをくぐり、窓から窓に飛び移り、巡回《じゅんかい》の兵士の隙《すき》をついて……うん、いける。自慢《じまん》じゃないが脱走《だっそう》には慣《な》れている。よほどのことがなければ捕まらない自信がある。
そして、そんなよほどのこと≠ノ出くわすことはなかった。茂みをくぐり窓から窓に飛び移り巡回の兵士の隙をついて、特に誰に見つかるということもなく、中庭にまで着くことができた。
果たして、彼女はそこにいた。
長い金の髪《かみ》をぱたぱたと風に揺《ゆ》らし、大きな木に背をもたれて、姉姫は座《すわ》っていた。
その横顔を見ているだけで、あれこそお姫様というものだ、と思い知る。
肌《はだ》が白くて線が細くて、笑顔が柔《やわ》らかくて見る人の心をほんわかさせて。素材は同じはずなのに、どうして血のつながった妹の自分はあんなふうになれないのだろうと、神様《オリジン》やら両親やらをちょっぴし恨《うら》めしく思ったりもする。
いや、とにかく今はそんな、意味のない劣等《れっとう》感に身を震《ふる》わせている場合ではない。今自分がここにいるのは違う目的のためであるはずだ。
たっ、と足元の地面を蹴《け》って、
「姉さ――」
駆《か》け寄って、声をかけようとした。
いい天気だから出かけよう、西の丘の大樹のところまで行ってごはんを食べよう、そんなことを言おうとして、実際にそれらの言葉を喉《のど》の奥《おく》のところにひっかけて――
しかし、ぎりぎりのところで、そのすべてをごくんと飲み込んだ。
姉のすぐそばに、もうひとつの人影《ひとかげ》があったのだ。
明るい赤銅《しゃくどう》のような色の髪と、少し日に焼けた肌の、小柄《こがら》な少年。
質素《しっそ》な服装に身を包み、その手の中には園丁《えんてい》用の鋏《はさみ》がひとつ。
「……アヴィン」
ぽつりと、その少年の名前をつぶやいた。
アヴィン・ラーブル。この城で代々|抱《かか》えている園丁の家系に生まれた少年。愛想《あいそ》はあまりよろしくなく、大抵《たいてい》いつもむすっと不機嫌《ふきげん》そうな顔をしているけれど、話してみると実はけっこう付き合いやすい性格をしていて、たまに笑った顔はちょっと可愛《かわい》かったりする、そんな感じの男の子だ。
姉姫《フィオル》と少年《アヴィン》は、二人で何かを話していた。
この距離《きょり》では、声は聞こえない。けれど、二人それぞれの表情を遠目で見るだけで、どんな話をしているのかは簡単に分かってしまった。
アヴィンの顔は赤くなっていて、不器用なりに必死になって会話を続けようとしているのが見てとれる。そして、姉姫《フィオル》は果たして目の前の少年の心中の昂《たかぶ》りに気付いているのかいないのか、いつも通りの穏《おだ》やかで優《やさ》しい笑顔で小首をかしげていたりする。
今年で十一歳の自分は、やっぱりまだまだ小さな子供ではあるけれど、それでも子供なりに世界のことが分かりはじめる年ごろでもあって、だからその目に映る光景に対して自分がどのように振《ふ》る舞《ま》うべきなのかについて考えることはできた。
「……仕方がないな」
呟《つぶや》いて、ちょっとだけ笑う。
ハイキングの計画が頓挫《とんざ》することは、とても悔《くや》しい。せっかく空が青いのに、それを活《い》かして一日を楽しく過ごせないことは、とても悲しい。けれどそれでも、あの二人の間に割ってはいる気にはなれなかった。
自分は姉姫《フィオル》のことが大好きで、少年《アヴィン》のことも嫌《きら》いではなくて、だから二人がああやっている時間をわざわざ壊《こわ》したいなどとは思わなかった。
「今日のところは君に譲《ゆず》ろう。せいぜい楽しく時を過ごすが良い、アヴィン」
肩《かた》をすくめ、負け惜《お》しみのような言葉をその場に残し、来た道を引き返そうとくるりと身を翻《ひるがえ》した――
その目の前に、ぬっ、と大柄《おおがら》な人影が姿を現した。
「ここにおったか、バカ娘《むすめ》」
いかめしい顔に深い皺《しわ》を寄せて、その老人は低い声で唸《うな》った。
巨《おお》きな老人だ。そうとしか、その姿を表現する言葉がない。
姿勢《しせい》の良い長身に、よく鍛《きた》えられた固そうな筋肉。まるで鉄の塊《かたまり》が目前に立ちはだかったような、異様なまでの威圧《いあつ》感。
「誰がバカ娘だ、誰が」
唇《くちびる》を尖《とが》らせて、抗議《こうぎ》した。
「お主の他《ほか》に誰がおるか」
老人は苦々しい声で首を横に振ると、
「ったく、ちいと天気が良いからとぽんぽん気軽に部屋を抜け出しおって。お主の教育を任されとる儂《わし》らの立場も考えんかバカ娘」
「ええい、仮にも自国の王女に向かって、たかが騎士《きし》がバカバカバカと、随分《ずいぶん》と汚《きたな》い言葉を叩きつけてくれるものだな?」
「バカをやらかす娘は誰だろうとバカ娘じゃろーが。その扱《あつか》いが嫌《いや》だと言うなら、血筋になんぞ頼《たよ》らず、己《おのれ》の行動で評価を覆《くつがえ》してみせたらどうじゃ」
「……むう」
認《みと》めたくはなかったが、それは正論だった。
そしてその正論に対しての反論の言葉が、すぐには出てこなかった。ほんの一瞬《いっしゅん》だけ口ごもったその際に、老人の目が中庭のほうに向いて、
「フィオル王女……に、あれは、アヴィンか?」
「あ」
しまった、と思った。
まずいものを見られた、と顔から血が引いた。
あそこにあるのは、常識的に考えれば、許《ゆる》されない光景なのだ。
中庭にいる二人の片方は、この国の至宝《しほう》とまで言われる特別製のお姫様である。そしてもう片方は、この庭園への自由な出入りこそ許されているものの、爵位《しゃくい》も何も持たない、たかが園丁の身分の少年である。本来ならばただ近づくことすら厳《げん》に禁じられるような、そんな組み合わせなのだ。
慌《あわ》てて飛び跳《は》ねて、老人のその視線を遮《さえぎ》ろうとした――が、もちろんそんなものが間に合うはずもない。老人はまっすぐにあの二人のことを見据《みす》えている。
「ま、待てアルト老《ろう》、あれはだな、なんというかその、いま貴方《あなた》が考えているようなものではなくてだな、ええとその……」
両手をぶんぶんと振りまわし、大急ぎで言い訳を探した。そして思うように言葉が出てこない自分の頭に軽く失望した。嘘《うそ》を吐《つ》くことになど慣れていない。慣れていないことを突然《とつぜん》にやろうとしても、うまくいくはずがない。
果たして老人は、まるでこちらの言い分になど耳を貸さず、まっすぐに中庭の光景を見据えたままで、
「若造《わかぞう》が、だらしない顔になりおって」
なぜか嬉《うれ》しそうに、そんなことを言った。
「へ?」
あまりに意外な言葉が聞こえたので、振り回した両手をぴたりと止めて、思わず間《ま》の抜《ぬ》けた声を出してしまった。
「……なんじゃ、その顔は」
「いや、何というか、少し意外だった」
「何がじゃ」
「放《ほう》っておいて良いものなのか、ええと、その、ああいう組み合わせは?」
「ああ――まぁ、確かに、誰かに見つかればそれなりに問題かもしれんがの、儂ゃ年のせいか、最近めっきり遠いものがよく見えんよーになってもーてな。誰が何をしとるのか、よく分からんのじゃよ」
わざわざそっぽを向きながら、妙《みょう》なことを言う。
「アルト老」
「それにじゃな。美しい姫君に恋《こい》をするのは騎士の特権《とっけん》じゃ。その特権を踏《ふ》みにじってまで守らなければならんような体面なんぞ、どこにもないわい」
「は」
さらに輪《わ》をかけて妙な言葉が聞こえた。
「こ、恋?」
一番|違和《いわ》感のあった言葉を抜き出して、尋《たず》ね返してみる。
「そんな意外そうな顔をするもんでもなかろーに。どこのおとぎ話にも似たような話は溢《あふ》れかえっとるじゃろ?」
「いや、それは、しかし」
確かに、それはまあ、その通りではある。おとぎ話に出てくる騎士なんてものは、姫君に惹《ひ》かれて恋して、その恋心をもって何かの戦いに飛び込んでいくものだと相場が決まっている。
けれど、おとぎ話と現実は違うのだ。
これといって大きな戦争のないいまのこの国において、騎士というのは、金余りの貴族たちが自分たちの体面を適当に守るために利用する、腐《くさ》った政治システムのひとつに過ぎない。つまり自分の家に置いておいても何もしないドラ息子《むすこ》を騎士団に押《お》し付けることで、「あの子はこの国を守るために誇《ほこ》りをもって戦っている」という言い訳を得るのだ。ちなみにこのときに騎士団に寄付する金額の大小によって、そのドラ息子が騎士団の中で得ることになる功績《こうせき》が予約されたりもするらしい。
そんな連中に、まさか恋だのなんだのといったロマンチシズムに縁《えん》があるとは、到底《とうてい》思えなかった。
「……だいたい、アヴィンは、あの男は、騎士でもなんでもないだろう。鎧《よろい》も着込まなければ剣《けん》も握《にぎ》らない、ただの園丁の息子だ」
「ま、確かにそーじゃな」
老人はなぜかそこで曖昧《あいまい》に笑う。
「騎士になりたくても、なれなかった。姫君を守って戦いたくても、それも許されなかった。どちらかと言えは、騎士というより、道化《どうけ》の生きざまじゃな」
すこし、むっときた。
自分が先に言い出したこととはいえ、アヴィンのことを、あるいは彼の生き方そのものを悪く言われたことに、腹が立った。
「――納得《なっとく》できんようじゃな?」
できない。できるはずがない。
「ならば、その不満をしっかり抱《かか》えておけ。今はまだ幼いお主も、いつか長《ちょう》じれば、この国を動かす力となるじゃろう。その時その不満を忘れずにいられれば、それはお主が理想を追うための心の力となる」
「……」
ずるい、と思った。
急に優《やさ》しい顔にならないでほしい。急に重たい言葉を遣《つか》わないでほしい。そんなことをされたら、もう、何も言い返すことができなくなってしまう。
「さて、お喋《しゃべ》りはこのへんまでにしといて、じゃな」
ぽん、と老人の大きな手が頭の上に置かれた。
「む?」
「楽奏《がくそう》の教師が既《すで》に部屋で待っとる。さっさと戻《もど》って、しごかれてこい」
「……ぬぅ」
不満に眉《まゆ》を寄せたが、それは今さら、何の抵抗《ていこう》にもならなかった。
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▼scene/3 その地には思い出がない 〜welcome to starting line〜
10.
今から、七年ほど前の話だ。
当時の王の唐突《とうとつ》な死が、ペルセリオという国を迷走《めいそう》させ始めた。
まず、王はまだ若く、子は幼《おさな》い姫君《ひめぎみ》がただ一人きりだった。そして、直系の血筋を重んじる国の法によって、王位はその姫君が継《つ》ぐことに否応《いやおう》もなく決められた。
しかしまさか、そのような子供に国の政《まつりごと》を直接|任《まか》せるわけにはいかない。誰か有力な貴族を摂政《せっしょう》として立てる必要があるのは自明《じめい》だった。
だから――王都リーグナットに、血の雨が降り注いだ。
四人の貴族が、王家に対する叛意《ほんい》を疑《うたが》われ、処刑《しょけい》された。
八人の貴族が、原因不明の奇病《きびょう》に罹《かか》って命を落とした。
十一人の貴族が、正体不明の暴漢《ぼうかん》に襲《おそ》われ惨殺《ざんさつ》された。
何人もの貴族が、静かに王都を去り、自領へと帰っていった。
先王の妃《きさき》、幼い女王の母親は、相次《あいつ》ぐ悲劇の報《ほう》を聞くうちに胸を病《や》み、娘《むすめ》の将来を案じながら、ひっそりとこの世を去った。
ほんの一月も経《た》たないうちに、それまでペルセリオにいた貴族の半数近くがいなくなった。それからさらに一月後には、残された貴族の中で随一《ずいいち》の権勢《けんい》を誇《ほこ》っていたオルゴンティ伯《はく》が、そのまま何の障害《しょうがい》もなく摂政の座《ざ》に腰《こし》を下ろした。
そのあまりの手際《てぎわ》の良さに、王はオルゴンティ伯によって暗殺されたのだという噂《うわさ》も流れた。が、その真偽《しんぎ》を確かめようという者はもはやいなかったし、そのための時間もありはしなかった。全ては白でも黒でもない曖昧《あいまい》な色のまま、しかしまっすぐ確実に進んでいった。
そして、幼い女王は、オルゴンティ伯の指示によって、人知れず幽閉《ゆうへい》された。
冷たい牢獄《ろうごく》ではないが、それとほとんど変わらない場所に閉じ込められた。
ペルセリオの国領の外れ、山間《やまあい》にある古城……いや、廃城《はいじょう》。
幾層《いくそう》にも重なった埃《ほこり》と蜘蛛《くも》の巣を払《はら》い、申し訳程度に居住空間としての体裁《ていさい》を整えられたそこに、女王と、その身の回りの世話をする十人余りの使用人と、監視《かんし》者を兼《か》ねる数名の衛士《えじ》とが押《お》し込められることとなった。
オルゴンティ伯は、女王のことを、ただの五つの子供と見ていた。
五つといえば、まだほとんど赤子と大差《たいさ》のない年齢《ねんれい》だ。少なくとも、体格的にも精神的にも、一人の人間として脅威《きょうい》に数えるには価《あたい》しない。
脅威が生じるとしたら他の貴族が何かを企《たくら》む時に御輿《みこし》に担《かつ》ぐ可能性くらいだが、それも辺境の城という牢獄によって防《ふせ》ぐことができる。だからそれは、盤石《ばんじゃく》の手であるはずだった。オルゴンティ伯の勝利は確定し、その後の、長きに旦《わた》る栄華《えいが》の日々は約束されたはずだったのだ。
†
オルゴンティ伯が知らなかった事実が、幾つかある。
例えば、女王の父である先王は、大の遊戯《スカッキ》好きで知られていた。
玉座を離《はな》れ私人《しじん》としての顔を見せる時には、必ずと言っていいほど、手近なところにいた誰かを捕《つか》まえ、相手をさせた。ふだんは静穏《せいおん》な人柄《ひとがら》であったが、その時だけはまるで遊びに駆《か》け出す子供のような無邪気《むじゃき》さと強引さを見せていた。
しかし、彼が存命だった最後の半年ほどの間、その習慣《しゅうかん》はばたりと止まっていた。彼の周《まわ》りに仕えていた者たちは、少しだけ寂《さび》しげに、ほっと安息《あんそく》の息を吐《つ》いていた。そしてその誰もが、「いきなり何があったんだろう」と首を傾《かし》げながらも、その理由については深く考えなかった。
もちろん、オルゴンティ伯も、その理由を知らなかった。
……ほとんど中毒といっていい先王の遊戯《スカッキ》に毎晩付き合っていたのは、当時わずか四|歳《さい》の、彼の娘だった。娘は凄《すさ》まじいまでの遊戯《スカッキ》の才を発揮《はっき》し、最初は指南《しなん》役であったはずの父をあっという間に追い抜《ぬ》いた。最初はただ娘と趣味《しゅみ》を共有できることが楽しくて、途中《とちゅう》からは実の娘を相手に連戦連敗を続けているというのが悔《くや》しくて。つまりそれが、先王が娘以外の人間を相手に遊戯《スカッキ》を挑《いど》まなくなったことの真相だった。
例えば、女王は、城の図書庫の片隅《かたすみ》で、四冊の本を見つけたことがあった。
そのうち一冊は、学者が自分の研究成果をまとめたノートだった。もともとは私的なメモだったものなのだろう、決して読みやすいものではなかった。要点のみが書かれ、前提となる知識《ちしき》はことごとく省《はぶ》かれている。仮説と実証《じっしょう》とが入り混じり、その順序もまるで整理されていなかった。
目を通したところで、常人には理解などできるはずがない、紙の束。
彼女はそのノートを精読し[#「彼女はそのノートを精読し」に傍点]、内容を理解した[#「内容を理解した」に傍点]。
目の前にある残りの三冊が魔法書《グリモア》と呼ばれるものであることを知った。そしてそれらが、しかるべき適性《てきせい》を持つ人間に託《たく》されさえすれば、とんでもない力に相当する兵器となるであろうことも。
そんなことがあったと、もちろんオルゴンティ伯は知らなかった。
そして――
『見えるか、エンリケッタ?』
女王は、父に連れられて、城のもっとも高い鐘楼《しょうろう》の上に昇《のぼ》ったことがあった。
風が強く、またまともに手すりの類《たぐい》もつけられていない。誰がどう見ても危険なそんな場所に、王たる者が近づくなど、本来ならば言語道断《ごんごどうだん》もいいところである。が、父は『ばれなければ良い』と言い切ったし、女王もまた『そういうものかもしれない』と納得《なっとく》してしまった。そういう親子だったから、実に堂々と、かつこそこそと、この悪だくみを実行してのけた。幸いにして臣下《しんか》の誰にも見つかりはしなかったが、もしそうでなかったら失神者の一人や二人は出ていたかもしれない。
『|この国《ペルセリオ》は広い。大陸全土の中で比べれば小国に分類《ぶんるい》されるのかもしれないが、そんなことは関係ない。広いものは広いんだ。そうだろう?』
鐘楼から見える景色は――確かに、広かった。
すぐ眼下には、王都リーグナットの町並み。
数えきれない、いやそもそも数える気すら起こらない、何万という数の、石造りの建物たち。そしてそこに息づく、さらに何倍もの数の人々。
町の外壁《がいへき》の向こうには、若い緑色に輝《かがや》く草原。
さらにその向こうには、右を見ても左を見ても、どこまでも続く地平線――
くらり、と目がくらんだ。
よろめきかけた肩《かた》を、父の大きな手が支えた。
『いま目の前にある雄大《ゆうだい》さをまず感じ取れ。そしてこの景色ですら、国という器《うつわ》から見ればごく小さなものであることを想像しろ』
噛《か》んで含《ふく》めるようにして、父は言った。
『その広い国土に、大勢《おおぜい》の人間が住んでいる。その大勢の人間の命と生活とを、王たるものは預《あず》けられている』
女王は、目前の光景から目を逸《そ》らし、父の顔を見上げた。
父の目は、まっすぐに、眼下の町と地平とを見据《みす》えていた。
『……お前の母親は、もう子供の産めない体だ。これから先、もし私に何かがあれば、お前が女王となるだろう』
娘の頭にその手を置いて、軽く髪《かみ》の毛を乱《みだ》しながら、父は言った。
『その時には――この国を頼《たの》むぞ、エンリケッタ』
父親にとっては、それは独《ひと》り言《ごと》のようなものだったのだろう。
自分の娘に向けた言葉は、そのまま自分を鼓舞《こぶ》する言葉でもあった。いつの日か実際に娘にバトンを手渡《てわた》すまで、自分がその道を走り通すという決意を固めるための、儀式《ぎしき》のようなものだった。
だが、結果として、その決意は無為《むい》のものとなった。
それから国王として何かを為《な》すよりも早く、父親は死んだ。
だから――父親の遺《のこ》した言葉は、そのまま文字通り、娘の心に遺言《ゆいごん》として刻《きざ》まれた。
オルゴンティ伯は言うに及《およ》ばず、本人の他の誰にも与《あずか》り知らぬところで――
少女の胸の中には、深くそして確かに、女王の責務が烙印《らくいん》されていたのだ。
11.
『古木《こぼく》の庭』と接触《せっしょく》するための、確《かく》たる方法を持っていたわけではなかった。ただ彼らがいるはずの都市まで行って、あとは足で手がかりを探すつもりでいた。ジネットの内に在《あ》る魔法書《グリモア》『|琥珀の画廊《イストワール》』は、そのような地道な調査にあって充分《じゅうぶん》な助けとなる。
……とはいえ、決してそれが最高のやり方ではないことも間違《まちが》いない。いくら魔法《ウィッチクラフト》の助けがあると言っても、所詮《しょせん》は行き当たりばったりの出たとこ勝負であることに違いはないのだ。そこに確実性はないし、より確実に目的に迫《せま》れる手段が他にあるというのなら、それを拒《こば》む理由とはなりえない。
だから、ジネットは結局、女王《レジーナ》の……エンリケッタの申し出を受けることにした。そして王城《パレス》の面々の前でそのことを告げると、
「…………」
エンリケッタは無表情のまま、ただ頷《うなず》いた。
「わ……あっ」
ソルは、見た目にも分かりやすく、笑顔《えがお》になって喜んだ。
「……まじかよ?」
クリストフは一人、喜ぶ事も出来ず嫌《いや》がることも許されず、なんとも微妙《びみょう》で複雑な表情になっていた。たぶん自分も似たような顔になっているのだろうとジネットは思う。
〈そんで、結局これからどうするんじゃ?〉
アルト老が尋《たず》ねると、ソルはエンリケッタのほうを振《ふ》り返った。
エンリケッタは、クリストフのほうを振り返った。
クリストフが振り返った先には、動きを止めて静かに佇《たたず》む人形が一体あるだけだった。もちろん人形は答えを返すことなどできないわけで、クリストフは「畜生《ちくしょう》」と小さくうめくと、何かを諦《あきら》めたような顔で、
「まずは拠点《きょてん》を据える。今後の作戦を決めんのはその後だ。……一応、あそこの街にゃ、使えそうな場所が一か所、あるからな。
それでいいんだろ、女王サマ《レジーナ》?」
肩を落としてそんなことを言う。
こくん、と当の女王サマ《レジーナ》が頷いていたところを見ると、どうやらそれでいいという話であるようだった。
†
夕刻前に、列車は駅に着いた。
全員でぞろぞろと列車を降りる。その後ろにさらにゆらゆらとついてきたローブの人影《ひとかけ》たち――壊《こわ》れずに残ったクリストフの人形たち――は正直不気味だったが、まさか置いていけと言うわけにもいかない。こめかみを押《お》さえて、なんとか堪《こら》えた。自分でもずいぶんと心が広くなったものだと、しみじみと感心してしまう。
そこから公営の乗合馬車に乗って小《こ》一時間。
町の中心からはやや外れた、閑静《かんせい》な一画に出た。
鉄拵《てつごしら》えの、実に立派な門の前に立った。風格を感じさせる黒い塗装《とそう》。絡《から》み合う蔦《つた》をあしらった、実に典雅《てんが》で優雅《ゆうが》な飾《かざ》り細工。そして、右を見ても左を見ても、門と同じ色の黒い鉄柵《てっさく》が、視界の限りに並んでいるのが見える。そしてその柵の向こう側には、これまた実によく手入れの行き届いた、緑の庭園。
これはどうやら、この門の向こうは、相当の資産を持った誰かの私有地だ。
偉《えら》い貴族か大商人か、もしくは私腹《しふく》を肥《こ》やした腐《くさ》れ聖職者か、だいたいそんなところだろう。そしてジネットは、そういう類《たぐい》の人間が好きではない。
「ここだ」
クリストフが投げやりに言って、門を押し開いた。
「入んな」
「……王城《パレス》の協力者の屋敷《やしき》か?」
ジネットが尋《たず》ねると、
「あー、そんな感じのモンだ。少なくとも気兼《きが》ねだけは要《い》らねえよ」
投げやりな声で、そんな答えが返ってきた。
〈誰がどうでもええが、早く腰《こし》を下ろして休みたいものじゃわい。この老体《ろうたい》に長旅はちいと応《こた》えるもんでな〉
ジネットの腕《うで》の中、自分の足では一歩も歩いていない怪奇《かいき》人形が、そんなふざけたことをぼやいた。が、さすがにそろそろジネット以外の全員もこの人形の扱《あつか》いを弁《わきま》えてきたようで、誰一人としてまともに取り合いはしなかった。
〈ううう、さびしい……〉
もちろんその呟《つぶや》きに対する扱いも同様である。
広い庭園の中に通された歩廊《はろう》を行く。
ややあってから、木立のカーテンの向こう、屋敷がその姿を現す。
庭園の広さに比べれば、随分《ずいぶん》と小ぶりに見える――しかし間違いなくかなりの大きさの屋敷だ。嫌《いや》みのない程度に飾りの施《ほどこ》された白い壁《かべ》は、よほど日頃《ひごろ》の手入れが行き届いているのだろう、まるで建てられたばかりのような光沢《こうたく》を放《はな》っていた。
「…………」
いわれのない警戒《けいかい》を強めるジネットの目前、やれやれといった顔でクリストフが正面の扉《とびら》に近づき、ノッカーを鳴らす。
「はぁい、今参ります」
扉の向こうから元気な少女の声の返事があった。
足音はなく、ただ気配だけが扉に近づいてくると、鍵《かぎ》を外して、扉を開く。
「――あ、」
この家の使用人なのだろう、紺《こん》のブラウスに白のエプロンドレスという分かりやすい姿のその少女は、扉の向こうからこちらの……いや、クリストフの姿を認めて、ぱあ、と表情を華《はな》やがせた。
「おぼっちゃま!」
「…………」
「…………」
「…………」
〈…………〉
「待て」
突然《とつぜん》の沈黙《ちんもく》に、クリストフが振り返って抗議《こうぎ》の声を上げる。
「とにかく待て。そんな目で俺を見るなお前ら。つーかコラ、ケイトてめぇ、おぼっちゃまは止《や》めろと何回言えば分かるんだ」
「ええ、それはもちろん、一度申しつけて頂《いただ》ければ、理解は致《いた》しますとも」
しれっとした顔で、エプロンドレスの少女はその抗議を受け流す。
「しかし理解はしても、それに従うか否《いな》かというのは、また別の問題となりますから。私達にとっての貴方《あなた》はいつまでもおぼっちゃまですから、ただ止めろとだけ申されても、そう容易《たやす》く改められるものではありません」
「改める気がねぇだけだろうが!」
「そうとも申します」
「開き直ってんじゃねぇ!……って、あー……」
ばつの悪そうな顔で、振り返る。
「つーわけで、あれだ。ここがその、なんつーか、俺んちだ」
こくん、とエンリケッタが頷いた。
「おぼっちゃま……」とソルが呟いた。
そしてジネットはといえば……とりあえず、硬直《こうちょく》していた。
いま一緒《いっしょ》にいるのは、決して仲間というわけではない、むしろはっきり敵だと言ってもいい者たちだ。決して気を許すわけにはいかない。その緊張《きんちょう》感がジネットの顔を強《こわ》ばらせていた。そこにきて、よりによって、コレである。
無表情を貫《つらぬ》くこともできず、さりとて素直《すなお》に笑いだすこともできず。結局そのふたつの相反《あいはん》する表情の間に弄《もてあそ》ばれ、ジネットの頬《ほお》はキテレツな形にひきつった。
〈……クリストフ、お主、こんなとこの生まれじゃったのか?〉
「いや、なんつーか、生まれは別なんだが、色々とあってな……」
やりにくそうに、不精《ぶしょう》ひげにまみれた頬を掻《か》いて、
「って、ンな話してる場合でもねぇだろが!
ケイト、見ての通りの客人だ! 部屋と食事の準備、始めてこい! あと、アデルが寝《ね》てやがったら叩《たた》き起こせ!」
「お客人……」
少女の目が、ちろーりとこちらを見渡《みわた》して、
「早目に鳩《はと》でも飛ばしておいて頂ければ、御馳走《ごちそう》の準備が出来たんですけども」
「いいからさっさと仕事しやがれ!」
「はい」
実に素直に、いい笑顔《えがお》を浮《う》かべて、
「それでは、改めまして――おかえりなさいませ、おぼっちゃま」
柔《やわ》らかくそう一礼してから、くるりと身を翻《ひるがえ》し、屋敷の中へと戻《もど》って行った。
「……だから、おぼっちゃまは止めろっつってんだろが……」
取り残される形となったクリストフが、実に苦々《にがにが》しい声で、そううめいた。
「…………」
「…………」
「…………」
〈…………〉
「……だから、そんな目で俺を見るなっつってんだろって……」
心底|疲《つか》れたような声で、クリストフはもう一度、そううめいた。
†
「おぼっちゃま……だと?」
小綺麗《こぎれい》な客室に通され、「お食事が出来ましたらお呼びしますね」とケイトが退出してから、ようやく、ジネットはその言葉を呟《つぶや》いた。
〈なんじゃ。そんなにツボにはまったんか?〉
「いや……違和《いわ》感が大き過ぎて、今の今まで頭が現実を拒否《きょひ》していた」
〈ああ、それは、よくある話じゃな〉
「よくあるのか?」
〈ああ、よくある話じゃ〉
そうか。それはまた、嫌な話だ。
ベッドに向かって、腕《うで》の中の人形を放《ほう》る。ぼふ、と柔らかそうな音を立てて、布団《ふとん》の中にアルト老が埋《うす》まる。
そして自分は、手近な椅子《いす》を引き寄せて、それに腰かける。
「……あの連中に付き合っていると、どうにもテンポが狂《くる》うな」
〈ずっと重い顔しとるよりは、なんばかマシじゃよ。『人生に小ネタ在《あ》れ』っつーのが、儂《わし》の父親の遺言《ゆいごん》でな〉
「なるほど、家系か」
〈いやお主いま何をしみじみと納得《なっとく》したんじゃっ!?〉
ぼふん、と布団の上で抗議《こうぎ》の音が跳《は》ねる。
上品で、良い部屋だった。
ほどほどに豪奢《ごうしゃ》、とでもいうのだろうか。置いてあるもののことごとくが、見た目にも分かりやすい高級品であり、しかし決してそれが厭味《いやみ》ではない。ある意味で成金|趣味《しゅみ》の対極《たいきょく》、資産を持つことに慣れた者に特有の、不自然さのない調度《ちょうど》の選び方。
ここが、何代も続いた、歴史ある資産家の家なのだということが窺《うかが》える。
〈まぁ、遊んどる場合でもない、か。そろそろ本題に入るぞ。王城《パレス》の面々のおらん今のうちに、これからの方向性について決めねばならん〉
急に声色《こわいろ》を変えて、アルト老が宣言《せんげん》した。
その落差に多少|戸惑《とまど》いはするものの、いつものことなので特に追及《ついきゅう》はしない。
「……何を決めようというのだ? 王城《パレス》が私に何をさせるつもりなのか。そもそも奴《やつ》らの狙《ねら》いは何で、何を手駒《てごま》として持っているのか。それらが分からぬままでは、方向性もなにもあったものではないだろう」
〈いや、そっちの話ではなくだな。もっと根っこの話になるんじゃが〉
「どういうことだ?」
〈お主には、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を諦《あきら》めるという選択肢《せんたくし》がある〉
「…………………………………………」
どれだけ長い間、自分は呆《ほう》けていたのだろうか。
それすら分からなくなるほど、アルト老のその言葉は、意外だった。
「今……何と、言った?」
〈あくまで選択肢の話じゃが、決して意味のない妄言《もうげん》ではないぞ〉
「諦めると、言ったのか」
〈今のお主がこのまま戦い続けるのは厳《きび》し過ぎる。ならばいっそ、多少風変わりな一人の小娘《こむすめ》として、平和な日常の中で幸福を掴《つか》む道もあるじゃろう〉
「ふざけるな!!」
思わず、叫《さけ》んでいた。
「選択肢がある、だと!? 何を血迷《ちまよ》ったことを言っている!
