斎藤隆介
職人衆昔ばなし
目 次
序・福田恆存
大寅《だいとら》道具ばなし
仙太郎大工自慢ばなし
地蔵の富さん聞き書抄
指物師恒造放談
九十に四年の指物師
勇みのめ組の組頭
思楽《しらく》老コテばなし
畳屋恵さん昔話
茂作老瓦談義
石勝老人回顧談
庭師十基・秋の夜語り
ぬし屋名人・信太郎
「ハマのペンキ屋」磯崎老
竹に生きる尚月斎
家具木工の二郎さん
国会演壇を彫った人
ギヤマンの虹を大衆へ
飾り職最後の人
人間国宝・松山蒔絵ばなし
螺鈿師《らでんし》・華江夜話《かこうやわ》
鶴心堂表具ばなし
多聞堂《たもんどう》四代
台湾ホネ屋・陳乞朋《タンキチビユン》
重《しげ》さん理事長チン談義
首がついてた辰次郎
二代目源さん組子噺《くみこばなし》
売らない大工道具店
あとがき/文庫版あとがき
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[#地付き]福 田 恆 存
[#地付き](原文のまま)
これは雜誌「室内」に數年に亙つて連載されたもので、私はその大部分を既に讀んでゐる。同誌編集長の山本夏彦氏の見識もさる事ながら、筆者齋藤隆介氏が職人の人柄と仕事とに對して懷いてゐる愛情[#底本では旧字体「りっしんべん+」]と、人目につかず惠まれもせぬ聞書といふ縁の下の力持を長年續けて倦む事の無かつた根氣とに深く敬意を表する。表向き誰も彼も實に能辯に喋つてゐるが、大抵は口の重い、そして人嫌ひな名人氣質の職人から話を引き出す苦勞は竝大抵の事ではなかつたらう。
斷るまでもあるまいが、この書は一見さう思はれる樣な懷古趣味から生れたものではない。またさういふものとして氣軽に讀み過してはならない。もしこの書に難點があるとすれば、齋藤氏の名筆がさういふ危險を孕んでゐる事であらうが、それは氏の凝り性から來るもので、その底には近代化、大衆社會化の波に押し流されて好い氣になつてゐるだけの現代に對する痛烈な憤りがある事を見過してはなるまい。
登場人物は人間國寶から瓦師、疊職、ペンキ屋に至るまで樣々であるが、彼等の相手にする對象が一言も口を利かぬ「物」であり、こちらで勝手に解釋し手を加へようとしても、それ自體の性格を頑として變へぬ「物」であるといふ點において一樣である。さういふ「物」に對しては己れを殺して附合ふ以外に手は無く、さうしてゐるうちに、單なる「物」に過ぎなかつたものが彼等にとつて生き物に見えて來るのである。彼等の造つた「物」の前に立つて、生きた人間の方が影が薄く見え始めるといふ事にも成りかねない。この本が私達に供へてくれる一番大切な事はその點であらう。
しかも、彼等の大部分は惠まれない。彼等の製品は大量製産のガラクタに驅逐され、淺薄な洋風に押し退けられて需要は少くなり、後繼者も數少く、それが一人も無いものさへある。今のうち何とか手を打たなければならない。私はさう思つて首相に建白したが、事は思ふ樣に捗りさうもない。野黨にも汚職の惡を糾彈する消極的熱意はあつても、進んで善を行ふ積極的熱意は今のところ全く期待出來ない。序文としては聊か差出がましいが、再びこの書を建白書資料として政府、議會に提出し、一考を促したい。直ぐに具體案が浮かばぬとあれば、唯一つだけ今年からでも安直に實行し得る名案をお教へする。尤も、これは友人から得た智慧だが、例の首相主催の藝能人招待の園遊會を今年から職人招待に代へる事だ。それは彼等にとつて勵しとなると同時に、彼等の仕事の意義を國民一般に知らしめる絶好の機會とならう。藝能人はわざわざ首相に紹介されなくとも、國民の誰もが知つてゐる。素人咽喉自慢で躍り出した樣な藝能人と一生默々として誠實に技術を磨いて來た職人と、そのいづれを歡待する事を吾等が首相は名譽と感じるか、それによつて紀元節や道徳教育の復活を望む心の深淺も自づと測られよう。
昭和四十一年十一月十一日
大寅《だいとら》道具ばなし
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大寅《だいとら》[#「大寅」は太字] 味方寅治《あじかたとらじ》 明治三十三年生れ。味方工務店主。祖父喜作は維新の時武士から大工となり一生故郷新潟の味方村を出なかった。父喜三郎は寅治五歳の折上京、本郷長谷川で十年職人として通った後、氷川下に店を持った。
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寅治は十六歳から厳しく父に仕込まれた。四谷塩町の元勧銀総裁柳谷卯三郎邸を初め神田・神保町小川町界隈の町場仕事が主。次男が後《あと》継ぎとなり父祖四代の大工である。
東京都文京区千石。
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「あると重宝だよ」[#「「あると重宝だよ」」は太字]
あたしのじじいの喜作ってのが越後の味方村で死んだのが六十五。おやじの喜三郎、人呼んで「大喜《だいき》」が享年八十。あたし「大寅」がとって満の六十だから、味方家ってものは二百年近くずっと大工をしてきたわけだ。
あたしの仕事のあとつぎが、いま二十五の次男で、これがまた「味方工務店」を切りまわしていてくれるし、子供七人がつくった孫たちも七人いるから、このなかからまた大工が出てくるかも知れない。
けれども、よかれあしかれ「大工らしい大工」ってのは、あたしたちの年代で最後だって気があたしにはするね。
じいさんって人は、侍の子の落ちぶれから大工になって、一生故郷新潟の味方村を出なかった人だって聞いてるだけでよく知らないが、おやじは戦後まで生きてたから見て知ってるし、このおやじとあたしは、まずものの考え方にそう違いはない。けれども、あたしと伜《せがれ》たちとなるともうはっきり違うね。
たとえば道具だ。道具に対しての扱いや感じ方がまるっきり違う。伜たちには道具はタダの道具だけど、あたしらの年頃に仕事を仕込まれたものは、道具は女房みたいなもんだし、大ゲサに言やア命みたいなもんだ。
あたしは十六から仕事を覚えさせられたんだが、それから二年目、十八の時だったといまでもはっきり覚えているが、道具についてえらい恥をかいたのが肝に銘じて、それから根性が変った。
え? なにね、仕事場へいって、年寄りに、
「すいませんが、ちょっと小ガンナを貸してもらえませんか」
ってったんだよ。そしたらその年寄りがね、ジロリと横目で流し目に見て、なんとも言えない笑い方をすると、小ガンナを渡して寄越しながら、
「ハイヨ。あると重宝だよ」
って言ったんだ。それだけだが、あたしァ顔から火が出たね。受けとった小ガンナが、ジリッと手に灼きついたような心持ちがして、しばらくは顔もあげられなかった。
――あると重宝だよ……。そう言った年寄りの皮肉を、それからあとも時々思い出しちゃア舌を噛み切りたいような気のしたことがなんべんもあるね。その時の、まるで「女房を貸せ」とでも言われたような、不愉快そうな、にがい、そしてあきらめてうすら笑いした年寄りの目を思い出すと、あたしは地ベタを転げまわりたいほど恥しい気がしたもんだ。
その時からあたしは決心した。
「ヨウシ、道具は貸しても借りねえぞ」
だけど貸すのはやっぱりいやだった。のちのち自分がキチンと道具を揃えて仕事場にいって、不用意な奴から貸せと言われて渡してやる時は、「あると重宝だよ」とは言わなくても、あの年寄りとおんなし目付きをしているのが自分にもわかったね。
不愉快な、にがい、そして仲間にケチだと思われたくないのと、道具を粗末にする奴にゃアこのおれの気持をわかってもらえねえんだから仕方がねえやアというあきらめの薄ら笑い……。
京都鳴滝産正本山合砥[#「京都鳴滝産正本山合砥」は太字]
大体あたしの家は、自分の稼業《かぎよう》が大工だから、おやじもあたしもよその飯をくわずに自分の家で仕込まれたんだ。わが家で修業したとは言いながら、そのしつけの厳《きび》しいことは、
「寅さんは継《まま》ッ子じゃねえか」
なんて言われたぐらいのもんで、道具なんかだって、ノミやカンナを仕事にかかってすぐといでたりなんぞしてたら、首をくくりたくなるような叱言《こごと》を言われたもんだ。
仕事にかかる前に道具はドキドキにとぎあげておくのが職人の心得だ、ってことは、十六で仕事につくと同時に叩きこまれてはいたんだ。
それでも、腕のナマなうちは根性もナマなもんで、さっき言ったような赤ッ恥をかいちまったから、さアそれからは心を入れかえて道具に凝《こ》ったね。
もちろん、そんな話をおやじにすれば、グッて言うほどやられらア。あたしのおやじって人は、あたしが五つの時に新潟から本郷三丁目の長谷川を頼って上京して十年ほど職人をしてた人だから、職人の根性ってものはチャンと身につけた人だ。あたしが仕事についた十六くらいの時には、ちょうど一本立ちになって、この小石川氷川下に店を持っちゃアいたが、根性は職人だ。仕事だって早いほうじゃなし、とくに腕も良いってわけの人でもなくって、あたしとは反対にごく無口の人だったから、叱言を言ったって、「あると重宝だよ」なんてうめえことはもちろん言えやしねえけど、新潟流の、すこし尻あがりのナマリのある口重い調子でモチモチとやられると、こいつがまた骨身にこたえてほんとに首でもくくりたくなったからねえ。ハハハ。
そんなわけで、おやじにもナイショナイショで、勘定をかすっちゃア道具を集めた。四十何年前の、手間八十銭の時に五円の合わせ砥を買った辛さとうれしさは、いまでもマザマザと覚えてるね。
「買えるから買おうじゃ駄目だ、買えなくても買っちまうんだ」
って決心で、ほかになんの道楽もないのが幸いして――、というよりほかの道楽なんぞしているゼニも惜しがって、道具の良いやつ良いやつと集めていったから、やがてのことに道具箱だけで五つ、道具の数は何百と集まった。
問題のカンナだって、四寸・三寸・二寸、といくつもいくつもそろえたし、ノミも五本や十本じゃない。良い仕事をする時にゃ是非という長い突きノミだけでもよりすぐったやつだけで四本あった。ノコったって三十枚からあったろう。
だから一日・十五日の休みは道具ごしらえで終っちまった。とぐものはとぐ、油ひくものはひく、だけでひとわたりやれば軽ウく一日かかっちまうんだ。
刃はついていてきれいなんだが、砥石にかける、油をつける。風を入れると一日しか持たないのが刃物だからていねいに包む――、これで一日たっちまう。酒・女・バクチ、そんなヒマもゼニもありゃアしねえ。活動写真だって見たことはねえや。
酒のんで酔っぱらったり、女の手が滑っこくてこたえられねえ、なんて言ってるより、女の肌よりももっと滑っこくて吸いつく梨地の砥石の上で、ピタリとあてたカンナの刃をゆっくり押し引きしてるほうが、もっと酔っぱらえるんだから仕方がねえ。
砥石っていやア砥石にも凝った。四寸ガンナをとぐ梨地の砥石なんてものは、さっきも言ったとおり、手間八十銭の時に五円もしたんだからたいしたもんだ。名前のとおり梨の肌のような色あいをしてるんだが、その渋ウい感じがまたこたえられない。そして「京都鳴滝産正本山合砥」と書いた商標が張ってあるんだが、こいつが自慢なんだね。
「ホ、あいつ、正本山の梨地をもってやがら!」
って言われるのがうれしくってね。砥石じゃこれが最高で、よっぽど腕の良い職人か年寄りでもなくちゃ持てなかったもんだ。砥石を見りゃ道具の見当がつく――、道具が駄目なら腕も駄目――、これが当時の職人の見わけ方で、またそのとおりだった。だからクドイ砥石だの、浅黄の砥石しか持ってないやつは安く踏まれたね。
戦争からこっち、良い石の出る山もなくなっちまったし、いまはもうそんなことを言う同業もすくなくなっちまったが、あたしは空襲で道具は残らず焼いちまっても「正本山」だけは二、三本残ってるので、時々出しちゃア眺めてるが、これが何よりの楽しみだ。
幅四寸、二間のカンナ屑[#「幅四寸、二間のカンナ屑」は太字]
それじゃア、そんな砥石でといだそんな道具で、どんな仕事をしたかとなると、ナアニあたしなんぞはたいしたことはありゃアしねえ。
はじめは家でおやじに仕込まれて、外へ出たのが十八の年。朝は六時に起きて団子坂上の渡辺銀行の建築現場へ、毎日毎日、降ろうが照ろうが二時間歩いて通ったのが仕事はじめだったが、それからは親がかりの冥利《みようり》で、手間は言わずに良い仕事良い仕事と歩けた。――その頃のことだが、下請作業《キリナダ》で下見板を削らされて百六十枚で参っちまったよ。
エ? たいしたもんだって? とんでもねえ。いまでこそ三十枚も削らしたら「ひでえ親方だ」なんて文句が出るかも知れねえが、当時は、十八で百六十枚なんて、あたしみてえのはスソのほうだったね。腕の良い職人には三百枚も削るのがいたよ。
あたしは道具にゃ凝ったが、ご覧のとおり体が細いからねばりがきかねえや、厚さ二分三厘の渋板、六尺の一尺幅ってえ節だらけの秋田杉を、削り次第に積んでくんだが、イキが切れてイキが切れて、十時の休みにゃア卵を買ってのみのみ削ったんだが、最後にゃア積みあげた板の山を見ただけで胸がムカムカしてくるってんだからなっちゃアねえや。
――もっとも、仕事は数をあげるばかりが能じゃねえから、良い仕事の時は、一日かかって柱を一本以上仕上げると、ハタから苦情が出る、なんてこともあった。また、事実一本にまる一日かかるんだよ。
アラ木のうちにスミをかけるだろ? マナ木かけってわけでチョウナで落す。これに四時間ぐらいはかからア。削り台にあげてからチョウナ目を見直して、アラシコ、中シコをかけて、それからスミをうつんだ。てんづけカンナをかけるなんて雑なことはしやしねえ。スミをうったら二寸ガンナで削り、その上を三寸でムラ取り、またそいつに四寸ガンナってわけだ。
あたしゃアこの四寸ガンナからでてきたカンナ屑は、惜しくってしばらく取っといたね。堂々たる四寸幅で、薄くってフワフワしてやがって、一気に二間削った長いやつが丸めると手のひらのなかへはいっちまって見えねえくらいなんだ。
ところで仕事はこれでまだ仕上げじゃない。スミ付けに渡して穴を掘って、番付けをつけて――ってんだから。まア軽ウく一日半はかかっちまう。柱はネジがないよう「四方にカネを巻く」ってってどっちへカネをあててもピタリといくよう四角に削ったもんだが、昔の金持だの職人はバカなことをしたもんだと言うやつには言わせて、あの四寸のカンナ屑がスルスルと出てくる時のうれしさは、まったくバカな話だが、もう金や手間賃なんぞはこっちから差し上げたいくらいのもんだった。
二十五歳、「角海老《かどえび》」登楼[#「二十五歳、「角海老《かどえび》」登楼」は太字]
二間ひと息のカンナ屑をつくろうってのにゃア、デレデレした格好《かつこう》をしてちゃア出来ねえや。当時の職人は、固い股引《ももひき》をはいて腹掛《はらがけ》をかけて、威勢が良かったもんだ。
半天、腹掛、股引。巻いた鉢巻は後ではさんでね、腹掛の下は、家で手作りの天竺《てんじく》のシャツ一枚。寒中でも仕事がこんでくると、あたしみたいな汗っかきは腹掛をとって、このシャツ一枚で仕事をした。
足元はゴム裏|草履《ぞうり》なんて野暮なものは履きゃアしねえ。いつでもキリッと冷《ひや》めし草履だ。今時の店屋じゃ、
「冷めしをくれ」
なんて言っても、わけがわからねえでポカンとしてやがら。まったく嘆かわしいね。
――マア、そんな調子で、二十三までは職人で働いた。家に仕事がない時はよそへ働きに行き、それも仕事を選べたし「手間をいくら頂けます?」なんて言わずに済んだのはしあわせだった。兵隊検査は補充兵にまわされちゃって肩身のせまい思いをしたが、体は細くてもどこといって悪いところはないから、
「寅さんには着到《ちやくとう》はいらないね」
と言われるくらい休まずに仕事場へ通えた。ご存じのように、仕事場には渋板に名前が書いてあって、出て来たら○をつけるわけだが、あたしは必ず皆勤だから出勤簿不用というわけさ。
そのかわり食うのも食った。ひるの弁当が、いつももう一つほしいくらいだったよ。箸の立たないほど固くつめた弁当を、四角に切って口のなかへ入れるうまさは、体で働いてるもんでなくっちゃわからねえや。
塗ってないしら木の、背ェが高くて、三分がおかずで七分が飯。おかずは新香が主で、塩鮭でもはいってようもんならとび切りの御馳走だ。あたしはノリを三段にはさんでシタジをかけたやつが好きでねえ……。おかずはタクワンだけだったが、フタをあけてノリが見えると、顔じゅうのスジをゆるめてニコニコしたもんだ。
体はよし、親がかりなり、二十三の年からは字のかけねえおやじにかわって若棟梁《わかとうりよう》――ってんだから、さぞや遊んだかってえと、それがそれ前に話した道具に凝ったり、酒も嫌いなりでサッパリさ。
それじゃア全然遊んだことはないかってえと、へへへ、一度だけある。それも吉原の「角海老《かどえび》」でおいらんを揚げたってんだから豪勢なもんだろう?
まアそれも仕事上のことからなんだが、一本になりたてに、あたしは神田神保町の「鳥長」っていう鳥屋を建てた。建坪は上下で三十坪ぐらいだが、丸窓や下地窓なんかをつけた、やわらかいいきかたのもので、「最初の仕事」だってんで、あたしはハリ切って一所懸命にやった。
そして次に氷川下の古ゥい、焼芋屋で有名な田中屋の住いを、三間間口の出し桁《けた》造りなんぞでこしらえて良い気持になっているところへ、神保町の印判組合から「東印会館」を請負ってくれっていう話が持ちこまれた。土地の請負師をふり切って、まだ二十五歳の若造のあたしンところへ仕事をくれたのは、「鳥長」の仕事ぶりがまじめで手抜きのないのが気に入ったというわけだ。
若いあたしに、上下で五十坪もある大きなクラブを見込んで任してくれたんだから、大いに感激してあたしもやった。仕事場に弁当を持ちこんでいっしょに食いながら先頭に立って働いた。どうやら無事建前ということになった。
するとその晩、建主の会長さんとそば役の、いずれも五十年配の方が二人、
「どうだいトウリョウ、ひとつ吉原へでもくりこもうか」
という話だ。建主からそう言われちゃこちらはまだ童貞で女は知りませんからというわけにもいかねえや。「へエお伴いたしましょう」ってわけで、あたり前の顔をしてついていったが、ナアニ胸の中はどうなることやらわけがわからずドキドキさ。ハハハ。
まず正式に茶屋にはいって芸者を揚げて騒いでから、送りこまれた先が吉原名代の「角海老」で、えらい格式のある古いウチだってんで、客を眼下に見てやがる。こっちは職人で「オイご免よ」のざっかけない口だが、そんなわけにゃいかねえ。玄関に迎えに出てズラリと並んだ女衆の目だって、おそれツツシンでるんだか、冷たく「初めてだナ」ってバカにしてるんだか、どっちだか見当もつかねえ。なにしろ女を知らねえやつが女の城に飛びこんだんだから、ただもうポーッとしてあとは五里霧中さ。
その余《よ》のことはよろしくご想像ねがうとして、あたしはその晩男になった。
いえ、ほんとによく覚えてねえんだよ。アイカタってのがえらいゴーセイなうちかけってやつを着て、もの凄く高いヘンテコレンな髪を結ってやがったのしか覚えてないね。いいかい、これは婆さんにゃナィショだからね、書いちゃダメだよ。ハハハ。
再び「正本山合砥」[#「再び「正本山合砥」」は太字]
二十五までは女を知らねえで、最初の晩にゃア震えた男でも、その年に女房を持ったら次々七人の子供をこしらえて、いまじゃア孫まで七人もいらア。長男は江田島の海軍兵学校から敗戦で日航へ勤めるなんて畑違いのほうへいっちまったが、次男があとを継いでそっちのほうの心配もない。
仕事もそのあと、四谷塩町の勧銀総裁柳谷卯三郎邸なんてのをやらしてもらったり、神保町から小川町界隈の町場をズッとひとわたりやって一応信用もとって、大きくはねえけどいまじゃ食うにゃ困らねえ。
なに一つ文句はねえけど、たった一つ残念なのは、あれだけ集めた何百って道具を、空襲でスッカラカンに焼いちまったことだ。警防団でかけまわってたんで、わが家が燃えてるのをみすみす見ながら道具を出せなかったのは、身を切られるよりも辛かったね。
いまはそれだけが残った「京都鳴滝産正本山合砥」を、時々出して眺めるのがたった一つの昔ながらの道楽だ。
ホラ、これだよ。どうだい、この渋い梨地の肌合いは……。まったく惚れぼれするじゃアねえか。ねえ!
[#地付き](三十五年六月)
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「おれはもう隠居して仕事をしてねえから写真は要らねえ。もっと撮られてえ奴を撮ってやんな。エ? あんたの商売熱心には感心するけど、少しクデェじゃねえか」
木所さんはこう言って写真撮影を断った。仕事もしてないものに麗々しい写真など不要だというのである。それで木所さんの写真はない。寒山か拾得みたいにモックリした味のある風貌《ふうぼう》である。
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仙太郎大工自慢ばなし
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木所《きどころ》仙太郎[#「木所仙太郎」は太字] 明治二十三年生れ。沼津市出身。祖父仙蔵は江戸城お出入りの大工で父源造も名人だった。沼津公園に碑が立っている。母は踊りの師匠で同市の寺に碑がある。
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十四歳で上京、叔父の「大勝《だいかつ》」で年季を入れ、四十三歳で独立した。町場の商店建築を主に、箱根清流閣などの仕事がある。港区の組合長なども勤め、「中門前の木所」と言えば顔である。
東京都港区中門前町。
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沼津大工の三代目[#「沼津大工の三代目」は太字]
あたしは明治二十三年生れ、今年で数えの七十だ。生れたのは静岡県沼津市のまン中で、親子三代の大工だ。じじいは、明治二年に死んだそうだが仙蔵といって、江戸城御本丸改修に御用を仰《おお》せ付《つ》けられた棟梁だったと聞いている。
おやじは源造というんだが、明治の三十一年に五十一で死んじまったから、あたしは八つで顔もよく覚えちゃいない。このおやじってのが仕事がうまかったそうで、くにの沼津へ行った時、同業の年寄りが一つばなしに話してくれたのを聞いたことがある。
それは下見のことだが、昔はモルタルなんてものはなかったから必ずこれを張ったもんた。そいつをおやじが下から見上げて切って当てがうと、長短なしに寸分違わずピッタリ合うんでいつも驚かされたそうだ。
また、屋根の勾配に板を持ってくのに下で大体タップリ切って上でまた切るんじゃ、その分と、下で切り落した半端《はんぱ》の分が無駄になるわけだ。おやじは、下でにらんで板を斜めにスパリと真ン中で切る。そいつを上へ持ってくとピタリ。下の分も裏返してそのまま使えたって話だ。
おやじは、仕事もうまかったが道楽も強かったそうで、酒は飲まなかったが勝負事には凝《こ》ったらしい。
ひとの面倒を見ることが好きで、死んだ職人の葬儀|万端《ばんたん》やってやるのはもとより、石塔まで建ててやったそうだ。このおやじの記念碑が沼津公園に建っている。あの昔に、記念碑を建ててもらったっていう町大工はほかにはいない。大工、鳶、石屋、左官、畳屋、瓦屋の、いわゆる「六職」の人たちが、先に立って組合を作る世話をしたおやじの功績を讃《たた》えて建ててくれたもんだが、先年、地元のこの愛宕《あたご》組合の仲間と沼津へ行った時に見てもらって鼻が高かったよ。
ついでだが、あたしのおふくろにも記念碑が建っている。こっちは踊りの師匠で、沼津の花柳界の恩人てえわけだ。
この母親って人は、芝の金杉橋に芝居小屋があって盛った頃に、当時「女団十郎」って謳《うた》われた市川九米八つァんと同じ舞台に立った人だったが、おやじと一緒になると沼津へ行って藤間流の踊りの師匠になった。月謝は当時の金で三円だったってえからずいぶん高いと思うが、困ってる人からは全然とらずにタダでドシドシ教えたそうだ。それであの町に踊りが非常に盛んになった。
震災直後に家内を連れておふくろの追善興行に招ばれていったが、百二十人の芸者衆が三日間休んで踊ってくれた。おふくろの恩義にあずかったからというんだが、その昔、芸者だった頃に、おふくろからタダで習ったって人が六十以上の女将《おかみ》になっていて、采配《さいはい》を振ってくれた。
無事に三日間の興行が終ると、頭取《とうどり》だって人が収入《あがり》というのを持って来た。こいつア受けるわけにいかないから市や学校へ寄付したがまだ余る。そこで、皆さんのご好意を記念して寺のまン中に記念碑を建てたいが、と寺に行って言ったら、坊主が「沼津では旧家の市長さんの記念碑さえ寺に功績がないから、ということでお断りしたんだから」駄目ですと言いやがる。あたしゃア腹が立ってね、
「よござんす。おふくろは寺には功績がなかったでしょう、けれど花柳界には功績があったとかで、皆さんこうして金を集めて下さったんですから、あたしゃアその花柳界で、ひと晩芸者衆を総揚げにして使っちまいましょう、そンなら文句はねえでしょう」
ってタンカを切りましたらね、坊主が飛び上って、「では檀家《だんか》総代に相談しまして――」ってことになったんだが、檀家は場所がらで花柳界に縁があり、おふくろに恩義を蒙《こうむ》った人が多かったもんだから一議に及ばずきまっちまった。
名人「鬼勝親方」あれこれ[#「名人「鬼勝親方」あれこれ」は太字]
おやじを知らずに、踊りの師匠をしていたおふくろに育てられたあたしが、沼津から上京したのは十四の年だ。母親の弟に当る叔父の鏑木《かぶらぎ》勝之助を頼ってタッタ一人でポッツリ新橋駅――、今の汐留《しおどめ》へ着いたわけだが、それから約三十年間四十一の年まで、その芝神明の親方の家にいたんだから、考えるとあたしもずいぶん辛抱《しんぼう》がいいや。
この、鏑木勝之助って人が、大工の勝つァんだから「大勝」ってわけだが、誰も「大勝」なんて呼びやしない。陰じゃみんな「鬼勝」「鬼勝」って呼んでたという親方だ。夏になると褌《ふんどし》一本の素ッ裸でいようという人だから、小僧のくせにあたしたちが草履《ぞうり》でもはいているのが見つかろうもんなら、目の玉が飛び出るくらいドヤされた。
しかしほんとは弟子思いの情愛の深い人で、「家ってものは一人じゃ建たない。みんなの力が集ってこそだ」とか、「ここでこそ小僧だが、家へ帰ればみんな大事なその家の息子だ」とか言って、あとで世話焼きになったときよく、あたしに話して聞かせたもんだ。ひとのためにも尽《つく》した人で、夕方の四時に鳴る増上寺の鐘を合図にドンドン湯をわかし、タダでバケツに分けてやるので近所の人は毎日|行水《ぎようずい》ができて喜んでいた。「営業妨害だ」って湯屋から文句がくると、今度は薪を割っちゃア道路のわきに積みあげといて、町内の人の取るのにまかせてた。褌一本で、スパリ、スパリと薪を割ってた親方の姿は、今でも目に見えるようだ。
「鬼」とは言われても荒っぽいだけじゃなくて、こまかい所にも気のつく人だった。鬼勝の仕事で一番長い、力を入れた仕事は、大正の初めに坪千円と言われ五年かかった尾張屋銀行の頭取江守善六邸だったが、この時行った京大阪の大きなお屋敷拝見には、チャンと羽織袴持参だった。お得意さまの顔をよごしちゃいけないというわけだ。
そう、昔はのんびりしたもんで、江守さんは図面が出来たあとすぐ建築にはかからないで、大工と建具屋、石屋の三人を連れて、これぞという関西のお屋敷を見学に行ったんだ。常《つね》日ごろあたしたちに「よそ様《さま》へ伺《うかが》ったら畳のへりは踏むな、ご主人の許しが出るまでは部屋へ入るな」とやかましく言っていた親方だから、この時もキチンとそれをやったんだろう、帰って来たら「キュークツだったキュークツだった」ってさっそく褌一本になっていたっけ。ところが、そんなにして勉強もし勤めてきて、五年もかかった大仕事をやりながら、親方はこの江守さんとケンカして仕事をやめちまった。「鬼勝」の「鬼勝」たるユエンだね。
うちの親方の仕事は、やわらかいものが得意で、たとえば丸窓にしても卵とか三味線胴でスンナリいく。そいつを江守さんが竹なんか入れてもっと柔らかく崩せと言ったのを、これ以上崩すと銀行頭取の邸宅という格に合わなくなるとはねつけた、というような、事毎《ことごと》の意見の違いらしい。親方は仕事にかけちゃ絶対に人に譲らない人だったからね。
それだけに仕事は名人だった。「鬼」と言われた一つにはそれもある。土台を使わないのが特徴で、石で礎をピタリと据えると急所にスジカイを入れてそれで仕上げた。地震にもたないと言われて今の建築法ではこれは禁止されているけれども、親方の作った家は、あの関東の大震災にも一軒も壊れなかったからたいしたもんだ。「家は一生のもの。坪十万の普請《ふしん》でも上ノ空の仕事じゃ駄目。職人の魂をこめて仕上げろ」ってのが親方の口癖だったね……。
「鬼」と「エンマ」に仕込まれて[#「「鬼」と「エンマ」に仕込まれて」は太字]
この親方の家であたしたちの差配、世話焼きの役をしていた人が「エンマの喜太郎」って人だ。「鬼」の下に「エンマ」ってのは逆《さか》さごとだが、デップリ押し出しはいいし恐《こわ》い顔をしている上に、喧嘩じゃ負けたことがないってんで人呼んで「エンマ」。これも名人で、土台なんか据えると一分一厘の狂いもない。材の木取りもうまくってどんな端《はし》っぽの木も捨てさせない。ずいぶん親方のためになった人だ。なにしろ二十二で来て六十三で死ぬまで親方ン所にいたって人だからね。
この、「鬼」と「エンマ」のいる家へ十四のあたしが小僧に入ったわけだが、最初の七年は車力《しやりき》専門だ。朝の四時になると増上寺の鐘が鳴る。眠い目をこすって飛び起きると、親方の息子と二人で大八車をひっぱって、この芝の神明から深川の木場までいく。一時間かかって五時。東京の町がやっと目をさますころには、松杉檜材など十石以上も山積みして、それからまた一時間かかって今度は小石川の伝通院の仕事場までひっぱっていく。仕事場へつけばついたで渋板を削るなんぞ引き合いのものをするほか、必ず一日に三回スッカリ掃除をさせられる。
終ってまた車をひっぱって帰って来るともうトップリ暮れた七時だ。そんな生活を七年やった。そのうちの二年は、帰ってからまた永代橋の塾へ製図を習いに行った。こっちは昼の疲れで居眠りばかりしていたから、何を習ったかロクスッポ覚えちゃいないが、それでも、いまどうやらこうやら平面図だのカナバカリだのってなんとかやれるのはこの時のおかげだ。
車をひっぱってるだけじゃ仕事は覚えられないから、作業場を掃除する時に先輩の仕事を盗んだ。昔の職人は、仕事のコツはなかなかひとには見せなかったもんで、たとえばナゲシのカドを組む所なんかは秘伝にしていて見せない。お茶の時になってもゴザなんかのっけてお茶を啜《すす》ってる。こっちは、相手が小便に立ったあとなんかにめくって見ちまうんだ。「ははあ、ヘ夕は組み目にスキ間を作ってトノコで埋めたりしているが、中へ入れてこう組みゃ良いんだナ」
ってあんばい式だ。家へ帰って夜なべにやってみて忘れないようにする。たとえばそのナゲシの釘の打ち方ひとつだって、うまくくっついたり駄目だったりは、釘の打ち方ひとつだが、掃除をしながら横目で睨んで、
「ははあ、まっすぐでなく斜めに打ちこむんだナ」
と悟るといったあんばい。まったく鬼勝親方の言った通り「作業場の掃除は仕事を覚える道」だ。道具の置き方ひとつにも定《きま》りとクセと長短があるもんだ。
いまの若いもんは仕事場の掃除なんかやりゃアしない。昔のやり方はなんでも悪いと思ってる。もっとも建築の先生方でもそう思ってるんだからね。読売新聞の中の建築研究所の先生方と話した時、
「カンナの刃の勾配《こうばい》は何寸《なんずん》勾配だ」
なんて聞くんだ。堅木を削る家具屋のカンナなら知らず、大工のカンナは「何寸」なんて勾配のやつじゃ仕事にならないよ。また、
「外国のカンナは台が鉄で減らないんで狂いがなくって良い」
なんとも言ってたが、日本のカンナは木だから値打があるんだ。朝に晩に手塩にかけて狂いを直して一番良い状態になってるから、五間あろうと六間あろうと一気にサーッと柱も削れるんだ。木肌にピタッと吸いついて削りおろすあの手応えなんてものは、とても鉄の台じゃア味わえないし、第一、削ったあとに独特《どくとく》のツヤが出らア。そこがいいんだ。
この先生が「大工のサシガネは旧式だ」なんて言うから、「そいじゃどっちが早いか競争してみやしょう」って勾配の出しっこをしてみたんだ。先生が何だか面倒な数字盤をグルグルまわしてるひまに、こっちはサシガネでピョイッピョイッと出しちまうもんだから閉口して頭をかいてたね。
だから、昔の道具ややり方だって、ばかにしたもんじゃない。あたしなんぞはこの流儀で小僧から仕込まれ、三十で世話焼きになるとこの流儀で差配し――という具合に生きて来た。四十一まで親方ン所にいて、四十三で独立したんだが、それからだって流儀はおんなしだ。
独立して最初の仕事で、だいたい町場《まちば》の商店を主にやってるあたしには、二百坪と二十五坪が三棟という大きさからいっても一番大きい仕事だったが、箱根の清流閣の工事なんかも、地面からこしらえて前後《あとさき》十年かかったし、そのうち四年間は管理人までやる凝り方だから、昔者《むかしもん》は念がいってるよ。
これはある丹毒病院の院長さんにまかされてあたしが計画したんだが、最低料金で長期療養できる人助けの「温泉アパート」って思いつきはどうだろうってんで、首くくりでも出そうな所へ設計もあたしで建てたんだ。当ったねえ。それにつれていまはあたりもウンと開けちまって「木所《きどころ》のお蔭だから、銅像を建てようか」なんて笑い話にされたこともある。連合会の連中三十人ぐらいでここへ遊びにいった時はあたしも呑めない酒を気持よく呑んだ。「来ノ宮ホテル」なんてったってあれはあたしのマネで、温泉アパートはあたしが元祖だと今でもひそかに自慢にしてるんだ。
ここは院長さんの息子さんが旅館にしたいってんで、あたしの考えとは違うから鬼勝流にやめさしてもらってまた大工にかえったが、お蔭で仕事もお断り申さなくちゃならないほど切れずにあるし、連合会を作る時の組合の仕事も手伝わしてもらったり、港区の組合長を仰せつかったりして、その方が今になりゃかえって良かったね。
清流閣は旅館になったあと大水で流されて、今は三分ノ一しか残ってない。
あたしは男の子が一人で、これは「立教」を出て会社員になっちまったから、仕事は一代限りときめて、弟子も取っていない。跡目はうちに十三年いてくれる有賀っていう世話焼きに譲るつもりだ。
楽しみっていやア、震災にも戦災にも焼けずに残って鬼勝親方から譲られた家の前の首尾稲荷《しゆびいなり》をお祭りするぐらいのもんだ。親方の時は二日間のお祭りで四斗樽をぬいたが、あたしはお菓子をめあてに三百人も来る子供たちの顔を見るのがなにより楽しみ、――腕に年はとらせないつもりでも、じじいになったというわけだろうねえ、ハハハ。
[#地付き](三十五年四月)
地蔵の富さん聞き書抄
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地蔵の富さん[#「地蔵の富さん」は太字] 川村富五郎 明治十年生れ。神田の三味線屋「菊岡」に生れたが横浜の「高崎」で建具職の年季を入れる。地蔵坂下に住んだし、背《なり》が小さくて順《おとな》しいのでこの綽名《あだな》がある。
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順《おとな》しいが仕事のうまさと早さは仲間内でも「名人」と尊敬され、戦前は梨本宮をはじめ各宮家の仕事をよくした。八十七歳で亡くなるまで仕事を続けた。
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仕事は焼けちまつた 戦争はかたきだ[#「仕事は焼けちまつた 戦争はかたきだ」は太字]
マ、楽《らく》にしておくんなさい。八十一にもなって、木取りだ、仕事の指図《さしず》だなんて年寄りの冷や水さ。カゼをひいちゃってね、伜《せがれ》のやつが心配してひるから寝床におしこまれて退屈してたとこなんです。
エ? いや、生れつき病気らしい病気なんてしたことのねえ男だから、言ってみれば「鬼のカクラン」ってわけ。ハハハ。
仲間うちじゃ、なんのわけだかあたしのことを「地蔵の富さん」なんて呼んでくれるけど、この年まで大食らいで胃がちょっと悪いほか、どこといって痛えと言ったことのない男だ。体が丈夫で仕事をするからおまんまがうまい、食が進めば仕事も進むってわけで、この建具職の世界へ十四で飛びこんでから六十七年――いつのまにやら長生きしちまった、というわけです。
なんしろ生れたのが西郷戦争の明治十年てんだから、あたしが通《とお》って来た戦争の数だけでも、さア、いくつありますかねえ。日清戦争でしょう? 日露戦争でしょう? 欧州戦争、満州事変、日支事変と、家も仕事もみんな焼かれちまった今度の大戦争まで、思やアまるで戦争ン中で生れて戦争ン中で年とったみてえなもんだ……。だけどあたしの六十年の仕事も、戦争と一緒にみんな灰になっちまったんだから、さっぱりしたようなもののやっぱり淋しいね。良い仕事は来なくなる、材料はなくなる、命を削って作った仕事は焼かれちまう――戦争ってのはあたしたち職人にとっちゃかたきだね。
それでもまアまア無事に生きのびて、こうして今でも木取りぐらいはしていられるというのは有難いと思わなくっちゃならないでしょう。思えばずいぶん生きたもんだ――。なんしろあたしは憲法発ポをこの目で見てんですからねえ。ありゃアまアえらい騒ぎでした。さア――あたしのたしか九つ位の時だと思うけど、いたる所の商店で四斗樽の鏡を抜いてまるでお祭り。酔っぱらいは出放題で、それが日本国中ってんだから。そのあとの凱旋祝いもたいしたもんだったけどとても追っ付くもんじゃなかったね。
あたしの生れた家は神田金沢町の「菊岡」ってえ三味線屋で、一応名は通ってる店だったがその頃はヒッソク。神奈川の郡役所へ勤めている親戚の所で十四までは育ちました。十四で弟子入りした先が横浜の中区相生町の高崎って店で、家の「血」ですかねえ、建具職って仕事が面白くってたまらなかった――。
馬の腹掛には字が書いてある[#「馬の腹掛には字が書いてある」は太字]
――といったって新弟子の小僧に回って来る仕事なんていうものはギコギコ鋸《のこ》をひっぱる木挽《こびき》仕事で、えらく骨の折れる辛い仕事だったけど、こいつもやってみるとなかなか面白い。仕事が忙しくなってまに合わなくなってくると、親方が当時の金で二銭の賞金を出す。挽きっこして勝ったものにやるってわけです。
その二銭がとりたい一心で考えたが、あたしゃアご覧のとおりいまでも五尺足らずの小男だし、当時十四といやア豆みたいなもんです。けれども、削りは体力で負けても、「キザミ」や「スミ」を早くすればほかの五、六人の小僧たちにゃア負けねえぞ、というわけでそこに苦心をした。
それでタマにゃア賞金の二銭をもらってアメ玉をしゃぶれるようにもなりましたが、昔ア仕事ってものを、こんなぐあいにして覚えていったんですねえ……。
この高崎嘉吉って親方の所に、二十一で年《ねん》があけるまで厄介になったんですが若い頃はよく言われたもんですよ。
「馬の腹掛のくせしやがって、大きなゴタクを並べるな!」
――馬の腹掛にゃア字が書いてあるでしょ? あれですよ。半人前のうちはお下りのお古で作った半天のモモ引しきゃはけませんからね。モモ引に字が書いてありまさア、即《すなわ》ち「馬の腹掛」ってわけですよ。しからば一人前とは――っていえば昔は「雨戸を一日に三本」としてあったもんです。
今は機械で手|際《ぎわ》よくやっちまうけど、昔は幼稚なもんで、秩父のモミヒラの固いやつを荒鉋でバリバリ落っことして作るんですから、三本の雨戸っていやア暗いうちに鉋をといどいて白々あけから仕事にかかって、日暮れにやっと三本あがって一人前ってわけです。
一人前になった時アうれしくってね、足袋《たび》屋に走ってって盲縞のモモ引をあつらえましたよ。へへ、字の書いてねえやつをね――。へへへ。
ところが驚いたことに、腕の良い職人は当時、高さ一間、幅三尺ってえ長い七本棧の雨戸を、一日に四本は仕上げて汗もかかねえんですからねえ。こんにち、機械を使ってやったって二本が精一杯でしょう。
ところが、「鬼武《おにたけ》」ってえ綽名の胸毛が生えて鬼みてえな顔をした職人なんかは、かるうく六本仕上げて日暮れにゃタバコにしてるんですから、仲間が「鬼だ」「鬼だ」ってえわけですよ。昔は名人がいたもんですよねえ。
そう――名人はいくらでもいた[#「そう――名人はいくらでもいた」は太字]
そう、名人はいくらでもいました。大森の林太《りんた》さんなんてえ人は、曲りものでもまっすぐなもんでもなんでもやれた人で、これがまた仕事が早い。一人で一人半をサッサと仕上げて涼しい顔をしているが、なぜ仕事が早いかってえば「空木立《からきだ》て」をしない。
ふつう、めんどうな仕事は必ず空木立てをすることになっている。空組みをして、下ぶち込みをしてから立てるのが常識だが、ヘタがやると小さな面《めん》なんてのは段違いが出て消えてなくなっちまう。
しかもアテ木で叩いてひっこぬくんだからやっぱり傷になる。ところが上手は一ペンコッキリで立てちまうんだから、時間は早いし傷みもない。林太さんがこれだ。曲りものでも組みものでも、きれいにサッサとかたづけて涼しい顔をしていましたね。
それから品川の「お天気の金さん」――この人の座敷障子やガラス障子なんてものは、まったく見せたいくらいのもんだった。ェ? 「お天気」ってのは「お天気」です。調子が良いとご機嫌だけど、曇ったとなるとさア苦虫なん匹まとめて噛みつぶしたって顔をしてたんで、即ち「お天気の金さん」。いい腕だったね。
あたしの友達で仲の良かったのに伊之助ってえのがいて、あたしは下戸《げこ》、伊之助さんはのんべなのに、どうしてかウマがあって、馬場下の更科《さらしな》なんかによくつき合ったもんだけど、出るのはいつも仕事の話。
「誰それはまとまりはいいね」とか、
「だけどいつもブチ込んだり抜いたりだぜ」
なんて話をさかなにおそくまで喋りこんだのを覚えてますけど、昔の職人はブチ込んだものを抜くのは恥としたもんです。ほんとにうまい衆はそんなことはしません。
昔の職人は、「銭《ぜに》とるばかりが能じゃアねえ」、こう思ってました。だから、手間取りに親方の店へ最初に行ってどんな仕事を出されても、コレ出来ませんなんてネを上げるのは一人もいませんでした。なんしろなんとかまとめちゃう。うまくいけば腰を据えるし、万一きれいに組んだものでもあとで反《そ》りが出てでも来ようものなら、ほかの仕事の手間賃が残っていようがなんだろうが、夜中に道具をまとめてソーッと夜逃げしちまった。まアこんなぐあいです。いまの職人に至っちゃア、
「親方、やり損いましたからもう一ぺん材料を下さい」
なんてんですからお話にもなんにもなりませんや。
ただ昔の同じ名人でも、芝白金三光町に住んで女池《めいけ》市太郎、人呼んで三光の市ちゃんなんて人は、はっきりしていて手間が良くなきゃやらない、そのかわり手間が良いとなると夜明かしでもやっつける。若いころあたしなんぞは随分と欲ばりな人だと思ったもんだが、こん日考えてみると開けていたんですね。「銭もうけばかりが能じゃアねえ」なんてあたしらはしょっ中ピイピイしてたけど、まアこんなのはやせ我慢ってもんでしょう。
市ちゃんなんかは取るものは取り、かせぐものはかせいで、しかも組子でもまっ直《す》ぐなもんでもなんでもおいでなさいってえ芝指折りの腕なんだからかないませんや。
みんなこうやって仕事に生きて来た[#「みんなこうやって仕事に生きて来た」は太字]
それとは反対に、あたしらだとか、浅草から出たマナイタの虎さん、麻布の朝倉の浅さんなんてのはいつもくすぶってましたね。
だいたいほんとの商売人が見て、これは! ってな建具は、まア百本に一本ですが、マナイタの虎さんなんて人の竹の組子障子なんてものは、見て、ウン! と溜め息が出ましたよ。竹も、二方でくっつけるのはなんでもないけど、三方くっつけて見せるってのは、接着剤だなんだってものが発達してなかった昔はよういなもんじゃありませんでした。竹をこしらえるのは、組むのは別にしても一本一日はかかりますし、やれる人は東京に一人か二人だったでしょう。このマナイタの虎さんは、なんでも巧者《こうしや》で、素人ながらに時計を全部ばらして又まとめるというほど器用な人でしたが、器用貧乏であんまり金は溜らなかったらしい。
朝倉の浅さんはあたしの友達だけど、これに至っては徹底した名人気質で、曲りもの、二本もの、まっつぐなもの、これって出来ないもののない男なのに、気に入らない仕事はコンリン際やらねえって主義で年中麻布の隅ッコでくすぶってたけど、あたしゃアこの男が好きでした。
あと名人といやア、柏木の川口さん。この人はいま組合の公認の講師で組物も若い連中に教えているんだから太鼓判の名人だが、この人の「干網」なんてものは誰でも知ってるたいしたもんです。ただ「干網」ったって、干した所には舟の遠見、畳んだ所には網の裾の分銅がつくきまりで、それも組み込むんだからその呼吸がむつかしいや。川口さんのものは組んだものが未だにピリッともしていない。たいしたもんです。
昔はこういう呼吸物は、細工場ではやらないで下ごしらえだけして、家へ持って帰って夜中の人が寝静まった頃にやったもんで、若いものはその仕事を見てハハンと覚って修業するってあんばい。川口さんもあたしらも、みんなこうやって仕事に生きて来たんです。
そんなぐあいで永いあいだ手間取りをやって、あたしが麻布の我善坊に最初の店をもったのが三十五。もう四人の子持ちで、いま店をやってる五十に近い勇蔵がまだ小学校にも上らぬ頃ですから、末の女の子のトシ子なんてのはまだ乳呑児《ちのみご》でピイピイいってる始末。生意気に名人ぶってたりしちゃ手前《てめえ》だけじゃなくて、かわいいガキ共までアゴが干《ひ》上っちゃいますから、近所の拾い仕事だ、大工さんからだ、お得意ジカだ、なんて仕事を選ばずやってるうちにどうやら宮様の仕事なんぞが来るようになりました。
宮様の仕事は、梨本宮だアなんの宮だカンの宮だってずいぶんやりましたが、大きな唐戸だの、入口の障子や襖、さては隣の部屋の物音が聞えないための張り枠《わく》だのっていろんな仕事をやりました。この張り枠は漆喰《しつくい》塗って境にはめるんですが、こいつは大工の仕事でなしに建具屋の仕事ってことになってました。腰|羽目《ばめ》も建具屋が作って大工が取りつけることになってましたが、西洋|面《めん》をとってえらい幅広なもんで、四寸も五寸もあるやつの山や谷をとるんですから厄介でしたね。
けれどもドギモを抜かれたのは明治天皇のお葬式だか御大典だかの時。その式場の小屋の格《ごう》天井をやらされた時は驚きましたよ。なんしろ高さは何丈、一つの枠の大きさは五尺もあろうという大きいものを一々ウヤウヤしく面を取って、その広さは何百尺あるか見当もつかねえってんですからね。職人ばっかり百人もはいって、一カ月半びっしりかかって作って、さて式が済んだらケロケロと取り壊しちゃったんです。
もっとドギモを抜かれたのは、この棟上げ式の時に、ハハハ、二尺もあるベラ棒にデッカイ袋をもらったんで、さア何百円入ってるかと思ってあけてみたら、なんとこれがタッタの三円。いくら物価の安い当時でもねえ。ヤ、それにまた袋がデカすぎましたからねえ。ハハハハ。
いまは民主シュギだからこんな文句をつけてもフン縛られやしねえでしょうが、宮家のものは二重入れ子だのなんだのってものが大きいんでトメやなんか仕事に無理が利かないし、ニゲのないキチョーメンな仕事はさせられるし、監督はやかましいし、その言いなりに細かい面をチョコチョコやりゃカドが出て合わせるのにむずかしいし、イヤ泣かされたもんですよ。
震災の区画整理で、昭和五年に現在の芝三島町へ移りましたが、こいつを空襲でみんな焼かれ、西多摩の山ン中へ疎開して田舎のゴツイ一方の障子を作ってたなんてのも今じゃア逆になつかしい思い出です。
お蔭で伜が十七からこの商売を継いでくれ、タマにゃゲン骨で仕込んだりもしましたが、どうやら一人前に店を張っていけるので、まアまア楽隠居って所ですか。八十一で木取りをしてるってのも、いわばまア健康法。職人は仕事をとり上げられたら生きてる甲斐はありませんや。まだまだ仕事は続けるつもりですよ。ハハハハハハ。
[#地付き](三十四年十一月)
指物師恒造放談
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茂上《もがみ》恒造[#「茂上《もがみ》恒造」は太字] 明治二十八年生れ。柔らか物の和家具で花柳界や歌舞伎俳優から人気のあった茅《かや》町「富村」の出。
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「小物の茂上」で聞え、天皇北海道行幸の際の居間の電燈笠などを下命されている。不知火《しらぬい》の女王・柳原白蓮の嫁入調度、タンス長持から硯箱まで指物《さしもの》一切は恒造若き日の仕事である。今は若い静かな奥さんに絵付けをさせて秋草の硯箱などを作っている。
千葉県市川市宮久保町。
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鼻先で眺められるのが小物[#「鼻先で眺められるのが小物」は太字]
ずっと縁側の方へ出ておくんなさい。こっちの方が風がはいるから――。浅草桂町だなんて、涼風も曲りくねってくるような下町の露地の奥に住んでると、人間、くふうするもんだね。
この庭、これで四坪ねえんだぜ。そいで鼻につっけえるようなこのコンクリ壁の向うのお隣は、自動車のガレージになってるんだが、こっち側はちょっと乙な庭だろ?
