銀月のソルトレージュ3 琥珀の画廊
枯野瑛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銀月《ぎんげつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|琥珀の画廊《イストワール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目次、
▼scene/1 翠色《みどりいろ》の戸惑《とまど》い 〜piece of peace〜
▼promnade
▼scene/2 黒色の諦《あきら》め 〜out of wonderland〜
▼promnade
▼scene/3 造《つく》り物の戦場 〜fake fate〜
▼promnade
▼scene/4 琥珀《こはく》色の決意 〜HISTORIE〜
▼promnade
▼scene/5 いつか還《かえ》るための場所 〜home, sweet home〜
▼promnade
あとがき
[#改ページ]
「それは、しょせんは模造品《ニセモノ》だ」
「別に、そんなのどうでもいいじゃないですか。
模造品《ニセモノ》を好きになっちゃいけないなんてルールはないでしょう?」
[#改ページ]
▼scene/1 翠色《みどりいろ》の戸惑《とまど》い 〜piece of peace〜
1.
山間《やまあい》の深夜は風が強い。
風は木々を踊《おど》らせ、草原を波打たせる。
長い銀色の髪《かみ》が風に巻《ま》き上げられ、大雨の後の渓流《けいりゅう》のように、激《はげ》しく踊り狂《くる》う。
「……ふぅ」
放《ほう》っておけばいつまでも踊りを続けようとする髪をぎゅっと手で押《お》さえつける。
草の上に背中《せなか》を投げ出す。
眼前《がんぜん》に広がる満天の星空を、見るともなしに、ぼんやりと眺《なが》めた。
街の灯《あかり》を離《はな》れて眺める空は呆《あき》れるほど賑《にぎ》やかで、そしてまた、目を細めたくなるほどに眩《まぶ》しかった。
「…………」
それは、冬の夜空だった。
自分の良く知る冬の星座《せいざ》たちが、広い空の中にそれでもどこか窮屈《きゅうくつ》そうに身を寄《よ》せ合って、並《なら》んでいるのが分かった。
そういえば、何かの本で読んだことがある。いわく、一見してずっと変わっていないように見える夜空だが、実は人の目ではそう簡単《かんたん》には気づけないほどのゆっくりとした速度で変化しているのだという。ある星は少しずつその位置を変えている。ある星はその輝《かがや》きの色を、あるいは強さを変えている。ある星は唐突《とうとつ》にその光を失い、消えて失《う》せる。またその逆《ぎゃく》に、ある星は何もなかった暗闇《くらやみ》から唐突に現《あらわ》れ、光を放ち始める。
つまり――この夜空は、二百年前の夜空とは、違《ちが》うものだ。
今の世に特有の、あるいは今この瞬間《しゅんかん》にしか見上げることのできない、空なのだ。
「……そんな話、信じられるか?」
空に向け、片手《かたて》を掲《かか》げた。
星空の輝きが、手のひらの形に、黒く切りぬかれた。
「こんなにも……似《に》ているのに、な……」
二百年前にも、同じようにして、夜空を見上げたことがあった。
同じように片手を掲げて、星空の片隅《かたすみ》を切り抜《ぬ》いてみたことがあった。
あの時と、自分の体の大きさはまるで変わっていない。あの星空だって、少なくとも自分の目に捉《とら》えられる限《かぎ》り、どこがどう変わったということもない。
なのに、それは、似ているだけなのだ。決して、同じものではないのだ。
一度失われたものは、二度と返ってはこない。どれだけ悔《く》やんでも、どんなに手を伸《の》ばしても、掴《つか》めるものは、しょせんはよく似ているだけの模造《もぞう》品でしかないのだ。
――なら、その模造品《にせもの》を、大好きになっちゃえばいいんですよ。
――そうしたら、もう、本物も模造品《にせもの》も関係なくなるでしょう?
そんな声が、聞こえたような気がした。
ああ、そうだろうな。あの人[#「あの人」に傍点]なら確《たし》かに、そんな風に言うことだろう。彼女は優《やさ》しくて、賢《かしこ》かった。そして自分が迷《まよ》っている時には、いつも簡単な言葉で前へと導《みちび》いてくれた。
そんな彼女も、もういない。
導いてくれる人を、遠い昔に失ってしまった。だからきっと、あれから流れた二百年の間、自分はずっと迷い続けているのだろう。
「……貴女《あなた》にとっては、簡単なことだったのだろうな……姉様」
ぽつり、遠い空に向けて、呟《つぶや》いた。
「けれど、それは貴女が特別だからだ。凡人《ぼんじん》でしかない私には、少しばかり、敷居《しきい》が高い考え方だよ……」
ゆっくりと、目を閉《と》じる。
かすかな睡魔《すいま》が、意識《いしき》の水面を軽く撫《な》でて、すぐに消える。そうでなくても気温の低いこの冬の空の下、これだけうるさく騒《さわ》ぎたてる風の音に包まれたままでは、さすがに睡魔もそう簡単には育たない。
〈ふむ、今夜は少し、詩人の心境《しんきょう》かのう?〉
突然《とつぜん》に、老人の声が聞こえた。
あたりに人の姿《すがた》はなく、またその気配もない。だがそのことを驚《おどろ》くこともない。声の主が誰《だれ》であるかは、誰何《すいか》するまでもなく知れている。
「……いたのか、アルト老」
〈いや、それはいくらなんでもあんまりな言い草ではないかい? 人の首根っこをひっつかんで、問答無用でここまでぶら下げて来たのはどこの誰じゃ?)
もぞもぞと、すぐそばの芝生《しばふ》が揺《ゆ》れている。
よく見れば、ちょうど赤《あか》ん坊《ぼう》ほどの大きさのアンティーク人形が、小さな指で懸命《けんめい》に草にしがみついて、今にも強風に転がっていきそうになるのをこらえている。
「手荷物の選択《せんたく》を間違えたな。どうせなら弁当《べんとう》のバスケットでも下げてきたほうがよかったと後悔《こうかい》している」
〈儂《わし》の存在価値《そんざいかち》ってナニっ!?〉
悲痛《ひつう》な悲鳴が、渦巻《うずま》く風に溶《と》けて消える。
「ならばせめて、少し静かにしてくれ。少なくとも弁当箱なら、うるさく騒いで思索《しさく》の邪魔《じゃま》をしたりはしないだろう」
〈ぬぅ、なかなかやるものじゃな弁当箱。ただの容器《ようき》と思って侮《あなど》っておったが、なかなか手ごわい〉
「……本当に、なぜアルト老なんぞを連れてきたのだろうな、私は」
低くうめきながら――少女、ジネット・ハルヴァンは人形をつまみあげると、自分の膝《ひざ》の上に抱《だ》き抱《かか》えた。
強風の脅威《きょうい》から解放《かいほう》され、アルト老は小さく息(?)を吐《は》くと、
〈ふぅ、生きた心地《ここち》がせんかったわい〉
「怪奇《かいさ》人形の口から聞いても、何かの冗談《じょうだん》にしか聞こえない台詞《せりふ》だな」
〈誰が怪奇人形じゃい!?〉
膝の上で戯れ出しそうな怪奇人形を、少し腕《うで》に力をこめることで制《せい》する。
「いいから、少しは黙《だま》って、私に感傷《かんしょう》に浸《ひた》らせろ」
〈ふむ?〉
人形が首を巡《めぐ》らせてジネットの顔を覗《のぞ》きこみ、
〈昔を、思い出しとったか?〉
「……ああ」
〈確《たし》かにここは、少しばかりシュテーブルに似《に》とる。同じ山間《やまあい》の街という共通点のせいじゃろか、似たような風も吹《ふ》いとることじゃしな〉
「…………」
覗きこんでくる視線《しせん》に耐《た》えかねて、目を、逸《そ》らした。
無理やりに空の上に目を向けた。
〈まあ、ええじゃろ〉
人形の首もまた視線を空の上に向け直す。
〈ときにジネット。お主、明日からは何をするつもりじゃ?〉
「……何、とは?」
〈そのままの意味じゃよ。
レオネルは討《う》ち果《は》たした。その時に負った重傷も無事に癒《い》えた。とりあえず目前にあった目標は片付《かたづ》いたわけじゃろ? 明日からいったい、何をして生きる?〉
「何を言っている。まだ宿願のすべてが片付いたわけではないだろう」
かすかな苛立《いらだ》ちを心の隅《すみ》に感じながら、ジネットは言う。
「魔女《まじょ》フィオル・キセルメルを追う。そしてそれを討ち果たし、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を奪《うば》う。やるべきことは、まだ残っている」
〈それはまぁ、ええんじゃが……それはちぃと遠大な探究《クエスト》じゃろ? 儂《わし》が聞いとるのは、当面の話なんじゃが〉
「……ライア・パージュリーと約束をしている。彼女が『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』について知っていることを聞き出す予定だ」
〈信用できるのか?〉
「それは難《むずか》しいな。あの女は私の知る限《かぎ》りでも最悪の部類に入る嘘吐き《ライア》だ。
だが今のところ、他にできることもあるまい」
〈ふむ〉
考えるようにして人形は黙りこみ、
〈おそらく今夜中に、儂《わし》も回復[#「回復」に傍点]すると思うのじゃが〉
「ああ……やっとか。今回は随分《ずいぶん》と長くかかったな」
〈それだけ儂のほうも|夜の軟泥《ワルプルギス》の消費が厳《きび》しかったんじゃよ……まぁそれはさておき、この体から解放《かいほう》されたら、ちいと遠出をしてこようかと思うんじゃよ、儂は〉
アルト老は肉体を持たない、意識《いしき》だけの存在《そんざい》である。
こうしてジネットの膝《ひざ》の上で動き、喋《しゃべ》っている人形の体は、彼にとっては着脱《ちゃくだつ》の面倒《めんどう》な拘束具《こうそくぐ》のようなものだ。これに憑依《ひょうい》している間のアルト老は何の力も持たない、ただの歩いて喋る怪奇|現象《げんしょう》でしかない。
だが、着脱が面倒だからといって、それが不可能《ムかのう》であるというわけではもちろんない。
充分《じゅうぶん》な力を貯《たくわ》えた状態《じょうたい》であれば・彼は人形の体を脱《ぬ》ぎ捨《す》てて、本来の竚り方である意識体の状態にまで戻《もど》ることができる。
「遠出……?」
〈ロジェを追う。開門して逃《に》げた『|扉なき仮宿《ビエタテール》』の気配をそのまま追うでな、こればかりは儂一人のほうがやりやすい〉
「……ああ」
なるほど、と首を縦《たて》に振《ふ》る。
大抵《たいてい》の追跡劇《ついせきげき》において、ジネットは足手まといにならない自信がある。条件《じょうけん》付きとはいえ過去《かこ》の情景《じょうけい》を直接《ちょくせつ》に暴《あば》き立てることのできる『|琥珀の画廊《イストワール》』はどんな猟犬《りょうけん》よりも確実《かくじつ》に獲物《えもの》を追いたてることができるからだ。
しかし今回の配は、その大抵≠ノ当てはまらない、特殊《とくしゅ》な事例だ。下手に自分がついて回るよりも、意識体となったアルト老が一人で追ったほうが確実で、かつ迅速《じんそく》に事が片付けられることだろう。
〈そんなわけじゃから、お主のこれからを確かめておきたいわけじゃよ。別に焦《あせ》って探究《クエスト》を果たすことばかりを考えんでもええ。若《わか》い娘《むすめ》らしく、何かやりたいこととかそういったものもあるじゃろ?〉
「誰が、若い娘だ」
ジネットは苦笑《くしょう》する。
「この大地に生まれ落ちてから、早二百二十九年。建造《けんぞう》物なら立派《りっぱ》に歴史|遺物《いぶつ》に選ばれるに足る。それだけの時間を生き抜《ぬ》いておきながら、まさか若いなどと言い張《は》れるほど図太くはないぞ、私は」
〈そうじゃな、儂もつい最近までそんなふうに思っとった〉
「……何?」
アルト老の言葉の真意が分からない。
〈儂らはな、止まっとるんじゃよ。
外見の年齢《ねんれい》だけの話ではない。中身についても、儂らは同じように不老なんじゃ。年をとることをやめてから積み重ねた時間は、それまでに積み重ねてきた時間と混ざり薄め合い[#「それまでに積み重ねてきた時間と混ざり薄め合い」に傍点]、同じ器の中に同じ濃度で収まることになる[#「同じ器の中に同じ濃度で収まることになる」に傍点]。
お主の時は十六の時に止まった。
ならば今のお主も、しょせんは十六の小娘に過《す》ぎん。
その後に流れた二百年以上の時間も、十六の小娘≠ニいう器《うつわ》に注ぎ込《こ》まれた時点で、それ以上の意味を生まん。むろん器からこぼれ落ちた分があるわけでもないから、そうじゃな……お主が長い長い時間をかけて蓄積《ちくせき》してきた人生体験は、普通《ふつう》の小娘が十六年で得るそれと比《くら》べ、その量において圧倒《あっとう》的に勝《まさ》るが、逆《ぎゃく》にそのバランスをとるためにひとつひとつの体験の質《しつ》が極端《きょくたん》に薄《うす》められている。質と量をかけあわせた結果は似たようなもの、少なくとも大した差は出てこない〉
「意味が、分からない」
〈別に、理屈《りくつ》は分からんでもええがの。儂が言いたいことはただひとつ、お主ごときが年寄《としよ》りを気取るとは笑止千万《しょうしせんばん》、とまぁそれだけじゃ〉
「…………」
反応《はんのう》に、困る。
〈……少し、休んでみてはどうじゃ、ジネット。
これまでの二百年、ろくに立ち止まりもせずに走りどおしだったじゃろ。たまには足を止めて、辺りを見回してみるのも、悪くはないと思うんじゃが……〉
「不要だ」
〈ろくに考えもせずそう安易《あんい》に言い切るあたりが、小娘だと言うとるんじゃよ〉
「小娘だろうと老婆《ろうば》だろうと、不要なものは不要だろう」
言い放って、立ち上がる。
膝の上に載《の》せられていた人形が、草の上にがり出され、ころころと転がる。
〈のわぷっ!?〉
「エルモント邸《てい》に戻る」
〈いや、それはええが、ちょい待て、勢《いきお》いがついて止まらんつーか確《たし》かこの先に崖《がけ》とかあったよーな気がするんじゃがもしかして儂また無意味にけっこうピンチ状況《じょうきょう》に投げ込まれとるんじゃなかろーかっておいこら知らん顔して帰ろうとするんじゃなあああああああああぁぁぁぁぁぁ……〉
崖から投げ出される寸前《すんぜん》で、アルト老の首根っこをつかんだ。
〈ふ、ふう……た、助けるならもっと早く助けんかい……〉
「別に、助けたわけじゃない」
涼《すず》しい声で、言い放つ。
「むやみにゴミを投げ捨《す》てるのは森林|環境《かんきょう》によくないからな。どうせくずかごに放り込むにせよ、きちんと持ち帰ってからにしようと思っただけだ」
〈おお、なるほ……ど?〉
何やら首をひねるアルト老を抱《だ》きかかえて、ジネットは歩きだす。
ここはフェルツヴェン近郊《きんこう》の丘の上。エルモント邸のある界隈《かいわい》までは、女性《じょせい》の足で歩いて三十分ほどの距離《きょり》がある。
中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に昔を想《おも》ったからだろうか。
懐《なつ》かしい夢《ゆめ》を見た。
『――本当は、騎士《さし》になりたかったんだ』
その少年は、はにかみながらそう言った。
少年の父親は王宮お抱《かか》えの庭師で、少年はその後継者《こうけいしゃ》だった。
あまり体格《たいかく》に恵《めぐ》まれてはいなかった。背《せい》は大して高いほうではなかったし、手足はまるで少女のようにほっそりとしていた。幼《おさな》いころから仕込まれていたという園丁《えんてい》の腕《うで》は確かなものではあったものの、どう鍛《きた》えてもなかなか手足に筋肉《きんにく》がついてくれないせいで、少年の父親は幾度《いくど》となく頭を抱え、『いつになったら一人前になってくれるんだ』とぼやいていた。
『――あの姫《ひめ》様に、信頼《しんらい》できる誰かを与《あた》えてやりたかった』
当時のシュテーブルの騎士の座《ざ》は、いつでも売り切れ[#「売り切れ」に傍点]だった。
貴族たちが先を争い金を積んで、自分のところの次男|坊《ぼう》や三男坊をその席に座《すわ》らせようとしたせいだった。剣《けん》の腕とも騎馬の技術《ぎじゅつ》とも国王への忠誠心《ちゅうせいしん》も関係のない、実家の裕福《ゆうふく》さという要素《ようそ》でのみ新たな騎士は選ばれ、そして叙任《じょにん》されていった。それがあの場所における騎士という地位の実際《じっさい》の姿《すがた》であり、また騎士|団《だん》という場所はそういう連中の吹《ふ》きだまりだった。
そして少年は、騎士にはなれなかった。
どれだけ強く望んでも、その望みが叶《かな》うことはなかった。
どれだけ剣の腕を鍛え騎馬の技術を磨《みが》いても、それが意味を持つことはなかった。
『――騎士なんてろくな連中じゃないっていうから、なおさらそう思った。俺《おれ》がまともな.騎士になる。俺一人だけでもいいから、この国にちゃんとした騎士がいるんだっていう事実を作ってやる。そうすれば姫様だって少しは救われる。そう、思ったんだ』
結局、最後の最後まで、現実《げんじつ》はその少年には微笑《ほほえ》まなかった。
少年は最後まで庭師の息子《むすこ》≠ナあり、それ以上の何者にもなれなかった。
けれど――当時幼かった少女にとっては、違《ちが》った。
彼は、彼女の知る限《かぎ》り唯一《ゆいいつ》の、本物の騎士の精神《せいしん》を持った男だった。
そして、その騎士の忠誠の向けられる先が、ちゃんとした本物のお姫様――つまりは自分の姉であったということは、少女にとってはちょっとした誇《ほこ》りだった。
少女は二人のことが大好きで。
そしてできれば、なんとか、二人には幸せになって欲《ほ》しいなぁなどと夢を見ていた。
『――君には、俺みたいなできそこないじゃなくて、ちゃんとした本物の騎士が現《あらわ》れてくれることを祈《いの》るよ……小さなジネット姫」
本当に、最後の最後まで、現実はその少年には微笑まなかったのだ。
彼は騎士にはなれなかったし、そもそも姫君を守りぬくこともできなかった。
姫君は乱心《らんしん》し、魔女《まじょ》となって謀反《むほん》を起こした。
少年は当初その討伐《とうばつ》隊に参加していたが、道中において魔女に心|惑《まど》わされ、母国と仲間たちとを裏切《うらぎ》った。その最期《さいご》も決して名誉《めいよ》なものではなかった。討伐隊のリーダー格であった一人の騎士との一騎討《いっきう》ちの最中、突然《とつぜん》背中を向けて逃《に》げ出そうとしたところを切りつけられ、そのまま崖《がけ》から転がり落ちて行ったのだそうだ。
それらの光景を、実際に自分で見ていたわけではない。どこまでが真実で、どこからが創《つく》られた物語なのか、少女には区別ができない。
だから、ただ、信じることしかできなかった。
彼が、最後の最後まで、自分の思うような、騎士《きし》の精神を持ち続けていたことを。
そして、既《すで》に滅《ほろ》びてしまったシュテーブルという国には、ろくでもない騎士ばかりが大勢《おおぜい》いたのだけれども、それでも一人だけ、ちゃんとした騎士がいたという事実があったことを。
道理も理屈《りくつ》もはねのけて、ただひたすらに、その思いにしがみつくしかなかった。
――目を覚まし、布団《ふとん》の中からむくりと身を起こした。
太陽が昇《のぼ》り始めるよりも、少しだけ早い時間。窓《まど》の外に広がる黒々としたシルエットの景色に、少しずつ色彩《しきさい》が混《ま》ざりはじめている。
「…………」
ゆっくりと、頭を左右に二度ほど振《ふ》る。眠気《ねむけ》はとれなかったが、少しだけ、沈《しず》んだ気分が晴れたような気がした。
「何を、思い出しているのかな、私は」
そんなにも、自分は気弱になっているのだろうか。だから、強く慕《した》っていた――それこそ兄のように思っていた者の記憶《きおく》にすがりついているのだろうか。
なんということだ、それこそ、まるで十六の小娘《こむすめ》のようではないか。
彼が最後に自分に見せた背中《せなか》を、いまだに忘《わす》れられない。
彼が自分に説いた、彼なりに思う騎士≠フ姿が、頭の中から消えない。
嫌《いや》な気分が、また少しだけ、強くなった。
「……アルト老。アルト老、いるか」
返事はない。
彼がいつも依代《よりしろ》としているあの人形は、部屋の片隅《かたすみ》、椅子《いす》の上にちょこんと座《すわ》るように置かれていた。
「もう、行ったのか」
ベッドから降《お》りて、椅子に近づく。眠るようにその目を閉《と》じた人形は、ぴくりとも動かず、もちろん何とも応《こた》えない。
「まったく、慌《あわ》ただしい奴《やつ》だな。去り際《ぎわ》の挨拶《あいさつ》すらないとは」
ジネットはそれを優《やさ》しく抱《だ》きあげ、軽く埃《ほこり》を払《はら》うと、いつもそれを持ち歩くのに使っているバッグの中に収《おさ》めた。中身さえ入っていなければ、外側は普通《ふつう》の、可愛《かわい》らしい人形なのだ。優しく丁寧《ていねい》に扱《あつか》ってやろうという気にもなる。
「…………」
一人きりの部屋は、妙《みょう》に静かで、空虚《くうきょ》だ。
しばらくそうやって、ぼんやりと部屋を眺《なが》めていたが、すぐにそれにも飽《あ》きた。
「朝食の準備《じゅんび》でも、するか……」
誰《だれ》にともなくそう呟《つぶや》いて、のろのろと動きだす。
東の山稜《さんりょう》が、朝の光を帯びて金色に輝《かがや》いている。
深い眠りについていた街が、少しずつ少しずつ、目覚め始める。
そうやって、湖畔《こはん》の都市国家フェルツヴェンに、今日も朝がやってくる。
街の中央からやや南|寄《よ》り、比較《ひかく》的|富裕層《ふゆうそう》の多く住む一画のさらに外れ。つい先日まではリュカ・エルモントという少年が(実質《じっしつ》上)ただ一人きりで住んでいた屋敷《やしき》がある。
そしてその調理場に、一人の少女が立っている。
腰《こし》のあたりにまで伸《の》びた、星の光を束ねたような鮮《あざ》やかな銀色の髪《かみ》。宝玉《ほうぎょく》を磨《みが》いてそのまま収めたような、深い翠色《みどりいろ》の瞳《ひとみ》。見た目の年齢《ねんれい》を評《ひょう》するならば、十五か十六。
細部に至《いた》るまで精緻《せいち》に作りこまれた、まるで高価《こうか》な人形のような――そんな容貌《ようぼう》。
「朝からこれは、少し重すぎたか……?」
ぽつり、一人呟く。しかし周りには誰ひとり、返事を返すような者はいない。そしてもちろん、呟いた本人も、別に誰かの返事を期待していたというわけではない。
少女――ジネット・ハルヴァンは軽く首を振《ふ》って、作業に戻《もど》った。
軽い下ごしらえを済《す》ませた肉と野菜とを、加熱したフライパンの中に放り込《こ》んだ。どじゃぁ、と派手《はで》な音とともに油が跳《は》ねる。軽くかき混ぜながら、タイミングを見計らって細かく刻《きざ》んだ香草《こうそう》を放り込む。
強い香《かお》りが溢《あふ》れだし、鼻の奥《おく》を軽くくすぐる。
――そういえば、ここしばらく、こういったドース風の単純《たんじゅん》な肉料理とはご無沙汰《ぶさた》だった。
最近はペルセリオを歩く時間が長かったせいだろうか。あそこの料理はどちらかというと海産物、それとパンやパスタがメインになっている。あれはあれで絶品《ぜっぴん》であり、非常《ひじょう》に自分の好みに合ってはいるのだが、それでもやはりたまにはこういう大雑把《おおざっぱ》なメニューも食べたくなるものだ。
その点、このフェルツヴェンという都市は、なかなか良い場所だ。
ドース、ペルセリオ、ミルガという大国三つに囲まれる位置にあるここでは、それぞれの文化が混在《こんざい》している。朝の市場をちょっと巡《めぐ》ってきただけで、それぞれの国で特徴《とくちょう》的とされる食材を簡単《かんたん》に見つけてくることができる。
ふと思う。せっかくの機会なのだから、調理場が使える今のうちに、何か別の、旅の空の下では造《つく》りづらいメニューに挑戦《ちょうせん》いてみようか――
「……おはよう」
戸口のほうから、何やら呆《あき》れたような声が聞こえた。
「太陽はとうの昔に上がっている。『早い』とは言いづらい時間ではないか?」
顔は上げず声だけで答える。
「あー、どうにもそうみたいね。……それ、朝ゴハン?」
「ああ。市場でたまたま、長い鴨《かも》を見つけたのでな。朝食にはやや重いが、たまにはこういうのも悪くないだろう。すぐに出来上がるから、少し待て」
「……いいけどさぁ」
何やら納得《なっとく》していなさそうな声が聞こえてきた。
「何か、おかしいか?」
視線《しせん》だけで、戸口を振《ふ》り返った。
赤い服を着こんだ、齢《よわい》二十歳ほどの女――ライア・パージュリーが、呆れたような困《こま》ったような、実に複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》で立っているのが見える。
「あなた、生まれはお姫《ひめ》様だったのよね?」
「ああ」
「もう二百年も一人で旅してる、伝説の不死者《レヴナント》なのよね?」
「ああ」
そう答えてから、いちおう一人、旅の道連れらしきものがいることを思い出した。しかしわざわざ訂正《ていせい》するのも面倒《めんどう》だったので、そのまま小さく頷《うなず》ぐ
「……それで、なんで、そうナチュラルに台所に立てるのかな?」
「言いたいことがよくわからんが……不死者《レヴナント》とて、食事くらいするぞ。我々《われわれ》の体は『簡単には壊《こわ》れない』という一点を除《のぞ》けば人間のそれとほぼ変わらない。動けば空腹《くうふく》になるし、食わぬままでいれば動けなくなる。
この程度《ていど》のこと、お前もよく知っているだろう?」
「や、そういう意味じゃなくて、イメージ的にさ……」
ライアは居心地《いごこち》悪そうにぽりぽりと頬《ほお》をかく。
話が途切れる。
「……呆《ぼう》としているくらいなら、皿を出してくれ」
「はーい」
ライアは不本意そうに動き出す。ジネットはフライパンに蓋《ふた》をかぶせる。
それから五分後の食卓《しょくたく》。
「…………」
釈然《しゃくぜん》としない顔のライアが、フォークで鴨肉をつついている。
「どうした、口に合わんか?」
「いや、普通《ふつう》に美味《おい》しい。そこがまた納得できないんだけど」
「うん?」
「一昨日はミルガ風、昨日はペルセリオ風で、今朝はドース風。こんな一人|博覧会《はくらんかい》みたいな大量のレシピ、どこで覚えたわけ?」
「どこ、と聞かれても…――」
ジネットは首を傾《かし》げつつも、
「それぞれの地元でとしか答えようがないな。今挙がった三国なら、それぞれ何十年かずつ滞在《たいざい》した記憶《きおく》がある」
「いや、滞在すれば覚えるってもんでもないでしょう?」
「なにせこの通り、敵《てき》の多い身だ。人里に近づけず、独《ひと》りで放浪《ほうろう》する時間も短くなかった。そんな中でまともな食事をしたいと思えば、その土地で入手しやすい食材を用いた料理を一通り把握《はあく》しておく必要があった。特におかしなところのない話だと思うか」
「……そっか、そりゃそーよね……」
年の功って偉大《いだい》よねぇ、などと呟《つぶや》きながら、ライアはひょいぱくと料理を口に運ぶ。
「アルベールは学術院《ライブラリ》か?」
「んー、またしばらく館詰《かんづ》めっぽいわね。あと一週間やそこらは帰って来られないんじゃないかしら、いままでのパターン的には」
「おかしな話だな、彼こそがこの屋敷《やしき》の本来の住人なのだろうに」
「おかしな仕事に就《つ》いてるんだから、そのへんは仕方ないじゃない――ああもう、美味しいったらありゃしない」
ひょいぱくひょいぱく。
「そういや、お爺《じい》さんは? いつもならそこらへんを転がってるとこだけど」
「ああ、人形なら荷物の中にしまってある」
付け合わせの野菜を静かに切り分けながら、ジネットは答えた。
「中身[#「中身」に傍点]の話なら、昨夜人形の中から抜《ぬ》けだした。
今は遠くに出かけている。忘《わす》れてしまっていい」
「出かける?」
「あの人形|姿《すがた》は、アルト老が魔法《まほう》を使った後の、後遺症《こういしょう》のようなものだ。|夜の軟泥《ワルプルギス》が回復《かいふく》し、再《ふたた》び魔法が使えるようになれば、そこから抜けだし本来の姿に戻《もど》ることになる。その状態《じょうたい》のアルト老は、実体のない、霧《きり》のようなものだ。
むろんその状態からでも、自在《じざい》に魔法を操《あやつ》るなどということは叶《かな》わない。しかしそれでも、人形の中にいるのに較《くら》べ、格段《かくだん》に動きやすくなることに変わりはない」
「へぇ」
ライアはフォークを操る手を止めて、
「じゃあ、あなたと彼と、二人ともがようやく万全《ばんぜん》の状態に戻ったわけね?」
「そうなる」
ジネットは頷《うなず》く。
「また、リュカに助けられた。全く、返すあてもないというのに、恩《おん》ばかりが溜《た》まっていくな」
「……あんたがピンチになったの、そもそもあの子のせいじゃなかったっけ?」
「確《たし》かに彼は原因《げんいん》ではあったかもしれないが、その彼を繋《つな》ぎ止めると決めたのは私自身の意思による決断《けつだん》だ。ならばそれによって生じるどのような結果も、私が部俄を持って背負《せお》うべきはずだろう」
ライアは呆《あき》れた顔で鴨肉《かも》を口に運びつつ、
「不器用な生き方」
ぽつりと、一言。
「性分《しょうぶん》だ」
「でしょーね」
呆れるように、また、一言だけ。
「で、これからどうするつもり? 王城《パレス》の騎士《カヴァリエレ》は退《しりぞ》けられたし、ついでにロジェ院長|補佐《ほさ》もいなくなったし、あんたの体調もこの通りに戻ったとなると、うちらの間の同盟《どうめい》はもう終わりなわけだけど」
「とりあえずは、ここに居座《いすわ》るつもりではいる」
「……おい」
「仕方がないだろう? レオネルを討《う》った今、私の生きる目的は魔女《まじょ》を追うことと、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を奪《うば》うことの二つに絞《しぼ》られる。そして後者は、どうやらもう一度リュカ[#「リュカ」に傍点]に会わないことには始まらない。
私には、ここを離れる選択肢《せんたくし》はないのだ」
「同盟は終わってるってのに、うちがこれ以上、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』についての情報《じょうほう》を漏《も》らすとでも?」
「教えてくれるだろう? なぁ――クローディア[#「クローディア」に傍点]・エルモント[#「エルモント」に傍点]」
――短い、沈黙《ちんもく》。
「どうして、知ってるの?」
重く、鋭《するど》い声で、ライアは問う。
静かな殺気すら感じさせるその声に、しかしジネットは毛ほどの動揺《どうよう》も見せず、
「『|琥珀の画廊《イストワール》』の主《あるじ》に問うことではないな。
私の使う魔法は、回想と想起に強い。というより、ほとんど特化している。その場にかって起きたこと、あるいはその人物がかつて体験したことを蘇《よみがえ》らせて再現《さいげん》することが、その本分だ。
そして……言っていなかったかな? クリストフ・デルガルから逃《に》げ回りながら、私はエブリオの焼け跡《あと》を訪《おとず》れている」
「あの夜のことを、読み取ったってこと?」
「むろん、完璧《かんぺき》にではない。魔法を使うのが私である以上、私の知る範囲《はんい》から大きく離れた情景《じょうけい》は呼《よ》び起こせない。私の知らない情報を多く含《ふく》む情景は、それだけ不鮮明《ふせんめい》になり、そこから何かを読み取ることも難《むずか》しくなる。
あの場所で私が知りえたことは、あの火事の凄《すさ》まじさ。
子供《こども》が一人だけ生き延《の》びたこと。
その一人とはリュカではなかったということ。消えかけていたフィオルの力を借りて、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を使ったということ。それによってリュカ[#「リュカ」に傍点]という存在《そんざい》を創造《そうぞう》したということ。フィオルが教えていたその具体的な内容《ないよう》までは分からなかったが……」
肩《かた》をすくめて、
「レオネルから逃げ回っていた時に、リュカから、姉がいたという話とその名は聞いていた。あとは、お前自身の言葉を重ね合わせて考えれば、結論《けつろん》は出る」
「……そう。話しすぎた私自身のミスってことね」
ライアは深く大きな息を吐《は》いて、
「ま、別にいいわ。知られたからって、別に何がどうなるということでもないし」
「ああ、こちらも、何をどうするつもりもない。
ただ……君がリュカ[#「リュカ」に傍点]を決して見捨《みす》てないだろうと、私は知ってしまっている。だから、それをカードとして私と交渉することはできない。そのことを教えておきたかった」
「ひどい話」
「まったくだ。ろくな死に方をしないだろうな、私は」
笑う。
「君が彼を見捨てないこと、どんなことをしてでも必ずここに連れ戻《もど》すだろうことは、信じている。それと同じだ。私は彼に、もう一度会いたい。ただそれだけだ」
「それはいいけどさ」
むしゃむしゃと、半ばやけになったようにサラダをかっくらって、
「聞きたかったんだけど。なんでそんなに、あの子にこだわるの?」
「容易《ようい》には返せないほどの、沢山《たくさん》の借りがある。それでは答えにならないか?」
「なるわけないじゃない。借りなんてもの、踏《ふ》み倒《たお》せばそれで終わりだもの」
「……聞かなかったことにしよう」
涼《すず》しく言い放って、紅茶《こうちゃ》のカップを空けた。
食事が済《す》んでライアが出かけ、ジネットは、無人の屋敷《やしき》に一人取り残された。
暇《ひま》を潰《つぶ》すために、まずは書庫へと向かった。
屋敷の中にあるものだったら好きに使って良い、と言われている。その言葉に甘《あま》えて、この生活が始まって最初の数日は、書庫にこもることで暇を潰させてもらった。自宅《じたく》に置いた私的《してき》なものとはいえ、さすがにアルベールの蔵書《ぞうしょ》は大したものだった。ジャンルを問わず揃《そろ》えられた本の山の中にいることで、それなりに長い時間を潰すことができた。
だが、何日もそればかりを続けていれば、どうしても飽《あ》きてくる。
それ以外の時間の潰し方を見つけたくなってくる。
読み終わったばかりの歴史書を棚《たな》に戻して、書庫を出た。
「ううむ……」
腕組《うでぐ》みをして、さてこれから何をしようかと考える。
とりあえず、掃除《そうじ》だろうか。
何せこの屋敷はやたらと広い。もともとエルモント家というのはそれなりに裕福《ゆうふく》で地位のある家系《かけい》であったらしく、二代ほど前までは使用人の一人や二人を住み込《こ》ませるのも当たり前であったらしい。そしてそれを当たり前にするだけの広さが、この屋敷にはある。しかも少なくともここ数年は、その広い屋敷に、よりによってアルベールとリュカの二人だけしか住んでいなかったのだ。定期的に家政婦《かせいふ》を呼《よ》んで掃除をしてもらっているという話ではあったが、それで充分《じゅうぶん》ということもないだろう。
はたきに雑巾《ぞうきん》、少し目の細かい布巾《ふきん》、各種|洗剤《せんざい》に水を汲《く》んだバケツ。それだけを用意して「よし」と力強く頷《うなず》いたところで
――何をやっているのだ、私は。
ごつん。傍《かたわ》らの壁《かべ》に額《ひたい》を押《お》し付けて、動きを止める。
自分はそもそも何者なのか。つい先ほどライアが言葉にしていたではないか。二百年前に姫君《ひめぎみ》に生まれつき、魔女《まじょ》の力に蝕《むしば》まれて不死者《レヴナント》となり、戦いの中に今までの生を潰してきた本物の化け物だ。それがなぜ、こんなところで甲斐甲斐《かいがい》しく家政婦のようなことをしているのか。
『なんでそんなに、あの子にこだわるの?』
なぜだろう。実のところ、その答えは、自分自身にも、よく分からない。
時計塔《とけいとう》の上でリュカ・エルモントと剣《けん》を交えた、あの夜からだ。彼と初めて言葉をまともに交《か》わしたあの時から、自分自身を見失い始めていたように思う。
彼はジネットを、まるで、自分と同じ年ごろの少女であるかのように扱《あつか》った。
もし彼が何も知らなかったのならば、まだよかった。放浪《ほうろう》した二百年の時間は伊達《だて》ではない。人と同じ姿《すがた》をしたものを人として扱う、その程度《ていど》の優《やさ》しさにならば何度となく触《ふ》れてきた。
けれど彼は、そうではなかった。
ジネットは彼に、全《すべ》てをさらけ出した。躊躇《ちゅうちょ》なく人の命を奪《うば》う悪鬼《あっき》としての姿。呪《のろ》いに呑《の》みこまれ同胞《どうほう》と喰《く》らい合う魔性《ましょう》としての姿。そして――傷《きず》ついて死に瀕《ひん》し、自覚もないままに弱気になっていた、ただの一人の少女としての姿。
こんな危険《きけん》なモノ、受け入れるべきじゃない。理屈《りくつ》で考えればそれが当たり前だ。そして彼の理性《りせい》は、実際《じっさい》にその結論《けつろん》に至《いた》っていたはずなのだ。
なのに、結局、彼はその結論を、受け入れなかった。
それどころか、そのまったく逆《ぎゃく》の結論を、強引《ごういん》に押し通した。
罪《つみ》を背負《せお》った二百年の放浪者を、罪を背負った二百年の放浪者として受け入れ、その上で命を懸《か》けて守ろうとした。いや、守ってくれた。
「…………」
ああ、そうだ。分かっている。
自分は、彼の中に、居場所《いばしょ》を見出《みいだ》してしまったのだ。
長い孤独《こどく》と放浪で疲《つか》れ果てた心を休める場所を見つけてしまったのだ。
だから、惹《ひ》かれてしまう。
そして、甘《あま》えたくなってしまう。
自分自身でも忘《わす》れようとしていた弱い心を、引きずり出されてしまう。
「まいった、な……」
ごつん、ごつん、と壁に何度か額をぶつける。
「…………」
そのうちさすがに額が痛《いた》くなってきたので、やめる。手に持ったままだった雑巾を放《ほう》り出して、壁に背を預《あず》けて、もう何度目になるのかも分からない息を吐《は》く。
どうにも、これは、重症《じゅうしょう》だ。
彼に会いたくて、仕方がない。
そんなふうに考える自分を抑《おさ》えられない。
ああもう。こんな時に限《かぎ》って、アルト老も近くにいない。いつもどうでもいい時に限って近くをうろちょろしているくせに。彼をどつき回せば――いや彼に相談すれば、少しは心が晴れたかもしれなかったのに。
「はぁ」
少し、外の空気を吸《す》ってこよう。
そう決めて首を振《ふ》って、重たい背中を壁から引きはがす。
屋敷《やしき》を出た。
これといった目的もないまま、ふらふらと街を歩いた。
そういえばフェルツヴェンは観光地でもあったなと思い出す。名所の類《たぐい》を巡《めぐ》れば退屈《たいくつ》も紛《まぎ》れるだろうかと思い、あちこちを巡ってみた。パトリック大|聖堂《せいどう》、駅前の市立|劇場《げきじょう》、学術院《ライブラリ》の正門大橋、サリスブール広場の古着市。しかし結局、これといって感動的な体験には恵《めぐ》まれなかった。まぁ、考えてみれば、これは当たり前の話。これまで二百年間も大陸中を放浪して、様々なものを見たり触《ふ》れたりしてきたのだから、その類の感性については少なからず磨耗《まもう》していて当然なのだ。
そもそも、人ごみの中を歩くということ自体がよろしくない。ジネットの容姿《ようし》は目立つ。人の中を歩けばそれだけ多くの目を惹く。人に見られているということは、それだけで、疲れることだ。そんな状況《じょうきょう》で、落ち着いて観光などできるはずもない。
そして、そんなことをしているうちに――日が傾《かたむ》いてきた。
あの時計塔《とけいとう》が、ゆっくりと、夕刻《ゆうこく》の鐘《かね》を鳴らし始める。
エルモント邸《てい》に戻《もど》る道の途中《とちゅう》、小川にかかる橋の上で立ち止まる。
水の香《かお》りが鼻先に心地良《ここちよ》い。欄干《らんかん》に手を置いて、ぼんやりと湖のほうを眺《なが》める。
結局、何をしたということもない一日だった。だというのに、気味の悪い妙《みょう》な疲れが、体の芯《しん》に残った。
昨夜の、アルトの言葉を思い出す。
若《わか》い娘《むすめ》らしく、なにかやりたいことでもないのかと、彼は問いかけてきた。
……そんなもの、あるわけがないのだ。あったとしても、二百年前に失《な》くしてしまった。今さら、思い出せるはずもない。
まったく、あの男も妙なことを言うものだ。
こんな空虚《くうきょ》な、十六歳の小娘などあるものか。
「馬鹿《ばか》馬鹿しい…――」
呟《つぶや》く声が、そのまま冬の風に巻《ま》かれて、消えてしまう。
「――そういう顔も絵になりますね、姫《ひめ》さま」
唐突《とうとつ》に聞こえた、高い声。
うんざりとした気分で、ゆっくりと、振り返る。
小さな、少年の姿《すがた》がそこにある。
見た目の年は十二か十三、ジネットのそれよりもさらに若い。
明るい空色の髪《かみ》に、同じ色の瞳《ひとみ》の色。嫌《いや》みのない、無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》。透《す》けるような白い肌《はだ》と仕立ての良い衣服は、良家の子息を思わせる。
「お久《ひさ》しぶりです。元気にしていましたか?」
元気よくそう問いかけながら、ジネットのすぐそばまで走り寄《よ》ってくると、断《ことわ》りもせずに隣《となり》に並《なら》ぶ。ジネットよりも頭ひとつだけ低いところから、遥《はる》かな湖の光景を仰《あお》ぎ見る。
「へぇ――いい眺めですね」
「……何をしに来た、サリム」
嫌悪《けんお》と緊張《きんちょう》、隠《かく》しようもなく、ジネットの声からにじみでていた。
「何をって、久しぶり会ったのに、ごあいさつだなぁ。用事がないと会いに来ちゃいけないんですか?」
「ふざけるな。さっさと用件《ようけん》を言え」
「恐《こわ》いなあ、もう−」
ふてくされたようにして、サリムと呼ばれたその少年は欄干に背《せ》を預《あず》け、
「ええーと、まずは大願成就《たいがんじょうじゅ》、おめでとうございます。聞きましたよ? ついにレオネル・グラントを殺せたそうじゃないですか」
「……耳が早いな」
「そりゃ、こんな大ニュースですからね。もうぼくたち[#「ぼくたち」に傍点]の間じゃ、その話で持ちきりですよ!」
本当に嬉《うれ》しそうに、サリムは瞳を輝《かがや》がせて、
「特にマルキとかクレマンとか、もう大はしゃぎですよ。お姫さまがこの二百年どれだけ一生|懸命《けんめい》にあいつを追いかけてたのか、ぼくらはよく知ってますからね。それにあいつがいなくなれば、ぼくらのやろうとしていたことだってずっとやりやすくなる」
「後半が本音だな」
「いやだな、もちろん前半もふくめて、全部本当のことですよ。不死者《レヴナント》が嘘《うそ》を吐《つ》けないこと、姫さまだってよく知ってるでしょ?」
当然、よく知っている。自分たちは、書物の代役として生きている存在《そんざい》だ。だから、自発的に嘘を吐くことが一切《いっさい》できない。
けれど、それと、人を騙《だま》すことができるかというのとは、まるで違《ちが》う話だ。
嘘など使わずとも、人は人を騙すことができる。ようは、自分の知っている内容《ないよう》と異《こと》なることを言わなければルール違反《いはん》にはならないのだ。たとえば、積極的に相手の誤解《ごかい》を招《まね》くような話法を使うことには問題がない。それから、自分が正しいと信じてさえいれば、たとえ真実と違うことを口にしていても、それは嘘ということにはならない。
抜《ぬ》け道はいくつでもある。不死者《レヴナント》だから言っていることが信用できるという理屈《りくつ》は、成立しない。
「それで――実は姫《ひめ》さまに、お願いというか、伝えておかないといけないことがあるんですよ」
ほら、来た。
「何だ?」
「これから起こること全《すべ》てに、関《かか》わらないでいてほしいんです」
「……何?」
意味が分からず、問い返した。
「ずっと、レオネルが邪魔《じゃま》だったんですよ。
でも彼はもういない。
だから、ぼくら[#「ぼくら」に傍点]は、ようやく、計画を実行に移《うつ》せるんです」
「何を……言っている?」
「分からなくてもいいんです、ぼくらの邪魔さえしないでいてくれれば」
にっこりと、サリムは、外見に相応《そうおう》の可愛《かわい》らしい笑顔《えがお》を浮《う》かべる。
「ニルスさんはいなくなったし、アルトのお爺さんはあんな体だし、ナディーヌさんはやる気がないし、レオネルのクズ野郎[#「クズ野郎」に傍点]もついに死んだ。もうこの大陸には、単騎《たんき》でずば抜けて強大な不死者《レヴナント》は、姫《ひめ》さましか残っていないんですよ。
だから、姫さまが大人しくしてくれていれば、ぼくらは大きな不確定要素《ふかくていようそ》の心配をせずに、安心して計画を進められるっていう寸法《すんぽう》です」
「だから、何を勝手なことを……いったい何を始めるつもりだと」
「戦争、ですよ」
無邪気《むじゃき》に。
笑顔を浮かべたまま、サリムは、こともなげに言ってのけた。
「知ってますか? 歴史上、人類はこれまで、何度となく強大な大国を作り上げてきたんです。彼らはひとつの政治《せいじ》システムの下《もと》に広大な土地を支配《しはい》し、さらに多くの図を支配下におこうと、そして果てには大陸そのものを手中に収《おさ》めようと、戦いを続けてきた。
けれど、そのどれもが、世界を征服《せいふく》するには至《いた》らなかった。
充分《じゅうぶん》な物資《ぶっし》、充分な兵力を持っていながら、その道の半ばで力|尽《つ》きた。
なぜか。それは、ひとつの国が大きくなれるサイズは、情報《じょうほう》や物資を運ぶことのできる速度によって、構造《こうぞう》的な限界《げんかい》があったからです。国土が広くなればなるほど、中央は辺境《へんきょう》の状況《じょうきょう》を知ることが難《むずか》しくなり、それに対応することもできなくなる。その状態《じょうたい》では、国そのものの維持《いじ》すら難しくなる。
これまでの歴史を見る限り、その時代時代において突出《とっしゅつ》した勢《いきお》いを持っていた大国は、どれも傑出《けっしゅつ》した情報伝達システムを作り上げてきました。早馬。狼煙《のろし》。伝書鳩《でんしょばと》。どれも単純《たんじゅん》で地味なことのように見えますが、その単純で地味なことが、大きな国というものを考えるうえでは、何よりも重要な意味をもつ要素なんですよ」
ならば、とサリムは一度声を下げて、
「いまこの大陸には、鉄道が走っている。早馬や狼煙などよりも速く、確実《かくじつ》に、大量の情報と物資がやりとりできる。そのことの意味は分かりますね?」
意味は、分かる。
が、今この場でその話を持ち出す意図が、分からない。
「大陸を征服したい、とでもいうのか?」
「はい。あ、でも、別にぼくらがそう考えてるってわけじゃないですよ。時代がそうなってきているんだから、当然、そう考える人は出てきている、ということです。
そして、ぼくらは、これから彼らに力を貸《か》すつもりでいる」
――何、を。
「戦争を、起こすのか……?」
「違《ちが》いますよ。わざわざぼくらが手を出さなくても、戦争は起こる。
ぼくらがやるのは、それを利用するところまでです。
で、姫さまには、その戦争にできるだけ関《かか》わらないようにしてほしいんです。不死者《レヴナント》みたいな大戦力、それも姫さまみたいな広域影響《こういきえいきょう》型の芸当を持った人に首を突《つ》っ込《こ》まれたんじゃ、戦況《せんきょう》が計算がやりにくいことこの上ないですからね。どこか静かなところで、のんびりと過《す》ごしてくれればいいなって思うわけですけど……
あ、なんだったら静養先、ぼくらのほうで手配しますよ?」
「ふざ――」
けるな、と放とうとした激昂《げっこう》の言葉は、最後まで言いきれなかった。
サリムは笑っていた。
「まさか……ぼくたち[#「ぼくたち」に傍点]を敵《てさ》に回そうなんて考えてませんよね、姫さま」
その笑顔に、敵意はまるきり感じられない。
信頼《しんらい》の笑顔だった。
「分かってると思いますが、いくら姫さまが強力な不死者《レヴナント》でも、個人[#「個人」に傍点]であることに変わりはないんです。集団[#「集団」に傍点]を相手取って戦おうなんて、ただの自殺|行為《こうい》だ。そんなさびしいこと、絶対《ぜったい》に考えちゃダメです。姫さまがいなくなったらいったいどれだけの仲間が悲しむことか」
「……そんなことは、考えて、いない」
「そうですよね」
うんうん、とサリムは楽しそうに頷《うなず》く。
「ああもう、暗い顔しないで。そんな重たく考えないでもいいじゃないですか。
姫さまだって、これだけ長く生きてきてるんだから、何百何千って人の死を見てきたわけでしょう? その数字が、ちょっと大きく跳《は》ね上がるだけです」
そんな理屈《りくつ》、言い訳《わけ》にも、なりはしない。
「まぁ、こうはいってもですね、実は実際《じっさい》に宣戦布告《せんせんふこく》とか始めるまではまだちょっと時間があるんですよ。色々と準備《じゅんび》もありますしね。だから今日のところは、アイサツまでにってところだったりします。
また近いうちに、今度はマルキたちも一緒《いっしょ》に、改めて挨拶《あいさつ》に来ますね」
少年がひょいと身を躍《おど》らせて、欄干《らんかん》を飛び越《こ》える。ふわりと上着の裾《すそ》が風に持ち上がり、小さな体躯《たいく》がそのまま、眼下の小川の上へと落ちてゆく。
「踏んずけろ[#「踏んずけろ」に傍点]」
たん、と小さな足音。
穏《おだ》やかな水面の上[#「上」に傍点]にこともなげに降《お》り立ち、それを踏《ふ》みしめながら、サリムは変わらない笑顔《えがお》を浮《う》かべたままジネットを仰《あお》ぎ見て、
「じゃあ、失礼します。お元気で!」
くるりと背《せ》を向けて、そのまま走り去ってゆく。
その背中が消えた彼方《かなた》を見やったまま、ジネットは立ち尽《つ》くしている。
その耳に届《とど》くのは、さらさらと流れる水の音だけだった。
2.