今さら、そんなことができると、本気で考えているのか!?
風変わりな一人の小娘!? 冗談《じょうだん》ではない、ここまで血塗《ちぬ》られた手を持つ小娘が、この世界のどこにいるというのだ!」
〈……何事も、まずは最初の一人からじゃよ?〉
「だからふざけるなと言っている!」
〈ふざけとるわけではないんじゃがな……〉
ぽりぽりと頭を掻《か》く。
〈いちおう、今の話にひとつ補足《ほそく》をしておこう。どうやら既《すで》に諦めとったようじゃが、お主は、そうと望めば、リュカ・エルモントを取り戻せる〉
「…………」
そういえば、あの列車の個室《コンパートメント》の中でも、アルト老はそんなことを言っていた。あの時は邪魔《じゃま》が入って、その話を最後まで聞く事は出来なかったが。
〈レオネルを倒《たお》した直後に、お主がリュカに対してやったことを思い出せ。妖精《フェイ》を相手に、『|琥珀の画廊《イストワール》』によって過去を呼び起こし、それを固定することは可能なんじゃ〉
「……あ……」
〈気付いたか? ならば、後の理屈《りくつ》も簡単に想像がつくじゃろ。
今のあの妖精《フェイ》の少年に対して、同じことをしてしまえばいい。そうすれば、あの少年の過去としてリュカ・エルモントが呼び起こされるじゃろう。
それを維持《いじ》するためにはお主が力を費《つい》やし続けねばならんというのが難点《なんてん》ではあるがな。
幸いレオネルの時とは違《ちが》い今のお主にダメージは無いし、戦い続ける生活から離《はな》れさえすれば、しばらくはそのまま、平和に暮《く》らしていけるじゃろ。
分かったか? お主の望みのひとつは、叶《かな》えられるんじゃよ〉
「なる……ほど、な……」
理屈は理解できた。ジネットは一度小さく頷《うなず》いてから、
「論外《ろんがい》だ」
きっぱりと、切って捨てた。
〈ふむ〉
「それはつまり、今あそこにいるソルを、殺すということだろう」
〈ま、そうなるわな〉
「ならば、話にならない。今確かにそこにいる個人を踏《ふ》みにじってまで、自分の欲を満たしたいなどとは思わない」
〈……ま、そう答えるじゃろうな、お主なら〉
ぽふん、とベッドの上で軽く跳《は》ねて、アルト老は床《ゆか》へと降り立った。
〈熱くならんでも、お主がそう答えるじゃろうことは分かっとったよ。『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を追うことも諦めんじゃろうし、安易《あんい》にリュカを取り戻《もど》そうともせんじゃろう、そこまでは儂も確信しとった〉
「……本当か?」
〈不死者《レヴナント》の言葉じゃ、信用せい。
儂ゃ単に、お主にもう一度、覚悟《かくご》をやり直させたかっただけじゃよ。
本気でこれからも戦い続けるつもりなら、惰性《だせい》で進むわけにもいかんじゃろ。戦わずに済んだ選択肢とはしっかり決別しとかんと、いつどこで心が折れるかも分からんようになるからのう〉
「…………」
ジネットは特大のため息を吐《つ》いて」
「性格の悪い怪奇《かいき》人形だ」
〈長い間、手のかかる小娘《こむすめ》のお守《もり》をやっとると、どうしてもな〉
しれっとした声で、アルト老は答えた。
こんこん、と控《ひか》え目に扉《とびら》が叩《たた》かれる。
「ハルヴァン様、バルゲリアル様、お食事の準備が出来ました」
「ああ……今行く」
休めていた身をゆっくりと起こし、軽くのびをして筋《すじ》をほぐす。
〈ようやくか。儂やもうハラが減《へ》ってハラが減って倒《たお》れそうじゃわい〉
ふざけたことを呟《つぶや》いている人形の首ねっこをつかみあげると、部屋を出る。
†
――悪い冗談が、夕餉《ゆうげ》の席に座《すわ》っていた。
その冗談は、爽《さわ》やかな石鹸《せっけん》の匂《にお》いでも漂《ただよ》わせていそうな、男の姿をしていた。
油を使ってしっかりと撫《な》でつけられた灰色の髪《かみ》。きっちりとアイロンのかけられた黒のスーツ。不精《ぶしょう》ひげなどというものは、もちろん跡《あと》も形も残っていない。ただ、「俺は不本意なんだ」と主張している濁《にご》った眼光《がんこう》だけが、その男の素性《すじょう》を語っていた。
「……もしかして」
その場の全員を代表して、ソルが口を開いた。
「クリストフ、なの……?」
「悪《わり》ぃかよ」
男は、確かにクリストフの声で、うめくように答えてきた。
「悪いっていうか、その……ありえない?」
〈そうじゃな、ありえんな〉
「そうだな、私も同意しよう。それはありえない」
「…………」
女王以外の三人は言葉で、女王一人だけが首肯《しゅこう》で、同じことを言う。
「……いいからメシ食おうぜ、メシ」
ぐったりと疲《つか》れた顔で、クリストフはうめく。
クリストフの提言は受け入れられた。食事が始まる。
食卓《しょくたく》は、ジネットが思っていたよりも、随分《ずいぶん》と豪勢《ごうせい》だった。
クリストフはここの館《やかた》の使用人たちに、自分の帰還《きかん》および自分たちの来訪《らいほう》について予《あらかじ》め知らせたりはしていなかった……少なくとも先ほどの玄関《げんかん》先でのやりとりからするとそうとしか思えない。一人や二人だけならまだ分からないでもないが、これだけの大人数が不意打ちで食卓につくとなれば、食材の調達すらままならないはずだった。
だというのに、例えばいまジネットの目の前にあるボウルに盛《も》られたサラダは、見るからに収穫《しゅうかく》直後ですと言わんばかりに瑞々《みずみず》しい。隣《となり》の皿に載《の》ったソテーのほうも、塩漬《しおづ》けや燻製《くんせい》のような保存処理をされた肉ではない。大量に買いだめておいたものを調理しました、などという簡単な話ではないはずだ。
どういうことだろう、と内心だけで首を傾《かし》げていたら、どうやらそれが顔に出てしまったようだった。クリストフの背後に控《ひか》えたケイトは、
「そこのアデルさんが、山向こうの牧場まで死ぬ気で走りました」
にこにこと実に気持ちのいい笑顔《えがお》で、そんなことを言う。
「ほんとに死ぬかと」
もう一人、テーブルを挟《はさ》んで反対側に立った使用人の少女が、暗い声で呟く。つまりこの少女が、いま名前の出たアデルなのだろう。
「……なんというか、まぁ、ご苦労だったな」
「どーも」
無愛想《ぶあいそ》にぼそぼそと、礼らしきものが返ってきた。
〈ふむ。これは、なかなか〉
テーブルの上に腰《こし》を下ろし、小さな串《くし》をフォーク代わりに、アルト老はシチューの豆にかじりついている。自身の握《にぎ》りこぶしよりもふたまわり大きなそれが、はぐ、はぐ、はぐ、と見る間に平《たい》らげられてしまう。
長い付き合いであるジネットにとっては見慣れた光景だが、他の面々にとってはそうではない。ソルは目を丸くして、エンリケッタは少しだけ瞳《ひとみ》を揺《ゆ》らして、小さな人形の健啖《けんたん》ぶりを眺《なが》めている。
クリストフやケイトたちは……ちらりとだけ一瞥《いちべつ》して、それきりだった。意外と言えば意外だが、やはり『|木棺の宣誓《アニュレール》』の主とその使用人というだけあって、非常識な人形が奇行《きこう》に走る姿など見慣れているということだろうか。
「可愛《かわい》い」
ぼそり、とアデルが低い声で呟いたのが聞こえた。
見た目に崩《だま》されるな、などと忠告しようかとも思ったが、止《や》めた。
〈食卓での食事も久しぶりじゃのう……〉
細かく刻んだ芋《いも》にかぶりつく手を休め、何やらしみじみとアルト老が呟く。その姿に何か感じ入ることでもあるのか、ふるふると、何かをてらえるようにアデルの体が揺れる。
……いや。そんなことはどうでもいい。
「それで? そろそろ本題に入りたいのだが」
かちん、と小さな音をさせて、エンリケッタの手が止まる。
少し遅《おく》れて、ソルもまた、ソテーにナイフを入れていた手を止め、そのままの姿勢できょろきょろとこちらとエンリケッタの間で視線を彷徨《さまよ》わせる。
「あれだけ険悪な状況《じょうきょう》にあって、わざわざ私に力を貸せなどと声をかけた。相応の理由があってのことだろうが、具体的には何をさせたいというのだ?」
しばらくの時間をあけて、
「少し、待ってください」
あの淡々《たんたん》とした声で、エンリケッタは答えた。
「何をだ」
「協力者からの、報《しら》せが来ます」
それきり、エンリケッタは口をつぐんだ。
協力者というのはつまり誰のことなのか、いったい何についてのどういう報せが来るというのか、そもそも何をやらせたくてジネットに協力を請《こ》うてきたのか。そういった重要であるはずの事柄《ことがら》について、エンリケッタは何も話そうとしなかった。
たぶん、自分は、ああいう態度の人間が嫌《きら》いなのだ。
協力しようとか、協力してくれとか、そう言って握手《あくしゅ》を求めてくるのに、自分の手の内は明かさない。そればかりか、手の中に隠《かく》されたカードのことを、まるで挑発《ちょうはつ》するようにちらつかせて見せてくる。
学術院《ライブラり》のライア・パージュリーといい、この王国《パレス》のエンリケッタ・テレーザ・ヴァルトンといい、そういうところが実によく似ている。この世界に足を踏《ふ》み入れた若い女は必然的にそういう性格になるとか、そういう隠れた法則が働《はたら》いていたりするのだろうか。
「…………」
分かっている。正しいのは彼女たちのほうなのだと。
その時点では協力し合う関係であったとしても、それぞれが求めるものが食い違《ちが》っている以上、最終的には敵同士になるのだ。
ならば必要以上に馴《な》れ合う必要はない。いやむしろ、両者の間に明確に線を引いておくことは、むしろ誠意《せいい》ある態度《たいど》だとすら言っていいかもしれない。
それが、自分のエゴのために戦う者たちの考え方だ。自分が生きてきた世界であり、これからも生きていく道だ。敵意と隔意《かくい》と警戒《けいかい》に満ちた、正しい人間関係。
ああ、苛立《いらだ》つ。
先刻のアルト老の言葉のせいで、余計に自分の心が惑《まど》っているのが分かる。それが自覚できるから、なおさらに、そんな自分自身が苛立たしかった。
12.
その夜、ジネットは夢をみた。
夢の中のジネットは、灰色の砂漠《さばく》の中に、ぽつんと一人で立っていた。
右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを振《ふ》り返っても、空を仰《あお》ぎ見ても砂に目を落としても、他に誰の姿も見えなかった。見渡《みわた》す限りの灰色の真ん中で、ジネットは完全に一人きりだった。
大声を出して、誰かの名前を呼ぼうとした。けれど誰の名前も声に出なかった。息を吸って、吐《は》いて、肺が痛くなるほどそれを繰《く》り返して、けれどまったく喉《のど》が役目を果たしてくれなかった。
どこかに人を捜《さが》しに行こうとしても、足が動かなかった。わけの分からない恐怖《きょうふ》に囚《とら》われて、ただの一歩たりとも前に進もうとはしてくれなかった。
そうだ、『|琥珀の画廊《イストワール》』。
天啓《てんけい》のように、夢の中のジネットの頭の中に、そのアイデアが浮《う》かんだ。さっそく|夜の軟泥《ワルプルギス》を展開し、自身の記憶《きおく》の中にある光景を、そのまま自分の周りに再現≠オた。
滅《ほろ》びてなどいない昔のシュテーブルと、つい二年前に出たばかりのフェルツヴェンの、二つの風景がごちゃまぜになった石造りの町並み。そしてもちろん、そこには大勢の人間がいて、その誰もがジネットのほうを見ていて、
――その全員の左の眼窩《がんか》からこめかみにかけてが大きくえぐれていて、
――そこに埋《う》め込まれた暗い碧《みどり》色の水晶球《すいしょうだま》が、鈍《にぶ》く妖《あや》しい輝《かがや》きを放っていた。
†
「――っ!!」
無声の悲鳴をあげて、目を覚ました。
柔《やわ》らかなべッドの中、枕《まくら》に頭を載《の》せたまま、目だけで辺りを見回す。
むろんそこは灰色の砂漠ではないし、自分の故郷たち[#「たち」に傍点]を混ぜ合わせた石造りの町並みなどでもない。
灯《あか》りひとつない暗闇《くらやみ》の中に浮かびあがって見えるのは、自分が眠《ねむ》りにつくときに居た場所。つまり、デルガル邸《てい》の客室。
「――――夢……か……?」
心臓《しんぞう》が、ばくばくとうるさいくらいに鳴っている。
寝間着《ねまき》が寝汗《ねあせ》を吸って、びっしょりと重たく濡《ぬ》れている。
目を覚ましたその瞬間《しゅんかん》から、夢の内容を恐《おそ》ろしいほどの速さで忘れ始める。ただそれが恐ろしいものだったのだということだけが記憶に残る。
膝《ひざ》をかかえて泣き出したくなるくらいの、冷たい孤独《こどく》のイメージ。
(――まったく。繊細《せんさい》ぶるような柄《がら》でもないだろうに)
似合いもしないセンチメンタルな悪夢に怯《おび》える自分自身に、思わず苦笑《くしょう》が漏《も》れる。
くかぁ、くかぁ、と小さな寝息が聞こえる。ジネットのベッドのすぐ隣《となり》、赤ん坊《ぼう》用の小さな揺りかごの中、アルト老がだらしのない格好《かっこう》で眠りこけている。
「…………」
その姿がここにあることに小さく安堵《あんど》して、身を起こした。
こんな目の覚まし方をしてしまった以上、しばらく寝なおせそうにない。それに、からからに喉が渇《かわ》いている。
調理場に行けば、汲《く》み置きの水があるだろうか。
廊下《るうか》の窓から見上げた夜空には、ほっそりとした月が浮かんでいる。その位置からすると、今の時間は夜中の二時か三時。朝までは、まだだいぶ時間がある。
かつん、かつん。靴底《くつぞこ》が床《ゆか》を蹴《け》る小さな音だけが、やたらと響《ひび》いて聞こえる。
どうせすぐに見つかるだろうと思って少し歩きまわってみたが、この屋敷《やしき》は無駄《むだ》に広く大きく、なかなか目的の調理場は見当たらない。
仕方がないな、と思って足を止めて、
「探れ[#「探れ」に傍点]」
言葉とともに、ぱちん、と小さく指を弾《はじ》く。その指先から溢《あふ》れだした少量の|夜の軟泥《ワルプルギス》が辺りの闇に染み込み、同化して、取り入れて、そしてカタチを変える。やがてほっそりしたシルエットの小鳥の姿をとった闇は、何羽もに分裂《ぶんれつ》しながら左右の廊下《ろうか》へと散っていく。
わずかな時間が経《た》ってから、わずかな羽音とともに、小鳥たちがジネットの手元へと帰ってくる。軽く掲《かか》げた手の甲《こう》でそれらを受け入れる。小鳥たちが見てきた屋敷の中の間取《まど》りが、直接ジネットのまぶたの裏に浮かぶ。
調理場は、あちらか。
軽く頷《うなず》いて、魔法《ウィッチクラフト》を解除《かいじょ》する。
全《すべ》ての小鳥が闇の中に溶《と》けて消える。と、
「ハルヴァン様、ですか?」
突然《とつぜん》背後から声をかけられて、ぎょっとして振り返った。
廊下の曲がり角に、いつの間にそこに現れたというのか、ケイトが立っていた。
「いかがなされましたか? 何かご用事でしたら、私が承《うけたまわ》りますが」
かつん、かつん。確かな足音とともに、何気ない足取りで、近付いてくる。
真夜中である。普通《ふつう》の館《やかた》であれば使用人たちも当然眠りについているだろう時間だというのに、この娘《むすめ》はなぜか昼間とまるで変わらないエプロン姿のままだ。
「あ……ああ」
なんとか動揺《どうよう》を鎮《しず》めて、
「喉が掃いたのでな。水でも失敬《しっけい》できないかと、調理場を探していた」
「……水、ですか」
「ああ」
「そんなことのために、わざわざ今の魔法《ウィッチクラフト》を?」
悪戯《いたずら》をした子供に呆《あき》れるような、そんな声を出される。
「そういうことに、なるが……」
ジネットは目を細めて、改めて目の前の娘を観察《かんさつ》する。
年は十七か、十八か。てきぱきとよく動く手足の持ち主ではあるが、その歩き方や立ち居|振《ふ》る舞《ま》いを見ていれば、それはあくまで使用人としての熟練《じゅくれん》によるものであり、戦場に立つものとしてのものではないと分かる。
だが……今の言動には、ただの家政婦のそれとしては、違和《いわ》感がある。
魔法《ウィッチクラフト》を操《あやつ》る帯剣騎士《カヴァリエレ》に仕えているのだから、魔法《ウィッチクラフト》や不死者《レヴナント》などについてある程度のことを教えられているというのはありうるし、納得もできる。そもそもそうでなければ、アルト老が動いて喋《しゃべ》っているのを見た瞬間に、もっとややこしいトラブルが起きていただろう。
しかし……果たして本当にそれだけ、なのだろうか?
ただ予《あらかじ》め話を聞いていただけにしては、この娘は落ち着き過ぎてはいないか?
「……ケイト、といったな」
「はい?」
「まさか、君も帯剣騎士《カヴァリエレ》……か?」
その可能性は、充分《じゅうぶん》に考えられた。
「私が、ですか」
ケイトは一度きょとんとなって、
「違《ちが》いますけど」
そうか、とジネットは頷いた。もともと確証があって尋《たず》ねたことでもないし、本人が否定するならばそれ以上の追及《ついきゅう》をするようなことでもない。が、
「もう少しややこしいモノです」
予想以上の答えが追加で返ってくるとは、さすがに考えていなかった。
「……なに?」
「人形ですから、私とアデルさんは」
その言葉の意味を理解するのに、何秒かの時間を使った。
「……な、に?」
「おぼっちゃまの『|木棺の宣誓《アニュレール》』がどのような魔法書《グリモア》であるかはご存じでしょう? 人形を作ることの出来る、というよりそれしか出来ない、不器用な魔法書《グリモア》。その代わり、その人形はある程度まで自分でものを考えて、動きまわることができる……」
知っている。そう、はっきりと聞いたことがある。
二年前のフェルツヴェンで、他《ほか》ならないクリストフ本人の口から。
「一番|簡素《かんそ》な、おぼっちゃまいわく『安モン』の人形については、ハルヴァン様もよくご存じだと伺《うかが》っています」
眼窩《がんか》の位置に暗翠《あんすい》の水晶球《すいしょうだま》を埋《う》め込んだ、あのグロテスクな人形たちのことだろう。ならば確かに知っている。
「あれらよりも少しだけ手の込んだ刻印《ブランディング》を施《ほどこ》されてはいますが、突《つ》き詰《つ》めてしまえば、私たちはあれらの人形と同じです。魔法《ウィッチクラフト》に生かされた、ただの動いて喋《しゃべ》る怪奇《かいき》現象に過ぎません……
だから、|夜の軟泥《ワルプルギス》の動きには、人より、少しだけ敏感《びんかん》です」
お見せするには心苦しいところに埋められているので、水晶はお見せできませんが――などと呟《つぶや》くように言って、ケイトは自身の胸元《むなもと》にそっと手をあてる。
ジネットは言葉がない。
「それで……お水をお探しでしたか。
今お持ちしますから、お部屋のほうで……ああ、いえ、同じ部屋にバルゲリアル様がお休みでしたね。では客間のほうでお待ち頂けますか?」
「あ、ああ」
ジネットが頷くと、ケイトはふわりと頭を下げて、「では」と廊下の向こうへと歩き去って行った。
人形。
人間のように振る舞い、人間のようにしか見えない彼女が、ただの人形。
……その言葉から、アルト老を連想する。が、おそらく両者の本質はまるで違うものなのだろう。もともとは人であったものと、もともとから人ではないもの。
製作者のイメージを投影《とうえい》する被造物《ひぞうぶつ》。
†
魔法書《グリモア》は、人を選ぶ。
少なくとも不死者《レヴナント》には、それに近い自覚がある。これはつまり、以前ジネットが茶会《ティパーティ》の老人に向かって語ったことだ。
魔法《ウィッチクラフト》とは、乱暴にまとめてしまえば、つまり世界を書き換《か》える力だ。そしてそれぞれの魔法書《グリモア》には、それぞれに差のある書き換え方≠備えた魔法《ウィッチクラフト》が……それを可能にする|夜の軟泥《ワルプルギス》が封《ふう》じられていた。
その魔法書《グリモア》が燃えて|夜の軟泥《ワルプルギス》が流れだした時、|夜の軟泥《ワルプルギス》は人に惹《ひ》かれて、人の内側に収まり、不死者《レヴナント》を生み出した。
この時、|夜の軟泥《ワルプルギス》は、少ない選択肢《せんたくし》の中から、少しでも自分の質に合った器《うつわ》を選んだのではないか……と、推測ができる。
支配する力を生む魔法《ウィッチクラフト》が、支配する力を求めた男の内に収まったように。切り離《はな》せないものからの別離《べつり》を行う魔法《ウィッチクラフト》が、まさにそれを望んだ子供の内に収まったように。
あるいは、遠く過ぎ去った過去に焦《こ》がれ、それを取り戻《もど》すことを夢みていた娘《むすめ》の内に、追憶《ついおく》や想起を行う魔法《ウィッチクラフト》が宿ったように。
……魔法書《グリモア》は、人を選ぶ。
それは、不死者《レヴナント》である自分たちが、同じ不死者《レヴナント》たちを眺《なが》め見ることで得た、ただの推論だ。
けれどもしそのルールが本当に実在し機能しているとしたならば、燃えていない魔法書《グリモア》に対しても同じことが言えているのかもしれない。
本のままの魔法書《グリモア》をその手に持ち、限られた範囲《はんい》でとはいえその内の|夜の軟泥《ワルプルギス》を引っ張り出し操ることのできる魔書使い《グリモア・ハンドラ》たちにも、同様のルールが働いているのかもしれない。
人形を造る魔法書《グリモア》。
人形を造ることしかできない魔法書《グリモア》。
クリストフ・デルガルが『|木棺の宣誓《アニュレール》』を扱《あつか》えていることにも、「才能」のような思考停止の言葉以外に、何かの必然性があるのだろうか? やはり『|木棺の宣誓《アニュレール》』もまた、自分の使い手であるクリストフが心の内に抱《かか》えた何らかの望みに応《こた》えているのだろうか? そしてそれが、あのグロテスクな人形たちや、ケイトやアデルを造り上げることにつながっているのだろうか?
†
「ハルヴァン様?」
名前を呼ばれて我に返った。
「客間のほうにいらっしゃらないから、どうしたのかと……」
丸い盆《ぼん》の上に水の入ったボトルとグラスを載《の》せたケイトが、軽く首を傾《かし》げてこちらを見ている。そしてようやくジネットは、自分が廊下《ろうか》の真ん中に立ちつくしたまま考え事をしていたことに気づく。
「あ、ああー……」
我に返って改めて、どうでもいいことだったな、と思う。
クリストフが、いや世の中の魔書使い《グリモア・ハンドラ》がその心の中に何を抱えていようが、関係ない。人が一人いれば、必ず、その人なりの思いがあるものだ。魔法《ウィッチクラフト》に関《かか》わる者だけが特別であるというわけではない。
「済まない、考え事をしていた」
グラスを受け取り、唇《くちびる》を湿《しめ》らせる。
冷えた水に、軽く果実で味をつけてある。まったく細かい仕事をしているものだと小さく感心する。人だろうと人形だろうと、とりあえずこの娘が質《しつ》のいい使用人であることには違《ちが》いない。
「……少し、奇妙《きみょう》なことを聞いてもいいだろうか」
「はい、なんでしょう」
「クリストフは、わざわざその手で作り上げた君たちに、何を望んでいる?」
短い沈黙《ちんもく》。
「いい年になるまで思うような女性と出会えなかったおぼっちゃまは、『|木棺の宣誓《アニュレール》』を手にしたその時に、自分の言うことを何でも聞く従順《じゅうじゅん》な女性をお望みになられまして、私を造られたその日から、それはそれはドロドロと汚《けが》れた命令を……」
「冗談《じょうだん》は要《い》らない」
「……なぜ冗談だと?」
「そんな望みから生まれた人格なら、もう少し主人に従順でもよさそうなものだ」
深く考えずに適当に返した答えだったが、それなりに的《まと》を射《い》てはいたらしい。ケイトは稚気《ちき》を感じさせる表情で落胆《らくたん》を見せると、
「家に帰ってきた時に、誰かに出迎《でむか》えて欲《ほ》しかった、のだそうです。
もともとこの家の主は、元ペルセリオ貴族の老人でして。その方がおぼっちゃまを養子に招《まね》いたのですが、何年も経《た》たないうちに政治的な理由で暗殺され、ここにはおぼっちゃまただ独《ひと》りが残されてしまったんです。
誰かがそこにいて、生活していてくれないと、帰ってきた気になれない。
……お酒に酔《よ》われた時、一度だけ、そう教えて下さいました」
ほんの少しだけ誇《ほこ》らしげに、そう言った。
聞くんじゃなかったかなぁ、と思う。
一人が嫌《いや》だ、自分に連《つら》なる誰かにいてほしいという気持ちは、自分にも理解できる。できてしまう。共感や同情が生まれてしまう。
そんなものを、あの男に対しては、抱《いだ》きたくはなかったかもしれない。
あの男には、いけすかないただの敵のままでいてほしかったかもしれない。
「……私は寝《ね》る。君はどうする?」
「私は、睡眠《すいみん》をとるようには造られていませんから、屋敷《やしき》の掃除《そうじ》の続きを」
「そうか……」
頭を下げるケイトを背後に、ジネットは部屋に戻る。
くかぁ、くかぁ、と変わらず寝息を立てるアルト老を横目に、自身もベッドの中へと潜《もぐ》り込む。今度は妙な夢をみずに済むようにと軽く願いながら、目を閉じる。
13.
たあぁっ!
とあぁっ!
うりゃあぁっ!
……何やら賑《にぎ》やかな声が聞こえてきて、目を覚ました。
まだいまいち眠気《ねむけ》はとれていないが、辺りが明るくなっているところを見れば、どうやらもう朝が来てしまったのだと分かる。仕方がないので身を起こす。
寝ぼけまなこを軽くこすって、カーテンを開ける。
朝の日差しの強い光に、体が半ば強制的に覚醒《かくせい》させられる。
窓を開き、裏庭の景色を視界に入れる。ほぼ真正面、金髪《きんぱつ》の少年が一人、木剣《ぼっけん》を振《ふ》りまわしているのが見える。
(……ソル?)
