銀月のソルトレージュ2 金狼の住処
枯野瑛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銀月《ぎんげつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|金狼の住処《オンブラージュ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目次
▼scene/1 剣《けん》の夜を越《こ》えて 〜fragile days〜
▼scene/2 火薬の時代に生きて 〜no exit〜
▼scene/3 理由なき剣を携《たずさ》え 〜saber for neighbors〜
▼scene/4 迷いにその身を焼いて 〜dance with dolls〜
▼scene/5 そして辿《たど》りついた場所 〜my truth〜
あとがき
[#改ページ]
死んだはずの人間が、なぜだか生きていた。
いったいどうしたら、そんなことが起こると思う?
[#地付き]答えは簡単。誰《だれ》かが虚言《うそ》を吐《つ》いていたんだ。
[#改ページ]
▼scene/1 剣《けん》の夜を越《こ》えて 〜fragile days〜
1.
息が荒《あら》い。胸《むね》が苦《くる》しい。
限界《げんかい》まで酷使《こくし》された心臓《しんぞう》が痛《いた》む。
ばらばらとまばらな雨を振《ふ》り撒《ま》く冬の空を背景《はいけい》に、少女は大きく跳躍《ちょうやく》する。教会の鐘楼《しょうろう》の上から、眼下《がんか》の街並《まちな》みへと。四階建ての集合住宅の屋上《おくじょう》に着地、片膝《かたひざ》を折って衝撃《しょうげき》を受け流す。そのまま勢《いきお》いを殺さずに走り出す。屋上から屋上へ。さらにその向こうへ。
追跡者《ついせきしゃ》たちの気配《けはい》は離《はな》れない。街区ひとつぶんほどの距離《きょり》を開けたまま、その距離を縮《ちぢ》めるでもなく広げるでもなく、ぴったりとついてきている。
頭が痛い。体がうずく。血液の代《か》わりに熱を持った泥《どろ》が体中を巡《めぐ》っているような錯覚《さっかく》。激しい運動のせいだけではない。これらはここまで繰《く》り広げてきた戦闘《せんとう》の後遺症《こういしょう》であり、決して到達《とうたつ》してはいけない終焉《しゅうえん》が近づいてきた証《あかし》だった。
今日、この場で自分は勝利することはできない。血を吐《は》く思いでそれは認《みと》める。ならばせめて、今は逃《に》げ切らないといけない。
念《ねん》じるように、そう決意する。
――直感《ちょっかん》が、少女の足元を滑《すべ》らせた。
肩口《かたぐち》を、灼熱《しゃくねつ》が薙《な》ぎ払《はら》っていった。
一瞬《いっしゅん》遅《おく》れて、背後《はいご》から斬《き》りつけられたのだと理解《りかい》した。
転倒《てんとう》するよりも落下《らっか》が早い。夕刻《ゆうこく》の静寂《せいじゃく》を打ち砕《くだ》く、けたたましい騒音《そうおん》。いくつものバルコニーと植木鉢《うえきばち》とを破壊《はかい》しながら、少女の体は薄汚《うすぎた》い裏路地《うらろじ》へと滑《すべ》り落ちる。
「……く」
落下の衝撃で左の膝が割れた。右の腕《うで》も折れている。
世界が揺《ゆ》れる。攪拌《かくはん》された視界の端《はし》に、四角く切り取られた夜空が見える。べっとりとした紫色《むらさきいろ》の雲に覆《おお》われた、月も星も何も見えない無地《むじ》の天空《てんくう》。
――嫌《いや》な空。
激痛《げきつう》を堪《こら》え悲鳴《ひめい》を飲み込みながら、少女は石畳《いしだたみ》の上に身を起こす。
その目前に、一人の男が立っている。
くたびれたネズミ色のコートを羽織《はお》った、中年の男だ。骨のような白い髪《かみ》に、同じ色の無精《ぶしょう》ひげ。やる気のない目でぼんやりとこちらを見ている。
いつその場に降り立ったというのか。音もなく、気配もなく、最初からその場にいたのだとでもいうように。雨に濡《ぬ》れることなど全く気にする風もなく、涼《すず》しげな顔で立っている。
「よう。楽しい鬼《おに》ごっこだったな、姫《ひめ》さん」
男は軽く片手を挙《あ》げる。
「でもよ、今のはちっと派手《はで》すぎたんじゃねぇのか。さすがにほら、あんまり大騒ぎすると地域《ちいき》住民の皆《みな》さんに迷惑《めいわく》がかかるだろ?
そろそろおしまいにしたいとか思うんだけど、そのへんどうよ?」
のんびりとした、あくまでやる気のない声。
ただその視線《しせん》だけが引き絞《しぼ》られて、穏《おだ》やかに殺意《さつい》を帯《お》びる。
「――貴様《きさま》、ペルセリオの飼《か》い犬か?」
少女は、荒い息の下から、吐き捨《す》てるように聞《き》いた。
「ああ、そういや初対面だったな」
うっかりしていた、という口調《くちょう》でそんなことを言うと、男は雨に濡れた路面を一歩踏み出してきた。
「悪いね、こっちはあんたのことよく知ってるもんで、自己紹介《じこしょうかい》とか忘れちまってた。
クリストフ・デルガル。まぁあんたの読み通り、ペルセリオ王室|直属《ちょくぞく》の帯剣騎士《カヴァリエレ》とかやってる。ガラじゃねえとか言うなよ、言われなくても分かってっから」
帯剣騎士。剣を帯びた騎士《きし》。
この場合の剣とは、言葉どおりの意味ではない。その騎士にとっての誓《ちか》いの象徴《しょうちょう》であり、戦いの場に立ち人を殺しながらでも主命《しゅめい》を果《は》たすという決意表明《けついひょうめい》であり、そしてそのための武器そのもののことでもある。それは剣であることもあれば銃《じゅう》であることもあり、またそれ以外の何かであることもあった。時代とともに、『剣』という言葉の指《さ》し示すものは変わっていった。
「……なるほど。先ほどから振り回しているそれ[#「それ」に傍点]が、貴様《きさま》の剣か」
「まぁな」
男の傍《かたわ》らに、音もなく、幾《いく》つかの人影《ひとかげ》が立った。そのどれもが揃《そろ》ってネズミ色のマントを羽織りフードを目深《まぶか》に下ろしているため、その外観《がいかん》からは体格も年齢《ねんれい》も何も分からない。
「『|木棺の誓言《アニュレール》』。万全《ばんぜん》の化けモン相手じゃとても通用しねえチャチなオモチャだがな、今のあんたくらいなら充分《じゅうぶん》に仕留《しと》められる」
「…………」
少女は立ち上がる。
割れた石畳のかけらが転がって、からん、と小さな音をたてる。
四肢《しし》のうちふたつがまともに動かない。これでは、戦闘《せんとう》どころか逃走《とうそう》もままならない。むろんクリストフと名乗るこの男はそのことを正確に見抜《みぬ》いている。だからこそのこの余裕《よゆう》であり、戯言《ざれごと》としか思えないこの会話だ。
「あんま無理すんなよ。いくら|不死の魔法使い《レヴナント》でもよ、そのケガ全然《ぜんぜん》治《なお》ってないぜ?」
少女は答えず、ただ指先をクリストフに向けて、
「――果てのない白の荒野《こうや》に一人立ち、初めて人は自《みずか》らの居場所《いばしょ》を知る=v
呟《つぶや》いた。
瞬間、世界が変容《へんよう》した。
水彩画《すいさいが》に水をぶちまけたように、どろりと背景の輪郭《りんかく》が崩《くず》れる。建《た》ち並ぶ家が、窓が、扉《とびら》が、そして足元の石畳さえも。変わらないのは少女と男と周囲の人影、そしてあの遠い空を満たす泥のような灰色《はいいろ》の雲。
「おうっ」
まさかこの状態から反撃《はんげき》を受けるなどとは思っていなかったのだろう。わずかな驚愕《きょうがく》をその表情に浮かべつつ、クリストフと黒い人影たちは揃って後方に跳躍《ちょうやく》して間合いを取る。
その隙《すき》に、少女は続きの言葉を紡《つむ》ぎ出す。
「|立ち並ぶ石碑の群れだけが静かに未来を夢見ていた《ソン・レーヴ・アレット・ル・モンド》″」
大気がわずかに震《ふる》え、空間がまるごと変質《へんしつ》する。
間髪《かんはつ》を入れず、少女は叫《さけ》ぶようにして、
「――北の果てにて[#「北の果てにて」に傍点]、夜を迎える[#「夜を迎える」に傍点]」
瞬間、世界は黒に塗《ぬ》りつぶされた。
単に光源《こうげん》が断《た》たれたなどというような生易《なまやさ》しい黒ではない。壷《つぼ》に満ちた墨《すみ》の中を泳ぐような、完璧《かんぺき》な闇《やみ》だ。
魔法《ウィッチクラフト》とは、結局のところ、何なのか。
それは、完成した絵画《かいが》の上に、新たな絵の具を塗りつけるようなものだ。
もう既《すで》に手を入れる余地《よち》がないはずの絵画は、それによって完全に台無《だいな》しになってしまう。本来そこにあったはずの調和《ちょうわ》がぐちゃぐちゃに崩れて、まったく別の何かがそこに出現してしまう。
|夜の軟泥《ワルプルギス》とは、その概念上《がいねんじょう》の「絵の具」。無遠慮《ぶえんりょ》に美術品に塗りたくられる醜悪《しゅうあく》な汚泥《おでい》のことだ。
ページを開かれた魔法書《グリモア》からは、この|夜の軟泥《ワルプルギス》が少しずつ流れ出す。そして周辺の世界を少しずつ汚《よご》していく。
幸《さいわ》いというのか何というのか、この世界そのものにも自浄作用《じじょうさよう》のようなものがあり、そのような微量《びりょう》の|夜の軟泥《ワルプルギス》であれば自然に拭《ぬぐ》い去ることができる。だから一冊の本が放置《ほうち》されていたとしても、その周囲にはわずかな量の|夜の軟泥《ワルプルギス》が蟠《わだかま》るだけで、汚染《おせん》は広がっていかない。周辺に小|規模《きぼ》の不可思議《ふかしぎ》が常駐《じょうちゅう》することになるが、それもたわいもない怪談《かいだん》として笑い飛ばせる程度《ていど》のものでしかない。さして大きな問題にはなりえない。そしてそれも、ページを閉じてしまえば全てが収《おさ》まる。
しかし、人という生き物は愚《おろ》かなほどに賢《かしこ》くて、無謀《むぼう》なまでに勇敢《ゆうかん》だ。危険《きけん》な力だからと設《もう》けられているはずの安全弁《あんぜんべん》を、まさに危険な力だからという理由で外《はず》してしまう。
アプローチの方法は幾《いく》つもあった。
例《たと》えば、少量ずつ生み出される|夜の軟泥《ワルプルギス》を汲《く》み貯《た》めておき、大量のそれを一度に絵画の上に塗りたくることができるとしたら、どうなるか?
例えば、その|夜の軟泥《ワルプルギス》を好きなように絵画の上に塗りたくることができる画筆《がひつ》があったなら、どうなるか?
魔法《ウィッチクラフト》とは、つまり、それらの問いに対する答えのひとつだ。
「ちっ……」
クリストフは舌打《したう》ちし、そして周囲の者たちに何らかの指示を飛ばしたようだった。蟲《むし》の群《む》れがざわめくような、小さな足運びの音。
「闇に紛《まぎ》れての奇襲狙《きしゅうねら》いか? 意外《いがい》と泥臭《どろくせ》ぇ戦術《せんじゅつ》使うじゃねえか」
面白《おもしろ》がるような声。その唇《くちびる》の端《はし》が歪《ゆが》められるのが、見えなくともはっきりと分かる。
ああ、よかった。暗闇の中で、少女は小さく笑う。
彼は間違えてくれた。目隠《めかく》しの暗闇を、奇襲への布石《ふせき》だと勘違《かんちが》いしてくれた。
実際《じっさい》の自分にはもう、奇襲するだけの余力《よりょく》も残っていない。この暗幕《あんまく》を下ろしただけで、もう限界のギリギリまで|夜の軟泥《ワルプルギス》を消費《しょうひ》してしまっている。有効《ゆうこう》な攻撃ができるような余力など、どう足掻《あが》いたところで残っていない。
周囲を暗闇に包《つつ》んだのは、単純《たんじゅん》に逃走のため。
襲撃を警戒《けいかい》した相手が足を止めている間に、できるだけ遠くへとこの身を隠《かく》すため。
あと何秒間、彼は騙《だま》されていてくれるだろう。その時間に、自分は一歩でも離れたところまで逃げ延《の》びなければならない。
息が荒い。胸が苦しい。
限界まで酷使《こくし》された心臓が痛む。
少女は疾走《しっそう》する。壊《こわ》れかけの体を無理やりに叱咤《しった》して、夜の街を走る。
体が燃えるように熱い。本来ならばそろそろ回復を始めているはずの腕《うで》や足の傷《きず》は、今回に限ってはまったく癒《い》える気配《けはい》がない。力が尽きている。こうして今はなんとか動いている手足すら、少し気を抜けばすぐにも折れてしまいそうなほどに。
だから少女は無言で走る。
敵の目から逃れられる場所を探《さが》して。あるいは暴走寸前《ぼうそうすんぜん》のこの体を鎮《しず》められる場所を探して、夕暮《ゆうぐ》れの街を走り抜ける――
2.
「「「乾杯《くあんぱい》っ!!」」」
二十人近い人数が、揃《そろ》って快哉《かいさい》を叫《さけ》んでジョッキを打ち鳴らす。
宴《うたげ》の始まりだ。
決して広くない大衆《たいしゅう》食堂『はらぺこ狼《おおかみ》』に詰《つ》め寄《よ》せたその全員が、それぞれ勝手《かって》に宴を楽しみ始める。先《ま》ずはジョッキの中身を飲み干す者、さっそくテーブルの料理に飛びつく者、そして互《たが》いに対して労《ねぎら》いの言葉をかける者。
めでたいことがあったのだ。
フェルツヴェン学術院《ライブラリ》の創立祭《そうりつさい》初日。周辺三国からも大勢《おおぜい》の客の詰め寄せるその大舞台《おおぶたい》で、この演劇部《えんげきぶ》は舞台を大成功させたのだ。
むやみと広い中央|講堂《こうどう》の座席《ざせき》を埋《う》め尽《つ》くしてなお足りない、千にも届こうという数の観客《かんきゃく》。そして幕《まく》が下りると同時に雷鳴《らいめい》のように轟《とどろ》いた、とんでもない勢いの拍手《はくしゅ》と賞賛《しょうさん》の声。ああもう、何もかもが上手《うま》くいった。本当にこれは現実なのかと演劇部員たちが互いの頬《ほお》をつねりあうほどに上手くいってしまった。
今日というこの日を迎《むか》えるため、全員が一丸となって力を尽くした。その自覚と自信があるから、望外《ぼうがい》の成果にも怖気《おじけ》づいたりはしない。誰《だれ》もが素直《すなお》にこの結果を受け入れて、そして心の底から喜ぶことができる。
酒と料理と笑い声が飛び交《か》う、賑《にぎ》やかな宴席《えんせき》。
その端《はし》のほうに、一人ちょこんと腰掛《こしか》けたまま――
「……それで、なんで俺《おれ》までここにいるんだ?」
リュカ・エルモントは素直な疑問の言葉をそのまま口にした。
背の高い――しかし言ってしまえばそのくらいしか目立つところのない少年だ。細身で、赤毛で、妙に目が細くて、眼鏡《めがね》をかけていて、でも同じ制服を着た集団の中に放《ほう》り込んだらあっという間に埋没《まいぼつ》してしまいそうな、ごくありふれた学生。
「完全な部外者だし、何かやった記憶《きおく》もないんだがな……?」
「そう言うなエルモント」
リュカの正面に座った小太りの少年が、珍《めずら》しく満面の笑みで言う。
「お前を呼べば主演|女優《じょゆう》の機嫌《きげん》が良くなるんだ。せっかくの祝《いわ》いの席なんだ、功労者《こうろうしゃ》をできるだけ労《ねぎら》ってやりたいっていうのはわかるだろ?」
「主演女優を口説《くど》く気だったっぽい何人かが、げっそりしてるように見えるけどな」
「心配いらん、さっき全員とっくに玉砕済《ぎょくさいず》みだ」
テーブルの片隅《かたすみ》で肩を寄せ合い暗い顔をしている一団を見やる。
「特にフロリアンが笑いものでな。舞台|衣装《いしょう》のままで花束《はなたば》を持って来て、とびきり気障《きざ》な劇中《げきちゅう》の言葉で勝負をかけた」
先ほどまで騎士役《きしやく》として舞台の上に立っていた少年を親指で指《さ》し示して、
「どういう答えが返ってきたと思う?」
「さぁ。想像《そうぞう》もつかないな」
リュカは首を振り、ジョッキを傾《かたむ》ける……その瞬間《しゅんかん》、リュカの背中を、勢いのついた平手が思い切り張《は》り飛ばした。
酒が気管《きかん》に入る。焼け付くような痛《いた》みに、思い切りむせる。
「なに男同士でつつましく飲んどるかー!」
タニア・カッセーの、実に上機嫌な声。
「このめでたい席に、そーゆー地味な楽しみ方はあたしが許さん! 飲め! 歌え! 踊《おど》れ! 舞《ま》え! 吐《は》け! 潰《つぶ》れて潜《おぼ》れろ!」
「……全力で遠慮《えんりょ》させてくれ、とくに後半を」
「軟弱《なんじゃく》なことゆーな、それでも男か!」
「お前に性別を引き合いに出されると、さすがにむかつくんだが」
「ええい、そゆこと言うイケズ野郎《やろう》には、こうだ!」
どん、という小さな音。小柄《こがら》な人影がひとつ突き飛ばされ、リュカの目の前にまろび出てきた。
「きゃ……と、とと、と」
人影は数歩たたらを踏んで、衝突寸前《しょうとつすんぜん》でなんとか踏みとどまると、顔を上げてリュカと
目を合わせた。
つい先ほどまで、悲劇《ひげき》の姫君ジネットとして舞台の上に立っていた少女。
「やぁ、アリス」
間の抜けたことを言っているな、と思った。自分はなぜこんなタイミングで挨拶《あいさつ》なんぞしているのだろうと。
対する少女――アリス・マルカーンはといえば、ほんのわずかに目を細め、どことなく殺気《さっき》じみたものを漂《ただよ》わせながらこちらを凝視《ぎょうし》してきたかと思うと、
「……む!」
小さくうなり声をあげた。
「って、おいタニア、お前こいつにどんだけ飲ませた!?」
「人聞き悪いこと言わないでよ。量は大したことないわよ、量はぁ」
「いいからそこで空《から》っぽんなってる蒸留酒瓶《ブランデーびん》について納得《なっとく》のいく説明をよこせ、っていうかお前、こいつの洒グセが悪いの知ってんだろが!」
「いやー、あははは」
「清々《すがすが》しくごまかすなよ!?」
裏返る寸前の声でそんな悲鳴《ひめい》を放ったところで、リュカの頬《ほお》を、なにやら小さな手が挟《はさ》み込んだ。そのまま、ぐい、と力任《ちからまか》せに(といってもささやかな力ではあるが)正面を向かされる。
「……む!」
変わらず不機嫌そうに、アリスが真正面からこちらを睨《にら》みつけている。
まるで小さな子供《こども》だった。自分が不機嫌であることを全力でアピールはするものの、その原因が何なのかとか、そもそも何をやってほしいからそういう顔をしているのかとか、そういった肝心《かんじん》のメッセージを言葉に出来ずにいる。
「褒《ほ》められたがっているんじゃないか?」
ベネディクトがぼそりと呟《つぶや》くと、アリスの肩がぴくりと震《ふる》えた。
「……別にいまさら言うことなんてないだろ。アリスは良くやったし、俺がそう思ってることなんてわざわざ言わなくたって、コイツにゃ充分《じゅうぶん》伝わって……」
「おおばかものー!」
脇《わき》のほうから怒声《どせい》が飛んだ。
「分かってない! お前は何も分かってない!」
「そんなつまんねー展開《てんかい》で観客を満足させられるとでも思ってんのか!」
「あのね、気持ちが通じ合っててもね、それでもちゃんと言葉にしなきゃいけないことってあるの! これが恋愛モノの基本にして王道――」
「よしお前いいこと言った!」
「まかせて!」
やんややんやと、実に友情に溢《あふ》れた助言の数々が矢継《やつ》ぎ早《ばや》に返ってきた。
「……恋愛ドラマ遊びなら他所《よそ》でやってくれよ、おまえら」
いつの間にか、完全に辺りの注目を集めてしまっていたことに気付く。『はらぺこ狼』の店内に詰め込まれた二十人近い人間の、四十近い数の瞳《ひとみ》がまっすぐにこちらに向けられている。
こめかみを押《お》さえて、軽く首を横に振……ろうとしたが、頬の両側をアリスの手に固定されているせいで上手くいかない。
「…………」
「アリス。首、ちょっと痛い」
「…………」
言葉に対しては、無言ばかりが返ってくる。そして、ただただその瞳だけが雄弁《ゆうべん》に、何かを強く訴《うった》えかけてきている。
「往生際《おうじょうぎわ》が悪いな。さっさと覚悟《かくご》を決めろ」
「そうだー、決めろー、決めちまえ!」
涼《すず》しい声のベネディクトと、実に楽しそうに囃《はや》し立てるタニア。
仕方《しかた》がない。この場をごまかすことは諦《あきら》めたほうがよさそうだ――そう結論《けつろん》する。酒の席というやつは危険《きけん》だ。こんなにも簡単《かんたん》に心の防壁《ぼうへき》が緩《ゆる》んでしまう。
「……お疲れ、アリス。良い舞台だったよ」
「ん」
アリスは頷《うなず》いて、けれどリュカの頭を捕《つか》まえたままのその手を離そうとしない。
「…………」
アリスとは長い付き合いである。
リュカがこの街に住むようになってから、ほとんどずっと一緒《いっしょ》にいた。数字に直せば五年間。それだけの長さの時間を共有すれば、たいていは相手の良いところも悪いところも見えてくるようになる。思考《しこう》を知り、行動を知り、本性《ほんしょう》を知るようになる。
だから、怨念《おんねん》すら感じる強い視線《しせん》でこちらを睨みつけているこの娘が、どういう言葉を望んでいるのかも、分かってしまう。
まいった。頭を掻《か》く。この観客の前でそれを口にするのは、さすがに嫌《いや》だ。
――どうせ朝にゃ忘れてる、か。
軽く手を振って、アリスの耳を招《まね》き寄せる。そこに口を近づけると、他《ほか》の誰にも聞こえないようにと声を絞《しぼ》って「ドレス似合ってた、可愛《かわい》かったぞ」と囁《ささや》いた。
「……ん」
瞬間、アリスは笑顔になった。リュカの両頬から手を離し、逆に体をすり寄せてくる。不機嫌な子供だったものが、上機嫌の子猫《こねこ》に変わった瞬間《しゅんかん》だった。
「って、てめぇいま何言った!?」
「男らしくねえぞ! 大声でやりなおせ!」
「ね、ね、いま何て言ったのか、私にだけこっそり教えて?」
「あ、こら裏切り者!」
観客たちが、それぞれに身勝手《みがって》な不満を噴出《ふんしゅつ》させる。が、そのことごとくを完全に無視《むし》し、リュカはまっすぐに酒に向き直った。
――夜が更《ふ》けて、どんちゃん騒《さわ》ぎが終わる時が来る。
寮生《りょうせい》たちは全員が結託《けったく》し、いかにして無音で寮舎《りょうしゃ》に忍《しの》び込むかの算段《さんだん》を始めている。歩いて帰れる距離《きょり》に自宅や下宿がある面々は、口々に挨拶《あいさつ》を残して散り散りに夜の街へと去っていく。
そしてリュカとアリスは自宅組であり、かつその家は互いに隣《となり》同士である。
「それじゃエルモント君、アリスのことよろしくね」
「ちゃんと送り届けろよコノヤロウ」
温《あたた》かい声と背筋《せすじ》の凍《こお》る視線とを浴びながら、すーかすーかと気持ちよさそうな寝息《ねいき》を立てているアリスを背負《せお》う。
「改めて礼を言う、エルモント。また何かの機会《きかい》があったら力を貸してくれ」
「だから、ありがたがられるようなこと何もしてねーだろって」
ベネディクトに苦笑を返し、静かな夜の街の中へと分け入って行く。
空には雲が出ている。
厚くもなく薄《うす》くもなく、その色合いすら中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な灰色の雲。
ほとんどの星は隠《かく》れているが、それでもいくつかは零の切れ目からちらほらと姿を覗《のぞ》かせている。いまにも雨が降り出しそうでいて、その実ただ一滴《いってき》の雫《しずく》も落ちてこない。何もかもが中途半端でいい加減《かげん》な、そんな夜空だった。
少しだけゆっくりと、夜道を歩く。
夜の空気は冷たく酊んでいる。喧騒《けんそう》から急に静寂《せいじゃく》の中に出てきたせいか、静けさが耳に染《し》みる。
「…………」
小柄な少女の体が、少しばかり重たい。
単純な重量《じゅうりょう》の話ではなく、なんというかこう、もっと別の精神的なものが、ずっしりと背中にのしかかってきている。
「…………」
やめろ。気にするな。別のことを考えろ。繰《く》り返し、自分自身に言い聞かせる。
背中に押し当てられているものとか、手のひらで支《ささ》えているものとか、そういった男の理性を蕩《と》かしそうな魔性《ましょう》の柔《やわ》らかさから、精神力の限りを尽くして意識をそらす。
「…………」
考えるべきことは、いくつかある。
例《たと》えば、今日のベネディクトは、時折|寂《さび》しそうに目を伏《ふ》せることがあった。理由は分かっている。先週、理由も告げずにいきなりペルセリオの軍学校に転校[#「ペルセリオの軍学校に転校」に傍点]した演劇部員のことが引っかかっているのだ。寡黙《かもく》な巨漢《きょかん》で、細かいところに気のつく働き者だった――そして良き仲間であった彼と劇の成功を分かち合えないことが、ベネディクトの喜びに影を落としていた。
「…………」
そして、ああ、そうだ。考えるべきことなら、いくらでもある。
まさか何も考えず、何も感じないまま平穏《へいおん》な日常に帰ってこられるほど、リュカ・エルモントは図太くもなければ図々《ずうずう》しくもない。
――あの夜から、一週間が経《た》ったのだ。
異様《いよう》な夜の記憶は、異様な速さで古びていった。
自分が何度となく死んだ[#「死んだ」に傍点]こと。
魔法使いと名乗る青年に出会ったこと。少女と戦ったこと。五年前、自分が故郷《こきょう》を失った理由を知ったこと。そしてその過去に決着をつけたこと。
全《すべ》てが全て、今となっては夢のように記憶がおぼろげだった。
「…………」
朧《おぼろ》な月が、雲の向こうに浮かんでいた。
白い皿を床《ゆか》に落として真っ二つに割《わ》ったような、明るい半月。
同じ夜≠ニいう時間帯。けれど、あの日の夜≠ニはまるで違《ちが》う空。
「俺は……」
何をするべきなんだろうな、という疑問の言葉は、喉《のど》にひっかかって声にならなかった。無理やりに胃の中に飲み下すと、しくりと小さな痛みが胸を突《つ》いた。酒を飲《の》みすぎたせいに違いないと決め付けた。
「……リュカさん、どうしました?」
耳元《みみもと》で、小さな囁《ささや》き声が聞こえた。
「なんだ、起きてたのか?」
「寝てます」
「降りて歩くか?」
「だから、寝てますってば」
強情《ごうじょう》に繰り返される。思わず苦笑《くしょう》が漏《も》れる。
「じゃあ寝てろ、どうせすぐに着くからな」
「はい、お言葉に甘《あま》えます」
肩を掴《つか》む手に、きゅっと小さく力がこもった。
「……ちょっと寝言《ねごと》とか聞いてもらえます?」
「なんだ?」
「さっきですね、フロリアンさんに告白されたんですよ。|残更の騎士《レオネル・グラント》の舞台衣装を着たままで、わたしに花束もってきて、劇の中の言葉で『好きだ』って言われたんですよ――」
「…………」
そのことならば、ついさっきベネディクトに聞いた。
それに、たとえ初耳《はつみみ》だったとしても、特に驚くには値《あたい》しない。ずっと傍《そば》にいるせいでありがたみが薄れているがこいつはすこぶる可愛い女の子であり、また自分が五十回以上も決闘《けっとう》に臨《のぞ》まなければならなくなるくらいの人気者なのだ。いまさら誰に好かれ、どのように告白されたと言われても、どいつもこいつも懲《こ》りねえなぁと呆《あき》れるくらいのリアクションしか出てこない。
「よかったな。そういうキザなくどき文句《もんく》、言われてみたかったんだろ?」
「……でも、そんなに嬉《うれ》しくなかったんですよ」     、
「なんだ、贅沢《ぜいたく》な」
「いつもと同じ顔で言われても、なんだかありがたみがなかったんですよ。やっぱりこう、照《て》れくさいのを堪《こら》えながらとか、酔《よ》っ払《ぱら》った拍子《ひょうし》にぽろっと出てくるとか、そんな感じで言われるのがボイント高いんじゃないかなとか自分では思うわけですが」
「細かいぞ」
「タペストリのデザインと乙女《おとめ》心はどんなに複雑《ふくざつ》でも許されるものなんだそうです。タニアさんがそう言ってました」
まったくあいつは、相変わらずロクでもないことばかり言いやがる。
水音が聞こえる。小川が近づいてくる。そしてそのすぐ向こう側に、エルモント宅とマルカーン宅が並んで建っている。二人きりのこの短い時間は、もうすぐに終わる。
「…………」
アリスは静かにリュカの言葉を待っている。
何が期待されているかは分かっていたが、リュカはあえてそれを無視《むし》する。いまのこいつは子犬と同じ。決して甘やかしてはいけないのだ。
その意思《いし》が伝わったのだろう、
「……けち」
声になるかならないかも微妙《びみょう》なくらいの吐息《といき》が、小さくそう囁いた。
「ほら、ついたぞ」
マルカーン宅の玄関《げんかん》前で立ち止まり、小さく体を揺する。小さなため息を耳元に残して、アリスはそれなりに確かな足取りでリュカの背中から降りた。
「じゃあ、おやすみアリス。ちゃんと布団《ふとん》に入って寝ろよ?」
軽く手を振って、アリスに背を向ける。
「……リュカさん」
「ん?」
立ち止まり、顔だけで振り返る。
迷《まよ》いの表情を浮かべたアリスが、そこにいた。胸の中にひとつの疑問を抱《かか》えていて、それはきっと言葉にしてはいけないものだと分かっていて、けれどだからといってそれは胸に抑《おさ》え続けておけるほど無害なものではなくて……そんな葛藤《かっとう》が、表情の中にありありと見てとれた。
何秒かの、短い時間が過ぎて。
「おやすみなさい」
アリスは笑顔で、その言葉だけをよこしてきた。
「おう」
軽く手を振って、再びアリスに背を向ける。
――先週の、あの銀髪《ぎんぱつ》の女性《ひと》は誰ですか――?
言葉にされずとも、その疑問は伝わってきていた。
けれど、言葉にされていなかったことを言い訳《わけ》に、それには答えなかった。
答えられるはずがなかった。
3.
どどん。ぱぱん。どこか遠くで、景気《けいき》良く花火が打ち上げられている。
わああああああ。大勢の人間が歓声《かんせい》をあげている。
創立祭《そうりつさい》の二日目、良く晴れた青空の下、学術院《ライブラリ》は予想通りの混雑振《こんざつぶ》りを見せていた。
右を見ても左を見ても、溢《あふ》れんばかりの人、人、人。よくもまあ、これだけの数の人間が集まってきたものだと、むしろ感心《かんしん》してしまう。
この群集《ぐんしゅう》のほとんどは、他国からの来客なのだという。
まぁ、無理もない話ではある。学術院の創立は、都市の創立とほぼ同義《どうぎ》だった。ということは学術院の創立を祝《いわ》う祭《まつり》は、この都市の誕生《たんじょう》を祝う祭でもある。まぁそんな理屈《りくつ》で、学術院としてのフェルツヴェンと、都市としてのフェルツヴェン、その双方《そうほう》がこのわずか三日間の祭事《さいじ》に総力《そうりょく》を注《そそ》ぎ込んでいるのだ。
学生|主催《しゅさい》のイベントが毎日のように開かれる。対抗《たいこう》するように、職工組合《ギルド》も派手《はで》にイべントをぶちあげる。ここぞ稼《かせ》ぎ時とばかりに大量の芸人が鉄道《てつどう》に乗ってこの街に集《つど》い、同じような理由でガラの悪い連中も大量にこの街に集まってくる。
一輪車に乗ったピエロが大通りを走り回りながら風船を売る。ひとつの広場で何組もの楽団がそれぞれ勝手な曲を演奏《えんそう》する。スリが走り、警邏兵《けいらへい》が追う。紙製の拡声器《かくせいき》を手にした予想屋が午後のボートレースの展開《てんかい》を予告する。焼き菓子《がし》の露店《ろてん》に客が集まる。酒瓶《さかびん》が飛び交《か》う。
ピエロが転んで、その手を離《はな》れた風船が空の上へと飛んでゆく。雲ひとつない一面の青に、色とりどりの風船たちが彩《いろど》りを添《そ》える。
賑《にぎ》やかで、騒《さわ》がしくて、落ち着かなくて。そんな日常からかけ離れた時間が、いまこの街を包み込んでいた。
頭が重い。
歓声が頭蓋骨《ずがいこつ》の内側で反響《はんきょう》する。
胃が裏返りそうなほどにねじれている。
これは、つまり、平たく言って、いわゆる、二日酔《ふつかよ》い。
「……ぐあ!」
人ごみの中にいることに耐《た》えられなくなって、リュカは人のいない壁際《かべぎわ》へと避難《ひなん》した。煉瓦《れんが》を積み上げたオレンジ色の壁に背をもたれて、長く長く酸《さん》の味のする息を吐《は》く。
「こりゃあ……きついな」
どうやら昨夜飲みすぎたか、それとも飲んだ酒の質《しつ》が悪かったか。何にせよひどい体調《たいちょう》である。しかも周《まわ》りは祭の真っ最中。実に楽しそうに笑い合う人々の横顔を見ていると、なんだか気分が底抜けに暗くなってくる。
どこか人のいないところへ行きたい。そう思い、適切《てきせつ》な場所を探《さが》す。
中央|講堂館《こうどうかん》の辺《あた》りには、『ジネット』の講演《こうえん》があった昨日に匹敵《ひってき》する数の群集がごった返していた。聞こえてくるざわめきを聞き取ったところ、何でも今日は学生オーケストラの演秦なんぞをやるらしい。絶対に近寄らない。そう堅《かた》く心に決める。
南校舎は研究|展示《てんじ》に使われているため、常にそれなりの人数が出入りしている。西校舎の一階は休憩所《きゅうけいじょ》として開放されているらしい。つまり、結局人の流れがあることに変わりはないということか。
探し出すべきは、人のいない場所。つまりこの創立祭の最中《さなか》、何のイベントにも縁《えん》がないままの場所。
と、考え事をしながら歩き出そうとしたのが悪かった。人ごみの中、肩を小柄《こがら》な誰かにぶつけてしまう。
「っと、ごめん、呆《ぼー》っとしてた――」
振り返って、リュカ・エルモントはほんの一瞬、言葉を失《うしな》う。
そこに倒れていたのは小柄な少女で、帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》っているので顔はよく見えないがどうやらその髪は綺麗《きれい》な銀色であるようだった。
(――ジネッ……ト?)
強烈《きょうれつ》な既視感《きしかん》とともに、弾《はじ》かれるようにしてその名前が浮かぶ。
だが、まばたきひとつほどの時間の後には、それが勘違《かんちが》いであることに気付いた。よく見れば髪の長さも艶《つや》も彼女《ジネット》とは違っていたし、小柄とはいってもこの少女には彼女《ジネット》のあの触《ふ》れれば折れてしまいそうな細さがない。
「ごめんな」
手を貸《か》して、引き起こす。
鼻《はな》のあたりに小さくそばかすの浮いたその少女は、笑顔で「いいよいいよ」と答え、そして小走りで人ごみの中へと飛び込んでいった。
「…………」
その背中を見送って、そして小さく息を吐く。
(今のはいくらなんでも……情けなさすぎだろ、俺……)
無意識《むいしき》に、彼女の姿を捜《さが》してしまっている。
どこかで、何かの拍子に再会できないかと願ってしまっている。
彼女は旅立った。もう二度と会えない。――とっくにそう納得《なっとく》したはずなのに、べたべたと粘着質《ねんちゃくしつ》の未練《みれん》が心にこびりついている。
ばりばりと後頭部をかきむしり、気を取り直す。
見渡せば、辺りは見事なまでの人、人、人。寄せては返す波のように、いやむしろ渦《うず》を巻く激流《げきりゅう》のように、老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》が歩き回っている。ぼんやり突っ立っていられるような環境《かんきょう》ではない。早急《そうきゅう》にどこか、休めそうなところを見つけなければ。東校舎の談話室《だんわしつ》か? いや、ここからあそこまでは多少離れすぎている。この殺人的な人ごみの中、あまり長い距離は歩きたくない。
――ああ、そうだ。ひとつだけ、いい場所に心当たりがある。
総合|書庫《しょこ》。
敷地内《しきちない》に無数の小さな書庫を抱える学術院ではあるが、単にひとこと「書庫」と言った場合にはこの総合書庫を示す。
地上部分の規模《きぼ》は、ほぼ中央講堂館と同じ。地下部分に関しては詳《くわ》しいところが秘匿《ひとく》されているのでよくわからないが、おそらく地上と同じかそれ以上。そんな規格外《さかくがい》の空間に何十万という数の蔵書《ぞうしょ》を詰《つ》め込《こ》んである。飾《かざ》り気《け》のない方形という無骨《ぶこつ》な外見から『|でっかい木箱《ビック・バネット》』などと呼ばれ学生たちに親しまれている。
大陸西部|随一《ずいいち》の建築《けんちく》規模と蔵書量を誇《ほこ》る書庫であるそこは、一階部分のみではあるが学生に対して開放されている。が、逆に、学外の人間に対しては一切《いっさい》の立ち入りが許されていない。ならばこんな賑《にぎ》やかな日であっても、いやむしろこんな日であるからこそ、穏《おだ》やかで静かな時間を過ごすことができるのではないか。
「ぐおー……」
自分でも意味の分からない声を漏《も》らしながら、ゆらゆらと歩き出す。
世界が揺れている。ついでに傾《かたむ》いている。
なんでこんな日に出歩いちゃったかなぁ、と今更《いまさら》ながらに自分が恨《うら》めしくなる。
さて。
あれから流れた時間は一週間、リュカ・エルモントは、あることに気付いている。
フェルツヴェンは、大陸随一の教育|機関《きかん》である。
そして優《すぐ》れた教育機関というものは、同時に優れた研究機関でもある。充分《じゅうぶん》な知識《ちしき》を集積《しゅうせき》する機能《きのう》があってこそ、学生たちに価値ある知識を叩《たた》き込むことができる。そして価値ある知識を刻《きざ》み込まれた学生たちが、また新たな知識を汲《く》み出してくる。回る車輪《しゃりん》のようなこの仕組《しく》みが、二百年を超える長い間、フェルツヴェンを支えてきた。
長い時間をかけて、貪欲《どんよく》に知識を集積してきた巨大《きょだい》な書庫《ライブラリ》。
その学術院《ライブラリ》が――これまで歴史の影《かげ》に障《かく》れてきたとはいえ、あれほど大きくそして派手《はで》な力である魔法《まほう》≠竍魔法使い≠フ存在を知らないなどということが、果たしてありうるのだろうか?
最初は小さな違和感《いわかん》だった。だがそれは、すぐに確信《かくしん》へと変わった。
騒ぎが起こらなかったのだ。
あの夜に、百人近い人間が消えた。近代|稀《まれ》にみる規模の集団|失踪《しっそう》が起きたはずなのだ。なのに誰もそのことについて触《ふ》れない。それどころか気付きすらしない。いくら新聞を睨みつけても、何も書かれていない。
例《たと》えば、パスカル・エドアール。
彼は誰にも別れを告げずにペルセリオの軍学校に転校した。気がつけば、そういうことにされていた。「突然《とつぜん》すぎる」とベネディクトは学術院《ライブラリ》に訴《うった》えかけたらしいのだが、彼の転出に関《かか》わる書類がしっかり揃《そろ》っているという現実を見せ付けられただけだった。
いなくなった演劇部員の名前は、パスカル・エドアール。
リュカは知っていた。彼が消えた理由は、転校などでは決してありえないということを。そして気付いた。パスカルの――いや、あの夜に犠牲《ぎせい》になった全ての人間の死を隠《かく》し、騒ぎを起こさないようにした何者かの存在に。
だから、リュカは行き着いた。
学術院《ライブラリ》は――少なくともその上層部《じょうそうぶ》は、何かを知っている。
酒に酔った以上に、どうやら人ごみのほうに酔っていたらしい。
人の気配《けはい》のない総合書庫の休憩室で、ソファの上に体を投げ出して目を閉じること数十分。めまいや吐気《はきけ》の類《たぐい》はあらかた治まり、考え事を始めるだけの心の余裕《よゆう》を取り戻《もど》すことが出来た。
……そうだ。学術院《ライブラリ》は何かを知っている。たぶんこれは間違いないだろうと思う。魔法《まほう》や魔法使《マジックユーザー》いといったものについての知識を蓄《たくわ》えて、そしておそらくはある程度《ていど》以上のレベルで理解している。
そうでなければ、あの夜に起きた非常識な戦いをきちんと把握《はあく》し、その後始末《あとしまつ》が出来たことの説明がつかない。
「……でもなぁ」
さて、それが分かったところで、自分はどうするべきなのか。
相手は二百年以上の間歴史の影に隠れ続けてきた、言い換《か》えればそれだけの長きにわたって隠され続けてきた秘密《ひみつ》なのだ。一介《いっかい》の学生でしかない自分が多少気を張ったところで、その分厚いヴェールの向こうは覗《のぞ》けない。
いや、そうじゃない。そんなことは大して重要じゃない。本当に知るべきこと、暴《あば》くべき秘密であるなら、手段などいくらでも見つけられる。問題になるのはそれ以前、自分はどうしたいのかの話だ。
リュカ・エルモントという人間は――そうだ、争いごとを好まない。たとえどんな才能や能力を持っていても、それと個人の性格とが常に一致するとは限らない。平和とか平穏《へいおん》とか安寧《あんねい》とか安全とか、あるいはグータラとかノンビリとか、そういう言葉こそが自分の目指《めざ》す生き方なのだと、そう自認《じにん》して、人にもそう訴《うった》えかけてきた。
そして、戦わなければいけなかった夜は、もうとうに終わった。平和と平穏と安寧と安全が返ってきた。今ここにあるのは、グータラかつノンビリと暮らしていける毎日だ。
ならば、もう何も考えるべきではないのではないか?
全てを忘れて、ここで平和に生きていくべきではないのか?
