銀月のソルトレージュ ひとつめの虚言
枯野瑛
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銀月《ぎんげつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目次
▼scene/1 夕刻《ゆうこく》の街 〜a little fairytale〜
▼scene/2 剣《けん》の理由 〜death and penalty〜
▼scene/3 花冠《かかん》なき姫君《ひめぎみ》 〜princess of ruinness〜
▼scene/4 徽章《きしょう》なき騎士《きし》 〜knight of night〜
▼scene/5 銀の月のアルペジオ 〜broken moonlight〜
あとがき
[#改ページ]
悪い魔女《まじょ》が倒《たお》されて、みんな幸せになりました。
[#地から3字上げ]――お話は、その次のページから始まります。
[#改ページ]
▼scene/1 夕刻《ゆうこく》の街 〜a little fairytale〜
――それは、古い世界の物語。
物語の舞台《ぶたい》は、山間《やまあい》に栄えていたひとつの王国。
国土は小さいながらも平穏《へいおん》で、花の咲《さ》き乱《みだ》れる美しい国だったと語られている。
王国には二人の姫君《ひめぎみ》がいた。
姉姫はとても美しく、そして聡明《そうめい》だった。
妹姫はとても愛らしく、そして優《やさ》しかった。
二人はそれぞれに国民に愛され、この小さな楽園の中で幸せに暮らしていた。
二人それぞれに恋《こい》をして、その後も幸せに生きていけるはずだった。
ならば悲劇《ひげき》の種はいつ、どの瞬間《しゅんかん》に蒔《ま》かれたのか?
それはきっと、二人が同じ騎士《きし》に恋をしてしまったその時だ。
ならば悲劇の種はいつ、どの瞬間に芽吹《めぶ》いたのか?
それはきっと、父王がその騎士を世継《よつ》ぎに取り立て、さらには妹姫を嫁《とつ》がせようとしたその時だ。
あの妹は、自分が恋した騎士を奪《うば》った。
そしてそれのみならず、王妃《おうひ》の座《ざ》を――王家の者としてこの国を継いだと言える立場すらも、奪った。
姉は嫉妬《しっと》した。そしてその嫉妬が狂気《きょうき》を呼《よ》んだ。
あの小娘《こむすめ》が憎《にく》いならば、いっそ呪《のろ》い殺してしまうかね――怪《あや》しげな魔法使《まほうつか》いが近づいてきて、姉姫にそう囁《ささや》いた。姉姫は迷《まよ》わずにその魔法使いを刺《さ》し殺すと、そのふところから呪いの本を奪って域《しろ》から姿《すがた》を消した。
そして、半年の時間が流れた。
1.
「久《ひさ》しいな父王、そして皆《みな》の者よ」
その言葉とともに、その女は宴《うたげ》の広場に現《あらわ》れた。
女が皆の前から姿を消して、既《すで》に半年の時間が流れていた。
宴の席はその瞬間に、しんと静まり返った。
楽しげに酒を酌《く》み交《か》わしていた貴族《きぞく》たちも、他愛《たわい》もないおしゃべりに興《きょう》じていた娘たちも、そして穏《おだ》やかな音楽を奏《かな》でていた楽団《がくだん》の者たちでさえも、誰《だれ》もが言葉を全《すべ》て失って、その女に視線《しせん》を集めていた。
まさか、と、いかめしい顔の騎士が漏《も》らした。
何の冗談《じょうだん》かしら、と、でっぷり太った娘が呟《つぶや》いた。
大きな弦楽器《げんがっき》を抱《かか》えた楽団の男が、信じられないとばかりに首を大きく振《ふ》った。
「……いままでどこにいた」
王の装束《しょうぞく》を纏《まと》った男が、玉座《ぎょくざ》から腰《こし》を上げて、咎《とが》める声をあげた。
「いきなり姿を消して半年。無用の心配をかけおって」
「本当に尋《たず》ねたいことは、そのような些事《さじ》ではないだろう」
女は赤く濡《ぬ》れた唇《くちびる》をにまりと歪《ゆが》めると、
「私はここに、貴方《あなた》から貰《もら》った名を棄《す》てにきたのだ、父王よ。
いまこの時より私はこの国の姫などではなくなる。
これからはただ一人の名もなき魔女として、この国を呪って生きてゆこう」
誰もが言葉を失ったまま、その女を眺《なが》めていた。
朗々《ろうろう》と、歌い上げるようにして、女は続ける。
禍々《まがまが》しい、濃紫色《こむらさきいろ》のロープ姿。天を仰《あお》ぐようにして両|腕《うで》を広げて、
「私はこの国に、百の呪いを施《ほどこ》す。
一つの呪いは王を殺すだろう。
一つの呪いは騎士を討《う》つだろう。
一つの呪いは木々を腐《くさ》らせ、一つの呪いは獣《けもの》を猛《たけ》らせるだろう。
この国に在《あ》る悉《ことごと》くのものに、私の呪いは傷《きず》を刻《きざ》もう。ただ一人――」
下ろしたその視線を、まっすぐに、ただ一人だけの娘に注いで。
「――お前にだけは、百の呪いは届《とど》かないだろう。
全てが朽ち果ててゆくこの国の中で、お前はただ一人だけ取り残される。
そして、自分がその手にするはずだった何もかもが無価値《むかち》になり喪《うしな》われてゆく苦しみを、強くその魂《たましい》に刻み込むのだ――末姫ジネット」
「姉さま!」
ジネットと呼ばれた姫が悲痛《ひつう》な声をあげた。
「なぜ、そのようなことをなさるのですか! 優《やさ》しかった姉さまが、誰よりもこの国を愛していた姉さまが、なぜ!」
女は答える。
「ああ、そうだな。私は優しかっただろう。誰よりもこの国を愛していただろう。
母親がわが子を慈《いつく》しむのは、なぜか分かるか? それは自分の一部、決して分かたれることのない自分自身のものだからだ。だからこそ母親は愛を持つ。そして私も同じように、この国を慈しんでいた。
……だが、私の愛したものはどれも、しかし私のものではなかった。国も、そしてあの|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》の愛も、全て継ぐのは妹のお前だ。ならばもはや私は同じようにこの国を愛することは出来ない。
愛が偽《いつわ》りであったと気づいた今、私の心には憎《こく》しみしかない」
「誤解《ごかい》です、姉さま!」
誰もが凍《こお》りついたように動けずにいる中で、
「|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》は、あの方は――――」
少女は女に近づく一歩を踏《ふ》み出し、
「|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》は、あの方は……」
少女は女に近づく一歩を踏み出し、
はた、と。
そこで少女は沈黙《ちん・もく》する。
場から、完全に言葉が絶《た》える。居並《いなら》ぶ誰も彼もが、静かに少女の次の言葉を待つ。
こほん。誰かが小さく咳払《せきばら》いをする。
「……」
少女は何も言わない。その頬《ほお》を、小さな汗《あせ》の雫《しずく》が伝って落ちる。
ゆっくりと。本当にゆっくりと、時間が流れて。
「すみません。セリフ忘《わす》れました」
少女が頭を下げる。
その場の全員の肩《かた》が、絶望《ぜつぼう》的な勢《いきお》いで、がくんと落っこちる。
フェルツヴェン学術院《がくじゅついん》、中央|講堂館《こうどうかん》。
演劇部《えんげきぶ》有志《ゆうし》による舞台《ぶたい》『ジネット』の本日の稽古《けいこ》は、そんな感じに終わった。
まぁ、こんなものだろう。
講堂の壁《かべ》にもたれて稽古の様子を見ていたリュカ・エルモントは、小さく納得《なっとく》の息などを吐《は》きながら、そんなことを思う。ジネット役のあの少女――アリスは素直《すなお》で飲み込《こ》みがよくて一生|懸命《けんめい》な娘ではあるけれど、それでも演劇に関してはズブの素人《しろうと》だ。最初からそうそううまくやりきれるとは限《かぎ》らない。
体練服姿の演劇部員たちが、それぞれ勝手な場所で小|休憩《きゅうけい》に入っていた。
つい先ほどまでは城《しろ》の宴席であった場所では、今は演出係と大道具係が顔をつき合わせて、ああでもないこうでもないと議論《ぎろん》を戦わせていた。
「――や、リュカ。見に来てたんだ?」
声をかけられて、振《ふ》り返った。さきほどまで舞台の上で魔女《まじょ》を演じていた娘《むすめ》が、片目《かため》をつぶり手のひらをひらひらと振っている。
「どう、可愛《かわい》い妹分《アリス》の|お姫さま《ジネット》っぷりは。案外サマになってるっしょ?」
「そりゃまぁ、な」
少し照れる。けれどさすがに、認《みと》めないわけにはいかない。
当のアリスはといえば、今は舞台の端《はし》っこのほうで、学術院の制服《せいふく》をだらしなく着崩《きくず》した小太りの少年……ベネディクト・アンコル演劇部部長になにやら長々と指導《しどう》を貰《もら》っている。ベネディクトの言葉のひとつひとつにいちいち頷《うなず》くたびに、長い栗毛《くりげ》がふわふわと揺《ゆ》れている。
「あいつ、迷惑《めいわく》かけてないか?」
問われたタニア・カッセーは小さく肩をすくめて、
「んー、さすがに素人だから、少しくらいはね。台詞《セリフ》覚えるのだいぶ遅《おそ》いし。
でも、もともと演劇部《うち》の人間でもないとこを、部長のワガママで助けてもらってんだもの。贅沢《ぜいたく》は言えないし、むしろ全体的には期待以上の出来を見せてもらって驚《おどろ》いてるくらいかな」
「そっか」
「本番の日まではまだだいぶ時間あるし、このペースなら充分《じゅうぶん》に使いモノになる。あんたの可愛いアリスはやっぱりタダモノじゃなかったよ」
「別に俺《おれ》のじゃないけどな」
「まったまたぁ、ちょー熱愛中のくせにぃ」
けけけけ、と女らしくない笑い声をあげられる。
何かのスイッチが完全に入ってしまっている。これはもう、何を言っても無駄《むだ》だろう。あいつはただの幼《おさな》なじみなんだとか、たまたま隣《となり》に住んでいるというだけだとか、恋《こい》やら愛やらといった分かりやすいゴシップを求めてるなら他所《よそ》をあたってくれとか、そんな魂《たましい》の言葉は、それでも今ここではまったくの無力である。リュカは小さく嘆息《たんそく》する。
――鐘《かね》が、鳴った。
「おりょ、もうこんな時間」
講堂館の外、鐘楼《しょうろう》のある方向に顔を上げて、娘は呟《つぶや》いた。
「そんじゃもいっちょ、気合入れて練習してきますかね……リュカ、最後まで見てく?」
「いや、用事がある」
壁から背《せ》を離《はな》して、リュカは答えた。
「用事? こんな時間から?」
「体練場《グラウンド》に、ちょっとな」
あごで、その方角を指し示《しめ》して見せる。
それだけでタニアはリュカが何を言わんとしているかを理解《りかい》したらしく、
「……あー、なるほど。また挑《いど》まれたんだ、アレフ」
「また挑まれたんだよ。まったく、うっとうしいったらありゃしない」
「勝てそう?」
「そりゃ、勝つさ。勝たねーとやばいし、いろいろと」
「そっか。そっかそっか、そうだよねぇ」
きししし、とタニアはやはり女らしくない笑い声をあげて、
「愛だよねぇ、ほんとに」
「お前、その一言が言いたかっただけじゃないだろーな」
「照れない照れない。愛は無限の力を生むざんすよ?」
なにが「ざんすよ」だ。リュカは再《ふたた》び嘆息する。そして、もうこれ以上何を言い返しても無駄だろうと分かっていたから、
「るせーよ」
まるで負け犬の遠吠《とおぼ》えのようだと自覚しつつも、そんな言葉だけを返しておいた。
リュカ・エルモントはフェルツヴェン学術院《ライブラリ》の学生だ。
十七|歳《さい》で、第五学年に所属《しょぞく》している。
背はそこそこ高いが、全体的に肉の薄《うす》い体質《たいしつ》のせいで、あまり大柄《おおがら》には見えない。母親ゆずりの癖《くせ》の強い赤毛は、あちこち気儘《きまま》な方向に飛び跳《は》ねている。度の弱い眼鏡《めがね》の向こうにある目は、覇気《はき》のない笑顔の形に細められている。
書庫にこもって本とにらみ合っているのが似合《にあ》う外見である。
少なくとも、一見して争いごとに強そうには見えない。
そして少なくとも本人は、自分は争いごとは好まないと強く主張《しゅちょう》している。
たとえどんな才能《さいのう》や能力を持っていても、それと個人《こじん》の性格《せいかく》とが常《つね》に一致《いっち》するとは限らない。平和とか平穏《へいおん》とか安寧《あんねい》とか安全とか、あるいはグータラとかノンビリとか、そういう言葉こそが自分の目指す生き方なのだと、リュカ・エルモントはいつだって公言してはばからない。
2.
少し歴史の勉強をしようと思う。
ほんの二百年ほど前、大陸《ディス・コンチネント》は戦乱《せんらん》の中にあった。
今のように銃砲《じゅうほう》などの技術《ぎじゅつ》の発達していなかった時代だったので、当然戦場の花形は槍《やり》を構《かま》えた騎兵《きへい》だ。いかめしい鎧《よろい》に身を包み、鋭《するど》い剣先《けんさき》を天空に掲げ、誇《ほこ》り高く名乗りを上げて戦場を駆《か》ける。そんな今でこそ童話か伝記の中にしかいない連中ではあるが、当時には実在《じつざい》し、活躍《かつやく》していたのだ。
また、その頃《ころ》は貴族《きぞく》文化の全盛期《ぜんせいき》でもあった。文化というものはそもそも、人が贅沢《ぜいたく》と飽食《ほうしょく》に行き着いた後、退屈《たいくつ》と戦う中で花開いていくものである。音楽だの詩文だの絵画《かいが》だの彫刻《ちょうこく》だの、とにかく色々なものが生み育てられた。お城《しろ》では毎日のように舞踏会《ぶとうかい》が開かれて、豪華《ごうか》な料理やきらびやかなドレスや美しい音楽やらがホール一杯《いっぱい》に溢《あふ》れかえっていた。日によっては金髪《きんぱつ》の王子様が目を皿のようにしてお妃候補《きさきこうほ》を探《さが》し回っていたり、心|優《やさ》しい娘《むすめ》がその愛を射止《いと》めたりもしていたかもしれない。
学術院《ライブラリ》が創設《そうせつ》されたのも、ちょうどその頃だ。
文明や文化が発達する時期には、その発達を助けるための教育機関が求められる。二百年前の当時には、よほどその需要《じゅよう》が大きかったのだろう。風光|明媚《めいび》なド田舎《いなか》であったフェルツヴェン湖の岸近くに、周辺三国が手に手を取り合ってでっかい人工島を造り上げて、そこに前代|未聞《みもん》の大学校を造り上げた。
特定の国家に所属しないことで、あらゆる国の知識《ちしき》を吸《す》い上げて蓄《たくわ》え、そして様々な国から来た学生たちにそれを教える――
大陸中で戦争が大流行していた時期に掲げるには無謀《むぼう》に過《す》ぎたコンセプトではあったが、学術院創設メンバーたちはそれを押し通してみせた。様々な困難《こんなん》を乗り越《こ》えながらも学術院都市国家フェルツヴェンは誕生《たんじょう》し、そしてそれから二百年が経《た》った今もなお在《あ》り続けているのである……
「……てぇかまぁ、つまるところ、だよ」
深く深く深く深くため息を吐《つ》きながら、リュカ・エルモントは小声でぼやく。
「決闘《デュエル》なんて貴族チックな風習が今に残ってるような場所なんて、大陸広しといえど、たぶん|ここ《フェルツヴェン》だけだろうと思うんだよなぁ……」
体練場《グラウンド》の観客席には、何十人かの野次馬《やじうま》が詰《つ》め掛《か》けてきている。
彼らの視線《しせん》の先には、体練場《グラウンド》に立つ六人の人間。
この決闘の一切《いっさい》を取り仕切る権限《けんげん》と義務《ぎむ》を持つ、立会人とその補佐《ほさ》。
見るからに気力|充溢《じゅういつ》、準備《じゅんび》運動に余念《よねん》のない筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》の挑戦者《ちょうせんしゃ》と、その介添人《かいぞえにん》。
そして――やる気なくだらりと肩《かた》を落としたリュカ・エルモントと、その介添人。
「あー、静粛《せいしゅく》に! 静粛に!」
ぱんぱん、と軽く手を打ち鳴らして、立会人が大声をあげる。野次馬たちが雑談《ざつだん》を中断《ちゅうだん》し、辺りを包み込んでいた薄《うす》い喧騒《けんそう》がぴたりと止まる。
「これより、ドミトリィ・アンコルスとリュカ・エルモント、両名の栄誉《えいよ》と尊《とうと》き宝物《とほうもつ》とを賭して、剣による決闘の儀《ぎ》を執《と》り行う。なおフェルツヴェン学術院《ライブラリ》校則《こうそく》第二百十二|条《じょう》の記述《きじゅつ》に従《したが》い、儀の進行の一切はこのシデン・ヤーカが立会人として取り仕切る。以上、異論《いろん》のある者は」
「ありません!」
ドミトリィとやらが、朗々《ろうろう》とした大声できっぱりと答えた。
視線がリュカに集まった。
「……ねーです」
やる気のない小声で、リュカはそう答えた。
「では介添人――」
手続きは進んでいく。それぞれの介添人から剣を受け取って、切っ先を軽く触《ふ》れ合わせて、目の前に掲げて堂々と戦いの誓《ちか》いをたてる。
長い歴史を持つ風習であるわけだから、決まりごとの数は非常《ひじょう》に多い。この長々とした儀礼の数々がその一部だ。もちろんたまにやる分には、そういう約束事が多ければ多いほどお祭り気分が楽しめて良いわけだが――それはあくまで「たまに」の話であって。
「両者、一礼!」
きびきびとした動きで、ドミトリィが敬礼《けいれい》する。
のたくさとした動きで、リュカは敬礼っぽい形に手を動かす。
何秒かの沈黙《ちんもく》の後、両者それぞれに、礼を解《と》く。
剣を構え、ゆっくりと呼吸《こきゅう》を整える。
さあ、そろそろだ。リュカは自分に言い聞かせる。そろそろ気合を入れないと間に合わない。これから自分たちは決闘《デュエル》を始めるのだ。それは負けられない理由を抱《かか》えた男たちが互《たが》いを淘汰《とうた》するための儀式《ぎしき》。そう、自分には負けられない理由がある。だからここに立っている。目の前の男を打ち倒《たお》し、敗北を押《お》し付けるために。
立会人が片手を高々と掲《かか》げ、
「始め!」
瞬間《しゅんかん》、剣を手に向き合った二人の男が、それぞれに力強く大地を蹴《け》った。
決闘というものは、平たく言ってしまえば、賞品を賭《か》けた勝負事である。
その賞品に形があるとは限らない。歴史上もっとも多く賭けられたのは、「侮辱《ぶじょく》に対する撤回《てっかい》と謝罪《しゃざい》」だったという。とかく昔の貴族というのは体面やら誇りやらといったものを大切にしていたようで、うかつな悪口でも言おうものなら手袋《てぶくろ》を投げつけられて「撤回しろ!」と決闘を挑《いど》まれていたらしい。そうやって決闘を挑むためだけに予備《よび》の手袋をわんさと持ち歩いていた貴族もいたというくらいだから、当時という時代がいかに激《はげ》しいものだったかが窺《うかが》える。
……とはいえ、時は流れて現在、貴族でもなんでもない一般《いっぱん》学生たちにはそこまでして守らなければならない体面も誇りもあるわけがない。必然的に、決闘をする理由はもっと即物《そくぶつ》的なものになる。
つまり、形ある「モノ」である賞品の奪《うば》い合いになるわけだ。
「ふんぬぁああああああっ!」
裂帛《れっぱく》の――と表現するべきかどうかは難《むずか》しいところだったが、とにかく気合の声とともに、剣が振り下ろされる。
綿《わた》を巻《ま》かれた木剣《ぼっけん》である。仮《かり》に当たっても切り傷《きず》の心配はない。とはいえこれだけの勢《いきお》いのついた重量物に殴《なぐ》られれば、それだけで骨《ほね》の一本や二本は簡単《かんたん》に砕《くだ》けてしまうだろう。リュカは右肩を軽く引いて、その斬撃《ざんげき》がすぐ目の前を通り過《す》ぎてゆくのを眺《なが》める。
「おうりゃあああああっ!」
跳ね上げるような斬《き》り上げ。技《わざ》の組み立てもなにもない、ただ剣を力任《ちからまか》せに振り回しているだけの攻撃《こうげき》。今度は半歩ほど立ち位置を横にずらすことで回避《かいひ》する。
「だりゃ、とりゃ、ずおりゃあああっっ!!」
右へ、左へ、上へ、下へ。縦横無尽《じゅうおうむじん》に暴《あば》れまわる切っ先を最小限の動きで避《よ》けながら、リュカはぼんやりと考える。
あーもー。なーんでこんなことになっちまったんだろうなー。
リュカの学生生活が狂《くる》い始めたのは三年前。
学術院《ライブラリ》の第二学年に進級したばかりのころだった。
言葉にしてみれば実に単純《たんじゅん》。
すこぶる可愛《かわい》らしい少女であった――いやそれは今も変わってはいないが――アリスに、当時第四学年の先輩《せんぱい》であった暴《あば》れん坊《ぼう》の男子生徒がちょっかいをかけてきた。そしてリュカがアリスを庇《かば》うと、そいつは決闘《デュエル》などというものを挑んできた。
男と男が互いの名誉をかけて行う、古臭《ふるくさ》くも誇り高い一騎打《いっきう》ち。使う武器《ぶき》に刃《やいば》はないとはいえ、打たれれば怪我《けが》はするし、下手をすれば命も亡《な》くす。今にして思えば、あれはただの脅《おど》しだったのだろう。第二学年の、たかだか十四歳でしかない子供《こども》がそんなものを受けるはずがない。怯《おび》えて逃《に》げ出して、女の子の前で恥《はじ》をかく。ただそれだけが狙《ねら》いだったのだろう。事実、リュカは決闘などする気はまるでなかったし、「バカバカしい」と片付《かたづ》けてアリスとともにその場を離れるつもりでいたのだ。
だが、リュカがどのような反応《はんのう》を返すよりも早く、
「わかりました」
なぜかアリスが答えていた。
「でも、リュカさんは負けません。ぜったいに勝ちます」
男子生徒は一瞬だけ面食《めんく》らったような顔になると、今度はアリスに対して脅しをかけてきた。そこまで言い切る以上は、自分自身を賞品にする覚悟《かくご》はあるのだろうなと。このやせっぽち(リュカのことだ)が負けた時にはオレのものになるんだぞと。
「かまわないです!」
躊躇《ちゅうちょ》などかけらも見せずに、アリスはきっぱりと断言《だんげん》した。
目の前がまっくらになった。こいつは絶対《ぜったい》、自分が何を言っているのか分かっていない。いまだ幼《おさな》いとはいえ自分がどれだけ男の目を惹《ひ》く人間なのか。そして目の前にいる先輩がどういう目で自分を見ているのか。何もかも分かっていないまま、勢いだけでものを言っているに決まっている。
ぐらんぐらんと揺《ゆ》れる脳《のう》みそに吐《は》き気を覚えながら、少年はその決闘を受けた。
しかもその決闘に、勝った。
ぼろぼろになりながらの、ぎりぎりの勝利だった。
勝因《しょういん》はただひとつ。それが負けてはならない戦いだったから、勝つ以外の道がなかった……ただそれだけだった。
それで全《すべ》てが終わっていれば、ちょっと出来すぎながらも微笑《ほほえ》ましい武勇伝として、全ては思い出として片付いていただろう。けれど、そうはならなかった。
リュカもアリスも、ここフェルツヴェンにおける決闘のルールについて、詳《くわ》しく知っていたわけではなかった。そのことが、実に悲しい喜劇《きげき》を招《まね》いた。
決闘が挑まれる際[#「決闘が挑まれる際」に傍点]、どちらかの闘士が過去において何らかの品物を賞品として賭けたことがありその対戦相手の要求があった場合[#「どちらかの闘士が過去において何らかの品物を賞品として賭けたことがありその対戦相手の要求があった場合」に傍点]、その品物は必ずその決闘における賞品として設定されなければならない[#「その品物は必ずその決闘における賞品として設定されなければならない」に傍点]。
要約すると、つまりこういうことだ。一度賞品として賭《か》けられたものは、以降《いこう》何度でも、狙《ねら》ってくる奴《やつ》が居《い》る限りは、賞品として賭けられ続けなければならない。
古くはどこぞの宝冠《ほうかん》だとか勲章《くんしょう》だとか、そういったものを取り合ううちに出来上がったルールであるらしい。戦いにおいて勝ち取ったものは、戦いの中でのみ守り抜《ぬ》くべしと、そういうことだろう。
勇ましくてまことに結構《けっこう》な話である――などと言っていられるのはこれが他人事《ひとごと》であればこそ。当事者にとってはそんなのんきに構《かま》えていられる話ではない。
――アリスは[#「アリスは」に傍点]、一度賞品として賭けられているのだから[#「一度賞品として賭けられているのだから」に傍点]。
……ああ、もう。
ああもう。ああもう。ああもう。
なんで、こんなことに、なっちまったんだろうな?
「ふぉりゃ、ぐぬぁりゃ、けぇりゃああおぅぇっ!!」
どんどん大振りになっていく剣を適当《てきとう》にかわして、少し距離《きょり》をとる。旋風《せんぷう》、というか暴風《ぼうふう》のようだったドミトリィの剣が、一度その動きを止める。
「ふ……や、やるな、リュカ・エルモント」
肩《かた》で息をしながら、ドミトリィはそんな賞賛《しょうさん》の言葉を口にする。
「愛が人を強くする。つまり貴様《きさま》のこの強さこそは、貴様の愛の強さか」
「うわ、真顔で何言ってんのかなこの人」
思わず一歩引いてしまう。
「照れるな。このオレで五十三人目の挑戦者だそうだな。それだけの戦いを、真実の愛なくして潜《くぐ》り抜けられるはずもない」
「……ぜってー誤解《ごかい》だと思うんだけどなあ」
うんざりしながら答える。
予想していた通り、相手には聞く耳はまるでなく、
「確《たし》かに、俺のこの挑戦は無謀《むぼう》なものかもしれない。お前と彼女とがこれまでに育んできた愛の深さの前に、もはや横から剣をさしはさむ余地《よち》などないのかもしれない」
「聞けよ人の話を」
「しかし! 我《わ》が心に燃《も》え盛《さか》る愛もまた、我《われ》にとってはまぎれもなく真実! 我らが天使を独《ひと》り占《じ》めする貴様にしっと[#「しっと」に傍点]の天罰《てんばつ》を下し、さらには眩《まばゆ》く明るいパラダイス青春を横取りしたいという切なる願いに、一点の曇《くも》りもない!」
「うっわ正直者がいるよ」
呆《あき》れるというよりも、もはや感心の域《いき》に達した感情をリュカが言葉にして漏《も》らすと、
「よく言ったぁ!」
「正しい! お前の欲望《よくぼう》は青少年としてどこまでも正しい!」
体練場《グラウンド》の外周に沿《そ》ってずらりと並《なら》んだ野次馬《やじうま》たちが、口々に囃《はや》し立てる。
あーまったく、こいつらは、もう。
「持てる者に鉄槌《てっつい》を! 持たざる者に金貨《きんか》を!」
「可愛《かわい》い子は世界の共有|財産《ざいさん》! 我らにも愛を! 思い出とぬくもりを!」
「勝ってくれ、僕《ぼく》ら恵《めぐ》まれない男たちの代表として!」
途切《とぎ》れることなく続く、ひたすらに情《なさ》けない応援《おうえん》の声。
「おお、同胞《どうほう》たちよ! 貴様らの熱い思い、しかと受け取ったぞ!」
ゆっくりと剣を大上段に構えて、ドミトリィは嬉《うれ》しそうに叫《さけ》ぶ。
「行くぞ糸目、この背《せ》を支《ささ》えてくれる思いに応《こた》えるためにも、俺は必ず貴様に勝つ!」
咆哮《ほうこう》とともに振り下ろされるその一撃をかわしざま、リュカはその手もとに軽く剣を打ち込む。無茶な素振りを繰り返して弱り始めていたドミトリィの握力《あくりょく》は、大した威力《いりょく》ではないはずのその衝撃《しょうげき》にも堪《こら》えられない。
ぱこん。間の抜けた音。
剣は相手の手を離れ、くるくると回転しながらあさっての方向へと飛んでいった。
「あー、そこまで!」
やる気のない声で立会人が宣言《せんげん》して、決闘《デュエル》はその瞬間《しゅんかん》に終わった。
「以上で決闘《デュエル》を終了《しゅうりょう》する。フェルツヴェン学術院校則第二百十五条の記述に従い、以降両者の間に遺恨《いこん》は残さぬこと。また決闘《デュエル》前に取り決められた約定《やくじょう》は現時点より完全な効力《こうりょく》を発揮《はっき》する、敗者はきっちりとアリス・マルカーン嬢《じょう》のことを諦《あきら》めて新しい青春に生きることー」
ぽかんと呆《ほう》けたように口を開けて立ち尽《つ》くす敗者に、容赦《ようしゃ》のない立会人の宣言が降り注ぐ。この学術院において、決闘は校則によってその意味を保障《ほしょう》されている。その校則によって権限《けんげん》を与《あた》えられた立会人のこの宣言は、そのまま裁判官《さいばんかん》の決定にも等しい意味と強制《きょうせい》力とを持つ。どんなにばかばかしい内容《ないよう》のものであっても、それを掲《かか》げて戦いそして負けた以上は、従わなければならない。
3.
高いところにあった太陽が少しだけ傾《かたむ》いて。
リュカ・エルモントは校門《ブリッジ》の上に立っている。
――フェルツヴェン学術院《ライブラリ》は人工島の上に建っている。
小さめの街ならばそのまますっぽり収《おさ》まりそうな広さの島が、そのまま学術院の敷地《しきち》になっているのだ。だからそこで言うところの「校門」は門《ゲート》の形をしていない。フェルツヴェン湖畔《こはん》と島とを繋《つな》ぐ、二つの大橋《ブリツジ》がその名で呼《よ》ばれている。
大型の馬車が二台すれ違《ちが》えるだけの規模《きぼ》と堅牢《けんろう》さ。
当時の建築技術《けんちくぎじゅつ》の粋《すい》を凝《こ》らして造《つく》られた、それ単体でもひとつの工芸品として評価《ひょうか》されるほどの見事なものである。
その橋の真ん中付近、石造《いしづく》りの欄干《らんかん》に背をもたれ、リュカは空を仰《あお》いでいた。
「……おせーな」
彼はアリス・マルカーンを待っていた。二人の予定がそれぞれ終わったらここでおちあって一緒《いっしょ》に帰ろうと、約束していたのだ。だからあのくだらない決闘《デュエル》が終わって、リュカはここに来た。
アリスの姿《すがた》はいまだ見えない。あれから経った時間からすると、いくらなんでもそろそろ練習は終わっていておかしくないはずなのだが。
講堂館《こうどうかん》まで迎《むか》えにいったほうがいいか――そう思って、何気なく体ごと学術院のほうへと振り返った。
どん、と肩が何か軽いものに当たった。
突《つ》き飛ばされたような形で、小柄《こがら》な人影《ひとかげ》が路上に倒《たお》れた。
「うああごめん、呆《ぼー》っとしてた!」
慌《あわ》てて手を延《の》ばす。
相手は、小柄な少女……のようだった。茶色い簡素《かんそ》な旅装《りょそう》に身を包んでいる。目深《まぶか》にかぶったフードの陰《かげ》から、銀色の髪《かみ》がわずかに覗《のぞ》いている。
旅行者、だろうか。このフェルツヴェンは風光|明媚《めいび》で知られている。鉄道が走るようになってからこっち、そういう人間を見かけることも珍《めずら》しくない。
少女は少しだけ躊躇《ちゅうちょ》を見せてから、リュカの手をとって、
「…………」
なぜか凍《こお》りついたように、その動きを止めた。
「ん?」
少女の態度《たいど》が豹変《ひょうへん》した。
リュカの手を強引《ごういん》に振《ふ》りほどくと大急ぎで立ち上がり、頭ひとつほど低い位置からリュカの顔をにらみつけてくる。
「――見つけた」
怒《いか》りを抑《おさ》えているのか、喜びを堪《こら》えているのか、それとも他《ほか》に何らかの理由があるのか。とにかくわずかに震《ふる》える小さな声が、そんなことばを呟《つぶや》いた。
「は?」
まるで知己《ちき》であるかの言い様だった。
もしかして自分の知っている誰《だれ》かなのだろうか。そう思って、フードの下の少女の顔を確認《かくにん》しようとした瞬間、少女は唐突《とうとつ》にリュカに背を向けると、そのままとんでもない勢《いきお》いで走り去ってしまった。
「……なんだ、ありゃ」
あっけにとられたまま、その背を見送る。
何が起きたのか、よくわからない。
「何やってるんですか、リュカさん」
呆然《ぼうぜん》と首をひねるその背中に、アリス・マルカーンの声がかかる。
「お待たせしました、練習終わりましたし一緒に帰りましょう……で、誰です、あれ」
「いや、知らない」
「知らない子に声かけて、ふられたんですか?」
「……客観的に言うと、そーいうことになるかもしれん」
「それはまた、ずいぶんと男性《だんせい》の価値《かち》の分からない人もいたものです」
うんうん、とアリスはわけのわからないことを言って独り納得《なっとく》し、
「ま、それはそれで、わたしとしては一安心です。
それじゃ帰りましょうか。あんまりのんびりしてると、日が暮れちゃいます」
「――なんていいますか、すごくすごくすごく重責《じゅうせき》なんです」
はあああああああああああ、と特大のため息を長く長く吐《は》き出して、リュカの隣《となり》を歩く
アリスは重々しくぼやいた。
同じ学術院《ライブラリ》に通う学生であり、リュカにとっては五年来の友人でもある。頼《たの》みごとをされれば嫌《いや》とはいえない損《そん》な性分《しょうぶん》のせいで、いつでも誰かのために東奔西走《とうほんせいそう》している難儀《なんぎ》な娘《むすめ》だ。本来ならば学生委員会の一員であるはずが、なぜか演劇部《えんげきぶ》の舞台《ぶたい》に主役として立たされているというのも、つまるところそのあたりが理由だろう。
「身に余《あま》る大役がもう、重くて重くて重くて重くて」
今にも沈《しず》み込みそうな声で連呼する。
「来週の創立祭《ほんばん》までになんとかなりそうか?」
「聞かないでください」
しくしくしくと言葉に出して泣き真似《まね》をする。
「だってジネット姫《ひめ》ですよ? 国中に愛された伝説のお姫さまですよ? 全国の少年少女が一度は恋《こい》するヒロイン中のヒロイン、いわばキング・オブ・ヒロインズですよ? このアリス・マルカーンごときがどう背伸《せの》びしたところで、とてもとても釣《つ》り合うはずがないじゃないですか!」
と――そんなことを言うアリスではあるが、実際《じっさい》のところ、彼女の器量は決して悪いものではない。というよりも、むしろ、相当に良い部類に入る。
ふわふわとした、やや癖《くせ》の強い栗毛《くりげ》。今にもこぼれ落ちてきそうなほどに大きな黒い瞳《ひとみ》。泣いたり笑ったりと、くるくるとよく変わる表情《ひょうじょう》。この世界に住む誰に感想を求めても、間違《まちが》いなく「可愛《かわい》い」という答えが返ってくるだろう、そんな容姿《ようし》。特に笑顔《えがお》が凶悪《きょうあく》なのだ。見る者を問答無用で脱力《だつりょく》させてしまう、ふにゃふにゃとした覇気《はき》のない笑顔。
それにつけ加えて、この性格《せいかく》だ。
何事にも一生|懸命《けんめい》全力であたる生真面目《きまじめ》さと、頼《たの》まれれば嫌《いや》とは言えない人の好《よ》さのハーモニー。誠実《せいじつ》とか頼《たよ》りになるとか、そんな感じの言葉が実に似合《にあ》う娘なのだ。だからアリスの周りには自然と人が集まってくるし、その中には思春期の甘酸《あまず》っぱい感情を彼女に向ける野郎《やろう》どもも少なからず交《ま》じっている。
そしてもちろんそれだからこそ、自分はあれだけのめちゃくちゃなペースで決闘《デュエル》をするはめになっているのだ。
とまぁ、そんなアリスがジネット姫役を演《や》ると聞いて、リュカがまっさきに考えたことは「さすが|あんにゃろう《ベネディクト》、いい目してやがる」だった。確かに本人の言うとおり、絶世の美姫《びき》と比《くら》べるにはやや親しみやすすぎるかもしれないが、それはただ種類の違う魅力《みりょく》を無理やりに比較《ひかく》しようという命題のほうが間違っているだけの話。
「――適任《てきにん》だと思うがな。だいたいアリスで役者不足なんて言われたら、誰を引っ張ってくりゃいいってんだ?」
「とにかくもっと似合う人です。髪とかさらさらで、もっときりっと威厳《いげん》のある目で、こんなぽやぽやしてない顔で、しっかりした感じの……っていうかキング・オブ・ヒロインズってとこはスルーですか?」
「ヒロインはキングじゃないだろ」
「律儀《りちぎ》にどうもです。とにかくそんな感じの人のほうがジネット役にはふさわしいと思うわけですよ――」
まったく、無茶を言うものだと思う。
髪がさらさらで威厳のある目でぽやぽやしてない顔でしっかりしていて、とにかくこのアリスよりもお姫様らしい誰か。いったいどこの世の中に、そんな出来すぎた人間が転がっているというのか。
「あと、ジネット役がわたしだと、サイズが合う衣装《いしょう》が演劇部になくて、採寸《さいすん》からやりなおしになっちゃうんです。これがタニアさんとかだったら、そんな余計《よけい》な手間とかかけないで済《す》んだはずなんですよ?」
「あいつは魔女《まじょ》でいい。ってか、絶世の根性悪《こんじょうわる》なんだから、あいつ以外考えられん」
「さらっと、ひどいこと言いますねぇ」
あはははとアリスは笑って、
「あ、それで、しばらくは一緒に帰れなくなりそうです。明日からだいぶ遅《おそ》くまで舞台|稽古《げいこ》することになりそうですから――」
どこか遠くを仰ぐようなその横顔を、リュカは見ている。
幼《おさな》なじみで、ほとんど毎日のように顔を合わせていて、そんな生活がもう五年間も続いていて、だからお互《たが》いにいい加減《かげん》に見飽《みあ》きていてもいいはずの顔。
――愛だねぇ、ほんとに。
――つまり貴様《きさま》のこの強さこそは、貴様の愛の強さか。
それは、あの決闘中に、なんとかいう名前の相手(忘《わす》れた)が言っていたセリフ。
なんだろうな、と思う。
どうしてどいつもこいつも、恋《こい》だの愛だの、そういった言葉を使いたがるのか。そしてしかも、どうしてそんな恥《は》ずかしい言葉で、自分とアリスの仲を表現しようとしたがるのか。
正直を言えば、勘弁《かんべん》してほしい。
リュカ・エルモントは、仮《かり》にも若《わか》く健康な青少年である。
そんでもって、このアリスは、それはもう言い訳《わけ》のしようがないくらいに可愛いのである。無垢《むく》というよりは無知で、素直《すなお》というよりは単純《たんじゅん》で、誠実というよりは不器用で、けれどそんなところの全《すべ》てから目が離《はな》せなくて。ああ、そうだとも。タニアにからかわれるまでもなく決闘相手どもに吠《ほ》えられるまでもなく、そんなことはこの自分が一番よく知っているのだ。
そして加えて言うならば、そのアリスは自分に対してやたらと無防備《むぼうび》だ。年頃《としごろ》の女の子が同じ年頃の男に対して持つべきだろう警戒心《けいかいしん》とかそういったものが、ものの見事に抜け落ちている。だから、リュカがそうと望めば、アリスは簡単《かんたん》に、リュカのものになるだろう。それはもう、その「リュカのもの」というのがどのようなニュアンスでのものであろうとかまわないだろうほどに。
それは、とても甘《あま》い誘惑《ゆうわく》。
そしてまた、できる限《かぎ》り避《さ》けたいと思っている結末。
アリスのことは大切だ。できるだけ、大事にしていきたいと思っている。
付き合いが長いからだけじゃない。妹のようなものだからだけでもない。アリスがいてくれたから今の自分がここにいる。そういう、大げさに言えば恩義《おんぎ》のようなものがそこにはある。だから、自分の青臭《あおくさ》い欲望《よくぼう》のままに、この小さな花のような少女を摘《つ》み取ることはできない――したくない。だから、
(……勘弁してほしいよな)
あまり周りに煽《あお》られると、その気になってしまうかもしれない。
そのうち自分を抑《おさ》えられなくなるかもしれない。
だから、自分のまわりでは、出来るだけそんな話はしてほしくない。
「なぁ……アリス」
「はい、なんですか?」
小さく見上げるようにして尋《たず》ねてくる少女に、
「お前さ、好きな男とか、付き合いたい男とか、いるか?」
ぴたりと、アリスは足を止めた。
三歩ほど先に進んでから、リュカもまた足を止めて、振《ふ》り返る。
「……ふわー」
「いや、それどういう答えか分からんから」
「失礼しました、意外な質問《しつもん》が意外な人から飛んできましたもので、つい」
「その理由もよく分からんが」
「ええとですね、今のとこ、そういう予定はないです」
アリスは再《ふたた》び足を動かしてリュカの隣に並《なら》ぶと、
「だってそういうの欲《ほ》しいとか思い始めたら、リュカさんとこんな風に一緒《いっしょ》にいられないじゃないですか。幸せってのは、それがそこにあるうちに髄《ずい》までしゃぶりつくしておくものだって、お母さんは言ってました」
「お前なぁ」
「今の、この時間が、いいんです。この距離《きょり》が、すごく居心地《いごこち》いいんですよ。まだ子供《こども》なんですよね、わたし。だからもう少し時間が経って、わたしがもう少し欲張《よくば》りになったら、たぶんその時には改めて好きな人に突撃《とつげき》しますから、覚悟《かくご》しといてください」
「……なぜその文脈で、俺《おれ》が覚悟せにゃならんのだ」
「いまの文脈で、リュカさん以外の誰に覚悟を求めればいいんですか」
微妙《びみょう》にかみ合わない――二人それぞれに相手の言葉をわざと曲解しながら、それでも形の上では問題なく続けられていく会話。
出会いからこっち、五年間ずっと繰り返されてきた、他愛《たわい》もないやりとり。
「わたし、一人っ子じゃないですか。それに近所にも年の近い友達ってあまりいなかったし、小さいころはこういうの、すごく憧《あこが》れてたんですよ。誰かと一緒に帰り道を歩いたり、その誰かのことを心配してみたり、逆《ぎゃく》に心配されてみたり。お姫さまになんてならなくていいんです、そういう小市民な幸せこそが欲しいんですよわたしは。だから……五年前にリュカさんに会えたことは、いまのとこ、わたしの人生で一番の大当たりラッキーでした。そしてまだまだ、このラッキーは手放したくないのです」
「もう、五年経ってんだぞ? いいかげん飽きたりとかしないのか?」
「そんなわけないじゃないですかー。こんなめちゃくちゃ優《やさ》しいひと、飽きたりなんかしたらバチが当たりますよ。そうでなくても釣《つ》りあってないのに」
よく分からないことを言われる。
「……優しい?」
首をかしげる。
「誰が、誰に、優しいんだ?」
「リュカさんが、わたしにです。否定《ひてい》はさせませんよ? 五十三回も決闘《デュエル》受けてまで女の子を守るなんて恥《は》ずかしいこと、いまどき他《ほか》の誰もやったりしません」
「ありゃあ別に、アリスのためにやってるわけじゃ――」
「そんなわかりやすい嘘《うそ》が、わたしに通じるとでも思いますか?」
――思わない。
五年間の付き合いだからとか、そんな理由ではない。
今ここにいるリュカ・エルモントという人間のことを誰よりもよく知っているのがアリスだから。その場しのぎのこんな嘘が通じるとは、到底《とうてい》思えない。
「もう、負けちゃっていいんですよ?」
「……お前、それ、意味分かって言ってんのか」
「だって、そもそも最初に自分の安売りやっちゃったの、わたしなんですから。
それにリュカさんが付き合う必要なんてありませんし、わたしだって、ええと、手前《てまえ》のケツを手前で拭《ふ》けるくらいの女には、なったつもりです」
「誰だその言い回し教えたの」
「タニアさんですけど」
だろうなと思った。
「リュカさん、戦うのなんて好きじゃないでしょう? その原因《げんいん》になっちゃった本人がもぅいいって言ってるんだから、もういいんですよ」
「そしてお前は、どこの誰とも知れない馬の骨《ほね》のものになるわけだ」
「…………」
アリスの表情が曇《くも》る。
言葉では何も答えず、口を閉《と》ざす。
「……そっか」
その無言の回答が、胸《むね》に痛《いた》かった。
だから、こういうことを、こいつには、言わせたくはなかったのだ。
「なら、勝ち続けるのに飽きたら、適当なところで負けてやる。それまでは現状維持《げんじょういじ》のままだ。それでいいな?」
「はい」
その言葉の意味をどのようにとったのか、ふにゃら、とアリスの表情が嬉《うれ》しそうに溶《と》ける。
「それってつまり、ずっと勝ち続けてやるってことですよね」
「アホかい」
びゅう……と吹《ふ》き過《す》ぎていった風が、素肌《すはだ》にめちゃくちゃ冷たい。
ほんの数日前までは、季節は夏だったはずなのだ。容赦《ようしゃ》なく降《ふ》り注ぐ日差しが肌を焦《こ》がし、木々は目に痛いほど鮮《あざ》やかな緑に輝《かがや》き、そして街を歩く時には薄着《うすぎ》でよかったはずなのである。
「……冷えるな」
何の気もなく呟《つぶや》いただけだったが、
「そう気付いたその日からが秋なんですよ」
アリスはその呟きを拾いあげる。
「次に同じことを思った日からが冬です。きっともうすぐですよ」
ああ、秋というのは、そういうものだったのか。本当に、この娘《むすめ》といると、世界というものが身近に、分かりやすく感じられる。
「今年は雪、降《ふ》るでしょうか――」
そんな気の早いことを言う少女の横顔を盗《ぬす》み見て、リュカは心の中だけで小さく諦《あきら》めのため息を吐《つ》いた。
4.