かけ声は勇《いさ》ましいが、実際の剣の筋はといえばさんざんなものだった。
腕《うで》の力だけで、木剣の重さを強引《ごういん》に振りまわしているだけ。それでも充分《じゅうぶん》な腕力《わんりょく》があればなんとか迫力《はくりょく》だけは確保できたかもしれないが、まだ幼い少年の伸《の》びきっていない手足にはそれすらも望めない。
勢いよく振り下ろした木剣の勢いに引きずられて腰《こし》が浮《う》かび、転びそうになる。慌《あわ》てて足を出して姿勢を整え直すが、その瞬間《しゅんかん》に握力《あくりょく》が弛《ゆる》む。手の中からすっぽ抜《ぬ》けた木剣は、カラカラと耳障《みみざわ》りな音を立てて手近な茂《しげ》みの中へと飛びこむ。ソルは慌ててその後を追いかけていく。
ジネットは特に何をするでもなく、しばらくその姿を眺《なが》めていた。
とりあえず、この少年がどれだけ必死にそれをやっているのかだけは、嫌《いや》というほど伝わってきた。しかし惜《お》しむらくは、その必死さが完全に空回りしてしまっているところだろうか。
技量も能力も才能もない。そして……たぶん他《ほか》にも、色々と足りていない。
一番足りていないのは、おそらく、経験だろう。人と殴《なぐ》り合うということ自体の経験がなく、そのイメージがない。そのせいで、とにかく強い力を込めて木剣を振りまわし、何かに叩《たた》きつけることしか出来ないのだ。
子供らしいといえば、子供らしい。微笑《ほほえ》ましいとすら思える。が、
「……そんな振り方では、怪我《けが》をするだけだぞ」
気がついたら、そう声をかけていた。
「え……あっ」
ソルがこちらを振り返る。
「おはようございます。……すみません、起こしちゃいましたか?」
「気にするな、どちらにせよもう起きる頃合《ころあ》いだった。しかし随分《ずいぶん》と気合いを入れて暴《あば》れていたが、それは日課か何かか?」
「いえ、その……」
ソルは照れ笑いを浮かべて、
「ちょっと練習しとこうって思って。さっき始めたばっかりです」
だろうな、と思う。
少なくともあの無茶苦茶な剣筋は、これまでまともに剣を握《にぎ》った経験のある者ならば決してやらないであろう、ド素人《しろうと》専用のものだ。
「なら、なぜいきなりそんな真似《まね》を?」
「いやぁ……」
ソルはますます恥《は》ずかしそうな顔になり、
「僕、昨日は結局、何も出来なかったんですよ」
「昨日?」
「あの兵隊たちの相手をしたのはクリストフと……ジネットさんだけで。僕はエンリケッタの傍《そば》で、うろうろしてるだけでした」
ああ、なるほど。
「それが普通《ふつう》だろう。武器を持った軍人を相手に、常識的な人間ならば逆《さか》らえないものだ。そもそも、自分に逆らわせないためにこそ、人は人に武器を向けるのだろう?」
「それはそうですけど、でもジネットさんたちは……」
「私たちは常識的な人間ではない。
細かいところはまるで違《ちが》うが、ただその点においては、私もクリストフも同じだ。誰にでも同じことができるかと問われれば、答えははっきりと否、だな」
「……それも、そうかもしれませんけど」
どこかむすっとした顔になって、ソルは抗弁《こうべん》してくる。
「お前には何もできない、何もしなくていい、とか言われても、納得《なっとく》なんて出来ません。したくないです。僕だって、ここにいるんだから」
「勇ましいのは、結構なことだがな……」
少し、困る。
夜中に、ケイトから妙《みょう》な話を聞いてしまったせいだろうか。この少年の願っていることも理解できてしまうし、何もできない無力感に焦《あせ》っているという気持ちもまた、しっかりと共感できてしまう。
「本当は、魔法書《グリモア》が欲《ほ》しいんです」
ジネットの内心の困惑《こんわく》をよそに、ソルは続ける。
「魔法《ウィッチクラフト》を使える人が強いっていうなら、僕にも魔法書《グリモア》が読めれば、クリストフやヴィルジニィみたく、帯剣騎士《カヴァリエレ》としてケッタの役に立てるってことですよね」
ヴィルジニィという名前は初耳だったが、それがどういう人間であるかは文脈から読めた。クリストフ同様の帯剣騎士《カヴァリエレ》の一人、なのだろう。
「だから、王城《パレス》が持ってて今のところ持ち主のいない魔法書《グリモア》を読めるかどうか、試《ため》すくらいはやらせて欲しかったんですけど……なんでかケッタがダメっていうから、それも出来なくて」
「それでいい。あんなもの、関《かか》わらないで済むなら、それに越《こ》したことはない」
「クリストフも、そんなこと言ってました。けど納得は」
「納得しろとも言わん。どれだけ不本意でもいいから、ただ諦《あきら》めろ」
「……言ってること、むちゃくちゃだぁ」
「魔法《ウィッチクラフト》が使いたい、などということのほうがよほど無茶だ。しかもその理由が短絡《たんらく》的に過ぎる。役に立ちたいというなら、自分に出来るやり方か、自分の手の届くやり方で達成しろ。無いものねだりを始めたところで、何も始まらん。むしろ役立たずの自分を正当化する言い訳になりかねない分、後退しているとすら言える。『魔法《ウィッチクラフト》が使えないんだから僕は役立たずでも仕方ないんです』、とな」
ぐ、とソルは言葉に詰《つ》まる。
無意識のうちに声を荒《あら》らげかけていたことに気づき、ジネットは言葉を止めて、
「……済まない。こんな言い方をする気はなかったのだが」
「いえ……」
憮然《ぶぜん》とした顔で、ソルは目を逸《そ》らす。
「言ってること、正論だと思います。
でも……やっぱり、納得は、できませんけど。納得したら、僕はもう、何をどうしたらいいのか分からなくなる……」
その表情を見ていて、ずきりと小さくジネットの胸が痛む。
苛立《いらだ》つことの続くこの数日だが、この少年を見ていると、特に苛立ちが募《つの》る。
リュカを思い出してしまうせいだろう、と自分の心を分析《ぶんせき》する。自分以外の誰かのために、自分自身を丸ごと投げ出しかねない、強くて脆《もろ》い意志の在《あ》り方。そんな、なまじ彼と似ているところがあるせいで、リュカと異《こと》なる場所を見つけるたびに、心に小さな波が立つのだ。
(ソルを犠牲《ぎせい》にしてしまえば、リュカは取り戻《もど》せる……)
そういえば、昨晩、アルト老がそんなことを言っていた。
もちろん、そんなことを実行するつもりはない。が、その甘《あま》い誘惑《ゆうわく》はソル個人に対する苛立ちと混ざり合って、ジネットの心を揺《ゆ》らし続けている。
リュカ・エルモントは、少なくとも、この小さな少年よりも、自分にとって、役に立つ存在[#「役に立つ存在」に傍点]、なのだ……
「以前、一人、馬鹿《ばか》な男がいた」
気がつけば、妙なことを話し始めていた。
「こいつはフェルツヴェンの学術院《ライブラり》に通うただの学生でな。もちろん命を狙《ねら》う狙われるなどという世界とは無縁《むえん》に、実に平和で幸せな学生生活を送っていた。ついでに付け加えるなら、すこぶる可愛《かわい》らしく健気《けなけ》な恋人《こいびと》つきでな」
と口にしてから、『恋人』という言葉は適切ではなかったのだなと思い出した。少なくとも、当人たちが聞いたらすぐさま否定されていたことだろう。しかしまあ、当人たち以外の者にとっては、どうでもいいことだ。周囲が羨《うらや》み、あるいは妬《ねた》むほどの絆《さずな》が二人の間にあることは間違いないのだから。
「苦い過去を抱《かか》えた男でな。その過去への後悔《こうかい》のせいで、その命も自分自身の意志も、全《すべ》てを『誰かを守る』ことに投げ出してしまえる、そんな危《あや》うい男だった。
そしてそいつは、よりによって、自分を一度は殺しかけた敵の女を守ろうとした。自分は不死者《レヴナント》でも魔書使い《グリモア・ハンドラ》でもなかったというのに、魔法使い同士の戦いに巻き込まれた時、そこから逃《に》げようとしなかった。自身の無力を重々|承知《しょうち》の上で、その男は、剣《けん》を握《にぎ》り、戦いの場に立ち続けた。
そして……本当に、自分自身を、そのために、費《つい》やしてしまった。
放《ほう》っておけなかった。ただそれだけの理由のために、それだけの馬鹿を貫《つらぬ》いた。彼は、満足していたかもしれない。幸せですらあったかもしれない」
そこで軽く首を振《ふ》って、
「……それとは別に、もう一人、馬鹿な男がいた。だいぶ昔のことだ。
大きな城に勤《つと》める、庭師の息子《むすこ》だった。
城への出入りを許されていたという意味では、そこそこに地位のある人間だったと言っていいだろう。しかしもちろん、使用人はあくまでも使用人。そいつ自身が貴族やら何やらだったわけではなかった。
だがこの男、よりにもよって、その城の第一の姫《ひめ》に恋をしてな」
え、とソルが顔を上げる。
「許される想《おも》いではなかったし、彼自身、男女の関係で結ばれたいとまで思っていたわけではなかった。彼はただ、城の中で味方の少なかったその姫を守りたいとだけ願った。その願いは彼に、騎士《きし》を志《こころざ》す道を選ばせた。
しかし、彼は騎士にはなれなかった。その城における騎士団は腐《くさ》り果てていて、大量の金を積《つ》む以外に、騎士の位《くらい》を得ることは出来なかった。彼は最後まで、望んだような地位には就《つ》けなかった。
が……彼が歩んでいた道を、私は愚《おろ》かだとは思わなかった。馬鹿が馬鹿なりに馬鹿を通したその軌跡《きせき》は、他人が見れば滑稽《こっけい》なだけのものだったかもしれないが、私はむしろ……そこまでの想いを捧《ささ》げられた姫を、羨《うらや》ましいとすら思ったものだが……」
ソルは黙《だま》ったまま、ジネットの話を聞いている。
「この二人は、それぞれに想った相手を、幸せになど出来なかったよ。
自分の中だけの信念を貫いて、そのまま死んでしまった。自分のことしか考えていなかった。ならば、その生き方で幸せに出来るのは、自分自身だけだ。
君が選ぼうとしているのは、彼ら二人と同じ、そういう道だ」
「やめておけ、ってことですか?」
「少なくとも、勧《すす》めはしないな。むろん、決めるのは君自身だが」
ジネットは肩《かた》をすくめると――
ソルの体の周り、ぼんやりと七色の光が浮《う》かびあがっているのを見た。
思わず、息を呑《の》んだ。
ここに来る列車の中で、やはり同じような光がソルの体から漏《も》れ出していたのを見たのを思い出した。あれは見間違《みまちが》えでもなんでもなかったのだと、今さらながらに理解した。そしてそれに加えて、自分は違う場所でこの光を既に見たことがあるのだということも[#「自分は違う場所でこの光を既に見たことがあるのだということも」に傍点]、思い出した[#「思い出した」に傍点]。
妖精《フェイ》が、自己崩壊《じこほうかい》を起こす時に、その体から砕《くだ》けてこぼれだす光。
その反応を見て、ソルもまた、自分の周囲に何やらの異変が起きているらしいということに気付いた。軽く辺りを見回してから、「ああ」と一度小さく苦笑《くしょう》して、
「驚《おどろ》かせちゃいました? 時々あるんですよ、こういうこと。考え事とかしてると、こんなふうに、ぽわーっと」
「時々――」
のんびりとしたその声に、絶句するしかない。
「まぁ、周りに害はないみたいですから、気にしないでください」
「周りに……?」
その言葉が物語っている。ソルは状況《じょうきょう》を理解しているのだと。
少なくともこの光は、ソル自身にとっては、害のあるものなのだと。
ぐっ、と小さく喉《のど》に力がこもる。
「……上着を脱《ぬ》げ」
「え?」
「服を脱いでみせろ」
ソルの顔色が、洗《あら》い流すように青くなった。
その反応が、ジネットにひとつ、確信を持たせた。
「待、待ってください、いきなり何を言い出すん……」
「ええい、面倒《めんどう》だ!」
ジネットは窓から飛び出した。
力任せに少年をその場に組み伏《ふ》せて、強引に服をはだけさせる。
そして……予想通りのものを、見る。
「ソル、お前……」
少年の、左の脇腹《わきばら》が、獣《けもの》に食いちぎられたかのように、無くなっている。
いや、違う。そうではない。脇腹は確かにそこにある、しかし硝子《ガラス》か水晶《クリスタル》のように色を持たず、透《す》けて見えているだけだ。触《ふ》れれば確かに、多少|感触《かんしょく》がおかしくなってはいるものの、人の肌《はだ》がそこにあるのが感じ取れる。
「……ばれちゃいました、か……」
地面に組み伏せられた姿勢のまま、ソルは困った顔で、
「ごめんなさい、こんなの気色悪い、ですよね?」
「ソル……」
「僕本人としては、特に不自由とかないんですよ。別にケガとかになってるわけじゃないし、ごはん食べれば、見えないけどちゃんとおなか一杯《いっぱい》になるし」
慌《あわ》てたような声で、フォローを入れている。
「…………」
声が出ない。
今この少年の体に何が起きているのかを、ジネットには理解できる。かつて見たケースとはやや状況を異《こと》にしてはいるものの、大枠《おおわく》としては変わっていないだろうと確信が出来ている。
ソルは、今ここにいる妖精《フェイ》の少年は、自壊しつつある。
おそらくは、もう、そう長くは、保《も》たない。
「いつからだ……?」
「え?」
「いつから、崩壊が始まっていた? こんな風に、色を失い始めた?」
「半年くらい前、ですけど……」
だとすると、今後も同じペースで崩壊が進んでいったと仮定して、この少年に残されている時間は、長く見積《みつ》もってもせいぜい一年か二年といったところだろう。
この少年には、それだけしか、時間がない。
先に自分が語った二人の少年たちなどよりも、ある意味ではよほどひどい状況だ。彼らには自分の望む力のために、強くなろうと試《こころ》みる時間が与《あた》えられていた。剣《けん》をもって守れるものを守るために、剣を振るう力を培《つちか》うことが出来ていた。
なのに、この少年には、それすら許されていない。
……自分は、どれだけ残酷《ざんこく》な話をしたのだろうと思う。この少年に対して、どれだけ無神経に絶望を突《つ》き付けたのだろうと。
「すまない……」
立ちあがり、ソルに背を向けた。
「いつまでも寝間着《ねまき》姿でうろついているものではないな。私は着替《きが》えてくる」
「う、うん」
振り返ることもせず、窓に向けて歩み寄ろうとしたところで、
「まぁ、せめて、あれだ」
背中|越《ご》しに、声を残す。
「剣を振《ふ》る時は、力を込めることよりも、どこの一点で剣を止めるかを意識してみろ。勢いがあるのは良いが、それに振り回されていては話にならない。動きを意のままに制することが出来て初めて、武器を武器として扱《あつか》えるものだ」
返事は聞かなかった。聞けなかった。
ソルの反応を待たずにジネットは窓の中に飛び込んで、後ろ手にカーテンを閉めた。
†
朝食の席で、エンリケッタの顔を見た。
相変わらずに無言で、また考えていることが読めない茫漠《ぼうばく》とした表情だったが、少なくともジネットに伝えたいことがあるというようには見えなかった。
つまりは、昨夜の通達(そう、あれはまさに通達だった)の通り、当分の間、するべきことは何もないということだ。彼女の言う協力者≠ニやらからの連絡《れんらく》が来るのを待つという方針に変更《へんこう》はない。どうあれしばらくは、自分たちはここに足止めされる。
14.
――昼の近くまで、時間が流れて。
デルガル邸《てい》の一室。小さな少女と小さな人形が、小さなひとつのテーブルを挟《はさ》んでいる。
テーブルの上には、白と黒のスカッキ盤《ばん》。二人それぞれの小さな指先が、駒《こま》をひとつひとつ交互《こうご》に動かして、盤上の戦況に少しずつ彩《いろど》りを添《そ》えていく。
〈むぅ〉
額《ひたい》に眉《まゆ》を寄せた人形が腕《うで》を組み、熟考《じゅっこう》の果てに、黒の駒のひとつを引っこ抜《ぬ》いて、盤の端《はし》の升目《ますめ》まで運ぶ。少女はそっと目を閉じて、わずかな時間だけ思考に沈《しず》んで、そして目を開いて自分の駒を動かす。
〈……ひとつも手がない。儂《わし》の負けじゃな〉
ぺたんとテーブルの上に尻《しり》を落として、アルト老はばやくように言う。
〈なるほど確かに、大したもんじゃな。その若さでここまで盤を読めるというのは、年の功《こう》を売りにしとる身の債としては、ちと脅威《きょうい》に感じるわい。
王城《パレス》に座《ざ》したまま世界中を見通しとるというのも、あながちハッタリでもなさそうじゃな〉
「…………」
エンリケッタは黙《だま》ったまま、駒を盤上に並べ直す。
〈その分じゃと、ソルと言ったか、あの小僧《こぞう》の正体も知っとるんじゃな?〉
ぴたりと、少女の手が止まる。
〈この手の対人|遊戯《ゲーム》というものは面白《おもしろ》いものでな。打たれる筋のひとつひとつを注意深く見ていれば、どのような言葉よりも雄弁《ゆうべん》に、その人間の性格や性質、困難に直面したときの判断基準…――まぁそういったものが、ひとつひとつ浮《う》かびあがって見えてくる。
そして、お主の打ち筋には、驚くほどに無駄《むだ》がない。
こういう手を打つ人間が、一見して芸のなさそうな小僧を鉄火場《てっかば》にまで連れ回しとるんじゃから、考えられるオチはひとつだけ。お主は、あの小僧が何者で、どのように扱える宝物≠ナあるかを、ばっちり知っとるんじゃろ?〉
「……確かに、その通りです」
呟《つぶや》くような、しかし意外なほどはっきりとした声で、エンリケッタは尋《たず》ねた。
「そしてその口ぶりからすると、貴方《あなた》もまた、ソルが何者であるかを――」
〈まぁ、確かに知っとるな。見抜いたのは儂ではなく、連れのバカ娘《むすめ》じゃが〉
盤上の戦いが再開される。
まずはゆっくりと、両陣《りょうじん》の兵士《ソルダート》たちが動き始める。
「それを知った上で、貴方はどうしようというのですか?」
〈心配せんでも、横取りしたりはせんよ。ただ、確認《かくにん》をしておきたかっただけじゃ〉
「何を、ですか?」
〈お主の覚悟《かくご》を、じゃな〉
戦車《カツロ》の駒を抱えて動かしながら、そんな曖昧《あいまい》なことを言う。
〈勝利を目指すことについて誠実《せいじつ》ということは、そのためにありとあらゆるものを犠牲《ぎせい》にする覚悟が出来とるっちゅーことじゃ。
遊戯《スカッキ》盤上で駒の兵士《ソルダート》を使い捨てるのと同じように、生きた人間の兵士を死なせなければならん。同じく、騎士《カヴァリエレ》だろうと女王《レジーナ》だろうと、迷わず遣《つか》い潰《つぶ》せるようでなければならん。
自身で剣を抜くことがなければ、確かにその刃《やいば》を血で汚《よご》すことはないじゃろう。が、その剣を収めた鞘《さや》は、盤の上で殺《あや》めた者の血を浴びて、間違いなく暗い緋《ひ》色に染まる。
……まともな人間には耐《た》えられず、またそもそも行きつけん境地《きょうち》じゃよ〉
「それは警告ですか、緋鞘《ひしょう》の将《しょう》?」
〈まさか。せいぜいが忠告、もしくは一介《いっかい》のぷりちー人形が漏《も》らした、中身のないただの妄言《もうげん》じゃよ。耳を傾《かたむ》ける価値があるかどうかは儂にも分からん。そこは、お主自身で判断するしかないとこじゃ〉
軽い口調でそう言い放って、騎士《カヴァリエレ》の駒を大きく動かす。
〈さて、ものはついでじゃ、実のない会話をもう少し続けてみるとするかの。お主は、あの坊主《ぼうず》の正体を、どのようなものだと思っとる?〉
「……魔女の、代役」
〈ほう〉
「以前に一度、グラント卿《きょう》――貴方方もよく知るレオネル・グラントが、魔女フィオル・キセルメルを殺したことがありました。ドースのはずれで、小さな村をまるごとひとつ巻き込んで、確かに一度は、魔女の体を焼き尽《つ》くしたはずだと」
〈ああ――〉
アルト老は、その一件を知っている。
むろんその場に居合《いあ》わせたというようなわけではないが、それに極《きわ》めて近いところまでは、そこで何が起きたのかを把握《はあく》している。
巻き込まれた村の名前はエブリオ。
リュカ・エルモントやクローディア・エルモントの故郷であり、アルト老が知る限りでは一番最後に魔女《まじょ》が姿を現した場所だ。
〈――しかし、体を焼き尽くした程度では、魔女は殺せなかった、じゃろ?〉
「はい。燃え盛《さか》る炎《ほのお》の中から、傷一つない状態で目の前に現れたそうです。四年ほど前、王城《パレス》にて、グラント卿本人から直接教えて頂きました。
それに加え、生きていた魔女《まじょ》についての逸話《いつわ》は、大陸中の噂話《うわさばなし》に耳を澄《す》ませてさえいれば、それなりの数が集められます。居城が燃えてから二百年もの間、自分の著《あらわ》した魔法書《グリモア》が無数の混乱を引き起こしているにもかかわらず、自身はそれらに全く関《かか》わろうとせず、人の目を避《き》けるように、隠遁《いんとん》するようにして暮らしている。
……これらを重ね合わせて考えれば、結論らしきものは導《みちび》き出せます」
その言葉の間にも、盤は止まらずに動き続ける。
黒と白の騎士《カヴァリエレ》たちが、盤の中央で激しくぶつかり合う。
「つまり、魔女には、自分自身を存命させなければいけない、何らかの理由がある。
そしてその理由は、世の中にばらまかれた魔法書《グリモア》が引き起こす諸《しょ》問題すべてを合わせたよりも重たい、魔女にとっての最優先事項《さいゆうせんじこう》。だから自身の命を繋《つな》ぎながらもその身を隠《かく》し、争いには関わらない。さらにはグラント卿にも破れぬほどの強力|極《きわ》まりない魔法《ウィッチクラフト》をもって自分の身を守ってすらいる……」
〈えらく簡単に、えらくぶっとんだ結論を出したもんじゃの〉
「……それに加えて、もうひとつの事実。二百年前、魔女が殺された直後に燃えた魔法書《グリモア》は数多くの|魔法書の代役《バーント・グリモア》を生みだしました。が、その現象はその時限りのものです。その後の二百年の間に幾《いく》つもの魔法書《グリモア》が燃えましたが、その中身は人に宿《やど》りはしなかった。|魔法書の代役《バーント・グリモア》は一人も増えなかった――」
エンリケッタの戦車《カツロ》が、盤の右辺を支配する位置に陣を張る。
「魔女は死なない。正確には、死んだとしても、多少のタイムラグの後に蘇《よみがえ》る。このことは既《すで》に一度検証されているのですから、事実として考えても構《かま》わないでしょう。
ならば、こういう仮説も立てられます。
魔法書が燃えても[#「魔法書が燃えても」に傍点]、その瞬間に魔女がこの世界のどこかに生きてさえいれば[#「その瞬間に魔女がこの世界のどこかに生きてさえいれば」に傍点]、その中身はすぐに魔女本人へと還る[#「その中身はすぐに魔女本人へと還る」に傍点]。手近な人間に憑依する必要はなく[#「手近な人間に憑依する必要はなく」に傍点]、ゆえに新たな魔法書の代役が生まれることもない[#「ゆえに新たな魔法書の代役が生まれることもない」に傍点]――と」
〈……また、随分《ずいぶん》と強引な解釈《かいしゃく》じゃな〉
「もちろん、この辺りからは、推論の上に推論を重ねているわけですから断言はできませんし、思いちがいの可能性も高くなってきています。が、多少の不確かさがあったとしても、それに賭《か》けて動くだけの価値はある、私はそう考えています」
〈それはまぁ、ええんじゃが……〉
ぽりぽりとアルト老の小さな指先が頬《ほお》を掻《か》いて、
〈その認識《にんしき》の上で、あの小僧を『魔女の代役』と呼ぶということの意味。いま儂が想像している通りのものと考えても、ええんじゃな?〉
「…………」
しばらくの沈黙《ちんもく》。
〈魔法書《グリモア》が燃えた時に力がそこに集まる……なんてことのほうに価値を見出《みいだ》しとるわけではなさそうじゃな。遣い方の分からん力など、いくら大きくとも何の意味もない。
ならば、そうじゃな、たとえは……あの小僧を手元においておけば[#「あの小僧を手元においておけば」に傍点]、好きな時に殺すことができる[#「好きな時に殺すことができる」に傍点]。それによって[#「それによって」に傍点]、魔女がこの世界から消えるタイミングを調整することができる[#「魔女がこの世界から消えるタイミングを調整することができる」に傍点]〉
アルト老は、意地の悪い声で、
〈魔書使い《グリモア・ハンドラ》の頭数を揃《そろ》えるにも苦労するような今の世の中に、任意に不死者《レヴナント》を生みだせたとしたら、それは確かに大きな意味のあることじゃろうな。なるほど、それほどの意味のある道具ならば、女王《レジーナ》自らがいつでも持ち歩いて[#「持ち歩いて」に傍点]おるのも頷《うなす》けるわい〉
「…………」
エンリケッタは、答えなかった。
ただ黙ったまま、盤上《ばんじょう》の駒《こま》を動かす手すら止めて、目を伏《ふ》せた。
〈やれやれ〉
アルト老は困ったように首を振《ふ》る。
〈情《じょう》を捨て、勝利のためなら何を捨て駒にするのも厭《いと》わん、そういう話ではなかったんかいな? 今のに笑って答えられんようでは、この先が辛《つち》いぞ?〉
「…………」
エンリケッタは、やはり答えない。
たった今までの饒舌《じょうぜつ》さが嘘《うそ》だったかのように、静かに黙り込んでいる。
ただ、その表情だけが――わずかに揺《ゆ》れる瞳《ひとみ》が見せる動揺《どうよう》の色だけが、少女の心の内を、わずかなりと外に表していた。
〈人なら人、鬼《バケモノ》なら鬼《バケモノ》に徹《てっ》さんと、苦しくなるだけじゃぞ?〉
「…………」
エンリケッタは、やはり、答えない。
動きの止まった遊戯盤《ゆうぎばん》を挟《はさ》んで、小さな少女と小さな人形とが、無言のままの時を静かに過ごす。
15.
ジネット・ハルヴァンは、退屈《たいくつ》が苦手だ。
何をすることも強制されていない時間を、いったいどうやって費《つい》やせばいいのか、いまいちよく分からない。
それはつまり、趣味《しゅみ》を持っていないということだ。
趣味は人生の潤《うるお》いであり、人生に余裕《よゆう》があるということの証《あかし》であり、ゆえにとりあえず持っておきなさいと、そんな趣旨《しゅし》の言葉をよく聞く。実感はできないが、おそらく正しいことを言っているのだろうとは思う。そしてその上で、人生に余裕がない[#「人生に余裕がない」に傍点]ことに自信のある自分は、つまり趣味を持つ資格はないということだろうかと、そんな風にひねくれたことまで考えてしまう。
二年前にも、似たようなことで悩《なや》んだような気がする。つまりはあれか、自分は結局、何年|経《た》ってもまるで進歩がないということか。
二年前で思いだしたが、あの時は料理に凝《こ》ることで暇《ひま》な時間をほどよく消化することが出来ていた。あれと同じことを今回も出来ないだろうかと、調理場を訪問《ほうもん》してそこにいた二人の使用人に話を持ちかけてみると、
「これは私たちの仕事です、客人はどうかご遠慮《えんりょ》ください」
「出てけー」
有無《うむ》を言わせない強烈《きょうれつ》な笑顔《えがお》に圧《お》されるようにして、追い出されてしまった。
庭に出たところで、クリストフを見つけた。
よれよれの白衣を羽織《はお》り、何やら大量に積《つ》み上げられた木切れのようなものを、ひとつひとついじくっていた。
「……何をしている?」
声をかけると、クリストフは振り返り、
「見りゃ分かんだろ。人形作ってんだよ」
安物の煙草《たばこ》をくゆらせながら、そう答えた。
「人形?」
「昨日、あんたに随分派手に壊《こわ》されちまったからな。
もともとひとつひとつが大して強くないぶん、数を揃えてナンボのもんだし、減ったまま放《ほ》っとくわけにもいかねぇしよ。このへん、近年の技術革命についていけねぇ手作業工業の辛《つら》いとこだな」
確かによく見てみれば、積み上げられた木切れのひとつひとつは、あの人形たちの手足のパーツ……に見えなくもない。木彫《きぼ》りと見えていたあれらは、継《つ》ぎ目《め》が巧妙《こうみょう》に隠されていたせいでそう見えていただけで、実は木組み人形だったのか……などと、わりとどうでもいいことに、今さらながらに気付いてみる。
「自分で作っているのか?」
「他人任せに出来るもんでもねぇだろ?」
「いや、疑問に疑問で返されても、よくは分からないが……そういうものなのか」
「そ−ゆーもんなんだよ」
手の中の木切れにナイフを入れて、しょりしょりと形を整えるクリストフ。素人目《しろうとめ》にではあるものの、その手つきはかなり手慣れたものと見える。
「……木切れしかないのだな」
「ん?」
「お前の人形には、目のところに水晶球《すいしょうだま》が嵌《は》められていただろう?」
「あー、ありゃただの硝子《ガラス》玉だ、水晶なんて大層《たいそう》なもんじゃねぇ。
ついでに言うなら、あれの準備は、このボディ造りとは別工程だ。刻印《ブランディング》も、ちっとばかし手がかかるしな」
よくは分からないが、これはこれで、なかなかに手間がかかっているものではあるらしい。壊すときには一瞬《いっしゅん》なのだが、などという言葉が頭に浮《う》かび、なんとなく気まずくなって咳払《せきばら》いをひとつ。
「そういえば、聞いたぞ」
「んー?」
「ケイトとアデルのことだ。あの二人も、お前の作品=Aなのだとな」
「……あー」
作業の手を休めずに、クリストフは投げやりな声で応《こた》えてきた。
「誰に聞いた?……っつか、ケイト以外にいねぇか」
「正解だ」頷いて「しかし驚《おどろ》いた。これまで不格好な木組み人形ばかり見てきたからな、あそこまで精巧《せいこう》なモノも造れるのかと、意表を突《つ》かれた」
「さりげに失礼な奴《やつ》だな。別にいいけどよ」
しょりしょりと、クリストフは木切れを削《けす》る。
あっさりとしたその答えに、少し幻滅《げんめつ》した。
「……モノ扱《あつか》い、なのだな、あの二人は」
「モノなのは事実だ。ただ、あんま言いふらすなよ、本人たちが傷つく」
「モノ扱いしておきながら、気遣《きづか》いはするのか?」
「事実はどうあれ家族は家族だ。脅《おびや》かされりゃ、いい気分にゃなんねぇよ」
それまでと何も変わらない、飄々《ひょうひょう》とした口調。だがその瞬間には、確かに、わずかに不機嫌《ふきげん》そうな感情がにじみ出て感じられた。
先ほどの幻滅を、頭の中で取り消した。随分とひねくれてはいるものの、この男の中には、きちんと彼女たちに向けた愛情らしきものはあるらしい。
「なんで造ったのかは、聞いたか?」
「女に縁《えん》のない自分の人生への憤懣《ふんまん》をぶつけるべく、無条件に命令を聞く女が欲《ほ》しかった……とか、そんな意味のことを言っていたな、ケイトは」
嘘《うそ》ではない。あの娘は間違《まちが》いなく、そんな意味のことを言っていた。
「信じたのかよ?」
「信じても構わない、とは思ったな。お前の歪《ゆが》んだ性格を知っていれば、女が寄りつかんというくだりには説得力を感じる」
「あからさまに失礼な奴だな。別にいいけどよ」
木切れをいじる手を休めて、こちらに向けて顔を上げて、
「まぁ、本音を言っちまえば、そんなに間違ってもいねぇんだがな。
これまで色々あってな、人間相手に深い緑を持つことに疲《つか》れちまった。だから、そう簡単には壊れねぇ人形に逃《に》げた。自分でも情けねぇ話だと思うぜ、実際」
でも仕方ねぇよなぁ、と自虐《じぎゃく》的に笑って、
「厄病神《やくびょうがみ》なんだよ、俺は。どーいう星の巡《めぐ》りのせいかは知らねぇが、居場所にしようとした相手は、片《かた》っ端《ぱし》から死んじまう。今度こそ大丈夫《だいじょうぶ》、今度こそ大丈夫つって、いったい何人に死なれたことか。
……んなもんでな。そうそう簡単に壊れねぇ頑丈《がんじょう》な家族ってのは、どうにも居心地良《いごこちい》いんだよマジで。みっともねーっつーのは分かっちゃいるんだけど、な」
「そんな場所に、敵である私を引きいれても良かったのか?」
それは、素直《すなお》な疑問だった。
クリストフの言葉を疑っているわけではない。が、確かにここがクリストフにとってそのような場所であるなら、それを脅かす――それこそ粉々《こなごな》に壊しかねない相手を近づけるはずがないと思った。それは、失いたくない大切な人を、よりにもよって飢《う》えた獅子《しし》の檻《おり》の中へと放り込むような所業《しょぎょう》だ。まるで論理が通っていない。
「さぁね。まずかったのかもしんねぇし、どーでもよかったのかもしんねぇし」
「そんな、いい加減な」
「そんなに心配はしてねぇよ。姫《ひめ》さんはうちの女王サマとは人種が違うしな。こっちの弱みを握《にぎ》ったからってそれにつけこむような真似《まね》は死んでもできねぇだろ」
ぐ、と言葉を呑《の》みこむ。それには反論できない。
「それにまぁ、そこまで含《ふく》めて女王サマの指した手の内だしな。深く考えるだけ無駄《むだ》っつーか、疲れるだけ損《そん》だ。兵隊は黙《だま》って上の言うことに従うべし」
「……大した忠誠心《ちゅうせいしん》だな」
「別に、そーゆーんじゃねぇんだがな」
まぁいいか、とクリストフは呟《つぶや》き、また細かい作業に戻《もど》る。
無骨《ぶこつ》な形だった木切れに、少しずつ、柔《やわ》らかな曲線が刻まれていくい
することもなく、ジネットはぼんやりと、その工程《こうてい》を眺《なが》めていて――
「もしもし」
まったく唐突《とうとつ》に、すぐ隣《となり》から声が聞こえたので、かなり意表を突《つ》かれた。
「んなっ……」
小柄《こがら》な使用人の少女が……アデルが、そこに立っている。
アデルはちらりとジネットを一瞥《いちべつ》だけしてから、クリストフに向き直り、
「ケイトが呼んでる」
相変わらずの暗い調子の声で、告げる。
「何かあったのか?」
「ん、お客様」
抑揚《よくよう》のない声で、簡潔《かんけつ》に。
「あー、もう来やがったか。思ってたより早かったな。ちゃんと客間のほうに通して待たせてるんだろうな?」
「一応」
こくりと一度うなずいてから、
「でも死にかけ。急いだほうがいいかも」
低い声で淡々《たんたん》と、そんなことを言う。
「…………」
「…………」
ジネットはクリストフと顔を見合わせ、しばし今の言葉の意味を把握《はあく》するのに時間を遣い、それから、
「死にかけ、だと……?」
素直な疑問を、そのまま口にした。
16.