「……何やりたいんだろうな、俺《おれ》」
うめいた。
避《さ》けられない義務《ぎむ》であれば、楽だったのだ。決闘《けっとう》を挑《いど》まれた時のように、あるいは命が狙《ねら》われた時のように、ただ抗《あらが》って剣《けん》を振《ふ》るえばいいのであれば、何も考えずその通りにしていればよかった。だから、分かりやすかった。
けれど、今、こうしてそれらの義務から解放されてしまうと、とたんに何をしたらいいのかが分からなくなる……いや、その「何をしたらいい」という感じ方が既《すで》におかしいのか。本来、するべきことなんて、自分自身で決めるべきものなのだから。
ゆっくりと、立ち上がる。
人のいない廊下《ろうか》をぺたぺたと横切って、西方史の書架《しょか》を探す。見つける。分厚い本の一冊を抜き出し、ぱらぱらとめくる。
シュテーブルという単語を見つける。
二百年前、大陸が群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の時代にあったころ、肥沃《ひよく》な国土と潤沢《じゅんたく》な鉱物資源《こうぶつしげん》に支えられて近在随一《きんざいずいいち》の権勢《けんせい》を誇った古き王国の名前だ。無数の小国が泡《あわ》のように生まれては弾《はじ》けていったあの時代に、大きく丈夫《じょうぶ》な抱として長く在《あ》り続けた。
けれど、多少大きくとも、しょせんは泡。割れるときは一瞬だった。
本は語る。当時の資料《しりょう》はそのほとんどが失われていて、何があったのかの正確なところは今となってはわからない。当時の第一王女が起こした内乱《ないらん》が全ての発端《ほったん》であったらしい――どの史書《ししょ》を紐解《ひもと》いてみても、そんな曖昧《あいまい》な記述《きじゅつ》しか残されていないのだ。
その第一王女の名前は何というのか。なぜ内乱などを起こしたのか。そんな、本来ならば真っ先に追究《ついきゅう》され明らかにされているはずの事柄《ことがら》については、もうどこにも記録が残されていないのだという。
「…………」
本を閉じる。表向きの歴史には興味《きょうみ》はない。
別の一冊を抜き出す。似たような内容のことが書いてある。
いわく、当時のシュテーブルを舞台《ぶたい》にした、有名な童話《どうわ》がある。民間伝承《みんかんでんしょう》をもとに編纂《へんさん》されたそれは、『ジネット』の名前で歌劇《かげき》になったこともある。勇敢《ゆうかん》な騎士《きし》と麗《うるわ》しい姫君《ひめぎみ》、そして恐《おそ》ろしい魔女とが紡《つむ》ぎ上げる剣《けん》と魔法の物語。
もちろん、それは世間的《せけんてき》には夢物語とされている。けれど、実はその中に多くの真実が含《ふく》まれていた。国を脅《おびや》かした魔女の実在。その正体が第一王女であったこと。第二王女をはじめとする何人かの人物の名前。『詳《くわ》しいことがまるで分からない昔の話』にしては、この童話はあまりに具体的な情報を含みすぎていた。
それは、つまり、どういうことなのか?
いったい何がどうなって、誰が何をしたら、こんなことになるのだろうか?
「…………」
本を閉じる。その問題|提起《ていき》にも、今更《いまさら》興味はない。
じゃあ、自分の興味のあることというのはいったい何なのか? その問いにもまた、答えが出ない。
また別の一冊を抜き出す。
どれだけの時間、そうして無為《むい》に本と戯《たわむ》れていただろうか。
窓から差し込む日差《ひざ》しが、ゆっくりとその色を変えていく。
そろそろ腹が減ってきたなと、頭の隅《すみ》のほうだけでぼんやり考える。
「…………」
大した期待もせずにまた革張《かわば》りの本の一冊を棚から引き抜く。
ページを斜《なな》めに流し読む、その指先が、ぴくりと小さく震《ふる》えた。
目を見開いて、そこに書かれている文章を確かめた。
『――まり、魔法書《グリモア》を手にした誰もが等《ひと》しく魔書使い《グリモア・ハンドラ》となれるわけではない』
小さく息を呑《の》む。
『本に書かれているものはあくまで文章である。そして文章は、読み手の想像力が作り出すイメージに特定の方向性を与えるためだけのツールである。ひとつの同じ文章であっても、一万人が読めば一万通りのイメージが出来上がる。
そして魔法《ウィッチクラフト》という秘術《ひじゅつ》を発動《はつどう》するのは、かつて魔女《まじょ》がみた夢のイメージそのものなのだ。
仮に一万人にそれを試《ため》させたとして、まがりなりにも魔法《ウィッチクラフト》と言える領域《りょういき》にまで至《いた》れる者は百人|程度《ていど》。そして胸を張って魔書使い《グリモア・ハンドラ》を名乗れるレベルにまでそれを使いこなせる者は、その百人の中に一人か二人がせいぜいだろう。いかに魔女の記述《きじゅつ》を理解し、その内容に同調《どうちょう》できるか。才能と発想力、そして何よりも相性《あいしょう》の良い魔法書と出会えるだけの運こそが求められるのだ』
「なんだ……こりゃ?」
魔法使いというのは、つまり、ジネットのようなやつのことではないのか。
魔法の本が焼けて、流れ出した中身が人間の体にとりついて、頭の中に住み着いて、不老不死にされて、その結果として魔法が使えるようになるのではないのか。
先を読み進める。
『なお|魔法書の代役《バーント・グリモア》、俗《ぞく》に不死者《レヴナント》と呼ばれている者たちにはこのルールは適用《てきよう》されない。彼らの内にある魔法書《グリモア》は文字という器《うつわ》を脱《ぬ》ぎ捨て、限りなくイメージそのものに近い形を得ているためだ。いわば、彼らは魔女の夢のかけらをそのまま飲み込み、それと共生《きょうせい》している存在なのだと言える。
ゆえに、単純にその魔法の規模《きぼ》を比較《ひかく》した場合、|魔法書の代役《バーント・グリモア》は魔書使い《グリモア・ハンドラ》のはるかに上を行くことになる――』
「なんだ……そりゃ?」
つまり、こういうことか。魔法使いと呼ばれる存在は、ジネットら|魔法書の代役《バーント・グリモア》だけではない。現存する魔法書《グリモア》の数だけ、魔書使い《グリモア・ハンドラ》なるものが存在しうる。
二百年前に生まれた|魔法書の代役《バーント・グリモア》の数は、三十七人。
そして――
「討伐隊《とうばつたい》は魔女の著《あらわ》した百九十七の書物《しょもつ》に火を放ち、三十|余《あま》りが焼け落ちた……」
そうだ。一週間前、自分はそう説明を受けたはずだ。
なぜその時点《じてん》で気がつかなかったのか。
二百近い数の書物。失われたのはたったの三十と少し。ならば、当然《とうぜん》のこと、そこには百六十ほどの魔法書が無傷《むきず》で残されていたはずなのだ。
「…………」
そして、それだけの数の魔法使いがいるならば……おそらく、その中の少なくない人数が、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を求めているのではないか。いつかまた、あの夜と同じことが繰《く》り返されるのではないか。レオネルが、またはジネットがそうしたように、また自分の前に現れる魔法使いがいるのではないか。
それは、あまり楽しい想像ではなかった。
本をひっくり返し、著者《ちょしゃ》の名前を確かめる。ロジェ・ヴィルトール。
「……誰だよ、それ」
知らない名前だった。
まぁ、今気にするべきは本文であって、著者が誰であるかではない。その名前は記憶の隅《すみ》に書き留《と》めるだけにして、もう一度本をひっくり返す。
『|魔法書の代役《バーント・グリモア》を人為的《じんいてき》に生み出すことが戦略上《せんりゃくじょう》有意義《ゆういぎ》であると判断した学術院《ライブラリ》は、過去三度ほど魔法書《グリモア》に火を放ち、人為的に魔女の館の炎上を再現《さいげん》したことがある。だが結果は全て完全な失敗に終わり、ただ希少《きしょう》な魔法書《グリモア》が無駄《むだ》に失われるだけに終わった。このことから、|魔法書の代役《バーント・グリモア》の誕生《たんじょう》には何らかの特殊《とくしゅ》な条件を満たすことが必要であると推測《すいそく》されるが、現状において――』
「勉強|熱心《ねっしん》なのね?」
突然《とつぜん》、耳元で女の声が囁《ささや》いた。
「……っ!?」
慌《あわ》てて後ずさり、書架に肩をぶつけながら振り向いた。
一人の女がそこに立っている。自分よりもいくつか年上、おそらくは二十《はたち》前後。女性にしてはずいぶんと背が高い。夕陽《ゆうひ》のような明るい朱色《しゅいろ》の髪《かみ》に、鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》。おそらくは髪の色に合わせてあるのだろう、濃赤色《のうせきしょく》のスーツに身を包んでいる。
「そんなに驚《おどろ》くことないじゃない?」
子供のイタズラの現場を捕《つか》まえたような、そんな楽しそうな笑顔。人好きのする表情だとほ思った。が、なぜか――背筋《せすじ》を冷たいものが滑《すべ》り落ちた。
「みんなお祭《まつり》で盛《も》り上がってるのに、一人だけ書庫でお勉強? 優等生《ゆうとうせい》なのねぇ」
口調《くちょう》は明るい。言っていることにも何らおかしなところはない。なのになぜか、それをその通りに見ることができない。心境《しんきょう》は肉食獣に嬲《なぶ》られる草食獣だった。
「……あんたは?」
「ん? あぁ、学術院《ライブラリ》の職員《しょくいん》よ」
「見慣《みな》れない――」
自分の言葉に、小さな違和感《いわかん》。一度口を閉《と》ざして、その違和感の正体を探《さぐ》ろうとする。けれど思い当たるものがない。なので再び口を開いて、
「見慣れない顔だ。本物か?」
「職員全員の顔を覚えてるってわけじゃないでしょう? それに私、ふだんは国外|勤務《きんむ》なのよね――って、もしかして警戒《けいかい》してる?」
「…………」
「されちゃってるわね、あはは、こりゃ困《こま》った」
そんなことを軽く言い放って、女は床《ゆか》から、一冊の本を拾《ひろ》い上げた。そしてリュカはようやく、先ほどの本を足元に落としてしまっていたことに気がついた。
細い指先が、ぺらぺらといくつかのページをめくる。
「……うわちゃぁ。なにこの分かりやすい解説《かいせつ》。こんな本、一階に置いといちゃダメじゃないの。学生に教えていい知識じゃないわよ、コレ」
「あんた……いったい」
「言ったでしょ、学術院《ライブラリ》の職員。それ以上でもそれ以下でもないわ」
澄《す》ました顔で、そんなことを言う。
本を閉じて、胸元に抱える。
「また事務員《じむいん》の手違《てちが》いね。まったくあの人たち、しょうがないんだから」
「って、ちょっと待てよ、俺、その本まだ読み終わってない――」
「ねぇ、あなた」
鳶色の視線が、リュカを射貫《いぬ》いた。
「ちゃんと、幸せに毎日生きてる?」
「え……な、なんだよそれ……?」
「いいから答えなさい。幸せなの? そうじゃないの?」
有無《うむ》を言わせない、強い言葉。
「――幸せだよ」
だから思わず、正直な答えを、搾《しぼ》り出すようにして呟《つぶや》いてしまう。
「いま幸せだから、知りたいんだ。よこせよ、その本」
負けじと、女の目を睨《にら》み返す。
何だかよくわからないが、目の前の相手に勝てるとは思えなかった。けれど、気持ちだけでも負けるわけにはいかないと思った。
「…………」
女は――なぜか目をそらした。
「幸せだっていうなら、もうこれ以上近づいちゃダメ。魔法とか魔法使いとか、そういううさんくさい話は全部忘れて日常に生きなさい。
大丈夫、自分から近づきさえしなければ、あなたの日常はそう簡単《かんたん》には崩《くず》されない」
「な……っ」
「じゃ、さようなら。いいわね、全部ちゃんと忘れるのよ――」
その言葉を最後に、女はリュカに背を向けた。
その背中が、一歩ずつ、遠ざかっていく。
知らず両の拳《こぶし》を固めて、リュカはその背を睨みつける。力ずくで本を奪《うば》い取るという選択肢《せんたくし》が脳裏《のうり》をかすめて、すぐに消える。それはできない。なぜかは分からないけれど、それをやって上手《うま》くいく自分がまったく想像できない。
「……なんだよ」
出来ることは、ただ胸の中で煮《に》えているこの感情を吐き捨てることだけ。
「あんたら、一体なんなんだよ!」
誰もいない総合書庫の一階で、ただ一人|虚《むな》しく、遠吠《とおぼ》えを繰《く》り返すことだけ。
4.
リュカが総合書庫を後にした時にはもう陽《ひ》が落ちていたが、祭に浮かれる街《まち》は、昼間にもまして賑《にぎ》やかに盛り上がっていた。
体調《たいちょう》こそだいぶ落ち着いたものの、それでも喧騒《けんそう》の中を歩く気にはなれない。
だから、人の多い大通りを離れて静かな裏道《うらみち》ばかりを選びつつ、家へと帰った。
途中《とちゅう》、一度だけ喧騒の中に顔を出して、屋台で夕食になりそうなものを幾《いく》つか調達《ちょうたつ》した。串焼《くしや》きを三本とライ麦パンのサンドイッチをひとつ。それからデザートに、カボチャのシュガーパイを一切れ。
誰もいない屋敷《やしき》に戻《もど》り、ソファに背中を投げ出す。
隣《となり》のマルカーン家から、豪快《ごうかい》な笑い声が聞こえてくる。続いて、ばんばんと背中を叩《たた》く音と、猫《ねこ》の尾《お》を踏《ふ》んだ時のようなアリスの悲鳴《ひめい》。父親がアリスの二日酔《ふつかよ》いをからかっているのだろう。いつものことだ。
かつん。何かが窓に当たる小さな音。
串焼きにかじりつく。少し冷えて硬《かた》くなっているせいでどうにも食べにくい。安さに相応の質の悪い肉と、ひたすら味の濃《こ》いソース。失敗したなと思う。こういうものは、祭で気分よく盛り上がった胃袋《いぶくろ》で受け止めてこそ旨《うま》いものなのだ。
幸《さいわ》いサンドイッチのほうは、このやる気のない胃袋に収《おさ》めても充分《じゅうぶん》に旨いものだった。これでとりあえず腹のほうは落ち着いた。
かつん。何かが窓に当たる小さな音。
「……幸せなら忘れろ、か」
それは、もしかしたら真実なのかもしれない――シュガーパイをかじりながら、そうも思う。
先週ジネットが何も言わずに自分の前から姿を消したのは、つまり彼女も同じことを言いたかったということだろう。魔法使いたちの事情にこれ以上|関《かか》わってはいけない。関わればせっかくの幸せを逃《のが》してしまう。平穏《へいおん》な日常というものは、実は何よりも得がたくそして崩れやすいひとつの財産《ざいさん》なのだと。
ああ、でも、畜生《ちくしょう》。そんなことは言われなくても分かっているのだ。
そして、それが正しいあだということも理解しているのだ。
なのに受け入れられない。形にならないもやもやとしたものが胸《むね》の中に溜《た》まって、素直《すなお》になるのを邪魔《じゃま》している。
ああもう。とにかく面白《おもしろ》くない。
自分の心境を自分自身で理解できない。そのせいで、行き場のないイライラだけが胸の中でゆっくりと膨《ふく》らんでいく。
「あー……ちっくしょ」
方形のクッションを窓のほうへと放《ほう》り投げた。
がつん。何かが窓に当たる小さな音――
「…………」
ようやくその昔のことに気付いた。いや、さっきからいちおう気付いてはいたのだがまったく気に留めていなかった。
「なんだよ、ったく……」
カーテンを開ける。
窓|硝子《ガラス》の向こうには夜の街の景色《けしさ》。あちこちに立つ街灯《がいとう》の光が、藍色《あいいろ》の闇《やみ》にぽつぽつと穴を開けている。例の集団|失踪《しっそう》事件の噂《うわさ》のせいなのか、人の姿はまるで見えない。
「…………」
気のせいか。
窓に背を向けて、カーテンを閉めようとしたところで、
がつん。音とともに、窓の硝子《ガラス》がびりびりと揺れる。
今度ははっきりと分かる。窓に、何か硬《かた》いもの――おそらくは小石が投げつけられているのだ。しかも音は少しずつ大きくなってきている。次の小石辺りで硝子《ガラス》がそのまま打ち破《やぶ》られそうなほどに。
それは、子供のイタズラにしては、少しばかり度《ど》が過《す》ぎている。
「なんなんだよ、おい!」
再び外に向き直ると、窓を大きく開け放った。
「誰なんだよ、さっきから!」
叫《さけ》ぶ。ただし近所|迷惑《めいわく》にならないようにと声量《おんりょう》は抑《おさ》えておく。隣の家――つまりはまぁアリスの家だが――の親父《おやじ》さんがその辺り実に怖い人なのだ。
ともあれ、窓の外にはやはり誰の姿もなく、いったいどういうことなのかと訝《いぶか》しく思い始めたところで、
〈……こっちじゃ、こっち〉
何やら、覚えのある声を聞いた。
どこかすっとぼけた感のある、しわがれた老人の声。
ゆっくりと、視線《しせん》を下に動かす。予想通りのものが、そこにある。ブロンドの少女を摸《も》した、赤ん坊《ぼう》ほどの大きさのアンティーク人形。なぜか大人《おとな》の握りこぶしほどの石を両腕で抱え上げ、よろよろと今にも倒れそうなほどにふらついている。
知っている相手だった。
「……じーさん?」
目の前の光景が、にわかには信じられない。半《なか》ば疑うような声で、その名――ではないが――を呼んでみる。
アルト・バルゲリアル。
あの日、風のようにやってきて風のように去っていった(それも相当にたちの悪い暴風《ぼうふう》だ)魔法使いの二人組の片割れ。
実体のない幽霊《ゆうれい》のようなものだからと言って可愛《かわい》らしい人形にとりつき動かしている、存在自体からして悪趣味《あくしゅみ》なじいさんだ。
〈う、うむ〉
「何やってんだ?」
〈いや、小さな石を投げてもまるで気付いてもらえんようじゃし、ここはいっそ窓をブチ割るくらいのサイズでなきゃダメなのかと〉
「やるな! 五|歳《さい》の子供かアンタは!」
〈しょーがないじゃろが、玄関《げんかん》のノッカーにゃ背が届かんのじゃから!〉
それはまぁ、確かにそうだろう。ふつう、ノッカーは人形が使うことなど想定《そうてい》されずに作られている。リュカの膝《ひざ》ほどしかないこの人形の身の丈《たけ》では、どんなに懸命《けんめい》に飛《と》び跳《は》ねたところで届くはずがない。
「不便《ふべん》すぎねーか、その体?」
〈ひとごとめかしてのんびり言うでない!〉
「いや、それこそ思いっ切りひとごとだしさ……って」
気付く。
「もしかして、一人きりか?」
改めて見渡してみても、辺りに人の姿はまるでない――もちろん眼下《がんか》の怪奇《かいき》人形は「人の姿」として数えない。
「相方の姿が見えない」
〈もしかせんでも一人じゃい〉
「なんでだ? もしかして、ついに愛想尽《あいそつ》かされて置いてかれたか?」
〈そりゃどこの薄情《はくじょう》家族じゃ! んなわきゃなかろうが!〉
「じゃあどうしたんだよ。まさかそのちっこい体で一人旅ってわけでもないだろうし、どこか近くにいるんだろ?」
〈それはまあ、そうじゃが〉
「この前はいきなり消えられたからな、聞きたいことと、言いたいことがあるんだよ。あいつ、どこにいるんだ?」
〈……知りたいか?〉
急に神妙《しんみょう》な声になって、そんなことを聞かれた。
すぐにはその変化についていけず、少し気後《きおく》れしつつも、「ああ」とリュカは頷《うなず》く。
〈まぁ良い。どのみち儂《わし》も、そのつもりでここまで来たんじゃ〉
くるりと踊《おど》るように人形の体が背を向けて、
〈来い。あの娘の場所まで案内する〉
低くしわがれた声がそんなことを言って、短い足でてこてこと歩き始める。
「…………」
仕方《しかた》がない。
窓を閉めると大急ぎで玄関へと回る。壁《かべ》にかけてあったコートをひっつかみ革靴《かわぐつ》をひっかけて、外に飛び出すと扉に鍵《かぎ》をかけ、そのまま人形の後を追う。
人形の足はとても短い。どんなにせわしなく動かしても、十歩進んでようやく人の一歩に追いつくかどうか。そんなアルトに先導《せんどう》させていては時間がかかって仕方がない。それに、そうでなくてもこんなにも賑《にぎ》やかな夜なのだ。このまま放っておいたら、動く怪奇人形の目撃者《もくげきしゃ》がダース単位で出てくるに違いない。
だから、途中《とちゅう》でアルト老《ろう》の首根っこを引っつかんで、小脇《こわき》に抱きかかえた。
〈おおっ〉
じたばたと小さな手足が宙《ちゅう》を掻《か》く。
「じーさんさ、いつもどうやって移動してるんだ? こんな調子じゃまともに旅なんてできないだろ、どう考えても」
〈ジネットに背負わせとる〉
「……さいですか」
あまりに予想通りの回答だった。
〈万が一の際《さい》には儂の『|扉なき仮宿《ピエタテール》』もあるでな。レオネルの魔法書が支配と指令、ジネットの魔法書が回想《かいそう》と想起《そうき》に強いように、儂の内にある魔法書は剥離《はくり》と定着に真価《しんか》を発揮《はっき》する。
いまある位置から引《ひ》き剥《は》がし、別の位置に定着させてしまえば、時間は遣《つか》わずとも移動はできる。ま、たまにしか使えんから、大して役にはたたんがの〉
「ああ」
その芸当《げいとう》なら、以前に一度見た。なるほど、あれがアルト老の特技《とくぎ》(?)ということになるわけか。
「今は使えないのか?」
〈原則、この体に入っとる間は使えん。
この人形は特別製でな、内側にあるものの|夜の軟泥《ワルプルギス》を外に漏《も》れ出させないための刻印《ブランディング》が施《ほどこ》されとる。この中に在る限り、儂にはこうして手足を動かすくらいのことしかできんのじゃよ〉
「……何でわざわざそんなとこ入ってんだよ」
〈魔法を使うということは、|夜の軟泥《ワルプルギス》を消費《しょうひ》するということ〉
その言葉は聞いたことがある。たしか、彼女たちが魔法を使うときに周囲の空間に広げる、下準備の力だったか――そんな意味合いの言葉だった。
〈これは、体内に|夜の軟泥《ワルプルギス》を蓄《たくわ》えることで命を維持《いじ》しとる不死者《レヴナント》にとっては血を抜かれるようなものでな。生得の回復量を超《こ》えて力を振るえば体は弱るし、やがて死に至ることもある。
ただそれも、ジネットのような普通の不死者《レヴナント》にとっての話でな。儂の場合、ほれ、体がないじゃろ? じゃから|夜の軟泥《ワルプルギス》を辺りに広げようにも、自分の内側から外に出すことすらままならん……血を流そうにも、体が無いから傷口を作れん……まぁ一言で言ってしまえば、自力では魔法が使えんのじゃよ〉
「はぁ?」
予想外の言葉を聞いた。
「でもじーさん、ちゃんと魔法使えるんだろ? おかしくないか?」
〈人の話はよく聞くもんじゃ。自力では使えん、と言うたじゃろ。そこでこのぷりちーばでぃの出番というわけじゃ。
この中におる時には、維持しておける|夜の軟泥《ワルプルギス》の量に上限がある。大体、外で精神の解放状態に在る時の半分弱くらいの量しかここには入れん。よって、解放状態にある儂が自分をこの中に封印《ふういん》すると、ここに入れんかった余剰《よじょう》の|夜の軟泥《ワルプルギス》は儂自身から削《そ》ぎ落とされ辺りに放り棄《す》てられ――まぁ、その一瞬だけ、儂にも魔法を使える条件が満たされるわけじゃ。
もちろん大量の|夜の軟泥《ワルプルギス》を一気に遣《つか》ってしまうでな、一度これをやらかしてしまうと、その後に充分に力を蓄えて、自力でこの人形の体から抜け出しもう一度解放状態に戻るまでは、どうあがいても魔法が使えんわけじゃよ〉
「……へぇ」
その説明は、なんというか、
「魔法とかいうわりに、けっこう理屈《りくつ》っぽいんだな。やっぱりあれか、傍《はた》から見れば破天荒《はてんこう》なだけで、魔法の世界も中身はしっかり理論体系《りろんたいけい》が出来上がったりしてるのか?」
〈んなわきゃなかろう。その逆じゃよ。
破天荒でむちゃくちゃでワケがわからんからこそ、まだ理解できなくもない範囲《はんい》のことがらだけを研究し分析して、理屈っぽいものに仕立て上げとるだけじゃ〉
「そのわりにゃ……なんか、兵器の話でも聞いてるみたいだ」
それは、正直な気持ちだった。
魔法とは前時代の遺物《いぶつ》、失われゆく伝承《でんしょう》の破片《はへん》だと思っていた。
そして今に生きるジネットやアルト、そしてレオネルも、そのような伝承を体現《たいげん》するもの……つまりは神秘的《しんぴてき》なナニカだと、感じていた。
けれど、どうやら、実際《じっさい》には違うらしい。
遠い歴史の向こうに「剣」が失われ「火薬」がそれに替《か》わった今。かつて「剣」と同じように敵を討《う》つ力として扱《あつか》われた魔法は、今も、「火薬」がそうであるのと同じような扱われかたをしている――
そう。それが、昼間にあの本を読んでから、ずっと抱えていた違和感《いわかん》だ。
〈ふん。時代がどう流れようと、人は変わらんわい〉
あっさりと、アルトはそう答えてくる。
〈いつだって、その時手元にある力を、その時の自分に必要な形で振るうことしかできん。逆にそれができるから、人という動物は今もなおこの大陸で生き続けていられる。
兵器が必要な場所に、強力な兵器として使える技術[#「技術」に傍点]があるならば、それはそのように扱われるに決まっとる。たとえその技術が、ほかにも無数の可能性を拓《ひら》くものであったとしても、そんなことは関係ない〉
どどんっ!
下腹に響《ひび》く音から少しだけ遅れて、夜空が輝《かがや》いた。
思わず足を止めて見上げる。色とりどりの光の花弁《はなびら》が、きままに弾《はじ》けては夜空に溶《と》けて消えていく。
「花火か……」
大通りのほうから、わああと派手《はで》な歓声《かんせい》が聞こえた。
ああ、彼らはこの祭という日を楽しんでいるんだな。そんなことを思う。
〈のう、少年〉
「なんだ?」
〈いまの生活じゃが――お主《ぬし》、幸せか?〉
「は?」
意表《いひょう》をつかれた。
「いきなり何だよ。流行《りゅうこう》か何かなのか、その質問?」
〈いや、それこそよくわからんが……そのへん、どうなんじゃ?〉
「どうって言われても、そんなん」
幸せだ。もちろん、そうに決まっている。
だから、そう答えてしまえば、それでいい。でも、
「……分かんねえよ」
口をついて出た言葉は、そんなものだった。
「幸せだったらどうとか、幸せじゃないからどうとか……そんな話はしたくない」
〈そうか〉
アルト老《ろう》はやや暗い声で、呟《つぶや》くように答える。
「それがどうかしたのか?」
〈いや、実はじゃな。お主に、少々言いづらい頼《たの》みがあるんじゃがのう……〉
そこで律儀《りちぎ》に口ごもる。
どどんっ!……また新たな花火が打ち上げられる。
極彩色《ごくさいしき》の光を浴びながら、再びの大歓声《だいかんせい》に背を向けて、リュカはまた歩き出す。
「何だよ、頼みって」
〈いや、なんつーか、これがまた実に言いづらいことでのう》
「それは分かったから、さっさと言えって――」
足が止まった。
一拍ほどの時間をおいてから、なぜ自分は立ち止まったのだろうと訝《いぶか》しく思った。別に、それらしい理由には思い当たらない。花火が上がったわけでも、アルト老の言葉に衝撃《しょうげき》を受けたわけでも、誰か知己《ちき》にぶつかったわけでもない。
ただ、自然に、足が歩みをやめた。
「……え?」
〈気付いたか〉
深刻《しんこく》そうなアルト老の呟きで、ようやく周囲の異常《いじょう》に気付いた。
祭の喧騒《けんそう》から程遠《ほどとお》いこの裏路地《うらろじ》に、幾《いく》つかの人影。
どいつもこいつも揃《そろ》って同じようなネズミ色のマント姿。フードを目深《まぶか》に被《かぶ》っているのでその顔は見えない。視線《しせん》がどちらに向いているのかも分からない。
そして何よりも異常なのは、そのことごとくの動きに、まるで意思を感じない。こうして眺《なが》めていても、置き物と目を合わせたときのような居心地《いごこち》の悪い気まずさだけしか感じない。
「なん……だ、こいつら?」
〈あー、なんつーか、これまた説明しづらいんじゃが……敵かな?〉
「なんで疑問形なんだよ」
〈敵じゃな〉
「ああもう、鬱陶《うっとう》しいなお前」
ざっ、と幾つもの足音が重なって聞こえた。人影の全てが、まったくの同時にこちらに向かって一歩を踏み出したのだ。
〈ただの人形じゃ。ただし、猟犬《りょうけん》として使えるように粗悪《そあく》ながらも刻印《ブランディング》を彫《ほ》りこまれとる。王城《パレス》御用達《こようたし》のザコ兵じゃよ。
粗悪じゃから、|夜の軟泥《ワルプルギス》の匂《にお》いで獲物《えもの》を見極《みきわ》めとる。儂の|夜の軟泥《ワルプルギス》はこの体から漏《も》れん仕様《しよう》じゃし、お主も自ら|夜の軟泥《ワルプルギス》を蓄えとるわけではない。心配せんでも襲《おそ》われほせんよ――〉
「……よくわからんけど、さっきの話からして、こいつらは人間じゃないんだな?」
〈ああ〉
ということは、つまり、あの夜のようには、犠牲者《ぎせいしゃ》は出ていないということか。
少し安心した。
〈心配せんでも、『目』だの『門』だのといった外道《げどう》な真似《まね》は『|鉛人形の王《アンペルール》』の主《あるじ》、レオネル以外の誰にもできん。魔法書《グリモア》に同じものは二つとない。起きる出来事の見た目が似ていても、本質は絶対に同じにはならん。
……まして、|魔法書の代役《バーント・グリモア》でもない生身の人間に、レオネルのような力《ワルプルギス》任《まか》せの魔法が扱《あつか》えるとはとても思えんわい〉
「ああ、魔書使い《グリモア・ハンドラ》ってやつか」
〈……ふむ? 儂、そんな言葉まで教えとったかのう?〉
教わっていない。自分で見つけたのだ。
そして、忘れろと言われたのに、いまだ忘れていないのだ。
「燃えてなかった魔法書《グリモア》を持って、それを読んで魔法を使う連中だろ? あんたら不死者《レヴナント》より魔法の規模《きぼ》は落ちるって話だったか。
つまりこれは、その王城《パレス》とかいう場所に所属《しょぞく》する魔書使い《グリモア・ハンドラ》の仕業《しわざ》なんだな? そんでもって、そいつらが敵なんだな?」
〈む、うむ、むう〉
どどんっ……またひとつの花火が打ち上げられ、空が輝いた。
フードに隠れて見えなかった素顔《すがお》が、一瞬だけ見えた。
木目《もくめ》の浮《う》いた、木彫《きぼ》りの胸像《きょうぞう》。
〈確か――クリストフ・デルガルと名乗っとったか。所持《しょじ》する魔法書《グリモア》は『|木棺の誓言《アニュレール》』。確か、隷属《れいぞく》の誓《ちか》いに特化《とっか》した一冊じゃったな〉
その左の眼窩《がんか》の位置に、濃緑色《のうりょくしょく》に濁《にご》った水晶球《すいしょうきゅう》が嵌《は》め込《こ》まれている。眼球よりもだいぶ大きなその水晶球を埋《う》めるために、こめかみから額、鼻の頭に至《いた》るまでの範囲《はんい》が大きくえぐれてしまっている。
「…………」
気色の悪い光景に、顔をしかめる。
「こういうのが、街中にごろごろしてるのか?」
〈大した数は出とらんはずじゃ。無視《むし》して先に行くぞ〉
楽しそうな人々の笑い声は遠く。どこまでも、遠く。
人形をひとつ腕の中に抱いて、リュカは夜の裏道を行く。
5.
学術院《ライブラリ》という組織《そしき》は、実質上《じっしつじょう》、三つの勢力によって運営《うんえい》されている。
ひとつは学院長。文字通り、学術院《ライブラリ》の代表者として最終的な責任の全てを担《にな》う者である。世襲制《せしゅうせい》であり、学術院《ライブラリ》創立《そうりつ》から数えて現在の学院長は七代目にあたる。
もうひとつは院長|補佐《ほさ》。これも文字通り、学院長の業務《ぎょうむ》の補佐を行う者だ。だがその仕事と権限《けんげん》とは学院長から独立《どくりつ》している。学院長の指名を含《ふく》む学内の人事ほとんどを束《たば》ねる立場にあり、そのため状況によっては学院長よりも立場は強くなる。
そして最後のひとつが、第六書庫上等司書官――
魔法書《グリモア》の収集《しゅうしゅう》、管理《かんり》、運用を専門にする部署《ぶしょ》の、責任者である。
天井《てんじょう》の高い、円筒形《えんとうけい》の部屋。
壁を覆《おお》い隠《かく》すように並ぶ、無数の本棚。それらの間に等間隔《とうかんかく》に打ち込まれた燭台《しょくだい》の上で、白い蝋燭《ろうそく》がちろちろと小さな光を揺《ゆ》らめかせている。
そして部屋の中央には、大きな円卓《えんたく》。二十人くらいが軽く座れそうなそこに、しかし椅子は三つしか置かれていない。そして、そこに座る人間の数も同じく三人のみ。
「――今から二百十三年前。一人の魔女《まじょ》が、魔法書を生み出した」
ヤニク・エルフェノク学院長が、軋《きし》るような声で言った。
大きな樽《たる》に手足をつけて紫灰色《しかいしょく》のローブを着せた――そうとしか形容のできない風貌《ふうぼう》の老人である。つるりと丸い禿頭《はげあたま》と豊かな白髭《しろひげ》のちょうど中間の位置で、意地の悪い眼光《がんこう》が
きらめいている。
「討伐隊《とうばつたい》が魔女を討《う》ち、その直後に魔法書に火がかけられた。火に焼かれた魔法書の中身はそのまま消えることを受け入れず、すぐ近くに居た人間に憑いて自らの代役とした。
魔法書《グリモア》の数は、百九十七。
そのうち三十三冊が炎に焼かれ、三十七人の|魔法書の代役《バーント・グリモア》を生み出した。魔法書の持つ機能《きのう》の全てを自らの肉体の内に宿《やど》した、天性の魔法使い。人の姿を持ちながら人であることを棄《す》て、永遠の時を生きることとなった不死の者。
そして――百六十四の魔法書が残された」
「強い力がそこにあれば[#「強い力がそこにあれば」に傍点]、必然として戦いが起きる[#「必然として戦いが起きる」に傍点]」
ロジェ・ヴィルトール院長補佐が、苦《にが》い声で後を繋《つな》いだ。
こちらは大柄《おおがら》な老人だ。見事なまでに白く色の抜けた髪に、額《ひたい》に刻《きざ》まれた深い皺《しわ》。やはり高い学位を表す紫灰色のローブを身に纏《まと》っている。そしてそのゆったりとした布地《ぬのじ》の上からでも、学者とは思えないほど鍛《きた》えられた筋肉《きんにく》の盛り上がりが見てとれる。
「古くは穀倉《こくそう》や鉱山《こうざん》が力を生んだ。それから多少の時代が流れても同じこと。良質《りょうしつ》の製鉄《せいてつ》の技術、火薬《かやく》の製法《せいほう》、優《すぐ》れた交易路《こうえきろ》。人や国に力を与《あた》えうる要素《ようそ》は全て、人や国の争いを誘った。
魔法《ウィッチクラフト》≠ヘ優れた力。この世界の摂理《せつり》を歪《ゆが》め、超逸《ちょういつ》した力を呼び起こす。常識《じょうしき》では測《はか》れないそれを、多くの人間が強く求めた。一冊でも多くの魔法書を、一節《いっせつ》でも多くの呪文《じゅもん》を手にしようと争った。争いの中、三十七の不死者《レヴナント》たちは離散《りさん》し、百六十四の魔法書もまたバラバラになって大陸中に散らばることとなった――」
いったんここで言葉を切る。入れ替わり、学院長が再び口を開く。
「無数の勢力が興《おこ》り、そして潰《つぶ》れていった。民《たみ》に知られぬまま戦いは続き、二百年の時が流れ、今日というこの日に至った。
王城《パレス》。商会《クリーク》。工房《アトリエ》。茶会《ティパーティ》そして学術院《ライブラリ》――それぞれに大きな力を抱えた五つの勢力による睨《にら》み合い。
小競《こぜ》り合いだけを繰《く》り返しつつ、互《たが》いの隙《すき》を探《さぐ》り続ける一触即発《いっしょくそくはつ》の均衡状態《きんこうじょうたい》。状況を変えるだけの大きな力を誰もが求めつつ、しかしそれが果たせずにいる」
「分かるかね、エルモント君?」
そこで、三つの椅子《いす》の最後のひとつに座る男に、二人の視線が注《そそ》がれた。
アルベール・エルモント、第六書庫上等司書官。
冴《さ》えない風貌《ふうぼう》の、中年男性である。
柔和《にゅうわ》というよりは締《し》まりのない顔つき。枯《か》れ枝のような頼《たよ》りない体格に、ひどい猫背《ねこぜ》の癖《くせ》がついている。短い赤毛には、年のせいかそれとも苦労のせいなのか、ちらほらと白いものが混じっているのが見える。
とにかく、目の前で威圧《いあつ》する二人の老人に比べれば、まるで貫禄《かんろく》というものに欠けた男だった。
「はぁ……仰《おっしゃ》ることは分かるんですが」
アルベールは、気の抜けた声で答える。
「お二方とも随分《ずいぶん》と長い説明でしたけど、なんでまたこの会議のこの場所でそんなことをわざわざ再確認するんです?」
「むろん、どうにも自分の立場というものに対する自覚《じかく》がないらしい君に対する、ちょっとした嫌味《いやみ》だよ。そのくらいのこと、わざわざ言わずとも察《さっ》してくれるとありがたかったのだが」
「はぁ……そいつはすみません」
「とにかく」
院長補佐が、相変わらずの苦い声で割《わ》って入る。
「きみの弁明《べんめい》を聞きたいのだ、エルモント君。先日この街で繰り広げられた不死者《レヴナント》どもの潰し合い。うまく横槍《よこやり》を入れればいくらでも漁夫《ぎょふ》の利《り》を得られたはずの絶好《ぜっこう》の機会を、なぜ何もせずに見逃《みのが》した?」
「そんなこと言われましても。不死者《レヴナント》、いや|魔法書の代役《バーント・グリモア》の争いには干渉《かんしょう》しない。それは、我々|学術院《ライブラリ》の基本スタンスだったんじゃありません?」
落ち着いた柔《やわ》らかな声で、アルベールは答える。
「彼らは、その一人一人が強すぎる。敵に回すにはリスクが大きい。我々の戦力で倒すことはできても、それまでに受けるダメージは確実に致命的《ちめいてき》なものになる。だから、彼らの戦いには近づかない。どこで何をされても見ないふりをする。彼らもそれを理解しているから、我らに対して積極的《せっきょくてき》に敵対はしない。そうやってこの街は、今まで平和を保《たも》ってきたんじゃありませんか」
「平和? 平和と言ったのかね今?」
学院長の、嘲《あざけ》りの声。
「その『積極的に敵対はしない』連中が、この秋にこの街《フェルツヴェン》で何をやらかしてくれたのか、君は忘れたのかね? 分かっているだけでも百人近くの無辜《むこ》の住民が、あのバケモノどもの同族殺しに巻き込まれて命を落とした」
「そりゃもちろん、心は痛みますけどね」
アルベールはゆっくりと首を横に振って、
「あの時点で動かせる魔書使い《グリモア・ハンドラ》は一人だけ、『|流水の軍勢《フルビスール》』のヴァランタンだけだったんですよ。彼も決して弱くはないが、不死者《レヴナント》を相手取るほどではない。仮に何かを命じていたとしても、あの状況《じょうきょう》を好転《こうてん》させられたとは思えませんね」
「さて、それはどうか」
院長補佐が、小さく肩をすくめる。
「きみの言うことは正しい。確かに不死者《レヴナント》は、その一人一人が強すぎる。うかつに手を出せばこちらが火傷《やけど》をするだけ。けれど話はそこで終わりはしないはずだ」
「と、申しますと?」
「確かにいま学術院《ここ》にいる魔書使い[#「魔書使い」に傍点]でまともに|魔法書の代役《バーント・グリモア》を相手にするというのは多少|面倒《めんどう》だろう。しかしきみは、何か大切なことを我々に隠《かく》しているのではないか?」
「はて……」
しばらくの沈黙《ちんもく》。
目の前の老人の真意を量《はか》るように、ゆっくりとした声でエルモントは尋《たず》ね返す。
「……意味がよくわかりませんね」
「白々《しらじら》しい」
学院長が、嘲る。
「君のところで管理《かんり》しているはずの、あの魔法書の話をしているのだよ。肩書きの通りの力があるなら、不死者《レヴナント》の二人や三人、簡単に退《しりぞ》けられるはずの力だ」
ぴたり、と会話が止まる。
「――どこから聞きました、そんな話?」
「どこでもいいだろう」
ふん、と小さく鼻先で笑って、院長補佐は答える。
「問題は、きみが果《は》たすべき職務《しょくむ》に対して全力を尽《つ》くしていないという事実のほうだ。そのような態度が続くようなら、要《い》らない詮議《せんぎ》を招《まね》くことになりかねない」
「僕があれ[#「あれ」に傍点]を私物化《しぶつか》しようとしている、とでも言いますか?」
「そういうことだ。その可能性を、我々は危惧《きぐ》している。分かるだろう? それを疑いたくなるだけの力と魅力《みりょく》が、その魔法書にはあるのだ。そうだろう?」
今にも笑い出しそうなほど、高揚《こうよう》した声。
「魔女の残した最後の遺産《いさん》には、な」
それから一時間ほどが経《た》って、ようやくアルベールは、拷問《ごうもん》じみた会議の席から解放された。大理石《だいりせき》の廊下《ろうか》をよろよろと歩き、倒れこむようにひとつの部屋に転《ころ》がり込む。
部屋の扉《とびら》に掲《かか》げられたプレートに刻《きざ》まれた文字は、『第六書庫管理室』と読める。
毛の長い緋色《ひいろ》の絨毯《じゅうたん》に、色の深い黒木の机《つくえ》。硝子棚《ガラスだな》の中に並んでいるのは色とりどりの酒瓶《さかびん》。いかにも金のかかっていそうな部屋の真ん中、これまた金のかかっていそうな革張《かわば》りの椅子《いす》。アルベールはふらふらとその椅子に倒れこむと、深くそしてひたすらに長い息を吐《は》いた。
「もーイヤだ。本気でイヤだ。これ以上働かない。おうち帰る」
だん。力なく、机に拳《こぶし》を振り下ろす。
「前に家に帰れたのって半月以上前なんだよ? そうでなくても二人っきりの家庭なのに、こんな生活が続いてたら可愛《かわい》い甥《おい》っ子に僕《ぼく》のこと忘れられちゃうよ。そしたらアレだ、学術院《ライブラリ》のほうで責任とってくれるわけ? とってくれちゃうわけ? ていうか責任者って僕のこと? 僕が責任とらされるわけ? うわそれイヤだなぁだから偉《えら》くなんてなりたくないって言ったんだ」
「……今日はまた、一段と磨《みが》きがかかった錯乱《さくらん》っぷりねー」
来客用のソファに、一人の女が腰掛《こしか》けている。
二十《はたち》前後の、背の高い女だ。濃赤色《のうせきしょく》のスーツに身を包み、明るい朱色《しゅいろ》の髪《かみ》を首の後ろで簡単に切り揃《そろ》えている。
その膝《ひざ》の上には、一冊の革張りの本。
「私|詳《くわ》しい話はまだ聞いてないんだけどさ。結局例の騒《さわ》ぎ、どう落ち着いたの?」
「散々《さんざん》だったよぅ」
アルベールは、さめざめと小さく泣きまねを挟《はさ》んで、
「『|鉛人形の王《アンペルール》』の――レオネル・グラントの刻印《ブランディング》を打ち込まれて自律《じりつ》人形にされた犠牲者《ぎせいしゃ》が八十七人。
うち五十五人が一般《いっぱん》市民。残りは学術院教師が四人、学生が七人、軍属《ぐんぞく》が九人に聖職者《せいしょくしゃ》が五人、よその街に市民権を持ってる旅行者と交易《こうえき》商人が七人。そしてもちろん、全員が全員とも、レオネルの死亡と同時に灰になって消減《しょうめつ》、前代|未聞《みもん》の集団失踪《しゅうだんしっそう》の出来上がり。騒ぎが起きないようにする情報|操作《そうさ》だけで、三日くらいは徹夜《てつや》させられたよ」
「あー……そりゃまた実に桁外《けたはず》れなオハナシで」
「それと別に、おそらくは不幸にも連中のドンパチを目撃《もくげき》しちゃった一般人だろうけど、普通に殺された人間も五人ほど。あと、派手《はで》に市街《しがい》を壊《こわ》してくれたりもした……まぁこっちのほうは場所が開発区だったから比較的楽《ひかくてきらく》にごまかせたけどさ」
「やりたい放題《はうだい》やられた、ってわけか」
女は呆《あき》れたように小さく息を吐《つ》く。
「そんでもって、学術院《ライブラリ》は|不死の魔法使い《レヴナント》同士の諍《いさか》いには口を出さないのが大原則。ってことは本人たちには文句《もんく》のひとつもつけられず、それどころか尻拭《しりぬぐ》いだけは全部押し付けられるってわけね。あはは」
「笑い事じゃないって」
のんびりした声で悲鳴《ひめい》をあげて、書類の山に顔を突《つ》っ伏《ぷ》して、
「いやもー、なんていうかー、労働者《ろうどうしゃ》の権利ってもうちょっと保障《ほしょう》されてもいいと思うんだよねー。このままだと死ぬまでここから出られない、いや墓石《ぼせき》もこの部屋に持ち込まれそうな気がするー」
「ま、いいけどさ。愚痴《ぐち》は後で聞いてあげるから、話の続きを聞かせてくれない?」
女は、変わらず投げやりな声で話を切り替える。
「不死者連中のドンパチの後始末《あとしまつ》が大変なのは分かった。それだけのメチャクチャな事件が起きたってこともよく分かった。街がどことなく妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》な理由も理解したし、逆に妙な雰囲気になる程度で済むくらいには情報操作がうまくいってることも確認した。
けど、この話が、それだけで終わるはずがない。
任務《にんむ》中の私をわざわざペルセリオから呼び戻したくらいなんだから、聞いただけで胃が痛くなるくらいに嫌《いや》なニュースがついてくるんでしょう?」
「…………」
アルベールは沈黙《ちんもく》する。女は構《かま》わず、
「私に何をやらせるつもりなわけ? しんどい状況なのは分かったから、それなりの覚悟《かくご》はできた。並大抵《なみたいてい》の仕事じゃ驚《おどろ》かないから、安心して言ってみなさいな」
「あー……そう言ってもらえると、ちょっとだけ気が楽になるよ」
アルベールは大儀《たいぎ》そうに首を振って、
「その間題のレオネル・グラントだけどさ」
「うん」
「問題の日の昼のうちに、幾《いく》つか目撃情報《もくげきじょうほう》があるんだけどさ」
「うん」
「どうやら学術院《ライブラリ》の島にまで来て、うちの甥《おい》っ子に接触《せっしょく》してたみたいなんだ」
――少し長い沈黙《ちんもく》。
「道理《どうり》で、妙《みょう》なことに興味持ってると思った」
女は嘆息《たんそく》すると、膝の上の本を机の上に放《ほう》った。
「この本は?」
「あなたの甥っ子≠ェさっき総合書庫で見つけた、第二種|禁書指定《きんしょしてい》のレア本。まずいなーと思って速攻《そっこう》で取り上げてきたけど」
「……彼に会ったのかい?」
「総合書庫《ビッグ・バネット》で偶然《ぐうぜん》ね。ひと目みてすぐ分かった」
女は肩《かた》をすくめる。
「元気そうではあったわよ。苦労してそうでもあったけど。こんな本に興味持ってるくらいだから、あの腐《くさ》れ美形《びけい》にだいぶ大量に要《い》らんこと吹《ふ》き込まれたのかしらん?」
「まずいかな、やっぱり」
「まずいわよ、もちろん」
空気が重苦しい。
会話が途切《とぎ》れる。
「……もう一度、あの子に会ってくれないか」
アルベールが言った。
「辛《つら》いだろうとは思うけど、たぶん今はそれが必要なんだ。彼の状況[#「彼の状況」に傍点]は、君にしか分からない。もしまずいことになっていたら、手遅《ておく》れになる前に手を打たないといけない」
「ま、それはそうよね。状況の厄介《やっかい》さは分かってる。イヤでイヤで仕方《しかた》ないってのが正直な気持ちだけど、必要なことならちゃんとやるから安心して」
女は苦い顔で、くしゃりと自分の前髪《まえがみ》をかき乱す。
「そんな個人的な理由で、万が一『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を見失うようなことがあったら――後悔《こうかい》どころじゃすまないもの、ね?」
6.