あれはリンゴの木で、子供の捨てた種から生えた今年で十年の実生《みしよう》だよ。八年目に花が咲いて親指っくらいのリンゴが成ったね。
隣がザクロの木で、蛙がとまってるからよく見てごらんよ。あの蛙は飼ってるんだ。青蛙ってえのか木の葉蛙ってえのか知らねえが、去年の五月に貰ったのを冬眠させて年越しして出て来た奴だ。よく鳴くのもいたんだが猫に食われちまった。
保護色ってえのか、忽ち体の色を変えるのが面白えぜ。青い物の所じゃ青く、地面におりると土の色、ゴマ竹にとまるとゴマまで出来るんだからびっくらした。そのわきの木の燈籠《とうろう》は鈴虫の小屋さ。もちろん商売がらあたしの手すさびでね、エ? オーイ、おまえは黙って絵付けをしてろ。ナニ、家内の言うとおり、鈴虫燈籠だけじゃアねえ、家ン中のものはみんなあたしが作ったんだ。
あの茶ダンスも、机も、床の間《ま》もその上の仏壇もね。そいからあの菊型の電燈の笠もそうだ。いいえ、ひとの作ったものが気に入らねえなんて、そんなだいそれた心持ちからじゃアねえ、へへ銭《ぜに》がねえからさ。
「小物《こもの》の茂上《もがみ》」なんて言われてたって、てめえの物となりゃア大物だって作るよ。そりゃア昔の連中はなんでもひと通りはやるんだ。
さア、指物師《さしものし》が作るものってえば、茶棚、飾り棚、玄関棚からタンス、チャブ台、椅子、衝立《ついたて》、簿記台からウイスキーなんぞを呑むカウンターなんてもんまで作るんだけど、あたしは小物が好きだね。
電気スタンド、電気の笠、莨盆《たばこぼん》、硯箱、脇息《きようそく》から半襟箱に旅ダンス、寝覚《ねざ》め――となると、今の若い人は知らねえだろうが、小物じゃア作らなくなっちまったものが随分あるね。
例えば半襟を二つ折りにして入れる半襟箱だの、腰紐や足袋を入れとく旅ダンスなんてものは、和服が少なくなっちまったから作ったって売れやしねえや。
若い客にゃア「寝覚め」なんてのはなんのことかさえ分らなくなっちまってる。昼夜時計をはめこんでチリ紙入れと水差しがついて、夜半の寝覚めにひき寄せる――なんて粋な箱は、ネグリジェだ、パジャマだァなんてご時世じゃ用はねえわさ。
だけど、小物は大物と違って、手にとって眺められるからボロがスグ分るやつを、少しのネジレもムリも出さねえでピリッとしかもタップリと仕上げた所になんとも言えねえ楽しさがあるんだがねえ……。
灯りだけは天皇なみ……[#「灯りだけは天皇なみ……」は太字]
おめえは黙って、その硯箱《すずりばこ》の絵付けをしてろって! 秋草《あきくさ》ちゃんと描けてるか? へエ、内職ってよりは道楽みてえなもんでやらしてるんだけど、角五郎先生の画塾に三年通わせました。エ? あたしはてめえが師匠。
ン。いま家内が言ったとおり、陛下《へいか》の電燈の笠を作ったのはほんとうだよ。十年ぐらい前にね、陛下が北海道へ行った時ね、盛岡で一泊する宿の、お居間、書斎、便所まで、すべてで十二三個作ったんだ。
十六の菊の花になぞらえてね、木でやって呂色に塗って形は三つ口にした。うちのこの笠もさっき言ったとおりあたしの手製だから、こんな家でも灯りだけは天皇なみ――、ヤ、こんな冗談《じようだん》を言っちゃオソレオオイかな?
それよりあたしの自慢は尾上松緑に芝居を教えてやったことさ。――ってえのも大きいが、実は指物師が主人公の芝居でね、道具と仕事についてきかれたから教えてやった。
エ? 外題《げだい》? サアそいつは聞かなかったね。なんでも指物師の兄弟弟子が、乙羽信子のやる娘を争う――って筋じゃアなかったかねえ。
松緑さんはその兄弟子になるんだが、
「親方、指物師ってえのはどんな台を使って削《けず》るんだい?」
ってえから、
「一尺の三尺五寸が基準で、厚みは二寸から三寸、左右に留《と》メがあって、右足を台におっつけたら左足を長く伸ばすのがコツ。板を削って体をかがめても左膝が立たねえのが玄人《くろうと》」
って教えてやったらそのとおりやった。
「仕事は明日必ずできます」
ってえセリフがあるんだそうだが、どうしたら良いかってえから、ミガキをしてたら良かろうが、チョンマゲ時代でペーパーもあるめえから、木賊《とくさ》で磨いてることにして、木賊はストローを短く切ってそう見せたらどうだって知恵を貸したら、そうやったようだ。
「道によって賢《かしこ》し」、あたしはこれでも尾上松緑の師匠さ。へへ。けれど役者衆も自分の仕事にゃ熱心で気に入ったね。芸の上のことになりゃ、あたしたちにも頭を下げて教わりに来るんだ。仕事をするものはああでなくっちゃならねえ。
ああ、役者衆とは昔っからお馴染さ。大体が指物師には二タ通りあって、お邸向きの堅いものを作る人と、花柳界向けの柔らか物を作るのとあるんだが、あたしは師匠譲りのあとの方さ。
「時代家具」のはじまり[#「「時代家具」のはじまり」は太字]
あたしの親方は富村長松ってってね、時代家具の創始者さ。杉の材を焼いて目を出して時代をつけるやつ――、いまどこでもやってるあれは、うちの親方の考案よ。
番町の男爵、郷誠之助さんに可愛がられてね、ある時、
「どうだい、私の家全部の家具をやってみないかい」
って言われた。まさか家中を金銀の蒔絵《まきえ》ってわけにもいかねえや、考えてると男爵が、
「簡単な雑木《ぞうき》を使ってみたら――」
と言ったのがヒントになった。頭をひねって編み出したのが、杉を焼いて目を出した神代杉《じんだいすぎ》みてえに時代がついたあれ――。
こいつが大当りで、歌舞伎座の番組のうしろにも、
「呉服は三越、家具は建長《たてちよう》」
って書かれるまでになった。
ン。富村は当時建具屋で、名前が長松だから「建長」さ。
サア、これが当るわ当るわ。店は浅草橋から横に入った茅町《かやちよう》にあったんだが、その店先に毎日自動車が四、五台は必ず横付けって次第。
今でこそ自動車なんぞは珍しいどころかうるせえくらいだが、当時は明治の末年、自動車が来たってえと、みんなが飛び出して見物した時代だ。そいつがツナガッテ止ってるんだから豪儀《ごうぎ》なもんだ。
お客さんも京大阪、北海道九州を遠しとせず、朝鮮からまで注文が来るってあんばいで、客の中にゃア先代歌右衛門、羽左、中車、左団次なんてえお歴々がズラリと並んでいたね。
先代歌右衛門の代々木御殿って言われたあの家の建具と調度も、みんなこの建長――富村がやったのさ。
なんしろ、大正の初めだったが、親方に孫が出来た時は、その初午に本所一ツ目の第一工場から、向島の第二工場まで、「そこのけ屋台」でジャンスカ舟で練って、言問《こととい》団子に舟をつけてそこからまた派手に練り込んだってくらいの威勢だ。
誕生祝いの奉納大太鼓の胴に名を入れた親方衆だけでも百二十六人あったのを、勘定したからあたしは今でも覚えてる。
震災でやられたのと、二代目が器用貧乏だったので大正末年に没落しちまったが、その職人をあちこちの家具屋が、「富村の出なら」ってって競《きそ》って引っぱったのが、和家具界こんにちの隆盛の元だとあたしは信じて疑わないね。
不知火《しらぬい》の女王の嫁入道具を[#「不知火の女王の嫁入道具を」は太字]
この富村にあたしが小僧で入ったのが十六の年。いま六十五だから五十年も昔のことになるんだねえ。本所の仕事場には小僧だけで二十一人もいたが、あたしはどういうわけか茅町の店の方にふんづかまって六人の小僧の仲間入り。
「あきんどに成りに来たんじゃねえ、仕事を覚えさしておくんなさい」
ってダダをこねて、十九の年から一年仕事場に出たが、おめえがいねえと不自由だからってまた店へ戻されちまった。
不平で不平で仕様がなかったけど、今から思やア店へ廻されて良いお得意さんの良い品を見て廻ったことが、どんなに目を肥やし、いま役に立ってるか分らない。
店が没落した大正十四年からは赤羽工兵大隊の下に家を持って、庭の隅にタッタ三坪の細工場《さいくば》を作ってコツコツ仕事をやり出したのがあたしの指物師としてのはじまり。
この浅草桂町へ移って戦災でやられて富山に三年ほど疎開していたが、帰って来て近くの甥の仕事場に三年ばかり坐ってやり、もうよかろうでこの家に引っこんで道楽仕事を楽しんでる――ってのがあたしの一代記さ。
エ? あたしの仕事? たいしたこたアねえよ。そう、「銅御殿《あかがねごてん》の女王」柳原白蓮さんの嫁入調度はあたしが富村にいた時の仕事だ。
タンス長持から鏡台・針箱・硯箱。下駄箱・本箱・机・衣桁《えこう》まで、大八車に積み上げて|〆《しめ》て八台あったっけが、四斗俵一俵が十四円って時に、三万円の勘定を貰った。ナアニ柳原は貧乏|公卿《くげ》さんだから払ったのはもちろん花婿さんの爺さま伊藤伝右衛門。
政略結婚だか、人身御供《ひとみごくう》だかはしらねえけど、こちとらは良い仕事をさしてくれる人の方がありがてえや。一介《いつかい》の炭坑夫から九州の炭坑王。華族の若いお姫《ひ》い様を嫁さんにしたら本望だろうと、そんなことを考えながら仕事をしたが、やっぱり駄目だったねえ。
無理はいけねえや。宮崎龍介って革命家というのが現われて、「不知火《しらぬい》の女王」が駈け落ちした、って聞いて、まっ先に考えたのはあの調度さア。こちとらはあいつに命を打ち込んでるんだからねえ。
調度を持った主人公より、主人公が持った調度の方が、こちとらにとっちゃ主人公なんだ。あの精根《せいこん》こめたタンス長持そのほかの品々は、いったいどうなったんだろうなア――。そいつがまずピンとくらア。
あれだけの品だア、伝右衛門さんが、
「不貞の女房の身の廻りなんぞ見たくもねえ!」
って叩き売ったあと、その品々がどんな運命を辿《たど》ったか――、いや炭坑王なら売りなんぞしねえでブチ壊しちまったかなア、なんぞ、当座はいろいろ考えたもんさ。
材そのものが昔と違う[#「材そのものが昔と違う」は太字]
エ? そうだねえ、いまはもう白蓮さんの嫁入道具なんぞ作れる指物師は、そう何人もいないだろうね。
大体が、いまの細工は機械作りで横着《おうちやく》になってるよ。昔はこォんな薄いものでも、一厘厚い二厘厚いと客からこまかい文句が来たもんだ。アキも五分低いとか高いとか、もう一枚あげたら良い格好になるのならねえの、客からも親方からも文句が出たもんだが、いまは木に習って仕事をすることになっちまった。
いまは指物師も建築屋とおんなしことさ。見てくれさえよければ中身がどうあろうと、ってわけだ。木がこうですからこうしか仕方がありません、ってわけだ。結構な世の中さ。それで通るんだからねえ。
昔はそうはいかなかった。富村に巣食ってた職人連中なんぞ、そりゃアやかましいもんだったよ。
例えばタンスや茶ダンスの引き出しにしてもだね、ひっくらけえしにおっぱめても、スーッと入っちまって少しもスケねえんだよ。
下が上へ入《はい》ろうが、上が下へ入ろうが、スーさ。
五つの引き出しがありゃア、一つを入れると、あとの四つの引き出しが、フ、フ、フ、と出てくるんだ。
ヘタが作れば、ガタンで一つ入れて、あとは足をかけたり金槌のご厄介《やつかい》だ。
富村にいた車坂の留さん、坂巻の留吉なんて人の仕事を今の若いもんに拝ませてやりてえね。
留さんは堅木の桑を使っての小物、留吉さんは雑木《ぞうき》の大物が得意だったが、それぞれ全くうめえもんだった。
そんな連中に、たとえば茶ダンス飾り棚なんかの大きさ木の厚さから間隔まで、スミでアキと厚みをつけたアイビを出してやるのが親方だったんだから、親方も偉えもんだ。
ン。「アイビ」ってのは六尺の棒でね、奥行、ハナの出、足の長さもみんなこれでやるんだ。ホレ、建具屋がその六尺棒一本で、何百本の材でも用を足してくるあの「木取り棒」とおんなしやつさ。
いまの家具屋の品を見たら、死んだ富村は涙をこぼすだろうねえ。五尺間口の棚に、五分五厘厚ってえ品を平気で使ってやがる。テンバは七分五厘、間は七分はいるのにねえ。物でものせたらしなってしようがねえだろうに――。
「ワイの吊った棚に物のせ(る)なア!」
ってのは大阪落語で聞いたことはあるけど、いまの家具屋はみなこのデンさ。
それがってのが、木に習って仕事をするからで、材そのものが昔と違うんだから駄目だろうねえ。
昔は板子ってって、大体を一尺三寸を規定としたもんだ。厚みも、薄くて三寸、ふつうは四寸板、五寸板、長さも六尺五、六寸であとさきを黒い薬袋紙《やくたいし》で巻いて、山形あたりの風の当らねえ納屋《なや》に二、三年置いてから出て来たもんだ。
今じゃア木場の堀から引きずり上げて、一週間も乾《ほ》せば「さア乾きました」で、六分板でも半月も置かなくっちゃアシンが抜けやアしねえ。冬場は二カ月置いても削ると中から水が出て来やがる。
こうした寝かしてねえ木で細工して、作ったものはデパートへ並べるだろ? デパートじゃスチームだ。ガタガタになるのが当りめえ、ならなかったら不思議だア。
昔は乾燥は十分で冷暖房はなし、孫子の代まで使ったってガタなんぞ来るわけのもんじゃアねえ。
やっぱりなんてったって、土台の材料がしっかりしてなくっちゃア、仕事も腕もあるわけのもんじゃアねえ。
四寸板、五寸板の、風の当らねえ所に二年か三年しイずかに寝かされて、往生しちゃった材料を存分に使って、これはって仕事をしてみてえね。
大つごもりの火鉢物語[#「大つごもりの火鉢物語」は太字]
これを見ておくんなさい。これがそういう仕事だよ。この火鉢は、これは確かに車坂の留さんのやった仕事で、間違いはねえ。
エ? おまえは黙って絵付けをしてろってんだ。ン、へへ、家内の言うとおり、こいつは去年の大|晦日《みそか》に買って来たんだ。良い仕事を見つけた喜びに、大晦日も正月もあるもんじゃねえ。
浅草田原町の通りを歩いてるとね、古道具屋の店先でヒョイッとこいつが目にはいった。目にはいったというより火鉢の方からあたしの方に呼びかけたと言った方がいい。
糸でひっぱられたように店先に入って、みると、桑のムクで内ボソのオトシがついた七寸五分高の一対の火鉢だ。
あたしは思わず胸が熱くなった。これは五十年前に、車坂の留さんが富村にいた頃作ったものに間違いはねえ!
どことなく厚みがあり、その姿かっこう、ほかの誰にも作れねえ留さんのものだ。
動かぬ証拠は高さ七寸五分。いまは誰でも一尺高に作るから、手を焙《あぶ》ればみんな縁側に手をかけたワンワンさながらさ。
昔の人は考えてる。座布団を敷いてその厚みをみて、のばした手がスンナリ一番らくで美しく見える火鉢の高さは七寸五分だ。
七寸五分高、底は香玉の透し入りのその一対の火鉢を見ながら、
「留さんお懐《なつか》しう!」
ってしばらく黙ってたら、古道具屋のおやじがためらってるとでも思ったのか、
「台輪が一カ所痛んで桑でないのが使ってありますから、大晦日のことなり五百円勉強さして頂いて千五百円で」
ってやがるもんだから、めくらは手前が悪いんだ、とばかりよそへの払いに算用してた金のなかから大いそぎで払って買って帰って来た。
一個の火鉢のオトシ一つだって千五百両の価《あたい》はあらア。ましてやまして、車坂の留さんが、ためつすがめつ撫《な》でさすって仕上げた一対の火鉢がその値で買えりゃアこんな良い正月は何年にもねえと、ボヤク女房に自慢タラタラで、その夜から元日の朝にかけて、二つの火鉢に二つの火を入れて、右手と左手を両方のばしてしみじみとあったまったことさ。
そのあったけえこと心地の良いこと、良い仕事ってえものは、何十年何百年たっても人の心と体をぬくためるもんだと思って、まア元日のおトソも少し過ぎたっけが、こんな気持がいまの職人衆にわかるだろうかねえ……。
[#地付き](三十六年八月)
九十に四年の指物師
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小川才次郎[#「小川才次郎」は太字] 明治九年生れ。岐阜県土岐郡釜戸村出身。十四歳で郷里の建具指物森親方に弟子入り。二十一歳で上京して手間取りの職人を二十年。今の店を持ってから五十年になる。
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郷誠之助、平岡虎大尽、望月圭介、上原元帥、大島陸相、松方巌、黒田清輝、和田三造、佐藤玄々、菊五郎、段四郎、料亭中川、春本《はるもと》女将などの愛顧を受けた。端々をおろそかにしない丹念な仕事ぶりである。
東京都港区赤坂田町。
[#ここで字下げ終わり]
ブキの所がなんとも言えぬ[#「ブキの所がなんとも言えぬ」は太字]
すぐにこの家が分ったかい? ナアニね、四十年来の山王様の氏子だア、赤坂の山王様の石の大鳥居の前の「小川」って聞いてもらやア分らねえ方がどうかしてるんだが、このまえ故障直しを頼んだ水道屋がね、なんべん探しても分ンなかったんだそうだ。
探すにことをかいて「物指《ものさし》屋」を探したんだってよ。「さしもの師」なんて商売があることを知らねえんだね。嘆かわしい時代になっちまったもんだよ。
さア坐ってくんな。ゴタゴタして狭え部屋だが、これがあたしの仕事部屋だ。
ああ、このやりかけの仕事かい? これは赤坂の「中川」の女将《おかみ》さんから注文の配膳棚だよ。ゆんべも十一時まで夜なべをした。エ? 年? ハッハッハッ、あと四年で九十さ。もうダメさ。
けど、仕事じゃア若いもんにゃア負けねえよ。今でも昔からのごひいきの名指しで注文があるから、そいつだけはやるんだ。十四の年から七十年やって来た仕事だよ、手がきまっちゃってるからそれほど苦にはならねえのさ。
ン。この材はタモだ。幅が四尺五寸五分、高さが三尺八寸、奥行が一尺四寸の三段ものって注文さ。
「中川」の女将さんは目が利くから、ウッカリしたものは作れねえやな。そいつがまた楽しみさ。そっちこっちの勝負だからね。「どうだどうだ」ってわけよ。
いや、あたしは生れつきの不器用《ブキ》なんだ。美術学校の偉え先生たちが、
「そのブキん所がなんとも言えない」
なんて妙な賞め方をしてくれるんだがね、生れつきのブキだから、仕事は丁寧に丁寧にと心がけてやる所が、ほかの人とはチッタア違う所かねえ。
見てくれがよくても、あとで狂ったり、ゴテふったり、アバレたりする品は作りたかアねえのさ。
あたしゃア長生きだが、品物はあたしより長生きするんだからね。だからサシ口は堅くしとくし、予算がねえからなんて言ったって、一寸の厚みの品にゃア八分のホゾを入れとくんだ。
伜《せがれ》は、「お父さん半分でも良いでしょう」なんて分ったようなことを言いやがるが、
「いいや八分だ」
ってんで強引に八分のホゾを入れるんだ。「そこは釘うちでも見えませんよ」なんてえ所だって、
「いいや見えねえ所だからゴマ化せねえ!」
なんて強情張ってね、ノリをつけてネジ鋲でおさえるもんだから、「ネジ鋲つかうんならノリはいらないでしょうに」なんて、伜の野郎が呆《あき》れはててる。
「箱物の小川」なんて言われたって、あたしは仕事が器用なんじゃねえ。ただ丁寧なだけなのさ。だから、仕事を大事に大事にはしているから、そいつを見てもらった時ア嬉しいねえ。
ソラ、日本橋の三越の、あのデケエ「天女」の像を作った佐藤玄々先生ってのがいるだろ? あの先生が、一杯呑んで、
「ン、これが小川の仕事か――」
ってあたしの作ったテーブルを、目をつぶっちゃア何度も何度も撫でてくれたって話を聞いた時にゃア、ほんとに嬉しくって自分が背中をさすられたような気がしたねえ。
成れたか? 日本一の指物師[#「成れたか? 日本一の指物師」は太字]
ああ、なんしろ七十年のこの道だから、ずいぶんあっちこっちの仕事をしたねえ。
高松宮の婚礼の時にゃア桑で机と硯箱を作った。あれはよく出来た。日本一の銘木《めいぼく》ってなアやっぱり桑だね。
けど桑にもいろいろあってね、一番良いのは伊豆七島の御蔵《みくら》島の潮水をくった桑が随一だ。緊《しま》っていて、なんとも言えねえ渋い光がある。八丈ものは少し落ちるし、三宅島のはイモ木でダメ。小笠原島のは固くて固くて閉口さ。
さア――、思い出に残るような仕事ってえと、「春本《はるもと》」のお仏壇かね。あすこの家には芸者が百五十人もいて、「赤坂」のはじまりはあすこだって言われたくれえのもんだから、仏壇だって贅沢なもんだよ。
たしか大正十四年と覚えてるが、高さ五尺の総桑で、二六〇人|口《く》、十カ月かかった。総銀の金物で彫刻は名人と言われた落合虎之助。ひょうたんつなぎの欄間が入ったりして豪勢なもんだった。あれア今の金にしたら五百万円でも出来ねえンじゃねえか。
まア、あたしの仕事じゃアあれが一番かねえ。戦争でも焼けなかったから今でも残ってる筈だよ。「日本一の指物師《さしものし》になる」って決心して田舎から出て来て、そんなものになれたかどうかは知らねえが、あの仕事だけは今でも時々思い出すよ。
ン? ああ、あたしは岐阜の中津川の近く、恵那峡の手前の土岐郡釜戸村ってえ草深い田舎でトレたんだ。
明治九年、神風連の乱の年で、西南戦争の前の年ってんだから頭も禿げるわけだアな。
家の隣に森豊治ってえ建具指物の親方がいてね、十四の年に弟子になった。信州上田で大工をしていた人が、屋根から落ちて指物師になったってえ親方だから、当人もそんなに器用な方じゃアねえ筈なんだが、ひとの顔さえ見れば、
「おめえは不器用だア、不器用だア」
ってね、キレイな娘さんがいて、その前でやたらに言うもんだから恥しくって仕方がなかったもんだった。
二十一までここにいて、決心して日本一になろうと思って上京したんだが、当時はまだ中央線が無かったもんだから、名古屋まで十五里の道を歩いて出たもんさ。
たしか、日比谷公園が出来たのは、あたしが上京した年だよ。上京したばっかりのお上りさんのあたしがね、道でぶつかって驚いたのがね、岩谷天狗の馬車さ。
天狗タバコの岩谷大尽がね、真ッ赤いチョッキを着て、馬車に、
「驚く勿《なか》れ煙草の税金タッタ百万円」
って大きく書いた幟《のぼり》を立ててね、砂煙を立ててガラガラアッと駆けすぎるのを、信玄袋をぶら下げたあたしがアングリ口をあいて見送ったのを覚えてる。
あとからごひいきになった千葉さんの「菊世界」や、この「天狗タバコ」を政府が買い上げて、煙草が専売になる前の話だから、古いも古い話さアね。
それから職人を二十年、赤坂のこの店を持ってから四十年――いろんなことがあったねえ。
ごひいきになったお客さんを数えても、郷誠之助さん、平岡大尽、望月圭介さん、上原元帥、大島陸軍大臣、松方巌さん、黒田清輝さん、和田三造さん、音羽屋さん、出羽ノ海さんと、ちょっと思い出すだけでもずいぶんの数になる。
平岡大尽? ン。今の若い人は知るめえが、花柳界じゃア通人《つうじん》で鳴らした人で、汽車のハコを作った人だし野球の元祖だよ。
「おめえ、金が頬ペタにぶつかって来やがるんだ」
なんてあたしに話してたが、なんぼ金を持ってたかあたしは知らない。通人だけにご注文も渋くっていい勉強になった。
ああ、このチッポケな店に、ずいぶん偉え人が何人も来てくれてるよ。
チッチャな店のエライ人たち[#「チッチャな店のエライ人たち」は太字]
ある日、この店に、大島の羽織を着たゴマ塩頭の小さな爺さんが来てね、
「どうも、東京でいろいろ指物をさせてみたが気に入ったのがない。あんたは名人だって聞いたがやってくれるかい?」
なんてオーフーなことを言いやがるのさ。こオの野郎と思ったがハナを明かしてやろうと思って「お宅はどちらです」って聞いたら、「丹後町の高橋是清さんの裏の上原だ」ってえから、行ってみて驚いたね、上原元帥なんだ。
いまでこそ元帥なんたって若え者は知るめえが、当時、「兵隊の位《くらい》」でいやア最高だからね。
お茶なんぞ味もなんにも分る次第じゃありゃしねえやア。「で、何をご注文なんで」って聞くと、朝鮮の竹内少将ってのから鹿の角を送って来たので刀掛けを作りたいがその台を頼むって話だ。
ああでもない、こうでもないって話になって結局、「亀にしましょう」ってあたしが言ってそれにきまった。
その刀掛けの台の亀を、あたしが一応大根で作ってみてね、よかろうとなって桑で仕上げたが、「東京中どこでも気に入らなかった」なんて言われてるだけに気骨《きぼね》を折ったね。
ン。松方巌さんが来たこともあるよ。この巌さんのお父さんの正義さんてえ人は、総理大臣までやって偉え人らしいが、相当の発展家で、ソッチの方も偉え人だったらしく、産ませた子供が十八人ってんだからたいしたもんさ。
|〆《しめ》て一ダース半の子種をつけるなんぞってえなア、マサに英雄豪傑だアね。
「あれはあなたのお子様です」
「ああそうかそうか」
「あれもあなたのお子様です」
「ヨシヨシ」
って認めたってえ話をみんながしてたから、精力絶倫、子種も事業慾も溢《あふ》れてたんだろうね。
うちの店へ来たのは、「松方コレクション」の幸次郎さんのスグの兄さんに当る巌さんで、さすがに立派なフーサイをしてたね。
「香炉の直し物を頼みたい」ってえ話だからお邸へ行ったが、イヤ、女中がいるのなんのって――。作るばかりが能じゃアねえから、女中さんたちを集めてね、
「タンスってえものはこんなに苦心してこんなに手間をかけて作るんだ。だから扱う時もこんなぐあいに丁寧に扱ってくれ」
なんぞとね、知ったかぶりの講釈をブッてたらね、それを旦那が聞いてとても喜んでね、「さすがは名人だ。心掛けが違う、家具をわが子のように思ってる」とかなんとか、それからごひいきになっちまった。
エ? 和田三造さん? ああ、衝立《ついたて》の仕事をしたんだよ。タモ材でね、三尺の衝立だったが、「黒く仕上げてくれ」って注文なんで渋く渋くと仕上げたら喜んでくれて、「出山《しゆつざん》の釈迦」ってえ絵をかいてくれた。
惜しいことに戦災で焼いちまったが、この和田先生ってなア、外国で病気ンなった時、女中が二人でよく看病してくれたからって礼に絵をかいてやって、
「二人で半分ずつ破《やぶ》って分けてもいいよ」
って言ったってえから、眺めて充分仕事の参考にさしてもらった「出山の釈迦」が、焼けちまってもそんなに文句は言うめえよ。
そのサバサバした気持は絵から充分頂いて、充分仕事の上にあたしゃア生かして来たつもりだ。
ン。音羽屋さんにもよく伺ったが、十五世橘屋さんの胸像の台だとか、先代猿之助さんのお父っつァんの段四郎さんの注文だとか、役者衆の仕事もずいぶんさせてもらった。
段四郎さんのはね、狩野鉄斎作の木彫のエテ公が、鉄棒をかついで小猿を後ろに引きつれてるやつの台なんだが、材を薩摩杉、ふち回りを桑にして、あの家の芸風のガッシリした感じを出すところが苦労だったね。あれは今でも猿之助さんの家の玄関に置いてあるよ。
マア、並べ立てりゃアキリのねえ話だが、そのほかでは、元常の花の出羽ノ海さんかねえ。
はめこみの洋ダンスだの、松の一枚板のテーブルだのって、いろいろ注文で作ったが、さすがに日ノ下開山横綱を勤めた人だけに、気分が大きくて仕事にも目が利《き》いたねえ。
「気宇壮大な松の一枚板のテーブル」なんて言われると、こっちだって材料を探すのに一年もかかったよ。出来上りも「天下の横綱」にふさわしいように、余計な飾りはつけないで、ガシッとした感じを出すのに骨折ったんだが、こんな時あちこちエライ人のうちに出入りさせてもらって、良いものを見せておいて頂いた目学問が役に立ったねえ。
職人ってえものは、手が利くだけじゃアいけねえや。目も利かなくっちゃア一人前とは言われねえ。あたしは酒もタバコもやらないが、お出入り先でいい品を見せて頂くのをタッタ一つの道楽にして来たことが、きっとどこかで役に立っているんだろう。
「削り半分・磨き半分」[#「「削り半分・磨き半分」」は太字]
望月圭介さんは、
「キミはいいねえ、好きなことをやって金になるんだから」
って言ってたし、農林大臣になった島田俊雄さんは、
「大臣になったって何が良いもんか。天下の指物師で威張ってるおまえの方が余ッ程良いよ。大臣なんて胃が丈夫でなくっちゃア勤まらない。イヤ宴会でもなんでも、出なけりゃア事を欠くんだから」
なんてしみじみあたしに言ってたがね。政治家なんて、そうしてみると詰らねえもんだね。嫌いなことをやって、食いたくもねえものを胃の腑がブッ壊れるまで無理して呑んで食わなくっちゃア仕事にならねえのかねえ。おかわいそうに島田さんなんて、あたしと同年なのに、もうとっくにお亡くなりになっちまったア。
人間、棺桶に入ってから|〆《しめ》て勘定をしてみると、やっぱり好きなことを一所懸命やった方がトクってことになるのかなア。
そうは言ったってね、この「指物師」を好きで一生の仕事にしてえなんて旧弊な人間はだんだん少なくなっちまって、いずれ和家具づくりの「指物師」なんてものもあたしあたりが最後だろうよ。
早い話が、あたしの伜だってワケの分らねえ「デザイン」とやらで、ヘンテコな洋家具を「同人」というのと一緒に展覧会に出してるし、そっちの方が良いって、伜名指しの注文もボツボツ出て来てるご時勢だ。
道具がどうの、心掛けがこうのなんてシチ難かしいことを言ったって、だいいち弟子のなり手がありゃアしねえや。目ぼしい弟子って言やア、三越の家具部が出来る時、うちから紹介した四人ぐらいのもんかねえ。
道具? ああ、この引き出しを見てくんな。ノミ、カンナ、キリ、小刀そのほかノコ、合せて五百|梃《ちよう》もあるだろう? 中にゃア自分で作ったものもずいぶんあるんだよ。
カンナ一つだって、柔らかい木にはこのキワガンナ、固木にはこっちのキワガンナ、仕事によっちゃセメガンナ――。ン。脇息《きようそく》の足だの蛇腹なんてえ所は、このカンナのカドで責めるんだ。こんな豆みてえなカンナは売ってやしねえ。自分で作るのさ。
このまた道具を錆びさせねえのがひと仕事だ。見てくれ、みんなピカピカだろ? けどただ光るだけじゃア駄目だ。カンナってものは研ぐと裏へ曲りやすいもんだ。裏のヘコミのとれちまったカンナなんてものは役に立ちゃアしねえ。
あたしが三年使うカンナを小僧に任すと一年でダメになっちまう。これも研ぎ方のコツ一つさア。
こんな道具が、この倍もあったんだが、戦災で焼いちまった。戦争でなにがこたえたって、あたしにゃアこいつが一番こたえたねえ。
さア、道具は出来た、材料はきまった、荒削り、中削りと済ませて厚味を何分と仕上削りをしてネジレもとって、差し口を三枚、五枚、七枚と組むことにしたあとが固めの仕事だ。
幅と長さをきめてそれに対する差し口もきまって、ノミで落して穴を掘ってホゾをつける。
「固め」が済んだら「磨き」。ヘタに目をスルと傷がつくし、良いものはムクの葉やらトクサで丹念に磨かされる。「磨き半人」ってえくらいのもんで、テーブルの磨きひとつに一日がかりだ。
ケヤキの三尺ものでも磨かされたら三日もかかって翌日は腕も曲らず足もおかしくなって便所で這わなくっちゃアならねえ。
さて全部終ってもまだ「塗り」がある。いまでこそラッカーなんてもんでやるが、昔は「フキうるし」を数回重ねて仕上げをした。胴ズリだア、「ツノ粉」だアって鹿の角の粉にしたやつなんぞを渡されて、ていねいに、ていねいに磨かされる。
その上、「削り半分・磨き半分」こいつが出来ても半人前だアなんてスカを食わされるのが、あたしたち指物師の仕事だ――。
こんなご時勢じゃア弟子の成り手がなくなるのも、無理はねえかも知れねえなア。
そのうえあたしは若いものに、説教ってえわけじゃアねえが時々自分の気持を話すんだよ。そいつがまたケブってえらしいや。
エ? ン。「職人にゃア身構えが必要だ。凡ての仕事は身構えがコンポンだ」ってんだよ。柔道や剣道だけじゃアねえや。身構えが出来てなくて良い仕事の出来るわけがねえや。道具の扱い、仕事の仕方、穴を掘るにも定石があらア。昔っからの伝統ってやつの形をしっかり覚えてから、そいから自己流もよかろうが、基礎が出来るまで仕事を崩すことは絶対ならねえ――ってこう言うのよ。
伜をはじめ、若え奴らは、みんななんだかケブってえような顔をして聞いてるよ。
エ? そうかい、もう帰るかい。いヤ長居なんてそんなことはねえよ。フム、もうそんな時間になるのかい。
またおいでよ。近ごろ、年寄りの話をしみじみ聞いてくれるものが無くなっちまってねえ……。そうかい。なんのお愛想もなかったねえ――。
[#地付き](三十六年十月)
勇みのめ組の組頭
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
田中米吉[#「田中米吉」は太字] 明治三十二年生れ。愛宕鳶土木曳屋企業組合の理事長――というよりは、江戸町火消しの伝統を継ぐ「め組」二百数十人の命知らずを預る組頭である。父七五郎、兄富太郎ともに組頭であった。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
六代目尾上菊五郎とは「男と男の交際《つきあい》」があり、仕事としては増上寺本堂、烏森神社、宮中「千草の間」の建前などがある。体重二十貫、デップリした貫禄充分の仕事師である。
東京都港区西新橋。
[#ここで字下げ終わり]
「鳶」は将軍様の御命名[#「「鳶」は将軍様の御命名」は太字]
鳶《とび》ってえのは、なんで鳶って言うかってえと、空の高い所に足場を組んで、六尺も横に飛ぶ――、それで将軍様が「まるで鳶の様《よう》じゃ」と言った所からついた名なんだ。死んだおやじが言ったんだから間違えはねえ。
え? おやじ? 七五郎って言ってね、安政生れのガンコ者だった。なにしろ、警視庁の消防組に勤続五十年で表彰されたって男だからね。そうよ、もちろんめ組の組頭だ。
め組ってえのは、二百五十年ほど前の享保《きようほう》年間に、大岡越前守さまが江戸町奉行になった時つくった江戸町火消し、いろは四十八組の一つで、例の「め組の喧嘩」じゃア芝居にまで仕組まれた由緒のある組だ。
ええと、どこかに古い本があったっけなア、オイ、誰かあの、いつだか何とかって学者の先生が見せてもらいにきた本を持ってこい!