その客人は、重傷を負っていた。
死にかけというほどではないにせよ、少なくとも、放《ほう》っておけば命に関《かか》わる傷だということには間違いなかった。身につけている麻《あさ》のブラウスも革《かわ》のチュニックも、元の色が分からなくなるほどにひどく血に汚《よご》れていた。
しかし――そんなことよりも、何よりも。
「……クロア……?」
その客人、頬《ほお》にそばかすを残した赤毛の少女が、自分の知己《ちき》であることに、まずジネットは驚《おどろ》いていた。
クロア・マルソー。
二百年前、自分たちとともに魔女《まじょ》を討伐《とうばつ》しに向かった一団の一人。本来ならば戦いになどまるで縁《えん》のないまま平凡《へいぼん》な人生を送れるはずだった、元|一介《いっかい》の村娘《むらむすめ》。自身の意志を無視され、問答無用で騎士《きし》連中に連行され、あげくの果てには魔法書《グリモア》『|漆黒の縦糸《トリコタージュ》』に呑《の》みこまれ不死者《レヴナント》となってしまった。
そして――似たような境遇《きょうぐう》にある不死者《レヴナント》たちの集団、『古木《こぼく》の庭』の一員。
二年前、ジネットが『古木の庭』と敵対することになった一連の騒動《そうどう》の中で、三対一という変則的な状況下《じょうきょうか》のことではあったものの、剣《けん》を交えたこともある。
「どういうことだ? なぜこの娘が、ここにいる?」
〈なるほど〉
当惑《とうわく》するジネットとは逆に、アルト老は何やら深く納得《なっとく》した様子で、
〈『古木の庭』が、昨晩から言うとった協力者というわけか。こりゃ確かに、下手《へた》に動きまわるより、接触《せっしょく》を待っとったほうが話が早くて確実じゃわい〉
「……なんで、いるのかって、こっちが聞きたい、よ……」
一方、ソファの上で荒《あら》い息を吐《つ》いているクロアは、目を吊《つ》り上げジネットをにらみ、
「なんで、あんたが、ここにいんのさ、ジネット姫……っ!」
「何故《なぜ》というか……」
〈そんな話をしとる場合でもなかろう。ほれ、傷を見せてみい〉
「あ、こら、何しやがる、さわんなクソジジイ……!!」
声だけは気丈《きじょう》だが、肝心《かんじん》の体にはまるで抗《あらが》うだけの余力がない。わずかな抵抗《ていこう》にはいっさい構わず、アルト老の小さな手が裂《さ》けた服を押《お》しのけ、傷口の辺りを確かめる。
〈ひどいもんじゃの。随分《ずいぶん》と濃《こ》い|夜の軟泥《ワルプルギス》の残滓《ざんし》がこびりついとる。こりゃ傷がふさがるまで、随分と時間がかかるぞ……?〉
「……るっさいね。そんなの、食《く》らった自分が、一番よく分かってんだよ……」
〈分かっとるのは構わんが、一体何があったのかは話してもらうぞ。仮にも不死者《レヴナント》のお主の体をここまで傷つけたとなれば、並の脅威《きょうい》ではなかろうが〉
クロアは黙りこむ。
そのすぐ目の前に、エンリケッタが立つ。
「……ああ。お嬢《じょう》ちゃんが、ここの女王《レジーナ》、だね」
〈よく分かるもんじゃな〉
「うちとの間の連絡《れんらく》係やってた帯剣騎士《カルヴァリエレ》が、ちっこいちっこいって何度も言ってたからね……なるほど、現物《げんぶつ》は確かにちっこいわ……」
その場の視線がクリストフに集まる。当《とう》のクリストフは「俺じゃねぇよ」と慌《あわ》てて首を横に振《ふ》る。
「お話しして、頂けますか?」
エンリケッタは静かに、クロアに先を促《うなが》す。
それでもクロアはまだわずかに逡巡《しゅんじゅん》してみせたが、やがて諦《あきら》めたように、
「二人組の男たちだった」
ぽつぽつと、話し始めた。
「そいつらに、『古木の庭』はブッ潰《つぶ》された」
「な……!?」
予想外の言葉に、ジネットは絶句した。が、アルト老は既《すで》に予想でもしていたというのか、冷静なままの口調で、
〈どういう連中じゃ?〉
そう尋《たず》ねた。
「やり方が汚《きたな》い。最初に狙《ねら》われたのはコレット、次はメンゲト。その次にサリム。一人一人|闇討《やみう》ちみたいに狙われて、気がついた時には『古木の庭』はぼろぼろになってた。
向こうの狙いは鍵[#「鍵」に傍点]だって分かってたし、奪《うば》われる前に、なんとか安全なとこまで運ぼうとしたんだけど、そこを狙い撃《う》たれた。あたしをかばってマルキが残ってくれたけど、きっと今頃《いまごろ》――」
言葉の終わりの辺りでは、声はかすれて、聞きとれなかった。
〈二人組の……不死者《レヴナント》だったんじゃな?〉
「当たり前、だろ。ただの人間に、あたしらが負けるもんか。
コレットだって、マルキだって、本当に強いんだ。ちゃんと正面から戦えば、ヘボ騎士たちにだって負けやしない。負けやしないんだ……」
〈顔は、見んかったのか?〉
「……二人とも、豊穣《ほうじょう》祭の、仮面をつけてたから」
仮面。この辺りの地方で祭りを行う時に用いる、白い仮面のことだ。人相《にんそう》がほぼ完全に隠《かく》れる大きさがある。
「あ、でも……」
「でも?」
「片方は、髪《かみ》がすげぇ白くて、あとガタイが良かった。
そうだ……どっかで見たと思ったら、あれだ。
アルトのじいさん[#「アルトのじいさん」に傍点]、あんたの昔の体によく似てる[#「あんたの昔の体によく似てる」に傍点]」
〈…………っ!!〉
瞬間《しゅんかん》、アルト老が大きく息を呑《の》んだ。
〈……悪報《あくほう》じゃな。こりゃとびっきりの悪報じゃよ〉
「え?」
〈女王《レジーナ》、今すぐに手持ちの駒《こま》を盤上《ばんじょう》に並べるんじゃ。もうほとんど時間がない。かなりタチの悪い打ち手が戦いを挑《いど》んでくるぞ〉
「どういうことですか?」
「ちょっと待てよ、じいさん、あたしはちゃんと連中を撒《ま》いてからここに来たんだ。どんな猟犬《りょうけん》を使ったって、あたしがその気になれば……」
〈自惚《うぬぼ》れるな、バカもんが!
確かにお主の『|漆黒の縦糸《トリコタージュ》』は、身を隠すこと、周囲に紛《まぎ》れることには強い魔法書《グリモア》じゃろう!
じゃが、相手が『|扉なき仮宿《ピエタテール》』ならそんなことは何のアドバンテージにもならん! お主の腹の傷に打ち込まれた刃《やいば》の|夜の軟泥《ワルプルギス》を目印に、たとえ大陸《ディス・コンチネント》の端《はし》まででも簡単に追いすがってくるわい!〉
……沈黙《ちんもく》。
「『|扉なき仮宿《ピエタテール》』……」
クリストフが、アルト老の言葉の一部分だけを抜《ぬ》き出して、呟《つぶや》いた。
「ってこたぁ、やっぱ、相手はあのじいさんだ、ってこと……か?」
「ロジェ・ヴィルトール、か……」
わずかに震《ふる》える声を自覚しながら、ジネットもまた、その名前を口にする。
「本当に、あの男が、ここに……?」
〈そうじゃよ〉
珍《めずら》しく苦々《にがにが》しい声で、アルト老は言う。
〈相手がロジェということならば、クロアがここまで辿《たど》りつけたこと自体も罠《わな》と考えたほうがいい。『古木の庭』を潰したついでに、協力者の居場所も掴《つか》んで一網打尽《いちもうだじん》にしようっつーハラじゃろうな》
「そんな……あたしは……っ!」
〈別にお主を責めとるわけではない。相手が悪かった、ただそれだけのことじゃ。
それに、この流れ、むしろ決して儂《わし》らにとって悪いものではない。向こうの頭の中では、ここにおるのは瀕死《ひんし》のクロアと、後はせいぜい、大して役に立たん魔書使い《グリモア・ハンドラ》らが何名かということになっとるはずじゃ〉
「ひでぇ」
クリストフの抗議《こうぎ》の呟きをアルト老は〈不死者《レヴナント》同士の戦いちゅーのはそういうもんじゃ〉とあっさり流して、
(ジネットと、儂。この二人は、あやつにとって、最悪の伏兵《ふくへい》となるはずじゃ――〉
どこか遠く、硝子《ガテス》の、割れる音。
〈来おった!〉
アルト老が鋭《するど》く叫《さけ》び、その場の全員に緊張《きんちょう》が走る。
〈どうする、女王《レジーナ》よ。長考《ちょうこう》の時間はないぞ〉
「……クロアさん」
エンリケッタは、その小さな手のひらを出して、
「鍵《かぎ》を」
「え?」
「お持ちなんでしょう? それを預《あず》かり、私は一度ここを離《はな》れます。彼らの目的がその鍵で、目印にされているのが貴女《あなた》だというのなら、それが一番|理《り》にか.なったやり方のはずです」
しばらくの逡巡の後、クロアは手のひらを虚空《こくう》に差し伸《の》べ、「ほどけろ[#「ほどけろ」に傍点]」とひとことだけ呟く。糸がほどけるようにその虚空そのものが細く崩《くず》れて、隙間《すきま》から小さな飾《かざ》り箱がひとつ、姿を現す。
エソリケッタに、手渡《てわた》す。
小さな手が、箱の蓋《ふた》を開く。中には、ひとふさの金色の髪《かみ》が収められている。
(髪……?)
ジネットは思い出す。そういえば、列車の中で、エンリケッタがそんなことを言っていた。そして『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の鍵とされるものがこれだというのなら、これが誰の髪であるのかについては、考えるまでもなく、すぐに分かる。
「姉様の……魔女《まじょ》の髪、か……?」
「はい。二百年前に古城の中で死んだ、魔女の最初の遺体[#「最初の遺体」に傍点]の遺髪《いはつ》です」
エンリケッタが頷《うなず》く。
「確かに預かりました。
……クリストフ・デルガル。貴方はクロアさんの傍《そば》について、その身を守ること。敵がここに至ったならば、貴方に振るいうる限りの全力をもって[#「貴方に振るいうる限りの全力をもって」に傍点]抗《こう》するように。
ジネットさん、アルトさん。お二人の戦い方は、お二人自身にお任せします」
「……当然、そのつもりでいる」
〈承知した〉
「それから、ソル」
エンリケッタは振り返り、隅《すみ》のほうで居心地《いごこち》の悪そうな顔をしている少年の名前を呼んだ。
「……え?」
「貴方は私に同行。鍵を安全なところまで運びます」
「あ……うん……」
目に見えるほどはっきりと、ソルは落胆《らくたん》した。
〈気の抜《ぬ》けた顔をしとる場合ではないぞ。お主にも、大事な役割があるじゃろ〉
アルト老の、叱責《しっせき》の言葉が飛ぶ。
〈ええか、敵に見つかったら、とにかく逃《に》げろ。そしてそれでも追いつかれたなら、とにかく儂らの誰かが助けに行くまで、なんとかして時間を稼《かせ》ぐんじゃ〉
「……うん……」
そんなの、役割じゃない。ただそこにいるだけの役立たずの体裁《ていさい》を、なんとか取り繕《つくろ》おうとしているだけだ――
さすがに口に出しはしなかったが、ソルの表情は、明らかにそう言っていた。
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▼scene/4 その願いには手が届かない 〜old kaleidoscope〜
17.
――お主、人を、殺せるか――?
アルト老《ろう》の言葉が、突然《とつぜん》何の脈絡《みゃくらく》もなく、ジネットの頭の中でリフレインする。
当たり前だ。奥歯《おくば》を噛《か》んで、無言のままその言葉に反駁《はんばく》する。
これまで自分は、大勢《おおぜい》を殺してきたのだ。生きていい者とよくない者とを、自分の都合で勝手に仕分けて、その通りに死を振《ふ》りまいてきたのだ。今さら「自分には人を殺せない」などと言い出したら、これまでこの事にかかった全《すべ》ての命に対する侮辱《ぶじょく》になる。
だから、大丈夫《だいじょうぶ》だ。私には、人を殺せる。
それが必要となれば、躊躇《ちゅうちょ》も動揺《どうよう》もなしに、人を刺《さ》し貫《つらぬ》いてみせる。
――過去の話はどうでもええんじゃ。今のお主はどうなのかと聞いとる。
過去も現在も、同じことだ。ジネット・ハルヴァンは殺戮者《さつりくしゃ》なのだ。その事実ひとつは、過去も現在も、そしてこれから先の未来にも変わらない。変わるはずがない。
だから、アルト老の問いには意味がない。
ジネット・ハルヴァンは、人を殺せなければならない。今も昔もこれからも。これは厳然《げんぜん》とした決定|事項《じこう》であり、疑問を差し挟《はさ》む余地《よち》などどこにもない。
そう。だから。
今ここで振るう剣《けん》にも、何の躊躇もありはしない――
†
ロジェ・ヴィルトール。
それは、敵の名前だ。
魔法書《グリモア》『|扉なき仮宿《ピエタテール》』を半分だけ宿した不死者《レヴナント》。二年前まで、湖畔《こはん》の学術院《ライブラリ》都市フェルツヴェンにおいて、院長|補佐《ほさ》などという要職《ようしょく》に就《つ》いていたが、ジネットも深く関《かか》わったある一件を機《き》に、まったく行方《ゆくえ》が知れなくなっていた。
(リュカを、消したのは、あの男だ……)
ジネットにとって、ロジェ・ヴィルトールといえば、クリストフ以上に直接的な恨《うら》みのある、最悪の仇《かたき》の名なのだ。それが目の前に現れると聞けば、抑《おさ》えようもなく、漏《も》れ出してきた歓喜《かんき》が心を高ぶらせる。
そう。その歓喜は抑えようがなかった。
デルガル邸《てい》一階の西端《せいたん》、庭園に面した廊下《ろうか》の隅《すみ》のほうに、男たちの姿を見つけた。
一人は、黒い外套《インバネス》に白い仮面という、まるで|お化け《スプーキー》の仮装《かそう》のような格好の男。
そしてもう一人は、同じく白い仮面で顔を隠《かく》してはいるものの、クロアの証言の通り、見た目分かりやすくそして覚えやすい、鍛《きた》えられた体躯《たいく》を持った大柄《おおがら》な老人。
「ロジェ・ヴィルトール――!!」
心の底から湧《わ》きあがる全ての感情を込めて、その名を叫《さけ》んだ。あらん限りの力を込めて、廊下《ろうか》の敷石《しきいし》を蹴《け》る。靴底《くつぞこ》の下で大理石が割れ砕《くだ》ける音が響《ひび》いたが、そんなことに構《かま》ってなどいられない。前へ。ただ前へ。あの首筋に剣を突《つ》き立てるまで、とにかく前へ。黒外套の男が動いた。どこからともなく厚刃《あつば》の剣を抜《ぬ》き放って、ジネットの前に立ちふさがる。
「邪魔《じゃま》を、するな――ッ!」
|夜の軟泥《ワルプルギス》は現実を歪《ゆが》める。単なる小娘《こむすめ》の体の内にたゆたうそれも、単なる小娘の体というものが宿命的に逃《に》げられないはずの現実を歪めてしまう。本来ならば持ちえない筋力。本来ならばありえない耐久力《たいきゅうりょく》。それらが、単なる小娘にはありえない、暴風のごとき力任せの斬撃《ざんげき》を可能にする。
目の前に立ちふさがる仮面の男に向かって、刀身《とうしん》を、横なぐりに、叩《たた》きつける。生身《なまみ》の人間の膂力《りょりょく》では決して止められない一撃を、男は正面から弾き飛ばす[#「正面から弾き飛ばす」に傍点]。
鋭《するど》い剣音。
激突《げきとつ》の反動が、そのまま同じ勢いでジネットの小柄な体を弾《はじ》き飛ばす。
全身の骨が砕けてしまいそうなほどの衝撃《しょうげき》。全身の血が逆流するような、吐《は》き気を伴《ともな》う浮遊《ふゆう》感。ジネットの背が硝子《ガラス》窓を打ち破り、体は軽々と屋敷《やしき》の外にまで放《ほう》り出される。
(く――っ)
黒々とした芝生《しばふ》の上を、ゴムのボールか何かのように跳《は》ね転がる。左の手で大地を叩いて勢いを殺し、そのままバネ仕掛《じか》けの人形のように無理やりに身を起こす。
その目前に、黒をまとった人影《ひとかげ》が肉薄《にくはく》する。割れた窓から飛び出して宙を舞《ま》う硝子《ガラス》の砕片《さいへん》を気にもせず、火薬に弾かれた砲弾《ほうだん》のような速度で、ただまっすぐに飛翔《ひしょう》しジネットとの距離《きょり》を詰《つ》めてくる。
言うまでもなく、その身体能力は、人が人のままで持ち得るものではない。
(やはり、間違《まちが》いなく、不死者《レヴナント》――)
突き出される剣。まともに避《よ》けるには体の反応が間に合わず、背後に身を倒《たお》すことで無理やりに回避《かいひ》。頬《ほお》の辺りに熱い感触《かんしょく》。避けきれていない。足首に軽い衝撃。バランスを崩《くず》したところに足払《あしばら》いを受けたのだと、そう頭が把握《はあく》した時には、既《すで》に天と地とがぐるりと一回りを終えている。
したたかに、背を打ちつける。呼吸が止まる――のを強引に抑え、大きく息を吸う。無理を強《し》いちれた胸が激痛《げきつう》を訴《うった》えるが、この際知ったことではない。
「――果てかない白の荒野《こうや》に一人立ち、初めて人は自らの居場所を知る=v
自分自身の輪郭《りんかく》がほどけ、そのまま世界に広がっていくような、錯覚《さっかく》。
「|立ち並ぶ石碑の群れだけが静かに未来を夢見ていた《ソン・レーヴ・アレット・ル・モンド》″――ッ!」
ジネット・ハルヴァンという肉体の内側に留《とど》まっていた|夜の軟泥《ワルプルギス》が、その制約から解《と》き放たれる。紙に垂《た》らしたひとしずくの水滴《すいてき》のように、じわじわと侵食《しんしょく》するようにして、周辺の世界の――屋敷の庭園を汚《けが》していく。
抵抗《ていこう》らしい抵抗は、何もない。
仮面の男は、広がりゆくこの|夜の軟泥《ワルプルギス》に対して、反応らしい反応をまるで返さない。
(…………?)
世界が変わる。広がった|夜の軟泥《ワルプルギス》の主であるジネット・ハルヴァンにとって都合の良い世界に。ジネットの言葉のひとつひとつに隷属《れいぞく》し、本来ありえないはずの現象をいくらでも引き起こしてしまう、間違った世界に。
突き下ろされた剣を、首を逸《そ》らしてかわす。
(これは、誰だ――?)
顔は仮面で隠れている。いまだひとことの言葉も発していない。身にまとった黒い装束《しょうぞく》は闇《やみ》に溶《と》け込んで、しかとはその体格が読み取れない。男ではあるだろうし、それにしてはさして背が高いわけではない、分かることはせいぜいそれだけだ。
そして、その条件を満たす不死者《レヴナント》の数は決して少なくない。そもそも魔女を討伐《とうばつ》しようなどという剣呑《けんのん》な集団が三十七人、その中にあって自分やクロアのような女性は少数派だったし、お上品[#「お上品」に傍点]な騎士《きし》が多い中にあってはマルキや(当時の)アルト老のように体格の良い男もそれほど多くはなかったのだ。
そして、この膂力は何なのか。
|夜の軟泥《ワルプルギス》で強化される腕力《わんりょく》の量は、むろんその個人が抱《かか》えた|夜の軟泥《ワルプルギス》の総量によって決まる。もともとの体格や筋量から生まれる力など、そのイカサマじみた圧倒《あっとう》的な力の前には、端数《はすう》も同然だ。そしてジネット・ハルヴァンの――その内に在《あ》る『|琥珀の画廊《イストワール》』の湛《たた》える|夜の軟泥《ワルプルギス》は、同様に不死者《レヴナント》となった者たちのそれと較《くら》べて、屈指《くっし》と言っていい量を誇《ほこ》る。単純な力と力の打ち合いにおいて、レオネルのような一部の例外を除《のぞ》けば、ジネットが圧倒できない相手などほとんどいないはず、なのだ。
『|琥珀の画廊《イストワール》』に並ぶ量の|夜の軟泥《ワルプルギス》の持ち主。そこまで限定できる条件があるのならすぐにでも名前が出てきそうなものだが、それができない。目の前にいる者が、誰なのかが分からない。
(ならば――)
男の脇腹《わきばら》に右の膝《ひざ》をたたき込み、無理やりに距離をあける。
(その仮面、力ずくででも剥《は》ぎ取る!)
そして背を大地につけたまま、起き上がる時すらも惜《お》しんで、
「漆黒の画布に[#「漆黒の画布に」に傍点]、鴉を描く[#「鴉を描く」に傍点]!」
その言葉に応《こた》え、瞬時《しゅんじ》にして、辺りの光景が描き替《か》わった。
血のように赤い夕暮れの空と、墨《すみ》を固めて形にしたような漆黒《しっこく》の大地。その大地には人骨の形をした闇が無数に転がっている。そして大型の鳥の形をした闇がそれらに嘴《くちばし》を突き立てていた。
これは、ジネット自身の内に在る悪夢の記憶《きおく》。つまり、今から百二十年前、内乱中のミルガ領にてジネットが見た光景だ。
むろん正確にその細部までをも再現しているわけではないが、あの場所でジネットが抱えた絶望的な喪失《そうしつ》感だけは、この光景の中にそのまま息づいている。そしてその喪失感がそのまま、この魔法《ウィッチクラフト》によって具体的な脅威《きょうい》へと変換《へんかん》されて、敵に襲《おそ》いかかる。
がらん。何か金属の転がる小さな音。
骸《むくろ》のひとつが、ゆっくりとした動きで、立ちあがる。
その手の中には漆黒の弓と、漆黒の矢筒《やづつ》。
またひとつ、またひとつと、骸は起き上がる。足が折れていようと構いもせず、腕《うで》が千切《ちぎ》れているのを気にもかけず、それぞれの手の中に武器を携《たずさ》えて、戦場に立つ。
(――もともとレオネルの『|鉛人形の王《アンペルール》』に対抗《たいこう》するために組み上げた、広域侵食用の悪夢《ウィッチクラフト》だ)
放たれた矢が、仮面の.男の足元に突《つ》き刺《さ》さる。男が動きを止める。続けて、漆黒の骸たちは、それぞれの得物《えもの》を振《ふ》り上げて、男へと殺到《さっとう》する。
遠い昔の、今さら思い出したくもない、不快な記憶。
だが、『|琥珀の画廊《イストワール》』によって|夜の軟泥《ワルプルギス》の内側に再現されたこの光景は、かつて自分がこの目に焼き付けた破壊《はかい》と死のイメージを、そのまま忠実《ちゅうじつ》に――あるいは悪意に満ちた脚色《きゃくしょく》を込めて――再現≠オているのだ。ならば不快であることからは逃げられない。目を背《そむ》けることも許《ゆる》されない。
仮面の男は剣を振るう。
矢を打ち払い、槍《やり》を退《しりぞ》け、剣を弾く。
群《むら》がる骸を打ち払い、押《お》しのけ、歩みを進めようとして、阻《はば》まれる。
手数に圧倒的な差がある。いかに不死者《レヴナント》として秀《ひい》でた力を持っているといえど、ただそれだけで押し返せるほどこの再現≠ヘ甘《あま》くない。
このまま無言を貫《つらぬ》くというならば、遠慮《えんりょ》なく圧《お》し潰《つぶ》させてもらうまで。
芝生ではなくなった大地を、男から距離をとるほうへと転がり身を起こしつつ、
「漆黒の画布に[#「漆黒の画布に」に傍点]、鴉を描く[#「鴉を描く」に傍点]!」
強引にもうひとつ、同じ呪文《ことば》を重ねる。
ぎちり、とジネットの全身が小さく悲鳴をあげる。
夕暮れの古戦場の光景に重なるように――ちょうど、ステンドグラス越《ご》しの光が床《ゆか》を染《そ》めるようなかたちで、半《なか》ばぼやけた、新たな景色が現れる。
漆喰《しっくい》で塗《ぬ》り固められた、純白の、巨大《きょだい》な塔《とう》。
ドースの田舎《いなか》町に、最初は時計|塔《とう》として造られたはずのそれは、しかし製作者の意に反して牢獄《ろうごく》塔として用《もち》いられた。そして今から六十年ほど前、独裁《どくさい》的な領主によってその内に閉じ込められた百人近い無実の獄囚《ごくしゅう》もろとも爆破《ぽくは》され、その役目を終えた。
ジネットはその場でその光景を見た。聞こえるはずのない悲鳴を聞いた。そしてその記憶もまた、こうして今も少女の中に悪夢として残されている。
そしてその悪夢が――仮面の男に襲いかかる。
塔が崩壊《ほうかい》する。巨岩のごとき圧倒的な質量が、無数の瓦礫《がれき》となり降り注ぐ。骸たちに足止めされている男は逃げられない。ひときわ大きな漆喰の塊《かたまり》が、男の立つ位置を直撃し、その姿を完全に覆《おお》い隠す。
このまま終わりか、と、そんな考えが脳裏《のうり》をよぎる。
このままあの男が何の手も講じなかったならば、もちろんそういうことになるだろう。今自分が叩《たた》き込んだのは、何の手だても講じないままに凌《しの》ぎきれるほど甘い攻撃《こうげき》ではない。
しばらく、待つ。
崩落《ほうらく》が終わる。
――ああ、本当に、これで終わりなのか。
ならば、それでいい。いや、それに越《こ》したことはない。
結局相手の正体が分からなかったことにひっかかりがあるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。自分が倒《たお》すべき本当の敵はこいつではない。一秒でも早く、屋敷《やしき》の中に戻《もど》らなければならない。
無言のままで、周囲に広げていた|夜の軟泥《ワルプルギス》を解除する。再現≠ウれていた光景の全《すべ》てが砕《くだ》け始める。その様《さま》は、ちょうど、水彩《すいさい》で描《えが》かれた絵に水をぶちまけているような感覚が近い。どろりと輪郭《りんかく》が崩《くず》れ、色と形が曖昧《あいまい》になって、そのまま薄《うす》れていく。後は放《ほう》っておけばいい。そうすれば、少なくとも骸やら瓦礫やらといったここにあるはずのない[#「ここにあるはずのない」に傍点]ものは全て跡形《あとかた》もなく消えてしまう。残るのは、それらがこの場に刻んだ傷痕《きずあと》くらいのものだ。
「……ふう」
戦いの高揚《こうよう》が引いていくのに従って、思い出したように体が疲労《ひろう》を訴《うった》える。軽い目眩《めまい》に、小さくよろめく。しかしこの程度なら問題ない。まだ充分《じゅうぶん》に戦える。アルト老にはまた〈少しはペース配分つーもんを覚えんか〉などと小言を言われることになるだろうが、これはどうせ聞き流すのだからどうでもいい。
「急がなければ……」
屋敷の中に残された面々には、ロジェ・ヴィルトールにぶつける戦力としては、かなりの不安がある。人形の中に封印《ふういん》されているアルト老は言うに及《およ》ばず、重傷状態のクロアもほとんど戦えないはずだ。ソルとエンリケッタなどを除けば、あとに残るのはクリストフただ独り。しかし、魔法書《グリモア》を持つとはいえ生身の人間でしかない――不死者《レヴナント》ではない彼では、果たしてどこまで抗《あらが》えるものだろうか。時間が経《た》てば経つほど、彼らは不利になっていくだろう。
けれど、自分が行けば、状況《じょうきょう》を変えられる。
そして、自分が行かなければ、状況は変えられない。
「…………」
溶け行く過去の記憶たちに背を向けて、
「――親が眠り、友が眠り、敵が眠り、子が眠り、=v
足を、止める。
知らず小さくうつむいていた目が、丸く大きく開く。
背後から、声が聞こえる。
時折小さく震《ふる》える――痛みを堪《こら》えているのだろう――若い男の声だ。
あの男はまだ死んでいない。その事には、さほど驚《おどろ》かない。そういうこともあるだろうなと、瞬時に受け止める。不死者《レヴナント》を殺そうとする、あるいは魔法《ウィッチクラフト》に関《かか》わる者と戦うということは、つまりそういうことだ。何が起こるか分からない。だから、何が起ころうと、動じることなく目の前の現実にひとつひとつ対処《たいしょ》すればいい。そこには何の問題もない。
けれど、ジネットは動揺《どうよう》した。
足が動かず、息が止まり、そしてすぐには振り返れなかった。
「|全てが眠る荒野の片隅に、墓守は独り生き続ける《ソン・レーヴ・マンク・ル・モンド》=v
|夜の軟泥《ワルプルギス》が胎動《たいどう》する気配。
肩越《かたご》しに、背後を見る。
何かが、身を起こしつつある。
その身を包んでいた、ゆったりとしたあの黒衣はずたずたに引き千切れている。体中に無事なところはないだろうというほど、ぐちゃぐちゃに傷ついている。全身を染める血の量は、流れ出したというよりも、絞《しぼ》り出されたというほうが相応《ふさわ》しい。
骨が砕け、腱《けん》が千切れ、もはや生死がどうという問題ではなく物理的に身動きがとれないはずのその男が、立ち上がる。
こちらを見て――既《すで》に砕けて意味をなさなくなった仮面をむしり取り、投げ捨てる。
聞き覚えのある声。
見覚えのある顔。
ジネットは、まだ、目の前にあるものを信じられないでいる。
「……ふぅ」
男が、やれやれという顔で溜息《ためいき》を吐《つ》く。
しゃあ、と蛇《へび》が威嚇《いかく》するような小さな音が鳴った。千切れかけた左腕からぶらさがっていた筋が、突然《とつぜん》それ自体がひとつの生き物であるかのようにうねり、傷口を繋《つな》ぎ合わせた。ぼきん、と木の棒《ぼう》をへし折るような音が響いた。ばらばらの方向にねじれていた手足が、本来の形を取り戻した。音もなく皮膚《ひふ》が蘇《よみがえ》る。全身が血に塗《まみ》れたままではあるにせよ、男の体は完全に修復される。
細身の男だ。背は大して高いわけではないし、手足はまるで少女のようにほっそりとしている。
「今のは、本当に危なかった。一歩……どころじゃないな、半歩|間違《まちが》ったら確実に終わってた。いくら『|最後の埋葬者《フラムロール》』でも、度《ど》を超《こ》えて壊《こわ》された体は、もう修復できない……」
世間話でもするように、男は話し始めた。
「ったく、相変わらず過激《かげき》っていうか、遠慮《えんりょ》を知らないっていうか。教育係泣かせのお転婆《てんば》は、全然変わっちゃいないんだな」
「……何故《なぜ》だ?」
遮《さえぎ》るようにして、ジネットは問いかける。
「なぜ、君が、ここにいる……?」
「ヴィルトールに誘《さそ》われた。協力して『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を手に入れよう、って」
「そうじゃない! なぜ君が生きている!」
声を荒《あら》らげて、ぶんと腕《うで》を振《ふ》った。
「そんな筈《はず》がないだろう! あの時、あの城の中に、君はいなかったはずだ! 魔女の城に入るよりも前に、レオネルに斬《き》られ、討伐《とうばつ》隊から外れたはずだ! 魔女の本が燃えたあの場所に居合わせなかった君は、不死者《レヴナント》になどならなかったはずだ――!!」
「でも、俺はこうしてここにいる」
「ならば!」
悲鳴のような声で、ジネットは続けて問う。
「あの時あの場所にいたというなら、なぜ姉様を助けなかった!