ロジェ・ヴィルトールの失踪[#「失踪」に傍点]は、もちろんフェルツヴェン学術院《ライブラリ》にとっての大きな痛手《いたで》だった。
彼は学術院《ライブラリ》を支《ささ》える大きな柱のひとつだった。そして、容易《ようい》に他の人材で代替《だいたい》できないだけの能力《りょうりょく》の持ち主だった。その柱が急に折れてしまえば、もちろんその分のしわ寄《よ》せは残りの柱に降《ふ》りかかってくる。
山と積まれた書類の束。
うじゃうじゃと文字がひしめく予定表。
「――いや無理だから、これ物理的に絶対|不可能《ふかのう》だからーっ!」
そんなことを泣きわめきながら、アルベールは仕事の山に埋《うず》もれてゆく。
「いい天気ねぇ……」
北|校舎《こうしゃ》の最上階、廊下《ろうか》の窓《まど》から空を見上げて、ライアは呟《つぶや》いた。
透明《とうめい》感のある、青と白とのグラデーション。
こういう空を見上げているのは、何というか、実に気分がいい。
狭《せま》い部屋に閉《と》じ込められて大量の仕事と格闘《かく》させられる誰《だれ》かさんのことを考えると、さらに優しい気分になれそうだった。彼にはがんばってほしいと、心の底から思う。できれば、下の人間に面倒事《めんどうごと》が回らない程度《ていど》に激《はげ》しく奮闘《ふんとう》してくれればいいなとか。
「こういう日は、何も起こらず平和に過《す》ぎてくれればいいんだけどねぇ」
「無理……」
じめじめとした低い声が背後《はいご》からかけられて、びくりと一度|背筋《せすじ》が震《ふる》える。
振《ふ》り返り、そこに立つ人影《ひとかげ》を認《みと》める。
その人影は、黒かった。
長身のライアよりもさらに頭半分ほど背が高い。一切《いっさい》の飾《かざ》りのない黒い長衣《ローブ》に、顔の半ば以上を隠《かく》すまでに伸《の》ばしたぼさぼさの黒髪《くろかみ》。その髪の隙間《すきま》から、妙《みょう》に赤くぬらりとした唇《くちびる》だけが覗《のぞ》いているのが見える。
「久《ひさ》し振《ぶ》り」
ライアは小さく安堵《あんど》の息を吐《つ》いて、
「相変わらず心臓《しんぞう》に悪い人ね、ヴァランタン」
「……慣《な》れて、ください」
「嫌《いや》よ」
「…………」
しばしの沈黙《ちんもく》の後に、
「困《こま》りました」
かくん、とヴァランタンは小さく首をかしげた。
「どう、しましょう?」
「どうでもいいわよそんなの。それより」
改めてヴァランタンに向き直り、窓枠《まどわく》に背を預《あず》ける。
「そういや聞いたわよ。先月の、レオネルの一件《いっけん》。災難《さいなん》だったわね」
「……はい」
こくん、と首が素直《すなお》に縦《たて》に振《ふ》られる。
「戦うなって、言われました」
「ま、そりゃそうよね」
「でも、止めに行きたかった、です」
「何言ってるの。そもそも戦いにならないでしょうが、あなたの『|流水の緋鞘《フルビスール》』単体じゃ」
「それでも」
その一瞬《いっしゅん》、低い声がほんの少しだけ昂《たかぶ》って、
「……それでも、じっとしてるの、辛《つら》かった……です」
だろうな、と思う。
この奇人《きじん》――学術院《ライブラリ》第六書庫に所属《しょぞく》し魔書《ましょ》『|流水の緋鞘《フルビスール》』を所有するヴァランタン・レアンダールは、そういう人間だ。
人と接《せっ》することを苦手とし、いつも書庫の奥深《おくふか》くに引きこもっていてほとんど人前には出てこない。けれどそれにもかかわらず、自分の知る範囲《はんい》にいる誰かが傷《きず》つくことを、極端に嫌《いや》がる。
同僚《どうりょう》である自分は、そのことをよく知っている。
「でも、だから貴方《あなた》は、まだ生きている。次の機会には、今度こそ、確実《かくじつ》にもっと大勢《おおぜい》の人を助けられる。……良かったじゃない」
痛《いた》みを和《やわ》らげるだけの詭弁《きべん》を、口にする。
「よくない、です、全然」
「いいから、ここは騙《だま》されたと思って、良かったと思いこんどきなさい。 そうでなくてもへコむことの多いこの業界、ふだんから前向きに考えるクセつけとかないと、いざって時に気がついたら後ろ向きな考えしか浮《う》かばないようになるわよ?」
「……はい……」
こくん。首が縦に揺《ゆ》れる。
「素直でよろしい――まぁ心配しなくても、あんなこと、もう繰《く》り返させないわよ」
少しだけ力をこめて、そう、断言《だんげん》する。
きっかけは、一人の不死者《レヴナント》――|魔法書の代役《バーント・グリモア》の死だった。
その|魔法書の代役《バーント・グリモア》は強大な力を持っていた。そしてその力は、使い方によっては容易《ようい》に一国を脅《おびや》かすことのできるものだった。
人間だろうと動物だろうと植物だろうと、あるいは生命を持たない器物の類であろうと、苦もなく自らの下僕《けぼく》と化す。下僕となったそれらは、ありとあらゆる障害を無視して[#「ありとあらゆる障害を無視して」に傍点]、主《あるじ》の命を忠実《ちゅうじつ》に遂行《すいこう》する。
彼の名前は、レオネル・グラント。
そして、彼の内に宿った魔法書の名は、『|鉛人形の王《アンペルール》』。文字通り、万物《ばんぶつ》を統《す》べる皇帝《アンペルール》となる者の力。
彼はペルセリオ王国に――王城《パレス》に身を寄《よ》せていた。組織《そしき》の一員としてそこに所属するのではなく、また支配者《しはいしゃ》として上に君臨《くんりん》するのでもなく、ただその場所にいた。そしてそのことが、強く王城《パレス》を守っていた。彼の不興《ふきょう》を買え、そのままあっさりとこちらが壊滅《かいめつ》させられてしまうかもしれない……そのリスクが、決して強大な軍事力を持っていたわけではない王城《パレス》を、長く守っていた。彼というたったひとつの存在が、強大な抑止力《よくしりょく》となって、大陸西部の平和を維持《いじ》していた。
しかし、彼は死んだ。
そう容易には死なない不死者《レヴナント》であるはずの彼は、今から一月ほど前に、このフェルツヴェンの地で、その長かった生涯《しょうがい》を終えた。そしてその報《ほう》は、隠《かく》そうにも隠しようがなく、矢のような速度で大陸中に広がっていった。
抑止力が失われれば――戦争が、起こる。
それを押《お》しとどめられないだけの大きな戦力差が、大陸西部の各国の間には、ある。
フェルツヴェンは、小国だ。
国土は狭《せま》いし、人口だってたかが知れている。
軍事力がどうこうというレベルの問題ではない。それよりも前の段階《だんかい》、戦争という状況《じょうきょう》に耐《た》えられるだけの基礎的な国力が、ない。
周りの大国の間で戦争が始まってしまえば、そのあおりをまともに受ける。
だから今、アルベールは、必死になって考えている。
あの狭い部屋の中で、「無理だよう辞《や》めたいよう」と泣きごとを触きながら、しくしく痛《いた》む胃《い》の辺りを押《お》さえて、少しでも長くフェルツヴェンを生き残らせることのできる一手を探《さが》している。
そしてその果てに見つかる答えを、それがどのような手であったとしても[#「それがどのような手であったとしても」に傍点]、迷《まよ》うことなく採《と》るだろう。
十の被害《ひがい》を食い止めるために、一の犠牲《ぎせい》を受け入れる。
そこに抵抗《ていこう》はあっても、迷いはない。迷えばそれだけ、払わなければならない犠牲は大きくなっていくからだ。あまり躊躇《ちゅうちょ》が長く続けば、やがて、十の犠牲を払ってすら百の被害を止められないような事態《じたい》に陥《おちい》るはめになる。
だから、彼はきっと、彼女[#「彼女」に傍点]のことを考えている。
今この状況にあって、もっとも効率《こうりつ》的に、意味のある形で彼女[#「彼女」に傍点]を利用[#「利用」に傍点]する方法を、探しているー――
「恐《こわ》い顔」
ヴァランタンの声を聞いて、ライアは我《われ》に返る。
「ごめん、怖いこと考えてた」
肩《かた》をすくめて、
「……状況がこうなると、ペルセリオがどう動くつもりなのか知りたくなるわね。
まいったなぁ……なんでこんなややこしい時にいなくなってるのかしら、院長|補佐《ほさ》。せっかく内通してたんなら、こういう時にくらい役立ってくれればいいのに」
「……無茶、言ってる」
「このくらい言わせてよ、状況のほうがよっぽど無茶苦茶なんだから」
そう言って、前髪《まえがみ》をくしゃりとかきあげた。
「戦争、始まります、か?」
「どうかしらね。もしかしたら、とっくの昔に始まってたのかもしれないわよ?」
「え……?」
「ん、なんでもない、こっちの独《ひと》り言《ごと》」
あいまいな笑顔《えがお》で、ごまかした。
「……そうですか?」
「そうそう」
人類の歴史の中で、戦争が本当の意味で終わった≠アとなど、一度もない。ライアはそう考えている。ひとつひとつの衝突《しょうとつ》が落ち着くことはあっても、それはあくまで、戦いという行為《こうい》をその場しのぎの先送りにしているだけのこと。やがて必ず、先送りになっていた戦争は再開[#「再開」に傍点]する。戦う相手とか、理由とか、方法とか、そういうのは変化していくだろうけれど、何らかの形で戦いは引きずられ続ける。
近年、この大陸西部は、何十年という長きにわたって平和だった。
しかしそれは、それぞれの国の立場から見れば、下手に隣国《りんごく》に攻《せ》め込《こ》むよりも内政《ないせい》に力を入れたほうが長期的に有利だったからという、戦略《せんりゃく》の一環《いっかん》だったのかもしれない。つまり、とても長大な戦争の中の一場面として、たまたまそういう作戦をとっていた時期があったというだけのことかもしれない……
けれど、そんなことを考えているのだと、このヴァランタンの前でバカ正直に語るつもりは毛頭《もうとう》なかった。
「始まんないといいわね、戦争」
代わりにそんな、心にもないことを言う。
ヴァランタンはそれを疑《うたが》いもせず、そのまま言葉どおりに受け取ったようだった。赤い唇《くちびる》をゆがめてぬたりと湿《しめ》った笑顔を浮かべて、
「……はい……」
がくん、と大きく首を縦《たて》に振る。
これでいい、とライアは思う。
せっかくのこの青空の下で、そうでなくても陽気とはいいがたいヴァランタンの、さらにネガティブに落ち込んだ姿《すがた》など見たくはない。まるで幼《おさな》い少年のような素直さで人の言葉を聞くこの男には、せめて明るく笑っていてほしいと思う。
たとえ、それが、根拠《こんきょ》のない嘘《うそ》に騙《だま》されての笑顔であったとしても。
3.
ジネットはエルモント邸《てい》に割《わ》り当てられた自室のベッドの上に寝転《ねころ》がり、ぼんやりと天井《てんじょう》を眺《なが》めていた。
「……戦争……か……」
その言葉に触《ふ》れたのは、これが初めてではなかった。
むしろ、馴染《なじ》みの深い言葉だと言ったほうがいい。この大陸西部が今のように平穏《へいおん》な状態になったのは、せいぜいここ五十年ほどのことだ。これまでの二百二十九年の人生の中、その大半の時代は、どこかの国と国が争っているその隙間を縫《ぬ》うようにして生きてきた。
けれど、なぜか、その言葉が遠く感じられる。
「…………」
悩《なや》むことなど、何もない。
どことどこが争おうと、誰《だれ》と誰が傷つけ合おうと、関係のない話だからだ。
レオネルは死んだ。だから自分はフィオルを追い、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》」を見つける。そのことだけを考える。それ以外のことは考えない。
だから、もちろん、サリムたち――不死者《レヴナント》の集団《しゅうだん》である古木の庭≠敵《てき》に回すことなど、ありうるはずもない。それが本来の自分が下すべき判断だ。そして、先日までの自分ならば迷いなく選べたはずの道だ。
けれど、今の自分には、小さな迷いがある。
「……君ならどうしただろうな、リュカ……」
ぼんやりと、呟《つぶや》く。
リュカ・エルモントは、今、ジネットの隣にはいない。だから答えは返らない。
ぐうぅぅぅ。
遠慮《えんりょ》も情緒《じょうちょ》もない大きな音が鳴った。
「…………」
人が人として生きている限り、どうやっても逃《のが》れられない宿命というものがある。
そのうちの一つが空腹《くうふく》だ。胃袋《いぶくろ》というものは実に強情《ごうじょう》にできていて、そんな気分ではないからといくら頭が主張《しゅちょう》しても、頑《がん》として言うことを聞こうとしない。時間が経《た》って腹《はら》が減《へ》れば、ぐうぐうと遠慮《えんりょ》も何もなしに騒《さわ》ぎ始める。
しかし、いくらなんでも、このタイミングで、それはないだろうと思う。
「……はぁ」
我慢《がまん》というものを知らない自分の体が情《なさ》けない。
しかし、ここで絶食《ぜっしょく》を始めたところで何の解決《かいけつ》にもならないこともまた事実だ。仕方がないので、なにか適当《てきとう》なものを腹に収《おさ》めようと思う。台所に何もないのは朝の段階で既《すで》に分かっていた。ならば外に出て何かを探さなければならないだろう。といってもこの時間では市場も終わっているだろう。手近なところに、よさそうな軽食店か酒場があれば良いのだが。
そんなことを考えながら部屋を出て、廊下《ろうか》を歩いて玄関《げんかん》の扉《とびら》を押しあけて、
ごん。
いい音がした。
扉が景気よく誰かの額《ひたい》ぶつかったような、そんな音だった。
「……ん?」
陰《かけ》を覗《のぞ》きこむ。そこに、長い栗毛《くりげ》の少女が額を押さえてうずくまっている。
どこかで見た少女だと思った。
「君は……」
そうだ。自分は以前、この場所で、リュカを見舞《みま》いに来たこの子とはち合わせしたことがあった。あれだけやんちゃな性格をしているくせに、随分《ずいぶん》と可愛《かわい》い恋人《こいびと》がいるのだなと感心した記憶《きおく》がある。
あの時に聞いた名前は、確《たし》か、
「アリス……だったか?」
「あ」
少女が顔を上げて、こちらの姿《すがた》を認《みと》める。
「すまない、人がいるとは思わなかった。立てるか?」
ジネットが手を差し伸《の》べると、少女の視線《しせん》がその手とこちらの顔とを何度か往復し、それからおっかなびっくりに手を重ねてきた。
「えっと……はい、大丈夫《だいじょうぶ》、です、けど」
アリスを立ちあがらせる。ジネットはかなり小柄《こがち》なほうだったが、並《なら》んでみるとほとんど身長が変わらなかった。
先日に見た、学術院《ライブラリ》の庭での決闘《デュエル》の光景を思い出す。アルベールいわく、あの戦いは、彼の大切なお姫様《ひめさま》を守るためのものだとのこと。すると、この娘《むすめ》がつまり、その、彼が守っていたという『お姫様』だろうか?
「……すまないな」
「え?」
「リュカは、いない。その……彼に用、なのだろう?」
うまく言葉が出てこない。
とぎれとぎれに、弁解《べんかい》の言葉を吐き出す。
「彼は、ええと、しばらく帰ってこられなくて……」
「あ、はい、知ってます」
が、ジネットの苦労も知らず、アリスはあっさりとそんなことを言う。
「アルベールさんに聞きました。母方の親戚《しんせき》が大変なことになって、大急ぎでドースに呼び出されたんですよね?」
「ぬ?」
「違《ちが》うんですか?」
「い、いや、その……むぅ」
不死者《レヴナント》は嘘《うそ》を吐《つ》けない。だから、何と答えを返すこともできず、ぼやかしながら黙《だま》りこむしかない。
「大急ぎっていうんだから仕方なかったのかもしれませんけど、それならそれで、なにか一言くらい言ってから行ってほしかったですよ。ねぇ?」
「あ、いや」
ねぇ、と同意を求められても、困《こま》る。
「例えばあれですよ、ほら、『いつか帰ってきたその時には、君に伝えたい言葉があるんだ……』.とか、そんな感じの言葉が欲《ほ》しかったわけですよ。そんなこと言われたらもう、全身|全霊《ぜんれい》の力を惜《お》しみなく注ぎ込んで待っちゃいますよ。国の歴史に残っちゃうくらいに最高の待ちっぷりを披露《ひろう》しちゃうところですよ。うん」
うん、と一人|頷《うなず》かれても、やっぱり困る。
「……君は……」
「はい」
「それで、いいのか?」
「はい?」
何を聞かれているのか分からない、そんな顔でアリスが首をかしげる。
「どういう、意味です?」
「そんな言葉で、推断できるのか? 君は……リュカの、その……」
少し口ごもってから、
「恋人、なのだろう?」
そうやって、一番言い辛《づら》かった一言を声にしてしまったことで、堰《せき》が壊《こわ》れた。決して使ってはいけないはずの言葉が、抑《おさ》えきれず、次々に飛び出してくる。
「恋人ならばなぜ、彼に執着《しゅうちゃく》しない? なぜその説明を受け入れる? なぜ、彼の行方《ゆくえ》について――彼の現在《げんざい》について、追及《ついきゅう》しない?」
ぴくり、とアリスの肩《かた》が揺《ゆ》れた。
「んー、やっぱりそう思われてましたか……そうなんじゃないかとは思ってましたけど」
「何の話だ?」
「こっちの話、です。解《と》かなきゃいけなそうな誤解《ごかい》が色々あって、正直どこから手をつけたもんかって感じなんですが」
アリスは自分の唇《くちびる》の近くに人差し指をあて、軽く眉《まゆ》を寄せて、
「少し、歩きませんか?」
そんなことを、提案《ていあん》してきた。
満天の星空の下、二人で肩《かた》を並べて歩いている。
太陽はとうに沈《しず》んでしまっているが、それでもまだ夜の浅い時間帯だ。通りにはちらほらと人の姿が見えている。
「そういえば、体のほうは大丈夫ですか?」
「は?」
「先々週、ほら、すごいケガしてたじゃないですか」
「………」
言葉に困る。
「なぜ、それを?」
「手当てをしたのわたしですから。夜中にいきなり、リュカさんに呼びつけられて」
「…………」
初耳だった。
頭の中に、リュカとアルトの能天気《のうてんき》な顔が、ぽん、と並んで浮かんできた。ああもう、まったく。あの男どもは、なぜそういう重要なことを黙っているのだ。
「それは、なんというか、世話になったな……」
「いえ、それはいいんですけど、ケガの方は?」
もちろん傷など、とうの昔に癒《い》えている。
|魔法書の代役《バーント・グリモア》、あるいは不死者《レヴナント》と呼ばれる者たちは、書物として長い時間を在《あ》り続けることを強制《きょうせい》された存在《そんざい》だ。並の外傷であれば体内に溜《た》まった|夜の軟泥《ワルプルギス》によって復元《ふくげん》され、ほんの数時間で跡形《あとかた》もなくなってしまう。
もちろん例外はある。例えば、魔法や刻印《ブランディング》を施《ほどこ》された武器《ぶき》によってつけられた傷は、|夜の軟泥《ワルプルギス》の動きが阻害《そがい》されるため、比較的《ひかくてき》治《なお》りが遅《おそ》くなる。が、それでも、よほどの傷でなければ一週間もあれば完治するだろう。
そして、自分が重傷に苦しんでいたあの夜からは、もう二週間も経《た》っているのだ。
「痛みも引いたし、動きまわるのに何の問題もない」
「なら、いいんですけど」
アリスは小さく息を吐いて、
「あまり無理はしないでくださいね。そんなに深い傷はありませんでしたけど、ケガはケガです。治りかけで無茶して悪化させるようなことになったら、大変です」
「ありがとう。だが心配は無用だ――」
ジネットは気付く。アリスの視線《しせん》が、わずかに揺《ゆ》れている。
こちらの顔を見ようとして、けれどうまく直視できずにいる。
何かを言おうとして言い出せずにいる。もしくは、何かを尋《たず》ねようとして尋ねられずにいる。そういう顔だと、ジネットは思った。
「リュカから聞いているか、私のあの傷の理由は」
「いいえ?」
「訳《わけ》も聞かずに手当てしたのか」
「それは、まぁ。聞かないでくれー、ってリュカさんに頼《たの》まれましたし」
おとがいに指先をあてて、やはりわずかに目を泳がせたまま、アリスは答えた。
「……それだけで、本当に何も聞かないのか?」
「それはもう、当然ですよ。リュカさんの頼みを断《ことわ》るなんてこと、このわたしに出来るはずなどないのです」
いったいなにがそれほどまでに誇《ほこ》らしいというのか、えへん、とわざわざ胸《むね》をそらせてアリスはそんなことを宣言《せんげん》する。
本当に自分たちの会話は噛《か》み合っているのだろうか。そんな不安が、ちらりとジネットの脳裏《のうり》をかすめる。
「あ、でも、それと別のことを聞きたいんですけど、いいですか?」
「内容《ないよう》によるが……」
「そんな難《むずか》しいことじゃないんですけど、ええと……」
なにかを思い出そうとでもいうように、わずかに眉《まゆ》をひそめて、
「たしか、そう、フィオルさんという方、お知り合いじゃありませんか?」
「なっ……」
思いもよらない言葉に、ジネットの頭の中が真っ白になった。
その思考の空隙《くうげき》に、
「おお、そこにいるのはジネット姫ではないか!」
飛び込《こ》んできたその声が、完全な不意打ちを決めた。
びくりと、ジネットの背筋《せすじ》が大きく震《ふる》える。
やや濁《にご》ってはいたが、おそらくは十代半ばの少年のものであろう若《わか》い声。敵意《てきい》のようなものはなく、どちらかというと馴《な》れ馴れしさを感じるイントネーションではあったが、肝心《かんじん》のジネット本人にはまるで聞き覚えのない声だった。
誰《だれ》だ。目的は何だ。
なぜこんな場所で、こんな大声で名前を呼ぶ。
敵かもしれない。ならば、戦いになるかもしれない。そうなったとしても、アリスを巻《ま》きこむわけにはいかない。いつでもアリスを突き飛ばし戦いに応《おう》じられるようにと、わずかに重心を落としながら振り返ろうとする、ちょうどその瞬間《しゅんかん》に、
「もうっ! やめてください、その呼び方!」
……なぜか、そのアリスが、そんなことを言い出した。
「わはは、照れるな照れるな、それだけ素晴《すば》らしい舞台《ぶたい》だったということだ」
会話が、成立している。
――え?
頭の中を疑問符《ぎもんふ》でいっぱいにしながら、ぎぎぎと首をきしませ、振り返る。随分《ずいぶん》と筋骨《きんこつ》たくましい大柄な少年が、だらしなく相好《そうごう》を崩《くず》して、すたすたと夜の街を歩いて近づいてくるのが見える。
「褒《ほ》められるのは嬉《うれ》しいですけど、それとこれとはまったくの別です! だいたい街中でそんな呼ばれ方したら、恥《は》ずかしいじゃないですか!」
「なに、恥じ入ることなど、何ひとつない! たとえどのような美女の名を冠《かん》することになろうと、君にはその名に負けないだけの可憐《かれん》さがあるからな!」
にっかりと、暑苦しい笑顔を浮かべる。
「だ、だだだ、だからぁぁっ!」
わたわたと両手を振り回して、アリスが慌《あわ》てている。
「姫とかそういうのやめてください、本当の本当に、困りますから!」
「だから、何も困ることなどないだろうと……」
「うわぁぁんっ!?」
そろそろ限界《げんかい》なのか、アリスがなにやら錯乱《さくらん》の悲鳴をあげ始めたところで、
「駄目《だめ》だよ、ほら」
横から出てきた別の人間の手が、少年の耳を力いっぱいに引っ張った。
「いだだっ!?」
「先月の決闘《デュエル》のこと、忘《わす》れかのかい? 君はもう、アリスさんのことは諦《あきら》めなきゃいけないんだろ?」
「は、放せフロリアン、これはあれだ、なんというか、甘酸《あまず》っぱい思い出は別腹だと昔から言うわけで、だから問題はないとかいう話がって痛《いた》い痛い痛い!」.
「ロマンがあって素敵《すてき》な言い訳だけど、君の口から言われてもね」
闖入者《ちんにゅうしゃ》は、やはり同年代の少年だった。
人懐《ひとなつ》っこさを感じさせる整った顔立ちに、穏《おだ》やかな苦笑《くしょう》を浮かべている。
「ごめん、アリスさん。連れが迷惑《めいわく》かけたね」
「あ、いえ、それはいいんですけど……おはようございます、フロリアンさん、それに、ええと、ドミトリィさんでしたっけ?」
「おお……おお、名前を覚えていてくれたか!」
ぽんぽんぽんと言葉が飛び交《か》う。
ジネットは、ぽかんと呆《ほう》けたようになって、三人の会話を眺《なが》めている。
「じゃ、僕《ぼく》らはここで失礼するよ。また今度、学術院《がっこう》でね」
「だああ待てこらフロリアン、オレからこの至福《しふく》の時を取り上げないでくれぇぇ!」
「駄目に決まってるだろ。君は、それと僕もだけど、決闘《デュエル》に負けたんだ。
騎士《きし》に選ばれなかった名もない民草《たみくさ》にできることは、姫君に憧《あこが》れ、思いを募《つの》らせるところまでさ。それ以上は、たった一人だけ選ばれた真の騎士だけの役得だ」
「ええい、オレの前でそんな気障《きざ》っぽいポエムをかますんじゃない!」
「はいはい、気障でもなんでもいいからさっさと晩御飯《ばんごはん》に行こう、もう腹《はら》が減《へ》って腹が減って倒《たお》れそうなんだよ僕は」
「こら待て、放せ、痛い痛い、耳をつかむな、ちぎれる、やぶれる、やめ、ひぎいっ」
騒々《そうぞう》しく騒《さわ》ぎたてながら、ともかく二人の少年は立ち去った。
その背中《せなか》が見えなくなるところまで見送ってから、
「……あは、は……」
ひきつった笑顔で、アリスは改めてこちらに向き直り、
「すみません、なんていうか、こう、騒々しくて……」
「いや、それは別にいいが」
わずかに目を逸《そ》らし、尋ねてみる。
「今の、ジネット姫=Aというのは?」
「う」
アリスが固まる。
「……先日、学術院《ライブラリ》の創立寮《そうりつきい》で、劇《げき》をやったんです。 えーと、有名な演目《えんもく》だから、ご存《ぞん》じかもしれませんけど。古シュテーブルの戯曲《ぎきょく》で、『ジネット』っていう名前で、お姫さまと騎士のお話で……」
ぐらり、と視界が懐けた。
このまま気を失ってしまうのではないかと思えるほどの、強烈《きょうれつ》な目眩《めまい》だった。
「……知っている」
うめくように、答える。
「本当に、とてもよく、知っている」
「なら話が早いですね」
楽しそうにそう言って、アリスは説明した。いわく、その『ジネット』のヒロインの役柄で、自分が舞台《ぶたい》に上ったこと。身に余《あま》る大役で、それはつぶれてしまいそうな重責《じゅうせき》ではあったけれど、なんとか最後までやりとげられたこと。
「その舞台を見てくれた人が、ときどき、ああいうふうにわたしのこと役柄で呼んでからかうんです。ものすごく恥ずかしいんですけど、なかなかやめてもらえなくて」
「そ、そうか……」
なんだろう。
とても言葉では説明のできない居心地《いごこち》の悪さが、ここにある。
「自分では、似合《にあ》いの役だったとは、ぜんぜん思えないんですよ。
だって、ジネット姫ですよ? 国中に愛された伝説のお姫さまですよ? 全国の少年少女が一度は恋《こい》するヒロイン中のヒロイン、いわばエンペラー・オブ・ヒロインズですよ? このアリス・マルカーンごときがどう背伸《せの》びしたところで、とてもとても釣《つ》り合うはずがないじゃないですかー」
ジネットの顔が、ひくひくと激《はげ》しくひきつる。
何とも答えられない。
しばらくそうしていると、アリスは不満げな顔になり、
「……今のエンペラーってとこ、つっこんでほしかったんですけど」
「え? え、あ……すまない、何だって?」
「いいです、聞かなかったことにしてください」
わずかに頬《ほお》をふくらませて、そっぽを向く。
「とにかく、『ジネット』のことは、この際《さい》どうでもいいんです」
どうでもいいのか。
いや確《たし》かに、どうでもいいといえば、どうでもいい。決して、他の話を押し退《の》けてまで深く掘《ほ》り下げなければならない類《たぐい》の話題ではない。
はぁと息を吐《は》いて、頭の中に渦巻《うずま》いている当惑《とうわく》をすべて追い出した。
「そんなことより、さっきの話です。ええと、どこまで話しましたっけ」
「……どこまで話したものだったかな」
すっかり話のテンポが狂《くる》ってしまっている。少し考えて頭の中の時間を巻き戻し、
「そうだ……アリス。なぜ君が、フィオルの名前を知っている?」
「もちろん、リュカさんから聞きました」
そうですそんな話してたんでした、とアリスは一度大きくうなずいて、
「それで、どうなんですか?」
「……フィオルは、私の姉だ」
「姉……」
アリスは小さくうつむいて、
「どんな人、でしたか?」
「……なぜ、そんなことを聞く?」
と、そう尋《たず》ねてから、不意に笑いが込み上げてくる。
立ち止まって、くつくつとその笑いの波を噛《か》み殺してから、
「先ほどから、どうにも互《たが》いに質問《しつもん》してばかりだな、私たちは」
「……たしかに、言われてみれば……」
三歩ほど先で同じく立ち止まったアリスが、振り返って首をかしげる。
「仕方がない、ひとつずつ片付《かたづ》けていくか……まずは、フィオルがどんな人間だったか、だな?」
「あ、はい」
「簡単《かんたん》に言えば……そうだな、優《やさ》しい人だった」
その評価《ひょうか》は、とても自然に出てきた。
「優しい……、ですか」
「ああ。それから、とんでもなく賢《かしこ》くもあった」
ジネットは、また、歩き出す。
アリスの傍《そば》を通り過《す》ぎる。それから何歩分か遅《おく》れて、アリスもまた歩き出す。
「賢い、ですか」
「それも、不幸な方向の賢さだった。人というものは、それぞれにほどよく愚《おろ》かなほうが幸福になれるものだ。だがフィオルにはその愚かさがなかった。
彼女は、他の人間の話を聞いて、その人間のことを理解《りかい》してやることができた。
けれど、他の人間は、彼女の話を聞いても、彼女のことを理解してやることができなかった。だから誰も、彼女が何を考えているのかを理解できなかった。
理解できないものの傍にいたいなどという人間は少ない。彼女はいつも、どうしようもなく孤独《こどく》だった」
アリスは何も言わず、ジネットの数歩後ろについて歩いている。
「なのに、彼女はいつも、笑っていた。
黙って澄《す》ましていれば高貴《こうき》で通る顔立ちをしていたくせに、笑うと全《すべ》てが台無しだった。威厳《いげん》のまるでない、まるでマシュマロのような笑い顔でな。
――私は、彼女のあの笑顔が、大好きだった」
星空を、見上げた。
ほんの少しだけ、星の光が、ぼやけて見えていた。
「人に甘《あま》えるのが、大好きな人だった。
なのに、周りに、甘えられる相手が、ほとんどいなかった。
それでも人前では寂《さび》しい顔など浮《う》かべることがなくて。だからなかなか、本当の気持ちを周りの人間に理解させられなくて。
……たぶん、リュカが彼女のことを放《ほお》っておけなかったのは、その辺りが原因《げんいん》だったのだろうな」
「それは、何というか、とてもリュカさんらしい話ですね」
アリスの嘆息《たんそく》が、聞こえた。
「なんでまた、リュカさんの周りには、それ系《けい》の美人が多いんでしょうね」
「多いのか?」
「少なくとも、今わたしの目の前を、二人目が歩いています」
「…………」
それは、やはり、この自分のことを指しているのだろう、つまり。
「よく分からんな。今話したフィオルと、この私との間に、そう簡単にくくってしまえるような共通点があるとは思えないが」
「まぁ、本人がそう言うのならば、そういうことでも、いいんですけども」
いつの間にかすぐ隣にやってきていたアリスが、強気に鼻をふんと鳴らす。
「……君は……」
「はい?」
「君は、何を考えている、アリス?」
「何と言われましても」
「何故《なぜ》そんなに――」
言葉を探す。そして、自分の中にあった違和《いわ》感をすべて説明できる一言を見つける。
「全てを諦めたような表情をしている[#「全てを諦めたような表情をしている」に傍点]?」
アリスは小さく領《うなす》いて、
「なんだ。ちゃんと、分かってるじゃないですか」
「何の話だ。私には君が理解《りかい》できない。
君には何も知らされていないのだろう? ならば君には、リュカのことを諦《あきら》めなければならないような理由は何もないはず。そうではないのか?」
「ううーんと、その辺りを話そうとすると、長い話になってしまうんですが……」
アリスが、また立ち止まる。
「まず、わたしは、リュカさんの恋人《こいびと》じゃ、ありません」
声が変わっていた。
それは、聞いているほうが思わずぞっとするほどに冷たく、そして寂しい声だった。
「恋人になんて、なれなかった。
……ううん、違う。恋人になろうなんて願いそのものを――結局、最後まで、持てなかった」
泣き出しそうな声で、アリスは笑った。
笑顔を浮かべたままで、アリスは泣いた。
丸い大きな黒瞳《こくどう》が、どこかどこか寂《さみ》しく、小さく揺《ゆ》れている。
どこか姉様《フィオル》に似《に》ている笑い方だ――
そう、思った。
[#改ページ]
▼promnade
それは、遠い昔の出来事。
奇妙《きみょう》な夢をみた、と思う。
断言《だんげん》できないのは、よく覚えていないからだ。
そもそも夢というものは、記憶に繋《つな》ぎ留《と》めておくのが難《むずか》しいものだ。眠《ねむ》っている間には鮮明《せんめい》に見えていた何もかもは、朝が来てまぶたを開いたその瞬間《しゅんかん》から、ぽろぽろと形を失い光に溶《と》けていってしまう。
だからその時には、それを異変《いへん》だとは感じなかった。
目覚めてからずっと頭の内に残った奇妙な違和感《いわかん》を、「風邪《かぜ》でもひいたのかもしれない」というありがちな一言で片付《かたづ》けた。医者に処方《しょほう》させた薬を薄《うす》めた葡萄酒《ぶどうしゅ》で飲み下して、それで終わり。それきり夢のことなどきれいに忘《わす》れて、その日を平和に過《す》ごした。
奇妙な夢をみた、と思う。
やはり記憶は定かではなかった。何がどんな風に奇妙だったのかも思い出せない。だから誰かにそれを説明することもできない。それどころか、自分自身の中で、その夢を咀嚼《そしゃく》して何らかの結論《けつろん》を得ようとすることすらできない。
本で読んだことがある――いわく、夢はその人自身を映《うつ》し出す鏡《かがみ》なのだそうだ。本人すら気付かずにいるうちに心の内に積もった希望や不安といったものを、夢は全て暴《あば》き出す。そしてその向こうには、その人がこれから歩むであろう未来すら透《す》けてみえるのだという。
自分がみたあの奇妙な夢からは、果たしてどんな結論が導《みちび》けたのだろうか?