もともとフェルツヴェンは、各国から学生や観光《かんこう》客を受け入れることを大前提《だいぜんてい》として興《おこ》された街である。
大勢の人が流れ込む場所には、それだけ多くの問題が生まれる。ゆえにここは、同規模《どうきぼ》のほかの都市と比べると、やや治安《ちあん》が悪い都市として分類《ぶんるい》される。
その事態《じたい》に対応《たいおう》するべく、色々な政策《せいさく》がとられた。毎晩《まいばん》大勢《おおぜい》の警邏兵《けいらへい》が街中を巡回《パトロール》しているし、特に混沌《こんとん》としていた北西区画は再開発計画の対象《たいしょう》となった。けれどもちろん、それで全てが解決できるほど世の中は単純に出来ていない。多少の治安は回復したものの、兵や開発の手の届かない場所に、影《かげ》はくすぶり続けた。
フェルツヴェン北西部。整理区画とされた無人の区域《くいき》の近く。
街灯《がいとう》の整備《せいび》も行き届かない、夜ともなれば月と星しか照《て》らすもののない一画。
場末《ばすえ》の宿屋のベッドの上に、その少女の姿はあった。
一瞬《いっしゅん》、リュカは自分の目を疑った。
力なく投げ出された細い手足。涼《すず》やかな白銀色《しろがねいろ》の長い髪。間違いなく、そこに眠《ねむ》る少女は、自分の知るジネット・ハルヴァンだった。
なのに、すぐにはそのことが受け入れられなかった。
「なんで……こんな……」
その先は、声がかすれて言葉にならなかった。
二月《ふたつき》前のジネットは、美しい少女だった。ただそこに立っているだけで目が惹《ひ》き付けられる、そんな、一種|幻想的《げんそうてき》なまでの存在感があった。
なのに、いまここにいる、この娘《むすめ》は。
〈旅先で、敵にやられてな。この街に逃げてくるのが精一杯《せいいっぱい》だったんじゃ〉
服装《ふくそう》のあちこちが裂《さ》け、血に汚《よご》れている。
生気《せいき》というものが、まるで感じられない。蒼白《そうはく》を通り越して、顔色はもはや灰色に染まりつつある。
今でもまだ、美しい少女ではあった。けれどそれは、自分が知っているのとはまるで違う種類の美しさだ。今ここにあるのは、滅《ほろ》び行くものに特有《とくゆう》の、死の美しさ。本来ジネットが具《そな》えているはずの、気品《さひん》や意志《いし》の強さといったものとはまるで関係がない。
〈|夜の軟泥《ワルプルギス》がな、ほとんど残っとらんのじゃ〉
アルト老が説明する。
魔法書《グリモア》である自分自身が生成した|夜の軟泥《ワルプルギス》は、そのまま体内に蓄積《ちくせき》されていく。既《すで》にこの世界の生き物ではなくなった化け物の体の中なのだから、世界の自浄作用《じじょうさよう》もあまり強くは働かない。そしてその|夜の軟泥《ワルプルギス》が、化け物としての自身をこの世界に繋《つな》ぎとめる。
つまり、|夜の軟泥《ワルプルギス》は、|魔法書の代役《バーント・グリモア》にとっての血液のようなものなのだと。
〈儂《わし》らの存在は、それ自体が魔法《マジック》によって繋がれているようなものじゃ。言い換《か》えれば、その魔法《マジック》が切れれば儂らは命を繋げん。限界を超《こ》えて力を振るえば、体内の|夜の軟泥《ワルプルギス》が使い果たされ、こういう状態になる〉
「治る……のか?」
〈一応はな〉
その答えに、思わず内心で胸を撫《な》で下ろした。
「じゃあ」
〈今回はまぁ、まだなんとか取り返しがつく状態で助かった。何日か安静《あんせい》にしていれば、それなりに回復することじゃろ。が、それも『それなり』までの話。ちと厄介《やっかい》な理由があってな、それ以上の回復は決して望めんのじゃよ〉
その状態で再び敵に出会えば、また同じことが繰り返される。いや、おそらく次はもう逃げられない。確実《かくじつ》に、とどめを刺《さ》されて終わるだろう――沈痛《ちんつう》な声で、そんな風なことを、アルト老は言う。
「…………」
〈言うたじゃろ。魔法を使えば|夜の軟泥《ワルプルギス》が損《そこ》なわれる。儂らにとって、魔法を使うということは血を流すことと同じ。
魔法を使い続けるということは[#「魔法を使い続けるということは」に傍点]、血を流し続けるということと同じ[#「血を流し続けるということと同じ」に傍点]。
なるほど、安静にして時が経《た》てば血は増えるじゃろう。じゃがな、それ以上の勢いで血を流し続けていては何にもならん。体はただ弱り続け、死は迫《せま》り続ける〉
沈痛な表情で、首を横に振る。
「魔法を……使い続けてる……?」
〈そうじゃ。そして儂がいくら言って聞かせても、その魔法《マジック》を解《と》こうとはせんのじゃよ〉
アルト老の声には、ジネットに向けた確かな優《やさ》しさがあった。
そして同時に、どこか憎悪《ぞうお》にも似た、暗く重苦しい感情も感じられた。
〈覚えとるじやろ、少年。今のお主を生かしているのは、このバカ娘の力じゃ〉
アルトは、冷たい声で、告げた。
「……ああ、覚えてる」
本来だったら、あの夜に消えていなくなっていたはずの自分。
けれど回想と想起《そうき》に優《すぐ》れているというジネットの『|琥珀の画廊《イストワール》』が、消滅《しょうめつ》する寸前の状態の自分を呼び起こした。だからあの後自分は目を覚ますことができたし、それまでの続きの生活に戻ることができた。
「つまり……そういうこと、なのか?」
〈ああ。このままではジネットは無駄《むだ》に死に、そしてこやつの魔法が解ければお主もまた消える。それが最悪の結未《けつまつ》だということは分かるじゃろ?〉
分かる。
そこまで単純な図式《ずしさ》であれば、理解できないはずがない。
〈犠牲《ぎせい》が一人でも少なくて済むなら、そのほうがいいに決まっている。そのことも分かるじゃろ?〉
分かる。
そしてもう、分からないふりでごまかすこともできない。
〈のう……リュカ・エルモント〉
ゆっくりと。噛《か》んで含《ふく》めるように。
優しい、そして同時にどこまでも沈痛《ちんつう》な声で。
〈お主からジネットに言ってはもらえんか。
自分が命を諦《あきら》めるからこの魔法を解け、と――〉
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▼promnade/
今から六年ほど前のことだ。
アルベール・エルモントは、エブリオという名の村を訪《おとず》れたことがある。
エルモントはもともと、フェルツヴェンの学者の家系《かけい》である。幼少の時にあってほ学術院《ライブラリ》に学び、長《ちょう》じては学術院《ライブラリ》にて働き、果《は》てには学術院《ライブラリ》の土に骨を埋《う》めるというシンプルな生き方をもう何代も続けてきた。
だがアルベールの弟、クレマン・エルモントは、そうは生きなかった。
学術院《ライブラリ》在学中に知り合った花屋の娘《むすめ》と恋仲《こいなか》になるや、駆《か》け落《お》ちじみた勢《いきお》いでフェルツヴェンから姿を消したのだ。ふだんのんびりしていた男が突然《とつぜん》見せた意外《いがい》な行動力に、彼を知る全《すべ》ての人間が仰天《ぎょうてん》した。そして同時に、そこまでやられちゃ何も言えない、せいぜい幸せになりやがれコンニャロウと、それぞれてんで勝手な方向の空に向かって祝福《しゅくふく》の罵声《ばせい》を投げた。
それから三年ほど経《た》って、一通の手紙がアルベールの手元に届いて、弟の近況《きんさよう》を教えてくれた。
妻ともども元気にやっています。
二人目の子供が生まれました。
いかにもあの男らしい、必要最低限|未満《みまん》のことしか書かれていない文面だった。
それからかなりの長きにわたって、兄弟は顔を合わせなかった。加えて二人ともが筆不精《ふでぶしょう》だったこともあり、手紙のやりとりもほとんどなかった。
そんなある日|突然《とつぜん》、弟が奇妙《きみょう》な手紙を送りつけてきた。
――『剣《けん》の散る丘《おか》』と『或《あ》る機械工《きかいこう》の手記』を都合つけてくれないか。それから、相談したいことがある。
二つ挙《あ》げられていたのは本の題名《タイトル》だった。片方は中世の頃《ころ》、今は亡《な》き国シュテーブルが最も栄《さか》えていたころに書かれたマイナーな詩集《ししゅう》。もう片方は近年の技術革新《ぎじゅつかくしん》の礎《いしずえ》となった伝説的《でんせつてき》な開発者の自伝《じでん》なのだが、内容があまりに専門的で難解《なんかい》なので、技術者たちにしか読まれていないという奇書《きしょ》だ。
なんでまた、そんなものを?
疑問には思ったが、ちょうどいい機会《きかい》だとも思った。
既《すで》に学術院《ライブラリ》でそれなりの地位を得ていたアルベールは、手を回してその二冊を入手、休みをとって久しぶりに弟に会いに行くことにしたのだ。
定期馬車《ていきばしゃ》に揺《ゆ》られること二日、そこからさらに山道を歩くこと半日近く。事務《じむ》仕事ばかりでなまった体にはきつい道程《みちのり》を乗り越《こ》えてようやくエブリオにたどり着き、
「兄貴《あにき》、老《ふ》けたなぁ」
よりにもよって、再会して早々《そうそう》に聞いた言葉はそれだった。
そしてそう言う弟自身、アルベールの記憶《きおく》の中にある姿よりも随分《ずいぶん》と年老いて見えた。体格《たいかく》はいくらかがっしりしていたし、顔にはいくつもの皺《しわ》が刻まれている。
「どうだ、この村。いいとこだろ?」
確かに、その通りだった。
こういった僻地《へきち》の寒村《かんそん》にありがちな――そしてこれまでアルベールが訪《おとず》れたことのある幾《いく》つもの村がそうであったような、よそ者に対する冷たさとかよそよそしさとか、そういったものがほとんど感じられなかった。いやむしろ、村中がなれなれしいとすら言っていい態度《たいど》で自分に接《せっ》してきた。これには少し驚《おどろ》いた。
いま、ここで暮らして幸せなのかと聞いてみた。
「わかんねぇよ、そんなの」
弟は頬《ほお》を掻《か》きながら、照《て》れくさそうに言った。
「そういうのはよ、もっと充分《じゅうぶん》に年くってから、あの時は幸せだったんだなぁって昔を振《ふ》り返りながら実感《じっかん》するもんだろ。現在進行形で語るもんじゃないって」
そう言う弟の表情は、自身の言葉とは裏腹《うらはら》に、幸福を絵に描《か》いたようなゆるみっぷりを見せていた。
色々な話をした。
顔をあわせなかった時間に起きたことのあれこれを聞き、そして話した。
そして、ふと話題が途切《とぎ》れたその時に、持ってきた荷物のことを思い出した。『剣の散る丘』と『或る機械工の手記』。いまいち理解《りかい》できない組み合わせの本が二冊。
「ああ。ありがとう、助かる」
本を受け取る弟に、その注文の真意《しんい》を聞いた。
「うちの子供が読みたがってさ。フェルツヴェンと違って、この辺りじゃ欲《ほ》しい本もなかなか手に入らねぇ。いい村なんだが、その辺りはさすがにネックだな」
――子供?
「あれ? 手紙送ったろ、子供が二人いるって。
いま十三と十の姉弟なんだが、片方が俺に似てずいぶんと利発《りはつ》でな。俺の蔵書《ぞうしょ》をあっさり読破《どくは》して、もっと他の本が読みたいなんて言いやがる。まぁ本人がそう言う以上は親としても願いは聞いてやりたいし、そういうわけで頼《たの》んだわけさ」
最初は冗談《じょうだん》だと思った。けれどどうやら、弟は本気のようだった。
十三といえば、まだ子供である。学術院《ライブラリ》に入る資格《しかく》を得られるのが十二歳からだから、第一学年に在学しているのがぎりぎりの年齢《ねんれい》だ。そして先の二冊の本は、読み解こうとしたならば最低でも学術院《ライブラリ》の第四学年ほどの教養《きょうよう》は必要になるはずなのだ。
「……相談ってのは、そのことなんだよ兄貴《あにき》。親のひいき目をがりごり差し引いてもな、うちの子は優秀《ゆうしゅう》なんだ。何をやらしても充分以上にうまくやっちまう。だからさ、思っちまったんだよ。こいつは将来何にでもなれる。それだけの器《うつわ》がある。だったら、こんな何もない村にいることは、こいつにとっての最善《さいぜん》じゃない。きちんと教育を受けさせてやれば、どこまでだって伸ばしてやれるかもしれない……ってな」
弟の言うことを理解した。
子供を学術院《ライブラリ》に入れたい。
そしてその面倒《めんどう》を、兄である自分に見て欲しい。つまりはそういうことなのだ。
その日の夕食の場で、当《とう》の子供たちを紹介《しょうかい》された。
二人のうち、姉の名前はクローディア。
そして弟の名前は、リュカといった。
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▼scene/2 火薬の時代に生きて 〜no exit〜
7.
死んでくれと言われて死ねるほど、素直《すなお》ではない。
考える時間をくれと答えた。そしてアルト老はそれを認《みと》めてくれた。
エルモント邸《てい》は広い。
だいたい五、六人の家族が余裕《よゆう》をもって暮《く》らせるくらいの大きさがある。
そこに、アルベール・エルモントとリュカ・エルモントの二人だけが暮らしているのである。当然、部屋は余《あま》るし手入れも行き届かない。仕方がないので月に二度ほど近くの使用人協会に頼《たの》み、屋敷《やしき》中の簡単な清掃《せいそう》をさせている。実に無駄《むだ》の多い話だとは思うのだが「ひい爺《じい》さんの代から住んでる家だから離《はな》れがたくてね」などと家の主《あるじ》である伯父《おじ》本人に言われれば引っ越そうとも言い出せない。
とにかくそんな理由で、この家には使わずに放置してある部屋がある。
「あんな場所じゃ、治《なお》るケガも治らないだろ?」
そう言って、意識の戻らないジネットを連れ帰った。
空《あ》いている部屋をひとつあてがって、ベッドに寝かせた。布団をかけて、そして苦悶《くもん》の表情を見ていられなくなったので、そのまま部屋を出た。
「……参《まい》ったな」
壁《かべ》に背を預け、前髪を手でかき乱す。
ここまでで、何度となく少女の体に触《ふ》れた。けれど今回ばかりは、まったく浮《う》かれた気持ちは起こらなかった。
「女の子の手当てなんてやったことないし……アリスに頼むか?」
そう呟《つぶや》いた自分の言葉の、あまりの白々しい響《ひび》きにぞっとした。
ジネットを苦しめているのは、リュカ・エルモントが生存しているという事実そのものなのだ。つまり、彼女を助けたいならば、やるべきことはたったひとつ。気休《さやす》めの手当てなど、免罪符《めんざいふ》にはならない。そんな暇があるなら、さっさとこの命を絶《た》つ覚悟《かくご》を決めるべきなのだ。
「ああ……畜生《ちくしょう》」
ずるずると、その場に尻《しり》を落とす。
考えて答えが出る問題ではないだろう。けれど考えずにはいられない。そして何より、考えないわけにはいかない。
出口の封鎖《ふうさ》された、意地の悪い迷路の中を彷徨《さまよ》っている気分だった。
〈すまんな、少年〉
廊下の端《はし》から、てこてこと短い足を懸命《けんめい》に動かして、アルト老が近づいてくる。
〈儂《わし》らの力が足りんせいで、無駄に苦しめる時間を与えてしまった。悩む暇《ひま》もなく殺してやれれば、それに越したことはなかったんじゃが〉
「……最初の日に、ジネットがやったみたいにか?」
〈まあ……そうじゃな〉
ひどい話だと思う。
死んだり殺したり、苦しんだり悩んだり、そういったものはどうやってもこの世界に最初から組み込まれていて逃げられないのだ。自分たちに出来ることは、ただ悩みや苦しみを最小限にしようと試《こころ》みることだけ。しかもそれすら、決して救いと呼べるような手段には行き着かない。
出口のない迷路の中は、とても息苦しい。
〈本当に、すまんと思っとる。最後まで救いきれない命であるなら、救うべきではなかった。レオネルと対峙《たいじ》したあの瞬間であれば、お主も自分の死を受け入れる覚悟が出来ていただろうに。安易《あんい》に、残酷《ざんこく》な希望を持たせてしまった……〉
「言うなよ」
アルトから目を逸《そ》らして、訴《うった》えるように、
「そういうこと、言わないでくれよ。俺、あんたらのこと、嫌《きら》いになりたくない」
〈……すまん〉それきり、二人は黙り込んだ。
乱暴な推論《すいろん》だと前置きして、アルト老は説明してくれた。
それによると、どうやらリュカ・エルモントという存在は、なみなみと大量の水を入れた大甕《おおがめ》のようなものであるらしい。
そして自分があの夜にやったことは、何か硬《かた》いものが必要だからといって、甕を割って大穴を作り、その破片《はへん》を持ち去ってしまったようなものだった。
そんなことをすれば穴から水がどぼどぼと大量に流れ出すし、それを止める手段はない。すぐに中身の水は枯渇《こかつ》して、大甕は空《から》っぽになる。それがすなわち、リュカ・エルモントの存在の死であるはずだと。
「……じゃあ、ジネットがやってることって」
〈ああ。あやつ自身の力で、その穴を強引《ごういん》に塞《ふさ》いどる。
お主の中からこぼれた水は、元には戻らん。じゃが、穴が塞がってさえいればこれ以上が流れ出すこともない。じゃから、このまま何事もなければ、確かに……多少命は縮《ちぢ》んでいたにせよ、平穏《へいおん》に生きていくことはできたじゃろうな〉
それを理解したうえで、その穴を再び開けろと。
アルト老は、そう言っている。
結局、ジネットの手当てのために、アリスを呼ぶことにした。
何の関係もない彼女を巻き込むことへの抵抗《ていこう》はあった。この状況《じょうきょう》を上手《うま》く説明できる自信もなかった。二人を会わせるのが危険だとも分かっていた。そもそも傷が化膿《かのう》することも病《やまい》にかかることもないジネットを手当てすることにも大した意味はないはずだった。
それら全てを理解していたはずだった。なのに気がつけば、リュカは隣家《りんか》の玄関前に立ちべルを鳴らしていた。
短い静寂《せいじゃく》の後、ばたばたと駅《ま》ねるようなスリッパの足音が近づいてきて、
「どなたですかー?」
「……俺だけど」
「あれ、リュカさん?」
意外そうな声とともに、扉《とびら》が開いて私服姿のアリスが顔を出す。
「どうしたんですかこんな時間に――って、リュカさん……?」
驚《おどろ》きの表情。
「何か……あったんですか?」
「何かって、何がだ?」
「聞いてるのはこっちです。顔、すごいことになっちゃってますよ」
叱《しか》るような口ぶりで、手鏡を突きつけられた。小さな鏡面の向こう側には、一度丸めた紙幣《しへい》のようにぐちゃぐちゃになった自分の顔があった。
「なんでこんなとこに手鏡があるんだ?」
見せられたものに関してはあえて触《ふ》れず、尋《たず》ねてみる。
「毎朝ぎりぎりの時間にここで寝癖《ねぐせ》とってるからです――って、そんなの今は関係ないじやないですか。質問ならこっちが先ですよ」
手鏡がひっこめられる。見上げるような姿勢《しせい》で、アリスが睨《にら》んでくる。
「ああ、それなんだけどさ」
顔ごとあさってのほうを向いて、そのままの状態でちらりとアリスに視線を移し、
「……何も聞かないで、頼みを聞いてくれないか?」
めちゃくちゃなことを言ってるな、と後から自分に呆《あき》れた。普通《ふつう》の人間なら、こんなことを言われても首を縦《たて》に振らない。そして、
「いいですけど」
そういう意味ではあんまり普通の人間ではないアリスは、やや心配そうな顔になりながらも、あっさりとそう答えてくる。
ああ、もう、本当に、なんていうか、畜生《ちくしょう》。
アリスならそう答えてくれるだろうと、常識や理屈《りくつ》を押《お》しのけて自分《リュカ》の望むように動いてくれるだろうと、そう心の奥底《おくそこ》では期待していた自分自身が嫌《いや》になる。
「……いいのか?」
「いいですよ。っていうか、そんな顔して夜中に訪《たず》ねてくるひとの頼みが断れるわけないじゃないですか」
アリスは呆れたように小さく微笑《ほほえ》んでから、
「おかーさん、ちょっと出てくるねー」
家の中に一声を投げ「はーい」という返答を受け取ると、そのままぴょんと玄関から飛び出してきた。
五分後。
「…………」
視線が痛かった。
あちこちに血の染《し》みたぼろぼろのドレスをまとい、蒼白《そうはく》な顔で意識を失っている少女。そして友人にそれを手当てさせようとする男。
我が事ながら、怪《あや》しい。怪しすぎる。
「…………」
アリスは律儀《りちぎ》だった。何も聞くな、という条件をしっかりと守って、何も聞いてはこなかった。代わりにその視線がぐさぐさと突《つ》き刺《さ》さってくるのだが、これに関しては彼女の責任ではない。だから突き刺さるその視線に、無言で耐《た》えた。
ほんの数秒ほどの、しかし永遠にも思える沈黙《ちんもく》の後、ついにアリスはふいっと視線を逸《そ》らす。
「ま、いいです。わかりました、手当てします」
あさってのほうを向いて、どこか拗《す》ねたような声で言ってくる。
「悪い。この礼はいつかするから」
「期待しないで待ってます。で、軟膏《なんこう》とか包帯《ほうたい》とかありますか?」
「ああ、そういうのなら一式まとめて……どこにしまったっけか……」
「ああもう、男所帯《おとこじょたい》はこれだから」
ぶん、とアリスは首を振って、
「わかりました、うちから持ってきます。どのみち着替《きが》えとかも要《い》りそうですし……見たところあんまり背丈《せたけ》とか変わりませんし、わたしの服で大丈夫《だいじょうぶ》そうですよね。
リュカさんは、お湯だけ沸《わ》かしといてください。あればあるだけ使いますから、もうたっぷりと。いいですね?」
「え……あ、おう」
「じゃあ、ひとっ走り行ってきます。数十秒で帰ってきますから」
言うが早いか、返事も待たずにばたばたと走り出す。
勢いに圧《お》され言葉を失ったまま、リュカはその背中を見送る。
〈――良い娘じゃな〉
足元からの声に話しかけられて、ようやく我《われ》に返る。今までどこかに隠れていたのか、ひょこひょこと姿を現したアルト老が、
〈お主の恋人《こいびと》か?〉
「違《ちが》う」
とう即答する。
「|あいつ《アリス》は……そういう相手じゃ、ない」
〈ふむ。じゃがそれでも、誰より心を預《あず》けられる相手ではあるわけじゃな?〉
それは、淡々《たんたん》とした、感情を感じない声だった。
「どうして、そう思う?」
〈三つの子供にだって分かるわい。まともにものが考えられなくなるほど追い詰められた人間が、道理も理屈も放って会いに行きたがる相手など、恋人か家族か、あるいはそれらに相当する立ち位置の誰かと相場《そうば》が決まっとろうが〉
ぱたぱたと小さな手が揺《ゆ》れる。
〈それに、あの娘を呼びに行ってから、お主の顔はだいぶましになった。そういう絆《きずな》を持てる相手がいるというのは、悪いことではない〉
「……じーさん」
〈呆《ぼう》っとしていていいのか? あの娘が帰ってくるぞ?〉
「うあ、そうだった」
走り出す。頭の中で、台所のどこに鍋《なべ》や薬缶《やかん》が押し込んであったのかを思い出す。さて果たして、充分な水を沸かすだけの道具は発掘《はっくつ》できるだろうか。
そんなことで改めて頭をいっぱいにしていたのに、
〈――悪いことではないが、辛《つら》くなるぞ〉
背後からのその呟《つぶや》きほ、聞こえてしまっていた。
手当ては、驚《おどろ》くほどの短時間で終わった。
「知りませんでしたか? 剣術部《けんじゅつぶ》とか操舟《そうせん》部とかの助《すけ》っ人《と》で、ケガ人の世話には慣《な》れてるんですよ、わたし」
少々|不機嫌《ふきげん》そうに、アリスはそう言った。
「ケガのほうはどれも大したことありませんでしたから、血を拭《ふ》いて消毒《しょうどく》だけしておきました。あとは時々包帯を換《か》えれば充分だと思います。
それより、だいぶ衰弱《すいじゃく》してることのほうが心配ですけど……そちらについては何にしても目を覚ましてからですね。まさか鼻つまんでお粥《かゆ》流し込むわけにもいきませんし」
「悪いな。助かったよ」
「いいんですよ、別に。お役に立てて何よりでした。……あ、これは本当にそう思ってるんですよ? イヤミとかじゃないですからね?」
苦笑《くしょう》が漏《も》れる。
この子は、本当に、良い子だ。
心を預けられる相手? ああ、確かにその通りだ。こいつに会って表情がましになった? そりゃあそうだろう。故郷も家族も失って、表情の作り方を忘れていた五年前の自分に、それを思い出させてくれたのは他《ほか》ならないアリスだ。
恋人かと聞かれれば、違うと答える。何度だって答える。
けれど、それ以上に――ああそうだ、世間の恋人たちが互いを想《おも》う以上に、大切にしたい相手だ。だから、
「悪いな……何も話せなくて」
「いいんですよ、別に。お役に立てただけで充分です。
……ごめんなさい、今回はちょっとだけイヤミ入ってます」
不意に、目の前の細い体を抱きしめたい衝動《しょうどう》に駆《か》られた。
疲れ果てた理性を総動員して、その突然の欲望を堪《こら》えた。そんなことをしたら、きっと取り返しがつかない。何もかもを吐き出して、泣き喚《わめ》いて、優《やさ》しさに縋《すが》って、そして……アリスを、巻き込んでしまうだろうから。
「本当に、悪い」
「しつこいですよ?」
アリスは唇を尖《とが》らせた。
そして、最後まで、本当に何も聞かないでいてくれた。
8.
ジネット・ハルヴァンは、少しずつ少しずつ、目を覚ます。
あたたかい、と思った。
心地《ここち》良い、とも思った。
奇妙にも思ったが、深く追及《ついきゅう》する気は起こらなかった。そうやって思考を蕩《とろ》かしてしまうくらいに、そのぬくもりの中にいることは心地が良かった。
目覚めつつある自分に気付いていた。
そして、目覚めたくないなとも思っていた。
「ふに……」
寝返りを打つと、口元から小さな声がこぼれた。
どうせなら、もう少しだけ眠りの中に浸《ひた》っていたいと思う。
その眠りの中には、どうせ憂鬱《ゆううつ》な悪夢が待っているだろう。けれど、どんなにひどい夢であっても、きっとこのまま目を開けば直面することになる現実に比べれば、よぽど優しくて居心地がいい場所であるに違いない。
――現実?
目を開く。
視界の右半分を覆《おお》う、白いシーツ。
首を巡《めぐ》らせる。半身を起こす。辺りを見回す。
寝ぼけていた心に、警戒心《けいかいしん》が満ちた。ここは、自分の知っている場所ではない。少なくとも、傷ついた自分が時を稼《かせ》ぐために飛び込んだ、場末《ばすえ》の安宿ではない。寝床《ねどこ》と呼ぶにはあまりに粗末《そまつ》な、布を張っただけの床板《ゆかいた》とは何もかもが違う。
沈み込む綿の柔らかさに自分が溺《おぼ》れかけていたことに気付いて、急に気恥《きは》ずかしくなる。気を緩《ゆる》めすぎて、なにやら奇矯《さきょう》な声すら漏《も》らしてしまっていたような。赤くほてりそうになった頬を小さく張って、気を入れなおす。
改めて、状況を確認する。
まず、最低限の体力は戻っている。傷はほぼ塞《ふさ》がっているし、手足も問題なく動く。
これだけ回復したということは――前に眠りについてから、おそらく、丸一日は眠っていたはずだ。窓から見える夜の闇が、その推測《すいそく》を裏付けてくれた。
何が起こったのかを思い返す。
自分には敵が多い。レオネルのみならず、パトリスやナディーヌ、バイガルの三兄弟に、王城《パレス》や商会《クリーク》のようなあからさまに敵対する魔法書収集|組織《そしき》――特に王城《パレス》はレオネルの私物も同然だった場所だ。彼が倒されたとなれば、これから先の攻撃はさらに過激《かげき》なものになることは間違いないだろう。
ドースの地で自分たちを襲《おそ》ってきたのほ、その王城《パレス》に所属《しょぞく》し、一冊の魔法書を任《まか》せられた魔書使い《グリモア・ハンドラ》だった。
魔書使い《グリモア・ハンドラ》はどの組織にとっても希少な戦力である。もちろん、おいそれと気軽に消耗《しょうもう》できるようなものではない。だから普段のジネット・ハルヴァンに魔書使い《グリモア・ハンドラ》は近づいてこない。つまり、今の自分はそれほどまでに弱っていて、そしてそのことは、少なくとも王城《パレス》には正確に知られてしまっているのだ。
手ひどく傷つけられ、敗走するしかなかった。
自身の|夜の軟泥《ワルプルギス》をほとんど使い果たし、アルト老の魔法を全力で発動させて、それでようやく敵の手を逃れることができた。そして、客の素性《すじょう》を詮索《せんさく》しなさそうな宿を見繕《みつくろ》って、体力を回復するために身を横たえた。
……果たして、それから、何が起こったというのか。
「ここは……?」
ゆっくりとベッドを降りる。その時、自分の体が手当てを受けていることに気がついた。
肩と腹とに、やや窮屈《きゅうくつ》に感じるくらいにしっかりと包帯が巻かれている。服装も、見覚えのないパジャマに替《か》わっている。
「一体、誰が……」
扉に近づき、ノブを回してみる。鍵《かぎ》はかかっていない。ゆっくりと、物音を立てないようにと細心の注意を払《はら》いつつ、廊下《ろうか》へ出る。
「探[#「探」に傍点]……――」
辺りの様子を調べようと放ちかけた呪文の言葉を、途中《とちゅう》で切り上げる。本来のジネット・ハルヴァンにとっては疲労とも呼べない程度の消耗しか招かない小さな魔法ではあるが、いまの自分にはそれすらもが致命的な事態《じたい》を招きかねない。
気をつけて動かなければならない。いまやこの命は、自分ひとりだけのものではないのだから。
左右を見回して、そこがどこであるのかに思い当たった。少し古びたベージュ色の壁に覚えがあった。そしてまた、記憶の中にあるその場所は、二度と来るはずのない……そう決めたはずの場所だった。
耳を澄《す》まし、辺りの様子を窺《うかが》う。
気持ち悪いほどの静寂《せいじゃく》の中、風が唸《うな》るような音がかすかに聞こえた。
「…………」
そちらへと、近づいてゆく。
灯《あか》りのついていない夜の廊下を、まるで闇に怯《おび》える小娘のように、一歩一歩を確かめながら、ゆっくりと歩く。
半開きになっていた扉をひとつ、押し開ける。
――それはまるで、一枚の絵画。
決して広くはないその部屋は、どうやら書庫のようだった。左右の壁を埋《う》める書架《しょか》と、赤黒い背表紙たち。部屋の中央にはぽつんと置かれた小さな机。さらにその上には小さな燭台《しょくだい》が載《の》っていて、五つの蝋燭《ろうそく》の上に小さな炎《ほのお》が揺《ゆ》れている。そのすぐ横には、開きっぱなしの本が三冊ほど。
そして正面には、開け放たれた大きな窓。窓の向こうには、沈黙《ちんもく》した暗い街並み。そして灰色の空の中央には、雲の切れ目から覗《のぞ》く半円の月。
一人の少年が、その空を見上げている。
黒と灰色に飲み込まれた夜の世界の中、少年の赤い髪が蝋燭の光を照り返し、燃えるように輝いて見えた。
「……よぉ」
少年が、ゆっくりと振り返った。ジネットはその少年を知っていた。
「目、覚ましたんだな」
穏《おだ》やかで、優しい声。
少し不器用ながら、ちゃんと笑顔《えがお》として受け取れる表情。
そこにいるのはリュカ・エルモントだった。
「なぜ――」
何も考えずとも、その疑問が口をついて出た。
「なぜ、君がここにいる――?」
「そりゃまぁ、ここ、俺んちだし」
「ならばなぜ、私はここにいる」
「俺が連れてきた。あんな場所じゃ治る傷も治らねーだろ……いやまぁそれでも治るんだろうけどさ、やっぱ放《ほ》っとけるもんじゃわーし」
蝋燭の光が揺れる。少年の髪がわずかにゆらめく。
「君には、もう、近づくつもりはなかった」
「ま、そうだろうな。何も言わずにいきなり消えたんだ、そんくらいは分かる」
「巻き込むつもりも、関《かか》わらせるつもりもなかった」
「そりゃそうだろうな、君はそういう奴《やつ》だ」
「ならば……」
一歩ずつ、近づいてゆく。
もともと広い部屋ではない。すぐに、手を伸《の》ばせば届く距離《きょり》にまで近づく。
「なぜ君は、いま、私の前にいる、リュカ?」
「今の君の思う通りに動くほど、世の中は優《やさ》しくない。そういうことだよ、ジネット」
笑顔として受け取れるその表情のまま、感情のまるで感じられない声で、淡々《たんたん》とリュカは言う。
「あれから全然力が戻らなくて、そのせいで殺されかけたんだろ?」
「そ、」
「君が殺されたら、俺も死んじまうんだろ? だったらほら、もう巻き込まれてるし、関わってる。俺には、君の生死に関わっていく権利がある。そうだろ?」
「それ、は――」
言葉が浮かんでこなかった。
彼の言っていることは、道理として間違っていない。
間違っているのは自分だ。
間違っていると分かっていて、それでも、どうしても、彼をこれ以上、自分たちの世界に関わらせたくない、だからこうして駄々《だだ》をこねているのだ。
それは、そう、きっと姉も同じことを願っていたはずだから――
「アルト・バルゲリアル!」
ジネットは叫んだ。
「いるんだろう、アルト老! なぜ、どうしてこいつに話した!」
「……おい」
「答えろ! これは一体、どういうことなんだ……っ!」
「話を逸《そ》らすなよ。今は俺と君の間の話だ、あのじーさんは関係ない」
「アルト老! どこだ、どこにいる……」
「聞けよ!」
腕を掴《つか》まれた。
振りほどこうとしたが、出来なかった。それだけの力が出せなかった。十六歳のときに時を数えるのをやめた小娘の腕は、いまや見た目どおりに非力《ひりき》だった。
「これは、誰の問題だ!
俺個人の問題か!? それとも、君個人の問題か!? 違うだろう!?
俺ら二人の問題だろう!