君は騎士《きし》なのだろう!? 姉様を守る人間なのだろう!?
ならばなぜ、姉様を死なせた! 殺させた!
なぜ、こんな――こんな――」
「待て待て。俺は騎士じゃないぞ。姫《ひめ》様ともあろうものが、そこを間違えちゃいけないだろ。そのへんしっかり区別しろって、またアルト将軍辺りにどやされるぞ?」
「君は、騎士だ!」
完全な悲鳴だった。
「君だけが、あの腐《くさ》り果てた騎士しかいなかった国の中で、まともな騎士だった!」
「だから、言ってるだろってば。俺は騎士じゃない。間違えちゃいけない」
「……それでも。私の中では、君は騎士だ。
君のような者だけが、私にとっての、騎士という存在だ」
「ああもう、本当に相変わらずなんだな、君は」
血まみれの手で、照《て》れたように、後ろ頭を掻《か》く。
会話が、いったん、止まる。
「あれは……嘘《うそ》だったのか?」
ぽつり、ぽつりと、尋《たず》ねる。
「君は、言っただろう。本当は騎士になりたかったのだと。姉様に、信頼《しんらい》できる誰かを与《あた》えてやりたかったんだと。あれは嘘だったのか? それとも、君は自分の言葉の全《すべ》てを忘れてしまったのか?」
「忘れちゃいないさ、小さなジネット姫。もちろん、よく覚えている。その時、俺はちゃんと言ったはずだ。本当は騎士になりたかった、けれどなれなかった。信頼できる誰かを与えてやりたかった、けれど出来なかった――」
男は首を横に振る。
「少なくとも、嘘じゃあ、なかった」
「……ならば、あれから二百年、どこで何をしていた。大陸のどこかに生きていたというなら、どうして私の前に姿を現さなかった」
ジネットは尋ねた。
「不死者《レヴナント》同士の争いに興味はなかったからな。目立たないように、ひっそり生きてた。人に紛《まぎ》れて、小さな町の片隅《かたすみ》でひっそりと、な」
男は軽い口調で、少なくとも軽く聞こえる声で、そう答えた。
ぎり、と、ジネットの奥歯《おくば》が嫌《いや》な音をたてた。
「……そうか」
手の中に、一振りの剣《けん》を、編《あ》む。
皮膚が痛みを訴《うった》えるほどに強く、その柄《つか》を、握《にぎ》りこむ。
「私のことは……君の興味の外、だったのか」
男は答えない。
「あの頃《ころ》の私が……幼すぎたというだけだったのか。君という人間が見えておらず、ただ聞こえの良い言葉に酔《よ》わされていただけだったのか。
ならば、もう何も間うまい。立ち塞《ふさ》がる敵として、ただこの手で討《う》ち果たす」
剣を、構える。
「行くぞ、アヴィン・ラーブル。もはやその命、言葉で繋げるものではないと思え」
男は――そこにどういう感情を秘《ひ》めたものか、ただ小さく笑って、
「分かっているさ。今さら甘《あま》えたことを言うつもりはない」
同じように、剣を構える。
18.
ジネットがロジェに飛びかかり、仮面の男に退《しりぞ》けられて――
硝子《ガラス》が粉々に砕《くだ》ける、耳障《みみざわ》りな破砕《はさい》音。
二人の姿が、屋敷《やしき》の中から消える。
「……ふむ。意外なところで意外な顔を見るものだな。少し驚《おどろ》いたが……」
自ら仮面を脱《ぬ》いだロジェが、ぐるりと、その場に居合わせた全員の顔を見渡《みわた》した。
六人いたところから二人が消えれば、残りは四人。灰色のよれたコートを着込んだクリストフ、壁《かべ》に肩《かた》を預けて苦しそうにしているクロア、そして……偶然《ぐうぜん》居合わせただけなのか、状況《じょうきょう》を把握《はあく》できずにおろおろとしている使用人が二人。
「さて、久しいな、クリストフ・デルガル。二年ぶりだ。あの眩《まぶ》しい光の中、互《たが》いに生延《の》びていたことをまずは歓《よろこ》び合うべきなのかもしれないが、それは省略《しょうりゃく》させてもらおう。これでも色々と忙《いそが》しい身だからな」
「気にしちゃいねぇよ」
クリストフは肩をすくめる。
「アンタはそういう奴《やつ》だし、俺だって同類《どうるい》だ。再会の席にはハーブティーとシナモンクッキー、とかそんなガラでもねぇ」
「それはありがたいな、すぐに用件に入ることができる」
ロジェはかぶりを振って、
「――バルゲリアル公《こう》はどこだ?」
「へぇ」
クリストフは眉《まゆ》をひそめる。
「例の、なんとかいう小箱が目的で来たんじゃなかったのか?」
「むろん、その通りだ。
が、ジネット姫《ひめ》がここにいた。ということは、彼もここにいると考えるのが自然だろう。厄介《やっかい》な姫自身をこうして遠ざけた今、私にとって脅威《きょうい》となりうるのはあの男だけだ。早々に排除《はいじょ》しておきたいと考えるのは当然だろう」
「脅威……?」
予想外の言葉が続き、クリストフはさらに眉をひそめる。
|夜の軟泥《ワルプルギス》を封《ふう》じ込めるあの人形の体の中からは、アルト老は魔法《ウィッチクラフト》を使えないと聞いている。歩いて喋《しゃべ》って飛び跳《は》ねる、それだけでも人形としては充分《じゅうぶん》に常軌《じょうき》を逸《いっ》してはいるものの、どうにもこうにも脅威という言葉に似つかわしくない。
この男といい――アルト老本人といい[#「アルト老本人といい」に傍点]、一体何を考えているのか。どうやら自分の知らない、いや彼らの中だけにしかない何かの前提があるようだ。
「目の届くところに居て欲《ほ》しかったが……叶《かな》わぬならば仕方ない。当初の目的を先に果たすとしようか」
ロジェは、一歩を踏《ふ》み出した。
こいつの目に、自分たちのことは映っていないのだと、クリストフは改めて知った。
当然のことではある。二年前の同盟《どうめい》当時に、互いの力量をある程度|掴《つか》んでいる。不死者《レヴナント》であるということは、ただそれだけで人間に届く限界を大きく上回るということを意味する。魔書使い《グリモア・ハンドラ》であるとはいえ生身の人間である自分と、重傷を負いほとんど戦力とならないだろうクロア。まるで相手にならないと判断されることも、無理はない。
「……ケイト、アデル」
横目だけで使用人たちの姿を確認《かくにん》し、クリストフはその名を呼ぶ。
「ん」
「――やはり、そういうことになりますか」
「ああ。切り替えろ[#「切り替えろ」に傍点]」
ぴたり、とケイト達二人の体が動きを止める。
関節《かんせつ》の全《すべ》てが力を失ったようになって、その場にがくんと崩《くず》れ落ちる。
「覚えろ[#「覚えろ」に傍点]。目の前にいるあのジジイが、敵だ」
がくん、と二人は首だけを動かし、目の前を、見た。
表情だけがすっぽりと抜《ぬ》け落ちた顔で、ロジェ・ヴィルトールを見つめた。
ゆらりと、上から糸に吊《つ》られてでもいるような奇妙《きみょう》な動きで、二人はそれぞれに立ちあがる。そして、全身を弛緩《しかん》させた奇妙な姿勢のまま、再び動かなくなる。
「……どういうこと?」
壁に背を預け、額に脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべたまま、クロアが訝《いぶか》しげな目を向けてくる。「いいから前向け」とアゴをしゃくって、ロジェに注意を戻《もど》させる。
「特別製の人形、だ。出来ることなら最後まで使いたかなかったけどな、出し惜《お》しみしてる場合じゃねぇ」
「人形……? この子たちが?」
表情にも声の調子にもまるで変化がないが、口調から察するに、どうやらクロアは驚いているらしい。ロジェに向けたままの目を、ちらちらとケイト達に向けている。
「――ふむ」
竺ジェは感心したような声をあげる。
「二年前にも、この玩具《がんぐ》は見せてもらった記憶《きおく》がないな」
「持ち運びに向かないもんでな。こう見えて、色々と扱《あつか》いがめんどくせーんだよ」
「ああ、そういえば、高価な人形がどうのこうのという話をしていたな。察するに、その人形が君と『|木棺の宣誓《アニュレール》』の切り札ということか?」
「ちと違《ちが》う。こいつは、値段のつけられねぇ人形だ。
……そんなに期待すんなよ。人間相手、そこらの魔書使い《グリモア・ハンドラ》相手なら原則|無敵《むてき》なんだが、あんたらみてぇな化《ば》けモン相手となりゃ話は別だ」
何を思ってか、静かに濁《にご》ったクロアの目がケイト達から完全に離《はな》れ、
「……それでも、今のあたしよりかほ、よっぽど役に立ちそうだね……」
懐《ふところ》の中から、鞘《さや》に収まった小ぶりの短剣《たんけん》を取り出す。
革《かわ》の鞘から抜き放たれた刀身は、艶《つや》のない灰色。
「珍《めずら》しいな」
つい、そんな言葉が口をついて出た。
「何が?」
「不死者《レヴナント》ってのは自前の武器を編《あ》んで戦うもんじゃねぇのかと」
「それは、燃えた魔法書《グリモア》を浴びた時に武器を持っていて、その武器も込みで不死者《レヴナント》に変わった奴らだけのハナシ。あの時のあたしは、ただの召使《めしつか》いとして引っ張り回されてただけだから、ほとんど素手《すで》だった」
ああ、あの剣はそういうカラクリだったのか。知らなかった。もっとも、知ったところで、何がどうなるというものでもない――少なくとも今目の前にある状況が好転するわけではないのだが。
「準備はできたか?」
律儀《りちぎ》に待っていてくれたらしいロジェが先を促《うなが》してくる。
「ああ、悪《わり》ぃな」
「勝ち目はないだろうと理解はしているのだろうに、退《しりぞ》こうとはしないのだな」
「まぁ、こっちにも色々と、背中を向けられない理由があってな」
応《こた》えて、クリストフもまた自分の剣を抜く。
19.
鋼《はがね》と鋼とが噛《か》み合う鋭《するど》い音。
墨《すみ》を薄《うす》く塗《ぬ》りつけたような夜の庭園に、火花が弾《はじ》ける。
力を込めた剣撃《けんげき》を打ち合わせるたびに、ジネットは反動で背後へと吹《ふ》き飛ばされる。|夜の軟泥《ワルプルギス》で増幅《ぞうふく》された大きな力のぶつかりあいを、少女の小柄《こがら》な体躯《たいく》は支えきれない。
吹き飛ばされるたびに、中空で体勢を立て直す。着地と同時、杭《くい》を打ち付けるような勢いで地面を蹴《け》り、開いてしまった間合いを詰《つ》め直し、次の一撃を加える。
何度も何度も、それを繰《く》り返す。
そうしているうちに、アヴィンの手のうちについて、少しずつ読めてくる。
自分の剣を正面から弾き飛ばすような剛力《ごうりき》を振るう。
全身が砕《くだ》けるほどの重傷――それも魔法《ウィッチクラフト》によってつけられたもの――を瞬《またた》くほどの間に修復≠キる。治療《ちりょう》や回復などといったものではない。そんなことに魔法《ウィッチクラフト》は使えない。活性化した|夜の軟泥《ワルプルギス》が傷口に結晶《けっしょう》して物質化し、血肉の働きを代替《だいたい》する……だからそれはあくまでも修復≠ネのだ。
そして驚異《きょうい》的なこの二つの能力が、アヴィンの内に在《あ》る魔法書《グリモア》の強みであり、そして同時に、全てだ。
先ほど彼は確かに、導きの言葉≠ノよって|夜の軟泥《ワルプルギス》を解放した。そしてそれにもかかわらず、この夜の庭園は、まったく彼の体から溢《あふ》れだす|夜の軟泥《ワルプルギス》によって汚染《おせん》されていない。
自分自身に対してのみ作用する魔法《ウィッチクラフト》と、それを書きしるした魔法書《グリモア》と、それを宿した|魔法書の代役《バーント・グリモア》。だからこそ、それは、他の魔法書《グリモア》では届かないような離れ業《わざ》を、やってのける。
(……随分《ずいぶん》と変わり種《だね》の魔法書《グリモア》もあったものだな)
魔法《ウィッチクラフト》とは、異界の泥《どろ》によって自分の周囲の世界を汚《よご》し、その在り方を描《か》き変えるものだ。規模の大小や具体的な内容などに差はあれど、この原則は全ての魔法書《グリモア》において変わらない。
だが、自分の周囲の世界≠ニいう部分をここまで狭《せば》めている魔法書《グリモア》など、ジネットはこれまで見たことがなかった。
驚きはするし、戸惑《とまど》いもする。
けれど、こうして種が分かってしまえば、そこまでだ。ジネットは再び自分の導きの言葉≠ノよって|夜の軟泥《ワルプルギス》を辺りに解放すると、
「漆黒の画布に[#「漆黒の画布に」に傍点]、鴉を描く[#「鴉を描く」に傍点]」
ジネットの言葉に応えて、また新たな光景が再現≠ウれる。
人気のない夜の街。静かな湖畔《こはん》の道。
離れたところから、ゆっくりと迫《せま》り来る、かつてはその街の住人だった者たち。百に届《とど》こうとしている数のそれらは、人の姿をほとんど留《とど》めながら、しかし決して人ではありえない。ぐずり、ぐずりと輪郭《りんかく》を崩《くず》しながら、それらは歩みを止めず、一歩、また一歩と、アヴィンへと迫ってゆく――
「くっ」
アヴィンは舌を打ち、剣を振るう。いかに強い力を振るうことができようと、それは斬《き》り払《はら》った剣が獣《けもの》の一|匹《ぴき》を容易《たやす》く斬り裂《さ》けるということにしかならない。いかに脅威《きょうい》的な速度で傷が修復できるとしても、こうして押《お》し包まれてしまえば、動きが止められてしまうことは避《さ》けようがない。
さらにもうひとつ再生≠重ねる。同じ湖畔の道、同じ月の細い夜にこの目で見た、忘れられない悪夢の光景をだ。
「漆黒の画布に[#「漆黒の画布に」に傍点]、鴉を描く[#「鴉を描く」に傍点]」
空から、光が降り注いだ。
光は世界を純白に染め、膨大《ぼうだい》な熱と圧倒《あっとう》的な衝撃《しょうげき》をばらまき、渦《うず》をすら巻いてその場の全てを焼き尽《つ》くし、そして吹き飛ばす。
体が痛む。骨や筋の一本一本が、きしみながら悲鳴をあげている。
急激な熱に浮《う》かされ、視界が揺《ゆ》れている。
立て続けに規模《きぼ》の大きな魔法《ウィッチクラフト》を放ったせいで、体内の|夜の軟泥《ワルプルギス》が底を尽きかけている。
またアルト老に〈だからものごとにはペース配分というものがじゃなあ!?〉、などと要《い》らない説教をされることになるのだろうか……そろそろ、一度くらいは、言うことを聞いてやってもいいかもしれないと、頭の片隅《かたすみ》だけで、ほんの少し、思う。
光の渦が、少しずつ勢いを失い、薄れていく。
純白に近かった視界の中、ゆらりと、黒い影《かげ》がひとつ、立ちあがる。
ジネットは地を蹴る。
その手の中の剣を、握《にぎ》り直す。
目の前にある人影の胸の中へと、飛び込んでいく。そして真《ま》っ直《す》ぐに、構えた剣の切っ先を、心臓の位置へと、刺《さ》し入れる。
ほんのわずかな、抵抗《ていこう》の感触《かんしょく》。
この手に馴染《なじ》んだ、鋼の切っ先が人を刺し貫《つらぬ》く時の、吐《は》き気を誘《さそ》う重たい手ごたえ。
――お主、人を、殺せるか――?
当たり前だ。当たり前に決まっている。
この目の前に立ちふさがるのなら、誰であろうと殺してみせる。自分の心を抑《おさ》えつけ、どのようなおぞましいものでも武器として振《ふ》るってみせる。
だからお願いだ、もうそんなことを聞かないでくれ。
いまこの心は迷っているのだと、気付かせないでくれ。
「……強くなったな、ジネット」
光と熱に焼けただれた唇《くちびる》が、それでも優《やさ》しく、ジネットの耳元で、囁《ささや》く。
「あんなに小さかった君も……強くならないと、いけなかったんだろうな……」
灰の塊《かたまり》のような腕《うで》が、そっと、ジネットの背を抱《だ》く。
「黙《だま》れ……」
涙《なみだ》を堪《こら》え、懸命《けんめい》に首を振って、その言葉に抗《あらが》う。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
「もう少しだけ、待っててくれ。俺たちが、全《すべ》てを終わらせてくる」
ほんのわずかに、アヴィンの腕に力がこもって――
「夜よ[#「夜よ」に傍点]」
瞬間《しゅんかん》、ジネットの首筋の辺りで、何かが小さく弾《はじ》けた。水面に落とした砂糖《さとう》の粒《つぶ》のように、意識が薄れて、消えていく。
「……アヴィ……ン……」
「君には魔女《まじょ》を殺す[#「殺す」に傍点]ことはできないんだ、ジネット。
この世界には魔女がいる。世界はそのことを覚えてしまった。だからこの世界がある限り永劫《えいごう》に、そこから魔女が消えていなくなることはない。これはもう、動かすことのできないルール。だから彼女《フィオル》は自分自身に呪《のろ》いをかけた。世界が魔女として錯覚《さっかく》する存在、妖精《フェイ》としてこの世界に永劫に留まり続けられるようにと。この世界に存在する魔法《ウィッチクラフト》の全てを統《す》べる存在として在り続けられるようにと。
だが、俺とロジェは、この呪《のろ》いを解く術に気付いている」
「なに……を……」
「知ってるだろ? 俺は騎士《きし》になれなかった、ただの裏切り者なんだよ、ジネット。だから、フィオルを殺すのは、他《ほか》の誰でもない、この俺なんだ――」
ぷつん、と。
糸が切れるようにして。
ジネットの意識は、そこで途絶《とだ》える。
20.
窓の外では、激しい戦いが行われているようだった。とんでもない大音量の轟音《ごうおん》やら、目を開けていられないほどの閃光《せんこう》やらが、休むことなく窓から飛び込んでくる。
ありゃあ、死んでも近づきたくねぇなぁ、とクリストフほぼんやり考える。
でも、こっちはこっちで、やっぱり近づきたくねぇなぁ、と正直に続ける。
不死者《レヴナント》、ロジェ・ヴィルトール。頭が痛くなるほどの難敵《なんてき》だ。
「|その旅人の旅は、旅立ちにより終わりを迎える《ソン・レーヴ・トループ・ル・モンド》=v
ロジェの宣言に応《こた》えて、周囲の世界が|夜の軟泥《ワルプルギス》を湛《たた》えて歪《ゆが》む。
クリストフは背後を振り返りクロアの様子を窺《うかが》うが、不死者《レヴナント》の娘《むすめ》は小さく首を横に振るだけだった。さすがにあれだけの傷を負っている状態では|夜の軟泥《ワルプルギス》の解放など出来るものではないらしい。まして、それでロジェに対抗《たいこう》するというのは無理もいいところ。
つまり自分たちほ、この、不利|極《きわ》まりないフィールドの中で、そうでなくとも圧倒的な戦力差のある相手と、正面からぶつかり合わなければならないのだ。
(……やってらんねーな、おい)
その弱音は口にせずに心の中だけで呟《つぶや》くにとどめ、
「十六人の村人が霧《きり》の中、十六色の幻《まぼろし》に恋《こい》をした=v
すぐ傍《そば》にあったアデルとケイト二人の背に手を当てて、
「|それら全ての幻にはひとつの名前しか与えられなかった《ソン・レーヴ・トゥシュ・ル・モンド》=v
二人の体が、びくりと一度大きく痙撃《けいれん》する。『|木棺の宣誓《アニュレール》』は刻印《ブランディング》を扱《あつか》うことに特化した魔法書《グリモア》だ。導きの言葉を使ったところで、|夜の軟泥《ワルプルギス》は周囲に溢れだしたりはしない。ただ目の前にある刻印《ブランディング》を刺激《しげき》し、その意味を深めることくらいしか出来ない。
……もっとも、ロジェが展開した|夜の軟泥《ワルプルギス》で周囲が完全に支配されている現状、生半可《なまはんか》な魔法《ウィッチクラフト》は、使おうとするだけ無駄《むだ》であるはずだ。それに比べれば、少しでも意味のある形でこちらの戦力に還元《かんげん》できるだけ、まだ状況《じょうきょう》はましだとも言えるかもしれない。
「行け!」
言葉と同時、二体の人形が跳《と》んだ。
瞬《まばた》きひとつほどの時間もかけず、手を伸《の》ばせば届くほどの距離《きょり》まで、ロジェに肉薄《にくはく》する。人間の限界を遥《はる》かに超《こ》えた、本来ならば不死者《レヴナント》にしか許されないはずの領域の動き。
「黒と白とが境を彩る[#「黒と白とが境を彩る」に傍点]」
ロジェの言葉と同時、人形たちが手にした刃《やいば》が何もない空間に弾かれ、大きな火花が弾けて消える。が、それも一瞬だけのこと。動きを止めることなく人形たちは攻撃《こうげき》を繰《く》り返す。百の刃が繰り出されれば、同じく百の火花が輝《かがや》いて散る。
「……すごい」
ぽかんとした顔のクロアが呟《つぶや》く。
「信じられない。騎士の不死者《レヴナント》を、圧倒《あっとう》してる……」
「今だけだ」
火花の嵐《あらし》を睨《にら》みつけたまま、クリストフはその呟きに応える。
「倍量の石炭をくべたところで、機関車は倍の速度じゃ走らねぇ。確かに多少出力はあがるだろうが、それで長持ちするはずもねぇ。あいつらに出来ることは、せいぜい数分間の足止めと、なんとか奴《やつ》の隙《すき》を作るところまでだ。
攻撃力はあんたに頼《たよ》らせてもらうぜ、不死者《レヴナント》のお嬢《じょう》ちゃん」
「……そりゃしょうがないね。それで、あんたはどうするんだい?」
「あいつらが壊《こわ》されたら、とりあえず玉砕《ぎょくさい》だな」
シンプルに答える。
「玉砕って、あんた、死ぬ気?」
「こっちの勝ち手段は、切り札ひとつの不意打ちしかねぇんだ。そいつをなんとかブチ当てるまでは、手持ちのカードを上手《うま》い順番で切ってくしかねぇし、出し惜《お》しみしてるような余裕《よゆう》なんざあるはずもねぇ――」
その言葉とほぼ同時、
「来たれ[#「来たれ」に傍点]」
ロジェの言葉と同時に、槌《つち》で岩を乱れ打つような轟音が響《ひび》いた。
人形たちの動きが止まった。止まらされた。
五本ほどの銀色の鉄杭《てっくい》が、いつの間にか、そしてどこからか、その場所に現れている。そしてケイトとアデル、二人の体を床《ゆか》に縫《ぬ》いとめている。杭の長さは大人の身長ほど。太さは大人の拳《こぶし》ほど。
そんなもので人の体を貫けば、むろん生きていられるはずがない。人ではない二人は即死《そくし》こそしなかったが、いくらもがいても抜《ぬ》け出せないほどしっかりと、その場所に固定されてしまった。
「打ちすえろっ[#「打ちすえろっ」に傍点]!」
クロアが叫《さけ》ぶ。これまでに砕《くだ》けた床石のかけらの幾《いく》つかが、銃弾《じゅうだん》の勢いと精度《せいど》とを帯びてロジェに殺到《さっとう》する。
同時にクリストフは駆《か》け出す。
コートの内側、脇《わき》に吊《つ》っていた剣《けん》を抜き放つ。
クリストフ・デルガルは、ここにいる他の者たちのような超人《ちょうじん》的な身体能力を持っていたりはしない。言葉ひとつで超絶的な破壊力《はかいりょく》を持つ魔法《ウィッチクラフト》を操《あやつ》れるわけでもない。剣の扱《あつか》いについてはそれなりに習熟《しゅうじゅく》しているつもりではいるが、むろんそれも人間としての常識的なレベルを超《こ》えるものではない。目の前にいるような正真|正銘《しょうめい》の化け物を相手に、クリストフ個人に出来ることなど、ほとんど何もない。
ほとんど何もないが……ゼロではない。
ロジェはクロアの放った飛礫《つぶて》を剣で切り払《はら》い、肉薄するクリストフに向かいただ一言だけ、先ほどと同じ魔法《ウィッチクラフト》の言葉を口にする。
「来たれ[#「来たれ」に傍点]」
クリストフは身をよじる。
ケイトやアデルを仕留めたあの鉄杭が一本、クリストフの腿《もも》を深く抉《えぐ》って床に突《つ》き立てられる。激痛と衝撃《しょうげき》に体が硬直《こうちょく》する。
ロジェのいる場所まで、あと少し。むりやり剣を振《ふ》るえばなんとか届いたかもしれない、そんな場所にまで到達《とうたつ》しておきながら、もうそれ以上は何もできず、クリストフは前のめりに転倒《てんとう》する。
仕留め終わった獲物《えもの》にはもう興味がないということだろう、ロジェはクリストフから目を離《はな》し、離れた廊下《ろうか》で息を荒《あら》くしているクロアへと向き直る。
そして――それが、狙《ねら》いだった。
クリストフは倒《たお》れる。
前に向かって。自分の背中を、天に向けるように。
自分の背にべったりへばりついているものが、大きく跳躍《ちょうやく》できるような姿勢で。
〈ようやった!〉
その声と同時に、とても小さな足に、背が蹴《け》られた。
背中から重みが消えた。
今の今までずっとクリストフの背に隠《かく》れていたものが、飛翔《ひしょう》した。
タイミングは決して悪くなかった。ロジェの虚《きょ》をつくことも出来た。
ならば何が悪かったのかといえば――強《し》いて言うならば、運、だろうか。
窓の外に、光が溢《あふ》れる。
眩《まばゆ》い、白い光。
はっとなって、ロジェが振り返る。その瞬間《しゅんかん》、空中にあるアルト老が、ロジェの視界の中に入る。わずかにその目を見開いたロジェの腕《うで》が、反射的に振るわれた。そしてその手の中にあった剣の腹が、アルト老をそのまま叩《たた》き落とした。
べしゃりと、人形の小さな体が、勢いよく床に叩きつけられる。
〈ぬおっ〉
「そんなところにいたか、緋鞘《ひしょう》の将。いや……」
起き上がろうとするところを、ロジェの放った鉄杭が刺《さ》し貫き、床に縫いとめる。
「ご無沙汰《ぶさた》していますよ、バルゲリアル公」
〈……ふん。その口にその名を呼ばれても、気色が悪いだけじゃい〉
「その愛《あい》らしい体で毒づかれるのも、同じようなものでしょう」
虚空《こくう》から引きぬかれた一本の細い杭、いや針《はり》が、正確に打ちこまれる。
細杭は深々と人形の背を刺し貫き、壁《かべ》へと縫いとめる。
〈おおおおお〉
「今の手は悪くなかった。そう、確かに悪くなかった。あなたのその手に触《ふ》れられてしまえば、確かに私はおしまいだった。だが、あなたは成功しなかった」
一本。そしてまた一本。
針がその数を増し、アルト老の人形の体を傷つけ、砕いていく。
「……この遊戯《ゆうぎ》は私の勝ちだ」
大した感動も感じさせない声で、ロジェはそう宣言し――
アルト老を封《ふう》じたその人形を、完全に破壊した。
†
邪魔《じゃま》な者を全《すべ》て退《しりぞ》け、完全に静かになった屋敷《やしき》の中、ロジェは軽く頭を振って、周囲に展開していた|夜の軟泥《ワルプルギス》を解除した。
その顔に、わずかに疲労《ひろう》の色が浮《う》かんでいる。
「……あとは……鍵《かぎ》≠ェどこに隠《かく》されているか。
いや、既《すで》にこの屋敷の中にはないと考えたほうが妥当《だとう》か。そうなると、誰かが持って、どこかに逃《に》げている、か……」
呟《つぶや》いて、その右の手を、祈《いの》るように中空に掲《かか》げ、
「探れ[#「探れ」に傍点]」
その指先から流れ出たわずかな|夜の軟泥《ワルプルギス》が、黒く渦《うず》を巻いて、ひとつの姿へと凝結《ぎょうけつ》する。黒い、ただひたすらに黒い、影《かげ》のような色の、一羽の巨鳥《きょちょう》。
「行け」
その命令の声に従って、巨鳥は窓を飛び出し、空高くへと舞《ま》い上がる。
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▼scene/5 だからここには何もない 〜so, I have nothing〜
21.