ナニ、ねえ? ハアテ。こうっと、あったあった、こんな所にありやがった、これを見てくんねえ。いいかい、「江戸乃花《えどのはな》」って本だ。「二番組、め組、芝口南、町員《まちかず》三十八カ町、人足二百三十九人」とチャーンと出てるだろ。
この、め組の組頭を、七五郎、富太郎、米吉と、おやじ、兄貴、あたしと、まア三代守ってきたわけだ。
鼓胴を型どっため組のまといは組頭の家に置くならわしで、今もあっしの家の玄関に置いてあるから、あんたもご覧なすったろう。あれだ。
角《かく》つなぎのめ組の半天を着た|〆《しめ》て二百何十人の命知らずの勇みの男をあずかって、ジャンとくりゃア火の中、水の中にも飛びこむのがあっしの仕事だが、日頃は鳶人足でまじめにおまんまをいただいてるのがあたしたちの暮しだ。
だけど、正月ともなりゃアたいしたもんだ。一月六日は出初《でぞめ》だからね。め組の野郎共がズラッと揃って、六十二歳のあたしが先頭だ。向ッ鉢巻に揃いの半天で、琴平様《こんぴらさま》でお祓《はら》いをうけてから明治神宮の外苑へ、はでに繰りこみってわけさ。
やらかすのは梯子乗りとまとい行進ってわけだが、そんな時の木遣《きや》りがなんとも言えず勇ましくって粋《いき》なもんだ。
※[#歌記号、unicode303d]ヨーイ、ナンカノ、ツナカンラ、
コーンエオ、ショオ――
って、こいつはおれにも意味はよく分らねえが、なんでも名前は「野車」ってんだそうだ。
音羽屋にはイカレたヨ[#「音羽屋にはイカレたヨ」は太字]
「新門辰五郎」? ちがうちがう、ありゃア浅草の「を組」の頭だ。新門は侠客、め組の辰五郎は腹っからの鳶の頭だ。みんなよく間違うんだが、間違えねえでもらいてえね。
「め組の喧嘩」ってえのは、このめ組の辰五郎さんの時のことを芝居に仕組んだもんなんだ。
なんでもめ組の連中が、当時の品川の遊廓へ遊びにいって騒いでいると、角力取りが廊下を通って障子を倒されたんで若えのが文句をつけにいったやつを、あとから辰五郎が詫びにいくと、「天下の関取と鳶人足とでは身分が違う」ってなことで辱しめられて、それから出入《でい》りになるわけだが、四ツ車の大八だの、九龍山浪右エ門だのって角力取りが双肌《もろはだ》ぬぎになって棒をふるってるやつに、め組の連中が向ッ鉢巻に刺子《さしこ》で鳶口を構えてる図なんかを、子供ン時に草双紙《くさぞうし》で見て、おれも若い血を燃やしたもんだ。
だから今でも「め組の喧嘩」を芝居や活動にする時にゃア、チャンとおれン所に挨拶《あいさつ》にくるね。こなけりゃ若い奴らに「おい、チョット行ってこい」ってインネンをつけさせるんだ。へへへ、するってえと若いオッチョコチョイがアイサツに行きやがってね、おもしれえんだ。
だけど、筋を通してこられるとかえって物入りだ。六代目だ、橘屋《たちばなや》だ、なんて人たちはさすがにキチンとしたもんだった。断《ことわ》りにこられりゃアそのままにもできねえや。高輪北町にある辰五郎|頭《かしら》の墓に一緒《いつしよ》にお参りして、芝居は組で総見《そうけん》だ。まさか立見の三等ってわけにもいかねえから、二等席で、鼓胴のめ組のまといの小型のものを作って祝ってやる、なんてことにならア。
すると、音羽屋なんぞはソツはねえやア、
「頭《かしら》ア、どうせ下さるんなら舞台で呉ンねえ」
なんてんで、歌舞伎の檜舞台をあっしも踏んだわけだが、ライトってやつがピカピカ当って目がくらんじまって、何が何やらよく分ンなかったね。
それで、竹葉《ちくよう》の鰻弁当かなんかをよばれて芝居を見てるうちに、さっきの舞台の写真がもう配られてきてね、音羽屋が、
「どっちが男ぶりがいいかくらべっこしようじゃねえか」
なんて言うんだからイカスじゃねえか。
ついこっちも、草鞋《わらじ》のはき方からまといの担ぎ方まで教えてやりたくもなっちまおうというもんだ。
草鞋ってえば、草鞋ひとつだって鳶のはほかのと違うんだ。鳶の草鞋はワラだけでボロははいってねえ。だからすぐプツリと切れて、万一の場合の足掻《あが》きがいいようにできてるんだ。小判型で、指先が出てて、高い足場でも指先が利《き》くような仕掛あんばい式になっている。ヒボもほかの奴《やつ》より細いしね。
その草鞋が、昔は三銭だったのが、今は三十五円もして、それもよッぽどさがさなくっちゃねえんだから、全くご時世も変ったもんだなア……。
意地と我慢の商売サ[#「意地と我慢の商売サ」は太字]
支度《したく》だって、今の若い奴らはぞろっぺえになりやがった。いい若いもんが、ジャンバの上に半天なんてザマで、ヘイ今日は、なんてのがあるんだから、そんな野郎に仕事させる気になんぞになれるもんじゃアねえ。
昔アももひき腹がけで、袖の細い半天に手ッ甲で、キリッとした姿なんてもなア男が男に見とれるほどにもイナセなもんだった。それを今の奴らア「そんな格好《かつこう》じゃア肩が凝《こ》って」なんて爺《じ》イ様みてえなことをぬかしやがる……。
死んだおやじの言い草じゃアねえが、
「仕事師ってのは意地と我慢《がまん》の商売」だ。そんな根性でロクな仕事のできるわけがあるもんじゃねえ。
高え足場に上った時なんかは、根性ひとつで落ちたり、落ちなかったりするんだ。「ここで落ちたらあすこへ飛びついてやろう」ぐらいの気《き》ッ風《ぷ》の奴の方が落ちねえもんなんだ。あすこへ飛びつこう、なんたって、三尺も落っこっちまえば、もうあとは分ンねえもんだけどサ。そんな根性でいたって落ちる時もある。おれも落ちた。落ちて張り倒されたね。
あれアどっかの家作《かさく》の建前ン時で、あっしが十九ぐらいン時だったかなア、ハッとした時は二十尺ぐらいン所から仰《あお》むけ様《ざま》に落っこってウーンってわけさ。
そしたらおやじが駆け寄りざまに、
「この間抜け野郎め!」
って、目ン玉が飛びだすぐらい背中をどやしやがったね。こっちも若えから、
「くそ!」
ってんで腹立ちまぎれにミシミシ痛え背中や腰もかまわずにまた中途まではのぼったよ。
そこの旦那が、気付けの水をヒシャクにくんできてくれたのを、
「やめてお呉ンなせえ、くせンなりまさア!」
って、おやじがパッと払ったもんだから、頭から水を浴びちまったやつを拭いてる旦那を、高え所から見おろしながら、
「他人でせえ驚いて親切にしてくれるのを、おやじのちくしょうめ――」
と思ったが、あれは、そうじゃアねえね。第一におやじは驚いたんだね。第二に、ホイホイなんて背中をさするよりゃア、ドヤした方が良い気付けになるんだね。第三に、あの時ソーカソーカなんて言われてたら、そのあとあっしの仕事は一生ハンチクになっちまったろう――。今ンなって考えれば、みんなありがてえ親の慈悲《じひ》サ……。
「仕事師の仕事にゃア名人はねえ」って諺《ことわざ》があるくらいで、言わば鳶人足だ、なんでもやらなくっちゃならねえ。家の持ち上げ、基礎上げから建前、田舎の仕事師は壁まで塗る――。仕事はそれからそれと毎日変ってくるから、一つの仕事に名人になってるヒマはねえ。
要は、「意地と我慢」の根性ひとつでどんな仕事でもコナしていかなくっちゃならねえんだから根性が大事だ。
馬鹿が調子にのって……[#「馬鹿が調子にのって……」は太字]
おかしな商売サ。一所懸命やってあたり前、
「馬鹿が調子にのってやがら、へへへ」
なんてぐあいで、何をやってもうめえとは言わねえ。
大工の手伝いの仕事でも、朝は大工より早く行って研《と》ぎ水を汲んで待っているし、夕方は大工がしまってからカンナ屑の中に危ねえ道具は落ちてねえかどうかチャンと調べてかたづけて、たとえ雨が降っても濡れてもキチンとあと始末をしてからでなくちゃア帰れねえ。
建前に行って、ツナギを入れる時だのスジカイなんぞのいる時に、ハイッと気合よく出して、
「この頃おめえ、少し先が見えるようになったなア」
なんて言われるのがせいぜいの賞《ほ》め言葉。
こんなことを言われるようになるころ、やっと一人前に重いものも担《かつ》げるようになるんだ。
一人前の鳶なら、一人で六十貫ぐらいの材木や石を担いで、五間や十間歩けなくっちゃ「兄イ」なんて言われねえ。
動かすだけなら、八十貫のレールを一人で動かしたことだってあるぜ。重いものを担ぐと舌が吊るんだ。顔はまっ赤に充血して、やがて紫になって、そりゃア辛《つれ》えもんだが、そこは「意地と我慢」の商売ヨ。
それでも「張り持ち」なんてコツがあってね、重い石なんぞを運ぶ時にはわざと短い棒を使って、前後から寄ッかかるようにして突ッ張って運ぶとワリに楽なんだ。
高え所は、看板の取り付けなんぞで百尺もの所にのぼったこともあるヨ。丸太を組んでね、のぼるんだ――。
今じゃグレンでやるけど、昔ア石の鳥居でも何でも足場を組んで上げちまったもんだ。足場の上に松丸太を流して、荷のかかる所へ麻縄をかけて「シャチ」ってやつをウインチ代りに使うんだ。
幅四寸ほどの樫《かし》の板で、まん中に穴のあいたやつに、両方から心棒でガッチリとめて穴に縄を通すんだがね。
三尺の木で四つに組んで心棒がグルリグルリまわる「カグラサン」なんてのも家を引っぱる時にゃアよく使ったもんだが、ウインチのワイヤだとガクガクして壁が落ちたりするが、カグラサンだとそんなこともねえから却《かえ》って便利だ。
曳屋は曳屋で専門があるんだが、材料さえあれば仕事師でも曳くよ。煙突、鳥居、銅像、なんでも突ッかえ棒をして曳っぱっちまう。「これは出来ません」ってことの言えねえ商売だからね。
少々荒っぽい根性話《こんじようばなし》[#「少々荒っぽい根性話」は太字]
頼まれれば、曳屋のやる仕事でもやっちまうくせに、さて大工なんかがこっちの縄張りを荒したとなると、こいつはうるせえんだ。
こっちの縄張りうちで大工がよ、「ちょこちょこっと頼むわよ」なんてお得意さんに言われてね、「勝手口を少しばかり上げるくらいの仕事ならいいだろう」なんて、こっちへ筋を通さねえでキリンで上げちまうことなんかがあるんだ。
エ? キリンってのは今のジャッキみてえなもんだ。
そいつが分ったら大変よ。「野郎! おれたちの面をつぶしやがったな!」ってわけさ。すぐに乗りこんでいって、
「キリンを出せ!」
って担《かつ》いできちまうんだ。そして、
「おう、おめえ大工かと思ったら鳶の仕事なかなかうめえな、これからも仕事があったらよろしく頼むぜ」
ってないやがらせを言ってね。こいつにゃア向うも手を上げちまって、まア詫びにくるってことになる。
筋の通らねえことなら、相手がどんなに強かろうと、デカかろうと承知しねえってのが、この商売の心意気だからねえ。
なんしろおやじが、まだおれたちがホンの小僧の時分から、
「相手がデケエもんなら幾らでも喧嘩してこい、あとはおれが引き受けてやる」
って日頃から言って育てるんだから。
それでこっちも若えし気が荒え方だから、喧嘩になったら相手をまず丸太でひっぱたいちまう。
するってえと包帯《ほうたい》姿かなんかであっしん家《ち》へ怒鳴り込んで来らア、そうするとおやじの言い草がいいや、
「おめえさん、魔羅に毛を生やしてるくせに子供を相手に喧嘩ってのは大人気ねえじゃねえか、おれが相手になろう」
って、おやじが面を出すんだ。テもなく「子供の喧嘩に親が出る」って奴さ。
そいで散々ひっぱたいて、相手が交番へ逃げこんで巡査に「助けてくれ」ってかじりつくやつを、まだかまわずにひっぱたく――なんてのも見て育ったんだから気も荒くなるわけだ。
あっしもいま二十貫あるが、おやじは二十三貫もあったから、なかなか貫禄《かんろく》があったし押しもきいたね。
すぐこの先の横倉さんて質屋のお店《たな》は当時は蔵の七戸前もあって大変なご威勢だったが、この虎ノ門近辺って所は馬丁《ばてい》が大勢いてね、時々店先へすわりこんじゃア河内山《こうちやま》をきめこむんだ。
そんな時アおやじが呼ばれて取っちめてたっけ。
これアまア鳶なんてえ勇みの仕事の、お得意さんに対する仕事の一つさ。
気ッ風《ぷ》と腕ッ節、根性が物を言うのがこの商売なんだ。
ナアニ、おれなんぞは、そんなにたいした根性ばなしってものはねえよ。まアしいて話せば坐っててやけどを直しちまったことぐらいかなア。
ああ、あれは昭和十八年の暮の二十三日、押しつまってから近くの佐久間町二丁目の小沢ってカフエから火が出てね。あっしは二階の窓から放水してたら三階の梁《はり》が落ちて来てオキが襟ッ首へザザアと入りやがった。
首振って、手袋でひっこすったまンま火を消すまで放水していて、消えてから帰ってきたら、襟も手袋も厚い刺子だから、火傷の皮がペロンとむけてちょうど因幡《いなば》の白兎よ。そいつを医者にも行かずに直しちまったら若え奴らが驚いていやがったっけが、ほんとはこいつはちょっと辛《つら》かったね。
畏れ多くて涙がネ[#「畏れ多くて涙がネ」は太字]
さア、あたしのやった仕事じゃア、増上寺の本堂の建前なんてのがある。これはめ組でやったんだが、梁《はり》も二尺五寸角の五間、八間なんて大物で、大分苦労した。烏森《からすもり》神社もめ組だ。ナマコがねえんで三十尺の足場の上で全部手ねりでね、神輿《みこし》蔵も奥の院もみんなやった。
さアて、そのほか変った所って言えば宮中かね。おやじの七五郎は豊明殿の足場や建前をやったんだが、せがれのあっしは十代の時分に「千草の間」ってえのに入った。
仕事は幅六尺に高さ十三尺ってえ鏡をおろす仕事なんだが、その鏡ってえのがなんでも日本にはねえドイツ製とかで、またベラ棒にデケエもんなんだ。そいつをおろして寝かして、ガラス屋が水銀をひいてまた上げるって仕事なんだが、
「じゃ、かかろうぜ!」
ってんで向ッ鉢巻をしたら、宮内省のお役人ってのが、
「あのう、鉢巻というものは、しなくては仕事ができないもんなんでしょうね」
ってやがんの。そう言われちゃ仕方がねえから、
「ヘエ、しなくてもできます」
ってわけで鉢巻を取ったサ。次に、汚え足袋で鏡を汚しちゃアと思ってぬいだら、「足の油がつくとよけえ畏《おそ》れ多い」ってわけで話アみんなテレコテレコだ。
イキの悪い格好で、下に敷物を何十枚としいて、足場をかけてセミで吊って、おろしてのっけてそン時もらったゼニがいくらだと思う? 十人がかりの仕事でタッタの二十五円だったよ。いくら物の安い大正時代だって、まるでオソレオオクテ涙がこぼれたね。ハハハ。
しかし、それもこれもみんな良かった昔の夢だ。
※[#歌記号、unicode303d]兄貴ャ二階で木遣りの稽古、
エンヤラヤー
なんて時代は終った。め組の頭のあっしが、今や「愛宕《あたご》鳶土木曳屋企業組合理事長」なんてものになって、そこへめ組が全員加入して、担当員として仕事をもらってくる仕掛ンなった世の中だ。
まア、来年六日の出初に、二本引きの揃いの半天で、鼓胴のめ組のまといを存分にふり回そうってのが、今ン所のタッタ一つの楽しみさ。ハッハッハ。
[#地付き](三十五年十二月)
思楽《しらく》老コテばなし
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池戸|思楽《しらく》[#「池戸思楽」は太字] 本名庄次郎 明治二十二年生れ。東京市ケ谷の左官丑五郎の長男に生れ、十七歳から父に仕込まれた。続いて「左官の神様」と言われた名工伊豆の長八の弟子「沓《くつ》屋の亀さん」吉田亀五郎に就いて修業した。漆喰《しつくい》・色土の乾かぬうちにコテ先一つで一気呵成に仕上げねばならないコテ絵では当代一と言われ、左官の全国組織である日左連の相談役、後進に技術を教える訓練所の指導員をしている。
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東京都新宿区市ケ谷富久町。
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伊豆の長八の孫弟子です[#「伊豆の長八の孫弟子です」は太字]
ハイ。おたずねの池戸庄次郎です。イエイエどうぞどうぞ。絵をかくなんていう大それたことじゃありません。いたずらですよ。ただ、こうして面相筆《めんそうふで》やら刷毛《はけ》やらを使って、蛙だ花だ、獅子だ虎だなんて絵のまね事をしておりますと、心が落ちついて来ましてね、とって七十一の年寄りの道楽としては打ってつけなんですよ。
それに、絵をかくことは、左官も、彫刻の方を主にやって来ました私には、良い勉強にもなるんです。
ふつうの彫刻とは違いまして、一年たっても柔らかい油土をいじるというようなわけには参りません。漆喰《しつくい》は水物ですし、セメントは二時間ぐらいで乾いてしまいますから、型物でない手付けの左官の彫刻仕事は、やり出したら一気|呵成《かせい》に仕上げてしまわなくちゃなりません。
それにはどうしても、その物の特徴が肚《はら》に入ってないと困ります。絵をかくことは、その、特徴をつかまえるのに役に立つんです。
ハア――、左官のほうで細工物をやる人はいなくなりましたねえ。昨年の秋に静岡の森田さんが亡くなってから、私の兄弟弟子の伊藤菊三郎と私ぐらいになってしまいました。
これからだって、神社仏閣は造られるんですから、この技術が亡んでしまっても困りますよね。それに、世の中が落ちつくにつれて、高級住宅の左官仕事ではボツボツ彫刻の需要も出て参りましたようです。
日左連の組合でやっています技能者養成所の指導員として、若いものに教えてはいるんですが、もともとこれは天分のものであり、なかなかもどかしいことです。
それでも二、三人の若いものが素質があるようですから、まア、持っているだけの技術は伝えたいと思って努力はしております。
ハイ、私の師匠は、通称「沓《くつ》屋の亀さん」と呼ばれていた四谷の吉田亀五郎です。三代続いた左官業の家に生れたんですが、仕事のかたわら四谷街道ばたの店先きで、馬の沓《くつ》を売って足し前にしていたのでそう呼ばれたんです。
馬のわらじは売っても、師匠は腕の確かな人で、「唐草《からくさ》の善キ」と言われた中橋善吉さんと一緒に仕事をした霞ケ関の離宮の唐草なんぞは、立派なコテの冴えを示していまだに残っております。
弟子を育てるのもうまい人で、私どもの大先輩に当る腕の良い人が続々出ています。例えば宮内省に勤めてこれも赤坂の御所の彫刻をした「熊木の三公」、実科工業の先生になった「五井亀さん」なんという業界で名の通った人も、いずれも師匠に育てられた人たちです。
二人ともちょうど、西洋建築がどんどん取り入れられている時に仕事をした人ですから、ルイ王朝式のアカンサス模様の彫刻なんかは見事なものでした。
師匠の仕事のうまいのも道理、弟子に腕の良い人が出たのも道理――、師匠は「左官の神様」と言われる伊豆の長八さんについて修業した人なんです。
左官、コテ絵、コテ細工の話をして、長八さんの話をしないわけにはゆきませんから、少しここで、私が調べたり、見たり、師匠から聞いた所に従って長八さんのことをお話ししてみましょう。
鏝《コテ》画前代未もん左官長八[#「鏝画前代未もん左官長八」は太字]
大師匠、入江長八さんは、文化十二年伊豆の松崎に生れて、明治二十二年に七十五歳で亡くなるまで、実に無数の傑作を残しています。
「東京無双当以長揃」という当時の錦絵にも、「鏝絵前代|未《み》もんのわざ左官長八」と名前がのっていますし、横綱問題で遺恨のあった両関取を仲裁して、
※[#歌記号、unicode303d]東にまわれば陣幕よ西に回って境川
今を盛りのお関取
仲を取り持つ左官長八
と甚句《じんく》にまで唄われ、山岡鉄舟、清水の次郎長、三遊亭円朝、品川弥二郎、榎本武揚、なんという名士とも交遊のあった人です。
仕事ぶりは、内の仕事場の時は入口にシメ縄を張って閉じこもり、念仏を唱《とな》えながら――、外では袖着物に片襷《かただすき》という姿だったらしいですね。半天腹掛で身支度しても泥でよごれるのが多いのに、ホクロなどの土もはねかさなかったと言われています。
五十六歳で奥さんを亡くしてからは、白衣に袴に袈裟《けさ》という格好だったそうですから、その真剣な心構えはもとより、仕事がどんなに手早く小ぎれいだったかが分ります。
私は、長八さんの作品を勉強に、伊豆松崎の浄感寺に行きました折、
咲き残る 梅薫りけり 鏝の跡
という句を作りました。勝手に「思楽《しらく》」などと号してこんなおかしな句を作って楽しんでいるんですが、私の申したいのはあの時長八さんの数々の作品から受けた感動なのです。
いかにも爽《さわ》やかで厳しく、パチリと鮮やかでありながら枯れて落ちついている感じを心に刻んでおきたいと思ってヘタな句を作ったのです。
浄感寺には、長八さんのお墓も顕彰碑もあり、代表的な作品も沢山あります。ここは菩提寺《ぼだいじ》でもあり、正観上人という方の所へ嫁いだ|たきえ《ヽヽヽ》さんという方が長八さんの縁辺《えんぺん》にも当っていたので、お二人からわが子のように可愛がられて、自分の家よりもここにいた方が多かったというゆかりのお寺です。
長八さんが八つの年に、近くの海岸で波に洗われたいろいろの小石を拾って帰り、庫裡《くり》の床の間にそれで鯉の滝登りの図を並べてたきえさんをびっくりさせた、というのもこのお寺です。
浄感寺には、本堂天井の「雲龍」をはじめ、欄間の「天女」、壁の「鶴の図」、額の「白菊の図」その他、塑像では「お福さん」「天神像」「天のうずめの命」、木鼻の「獅子」など、まことにすぐれた作品が数多く、あの感動はいまだに忘れられません。
老来、めざめがちな夜半など、床の中で目をつむったまま仰向いていますと、瞼の裏にはっきりと、力強く、長八さんの作品が見えて来ます。
そして、養成所の指導員、などという事もしていますので、鏝画芸術の来《こ》し方行く末などをつくづくと考えさせられてしまいますねえ。
コテ先に心を入れろコテになれ[#「コテ先に心を入れろコテになれ」は太字]
鏝画芸術というものは、江戸の末期に防火建築としての塗家構造の堂宮建築の要望から盛んになったものですから、図柄も工法もそれに添って非常に独自ですぐれたものを生み出しました。
たとえば西洋にフレスコという壁画法があり、これは漆喰《しつくい》と顔料溶液の化学的な融合で堅い画面を作るわけですが、こっちは独特の方法で下地を作って彩色も自由にし、薄肉彫刻も併用するんですから、決してひけを取らないどころか、かえってすぐれている、と申して良いんではないでしょうか。
ハイ、長八さんは、絵も、土佐と狩野――それに浮世絵まで勉強した人ですから、図柄も豊富です。山水が多く、これに次いで観音、花鳥でしょう。
工法を申しますと、下地は大体、根岸土を使い、膠使用の胡粉《ごふん》下地でアク止めがしてあります。下地が木の額なんかの場合には、大理石の粉を糊ごねか、胡粉混合のもので盛り上げているようです。
けれども、盛り上げも最も高い所で二分五厘か三分ぐらいで、彩色は淡彩が多いですね。
塑像はもちろん漆喰製ですが、胡粉下地に彩色しています。
非常に面白いのは引摺壁の技法です。静岡県三島龍沢寺の隠寮は長八さんの代表的な作品ですが、あすこの千羽鶴の間《ま》は茶根岸土を使っていて、八畳の間の壁は引摺り仕上げで鼠土に草画風の竹が施工されています。
多くの「長八伝」には、これを「荒壁に彫刻した」とか、「中塗の上に施工した」と書いていますが、実はこれは、壁面に弧状曲面のコテを躍らせながら、無数に横の高低の皺波を造り出す引摺り仕上げという、雅趣のあるまことに珍しい仕上面なのです。
また、壁画のアク止めの技法についても、長八さんは独自の研究をして新機軸をだしていたようです。
彩色の鏝画には、昔は今のようにマインというような便利な色粉がなかったので随分難渋したようで、長八さんは、材料には茶根岸様の品や、浅黄や、土へ石粉と紙ツタをまぜてノリごねにして使っています。
色土壁に共土で鏝画の着色をしているのですが、これは徳川初期の名工の法や日本古代の秘法と一致しているといって研究家が驚いています。
長八さんは、一体いつどこでそんな技法を身につけたんでしょうかねえ。大工の左甚五郎と並び称せられるように名を挙げた長八さんが出るまでは、鏝画の技法なんというものは全く消え去ってしまい、長八さんから始まった、と言っても良いくらいのものなんです。
それが古代、徳川初期のもの、長八さんと技法が一致しているのは、偶然か研究の末か、誠に面白いことです。
それを例証するのは奈良の初瀬の長谷寺の壁なんです。この寺は慶安三年に徳川家光が再建したんですが、本堂本尊仏の背壁の外に木摺塗の壁画があります。
そしてこの技法は、アク止めに下塗漆喰の上に極めて薄く土で中塗りして、その上に白土を塗って描いています。下層漆喰のアク止めに中塗土をかけたんでしょうが、これは偶然にも、土壁の素地へ鏝画した古代の法に一致しているんです。そしてこれは、色土壁に共土で鏝画した長八さんの工法ともピタリと一致するんです。
マ、こんなぐあいで、長八さんの仕事をお話しすればキリがありませんし、私どもの学ぶ点も沢山にありますが、私はその門弟への遺言《ゆいごん》というので、いつも心に新たにしているんです。それはこういうのです。
「コテの先へ自分の心を入れて、コテになり切って仕事をしろ」――。
私は、いまの養成所の生徒は別にして、二十七人の弟子を育てましたが、それらにも、いつもこの長八さんの言葉を言い聞かせて来ました。
ヘタがこねると今戸焼の狸に[#「ヘタがこねると今戸焼の狸に」は太字]
ハア? そうです。彫刻がうまくなろうと思ったら、やっぱり土台の左官仕事をしっかり固めとかなくっちゃ駄目です。
ハイ。一人前になるまでには最低五年はかかりますね。昔は十一位で小僧に入って、兵隊検査まで十年ぐらいもやらないと年《ねん》が明けなかったもんです。
そのうちの大部分は下ごしらえの修業で、塗りにかかったら二、三年で仕上っちまうんです。左官の修業は壁ぬりの修業だなんぞと思ったらとんだ大違いです。
はじめに、庭掃きや道具の掃除がせい一杯で、それからしばらくしてからやっと才取りに回されます。
これは土刺《つちざ》しともいうやつで、下にいて上の親方や兄ィ衆に、泥を棒に突っ掛けて渡す役ですが、土を落さぬように馴れるまでがたいへんです。落ちぬまでもフネから刺して持ってく時に垂らして床板を泥だらけにして怒鳴られる――というわけです。
それを親方が上から羽子板式のコテ板に受けて塗る――というのが昔のやり方でしたが、今は中間の小僧は使わずに、職人が鍋蓋《なべぶた》式のコテ板を持って自分で梯子を上り下りするようになりました。
才取りを覚えたら土こねです。今日ではミキサーなんて便利なものがあるから良いですが、昔はフネにクワを打ちこんで、手先足先だけでなく体全体でこねたもので、このこね方と材料の調合がむずかしいんです。
ヘタがこねると水を入れすぎて、才取りは頭から泥をかぶるから今戸焼の狸みたいになっちまう。さりとて固くては塗りにくいと親方から文句が出る――という次第で、これはその日の天候も考えなくっちゃなりません。
風の日は乾きが早いからノリを多くしツタも余計入れます。曇りや雨はその反対、という具合で、これが色物となるとさらに面倒ですから、昔は専門のこね屋がいて商売になったもんです。
原色をそのまま入れるとムラになる。だから別の小さい容器で「板押し」して徐々にやる――なんという調合のコツを覚えるまでにはちょっと時間がかかりました。第一、色が二十二か三もあってそれの濃いやつ薄いやつというのがまた数あるので、名前を覚えるだけでもひと苦労でしたよ。
化学製品のマインが出来てる今の人には、昔の苦労は分らないでしょうねえ。
特にむつかしいのが上塗りの漆喰の調合で、今は無くなってしまった「磨きもの」の時なんぞは誰でも泣かされたものなんです。
ハ? 「磨きもの」というのは、土蔵などの上塗りを白とか黒とかピカピカに磨いたように塗り上げるあれです。土蔵の黒磨きなんぞで、鏡のように磨きこんだのが、昔はあったでしょう?
今ではもうそんなことはやりませんしモルタルか御影《みかげ》の偽石《ぎせき》というところですが、昔は、漆喰で下塗りして、その上に白や黒の「ノロ」をかけて、撫《な》でゴテで気永になでて光を出したんです。
そして最後に鋼のコテで撫で上げると、水がかかろうが何十年たとうが滅多《めつた》に崩れぬピカピカの黒磨きの土蔵が出来上るんです。
こうして無くなってゆく技法も保存して、新しいデザインとしてとり入れたら、案外おもしろいものが出来ると思うのですが、どんなものでしょうか。
上手は自慢で黒足袋をはいた[#「上手は自慢で黒足袋をはいた」は太字]
どうやら才取り、土こね、調合も覚えて、ようやく兵隊検査に近くなったころに、初めてコテを持てと言われた時の嬉しさは、これは昔の人なら誰でも覚えがあるはずです。
私はこの市ケ谷で左官をしていた丑五郎という者の長男に生れたんですが、コテを持たされたのは随分おそかったのです。というのは、私は彫刻家になりたくて家業は弟に任すつもりで中学へ入ったんですが、弟が嫌うので中退しておやじに就いたのが十七の年です。どうやらコテを持つ所までは来ましたがおやじのやかましいこと! コテはそう使うもんじゃねえ、こう使えねえのかと、口よりは先にゲンコが飛んで来ましてね。
家にいる職人がまた「主人の伜だからって遠慮はしねえぞ」という職人気質でコテ使いをやかましく言う――。おかげで仕事は早く覚えましたが、コテ使いはむずかしいものです。
コテの使い方で上手下手が分るのはもとよりですが、コテを見ただけでも分るものなんです。職人が来ると、
「オウ、コテを見してみな」
と言って、そのコテ先が減っていようものならお断りです。塗り方の中首のコテは、元が減るように使うのが秘訣《ひけつ》です。七寸のコテを三寸ぐらいしか使わないヘタもあって、こんなのが天井でも塗ろうものならコテは坂になって、粂の平内像の紙つぶてならぬ漆喰の滴りを浴びてまっ白けになってしまいます。
こんな時、上手は自慢で黒足袋をはいたもんです。コテを一杯に使えば垂れないもので、何日仕事をしようが黒足袋は黒いままです。
ヘタは埒があかなくて、いじくり回しているのにムラが抜けないから、材料は余計いるし時間はかかる、まわりが汚れて上りがまずい、ということになりますが、上手は材料も少しで上りがきれいで仕事が早い――。大体、昔から仕事のうまい男は大ゴテは使いません。
大ゴテは材料を余計食いますし塗りが早いようでも念の入った仕事は出来ません。彫刻なんかは、かかって小ゴテの使い方にあるわけです。
長八さんの額面のふちなどを注意して見ますと、漆喰製で、竹や紫檀、黒檀、黒柿なんぞの細工をしているだけでなく幅一寸から一寸五分ぐらいのものにも二段三段の面取りが見事にしてあってびっくりさせられます。
コテの使い方はまことにむずかしいもので、何でもない住宅の壁ぬりでも、コテの扱いが悪いと柱のチリ際が糸を張ったようにまっ直ぐにはいきません。
隈がまっ直ぐでなければ真ン中も平らにならない理屈で、簡単な壁ぬり一つにもコツのあるものです。まして窓などの丸い所を、ヘタがぬるとデコデコになって見られたものじゃありませんが、昔は西洋館の回りぶちの蛇腹《じやばら》を専門にひいているような名人が何人もいましたね。
たとえば山の手では出歯由さん、四谷の兼さんなんという人は、定規《はしり》を使ってもなかなか糸をひいたようには塗れないというのに、丸型やくり型のある蛇腹を、実に手早くまっすぐにサッサ、サッサと塗り上げていましたよ。今でもあの姿が目に見えます。
星移り年かわり、時代は新しくなりましたけれども、立派な昔の技法は伝えて生かして、お役に立ちたいと思っております、ハイ。
[#地付き](三十六年二月)
畳屋恵さん昔話
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
田丸恵三郎[#「田丸恵三郎」は太字] 明治三十六年渋谷の生れ。十二歳から本郷春木町の小島で年季奉公。七年の年季を十年勤めて二十二歳で麻布一連隊に入隊。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
兵隊で銃剣術五段も取り字の書き方も覚えて、「軍隊は私の大学」と言う。明大卒の次男を相手にカラー畳の試作をするような新しい所もあり、東京都畳工業協同組合の理事長も勤めた。
東京都目黒区上目黒。
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畳屋奇人名人銘々伝[#「畳屋奇人名人銘々伝」は太字]
ね、昔ア名人がいたもんだよ。どうして名人ってなア居なくなっちまったんだい? 分ンないねエ、あたしには……。
本郷に、「ヒゲ伝さん」、または「お髯《ひげ》の伝さん」って人がいたよ。これは床《とこ》作りの名人で、ワラ一本ずつを集めて作る畳の床が、糸で張って均《なら》し棒で掻《か》き落したようにまっ平らになるんだよ。
ね、アゴ髯をワラで縛《しば》って、珍妙な格好で仕事をするんだが、仕事はたいしたもんだった。そんなすばらしい床を、あっしたちが、ウンサカウンサカ一日半もかかって作るやつを、軽ウく一日で上げちまってね、夜は十徳《じつとく》を着込んで生け花の宗匠《そうしよう》に早変りさ。
ああ、昔の畳屋は、茶室だってなんだってやらされるんだから、ひと通りの職人はみんな茶の湯生け花の作法ぐらいは心得ていたもんだ。
だけど、昼は畳屋、夜は生け花宗匠なんてのはそう何人もいなかった。「ヒゲ伝さん」は、仕事ぶりを見込まれて三菱の岩崎さんにお出入りしていた床作りの名人で、我々の仲間じゃア「床師《とこし》」ってんだが、そいつの筆頭だったね。
床じゃアなくって畳表の方の仕事をするのは「ツケ師」ってんだが、「ツケ師」にも名人はいたよ。
「陣羽織」なんて人がそれだ。着ている半天の裾がいつでも陣羽織みてえにブッ裂《さ》きになってる所から出た名なんだが、呑む打つ買うの三拍子で身が持てず、嬶《かか》アに逃げられちまって繕《つくろ》うものが居ねえからそんな半天を着てるわけだ。腕は名人なんだが、三井・三菱なんて仕事に連れてくわけにゃいかねえや、仕方がねえから「オ、空家《あきや》の仕事か、そいじゃ陣羽織を」なんてことに、ついついなっちまうわけだアな。
「ツケ師」には全くヘンなのが居たよ。
「救世軍の国さん」ってのはどうだい。仕事が終ると、駿河台だの神保町までわざわざ下谷から出張《でば》って行ってね、鈴を鳴らしたり太鼓を叩いたりしてアーメンをやるんだからね。ナアニとんでもねえ、冗談じゃアねえよ本気なんだよ。あっしも、
「ああ天国は近づけり。悔い改めよ」
ってやられたんだから嘘じゃアねえ。救世軍軍曹の畳屋なんての面白えじゃねえか。
なんしろ苗字《みようじ》なんか互いにロクすっぽ知らずにタロさんジロさんでつきあってる畳屋のこったから、名前の上に肩書をつけて呼び合うわけよ。そうでねえと宗さんばかりが三人も五人も出来ちまうからね。頭の白いのが「シラガの宗さん」、ツンボの宗さんが「ツン宗さん」ってぐあい式に呼び分けるのさ。
「救世軍の国さん」は腕の良い「ツケ師」だったが、「河内山《こうちやま》」ってのは駄目だったね。これは河内山三代の孫だなんだって威張ってたが、仕事は空《から》ッ下手《ぺた》でなんのことアなかった。系図書きもあったんだそうだが、「困って団十郎《なりたや》に売っちまった」なんて言ってたがほんとだかどうだか――。
あ、そうそう。忘れちゃいけねえツケ師の名人が「お利口《りこう》直さん」だ。これはほんとに利口だった。理屈めいたことばかり言っちゃってね、仕事をしに行った先の旦那が、
「サザンカってのは椿《つばき》に似てるなア」
なんて言うとね、
「サザンカは山の茶の花と書いてサザンカと読みます。だから椿に似るわけです」
なんて、なにがどうつながるんだか分らねえ話をしちゃアいたが、腕は確かでガクはあるし、しょっちゅう本を読んでたね。畳の由来をあっしが知ったのも、この「お利口直さん」から聞いたんだ。
畳の歴史とあっしの歴史[#「畳の歴史とあっしの歴史」は太字]
古事記って本の中に、海彦山彦《うみひこやまひこ》の話が出て来るんだってね。そして弟の山彦が兄貴の海彦に頼んで借りた釣|鈎《ばり》をなくして、探しに行った竜宮の国で、野生のイ草《ぐさ》を八重に敷いてすわらせられたんだそうだが、それで山彦の火遠理命《ほおりのみこと》が畳屋の祖神になったんだそうだ。
「竜宮」は「琉球」で、「琉球|表《おもて》」って言葉もここから出たんだし、畳屋の新年宴会「祖神祭」にまつる絵姿も、ほかの大工左官のように聖徳太子じゃなくて、火遠理命だってわけもここにあるんだそうだ。
だから「祖神祭」には、海彦の鈎《はり》を呑んで困らせた鯛《たい》は遠慮して鱈《たら》を供えるんだそうだが、これは「お利口直さん」の言ったことだから、きっとほんとだろうとあっしは思うねえ。
そして「お利口」は、畳ってものの歴史を話してくれたんだが、それによるとはじめは家具として板の間《ま》に使う時だけ持ち運びしてたものが、何でも室町時代とかに一般に普及して、畳屋って商売もこの頃に始まったんだそうだ。
けれどその頃の畳ってのは、こん日で言うゴザみてえなもんで、今のような畳をみんなが使うようになったのは江戸時代からだよ、ってって直さんは高くもねえ鼻をピコピコさせてたから、きっと苦労して調べたほんとのことだろうよ。
エ? 面白えかい? そうかい。そいじゃその時聞いた宮中の儀式ン時に敷く畳の話もついでにしとこうか、全く「お利口直さん」ってのは物知りだったよ。
その畳はね、「揚《あげ》畳」ってんだ。これは古事記にミナモトを発する八重畳でね@裏|菰《ごも》A下配《したばい》B大手配C立配《たつばい》D横手配E上菰F床《とこ》の裏G床の表に畳表を張って、フチは高麗紋|縁《ぶち》のくるみ縁。床の裏には白更布を巻きつけた取ッ手を二カ所につけて、女官二人で持ち運びができるようにしてあるんだそうだ。
ね、ソラソラ、三月三日の雛の節句の、内裏《だいり》雛の敷物がそれさ。表は備後《びんご》、繧繝《うんげん》のくるみ縁。そいつを投げ敷きで板の間《ま》に二畳だけ敷いて、紫宸殿《ししんでん》の薄っ暗がりの中で式を拳げるやつ――、いつか皇太子さまの結婚の時、テレビでやったじゃねえか。
取ッ手にサラシを巻くのも、男子禁制で男が入れねえから、女官が持って汚《けが》れねえように、それで巻くんだろうねえ。マ、こんなのが畳の由来だの歴史ってもんらしい。
エ? おれの歴史? ハハ、ご大層もねえもんだ。親戚に畳屋がいたからこの道に入った、ってだけのもんさ。
ン。あっしはいま六十にはあと二年って年だがね、渋谷の生れさ。
十二で渋谷の小学校を出ると、本郷春木町の小島鶴吉って親方ン所へ年季奉公に入った。
マア見てくれよ、いいかい、ホレ、虫が食っちゃってるけど「職業見習身元保証書」ってこれだ。三銭の印紙がはってあらア。年季は大正二年から九年まで。はっきり書いてあるんだが、あっしが知ったのは年季があけて三年もたって、兵隊に入ってからさア。昔アみんなそんなもんだった。
十二といやア今なら児童福祉法にひっかかって犯罪にならア。そんな年に奉公に入って、年《ねん》のあけたのも知らねえで礼奉公までしてるってんだから、我ながらあわれなあわれな話だアな。
まア文句を見てくれよ。
「年季契約ヲ以《もつ》テ差シ出シ候《そうろ》ニ付テハ貴殿|御家風《ごかふう》ハ申スニ不及《およばず》、御指図《おさしず》堅ク相守ラセ可申候《もうすべくそろ》」ってんだ。
「一ツ、年季中貴殿ノ承認ナク本人|身儘《みまま》ニ出奔《しゆつぽん》致シ候カ、又ハ当方ノ都合上御|暇請《ひまうけ》候節ニハ、最初ヨリ其当時迄ノ食費ヲ賠償金《ばいしようきん》トシテ弁金可致候《べんきんいたすべくそろ》」
ってんだよ。当時のどんな諸職《しよしよく》の小僧たちも、みんなこんな契約書にふん縛《じば》られて年季奉公に出たもんさ。
だから、そんなふうにして年季奉公に入った小僧が、人間扱いをされるわけのあるわけもねえ。
ね、畳屋の小僧ってのは最初は職人の送り迎えで三年や五年はたっちまうんだ。大正二年っていやア畳屋で自転車を持ってるものなんぞありゃしねえ。
だから、台と表と道具をかついで、本郷の店から今の後楽園を通り越して牛込神楽坂のお得意まで小一里、ウンサカウンサカしょってくのさ。かち合うと大八車だって回って来ねえから、十二の小さな肩にしょって運ぶのよ。
少し歩いちゃア台を置いて品物をその上にのせて休み、また少し歩いちゃア台を置いて休み、ってぐあいで、やっと仕事場にたどりつくと、
「何してやがったケイ公!」
って大目玉さ。あっしは田丸恵三郎だが、田丸でもなきゃ恵三郎でもねえ、「ケイ公」さ。ケイの字をどんな字を書くか知ってて「恵公」ってドヤしてくれた職人なんぞ、おそらく一人もなかったんじゃねえだろうか。
幸い仕事場に職人が二、三人固まっていく時にア大八車を出して貰えるけど、こいつを曳《ひ》くのも辛いもんだぜ。
東大前ン所から北へ向って行く時なんぞは北風が真ッ向まともに吹いて来やがってね、ヒビとシモやけにビリビリ響きやがるんだ。泣くつもりはなくってもヒビだらけの頬っペタにダラダラ涙が流れるんだ。
そうすると意地の悪い職人なんぞが一緒の時は、そいつが後から荷をグンと踏ンづけやがる。只でさえ荷が重くって曳《ひき》手の轅《ながえ》が上ってるから、それで下アゴをガクンとやられて舌を噛んだことだって一度や二度じゃアねえ。
陽気がよくなって花見の頃に、
「ケイ公。おめえ、陽気が良いってっちゃア泣かねんだなア」
なんて冷やかしやがった職人の野郎を殺してやりてえぐらいに思ったことだってほんとにあるんだぜ。
兵隊で人間になったのさ[#「兵隊で人間になったのさ」は太字]
十二月の厳寒、朝五時の暗いうちに起きて、提燈《ちようちん》をつけてね、いまのアメリカ大使館のあるカミの霊南坂《れいなんざか》を山積みの荷をつけて越して、神田橋を渡ると提燈を消すんだ。今はビル街になってる丸ノ内も、昔は三菱が原ってって竹矢来《たけやらい》で結《ゆ》った草ボウボウの空き地さ。
やっと仕事場に台と表を届けて帰るとウスベリ剌《ざ》しだ。二枚か三枚も刺すと、三時で、もう車を曳いて仕事場へ台を取りに行かなくっちゃアならねえ。
こんなにして年《ねん》あけ間際まで下働きをして、ウスベリ作りから、トコ作りをどうやら覚えるんだが、このトコ作りが難しいんだ。なんしろ、ワラ一本ずつを並べて作るやつの中に、かけ縫いってって筋を八本から十五本まで通すのを覚えなくっちゃならねえ。
ふつうの畳は八通りぐらいだが、贅沢な床《とこ》は十一通りから十五通りまでも通すんで、これが出来ねえじゃア一人前の下働きじゃアねえ。
そうなるまでにゃアヒジも固まってまっ黒になってね、「畳屋のヒジ」ってのが出来上るんだ。
初めは血が出てねえ、ヘリの下に入れる紙に血がとおってビッショリになるんだよ。だから小僧がドヤされる時の一つ言葉は、
「何だ、まだヒジも固まらねえくせをしやがって!」
ってんだ。
さあウスベリ作りもトコ作りも覚えたとなると、今度は「寸法取り」で、こいつを知らねえと職人として一本立ちは出来ねえんだが、親方はなかなか教えやしねえ。
こいつを教わると、もうどこへ行っても職人でメシが食えるから、辛い年季をおっぽり出してズラかっちまう心配があるからってわけなんだ。
ああ、「寸法取り」ってのは、部屋の様子を見て、ネジレを割り出して作る畳の寸法をきめるやり方なんだが、これにゃア「三・四・五の法」ってのがあってね、それでやるんだ。
幅三尺、長さ四尺の対角線は五尺になるって理屈なんだが、なんでもピタゴラスの定理ってものにもかなってるってとかの話じゃねえかい?
なんしろ、大工みてえに、部屋がネジレてるからそれに合わせて板を削るってなことが出来ねえ商売だけにめんどうだわな。
「寸法取り」を覚えて、七年の年季を十年勤めて、あっしゃア二十二の春に麻布の一連隊に入ったけど、ひとの苦しい苦しいってえ兵隊が、楽で楽で仕方がなかったね。だから最右翼で伍長勤務上等兵になっちまった。
あっしゃア兵隊で人間になったようなもんだよ。銃剣術も、あとのと合せて五段を貰ったし、字の書き方も覚えた。入営当時は、送って来てくれた親方へ礼状の書きようが分らなくって、忘れもしない三十銭で売りに来た「兵隊日用模範文集」を見てエンピツをなめなめ、
「旦那様、今回入営に際しては――」
なんて書いてたんだから――。模範文にゃア職人用の「親方」の呼びようが書いてねえから「旦那様」さ。ハハ。
それが伍勤上等兵になると勉強勉強で――ああ、人間ガクがなくっちゃいけねえ!