なのに、なんで、俺を外《はず》そうとする! 俺から目を逸らすんだ!」
「……っ!」
息が詰《つ》まった。
ただ、目の前の少年の剣幕《けんまく》に呑《の》まれていた。
「聞かせろよ……全部。その上で、俺がどうするかは、俺が決めるから」
やめろ。
「君は何と戦っている? いま何をしようとしてる?」
それ以上言うな。それ以上近付くな。それ以上関わるな。
「仇討《かたきう》ちをしてるって話は聞いた。それをモチベーションにして戦ってる話も聞いた。けど、それだけじゃないんだろ。王城《パレス》っつったか? 仇と言ったレオネルやフィオルの他にも敵はいる。それはつまり、君らには仇討ち以外の事情もあるってことだ。行きずりの俺を関わらせたくないって言い出すほどの重たいヤツだ――」
「……だ……」
息を詰まらせたまま、ただ肺の中に残っていた空気を、搾《しぼ》り出した。
「黙《だま》れ……」
「ジネット」
「黙れ! 調子に乗るな、リュカ・エルモント!」
小娘の腕の、力の限りを尽くして、突き放した。ほんのわずかながら、二人の間に距離ができた。その距離に勇気付けられて、ジネットは胸の奥から出てくる言葉をそのままに吐《は》き散《ち》らした。
「何様になったつもりだ、魔法書《グリモア》も持たぬ二十《はたち》前の小僧《こぞう》ごときが! その命、誰に生かされているのかを考えろ! それほどに死にたいというのならは、今すぐこの場で終わらせてやろうか!」
「……っ」
リュカの顔に、怒《いか》りが浮かんだ。
強い言葉が返ってくるだろう、そう覚悟《かくご》しジネットは全身をこわばらせる。
だがその予想に反して、リュカは何も言わなかった。ただ鋭い視線でジネットを射貫《いぬ》いてくるだけだった。
――掴まれたままの手首が、熱い。
「…………」
「…………」
沈黙が、辛い。目を逸らしたい。けれど、それは出来ない。
二人とも、互いを睨みつけたまま、動けない。
そのまま、ゆっくりと、時間が流れてゆく。そして、
ぎし。
床板のきしむ音に、二人同時に廊下のほうへと振り返った。
いつの間にか、扉のところに、貧相《ひんそう》な顔つきの中年男が立っている。
「…………」
「…………」
「…………」
三人、それぞれに言葉を失い立ち尽くす。
半《なか》ば呆《ほう》けたようになっていたジネットの頭に、ゆっくりと正常な判断力が戻ってくる。この男が誰なのかは分からないが、とりあえず、事情を知らない第三者の目で、いまの自分たちを見ていることには間違いないだろう。
いまの自分たち。
夜、静かな部屋に二人きり。男が女の腕を掴んで放さないでいる。そして二人とも、顔を紅潮《こうちょう》させ向かい合い、無言のまま、顔を寄せ合って――
「あ」
おそらくは同じ結論に至ったのだろう、リュカが小さな声を漏《も》らす。ほぼ同時に、
「ごめん、お邪魔《じゃま》だったみたいだねっ!」
裏返りかけた声でそう言い残し、中年男は廊下へと退散した。
「ち、ちが、伯父《おじ》さ、違う……っ!」
慌ててリュカはジネットの腕を放《ほう》り出して、その後を追いかける。
「…………」
放り出されたジネットはといえば、ぽかんと口を開けてリュカの背中を見送って、廊下の向こうへとその姿が消えてからようやく我《われ》に返り、額《ひたい》にかかる前髪をくしゃりとかきあげて、
「――どうにも恰好《かっこう》の悪いことだな、まったく」
多少ならず苦味が混じってはいたが――それでも微笑《ほほえ》みらしきものを、浮かべられたと思う。
しかし、一人こんな場所に取り残されているのも面白《おもしろ》くほない。開け放たれたままの窓から見える外の風景は、そこそこに綺麗《きれい》なものではあったが、今にも降りだしそうな空模様《そらもよう》のせいか妙《みょう》に不安を煽《あお》られる。
窓辺を離れ、リュカの後を追って、廊下へ――
「熾き上がれ[#「熾き上がれ」に傍点]」
その声を聞くと同時、脇腹《わきばら》の近くにちりつくような感覚。倒れこむようにして身をひねる。瞬《まばた》きひとつほどの短い時間を挟《はさ》んで、ばじゃあ、と熱した鉄板に水をぶちまけたような音が耳朶《じだ》を揺《ゆ》さぶる。
たったいま自分が立っていた場所、ちょうど右の脇腹があった位置の空間を、昏《くら》い赤色の炎《ほのお》の塊《かたまり》が焼いている。ちょうど大人の握りこぶしほどの大きさのあるそれは、ちろりと飢《う》えた蛇《へび》のような仕草《しぐさ》で一度揺らめくと、そのまま素直《すなお》にその場に消えた。
ジネットは転がるようにして廊下へと飛び出す。ちょうど扉の陰《かげ》になっていた位置に、襲撃者《しゅうげきしゃ》の姿を捉《とら》える。浪赤色のスーツを着た、背の高い女。右の手のひらで床を叩《たた》き、立ち上がる勢《いきお》いを使って左の手刀《しゅとう》を叩き込もうと「熾き上がれ[#「熾き上がれ」に傍点]」するその手を引いて、高く跳《は》ねた。新たに生まれた灼熱《しゃくねつ》の球体が、銀色の毛先をわずかにかすめる。
だん。強く床を踏むひとつの音。
「――久しぶりだな、ライア・パージュリー。これは一体何のつもりだ?」
女の首元に右手の指を添《そ》え、ジネットは尋ねた。
「ただの挨拶《あいさつ》……って言ったら信じる?」
同じくジネットの首筋に、小さなナイフの刃《は》を押し当て、女が軽い口調で答えた。
「別に構わないぞ。お前がそう言うなら、そう信じてもいい。そしてそのような剣呑《けんのん》な習慣《しゅうかん》を持つ人間は、世界平和のためにもこの場で抹殺《まっさつ》しておくべきだと判断する」
「あ、それやだな。じゃあやめとく」
「ならば他の理由を言え。一般常識と照らし合わせても妥当《だとう》なものをだ」
「それより先に、こっちにも聞きたいことがあるのよね」
女は一転して静かな口調で、
「何があったの、ジネット・ハルヴァン。|夜の軟泥《ワルプルギス》の展開どころか、小粒《こつぶ》の魔法すら一回も使わない。細剣《エペ》の一本を生み出すことすらしない。戦闘環境《せんとうかんきょう》に入っても、筋力《きんりょく》すら人間並みのまま。長年の戦いで体に染《し》み付いた動き≠セけで戦ってる。
それがどれだけおかしなことなのか、不死者《レヴナント》じゃない私にすら分かる。また何か、変なことやって自分を追い詰めてるんじゃないでしょうね?」
痛いところを突かれた。
「学術院《ライブラリ》の飼《か》い犬に話すことなどない」
「――そこで憎《にく》まれ口叩いて突き放す、か。あんた本当に分かりやすいわね」
女はナイフを引くと、くるりと一回転させて、それを消してしまう。魔法ではない。ただ単に、衣服のどこかにある隠し収納へと収めただけだ。|夜の軟泥《ワルプルギス》を編んで武装を生むのは、不死者《レヴナント》だけの特権なのだから。
「来なさい、ジネット。話があるから」
「お前と話すことなどない」
「あら? 別にこっちは、力ずくで連れていってもいいんだけど?」
「……構わない。できるものなら、やってみるがいい」
「あらら。意外と強情《ごうじょう》」
空気が硬質化《こうしつか》したその瞬間《しゅんかん》、
「ってお前ら、人んちで何やっ――」
「――そう言わず、話を聞いてくれないかな、銀髪《ぎんぱつ》の姫君《ひめぎみ》」
違う声が二つ、女の声に割り込んだ。
ひとつは、いきなり屋敷の中で始まった戦闘に顔を赤くしたリュカ・エルモント。
もうひとつは、手のひらで強引にそのリュカの口をふさぎつつ微妙《びみょう》な愛想笑《あいそわら》いを浮かべる、先ほどちらりとだけ姿を見た中年男。
「自己紹介《じこしょうかい》が遅れたけど、僕はアルベール・エルモント。このリュカの家族で、学術院《ライブラリ》の第六書庫で上等司書官を務《つと》めている。大陸で最も多くの戦場に立った不死者《レヴナント》である君になら、その意味は分かるよね?」
「――学術院《ライブラリ》の魔書使い《グリモア・ハンドラ》たちの、総元締《そうもとじ》めか」
アルベールに口をふさがれたままのリュカが、「は?」と疑問の表情を作る。
「どうして君が僕の家にいるのか、甥《リュカ》との間に何があったのか……聞きたいことは色々とあるけど、とりあえずこれだけは言っておこうと思う。学術院《ライブラリ》は――いや、僕らは、君と臨時《りんじ》の同盟《どうめい》を結びたい」
「…………」
ジネットは黙って、飄々《ひょうひょう》としたアルベールの顔を睨みつける。
あっけにとられたままのリュカは、ぼんやりと自分の伯父の姿を見つめている。魔法書《グリモア》を閉じて|夜の軟泥《ワルプルギス》を解いたライアは、にこにこと笑顔で状況《じょうきょう》を見守っている。
〈……少し落ち着け、バカ娘《むすめ》〉
そして、さらに聞き慣《な》れた声が、場に加わった。
「アルト老……?」
〈関わろうとする者すべてに噛《か》みついていられるほど、悠長《ゆうちょう》な状況でもなかろう。意地《いじ》を張《は》りたい気持ちは分からんでもないが、この話が今の自分にとってどれだけ重要なものであるか、少し考えれば分かるはずじゃ〉
「…………」
ゆっくりと、ジネットは、指を引く。
〈良い子じゃ〉
小さな人形の首が、満足そうにこくんと上下に揺《ゆ》れて、
〈アルベールといったな、落ち着いて話の出来る場所に場を移したいのじゃが〉
「ええ、もちろん。みなさん、こちらの部屋へどうぞ……あ、そうだリュカ」
そこでアルベールは腕の中の甥《おい》を解放《かいほう》すると、
「ちょっとお茶いれてきてよ、人数分。遠慮《えんりょ》なしに高い葉っぱ使っていいからさ。ああ、それからあと棚の奥にあるクッキーの缶《かん》も持ってきて」
ぷはぁ、と一度大きく息を吸い込んだリュカは、その息の勢いで、
「いやちょっと待てよ伯父さん、これって一体どういう……」
「だ・か・ら。その話も全部まとめてすぐにやるから、今はお茶」
「……分かった」
不服そうな顔のまま、それでもリュカは追及《ついきゅう》の言葉を引っ込めた。
ジネットは、ゆっくりと首を横に振る。
目の前の状況の何もかもが、気に入らなかった。
9.
こち、こち、こち、こち、こち……
柱時計が時を刻《きざ》む音を聞いている。
居心地の悪い沈黙が、部屋の中に居座っていた。
ぎしり。
椅子《いす》のきしむ小さな音が、やたらと大きく部屋に響《ひび》く。この静寂《せいじゃく》に耐えかねて尻《しり》の位置を直したのは、果たして誰なのか。
ふだんはリュカ一人でもてあましているテーブルに今は四人の人間がついていた。また、これは数に数えるべきかどうか難《むずか》しいところだが、赤ん坊《ぼう》ほどの大きさの人形がひとつ、テーブルの端にちょこんと腰掛《こしか》けていた。
四人のうち一人であるリュカは、むっつりと腕を組んだ姿勢《しせい》のまま、残り三人の顔を見渡した。
一人はジネット。機嫌《きげん》が悪いのを隠《かく》そうともせず、むっつりとした顔で紅茶のカップに口をつけている。一人はアルベール・エルモント。リュカにとっての伯父であり、この家の本来の主であり、そしてなかなか帰宅してこない同居人《どうきょにん》。ここまでは良い。ジネットをここまで連れてきたのほ自分だし、伯父がこの家にいることにも何の問題もない、というよりそれが本来ならば当たり前だ。あとまぁ、ちゃっかり自分の居場所《いばしょ》を確保しているあの怪奇《かいき》人形についても、今更《いまさら》なにを言うべきでもないだろう。
しかし、最後の一人が問題だ。当然のようにアルベールの隣《となり》に腰掛け、にこにこと笑顔を浮かべている、朱色の髪の女。見た顔ではあった。昼間に総合書庫で出くわした、あのいけすかない女だ。相変わらず、得体《えたい》の知れない威圧感《いあつかん》を漂《ただよ》わせたまま、平然と場を見渡している。
伯父の部下なのだと紹介された。
学術院《ライブラリ》の職員の中で、魔法書《グリモア》との相性《あいしょう》が良かった者たちに与えられる特別な役割――現在|学術院《ライブラリ》に五人しかいない、魔書使い《グリモア・ハンドラ》の一人なのだと。
――ライア・パージュリー……って言ったか。
紹介されたその名前を、心の中で繰《く》り返した。
なぜか、目の前の女とその名前とが、しっくり噛《か》みあわない。しっかりと心に留めておかないと忘れてしまいそうだと思った。
〈最初に確認しておきたいのじゃが〉
「はいはい、何でしょ」
〈儂《わし》らはこれまで明確には敵対してこなかったとはいえ、小さな摩擦《まさつ》ならいくらでもあった……学術院《ライブラリ》にとっては明らかに有害な存在じゃった。そんな相手が弱っているというなら、有害な存在として排除《はいじょ》しようとするのが自然じゃろう〉
小さなクッキーのかけらにかじりつきながら、アルト老は重苦しい声で言う。
〈だというのに貴殿《きでん》は先ほど、臨時の同盟という言葉を遣《つか》った。それが理解できん。一体何を企《たくら》んでいる?〉
「ああ、それは簡単です」
アルベールはあっさりと頷《うなず》くと、
「|残更の騎士《レオネル・グラント》が消えて、大陸の戦力バランスは大きく狂《くる》った。とくにあの男の影響を強く受けていた王城《パレス》がこれからどう動くかは、想像すらできない。今のこの大陸は、非常に複雑《ふくざつ》なゲーム盤《ばん》。簡単に取り除《のぞ》ける駒《こま》があるからといって、それを取り除くのが最善手《さいぜんしゅ》であると単純に考えることはできない。
私たちはいま、迷走を始める王城《パレス》を脅威《きょうい》としてみている。先日の事件のように、フェルツヴェンに害《がい》を為《な》す事件を起こす可能性を危惧《きぐ》している。
だから、同じ敵を持つ者同士、短期であっても協力はできると思ったわけです」
〈ふむ、なるほど。一応|筋《すじ》は通っとる。嘘《うそ》でもなさそうじゃな〉
「はい、もちろん――」
〈じゃが、真実を全《すべ》て話しているわけでもない〉
「――ありゃ」
アルベールは目を細める。
「どうして、そう思うんです?」
〈儂らが『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』についてどこまで掴《つか》んだのかを知りたい、それが本音じゃろ?〉
ぶふぅ、とリュカは口の中の紅茶を派手に噴《ふ》き出した。
「な……なっ!?」
〈お主がそこの少年の伯父だと言うなら、無関係なわけがあるまいよ。
そもそもリュカ・エルモントは、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』に関する手がかりとして、まず最初に学術院《ライブラリ》が手に入れたものであったわけじゃな。儂やレオネルは、それから五年|遅《おく》れて偶然に同じ場所に行きついた。
じゃが、その五年の時間をもってしても、お主らに『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の力はまだ解明しきれなかった。だから、『|琥珀の画廊《イストワール》』という特殊《とくしゅ》な調査手段《ちょうさしゅだん》を持つうちのバカ娘との繋《つな》がりが欲しい――そんなところじゃろ?〉
「うわぁ……」
感嘆《かんたん》の声とともに、アルベールは額《ひたい》をぴしゃりと打つ。
「すごいな、六割がた正解ですよ」
〈ほう? では残りの四割は何じゃ?〉
「リュカは、僕の甥ですよ」
突然、アルベールはきりりと表情を引き締《し》めて、
「手がかりになるからって研究素材にするような真似《まね》、できるわけがない。こいつが『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』に関わってることはこの……ライア以外の誰にも言っていないし、言うつもりもない。もちろん、自分自身で『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の謎《なぞ》を解《と》く気もない。
五年の時間は、リュカをこんな世界に関わらせず平穏《へいおん》に暮《く》らさせることのできた、僕らにとっては誇《ほこ》るべき戦果なんだ。
――できれば、ずっとそのままでいてくれたら良かったんだけどね」
「……伯父さん」
リュカが呟《つぶや》くと、アルベールはまた表情をだらしなく崩《くず》して、
「いまちょっとかっこよかったろ、僕?」
「いや、全然」
アルベールはがっくりと肩を落とす。
そのつむじの辺りをぼんやりと見ながら、リュカはやはりぼんやりと考える。この男は、最初から全部を知っていた。知っていて黙っていた。嘘《うそ》を吐《つ》いていた。本当の姿を見せなかった。仮面を被《かぷ》っていた。大事なことを黙ったまま、五年間、何食わぬ顔で自分の傍に居続《いつづ》けた。
自分は怒ってもいいんだろうなと思う。少なくともその権利はあるはずだと、冷静に考える。本来ならば怒《しか》り狂って問い詰めるはずの場面かもしれない。
でも、なんというか、そんな気分には、なれない。
「とまぁ、」
アルベールは肩を落としたまま、顔だけを上げて、
「調査手段についてはどうでもいい。大切なリュカの友人に対して、悪いようにする気はないです。確かに僕は学術院《ライブラリ》の偉《えら》い人ではありますが――」
「そゆこと自分で言うか、普通」
ぼそりとリュカは呟いたが、誰も反応してはくれなかった。
「偉い人ではありますが、それ以前に、小さいながらも家庭をもつ私人《しじん》です。そういうことで納得《なっとく》しておいてもらえませんかね?」
〈ふむ。まだ全てを話したというふうでもないが……ま、ええじゃろ〉
口元についたクッキーの粉をナプキンの切れ端でぬぐいながら、アルト老は頷く。
「そういやなんで人形がモノ食ってんだ?」
ぼそりとリュカは呟いたが、やはり誰も反応しなかった。
「それと……リュカ」
代わりに、アルベールに名を呼ばれた。
ゆっくりと顔を上げて、伯父の顔を見る。
「事態が思っていたより進んでいたし、半端《はんぱ》な知識があるままでいるよりは全てを教えてしまったほうが良いだろうと思って、君の前でここまでの話をした。けれど――」
「ちょ、ちょっと待った」
手のひらを突き出して、話を遮《さえぎ》っていた。
「まさか、これ以上はもうダメだとか言い出すんじゃないだろな?」
「そのまさかだ。君は、もうこれ以上、この話には関わらないほうがいい。いや違うな。君はこれ以上、この話に関わってはいけないよ」
「そうだな」
これまでずっと黙っていたジネットが、あっさりと頷いた。
「色々と気に入らない話が続いたが、その件にだけは全面的に賛同《さんどう》する。リュカ、君はもう我々に近付くな」
「なん――」
「君の体は、魔法書『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の影響下《えいきょうか》にある。詳《くわ》しいことは分かっていないけど、それは間違いない」
アルベールはリュカの反駁《はんばく》の声をあっさりと潰《つぶ》す。
「そして魔法っていうのは、本質的に不安定なものなんだ。君がほかの魔法使いと接触し、ほかの魔法の影響にさらされ続けることは、決していい結果を生まない。理屈《りくつ》は分かるだろ? 君は、ただ魔法使いのそばにいるだけで、危険なんだ」
「…………」
伯父《アルベール》は、リュカの体が、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』によって生かされていることを知っている。けれど、いちどそれが毀《こわ》れたこと、今はジネットによって無理やりツギハギをあてられているだけだということを知らない。
だから、何も言い返せない。納得はできないまま、俯《うつむ》くしかない。
〈……重たい二択《にたく》じゃな〉
ぽつりと、アルト老が呟いた。
「ん? 何の話?」
アルベールは、リュカの採《と》りうるもうひとつの選択の存在を知らない。不思議そうに尋《たず》ねて、
〈いや、つまらん独《ひと》り言《ごと》じゃよ〉
あっさりとアルト老に流されていた。
「…………」
陰鬱《いんうつ》な気持ちで、リュカは顔を上げた。
ふと、視界の片隅《かたすみ》に、今までずっと沈黙を保っていたライアの顔を認めた。
にこにこと、鬱陶《うっとう》しい笑顔を浮かべたままだった彼女が、ふと、小さな息を漏《も》らす。その瞬間に、鳶色《とびいろ》の瞳がわずかに揺れる。
「…………?」
気のせいだろうか?
もしそれを知ったら――どういう反応を示すだろう?
〈……ふむ〉
こちらの迷いに気付いたか、アルト老の目が、試《ため》すようにこちらを見ている。
話すなら話せ、黙るなら黙れ。好きなように選ぶ自由はくれてやる、だから自分の納得のいくように決断しろ――そんな挑発《ちょうはつ》めいた視線を浴びて、心が冷える。
「理由はそれだけじゃないよ、リュカ。いまこの大陸において、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』は、考えられる限り最悪の、戦いの火種《ひだね》でもある。手がかりの存在が誰かに知られれば、必ず無用の戦いが起こる。そしてそれは、君が魔法使いの戦いに関われば、遠からずに至《いた》る必然の結末だ。
これも理解できるだろ? 君が目立ってしまうと、レオネルの時と同じか、下手《へた》をすればそれ以上の騒ぎが起きかねないんだよ。逆にこれまでと何も変わらない毎日を送っていてくれれば、それが僕らにとっての何よりの助けになる」
飄々《ひょうひょう》とした顔も、いまいち間の抜けた声も、今だけはなりを潜《ひそ》めている。似合《にあ》いもしない真面目《まじめ》な顔と、落ち着いた声。
この伯父は、リュカ・エルモントという人物のことをよく分かっている。
何を引き合いに出せば反論の言葉を失い黙り込むのかを、よく理解している。
たった今見えたそれが、まるで安堵《あんど》の吐息《といき》であるように、リュカには思えた。
顔を洗う。
タオルで水気を吸いながら、鏡の中の自分を覗《のぞ》き込む。
不景気な顔をしていた。
そうでなくても細い目が、中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に釣《つ》りあがっている。もともと愛想がいいわけでもない口元が、山の形に歪《ゆが》んでいる。
にかっ、と一回無理やりに笑ってみて――余計に落ち込んだ。
廊下に出る。
今夜の話は終わり、それぞれに部屋で休むことになった。
リュカやアルベールはそもそもこの家の住人である。ジネットは先ほどまで休ませていた部屋に引っ込ませた。ライアには屋敷の角、万が一の襲撃《しゅうげき》があったときに最も早く対応できるだろう部屋を割り当てた。アルトは……まぁ、言うまでもない。そこらへんに転がしておけばいいだろう。
廊下はもう無人のはずだった。だから、
「…………」
その横顔を見たときに、思わず足を止めた。
笑顔ではない。怒りでも悲しみでもない。
色や温度といったものがごっそりと抜け落ちた、無相の表情。
こいつは何を見ているんだろう。そう思って、視線の先を追いかけた。棚の上に、小さな写真立てが置いてある。あれは確か、伯父《アルベール》とその弟――|リュカの父親《クレマン》とが並んで写っている記念写真。青年時代の二人が、学術院の白い壁を背景《はいけい》に、肩を組んで笑っている。
ライアが、それを静かに、眺《なが》めている。
「――何、見てんだ」
声をかけると、ライアはゆっくりとこっちを振り向いた。そしてその過程《かてい》で、あのにこにことした笑顔を作り出し、ぺったりと表情に貯《は》り付けた。
「んー、室長《しつちょう》さん、若いなってね」
そりゃあそうだ。この写真は、軽く二十年以上前のものである。どんな人間だって、生まれたときから中年男をやっていたりはしない。人には歴史がある。歴史。そう、例えば、写真に写っているもう一人の男は、とうの昔に死んでしまっているだとか、そういった変化がどうしたところで付きまとう。
「やっぱり、無精《ぶしょう》ひげ生やしてないほうがかっこいいじゃない。ねぇ?」
「同意求められても、困る」
中年男のかっこよさなど、男の自分はどうせそのうち嫌《いや》でも考えなければならなくなるのだ。今この年から思い悩むようなことではない。と思う。たぶん。
写真の中で、二人の男が笑っている。
いま目の前で、一人の女が笑っている。
「なぁ――」ライア、と呼びかけるのがなぜか躊躇《ためら》われて、「――あんた」
「ん?」
「俺のこと、嫌いなのか?」
「……あは。まっすぐに聞くのね?」
「遠まわしに聞いて、答えが返ってくる質問でもないだろ?」
それもそうね、とライアは小さく頷いて、
「嫌い、ではないわね。どっちかっていうと好きな部類。まっすぐで負けず嫌いなところも、女の子相手に本気でぶつかってくところも、身《み》の程《ほど》知《し》らずに自分で気付いてないとこまでひっくるめて、わりと気に入ってるわよ」
「……じゃあなんで、」
「でもね、そんなことよりも先に――憎《にく》んじゃってるから」
あっさりと。
リュカの目の前に立つ女は、笑いながら、そんなことを、言う。
「なん……で、だ? 俺、そんな恨《うら》みを買った覚えなんて」
「それはナイショ。そうそう簡単に女から秘密《ひみつ》を引き出せるなんて思っちゃ駄目《だめ》よ?」
唇《くちびる》に指をあてて、片目をつぶってくる。
それきり、本当に、何も言わない。
「……あんた、魔法使えるんだろ?」
質問を、変える。
「なんで先週、レオネルが暴《あば》れてる時に、あいつを止めに出てこなかったんだ?」
「あー、それは、仕方ないじゃない。この街にいなかったんだから。ずっとペルセリオに出張してて、今朝《けさ》鉄道で帰ってきたばっかりなのよ?
ああ――でも、そうね。もしここにいたとしても、手を出さなかったとは思う。不死者《レヴナント》同士の争いに下手に手を出しても、無駄《むだ》にやけどするだけだもの」
挑発、されている。
そうと気付いて、それでも頭に血が上る。
「――何十人も、死んだんだぞ!」
「じゃあ聞くけど、それが何?」
おそらくはそう糾弾《きゅうだん》されることは、彼女の予想のうちだったのだろう。あっさりと、そんな答えが返ってきた。
「人を殺せるだけの力がそこにある以上、人は死ぬの。何十人でも、何百人でも、何千人でも。そしてその全員に名前があって、家族があって、歴史があるの。誰だって死にたくなんてないし、死んだら悲しむ人がいるの。これまでの歴史で人が死ななかった時代があった? ないでしょう? 今回はたまたまこの街の人間が、あなたの周りで死んだ。ただそれだけの話。悲劇《ひげき》ではあるかもしれないけど、それに酔《よ》って判断力をなくす言い訳にはならないわ――」
「割り切れるもんかよ!」
「割り切らないといけない人も、いるのよ。
誰もがあなたと同じ、気軽に怒ってそれで済まされる立場じゃない。
そう、例えば、あなたの伯父さんとか。……レオネルの放置《ほうち》を決断したのは、あのときこの街にいたあの人。彼はそれを決めて、百人近い犠牲《ぎせい》を見殺しにすることで、あの時点で動かせた唯一《ゆいいつ》の魔書使い《グリモア・ハンドラ》、『|流水の革鞘《フルビスール》』のヴァランタンを無駄《むだ》に死なせることから回避《かいひ》した。その決断は、これから先、この街に住む何万という人間を救っていくことに繋《つな》がるでしょうね――ヴァランタンの力は、本来戦闘向けじゃないんだから」
「あ――」
言葉が、止まる。
世の中は綺麗事《きれいごと》では片付けられない。ひとことで言ってしまえばそれだけの、ありふれた論旨《ろんし》。だがそれは、簡単には否定できない言葉だった。
「本当の地獄《じごく》を見たことはある?」
追い討《う》ちのように、ライアは尋ねてきた。
「何百という人間が死んだその場で、その惨劇《さんげき》をその目で見たことがある?」
ある――そう答えそうになった。
けれど自分は、実際にエブリオの惨劇をその目で見たわけではない。だからそう答える資格はない。だから代わりに、
「あんたは、あるっていうのか?」
ライアは、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく、ただ頷く。
「あなたは――幸せなの。そのことを自覚しないといけない。
幸せとは、自分に関わる不幸に未《いま》だ気付いていないということ。
だからあなたは、知るべきではないことを、知ってはいけない。それは、あなたに幸せであって欲しいと願う、全ての人に対する冒涜《ぼうとく》になってしまうから」
白い、どこまでも硬質《こうしつ》の、無表情。
まるで、祭に使う陶器《とうき》の仮面を張《は》り付けたような、そんな貌《かお》。
「…………」
こいつの過去に何があったのかは分からない。聞いたとしても、理解できるとは思えない。
そう思うと、もうそれ以上、何も言えなかった。
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▼promnade/
今から六年ほど前のことだ。
アルベール・エルモントは、エブリオの村に滞在《たいざい》していた。
当初の予定では、一泊ほどで退散《たいさん》するつもりだった。そもそも、本を届《とど》けて弟の顔を見るというのが目的だったのだ。日帰りはさすがに無理だとしても、そう長くそこに逗留《とうりゅう》する必要があるとは思っていなかった。
けれど、エブリオは良い場所だった。味の濃《こ》い空気を吸って、のんびりとした風を肌《はだ》に受けていると、ただそれだけで随分《ずいぶん》と気分がよくなる。しかも弟夫婦が、「どうせだからゆっくりしてけ」などと実に魅力的《みりょくてき》なことを言ってくれたりするのだ。
つい最近までずっと忙《いそが》しい日々が続いていたせいで、上司には一月近い長さの休暇《きゅうか》を無理やりに押し付けられている。そんなに長い時間を何に遣《つか》おうかと悩んでいたのだが、おおなんと素晴《すば》らしいことか、ここにいればその間題も解決してしまうのだ。
そんなことを考えていたら、いつの間にかずるずると滞在期間《たいざいきかん》が延《の》びていった。
クレマンの子供たちは、二人とも元気だった。
ケンカの絶えない姉弟《きょうだい》だった。十歳のリュカが何かにつけて十三歳のクローディアに反抗《はんこう》し、そして腕力《わんりょく》で黙《だま》らされていた。
このくらいの年齢《ねんれい》の子供たちにとって、三歳の体格差は絶対だ。なのにリュカは迷うことなく姉に挑《いど》み続け、そしてそのたびにコテンパンにのされていた。泣いたりわめいたりしながらも、決して屈《くっ》したりはしなかった。そしてクローディアのほうもそれが分かっているのか、実に愛情のある拳《こぶし》を容赦《ようしゃ》なく弟に降らせていた。
どうやらリュカは、村ではガキ大将の立場にあるようだった。おそらくは挫《くじ》けずに姉に挑むその姿勢《しせい》の背景《はいけい》には、自分の立場から来る矜持《きょうじ》のようなものもあるのだろう。
たんこぶと青あざが結ぶ姉弟関係。
「いかにも俺の子たちって感じだろ、なぁ兄貴《あにき》」
嬉《うれ》しそうに言うクレマンには、答えないでおいてやった。
「ちょっと剣《けん》を教えてやったらな、これがまた、えらく筋《すじ》がいいんだ」
そりゃあそうだ。運動神経の絶滅《ぜつめつ》していたお前に比べれば、たいていの人間は筋がいいだろうよ。まったく、これだから親ばかというものは始末《しまつ》に負《お》えないのだ。
ああもう。本当に。まったく。幸せに暮らしているんだなぁ、こいつは。
そんなある日、夕食《ゆうしょく》の席でのことだった。
「――そういえば、伯父さん」
鶏肉《とりにく》のフライをもぐもぐとほおばりながら、クローディアが尋ねてきた。
「おみやげに持ってきてくれた『或《あ》る機械工の手記』読んだんだけどさ、分かんないところがあったんだ。途中さ、雨の日に新型|圧力炉《あつりょくろ》のテストする時に、弁《べん》が耐《た》えられなくて失敗しちゃったってシーンがあったじゃない。でもあれって、明言《めいげん》はしてなかったけどたぶんクリティアス型の発展型《はってんけい》――空間の密閉に関わる技術はもう一通り確立した後に作った試作機《しさくき》でしょ。特にその辺りで新しいこと試したって話でもなかったみたいだし、あれはどういうことなのかなって――」
……は。
一瞬耳を疑《うたが》った。今のは誰の声だろうと思った。
クレマンは肩をすくめていた。
その妻《つま》はにこにこと柔らかく笑っていた(たぶん話の内容は分かっていない)。
リュカはフォークでフライのかけらを乱暴《らんぼう》に突き刺しながら、「ふん」と鼻を鳴らしていた(間違いなく話の内容は分かっていない)。
そしてクローディアは、
「――どしたの?」
言葉を失ったアルベールの反応を意外に思ったか、小さく首をかしげていた。
驚いた。
そもそも難解《なんかい》な本である『或る機械工の手記』を読み、理解した。それどころか、文中で省略されていた技術的な記述を自分の知識で補《おぎな》い、そこから新たな疑問を導《みちび》き出した。それは、もちろん、誰にでもできることではない。それを、専門の教育を受けたわけでもない、たかが十三歳の子供の口から聞くことになるとは思わなかった。
「だから言ったろ、うちの子は賢《かしこ》いって」
にやにやと笑いながら、クレマンは言った。
「まさか信じてなかったのか、兄貴?」
もちろん、信じていたはずがなかった。
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▼scene/3 理由なき剣を携《たずさ》え 〜saber for neighbors〜
10.
昔の人は、一日を二十と四つに分けて、時間の単位を作った。
だから一日は二十四時間なのだ。
そしてそれは、言い換《か》えてしまえば、二十四時間が経《た》ちさえすれば、どんな一日だろうとあっさり終わってしまうということだ。充実《じゅうじつ》した一日も、散漫《さんまん》に過《す》ごした一日も、静穏《せいおん》だった一日も、激動《げきどう》と波乱《はらん》に満ちた一日も、全てが全て、二十四時間で過ぎ去って二度と戻《もど》らないのだ。
同じ理屈《りくつ》で。
どんなにややこしい夜であっても、八時間も過ぎれば明けてしまうのだった。
それは、創立祭《そうりつさい》最終日の夜明けだった。
特に、何かの用事があったわけではない。
ただ、家にいるのが辛《つら》かった。アルベール、ジネット、ライア、それからいちおうおまけでアルト、彼らの誰《だれ》とも顔を合わせたくなかった。
だからリュカは、朝になるなり布団《ふとん》から這《は》い出して、誰にも何も言わずに家を出た。
祭《まつり》で賑《にぎ》わう街の中に居《い》れば、この行き場のないどろどろとした感情のことを忘れられるような気がしたのだ。
はしゃぎまわる子供に靴《くつ》の先を踏《ふ》まれた。
連《つ》れとはぐれた老人に道を訊《き》かれた。
荷運び中の学生に押しのけられた。
恰幅《かっぷく》のいいご婦人《ふじん》に跳《は》ね飛ばされた。
そしてなんとか、人のいない場所までたどり着いた。
両手を広げればそれで幅《はば》を塞《ふさ》いでしまう、細い木組みの裏道《うらみち》である。
右に一歩踏み出せば、築《ちく》百年を超《こ》える古びた校舎の漆喰《しっくい》の壁《かべ》に頭をぶつける。左に一歩踏み出せば、きらきらと輝《かがや》く青色の湖面に飛び込む羽目《はめ》になる(この季節の水はさぞかし冷たかろう)。さらに道の中央を歩いていても、一歩踏み出すごとに、足元が絶《た》えずみしみしぎしぎしと不安定な音を奏《かな》でてくれる。
そんな場所だから、誰も好き好んで近付こうとなどしない。学術院中が人で溢《あふ》れかえっている今も、どうやらこの場所だけは変わらない。
自分の頭が、無意識《むいしき》のうちに総合書庫を選択肢《せんたくし》から外《はず》していることに、気がついてはいた。が、気がついていないふりをすることにした。家の居心地《いごこち》が悪いからといってこんな場所にまで出てきたのに、わざわざ昨日|不愉快《ふゆかい》な思いをしたばかりの場所のことを思い出したくはない。
「……あいっかわらず大盛況《だいせいきょう》だな、おい」
呟《つぶや》いた自分の言葉が、どこまでも乾《かわ》いて聞こえる。
創立祭最終日、フェルツヴェンの街は今日も非常な喧騒《けんそう》に包まれていた。
脱穀《だっこく》される麦の気分がよくわかった気がする。これからしばらくは、ただパンを食べる時にも、少し違《ちが》った気分が楽しめそうだ。
パン。
そういえば、腹が減った。
「ふひーっ」
また一人の少年が、裏道に転がり込んできた。人ひとりぶんの体重を預《あず》けられた木板が、ぎしりと一度大きく軋《きし》む。
「だ、大盛況だなぁ、今日も……」
どこかで聞いたような台詞《せりふ》を呟くと、校舎の壁に背をもたれ、大きく息を吐《は》く。
どこかでよく見た顔だと思った。
色の薄《うす》い黒髪《くろかみ》。紫色《むらさきいろ》の、切れ長の目。どことなく人懐《ひとなつ》っこい、整《ととの》った顔立ち。なんというのか、いかにも女の子に好かれそうな、典型的《てんけいてき》な美形――
ああ、思い出した。
演劇《えんげき》部員の一人で、花形役者《はながたやくしゃ》。先の舞台《ぶたい》『ジネット』で、金髪《きんぱつ》のかつらをかぶって|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》レオネル・グラントの役を演じていた奴《やつ》だ。練習を見学に行ったときに何度か見かけたし、先日の打ち上げの時にも酔《よ》いつぶれて机に突《つ》っ伏《ぷ》していたような気がする。直接《ちょくせつ》話したことこそないが、あの歯が根こそぎ浮き上がるようなレオネルの台詞《せりふ》を淀《よど》みなく読み上げるその姿はどうにも印象《いんしょう》的だった。
名前は――確《たし》か、フロリアン・コルア。
その視線《しせん》に気付いたか、フロリアンは顔をあげて、にこりとリュカに笑いかけた。
「やぁ、エルモント君」
「……よう」
どうやら向こうもこちらのことを知っていたらしい。軽く手をあげて挨拶《あいさつ》し、
「演劇部の出しモンは初日で終わりだろうに、こんな騒《さわ》がしい日に散歩か?」
「あはは、今日は今日で別の用事があってね」
なぜか照《て》れくさそうに、小さく笑う。
「そういう君だって、こんなところで何してるんだい? 確かめんどくさいって言ってどの催事《さいじ》にも関《かか》わってないんじゃなかったっけ」
「なんで知ってんだよ、そんなこと」
「アリスさんが楽しそうに話してたよ。練習の休憩《きゅうけい》時間に」
あんにゃろう。
「……まぁ、ヒマだったからぶらついてるだけだ」
「あはは、こんな騒がしい日に散歩なんだ?」
「……まぁな」
ほんの短い間、会話が途切《とぎ》れる。
銀色に揺《ゆ》れる細波《さざなみ》を眺《なが》めながら、そういや今日も半端《はんぱ》に曇《くも》ってるなと、どうでもいいことを小さく思う。晴れるなら晴れる。降《ふ》るなら降る。どっちかにびしりと決めて欲しいものだ。
「どうせヒマならさ」
「ん?」
「少し僕《ぼく》につきあってくれないかな。ちょっと君に頼《たの》みたいことがあるんだよ」
行くところもない。やるべきこともない。
断《ことわ》る理由は、特にはなかった。
――断っておけばよかったと、強く思った。
体練場《グラウンド》は、いつになく大勢《おおぜい》の人間に囲まれていた。数に直せば何百人という単位になるのだろうか、それなりの距離《きょり》を保《たも》ったままこちらを遠巻《とおま》きに眺めている。創立祭最終日に突然降って湧《わ》いた面白《おもしろ》そうなイベント。観客たちの瞳は、どれもこれも期待でキラキラと眩《まぶ》しく輝《かがや》いていた。
なんだなんだ、何が始まるんだ。ケンカだってよケンカ。違うだろ決闘《デュエル》だろ。いや待てよ今日|決闘《デュエル》があるなんて聞いてないぞそんな話。じゃあなんだって言うんだよ。ほら見ろよエルモントがいるぜ。ああほんとだそれじゃ決闘《デュエル》なのか。いやでもそんな申請《しんせい》は出てないってば。どっちでもいいから負けろエルモント! そうだそうだそろそろ負けちまえ! モテる奴は世界の敵だコンチキショー!
「……人気者だね?」
ぐいぐいと柔軟体操《じゅうなんたいそう》などを行いながら、フロリアンは答える。
「嬉《うれ》しくない」
綿を巻いた木剣《ぼっけん》を片手で弄《もてあそ》びながら、リュカは答える。
本来、|ここ《フェルツヴェン》の校則《こうそく》に則《のっと》ったかたちで決闘《デュエル》を行うには、予《あらかじ》め学術院《ライブラリ》のほうにその旨《むね》を書き記《しる》した書類を提出しておかなければならない。それから立会人《たちあいにん》や介添《かいぞ》え人《にん》の選定《せんてい》、実際の決闘《デュエル》の日時の決定などが行われ、それでようやく公《おおやけ》に認められた形の決闘《デュエル》が行われるのだ。
だから、ついさっき決まったばかりのこの戦いは、決闘《デュエル》ではない。
言ってみれば、ただの、私闘《プライベート・ストライフ》。
「しかし、いいのかね。祭の日に勝手にこんな騒ぎ起こして」
「大丈夫じゃないかな。突発《とっぱつ》イベントは学院祭の華《はな》だし、特に今年は昨日の奏楽部《そうがくぶ》や操舟《そうせん》部のパフォーマンスが凄《すご》かったからね。大抵《たいてい》のことじゃ咎《とが》められないんじゃないかな」
「……なんかやったのか、操舟部」
「あ、見てなかったんだ? それはちょっと損《そん》したかもね」
あははは、とフロリアンは快活《かいかつ》に笑う。
「まあ、その話は後にしようか。そろそろ始めないと、観客が怒り出しそうだ」
見渡してみる。いつの間にそこまで増えたものだか、猫の這《は》い出る隙間《すきま》もないほどにぎっしりと並んだ人の壁。そしてその誰もが、楽しげなイベントが始まるのを今か今かと、まるで飢《う》えた獣《けもの》のように待ち構《かま》えていた。
「そうだな」
物見高《ものみだか》い連中に呆《あき》れながら、頷《うなず》く。
二人それぞれに木剣を持ち、向かい合って立つ。低い位置で一度軽く剣を合わせ、それからまっすぐに構えて互いに礼を交《か》わす。
ざわめいていた観衆《かんしゅう》が、戦いの始まりを目前《もくぜん》に、ほんのわずかな時間だけ沈黙《ちんもく》する。
――その瞬間。
フロリアンの口元が、にやりと笑みの形に歪《ゆが》む。
「――我《わ》が剣を成《な》すのは鋼《はがね》ではない、王に捧《ささ》げし忠義《ちゅうぎ》の心だ!」
朗々《ろうろう》とした、大声。
突然のことだったので、観客たちは驚《おどろ》いて目を見開いた。リュカもまた意表《いひょう》をつかれ、そうでなくても細い目が点になった。
フロリアンは剣の構えをまるで崩《くず》さず、そのまま朗々と言葉を紡《つむ》ぎ続ける。
「我が楯《たて》を成すのは樫材《オーク》ではない、姫に捧げし生還《せいかん》の誓《ちか》いだ!
ならばこそ私は、今ここに騎士《きし》として立つことができる――!!」
リュカの口元が引きつった。
アルベール要《い》らずの、酔《よ》っ払った言い回し。聞いているだけで背筋《せすじ》がむずがゆくなってくる。この感覚には、覚えがあった。
観客がどよめく。おいあいつまさか。そうだ一昨日《おととい》の『ジネット』で騎士役やってた奴だ。ああそうか金髪じゃないから分からなかった。さすが堂《どう》に入ってるなあ。ふうん、けっこうかっこいいじゃない。ちょっと待てオマエああいうの好みなのか。なんだよちくしょうアイツもモテそうだぞ。じゃあ応援《おうえん》するのやめとくか。いやでもエルモントよりはましだ。そうだなエルモントよりはましだ。よし全力で応援するぞ……。
それは創立祭初日、中央|講道館《こうどうかん》で演《や》られていた舞台劇『ジネット』の、第三幕。騎士レオネル・グラントが、愛する姫君のために決闘の場に立つときの台詞だった。
(……ってことは、俺は密告者《みっこくしゃ》<Aヴィン役か?)
確か、劇中でレオネルの前に立ちふさがる悪役の名前は、そんなものだったと思う。
(悪いけど、こっちはお前の芝居《しばい》に付き合うつもりはねえぞ?)
(それでいいよ、これは僕が勝手にやってるだけのことだから)
交《か》わした視線が、それだけの短いメッセージを届けあう。フロリアンが動いた。踏み込むというよりはただ地の上で足を滑《すべ》らせるような動き。思いの外《ほか》鋭《するど》い太刀筋《たちすじ》で、木剣が腰下から振り上げられる。
「……とっ」
木剣の持ち手に近い部分で受けて、弾《はじ》く。が、攻撃《こうげき》はそれでは終わらない。幾《いく》つもの綺麗《きれい》な弧《こ》を描《えが》いて、フロリアンの剣は何度も襲《おそ》い掛《か》かってくる。
へぇ。
打ち込みのひとつひとつを捌《さば》きながら、リュカは少しだけ感心する。どちらかというと線の細い外見《がいけん》をしているフロリアンだが、握《にぎ》る剣は意外なほどしっかりしている。これまでに大勢見てきたような、剣に振り回されすぐに体力を使い果たすような連中とはまるで剣の質が違う。
外野《がいや》が騒ぐ。よっしゃーやったれー! そのまま押し切れー! むしろブッ殺せー! 俺の仇《かたき》を討《う》ってくれー! おーいやられてるほう、ちったぁ反撃《はんげき》してみせろー!