夜闇《よやみ》を塗《ぬ》りつぶすような閃光《せんこう》が、背後に広がった。
一瞬《いっしゅん》だけ遅《おく》れて、腹の中をかきまわすような轟音《ごうおん》と振動《しんどう》とが襲《おそ》いかかってきた。
「うわっ」
ソルはあわてて足を止め、すぐ隣《となり》で転びそうになったエンリケッタを抱《だ》き支える。
「なん……だろ、今の……」
先ほどから派手な音や揺《ゆ》れが続いている、その中でも今のは特別だった。
振《ふ》り返る。今の光のせいでいっそう深みを増した闇が遮《さえぎ》って、何も見えない。夜の森はそれまで以上の静けさを取り戻《もど》して、自分たちを押《お》し包んでいる。
嫌《いや》な予感が止まらない。
今ここには、自分とエンリケッタの二人しかいない。だから、無事にいるとはっきり分かるのはその二人だけなのだ。屋敷《やしき》に残ったクリストフやケイトやアデル、ジネットやアルトやクロア、彼ら六人が今どのような状況にあるかは知りようがないのだ。
もしかしたら、既《すで》に。
そんな暗い想像が、どうにも止められない。
「……そんなわけ、ないだろ?」
一人|呟《つぶや》き、想像を振り払《はら》う。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。大丈夫に決まってる。クリストフだってジネットさんだって、めちゃくちゃ強いんだ」
そうだ。今は彼らを信じるしかない。だから、彼らを信じると決めよう。信じて、今は自分にできることをしっかりとやろう。エンリケッタを連れて、ここを離《はな》れるんだ。
腰《こし》に吊《つ》った剣の鞘《さや》が、ひたすらに重たい。屋敷を出る前にクリストフに託《たく》された、刃《やいば》のついた本物の剣だ。ただ金属の塊《かたまり》であるからという理由だけではなく、何か別の意味の重みが、ずしりとのしかかっている。
「…………」
もぞり、と腕の中でエンリケッタが動いた。
「……いた、い……」
「あ、ご、ごめん!」
抱《だ》きしめた腕に、知らず知らずに力がこもっていた。表情を歪《ゆが》めるエンリケッタから慌《あわ》てて手を離し、半歩飛び退《の》く。
「ごめん、その、つい」
弁解《べんかい》の言葉は、果たして聞こえていたかどうか。エンリケッタは腕をさすりながら、暗い表情で屋敷を振り返る。
たった今の自分と同じようなことを考えているのだろうと思う。
「大丈夫だよ」
少女の小さな手を握《にぎ》る。
はっと、エンリケッタは驚《おどろ》いたように、ソルの顔を見上げる。
「心配いらない。みんな無事に決まってるし――君のそばには、僕《ぼく》がいる」
エンリケッタの目が、ソルの顔と手の間を往復《おうふく》する。
「あ……いや、もちろんその、僕なんかじゃ不満もあるだろうけど、そこはほら、今は僕しかいないから妥協《だきょう》してもらうしかないわけで、苦情は後でまとめて受け付けるからここはひとつぐっと呑《の》みこんでもらって……」
目が、そらされる。
握った手が、ゆっくりと、ほどかれる。
「どうしたの?」
星|灯《あか》りのせいだろうか。そっぽを向いたエンリケッタの瞳《ひとみ》が、かすかに潤《うる》んで見える。今にも泣きだしそうで、けれど泣きだすことができなくて、かといって他の表情を浮かべることもできなくて、そんな煮詰《につ》まった混乱がそのまま顔に出て……そんな感じの顔に見える。
どうして今、そんな顔になってしまうのかは、よく分からない。けれど、
(――なんだろう)
胸の中がざわめいている。落ち着かない。
以前にも、こんなことがあったような気がする。
なんだかよく分からない敵に追われて、ほうほうの体《てい》で逃《に》げ回って。隣《となり》にいる女の子がこんな表情を浮かべていて。
そして、そうだ、空を見上げれば、針のように細い銀の月が浮かんでいた。
何かを、思い出せそうな気がする。
思い出さないといけない気がする。
こめかみの奥《おく》が鋭《するど》く痛む。
「……あの、」
喉《のど》の奥にひっかかった何かの言葉を、なんとか形にしようと口を開き、
――空に、黒い場所がある。
墨《すみ》を塗《ぬ》りつけたような黒が、星が輝《かがや》いているはずの一角を覆《おお》い隠《かく》している。
頭がうまく動かなかったせいで、最初はその意味が分からなかった。
何秒かをかけて、翼《つばさ》の黒い、大きな鳥が飛んでいるのだと気付いた。
それからさらに何秒かをかけて、そのことの意味を把握《はあく》した。その瞬間《しゅんかん》、それまで考えていたことの全《すべ》てが、頭の中から消え失《う》せた。
夜に、鳥は、飛ばない。少なくとも、あんなに大きくて、あんなに静かな鳥など、飛ぶはずがない。ならば、あれは、何なのか。
「……行こう」
空に背を向け、エンリケッタの手を引いて走り出そうとした。が、
「そこにいたか」
声が聞こえた。
驚くソルの目前に、音もなく、黒い鳥は降り立つ。大きい。ちょっとした小屋ほどの大きさがある。その輪郭《りんかく》がぐにゃりと崩《くず》れたかと思うと、水が弾《はじ》けるようにして黒いものが飛び散る。ソルは反射的に腕を広げてエンリケッタを庇《かば》う。黒いものはびちゃびちゃと大地を濡《ぬ》らし、そしてすぐに空気に溶《と》けるようにして消えてしまう。
鳥の姿が消えたその跡《あと》には、初老の男が一人、立っている。
「まさか屋敷から逃げだしているとはな、なかなか思い切った手を打つものだ。おかげで見つけ出すのに多少の手間がかかった――」
誰《だれ》だ。そう、ソルは誰何《すいか》の声をあげようとした。が、声が出なかった。肺に吸い込んだ空気は、そのまま全て、悲鳴となって喉《のど》から迸《ほとばし》り出た。
痛い。
突然《とつぜん》だった。肩《かた》が、焼けるように、痛み出した。
頭の中が真っ赤になって、何も考えられなくて、それでもその目をなんとか動かして何が起きているのかだけを確かめた。いつのまに撃《う》ち込まれたものなのか、左の肩に、一本の細く長い釘《くぎ》が、まっすぐに突《つ》き立てられている。
痛い。
痛みが頭の中を駆《か》け巡《めぐ》るあまり、痛いということがどういうことなのかが分からなくなってしまうくらいに、痛い。人の体は、こんなにも凄《すさ》まじい感覚を内側に抱《かか》えることができるのだということに、驚いた。
杭《くい》を打ち込まれた衝撃《しょうげき》で、姿勢《しせい》を崩《くず》した。視界がぐるりと回って、背中から地面に倒《たお》れ込んだ。きっと、したたかに背を打っただろうと思う。痛みでよくわからない。
痛い。
悲鳴が止まらない。
「そこで大人しくしていなさい、新しき妖精《フェイ》の少年」
淡々《たんたん》とした声で、老人は言った。
自分自身の悲鳴の隙間《すきま》に、ソルはそれを聞いた。
新しき妖精《フェイ》。
意味までは掴《つか》めなかったものの、音としてのそれを、聞きとめた。
「君とは後で話がある。なに心配は要《い》らない。さして長い手間は取らせない」
ざり、ざり、ざり。ゆっくりと靴底《くつぞこ》が砂利《じゃり》を蹴《け》り、老人が近づいてくる。
「さあ」
老人が、その頬《ほお》を緩《ゆる》めて、わずかに笑《え》みらしきものを浮《う》かべながら、
「例の小箱を――『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の鍵《かぎ》を、渡《わた》していただきましょうか。女王|陛下《へいか》」
手を延《の》ばした。
――『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》」――?
今にも焼けつきそうなソルの意識が、かろうじてその言葉だけをとらえた。
聞いたことが、ある。そう思った。
何か、とても重要な言葉だったような気がする。
決して忘れてはいけない何かの名前だったような、そんな気がする。
いや、だけど、今は、そんなことよりも、もっと大事なことがある。
痛い。気絶してしまいそうなくらいに、痛い。けれど今はそんな場合じゃない。やらなければいけないことがある。そうだ。立ち上がらないと。この男の前に割り込まないと。……エンリケッタを、守らないと。
痛い。でも今は痛がっている場合じゃない。気合いと根性《こんじょう》だ。
とにかくまずは立ち上がる。なんとか膝《ひざ》が言うことを聞いてくれた。よろよろと身を起こす。
「ケッタに……近づくな」
――歩み寄ろうとする老人の前に、立ち塞《ふさ》がった。
左の腕《うで》は、うまく動かない。だから、右の腕だけで、剣《けん》を引きぬいた。
揺《ゆ》れる切っ先を、なんとか目の前の老人へと向けた。
「……なるほど」
足を止めた老人が、嘆息《たんそく》交じりに、呟《つぶや》いた。
「侮《あなど》っていたことを詫《わ》びよう、妖精《フェイ》の少年。君たち[#「君たち」に傍点]は大切な人間を守るためならば、その命の全てを燃やして立ちあがる。その意志の強さ、確かに見せてもらった。
思えば、私は前回、その侮りがゆえに敗れたのだったな……」
ゆっくりとその腕が動き、こちらを指さす。
「同じ轍《てつ》は踏《ふ》まない。今回は、何の紛《まぎ》れも入らぬよう、間違《まちが》いのないように――」
その指が、わずかに動く。
「鍵を廻せ[#「鍵を廻せ」に傍点]、扉を開け[#「扉を開け」に傍点]」
左肩を貫《つらぬ》く釘が、わずかに震《ふる》えて、ぐるりと回転した。
その内に込められていた|夜の軟泥《ワルプルギス》が膨《ふく》れ上がった。
べりっ……という、水草の束《たば》を引きちぎるような、濡れた音を聞いた。
視界が、ぐらりと崩れた。
「え……」
自分の体を見下ろして、ソルはその理由を知った。左肩から右の脇腹《わきばら》にかけて、体が大きく裂《さ》けている。ずるりと傷口がずれて、中身が露《あらわ》になる。星の光だけが照《て》らす夜の闇《やみ》の中、とんでもない勢いで噴《ふ》き出してきているこの黒い液体は、たぶん日の光の下でならは赤く見えていたことだろう。
まるで、巨大《きょだい》な刃物《はもの》で、一刀両断にされたような――
「間違いのないように、殺しておこう」
老人の呟く、その一言が、合図になった。
もはや足に力を込めるとか、そういうレベルの話ではない。抗《あらが》う手段もその力もなく、ソルは二つの肉片に分断されて、その場に崩れ落ちた。
確かに、何の紛れも、間違いも、ありえない。
誰の目にも明らかな致命傷《ちめいしょう》を刻まれて、ソルは死んだ。
死んで、死体となって、その場所に転がった。
22.
夢をみた。
むせ返るような、若草と花のにおい。
目を開いた。
そこは、一面の花畑だった。
赤と青と黄色。見た目に鮮《あざ》やかな花が、見渡す限りに咲《さ》き誇《ほこ》っている。そしておそらくはよほど手入れが行き届いているのだろう、人の手による整えられた美と、ただ小さな生命がそこにあることで生み出される柔《やわ》らかな美と、その両方が確かにここにはある。
ぼんやりと、その眺《なが》めを見つめている。
立ち上がる。
黄色い煉瓦《れんが》を敷《し》き詰《つ》めた、道らしきものを見つけた。少し、歩いてみる。
穏《おだ》やかな風が吹《ふ》いている。
息を大きく吸うたびに、濃密《のうみつ》な花の香《かお》りが胸の中を満たしてゆく。
一本の、大きな木を見つけた。
そしてその根元に背をもたれて眠《ねむ》る、一人の小さな女の子を見つけた。
――ああ、そうか。
――ようやく、分かった。
――いや、違う。
――ようやく、思い出した。
「…………」
その子に近付いた。
本当に小さな女の子だった。年は十か十一か。軽くウェーブのかかった銀色の髪《かみ》が、腰《こし》の辺りまで伸《の》びている。小さな桜色の唇《くちびる》が、すぅすぅと小さな呼吸を繰《く》り返している。片手で抱《かか》えられそうな小さな体は、この少女には似合わないほどけばけばしく豪奢《ごうしゃ》な飾《かざ》りのついた、白いドレスに包まれている。
銀色の髪。
そうだ。初めて見たこの子に惹《ひ》かれたのは、この髪の色のせいだったんだ。
ジネットさんに、どこか似ていたから。
僕が今の僕になる前、『ほかの誰《だれ》か』だった時に、ジネットさんのことをとても大切に思っていた。消えてなくなるその時まで彼女のことを案じ続けていた。だから、いまの僕になった時にも、その感情をひきずっていた。
だから、同じ銀髪《ぎんぱつ》のこの子のことが気になった。
それが、『ソル』がこの子、エンリケッタのことを、守りたいと思った理由。
女の子がまぶたを開いた。
丸い大きな水色の瞳《ひとみ》が、まっすぐにこっちを見つめていた。
『……誰?』
ぽつんと、疑問の声が、小さな唇からこぼれた。
今の僕は知っている。この子がこうして疑問を声に出すということが、どれだけ珍《めずら》しい出来事なのかを。この子がどれだけ、この時の僕との出会いに驚《おどろ》いていたのかを。
「僕は……」
あの時の僕は空っぽで、何も知らなくて、何とも答えられなかった。
そして……今は別の意味で、何とも答えられない。
「僕は……」
――僕は、何《ダレ》なんだろう――?
今の自分は、その問いへの答えを知っている。
誰でもないのだ。
名前もない。記憶《きおく》もない。自分自身の意志で守ろうと決めた相手すらいない。
まるで、中身のない、空っぽの人形だ。
……でも、それでも、あれから、二年が経《た》ったのだ。
決して十分な時間ではなかった。が、とにかくそれだけの時間が流れたのだ。
名前をもらった。二年分の思い出をもらった。自分自身の意志で守ろうと決めた相手も……新しく、できた。
ジネットさんに似ているからじゃない。エンリケッタというこの女の子自身のことを大切だと思えたから。自分自身の意志で、大切と思うことに決めたから。
全然笑わないこの子を。
女王としての発言以外、ほとんど全然|喋《しゃべ》らない無口なこの子を。
どれだけ親しい人が死んでも涙《なみだ》のひとつも流せない、流すことを自分自身に認《みと》めていない、そんな、かわいそうなくらいに自分に厳《きび》しいこの子を。
……この子を、放《ほう》っておきたくないと、思ってしまったから。
「僕はまだ、誰でもない」
渇《かわ》ききった喉《のど》の奥《おく》から、その答えを絞《しぼ》り出した。
「誰かになれるだけの時間もなかったし、物語を歩んでくることもなかった。自分を変えた出来事とか、誰かを好きになれた一言とか、そういうのは何もない。
僕は、ただ、ここにいて、ケッタのことを大事にしたいなって考えてる、ただそれだけの……ちっぽけな人格だ」
†
――風が、吹いている。
「妖精《フェイ》っていうシステムは、本来、そんなに複雑《ふくざつ》じゃないんですよ」
誰かの声が、聞こえた。
鈴を転がすような、優《やさ》しい、女性の声だ。
「『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』が一人の人間の……そうですね、言ってみれば可能性≠まとめて記録して、それを世界に投影《とうえい》する。
フィオル・キセルメルの可能性を投影したならば、フィオル・キセルメルという個人がまだ生きているかのようなかたちで妖精《フェイ》が生まれる。リュカ・エルモントの可能性を投影したならば、リュカ・エルモントという個人について同じことが起きる。
複雑なことになるのは……誰の可能性を投影するかってところなんです」
女性の声が、ふうと疲《つか》れたようなため息を吐《つ》いた。
「呼び起こされる可能性を選ぶには、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を使う必要があります。そしてそれは、基本的には魔女《まじょ》か、魔女の可能性を投影された妖精《フェイ》にしかできないことです。そして、フェルツヴェンで、リュカ・エルモントの可能性を投影した妖精《フェイ》が消えたとき、新たな妖精《フェイ》となるべき可能性を選ぶ者は誰もいませんでした。
けれどそれでも、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』は新たな妖精《フェイ》を生みだしました。ここ[#「ここ」に傍点]にいる二人、二つの可能性の中から、どちらを選ぶこともできないままに……」
わずかに時間を挟《はさ》んで、
「二つの可能性を混ぜ合わせられた……新しい可能性を、生み落としました」
「なんだ、そりゃ」
別の誰かの声が割り込んだ。まだ年若い、少年の声だ。
「できんのかよ、そんなこと。
つーか、新しい可能性とか言われてもよく分かんねーし。つまりそれって誰になるんだ? 俺でもフィオルでもありません、ってんなら、結局誰なんだよ?」
「わたしたち二人の知る誰でもないはずです」
「だから分かんねって」
「……けっこう説明が難《むすか》しいんですよ、これ」
「分かりやすく一言で説明しろ」
むぅぅ、と女性の声が悩《なや》むようにうなって、
「うん、いい言葉が浮《う》かびました」
「オーケー言ってみろ聞いてやる」
「つまり、わたしたちの、子供です」
ぶぼはっ、と少年の声が派手に噴《ふ》き出すのが聞こえた。
「わたしとリュカの、どっちに似てるかは分かりませんけど、きっと良い子ですよ。
元気で、負けず嫌《ぎら》いで、優しくて。
そして、傍《そば》にいる誰かのことを、何があっても絶対に見捨てない。
……うーん、男の子かな、女の子かな。リュカはどっちだと思います?」
「し、ししししし知るかっつーかいきなり妙《みょう》なこと言い出すな!?」
「ええー。一言で説明しろって言ったのリュカじゃないですか」
「知らん忘れた!」
「えええー」
女性の声が楽しそうに、少年の声が不愉快《ふゆかい》そうに、響《ひび》く。
――――風が、吹《ふ》いている。
「なんで、妖精《フェイ》なんてシステムを、魔女が創《つく》ったか……ですか」
風の向こうから、女性の声が聞こえる。
「そうですね。簡単に言えば、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を誰にも扱《あつか》えないものにするため……でした。
世界は既《すで》に、『そこに魔女がいる』ことを覚えています。
だから世界のどこかに、常に必ず、魔女が一人だけいます。
どのような形、どのような姿であれ、必ず存在しなきゃいけないんです」
「……だからそういう、遠まわしな言い方するなって。分かんねーから」
「リュカには、ひとの話を理解しようっていう前向きな姿勢が足りません」
ぶー。と女性の声は、幼さの混じったトーンで不満を漏《も》らす。
「いいから続けてくれ。魔女がいつでも存在するから、どうだって?」
「……世界はいつでも、『そこに魔女がいる』と思っている。けれどもちろん、フィオル・キセルメル本人なんてとっくの昔に死んじゃってます。だからそこに、ちょっとした虚言《きょげん》を滑《すべ》り込ませる余地《よち》があるわけです。かつて実在したフィオル・キセルメルという人間に強く緑《えにし》を結んだものとか、性質がよく似たものとかが、うまく世界を騙《だま》せれば、魔女としての役目を部分的にでも代行できるようになっちゃうんですよ」
「強く緑を結んだって、たとえは、ジネットとかか?」
「……あの子のこと、知ってるんですか?」
「ん。ちょっと、色々とあって、な」
「ふぅん?」
奇妙《きみょう》な雰囲気《ふんいき》を交えたしばらくの沈黙《ちんもく》の後、
「ま、いいです。その顔見たらだいたいのところは分かりましたし、どんな風に知ってるのかについては聞かないでおきます」
「…………」
「それでジネットですけど、そうですね、いま生きているフィオル・キセルメルに縁のある者≠ニしては、一番危険度が高いと思います。素《す》のままのあの子ならまだしも、魔女の書いた『|琥珀の画廊《イストワール》』なんてものを体に入れてるわけですし、魔女に縁《ゆかり》のある小道具……分かりやすいところで遺髪《いはつ》とかそのへんですね、があとひとつふたつもあれば、簡単に魔女の代行者になれちゃうんじゃないでしょうか。
あの子以外でそこまで出来そうなのは、せいぜい……シャリィとか、アヴィン君とか、あとは一応レオネルさんとか、そのくらい、かな……?」
「……今出てきた名前に興味はあるけど、そろそろ話|戻《もど》してくれ」
「あー……妖精《フェイ》の理由でしたっけ。ええと、それは簡単で。妖精《フェイ》は魔女そのものじゃないですけど、その因子《いんし》を強く持つ存在です。世界はその因子を見て、自分の内側に魔女が在ると思いこむ。だから妖精《フェイ》が人として在りさえすれば、『世界に魔女がいる』という条件は満たされます。
そうしている限り、ジネットやレオネルさんが魔女として『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を抱《かか》えることになるとか、もしくはそれ以上の悲劇とか、そういうものが回避《かいひ》できるんです」
少し長めの沈黙。
「仮に俺が妖精《フェイ》になってなくて、ジネットに何かがあったりしたら、レオネルが魔女の資格を持って、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』も手に入れてたとか、そういうわけか?」
「その可能性はありました……って、なんでレオネルさんの名前を?」
「色々あった。長くなるから、その話も後だ」
憮然《ぶぜん》とした少年の声が、話を断《た》ち切る。
†
そして、風が止《や》んだのを感じた。
意識が、ゆっくりと返ってくる。
そうして夢から醒《さ》めてみれば、そこは夜の山道だ。
声が出ない。
喉《のど》が動かない。
そもそも体中、動かせそうなところが何ひとつとしてない。
目も見えない。何も聞こえない。
(……ああ、そうか)
思い出した。自分は今、死に行こうとしているのだ。
釘《くぎ》やら杭《くい》やらをしこたま打ちこまれて、さらには腹のあたりでまっぷたつに体を断ち割られたのだ。そんな目に遭《あ》えば、誰だってあっさりと死体になる。自分だってもちろん例外なんかじゃありやしない。
(……死ぬ?)
そうだ。死ぬのだ。
何もできず、何もしないままに、このまま動かなくなるのだ。
(いやだ……)
まだ、自分は、何もしていない。
何も出来ていない。
エンリケッタに笑って欲《ほ》しかった。
彼女の役に立ちたかった。
自分自身の役割を勝ち取って、きちんとそれを果たしたかった。
望みはいろいろとあったのだ。
なのにそのどれひとつとして、自分は、成し遂《と》げていない。
(いやだ……)
死んだ肉体は、もう動かない。
どれだけ強く腐っても、もう、ソルという少年に出来ることは、何もない。
――戦える力が欲しいのか?
声が、尋《たず》ねてきた。
風の音も、ケッタの泣き声も、もう聞こえていない。つまり、この耳は既《すで》にまったく仕事をしていない。なのに、声が、聞こえたのだ。
自分よりはいくつか年上の少年の声だと、ソルは理解した。
年は十六か十七。
痩《や》せ型の体格だけど、背は高め。
くせの強い赤毛がぴょんぴょんとあちこちにはねていて、糸のように細い目の上には四角い眼鏡《めがね》をのっけていて、そしてフェルツヴェン学術院《ライブラリ》の制服(見たことはないけれど)に身を包んでいる。
理屈《りくつ》もなにも関係なく、ソルにはそれだけのことが直観《ちょっかん》できた。
(欲しいよ)
ソルは答えた。
嘘偽《うそいつわ》りのまるでない、本心からの答えだった。
――あー。なんつーか、悪《わり》ぃこた言わねーから、やめとけ。
投げやりな口調で、声は言ってきた。
――人が願い事を叶《かな》えるには、たいていの場合、努力っていう代償《だいしょう》が要《い》るんだ。
――欲しいものがあったり、なりたい自分がいたりしたら、そいつは努力をする。時間を注《つ》ぎ込んで、金も注ぎ込んで、自分にあったはずの他の可能性を代償にして、願い事に手を伸《の》ばす。それが正道だ。
――戦いのその場で力を欲しがるってのはな、その過程をショートカットしたいってことだ。無理を押《お》し通したいってことだ。そいつは理屈が通らない。通らない理屈を押し通そうとするなら、でっかいしっぺ返しを覚悟《かくご》しなきゃならない。
――そもそもお前は、もともと妖精《フェイ》として不安定だった。放《ほう》っておいてもそのうち壊《こわ》れて消えちまいかねない。そんくらいに器《うつわ》が小さかったんだ。
――今ここで立ちあがる気なら、それだけで、お前自身をまるごと代償にしなきゃいけない。俺の時みたいにでっかい魔法《まほう》を一撃《いちげき》でドカンとか、そんな分かりやすい終わらせ方は使えねーんだ。
――よく考えろ。ここで自分を投げ出して、それで出来ることは、立ちあがることだけなんだ。それ以上は何もない。お前は、今のお前のままで、この場の戦いを続ける。そんなんじゃ勝てるはずがないのは、分かってんだろ?
(…………)
黙《だま》っていると、口調は投げやりなまま、わずかにその声色だけが優《やさ》しくなって、
――悪いこた言わねー。やめとけ。ロクなことになんねーよ。
――経験者が言うんだ、間違いない。いくらでも保証してやる。
(……うん)
しばらく考えてから、ソル[#「ソル」に傍点]は頷《うなず》いた。
(たぶん、言う通りにやめとくのが賢《かしこ》いんだろうなって、分かるよ。その場の勢いで自己犠牲《じこぎせい》とか、冷静に考えればばかばかしいって、本気で思うよ)
でも、と一呼吸を挟《はさ》んで、
(けど、僕は、ケッタを助けたいんだ)
きっぱりと、答えた。
(これは僕の願いだ。ケッタ本人が何を考えてるかなんて知るもんか。僕はあの子を助けたい。危ない目に遭《あ》ってるケッタを見捨てるような僕になんて、それこそ死んだってなりたくないんだ。
だから、あの子を助けられる力が欲しい。今すぐに。
そのためにだったら、どうせ消えかけの僕自身なんて、惜《お》しいとは思わない)
――……ふん。
忌々《いまいま》しそうに――そして同時にどこか誇《ほこ》らしげに、少年の声は鼻を鳴らす。
――しゃーねーな。ならもう止めねえよ。
――行けよ。行って、なりたいお前に、今だけ、なってこい。
†
もう一度だけ、あの夢をみた。
むせ返るような、若草と花のにおい。
そこは、一面の花畑の中、あの少女が、ぺたんと地面に尻《しり》を落として、こちらの顔を見上げてきている。
「僕はまだ、誰でもない」
先ほどと同じ答えを、同じように、繰《く》り返す。
だけど、と首を振《ふ》って、
「もう、そんなことを言っていられるような時間もないんだ。
だから、これから、大急ぎで誰かになってくるよ。
僕自身が望んで選んだ誰かに――いつかなりたいと思っていた、夢の中の僕自身に」
そして、その少女に、背を向ける。
色|鮮《あざ》やかな花畑に、そしてその向こうの空へと目を向ける。
空には沈《しず》みゆく太陽と、針のように細い銀の月。
†
そしてまた、夜の山道へと帰ってくる。
(…………)
全身の感覚がまるでなく、どうにも動かせそうにない。力をこめるこめないの問題の前に、背骨が引き裂《さ》かれていて、物理的に動かしようがない状態なのだろう。
死体というのは、実に不便《ふべん》なものだ。
(――起きよう)
そう、決める。
自分にはそれが出来るのだと、なぜか分かる。理解できる。
以前にも同じようなことがあったのだ。
そしてその時にも、自分は同じようなことをやったのだ。
だから、今回だって、まったく問題なく、同じことができるに違《ちが》いない。
(ええと……何だったかな。確か……全《すべ》てのはじまりは一つの眠《ねむ》り、人の心には在《あ》り得ざる離界《りかい》の夢=j
死んだままの体では、唇《くちびる》も動かせない。それでは言葉が出せないから、代わりにそれの言葉を強く念《ねん》じる。
そうすることに何の意味があるのかなどは知らないし、考えない。なぜ自分がそんな言葉を知っているのかなどの謎《なぞ》についても同様だ。そんなこまごまとしたことには、興味はない。少なくとも、今この時にわざわざ知りたいとは思わない。
(世界の亀裂《されつ》を覆《おお》い隠《かく》そうと、魔女は絵筆《えふで》をその手にとった=j
イメージの自分を、自分自身の中、深いところへと沈めていく。
心の奥底《おくそこ》、泥濘《でいねい》のようになった記憶《きおく》の海に沈んだ、一冊の本を見つける。大人が抱《だ》きかかえても一苦労しそうなほどの大きさ。血のように赤い色の表紙。イメージの体を同じところにまで沈めて、手をのばし、その表紙に手をかけて、
(――|ひとつめの虚言が私を騙す《ノートル・レーヴ・クーヴル・ル・モンド》=j
開く。
ぶわり……と。
霧《きり》のような、七色の鱗粉《りんぷん》が、力強く誇らしげに、空へと舞《ま》い上がる。
23.
まず、視界がゆっくりと返ってきた。辺りを埋《う》め尽《つ》くすように広がった七色の霧《きり》が、自分を包むようにして、大きく渦《うず》を巻いている。
その霧の向こうに、おぼろげな銀色が見えた。
少しずつ視力が回復していくのにあわせ、その銀色もまた、少しずつ少しずつ形を取り戻《もど》していき、やがてエンリケッタの姿になる。
少し離《はな》れたところに、ぴくりとも動かずに倒《たお》れている。
(……っ!!)