さすがに、覚えていない夢を分析《ぶんせき》の俎上《そじょう》に載せることはできない。もったいないことをしたなぁと思う。そして、次にああいう夢をみたときには、その内容《ないよう》をちゃんと覚えて忘れないようにしようと心に決めた。
ずしん、と頭の芯《しん》に重たいものがわだかまっていた。「やっぱり風邪《かぜ》かな」と思い、少し多めの薬をもらってきた。暖かくして、早めに布団《ふとん》に入った。
奇妙な夢をみた――
同じことが三日続くと、さすがに少しは首をかしげる。
いったいこれはどういうことだろうと、気になり始める。
重たい頭をひきずるようにして、寝床《ねどこ》から這《は》い出した。足もとがうまく定まらず、何度か壁《かべ》に倒《たお》れ掛《か》かりながら、書庫へと向かった。手近にいた侍女《じじょ》に目当ての本を探《さが》し出してもらい、ぺらりぺらりとページをめくる。
夢とはいったいどういうものなのか?
自分のみているあの夢は、いったいどのようなメッセージを含《ふく》んだものなのか?
いくら調べても、納得《なっとく》できるような答えは得られなかった。
「ゆっくり休んで風邪を治《なお》せば、きっとまたいい夢がみられるようになりますよ」
心配そうに言ってくれた侍女のその言葉が、どの本の言葉よりも暖《あたた》かく身に染《し》みた。
奇妙な夢をみた。
ゆっくりと。
体の中に、違和感《いわかん》が積もってゆく。
これはただの風邪ではない。そもそも、体の異状の類《たぐい》ですらない。
もっと別の……そしてもっと恐ろしい、ナニカだ。
奇妙な夢をみた。
そして、気付いた。
自分はあの夢の内容を覚えていない[#「覚えていない」に傍点]のではない。
そもそも理解していない[#「理解していない」に傍点]のだと。
あれは[#「あれは」に傍点]、正しく人間のままであるイキモノには理解できるようなものではないのだと[#「正しく人間のままであるイキモノには理解できるようなものではないのだと」に傍点]。
奇妙な夢をみた。
その日はもう誰にも会いたくなかった。だから、病《やまい》に伏《ふ》せっているということにして、自分の部屋の中に引きこもった。
ちろり、と視界の隅《すみ》で何かが蠢《うごめ》く。
視線を滑《すべ》らせてその姿を追っても、間に合わない。それは煙《けむり》のように、あるいはもっと不確《ふたし》かなナニカのように、そこから姿を消している。
ふとするたびに、得体の知れない希薄《きはく》な気配が、辺りを這い回っていることに気付く。無数の羽虫が耳朶《じだ》の内側で羽ばたいているような、言いようのない嫌悪感《けんおかん》に悩《なや》まされる。
自分の身に何が起きているのかについて、おぼろげには理解していた。人間としての部分が、少しずつ傷《きず》つけられ、壊《こわ》されているのだ。そしてその小さなヒビから、本来ならば人という器《うつわ》には馴染《なじ》まない夢[#「夢」に傍点]が、じわじわと染《し》み透《とお》って来ている。
眠っていようといまいと、そんなことは関係ない。これはそういう夢[#「夢」に傍点]だ。いつでも、すぐそこにある。自分のすぐ傍《かたわ》らに。あるいは、この心の内側に。
そして今夜もまた、あの夢を――
それが、彼女[#「彼女」に傍点]に関わる全《すべ》ての物語の、始まりの光景だった。
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▼scene/2 黒色の諦《あきら》め 〜out of wonderland〜
4.
それは、いつもと同じ、学術院《ライブラリ》からの帰り道。
自分の家にたどりつくほんの少し手前で足をとめて、方向|転換《てんかん》。そのままアリスは隣家《りんか》の扉《とびら》の前に立った。少しだけ深呼吸《しんこきゅう》して息を整えて、それから呼《よ》び鈴《りん》を鳴らす。
しばしの沈黙《ちんもく》の後に、扉が開く。
もさっとした風貌《ふうぼう》の、中年|男性《だんせい》が顔を出す。
「あっ」
それが、思ってもいない顔だったので驚《おどろ》いた。
「やぁアリスちゃん」
その中年男性、リュカの伯父《おじ》であり同居人《どうきょにん》でもあるアルベール・エルモントは、目を細めるといまいち締《し》まりのない笑顔《えがお》を浮《う》かべる。
「ア、アルベールさん。家にいたんですね、お久《ひさ》しぶりです」
「久し振《ぶ》り。しばらく見てない間に大きくなったね」
「……って、それ、何年前のわたしと比《くら》べられてるんでしょう……?」
あまり認《みと》めたくない話だが、アリスの身長は、少なくとも本人が把握《はあく》している限《かぎ》り、この数年の間ほとんど仰びていない。
「前に会ったときはこのくらいじゃなかった?」
アルベールが、頭ふたつほど低い場所で、手のひらを水平に揺《ゆ》らす。さすがにアリスがそのくらいの身長だったのは大昔の話だ。それを『しばらく』のひとことで表現《ひょうげん》してしまうのは、さすがに、何というか、やりすぎだと思う。ともあれ、
「今日、お仕事、お休みなんですか?」
気になったことをひとつ、確かめてみる。
「んー、そういうわけじゃないんだけどね。今日もこのあと学術院《ライブラリ》にとんぼ返りして、またしばらく帰って来られなそうな感じだよ」
とほほほー、と口に出して言う。
アリスは、お疲《つか》れ様です、と社交|辞令《じれい》の言葉をひとつクッションに挟《はさ》んでから、
「リュカさん、います?」
本題を、切りだした。
「ああ……」
アルベールはぴたりとその動きを止めて、
「――ごめんね」
突然《とつぜん》に声を低くして、そんなことを言った。
「え?」
その言葉の意味が分からなくて、聞き返した。
「リュカ、いないんだよ」
ああ、そういうことか、とアリスは安堵《あんど》した。つまり、リュカは今、ちょっとそこまで外出中なのだ。せっかく訪《たず》ねてきてくれたのに留守《るす》でごめんねと、さきほどのアルベールの言葉はそういう意味なのだ。
「ええと、どこかに?」
「先日、ドースのほうの遠い親戚《しんせき》から連絡《れんらく》が来てね。あ、知ってるかな、リュカのお母さんって向こうの出身なんだよ。それでさ、なんだか大急ぎの用事があったみたいで、仕方がないからすぐに鉄道のチケットをとってね……」
「どーす……」
ドース共和国。
フェルツヴェンから見れば南方に広がる、大陸西方第三の大国。
かつてペルセリオ領《りょう》だった場所から公国として独立《どくりつ》し、さらにその後クーデターによって共和政《きょうわせい》を敷《し》くに至《いた》った。政府そのものの歴史はまだ浅いが、国としてはそこそこ年季が入っているわけで、かつての公国時代に有力な貴族《きぞく》だった一族がいまだ大きな発言力を持っていたりする辺りに火種が残されていたりいなかったり。
なんで、そんな、外国の名前を、今この場所で聞くことになるのだろう?
「ややこしい用事みたいなんだ。……たぶん、しばらく、帰って来られない」
「あ……」
とくん、と心臓《しんぞう》が大きく跳《は》ねた。
「伝えておけなくてごめんね。本当にばたばたしてたから、暇《ひま》がなかったんだ」
「あ……そ、そうですか……」
声をかすかに震《ふる》わせながら、アリスは答えた。
……大したことでは、ないはずだった。
ドースは確《たし》かに遠い外国ではあるけれど、熱誠は配酢である。鉄道というものがある今の時代、単に国境を越えるという意味だけならば、やろうと思えば一日で行ける。
ややこしい用事だからしばらく帰って来られないというのも、そんなに重く受け止めずとも構《かま》わない言葉のはず。どんな用事かは分からないけれど、常識《じょうしき》に考えれば、そう何年も会えないというようなことにはならないだろう。ほんの少し辛抱していれば過《す》ぎてしまう程度《ていど》の時間であるはずだ。
――なのに、何故だろう?
嫌《いや》な予感が、ぐらぐらと心を揺らしている。
一人の少女のことを思い出す。
腰《こし》のあたりにまで仰びた、星の光を束ねたような鮮《あざ》やかな銀色の髪《かみ》。
宝玉《ほうぎょく》を磨《みが》いてそのまま収《おさ》めたような、深い翠色《みどりいろ》の瞳《ひとみ》。
全体的にどこか現実味の薄《うす》い、まるで夢《ゆめ》のひとかけらをちぎってそのまま人の形に整えたような、そんな印象を与《あた》える容貌《ようぼう》。
アリスは今までに、二度ほどその少女の姿《すがた》が見ている。
初めてあの少女と会ったのは、エルモント邸《てい》の玄関《げんかん》先。いきなり学術院《ライブラリ》に姿を見せなくなったリュカを見舞《みま》いにいった時に、ばったりと顔をあわせた。
めっちゃくもゃに綺麗《きれい》な子だなと思った。
けれど、どうしてだろう、その綺麗さ≠ェ、どこか危険《きけん》なものであるかのようにも思えた。
ちょうど、よく出来た硝子《ガラス》細工を見た時の感覚だ。なるほどそれは、銀色に光を照り返し美しく輝《かがや》いて見えるだろう。しかしそれに手を触《ふ》れれば美しさは曇《くも》り、下手をしたら砕《くだ》け散るかもしれない。そして砕けたその砕片《さいへん》は、そのまま触れた者の手を傷《きず》つけてしまうのだ。
『昔、エブリオで、リュカに世話になった者の身内だ』
その少女は、自分のことをそう説明した。
エブリオ。その地名を聞いて、アリスの胸《むね》の奥《おく》を、小さなトゲがちくんと刺《さ》した。
それがリュカにとってどんな意味を持つ地名であるかは知っていた。生まれた場所であり、十二歳までを過ごした場所であり、ある日突然の災厄《さいやく》によって全《すべ》てを失った場所であり、そして……大きな後悔《こうかい》を抱《かか》えることになった場所。
――この人は、リュカさんと、同じ心の傷を共有している。
その事実に気後《きおく》れして、それ以上のことは何も聞けなかった。
二度目にあの少女の姿を見たのは、やはりエルモント邸。
夜中にいきなり、憔悴《しょうすい》したリュカが自分の前に現《あらわ》れた。血まみれのあの子の前にまで連れてきて、手当てをしてやってくれなどと言い出した。そんな怪《あや》しいことを言いながら、彼は事情《じじょう》を何も話してくれなかった。
あの時、少女に意識《いしき》はなかった。昏睡《こんすい》した彼女を、アリスが一方的に手当てした。
それは凄惨《せいさん》な光景だった。白く透《す》き通った肌《はだ》が野蛮《やばん》に裂《さ》かれ、刻《きざ》まれ、見る影《かげ》もなく汚《よご》れていた。どの傷も見た目ほど深くはなかったのが不幸中の幸いだった――そうでなければ、最悪、命も危《あぶ》なかったはずだ。
『悪いな……何も話せなくて』
何が起きていたのか、知りたくなかったといったら嘘《うそ》になる。けれど、自分は何も聞かなかった。彼がそう望んでいたから。それ以上のことを彼が望んでいなかったから。彼に望まれている通りの自分でいたかったから。
けれど、何も言われずとも、分かってしまうことが、いくつかあった。
リュカ・エルモントは、困《こま》ったタイプの人間だ。誰《だれ》が泣いているのを見たら、助けずにはいられない。誰かが泣きそうだったら、それもやっぱり助けずにはいられない。そしてそのたびに傷だらけになって、それでもにこにこ笑っている――
アリスはそのことを知っていたから、理解《りかい》できた。
きっとリュカは、この子の涙《なみだ》を見てしまったのだろう。
この子を傷つける何者かに立ち向かい、今も彼女を脅《おびや》かす何かから守ろうとしているのだろう。
そしてそれがどれだけ危険なことなのかについて理解していたから、自分《アリス》を巻《ま》き込《こ》むことに躊躇《ちゅうちょ》したし、最後まで何も語らないのだろう――
そして、今。
リュカ・エルモントは、アリスの目の前から、姿を消した。
『先日、ドースのほうの遠い親戚《しんせき》から連絡《れんらく》が来てね――』
あれは、本当のことなのだろうか。自分は、あの言葉を信じてもいいのだろうか。
もしかしたら、自分は、何か大変なものから目を背《そむ》けているのではないだろうか。
自宅《じたく》に飛び込んだ。
「おかえりなさ……って、ちょ、ちょっと?」
戸惑《とまど》う母親の声を尻目《しりめ》に廊下《ろうか》を走りぬけ、自分の部屋に飛び込んで、ベッドに飛び込んで、くまのぬいぐるみを力の限《かぎ》りに抱《だ》きしめた。
「……っ!」
目を閉《と》じて、両足をばたつかせる。ばたんばたんと音をたてて、ベッドの上で毛布《もうふ》が跳《は》ねる。
頭の中がぐっしゃぐっしゃだった。どう頑張《がんば》っても整理がつかなかった。
しばらくはそうやってべッ下の上で暴《あば》れていたが、やがてそれにも疲《つか》れて、ぬいぐるみを抱きしめたままで、ぽつりと呟《つぶや》く。
「どうすればよかったの……かなぁ……」
自分が間違《まちが》っていたとは思いたくない。
けれど、正しかったとも、やっぱり思えない。もし正しかったとしたら、今この胸の中でぐるぐる渦巻《うずま》いている後悔を説明できない。
「…………」
くまを放《ほう》り出――そうとしてやめて、枕元《まくらもと》に座《すわ》らせる。
仰向《あおむ》けになって、天井《てんじょう》を見る。
「アリスー? こら、アリス、暴れてないでちょっと手伝ってー」
台所のほうから、母親の声が聞こえる。
ひどい親だと思う。
娘《むすめ》が帰宅早々に部屋でどたばた暴れているのだ、普通《ふつう》ならば何があったのだと心配するところではないだろうか。暴れていることの意味を気にして、扱《あつか》いに困ったりそれなりの対応をとったりするべきなのではないだろうか。
なのになぜ、かけられる言葉は、こんなにもいつもどおりなのだろう。
「……はーぁい!」
結局自分がいる場所は、どこまでもいつもどおり[#「いつもどおり」に傍点]の、この日常《にちじょう》の中だということなのだろうか?
そんなことを考えるとまた悔《くや》しさが込み上げてきて、アリスはふたたびくまのぬいぐるみを掴むと、力の限りぎゅうと抱きしめた。
5.
学生というのは、非常《ひじょう》にドライな身分だ。
どんなに辛《つら》い悩《なや》みを抱えていても、そんなこととはまったく関係なしに、地獄《じごく》のスケジュールが容赦《ようしゃ》なく巡《めぐ》ってくる。そう、それはまるで、人が生きて動いていれば空腹《くうふく》から逃《のが》れられないのと同じように。
冬の定期試験が、近付いてきていた。
何せ劇《げき》の準備《じゅんび》に時間をつぎ込みまくっていたせいで、試験の準備などまったくといっていいほどやっていない。ふと気がついてみれば残り時間は一週間を切っていて、目の前に積み上げられたノートはどれもこれも目に痛《いた》いほど真っ白だった。
さあ、大変だ。
大量の筆記用具をひっつかんで飛び込んだ総合書庫《ビッグ・バネット》は、似《に》たような境遇《きょうぐう》の学生たちでごったがえしていた。彼らの手によってめぼしい資料《しりょう》はほとんど借り出されていたが、それでも何とか使えそうなものを何冊《なんさつ》かピックアップ。机《つくえ》の上に広げてノートを作り始めた。
最初のターゲットは西方史学。一度赤点をとったら最後、泣く子も黙《だま》る悪夢《あくむ》の再試験《さいしけん》が待っているという噂《うわさ》の恐怖《きょうふ》科目だ。ちなみに具体的に何がどう悪夢なのかについてはよく知らない。とにかく大変なのだということだけ伝え聞いている。その次はミルガ語。こちらは単純《たんじゅん》に、昔からの苦手科目だから早目に手を打っておきたいという理由だ。その後は、まぁ、その後になってから考えることにする。
かりかりかりかりとペン先でノートを削《けず》る。
ばさばさばさばさと資料のベージをめくる。
同じような音を、周りにいる大勢《おおぜい》の学生たちが、同じように繰《く》り返している。かりかりばさばさかりかりばさばさ、実に賑《にぎ》やかでうっとうしい多重奏が、いつ終わるともなく延々《えんえん》と続いてゆく。
もーやだ。
ぼてんと机の上にあごを投げ出して、そんなことをぼやく。けれど状況《じょうきょう》は何も変わらない。世の中、文句《もんく》を言っているだけで何かがどうなったりはしないのだ。さあ、顔を上げてペンを握《にぎ》って明日に向かって駆《か》け出そう。ファイト、オー。
既《すで》に飽和状態《ほうわじょうたい》の頭の中に、知識《ちしき》を詰《つ》め込んでゆく。
大陸西部――主にペルセリオ、ドース、ミルガの三つの大国を中心にして繰り広げられる、壮大《そうだい》なる戦争ドラマ。その過程《かてい》を、流れを追いながら、ひとつひとつ記憶《きおく》していく。
人類の歴史は戦いの歴史。いつの時代も、常に誰かが誰かと争っている。まったく迷惑《めいわく》な話だ。昔の人がそんなことに血道をあげるから、後の世の中の学生が苦労するのだ……
「……ドース……」
その国名を呟いて、教科書に載《の》っている地図のひとつを、ぼんやりと眺《なが》め見る。
国境線と大きな都市のいくつかと、あとは主要な街道《かいどう》と鉄道の路線。それだけしか描きこまれていないシンプルな地図。
この中のどこかに、彼がいる。
彼がいる?
本当に?
「…………」
やめよう。こんなことを考えていても、何も始まらない。そして今は、のんびりとそんなことに脳《のう》みその容量を割《さ》いていられるような時ではない。頭をまっ白にして、そこに年表を詰め込もう。余計なことを何ひとつ考えなくても済むように。
「疲《つか》れました。いやもう、本当に」
夕暮《ゆうぐ》れの近づく帰り道。
家路を急ぐ他《ほか》の学生たちにまぎれて、大橋《ブリrッジ》の上を歩いている。
「もう教科書なんて見たくありません。ミルガの言葉なんて聞きたくありません。人間の頭には限界ってものがあるんです。無理をすると内圧《ないあつ》が高まって爆発《ばくはつ》の限界《げんかい》なんです。あと単語ひとつ入れたら臨界突破《りんかいとっぱ》でどかーんといっちゃうんです」
はぁ……と、アリスは深い息を吐《は》きだした。
「相変わらず、錯乱《さくらん》するとよく分からないこと言いだすね、あんた」
ぺらぺらと資料の本をめくりながら、隣を歩くタニア・カッセーが呆《あき》れたような声で言った。アリスのひとつ上、第五学年の学生で、ショートに切りそろえたブルネットのけっこうな美人で、同時にけっこうな変人だ。
「いやしかし、懐《なつ》かしいわねー西方史学。あたしらも去年は苦労したわぁ。あの鬼教師《おにきょうし》、本っ気で洒落《しゃれ》んならない再試験出すしさぁ」
「再試験、受けたんですか?」
「いんや、あたしはほら、優等生《ゆうとうせい》だから」
軽い口調で、そんなことを言う。
「洒落んならないことなってたのは、主にフロリアンとかジョエルとか、あのへんの成績《せいせき》不自由組の連中。いやもぉ見ものだったわよー、あんときのあいつら。びっくりするくらい真っ赤に青ざめちゃってさー」
「なんですか、そのシュールな顔色」
「てなわけで、具体的にどんな悪夢が待ってるのかは、あたしじゃなくて他の連中に聞くよーに。きっと紫色《むらさきいろ》になって教えてくれるから」
「……思い出すだけで呼吸困難《こきゅうこんなん》?」
なんだかよく分からないけれど、それは凄《すさ》まじそうだ。
「まあ、『演劇部《えんげきぶ》に協力してたから赤点とりましたー』なんて話になられても困《こま》るし、あたしもできる範囲《はんい》で手は貸《か》すけどさ。でもアリス、あんた別に今さらそんなガリ勉しなきゃいけないほど成績悪いほうじゃなかったでしょ?」
「だからといって、特に成績いいほうでもないですから、気を抜《ぬ》いたらすぐにすべり落ちちゃうんです。だから不安の種はきちんと全部つぶしてから試験に臨《のぞ》まないと」
「そんだけ堅実《けんじつ》に考えるような子が、そうそう赤を取るとは思わないけどねぇ……」
ぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》きながら、タニアは呟《つぶや》く。
「どうせなら、あたしじゃなくて、リュカに教えてもらったほうが嬉《うれ》しかったりするんじゃないの――」
軽い口調でそこまで言って、ぴたりとタニアは言葉を止める。
「――そーいや、またここ数日、あいつ見ないね。どしたの?」
「え……?」
言われて、どきっと心臓《しんぞう》が大きく括《ゆ》れる。
「えと、知りません。わたしも……会ってません、から」
とっさに、嘘《うそ》を吐《つ》いた。
理由は自分でも分からなかった。
「そうなの? 珍《めずら》しいこともあるもんだね。あれか、ついに今度こそ倦怠期《けんたいき》か」
「そんなんじゃないです。大体、新婚《しんこん》時代も堪能《たんのう》しないうちに倦怠期に入るようなもったいない真似《まね》はしませんよ、絶対《ぜったい》に」
「まだ新婚未満のつもりなんか、あんたは」
「それは……もちろんそうですよ。当たり前じゃないですか」
うんうん、と大きく頷《うなず》いて、断言《だんげん》する。
「ふーん」
そこからさらに追及《ついきゅう》してくるかと思ったら、タニアはなぜか嬉しそうに笑んで、
「ま、あんたらはずっとそのまんまが幸せなのかもしんないね」
「……どうしたんですか、タニアさん?」
「んー、何が?」
「今日はやけに優《やさ》しくて聞きわけが良い気がするんですけど……?」
「ああ、それはまぁ、さすがに、これが最後となると、少しはね」
「最後……?」
ぽりぽりと後頭部を掻きながら、タニアはあくまでも軽い口調で、
「今週末、実家に連れ戻《もど》されるからさ、あたし」
「……へ?」
「ミルガの噂《うわさ》は知ってるっしょ? ペルセリオとの国境《こっきょう》に軍隊を動かしてるって話」
「あ……ええと……そうなんですか?」
「なんだ、聞いてないの? けっこう学校中に広まってたと思ったけど」
「あは、あはは」
総合書庫《ビック・バレット》にこもって教科書とにらみ合ってばかりの毎日だったせいだろうか。そんな噂など、さっぱり聞いたことがなかった。
「まぁいいけど、とにかくそういう話なわけよ」
かなり重い話であるはずだったが、タニアはさらりとその一言で片付けて、
「それは分かりましたけど、それとタニアさんとどういう関係が……」
「あたしは卒院|資格《しかく》をとるまで居座《いすわ》るつもりでいたんだけどね。実家のほうが気弱になっちゃって、すぐにも帰ってこいってうるさいわけさ」
「……?」
つながりが、よく分からない。
「戦争なんて始められたら、ミルガ人もペルセリオ人も大勢《おおぜい》いるフェルツヴェンは、けっこう不安定な場所になっちゃうっしょ? だから事態が本格的に動く前に、か弱い一人|娘《むすめ》を手元に呼《よ》び戻しとこうって話」
「ああ……」
納得《なっとく》した。
「でも、それにしても、急|過《す》ぎませんか?」
「そうなんだよねぇ……個人《こじん》的にはもうちょっとゆっくり名残《なごり》を惜《お》しんだりしたいとこなんだけど、まぁ仕方ないかね」
仕方ない。
諦《あきら》めがを表すその言葉が、ぎゅっとアリスの胸《むね》を締《し》め付ける。
「って、そういえば……タニアさんの実家って、どこでしたっけ?」
話題をそらすつもりで、そう言った。すると、
「ん、話したことなかったっけ?」
「聞いたことなかったと思います」
タニアはこともなげに、答えた。
「ドースだよ、ドース」
フェルツヴェンは、今から二百年ほど前に、人為《じんい》的に造《つく》られた街だ。
その時までその場所――ペルセリオ山脈フェルツヴェン湖畔《こはん》には、街と呼べるものは存在《そんざい》していなかった。当時から大国三つの境に位置していたにもかかわらず、その三国のどこも、その場所に大きな価値《かち》を見出《みいだ》していなかった。
理由は単純《たんじゅん》。交通の要所として利用するには、そこを取り巻《ま》くペルセリオ山脈が、あまりに峻険《しゅんけん》に過ぎたからだ。道らしい道はまともになく、山峡《さんきょう》にかかる橋は古びていて、さらに時期によっては深い霧《さり》がかかってまともに辺りが見えなくなる。
そこに都市が造られることとなった時には、膨大《ぼうだい》な畳の資金、資材、そして人材が投じられたらしい。ふもとの街との間の道が整えられ、なんとか人の行き来に耐《た》えられるだけの交通環境《かんきょう》が出来上がった。けれどそれも、街を造り維持《いじ》するのに必要とされる水準《すいじゅん》になんとか届《とど》くという程度《ていど》のレベルでしかなかった。
長い時間、フェルツヴェンはほとんど陸の孤島《ことう》だった。学術院都市という役割《やくわり》も手伝い、多くの人間に「まさに象牙《ぞうげ》の塔《とう》だ」と揶揄《やゆ》され続けた。
……とまぁ、もちろんこれは昔の話であって、今は少しだけ事情《じじょう》が違《ちが》う。
鉄道という便利な交通機関が大陸中に普及《ふきゅう》し、フェルツヴェンは最大限《さいだいげん》にその恩恵《おんけい》を受けることとなった。大勢の人間と大量の資材を、すばやく確実《かくじつ》に移送《いそう》してくれる夢《ゆめ》のシステム。これが順当に動いてさえいれば、人はいくらでも入ってこられるし、そしてその逆《ぎゃく》に出ていくことだってできる。
「本当に……帰っちゃうん、ですね」
アリスが呟《つぶや》くと、旅装姿《りょそうすがた》がタニアは寂《さび》しそうに笑った。
「ま、こればっかは、しゃーないね」
からからと、中身の薄《うす》い笑い声。
駅舎《えきしゃ》の上部に取り付けられた大きな採光《さいこう》用の窓《まど》から、陽《ひ》の光がやわらかく差し込《こ》んでいる。見える範囲《はんい》では、停車している汽車《ベヒクル》は二台。いずれも荷下《にお》ろしの途中《とちゅう》であるらしく、貨物車の脇《わき》に木箱がいくつか並《なら》べて積まれているのが見えた。
改めて見渡《みわた》せば――駅のあちこちに、今の自分たちに似《に》た人たちがいた。
このフェルツヴェンを離《はな》れようとしている者たちと、それを見送る者たち。そしてその誰《だれ》もが同じようにその表情を陰《かげ》らせている。
「……まったく、傍迷惑《はためいわく》な話だな」
腕組《うでぐ》みをしたベネディクトが、不機嫌《ふきげん》そうに唸《うな》る。
「パスカルといいリュカといいお前といい、こうも次々と優秀《ゆうしゅう》が人材が消えていくのではたまらんよ。何者かが積極的に俺《おれ》の邪魔《じゃま》をしているのではと勘繰《かんぐ》りたくなる」
「ご愁傷様《しゅうしょうさま》。……って、あんたも実家はドースでしょ? 帰らないの?」
「幸いというか何というか、うちの両親は大して俺に興味《きょうみ》がなくてな。まず何があっても卒院までは干渉《かんしょう》してこないだろうさ」
おかげで気楽にやっていける。そう軽く言って、小さく肩《かた》をすくめる。
ベルが鳴る。発車時間が近い。
辺りの人の波が、少しだけ焦《あせ》ったように動き始める。
「おりょ、もう時間か」
タニアは一度、駅舎の天井《てんじょう》近くに掲《かか》げられた大時計を仰《あお》ぎ見て、
「そんじゃ、そろそろ行くから。うちの家の近くに来ることとかあったら顔出しなさいよ。遠慮《えんりょ》とかしたらはったおしに行くからね?」
宣言《せんげん》と同時に、ぱぁんと力強く背中《せなか》をはたかれた。
前に倒《たお》れこみそうになるのを、なんとかこらえる。
「あは、あはは……」
「あんたは……まぁ、遊びに来るのは無理そうだけど、、せめて元気でね、部長」
「おう」
ベネディクトは頷《うなず》く。
「じゃあ、また」
変わらずに軽い声でそう言って、タニアほくるりと二人に背を向ける。トランクケースをごろごろと引きずって、すたすたと列車に向けて近付いていって、 突然《とつぜん》、ぴたりと足を止めて。
顔だけで振《ふ》り返ってにっこりと笑って。
「――アリス。あんたの大好きなあいつにも、よろしくね」
「あ……」
それが、最後だった。
アリスが何も返せずにいるうちに、タニアは再《ふたた》び前に向き直り、そのまま列車に乗り込んでしまった。
駅を出た。
学術院大橋のほうへと向かう馬車を捕《つか》まえて、乗った。
ぱかぱかという蹄《ひづめ》が音を聞きながら、窓の外の景色をぼんやりと眺《なが》める。これといって
変わるところのないいつもの町並《まちな》み。
けれど何かが違《ちが》う。昨日から今日にかけてすぐには気づけないほど小さな何かが変わっていて、今日から明日にかけてまた小さな何かが変わってゆこうとしている。
「……なんだか、あっさりしてましたね」
アリスが素直《すなお》な疑問《ぎもん》を口にすると、ベネディクトは意味が分からないという顔で、
「何がだ?」
「さっきのお別れですよ。お二人、付き合ってたんじゃなかったんですか?」
「誰の話だ?」
「だから、ベネディクトさんと、タニアさんの話ですけど」
「ふむ?」
腕を組んで首をかしげる。
「なぜそのような話になる?」
「違うんですか? 二人とも仲が良かったし、なんていうか、二人だけで分かり合ってるっていうのかな、そんなところがありましたし、だからそうなのかなって」
「ああ、ならばそれは誤解《ごかい》だな。いや、曲解と言うべきか」
「差がよく分からないです」
「性別《せいべつ》が違う二人の組み合わせで親密《しんみつ》だからといっ七、すぐに男女関係に繋《つな》げて考えるべきではないということだ」
ベネディクトは、ふんと軽く鼻を鳴らして、
「確《たし》かに俺と彼女との間柄《あいだがら》があまり一般《いっぱん》的なものではなかっただろうが、だからといってそれが、例えば君とリュカの間のものと同じかと言えば――」
「な、なんでそこでリュカさんの名前が」
「同じかと言われれば、明らかに違うと答えざるをえまい」
抵抗《ていこう》の声は、顔色も変えずに流された。少しだけ悔《くや》しい。
「……よく分かりません」
「ふむ」
ベネディクトは窓《まど》から外の景色をちらりと見て、
「ドースという国は名目上|共和制《きょうわせい》を採《と》っているが、実質《じっしつ》上は軽い内乱状態《ないらんじょうたい》に近くてな。旧貴族《きゅうきぞく》と商人組合とが、互《たが》いをさっさと権力《けんりょく》の場から蹴《け》り落とそうと、水面下での争いを延々《えんえん》と続けている」
「はい?」
「この辺りは授業《じゅぎょう》でやっただろう?」
「それは、まぁ。でもなんでいきなりそんな話を?」
「馬車が着くまでは時間があるようだからな、最初から説明をしようと思った」
「はぁ」
少し首をひねる。
「話を続けよう。とにかくドースはそういう場所だということだ。旧貴族が商人を嫌《きら》い、商人が旧貴族を嫌っている。これは政治《せいじ》のレベルだけの話ではなくてな、生活のレベルでも、この小競《こぜ》り合いは生きている。旧貴族の家に生まれた者は商人の悪口を吹《ふ》きこまれて育つし、その逆《ぎゃく》も当然真となる。
さて、タニア・カッセーの実家がどこだか、聞いているか?」
「……商売をやっているとは聞きましたけど」
「そうだな。間違ってはいない」
「と言いますと?」
「あいつは、ドース随一《ずいいち》の豪商《ごうしょう》の一人|娘《むすめ》だ」
真顔のまま、淡々《たんたん》と、ベネディクトは言う。
その調子があまりに変わらないので、アリスは驚《おどろ》くタイミングをつかみ損《そこ》ねた。
「……え?」
「そして俺は、それに表だって敵対《てきたい》している旧|子爵家《ししゃくけ》の庶子《しょし》でな」
ええと、これはつまり、どういうことなのかというと、
「はぅぁっ!?」
たっぷり何秒か遅《おく》れて、ようやく驚きの声が漏《も》れた。
どうにも言葉が返せず、それどころかどんな表情《ひょうじょう》になったら良いのかすら分からず、アリスはただただ一人で目を回す。いつもの調子で話されているせいでぴんとこないが、これは、もしかすると、とても重たい話をされているのではないだろうか。
「お、お二人とも――そんなすごい人たちだったんですかっ!?」
「生まれだけで評《ひょう》するならば、確かにそれなりに特別ではあっただろうな。もっとも、だからどうと言うこともないが――大っぴらに公言されていないだけで、我々《われわれ》よりも特別な生まれの人間も学術院《あそこ》には大勢《おおぜい》いる」
「大勢、いるんですか……」
初耳だった。明日からクラスの友人たちを見る目が変わりそうだった。
それはさておき、とベネディクトは一拍《いっぱく》をはさんで、
「まぁ、俺も実家にいたころには、色々とあってな。父や兄たちと同様、俺もカッセーの家に対して良い感情を持ってはいない。これは彼女も同じだ。タニア・カッセーもドースの旧貴族というものに対して拭《ぬぐ》い去れない隔意《かくい》を持っている。
俺たちの立場は真逆で、そして同時に、よく似《に》ていた。だからだろうな。共感するところも少なくなかった。だから我々は、国と国、家と家が混《ま》ざりあうこのフェルツヴェンという場所に来て、互いに良い友となれた」
「………信頼《しんらい》してるんですね、二人とも、お互いを」
一生《いっしょう》懸命《けんめい》に脳みそを絞《しぼ》って、それでようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「なんだか、羨《うらや》ましいかもしれません」
「よく言う。君とエルモントの関係のほうが、よほど縁《えん》は深いだろうに」
「そう見えますか?」
「ん? 内実は違《ちが》うのか?」
それは、意地の悪い質問《しつもん》だと患う。
「……違いませんけど、もしかしたら、少し、違うかもしれません」
「ふむ、難《むずか》しい謎《なぞ》かけだな」
「そんな複雑《ふくざつ》なものじゃないですよ。もうちょっと、頭の悪い話です」
苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、馬車の壁《かべ》にこつんと頭をもたれかける。
「リュカさんのかっこよさに気付いてた女《ひと》って、どうやら、わたし一人だけじゃなかったみたいなんですよ。
まぁこれはよくよく考えてみると当たり前な話で、あんな凄《すご》い人をこれまでわたしが独《ひと》りがめできてたこと自体が奇跡《きせき》的だったんですけども……いざ恋敵《こいがたき》が出来てしまうと、これがまたなかなかどうして、グラグラと心が揺《ゆ》れてしまうものでして」
「なるほど、それで目が赤いのか」
「いえ、それは試験勉強で寝不足《ねぶそく》のせいですけど」
ちなみに冬の定期試験は、もう、すぐ目の前にまで迫《せま》っている。
西方史学もミルガ語も、まぁなんとかそれなりの点数はとれるのではないかと思えるところまでは備《そな》えることができた。突貫《とっかん》の勉強に付き合ってくれたタニアには、改めて礼を……言いたくてももう間に合わないので、心の中だけで改めて感謝《かんしゃ》する。
「確か、エルモントもドースに帰ったと言っていたな。それが、その不安の原因《げんいん》か?」
「それも、あります」
会えない時間が続けば、それだけ寂《さび》しさは募《つの》る。
目の前にいてほしい。声を聞かせてほしい。……どうせなら会えてない時間の利子をくっつけて、優《やさ》しく抱《だ》きしめてくれるとかそのくらいの甘ぁいサービスも希望したい。
そんな煩悩《ぼんのう》、じゃなかった苦悩ばかりが膨《ふく》らんでゆく。
けれど、それだけじゃない。得体の知れない他の何かもまた、確かにこの胸の中にある。
「もう会えないかもしれないと、怯《おぴ》えているのか?」
「……それも、たぶん、あると思います、けど」
でも、それがこの不安の本質というわけではないと思う。
6.
仲良くなれそうにないなぁ――
それが、彼に初めて会った時の、アリスの素直《すなお》な第一印象だった。
当時のアリスは十一歳で、そしてその少年は十二歳だった。
無理もなかった。その少年には、とにかく愛想《あいそ》というものがなかった。
いつも冷たい表情でうつむいていた。誰とも目を合わせようとしなかった。何と話しかけても、ぼそぼそとよく聞き取れない声で「あっち行けよ」としか答えてこなかった。
それが、ある日突然にアリスの隣家《りんか》に引き取られてきた、リュカ・エルモントという少年のその時の姿《すがた》だった。
それでもアリスは、彼と友達になろうとがんばってみた。
積極的に声をかけて、一緒《いっしょ》に遊ぼうと呼《よ》びかけてみた。
けれどその努力はまったく実を結ばなかった。少年は壊《こわ》れた機械のように「あっち行けよ」を繰《く》り返すばかりで、こちらのほうを見ようとすらしなかった。
そんな時間が一週間ほど流れ、ついにアリスは彼のことを諦《あきら》めた。
あっち行けよと何度も言われたから、本当に、彼のそばから離れていった。
それからしばらくして、自宅《じたく》の食卓《しょくたく》で、その少年の素性《すじょう》について聞いた。
もともとドースに住んでいたのだけれども、大火事で家族を全員失い、一人きりになってしまったらしい。そして唯一《ゆいいつ》の縁者《えんじゃ》であるアルベール・エルモントに引き取られてこのフェルツヴェンに住むことになったけれど、火事の時に受けた心身のショックがまだ抜《ぬ》けていないらしいと。
少しだけ、後悔《こうかい》した。
もう少し優しく接《せっ》してあげればよかったと思った。
けれど、一度広げてしまった距離《きょり》は、今さらもう縮《ちぢ》められるものではなかった。孤独《こどく》な少年の背中《せなか》を遠目に眺《なが》めるだけの日々が、一月ほど流れた。
転機は、初夏の暑い日に訪《おとず》れた。
それは、いかつい鉄の首輪をつけた、一匹《いっぴき》の黒犬の姿をしていた。
人気のない細い道を一人歩いていたアリスの目の前に、突然その黒犬が現《あちわ》れた。ぎょろりとした目玉に、黄色く濡《ぬ》れたむき出しの牙《きば》。見るからにまともではない状態《じょうたい》のその犬は、まっすぐにアリスを見据《みす》えて、低いうなり声をあげて、そしてゆっくりと近づいてきた。
恐《こわ》かった。逃げたかったけれど、足が動かなかった。助けを呼びたかったけれど、声も出なかった。手近な壁《かべ》にぺたりと背中をくっつけて、近づいてくる黒犬に向かってただ首を振《ふ》ることしかできなかった。
そして、今にも噛《か》みつかれそうだという距離にまで近づいたところで――
彼が、現れた。
あの時のことを友人に話すと、誰もが決まって「うっそだー」と言って信じてくれない。あまりに都合のよすぎる展開《てんかい》になるため、アリスが願望を込《こ》めて脚色《きゃくしょく》したに違《ちが》いないと決めつけてくる。
けれど、違うのだ。本当に、あの時、あのタイミングで、彼が現れたのだ。
曲がり角の向こうから現れた彼は、石を投げつけて犬の注意をアリスから逸《そ》らすと、棒《ぼう》きれを握《にぎ》って飛びかかった。まだ体が出来上がってもいない十二の子供《こども》と、大型《おおがた》の狩猟犬《しゅりょうけん》。あまりに無茶《むちゃ》で、そして危険《きけん》な戦いが、アリスの目の前で繰り広げられた。
そして彼は、体のあちこちに大ケガを負いながらも、その戦いに勝利した。
あれは、近所に住んでいた金持ちが趣味《しゅみ》で飼《か》っていた、猟犬だったらしい。
その金持ちは、どうやら商売で何かの大失敗をやらかしたらしく、人知れず失踪《しっそう》していた。その際《さい》にこの猟犬は、小屋につながれたまま放置された。餌《えさ》を与《あた》える人間がいなくなれば、当然ながら犬は飢《う》える。そしてその飢えに耐《た》えかねて、革紐《かわひも》を食いちぎって脱走《だっそう》したのだという。
……正直、そんな話は、どうでもよかった。
アリスが知りたかったのは、もっと別のこと。
後日、病院の白いベッドに横たわる少年に、アリスは尋《たず》ねた。
どうして自分を助けたのだと。
あんな危険な相手に、迷《まよ》いもなく立ち向かえたのだと。
追い詰《つ》められていたのが仲がいい友達だったというのなら、まだ分かる。あるいは、その……好きな女の子を助けるために男の子が体を張《は》るとかそういう話だったなら、まだむりやり納得《なっとく》できなくもない。けれど、アリス・マルカーンとリュカ・エルモントは、結局その時まで、ほとんどまともに話をしたこともなかった。自分自身の命を危険にさらしてまで助けなければならないような理由は、何もなかった。
少年は少し考えてから、
『フィオルを思い出して、ほっとけなかった』
ぽつり、と答えた。
ちくん、と何かがアリスの胸《むね》を刺《さ》した。
そのフィオルというのが誰《だれ》のことなのかは分からなかったし、その時は特に知りたいとも思わなかった。そんなことよりも、別のことが気になっていた。
これだけ深く傷《きず》つきながら彼が果たした英雄《えいゆう》的|行為《こうい》、けれどそれは、決して、このアリス・マルカーンを助けるためのものではなかった。少年の短い言葉からもそのことだけははっきりと伝わってきたし、アリスはその意味を正確《せいかく》に受け取ってしまった。
お前のことなんてどうでもいいんだと、そう言われた気分だった。
腹《はら》がたった。
この少年は、これだけ強く人のことを思えるのだ。なのにその優《やさ》しさは、今はもういないフィオルさんとやらだけのものであって、今ここにいる生身の人間にはこれっぽっちも向けられていないのだ。そのことが、受け入れられなかった。
けれど同時に、こうも思った。
彼は、友達を作らなければいけない。思い出の中の誰《だれ》かではなく、今ここにいる誰かを大切に出来るようにならなくてはいけない。彼のような人間には、そうする権利《けんり》と義務《ぎむ》があると思う。
その誰かというのは、そう、たとえば……このアリス・マルカーン、とか。
この少年にめちゃくちゃに大事にされている自分を、ちょっと想像《そうぞう》してみる。
かあ、と顔が熱くなる。
『――何だよ?』
怪訝《けけん》そうな声を聞いて、思わずぶんぶんと頭を振って熱を飛ばす。なんでもないですなんでもないですなんでもないですと、三回続けて言ってさらに怪訝な目で見られる。
決めた。
心の中で宣言《せんげん》する。自分は絶対《ぜったい》に、この少年に友達を作ってみせる。前の故郷《こきょう》のことを忘《わす》れさせて、このフェルツヴェンこそが新しい故郷なのだと思わせてみせる。幸せを過去《かこ》に置いてきてしまったならば、今ここで、それ以上の幸せを掴《つか》み取ればいいのだと教えてみせる。
そして、できれば、ええと、その第一の友人役には……自分がなれたらいいかなと、ほんのちょっとだけ、思わないでもないかな、とか。
そんな風なことを考えると、ますます顔が熱くなった。
当時のアリスは十一歳で、リュカは十二歳だった。
あれから五年の時間が流れた。
アリスの決意は現実《げんじつ》になった。リュカ・エルモントはあれからすぐに、もともとそうであったのだろう快活《かいかつ》さを取り戻《もど》した。悪ガキとしての本性《ほんしょう》をさらけ出し、周辺に住む同類たちに溶《と》け込んで、このフェルツヴェンを新しい故郷として生き始めた。
そして、これはなんというか、おまけのようなことではあるけれど……彼は、このアリス・マルカーンを、とても大事にしてくれていた。
かつて守れなかった誰かの代わりに、いまそばにいて守るべき相手として、求め続けてくれた。そのことが、とても嬉《うれ》しくて、誇《ほこ》らしくて、そして――
――そして――?