おそらくは、舞台の上で剣を振るうために績み重ねてきた稽古《けいこ》の成果だろうと思う。長時間の稽古の間に培《つちか》われた、効率的《こうりつてき》な力の抜き方。観客たちの目を惹《ひ》くために体に染《し》み込ませた、流れるようになめらかな体の運び。
けれど、
「それじゃ、だめだ」
剣撃《けんげき》のひとつを選んで、それを正面から受ける。
そしてそのまま、力で押さえつける。
フロリアンの表情がかすかに歪《ゆが》む。構わず剣に力を、体重を込める。二人の体格《たいかく》はほとんど変わらない、けれどこういう力の比べあいに対する習熟度《しゅうじゅくど》がまるで違う。
拮抗《きっこう》しているように見えたのは、ほんの短い間だけ。
それからほんの数秒もかからないうちにフロリアンの膝《ひざ》が折《お》れ、力の均衡《きんこう》が崩《くず》れて、
「…………」
「…………」
跪《ひざまず》くように、フロリアンは膝を地についている。
そしてその首に、リュカの木剣《ぼっけん》が、ぴたりと押し当てられている。
この私闘《しとう》に立会人はいない。だから決着を告《つ》げる役割の者がいない。
「……上手《うま》いじゃないか」
そのままの姿勢《しせい》で、リュカはフロリアンの戦いを評《ひょう》する。
「でもお前のそれは、打ち合うための剣であって、打ちのめすための剣じゃない。舞台の上じゃともかく、決闘《デュエル》じゃ大した役には立たない」
「あー、そういうことかぁ」
フロリアンは木剣を落とす。そのまま体練場《グラウンド》に背中から倒《たお》れこむ。
「ちぇ、けっこうイケると思ってたんだけどな。やっぱ強いよ、エルモント君は」
「……そうかもな」
確かに、ある程度強くはあるだろう。
決闘《デュエル》において五十三戦。この私闘をカウントするなら五十四戦。その全てに勝利し、一度たりとも土をつけられなかった。その事実が保証《ほしょう》してくれている。もし強さには必然性《ひつぜんせい》が必要なんだというならば、才能《さいのう》とか努力《どりょく》とか決意とか経験とか、そのへんの言葉を適当に並べておけばいい。それで一応の説明はつくだろう。
「あ、でも困《こま》ったな。レオネルって劇中《げきち砂う》で負けなしだから、負けた後のセリフってないんだよ」
「それがどうした……って、ああ」
周《まわ》りの観客に目をやる。
既《すで》に勝負がついたことは、今の二人を見れば分かるはずだ。しかし戦いが始まった瞬間《しゅんかん》にフロリアンがあれだけの見栄《みえ》を切ったせいで、この戦いの終わりにふさわしい何らかの演技《えんぎ》が入るのだろうと、いまだ期待の視線を動かさずにいる。
「せっかくだからエルモント君、代《か》わりに言ってくれない?」
「嫌《や》だ」
「そう言わずに。そんな長いセリフじゃないからさ。ほら復唱《ふくしょう》してみて、いまここに我《わ》が誓《ちか》いは――」
「絶対|嫌《や》だ」
短い沈黙。
「……じゃあしょうがない、諦《あきら》めよう」
「そうしてくれ。ほら」
手を貸《か》して、寝転《ねころ》がったままのフロリアンを引き起こす。
そのころにはちょうど、どうやら見世物《みせもの》はもう終わりらしいと観客たちも察してくれていたようだった。人垣《ひとがき》が少しずつ削《けず》れて、流れ始める。もうそう遠くないうちに、体練場《ここ》もまた人の波に飲み込まれることだろう。
さて、学術院内のカフェテラスは、さすがにオープンカフェはたたんであるものの、しっかりと今日も営業している。
昼くらいはおごるよとフロリアンが言い出した。腹も減っていたし、断る理由もなかった。そんな理由でここまでやってきた。すぐ近くに幾つもの露店《ろてん》が出ているせいか、思っていたほど店内は混《こ》んではいない。少しはゆっくりできそうだった。
「ワンプレートランチのAセット」
「僕は……サラダと、激渋《げきしぶ》コーヒーで」
エプロン姿のアルバイトが注文を復唱してから一礼し、去ってゆく。
その後ろ姿をなんとなく見送ってから、話を切り出そうとして、
「……激渋[#「激渋」に傍点]コーヒー?」
その前に、気になる言葉があることに気がついた。
「激辛[#「激辛」に傍点]コーヒーじゃなくて?」
「ああ、今週から増えた新メニューだよ。定番《ていばん》メニューだけにあぐらをかいてたらマンネリになるからって、ここの主任《しゅにん》が新しく開発したらしいけど」
「……渋いのか?」
「うん、クセになるくらいにね」
にっこりと笑うフロリアンのその顔は実に爽《さわ》やかなものだった。
「エルモント君も試《ため》してみる?」
「いや……いい。修羅場《しゅらば》でもないのに劇物《げきぶつ》を好んで飲む趣味《しゅみ》はない」
「そう? けっこういけるんだけどな」
賭《か》けてもいい。一般《いっぱん》的な味覚《みかく》の持ち主ならば、そんな感想は抱《いだ》かないだろう。
だいたいなんなのだ、その渋い≠ニいう選択肢は。
激辛であれば需要《じゅよう》があるのは分かる。強烈《きょうれつ》な刺激《しげき》は無理やり心臓に活《かつ》を入れ、眠気を吹き飛ばす。嗜好品《しこうひん》というよりはもはや薬物|投与《とうよ》に近いが、それを飲むことに意味はある。事実、愛飲《あいいん》とまでは言わないが、ぼんやりした頭をはっきりさせるために、自分も何度か注文したことはある。
しかし、渋味とは。
魚の内臓でも放《ほう》り込んであるのか、熟《じゅく》する前の果実《かじつ》の搾《しぼ》り汁《じる》でも突っ込んであるのか、それともまさか、単に淹《い》れるのに失敗したブラックコーヒーというオチなのか。
一体どんなやつがそんなものを嗜好するというのだ。目の前でにこにこと笑う男を見ながら小さく納得《なっとく》する、なるほどこんなやつが嗜好するわけか。そしてこいつの同類が、こうして新しいメニューを定着させられるほどの数、この学術院の中には蠢《うごめ》いているというのか。世界は驚愕《きょうがく》と神秘《しんぴ》に満ちている。
「……まぁ、いいや」
軽く首を振って、そこまでのどうでもいい思考《しこう》をまとめて追い払《はら》う。
「せっかく場所を改めたんだ、教えてもらおうか。なんであんなことしたんだ?」
「あんなこと……ってどのこと?」
「さっきの勝負に決まってる。まさか自分の剣を試してみたかったからケンカ吹っかけてみたとかいう理由じゃないんだろ? いつものモテない連中の逆恨《さかうら》みならともかく、俺、お前に挑戦《ちょうせん》されるような覚えはないぞ」
「……気付いてなかったの?」
「何にだ」
「モテない男の逆恨みのつもりだったんだけど」
小さく唇《くちびる》をとがらせて、不満の表情で小さくこぼす。
「…………」
リュカは顔中の筋肉を総動員《そうどういん》して眉《まゆ》を寄せた。
唇の端《はし》を上げた。こめかみの辺りに力をこめて引きつらせた。
「信じられないって感じの顔だね」
どうやら意図《いと》は正確に伝わってくれたようだった。
絶世《ぜっせい》の美男子《びなんし》(と伝えられる)レオネル・グラントの役を任せられていただけのことはある。どんなに僻《ひが》みに歪んだ目で見てもフロリアンは随分《ずいぶん》な美形であり、普通に考えればいや多少歪んだ考え方をしたとしても、「モテない男」という言葉からはかけ離れたイメージであることは間違いない。
「でも本当なんだよ。その、いつものモチない連中ってのは、つまりアリスさんのハートを射止《いと》めようとして失敗してた人たちのことだろ? だったら間違いなく僕は同類だ」
「なんでそこでアリスが出てくる……」
――特にフロリアンが笑いものでな。舞台衣装《ぶたいいしょう》のままで花束を持って来て、とびきり気障《きざ》な劇中の言葉で勝負をかけた。
「あ」
思い出した。
一昨日の、演劇部の打ち上げの場で、机に突っ伏《ぷ》していた何人もの敗残兵《はいざんへい》たち。彼らを指差して、ベネディクトは何と言っていたか。
――さっきですね、フロリアンさんに告白されたんですよ。|残更の騎士《レオネル・グラント》の舞台衣装を着たままで、わたしに花束もってきて、劇の中の言葉で『好きだ』って言われたんですよ――
もうひとつついでに思い出した。あの打ち上げからの帰り道、自称《じしょう》眠《ねむ》ったままのアリスが、寝言《ねごと》≠ナ何を言っていたか。
「本当に今まで気付いてなかったの? それは少し傷つくなぁ」
不本意そうに、フロリアンが呟く。
「まぁ、そういうことなんだよ。当たって砕《くだ》けろって感じで突撃《とつげき》したら、見事に当たって砕けちゃったしさ。なんかもうやるせない気持ちでいっぱいだったところに、たまたまそのアリスさんの意中の人と会えた。こりゃもう天使《ハロウド》の恵《めぐ》みだって思って、そのまま挑戦させてもらったわけ」
「学術院《ここ》にゃ決闘《デュエル》ってシステムが完備《かんび》してるんだから、別に今日あんなところでやらなくてもよかったはずなんだが」
「やだよ、そんなの申請してたら時間かかるだろ。失恋《しつれん》の八つ当たりなんかにそんな時間かけてたまるもんか」
……そろそろ、この男のことが、少しずつだが分かってきた気がする。
見た目こそおとなしいが、こいつはどうやら、生粋《きっすい》にして純血《じゅんけつ》の、変わり者だ。
「でも、まぁ。どうしようもないくらいに完敗だったし、すっきりしたかな。噂《うわさ》は聞いてたけど、本当にめちゃくちゃ強いんだねぇ、エルモント君は」
「リュカでいい」
「え?」
「苗字《みょうじ》のほうで呼ばれてると、ベネディクトを相手にしてるような気分になる。でもあいつとお前は違うタイプの変人だ、イメージを被《かぷ》らせるのはお互《たが》いのためにならない」
「ええと……うちの部長が何か?」
「いいから、名前で呼べ。苗字は禁止だ」
「ああ、うん。ええと、リュカ君――」なぜか小さくはにかんで「――ううん、改めるとなんだか照れくさいな」
注文したものがやってきた。大きめの皿一枚の上に盛り付けられた鶏肉《とりにく》と焼き卵とポテトサラダ。テーブルに常備《じょうび》されたフォークを手にとり、肉を軽くつつく。
フロリアンの注文したものもやってきた。コーヒーカップの中身は、少なくとも見た目だけは、普通のコーヒーと変わらないようだった。
「――本当はね、勝てるかもって思ってたんだ」
コーヒーカップの中身を一口すすって、
「レオネル役を演《や》ることになるって決まってから、剣術部《けんじゅつぶ》の友人たちに協力してもらって、けっこう鍛《きた》えたつもりだったから。筋《すじ》がいいって言われたよ。あそこの部長とも、かなりいい勝負ができるようになった。
だからね、本格的に剣術をやったことがない君が相手なら、充分に勝機《しょうき》があるって本気で思ってたんだよ」
静かな声と落ち着いた表情で、フロリアンは語る。
その言葉の中身よりも、あまりの表情の変わらなさのほうが気になってしまう。もしかしたら、激渋コーヒーと銘打《めいう》たれてはいるものの、意外と常識《じょうしき》の範囲《はんい》に収《おさ》まった味なのかもしれない。
「でもやっぱり、届かなかった。僕の剣は打ち合うための剣であって、打ちのめすための剣じゃない……か。本当にその通りかもしれないよ。
演技のために覚えた剣だからとか、そういう話じゃない。本当に力ずくでアリスさんを奪《うば》いたいと思ってたら、きっと、もっと違う戦い方が出来てたはずだと思うから」
言って、フロリアンはコーヒーカップの中身を一気に飲み干した。
すげぇ。こいつの勇気は並じゃねぇ。
「……あー、っと」
コーヒーに気を取られて、話は半分くらいしか聞いていなかった。
「なんかその手の話に持って行きたがるやつは多いがな、何事も精神論《せいしんろん》で片付けるのは、あんまり良い傾向《けいこう》とは思えないぞ?」
「何事もってわけじゃないよ、もちろん。でもね」
フロリアンは肩をすくめて、
「愛も憎《にく》しみも、すべて心より生じるものであれば、還《かえ》る場所は心の内にしかない。
だからいつの世も、鋼《はがね》の刃《やいば》は戦いを終わらせることはできないのだ――」
唐突《とうとつ》に、あの朗々とした声で、そんなことを言った。
「……なんだそりゃ」
「ペルセリオの、ちょっとマイナーな劇作家《げきさっか》の作品に出てくるセリフ。
これは、人を好きになったのが発端《ほったん》になった戦いなんだよ。だったら、その好きっていう感情に決着がつくまで終わらない。この話に関してだけは、精神論に流れるのは仕方ないと思うけどね」
「……このポエマーどもめ」
多少うんざりとなって、小さくうめく。
本当は。
少し、羨《うらや》ましかった。
自分の意思で戦いを始めて。
自分の感情に決着がつくまで戦いが続けられると言った――この男が。
「俺だけか……」
焼き過ぎではないかと思えるほどよく火の通った鶏肉に、かぶりつく。
「何が?」
「どいつもこいつも、すっきりするまで戦えて結構なことだって言ったんだよ。ったく、たまには挑《いど》まれるほうの身にもなれってんだ」
乱暴《らんぼう》に、口の中のものを咀嚼《そしゃく》する。
「君は、すっきりしてないわけ?」
「…………」
もぐ。ごくん。
「わかんねーよ。考えたこともなかったから」
例えば、欲しいものがあって。
戦いに勝つことによって、それが手に入るとしたならば。
果たして、リュカ・エルモントという人間は、その戦いに飛び込んでいくだろうか?
「俺、たぶん――義務《ぎむ》感でしか、戦ってきたこと、ないから」
ぽつぽつと、その言葉をこぼしてゆく。
「負けられない戦いばっかり続いてさ。気がついたら、そういう戦いをこなすことだけが上手《うま》くなってさ。
そうだな……要するに、俺の剣は、挑んでくる相手を追い払うための剣。何かを勝ち取るために使えるものじゃないんだ」
「……それでも、君は、強いじゃないか」
「ああ……」
確かに、自分は、ある程度強くはあるだろう。けれど、
「でも、鋼の刃じゃ戦いを終わらせることはできない――だろ?」
先に聞いた言葉をそのまま返してやると、フロリアンは静かになった。
会話が途切れた。
辺《あた》りは相変わらず賑《にぎ》やかなのに、いまこの場所にだけは、妙《みょう》に居心地の悪い沈黙。
リュカはばりばりと頭を掻《か》くと、
「店員さん、追加注文!」
すぐ傍《そば》を歩いていたバイトの背中を呼び止めた。
「はあい、何にします?」
「激渋コーヒーひとつ!」
少し、自棄《やけ》になりたい気分だった。
「あ、そうだ、リュカ君。ついでと言うのもなんだけど、ひとつ聞きたいことがあったんだよ。いいかな?」
「あぁーん?」
「アリスさんてさ」
「あん?」
「着やせするはうだっていうの、本当なの?」
がこん。思い切り派手《はで》にテーブルに頭を打ち付けた。
ああもう。まったく。どいつもこいつも。
しばらくしてやってきたコーヒーは、悶絶《もんぜつ》するほどに渋かった。
11.
ジネット・ハルヴァンは、不機嫌《ふきげん》だった。
こうして一夜が明けても、その不機嫌は直っていなかった。
「……これは一体、どういう茶番《ちゃばん》だ」
鏡《かがみ》の前で、低い声を出す。
「茶番とは失礼な」
腰《こし》に手を当てたライアが、ふんと鼻を鳴らす。
「説明したでしょ? どこに敵の目があるかも分からないんだから、あんまり目だってもらうわけにはいかないの。昔から言うでしょう、森の中に隠《かく》れるならばしっかり木に扮《ふん》しておけって」
「逆だろうそれは!」
「細かいことはどうでもいいから。……んー、下はもうちょっと短めのがいいかな」
「待て、少し待て、それは何だ、私に何をさせようとしている!」
じり、とジネットは半歩《はんぽ》ほど退《しりぞ》いた。長い戦いの人生の中、それでも感じたことのない種類の戦慄《せんりつ》が、少女の体の中を走り抜けていた。
「大げさな。ほらほら、観念《かんねん》して脱《ぬ》ぎなさい、おねーさんがばっちりコーディネートしたげるから」
「誰がおねーさんだ、私のほうが圧倒的《あっとうてき》に年上だろう!」
「ふふん、そーゆー生意気は、その初々《ういうい》しすぎる反応をどうにかしてからほざきなさい。ああもう真っ赤になっちゃって可愛いったらも!」
「だから実際に年上だろう私は!」
「あ、そうだ。下着のほうどうする、せっかくだからちょっと気合いれとく?」
「人の話を聞け!」
〈落ち着けジネット、儂《わし》が思うにお主《ぬし》には黒――へぶっ!?〉
開け放った窓から勢い良く蹴《け》り出された人形は、灰色の空をキャンバスに、綺麗《きれい》な放物線《ほうぶつせん》を描《えが》いて飛んでいく。
「……調子が狂《くる》う」
椅子《いす》に腰掛《こしか》け、疲《つか》れた顔で鏡の中の自分を睨《にら》みつけて、ジネットはぼやく。
「そお?」
ライアはその銀髪に丁寧《ていねい》に櫛《くし》を入れながら、気軽な調子で返す。
「たかが着替え――そうだ、たかが着替えでここまで疲れたのは久々だ」
「大げさね。言うほどのことやってないじゃない」
「私とお前の間で、価値基準《かちきじゅん》に大きな齟齬《そご》があることは、とてもよく分かった」
怒《いか》りにその声をわずかに震《ふる》わせながら、むっつりとジネットは頷《うなず》く。
「そもそもだ、ライア・パージュリー。お前、以前ペルセリオで遭《あ》ったときと……いや、昨晩と比べても、だいぶ違う性格になっていないか?」
「そりゃーそうよ。今は臨時《りんじ》とはいえ立派《りっぱ》な同盟《どうめい》相手。敵には容赦《ようしゃ》なく牙《きば》を剥《む》き、味方には遠慮《えんりょ》なくイタズラしかける人よ、私は」
……それは、わざわざ薄い胸を張って、誇《ほこ》らしげに主張するようなことだろうか。
「では同盟が終わったら、元の対応に戻ってくれるわけか?」
「そうね。その辺りの線ははっきりと引くつもり」
「ならば――もし私が学術院に敵対することになったら?」
「言うに及《およ》ばず。ちゃんと、あなたの見たことのない態度《たいど》で接《せっ》してあげる」
ほんのわずかに――部屋の温度が、下がる。
「全く。お前の言葉は、どれが真実でどれが冗談なのか、さっぱり判断がつかん」
「しょうがないじゃない。魔書使い《私たち》が|魔法書の代役《あなたたち》に対してアドバンテージとれる分野《ぶんや》なんて他《ほか》にないんだもの。文句《もんく》があるなら、はじまりの魔女さんに言いなさい」
「――いつかあの女に会えたなら、そうする予定でいる」
ジネットがそっぽを向く。
ライアは小さく微笑《ほほえ》んで、ぽんとその銀色の髪を叩《たた》く。
「はい、準備おしまい。ほんと、素直《すなお》な髪質で手がかからないったら」
「昨夜、誰かが毛先を焼いてくれたようだが?」
「だからお詫《わ》びも兼《か》ねて手入れしてあげたんじゃないの」
鏡の中には、不機嫌を全身で表す一人の少女。
涼《すず》やかな銀色の髪に、色の深い翠《みどり》の瞳《ひとみ》。
そして服装は、緋色《ひいろ》の上着に紺色《こんいろ》のインナーとスカート、白いカラーに黄色のタイ。
「…………」
それは、つまり、フェルツヴェン学術院《ライブラリ》の制服だった。
「それで? 私はこの仮装《かそう》姿で、どこに連れていかれるのだ?」
「言ったでしょ、森の中って。その服着て行く場所なんて、そう何箇所《なんかしょ》もないわよ」
「……正気か?」
「魔法書に関わった人間に尋《たず》ねることじゃないわよね、それ?」
にっこりと、ライアは実にいい顔で笑う。
「身内の恥《はじ》をばらしちゃうとね、うちもやっぱり一枚岩じゃないわけよ。だから臨時同盟決めちゃいましたって話を他の偉《えら》い人にも通しておかないと、あとでややこしいことになりかねないわけ」
「……理屈《りくつ》は、分かるが」
「なら覚悟《かくご》決めなさい。明日の安全を買うためには、まず今日の心労《しんろう》を受け入れる。報酬《ほうしゅう》の約束されてる労働なら、まだやる気が出るでしょ?」
「お前の軽口に付き合っていると、そのなけなしのやる気も萎《な》えていく」
軽く首を振って、立ち上がり――
「それなりに似合ってはいるのが、せめてもの救《すく》いか」
鏡の中に立つ自分の姿を確かめて、小さく呟く。
天井《てんじょう》の高い、円筒《えんとう》形の部屋。
「――えー、以上の理由により、王城《パレス》や茶会《ティパーティ》が近日中に大きな動きを見せるであろうことはほぼ間違いないと思われます。対する現在の学術院《ライブラリ》は、魔書使い《グリモア・ハンドラ》の人数およびその性質|傾向《けいこう》が極端《きょくたん》に制限されており、充分な対応ができる体制とは決して言えません」
円卓《えんたく》に座る一人、アルベール・エルモントは、目の前の聴衆《ちょうしゅう》に向かって、長々と演説らしきものをぶちあげていた。
「正直を言えば猫《ねこ》の手でもほしい。
人の手だったらもっといい。
可愛い女の子の手だったら言うことなし。
とまぁそういうわけで、同盟とか組んでみたわけですよ。なのでまぁ、今日のところはそのご報告だけ。できれば今後とも良い関係を結んでいきたいですよね?」
そこで、長々と続けた説明を一度切った。
「あのぅ……みなさん、聞いてます?」
もちろん、誰も聞いてなどいなかった。
「…………」
ヤニク・エルフェノク学院長は、ぽかんと口を開け放ったまま、言葉を失っていた。
「…………」
ロジェ・ヴィルトール院長|補佐《ほさ》は、厳《きび》しい顔を蒼白《そうはく》にして、口を閉《と》ざしていた。
そして、
「…………」
ジネットは、目が点のようになっているだろうことをぼんやりと自覚しつつ、何の言葉も見つけることが出来ずにいた。
〈成程《なるほど》。昨夜聞いた段階ではいまいち真意の掴《つか》みづらい同盟じゃったが、これが目的だったとなれば納得できる。まったく、良く出来た策《さく》を仕掛《しか》けてくれたもんじゃよ〉
円卓の上によじ登ったアルト老だけが、言葉を返す。
〈まさかこの場で儂《わし》らから同盟を破棄《はき》することもできんし、こうなった以上はお主《ぬし》の策に乗るしかなかろうな、アルベール。
……良い関係が築けると良いのう[#「良い関係が築けると良いのう」に傍点]、院長補佐殿[#「院長補佐殿」に傍点]?〉
「な――なぜそのような重要なことを、私たちに無断で!?」
院長補佐ではなく、先に学院長が、悲鳴のような声をあげる。
「そう、重要なことです。だから、極《きわ》めて迅速《じんそく》な決断が要求された。徒《いたずら》に時間をあけることは、往々《おうおう》にして良い結果を生みません。ゆえに、第六書庫の責任者としての独断《どくだん》で全《すべ》てを決定しました――というか、もともとそれがウチの仕事ですからね」
しれっとした顔で、アルベールは答える。
世の中に存在する本の中には、人の目に触《ふ》れさせてはまずいものが数多く存在する。収集されたその類《たぐい》の書物を、学術院では、基本的に総合書庫の地下階に保管することにしている。第二書庫から第五書庫まで、下層《かそう》へ行けば行くほど機密《きみつ》の度合いは上がり、それを閲覧《えつらん》するために特別な権限《けんけん》や面倒《めんどう》な手続きが必要になっていく。
第六書庫とは、そのさらに下層にあるとされる、完全なる禁庫《きんこ》のことだ。
表向きには、それは、第五書庫よりさらに閲覧がやっかいになった機密《きみつ》書類置き場ということになっている。某《ぼう》王家の家系《かけい》図。某部隊の作戦|指示《しじ》書。某兵器の開発計画書。人類の歴史は秘密の歴史、隠《かく》しておかなければならない事柄《ことがら》には事欠《ことか》かない。
これは、ある意味においては嘘《うそ》ではない。第六書庫は、その存在自体が一般《いっぱん》から秘匿《ひとく》された特殊《とくしゅ》な書物を扱《あつか》う、特別な部署《ぶしょ》なのだから。
そしてその業務《ぎょうむ》性質上、第六書庫は学術院からの指示に従《したが》う義務を持たない。詳細《しょうさい》な活動内容を報告する必要すらない。独立して、好き勝手に暴《あば》れまわるだけの権利と力が、保証されてしまっている。
それは、学術院の上層部にとっては、面白い話ではなかった。
飼い犬に、首輪がついていない。何を命令しても聞く耳を持たず、勝手に野原を駆《か》け回って餌《えさ》を集めている。いつ飼い主に向かってその牙《きば》を剥き出すか分からない。つまり第六書庫とは、そういった類の存在なのだ。
「……なるほど」
ようやく口を開いた院長補佐は苦々《にがにが》しげに声を絞《しぼ》り出す。
「久しぶりだな、ジネット・キセルメル・ハルヴァン。そして――アルト・プリム・バルゲリアル。二度と会うことなどないだろうと思っていたよ」
〈ま、あれだけ全力で逃げ回つてれば、そりゃそうってもんじゃな〉
「ああ。二度と会いたくなかった。けれどこういうことになってしまった以上は仕方がな
い。せめて、良い関係を築《きず》くとしよう……銀髪《ぎんぱつ》の姫君に、緋鞘《ひしょう》の将《しょう》。
そして……」
アルベールに視線を向けなおして、
「これがきみの選択か、アルベール・エルモント?
この難《むずか》しい時期に、同じ学術院の者に首伽《くびかせ》を強《し》いるその行為《こうい》。まともな判断力とはとても思えない」
「まあ、そこはそれ、難しい時期だからこそってことで、了承《りょうしょう》願いますよ」
アルベールは肩をすくめる。
「まぁ、とりあえずあれですね。今日のところは顔見せだけのつもりでしたんで、そろそろ失礼します。それじゃまた」
ひょいとアルト老の首ねっこを持ち上げると、ジネットの腕を引っ張って、さっさと部屋を追出した。
有無《うむ》を言わせない速さだった。
会議室を出る。
扉の横で待っていたライアを加えた三人(と一体)で、並んで廊下《ろうか》を歩く。
「いやぁ、爽快《そうかい》爽快。あの二人のあんな顔、久しぶりに見たよ」
あっはっはと、実に快活に笑うアルベール。
〈……こちらも、実に有意義《ゆういぎ》なものを見せてもらった〉
ジネットの胸元《むなもと》に抱きかかえられたアルトが、重々しく頷く。
〈あの男[#「あの男」に傍点]と儂らの関係、知っとったんじゃな?〉
「まぁ、ここは学術院《ライブラリ》ですからね。黙《だま》っててもいろんな話が聞けますし、喋《しゃべ》ってればもっといろんな話が入ってきますよ」
〈それでその確執《かくしつ》を利用して、あの男[#「あの男」に傍点]に首輪をつけたわけじゃな。事態《じたい》がこうなった以上、あやつはうかつに同盟に口出しが出来ん。万が一同盟が壊《こわ》れでもした日には、即日《そくじつ》儂らがあやつに預け物[#「預け物」に傍点]を取り立てに行くからのう。
……ふむ。実によく出来た悪巧《わるだく》みじゃ。人を陥《おとしい》れる者はかく企《たくら》むべし。儂らが首輪|扱《あつか》いにされとるところは気にいらんが〉
「はて、なんのことでしょうね」
楽しそうにとぼけるアルベール。
「ま、ともかく。ジネットさんにアルトさん、あなたたちの滞在《たいざい》先はすぐに用意します。それから護衛《ごえい》役としてライアをつけますんで、安心してしばらくのんびりと体力を回復《かいふく》してください」
〈ふむ? この娘が護衛か〉
「え、私? 本気で?」
アルトとライアが、視線を交《か》わし合う。
「不満があるようでしたら他の人選も考えますが、一番の適任だと思いますよ」
「いやぁ……いいけどさ、私が抜けちゃってこっちは大丈夫なの、戦力的に?」
「まぁ、なんとか、ね」
〈……ならば、その言葉に甘えよう。この娘ならば戦力としても申し分ない〉
「では、そういうことで。
ああ、それからですね。いま、うちの国の情報組織が総力《そうりょく》をあげて王国《パレス》からの追っ手について調べてるんで。まぁ、近いうちにいい感じのニュースを聞かせられるんじゃないかと――」
面白くない。
ジネットは意識を会話から引き剥《は》がし、なんとなく窓の向こうへと向けた。今いるここは三階の高さにある廊下であり、だからもちろん、その高さに見合った広々とした光景が見えている。
人、人、人。
どこからどうやってこんなにかき集めた、と誰にともなく問い詰《つ》めたくなるような、とにかく大量の人の波。
(――む?)
人の欠けた一角《いっかく》がある。
興味を惹《ひ》かれてよく見てみれば、どうやら対峙《たいじ》する二人の少年を取り囲むようにして、広めの部屋ひとつぶんほどの円形の空間が出来上がっているようだった。そしてその少年の片方には、とてもよく見覚えがあった。
「――リュカ――?」
ぽつり、その名前が唇《くちびる》からこぼれ出る。
少年たちの手には、それぞれに剣が握られていた。
灰色の髪の少年が剣を振るう。リュカがそれを弾《はじ》く。手を休めず、灰色の少年が続けざまに猛攻《もうこう》を仕掛《しか》ける。だがリュカは難なくそれを凌《しの》ぎきってみせる。
(――凄《すご》い)
特に洗練《せんれん》された動きではない。特筆《とくひつ》するほど疾《はや》いわけでもないし、力に満ち溢《あふ》れているということもない。けれど、繰《く》り出された攻撃を防《ふせ》ぐというその一点を、リュカの持つ剣はひたすら堅実《けんじつ》に実行し続けている。そしてその一点は、決して崩《くず》れない。
相手の少年も、決して素人《しろうと》ではない。目を惑《まど》わす大きな剣の振り、無駄《むだ》の少ない滑《なめ》らかな動線。単純に剣の技術を比較するならば、少年のそれはリュカの上を行くだろう――だが、そんなものでは、リュカを切り崩すことはできない。
知らず、ジネットは立ち止まって、その光景を眺《なが》め見ていた。
「あー、またやってるんだ、リュカ」
のんびりと、アルベールが呆《あき》れたような声を出した。
「……また?」
気にかかった。
「あれは、何をやっている?」
「古《ふる》きよき風習を現代に受け継《つ》いでいくってのが、学術院《ライブラリ》の方針《ほうしん》でしてね。まぁ二百年前とはだいぶ作法《さほう》が違うとは思いますが、あれは決闘《デュエル》です」
「……ほう」
振り回しているものは、綿を巻いた木の剣。多少手ひどく打たれたところで、死に至《いた》ることはまずないだろう。だから確かに、二百年前とは作法が違う。けれど、
「大切なお姫様を守るために、群《むら》がる有象無象《うぞうむぞう》を追い払ってるわけです……ああ、もちろんこのお姫様ってのはもののたとえですよ?」
ああ、なるほど。確かに、彼ならば、そんな理由で戦ったりもするだろう。お姫様を守る、おとぎ話のような騎士《きし》の戦い。
本当に、二百年前とは、色々なものが違う。
当時、騎士と呼ばれていた連中は、あんなに綺麗《きれい》な人間ではなかった。戦いの理由は汚《けが》れていたし、戦いの勝者に与えられるものはもっと分かりやすい富《とみ》だった。
――物語の中に語られるものは、物語の中にあるからこそ美しい。
魔法や、魔女や、騎士や、姫君。物語の外に飛び出したそれらは、あまりに忌《い》まわしく、そして汚らわしかった。
けれど……リュカ・エルモントは、
「あの男は、大切でもない薄汚れたお姫様[#「お姫様」に傍点]を守るために、伝説の英雄《えいゆう》にまで立ち向かったぞ」
あんなにもまっすぐに、人を守るためだけに、戦うことができる。
「伝説の英雄? まさかレオネル・グラントに、特攻《とっこう》? 彼が?」
アルベールは目を丸くして、
「それは……なんともひどい無茶を。よく無傷《むきず》で生還《せいかん》してくれたものです」
やれやれと首を振る。
「無傷どころか、幾度《いくど》かは殺されていたな」
「へ?」
〈……ジネット〉
咎《とが》めるような、アルト者の声。それ以上は情報を漏《も》らすなと釘《くぎ》を刺《さ》してきた。ジネットは肩を小さくすくめて、
「一度は、私が殺した」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、それってどういう意味」
「さあ。目付け役が煩《うるさ》いので、これ以上は話せないな」
アルト宅の厳《きび》しい視線を涼《すず》しい顔で受け流しながら、ジネットは体練場《グラウンド》のリュカから目を離《はな》した。戦いはもう終わろうとしている。最後まで見ずとも勝敗は分かる。不死者《レヴナント》とまともに切り結べるような男が、こんなところであんな相手に負けるはずがない。
ああ――羨《うらや》ましいな。
素直に、そう思う。
彼の中にある、本当に美しい、ひとつの信念《しんねん》。
それを折らぬようにと、ただそれだけを理由にして、戦い続けられるその姿。
「本当に――アヴィンに、よく似ている」
微笑《ほほえ》んだ口元から、その名前が、こぼれて落ちた。
〈…………〉
その呟きが聞こえていたはずなのに、アルト老は黙したまま、何も言わない。聞かないふりをしてくれている、そのことを素直にありがたいと思う。こんな情けない泣き言のことは、あまり追及してほしくはない。
ふと――振り返る。
廊下の壁《かべ》に背をもたれたライアが、にこにこと例の笑顔を浮かべたまま、こちらを見ている。互いの視線が交《まじ》わると、「はぁい」と小さく手を振られた。
何だろう。小さな違和感《いわかん》。
なぜこの女は、壁際《かべぎわ》にいるのか。なぜ自分たちと一緒に窓の外を見ないのか。そんなどうでもいいはずのことが、わずかに気にかかった。
12.
荒々《あらあら》しい足取りで、ロジェ・ヴィルトールは自分の執務《しつむ》室に戻《もど》った。
「よう。邪魔《じゃま》してるぜ」
男の声が出迎《でむか》えた。
骨のように白い髪に、同じ色の無精髭《ぶしょうひげ》。多少ならずくたびれたロングコート。年は三十の半《なか》ばといったところか。あまり学術院《ライブラリ》の景観《けいかん》には似合わないその男は、悪戯《いたずら》を咎《とが》められた子供《こども》のような顔で笑う。
「……久しぶりに見る顔だ。どうしてきみが学術院《ここ》に?」
「いや、ちょっと困っててよ。協力者[#「協力者」に傍点]のあんたに頼《たの》みがあるんだ」
「気軽に頼《たよ》られても困る。私はここで責任のある立場であり、きみは王城《パレス》で高い地位を持つ人間だ。勝手にこんなところまで入り込んでくるのにも感心はできない、誰《だれ》かに見咎められたらどう言い訳をするつもりだ?」
突き放すようなその言葉に、男は、唇の端を歪めて小さく笑う。
「そんなへマしねぇって、心配性《しんぱいしょう》だな……んで、随分と機嫌《きげん》が悪いようだが、あんたも何か厄介事《やっかいごと》でも抱《かか》えてんのか?」
「そういうことだ。この上ないほど厄介な事態に追い込まれた――」
「銀髪の姫さんがこの街に来た、ってか?」
「――何か、知っているのか?」
「そりゃ知ってるさ。エブリオで仕留《しと》め損《そこ》ねて、ここに逃げ込まれたばっかりだ」
しれっとした顔で、男は……ペルセリオ王城所属《パレスしょぞく》の帯剣騎士《カヴァリエレ》、クリストフ・デルガルは答えた。
「いやはや、二百歳の年の功《こう》ってのはシャレんなんねぇな。魔法らしい魔法もほとんど使えねぇ状態だってのに、トドメだけは器用にするする避《よ》けやがる。
死にかけの魔法使い一|匹《ぴき》を片付けるだけってな、楽な仕事だと思ったんだがなぁ。こんなに面倒な長丁場《ながちょうば》になるたぁ、世の中分からんもんだ」
「なるほど。ではきみの頼みというのはつまり、」
「多くは望まねぇさ。姫さんの居場所を突き止める手伝いだけしてくれりゃいい。
いちおう街に狩猟《しゅりょう》用の木偶人形《でくにんぎょう》をばら撒《ま》いてはきたけどな、|夜の軟泥《ワルプルギス》が枯《か》れかけた相手を捜すにゃ、木偶の鼻は向いてねぇしな。だからこの街のお偉いさんに知恵《ちえ》を借りたいわけさ。
あんたにとっても、姫さんは邪魔な相手のはずだ。悪い話じゃないだろ?」
「悪いというか何というか……とにかく、きみがドースで詰めを誤《あやま》った結果、今ここで私が胃の痛い思いをしているのだということは、よく分かった」
「はぁ?」
ロジェは軽く眉《まゆ》を寄せて、
「学術院《ライブラリ》は、ジネット・ハルヴァンと同盟関係を結んだ。アルベール・エルモントの独断により、そういうことになった」
「……なんだそりゃ? 同盟? 姫さんが、学術院《あんたら》と? まじで?」
「どこかの誰かが半端《はんぱ》に追い込んでくれたからな、ジネット姫は今、選択肢《せんたくし》がない状況《じょうきょう》に追い込まれている。その結果がこれだ」
しみじみと、答える。
「おそらくは現在、彼女は第六書庫の戦力の庇護《ひご》下にあるだろう。そしてまず間違いなく、『|金狼の住処《オンブラージュ》』が護衛《ごえい》についた――現在の彼女が単騎《たんき》で戦力となりえない以上、そのくらいの手は打っているはず。
そしてその仮想敵となっているのは、王城《パレス》の帯剣騎士、『|木棺の宣誓《アニュレール》』の主《あるじ》であるクリストフ・デルガル。もちろんきみのことだ」
「うげええええ」
「喚《わめ》きたいのは私のほうだ。これでは、第六書庫にもジネット姫にも、うかつに手を出すことができなくなってしまった」
爪の先を噛《か》む。
「率直《そっちょく》に尋ねるぞ、王国の帯剣騎士。きみの力で、『|金狼の住処《オンブラージュ》』は潰《つぶ》せるか?」
「……難しいな」
クリストフは肩をすくめ、
「仮にも学術院《ここ》のエースだろ? 殺《や》って殺《や》れねぇってこたないだろうが、それもこっちが完調《かんちょう》で一対一の場合の話だ。相手がそのクラスじゃ安モンの木偶人形がいくらあっても大した意味は無《ね》ぇだろうし、高価な人形[#「高価な人形」に傍点]の三、四体はねぇと話にならん」
「今から造《つく》ると、どのくらいの時間がかかる?」
「最低で、半月。しかも刻印《ブランディング》と相性のいい素材を探す時間は別計算だ」
「……そこまで悠長《ゆうちょう》にやっている場合でもない、か」
ロジェは嘆息《たんそく》し、
「仕方がない。『|金狼の住処《オンブラージュ》』のことはひとまず置いて、向こうの陣営《じんえい》を切り崩すところから始めてもらうか」
ロジェは、机の引き出しから一枚の写真を取り出して、クリストフに見せる。
糸のように細い目の上に度の浅《あさ》い眼鏡《めがね》をかけた、赤毛の少年の姿が写っている。
「……誰だこのガキ?」
「詳《くわ》しくは話さないが、第六書庫の切り札、もしくはそれに関係している人間だ。これをこちらで手に入れれば、戦力バランスを突き崩せる」
「へぇ? そんな大層《たいそう》な魔法使いにゃ見えねぇけどな」
「一般人《いっぱんじん》だ。しかし、それでもこの少年が切り札になる」
「そりゃまた、何で?」
「そこまでは話さない。きみはただ、彼を私のところまで連れてきてくれればいい」
「……俺は、あんたの部下じゃねぇぞ?」
「ああ。だからこれは取引だと考えればいい。これをやってくれれば、私はきみが|銀髪の姫君《ジネット》を仕留めるためのお膳立《ぜんだ》てを整えることができる」
しばし二人は無言で、その視線だけが絡《から》み合う。
「『金狼』を片付けられるだけの切り札だってのか、それが?」
「私になら、そのように使える。その言葉の意味は判《わか》るな?」
がたん、と――小さな音をさせて、椅子《いす》に腰を下ろす。
「どうやらこの政治ゲームは、どうあがいても私の負けだ。
悔《くや》しいが、そこまでは認めないわけにはいかない。エルモントという指《さ》し手のことを、今日までずっと見誤《みあやま》っていた」
肘《ひじ》をついて指を組んで、その上に自らの額《ひたい》を載《の》せて、
「だからもう、ゲーム盤《ばん》をひっくり返すことに決めた。きみもこの敗戦《はいせん》の一因《いちいん》となったプレイヤーなのだから、たっぷりと手伝ってもらうぞ?」
13.
リュカの頬《ほお》に柔《やわ》らかいものが触《ふ》れて、そして離れた。
小さなぬくもりが、すぐに空気に溶《と》けて消えた。
(――え)
思わず息が止まった。
筋肉が凍《こお》りついた。
全身の肌《はだ》が神経に化《ば》けた。
強引《ごういん》に瞳《ひとみ》を動かして、そこにいる少女の姿を確認《かくにん》した。
長い睫《まつげ》が、憂《うれ》うように小さく揺《ゆ》れている。翠玉《すいぎょく》の瞳が、優《やさ》しい微笑《ほほえ》みの形に細められている。さらり、と銀色の髪のひと房《ふさ》が、流水《りゅうすい》のようにほどけて風に泳ぐ。
小さな唇《くちびる》の桜色《さくらいろ》が、妙に艶《なまめ》かしく輝《かがや》いて見える。
(な――な、な――!?)
一言で言えば、美しい少女である。
二言で言えば、むちゃくちゃ美しい少女である。
三言以上の言葉を探そうとすると、脳みそが茹《ゆだ》ってそれ以上何も考えられなくなった。若く健康な青少年にとって、至近《しきん》距離に魅力《みりょく》的な異性の顔があるという事実はそれだけの破壊《はかい》力がある。
(っていうか、何やってんだよジネット!?)
おかしい。いくらなんでも、この展開はおかしい。こいつはこういう人間じゃないし、自分たちはこういう関係じゃないし、つまりこういう状況になることはそもそも考えられないし、だからとにかく、何かがおかしい。
飛び上がり、わめきちらしながら距離をとろうとした。少なくとも脳はそういう命令を全身に送ったはずだった。けれど体はまるで言うことを聞かなかった。鎖《くさり》で縛《しば》られたように身動きひとつしない。うめき声のひとつすら、まともに出なかった。
その苦悶《くもん》に、ジネットは気付いたようだった。
すっとその白い手が伸《の》ばされると、指先がリュカの頬に触れた。
「――――――――」
睦《むつ》み言《ごと》のように、優しく少女の声が何かを囁《ささや》いた。
何を言っているのかは聞き取れなかったけれど、鼻の頭を軽くくすぐったその吐息《といき》の優しさだけは感じ取れた。
(だああああ、だから何なんだってんだよこの状況!?)