「ただいまー」
玄関《げんかん》をくぐり足を踏《ふ》み入れた我《わ》が家に、人の気配はない。
こりゃまたいつものパターンかななどと考えつつ客間に移動《いどう》する。机《つくえ》の上に見覚えのある筆跡《ひっせき》のメモが残されているのを見て、ああやっぱりと得心する。
『またしばらく帰れない。っていうか仕事多すぎ。やばい。死ぬ。タスケテー』
「ごくろーさん……」
つぶやいて、くしゃりとそのメモを握《にぎ》りつぶす。
この筆跡の主であるアルベール・エルモントはリュカの伯父《おじ》であり、同居人《どうきょにん》である。
職業《しょくぎょう》は学術院《ライブラリ》第六書庫の上等司書官……というのが何をする仕事なのかはよくわからないが。とりあえず忙しい仕事ではあるようだ。月に二、三度ほど来るとくに忙しい時期には、こうしてメモひとつを残して何日も職場に泊《とま》り込《こ》む。そう、これはよくあることだ。何ら珍《めずら》しいところのない、リュカ・エルモントの日常《にちじょう》の一環《いっかん》だ。
何か食べようかなと思う。まだ太陽も沈《しず》んでいない刻限《こくげん》ではあるが、なにせ今日は放課後に要らない運動をさせられたので、どうにも腹《はら》が減《へ》った。
台所|床下《ゆかした》の保存庫《ほぞんこ》をざっと眺《なが》めてため息を吐く。肉もパンもなく、軽い保存|処理《しょり》をされた野菜だけが残っている。伯父が深く考えずに自分の好物だけを食い散らしたのだろう。
いつものことなので今さら呆《あき》れる気にもなれない。
――外で食べるか。
隣家《りんか》、つまりアリスの家族には、独りのご飯が寂《さび》しかったらいつでもいらっしゃいと言われている。
来てくれればアリスが喜ぶとも言い添《そ》えられている。
変な遠慮《えんりょ》しやがったら痛《いた》い目見んぞと、指をぽきぽき鳴らしながら言われたりもしている。一度だけその痛い目というものを味わったことがあるが、あれは地獄《じごく》だった。二度とあんな目には遭《あ》いたくない。
大通りの酒場あたりまで足を延《の》ばそうと思う。
これは別に遠慮ではない。一人の食事が寂しいならば隣家の世話にはなろう、しかし今は別に寂しいわけでもなんでもない。だから何の問題もない。痛い目をみる故《ゆえ》もない。
日が沈めば、今よりもさらに冷え込んでくるだろう。くたびれたジャケットを制服《せいふく》の肩《かた》に引っ掛けて、家を出た。
我が家を後にして、小さな橋のかかった小川を渡《わた》って、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》(と近所の子供《こども》たちが呼《よ》んでいる廃屋《はいおく》)のそばを抜《ぬ》け時計店の角を曲がって、道なりにしばらく歩いた先に、その店はある。
大衆《たいしゅう》食堂、『はらぺこ狼《おおかみ》』。
小さい上に目立たない店ではあるが、地元ではそれなりに知られた店である。安くてそこそこうまくて満腹《まんぷく》感が得られる。大衆食堂の基本《きほん》に忠実《ちゅうじつ》であるということは、強い。
鼻を地面にこすりつける狼……を摸《も》した看板《かんばん》を横目に見ながら、リュカは戸をくぐった。とたん、むわっと包み込むような脂《あぶら》と香辛料《こうしんりょう》、そして酒の匂《にお》いが身を包み込んだ。まだ早い時間だというのに、十ほどの座席《ざせき》の半分ほどが既《すで》に埋《う》まっている。
「……その糸目、まさかエルモント?」
浅黒い禿頭《とくとう》に白いエプロンという、致命《ちめい》的に似合わない組み合わせ。この店はフェルツヴェン学術院《ライブラリ》演劇部《えんげきぶ》部長、ベネディクト・アンコルの下宿|兼《けん》アルバイト先である。
片手《かたて》を挙げて、その声に応《こた》える。
「目の大きさで人を見分けてるのかお前は。食いに来たんだけど、席あるか?」
「そりゃあるが……うちに食いにくるとは、また珍しいこともあるものだな。マルカーン嬢《じょう》と喧嘩《けんか》でもしたのか?」
「なんでそこでアリスが出てくるんだよ」
薦《すす》められるまま、手近な椅子《いす》に座《すわ》る。
「うん? たしかお前、彼女と同居しているのではなかったか?」
「妙《みょう》なデマ流すな。あいつはただのお隣さん。それ以上でもそれ以下でもねえよ」
投げやりに返しながら、メニュープレートを指差して皿料理を適当《てきとう》に注文する。この店は特別な仕入れのルートを持っているらしく、羊料理がとくに安くてうまい。
「……うん?」
ベネディクトはなぜか納得《なっとく》できない様子で、
「生まれた時から一緒《いっしょ》ということだろう? ならばそれはただのお隣とは――」
「俺の生まれはここじゃねーから。引っ越してきたのは五年前で、アリスとの付き合いもそれからだ。だからこの街にいる長さじゃ、お前ら留学《りゅうがく》組とそんなに大差ねえよ」
フェルツヴェンに通う学生は、そのほとんどが国外からの留学生である。そもそも大量の留学を大前提《だいぜんてい》として生まれた学術院なのだから、当然の話ではあるが。
「何?」
ベネディクトは珍しいくらいに目を見開いて、
「それは意外だったな。どこの出身だ?」
「エブリオ」
言ってから、こんな固有|名詞《めいし》だけじゃ分かるわけないよなと、説明を付け足す。
「共和国《ドース》のはずれのほうにあった、ちっこい村だ」
「……………………」
なぜかベネディクトは沈黙して、
「五年前、と言ったな。まさかお前、あの大火災《だいかさい》の……?」
「は」
思いもよらない反応《はんのう》に、思わずあごが落ちた。
「そうか、知らなかったとはいえ、悪いことを聞いた。すまない」
「あーいや、別に気にしてないってゆーか、お前、エブリオって知ってたの?」
「俺もドースの出身だ。直《じか》に訪《おとず》れたことはなくとも、その場所で何が起こったかくらいは伝え聞いたことがある。大規模《だいきぽ》な山火事が起こって、ただ一人の子供を除《のぞ》いて全《すべ》ての村人が灰《はい》になった痛ましい事件だと……」
そう。確かにそんなことがあった。
ドースの片田舎《かたいなか》の小さな村エブリオは、五年ほど前に燃《も》え落ちた。そのときに村人はほぼ全てが死に絶《た》えた。生き残ったのは当時十二|歳《さい》の子供が一人だけ。そしてその名前はリュカ・エルモント。言うまでもなく自分のことである。
ベネディクトは何かを振《ふ》り払《はら》うように大きく首を振って、
「悪かった。注文は鉄塊《てっかい》ステーキ定食だったな」
一方的に会話を打ち切って、厨房《ちゅうぼう》のほうへと引っ込んでいった。
その背中《せなか》を見送って、まいったなと、少し苦笑いする。
安い(そこそこ)旨《うま》い(ある程度《ていど》)量がある、ついでに学術院《ライブラリ》の寮《りょう》にもほど近い。
そんなわけだから、この『はらぺこ狼』は、いつもすきっ腹《ぱら》を抱《かか》えた学生たちにとっても人気の店である。ぼんやりと注文の料理を待っていると、学術院の友人たちがちょくちょくと店にやってきて、リュカの顔を見るなり開口一番「彼女と喧嘩でもしたのか」と一様の感想を聞かせてくれた。
「だってお前ら、結婚《けっこん》してんだろ?」
「子供は三人って聞いたよ。男の子二人に、女の子一人、んでもって全員が糸目」
「最近|倦怠期《けんたいき》で、二人とも浮気《うわき》相手を探《さが》してるって噂《うわさ》を聞いた。……まさかマジネタ?」
んなわけあるか。
どこまでも斜《なな》め上に突《つ》っ走ってゆく誤解《ごかい》をいちいち根気良く解《と》きながら、リュカは運ばれてきた料理にがっついた。鉄塊ステーキ定食。その名の通り表面が真っ黒になるまで火の通された羊肉に、がりがりとナイフを入れる。炭《すみ》のようになっているのは表面だけで、肉の内側はほどよく火が通っている。見た目はともかく、仮《かり》にも『はらぺこ狼』の看板メニューのひとつである……味は外さない。
「可愛《かわい》い子だよなぁ」
深々としたため息を聞いた。
「性格《せいかく》もすげーいい。一見ちょいドジ入ってるとこがまたすばらしい」
「胸《むね》ないけどな」
「そこがいいんじゃないか。それに、俺の見たとこ、ありゃあすぐに育つね」
「……お前らなぁ」
人の気も知らずに、どいつもこいつも好き勝手言ってくれる。
「言っとくけど、っていうかもう何度も言っときまくってる気がするけど、俺ら恋人《こいびと》でもなんでもないぞ。つーかあれだ、ついさっきアイツ、『今はまだ彼氏とか作る気はない』みたいなこと言ってたし」
これは、いちおう本当のことである。
「いや、この際《さい》大事なのは女の側じゃなくて、お前の気持ちだし。恋愛《れんあい》ごとの九|割《わり》は片思いから始まんだぜ?」
「まぁ同じく九割は片思いで終わるんだけどな」
げらげらと笑う。
ちょっと待てそれはどこから湧《わ》いて出た統計《とうけい》だ。仮にも近隣《きんりん》諸国の智《ち》の集まるところである学術院《ライブラリ》の学生がそんなわけのわからない数字の使い方をするんじゃない。
「――ってぇかあれだ、恋人でもなんでもないのは百歩|譲《ゆず》って認《みと》めるとして、じゃあお前は彼女のことをどう考えてんだ? 少なくとも赤の他人じゃないわけだし、男として悶々《もんもん》と思うことくらいあんだろ?」
鋭《するど》いところを突かれた。
ぎくり、と心臓《しんぞう》が揺《ゆ》れた。そしてそのことが顔に出た。
「OK、面白《おもしろ》い答えが聞けそうな、いい顔だ」
周囲を取り巻《ま》く顔が、にたりと笑う。
「店員さん、酒だ! 速攻で口が軽くなりそうなやつを大至急《だいしきゅう》!」
「心配すんなエルモント、俺らのおごりだ」
「おおーっと、まーさか逃げられるとか、思うなよー?」
逃げられるとは思っていなかったが、試《ため》してみたら、やはり逃げられなかった。
ベネディクトは「こんな早い時間から酒か?」などと呆《あき》れた声で言いつつ、きっちり人数分のジョッキを持ってきて、ついでに「俺も興味《きょうみ》がある」などと言ってちゃっかり同じテーブルについた。ついでに隣のテーブルに座《すわ》っていたおっさんたちがまた、「青い話してんなぁ目の細い兄ちゃん」などと言いながら身を乗り出してきた。
なんでこんなに聴衆《ちょうしゅう》が増《ふ》えるんだと思った。
というか、こいつらはなんで、他人の色恋|沙汰《ざた》にここまで熱くなれるんだと思った。
そんな理不尽《りふじん》な気持ちに堪《た》えかねて、木造《きづく》りのジョッキを呷《あお》った。かぁっと喉《のど》の辺りが熱く焼けて、なんだか何もかもがどうでもいいような気分になって、
「……語っちゃる」
そう宣言《せんげん》すると、なぜか店中から歓声《かんせい》が上がった。
しかしそもそも、リュカがアリスに対して持っている感情《かんじょう》は、好きとか嫌《きら》いとか、そんなシンプルな言葉で語れるものではないのである。
まずこのリュカ・エルモントという人間は、アリスの存在《そんざい》抜《ぬ》きには語れないのである。
ちょうど自分が家族の全《すべ》てと死に別れ、このシュテーブルに住む伯父《おじ》に引き取られた直後。見知らぬ土地で、知り合いもろくにいない状況《じょうきょう》。さすがに心細い思いをしていたところを助けてくれたのがアリスだった。
彼女は、そばにいてくれた。
同じ時間をすごして、同じ思い出を積み重ねてきてくれた。自分が失ったばかりのものを、少しずつとはいえ、取り戻《もど》させてくれた。ただそれだけのことが、一人ぼっちになったばかりだった十二歳のリュカ少年にとっては、何よりもありがたかった。そして今この瞬間《しゅんかん》、十七歳にまでなった自分にとっても、そのことは何よりもありがたい。すぐ近くに誰かがいるということ。それを実感できているということ。それは人が生きていく上で、とても大切なことなのだと、今の自分は身に染《し》みて理解しているから。
だから、彼女に対してうかつなことをして、今ここにある関係を壊《こわ》すようなことは、絶対《ぜったい》にしたくない。
そりゃあもちろん、アリスは可愛い。
性格がいいなんてことは、誰に言われるまでもなく、自分が一番よく知っている。胸がないなんてのは、まったくのシロウト発言。リュカ・エルモントは知っている。あいつはああ見えて、実はそれなりには着やせするほ――「ちょっと待て」「そこんとこ詳《くわ》しく」「着やせが何だって?」――そのあたりの話はさておくとして――「おいこら」「話をそらすな」「着やせがどうしたって?」――さておくとして、ともかく。
結論《けつろん》としては、こういうこと。
あいつはずっと、自分がここにいてほしいと望んだ場所にいてくれた。
だから自分も、あいつが望む関係があるのならば、それを保《たも》ちたいのだ。
友達でも恋人でもない微妙《びみょう》な関係でいたいと望まれているなら、そう在《あ》り続けていたいのだ。
そんなことを一通り語り終えた。
口を閉《と》ざして、辺りを見回した。
少しばかり重い話になってしまったような気がする。けれど仕方がない。青臭《あおくさ》いと笑わは笑え、これが包み隠《かく》すところの何も無いリュカ・エルモントの気持ちなのだから。
「「「……で、着やせがどうしたって?」」」
ごん。
額《ひたい》が勢《いきお》いよくテーブルにぶつかった音。
遠く、鐘《かね》の音が鳴り始める。
街中《まちなか》の方角を仰《あお》ぎ見る。大きな時計塔《とけいとう》が、今の時間を教えてくれている。
古ぼけた針《はり》が指し示《しめ》すところによると、今は、午後の、八時。
夕食からの帰り道である。
まったく、ただ食事をするだけの予定が、思いのほか時間をとってしまったものだと思う。飲むはずのなかった酒のせいで、足元が少し軽い。あるいはこれは、酒のせいではなく、柄にもなく熱弁《ねつべん》を揮ってしまった高揚《こうよう》の残り滓《かす》だろうか。
二度、三度、と鐘の音は鳴り続ける。
穏《おだ》やかなオレンジ色の空。白い小波《さざなみ》を走らせながらも、同じ色に光る湖面。ゆっくりとその色彩《しきさい》は紫《むらさき》を帯びて、やがて落ち着いた藍色《あいいろ》に全てが包まれる。
この眺《なが》めだけを目的に、外から観光客が訪れることもあるのだという。その気持ちも分からないではないと思う。実際、この眺めはいいものだ。ぼんやりと眺めていると時間を忘れられる。そして気がつくと完全に日が沈《しず》んでいるのだ。
今日の空には、うっすらと雲がかかっている。星の光はほとんど見えない。そして瓦斯灯《ガスとう》の寂《さび》しい光だけでこの街の夜道を歩くのは、少しばかり心細い。
……少し急ごう。
通りには、同じように家路をゆく何人かの人間の姿《すがた》がある。労働を終えて帰宅《きたく》しようという人々、その中の一人としてとぼとぼと行く。
朱色《しゅいろ》の空が淡《あわ》い紫に移《うつ》り変わっていく。辺りが少しずつ暗くなっていく。急《せ》かされるように、少しだけ足を速めた。時計店の角を曲がり、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》のそばを抜けて、左右に安い貸《か》し部屋の並《なら》ぶ、人通りの無い寂しい一角へと入る。
さらさらという小さな音が耳に届《とど》く。水の匂《にお》いが鼻先をくすぐる。街中を小川が流れているのだ。そしてその橋を越《こ》えて少しだけ歩いたところに我が家がある。
「……ん?」
七度目の鐘の音を遠くに聞きながら歩く。と、
ばさばさばさばさッ――――
突然《とつぜん》、無数の羽音が耳元を飛び過《す》ぎて行った。
黒い翼《つばさ》が視界《しかい》をふさぐ。はばたきの起こす風が肌《はだ》を打つ。
「うわふ!?」
カラスの群《む》れだと思った。驚《おどろ》いて、思わず頭をかばい、目をふさぐ。
そして周囲が静まってから、ゆっくりと、目を開く。
「……え」
その目を、見開いた。
果たして、そこに烏はいた。
群れではない。ただ一|羽《わ》だけの、大きな黒い鳥。
子供《こども》の背丈《せたけ》ほどもある翼を大きく広げて、悠々《ゆうゆう》と泳ぐようにして空を掻《か》いている。嘴《くちばし》の先から爪《つめ》の先まで、全てが漆黒《しっこく》。夕暮《ゆうぐ》れの空に貼《は》り付けられた切り絵のような、現実離れした違和感。
その鳥は、ゆっくりと高度を下げて、そして、
一人の少女が、橋の上に立っていた。
片方の手を、欄干《らんかん》に置いている。
そしてもう片方の手を、優《やさ》しく虚空《こくう》に差し伸《の》べている。
その少女の手の甲《こう》の上に、鳥は降《お》り立った。
まるで重さを感じさせない、夢《ゆめ》の中のようなしぐさ。
小柄な少女だった。
年はたぶんアリスと同じくらい……十五か十六といったところだろうか。腰《こし》まで伸びた銀の髪。飾《かざ》り気の少ない、けれど手触《てざわ》りのよさそうな生地《きじ》で織《お》られた青いドレス。肌の色は透《す》けるように白い。
ふと、強い風が吹いた。長い髪が大きく揺《ゆ》れて、夕陽《ゆうひ》と同じ色の輝《かがや》きを散らした。
(――え)
リュカ・エルモントの心臓《しんぞう》が、どきりと大きく跳《は》ねた。
それは、美しい少女だった。
年に相応《そうおう》のあどけなさを残しながらも、どこか怜悧《れいり》なものを感じさせる横顔。感情の見えない静かな表情を浮かべて、湖面に沈み行く太陽を、ぼんやりと眺《なが》めていた。
『髪とかさらさらで、もっときりっと威厳《いげん》のある目で、こんなぽやぽやしてない顔で、しっかりした感じの……』
ああ、まさにアリスのあの言葉をそのまま形にしたような人間がここにいる。彼女のいうところの、理想のお姫《ひめ》さま役になれそうな少女。
(――ちょっと待てよ)
そしてその顔は、リュカにとってはただそれだけのものではなく、
(なんであんたがここにいるんだよ[#「なんであんたがここにいるんだよ」に傍点])
既《すで》に忘《わす》れてしまったはずの笑顔が、頭の中に、ぱっと浮《う》かんできた。
五年前に、あの炎《ほのお》の中で燃《も》え尽《つ》きてしまったはずの記憶《きおく》が、瞬時《しゅんじ》に蘇《よみがえ》る。アリスよりもずっと前に自分が出会い、そして短い時間を共に過《す》ごした女性《じょせい》の記憶。
(――いや、違《ちが》う)
理性が断言《だんげん》する。目の前にいる少女は、彼女ではない。
瞳《ひとみ》の色が違う。彼女≠フ瞳は明るい紫色だったが、この娘《むすめ》のそれは深い翠《みどり》だ。髪の色が違う。彼女≠フ髪は燃えるように鮮《あざ》やかな黄金色《こがねいろ》。この娘の髪は涼《すず》やかな白銀色《しろがねいろ》。
年齢《ねんれい》が違う。記憶の中にいる五年前の彼女≠フ年齢がたぶん十七か十八くらい。そして今ここにいる少女の年齢は明らかにそれよりも下だ。
そして何よりも、彼女≠ヘもう、自分の目の前に現《あらわ》れるはずがないのだ。五年前のあの日、エブリオを焼いた炎の中で、全ては失われてしまったはずなのだから。
だから、この少女は、思い出の彼女≠ニはまったく関係のない別人であるはずで、
(……じゃあ、)
ごくり、と唾《つば》を飲み込む。
(じゃあ、こいつは、誰なんだよ?)
――少女が、こちらに気付いた。
ゆっくりと顔をあげて、その視線を、この無遠慮《ぶえんりょ》な観察者へと向けてくる。
「……あ」
慌《あわ》てて視線をそらそうとしたが、間に合わなかった。澄《す》んだ翠色の瞳にまっすぐに射貫《いぬ》かれて、頭の中が真っ白になった。
何か言い訳をしなければと思う。けれど何も言葉が出てこない。頭の中が洗《あら》い立てのシーツのように漂白《ひょうはく》されている。簡単《かんたん》な軽口のひとつも浮かばない。
少女が、微笑《ほほえ》んだ。
優しい、けれどどこか寂しい、まるで赤ん坊《ぼう》の泣き顔のような、そんな笑顔。
その唇《くちびる》が小さく動いて、
「見つけた」
その言葉を、呟《つぶや》いた。
「え……え、あ……」
わけがわからなくて、ただ小さくうめいた。
何を見つけたというのだろう。
その疑問《ぎもん》の答えを探《さが》して少女の視線《しせん》を辿《たど》ろうにも、翠色のその目はリュカ・エルモントを捉《とら》えて離《はな》れない。
少女が手を軽く持ち上げる。ふわりと、浮き上がるように黒い鳥が宙《ちゅう》に放たれ、そのまま空に向かって飛び立つ。朱の空の彼方《かなた》へと、黒い影《かげ》が遠ざかってゆく。まるで影絵劇《かげえげき》のようだなどと、どうでもいいことを考える。
「やっと、見つけたぞ」
少女の唇が、ゆっくりと、その言葉を紡《つむ》ぎ出す。
「……は……って、ちょ、ちょっと待って?」
その声に、覚えがある。
つい先ほど、校門《ブリッジ》近くでアリスを待っているときに、肩をぶつけてしまった旅行者の少女だ。つまりはあの旅装《りょそう》の中身がこの少女だったということだろうが、いやしかしだからといって、このわけのわからない状況《じょうきょう》の説明はまるでつかない。
「きみは私を知らないだろう。しかし私はきみを知っている。心配せずとも、これは人違いなどではない。きみという人間に用があるのだ……」
質問《しつもん》しようとしたことを、先回りされた。
「ちょ、ちょっと待って、君、いったい俺のどういう知り合――」
少女は、ゆっくりと歩を進める。
リュカが立つその場所へと、近づいてくる。
自然なしぐさで虚空《こくう》に伸《の》ばした手に、いつの間にか、一振りの剣《けん》が握《にぎ》られている。飾《かざ》り気のまるでない、鈍《にぶ》い銀色の剣。そして、
「フィオル・キセルメルに打ち込まれた楔《くさび》から、きみを解放しにきた」
「な……っ!?」
それは、彼女≠フ名前。
もう二度と聞くことなどなかったはずの名を、いま、聞いた。
驚《おどろ》きに意識《いしき》が醒《さ》めた、その瞬間。
まるで赤ん坊の頬《ほお》を撫《な》でる手のひらのように――
少女の携《たずさ》えた細剣《エぺ》は、優しくリュカ・エルモントの胸《むね》を刺《さ》し貫《つらぬ》いた。
ごぶり、という大きな音が喉元《のどもと》で鳴った。
貫かれた場所は、正確に心臓《しんぞう》の少し上。
だぐん、だぐん。暴《あば》れまわるような強さで、心臓そのものは拍動《はくどう》を続けている。けれどそこから流れ出した血流のほぼ全ては、そのまま傷口《きずぐち》から強い勢《いきお》いで外に迸《ほとばし》り出る。
(――って、あれ?)
あまりに現実味のない状況に、半ばぼんやりとした頭で考える。
(殺され、た、のか――?)
おい。
ちょっと待ってくれよ。
なんだよそれ。何がどうなってるんだよ。
瞳《ひとみ》を小さく動かして、空の色を見る。
鮮《あざ》やかな紫《むらさき》。もう今すぐにも夜に沈んでしまいそうな、儚《はかな》い夕暮れの色。ヴェールのような雲に隠《かく》れて星は見えない。まるで針《はり》のように細い月だけが、まるで細められた瞳のように、自分たちを見下ろしている。
瞳を小さく動かして、目の前の少女を見る。
改めて、実感する。それは、美しい少女だった。
美術館に飾ってあるような絵画から、油くささだけを脱《ぬ》ぎ捨《す》てて草原に解《と》き放ったような、そんな印象を与《あた》える少女だった。風に嬲《なぶ》られるままの長い髪が、まるで濡《ぬ》れたように少女の腕《うで》にからみついている。その様が、妙《みょう》に艶《なまめ》かしい。
少女は、柔《やわ》らかな笑《え》みを浮かべた。
それは、本当に、優しい笑顔だった。
「私を恨《うら》むがいい――」
少女の唇が囁《ささや》いた。
茫漠《ぼうばく》とし始めた意識の片隅《かたすみ》で、リュカはそれを聞いた。
「――きみにはその権利《けんり》がある」
少女の指先が、そっとリュカの頬《ほお》に触《ふ》れた。
冷たい。けれど温《あたた》かい。矛盾《むじゅん》しているようだけど、それが正直な感想。
音も無く、リュカの胸に突き立った剣が粉々に砕《くだ》けた。
それはまるで岩に叩《たた》きつけられた氷細工のように、小さな無数の砕片《はへん》へと砕けて、そしてそのまま空気に溶《と》けるように消えてしまった。
後には、胸に穿《うが》たれたままの、深い傷痕《きずあと》だけが残された。
ひゅう、と笛のような音が聞こえた。
暗幕《あんまく》を切って落としたように、すっと目の前が見えなくなる。
(――なんで、)
最後にひとつだけ、小さな疑問《ぎもん》が泡《あわ》のように弾《はじ》けて。
(なんでこの子、こんな今にも泣きだしそうな顔してるんだ――?)
そして、
どさり。
脱力《だつりょく》した体が崩《くず》れ落ちるその昔が、どこか遠くから響《ひび》いて聞こえた。
[#改ページ]
▼promnade/
田舎《いなか》の街エブリオが炎の中に消えるよりも、半年ほど前のこと。
フィオル・キセルメルは、一人の少年と出会った。
びゅおうごおうと風が吹《ふ》いた。
ざざざわざわと木々がざわめいた。
獣《けもの》すら静かに寝静《ねしず》まった、真夜中の森の中。
木の葉がちぎれて、風に舞《ま》う。淡《あわ》い灰色《はいいろ》をした雲の群《む》れが、とんでもない速さで空を流れてゆく。命あるものは死んだように沈黙《ちんもく》し、命のないものが踊《おど》るように暴れ狂《くる》う、そんな矛盾に満ちた世界がそこにあった。
手ごろな岩の上に腰《こし》を下ろして、フィオル・キセルメルは空を見上げていた。
綺麗《きれい》な月だと、女は思った。
善《ぜん》でもなく悪でもなく、喜びを生むでもなく悲しみを導《みちび》くでもなく、ただそこに輝いているだけの美しいモノ。この地上で何が起ころうと、誰の心がどのように揺《ゆ》れようと、空の彼方《かなた》で輝くそれは、かまわずにただ美しく在《あ》り続ける。
何を願うでもなく、何を望むでもなく、ただそこに在る。
それは、大いなる存在《モノ》にとっては理想だと思えた。大きな力を持つモノは、喜びを知ってはならない。悲しみを知ってはならない。望みを抱《かか》えてはならない。そういったものは全て、この世界を蝕《むしば》み歪《ゆが》めていく力となる。
びゅおうごおう。
ざざざわざわ。
フィオルの長い金色の髪《かみ》を、風は気ままにもてあそぶ。
ふぅ、とフィオルは小さく息を吐《は》いた。
今さらだが、自分はこんなところで一人になるべきではなかったと思う。
落ち着いて考え事がしたかったから、わざわざ夜中に村を離れてこんなところまで足を延ばしたのだ。けれどそれは、いろいろな意味で逆効果《ぎゃくこうか》だった。こんなに風がうるさくてはとても考え事どころではないし、そしてそれ以前の問題として、この風もこの森もあの針《はり》のように細い銀色の月も、何もかもが遠い嫌《いや》な記憶《きおく》を思い起こさせる。そして、そんな嫌な湿《しめ》り気を帯びた気分を抱《かか》えて考えられることなど、ろくなものではないに決まっているのだ。
「――えんな、どうしてるかな」
遠い思い出の中から、小さな思い出だけを取り出して、舌《した》の先にのせた。
もうずっと前に分かれた、大切だった人たち。今はもう逢《あ》えない。いや、自分がそう望みさえすれば逢うことはできるだろうが、そう望むことが許《ゆる》されない。
幸福に生きているだろうかと考える。
そして、その考えの愚《おろ》かしさに、寂《さび》しく笑う。そんなはずはないのだ。彼らも彼女たちも、決して幸福でいるはずはない。自分はそのことをよく知っている。この世界に住まう他《ほか》の誰《だれ》よりも、この自分はそのことを思い知っているはずだ――
「あはは」
ああ、やっぱり、ろくな考えにならない。どんどん暗い気分が積もって、気が滅入《めい》っていく。何もかもがあんまりに予想通りだったので、思わず笑ってしまう。
笑いながら、目じりに小さく涙《なみだ》を浮《う》かべる。
ちょうどいいや、と思う。この際《さい》だから、ちょっとだけ泣いてしまおう。そして気分を少しだけでも晴らしたら、もうちょっとだけ星を見上げて、そして村に帰ろう。そんなふうに、自分の中で決める。
がさり。
風の音にまぎれ、木の葉を踏む音を聞いた。
「…………」
狼《おおかみ》かな、と思う。
この辺りは森の中ではあるが、人里に近い。だから狼のような危険《きけん》な獣《けもの》が現《あらわ》れるということはめったにない。人の気配に近いところには、肉食獣《にくしょくじゅう》にとってのエサであるほかの獣が棲《す》み着かないからだ。
けれどだからといって、ここが絶対《ぜったい》に安全だということにはならない。
事実、ごく稀《まれ》にではあるものの、このエブリオ近辺で獣に襲《おそ》われて怪我《けが》をする人間もいるのだと村の人たちに聞いたことがある。確《たし》か、だいたい十年に一度あるかないかくらいの頻度《ひんど》だと言っていた。ということは、その十年に一度のレアケースを見事に引き当てた自分は、果たして運がいいと言うべきか悪いと言うべきか。
――どっちかっていうと、運がなかったのはこの狼のほう、かな。
自分には大人しく喰われるつもりもなければ、怪我をする気もない。だから、ゆっくりと振り返って、足音の主の姿《すがた》を捜《さが》した。
そして、そこに突《つ》っ伏《ぷ》していたものと、目が合った。
「…………」
「…………」
短い赤毛が、ぴんぴんとあちこちに撥《は》ねている。指先が白くなるほど強く、子供《こども》用の木剣《ぼっけん》を握《にぎ》り締《し》めている。ジーンズ地のズボンは、おそらくはここまでの道の途中《とちゅう》で何度となく転んでしまったのだろう、泥《どろ》と木の葉とでずいぶんと汚《よご》れてしまっている。投げ出されたばかりの小型のランタンが、近くの草の上で小さな光をばらまいていた。
草に足をとられでもしたのか、景気よくうつぶせに倒《たお》れこんでいるが、肘《ひじ》を使って顔だけは上げている――そしていかにも元気のよさそうな鳶色《とびいろ》の双眸《そうぼう》が、全力で戸惑《とまど》いながらもまっすぐに、女の視線《しせん》を受け止めている。
それは、少なくとも、狼ではなかった。
どちらかというと、人間の少年に見えた。というか、人間の少年そのものだった。ついでに言うならば、それは知った顔だった。エブリオでフィオルが借りている住まいの隣《となり》に住んでいる、四人家族の一番下。十をいくつも超《こ》えていないだろう年頃の少年。
「……あっ」
お互《たが》いに、こんなところで逢うとは思っていなかった。だから、すぐにそうだとは気付かなかった。あまりに間の抜《ぬ》けた数秒間のにらめっこの後に、ようやく我《われ》に返る。
「リュカくん……?」
名前を呼《よ》ばれ、少年はぱちくりと一度大きくまばたきをする。
「隣の、ええと、フィオルさん……だっけ?」
「はい」
女は頷《うなず》いて、少年のそばにかがみこむ。
「どうしたんですか、こんな夜更《よふ》けにこんな場所で。夜の森は危《あぶ》ないですよ?」
いつもの口調で、そんなふうに声をかける。
「え、あ……」
リュカ少年は突然《とつぜん》に呆《ほう》けたような顔になって、
「……白いひらひらした何かが、窓《まど》から見えたんだ」
「ひらひら?」
「最近この森にオバケが出るって、友達の間でウワサになってたんだ。だからもっと近くではっきり見てみたかった。そしたら明日、みんなにも自慢《じまん》できるし。だから――」
はてそれはどういうことだろうと少し考えてから、女は自分の衣服を見下ろした。空色のサマードレスの裾《すそ》が帆《ほ》のように、強い風を大きく孕《はら》んでいる。
遠目に見れば、なるほど、白いひらひらした何かに見えるだろう。
「なるほど」
納得《なっとく》した。
元気な男の子だなとも思った。
その様子が簡単《かんたん》に想像《そうぞう》できる。
夜|眠《ねむ》れずに、窓の外をぼんやりと眺《なが》めていたのだろう。そしてその白いひらひらを見つけたとたんに、幼《おさな》い冒険心《ぼうけんしん》がとつぜんに弾《はじ》けてしまったのだろう。
夜の世界は昼間とはまるで違《ちが》う。それはベッドの中にいては決して見られない未踏《みとう》の大地。一度そうと気付いてしまえばもうおしまいだ。古ぼけたランタンをひっつかみ小ぶりの木剣を握りしめ、家族にばれないようにとコッソリ家を飛び出したのだろう。
そして、その小さな大冒険の発端《ほったん》にして終着点は、どうやら他ならないこの自分自身であるようなのだ――
「じゃあ、これでゴールイン、ですね」
手を差し伸《の》べた。
少年はほんのわずかに困惑《こんわく》の表情を見せた。それから、何を照れているのか少しだけその頬《ほお》を赤く染《そ》めてから、その手をとった。
「――フィオルさん、あんた、さ」
「はい」
立ち上がり、ズボンの汚れを払《はら》いながら、少年は居心地《いごこち》悪そうに尋《たず》ねてくる。
「なんでこんなとこにいるんだ? 夜の森は危ないぜ?」
「……おおう」
まさか同じ質問《しつもん》がそのまま返ってくるとは思っていなかったので、意表をつかれた。けれどそれは、彼にしてみれば当然の質問であったわけで、
「んー……」
どう説明をしたものか、少しだけ、迷《まよ》う。
いや、違う。そもそもその説明をするべきかどうかを、迷う。
それはそもそも、語られるべきことではない。そしてこの村に生きる誰にも知られるベきことではない。ならば説明などするべきではない。
けれど。
一人でいると、ろくなことを考えない。だから今は、そばにいて、話を聞いてくれる誰かが欲《ほ》しかった。ただそれだけの身勝手な理由で、
「……そうですね」
手近なところにあった岩に腰《こし》を下ろす。少年にも、その隣に座《すわ》るようにと促《うなが》す。
「ここに来たのは、ちょっと考え事がしたかったからです。この森で空を見てると、ちょっと故郷《ふるさと》を思い出せて落ち着くんですよ」
「故郷……」
狭《せま》い岩の上で、少年はフィオルから微妙《びみょう》な距離《きょり》をとって座る。
相変わらず風が強い。寒いだろうと身を寄《よ》せようかと少し思ったが、やめておく。
この年頃の男の子は複雑《ふくざつ》で、総《そう》じて意地っ張りだ。甘《あま》えん坊《ぼう》だと見られたくないから、身を寄せてこない。きっと、こぶし一個分ほどのこの微妙な距離は、その意地のせいなのだろうと思う。
可愛《かわい》いなと思ったので、あえてその意志《いし》を無にするような真似《まね》はしなかった。
「……そっか、エブリオの生まれじゃないんだっけか。でもまたなんで、ちゃんと故郷があるのに、|ここ《エブリオ》みたいな何もないとこにわざわざ引っ越《こ》してきたんだ?」
「ふっふっふ、実は地元で悪いことをして、追っ手がかかっている逃亡者《とうぼうしゃ》の身なのですよ。だからこういう、あんまり人の多くないところに身を隠《かく》す必要があったのです」
「…………」
呆れた顔をされた。
「本当ですよ? 嘘《うそ》なんてついてませんよ?」
「あー、うん、そーか」
こんにゃろ、絶対信じてないな。
「それと、わたしの故郷は――すごく遠いところです。もう、帰ろうと思っても帰れないところ。だからこうやって、雰囲気《ふんいき》の似《に》てる場所で思い返すことくらいしかできない」
「……汽車《ベヒクル》があるだろ?」
そう。確かに今のこの世の中には、そういうものがある。
鉄で敷《し》かれた道の上を、鉄で組まれた巨大《きょだい》な箱が走る。徒歩よりも馬車よりも、さらには交易船《こうえきせん》よりも速く、そして多くの人と荷物を載《の》せて。疲《つか》れることも休むこともなく。この技術《ぎじゅつ》が生まれたことで大陸はぐんと狭くなった。もはやこの大陸に人の足で行けぬ場所などない、などという言葉すら囁《ささや》かれるようになった。
けれど、
「汽車でも無理なんですよ」
あいまいに笑った。
「……もしかして、オレ、考え事の邪魔《じゃま》しちゃってるのかこ
「そんなことないですよ。ううん、むしろ助かりました。こんな天気の日に一人でいると気分が沈《しず》みます。この話を聞いてくれる誰かがいてくれたらいいなって、そう思ってたところでしたから」
少年の鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》が、女の目を覗《のぞ》き込《こ》んでくる。
「ちょっと長くなるかもしれませんが、付き合ってもらえますか?」
びゅおうごおうと風が吹《ふ》いた。
ざざざわざわと木々がざわめいた。
空の上には、針《はり》のように細く輝《かがや》く銀色の月。
[#改ページ]
▼scene/2 剣《けん》の理由 〜death and penalty〜
妹姫《いもうとひめ》ジネットは、悲しんでいた。
父王が死んだ。騎士《きし》が次々と倒《たお》れていった。
木々は腐《くさ》り、獣《けもの》は狂《くる》い、民《たみ》は飢《う》えて、そして妹姫にだけは何も起こらなかった。
かつては美しかった国の全《すべ》てが変わり果ててゆく姿を、ただ一人変わらずに美しくあったジネット姫は、涙《なみだ》ながらに眺《なが》めていた。
姫が思い返すのは、楽しかった日々のこと。
優《やさ》しい姉がいた。美しくて聡明《そうめい》で、ジネット姫の憧《あこが》れていたものを全て持っていた。彼女はジネットの理想であり、自慢《じまん》だった。
それが、ほんの半年はど前までのこと。
優しかった姉はもういない。
いるのはこの国の全てを脅《おびや》かす、憎《にく》むべき一人の魔女《まじょ》だけだ。
国は割《わ》れた。
今すぐジネット姫を殺すべきだと訴《うった》える者たちが現れたのだ。
魔女の呪《のろ》いが彼女を傷《きず》つけないのは、魔女の仲間だからに違いないと。
もしそうでないとしても、あの魔女には姫を傷つけられない何かの理由があるはずだからと。ならば姫を殺してしまうことは、魔女にとって痛手《いたで》になるはずだからと。
その声は、最初は小さかった。
しかし、時が経《た》つにつれて、徐々《じょじょ》に大きくなっていった。
誰もが気付いていたのだ。恐《おそ》ろしい魔法を操《あやつ》り災厄《さいやく》を撒《ま》き散らす魔女は、剣を掲《かか》げて敵《てき》とするには強大すぎる存在《そんざい》であることに。ただの人間がいくら束になって抗《あらが》っても、まるで太刀打《たちう》ちのできない相手であることに。
恐怖《きょうふ》が目を曇《くも》らせて、このような間違った手段《しゅだん》しか見えなくなっていた。
そしてそのような人間は、毎日少しずつ、その数を増《ま》していった。
5.
――ちちちちち。
小鳥のさえずりを目覚まし時計代わりに、アリス・マルカーンは目を覚ます。目に見えるものは天井《てんじょう》のベージュ色と、くまのぬいぐるみのブラウン。それから、カーテンごしの朝陽の淡《あわ》いブルー。ちょっと視線《しせん》をずらしてみれば、カーペットの上にぽんぽんと服が脱《ぬ》ぎ散らかされた、いつもの自分の部屋。
ああ、朝が来たんだなぁと思う。
「んー……」
ベッドの上で半身を起こして、うーん、と大きくのびをする。こきこきと二、三度首を鳴らす。少しずつ少しずつ、目が覚めてきた。
「んっ」
胸《むね》の前で両方のこぶしをそろえて、気合を入れる。
それからベッドを抜け出して、パジャマを脱ぎ散らしながら、部屋のどこかにあるはずの教育棟《がっこう》の制服《せいふく》を探《さが》す。すぐに見つかる。三年前の入学時に「背《せ》が伸《の》びたら買いなおそう」と言われて買った、一番サイズの小さな制服。実はまだ少しだけ背丈《せたけ》に余裕《よゆう》がある。いつかこの制服が体に合わなくなるほど自分の背が育つことはあるのだろうか。鏡の前でそんなことを考えて、浮《う》かんでくる悲しい未来予想図に小さくへこむ。
それが、毎朝の習慣《しゅうかん》。
いつもと同じ毎日を今日もまた始めるための、一連の儀式《ぎしき》。
アリスは小柄《こがら》である。同年代のほかの少女たちと比《くら》べても特に小さい。肉付きだってその体格《たいかく》に見合った、実にささやかなものだ。十の子供《こども》だと言われればそのまま通ってしまいそうな、実に可愛《かわい》らしい体。
自分の容姿《ようし》がひとからどう見えているのかを、アリスは知っている。
軽く波打ちながら背中まで伸びた栗毛《くりげ》。ぱっちりとした大きな二つの黒瞳《こくどう》。近所のおじさんたちの間でひそかな人気者である母を美人だと思うし、その母の若《わか》い頃《ころ》にそっくりだと言われている自分についても……心境《しんきょう》は複雑《ふくざつ》でも……認《みと》めなければいけないと思う。
けれどその評価《ひょうか》は、決して「美人」ではない。あくまで「可愛い」なのだ。子供か人形を愛《め》でる視点なのだ。贅沢《ぜいたく》を言っていると分かってはいるが、それでもその評価には不服がある。
「五十三人目、かぁ……」
鏡の前に立ち、癖《くせ》のついた髪を櫛《くし》で撫《な》で付けながら、独《ひと》りつぶやく。
昨日また、決闘《デュエル》があったらしい。
そしてリュカ・エルモントが勝ったらしい。
そのことを思うと、アリスはとにかく複雑な気持ちになる。
彼が自分のために戦ってくれていることは、正直を言えば嬉《うれ》しい。けれど自分などのために彼が危険《きけん》な目に遭《あ》っているということは、あまり受け入れたくない。
何度戦おうと彼は絶対《ぜったい》に勝つ――そう信じていられれば、いくらかでも気は楽になるのだろう。けれどアリスは、もうそれだけは絶対にしないと決めていた。最初の一回、リュカがずたぼろになりながら勝利を掴《つか》んだあの一戦で、その信頼《しんらい》がどれだけ危《あや》ういものであるかを知らされたからだ。
そうだ。むやみに信頼をされると限度《げんど》を知らずにがんばってくれてしまう難儀《なんぎ》で危険な男の人も、この世の中にはいるのだ。そして彼、リュカ・エルモントは、間違いなくそういう類《たぐい》の生き物なのだ。そういう連中に、逃《に》げられなくて負けられない戦いを与《あた》えてはいけない。彼らは本当に逃げずそして負けない。どんなに傷《きず》だらけになっても戦い続ける。彼らのそんな姿《すがた》を見たくなければ、決して戦いを与えてはいけないのだと――
以前このことをタニアに愚痴《ぐち》ったら、
『お姫《ひめ》さましてるねぇ』
しみじみと実感のこもった声で、そんなことを言われた。
それはどういう意味かと問い返すと、
『騎士《ナイト》を気持ちよく戦わせるのが、姫さまってものの役目で実力ってこと。そんでもってそこんとこに感じる各種ジレンマこそが、代償《だいしょう》であり醍醐味《だいごみ》だってね』
からからと、あまり女の子らしくない声で笑いながら、タニアは答えていた。
『あんたにジネット姫は適役《てきやく》だと思うよ、アリス。少なくともあたしなんかが演《や》るよりは、ずっとずっとハマり役だろうから』
……よく分からない。いったいあの人は、何を言いたかったのだろう。
「むう……」
鏡の中の自分をにらみつけて、そのまま数秒。
「あ、時間!」
はっと我《われ》に返って、慌《あわ》てて走り出す。
アリスの朝は忙《いそが》しい。
寝癖《ねぐせ》の激《はげ》しい髪の手入れに、たくさんあるプランターの水遣《みずや》り。
それから、マルカーン家では、朝食の準備《じゅんび》もアリスの役目ということになっている。だから大急ぎでパンと卵《たまご》とミルク、あとサラダ用の野菜も買ってこないといけない。両親と自分とで三人分。アリスとしてはできれば四人分の準備をしたいなと思っているのだが、肝心《かんじん》の四人目であるところのリュカ・エルモントは最近どうにも付き合いが悪い。
(――嫌《きら》われたとか、そういうことじゃ、ないですよね)
とんとん、とつま先で跳《は》ねて靴《くつ》のかかとを直しながら、アリスは思う。
(リュカさん、ヘンなことでいじっぱりになる人ですし。また何か、みょーな理由で照れてるだけに決まってます)
この観察眼《かんさつがん》には、少しばかり自信がある。五年間、ずっと彼のことを見てきたのだ。あの少年のことを語らせたなら右に出るものなどいないという自負がある。
「ちょっといってきまーす」
小銭《こぜに》を握《にぎ》り締《し》めて、扉《とびら》を開いて、家を飛び出して一路パン屋へと走り出す。
いい天気の朝。きっと今日もいい日になるに違いない。
6.