7.
その日、とぼとぼと学術院《ライブラリ》から帰る途中《とちゅう》。
エルモント邸《てい》に灯《あか》りが点《つ》いているのを見た。
ほんの一瞬《いっしゅん》、「もしかしたらリュカさんが」と喜びそうになった。そしてすぐに自分自身を諫《いさ》めた。ああ今日もアルベールさん帰ってきてるんだな、最近けっこう頻繁《ひんぱん》に帰ってこれてるみたいだけど仕事がうまくいってるのかな……そんな理性《りせい》的な判断《はんだん》で、希望に満ちた妄想《もうそう》を心の奥底《おくそこ》に塗《ぬ》りこめた。
家に帰り、台所の母親にそのことを伝えると、
「あら、そうなの?」
何やら嬉しそうな声を出された。
嫌《いや》な予感。
「アリス、ちょっとお使い頼《たの》まれてくれない?」
予感的中。あはははは。嬉しくない。
「だいぶ前からアルベールさんに借りてた本、やっと読み終わったのよ。だからちょっと行って返してくれないかなって」
自分で行けー、とか思う。
正直、今はあんまり、あの屋敷《やしき》に近づきたくない。いや、すぐ隣《となり》に住んでいる以上それにはどうしても無理があるわけだが、それはそれとして、関《かか》わりたくない。
いつもなら彼がいたはずの場所に行けば、必然的に、彼がそこにいないのだということを改めて突《つ》き付けられることになる。それは、今のこのナーバスになった乙女心《おとめごころ》には、ちょっとばかり酷《,こく》な体験なのだ。そんな思いは、できることならしたくない。
「じゃあ、代わりに今晩《こんばん》のおかず作ってくれる?」
行ってきます。
エルモント邸の扉《とびら》の前に立って――まずは、深呼吸《しんこきゅう》。
彼はここにはいないのだ、扉を開いて出てくるのはよれよれのおじさんなのだと、何度も自分に言い聞かせる。そうしなければ、心が勝手に期待してしまう。扉が開いた瞬間に、がっかりが顔に出てしまう。それはあんまりよろしくない。
まったく――我《わ》がことながら、実にうっとうしい女だと思う。
こんなのにつきまとわれたら、男性のほうはたまったものではないだろうと思う。
そしてそこから連想して、もうちょっと格好良《かっこうい》い女になりたいなー、などとも思うのだ。自分のように積極的に甘《あま》えに行かずとも、ただそこにいるだけで、男性のほうが放《ほう》っておかないような魅力が欲しい……そして自分のほうからも、気負わず自然に男性の支《ささ》えになれるような包容力が欲しい。
憧《あこが》れとは、自分から遠く離《はな》れていればいるほど、輝《かがや》いてみえるものである。
「……はぁ……」
気が進まないながらも、のろのろと呼び鈴に手を伸ばした――
その瞬間に、扉が開いた。
そしてその扉は、アリスの額《ひたい》に直撃《ちょくげき》した。
目の前に大量の星が飛んだ。
いまこの頭の中だけで天球図が作れそうだと思えるくらいに、大量だった。
「っ――っっ!?」
あまりの驚《おどろ》きに息がつまり、悲鳴も出ない。目を固くつぶってその場にしゃがみ込《こ》み、痛《いた》みの波が過《す》ぎてゆくのを待つ。
その頭の上から、ひとつの声が降ってくる。
「君は……アリス……だったか?」
それはアルベールの声ではなく、そしてもちろんリュカの声でもなく、それどころか男性の声ですらない。発音の綺麗《きれい》な、若《わか》い女の声だった。
(……誰《だれ》?)
どういうことだろうと訝《いぶか》りながら、なんとか片目《かため》だけを開けて、顔を上げる。
扉を押《お》しあけたドアノブを掴《つか》んだまま、一人の少女が、戸惑《とまど》いの目でこちらを見下ろしている。
「あ」
視界《しかい》が、少しだけ、落ち着いてきた。
視界はまだぼやけたままで、目の前にあるものもはっきりとは見えてない。
けれど――その、見えているもの[#「見えているもの」に傍点]が、アリスの心を激《はげ》しく揺《ゆ》さぶった。
腰《こし》のあたりにまで伸《の》びた、星の光を束ねたような鮮《あざ》やかな銀色の髪《かみ》。
宝玉《ほうぎょく》を磨《みが》いてそのまま収《おさ》めたような、深い翠色《みどりいろ》の瞳《ひとみ》。
全体的にどこか現実《げんじつ》味の薄《うす》い、まるで夢《ゆめ》のひとかけらをちぎってそのまま人の形に整えたような、そんな印象を与《あた》える容貌《ようぼう》――
(――――――――あ)
瞬間、アリスの頭の中から、何かが落ちた。
ぶつけたばかりの頭はもちろん痛んだが、それとは別の衝撃《しょうげき》だった。頭の片隅《かたすみ》のほうでずしんとのさばっていた重たいものが、その衝撃でそのまま下へと落っこちて……胸《むね》のあたりに、ひっかかった。
改めて、胸元《むなもと》が、しくりと痛んだ。
(なん、で、この人が、ここに……?)
「すまない、人がいるとは思わなかった。立てるか?」
目の前に手が差し伸べられる――が、脳《のう》みそがまともに動いていない状態《じょうたい》ではすぐにはそのことの意味を理解《りかい》できず、アリスはその手と、少女の顔とを見比《みくら》べた。それから、小さな子供《こども》のようにおそるおそると、その手を掴む。
『――リュカさんは、自分の全《すべ》てをかけて守れる誰《だれ》かを欲《ほ》しがってたんです』
その言葉を思い出す。
自分と彼との関係についてタニアに説明したときの、自分自身の言葉。
そうだ。自分は、あの時にはもう、その結論《けつろん》に気付いていたはずなのだ。
『きっとリュカさん、フェルツヴェンに来る前に、悲しい別れがあったんです』
つまり、そういうことなのだ。
自分は、ただ単に、その人≠ノなりたかっただけなのだ。
あれほどまでに強くあの少年に想《おも》われていた、フィオル≠ネる人物になりたかっただけなのだ。死んでしまったフィオル≠フ代わりに、その少年の想いを受け入れたかっただけなのだ。
『一番大切なときに誰かのそばにいられなかった、そのせいで悲しい思いをした、嫌《いや》な記憶《きおく》があったんです。だからわたしを放っておけないし、見放せない。そんなことを繰《く》り返すのは、リュカさん自身が耐《た》えられないから』
なんて、醜悪《しゅうあく》なんだろう。
なんて、傲慢《ごうまん》なんだろう。
彼は、このアリス・マルカーンを、とても大事にしてくれていた。
かつて守れなかった誰かの代わりに[#「かつて守れなかった誰かの代わりに」に傍点]、いまそばにいて守るべき相手として[#「いまそばにいて守るべき相手として」に傍点]、求め続けてくれた[#「求め続けてくれた」に傍点]。そのことが、とても嬉《うれ》しくて、誇《ほこ》らしくて、そして何より――
そう、悔《くや》しかったのだ。
借りものの居場所《いばしょ》に満足して、その心地良さに甘えて、自分自身の力で彼の中に居場所を作れていない自分が、情《なさ》けなかったのだ。
二人で、街を歩いた。
歩きながら、話をした。
そしてその話を交《か》わしながら、アリスは自分の心を、見つめ直した。
不思議なものだな、と思う。
いつもの自分なら絶対《ぜったい》に受け入れられないだろう考え方が、今ならすんなりと心になじんで感じられる。
「まず、わたしは、リュカさんの恋人《こいびと》じゃ、ありません」.
星空を見上げながら――
その言葉から、説明を始めることにした。
「恋人になんて、なれなかった。……ううん、違《ちが》う。恋人になろうなんて願いそのものを――結局、最後まで、持てなかった」
「アリス」
銀髪《ぎんぱつ》の少女の、心配するような声。
自分はいまどんな顔をし.ているのだろうかと思う。
泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。よく分からない。今自分の中で渦巻《うすま》いている気持ちに名前がつけられない。
「リュカさんにとって一番大切な人の席には、もう五年も前に先客が座《すわ》ってた。
わたしがやってたことは、その席の近くをうろうろしながら、その人をうらやましがることだけ。その人を押しのけようとはしなかったし、できなかった」
ああもう。
言葉にすると、改めて、なっさけないなぁと思う。
そう思うからこそ、自虐《じぎゃく》の言葉は止めようもなく加速していく。
「そんなの、恋人なんて、呼《よ》べるはず、ないじゃないですか」
もしその場所を奪《うば》える人が誰かいるとしたら、それは自分ではない。
そしてその人は、おそらく、いま自分の目の前に立っている。
「アリス――」
少女の声が、もう一度こちらの名前を呼んで、
「――あの、だな。アリス。すまないのだが――」
おそるおそる、ためらいを交えた声。
ああ、これはひかれちゃったかな、と思う。
そりゃーそうってものだろう。それほど親しいわけでもない人間に、こんな情けなくもみっともない愚痴《ぐち》をきかされたら、普通《ふつう》の人間なら嫌になる。
「――もしかして、彼と喧嘩《けんか》でもしていたのか?」
…………
「はい?」
「いや、その、本当に、私はそういうことには疎《うと》いのだ」
慌《あわ》てたように、少女は言う。
「だからこう、君がどういうつもりでそういう言葉を使っているのかが分からなくてな。君は彼に好意を持っているのだろう?」
「そりゃもちろんですけど……」
迷《まよ》いなどまるでない。戯眺的に観ぐ
「そして彼も――君のことを大切に思っている、でいいのか?」
「それは、まぁ」
「なら、それで充分《じゅうぶん》ではないのか? 不満を持つ箇所《かしょ》が分からない」
「いや、だから、あの人がわたしを大切にしているのには理由があってですね、彼が見ていたのは決してわたしという個人ではなく、ええと、だからですね……」
「本当にそう思っているのか[#「本当にそう思っているのか」に傍点]?」
「…………え」
「あの男は、単純《たんじゅん》で、馬鹿《ばか》だ。少なくとも、大切にする誰かを見つけるときに、わざわざゴテゴテと理由を探すほど器用《きよう》でも理性的でもない。少なくとも、奴がそこまで賢《かしこ》い人間であったなら、私はいまここでこうしていることもなかったはずだ」
「……は」
それは。
なんというか。
あんまりにあんまりな言い草だ。なのに、まったく反論《はんろん》の言葉が出てこない。
「それと……なんというか、今ふと頭をよぎったことなのだがな」
「…………」
黙《だま》ったまま先を促《うなが》すと、
「彼が今の君を見たら、おそらく放っておかないだろうな。
どうやらあの男、罪悪感《ざいあくかん》で自責《じせき》に沈《しず》む女を見たら放っておけない、性《さが》か何かを背負《せお》っている。君が打算を働かせようと働かせまいと、彼は君を守りに来る」
「うっ」
これまた、説得力のあるセリフだった。
「なんというか、ひどい見当違いを言っているのかもしれないが……」
見当違いだったかどうかは、よく分からない。
けれどとりあえず、空気を読まない発言だったことは、確《たし》かだと思う。
自分はあんなに思いつめて、あんなに悲愴《ひそう》な気分になっていたのに、なんというか、めちゃくちゃ身も蓋《ふた》もない言葉で、全部台無しにされてしまった。
「――リュカさんのこと、よく知ってるんですね」
「む、むう?」
何やら、困《こま》ったような顔をされた。
アリスは五年間彼のそばにいて、ずっとその横顔を見てきた。だからあの人のことを、誰よりもよく知っているつもりでいた。けれどどうやら、このままのんびりしていては、その座《ざ》が危《あや》ういことになりそうだと気づいた。
この少女は、強敵《きょうてき》だ。
めちゃくちゃな美人だとか立ち居《い》振《ふ》る舞《ま》いにまで気品がにじみ出てるとかなんでこんな人間が実在《じつざい》するんですか世界中の凡人《ぼんじん》を代表して神様《オリジン》に文句《もんく》言いたいですという感じのところをさておいてすら、どうやらとんでもなく、いい子だ。
ああもう。こんな手ごわいライバルいやだなぁ。
「……あとひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
「リュカのことについてなら、これ以上語れそうなことはないぞ」
「いえ、そうではなく」
聞きたいことなら、まだまだたくさんある。
けれどそれらすべてをさしおいて、今一番最初に自分が聞かなければいけないことはへたぶんこれだと思う。
「あなたの名前、聞いてもいいですか?」
[#改ページ]
▼promnade
それは、遠い昔の物語。
どのような言葉をもってすれば、その感覚を形容《けいよう》できるのだろう。
臓腑《ぞうふ》の中に生まれた一|匹《ぴき》の虫が、少しずつ少しずつ育って、大きくなっていく。
しゃくしゃくと音を立てて食い破《やぶ》られて、体は削《けず》られていく。痛《いた》みは無く、ただ痺《しび》れるような喪失感《そうしつかん》と真っ黒な不安感だけが、穴《あな》だらけの胸の中に溢《あふ》れかえる。
人が人ではないものになる過程《かてい》を、そのどちらでもない者の目で追っている。
それまでと同じ生活は出来なくなった。
それ以上、大切な人々のそばに居続《いつづ》けることは出来なかった。
だから彼女[#「彼女」に傍点]は城を出た。
ぼんやりと、窓《まど》の外の眺《なが》めを眺めている。
見渡《みわた》す限《かぎ》りに立ち並ぶ、黒々とした朽木《くちき》。まるで死者の行列のように見える。
季節を感じさせない、ただ寂《さみ》しいだけの景色。
人里から遠く離れた森の中にある古城《こじょう》。管理する者もなく打ち棄《す》てられていたそこが、今の彼女[#「彼女」に傍点]の住まいだった。
ここならば、これからの自分が何をしようと、傷《きず》つく者は最小限に抑《おさ》えられる。
「……ごめんなさい」
彼女[#「彼女」に傍点]は振り返らずに、背後《はいご》に立つ者に謝罪《しゃざい》の言葉を投げた。
確かにここにいれば、傷つく者は最小限に抑えられる。けれど言い換《か》えれば、その最小限の中に含《ふく》められてしまった誰かは、必ず深く傷つくことになるのだ。
「本当に、ごめんなさい」
「何のこと、ですか?」
深く落ち着いた女性の声とともに、彼女[#「彼女」に傍点]の目の前に紅茶《こうちゃ》のカップが置かれる。
「ひとつは、ここまで付き合わせたこと。それからもうひとつは、これからも付き合わせてしまうこと……ですよ」
「まぁ」
小さく、視界《しかい》の隅《すみ》で気配が微笑《ほほえ》む。
「そのような小さなことで、気を病むことはありませんよ。あなたはこの国の王女で、私はその王女に仕える侍女《じじょ》なのですから。あなたは胸を張って、好きなように私たちを弄《もてあそ》んでいれば良いのです」
それで何かが良いほうに転がってくれるなら、迷《まよ》わずにそうするだろう。
けれど世の中は、そんな風には回らない。壊《こわ》れかけの――自分[#「自分」に傍点]が壊しつつあるこの世界の中で、そんな残酷《ざんこく》なルールだけは、なんだかんだ言ってもまったく揺《い》らいでくれない。
「王女だからって、人に、人であることを棄てさせる権利《けんり》なんて、ないです」
「それならば、それでも。私という個人が、あなたという個人に、勝手に全《すべ》てを捧《ささ》げるという形でも、いっこうに構《かま》いませんよ」
「……シャリィ」
「あなたは、そのくらいには、人に好かれる人間なんです。そのあたり、あまりとぼけられると私のほうが虚《むな》しい気分になってしまいますから、自覚くらいはしてくださいね?」
彼女[#「彼女」に傍点]がこの古城に居《きょ》を移《うつ》してからも、異変《いへん》は確実に進行していった。
異変は、彼女[#「彼女」に傍点]の周りを蝕《むしば》んでいった。
木々がねじれ、腐《くさ》り、そして木々ではない別のナニカへと変貌《へんぼう》していった。
石造《いしづく》りの壁《かべ》は苔《こけ》に似《に》た何かに汚《よご》れ、蝕まれながら、まるで動物の臓腑のようなぬめりを持つナニカへと変わり果てた。
そしてもちろん、彼女[#「彼女」に傍点]とともにこの古城へと移り住み、その身の回りの世話を一手に引き受けているこの娘《むすめ》の身も――例外とはならなかった。
「ジネットは……今ごろ、どうしてるでしょうか?」
「泣いていると思いますよ。あなたたち姉妹《しまい》は、二人とも揃《そろ》って、どうしようもないくらいに寂しがりやだから」
「……意地の悪いことを言うんですね」
「意地の悪い女ですから。本当はこんな私ではなく、妹姫様やアヴィン君に傍《そば》にいてほしいのでしょうけれど――そこだけは妥協《だきょう》してくださいね」
「…………むぅ」
本当に、意地の悪いことを言う。
この場所にあの子たちがいたならば、自分はどれだけ救われたことだろう?
妹がここにいたならば、自分は姉としてここにいられただろう。アヴィンがここにいたならば、自分は姫としてここにいられただろう。二人にとっての自分はそれぞれそういう存在《そんざい》で、そして自分にとっての二人もそういう存在だった。
「あのお二人では不器用すぎて、こうして紅茶を淹《い》れてさしあげることもできませんし」
あの二人のことが大切すぎて、壊してしまった後の絶望を量《はか》ることすらできない。だからこうして、遠く離れたところにまでやってきたのだ。
だから、今の彼女[#「彼女」に傍点]は、ジネットの姉ではなかった。
アヴィンが剣《けん》を捧《ささ》げた姫君でもなかった。
――異形《いぎょう》の魔物《まもの》をかしずかせた、一人の邪悪《じゃあく》な魔女。
それが、今の彼女[#「彼女」に傍点]を正確に言い表せる、ただひとつきりの言葉だった。
[#改ページ]
▼scene/3 造《つく》り物の戦場 〜fake fate〜
8.
ほんのかすかな赤い光が、暗闇《くらやみ》の中から、東の山稜《さんりょう》を淡《あわ》く浮《う》き上がらせている。
夜明け前。一日の中で、もっとも闇の濃《こ》い時間。
街は、死んだように静かに眠《ねむ》っている。
動くものも何もない。聞こえるものも何もない。何もかもが、それぞれの眠りの中で、それぞれの夢《ゆめ》に沈《しず》んでいる時間。
ジネットは、その街の中を歩いている。
ひとつの廃墟《はいきょ》の前で立ち止まる。
それは、おそらくもともとは、大きめの屋敷《やしき》だったのだろう。しかし今は、ただの瓦礫《がれき》の山だ。まるで無数の砲撃《ほうげき》を叩《たた》きこまれたかのような、理不尽《りふじん》なまでの破壊力《はかいりょく》に、原形をまるで留《とど》めないまでに蹂躙《じゅうりん》され尽《つ》くしている。
廃墟の中へと足を踏《ふ》み入れる。小さな壁材《へきざい》のかけらが、からんからんと音を立てて転がり落ちてゆく。
「――この辺りで良いか」
広がる瓦礫の中央付近に立ち、辺りに人の気配のないことを確認《かくにん》してから、少女は小さく呟《つぶや》いた。
呼吸《こきゅう》を整える。意識《いしき》を自分の体の中に向ける。
――この体の中には、異物《いぶつ》が溜《た》まっている。
骨《ほね》でも肉でも皮でも筋《すじ》でも血流でもないところに、暗く濁《にご》った泥《どろ》のような何かが蓄積《ちくせき》されている。この世界を蝕《むしば》み爛《ただ》れさせ変容《へんよう》させる――|夜の軟泥《ワルプルギス》と呼《よ》ばれる、概念《がいねん》上の猛毒《もうどく》だ。
それを、ひとすくいだけ、汲《く》み上げる。
とん。
軽く、つま先で、地面を叩く。
その小さな衝撃《しょうげき》に重ねるようにして、自分の内側から汲く上げた|夜の軟泥《ワルプルギス》を外へと解《と》き放つ。絵画の上に刷毛《はけ》で色を重ねるように、周辺の光景の色彩《しきさい》が淀《よど》んでゆく。
「――果てのない白の荒野《こうや》に一人立ち、初めて人は自らの居場所《いばしょ》を知る=v
細く唇《くちびる》を開いて、そのフレーズを紡《つむ》ぎだす。
「|立ち並ぶ石碑の群れだけが静かに未来を夢みていた《ソン・レーヴ・アレット・ル・モンド》=v
大気がわずかに震《ふる》え、空間がまるごと変質《へんしつ》する。
|夜の軟泥《ワルプルギス》によって世界≠フ上に異世界≠薄《うす》く塗《ぬ》りつける。さらに特定のルールに従《したが》い韻《いん》を踏《ふ》ませた言葉によってその異世界≠自分の都合の良いように定義《ていぎ》づける。
それが、少女たちの用いる魔法というものの、具体的な行程《こうてい》だ。
「純白の画布に[#「純白の画布に」に傍点]、雪を描く[#「雪を描く」に傍点]――」
力を込めて、命令の言葉を口にする。
どくん、と辺りの大気が脈動する。
風に揺《ゆ》れる湖水のように、景色が揺れる。
瓦礫が、木材が、土肌《つちはだ》が、糸玉のように解《ほど》けて、溶《と》けてゆく。
硝子窓《ガラスまど》を叩き割《わ》るような音を立てて、景色が割れた。
まるで破《やぶ》り捨《す》てられた絵画のように、夜の廃墟の眺《なが》めが粉々に砕《くだ》け散った。
そしてその向こう側に、それまでとはまるで違《ちが》う光景が広がっていた。
それは既《すで》に、廃墟《はいきょ》ではなかった。
冷たい白色の石壁に囲まれた、広い部屋。おそらく本来は大勢《おおぜい》の人間を集めて何らかの会議を行うための場所なのだろう……細長い大理石のテーブルが、薄闇《うすやみ》の中に浮きあがって見えている。
一人の少年が、椅子《いす》のひとつに腰《こし》かけている。癖《くせ》の強い赤毛は埃《ほこり》に汚《よご》れ、学術院《ライブラリ》の制服《せいふく》はそのあちこちが破れ、いつもの黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》はどこで落としたものか、今はかけていない。
その少年は、消えかけている。
端《はし》のほうから少しずつ、体が七色の光の粒《つぶ》に砕けていく。特に崩壊《ほうかい》がひどいのが左足と右腕《みぎうで》で、特に右腕はもう肘《ひじ》のあたりまでが消えてなくなってしまっている。血の一滴《いってき》も流れない。本人の表情《ひょうじょう》に痛《いた》みに苦しんでいる様子もない。それは、あまりに幻想《げんそう》的で現実《げんじつ》味に欠けた破滅《はめつ》の光景だった。
そして、その少年の腕の中には、一人の少女が抱《だ》かれている。
一週間前のジネット自身だ。長い銀の髪《かみ》も、無理やりに着せられた学術院《ライブラリ》の女子用制服も、何もかもが血にべっとりと汚れてしまっている。苦しげに目を閉《と》じたまま、身動きひとつせず、静かにリュカの腕の中で眠っている。
「……リュカ」
ジネットは少年の名を呟いた。
一歩を歩み出す。
手を伸《の》ばし、そして少年に触《ふ》れるわずかに前で止める。指先をわずかにさまよわせ、それから諦《あきら》めて、引き戻《もど》す。
今ここにある光景は、とうに過《す》ぎ去ってしまった、過去《かこ》のものだ。今さらそのぬくもりには触れられない。ましてどのような力を振《ふ》るったところで、既に起きてしまったことを変えられるはずもない。
少年が、不敵《ふてき》に小さく笑った。
その唇が、何かの言葉を放った。その瞬間《しゅんかん》、
がぎゅいんっ――
鉄の棒《ぼう》を無理やりに斧《おの》で叩《たた》き斬《さ》ったような重く鋭《するど》い音。
頭の芯《しん》を思い切りぶん殴《なぐ》られたような衝撃《しょうげき》。視界《しかい》が雪のような純白《じゅんぱく》に染《そ》まる。よろめいて場に膝《ひざ》をつく。
そして自分のいる場所が既に追憶《ついおく》の情景の中ではなく、廃墟《はいきょ》の瓦礫《がれき》の上なのだということに、ようやく気づく。
軽くかぶりを振って、諦めの息を吐《は》く。
――あれ以上は見られない、か。
ジネットの体内に宿る『|琥珀の画廊《イストワール》』は、回想と想起に強い。その力は人や場所の過去を読み取り、それを今に呼び起こす。
ただしその力は、決して万能《ばんのう》ではない。
ちょうど、星空に向けた望遠鏡のようなものだ。ただ闇雲に見上げても星の姿《すがた》はとらえられない。目当ての星のある位置を正しく把握《はあく》し、ただしく望遠鏡そのものを操作《そうさ》して初めて、望みの光景を視界に収《おさ》めることができる。
そして、その再現《さいげん》される光景の中に極端《きょくたん》に強烈《きょうれつ》で破壊的な|夜の軟泥《ワルプルギス》の発動があると、『|琥珀の画廊《イストワール》』はそれを再現しきれない。おそらくそれは、望遠鏡で太陽を覗きこむような行為《こうい》。過ぎた光に眼を灼《や》かれれば、まさかその後を覗き続けることなどできるはずもない。
何にせよ、いま言えることはただひとつ。どれだけ自分がこの場でがんばってみても、ロジェやクリストフ、そしてリュカの行方《ゆくえ》を知る手段《しゅだん》はないということだ。
「ままならんな」
たまたま近いところにあった小石を、苛立《いらだ》ちのままに蹴《け》りつけた。
するべきことに追われて、二百年を生きてきた。
だから、今こうして過ごしている時間は、相も変わらずに居心地《いごこち》が悪い。
帰り道に、朝市に寄《よ》った。
さすがにまだ早い時間ということもあり、それほど多くの人の姿はない。が、それでもその活気は大したものだ。威勢《いせい》の良い客寄せの声。値切《ねぎ》ろうとする者と、それを突っぱねようとする者の声。近所の主婦《しゅふ》たちが集まって雑談《ざつだん》する声……縦横《じゅうおう》に飛び交《か》う様々な声の中を泳ぐようにして、ジネットは歩く。
ふと、気になる匂《にお》いを認《みと》めて露店《ろてん》のひとつの前で立ち止まる。
山と積まれた黄色い果物に目を留《と》める。
これは……確《たし》か、そうだ、以前一度だけ食べたことがある。ペルセリオとドースの西方でしか栽培《さいばい》されてない、なんとかいう名前の果物。独特の苦味があり、あまり食べやすいとは言えないものだったが、なかなか面白《おもしろ》い味わいだったような気がする。
こんなところで見るというのも珍《めずら》しいなと思う。
記憶の中の味を思い起こしながら、これをジャムにしてみようと思いつく。
なにやら新聞を読みふけっている中年男に向かって軽く手をあげて、
「店主、すまないが――」
「あの、すみません」
ジネットと同時に、そのすぐ隣《となり》に立った別の少女が、中年男に向かって声をかけていた。二つの声が重なり、店主は訝《いぶか》しげに新聞から顔をあげる。
「すまない、そちらが先に――」
ジネットは隣の少女の顔を見る。
知った顔だった。
「いえ、こちらこそすみません、先にどうぞ――」
隣の少女もまた、こちらの顔を見る。
「あれ……ジネット、さん?」
「アリス。今日は学術院《ライブラリ》は休みなのか?」
「はい、試験休みです。ジネッ卜さんはどうです、傷《きず》の具合とか?」
ジネットは苦笑《くしょう》して、
「心配は居《い》らない、前も言ったが完全に癒《い》えている」
「強がってもだめですよ、あんなひどい傷、そうそう簡単《かんたん》に治るものじゃないです」
「いや、本当の話なのだが……」
「だめです、信じません。強がりが言える体力があるのはいいことですけど、だからって体に無理をさせても良いことなんて何もないんです」
「いやその、本当の本当にだな」
語調を強めるアリスを説得しようと言葉を返そうとしたところで、
「――何か入用なんじゃないのかい、お二人さん?」
呆《あき》れたような店主の声に、二人同時に前を向く。
「あ、はい、ええと、ジネットさんお先にどうぞ」
「いや、こちらこそ後でかまわない、そっちが先にだな」
「いえいえ、そんなこと言わずに、遠慮《えんりょ》なくお先に」
「いやいや、こちらのことこそ気にせずにだな」
「……二人そろって冷やかしじゃないだろうね」
どことなく冷ややかな店主の言葉に、「勘う」「違います」の声が揃《そろ》った。
顔を見合わせる。
二人同時に、ため息を吐く。
このアリスという娘《むすめ》は、ジネットにとって、何ともやりづらい相手だった。
この娘には、リュカのそれとはまた別タイプの、何ともつかみづらい強引《ごういん》さがある。
そもそもこれまでずっと、敵意《てきい》と隔意《かくい》と警戒《けいかい》に囲まれて生きてきたのだ。だからこういった、無防備《むぼうび》に友好の意を伝えてくる相手というものには耐性《たいせい》がない。当然、交わす言葉のひとつひとつ、見せる表情《ひょうじょう》のひとつひとつが、微妙《びみょう》にぎこちなくなる。
たぶん、アリスの側にとっても、同じようなものなのだろう。言葉の端々《はしばし》に、遠慮のようなものが見てとれる。
互《たが》いを互いに苦手に思いながら、それでも二人は、今この場所では並《なら》んで歩く。
歩きながらの話題には、実は事欠かなかった。
地元の人間であるアリスは、当たり前といえば当たり前なのだが、この街に詳《くわ》しい。道すがら、辺りの商店事情についてひととおりのことを教わる。女性《じょせい》用メニューの充実《じゅうじつ》した軽食店のリストアップに始まり、衣料店に洗濯《せんたく》屋、雑貨屋に荒物《あらもの》屋、果てには市民|劇場《げきじょう》のチケットディーラーのことまで。
「……そういえば」
話の谷間に、アリスはちらりとこちらを覗き見て、
「ジネットさん、そんな格好《かっこう》してるから、すぐにはわからなかったですよ」
「ん?……ああ、これか」
答えながら、自分の格好を見下ろす。
大きな帽子《ぼうし》を頭にのせ、そこから溢《あふ》れた髪《かみ》はおおざっぱに編《あ》みこんで背中《せなか》に垂《た》らしている。着ている服も着慣《きな》れたドレスではなく、色の暗い地味な平服だ。
「私の髪は、この街では少しばかり目立つ。
これだけ人の多い場所だと、人目を集めながら歩くのも疲《つか》れる。少しでも地味に装《よそお》って疲労《ひろう》を抑《おさ》えようと思ってな、まぁそんな浅知恵《あさぢえ》だ」
なぜかアリスは怒《いか》りをこらえるような顔でこちらから目をそむけ、
「そーゆーこと嫌《いや》みなしに言える人ってどうかと思います……」
「うん?」
「なんでもないです。世の中の不公平に対する憤《いきどお》りを噛《か》み殺してました。最近毎日欠かさずやってる日課ですので、気にしないでください」
「そうなのか? ずいぶんと変わった習慣《しゅうかん》だが……健康にでもいいのか?」
「いいーえ!」
機嫌《きげん》の悪そうなアリスは、そこまでふてくされてから突然ふと表情を緩《ゆる》めると、何かを諦《あきら》めるような顔で、
「……今さらですけど、ジネット≠ウん、なんですよねぇ」
ぽは、と小さな息を吐《は》く。
「嘘《うそ》みたいっていうか、冗談《じょうだん》みたいっていうか……世の中、不公平です。こっちがあんなにがんばってニセモノのジネット姫《ひめ》≠やったのに、こんなところに、色んな意味でホンモノなジネットさんがいるんですよ?」
「名前が同じだからといって、そこまで吠《ほ》えずとも」
「名前だけだったら吠えません」
じっとりと、いやな湿《しめ》り気を帯びた目で、睨《にら》まれた。
「銀髪《ぎんぱつ》で、翠眼《すいがん》で、すごい美人で、なんか気品とかあって、しかもその上名前がジネット≠ネんですよ? なんなんですかそのめちゃくちゃな再現度《さいげんど》。できればそういうのは舞台《ぶたい》の上だけでやってほしいところです。そして役とはいえしっかり名前負けしてたわたしには、見るからに名前負けしてないジネットさんに対して、嫉妬《しっと》の目を向ける権利《けんり》があると思うわけです」
名前負け。
それを言い出したら、自分のほうがよほどひどいだろうと思う。
なにせジネット姫≠ニいえば、とても優《やさ》しく愛らしく、誰《だれ》からも大切にされていたという筋金入りのお姫様だ。名前は同じでも、自分とは到底《とうてい》似《に》ても似つかない。そしてその一点において、少なくともアリスは、自分などよりよほどジネット姫≠ノふさわしいのではないかと思う。
少し、意地の悪いことを言いたくなってきた。
「それを言うなら、私のほうこそ、君に嫉妬しなければならないな、アリス」
「なんでですか」
ぷうと頬《ほお》を小さく膨《ふく》らませるアリスに、
「アルベールに聞いたぞ、学術院《ライブラリ》ではもう何十回も君を賭《か》けての決闘《デュエル》が行われ、リュカがそのすべてに勝利してきたそうだな?
名前だけの姫君である私などより、よほど君のほうが姫君らしい。少なくともそれにふさわしい愛され方をしているのではないか?」
「それは」
唐突《とうとつ》に、少しだけ、アリスの表情が暗くなる。
「そうかも、しれません、けどねー」
わずかに苦味を帯びた笑顔《えがお》で、呟《つぶや》くように、答える。と、
「あ……」
不意にアリスが足を止める。そしてその視線《しせん》の先で、
「あれ?」
一人の少年が、同様に足を止める。
灰色《はいいろ》に近い色の短い黒髪に、中性的な、よく整った顔立ち。
どこかで見た顔だなと思う。
「フロリアンさん」
「やぁ、アリスさん」
少年の顔が、ぱぁっと、まるで子供《こども》のように華《はな》やぐ。
「どうしたんですか、こんな朝早く」
「あぁ、大使館に用があって、ちょっとね」
「大使館……って、あれ、フロリアンさんって、実家どちらのほうでしたっけ?」
「あぁっと――」
やや口ごもってから、フロリアンは答える。
「――ミルガ、なんだけど」
瞬間《しゅんかん》、アリスは「しまった」という顔になる。
戦争が始まろうとしているという噂《うわさ》が、朝靄《あさもや》のようにおぼろげながらも、確実にフェルツヴェンの街に広がっていた。いわく、ミルガの国軍はペルセリオとの国境近くに展開を終えており、何らかのきっかけさえあれはすぐにも侵攻《しんこう》を開始するに違いない、と。
噂は、噂でしかない。それは、所詮《しょせん》は、噂でしかない。それを裏付ける何かの証拠《しょうこ》があるわけでもないし、そもそも情報の出所からして不鮮明《ふせんめい》だ。
けれど、街を乱《みだ》すには、それでも充分だった。その不穏《ふおん》な噂は街に住む人々の心の中に不安を植え付け、その不安はそのまま隣人への不信へと育っていった。いまこの街の中では、ミルガという国名は、あまり良いイメージで扱われていない。
「すみません……」
「いや、いいんだ、こっちこそ余計《よけい》な気を使わせてごめん……」
そこでふと、フロリアンの目がこちらを認《みと》める。
「あれ、きみは確《たし》か、前にも……」
それでジネットもまた思い出した。以前、アリスと二人で夜の街を歩いていたときに、一度この少年と会っている。その時その場所にはさらにもう一人、別の少年もいて、どちらかというとそちらのほうが強烈に印象に残っていたため、思い出すのに時間がかかってしまった。
「あ、すみません、また二人だけで話し込《こ》んじゃって」
アリスが慌《あわ》てて二人の間に入る。
「ええと、紹介《しょうかい》しますね。ジネットさん、こちらフロリアンさん、学術院《ライブラリ》の先輩《せんぱい》です」
「よろしく」
自然な笑顔とともに、握手《あくしゅ》を求められる。
戸惑《とまど》いながら、差し出されたその手を握《にぎ》りかえす。
「先日は挨拶《あいさつ》もなく、すみませんでした。綺麗《きれい》な人がいるなとは思っていたのですが、悪友を止めることで精一杯《せいいっぱい》で、それ以上は頭が回らなかったもので」
奇妙《きみょう》な謝罪《しゃざい》の言葉とともに、丁寧《ていねい》に頭を下げられる。
「そ、そうか……」
反応《はんのう》に困《こま》り、ぼんやりした声で答える。
「先日、創立寮《そうりつさい》『ジネット』を演《や》ったっていう話をしたじゃないですか。あの舞台《ぶたい》で、主役を演ったのがこのフロリアンさんなんですよ」
「……主役?」
「レオネルですよ、|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》レオネル・グラント」
「レ――ッ!?」
声を失った。背《せ》がのけぞった。顔がひきつった。
「ど、どうかしました? なんだか……面白《おもしろ》い顔に……」
「い、いや、何も……何もない、そうとも、何もないとも」
考えてもみれば、当たり前のことだ。『ジネット』の舞台を演ったというならば、一通りの役柄《やくがら》にあわせた役者がそろっているはずなのだ。すぐそこにジネット姫《ひめ》役の少女がいるのだから、もちろんすぐそばにレオネル役の少年だっているはずなのだ。アヴィン役だってナディーヌ役だっているはずなのだ。アルト役は……まぁ、どうでもいい役どころだから省略《しょうりゃく》されているだろうが。
とにかく、そういうことだ。
全ては、当り前。驚《おどろ》くきところはどこにもないのだ。
だから落ち着け自分。
「はぁ……」
納得《なっとく》したようなしていないようなそんな声の後、
「で、フロリアンさん、こちらはジネットさん――リュカさんの知り合いです」
そんな風な言葉で、今度はこちらが紹介された。
「ジネットだ。どうやらリュカの知り合いということらしい……ところで、ええと、フロリアンと呼《よ》んでいいのかな?」
「はい、もちろん。気軽に呼んでいただければ光栄です。
ジネットさん、ですか。これ以上ないというほど似合ったお名前ですね――」
「ところでフロリアン、さっそくだがひとつ聞きたい」
「――はい?」
「何か大きなトラブルでも抱《かか》えているのか?」
「――――はい?」
何を言っているのか分からないという顔で、首を傾《かし》げられた。
「これだけの人数の人間が、素人《しろうと》とは呼べない習熟度《しゅうじゅくど》で気配を殺している。経緯《けいい》は分からないが、随分《ずいぶん》と面倒な相手の恨《うち》みを買ったものと見えるな」
「何の、ことです?」
「君を監視《かんし》している者がいる」
フロリアンが息を呑み、アリスが「はへ?」という顔になる。
ジネットはわずかに目を細め、声を抑《おさ》えながら、言う。
「かなりの数だ。例えば君の右後ろに、ベンチに座って新聞を読んでいるふりをしている男がいるのだが――」
「え……」
フロリアンとアリスが、申し合わせたように、同時に振り返る。
二人の視線が、まさにフロリアンの右後ろ、ベンチで新聞を読んでいる男に注《そそ》がれる。
辺りの空気が変わる。見出し記事に目を注いでいた――少なくともそのように演技《えんぎ》をしていた男の目が、ぎろりとこちらをまっすぐに睨《にら》みつける。
(……馬鹿!)