と思ったんで、二人の伜《せがれ》もまっ昼間の大学に上げたわけだ。うん、上のは早稲田を出て新聞社、下のは明治を出て畳屋をやってるよ。
マ、除隊後一本立ちになってからは、仕事も順調にいって、都の畳工業協同組合の理事長もさせてもらったし、建設省や都の建築局の仕事なんぞもやらしてもらったが、そのもとは何といっても兵隊で学問をさせられたことが大元《おおもと》になってると思うんだ。いま時こんなことを言うのはご時勢にゃア合わねえようだが、畳屋の小僧なんかに入るような連中ってのは、みんなそんなふうにあわれなもんなんだぜ。
わがアメ色の恋女房[#「わがアメ色の恋女房」は太字]
畳の種類かい? そりゃアなんてったって一番は広島産の備後表《びんごおもて》だね。あの奥床《ゆか》しい青さは何とも言えねえ。灼《や》けるったってまっ赤にじゃなくスンナリ飴色《あめいろ》に灼けて、こいつが一番だ。あすこのイ草は独特だし、広島の染土は、地味がよくてまた独特なんで、その泥水につけて干《ほ》すと、いつまでもいい青さが消えねえんだ。
ただこいつ、一日で干しちまわねえといけねえ。雨でもかかったらホシが出ちまうから気をつめて天気予報も聞いて、一日でサッと拡げてサッと干しちまうんだそうだ。
二番が岡山の備前表《びぜんおもて》。これは、全国生産の半分を出してる所だから、技術がうまい。草を生かして使って、上《あが》りがきれいだ。
三番は熊本の肥後表《ひごおもて》。数え立てると虎造の浪花節の石松三十石舟みてえだが、四番が石川県金沢の小松表とくるとみんな安物だ。だがよくしたもんで、色の悪い安物の小松表も、乾燥に強いんでストーブを焚きづめの北海道には持ってこいの利点があって、たくさん出るってこともあるんだよ。
新製品じゃア、エバー・グリーンなんてのがあって、これは染土を通さずに硫酸土を通して色を留めるんだが、そのために弱いのが欠点だ。
けれど歌い文句の「いつでも新婚の味」じゃアねえが、いつまでたってもまっ青《さお》で、女房と畳は新しい方が良いって人にゃア向いてるね。
ただしあっしはいつまでも青い女房よりゃア時代と共にアメ色になってくる女房の方が好きだね。エ? うちのやつ? もちろんあいつもアメ色さア。おれがガクがねえから「女房だけは女学校出を」ってんで拝んでもらった恋女房だから、だいぶ古くはなったが青畳と取っかえようなんとは思わねえね。あいつ聞いてねえだろうナ。ヘヘ……。
それから新製品じゃアビニール。これはなんしろ丈夫なのがとりえだが、ゴムだから坐ると汗をかくし、汚れが足の裏にくっついてまっ黒になるのがいけないね。
畳の寿命? まアず床は手作りのやつで三十年、機械物で十五年ってところかなア。昔の職人が平均一日二枚ぐらい手作りしてたのを、いまじゃ農家の次三男の副業で、機械でバタバタ三人がかりで五十枚も作っちまうんだから、当り外《はず》れがあるよ。
床《とこ》に凸凹《でこぼこ》があれば表も切れるわけだが、機械作りじゃ平均にプレスも出来ねえから、疲れて来た床のワラをたしたり取ったりして直してるより、新しいものを買った方が安いね。
表替え六百円として、二回やるより千六百円なら新床を買って入れた方がズッと得さ。
我が田へ水をひくわけじゃアねえ、計算上がそうじゃアねえだろうか。
なんしろ畳ほど安いもんはねえさ。あっしは素人でも表替えが出来るようにってんで、板の畳も考えてみたんだが、量産でも出来なきゃコスト高になっちまうし、坐り心地も昔のものにかなわねえ。
畳はノミが出るからってんで、外国へ輸出する時には、ホルマリンをかけられてダメになっちまうんだ。「ストローマット・ノーグッド」なんて言われると聞いて、癪だからってんで、大学出の伜と二人で、板畳だとかカラー畳なんてのを考えてみたが、何十万がとこスッちまったよ。
なんしろ昔っからの畳って奴は、湿気のある時は吸ってくれるし、乾いてくれば適当にしめりを発散して部屋ン中をうるおしてくれる。
材料は廃物利用みたいなもんで二寸厚の三尺と六尺ものが一畳千数百円で買えるってんだから、こいつはちょっとこれを上越す代用品は出来そうもねえね。
まアいずれあっしも、自分の手作りのこの畳の上で、めでたく極楽往生《ごくらくおうじよう》ってことになるんだろうが、自分の仕事で作ったものの上で息を引き取るなんてことは考えようによっちゃアこんな冥利《みようり》につきたありがてえことはねえとも言えるんじゃなかろうか。ハハハ。
[#地付き](三十六年七月)
茂作老瓦談義
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新井茂作[#「新井茂作」は太字] 明治二十三年生れ。群馬県高崎の農家の次男坊。明治四十年十四歳で深川の岡本へ奉公。
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瓦師六十年のうち上野の谷中天王寺五重の塔の葺きかえをしたのが一番思い出に残っているそうだ。竹橋の兵隊屋敷の瓦を葺いたのは十万枚と、自分で勘定してみてビックリしていた。
東京都渋谷区丹後町。
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東大寺の瓦は千二百年[#「東大寺の瓦は千二百年」は太字]
「瓦万年、手入れ年々」ってぐらいのもんでさア。年々手入れをしせえすりゃ亀じゃねえが万年でも寿命があろうってのが瓦でさア。
ウソじゃありませんぜ、奈良の東大寺なんてのを見てごらんなせえ。千二百年前に葺いた瓦が落ちも腐りもせず、いまだにチャーンと乗っかってるじゃアありませんか。
「屋根屋さん」なんて気安く呼びますがね、昔ア「瓦師」って言ったもんです。
「師匠」の「師」の字がついてるんですぜ。時代が下《くだ》って「瓦職」って呼ばれるようにはなりましたが、それだってレッキとした瓦を扱う技術を持った職人ってわけです。そいつが今じゃア「チョイト屋根屋さん」てことになっちまったんだから情けねえやア。
だいいち、労働省がいけねえんです。労働省の扱う職種の名前を見ると、「瓦職」ってのはありませんや。「屋根職」。こいつだけです。こんなかに、草葺きからトントン葺きまでの職人を、みんなコミで突っこんじまってるんですから、ケジメのつかねえことになっちまったもんです。
え?「トントン葺き」ってのはそれ、木の皮を紙っぺらみてえに薄ウく剥《は》いで乗っけただけの、マサ屋根だアなんだって、あるじゃアありませんか。あれですよ。
あんな素人《しろうと》にも出来る仕事と、瓦師とを一緒クタにして取締ろうって世の中ですから、話にもなにもなりませんや。
私は十四の年に小僧に入って今年が七十一ですから、もう五十七年瓦の葺き方をやってきましたが、まアだこれで充分ってわけにゃアいきません。瓦師の仕事ってのはそんなに面倒臭せえもんなんですぜ。――そいつをトントン屋と一緒クタに……。
ヘエ、偉《えら》そうなことを言うようですがね、物の本を読んだ人から聞いた所によりますとね、瓦ってものは四千年前も前にインドで出来たのが始まりなんだそうじゃありませんか。
そいつがシナ、朝鮮を通って日本へ来たのが聖徳太子の頃ってえからどのくらい古いんだか見当もつきませんや。エ? ああそうですか、東大寺が建った頃ならやっぱり千二百年になるんでしょう? そいつは知ってるんです。
それまでは「天地|根元《こんげん》造り」だのなんだの言ったって拝みの合掌《がつしよう》小屋でさア。伊勢神宮だアなんだったって草葺き、板葺きの、まア、トントン葺きに毛の生えたようなもんです。やっぱり瓦が入ってから、日本の屋根は立派になりましたよ。
納税不許可でベソをかく[#「納税不許可でベソをかく」は太字]
エ? よござんす。それじゃア私がこの目で見て来た瓦職のヘンセンとやらいうやつをお話ししましょう。
へえ、私が上州の田舎から深川の岡本二次郎親方ン所へ小僧に入ったのが明治の四十年です。
それからどうやら走り使いの出来るようになった大正二年頃ってものは、不景気のドン底でしてね、仕事ってものは全くありません。
大工は「便利大工」って旗を立てた車をひいて、手間仕事を探して流して歩くわ、左官、瓦職は土をかついでへっつい直しに歩いたって時代です。
でもまア大正六年頃になると、どうやら落ちついて「十日十人|口《く》」なんてんで朝湯へはいってから仕事に出かけられる程度の世並みになりましてね、六畳に三畳の家が家賃一円って頃ですよ。ついでに申しますと米が一円で四升来ましてね、風呂と豆腐が一銭五厘ずつでした。風呂と豆腐ってのは、あれはどうしていつの時代でも値段が大体おんなしなんでしょうねえ――。
へい、瓦職人の手間は一日六十五銭でした。
それがその年、関東大暴風ってのがありましてね、四十メートルの風が吹いたんです。
この風損で屋根が飛ぶ飛ぶ、私たちはこれを「世直し風」って言ったもんです。すいません。
こいつで手間が一躍三円五十銭にもはね上ったんですが、それでも職人がいません。そこでツテを求めて各県の田舎職人に屋根葺きを頼む――。その時続々お江戸入りをした群馬、埼玉、茨城なんかの田舎職人が、お江戸の屋根をひどいことにしちまいましたね。
というのは、田舎の職人は、埼玉あたりでとれるアラキダってえ柔らかい土を使って、そのうえ水をまぜてベトベトにして屋根を葺く。
東京はそんなものは使いませんや。「ネバ」っていう海の土を使うんです。これは東京湾の芝浦で、川水が濁った時に夜取りしたもの、ってきまってるんです。
しかもこいつも柔らかければひろげて干してから使います。棟をとるったって一番下にこいつを使い、しかも瓦欠けをシンに入れてからとりますから、乾くのも自然に乾くし反《そ》りません。
ところが田舎職人のベタ土のいい加減な仕事ですと、乾けばオチョコになって雨がもる、って有様でしたね。
それでもまアその「世直し風」のおかげで、当時東京十五区二百人の瓦職も、うるおったもんです。
税務署へ「なんとか税金を納めさしてくれ」って頼みに行って、
「お前はまだ早い、その資格はない」
ってドヤされて、納められないんでベソをかいて帰った、なんてことも出来ましたからね。
エ? ナアニ、種を明かせば、実は逓信《ていしん》省だ、内務省だ、鉄道省だなんて大所のお役所の仕事をとりたい――、それには年三円の税金を納めている証明書がいる。――さてこそ「税金を納めさせてくれ」ということになっただけの話なんですよ、ハハハハハ。
続いて翌七年が欧州戦乱の好況の成金時代でさア。船成金、鉄成金。さすがに屋根成金だけは出ませんでしたが、そんな成金が続々出来て、まアそんなことのおこぼれで、なんとかひと息ついてました。
屋根屋はアガったり……[#「屋根屋はアガったり……」は太字]
そうこうするうち、大正十二年の関東大震災でさア。あの時アひでえ目にあいました。
深川に所帯《しよたい》を持ってたんですが、ガラガラッとくると同時に物凄《ものすご》い火事ンなって、火の手に追われて死ぬかと思いましたよ。二つと五つの女の子を、嬶《かか》ァと一人ずつ負《お》ぶって逃げたんですが、火が首筋まで追っかけて来て、小さいのは、
「熱《あ》チイ熱チイ!」
って泣きやがるし、大きいのは、
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ!」
って叫ぶんです。もう悪いことはしないから、熱い折檻《せつかん》は勘弁してくれろってことなんです。
そんな目にあいながらもどうやら月島へのがれて命拾いしましたがね、この震災から東京の屋根が変っちまいました。
あの大地震で、泥葺きの屋根はガラガラッと落ちちまいましたが、引ッ掛け棧の瓦は落ちなかったんで、瓦は全部京風の引ッ掛け棧ってことに定められちまいました。
また、「屋根制限」とかって法律で、以後、草葺き、コケラ葺きはご法度《はつと》ということで、向後《きようご》、屋根は燃えないトタン、瓦、スレートのいずれか、って定められたんですが、経済上出来ねえからって延期願いを申し出た人もずいぶんあったようです。
それから、なんだかんだって言ってるうちに満州事変、支那事変の戦争続きで建築の方もウマ味がなくなっちまう――従って屋根屋の方も上ったり……イヤなシャレんなっちまいました。ヘヘ。
昭和の十四年でしたかね、例の九・一八の物価統制令とかってのに引っかかって、私も桜田門によばれましてね。控訴《こうそ》もなにもあらばこそ、一審のキマリで春日町の検事局送りです。
「土地建物等統制令違反」ってやつだそうですが、こっちは配当でなく利息がほしいんで五千円出資しただけだったんですが、事変下、新しい売り家を建てて瓦を葺いたのがいけねえってんです。
仲間には執行猶予《しつこうゆうよ》つきですが三年の判決を受けたのもいるなかで、私は運よく始末書で勘弁してもらいました。
あの頃は瓦も三月で二千枚なんて配給でしたから、まるで商売になりませんでしたね。
続いてアメリカとの戦争に首を突っこんでからはご承知の通りの有様で、東京じゃア屋根なんてまるで見られなくなっちまいました。――一面の焼野原で、昔の古い歌にあるそうじゃありませんか。
なんとかなんとかで、ヒバリの、「上《あが》るを見ても落つる涙は……」まるでそんな心持ちでしたねえ。
終戦になると、神田の旭町にあった商業組合と工業組合は、ドサクサのなかで事務所をタッタ二千円で叩き売っちまう、五千円の出資金のうち三千円しか返らねえ――なんて、目はしの利《き》かない私らがドマついてるひまに、要領のいいのは特別調達庁に目をつけたんです。
瓦は統制品だってんで、あすこの役所にゃア五十万枚からあったそうですが、一枚二円ぐらいで払い下げを受けて、高いのは十円ぐらいに売ったんだからいい儲けをしたでしょうねえ。
あとの気の利かないのは、小菅の刑務所の囚人の作ったセメント瓦を買ってどうやらしのぎましたが、値段は五円五十銭ぐらいでしたか、枚数にも限りがあるし、あんまりうまい商売も出来ませんでした。
まアまアこんなことが、私が見てきた瓦職人の、世並みにつれた大きな流れです。
ひと葺き十万枚――[#「ひと葺き十万枚――」は太字]
へえ? 仕事を覚えたころの昔話?
へえ、何職でもそうでしょうが、難儀《なんぎ》なもんでしたねえ。
私は高崎在の百姓の次男坊ですから、兄貴が家と田を相続するわけで、私は腕に職をつけて自分で食ってかなくっちゃならねえ星の下に生れたわけです。
それで十四で高等小学を出ると――へえ、当時は学問をやると「子孫半バカ」ってえましてね、孫子《まごこ》までロクなものにゃアならねえとされたもんです。その中を百姓の次男坊が、高等小学までやってもらったのをウンと恩に着せられたあげく、伝手《つて》を頼って、前にも申しました深川の岡本親方の所へ手元《てもと》にはいったんです。
手元ってえのは手伝いのことです。昔も今も、「職人一人に手元一人」ってのが定《き》まりですが、手元のやることは、瓦の手上げと泥こねです。
引っ掛け棧じゃなかった当時は、屋根の瓦の下は泥葺きになってましたから、その敷き土をダンゴの玉にして上へ送ったり、上で泥をのばしたりが仕事です。
この手伝い役の手元がどうやら勤まるようになると「中葺《ちゆうぶ》き」で、その上が「上《じよう》葺き」と上るんですが、上葺きになるにはまず八年はかかるとされたもんです。
明治の四十何年なんて頃の小僧のしつけなんてものは、全くお話にならねえくらいのきびしいもんでした。
冬の極寒《ごくかん》に、仕事がうまくなりますようってんで深川の不動様へ、裸足《はだし》で暁の寒参りです。
「早めし、早ぐそ、早あるき」なんてんで、めしを食うんだって兄弟子《あにでし》のぶんの給仕をしながら、終る時にゃア一緒に終ってないと、
「仕事も出来ねえくせに、いつまで大飯食《おおめしく》らってやがるんだ!」
とゲンコが飛ぶ始末。
歩くんだって「早あるき」ってんで飛んで歩いてねえとドヤされる。もう一つの早――の方はビロウですからご遠慮しますが、小僧なんてものはオチオチしゃがんでもいられなかったもんですからねえ。
こんな具合に仕込まれるんですから、昔は名人がいたもんです。
本所のイカ正だの、宮下の勝ちゃん、兵隊屋敷なんかの大物を得意にしていた兵隊竹なんて人の仕事は、全くあきれるようなもんでした。
いつだったか、宮下の勝ちゃんが、
「おれの葺いた瓦が手でひん抜けたら、わら草履を一足買ってやらア」
ってもんですから、なにお! と思ってやったんですが、押しても引いても動かばこそ、とうとうあやまっちまいました。
こういう人のやつを抜く時は金槌を使わなくっちゃ駄目なんです。
アウンの呼吸でピタリと差す差し方にもあるんですが、上手は敷土の土葺きを夏なら泥を余計に使ってツヤブキするとか、冬なら控《ひか》えてイスカのハシのように無理にセリモチで葺く、とか、下ごしらえまでチャンと心をくばってあるんです。
それにまた昔は瓦のこしらえから違ってましたね、今と違って葺くのに数いるように作ってありました。
ええ、「今戸《いまど》・橋場《はしば》の朝煙り」って唄の文句にもあるように、六間堀だの洲崎だの、本所の横川だとか柳島だとか、ずいぶんあっちこっちで焼いてました。
土練《どれん》機なんてもののない時代でしたから、みんな木の鍬で人力でこねるんですが、どういうもんかコネ屋にはシナ人が多かったもんです。
畳一畳敷に高さ三尺って粘土を針金で切って五百枚の瓦にとって焼くんですが、この仕事をする人たちを俗に、「小屋職」と呼んで、こっちは「瓦師」だから一段高いつもりでいたのが、いま思えばこっけいな話です。
こんなぐあいで二十二で職人になり、二十八で一戸《いつこ》を構えてから、谷中《やなか》天王寺の五重の塔の葺きかえだとか、深川の方徳院、陽岳寺なんて仕事をさせてもらいました。
竹橋の近衛一連隊の千坪の仕事をさしてもらったのも私です。一坪で百枚の瓦を使ったから、あすこだけで十万枚の瓦を葺いたことになりますねえ。
のんびり年とるヒマもない[#「のんびり年とるヒマもない」は太字]
エ? 屋根の心得を聞かせろってんですか? さア、「風で飛ばず、雨で漏らず」ってのが屋根の命でしょう。
その理に叶《かな》いさいすりゃ、トタンでもなんでも良いわけですが、トタンは瓦にくらべて夏場は七度ほど熱くなるそうでそんなことも考えなくちゃなりません。
それから早目に手入れすることですね。少なくも年に一度ずつ手入れしてれば雨漏りなんかしませんや。もう、漏りはじめてきてからじゃ遅いんです。漏るって時は屋根の下が腐っちまってるんですから手間も金も余計かかります。「瓦万年、手入れ年々」ですよ。
――とは言っても、東大寺なんてものが、そう毎年手入れするわけでもないのに千何百年持ってきたのは、あれは敷土の泥をうんと使って、泥にはツタもチャンと入れてキチンと仕事がしてあるからです。
そして屋根を葺く時期も考えてやったんでしょう。屋根は、彼岸《ひがん》に葺くもの、と昔からされているんです。四月半ばか十一月頃の、自然に乾く時が良いので、夏のように早く乾きすぎる時泥葺きすると、のちのちの持ちがよくありません。
それから今度は屋根の勾配《こうばい》ですが、こいつが最近はゾロッペエになりました。勾配がなければしぜん雨水がたまる、たまれば腐るってわけで、昔から五寸勾配が一番良いとされているのに、今は四寸が普通になっちまいましたね。
最後に屋根材ですが、こいつには、粘土瓦をはじめとして、セメント、亜鉛引鉄板、銅板、石綿、化学製品、ちゅう鉄うす板なんぞといろいろありますが、私はやっぱり日本家屋には粘土瓦をとります。なんといってもウツリといい、持ちといい、全体からみてこれが一番じゃないでしょうかね。
最近、塩焼瓦なんて新しいものも出てきましてね、きれいなもんです。
エ? ええ、焼く時に、六千枚に対して岩塩を十五貫いれるんです。そうするとチリチリとして赤い光が出てくるんです。こいつが「赤」。
これを密閉して自然にさますと底光りがした銀色になってきますが、これが「銀」で、なんとも言えない渋い色です。
うわ薬をかけて青や緑の瓦も作りますが、値段がふつうのものにくらべて倍になるほど良いとは思えません。
赤は二割高程度ですから丈夫で経済、見てくれもマアマアでしょう。こういう色物は寒い所でも凍傷にならないのが良いところで、寒地の屋根には是非すすめたいですね。
それも出来れば銀をね。赤や青は物ほしげですし、あとで飽きがきますよ。
けれどマア、自分の好みは何であれ、ご注文主が石綿スレートだア、波型だア化学製品だと仰有《おつしや》れば、そいつをやらないわけにゃいきませんから、「六十の手習い」どころか「七十の手習い」ですが新しい品にも取ッ組んでます。
職人ってものはふしぎなもので、「こいつ出来ません」ってことが言いたくない、何とか工夫したり勉強したりして、新しい材料もこなしてみたい。
だからこの頃のように、つぎつぎ新しい材料が出てくると、のんびり年をとってるヒマもありませんや。
新しい仕事の工夫に向う時には年を忘れて若々しい気持になりますからね。この道六十年、ちょっと手を抜きゃ雨が漏り、風で飛ばされるって仕事に一生をかけてきましたが、ばかみたいな「屋根を葺く」ってつまらねえような仕事一つにも、なかなか深い人生の味わいと教訓があるもんでさア。
「手を抜くな、手を抜けば雨が漏るぞ風で飛ぶぞ」――ってのが私の処世訓ってやつです。
[#地付き](三十六年六月)
石勝老人回顧談
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石勝《いしかつ》[#「石勝」は太字] 中村勝五郎 明治十九年生れ。「青山の石勝」と言えば全国に名が通っている。百八十年前からの石屋で、父も皇室・華族の仕事を沢山しており、勝五郎さんの建てた石碑だけでも北は樺太から南は「南洋」また欧米と数え切れぬという。
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高血圧で少し口がもつれるが「石を刻む音が何よりの薬だ」と表の仕事場に一番近い部屋から動かなかったが、家族の泣かんばかりの頼みで最近やっと目黒に移った。
東京都目黒区上目黒。
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富士山噴火以来の店[#「富士山噴火以来の店」は太字]
山本五十六元帥の石塔を頼まれましてね。その相談で出かけまして、帰って来たらフラフラッと目まいがして倒れたのが六年前。高血圧です。最近はだいぶよくなりましたが昔のように飛び回るわけにはいかなくて、もどかしいです。
まわりのものは、住いももっと静かな所に移して養生を専一にしろって言うんですが、こっちは石を刻《きざ》む音を聞くのが何よりの養生なんだからって店の裏のこの家から動くことじゃアありません。
石切る音を聞いてますとね、音だけで職人の上手下手が分るんですよ。お素人《しろうと》衆には同じ音に聞えなさるかも知れませんが、われわれが聞きますと、
「ア、外《はず》しやがった。今度は良い」
と、才槌《さいづち》がノミのシンに当ってるかソッポに当ってるかが気になって、つい耳を澄まして我を忘れちまうし、それがまた楽しみなんですから因果《いんが》なもんです。
春さきの、ガラス戸越しの陽がうらうらと射し込む部屋に寝かされていて、馴れた職人の刻むノミの、調子の良い休みない音を聞いていて、トローッと眠くなる気持なんてものは、どんな先生のどんな薬にも勝《まさ》る名薬ですね。
なにしろ生れて七十五年、石切る音を聞いて生きて来たんです。いや先祖代々の石屋の伜です。何でも宝永三年、富士山が噴火してコブが出来たっていう百八十年前からの石屋ですからね。
はい、親父は私より柄《がら》も大っきくて押し出しの良い男でした。宮内省の御用達もうけたまわって、青山御所の紀ノ国坂ン所の石垣なんかもズウッと全部やらして頂いてます。
たしか私が六つでしたが、葉山の御用邸の仕事を入札で落した時、親父は私を連れて現場の視察に参りました。当時の汽車は新橋から出ましたからね、新橋のホームへ入ると、親父が売店で九寸ほどの玩具のピストルを買うんです。
私にくれるものと思ってますと、父親はそれを懐《ふところ》に蔵《しま》っちまったんでベソをかきましたが、親父には実は使い道があったんですね。
というのが、当時の商売はなかなか荒っぽいもんで、
「石勝が御用邸の入礼に当った。邪魔しに行ったらブチ殺される」
なんて仲間が言ってたそうですが、それでもなお横車を押してくる気の強いのが居ないでもない、と、その用心の玩具のピストルだったんです。
こっちは子供でそんな親父の商売の苦労は知りませんから、その晩土地の土工を呼んだ挨拶の大盤振舞いの席で、親父がそいつを懐に呑んで四角く大きく坐《すわ》っているそばで、きれいな姐《ねえ》さんからキントンなんかを食べさせてもらってましたよ。ハハハ。あの時親父はまだ四十前でしたろう――。
宮様や大名華族の石塔を建てたかと思うと、日本のラスプーチンと言われた、「穏田《おんでん》の行者」飯野吉三郎さんに可愛がられてお末社作りをしたり、柄の大きさを利用してその恐喝《きようかつ》撃退係りにされて喜んでるかと思うと、明治の末のペスト大流行のあと、退治られた鼠が可哀そうだってんで広尾の祥雲寺にペストの鼠塚を建てたり――変った人でしたね。
豆腐より大事に扱う石[#「豆腐より大事に扱う石」は太字]
そういう親父に仕込まれたんですから私も変り者には違いありません。
大正時代ですが、「徒弟募集」の広告に、「無事に年季を勤め上げたら必ず金一千円也をやる」って書いたんですよ。
こいつが評判になりましてね。え? やりましたとも。今の、宝くじが当った時みたいに、年明《ねんあ》けのその小僧ン所へ生命保険が勧誘に来ましたよ。なにしろ米が一升何十銭なんて時代の千円ですからねえ。
もっとも、最初にやった男はこの金がもとだかどうだかグレちまったんで、あと三、四人にやってこの制度はやめにしちまいました。ハハハ。
私も、自分でやって徒弟の苦しさは知っていますから、千円を惜しいと思ったわけではないんです。全く辛《つら》いですからね。
はい、男の子は私一人だったもんですから親が卒業を急がせますんで、中学をちょっとのぞいたあとで築地の工手学校ってのに代って十八で出ました。
もちろん学校に行ってる時も帰ると手伝いで、店の徒弟たちと一緒に、ミガキ屋の親方についてミガキの第一歩からやらされました。
今のように機械で艶出《つやだ》しなんて器用な時代じゃありません。大村の荒砥《あらと》でゴシゴシやったあとを仕上砥で丹念に舐《な》めるようにミガキをかけるんです。なんでもない仕事のようで、夏の暑い時、冬の寒い時はこれはこたえましたね。やったもんでなくちゃア分りません。
飯もほかの小僧と一緒に食べるんですし、真夏の炎天に、サルマタ一つで大谷石《おおやいし》を荷車で運んだ辛さなんてものはお話ししても分って頂けますまい。石ってものは重いもんですよ。
そして石ってものは固いもんですが、その扱いは豆腐よりも大事に扱わなくっちゃならない、というのが石屋の心得です。カドでも欠けたら石はもう「石」じゃありません。タダの「石っころ」です。
ですから、転がすんでも、ワラを敷いてムシロを巻いて、肩でかついで――、まるで娘を扱うみたいなもんです。
その大切な石を大八車に山ほど積んで……さア何十貫ありましたろうか――提燈《ちようちん》をつけて、暁方《あけがた》の赤坂見附を下ろうとしたんですが、荷が重いもんですから曳いている前の私の足が浮いちまって、下り出した車が止らない。ゆっくり弾むマリみたいに、時たまポウン、ポウンと足が地につくことがあるんですが、あとは浮いたっ放しで、加速度のついた荷車は石の重みで矢のように坂を突ッ走る――死ぬかと思いましたね。
何でも一通りやりました[#「何でも一通りやりました」は太字]
そんな手伝いが終りますとフイゴ吹きです。石を鉄の道具で刻んで削るんですから当然ナマる。そいつを焼いて刃をつけるためのフイゴですが、同時にその道具焼きも仕込まれる。
石によっても道具も違い、道具によって焼き方も違うわけですが、こいつの加減を呑みこむんだって時間もかかるし、また上手下手もあります。
たとえば石が小松の時は道具の刃はモドシて焼きますが、御影《みかげ》の時はドブンと水へ入れるだけです。
はア、小松というのは相州《そうしゆう》の六カ村から出る石で、「本《ほん》小松」と「新小松」の二つがあり、黒っぽい石です。安山岩《あんざんがん》で粘《ねば》りはあるんですが火に弱いのが欠点でしょう。なかなかノミを受け付けぬのでノミは細い目のものを使ってノミ筋を通すんです。
これに反して御影はもろいので、高い所高い所とむしるように落してゆきますから、ノミの先もツバメになっており、したがって道具の焼き方も当然違ってくるわけです。
それに、フイゴは今はコークスになってますが、昔はやわらかい松炭を使ったもんで、そのまっ赤《か》ンになった奴に双刃《もろは》を突っ込んで、上馴《うわなら》しと下馴しで叩《たた》いて減らして伸ばし、それを青砥で研《と》ぐんです。
フイゴ仕事が終るとやっとやわらかい石を削らされます。この時おやじから、双刃《もろは》と玄翁《げんのう》と両方のとがったツル、ノミ、ツチを貰ったんですが、嬉しかったですねえ。
ふつうは、青石、大谷石、伊豆石なんてやわらかいものから削らなくちゃならない所を、私は自分の勝手から固い石、固い石とねらってやるようにしました。まア親方の伜で勝手が出来たわけです。
ノミ切りは難しいもので、今日でも石屋は、一月の仕事初めにはその店の親方が必ず「切り初め」をしてから一年の仕事を始める、というくらいのもんです。「切り初め」というのは石の表を、縁起を祝って七五三の筋に切るんですが、これは筋を立てずに斜めにサッサッと切って、その筋目の切れ味で悪魔退散、商売繁昌を祈ろうというんですから、ずいぶん古めかしい、けれどもおごそかなものです。
はい、私は病気になりました今でも、この「切り初め」だけは必ず致しております。
ですが、その頃の私はなアにそんなことは構やしません。やわらかい石なんか切ったって勉強にもならず面白くもあるもんかってわけで、身のほども知らずドンドン固い石に手を出しました。
はい、私の好きな石はやっぱり本小松です。ええ、大宮御所に使ってある新小松などと同系統の、あの渋い黒い固い石です。
御影では岡山の龍王石でしょう。あの桜色のきれいな肌を見ていると何とも言えません。御影としては神戸の荒神山から出る本御影が一番良いんですが、私は龍王石の方をとります。
あと、福島の三春一帯から最近は黒御影なんてものもよく出ますが、やっぱり昔から馴染んでいる龍王石の桜色が良いですねえ。
マ、そんな具合で、固い石だの好きな石だのを勝手に選んでは削ってましたが、削るといっても相手は石ですから、木を扱う大工のようなわけにはゆきません。
たとえば、クセ物、八ツ型なんていうめんどうな物でなしに、四角な石塔の面を平らに削るにしたところが容易じゃありません。
まずネジレを見なくっちゃなりません。そのスミ一つだって大工とは大分違います。端の一|杯《ぱい》に定規を立てて、竹の先を割って作ったスミサシでスミをつけるんですが、スミサシのケツで穴を見て上からスミツボを弾《はじ》いてネジレを見るには、大工のように木に剌すわけにはゆかないから、ワラでよって足の指にはさんでスミをします。まるで軽業《かるわざ》です。
一番簡単な四角に切ることの始まりでさえこの調子です。
これを終ったらクセ物。そして難しい字彫りの仕事も覚えなくちゃ一人前とは言えません。
字は、突きノミ、先ノミ、小さなツチで叩く細ノミから七、八種の小ベラが自由にこなせなくっちゃ彫れるもんじゃありませんし、第一、その土台になる書も習わなければ、というので、私も一流の書家にお習字に通わされました。
更にこのほかに、石屋には彫刻の仕事があり、それはそれで専門ですが、私などもひと通りはやりました。
落っこちた石は一万貫[#「落っこちた石は一万貫」は太字]
昔は名人がいたもんでしてね、私の家にいた芝熊さんなんて人の仕事は、三井陽之助さんに納めた三頭の親子獅子なんか、戯れているカガリ毬《まり》の、かがった綾筋の間をくり抜いて玉を中子《なかご》に彫って落し、その玉が毬の中で自由にコロコロ動いてました。
また、王子の三井別邸に納めた八尺の布袋《ほてい》様なんか、笑っている口に、蜜柑が十個も並ぶ大きなものでしたが、よくまとまった立派な仕事でしたっけ――。
そのほか、中龍さんなんていう人は、こまかい仕事が得意で、香炉《こうろ》の五輪の笠などを、六十以上も作りましたろうか――、それが、どれを見ても八ツ型にした屋根の反《そ》りが美しく、なんとも言えぬものでした。
細かい仕事は、当りがちょっと悪いとポンとノミが滑《すべ》って、今までの息を殺すような根《こん》仕事が全部水の泡になってしまうんですが、こういう名人たちの仕事ぶりは、見ていて少しも危な気がないし、また実に楽しげにやっていましたね。
こんな立派な職人たちとおやじに仕込まれて、大急ぎで学校を出て、どうやらおやじのあとを継ぎましたが、幸い家業も順調に伸びまして、東京・青山の石勝といえば全国で知って頂けるようになり、石山も二つほど持って手広く仕事も出来るようになりました。
はい、一つは筑波連山の雨引《あまびき》山で、ここからは良質の御影が出ますし、もう一つは若松の先の萩野で、ここからは青い石を切っています。
前には真鶴《まなづる》にも持っていたんですが、運賃がかさむのでここは整理しました。
雨引山から出る小御影は山の一番高い所に林のように並んでいまして、私が死ぬまで切っても取りきれないでしょう。
いつだか発破《はつぱ》をかけて切り出そうとしたら、落ちて来たやつが道路を越してよその土地内にスックと立ってしまい、土地の人は地響きで地震かと思って飛び出したそうです。
なにしろ見上げた高さが六間、重さが一万貫というんですからね。割ってかたづけるまでの賠償費を三万円もとられて閉口しましたよ。こんな石がゴロゴロしてるんです。
山本五十六元帥の石塔も、ここの小御影を使いました。
――そうですねえ、仕事は全国にわたってさせて頂いてますから数え上げられませんが、戦争中は金属が無くなったので、石川島造船で、石の条盤《フライス》まで作らされたのなんか変ってるでしょう。そいつで千分の二まで平らに出来る性能を持たしたんですから、石屋職人の技術は世界に自慢してもいいと思います。
赤ゲット頓珍漢問答[#「赤ゲット頓珍漢問答」は太字]
はい、大きなことを申しますのも、実は私、直接外国へ参って向うの技術を見て来たからです。
家内が、レディス洋裁学院というのをやっていまして、これと一緒に昭和九年ロスからニューヨーク、ドイツ、フランス、ロンドン、イタリーを回って来ました。
一言で言えば、外国の石屋は、機械の設備は良いんですが、そのためにかえって技術はダメですね。
石は、ロスやシカゴの山から、小御影みたいな質のものが沢山出ますが、そいつを磨いたり吹きつけしたり、ニューマチックで機械彫りしたりしてるんですが、技術的には勉強にならず、逆に「日本の秘訣を教えろ」なんかとせがまれて弱りましたよ。
ただドイツへ行った時は、直径五尺もの大回転ノコにダイヤを取りつけた奴でビンビン大理石をひいているのには驚かされました。
アメリカではロスから三十マイルほどのサンタ・バーバラという所に別荘を持っている大金持に呼ばれて庭園の講義にゆきましたが、七十歳位の人で、シナからこちらへ何回も来たことのある人だというだけあって、庭には鳥居も、獅子も、燈籠も捨石も何でもあるという日本調なんです。
ところが燈籠の配置も滅茶苦茶、火袋も上下している、捨石も埋めてないでムキ出しという有様。いろいろ注意してやりましたら、三百ドル出すから滞在して庭を直す指図《さしず》をしてくれと頼まれたんですが断りましたよ。
ワビだサビだ、陰と陽だ、なんてったって分る相手じゃありませんし、雪見と利休の区別も、置石と捨石の区別も分らない人に何をどう喋《しやべ》ったらいいか見当もつきませんでしたからね。
ツクバイは自然石を使って、穴はよい所に深くなく浅くなく、マア石は鞍馬の鉄色の錆を吹くのが渋くて良いでしょうなんて話しかけたらパチクリしてましたよ。
燈籠もコケを付けた方が風情《ふぜい》があるんで、こいつはなかなかつかないが、樫の木の下、椎の木の下などの湿った所へ置いて、米のトギ汁をかけてゴボーでこすって――と言いかけて、ああ米のトギ汁ったってこっちはパンだっけ、と思う始末――、いや、トンチンカンなことでした。
なんでも神戸に三年いたという人が、型をこしらえてコンクリの燈籠の大量生産をやってるって国柄ですから、コケもワビもあったもんじゃありません。
それでも最近は、私どもから本物の燈籠もだいぶ外国へ出るようになりました。今までに五百本は出ています。ニューヨークだけで去年は七十本ほど送りました。種類は雪見が多いですね。
南洋にも稲荷型の燈籠が十五本ほど行ってるんですが、あれは今ごろどうなってますかなア……。
一昨年はケンブリッジ大学へ一丈五尺の大燈籠を二本納めましたが、一つは太鼓型、もう一つは奥の院です。
昔と違って、最近の日本ブームはどうやら本物を要求するようになり、ワビ、サビ、シブサ、なんて言葉も国際語になりかけてるそうですから、仕事も念入りにしています。
石は高くて安いもの[#「石は高くて安いもの」は太字]
私は思うんですが、石ほど高くて安いものは無いんじゃないでしょうか。
思えば、命のない石っころを、わざわざ山から切り出して、コモやムシロに巻いて、重い奴を汽車や車で運んで、刻んで磨いて頭を絞って配石して――、全くばかげた話です。高いといえばこれほど高いものはありません。
けれどもこうして何人もの職人の目と手を通り、年季の入った腕の手塩にかけられると、石に命が入ってくるんですね。石が生きてくるんです。
命のないものに命が入ったら、こんなに安いものはないじゃありませんか。
石のない庭には、私どもは命を感じません。和風の庭ばかりじゃなく、洋風の庭でも良い庭には必ず石が生かされていますし、生きた石が庭を生かしています。
これからの建築家や設計家は、もっともっと石を大事にして頂きたいと思いますね。
――私は庭石、燈籠、彫刻はもとよりですが、記念碑や忠霊塔や詩碑、境界塔を含めて、北は樺太から南は南洋、はては外国まで自分の店の仕事がおし立てられ、これから何百年も立ち続けてゆくのだと思うとこわくなることがあります。
頭の碁盤の中に布石《ふせき》されたこれらの仕事が、いろいろなその時代を思い出させてくれまして、こうして病気で寝ていましても、その石碑の一本一本を頭の中で訪ねて歩けば退屈する所じゃありません――「夢は世界を駆けめぐる」ですよ、ハハハ……。
[#地付き](三十六年五月)
庭師十基・秋の夜語り
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飯田|十基《じゆうき》[#「飯田十基」は太字] 本名寅三郎 明治二十三年千葉県成田に生れる。成田中学を二年中退で下谷の松本幾多郎に就き渋沢栄一邸、続いて小石川の岩本勝五郎に従って椿山荘、小田原古稀庵等の「大庭」造園に従事し、「小庭の隠居」鈴木次郎吉に従って小庭も学んだ。
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「飯田造園」の社長として造園数は一千。ワシントンの日本大使館の茶庭、ワシントン大学植物園内の六千坪の日本庭園なども作庭した。
東京都渋谷区初台。
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手がけた庭の数は千[#「手がけた庭の数は千」は太字]
熱い茶を上って下さい。秋の雨の夜というのもいいもんですね。……そうです、この家は数寄屋の岡村仁三さんに建ててもらいました。スッキリしていて格があって気に入っています。
庭はもちろん私がやったんですが、ご覧のとおり、好きな雑木を少しと燈籠《とうろう》、石なんぞをごく自然にあしらっただけの、いわば「紺屋《こうや》の白袴《しらばかま》」――。けれどこのほうが飽きがこなくって良いですね。
十六からこの道へはいって七十のこの年までに、手がけた庭は、さア千にも上りましょうか。けれども気に入ったものは一つもありゃアしません。まして自分の家の庭となりゃアいろいろ考えますが、あの式、この式というのはあとで飽きがきて駄目。昔なら「真《しん》」「草《そう》」「行《ぎよう》」のどれかで納めるってわけでしょうが、今日――とくに戦争後は「自然に自然に」というのが庭師の心得で、この庭もそれでどうやら毎日眺められるんでしょう。
春の芽立ちの色、夏の緑、秋の雨音、冬の枯れ枯れと、こんな小庭にもそれぞれ自然がしぜんに生きるよう、殺さぬよう、心を配ってはあるんですが、どんなものでしょうか――。
ハイ。「金をかけねばできぬ」というのが昔。いまは雑木を拾ってきてもできる、ということになっています。けれども、絵でもそのように、スケッチから本格的にやったのと、ぶっつけから自由にかくのとはやっぱり違うんじゃないでしょうかね。いまの庭を昔の人に見せたら「文人《ぶんじん》作り」と笑うことでしょう。
昔の「作庭」の道というのは、そりゃア厳《きび》しいもんでしたし、またなかなかに名人もいたもんでした。
私の師匠の松本幾多郎なんて人は、これは飛鳥山の渋沢栄一さんの庭を作ったんですが、
「ああ、松本が来てるんならお茶会はまごつかないね」
と渋沢さんに言われた人です。お茶にも花にも、なかなか深い心得がありました。
名人というものはああいう人をいうんでしょうが、自分では手を下さない。座敷にすわってて、もうあれが終った時分だからこれをやれ、ってな具合に指図をするだけですが、それがピタリ。人の使い方がうまいし指図が適切。――もっとも当時は良い職人もいました。
この師匠は大庭が得意で、しかもゴテゴテと植えすぎるようなことは決してしない。座敷から手近に植えた太物の幹を通して向うを見るという工夫になっています。するとどうしても庭下駄を突っかけてA地点におりて行ってみたくなる。Aに立ってみるとBの所へ行ってみたくなり、Bに立つとCへしぜんと足が動く、というふうな作り方をする人でした。
石だって育ちます[#「石だって育ちます」は太字]
私は千葉県成田の生れで、成田中学に入ったんですが、二年生の時に本家の当主が家へ来て酒を呑みながら、
「分家の分際《ぶんざい》で伜《せがれ》を中学へ入れるなんぞという大それたことをするとは僣上《せんじよう》の沙汰《さた》だ」
とカサにかかって責めつけるのを、私のおやじがまたペコペコ頭を下げているのを見て、「エイくそ!」と学校をやめて植木屋に弟子入りしちまったんです。
というのが、学校へ通う途中に、例の有名な成田山新勝寺がありまして、その庭に植木屋がはいって造園をしている。毎日登校下校の時に見ると、なんにもなかった所に木が植わり、水が流れ、だんだん形ができていって、注意して見てるとおもしろくって仕方がない。学校へ行くのに文句が出るならいっそ植木屋になっちまおう! と決心したわけですが、この時の、新勝寺の庭を作っていたのが松本親方だったわけです。
はじめは穴掘りだの、木を植える、石を担《かつ》ぐなんぞと人夫がわりの修業をさせるのが普通なんですが、どうしたわけか師匠は私に、
「お前はおれのそばについてろ、そばで仕事を見てろ」
って仕事をさせませんでした。
中学生の若隠居みたいなもんができ上っちまって、当人ムズムズしてるんですが、仕方がないから言われる通り腰巾着《こしぎんちやく》でついている。そのうちになんとなく仕事の手順、仕事の呼吸、カン所がジワーッとわかりかけてきました。
「良い庭師になろうと思ったら自分で手をおろしちゃ駄目だ。そんなのは職人芸だ」
師匠がこう言ったことがありますが、確かにそういうものかもしれません。
ここにいた五年の間に、渋沢邸、阪谷芳郎男爵邸、山本唯三郎邸の庭作りにしたがったわけですが、これが後年大庭を作る時のよい土台になりました。
そのあと、下谷下根岸の松本師匠から今度は小石川雑司ケ谷の岩本勝五郎師匠の所にうつりました。
この人も大庭が得意なんですが、この人の特徴は、松本師匠とは逆に、手前に小さいものを置き、遠くに大樹を植えて庭の中央に視線をひく、というところでしょう。
折から、山県有朋公邸を造園中だったので、同公邸の小石川|椿山荘《ちんざんそう》の庭作りもはじめから参加しました。
いまあすこは藤田観光のものになって、万事ハデに造り変えられましたが、昔はあんなピカピカしたもんじゃありませんでした。枯淡《こたん》な|わび《ヽヽ》の利いた良い庭でしたよ。
あすこは雑木と竹林の多い所なので、これを利用して自然な感じを生かして作ったんです。籠《こも》って入れぬ竹山の下を掃除して、竹そのもののおもしろさを生かす、雑木の幹や枝のからまっている分だけを払って自然に生えている感じを、というふうに、ごく素直《すなお》なゆかしさを生かしたんですがねえ――。
つづいてやった小田原の古稀庵《こきあん》も、これは山県公の指図で作ったんですが、なかなか渋いものだったのに、いつだか、何十年ぶりで行ってみたら、やはり昔の俤《おもかげ》は残っていませんでした。
あすこは、石組みも本格的にしてありましたし、竹ひとつ植えるんだって、何年後を考えてわざと細いものを植える、それが斜面になだれてこんな感じになるとチャンと計算して植えたんです。
庭というものは、できたその時だけを考えて作ったってサマにはなりません。木も草も竹も、いや石だって育つもんですよ。できて何年たつとこの木がこう育つ、この木の芽の色はこう、あの木の芽の色はああ、と芽吹きの色まで頭において作るのがほんとの庭ってもんです。
そのなかで、最初に置いた石や燈籠が落ちつき、苔をつけ、所を得ていくわけですから、石の感じだってずいぶん変っていきます。
木だって、その性質をよく知らないと、たのしむどころか、大木になって家を害する場合だってありますよ。
渡米、六千坪の庭作り[#「渡米、六千坪の庭作り」は太字]
この岩本師匠の所に五年いて、ちょうど大正四年、師匠が、もう独立して自分の造園事務所を持ってもよかろうと言って、ひと晩、築地の料亭によんで「独立祝い」をしてくれました。
ところが、ふと庭に目をやった時に考えたのは、
「この庭は誰が作ったんだろう」
ということです。おそらくそこいらの植木屋が見様見真似《みようみまね》でチョクに、それらしくゴテゴテと作っちまったもんでしょう。なんの趣《おもむき》のあるもんでもありません。
「何千坪の大庭をやるばかりが能じゃないぞ。こんなふうに圧倒的に数の多い小庭作りも身につけなけりゃ!」
と決心しましてね、独立は返上して、当時小庭作りの名人と言われた日本橋三代町の鈴木次郎吉師匠の所へ改めて弟子入りしました。二十六の年です。
この親方は八十九歳でまだ元気でご存命ですが、実に仕事のこまかい、心持ちのゆき届いて、しかもキリッとした見事な小庭を作る方でした。
ここでまた五年。やっと目白に「飯田造園事務所」の看板をあげ、それから四十年、数で言えば千、目ぼしいものでも三百数十の庭を作って来ました。
関東大震災後は隠居してしまっている鈴木師匠にくらべて、数でも仕事の内容でも負けない自負はあるはずなんですが、やはり会うとどうしても頭が上りませんし、いろいろ教えられることが多いですね。
昨年は師匠の米寿《べいじゆ》の祝いでもあり、暮には私がアメリカへ行くことになったので、お目にかかることも多かったんですが、その度に、ジカに仕事のことというよりは、何かと人間的なことや心構えなどで教訓を受けたような気が度々いたしました。
ハイ。米国へは、経団連がワシントンの日本大使館の庭に茶席と茶庭を寄贈したのと、東京都が、シアトルのワシントン大学の植物園内に日本庭園を作って贈呈することになったのと、二つの目的でまいりました。
ワシントン大学の方は、六千坪からある広い庭園を作るので、回遊式にしました。地形は南北に長く、西北が大斜面の雑木林にかこまれ、南北の長い側は公道になっている所です。
そこで、南に築山と茶室、中心に池、北には見晴し台、その下の池のほとりには新感覚の舟着場、西側の丘は桜山――というふうに設計しました。
これは三月《みつき》で仕上げて、良くできたとほめていただきましたが、こういう「日本庭園の粋を集めた」というふうなものはかえって楽なもんでして、自然な小庭一つを自分が納得《なつとく》いくように作る、なんぞという方がなんぼむずかしいか知れやしません。
たとえば、ワシントン大学植物園のは、茶室は規則通りのものですし、池は桃山風に則っていますから手本があります。舟着場も、新しくボートが着けるようなものにはしましたが、これとて昔|公卿《くげ》が遊んだ桂離宮の舟着き場を模《も》したものですから、まあまあさしたる苦労はありません。
燈籠は十基。織部型と、永徳寺型が茶庭。十三塔の多層塔は滝口の丘に、足元燈籠二基は渓流辺と表門の内側、雪見型と面影型、岬型のふち、立雪見が池の中、泰平型は丘の上、という具合で、これまたきまる所へきまれば良い方式どおりのものでした。
苦労はかえってツツジ、シャクナゲの低いもののあしらい方、同胞から贈られた六、七尺の小さい桜の植栽間隔を十八尺にとって将来に備えたこと、スギ、モミジの立木の下草にアスナロ、アセビを選んだこと、地被にキチジソウ、ゴールテリや山苔を模様張りにしたことなど、目立たない所にありました。
いささか会心の思いがしたのは石で、ビーコンヒヨというちょうど、茨城の上大島辺から出る花崗岩に似た石を八百トンほど使いましたが、一個の据え直しもなしにスパリといったことでした。
沢庵の庭に蔵王出現[#「沢庵の庭に蔵王出現」は太字]
庭の窮極《きゆうきよく》は石にある、と言われるぐらいのもので、いまの若い人は石に対する勉強が足りないんじゃないでしょうかね。石を一目見て、これは光悦、これは沢庵、これは夢窓国師、とすぐ見分けがつかないようじゃ一人前の庭師とは言えません。
私は夢窓国師が好きなんですが、この人の石には下に力がある。出ている部分より埋めている部分の方が多い。それで命のないはずの石が、土から生えたように強い力を見せて坐《すわ》っているんです。この石が国師作の庭に、どんなに重量感と充実感を形作っているかわかりません。
沢庵は良くいえば親切。悪く言えば固すぎるので私はあまり好きではありませんが、面白いことに一昨年、私は山形県の上ノ山で、沢庵作の石組みを一つ発見しました。
町から話がありましたので鑑定に行ってみましたが、石の置き方を見るとどうも沢庵らしい。そこで、「ここに、もとこういう石がなかったか」と聞くと古老の話では「確かに昔はあったが、日露戦争の戦勝記念碑にするために掘り起して使ってしまった」という返事。
それではこの布石は確かに沢庵! しかし、あるべきはずの築山がない。そこで庭の四辺をよく見て、ムラムラとうるさく枝を絡《から》んで茂っている木を切り払ってみてもらったら、そこから、青空を背景に雪を戴いた蔵王の姿が忽然《こつねん》と出現して来ましたので、
「これだ! これは沢庵だ!」
と私は太鼓判を押しました。沢庵は、遠望する蔵王山の姿を借景として庭を作っていたんですね。
こういう発見は学者の仕事にきまっているのに、方式さえ知っていれば一庭師にもできるんだということを証明したようで大いに得意なんですが、どうですか。ハハハ。――もっとも、その鑑定料は、町に予算がなくて、近く市になるからその時に、という話で待っていたんですが、そのあと上ノ山は市制施行のお祭りはしたようですが私の所へはなんの挨拶もありません。だれら私には上ノ山はまだ「町」です。ハッハッハ。
冗談《じようだん》はおいて、謝礼金より何よりあの沢庵作の庭の向うに、ここぞと思って木を払わせた所から、忽然と現われた雪の蔵王の鮮烈な姿を見た時の喜びは、いまでも生き生きと私の胸に生きています。
お茶を代えました。熱いのをどうぞ。
ハア? ハア。私が独立してから四十年間に作った庭は、港区二本榎の馬場^一邸、大久保利武邸、鎌倉山の牧野元次郎邸、港区広尾町のドイツ大使公邸、渋谷穏田の武者小路公共邸、代々木富ケ谷の初波奈、市ケ谷砂土原町の吉屋信子邸、小石川水道町川口松太郎邸など、すぐ思い出すだけでも三四十はあり、総数千にのぼるものを手がけたその結論を言えば、
「庭作りは命作りだ」
ということです。
あらゆる木や草などの生物を生かし、石や空間などの命のないものからも命を生かして、それをまとめて、お互いの命をさらに盛んにして、何十年でも何百年でも生き続けてゆける場所を作ってやるのが庭作りだ、と私は思っています。
秋の雨夜は少し冷え冷えしますね。もう一つ熱いお茶はいかがですか。
[#地付き](三十五年十月)
ぬし屋名人・信太郎
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長谷川信太郎[#「長谷川信太郎」は太字] 明治十七年神田の生れ。十二歳で神田の加藤に奉公し十年いた。兵隊を済ませて二十四で独立し、翌年玉座の卵椅子を塗った。
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二十六歳で御徒町に店を持ち、以来五十六年だが戦争中も仕事の手は休めず、一年間三百六十回ぬり続けた堆朱の盆をなぐさみに日展に出したら入選した。「審査員の先生は乾漆だと思ったに違えねえ」と老人は独自の手法を得意がってホクホクしていた。
昭和四十二年二月、八十二歳で死去。
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やっと上げて貰えました[#「やっと上げて貰えました」は太字]
駄目だよ。電話でも度々お返事したとおり、あたしは新聞や雑誌に書いてもらうような者じゃアねえよ。話はカラッ下手だし、とっても駄目だよ。
あたしを書くくらいなら、ほかにいくらでも書いてやったら良い人がいるよ。
エ? 調べて来た? そんなことねえよ。腕なんか良いわけのものじゃアねえ。
今朝の東京新聞に出てた「名人」って欄のあたしの記事なんざ、ありゃ迷惑してるんだよ。エ? あの新聞は読んでねえ? ホイ、口がすべっちまった。
ン。各界の名人を載せるっとかで、あたしが十四番目にぬし屋を代表して書かれたんだが、ありゃアまるでサギにあったみてえなもんだ。
うちとごく懇意《こんい》にしてるせんべ屋のかみさんがやって来てね、親戚だかなんだかって男を連れて来たから、上げて聞かれることにポチポチ返事をしてたら新聞だってんだ。書いちゃ駄目だよってのに書いちまった。あたしのぬし屋で「名人」14回で、まだ続くんだってえが、名人なんてのがそんなに毎日毎日書くほどいるもんかねえ。
けどまア、あれは新聞で短けえし、ウソは書かなかったからいいようなもんだが、お前さんは雑誌ってえと長いんだろう? とてもそんなに喋《しやべ》ることはねえしあたしは雑誌に書いてもらうような偉え男じゃねえよ。駄目だよ、帰ってくんな。
……なにもそう怒ることはねえやな。出し惜しみしてるわけじゃアねえよ。そりゃア、お前さんの言うとおり、そんなに熱心に良い仕事をしようってために本を読むってえ専門家や学生さんのことを考えると、そりゃケンソン振《ぶ》ってちゃ相済まねえよ。
そ、そりゃそのとおりだ、あたしとお前さんはどうでもいい。その仕事熱心な人たちの役に立つことが大事だ……。
弱ったねえ。役に立つように話せるかねえ……。マ、そうムキになるなよ。そりゃそうだ、あたしだって仕事の経験や人生の教訓ってやつを一人で墓場へ後生大事にもってって埋めちまったらそりゃそれっきりだってことは分るよ。
――だけどお前さんも口が悪いし遠慮のないことを言うねえ。八十に近いジジイに墓場の話は禁物《きんもつ》だよ。ハハハ。いいよ、あやまらなくても。マ、上んなさい。
――だけど、雑誌に書いてもらって金を払わなくってもいいのかい? エ? あ、そうかい。安心した。怒るなよ。あたしはケチだから金を出すのはイヤだからね。ハハハ。ハイ渋茶です。この金つば、うまいよ。
苦労の白髪が光っていました[#「苦労の白髪が光っていました」は太字]
ああ、あたしは明治十七年生れのサルだよ。当年とって満七十七。ずいぶん生きたもんだ。苦労したよ。生れたのは神田の通り新石町《しんこくちよう》、いまは多町《たちよう》って言ってるあすこで、チャキチャキの江戸ッ子、「寿司を食いねえ」の方だが、二つの年に両親と死に別れて、母親の実家の埼玉に里子に出されて「里流れ」――。
十二でやっと神田に舞い戻ったのが、当時神田で聞えた|ぬし《ヽヽ》屋の加藤卯平って親方に弟子入りしたからさ。
ここで仕込まれて、十年奉公した。そりゃア、小僧なんてものは、どんな職でもおんなじさ。ぼんぼんや、若殿様ってわけにゃアいかねえわさ。朝は五時に起こされの――漆にはカブレ放題の――、ハハハ、てえしたことはねえよ。昔の職人衆はみんなやったんだ。
それでもあたしは仕事は好きでね。小僧と職人が店にはいつも六、七人いたが、ほかのやつは寝かしちまって親方と二人で十時、十一時すぎても夜なべをしたもんさ。夜が更けてきて膝と背中にチロチロチロチロ、水を注がれるような寒さの中で、だんだん仕事に没頭していって、灯りが冴えてくるのを手元に感じる気分も、ありゃアまた悪くねえもんさ。
親方の、加藤の先代ってえ爺さんが名人だったねえ。藤堂和泉守様のお抱えぬし屋だったそうで、もうこの頃は八十近い好《い》い爺さまだったっけが、あたしがまア仕事熱心な小僧らしいってんで、時々いろんなことを話してくれたっけ――。
西郷さんが攻めて来て、彰義隊が寛永寺に立て籠《こも》った上野の戦争ン時に、藤堂様から陣笠の注文を受けて、官軍の攻め方が三日早くって乾きが上らず、納められなかったのを生涯クドいていたくらいの爺さまだから、いろんなことを知ってて話してくれたよ。
陣笠ってえものは、あれは和紙を貼って厚くして、そいつに漆を塗ったもんだから、それで刀でもなかなか斬れねえんだそうだね。
紙は木よりも丈夫だそうだよ。漆を塗るのもただ見場《みば》ばっかりじゃなくって、受けた刃を滑《すべ》らかそうってんだから、あだやおろそかな塗りじゃアいけねえんだそうだ。
人の命を塗り方ひとつで守ろうって仕事をしたひとだけに腕は良かったねえ。このお爺さんの一つ話を今でも覚えてるよ。それはね、こうなんだ。伏せた重箱の水がこぼれねえって話なんだ。
芸談には老顔も輝くのでした[#「芸談には老顔も輝くのでした」は太字]
重箱は、今は二つ重ねが多くなったが昔はみんな五段重箱だ。正月だア花見だアなんて時に使うんだから塗りも腕にヨリをかけるわけだが、塗り上げたあとあの五つの函が、何番目を何番目に持って来ようが、前を横に重ねようが、ピタッと合わすのが腕の見せどころだ。
ところでさて、この加藤のお爺さんが若い職人の頃、親方の家で仕事をしたあと、ヒョイと棚に重箱を伏せてのっけて帰ったんだそうだ。
するってえと仲間の職人の一人がね、手を伸ばしてそいつを取ったんだ。
――ってえのが、当時の職人はみんな腕自慢、「あの野郎、どれくらいの仕事をしてやがるか」ってのが一つと、もう一つは、まア仕事を盗む……ってえと聞えが悪りイが、職人はみんなツボツボはひとには隠して工夫したもんなんだ、それを見てやろう――、その二アつから手を伸ばしたわけなんだが、重箱を取った、と思ったトタンに頭からザアッ!