――ちちちちち。
小鳥のさえずりを聞きながら――リュカ・エルモントは途方《とほう》に暮《く》れている。
見上げた空は、すかっと抜けるように青い。
さらさらと耳に心地《ここち》よい水音が、すぐ背後《はいご》から聞こえてきている。
冷たい風がふわりと吹《ふ》き過《す》ぎてゆく。大きなくしゃみがひとつ破裂《はれつ》する。体が冷え切っている。ぶるりと一度小さく体が震《ふる》える。
『そう気付いたその日からが秋なんですよ』
つまりは、そういうことなのか。
自分は、秋の冷え込んだ夜に、のんきにぐーすかと、野宿をしていたということか。
つい、とすぐ目の前を一|羽《わ》の小鳥が飛び過《す》ぎてゆく。
瞳《ひとみ》でその後を追う。視界《しかい》一面を埋《う》め尽《つ》くしていた青空が上にずれて、マルカーン邸《てい》屋上でくるくると回る風見鶏《かざみどり》が見える。そこからほんの少しだけ視線を落とせば、見慣れたフェルツヴェンの町並《まちな》みが広がっている。
そして目の前にもうひとつ、とても見慣れたものが、ある。
「…………」
「…………」
視線が絡《から》み合う。
相手と状況《じょうきょう》さえ選べば、恋人《こいびと》同士が互《たが》いの瞳《ひとみ》に見入《みい》っている光景が出来上がっていただろう。そのくらいの時間、二人は無言で向き合っていた。
「……何してるんですか、リュカさん?」
「何してるんだろな、俺《おれ》」
ぼやくように答えて、リュカは立ち上がった。昨夜の記憶《きおく》をひっくり返してみる。いったい何がどうして、自分はこんなところにひっくり返っているのだろう。
確《たし》か自分は、『はらぺこ狼《おおかみ》』に食事をしに行ったのだ。食べたのは鉄塊《てっかい》ステーキ定食。食事中にくだらない話をした相手は、ジョエルとフェルディナンとアレクシと名前も知らないおっさんたち。そして食事が終わって、家に帰ってこようとしたところで、
そう。この場所で銀髪《ぎんばつ》の少女に会ったのだ。
そして、さっくりと殺されてしまったのだ。
頭の中が、ぱっくりと二つに割れた。
片方《かたほう》の半分は混乱《こんらん》した。なんでまだ生きてるんだ俺。あんな完璧《かんぺき》に殺されたってのに、どうして死なずに済《す》んだんだ。
もう片方は得心した。そもそもあの出会いのシーンは幻想《げんそう》的すぎたし、あの少女の存在《そんざい》そのものが現実離《げんじつばな》れしていた。つまりあれは現実ではなかったのだ。この場所でなぜか寝こけてしまった自分がみた、一夜の夢《ゆめ》に過ぎなかったのだ。
「…………」
「…………」
再《ふたた》び沈黙《ちんもく》の時間が過ぎて、
「ひた、ひたひれふ、りゅははんっ!?」
「ん、悪い」
暴《あば》れられたので、アリスの頬《ほお》をつねる手を放《はな》した。
「痛《いた》いってことは、夢じゃないわけだ」
「よくわかりませんけど、なんでそこでつねられるのがわたしなんですか!?」
「いやまぁ、それが基本《きほん》かなと思って」
「どこの世界のどういう基本ですか!」
「まあ、そう怒《おこ》るな。可愛《かわい》い顔が台無しだぞ」
「そういう嬉《うれ》しい台詞《せりふ》は、もうちょっと違うシチュエーションで使ってください!」
一通り頬を膨《ふく》らませてから、アリスは「まったく」と小さく息を吐《は》いて、
「何があったんです? 野宿健康法とかそんなのですか、この季節に?」
「……覚えてない」
野宿健康法とやらには突っ込みを入れずに、素直《すなお》に答える。
「寝ぼけてたんかな、たぶん」
「……うちでコーヒーでも飲んでいきますか。というか、朝ごはんまだでしたら、うちで一緒《いっしょ》に食べません?」
「あー」
混乱する頭と、得心する頭。昨夜あったことを受け入れることと、拒《こば》むこと。天秤《てんびん》の上でその二つがゆらゆらと揺《ゆ》れている。
「そんじゃちょっと招ばれるかな」
リュカは後者を選んだ。
不思議なことなど何も無かったのだと決め付けた。
頭の中に巣くっているもやもやを全《すべ》て隅《すみ》のほうへと押《お》しやって、ズボンについた汚《よご》れをぱんぱんと手ではたく。
「それじゃ、うちで待っててください。いまパンとか買ってきちゃいますから」
そう宣言《せんげん》して、返事も待たずにアリスは走り出した。
野うさぎのようにぴょこぴょこと機嫌《きげん》よく跳《は》ねるその後《うし》ろ姿《すがた》が角の向こうに消えるのを見送ってから、リュカは踵《きびす》を返した。とりあえず一度家に戻《もど》って着替《きが》えようと思う。
ふと、気づく。
シャツの胸元《むなもと》に、裂《さ》け目が入っている。
縦《たて》に一|筋《すじ》。指の二本ほどがそのまま収《おさ》まるくらいの小さな裂け目だ。
まるで細剣で真直に貫かれた跡のような[#「まるで細剣で真直に貫かれた跡のような」に傍点]、
首を振《ふ》って、頭の中に浮《う》かんだ妄想《もうそう》を半ばで振り払う。そんなことがあるはずがない。だいたいシャツにあるのはその裂け目だけで、血の汚れのようなものはまったくない。多少体が冷えてしまってこそいるものの、自分は健康そのものだ。
どこかで引っ掛けて、破《やぶ》いてしまったのだろうと思う。
昨日は決闘《デュエル》もあったことだし、思い当たる節はないでもない。後できちんと、縫《ぬ》い直しておかないと。
ぐしゃん。
盛大《せいだい》なくしゃみがひとつ、弾《はじ》ける。
小さな橋を越《こ》えて幽霊屋敷《ゆうれいやしき》の前を通ってパン屋の角を曲がって時計塔《とけいとう》を横目に見ながら校門大橋を渡《わた》る……
もう何年も毎日のように歩き続けてきた通学路を、もう何年も毎日のように歩き続けてきたとおり、アリスと二人で行く。
変わり映《ば》えのしない町並みに、変わり映えのしない顔。
ただ一つだけ、今朝は二人の間で交《か》わされる会話にのみ変化があった。
「なぜそのようなことをなさるのですか。優《やさ》しかった姉さまが、誰よりもこの国を愛していた姉さまが、なぜ」
「ああそおだな、わたしはやさしかっただろお、だれよりもこのくにをあいしていただろお〜」
アリスが台詞《セリフ》を諳《そら》んじ、リュカはそれに続けて脚本《きゃくほん》を読み上げる。
これ以上ないというくらいに見事な棒読《ぼうよ》みである。
「あいがいつわりであったときづいたいま、わたしのこころにはにくしみしかない〜」
「それは誤解《ごかい》です姉さま、あの方はそのような不義《ふぎ》をなさる方ではありません。あの方は今でも心から貴女《あなた》を愛しているのです――」
「しんじられるとおもうか、おまえのこころをしるわたしが、おまえのねがいをしるわたしが、そのようなことばをききいれるとでもおもうのか〜」
「ああ姉さま、貴女は本当に変わってしまわれたのですね。あの方の心が誰を選ぼうとそれを受け入れるのだと、そう誓《ちか》ったあの日のことを私は忘《わす》れていないというのに」
「ちかいなどことばにすぎぬ、ことばなどひとときのこころのゆれうごきにすぎぬ〜」
アリスが、劇《げき》の練習をしているのである。
ちゃんと台詞を覚えきれているか不安だから復習《ふくしゅう》を手伝ってくれと言われたのだ。
「昨日、大事なところでド忘れして、迷惑《めいわく》かけちゃったんですよ。まさか今日も同じミスするわけにもいきませんし、放課後までに全部|完璧《かんぺき》にしていかないと」
実に真面目《まじめ》な奴《やつ》だと思う。
やはり、ベネディクトがこいつを助《すけ》っ人《と》に選んだのは正解《せいかい》であった。
「次、二|幕目《まくめ》のほうお願いできます? |残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》レオネル卿《きょう》のセリフをですね、なんといいますか、こう、情感たっぷりに」
「後半のリクエストは断《ことわ》る」
きっぱりと言い切ってから、ぱらぱらと脚本をめくって第二幕とやらを覗《のぞ》く。
そもそもこの『ジネット』は、大陸西部に古く伝わる民間|伝承《でんしょう》をもとにした舞台劇《ぷたいげき》だ。二百年前、戦乱《せんらん》の中に滅《ほろ》びたシュテーブル国を舞台にした、勇ましい騎士《きし》が魔女《まじょ》の手から美しい姫君《ひめぎみ》を助け出す物語。
今回使われるこの脚本は、あちこちに書いた人間のアレンジが入ってはいるが、話の筋《すじ》そのものは民間伝承のものから変えていないようだ。悪が滅びて善《ぜん》が幸せを掴《つか》み取る、シンプルな勧善懲悪《かんぜんちょうあく》の物語。だから流し見ただけでも筋は分かる。
物語は全部で四幕|構成《こうせい》。魔女が現れて国がピンチになる一幕目。魔女を倒《たお》す勇士たちが立ち上がる二幕目。戦いが起こる中、ジネット姫が悪意ある罠《わな》にはめられてピンチになるのが三幕目。魔女が倒され、ジネット姫が救い出され、大団円《だいだんえん》となるのが四幕目――
「――ああレオネル、どうか思いとどまって下さい。私は姉を失い、父を亡《な》くしたのです。この上貴方まで失うことになど、どうして耐えることができましょう」
こいつはいきなり何を言い出したのかと思えば、二幕目|序盤《じょばん》の、ジネット姫の台詞だった。魔女を討伐《とうばつ》しようと立ち上がった最愛の騎士を引きとめようと、その背中にすがりついて懇願《こんがん》するシーン。
続く、騎士レオネルの台詞を、流し読む。
――おお我《わ》が愛《いと》しの姫よ、あなたの言葉はどのような銘酒《めいしゅ》よりも甘《あま》く私の体を酔《よ》わせてしまう。このままその愛に身を委《ゆだ》ねることが出来たなら、どれだけ幸せなことか。
「…………」
「続き。お願いします」
なにやら期待に満ちた眼差《まなざ》しでこちらの顔を覗き込んでくるアリスに、
びし。
頭に軽く拳《こぶし》を落とす。
「……誰も殴《なぐ》ってくれなんて頼《たの》んでません、けど」
「どさくさに、妙《みょう》なこと言わせようとするからだ。なんなんだよこの、どっか間違ったナンパ師《し》みたいなセリフは。しかも意味よくわかんねーし」
「仕方ないじゃないですか、そういうシーンとそういう話なんですから。どうせお話だって割り切っちゃえば意外と気持ちよくなれますよ。さあ、愛情たっぷりに朗読《ろうどく》を」
二発目の拳を落とした。
軽く涙目《なみだめ》になりながらアリスは抗議《こうぎ》する。
「……だから誰もこんなの頼んでませんってば。ちょっとリュカさんに愛の言葉とか囁《ささや》かれてみたいなーってだけの、ほんとただそれだけの、ささやかなお願いですよ?」
無言で、三発目。
「……これはもしかして、そういう趣味《しゅみ》に目覚めろっていう遠まわしな要求ですか? だったら努力してみることにやぶさかじゃないですけど」
「やかましい」
寝言《ねごと》じみたことを言うアリスを一蹴《いっしゅう》し、脚本を読み進める。
――我が麗《うるわ》しの姫よ、私はあなたの涙を止めたいのです。憂《うれ》いに翳《かげ》るその翠玉《エメラルド》の瞳《ひとみ》に、太陽の輝《かがや》きを取り戻したいのです。その願いのために、この身と魂《たましい》を懸《か》けたいのです。
ああ、もう。
歯ぐきのあたりがむずむずする。
喉《のど》の奥《おく》から、何か甘ったるいものが零《こぼ》れ落ちそうな気がする。
これは、幻想《げんそう》の中の言葉だ。本の中か舞台の上にしか存在を許《ゆる》されない。こんな日常《にちじょう》のワンシーン、登下校の最中になど間違っても口にしてはいけない。そんなことをしたら、自分は何か大切なものを失ってしまう。たぶん。
「けちですねぇ。ここぞって時には決めゼリフを言えるようになっとかないと、あとあと困《こま》るんじゃないですか男の人は」
「いつどこでどういう風に困るんだよ……」
「そんなこと、女の口からは言えません」
そんなことをやっているうちに、学術院《ライブラリ》――のある人工島に渡《わた》る大橋が見えてくる。辺りに、同じ制服《せいふく》を着た学生たちの姿《すがた》が増《ふ》え始める。
「俺には時々、お前が何を考えてるのかさっぱり分からなくなる」
半分は照れ隠《かく》し、半分は本音でそう言うと、脚本をアリスに突き返した。
7.
北方史学の授業《じゅぎょう》の後、運悪く教授《ざょうじゅ》にとっつかまって、木箱いっぱいの器材を倉庫まで運ぶ雑務《ぎつむ》を押し付けられた。
見た目はそれほどかさばる荷物ではなかったが、抱《かか》えてみれば意外と重い。足の上に落としたら指の骨《ほね》くらいは簡単《かんたん》に折れそうだ。こりゃ慎重《しんちょう》に運ばないとなぁと思い、ゆっくりと廊下《ろうか》を歩いていると、唐突《とうとつ》に、
「おっつかれぇ」
ばんっ、と背中《せなか》が派手《はで》に鳴った。
どうしようもなかった。
膝《ひざ》が崩《くず》れる。浮遊感《ふゆうかん》が全身を包み込む。骨に直接《ちょくせつ》氷をこすり付けられたような心地《ここち》の悪さが両足を縛《しば》る。手が滑《すべ》る。木箱が踊《おど》るようにして空中に投げ出される。どがらがしゃどがしゃん。なんだかもう清々《すがすが》しいくらいにめちゃくちゃな衝突音《しょうとつおん》が聞こえる。
「…………」
言葉が出てこない。そもそも動く気がしない。
両膝と両手をべったりと廊下につけた姿勢のまま、顔を上げる気力が湧《わ》くのを待つ。
「……あんた、身長《タッパ》あるくせに、意外と軽量級だね。筋肉《きんにく》ついてるの?」
「言いたいことはそれだけかッ!?」
がばりと立ち上がり、タニア・カッセーに悲鳴を叩《たた》きつける。
「親愛の情《じょう》の表現も結構《けっこう》だけどな、ちったぁ状況とか考えろよ! お前、コレ、廊下だったから大惨事《だいさんじ》で済《す》んだけどよ、階段《かいだん》とかでやられてたら人死に出てたぞ!?」
「なに言ってんの。階段でこんなことするわけないじゃない。そんなTPO読めない奴《やつ》はいませんって」
「うっわ、殴《なぐ》りてぇ」
その声に本物の殺意を嗅《か》ぎ取ったのだろう、タニアは二歩ほど距離《きょり》を広げる。
「まぁ機嫌《きげん》直しなさいな。拾うの手伝ったげるから」
「ちゅーか運ぶほう手伝え。半分とは言わんから、少し持て」
「えー。あんた女の子に力仕事押し付けるわけー」
「女とは名ばかりの、慎《つつ》ましさのない生き物を労《いた》わる趣味《しゅみ》は無い」
言い切って、分厚《ぶあつ》い本の数冊《すうさつ》を押し付けた。
「――容赦《ようしゃ》なく重いんだけど、コレ」
不服そうに言いながらも、タニアはそれを拒《こば》まない。こいつは自分勝手な言動の目立つ女ではあるが、決して我儘《わがまま》というわけではない。口ではしっちゃかめっちゃかなことを言っているが、自分の非《ひ》は認《みと》めるし、助けを求められればそれなりには応《こた》える。
「それの数倍の荷物を抱えた人間の背中を突き飛ばしたんだ、お前は」
不幸中の幸いと言うべきか、木箱は無事だった。残りの資材《しざい》をまとめて木箱に放《ほう》り込み、気合を入れて持ち上げる。
「痛《て》ッ!?」
ずきずきとした痛《いた》みに、力を込《こ》めて初めて気づいた。
左腕《ひだりうで》が小さく裂《さ》けて、うっすらと血がにじんでいる。転倒《てんとう》したときに木箱の角ででも切ったのだろう。
「ん、どしたん?」
大した傷《きず》ではないと思った。このくらいなら、放っておけば治るだろうと。
「何でもない。行くぞ」
「行くぞはいいけど、どこに運ぶわけ?」
「史学書庫の十三番。確《たし》か中央講堂館の奥《おく》だっけか」
「あーはいはい、あそこね」
それだけの説明で行き先を理解《りかい》したらしく、タニアはしっかりと頷《うなず》く。
そういえばこいつは中央講堂に陣取《じんど》る演劇部《えんげきぶ》の一員だった。さすがに自分たちのテリトリーの間取りならば熟知《じゅくち》しているというところか。
「――んで、何の用だったんだ?」
歩きながら、尋《たず》ねる。
「ん? 何が?」
「俺を呼《よ》び止めた理由だよ。背中殴ってみただけとか言い出すなよ?」
「あー、うん。大した用じゃないんだけど、昨日また勝ったって、決闘《デュエル》?」
「なんだ、その話か」
短い間。
「また勝ったっつーか、もう面倒《めんどう》なだけの作業になっちまったっつーか。自惚《うぬぼ》れてるみたいな言い方になるけどさ、素人《しろうと》の振《ふ》り回す剣《けん》にはもう完璧《かんぺき》に慣れちまった」
「もう五十三連勝なんだっけ? そろそろ自惚れていいと思うけどな、それ」
「自惚れたら油断《ゆだん》する。勝負は水物、油断したら負ける。一度でも負けたらそれで終わり、アリスの奴《やつ》は――」
再《ふたた》び、短い間。
「――ともかく。負けるのは、何か嫌《や》なんだよ」
「素直じゃないね、まったく」
「うるせ」
中央講堂館の裏口《うらぐち》から入って、すぐ右の扉《とびら》を開く。
その向こうに広がっていたのは、これぞまさに物置――……といった光景だった。
当面いらないとされたものが、ところ狭《せま》しと詰《つ》め込まれている。椅子《いす》や机《つくえ》。パネルや黒板。ものさしや分度器。筒状《つつじょう》に丸められて棚《たな》に放《ほう》り込まれているのは、おそらく大陸各地の地図だろう。何に使うのかよくわからないものも置いてある。車輪のとれた台車に大量のスコップ、焼肉用の串《くし》に古臭《ふるくさ》いバイオリン。
よく見れば部屋の奥のほう半分ほどは、等間隔《とうかんかく》に書架《しょか》の並んだ、いかにも書庫らしいたたずまいを見せている。異様《いよう》なのは手前の半分だけだ。
「……史学書庫[#「書庫」に傍点]の十三番?」
「てゆーか物置。便利なスペースは便利に使える人が使う。世の中そんなもんです」
クニアはそんな適当《てきとう》なことを言って、すたすたと物置の中に入って抱えていた本を本棚の中へと放り込んだ。
「ついでに、いいこと教えたげようか。ここの壁《かべ》の向こうってうちらが更衣《こうい》室に使ってる部屋なんだけどさ、この壁けっこう安普請《やすぶしん》で、錐《きり》とか使うと簡単に穴《あな》が開くんだよね」
「教えんなそんなこと」
「アリスって一見してコドモみたいだけど意外と着やせするんだよねー、ってもしかしてこれは知ってたかな?」
知ってる。
「……だから教えんな、そんなこと」
タニアを部屋から追い出して、後ろ手に扉を閉《し》める。
「そういや、ここの部屋って鍵《かぎ》かけなくていいのか?」
「壊《こわ》れててかからない。だから貴重品《きちょうひん》は置けないし、物置にしか使えないんじゃん」
「…………」
いいのだろうか、それで。
そもそも鍵がかからないから倉庫ではなくて物置という理論|展開《てんかい》は何かが間違っているのではないだろうか。色々と思うところはあるが、おそらくそれをタニアに質《ただ》しても、ろくな答えは得られないだろう。
「ありがとな。あと、こんなとこまでつき合わせて悪かった」
「どーいたしまして。後半は気にしなくていいよ、どうせこの後『ジネット』の稽古《けいこ》で中央講堂館《ここ》に来なきゃいけなかったんだから」
言いながら、タニアはひょいと腕を伸ばし、リュカの左腕を掴《つか》む。
「何だよ」
「さっき、ケガ隠《かく》してたでしょうが。せっかく男が強がってんだから気づかないふりしてやりたいとこでもあるけどね、責任《せきにん》はこっちにあることだし、手当てくらいさせてもらわんことにゃ寝覚《ねざ》めが悪い――」
沈黙。
「――って、あれ?」
よくわからない反応《はんのう》をされたので、釣《つ》られるようにしてリュカもまた自分の左腕を覗《のぞ》き込んだ。ほんの少しだけ日に焼けた、何の変哲《へんてつ》もない白い肌《はだ》。
「……あれ?」
傷《きず》がない。
小さなひっかき傷に血がにじんでいたのを、確《たし》かにこの目で見たはずなのに。
放っておけば治るだろうとは思ったが、もちろんこんな短時間で、跡形《あとかた》もないはど消えてしまうようなことはありえない。
「ごめん、気のせいだったみたいだ。まぁケガがないなら何よりってことで」
タニアの手が離《はな》れる。
そんじゃねー、と軽い挨拶《あいさつ》を残して、そのまま廊下《ろうか》を歩み去る。
中央講堂館の廊下に一人、ぽつんとリュカは取り残される。
あるはずの傷が[#「あるはずの傷が」に傍点]、無くなっていた[#「無くなっていた」に傍点]。
ぞくり。突然《とつぜん》、背筋《せすじ》が震《ふる》えた。
知らず、手のひらで胸《むね》のあたりを押さえていた。
自分の左腕を凝視《ぎょうし》する。まったくきれいなものだ。傷はないし、もちろん血の汚《よご》れなども見当たらない。
これはつまり、そういうことか。
あの痛《いた》みも、傷も、滲《にじ》んだ血も、全《すべ》てまた、夢《ゆめ》の中のものだったということか。そうやって説明をつけて違和感《いわかん》は呑《の》み込んでしまえということか。
全部が全部、夢だった。
そういうことにしておかないと――おかしくなってしまうじゃないか。
手のひらで掴んだ胸元《むなもと》に、しこりのような強烈《きょうれつ》な違和感。
今でもはっきりと思い出せる。銀色の刃《やいば》に刺《さ》し貫《つらぬ》かれたあの痛み。流れ出る血の赤。自分の命が薄《うす》れゆく感覚。死の手ざわり。けれどそれらは全て現実ではありえなくて、夢の中の出来事であるはずで、自分が無傷でここにいることがその証拠《しょうこ》なのだから、けれど、もしも。
傷が消えてしまうなどということが、本当にあるとしたら?
まぁ、待て。
動転している状態《じょうたい》では、ものを考えるべきじゃない。気付くべきことに気付かなかったり、とんでもない早合点《はやがてん》をしてしまったり、とにかくろくなことにならない。だからまずは気を落ち着けよう。そして状況を冷静に整理しよう。
学院内のカフェテラスで、激辛《げきから》コーヒーを注文した。
その名の通り、本来コーヒーに具《そな》わってあるべき苦味が全て吹《ふ》き飛んでしまうほどに辛い、本末転倒《てんとう》を絵に描《か》いたようなメニューだ。製法《せいほう》はこのカフェテラスの主任《しゅにん》にだけ口伝《くでん》で伝えられている由緒《ゆいしょ》正しいものだとかなんとか。
誰が飲むんだそんなもの、と誰もが最初は考える。しかしこれがなかなかどうして重宝《ちょうほう》するもので、とにかく脳天《のうてん》をかきまわすような強烈《きょうれつ》な刺激《しげき》が、どんな眠気《ねむけ》も一口で吹き飛ばしてくれるのだ。試験前やレポート前、そして創立祭《そうりつさい》前日などには大勢の学生がこのコーヒーのお世話になる。稀《まれ》にそのまま失神して、担架《たんか》で救護室《きゅうごしつ》まで運ばれる。
「………………」
こめかみをハンマーでえぐられるような強烈な刺激を胃の腑《ふ》に飲み下し、一息つく。ぐわらんぐわらんと頭の中で鐘《かね》が鳴る。動揺《どうよう》が頭の片隅《かたすみ》へと追いやられる。
額《ひたい》の汗《あせ》をかるく拭《ぬぐ》ってから、自分の腕《うで》を眺《なが》めて、改めて考える。
怪我《けが》というものは、そう簡単《かんたん》に治るようなものではない。これは常識《じょうしき》だ。
それがあっという間に治ってしまうなどということは、立派《りっぱ》な非《ひ》常識だ。
そしてもちろんリュカは、そんな非常識な人生を送ってきたわけではない。小さい頃《ころ》は生傷が絶《た》えない生活をしていたし、こちらに引っ越してきてからも大型犬と取っ組み合ったり、五十三度もの決闘《デュエル》を挑《いど》まれたりと、実にスリリングな生き方をしてきた。そしてそのどちらの場合でも、負った傷はゆっくりと、普通《ふつう》の人間にふさわしい速さで、自然|治癒《ちゆ》していった。だからはっきりと言える。リュカ・エルモントという人間の体は、ごく普通の人間のそれなのだと。
「…………」
顔を上げる。
学院の、正門近くのオープンテラス。大きく開けた視界《しかい》に、あまり人の数は多くない。
夕方の近いこの時間、さすがにこんなところをうろついている学生は少数派だということか。
顔を下げる。
白木のテーブルの端《はし》のほうに、軽食用のフォークとナイフが常備されている。
「…………」
ナイフを、手に取った。
逆手《さかて》に構《かま》える。
ほんのわずかな時間だけ躊躇《ちゅうちょ》してから、手のひらの上に走らせる。最初に感じたのは紙の端をこすらせたような小さな痒《かゆ》み。それはすぐに熟した串《くし》を握《にぎ》り締《し》めたような灼熱《しゃくねつ》感へと変わって、すぐに本物の傷《きず》の痛みへと育っていく。ぱっくりと開いた傷口から、赤いものがにじみ出て、滴《したた》り落ちる。白木のテーブルの上に、赤黒い汚《よご》れが広がっていく。
傷口を、にらみつける。
変化が[#「変化が」に傍点]、起こる[#「起こる」に傍点]。
流れ落ちた血が[#「流れ落ちた血が」に傍点]、 大気に蒸散するように薄れて[#「大気に蒸散するように薄れて」に傍点]、消える[#「消える」に傍点]。
それに併せて[#「それに併せて」に傍点]、手のひらにぱっくりと開いた傷口そのものも[#「手のひらにぱっくりと開いた傷口そのものも」に傍点]、まるで何もなかったかのようにふさがって[#「まるで何もなかったかのようにふさがって」に傍点]、無くなってしまう[#「無くなってしまう」に傍点]。
「……はは、ははは」
乾《かわ》いた笑い声が、喉《のど》の奥《おく》からこぼれ出た。
「なんだよ、こりゃ……?」
わけがわからない。
この世に生まれ落ちて十七年、慣《な》れ親しんでいるはずの自分の体が、まるで知らない何かのように見えてきた。そもそも人のそれですらない、化け物の体。
何があった。何が起こった。
昨夜《ゆうべ》のあの女に、何をされた。
「――驚《おどろ》いたな、もうあの傷が治ってるのか」
のんきな調子の声を聞いた。
迷走《めいそう》していた意識が、一瞬《いっしゅん》にして、現実《げんじつ》の世界に引き戻《もど》された。
ぼんやりしていた視界が色を取り戻した。空は例によってむやみに青く、昼下がりの陽光を照り返した石造《いしづく》りの建物たちはまばゆく白く、夕暮《ゆうぐ》れ前のオープンカフェはいつものように閑古鳥《かんこどり》が鳴いていた。
いつの間にそこに来たのか、一人の男が、同じテーブルの向かいに座《すわ》っていた。
年は二十《はたち》か、それを少し過《す》ぎた程度《ていど》だろうか。
軽くウエーブのかかった短い金髪《きんぱつ》。染《し》みひとつない白い肌《はだ》。磨《みが》きぬかれたサファイアのような青い瞳《ひとみ》。どこか稚気《ちき》の感じられる柔《やわ》らかな笑顔。女性《じょせい》のように細い手足を、ひと目見て高価《こうか》だと分かる純白《じゅんぱく》のスーツに包んでいる。
出来すぎの美貌《びぼう》。そんな言葉が、頭に浮《う》かんだ。
「うわ。なんだこりゃ」
男はリュカのコーヒーを勝手に飲んで、そして顔をしかめている。この学術院《ライブラリ》の人間ではないのだろう。ここの人間であれば、このコーヒーの凄《すさ》まじい味わいについて知らないわけがない。
「あんた……」
艶々《ひょうひょう》としたその振《ふ》る舞《ま》いに、敵意《てきい》のようなものは感じられない。
が、この男が口にした言葉は、聞き流せるものではなかった。いつでも椅子《いす》を蹴《け》って飛びのくことができるようにと、四肢《しし》に強く力を込《こ》める。
「いま、あんた、なんつった……?」
「だからあの傷がこんなに早く治るってのは凄いって。あああ警戒《けいかい》しないでくれよ」
リュカが表情を険《けわ》しくすると、男は慌《あわ》てて両の手のひらをこちらに向けて、無害を訴《うった》えてくる。
「ぼくは敵じゃない。いやむしろ、きみにとっては味方みたいなもんだよ」
「意味が分からん」
「昨夜きみを殺した女のことは覚えてるだろ。ぼくはあれを追いかけてる。あれがぼくの敵なんだ。だから、ええと、できれば共通の敵を持っている同士で協力してもらえないかなと思ってフレンドリーに声をかけてみたんだけど、もしかして裏目《うらめ》だったかな?」
「……な、に?」
こいつは、自分が昨夜殺された[#「殺された」に傍点]ことを知っている。なぜ。
「見ていたんだよ。あの女とは因縁《いんねん》浅からぬ間でね。昨日|久《ひさ》しぶりに再会《さいかい》しようとしたら、その矢先にきみに斬《き》りつけてるところを目撃《もくげき》したんだ。慌てて止めようとしたけど間に合わなくて、そのまま鬼《おに》ごっこが始まって、それでも追いつけなくて……
きみを放置したのは悪かったと思ってる。ひどい言い方になるけど、もう助からないと思って、彼女を追うことを優先《ゆうせん》したんだ」
ふぅ、と一息|挟《はさ》んで、
「つまりだね、少しだけ話を聞いてほしいんだ。損《そん》はさせない。いや、きみにとってはいい話のはずだ。欲しいものが手に入らなかった以上、あの女は今後もきみを狙《ねら》う。けれどぼくはそれを阻止する」
言いながら、男は懐《ふところ》から、小さなナイフを取り出す。
鞘《さや》から抜き放ち、自分の指先に滑《すべ》らせる。一文字に描《えが》かれた赤い筋《すじ》から、ゆっくりと赤いものが染《し》み出してくる。浅くはない傷だと思った。が、
「これで信用してもらえるかな」
男はハンカチで指先をぬぐう。赤いものをふき取ったその下には、
「……あんた」
染みひとつない白い指。傷が、なくなっていた。
「望むならば、きみの周りに起きていること、起きていたこと、全《すべ》てを説明しよう。だから頼《たの》むよ、協力してくれないか。ぼくには、きみの助けが必要なんだ」
この言葉には嘘《うそ》はない……いや、この男は嘘をついていない。そう直観した。
「あんた、知ってるのか。俺《おれ》の……こと」
「ぼくは彼女を追いかけてる。だから彼女が探《さが》していたものについても知ってる。全てとは言わないけど、きみが抱《かか》えてる疑問《ぎもん》に、ある程度は答えられると思う」
それから費《つい》やした逡巡《しゅんじゅん》の間は、ほんの数秒。
ゆっくりと、リュカは頷《うなず》いた。
[#改ページ]
▼promnade/
田舎《いなか》の街エブリオが炎《ほのお》の中に消えるよりも、ほんの少しだけ前のこと。
フィオル・キセルメルには、一人の小さな友人がいた。
あの夜の出会いの後、二人の間にはひとつの秘密《ひみつ》ができた。
よく晴れた夜にだけ行われる、真夜中の森の短い逢瀬《おうせ》。
今にも降り出しそうな星空に包まれ、二人|並《なら》んで岩の上に腰掛《こしか》けた。
そして、いろいろな話をした。
まずはフィオルの身の上話から。ちょっとおてんばな妹がいた話。まじめで有能《ゆうのう》で、でも少し融通《ゆうずう》のきかない友人がいた話。少し困《こま》った性格《せいかく》の男の人がいて、その人と結婚《けっこん》させられそうになった話。
「け、結婚!?」
なぜか青い顔で驚《おどろ》く少年に、
「ちゃんと、お流れになりましたよ?」
そう言うと、「なんだそっか……」と、胸《むね》をなでおろした。
まったく、この子は何の心配をしているんだろうと思う。
リュカの家族の話も聞いた。
リュカの父は剣《けん》が大好きで、けれど気の毒なことに致命《ちめい》的なまでに才能がない。この父親の影響《えいきょう》でリュカも少し剣をかじっていて、同年代の子供《こども》たちの中ではずば抜《ぬ》けて強いほうであるらしい。
リュカの母は、とにかく甘《あま》いものが好きなのだという。三度の食事の合間に三度の間食を挟む剛《ごう》の者で、あれだけ食べてなぜ太らないのだろうというのは、エブリオ七不思議のひとつであるらしい。得意料理はカボチャのシュガーパイ。エブリオで消費されている砂糖《さとう》の半分はこの中に溶《と》け込んでいるといわれているらしい。
リュカの姉は……一言で言ってガキ大将《だいしょう》。リュカよりも二つ年上の十四|歳《さい》。腕《うで》っ節《ぷし》が強く、頭が良く、ワガママでムチャクチャだけれど気風《きっぷ》がよくて、一度何かあれば子供のくせに大人と対等に渡《わた》り合う。彼女はエブリオの子供たちの『ヒーロー』で、憧《あこが》れの的で、そしてリュカはそんな姉をこっそりと自慢《じまん》に思っているようだった。
話の種は、尽《つ》きなかった。
互《たが》いの身の上の後は、とにかく適当《てきとう》に話題を見つけて、おしゃべりを続けた。昼間にエブリオで起きたことや、星や草木についての話をした。
リュカは奇妙《きみょう》な少年だった。
フィオルは自分でも奇妙《きみょう》なことをする女だと思っている。ふつう、この年頃[#「この年頃」に傍点]の娘《むすめ》というものは怖《こわ》がりで、夜の森を一人で歩いたりなどはしないものなのだ。あまつさえ、出くわした少年の首根っこを引っつかんで身の上話を聞かせたりなどもしないのだ。そんなことをするのは変人か変態《へんたい》かその両方か、とにかくそのへんに決まっているのだ。
変人であれ変態であれ、近づいたらろくなことにならない。それが世間の常識《じょうしき》である。そしてこのフィオル・キセルメルという女は、自分でも胸を張りたくなるくらいに、立派《りっぱ》な変人なのだ。
それだというのに、この少年は。
「……なんだよ、急にニヤニヤして」
ぷいと目をそむけて赤い顔で憎《にく》まれ口を叩《たた》く、可愛《かわい》らしい十二歳の少年は。
「きみはいい人ですね、リュカ。うん、すごくいい人です」
「だからなんだよ、いきなり」
「誰かのそばにいることができる人。これは簡単《かんたん》そうで、すごく難《むずか》しいことなのに」
「はぁ?」
「きみはきっと幸せになれます。ううん、幸せにならないとダメです。そうしたらきっと、この世界に住むもう一人の誰かが、きみに幸せにしてもらえるはずですから」
「……ワケ、わかんねぇよ」
もごもごと、少年は口の中で何か言葉を転がしているようだった。うまく聞き取れなかったけれど、何で他人事《ひとごと》みたいに言うんだよとか、何でどっかの誰かのことなんて考えないといけないんだよとか、そんな内容のようだった。
ああ、もう。
そんな可愛らしいことを言わないでほしい。どうせ人目がない場所なのだからと、くせのついたその栗毛《くりげ》をぐしゃぐしゃに撫《な》で回してやりたくなってしまう。
時間は流れた。
あの出会いの夜から、季節がふたつ変わっていた。
リュカが、バスケットで、母親の作ったシュガーパイを持ってきていた。
いつもどおり岩の上に並《なら》んで座《すわ》って、二人で食べた。それは、前|評判《ひょうばん》どおりに、とんでもなく甘かった。けれど同時に、とんでもなく美味《おい》しかった。
「……なるほど、これなら毎日でも食べたくなる気がします」
「だろ?」
「でもそんなことしたら、三日で太っちゃう気がします」
「だよな?」
少年が、指先についたクリームを、べろりとなめる。
その様子を、フィオルは眺《なが》めている。
「……なんだよ、気味|悪《わる》ぃな」
「え?」
「笑ってたろ」
そうなのだろうか。あわてて頬《ほお》に手を当てて確認《かくにん》する。言われてみれば確《たし》かに、少し表情《ひょうじょう》がゆるんでいるような気がする。
びゅおうごおうと風が吹《ふ》いた。
ざざざわざわと木々がざわめいた。
「――ひとつ、秘密《ひみつ》にしてたことがあるんです」
そう、切り出した。
「なに?」
「絶対《ぜったい》に誰にも喋《しゃべ》らないって約束してくれたら、話します」
「別にいいけど」
「しっかりちゃんと約束してください。誰にも喋りません、って」
「ンだよ、細けーな」
文句を言いながらも、手のひらをこちらに見せて、リュカは復唱《ふくしょう》する。今から聞くことは誰にも喋りません、父さんにも母さんにも姉ちゃんにも話しません、火責《ひぜ》め水責め何ものにも屈《くっ》しません。
「で、何だよ?」
「それがですね、おほん」
ひとつ咳払《せきばら》いを作ってから、
「わたし、魔女《まじょ》なんですよ」
「…………………………………………………………」
長い長い、沈黙《ちんもく》の時間。
「……は?」
「いや、だから、魔女なんですよ。しかもわりと極悪《ごくあく》なんです」
再《ふたた》びの、沈黙。
「………………へー」
鼻先であしらわれた。
「信じてませんね?」
「え? あーいや、信じた信じた。すげーすげー」
この上ないほど投げやりな「信じた」だった。もちろんそんな額面《がくめん》はさっぱり受け取れないので、フィオルは少しばかり憮然《ぶぜん》となる。
「で、魔女だから何なんだ? 嫌《いや》な奴《やつ》をヒキガエルにできるとか?」
「できますけど……やりません。カエル、好きじゃないですし」
「なんだ」
リュカの表情にわずかな失望が浮《う》かんだ。なんだかんだで、魔女という言葉に期待するィメージはあったらしい。せっかくのその期待に添《そ》えなかったことは、ちょっとだけ残念だったかもしれない。なぜならカエルは好きじゃないから。
「じゃあ、代わりにこんなの、どうですか?」
言って――手のひらを、まっすぐに、空へと向けた。
リュカの目が、釣《つ》られるようにして、空へと向いた。
ほんのわずかな時間を瞑想《めいそう》に費《つい》やす。
意識《いしき》を、自分の心の奥深《おくぶか》くに潜《もぐ》らせる。そこには一|冊《さつ》の本が置かれている。血のような赤い表紙の、大人の一抱《ひとかか》えほどもある大きな本。手を伸《の》ばし、その表紙をめくり、最初のページに書かれた一文を、そのままに読み上げる――
「――あの夜に[#「あの夜に」に傍点]、みた夢を[#「みた夢を」に傍点]」
ぶわぁ、と光があふれた。
森の夜闇《よやみ》に慣《な》れた目が、眩《くら》む。
銀色の光が、空を踊《おど》っていた。
街路を照らす瓦斯灯《ガスとう》や水銀灯の光とは明らかに違《ちが》う。この光を放っているのは、炎《ほのお》やそれに類する何かではなく、まったくの別の存在《そんざい》だ。
それが、夜空を踊っている。
流星雨に似《に》ている。けれど決してそれではありえない。
光が強すぎる。星の数が多すぎる。夜空を切り裂《さ》くどころの騒《さわ》ぎではない。夜空を埋《う》め尽《つ》くし、染《そ》め抜《ぬ》いている。
昼とも夜ともつかない不思議な色に、美しく輝《かがや》く自銀色の天蓋《てんがい》。
「――すげぇ」
唐突《とうとつ》に溢《あふ》れた光に目を細めながら、リュカが呟《つぶや》いた。
「何だ……こりゃ。フィオルが何かした……のか?」
「ふっふっふ」
フィオルは胸《むね》を張《は》ると、差し上げたままの手を軽く振る。
空が、鎮《しず》まった。
夜空が、帰ってきた。
雲ひとつない満天の星。そして針《はり》のように細い月。
「これが魔法《まほう》。どうですか、信じられましたか?」
「あ……ああ、うん」
あっけにとられたままのリュカが、半ばうつろな声で、頷《うなず》いた。
フィオルは満足して、
「さっきも言いましたけど、証にも話しちゃだめですよ? ほんとはお墓《はか》の中にまで持ってかなきゃいけない、秘密《ひみつ》中の秘密だったんですから」
「うん……って、それはいいけど」
急に我《われ》に返ったようになって、リュカは訊《き》いてくる。
「なら、なんでオレに教えてくれるんだよ?」
「それは……」
ちょっと考えてから、
「何ででしょうね」
「オイ」
「たぶん、魔女《まじょ》だって分かった後もちゃんとこれまで通りに友達でいてくれるだろうなって、信じてるからですね。それが信じられるなら、秘密のままにしておくのもなんだか騙《だま》してるみたいであんまり気持ちよくないですし」
「フィオル……」
リュカは、照れているような喜んでいるような、そんな複雑《ふくざつ》な顔になる。
「それに……これで、もう一生リュカはわたしのことを忘《わす》れられません。ああ、いたいけな少年の人生に毒牙《どくが》を突《つ》き立てるなんて、なんて極悪な魔女なんでしょうわたしって」
両の頬を手のひらで挟《はさ》んで、ふるふると首を振ってみせる。
「フィオル……」
リュカは、今度はなんとも見た目のわかりやすい、呆《あき》れた顔になる。
「そうだ、秘密ついでに、なにか願い事とか、ありませんか?」
「……どういう?」
「何でもいいですよ。剣《けん》がうまくなりたいとか、あとちょっとだけ身長がほしいとか……基本《きほん》的に何でもオッケーです、何せ極悪な魔女ですから」
えへんと胸を張ってみせる。胸を張ってから、極悪というのはあんまり関係なかったなと気付く。まぁ別にどうでもいいことではあるけれど。
「何でもいいのか? ほんとに?」
「はい。極悪な魔女に二言《にごん》はありません」
「なら……」
そこでリュカは、何やらそっぽを向いて、
「……ちょっと、待っててくれよ。オレ、まだこんなガキだからさ、こんな願い事、言う資格《しかく》ないと思うんだ。もうちっとだけ大きくなって、もうちっとだけまともになったら、そん時に言うから。だから、ちょっとだけさ」
驚《おどろ》いた。
どんな顔をしているんだろうと、リュカの顔を覗《のぞ》き込《こ》みたかったけれど、完全に向こう側を向かれていたので出来なかった。ただ耳が真っ赤に茹《ゆ》で上がっていることだけが、はっきりと見てとれた。
「……やっぱ、ひいた?」
「ううん。驚きましたけど、けっこう嬉《うれ》しいです」
そう答えると、少年の首がわずかに動いて、こちらの表情を横目で窺《うかが》ってきた。
いつまでもこんな時間は続かないのだと知っていた。
どんなに心安らげる時であっても、遠からずこの手から取り上げられるのだと――いや、この手から投げ捨《す》てなければならないのだと、理解《りかい》していた。
けれどそれでも、時折考えてしまう。自分がこのエブリオの地に居《きょ》を構《かま》えてからもう何年にもなる。それは平凡《へいぼん》にして平穏《へいおん》な日々だった。ならばもしかしたら、これから先も同じように、何年もの時間を過《す》ごせてもおかしくないのではないか。
もちろん、その願いだけは、叶《かな》うわけがなかった。
終わりの日は、容赦《ようしゃ》なくやってきた。
[#改ページ]
▼scene/3 花冠《かかん》なき姫君《ひめぎみ》 〜princess of ruinness〜
魔女の力は強大で、その悪に限《かぎ》りはなかった。
王国は闇に呑《の》まれ、全ての希望は潰《つい》えたように見えた。
だが、光は消え去りはしなかった。
勇士たちが立ち上がったのだ。
騎士《きし》たちの生き残りが。勇気ある民《たみ》たちが。この国の窮状《きゅうじょう》を知り、国外から駆《か》けつけてくれた智慧者《ちえしゃ》たちが。
彼らはその全員で力をあわせ、あの忌まわしい魔女を討《う》ち果たそうと誓《ちか》いを立てた。
その中に、ジネット姫《ひめ》が思いを通わせた、白銀の騎士の姿《すがた》もあった。
『必ずや、魔女を討ち果たし、貴女《あなた》の下《もと》へ帰ってきます』
陽《ひ》の光を浴び金色に輝《かがや》く剣《けん》を掲《かか》げ、騎士は姫に騎士の誓いを捧《ささ》げた。
『神の名と、今は亡《な》き王の名と、そして愛する小さな姫君の名にかけて』
その誓いは、何もかもが穢《けが》されてしまったこの国の中に残されていた、数少ない、かけがえのないキレイなものの一つ。
それこそが、悪の化身《けしん》たる魔女を討つための、大いなる力。
騎士の名前はレオネル・グラント。
後の世に|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》の名で称《たた》えられることとなる、真の騎士だった。
8.