気付いていることに、気付かれた。
向こうの目的が何かはまだ分からないが、少なくとも楽しいことではないだろう。そしてこちらがその存在に気付いてしまった以上、何らかの楽しくないアプローチに出てくるだろうことはまず間違いない――
「避《よ》けろ!」
握ったままだったフロリアンの手を、ぐいと思い切り引いた。
少年の体がバランスを崩《くず》して、大きく前方へと泳ぐ。同時に、
パンッ――
朝の街の穏《おだ》やかな空気をぶち壊《こわ》す、無粋《ぶすい》な破裂音《はれつおん》。
バス、という鈍《にぶ》い音とともに、少年の肩があった場所のすぐそば、道端《みちばた》に積まれていた木箱に穴《あな》が開く。
「え……」
「わ……」
フロリアンとアリスがそれぞれに当惑の声を漏《も》らすのと同時に、ジネットは二人の手を掴《つか》み、手近な路地に飛び込んだ。果物《くだもの》の袋《ふくろ》が宙《ちゅう》に放《ほう》り捨《す》てられ、中身がばらばらと辺りに散らばる。
誰か、関係のない通行人の一人が、悲鳴をあげた。
一瞬《いっしゅん》遅《おく》れて、混乱《こんらん》が起こった。
人気のまだ少ない早朝であることが幸いした。あっという間に視界《しかい》の中から人の姿《すがた》が消えてしまう。この場所に残っているのは、自分たち三人だけだ。
「頭を低く下げろ!」
「な……」
「て……」
「いいから、下げろ!」
有無《うむ》を言わさずそう命令を飛ばし、一人立ち上がる。
狙撃者[#「狙撃者」に傍点]の大体の位置は分かっている。通りの反対側の、屋根の上。
距離《きょり》と威力《いりょく》から察するに、狙撃《そげき》に使われたのは、それ専用《せんよう》に射程《しゃてい》と精度《せいど》を増《ま》した腔線銃《ライフル》の類《たぐい》だろう。もちろん、一般人《いっぱんじん》の武装《ぶそう》が許《ゆる》されていないフェルツヴェンで容易《ようい》に手に入るようなものではない。
乱暴《ちんぼう》な足音が、近付いてくる。
狙撃で仕留《しと》められなかったからといって、向こうは諦《あきら》めるつもりはないようだった。足音の数は軽く十に届《とど》く。白昼堂々にそれだけの数の人間を動かして襲《おそ》いかかるのだから、向こうもだいぶ必死ではあるらしい。
「もう一度聞く。フロリアン、誰かに恨まれるようなことをした覚えは?」
振《ふ》り返り、軽い口調でそう部ねた。
「…………」
答える代わりに、フロリアンは立ちあがった。
「おい?」
「これは、僕《ぼく》の問題だよ。君たちは早く離《はな》れて」
きっぱりと、決意を固めた口調で、フロリアンはそう言い切る。
唇《くちびる》から血の気が引いている。握《にぎ》りしめた拳《こぶし》が震《ふる》えている。見ていて痛々《いたいた》しいほどに、無理をして勇気を奮《ふる》い起こしている。
「身柄を狙われる理由に心当たりは?」
「いいから、離れて。こんなことに君たちまで巻《ま》き添《ぞ》えになったら、僕は悔《く》やんでも悔やみきれない」
「…………」
少し、かちんときた。
人の話を聞けと思った。
「アリス、この男を任《まか》せてもいいか?」
「え……ええ、と、どういうこと……?」
「見ていてくれればそれでいい」
自分を押《お》しのけて前に出ようとするフロリアンの肩《かた》に触《ふ》れると、
「頭を下げろと言ったろう」
|夜の軟泥《ワルプルギス》によって増幅《ぞうふく》した腕力《わんりょく》で、力任《ちからまか》せに引き倒《たお》した。
普通《ふつう》の人間の筋力で、しかも不意を突《つ》かれてほ、それに抗《あらが》えるはずもない。
フロリアンはなす術《すべ》もなく石畳《いしだたみ》の上に背中《せなか》を叩《たた》きつけられ、「がっ……」と小さな悲鳴を漏らした。
「……リュカの気持ちが、少しだけ分かった」
呟《つぶや》いた。
いつもなら、こういう時にはアルト老が余計《よけい》な茶々で話の先を促《うなが》してくれる。しかし今ここに彼はいない。だから自分一人で、勝手に先を続けた。
「出来もしないくせに自分一人で全《すべ》てを抱《かか》えてしまおうと、ただかたくなに他者を拒絶《きょぜつ》するだけのその姿。……なるほど、確《たし》かに、見ているほうが苛立《いらだ》つものだな。今後は私も気をつけるとしよう」
「……あ、危《あぶ》ないです、ジネットさんもこっちに……」
腰《こし》を浮《う》かしかけたアリスを制《せい》する。
「心配は要《い》らない」
「でも、さっきのって、拳銃《ピストル》の音……っ」
あれは拳銃《ピストル》などではなかった。
拳銃《ピストル》ならば、市井《しせい》の人間でも、ちょっと裏《うら》のルートに精通《せいつう》していれば、対価次第《たいかしだい》で手に入れることもできるだろう。しかしあれは、そんな生易《なまやさ》しいものではない。入手しそして用いるためには、拳銃《ピストル》などとは比《くら》べものにならないほど組織《そしき》的で、そして計画的な殺意が必要になる――そういう凶器《きょうき》だ。
アリスにとっては、そんなものには何の差もないも同然なのだろうが。
「心配は要らない、と言っている。私は嘘《うそ》は吐《つ》かない。……たまには信じてくれ、アリス」
「え……」
|夜の軟泥《ワルプルギス》を編《あ》みその手の中に剣《けん》を創《つく》り出す。
その切っ先を一度、フロリアンの喉元《のどもと》に突き付ける。
「死にたくなければ、そこで動かずにいろ」
「……っ」
問いかけるようなフロリアンの無言の視線《しせん》を受け流し、通りに向き直る。
こちらを取り囲むようにして、十人ほどの数の男たちが、近付いてきている。さきほどの足音と数が一致《いっち》しているのを確認《かくにん》して、ジネットは路地を出る。
男たちの服装《ふくそう》は、このフェルツヴェンの町並《まちな》みによくなじむ、平凡《へいぼん》なものだった。
だがその身のこなし、視線の運び方、そして何よりそれぞれの手の中に握られた拳銃《ピストル》やナイフが、彼らが見た目通りの、平凡な一市民などではないということを雄弁《ゆうべん》に教えてくれていた。
平凡な一市民ではない――しかし、正常《せいじょう》な人間の域《いき》を出てはいない。
ジネットは、抑《おさ》えきれない微笑《ほほえ》みを唇の端《はし》に浮かべて、男たちの前に立つ。
構《かま》えは取らない。その必要はない。
「――ちょうど少しばかり、気晴らしに体を動かしたいと思っていたところでな。悪いが、事前の降伏勧告《こうふくかんこく》は省略《しょうりゃく》だ」
涼《すず》しく柔《やわ》らかな声で、そこに在《あ》る者全員に対して、語りかける。
「詳《くわ》しい話を聞く前に、まずは一撃《いちげき》ずつ殴《なぐ》らせてもらう」
9.
書庫のソファに横になって、ライアはぼんやりと天井《てんじょう》を眺《なが》めていた。
ふだん考えなければいけないことが多いぶん、こうしてできた空隙《くうげき》の時間くらいは、何も考えずに過《す》ごしたい。
だから、天井のしみを数えたり、あのしみの形は誰《だれ》それの顔に似《に》てるなぁとか考えたり、そういえばこの書庫で昔人が死んだとかいう話があったなぁとか思いだしたり、そういったことはやらない。頭の中は極力からっぽにして、時間の過ぎていくのをただただ待ち続ける。
……こうしていると、とても遠い日のことを思い出す。
自分がライア・パージュリーではなかったころのこと。
田舎《いなか》の小さな村に住む、小さな女の子だったころのこと。
あのころの自分も、空いた時間には、こんな風にして天井を見上げていた。何も考えずにただそこにあるものを呆《ぼう》と見つめていることが好きだった。一時期、弟がそれを真似《まね》て、毎日のように昼寝《ひるね》ばかり繰《く》り返していたことがあった。そしてそのうち、夜にこっそりと外を出歩くようになった……と、これは自分とは別の女のせいだったか。
ああ、ダメだ。
頭を空っぽにするつもりだったのに、気付けばこうして、何やら懐《なつ》かしいことを考えている。しかもその思い出の中が心地《ここち》よいからと、それを止められずにいる。
ぬっ――と。音もなく突然《とつぜん》に、目の前に、ヴァランタンの顔が現《あらわ》れた。
「――――――――ッ!?」
心臓《しんぞう》がでんぐりがえるほど驚《おどろ》いた。
「あの、ライア、さん」
ぽつぽつと、ヴァランタンはいつもの声で話しかけてくる。
が、それに準えようにも、驚きのあまりに息が詰《つ》まって、声が出ない。
「――ッ! ――、――ッ!!」
自分の胸元《むなもと》を押さえて一通り苦しんで、なんとかようやく心臓と肺《はい》とが本来の働きを思い出してきて、ゆっくり息を整えながら動悸《どうき》が鎮《しず》まるのを待って、そしてようやく、
「あ、あんたねぇ……」
苦悶《くもん》の声、いや文句《もんく》の声を出すことができた。
「いきなり人の前に顔出すなって前も言ったでしょうが! そのうちあんた、その顔で人殺すわよ人を!」
いきなり叱《しか》りつけられたヴァランタンは、びくんと一回大きく肩《かた》を揺《ゆ》らして・
「……怖《こわ》いこと、言わないで、ください……」
「怖いのはあんたの顔だっての!」
「……だから、慣《な》れて、くださいって……」
「それは物理的に無理!」
「…………」
しょぼん、とヴァランタンは肩を落とす。
ライアはソファの上に身を起こし、くしゃりと前髪《まえがみ》をかき乱《みだ》しながら、
「で、何の用? 大した用じゃなかったらひっぱたくわよ?」
怯《おび》えるように、ヴァランタンは枯《か》れ木のような両手で頭をガードする。
「いいから用件《ようけん》を言いなさいってば」
先を促《うなが》して初めて、
「……お客様……室長のところに……」
ぽつぽつと、語りはじめる。
「客がどうしたっての」
「…………」
「おーい?」
「どこか……へンでした……」
「どこの誰かは知らないけど、あんたに言われるのも不本意だろうねぇ」
ヘンが服を着て歩いているようなヴァランタンの風貌《ふうぼう》を改めて眺めながら、ライアは正直なところを漏《も》らす。
「…………」
ヴァランタンは、答えない。
ただ静かに佇《たたず》んで、続くライアの言葉を待っている。長い前髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》く唇《くちびる》が、不安そうに半開きになっている。
ああもう。泣く子とヴァランタンには勝てない。
「……分かった。お茶持ってくついでに、様子見てくる」
のっそりと、ライアは身を起こす。
「よろしくお願い、します……」.
ぺこり、ヴァランタンが頭を下げる。
客というのは、ミルガの軍人だった。
大きな男だった。それも、ごくごく単純《たんじゅん》な意味で。
見上げるほどに背《せ》が高い。そしてその体を、軍服の上からでも見て分かるほどの鍛《きた》えられた筋肉《さんにく》が支《ささ》えている。大岩にも見間違《みまちが》えそうな、まるで肉の塊《かたまり》だった。
そして、その男は、苛立《いらだ》っていた。
また、そのことを隠《かく》そうともしていなかった。何度も何度も、机《つくえ》の上で、その指を組み替《か》えている。そうでなくてもいかめしい顔をさらに渋面《じゅうめん》にしかめている。
「我々《われわれ》は、あまり多くを求めているわけではない」
短い沈黙《ちんもく》の後に、男が口にした言葉はそれだった。
「我《わ》が国《くに》の軍に対してのみ駐留《ちゅうりゅう》と補給《ほきゅう》を行うという誓約《せいやく》。求めているのはそれだけだ。書類一枚《しょるいいちまい》でたのつく簡単《かんたん》な仕事。難《むずか》しいことでも何でもない。
それを拒《こば》むということは……フェルツヴェンは我が国には決して協力しないという、そういう意思表示《いしひょうじ》だととって良いか?」
「そんなことは、言ってませんよ」
アルベールは頭をかきながら、いつもの口調で返す。
「ただ、フェルツヴェンは創立《そうりつ》より貫《つらぬ》かれてきたその理念として、どの国とも敵対《てきたい》はできないと、そう言っているだけです。ましてミルガの属国《ぞくこく》となってペルセリオやドースに喧嘩《けんか》を売るなど、とんでもない話だ」
「理念はあくまでも理念。どれだけ律儀《りちぎ》に貫いたところで、それだけで身が守れるような代物《しろもの》ではない。実際《じっさい》にこの大陸に戦《いくさ》の炎《ほのお》が燃《も》え盛《さか》ってもなお、そのようなことを言っていられるとでも思っているのか」
「言葉遊びを始める気はないですけどね。でも、どのような状況《じょうきょう》にあろうと、貫き続けてこその理念でしょう。この学術院《ライブラリ》が学術院《ライブラリ》としてここにあるかぎり、どんな状況になろうと、それが曲がることはありえません」
言いきる。
「……頭の硬い指導者《しどうしゃ》に動かされる国は不幸だ」
やれやれと、男は大仰《おおぎょう》に首を横に振《ふる》る。
「僕《ぼく》は指導者などではないですよ。そんな肩の凝《こ》りそうな役目はエルフェノク院長にお任《まか》せしていますし」
「ヤニク・エルフェノクか。確《たし》かにあの男なら、まだ話が分かりそうだ」
がたん。男は椅子《いす》から立ち上がる。
「でも残念ですが、外交に関《かか》わる全《すべ》ての権限《けんげん》は僕にあるんです。この件《けん》に関しては、胃が痛《いた》い思いをするのも髪《かみ》の毛がどんどん抜《ぬ》けていくのも、彼ではなく僕なんです。なので申し訳《わけ》ありませんが、ここは諦《あきら》めていただくしか……」
「……つまり、今この場で目の前の男を暗殺してしまえば、今後はもっと扱《あつか》いやすい男を相手に交渉《こうしょう》できるようになるということだな?」
ずらり、という小さな音。
どこから取り出したものか、男は、大振《おおぶ》りの蛮刀《ばんとう》を抜き放っている。黒く艶《つや》のない刀身には金属《きんぞく》らしさというものが感じられず、そのことがか.えって逆《ぎゃく》に得体の知れない不気味さを演出《えんしゅつ》していた。
「げ」
アルベールは後ずさる――こともできなかったので、ソファにへばりつく。
「ちょ、ちょっと待ってください、暴力《ぼうりょく》はいけません暴力は!」
「これはおかしなことを。軍人に、暴力以外の何を以《もっ》て意を通せと?」
「少なくとも話し合いの席では言葉を使って下さいよ!」
「その言葉とやらでは貴殿を動かせぬようなのでな――」
ただそれだけ言って、男は愛想《あいそ》もなにもなく刃《やいば》を疾《はし》らせて、
「熾き上がれ[#「熾き上がれ」に傍点]」
その腕《うで》が、突然《とつぜん》、純白の炎に包まれた。
「ぬっ……」
男はその腕を引き、大きく後方へと跳躍《ちょうやく》する。「誰だ」と誰何《すいか》の声を上げながら視線《しせん》を巡《めぐ》らそうとしたところに、
がしゃん。
男の額《ひたい》に、ティーカップが直撃《ちょくげき》した。
琥珀色《こはくいろ》の液体《えきたい》が、だらだらと男の顔を伝い落ちる。
「……随分《ずいぶん》と情熱《じょうねつ》的な話し合いなのね?」
女の声が、呆れたように、そんなことを呟《つぶや》く。
「助かったよ〜!」
アルベールが情《なさ》けない声をあげて、椅子《いす》の陰《かげ》へと隠れる。
「思わず水さしもゃったけど、愛の語らいは続けなくていいのかしら?」
「いやそういうキモい冗談《じょうだん》いらないから!」
扉《とびら》のすぐ傍《そば》に、若《わか》い女が――ライアが立っている。
軍服の男は、ティーカップの破片《はへん》を振り払《はら》ってから、ライアの顔を睨《にら》みつける。
「学術院《ライブラリ》の魔書使い《グリモア・ハンドラ》か」
「御名答《ごめいとう》。そういう貴方《あなた》は、本当にただの軍人なのかしら?」
扉のすぐそばに立った女――ライアは、男の右腕に視線を注いでいる。軍服の袖《そで》が多少焦《こ》げている。あれでは、その下の腕そのものはほとんど傷付いていないだろう。先ほど炎の直撃を受けたはずなのに、その程度《ていど》のダメージしか残ってはいない。
普通《ふつう》では考えられないことだった。
だからそこには、必ず、普通ではない何らかの要因《よういん》がある。
「軍人だとも。軍人だからこそ、祖国《そこく》に仇《あだ》なすものはすべて、それがどのような悪鬼《あっき》妖魔《ようま》の類《たぐい》であろうと討《う》ち果《は》たしてみせる」
「そういうこと聞いてるんじゃ、ないんだけどなぁ」
ライアは手にした本のページをいくつかめくり、
「ま、いいわ。詳《くわ》しい話は叩《たた》きのめしてから聞いてあげる」
いつもの口調で、そう宣言《せんげん》した。
ライアら魔書使い《グリモア・ハンドラ》は、それぞれに魔法書《グリモア》を持ち、その内容《ないよう》を理解《りかい》することによって、魔法《ウィッチクラフト》を使うことを可能《かのう》とする。そしてこの魔法というシロモノは、なにせ魔法というくらいだから、尋常《じんじょう》の人間ではどう逆立《さかだ》ちしても届《とど》かないようなムチャクチャを、いとも簡単《かんたん》に体現《たいげん》してのける。
たとえば戦場という舞台《ぶたい》にあって、一人の魔書使い《グリモア・ハンドラ》を、馬鹿《ばか》正直に兵士を使って取り押さえようとしたならば、場合にもよるが百やそこらの被害《ひがい》は確実《かくじつ》に出ることになるだろう。魔法を操《あやつ》る者とそうでない者との間には、それだけの物差し[#「物差し」に傍点]の違《ちが》いが、ある。
しかし、軍事国家であるミルガは、自国の中に魔書使い《グリモア・ハンドラ》を戦力として持たない。
そして、その不利を補《おぎな》い覆《くつがえ》すために、ひとつの特殊《とくしゅ》な兵団《へいだん》を保持《ほじ》している。
非公式《ひこうしき》の存在《そんざい》であるためか、正式名称は知られていない。世界の裏側を知りうるごく一部の者の間でのみ、|魔女狩り部隊《マレウス・マレフィカールム》の名で語られている。
専用《せんよう》の刻印《ブランディング》を施《ほどこ》された特殊な装具《そうぐ》に身を固め、同じ刻印《ブランディング》を施された武器《ぶき》を振《ふ》るう。魔書使い《グリモア・ハンドラ》の魔法に抗《こう》して、そしてそのまま、兵士としての戦術《せんじゅつ》を以《もっ》て魔書使い《グリモア・ハンドラ》という個人《じん》を制圧《せいあつ》する。
――ライアらにとっての、天敵《てんてき》と、言ってもいいだろう。
「千億に砕《くだ》けた鏡のかけら、千億に映《うつ》る恍惚《こうこつ》の貌《かお》=v
ライアは考える。炎《ほのお》が効《き》かなかったということは、つまりそういうことなのだろう。
|魔女狩り部隊《マレウス・マレフィカールム》。
噂《うわさ》に聞いていた、けれど今まで現物と出会ったことはなかった。これが初の顔合わせとなり、また初の手合わせともなる。
「|瞳を閉ざせば唯一きりの闇《ソン・レーヴ・シェルシュ・ル・モンド》=v
魔法書《グリモア》に蓄《たくわ》えられていた|夜の軟泥《ワルプルギス》が渦を巻くようにして辺りを包み込んでいく。辺りを取り巻《ま》く光景が、一切《いっさい》の色彩《しきさい》を失う。
「小賢《こざか》しい!」
魔女狩り《マレウス・マレフィカールム》部隊の男は、その異常な光景を目にしても一切の迷《まよ》いなく、一直線に踏《ふ》み込んでくる。
とりあえず、室長《アルベール》から危険《きけん》を引きはがすことには成功したと見ていいようだ。そこまでは良しとしよう。しかしこのままでは、自分の身のほうが危《あぶ》ない。
しかしだからといって、生半可《なまはんか》な威力《いりょく》の魔法で迎撃《けいげさ》したところで、足を止められるとは限《かぎ》らない――いやむしろ、先ほどの炎を凌《しの》ぎきってみせた刻印《ブランディング》の強さからして、まず無理と思っておいたほうがいいだろう。そしてその一撃で仕留《しと》めることができなければ、あの大げさな蛮刀《ばんとう》でばっさりやられてしまう。
ああもう。まったく、面倒《めんどう》くさい相手だ。
「撃ち砕け[#「撃ち砕け」に傍点]」
きゅひぃ、と小鳥がさえずるような音。幾条《いくじょう》もの光の筋《すじ》が男の足元に収束《しゅうそく》する。が、男は無言で大きく跳躍《ちょうやく》しそれをかわすと、そのまま一気にこちらとの距離《きょり》を詰《つ》めにかかってくる。
振るわれる蛮刀を、軽く身を引いてかわす。それ自体が刃《やいば》のような鋭《するど》い風圧《ふうあつ》が、首筋を軽く撫《な》でて消える。
男は攻めの手を休めない。右から左から、上から下から、たたみかけるように蛮刀が襲《おそ》いかかる。速くそして正確な、申し分のない連続攻撃《れんぞくこうげさ》。ライアはその半ばを体を退《ひ》くことでかわし、残りの半ばを袖口から取り出した自前のナイフで逸《そ》らすことで凌いでいく。
「梢に砕けて[#「梢に砕けて」に傍点]、――」
「遅《おそ》い!」
言葉を完成させるより早く、蛮刀の一撃が、ライアの手からナイフを弾《はじ》き飛ばした。
ほぼ同時に、ライアの背《せ》が、どん、と音を立てて壁《かべ》にぶつかった。
男の口元に、小さく歪《ゆが》んだ笑《え》みが浮《う》かぶ。そこには、部屋の角に追い込んであとはとどめを刺《さ》すだけだという、勝利を確信した者の愉悦《ゆえつ》が見えた。
「……分かりやすいわね」
呆《あき》れて、そう呟《つぶや》く。
きゅひぃぃ――小鳥の断末魔《だんまつま》のような音が鳴った。
男の背後《はいご》。最初に男が跳躍してかわした光の塊《かたまり》が、突如《とつじょ》その形を槍《やり》に変えて、背後から男の背に突《つ》き立った。驚愕《きょうがく》の声も、背後を振り返る余裕《よゆう》すらもなく、男はただ一度大きくその目を剥《む》いただけで、そのまま意識《いしき》を失いその場に崩《くず》れ落ちた。
展開《てんかい》していた|夜の軟泥《ワルプルギス》を解《ほど》く。辺りの光景がもと通り、何の変哲《へんてつ》もないフェルツヴェン学術院《ライブラリ》第六書庫の執務室《しつむしつ》のそれに戻《もど》る。
「終わった?」
ソファの上からずり落ちそうな姿勢《しせい》で、おずおずとアルベールが聞いてくる。
「まぁ、ね」
弾き飛ばされたナイフを拾い上げ、袖口《そでぐち》の中に戻しながら、ライアは答えた。
「純度《じゅんど》の高い軍人で助かったわ、騙《だま》しやすいったらありゃしない」
おそらくはあの軍服に施されているのだろう防御《ぼうぎょ》の刻印《ブランディング》を貫《つらぬ》くために、一度発生させた炎を時間をかけて圧縮《あっしゅく》し熟成させてから撃《う》ち出す。今ライアがしたことは、突き詰めて言ってしまえばそれだけだ。
むろん、ただ単発でそれを放ったところで、当てられるはずもない。だから足止めの技であるかのように偽装《ぎそう》して放った。男は自分の足元に生まれた光の筋を踏み越《こ》えた時点で、それの脅威《きょうい》は去ったのだと思いこみ、頭の中からそれを消し去った。そうなってしまえば後は簡単《かんたん》で、部屋の隅《すみ》に自ら追い詰められることによって相手の位置と姿勢を誘導《ゆうどう》し、うまく攻撃が背中を直撃するようにと仕立ててやればいい。
単純にして明快《めいかい》な、ただそれだけの策《さく》。
もちろん、どんな相手にでもほいほいと通用するような、便利な手ではない。奇策《きさく》はあくまでも奇策。特殊《とくしゅ》な状況時《じょうきょうじ》に、特別な条件《じょうけん》を満たして初めて使えるものだ。
相手が訓練《くんれん》された軍人であり、こちらが見せた隙《すき》の全てに対して最適《さいてき》な動きで噛《か》み付《つ》いてきてくれたこと。そして、向こうにこちらの手口が知られていなかったこと。この二つがうまく噛み合ったからこそ、こんな単純な手が、ここまでうまく働いてくれた。
「やれやれ、ひどい目に遭《あ》ったなぁもう」
ぼやきながら、ようやくアルベールはソファの上で姿勢を正す。
「そろそろ、護衛《ごえい》なしでお客に会うのは危ない時期かもしれないわね」
「うわぁ、なんだか物々しくてイヤだなぁそれ」
「我慢《がまん》してよ、そういう情勢《じょうせい》なんだから。それに、お客といってもミルガ人相手だけなんだし、そんなに気にするほどめったにあることじゃ――」
「いやぁ、それは……ちょっと」
「何よ」
男の落とした蛮刀を拾い上げ、その刀身をつんつんと指でつついてみる。|夜の軟泥《ワルプルギス》の気配が内側で安定しているのが感じられる。刻印《ブランディング》が施《ほどこ》されている。魔法《ウィッチクラフト》によって発生する現象《げんしょう》を切り裂《さ》き、場合によっては不死者《レヴナント》すら深く傷《きず》つけられるかもしれない武器《ぶき》。
こんなものを大量生産しているというのだろうか、ミルガは。
あとでヴァランタンに見せておこうと思う。
刻印《ブランディング》に関して、自分は専門《せんもん》ではない。だが彼ならば、そんな自分では分からない何かを、この物騒《ぶっそう》なオモチャから見出《みいだ》してくれるかもしれない。
「……警戒《けいかい》すべき相手は、ミルガだけじゃない」
「はい?」
アルベールが妙《みょう》なことを言い出した。ライアは蛮刀に落としていた視線《しせん》を上げる。
「ペルセリオにも開戦派《かいせんは》はいるし、彼らも最近だいぶ勢《いきお》いをつけてきている。ドースには武器商人の大店《おおだな》がごろごろしてるし、ミルガとペルセリオがいがみ合って国力をすり減《へ》らしてくれるならありがたいと考えている者も少なくない。ついでに言うならうちの院長もどちらかというと開戦派。つまり、右見ても左見ても敵《てき》だらけ」
はぁ、といつものようにため息を吐《つ》いて、
「ここまで危《あぶ》ないことやってくる連中はごく一部にしても、今後はもう、誰《だれ》に会うにもそれなりの警戒は必要になると思う。まったく、嫌《いや》な時代になったもんだなぁ」
それはまた、難儀《なんぎ》な話だ。気の毒に。
「……って、もしかしてそれって、つまり、私の仕事が増《ふ》えるってこと?」
「そうなるね」
それはまた、災難《さいなん》な話だ。勘弁《かんべん》して。
10.
――それは、戦いと呼べるようなものではなかった。
手の中の剣《けん》を、頭上へ放《ほう》り上げる。
その場の全員の視線が、吸《す》い寄《よ》せられるように、上を向く。
注視の中、かりそめの鋼鉄《こうてつ》を維持《いじ》していた|夜の軟泥《ワルプルギス》がほどけ、剣は白い光に弾《はじ》けて消えてしまう。誰もが一瞬《いっしゅん》だけあっけにとられ、そして思い出したように視線を地上に、目の前にいるはずの少女のところにひきもどした時には、もう何もかもが遅《おそ》すぎた。ジネットは動いている。
手近にいた男の一人のふところに飛び込み、腹《はら》の中に拳《こぶし》を埋《うず》めた。身を翻《ひるがえ》し、すぐ隣《となり》に立っていた男の首筋《くぴすじ》に手刀を叩《たた》きこんだ。
不幸なその二名がぐらりと体勢を朋《くず》すその姿《すがた》を、男たちは見る。
その一瞬の出来事を受け入れきれず、男たちは再《ふたた》び動揺《どうよう》する。
ジネットは地を蹴《け》る。
その速度についてこられず、帽子《ぼうし》が頭から滑《すべ》り落ちる。
男たちは、決して素人《しろうと》ではなかった。人と戦い、それを傷つけそして殺すための技《わざ》を、訓練によって体得していた。だから白兵の間合いにまで飛び込んできた人間からどう自分の身を守り、どう相手を制圧《せいあつ》するべきかを、体が覚えている。どれだけ動揺していても、目前に脅威が迫《せま》れば体が反射《はんしゃ》的に対応《たいおう》する。
だが、だからこそ、彼らには、ジネットの動きをとらえることはできない。
彼らが培《つちか》ってきたのはあくまでも人と戦うための技術《ぎじゅつ》。人以上の速さを以《もっ》て動き回るモノに対して、ただそれだけでは太刀打ちできない。ジネットの繊手《せんしゅ》は男たちの防御《ぼうぎょ》よりもほんの少しだけ速く、そして効果《こうか》的に急所を打ち抜《ぬ》いてゆく。
小柄《こがら》な少女が、悪夢《あくむ》のような速度で飛び回り、無骨《ぶこつ》な拳打《けんだ》で人を殴《なぐ》り倒《たお》していく。
一人、また一人。順番に、男たちは地面に転がり、苦痛《くつう》に悶絶《もんぜつ》する。
気絶させるつもりで打っているのだが、そう簡単《かんたん》には意識《いしき》を失わないようだ――なるほどさすがに鍛《きた》えているのだなと、ジネットは場違《ばちが》いにも感心してしまう。そのことが油断《ゆだん》を生んだのか、最後の一人を一撃《いちげき》で仕留《しと》めそこなった。
心臓《しんぞう》を狙《ねら》って掌底《しょうてい》を放ったが、ぎりぎりで反応を間に合わせた男がわずかに体をねじり、男の肩口《かたぐち》を浅くえぐるにとどまる。関節の外れる嫌な感触《かんしょく》。
苦痛にわずかに眉《まゆ》のかたちを歪《ゆが》めながら、それでもそのダメージを奥歯《おくば》で噛《か》み殺して、男は右手のナイフを走らせる。狙いはジネットの左の脇腹《わきばら》。本来ならば何者にも避《よ》けられるはずもない、そんな確実《かくじつ》で完全な間合いとタイミング。
「ほう」
評価《ひょうか》の声を残して、ジネットは半歩|退《ひ》いた。狙った場所から指一本ほどの隙間《すきま》を開けて、男の振《ふ》るったナイフが空だけを切った。
今度こそ、驚愕《きょうがく》に男の目が見開かれる。
それが、充分《じゅうぶん》すぎるほど大きな隙となった。ジネットはくるりとその場で身を翻すと、男の眉間《みけん》に左の爪先《つまさき》を叩《たた》きこむ。男はぐるりと白眼《しろめ》をむいて、短くない距離《きょり》を吹《ふ》き飛ばされてゆく。
そして今度こそ、完全に気を失う。ぐったりと倒れ伏《ふ》したまま、立ちあがらない。
「……一発ずつ、殴るだけのはずだったのだがな」
地面に落ちた帽子を拾い上げ、その埃《ほこり》を払《はら》いながら、ジネットは呟《つぶや》く。
「まさか、それで足りないとは思わなかった。予想以上に鍛《きた》えられた精兵《せいへい》だな」
そして――通りは静かになった。
男たちは誰ひとりとしてまともに動くことができずにいる。通りに他の人間の姿はない。
そして振り返って見てみれば、フロリアンやアリスは何が起きたのか分からないという様で呆然《ぼうぜん》とこちらを眺《なが》め見ていた。
「とりあえずは、終わったぞ」
返事はない。
「どうする。この連中を締《し》め上げる必要はあるか?」
そこでようやく、フロリアンが我《われ》に返る。
ぶんと強く首を振ってから、
「――放《ほう》っておいていいよ。状況《じょうきょう》は、概《おおむ》ね想像《そうぞう》がついてるから」
「そろそろ自警団《じけいだん》が来る頃《ころ》だろう。彼らに協力を求めるか?」
「…………」
今度は無言で、首を横に振る。
「そうか」
手の中の帽子をかぶりなおして、ジネットは路地の奥のほうに目をやり、
「ならば、早々にここを離《はな》れるとするか。その想像とやらの話は後で聞こう」
「いや、君たちは……」
「アリス、この辺りは案内できるか?」
「は、はいっ」
名前を呼《よ》ばれ、何やら萎縮《いしゅく》したようになっていたアリスが、ぴんと背筋《せすじ》を伸《の》ばす。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》です、ノラ猫《ねこ》の散歩道までばっちり分かります!」
「なら任《まか》せよう、人目につかず一休みできる場所だ。……ああ、いちおう、猫ではなく人が無理をせずに通れる道を使ってくれるとありがたい」
「分かりました!」
「あの、二人とも……」
立場がなさそうに、それでも頑張《がんば》って自分を主張《しゅちょう》しようとするフロリアンの首をそれこそ猫の子にするようにひっつかんで、
「来い」
走り出したアリスの後ろを追う。
細い路地をいくつも抜け、五分ほど歩いたところに、その古い廃教会《はいきょうかい》はあった。
辺りに人目はなく、またその気配もほとんどない。
「五年くらい前に隣《となり》の街区に大きな教会が出来て、こっちは廃棄《はいき》されたんです」
アリスの説明を聞きながら、足を踏《ふ》み入れる。
よほど長いこと人の手が入っていないのだろう。黒く汚《よご》れた壁材《へきざい》は、手を触《ふ》れるだけでぼろぼろと崩れ落《くず》ちる。ステンドグラスはそのことごとくが割《わ》れていて、そこから雨が入りこんでいたらしい。並《なら》んだ椅子《いす》はどれも腐《くさ》りはじめていて、とても腰《こし》を下ろす気にはなれない。
かくのごとく居心地《いごこち》が良いとは決して言えない場所だった。が、それでも、人の目を避《さ》けて一時《いっとき》身を隠《かく》す場所としては十分だろうとは思えた。
視線《しせん》を感じた気がして、顔を上げる。埃をかぶった女人像《にょにんぞう》が、優《やさ》しげな目でこちらを見下ろしている。
(――天使《ハロウド》)
教会の教えの中に現れる、美しき神の御遣《みつか》い。天の最も高いところから降《お》りてきて、正しき人を導《みちび》いてくれる神《オリジン》の代弁者《だいべんしゃ》。
ステンドグラスから差し込《こ》む太陽の光を背負ったその顔は、まるで泣いているかのような陰《かげ》りを湛《たた》えていた。
(二百年前も、今も、この像の姿《すがた》だけは何も変わらない。同じように光を背負い、同じように泣きそうな顔で地上を見下ろしている、か――)
「僕《ぼく》を置いて、逃《に》げてくれないか」
そんな声を聞いて、我《われ》に返る。
「助けてくれたことには、感謝《かんしゃ》するよ。でもこれは、もともと僕の問題なんだから」
朽《く》ちかけた祭壇《さいだん》のすぐそばに佇《たたず》んだフロリアンが、視線を床《ゆか》に落としたまま、何やらたわけたことを言っている。
「……アリス」
「はい?」
「この男はこのように言っているが、君は逃げる気になっているか?」
「そ、そんなのダメですダメに決まってます!」
「だろうな」
ジネットは頷《うなず》いて、
「どうする、フロリアン。この娘《むすめ》が果たして、自分かわいさで意見を折るような人間か。それは学友である君のほうがよく知っているだろう。
君が何も話さないというならば、まぁそれでもいい。我々には、君が隠したいと願っていることを無理に聞きだすようなことは、出来ない。しかしだからといって、我々は君を放《ほう》り出すようなことはない。だから当然、その場合は、我々は何も知らないままにこの後の事態《じたい》に巻《ま》きこまれていくことになるのだがな?」
「ひどい脅《おど》し方をする人だなぁ……」
憔悴《しょうすい》したような顔のフロリアンが、力なく苦笑《くしょう》する。
「あの、フロリアンさん。さっき、おかしなこと、言いましたよね?」
「え?」
「大使館に行ってきたって、言ってました」
アリスが力なく首を横に紛って、
「でも、それっておかしいんですよ。こんな朝早くにそんなとこ行ったって、開いてるはずがないんです。お昼の鐘《かね》が鳴るくらいになってようやく受付から『準備《じゅんび》中』の札が消えるのが、お役所ってものでしょう?」
それは、さすがに、少し偏見《へんけん》が混《ま》ざっているような気がする。
しかし、当のフロリアンがなにやら表情《ひょうじょう》を硬《かた》くしているところからすると、指摘《してき》はやめておいたほうがいいのだろう。黙《だま》っていることにする。
「あの時、フロリアンさんたちがわたしたちに嘘《うそ》をつく理由はありません。それに、嘘ならもうちょっと不自然なところのないように話を作っていたはずです。
だから、あれは本当のこと。フロリアンさんはこの時間に本当に大使館に行って、帰ってくる途中《とちゅう》だった。
……そのことと、なにか、関係あるんじゃないですか……?」
「すごいね」
フロリアンは素直《すなお》に言って顔を伏せて、
「でも、やっぱりダメだよ。僕には、話せない。話したくないんだ」
「強情《ごうじょう》だな。何がそこまで君の口を閉《と》ざさせる?」
「もう、どうしようもないからだよ。本当に、もう、どうしようもないんだ」
「よく分からんな。一体何をそこまで諦《あきら》めて――」
言葉を止めた。
顔を上げた。
廃教会の入り口。高く昇《のぼ》り始めた陽《ひ》の光を背負《せお》って、ひとつの人影《ひとかげ》がそこにある。
「……なんでこんなとこにいるんですか、姫《ひめ》さま」
甲高《かんだか》い、少年の声で、その人影は問いかけてきた。
「……なぜここにお前が現《あらわ》れる」
「や、質問者《しつもんしゃ》はぼくのほうなんですけどね?」
人影はそのまま数歩、前に歩み出る。
強すぎた逆光《ぎゃっこう》の領域《りょういき》から離れ、その姿があらわになる。空色の髪《かみ》に同じ色の瞳《ひとみ》、年若《としわか》い少年にしか見えない姿をしている――
不死者《レヴナント》、サリム・ガールマール。
「ちゃんと、関《かか》わらないでくださいって言っといたじゃないですか。なのになんで、こんなところでこんなことしてるんです、姫さま?」
「姫……?」
アリスとフロリアンの視線《しせん》が、二人の間を戸惑《とまど》いがちに往復《おうふく》する。
「ふん。何を言っているのかが分からんな」
ジネットは内心で舌打《したう》ちしつつ、
「先に答えろサリム、なぜここにお前が現れる? 何が目的だ?」
「そりゃもちろん、そこのそいつですよ。そいつを、あの使えない連中に派手に持ち帰らせてやらないといけないんです」
「そいつ……?」
サリムの細い指が示《しめ》す先を確《たし》かめてみれば、むろんそこにいるのは、辛《つら》そうに顔をしかめたフロリアン・コルア。
「……なぜお前がこいつを狙《ねら》う」
「なぜって、だから前に言ったでしょって。戦争を始めるって」
「それとこいつとの間に、どういう関係があると聞いている」
「…………」
今度はサリムが不思議そうに首をかしげて、
「もしかして、そいつが誰《だれ》なのか知らないで守ってるんですか?」
「ああ」
「何で?」
「なりゆきだ」
そう言いきると、サリムは目を丸くする。
「……なりゆきで、人助け? 死神《アンクウ》とか|人食い鬼《トロル》とか、さんざん好き勝手に呼《よ》ばれてる姫さまが?」
まぁ、そういうことになるだろうか。素直に頷《うなず》く。
「なんか、わけ分かんないんですけど、それ」
「心配するな、私にも分かっていない。どうもこいつは強情《ごうじょう》でな、自分の事情をどうしても語ろうとしないのだ。おかげで私はろくに事情も分からずここに立っている。
知っているなら教えろ、サリム。いったい何がどうなっている?」
「や……やめてくれ!」
悲鳴のような声をあげたフロリアンのことを無視《むし》し、サリムに先を促《うなが》す。
「……まぁ、本人もああ言ってることだし、黙《だま》っててもいいんですけど。
別に、そんなに大したことじゃないんですよ」
ぽりぽりと後頭部を掻《か》きながら、サリムはつまらなそうに、
「フリードリーン・ヴァイドラー。それが、そこのそいつの本名です」
……。
そう言われても、何のことやら分からない。黙って先を待つ。
「父親の名前はイェルマイン・ヴァイドラー。
この名前くらいは、聞いたことありますよね? ミルガの大統領《だいとうりょう》にして、実質《じっしつ》上あの国を独裁《どくさい》している傑物《けつぶつ》です」
つまらなそうな表情のまま、サリムはそんなことを言った。
ジネッ卜は振《ふ》り返り、フロリアンの様子を窺《うかが》う。
辛そうな顔でそっぽを向いている様子から見て、どうやらまさにそのことこそを、彼は明かしたくなかったらしい。
「あとはまぁ、想像《そうぞう》できますよね?