モロに水を浴びちまったのさ。チョンマゲからチリケモト、背筋から懐ン中を通ってフンドシまで水雑炊を浴びちまって、ヒャアーッてことになっちまったが、こいつ、重箱に水を一杯いれて、そいつをクルリとひっくらけえすと、そのまンま棚の上へ伏せといたんだね。
腕がよくなくっちゃ出来る芸当じゃアねえ、相手は水だア、塗りにピリッとの狂いでもありゃアそこからジャーだ。
下地漆を塗って、砥石でまっ平らに研《と》ぎ上げて、中塗り上塗りを済ましたあとの重箱のフチが、フタと吸い合うようにピッタリいってるから、水が入ろうが酒が入ろうがしみ出るスキ間もねえってことになってたわけよ。
シトの悪いイタズラみてえだが、イキなことをする爺さんじゃアねえか。いま時の職人なんざア、水がこぼれねえどころか、逆さしにしたら強飯《こわめし》だってこぼしかねねえんだから世も末さア。
だがねえ、塗り漆なんかも、「水盤」ってえ平らな板で、フチもケツもちゃんと磨《す》り合わして出来上りになるんだが、こいつさて、水を入れて伏せてこぼさねえような塗り上げとなると、チョイと年季がいるもんだぜ。
この、加藤のお爺さんにゃア弓塗りも教わったが、これもむずかしいし、この弓塗りの法はいまは良い重箱の塗りに応用されてるんだ。
弓は、まン中に桐を入れて両端を竹で張って、弾《はじ》けるからまわりに糸を巻いて裂けねえように漆を塗るわけだが、この糸を巻くのが弓屋。ぬし屋は麻をカモジのように解《と》かして漆をつけて巻くんだ。
これをあたしたちは「お巻き」ってって、麻を張る所を重箱に応用してるが、重箱は下地をつけられるけど、弓は弾けちまって下地は塗れねえから、下地なしで弾けぬよう裂けぬよう、反りのある木と竹をどう抑えるかが呼吸なんだ。
強くていけず、弱くていけず――。漆の加減がむずかしい。だいたい漆は着物なんぞに着いて乾くと、乾くに従って布地を裂いちまうくらいのもんだから、そこを心得て調子をつけるのが仕事なんだよ。
日露戦争の勇士でした[#「日露戦争の勇士でした」は太字]
まア無事に十年の年季も済ましたら、折から日露戦争さア。満州の奉天に行って一年いたんだが、ここの石仏寺ってえのが全部漆ぬりでねえ。ああ朱だ。
けどナアニぬし屋の本家はシナだろうが、腕はてえしたことはねえね。ただマッカッカに塗りました、ってだけのもんさ。漆もシナよりはこっちの方が良いものが出るし、腕も漆も日本の方が一枚上だとあたしは思うね。
そいから勝ちいくさの凱旋《がいせん》のあと、新しく日本の領土ンなった樺太にやられて幌内川に一年いたよ。
アザラシで有名なロッペン島へ行ったり、国境の境界碑の警備をさせられたり、いろんなことがあったっけが、アイヌの戸籍を作りに行く役人を警備して幌内川を三十里も遡《さかのぼ》った時は、アイヌの宝物によくある蒔絵の桶なんか見られるかと思ったがあれは北海道アイヌで、樺太アイヌは持ってなくってガッカリしたね。
そんなこんなで、兵隊から帰って独立したのが二十四の年。一人前の職人になって親方ン所にいたが、二十五の年に宮内省からの注文で、天皇陛下の椅子を塗った。
玉座の卵椅子ってやつで、ゴテゴテの彫刻がしてあって、十六の菊の紋が四十二もくっついてるんだから、塗りも大変さ。
もちろん塗り上りに凸凹があっちゃアならねえ、角々《かどかど》のキマリはキチンといってるか、肘かけなんぞの窪みはなだらかにいってるか――、そいつを検査するのが蒔絵師でね、椅子を遠くに置いといてタメツ、スガメツされるんだ。
ふつう、漆の塗りってものは、遠くに置いて透し見すれば、多少の凸凹は出るもんさ。それがオソレ多い椅子だから、どんな僅かな凸凹でも許されねえってんだから、ようし見てやがれで、こっちも意地ンなってガン張って、まア無事通過。
ン。黒漆で、木固めからいれて三十回も塗ったかね。ヘラの作り方、砥石の研ぎ方なんぞ、念にも念を入れて、我ながらテローッと嘗めたように塗ったつもりだ。
ガス燈が点《つ》いてた頃の話です[#「ガス燈が点いてた頃の話です」は太字]
明けて二十六の年に、この御徒町に店を持ってから五十年、ここに住んで商売をして来たんだが、最初は貿易物の飾り棚だの宝石箱や、青貝|摺《ず》りの二枚|衝立《ついたて》なんて仕事をした。
そうそう、それからリンリキ車に乗って、歯医者の仕事にも行ったね。エ? ン、当時の歯医者の椅子や道具はみんな漆ぬりさ。ご大層なもんだ。エプロンをかけたドジョウ髭の先生が、漆ぬりの器械を操ったんだから、馬鹿面してアングリ蛤《はまぐり》みてえに大口をあいた患者なんかにはモッテェネェくらいのゲイジュツ的なもんだったよ、ハハハ。
なんしろ街にゃア、ガス燈がとぼり、まだ市村座があって――ってえ時代だからねェ。ン、市村座はこのすぐ近くだから表の通りを役者衆がウンと通ったよ。当時の福助さんが通りがかりに寄って、鏡台を注文してくれたりした。ああ、惚れ惚れするようないい男だった。
だから、シバヤのジョーロリ語りだのチョボの清元なんかの連中が、見台《けんだい》を作ってくれってんでだいぶんその仕事もしたね。
それからやったのが御神輿《おみこし》の仕事――。この前も武州秩父神社の山車《だし》の塗りを頼まれて、弟子と塗りに行ったが、神輿だの山車ってものは、威があって美しく、派手でしかも重みがなくっちゃアいけねえ。それをどう出すかが、ぬし屋の楽しみで、あっちこっちの御神輿を、あたしはずいぶん塗ったもんさ。
そうこうしてるうちに関東大震災。キレーに焼けちまってね。
ぬし屋の「長谷川」が、「道具」を盛んにやり出したのはこの震災後からだね。重箱・お膳・お椀、この頃から三越さんの仕事を始めて、書棚・飾り棚をドンドン納めた。
三越さんとも長いおつき合いで、どういうもんだかほかのぬし屋は途中でやめても、うちだけはいまだに作っただけは納めさせて貰ってるのはありがたい。
震災からあとは、満州事変、支那事変、大東亜戦争と、職人にとっちゃアありがたくねえ戦争続きで、挙句の果にゃア三月九日の大空襲で、またまたわが家が丸焼けってえ目にあったが、この戦争で、あたしゃアひとつだけ儲けものをした。
五色の堆朱《ついしゆ》の盆は見事でした[#「五色の堆朱の盆は見事でした」は太字]
――ってえのは、この戦争の負け際《ぎわ》にどうせ商売は暇だし、空襲中の留守番の暇潰しに作った堆朱《ついしゆ》盆を、戦争が終ってから日展に出したら、入選しちまったんだ。
ああ、伜や若い者は田舎の埼玉へ疎開させて、あたしは「ここで死ぬんだ」って一人でいたんだが、商売がねえから最高の梨地漆がうんと余ってるんだ。
そこで、勿体ねえから、盆だの菓子鉢だの、いろんなものを集めちゃア、顔料を練り込んで毎日塗っていたんだ。
ホレ、この盆だ。五色に研《と》ぎ出した杢目がきれいだろ? 持ってみな。重いだろ? 漆の目方だけで八百匁はあるよ。こんな良い漆は、一貫目でも四万円はするから、漆の値段だけでもチョイトしたもんだが、それよりこの手間が大変だ。
これだけの漆を塗り重ねるにゃア、毎日塗って一年はかかるよ。一回塗ったら乾くのに一日はかかるから、気永に一年塗り続けなくっちゃこの重さにゃならねえ。これは三百六十回は確かに塗ってるから、一年以上かかってるね。空襲中の、ヒマでしかも材料の余ってる時でもなくっちゃやれねえ仕事さ。
それより自慢はホレ、この小口を見てくんな。盆のフチには漆の層ばっかり出て、シンが入ってねえのが分るだろ? 「乾漆《かんしつ》だ」――、日展の審査員の大先生がたはそう思ったに違えねえ。乾漆でこれだけ塗り上げたのは大変だ、そう思って入選させたのに違えねえ。
ハハハ、ところが実は細工があるんだよ。コップのまわりに漆を塗り重ねて、あとで中のガラスをコチコチ割って取っちまうと、堆朱のコップが出来るだろ? そのデンでやったのさ。
盆の木地に砥の粉を塗って、その上に漆を塗り重ねていって、あとで水に漬けると砥の粉が溶けて木地の盆は離れるだろ? こうしてシンのない堆朱の盆が出来たのさ。
乾漆だと思ったのは審査員の勝手。木の盆を応用したのは横着だがこっちが利口なのさ。
「杢目塗り堆朱」はこうして「長谷川」のお家芸になって、いろんなものに応用してるけど、こんな盆はもう一度は作れねえね、第一とてもじゃねえが根気が続かねえや。
狭い寒い仕事場でした[#「狭い寒い仕事場でした」は太字]
エ? 仕事場が見てえ? お前さんも物好きだねえ。なんにも面白いものはねえよ。面白い? ふうん。あんまし仕事場にゃアひとは入れねえんだけど――そいじゃこっちへおいで。
階段が急だから気をつけなよ。エ? ああ、そんな、暗い店先に放り出してあるような飾り棚なんぞ、高々三、四万ってところのもんさ。早く上っといで。
ここが乾燥室だ。ってえと大仰《おおぎよう》だが、押し入れに棚を作って、塗り上げたやつを寝かしとくだけのもんさ。これがタンス、こっちが茶ダンス。みんなバラバラにして塗って、寝かして乾かしてから組み立てるんだ。
こっちが盆と運び膳。こりゃアみんな伜と四人の弟子の仕事さ。今日は曇りで湿気《しつけ》が多いから乾きが早いだろう。
ああ、漆は湿気のある日の方が早く乾くんだ。
ア、一寸ジッとしててくれ、いまこっちに電気つけるから。歩くと蹴っつまずくぜ。ホイ、いいよ。そこの仕切りはまたいでくんな。
ここがあたしの仕事場だ。どうだ狭めえだろう。道具が見てエ? うん。ぬし屋なんてものは、大工と違って道具はうんと少なくていいもんなんだ。
ああ、これがヘラだ。檜でね、こうして、こうして使って塗るんだよ。この小せえのは雲形なんかを塗る時にこんなにして使うんだ。
ヘラの問題はこの腰にあるんだ。コシのぐあいひとつで、調子を取りながら塗ってくのさ。だからこの小刀で、こんなぐあいに肉を削って、コシのシナイぐあいを加減するのさ。
そう、これが「ぬし屋小刀」だ。こいつをもう三十年から使ってるよ。身がこんなに研ぎ減っちまっても、やっぱり使いこんだものは調子がいいね。
道具ってば、あとはこの砥石だけよ。こんな小汚《こぎたね》え小せえ桶に、消しゴムみてえのが山盛りンなってるから、なんだこんなもの、って思うかも知らねえが、こいつがあたしにゃア、女房より大事なんだ。
下地塗りを研ぎ出すにゃア、こういう石で丁寧にやる。丸い所はこれ、カドを突っ込む時はこれ。ホレ、こっちにこんな丸みをとってあるだろ? 親指ぐれえしかねえけど、これは小せえ丸物の内側を研ぐ時使うんだ。
「コーツケ」って石で、みんな自分で手間をかけて作って、大事に大事にとっとくんだよ。
ああ、それは帷子《かたびら》の反物だ。このまえ杉並の立正佼成会から頼まれてね、あすこに建てる仏様を塗りにいった時、台に巻いたんだ。台が九尺で八角、仏様は一丈もあったが、何百年何千年残るかも分らねえ仏様に、何百何千年残ってもいいように、一所懸命塗って来た。
千年前の奈良の仏様を、千年前のぬし屋が塗ったやつが、未だに生き生きと残ってるんだからねえ、仕事はあだやおろそかには出来ねえよ。
ア、こっちの座敷の方においで。どうだいこの格《ごう》天井は! まン中の鶴の下地の堆朱はあたし。あとの秋草の蒔絵と漆絵はその道の専門家に頼んだんだが、棧ももちろんあたしが塗った。
ここにある飾り棚は、さっき店にあったのの売り値ぐらいの漆が使ってあるから三十五万円以下じゃ売らない。あたしはほんとは売りたくねえんだが、この前ひとつ売れちまったんでまた作ったんだ。
これは、って品は売りたくねえよ。そばに置いといて眺めていてえね。
エ? 死ぬまでにぜひ作ってみてえもの?
そうだねえ。「長谷川」得意の堆朱で碁盤と碁石を作りてえね。漆で碁石の白黒は出来るし、あの丸味を研ぎ出すのには腕が振《ふる》えるからね。まだ誰もやったことのねえ堆朱の碁石の、ちょうどいい手触りを、ゴケからつまみ出して堆朱の碁盤にパチリと置いたら、そうだ、あたしは死んでもいいね。
[#地付き](三十七年十月)
「ハマのペンキ屋」磯崎老
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
磯崎祐三[#「磯崎祐三」は太字] 明治二十七年東京、京橋の生れ。明治四十年十四歳で横浜長者町の桜井に弟子入りし、関東大震災の年三十歳で横浜駅西口に店を持つ。
[#ここで字下げ終わり]
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昭和十四年神奈川県の塗装業組合の組合長になり戦後日本塗装工業会の理事、顧問などをしているが、難しい塗装技法の簡易化を研究し、自腹で県内県外の講習会に走り回っており、行李一杯の感謝状が唯一の遺産だという。
神奈川県横浜市南区井戸ケ谷中町。
[#ここで字下げ終わり]
奥さんの語る――[#「奥さんの語る――」は太字]
横浜市内といっても、もう保土ケ谷のこんな遠くまでよくお訪ね下さいました。それにこんなに朝早く――。ハア、主人もすぐ参ります。なんしろあのひとはエライ癇癪《かんしやく》もちでして、時間の約束を違えるのが大嫌いで、一度なんぞは材料屋が時間に遅れて来たのに家へ上げたっていうんで、
「叩き斬っちまう!」
って抜身《ぬきみ》の刀を振りかざして追っかけられたことがあるんです。ハイ、もちろん裸足《はだし》で逃げましたとも……。
ある時は、店の小僧より先に子供達にご飯を食べさした、っていうんで、
「ばかやろう。子供なんぞおっぽり出しちめえ」
って言ったかと思うと、椅子を振り上げてガラス戸というガラス戸をガチャガチャガチャン! って割ってしまうんです。
それで、そのあとすぐガラス屋さんを呼んで直しておかないと、
「ばかやろう。見っともねえじゃアねえか!」
こうなんです。なんでもすぐ「ばかやろう」なんです。誰が見っともなくしたんですか――ねえ!
ガラス屋さんも、建具屋さんも、毎度のことで「磯崎だ」って言いますと、主人の気性を呑みこんでますから、「ホイ来た」って食べかけのお茶碗も放り出して駆けつけてくれるんです。
ハ? エエ。当人はそのあとは至極サッパリしたもんで、カラリと日本晴れで根に持つようなことはございません。
エ? 「名人|気質《かたぎ》」? サア、なんだか存じませんが連れ添うものは迷惑いたします。
それなのにこないだ、昔うちの小僧でいて、今は店を持っている弟子が参りましてね、つくづく私の顔を見て申しますのに、
「分った。こりゃ奥さんが悪いんだ。奥さんの最初のシツケが悪くて何でもハイハイって言ったから――」
と申しますから、
「そこまで、そこまで」
ってあやまってしまいましたがね、あとで嫁に行ってます娘の所へ参りましてね、
「夫婦ってものは最初がカンジンだから――」
こうこうしかじかおやんなさいなんて申しましたら、
「もうそんなこととっくにやってるわよ」
って笑うじゃアありませんか。――私も、昔が今なら居なかったんですが、昔はみんなそんなもんでしたからねえ。
エ? いいえ、今はあの人ももう丸くなっちまって、乱暴に及ぶようなことはありません。まる年で六十八歳の好いお爺さんになってしまって、お酒を呑んじゃアニコニコしてますが、かえってタマには元気に癇癪でも起してくれたら――なんて思うんですよ。オホホホホ。オヤ主人が参りました――。
せんせいは頭カッカの顔ポッポ[#「せんせいは頭カッカの顔ポッポ」は太字]
ちょうどお約束の時間ですね。雨のなかを大変でしたろう。いやなに、あたしは雨のなかを保土ケ谷くんだりまでおいでを願うようなたいした者じゃアありません。
ただ業界に五十五年間生きて来たっていうだけのもんで、金も無けりゃア名前もいらない、ほんとに「鷦とおんなし裸ハダシ」の男ですよ。
日本塗装工業会だの、県の組合の顧問や技術検定委員なんてことにはなってますが、学校は尋常三年しか行ってない小僧からの叩き上げですし、表には「建築塗装技術研究所」なんてご大層な看板を上げてますけれども、戦中戦後、すっかり落ちちまった業界の技術を、なんとか向上させたいってコケの一念でやってるだけなんです。
さいわい、長男が番頭をやってくれますし、次男はあたしに似て仕事好きなんで仕事はそっちまかせ、隠居の道楽仕事で出来るもんですから、神奈川県下はもとより、愛媛だア三重だなんて遠っ走りをしちゃア、講習会に行って、若い人たちに技術を覚えてもらうのをたった一つの道楽にしてるんです。
今から六年ほど前に、日本塗装工業会から、「標準建築塗装」というものが出ましたろう? なるほどこれは、北は北海道から南は九州まで、日本の建築塗装の技術を最高の線で統一する立派なもんです。
――もんですが、字では書いてあるが見本がついてない。職人の仕事は本だけじゃアほんとには分らない。よしおれが見本を作ってやろうってんで、一年がかりでこさえました。
仕事を終って八時頃に晩酌をやって寝る。夜中に目をさまして寝床ン中で仰向けになったまま、仕事の手順を上から下まで順序よく喋《しやべ》れるように、頭ン中でくり返してみる。目的から性能、原料の買入れ方から施工法と、全部を喋れるようになった時、これならよし、と講習会を引き受けたんです。
腕にゃア覚えがあるつもりですが、なにしろ学校は小学校三年までですし、講義とかいって高い所に上って、頭がカッカッの顔ポッポッじゃア困りますからねえ。
それで、三十枚ほどの出来形見本を飾って講習会を開いたのが、三十一年一月の三重県四日市が皮切りで、それからズッと愛媛県や神奈川県下を回ってるわけです。それでも最初は足が震えましたよ。
あの庭の番《つが》いの鶴の焼き物も、あっちの部屋の胸像も、みんなそのお礼に贈られたもんですが、見本の材料や感謝状は行李一ぱいあって、子供にのこすのに金はないからこいつをと思ってるんですよ、ハハハ。
大臣賞は新聞ガミで[#「大臣賞は新聞ガミで」は太字]
講習会の内容? こいつを見て下さい。これが塗り見本の一枚です。三十一年の四月に第一回の建設大臣賞をもらった「ペンキ叩《たた》きコンビネーション塗装」って方法なんですが、テキストには「着色剤を海綿スポンジで斑《まだ》らに叩け、繰り返すとコンビネーションが出る」って書いてあるんです。
ところが、そのやり方だと、例えば壁なんかの大きな面積を大勢でやるとどうしてもムラになる。
――あたしは考えたんです。こいつは置いといて付けるからみんなでやれねえんだ。塗っといて取ったら簡単に早く何人でもムラなくやれるんじゃなかろうか……?
「マーブル塗装」なんてのは、まことに立派なもんだが、名人といわれるような男の一人の仕事でしかやれない。それもこれも壁を叩いてペンキを重ねていく技法がむずかしいからだ。ヨシこいつを逆にやってやれ。
――こう思いましてね、塗ったやつを逆に取ってくことにしたんです。
やってみれば何の変哲もないことです。一回塗ったあとを、スグ新聞紙を丸めておさえてチョチョッと取るんです。そのあとまた色を重ねて、新聞紙でチョチョッとおさえる。こいつを繰りかえすと、ホレ、ご覧の通りの品《ひん》の良い、こんな立派なコンビネーションが出来上るんです。
これなら誰にでも出来る。何人でも出来る。どんな広い面積でもやれる。
――マア、思いつきだけで、なんということはねえんですが、誰もやらねえやつを最初にやってみたのが手柄なんでしょうねえ。
仕事ってものは、名人だけがタッタ一人しか出来ねえようじゃアつまりませんよ。みんなが誰でも簡単に早く出来る――、そんなあんばい式のやり方を考え出す方が大事だ――とあたしは思ってるんです。
このやり方でやると、従来むずかしいとされた「コンビネーション」が、スラスラと出来て、講習会なんぞあたしが話したあと、講習生にやらすと、三十人でやっても五十人でやっても、あたしとおんなし「コンビネーション」が一せいに出来上っちまうんで、連中はびっくりしちまうし、あたしは良い気持になっちまうし、――ヘヘ、まったく仕事ってものは面白いもんです。
――こいつを見て下さい。これは「コンビネーション研《と》ぎ出し」ってやつです。前のは新聞紙でおさえましたろう? これは固いビニールを使うんです。そうすると出来上りがこう違って、まア前のが品《ひん》の良いおっとりした感じが出るとすればこいつはしゃれた抽象《ちゆうしよう》模様といったふうの味が出るわけです。
赤、群青《ぐんじよう》、青、クリームの順に塗っちゃア、その度に固目《かため》のビニールで叩いていって、最後に五日ほどおいて水ペーパーで研ぎ出すだけのもんです。これも講習会じゃア好評の品です。
こいつは「トラ目」です。これは今度は、新聞紙やビニールの代りに、鹿のナメシを使うんです。
俗に「トラ目」っていうこれは、ナラの柾目《まさめ》を出すもんなんですが、最初にナラの木色に合わせて塗って、まず剛《こわ》い刷毛で柾目の筋をタテにつける。それから鹿のナメシ皮を水につけて絞《しぼ》って、指にくるんでヒョイッヒョイッと虎の斑《ふ》のようにすくってくんです。
見たとこまるで虎の皮のようで、「トラ目」っていうんですが、面白いくらいナラの柾目に似るもんです。これは鹿のナメシ皮を使うのがミソで、ボロで代用出来ないこともありませんが、ボロだと上りが汚くなってこうはいきません。
こっちは「ケヤキ杢目」です。ペインティングカラーをかけて、刷毛で杢目の波輪《なみわ》を寄せただけのもんです。これは塗ってまだ乾かない生乾きの時にいじくるのがコツで、それさえ呑みこんで馴れさえしたら、誰にだって出来る仕事です。
これは「ゴム杢目」で、杢目は消しゴムでかいて刷毛で寄せただけのもんで、こっちは「ラワンのクリヤラッカーの艶消し仕上げ」で、まわりに合わすためにスケッチ式になってます。
講習会で見本に展示すると講習生はびっくりしてますが、なアにやり方を教えれば自分たちでもどうにか出来るんでまたびっくりしてます。
ただ「出来上りがどうもどことなく違って、あたしたちの仕事はスッキリキッチリいきません」って頭をかしげてますが、ハハハ、そいつは六十年のカンとコツで、そこまであたしはどうも出来やしません。
やり方を簡単にしてのみこませたら、あとはその人たちの勉強と楽しみ――ねえ、一生をかけた仕事の面白味ってものは、またそこにあるんじゃありませんかねえ。
一人前の建築塗装職人ってものは、たとえ「トラ」でも「モミジ」でも、キッチリ・スッキリ出来なくっちゃねえ。それは出来ませんじゃ済むもんじゃない。口|幅《はば》ったいことを言うようですが、あたしが死んだら横浜じゃアそういう職人は種切れになるかもしれない――。それであたしもあせって手弁当で講習会を駆け回っているようなわけなんですよ。
――昔は、港にはいってくる船のエンジン場でさえ、まわりの金具――、鉄《かね》と鉄の鋲《びよう》なんぞは、機械《からくり》の固さを柔らげるために、杢目の塗装が施してあったもんですがねえ。
こいつはシナの職人が、シナから船に乗ってハマにつくまでに、船中で仕上げた仕事なんです。だから昔はその技法が町にハンランしてて、ちょいとした職人ならみんなひと通りはそれを心得ていたもんなんですが――、年移り星変り、先輩のうまい人もドッサリ死んで、残るのはあたしみたいなものになっちまいました……。
ハマの昔の職人たち[#「ハマの昔の職人たち」は太字]
――とは言っても、船の仕事はザツなんですよ。昔、横浜の八ツ坂に亜孫《アソン》さんってえ、こオンなに肥ったシナ人がいましてね、この人がドイツの定期船ジャーマン・メールの仕事なんぞを一手に引き受けて大きくやってましたが、土曜に入港して次の土曜の出港までに塗り上げるってえわけですから、企業としては盛大でも、仕事としては難《なん》がないとは言えません。
船の仕事ってえのは大体このデンです。しかし、仕事の代金は半年ずつ会社に貸しときながら、職人にはキチンと日払いでしたから、ハマでのその御威勢はたいしたものでした。
あとは横浜《ここ》では、異人館の仕事があります。北方《きたがた》・元町の職人は異人館のお出入りで、これはまた至極うるさい仕事を手堅く仕上げるんで評判でした。擬《まが》いものなしに、下塗りの果てからイギリス舶来の固ねりの油ペンキの良いものを塗り重ねていくんで、仕上りはマジメな渋いもんです。
いまでもご健在の、たしか明治九年生れっていう草柳四郎吉さんとか、これは亡くなった山田菊次郎、加藤百三、酒井九造、横溝元次郎さんなんて方々は鳴らしたもんです。
けれども辛いのは、単価でおさえられて、その上アク洗いから屋根の渋塗りまで、なんでもやらされて、これ出来ません、って言うことの出来なかった下町の職人です。けれども職人にはその方が勉強になります。
あたしはその下町の出身ですからずいぶん苦労を致しました。
実はあたしはこのハマの生れじゃなくって生《き》ッ粋《すい》の江戸ッ子なんです。
東京は京橋松屋町の三ノ八ってえのがあたしの生れで、今の桜橋ン所です。親父は|うちわ《ヽヽヽ》の製造業で、尋常三年を出た十《とお》の年に、神奈川で八百屋をやっていた伯母の所へ来たんですが、手に職をつけなくっちゃアってんで十四の年に、いまの横浜長者町一丁目の電停|際《ぎわ》、当時の扇町の桜井銀二郎って親方ン所に弟子入りしました。
――当時、明治四十年頃の横浜ってえものは、電話のひいてある店は一軒もないし、刷毛を持たない親方ってえのがせいぜい二十人、弟子と一緒にペンキの滴《しずく》を浴びて働く半親方がその倍ぐらいってえ状態でした。
ですから小僧の使い方なんてえものは今なら警察に連れてかれちまうようなもんで、親方をわるく言うわけじゃアありませんがあたしもその調子でした。これは親方がわるいんじゃなくって時代が悪かったんでしょう。
寒《カン》の冬の真ッ最中でも足袋を買っちゃアくれませんし、真夏の炎天でも冬のモモヒキ・腹掛ってえ有様。小遣《こづか》いももとよりくれやアしませんから、職人の勘定日が待ち遠しい。――ってえのが、勘定日には景気のついた職人衆が、日頃から手伝いをさせてる小僧にゃア十銭、二十銭と心づかいをしてくれたからです。
――職人衆といったって、出がけに造ったペンキを、御前駕籠《ごぜんかご》に入れて、太いロップをかけて天秤《てんびん》で、扇町から久保山抜けて鉄道線路を横切って、エッチラオッチラ保土ケ谷ビールの仕事場まで、途中交替で休み休み担いだ仲間ですからねえ……。
それでも職人衆と一緒の時はまだ良いんですが、一人の時は要《い》るだけのペンキ罐をしばって、弁当箱もくくりつけて、現場についたら手先きの見えるまで日一杯の仕事をさせられて、塀も塗れば屋根も塗る、――帰ったら夜ナベ仕事に杢目の勉強……ってわけですから、骨身にこたえたもんです。
ハア? エエ、当時職人の手間は八十銭から一円十五銭、船は臨時仕事なので五銭高ってえことになってました。職人衆はこの勘定の中からあたしに小遣いをくれたわけなんです。
そして仕事を教えてくれたのも、親方よりはこの職人衆でした。
あたしが夜ナベに勉強して、今でもありがたく思ってる「杢目」の技法を教えてくれたのは、「渋亀さん」ってえ親方の総領弟子で、店に来ていた粂《くめ》さん――高木粂三ってえ五十ぐらいのデップリ肥った職人さんでした。
この人は時々気がおかしくなっちゃア病院に入院してましたが、あたしはまた病院に見舞いに行っちゃア「杢目」のコツを習ったもんです。
気がふれるくらいの人ですから仕事は名人で、ペンキを塗ってもアク洗いをやっても、綺麓で手軽にパパッとやって見事なもんでした。
「|銅 塗《あかがねぬ》り」ってえトタンの台に、銅を葺いたように見せる赤サビ色のボカシの法を習ったのは佐吉さんってえ職人で、これはただ黒でボカスんじゃアなくって黒の中に赤または青や朱を入れてやるんですが、その合わせ方を親切に教えてくれました。
「杢目」も、大工や建具屋が門扉なら門扉を定法に従って付けるんだから、それを調べて杢目を合わせろって厳しく言ってくれたのもこの人でした。
――私は六寸ありますが、佐吉さんは八寸からある大男で、生れつきのギッチョなんですが忙《いそが》しくなると右手も使って両手で塗るという器用な人です。世話焼きになるほどの良い腕でしたが、酒ばっかり呑んでいて、いつでもピイピイしていたのを今でもおかしく思い出します。
「今日様に済まねえ」ナア婆さん[#「「今日様に済まねえ」ナア婆さん」は太字]
十八の秋、腹に据えかねることがあって親方の家を飛び出し、年季の途中だから「今までのムダ飯代百二十円払え」ってえのを、八百屋の伯母がなかにはいって八十円にまけてもらってからは、一本立ちの手間取りで、兵隊もすませて二十六になりました。
一応仕事がうまいなんてえ評判が立ったもんですから、親方にまた呼び戻されてその仲人で女房をもらい――ヘエ、あの婆さんです。それから独立して鶴屋町三丁目の、今の横浜駅西口に店を持ったのが三十歳の紀元節の日、ちょうど関東大震災の年です。
忘れもしない、おろした貯金が三百七十円、買った造作が百十円で、間口二間の家賃は十二円の家でした。
半年でガラガラと来ましたが、さいわいあたしの所は焼け残って一躍親方。店もどうやら繁昌して、それから弟子も十人以上は仕込みましたが、三十二三の頃からは組合の仕事に頭を突っこんでずいぶん駆け回りましたし金も使いました。
婆さんと話してるんですが、今の金にしたらノベにして百万は使ったろうと思います。
昭和十四年には県の組合の組合長になり、戦後は日本塗装工業会の理事だの顧問だのにして頂きましたが、これも、あたしの若い時みたいな苦労を業界の若い人がしないでもすむよう、いくらかお役に立てばとお引き受けしたわけです。
講習会も、あたしがむかしの職人衆から習ったものや、それをもとにして考え工夫したものを、若い人たちが覚えてくれるようにと思って駆け回っているんです。
――こんな道楽の出来るのも、長年家を守ってくれた婆さんのおかげですが、いつも、
「おれが恩を蒙った職人衆へのお返しは、むずかしい仕事を工夫して、やさしく誰にでも簡単に出来るやり方を編み出して、それを隠さず残らず広く伝えることだ。そうでなくっちゃア今日様に済まねえ。だからこの道楽は大目に見てくれ」
って話してるんです。ナア婆さんや。
[#地付き](三十七年四月)
竹に生きる尚月斎
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林尚月斎[#「林尚月斎」は太字] 本名忠之助 明治四十四年品川区武蔵小山に生れた。十五歳で東京の竹芸三羽烏の一人と言われた中島高次郎に弟子入り。
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やがて津田信夫、富本憲吉らに愛され日展にも入選、北斗賞を受賞した。戦後は佐渡の竹芸を指導し、新鮮な「佐渡アクセサリー」を生んだ。「籠とは、狭い面積の中に、いかに多くの竹を使うかということだ」尚月斎。
千葉県山武郡大網町白里小中。
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しぶとい「目黒の筍」の命[#「しぶとい「目黒の筍」の命」は太字]
駅から遠くって気の毒だったな。タップリ二十分はあるからな。ウン。最初の者は誰でも途中でちょっと心細くなるらしいんだ。
小田急「成城学園前」なんて、降《お》りた所は外国の田舎の学園村めいた所で、しゃれた感じなんだが、舗装路をはさんで左右の邸宅、庭園の間を行けども行けどもわが尚月斎《しようげつさい》宅は見えない。そのうち家の造りが英国風や別荘風から百姓家に変って、舗装路が切れて埃道になる……。
みんな心配になってあの四つ辻の煙草屋で聞くらしいんだ。「ああ、あの竹の先生ならまだこの先です」って教えられて、坂道を下って石橋を渡って谷地《やち》に出る。谷地の向う側の道のドン詰りの崖の上にやっとわが家がチンマリ見えてホッとする――、こういうことになってるらしいんだ。
トリスで悪いが、ウイスキーやらないか? もう一杯どうだね、一杯ってことはないよ。強そうじゃないか。固いことを言うね。エ? ああ、おれは昼間でも時々やるよ。好きなんだ。
――でもね、遠かったろうが、途中にところどころ見えた竹林は、良かったろう?