場所を、移《うつ》した。
さして広いでもない部屋。毛の短い、年代ものの絨毯《じゅうたん》。壁《かべ》に並《なら》んだ書棚《しょだな》にぎっしりと詰《つ》まった専門書《せんもんしょ》。妙《みょう》に豪華《ごうか》なマントルピース。そして部屋の中央には、伯父《おじ》が蚤《のみ》の市で衝動《しょうどう》買いしてきた大型家族用のテーブル。この家の住人は二人だけだというのに、まったく大が小を兼《か》ねるにも限界《げんかい》というものがあるだろうに。
エルモント宅《たく》の、客間である。
リュカと、くだんの男――あるいはその容姿《ようし》を素直《すなお》に評《ひょう》して美青年とでも呼《よ》ぶべきか――は、そのテーブルを挟《はさ》んで向かい合っていた。
「うまいコーヒーだ。さっき飲んだやつとはずいぶんと違うね」
「あれは、眠気《ねむけ》覚まし用の特別|製《せい》。まともな体調のときに飲むもんじゃない」
「まともじゃない体調のときに、あんな劇物《げきぶつ》を飲むのかい? 過激《かげき》な話だねそりゃ」
「そんなことより、さっきの話の続きだ。あんたは何者で、俺の何を知ってる?」
自分のコーヒーを飲み干《ほ》して、リュカは先を促《うなが》す。
男は自分のコーヒーカップを皿に戻《もど》して、
「最初に、ひとつ確《たし》かめておきたい。きみは、本当に何も知らないんだね?」
「……とか言われても、何のことについての話か分からねぇし」
分かりづらい質問《しつもん》への皮肉の言葉だったが、男はまるで意に介《かい》した様子もなく、
「知るはずのない知識がいつの間にか頭の中にあるとか、一人で寝《ね》てると誰《だれ》かが頭の中で囁《ささや》いてるのが聞こえるとか、そういうこともないね?」
「…………」
なんだ、それは。
首を横に振《ふ》ると、男は「なるほど、まいったな」と前髪《まえがみ》を軽くかき上げて、
「まったくの素人《しろうと》か。どこから説明したものかな、これは」
まず刻印《ブランディング》について告げるべきか、とか、本についての説明が先か、とか、なにやら独りでわけのわからないことを呟《つぶや》きながら納得《なっとく》している。むろん置いていかれたリュカとしては面白《おもしろ》くないわけで、一言|文句《もんく》を言ってやろうとしたら、
「じゃあ説明しよう」
……絶妙のタイミングで、すかされた。
会話の呼吸《こきゅう》がまるで読めない。やりにくい相手だと思う。自分との相性《あいしょう》が悪いのか、それとも誰に対しても似《に》たようなものなのか。
「きみには、誰か強力な魔法使い《マジックユーザー》の手によって、魔法をかけられた形跡《けいせき》がある」
「…………」
「敢《あ》えて名前をつけるなら、|蘇生の刻印《ブランディング》。この世に現存《げんぞん》する中でも最古の部類に入る魔法書《まほうぼん》、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』によって施《ほどこ》された人造《じんぞう》の奇跡《きせき》だ。
すぐには信じられない話だろうけど、いまは説明を最後まで聞いてほしい」
「…………」
頷《うなず》いた。
「きみらが魔法使いっていう言葉を聞いて、真っ先に浮《う》かぶのは賢者《けんじゃ》のイメージだと思う。悪魔と契約《けいやく》して禁断《きんだん》の知識を得たり、あるいは湖やら古木やらの精霊《せいれい》と対話をして世界の真理を突《つ》き止めたり、とにかくそういう人間離れした知識|体系《たいけい》を修《おさ》めた人間が、畢竟《ひっきょう》の境地《きょうち》として行き着くところにあるものだと。賢しさ《ウィズダム》の極致《きょくち》に存在《そんざい》する|賢しき者《ウイザード》。それが、おとぎ話における魔法使いの定位置だ。
けれど、ぼくの言う魔法使いは、それとは少し趣《おもむ》きが違う。
ナイフの使い方を知っている者は、ものを斬《き》れる。火打石の使い方を知っている者は、火を熾《おこ》せる。同じように、魔法の使い方を知っている者は、ほかのどんな道具でも代用の出来ないような異常《いじょう》な現象を、自在に操《あやつ》れる。
魔法《まほう》を使用する《ユーズ》ことのできる者。
純粋《じゅんすい》にそれだけの意味で、それらは魔法使い《マジックユーザー》と呼ばれる」
ととん。男の指先が、軽いリズムを刻《きざ》む。
机の上を[#「机の上を」に傍点]、ゆるやかな波紋が広がっていく[#「ゆるやかな波紋が広がっていく」に傍点]。
錯覚《さっかく》でも何でもない。静かな水面を這《は》うように、一点を中心とした幾《いく》つもの輪が、磨《みが》きこまれた樫材《かしざい》の表面を滑《すべ》ってゆく。
「え……」
思わず腰《こし》を浮《う》かしかけたリュカを男は目で制《せい》して、
「――一の羊と百の牧童、一の墓石《はかいし》と百の墓守=v
あふれる。
机《つくえ》の縁《ふち》を越《こ》えて、指先が作り出した振動《しんどう》が、部屋中に広がってゆく。満たしてゆく。
「|毀れた天秤が楽園を支えていた《ソン・レーヴ・カツス・ル・モンド》=v
音も無く、世界が割《わ》れた。
何も、変わっていないように見えた。
そこは、ほんの数秒前までそうだったように、エルモント家の客間だった。絨毯《じゅうたん》、書棚《しょだな》、マントルピースにテーブル、そしてかすかな湯気を吐くコーヒーカップ。何もかもが全く変わらずに、それぞれの場所にある。
だが、何かが違《ちが》う。
ここは、先ほどまで自分たちがいた場所と、同じではない。何もかもが同じであるかのように装《よそお》っている、そしてその偽装《ぎそう》があまりに上手《うま》くいっているのでどこがどうだとはっきりは指摘《してき》できない、けれど目まいがするほどの強烈《きょうれつ》な違和感《いわかん》が絶《た》え間なく訴《うった》えてくる。ここは、何かが間違った場所だと。
「それらはかつて、魔女と呼ばれた一人の女がこの世界にもたらした禁断の知識群《ちしきぐん》だと言われている。まぁその真偽は大して重要じゃない。大事なのは、そういうものが実在しているということ。そしてそれを力として振るうことの出来る魔法使い《マジックユーザー》がいるということ」
男の指先が、コーヒーカップを軽く弾《はじ》く。ちん、という澄《す》んだ音。そしてその昔が消えるか消えないかというタイミングで、
「飲み干せ[#「飲み干せ」に傍点]」
「何を……」
問いかけようとしたリュカを再《ふたた》び目で制して、男はカップをリュカのほうへと押《お》してきた。示《しめ》されるまま、そのカップの内側を覗き込む。
水面が――下がってゆく。
ぞ、ぞぞぞ、という、液体《えきたい》が溝《みぞ》に吸《す》い込《こ》まれるような小さな音。
思わず小さく息を呑《の》んだ、その瞬間《しゅんかん》にはもうカップは完全に空になっている。今目の前で起きていたことを把握《はあく》するのに、わずかに時間が必要になる。
「あんたの言うことを聞いた……のか?」
飲み干せと言われて、飲み干したのだ。コーヒーカップが、コーヒーを。
そんなバカなとは、もちろん思う。コーヒーカップには耳がないし、人の言葉を埋解《りかい》する知能《ちのう》もないし、何より口も胃もないものがどうやってものを飲み食いするというのか。あの一杯《いっぱい》分のコーヒーは、いったいどこに消えてしまったというのか。
「まぁ、そういうこと」
満足そうに男は頷《うなず》くと、軽く手を振る。
周辺を包んでいた奇妙《きみょう》な気配が、瞬時に弾ける。何もかもが元に戻る。エルモント家の客間。見慣《みな》れた空間の中に帰ってくる。
ただひとつ、空っぽになったコーヒーカップだけが、今起きたことが夢《ゆめ》ではないのだということを教えてくれている。
「魔法《ウィッチクラフト》。
|魔女《ウィッチ》の業《クラフト》の名が示すとおり、人を棄《す》て魔に踏み込んだ人間にのみ拓《ひら》かれる不思議と不条理《ふじょうり》のカタマリだ」
短い沈黙《ちんもく》。
「もちろんこんなの、本来この世界の中でありうる出来事じゃない。だからまず最初に導《みちび》きの言葉≠使って、周辺一帯に小細工をかけた。その中でならば、世界はいくつかの非《ひ》合理に対して目をつぶってくれる。今みたいな芸当が可能《かのう》になるわけだ」
男は少し視線《しせん》をさまよわせて言葉を探《さが》し、
「平たく言えば、魔法を使うための下準備《したじゅんび》だな。誰《だれ》が名づけたものかは知らないけど、通例としては|夜の軟泥《ワルプルギス》って呼ばれてる。その|夜の軟泥《ワルプルギス》と、実際《じっさい》に強制《きょうせい》力を帯びさせて放った言葉の二|段階《だんかい》を費《つい》やして、魔法は完成するわけだ」
「……ええと」
「もちろんこのやりかただと、効果《こうか》は長持ちしない。
香《こう》を※[#「火+(生−ノ)」、第3水準1-87-40]《た》くようなものだ。いくら部屋を閉《し》め切《き》っておいたって、長く放《ほう》っておけばどんな匂《にお》いだってそのうち拡散《かくさん》する。それをいつまでもそこに留《とど》めておきたいなら、延々《えんえん》と香を※[#「火+(生−ノ)」、第3水準1-87-40]《た》き続けなければいけない。魔法は瞬間的なものでしかなく、『結果』はともかく『効果』は決して長続きしない――」
ちん、とその指先が空になったコーヒーカップを軽く弾く。
「……ええと、だな」
「けれどここにはひとつ、抜け道がある。匂いを留《とど》めておきたいのなら、留めおかせたいものそれ自体に染《し》み込ませてしまえばいいんだってね。きわめて強い魔法を一定の手順で施《ほどこ》せば、魔法《まほう》をある程度《ていど》の力を持たせたまま持続させられる。これについては、ぼくらは刻印《ブランディング》と呼んでる。ちょうどそんなイメージだからね」
「だから、ちょっと待て。質問《しつもん》、ひとつさせてくれ」
「ああ、ちょうど説明も一区切りついたところだし、いいよ。何だい?」
「つまり、あんたもその、さっき言ってた魔法使い《マジックユーザー》……なのか?」
沈黙《ちんもく》。
何を考えているのか、『結果』はともかくしばらく目を辺りにさまよわせていたが、
「――ああっ! ごめん自己紹介《じこしょうかい》とか忘《わす》れてた!」
「だよな」
肩の力ががくりと落ちた。
「ぼくの名前は、レオネル。そう呼んでくれ」
なぜか恥《は》ずかしそうに、男はそんなふうに名乗った。
「ちょっと有名すぎる名前だからね、さすがに恥ずかしいんだよ」
と、それが男の言い分なのだが、リュカにはその気持ちがいまいち分からない。
どんなに広く知れ渡《わた》った名前であっても、所詮《しょせん》は物語の中の登場人物のそれだ。今ここに生きて動いている人間が、なぜそれを恥ずかしがらなければならないのか?
「この世界には魔法使い《マジックユーザー》が実在し、ぼくはその一人。
所持している魔法の本――魔法書《グリモア》の題名《タイトル》は『|鉛人形の王《アンペルール》』、力のほどはさっき見せたとおり――けっこう強力な魔法の使える一|冊《さつ》だよ」
「……はぁ」
「そして昨夜きみを刺《さ》した彼女の持つ魔法書《グリモア》の題名《タイトル》は『|琥珀の画廊《イストワール》』、これもけっこう強力で、侮《あなど》れない」
「っ!」
思い出した。
そもそも忘れられるような話ではなかったはずなのに、話の流れがあまりにとっぴなものだったので、無意識《むいしき》に頭の隅《すみ》のほうに追いやってしまっていた。本来自分は、そのことについての話を聞くために、この、レオネルと名乗る男の前に座《すわ》っているのだ。
「あの子は……何だ?」
「魔法使いだよ。そして、ほかの魔法使いを狩《か》ってまわっている狩人《かりゅうど》でもある。
さっき言ったとおり、魔法を使うには、その使い方の『知識』が要《い》る。『知識』が増《ふ》えればよりいろいろな魔法をより精密《せいみつ》に操《あやつ》れる。そしてそういう知識の全《すべ》ては魔法書《グリモア》の中に詰《つ》まってる。他人の魔法書《グリモア》を奪《うば》うというのは、そのための一番手っ取り早い手段だってわけだ。
いま彼女は、一人の魔法使いを追っている。およそ魔法《ウィッチクラフト》と呼ばれる神秘体系《しんぴたいけい》を語るにあたって、外すことのできない最強の一人をだ。
名は、フィオル・キセルメル。……聞き覚えは?」
心臓《しんぞう》が止まる。
聞き覚えがあるかとレオネルは訊《き》いた。
そんなもの、当然のこと、あるに決まっている。
彼女は、かつてリュカ・エルモントが十二|歳《さい》の少年だったころ、生まれ故郷《こきょう》のエブリオの地で出会った娘《むすめ》だった。
凛《りん》とした雰囲気《ふんいき》を持ったとんでもない美人なのに、笑顔が五つの子供《こども》のようにふにゃふにゃしていた。びっくりするほど博識《はくしき》で何でも知っていたのに、楽しそうにリュカの話を聞いていた。
忘れられるはずがない。彼女こそが、リュカの初恋《はつこい》の相手なのだ。子供心に、いつか必ずプロポーズすると決心するまでに憧《あこが》れた相手なのだ。
「知ってるみたいだね」
表情を読んだのか、レオネルは満足そうに頷《うなず》くと、
「フィオルは非常《ひじょう》に優《すぐ》れた魔法使い《マジックユーザー》で、かつ最高位の魔法書《グリモア》『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の持ち主でもある。彼女ならどんな馬鹿《ばか》げた魔法《ウイッチクラフト》を操ろうが、驚《おどろ》くには値《あたい》しない。それこそ、傷《きず》を治す力を刻印《ブランディング》にして人間の中に安定させるなんていう、規格外《きかくがい》を絵に描《か》いたようなデタラメなしろものでもね。
問題は、なぜ彼女が、きみにそんなものを施《ほどこ》したかだ」
わずかに熱の入った声で、レオネルは言う。
「ちょっと待ってくれ」
リュカはレオネルの言葉を途中《とちゅう》で制《せい》して、
「昨日まで俺《おれ》は普通《ふつう》の人間だったんだぜ、だったらむしろ俺に細工をしたのはフィオルじゃなくて、あの銀髪《ぎんぱつ》の……」
「本来ならば、死ぬような深い傷にしか反応《はんのう》しないような刻印《ブランディング》なんだろうね。昼間|腕《うで》の傷が治ったのは、いわば昨夜に働いた治癒《ちゆ》の力の余《あま》り。おまけみたいなものだと思う。
……はっきり言うとね。人間の傷を治すなんていう無茶な魔法を、しかも刻印《ブランディング》にして人の中に留めるなんていう芸当は、魔法使い《マジックユーザー》にとっても規格外のことなんだ。そんなことができる者がいるとしたら、フィオル・キセルメルをおいて他《ほか》には考えられない」
黙《だま》る。
「フィオルがいま、どこで何をしているかは知っているかい?」
知らない。あの夜に別れて以来、姿《すがた》を見てもいない。それどころか、生きているなどと思いもしなかった。だから首を横に振《ふ》る。
「そうか……やはり彼女は、姿を隠《かく》しているのだろう。以前もそうだった。強い力を持つ者は、いつの世だって、その力を狙《ねら》う者に追われることになる。彼女はずっと、そういう日常を生きてきたんだ――」
「……そっか」
確《たし》かに、彼女はそんなことを言っていた。故郷から追っ手がかかっているとか。だからエブリオなどという田舎《いなか》に隠れ住んでいるのだとかなんとか、そのようなことを。
焦《あせ》りのようなものが、胸《むね》の奥《おく》で小さく懺《お》きる。今さら、何をどう想《おも》おうと遅《おそ》すぎるというのに、それでも。
「本題に入ろう。
昨夜きみを刺したあの女は、フィオル・キセルメルを狙っている。その過程《かてい》で、彼女と関《かか》わりのあるきみを殺そうとした。昨夜はこうして失敗したものの、おそらくそう遠くないうちにまた襲《おそ》いかかってくるだろう。きみは彼女の脅威《きょうい》をどうにかしなければ、今後安心して日常生活を送れない。
そして、ぼくは、あの女の敵《てき》だ。理由があって、ずっと彼女を追っている。
単刀直入に言おう。あの女と戦うにあたって、きみの協力が欲《ほ》しいんだ。利害は一致《いっち》しているはずだ。損《そん》な話じゃあないと思うんだけども」
きっぱりと、そんなことを言い出した。
「……協力……?」
「ぼくはあの女よりも、少しだけ強い。だからあの女はぼくと戦おうとしない。いつも逃《に》げ回っていて、決着をつけさせてくれない。
けれど、きみという要素が絡《から》めば話は変わるはずだ。きみの協力が得られれば、今度こそこの地で、あの女を止めることができるはずなんだよ」
その言葉を口にする瞬間、レオネルはほんのわずかに遠い目をした。
「今晩か、明晩か、それ以降《いこう》か――おそらく彼女は、近い夜にもう一度きみの前に現《あらわ》れる。そして大規模《だいきぼ》な魔法を組み上げて、今度こそ確実《かくじつ》にきみを仕留《しと》めようとするだろう。
その隙《すき》を衝《つ》けば、ぼくはあの女を倒《たお》すことができる。
きみに、そのチャンスを作って欲しいんだ」
「そりゃあつまり、囮《おとり》ってことか?」
「……まぁ、そういうことになるね、言葉は悪いけど」
レオネルは苦笑《くしょう》しながら、それを認《みと》めた。
「危険《きけん》なことをさせようとしているとは思うよ。けれどそれが一番確実で迅速《じんそく》で、つまり最終的に一番危険が少ない策《さく》だと思う……きみ、剣《けん》は使えるかい?」
頷くと、
「ならばこれを持っていてくれ」
ごとり、という鈍《にぶ》い音。テーブルの上に、鞘《さや》に入った幅広《はばひろ》の剣が置かれた。
「さきほど言った刻印《ブランディング》の施された特別|製《せい》だ。切れ味やバランスは見かけどおりの剣のそれでしかないけれど、ちょっとした仕掛けを施してある。
この刀身に血が付着すると、その剣の遣《つく》り手であるぼくに、そのこととその場所とが伝わるんだ。そしてぼくは、その場所にものすごい速さ[#「ものすごい速さ」に傍点]で駆《か》けつけられる」
受け取った。
ずしりと手に沈み込む、鋼《はがね》の重さ。
信用できるのかと訊《き》いたら、レオネルははっきりと頷いた。自分たちは決して嘘《うそ》を吐《つ》かない。だから口にされた言葉は全《すべ》て信用してくれていいと。
「引き受けて――くれるかい?」
はんの少しだけ不安そうに、レオネルがそう尋《たず》ねてきた。
「ひとつ、訊きたいことがある」
「何かな」
「五年前、フィオルがいたエブリオの村が燃《も》えたことを、知ってるか」
「……ああ」
レオネルは神妙《しんみょう》な顔で頷く。
「あれはつまり、その、フィオルを狙って魔法使いが襲撃《しゅうげき》したせいなのか?」
「………………」
長いようで短い沈黙の後で、
「ああ。ぼくの知る限《かぎ》り、そのはずだ」
そう、答えた。
心が決まった。
自分は、あの少女に、もう一度会わなければならない。
そして、質《ただ》さなければならない。本当に、五年前、エブリオにいたのか。本当に、フィオルが持っていた本を求めていたのか。
もしかしたら[#「もしかしたら」に傍点]、 あの村が燃えたことはただの天災ではなく[#「あの村が燃えたことはただの天災ではなく」に傍点]、そこには理由があったのかもしれない[#「そこには理由があったのかもしれない」に傍点]。その真実を見極《みきわ》めて、場合によっては仇《かたき》をとらなければならないかもしれない。自分はエブリオの、ただ一人きりの生き残りなのだから。
だから、
「――――――――分かったよ」
リュカは、頷いた。
9.
自室のベッドの上に背中《せなか》を投げ出す。
ぎしり、という頼《たよ》りないきしみの音を聞きながら、思う。昨日は橋の上で外泊《がいはく》するはめになったから、最後にこのベッドで体を休めてから経《た》った時間は一日半、それだけの間に随分《ずいぶん》と妙《みょう》なことになったものだと。
いきなり刺し殺されたり、いきなり「きみには魔法《まほう》がかかっている!」などと断言《だんげん》されたり、果てには命がけの……それも一人だけずいぶんと危険を背負うことになりそうなポジションで戦いに赴《おもむ》くことに決まったり。
レオネルが去ってから、いちど剣を鞘から抜いてみた。
悪くない剣ではあった。
刃渡《はわた》りは、大陸のほとんどの都市で基準《きじゅん》となっている衛士《えいし》剣のそれとほぼ同じ。柄《つか》を握《にぎ》ってみた感触《かんしょく》も悪くない。やや重心が刃先に寄《よ》っているような気がするが、特に使いづらいと感じるほどではない。
見たところ、鋼よりもやや銀色が強いというだけで、それほど特別な素材で出来ているようには見えない。刻印《ブランディング》を施《ほどこ》したと言っていた。ということは、やはりさきほどのコーヒーカップと同じように、もともとは普通の剣だったものに彼の魔法とやらがかかっているだけなのだろうか。
しかしそれだとしても、随分な業物《わざもの》であるとは思った。
さすがに真剣を扱《あつか》った経験《けいけん》などほとんどないが、それでもこうして刀身を見て、実際に自分の手で握ってみれば、それだけで伝わってくるものはある。この剣ならば、ほんの短い間とはいえ命を預《あず》ける相棒《あいぼう》として、不足は無い。
「……許可《きょか》なしで街中で刀剣|携行《けいこう》、か」
それはりっぱな法令|違反《いはん》だ。今のこの平和なご時世において無用に一般人《いっぱんじん》が武装《ぶそう》することは、その大切な平和を侵《おか》す許《ゆる》されざる犯罪《はんざい》として扱われる。
「後にゃ退《ひ》けねーな、何にせよ」
眠《ねむ》れる心境《しんきょう》ではないし、そもそもそんな時間でもない。ベッドから身を起こす。
少し、気分を落ち着けようと思う。
窓《まど》を開く。
雲ひとつなく晴れ上がった夕暮《ゆうぐ》れ前の赤みを帯びた空が、今日も世界は平和だったぜと大声で主張《しゅちょう》している。ああ確かに、世界は平和なのかもしれない。不穏《ふおん》なのはごくごく一部だけだ。
星でも見に行こうかと、ぼんやり思う。
とくに星が好きなわけでも、詳《くわ》しいわけでもない。けれどきっと、今夜の空はいい空になる。空気は澄《す》んでいるし、雲もない。きっと……五年前、初めてフィオルに会ったあのときの空に、よく似《に》た空になる。その空を眺《なが》めていれば、ぐるぐると空回りしているこの頭も、少しくらいは冷えてまともに動くようになるだろう。
どこへ行こう。どこからなら、一番きれいに星が見えるだろう。
頭の中に、フェルツヴェンの地図を描《えが》く。理想を言えば森やら山やら、とにかく周囲に人家がないところにまで行ってしまいたいところだが、あいにくここはエブリオのような田舎《いなか》ではない。条件《じょうけん》を満たすようなところにまで往復《おうふく》するには、少しばかり面倒《めんどう》な距離《きょり》を歩かなければならなくなる。だから、
――そうだ、時計塔《とけいとう》のてっぺん。
ぽん、とその名案が頭の中に落ちてきた。今でこそ危険《きけん》だからと一般の立ち入りが禁止《きんし》されているが、あの時計塔はもともと観光名所だった。長い長い階段をひたすらに登った先にある最上階から一望できるこのフェルツヴェンの町並《まちな》みは、大陸西部の宝石箱《ほうせきばこ》と謳《うた》われるほどの美景であるという――ただし当時のフェルツヴェン市観光局いわく。まあ何にせよ、この街で、一番高い場所であることは間違いない。ついでに付け加えるならば、ここからそれほど遠くないという地理的な理由もある。
そんな自分の名案をかみ締《し》めるように、なんとなく窓から時計塔を仰《あお》ぎ見て、
「……おいおい」
そして――豆粒《まめつぶ》ほどに小さなその姿《すがた》を、見つけてしまった。
距離があったせいではっきりと見えたわけではなかったが、間違いない。風になびくあんな銀髪《ぎんぱつ》の持ち主が、そうそうそこらに転がっているはずがない。こんな遠目にでもはっきりと伝わってくる、一種|呪《のろ》いじみたその気品を、間違えるはずがない。
どうしたものかと考える。
いつか襲《おそ》い来るだろう災厄《さいやく》。レオネルの申し出を受けた時点で、遠からずまた会うことになるだろうと覚悟《かくご》は決めていた。だからこそ戸惑《とまど》う。向こうから来るものだとばかり思っていた相手を、見つけてしまった。いまこの瞬間だけ、自分にはひとつの権利《けんり》が与《あた》えられてしまったのだ。
決断する。前にこのベッドで体を休めてから一日半、自分はどうにも急変に急変を続ける状況《じょうきょう》に押《お》し流されているだけだった。ならばせめて、なけなしの意地とか矜持《きょうじ》とかを死守するためにも、自分の意志で攻《せ》め込めるときにはそうしておきたい。
「止《とど》めはあいつに任《まか》せられる。俺は時間を稼《かせ》げばいい、んだよな……?」
クローゼットに立てかけておいた剣《けん》をひっつかむ。刃渡《はわた》りは、大陸のほとんどの都市で基準《きじゅん》となっている衛士《えいし》剣のそれとほぼ同じ――ということは学院で使っている練習用の模擬刀《もぎとう》とも同じだということで、つまり人前では鞘《さや》に入れたままでありさえすれば、まさか真剣だとはばれないだろうということだ。
「…………」
不安が湧《わ》き上がってくる。
レオネルの言《げん》を信じるならば、自分は化け物じみた相手と戦おうとしているのだ。
コーヒーカップにコーヒーを飲ませられるような連中に剣を向けようとしているのだ。
いますぐレオネルをこの場に引っ張ってきたいと思う。泊《と》まっていると言っていた駅前のホテルまで走りこんで、手近なベルボーイを締め上げて部屋番号を吐《は》き出させて、今頃《いまごろ》はちょうどひとっ風呂《ぷろ》浴びたさっぱりした顔でワイングラスなど傾《かたむ》けているだろうあの男の首根っこを引っつかんでここに連れてきて、そして一言、さああいつをやっつけろ。
……そういうわけには、いかないのだろう。
今ここでこうしてあの少女を見つけられたのは幸運だった。その幸運のおかげで、今この瞬間だけならば、こちらから仕掛けることができる。けれどもし、ここで駅前まで行って戻《もど》ってくるなどという時間をかけたなら、おそらくあの少女はあの場所からいなくなっていて、せっかくの幸運は何の役にも立たずに泡《あわ》と消える。
わかっている。
今自分が何をするべきか、何をしなければいけないのか、わかってはいるのだ。
「……凄《すご》い速さで駆けつけてくる、つってたよな」
あの言葉を、今は信じるしかない。
改めて、走り出す。部屋を飛び出て廊下《ろうか》を駆け抜《ぬ》けて玄関《げんかん》へ。橋を渡り――遠回りするのが面倒《めんどう》だったので、近道である幽霊屋敷《ゆうれいやしき》の敷地《しきち》内に不法|侵入《しんにゅう》、そのまま走り抜ける。とにかくまっすぐに、時計塔に向かって。なんだなんだと道行く人々が振り返るが、気にしない。その暇《ひま》はない。
時計塔の入り口は施錠《せじょう》されている。
が、潜《くぐ》り抜け方は知っている。雨どいを伝って二階――ではないのかもしれないがそのくらいの高さにある窓――から入り込めばいい。こんなことは、近所の悪ガキおよびもともと悪ガキだった連中なら誰だって知っている。知らないのはここを閉鎖《へいさ》した役所の大人たちくらいのものだ。
古びた油と、錆《さ》びた金属《きんぞく》と、ぶ厚《あつ》く積もった埃《ほこり》の臭《にお》い。
指先を、鋼《はがね》の刃の上で滑《すべ》らせた。にじみ出てくる赤い雫《しずく》を、刀身の上にぽたりと落とす。レオネルの言葉が正しければ、これで、あの男はこの時計塔で何かが起きていることを知り、こちらに向かってこられるはずだ。どれだけの時間がかかるかは分からないが、間に合ってくれることを今は祈《いの》るしかない。
狭《せま》い階段を駆け上がる。カンカンと耳障《みみざわ》りに響《ひび》く足音のことは気にしない。時計塔管理人のじいさんはこの時間、歯車室にこもっていて足音など聞こえない状況《じょうきょう》にあるはずだ。だから塔を駆け上《あが》るこの足を止める者など誰一人いるはずもなく。
リュカは何の問題もなく、最上階に至《いた》り。
そして。その光景を、見た。
――それはまるで、一|枚《まい》の絵画。
地上とは比《くら》べ物にならない強い風が、渦《うず》を巻《ま》いている。
びゅおうごおうと、耳元で唸《うな》っている。
時計塔の最上階。
階段を登りきったその場所は、部屋を隔《へだ》てる壁《かべ》の一枚もない、広い空間になっている。四方には大きなアーチが開いていて、そこから夕暮れの街が一望できた。
湖面の向こうへと沈《しず》んでゆく、オレンジ色の太陽。
一人の少女が、それを眺めている。
逆光《ぎゃっこう》に透《す》ける長い髪《かみ》が、風に嬲《なぶ》られるまま、虚空《こくう》を泳いでいる。
アーチの柱に片手《かたて》をついて――ほんの一歩でも前に踏《ふ》み出せばそのまま地上までまっさかさまに落ちてしまうだろう、ぎりぎりの縁《ふち》に立っている。
「――誰だ?」
少女が、振り返ることもなく、その背中で問いかけてきた。
どう答えようかとはんのわずかに迷《まよ》ってから、
「誰だろうね」
そんな言葉を、返した。
ゆっくりと、顔だけで少女は振り返る。
「きみは……」
ぽつりと、何かを確《たし》かめるように、少女は呟《つぶや》く。
「ああ。君が殺した男だよ」
「殺した?」
くすり、と小さな笑《え》みが浮《う》かぶ。
「おかしなことを言うものだな。昨夜《ゆうべ》私がそれを果たせなかったことは、生き延《の》びたきみが一番よく知っているだろう?」
「いやまぁ、確かにそりゃそうだ」
言って、一歩を踏《ふ》み出す。少女との間の距離《きょり》を詰《つ》める。
「なぜここに現《あらわ》れた? 私に近づけば、今度こそ殺されるとは思わなかったのか?」
「そりゃあそうだけどな。いちおう、理由が二つほどある」
「ふむ?」
少女が――今度は、体ごと振り返る。
沈み行く太陽を背負って、燃《も》えるような緋色《ひいろ》にその身を染めた銀色のシルエット。
「聞こうか」
「まずは、君に聞きたいことがあった。君は、魔法使い《マジックユーザー》なのか?」
その問いに、わずかな沈黙をはさんでから、
「そうだ」
感情の読み取れない声で、少女は答えた。
「君はフィオル・キセルメルを捜《さが》している。彼女が持っているはずの、なんとかいう名前の魔法書《グリモア》を奪《うば》い取るために。これに間違《まちが》いはないか?」
「そうだ」
その二つの答えを、リュカは、泣きたいような気分で受け入れた。
ああ、本当にそうだったのか。あれはただの天災《てんさい》ではなかった。みんなの死は、ただ張《は》り裂《さ》けそうに悲しいだけの出来事として片付けられるものではなかった。
本当に、仇《かたき》が、いたのだ。恨《うら》むべき相手が、実在していたのだ。
「質問はそれだけか?」
「ああ」
頷《うなず》いて、また一歩を前に踏み出して。
そしてリュカは、剣を抜き放った。
鞘《さや》を足元に落とし、正面に構《かま》える。いつも決闘《デュエル》で使っている綿巻《わたま》き木剣《ぼっけん》とはまるで質《しつ》の違う重みを手首に感じる。けれどすることは同じ。決して負けられない理由がある勝負。だから、何があっても必ず勝たなければならない。
「もうひとつの理由が、今できた。俺は、君を、倒《たお》す」
「ふむ」
少女は頷いて――横合いに差し出した手には、一振りの剣が握《にぎ》られている。いつ、どこから抜き放ったものか。まるで手品《マジック》か魔法《マジック》のように、その剣は現れた。
「剣を持てば、抗《こう》しうるとでも思ったか」
「少なくとも、手ぶらで不意打ちをくらうよりは、よっぽどマシだろうさ」
「さあ――それはどうかな」
少女が呟いた、その瞬間《しゅんかん》に……
風が、
「ッ!?」
風が動いたと、そう頭が気付くよりも先に、剣が動いていた。
鋼《はがね》が鋼を噛《か》む、鋭《するど》い金属音《きんぞくおん》。
意識《いしき》が危険《きけん》に気付くよりも早く、反射神経《はんしゃしんけい》が右手を撥《は》ね上げていた。握り締《し》めていた剣が、それこそつむじ風か何かのように飛び込んできた少女の剣を弾《はじ》き返す。
――って、強《つえ》えぞこいつ!?
少女の勢《いきお》いは止まらない。第二|撃《げき》。第三撃。夕陽《ゆうひ》の色が煌《きらめ》いたかと思うと、次の瞬間には白刃《はくじん》が襲い掛かってくる。その一撃一撃が、まるで斧《おの》のように重い。斜陽《しゃよう》の時計塔《とけいとう》に、場違いな剣戟《けんけき》の音が響く。
まずい。頭の隅《すみ》でそう判断《はんだん》する。予想以上に少女の攻撃が苛烈《かれつ》だ。
太刀筋《たちすじ》も何もない、ただ力と速度に任《まか》せただけの乱撃《らんげき》。だがその力と速度が尋常《じんじょう》ではない。一合目は反射神経だけで凌《しの》いだ。三合目までは直観で撥ね除《の》けた。五合目までは経験と、無敗の決闘者《けっとうしゃ》の意地で防《ふせ》ぎきった。こんな凌ぎ方では長くはもたない。そしてそれ以前に、戦いというものは攻撃を凌いでいるだけで勝てるものではない。だから、
――動きを、止める!
考えるよりも早く、体が動く。
リュカは大きく踏み込み、少女の腕《うで》に肩《かた》をぶつけていった。刃がかすめた首筋に、わずかな痒《かゆ》み。宙《ちゅう》を舞《ま》う羽を殴《なぐ》りつけるような、妙《みょう》にふわふわして頼りない感触《かんしょく》。
「ぐっ――」
押し殺したような悲鳴が聞こえた。
少女の体がバランスを失い、背から床《ゆか》に崩《くず》れ落ちる。どれだけの力を振り回していても、いやそれだけの力を振り回しているからこそ、少女の小柄な体格が弱点になる。卓越《たくえつ》した技量があれば補《おぎな》いきれた弱点ではあったかもしれない。けれどこの少女の剣は、そこまでの領域《りょういき》には至っていない。
勢いが余《あま》った。体当たりをした側であるリュカもバランスを崩し、少女の上に覆《おお》いかぶさるようにして倒れこむ。身をひねって体勢を正し、剣を握る手を翻《ひるがえ》して、
……そして、時間が止まる。
リュカの剣は、少女の首筋のすぐそばの床へと突《つ》き立てられていた。そして同時に、少女が掲《かか》げた細剣の刃は、リュカの喉元《のどもと》にぴたりと押し当てられていた。
お互《たが》いに、その指先にわずかな力を込めるだけで、簡単《かんたん》に相手の命を奪《うば》うことのできる姿勢《しせい》。もちろん普通《ふつう》の人間であればの話だが。
「……強いのだな、きみは」
ぽつりと、少女が呟《つぶや》いた。
「これほどの剣を見たのは、久《ひさ》しぶりだ……」
「必死なんだ、こっちはよ」
うめくように、答える。
「やはり、死にたくはないか」
「ったりめーだろが。この若《わか》さで早々に生き飽《あ》きてたまるかよ」
そう、少なくともそう心に決めて、ここまで来たのだ。
軽口のようなそのやりとりに、なぜかまた、少女の口元がほころんだ。
「その願いは――眩《まぶ》しいな」
瞬間、リュカは膝《ひざ》だけで背後に跳ねた。少女の剣が疾《はし》る。引き戻したリュカの剣が、少女の頬《ほお》に浅い傷《きず》をつける。
「な……っ」
太陽はゆっくりと沈《しず》んでいく。
いまこの街を濡《ぬ》らす夕陽の色は、淡《あわ》い紫色《むらさきいろ》だった。少女の傷から流れる一筋の血が、強い風に流れて、その紫色の町並みへと飛び散ってゆく。
「抗《あらが》い、悔《く》やみながら死んでいくがいい――なによりもそれこそが、きみがいまだ正しく人である証《あかし》になる!」
意味の分からないことを吠《ほ》えて、少女は暴風《ぼうふう》のような勢いで襲《おそ》い掛《か》かってくる。開いていた距離を一瞬で踏み潰《つぶ》し、巨木《きょぼく》も一振りで切り倒さんばかりの勢いで剣が振りぬかれる。受けきれない。背をのけぞらせる。刃が鼻先をかすめて過《よ》ぎる。
呆《あき》れるくらいに無茶な攻めだ。
それこそ、自分が傷つくことも、死ぬことすらも、寸毫《すんごう》も気にしていないかのような。
「……クソ!」
さっきの体当たりは、不意打ちだったから上手《うま》くいった。同じ手はそう何度も通用しない。この仕切りなおしは、リュカにとってあまりに痛《いた》い。
(なんだよ、こいつは!)
人が死にたがらないのは、当たり前だ。
生き物は、生きたいから生きている。そうでない者なら、どのみち長生きなどしない。だというのに、この少女は、
(普通じゃねえ!)
ありえない踏み込み。常識《じょうしき》外れの剣の軌跡《きせき》。想像外の体《たい》さばき。それら全《すべ》ては、いま目の前にいるこの少女が、もはや人ではないということの証。膂力《りょりょく》だけではない。その心の持ちよう、自分の命というものの扱《あつか》い方からして、こいつは普通の人間ではありえない領域に立っている。
見た目に惑《まど》わされるな。どんなに可憐《かれん》な姿に見えていたとしても、こいつはまともな相手じゃない。むしろ化け物だ。そう、童話に出てくる|不死の大鬼《トロル》のような、無辜《むこ》の人を殺し喰《く》らう悪鬼《あっき》の類《たぐい》なのだと、自分に言い聞かせる。
銀の光が交錯《こうさく》する。
リュカの前髪が何本か、剣に引きちぎられるようにして、風に散る。
「うむ……?」
少女の頬から、一滴《てき》の赤い雫《しずく》がこぼれ落ちる。とん、と跳ねるようにして間合いを広げてから、少女は自分の頬を軽く撫《な》でる。滞れた指先を一瞥《いちべつ》して、
「傷が塞《ふさ》がらん……妙《みょう》な気配を漂《ただよ》わせているとは思ったが、さてはその剣、刻印《ブランディング》付きか」
「……?」
おそらく少女のその言葉はリュカに対する問いかけ、少なくとも何らかの反応《はんのう》を期待しての呼びかけだったのだろう。しかしリュカは応《こた》えない。
「……そうか、レオネルが接触《せっしょく》したか。私を排除《はいじょ》するための都合のいい捨《す》て駒《ごま》として送り込まれたというところか」
応えられない。
そんな余裕《よゆう》がない。口を開こうとすれば、限界《げんかい》まで張《は》り詰《つ》めたこの緊張《きんちょう》を緩《ゆる》めなければならない。そんなことをすれば、一瞬でこの少女に切り伏《ふ》せられてしまうだろう。それだけの戦力の差が、この二人の間には、ある。
「要《い》らぬ知恵《ちえ》を吹《ふ》き込まれ、戦えるという確信《かくしん》を得たか……いいだろう。きみにはそれだけの自信を持つ資格《しかく》がある。認《みと》めよう」
自信なんてものは、ない。
そんなものを抱《かか》えて勝負の場に立ったことはない。五十三度も繰り返された決闘《デュエル》の中でも、抱えていたものはいつだって、何があろうと負けるわけにはいかないという、ただ非情《ひじょう》なまでにわかりやすい現実《げんじつ》だけだった。そしてもちろん、今この瞬間《しゅんかん》も同じこと。
夜が辺りを包み込む。紺色《こんいろ》の世界が、少女の銀色を飲み込んでいく。
「だから、ここから先の私に、加減《かげん》はない」
とん。
少女のつま先が、軽く、床石を蹴《け》る。
波紋《はもん》が、床石を伝って、広がっていく。時計塔最上階というこの空間に。その空間を取り巻《ま》く世界へ。広がって、包み込んでいく。
「――果てのない白の荒野《こうや》に一人立ち、初めて人は自らの居場所《いばしょ》を知る=v
得体の知れない濃《こ》い気配が、辺りに充満《じゅうまん》する。
ついさきほどレオネルに実演《じつえん》されたばかりなのだから、その正体は知れている。間違いない。これは魔法《まほう》だ。この世の中に本来あるはずの常識や物理|法則《ほうそく》を無理やりしばらく沈黙《ちんもく》させるための悪夢《あくむ》めいた下|準備《じゅんび》。
「|立ち並ぶ石碑の群れだけが静かに未来を夢見ていた《ソン・レーヴ・アレット・ル・モンド》=v
ぽきん、という存在《そんざい》しない音を聞いた。
何も変わらない色彩《しきさい》の、鮮《あざ》やかに変化する様を見た。
世界が描《か》き替《か》えられたのを感じた。これは確か、|夜の軟泥《ワルプルギス》とかいうものの感覚。
(魔法《ウィッチクラフト》が、来る)
やらせるわけにはいかない。焦《あせ》りがリュカの足に、大きく半歩踏み込ませる。
(くそ、まだ来ねーのかあの男!)
振りぬかれた剣が、ドレスの裾《すそ》を噛《か》みちぎるようにして裂《さ》く。風に煽《あお》られ、青い布《ぬの》が旗のように大きくはためく。少女の繊手《せんしゅ》がリュカの頬《ほお》に伸《の》ばされる。びくんとリュカの体が恐怖《きょうふ》に震《ふる》える。指先は、なぜか労《いた》わるように優《やさ》しく頬に触《ふ》れて、
「先に謝罪《しゃざい》しておこう。いまから私は、きみの古傷を抉《えぐ》る――」
「――くっ」
聞く耳など持たない。何をさせるつもりもない。この距離《きょり》で向こうがこちらを仕留《しと》めに来ないのならば、その好機はこちらで使わせてもらうだけだ。
身をひねり、剣の軌道を無理やりに変える。破《やぶ》けたドレスが足に絡《から》みつき、少女の動きを縛《しば》っている。捉《とら》えた。この間合い、このタイミング、この少女がどれだけ不条理《ふじょうり》な動きをしたとしても、もう防《ふせ》がれることはないと確信する。
そして、リュカと少女、どちらかにとって致命《ちめい》となる瞬間が訪《おとず》れるその寸前《すんぜん》に、
「喰らい尽くせ[#「喰らい尽くせ」に傍点]」
男の声。
――突然《とつぜん》、リュカの手の中にある剣《けん》が、弾《はじ》けた。
内側から、爆散《ばくさん》した。
銀の欠片《かけら》が飛び散り、なぜか赤黒い粘質《ねんしつ》の何かがあふれ出した。剣の大きさを、片手《かたて》で持てる金属《きんぞく》の棒《ぼう》としての体積の限界《げんかい》を遥《はる》かに超《こ》えたそれは、とどまることなく爆散の勢いそのままに膨《ふく》らみ続けた。赤黒いものは無数の錐《きり》となり、不意を衝《つ》かれた少女の体を――正面から、刺《さ》し貫《つらぬ》いた。
かはっ……と、小さな音とともに、細い喉《のど》の奥《おく》から、血の塊《かたまり》が吐《は》き出される。
赤黒いそれは、白い肌《はだ》に深々と突き刺さったその状態《じょうたい》で、身をよじった。びたんびたんと音を立てて次々に萌芽《ほうが》し、それぞれから五条ほどの触手《しゅくしゅ》を伸ばして、その一本一本が改めて少女の肌に牙《きば》を突き立てる。
青かったドレスがずたずたに裂け、見る見るうちに赤に染《そ》まっていく。
そして、同時に。
(……お、い……?)