わけがわからない。
けれどまさか、このままおとなしく状況の推移《すいい》を見守っているわけにも……いやそれはそれで非常に魅力的な案ではあるが、やはりそういうわけにはいかない。
動かない全身に無理やりに力を込めて、とにかく体をひねって少女から距離をとろうとして、ごろんと天地が一周ひっくりかえって、そして。
がつんと一発、後頭部《こうとうぶ》に大きな衝撃《しょうげき》。
「……んが――っ!?」
気絶しそうなほどにはっきりと目が覚めた。
目の前に散る大量の火花が収まるのを待ってから、辺りを見回した。小さく炎《ほのお》の揺《ゆ》れている暖炉《だんろ》、並べられたソファに、背の低いテーブル。なんだ今のすごい音はとこちらを見下ろしている学生が若干名《じゃっかんめい》。
談話《だんわ》室。
学生たちの憩《いこ》いの間として学術院《ライブラリ》が用意した小さな空間。
だが、そうでなくても普段立ち寄らない東校舎のさらに端という場所にあるせいで、微妙《びみょう》に使いづらく、あまり利用する学生は多くない。せいぜい冬場にヒマをもてあました学生が、暖炉とソファという魅力的な組み合わせに惹《ひ》かれて寄ってくるぐらいだ。
そしてどうやらその事情は、創立祭の最中という今の時期であっても変わらないらしい。静かな休息を望む者にとっては願ったり叶《かな》ったりの、夢のユートピア。知る人ぞ知る通好《つうごの》みの休憩《きゅうけい》所。
あの後、フロリアンと別れてから、一休みしようと思い立ったのだ。
そして軽く座って終わりにしようと思っていたのに、いつの間にか寝入《ねい》ってしまっていたようなのだ。
「大丈夫ですか、リュカさん?」
聞き慣《な》れた声で名前を呼ばれて、リュカ・エルモントは顔を上げた。ソファの隣《となり》に腰掛けた栗毛《くりげ》の少女が一人、心配そうにこちらを覗《のぞ》きこんできている。
「……あー、大丈夫だ」
後頭部にできた立派なコブをさすりながら、リュカは起き上がる。
「寝てたのか、俺?」
少女……アリスはこくりと小さく頷《うなず》くと、
「はい、それはもう可愛いくらいにぐっすりと」
「いや、それよく意味わからんし」
「そうですか? 我ながらうまいこと言ったもんだと思うんですけど」
不思議そうな声を出すアリスをよそに、リュカは自分が転げ落ちる前に座っていたソファに腰掛けなおす。背もたれに体重を預《あず》けて、深く息を吐く。
「……寝てたんだよな、俺」
「はい、それはもう危険なくらいにぐっすりと」
相変わらずよく分からないことを言うアリスのことは無視《むし》して、別のことを考える。
前提《ぜんてい》その一。たった今まで自分は居眠りをしていた。
前提その二。目を覚ましてみたら、銀髪の彼女の姿はきれいに消えていた。
では問題。以上の前提から導《みちび》き出される結論をひとつ、若くて健康な青少年やらの苦悩《くのう》を込めてシンプルに答えてみやがりなさい。
「……夢かよ」
ごん。
額を勢《いきお》いよくテーブルにたたきつけた音。
「な、何やってるんですか?」
「いや……ちょっと死にたい気分になったからさ」
「爽《さわ》やかな顔で何言ってるんですか!?」
「悟《さと》ってしまったよ俺は。人間は冒涜《ぼうとく》する生き物なんだ。美しいものがあったら穢《けが》さずにはいられないんだ。だから尊《とうと》きものを尊いままに保っておきたいならば、全ての人類は死滅《しめつ》しなければならない。というわけで、まずは俺からゴートゥーヘル」
「穏《おだ》やかな顔で何言ってるんですか!?」
「若さって罪だよな。そして罪は裁《さば》かれないといけないと思うんだ」
「はぁ……」
アリスは疲れたような声で首を振って、
「もういいです。これ以上はつっこみませんよ」
「なんだ、つまらん」
リュカは改めて身を起こし、再びソファに背をもたれ、
「……なぁ、アリス」
隣に座る少女の名を呼んだ。
「何です?」
「お前、いつからそこにいるんだ?」
「えーと、十分くらい前でしょうか。本を読もうと思ってここに来たんですけど、ちょうどリュカさんが居眠りしてたので、こうして隣にお邪魔《じゃま》することにしたんです」
「そうか」
「そうです」
しかし、暖炉の火の暖かさと革張《かわば》りのソファの柔《やわ》らかさとが、体の芯《しん》のほうに溜《た》まっていた疲れを引っ張り出してきて、気がついたら……という表現も微妙《びみょう》だが……ああやって居眠りを始めていた。
――壁の時計を見て確認する。どうやら自分が眠っていた時間は、三十分ほど。
「…………」
「…………」
二人、視線が絡《から》み合う。
思い出す。先ほどのあの夢は、確か頬《ほお》に何かが触れた感触《かんしょく》が引き金になったのではなかったか。
「……お前、寝てる俺に何かしたか?」
「いいえ、何にも」
視線をそらして、妙に高い声で、アリスは答えてきた。
「…………」
「…………」
べし。その頭に軽く拳《こぶし》を落とす《一》。
「な、なんでですかっ」
「やかましい、さっきの夢、ようするにお前のせいなんじゃねえか!」
「え、えええっ!?」
それは、いつもどおりと言えばいつもどおりのやり取り。いつだってそばにいる人と繰《く》り広げる、いつまでも続いていくだろう日常の姿。
「…………」
アリスの顔を見る。
きょとんと丸くなった黒色の瞳が、こちらを見返してくる。
可愛い娘なのだ――本当に今更《いまさら》ながら、そんなことを思う。
しかも性格もいいし、よく気がつくし、こういう風に美点を挙《あ》げていくのがいちいち面倒《めんどう》に思えてしまうくらいによく出来た娘なのだ。
そして……
「なあ」
「はい」
「聞かないんだな」
「何をです?」
「昨夜の、あいつのこと」
アリスは首を傾《かし》げて、
「何も聞くなってお話だったじゃないですか」
「……そりゃまぁ、そうだけどよ」
怪我《けが》をした女の子(美人)を連れ込んだんだが、何も聞かずに手当てしてくれ――
こんな怪《あや》しい頼み、まず引き受けるほうからどうかしている。そして引き受けたとしても、事情を知りたくはなるはずだ。そしてそのことが、多かれ少なかれ態度に出るはずだ。それが普通の反応であるはずだ。
なのに、いま目の前にいるアリスは、いつものアリスと何も変わらない。
「そりゃもちろん、出来ることなら聞きたいですし、知りたいですし、もう全力で問い詰めたいですよ? でもリュカさん、わたしがそうするのを望んでないわけですし……」
唇《くちびる》のあたりに指をあてて、難《むずか》しい顔になる。
「……実のところ、ちょっとだけ嬉《うれ》しかったりもしてるんですよ。話せないくらいにややこしい状況なのに、それでも、わたしに頼ってくれたわけじゃないですか。ピンチのときに名前を思い出してもらえるって、実際かなり光栄《こうえい》な話だと思うのですよ」
うんうん、と一人頷く。
「差し引きしちゃえは充分にプラス。だから、それでいいんです」
いつも通りのアリス。いつも通りの笑顔。
「本当に、それでいいのか?」
「聞かないでくださいよ、一度決めたんだからもう迷いたくないです」
こいつは、自分を必要としてくれている。それを態度に出して、言葉にしている。
それがこんなにもありがたいのは、多分いまの自分が、いつもの自分ではないからだ。こんなにも――愛《いと》しくすら感じるのは、やっぱりいまの自分が、本来のリュカ・エルモントではないからだろう。
調子が狂《くる》っている。
いつからだろう。そして、どうしてだろう。
「なぁ、アリス」
「はい」
「俺、ずいぶん長いこと、お前が泣いてるとこ、見てない気がする」
「……なんです、薮《やぶ》から棒《ぼう》に」
「昔、もっと泣き虫だったろ、お前。犬に追いかけられちゃあワーワー泣いたし、俺が決闘《デュエル》するたびピーピー泣いたし……」
それだけではない。
昔は、リュカが何かの隠《かく》し事をすると、ただそれだけで、泣き出しそうな顔になって睨《にら》みつけてきたものだった。その顔をされるのが嫌《いや》で嫌でたまらなかったから、アリスには出来るだけ秘密《ひみつ》を作らないようにしてきたのだ。
アリスは、なぜかふふんと自慢《じまん》げに鼻を鳴らして、
「犬に追いかけられたときは、助けてくれたリュカさんが大ケガしたから泣いたんです。決闘《デュエル》のことについては言うに及《およ》ばず、どこかの誰かさんが全力フル回転で助けに来てくれちゃうから、もう泣くしかなかったんです。
だから……学習したんですよ、わたしは」
「何をだ」
「世の中にはね、すごくすごく困ったタイプの人種がいるんです。誰かが泣いてたら、助けずにはいられない人。誰かが泣きそうだったら、それもやっぱり助けずにはいられない人。そしてそのたびに傷だらけになって、それでもにこにこ笑ってくれる人――」
「へぇ、そんな奴がいるのか」
「何ていうのかな、あれはもうビョーキというか、やっぱそういうイキモノなんだって考えるしかないですね」
「そりゃ珍獣《ちんじゅう》だな」
「ええもう、速攻《そっこう》で餌付《えづ》けしてめろめろにしてやりたいくらいに珍獣です。とにかくですね、その人は、誰かの涙《なみだ》を見たらその瞬間にはもう動いちゃってるんです。状況判断とかそういうの、かんっぺきに無視しちゃってるんです。最低限の生存本能とかそういうものをもうちょっと大事にしたほうがいいって言いたくなるくらいに反射的で何も考えてないんです。そんな人がすぐ傍《そば》にいて、五年も経《た》ったんです」
あはは、と小さく笑って、
「わたしだって少しは鍛《きた》えられちゃいますし、意地《いじ》だって張るようになります。
この人の前じゃ絶対に泣いちゃだめだって、決意しちゃったりすることもあるんです」
控《ひか》えめに、ちょっとだけ胸を張る。
太陽が傾《かたむ》く。灰色の空が朱色に染まる。
もうすぐ祭《まつり》が、一年に三日間だけの宴《うたげ》が終わる。
少しずつ、街から人の姿が減っていく。
観光客たちは駅に殺到《さっとう》し、列車に揺られながらそれぞれの現実の中へと帰ってゆく。そしてもともとこの街に住んでいた住民たちは、醒《さ》めたあとの夢の跡地《あとち》で、明日からの毎日をまた歩み始めるわけだ。
ではどこに行こうと考えたところで、曇り空に向かってまっすぐ突き立つ、あの背の高い時計塔《とけいとう》が目に入った。
勝手知ったる立ち入り禁止区域《きんしくいき》。
蜘蛛《くも》の巣をぱっぱと払いながら、先日にも使ったばかりの抜け道を使って中に入り込む。いちおう左右を見回して、管理人のじいさんが近くにいないことは確認しておく。侵入《しんにゅう》者であればどんな相手にも情け容赦《ようしゃ》なくレンチを振るう、実に恐ろしい老人なのである。できることなら見つかりたくはない。
階段を上る。
幅が狭《せま》い上、埃《ほこり》と油で滑《すべ》りやすくなっている。だから慎重《しんちょう》に、一歩ずつ確実に、前へ、そして上へと進んでゆく。
靴《くつ》の踵《かかと》が段を踏むたびに、カツソという小さな音が階段室に響《ひび》く。
「…………」
いまごろ、ジネットたちは何をしているだろう。
もしかしたら、戦っている最中なのかもしれない。相手は昨夜《ゆうべ》遭《あ》った人形どもかもしれないし、もしかしたらそのほかにも何かがいるのかもしれない。あいつらは敵が多いらしい。色んなやつに命を狙《ねら》われているらしい。
まぁ二百年も生きていれば、色々なことがあるのだろう。十七年しか生きていない自分には想像もつかないドラマの数々が、無数の因縁《いんねん》を山盛りで結んでくれたのだろう。まぁレオネルほどの怪人《かいじん》はそうそう転がっていないようだったので、その一点だけは安心していられる、かもしれない。
最上階に出る。
ちょうど、陽光が地平に隠れ終わった瞬間だった。いまだ祭の残滓《ざんし》を残した街には、そのあちこちに煌々《こうこう》と灯《あか》りが点《とも》されている。雲に覆《おお》い隠されたままの空の代わりに、無数の星が地上に散らばっている。まるで、天と地がそのまま入れ替わったような。
ああ――相変わらずの、いい眺《なが》めだ。
「……よっと」
縁《へり》に立つ。ちょうど、前の時にジネットが立っていた場所だ。
吹き抜けになった四方には、柵《さく》も網《あみ》も何もない。ここから一歩でも前に踏み出せばそのまま地上にまっさかさまだろう。
腰を下ろし、傍《かたわ》らのアーチに背をもたれる。
強い風が髪をかき乱し、耳元でうるさく喚《わめ》きたてる。何かの拍子《ひょうし》で飛ばしてしまいそうだったので、眼鏡《めがね》を外すと胸のポケットに押し込んだ。
「…………」
上空で雲が切れ、小さな星空が覗《のぞ》いた。
ぼんやりと、それを見上げる。
――良い眺めの場所ではあるのだ、ここは。
事故が頻発《ひんぱつ》して閉鎖《へいさ》されるまでは、フェルツヴェン屈指《くっし》の観光名所だったというくらいなのだ。
そして一般の人間が閉《し》め出されるようになったその後も、近所の悪ガキどもにとっては相変わらずの、いやもしかしたらそれ以上の人気を誇《ほこ》っている。管理人のじいさんの目を盗《ぬす》んで忍び込み、ここまで駆け上がってきて景色を堪能《たんのう》する。それを達成《たっせい》することによって勇気ある男と認められ、尊敬を集められるのだ。ちなみにリュカはそれをフェルツヴェンに来たその年のうちに達成した。
(……泣きべそかいたアリスに怒られて大変だったんだよな、あんときは)
懐《なつ》かしいことを思い出して、口元に小さな笑みが浮かぶ。
手のひらを、灰色の空にかざしてみる。
剣に馴染《なじ》んであちこちの皮が硬《かた》くなっている。小さな頃に釘《くぎ》で貫《つらぬ》いてつけてしまった傷の跡《あと》が白く残っている。どこをどう見ても、長く見慣《みな》れた自分の手だ。
――あの夜に、一度は確かに、なくしてしまったはずのもの。
『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』。
その言葉が意味することを、自分はまだ、詳《くわ》しく知らない。
周りの人間が何度となく口にしているのを聞いた。けれどその意味については、簡単な説明を受けただけにとどまっていた。
それは、魔法書の名前なのだという。
二百年前、ジネットらが不死者《レヴナント》となったあの事件のあとに、はじまりの魔女フィオル・キセルメルが書き著《あらわ》した最後の……そして最強とされている魔法書なのだという。
その本の手がかりが、この自分の体なのだという。
五年前にエブリオが焼け落ちたあの時に、フィオルが魔法をかけて――いや、願い事をして、自分を生き残らせた。その願いの内容はきっと、「リュカ・エルモントが死なないこと」とかそんな感じのものだ。だからジネットに刺されても、レオネルの魔法に食いつかれても、槍《やり》に胸を貫《つらぬ》かれても、自分は死ななかった。
その魔法は一度、解《と》けそうになった。リュカが自分で解いた。そしてそのままリュカは消えていなくなってしまいそうになった。けれどジネットがそれを繋《つな》ぎとめてくれた。だから今、自分はこうして、生きたままでいられるのだ。
アルト老いわく、あれは水の入った大甕《おおがめ》に穴を開けるような行為《こうい》だったらしい。
そして中身の水が涸《か》れるよりも前にジネットが体を張って穴を塞《ふさ》いでくれたから、今もこうして、自分は無事でいられるのだという。
「…………」
本当に、嫌《いや》な状況だと思う。
考えれば考えるほど、気は逸《はや》る。なのに、出来ることは何もない。
いっそこのまま消えてしまおうかと、そんなことをすら考える。もし本当に自分がいなくなることで全てが解決するのなら――ジネットが快方に向かい、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を狙《ねら》ってレオネルのような危ない奴がここに来ることがなくなり、それで誰もが幸せになれるのなら、それもひとつの手段なのではないかと。
やろうと思えば、簡単だろう。
アルト老の言っていたように、ジネットに魔法を解かせる必要は、たぶんない。大聾に開いた穴がリュカ・エルモントを消すというのなら、同じことを繰《く》り返せばそれでいい。もう一度、その大甕とやらの横腹にでっかい穴を開けて、そこから全ての中身をぶちまけてしまえばいい。やり方はよく覚えていないが、一度は出来たことなのだから、やってやれないことはないだろう。それだけで、自分は、簡単に、消えてしまえる。
「……ん?」
何だろう。小さな違和感《いわかん》がある。
あの夜、自分はどうなりかけていただろうか。体が七色の砂粒《すなつぶ》に解《ほど》けて、夜の風に溶《と》けて、跡形《あとかた》も残さずに――そう、消えようとしていた。
この体にかかっていた魔法が解けた後、その結果として、そこには何も残らない。そのことが、妙に気にかかる。苔《こけ》のように薄い不安が心臓にこびりつく。
魔法が解けた後、何も残らない。
魔法がかかっていない状態では、そこには何もない。ならば、
「……まさか」
この体にかけられている魔法は、傷ついた体を補《おぎな》い生命《せいめい》を保《たも》つためのものだと予想《よそう》している。だから五年前の火事の中でも生き残れたし、八日前の戦いの中で何度も死に瀕《ひん》しながらもそのたびに蘇《よみがえ》ることができたのだと。
けれど、その予想では、あの夜のあの光景の説明が出来ないのだ。
もし自分が魔法によって生き長らえているならば、その魔法の庇護《ひご》が尽《つ》きた後に来るべきものは消滅《しょうめつ》ではない。死であるはずだ。人がそれ以上命を繋いでいられなくなった後には、屍《しかばね》が残るはずなのだ。
なのに、自分は、消滅しようとしていた。
それは、一体、どういうことなのか。
「まさか……な」
考えすぎだと思った。
たまたま、そういうことがあっただけなのだと思い込もうとした。
何せ相手は魔法なのだ。人には理解できないめちゃくちゃなシロモノなのだ。それがどれだけ奇妙奇天烈《きみょうきてれつ》な現象を引き起こしたところで、不思議《ふしぎ》は何もない。いやむしろ、不思議を山盛りで抱えていてこその魔法というものだ。
理屈《りくつ》に合わないことがあったって、何もおかしくない。その理屈も、あまり詳しくもない人間が聞きかじった知識だけで組み立てているものなのだから、なおさらだ。
そんな風に自分に言い聞かせながら、再び手のひらを夜空にかざして、
「ん?」
小指の先から、煙《けむり》が出ていた。
最初は、それが何を意味するのかが分からなかった。
誰かの煙草《たばこ》の火でも爪《つめ》の先についたのか――そんなことをぼんやり考えていた。けれど気付いてみれば周りに喫煙者《きつえんしゃ》どころか誰一人として人がいないわけで、つまり目の前にあるこれはそんなどうでもいい理由で片付けられるような現象ではなくて、
――指の先から、七色の光の粒《つぶ》が、こぼれて消えている。
「げ」
喉《のど》の奥から出てきた言葉は、それだけだった。
少しずつ、少しずつ。
比べ物にならないほど小さな規模《きぼ》ではあったが、それは間違いなく、八日前に起きていたことと同じ……体の崩壊《ほうかい》、だった。
「うげ」
少しずつ、少しずつ。
爪の先が、ぼろぼろと欠け落ちてゆく。
今の自分は、おそらく、例の大甕《おおがめ》のたとえで言えば、水が一滴ずつこぼれ出すくらいの小さな穴が開いてしまった状態にある。
何だ、一体何が起きた。自分は一体何を失敗した。どんなバカをやってこの事態を招《まね》いたんだ。それともあれか、別にこれは自業自得《じごうじとく》じゃなくて自分の行動とは関係なく起きてしまった出来事で、だから泣き寝入りを決め込んで受け入れなさいとかいう話なのか。お願いですからそういうのは勘弁《かんべん》してください。確かにもう一回コレやったら自滅《じめつ》できるしそうしたらジネットの問題は解決して万歳《ばんざい》だとか考えてもいましたがだからといって思い立ったら即実行《そくじっこう》というほどスピーディに生きてくつもりはないんです。
しばらくそうやって、何をどうしたらいいのか分からず、さりとて何もせずに呆《ぼう》っとしていることもできず、その場でのた打ち回った。
やがて、七色の粒は勢いを弱めて、そして止まった。
指の先が、少し欠けている。
血もなにも出ていない。ちょうど、そう、人形の部品《ぶひん》が少し欠けてしまったときのような、無機質《むきしつ》な断面が見えている。
「……うわぁ」
いちおう、もうそれ以上、崩壊は進まないようだった。
助かった。いや、決して喜べる状況ではないことは間違いないが、こんなよくわからない理由でいきなりおしまいなどということにはならずに済《す》んだ。
安堵《あんど》に、肩の力ががっくりと抜けて、
がつり。
渦巻《うずま》く風に紛《まぎ》れて、そんな奇妙《きみょう》な音を聞いた。
何だろうと思って、音の聞こえてきたほう――自分の足元に、目をやった。
この時計塔最上階の縁《へり》、床《ゆか》になる部分の端《はし》に、何か奇妙なものが引っかかっている。奇妙にねじくれたナイフのような金属片《きんぞくへん》が四つ。綺麗《きれい》に並んで石材に食い込むその様は、まるで壁面《へきめん》をよじ登ってここに這《は》い上がってこようとする誰かの指先のようにも見えた。
「ん……?」
ほんのわずかな瞬間だけ、これはなんだろうと疑問に思った。
その一瞬に、それは――体を持ち上げた。
表情のない木彫《きぼ》りの貌《かお》が、ぬぅと縁の外側にせりあがってきた。左の眼窩《がんか》に埋《う》まる(もしくは無理やりに押し込まれた)巨大《きょだい》な水晶球《すいしょうだま》が、まっすぐにリュカを睨《にら》みつけた、と思えたのは、さすがに錯覚《さっかく》だろうが。
「なっ」
四本の刃物《はもの》に力がこもる。
それをとっかかりにして、それは、体を床の上へと引き上げる。フードのついた、ネズミ色のマント。そしてその下にあるのは、祭の街にはよく馴染《なじ》んで見える、少しだぼついたありふれた旅装。
人影、ではあった。少なくとも全体としては人の形をして、人の装《よそお》いをしていた。
けれどその両の手首から先、本来ならば人の指が生えているはずの場所には、きちきちと小さくきしむ音を立てる小さなナイフが五本。まるでおあずけをくらったばかりの猟犬《りょうけん》のように、きれいに整列している。
そして何より、この貌《かお》だ。一度見たらもう忘れられるはずがない。人という形を冒涜《ぼうとく》しているとしか思えない、醜悪《しゅうあく》にして異形《いぎょう》の、作り物の貌《かお》。
見覚えがある。昨晩《さくばん》、ジネットに会いに行く途中の道で見かけた、アルト老の言うところの『ただの人形じゃ』だ。確か、|夜の軟泥《ワルプルギス》の匂《にお》いで獲物《えもの》を見分ける猟犬だとかなんとか。
きし。
小さく木のきしむ音。目の前の人形の関節が鳴ったのだ。
人形が、近付いてくる。
まっすぐに、いまこの場所に腰を落としたままの、リュカ・エルモントに向かって。
「心配しなくても、襲《おそ》われはしないんじゃ、なかったのか――?」
アルト老は言っていた。こいつらは粗悪《そあく》な人形で、|夜の軟泥《ワルプルギス》の匂いを追って獲物を見極《みきわ》めるのだと。それはつまり、ジネットのような不死者《レヴナント》――|魔法書の代役《バーント・グリモア》や、あるいは魔法書《グリモア》を所持《しょじ》した状態の魔書使い《グリモア・ハンドラ》のどちらかを探し当て、それに襲い掛《か》かるだけの機能《きのう》しか持たない。そもそも自前の判断力を持たない『木材』を素材にしている時点で、そこまでの機能しか与《あた》えられないということだ。
――やべ。
衝撃的《しょうげきてき》な光景を見たショックで萎《な》えそうになってはいたが、なんとか手足は言うことを聞いてくれた。その場で立ち上がりながら振り返り、そのまま全速力で出口、階段室のあるほうへと走り出そうとした。
がつり。
嫌な音を、もう一度、聞いた。
がつり。
がつ、がつり。
がつり。……がつり。
次々と、音が鳴った。
「ちょ――待て、なんだよ――そりゃあ」
音に、囲まれていた。
ゆっくりと、四方のアーチの下から、人形たちが顔を出してくる。
全部で七体(がつり)いや、たったいまもうひとつ増え(がつり)さらにもうひとつ追加で、九体。それだけの数の人形が、時計塔《とけいとう》の外周をびっしり埋《う》め尽くすようにして、この最上階へと這い上がってくる。
|夜の軟泥《ワルプルギス》うんぬんの話についてはいまだ納得《なっとく》できないが、とにかくこいつらはわざわざ時計塔の壁面でロッククライミングなどをやらかしながら、こんなところにまで登ってきている、それは事実だ。
そしてどうやら、認めたくないことながらも、こいつらの標的になっている哀《あわ》れな犠牲《ぎせい》者は、このリュカ・エルモントであるようなのだ。
「俺、なんか、した……?」
泣きべそをかきたい気分で、リュカは身構える。こっちは素手《すで》で、生身《なまみ》で、常人《じょうじん》で、しかも一人。向こうは完全武装《かんぜんぶそう》で、そもそも木製《もくせい》だから結構堅《けっこうかた》そうで、石造《いしづく》りの時計塔の壁面をよじ登るようなトンデモ能力の持ち主で、しかも合計九体。
正直に言おう。今は、何かを思い切りブン殴《なぐ》りたい気分ではあった。
自分の無力感を紛《まぎ》らわすためという情けない理由で、何かと思い切り戦いたいと、頭の片隅《かたすみ》ではそんなふうに考えていた。
ワァーオ、おめでとう、物騒《ぶっそう》な俺!
そんなこと考えてるから、願いが叶《かな》って、思い切りブン殴っても誰にも怒られない強敵が現れちゃったぞ。しかも一匹ご注文につき同じものを八匹おつけしてお値段|据《す》え置《お》き。なお返品そのほかは一切《いっさい》受け付けません。
泣いていいですか。だめですかそうですか。
……逃げだすことを、真剣《しんけん》に検討《けんとう》することにした。
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▼promnade/
クレマンの言っていたことは、真実《しんじつ》だった。
いや、それすら真実の一面に過ぎなかった。彼の子供は、事実、とんでもない天才だった。読破《どくは》したというクレマンの蔵書《ぞうしょ》の内容をほぼ残らず理解していた。
近代における蒸気技術《じょうきぎじゅつ》の発展に貢献《こうけん》した人間の名前を一通り聞いてみた。スヴォルツカ文化の発祥《はっしょうち》に関する二大仮説の詳細《しょうさい》とそれぞれの矛盾《むじゅん》点について尋ねてみた。ドース十七|喜劇《きげき》のうち、読んだことのあるものの感想を語らせてみた。
絶句《ぜっく》するしかない結果が出た。
そのどれもに、膨大《ぼうだい》な知識を背景とした答えが返ってきたのだ。単純な知識量で言えば、今すぐに学術院《ライブラリ》の卒院資格《そついんしかく》を与えてしまっても良いのではないかと思えるほどに。しかしその知識を扱う肝心《かんじん》の少女が幼《おさな》すぎた。ただ本に書かれていたことを受け入れ、それを信じることでだけ、少女の中に出来上がっていた膨大な知識はまとめられていた。
この娘に、師をつけたい。
そして、世界に触れさせてやりたい。出奔《しゅっぽん》したとはいえ、もとは学術院に在籍《ざいせき》していたクレマンがそう考えたのも無理はない。そして、現在もなお学術院に籍を置き続けているアルベールもまた、当然のようにそう思った。
「本格的な勉強? うーん……」
床の上にじかに寝転がって、まるで読み物本のような気軽さで『剣の散る丘』を眺め読んでいたクローディア当人は、その話にそれほどの魅力を感じている風でもなかった。
「本を読んでるのは楽しいよ? でも別に、それで生きていきたいってほどじゃないしなぁ。エブリオ好きだし。母さんのシュガーパイ大好きだし」
その答えには、アルベールは苦笑《くしょう》するしかなかった。
確かに、この村を出たことのない――さらに言えばいまだ十三でしかないというこの幼い娘に、それ以上の答えが期待できるはずもなかったのだ。
「リュカなんかは、村《ここ》、出たがってるみたいだけど。先月だったかな、大きくなったら街に出るんだーって言い出してたし。
あの子連れてったげるってのはだめかな、伯父《おじ》さん?」
駄目《だめ》ということは、決してない。会ったばかりとはいえ、可愛い甥《おい》である。教育を受けたいというならば、その願いを叶えてやりたいと思う。
けれど、それとこれとは全く別の問題なのだ。一種異様《いっしゅいよう》なまでのこの才能を持つのはクローディアであり、リュカではない。
それに――
文章として書かれているものを理解するということに対する卓越《たくえつ》した才能。それは、もしかしたら、ただ学問を修《おさ》めるのに向いているという以上の道を、彼女に対して拓《ひら》くかもしれない。
この娘の父親であるクレマンにも、その可能性には気付《きづ》き得《え》ない。それは学術院に残り、第六書庫の存在を知り、それに関《かか》わり始めてしまった自分《アルベール》にしか見抜くことのできない、ひとつの可能性。
この娘にならば、もしかすると、魔法書《まほうしょ》を読み解けるかもしれない――
それから一年ほどが経《た》った、ある秋の日だった。
巨大な炎がこの村を包み込み、何もかもを焼き尽くした。
生き残ったのは[#「生き残ったのは」に傍点]、子供がただ一人だけだった[#「子供がただ一人だけだった」に傍点]。
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▼scene/4 迷いにその身を焼いて 〜dance with dolls〜
14.
静かだった。
その場の二人ともが、何も言わなかった。
笑うでもなく怒《おこ》るでもなく悲しむでもなくほかの何をするでもなく、ただ黙《だま》っていた。ライア・パージュリーは静かに紅茶のカップに口をつけていたし、アルト・バルゲリアルは砂糖壷《さとうつぼ》から頂戴《ちょうだい》した角砂糖《かくざとう》に無言でかじりついていた。
そしてこの二人のほかに、この部屋には誰《だれ》もいなかった。
エルモント邸《てい》の居間。
本来の主《あるじ》であるアルベールの姿も、正しくこの家の住人であるリュカの姿も、そしてなぜかジネットの姿さえも、ない。
こち、こち、こち、こち。
部屋に漂《ただよ》う空気の異常《いじょう》さに気付くこともなく、柱時計《はしらどけい》だけが律儀《りちぎ》にそしてそっけなく、正確に時を数え続ける。一秒が経《た》ちましたよ、また一秒が経ちましたよ、さらに一秒が経ちましたよ――延々《えんえん》と、延々と。
二人は何も言わない。
ただただ静かに、時が過ぎるのを待っている。
テーブルの上には、三人分の料理。羊肉《ようにく》のトマト煮《に》に大盛りのサラダ、香草《こうそう》のスープに、パンのバスケット。ゆっくりと吐《は》き出される白い湯気《ゆげ》が、少しずつ少しずつ、その勢《いきお》いを弱めていく。
簡潔《かんけつ》に言ってしまえば。
それは、めっちゃくちゃに、気まずい雰囲気《ふんいき》だった。
〈――どこに消えおった、あのバカ娘《むすめ》が〉
ぽつり、アルト老が呟《つぶや》いた。
〈リュカがここを離《はな》れとるのはまだ分かる。が、あのバカ娘が出歩く理由など何もなかろうに。いつどこで王城《パレス》の犬が追いついてくるか分からんちゅうに、ほいほい気軽《きがる》に出歩きおって。これでは護衛《ごえい》を受け入れた意味がまるでないではないか〉
「そうねぇ……」
しみじみとした声で、ライアは答える。
「まさか一日目から、お爺《じい》さんと一対一でお見合いになるとは思わなかった」
〈そりゃこっちの台詞《せりふ》じゃ〉
がり。不機嫌《ふきげん》そうに、小さな歯が角砂糖を削《けず》る。
「――ねぇ。前から気になってたんだけどさ、聞いてもいい?」
〈何をじゃ〉
「その体、もしかしてアルダ・マルクの作品?」
ぴたり、とアルト老の動きが止まる。
〈ふむ。どうしてそう思う?〉
「んー……頬《ほお》のラインとか睫《まつげ》の植え方とかリボンのセンスとか、そんな感じの印象が。最初はドロワート工房の初期作かなーとか思ってたんだけど、あそこの作品だったら歯が全部|揃《そろ》ってるなんてマニアックなつくりはしてないだろうし」
〈ほう。なかなか良い鑑定眼《かんていがん》じゃの。じゃが惜《お》しいな、このぷりちーぼでーを造ったのはアルダではなく、その祖父《そふ》のほうじゃよ〉
誇《ほこ》らしげに言いつつ、くねくねと腰《こし》を動かしてみせる。
「……メディ・マルク!? うそ、そんな骨董品《こっとうひん》、現存《げんぞん》してたの!?」
〈くくく、儂《わし》ら|魔法書の代役《バーント・グリモア》が偽《いつわ》りなど言うわけがなかろう。しかも奴が若いころにプライベートで作った試作品《しさくひん》じゃぞい〉
嬉《うれ》しそうに、低い声で、笑う。
「ちょっと。今すぐその体から出ていきなさい。学術院が丁寧《ていねい》に保管したげるから」
嬉《うれ》しそうに、低い声で、詰《つ》め寄《よ》る。
〈なしてそうなるっ!?》
「当たり前でしょ、本来ならそれ、未来に残さなきゃいけない人類の財産《ざいさん》なんだから! それをお爺さんが着たまま出歩いてるなんて、どう考えても保存状態《ほぞんじょうたい》最悪《さいあく》じゃないの! 角砂糖こぼすし!」
〈その程度で何を言う! 自慢《じまん》じゃないが儂の扱《あつか》われかたは最悪じゃぞ! 毎日のように蹴《け》られ踏《ふ》まれ投げられどつかれ、何度となく首が取れかけとるんじゃからな!〉
「いいいやああ、人類の文化がああっ!?」
戦慄《せんりつ》の表情で悲鳴《ひめい》をあげて、大きくのけぞって――
すぐに静かに、なる。
「まぁ、そんな話は、この際《さい》どうでもいいねよね」
空《から》になったカップの中に、紅茶を注《つ》ぐ。
〈自分で話ふっといたくせに、随分《ずいぶん》突然に冷静《れいせい》になるんじゃな〉
「あんまりそういう状況でもないみたいだから。
で、代《か》わりといっちゃ何だけど、もうひとつ別のこと聞いてもいいかしら?」
〈何じゃ〉
「確か共和国《ドース》のほうから追いやられてフェルツヴェンに戻《もど》ってきたのよね? あっちに何しに行ってたの?」
――沈黙《ちんもく》。
〈話しとうない〉
「あら、そう? それなら、無理には聞かないけど」
軽い口調で言ってから、ぐるりと辺りを軽く見渡して、
「それじゃまた話変えるけど、今のお爺さん、戦力《せんりょく》としてはどんな感じなの?」
〈……ゼロじゃ。この街に逃げ込む時に一回|転移《てんい》を使ったでな、あと数日はこの体からは出られんよ。このぷりちーな拳《こぶし》で戦えと言われれば、やらんこともないが〉
言うが早いか、その場で軽《かろ》やかなステップを踏みながら、小さな小さな左右の拳を虚空《こくう》に向けてしゅっしゅと放つ。
「そう――ということは、戦えるのは私だげってことね」
カップの紅茶を飲み干して、ライアは立ち上がる。
視線はまっすぐに、窓の外へと向いている。
〈まあ、そういうことになるわな〉
遊びを止《や》めたアルト考もまた、同じものへと視線を向ける。
生き物の気配《けはい》ではない。殺気《さっき》というのとも、少し違う。
ただ、微弱《ぴじゃく》な|夜の軟泥《ワルプルギス》に囲まれている。
おそらく相手は人形だろう。ひとつひとつは大して脅威《きょうい》とならない敵ではあるが、いまこのタイミングでこれだけの数が集まってきたことに作為《さくい》を感じる。つまりそれは、夜《ワルプ》の軟泥《ルギス》の気配《けはい》を嗅《か》ぎつけて敵を探すのではなく、明確《めいかく》に何者かの指示《しじ》で敵≠認識《にんしき》しているということだ。
つまり、襲撃者《しゅうげきしゃ》の中には、人形の動きをまとめる指揮官《しきかん》がいる。
ひとつひとつは大して脅威とならない人形だが、それは、人形自体の愚《おろ》かさを計算に入れての話だ。人間の判断力によって行動を指示され、さらにはこれだけの数で連携《れんけい》をとって動かれるだろうことを考えると、とても楽観的《らっかんてき》なことは考えていられない。
〈こりゃあ、ドースからついてきとった王城《パレス》の刺客《しかく》の本人じゃな。どっからこの屋敷を嗅ぎつけてきたのかは知らんが、まったくしつこいこっちゃ〉
「……クリストフ・デルガル、だっけ?」
〈知っとるのか?〉
「会ったことはないけど、噂《うわさ》くらいならね。王城《パレス》って、ちゃんとした魔書使いなんて数えるほどもいないから。どんな人? いい男?」
〈こっちがいくら袖《そで》にしてもしつこくしつこくしつこくモーションをかけてくる、熱意《ねつい》と根気《こんき》に溢《あふ》れたナイスガイじゃな。しまいにゃ国境越《こっきょうこ》えて追ってきおったし〉
「うわぁ、お付き合いしたくないなぁそれ」
辺りをぐるりと見回しながら、言う。
〈何にせよ奴が来る以上、狙《ねら》いはあのバカ娘じゃろうな。
幸か不幸か、今あのバカ娘は留守《るす》にしとる。安心して客の応対《おうたい》ができるというものじゃ。というわけで、出迎《でむか》えは任《まか》せてええかの?〉
「だめって言っても、ほかにやる人いないんでしょ?」
言うが早いか、どこからともなくライアの手に一|冊《さつ》の本が現れる。手のひらに少しあまるくらいの大きさの、どちらかというと質素《しっそ》なつくりの表紙。
最近の技術で製本《せいほん》されたものではない。
二百年以上も音に、一人の魔女によって書き著《あらわ》された、それはひとつの手記《しゅき》。
「千億に砕《くだ》けた鏡のかけら、千億に映《うつ》る恍惚《こうこつ》の貌《かお》=v
詠《うた》うような抑揚《よくよう》をつけて、ライアは唱《とな》える。
「|瞳を閉ざせば唯一つきりの闇《ソン・レーヴ・シェルシュ・ル・モンド》=v
空気を揺《ゆ》らさない風が吹《ふ》き抜ける。
世界が塗《ぬ》り替《か》えられる。
導《みちび》きの言葉とともに、解放された|夜の軟泥《ワルプルギス》が辺りに満ちてゆく。
〈――ほう〉
世界が、姿を変えていた。
あらゆる色が、ごっそりと消えてしまっていた。
白と黒と、その中間にある灰色。辺りにあるものの全《すべ》てが、ただそれだけで塗り分けられている。蝋燭《ろうそく》の炎はまぶしいほどの白に輝《かがや》き、紅茶は灰色に揺れ、鍋《なべ》の中のトマトは石ころのような黒いカタマリに成り果てた。
一人、姿をそのままに保ったライアが、立っている。
〈これが『|金狼の住処《オンブラージュ》』か。初めて見るが、随分《ずいぶん》と派手に景色《けしき》を変えるんじゃな?〉
「あんまりお爺さんに手の内、見せたくないんだけどね……」
どこか――離れた部屋から、窓の割れる音。
敵が、来た。
15.
夜の薄闇《うすやみ》の中、幾《いく》つもの不吉《ふきつ》なシルエットが、ゆらりゆらりと浮き上がるように揺れて見える。
瞳《ひとみ》と呼ぶには巨大《きょだい》すぎる濃緑《のうりょく》の水晶球《すいしょうだま》を、まっすぐにリュカに向けて。
人形の一体が、掴《つか》みかかってきた。身をひねってそれをかわす。小指に相当《そうとう》するナイフの先が上着にひっかかる。わずかな抵抗を感じた後に、生地《きじ》がびりりと破れた。
どうやらあれは大した切れ味ではないらしい。そんなことを知っても、何の気休めにもなりはしないが。
「んぎ……っ!」
次々と、襲《おそ》い掛《か》かってくる。九体の人形が振るう九十のナイフが、空間の狭《せま》さをものともせずに、リュカに向かって殺到《さっとう》する。
「いやちょっと待てよこれ普通に怖いだろおい待てってば――――っ」
もちろん、待ってなどもらえない。
あの刃物の指は素手《すで》では受けることも払うこともままならないし、そもそも木彫りの人形を相手に殴《なぐ》る蹴《け》るをして効《き》くとはあまり思えない。だから剣《けん》が欲しい。せめてそのくらいの長さがあって、振り回せそうな武器が欲しい。
辺《あた》りを見回してみても、そんなものは見当たらない。
「……どわっ!?」
熱のような痛みが袖口《そでぐち》を走った。シャツの袖が切り裂かれ、赤い血が飛び散る。痛みを堪《こら》えて身を転がし、次々と襲い掛かってくる刃物の嵐《あらし》から身をかわす。
やばい。
そう気付いた時には、もう遅い。もうどうやっても避《さ》けられないところにまで、手のひらのひとつは近付いてきていた。こうなったら少しでもダメージを減らそうと、リュカは思い切り背をのけぞらせ、自分の頬《ほお》を深く抉《えぐ》ることになるだろう爪《つめ》の一撃を待ち受けて、――そのまま倒れこんで、しこたま強く後頭部を打った。
「んごっ!?」
目の前に派手《はで》な火花が散る。
予想とはまるで違ったタイプの痛みに、覚悟《かくご》を固《かた》めるのが間に合わなかった。視界がくらくらと歪《ゆが》んでいる。無理やり両目を動かして、避けられないはずだった今の攻撃はどうなったのだろうと確かめる。
目の前に、襲ってきていたはずの人形の姿はなかった。
代わりに、銀色の光が、見えた。
太陽もなく、月もなく、星の輝《かがや》きすらもないこの夜に、それでも輝くように浮き上がってみえる、長い銀色の髪が。
ジネッ……ト……?