初夏の風が、明るい青竹の幹の間を吹き抜けて行くのは、心の休まる良い景色だね。カラッとしていてしかも落ちついて……。
ウン。あれはみんな筍《たけのこ》を食う孟宗竹だ。この庭のも孟宗だ。この辺の農家で竹を植えだしたのはそんなに古いこっちゃない。昔はみんな桐を植えたんだ。
桐が育った頃に娘が育つ――、イヤ、娘が育った頃に桐が育つって言うべきかな? そいつを切って嫁入りの箪笥を作って持たせてやる――。そうしてたんだ。
それがいつの頃からか桐の代りに竹を植えるようになった。筍を売れば金になる――って教えられたんだが、どっこい買う方が筍の食い方を知らない。そこで売れないので致し方ないから桐の箱を作ってそいつに筍を納めて売ったら、容《い》れ物の桐の箱ほしさにどうやら筍を買うようになった――ってえ昔話があるんだ。
その頃の竹は、目黒から移して植えたんだ。だからこの辺の竹は、みんな目黒の竹の孫、ヒコさ。
「目黒の筍」って名前知ってるかい? ああそのとおり。江戸から明治にかけて「サンマ」ならぬタケノコが目黒の名物で、江戸市中の町人たちが、今で言うピクニック、目黒村へ筍を掘りに行くのを春の行楽にしていた。|いき《ヽヽ》の詰るような江戸の町住いの連中が、年《ねん》にいっぺん、青空の下の竹林の中で、「あっちにあったア、ここにも頭出してる」って笑いさざめいて筍を掘った日は、さぞや心が伸《の》びたことだろうなア。
ところが、この「目黒の筍」も、実は九州鹿児島産なんだ。僕の小学生時代――っていうことは、今から四十数年前、ということになるんだが、学務委員というマア今でいやアPTAの会長みたいなもんがあって、それをやっている山路次郎兵衛という爺さんがいたが、その次郎兵衛さんが四大|節《せつ》の式の日になると学校へやって来て「目黒の筍」の話を必ず一席ブッたもんだ。
というのが、次郎兵衛さんの先祖に当る人が回漕《かいそう》問屋で、寛永年間に薩摩から三田の下《しも》屋敷へ最初に竹を運んだんだそうだ。
それを目黒・荏原《えばら》に植えて広がったのが「目黒の筍」のはじまりだっていうわけさ。
僕の生れたのが今の小山台、そのころ荏原|郡《ごおり》平塚って言ってた所で、その畑つづきにこの人の墓と句碑があったのも、あとでこうして竹でメシを食うようになった何かの因縁かもしれないねえ。
ン? 句碑? あんましうまい句じゃない。おそらく辞世だろうと思うんだが、
櫓《ろ》も棹《さお》も弥陀《みだ》に任せて雪見哉
ってんだ。竹棹を阿弥陀様に任せちまったせいだかどうだか、神にも仏にも見放された悪い戦争のお蔭でか、「目黒の竹」ももう碑文谷《ひもんや》と柿ノ木坂に少し残ってるきりでほとんど無い。焼夷弾でもだいぶん焼けたからなア。
それでも九州産の竹が、こんな庭でも風にそよいでるんだから、地下に網目《あみめ》の根を張るあいつらの命は、なかなかしぶといもんじゃアねえか。
なりたかったのは刀鍛冶[#「なりたかったのは刀鍛冶」は太字]
ン? アア、九州の孟宗はいいのがとれるよ。中にはおヒツになるくらいデカイのもとれるんだ。
竹にゃアまア種類が五百もあるけど、ふつう使うのは二十種ぐらいで、その中で一番多く使うのは苦竹と書いてマダケと読むやつ――。
節が遠いから細工に向くんだ。それも京都の苦竹《まだけ》が良い。
そのほか滋賀県能登川産の苦竹、長野の鳳尾竹《ほうびちく》――、土地でいうマキ竹、小田原の篠竹なんぞといろいろあるが、その作家の好みでそれぞれのものを使うわけだ。
僕は苦竹の白いサラッとした感じが好きで、わざと古びをつけたり漆を塗って黒くしたやつは物ほしげで好きじゃない。
ところが昔は「籠は色つけ半分」といって、「塗らないうちは見せるな」とされたぐらいのもん。こっちはヘソ曲りだし、自分の良いと思うものだけが「良い物」なんだ、ってほうだから、日展初入選の時も、白い竹で、フタのある小さい干菓子《ひがし》器を編んで出した。今でこそ剥《は》がしたまんまで塗らない白い竹の肉を見せた作品の方が多くなったが、あれは僕が最初じゃないかな?
実はその前三回応募して三回落っこって四回目、戦争末期で輸送が駄目になって来たから公募は今年でやめという最後の年さ。今から二十年も前の話、当時は文展っていったっけかな?
可愛がって頂いてた富本憲吉先生がね「林、もう応募するのはやめろ」
って言ってくれたんだが出したんだ。富本先生は国画工芸会に入選した盛器《もりき》を賞めてくれた。それは信州でとれる根曲り竹の、炭焼小屋に置いて煤《すす》けるだけ煤けさせたやつを使って、編み方は細《ほそ》いのと細いのをつないじゃア鱗《うろこ》のように渦巻き上げたもんだった。
エ? ン。僕がこの道に入ったのは十五の年だよ。師匠は東京三羽烏と言われた中島高次郎。この人は親譲りの名人で父親って人は横浜で簾《すだれ》屋をやってたが、横浜病院の定紋《じようもん》を編み方ひとつで浮き出しになってる簾をつくって評判になったほどの人だ。
その子だから仕事はうまい。有名な「雲龍の水盤」なんてものは、底にわだかまる龍が、首をのばして縁《ふち》の雲を越えて水盤の水を呑んでるように見えた。これが竹のひねり方ひとつの技術で表現されてるんだぜ。
昔の花籠は銅《あか》の落しを入れて砂鉢の感じを竹で作ったから、陶物《やきもの》の代りに竹がいく――、その竹をひねって雲龍の表現をしたんだね。
その中島師匠に弟子入りしたんだが、僕は小学生の時には刀鍛冶になりたかったんだ。きっとじいさんの血を引いたんだろう。
じいさんてのは西小山の百姓だったが、大きな松が目当てに「一本松」といえばちょっと知られた大百姓だったせいか、歌・俳諧に凝《こ》る。祭の神楽の面《めん》は彫る、山車《だし》の人形の頭《かしら》は彫るって道楽者だった。
このじいさんが作った山車《だし》の須佐《すさ》之|男《お》の命《みこと》のヤマタの大蛇《おろち》退治は見事なもんだったよ。おっそろしい顔をした命のカシラは自分で彫って、「小山の弥一つァん」って名人から借りて来た衣裳を着せ、命より凄《すご》い顔をして角《つの》の生えた大蛇は胴がワラで作ってあった。
その胴は、ダシの囲いの穴からところどころうねって出没してるんだが、尻《し》ッ尾《ぽ》がわざと作ってないので、かえっていかにも大きく見えて子供心に感心したのを覚えてる。
僕は、八人兄弟の一人なんだが、兄貴は消防主任、伯父は銀行屋なんて中からたった一人だけこんな仕事に進んだのも、きっとこの道楽者の祖父《じい》様の血をひいたんだと思ってるよ。ウイスキーどうだい?
道楽者の証拠には、刀鍛冶になりたかった奴が、師匠の所に二、三年いたら、今度は円タクの運ちゃんになりたくなって来た。
当時の運ちゃんてのはね、ハンチングなんかを小粋《こいき》にかぶって「時代の尖端《せんたん》」を行く「モダン」なもんだったんだよ。何でも三千円出すと運ちゃんになれるって聞いて師匠の家を逃げ出した。
家に帰ってなんとか三千円出してくれって口説《くど》いてたら、師匠の奥さんがやって来て、
「兄《あに》弟子のお前にいなくなられちゃ困っちまうから――」
って拝み倒されてまた帰った。
蒼風さんが買った籠目ザル[#「蒼風さんが買った籠目ザル」は太字]
そうこうしてるうちに平和博覧会ってのがあって、見に行って驚いた。飯塚鳳斎作「文庫」というのに三千円の値がついている。陳列所も何コマか仕切って自分の作品だけ見せている。
もう竹屋の職人じゃない、立派な芸術家だ。ようし、おれも銘を入れられるような作品を作る芸術家になってやろうと発奮したね。
鳳斎って人は、|琅※[#「王+干」unicode7395]《ろうかん》斎の父、いまの小※[#「王+干」unicode7395]斎さんの祖父に当るんだ。はじめ郷里の栃木で養蚕籠《ようさんかご》を編んでたが、霜が降《ふ》ると桑の芽が落ちて籠が売れないこともある。天気に関係ない立派な工芸品を作ろうと上京して仕事を始めたんだ。
のちに宮家にも出入りするようになったが、シルクハットに燕尾服、自動車から降りるとウコンの風呂敷に包んだものを捧げ持っている。
宮家の女中が何様かと思って恐る恐る伺うと、籠屋だったって話が有名だが、その見識《けんしき》は立派なもんだ。
それで、よしくそおれも! と思った僕は、中島師匠の納入先《おたな》の浅野って店へ行って自分で仕事を始めた。京橋の中通り、今のブリヂストンの裏の通りだ。
ここでいろいろ工夫して編んだ作品を店先に置くと、わりあいに評判が良くてドンドン売れる。中には誰の作品だ、なんて聞く人もあるが、浅野は商売だから出入りの者が作ったなんて言やしない。
「新しい編み方だがどこで習ったんだ、それとも京都の人か」
なんて言われても、「エエマア」なんてお茶を濁《にご》して結構良い値で売ってたようだ。
若い頃の勅使河原《てしがわら》蒼風さんも買ってくれたよ。あのひと今でこそ草月流で外国までおし回ってるが、当時は料理屋の花なんかを生けて歩《ある》ってる苦闘時代だった。
僕が、これも竹をいじる浅野のせがれと話をしながら、天皇献上の七草入れふうの、ちょっとツルをつけた小さな籠目ザルみたいなものを編んでたら、三十分ほど見てて編み上がりを待って買ってった。
あのひとは当時から規格に合わない崩したものが好きだったようだね。
尚月斎の号を貰ったのもこの浅野の店でだったんで懐しい。たしかあれは僕の二十五の年、竹もやるしシナまで行って来た人で里尚《りしよう》斎という人が、浅野の二階に花の先生で来たとき、僕の仕事を見てて浅野の店を通じて展覧会でも賞をとってるなんてことも聞き、
「雅号なしのカラ坊主じゃ可哀そうだ」
って言って「尚月斎」という名を呉れたんだ。
それから亡くなった鋳金の津田信夫先生や、富本憲吉先生のひとかたならないご指導を頂いて、まアどうやら、三点しかとらない日展にも入選し、北斗賞をもらったりしてなんとか仕事も出来るようになったが、僕は竹の優美さを生かしている飯塚さんたちの行き方に対して、竹の豪放さを生かして行きたいと思ってるんだ。
細い竹を集めて、平面に並べてくっつける、というんじゃなしに、竹が交差したのが膨《ふく》らんでいくという編み方をしたい。重ねただけじゃなくて、ボッテリと編み上げて行きたい。
佐渡アクセサリーは作品から[#「佐渡アクセサリーは作品から」は太字]
――もっとも、豪放も良いが、二十三年に東横の展覧会に出したやつなんかは、吉田源十郎先生には、
「荒い感じは良いんだが、ちょっと品《ひん》ないね」
なんてチクリとやられるし、お買い上げになった高松宮も、
「部屋に置くと、どうも感じが荒すぎて――」
と言って光輪閣へ回しちゃったそうだ。
ウン、枠はパイプで雲龍紙を張り、中に人が入って蛍光燈を装置する幅をとってそのまま立つものなんだ。
抽象模様なんだが濤《なみ》を表現したつもりで、竹の交差のおもしろさを狙《ねら》って厚くガッチリした交差のスキから灯りが見える――という作品なんだが……。
エ? 作品が見たい? そいじゃまずこの「主婦の友」の口絵になってる「掛柵《かけさく》A・B」ってのを見てくれよ。これはね、新しい時代の、新しい建築にマッチするものを何とか作りたいと思ってやってみたんだ。
台は住友の朱のデコラで、唐紙二枚ぶんある大物なんだ。模様は幾何学的な曲線と直線を使って近代風な室内に合うように考えた。
ほかに、アメリカあたりで家具に鉄を使うのがはやってることも考えて、盛り器に鉄の脚《あし》をつけるのも試みてみた。手や足をつけると、竹だけだと小細工をしなくちゃもたないが、鉄だともちも良いし鋭い急角度な曲げ方も出来るし細いものでも充分支えてくれるから便利だ。
鉄と竹の組み合わせは盛り器といわず家具といわず、今後もっとドシドシ活用されて良いね。
それからこっちの部屋へおいで。これが去年日展に出した「作品F」っていうんだが、まア抽象ふうに風を表現したもんだ。台はご覧のとおりの紺地の麻布で、まる一本の苦竹《まだけ》を所々焼いてから割って端を広げた。黒い所が焼いてアマ皮だけを剥《は》いだ所、白いのは苦竹を剥《む》いたままの色だ。
こいつをカラ拭きすると古い魚籠《びく》のように飴色になってなんとも言えない。
竹の割り方は唐傘の骨のような「マサ」という割り方で、こう割ると曲線が面白く描けるんだ。これは盛り上げに工夫してみたんだが、鉄の枠と足がついてるから、洋室の間仕切りとかスクリーンのようなものにしたら良いと思う。
この投げ入れの花籠? これはアメリカで日本館を作った時に、庭のまわりに二尺角の台を点々と置いて、その上にのせるために、飯塚さんと二人で選ばれた時の作品だよ。中から編みはじめてグルッとひっくり返したのがミソさ。
この部屋のをご覧、これは五年前に日展に出した「春動《しゆんどう》」っていう作品だ。大作だ? ウン。朱のデコラの台に苦竹《まだけ》の白で花編みをしたのがびっしり並んでるだろ? こっちの格子は百五十年たった煤竹を使った。このモチーフは、雪解けの手の切れるように冷たい水が流れている沢に、さわれば崩れそうに花が咲き乱れはじめている――っていう、春のはじめの冷たさと豊かさ、爽やかで華やかな春の幻想を、竹とデコラでどこまで表現出来るかやってみたんだよ。
この花編みの一輪ずつの花はね、実は「佐渡アクセサリー」として、おみやげ品になってあすこで売られてるんだよ。クリップやネックレス、ブローチ、かんざしにしてね。
僕は頼まれて終戦後十年間ほどあすこの指導をしたんだがね、「佐渡は四十九里波の上」で、国中《くになか》平野で百姓でもするほかは特別な産業もなくって、せいぜい女は烏賊《いか》裂きに行くぐらい。ところが竹林が二千町歩もあって、佐渡味噌の味噌|漉《こ》しザルを作ってるんだ。
そこで手提げだの文庫だのを作らしたらこれが当ってね、小木《おぎ》では五十人ぐらいの会社があちこちにずいぶん出来て烏賊裂きに出て行った「島の娘」が坐って良い手間を取るようになった。
これには組合の岡田さんなんかもずいぶん尽力してくれたんだが、どうも角《かく》物だけでそれから抜けられない。そこで頼まれるままにこの「春動」の花を「佐渡アクセサリー」として売り出したら、なかなか売れ行きが良いそうで僕も喜んでるんだ。
娘さんが編んで娘さんが買って、その若い髪や若い胸に、僕の「春動」の花一輪ずつが飾られているのを想像すると、ガラになくほのかな良い気持になって、佐渡の波にでも揺られてるような気がするよ。ハハハ。サ、ウイスキー、一杯いこう!
[#地付き](三十七年五月)
家具木工の二郎さん
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
林二郎[#「林二郎」は太字] 明治二十六年銀座に生れる。父は旅館を営業していたが道具漁りが道楽。相続した兄は家具骨董の「フタバ商店」を始めて豪華な外国家具を蒐集した。その家に育って美校から栖鳳塾に転じ、さらに家具木工と三転した。生活工芸集団、工精会に属し文展にも入選した。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ファンに志賀直戟、勅使河原蒼風、市川崑などという芸術家が多いのは誠実な人柄が作品ににじんでいるからだろう。
東京都世田谷区用賀町。
[#ここで字下げ終わり]
二郎作品礼讃[#「二郎作品礼讃」は太字]
草月流、勅使河原《てしがわら》蒼風氏の文章である。
林二郎さんの作品がいいものであるなどとはいまさらいうのもへんなほどですが、私は二郎さんの作品を実にいいとおもっているのです。
二郎さんの作品で私の愛し、たのしんでいるのはおもに家具ですが、その芸術味と実用味と和洋新旧を混然とさせたような美しい味というものは、ちょっと他に類がないだろうと思って居ます。
次は、作家、志賀直哉氏の文章である。
林二郎さんは五六年隣り合はせに住んだ事のある人で、今でも時々訪ねてくれる。趣味の広い人柄な人物で、それは作品にもよく現はれてゐる。私は幾つか二郎さんの作品を身辺で使ってゐるが、仕事が健実で厭きる事がない。大体二郎さんは素人から趣味でこういふ仕事に入った人で、最初の頃は外国物のイミテーションが多かったが、近頃は段々自分のものになって来た。私は未だ今度の展覧会の作品は見てゐないが、見るのを楽しみにしてゐる。
当代のすぐれた芸術家二人が、二郎さんの洋家具作品展に寄せたすいせんの言葉である。
その林二郎さんを、東京世田谷用賀のお宅に訪ねた。雨の日だったが、通された部屋では、長い卓の上で小箱に丸刀や突きノミで模様を彫っている若いお嬢さん、静かな中年の婦人、髪の薄いサラリーマン風の男性がいた。二郎さんの講習生である。
八年前の、区役所から頼まれた「成人学校」の木工講習会からひき続き自宅で講習会をひらいており、会員は現在三十名いる。その人たちが交互に玉川電車で用賀まで通って来る。
その会員で、大学教授夫人など、京都へ転勤した人が中心になって、二十六名の婦人が京都で「青彫会」という会を結成した。それからでももう三年になる。
その第一回の作品展が、四条の大丸デパートで開催されることになり、テーブル、椅子、棚、鏡台、壁掛、花入れなど数十点が出品されるので、明日は京都へ出発するというその晩である。
スエーデンやノールウェーや、フランス、イギリスなど、各国の木工民芸品や陶器が所せまいまでに並べられた飾り棚を背にして、二郎さんはいろいろと語ってくれた。
六十をとっくに越したのに、その声と表情は若々しい。初夏の、爽やかな雨が降り続ける宵である。
宮様が心配、銀座一|凝《こ》った店[#「宮様が心配、銀座一凝った店」は太字]
銀座の、尾張町の「月ケ瀬」という甘いもの屋をご存じでしょう? あの隣に、西洋料理店で「コック・ドール」という店があります。ちょうどあすこで私は生れました。
私の家は、じじいの代《だい》からあすこに住んで、銀座の草わけの一人なんです。じいさんは左治衛《さじえ》と申しまして福井藩の侍でしたが、御一新《ごいつしん》で、東京で商売でもやろうと、同藩で知人だった岡倉覚右衛門さんを頼って上京して下宿しました。そうです。例の天心さんのお父さんです。
すると、これも同藩で、大層出世なすっている由利公正さんが、
「どうだ左治衛、下宿してるよりレンガに住め」
とおっしゃいましてね――。「レンガ」っていうのは銀座のことでして、当時には珍しい文明開化の煉瓦づくりの町並を銀座に作られたのがこの由利さんですが、当時はダアレもそんな所には入りたがりゃしません。五カ条の御誓文の原文を書き、兌換券《だかんけん》の発行に功績のあった由利さんも、文明開化の銀座作りにはご苦労なすったようです。
だから口説《くど》き落されたじじいが銀座に住みますと、馬車で前をお通りになる度《たび》に必ず、
「左治衛いるかア」
と大声で声をかけてお寄りになったそうです。逃げ出したら大変だと思ってらしたんでしょう。
由利さんのご紹介で、山内さんだの田安さんなんていう昔の殿様方に茶を教えに行っていたじじいも茶人ですが、それの養子になった父がまた道楽者で、林家という旅館をやってましたが、一日に一度は必ず人力車を呼んで道具屋回りをしないと三度の御飯がおいしくないという人――。
いくらか目が利《き》くかして、山陽、竹田《ちくでん》、木米《もくべい》なんかを掘り出しちゃア喜んでいたようです。
けれども関東大震災、大正十二年に旅館をやめ、兄が代を継いで「フタバ商店」という店をはじめました。
店では服飾、骨董《こつとう》、家具なんかを扱いましたが、兄は後に店を潰《つぶ》してしまったくらいの男ですから気が大きくて、良いと言われるものは金にあかしてドシドシ外国から取り寄せていました。
銀座のド真ン中の土一升金一升の土地三百二十坪の店に、ギッシリ舶来家具の良いものをストックして眠らしておいたんですからもったいない話です。
御趣味のある秩父宮さんが店を見たいって言われたんですが、当時のことで、個人の店に宮様がお成りになるわけにはゆきません。「ペルシャ展」ということでお成りを願いましたが、
「こんなにストックを置いたら大変だろう」
と宮様が心配して下さったほどです。ハハハ、兄貴の大らかさは宮様以上っていうわけです。
ですから昭和九年には店を人手に渡すようなことになってしまいましたが、お蔭で私は外国の良いものに埋まって暮しましたので大変トクを致しました。
たとえば、兄が取りました英国の家具店のピアソン・ページなどという店のものはたいしたもんでした。いかにも英国人気質というものが隅々にまでにじんでいて、歴史的で、堅実で、安定感があるんです。
またワーリングギローなんという店は今はなくなりましたが、秩父丸の船室はここの家具でした。
ご覧下さい、目録だけでもこんな大冊のものを出してるんですよ。家具でも金物でも、十六世紀ごろの古色蒼然たるものから揃えていて、これがないというものはありませんでした。
そのほかジャコビアン、チュードル、ワインゲールなどという店の品の趣味の良さは、ある点では日本の茶の渋さなんかとも通じます。
英国人は栗が好きで向うの趣味人はよく家具に使いますが、日本でも沢栗の炉縁《ろぶち》は「佗《わ》び」のもの、とされています。
後年私が木戸、井上、伊藤公爵などの御用を仰せつかったのもこういう点からだろうと思っております。
どうも私には、フランスのルイ風の金箔のデコデコや、腰かけるとつぶれそうな猫足なんというのは好きになれませんし、ドイツのは理屈っぽすぎて性に合いません。まア、こんな舶来品の中で暮していたせいか、昭和六年出版の安藤更生著「銀座|細見《さいけん》」には、
フタバ商店は、銀座で一番凝った洋雑貨を売る店。この息子さん二郎君は木工品の名手で、椅子や小箱などをよく作る。
なんて書かれましたが、大震災の、店をはじめた年には私はもう三十でした。
震えの来た刀《とう》の味[#「震えの来た刀の味」は太字]
はい、私は最初少しばかり上野の美校へ通いましたが、すぐ京都の竹内栖鳳塾に入門致しました。
先生の湯河原の画室は、私が設計したんですが、「勝手に画筆をノミに持ち変えたりして、不肖の弟子で申しわけありません」とお詫びを申し上げると、先生は例のおっとりした京都弁で、ニコニコなさりながら、
「人間、何をやっても結構だス」
と、図面をとても喜んで下さいました。
七十七の喜寿のお祝いが来年という御老齢のことでもあり、地所が天野屋の敷地の傾斜地という条件も考えて、ゆるうい階段をグウルグウルとつけたり、障子はガラスで明るくとった所などがお気に召したようでした。
栖鳳塾に入門した最初の七年は京都で暮しましたが、そのうち五年いたのは知恩院の末寺で真源院と申しました。隣が玄広院で、「海潮音」で有名な上田敏先生が住んでいらっしゃいました。
知恩院の門前からトロトロトロとくだった所で、よく鷹が来てとまる高い松の木がすぐ前にある二階の窓から、先生が、肱をついて外を見ていらっしゃるのを度々お見受けしました。
中肉の痩形の、茶っぽいような着物を着て、寺三軒に囲まれた前の空地を、くたびれたような顔で見おろしていらっしゃるのを、何がおもしろいんだろう、と若い私はヘンに気になったもんです。
私が日本画から木彫、木工へ移ったのは、実は私を栖鳳塾へ紹介して下さった方のせいです。と申しますのは、その人がある時私を佐藤という木版師の所へ連れていってくれたんですが、その時見せられた山陽の扇面が病《や》みつきの元となりました。
それは、当時の金で一万円という値がついた山陽の「吉野回顧《よしのかいこ》」の扇面を掘り出したその方が、うれしさのあまり家を普請《ふしん》したくらいの素晴しい書で、木版に刷らせて知人に配ったんですが、その彫りが、また何ともいえず素晴しいんです。
重畳たる春山、別に天あり、花開き花落つ、とこしなえに依然たり、曾《か》つて護る南朝五十年
という文句だったと思いますが、その最後の「曾護南朝五十年」の一行、特に「年」の字のタテ棒をビューッとひきおろした筆勢を、刀《とう》の冴えで彫り上げている味は震えが来るくらいでした。
その時以来、刀《とう》で木を彫るよろこびを覚えまして、はじめは木版をやってましたが段々に木彫へ移っていったわけです。
人間に似る「木」、雑木様サマ[#「人間に似る「木」、雑木様サマ」は太字]
決定的に木彫・木工へ移ったのは、関東大震災で銀座の家を焼け出された両親と福井の郷里へひっこんでからで、遊んでいるよりは――と手すさびで始めた椅子が皮切りです。はい、材は楢《なら》がありませんので朴《ほお》と桂《かつら》と橡《とち》なんかを使いました。
さて木工をやってみますと、木の味というものが何とも言えず面白い。いま申しました木は、材木屋なんかは雑木《ぞうき》と言っておりますが、私どもには材木屋たちが大切にする杉や檜なんかこそ雑木なんです。
なぜなら、杉檜は弱い木で、ホゾが緩《ゆる》みますんで組み合わせて持たすしかありません。
ところが、いわゆる「雑木」は頑丈なもんで、そんなヤワなところがありませんし、「見てくれ」はちょいと見《み》には悪くても、よくよく味わえばまた特別の味があります。
――どこか人間に似ている所もあるような気がするじゃありませんか、ハハハ。
けれども、卓の板や箱物によく使った橡《とち》ばっかりは、タテに縮む性質を持っていまして閉口しました。土地では輪切りにした中をくり披いて臼のようになったやつをそのまま筧《かけい》の水受けに使っているんですが、そんな大木が恐縮してタテに縮む性質があるのは、気の良い大男を見ているようでこっけいに思ったこともあります。
また福井にはシデという木がありまして、彫る時に刀《とう》の味の冴える、堅い良い木です。これは、家具に使うと外人も喜ぶ堅実な味のある木で、色は白くてなかなか折れません。無理に折れば竹みたいにパリパリといいます。
これはそのあとズッと使ってますが、「雑木」ですから薪《まき》の値段で、私にとっては「雑木」様サマです。
私の作ったものは、銀座の店でも売りましたが、恐縮したことがあります。それは洋画の山本|鼎《かなえ》先生が、私の彫りました小箱を二つお買い下さいまして、
「これは実にいいチェコだ」
と雑誌にお書きになったことで、それは民芸風の簡単な素人彫りを、チェコスロバキヤとご覧になってしまったんでしょう。――尤も、私はチェコの民芸品も好きでよく見ておりました。
志賀さんと28面の掛鏡[#「志賀さんと28面の掛鏡」は太字]
福井に五年いまして、帰京して世田ケ谷新町に工場と家を建てましたが、この隣が志賀直哉先生のお宅で、実はその家は私がおやじのために設計して建てた家なんです。
先生は、絶対に嘘をつかないえらい人ですが、また、私のおやじが、
「志賀さんは噺家《はなしか》になっても食ってかれる」
なんて申してましたくらい面白い方です。はい、家具や椅子をだいぶ作らして頂きました。
「柳の民芸館の椅子がおもしろいからあんなのを」
とおっしゃるんで、柳宗悦先生から、そのフランスの籐張りの掛けぐあいの良い小さい椅子を拝借してコピーして差し上げたこともあります。
先生は誰かお客が見えるとすぐ私の宅へ御案内して見えるんですが、滝井孝作さんの時など、
「滝井君のお父さんも木工の人だから」
なんて面白そうに御紹介下さいました。
先生は友人知人の結婚や新築祝いには私の掛鏡を贈ることになさっているので、ごひいきの朝潮関の結婚、里見※[#「弓+享」unicode5f34]先生の新築祝いなどの時も含めて、もう二十八面を作らせて頂きました。
はい、高さ一尺四寸、幅一尺五分の鏡を紐《ひも》型の簡素な縁《ふち》で囲んだものです。
はア? はア。――代表的な私の仕事と申しましてもどれもロクなものはありませんが、思い出に残る品というようなら多少はございます。
戦争中に四回やった個展に出品した作品とか、林尚月斎、前田南斎さんとつくっていた生活工芸集団に出したもの――。はい、これは朝日新聞の後援で銀座松坂屋でやりました。
続いて工精会に出したジャコビアン風の壁掛棚、同サイド・テーブルなどというものですが、いずれも私の好きな英国風仕上げの家具でした。
はア? 工精会は会長に岡田三郎助先生、副会長が大隅為三先生で、メンバーは、松坂屋で木工をやっていた吉本さんや、梶田恵さん、長く米国に住んで華族の流れを汲むという渡辺明さんなど四人です。
和田夏十さんの薔薇の一枝[#「和田夏十さんの薔薇の一枝」は太字]
そうそ、第五回の文展に出した「亜字式|手匣《てばこ》」というのがあります。小さいものですが、「亜」の字のように角《かど》が四つ出張っている所をどう組むか、それが蓋《ふた》をかぶせてどうピッシリ噛むか、の面白さもあるんです。
蓋《ふた》をグルグル回して、どの角《かど》と合わせても透き間なく軽くおさまるのがミソなんですが、そんな所を審査員が見てくれましたろうかねえ……。
戦争中のことなんで、文展に入選しないと材料の配給をくれないというんで仕方なく出したんです。
はい、材料はシオジに青貝の螺鈿《らでん》をして、縁《ふち》に桑とツゲの固い細い線を回しました。
――このシオジは、伊藤公爵が主馬頭《しゆめのかみ》で北海道を視察された時のおみやげで、さしわたし七尺もある大木の輪切りにした一番良い所を使いました。千年もたったろうかと思われる老木で、皮の縁に皺が寄って、波のようなモクになっているすばらしいもんでした。
二度目に文展に出したのは、もう少し大きいのを作りましたが、樺太へ渡った兄が、終戦の時、日本人名簿を入れてロシアの係官に提出したら、とっても欲《ほ》しがってモスクワへ持ってってしまったそうです。
けれども、なんといっても忘れられないのは、「終戦日記」を書かれた木戸幸一侯爵邸の、明治天皇も行幸されたというお部屋の、一室全部の家具をまとめたことでしょう。
部屋は格《ごう》天井に西陣織りの装飾が施してあろうという豪壮なものですから、シナ式を取り入れた英国のチッペンデール風《ふう》をさらに日本的にこなして、あまり曲線など使わないように気を配りました。
品物は小さいテーブルに椅子六脚、肱掛椅子とテーブルとソファ、飾り棚の組みなどです。
思えば、私は、志賀先生もおっしゃっていらっしゃるように、コピーや写しから入りましたが、年もとりましたし、これからは今まで学んだものを土台に、自分のものを強く打ち出した作品をつくってゆきたいと思います。
そしてその心がけは、ほんとにその家具を使う方の身になって、タップリこまかい心づかいが籠められたらと思っています。
この前「和光《わこう》」で展覧会をしました時、映画監督の市川崑さんが、木製の回転椅子、「ビューロー」、奥さんの鏡台を買って下さったんですが、奥さんから私の家内に薔薇の花を届けて下さいました。
ところが、家内が、
「マア、この薔薇、みんな枝の刺《とげ》がていねいに鋏で摘《つ》んであるわ!」
って驚いてましたから、
「当り前さ、あの方は和田|夏十《なつと》って良い脚本をお書きになる方だ、他人にものを贈る時にはそのくらいの心づかいはなさるさ」
と申しましたが、私は感動しました。持った時、生《い》ける時、相手が剌で手を刺《さ》さぬよう、その心づかいも薔薇にこめて贈っていらっしゃるんです。
テーブルでも椅子でも薔薇の刺を摘む心をこめて作ったら、どんなに長く御愛用願えるでしょう。
[#地付き](三十七年六月)
国会演壇を彫った人
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村松喜市[#「村松喜市」は太字] 明治二十九年銀座木挽町の芸妓置屋に生れる。十三で日本彫りの中村孝正に弟子入り。二十歳前に三越から名指しで見積りに呼ばれるようになり二十三歳彫工会に入選。
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以来皇室・デパート・客船などの木彫の仕事をしたが、なんと言っても国会議事堂の演壇、議長席、周囲の木彫を五十人の職人を指揮してやった事が一番記憶に深いという。
東京都品川区東大井。
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明治は遠くなりにけり[#「明治は遠くなりにけり」は太字]
あたしの生れた家は、歌舞伎座のある木挽《こびき》町の芸妓屋《おきや》でしてね、小さい時から姐《ねえ》さんがたの紅白粉の匂いの中で育ちました。――と申しましても、今年でマルの六十六、日露戦争の凱旋門が、新橋から京橋へかけてかかったのを、おふくろに手をひかれて見に行った――ってんですから、「明治は遠くなりにけり」ふるいふるゥいお話です。
師匠に弟子入りしたのが数えで十三。十三の小僧が赤坂の山王様へ願《がん》掛けを致しまして、
「ひとより仕事が上達しますよう、ズバ抜けた人間になれますよう」
って手を合わせたんですから、キットこまっちゃくれた子供でしたろ。
それでも、焼芋が一銭で四本――、その丸焼きのホカホカでかじかむ指先をぬくめたのを覚えてるくらいですから、芸妓屋《おきや》の坊っちゃんから木彫屋の小僧になりたてというものは、やっぱり辛《つら》くてベソをかいたもんです。
はい。入ってすぐの小遣いってものは一金二十銭也。それも一日と十五日の二回に分けてくれるんです。その中からチリ紙も買う、頭も刈るというわけです。
――たしか床屋が三銭で、タマに買って頬っペタの落ちる思いのした大福餅が一個五厘でした。
半銭――五厘なんてカネが通用してた時代ですが、月二十銭じゃアいくら小僧でも辛うござんした。けれども年《ねん》あけの職人が一人前で七十銭というんじゃアどうにも文句の言いようがありません。おれも早く七十銭とりたいもんだと思ったもんです。
はい。師匠は中村孝正と申しまして、日本彫りでは当時有名な人、姉のつれあいが普請《ふしん》をした時に彫ってくれた欄間《らんま》はいまだに残ってますが、図|柄《がら》は唐子《からこ》が花車《だし》を曳いている所です。
これはクスの材に丸彫りしたもので、九尺が二枚という大物。牡丹も唐子も立体彫りですから大変でしたろう。平らな所に浮き彫りするだけでも容易じゃないやつを、前後左右どこから見てもおかしくないように透《すか》しの丸彫りですから余程腕が良くなくっちゃア出来ることじゃアありません。
手間七十銭を取るまでは……[#「手間七十銭を取るまでは……」は太字]
小僧が弟子入りして最初にやらされる仕事ってものア、「ペーパー磨き」です。親方がやった仕事のあとを、サンド・ペーパーで丹念に磨く――、それだけのことですが、撞球台《たまだい》の足なんぞを飽きずに磨かされるというものは、まことにシンキくさいもので、早く仕事らしい仕事をしたいと思うわけです。
「磨きもの」がどうやら出来るようになると今度は「荒取《あらど》り」。たとえばいまの撞球台の足なんぞを五寸角のチョーナでヘズらされるんです。ところがこいつ、馴れない仕事ですから、材を削らずにてめえの足を削ったりしちまいまして、全くイヤな仕事です。あたしも向う脛《ずね》をやっちまいまして、二針だが三針だか縫いましたが、ホラ、これがそのあとです。「荒取り」が終ると「ゴマがら突き」です。「ゴマがら」ってのは、テーブルの丸足なんぞに、タテに何本も飾り筋が流れてるでしょう? あれを突きノミでまっすぐしゃくり出して彫るんです。筋の流れを彫るだけならなんのことはあるまいとお思いかもしれませんが、ちょっと厄介《やつかい》なもんです。
あき間《ま》のせまい――ということは、筋の数が多い、ってことですが、その「コマ返し」ってえものなんざア今の若い人にゃア突けないんじゃないでしょうか。ちょっとノミが滑っても逆身《さかみ》が削《そ》げてオシャカですからね。
しかもいまは朴《ほお》なんかの柔らかい雑木ですが、昔は桜の堅木ですから一層突きにくかったもんです。
こんな修業をひと通り終えて、さて主人の彫ったものの唐草なんぞの荒彫りをきれいに「仕上げ」する役がふられるようになると「小僧|上《あが》り」で、あとは職人並みの仕事をやらされることになります。そいつの調べはアカンサスの葉ッパを彫らせてみりゃア分るということになってまして、例のフランス風の飾り葉ッパのアカンサス、あいつを彫らしてみるんです。
それがチャンとフランス風のクセを生かして彫れたら一人前の職人ということで手間が七十銭出るわけです。
そしてこの頃になって、ようやく道具もひと通り使えるようになるんです。道具? エエ、これも良い仕事となるとキリも限りもありゃしません。「ツラ彫り」だけでなしに「彫りコナシ」までやればどうしても一人で百本ぐらいは使います。
ちょっとノミを買っても五百円はしますから、ひと通り揃えたとなると五万円ぐらいもかかります。
そしてそのほかに、コマカイ所の曲線を合わすために小道具がいりますし、ほんとうに使いやすいものを持つためにはどうしても自分で作らなくちゃなりません。「丸刀」「マガリ」「外丸《そとまる》」「小刀」――これも左刃と右刃があります。毛筋の先ほどの細いやつなど、カネを買って来てヤスリでこしらえ、ヤキを入れて鍛冶屋とおんなしに作るんです。
注文が来れば、どんなにこまかいものでも「これ出来ません」とは言えません。ですからそれに合わせて道具を作るんですが、今の若い人たちは、道具を作るというとふしぎな顔をするんです。だから「そんな御注文は無理ですよ」ってなことを平気で言えるんじゃないでしょうかね。
マア、頼むお客さんの方でも、そんなこまかいものとか、厚みが五寸ぐらいもあろうアカンサスなんてものは頼む方もなくなりましたから、そんな腕もいらず従って道具もいらずということになったんでしょう。
はい、昔は、反《そ》らないように檜の本木のマントルピースに豪華なルイ風の彫り物を施したものなんてのをザラに見ることが出来たんですがねえ……。
時代の好みも変ったんでしょうが、好みが変ったからって職人の腕が落ちていいってわけのもンじゃありません。
仕事に凝《こ》るから道具に凝る、道具に凝るから自分で作る、作った道具で思いのままの仕事をする時の気分の良さなんてもなア、職人だけの知ってる喜びなんですがねえ……。
大阪の「アッサリ・アッサリ」[#「大阪の「アッサリ・アッサリ」」は太字]
願《がん》をかけた山王様の御利益《ごりやく》かどうか、お蔭であたしは十七、八の頃からは一手に店の見積りをさせてもらうようになってました。
――ってえのが、師匠の店は三越さんのお出入りだったんですが、一度見積り損ないをしましてね、あたしが見積り直して代りに行きましたら、「君の方がうまい」ってんで、それから名指しであたしにばかり電話がかかって来るようになったんです。