リュカは混乱《こんらん》している。
目の前で起きていることを、そして自分の身に起きていることを、理解《りかい》できずにいる。
爆散し飛び散った剣の欠片は、もちろん少女の体へと突き刺さり、その内へともぐりこんでいった。だがそれと同時に、あるいは当然というべきか、その剣をもともと携えていたリュカは[#「その剣をもともと携えていたリュカは」に傍点]、少女以上の数の赤いものに喰いつかれている[#「少女以上の数の赤いものに喰いつかれている」に傍点]。
がちがちと歓喜《かんき》するような音を立て、飢《う》えた赤ん坊《ぼう》が母親の乳房《ちぶさ》にむしゃぶりつくようながむしゃらさで、それは肉を食《は》んでゆく。
胸《むね》。
頸《くび》。
脇腹《わきばら》。
頬。
ふくらはぎ。
そして剣を持っていた右腕。
(なんだよ……なんなんだよ、これ!?)
痛《いた》い。いや、痛いなんてものじゃない。絶《た》え間なく悲鳴をあげる傷口の神経《しんけい》が、意識《いしき》のほとんど全てを塗《ぬ》りつぶしてしまっている。それまで頭の中にあったものは全てがまるごと吹き飛んだ。いま考えられることはただひとつ。なぜ、こんなことになっているのかという大きな疑問《ぎもん》。がちがちと。ぎちぎちと。爪《つめ》の先よりも小さな無数の牙が、体を少しずつこそぎとってゆく。
足の力が抜けて、溶《と》けた鉛《なまり》のように焼けた土の上に、どうと倒《たお》れ伏《ふ》す。
「うん、これで一石二鳥」
場にまるでそぐわない、実に嬉《うれ》しそうな、男の声。
頭の中が真っ赤になる。
その声を知っている。そしてその声の主がここにいること自体にも何の不思議もない。彼は確かに先ほどまではここにいなかった、けれどすぐにここに来るはずだった。
けれど、ならば、なぜ、自分はこんな目に遭《あ》っている? なぜこの男は、こんなにも嬉しそうにこの場に現れる?
「まさ……か……」
リュカは、状況《じょうきょう》を少しだけ、把握《はあく》しつつあった。
つまり、自分は、この男に、はめられたのだ。
「お前……ッ!」
ごぼりと喉の奥《おく》から湧《わ》き上がってきた血の塊を傍《かたわ》らに吐き棄《す》てて、
「どこからが、嘘《うそ》だった……ッ!」
「人聞きが悪いなあ」
端整《たんせい》な顔に、人好きのする笑顔《えがお》を浮《う》かべて、レオネルは言う。
「ぼくはきみに嘘なんて吐いてないよ。その子が魔法使い《マジックユーザー》だってことも、きみにとって危険《きけん》な存在《そんざい》だってことも、間違いなく事実だったろ?
ただいくつかのことについて黙ってたら、きみが勝手に勘違《かんちが》いしてくれただけだ」
小さく肩《かた》をすくめて、
「ちょっとした面倒《めんどう》なルールがあってね、書物の宿命を背負ったぼくら|不死の魔法使い《レヴナント》は、自発的な嘘を一切《いっさい》つけないんだよ。だからぼくは、間違ったことはひとつも言ってない。けっこう不便なんだよ、これって。個人《こじん》的には偽名《ぎめい》とかも使ってみたいんだけどさ。日陰《ひかげ》に生きてるのに名前が有名ってのは、なかなか色々とやりづらくてさ……」
「レオネル――ッ!」
全身を緋色《ひいろ》に染めた少女が、吠えた。
「貴様《きさま》、また――己《おのれ》では剣《けん》も抜《ぬ》かず、また――!!」
「やれやれ、きみも相変わらずだね、ジネット」
言葉を遮《さえぎ》られたことに気を悪くした風もなく、レオネルは変わらない笑顔で、
「しっかり血の一|滴《てき》までバケモノに変《か》わったくせに、いまだに剣なんて無骨《ぷこつ》な道具を振り回してる。いつまで経《た》っても賢《かしこ》くならないから、こういう痛い目をみることになるんだ」
あははは、とレオネルは楽しそうに笑う。
「さあて、長かった追いかけっこはぼくの勝ちだ。寂《さび》しくもあるけど、こういうことはきっちりと終わらせないとね?」
「……塵に還れ[#「塵に還れ」に傍点]!」
少女が一喝《いっかつ》する。その言葉にどのような力があったというのか、その体にへばりついていた赤黒いものがまとめて吹き飛ぶ。血と肉とドレスのかけらを引きちぎったそれらは、中空《宙空》で小さな金属片《きんぞくへん》に変じ、そのまま宙空に溶《と》けるようにして消えた。
半身を血に染めた、もはや半裸《はんら》に近い姿《すがた》の少女が、炎《ほのお》の海の中に、立つ。
「なんともはや、呆《あき》れた力技《ちからわざ》だな……その状態から振りほどくのか。その剣の刻印《ブランディング》、けっこう自信作だったんだけどな」
「戯言《ざれごと》はいい」
すぐ傍らに差し伸べられた少女の手の中に、音もなく現れる一振りの細剣《エぺ》。
「貴様も剣をとれ。今すぐこの場で殺してやる」
「やれやれ、元気だねどうにも。怪我人《けがにん》なんだから、少しは大人しくしようよ」
言って……懐《ふところ》に入れた手を、引き出す。
パン! という小さな破裂音《はれつおん》。少女の体が大きく揺《ゆ》れる。
レオネルの手の中に、無骨なフォルムの金属塊《きんぞくかい》が現れている。薄《うす》く煙《けむり》を吐《は》く銃口《じゅうこう》を持った、鉛色の金属塊。
少し古びた、中折れ式の単発|拳銃《けんじゅう》だった。
「ちなみに最近の騎士《きし》は、人を殺すときに剣なんて使わないらしいよ」
軽くそんな言葉を投げながら排莢《はいきょう》し、次弾を装填《そうてん》し、撃《う》つ。
破裂音。少女の体が揺れる。血が弾ける。
「こっちのほうが効率《こうりつ》的だし、切り合わなくて済むぶん危《あぶ》なくないだろ? 小さなリスクに大きな攻撃力。いやはや合理的な時代になったもんだねまったく」
破裂音。放たれた弾丸は全て、正確に少女の体の中へと吸《す》い込まれる。
薄れゆく意識《いしき》の下で――
〈まだ、生きとるか?〉
そんな声を、聞いたように思う。
なんとか、かろうじて、まだ生にしがみついてはいると思う。けれど唇《くちびる》がうまく動かなかったので、そう答える手段《しゅだん》が無かった。
〈聞こえとるなら、聞け。ええか、あそこで我《われ》を失っとるジャジャ馬を捕《つか》まえてじゃな、ここから飛び降《お》りるんじゃ〉
なんだ、そりゃ。
〈その後のことは儂《わし》が責任《せきにん》をもってなんとかしちゃる。考えんでええ、無駄死《むだじ》にが趣味《しゅみ》というわけでもないじゃろ?〉
わけがわからない。
「……あんた、誰《だれ》だよ」
ぼそぼそと、なんとか唇を、そう動かした。
〈んなもん、誰でもよかろうが。あの娘《むすめ》とお主をここで死なせたくない誰かじゃよ〉
「あの女は……俺《おれ》の、敵《てき》だ」
〈ちゅーことはあれか、このままあの腐《くさ》れハンサム野郎《やろう》の一人勝ちでいいんじゃな?〉
それは。
なんというか……かなり、嫌《いや》だ。
〈敵も味方も仲間もライバルもその他|諸々《もろもろ》も、全《すべ》てはこの場を生き延《の》びてからじゃ。まだ生き長《なが》らえる気が少しでも残っとるなら、頼《たの》む、債の言う通りにしてくれんか〉
「レオネ……ル……」
呟くようなその声には、もうまるで力が残っていない。
夕暮れの、いや夜の時計塔《とけいとう》最上階。
四方を取り囲む夜空には満点の星と、針《はり》のように細い白い月。
「さあ、今度こそさようならだ。長すぎた物語に、このあたりで幕《まく》を下ろそう」
月下に立つ青年、この場にある中で唯一《ゆいいつ》血に汚《よご》れていない人物は、そう宣言《せんげん》する。
手の中の拳銃を、ぽいと宙空に投げ上げて、
「――刺し貫け[#「刺し貫け」に傍点]」
めぎ、と一瞬だけ悲鳴に似《に》たきしみをあげて、拳銃は崩《くず》れねじれてただの金属塊となり、その状態《じょうたい》からさらに細く長く変じて、一振りの長槍《ちょうそう》となって完成した。
投げ上げたその腕《うで》を、罪人《ざいにん》の処刑《しょけい》を命じる裁判官《さいばんかん》のように、振り下ろす。宙空に在《あ》った長槍はぴたりと少女の左胸に照準《しょうじゅん》をあわせ、投槍器もなしに自らを勢《いきお》いよく射出《しゃしゅつ》する。
これで終わりか、と思った。
いろいろと、人間|離《ばな》れした少女ではあった。
ああやって一度剣を交えたのだ、そのことはよく分かっていた。
その少女が、ついにはこうして死のうとしている。
そして、たぶん、その次には、自分も殺されるのだ。
(ああああああ、畜生《ちくしょう》!)
リュカは。
痛《いた》みの全てを意識の隅《すみ》へと強引《ごういん》に押しやった。動かない足をたたき起こした。もう完全に壊《こわ》れたと思っていた体は、かろうじてあと少しだけ働いてくれそうだった。
無駄死には趣味じゃない。それは間違いない。けれどそれだけじゃない。何かもうひとつの理由がある。それが何だか自分でもよくわからないが、理由があることだけははっきりと感じている。その確信《かくしん》がリュカを突《つ》き動かす。
大股《おおまた》で、二歩。それが、踏《ふ》み越《こ》えることを課せられた距離《きょり》。
一歩目で、少女の痩躯《そうく》に抱《だ》きついた。そのまま押し倒すようにして抱きかかえる。猛然《もうぜん》と降りかかってきた長槍が、リュカの肩《かた》の肉を一切れ引きちぎっていった。が、いまさらその程度《ていど》の傷で痛みに苦しむような余裕《よゆう》はない。
二歩目で、抱きかかえた少女ごと、虚空《こくう》へと身を躍《おど》らせた。
暴力《ぼうりょく》的な風圧《ふうあつ》が身を包み込んだ。
視界《しかい》いっぱいに広がる満天の星。いや、違う。ぐんぐん近づいてくるあれは、街の灯《ひ》だ。衝突《しょうとつ》するまで、あと一|呼吸《こきゅう》ほどの時間もない。すぐに自分たちは、ぺちゃんこになってしまうだろう。これだけぐちゃぐちゃに傷ついた体が、最後に行き着く先は墜落死《ついらくし》。何やら滑稽《こっけい》なものすら感じる結末だ。
何か、見えない膜《まく》を破るような感覚。レオネルの言うところの都合のいいように塗り替《か》えられた世界=A確か|夜の軟泥《ワルプルギス》とやらから抜け出したのだろう。
次いで、
〈|その旅人の旅は、旅立ちにょり終わりを迎える《ソン・レーヴ・トルーブ・ル・モンド》=r
ごうごうと耳元で逆巻《さかま》く風の唸《うな》りにまざれ、その声が聞こえる。
あの奇妙《きみょう》な気配が、みたび周囲の空間を包み込む。
〈ようやった。あとは儂に任《まか》せて今は寝《ね》とれ――掴み寄せろ[#「掴み寄せろ」に傍点]〉
ぐにゃり、と体の周りで何かがゆがんだのを感じた。
そのあたりが限界だった。もともともう動くはずがなかった体は、ついに完全に動かなくなる。どうにもごまかしようのない激痛《げきつう》が体中にかえってくる。気が、遠くなる。
今度こそ。
抗《あらが》いようもない死の深淵《しんえん》の中へと、まっすぐに墜《お》ちてゆく。
[#改ページ]
▼promnade/
田舎《いなか》の街エブリオが、燃《も》えていた。
それは、尋常《じんじょう》の炎《ほのお》ではなかった。
燃え上がり、焦《こ》がし、さらなる熟を周囲にバラ撒《ま》く……そんな、炎というものが本来持っはずのプロセスのほとんどを無視《むし》し、ただ突然《とつぜん》の灼熱《しゃくねつ》がその一瞬に何もかもを飲み込んでいた。炎の吹《ふ》き過《す》ぎていったその後を追うように、急激に熱せられた空気が爆風《ばくふう》となって辺りを吹き荒《あ》れた。
破壊《はかい》が行われたのは、わずか一瞬のこと。
まはたきひとつほどの時の後には、全《すべ》ては終わっていた。
エブリオには、五百に近い数の人間が住んでいた。
そしてそのことごとくが、形すらも留《とど》められずに、息|絶《た》えていた。
フィオル・キセルメルも例外ではない。
彼女はその炎の中で、一度死んだ。
着ていた服は今の一瞬で完全に燃え尽《つ》き、灰《はい》も残っていない。けれどフィオルの体そのものには、傷《きず》のひとつも残ってはいない。あれだけ暴虐《ぼうぎゃく》な熱量を誇《ほこ》った炎が、髪《かみ》の一房《ひとふさ》を汚すことすらできていない。
身を起こし。
立ち上がり。
辺りを見回して……
「…………」
状況を、理解した。
いまこの瞬間、街が死んだのだ。
こんなにも呆気《あっけ》なく、こんなにもあっさりと、五百の人間が死んだのだ。顔見知りの人たちがいた。大好きな人たちがいた。親しい人たちがいた。
感情が爆発しそうだった。しかし同時に、理性《りせい》はこれ以上ないほど素早《すばや》く温度を下げていった。惨劇の場に立つことは慣れている[#「惨劇の場に立つことは慣れている」に傍点]。そしてそのような場所では、何よりも冷静な判断《はんだん》力こそが必要であることを、体が覚えている。
「――すごいな」
その声を聞いて、そちらに目を向ける。
白いスーツ姿《すがた》の青年が、そこに立っている。
何もかもが焼き尽くされたこの街の中に在って、ただ一人、涼《すず》しげな笑顔を浮《う》かべて。
「あの状態から、こんな短時間で復活《ふっかつ》してくるのか。さすがっていうか何ていうか、ぼくらの魔法《まほう》の常識《じょうしき》じゃ考えられないよ。いったいどういうカラクリだい?」
「…………」
風が起きて、熱気がかき回される。フィオルの長い金の髪《かみ》が、細い裸身《らしん》に絡《から》みつく。
新たな空気を得て、周囲で消えかけていた炎が勢いづく。燃えるものは全て燃やし尽くすのだとばかりに、容赦《ようしゃ》のない力で燃え盛《さか》る。
「|魔法書の代役《バーント・グリモア》の自己修復《じこしゅうふく》で説明がつくスピードを遥《はる》かに超えてる。
自分の体に刻印《ブランディング》を埋《う》めたのかな。そもそも魔法で傷を癒《いや》すなんて芸当自体|非常識《ひじょうしき》もいいとこだけど、まぁそこはきみのやることだし驚《おどろ》くポイントじゃないよね?」
「レオネル・グラント」
呟《つぶや》くようにして、男の名を呼《よ》んだ。
「うん。久《ひさ》しぶりだねフィオル。ずっと会いたかったよ」
レオネルの短い金髪が、熱風に小さく揺《ゆ》れている。
およそ敵意らしきものをまるで感じられない、朗《ほが》らかな笑顔。
「『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を貰《もら》いに来たよ。本当はこの火だけで片付《かたづ》けておきたかったんだけどさ、さすがにそう簡単《かんたん》には終わらないんだね」
くすくすと、レオネルは笑みを深くする。
「なにせ街ごと焼き尽くしたんだ。いくらきみでも、あんな傷から復活してきたばっかりじゃ、もうまともに戦える余力は残ってないだろ?」
「……」
フィオルの目尻《めじり》から、一|滴《てき》の雫《しずく》がこぼれ落ちて、すぐに蒸発《じょうはつ》して消えた。
巻《ま》き込《こ》みたくはなかった。リュカも、彼の家族も、エブリオの人々も。
ほんの数年ほどだったけど、自分と同じ時間をすごした人々を。
けれど、その思いも全て、今は何の意味も持たない虚《むな》しい後悔《こうかい》となった。自分がここにいたことが、ただそれだけが、この惨劇《さんげき》を招《まね》いたのだ。どんな思い出を引っ張り出してきて言い訳《わけ》をしたところで、その事実だけは動かしようがないのだ。
「………………………………消えなさい[#「消えなさい」に傍点]」
ごう、と風が吹いた。
風はフィオルを中心に渦《うず》を巻き、周囲の炎をまとめて吹き消した。
「……え?」
レオネルの余裕の表情が、驚愕《きょうがく》にひきつる。
「もしかして、ダメージ、ぜんぜん残ってない……? そこまで非常識?」
「死を薄《うす》められた生に慣《な》れて、目がくもりましたか……レオネル・グラント」
虚空に差し伸べた手の中に、金色の錫杖《しゃくじょう》が現れる。
小さな嗚咽《おえつ》を交えながら、フィオルは言う。
「最初から分かっていたはずでしょう。わたしはあなたたちとは違うのだと。あなたたちのような、魔法書《グリモア》に生かされてるだけの、結果|論《ろん》の不死じゃないんです」
「いやはや……そりゃ凄《すご》いね」
レオネルは肩をすくめて、半歩ほど身を引く。
その手の中に、大気から染《し》み出るようにして、幅広《はばひろ》の長剣が現れる。
「それもこれも『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』の力、ってことか。ますます欲《ほ》しくなったよ、きみの力の根幹《こんかん》を」
「……分からない人ですね」
森を包む炎が、ゆっくりと、その勢いを弱めてゆく。
二人はそれぞれに武器《ぶき》を構えて、対峙《たいじ》する。
「ならば、痛みの中で学びなさい。貴方《あなた》が望むその力が、どれだけおぞましいものであるのかを」
びゅおうごおうと、風は荒《あ》れ狂《くる》う。
物事言わぬ炭《すみ》の塊《かたまり》となった木立はざわめくことも出来ず、静かに二人を見守っている。
そして空の上には、針《はり》のように細く輝《かがや》く銀色の月。
[#改ページ]
▼scene/4 徽章《きしょう》なき騎士《きし》 〜knight of night〜
騎士たちは戦った。
それは苦しい道のりだった。
無数の狂《くる》える獣《けもの》を打ち倒《たお》し、呪《のろ》いの霧《きり》を潜《くぐ》り抜《ぬ》け、志半《こころざしなか》ばに倒れた仲間たちの墓標《ぼひょう》を路傍《ろぼう》に刻《きざ》みながら、騎士たちは進んでいった。
剣《けん》は欠けた。
鎧《よろい》は砕《くだ》けた。
振り返れども還《かえ》る道は既《すで》に無い。
永遠《えいえん》に続くかと思われた絶望《ぜつぼう》との戦い。
だがある夜、針のように細い白月の下《もと》、戦いの日々はついに終わりの時を迎《むか》えた。騎士レオネルの携《たずさ》える、短く折れた剣の切っ先が、魔女《まじょ》の胸《むね》を貫《つらぬ》いたのだ。
こうして魔女は死に、国には平和が返ってきた。
騎士レオネルは、国中の祝福を受け、ついにジネット姫《ひめ》と結ばれることができた。そして末永く、国を平和に統治《とうち》したという。
――それは、古い世界の物語。
この大陸に鉄道が走り回るよりも前。
銃器が戦場から騎馬を追い払《はら》うよりも前。
瓦斯《ガス》の光が夜の闇《やみ》を剥《は》ぎ取るよりもさらに前。
魔女や魔法や、そういった不思議なものの一切《いっさい》が世界から消えてなくなるよりも前の、遠い遠い昔の物語――
10.
嫌《いや》な夢《ゆめ》をみた。
五年前、エブリオが燃《も》えた当日の夢だ。
あれは天気のいい日だった。
自室のベッドに横になって、ぼんやりと窓《まど》の外の空を眺《なが》めていた。
早く大きくなりてーなー、などと考えていた。具体的には……パン屋の若夫婦《わかふうふ》が結婚《けっこん》したのが十六か十七かだったから、そのあたりだ。とにかくフィオルに子供《こども》だと見られない年になりたかった。そうしたら、そうだ、フィオルを連れて都会に出よう。もし誰《だれ》かがフィォルを連れ戻《もど》しに現《あらわ》れたとしたってかまうもんか。それまでに剣の腕《うで》を磨《みが》いて、誰にも負けないようになっておく。あいつは、オレが守り抜く。
下の階から、お〜いリュカ坊《ぼう》〜、という気の抜けた声がかけられた。今ヒマだったら|地下のワイン蔵《カーヴ》に降《お》りて、クローディアを手伝ってやってくれないか〜。男の子だろ力持ちだろ〜。
かっこいい決心を固めた直後に、コレだ。がっくりと肩を落しながら、リュカは階下の父親に簡単《かんたん》な返事をした。今降りてくから、ちょっと待って。
ベッドから起きて部屋を出て、一階に降りて台所の隅《すみ》へ移動《いどう》して、そして、労働中の姉を助けるべく地下へ降りる階段のフタを持ち上げようとしたその瞬間《しゅんかん》――
なんだか、世界が赤く染《そ》まったような気がして、
次に目を覚ました時には、フェルツヴェンの病院の、ベッドの上にいた。
あれから二週間も経《た》っているのだと、やせっぽちの医師《いし》は教えてくれた。
エブリオはまともな跡《あと》も残らないほどに焼けていたのだと。
生存者《せいぞんしゃ》はリュカ・エルモントただ一人だけだったのだと。
リュカは泣いた。
運良くフェルツヴェンに住んでいた親類である伯父《おじ》に引き取られてからも、しばらくは泣いて毎日を暮らしていた。
なぜこんなことになったのだと、不条理《ふじょうり》を嘆《なげ》いて泣いた。なぜ自分はこの結末を防《ふせ》げなかったのかと、何かできることはあったはずだろうと、無茶な自責《じせき》に泣いた。
そんな日々が、ずっと続いていたのだ。
目を開いてから最初にリュカが考えたことは、「ああやっぱり」だった。
結局、自分はまた、こうして無事に生きている。
死ぬような目に遭《あ》って、というかどう考えても常識《じょうしき》的に死んでしまったはずなのに、何事もなかったかのように目を覚ましている。
ゆっくりと目を開けて、それから身を起こす。
辺りを見回す。
(中央講堂館のすぐ脇《わき》、憩《いこ》いの中庭――)
学術院《ライブラリ》の、敷地《しきち》内である。
こぢんまりとしているが、見晴らしのいい緑地だ。等間隔《とうかんかく》に何本か植えられた立ち木と、敷《し》き詰《つ》められた緑の芝生《しばふ》、そして煉瓦《れんが》を敷《し》いて作った遊歩道。昼休みには弁当《ペんとう》箱を抱《かか》えたカップルたちでごった返す人気のスポットなのだが……さすがに日の沈《しず》んだこの時間には人の気配はまるでない。
あの時計塔からは、だいぶ離《はな》れた場所である。
(嫌な夢、みたな――)
昔は、毎日のように悩《なや》まされた夢だ。アリスに出会い、毎日彼女に振り回されるようになってからは、ずっとご無沙汰《ぶさた》だった。
五年前のことは、過去《かこ》のことだと割《わ》り切るようにしている。けれどそれは、割り切りでもしなければ思い返せないだけの苦い記憶《きおく》だということでもある。こんな風に改めて目の前に突《つ》きつけられれば、やはりやっていられない気分になる。なぜあんなことになったのだと、不条理を嘆きたくなる。なぜ自分はあの結末を防げなかったのかと、何かできることはあったはずだろうと、無茶な自費に泣きたくなる。
改めて、首をめぐらせる。
空は夜の色。月の位置はほとんど動いていない。意識を失っている間に、そう長い時間が流れたというわけではないようだ。
「――今度は何が起きた?」
呟《つぶや》いて、自分の声を確認《かくにん》してみる。問題ない。喋《しゃべ》れる。ついでに肩を回して調子を見てみる。両腕もしっかりとついているし、何の問題もなく動かせる。
ただ、着ている服だけが、起きたことの跡《あと》を忠実《ちゅうじつ》に残している。無数の牙《きば》にかじられてあちこちがぼろぼろで、加えて少女を抱きかかえたときについたのだろう赤黒い血にべったりと汚《よご》れてしまっている。
「……血?」
よく確認する。少女を抱えたときについた血、それはいい。けれどその前に自分自身が負っていた傷についてはどうなのだろう。全身くまなく真っ赤に染まるような、あの大量出血の痕跡《こんせき》はどこかに残っていないだろうか。
……無い。
肩や首筋《くびすじ》を確かめた。服は激《はげ》しく破《やぶ》れてこそいるが、ほとんど汚れらしいものはない。
今朝と同じだ。体の傷と、その痕跡である血の跡だけが、きれいに癒《い》えている。
ということは、今朝のあれも今のこれも、偶然《ぐうぜん》起こった何かの間違《まちが》いなどではなく、然《しか》るべき必然性を以《もっ》てこのリュカ・エルモントの身に降《ふ》り注いできたものだということか。
起きたことを、改めて思い返す。時計塔に昇り、少女と剣を交え、そして……レオネルに裏切《うらぎ》られ、逃《に》げ出した。
「そっか、俺」
騙《だま》されていた。
自分は味方だとあの男は言った。あの少女を倒したい、その利害は一致《いっち》しているはずだから手を組みたい――その言葉に嘘《うそ》はないとも言った。ああなるほど、嘘だけはついていない。ただ、肝心《かんじん》な部分が説明されていなかっただけ。
一石二鳥、とあの男は言った。一|羽目《わめ》の鳥はあの少女。ならば二羽目の鳥は誰か。
そういうことだ。つまり、自分もまた、あの男の獲物《えもの》だったのだ。
そのことを、説明されていなかったのだ。
ただそれだけのことで、自分はあの男を信用して、いいように踊《おど》らされたのだ。
「って」
そういえば、自分は一人ではありえないはずだった。あそこから落ちたときにはあの少女を抱きかかえていたわけだし、ついでにジジイ喋りをする正体不明の誰かもすぐそばにいたはずなのだからにして。
見渡《みわた》して、そして見つける。
自分のすぐ隣《となり》にうつぶせになって倒れた、血まみれの少女の姿を。
「……ってぇぇ!?」
〈うむ、蘇生《そせい》早々に大音声《おんじょう》の悲鳴とは、すっかり元気なようじゃのう〉
大きな校舎《こうしゃ》の陰《かげ》になるここには、街の光は届《とど》かない。
月と星の心細い光だけが照らす暗闇《くらやみ》の中、ねっとりとした暗い赤に染まった少女の体は、闇の中に溶《と》けて消えかけているようにも見えた。
意識《いしき》がないのか、身動きひとつしていない。この暗さでは、まだ呼吸《こきゅう》しているのかもよくわからない。
「神父《しんぷ》と墓守《はかもり》、いや医者、いや応急《おうきゅう》手当て!?」
〈最初の二つ、冗談《じょうだん》としては笑えんのう。っつか、そのとっさに出てくる順序《じゅんじょ》がソレというのはどーなのかと思うがのう〉
「って、なんだよさっきからのうのうのうって! あんたは誰でどこにいる!」
〈さっきからここにおるがのう〉
「……」
それは、老人の声だった。が、いくら周りを見渡してみても、その声の聞こえてくる場所に、声にふさわしい老人の姿などはない。
〈ずいぶん派手《はで》にやられとったはずじゃが、すっかり元気なようじゃの。さすがは規格《きかく》外というか、刻印《ブランディング》つきというか……そうと最初に気付いとれば、無駄《むだ》手間かけて外道《げどう》ハンサムごときに付け込まれる隙《すき》など作らんかったものを。まったく間の抜けた話じゃよ〉
ぶちぶちと、声はそんなことを愚痴《ぐち》っている。
「……」
〈ここじゃ、ここ〉
と――そう言われて初めて、リュカはそれ[#「それ」に傍点]に目をやった。
それ[#「それ」に傍点]は、少女の傍《かたわ》らに座《すわ》り込《こ》んでいた。小さな……本当に小さな手を血まみれの背中にあてて〈ふむ〉、だの〈さすがにまずいのう〉だの、ぶつぶつと小声で呟いている。
「……ええと?」
〈見えとらんのか? ここじゃよ、ここー〉
片手をぶんぶんと振っている。ひらひらと、袖《そで》を飾《かざ》るレースが揺れている。
見えていないわけではない。ただ、それが何かを受け入れられずにいるだけだ。ここまでいろいろと非常識《ひじょうしき》なことに直面しまくった二十四時間を過《す》ごしてきたが、これほどに視覚に訴《うった》えてくる非常識はさすがにすぐには呑み込みづらい。
ふわふわと柔《やわ》らかそうなブロンド。
ひらひらとレースやフリルの大量にくっついた黒いドレス。
見たままのことを言えば……
それは、赤ん坊ほどの大きさの、アンティーク人形だった。
ひょこひょこと軽快《けいかい》な足取りで動き回りながら、重傷《じゅうしょう》の少女の容態《ようだい》を診《み》ている。
「人……形?」
〈うむ。希代《きたい》の人形|職人《しょくにん》メディ・マルクの傑作《けっさく》でな、さすがにそこらの安物とは着心地がまるで違う。ほれほれ、なかなかにぷりちーじゃろ〜〉
と言って、まるで人間のような滑《なめ》らかな動きで手を振ってみせるその姿は、確かに人形自身の言うように「ぷりちー」なものではあったが……もちろんその事実自体が異常《いじょう》で異様で、正気では受け入れがたいことだという事実に変わりはない。
〈うむ、不幸中の幸いじゃな、なんとか傷をふさぐくらいの力は残っとる〉
小さな小さな指が、何かをつまみ上げて、無造作《むぞうさ》に放《ほう》り棄《す》てる。ぼちゃんと小さな音を立てて、黒い湖はそれを――少女に打ち込まれていた弾丸《だんがん》を飲み込んだ。小さな波紋《はもん》が広がって、そしてすぐに消える。
改めて見ると、少女の傷はひどいものだった。ドレスはほとんど破《やぶ》けてしまっているが、それでも白い肌《はだ》が見えている場所はほとんどない。それだけの広範囲《こうはんい》が、自分の体から流れ出す血に濡《ぬ》れてしまっているのだ。
「助かる、のか? その子」
〈かろうじて、じゃがな〉
まともな人間ならばどう考えても手遅《ておく》れのはずの傷。しかし人形は、あっさりとそう請《う》け合った。ということは、自分の傷が癒《いや》されたのと同様に、この娘《むすめ》も魔法の力だかなんだかであっけなく治されるということだろうか。
「……そっか」
複雑《ふくざつ》な心境《しんきょう》だった。
この少女は敵《てき》で、命のやりとりをしていて、自分は一度はこいつに殺されたわけで、むしろ殺せるうちに殺しておいたほうがいい相手なのだ。なのに今この場で彼女が助かりそうだと聞いて、この胸の中には小さく安堵《あんど》なんぞが芽生えている。
「……んで、いま俺が話してる、このうさんくせーじーさんボイスの主は、そこにある自称《じしょう》ぷりちーばでぃーでいいのか? まさかそういう生き物?」
〈うさんくさくないわい!〉
「その、わざとらしー『わい』がうさんくせーんだよ。で、どうなんだよ?」
〈前半については是《イエス》、後半については否《ノー》といったところかの。儂《わし》は確かにいまここに入っておるが、人形はしょせん人形、生き物とは呼べんよ〉
よく、分からない。
「……どういう差があるんだ?」
〈儂には人としての体がない、だから体を必要とする時には人に似《に》ながら人ではないものに入り込まなければならない――まぁ平たく言えばお主らが服を着るようなもんじゃ。人が人として振《ふ》る舞《ま》う時にはたいてい服を着ておるが、だからといって着ているその服まで含《ふく》めてひとつの生き物というわけではないじゃろ?〉
人形の手が、少女の傷《きず》に触《ふ》れている。その手つきがあまりに無造作なので、ぐちゃぐちゃになった血と肉とをかき混《ま》ぜているだけのようにも見える。少なくとも、見ていて気持ちのいいものではない。
「あー、つまり、じーさん、幽霊《ゆうれい》なのか」
〈ふむー、まぁ確かにそう言ってしまえば説明は簡単《かんたん》につくが、いやしかし随分《ずいぶん》とオカルトな言葉で納得《なっとく》するのじゃな?〉
「魔法だのなんだの非常識《ひじょうしき》なモンにこんだけ振り回されて、いまさら幽霊を信じないとかこだわるよーな気力は残ってねえよ」
というか、こだわることがバカらしく思えてきたというのが正しい。
〈ふぅむふむ、若《わか》いくせに気骨《きこつ》のないことじゃのう〉
「……そういう問題かねぇ?」
首をひねる。
ぽちゃん。弾丸がまたもう一発、湖面へと投げ捨てられる。
「なぁ」
〈なんじゃ〉
「魔法使いなんだろ? その傷、ぱぱっと治したりしないのか? 俺の体みたいにさ」
〈……儂らは確かにお主らから見れば常識外れな存在《そんざい》かもしれんが、それでも儂ら用の常識というものがあってな。それがまた実に融通《ゆうずう》がきかんのじゃよ。
魔法というものはこの世にとっての毒でな、この世界が「こう在るべし」としている姿を部分的に破壊《はかい》することで発現《はつげん》するもんじゃ。だから原則《げんそく》的にものごとを歪《ゆが》めるか壊《こわ》すかの方向にしか働かん。人を、人としての中身をとどめたまま修復《しゅうふく》するなどという芸当はまず不可能《ふかのう》じゃ〉
うさんくさいじーさん言葉が、うさんくさいことを言う。
「でも、俺の体は……」
〈それこそが最大の常識外れじゃな。お主らの常識のみならず、儂らの常識からも大きく外れとる。実際《じっさい》、この目で見ていてもいまだ半信|半疑《はんぎ》じゃわい〉
「……そっか」
自分のことはさておき、つまりは目の前で苦しげな息を吐《は》いている少女を手っ取り早く救う手段はないということらしい。少し肩を落とす。
人形はなぜか楽しそうな声になって、
〈こやつの傷の具合が、気になるか?〉
「そりゃ……少しはな。結果的に俺が騙《だま》し討《う》ちしたみたいなもんだし、このまま死なれても少し寝覚《ねざ》めが悪《わり》ぃ」
〈ふむ〉
人形の首が、深く縦《たて》に振られて納得《なっとく》を表した。
〈とりあえず今この時は休戦ということで良いわけじゃな。それは助かる。落ち着いて話ができるならそれに越《こ》したことはない。
まずは――礼を言う。お主のおかげで、儀らは助かった〉
「なんだよ、気持ち悪ぃな」
〈礼儀《れいぎ》を省略《しょうりゃく》できるほど親しい仲でもあるまい。むろんそちらがそのつもりでいるなら、こちらとしても色々と助かりはするが〉
ぽちゃん。水音。
「そうじゃなくて……まぁいいや」
どうにも話の調子の狂《くる》う相手だと思う。レオネルとはまた別の意味で、会話の主導権《しゅどうけん》を握《にぎ》られっぱなしだ。別にそのことを不快《ふかい》に感じないのは、この人形の人徳のようなものなのだろうか……納得しづらい結論《けつろん》だが。
「で、何か話したいことでもあるのか?」
〈幾《いく》つか、ある。しかしまず最初に確認《かくにん》することはアレじゃな。お主、自分の身に何が起こっとるかについては把握《はあく》しとるか?〉
「……魔法《まほう》がかかってるってんだろ。刻印《ブランディング》が施《ほどこ》されてるとかなんとかで、死ぬようなケガしてもすぐに治っちまうっていう」
〈その魔法がかけられたのが何時頃《いつごろ》か、心当たりは?〉
「五年前」
〈……ふむ〉
「これでも善良《ぜんりょう》で無力な一般《いっぱん》市民やってんだ。そんなに頻繁《ひんぱん》に魔法使いなんてもんに出くわすような日常は送ってない」
〈|不死の魔法使い《レヴナント》相手に真剣を振り回す善良な市民がおるかい〉
「別にいいだろ、たまにはそんな奴《やつ》がいたって」
答えてから、気にかかる言葉に気付く。
「レヴナント……って、さっきも言ってたな。何だそれ?」
〈儂らのような、一部の魔法使い《マジックユーザー》の俗称《ぞくしょう》じゃよ。刺《さ》しても焼いてもなかなか死なんから、教会の坊主《ぼうず》どもが勝手に「|戻り来る者《Revenant》」などと呼び始めおってな。覚えやすいのか使いやすいのか、そのまま儂ら自身の中でも定着しおった。
実際は、不死とは程遠《ほどとお》いんじゃがな。確かに並《な》みの傷《きず》で死に至《いた》ることはめったにないが、失血すれば動けんようになるし、首でも刎《は》ねられれはもう助からん。それはこの娘《むすめ》を見ていても分かるじゃろ〉
ふぅ、と人形は一息ついて、
〈ともあれ、じゃ。今のお主の話が本当だとすると、少しばかり話は奇妙《きみょう》な方向に転がってゆくわけじゃがのう〉
「善良で無力な一般市民?」
〈その前じゃ。五年前、という数字があまりにおかしい〉
「なんでだよ?」
〈刻印を施されて一年以上を生き[#「刻印を施されて一年以上を生き」に傍点]、かつ正気を保つ人間などおらん[#「かつ正気を保つ人間などおらん」に傍点]〉
「………はい?」
〈今言った通りじゃよ。魔法はこの世界にとっての毒、それを|夜の軟泥《ワルプルギス》もなしで留め置こうというのだから、刻印《ブランディング》はこの世界に在《あ》るすべてのものにとっての猛毒となる。
生き物の中にそんなものを刻《きざ》めば、長くは保《も》たん。
早くて一月、普通《ふつう》で二月、とびきりに適性《てきせい》があったと仮定《かてい》しても半年が限度《げんど》。まさか五年などという数字が出てくるはずもない〉
「え……でも、だって……えっと?」
〈刻印を施された者の末路は、惨《みじ》めなものだ。周囲の者の名を忘《わす》れる。自らの名を忘れる。人であることを忘れ異形《いぎょう》に堕《お》ちる。最後に生きる者であることを忘れ、腐《くさ》れた肉塊《にっかい》として死に至る。
債らは同じ魔法使い《レヴナント》と争いながら旅を続けておってな。その道程《どうてい》でそのような死を何度となく見てきた。そしてそのたびに、やりきれん気持ちになった。最初はお主も、そのように魔法使い《マジックユーザー》の身勝手に振り回された犠牲者《ぎせいしゃ》なのかと思ったんじゃがの〉
「……ちょっと、待てよ」
――フィオル・キセルメルに打ち込まれた楔《くさび》から、君を解放《かいほう》しにきた。
――私を恨《うら》むがいい。君にはその権利《けんり》がある。
あのとき、自分を刺《さ》し殺すときに、この少女が囁《ささや》いた言葉。
あれは、つまり、そういう意味だったのか?
このリュカ・エルモントを、人の姿《すがた》のまま、人の意識《いしき》を保《たも》ったままで死なせてやりたいと、そういうことを言っていたわけか? それが彼女自身の自己《じこ》満足、一方的な押し付けの救済であることは分かっているから、許《ゆる》しも請《こ》わず何も説明せず、死に行く者の最後の憎悪《ぞうお》を受け入れようとしていたというのか?
「なんだよ、それ。そんな理由で、俺、殺されそうになったのか?」
〈――そういうことに、なるな〉
倒《たお》れ伏《ふ》したままの少女を目で示《しめ》して、
「そんな理由で、こいつは、人を刺すのか? あんな泣きそうな顔で、苦しそうに?」
〈ああ。そういうことに、なる〉
「………あーもー、ちっくしょう」
それで、納得《なっとく》できたわけではなかった。何をどう言い訳したところで、自分はこの娘に殺されようとしていた、その事実は変わらないのだから。
けれどそれでも、一度その理由を知ってしまえば、同じように憤《いきどお》り続けてはいられなくなる。こういうとき、リュカは自分の聞き分けの良さが恨《うら》めしくなる。
つまり、こいつは、いい奴《やつ》なのだ。
やりかたはどうあれ、自分の心を削《けず》ってまで誰かの救済を望むようなバカ者なのだ。そうしなければ自分自身を納得させられない不器用な人間なのだ。
そして、ここにいるリュカ・エルモントは、そういうバカのことを、決して嫌《きら》いじゃなかったりするのだ。
「教えてくれ。あんたら、フィオルを追ってるんだろ?」
〈うむ〉
「なら、エブリオを焼いたのは、あんたらか?」
〈……む?〉
「あの女が身を隠《かく》していた街だな……五年ほど前のこと、だったか」
答えは、違《ちが》うところから聞こえてきた。
いまだ倒れ伏したままの血まみれの少女が、薄《うす》くその目を開いている。
「名前だけは、聞いたことがある……灰《はい》になった後のこと、だったが……」
〈ジネット……〉
「手をかけさせたな、アルト老。それに、君にもだ……」
苦痛《くつう》に汗《あせ》をにじませて、少女の唇《くちびる》が囁くようにして言葉を紡《つむ》ぐ。
苦しそうに何度か咳《せ》き込む。血の塊《かたまり》が、小さな唇から吐《は》き出される。
「礼を言う。君のおかげで……なんとか、生き長らえることができそうだ」
「んなもんは後でいい。助けたくて助けたわけじゃねーし」
やりづらい。がりがりと頭を派手《はで》に掻《か》いて、目を逸《そ》らす。
人影《ひとかげ》が見えた。
遠い。暗がりを黒いものが動いているのが、目をこらしてやっと見える程度だ。まずこちらが見られている可能性《かのうせい》はない。が、
「……ちょい、まずいな」
中央|講堂館《こうどうかん》のすぐ脇《わき》、憩《いこ》いの中庭。
時間帯のおかげで人の気配がないとはいえ、見晴らしがいい場所であることに変わりはない。そして、いまこの周辺は、決して無人ではないのだ。
そう、いまこの学術院内には、少なくない人間が残っているはずなのだ。近づいてくる創立祭《おまつり》の準備《じゅんび》に奔走《ほんそう》している人間たち。そよ風|程度《ていど》の空気の動きが、彼らの声と気配とを伝えてくる。
その中に、少しずつ大きくなってくる話し声がある。
「あんまりここでのんびりしてると、誰かに見つかる。この状況《じょうきょう》の釈明《しゃくめい》とか考えたくもない。目を覚ましたんならちょうどいい、どっか場所を移《うつ》すぞ」
「そうか、分かっ……少年?」
当惑《とうわく》の声をあげる少女を、問答無用で抱《だ》き上げる。
「な、何を?」
「不死身だか何だか知らんけど、そんだけケガしてりやまともに動けねーだろ。苦情《くじょう》はこの際《さい》全部|却下《きゃっか》。これから身を隠そうって時に、のたのた歩かれてあちこちに血痕《けっこん》つけられても困《こま》んだよ」
「そ……そう、か。確かに、そうだな」
言って、少女は小さくうつむくと静かになった。
少女の体は、軽かった。手足は小枝《こえだ》のように細く、まさかあの時計塔の上で見たような力任《ちからまか》せの剣《けん》を振るうようには見えなかった。
そして、大量の出血で体温は落ちていたのだろうが、それでもその体は、触《ふ》れてみれば間違いなく温かかった。
「…………」
場違いな感情が湧《わ》き上がってきて、リュカは自分自身が悲しくなってきた。
そんな場合じゃないということは承知《しょうち》している。そもそもこの少女はそんな生易《なまやさ》しい相手ではないということも理解《りかい》している。
けれど、それでも、間違いなく、今この腕の中にいるこの少女は、同じ人《ヒト》という生き物であることを疑《うたが》いたくなるほどに、整った容姿《ようし》の持ち主なのだ。
敵として相対していた時とは、まるで状況が違う。一時的なものとはいえ味方関係にあり、しかもこんな素直《すなお》な態度をとられていたりもしているのである。しかもこうして触《さわ》ってみれば、その肌《はだ》は柔《やわ》らかくて温《あたた》かくて、なんていうかもう、あえて素直な物言いをしてみるならば、気持ちいいの一言なのだ。
先ほどまでとはまるで質の違う緊張《きんちょう》に、心臓《しんぞう》がばくばくと高鳴りだした。
(……おいこら。それってどうなんだよ、俺)
目を閉《と》じて、心を鎮《しず》める。
落ち着け。そう、落ち着くんだ。
大丈夫《だいじょうぶ》だリュカ・エルモント、お前なら雑念《ざつねん》を振り払《はら》える。そう自分に言い聞かせる。
今こそ、アリスと過《す》ごす毎日の中で培《つちか》った自制心《じせいしん》を役立てる時。人は理性を以《も》って成る生き物だということを証明《しょうめい》するのだ。
〈役得じゃの?〉
足元から、小さな人形が冗談《じょうだん》めかして要《い》らんことを言ってきた。
踏《ふ》みつけておいた。
人のこない場所に、心当たりがあった。
中央講堂館の裏口《うらぐち》から入って、すぐ右の扉《とびら》を開く。
その向こうに広がっていたのは、これぞまさに物置、といった光景。
椅子《いす》や机《つくえ》。パネルや黒板。ものさしや分度器。筒状《つつじょう》に丸められて棚《たな》に放《ほう》り込まれているのは、おそらく大陸各地の地図だろう。それから車輪のとれた台車に大量のスコップ、焼肉用の串《くし》に古臭《ふるくさ》いバイオリン、そして木箱に詰まった北方史学の器材。昼間にタニアと二人で運んできたアレだ。
〈……物置じゃのう〉
「書庫だ、書庫。史学書庫の十三番」
〈書架《しょか》は奥《おく》のほうにしか見当たらんが……〉
「細かいことは気にすんな、俺は気にしないことにした」
さすがに、手前の雑多な空間にケガ人を放り出すわけにはいかない。部屋の奥、書架の並ぶ一角のほうへと踏み込んで、適当《てきとう》なスペースに少女を横たえる。
「……んっ」
「悪《わり》ぃ、痛《いた》むか?」
「いや……大丈夫だ」
夜の、しかも窓《まど》もない室内だ、さすがに暗くて歩き回るにも不自由がある。扉を閉めて、部屋に据《す》え付けの小灯《ランプ》に灯《ひ》を入れた。小さく揺《ゆ》れる光が、部屋とそこに並ぶ雑多ながらくたとをぼんやりと照らし出す。
「……廊下《ろうか》に少し血が落ちたから、ちょいと始末してくる。それから着替《きが》えも調達してこないとだな。包帯とかは要るか?」
〈いや、要らん。それより、誰にも見つからんようにするんじゃぞ〉
「まぁ、この格好《かっこう》だしな……気はつけるさ」
〈いや、着替えを調達した後も、誰の視界にも入ってはならん。ええか、いまごろレオネルが儂らを捜《さが》しとる。奴《やつ》にはどんな小さな手がかりも与《あた》えるわけにゃいかんのじゃ〉
「心配性だな、おい」
さすがにそれは杞憂《きゆう》だろうと思った。なにせあの男は目立つし、学術院の関係者ではない。レオネルがこの学術院に入り込んで聞き込みを始めたとしても、向こうに気付かれるよりも先にこちらがそうと気付けるはずだ。
「まぁ、わかった。気をつけるさ」
そう口先で約束して、部屋を出る。
11.