これはミルガと、ペルセリオの開戦派《かいせんは》との合同作戦なんです。
さっきの襲撃《しゅうげき》をやった連中はペルセリオの軍人。彼らの手でそこのそいつを殺して、戦争を始める口実を作り上げる手筈《てはず》だったんです。
そりゃもちろん、それだけで戦争が始められるとかいうほど世の中は単純《たんじゅん》じゃないですよ? でも何事も、まず最初に必要になるのはきっかけなんです。そしてそのきっかけとして、大統領の子供っていうのは充分《じゅうぶん》に使える道具になるはずなんですよ――」
だから、と言ってサリムは一度言葉を切って、
「そいつを引き渡《わた》してくださいな、姫さま」
その瞬間《しゅんかん》――ジネットの背筋《せすじ》を、冷たいものが走り抜《ぬ》けた。
ここに来ているのは、サリムだけではない。あと幾《いく》つか《.》の気配が、この教会を取り巻《ま》くように配置されている。そしてもちろん、それらは先ほどの連中のように吹《ふ》けば飛ぶような雑魚《ざこ》ではありえなくて、
「――古木の庭≠フメンバーですよ、もちろん」
その瞬間、サリムが楽しそうに笑った。
「やっぱりぼくだけで動くのもちょっと不安でしたからね、とりあえず護衛ってことで、マルキとクロアに一緒《いっしょ》にきてもらってるんです」
ジネットは心の中だけで舌打ちする。
「だから姫《ひめ》さま、妙《みょう》がことは考えないでください。ぼくたち[#「ぼくたち」に傍点]だって、姫さまと敵対《てきたい》したいわけじゃない。目指してるところは一緒なわけですし、むしろ手をとりあっていきたいとか思ってるわけですよ」
フロリアンと、サリム。二人の顔を、見比《みくら》べる。
二人の目が、それぞれに、同じことを言っている。
『ヒキワタセ』
片方《かたほう》は楽しそうに。片方は息苦しくなるほどの決意を込《こ》めて。それぞれに思いの方向は正反対ながら、その意思が伝えようとする内容《ないよう》だけが、重なっていた。
ふう、と苦い息をまとめて吐《は》き出して、
「……少し話をする時間をくれ」
ジネットはそう言った。
「話って、何を?」
「まぁ、いろいろとな。そのくらいの融通《ゆうずう》は利《き》かせてくれてもいいだろう?」
「……結論《けつろん》なんてひとつだと思うけどなぁ」
「だとしても、そこに至《いた》る過程《かてい》が、重要になることもある。長く生きている身だ、多少の時間を待たされたところで、何ということもあるまい?」
「まぁ……別に、いいですけど」
一転、再《ふたた》びつまらなそうな顔になって、サリムはくるりとこちらに背を向けた。
「十分。それだけしか、待ちませんからね?」
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▼promnade/
それは、遠い昔の物語。
夢《ゆめ》の内容《ないよう》を本に封《ふう》じる作業を始めて、二月ほど経《た》った日のことだった。
針《はり》のように細い銀色の月を背負《せお》って、その客は彼女のもとを訪れた。
『魔法《まほう》といウものを、ドう考えル?』
その客は、唐突《とうとつ》に、そう問いかけてきた。
意味が分からず、どういうことかと問い返した。
『手品、といウものは見たことガあるかネ?』
その客人はかまわず、余計《よけい》にわけのわからないことを尋《たず》ねてきた。
『空っぽの帽子《ぼうし》の中から生きた兎《うさぎ》を取り出ス。軽く手をかざすだけでグラスの水を葡萄酒《ぶどうしゅ》に変エてみせル。兎を短刀で貫《つらぬ》き、しかし毛ほどモ傷《きず》つけることナく解放《かいほう》してみせル。無数の紙札《カード》を自在に操《あやつ》り、伏《ふ》セたままのソれの絵柄《えがら》を苦もなく読み取ル。無数の不可思議な事象が、さも当然のことのようにその者に従《したが》ウ。
そう……そのよウな技術《ぎじゅつ》を持つ者を、人は奇術師《マジシャン》と呼《よ》ブ』
何が言いたいのかが分からない。
分からないから、黙《だま》って先を促《うなが》した。
『観衆《かんしゅう》は、ソの奇術の種を知らナイ。何もないはずの場所に兎が現れる訳《わけ》。水が酒に変じる訳。短刀に貫かレても兎が絶息《ぜっそく》せず生き延《の》びた訳。観衆はそれらの業《わざ》の背後《はいご》にアる必然《ひつぜん》を見抜くことは出来ナイ。
そう――だからこそ、あれらは奇術《マジック》と呼ばれル。
観衆に対して条理《じょうり》が隠匿《いんとく》さレているこト。それが、君たチがマジックと呼ぶものの条件《じょうけん》ダ。ゆエにあれは、奇術《マジック》として、あるいは魔術《マジック》として成立していタ。
しかし当然……それは魔法《ウィッチクラフト》と呼ばれる類《たぐい》のものではなイ』
ぴくりと、指先が震《ふる》えたのを自覚する。
客は満足そうに大きく頷《うなず》くと、
『さて、キミは今、何に変じようとしているのかナ』
そう続けてきた。
『ソう、魔女《まじょ》だ。キミが触《ふ》れ、我《わ》が物にしようとしている業《クラフト》こそが、間違いなく文字通りの魔法《ウィッチクラフト》だトいうことだヨ』
その客の声は、おそらく自身でも気付かないうちに、興奮《こうふん》を帯びてきていた。
『風を起こすか雷《いかずち》を落とすか、病《やまい》を撒《ま》き散《ち》らすかそれとも人を獣《けもの》に変化させてしまうのカ。人々の予想と理解《りかい》を超《こ》えた業《わざ》を、キミは我が物とするだろウ。
だガ、私らの予想と理解を超えた業を使うという意味では、あの奇術師《マジシャン》とて同じこト。帽子から鳩《はと》を飛ばすも呪《のろ》いを放つも、想像を超えた不条理であるという点で何ら変わりがなイ。観衆に対シて条理《ルール》が隠匿されていル。それをマジックと呼ぶ条件は満たされていル。
しかシ、きみの操るそれは、マジックとは呼ばれないだろウ。魔女の用いる怪しげな術《クラフト》はあくまで魔法《ウィッチクラフト》と呼ばれ、扱《あつか》わレることだろウ。では一体、その差はどこにあるのカ?」
口調こそ疑問《ぎもん》の形をとっていたが、客の中には確信できる答えがあるのだろう。
だから言葉を差《さ》し挟《はさ》まずに、静かに先の言葉を待った。
『奇術《マジック》の条件は、観衆に対して条理が隠匿されているこト。観衆にとってワケのわからない神秘《しんぴ》であるものハ、すべからくマジックの名で呼ばれよウ。
しかしそこにハ、それを神秘として捉《とら》えない人物が最低で一人|存在《そんざい》すル。
そウ、奇術師《マジシャン》本人にとっては、それは自らの理解の中にある事象のひとつに過《す》ぎなイ。それは手のひらに隠し持った紙札《カード》かもしれなィ。隠しポケットに押し込んだ鳩かもしれなイ――』
客はそこで薄《うす》く笑って、
『さて、考えてみると良イ。もし、奇術師《マジシャン》本人にも理解できない経緯《けいい》で成立する奇術《マジック》が在ったラ? なぜかは分かラないが鳩が出てくル。なぜかは分からないが兎は傷つかなイ。そのヨうな業があったとしたら、果たしてそれは奇術《マジック》と呼べるものだろうカ――?』
笑みが深くなる。
『キミが制御《せいぎょ》しよウとしているのは、そういう能力ダ。誰一人としてそれを理解しない。
創造主《そうぞうしゅ》たる魔女《ウィッチ》本人にトってすら、理解の及《およ》ぶものではなイ。
例えば。そう、例えばの話、それが暴走《ぼうそう》し世界の侵食《しんしょく》を始めたとしても、誰にもそれを止められなイ。もちろんコれは、キミ自身を含《ふく》めての話ダ』
それは、認められない――いや、認めたくない結論だった。
だから反駁《はんばく》した。
その力を抑《おさ》える手段はある。自分は、その存在に気付いている。
|夜の軟泥《ワルプルギス》を言葉に堕《お》とし書物に封じることで、力を削《けず》っていくことはできるのだと。たしかに時間はかかるかもしれない、けれどそれを着実に繰り返していけば、必ずこの力は無害化できるはずなのだと。
『つまりキミは、その夢を、体系化された神秘《ソルティレージュ》に押さえ込むツもりなのかネ?」
そういうことに、なるのだろうか。ゆっくりと首を縦《たて》に振る。
するとその客は、笑顔と思われる形にその顔を歪《ゆが》めたままで、
『疑うことを知らない無垢《むく》な世界に零《こぼ》れ落ちた、初めて《ひとつめ》の虚言《うそ》。決シて裁かれるコとのない嘘ならば、それは決して消えることもなイ。ゆっくりと広がり、やがて必ず世界を覆《おお》い尽《つ》くすだろウ。
コの世界は、君の紡《つむ》いだ虚偽《きょぎ》にすっぽりと包まれル。
ソれは、言うなレば、|英雄たちの物語《レジェンデール》を弄《もてあそ》ぶ、冷酷《れいこく》な運命《ソール》のようなものダ。もはやそれを防《ふせ》ぐ手立てなど何もなイ』
こつ、こつ、こつ、と時計の針が時間を刻む。
それきり、二人の間から言葉が絶《た》える。
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▼scene/4 琥珀《こはく》色の決意 〜HISTORIE〜
11.
気まずい沈黙《ちんもく》が、教会の中にわだかまっていた。
話し合う時間が欲《ほ》しいと言って稼《かせ》いだはずの十分。しかし実際《じっさい》にこうして三人だけになってみると、まず何を話すべきなのか、言葉に迷《まよ》った。
「……状況《じょうきょう》は、芳《かんば》しくない」
そんな言葉が、まず最初に口をついて出た。
「フロリアン……いや、フリードリーンだったか? まぁどちらでも良い。
先に尋《たず》ねておきたい。君は我々《われわれ》のことを――いやそれ以前に、魔法《ウィッチクラフト》の実在《じつざい》について知っているか?」
「魔《ウィッチ》……法《クラフト》?」
「ああ。はるかな昔、一人の魔女《まじょ》がこの世界に導《みちび》きいれた禁断《きんだん》の知識体系《ちしきたいけい》だ」
うつむいたまま、フロリアンは首を横に振《ふ》る。
「何かは知らないけど……この状況に、関係があるのかい……?」
「もちろん、そういうことだ。
にわかには信じづらいだろうが、今は疑問《ぎもん》を飲み込《こ》んで聞いてくれ。
先ほどのあの子供《こども》は、見た目通りの子供ではない。説明しづらいが、彼一人が外にいるというだけで、百人の軍人に包囲されているも同然の脅威《きょうい》になると考えてくれ。
そして彼は一人ではない。同様の脅威となる者をあと二人、この教会の外に配していると言っていた。それは嘘《うそ》ではないと思っていい」
「つまり、兵隊が三百人分……ですか?」
さすがにアリスは、にわかには信じられないという顔だった。
しかしそれでも、この娘《むすめ》はこの話を信じようとしてくれている。今はそれだけで充分《じゅうぶん》にありがたい。ジネットはひとつ頷《うなず》くと、
「単純《たんじゅん》な足し算で測《はか》れるものではないが、そう考えて問題はない。それを踏まえた上で、これからどうするかを決めなければならない」
「――考えるまでもない、じゃないか」
呟《つぶや》くような、声。
「あの子供が言ってたことは本当だよ。フリードリーン・ヴァイドラー。ミルガ大統領《だいとうりょう》の次男。そんな肩書きばっかりが立派《りっぱ》で、その魔法《ウィッチクラフト》だかみたいな深い話は何も知らされていないワラ人形。それが僕《ぼく》の正体なんだ」
自分を責めるように力なく笑って、
「国にとっては、ほどよく重要で、ほどよくどうでもいい人間。戦争を始めたいミルガが、その口実を作るための犠牲《ぎせい》……生贄《いけにえ》としては、ぴったりの適役《てきやく》なんだろうね」
「フロリアンさん」
アリスの声に対してゆっくりと首を横に振《ふ》り、
「フリードリーン・ヴァイドラー、だよ」
「フロリアンさん」
「だから……」
「フロリアン、さん!」
強情《ごうじょう》に、アリスがその名を繰《く》り返す。
フリードリーン、あるいはフロリアンという名のその少年は、しかし今度ははっきりと首を横に振《ふ》って、
「さっき言ってたじゃないか。これは、れっきとした、ミルガ国の政策《せいさく》なんだよ? 学生の遊びじゃないんだ、僕や君が何かをして解決《かいけつ》できるような問題じゃない」
「……でも」
「無力が分かりきってるんなら、何をやったところでただの自己満足《じこまんぞく》にしかならない。その自己満足で、君たちまでこんなことに巻《ま》きこむなんて、冗談《じょうだん》じゃない……」
苦しそうに、一言一言を区切って、フロリアンは、言葉を吐《は》き出す。
明らかに本意ではない言葉を、それでも途中《とちゅう》で投げ出したりはせず、最後までしっかりと口にする。
「分かってよ……好きな女の子を危険《きけん》な目に遭《あ》わせてまで、中身のない希望にしがみついたりはしたくないんだ。僕にだって、そのくらいの意地はある……」
「フロリアンさん……」
再《ふたた》び、言葉が途絶《とだ》える。
(あー……)
ぼんやりと、どこか冷めた心でその二人のやりとりを眺《なが》め見ながら、
(酒が入っているわけでもないだろうに、随分《ずいぶん》とまぁ、芝居《しばい》がかったことを言う少年だ)
ジネットは、考える。
サリムら古木の庭≠ノついて、自分の知っていることを思い返す。
まずそれは、それは魔法書《グリモア》『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を見つけ出すことを目的にして結成された共同体《コミュニティ》である。
その構成員《こうせいいん》――何人いるのかは分からないが――がすべて不死者《レヴナント》であるということ。
彼ら個々《ここ》の戦力は、自分やレオネルなどよりは大分落ちる。しかし集団《しゅうだん》であるということが、彼らにとっては大きな武器《ぶき》となった。不死者《レヴナント》同士の争いは、戦術《せんじゅつ》や相性《あいしょう》などといったものと同時に、その場で振るうことのできる|夜の軟泥《ワルプルギス》の総量《そうりょう》に大きく左右される。複数《ふくすう》の|魔法書の代役《バーント・グリモア》を同時に相手取るというのは、ただそれだけで、あまりに大きなリスクとなっていた。
(――今の私なら、彼らに勝てる、か?)
それは、不可能《ふかのう》ではないだろうと思う。
サリムに、マルキに、クロア。ここに来ているのがその三人だけだというのなら、その手のうちもある程度《ていど》までは読める。彼我《ひが》の戦力差を計算して、厳しい戦いになるだろうという結論《けつろん》に至《いた》る。そして、同じ結論に、外の三人もまた至っているだろうとも。
そして、だからこそ、それは不可能ではないだろう。
彼らは、こちらには何も打つ手がないと思っているはずだ。比《くら》べるまでもないほどの圧倒的戦力差があるための、ありがちな油断《ゆだん》。上手《うま》くそこをつくことができれば、そのまま楽勝とまではいかずとも、それなりの戦いに持ち込むことはできるだろう。
(しかし、それも、私が一人だった場合の話、か……)
ここにはアリスとフロリアンの二人がいる。
この二人を巻きこまないように、あるいは守りながら戦うとなると、話はとたんに絶望《ぜつぼう》的になる。そもそも自分は、周囲の被害《ひがい》に気を配りながら戦えるほど器用な性格《せいかく》をしていない。そうでなくともハードな戦いだというのに、そんなハンディキャップを抱《かか》えて潜《くぐ》り抜《ぬ》けろというのはさすがに無理がある。
(諦《あきら》める、か?)
それが理性的な判断《はんだん》だと思えた。
外にいるサリムに、フロリアンを差し出す。
戦争でもなんでも勝手に始めてもらう。
その果てに彼らがどうにかして『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を見つけられたなら、その時に自分が割《わ》り込んで、そいつを奪《うば》い取る。
なんて名案なのだろう。とても合理的だ。問題はなにもない。素晴《すば》らしい。
(…………)
けれど、今自分の目の前には、アリスがいる。
この娘《むすめ》には、この場所にいるべき必然性は何もない。
フェルツヴェンで生まれ育った少女。ミルガにもペルセリオにも、ついでにドースにも関係がない。むろんミルガやペルセリオの政策に口を出せるような立場でもなく、古木の庭≠ノ縁《えん》があるはずもない。
けれどそれでもアリスはここにいて、そして……
「アリス」
呼びかけると、二人ともが顔をあげて、こちらを見た。
「リュカならこういう時、なんて言うと思う?」
アリスは一度小さく頷《うなず》いて、
「何も言わないと思います」
少し震《ふる》える声で、しかしまったく迷《まよ》いを見せず、そう即答《そくとう》した。
「本人の意思とかまるっきり無視《むし》で、勝手に戦い始めちゃうと思います。そういうところ、どうしようもなく自分勝手で、どうしようもなく諦めが悪くて、どうしようもなく優《やさ》しい人ですから」
「そうか」
それは、おおむね、自分と同じ意見だった。
そしてそれを確認《かくにん》したことで、腹《はら》が決まった。
理性的で合理的な選択肢《せんたくし》を、もはや迷いなく投げ捨《す》てることができた。
「ならば、私はそれに倣《なら》ってみようと思う」
「え……」
「なっ……」
アリスは戸惑《とまど》い、フロリアンは驚《おどろ》く。
「な、何言ってるんだよ、そんな無茶《むちゃ》なこと――」
「静かにしてくれ。悪いが既《すで》に、君の意思は無視されることに決まっている」
「ええっ!?」
「心配は要《い》らない。今の私は、かなり強い。単純《たんじゅん》な殴《なぐ》り合い、あるいは殺し合いになったとしても、後れをとることはまず考えずとも好《よ》い。
……ところでアリス、君はどうする?」
愕然《がくぜん》とするフロリアンをよそに、アリスは毅然《きぜん》とした表情《ひょうじょう》を固めて、
「ジネットさん、本当の本当に、ケガは大丈夫《だいじょうぶ》なんですね?」
「ああ」
それはもちろん、本当の本当の、ついでにもうひとつおまけの本当に、大丈夫だ。
「この状況《じょうきょう》をどばーっと解決《かいけつ》できたりするような、すごい作戦とかが、あったりするんですね?」
「…………ああ」
それについては、少しばかり不安があるが。
「ちょっと不安になる間の取り方でしたけど、気にしないことにします」
うん、とアリスは一度はっきりと頷いて、
「わたしは、いつも通りでいきます。ジネットさんがリュカさんに倣うっていうなら、わたしはいつも通りに、リュカさんのやり方を信じます[#「リュカさんのやり方を信じます」に傍点]」
そう、宣言《せんげん》した。
「私は、リュカではない」
「そうですね」
「百歩|譲《ゆず》っても、彼の粗悪《そあく》な模造品《ニセモノ》でしかないぞ?」
「模造品《ニセモノ》でもなんでも、この際《さい》一緒《いっしょ》ですよ。
ホンモノとかニセモノとか、そういう区別って、それを信じるかどうかを決めるときのためのものじゃないですか。一度この口で信じるって言っちゃった以上、そんなことには何の意味もないです」
(……ほう)
その言葉に、そしてその表情に、フィオルを思い出した。
この少女は、リュカの傍《かたわ》らにいるというただそれだけの目的のために、顔も知らないフィオルの模造品《ニセモノ》であることを、自分に課していたのだという。
それは必要のない決意だったのではないかと、今のジネットは思う。
わざわざそんなことを意識《いしき》せずとも、この二人は、これだけよく似《に》ている。
「……そうか」
少し感傷《かんしょう》的な気分になりながら、頷いた。
「二人とも……いったい、何の話を……」
「静かにしていろと言ったろう。君の言葉など、聞く耳は持たない」
「な」
さすがに、その一言は効《き》いたらしい。フロリアンの顔が引きつって、
「……なんていうか、扱《あつか》いひどくないかい?」
そんな抗議《こうぎ》の声が聞こえたが、宣言しておいた通りに聞き流した。
そもそも、いくら扱いがひどいといったって、アルト老のいつもの扱いよりはだいぶ上等だ。もしここにいたのが彼だったならば、まったく迷《まよ》いなく拳《こぶし》を飛ばし、足蹴《あしげ》にしていた。むろん、剣《けん》で刺《さ》したり時計塔《とけいとう》から飛び降《お》りさせたりしたリュカとは比べものにならない。
フロリアン・コルアは、比較《ひかく》的|恵《めぐ》まれている。
だからその辺りについては苦情を聞き入れるつもりはない。
「――鉤爪《かぎづめ》を振《ふ》るい隣人《ひと》を探《さが》し、牙《きば》に傷《きず》つき孤独《こどく》を忘れる=v
廃教会《はいきょうかい》の外から、まるで吟《ぎん》じるような響《ひび》きを持つその声が、聞こえてくる。
もう時間が来たのか、と少し嫌な気分になりながら、ジネットは扉《とびら》に向き直る。
「隙《すき》を見て道を作るから、まずは二人で逃《に》げろ」
声を抑《おさ》え、早口で二人に告げる。
「二人でって……それじゃジネットさんは?」
「私のことは心配せずとも構《かま》わない。言ったろう? 今の私は、かなり強い。そこにいる三人|程度《ていど》が相手ならば、問題なく退《しりぞ》けてみせよう」
「外にいる人たちは兵隊三百人分とか、さっき言ってませんでした?」
「言ったな」
「だったら、いくらなんでも」
「何も問題はない。私なら独《ひと》りでもその程度の戦力に相当する」
アリスとフロリアンが、揃《そろ》って口をつぐむ。
その言葉を信じたい、けれど手放しで信じきることはできない……そんな、視線《しせん》に混じったわずかな不信の色が苛立《いらだ》たしい。
「いいから、今は私を信じろ」
ため息のかわりに、その言葉だけを吐《は》き出す。
ああ、もう。人に信用されるということは、どうしてこんなにも難《むずか》しいのか。
「|暗闇の檻は色のない血潮に濡れていた《ソン・レーヴ・ウブリ・ル・モンド》=v
ゆらり。
その言葉に応《おう》じて、世界が、一度、不安げに揺《ゆ》れる。
|夜の軟泥《ワルプルギス》に歪《ゆが》められた世界が、変質《へんしつ》の前触《まえぶ》れを見せる。
「時間ですよ」
眩《まばゆ》い太陽の光を背負《せお》い、小柄《こがら》な少年のシルエットが、教会の入り口に立っている。
そしてその左右を守るようにして、また別のシルエットが二つ。
「答え、決まりましたか?」
楽しそうに。あるいは、嬉《うれ》しそうに。サリム・ガールマールは、問いかける。
足音もなく、ゆっくりと、近付いてくる。光の中から踏《ふ》み出てくる。
その後に、続いて二人。
熊《くま》に服を着せたような大柄《おおがら》な巨漢《きょかん》と、顔に軽くそばかすを残した赤毛の娘《むすめ》――マルキ・リンサイゼンと、クロア・マルソー。ともにジネットにとっては知った顔だ。
「久《ひさ》し振《ふ》りだな、二人とも」
軽くそう声をかけると、二人それぞれに、ばつが悪そうな顔で目をそむける。
「元気にやっていたか?」
やはり返事はない。
何とも雰囲気《ふんいき》の悪いことだと肩《かた》をすくめながら、ジネットはサリムに向き直り、
「それで、返事だったな?」
「はい、そうです」
「悪いが、答えは否《いな》≠セ」
サリムの顔が、わずかにひきつった。
その背後《はいご》で、マルキが大きな体をびくりと震《ふる》わせ、クロアは自分の肩を抱《だ》いた。
「どうして……ですか?」
「理由を問われると、難しいのだがな。私の言葉でうまく説明できるようなものではないし、かといって、ただの人マネだと正直に認《みと》めるのも悔《くや》しい」
「……人マネ……?」
「言葉の綾《あや》だ、それは忘《わす》れろ」
一歩、前に出る。
「そんな、わけの分からない理由で、ぱくらの敵《てさ》になるんですか……い?」
「そう暗い顔になるな。もとより味方というわけでもなかったろう?」
「力でぼくらに勝てるはずがない。それも分かってて、そんなことを言うんですか?」
「力で……か」
前髪《まえがみ》を軽くかきあげて、ふむと鼻をならし、
「確《たし》かに、お前たちを相手にして戦うなどというのは、多少|面倒《めんどう》な話ではあるな」
「でしょう?」
ぐっ、とサリムは言葉に力を込《こ》めて、
「だったら、バカなこと言うのはやめて――」
「面倒だから、これまで避《さ》けてきた。そのことが誤解《ごかい》を招《まね》いたならば、詫《わ》びよう」
「――え?」
「ひとつ教えてやろう、サリム・ガールマール。面倒に見える物事というものは、大抵《たいてい》、始める意志《いし》を固めるまでこそが難しいものだ。実際《じっさい》に取りかかってみれば容易《たやす》く終わるということも珍《めずら》しくない」
言って、|夜の軟泥《ワルプルギス》を編《あ》んであの剣《けん》を創《つく》り出す。
「じゃあ……まさか本気で!?」
「嘘《うそ》も冗談《じょうだん》も、我々《バーント・グリモア》には縁遠《えんどお》いものだ」
「無茶《むちゃ》だ!」
拳《こぶし》を握《にぎ》り、顔を伏《ふ》せて、サリムはジネットの言葉に噛《か》みつく。
「姫《ひめ》さまだって、そんなこと、分かってるんでしょう!? いくら姫さまが強くたって、今は三対一なんですよ!? これじゃ|夜の軟泥《ワルプルギス》を広げることだって簡単《かんたん》じゃない! そもそも魔法《ウィッチクラフト》がまともに使えないんじゃ、勝負にならない!」
「やってみるまでは分かるまい?」
「やめてください!」
ついに、その声は、叫《さけ》びになる。
「姫さまは、そんな人じゃなかったはずです! いつだって冷静で、もっと……」
「お前の勝手なイメージに、私が付き合わなければならない理由もないだろう?」
言って――心の中の引き金を、引《ひ》く。
「――果てのない白の荒野《こうや》に人立ち、初めて人は自らの居場所《いばしょ》を知る=v
こぽん。
ジネットの体内にわだかまる|夜の軟泥《ワルプルギス》が静かな音を立てる。
静かな湖面のようだったそれに細波《さざなみ》が立を、広がっていく。
「無駄《むだ》だって、言ってるだろおぉ!!」
絶叫《ぜっきょう》するサリムの口調が、いつの間にか変わっている。
「|夜の軟泥《ワルプルギス》で周りの世界を制圧[#「制圧」に傍点]して、それで初めてぼくらは魔法《ウィッチクラブト》が使える! けれどそれが出来なきゃ、魔法《ウィッチクラフト》なんて使えない! そして、今この場所は、とっくにぼくら三人が制圧している[#「とっくにぼくら三人が制圧している」に傍点]!」
それは、確かに、そのとおりだ。
|夜の軟泥《ワルプルギス》によって強引《ごういん》に世界の在《あ》り方を書き換《か》える。それが自分たちの操る魔法《あやつウィッチクラフト》という力だ。だから自分たちは、魔法を使う前に|夜の軟泥《ワルプルギス》を解放《かいほう》し、自分の魔法《ウィッチクラフト》の影響《えいきょう》を直接《ちょくせつ》に及《およ》ぼそうとする対象――大抵《たいてい》の場合は周囲の空間そのもの――を包み込む。そして、それができて初めて、魔法《ウィッチクラフト》という力で、対象を操ることが可能《かのう》になる。
そして、もし、その対象が、既《すで》に別の|夜の軟泥《ワルプルギス》の影響下にあるなら、まずはそれを自分の|夜の軟泥《ワルプルギス》で押《お》し退《の》けなければ、魔法《ウィッチクラフト》を届《とど》かせることはできない。
つまりは、そういうことだ。
この廃教会《はいきょうかい》は既に、サリムら三人がかりの|夜の軟泥《ワルプルギス》によって制圧《せいあつ》されている。この場所でそれでもジネットが強引に魔法を使おうというのならは、彼ら三人の力の合計よりもさらに大きな力をもってしなければならないということになる。
「|立ち並ぶ石碑の群れだけが静かに未来を夢みていた《ソン・レーヴ・アレット・ル・モンド》=v
世界は――変質《へんしつ》しなかった。
導《みちび》きの言葉≠ノよって周囲の世界へとジネットが解放したはずの|夜の軟泥《ワルプルギス》は、サリムら三人の|夜の軟泥《ワルプルギス》の圧力に勝てず、少女の体の中から広がってはいかなかった。
「……諦《あきら》めて、くれよ」
その様を見て少しは落ち着いたのか、サリムが声を落とし、ぽつりと呟《つぶや》ぐ。
「姫さまの切り札は、過去《かこ》の現象《げんしょう》の再現《さいげん》だろ? でもそんなの、辺りの世界を完全に抑《おさ》えた上でないと使えない大技《おおわざ》だ。
そりゃ、姫さまくらいに強力な不死者《レヴナント》にとっては、世の中の魔法使いのほとんど全部が格下《かくした》だ。一対一で、|夜の軟泥《ワルプルギス》の量で押し切れない相手なんてまずいない。リスクらしいリスクはほとんどない。
けどそれは、あくまで一対一の場合の話だろ?
戦ってる相手の数が揃《そろ》えば……そんな優位《ゆうい》、なんの意味もなくなる」
「ふん」
ジネットは鼻を鳴らす。
「随分《ずいぶん》と、馬鹿《ばか》にしてくれるのだな」
「バカになんてしてない!」
「しているだろう。ジネット・ハルヴァン≠ニいう不死者《レヴナント》は、勝てる相手には確実《かくじつ》に勝てるが、そうでない相手には絶対に勝てない。お前の言うことは、つまりそういうことなのだろう?」
「それは、別に、バカにしてるわけじゃなくて……」
「……これでも、剣を嗜《たしな》む者としての最低限《さいていげん》の矜持《きょうじ》を持っているつもりでな。
戦いの場に立つ時には、常《つね》に、その戦いに勝つために剣を振《ふ》るってきた。その大前提《だいぜんてい》を共有することが、剣を交える相手への礼儀《れいぎ》だと信じてきた。
だがお前の言う私は、どうやらそういう者ではないらしい。
戦いの場に立つ意味が[#「戦いの場に立つ意味が」に傍点]、既に決まった勝敗をなぞるだけの手順としてのものでしかない[#「既に決まった勝敗をなぞるだけの手順としてのものでしかない」に傍点]、そういう者として私は見られているらしい[#「そういう者として私は見られているらしい」に傍点]」
「そん……なの、どうでもいいことじゃんか!」
むきになって叫《さけ》ぶサリムの目を見て、ジネットはふと、先日にアルト老と交《か》わした会話のことを思い出す。ただの十六歳の小娘《こむすめ》だと言われて、あの時の自分は、ただ感情《かんじょう》のままに反駁《はんばく》した。
けれど、今は、なんとなく思う。
彼の言っていたことは、もしかしたら、正しかったのかもしれない。
自分と同じ二百年以上を生き抜《ぬ》いてきた妖物であるはずのサリム・ガールマールは、しかし今は、外見通り、十二歳のワガママな子供《こども》にしか見えなかった。
「まぁ、良い。こちらも、言葉遊びで勝ちたいわけではない」
言って、ジネットは手近な壁《かべ》に近づくと――左の手のひらを当てて、
「――塵に還れ[#「塵に還れ」に傍点]」
ぼそりと、呟いた。
酵幤何の音もなく、弼けるようにして駄桝が附き飛んだ。
小さな小石に砕《くだ》け、砂に崩《くす》れて、そしてそれさえもが地面に辿《たど》りつく前に中空に溶《と》けるようにして消えてしまう。そして跡《あと》には、大の男が何人も並《なら》んで潜《くぐ》れそうなほどの大きな穴《あな》が残される。
「な……っ!?」
サリムが目をむき、その背後《はいご》の二人が息をのむ。
「さほど奇抜《きばつ》な芸ではないぞ。広い範囲《はんい》の支配《しはい》は難《むずか》しくとも、自分の体内、そしてその手が届く程度《ていど》の距離《きょり》までならば、|夜の軟泥《ワルプルギス》は必ず届く。|夜の軟泥《ワルプルギス》が届く以上は、問題なく魔法《ウィッチクラフト》も使えよう。
似《に》たような裏技《うらわざ》は、他にも幾《いく》つかある。|夜の軟泥《ワルプルギス》の展開《てんかい》で優位《ゆうい》に立ったからといって、それですべてが片付《かたづ》いたなどとは思わないことだ」
サリムに、歩み寄《よ》る。
圧《お》されるように、サリムが一歩を退《ひ》く。
「むろん、それでも、私が不利であることに変わりはない。お前たち三人がここに揃っている限《かぎ》り、そう簡単《かんたん》に私が勝つことはないだろう、が……」
振り返らずに、声だけを背後《はいご》に投げる。
「アリス! フロリアン!」
「は……ははははいっ!」
元気の良い、アリスの返事が聞こえた。
フロリアンの返事は聞こえなかったが、まぁ、問題はないだろう。石ころを蹴《け》りつける元気のよい足音が二つ、壁の大穴を抜けて、外へと飛び出していったのを聞いた。
「あっ、この……」
サリムは慌《あわ》ててその背《せ》を指さして、
「呆《ぼう》っとしてんなよ、マルキ、早くあいつを追……!」
「追わせると、思うか?」
ジネットの足元の床板《ゆかいた》が、爆《は》ぜたトそう見えるだけの勢《いきお》いで、ジネットは足場を蹴りつけた。
弾丸《だんがん》の速度で距離を詰《つ》めて、手の中の剣《けん》を真っすぐにサリムに対して突き入れる。状況《じょうきょう》の急変に慌てたサリムはその攻撃《こうげき》に反応《はんのう》できず目を丸くしていて、その切っ先は何の抵抗《ていこう》もなく少年の喉元《のどもと》を刺《さ》し貫《つらぬ》く――その直前。
「く……っ!」
鋼《はがね》が鋼を受け止める、重たい衝撃《しょうげき》。
刃《やいば》が刃を削《けず》る、耳障《みみざわ》りな金属音《きんぞくおん》。
「……そう。お前たち三人から一人でも欠ければ、その瞬間に全《すべ》ては終わりだ」
ジネットは微笑《ほほえ》む。必殺の勢いで突き出されたはずの剣は、二人の間に割《わ》り込《こ》んできたマルキ・リンサイゼンによって――彼がその手の中に生み出した巨《おお》きな山刀によって止められている。
ぎゃぎぎぃ、と噛《か》み合った刃が悲鳴をあげる。
二人それぞれに、渾身《こんしん》の筋力《きんりょく》を刃に注ぎ込む。
ほんの数秒ほど、力の均衡《きんこう》した時間が流れる。
「二百年の間、私はレオネルを追い続けてきた。その意味が分かるか?」
そしてその均衡は、ゆっくりと少しずつ崩れ始める。
単純《たんじゅん》な力の総合量《そうごうりょう》で、細身の少女が、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》の大男を、押し返し始める。
「二百年もの長い間、私たちの間には、決着がつかなかったのだ。あれだけ圧倒《あっとう》的な力を持つレオネルが、この私からは逃《に》げ回り続けてきたのだ。その意味を、考えたことはあるか?」
その差は二人の表情にも表れる。顔を赤く染《そ》め額《ひたい》に血管すら浮《う》かび上がらせたマルキに対して、ジネットのほうは涼《すずし》しい顔だ。汗《あせ》の一粒《ひとつぶ》たりとも浮かんではいない。
見た目にある圧倒的な体格差《たいかくさ》と、真逆《まぎゃく》の光景。
ジネットが体の中に抱《かか》える|夜の軟泥《ワルプルギス》は、サリムら三人の抱えるそれらの合計値《ごうけいち》には届《とど》かない。しかし、マルキ個人《こじん》が抱えるそれに比《くら》べれば遥《はる》かに上だ。その差が、こうして個対個の力比べの場所に現《あらわ》れている。
「答えは、とても簡単だ」
マルキの膝《ひざ》が折れて、その体勢《たいせい》がわずかに揺《ゆ》らぐ。その隙《すき》を見逃《みのが》しはしない。ジネットは鋭《するど》い蹴りを大男の腹《はら》に叩《たた》き込むと、自分の何倍もの体重のあるその巨体《きょたい》を真横に吹《ふ》き飛ばす。
その反動を支《ささ》えきれず、ビシリと情《なさ》けない音をたてて床石が割れる。
「――あのレオネルにとってすら、正攻法で私を始末するのは、簡単ではなかった」
くるりと身を翻《ひるがえ》し、クロアの額に剣を突き付ける。
たった今|繰《く》り広げられたばかりの異様《いよう》な立ち回りに目を白黒させていたクロアは、それを避《さ》けることができない。「ひっ」と小さな悲鳴をあげて震《ふる》え上がる。
「戦力差があるなら、それを補《おぎな》うように戦えばいいだけのこと。それをなせるだけの知識《ちしき》と経験《けいけん》を、長い時間をかけて、私は積み重ねてきた。
あまり人を甘《あよ》く見るな、サリム。
少し考えればわかることだろう。多少の戦力差があるからといってあっさり膝を折るような素直《すなお》な輩《やから》が、あのレオネルに戦いなど挑《いど》むと思うか? |はじまりの魔女《フィオル》≠殺すなどと言いだすと思うか?
それとも――勝機もないのに感情《かんじょう》だけで無謀《むぼう》な戦いに挑む、馬鹿《ばか》な女だとでも嘲笑《あざわら》っていたのか――?」
クロアから視線《しせん》をずらし、横目でサリムを睨《にら》む。
少し離《はな》れた場所で、マルキが身を起こす。
額に剣を押《お》し当てられたクロアは、身をすくませ震えている。
そして、視線に射《い》すくめられたサリムもまた、何もできず、半歩を退く。
場が、膠着《こうちゃく》する。
誰《だれ》も動けない。あるいは、動かない。
立ち上がったマルキも、その場で足を止めている。
クロアの膝から力が抜《ぬ》けて、ぺたりとその場に尻《しり》が落ちる。
一筋《ひとすじ》の汗の雫《しずく》が、サリムの頬《ほお》を伝い落ちて――
「ふざけんな……」
サリムが、涙《なみだ》すら浮かんだ怒《いか》りの眼《め》で、ジネットをにらみつける。
「ふざけんなよ! なんだよそれ! なんで言うこと聞かないんだよ! なんで、そんなに強いんだよ! そんなのありかよ!」
「と、言われてもな……」
「それじゃ、騎士連中《あいつら》と、同じじゃんか! 何も変わってないじゃんかよ!」
「……は?」
飛び出してきた言葉の意味が分からず、問い返そうとして、やめた。
サリムのそれは、既《すで》に、獣《けもの》の咆哮《ほうこう》だった。
咆哮に正しさは必要ない。ただ感情の強さが表せれば、それでいい。
幼《おさな》い小狼《おおかみ》が、それでも狩人《かりゅうど》としての自尊心《じそんしん》の全《すべ》てをかけて、目の前の獲物《えもの》へと牙《きば》を剥《む》いて見せつけている。
「……コマ切れにして[#「コマ切れにして」に傍点]/ブッ潰せ[#「ブッ潰せ」に傍点]ッ!」
絶叫《ぜっきょう》するように、サリムが詠唱《えいしょう》する。
(まずい……っ!)
瞬間《しゅんかん》、ジネットは全力で背後《はいご》へと飛んでいた。間合いを詰《つ》めた時と同じだけの速度で、ただただ三人からの距離《きょり》を広げる方向へと、床《ゆか》を蹴《け》り砕《くだ》く。
そのドレスの裾《すそ》が、目に見えない刃《やいば》に、小さく切り裂《さ》かれた。
千切れた布地《ぬのじ》が千々に切り刻《きざ》まれた。そしてただの糸くずとなったそれが、やはり目に見えない何かによって、床石に叩《たた》きつけられ――そして床石ごと砕け散った。
(やれやれ、だな……)
くるりと踊《おど》るように体勢を立て直しながら、ジネットは内心で毒づく。
出来れば、今の一連の立ち回りだけで全《すべ》てを終わらせておきたかった。
なんだかんだ言ったところで、戦力の総量に差があり、自分が不利な状況《じょうきょう》にあるということには間違《まちが》いないのだ。
だから、相手の当惑《とうわく》につけこんで、暴《あば》れるだけ暴れた。自分との戦いが楽なものにはならないと印象付けて、あわよくばこの場を撤退《てったい》させるつもりだった。もちろん、全てがそこまでうまく運ぶとまでは思っていなかったが――、しかしまさか、こんな形ですべての思惑を粉砕《ふんさい》されるとは思っていなかった。
理屈《りくつ》に添《そ》わない、サリムの行動。
それはまるで、小さな子供《こども》の癇癪《かんしゃく》のような。
(……面倒《めんどう》なことになった)
サリムが息を整え、マルキとクロアがこちらに向けて身構《みがま》え直している。
ここからが、本当の、三|対《たい》一。
さすがに、少し、気が重い。
12.