あたしの見積りのやり方は、向うから十分の一の図面をもらってくると、そいつを尺で計《はか》って、その彫刻代として職人の手間は幾ら主人の儲《もう》けはこう、と基準に掛けて出すもんですから、ハッキリしてて三越さんでも気持が良かったんでしょう。今なら良心的な店ならどこでもやってるもんですが、当時は丼《どんぶり》勘定のゾロッペーなやり方が多かったもんです。
しかも主人の儲けは幾らとピシンときめて、そいつが月々当時の金で三百円ぐらいになるように見積ったんですから、師匠はその金を芝銀行に預けに行く時はごきげんで、
「年《ねん》が明けたら華客《とくい》を渡すからな」
と言い言いしてくれました。年《ねん》が明けるころには、あたしは美校の山本瑞雲先生のおすすめで上野へ出品したり、彫工会へ出したりしてました。
彫工会ってのは清浦奎吾伯爵を総裁に戴いて、全国の彫刻屋の弟子が出品したものを審査して入賞をきめると同時に即売もしたんですが、これはとても良い励みになりました。
私も三越さんから寄りかかりまでアカンサスで彫り上げた小椅子を三脚出品して一等賞をもらいましたが、あれは確か二十二の年だったと思います。
こういう会を、ほんとうは今もやると良いんですが、今は呑み会じゃなくっちゃ集りませんからねえ……。
そして三十一歳、師匠の言う華客分《おとくいわ》けの気持もあって、三越さんが大阪支店を作った時に、その普請《ふしん》が始まった時から大阪へ参りました。
何がさて初めての大阪で、「てやんでべらんめ」の東京から、「なんやあほやな」の関西弁の中へ入ったんですから、へんな力コブの入れようのないミョーな気分でした。
それでもこっちじゃ家々で糠味噌につけるお新香を、向うじゃ、
「アッサリ、アッサリ!」
って呼び売りに来て、食べてみるとなるほどアッサリした味のやつがひと握りで二銭、暮しは気楽でござんした。
|紅 丸《くれないまる》の鏡のバラ彫り[#「紅 丸の鏡のバラ彫り」は太字]
けれども仕事はどうも関西は雑《ざつ》ですね。なんでも安物でおっつけてっちゃって、出来は多少はどうあろうと安い方がエエという流儀。だから東京|下《くだ》りの職人は「上物師《じようものし》」ってことで手間賃も別なんです。
大阪へ行ってすぐ、関西へお成りンなった摂政《せつしよう》宮殿下――今の陛下の椅子を三越さんからの注文で作りました。
三越出入りの職人が五十人もいる中であたしに指名があったのは、東京で華族会館や一ツ橋の如水会館なんかの椅子テーブルなぞの彫刻の仕事をしたのを知ったからだろうと思いますが、
「あいつ来る早々良い仕事取りよって」
ってわけで仲間からだいぶ恨まれました。
陛下の椅子は、小椅子が三脚、肱かけが二本で、上にリボン風の飾りをつけた月桂樹の彫りでした。
急ぎの仕事だってんで、これを一週間で彫り上げて、たしか二百三十円もらったはずです。
それからこないだ新聞で読んで懐しかったのは、総理大臣の池田さんが、演説で別府に行った時「|紅 丸《くれないまる》に乗った」って出てましたが、あの一等のソシアル・ホールの鏡も、この頃のあたしの仕事です。
鏡は四尺幅で高さが六尺、材は桜の堅木でしたが、これに薔薇の花を彫りました。
――何十年も昔の仕事ですが、それが青い波の上の船にのって、今も変らずに航海してるかと思いますと、とても懐しい気がします。あの鏡にも時代がついてさぞや渋い味が出て来たことでしょう。
そんなこんなで三越さんからは可愛がって頂いて、働いちゃ預け、働いちゃア預けした金が、たまりたまって当時の金で四千円とは我ながらよく稼いだもんですが、そいつを預けておいたのが十五銀行。こいつがペチャンコに潰れて、預けた金はパア。これにはあたしもガックリ来ましたね。
十五銀行は華族銀行だから絶対大丈夫だと思っていたのが、松方さんがガスに投資してそれが失敗したとかで、何のことだかあたしには良く分りませんでしたが、預けた四千円の返ってこないだけは確かだと分ったもんですから、もう働くのもなにもかもイヤになりまして、東京へ帰って来ちまいました。
国会乱闘はごかんべん[#「国会乱闘はごかんべん」は太字]
なつかしのお江戸へ帰って大阪《かみがた》七年の垢を洗い落してそうこうしているうち、師匠の所から見積りをしてくれと話がありました。
なんでも国会議事堂というドエライ建物が建つんで、その議場の正面と左右の彫刻を、清水組から話があったってんです。
それで演壇と議長席、その左右の四十尺の幅四尺というのを見積って出したら師匠の所に仕事が来ました。
あの演壇は桜でしてね、腰が柔らかいカーブを描いて後へ廻っているんです。その正面へ、盛り花と、アカンサスと果物を彫ったわけなんですが、全国民の目が集まるその一点に、それにふさわしいように彫らねばならないと思うと、ずいぶん緊張も致しましたが、豊かに豊かに誠実に――、そう祈るような気持で彫り続けました。
演壇に向って左右の壁には唐草を彫りましたが、四十尺もあると、下と上では彫り方が違います。目八分で見たのと、上の方を見上げた時では彫りの深さを変えなくちゃなりません。上へいくほど深く彫らないと、目の錯覚で平均して見えないんです。
それで、下の方の唐草は、彫りの深さは五分でも上は二寸彫るということになります。
材は全部国産の欅《けやき》で彫りにくいんですが、そんなことを言っちゃいられません。しかもこんな大きいものを一人でやるわけにはいきませんし、五十人からの職人を指図して仕事を進めてるわけですから、そこで私は考えました。
よーし、電気ドリルを使ってやろうとね。深さを電気ドリルできめて穴をあけといて、ここの唐草はこの深さまで彫れという具合にね。
職人はその穴の深さに従って、そこまで落してから彫りはじめる、ってわけです。カン所の急所急所の仕事はあたしがしましたが、なにしろ五十人の、それぞれ選ばれただけあって仕事はうまいがクセも強いという職人たちを指図して、あの大きな仕事を仕上げるのは、なかなかひとには分って貰えない苦労もあったもんです。
ですからいま、特に「主権在民」ってな御時世になっちまって、議会の写真がやたらにニュース映画に出て来ますから度々自分の仕事に町の映画館のスクリーンやら、茶の間のテレビでお目にかかるわけですが、乱闘の場面なんかになりますと、ほんとにハラハラ致しますよ。
ア、あんなにあばれてあの演壇に傷がつかねえかな!――なんてヘンテコな見方ばっかりしてるもんですから、家の連中に笑われましてね……。
――それにしても、多数党が強引におし切って乱闘のモトを作ったり、少数党がスグ演壇に駈け上ったり、そんなことなしにうまくいかないもんですかねえ。
どうも、演壇の彫りが可愛いからって所から出たこんな床屋《とこや》政談なんぞに、耳を傾けてくれるような議員さんたちじゃなさそうですがね、ハハハ。
いろんなことをしましたが[#「いろんなことをしましたが」は太字]
ところでこのへんであたしの恥をお話ししますとね、大阪から帰って来ましたあと、あたしは大井で芸妓屋《おきや》をはじめたんですよ。
おやじが「松葉屋」でしたからあたしもそいつを名乗って「松葉屋」二代目。女の子を五人ばかり置いてしばらく、そっちの仕事をしました。
――ってえのが、大阪へ連れてった前の家内ってのは新橋の芸妓で、死なれて今の家内と結婚したわけですが、挙句に熱海へ料理屋を出したり、――職人として仕事を離れて恥しい話ですが、十五銀行がつぶれて永年の苦労が水の泡ンなっちゃったそのやけくそが、底深い所で響いてたんじゃないでしょうかねえ。
ですけど、熱海に料理屋を出して、食堂兼すし屋を開いて「喜楽」と名づけたんですが、一向に気楽なことはありゃしません。
ちょうどその頃から日支事変が始まりまして、客がサッパリ来なくなっちまいました。こっちは一年で店仕舞いして、七人の雇い人にもヒマを出すと、今度は電燈の糸ハンダをこしらえる仕事をはじめました。
電燈の尻には、どれもポツンとハンダがくっついているでしょう? あいつの元になる長い糸ハンダを丸く細く流して納めるんですが、あんなものにもサッと流す時のうまいヘタのコツがありましてね、そのコツをうれしがってサッサッと糸ハンダの流しを続けているうちに、兄弟子の弟子に当る男から、立太子式の彫刻を頼むって話が来て、これが三越さんから納める仕事だったもんですから、ここに三越さんとまた十五年ぶりでヨリが戻ることになりました。
職人は、いろんなことに手を出してはみても、結局はまた元の仕事に戻るもんですねえ。そしてそれこそがほんとだと自分もひとも思うんですから、いくらムホンやヤケを起してみても、どうなるもんでもありません。
悲しいといやア悲しいみたいなもんですが、これがほんとだと悟っちまえば、そこにまた根の深い喜びも湧いて来るんです。
あたしは中途で寄り道をしたお蔭で、かえって職人のほんとうの喜びを知ったような気がして仕方がありません。こいつはコジツケでしょうかねえ……。
吝《けち》ンぼの貯金の様に彫るんです[#「吝ンぼの貯金の様に彫るんです」は太字]
どうやらやっと本職に戻ってヤレヤレと思ったら、今度はあの大東亜戦争でしょう? あたしは徴用されて「赤とんぼ」の羽つくりをさせられました。
最初は浅田製作所ってえのの検査官というんで、馬の背に振り分けにつけて物を運ぶ「ダサイ箱」作りの検査をさせられてたんですが、すぐ羽田の飛行場に回されて木製飛行機の羽作りをさせられることになりました。
練習機の、あのまっ赤に塗った「赤とんぼ」ってやつは、簡単に見えてめんどうなもんです。
あたしが受け持ったのは羽なんですが、檜の材で骨組みを作って、そいつを布で巻いてまとめるんです。羽には微妙なカーブもありますし端ッコにいくに従って薄くなってますし、どの骨をどう組むかをずいぶん苦心しました。
出来上りをノリ付けして七トンの風を当てて試験するんですが、骨組みがまずかったりノリ付けに落ちがあると、まるで凧《たこ》みたいにブーンブーン唸って閉口したもんです。
骨組みの設計指導はあたし一人で、あとは女工をつかって作ったものを、検査官は、情容赦《なさけようしや》もなく精密な定規をあてて「ここが高い、あすこが低い」ってんですからゴウの煮える話でした。
それでも設計にエラク頭をしぼった結果、どうやら三機だけ作って納めたら終戦。
――なんのことはありません。あたしにとって大東亜戦争は、馬の荷物箱つくりと、「赤とんぼ」の羽つくりで終っちゃいました。
――それで戦後は、師匠の中村の二代目から、「是非来てくれ」と声をかけられて、手伝いにいってからでももう十年の余になります。和光さんはじめ、鳩居堂、大丸、伊勢丹、高島屋、西武、丸物なんてお店へ納める仕事は骨が折れますが、いずれも良い仕事の御注文なだけにやり甲斐《がい》もあります。
桑の目録盆の「青海波」なんてものは、一日やって三寸角を彫り上げるのがやっとというような仕事です。それでもそんな仕事をする人間が少なくなりましたから、幾らかは意味があるだろうと思って仕事を続けてます。
はア? はい。青海波はコンパスで割りましてね、一分一厘の狂いがあっても納まりません。クリ小刀で、ていねいにていねいに彫ってくわけですが、堅木は朴だの桂だのというようなわけには参りませんから、桑のモクだの紅葉だの、そんな時にはケチン坊が貯金するように少しずつ少しずつ彫り進めていくわけです。
けれどもそれがまた仕事の微妙なたのしみで、その時の職人の心持ちってもなアこいつは物をつくる職人にしか分りゃアしますまい。
――思えば十三で山王様に大それた願をかけてから五十三年、途中で寄り道も致しましたが、まずまず家具木彫の仕事に一生を賭けて来て、いま自分の曲りくねりの多い一生をふりかえってみますと自分のことのせいですか、職人ってのは憐れなもんだなア――って気が致します。けれどもそいつは情けない愚痴やそんなもんじゃありません。そのあと、「だけど仕事の楽しみは、この腕と道具が知ってらア」としみじみ左手の小指のノミダコを眺めるんです。
[#地付き](三十七年七月)
ギヤマンの虹を大衆へ
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岩田藤七[#「岩田藤七」は太字] 明治二十四年、東京日本橋の呉服問屋に生れる。大手町の商工中学では先輩に岡本一平、同級に邦枝完二がいた。岡田三郎助の勧めで美校工芸科に入学、ガラス工芸に一生を賭けることになった。それまで夏だけのものであったガラスを「冬も使える色ガラス」としてその質とデザインを高め、大衆化を計ったことにより戦後芸術院会員に推された。岩田ガラス会長。
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東京都新宿区弁天町。
藤七が墨《すみ》流しなる玻璃を吹き
世の新しくなれる夏かな[#地付き]与謝野晶子
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作る側にならなくちゃ[#「作る側にならなくちゃ」は太字]
僕は、六つ七つから職方《しよくかた》まわりをしてたからね、その時分からなんとなく「物を作る職人」というものに興味をもってたね。
今年七十一だから、僕の六つ七つといえば明治の三十二、三年頃だが、僕の家は日本橋通三丁目で呉服屋をやっててね、先祖が美濃《みの》の出だというんで屋号は丸《まる》の中に「美」の字を書いた丸美屋《まるみや》。明治の十八年頃から京呉服も扱って伊勢丹と取り引きがあったり、ほてい屋なんかは格が下だってんで相手にしなかったり、なかなかの景気だったんだよ。
ところが見てると、浴衣や長襦袢《ながじゆばん》の柄の選定で、どうも親父《おやじ》の注文どおりに上がらないらしくって文句を言ってることがよくある。
相手は「雨が降りまして」とか何とか言いわけしてるが、仕方がないんで結局納まっちまう。
子供心にも、なかに立って注文出す側じゃなくって、自分で作らなくっちゃ駄目だナ――と思ったもんさ。
そうこうするうち親父が若死にして母親があとを継いでやったが、これが大福帳式な商売なんで、何人も番頭に使い込みされちまった。
親族会議の結果、商売はやめてみんな株にかえて、その上がりで食いつないだ方が堅いということになって店は閉《し》めたんだが、京都の方の店は残しといたもんだから時々西陣の職人の所へ行ったりして、ここでも「職人の生活」というものに興味を持たされたね。「売るだけじゃなくって作らなきゃ――」というのが、あとあと僕の生涯に深い影響を与えたようだ。
ああ「ギヤマンの魅力」よ[#「ああ「ギヤマンの魅力」よ」は太字]
それから中学校へ上ったんだが、この中学たるや、「カンマーシャル・エンド・テクニカル・スクール」と称して、明治のその頃に徽章《きしよう》はTとCとの組み合わせ、というんだから変った学校だったよ。
ああ、大手町の電車通りにあった「商工中学」だが、日本橋・京橋|界隈《かいわい》の商家の子弟はみんなここへ入ったんだ。
絵描きになった岡本一平や高間惣七なんて先輩がいるかと思うと、同級生には材本屋の伜《せがれ》、米相場師の伜、武部信策っていう当時有名だったバクチ打ちの大親分の伜なんかがいた。
例の「お伝地獄」の作者邦枝完二も同級生でね、中学三年頃から二人で吉原へ通《かよ》ったもんさ。あいつの母親は吉原のお茶屋の娘だから、あいつはその頃からいっぱしの通《つう》を気取ってたね。
まア、いまのアプレってやつなんだろうが、同級に十人ぐらいのガチ勉の物凄い秀才どもがいたんで、それへのレジスタンスでわざとグレてたんだよ、いま思うと――。
けれど、この時、邦枝なんかと一緒に遊び回って養った叛骨《はんこつ》と耽美《たんび》精神がやっぱりあとのガラスの仕事に響いてると思う。
僕は中学の頃は、書は小山|雲潭《うんたん》先生についてたし、絵は日本画をやってたんだが、卒業と同時に洋画をやろうと決心して白馬会に入ったら、岡田三郎助先生が、
「君、絵をやる奴はうんといるが工芸の世界はまだまだだ、ぜひ工芸をやれ」
っておっしゃるもんだから、また志を変えて美校の工芸科へ入ったわけだ。
僕が美校に入った頃は、ちょうど「明星」や「スバル」の全盛期で、折から若々しい人道派の「白樺」も勃興して来ていたが、僕はたちまち耽美派の虜《とりこ》になっちまった。
白秋、杢《もく》太郎、「南蛮寺門前」「ギヤマン」「ビードロ」なんて言葉を聞いただけで酔っぱらったようになっちまって、自分が、腰から下は獣で、足には蹄が生えて笛を吹く、半神半獣の牧羊神《パン》にでもなったつもりさ。
浮世絵だの、錦絵、ビードロ、ギヤマン漁《あさ》りに、芝の村幸だとか、佐佐木茂索さんの兄さんの店、田村俊子の旦那の松魚の古道具屋なんかに入りびたって、最後にとうとう「ギヤマンの魅力」に羽交《はが》い締めにされちまった。
南蛮渡来の、怪しい魅力と光のきらめきをもつギヤマンが、夢幻と光芒《こうぼう》で僕の若い魂を握りしめてしまったんだね。
そして岡田先生の、
「君、ガラスをやってみないか。絵はもうつまらんよ。それに誰でも描けるってわけじゃない」
っていう言葉が僕の一生を定めてしまったんだ。僕は先生の御紹介で旭硝子の山田さんや、今村さんにお目にかかった――。
「火の商売」どころか「水商売」[#「「火の商売」どころか「水商売」」は太字]
山田さんってのは山田三次郎さんで、今村さんは今村銀行の今村繁三さんだが、二人とも岩崎さんの息のかかった人だよね。
それで岩崎さんは、山田さんには板ガラス、今村さんには色ガラスや切子、タンブラーなんかのガラス工芸をやらしたんだが、山田さんの旭硝子はみるみる何十億の大会社にのし上っちまったのに今村さんの方は五年後に見事に失敗さ。
今村さんって方は、例の「エロシェンコの像」の名作を残して夭折《ようせつ》した天才画家中村|彜《つね》のパトロンだったほど芸術にも理解の深い人だったんだが、それまで「ガラス屋は長続きしない」ってえジンクスがあって、また事実一人もガラス工芸で成功した人はなかったんだよ。
――というのが、当時ガラス工芸は夏一方の商売だったし、工芸品として家庭へ入る所まで行ってなかった。しかも作る過程にはロスが非常に出る。陶器だってガラスほどは割れやアしない。
そのうえ、木工でも鉄でも、作りすぎたとなったら材料を買わなきゃいいんだが、ガラスは材料がいつでも溶けてなきゃ仕事にならないんだから、作り出したら作っちまわなくっちゃならない。
しかも作ったものがカマの加減で全部駄目ンなっちまうことだってある。
ガラスは火の商売と思うかも知れないけど、ほんとのところは水商売さ。
ま、僕は、この今村さんの橘《たちばな》ガラスってのが元の読売新聞社の先ン所にあったから、そこへ通って壺井さんという技師から親切に調合なんかを教えて貰った。
僕が美校で学んだことはね、どうも一人でコツコツやる職人の道のような気がして仕方がないんだ。
ところが、ガラス工芸なんてものは、いわば綜合芸術だからねえ。カマタキとフキヤとサマシヤと、三者の共同製作で、問題はその組織をどううまく構成して良い作品をまとめ上げるかにあるんだ。
最初は十人ぐらいの工場から始めたんだよ。どうせ水商売だ。遺産のあるうちになんとか良い仕事をしてやろう、と思ってね。
ところがどっこい、連中は仲間に入れてくれないんだ。「学生上りのガラス屋」「素人ガラス屋」って鼻でわらうんだよ。
まア僕も良くないんだ。当時は、明治初年にイギリスから入って来たオーソドックスなガラス工芸がガンと根を張っていた時代で、せいぜい「切子」ぐらいしかない時に、
「ガラスが曲っちゃなぜいけないんだ。曲ったっていいじゃないか」
なんて言うし、
「色は紫で、厚味はこう」なんてキマリがあるのに、
「紫に赤が入ったっていいじゃアないか、厚さは薄くたって構わない。かえって面白い昧が出る。ムラ? あああったっていいよ、変っててなかなかいい」
なんて、説明もなしにカッ飛ばすもんだから、連中は頭に上げちゃってね、「飛んでもねえアプレがはいって来やがった」「生意気だ」ってことになったらしい。
ガラス屋って商売はね、危険率の多い水商売で、それがどうやらサークルを作って暮してるなかに、勝手なことを言う奴が入って来たんじゃ全体の迷惑というもんだし、それぞれ職人根性、名人気質でこり固まってる連中が多いから、カンの虫にさわったんだろうね。
冬でも使える色ガラス![#「冬でも使える色ガラス!」は太字]
仲間に入れてくれないぐらい一向平気な方だから、そんなことは何でもないんだが、うちの工場へ来る職人にもその職人根性があって、「なんのこんな素人」ってんで意地悪されたのには閉口したよ。
特に困るのがカマ焚《た》きで、ガラスのカマは陶器みたいに自分でやれないし、ひと晩中焚きづめにするから、どうしても二《ふた》ア人《り》交代でやらなくっちゃならないんだが、そのうちの一人が、カマに小さな穴をあけて帰っちまう。煉瓦一個はずされても、もうカマは駄目ンなっちまうんだ。それが他愛ないんだ。翌朝、
「やっぱし、あたしでなくっちゃ駄目でしょう、ヘヘヘ」
そいつが言いたいだけなんだね。殺してやりたいと思ったね。ハハハ。
だから、ガラス工芸ってのは、ほんとは、内緒だけど大変儲かる商売なんだが、こんなところでみんな食われっちまうんだ。
それからこれもやってみて分ったんだが、物凄く問屋に食われるんだ。
業態《ぎようたい》を見ていると、夏はベラ棒に忙しいんだが、秋風が立ってくると商売はパッタリ。八月の末には夜逃げをするガラス屋がよくあったもんだ。
こいつは燃料の石炭屋に追っかけられるんだ。なんしろ毎日焚かなくっちゃカマが駄目ンなっちまうんだから、燃料代は否応《いやおう》ないんだ。そいで秋口になると需要がピタリと止まるんだから、ガラス屋はなんとしてでも換金しなきゃならない。
そこで問屋に平身低頭して工賃なしの目方で買ってもらう。問屋は倉庫を四つも五つも持っていて、買い叩いた氷水コップだとか、金魚鉢、ラムネ瓶、ニッキや薄荷水《はつかすい》の小瓶を山積みしていて、翌年六月になるとドッと出す――。
――こんな具合で、肥るのは問屋だけだったんだよ。
そこで僕は考えた。これは何とかして、秋から冬にも使えるガラスにしなくっちゃならない。それには今までのように白一色じゃなくって、色ガラスだ。カットグラスみたいに二重の手間をかけずに、色さえいれれば冬でも家庭で使ってくれるはずだ。
材質も陶器に近いようなものまでドシドシ作らなくっちゃ駄目だ。種類も、電気の笠やランプぐらいじゃなく、陶器に負けぬ立派な各種の工芸品を――。
はしなくも、僕の頭に甦《よみがえ》ったのが「ギヤマンの魅力」だ。あの時代にあれだけのものが作られ、わざわざ輸入され、珍重されて来たんだ。ヨシ!
というわけで、それからいろいろな試みをしてみて、どうやらボツボツ「岩田ガラス」なんてことも言われるようになった。
この間には、勅使河原蒼風《てしがわらそうふう》さんの温い協力なんかもあった。松屋で「ガラスと花器の展覧会」をやったんだが、この会期をわざと晩秋十月にするとか、透《す》き通る花器の中で生けられた枝の根の見える効果をわざと狙《ねら》ったり、ずいぶん常識破りの展覧会だった。
絞《しぼ》り手《で》の高坏《たかつき》は天女の指紋[#「絞り手の高坏は天女の指紋」は太字]
けれども、なんといっても世評を呼んだのは高島屋の「新興ガラス器展」だったろうね。
浜町に不問庵山澄力蔵という大きな茶道具屋があって、三井、馬越、益田なんていう大所へ出入りしてたが、どう気に入ったか僕を後援してくれて、お蔭で上流階級へ作品を紹介してくれるし、昭和十年には高島屋で第三回の「新興ガラス器展」を開催するまでになったんだ。
しかも面白いことに、それまで、デパートの工芸品は美術部にあったものを、この展覧会は、当時はバケツと箒とタワシぐらいしか扱っていなかった家庭用品部の主催ということにして貰ったんだ。
いわば今日の生活工芸運動のハシリだよね。どこでもよそのデパートじゃアやってなかったから、みんなびっくりしたわけだ。
その上、推薦人として名前を連《つら》ねて下すった方が、正木直彦、岡部長景、岡田三郎助、和田三造、佐藤春夫、辻永、桜井忠温、山澄不問庵、勅使河原蒼風、中村芝鶴という各界の諸名士で、これに与謝野晶子さんが、
絞り手の玻璃の高つきいわばこれ
天女の指のうす紅の跡
という歌ともう一首。堀口大学さんが、「玻璃の蜃気楼《ミラアジ》」という詩を一篇添えて下すったんだから豪華|絢爛《けんらん》たるもんさ。
この時の出品作は、
変り吹雪手 大鉢
絞り手   蓋付大壺
飛雲手   大鉢
墨流し   蓋付大壺
手付    高|坏《つき》鉢、花生
耳付    花生
両手付   壺
なんというもんだが、色を存分に使ったものや、李朝《りちよう》や宋窯《そうよう》、青磁の陶器の味を狙ったり、民芸風の感じを試みたり、いろいろな道楽をしてみたんだ。
幸い盛会で、会場には高松宮や李王さんなんかも見えて買って下さった。
考えてみれば、僕は最初、大衆からではなく上の階級から仕事を認められたわけだが、工芸の本流は大衆の生活にあるという考えは動かないから、戦争前ごろからだんだんそちらへ力をそそぎ始めたんだ。
戦後、特にこの四、五年ガラス器が家庭で夏冬なく使われ、模様も色も絵も、思い切った抽象風のものを誰も怪しまなくなったのを見ると、うたた今昔《こんじやく》の感という奴におそわれるねえ。
四、五年前高崎に出来たある工場や大阪のガラス屋なんかが「岩田のガラスさえ真似てれば商売になるから」と、もっぱら真似たつもりの作品を作ってるのは、あいつは閉口だよ。第一、全く能《のう》のない話じゃないか。
ガラスは生きて動いている[#「ガラスは生きて動いている」は太字]
ン。工場は最初十人で始めたんだが、今は事務員を合わすと百人いる。工場が四百五十坪で倉庫が二百坪、工員住宅なんかで計約千坪だが、これは失敗した。
実は最初、規模は小さくてもいいから一年中仕事をしたいと思って小規模におさえて作ったのが間違いで、今じゃア狭くって困ってる。
そのうえ伜の久利《ひさとし》とは、経営やなんか事ごとに意見が違うんで度々モンチャクだ。僕は丼勘定で、突ッかけ草履で荷出しも手伝う、という方だが、あいつは慶応を出た事務員を使って伝票で番号ふってやってる。
そして言うことにゃア、
「おやじは古くて職人で、これからは合理主義じゃなくっちゃ駄目」
なんだそうだ。
何を言いやがる、というわけさ。あいつにはまだガラスの本性が掴《つか》めぬから、少し苦労させてやれ、ムダして詰らんものを新しがって作ってるが、しばらく勉強だ、放っといてやれ、こう思ってなんにも言わずに見てるのさ。僕が伜に言いたいと思ってる事を言葉にして言うと、まアこういう事になる――、
「職人がどうした。短腹《たんぱら》がなぜいかん。大体、ガラス屋ってものはね、無鉄砲じゃないと駄目なんだぞ。端的で、勝負の早い仕事だからな、ガラスは生きて動いてるんだ。そこをギュッと掴まえられるようでなくっちゃ駄目なんだ。失敗しても諦《あきら》めがいいくらいじゃないと向かないんだ。
チョイチョイこまかい胸算用をするようなミミッチイのは向きじゃないね。だから昔のガラス屋の親方ってのは、みんなバクチがうまかったもんだ」
――ヤ、これはヘンな話になっちまったが、うちの工場の経営に話を戻せば、順風満帆という時ばかりじゃない。何度も「コレハ駄目カナ?」と思ったことだってあるよ。戦後にだってあるよ。
それをまア、どうやら僕一代は続きそうだと思ったら、僕の若い時みたいなアプレの伜が出来て、「おやじは古い、おれが新しい仕事をする」なんて、妙な作品を作りはじめたから、これはことによると二代続くかもしれない。
工芸でもなんでも、物は一代なんて気短な物指《ものさ》しじゃ計《はか》れない。良いものを作るにはどうしても二代三代かかるようだねえ。
幸い伜が営業に力を入れてくれたおかげで経営も順調だし、新宿の直売所とデパートと地方発送で、作品は全部問屋を頼らずに、子供の頃の夢を果して自立自営だ。あとは仕事に打ち込んで良い作品を作るだけさ。まだまだ伜なんかに負けてたまるもんか。
やりたいことは一杯[#「やりたいことは一杯」は太字]
今やってるのはね、まず古代の埴輪《はにわ》の味を出した小さいもんだ。これ見てごらん、たのしいだろう。鎌倉の美術館から持って来い持って来いってやかましいんだが、まだ手許《てもと》に置いて時々眺めてるんだ。
それからこっちに寝てる花瓶は、こいつは起きないんだ。花を生けるなら寝たまま生けて貰おうってぶしょうな花瓶だ。ハハハ。正倉院の御物《ぎよぶつ》なんかにある古代ガラスの味が出したかったんだよ。ああ、まだ未発表の作品だ。
あれはデカイだろう? 花を生けることなんかどうでも良いんだ。ガラスの固まりだけで見せてやろうというわけさ。出来るだけ彫刻に近づいてやろうという試みなんだ。
あとはね、僕は銀器をやってみたいんだ。今の安っぽい真鍮《しんちゆう》にゃア興味がないが、いかにも銀器らしい渋い味を持ったものと、ガラスを組み合わせたら面白い仕事が出来ると思うんだよ。
このぶどうの鉢を見てごらん。この周《まわ》りの銀のぶどうは名工が一心こめて彫れば良い。そしてそいつを型で抜いてガラスの鉢にかぶせてフチをおさえりゃ大量生産出来るじゃないか。
戦後の日展でも美校の教え方でも、それが工業的にやれるようには考えない。みんな名人が夕ッタ一人でコツコツ内職するみたいな仕事ぶりだし出来上りだ。
ところが、こういう芸術家先生をおいて伝統工芸の方を見ると、かえってこっちの方がズッと組織をもって仕事をしてる。浜田さんでも、小森さんでも、久留米|絣《がすり》の人達でも、友禅、小紋はもとよりだ。日展の染色部門を見たって、組織的じゃない個人の仕事だからローケツ染しか出来やしないじゃないか。織物をもってくと、龍村《たつむら》のように蹴られて妙な所へおしやられちゃう。
どうしてもこれからは、高い個人的な技術と組織を結びつけることと、一ばん高い芸術を大衆化し普及するにはどうしたら良いか、そいつを考えなくっちゃ駄目だ。こいつはガラス工芸の世界でもおんなじさ。そして、僕が出来なきゃ、きっと息子がやってくれるだろうと、実は思っている。
[#地付き](三十七年八月)
飾り職最後の人
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樋口金正[#「樋口金正」は太字] 明治四十年長野県諏訪の農家に生れ、十六歳から千葉の飾り師森田義風に弟子入り。昭和六年二十八歳で独立して東京下谷に家を構えた。以来この道ひと筋、十軒だった同業が他に一、二となったがタガネは捨てぬと言う。芸大六角紫水氏に愛され、各展覧会出品の工芸家も自作の飾り部分は樋口さんのお世話になることが多いが、勿論氏の名前は出ないし氏の作品としては残らない。
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東京都杉並区阿佐ケ谷北。
[#ここで字下げ終わり]
悪い戦争です[#「悪い戦争です」は太字]
……よくいらっしゃいました。樋口金正です。……ハイ。駅が近いもんですから、風の加減で、こんな晩には駅のマイクの声が聞えるんです。……やっぱり省線で阿佐ヶ谷まで? ハアそうですか――。
イイエ、申し上げるようなことはなんにもありません。……飾《かざ》り職なんて仕事は、もう駄目なんです。東京にだって、あたくしのほかには一人か二人いるきりで、それも、やっぱりはかばかしくないようです。ハイ、どんな人か、わたくしもよく存じません。
……どちらからあたくしをお聞きになって……? そうですか。イエ、芸大の六角先生は、お仕事をたくさんさせて頂いてるってわけじゃアありません。ナアニ、名人だなんて、そんなことはございません。
……ほかにいない、というだけなんです。もう駄目です。飾り屋も、あたくしで最後でしょう。
いらなくなっちまったんですよ。飾り屋なんてものは……。食えないんです、だいいち……。みんな転業しちまったのも無理はありません。
ハア? ハア。……運の良い人は工場へはいって、経験を生かして金具の仕事をしたり、建築金物を作ったりしていますが、ケロリサッパリと全然別の仕事になっちまったり、勤め人になっちまった人もおりますよ……。
……悪い戦争です。焼野原の、家もない所へ道具を飾るったって飾りようがないでしょう? やっと落ちついて家もドンドン建つようになったら、今度は住む人間が変っちまいました。趣味のあった人はみんなもうあの世です……。
客がなくなれば、作り手もなくなるのが道理で……、あたくしのようなのだけが細々とやってるわけです……。
ハイ。飾り職の仕事って申しますと、香盒《こうごう》のフクリン――というのはスズ口《ぐち》のことですが、そんなものや宝石箱の合い口――合わせ目ですね、そこへ銀や赤銅を細ォく叩いて延ばしたやつをかぶせる仕事なら、良い唐紙《からかみ》の把《と》ッ手、飾り棚のフチ、屏風《びようぶ》の角の金具、お茶につかう蒔絵の茶箱――なんていうものを細工するんです。
そのほか、食えないんで、時々は指輪だのブローチだのの仕事もしますが、これはイヤでイヤで仕方がないんです。食えさえしたら、なろうことなら、ほんとの仕事だけをしたいですねえ……。
……ほんとの仕事、なんてご大層に言ったところで、作家先生がお作りになった宝石箱や蒔絵の、ほんの部分の仕事をさせて頂くだけですから、作品としては名前も出ませんし、作品も手元に置いとけず、右から左ですからいまお目にかけたくってもなんにもありません……。
ハイ、国宝の修理も……[#「ハイ、国宝の修理も……」は太字]
あたくしのものなんぞより、それより、これをごらんください。立派なもんでしょう。これが型です。この型によってあたくしたちは、コチコチ、銀・銅を叩いて仕事をするので、これはこれで立派な専門家なんです。
これを彫ったのは岡野さんっていう方ですが、空襲で行方不明になっちまってもう型の彫れる人は一人もいなくなっちまいました。
ハア、浅草の三筋町に住んでいて、五十がらみの人でしたが、あすこらは空襲がひどかったですからねえ……。
こんな三寸ばかりの細いものですが、どうです見事でしょう。ハイ、これは地彫り又は肉彫りと言って、これが松唐草、こっちが七子《ななこ》っていうんです。
七子は、こんなに細かい目の一つずつをタガネで打つんですよ。ふつうの腕じゃア重なっちまって目がつぶれちゃうんです。
いまでもお神輿《みこし》なんかの飾りに使ってはいますが、あんなチャチなのとは違ってこれは本物です。
ハア。宝石|箪笥《だんす》の扉の金物だとか、箱だとカドなんぞに使うんですね。宮内省に納める品の、たとえば書棚の飾りなんかには、こういういろいろの型のなかから選んで、凝ったものを打って使います。
昔の、机がわりの文台とか、その上にのる硯箱、そのなかの銀の水滴――水差しですね、それとか、小刀から、する墨をはさむものまでに、凝った金具を使った時代でなくちゃ、こんなものはできません。
……あたくしですか? ハア……、宮内省の仕事もさせて頂きましたが、ナアニ、たいしたものはやってません。
ェ? 美智子さんの? ええ、ああいう上《うえ》つ方《がた》の御婚礼にはいろいろと凝った仕事をするんですが、あたくしなんぞは申し上げるようなものはやってません。
……そうですねえ、なんでも美智子さんの手筥《てばこ》だそうでしたが、一尺四方ぐらいの塗りの筥に、フチを銀で飾って、紋の環を銀で叩いたものを五個作ったのを覚えてます。
そうそ、短刀の箱の金物の紐環《ひもかん》を「菊座環」でこしらえましたっけ。……どうも、あたくしたちの仕事はチッポケなもので――。
……あとは、申し上げるようなものはないですね。……ハア……。
……博物館の修理の仕事で、「曼陀羅《まんだら》」の一部分が無くなってしまったというのを、作ったことがありましたっけ……。
時代は奈良で、京都のものだとかって聞きましたが、あたくしのした仕事っていうのは、二寸角ぐらいの洋箔を、一分五厘厚ぐらいに叩いて延ばしただけのなんの変哲もない仕事でした。
ただ、見本とそっくりに作るというのが苦労なだけで、それだけです。エエ、なんでも、四尺四方ぐらいの板に足を立てて、それに取りつける一部なんだそうですが……。
ハイ、国宝だそうです。ハア? イエ、ほかには国宝の修理なんてあんまりやったことはありません。だいいち、あれもこれも、その修理に行ってらっしゃる方から仕事がくるんで、あたくしのやってるものが何かよくわからないことが多いんです。
……そうですねえ。ほかにと言えば、そんなのでは、会津だかのお神輿というのがありました……。地方の博物館から知ってる方が注文をとってきて、「いっしょに仕事をしてくれ」っていうんでやったんですが、あれもたしか重要文化財とかなんとかいってましたが……。
坐りつづけた四十年[#「坐りつづけた四十年」は太字]
渋茶ですが、いかがですか? こんな菓子でお口に合いましたらどうぞ……。
今夜は、冷えますですねえ――。
ハア。金物を扱う仕事なんで、冬は辛うござんすねえ。
……ハイ、道具といったってこれだけです。これを「おし木」と申しますが、この机みたいなおし木に向って一日坐ってるわけです……。
材は、欅《けやき》か桜を使います。これは欅です。さア、幅一尺五寸の長さが三尺もありましょうか。
このまんなかにカスガイで留めてある「当て板」または「スリ板」というやつに地金を当てがって、ヤスリで磨いたりタガネで刻んだりするわけです。
ちょうどこの「おし木」の左右を支えている足のような小引出しに、細かいものがはいっています。ハア一番上がキリタガネ、コンパス、定規、二番目からがヤスリです。大ヤスリ、小ヤスリと、七十本ぐらいもありましょうか。指輪の仕事だけする人は十本ぐらいでやってますが、あたくしのは手の込んだ仕事だもんですから、「八インチ」「六インチ」「四インチ」それから「幅広《はばひろ》」なんて特別のも使います。
こんな道具も、昔はちゃんと職人がいて、店の名や銘がはいっていたもんですが、いまはもう全部機械できで、良いも悪いもありゃしません。昔はヘンな道具を使ってたら、どやされちゃったもんですがねえ。
――こっちの反対側の引出しにはタガネがはいってます。これは「丸タガネ」「角タガネ」「小タガネ」「矢坊主」なんてものです。ハイ、「矢坊主」っていうのは、地金を中から外へ打ちだすときに使うんです。
そのほか、ヤットコ、角トコ、口ぼそ、ピンセット、――ご覧になってもおもしろいもんじゃアありません。
ハ? 木鉢? ああこれは「おし木」の下の膝の前に置いて、地金の粉や屑を削り落したのを受けるもんです。菅笠ほどもある大きいもんでしょう?