「――ああレオネル、どうか思いとどまってください」
少女は男の背にすがりつき、震《ふる》える声で叫《さけ》んだ。
「私は姉を失い、父を亡《な》くしたのです。このうえ貴方《あなた》まで失うことになど、どうして耐《た》えることができましょう」
男は振り返ることもなく、ただ大きく頭《かぶり》を振って、
「おお我《わ》が愛《いと》しの姫《ひめ》よ、あなたの言葉はどのような銘酒《めいしゅ》よりも甘《あま》く私の体を酔《よ》わせてしまう」
朗々《ろうろう》とした声で、謳《うた》いあげる。
「このままその愛に身を委《ゆだ》ねることが出来たなら、どれだけ幸せなことか」
「ならばレオネル、どうか――」
「そうもいかないのです」
男は腰《こし》の剣《けん》を抜《ぬ》き放ち、はるか彼方《かなた》にびしりとその切っ先を向けて、
「我が麗《うるわ》しの姫よ、私はあなたの涙《なみだ》を止めたいのです。憂《うれ》いに翳《かげ》るその翠玉《エメラルド》の瞳《ひとみ》に、太陽の輝きを取り戻したいのです。その願いのために、この身と魂《たましい》を懸《か》けたいのです」
「――ああ、レオネル」
どさり、という音。
少女の膝《ひざ》が崩《くず》れたのだ。
男の意志《いし》が強いことを、自分の言葉では彼を引き止められないことを知ったのだ。
男はもう何も言葉を残さず、静かにその場を離れ、姿を消した。
「どうして――どうして、このようなことになってしまったのですか?」
その問いかけに答える者はなく――
休憩《きゅうけい》時間に入っても、なかなか緊張《きんちょう》が体から抜けてくれない。
「……すごくすごくすごく重責《じゅうせき》ですよ」
この声を聞かせたい相手は、今ごろもう家に帰っているはずだ。
だからアリスは一人きりで、小さく呟《つぶや》いた。
「身に余《あま》る大役がもう、重くて重くて重くて重くて……」
自分に与えられた役の娘《むすめ》、ジネット・ハルヴァンのことを考える。
古い国のお姫さま。国中に愛されて祝福された女の子。実の姉に裏切《うらぎ》られて、辛《つら》い目にも遭《あ》うけれど、最後には平和な世界で好きな人と結ばれて、これ以上ないってくらいに幸せになった。
小さなころは、おとぎ話が大好きだった。
いつかは自分も、物語の中のお姫さまみたいな体験がしてみたいと思っていた。
悪い魔法使《まほうつか》いに呪《のろ》われてみたり。その魔法使いと戦う王子さまの手助けをしてみたり。最後にはうれしはずかしのハッピーエンドに行き着いてみたり。
年をとれば夢《ゆめ》はかすむ。おとぎ話は夢の中の物語だと思い知る。お姫さまになんてなれないんだと知って、自分なりの幸せを探すために生き始める。それが正しい人生というもので……けれどそれでも、小さなころに憧《あこが》れていた幸せは、やっぱりいつになっても輝けるものに見えているわけで。
「だってジネット姫ですよ?
国中に愛された伝説のお姫さまですよ?
全国の少年少女が一度は恋《こい》するヒロイン中のヒロイン、いわばキング・オブ・ヒロインズですよ――?」
がんばろう、と思う。
自分が憧れたあの幸せを、きちんと形にしよう。
舞台《ぶたい》の上で、自分は物語の中のお姫さまになるのだから――
「おっつかれぇ」
アリスは反射《はんしゃ》的に身をかわす。
間一髪《かんいっぱつ》。何か恐《おそ》ろしい勢《いきお》いを持ったものが、後ろ髪《がみ》を撫《な》でて通り過《す》ぎてゆく。
「……そう何度も突き飛ばされはしませんよ」
不敵に笑いながら振り返れば、当然、そこにはタニア・カッセーの姿がある。
「ううう、成長したねぇ。おねーさんは嬉《うれ》しいよ。でもちょっと寂《さび》しいかな」
「何の話ですか、何の」
「主に胸の大きさ」
「なんでそうなるんですか!? 脈絡《みゃくらく》つながってないですよ、ぜんぜん!?」
「あーもー、細かいことにこだわってたら大人物になれないよ? 主に胸で」
「無理やり続けなくていいですからそれ!」
タニアは、こういう人間だ。
悪い人ではない。けれど決して良い人ではない。
一言で言えば傍迷惑《はためいわく》、二言で言えばすごく傍迷惑。人をからかうことに持てる能力《のうりょく》の全《すべ》てをつぎ込む。そんな生き方に本人はまったく疑問《ぎもん》を感じていない。これはこれでウケが良いようで友人は多いのだが、さすがに浮《う》いた話はまるで聞かない――黙《だま》ってさえいればけっこうな美形ではあるのだが、やはり容姿《ようし》だけではいかんともしがたいものなのか。
「なんか今日はリュカ来てないみたいだねぇ。また決闘《デュエル》でもしてるん?」
「人を勝手に敵だらけにしないでください。別にリュカさん、そんな毎日来てるわけじゃないですよ? たまに近くに寄ったときに顔出してくれるだけで」
「近くに寄った、ねぇ?」
くき、とタニアの首が疑問の形に傾《かたむ》く。
「そういう話なら、それこそ今日は来てそうなもんだけど。練習始めるちょっと前、私、そこの倉庫で一緒《いっしょ》にいたんだから」
「……そうなんですか?」
「そうなの。リュカったらああ見えてけっこう強引《ごういん》でさ、暗いところに引きずり込まれて二人っきりでさー」
「先に帰っちゃったんでしょうか。用事があったならしょうがないですけど、ちょっとさびしいですねさすがに」
「……今のフリで無視《むし》されると、すごく情《なき》けない気分になるんだけど」
そんなことを言われても、困《こま》る。
リュカのことを考える。用事があって早々にいなくなったにしても、そばに来ていたのなら少しくらい顔を見せて欲《ほ》しかった気がする。それだけで自分のやる気は二|割《わ》り増《ま》しくらいにはなっていただろう。このアリス・マルカーンは現金なのだ。
「そういやさ、今まで訊いたことなかったけどさ」
気を取り直したのか、タニアが訊いてくる。
「あんた、あいつのどのあたりを気に入ってるわけ?」
「軽い口調で難《むずか》しいこと訊いてきますね」
「そんな難しくないでしょうが。素直《すなお》なとこを一言だけでいいんだから。
優《やさ》しいとか、喧嘩《けんか》に強いとか、ああ見えて実は結構《けっこう》素材がいいんだとか、金を借りてる弱みがあるとか、やばい秘密《ひみつ》を知られてるとか、実は糸目が好きだとか、糸目が趣味《しゅみ》だとか、糸目の人間以外見えないだとか」
「タニアさんが男性《だんせい》を選ぶ基準《きじゅん》はよく分かりました」
「いや、糸目は趣味じゃないけどね?」
そんな微妙《びみょう》なことを言ってタニアは肩をすくめる。
「気になってはいたんだよ。あいつもあんたも、いまどき流行《はや》らないくらいに奥手《おくて》じゃない? どーゆー縁《えん》で繋《つな》がったらそーゆー関係ができるのかなーってさ」
「リュカさんは別に、わたしのこと、そういう意味で好きじゃないですよ?」
「……はい?」
「女としては見てないです。単に、すごくすごく大切にしてくれてるだけで」
「いや、意味わからないからそれ。愚痴《ぐち》なの? 惚気《のろけ》なの?」
「そのまま言葉の通りです。リュカさんは――」
一端《いったん》、言葉を切った。
その先の言葉を口にするのには、少しだけ勇気が必要だった。
「――リュカさんは、自分の全てをかけて守れる誰《だれ》かを欲しがってたんです」
そう。アリスはそのことに気づいている。
「はぁ?」
タニアは、わけがわからないという顔になる。そうだろうなとアリスは思う。自分でもそのあたり、何かを分かった上で喋《しゃべ》っているわけではない。ただぼんやりとした印象と憶測《おくそく》を、そのまま言葉にしているに過《す》ぎない。
「きっとリュカさん、フェルツヴェンに来る前に、悲しい別れがあったんです。
一番大切なときに誰かのそばにいられなかった、そのせいで悲しい思いをした、嫌《いや》な記憶《きおく》があったんです。だからわたしを放っておけないし、見放せない。そんなことを繰り返すのは、リュカさん自身が耐《た》えられないから。
……わたしって、もう何年も、あの人に守られっぱなしですから。だから案外分かっちゃうんですよね、そういうのって」
「難儀《なんぎ》だねぇ、なんつーか」
ぽつん、とタニアが呟く。
「本当に難儀な人です、リュカさんは」
「いや、あたしが言ってんのは、あんたも含《ふく》めて二人ともだけどね」
「はい?」
また、よく分からないことを言われた。
「よし、休憩《きゅうけい》終わり」
ベネディクトが宣言《せんげん》し、のろのろとその場の全員が動き始める。
12.
――ああレオネル、どうか思いとどまって下さい。
廊下《ろうか》を歩いていると、アリスの声を聞いた。
一瞬《いっしゅん》だけぎょっとして、そしてすぐに気づいた。これは劇《げき》のセリフなのだ。
『あ、それで、しばらくは一緒に帰れなくなりそうです。明日からだいぶ遅《おそ》くまで舞台稽古《ぶたいげいこ》することになりそうですから――』
確かに昨日の帰り道、あいつはそんなことを言っていた。つまり、そういうことなのだ。近づいてくる創立祭《そうりつさい》に向け準備《じゅんび》に燃《も》える演劇部は、今日はこの時間になっても全員が残って練習に励《はげ》んでいるのだ。
(……いいのかよ、あそこの部員、半数近く女の子だろ?)
なんとも危険《きけん》な話だ。少し呆《あき》れる。
まぁ指揮《しき》をとっているのはあのベネディクトだ、そんなにめちゃくちゃな時間にまで居残《いのこ》らせることはないだろうし、寮暮《りょうぐ》らしでないメンバーの送迎《そうげい》についてもフォローはしていることだろう。心配はいらない。たぶん。
ともかくこの事実は、リュカにとっては不運であり、そして同時に幸運でもあった。人に見つかるわけにはいかない。けれど演劇部がそこにいるということは、同時に着替えの調達の目途《めど》がたつということでもあるのだから。
男子が更衣室《こういしつ》に使っている部屋を探《さが》し出し、人がいないことを確認《かくにん》して身を滑《すべ》り込《こ》ませる。手近なロッカーを物色する。練習時の演劇部員はその半数近くが体練服に着替えている――だから当然、ここには着替えが置いてある。
物色を始める。
「悪いな、ちょい借りてくぜ」
誰とも知れない相手に小声でそう断《ことわ》りを入れて、サイズの合いそうな男子|制服《せいふく》と、予備の体練服とを引っ張り出す。
これはこれで、誰かに見つかったら言い訳できないな――そんなことを考えながら、調達してきた雑巾《ぞうきん》で廊下の血痕《けっこん》を軽くふき取る。とりあえず夜の間はごまかせそうなくらいにはきれいになったと思う。
それから倉庫の扉《とびら》を細く開き、身を滑り込ませる。
「……言われたもん、持ってきたぞ」
ちらちらと揺《ゆ》れる炎《ほのお》の光の中に向かって小声をかけると、
〈おー、ご苦労ご苦労〉
目の前に、ひょっこりと小さなものが姿を現した。
「具合はどんなもんだ?」
人形の首が小さくかぶりを振って倉庫の奥《おく》、書架《しょか》の陰《かげ》のほうを見やり、
〈ああ、傷口《きずぐち》はもう塞《ふさ》がった。皮膚《ひふ》の一|枚《まい》下はまだグチャグチャのようじゃが、多少動くぶんにはもう問題もなかろう〉
塞がるのか。あの傷が。この短時間で。
とんでもない話だとは思った。そして今さらながらそんなことでわざわざ驚《おどろ》いている自分自身に小さく呆れた。
〈ときに少年。ちゃんと目立たんようにコソコソしてきたんじゃろうな。どうにもこの建物は人の気配がざわついとって、落ち着かんのじゃが〉
「劇の連中だろ? 講堂に全員集まってっから大丈夫《だいじょうぶ》。もっともこの部屋の隣《となり》だから、大声出したらバレるけどな」
〈なぜまた、そのような危《あや》うい綱渡《つなわた》りを〉
「創立祭の近いこの時期、学内のどこに行っても状況《じょうきょう》は似たよーなもんだ。俺の知る限《かぎ》り、この綱が一番太くて丈夫なんだよ。……あの子は?」
「ここだ」
書架の陰から、小さな声が聞こえる。
「ほら、タオルと着替え」
あれだけ着衣がズタズタにされたのだ。さらにその後に手当てをしたのだ。ならば今の彼女の格好《かっこう》は、それはもう複数《ふくすう》の意味でものすごいものであるはずだ。少なくとも男の自分が軽々しく覗《のぞ》きこめるものではないだろう。
だからタオルと体練服を書架のすぐそばへと投げる。
書架の陰から白く細い腕《うで》が伸《の》びて、床《ゆか》に落ちたそれらを拾い上げた。
「…………」
そう、これでいいのだ。今は劣情《れつじょう》に心|惑《まど》わされている場合じゃない。
とはいえなんというか、ちょっとだけ勿体無《もったいな》いことをしたような気もした。
どうせ彼女にとっても非常事態《ひじょうじたい》であることに変わりはないのだ、服を渡す瞬間にちょっとだけ覗くくらいのことはしても問題なかったのではないか。そう考えると何やら大損《おおぞん》をやらかしてしまったような気もしてくる。ああもう、ぱかぱか自制心のばか。
〈ふむ、ずいぶんと色気のない服を選んだものじゃな。どーせならこー、サイズの合いそうな女子用の制服を、ちょちょいと拝借《はいしゃく》してじゃな……〉
人形の小さな指が、何かをひっかけるような形に動く。
「……あんたの声聞いてると、モラルと葛藤《かっとう》してる自分が小さい人間みたいに思えてくるから不思議だよ」
〈ふむ? 誉《ほ》め言葉かのう?〉
「ナイス好意的|解釈《かいしゃく》。俺も今日からそんくらい前向きに生きていきたいと思うよ」
〈ふむう、知らぬうちに若者《わかもの》の明日を導《みちび》いているとは、さすがは儂《わし》〉
書架のほうから、小さな衣擦《きぬず》れの音が聞こえる。
リュカは壁《かべ》を背《せ》にして腰《こし》を下ろす。
ふぅと小さく息を吐《は》く。本当にいろいろと忙《いそが》しいことが続きすぎて、落ち着いて息を整えるだけの時間でも、ずいぶんと久《ひさ》しぶりのような気がする。実際《じっさい》にはそんなはずはないのだが、とにかくそんな気分だったのだ。
誰も喋《しゃべ》らない。
壁の向こう側から、がやがやわいわいと、大勢の人間が忙しそうにしている気配が伝わってくる。演劇部の練習は、どうやら順調に盛《も》り上がっているようだ。
「……これからどうするよ?」
〈朝までここで体を休める。とにかく何をするにせよ、ジネットを回復《かいふく》させんことには話にならんからな〉
「ジネットって……」
「私の名だ」
ぽつり、と小さくその声が聞こえた。
その後に何か言葉が続くかと思ってしばらく待ってみたが、それだけだった。仕方がないので、質問《しつもん》を続ける。
「朝まで待てば、状況が変わるのか?」
〈少なくとも、戦力差は大きく縮《ちぢ》まる。
やつは、必勝の確信を持てる相手にしか手出しをせん。なにせ、あれほど手の込んだ罠《わな》を仕掛《しか》けてきたくらいじゃ。こちらのダメージが抜けてしまば、もう簡単《かんたん》には近づいてこんじゃろ〉
「そんなら……いいんだけどな」
朝。
絶望的に遠いようでいて、ほっとできるほど近くもある、そんな微妙《びみょう》な未来。
「きみの名も、聞いていいか?」
「え? あ……」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
「リュカだ。リュカ・エルモント」
「……リュカ」
少女の声が、確かめるようにその名を繰り返して、
「きみは何者なんだ、リュカ。
きみからは確かに姉様の魔法の気配を感じる、けれどその体の中に刻印《ブランディング》はないという。
私は確かに君の心臓《しんぞう》を貫《つらぬ》いた、けれどきみは死なず、それどころかその傷《きず》自体がなかったものであるかのように蘇生《そせい》してみせた。
そしてきみは当然私に敵対《てきたい》した。死ぬ気、殺す気で剣《けん》を交えた――なのに今は、こうして私たちに手を貸《か》している」
まくしたてるように、言う。
「この場を生き延《の》びるために利用しているだけか。それならはまだ納得《なっとく》できた、しかしそれでは君の態度の説明がつかん。なぜ私の命が助かったからといって安堵《あんど》する。なぜ私の傷が塞《ふさ》がったからといって優《やさ》しい顔をする」
「……そんな顔してたのか、俺」
〈まあ見ようによっては、そう見えたかもしれんのう〉
なぜかしみじみと、老人の声の人形がそう呟《つぶや》いて、
〈しかし、お主に謎《なぞ》が多いのは確かじゃな、少年――いや、リュカ・エルモント。
刻印うんぬんの問題をさておいても、お主のその不死身っぷりは異常《いじょう》じゃよ。並《な》みの人間から見れば異常そのものの儂が言うんだから間違いない。お主の体質は異常オブ異常、キングオブ異常の領域《りょういき》じゃ〉
なんだそりゃ。
〈なので、儂からも訊きたいことがある。
お主とフィオル[#「お主とフィオル」に傍点]・キセルメルはどういう関係にある[#「キセルメルはどういう関係にある」に傍点]?〉
黙《だま》る。
二人もまた、黙る。
「……友人、だよ。本当に、それだけなんだ」
まるで、弁解《べんかい》するような心境《しんきょう》だった。
「初めて会ったときは……すげぇ変な奴《やつ》だと思った。五年前だから、俺は十二|歳《さい》で……確か、春だったな。近くの森にオバケが出るって噂《うわさ》を聞いてさ。友達連中はどいつもこいつも怖気《おじけ》づいて家から出なくなっちまったから、よし俺が確かめてやるって、夜になるのを待って踏《ふ》み込んでいったわけさ――」
話し始めてしまうと、止まらなかった。堰《せき》を切ったようにして、思い出があふれ出してくる。それを片端《かたはし》から言葉に変えて、話してゆく。
森の中に踏み込み、すぐに後悔《こうかい》したこと。
暗闇《くらやみ》と、木々の濃密《のうみつ》な気配とに押《お》し包まれて、座《すわ》り込みたくなるほど怖《こわ》かったこと。
果てには転んでしまって、狼《おおかみ》に襲《おそ》われてもうだめだ――と覚悟《かくご》を決めたこと。
ところが、顔を上げたところには、狼ではなく彼女がいたこと。
まるでこの地上に天使《ハロウド》が降りてきたような、大げさのようだけれど本当にそんな錯覚《さっかく》を覚えるほどに眩《まぶ》しかったこと。
「それから、毎日みたいに会いに行った」
話す。
他《ほか》の人間たちには内緒《ないしょ》の逢瀬《おうせ》だったこと。
いろいろな話をしたこと。
一度、クローディアに……自分の姉に見抜かれそうになって危《あぶ》なかったこと。
実は魔女《まじょ》なのだと言われたこと。一度だけ、魔法を見せてもらったこと。ひとつだけ願いを叶《かな》えてやると言われて、それを保留《ほりゅう》させてもらったこと――
「肝心《かんじん》の日のことは何も覚えてない。なんか赤いなと思った次の瞬間《しゅんかん》には気い失ってた。次に起きた時には|この街《フェルツヴェン》の病院のベッドの上。そんときには、火事からもう二週間|経《た》ってたってさ」
そしてこの街に住んでいた伯父《おじ》に引き取られて、今こうしてここにいるのだと、そう言って話を締《し》めくくった。
「俺が知ってんのはそれだけ。本当に、それだけなんだ」
〈……そうか。それで、エブリオのことを尋《たず》ねたわけじゃな〉
少し居心地《いごこち》の悪そうな声で、人形が呟《つぶや》いた。
少女の気配は、書架《しょか》の向こう側で沈黙《ちんもく》したまま、動かなかった。
「生き残りは俺だけだって聞いてた。だからフィオルのこと、死んだと思った。助けられたときの俺ってケガひとつしてなかったらしくてさ、だからその後しばらくは、ずっと自分を責《せ》めてた。やれることはあったかもしれないのに、何もしないでさっさと気絶して、それで一人だけ生き残った自分が許《ゆる》せなかった。父さんも母さんも姉ちゃんもフィオルも、もしかしたら俺の助けを待ってたかもしれないのに。ちゃんと起きて足を動かしてれば、俺はそこに辿《たど》り着けたはずなのに……ってな」
「……きみは、何も悪くない」
「みんなそう言う」
そうだ。病院の医師たちも、伯父さんも、アリスも、誰もが口を揃《そろ》えて赦《ゆる》しの言葉をかけてきた。命が助かったのは奇跡《きせき》に等しい幸運だったのだから、もしそこに必然があると思うのならばこれからの人生を精一杯《せいいっぱい》生きていけと。それこそが、死んでしまったすべての人々の喜ぶ道でもあると。
それは正しい考え方だと思う。ちゃんとそのことは分かってる。
「けど、それを素直《すなお》に聞けたら苦労はない。そうだろ、ジネット」
返答はなかった。
「昨日、俺を刺《さ》したときのあんたの泣きそうな顔。ちょいと気にかかってた。知った顔だったんだよ。五年前、俺が毎日鏡の中に拝《おが》んでたツラだ。自分を正当化する言葉ならいくらでも浮かぶのに、どうしても自分が赦せなくて、泣いてその感情を片付けることすらできないから、頭の中がもうぐちゃぐちゃになってさ」
〈……少年〉
「ジネット。君は、誰かが許《ゆる》してくれたら、自分を許せるのか?」
「いや」
苦笑《くしょう》のような答えが、返ってきた。
「すまない。私の言葉が安易《あんい》だった」
「別に謝《あやま》るようなことじゃないだろ……で、俺の正体のアタリはついたか?」
〈んむ?……むうー〉
人形がぐりぐりと首をひねり、
〈素直に考えれば、本当はあの炎《ほのお》の中で死んどったはずのところを、あの女に助けられて生き延《の》びた……しかしそれだけでは、今の体質について説明がつかんし……〉
「結局わかんねーのかよ」
〈仕方なかろう。お主に関しては、とにかく例外になることが多すぎる。そもそも魔法《まほう》で「治癒《ちゆ》」を行うなどという無茶苦茶に始まり、刻印《ブランディング》も宿さずに今も魔法の効果《こうか》を体に留《とど》める。そして……今更《いまさら》な確認《かくにん》になるが、この五年で背《せ》は伸《の》びたかの?〉
「え? あ、ああ。当時はチビだったし、おととしくらいにだいぶ派手《はで》に伸びた」
いきなり問われたので、反射《はんしゃ》的にうなずいた。
「関係あんのか?」
〈大有りじゃ。成長するということは老化するということ。これで少なくとも、お主が慣ら|不死の魔法使い《レヴナント》……|魔法書の代役《バーント・グリモア》の同族ではないことがはっきりした。つまり、あの治癒力をそっちの筋《すじ》で説明する線もパァじゃ〉
肩を落として大きなため息をつく。
〈まぁ何にせよフィオルの魔法の影響下《えいきょうか》にあることは確かじゃから……あやつの行方《ゆくえ》を追う手がかりにはなるじゃろう……たぶん〉
「ああ」
あの塔《とう》の上で、レオネルはジネットと一緒に、この自分をも狙《ねら》っていた。その理由を考えれば、やはりそのあたりの結論《けつろん》に至《いた》るしかない。
「って、そういやあんたらもフィオルを狙ってるんだよな」
〈む? んむうう……ま、まあ、そういうことには、なるが〉
「曖昧《あいまい》なことを答えるな、アルト老。我々《われわれ》はあの女を殺し『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』を奪《うば》うつもりでいる。偽《いつわ》る必要など何ひとつ無いだろう」
〈ありすぎるわバカ娘《むすめ》っ!?〉
「……別に、いいけどな」
ジネットという娘のことが、少し分かってきた。
とにかくこいつは、言うこと言うことすべてが、妙《みょう》に自罰《じばつ》的なのだ。
言い訳《わけ》をしないといえば聞こえがいいが、こいつの場合はそれ以前のところで、自分を悪く思わせることを最大の目的にして口を開いているように思える。本人にその自覚があるのかは分からないが。
少し、苛々《いらいら》する。
フィオルの敵《てき》であるということは、実のところ、それほど気にしていなかった。そもそもずっとフィオルは死んだと思っていたので、実感が湧《わ》いていないのだ。だから余計《よけい》に、ジネットの態度《たいど》のほうが気にかかる。
がり、と指をたてて頭を強く掻《か》く。
『――それは今から二百年の昔、シュテーブルの湖畔《こはん》に、とても美しい国がありました』
そんなナレーションが、背後《はいご》の壁《かべ》の向こうから聞こえてきた。
そういえば、隣《となり》では演劇部《えんげきぶ》の練習が続いていたのだったか。
これから通し稽古《げいこ》でも始めるのだろうか。本番たる創立祭《そうりつさい》がすぐ目の前だとはいえ、まったく、なんとも熱心なものだ。
『――王国には二人の姫君《ひめぎみ》がいました。姉姫はとても美しく、そして聡明《そうめい》な娘でした。妹姫はとても愛らしく、そして優《やさ》しい娘でした』
確かな響《ひび》きを持った声が、朗々《ろうろう》と物語の背景《はいけい》を語る。
遥《はる》か遠い昔に始まってそして終わった、魔法と魔女と、騎士と姫君の物語。
人智《じんち》を超《こ》えた力が実在《じつざい》して、それらに立ち向かう確かな人の絆《きずな》というものがあって、激《はげ》しい戦いがあって、そして最後には愛が勝利を掴《つか》み取った。
改めてその物語を思い返して、思う。
ああ、美しい話じゃないか。
とくに最後がハッピーエンドだっていうのがいい。結末が分かってさえいれば安心していられる。それまでにどんなに苦しい思いをしたって、最後の最後には「あんなこともあったな」って笑いとばせるようになるだろうし。
魔法と、魔女と、騎士と、姫君の物語。
「……なぁ」
ぽつり、と呟《つぶや》くようにして尋《たず》ねた。
「結局のとこ、あんたらさ、何者なんだ?」
〈んむ?〉
小さく俯《うつむ》いて動きを止めていた人形が、顔を上げた。
「俺だけ自己紹介《じこしょうかい》して終わりってのは無いだろ、そっちの話も聞かせろって。
|不死の魔法使い《レヴナント》って言葉は聞いた。実際に死ににくいっぽいのも目撃《もくげき》した。けどそれだけだ。何が目的で、何をしてる、どういう奴なんだ?」
〈……それは、〉
「聞いてどうする? 私たちの素性《すじょう》を知ったところで、今この場を切り抜ける役にはまるで立たないだろう」
人形の言葉をさえぎるように、書架の陰《かげ》から声が割《わ》り込んできた。
「知りたい。それだけじゃ理由になんないか?」
「――――」
少女はしばらくの沈黙を経て、
「昔話をしようか。昔、ひとつの王国があった」
書架の陰から――少女が、姿《すがた》を現《あらわ》す。
さらりと流れる、長い銀の髪《かみ》。不自然なまでに整った顔立ち。どんな豪奢《ごうしゃ》な衣装《いしょう》にも負けないだろうその体を包んでいるのは、リュカの持ってきた着替《きが》え、色気もなにもない体練用の上着とズボン。動きやすくて破《やぶ》れにくく、洗《あら》うのも簡単《かんたん》。実用の美学にのっとって全《すべ》てがデザインされた、くすんだ枯草色《かれくさいろ》の上下だ。
似合っていない。
それはもう、凄絶《せいぜつ》なまでに。
〈ジネット〉
気遣《きづか》うような声を出す人形にかまわず、少女は手近な木箱に背をもたれると、始めた話を勝手に続ける。
「王国には二人の姫がいた。
姉姫はとても美しく聡明で、ついでに多少ならず天然《てんねん》なところがあった。
妹姫は人前でにっこり笑う術《すべ》こそ心得ていたが、とにかく中身がお転婆《てんば》でワガママで乱暴《らんぼう》で、剣《けん》は振《ふ》るうわ馬は乗りこなすわと、姫らしいところのまるでない娘だった」
どこかで聞いたような話だと思った。
けれど聞いた話とは、細かいところがだいぶ違《ちが》う。
『私はこの国に、百の呪《のろ》いを施《ほどこ》そう』
『一つの呪いは王を殺すだろう。一つの呪いは騎士《きし》を討《う》つだろう。一つの呪いは木々を腐《くさ》らせ、一つの呪いは獣《けだもの》を猛《たけ》らせるだろう――』
「仲の良い姉妹《しまい》だった。
誰にでも優しかった姉は、特に自分の妹には甘《あま》かった。そして妹姫のほうは、なにせ自分がまったく姫らしくなかったものだから、自分の考える理想の『姫君』の姿を体現《たいげん》していた姉姫に憧《あこが》れていた。
けれどある日、姉姫に異変《いへん》が起きた。
夢《ゆめ》をみたのだ。誰がどのような夢をみようと、本来ならば問題はない。だが、偶然《ぐうぜん》か必然かは今となっては分からないが、その女のみた夢はこの世界の完全性を脅《おびや》かすものだった。
水は流れ炎《ほのお》は燃《も》え風は吹《ふ》き、この世界はそういったものが循環《じゅんかん》して出来上がっている。どの法則《ほうそく》も決して乱《みだ》れることはない。この世界の内側にあるものは、すべてこの法則を利用することで存在《そんざい》し、自分を維持《いじ》している。
だから毒になったのだ、姉姫のみた夢は。
姉姫はこの世界の外側を覗《のぞ》き見た。水も炎も風も、こことはまるで違う法則の下《もと》に乱れ狂《くる》っているその様を見た。その瞬間《しゅんかん》、この世界の内側に、この世界の外側を認識《にんしき》する固体が生まれてしまった。こうなると後は早い。姉姫を中心に、世界は汚《よご》れ始めた。ねじれた悪夢《あくむ》が、この世界そのものを少しずつ壊《こわ》し始めた」
『――お前にだけは、百の呪いは届《とど》かないだろう。
全てが朽ち果ててゆくこの国の中で、お前はただ一人だけ取り残される。
そして、自分がその手にするはずだった何もかもが無価値《むかち》になり喪《うしな》われてゆく苦しみを、強くその魂《たましい》に刻《きざ》み込《こ》むのだ――末姫ジネット』
『姉さま! なぜ、そのようなことをなさるのですか! 優しかった姉さまが、誰よりもこの国を愛していた姉さまが、なぜ!』
「姉姫《あねひめ》はそのことを苦しんだ。自分の周りの世界を傷《きず》つけたくないからと、国領《こくりょう》の片隅《かたすみ》、人の住まない辺地に身を隠《かく》した。そしてその地で、彼女にできる最善《さいぜん》の手を打った。この世界の中にあるやり方で、自分の中にある『毒』を封《ふう》じる手段《しゅだん》をとった。
膨大《ぼうだい》な数の書物に、みた夢の内容《ないよう》を克明《こくめい》に書き記す。
それによって、この世界に存在してはならなかった知識である『毒』は、この世界にある言語で説明のつく何かへと階梯《かいてい》を落とす。そうすれば、それ以上の無秩序《むちつじょ》な暴走《ぼうそう》は起こらない。彼女は自分の愛した国をそれ以上傷つけずに済《す》むようになる。
けれど、そうはならなかった」
短い一|拍《ぱく》を挟《はさ》んで、
「そうは……ならなかった」
もう一度、繰《く》り返す。
「彼女のことを、誰も理解《りかい》しなかった。
姉姫は魔女に堕《お》ちたのだと、心に宿した悪魔の囁《ささや》くままに国を滅《ほろ》ぼすつもりだと、そんな噂《うわさ》が流れた。そして誰もが、この噂を本気で信じた。
誰よりも仲が良く、誰よりも互《たが》いを理解していたはずの妹姫すらもが、それを信じてしまったのだ。ほかの誰が疑《うたが》うことが出来ただろうな?」
表情が、自虐《じぎゃく》に歪《ゆが》む。
『なぜ、わたしを行かせてはくれないのです。姉が復讐《ふくしゅう》しようとしている相手はわたしなのです。ならばあなたたち騎士が、いえあなたが血を流す必要などない』
『そうではありません、ジネット姫。たとえどのような敵《てき》に脅かされようと、あなたの血が流されることがあってはならない。あなたの身を守るためであれば、我ら騎士は、その血の最後の一|滴《てき》まで流し尽《つ》くそうと悔いはないのです』
「彼女が姿を消してすぐに、あの国は終わった。
父王が病死。
王妃《おうひ》は狂死《きょうし》。
ただ一人その場に残された妹姫は、そもそも王族の器《うつわ》のない小娘《こむすめ》に過《す》ぎなかった。後見につこうとにじり寄《よ》ってくる有力|貴族《きぞく》の脂太《あぶらぶと》りどもを追い払《はら》うだけで精一杯。国がどこへとも知れない場所へと転がり行くのを知りつつも、塔《とう》の上の一室に閉《と》じこもるばかりで、何も出来なかった。
半年ほど経《た》った日のことだったな。国を脅かす敵となった姉姫を討《う》つべく、騎士団《きしだん》を中心とした討伐隊《とうばつたい》が組まれた。
ろくでもない集団だった。腐敗《ふはい》した騎士と、金と酒と女しか頭にない傭兵《ようへい》と、何を考えているかも分からん学者と……とにかくそういった連中が合計三十七人。その中に、剣を佩《お》び鎧を着込んだ妹君の姿もあった。
討伐隊は姉姫が身を潜《ひそ》めた辺地の城《しろ》に踏《ふ》み込むと、あっけなく彼女を切り伏《ふ》せて、その時点で書き記されていた百九十七の書物に火を放った――」
また短く言葉を止めて、なぜか小さく笑う。
「――ここが、喜劇の始まりだ。
炎は書物の大敵だ。紙や皮革《ひかく》はよく燃える。そして燃えてしまった書物の中身は失われてしまって、二度と読むことができなくなる。普通の本ならば、そこで話は終わりだ。
けれどそれらは、普通の本ではなかった。
文章の、つまり情報《じょうほう》の形に変質させた『毒』を収《おさ》め安定させるための書物。後に付けられた名で呼ぶならば魔法書《グリモア》だ。本が燃えたとしても、その中身は自ら、自分を収《おさ》める新たな器《うつわ》を探《さが》し求めて動き出す。
炎に巻《ま》かれる古城《こじょう》の中、三十余りの本が燃え尽きた。
ちょうどその時、その三十余冊の中身が収まるにふさわしい器がすぐそばでうろうろとしていたのは、実に都合の良い話だった。
それらは手近にいた人間、討伐隊の三十七人の命に寄生《きせい》した。
彼らは、その日、人であることを奪《うば》われた。
それぞれが、一冊の本の代わりとして在《あ》り続けなければならなくなった」
『あなたを信じます、|残更の騎士《ナイト・オブ・デイブレイク》よ』
『ジネット姫――』
『あなたの言葉を。あなたの剣を。あなたの誓《ちか》いを。そしてあなたの思いを、わたしは信じます。そしてこの場で、わたしの戦いを始めましょう』
「|魔法書の代役《バーント・グリモア》。
人の姿を留《とど》めながら、人ではないもの。それが、彼らの成れの果てだ。
書物の代わりなのだから、彼らはもう年をとらない。それどころか、多少の外傷《がいしょう》を負っても、体内に安定した|夜の軟泥《ワルプルギス》がすぐさま化け物の体に構築《こうちく》しなおしてしまう。こうして永遠《えいえん》に、ただ生かされ続けるだけの哀《あわ》れな奴隷《どれい》だ。
|不死の魔法使い《レヴナント》? 馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。
そのありがたい魔法に押しかけられ、自分自身を侵食《しんしょく》され、いいように利用されているだけの道化《どうけ》のどこが魔法使い[#「使い」に傍点]なのだ。使われている[#「使われている」に傍点]のは、私たちのはうだ」
細い腕《うで》で、ぎゅっと自分の体を抱《だ》きしめて。
「もとより、善《ぜん》の心で集まった集団でもなかった。魔法という強い力を得た三十七人は、それぞれに勝手な生き方を始めた。その中の一人が、この私だ。個人《こじん》的な願い……私欲《しよく》のために、魔女の最後の一冊を欲《ほっ》している。そしてそのために、躊躇無《ちゅうちょな》くこの剣を振るうことができる」
「…………ちょ、」
言葉を挟《はさ》もうとしたが、声がうまく出なかった。
「ちょ……っと、待てよ。さっきの話じゃ『その時点で書き記されていた』って……、最後の一冊まで出来上がってなかったんじゃ?」
「姉姫は生きていた」
あっさりと、少女は答えた。
「生きて、それから何十年という時間をかけて、最後の一冊を書き上げていた。長かった夢語《ゆめがた》りの締《し》めくくり、目覚めの章となる最後の魔法書《グリモア》を。
題名《タイトル》を、『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』。
他《ほか》の多くの魔法害《グリモア》のような、単一の用途《ようと》のためだけのものではない。ほぼ万能《ばんのう》に近いその能力ゆえに、願いを叶《かな》える書とまで言われた」
息を呑《の》んだ。
その題名に、聞き覚えがあった。
「その書を書き上げて、その書の能力を確認《かくにん》してすぐに、姉姫は姿を隠《かく》した。それから何度となく住処《すみか》を変え、最後にはエブリオの地に行き着いた。
彼女が何を望んで最後の一冊を書き上げたのかはわからない。いまさらそんなものを書き上げたところで、散らばってしまった百九十七冊がある限《かぎ》り、彼女の悪夢は封印《ふういん》できないのだから。今言えることはただひとつ、彼女の手には大きな力があり、私を含《ふく》めた多くの者がそれを狙《ねら》っているということだ。
もう、察しがついているのだろう?
姉姫の名前はフィオル・キセルメル・ハルヴァン。きみのよく知る彼女だ。そして、私の名前は――」
『私の名はジネット。ジネット・キセルメル・ハルヴァン――』
壁《かべ》の向こう。
舞台《ぶたい》の上で、アリスの扮《ふん》する物語の中の姫君《ひめぎみ》が、そう名乗った。
そしてそれに続くように、少女は嘆息《たんそく》まじりの声で、名乗った。
「私の名は、ジネットー――ジネット・キセルメル・ハルヴァン」
13.
少し歴史の勉強をしようと思う。
ほんの二百年ほど前、大陸《ディス・コンチネント》は戦乱の中にあった。
その頃《ころ》に、シュテーブルという王国は確《たし》かに実在《じつざい》していたという。
現《げん》ペルセリオ領《りょう》付近に、かつて栄えていた大国。
二百年ほど昔に、当時の第一王女が突如《とつじょ》乱心した。そしてそれに端《たん》を発して内乱が頻発《ひんぱつ》。結局、王女の乱心から一年も経《た》たないうちに、あっけなく滅《ほろ》びてしまった。
正確な史料がほとんど残っておらず、当時に何が起こったのかについて詳《くわ》しいことは分かっていない。内乱を起こした貴族《きぞく》は誰か。王女の乱心の理由は何か。そしてその王女の名前は何というのか。
何も分からないから、様々な憶測《おくそく》が乱れ飛んだ。そして物語作家がその憶測を民間|伝承《でんしょう》と混《ま》ぜてまとめあげ、あの童話と歌劇《かげき》『ジネット』が誕生《たんじょう》したのだと。
……ようやく演劇部は今日の舞台稽古《ぶたいげいこ》を終わりにしたらしい。撤収《てっしゅう》の騒々《そうぞう》しさがしばらく続いたと思ったら、急に人の気配が消えて、辺りは静かになった。
気まずい沈黙《ちんもく》が、狭《せま》い部屋をべったりと満たす。
外の風が、窓枠《まどわく》をかたかたと小さく揺《ゆ》らす。
何を言えばいいのか、分からない。
ジネットは自嘲《じちょう》するように、
「夢《ゆめ》のような物語は、夢の中にしかない。……幻滅《げんめつ》させたか?」
「いや、まぁ。わりと早い段階《だんかい》で、そうなんじゃないかって気はしてたからな……驚《おどろ》いてはいるけど」
ぐしゃりと髪《かみ》をかきあげて、天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。
「……変わった人間だな、君は。なぜそんな平然とした顔でいられる?」
「だから驚いてるって。錯乱《さくらん》してられる状況《じょうきょう》でもないから反応《はんのう》が淡白《たんぱく》なだけ。場が落ち着いたら、その後でご希望の反応を披露《ひろう》するよ」
「……つくづく変わっているな、君は」
半眼《はんがん》になってそういうことをしみじみ言うのは、なんというか、失礼だと思う。
「そんで、そっちの爺《じい》さん人形は、今の話のどこに出番あったわけ?」
「童話に名前を残してもらえなかった程度《ていど》の端役《はやく》だ」
「なるほど」
〈ちょっと待てお前ら!?〉
どことなく泣き出しそうな声が抗議《こうぎ》してくる。
〈儂《わし》、偉《えら》いんよ!? 騎士団長《きしだんちょう》って、わりと偉い地位なんよ!?〉
「騎士団長?」
頭の中で『ジネット』の、いやその元となった童話の筋書《すじが》きを思い出してみて、そんな奴《やつ》の出番なんてあったかなと少し考えて、
「思い出せない。なるほど、端役だ」
〈何か残酷《ざんこく》な含《ふく》みの混じった納得《なっとく》の声が!?〉
「まぁその納得で正しいだろうな。名はアルト・プリム・バルゲリアル。
良家のボンボンだったレオネルが騎士団を私物化《しぶっか》しやすいように、発言力のない適当《てきとう》な老人に名前だけの役職《やくしょく》を与《あた》えただけの存在《そんざい》だ。案の定、ゴロツキの群《む》れに成り果てた騎士団をまったくコントロールできていなかった」
「うわぁ……」
〈だからちょっと待てお前らその冷やっこい視線《しせん》はナニ!?〉
本格《ほんかく》的に泣きの入ったそんな悲鳴を聞き流したところで、
…………
ぴたり、と全員が口を閉《と》ざした。
同じものに気づいたのだ。すぐ外の廊下《ろうか》を近づいてくる気配。
すばやく視線《しせん》を交《か》わし、意思を疎通《そつう》する。
人形――アルト者の視線はこう言っている。朝まで誰《だれ》も来んはずじゃなかったんかい。睨《にら》み返して答えておいた。普段《ふだん》は誰も来ないんだ、文句《もんく》があるならむしろ今から来るやつに言ってやってくれ。
幸いというのか何というのか、ここはガラクタだらけの場所である。黙《だま》って座《すわ》ってさえいれば、アルト者は誰に見つかっても問題ない。むしろ問題になるのは残りの二人だ。
音も無く、ジネットは書架《しょか》のほうへと飛び込んだ。手近にあったランタンを引っつかみ、リュカもまたそれに続く。扉《とびら》から見えないところに身を押《お》し込《こ》んで、ランタンの蓋《ふた》を落として光を遮《さえぎ》る、それとほとんど同時に、がちゃりという音。
物置の入り口の扉が開いて、一人の学生が立っている。
書架の隙間《すきま》からその姿《すがた》を窺《うかが》う。
ぬぼー、という形容《けいよう》のぴったり合う、平べったい顔をした巨漢《きょかん》。名前は知らないが、その顔に見覚えがあった。その体格と腕力《わんりょく》を見込まれて、演劇部で大道具作りに始まる各種|裏方《うらかた》を任《まか》せられていた男だ。その手に抱《かか》えている木の板は、古城《こじょう》の背景《はいけい》を作るのに使った資材《しざい》の余《あま》りだろうか。
(やばいな)
心の中で舌打《したう》ちする。
運が悪かったのか、それとも見通しが悪かったのか。演劇部の人間は全員|撤退《てったい》した、もうこの中央|講堂館《こうどうかん》に来る人間など誰もいない……そう油断《ゆだん》して、気が抜けていた。
しばらくの間、がたがたという物音が隣《となり》の部屋から聞こえて――そして、止まる。
用事が終わったか。ならばさっさと出ていってくれ。
息を止め、耳に神経《しんけい》を集中させて、立ち去る音を待つ。
数秒の時間が流れる。足音は聞こえない。代わりに、がたんという小さな音が足元から聞こえた。知らず足を動かして、本か何かを蹴り飛ばしてしまったらしい。
口元がひきつるのを感じる。
「何だ……?」
何でもない、何でもないんだ、だからさっさと帰れ。念を送る。届《とど》かない。
(や、やべええええ)
念願の足音が聞こえてきた。ただし、望んでいたのとは逆《ぎゃく》の方向に。
「誰かいるのか……?」
はいそうです誰かがいます。でもできればそれ以上近づかないで。ぶっちゃけいまこの状況《じょうきょう》をまともに説明できる自信がありません勘弁《かんべん》してください。
祈《いの》りにも似《に》た心中の叫《さけ》びはものの見事に無視されて、
「なんだこの臭《にお》い……血?」
(なんでお前そんなに観察力あるんだよ!?)