サリム・ガールマールという名前を、アリスは知っていた。
自分たちが主役を演《えん》じたあの劇《げき》、『ジネット』の舞台《ぶたい》における、端役《はやく》の一人だ。|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》レオネル・グラントに仕える、年若《としわか》い従者《じゅうしゃ》の少年。
後の二人も、似《に》たようなものだ。
マルキ・リンサイゼンは、騎士《きし》たちが旅路の中で出会った山小屋の主《あるじ》。そしてクロア・マルソーは、騎士のひとりを追って戦場までついてきた、侍女《じじょ》の娘《むすめ》。二人はともに『ジネット』の中で、騎士たちの活躍《かつやく》を引き立てる役として、わずかなりの出番を持っていた。
そしてもちろんそれらのことを、フロリアンも知っているはずだ。
あの少女の、ジネットという名前。
サリムを名乗る少年に、「姫《ひめ》さま」などと呼《よ》ばれていた。
訓練された兵士たちを苦もなく薙《な》ぎ倒《たお》す、とんでもない強さの持ち主だった。そしてその強さは、本人の申告《しんこく》をそのまま信じるなら、武装《ぶそう》した兵士が何百人と集まった兵力にそのまま匹敵《ひってき》するらしい。
そして、会話の中身はよく理解《りかい》できなかったけど、どうやら彼らは全て、魔法《ウィッチクラフト》なる特技《とくぎ》の持ち主であるらしい。そしてそれには、はるかな昔の、ひとりの魔女《まじょ》なる存在《そんざい》が関《かか》わっているらしい――
――色々と、ヒントは出ている気がする。
けれど、それからなにかを結論《けつろん》するには、あまりに謎《なぞ》の数が多すぎる。そして今は、そんな細かいことを気にしている場合ではない。
だからアリスは、深く考えることをやめる。
「いいですか、これはきっと、忍耐《にんたい》の勝負なんです」
ずずいとフロリアンの目を至近距離《しきんきょり》で睨《にら》みつけ、アリスは(自分では)威厳《いげん》のある(と思える)声を作って、言う。
その気迫《きはく》に圧《お》されて(?)、フロリアンがわずかに仰《の》け反《ぞ》る。
「もう戦争が起こることは決まってて、その引き金としてちょうどいいのがフロリアンさんの確保だっていう話でしたよね? いろいろと納得《なっとく》しがたい話ではありますが、ええもちろん納得なんてしたくはないですが、それを言っていても仕方がないので、とりあえずそこまでは前提条件《ぜんていじょうけん》として受け入れることにします。
だとしたら、確《たし》かにわたしたちにできることに限界《げんかい》はありますし、何の問題もない完全無欠なハッピーエンドはもう無理なのかもしれません。だからフロリアンさんに『何が何でも逃げのびてやるぞ』っていうモチべーションが湧《わ》かないのも、まぁしかたないのかもしれないと思います。けど」
きょろきょろと周りの様子を窺《うかが》う。
太陽が昇《のぼ》ってさほど経《た》っていないこの時間、しかも人どおりのほとんどなさそうな裏路地《うらろじ》の片隅《かたすみ》だ。誰に出会うこともなく、また誰の目に留《と》まることもない。
「いまの話から、わたしに言えることは三つです。
このままフロリアンさんが逃《に》げ続けられれば、そのうち勝手に戦争が起きること。
そうなってしまえば、もうフロリアンさんが狙《ねら》われる意味がなくなること。
そして――そうやって始まった戦争は、少なくともフロリアンさんをどうこうして始めるものに比《くら》べれば、始めた人間にとって多少都合が悪いということ」
そういえば――彼はイェルマイン・ヴァイドラー大統領《だいとうりょう》の子息なのだと言っていた。
その名前は、もちろんアリスにだって聞き覚えがある。伊達《だて》に西方史学の勉強で何日も徹夜《てつや》続きの毎日を送っていたりはしていないのだ。
確か、二十年くらい前にミルガの実権を握《にぎ》り、それ以来ただの一度も退陣《たいじん》することなくミルガのトップであり続けている、怪物《かいぶつ》じみた無敵の政治家《せいじか》。現役《げんえき》にして歴史の教科書に堂々と載《の》っかってしまうほどの、とにかくすごい人だ。
その人の、息子《むすこ》。
世が世なら、まさしく王子様のような存在《そんざい》である。
(……まぁ、たしかに、見た目から王子様っぽい感じのひとではありますけど……)
なるほど、道理で、|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》なんてキザな役が似合うわけだ。
……と、今はそんなことに納得しているような時ではない。
軽く咳払《せきばら》いを挟《はさ》んで、言葉を続ける。
「戦争が始まるのを、フロリアンさんの頑張《がんば》りで、少しでも先延《さきの》ばしにできるんですよ。もしかしたらその規模《きぼ》さえも抑《おさ》えられるかもしれない。これって、ちょっとすごい話だとは思いませんか? 人知れないヒーローですよ? そう考えたら、やる気、でてきませんか?」
「……凄《すご》いのは、君たちだよ」
少年は煉瓦《れんが》の壁《かべ》に預《あず》けた背をわずかにずり落とし、
「君は、どうしてそんなに前向きでいられるんだい?
僕《ぼく》みたいに生まれた時から逃げ場がないってわけでもない。リュカ君みたいに自分の力に自信があるわけでもない。こんな事件に巻《ま》き込《こ》まれたら、何もできずにおろおろしているのが普通《ふつう》の反応《はんのう》じゃないか?」
「そんな普通の反応してたら、何もできないじゃないですか」
「いや、それはそうだけど」
「何もできないと、誰も助けられないじゃないですか」
「それももちろん、そうだけど」
「だったらそんな意味のないことしませんよ」
ちっちっち、と指を横に振《ふ》りながら、
「そういうのは、目的とかモチべーションとか、そういうのを見失っちゃった人のやることです。自分がするべきことを忘《わす》れてない人なら、どんな状況《じょうきょう》でもちゃんと周りを見渡《みわた》せるハズです。
少なくとも、リュカさんはそういう人でしたから。あの人に憧《あこが》れたわたしにも、そうやって生きてく権利《けんり》と義務《ぎむ》があると思うのですよ――」
そこまで高説をかましたところで、がさりという物音を聞いた。
振り返る。
でっぷりと太った白い老猫《ろうねこ》が一匹《いっぴき》、のたのたとした足取りで、裏通りを横切っていく。途中《とちゅう》に一度、足をとめて特大のあくびをひとつ。なんだか可愛《かわい》い。思わず見とれる。白いしっぽが物陰《ものかげ》へと消えていくまで、ぼんやりとその後姿《うしろすがた》を見送る。
そしてようやくアリスは我《われ》に返って、フロリアンに向き直った。
何秒かぶりに見たフロリアンは、なぜか笑っていた。
背を丸め腹《はら》を抱《かか》えて、声を押《お》し殺して、目尻《めじり》に涙《なみだ》さえ浮《う》かべて、実に苦しそうに笑っていた。
「――はい?」
事情《じじょう》が分からないアリスが首をかしげても、その笑いは止まらなかった。仕方がないので、この唐突《とうとつ》な笑いの波が去るまで、眉根《まゆね》にしわをよせて待つことにする。
「いや……ごめん。ようやく納得《なっとく》がいったと思ったら、なんだかおかしくて」
目もとの涙を指で拭《ふ》き取りつつ、笑顔《えがお》のままのフロリアンは言う。
「なにがおかしいんです?」
「君が、あのリュカ君が選んだ子だってことを、今の今まで忘れてたんだ。
それを思い出したら、道理で頼《たの》もしいはずだ、ってフに落ちてさ。
それに、こんなおっかない子だなんて知らないままみんなで取り合いしてたんだから、僕らも随分《ずいぶん》とバカだよなぁとか思うと、ついおかしくて」
「……おっかないって何ですか、おっかないって」
「正当な評価《ひょうか》だと思うけどね」
言って――ようやく、フロリアンの表情が、引き締まる。
「改めて聞くよ。今僕らは、どこに向かっている?」
「え、あ、はい」
アリスは振り返り、視線《しせん》で道の先を示《しめ》して、
「向こうに、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》があるんです。あ、別に何か出るわけじゃないですよ。近所の子供《こども》たちの間でそう呼ばれてる場所ってことなんですけど。
昔は金持ちのおじさんが住んでたんですけど、商売で失敗して失踪《しっそう》しちゃって、それからもう荒《あ》れ放題で放置されちゃってて。
ヘンな人たち町住みつかれもゃ大変だからって、けっこう頻繁《ひんぱん》に警邏兵《けいらへい》さんたちが見回りに来ますけど、定期の見回りだから、隠れてやり過ごすのもそんなにむずかしくないはずです。だから、とりあえずの隠れ家としては上出来なんじゃないかなと」
「……分かった。それじゃ、そこには僕一人で向かう」
「一人って、そんな!」
「そんな顔しないで。別に自棄《やけ》になったわけじゃないから」
フロリアンは厳しい顔になり、
「こんな街中で、いつまでになるのかも分からずに逃《に》げ回り続けるなんて言っても、どうしても限界《げんかい》がある。本気でそれをするなら、街を脱出《だっしゅつ》するなり、もっと離《はな》れた場所にある隠れ家に移動するなりを、する必要がある。だから、絶対《ぜったい》に信頼《しんらい》できると思える人に、助けを呼んで欲《ほ》しいんだ」
「助け――」
「僕の直接《ちょくせつ》の知人は、おそらくすぐにマークされる。相手は国策《こくさく》レベルの作戦で動いてるんだ、その辺りについてはぬかりはないはずだ。
だから人選は、向こうにとってイレギュラー要素であるはずの、アリスさんに任《まか》せたい。君が信頼する人ならば、僕も信じられる」
そこで表情をわずかにゆるめ、
「できれば、兄に連絡《れんらく》がとりたいところなんだけどね。あの人はいつだって僕の味方で、今朝も大使館を通して警告を送ってくれた。まぁミルガ本国は遠いし、窮状《きゅうじょう》を伝えられたからって何もできないとは思うけど」
「……分かりました」
「それと」
さっそく走り出そうとしたところを、留《と》めるようにして言葉をつながれた。
がくんと膝《ひざ》を折りそうになったのをなんとか耐《た》えて、振り返る。
「何でしょう」
「その――……聞きたいことが……」
フロリアンはそこまで言って、戸惑《とまど》いに口をつぐむ。
迷《まよ》うように自分の前髪《まえがみ》を軽くいじって、
「……やっぱりいいや。君も気をつけて」
くるりと背《せ》を向けて歩き出そうとしたその時に、
バンッ――
聞き覚えのある、あの破裂音《はれつおん》。
びくん、と、フロリアンの背が揺《ゆ》れた。
その肩《かた》のあたりに、赤い花のようなものが咲《さ》いて見えた。
(――あ――)
ぐらりと、フロリアンの体が崩《くず》れた。
衝撃《しょうげき》でバランスを崩し、その場に倒《たお》れこもうとしている。
(な――んで――)
体をねじって、銃弾《じゅうだん》の飛んできた方向、自分の背後《はいご》に向き直ろうとした。
けれどどんなに力を込めても、体がなかなか動かない。
焦《あせ》りに、体の速さがついてこられない。
水の中を歩くよりもさらにゆっくりとした速さで、アリスは自分の背後を視界に入れて、そして見た。
何人もの男たち。
その手に携《たずさえ》られた、何やら大きな銃をはじめとした、様々な武器《ぶき》。
揃《そろ》いも揃った、まったくの無表情《むひょうじょう》。
そして……その全員が、こちらに向かって走り寄《よ》ってこようとしている。
「だ――――」
と声を出そうとするその唇《くちびる》の動きすら、もどかしくなるほどに遅《おそ》い。
引きのばされた時間の流れの中、アリスは、強引《ごういん》に、自分の体をねじる。
なんとか、男たちに向き直る。
一人の男が、銃口をこちらに向けているのが見える。ちょうどその男からフロリアンの姿《すがた》を覆《おお》い隠《かく》すような位置に割《わ》り込んで、そして両手を大きく広げる。
そのまま、ぎゅっと目を閉《と》じる。
「――め――――――――っ!!」
声が、ようやく音となって喉《のど》の奥《おく》からほとばしり出て、
〈黒と白とが境を彩る[#「黒と白とが境を彩る」に傍点]――ッ!〉
バンッ――
そして、三度目。
これまでの二度のような不意打ちではなく、絶望に満ちた気持ちで――あの音を、受け入れた。
痛《いた》みも衝撃も、何もなかった。
ただ、ふらりと、貧血《ひんけつ》にも似た浮遊《ふゆう》感が、体を包み込《こ》んだ。
まぶたの裏《うら》の暗闇《くらやみ》が、急速にその濃《こ》さを増《ま》したかと思うと、がばりと大きく口を開いて、アリスをまるごと飲み込んだ。
(――今――)
まるで、限界《けんかい》まで疲《つか》れてからベッドに飛び込んだときのようだ。甘《あま》くて重たい深淵《しんえん》の中へと、抗《あらが》いようもない勢《いきお》いで落ちて行く。
落ちて行きながら、残された意識《いしき》の片鱗《へんりん》だけで、ぼんやりと考える。
(いま、誰《だれ》かの――声が、聞こえた――?)
そして、それが終わりだった。
一切《いっさい》の光の混《ま》じらない完全な黒が、アリスの意識を完全に塗《ぬ》りつぶした。
13.
「千切りにして[#「千切りにして」に傍点]/みじん切りにしちまえ[#「みじん切りにしちまえ」に傍点]!」
サリムの声とともに、周囲の世界が歪《ゆが》む。ちょうど子供《こども》のひと抱《かか》えほどの大きさの空間が二つ、その声に命じられるまま彼の支配領域《しはいりょういき》となり、その内側を不可視《ふかし》の刃物《はもの》が縦横《じゅうおう》が奔《はし》り回る。
狙《ねら》いは――左肩と、右のくるぶし。
完全には避《よ》けきれない。そう判断《はんだん》しつつ、ジネットは左足を起点に体を倒す。軽い浮遊感に身を委《ゆだ》ねつつ、石畳《いしだたみ》を噛《か》む足を強く弾《はじ》いて、距離《きょり》を大きく開ける。肩の辺りの布地《ぬのじ》が一切れ、一筋《ひとすじ》の血の糸を引きながら、ちぎれ飛ぶ。
廃教会《はいきょうかい》の薄汚《うすよご》れた床《ゆか》に血のしぶきが散って、小さな赤い花が咲く。
(――強い、な)
心の中で、舌打《したう》ちする。
魔法書《グリモア》『|争える双子《ソリテール》』を宿したサリム・ガールマールは、単体として見ても、決して侮《あなど》れる相手ではない。単純《たんじゅん》な火力の撃ち合いに徹《てっ》して評《ひょう》するならば、|魔法書の代役《バーント・グリモア》全員の中でも一、二を争うだけのポテンシャルがある。
そしてその強さを支えているのが、魔法《ウィッチクラフト》の速射性《そくしゃせい》
兵器というものの性能《せいのう》を語る上で、破壊力《はかいりょく》や精度《せいど》と並んで重要な要素《ようそ》となるのが、この速射性だ。強力な兵器≠ニして扱《あつか》われる魔法《ウィッチクラフト》を扱う上でも、それは例外とはならない。他の者の倍の手数を持つということは、ただそれだけで、戦場における圧倒《あっとう》的なアドバンテージを生み出すことになる。
だが、もちろん、戦場にあってそれだけ[#「だけ」に傍点]では、意味がない。
そんなつまらない使われ方をされた魔法《ウィッチクラフト》の前に屈してやるほど、自分は甘くはない。
「くそっ! くそ、くそ、くそおぉっ!」
半ば自棄《やけ》になったように、サリムは同じ攻撃《こうげき》を繰《く》り返す。二つ一組の破壊空間が次々と生まれて、ジネットの体を切り刻《きざ》もうと襲《おそ》いかかって、そしてそのことごとくが寸前《すんぜん》に避けられて無駄《むだ》に消える。
手数に甘えた、単調な軌道《きどう》。不意を突《つ》かれでもしなければ、避けるのは容易《たやす》い。
「子供の癇癪《かんしゃく》しては、随分《ずいぶん》と傍迷惑《はためいわく》だな」
「うるさい――っ!」
叫《さけ》ぶと同時、また一組の攻撃が襲いかかってくる。狙いは両方の足元。とん、と軽く跳《は》ねて、その攻撃範囲《こうげきはんい》から逃《のが》れる。ベギギィッ、と派手《はで》な音を立て、敷石に二つの大きなへこみが刻まれる。
「う、打ちすえろ[#「打ちすえろ」に傍点]……っ!」
そのジネットを追うようにして、クロアも十ほどの飛礫《つぶて》を放つ。それぞれに重たい衝撃《しょうげき》を帯びた小石が、石壁《いしかべ》や木の椅子《いす》などを次々に撃《う》ち抜《ぬ》き、破壊していく。
が、肝心《かんじん》の狙いがまるでなっていない。
とん、とん、と軽業《かるわざ》のように跳ねまわるジネットの周囲にあるものだけが、派手な破砕音《はさいおん》とともに次々に砕《くだ》けていく。
そもそも彼らには、こうして魔法《ウィッチクラフト》を用いて誰かと傷《きず》つけ合うという経験《けいけん》そのものがほとんどないのだろう。彼我《ひが》の火力差は圧倒的ではあるが、致命《ちめい》的なダメージを受けないようにと逃《に》げ回るだけならば、なんとかなる。
もちろん、こうして逃げ回っているだけでは、何にもならないのだが。
「まじめにやれ! 戦うならちゃんと戦え、逃げ回るなよ!」
「無茶《むちゃ》を言うな」
ふわりと、羽根を落とすような柔《やわ》らかな跳躍。
半ば朽《く》ちて黒ずんだ祭壇《さいだん》の上に、音もなくジネットは着地する。
「世界は、そうそうお前にばかり都合よく回るものではないぞ」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
だめだ。会話にならない。完全に頭に血が上っている。
額《ひたい》を押《お》さえて頭痛《ずつう》をやり過《す》ごし、ついでにくるりと身を翻《ひるがえ》すことでまた球形の領域ふたつをやりすごす。左の袖《そで》と髪《かみ》のひとふさが、千切れて飛んだ。
ちらりと背後《はいご》に目をやる。祭壇の後ろはすぐに壁《かべ》になっている。
「降り注げ[#「降り注げ」に傍点]」
祭壇の上から身を投げ出し、空中で体をねじりながら、ジネットは唱える。
その体を取り巻くようにして、長さの不揃《ふぞろ》いな黒塗りの短槍《たんそう》が十二本、音もなく浮《う》かび上がる。それらの槍《やり》のすべては、誰に操《あやつ》られるでもなく、それぞれが勝手にゆらりと動いて狙いをつけると、まるで弩《いしゆみ》から放たれた太矢《クォーレル》のような勢いで撃ち放たれる。
ある槍は真っすぐに。ある槍は放物線を描《えが》いて。ある槍は稲妻《いなずま》のごとき異様《いよう》な動きで。十二本の全《すべ》てがそれぞれにばらばらの軌道で、ひとつの獲物《えもの》を狙って飛ぶ。
「く……っ!」
これらは、ジネットのすぐ傍《そば》でほぼ完全なレベルで物質《ぶっしつ》化させた本物の鉄槍≠ナある。他の者が展開《てんかい》した|夜の軟泥《ワルプルギス》の中へ撃ち出されたからといって、すぐにその存在《そんざい》が掻《か》き消されて無くなってしまうようなことはない。
マルキの振《ふ》るった山刀が、槍の幾《いく》らかを叩《たた》き落とした。
クロアが投げつけた白布が、槍の幾つかを絡《から》めとった。
残りの槍のすべてが、サリムへと殺到《さっとう》する。そしてその中の一本だけが、少年の頬《ほお》を掠《かす》めて飛び過ぎて、向かいの壁に突き刺《さ》さる――その寸前に宙《ちゅう》に消えた。
サリムの頬から、一筋の赤い線が、顎《あご》に向けて伸《の》びる。
その口元が、ほんのわずかに、動揺《どうよう》に歪《ゆが》む。
小さな、本当に小さな、一瞬《いっしゅん》の隙《すき》。
その瞬間、ジネットは、彼我《ひが》の間に開いた距離《きょり》の全てを、まとめて踏《ふ》み殺した。
耳元で暴風《ぼうふう》が唸《うな》る。
暴《あば》れ狂《くる》う|夜の軟泥《ワルプルギス》を血管の一本一本にまで注ぎ込み、血流の働きに換《か》える。生身の人間として、いやひとつの動物として、まともに血流で筋肉《きんにく》を動かしていては届《とど》かない領域《りょういき》。限界《げんかい》を超《こ》えた動きを強《し》いられた足の筋《すじ》が、音もなく何本か断裂《だんれつ》する。その加速に眼球《がんきゅう》が苦しみ、視界《しかい》が一気に黒に染《そ》まる。自らの体を傷つけ、壊《こわ》し、それを代償《だいしょう》としてさらに一歩を前へと踏み出す。
行く手を遮《さえぎ》るようにして、マルキの山刀が疾《はし》る。驚異《きょうい》としか言いようのない反応《はんのう》速度ではあったが、やはりさすがにその狙《ねら》いも速度も、本来の彼のレベルに比《くら》べればやや甘《あよ》い。足を止めれば避《よ》けられたであろうその刃《やいば》に、そのまま正面から突っ込んで行く。
冷たい金属《きんぞく》の感触《かんしょく》が、深々と脇腹《わきばら》にえぐりこんだ。
肉が裂《さ》け、骨《ほね》が断《た》たれる。
だがそれも、致命傷《ちめいしょう》ではない。ジネットは止まらない。
ただの一瞬《いっしゅん》たりとも躊躇《ちゅうちょ》をせずに、考えていた通りの歩数と狙っていた通りの軌道でその場所に到達《とうたつ》し、そして右足を床石《ゆかいし》に打ち込んで動きを止めた。破砕された石片《せきへん》と土煙《つちけむり》、そして迸《ほとばし》るような血の塊《かたまり》が飛び散った。
振り返るようにして、ジネットは手を伸ばす。
暗転したままの視界の中、伸ばしたその手に触《ふ》れたものを、掴《つか》む。
「あ……」
サリムが当惑の声をあげる。いったい今目の前で何が起きたのか、そして今自分の身に何が起きているのかを、まるで把握《はあく》できずにいる、そんな声。
ジネットは自分の状態《じょうたい》を確認《かくにん》する。今の一瞬だけで、いきなりいくつもの重傷を負ってしまった。本来ならばその衝撃だけで意識《いしき》が飛んでしまいそうなところを、無理やりにつなぎ止めている。脇腹から流れ出る血とともに、少しずつ力が抜けていく。限界にまで活性《かっせい》化した|夜の軟泥《ワルプルギス》が、受けたダメージを回復、いや修復すべく、全身で蠢《うごめ》いている。
けれど、まだ、戦える時間は残っている。
その確信を得て、息を小さく吸《す》いこみ、
「――思い出せ[#「思い出せ」に傍点]」
その一言を、呪文《じゅもん》として、囁《ささや》いた。
どくん、と心臓《しんぞう》が一度大きく、悲鳴のように拍動した。
体中を巡《めぐ》る|夜の軟泥《ワルプルギス》の流れを、強引に変える。
握《にぎ》りしめた手のひらから、その手に掴んだものに――サリムの体内に[#「サリムの体内に」に傍点]、その|夜の軟泥《ワルプルギス》を流しこむ。
生身の人間ならともかく、相手はジネットと同じく不死人《レヴナント》だ。サリムの体に宿った|夜の軟泥《ワルプルギス》が強く反発するのが指先に感じ取れる。その反発を押し退《の》けて、むしろその|夜の軟泥《ワルプルギス》に自分のそれを混《ま》ぜ込ませるようにして、侵食《しんしょく》させてゆく。
「失意の足跡を[#「失意の足跡を」に傍点]、無力の記憶を[#「無力の記憶を」に傍点]、無明の悪夢を[#「無明の悪夢を」に傍点]」
「え……あ……ああああああっ!?」
悲鳴が、あがった。
サリムの腕《うで》を中心に、空気が、波を打った。
その波に撫《な》でられて、辺りの光景が、わずかに歪む。
「その踝で刻んだ歴史を[#「その踝で刻んだ歴史を」に傍点]」
またひとつ、波紋《はもん》が広がってゆく。
揺《ゆ》れる光景の向こう側に、何かが透《す》けて見え始める。
砕《くだ》けた石畳《いしだたみ》の向こう、汚《よご》れた漆喰《しっくい》の壁《かべ》の向こう、朽《く》ちかけた椅子《いす》の向こう、それぞれに何か、別の光景が重なり始めている。
――灰色《はいいろ》に立ち枯《が》れた木々の並《なら》ぶ、寂《さび》しい森の中の光景。
「あ……」
クロアがぺたりと腰《こし》を落とした。
気づいたのだろう。何が今この場所に起きようとしているのかに。
あるいは――今自分たちがどのような攻撃を受けているのかに[#「今自分たちがどのような攻撃を受けているのかに」に傍点]。
「消えることのない小さな物語を[#「消えることのない小さな物語を」に傍点]」
さらにまたひとつの波紋が広がって、
「止《と》めろぉ――――っ!!」
サリムが叫《さけ》ぶ。
ぶんとその首を大きく振《ふ》るが、腕は振りほどけない。
少年の腕力[#「少年の腕力」に傍点]では、どれだけ頑張《がんば》ったところで、ジネットの拘束《こうそく》からは逃《のが》れられない。
マルキが動いている。
大柄《おおがら》な体を精一杯《せいいっぱい》に動かして、血に濡《ぬ》れた山刀を大きく振り上げて、そこで躊躇する。彼の位置から見ると、ちょうどジネットはマルキの陰《かげ》に位置している。詠唱《えいしょう》を止めようにも、その方法がない。斬《き》りつける先がない。
終わった、とジネットは考えた。
既《すで》に大きく手傷《てきず》を負わされている。もうまともに戦い続けられるだけの体力は残っていない。けれどもう問題はない。あと数秒の後には、全《すべ》てが片付《かたづ》いている。自分がやろうとしているのは、そういうことだ。どれだけ大きな力を振るう者であろうと、それが不死者《レヴナント》である限《かぎ》り、この状況[#「状況」に傍点]の前では無力になるのだ。
――そして、予想外のことが、ふたつ起きた。
「ぼくごと叩き斬れ[#「ぼくごと叩き斬れ」に傍点]!」
サリムが叫んだ。
「分かった[#「分かった」に傍点]」
マルキが頷《うなず》いた。
そのやり取りには、躊躇がなかった。
だからジネットには、それから起きることに反応《はんのう》するだけの時間の余裕《よゆう》も与《あた》えられなかった。
サリムが振《ふ》り返り、残されたほうの腕で抱《だ》きついてくる。もちろんそれは、ジネットがその気になれば簡単《かんたん》に振りほどける程度《ていど》の力でしかなかったが、それでも意表を突《つ》くには充分《じゅうぶん》だった。ほんの一瞬《いっしゅん》だけ、ジネットの動きが止まる。
そして、マルキの山刀が、振り下ろされた。
血が――舞《ま》った。
古木の庭≠ニは、厳密《げんみつ》に言えば、組織《そしき》や集団《しゅうだん》そのものに付けられた名前ではない。
それは、ひとつの誓《ちか》いの名前だ。
あるいは、その誓いを共有する者たちの間にある絆《きずな》の名前だ。
二百年前に、魔女《まじょ》を殺すために立ち上がった三十七人の討伐隊《とうばつたい》。
そのうち六人は、騎士《きし》でも傭兵《ようへい》でもなく、それどころか自ら望んで戦いの場に身を置く者でもなかった。
騎士の連れた従者《じゅうしゃ》であったり、侍女《じじょ》であったり、あるいは道案内のためだけに無理やり連れてきた狩人《かりゅうど》であったり――素性《すじょう》はそれぞれにバラバラだったし、積極的に魔女を殺したい理由を持ち合わせているわけでもなかったが、なんとかこの旅から生きて戻りたいと願っていた。その一点においては共通していた。
そして彼ら六人は、全員が等しく、まったく同じ場所で、討伐隊に見捨《みす》てられた。
魔女の城《しろ》の奥《おく》に至《いた》る手前。立ち枯れた木々の並ぶ庭の中、迫《せま》り来るケモノ[#「ケモノ」に傍点]たちの群《む》れの中へと、置き去りにされた。
結局、彼らは死ななかった。結果としてほ、一人も欠けることなく、不死者《レヴナント》として生き永《なが》らえることが出来た。
そして彼らは、六人で手を取り合って、それからの時を過《す》ごし始めた。
彼らの願いを、ジネットは知らない。
彼らがあの古木の庭の中で何を思い、何を誓い、何を結び合ったのか。そういったことを、ジネットは何ひとつとして、知らない。
割《わ》れた窓《まど》の向こうに見える空を、名前も知らない、青い鳥が飛んでいる。
血に汚《よご》れた壁《かべ》に背《せ》をもたれさせて、ジネットはそれを見上げている。
「――なぁ、姫《ひめ》さん」
問われて、向き直る。
黒ずんだ椅子《いす》のひとつにどっかりと腰を下ろした……今にも潰《つぶ》れてしまいそうな悲鳴じみた軋《きし》みが聞こえる……マルキが、鋭《するど》く細めた目で、こちらを眺《なが》めている。
サリムとクロアの二人は、既にここにはいない。重傷を負ったサリムをクロアが連れ出す形で、二人ともこの場を離れている。
ジネットはそれを追うことが出来なかった。ジネット自身が深手を負っていたこともあるが、それより何よりも、目の前にマルキが立ちはだかっていたからだ。まったくの無傷《むきず》で立っている不死者《レヴナント》。力任《ちからまか》せに押《お》し通すには難《むずか》しい相手だった。
そして向こうにとっても、状況《じょうきょう》は似《に》たようなもののようだった。マルキはジネットの道をふさぐだけで、自ら山刀を振るって襲《おそ》いかかってこようとはしなかった。
奇妙《きみょう》な小康状態《しょうこうじょうたい》が、続いている。
「……なんだ?」
「あんた、本気で、オレたちを消す気だったのか?」
人間離れした膂力《りょりょく》に任せ、足もとの石畳《いしだたみ》に山刀を突き立てる。
柄《つか》から手を離す。
そしてほんの一瞬の後には、山刀は光の粒《つぶ》に砕《くだ》けて消えて無くなっている。
「さっきあんたがやろうとしたのほ、そういうことだったのか?」
「さて、な……」
ジネットは力なく笑む。
「確《たし》かに、本気ではあった。
だが、何に本気だったのかについては、正直なところ、私にもよく分からない。
少なくとも……本気で、お前たちを抑《おさ》えるつもりでいたことは間違《まちが》いないが」
「抑える、ね」
マルキは立ち上がる。ぎしり、と椅子が悲鳴をあげる。
「オレたちの本音としちゃ、あんたを敵《てき》に回したくねぇ。
殴《なぐ》り合って勝てねぇからとか、そんなんじゃねぇ。あんたに剣《けん》を向けたくねぇんだ。
二百年前、あのクソふざけた連中に引きずり込《こ》まれたあのクソ汚《きた》ねぇ戦場で、もな、オレたちゃあんたのおかげで戦えた。生き残れた。あんたは恩人《おんじん》なんだ。
だから、あんたとは戦いたくねぇ。
オレたちゃ全員、多かれ少なかれ、そんなふうに考えてる」
「……そのありに、ずいぶんと、容赦《ようしゃ》なく切り刻《きざ》んでくれたな?」
「切り刻めって自分から飛び込んできたのはどこの誰だよ?」
苦い声。
「そうか。それは確かに、私の自業自得《じごうじとく》だな」
マルキは廃教会《はいきょうかい》の入り口へと向かう。
ジネットはそれを追わない。視線《しせん》だけで見送る。
「……なぁ、姫さん」
顔を上げる。
マルキの大きな背中が、問いかけてくる。
「これからも、こういうことを、繰り返す気なのかよ?」
「知るものか」
簡潔《かんけつ》に、答える。
「私が聞きたいくらいだ」
マルキは肩《かた》をすくめて、そして開いたままの戸の向こうへと姿《すがた》を消した。
14.
ゆらゆらと、世界が揺《ゆ》れている。
ぼやけた意識《いしき》の中で、なんだろうなぁと思う。
もしかしたらこれが、火山の多い地方でたまにあるという、地震《じしん》というやつだろうか。話にだけは聞いたことがある。なんでも地面が激《はげ》しく揺れて、石積みの建物なんかが簡単にバラバラになって、終《しま》いには地面に大きなヒビが入るのだとか。
その話を聞いた時にはとにかく怖《こわ》くなって、絶対《ぜったい》にそんな場所には行かないぞと決心を固めたものだった。
ゆらゆらと、世界が揺れている。
聞いていたのとは少し、いやだいぶ違うような気がする。
こんなに優《やさ》しく揺れていたのでは、建物も崩《くず》れないだろうし、地面だって裂《さ》けはしないだろう。むしろ眠気《ねむけ》を誘《さそ》われるくらいの、心地良《ここちよ》い震動《しんどう》。
(……夢《ゆめ》、かなぁ、これ……)
ぼんやりと、そんなことを考える。
「――まぁ、つまり、そういうこったな」
世界のゆらめきの向こうがわから男の声が聞こえた。知らない声だった。
「世の中ってのは、お前ら太平楽の一般市民《パンピー》が信じ込まされてる嘘《うそ》より数段《すうだん》複雑《ふくざつ》で、ついでにドロドロしてんだよ。
今の世の中で、魔法《ウィッチクラフト》だのバケモノだの言っても、誰《だれ》も信じやしねぇ。言いだした奴《やつ》が後ろ指さされて嘘吐《うそつ》き呼ばわりされて、それで終わりだ。
魔法《ウィッチクラフト》なんてアリマセン、っつー嘘≠ノ、誰も彼もが騙《だま》されてやがる。
頭っから信じきって、これっぽっちも疑《うたが》いやしねぇ。
まぁ、それはそれで良いことなんだろうがな。知ったところで良いことなんざひとつもありゃしねぇ。どうせ知ったところで不幸になるだけのハナシなら、どうせ不幸になってもかまわねぇようなロクデナシだけで独占《どくせん》しとくのも悪くねぇ」
「……あなたも、その……彼女たちと同じ、なんですか?」
その質問《しつもん》の声は、驚《おどろ》くほど近くから聞こえた。
そして、アリスにはその声に聞き覚えがあった。
(フロリアンさん……?)
薄目《うすめ》を開けて、状況《じょうきょう》を確認《かくにん》してみる。
まず、自分は、フロリアンに背負《せお》われているようだった。
そしてその隣《となり》を、とりあえず見覚えのない男が並《なら》んで歩いている。
決して若《わか》くはない――中年と言っていいだろう年齢《ねんれい》。ネズミ色のコート。白髪《はくはつ》に白い不精《ぶしょう》ひげ。どことなく眠たそうな、この世の何もかもを面倒《めんどう》くさいと考えてでもいるような、覇気《はき》のない目つき。
うん、間違《まちが》いない。自分の知り合いには、こんな人はいない。
「その……魔法《ウィッチクラフト》というのを、使えるんですよね……?」
「半分イエスで、半分ノーだな。確《たし》かにちったぁ魔法《ウィッチクラフト》の心得はあるが、あいつらみてーに人間まで辞《や》めた覚えはねぇよ」
なんじゃ、ずいぶんと含《ふく》みのある言い方じゃの
また別の声が、会話に割《わ》り込んできた。
ずいぶんと齢《とし》を重ねた、老人の声。どこかで聞いたような気もするが、しかしやっぱりどこで聞いたのかが思い出せない。知り合いの声ではないだろうとは思う。
そして今度は、その声の主の姿《すがた》も見えなかった。
薄目のままよく見てみると――隣を歩く、知り合いではない灰色《はいいろ》の男の胸元《むなもと》には、この男にはまったく似合《にあ》わない可愛《かわい》い人形が抱《だ》かれている。ちょうど赤ん坊《ぼう》くらいの大きさの、瀟洒《しょうしゃ》な作りのアンティーク人形。そしてどうやら、
〈何ぞ儂《わし》らに言いたいことでもあるんか? ん?〉
「あるに決まってんだろーが、悪趣味《あくしゅみ》ジジイ」
〈この絶世のぷりちーぼでぃーを捕《つか》まえて、悪趣味|扱《あつか》いはひどくないかのう?〉
その人形の首や腕《うで》が、ひとりでにひょこひょこと動いている。そしてこの老人の声は、まさにその人形の唇《くちびる》の辺りから聞こえているようなのだ。
(……ああ、やっぱり夢、だなぁ、これ……)
納得《なっとく》した。
夢ならば、誰がどんなことをしていても、とりあえずはおかしくない。
「そんで、だ。
そのことを知った上で、坊主《ぼうず》。お前は、どう生きる?」
「……随分《ずいぶん》と重たい話題を振《ふ》るんですね」
「こんだけ状況がヘビーならな。前置きを挟《はさ》んでる場合でもねぇだろ。
まぁ外野がどう騒《さわ》ごうが、所詮《しょせん》は坊主の命だ、どう生きようと勝手だがな。死にたいと思った時だけ、気ぃつけろよ。
坊主の命は坊主のモンだが、坊主の死は坊主だけのモンじゃねぇ。
本人にとっちゃ何でもねぇことでも、まわりの人間がとっかえひっかえ、好き勝手な意味付けをやらかしやがる。誰の場合だろうと多かれ少なかれそういうもんだが、坊主の場合はちぃっとばかり、そのまわりの人間の反応《はんのう》が派手《はで》なことになる。
俺《おれ》の言ってる意味、分かってんな?」
「分かっていますよ」
フロリアンの声が小さくうめいて、
「あなたの国の不利になるような死に方をされると困《こま》る、ということでしょう?」
「へ」
男の声が小さく笑う。
「察しがいいじゃねぇか。今の話で、俺の素性《すじょう》まで当てられたか?」
「いえ、さすがにそこまでは。でも、あの状況《シチュエーション》で面識《めんしき》のない人に――人たち[#「たち」に傍点]に助けられたら、他に考えようもないですし」
「ロマンチストかと思ったら、妙《みょう》なとこで随分とドライな坊主だな、おい」
男は楽しそうな声で、
「まぁ、そんだけ分かってりゃ充分《じゅうぶん》だ。好き勝手に生きて、気をつけてくたばれ」
〈……殺伐《さつばつ》とした激励《げきれい》もあったもんじゃのう》
「励《はけ》ましちゃいねぇぞ、別に」
〈まあ、そうじゃろうな……〉
男の腕の中の人形が、小さな肩《かた》を、呆《あき》れたようにすくめる。
――彼らの会話の意味は、アリスにはよく分からなかった。
どこか遠い世界の、遠い物語《イストワール》を聞いているように、思えた。
だから、これはやっぱり、ただの夢《ゆめ》。
「しっかし、起きねぇな」
いきなり、話題が変わった。
何の話を始めたのだろうと思った。
〈疲《つか》れとったんじゃろ。この小僧《こぞう》のように予《あらかじ》め覚悟《かくご》しとったんならともかく、そこらで平和に生きとった子供がいきなり巻《ま》き込まれるには、この朝は少しばかりハードすぎる〉
「そう、思います」
フロリアンが小さく頷《うなず》く気配。
「よく見っと、けっこう良い骨《ほぬ》してんな。こりゃ将来《しょうらい》美人になるぞ」
〈その言い草のほうが、よっぽど悪趣味に聞こえるんじゃがな〉
「うるせぇ」
「……アリスさんは、もう充分に美人ですよ。
そうでなくても高嶺《たかね》の花なんだ。これ以上の女性《じょせい》になられると、気楽に憧《あこが》れることすらできなくなるじゃないですか。そういうのは、僕《ぼく》らが少し困ります」
あれ。名前が出てきて、初めて気づいた。
もしかして、いまこの三人(?)の間で話題になっているのは、この自分のことだろうか。
〈こっちはこっちで、出てくるセリフは甘酸《あまず》っぱさ絶頂《ぜっちょう》じゃな〉
「そうですか?」
〈なーにを平和な顔で問い返しとるか、まったく〉
ぶつくさと、老人の声が何やらつぶやく。
そんな会話を聞き流しながら、アリスの意識《いしき》は、再《ふたた》びまどろみの渦《うず》の中へと飲み込《こ》まれてゆく。
へくちっ。
……そんなくしゃみを聞いて、アリスは今度こそはっきりと目を覚ます。
瞬《まばた》きをひとつ。
がやがやと、辺りが騒《さわ》がしい。
身を起こして周りを見渡《みわた》してみると、そこは自分のよく知る場所だった。
家からすぐ近くにある市場の外れ、ぽつんと置かれた小さなベンチ。
「…………」
どうやら、そのベンチに腰《こし》かけたまま、居眠《いねむ》りをしてしまっていたらしい。時計塔《とけいとう》のほうを仰《あお》ぎ見て……も角度のせいでよく時間が分からなかったので、代わりに太陽の高さを確《たし》かめる。どうやら、もうすぐ昼になろうという時間のようだ。
「夢?」
首を傾《かし》げて、自分に対して尋《たず》ねた。
「どこから、どこまで?」
自分の体を見下ろしてみる。胸《むね》の近くが、血らしきもので赤く血で汚《よご》れている。けれどアリス自身の体には、これといって外傷《がいしょう》らしきものは何もない。
思い出す。
フロリアンは、肩を銃《じゅう》で撃《う》たれていた。
そしてあの夢の中で、自分は、そのフロリアンに背負《せお》われていた。
「…………」
そうか、と納得《なっとく》する。
夢のようだったあれらは、そのほとんどが、夢などではなかったのだと。
へくちっ。
体が冷え切っていた。
考えてもみれば当たり前の話で、そうでなくても肌寒《はだざむ》いこの季節の朝に、自分はコートすら着けずにベンチで眠っていたのだ。それで体に何の異常《いじょう》もなかったら、それはそれでむしろ何かがおかしいというものだ。
夢でも幻《まぼろし》でもなんでもない。
たとえばそれが、アリス・マルカーンの手元に残った現実《げんじつ》のひとつ。
「……風邪《かぜ》、引いちゃったかなぁ」
ベンチから立ち上がって、空を仰ぐ。
湖を覆《おお》う氷を透《す》かし見るような、固く澄《す》んだ青色だった。
――こうして。
フロリアン・コルアもまた、アリスの前から姿《すがた》を消した。
[#改ページ]
▼promnade
それは、遠い昔の物語。
時は夜。舞台《ぶたい》は古城《こじょう》の最奥部《さいおうぶ》、尖塔《せんとう》の最上部。
壁際《かべぎわ》にずらりと並《なら》べられた燭台《しょくだい》の照らし出す書架《しょか》と、納《おさ》められた無数の書物。
床《ゆか》に倒《たお》れ伏《ふ》す人影《ひとかげ》がひとつ。
血に濡《ぬ》れた短剣《たんけん》を手に、その傍《かたわ》らに立つ女が一人。
女は足元を見下ろしている。自分が刺《さ》したその人影を見つめている。
人影はもう、ぴくりとも動かない。
女は手元に目をやる。軽く湾曲《わんきょく》した刃《やいば》を持つ短剣がそこにある。彼女の信頼《しんらい》できる相棒《あいぼう》だ。人間の命を刈《か》り取るための道具。女はこれまでにこの短剣で、数えるのも面倒《めんどう》になるほどの人間を刺して、そして殺してきた。
そして今また、彼女は一人を刺した。これまでやってきたのと同じように。
人影は動かない。まるで死んでしまったように動かない。
いや、あるいはもしかすると、こいつは本当に死んでしまったのではないか。ただ単に、もうとっくに死体に成り果ててしまっているから、動くはずがないだけなのではないか――
ひっくりかえす。
おそるおそる触《ふ》れる。確かめる。脈《みゃく》がない。朽木《くちき》のように横たわるそれは、どう見てもただの骸《むくろ》だった。
首を刺す。
心臓《しんぞう》を刺す。
腸《はらわた》を刺す。
眼《め》を貫《つらぬ》き、脳《のう》を刺す。
反応《はんのう》はない。刑場《けいじょう》で行われる腑分《ふわ》けのように、刃は易々《やすやす》と骸を切り刻《きざ》む。
「……あは」
堪《こら》えきれず、女は笑い出した。
「あはははははっ! なに、何よそれ、そんな簡単《かんたん》な話でいいの? 本当にいいの?」
腹《はら》を抱《かか》えて、大声で笑う。
聞く者など誰もいない暗闇《くらやみ》の中に、声は吸《す》い込まれて消えていく。
「あんた魔女《まじょ》でしょ?