砕《くだ》けた背骨とその周囲の組織を、大急ぎで修復する。
心臓も動いていなければ息もできない、死んだままの体であることに変わりはないが、強引《ごういん》に動かすことだけならばできるようになる。
少し力を込めると、左の手がわずかな土を握《にぎ》りこんで拳《こぶし》を作った。
筋肉が硬《かた》くなっていて、ひどく緩慢《かんまん》な動きしかできなかったが、なんとか上半身を起こし、這《は》うようにしてエンリケッタのところにまで辿《たど》りつく。
その胸元《むなもと》が、規則正しく上下しているのを確認《かくにん》して、安堵《あんど》の息――は肺が死んだままだったので出てこなかったけれど、とにかく安心する。気を失ってはいるけれど、少なくとも死んではいない。
振り返る。
十歩ほど離れた場所に、警戒《けいかい》した表情の老人が、足を止めている。
「……妖精《フェイ》というのは、しぶといものだな」
ぽつり、ロジェは呟《つぶや》く。
「ほぼ完全な不死であろうと、推測は出来ていた。しかし、実際に蘇生《そせい》する様《さま》を見ると、脅威《きょうい》と言うしかないな……」
「ケッタに……」
肺と横隔膜《おうかくまく》と喉《のど》の辺りと、とにかくその辺り、声を出すのに必要になりそうなところをまとめて修復する。
「ケッタに、何をした……」
「大したことはしていない。聞きわけが悪かったから、軽く小突《こづ》いただけだ」
そう答えるロジェの手の中には、あの小箱がある。
「欲《ほ》しいものはこれだけではない。まだもう少し、話を聞きたくはあったのだが」
「……っ!!」
一度は警戒して距離《きょり》をとったものの、這いつくばったままの自分《ソル》は脅威ではないと判断したのだろうか。ロジェが無造作《むぞうさ》に歩いて近づいてくる。
「させ、るか!」
腰《こし》から下に力を込める。今にもよろめいて倒れそうではあるものの、なんとか立ちあがる。そのついでに、すぐ傍《そば》に落としてしまっていた剣《けん》を拾い、土を払《はら》う。
クリストフが剣を貸してくれたときの言葉を思い出す。これは、刻印《ブランディング》も何も施《ほどこ》されていない、ただの金属の塊《かたまり》だ。このままあの、不死者《レヴナント》だとかいう老人に切りつけたところで、大して意味はないはず。
それでも、まあ、いい。
少しだけ深く、深呼吸。剣を構えて、
「ケッタには、手は出させない!」
そう吠《ほ》えて、走り出した。
相変わらずに、手足は重たい。けれど、周囲で渦巻く七色の光が強くなるのに合わせ、少しずつ軽く動くようになっていく。これなら、なんとかなるかもしれない。何かとんでもなく重要なものが対価として失われつつある、その実感が真黒な不安になって胸の中で渦巻いてはいるものの、しかしそんなことは気にしてはいられない。
「来たれ[#「来たれ」に傍点]」
あの呟きを、また聞いた。
ざくりと、吐《は》き気をもよおす感触《かんしょく》とともに、自分の脇腹《わきばら》が大きく抉《えぐ》り抜《ぬ》かれたのを感じた。とんでもない痛みが脳髄《のうずい》を走り抜けて、また大声で泣きわめき始めそうになったところを、渾身《こんしん》の力で歯を食いしばることで耐《た》え忍《しの》んだ。
「痛、い――もんかぁっ!!」
自分を刺《さ》し貫く針をむんずと素手《すで》で掴《つか》み、勢いよく引きぬいた。不思議なことに、その針には、血がこびりついていたりはしなかった。代わりに、傷口の周囲が土くれのようにぼそりと崩《くず》れ、そして崩れたカケラはさらに無数の粒《つぷ》へと砕けて、そして七色に輝《かがや》きながら消えていく。針を投げ捨てる。
「んだりゃああ!」
強く踏《ふ》み込んで、剣を振りまわす。力任せに。右へ、左へ。
「……本当に頑丈《がんじょう》だ。だがどうやら、それだけのようだな」
ロジェはあっさりと、それでいて慎重《しんちょう》に、それらを剣で捌《さば》いてみせる。
「何、が、だよ!」
「私が前に見た妖精《フェイ》は、他者の展開した|夜の軟泥《ワルプルギス》の内側で魔法《ウィッチクラフト》を使うなどという芸を見せた。おそらく『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の力の一端《いったん》を引きだしたというところなのだろう……危険ではあったし私も痛手《いたで》を負う羽目《はめ》になったが、あれは実に興味深い現象だったよ。
それに比べると、ただ頑丈なだけの君は、退屈《たいくつ》極《きわ》まりない」
「悪、かった、……なっ!」
魔法《ウィッチクラフト》。
確かに、今の自分は、望めば魔法が使えるだろうと思う。なんとなくだけれども、そんな気がする。
けれど自分は、魔法が使いたかったわけじゃない。
魔法が使える誰かに焦《こ》がれて、その誰かと同じものになりたかったわけじゃない。
自分がなりたい誰か≠ヘ、そういったたぐいのものじゃない。だから、自分には、魔法なんてものは、使えない。
「あんたには、分かんないかも、しんないけど、……っ!」
振《ふ》り回される剣は、当たらない。
逸《そ》らされ、弾《はじ》かれ、空中を泳ぎ、地面を削《けず》る。
そうしているうちに、ひとつの言葉を思い出す。
『……そんな振り方では、怪我《けが》をするだけだぞ』
そうだ。思いだした。これでは、駄目《だめ》なのだ。
『剣を振る時は、力を込めることよりも、どこの一点で剣を止めるかを意識してみろ。勢いがあるのは良いが、それに振り回されていては話にならない。動きを意のままに制することが出来て初めて、武器を武器として扱《あつか》えるものだ』
振り回していた剣を[#「振り回していた剣を」に傍点]、途中で[#「途中で」に傍点]、強引に止めた[#「強引に止めた」に傍点]。
刃を翻して[#「刃を翻して」に傍点]、ロジェの頬を浅く[#「ロジェの頬を浅く」に傍点]、切りつけた[#「切りつけた」に傍点]。
「僕は――っ!!」
振り降ろした剣を[#「振り降ろした剣を」に傍点]、また途中で止める[#「また途中で止める」に傍点]。
今度はそのまま突きに転じ[#「今度はそのまま突きに転じ」に傍点]、ロジェの肩口に浅い切り傷をつける[#「ロジェの肩口に浅い切り傷をつける」に傍点]。
いずれも、致命傷《ちめいしょう》にはほど遠い。しかもそればかりではなく、不死者《レヴナント》であるロジェは、まばたきひとつほどの時間もかけずにそれらの全《すべ》てを修復してしまう。
「ほう……」
余裕《よゆう》の表情はまるで崩さず、ロジェは感心の声をあげる。
「驚《おどろ》いたな。素人《しろうと》なりにではあるが、随分《ずいぶん》と動きがよくなった」
構わず、ソルは剣を振るい続ける。
「僕が、やらなきゃいけないことは、魔法とかじゃないんだ――っ!!」
切っ先が、アジェの額《ひたい》を浅くえぐる。
顔を軽く逸らしたロジェの額は見る間にその傷を直し、そして嗜虐《しぎゃく》的な笑《え》みを浮《う》かべたロジェは大きく剣を振りかぶって――
べしょ。
――その顔面に。どこから飛んできたものやら、何やらぐちゃぐちゃになったゴミが、張《は》り付いた。
「…………」
「……あ……」
ロジェよりもほんの一瞬《いっしゅん》だけ早く、ソルはそのゴミ≠ェ何であるかに気付いた。そのゴミ≠ヘ、片手と片足がもげていたし、残った方の足も千切れかけていたし、とにかく一見しただけでは原形が分からなくなるほどぐちゃぐちゃに壊《こわ》されていたけれど、間違《まちが》いなくそれは、
〈……ようやったぞ、小僧《こぞう》〉
アルト老、だった。
少し離《はな》れたところで、今の全力|投擲《とうてき》で力を遣《つか》い果たしたか、クロアがずるずるとその場に崩れ落ちる。
「き……貴様!!」
ロジェの体が、見えない縄《なわ》に縛《しば》りあげられたかのように、動きを止めた。
顔面に張り付いたままのアルト老を引きはがそうとしても、そもそもその腕が動かない。その手から剣が滑《すべ》り落ちる。がらんと音をたてて地面に転がったそれは、すぐに空気に溶《と》けてなくなってしまう。
「は……」
腰が抜けた。ぺたりと、ソルはその場に尻《しり》を落とす。
「はは……あはは……」
ふわりふわりと浮かぶ、シャボン玉のような、無数の光。
どんどん強くなるそれに包まれて、それと同じペースで体が崩れて軽くなっていく。
〈誇《ほこ》ってええぞい。それだけのことをやり遂《と》げたんじゃからな、お主は〉
「バルゲリアル、貴様《きさま》、まだ、このような……!」
うめくような悲鳴をあげるロジェに、
〈無駄《むだ》な抵抗《ていこう》はやめんか、この阿呆《あほう》が〉
少しくぐもったような老人の声が、ぴしゃりと言い放つ。
〈確かに、この姿の儂《わし》は本来無力じゃよ。|夜の軟泥《ワルプルギス》を体外にて操《あやつ》る手段を持たず、いかなる魔法《ウィッチクラフト》も呼び起こすことはできない。
しかし……お主のその体に対しては、例外じゃ。
どれほど強い封印《ふういん》に縛《しば》られているとしても、自分の体内、そしてその手が届く程度の距離《きょり》までならば、|夜の軟泥《ワルプルギス》は必ず届く。|夜の軟泥《ワルプルギス》が届く以上は、問題なく魔法《まほう》も使える。
それは、お主も気づいて、覚悟《かくご》しとったことじゃろう?〉
「――思い止《とど》まる気はないのか。あと少しの時間があれば、私は、この虚言《きょげん》ばかりの世界の真実[#「真実」に傍点]に至《いた》ることができる。それを、知りたくはないのか」
〈確かにちぃと興味はあるが、そうもいかんのじゃよ。こちらにも色々と事情があってな。そろそろその体を返してもらわんことには[#「そろそろその体を返してもらわんことには」に傍点]、おちおち一人歩きもできんのじゃよ[#「おちおち一人歩きもできんのじゃよ」に傍点]。
良いタイミングで債の目の前に現れてくれたもんじゃよ。その一点に関してだけは、ちいとくらいなら感謝《かんしゃ》してやっても良い〉
「――――やめ――――」
〈遠き眼《まなこ》は届かざるを掴《つか》み、歩む踝《くるぶし》は離れざるを喪《うしな》う、その旅人の旅は、|旅立ちにより終わりを迎える《ソン・レーヴ・トループ・ル・モンド》――″》
やや早口に、導《みちび》きの言葉≠ェ詠唱《えいしょう》される。
ぎゅるり。ほとんど残骸《ざんがい》でしかないアルト老の人形《からだ》の内側で、|夜の軟泥《ワルプルギス》が大きく渦《うず》を巻く。
〈夜空に輝き[#「夜空に輝き」に傍点]、迷い人を導く[#「迷い人を導く」に傍点]〉
静かに、何かが、起きた。
音は無かった。光も無かった。
車載大砲《しゃさいたいほう》ばりの大爆発《だいばくはつ》だの、瓦斯灯《ガスとう》を百個集めたような大閃光《だいせんこう》だの、というような見た目分かりやすい変化は、何もなかった。
ただ――それでも確かに、いま何かが起きたのだと、腰を抜かしたままに目の前の光景を眺《なが》めているソルには、感じ取れた。
ぽとん。
老人の顔から、ぼろぼろの人形がはがれて、地面に落ちた。
何かが変わった、と思った。
けれど、何が変わったのかは、すぐには分からなかった。
「……ふむ」
老人は目を閉《と》じて、そして開いた。
空を仰《あお》いで、地面を見下ろして、それからどこかぎこちない動きで膝《ひざ》を折り、足元に転がっていた人形の残骸を優《やさ》しく抱《だ》きあげた。
「まったく、ひどい壊《こわ》し方をしてくれたもんじゃな……メディがまだ生きとったら、特大のノミで頭をカチ割られるところじゃぞ」
ぶちぶちと何かをぼやきながら、汚《よご》れを払《はら》う。
「よくやったな、小僧」
人形に目を落としたままで、老人は穏《おだ》やかな声で、そう言った。
ソルには、それが自分に向けた言葉だと、しばらく気づけなかった。
「え……」
「よくぞきちんと、自身の役割を果たした。
儂らが追い付くまで、よく時間を稼《かせ》いだ。誇るがいい。この戦い、勝利できたのは、お主がここにおったからこそじゃよ」
ざく、ざく、と足音が近づいてくる。
老人の大きな手が、ソルの頭の上に置かれる。乱暴《らんぽう》に髪《かみ》をかき乱す。
「……まったく。この大馬鹿《おおばか》もんが」
「馬鹿、かな、やっぱり……」
「馬鹿以外の何者にも、こんなことは出来んわい。それだけのことをお主はやった、それだけが事実じゃ。あとは誇るなり恥《は》じるなり、好きにしろ」
「難しいこと……言うなあ……」
ゆっくりと、実感が湧《わ》いてきた。
勝った――というべきなのかは分からないけれど、とにかく危険は去ったのだ。
エンリケッタを脅《おびや》かす者は、ここからいなくなったのだ。
ならば、それでいい。
ちゃんと素直《すなお》に、嬉《うれ》しいと思える。だから、もう、それでいい。
「二つ、お願いしても、いいですか……?」
「なんじゃ」
「ケッタが目を覚ましたら、伝言を、お願いしたいんです。
今日までありがとう。それと、勝手にいなくなってごめん、って」
「……ああ。確かに、頼《たの》まれた」
「それと、もうひとつ。教えて欲《ほ》しいことがあるんです。僕が生まれるよりも前、二年前まで、妖精《フェイ》だった人の名前」
老人の表情に、驚愕《きょうがく》が浮《う》かぶ。
「お主、それをどこで」
「さっきから妖精《フェイ》、妖精《フェイ》、って呼ばれ続けでしたから。それを聞いてて、なんとなく思い出しました。
だから、知りたいんです。
僕がいなくなった後、妖精《フェイ》としての存在をその人に返すために。このまま何もしないで僕が消えたら……まぁ、いくらなんでも、ジネットさんが可哀想《かわいそう》ですし」
あの小箱は、ロジェがもがいていた時に、地面に放《ほう》り出されていた。蓋《ふた》が開いて、こぼれだしている中身、きれいな金の髪《かみ》を、ソルは指先ですくいあげる。その指も、半ば以上が透《す》けて、今にも砕《くだ》けて壊《こわ》れてしまいそうなほどに儚《はかな》く見えていた。
「だから、お願いします」
「――つまらん男じゃな、お主は。最期《さいご》の時までこうも良い子≠ノ徹《てっ》せられては、茶化《ちゃか》すにも茶化せんではないか」
「茶化したいんですか?」
「真面目《まじめ》な空気は肌《はだ》に合わん。生身《なまみ》の肌に戻《もど》った今は、尚更《なおさら》にな」
老人が肩《かた》をすくめ、ソルの手を握《にぎ》りしめる。
「お主の求めている名は、リュカ・エルモント。
父の名はクレマン。母の名はアニエス。姉の名はクローディア。
ドースの端《はし》、今は無きエブリオの村にて生を受け、幼少時代を過ごし、そして死んで、そしてその生の全ては妖精《フェイ》へと受け継《つ》がれた」
「……ありがとうございます」
ソルは目を閉じた。
たった今教わった名前を、心の中で反復《はんぷく》した。
ああ……そうだ。この名前だ。この名前を呼ばれて反応する誰かが、自分の心の奥底《おくそこ》には眠《ねむ》っている。自分はこの人を起こさなければならない。
大きく、息を吸って。
その息を、ゆっくりと吐《は》いて。
そうやって息を整えて、心を落ち着けてから――
「魔女の力と名において[#「魔女の力と名において」に傍点]、名前のない唯一なる世界へと真実を告げる[#「名前のない唯一なる世界へと真実を告げる」に傍点]――」
この世界そのものに虚言《うそ》を信じ込ませる。
それによって、どのような無茶な妄言《もうげん》であろうと、それを事実へと変えてしまう、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の力を起動するー――
その言葉を、穏やかに、口にした。
24.
ジネットは目を覚ました。
辺りを見渡《みわた》した。これ以上ないというほどに破壊《はかい》された庭園(下手人《げしゅにん》は自分自身だが)の真ん中で、ぽつんと一人、意識を失っていたようだった。
最後にかけられた魔法《ウィッチクラフト》の後遺症《こういしょう》なのか、それともその前に大きな魔法《ウィッチクラフト》を連発しすぎたことの反動なのか、とにかく重たい体に鞭《むち》を打って、辺りを見回した。アヴィンの姿は、見当たらない。
屋敷《やしき》の中では、ケイトとアデルが、破壊されていた。
重傷を負ったクリストフが、だくだくと派手に血を流しながら、廊下《ろうか》の隅《すみ》にひっくり返っていた。
「よう――遅《おそ》かったじゃねぇか、姫《ひめ》さん」
びっしょりと脂汗《あぶらあせ》を顔中に浮かべたクリストフは、軽口めかして、そんなことを言ってきた。
「悪《わり》いな、こっちは見ての通りの惨敗《ざんぱい》だ。ロジェの奴《やつ》は、女王サマ《レジーナ》達を追っていった。不死者《レヴナント》のお嬢《じょう》ちゃんや人形のじーさんは、さらにその後を追ってった」
それだけを聞けば十分だった。「そうか」と一度だけ頷《うなず》いて、すぐさまジネットは、後ろも見ずに走りだした。
「って、おい、ちょっと手当てくらいしてってくれてもいいんじゃねぇかって、おい!」
背後から聞こえてきた声は、全面的に無視《むし》した。
そんなものに関《かか》わっている暇《ひま》はなかった。
山道に踏《ふ》み込んだ。
道を蹴《け》り飛ばしながら、ただ道なりに走った。
そして、
「ロジェ・ヴィルトール!」
その老人の姿を、見つけた。
そしてその男の後に、横たわるみっつの人影《ひとかげ》を見わけた。乏《とぼ》しい星|灯《あか》りだけではそれが誰なのかまでをはっきり見ることは出来なかったが、少し考えれば判断はできた。つまり、この道を逃《に》げていたソルとエンリケッタ、あとはクロアの合計三人に違《ちが》いない。
そしてそのみっつの人影は、全《すべ》て、ぴくりとも動かずにいる。
「貴様――っ!」
剣《けん》を抜《ぬ》いて、突撃《とつげき》する。
たとえ魔法《ウィッチクラフト》で遮《さえぎ》られようと構わない、その障壁《しょうへき》ごと打ち壊《こわ》してやる、そのくらいの勢いで、体ごとぶつかっていった。
が、その剣は、老人の体にまでは届かなかった。その手前、老人が掲《かか》げた剣に――いや、正確には、その剣を収めた緋《ひ》色の鞘《さや》に、ジネットの振《ふ》り下ろした剣は、真っ向から受け止められていた。
(……ならば、強引《ごういん》にねじふせる!)
単純な膂力《りょりょく》の勝負であれば、ジネットには十分な勝算があった。
ジネットの全身に|夜の軟泥《ワルプルギス》が巡《めぐ》り、その筋力を強引に増強する。これ自体は不死者《レヴナント》であれば誰にでも出来る簡単な芸当だが、増強される筋力の具体的な量は、その不死者《レヴナント》が抱《かか》える|夜の軟泥《ワルプルギス》の総量にそのまま比例する。そしてその一点において、ロジェ・ヴィルトールは絶対にジネットには届かない。届かない理由がある。
……そのはずだった。
が、どれだけ|夜の軟泥《ワルプルギス》を猛《たけ》らせ、どれだけ強い力を込めても、老人の手にある緋色の鞘は、微動《びどう》すらしようとしなかった。
「……ひとつ問おう」
低い声で、その老人は尋《たす》ねてきた。
「答えろ、ジネット・ハルヴァン。無制限の軟泥《ワルプルギス》、願いを叶《かな》える力、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を得《え》て、お主は何を願う?」
「知れたこと! この狂《くる》いきった世界と物語を、まとめて零《ゼロ》に戻す!」
迷うことなく、叫《さけ》ぶようにして、ジネットは答えた。
剣も砕《くだ》けよとばかりに力を込め、体重を押《お》し込みながら。
「魔女が魔女となる前の世界を、もう一度呼び戻す! 『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』と『|琥珀の画廊《イストワール》』があれば、この願いに手が届く!」
「…………」
なぜか悲しそうに、老人は目を伏《ふ》せる。
「そうじゃな……それが、お主の悲願《ひがん》じゃったな……」
ぽつりと、苦々しい声で、呟《つぶや》く。
「ならはお主は、このクソたわけた喜劇の真実など、知らぬままが良い、か……」
その声と、その口調に、覚えがあった。
それは、ジネットのよく知る誰かのものだった。
――老人の掲げている武器は、ひと振りの剣。
そしてその剣を収めた、緋色の鞘。
「……まさか……」
信じられない。
「すまんのう、バカ娘《むすめ》。もうしばらくは、お主と一緒《いっしょ》にいてやれるつもりではおったんじゃが……少しばかり派手に、事情が変わってしもうた」
「まさか……」
受け入れられない。
「届かぬ願いになど、手を伸《の》ばすものではない。何を得ることもできず、ただ試《こころ》みるたびに心が削《けず》れてゆくだけじゃよ。そうじやろう?
お主には選択肢《せんたくし》があるんじゃ。わざわざ辛《つら》い道を、無益《むえき》と知って歩くことはない」
「なぜだ……」
問いかける。
「ではな、バカ娘。この二百年、楽しい旅路じゃったぞ」
「なぜなんだ……っ!」
何度でも問いかける。けれど一度も答えは返ることなく、
「扉を開け[#「扉を開け」に傍点]」
忽然《こつぜん》と、老人の姿が消えうせた。それまでかけていた力の全てが行き場を無くし、ジネットは勢いよく前へとつんのめった。
たった今、目の前で何が起きたのか、ジネットはよく知っていた。
これまでの二百年に、幾度《いくど》となく、同じ声が、同じように魔法《ウィッチクラフト》を使うところを見てきたのだから。
「何が……あった、のだ……?」
ぽつんと、一人、老人の姿の消えた虚空《こくう》に向かって、問いかける。
「どうして……また、そんなことになる、のだ……?」
答えは返らない、それを重々承知のうえで、それでも問いかけずにはいられない。
「姉様も……アヴィンも……そして、貴方《あなた》まで……」
一人、慟哭《どうこく》の代わりの言葉を、吐《は》きださずにはいられない。
「どうして……何も言わずに、私の傍《そば》からいなくなるのだ……っ!」
答えは無く。
夜の静寂《せいじゃく》が、ただ重たく、一人の少女を押し包んでいる。
[#改ページ]
▼promenade
小さいころは、おとぎ話が大好きだった。
いつかは自分も、物語の中のお姫《ひめ》様みたいな体験がしてみたいと思っていた。
悪い魔法《まほう》使いに呪《のろ》われてみたり。その魔法使いと戦う王子様の手助けをしてみたり。最後にはうれしはずかしの大団円《だいだんえん》に行き着いてみたり。
同年代のほかの女の子よりも、もう一段階ほど重症《じゅうしょう》だっただろうと思う。
なにせ自分は、本物のお姫さまである。
シュテーブル領を治める王の娘《むすめ》。そんな肩書《かたが》きを背負って生まれてきて、それまでの人生を歩んできたのである。
だからお姫さまというやつの現実をよく知っていた。
だから一際《ひときわ》強く、物語の中のお姫さま≠ニいうものに憧《あこが》れていた。
いちおう自分もお姫さまの端《はし》くれである以上、魔法使いに呪《のろ》われたり王子様の手助けをしたり、そういうことになる資格はあるはずだ。少なくともそんな夢をみる権利《けんり》ぐらいはあってもいいじゃないか。そんなふうに思っていた。
十になるかならないかのころの話である。
おとぎ話が大好きだった。
「――妙《みょう》なものだな、人生なんて」
ひざを抱《かか》えて、ジネット・ハルヴァンは小さく呟《つぶや》く。
魔女の領域にほど近い、森の中の野営地《やえいち》である。
魔女|討伐《とうばつ》隊は、総勢《そうぜい》で五十人を超《こ》える。うち一人が指揮官《しきかん》のレオネル・グラントであり、二十人ほどがその腰巾着《こしぎんちゃく》の騎士《きし》であり、残りがそれ以外の有象無象《うぞうむぞう》だった。そしてその有象無象の中に、自分――この国の姫君であるところのジネット・ハルヴァンが交じりこんでいる。
森を燃やさないようにと小さく焚《た》かれた火が七つ。その周りに、それぞれ勝手な距離《きょり》をとりながら五十人以上がそれぞれ体を休めている。
……妙な集団だと、改めて思う。
立派で豪奢《ごうしゃ》な鎧《よろい》を身に着けているのが半数ほど。そのうち特にぴかぴかのものを着ている一人がレオネル・グラント。彼らは少なくとも肩書きの上では騎士であり、その武具は華美《かび》であることを、つまりは戦場の花形《はながた》となることを第一に考えて作られている。
そしてそれ以外の顔ぶれには、まったく統一性というものがない。
ジネットは瞳《ひとみ》だけで辺りを見回して、思う。あとの半数の姿はまさにばらばらだった。傭兵《ようへい》と思《おぼ》しき男女が十人ほど。外套の下に略式の法衣《ほうい》をまとった聖職者が四人。あとは正体の掴《つか》みづらい親子連れやら、剣や鎧のまったく似合わない老人やら、こんなところに居《い》るのが場違《ばちが》いに思える年若い少女やら……いや、これについてはジネットには他人のことは言えないのだが。
そして、仲間の誰からも遠いところに腰掛《こしか》けて、炎《ほのお》をまっすぐに見据《みす》えたまま微動《びどう》だ忙しない青年が一人いる。まだ二十にも届いていない年齢《ねんれい》だろうというのに、昏《くら》く淀《よど》んだその瞳《ひとみ》はまるで人生に倦《う》んだ老人のそれだ。
それでもそれは、知っている顔だった。
すぐにでも駆《か》け寄《よ》って、恥《はじ》も外聞《がいぶん》もなく飛びつきたい。そう思える相手だった。
――アヴィン。
懐《なつ》かしいその名前は、声に出せなかった。だから心の中だけで呟《つぶや》いた。
なんで君がここにいるんだ。この集団が、これから何をしに行こうとしているのか、分かっているのか。我々は、フィオルを、君が……私たちが大好きだったあの人を、殺しに行こうとしているのだぞ。
ひざを抱《だ》く腕《うで》に、小さく力がこもる。
自分の体を見下ろす。
黒く煮固《にかた》めた無骨《ぶこつ》な革鎧《かわよろい》。女の腕力《わんりょく》には少し重たい、飾《かざ》り気のない細剣。
「本当のお姫様と騎士がいて……まさかその二人が退場した後に、魔女退治か」
しかもその顔ぶれがまた振《ふ》るっている。お姫様失格のお姫様であるところの自分。騎士失格の騎士であるところのレオネルに、結局騎士とはなれなかったアヴィン。それから他にも大勢。
皮肉にもほどがある、と思うのだ。
もし、この顛末《てんまつ》が物語として後世《こうせい》にまで語り継《つ》がれることがあったなら、それはきっと、笑えもしない喜劇になることだろう。誰も幸せになれないようなこんな話には、もう何かの冗談《じょうだん》として笑い捨てるくらいしか価値《かち》がない。
†
夜が明けて、進軍が再開された。
霧《きり》が出ていた。ミルクを薄《うす》く溶《と》いてのばしたような、のっぺりとした冷たい霧だ。視界が悪い。自分たちがどこを歩いているのかもすぐに分からなくなる。
しかし、所詮《しょせん》、霧は霧だ。太陽が高く昇《のぼ》れば、あるいは少し強い風が吹《ふ》けば、すぐに晴れて彼方《かなた》までがよく見えるようになるだろう。それまで、少しだけ気をつけて歩いていればそれでいい――指揮官であるレオネルがそう判断し、そして討伐隊がそれに従った。
そこに、異形《いぎょう》が襲《おそ》い掛かってきた。
獣《けもの》に似て、しかしあきらかに獣ではないもの[#「もの」に傍点]だ。
嫌悪《けんお》が恐怖《きょうふ》に変わった。恐怖は混乱を招《まね》いた。霧は晴れるどころかますますその濃《こ》さを増していく。自分たちが魔女の領域に踏《ふ》み込んでいることを、討伐隊の面々はその時になって初めて知らされることとなった。
吐《は》き気を誘《さそ》う手ごたえとともに、剣は異形の頸《くび》に深々と突《つ》き刺《さ》さった。
鶏《にわとり》をしめる時のような悲鳴をあげて、異形は死んだ。
物言わぬ骸《むくろ》となったそれを、改めて見下ろす。
それは、全体としては熊《くま》に似ていた。しかしその脚《あし》は背も腹も問わずにてんでばらばらなところから生えていて、しかもその本数は七本もあった。頭部には毛が生えておらず、蛙《かえる》のように小さく飛び出た眼球が大小あわせて五つもついている。体のあちこちを小さく覆《おお》っている甲殻《こうかく》は蟹《かに》に似ているし、びっしりと腹を覆った柔《やわ》らかい鱗《うろこ》は魚のそれだ。
ひとつひとつの部位を見れば、この世界のどこかに生きる生き物に似ている。しかしそれらを粘土《ねんど》のようにこねあわせて出来上がったこの姿は、ただひたすらに醜《みにく》い。
「……」
骸は、動かない。
当たり前だ。死んだものが動くはずがない。けれどそんな当たり前のことが、なぜか何よりも大切なことのように思えた。
辺りには、誰の姿も見えない。この霧の中の戦いで、誰もが動き過ぎた。異形の群《む》れに追い立てられ、一人、また一人と離散《りさん》していった。そして気づけば、ジネットはただ一人きりになってここに立っていた。
彼方に目を向ける。
白くわだかまる霧が、煙《けむり》る雨のように視界を閉《と》ざしている。その向こうを見やる。
この森を抜けた向こうには、朽《く》ちかけた古城が建っているはずだ。
怪《あや》しい術を使い辺りに異変を撒《ま》き散らす、悪い魔女≠ェ住処《すみか》としている城だ。討伐隊の目的地はそこなのだ。そこに向かいさえすれば、その道中、あるいは最悪でも現地で、ほかの面々とは合流できるだろう。
霧に濡《ぬ》れた森の中を、歩く。
もちろんそこには道などというものはない。下生えのことごとくが腐《くさ》り積《つ》もり土となっている。一歩ごとに泥《どろ》のように靴底《くつぞこ》が沈《しす》んで体力を奪《うば》う。
――正直、つらい。
姉の真似《まね》をして始めたものとはいえ、剣《けん》には多少の自信があった。そして事実、あの異形の獣を前にして、自分は剣を振るってそれに抗《こう》した。けれどそれはただそれだけのことだ。結局のところ自分は騎士や傭兵といった類《たぐい》のものではなく、日々戦いのための体を作っていたわけではなく、だから絶対的な体力というものが足りていない。
ただ歩くというそれだけの行為《こうい》が、ノミを当てるようにして、体を削《けず》っていく。
それに併《あわ》せて心が磨《す》り減っていく。
何度となく体を休めようと考えた。けれど一度足を止めればもう二度と立ち上がれないような気がして、その度《たび》に自分を奮《ふる》い起こした。
どれだけの距離《きょり》を進んだのだろうか。
不意に、足元の泥が崩《くず》れた。そして疲《つか》れ切っていたジネットにはその事態に対応することができなかった。体が宙を泳ぎ、膝《ひざ》は体を支えきれず、伸《の》ばした腕《うで》は宙を掻《か》くだけに終わり、そして――