ぎしり、ぎしり。警戒心《けいかいしん》を宿した足音が、少しずつ近づいてくる。
だめだ。このままでは見つかる。逃《に》げる場所もない。
「どうする」
至近距離《しきんきょり》から聞こえてきた少女の小声に、大急ぎで考える。
このままでは見つかる。それは避《さ》けられない。そしてこれは、じっくりと見られれば言い訳《わけ》のしようのないくらいに怪《あや》しい状況だ。顔見知りのリュカに、学術院《ライブラリ》にとって部外者の少女……というか美少女。そしてその周りには、怪奇《かいき》人形に消毒薬に水筒《すいとう》に、血まみれになって脱《ぬ》ぎ捨《す》てられたドレス。追及《ついきゅう》されたら、本当に困《こま》ったことになる。
「君らの魔法《まほう》でどうにかできないのか?」
「今の私には何の力もないし、アルト老の魔法は適用できない」
「うわ使えねえな」
むっとした顔になる少女を横目に、考えを進める。残り時間はあと何秒もない。見つかることはもう避けられない。ならばそこまでは仕方ないと受け入れるとして、なんとかし
て注視を避ける方法はないものか。
「……」
ひとつだけ浮《う》かんだ策《さく》を、頭から振《ふ》り払《はら》う。
それは安直ながらも有効《ゆうこう》な手段だろう、けれど実際《じっさい》にやってみることには気が咎《とが》めた。そんな躊躇《ちゅうちょ》が、残された時間をさらに何秒か削《けず》り取った。
「……仕方がない。胸《むね》を借りるぞ」
唐突《とうとつ》にジネットがそんなことを言い出して、
「え?」
「とりあえず、動くな」
ジネットの小柄《こがら》な体が、わずかに動いた。
リュカの胸の中に顔を埋《うず》めて、その背《せ》に腕を回してきた。
「……いっ!?」
一瞬《いっしゅん》にして、脈拍《みゃくはく》が倍ほどにも齢ね上がった。
「落ち着け」
ぼそり、というその呟《つぶや》きを、白く溶《と》けゆきそうな意識《いしき》の端《はし》で聞いた。
まったく、無茶《むちゃ》を言う。こんな状況、まさか落ち着けるわけがないじゃないか。
「恋人《こいびと》の、逢引《あいびき》を装《よそお》う」
一度は自分でも思い至《いた》った策なのだ。わざわざそんな説明をされなくたって、言いたいことは分かっている。
こんな時間に、こんな人気のないところに、身を隠《かく》すようにいる男女二人。ちょっと気の利《き》いた奴《やつ》ならば、気づいてすぐに目を逸《そ》らして、見なかったことにしてくれるのではないか――
そんなことはちゃんと分かっている。
問題があるのはそこではない。
いま自分の胸の中にあるのは、触《さわ》り方を間違《まちが》えれば壊《こわ》れてしまいそうなほどに華奢《きゃしゃ》な肢体《したい》。背《せ》に触れた手のひらが、喩えようもないほどに、柔《やわ》らかくて温《あたた》かい。これが何よりの問題なのだ。
「……、…………っ」
足音が、すぐ背後で、立ち止まる。
見つかった。そう直観した。
(しょうがねえ……よな?)
無数の言い訳の言葉を頭に浮かべながら、少女の背に腕を回して、その細い体を抱《だ》きしめた。
「んっ……」
少女が漏《も》らしたその小さな声が、なにやら意味深なもののように思えてしまったのは、おそらく妄念《もうねん》の生み出した錯覚《さっかく》だろう。
(いや待て落ち着け俺《おれ》。可愛《かわい》いってだけならアリスの奴で慣《な》れてるだろうが!)
そんなわけのわからないことを自分に言い聞かせてみるが、一度|揺《ゆ》れ動き始めた心臓《しんぞう》はもう止まらない。全身の皮膚《ひふ》が神経《しんけい》に早変わりする。自分の胸に押し付けられた、なんというかこう、ふたつの柔《やわ》らかいものとかに意識が向いてしまう。少女自身の小さな体躯《たいく》に比《くら》べるとややふくよかな、しかしそれでも決して大きいとは言い切れない、なんとも微妙《びみょう》なサイズの……いやいやいやいやいや。
自制心《じせいしん》フル稼働《かどう》。
がんばれ俺の理性《りせい》。
なんだか今夜はこんなことばっかりだ。
気を抜くとすぐにも妙な方向に流れそうになる頭の中を、全身|全霊《ぜんれい》の力を込めて本流へと引き戻す。背後の気配は動かない。この暗がりで人目を忍《しの》ぶように睦《むつ》みあう二人を見つけて、そのまま足を止めている。その反応は予想外だった。
おいこら。まさか出歯亀《でばかめ》始めようってんじゃねえだろうな。見損《みそこ》なったぞ。お前はそんな奴だったのか。そんな声にならない抗議《こうぎ》の声を喉《のど》の奥《おく》で喚《わめ》き散らす。
時間が流れる。
誰も動かない。
もしかして失敗だったのか。
こんな恥《は》ずかしい思いをしながらの小細工だったのに、すべては無駄《むだ》だったというのか。この男の卓越《たくえつ》した注意力は、それすら見破《みやぶ》ってしまったというのか。
「――――――――――――――――ミツケタヨ」
ありえない声が、そこから、聞こえてきた。
焦燥《しょうそう》が、浮《うわ》ついた気分と一緒《いっしょ》に、まとめて吹《ふ》き飛んだ。
聞き覚えのある声だった。夕暮《ゆうぐ》れ前の自宅《じたく》で。つい先ほどの時計塔《とけいとう》で。まったく変わらない親しさを宿したままの、あの声が。
〈……最悪じゃ〉
ゆっくりと。
振り返る。
一人の学生が立っている。ぬぼー、という形容のぴったり合う、平べったい顔をした巨漢。名前は知らないが、その顔に見覚えが……あったはずなのだが。
「開ケ[#「開ケ」に傍点]」
大きく開いた口。あごが外れ、鼻や目といった顔の上半分の造作《ぞうさく》がまとめてひしゃげてしわ[#「しわ」に傍点]の中に呑み込まれ、根元の急激《きゅうげき》な変化についていけなくなった歯がぽろぽろとその場に抜《ぬ》け落ちて、めりめりという吐き気をもよおす音とともについには顔の九|割《わり》以上の面積を占《し》める巨大な穴《あな》が出来上がって、
「な……な、な」
その穴の奥深くから視線を感じた[#「その穴の奥深くから視線を感じた」に傍点]。
何者かが、喉《のど》の奥の暗闇《くらやみ》の中から、まっすぐにこちらを見つめている。
「なんか……変わった隠《かく》し芸、だな……?」
乾《かわ》いた笑顔《えがお》の形にひきつった表情が動かない。
どん、と強く突き飛ばされて肩から書架《しょか》にぶつかった。もとよりさほど強く固定された書架ではない。ぽきんとどこかの金具が壊《こわ》れる音とともにぐらりと傾《かたむ》いて、
「レオネル!」
ジネットの足が床板《ゆかいた》を蹴《け》り、爆発《ばくはつ》するような速度で跳躍《ちょうやく》する。虚空《こくう》に差し伸《の》べた手の中に突然に現れる銀色の細剣《エペ》。少女は一切《いっさい》の迷《まよ》いなく、それをまっすぐに男の口内へと――その向こうにいる視線の主へと突《つ》き入れる。
そして、ぐらりと傾いた書架がようやく倒《たお》れる。下腹《したはら》に響《ひび》く重い音と、紙の束が散乱《さんらん》する軽い音との不協和音。肩肘《かたひじ》をついてその中から半身を起こし、リュカは見る。
男の喉の奥から伸びた白い手が、切っ先を掴《つか》み取っていた。
それは、あまりに異様《いよう》な光景だった。喉という細い穴を無理やりにこじ開けながら、誰かがこちら側に出てこようとしている。まずは腕一本。ぷちぷちという音とともに穴が広げられていく。人の体が壊《こわ》されていく。だというのに、血の一滴《いってき》も流れ出ることはない。
用の済《す》んだ繭《まゆ》を内側から破《やぶ》るようにして、それは、
「くっ」
ジネットは剣の柄《つか》から手を離《はな》し、男の腹を蹴って距離《きょり》をとる。主《あるじ》の手を離れた剣は無数の銀光のかけらに弾《はじ》けて、そのまま消えて失《う》せた。
〈構《かま》うな! 『門』が開ききる前に逃《に》げるんじゃ! ほれ、お主も!〉
返事はなく、ただジネットは駆《か》け出しただけだった。書庫を出て物置を抜けて、とにかく一歩でも遠くへと、ただ走る。
リュカはその背中《せなか》を追う。
そしてアルトはそのリュカの肩《かた》にしがみつく。
廊下《ろうか》を抜けて、講堂《こうどう》を飛び出して、学術院《ライブラリ》の敷地《しきち》内をひた走り、
「なん、だよありゃあ! あんなんアリなのかよ!」
わめいた。
〈アリじゃ! だから確実《かくじつ》に人目を避けられるところをと言ったんじゃ!
レオネルの魔法書《グリモア》『|鉛人形の王《アンペルール》』は、支配《しはい》と掌握《しょうあく》に強い! 窓《まど》となる刻印《ブランディング》を辺りに住む人間の中にランダムにばらまいておいて、それを施《ほどこ》された人間を『目』として使い、いざという時には使い捨ての『門』にする! 準備《じゅんび》の整った戦場で攻《せ》め手に回る際《さい》にのみ最適《さいてき》となる、実に奴らしいやり方じゃわい!〉
「じゃわいって……使い捨てって、それって!?」
足を止めかけたリュカを、アルトは叱責《しっせき》する。
〈ええから早く人目につかん場所に行かんか!
あの男が本気で儂《わし》らを狩《か》りに来る気なら、刻印を施された人間の数はおそらく数百に上る! 偶然《ぐうぜん》にでもなんでもそういった人間に見つけられてしまえば同じことの繰り返し、あの男は躊躇《ちゅうちょ》なくその人間を『門』にしてその場に現《あらわ》れる!〉
「…………ッ!」
ああ、もう。
本当に、なんてこった。
あんな小さな物音を聞き逃《のが》さなかったり、わずかな血の臭《にお》いの痕跡《こんせき》に異変《いへん》の気配を感じ取ったり、そんな細かいところに気がつく奴。
なぁベネディクト。お前のことだから、当然部員のそういう長所は見抜いていたんだろうな。能力《のうりょく》を活《い》かした仕事をやらせていたんだろうな。これからも、演劇部《えんげきぶ》で、お前たちと一緒《いっしょ》に頑張《がんば》っていくはずのやつだったんだよな。
ぎり、と奥歯《おくば》が小さく鳴った。死にそうな目に遭《あ》ったり、殺すだの殺されるだのの言葉を言ったり聞いたり、血が流れたり治ったり、そんな時間の果てに、ついに一人の人間の死に行き着いてしまった。しかもそれは、こんなにも不条理《ふじょうり》で理不尽《りふじん》で、
「……パスカルだ」
〈うむ?〉
「パスカル・エドアール。さっきのあいつの名前、いま思い出した」
〈…………そうか〉
それきり、二人ともが沈黙《ちんもく》する。
リュカは走る。名前を思い出したばかりの彼に背を向けたまま、走る。
橋を渡《わた》り、街灯の頼《たよ》りない光の照らし出す中を、走る。
大通りは避ける。酒の入った木製《もくせい》カップが打ち鳴らされる音と男たちの笑い声。漂《ただよ》ってくるよく焼けた肉と香辛料《こうしんりょう》の匂い。どれだけの人間がそこにいるのだろう。十人? 二十人? それともそれ以上? その中にレオネルの『目』にされた人間が交じっている確率《かくりつ》はどれくらいだろう?
静かなほうへ。生きて動いている人のいないほうへ。走る。走る。足を止めるわけにはいかない。レオネルに追いつかれる可能性《かのうせい》もあるし、何より夜中の足音を訝《いぶか》った近所の誰かが窓をあけて、自分たちの姿を認《みと》めてしまうかもしれない。
並《なら》んだ街灯が映《うつ》し出すおぼろな影《かげ》が、ぐるんぐるんと辺りを踊《おど》る。右へ左へ、前へ後ろへ。自分が走っているのか、踊る影たちの上で足を動かしているだけなのか、わからなくなる。
この道の向こうには何があるんだったろうか?
……ああ、そうだ。整理区画だ。これは好都合。あそこの中ならばまず誰に見つかる心配もない。今度こそのんびりと朝を待つことができる。朝になれば、事態《じたい》は好転する。
通りの角を曲がって、制服姿《せいふくすがた》の警邏兵《けいらへい》が二人、姿を現した。その手の携帯灯《ランタン》を見れば、彼らが治安維持《ちあんいじ》のための巡回《パトロール》中だと分かる。
「うん? ちょっと待ちなさい君たち――」
夜の街を走る二人を何だと思ったのか、警選兵の一人が片手《かたて》を上げてジネットを呼《よ》び止めようとして、
「――――――――モウコソナトコマデ逃ゲタノカ。ズイブン足ガ速インダネ」
その喉《のど》の奥から、彼自身のものではありえないそんな声が、漏《も》れ出てきた。
「先輩《せんぱい》、どうしたんですかその声?……って、あ、こら待ちなさい!」
もう一人の警邏兵が戸惑《とまど》いの声を出した隙に、その横を走り抜ける。脇《わき》目も振らず、ただひたすらに、前へ、前へと。
「先輩、どうし……た、う、うああぁあぁぁああぁあぁあっっ!?」
警邏兵の絶叫《ぜっきょう》と、それに叩《たた》き起こされて目覚め始めた町並みと。
そういったものを背後に振り捨てて、二人はただ、走る。
[#改ページ]
▼promnade/
田舎《いなか》の街エブリオは、こうして炎《ほのお》の中に消えた。
そして、フィオル・キセルメルは――
もとより、多くの力が残《のこ》されていたわけではなかった。
本来この自分に出来ることは、ただ生き続けることだけだったのだ。どんな炎に巻《ま》かれようと、決して死ぬことはない。けれどそれだけ。いまの自分は[#「いまの自分は」に傍点]、本来ならば魔法など使えるはずがないのだ[#「本来ならば魔法など使えるはずがないのだ」に傍点]。
そしてレオネルは、実際《じっさい》のところ、相当の難敵《なんてき》だった。
手酷《てひど》く傷《きず》つけることは出来た。この後何年かはまともに活動できないだろうだけのダメージを与《あた》えて追い払《はら》った。それが限界《げんかい》だった。
あまりに大きな代償《だいしょう》を支払って、戦果はそれだけだったのだ。
フィオルは、ひとつの扉《とびら》を押《お》し開けた。
扉はただ軽く触《ふ》れただけで、ぼろぼろと炭《すみ》の塊《かたまり》になって崩《くず》れ落ちた。
その向こう側も、ひどいことになっていた。石積みの壁《かべ》こそ形を整えたままだが、床《ゆか》の木材や漆喰《しっくい》などが全《すべ》て燃《も》え落ちてしまっている。こうして建物の形が保《たも》てているのが奇跡《きせき》のようなものなのだ。そしてその奇跡も、それほど長くはもたないだろう。
泣き声を、聞いた。
誰か、生きている人がいる。
フィオルは廊下だったところを進み、その部屋に入った。
「貴方《あなた》は……」
そこにいる人物が顔を上げて、二人の視線《しせん》が絡《から》み合った。
「……そう。生き残ったんですね」
これだけの人が死んだのだ。まさか喜ぶことはできない。
けれどそれでも、五百に近い人が死んだその場所で、ひとつの命が助かったのならば、それは良い報《しら》せであったと思わずにはいられない。
「ひとつ……お願いを、して、いいですか……」
息が荒《あら》い。
最期《さいご》の瞬間《とき》が近づいてきている。
「わたし……ちから………願い事……代わりに、叶えて……」
膝《ひざ》が折れる。その場に座《すわ》り込む。
「………『|ひとつめの嘘《ソルトレージュ》』……使い方を、教えますから……」
生存者《せいぞんしゃ》の目が、まっすぐにフィオルを見ている。
フィオルは微笑《ほほえ》む。これから迎《むか》える結末は決して最善《さいぜん》のものではない。けれど少なくとも、最悪のものよりは、ほんの少しだけましだと思う。
……ちょっと、待っててくれよ。オレ、まだこんなガキだからさ、こんな願い事、言う資格《しかく》ないと思うんだ。もうちっとだけ大きくなって、もうちっとだけまともになったら、そん時に言うから。だから、ちょっとだけさ。
あの日、彼が願おうとしたことは、何だったのだろう。
彼はこの自分に、何を願おうとしていたのだろう。
「…………」
その願い事だけは、きちんと叶《かな》えておきたいなと思う。
きっと、彼は喜んではくれないだろうけれど。それが、彼に対して魔女《まじょ》だと名乗った自分の、せめてもの矜持《きょうじ》だと思ったから。
そして。
フィオル・キセルメルを名乗ったその女は。
この世界から[#「この世界から」に傍点]、姿を消したのだ[#「姿を消したのだ」に傍点]。
[#改ページ]
▼scene/5 銀の月のアルペジオ 〜broken moonlight〜
フェルツヴェン市の北西部には、現在《げんざい》ひとの全く住んでいない――少なくとも公的にはそういうことになっている一角がある。
その辺りはもともとフェルツヴェンの都市計画に基《もと》づいて設計《せっけい》された場所ではなく、街が大きくなるにしたがって自然に建物が増《ふ》えていった場所だった。そのため道はごちゃごちゃと入り乱《みだ》れ、立ち並《なら》ぶ建物にも統一性がなく、そんなこんなで治安まで悪化していた。そこで一帯をまとめて区画整理するために国の予算が割《さ》かれ、住民の全《すべ》てが一時的に追い出された。
今はまるで廃墟《はいきょ》のようになった町並みが、一斉《いっせい》工事の始まるその日を静かに待っているだけ。
ここに来るまでに七人の人間に会った。
そのうち二人が、レオネルの『目』にされた人間だった。
一人はあの警邏《けいら》兵で、もう一人は年端《としは》もいかない小さな女の子だった。
「………………………………」
手近な壁《かべ》に背《せ》をもたれて、息を整える。
とんでもない距離《きょり》を死に物|狂《ぐる》いで走破《そうは》した。そのツケが、いまこの喉《のど》を焼いている。
〈……つうかお主もたいがいに化け物じゃの。|夜の軟泥《ワルプルギス》を筋力《きんりょく》にまわしているでもないのに、どーゆー体力しとるんじゃか〉
「……………………」
答える元気が湧《わ》いてこない。言葉も出てこない。
だから、息を整えることに専念《せんねん》する。
「不幸中の幸い。いいところに入り込めたな」
こちらは汗《あせ》のひとつもかいていないジネット。
「私たちがこの付近に逃げ込んだことには気づかれているだろう。が、これだけの広|範囲《はんい》にわたって無人ならば、見つかるまでの時間は充分《じゅうぶん》に稼《かせ》げる」
「…………」
なんで、そんなに落ち着いてんだよ。
人が死んだんだぜ。いや違《ちが》う。人が壊《こわ》れたんだ。内側からびりびりと壊されたんだ。何の罪《つみ》もない連中が。少なくとも、何の罪とも関係のない理由で。そんな理不尽《りふじん》を撒《ま》き散らしたのは、他《ほか》ならない自分たちなんだぜ。
喉が痛《いた》んで声が出ない、そのことがありがたい。こんな言葉に、こんな感情に何の意味もないことは分かっているのだ。今この場で必要とされているのはこの二人のように冷静に目の前の状況《じょうきょう》のことだけを考えること。後悔《こうかい》だの自責《じせき》だのといった、足を止めて後ろを振り返るような行為《こうい》ではない。分かっている。分かっては、いるのだ。
けれど――納得《なっとく》は、できない。
「……割《わ》り切れ、リュカ」
割り切れるわけがないじゃないか。
また人が死んだんだ。
自分のすぐそばで。
そして自分は何もできなかった。
目を背《そむ》けて、ただその場所から逃げ出すことしか出来なかった。
無力感と罪悪《ざいあく》感と虚無《きょむ》感とそのはか色々な感情をとにかくまとめてシェイカーにかけた、とびきり最悪な気分になれるカクテル。脳《のう》がぐらぐらと揺《ゆ》れて、今にも気を失ってしまいそうだ。
ふわり、と温《あたた》かなものが、その頭を包み込んだ。
それが何だろうと考えるまでもなく、思考が真っ白に溶《と》けた。
「すまない、無茶を言った。きみに出来るはずがないのだな、そんなことは。まだ短い付き合いだが、そのくらいのことならば、私にも分かる」
何か柔《やわ》らかなものが、後頭部を優《やさ》しく撫《な》でている。
吸《す》い込んだ息が、何か甘《あま》い香《かお》りをかぎ当てる。
「だが、その上で頼《たの》む。今だけは、それを忘《わす》れてくれ」
頭を、少女の胸元《むなもと》に、抱《だ》きかかえられている。
そのことに気づいて、ようやく真っ白な思考に色が戻ってきた。そしてすぐにおかしくなる。さっきから抱いたり抱かれたり、そんな展開《てんかい》ばかりが繰り返されている。そのたびに思うことは決まって、この少女の温かさについて。
男に生まれてよかったと思う。
男という生き物は、結局どうしたところで、ぬくもりには勝てないのだ。だからこんな単純《たんじゅん》なことで、こんなにも簡単《かんたん》に、心を落ち着かせることができる。
「落ち着いたか?」
「……ああ」
色気もへったくれもない体練服姿だということが残念だった。が、逆《ぎゃく》に言えば、それを残念に思うことができるくらいには、余裕《よゆう》ができた。
〈まったく現金なもんじゃの、この助平《すけべえ》が〉
ぶん殴《なぐ》った。
すかぽん、と景気よく人形の体が飛んでいって、
〈とれるとれる、首とれる、ちょいとお主どーなんじゃこの扱《あつか》いの差は!?〉
確《たし》かに今にももげそうな首を両手で支《ささ》えたまま、すたたたと走って戻《もど》ってきた。
「悪い、手間かけさせたな」
「なに、かまわない。君は協力者、だからな。私は必要なことをしただけだ」
〈しまいにゃ無視《むし》かい!?〉
「それで、これからどうする? あんな奴《やつ》相手に戦う方法なんてあんのか? 斬《き》った刺《さ》したで効《き》くのかね、そもそも。聖典《せいてん》の文章でも唱えてたほうがまだ効き目あるよーな気がすんだけど?」
「心配せずとも、私もアルト老もその理不尽《りふじん》の世界の住人だ。勝てるとは言えずとも、抗《あらが》うことくらいはしてみせよう」
少女はリュカと同じ壁に背をもたれ、そのまま腰《こし》を下ろす。
アルトは言葉を使うことを諦《あきら》め、今は静かにしくしくと泣きまねを始めている。
「奴の『目』と『門』にできることは、あくまで広|範囲《はんい》の索敵《さくてき》と移動《いどう》、つまり戦場に立つことまで。実際に戦場に立った後の奴の能力は、優秀《ゆうしゅう》ではあるが非常識《ひじょうしき》というほどではない。傷《きず》がもう少し癒《い》えた後で挑《いど》めば、私にもそれなりに勝機があるはずだ」
「勝率は?」
「三割というところか」
……この上なく、それなりな数字だった。
「で、傷はいつ治る?」
「とりあえず戦えるところまで、という意味なら明け方ごろだ。こう走り回りながらでなければ、もう少しは早くなるだろうが」
「つまり、なんだ。必死になって駆《か》けずり回って、運と奇跡《きせき》を駆使《くし》してなんとかピンチを潜《くぐ》り抜《ぬ》けられたとしても、まだまだ互角《ごかく》には程遠《ほどとお》いってわけか?」
「そういうことだ。まったく、ひどい劣勢《れっせい》もあったものだな」
言って、二人で揃《そろ》ってため息を吐《つ》く。
空を仰《あお》ぐと、満天の星。
相変わらず雲ひとつない快晴《かいせい》。宝石箱《ほうせきばこ》をぶちまけたような夜空に、釘《くぎ》でつけた引っかき傷のような、細く白い月。
「……この二百年、二人の人間を殺すことを誓《ちか》って生きてきた」
ぽつん、とジネットが呟《つぶや》くようにして言った。
「一人はレオネル。もとより国を狙《ねら》う逆賊《ぎゃくぞく》だった男が、魔女の乱《らん》に乗じてそれを果たし、さらには魔女の蔵書《ぞうしょ》を狙い数多くの同志《どうし》を甘言《かんげん》で操《あやつ》り、|不死の魔法使い《レヴナント》などという呪《のろ》われた生に突き落とした。どれだけ怨《うら》んでも怨み足りない、最高の怨敵《おんてき》。
そしてもう一人は姉様――」
「フィオルのこと……だよな?」
リュカは口を挟《はさ》んだ。
ジネットは気分を害した風もなく「そう」と小さく頷《うなず》くと、
「私にとって大切なものは、全《すべ》て姉様のものだった。けれど私はそれでもいいと思っていた。姉様がそれらを大切にしてくれていると信じていたから、納得していた。姉様は私にとって宝石箱だった。私にはその箱の中にあるものを手にとることはできない。けれど、そこにありさえすればいつまでもそれらは守られていると、変わらない輝《かがや》きを保《たも》っていられるのだと、信じていた。
けれど姉様はそれら全てを踏《ふ》みにじった。
その時初めて、姉様は私から、大切なもの全てを、完全に奪《うば》い去った。
お気に入りの絵本。母棟の指輪。西の薔薇《ばら》園。八|歳《さい》の誕生日《たんじょうび》のワイン一杯《いっぱい》。栗毛《くりげ》のポニー。祭りの日にこっそり城《しろ》を抜け出して買った飴《あめ》。アヴィン。シャリィ。シュテーブルの国。みんなみんな、姉様にだから喜んで任《まか》せられたのに、あの人は、裏切《うらぎ》った。
魔女なんかになって、みんなみんな、姉様自身の手でばらばらに壊《こわ》した。だから私は、絶対《ぜったい》にあの人を許《ゆる》さない。何百年かかってでも追い詰《つ》めて、この手で殺すと誓った」
少女は、両手に膝《ひざ》を抱き、うつむいて泣いていた。
微笑《ほほえ》みに似《に》た形に唇《くちびる》を歪《ゆが》めながら、しかし間違いなく、その目じりからは光るものが頬《ほお》へと流れ落ちていた。
初めて会ったときから何度となく、彼女が見せてきた表情。どこかで見たことがあるようなと思いつつ、結局今の今まで思い出せずにいた。
ああ、でも、そうか。そういうことか。
ようやく、自分の心が分かった。
――この森で空を見てると、ちょっと故郷《ふるさと》を思い出せて落ち着くんですよ。
よく似た姉妹なのだ。
顔立ちだけではない。
あの夜に見た、フィオルの顔に。いま目の前で、ジネットが涙を流している表情は。とても、よく似ていた。
泣いてなどいないのだと自分に言い聞かせるような、あいまいな微笑み。世界を拒絶《きょぜつ》しているようでいて、どこか縋《すが》る手を探《さが》しているような、そんな寂《さび》しい瞳《ひとみ》。
ああ、もうだめだ。
絶望的な気分で、その結論《けつろん》を受け入れる。
こいつが泣いているところを見てしまったから。こいつがこれまで泣き続けていたことに気づいてしまったから。そして、自分という人間が、そんな事実を放《ほう》っておけるようには出来ていないのだと、思い出してしまったから。
だから、止まらない。こいつを見捨《みす》てることは、もう、できない。
がしがしと頭を掻《か》いた。
「ようするに、ジネットが休む時間が稼《かせ》げりゃいいんだよな?」
ジネットが顔を上げて、こちらを見た。
「だったら話が早い。このまま逃げ回ってても休むどころじゃねーし、ジリ貧《ひん》だ。俺が囮《おとり》になって、遠くにあいつの目を引きつける」
「……リュカ?」
〈バカを言うな。お主一人であいつと戦いになるとでも〉
「俺は地元の人間だぜ? そうそう捕《つか》まりゃしないさ。
それに、この辺りは無人の地区だ。人がいないから『目』も『門』も使えない。あの金髪《きんぱつ》オバケが自分の足で来るしかないから、犠牲者《ぎせいしゃ》だってこれ以上|増《ふ》えない。だったら、このまま座《すわ》ってるよりかはなんぼか未来の見える策《さく》だと思うけどな――」
「――――ミィツケタ」
戦慄《せんりつ》。
通りの向こう側から。聞こえるはずのない声が、聞こえた。
寝巻《ねま》き姿の男。何も履《は》いていない素足《すあし》から、血がにじんでいる。
いるはずのない『目』が、そこにいる。
「んなっ!?」
「驚いている場合か!」
来た道を少しだけ引き返し、大通りに飛び出て、その光景を見る。
何十人という人間が――いや、人間だったのであろうモノが、意志《いし》のまるで感じられない足取りで、辺りを徘徊《はいかい》していた。
一斉《いっせい》に。その全員の視線が、まっすぐに、こちらに向かう。
夜の薄闇《うすやみ》と、無数の人影《ひとかげ》と、無言の視線。
「てぇぇぇっ!?」
〈だから驚いとる場合じゃなかろうが!〉
そんなことを言われても、この眺《なが》めは、いくらなんでも、心臓《しんぞう》に悪い。
「なんで、どうしてだよ!? この辺り、開発区だから、誰も住んでないはずで!」
もう動けないと音を上げる膝《ひざ》を、無理やりにたたき起こす。
アルト老の首根っこを引っつかんで、再《ふたた》び全力で走り出す。
〈歩いてきたんじゃろう、二本の足で!〉
「夜中の散歩って雰囲気《ふんいき》じゃないぞ、どう見ても!」
〈複雑なお年頃なのかもしれんじゃろ!〉
「喋《しゃべ》っている場合か!」
まったくもって、その通りだ。口をつぐんで、走ることに専念《せんねん》する。人の群《む》れは街の中央部の方向から来ている。だから、開発区の奥《おく》へ、奥へと走りこむ。
左の視界が開ける。湖岸の沿道《えんどう》に出た。ざざあ、という波の音が、肌《はだ》の上をくすぐるようにして流れてくる。熱くなった頬に、ほんの少しだけ心地《ここち》いい。背後《はいご》の気配が遠ざかっていく。
〈目にも門にもせず、強引《ごういん》に動かしとるだけか――さすがに走れはせんようじゃな〉
リュカの腕《うで》を這《は》い上がり肩にしがみついたアルト老が、耳元で冷静な声を出す。
〈まったく、なんつー無茶な刻印《ブランディング》じゃ。ありゃ施《ほどこ》されたほうがたまらんだろうに〉
「見りゃ……分かる!」
〈本当に分かっとるのか? 人の体に刻印を施すということの意味は、確かにもう説明しはしたわけじゃが〉
「…………」
早くて一月、普通《ふつう》で二月、とびきりに適性《てきせい》があったと仮定《かてい》しても半年が限度。確かそういう話だった。もちろんあんな『門』などにされてしまえば、その一月だの二月だのといった時間も一気にゼロにされてしまうのだろうが。
夜の街を、走る。
月と星だけに見守られて、走る。
「…………」
一度だけ覗《のぞ》き見たジネットの横顔は、今にも泣き出しそうだった。
その表情の理由を、リュカはなんとなく理解《りかい》できた。
ただ、悲しいのだ。悔《くや》しいのだ。背後《はいご》に迫《せま》る数十人が、既《すで》に人としての命を絶《た》たれているということが。それだけの犠牲を出してしまったということが。いまにも自分自身が殺されそうだという状況だというのに、結局そのことから目が背《そむ》けられずにいるのだ。
割り切れと。いまだけは忘れろと。
そうリュカに対して言いきった彼女が、自分の言葉に従《したが》いきれずにいるのだ。
(なんつーか、なぁ……)
彼女は既《すで》に、二百年を生きてきたのだという。ならば人の生も死も、嫌《いや》というほど見てきたことだろう。しかもこんな血まみれの生き方をしてきたのだ。その手で人の命を奪《うば》ったことだって、何度となくあったはずだろう。
だというのに、この少女はこんなにもまっすぐに、人の命を想《おも》うことができる。
初めて会ったあの橋の上で、自分の胸を刺し貫《つらぬ》いたときのように。泣きそうになりながら、それでも一切《いっさい》の言い訳を口にしないで。
(……こんな、)
こんないい奴が――なんで、報《むく》われないのだろう。
いつまでも幸せに過《す》ごしました、で物語を終えられないのだろう。
「なんか……むかついてきた」
〈うん? 何か言ったか〉
「何でもない」
どこへ向かうということもなく。
ただ、ただ、前のほうへと、一歩でも奴らから遠くへと、足を動かす。
全《すべ》てはその場しのぎに過《す》ぎないと、分かっていた。
逃《に》げ切れるはずがないのだと、心の奥底《おくそこ》では理解《りかい》していた。
だから、ついに訪《おとず》れたその瞬間《しゅんかん》にも、驚《おどろ》きもしなかったし、泣き喚《わめ》きもしなかった。
「うん、追いついたよ三人とも」
楽しそうな、そして腹《はら》が立つほど嬉《うれ》しそうな声。
針《はり》のように細い月の下。
ついには百に届《とど》こうかという数の物言わぬ兵士を従えて。
鮮《あざ》やかに輝く金色の髪の騎士《きし》が、立っていた。
14.
細かく編《あ》まれた鎖鎧《くさりよろい》。肩と胸、そして腹には、薄く銀を塗《ぬ》られた板金鎧《プレートメイル》が重ねられている。胸には二羽の鷹《たか》を模《も》した家紋《かもん》章。実用というよりは儀礼《きれい》用、あるいは装飾《そうしょく》用と評《ひょう》したほうがいいだろう。
実に立派《りっぱ》な戦装束《いくさしょうぞく》に身を包み、レオネル・グラントが立っている。
「いやあ、楽しい鬼《おに》ごっこだったね」
友愛を示《しめ》す声と、表情と、仕草。
両手を広げて、一歩ずつ、近づいてくる。
「まさかあそこから逃げ出すとは思ってなかったからね、けっこう本気で驚いたよ……あれはあなたの差し金ですね、アルト・バルゲリアル」
〈ぬう〉
アルトの声にも、まるで余裕《よゆう》が感じられない。
「ああ――いい風だ。それに、なかなか眺《なが》めもいい。そうか、ここを死に場所にしたいんだね。それは気が利《き》かなくて悪かった。あの塔《とう》の上も悪くはなかったけれど、うん、水の香《かお》る場所というのも、落ち着いていい」
嬲《なぶ》るように……というより実際に嬲っているのだろう、ゆっくりと歩を進めてくる。
「さあ、ぼくらの物語を終わらせようか、翠玉《エメラルド》の瞳《ひとみ》の姫君《ひめぎみ》。後のことなら心配は要《い》らない、悪い魔女はぼくがこの事で必ずしとめてみせるから」
「……戯言《ざれごと》を」
身構《みがま》えた少女の手の中に、一|振《ふ》りの剣《けん》が現《あらわ》れる。
「だめだジネット。そんなもんじゃ、あいつは倒《たお》せない」
その肩を掴《つか》んで、引き止める。
「そんなことは分かっている、しかし」
「今の君じゃ、あいつには勝てない。それは分かってるんだろ?」
「分かっている、しかしまさか座《ざ》して死を待てなどと」
「違う。負けられない戦いならば、勝つつもりでやれってことだ」
そうだ。自分はその鉄則《てっそく》を知っている。
守るべきものがあって、守らなければならない理由があって、守りたいという意志《いし》があって、その三つが全て重なっている今この瞬間《しゅんかん》に、自分が何をするべきなのか。この数年間でしつこいくらいに繰《く》り返してきた、たったひとつの結論《けつろん》。
「俺《おれ》が、前に立つ」
「しかし」
「もちろん俺じゃあいつは倒せない。けど体勢《たいせい》を崩《くず》させるくらいはやってみせる。君にはその隙《すき》をついてほしい。たぶんそういう役割|分担《ぶんたん》じゃないと、この場はしのげない」
ジネットは沈黙《ちんもく》する。
彼女も、分かってはいるのだ。とりあえずアルト老は戦力ではないらしい。そして彼女一人で打開できる状況ではないし、リュカにはレオネルに有効なダメージを与える手段がない。
「分の悪い賭《か》けだとは思う。そればっかりは仕方ない、けどさ」
口元をゆがめた。
笑顔を見せることができたと、思う。
「当てちまえばがっぽり戻《もど》ってくるってことだよな、それは」
言って、少女の手の中の細剣を取り上げた。
|夜の軟泥《ワルプルギス》の欠片《かけら》で編《あ》まれた武器《ぶき》は、意外なほど手になじんだ。
自分はつくづく運が悪いのだと思う。
だからこんなところで、こんな目に遭《あ》っている。並みの不運では説明がつかないくらいに奇矯《ききょう》な経緯《けいい》を経《へ》て、並みの不幸では説明がつかないくらいに奇妙な場所に立つはめになっている。
けれど、とにかく、何にせよ。
「エブリオを焼いたの、あんただって?」
「ああ、そうだよ。彼女たちに聞いたのかい?」
くすくすと、笑う。
「嘘《うそ》はついてないからね。さっきは聞かれなかったから、黙ってただけさ」
そいつは、どうでもいいことだった。
大事なのは、端々《はしばし》の言葉が正しかったかどうかなどではない。こいつが何を伝えようとしていて、何が伝わっていたかだ。自分がこの男の言葉に惑《まど》わされて、言いようにマヌケなダンスを踊《おど》っていたという事実だ。
「あんた、俺の故郷《ふるさと》の仇《かたき》なわけだよな。しかも今、俺の命も狙《ねら》ってるし」
「そうなるね」
「じゃあ、決まりだ。俺、あんたをブッ殺すよ」
「はは」
リュカから十歩ほどのあけた場所に、レオネルは立ち止まる。
その表情に浮かんでいるのは、ただ圧倒《あっとう》的に優位《ゆうい》に立っているという確信《かくしん》からくる、傲慢《ごうまん》なまでの余裕。見ているだけで、そうでなくても煮《に》えくり返った腹《はら》がむかついてくる。
「後の予定がつかえてるんだ、手短に頼《たの》むよ」
「さあ、どうなるかな」
リュカは一歩前に出る。レオネルは「うん」と小さく頷《うなず》き、
「狩れ[#「狩れ」に傍点]」
その宣言《せんげん》を受けて、レオネルの背後に控《ひか》えた人影たちが、一斉《いっせい》に動き出した。
ぐずりと輪郭《りんかく》が崩《くず》れる。地にうずくまるような姿勢《しせい》から、四肢《しし》で支《ささ》えるように身を起こす。その口元からは、その体躯《たいく》に不似合《ふにあ》いなほど大きな――肋骨《ろっこつ》ほどの長さがある、赤い牙《きば》が一本だけ覗《のぞ》く。
フォルムとしては狼《おおかみ》に似《に》た異形《いぎょう》の獣《けもの》が、百|匹《ぴき》の群《む》れを作って、こちらを取り囲むようにして近づいてくる。
対する自分の手の中には、細い剣が一本きり。腕前にはそれなりに自信があるものの、武器としてはあまり頼りになる気がしない。
苦笑《くしょう》が漏《も》れる。随分《ずいぶん》と前にも、似たようなことがあった気がする。
一匹の獣が飛び掛《か》ってくる。
人間離れした速度と迫力《はくりょく》ではあったが、対処《たいしょ》は出来る。獣の喉《のど》が通る辺りに剣《やいば》の刃《やいば》を置いて、半歩だけ斜《なな》め前に踏《ふ》み出す。ごきん。吐き気を招《まね》く鈍《にぶ》い感触《かんしょく》と、しぶく血が頬にかかる。自身の勢《いきお》いで頚《くび》を深く切り裂《さ》いた獣は、そのままの勢いで数歩を走り抜けて、そのまま転がるように倒《たお》れ伏《ふ》した。そして勤かなくなる。
「見くびんなよ、レオネル・グラント」
剣を軽く振って、血を払う。
そうやって血は振り払えても、手にこびりついた死の感触は、消えてくれない。
「これでも学術院《ライブラリ》じゃお山の大将《たいしょう》気取ってんだ。いくら馬鹿力《ばかぢから》でも、素人《しろうと》ぶつけてどうにかできるたぁ思うなよ」
そうだ。こういう相手には慣《な》れている。
がむしゃらに襲い掛かってくる素人をいなすことなら、これまで五十三回ほど繰り返してきた。その一回たりとも負けることは出来なかった。だから全てに勝ってきた。
たったいま切り伏せた――名前も知らない誰かが、五十四回目。
「お前が来い。メインディッシュの前に、前菜で腹《はら》ぁ一杯《いっぱい》にしてやるからよ」
「……大した自信だね」
違う。自信なんてものは、ない。
そんなものを抱えて勝負の場に立ったことはない。抱えていたものはいつだって、負けるわけにはいかないという、ただ非情《ひじょう》なまでにわかりやすい現実だけだった――いつだってそうだった。だからきっと、これからもそうなのだろう。
三匹が、続けて襲い掛かってくる。三本の牙がそれぞれに異《こと》なる軌跡《きせき》で、それぞれの死角を殺すように迫る。逃げ場はほとんど無い。が、
――塔の上で戦ったジネットの剣の鋭《するど》さとは、比《くら》べるまでもない。
逃げ場はほとんど無くとも、零《ゼロ》ではない。また半歩だけ踏み込み正確にその場所に身を置いて、リュカは軽く剣を振るう。
三|匹《びき》が、全《すべ》て同時に、その場に崩《くず》れ落ちて骸を晒《さら》す。
それぞれに名前があり、それぞれに違う人生を送っていただろう、三人が。
「そんだけご立派《りっぱ》な鎧《よろい》着といて、人形の後ろに隠《かく》れるしか能《の》が無《ね》ぇのか、|鉛人形の王《アンペルール》!」
吠《ほ》えて――跳《は》ねた。
二人の間に開いていた距離《きょり》を、無理やりに踏み越える。喉の少し下に狙いをつけて、体ごとぶつけるような刺突《しとつ》を見舞《みま》う。決して必殺の一撃ではない。それなりの腕があれば、避《よ》けることも防《ふせ》ぐこともできるだろう。しかし、逃げることだけはできない。
レオネルは、騎士剣の腹でその剣撃を打ち払い、
「……跳ねろ[#「跳ねろ」に傍点]」
呟《つぶや》いた。
ぞぶりという鈍《にぶ》い音を聞いた。
瞬間、視界が暗くなった。
「きみが隙《すき》を作ってジネットが攻撃。察するに、そんな作戦かな?」
体が、動かない。
その場に、ずるずると、崩れ落ちるしか、ない。
「ぼくを引きずり出すために挑発三昧《ちょうはつざんまい》、なのに最後は、痺《しび》れを切らして自分が特攻。選択肢《せんたくし》がなかったってのは分かるけどさ、ちょっとやり方が単純《たんじゅん》すぎたね。引っ掛けっていうのは、相手の動きを読んだ上で組み立てるものだよ」
地面から、槍《やり》が生えている。ご丁寧《ていねい》に逆棘《さかとげ》のびっしり生えた凶悪《きょうあく》なものだ。
その槍が、リュカの腹をまっすぐに突き貫いている。内臓《ないぞう》とか腰椎《ようつい》とか、そのへんの大事そうなところがごっそりやられてしまっている。
「……罠《わな》、か……?」
「はい、正解《せいかい》」
その言葉と同時、槍が霧《きり》のように溶《と》けて消える。支《ささ》えを失ったリュカは、まるで壊れたおもちゃのように、そのままその場所に崩れ落ちる。
「どうせすぐ生き返るんだろ? だったらしばらくそこで寝《ね》てなよ。こっちの用事はすぐに終わらせるからさ、後でゆっくりフィオルの話でもしよう」
あくまでも気軽に、レオネルは言う。
「さあ、待たせたねジネット。始めようか、最後の一章を」
待て。止《や》めろ。俺と戦え。
そんな言葉は、もう声にすらならない。
15.