ずきずきと痛む頭の中にその名前が浮かぶのとはぼ同時、
「――――何をしている――――ッ!!」
叱責《しっせき》の声が飛んだ。
「これは一体どういうことだ、リュカ! なぜ君が人形に襲われている、なぜ君から、|夜の軟泥《ワルプルギス》の気配《けはい》が漏《も》れ出している!?」
一方的に激しい言葉をぶつけてくるだけのような、それでいて結局その内容は相手を気遣《きづか》っているものだったりする、何とも不器用で不恰好《ぶかっこう》な怒《いか》り。
間違いない。それは、ジネットの声だった。
そして目の前にあるのは――なぜかフェルツヴェン学術院《ライブラリ》の制服を身に着けてはいるものの――間違いなく、ジネットの姿だった。
「なんで、ここに……」
「いいから答えろ、何があった!」
叫びながら、ジネットの手がまっすぐに真横に向けて振り抜かれて――その手の中の剣が、人形の一体の左眼《ひだりめ》≠刺《さ》し貫《つらぬ》いていた。人形は一度大きくびくりと体を震《ふる》わせると、全ての関節《かんせつ》がはずれ、無数のパーツに砕《くだ》けてその場に崩《くず》れ落ちる。
別のもう一体が、その背後《はいご》から襲い掛かろうとする。だがその指が少女の体を捉《とら》えるよりもはるかに早く、少女の振るう返しの剣が左眼≠打ち砕いていた。
「よくは分からない! ここで考え事してたら、いきなりこうなった!」
自分でもわけのわからない説明になってしまったと思う。しかし、何をどう説明したものかが分からなかったのだから仕方がない。
「何を考えていた!?」
「いや、それは……」
「いいから話せ、それは重要なことだ!」
焦《じ》れたように言いながら、ジネットはまた、苦もなく一体の人形を粉砕《ふんさい》した。
とんでもない強さだ。改めてそれを実感《じっかん》する。体中に蓄《たくわ》えられた|夜の軟泥《ワルプルギス》が筋力を強化している。|夜の軟泥《ワルプルギス》によって編《あ》まれた剣は折れず曲がらず欠けもせず、少女の剛力《ごうりき》を余《あま》すところなく破壊《はかい》に転じている。
|夜の軟泥《ワルプルギス》、|夜の軟泥《ワルプルギス》、|夜の軟泥《ワルプルギス》。
昨日には自分の手を振り解《ほど》くこともできないほど弱っていたというのに、……これだけの強さを振るえるところにまで、この少女は回復したのか。
「……あの夜、俺が、消えかけてた時のこと」
ジネットが、息を呑《の》んだ。
「おかしい、って思ったんだ。俺を生かしてる魔法が解けたら、俺は死ぬ。そこまでは分かる。けれどあの時、俺は死のうとはしてなかった。消えようとしてた。何かがおかしい、もしかしたら何かあるのかもしれないって」
「あ……」
見て分かるほどに明確《めいかく》に、ジネットはうろたえた。剣筋《けんすじ》が揺れて狙《ねら》いを外し、一体の人形の顔の右半分だけを切り飛ばした。
「って、ジネッ――」
「リュカ!」
怒りすら混じった声と同時に、ジネットは、目の前で爪を振り上げる手負《てお》いの人形を真正面から蹴《け》り飛ばした。ぽぎんっ、という鈍《にぶ》い崩壊《ほうかい》の音とともに人形は短い距離を吹き飛び、そのまま床に叩きつけられる。
「うわ」
繊細《せんさい》を絵に描《か》いたような外見の少女が繰り出した、あんまりといえばあんまりに豪快《ごうかい》な一撃に、リュカは一瞬自分の目で見たものが受け入れられずに硬直《こうちょく》した。
「頼《たの》みがある、リュカ。そのことについては、もう考えるな」
「……は?」
「君は、何も知ってはいけない。知ろうとしてはいけないんだ。だから」
「ちょ、ちょっと待てよ。これはそういう問題じゃ」
「そういう問題なんだ!」
声が、荒《あら》い。
剣先が、今度こそ正確に、人形の左眼≠ナある水晶球を斬《き》って捨《す》てる。
「聞け、リュカ。私はあの後、ドースへ……エブリオへ行った」
独楽《こま》のように、廻《まわ》りながら。妖精《ようせい》のように、踊りながら。
「以前に言ったように、私の魔法書は想起《そうき》に秀《ひい》でる。あまり芸の多い魔法書ではないが、条件さえ満たせば限定的とはいえ、その場所の過去を覗《のぞ》くことができる」
突然こいつは、何を言い出すのか。
「私は、五年前の情景《じょうけい》を見た。
ひどい光景だった。大勢が死んだ。そして、子供が一人だけ生き残った――」
そんなことを、なぜ、今この場所で。
「――そして私は、君という存在を支えている魔法の正体を、知った」
耳を、疑《うたが》った。
「な、何だよそれ!? じゃああれか、君もじーさんも、昨日っからずっと、なんか俺のヒミツとか見つけときながら、しらばっくれてたのかよ!」
「そうだ」
「どうして、何も言わなかった!」
「……言ったろう。君は、何も知ってはいけない」
少女が、剣の柄《つか》から手を離す。剣はそのまま、床《ゆか》の上に落ちることもなく、夜の風に溶《と》けて消える。それからわずかに遅れて、人形の最後の一体が、何の力もない木切《きぎ》れの集まりとして、その場に崩れ落ちた。
「分かってくれ。君は、生きていてほしいと、望まれている。それが事実であり、私が君に伝えられる全てだ。だから……自分を疑《うたが》うようなことは、しないでくれ」
言いながら、振り返る。
人形たちの骸《むくろ》、物言《ものい》わぬ木片《もくへん》たちに囲まれて、少女は静かに立っている。
「……君も、そう望んでくれてるのか、ジネット……?」
「ああ……」
声がわずかに震《ふる》えている。目元《めもと》が揺れて、口元が歪《ゆが》んでいる。
笑顔に似ている、けれど決してそれは笑顔じゃない。
「君には消えてほしくない。私も、そう思っている。だから、何も聞かないで、ただ、幸せに生きていてくれ……」
「…………」
ああ、また、その言葉に行き着くのか。
どうして、誰も彼もが、その一言でリュカ・エルモントを納得《なっとく》させられるなどと、ありえもしないことを考えるのか。そんな、今にも泣きそうな顔をして、なぜそんなことを受け入れさせられるなどと思えるのか。
風が、いつの間にか、止《や》んでいた。
強くたなびいていた銀色の髪が、薄絹《うすぎぬ》のようにふわりと広がった。
指先が、欠けている。
いつこれ以上|状況《じょうきょう》が悪化するか分からない、それはつまり、崩壊《ほうかい》の兆《きざ》しだ。
そんなリュカの状況を確認したジネットは、たっぷり一分近い時間|絶句《ぜっく》してから、
「その傷、私が補《おぎな》おう」
きっぱりとそう言いきった。
「却下《きゃっか》」
きっぱりと、リュカはそれを切って捨てた。
「なぜだ。何が起きているのか、理解してはいるのだろう? 少しでも早く手を打たなければ、このまま君は崩壊が進んで……」
「だからって、君が苦しむんだったら意味がない」
「別に、苦しんでなど……」
「違うって言うなら、あれやって見せろよ、導《みちび》きの言葉。|夜の軟泥《ワルプルギス》を周りに広げて魔法の準備するってやつ」
ぐっ、とジネットは言葉を飲み込み黙《だま》り込む。
「それも出来ないってんなら、君の意見は却下だ」
たとえジネットがそれを強行してみせたとしても、難癖《なんくせ》をつけて却下を押し通すつもりではいた。が、そんなことはもちろん、口にはできない。
時計塔《とけいとう》を下りた。
ちょいと休憩《きゅうけい》室を覗《のぞ》き込んでもみたが、管理人の爺《じい》さんの姿は見えなかった。
二人で、夜の街を歩いている。
奇妙《きみょう》な気分だった。いつも一人で、あるいはアリスと二人で歩いている道。毎日のように通《かよ》い慣《な》れて、とっくの昔に飽《あ》きてしまっているはずの場所。なのに、隣《となり》を歩く者が違うというただそれだけで、まるで違う気分になることができる。
落ち着いていられるような状況じゃないことは分かっている。なのに、なぜか、この時間が心地良《ここちょ》い。
「――仕方がない。不幸中の幸いか、今回の君には、まだわずかなりと時間が残されてはいるようだ」
喧々囂々《けんけんごうごう》のやりとりの果てに、最終的にジネットはそんなことを言い出した。
「私のやり方が気に入らないというなら、他《ほか》の手段を探すしかない。どれだけ有効なものかは疑《うたが》わしいが、考え付くことは全てやっておくべきかもしれないな。ただし」
リュカの鼻先に指を突きつけて、
「君はこのことについては一切考えるな。
もう思い知ったとは思うが、君が妙なことに気付けば、それだけで事態は深刻《しんこく》な方向へと勝手に転がり落ちていく。そうでなくても君は厄介《やっかい》ごとに首を突っ込む性格をしているんだ、これ以上状況をややこしくしないでくれ」
「難《むずか》しいこと、簡単に言ってくれるよなぁ」
考えるなというのは、逆に考えろといわれるよりも、格段《かくだん》に難しいことだと知った。考えないことを意識すればするほど逆効果《ぎゃくこうか》、頭の中にはそれに関《かか》わる単語ばかりが広がっていく。
「簡単に言ってなど、いるものか」
ふん、と鼻を鳴らして、ジネットはそっぽを向いた。
「本当ならば、縄《なわ》で縛《しば》り付けてでも言うことを聞かせたいところだ。それをよく自制《じせい》しているものだと自分で感心している」
「……もしかして、拗《す》ねてるのか?」
「知るか」
そんな風につっぱねて、視線を合わせようとしない。
それは、少し、意外な姿だった。
強情《ごうじょう》ではあったが、これまで自分の前ではいつも落ち着いた――もしくはそうあろうとした振る舞いを貫《つらぬ》いてきたジネットが、いまこの瞬間は、まるで外見相応《がいけんそうおう》の少女のように見えた。
「…………」
「ん? どうした?」
「いや……」
少し、可愛いなどと思ってしまった、などと……まさか、正直に言えるはずもない。
「まあいい、話の続きは家に帰ってからだ。伯父《おじ》さんたちに事情を話して協力してもらおう。あといちおうアルトのじーさんにも」
「アルト老が聞いたら泣くだろうな」
「しゃーねーだろ。あのじーさん、頼りになるって気がまるでしないんだ」
「確かにその気持ちはよく分かるが、しかしだな」
ジネットは頷《うなず》いて、
「あれでもかつては、地味ながらも良い仕事をする智将《ちしょう》だと称《たた》えられていたこともあったらしい。今はあんな姿ではあるし、なにかと奇矯《ききょう》な言動の目立つ怪漢《かいかん》ではあるが、少し大目に見てやってほしい」
「……へぇ」
気のせいだろうか。フォローを入れているはずのこの娘のほうが、よっぽどひどい言い方をしているような。
「あったらしいって、何で伝聞《でんぶん》なんだ? 自分とこの騎士団《きしだん》の人間だろ?」
「……私が生まれるよりも、ずっと前の話だぞ」
「は」
一瞬耳を疑って、目の前の、二百年以上の長い時間を生き抜いてきた少女を見つめる。その態度から何を感じ取ったのか、少女はわずかに唇《くちびる》をとがらせて、
「君の頭の中では、二百年前の世界では時間が流れていないようだな。
私が生まれたのは――二百二十九年前。アルト・バルゲリアルが実権《じっけん》を奪《うば》われ一線を退《しりぞ》いたのは二百三十三年前。その間には四年もの間隔《かんかく》がある。自分の国の騎士団の話だとて、伝《つた》え聞《き》く以外に活躍《かつやく》を知《し》る由《よし》もないのは道理《どうり》だろう」
道理だろう、などと言われても。
「あ……まあ、確かに、そりゃあ……」
まずい。
少しむきになったようなこの表情は、なんというか、反則だ。
まあ、少なくとも、あれだ。男の前でそう易々《やすやす》と見せていいものではない。こんなもん見せられれば、大抵《たいてい》の男は骨抜きになってしまう。そしてもちろん、女性の好みの点ではごく平均的《へいきんてき》な嗜好《しこう》の持ち主だと自認するリュカ・エルモントはその「大抵の男」の範疇《はんちゅう》にしっかり入っている。
いやしかも考えてみれば、この服装は危険《きけん》というかすでに凶器《きょうき》の領域《りょういき》だ。学術院《ライブラリ》の制服、それは普段何の疑問もなく毎日のように目にしている.日常の象徴《しょうちょう》。この少女がそれを着込んで目の前に立っていて、あまつさえこんな可愛い仕草《しぐさ》を見せてくれちゃった日には、なんというかこう、どことなく孤高《ここう》という感じがしたジネットのイメージががらがらと崩れて、けれどその親しみやすい雰囲気《ふんいき》も決して悪いものではなくていやむしろとんでもなく魅力的《みりょくてき》でああもう勘弁《かんべん》してくれ神《オリジン》よ天使《ハロウド》よ俺に何をどうしろというのですか艱難辛苦《かんなんしんく》はもうたくさんです。
……。
…………ええと。
……………………少し落ち着け、俺。
「……でも、あれか。そう言う君も、その話は半信半疑《はんしんはんぎ》なわけだ?」
気を取り直して、話を続ける。
「失礼な。信じてはいるぞ。これは本人の申告《しんこく》ではなく、父様やじいやたちの教えてくれたことだからな。まさか彼らが、私に嘘《うそ》を吐《つ》くとは思わない」
「…………」
この女、本人の申告だったら信じていなかった、と真顔で言い切りやがった。
なんというか、こう、一言で言えば、ひでえ。
しかもどうやら本人に自覚がなさそうな辺りが、輪をかけてアレだ。どうやらアルト老本人がその扱いを受け入れてしまっているらしいところが、せめてもの救いか。救いとしてどうなんだそれはと思わなくもないが、そこは本人たちの問題であることだし。
「……なんていうか」
「何だ」
「思ってたより、ずっと普通なんだな、君らは」
素直な気持ちをそのまま言葉にしたら、ジネットには「は?」と問い返された。
「思ってたより、ずっと普通の、人間だ。最初から分かってたはずのことなんだけどな。やっと実感した」
「……また、わけの分からないことを」
「二百年も前のお話の登場人物……の元ネタだったりさ。
いきなり人のこと刺し殺してくれちゃったりさ。いきなり不死の魔法使いとか言い出すしさ。戦ってみたらめっちゃくちゃ優雅《ゆうが》に強かったりさ。
やっぱり、なんていうかさ……神聖視《しんせいし》、してた。
こいつは自分と違う世界に生きてる奴なんだなって目で、見てたんだと思う。同じ場所で戦って、少しは分かったような気分になってたけど、気分だけだった」
これに関しては、少なからずジネットたち自身の態度のせいだとは思うが、触れないでおくことにしておく。
「今、やっと実感した。俺、君らのこと、好きになれそうだ」
「…………」
ジネットは、きょとんとした顔で――これまた普段の澄《す》ました表情からは想像もできないくらいに素直な顔だった――こちらを見つめていたが、すぐに小さく笑って、
「物好きだな、君は」
そんな風に、柔らかい言葉でまとめてくれて、
そしてその視線が、突如《とつじょ》、緊張《きんちょう》に引き締《し》められた。
「え……」
ジネットの視線を追って、振り返った。
見慣《みな》れた街並み。
そしてそれを背景《はいけい》に、一人の見慣れない男が立っている。
16.
ライアは回避《かいひ》も防御《ぼうぎょ》も何もせず、胸元《むなもと》に襲《おそ》い掛かる人形の指先をそのままに受け入れた。指先の刃が袈裟懸《けさが》けに体をなぎ払い、深々と肉が抉《えぐ》り斬《き》られ、噴水《ふんすい》のように血がしぶいて辺りを赤く染めて、
「はい、はずれ」
ふぅぉん、と風の唸《うな》るような音を残して、重傷を負ったライアの姿が掻《か》き消える。
人形は顔を上げて、逃げた獲物《えもの》の姿を捜《さが》す。
ライアの姿が廊下の片隅《かたすみ》にある。しかしたった今|刻《きざ》み込んだはずの手傷《てきず》は幻《まぼろし》のように消え去っているし、「はぁい」と楽しげに手を振ってすらいる。生身《なまみ》の人間であれば何かがおかしいと気付く状況だが、人形のお粗末《そまつ》な判断力はただ、獲物が何らかの手段であの位置まで移動しただけだと判断する。
そして、そちらに向けて、大きく跳躍《ちょうやく》。
「梢に散り[#「梢に散り」に傍点]、陽は光の粒となる[#「陽は光の粒となる」に傍点]」
軽い口調でライアは唱《とな》える。
それに応《こた》え、今度は、木漏《こも》れ日にも似たいくつもの光の筋《すじ》が廊下に張り巡《めぐ》らされる。
光に構わず人形は一直線に走り続け、二条の光を何事もなく打ち払いすり抜けて、あと少しでライアのところに到達《とうたつ》するというところで、
「はい、今度は大当たり」
三条目の光が、その突撃を阻止《そし》した。
焼けた鉄板に水をぶちまけたような音。人形の上半身が瞬時《しゅんじ》に炭《すみ》に変わる。下半身はそれでも二歩ほどの距離を無理やりに歩んで、そして力尽《ちからつ》きる。
〈……なんじゃ、そりゃあ〉
呆《あき》れたような、いや心底《しんそこ》呆れた、アルト老の呟《つぶや》き。
〈触れたら燃える炎の線、か?〉
「ま、そんな感じ。いまの一本以外は、全部目くらましのフェイクだけどね」
軽く手を振って、場に残った全ての光条を消し去る。
張り巡らせた無数のフェイク。そうと分かっていれば、相手はそのうち幾《いく》らかをその身に浴びる覚悟《かくご》で突っ込んでくるだろう。そしてその幾らか[#「幾らか」に傍点]の中に一筋の本物を混ぜておけば、たった今目の前で起きた現象のように、相手は勝手に炎に包まれ自滅《じめつ》してくれるという寸法《すんぽう》だ。
〈……なるほど。百の贋物《にせもの》と、その中に紛《まぎ》れ込んだ一つの本物。膨大《ぼうだい》な量の嘘《うそ》でたったひとつの真実を覆《おお》い隠《かく》す。つまり『|金狼の住処《オンブラージュ》』とは、そういうシロモノなわけじゃな?〉
「察《さっ》しのいい味方って好きよ、めんどくさくなくて」
にっこりと笑う。
〈そりやあ、察しの悪い味方が好きだという奴はめったにおるまいよ〉
「察しのいい敵が好きだって人もね」
人形の数は、順調に減っていった。
まともな戦いにはならない。そんな展開にするには、戦力に差がありすぎる。
これは単純な掃討《そうとう》か、それとももっと無造作《むぞうさ》な、ただの掃除《そうじ》だ。
一体。また一体。次々に数が減っていく。
〈妙じゃの〉
アルト者が、ぽつりと呟いた。
〈人形の動きが、単調に過ぎる。連携《れんけい》らしい連携もまるでない。最初にこの家を取り囲んでいた時には、少なくとも最低限の連携はとれてたと思うんじゃが〉
「そうね……」
同じことに思い至ってはいたのだろう、やや真面目《まじめ》な顔でライアが呟く。
〈指揮官《しきかん》が、おらんのか?〉
「それはないでしょ。少なくともここに攻《せ》め込むのを指示したやつがいるわけだから、最初の段階ではちゃんとここの近くに――」
ぴたり。言葉と動きとが、まとめて止まる。
〈どうした?〉
「まさか……ひっかけられた……!?」
突如《とつじょ》、ライアは叫び、走り出す。
アルト老は慌《あわ》ててそのスーツの裾《すそ》に飛びついて、
〈な、何じゃと?〉
「今ならジネットがいないから、このタイミングで襲撃《しゅうげき》されるのはむしろラッキーだって考えた! 狙われる相手がいないんだから多少時間がかかっても大丈夫だからって、人形を潰《つぶ》すことに専念《せんねん》してた! そう考えてたことを、利用された!
まんまと[#「まんまと」に傍点]、相手の時間稼ぎに乗っちゃってた[#「相手の時間稼ぎに乗っちゃってた」に傍点]!」
〈……そうか。そんな手を打ってくるということは、敵は……〉
「ここで稼《かせ》いだ時間を使って、私たちの邪魔《じゃま》が入らないところで、何かをしてる」
エルモント邸《てい》の外に飛び出して、夜の街並みにぐるりと視線をめぐらせる。
「――ジネットか、あの子か、もしくはその両方かを、狙っているはず!」
17.
ぱっと見た感じで、冴《さ》えない男だと思った。
くたびれたネズミ色のコートを羽織《はお》った、中年の男。灰のような白い髪に、同じ色の無精《ぶしょう》ひげ。何をするでもなく、ただ立っている……のだが、そのどことなく眠《ねむ》たそうな目は、間違いなくまっすぐに、こちらに向いていた。
知らない顔だった。
が、ジネットの反応を見れば、男の素性《すじょう》は充分《じゅうぶん》に知れた。
「敵か?」
「……先ほどの人形を街中にばら撒《ま》いた本人だ」
ジネットの簡潔《かんけつ》な答えを聞いて納得《なっとく》した。ああ、そりゃあ、間違いなく敵だ。
しかもあれだ、あの人形の主《あるじ》というならば、確かその名前と使っている魔法書について、昨夜アルト老に教えられていたような。
「確か、クリストフ・デルガル。王城《パレス》とやらに所属する魔書使い《グリモア・ハンドラ》で、所持する魔法書《グリモア》は『|木棺の誓言《アニュレール》』。……これで合ってるか?」
「君はどんどんこちらの話に詳《くわ》しくなるな」
呆《あき》れられた。つまりは合っているということでいいのだろうか。
「――や。ドース以来だな、姫《ひめ》さん」
それぞれに睨《にら》みつける二人の視線を平然といなして、男――クリストフは気安い仕草《しぐさ》で片手を挙《あ》げる。
「顔色|悪《わり》ぃぞ、ちゃんとメシ食ってっか?」
「黙《だま》れ」
親愛の挨拶《あいさつ》ともとれるクリストフの言葉を、一言で払いのける。
「さっき、うちの人形が妙なとこにゾロゾロ登ってったんで気になって見に来たんだけどよ。あれってやっぱり、姫さんたちなのか?」
「黙れと言った」
クリストフの言葉には一切《いっさい》取り合わず、ジネットは|夜の軟泥《ワルプルギス》を編《あ》んであの剣を抜き放つ。
(……って、おい……)
剣を持つ手が、わずかに震《ふる》えている。鋼《はがね》の重さを、支《ささ》えきれていない。
だから、分かった。ジネットの体は、まるで回復などしていない。
あるいは、回復した分の力を、おそらくはあの時計塔《とけいとう》の上での立ち回りで、ほとんど使いきってしまっていた。だからこうして剣を生み出すだけで精一杯《せいいっぱい》、それ以上の芸当はまず無理だと思われた。
ひとつ、分かったことがある。
こいつは、大ばかだ。
目の前に解決すべき問題がひとつあると、後先《あとさき》考えずに全ての力を注《そそ》ぎ込んでしまって、しかも後になってもまるでそれを後悔《こうかい》しない。戦略《せんりゃく》とかバランスとかほどほどとか、そういった言葉が見事なまでに頭からすっこぬけてしまっている。
たまにいるのだ、そういうタイプの、周りに心配をかけまくる、困った人間が。自分の知っている範囲にも一人いる。それが誰なのかはあまり言いたくないが。
「奴の狙《ねら》いは私だ。君は逃げろ、リュカ」
言って、ジネットは半歩ほど前に出る。
「馬鹿言うな、んなフラフラな足で戦えるかよ。俺が前に出るほうがいくらかマシだ」
「レオネルの時とは違う。君には戦う理由が――」
「それともアレか、君は俺のことを、こんな状況でハイ分かりました逃げますサヨウナラとか言える奴だとでも思ってるわけか? だとしたらブン殴《なぐ》るぞ、マジで」
「――そうだな。君は、そういう男だ」
思ったより素直に、ジネットは背後に押しのけられてくれた。
ついでにその手から、またあの剣を奪《うば》い取る。相手の主戦力が人形であるならば、こいつを持てばリュカもある程度の戦力になれる。それにあの魔書使い……帯剣騎士《カヴァリエレ》クリストフとやらは生身の人間であり、レオネルほどの化け物ではない。これは、あの時ほど絶望《ぜつぼう》的な戦いではないのだ。
なんとか、できるかもしれない。
「あーっと……盛り上がってるところ悪《わり》ぃけどな」
ぼりぼりと灰色の頭を掻《か》きながら、クリストフが言葉を挟《はさ》んでくる。
「色々事情があってな、こっちは糸目《いとめ》の坊《ぼう》やにも用があるんだよ。だからどのみち逃がすつもりはない。安心して二人でかかってきてくれてオーケーだ」
「……へ?」
「何だと?」
「何か知らんけど重要人物なんだって? ちょい借《か》りのある奴に、連れてこいって頼まれたんでな、悪いが一緒に来てもらうぜ」
「は?」
言われていることがよく分からない。
「重要人物、か。……それは、誰から聞いた情報だ?」
視線を鋭《するど》く絞《しぼ》ったジネットが、詰問《きつもん》の声をあげる。
「そいつは秘密。まあ心配しなくてもいいぜ。坊やはこの後すぐに会わせてやる。
んで――今回は前みたいな手で逃げられるたぁ思わないでくれよ、姫さん?」
からからと、快活《かいかつ》に笑う。うっすらと敵意を交《まじ》えたその笑顔が、むしろ恐ろしい。
辺りを見回す。夜の街は静かで、男のほかに人影らしきものはない。武器であるはずの人形たちはどこに隠されているのか。
ざり。
クリストフが、一歩だけ踏み出した。
気負《きお》いのない、けれど慎重《しんちょう》な一歩だ。ジネットがほとんど戦力になっていないことは見抜いているだろう。けれどそれでも、その歩みに油断はない。
「なぁ、姫さん。覚えてるか、『|鉛人形の王《アンペルール》』ってあっただろ。王城《うち》のちっこい女王様《レジーナ》がご執心《しゅうしん》だった、レオネルの旦那《だんな》が抱《かか》えてた魔法書さ」
また、一歩。間合いが詰まる。
「支配の魔法。主に刻印《ブランディング》として使う。刻み込まれた相手は旦那《レオネル》の支配下に置かれ、そのあらゆる命令を無条件に行使《こうし》する。このとき、本来それが可能であるか否《いな》かは考慮《こうりょ》されない。どのような無茶であろうと命令であればそれは実行される。そんでもってその無茶のツケを支払うのは旦那《レオネル》じゃなくて命令を行使した本人だ。
いかにも王様でございって能力だよな。なんてーかまぁ、強いわけだって感じで」
また、一歩。
「俺の『|木棺の宣誓《アニュレール》』は、それに少しだけ似てる。基本的に刻印《ブランディング》として使うもんだし、刻み込んだ相手を自分の手駒《てごま》にするところも同じだ。ただ、肝心《かんじん》なところででっかい差があってな」
コートの下から、鞘《さや》に収められた一本の剣を取り出す。
抜き放つ。おそらくは意図的《いとてき》にそのように造られたのだろう、灰色に濁《にご》った色の刀身にはまるで艶《つや》というものが無い。その剣はあっさりと、クリストフ自身の灰色のシルエットに溶け込んだ。
ただひとつ――その柄《つか》に、どこか見覚えのある、小さな濃緑色《のうりょくしょく》の水晶球が埋《う》め込まれているという一点だけを除《のぞ》けば、だが。
(リュカ)
耳の近く、囁《ささや》くようにして名前を呼ばれる。
(何だ?)
(奴が魔法を使おうとしたら、私が妨害《ぼうがい》する。君は剣に集中してくれ)
(……出来るのか、そんなこと?)
(そのくらいのことしか出来ない、がな)
どこか自嘲気味《じちょうぎみ》な呟き。苦笑交《くしょうま》じりに「気をつけろよ」と返そうとして、
「っ!」
瞬間、クリストフが動いた。
ゆらり、と何気ない仕草で剣を振りかぶり、そのまま無造作《むぞうさ》に残りの距離を詰めると、勢いよく振り下ろしてくる。始動の読みづらい、そして充分《じゅうぶん》に重く速い、つまりは申し分なく鋭い一撃。
狙われている部位は左肩。
この速度と間合いでは、受けるのも、避《よ》けるのも難《むずか》しい。考えるよりも早く体がそう判断し、灰色の刀身にジネットの剣を合わせると、そのまま三|分《ぶ》の力で横へと押した[#「押した」に傍点]。剣の軌跡《きせき》が折れ曲がり、肉と骨の代わりに宙だけを薙《な》ぎ切る。そしてその力の反作用が、リュカの体を半歩に少し足りないくらいの距離だけ、前方へとずらさせた。
クリストフの目が、わずかに驚愕《きょうがく》する。けれどそこには動揺はない。隙《すき》らしい隙は生まれない。そのことをわずかに残念に思いつつも、刀身の上を滑《すべ》らせるようにして剣を振るう。この灰色の剣には鍔《つば》がついていない。狙いは、柄《つか》を握るクリストフの右手。
その狙いをすばやく察したか、
「うおっと」
あっさりと剣を手放して、クリストフは大きく背後に下がった。リュカの剣はクリストフではなく、その剣の柄だけを軽く削《けず》る。
せっかくの好機《こうき》を、このまま逃《のが》す手はない。さらに一歩を、ほとんど前に倒れこむようにして踏み込む。下がるクリストフに追いすがり、届かなかった剣を強引《ごういん》に届かせる。切っ先がコートの腕の部分を浅く切り裂き、わずかに赤いしぶきが散った。
勝てる――反射的に浮かんだその思考を、すぐさま叩《たた》き潰《つぶ》す。
こいつは簡単に剣を手放した。それはあまりに簡単すぎた。最初の一閃《いっせん》を見ればこの男が熟練《じゅくれん》した使い手であることは分かるし、それまでの振る舞いを見れば戦いに臨《のぞ》んで油断をするようなタイプでもないと知れた。ならばまさか、こんなにも簡単に窮地《きゅうち》に陥《おちい》るはずがない。つまり今のこの状況は、つまり、
(自分から窮地に飛び込みやがった……っ!)
この男は魔法使いで、あの剣には人形たちと同じ水晶球が埋まっていて、その上でこれだけの怪《あや》しい行動をとられたのだから、もう結論は一つしかない。こいつは手放したこの剣に魔法をかけるつもりなのだ。そしてこの剣は人形たちと同じように勝手に動き出して自分に襲《おそ》い掛かってくる。
しかし、そうと分かってさえしまえば、何の問題もない。この男が魔法を使おうとすれば――そのために何らかの言葉を組み上げようとすれば、ジネットが動いてくれる。そしてその瞬間こそ、自分がこの剣で勝負を決めるための最大の好機でもあるはず。
クリストフの口元に、小さな笑《え》みが浮かんだ。
リュカはそれを、魔法を使おうとしている前兆《ぜんちょう》だと読んだ。
そして、タイミングを計《はか》った。
目の前の男がおかしな行動をとったらその次の瞬間には必殺の一撃をお見舞いしてやろうと、全身を針《はり》のように尖《とが》らせて、その瞬間を待ち受けた[#「その瞬間を待ち受けた」に傍点]。
一秒の半分にも満たないだろうわずかな時間だけ、戦況《せんきょう》は膠着《こうちゃく》した。
「ぐ……っ!?」
くぐもった小さな悲鳴が、背後から聞こえた。それが誰の声なのかほ、考えるまでもなく分かった。けれどなぜ悲鳴をあげているのかについては、ほんのわずかな時間だけ考えなければ、思い当たらなかった。
(な……に?)
状況が把握《はあく》できず、戸惑《とまど》う。その一瞬の間に、
「はいはい、ストップストップ。後ろを見たほうがいいぜ、坊《ぼう》や」
両手を軽く挙《あ》げて、ふざけた声で、クリストフは言う。
「…………」
「そんな怖《こわ》い目で見んなって。こっちは親切で言ってんだからよ」
「戦闘中にそう言われて、素直に後ろ見る馬鹿がどこに――」
どぶ、と鈍《にぶ》い音が聞こえた。それに続いて、噛《か》み殺したような小さな悲鳴と、少女の小さな体がその場に崩《くず》れ落ちる音と。
弾《はじ》かれたように、リュカは振り向いた。
ジネットが、跪《ひざまず》くようにして、足を折っている。
その足に、深々と、あの灰色の刃《やいば》が突き立っている。
「な……っ!?」
「さっきの話の続きだけどな。俺の『|木棺の宣誓《アニュレール》』は、下僕《げぼく》を作ることそのものだけを芸とする単純な魔法書《グリモア》だ。人形作りしか出来ない。代わりに、その人形は、予《あらかじ》め与えられた役割に沿《そ》って、それなりの判断力をもって勝手に動く。……さっきからヒントは出してやってたんだがなぁ、人の話はしっかり聞いといたほうがいいぞ?」
刃が、ひとりでに、ジネットの足から抜ける。
そして、見えない誰かに振るわれるようにして、再びジネットの腿《もも》へ深々と突き刺さる。少女の顔が苦痛《くつう》に歪《ゆが》み、しかし悲鳴だけは何とか噛《か》み殺す。
刃が再び抜けて、そしてまた、ジネットを切り刻む。
「ちなみにその剣は、姫さんをこれ以上逃げられないように切り刻む≠スめの人形だ。そのための適切な行動を、自分で判断して実行する。よく出来てんだろ? 剣に刻印《ブランディング》するコツはレオネルの旦那《だんな》の直伝《じきでん》なんだぜ?」
クリストフの言葉には、もうそれ以上|構《かま》ってはいられなかった。
自分でもよくわからない叫び声をあげて――たぶん、ジネットの名前を呼ぼうとしたのだと思う――剣に取り付いた。力任《ちからまか》せに引き剥《は》がし、手の中で暴《あば》れるそれを無理やりに押さえつけた。
そしてその目の前で、クリストフはにやにやと楽しげな笑顔を浮かべつつ、ジネットのそばへと歩み寄ると、同じような色と形をしたもう一本の剣を抜き放って、――まっすぐに、ジネットの首筋に突きつけた。
にやりと、こちらを向いて、小さく笑う。
「動くなよ?」
言われるまでもない。動けるはずが、ない。
どういう手段でか戦いの終わりを知ったらしい。リュカの手の中で暴れていた灰色の剣が、急に大人《おとな》しくなった。
「ま、そう心配すんな。坊やに危害《きがい》を加えるつもりはねぇよ。さっきも言ったろ? 会いたいって言ってる奴がいるんだよ」
「会わないって言ったら?」
「んー」
クリストフの構える剣先に、わずかな力が籠《こも》る。
少女の白い首筋に、ふっくらとした紅《あか》い血の玉が浮かび、そして一筋の流れになって滑《すべ》り落ちてゆく。
「……分かった。ついて行くから、ジネットには危害を加えるな」
「あん? 交換条件言い出せる立場か?」
クリストフが、わずかに気分を害したような声になる。
「もちろんだ」
震《ふる》えそうになる声を、なんとか気合で押しとどめて、
「俺が何しようがどのみちジネットは殺されるってんなら、俺は今すぐ一人で逃げる。悪いが逃げ足にはちょっとした自信があってな。そうなったら、あんたにとっちゃけっこう面倒なんじゃないのか?」
「……へぇ」
クリストフの目が、今度はわずかに笑う。
「いいだろう。お前が姫さん背負《せお》って、ついてこい」
言って、クリストフは無造作に背を向けた。
奇妙な時間が過ぎる。
目の前を、敵である男の背中が歩いている。その一見して無防備《むぼうび》そうな姿を見ていると、襲《おそ》い掛かることも、逃げ出すことも簡単にできそうに思えてくる。そしてそう思えてくるからこそ、そのどちらも実行には移せない。
自分の背中の上では、血まみれのジネットが意識を失っている。両足がずたずたに切り刻《きざ》まれているのだ。並みの人間ならばそれだけでショック死《し》なり失血《しっけつ》死なりしかねない傷。そして今のこの少女は、並みの人間とほとんど変わらない体力しか持ち合わせていないはずなのだ。荒いながらも確かな息遣《いきづか》いが聞こえていることが、せめてもの救いといったところだろうか。
ぽたり、ばたりと、血のしずくが石畳《いしだたみ》を汚《よご》す。
夜中の街。街灯《がいとう》のない道。
今こうして歩いている辺りには人の姿はないが、通りひとつ隔《へだ》てた向こうからは、時折|祭《まつり》の残り火のような喚声《かんせい》が湧《わ》き上がっている。
「……なぁ」
クリストフの背中に、声をかけた。
「ん?」
「どうしてジネットを狙《ねら》うんだ?」
「……いきなり何だ。別に俺ぁお前のオベンキョウに付き合う義理はねぇぞ」
「別にいいだろ、こんくらい。むっつり黙《だま》ったまま歩いてるよりは幾《いく》らか建設的だ」
クリストフが首だけで振り返り、
「お前、変な奴だなぁ」
「よく言われる」
ジネットを支《ささ》える手が、血でぬめって滑《すべ》る。そのたびに支えなおす。
「戦車《せんしゃ》ってあるだろ」
「何だって?」
「戦車だよ、戦車。でっかい装甲板《そうこうばん》張《は》り付けた鉄の箱。古くは騎馬《きば》に引かせたり、最近は自走車に組み込んだりで敵陣《てきじん》に攻《せ》め込んで、圧倒的火力でどかーんばこーん」
背を向けたままのクリストフの手が、「どかーんばこーん」の部分だけを簡単なジェスチャーで示してくる。
「あれって、メチャクチャ強いわけだ。最新型が戦場に一台投入されただけで大活躍《だいかつやく》は間違いなし、逆に敵側にそいつが現れたら大ピンチ間違いなし。戦車一台の運用次第で戦場の模様《もよう》はどうにでも変わる。とまぁ、そういう世界情勢があるとしてさ。最新鋭《さいしんえい》極《きわ》まりない超強力なノラ戦車が一台そこらへんをふらふらうろついてたら、国としてはどういう行動をとるのが一番合理的だと思う?」
「……鹵獲《ろかく》して分解して技術を盗《ぬす》む、か?」
「ま、そーゆーこった。解《わか》りやすいだろ?」
ああ、まったくだ。
本当に、どこまでも、わかりやすかった。
おかげで、反吐《へど》が出そうな気分になった。
「『こいつは兵器じゃない』とか言いたいんだろ?」
「……ああ」
その通りだったので、素直に頷《うなず》く。
「そりゃあ、そうだろうさ。誰だってンなこたぁよく分かってる。けどな。そんなこたぁ、関係ねぇんだよ。
兵器が必要とされてるんだよ[#「兵器が必要とされてるんだよ」に傍点]。
そしてそこの姫さんやその仲間は[#「そしてそこの姫さんやその仲間は」に傍点]、強力な兵器になれるんだ[#「強力な兵器になれるんだ」に傍点]。
そんだけだ。そんだけの理由で、姫さんはもう、兵器にしかなれねぇんだよ」
どこかで聞いた理屈《りくつ》だった。
そしてそれはおそらく、魔法使い同士の戦いに身をおく者たちにとっては、当たり前の常識なのだろう。
「別に、こんな理屈に納得《なっとく》しなくていいぜ。納得しようがしまいが、現実は変わんねぇってだけだからな。受け入れて積極的に血に染まるも戦争、抗《あらが》って理不尽《りふじん》な世界に憤《いきどお》るのもまた戦争。どっちにせよやるこたぁ同じ、斬《き》って撃《う》って殴《なぐ》って突いて殺して殺されて飢《う》えて奪《うば》って滅《ほろ》びて滅ぼして、こればっかりは世界がどう変わってっても動かねぇ」
飄々《ひょうひょう》とした声で――冷めたことを無感情に言い放《はな》つ。
「あんたは、どっちだ? 受け入れたのか? 抗ったのか?」
「さぁな。あんまりにどうでもいいんで、忘れちまった」
クリストフの背が、ひとつの屋敷《やしき》の前で止まる。
「着いたぜ。入んな」
[#改ページ]
▼promnede/
エブリオの村が燃え尽《つ》きたその時に、アルベールはすぐ近くの街道《かいどう》を歩いていた。
だから、共和国《ドース》の兵士たちが災害の状況を調べに来るよりも早く、何が起きたのかを確かめることができた。
その時のことを思い出すたびに、アルベールは運命という言葉について考える。あの時自分がエブリオでもフェルツヴェンでもなく、エブリオまですぐにたどり着ける場所にいたということが、単なる偶然《ぐうぜん》という言葉で片付けてしまうのが躊躇《ためら》われるほど大きく、その後のことを変えてしまったからだ。
そこは地獄《じごく》だった。
建物はそのことごとくが崩《くず》れるか、もしくは崩れかけていた。あちこちに黒い炭《すみ》の塊《かたまり》のようなものが散らばっていた。たまにうまく壁《かべ》の陰《かげ》にでも入ったのか、比較的人の形を留《とど》めた炭が転がっていることもあった。
何度となく、吐《は》きそうになった。そしてそのたびに、押さえ込んだ。
あまり詳《くわ》しくもなかった村の地理を一生懸命に頭の中に思い出して、弟の家を捜した。目印となるような建物はその悉《ことごと》くが変わり果ててしまっていたが、それでもなんとかその場所を見つけることが出来た。
別に、何かの期待をしていたわけではない。
その時点では理由こそ分からなかったが、とにかくひどい規模《きぼ》の災害だったのだ。人という人がとにかく死に絶《た》えていた。まさか、自分の家族だけが助かっているなどという都合《つごう》のいい奇跡《きせき》が起きているはずがない。そう自分に言い聞かせながら、せめて彼らの迎《むか》えた結末をこの目で確かめようと、かつては弟の家であった瓦礫《がれき》の前に立った。
そしてそこで、二人[#「二人」に傍点]の子供を見つけた。
一人の子供は、呆然《ぼうぜん》となって立ち尽くしていた。服や髪《かみ》は汚れてこそいたが、傷らしい傷はほとんどなかった。そして少女のすぐ傍《そば》の床《ゆか》に、|地下のワイン蔵《カーヴ》への扉《とびら》が開け放たれているのが見えた。
アルベールはまずひとつ、奇跡が起きていたことを知った。
地上をこれだけ暴虐《ぼうぎゃく》に焼き払った火力は、しかし地下にまではあまり届いていなかったらしい。確かに村の様子を見た限りでは、これといってクレーターのようなものは見当たらなかった――それはつまり、この地を襲《おそ》った災害は、地面を抉《えぐ》りその下にあるものまで直接に飲み込むような類《たぐい》のものではなかったということだ。
その子供は――
クローディア[#「クローディア」に傍点]・エルモント[#「エルモント」に傍点]は、アルベールの気配《けはい》を察すると、まるで壊《こわ》れた機械のようにゆっくりと振り返って、そして呟《つぶや》いた。
「……リュカ、死んじゃった」
アルベールは息を呑《の》んで、もう一人の子供に目をやった。
もう一人の子供……リュカ・エルモントは、壁の残骸《ざんがい》にもたれて、静かに眠っているように見えた。服はぼろぼろで、肌《はだ》は薄く汚れていた。けれど見たところ、体にはこれといった外傷《がいしょう》はないように見えた。
首筋《くぴすじ》に触《ふ》れて、脈《みゃく》を確かめた。鼻先《はなさき》に指をかざして、呼吸《こきゅう》を確かめた。
この子は生きている、と判断した。このときアルベールは、ふたつめの奇跡が起きていたのだと思い込んだ。ひとつの奇跡がひとりずつの子供を助けて、こうして二人の姉弟が生き残ることができたのだと。
「違うの」
けれど、クローディアは、首を横に振った。
「これは、リュカじゃないの。髪《かみ》も、顔も、肌も、覚えてることも考えることも、なにもかもをリュカとおんなじように作り直した、リュカのニセモノ」
泣き出しそうな声ではあったが、しかしクローディアは泣かなかった。
「リュカに生きててほしかったから。リュカが生きてる世界であってほしかったから。だから……嘘《うそ》を、吐《つ》いたんだ……」
けれどそれでも、それは彼女の強さではないと、アルベールは気付いた。
「フィオルさんの『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を借《か》りて、嘘を吐いたんだ……」
わずか十四歳の幼《おさな》い少女の心は、自分の抱《かか》えている感情を把握《はあく》できないでいる。果《は》たしていま涙を流すべきなのかを決めかねている。ただそれだけのことなのだ。
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▼scene/5 そして辿《たど》りついた場所 〜my truth〜
18.