数多《あまた》の害獣《がいじゅう》を従《したが》え、致死《ちし》の疫病《えきびょう》を撒《ま》き散《ち》らし、神を冒涜《ぼうとく》し人を堕落《だらく》させる魔の眷属《けんぞく》でしょ? シュテーブルを脅《おびや》かす悪役中の悪役でしょ?
なぁんでこんな簡単に死ぬのよ!
死ぬ気で覚悟《かくご》決めてここまで来たあたしたちが馬鹿《ばか》みたいじゃないのよ!
あんたわかってんの? あたしと一緒《いっしょ》に来たほかのみんなはね。まだここにたどり着いてないの。魔女に遭《あ》ったらその瞬間《しゅんかん》に最後の戦いの始まりだって、悲愴《ひそう》な覚悟でまだこの城のどこかを歩いてんの。死ぬかもしれないって、もう帰れないかもしれないって、そんな覚悟を決めたまま暗闇をうろついてるの。そりゃ、騎士《きし》連中は別にいいわよ、ああいう連中なんだしどんな目に遭ったって自業自得《じごうじとく》だから。でも、ここにいるのは、あんなロクデナシ連中だけじゃない。子供《こども》も混《ま》ざってんのよ? そんな子供が、あんたっていうでっかい脅威《きょうい》に立ち向かうために勇気を振《ふ》り絞《しぼ》ってんのよ? あんたはとっくに死んでんのに! 怖《こわ》がる相手なんて何も無いのに! 間抜けな顔して恐怖と戦ってんのよ今も現在進行形で!
あんたにはこんな終わり方、許《ゆる》されなかった!
刺してただそれだけで死んじゃうなんて、そんな人間みたいな終わり方――」
笑う。腹を抱えて笑う。
笑う。涙を流して笑う。
笑う。膝《ひざ》を折り、ぺたんと床に尻《しり》を落とした状態《じょうたい》で笑う。笑う。笑う。
笑い続け――やがて疲《つか》れて、その声も小さくなる。
「……ま、簡単な仕事だったんだから、文句《もんく》つける筋合《すじあ》いもないか」
落ち着いた声で呟《つぶや》く。
「何にせよ、これであたしたちはみんなシュテーブルの英雄《えいゆう》サマだ。あはは、最後まで間抜けな笑い話みたい。こんな汚《よご》れた女が、こんな普通《ふつう》な汚れ仕事をやっただけの話なのに。ジネットのことだから、きっと大袈裟《おおげさ》に表彰《ひょうしょう》してくれちゃうんだろな――」
立ち上がり、涙を拭《ふ》く。
部屋を見回す。
広い部屋だった。そしてその広い部屋一杯に、決して小さくない書架《しょか》がずらりと並べられていた。その書架のひとつひとつに、数え切れないほどの数の本が並べられていた。
壁際《かべぎわ》に並んだ蝋燭《ろうそく》の淡い光が、乱雑《らんざつ》に並べられた背表紙《せびょうし》をぼんやりと照らす。
「魔女の蔵書《ぞうしょ》、か。アイツが何か言ってたっけ。ええと、確か――」
女はしばし黙考《もっこう》してから、ぱちんと指を鳴らして
「魔女の抱《かか》えるものはその智《ち》すらが全《すべ》て猛毒《もうどく》、触れることなく全て焼き払え=v
背嚢《はいのう》を開き、羊《ひつじ》の胃袋《いぶくろ》で作った油袋を取り出す。決して使いやすいものではないが、これなら硝子《ガラス》の瓶《びん》と違って多少|手荒《てあら》に扱《あつか》っても破れないし、音をたてることもない。女はその中身を書架に向けて撒く。部屋全体に行き渡《わた》らせるほどの量はないが、問題は無い。欲《ほ》しいのは最初の火力だ。一度|勢《いきお》いがついた炎《ほのお》は、油の助けを借りる必要もなく、木と紙とを燃《も》やしながら部屋中のものを焼《や》き尽《つ》くしてくれるだろう。
次いで、一本の煙草《たばこ》を取り出す。場末で銅貨《どうか》の一枚も投げてやれば手に入るような、どうしようもなく安物の煙草。蝋燭の炎で火をつける。軽く一服。女の唇《くちびる》から、紫色《むらさきいろ》の細い煙《けむり》が漂《ただよ》い出る。
「――さよなら、名前も知もない魔女。手向《たむ》けの炎がこんな安物ってのも、案外あんたにはお似合《にあ》いかもね」
言い放って、女は手を伸ばし、煙草を宙に放る。
女の手を離れた煙草は、小さな放物線を描くと床に落ちて、絨毯《じゅうたん》を濡らす菜種《なたね》の油に火をつけた。炎上は一瞬。ボウッ、という小さな音とともに炎が燃え上がり、そしてあっという間に書架のひとつを包み込む――
――――止めなさい――!
「……へ?」
制止《せいし》の声が、聞こえた。
女は周囲を見回すが、ここには彼女自身のほかには誰もいない。強《し》いて挙《あ》げれば、ただ魔女の骸が力なく横たわっているだけだ。そして、骸というものは、一般《いっぱん》的には、喋《しゃべ》らないものだと相場が決まっている。
止めなさい、この部屋の書物に手を出してはなりません――!″
声は続けて叫ぶ。
「……止めろって、そんなこと言われても……」
女は当惑の表情で自分の手元を見る。そこには何もない。当たり前だ、その指先に挟《はさ》まれていた煙草はさきほど放り投げた。
飢《う》えた獣《けもの》のように猛《たけ》る炎は、そうしている間にもどんどん大きくなる。
そしてその炎に飲み込まれた本の全てが燃えてゆく。革表紙《かわびょうし》の焦《こ》げる焼ける異臭《いしゅう》。頁《ページ》の全てが炭の黒に染まり、記された文字は失われ、そして最後には紙の全てが焼け落ちて形そのものを失う。
その破壊《はかい》の姿を女はぼんやりと眺める。
何かが蠢《うごめ》いている。
焼け落ちた頁の隙間から。失われた文字の裏側《うらがわ》から。何かが染《し》み出している。
女はそれに気づき、思わず半歩後ずさる。
崩れ落ちる紙と紙との隙間から、泥《どろ》のようなものが染み出してきた。
どろりとした、黒色の何かだ。燃える書庫の本の一冊一冊から、溢《あふ》れるようにしてこぼれ出している。とんでもない量だ。本そのものの容積《ようせき》よりも遥《はる》かに大きい。それらは互いに触れ、混ざり合い、うねり、渦《うず》を作りながら、大きく、より巨《おお》きく育っていく。
――黒く見えているのは、文字だ。
あまりにも大量で、あまりにも濃密《のうみつ》であるためすぐにはそうと気づけない。しかしそれは間違いなく、書物という狭苦《せまくる》しい牢獄《ろうごく》から解《と》き放《はな》たれ、自由を謳歌《おうか》する無数の文字だ。
何百冊何千冊という書物の中から、そこに記《しる》された全ての文字が解放されて、水のように、あるいは粘菌《ねんきん》のように、暴れ、のた打ち回っている――
「ひ……っ」
女の唇から悲鳴が漏《も》れる。
異形《いぎょう》の渦《うず》が膨《ふく》れ上がる。
決して狭くはないはずの部屋の中で、窮屈《きゅうくつ》そうに踊り狂う。
針のような細い月だけが浮かぶ藍色《あいいろ》の夜空を背景に――
狭い箱からあふれ出る無数の蛇《へび》の死骸《しがい》のように。
尖塔《せんとう》の頂点から、黒い異形があふれ出す。
その時、ひとつの物語《レジェンド》が終わりを迎えた。
よそして、それとは別の、|無数の物語《レジェンデール》が、それぞれに幕《まく》を開けた。
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▼scene/5 いつか還《かえ》るための場所 〜home, sweet home〜
15.
太陽が昇《のぼ》りきるまで体を休めて、それからジネットは動き始める。
隣家《りんか》の呼び鈴《りん》を鳴らす。
数秒が経《た》ってから、一人の女性《じょせい》が扉《とびら》を開けて現《あらわ》れた。決して年若《としわか》いというわけではないのだろうが、妙《みょう》に幼《おさな》げな可愛《かわい》らしさを感じさせる女性だった。
アリスを呼び出してくれないかと頼《たの》むと、女性は困《こま》ったような顔になって、
「……いま、ちょっと動かせなくって」
「は?」
よくわからないことを、言いだした。
部屋に通された。
果たして、客間着姿《ねまきすがた》のアリスは、ベッドの中で毛布《もうふ》にくるまり目を回していた。
「……なんか、すみません、こんなかっこで」
鼻の詰《つ》まったような声で、アリスは言った。
「風邪か?」
「別に大したことないんですけどね、いちおう大事をとってって感じで……」
ずび、と小さな音を交えながらアリスは肯定《こうてい》する。
そういうことなら見舞《みま》い品のひとつも持ってくるべきだったかな、などとジネットは苦笑いを浮《う》かべながら、ベッドの枕《まくら》もとに置かれた小さな椅子《いす》に腰《こし》を下した。
「フロリアンは、どうなった?」
「味方の人たちと会えたみたいです。わたしを置いて、行っちゃいました」
「そうか……」
その味方というのは、きっと、ミルガの――いやもしかしたら他のどこかの国の、開戦に反対する一派《いっぱ》の人間だろう。
追い詰められた時に、一人でいることほど辛いことはない。彼には味方が必要だった。そしてその役目を務《つと》める者には、利害が一致《いっち》するなりなんなりの、味方であることの積極的な理由があることが望ましい。
自分やアリスでは足りないものを、そういう人間ならば補《おぎな》える。
「それは、良かったな」
「…………」
アリスはわずかに目を泳がせると、
「あんまりそばにいると、風邪、感染《うつ》っちゃいますよ」
「心配は要《い》らない」
いつものよう答えて、アリスの額《ひたい》に手をあてる。
確かに、少し熱い。しかし少しだけだ。
美味《おい》しいものを食べて暖《あたた》かくして寝ていれば、自然に治る程度《ていど》の病。
「……ジネッ卜さん、病気にも罹《かか》らないってことですか?」
「ん?」
「魔法使《まほうつか》い、だから」
「ああ……」
そうだ。そのことについて、まだアリスには話していない。
そして、きっと、もうこのまま話さずにいることはできない。
「聞いてくれるか?」
「話してくれますか?」
二人ほとんど同時に、相手に朝ねる。
そして、やはりほとんど同時に、小さく噴《ふ》き出す。
「……君にとっても辛い話になるぞ?」
その覚悟《かくご》を問いかけて、
「分かってます」と頷《うなず》くアリスの覚悟を確かめてから、ジネットは話し出す。
魔法《ウィッチクラフト》という概念《がいねん》について。
二百年前に起きたことについて。
自分自身のことについて。
そして――リュカとの出会いと、別れに至《いた》るまでの、短い軌跡《きせき》について。
学術院《ライブラリ》やライアとの関《かか》わり以外のことを、全《すべ》て話した。
アリスはそれらを、相槌《あいづち》のひとつすらも挟《はさ》まずに、静かに聞いていた。
そして、長いようで短いその話が、すべて終わった。
「……そっかぁ」
アリスが呟《つぶや》いて、そしてようやく表情《ひょうじょう》を動かした。
反応《はんのう》は、それだけだった。驚《おどろ》くこともなく、疑《うたが》うこともなく、かといって責《せ》めてくるようなことすらもなく、淡々《たんたん》と、少女はその話を受け入れた。
「リュカさんは……帰ってくる[#「帰ってくる」に傍点]、んですね?」
「ああ」
頷いた。
「それなら、ジネットさんは、これからどうするつもりなんですか?」
「まだ少し、迷《まよ》っている」
嘆息《たんそく》とともに、そう答えた。
「ここに留《とど》まるべきではない、とは思っている。のんびり時間を潰《つぶ》していられるような身分ではなくなったし、既《すで》にそういう時勢《じせい》でもないだろう」
もともと、自分はそういう存在《そんざい》なのだ。
ただそこにいるだけで、周りが放置してくれない。さすがに炎《ほのお》と刃《やいば》を掲《かか》げて追い回してくるような者はここ数十年ですっかり減《へ》ったが、それでも決していなくなりはしない。
そして何より、自分にはまだ、やるべきことがある。
そしてその道の途中《とちゅう》に、やりたいことも……ある。
「フェルツヴェンを、出るんですか?」
問われてみてから改めて考えて、そして考えるまでもない話だと気づいて、
「そういうことになるか」
頷く。
「どこへ、行くんですか?」
「行くべきところへ、だ。
東かもしれんし、西かもしれん。ミルガかもしれんし、ペルセリオかもしれん。
銅山《どうざん》の掘《ほ》り進められる方向は、銅鉱《どうこう》が伸《の》びる方向によって決まる。一介《いっかい》の鉱夫が決めるようなことではない」
「じゃあ――またここに帰ってくることは、ありますか?」
「さあ、どうだろうな」
「……そういう時には、嘘《うそ》でもいいから、はいって答えるものですよ」
それは、言えない。
嘘の吐《つ》けない自分がその言葉を使えば、それは約束になってしまう。
ジネットは沈黙《ちんもく》する。そしてそのジネットを見て、アリスは嘆息する。
「……しょうがないですね、ほんと」
「すまない」
「そこは、謝《あやま》るところじゃないですよ」
言って、アリスはのそのそとベッドから身を起こす。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「大丈夫ですよ」
起き上がったアリスは、その手を伸ばすと――
当惑《とうわく》するジネットの頭を、そのまま自分の胸《むね》の中へとかき抱《いだ》く。
「ずっと迷ってたんですよ、わたしも。でも、決めました」
「……アリ、ス?」
「みんな、ここからいなくなる。パスカルさんやリュカさんだけじゃない。タニアさんだって、ジネットさんだって、それに――フロリアンさんだって、きっと、そう。
ここからいなくなって、いつ帰ってくるかも分からない。
分かってるんです。仕方ないってこと。だってここは、みんなの故郷《こきょう》じゃないんですから。ここで生まれたのって、わたしだけなんですから。だから迷ってました。こんなふうに、みんなを見送るだけでいいのかなって。
でも……」
ぎゅう、とアリスの腕《うで》に力が入る。
「リュカさんが、いつかここに帰ってくるなら。ううん、ほかのみんなだって、いつかここに帰ってくるかもしれないんだから、誰《だれ》か『おかえりなさい』って迎《むか》えに出るひとがいないと、いけないじゃないですか。
だから、それがわたしの役目だって、信じることにしました」
何を言っているのだろう、この娘は。
「……私には、既に、故郷《こきょう》などないぞ」
「だから!」
昂《たかぶ》りかけた声を、アリスはすぐに鎮《しず》めて、
「だから、ですよ。故郷がないなら、なおさらです。
そういう人には、帰ってくる場所がいるんです。いつか帰るって決めた場所を、どこでもいいから一ヶ所、持ってないといけないんですよ」
「この街に、心を置いていけというのか?」
「逆《ぎゃく》ですよ。心に、この街を、持っていってください。
いつかどこかでさびしい思いをした時には、ここのことを思い出してください。きっともっとさびしい気持ちになれること請《う》け合いです。いつか絶対《ぜったい》に帰ってやるって気分になれれば、それだけでも意味があることだと思います」
「この通り、私は不老の身だ。何十年後になるかも分からない」
「じゃあ、何十年か待ったら、帰ってきてくれますか?」
「…………」
答えられない。
「約束してください。いつか、リュカさんと一緒《いっしょ》に、ここに戻《もど》ってくるって。
いつか二人に、『おかえりなさい』を言わせてくれるって」
「約束は、しない」
アリスの腕を振《ふ》りほどいて、ジネットは立ち上がった。
「ジネットさん」
「済《す》まない、アリス。忘《わす》れるわけにも違《たが》えるわけにもいかない約束が、既にこの胸の中にある。そういくつも誓《ちか》いを抱《かか》えて生きていられるほど、私は器用《きよう》ではない」
アリスに背《せ》を向ける。
そのまま、部屋の出口へと向かう。
そして扉《とびら》を押《お》し開けようとノブに手をかけて、
「……行ってくる」
振り返らずに、そう一言だけを残し、アリスの言葉は待たずにそのまま部屋を出た。
いつか帰る場所など、必要ない。
そういうものを持てる資格《しかく》が自分にあるとも思わない。
だから、帰ってくるとは言えなかった。
そしてまた、それとは別の理由で、さようならとも、言えなかった。
ごつん。傍《かたわ》らの壁《かべ》に額《ひたい》を押し付ける。
ああ、まったく。
本当に――弱くなってしまったのだなぁ、自分は。
旅支度《たびじたく》は、すぐに終わった。
最低限《さいていげん》の必需品《ひつじゅひん》をあれこれと荷物袋《サック》の中に詰《つ》め込《こ》んで、いつものドレスの上から男性《だんせい》もののインバネスを羽織《はお》る。やることは実質《じっしつ》的にそれだけだ。
自慢《じまん》ではないが、というより自慢にもならないが、この大陸中の誰よりも長い時間を流浪《るろう》の中で過《す》ごしてきたであろう自負がある――今さら、持っていく荷物の選択《せんたく》などで悩《なや》むようなことはない。
〈……もう、行くのか?〉
「む?」
振り返れば、テーブルの縁《ふち》にちょこんと腰《こし》かけたアルト老が、笑っているような責《せ》めているような、実に読みづらい複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》を浮《う》かべていた。
「いたのか、アルト老」
〈うむ〉
「首尾《しゅび》はどうだった?」
〈見て分かるじゃろ、ロジェの奴にはまんまと逃げられたわい〉
「なるほど、その口ぶりからして、他の収穫《しゅうかく》があったということか」
〈……なんじゃ、柄《がら》にもなく鋭《するど》いな、今日は〉
ひょい、とアルト老はテーブルから飛び降りる。
空中で短い手足を振り回してバランスを取ろうとしたが、見事なまでに着地に失敗。額をしたたかに床《ゆか》に打ちつける。〈おおおおお〉と頭を抱えながらも身を起こし、ひょこひょことジネットの足元まで近づいてきて、
〈まぁ、儂《わし》の話はどうでもええじゃろ。それよりお主《ぬし》、古木の庭≠フ連中に喧嘩《けんか》を売ったそうじゃな?〉
「ああ」
〈正気か?〉              、
「正気で、本気だ。
賢《かしこ》いやり方ではないことは、重々|承知《しょうち》している。彼らを敵《てき》に回すことは無謀《むぼう》で、しかも私たちの大願を考え合わせれば無益《むえき》もいいところだ。しかしそれでも、彼らに剣《けん》を向けずにはいられなかった。
呆《あき》れたか?」
〈ああ。確《たし》かに、呆れとるよ〉
小さな絆創膏《ばんそうこう》をべたべたと額に貼《は》り付けながら、アルト老は答える。
「ならばアルト老、別に貴方《あなた》は付き合わずとも構《かま》わない」
〈……ぬ?〉
「これはあくまで、私一人が招《まね》き寄《よ》せたトラブルだ。仮《かり》にも一国の将《しょう》を務《つと》めた男が、こんな戦略《せんりゃく》も何もない小娘[#「小娘」に傍点]の身勝手な我儘《わがまま》などに付き合って、無駄《むだ》な危険《きけん》を背負い込むことはない」
〈ほう……〉
「長い間、世話をかけた。礼を言う」
〈礼はええが、もしやお主、ここで儂《わし》が顔を出さんかったら、黙《だま》ってそのままこの街を出るつもりだったのではあるまいな?〉
「…………」
〈図星か〉
図星だった。
〈まったく、酷《ひど》い話もあったもんじゃな。隙《すき》も何もあったもんじゃないわい〉
「すまない」
〈そこで謝《あやま》るくらいなら、最初から違《ちが》うところで気を遣《つか》えというんじゃ、全く〉
ぶつくさと文句《もんく》を呟《つぶや》きながら、額に絆創膏を貼りつけたアルト老はジネットの荷物によじのぼり、その中へと潜《もぐ》り込む。
「……アルト老……」
〈悪いが、ジネット。お主に儂を解雇《かいこ》する権利《けんり》はないんじゃよ。
忘れたか? 儂はな、二百年前よりもさらに前に、一国の将≠フ座《ざ》から下ろされとるんじゃ。それ以降《いこう》の儂は、較《くら》べものにならんほど厄介《やっかい》な閑職《かんしょく》に回されとってな〉
「何を……言っている……」
〈友人にな、頼《たの》まれたんじゃよ。我儘で暴《あば》れ坊《ぼう》な小娘《こむすめ》の、お目付け役をやってほしいと。時に導《みちび》き、時に戒《いまし》めながら、その小娘が歩く道行きを支《ささ》えてやる仕事じゃ〉
「…………」
〈その友人には、『娘が一人前になるまで』などと言われとってな。その時には深く考えずにホイホイと頷《うなず》いたんじゃが……いやはや、あれは早計であった。十年|程度《ていど》でお役御免《やくごめん》じゃろうと思っとった仕事が、気がつけば今年で二百と二十三年目。しかもまだまだ終わる気配はないと来た。
約束事というものは、結ぶ前によく考えておかねばならんということじゃな〉
「………そうか」
そっぽを向いた。
そしてアルト老のほうを見ないまま、
「ライアとアルベールに残す手紙を書いてくる。少し待っていてくれ」
〈うむ〉
紙とペンを探《さが》すために、部屋を出る。
たぶん、泣きそうになっていたことには、気づかれないで済《す》んだと思う。
蒸気機関《じょうききかん》というやつは実に便利だ。
ほんの少し前の時代まで、この国は広いものだったのだ。町から町まで、徒歩で何日もかかっていた。もちろん道中の危険だってある。だから自分の生まれ育った町を離《はな》れるということは、それ相応《そうおう》の準備《じゅんび》と覚悟《かくご》が必要なイベントだった。重要な仕事や身内の婚姻《こんいん》など、避《さ》けるわけにはいかない理由がそこにはあった。
それが、今ではどうか。朝に町を出れば、陽《ひ》のあるうちに隣《となり》の町までたどり着ける。危険だって大したことがない。それは全《すべ》て、この蒸気機関車などというばかでかい箱が、鉄の道の上を爆走《ばくそう》し始めたからだ。
旅券《りょけん》はそこそこ値《ね》のはる代物《しろもの》だが、だからといって誰にも手が出せないというほどではない。道中に危険がまったくないというわけではないが、もちろん徒歩に比《くら》べれば圧倒《あっとう》的に安全である。
だからもう、そこには以前ほどの準備も覚悟も求められていない。出かける理由だって、もっといいかげんなもので済《す》まされる。天気の良い昼下がりには、誰しもサンドイッチの詰《つ》まったバスケットを下げてピクニックに行きたくなるだろう。そんな感じのちょっとした衝動《しょうどう》と、あとは旅券を買うだけの思い切りがあればいい――
夕刻《ゆうこく》になって、列車の切符《きっぷ》を買った。
発車のベルが鳴る。ホームで別れを惜《お》しんでいた人々が二組に分かれ、そのうち片方《かたほう》が列車の中へと飛び込んで、残りは寂《さび》しげな顔でホームに残った。前者の中に紛《まぎ》れるようにして、ジネットは列車へと乗り込んだ。
個室《コンパートメント》の番号を確かめて、席に座《すわ》る。人目に触《ふ》れる危険が去ったため、アルト老がさっそくのそのそと荷物袋《サック》から這《は》い出してくる。
窓硝子《まどガラス》に頭をもたれて、外の景色をぼんやりと眺《なが》める。
がたん、という低い音。客車が一度、大きく揺《ゆ》れた。
少しずつ、少しずつ、列車は動き始める。窓の外の景色が流れ始める。
「……アルト老」
〈うむ?〉
「また、ここに来ることは、あると思うか?」
〈ふうむ?〉
首をかしげて、
〈妙《みょう》がことを聞くもんじゃな。どういう風の吹《ふ》きまわしじゃ?〉
「……やっぱり、いい。忘《わす》れてくれ」
〈ふむうう?〉
納得《なっとく》できていないという顔で、アルト老は座席《ざせき》のクッションの上に体を投げ出す。
〈機会なら、いくらでもあるじゃろ。時間はいくらでも余《あま》っとるわけじゃしな〉
「……そうだな」
やがて列車が街を抜《ぬ》けると、いっきに視界《しかい》が開ける。
銀色に揺れる湖の彼方《かなた》に、沈《しず》みゆくオレンジ色の太陽。そしてその一角を削《けす》るようにしてそびえたつ、あの時計塔《とけいとう》のシルエット。
その眺めの眩《まぶ》しさに、思わず目を細める。
「きれー!」
「こら、静かにしなさい!」
おそらく隣《となり》の個室《コンパートメント》からだろう、若《わか》い親子のものとおぼしきそんな声が聞こえて、口元がゆるむ。
確《たし》かに、これは、綺麗《きれい》な眺めだなと――そう、思った。
[#改ページ]
▼promnade
あれから、長い時が流れて――
一人の少年が、夜の森の中を歩いている。
道らしい道はない。目の前に張り出してくる邪魔《じゃま》な小枝《こえだ》を掻《か》き分け、足もとにまとわりついてくる鬱陶《うっとう》しい下生えを踏《ふ》み散《ち》らして、ただまっすぐに、前に向かって、歩いている。
木々の天蓋《てんがい》が夜空を覆《おお》っている。星の光さえろくに届《とど》かない闇《やみ》の中、それでも少年は迷《まよ》いもせずただまっすぐに、歩を進め続ける。
少年の目の前で、視界《しかい》が開けた。
森の中に広がる、ちょっとした広場。闇の中に丸くくりぬかれたような夜空が、今にも降《ふ》り注《そそ》ぎそうな無数の星の光に、眩《まばゆ》く輝《かがや》ている。闇に慣《な》れた目がわずかに痛《いた》み、少年は一度小さく目を閉じて、そして改めて目の前へと――広場の中央へと、視線を向けた。
天使《ハロウド》が、そこにいた。
黄金色の長い髪が、風に弄《もてあそ》ばれるままに揺《ゆ》れている。白皙《はくせき》の横顔に憂《うれ》いを浮かべて、紫《むらさき》色の瞳《ひとみ》を夜空に向けている。ほう、と小さく押し出された吐息《といき》は、果たしてどのような心情を込められてのものなのか。
偉大《いだい》なる存在の象徴《しょうちょう》、限りなく美しいものとして聖典《せいてん》に語り継《つ》がれる姿。よく出来た絵画《かいが》か彫刻《ちょうこく》、あるいは、詩歌《しいか》か音楽。そういったものの中にしか存在せず、そういったものによってのみ表現されるべき世界が、少年の目の前にあった。
形を得た、幻想《げんそう》の光景。
その姿を認《みと》めた少年は、忌々《いまいま》しげに、軽く舌《した》を打つ。
「…………」
少年は、一度その唇《くちびる》を開いた。
そしてすぐに、それを閉じた。天使《ハロウド》にかけようとした言葉を声にせずにそのまま飲み込んで、広場の中へと一歩を踏み出した。
天使《ハロウド》は少年に気付かない。草を踏み分ける足音も、この広場の中に渦を巻く風に遮《さえぎ》られて届かない。だから少年は無造作《むぞうさ》に二人の間の距離を詰めて、そして、
「――――――――こりゃいったいどういうことだ、フィオル?」
尋《たず》ねた。
その瞬間、天使《ハロウド》は――まず、驚《おどろ》いた。
水を浴びせられた猫《ねこ》のようにその場で飛び跳《は》ね、そのままの姿勢《しせい》で硬直《こうちょく》した。それからゆっくりと首を巡らせて振り返り、互《たが》いの手が届く距離に立つ少年の姿を認めて、『信じられない』とばかりにその紫色の瞳を丸く見開いて、ぱちくりと一度まばたきをして、ぶんぶんと首を大きく横に振ってから改めて少年の顔を見据《みす》えた。
それだけの過程《かてい》を経《へ》てどうやらようやく状況を把握《はあく》したらしく、恐《おそ》る恐るその唇を開いて、
「…………リュ、カ?」
少年の名を、呼んだ。
もはやそれは天使《ハロウド》ではなく、人の娘《むすめ》だった。
確かに並外れて美しい娘ではある。しかしそれだけだ。つい先ほどまで確かにそこにあったはずの荘厳《そうごん》さや儚《はかな》さといったものは、いまの一瞬《いっしゅん》か間に、全《すべ》て失われてしまった。
「ああ」
名を呼ばれた少年は、小さく頷《うなず》くと、自分の赤毛を軽くくしゃくしゃとかき混《ま》ぜる。
「なんで……ここに……?」
「そいつは俺が聞きたい。俺ら、なんでここにいるんだ? いやその前に、どこだよここ? すげぇ見覚えあるっつーか懐《なつ》かしいっつーか、ありえないっつーか、いや大体それより前の話として、なんで生きてんだ俺ら?」
「…………」
娘はぼんやりとした顔のまま少年に歩み寄る。
わずかに見上げるようにして少年の顔を覗《のぞ》き込《こ》み、
「背《せ》……伸《の》びました……?」
「最後に会ってから、六年も経《た》ってっからな」
「声も少し、変わってます……?」
「そりゃ、こんだけ長く経てば、声変わりくらいするさ」
「でも、目が細いのは変わってない……?」
「ほっとけ」
突《つ》き放《はな》すように言うと、娘は笑った。
天使《ハロウド》の面影《おもかげ》など、まるで残っていない。まるで暖《あたた》められて溶《と》けたマシュマロのように、どうにもしまりのない笑顔だった。
「リュカ」
「今度は何だよ」
少し拗《す》ねたような声を出す少年に、
「お久《ひさ》しぶりです。元気にしてました?」
意表を突《つ》かれて、少年は小さく息を呑《の》む。
「……そっちこそどうなんだ、フィオル」
「あはは、ずっと存在してなかった[#「存在してなかった」に傍点]わけですから、あれを元気だったと言っていいやら悪いやらー」
ふにゃふにゃの笑顔のまま、困《こま》ったように指先で頬《ほほ》をかく。
「でも今は元気ですよ、うん、元気になりました」
「そっか。そいつは何よりだ」
そっけなく言って、リュカはすぐそこにあった岩の上へと、どっかと腰を落とした。
「座ろうぜ。聞きたいことが、話したいことと、山ほどあるんだ」
「……そうですね」
こくん、とフィオルは素直《すなお》に頷《うなず》いた。
六年前にそうしていたように、二人並んで、ひとつの岩の上に腰掛《こしか》けている。
当時は充分に大きく感じたその岩も、さすがに今この体格で腰掛けるとなるとやや手狭《てぜま》に感じる。しかしそれだからといって、あまり隣に座るフィオルとの間の距離《きょり》を詰《つ》めるわけにはいかない。そんなわけで、リュカはやや心地《ここち》の悪い思いをしながら、岩の端《はし》のほうで身を細くしている。
「…………」
「…………」
リュカの六年前の記憶《きおく》にある姿から、フィオルはまるで年をとっていない。ぱっと見ての印象で言うなら十七か十八か、とにかくそこらへん。
そしてリュカ自身は、もちろん、六年の間に六の年を重ねた。少なくとも外見の年齢《ねんれい》だけで言うならば、既《すで》にフィオルに追いついている。
だから――ああ、やっぱり、なんというか、居心地が悪い。
昔と同じようには、この場所にはいられない。
「……リュカ?」
「え、あ、おう」
「聞きたいこと、あるんじゃないですか?」
「ああ、そりゃ、まぁ、な」
ぶんと首を振って、雑念《ざつねん》を捨てた。今はこんなことを考えている場合じゃない。こういうことは後でゆっくりと考えよう。いや違うそうじゃない。
「まず、結局……ここは、どこなんだ?」
「どこでもないですよ」
「……いや、その答えよく分からんし」
「強《し》いて言うなら、夢《ゆめ》の中です。夢だから、死んだはずの人もいますし、燃《も》えたはずの森が元通りになっていても問題なしです」
「いやそれもよく分からんし。だいたい夢って、誰《だれ》の夢だよ」
「んー、それは話すと長くなるんですがー」
「短くまとめて話せ」
「むぅ、しばらく見ない間に、女の子に優《やさ》しくない男に育ちましたねリュカは」
「いいから話せって。そうでなくても積もる話が山になってんだ、いちいち脱線《だっせん》してたらきりがないだろ?」
「それは正論《せいろん》です」
うむぅ、とフィオルはもう一度小さく唸《うな》って、
「……夢をみているのは、人ではありません。一|冊《さつ》の本です。
遠い昔、一人のへっぽこ魔女が作り上げた、神秘《ソルティレージュ》の出来損《できそこ》ない」
……え?
「|英雄たちの物語《レジェンデール》を弄《もてあそ》ぶ冷酷《れいこく》な運命《ソール》。
誰にも律《りっ》することができず、誰の思いに添《そ》う形でも動かず、けれど確かに人の願いを現実にする用途《ようと》を秘《ひ》める、世界で一番|危険《きけん》な影絵箱《かげえばこ》。
その内に収《おさ》められた紙人形に光を当てれば、世界の上に影を落とす。
その影は紙人形と同じ形をしていて、また紙人形と同じように動く。
世界はその影のことを現実と信じ、そのようにして扱う。
かくして記録≠ヘ世界を改竄《かいざん》する。在るはずのないものが在るようになり、叶《かな》うはずのない願いが叶うようになる――」
それは、どこかで聞いたような、けれど聞いたものとはどこか違うような。
「――『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』……?」
「はい」
軽く小首を傾《かし》げ、改めて、フィオルは笑った。
リュカの心臓《しんぞう》が、ばくりと大きく揺れた。
少なくとも、リュカは、そう感じた。
その笑顔は、とても魅力的《みりょくてき》で、可愛《かわい》らしいものだった。並みの男ならば一瞬《いっしゅん》でのぼせて顔を赤くしかねないだけの破壊力《はかいりょく》があった。そしてリュカもまた、並みの男の例に漏《も》れず、少なからずそのことに心を揺らされた。しかし、リュカはのぼせなかった。彼の心にはそれだけの余裕《よゆう》がなかった。
リュカは、その笑顔を知っていたのだ。
「わたしたちは今、どのような意味でも、世界には存在していません。
いまここにいる――そう思い込んでいるわたしたち[#「わたしたち」に傍点]は、あの『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』に残された記録の残滓《ざんし》。大きなノートの端《はし》っこにちょこちょこと描《か》き込まれた、他愛もないラクガキに過ぎません」
今にも泣き出しそうな。
それでいて、泣いてなどいないのだと自分に言い訳しているような。
そんな、笑顔としての役をまるで果たしていない、形だけの、笑顔……
(……ああ、くそ、畜生《ちくしょう》)
この女性《ひと》を守るのだと、その日の涙を拭《ぬぐ》うのだと、幼《おさな》かった頃に心に決めた。その遠い誓《ちか》いを、今、思い出した。
もちろん、あの時の誓いは、果たせなかった。
それを今になって取り戻せるなどと、都合《つごう》のいいことも考えてはいない。
けれど……
「話せよ」
フィオルの笑顔から視線を引《ひ》き剥《は》がし、そのまま空を見上げて、リュカは言った。
「……リュカ?」
「最初から最後まで、全部、話せ。そうしたら、一人、味方をくれてやる」
「リュカ……」
わずかに震《ふる》えながら名前を呼んでくるその声に構《かま》わず、リュカは続ける。
「地元から追っ手のかかってる極悪《ごくあく》な魔女にじゃない。歴史から抹殺《まっさつ》された悲劇《ひげき》の第一王女にでもない……」
空の上、星の海の中に、月の姿を見つけた。
まるで獣《けもの》の爪跡《つめあと》のような、針のように細く鋭い、銀色の月。
懐かしいな、と思った。
そういえば、あの夜[#「あの夜」に傍点]にも自分は、こんな月を見上げていたのだったか。
(ったく、いつまで経《た》ってもやること変わんねーな、俺は!)
小さく自分を嘲《ののし》りながら、リュカは告げた。
「……いま俺の隣に座ってるフィオル・キセルメルに、騎士を一人、つけてやるよ」
[#改ページ]
あとがき
文章量の調整《ちょうせい》が相変《あいか》わらずヘタです。
当初は二十ページくらいに収めるつもりだったエピソードがまるまる百ページ以上に膨《ふく》らんでしまったり、逆にじっくり書き込むつもりだったシーンが二、三ページに納《おさ》まってしまったり。もはや自分でも何をやっているのか分かりません。
今回のこの話もですね、書き始める前は「短めに抑《おさ》えよう」と決意《けつい》し、二百ページそこそこの薄めの本に収まる予定だったのです。少なくとも私の頭の中ではそういうことになっていたのです。なのに気がついてみればこの通り、一巻や二巻と同じブ厚さの話が出来上がってしまいました。
きっとあれですね、初夏《しょか》の暑気《しょき》のせいです。そういうことにしておきましょう。
しておきましょうってば。
そんなこんなで、枯野《かれの》瑛《あきら》です。
お待たせしました。銀月のソルトレージュの三巻目、彼[#「彼」に傍点]が舞台から去った後に残された彼女達[#「彼女達」に傍点]の物語――『琥珀《こはく》の画廊《がろう》』をお届けします。
さて。
実はもう、これ以上書くことが思いつきません。
だいたいにして私はこのあとがきというやつが苦手《にがて》なのです。得意《とくい》だという人のほうが少数派《しょうすうは》だとは思いますが、それはそれとしてとにかく苦手なのです。
毎回編集さんから電話で「今回はこれだけの量をこのくらいの時間でお願いね♪」と伝《つた》えられるたびに、頭を抱えて部屋の中をのたうち回っています。
例外は、この連絡《れんらく》を近所の某ファミレスで受けた時くらいでしょうか。この時ばかりは、さすがに店員さんに迷惑《めいわく》になるので、泣く泣くのた打ち回るのを自粛《じしゅく》しました。その分、帰宅してから存分に七転八倒。その挙動《きょどう》がよほど怪しかったのでしょう、最近すっかりボケの進んだ愛犬《あいけん》に思いっきり吠《ほ》え掛《か》かられました。
えーと何の話でしたっけ。そうそう、あとがきです。
とりあえずあれです。締め切りまであまり時間がないので、特になにも考えず、思いついたことを順番に並べてお茶を濁《にご》してみようと思います。
えーと……困ったな、本格的に何も思いつきません。
そういえば、つい先日、別の作家さんが「あとがきに書くことがないよう」と頭を抱えていたときに、何やらネタを勧《すす》めた記憶があります。結局その方は自力《じりき》でその苦境《くきょう》を抜けたとのことなので、今ここで私がそのネタを使ってしまっても問題はないでしょう。
エコ大流行《だいりゅうこう》のこの世の中、再利用《さいりよう》の精神はとても大事です。減《へ》らそう二酸化炭素《にさんかたんそ》、すすめようゴミ分別。
さて、あの時はどういうネタを持ち出したんだったかな。
(ここから回想シーソ)
「般若心経《はんにゃしんきょう》を書き写したら8ページくらい余裕《よゆう》で埋《う》まるんじゃないですか(笑)」
(回想シーンここまで)
OK、ふざけるな私。
うーんと……
さっそく書くことに詰まりそうになったところで、一巻のあとがきを書くときに快《こころよ》く(ここポイント)協力《きょうりょく》してくれた友人のことを思い出しました。
やっぱりあれですよ。一人でうだうだと文章をひねろうとしているから苦しくなってしまうのですよ。昔の人は言いました。一人より二人がいいさ、二人より三人がいい。古代中国のえらい思想家の言葉です。嘘《うそ》です。
ともあれ、こうして彼のことを思い出したからにはやることはひとつ。
ここはひとつまたあいつの力を借りることにしようかなと、携帯《けいたい》から番号を呼び出して、待つこと数秒。そういえば今どんな着メロを設定しているのかななどとぼんやり考えていると、ぴ、と回線接続を表す小さな電子音《でんしおん》。
「あ、もしもし? 実はまたあとがきで……」
『この電話は電源が入っていないか、電波の届かないところに――』
ち。使えない奴だ(ひどい)。
な、何かもうちょっとまともな話はなかったっけな……
あ、そうそう、前巻のあとがきで「当初一巻にするはずだったエピソードを三分割し、最初と最後のパーツをそれぞれ一巻と二巻にした」ということを書きました。
あれについての問い合わせがありましたので、ちょっと補足《ほそく》。この記述《きじゅつ》の中で行方不明《ゆくえふめい》になっている真ん中のパーツですが、とりあえず当面《とうめん》の使い道がないので圧縮《あっしゅく》ファイルにしてハードディスクの片隅《かたすみ》に放り出してあります。今回の三巻の話の母体になった、というようなことはありません。
というのも、過去のエピソードなのですね、これ。
作中の時間より二百年と少し前。自称《じじょう》極悪《ごくあく》な魔女《まじょ》が塔にこもってホーッホッホと高笑いをしていたころ(一部|誇張《こちょう》あり)のお話。この『銀月のソルトレージュ』という物語の、ある意味におけるスタートラインそのものです。
そして、それだからこそ、扱《あつか》いが難しかった。軽く流すだけのつもりだったのにページ数はどんどん膨らむし、登場人物もやたらに多いし……こりゃあ一巻や二巻にサイドエピソードとして挟《はさ》むには無理があるわいということになってお蔵入《くらい》りが決定、現在に至ります。
……何事にも計画性は大事、ということですね(たぶん違う)。
と。そろそろ紙幅《しふく》が(強引に)減ってきましたので、そろそろ謝辞《しゃじ》などを。
毎回お世話になっています得能《とくのう》正太郎《しょうたろう》さん。このあとがきを書いている時点ではまだ拝見《はいけん》していませんが、今回のイラストではアリスとジネットの出番が多いらしいと聞いてわくわくしています。
この度《たび》別部署《べつぶしょ》への異動《いどう》となりました、担当編集のI藤さん。『銀月〜』の立ち上げ途中《とちゅう》からですからほんの一年ほどの短い間でしたが、めちゃくちゃお世話になりました。
そしてもちろん、読者の方々。
ここまでの物語を読み支《ささ》えて下さった皆様のおかげで、ここまで来ることができました。本当にありがとうございます。そしてまた改《あらた》めて、今後ともよろしくお願いします。
二〇〇七年 七月[#地付き]枯野 瑛
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
銀月《ぎんげつ》のソルトレージュ3 琥珀の画廊
平成19年8月25日 初版発行
著者――枯野《かれの》瑛《あきら》