崖《がけ》のような斜面《しゃめん》を、転がり落ちた。
前も後ろも上も下もない一瞬《いっしゅん》、柔らかい泥の上を転がる。ところどころに立っている朽木《くちき》が、まるで刃《やいば》のような鋭《するど》さをもってジネットの体を打つ。三階建ての建物ほどの高さを滑《すべ》り落ちて、そこで滑落《かつらく》は終わった。
「……う……」
全身が痛む。
鎧のおかげか、朽木に打たれたことによる直接の外傷はほとんどなかった。だがそれでも落下の衝撃《しょうげき》による痛みはひどく、しばらくはろくに動けそうになかった。
――仕方が無い。ここで少し休もう。
朽木の一本に背を預《あず》けて、そこで一息つく。
体中にこびりついた泥をこそげ落として、そして空を見上げる――相変わらずの霧のせいでほとんど何も見えはしなかったが、そこにあるはずの空を思う。
何をやっているんだろうな、自分は。覇気《はき》の失《う》せた心で自問《じもん》する。
わけの分からない我儘《わがまま》だけでこんなところにまでやってきて。そして当然のように力が足りなくて、急斜面を転げ落ちて動けなくなっている。文句のつけようのないほど完璧《かんぺき》な自業《じごう》自得。神を呪《のろ》う言葉も思い浮《う》かはない。
やりたいことがあったのだ。
そのためにこの道を歩くことを決めたはずだったのだ。
そのはずなのに、その道は思っていたよりも――いや思っていた通りに険《けわ》しくて、そして自分の足はこの通り、あまりに細くて弱すぎるのだ。
「姉さまだったら――」
そう、姉だったらこういう時には、こんな目には遭《あ》っていないはずなのだ。彼女は一人ではなかったのだから。その身を守る騎士《きし》が一人、傍《そば》にいたはずなのだから。
「――」
昔から、姉はジネットにとっての理想だった。
姉のようになりたかった。少しでも彼女に近づけないかと、そう思って剣を習うことすらしてみた。けれどそんなことに意味は無かった。いくら空に憧《あこが》れて両手をばたつかせてみても、人は鳥にはなれない。大地から飛び立つことはできないのだ。
結局、自分は何なのだろう。
何者として生まれて、何者として生きて、何者として死んでいくのだろう。
ただ空のあるはずの彼方《かなた》をぼんやりと見上げながら、そんなことを考える。
土を踏《ふ》む足音。
――心が警戒《けいかい》を取り戻《もど》した。音を立てないようにして、ゆっくりと剣の柄《つか》を握《にぎ》り締《し》める。立ち上がらなければと思う。けれど体が動かない。にかわで貼《は》りつけたように、背中が朽木から離《はな》れない。これでは剣を抜いて振《ふ》るうことも満足に出来そうにない。
霧《きり》の中に、ぼんやりと人影《ひとかげ》が映る。ゆっくりとその輪郭《りんかく》がはっきりしていく。近づいてきていると分かる。剣の柄から手を離す。それが誰なのかが分かった。
そして、お互《たが》いの顔が見えるところにまで近づいて来て、男は足を止めた。
アヴィン・ラーブルだった。
苦悩《くのう》を刻んだ貌《かお》と冷たい色の瞳《ひとみ》を持った彼が、そこに立っていた。
……笑い出しそうになった。なぜ、いまここに、彼が来るのだろう。こうして危機に陥《おちい》った自分のところに、自分などを守るべきではない騎士がやって来るのだろう。それは間違《まちが》っている。何かが狂《くる》ってしまっている。
アヴィンは静かに、表情もまるで動かさないままに、ジネットを見つめている。
ジネットもまた、黙《だま》ってアヴィンを見つめている。
アヴィンの手が、ゆっくりと動いて、剣を引き抜いた。
そのままそれをまっすぐに、ジネットの喉元《のどもと》へと突《つ》きつける。
「……何のつもりだ?」
ジネットは、尋《たず》ねた。
「君は苦しんできた」
淡々《たんたん》と……記憶《きおく》の中にある昔のアヴィンと同じ声で、応《こた》えられた。
「今もこうして苦しんでいる。君が背負うべきではないものまで背負って、こんなところで傷ついている。
そしてこれからも苦しみ続けるだろう。それは君自身の咎《とが》によるものじゃない。たまたま君が、苦しむ人間の立場にいた。ただそれだけが理由だ。
そして誰一人として、そんな君を守る者はいない」
切っ先がわずかに動き、ジネットの喉元に触《ふ》れる。
「ならは、せめて、今ここで――」
「相変わらず不器用な男なのだな、アヴィン・ラーブル」
ふ、と小さく息を吐《つ》く。切っ先を指先で軽くつまんで、押《お》し返す。
「しかしその心配は無用だ。私は少なくともこの喜劇の結末を見届けたいし、そのために自分の足でここまで歩いてきたのだよ」
「――ジネット」
「できそこないの姫《ひめ》とできそこないの騎士《きし》と、よせあつめの従者たちが、果たして本物の魔女《まじょ》を討《う》ち果たすことはできるのか。そしてどのような結末をその先に導《みちび》き出すのか。そういったもののすべてを、この目で確かめたいのだ。
今この場にある苦しみも痛みも、自ら選んだ道の上に落ちていたものだ。ならはそこから逃《に》げるようなことはしたくない。気遣《きづか》いは嬉《うれ》しいが、今の私には無用なものだよ……だからこの剣を引いてくれないか」
アヴィンほしばらく、そのままの表情でジネットの瞳を見つめていた。
その表情が、ふと、苦笑《くしょう》の形に崩《くず》れた。静かに剣が引かれて、アヴィンの腰《こし》の鞘《さや》へと収まった。
「大きくなったな、ジネット」
「誰だっていつまでも小さな子供ではいられない、それだけのこと。君に|小さな姫君《リトルプリンセス》などと可愛《かわい》がられていたのも、もう遠い過去のことだ」
アヴィンの手を借りて、ジネットは立ち上がった。
「鎧《よろい》は棄《す》てていったほうがいい。ここから先、何よりも大切にするべきは体力だろう。下手《へた》に重い荷物を抱《かか》えたままではすぐに動けなくなる」
「……また敵に襲《おそ》われたらどうする。あの熊もどきの異形があれで尽《つ》きたとは思えないし、当然城に着くまでにまた出くわすだろうと踏んでいるのだが」
「ならば、戦うのは俺だ」
アヴィンはあっさりと、その言葉を言ってのけた。
「君はただ、俺のそばにいてくれればいい。決して傷ひとつつけさせない」
「……」
ぽかんと、その顔を見上げた。
「どうした?」
「あ……いや。何でもないんだ、うん」
鎧を脱《ぬ》ぎ捨て、キルト地の上から直接|外套《マント》を引っ掛《か》けただけの格好になる。袋《ふくろ》にまとめた荷物を背負う。そしてアヴィンに手を引かれて、霧の中を再び歩き出す。
目の前を歩く青年の背を見ながら、言葉にせずに心の中でつぶやく。
アヴィン。君は私を見て、大きくなったと言った。
けれど、変わったというならは君も同じことだ。君はきっと、フィオルの傍《そば》にいたときよりも強く鋭《するど》く、そして脆《もろ》くなった。
君がこれまで苦しんできたこと、今なお苦しみが続いていること、そしてこれからもそれを抱《かか》えていくだろうこと――少なくとも私には、それが確信できているよ。
†
……それが、ジネットに思い出せる、アヴィン・ラーブルの最後の記憶《きおく》。
その後二人は討伐《とうばつ》隊の本隊へと合流し、レオネル・グラントの手によってそこでばらばらにされて、そして再び顔を合わせることなく、あの悲劇の時を迎《むか》えた。
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▼epilogue/1
長いようで短い夜が終わり、そして朝が来た。
包帯《ほうたい》でぐるぐる巻きになったクリストフは、ソファの上に横たえられた姿勢《しせい》のまま、鬱々《うつうつ》とした目を窓《まど》の外の朝日に向けた。
「……傷《きず》、どんなもんだ? まだ痛むか?」
その枕《まくら》もと、ナイフで器用《きよう》にリンゴの皮などを剥《む》きながら、クロア・マルソーが尋《たず》ねてくる。この朝までの時間で少なからず体力が回復《かいふく》したのだろう、その顔は昨夜の憔悴《しょうすい》しきった姿《すがた》とは比《くら》べものにならないほどに生気《せいき》を取り戻《もど》している。
まったく。改《あらた》めて、不死者《レヴナント》というのは、恐《おそ》ろしい連中《れんちゅう》だ。
「さっき痛《いた》み止めは打ったからな、大したこたぁねぇよ。それよか今は、他の連中だ。女王サマは、今どうしてる?」
「どうにもこうにも」
クロアは肩《かた》をすくめる。
「自分の部屋に閉《と》じこもったまま、ずっと泣《な》いてるよ。
……普段《ふだん》のあの子がどんだけ凄《すご》いかは知らないけど、今のあの子はただの子供だ。あたしゃ子供の扱《あつか》いは苦手なもんでね、どう声をかけりゃいいのやら、分かりやしない」
「そうか……」
結局そういうことになったか……と、どこか遠くのことのように思う。
女王《エンリケッタ》にとってのソルは、いつかは切り捨《す》てなければならない手駒《てごま》だった。だからエンリケッタは、いつも彼を突《つ》き放していた。親《した》しい者を切り捨てることも、親しい者に切り捨てられることも、ともに辛《つら》くて耐《た》えがたいことだ。だからエンリケッタは、ずっと、ソルから距離《きょり》をとろうとしていたのだろう。
……そして、だからこそ、この結末は、エンリケッタにとっては、厳《きび》しい。
ソルに何が起きて、どうしてこの場所にいないのか、クリストフは知らない。しかしどうやら、エンリケッタは、半《なか》ば近く気を失いながらも、その場で起きていたことを夢うつつの挟間《はざま》で見聞きしていたらしい。そしてその中で、ソルがどのような意志《いし》とともに戦《たたか》い、そして消えていったのかを、見届けていたらしい。
そしてどうやら、その時に遺《のこ》された言葉のすべてが、いまこの瞬間《しゅんかん》のエンリケッタを激《はげ》しく苛《さいな》んでいるようなのだ……
「ま、今は泣かせてやるしかないだろうさ。あんな年のうちから耐《た》えることばっか覚えてちゃ、ロクな大人になれねぇしな。そんでもって……」
切り分けたリンゴを皿《さら》の上に並《なら》べるクロアに目を向けて、
「それはあんたも同じだ、お嬢《じょう》ちゃん。仲間たちに死なれて泣きたいのは、あんたも同じなんだろ? 無理して俺らの世話なんて焼いてなくてもいいんだぜ?」
「それを言い出すなら、あんたも同じだよ、帯剣騎士《カヴァリエレ》のおじさん。あたしらに気を遣《つか》う余裕《よゆう》があったら、自分のことも可愛《かわい》がってやんな。
……大事な家族だったんだろ? あの壊《こわ》れちまった二人も」
「人形だぜ? なんでそう思うんだ?」
「なんとなくね。あんたの顔見てたら、そんな気がしてきただけだ」
ずりぃな、とクリストフは心の中だけで呟《つぶや》く。仮《かり》転も女であるクロアにそんな見抜かれ方をされれば、どれだけそれを理不尽《りふじん》に思っても、男である自分は黙《だま》るしかない。
「たぶん、あたしもあんたも、別れることにスレちまってるんだろうね。
悲しいからって、素直《すなお》に泣けないんだ。だからその代わりに、誰《だれ》かの心配をしたりすることで心のバランスをとろうとする。そんなガラでもないこと、普段なら絶対にしないってのにな」
「ああ……そんなもんかもな」
その考え方には、少し、説得《せっとく》力を感じる。
そしてその考え方に従《したが》えば、この屋敷《やしき》の中でいま一番辛い思いをしているのは、エンリケッタでも自分たち二人でもないだろう、と思い至《いた》る。
泣きわめくこともできず。
だからといって、他の手段で心のバランスをとることができるほど器用でもない。
……二百年の道連れを失った今、あの銀髪《ぎんぱつ》の姫君は、果たしてどのようにすれば、その心の空隙《くうげき》を埋《う》められるのだろうか……?
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▼epilogue/2
リュカ・エルモントは困惑《こんわく》していた。
困惑する以外に、出来ることが何もなかった。
(……えーと……?)
頭の中で、自分の記憶《きおく》を整理する。
自分は確か、クリストフとかいう王城《パレス》の帯剣騎士《カヴァリエレ》に連れられて、なにやらごっつい老人のところに連れて行かれたのだ。
確かロジェ・ヴィルトールといったか、その老人によって自分の正体を暴《あば》かれた。『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』によって作り上げられ、維持《いじ》されている虚像《きょぞう》。人間ではなく、そもそも生物でもなく、それどころか物体として在る[#「在る」に傍点]ものですらない。そんなでたらめなモノだと教えられた。そしてそのせいで、自分は消滅させられてしまったはずだ。
消滅して……二度と復活しないはずだった。
(ここにいる……よな、俺《おれ》?)
わけがわからない。
ずきん、と後頭部の辺りが鈍《にぶ》く痛んだ。
何かを忘れている。そんな気がした。
風の吹《ふ》く丘《おか》の上。そうだ。自分はあの場所で、フィオルと再会していた。そして何か、言葉を交《か》わした。……そんな、気がする。言葉は何も思い出せないけれど、その場所で、自分は何か、誓《ちか》いを立てようとしたような気がする。
(……何だよ。わけわかんねぇよ、何がどーなってんだよ?)
ゆっくりと、目を開いてみる。
†
至近距離《しきんきょり》に、とびきりの美人の寝顔《ねがお》。
†
目を閉じた。
さすがに、今のは、心臓《しんぞう》に悪かった。
いくらなんでも、若く健康《けんこう》な十七|歳《さい》が目撃《もくげき》していい光景ではない。今の一瞬《いっしゅん》だけで、心臓がはりきりすぎて内側から爆発《ばくはつ》してしまいそうになった。
(……今のは……)
どくどくと暴れまわる心臓の音がやかましくて考えがまとまらないが、それでもさすがに、今目の前にいたのが誰《だれ》であったかについては、すぐに思いだせた。
(ジネット……だよな……?)
それは間違《まちが》いない。
あんな整った顔立ちの娘《むすめ》が、そうそう他《ほか》にいるはずがな――いやまぁ実の姉みたいな例外はあるにせよ、そのへんを除《のぞ》けば、とにかくいるはずがない。
アリス? いやまぁ確かにあいつは可愛《かわい》いが、しかし単純に顔立ちの勝負なんぞになったらさすがにこの規格外プリンセスにはかなうはずがないわけで、つーか比《くら》べさせるなよそんなもんいいだろあいつはあいつで反則級に可愛いんだから、だいたい秤《はかり》にあんまり重いもんのっけると壊《こわ》れてそれ以降うまく動かなくなるんだぜって誰に向かって言い訳してるんだ俺は。
振乱が収まらない。
(……状況分かんないっつーの、いやマジで!)
果たして今見たものは本当にジネットだったのだろうか。まずは何よりも、それを再確認《さいかくにん》しなければいけない気がする。
ゆっくりと、片目ずつ開いて、目の前のものを、
†
至近距離で、とびきりの美人と、目が合った。
†
「ほんぎょらぶへれぼふっ!?」
自分でもどう発音したものやらよく分からない悲鳴をあげて、背筋の力の限りにのけぞって距離を取ろうとした。そのとたん、奇妙《きみょう》な浮遊《ふゆう》感が体を包んだ。「あ、落ちるな」と思った次の瞬間には、後頭部を強烈《きょうれつ》な衝撃《しょうげき》が襲《おそ》い、再び意識が遠くなりかけた。
狭《せま》いベッドの上から転げ落ちたのだと、すぐに気付いた。
「な……な……」
後頭部に出来たコブをさすりながら(まったく丈夫《じょうぶ》なものだと思う)身を起こす。どことなくびっくりした顔のジネットが、こちらを見ている。
ゆっくりと、その表情に、歓喜《かんき》が満ちてくる。
「あ……ええと、ジネット……?」
名前を呼ぶと、少女の顔の歓喜が、限界まで強まった。
「おはよう。目を覚ましたか、リュカ……」
「あ、ああ、おう。いい朝だな、って朝かどうか分かんねぇけど、ええと」
今更《いまさら》ながら、辺りを見回した。そこそこの広さのある一室だ。とりあえずエルモント邸《てい》ではないことは間違いないのだが、しっかり金のかかっていそうな家具が並んでいるあたりからして、安宿の一室というわけでもないだろう。そして窓の向こうには、曙光《しょこう》とも暁天《ぎょうてん》ともつかないわずかな赤い光。
「リュカ」
名を呼ばれ、視線をジネットへと引きもどされた。
「体のほうは大丈夫か。その……どこか崩《くず》れていたりはしないか」
「あ? ああ……」
言われて初めて思い出した。そういえばそうだ、自分はつい先ほど(実際にどのくらいの時間が経《た》っているのかは分からないが主観《しゅかん》ではそんなものだ)まで、体のほとんどの部分が七色の光にほどけて、壊《こわ》れたマネキンでももう少しましだというほどにぼろぼろの状態になっていたはずなのだ。
見下ろした自分の体は、何の問題もなく、そこにある。
腕《うで》だの腹だのをつついてみても、ごくごく普通《ふつう》の人の肌《はだ》がそこにあるだけ。
試《ため》しに頬《ほお》をつねりあげてみたら、しっかり痛かった。
「何が……あったんだ? どうして俺、また帰ってこれたんだ?」
「色々なことがあった。それを話すと、少しばかり長くなる」
ジネットは穏《おだ》やかに言って、手を差し伸《の》べてきた。
その手を借りて、リュカはその場に立ちあがる。
「どうせ長い道中になるのだ。その話は車中に回そう」
「ほ?」
「まずは君を連れて、フェルツヴェンに帰る。アリスと約束したからな、必ず君を連れて帰ると」
「……なんで君がアリスと?」
「言っただろう? 君がいなくなってから、色々なことがあったのだ。
……彼女とは色々な話をしたよ。ほんの数年前まで、君がどんな悪ガキだったかなどな。当時の悪事の数々も合わせて、暴露《ばくろ》話でしばらく盛《も》り上がった」
「……まじかよ」
アリスと、ジネット。予想もしていなかった組み合わせだった。そして、ある意味において最悪の組み合わせでもあった。リュカ・エルモントのそれぞれ別々の一面を知るその二人が合わさってしまう。色々とぞっとしない。
「アリス、元気にしてるか?」
「さて、それにはどう答えるべきかな。少なくとも、いきなり君が消えて、彼女は随分《ずいぶん》と傷ついていたな。自分は何も知らされないままだった、蚊帳《かや》の外におかれたまま居《い》なくなられてしまった、と」
「う」
それは、そうだ。傷ついて当たり前だろう。
自分はアリスに対して、そういう仕打ちをしたのだ。
関《かか》わって欲《ほ》しくなかった。あの異様《いよう》な夜、異様な世界に、アリスだけには近寄って欲しくなかった。……その思いは今も変わらないし、たとえ今の自分がもう一度同じ状況《じょうきょう》に置かれたとしても同じ選択《せんたく》をするだろうとは思うけれど、だからといってアリスを傷つけたことを正当化はできない。
「嫌《きら》われた、かな」
「それを本気で言っているとしたら、君の朴念仁《ぼくねんじん》も相当のものだが」
「……嫌ってもらえてれば、俺としても気が楽だったかもなってことだ」
むろん、本気ではない。けれど、まるきりのデタラメでもない。
アリスの中に自分がまだ生きていて、それが彼女にとっての重荷になっているとしたら。その仮定のほうが、自分にとってはよっぽど怖《こわ》い。
「何にせよ、全《すべ》ては、フェルツヴェンに帰るところからだ。私としても、君を見つけたこの朗報《ろうほう》を、さっさとアリスに伝えたい」
「……ここ、どこなんだ? フェルツヴェンじゃない、のか?」
「ペルセリオの、少し外れのほうにある都市だ。君の帰るべき場所までは、少しばかり遠いな」
「ペル……っ!?」
それは確かに、随分《ずいぶん》と遠いことだ。
「なんで、そんなとこに!? 何があったんだよマジで!?」
「同じ大陸の、しかも鉄道で行き着ける場所。覚悟《かくご》していたよりは近場で見つかったと思っているのだがな。まぁ、その辺りも含《ふく》めて、全ての話はまた後で、だ。
腹が減っているだろう? 何か食べるものでも作ってこよう」
言って、ジネットは立ちあがる。
扉《とびら》を開いて、部屋を出ようとしたところで、足を止める。
くるりと振《ふ》り返り、
「……もしも」
「ん?」
「もしも、の話をしてもいいか?」
「あん?」
こちらの反応が聞こえているのかいないのか、ジネットは声を細くして一方的に、何かを呟《つぶや》くようにして、
「もし仮に、私が旅をやめたとしたら、その時は、君の……」
そこで、ぶんと一度大きく首を横に振って、
「いや、アリスのいないところでこれは、あまりに卑怯《ひきょう》だな。すまない、この話は、また後日に譲《ゆず》らせてくれ」
「いや、また後日も何も、俺には何の話だか――」
当惑《とうわく》するリュカの目前で、ぱたんと扉が閉まる。最後にちらりと見えたジネットの顔が、どことなく赤く染《そ》まっていたように見えたのは、たぶん気のせいだろうが。
そしてリュカは、見知らぬ部屋の中に一人、取り残される。
「――行っちまったし」
頬を掻《か》きながら、部屋の中を改めて眺《なが》め直す。
「なんか様子おかしかったし。何なんだろな、まったく。さっさとアルトのじいさんあたりが出てきて、分かりやすく状況を説明してくれたりとかしないもんかね……」
ぐるりと部屋を見渡《みわた》したその視線が、ぴたりと止まる。
ベッドのすぐ脇《わさ》、ナイトテーブルの上に、ひとつの人形が座《すわ》っている。
……いや。それは、正確な表現ではない。
人形だったものが、置かれている。
手足がとれていたり、とれかけていたり、とにかく原形が留《とど》められていないほどに破壊《はかい》されている。とてもそれを、人形とは呼び表せない。
「……アルトの……じいさん……?」
リュカは呆然《ぼうぜん》と呟く。
「なんだよ、それ。何があったんだよ、おい?」
おそるおそる、その残骸《ざんがい》に、指先で触《ふ》れてみる。反応はない。
つかみあげてみる。反応はない。
揺《ゆ》さぶってみる。反応はない。
「…………」
確か、この人形は、アルト老にとっての服のようなものなのだと聞いていた。もともとの不死者《レヴナント》としての体を失い、意識のみの存在となった彼が、仮の宿として、人に似ながら人ではないものの中に入りこんでいるのだとかなんとか。
だとすると、この人形がこうして壊れてしまっているということも、それほど深刻な話ではないのかもしれない。ひとつが壊れたところで他にも予備の人形がたくさんあるのかもしれないし、意識のみの彼が、それはそれで特に問題なく優雅《ゆうが》な生活を送れていたりするのかもしれないし。
そう、今こんなところで、何も分かっていない自分が心配するようなことは、何ひとつないのかもしれない、のだけれど……
「…………」
ああ、もう。なんなんだろう。
とにかく、まったく心が落ち着かないのだ。
「くっそ……」
がりり、と自分の赤毛を強く掻いた。
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あとがき
文章量の調整が、今日も今日とて相変わらずに、致命《ちめい》的にヘタです。
一巻から三巻まで、なんだかんだ言って同じくらいの厚さの話になったのだ.から、きっと四巻も特に問題なく同じくらいになるに違《ちが》いない。根拠《こんきょ》もなくそう思いこんでいたら、ちょっぴしだけ[#「ちょっぴしだけ」に傍点]さらに厚めな本が出来あがってしまいました。
……いや、これでもがんばって色々と削《けず》ったんですよ、本当ですよ?
そんなこんなで枯野《かれの》瑛《あきら》です。
お待たせしました。『銀月のソルトレージュ』第四の物語をお届けします。
◆
さて、今回のあとがきは、久々に箇条《かじょう》書き風味でお送りします。
どうでもいいですが、『かじょうがき』と打ちこんだら『過剰牡蠣《かじょうがき》』と変換《へんかん》してくれるうちの変換ツールはどこかがおかしいと思います。
過剰牡蠣。なんですかそれは。牡蠣を食べ過ぎるってことですか。それは羨《うらや》ましい。けど食べ過ぎというのはいけませんね。体に障《さわ》ります。
特に牡蠣というのは、ほかに比べてもひときわ危険な食べ物です。無茶な食べ方をして牡蠣にアタって、そのせいで体質が変わってしまって、その後の人生においてずっと体が牡蠣を受け付けないなどということになったら目もあてられません。
あれは本当に辛《つら》いのです。
想像してみてください。毎年毎年、シーズンに入るたび、周りの人間が「牡蠣おいしー♪」などとわざわざ「♪」マークつきで盛り上がるわけですよ。そしてその間、体質を理由に牡蠣を食べられない人は、一人でちまちまとホッケとかつついているわけですよ。
分かりますか、この寂《さび》しさ。そしてこの悔《くや》しさ。
牡蠣なんて、牡蠣なんて、別に食べたくなんてないやいうわああん!
……何の話でしたっけ。
ああそうだ、箇条書きでした。
ありとページ数がありますので、今回のあとがきは、そんな感じでお送りします。
うわああん。
◆
四巻|執筆《しっぴつ》中の、とある日。
横浜《よこはま》市|某所《ぼうしょ》のファミレスにて、友人たちとパスタをつついていた最中に。
「ねーねー、四巻に私出してよ」
友人の一人が、そんなことを言い出しました。
「あ、俺《おれ》も出して下さいよ」
友人の一人が、さらにそんなことを言い出しました。
「何をいきなり!?」
「出してよー。ええとね、あれがいい。リュカの生まれた村の村人A」
「じゃあ俺は村人Bで」
「その村もう燃えてなくなってるよ!?」
「そこはほら、回想シーンとかあるじゃん?」
「あ、俺の登場シーンは高いところに逆光でポーズ決めて。それからテーマ曲もお願いします。登場した本人が口で歌ってんの。てーててーてててーん♪」
「ずいぶん楽しそうな村だなっ!?」
結局この望みが作中で叶《かな》えられたかどうかについては、敢《あ》えてここでは語りません。彼らには、実際にこの四巻を読んで確認《かくにん》してもらいたいと思います。
……うん、ごめんね二人とも、約束守れなかった(結局語ってる)。
◆
作中に登場しない登場人物について。
重要な役割を与《あた》えられて登場する予定だったはずなのに、いざ物語が書きあがってみると、その登場シーンのことごとくがその時の話の筋《すじ》に合わず、結局出番を全《すべ》て削《けず》られてしまう――この『銀月〜』というシリーズには、そういう気の毒な目に遭《あ》ったキャラクターたちが数多く登場します。
その中の何名かは、めでたくその後の巻で出番を獲得《かくとく》することに成功しています(ライアやサリム、あと今回の話で登場する『彼』などです)が、逆に残りの面々は、名前だけの登場になったり、そもそもそれすら出来ずにボツキャラに落ち着いていたりと、なんというかこう、それぞれに切ない末路《まつろ》を辿《たど》っています。
ところで。
物語を書く作業の最中に、それまで書いた文章をいったん手近な人間に読んでもらって意見を聞くことがあります。描写《ぴょうしゃ》や表現がちゃんと分かりやすいかどうか。登場人物たちの言動におかしなところはないか。ぱっと見てすぐに気付きそうなことでも、意外と書いている本人には分からないものです。そういったものを見つけてもらって、修正作業に活《い》かしたりするのです、が……
「あれ、この完成稿、ブリュエットの出番が見当たらないよ?」
……結果、その人は、最終的な原稿からは削られているエピソードについても熟知《じゅくち》してしまいます。
「誰だっけそれ?」
一方、作者本人は、削ったエピソードのことなどあっという間に忘れてしまいます。
「ほら、ジネットの従姉妹《いとこ》。前に見た原稿だと、過去話の章で登場してたよね?」
「あーあーあーあー」
「いや、『あーあー』じゃなくて。どうなったのあの話」
「全部削った」
「えええええええっ!? 重要人物じゃなかったの!?」
「重要だけどね。彼女の出るシーン全部|収録《しゅうろく》したらまたページ数が大変なことになるし、彼女の設定に関しては、語られないまま闇《やみ》に葬《ほうむ》って裏設定にしちゃっても、それはそれで物語の筋は通るんじゃないかなって」
「じゃないかなって、ってあんた!?」
「作中で語られない設定は、存在しないも同然だ。あの世界には、ブリュエットなんて娘《むすめ》は、最初からいなかったのさ……」
「かっこつけて言ってもちっとも似合わないよ人間的に!?」
「うわ傷ついた」
「ああもう、いい子だったのになぁ、ちくしょー」
……ちなみに。
一巻からライアの出番が削られた時も、二巻と三巻からエンリケッタの出番が削られた時も、この人は同じようなことを言い、枯野も似たようなことを返しました。
そろそろ二人とも、何かを学習したほうがいいと思います。人として。
◆
このあとがき、ぜんぜん箇条書きになってないやん、と今頃《いまごろ》気づきました。
まあ、やろうとしていたことと出来あがるものとの間に大きな差があるなどというのは世界法則のひとつではあります。世界法則に向かってケンカを売るような度胸《どきょう》のない枯野としては、もう全力で負け犬となって目の前の現実をそのまま受け入れ、このままのスタイルで書き貫《つらぬ》こうと思います。
正しい箇条書きの在《あ》り方について知りたいという方は、手近な辞書《じしょ》でも引いて調べてください。少なくとも、このあとがきを参考にしてはいけません。
◆
さて、いい感じに(無理やりに)紙幅《しふく》が埋《う》まってきましたので、謝辞《しゃじ》などを。
今回もお世話になっています、得能《とくのう》正太郎《しょうたろう》さん。現段階ではやはりまだ拝見《はいけん》していませんが、今回登場のちびっ子どもがいい感じにイラストになりつつあると聞いてほくほくしております。
前巻時に異動《いどう》になりました前担当に代わり、今回から担当編集となりましたN村さん。あらためて、今後ともよろしくお願いします。
そして、すべての読者の方々に。
ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。
――次巻、再び舞台《ぶたい》はフェルツヴェンの地笹戻《もど》り……
この『銀月のソルトレージュ』という一連の物語の、最後の幕《まく》が開きます。
二〇〇七年 十一月[#地から2字上げ]枯野 瑛
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底本
富士見ファンタジア文庫
銀月《ぎんげつ》のソルトレージュ4 扉なき仮宿
平成19年12月25日 初版発行
著者――枯野《かれの》瑛《あきら》