天井《てんじょう》が高い。
壁《かべ》には大きなステンドグラス。色とりどりの硝子《ガラス》が組み合わさって、美しい天使《ハロウド》の肖像《しょうぞう》を作り上げている……のだろうが、陽《ひ》の落ちた後のこの時間帯に仰《あお》ぎ見たところで、何か黒々とした影《かげ》が淀《よど》んでいるのが見えるだけだ。
視線《しせん》を落とせば、ゆうに二十人ほどが着席できそうな、細長い大理石《だいりせさ》のテーブル。
ジネットを背負《せお》ったまま部屋に通されたリュカを、白髪《はくはつ》の老人が出迎《でむか》えた。
皺《しわ》の深い、精悍《せいかん》な顔つき。長身のリュカよりもさらにこぶしひとつ分ほど背が高い。骨格としては細身《ほそみ》であろう体には、しかし年に似合わない量の筋肉が巻きついている。ゆったりとした紫灰《しかい》色のロープをまとっているのが、何かの冗談《じょうだん》にしか見えない。
紫灰色のローブ。
学術院《ライブラリ》で特に高位にある学者にのみ許される着衣《ちゃくい》。
「それでは、君は外《はず》しておいてもらえるかな、デルガル公」
「あいよ――あー、坊《ぼう》や。そういうわけだからその姫《ひめ》さんをこっちにだな」
無言で睨《にら》みつけてやった。
「……取り上げるのも面倒そーだな、あと少し預《あず》けとくわ」
払うようにして軽く手を振って、クリストフは部屋を出てゆく。
改めて、ローブの老人に向き直る。
――普通に強そうじゃねーか、畜生《ちくしょう》。
この老人を突破口《とっぱこう》にして逃げ出すという選択肢《せんたくし》は、とりあえず速攻《そっこう》で保留する。だが何にせよ、早くこの場から逃げ出さなければならない現実に変わりはない。なんとかして、アルト老やライアと合流しなければならない。
なんとかして時間を稼《かせ》ぎ、その中で隙《すき》を窺《うかが》っていくしかない。
「……王城《パレス》の人間が、なんでそのロープ着てるんだ?」
睨みながら尋《たず》ねると、老人は厳《きび》しい顔で小さく頷《うなず》いて、
「それは当然の疑問だな。だが、私は学術院《ライブラリ》の人間だ。
顔も名も学生の前に晒《さら》したことはないから、知らないのも無理はないがな。――ロジェ・ヴィルトール。この八十年ほど、学術院副院長の椅子《いす》に座っている」
「副院長? なんでそんな偉《えら》い奴が、こんなとこにいる……王城《パレス》の兵隊と組んでんだよ。……それに、八十年?」
「疑問の持ちどころが分かりやすいな、きみは。後の質問に対しては、それが私が名も姿も人前に晒さない理由だと考えれば、すぐに答えは出るはずだ。前の質問に対しては……政治には、様々な側面がある。それが分からないほど幼《おさな》くもないだろう?」
「…………」
同じ人間が八十年もの長きにわたってひとつの役職《やくしょく》に就《つ》く――何らかの称号《しょうごう》職ならともかく、実務《じつむ》のあるところでは考えにくい話だ。少なくともそれが人の目に留《と》まれば不審《ふしん》に思われることは間違いない。偽名《ぎめい》を使わず、名を隠《かく》すという手段を使っているところを見れば、偽名を名乗れない理由があるのだろう。
そう考えれば、確かに、答えはすぐに出る。
|魔法書の代役《バーント・グリモア》。
でも、まさか、そんな。
「なんで……っ!?」
「何に対しての疑問かは分からないが、とりあえずは落ち着くといい。
荷物[#「荷物」に傍点]が重いだろう? そこらに下ろして、椅子《いす》を使いなさい」
「……っ」
逆《さか》らえる立場にはなかった。が、言われたとおりにする気はなかった。
ジネットを前に抱きかかえ直して、椅子に腰掛《こしか》けた。
「さて、疑問に答えるためにきみを呼んでもらったわけではない。こちらからも幾《いく》つかの質問をしたいのだが、いいかな?」
「嫌《いや》だって言ったら?」
「そんなことは言わないだろう、君は?」
老人、ロジェ・ヴィルトールは、その瞬間になって初めて、笑顔《えがお》を見せた。
口元がわずかに曲がり、眼光《がんこう》は人を刺《さ》し貫《つらぬ》くように強くなる。
……ああ、畜生《ちくしょう》。違うだろう。これは笑顔じゃない。恫喝《どうかつ》だ。
狼《おおかみ》が牙《きば》をむき出して唸《うな》り声をあげるのと、同じ行為《こうい》だ。
「……何を、聞きたいんだ?」
「うむ。実に素直《すなお》で良い返事だ。若者はやはり、そうでなくてはな」
ロジェは深く頷《うなず》いて、
「では尋ねよう。きみの体は『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』によって維持《いじ》されていて、しかも見たところ、今それは崩壊《ほうかい》しかけている。――合っているか?」
「な……」
リュカは驚愕《きょうがく》の声をあげる。なぜ、そんなことを知っているというのか。
「遠き眼《まなこ》は届かざるを掴《つか》み、歩《あゆ》む踝《くるぶし》は離れざるを喪《うしな》う=v
ととん、と軽くテーブルの大理石を指先で叩《たた》きながら、ロジェが詠唱《えいしょう》する。
世界中が、微動《びどう》だにしないまま小さく揺れる。そんなイメージを感じ取る。
「|その旅人の旅は、旅立ちにより終わりを迎える《ソン・レーヴ・トルーブ・ル・モンド》=v
粘質《ねんしつ》の、膜《まく》のようなものが、ロジェの指先を中心にぶわりと広がった感覚。それはリュカの体に触《ふ》れて、包み込んで、そしてわずかな抵抗を残して突き抜けた。
導《みちび》きの言葉。そして、魔法を使うための準備を整《ととの》えた|夜の軟泥《ワルプルギス》。
これが恫喝の一環《いっかん》だということは、よく分かった。牙をむき出した狼が、ついでにあんぐりと顎《あぎと》を開いてこっちの首筋にあてがってきたわけだ。
「…………」
と、何かがひっかかった。
今目の前にある光景《こうけい》、いや今起こったばかりの出来事の何かが、気にかかった。
「さて、返事は?」
だがその違和感《いわかん》を追及《ついきゅう》する時間は、与《あた》えてもらえなかった。だから、
「……ああ」
頷いた。そのついでに、今更《いまさら》だと分かってはいたが、欠けて|夜の軟泥《ワルプルギス》を撒《ま》き散《ち》らしている指先を、拳《こぶし》の中に握《にぎ》りこんで隠した。
「素直《すなお》で正直。結構、とてもいい返事が聞けた」
かたん。
何の音かと思えば、ロジェが椅子から立ち上がる音だった。
「私は、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』がどのような存在であるのかについて、おぼろげながら掴《つか》んでいる。
五年前にあったことも、八日前にあったことも、ちゃんと情報を集めた。それどころか、二百年前のことも、百三十年前のことも、十六年前のこともだ。ああ、もちろん第六書庫には秘密《ひみつ》でね。彼らにバレると、何かと面倒だったからな。
だから、君の存在も知っていた。
直接このようにアプローチすることになるとは思っていなかったが、どちらにせよ遅かれ早かれ封《ふう》は開けなければならなかった、予定が早まったと考えればそれでいい」
かつん。かつん。かつん。
静かな部屋に、硬《かた》い靴音《くつおと》だけが響《ひび》く。
「さて、『|ひとつめの嘘《ソルトレージジュ》』はおそらく、魔法書などではない」
靴音は、近付いてくる。
「自《みずか》らの力を削《けず》り封じていった魔女が、最後まで魔法書という形に縛《しば》り付けることのできなかった、もっとも不可解《ふかかい》で、もっとも魔女の本質に近かった力。魔女の本質、すなわちこの世界のあるべき姿を蝕《むしば》み、恣意《しい》のままに書き換《か》えてしまう力。それをそのままに体現し、ほぼ万能《ぱんのう》に近いその能力ゆえに、願いを叶《かな》えるとまで言われた
――それは、嘘を吐く能力そのものではないか[#「嘘を吐く能力そのものではないか」に傍点]」
かつんっ。
ひときわ大きな靴音がひとつ。ロジェは立ち止まる。
「嘘というのはね、決定的な別離《べつり》の言葉なのだよ」
上を――高みにある天井《てんじょう》を見上げて、ロジェは続ける。
「ひとつの嘘が生まれた時、その嘘を信じる者とそうでない者とは、それ以降、異《こと》なる世界に生きることになる。嘘を吐《つ》くということは、善意《ぜんい》であれ悪意であれ、その嘘を伝える相手を、自分とは違う世界へと突き放そうとする行為《こうい》に他《ほか》ならない。
例《たと》えばAという人間が死んだとする。そしてそのことを知るBが、『Aは生きている』という嘘をCに対して伝えたとする。この時より、Bは『Aが死んだ』世界で生きるのに対し、Cは『Aは生きている』世界で生きることになる。別離とはそういうことだ。客観的には小さな断絶《だんぜつ》であるかもしれない、けれどこのとき、BはCに対して、自分と同じ世界からの追放を行った――その事実は厳然《げんぜん》として動かないのだから。
もちろんこれは、単なる認識の齟齬《そご》と言ってしまえばそれだけの話だ。
残念なことに、主観《しゅかん》世界という概念《がいねん》を理解できない即物的《そくぶつてき》な人間は数多く、彼らは物質《ぶっしつ》もしくは転用し易いエネルギーという形で存在する、いわく客観的《きゃっかんてき》な事物《じぶつ》をもってしか世界を定義できない。もちろん『単なる認識の離解』ただそれだけを議題にとってみても、哲学者たちがいつまでも椅子を温《あたた》めていられそうなテーマではあるが、今この場所で語ろうとしている本題からは外れてしまう……」
「何言ってんのか……分かんねえよ……!」
半分は嫌味《いやみ》、残り半分は本音《ほんね》のつもりで、そううめいた。
ロジェは大きく失望《しつぼう》のため息を吐いて、
「やれやれ、学術院《ライブラリ》の学生もレベルが落ちたものだ。
仕方がない。少し結論を急ごうか。
『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』とは、魔法書ではなく、ひとつの強力な、そして何より理不尽《りふじん》な能力に対して与えられた名称である。
嘘を吐く。
けれどその嘘は、特別な嘘だ。
誰もそれを疑うことはできない。たとえ疑ったとしても、決して暴《あば》くことはできない。なぜならその嘘は、魔女の力をもった言葉《コトダマ》により形作られるのだから」
こいつは何を言っているんだと思った。
話があるからと呼び出しておいて、始めることは魔法についてのご高説《こうせつ》。
興味《きょうみ》のある内容ではある。だから聞き逃《のが》せないというのも事実だ。しかし実際のところ、ただの蘊蓄《うんちく》話であれば後にしてほしい。腕の中のジネットが、どことなく冷たくなってきているような気がする。血が流れれば人の体は体温を失《うしな》う。
「つまり、こういうことだ。
『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』とは、この世界に対して嘘を吐く能力。
世界はその嘘を信じ込み、それが正しいものであるかのように振《ふ》る舞《ま》う。
林檎《りんご》は白いと言われれば、この世界にある林檎は全《すべ》て白くなる。
太陽は北から昇《のぼ》ると言われれば、その日から太陽は北から昇る。
……|夜の軟泥《ワルプルギス》などを使ってちまちまと世界を書き換えるのが馬鹿《ばか》らしくなるほど、大雑把《おおざっぱ》で超絶的《ちょうぜつてき》な魔法《ウィッチクラフト》だ」
あ――?
ぞくり、と理由もなく、背筋《せすじ》を冷たいものが伝った。
これ以上こいつの話を聞いてはいけないと、本能が叫んだ。
「そろそろ、私の伝えたいことは理解して貰《もら》えたかな?」
「何言ってんのか分かんねぇって……言ったろ?」
「そうかね。それは、張り合いのないことだな」
たぶん……感情ではともかく、頭ではもう理解していたのだと、思う。
だから、机《つくえ》の下に隠《かく》した自分の拳《こぶし》を見て――
崩壊《ほうかい》が再開していることと、もうその指の半《なか》ば近くまでが虹色《にじいろ》の粒《つぶ》に解《ほど》けてしまっているのを見て、「ああやっぱり」などと思った。
――君は、何も知ってはいけない。知ろうとしてはいけないんだ。
ジネットは、なぜあんなことを言った?
自分のこの体は、なぜ少し考え事をしただけで、唐突《とうとつ》に壊《こわ》れ始めた?
少し考えれば、すぐに答えが出る。
リュカ・エルモントがそれ[#「それ」に傍点]を知ることこそが、引《ひ》き金《がね》だったのだ。
だから、この男は、長々とこんな話を続けてきたのだ。
「五年前。一人の少年が、炎《ほのお》の中で死んだ。
そして、その場所に居合《いあ》わせたフィオル・キセルメルは、その死を受け入れなかった。なんとかして少年に未来を繋《つな》いでやりたいと思った。だから彼女はその手の中にあった『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を用《もち》いてひとつの嘘を吐いた。
少年は死んでなどいないのだと。
これから先も、平穏《へいおん》で温かな生活を送っていくのだと。
この世界は、あっさりとその嘘に騙《だま》された。
死んだ少年と何もかもがそっくりな存在を捏造《ねつぞう》し、死んだ少年が歩むはずだった人生のレールの上にそのまま置いた。エブリオの焼け跡《あと》から伯父《おじ》に拾《ひろ》い出され、学術院《ライブラリ》に通《かよ》い、そのまままるで一人の人間のように人生を送っていくようにと」
七色の砂に崩《くず》れて、そして大気に溶《と》けていく。
自分がここに[#「自分がここに」に傍点]在る[#「在る」に傍点]″ことが間違いだと気付いたから[#「ことが間違いだと気付いたから」に傍点]。
たったひとつの小さな嘘に騙されて[#「たったひとつの小さな嘘に騙されて」に傍点]、ここに存在していると思い込んでいただけなのだと気付いたから[#「ここに存在していると思い込んでいただけなのだと気付いたから」に傍点]。
――刻印《ブランディング》うんぬんの問題をさておいても、お主《ぬし》のその不死身《ふじみ》っぷりは異常じゃよ。並みの人間から見れば異常そのものの儂《わし》が言うんだから間違いない。お主の体質は異常オブ異常、キングオブ異常の領域じゃ。
いつか聞いた、アルト老の言葉が耳に蘇《よみがえ》る。
ああ、なるほど。これは、そういうことだったのか。
この世界はあまりに無垢《むく》で、自分が騙されていることになかなか気付かなくて、リュカ・エルモントとして生きている虚像[#「虚像」に傍点]が刺されても食われても貫《つらぬ》かれても、「こいつはまだ生きているんだ」と執拗《しつよう》に信じ続けていたということか。
説明されてみれば、あまりに単純で、そして――ふざけた理由。
生きていると定《さだ》められていたから死ななかった。ただ、それだけ。
「しかし、限りなく万能《ばんのう》のように見えたこの能力にも、限界はある。
嘘は、それが嘘だと気付かれた時点で、どうしようもなく意味を失う。
それは単純にして厳粛《げんしゅく》な真理《しんり》。
嘘によって分かたれた二つの世界はその片方が粉々《こなどな》に砕《くだ》け散り、鋭《するど》く尖《とが》ったその破片《はへん》が、騙されていた者を傷つける」
そうだ。
この世界は、この嘘に気付けない。けれど、この虚像《『リュカ』》は、気付くことができる。自分という存在に疑問を持って、あるいはその存在を否定することもできる。
そしてそれは、矛盾《むじゅん》を生む。この世界がそう信じているように、ここにいる『リュカ・エルモント』が本物であれば、まさかそんなことを考えるはずがないからだ。この瞬間、虚像《『リュカ』》は虚像《『リュカ』》としてそこにあることの意味を失う。本物がそうするであろうものと違う行動をとる虚像《『リュカ』》になど、存在意義がないからだ。
だから――嘘は壊《こわ》れて、虚像《『リュカ』》は消える。
最初からそこには誰もいなかったのだとでもいうように、跡形《あとかた》も残さずに。
ジネットの言っていたこと。
ライアの言っていたこと。
アルト老の言っていたこと。
ようやく意味が分かった。
虚像《『リュカ』》は、決して、真実に気付いてはいけなかった。
今この時に幸せに生きていけているのなら、その幸せにだけ向き合っていなければならなかったのだ。
その禁忌《きんき》を犯《おか》したから、自分は、今、ここで、消える。
これはもう、動かしようのない事実。
……冗談じゃ、ない。
死にたくなんて、ない。いや違った。消えたくなんて、ない。
こんな意味のない、いやそれ以上に悪い終わり方を受け入れられるほど素直でもなければ人生を諦《あきら》めてもいない。
それに、今こんなところで、自分がいなくなってしまったら。
この腕の中にいるこの娘は。
ただ一人きりで、こんな場所に取り残されてしまう。
ぴきぴきと、景気良く、大甕《おおがめ》にヒビが入ってゆく。
ぱりんぱりんと、勢いよく、大甕が砕けて破片を撒き散らす。
「……なあ」
虚像《『リュカ』》は尋ねた。
「八日前の出来事、調べたんだろ? レオネルがどうやって死んだかとか、そういうのって分かったのか?」
「その程度であれば、状況を見れば分かる」
機嫌《きげん》が良いせいか、あっさりとロジェから答えは返ってきた。
「へぇ?」
「ジネット姫《ひめ》が『|琥珀の画廊《イストワール》』で過去に起こった流星雨《りゅうせいう》の記憶でも再生し、レオネル公を討《う》ったのだろう? バルゲリアル公は魔法を使わなかったし、君は特殊《とくしゅ》な存在ではあるが魔法使いではない。単純な消去《しょうきょ》法だ」
「あー、なるほど」
バルゲリアル公というのが誰のことなのかが一瞬分からなかったが、少し考えればアルト老のことだと理解できた。「使わなかったし」という言い回しも奇妙《きみょう》だと思った。なぜその場に居合《いあ》わせたわけでもないのにそんなことが断言《だんげん》できるのか。
いや、しかし別にそんなことはこの際どうでもいい。重要なのは、もっと別のこと。
「何が『なるほど』なんだ?」
「いやほら。こういうミス、頭のいい奴にありがちだよなとか思って。自分の頭の中で一回|理屈《りくつ》に筋《すじ》が通っちまうと、その後の可能性って考えなくなるんだよな」
「……何?」
さて、やり方を、思い出そう。たぶんこの体のカラクリを理解してしまった今なら、あの時よりももう少し効率的《こうりつてき》にできるはずだ。
息を吸って。吐いて。
そして、願い事を、始める。
守りたい人がいて。
傷つけたくない人がいて。
けれど、自分にはそれだけの力がなくて。
だから――守れる力が、欲しくて。
皮肉な話だった。リュカ・エルモントとしての自分が希薄《きはく》になっているせいで、リュカ・エルモントには持ち得なかった力が、何の抵抗もなくこの体に馴染《なじ》んだ。
自分の持つ、最も強い『守る力』のイメージ。
最強《さいきょう》の魔女《まじょ》だとか魔法の創始者《そうししゃ》だとか、そんな肩書きは関係ない。幼《おさな》かった頃のリュカ・エルモントに寄り添《そ》ってくれていた、もう色んな意味で一生かなわないと思える、自分の中だけで最強という言葉を象徴《しょうちょう》してしまう、彼女のイメージ。
彼女ならば、きっと、いま腕の中にいるこの娘を、守ってくれる。
彼女みたいにやれれば、もしかしたら、自分にもそれができるかもしれない。
だから、その力を、願った。
ばきん。何かが致命的《ちめいてき》なまでに壊《こわ》れてしまう音を聞いた。
爆発《ばくはつ》するように、リュカの全身から、七色の光が鮒《ま》がれた。
その光が、部屋の中へと広がってゆく。
「……おお……」
何を勘違《かんちが》いしているのか、ロジェが感極《かんきわ》まったような声をあげた。
自分自身《『リュカ』》をこれまで構成してきたチカラを、別の場所へと注《そそ》ぎ込んでいく。これまでそこにあった大甕《おおがめ》の形が気に入らなかったから、ブッ壊して別の形に組みなおしてしまう。もちろんそんなことをしたってすぐさま壊れてただのガラクタの山になってしまうわけだが、
……ほんの一瞬、短い時間だけ使い物になれば、それで充分《じゅうぶん》。
「なぁ。あんた、不死人《レヴナント》なんだよな?」
呼びかけた。
「……何だね、突然」
「シュテーブルの頃にさ、フィオル・キセルメルって、会ったことあるか?」
「一介《いっかい》の騎士《きし》ごときがそうそう近づける相手ではなかったが」
「あー、あんた、騎士だったんだ?」
そりゃあ、凄《すご》い。レオネルといいこいつといい、本当にあそこの国の騎士というのはどいつもこいつもクズばっかりだったようだ。
きっと、騎士がそんなだったから、姫君が強くなったのだろう。
そんな風に強くなった姫君だから、リュカ・エルモント少年は憧《あこが》れたのだろう。
そして、誰かを守れる自分になりたいと、願いを持ったのだろう。
「んじゃ、最後にひとつ、いいこと教えてやるよ」
「……何をだ?」
「はじまりの魔女の力ってのは、導《みちび》きの言葉がいらないらしい。わざわざあんたたちみたいに|夜の軟泥《ワルプルギス》を広げなくても、最初から準備は整《ととの》ってるみたいでさ。だからもう、呪文《じゅもん》の言葉を口にするだけで、他人の展開した|夜の軟泥《ワルプルギス》の中でも魔法は使い放題」
「何……?」
訝《いぶか》しげな顔。
「ま、言って信じられるとは思ってなかったけどさ」
実践《じっせん》して見せてやるよと、これは言葉にせずに呟《つぶや》いて、
「――光に溶けて[#「光に溶けて」に傍点]/星は砕ける[#「星は砕ける」に傍点]」
音もなく、無数の白い光の粒《つぶ》が部屋中に浮かび上がる。
ひとつひとつは蛍火《ほたるび》の大きさ。しかしその数の多きのせいで、部屋がまるで真昼のように白く照らし出される。
「なっ……!?」
「とりあえず、この屋敷《やしき》ごと潰《つぶ》させてもらう。クリストフも巻き込んでおきたいし、そんくらい派手《はで》にやれば伯父《おじ》さんたちに居場所知らせられるかもしれないしな」
「何……をした、きみは……汀」
説明するのは面倒だった。それに、その驚愕《きょうがく》の顔を見ただけで充分《じゅうぶん》に気分は晴れた。
だから、その質問は無視《むし》した。
「んじゃな」
ジネットを巻き込まないようにと気を配《くば》りながら、もう肘《ひじ》までもなくなってしまった手を軽く振って――
光の珠《たま》のひとつが起爆《きばく》した、その爆発に隣《となり》の珠が巻き込まれ、さらなる爆発が引き起こされ、
「――掴み寄[#「掴み寄」に傍点]――」
ロジェが唱《とな》えようとしていた言葉がかき消され、連鎖《れんさ》が連鎖を呼び、
やがて全てが白に染まり、
白は音もなく熱もなく、
ただ静かに全ての彩《いろど》りを飲み込んで消し去って、
そして、
19.
長い間、旅を続けてきた。
その間に、色々な人間に会った。
そう――本当に、色々な人間にだ。
良い人間もいたし、悪い人間もいた。そしてその両方を足《た》したよりもはるかに多い数の、どちらでもない人間がいた。
その中には当然、優《やさ》しい者だっていた。
こんな自分に対して好意《こうい》を示《しめ》してきた者もいた。一緒に暮《く》らそうなどと言ってきた男すら何人かいた。
けれど、自分を守ろうとしてくれた人は、いただろうか?
隣に立って戟おうとしてくれた人は、いただろうか?
……もしかしたら、いたのかもしれない。けれどそんな相手を、自分が受け入れたことは、ただの一度もなかった。なかったはずだった。
たぶん、無意識《むいしき》のうちに気付いていたのだろう。一人でもそういう相手を受け入れたら、自分は、何か大切なものを無くしてしまうだろうと。
――ジネット・ハルヴァンは意識を取り戻《もど》した。
シーツの中から、ゆっくりと身を起こす。
体の節々《ふしぷし》が痛んだが、動くことには問題がない。いやむしろ、本来あってはならないレベルで回復していた。傷は塞《ふさ》がっている。体力は戻っている。
|夜の軟泥《ワルプルギス》が、回復している。
「…………」
頬《ほお》を、一筋の涙《なみだ》が伝い落ちた。
『彼』の存在を繋《つな》ぎ止めていた魔法は、ジネット自身が何をするまでもなく、解《と》かれていた。だから、この体は休息《きゅうそく》によって力を取り戻すことができた。
それは、彼自身の完全な消滅《しょうめつ》を、意味していた。
「……なぜ、君は……」
呟《つぶや》く。
「なぜ君は、勝手に……」
その声は、消え入りそうなほどに小さい。
届ける先がない言葉ならば、大きく響《ひび》かせる必要がない。
「なぜ、私は……」
そしてついには、もうそれ以上、言葉が出なくなる。
「……………………」
そのまましばらく、天井《てんじょう》を仰《あお》いで、涙を堪《こら》えて時間を過ごした。
「あら、やっと起きたの眠《ねむ》り姫《ひめ》?」
言葉と同時に、開けっ放しの扉《とびら》から、ライアが部屋に入ってきた。
ベッドの上で上半身を起こした姿勢《しせい》のまま、本当に邪魔《じゃま》だ、という顔でそちらを見た。声をかけてやる気にはなれなかった。きっといつもの声ではないだろうから。
「体の調子はどう? たぶん、そろそろ本調子に戻った頃だと思うけど。あ、ちなみにあれから三日間、ぶっ通しで寝てたのよ、あなた」
体については、まさにその読みのとおりだ。
そして眠っていた期間については――ああそうなのか、くらいの感慨《かんがい》しか浮かばなかった。正直なところを言えは、そんなことは本当にどうでもよかった。むしろ、もっとずっと長い間眠っていたかったくらいだ。そうすれば、こんな思いをするのがもっと先で済《す》んでいたというのに。
「あ、そういえば隣のアリスちゃんが一度、心配して来てくれたわよ?
ケガの手当てしてもらったんだって? 後でちゃんとお礼言っときなさいよ?
……まぁ、あの子の本命は違うとこだったみたいだけど」
軽い調子で言って、肩をすくめる。
こいつは、自分の言っていることの意味が分かっているのだろうか。その「本命」とやらがどれだけ酷薄《こくはく》な言葉であるか、理解しているのだろうか。彼はもういない。消滅《しょうめつ》したのだ。もう二度と戻ってこないのだ。
「……さすがに、お喋《しゃべ》りできる気力はない、か」
うるさい、黙《だま》れ。
そんな、気遣《きづか》ってるみたいな顔でものを喋るな。
今すぐここを出ていけ。それとも、力ずくで追い出してやろうか。
「じゃ、何か食べるものでも作ってくるわね。おなかすいてるでしょ?」
出ていけ出ていけ。二度と戻ってくるな。
「……ああ、それから」
戸口に立ったライアが振り返る。
苛立《いらだ》つ。
会話を終わらせるならさっさと終わらせてくれ。部屋を出るならさっさと出ていってくれ。そしてこれ以上、私に関《かか》わろうとしないでくれ。
「あの子の行方《ゆくえ》だったらこれから捜《さが》すから、一月くらい待ってて」
「――――――――は?」
声が、出た。
「何の話だ?」
「だから、あの子の行方。見た感じ、本人に言ってやりたいこととか、あるんでしょ?」
「それは――」
そうだ。言ってやりたいことならある。本人に向かって、わあわあと子供の駄々《だだ》のようにぶつけてしまいたい言葉が、山ほどある。
けれど、それは全《すべ》て、もう意味のないものであるはずだ。
あの少年は、消えて無くなってしまったのだから。
「……『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』というシステムには、色んな側面がある。
それはあなたのお姉さんの創《つく》った最後の魔法であり、この世界そのものが自然発生させた自動的なメカニズムであり、また結果的には人の心を集積《しゅうせき》して創られるナニモノカでもある。
ま、この場合はそのうちひとつに絞《しぼ》って話をするしかないわけだけど」
何を、いきなり話し出したのだろうと思う。
「それは時に、既《すで》にいない――あるいは最初からいない人間に、偽《いつわ》りの存在《そんざい》を与えることがある。私にこの話を教えてくれた人は、妖精《フェイ》≠チて呼んでた。
この妖精《フェイ》≠ヘ、それ自体が独立した個人であるのと同時に、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』というひとつの大きな器《うつわ》の中に注《そそ》ぎ込まれた蜜酒《みつざけ》の一滴《いってき》でもある。このことは、たとえその妖精《フェイ》≠ェ嘘を暴《あば》かれて消えたとしても、変わらない」
何を、言っているのだろうと思う。
「……だから、なのかしらね。一度嘘を暴かれて消えた妖精《フェイ》≠ェ、同じ姿、同じ記憶を保ったまま、この世界にもう一度発生したケースが、過去《かこ》に幾《いく》つかある」
「な――――っ!?」
驚愕《きょうがく》した。
彼女の言葉が意味するのは、つまり、彼は、リュカ・エルモントは、まだ――
「嘘じゃないわよ? 昔、妖精《フェイ》≠竄チてた当の本人に聞いたんだから」
「な、な、な――――っ!?」
混乱しているところに追い討《う》ちを受けたので、もはや驚愕どころではなくなった。
一体それは誰のことか。誰がどこでどのようにそんな話をしたというのか。考えられる人物は一人しかいない。けれどその一人は、いやしかし、まさかそんなことが。
「はい、それじゃこのお話はここまで。ごはん持ってくるから、待っててね」
言って、今度こそライアは部屋を出ていった。
足音が廊下《ろうか》を遠ざかっていくのを聞きながら、ジネットはいま言われたことの意味を、ぼんやりとかみ締《し》めていた。
「…………」
信じがたい話ではあった。
しかも、その全てが、いまいち信じうらい人間の口から出た言葉だった。
けれど、それでも――
「――リュカ」
ぽつり呟いて、自分の膝《ひざ》を抱く。
ああ、そうだ。彼には、言ってやりたいことがある。本人に向かって、わあわあと子供の駄々のようにぶつけてしまいたい言葉が、山ほどある。
けれど、その前に。
この先何年かかったとしても、もし自分がまた彼に会うことがあるとしたら。
「…………」
まずは、思いっきりその頬をひっぱたいてやろう。
そう決めて、自分の膝の向こう側で、ぎゅっと小さな拳を握り締めた。
口元に、ようやく、小さな微笑《ほほえ》みが浮かんだ。
廊下《ろうか》に出たライア・パージュリーは、その足で、アルベールの待つ書斎《しょさい》に向かった。
アルベールは、見事なまでにげっそりとやつれていた。
あの夜、副院長の私宅が、極《きわ》めて大|規模《きぼ》、かつド派手な魔法により破壊《はかい》され、瓦礫《がれき》の山になってしまったのだ。夜中とはいえ、真昼のような爆光と地崩《じくず》れのような轟音《ごうおん》は、とんでもなく大勢の目撃者《もくげきしゃ》を出してしまった。それを情報|操作《そうさ》でごまかそうというのだから、並みの労力《ろうりょく》では片付かない。
「後始末《あとしまつ》はどんな感じに落ち着きそう? 王城《パレス》側の反応は?」
椅子《いす》に腰掛《こしか》けたままふらふらと振り子のように頭《かぶり》を振るアルベールに、声をかける。
「いやぁ……それがねぇ。聞いておくれよ、語るも涙《なみだ》の笑い話。あの瓦礫の山からはさ、死体、全然出てないんだよ。もちろん消滅《しょうめつ》した可能性もあるから、生きてると決め付けたもんでもないんだけど……楽観《らっかん》は出来ないからなぁ」
「……そう」
生きている可能性があるというなら、たぶん、生きているのだろう。
魔法使いというのは、そして特に不死者《レヴナント》というのは、そういう連中だ。
「そうそう。ジネット、起きたみたいよ」
「……元気、出そうだったかい?」
「無理っぽかったから、『虚像』の話、しておいた」
「あー、そっか……それはー、仕方ないね。本来なら絶対に漏《も》らしちゃいけない話ではあるけど、あのままじゃあの子が可哀想《かわいそう》すぎる」
「『可哀想』なんて理由で覆《くつがえ》していい程度《ていど》の機密度なら、別にいいじゃない?」
「……君は、それでいいと思うのかい、『ライア』?」
それは、何ということもない、普通の問いかけ。
「そうね。それでいいと思うわよ、ライア・パージュリーは」
「じゃあ、聞こう。もし君がライア・パージュリーではなく、例《たと》えば、そうだな……弟を亡《な》くしたばかりのお姉ちゃんだったりしたら、どう感じたと思う?」
「……そうね」
微笑《ほほえ》んで、
「ちょっとだけ、喜んだかもしれない。
あの子は、変わらずにずっとあの子のままだったんだなって。
私の知ってる弟のまま、それを最後まで貫《つらぬ》いてたんだなって。ここから消えていなくなったことが、あんなにも深く人を傷つけてしまうくらいに。そういうこと実感《じっかん》したら、たぶんだけど、人の目のないところでこっそり泣いちゃったりしてたんじゃないかな……」
その目が、わずかに赤い。
「…………」
アルベールは、静かに頷《うなず》く。
「もちろん、私の弟はずっと前に死んじゃったし、今のはたとえの話だけどね?」
「分かった。君がそう言うなら、そういうことにしよう」
「うん、そういうことでお願い」
ライアもまた、一度小さく頷いた。
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▼promnede/
今から五年ほど前のことだ。
アルベール・エルモントは、一人の少女を第六書庫に受け入れたことがある。
本当にいいのか、とアルベールは尋《たず》ねた。
クローディアは、ほんのわずかな時間だけのためらいを見せてから、それでもゆっくりと頷いた。
「魔法書は、一冊しかもらえないの?」
学術院に連れてきて初めて分かった。少女の才能は、もはや異常《いじょう》を通り越して異様《いよう》とすら育って良いものだった。
魔法書を読み解《と》き、その意味を掴《つか》むことは極《さわ》めて難《むずか》しい。それぞれの本の内容と特に相性《あいしょう》の良い者でなければ、たとえその文章を読み進めることはできても、そこに込められた意味を正確に掴《つか》むことはできない。そしてそれができれば、その者は第六書庫からその本の管理を任《まか》せられ、魔書使い《グリモア・ハンドラ》となることができる。
そしてまた、魔法書に触《ふ》れるということは、人間の心身《しんしん》に大きな負担《ふたん》をかける。もとよりそれは魔女の宿《やど》した狂気《きょうき》をそのまま文字に置き換《か》えて並べた代物《しろもの》なのだ。一冊ならばまだしも、二冊も三冊も読み進めようとすれば、人は確実に衰弱《すいじゃく》する。
以上の理由により、一人の人間が複数の本を読み解いてしまうということは、まず考えられない。だがそれでも一応、第六書庫にはそのような事態にどう対応するべきかの指針《ししん》が定められていた。いわく、本人の意思《いし》で一冊を選択《せんたく》させ、それを所持させろと。
その魔法書を、クローディアは、四十七冊読み解いてみせた。
非常識《ひじょうしき》は、度を過ぎてしまえば、ただの悪趣味《あくしゅみ》だ。次々と魔法書を読み解き、|夜の軟泥《ワルプルギス》を解放してみせるクローディアを前に、アルベールはただひたすらに絶句《ぜっく》するしかなかった。
四十七、これは、その時点で学術院《ライブラリ》が保有していた魔法書《グリモア》のほとんどと言っていい数字である。
「一冊だけなら――伯父《おじ》さん、この本ちょうだい」
言って、少女が拾《ひろ》い上げたのは、光と虚像《きょぞう》の魔法書『|金狼の住処《オンブラージュ》』だった。
「これからの人生、ずっと嘘吐《うそつ》さで生きていこうと思うから。使う魔法書《グリモア》のほうも、それに見合ったものにしようかなってさ」
どういう意味かと尋ねた。
「クローディア・エルモントは、あの火事で死んだことにする。
リュカ――じゃない、あの子[#「あの子」に傍点]のそばには、もう、いられないから。
あそこにいるあの子[#「あの子」に傍点]は嘘でニセモノで、弟はとっくに死んでるってこと、私は知ってるんだもの。他《ほか》の誰がその嘘に騙《だま》されたって、私は騙せない。だって、魔女さんの力を預《あず》かって、そう嘘《ソルトレージュ》を吐いたのは私なんだから。
そうと分かっていて、リュカ・エルモントを名乗る子の隣《となり》じゃ、暮《く》らせないよ」
既《すで》に死んでいる者が一人、生きていると偽《いつわ》って生きていくのだから。
まだ生きている者が一人、死んでいると偽って生きていくのもまた、数の上では正しいのではないか。私とあの子[#「あの子」に傍点]は、これから先遠く離れて、互《たが》いを死んだものとして生きていく。それが一番、自分にとってもあの子[#「あの子」に傍点]にとっても幸福なやり方だろうから。
アルベールは、その決意《けつい》を悲しいと思った。
けれど、否定することはできなかった。少女がその決断《けつだん》に至《いた》るまでにどれだけ涙を流してきたのか、それを思えばまさかそんなことができるわけがなかった。
「だからね。私はもう、クローディア・エルモントじゃない。あなたも、もう、私の伯父さんじゃない。
これからの私は、『嘘吐き《ライア》』を名乗り、『偽証《パージュリー》』を冠《かん》する、一介《いっかい》の司書見習《ししょみなら》い。若くして身寄《みよ》りを全てなくしてしまったけれど、親代わりの優《やさ》しい上司に支《さき》えられて毎日なんとか生きていけてる、けなげで可愛《かわい》い十四歳。
そういうことで、ひとつお願いできるかな……アルベール・エルモント第六書庫上等司書官サマ? あ、室長さんって呼んだほうがいい?」
耐《た》え切れなかった。
目の前の少女があまりに不憫《ふびん》すぎたので、アルベールは少女の小さな体を思い切り抱《だ》きしめていた。
「……部下の女の子に軽々しく抱きつくってのは、上司として大問題ですよ、室長」
抗議《こうぎ》の声には、涙が混じっていた。
「でも室長って、昔大好きだった私の伯父さんに、ちょっとだけ似《に》てますから。だから、今日だけはオッケーってことにします。今日だけは、お互いに、家族みたいな扱《あつか》いでいいことにします。明日からは……絶対に、ご法度《はっと》、なんです、から、ね……」
少しずつ、ぐしゃぐしゃと、声が濡《ぬ》れていった。
最後には、もう、泣いているのか喋《しゃべ》っているのか、分からなくなっていた。
そして、少女は泣いた。
わんわんと、体中の元気を全部|搾《しぼ》り出す勢いで、泣き喚《わめ》いた。
そして、それっきりだった。
その翌日にアルベールの前に現れたライア・パージュリーと名乗る少女は、自称《じしょう》するようにけなげで可愛かったかどうかはともかくとして、それ以来誰の前でも、一切《いっさい》の涙を見せなかった。
――なぁ、クレマン。それに、アニエスさん。
君たちの子供は、あの火事で二人とも死んじゃったよ。一人は体が燃えて。一人は心を焼かれて。そして僕には、どっちも助けられなかったんだ。
でもね。奇跡《きせき》は起きてたんだ。
いま僕のすぐそばには、君たちの子供それぞれによく似た、二人の子供がいる。
一人は、リュカにそっくりだ。名前も顔も体つきも心のあり方も、何もかもがそっくりだ。これから彼が、リュカの全てを受け継《つ》いでくれる。リュカが学ぶはずだったこと、触れるはずだったこと、悩《なや》むはずだったこと、見つけるはずだったこと、その全てを代わりに受け入れてくれる。
もう一人は、クローディアにそっくりだ。違うのは名前と、それからちょっと、小さなクローディアよりも意地っ張りなところくらいだろうか。彼女はもう、クローディアが歩むはずだった人生を大きく外《はず》れた。けれどきっと、彼女はまた、彼女なりの幸せをこれから見つけてくれるだろう。
――なぁ、クレマン。それに、アニエスさん。
君たちの子供は死んじゃったよ。だからこの二人は、赤の他人なんだ。
けれど、もし、よかったら。
善良《ぜんりょう》なる魂《たましい》が天使《ハロウド》に導《みちび》かれ訪《おとず》れるという審判《しんぱん》の門の前で、ちょっと足を止めて、あの子たちを見守っていてくれたりは、しないだろうか……?
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▼obbligato/0
むせ返るような、若草と花のにおい。
目を開いた。
そこは、一面の花畑だった。
赤と青と草色。見た目に鮮《あざ》やかな花が、見渡す限りに咲《さ》き誇《ほこ》っている。そしておそらくはよほど手入れが行き届いているのだろう、人の手による整《ととの》えられた美と、ただ小さな生命がそこにあることで生み出される柔《やわ》らかな美と、その両方が確かにここにはある。
ぼんやりと、その眺《なが》めを見つめている。
黄色い煉瓦《れんが》を敷《し》き詰《つ》めた、道らしきものを見つけた。立ち上がり、少し歩いてみる。
穏《おだ》やかな風が吹いている。息を大きく吸うたびに、濃密《のうみつ》な花の香りが胸の中を満たしてゆく。
一本の、大きな木を見つけた。
そしてその根元《ねもと》に背をもたれて眠る、一人の小さな女の子を見つけた。
「…………?」
なぜか、その子のことが気にかかり、近付いてみた。
本当に小さな女の子だった。年は十か十一か。軽くウエーブのかかった銀色の髪《かみ》が、腰《こし》の辺りまで伸びている。小さな桜《さくら》色の唇《くちびる》が、すぅすぅと小さな呼吸を繰《く》り返している。片手で抱《かか》えられそうな小さな体は、この少女には似合わないほどけばけばしく豪奢《ごうしゃ》な飾《かざ》りのついた、白いドレスに包まれている。
銀色の髪。
……違う、と心の中の誰《だれ》かが呟《つぶや》いた。この子は、あの子[#「あの子」に傍点]じゃない。
あの子って誰のことだ、と考えてはみたが、どうにも思い出せない。
そんなことをやっていると、いきなりぱっちりと元気よく、女の子がまぶたを開いた。
丸い大きな水色の瞳が、まっすぐにこっちを見つめていた。
「……誰?」
ぽつんと、疑問の声が、小さな唇からこぼれた。
当然の疑問ではあると思った。だから、答えようとした。
そしてその時になって初めて、大切なことに気がついた。
――――自分は、何《ダレ》なんだろう――――?
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あとがき
文章量の調整がヘタです。そりゃもう、とんでもなくヘタです。
当初この「銀月のソルトレージュ」の一巻となるべく書かれていた物語は、気がつくとページ数に直して六百を軽く越えるマンモス話になりかけていました。
「いやぁ、さすがにこれはないよねぇ」
「ですよねぇ」
というわけで、その物語のプロットをばっさりと三分割《さんぶんかつ》。まずはひとつ目のパーツに手を加えて「一巻」を完成させました。そしてみっつ目のパーツに様々な手を加えて、続刊たる二巻として完成させました。よってこれにて初めて、当初ひとつの物語として予定していたものの、最初と最後とを語《かた》りきれたことになります。
そんなことがありました、枯野《かれの》瑛《あきら》です。
そして今回のあとがきはなんと2ページしかありません。前回が8ページだったことを考えると75%減、近所の安売り店にも見習《みなら》ってほしいくらいに減《へ》ってます。
なので、ページが本格的に足りなくなる前に、大急ぎで謝辞《しゃじ》などを。
そうでなくても忙しい中、とんでもなく無茶《むちゃ》なスケジュールを潜《くぐ》り抜《ぬ》けてイラストを仕上《しあ》げてくださった得能正太郎さん。何度となく潰《つぶ》れそうになった自分の尻を叩き続けてくれた編集のIさん。最近付き合い悪くてごめんなさい、また近いうちに遊ぼうねというか遊ぶから付き合えやゴラァな友人たち。
そして、一巻を読んで応援《おうえん》を下さった方々と、今ここを読まれている全ての方々に――
ありがとうございました。おかげさまで、なんとかこうして無事に『銀月のソルトレージュ』二巻を完成させることができました。
そして、どうかこれからもよろしくお願いします。
次は、色々様々とうまくいけば、おそらく夏ごろにはお目見えできるかと思います。
二〇〇七年二月[#地付き]枯野 瑛
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底本
富士見ファンタジア文庫
銀月《ぎんげつ》のソルトレージュ2 金狼の住処
平成19年3月25日 初版発行
著者――枯野《かれの》瑛《あきら》