「――降り注げ[#「降り注げ」に傍点]!」
言葉を並べて、宣言《せんげん》を造《つく》る。ジネットのすぐそばに、形の不揃《ふぞろ》いな十二本の短槍が浮かび上がる。そして次々に撃ち出される。
暗闇《くらやみ》の中で、ジネットは地を蹴った。
火薬を炸裂《さくれつ》させるような音とともに、地が爆《は》ぜる。弾丸《だんがん》が飛ぶようにして、ジネットの小柄《こがら》な体が二人の距離《きょり》を詰《つ》めた。細則が、左から二撃と右から一撃、そして斜《なな》め上からもう一撃、ほとんど同時に打ち込まれる。それからわずかに遅《おく》れて、投射《とうしゃ》の瞬間には既《すで》に最高速に達している十二本の短槍がレオネルに向かって殺到《さっとう》する。
その悉《ことごと》くを、レオネルは迎撃《げいげき》する。四度の剣撃を騎士剣で軽く薙《な》ぎ払い、短槍の雨は獣《けもの》どもを盾《たて》にして難《なん》なく凌《しの》いだ。
「――まったく、もったいない話だよ本当に」
少女の脇腹《わきばら》に、容赦《ようしゃ》のない蹴りが叩《たた》き込まれる。
「ぐ……っ!?」
細い体が、くの字に折れる。
吹き飛ばされる。子供《こども》に蹴り飛ばされたボールのように、高く、遠く。
「きみら姉妹《しまい》はさ、ほんとに、血筋《ちすじ》と見てくれだけなら凄《すご》く良かったんだよ。そのへん、僕はけっこう高く評価《ひょうか》していたんだ」
ジネットは答えない。答えられない。
「ほんと、もったいない。これで、こんな暴れ馬でさえなければ、ねぇ……」
〈レオネル、お主、どこまで……〉
「静かにしていてください、アルト将軍《しょうぐん》。あなたの力は精神《せいしん》の解放状態から封印《ふういん》状態に移行《いこう》する、その階梯差《かいていさ》を用いてのみ振るえるものだ。その可愛《かわい》らしい体に自己封印してしまった今夜のうちは、あなたに出来ることはなにもない」
〈……む、う〉
アルトは沈黙する。
体が、動かない。
死んで生き返ってまた死んで、そんな気の狂《くる》ったような体験を何度か越えてきたわけだけれども、その生き返ってゆく過程《かてい》をこの目で見るのは、さすがに初めての体験だった。
胸《むね》の穴《あな》から流れ出た血が、ゆっくりと蒸発して消えてゆく。昼間にカフェテラスで見た光景が、こうしてまた目の前で繰り返されている。
これほどまでにデタラメな仕掛けに、自分は生かされているのか。
……生かされて、そして生きているだけなのか。何もできず、目の前で起きていることから切り離されて、寝転《ねころ》がっているだけなのか。五年前も、今も。
体が、動かない。
負けるわけにはいかないのに。
どうしても、勝たなければならない戦いなのに。
だから、決意したはずなのに。それなのに――
どうしても、体が、動かない。
死んだ肉体は、再《ふたた》び生き返るその時まで、ぴくりとも動かない。
不可能《ふかのう》という事実に対して、ただ駄々《だだ》をこねる子供のように、正面から抗《あらが》う。
――もう動かないはずの屍《しかばぬ》の指先が、ぴくりと小さく動いた。
そしてそれだけで、奇跡《きせき》は尽《つ》きた。
立ち上がることはできない。戦うことはできない。守ることはできない。
どれだけ強く願ったとしても、リュカ・エルモントには何もできない。
ジネットは、手近にあった壁《かべ》に肩《かた》を預《あず》け、立ち上がる。
やぼったい体練服|姿《すがた》。
幾度《いくど》も路上に転がったため、泥《どろ》に汚《よご》れていた。
一度はふさがったはずの傷口が開いたため、血に塗《まみ》れていた。
月の光のような銀色の髪《かみ》も、こう汚れてしまえば輝《かがや》きようがない。
「……ひどい有様だね、ジネット」
レオネルが、一歩|踏《ふ》み寄《よ》る。
「人形は、きれいに飾《かざ》り立てられていてこそ意味がある。
飾り棚《だな》から勝手に動き出して汚れてしまうような人形は、飾っておく価値《かち》がない。やっぱりこれが、きみに似合《にあ》いの結末だったってところかな」
「――――」
ジネットは唇《くちびる》を開き、言葉を紡《つむ》ぎだそうとして、
咳《せ》き込《こ》んだ。
血を吐いた。
白い肌《はだ》が、また新たな紅《あか》に濡《ぬ》れた。
「じゃあね」
短い別れの言葉とともに、剣が振り下ろされる。何の工夫《くふう》もなく、ただまっすぐに振り下ろされるだけの、しかしそれは確実に少女の命を奪《うば》う剣。
願い事。
ああ――そうか。突然《とつぜん》にその理解《りかい》が胃の腑《ふ》に落ちてきた。
ようやく分かったのだ。自分がこんな体で生きている訳《わけ》を。斬《き》られても刺《さ》されても、おそらく燃《も》やされてもなお、こうして生き続けていられる訳を。
レオネルもジネットもアルトも首をひねった、この不可解な蘇生《そせい》の真実を。
何のことはない。それはとても単純《たんじゅん》な理屈《りくつ》。
生きていてほしいと――死なないでほしいと、そう誰かが願ったのだ。そしてその願いが叶《かな》ったのだ。何でも願いを叶えると豪語《ごうご》してのけた、あの自称《じしょう》極悪《ごくあく》な魔女《まじょ》の力によって。だから自分はこうして生きているのだ。生きることだけは出来ているのだ。
ああ――そうか。唐突《とうとつ》に、もうひとつの理解が胃の腑に飛び込んできた。
いまこの場に、願いを叶える力は、ひとつきりしかないけれど。
けれど、その願いを口にする権利《けんり》は、自分にもあるのだ。
「――黒と白とを隔てる[#「黒と白とを隔てる」に傍点]=v
その理不尽《りふじん》は唐突に、終わりつつあった戦いの場に割り込んできた。
切っ先がジネットに食い込むよりも拳《こぶし》ひとつ手前のところに、硬質《こうしつ》の何かがあった。
それは剣《けん》を受け止める一|枚《まい》の盾《たて》。
甲高《かんだか》い金属音《きんぞくおん》と共に剣が弾《はじ》かれる。予想もしていなかったまさかの抵抗《ていこう》に、思わずレオネルは剣を手放す。剣は二人の頭上高くをくるくるとまるで小枝《こえだ》のように舞《ま》い、そしてかき消すようにして宙に消える。
一瞬《いっしゅん》、誰もが呆《ほう》けたように動きを止めた。
もちろん一瞬だけの話だ。ほんのわずかな硬直《こうちょく》の時の後に、レオネルは今のが魔法《ウィッチクラフト》による防御《ぼうぎょ》だと理解した。つまり、ジネットはまだ戦意を捨てていないということ。そう解釈《かいしゃく》して、大きく背後へと跳躍《ちょうやく》し距離をとる。
そしてその解釈が間違っていたことを、すぐに知る。
「リュ……カ……?」
ジネットが、呆然《ぼうぜん》とした声で呟《つぶや》く。目の前で起きたことが信じられないという顔だった。では、今の防御は誰が組み上げたものか。
このレオネルの剣を弾き散らすほどの硬度《こうど》をもつ障壁《しょうへき》を瞬時に創造《そうぞう》する。この場において、それほどまでの力を使うことの出来る者は、誰だろうか。
そんな奴《やつ》はいない。いるはずがない。いてはならない。しかし、それなら、なぜ。
苛立《いらだ》ちが疑問《ぎもん》になり、それが混乱《こんらん》にまで育つよりもわずかに早く――答えは出た。
ジネットの視線を追った、その先に。
一人の少年が、立ち上がっている。
16.
びゅおうごおうと風が吹いた。
ざざざわざわと木々がざわめいた。
空の上には、針《はり》のように細く輝《かがや》く銀色の月。
ゆっくりと、リュカ・エルモントの体は立ち上がる。
その体は、どうみても、まだ死体の領域《りょういき》だ。
心臓《しんぞう》は完全に破壊されているし、傷《きず》から流れた血の量はただそれだけで充分《じゅうぶん》に人の命を奪うに足るだけの量だったし、気の早いあちこちの筋肉が死後硬直で少しばかりこわばって感じられる。
けれど、言ってしまえば、そんなことはどうでもいい。リュカはそう結論する。この体がどんな状態にあろうと、自分はこうして生きているのだから。
「きみ……が?」
疑《うたが》うように問いかけてくるレオネルを無視して、ゆっくりと、剣を動かす。
いい剣だと思った。細くて、頼《たよ》りないほどに軽い。けれどどんなに力を込めて振り回しても折れず、曲がらず、使い手の思いに忠実《ちゅうじつ》に応《こた》えてくれる。なるほどジネットという人間に似合《にあ》った剣だと思う。その切っ先をまっすぐにレオネルに向ける。
うまくいけば、どうしようもないくらいに絶望的なこの戦況を、変えられる。
小さなその願いを込めて、遠い昔に聞いたあの|呪文の言葉《ワーズ》を、囁《ささや》く。
「――あの夜に[#「あの夜に」に傍点]、みた夢を[#「みた夢を」に傍点]」
空が、輝いた。
星が、降り注いだ。
白く輝く無数の矢が、レオネルに、あるいはその周囲の従者《じゅうしゃ》たちに突《つ》き刺《さ》さる。真夏の
陽光よりも鮮《あざ》やかな白が、容赦《ようしゃ》なく辺りを塗《ぬ》りつぶした。
〈どおおっ!?〉
爆発《ばくはつ》的な熱と衝撃《しょうげき》が、着弾点を中心にして膨《ふく》れ上がった。直撃を受けた従者たちは一瞬で蒸発《じょうはつ》し、その周囲に在《あ》った従者たちは形を失い、ぼろぼろに崩《くず》れながら吹き飛ばされた。とっさに身を伏《ふ》せたリュカは、それでもその衝撃の力強さに大地から引き剥がされ、手まりか何かのようにその場を転がるはめになった。
破壊の光が収《おさ》まり、リュカはその場に半身を起こす。あちこちにぶつけた体中が痛《いた》んでいたが、これといって致命《ちめい》的なダメージは受けていない。そして逆に、レオネルと従者たちが在ったその場所は、今はまともに生きる者のない炎《ほのお》の海となっていた。
「……そうか。こうやるのか」
自分の手のひらに視線を落として、呟く。
大きな扉《とびら》をいっぱいに開いたような感覚だった。今までその存在《そんざい》すら知らなかった知識《ちしき》が、次々と頭の中に流れ込んでくる。この世界がどれほど不安定なものなのか。どのような言葉を放てばその不安定な世界を改竄《かいざん》できるのか。
ぽろり、と指先の色彩《しきさい》が小さく砕《くだ》けた。
七色に輝く砂粒《すなつぶ》となって、炎に煽《あお》られた風に流され、虚空《こくう》に溶《と》けて消えてゆく。
「貴様《きさま》……ァ!」
大音声《だいおんじょう》を聞いて、顔を上げる。
光の薄《うす》れた跡《あと》に、大地に膝《ひざ》をついたレオネルの姿《すがた》がある。残っていた従者たちをほとんど全てを盾にして、それでも殺しきれなかったダメージがその体に刻《きざ》み込《こ》まれている。口元から一筋の血が滴《したた》っている。効《き》いている。
「貴様、何を……したァ!」
予想もしていなかった反撃をされ、夢想《むそう》だにしていなかった深い傷を負わされ、レオネルは混乱している。おそらくはこれが本来の性格《せいかく》なのだろう、あの慣《な》れ慣れしい態度を剥《は》ぎ取ったその下からは、鬼神《きしん》のごとき激昂《げっこう》の形相《ぎょうそう》が現れていた。
「ああ、いい感じだぜレオネル」
砕《くだ》けた指先を拳《こぶし》の中に握りこんで、リュカは軽口を飛ばす。
「外道《げどう》ならちゃんと外道らしく、だ。今のあんた、見た目分かりやすくて結構《けっこう》イイよ」
レオネルは、まだ、倒れていない。
まだあと一手、自分はこの切り札を使わなければならない。
ジネットは動けない。
もともと動き回るだけで限界の重傷《じゅうしょう》のところに、重い蹴撃《しゅうげき》を喰《く》らったのだ。どれだけ痛みを堪《こら》えようと、痺《しび》れてしまった手足はまるで動かない。
立ち上がれない。
「…………」
もう、これ以上は、何もできない。
ただ傍《かたわ》らのアルトと会話をするだけの余力《よりょく》すら、残っていない。
「…………」
だから、目の前で信じられない光景が広がっていくのを、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。
〈なんじゃ、ありゃ……〉
呆《ほう》けたような、アルトの呟きの声を聞く。
〈他の者の広げた|夜の軟泥《ワルプルギス》の内側で、しかも自身の|夜の軟泥《ワルプルギス》の展開もせず、離界《りかい》の外側から力を引き寄せおった……?〉
信じられない、とその首を軽く振る。
実際に、それは信じがたいことではあったのだ。
魔法という、この世界に本来存在しえない力を顕現《けんげん》させるには、この世界そのものをある程度まで都合よく捻《ね》じ曲げる必要がある。それを為《な》すのが|夜の軟泥《ワルプルギス》であり、それを解放する呪文《ワーズ》。
なのに、目の前のあの少年は、その大前提《だいぜんてい》を軒並《のきな》み全《すべ》てぶっちぎってみせたのだ。
「…………」
〈それに、あやつ、討《う》ち死にする気か〉
「!」
〈体が崩《くず》れ始めとる。理屈《りくつ》はわからんが、自分を生かしてきた力を無理やりに別の用途に注ぎ込んどるように見える……そう長くは保《も》たん〉
もう動かないと悲鳴をあげる首を無理やりに動かして、その光景を見る。
七色の帯が、こちらに背を向けたリュカの体から剥離《はくり》してゆく。そして消えてゆく。
「……アヴィン……」
その名前が、思わずこぼれた。
〈確《たし》かに、あの若造《わかぞう》に似《に》とるな。頼《たよ》りない背中を見せてとんでもない無茶をするあたり、まったくそっくりじゃわい〉
肘《ひじ》で、上半身を起こす。
「だめ、だ……やめろ……」
消えゆこうとしている背中に、手を延ばす。
〈止《や》めるのはお主じゃ、ジネット。状況《じょうきょう》を見んか。いまここでこの|夜の軟泥《ワルプルギス》を引っ込めれば、レオネルに抗《こう》する手段は何ひとつ残らん。あの少年も含《ふく》め、誰ひとり生き残らんぞ〉
「でも……」
〈あの少年の意地を、無駄《むだ》にする気か〉
その言葉は卑怯《ひきょう》だ。そんなことを言われてしまえば、もうそれ以上は抗《あらが》えない。
上半身の力が尽きて、その場に再び顔を伏《ふ》す。
〈諦《あきら》めろ。お主の選択《せんたく》は間違っとらん。あのときも、今も〉
「…………」
それはそうだろうと思う。
選択が正しかったからこそ、これまでなんとか生き延《の》びてきたわけだし、今この場所も生き延びられる可能性《かのうせい》が出てきたのだ。正しさは必要だ。少なくとも、ひとが生きていく上では、不可欠と言ってもいい。
けれど――その正しさが、今はこの上なく憎《にく》い。
これが最善《さいぜん》だったのだと、そう納得《なっとく》するしかない現実《げんじつ》が憎い。
失われたあれらは、そもそも切り捨てられなければならないものだったのだと、そう納得しようとしている自分が、誰よりも何よりも、憎らしいのだ――
代償《だいしょう》は、やはり必要だった。
この体を維持《いじ》している力を、無理やりに別のところに持ち去っているのだ。そういうことになるだろうと、予想は出来ていた。覚悟《かくご》は出来ていなかったが、今この場で間に合わせた。絶対《ぜったい》に負けられなくて、けれどほとんど負けかけていた戦いなのだ。今さら惜《お》しむものなど、何も……いや、あまりない。
躊躇《ちゅうちょ》をしている余裕《よゆう》はない。だから未練の何もかもを振り捨てて、リュカは叫ぶ。
「あの夜に[#「あの夜に」に傍点]、」
「弾け飛べ[#「弾け飛べ」に傍点]」
突然目の前で起こった爆発が、リュカの言葉を中途に叩《たた》き潰《つぶ》した。レオネルの放った小さなつぶてが弾けたのだと、そう気付いた時にはレオネルは既《すで》に地を強く蹴って、口付けを迫るかのような距離にまで近づいてきていた。
「いい隠《かく》し芸じゃないか、リュカ・エルモント!」
ごう、と風を切って迫る大剣を、細剣で払うようにして、なんとか避《よ》けた。何もなかったはずの場所から抜き放たれた剣。ジネットと同じ芸当。それ自体は、今さら驚くにはあたらない。が、
「何も知らないふりをして、何も持たないふりをして、その懐《ふところ》の下に力を隠《かく》し持っていたか! 姑息《こそく》な手だね、まったく! このぼくが呆《あき》れてしまうほどに!」
そうじゃない。
力は、ただ、そこにあっただけだ。
俺はそのことに気付いて、そして、それを遣《つか》うことを決めただけだ。
「けど失敗だったね、切り札は価値《かち》ある瞬間《しゅんかん》に切ってこそ意味をもつものだ! いまこんなところで全《すべ》てを明かしてしまったきみに、勝機なんてものはない!」
こいつは、何も、分かってない。
初めてこの手に握《にぎ》った一|枚《まい》のカードが、これなのだ。|切り札《トランプ》だからとかなんとか、小難《こむずか》しいことを考えて出し惜しみをするような余裕などない。目の前にあった選択肢はただひとつだけ。のるか、そるか。
「そう、遊びの時間は終わりだ! ここからは、もっと楽しい遊びの時間だ!」
遊びなんて始まってもいなかった。そしてもちろんここから先も同じこと。
だから――こいつの言うことは、何ひとつ、正しくなんて、ない。
シャツからボタンをひとつ引きちぎって、放《ほう》り投げ、
「刺し貫け[#「刺し貫け」に傍点]」
めぎょ、と鈍《にぶ》い音を立てて、ボタンは歪《ゆが》み、ねじれ、膨《ふく》れ上がり、果てにはいびつにねじれた一本の槍《やり》を形作った。
「……え?」
レオネルが目を瞠《みは》る。慌《あわ》てて後方に跳《は》ねて、大きく距離《きょり》をとる。その目が叫《さけ》んでいる。ばかな。それは『|鉛人形の王《アンペルール》』の力、ほかの魔法書《グリモア》を手にしたとしても使えるはずがない芸当のはずだ。
「さ……刺し貫[#「刺し貫」に傍点]」
「弾け飛べ[#「弾け飛べ」に傍点]」
二つ目のボタンが、レオネルの目前で大きく弾け、その言葉を遮《さえぎ》った。ダメージそのものは大して大きなものではなかっただろう、しかし彼はその瞬間、小さくひるんでしまった。そしてそれが、致命《ちめい》的な隙《すき》になった。
どぼ、と重たい音を立てて、槍はレオネルの胸元《むなもと》を貫き、そのままの勢いで大地に深く突き立った。
「が……っ!?」
心臓ではない。まだ生きている。が、重傷であることに違いはない。レオネルの手足から力が抜ける。皮肉にも貫かれた槍に支《ささ》えられる形で倒《たお》れずに済《す》む。磔《はりつけ》にすらならなかった罪人《ざいにん》のような姿で、天を仰《あお》ぐように顎《あご》を大きく上げる。
その目が語っている。そんなバカな。これは、これでは、まるで、あの。
「光に溶けて[#「光に溶けて」に傍点]/夢は終わる[#「夢は終わる」に傍点]」
右の手のひらに、冷たい熱の塊《かたまり》が生まれる。
まるで包帯か何かのように、右の腕そのものが、半ば近くまで七色の光の帯に解《と》けている。その解けた光は泳ぐように宙《ちゅう》をうねり、手のひらの先に収斂《しゅうれん》して、ちょうど手に収まるほどの大きさの、純白《じゅんぱく》の光球を創《つく》り出している。
その光球を――レオネルの胸元に、押し込む。
泥《どろ》に手を触《ふ》れるような、わずかな抵抗《ていこう》。手首をねじるようにして、押し切る。
「か……は……?」
「言いたいことは分かってる。魔法書を持たず、それでも魔法書の全てを束ねたような力を振るう、これじゃまるで、あの魔女、フィオル・キセルメルの戦い方だ……だろ?」
おそらくレオネルが口にしようとしているだろう言葉を勝手に代弁《だいべん》して、
「俺も、そう思う。いや、見たことないけどな」
光球をレオネルの中に収めたまま、手を引き抜いた。
一歩、退《しりぞ》く。
光球が、膨《ふく》れ上がる。
「あ……あ」
レオネルの体が、崩壊《ほうかい》してゆく。光球に吸い込まれてゆく。
何の音もない。
静かに、ただ眩《まばゆ》く、死よりも色濃い無の白が騎士《きし》の体を蝕《むしば》んでゆく。
「さよならだレオネル・グラント、本物の騎士」
きゅぼう、と最後に一度だけ小さな音を立てて――
光球は、レオネルの全てを飲み込んで、そのまま消えて失《う》せた。
風が吹いて。
吹き過ぎて、止《や》んで。それだけの時間、誰もが何も言わなくて。
〈……なんともはや〉
呆けたように、アルトが呟いた。
〈これは、凄《すさ》まじいというか、なんというか……〉
その言葉で、糸が切れたと感じた。
がくん。体が一度大きく揺《ゆ》れて、膝《ひざ》が折れて、その場に倒れ伏して、そしてリュカは自分自身の終わりの時が来たことを悟《さと》った。
無理もないとは、思う。
自分自身の命を繋《つな》ぎとめていた力を、これでもかとばかりの全開出力で、別の用途に注ぎ込んだのだ。まさか無事に済《す》むとは思っていない。どれだけのものが失われたとしても、それを受け入れる覚悟《かくご》だけはさっき済ませた。
悔《く》いが無いなどとは、絶対《ぜったい》に言わないけれど。
誰かを救うのは、正しいことだという。
けれどそのために自分が破滅《はめつ》するならば、どうなのだろう。いわゆる自己犠牲《じこぎせい》という行為《こうい》には、称《たた》えられるだけの価値《かち》はあるのだろうか。
きっとそこには正しいも間違っているも無い。そんな風に思う。
ただ、そこにいる者たちが納得《なっとく》出来るかどうかがあるだけだ。
破滅した自分自身と、それと引き換《か》えに救いを得た誰かとが、そのことにどれだけの後悔を抱《かか》えることになるのか。それによって、その出来事の悲しさが決まるだけなのだ。
「……元気でな。ジネット、じーさん」
二人の顔を見たくなかったから、振り返らずに、言った。
「いつかどっかでフィオルに会えたらさ。『ごめん』って伝えてくれよ。せっかく生き延《の》びさせてくれたのに、無駄《むだ》にしちゃって悪い、って……」
それで、おしまい。
全身の力が、今度こそ、抜ける。
体の全てが、七色の帯へと崩れて、消えてゆく。
何の脈絡《みゃくらく》もなく、ほにゃらかと笑うアリスの顔が脳裏《のうり》に浮かんだ。
がんばって練習しますから、当日にはリュカさんも見に来てくださいね。
ベネディクトのむっつりと気難《きむずか》しい顔がその隣《となり》に並んだ。
是非《ぜひ》来てくれ、お前がいる時といない時とでは主演《しゅえん》女優の気合の入り方がまるで違う。
――ごめん、みんな。いろんな約束をしてきたけど、全部守れない。
悲しいとかさびしいとか、そういった感情は当然あるけれど、でもそんなものをジネットたちに背負《せお》わせたくはなかったから、全部胸の奥《おく》に抱えたままで消えていくことに決めた。
最後にひとつだけ。誰に向けるともなく、別れの言葉の形に、唇《くちびる》を動かす。
――さようなら、みんな。
空には、針《はり》のように細い月。
七色の光が、最後に一度だけ大きく弾けて、消えた。
[#改ページ]
▼epilogue/
突然《とつぜん》リュカ・エルモントが姿を見せなくなって、三日ほどが過《す》ぎた。
様々な憶測《おくそく》が学術院を飛び交《か》った。
突然遠くに旅立ちたくなった説。決闘《デュエル》だらけの毎日に疲《つか》れて身を隠《かく》した説。ついにアリスに飽《あ》きて絶世の美女と駆《か》け落ちした説。
そして、突然の病に罹《かか》り、いまごろベッドの中で独り苦しんでいる説。
「……まさか」
そんなことはないだろう、とアリスは思う。
家族が誰《だれ》もいないタイミングで病気になったなら、隣家《りんか》に頼ればいいのだ。マルカーン家に助けを求める声が届《とど》いていない以上は、大丈夫《だいじょうぶ》だと思ってかまわないはずだ。
けれど、もしも、万が一、何かがまかり間違《まちが》って、そういうことになっていたなら。今頃《いまごろ》リュカがベッドの上で独《ひと》りうんうんとうなっていて、助けを求める声を出すこともできないほど衰弱《すいじゃく》してしまっていたりしたならば、どうだろう。
あまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な想像《そうぞう》だ。
まさかそんなはずはないと、アリスは力いっぱいに断言《だんげん》ができる。華奢《きゃしゃ》なところのあった五年前ならともかく、最近のリュカは体力がついて、ほとんど病気などしないのだ。心配など要《い》らない。だから彼が学術院に来ない理由は別の何かだ。間違いない。見舞《みま》いの必要など、まったくないのだ。うんうんうん。
深く深く頷《うなず》きながら、呼《よ》び鈴《りん》を鳴らす。
腕には、食材のぎっちり詰《つ》まった布袋《ぬのぶくろ》を抱《かか》えている。
(……だって、仕方ないじゃないですか)
見舞いの必要は無いと分かっていても、心配なものは心配なのだ。大丈夫。もし本当にリュカが元気ならば、押《お》しかけて夕食を作りに来ただけだと言えばいい。新しい料理を覚えたから、実験台になってほしいのだと。こういうときのために、新しいレシピのストックはいくつか用意してある。ぬかりはない。
しばらく待つ。反応《はんのう》は無い。
もう一度呼び鈴を鳴らす。やはり反応はない。
「…………」
まさか本当に、突然遠くに旅立ったのか。身を隠したのか。絶世の美女と駆け落ちしたのか。それともやっぱり、玄関《げんかん》にまで出てこられないくらいに消耗《しょうもう》して、ベッドの上で独り苦しんでいるのか。
どうしよう、と迷《まよ》う。窓《まど》を割《わ》ってでも中に入ったほうが良かったりするのだろうかと、半ば近く本気で考えたりすらする。
がちゃ。鍵《かぎ》が外され、ノブが回された。
ああ早まらなくてよかった、とアリスは内心で胸《むね》を撫《な》でおろす。やっぱり全ては考えすぎだったのだ。彼が学術院《ライブラリ》に来ないことには、何かもっと別の、聞いてしまえばなんてことのない理由があるのだ。心配なんて何も要らなかったのだ。
「あの、リュカさん、最近|学術院《がっこ》で見ませんけど、どうしま――」
ぎしり。
言葉半ばにして、アリスの体は硬直《こうちょく》した。
艶《つや》やかに流れる銀の髪《かみ》に、思わず見入ってしまいそうになる翠玉《エメラルド》の瞳《ひとみ》。同性《どうせい》のアリスから見てもめちゃくちゃ綺麗《きれい》な少女が、そこに立っていた。
「何用だ」
そっけない声で、少女は言った。
「新聞の契約《けいやく》なら間に合っているぞ、たぶん」
「いえ、あの」
そんなこと言わないでとってくださいよ半年、いや三ヶ月でいいですから何でしたら何か特典をおつけしまして――いやいや違う。そんなどうでもいい言葉を脳裏《のうり》に浮かべている場合ではない。もちろん自分はそんな理由でここに来たわけではないのだから、
「あの……リュカさん、は」
「む」
少女はわずかに眉《まゆ》を寄《よ》せる。その姿が妙《みょう》に似合《にあ》っているのは、結局のところ美人は何をやっても様になるという切ない世界|法則《ほうそく》のせいだろう。少しだけ嫉妬《しっと》。
「リュカの知り合いか」
「知り合いといいますか、それ以上と言いますか」
いや、そもそもそれより先に――あなた、誰《だれ》ですか。
――ちちちちち。
小鳥のさえずりを聞きながら――リュカ・エルモントは途方《とほう》に暮《く》れている。
見上げた先には天井《てんじょう》がある。
少し視線《しせん》を落とせば、そこにあるのは見慣《みな》れた自分の部屋だ。あちこちに放り散らされた教本や読み物本、がらくたを詰《つ》めた木箱の山、箪笥《たんす》の脇《わき》に無造作《むぞうさ》に立てかけられた何本もの木剣《ぼっけん》。そういった何もかもが、カーテン越《ご》しの窓から差し込む夕暮れのオレンジ色に染《そ》まっている。
ベッドの中で、目を覚ましたのだ。
手を、自分の目の前にまで持ち上げてみる。
握《にぎ》ったり、開いたりして、具合を確かめる。少し筋《すじ》がきしんでいる感じはあるが、特に問題なく動く。無くなってしまったはずのものが、元どおりの姿で、ここにある。いや、それを言うなら、今度こそ完膚《かんぷ》なきまでに死んでしまったはずの自分が、またこうして、自分の部屋で生き返っている。
「……まさか、全部、夢《ゆめ》だったとか」
そんなはずが、ない。
あの恐怖《きょうふ》も、戦慄《せんりつ》も、覚悟《かくご》も、とにかく何もかもが、嘘《うそ》だったなんてこと、あるはずがない。そんなことは、あってはならない。
「じゃあ、何で、こんなとこに」
「ふむ、目を覚ましたか」
戸口から聞こえた声に、覚えがあった。手のひらに見入っていた顔を上げる。薄紫色《うすむらさきいろ》の簡素《かんそ》なドレスに身を包んだジネットがそこに立っている。
「先に教えておくが、三日ほど眠《ねむ》っていたのだぞ、きみは――調子はどうだ?」
すたすたと部屋に入り込んでくると、「空気を換《か》えるぞ」とだけ言って、カーテンを開き窓《まど》を開け放った。
ぶわあ、と吹き込んできた風がカーテンに孕《はら》み、ジネットの長い髪《かみ》を軽く嬲《なぶ》る。
「え、あ……たぶん悪くない、みたいだけど……」
「そうか。ではこれも先に説明しておくが、私がきみの命を繋《つな》いだ」
「……え?」
「私の『|琥珀の画廊《イストワール》』に描《えが》かれているのは回想の情景《じょうけい》、その能力《のうりょく》は想起にこそ力を発揮する。かつてあったことを今に呼び起こし今に留めることがその本分。だからきみという人間が消えてなくなる寸前《すんぜん》に、その少し手前の状態のきみを世界に固定した」
「じゃあ……」
「きみはいま生きている。とりあえずその事実を、私たちの詫《わ》びと礼として、受け取ってもらえないだろうか」
笑顔が、浮かんだ。
生きている。自分は生きている。そしてそのことを保証《ほしょう》してもらえたのだ。
「そっか。俺《おれ》、生きてんだ」
「喜ぶようなことではないだろう。もともときみには、死ななければいけない理由なんてものは無かったのだから」
「関係ねーって。人間なんてもともと、理由があって死ぬような生き物じゃないしな。納得《なっとく》して死んでけたら幸せなほうだ……んでもって、生きていけるほうがもっと上だ」
軽い口調で言い放ったが、なぜかジネットの表情が曇《くも》った。なんだろうとは思ったが、それを確《たし》かめるよりも早く、
「――そうだ、きみの友人が会いに来ているのだが」
そんなことを言い出され、機を逸《いっ》した。
「友人? ……まさか、アリス?」
「すぐさま女の名前が出てくるあたり、随分《ずいぶん》な仲のようだな。応接室《おつせつしつ》のほうに待たせているのだが、きみも調子が戻《もど》っているようだし、呼んでこよう」
「うげ」
ジネットとアリス。あまり会わせたくない組み合わせだったが、まさか自分の知らないところでそんな邂逅《かいこう》を果たしていたとは。
「……何か妙《みょう》なこと言ってないだろうな?」
「何も。エブリオで世話になった人間の身内だと名乗ったら、何も聞かないでいてくれたからな。むしろ要《い》らない気を遣《つか》わせてしまったよ」
ああ……そうか。
確かに、自分たちの関係は、そういうものだった。
「ここ数日見かけない君を心配して、様子を見に来たらしい。……いい娘《むすめ》だな」
まったくだ。
自分の友人にはもったいないくらいに、いい奴《やつ》なのだ、アリスは。
「では、呼んでこよう。邪魔《じゃま》はしないから、存分《ぞんぶん》に甘《あま》えるがいい」
「って、おい!?」
最後になにやらとんでもないことを言い残して、ジネットは部屋を去っていった。
わずかな残り香《が》も、すぐに夕方の風に洗《あら》い流されて消えてしまう。
「……なんだよ、あいつ」
小さなその呟《つぶや》きを、聞き止める者は誰もいない。
その後、アリスにしこたま怒《おこ》られた。
いわく、倒《たお》れるくらいに調子が悪くなったなら、隣《となり》を頼《たよ》ってくれてもいいじゃないですか。さっきの女のひとがいたからそれでよかったとかそういうこと言い出したりはしませんよね、へんな遠慮《えんりょ》はしないでくださいっていつも言っているでしょう、病人の世話なんてものは手がいくらあっても足りることはないんですから……
何やら言っていることは乱《みだ》れていたが、その気持ちは嬉《うれ》しかった。
――一人の少女が、夕暮れの街の中を歩いている。
〈行くのか〉
その胸《むね》の中に抱《いだ》かれた人形が、少女にだけ届く小さな声で、問う。
〈本当に、これで良いのか〉
「ああ」
迷《まよ》いなく、少女は頷《うなず》く。
〈お主の施《ほどこ》した魔法《ウィッチクラフト》は刻印《ブランディング》ではない。それ自身に維持《いじ》の手段《しゅだん》がない……今すぐにでも解《と》けて消えかねない、不安定なものじゃろ?〉
「解かない。だから、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
〈自分の言っていることの意味、理解しておるのか? お主の体は、あれからまるで回復していない。傷《きず》ついたその体で魔法を用い、かつそれを刻印にもせず維持し続ける……どれだけの無茶をしているのか、まさか気付いておらんわけでもあるまいに〉
「それでもだ」
〈敵《てき》はレオネル一人ではない。あの男が消えても……いやあの男が消えたからこそ、お主の周りの危険《きけん》は減《へ》りはしない。それも理解しとるか?〉
「くどい」
人形が、小さく小さくため息を吐《つ》く。
〈あの少年、気に入ったのか?〉
「私が? 彼を?」
少し考えて、
「そういうこと……なのだろうな、うん」
〈ラヴか? ラヴなんか? って、くべふっ〉
投げ捨《す》てて、踏《ふ》みつけた。
〈うおおい、ジネットお主、妙なこと学習しとらんか!?〉
「妙なことを言うからだ」
〈そこまで激《はげ》しい反応《はんのう》するとは思わんかったんじゃい……まったく、二百も年を重ねておきながら、初心《うぶ》な小娘でもあるま……ぐへ、おぶ、ちょ、おぬぐはっ!?〉
一通り小突き回してから、ぼろ雑巾《ぞうきん》のようになった人形を摘《つま》み上げる。
疲《つか》れきったように肩《かた》を落とす人形が、呟く。
〈……あやつがフィオルへの最大の手がかりということは間違《まちが》いないんじゃ。なぜこちらに取り込まん?〉
「しつこいぞ、アルト老。リュカはあのまま、この街で暮らしてもらう。悪い魔法使いが倒れたのだ、せめて一人くらいは幸福にその後を過ごさないことには、物語として据《す》わりが悪いだろう――」
〈笑えん皮肉じゃな〉
「――そうだったな」
風が強い。
砂《すな》が舞《ま》い、衣服の裾《すそ》がばたばたとやかましく騒《さわ》ぎ立てる。道行く人々は誰もが口元を抑《おさ》えながら、身を低くして家路《いえじ》を急いでいる。
その風に逆《さか》らうように、少女は歩みを進める。
〈行けるのか、その体で?〉
「行くさ。足を止める理由など何もない」
〈いや……隊長とかそーゆーのも立派《りっぱ》な理由になると思うんじゃがな……〉
「この程度で音《ね》をあげるほど、脆《もろ》い覚悟《かくご》ではない」
〈そーゆー問題でもない気がするんじゃが……〉
ぶつくさとぼやき続ける声を聞き流し、ジネットはなんとなく空を仰《あお》ぐ。
夕暮《ゆうぐ》れの空は、やがてまた夜の藍色《あいいろ》に染《そ》まる。これまで毎日がそうであったように。これからの毎日がそうであるように。この世界がこの世界として在《あ》り続ける限《かぎ》り、いつまでも変わらずにそう在るように。
そしてその中天《ちゅうてん》にひっかかるようにして、針《はり》のように細《ほそ》い銀色の月が――
「いい天気だ。どうやら明日も晴れそうだな」
〈露骨《ろこつ》に話題を変えにかかるし……〉
「なんだ、さっきからずいぶんと文句《もんく》が多いな」
小さいながらも深々とした嘆息《たんそく》を聞いた。
〈もうええ。お主《ぬし》のワガママ三昧《ざんまい》にはもう慣《な》れた。好きにせえ〉
「そうか」
少しずつ満月に向けて太り始めた月の光を浴《あ》びながら、目を細めて、呟《つぶや》く。
「ならば、還《かえ》るとしようか。
我《われ》らのあるべき場所、果《は》ての見えない|探求の旅《クエスト》へと――」
[#改ページ]
あとがき
「相談《そうだん》があるんだ」
『……うん、言ってみて』
「今回のあとがきは8ページもあると言われた」
『うん』
「ぶっちやけそんなに書くことなんてない」
『うん』
「それに、そもそも書き出しからして難《むずか》しいんだよ。なんてアイサツして始めるのがいいかなぁ」
『そんなの、おひさしぶりです、でいいじゃん。何か問題でもあるわけ?』
「いや、それがさ。またまるまる二年ぶりの新刊《しんかん》だし、新シリーズ立ち上げだし、前までに書いてたものとずいぶん毛色《けいろ》が違うし、はじめましてもお久《ひさ》しぶりですもお待たせしましたも、いまいちしっくりこないんだ」
『うん』
「なにかいいアイデアとかない?」
『……その前に質問《しつもん》なんだけど』
「聞こう」
『そのアイデアとやらを聞きたいがためだけに、草木《くさき》も眠る午前一時に、友人の携帯《けいたい》に電話をかけてくるのかな君という人間は』
「まさしくその通り」
『……』
「……」
『……』
「……もしもし?」
『んじゃこの際、それっぽい言葉を自作するとか。たとえばほら、さっきの挨拶を全部合成しておひさまたせじめまして≠ニか良いんじゃない、わかりやすくて』
「うわ、安直《あんちょく》っ。ていうか語呂悪っ」
『安直じゃなくて王道《おうどう》なの。シンプルイズベストは世界の真理なの。まぁ騙《だま》されたと思ってこの書き出しでやってみなってば』
「騙されたと思ってっていうより、それって普通に騙しに入ってない?」
『大丈夫、大丈夫。問題ないって』
「うーん」
『んじゃおやすみー』
「おやすみー」
おひさまたせじめまして。もしくはお久しぶりです。枯野《かれの》瑛《あきら》です。
実にありがたいことに、またこうして皆様の前にお目見えすることができました。
初めて私の本を手にとられたという方は、どうぞ今後ともよろしくお願いします。
以前の作品を読んだことがあるという方は(ありがとうございます)――これまで私の書いてきた物語とはだいぶ毛色の違う一作になっていることに戸惑《とまど》われているかもしれませんが、そこはそれということで、新鮮《しんせん》な気持ちで読んで頂ければ幸いです。
なお、この本には『銀月のソルトレージュ』なるシリーズタイトルがつけられています。これはつまり、この後も物語は続いていくということではあるのです、が。
です、が。
やっぱりそこはそれ、世の中あんまり甘くありません。
甘くないその証拠に、担当さんには
「でも一巻があんまり売れないようだったら……」
と言葉を濁《にご》して顔を背《そむ》けられました(一部|誇張済《こちょうず》み)。ビターな世の中です。そんなわけですから、物語の続きに興味《きょうみ》を持たれた方、ぜひ応援《おうえん》をよろしくお願いします。具体的には、折り込みのアンケートはがきを編集部まで送っていただけると、とてもとても幸せになれます。主《おも》に私が。
「……って、アイサツ書いてもまだページが大量に余るんだよ。何かアイデアをよろしくお願いプリーズシルブプレ」
『あのねぇ』
「おやなにやら不穏《ふおん》そうな声」
『夜中に何度も着メロ聞かせないでくれないかな?』
「なぁに、音楽は人生を潤《うるお》すっていうじゃないか。よかったな、きみの人生は湿気《しっけ》が過《す》ぎてびしょびしょになったせんべいのごとしだ」
『ケンカ売ってる? ねぇ、ケンカ売ってるの?』
「やだなぁ、まさかそんなわけないじゃないか。で、何かアイデアない?」
『……どんな話なのかの紹介《しょうかい》とか、した?』
「してない」
『じゃあ、それ書けばいいじゃない。今回は前までに書いてた話とは雰囲気ぜんぜん違うんでしょ? なら、少しそこに言及しておくのが思いやりってものじゃない?』
「おお、なるほど、思いやりか」
『そこで感動したよーな声が聞こえるってのも、色々と不安を誘うんだけど……まぁいいや、それじゃそういうことで、今度こそおやすみ』
「おやすみ、いい夢を」
『………うわー、殺意《さつい》覚えるなァ……』
この話は剣《けん》と魔法《まほう》の世界の物語です。
正確には、剣も魔法も表舞台《おもてぶたい》から去った後の、中世ではなく近世ヨーロッパに近い場所ではありますが……そんな世界の中にあっても、時代遅れの剣や魔法を携《たずさ》えた人々と、彼らの繰り広げる戦いの話です。
ここ数年、私は戦闘《せんとう》どころか、そういった緊迫《きんぱく》する展開を含む話をほとんど書いてきていませんでした。でも今回は、人の意思《いし》と意思《いし》、エゴとエゴがぶつかるところに主題を置いた話を書きたかったのですね。
結果は、いかがなものだったでしょうか?
作中に登場する、さまざまな用語《ようご》について少し。
今回の話の舞台であるフェルツヴェンは、複数の文化や言語が交じり合う場所に位置しています。そのため、作中に登場するさまざまな用語は、かなり無節操《むせっそう》にあちこちの言語を引っ張ってきて命名されています。
ひとつの用語にどの言語圏《げんごけん》の言葉が当てはめられるかは、作中においてその言葉が生まれた場所と時期、そして命名者《めいめいしゃ》が誰であるかなどによって区別《くべつ》されています。なので、そのあたりに興味のある方は分類してみると面白いかもしれません。
あ、でも普通に読む分には、そんなことを気にする必要はまるでありませんよ。なんか音《おと》の響《ひび》きが違う言葉が混ざり合ってるなー、くらいの感覚で読まれればそれで充分ではな
いかと。
ほどよく紙幅《しふく》も埋《う》まってきたところで、謝辞《しゃじ》などを。
忙しい中、数々のイラストを仕上げてくださった得能《とくのう》正太郎《しょうたろう》さん。
今企画の進行中に代わりました前担当のK藤さんと、現担当のT藤さんの両名。
ここまで来る道の途中、幾度となく励ましてくれた友人たち。
この本の刊行に関わられた、全ての方々。
そして読者の皆様に――
ありがとうございました。そして改めて、今後ともよろしくお願いします。
二〇〇六年 十月[#地から2字上げ]枯野 瑛
[#改ページ]
「ありがとー、なんとか書き終わったよ」
『……そう』
「あれ、なんか声に元気ない?」
『……そう? 気のせいじゃない……?』
「いやーよかった、一時は本気でどうなることかと。これで枕を高くして眠れるってものだよね、ありがたいありがたい」
『それはいいんだけど、まさかそれが言いたいがためだけに電話してきたわけ?』
「そうだけど、何か問題でも?」
『……………………………………………………………………………………殺ス』
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
銀月《ぎんげつ》のソルトレージュ ひとつめの虚言
平成18年11月25日 初版発行
著者――枯野《かれの》瑛《あきら》