……こいつとも三十年のつき合いですよ。みて下さいスッカリ時代がついちまって古ぼけやがって……。あたくしは今年五十五ですが、こいつ同様さぞかし古ぼけたことでしょうねえ。ハハハ……。
ア、そいつは定盤《じょうばん》っていうんです。そいつの上ですってみると、品物が平らにできたかどうかわかる仕掛けになってるんです。
むずかしいのは金ヅチの使い方でしてねえ。地金を叩いてまっすぐ平らに延ばすというだけのことが、そいつがなかなかできないもんなんですよ。
金ヅチが、平らにおりてくれないんです。地金は紙のように延ばすと反ったり曲ったりするし、厚い薄いができるし、それをうまく金ヅチが使えて、目をつぶってても手を叩かないようになるまでには、そりゃア年季がいるんです……。
……ハア、あたくしがこの道にはいったのは十六です……。
親父は長野県の諏訪《すわ》の百姓でしてね。商売っ気のある男だったもんですから、百姓の傍ら刃物の店なんかをだしてましたが、千葉に行商にでたときあたくしの師匠になった森田義風と知り合いになって、その縁であたくしが年季奉公をすることになったんです。
侍師匠と霜焼け小僧[#「侍師匠と霜焼け小僧」は太字]
この師匠がたいした人でしてねえ――。あたくしが十六で小僧にはいったときは、まだ二十二の若さでもうりっぱに一人前で師匠と呼ばれる仕事をしてたんですからねえ。
まア、名人|気質《かたぎ》っていうのはああいう人を言うんでしょう。蔵前にいたこれも有名な榊原っていう大師匠のお仕込みを受けた人で、これができない、ということのない人でした。
商人からの仕事もすれば作家先生からの仕事もする。蒔絵師さんの仕事、絵描きさんの額の金物、したがって美術学校の仕事をして、校長の正木先生なんかには、ずいぶんごひいきになったようです。
三越の隣の有名な木屋さんのお出入りもしてましたし、宮内省からもときどき仕事が出ていました。
蒔絵師で有名だったある人に頼まれてやった献上品の書棚なんかは、あれだけのものはちょっとありません。
「シブイチ」というつくりで、銀とクルミ銅を四分六にまぜた仕事ですが、まったく良い仕事でした。
……どう良いかって――、さア、口じゃアちょっと言えませんね。どんなぐあいに――ってとにかく良いんです……。
えらい人でした。外出するときはいつも袴をチャンとはいて、さむらいみたいな人でした。
……ところが、師匠は弓が好きでしてね。仕事は、月の三分の一するだけ、あとは弓場通いです。しまいには、弓道五段ぐらいになって、あとでは下谷に矢場をひらいて、弓の先生になっちまいました……。
……年は六つしかちがわないのに、片方は師匠で袴をはいてでるのに、あたくしは小僧でお仕着せの筒袖に前かけ――、腕のちがいというものは仕方のないもんです。
イエイエあなた、三年ぐらいじゃまだ使い走りです。兵隊検査までは半人前で、はじめの二、三年なんてものは仕事を覚えるどころの段じゃありません……。
使い走りから拭き掃除、ちょうどそのころ生れたばかりの師匠の長男の子守りまで、テンテコテンテコ休むひまなんぞありゃしません。
……ですけど、それが当時の年季奉公で、誰でもやったことですし当り前なんです。
それでもあたくしのあとからはいった小僧の三人が三人まで、やめて暇をとって帰ってしまったのは、ひとつはこの仕事というものがシンキくさくって、なんとなく先に見込みのなさそうな気がしたからでしょうか。
――千葉市は風のひどいところでしてねえ、霜焼けで手がはれて夜が寝られず、行商で来たついでに親父がそれを見て、あとで帰って話して涙をこぼしたっていうことです……。
水仕事のあとの、稽古がてらの地金叩きで、寒の最中に手に吸いつく鉛を、金ヅチで叩いちゃアのばし、時には自分の指を叩いたりもするんですから、軍手《ぐんて》をはめたみたいな手になっちまうのも致し方はありません。
ハア? 小遣いは月に二十銭でした。そばとトーフとフロ屋がそろって三銭、活動写真で「ハリケン・ハッチ」を見ても千葉は田舎なんで五銭ですみました。
年季があけるとやっと五円。礼奉公を一年すませても、職人が十円はとれなかった時代です。
……どうやらこうやら、やさしいものならひとりでまとめられるようになり、蝶番《つがい》、引き手の手かけ、なんかを終って、丸いもの、簡単なものを任されるようになると、さア蒔絵だの箱だの香盒だの、少し上等なものがやってみたくて仕方がない――。
けれどもそんなものは手伝いとか、削り上げて仕上げるとか、せいぜい簡単なフチをやらしてもらうぐらいで急所は師匠がやることになっていて手はつけられません……。
はじめて箱ものを任されたときは、まったくうれしくて、体がゾクゾクしましたねえ……。
夜風は寒い[#「夜風は寒い」は太字]
独立して下谷へ家を待ったのが二十八。家賃が十八円で、その家賃に苦労しました。昭和六年っていえば、「パニック」なんて言葉のはやってたころで、東北・北海道に大|飢饉《ききん》のあった年です。そうそう、満州事変もたしかこの年に起ったはずです。
――当時飾り屋は、東京中で十軒ぐらいのもんでしたろうか……。
……それから三十何年、あたくしはあきもせずに、よくもこの「おし木」の前に坐りつづけてきたもんです。
見てください。この左手の小指の根元にこんなにタコができてるでしょう? これはヤスリを挾んで押しつづけてきたからなんです。
それからこっちの親指は、関節がギクッと折れたように卍《まんじ》形にヘンテコになっちまってるでしょう? こいつは一ン日中必死でおさえるからこうなっちまったんです。
親からもらった指が、こんなに変っちまうほど精魂こめて働いても、それでも人並みに食えないんですからねえ……。
若いころは、寝るのはたいてい二時三時、気に入らなきゃ潰してやり直したことだって度々《たびたび》です。一日でできると思った仕事も良い仕事をしようと二日かけてやる――というわるい性分で、そうして仕事をしてもだいいちちかごろのお客さんにゃわからない。
説明すれば、わかってはくれますが、わかったからって、倍は払っちゃアくれません。
香盒の模様の透かしだなんて、素人は簡単に考えますが、作る方は糸ノコとタガネで、息をのんで仕事をするんですからね。曲ったものをワンにして透かすんですから品物にピッチリ合わすのは容易なこっちゃアありません。
平らも曲ったものも透かしちまえばいっしょですから、説明してからはじめて「ああそうか」ってわけです。
なかには説明したってわからないお客もあります。
瀬戸物の鉢に銀のフチをかけるときだって、皿や香炉のフタにフチをまわすときだってそうなんです。
相手は瀬戸物ですからそれなりのデコボコがありますし、そいつに添ってフチをかけるように金物を合わせてピッタリに叩いてゆくんです。神経が疲れますし、年季もいります、――そういうところを見ていただきたいんです。
イイエ、貧乏はしづめにしてきましたからもう馴れてます。そいつは良いんですが仕事のわかってもらえないときが一番腹が立ちます。
たとえばこの市松です。こんな三寸とない中指ほどのチッポケな細い金物に二ミリ角の市松を透かしていくんです。こいつが一本で一日仕事です。糸ノコを目をくっつけるようにして、はく息もはかないでひとマひとマ透かしていくんです。ここに八本ありますから八日仕事です。
そんな仕事をなんでもなく扱われると……。
……どうもつい……。まアそれでも、作家先生のなかには、棚や茶箪笥の仕事をさせていただいて、お届けしたあと、「日本にまだこんな仕事が残っていたのか――」なんて礼状をくださる方もありますし、こうしてつまらない話でも聞きにきてくださる方があったんですから、ありがたいことに思わなくっちゃアいけませんでしょう……。
……けれども、あたくしに、男の子が三人おりますが、三人ともみんなちがう方面の仕事を選んでくれてるんで、それだけはホッとしています。ほんとに三人ともずいぶんかわいそうな思いをさせて育てましたからねえ……。
また愚痴になってしまいまして――。
オヤ、もうお帰りですか? そうですか。夜風は寒いですから、気をおつけなすって……。
[#地付き](三十七年十一月)
人間国宝・松山蒔絵ばなし
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高野松山[#「高野松山」は太字] 本名重人 明治二十二年熊本市に生れた。祖父は藩校の儒者、父は小学校長。小学校三回放校の後、郡立徒弟学校、京都美校、東京美校の漆工科を卒業。アルバイトに艶歌師もやった。蒔絵は白山松哉に師事し、美校の講師を十四年勤めると共に文展・日展・伝統工芸展の審査員、日本漆芸会長を勤めた。旧藩侯細川侯邸に居候三十年。昭和三十年第一回重要無形文化財保持者に指定され、三十六年には日本漆工協会より功労者としての表彰、四十年に「キワニス文化賞」、紫綬褒章を受章。日展評議員、新綜工芸会会長。
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東京都文京区原町。
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文部省のコスタクリン![#「文部省のコスタクリン!」は太字]
わしは、七年前に最初の「重要無形文化財保持者」というのに指定されて蒔絵《まきえ》の技術で「人間国宝」タラいうものになった。なって損バこいた。
ちょうど芸術院会員の候補にもなっていたんだが、「人間国宝」にされてしもうたので、二つはいらなかろうチ、そちらにはなれなんだ。
ところが、芸術院会員は年金があって銭《ぜ》ンも来るし汽車にもタダで乗られるが、「人間国宝」ナ、なんも来ん。ほんになんも来ん。(三十九年から年金三十二万円おりることになった。月割三万円弱、これで技術保存と後継者育成をせよという。斎藤註)
銓衡《せんこう》する時には「見本見せろ」言うから、天平から明治までの蒔絵の手法を時代順序に六十何枚かいて出した。
藤原、鎌倉時代は貴族の絵かきなんどが蒔絵をかいたので格調も高いし素人の面白さもある。室町に高蒔絵の技法が始まって徳川になるとさらに技術は発達したがその代り品《ひん》が落ちた。
そるバッテン、素人の作品だから藤原期の蒔絵は模造品が出るが、徳川期の見事な職人芸の技術はなかなか真似られんので模造品が出にくい。
しかも作品としては技法の稚《おさな》い初期のものの方が面白い。
芸術の仕事というもののむずかしさと面白さとがここにある――。技術を知っていながら殺さねばならんのだなア――そんなことを考えながら、それぞれの時代の特徴を生かして六十枚の見本を作って出した。
出して人間国宝になったがそれだけ――。
そのうえ、作品の買上げの時、値段のことでなんじゃかんじゃ言いよるから、
「文部省の、コスタクリン!」
って怒鳴《どな》ってやったら、役人が目をパチクリしよったバイ――。
「コスタクリン」チ言うのはわしの生れた熊本で「ケチンボー」ということ。
ほんにコスタクリンでしょうが。「生きている国宝」というものに指定したら、その国宝の技術が生きるようにせんならんでしょうが。
漆でも、今では高級な梨地漆は手に入らんようになっている。金をみがくのに必要な椿ズミの特殊な製法も亡びた。蒔絵に使う特殊な鼠毛の筆を作りきる職人ももうおらんようになった――。
最近の家ねずみは、壁ン中を歩きよるんで毛先が切れて使いものにならん。船ン中の米ぐらに住んでおるねずみを探して作るより仕方がない。
そんなことの分る職人がほんとに無《の》うなった。わしは仕方がないから手製で作っとるが、今のうちに、京都の「村田」なんという、奈良朝から続いとる筆屋なんかを早う文化財に指定してほんとに保護せんならん。
蛤眺めて半年暮す[#「蛤眺めて半年暮す」は太字]
わしは、一作出来上らんと次の作品にとりかからん。だから年に一作かせいぜい二作だ。昭和三十七年一年間の収入はいくらかというと、座談会に二度出てその謝礼合わせて一万円也。それだけだ。
それでは毎日何をしとるかというと、毎日研究しとる。
わしは同じものは二度と作らん。たとえば第五回日展に出した「蛤形蒔絵|香盒《こうごう》」だが、これは三寸と二寸五分の小さいもンだが、これを作るのに一年半かかった。
デザインを考えるだけで半年かかった。その間、蛤《はまぐり》や浅蜊を何百と買い込んで来て眺めたので、台所がいっぱいになって家内が呆《あき》れとった。
なア、「浅蜊」なんチひと口に言いよるが新しい模様があるんだぜえ。まるでアブストラクトそっくりのもある。蛤の中には、模様がまるで横文字そっくりなのもあってこれも見飽かない。見ているうちに半年たってしもうた。
わしの作品を、「七十の坂を越した爺イのくせにデザインが新鮮だ」なんチ、言いよる奴があるが、自然は新鮮なものよ。よく見ると驚くばかりよ。
この前の、松坂屋の三百五十周年記念「現代巨匠工芸展」というのに出した「瑞蝶文香盒」も、その前に見た白木屋の「世界の蝶」展覧会で蝶々を見てびっくりしてやってみる気になったもんだ。
そのままそっくりの蒔絵になるような蝶がいくらでもある。色の配置といい模様といい、なんとも言えず新鮮で新しい。蝶は香盒の高蒔絵で三十四匹やったから、来年は手筥《てばこ》であとをやってみんなで日本の蝶ばかり百匹やるつもりだ。
ン? ン。その一年半かかった蛤形香盒は、デザインを半年かかってきめた上で、木地も自分で挽《ひ》いた。
木地造りの名人も、みんな死んで亡びてしもうてね。これ見なさい、こんなに薄く、経木《きようぎ》のように薄く挽いて枯らしとくんだが、もううまい木地屋がいないから自分で挽く。
何百年という建築の古材を使うと、枯れに枯れているから狂わないんだ。しかもそいつを挽いたあとこうして半年一年と枯らしておく。
このぐらいにしておかないと漆をつけると狂いがくる。展覧会がすんだら曲っていた。なンていう芸術家先生のお作品が、冗談でなしにほんとにあるんだからね。
そして木地が枯れ上ったものを乾漆《かんしつ》で仕上げたのがこれだ。
ン。乾漆は、わしはふつうはその前に一応|粘土《ねんど》で原形をつくる。麻布を張り合わせて原形どおりのものを作って、糊とうどん粉で練った漆を何十回となく塗り重ねて、それに漆で彩色して仕上げるんだが、この漆の練り方に秘訣《ひけつ》というか苦心があるわけだ。
この作品は木地の上に布と漆を着せていったものだ。
漆で模様をかいて、金粉と銀粉を蒔きつける蒔絵――、麻布をシンに漆を塗りつける乾漆――というと、それはそれだけのことだが、研究すればするほど無限の広さと深さがあるもんだぜよ。
研究好きは師匠譲り[#「研究好きは師匠譲り」は太字]
いまから四年ほど前にソ連の美術館に納まった「乾漆お羽黒蜻蛉|筐《こばこ》」は、昭和八年の帝展に出したもんだが、この地肌の工夫は掛軸の布からヒントを得た。
荒い大きいのをポツポツと置いたあとザクザクした斑《ふ》を蒔《ま》いて、ふつうならスミでとぐところをとがずにザックリした味を出したのは、巻物の感じを表現してみたかったからだ。
なんでも研究だから、掛軸の布ひとつウッカリは見すごせん。
宮内庁御買い上げというのになった十一回日展の「縞模様蒔絵手筥」は、着物の縞が面白くて、それをずいぶん研究した結果の作品よ。琉球の着物の縞柄まで調べたぜよ。これは皇居仮御殿の西の間という所に納まった。
材料の研究も、やればやるほど面白いものでよ、第三回新帝展の、たしか二・二六事件のあった年の春に、いまで言うなら「芸術院賞」当時の「推奨」を受けた「蝦《えび》模様蒔絵筥」は、蒔絵で象牙の感じを出してみた。
富山県城ケ端《はな》の漆を使って、漆に銀箔を練り込んだ。チタニュームを入れたので、銀は固いから沈む、六回ほどやって仕上げると、いまのベージュ、チ言うかまるで――象牙の箱に蒔絵したような沈んだ静かで柔和な色になる。
材料の吟味から良うしてかからんで、会場で見てくれだけの色を良うしようとして揮発油をウント入れたりすれば、三年も立てば粉が飛んで消えてしもうバイ。
――バッテン、技術の研究と一緒に材料の研究もようせにゃア……。
……どうも、わしの研究好きは、師匠譲りのごたる……。
師匠ナ、白山松哉チいうて、美校の漆工科主任教授ナしとらした人バッテンが、元は小石川白山に住んでいた大工の子で福松いうた大工の子ォじゃから苗字《みようじ》もないわけで所の名をとって白山と名乗った。
この福松がタダの福松ではないので――。はじめ飾り職の仕事をしとったが兄弟子のために師匠とケンカして追ん出ると二十五の時から蒔絵を始めた。
そしてその頃はあった贅沢な人力車の蒔絵の仕事で金を貯めると一心に材料の研究や技法の研究にかかった。
それまでは金粉の手法は五つぐらいしか無かったものを、両国の蒔辰チいう名人とも語らって、自分の家で粉《ふん》を作るまでして研究して二十何種類の手法を編み出した。
帝室技芸員にもなり美校の教授にもなって、同じ美校の教授であった橋本雅邦が描いて来た蒔絵の下図を、ちょっと見て丸めて屑籠に捨ててしまったンで問題を起したほどの見識《けんしき》のある人であった。
それだけにその腕の確かなことは見事というほかなく、写実風のニクは特に上手だった。震災で焼けてしもうたが、うなぎ屋の「竹葉《ちくよう》」にあった「ツツジ山の硯箱」の、川の流れに浮んだツツジの花と、鉛で彫金した岩のすばらしさはまだ目にある。
代表作の「獅子の手筥」は壺中居《こちゆうきよ》の広田不孤斎が所蔵してるが、角の中に丸いリンカクをとって、その中に向い合っている二匹の獅子の肉どりや大小の粉のまぜ方など、あれだけのものはザラにはない。彫金をやったので肉どりが特にうまかったナ。
こまいものなら何でもこいという人であったが、日英博覧会の時、岩崎家で二万という付け値の倍の四万円でロンドンで売れた「雁来紅」の屏風は、二間という大作であった。
青・紅の鮮やかな色や肉付けに蒔絵の粋《すい》をこらしたえらい大きなもので、当時の金で四万円という金額と一緒にみんなが驚いていたが、ナアニ蒔絵は大きい方がラクなのよ。
師匠が世に出たのは、例の柴田|是真《ぜしん》の推挽《すいばん》によるもので、美術協会の会頭をしていた佐野伯爵が、
「いまはもう昔のような蒔絵は出来ん」言うた時、
「昔のもの以上の仕事が出来る男があります」
言うて是真が推したのが師匠だ。それから今村銀行の今村さんに認められて、明治二十五年頃に二十五円の生活費を与えられて制作に没頭し、作品も高く買うてもらって寛々と仕事をしとらした。
性質も磊落《らいらく》な人で、新富町の芸者屋で芸者の膝枕をして白髪をとらしとらるるところへ行きおうて、こちらがあわてたこともあったなア。
その師匠がわしに「家に来てあとを継げ」言うて下すったが、わしは「白山派だけでなくもっと勉強して一派を開きたい」など生意気を言うて、将軍家刀剣鞘塗師橋本市蔵に鞘塗りの秘法を学んだり、日本画を広瀬東峰、彫刻を水谷哲也先生に学んだりして欲張っておった。
この我儘な弟子を叱りもせんで、師匠は遺言で自分の雅号の中二字を譲って「松山」と命名してくれた……。
あゝ夢の世や、夢の世や[#「あゝ夢の世や、夢の世や」は太字]
わしは我儘勝手な野人《やじん》でなア……、くにの熊本で小学校を三回も放逐《ほうちく》されたような男じゃ。しかも父親が校長しとるんだから始末が悪い。
「こいつは学問が駄目じゃから職人になれ」
言われて、くにの飽託《ほうたく》郡立工業徒弟学校の漆工科へ入ったが、中学へ入った同級生が、
「重箱塗りヤーイ、下駄塗りヤーイ」
ちゅうてハヤシよるのが腹に据えかねて、忘れもせん十五の年に、
「よし、満州へ行って馬賊になってやろう!」
と本気で決心したもんじゃ。
それでもどうやら徒弟学校を出て、家の方には奈良の漆工の徒弟になるちゅうて出て京都の美術工芸学校へ無断入学したのが十八歳。学費がないから今でいうアルバイトに艶歌師《えんかし》をしながら学校を出たよ。
ああ、あのバイオリンを抱えてツーツーと歌うやつよ。
ン? 歌の本を売るんじゃが一冊三銭、雨の日は稼《かせ》げんし勉強もあるから、まア十日がせいぜい。それでも何とか貧乏書生が食えたんだから良い時代だった。そば一銭五厘であったなア――。
ン? ああ、艶歌はまだよく覚えとるとも。例の「男三郎《おさぶろう》事件」の野口男三郎を歌った、
※[#歌記号、unicode303d]ああ夢の世や、夢の世や
というやつと、女が腹ボテになって捨てられて死ぬ「松の声」というのがよく売れよった。
やってみろォ? うん、やるか。エヘン。
※[#歌記号、unicode303d]スクール通いの足曳きの、山鳥の尾
のしだり尾の、長々し夜を独り寝に
その寝苦しさに堪えかねて、天を仰
いで拝むらく、わらわに一人のハズ
バンド、与え給えや神々よ……
ハハハハ。
京都の美術工芸を、バイオリンを弾いて艶歌を歌いながら卒業すると、卒業証書をもらってその晩に上京した。
西も東も分りゃせん。けれど、
「京都では艶歌師でメシも食うたし、学校では運動部や剣道部で体を鍛《きた》えてケンカも負けずにやりまくった。京蒔絵の技術も身についたし奈良の古美術もよう研究した。東京だってなにほどのことがあろう。やりきるだけのこつよ!」
と決心して美校の漆芸科へ入った。
――ところがなア、わしは芝白金三光町で行き倒れになったことがあるよ。
上野の清水町にいたんだが、飯を食わずに麻布の知人を訪ねて歩いて行ったら三光町の女学校の前まで来たら分らなくなってしもうた。
犬が吠《ほ》えるので気がついたら百人ぐらいの野次馬がわしを囲んでワイワイいうとる――。それから巡査が来て警察にひっぱられたが、どうも酔っぱらいとまちがえられたらしい。
酒どころかこちらは飯も食うとらん。けれど風体《ふうてい》の悪い貧乏書生が髯ッ面で大道のまン中にブッ倒れてたんだからそう思われても仕方がない。
ン? ああ、わしは「美校のヒゲ」で有名だった。教務課に呼ばれて髯をとれって言われて逆《さか》ネジくわしたりしてねえ、ハハハ。
まア、そんな暮しをしているうちに細川護立侯から呼び出しが来た。細川さんは肥後の殿様だからナ。
「作品を作ってこい」
と言われたが、わしは「厭《いや》です」言うた。期限を切られたりしたら良い仕事は出来ん。そのわけをお話しした。
「月いくら、何年間ほどやったらいいか」
重ねて言わるるから
「月二十五円、向う十七年下さい」
言うた。殿様が承知したから、
「それじゃ今月分二十五円下さい」
言うて手を出したら、さすがの殿様も驚いてナ、ハッハッハ。
この約束で作った最初の作品「竹塗り花筒」がフランスで開かれた展覧会に出て評判になった。大正七年だった。
フランス大使館から「買い上げたいから最低値段知らしてくれ」言うて来たから、「このコスタクリン!」思うて、
「日本人は駆け引きはせん」
言うて断ってやった。
水引きまで掛けたのに[#「水引きまで掛けたのに」は太字]
――それからは細川さんのお世話になりっ放しバイ。
四十三まで独身で通していた頃は勿論、六年前にこの植物園裏の家を建つるまで、ズッと殿様のお邸に住んどった。
大正八年に美校の助手になりそのあと講師になっての十四年間も、例の学校騒動で追い出さるるまでズッとお邸から通った。
ハハ、教師としてわしはあまり良い教師じゃなかったかもしらん。いつもは出席簿をとらずに、一年分まとめてつけるもんだから、死んだ学生が皆勤《かいきん》していることになって、学務課から文句を言われたことがある。月給は十四年のうち三回減俸されて、ふつうの男ならおればおるほど増えるのに、わしはおればおるほど減ってしもうた。
ン? ああ減俸の理由? 一度はわしが裸踊りをしたことと、もう一度はスキーに行った赤倉で、学生達にみんなパンツをぬがせて、それを南部の殿様と、佐野伯爵や二人のお嬢さんに見せたというのが理由――。あれは見といた方が令嬢たちの役に立つんだがのウ……。
それにわしは、失礼にならんように、ソノモノの先に水引きを結ばしといたんじゃが、やっぱりいかなんだ。
三回目は、「良い教師を呼ぶから減らす」いうから「コスタクリン!」と思うたが「勝手にしろ」と言うた。根本は学校騒動が原因よ。
教師をやめてセイセイして、仕事にはげんだお蔭で文展・日展の審査員、漆芸会長なんていうものに次々にしてもろうたが、「人間国宝」になっても食えんのでは困る。
「チャイナ」が陶磁器を意味するごたる、日本国名の「ジャパン」というのは漆器・蒔絵も意味しとる。その漆の良品が無くなり、技術者を保護しきらんでどうするかい。
[#地付き](三十七年十二月)
螺鈿師《らでんし》・華江夜話《かこうやわ》
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片岡華江[#「片岡華江」は太字] 本名照三郎 明治二十二年、市村座に近い浅草猿屋町に生れた。父は螺鈿師「芝山派」の祖|易政《やすまさ》の甥で源次郎、「旭《あさひ》」と号し名人だった。華江は十五歳で帝室技芸員川之辺一朝に蒔絵を学び、十九歳父の死に逢って業を継いだ。大正天皇即位式のお召列車、皇居千種の間、豊明殿修理、伊勢神宮神宝函、国会議事堂便殿の仕事があり、目下は三十七年の調査以来中尊寺金色堂修理に従っている。
[#ここで字下げ終わり]
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東京都港区麻布十番。
[#ここで字下げ終わり]
鮭にもまぶしい光堂[#「鮭にもまぶしい光堂」は太字]
ヘエ、片岡華江です。お分りンなりにくかったでしょう。麻布の網代《あみしろ》町一番地――っていえばいいものを、ついさいきんに麻布十番二ノ十八ノ十三――だなんて変っちまいましてね、野暮《やぼ》の骨頂《こつちよう》です。
……全くドンドンなんでも変っちまいますねえ……。
――それに、ここは婿《むこ》の家なんで、それで余計分りにくかったでしょう。ヘエ、娘が心配して、「来い来い」ってやかましく言うもんですから同居してるんです。
婿は、自動車の会社の方の仕事をしてるんですが、これがまた好い人間で――。
ヘエ、二十七年前に次男を産むのと引き換えに女房を亡くしまして、それからズッと独りを通して来たもんですから……。よくある「継《まま》しい仲のいざこざ」なんてことで、子供たちに嘆きを見せるのは可哀そうだと思いましてねえ。
男やもめも三十年となりますと、これはこれで、当り前ンなっちまって、その分《ぶん》を仕事に打ち込んで来ましたから……。これがあたくしの一生なんでしょう……。
ヘエ、五人の子供を抱えて五十前からの独身生活ってえのも、そりゃア並大抵じゃアありませんでしたが、済んでみますとこれはこれ――ってなもんですよ。
その代りには、ひと様から、「仲が良すぎる」って言われるくらいの親子兄弟でしてねえ。
ハアーハア、ハックショイ!――アア、分ッタヨ、首巻キ巻イタヨォ。
――ヘヘ、こんな調子です、あれが娘です。中尊寺へ行って来たらカゼをひいちまいましてねえ。
エエ? 入レ歯ア、シテルヨ、アア、
チャントシテマスウ! 遠クカラ怒鳴ンナサンナ、
話シニククテイケネーヤ。
へ! シトを子供だと思ってやがる……。もっとも、総入れ歯の子供なんてなアねえでしょうがねえ、ヘヘ――。
ヘエ、中尊寺へ行って来ましてねえ。文化財保護委員会の、松田権六さんとご一緒でした。
解体修理をやるんですよ、あすこ……。もうボロボロなんです。今やらないと、あたら国宝が駄目ンなっちまいます。
ですけど、凄いもんですよオ、中尊寺の螺鈿《らでん》は!
あれは、宇治の平等院と並んで、螺鈿の細工では残っているもののなかで二本柱でしょう。
平等院の鳳凰《ほうおう》堂は、
極楽見たくば宇治の御寺を敬え
って昔っから言われてるぐらいのもんで仏壇、天蓋、柱、長押《なげし》、組物、天井回りなんか、余す所のないほど螺鈿か極彩色の装飾で飾られていて、それこそ「この世をば我が世とぞ」思った藤原の道長の子の頼通の造っただけあって立派なもんですが、中尊寺もこれに勝るとも劣るもんじゃアありません。
中尊寺は、「北方の王者」って呼ばれた藤原の清衡が、「黄金《くがね》花咲く」陸奥《みちのく》の砂金に物を言わせて建てただけあって、その立派さは目をみはるばかりです。
なにしろ昔っからの言い伝えに、「光堂の金色がまぶしくって、衣川の鮭はここから上には遡《のぼ》らなかった」――って言われたくらいのもんです。
「田舎だけに様式が崩れて組物や蟇股《かえるまた》が大きすぎて野暮だ」なんて批評もありますが、その代りにそいつがガッシリした力強さを見せて、また独特の味を出してますね。
方三間で中央に四天柱を建てたこの「一間四面堂」造りの金色堂、――俗にいう光堂は、清衡が十六年もかかって建てたもんで、建物には全部黒漆が塗られてその上に金箔がはりつけてあります。「奥の細道」の行脚《あんぎや》の時に芭蕉も立寄って、
五月雨《さみだれ》の降り残してや光堂
と詠《よ》んだくらいの金色|燦然《さんぜん》たるもんでしたろうが、それでも野火の煽りを食って傷んでましたし、鎌倉の執権《しつけん》北条貞時が、露天にさらされている堂の破損を惜しんで覆《さや》堂にして外回りを覆った頃から修理が必要だったんでしょう。
なんしろ建ってから八百六十年ですからねえ。
国宝修理はミイラの上[#「国宝修理はミイラの上」は太字]
解体修理といっても、これがまた大変なんですよ。足場を組んで、ていねいに一々図面をとりながらほごして、上野の博物館に運んで、そこで修理したうえ復原するんです。
イエ、あたくしなんぞは駄目です。文部省から、図面をとってくれって頼まれて、今度はそれだけのことで出かけたんです。
……名人だなんて、そんなことはありません。螺鈿師ももう無くなりまして、日本中探しても、もうやっとどうやら片手の指を折るぐらいしかありませんが、中尊寺の螺鈿修理が、あたくし、と正式にきまったわけじゃアありません。
そりゃア、正式に頼まれれば、一世一代、腕によりをかけて、九百年前の螺鈿師に負けないような仕事はしてみたいと思います。
――ますが、それまで寿命がもちますかねえ、あたくしは明けて七十四。本格的な修理にかかるのは三年先ぐらいにはなりましょうから、それから何年か修理ということになると、「お迎え」の方が早いかもしれません。ヘヘヘ。
――それに、材料が無いんです。金色堂の修理となれば、夜光貝の丸貝《まるがい》を何千って使わなくっちゃなりません。所が夜光貝は沖縄でしかとれませんが、沖縄は今アメリカさんの管轄なんでこれが自由にならないんです。
全く、あたくしは政治のことなんぞはよく存じませんが、こんな所にも政治が響いて来てるんですねえ。
ヘエ、夜光貝は、昔は九州の屋久《やく》島でもとれましてね、「屋久貝」から訛《なま》ったんだ、という説もあるくらいですが、いまはもう沖縄でしかとれません。
ヘエ? 金色堂の傷《いた》み方? そりゃアもうひどいもんです。一面に螺鈿の施してある有名なマキ柱から蟇股、ケタも貝がボロボロ落ちてて、須弥壇《しゆみだん》の勾欄《こうらん》なんか、ベットリ剥《は》がれてました。
拓本《たくほん》を何十枚かとったんですが、拓本をとるのにも貝がバラバラ落ちるんです。
――内陣の中はまっ暗《くら》でしてね、僅ゥかな明りを頼りに仕事をしたんですが、気味のわりィったらありませんでした。
内陣は三つの須弥壇から出来てるんですが、壇の上には本尊の阿弥陀仏をはじめとして十一体の仏像が安置されていて、床《ゆか》は呂色《ろいろ》漆でみがき上げた上に金箔が施してあるんです。その冷たいことったら!
しかも、この床《ゆか》の下に、清衡、基衡、秀衡の三体のミイラと、そのうえ秀衡の三男忠衡の首のミイラが置いてある――しかも、しかも、その忠衡の「首のミイラ」というのは実は兄の泰衡のもので、それは額に釘を打たれたあとがあり、「泰衡の首は釘にかけて晒《さら》された」という史実と合う――なんて話を聞かされますとねえ……。
三体のミイラと晒《さら》し首のミイラの上でいま仕事をしてるんだと思いますと、足もとから這い上ってくる金箔の冷たさと不気味さが一緒ンなって、ゾーッと水を浴びせられたように寒くなりました。二時間も続けてやるとどうにも辛抱できなくなって、表に飛び出して雪の上の焚《たき》火に当ってまた入る、というわけで、すっかりカゼをひきこんでしまいました。ハックショイ!
夜半秘かに思う光琳の作[#「夜半秘かに思う光琳の作」は太字]
ヘエ、螺鈿ってものは辞引をひきますと、
「オーム貝、夜光貝、アワビ貝、チョウ貝などの真珠色の部分をとって薄片とし 種々の形に切って、漆器や木地の模様の中にはめこんだもの。古く印度に起り、中国を経てわが国に渡来した」
ってありますが、中国の宋代の本には「螺鈿はもと日本に始まり」なんて書いてあるそうです。どうやら実は中近東、インドあたりで始まったもんらしいですが、本家の中国で日本起源説をとるくらいに盛んになった工芸です。
奈良時代の正倉院の御物《ぎよぶつ》にはもう立派な螺鈿の作品が残っていますから、当然渡来物もあるとしてやはり日本でもドンドン作られていたでしょう。
藤原時代になりますと、先に申しました平等院の鳳凰堂はもとより、北の果の平泉の中尊寺でもあんな立派なものが出来ているんですからこれは全盛です。ほんとに太刀のはしに至るまで立派な螺鈿が施してあるんです。
下って徳川時代あたりになりますと、その前の時代では、例えば名物の「高台寺の蒔絵」と言っても、蒔絵よりは貝の螺鈿が主になっていたのとは逆に、貝が刺身《さしみ》のツマで蒔絵が主になって来ています。刀の鞘なんか見てもはっきりそうです。
――螺鈿は、時代と共にだんだんと衰えていく工芸なんでしょう。
職人は居なくなる、材料はなくなる――、螺鈿はこのまま放って置けばやがては亡びることでしょう。
ここらでおカミでも何とか真剣に考えて手を打ってほしい――、年寄りのさめ勝ちな夜半の寝覚めの折などに、この工芸の将来を考えて歯噛みをしたい気持になることもあります。
しょせんはゴマメの歯ぎしりで、総入れ歯を噛み鳴らしてみたところでどうなるわけのもんでもありますまいが、夜中の暗い天井に、光琳作の「八ツ橋の硯箱」の姿などが、ありありと浮んで見えることがあります。
尾形光琳は、螺鈿の衰えた徳川時代にピカッと星が輝くように良い仕事を残した人です。
「八ッ橋の硯箱」は、白蝶貝も、黒蝶貝も、使っちゃアありません。ふつうは安物として卑しめられるアワビッ貝を、しかも惜しんでわずゥか使っているだけです。
けれどもその力強いこと、品《ひん》の良いこと、何とも言われません。
材料が無くても、その工芸の衰えた時代でも、立派な職人や芸術家が、一念|凝《こ》らせば闇夜の一ツ星のようにピカッと光った仕事が出来るんだ!……とこう思いましてね、年寄りの冷や水かどうかは知りませんが老いの身に武者震いを感じることもあるんです。
――といっても、職人ひとりに力《りき》ませてるような世の中が良いとも思われません。せめて材料の心配だけでも無くしてもらえたら――と思うんですが、愚痴ですかねえ……。
「青貝」と「芝山」[#「「青貝」と「芝山」」は太字]
だいいち、貝屋が無くなっちまったんですよ。前は入谷《いりや》に一軒あったんですがこれが店仕舞い。今じゃア新橋の浅野ってえ金箔屋が、片手間に大阪あたりから買って卸してるだけです。
しかもこの、白蝶貝なんかになりますと、良いものはオイソレと手に入らなくなってるんです。この白蝶貝は濠州のアラフラ海でとれますんで、これまた沖縄の夜光貝とおんなじで、政治が絡《から》んでくるわけです。
ヘエ、これは一昨々年の「伝統工芸展」に出した「白鷺の手筥《てばこ》」で、この白鷺が白蝶貝なんです。羽が白蝶貝、嘴《くちばし》が黄蝶貝、足は黒蝶貝、目は金線で漆の瞳が入ってます。
鷺よりも、横手の水と草を見て下さい。これは簡単な流水と青草をポチポチ扱っただけの何でもないものに見えるでしょうが、「平文《ひようもん》のとぎ出し」といって技術的にはある意味ではこっちの方がめんどうだし、材料もこの青草は、鹿の角を染めた「青角《あおづの》」ってえやつを使ってるんです。
マ、一つの手筥でもこれだけいろいろの貝を材料に使うんですよ。
これがいつか文化財保護委員会の話で作った「古代文様手筥」なんぞになりますと、夜光貝からタイマイ、サンゴなんかまで、ありと凡ゆる貝を使いましてね大変なんです。
ヘエ、螺鈿の見本を作れってんで材料と技法の一番良いものを蒐《あつ》めて仕上げたんで、作品は上野の博物館におさまってます。同時に記録も取りましてね、貝の原形から、平文《ひようもん》、高肉《たかにく》、薄板《うすいた》、なんぞの技法の順序も克明に写真入りで記録しました。これも文部省の無形文化財課――ってえんですか、あすこにあるはずです。
ヘエ、螺鈿の技法の順序を申しますと、まず、貝を、夜光貝なら夜光貝を切る所から始まるんですが、サザエのツノのないようなまん丸な夜光貝のコブ――フシをよけて切っていきます。
切り方も、丸味を生かして刀の鞘のカーブに合わせたりしますから、使い道で切り方も違います。
切ったら荒砥で平らにすりおろして、図面を貝の上に糊ではり、その文様を糸ノコで断ち切って、それをヤスリで仕上げてから板にはって肉とし、最後に毛彫りを入れると出来上りってえわけです。
こんなふうにはりつけるのを「青貝」、この「白鷺手筥」の草のようにうめこむのを「芝山《しばやま》」ってえます。
もちろん、嵌入《かんにゆう》式の「芝山」の方が技術的にはめんどうです。外に見えてる面よりも、中に埋まっている分の方が多いんですからね。
ヘエ、「芝山」ってえのは螺鈿師の芝山|易政《やすまさ》から出たもんですが、あたくしの父親源次郎というのがこの易政の甥《おい》で、号を「旭《あさひ》」と申しましてやっぱり螺鈿師でした。
おやじは、六角紫水先生のお仕事の螺鈿の分は一切うけたまわってましたが、明治天皇へ献上した「菊花の書棚」の御用命もあったほどで腕は悪くなかったようです。
特に「干網《ほしあみ》の手筥」という、干網の一つ一つの目から結び目までが、はりつける「青貝」でなしに、嵌入する「芝山」で仕上げていた作品は今でも目に残っています。
干網のカーブや、結び目なんぞの嵌入は、貝を細く切って埋めてくんですからよほどの技術がないと出来ません。
螺鈿にかけた半生紀[#「螺鈿にかけた半生紀」は太字]
イエ、あたくしは、最初からこのおやじについて螺鈿をやったんじゃありません。
十五の年から蒔絵を習い始めましてね。師匠は、姉がその人の孫に嫁《とつ》いでいたという縁で、美校の教授をしていた川之辺一朝です。
十九まで蒔絵をやりましたが、その年におやじが病気で倒れまして、仕方なしにこの道に入ったんです。と言いますのは、おやじがちょうど井上馨伯爵の御注文で、「明月桜の膳椀」二十組ってえ御注文を受けて仕事をしている最中でした。
明月桜ってえのは、鎌倉の名刹《めいさつ》明月院の膳椀の写しで、貝を微塵《みじん》に割ってその一つずつを桜の花弁にしてはりつけ、漆をかけてから花だけとぎ出すんで蕊《しべ》に漆が残る渋いもんなんです。
病気のおやじの指図で弟子ともども、泣き泣きどうやら仕上げてホッとしましたが、おやじが死んだすぐあとに、六角先生が見えまして頭ごなしにこう言うんです。
「今回御即位の式に両陛下のお召列車の御居間を蒔絵と螺鈿で御飾りすることになった。蒔絵の分《ぶん》は磯谷完山さんがすることになったが螺鈿の分はお前が有難くお受けしろ。誠に名誉なことである。めでたい、めでたい」
そう言って帰っちまった。
冗談じゃありませんや。あたしは蒔絵から転向したてのホヤホヤで、螺鈿の技術なんてなんにも知りゃしませんや。
いっ時は蒼くなりましたが、
「なにくそ、おれの家は螺鈿の家柄だ。体に流れる血にかけても、必ず仕上げてやるぞ。何も度胸だ、やってみろやってみろ」
と決心しましたね。
ヘエ、大正天皇の御即位式のお召列車です。天皇様のは割合早く上りましたが皇后様の方はあれで弟子三人と、かれこれ一年ほども新橋の車庫に通いましたかねえ……。
当時のことですから、材料もうんと贅沢に使って、格《ごう》天井から櫛形、羽目まで、びっしり螺鈿を施しまして、まことに目もまばゆいほどに仕上りましたが、あの二台の汽車はいまどうなってますかねえ。おそらくどこかの車庫で眠ってるんでしょうが、そのうち一度、あたくしの「青春の思い出」ってえやつにお目にかかりたいと思ってますよ。へへへ。
それからはまア六角先生のご推せんもあって、宮中の千種《ちぐさ》の間《ま》や豊明殿の修理とか、今上陛下に献上の書棚だの、伊勢神宮二十年祭の「銀|平文《ひようもん》神宝函」だの、国会議事堂便殿やら御帽子台――なんという名誉な仕事をいろいろやらして頂きましたし、美校の講師も勤めさせて貰いました。
けれども、あたくしは昔がなつかしいですねえ。あたしは浅草猿屋町の生れで佃煮屋の「鮒佐《ふなさ》」の横を入った所で生れたもんですから、これでも鳥越《とりごえ》神社の氏子です。
近くの下谷二長町には市村座があって、若手の菊五郎や吉右衛門が水も滴《したた》る男振りで吉原芸者の胸をときめかしていた……。その大歌舞伎が二円五十銭で入れてカンザシまでくれた――。
六区にはルナパークのパノラマがあって、三館共通の切符を握って入ると生駒雷遊《いこまらいゆう》やなんかの活弁が「名金《めいきん》」だの「パントマ」なんぞを名調子で唸《うな》っている。公園にはコマ回しの松井源水や居合抜きの永井兵助――がいて、そんな時代には材料にも苦労しなかったしあたしも若かった……。
「明治も大正も遠くなりにけり」ですよ。
シナ料理屋の目黒の雅叙園の、塗師屋《ぬしや》がコテ先でチョイチョイデコデコと薄貝で仕上げた「螺鈿」が大手を振ってまかり通って、厚貝《あつがい》にヤスリをかけて仕上げる重い仕事をする人が無くなっちまった……。
これがご時勢――嘆いても仕方はないんでしょうけれども、やっぱり腹の立って仕方のない時もありますねえ。ヘヘヘ。
[#地付き](三十八年一月)
鶴心堂表具ばなし
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中村鶴心堂[#「中村鶴心堂」は太字] 本名豊 明治二十五年東京芝に軍医の子として生れた。十六歳、経師屋「観事堂」に奉公。二十一歳、夏目漱石から西川一草亭宛の添書を貰い京都「吉岡」を経て墨光堂岡岩太郎に師事、二十七歳まで修業した。帰京後神田神保町に開店一年半で関東大震災。以後大正天皇へ献上の画帖、巻物表具、「イタリー展」出品日本画表具等種々の仕事があるが、特に大観らの日本画家に愛され随伴して外遊。「日本画・掛物の表具は鶴心堂」と言われている。
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東京都新宿区東五軒町。
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酒仙大観の下書き十枚[#「酒仙大観の下書き十枚」は太字]
あ、玄関の、「鶴心堂《かくしんどう》」の木彫りの扁額《へんがく》ですか。あれは落款《らつかん》にもありますように横山大観先生が書いて下すったものです――。
はあ、お願いしてから出来上るまでに二年もかかりましてね。――ええ、先生とは、大倉さんの「イタリー展」に出陳の「瀟湘《しようしよう》八景」の表装でイタリーまでご一緒したり、そのほかお作品をいろいろやらせて頂いた御縁もありまして――。
ところが、お願いしてから一年待っても二年待っても書いて頂けません。丁度「新喜楽」で会があってお目にかかった折ご催促致しますと、
「やア済まん済まん、取りに来給え」
ということになりました。熱海のお邸に参上しますと例によって召し上ってらっしゃる。
「中村君、ぼくはこの一週間、米一粒も食べないで呑みづめなんだけど、ちゃんとウンコは出るもんだね」
なんて呑気《のんき》なことをおっしゃりながら出して下すったのがあの書なんです。そしてお出しになるのを拝見したら、あの名筆の先生が、丁寧に十数枚のお稽古をしていらっしゃるのが分って深く感動致しました。
酒仙《しゆせん》――といいますか、まるで物にこだわらない仙人みたいに磊落《らいらく》に見える先生が、実はこうして十数枚も下書きをしていらっしゃるんだなアと思いましたら、「仕事」についての心構えを無言で教えて頂いたような気がしましてねえ……。
はい、あたくしの最初の師匠は観事堂と申します。いえ、表具師というよりは「経師《きようじ》屋」の方でして、襖、障子張りの雑な仕事が主でした。
ここに十六で奉公に入って、兵隊検査を終って礼奉公を一年して、京都へ修業に行くまでズッと居りました。
あたくしの父は軍医で、――といっても軍曹でしたが、その軍医が「医者の不養生」で、結核と胃ガンを患って、四年も寝たうえ死ぬ、そこで奉公に出たわけなんです。
はい、あたくしは、「芝で生れて神田で育った」チャキチャキの江戸ッ子です。
母は旗本の出で、長患いの父を抱えて健気《けなげ》に看病してましたが、後家《ごけ》になって姉とあたくしの二人の子を僅かな恩給のやりくりで育てているのを子供心に見かねて、あたくしは奉公に出る気になったんです。
「経師屋」を選んだについては、父が碁だの書画などに趣味があったことがどこかに影響していたのかも存じません。
師匠は当時五十くらいの小肥りに肥った温厚な人で、大声で叱るという様なこともありませんでしたから、よく聞く「丁稚《でつち》小僧の嘆き」は見ないで済みましたが、仕事のほんとの修業は京都へ行ってから始まった、と思っております。
「京都で修業しよう」と思ったキッカケ、というのが、実はこの師匠の店で年《ねん》明けのころに、すばらしい「京表具」を見たからなんです。
漱石夫人のそのひと言[#「漱石夫人のそのひと言」は太字]
あれはたしか、景年作の、赤味の勝った「秋景」でしたが、長すぎて床《とこ》に掛けられないから切り詰めてくれ、という注文で来たものでした。
見ると、幅七尺五寸、横二尺五寸の大和《やまと》表装でしたが、仕上げが実に見事で、ケバ一つないし、軸を巻いた小口《こぐち》なんかは名刀でスパリと截《た》ち落したように鮮やかなんです。
ひと目見たトタン震いついて頬っペタをおっつけたいほどの見事さなんで、
「これはどこでやったんですか?」
って聞くと、
「京都だよ」
っていう師匠の返事。やがて、店で、七尺五寸を七尺に詰めて仕上げたんですが、昨日のおもかげはどこへやら、まるで見る影もなくなっちまったんです。
「ああ、表具をやるなら京都へ行かなくっちゃ駄目だ、ヨシ、おれも京都へ行って修業してやろう!」
この時こう堅く決心致しました。
――、ところで、この表具の切り詰めですが、のちに物の本で読んだんですが利休《りきゆう》にこんな話があります。
秀吉の家来の芝山|監物《けんもつ》という人が、知人から譲り受けた書の名品の表具が長すぎて床の間に掛けられないので、短く詰めてほしいと利休に頼んだんだそうです。
ところが利休はどうしても承知しない。同席の蒲生飛騨守やなんかも口添えして頼んだがやっぱり承知しない。そこで皆々立腹した時に、利休が、
「天井を高くなさるがよろしい」
と言ったんだそうです。
――この表具は、この書に最も調和している。たとえ引きずっても詰めるべきではない。もしどうしても掛けたいなら天井を高く改造するがよい、人の命や運は短くて、いつその屋敷に居られなくなるかは知れないが、書の芸術の命は長くて、今の持主の死に亡んだあとまでも生き残るのだ――、利休はまア、こんなことを言いたかったんじゃないでしょうかね。
だから観事堂でも、あの姿の美しい京表具を、詰める注文は断るべきだったし、ましてや詰めた揚句に拙い技術で見るも無残にしてしまったのなぞは、まことに論外とでも言わなくちゃならないでしょう。
なにしろあたくしはこの時はじめて京表具のすばらしいのを見て、「京都へ行こう」と決心して、礼奉公が終ると同時にその算段を致しました。
そして、夏目漱石先生の添書を頂いて京都へ初上りしたんでございます。
はい、漱石先生とのご縁は、姉がご近所の誼《よしみ》で、お嬢さんの筆子さんとご懇意に願っていたのでその関係です。
はい、筆子さんは、例の久米正雄さんの小説「破船」の女主人公で登場される方で、背は小さいし、色も浅黒いというほうですが、なんとも言えない可愛らしい魅力のある方でしたね。
漱石先生の紹介状は、京都の西川一草亭さんに宛てたもので、
「父は軍人である。表具の方の勉強をしたいそうだからどこか世話をしてやってくれないか」
という様なことが書いてあったと思います。漱石全集の書翰《しよかん》集にのっているはずです。
今でも忘れられないのは、紹介状を頂いたお礼に、先生のお宅に伺った時のことなんですが、内玄関に立ったら奥さんが出てみえましてね、有名な鏡子夫人です。肥って立派な方でした。
「京都へ参りましたら、一所懸命やって参ります」
って申し上げたら、
「そりゃあんたの勝手よ」
ってんです。――なるほどこれはそのとおりで、これには驚きました。
京都へ行きましてからも、時々この
「そりゃあんたの勝手よ」
が思い出されましてね、がんばっても投げ出してもみんな自分の責任だ、がんばらなくちゃ――と、良い励みになりました。歯に衣《きぬ》を着せない言葉ってやつには力があるもんですね。
名人・墨光堂岡岩太郎[#「名人・墨光堂岡岩太郎」は太字]
京都へ参りましたが、京都には墨光堂岡岩太郎という名人がいて、掛物ではこの人の右に出る者がいない、ということを聞いておりましたので、西川さんのお世話で是非そこに入れて頂きたい、と思ったんです。
ところが一杯で入れないので吉岡という店に半年ほどいて、休みはもとより暇さえあれば「ぜひ入れて下さい」と坐り込みの談判に行ったもんですから、向うもとうとう根《こん》負けして、
「では、一日二日、様子みてみなはれ」
ということになった。京都は言うことが優しいですね。主人が弟子の様子を見る、とは言わないで、弟子がこの家にいられるかどうか様子を見ろ、と間接的に言うわけです。
東京の観事堂では、入って二年もしたら主人の代りの仕事もさせて貰える様な具合でしたので、まア簡単な仕事ならひと通りはやれるつもりでしたが、向うはそれより根性を見たんでしょう。三日目に、
「夜具《やぐ》持って来たらどうや」
と言われた時には天にも昇る心地。
この、中京区堺町通り大池の墨光堂には、それから二十七までの五年間厄介になってミッチリ仕込まれました。
この岡岩太郎という人は全く名人で、しかも仕事が実に丁寧。特に配色の良いことと言ったら溜め息が出るくらいでした。
その代りには材料には金を惜しまず、古い裂地《きれじ》で良いものならば、名家の売り立てなどにもどんどん出て行って、いくら高くても買って蔵《しま》っておく。
シナのもの、緞子《どんす》なんかには、いまも名物裂の画集に残っているようなものもあります。坪――ってのは一寸角ですが僅かひと坪の単価が何百円というような裂地をいくらでも持っていました。
ですから、どんな注文が来ても、どんな品格、品位のある書画が来ても、それに見合う裂地を合わせて仕事が出来るからまた評判も上る、というわけです。
「犬に飼われても大|店《だな》」ってくらいのもんで、京風におっとりした店も主人もまことにあたくしには有難かったと思ってます。
上に二十人も兄弟子がいる店で、「ベランメ」はもとより東京弁を使っても生意気だと思われるだろうと、無理に京言葉を使ったことが苦労ぐらいのもの。掛物の小口がゾックリ刃物で截《き》ったようにいかない残念さに便所で泣いたこともありますが、それも仕事の未熟が自分に情けなかっただけのこと。
それが定りの、ご主人が帳場に坐って弟子共の仕事を調べるのを、二階の節戸から覗いて見ていると、兄弟子は、
「片足出してるやないか」
――仕上りが落ちついていない、と言われたのにあたくしは、
「こんなもんやろ」
と言われてホッと出来るようになった頃は、どうやら仕事も覚えて来たようでした。
はい、休みは半日、ひるから夕方まで。
「なんで遅うお帰りやった?」
なんて、静かにやんわり聞かれている兄弟子の真似はすまいと、京極へ行って十五銭の「仁輪加《にわか》」を見て、三銭の「おうどん」を食べるのが精々。あとは知恩院さんに松風を聞きに行ったり、歌舞伎の五右衛門じゃありませんけど南禅寺の山門を見に行くぐらい。
東《あずま》男が京女との色模様もなく、無事東京に帰って参りましたようなわけです。ハハハ。
表具のツボ三点[#「表具のツボ三点」は太字]
ここで少し仕事のことを申しますと、京都の師匠に習ったこと、そのあと自分で悟《さと》ったことから、表具のツボは三つだと思っております。
第一が配色。中の書画に釣り合う紙なり布を使わなくっちゃいけません。まわりの表具がご本尊の絵を邪魔して目|障《ざわ》りになるようじゃ仕方がありません。
例えば俗に、「雪景には鼠色の寒い色を使え」と言われてますが、あれは間違いだと思います。雪景山水はふつう水墨画でしょうから、墨の絵に鼠の表具じゃ絵が生きません。寒々とした感じは画家先生がその感じを出そうとして大いに努力していらっしゃるんですから、あたくしは逆に茶かなんかでいって、逆に中の絵が際《きわ》立つように心がけております。
それからあたくしは、画家の先生が着てらっしゃるお着物を配色の参考にしています。例えば大観先生なら黒い様なツムギの無地の着物、川合玉堂先生は瀟洒《しようしや》な茶の着物――、それを頭に置いて、それに近い色で致しますと、難しい先生方でも大体お気に入って頂けるようです。
山本丘人先生が、
「鶴心堂。表具の配色はどうやって定めるんだい」
ってお訊ねになりましたんで、この事を申しましたら、
「なるほどなア、うまいことを考えるもんだ」
って笑ってらっしゃいました。
さてツボの第二は、言うまでもなく中身の書画を傷つけないこと。ところが仕上げてみたらシミが出た、とか、糊を吟味しないためにあとからアクが出た、なんてこともあるんですよ。
それに表具というものは、もとより濡らして叩いて撫でるのが仕事ですから、よく注意しませんと中の絵や書を損じます。
日本絵ノ具は膠《にかわ》で溶きますが、膠は濡らしますと絵ノ具を落します。特に、赤い花なんぞを描くのに使います猩|臙脂《えんじ》は一度水を引くとパッと散ります。赤いものは散ると思った方が無事です。
それから唐墨《とうぼく》。これは膠が少ないので散りやすい。古墨も膠が薄れているので散りますから、先生によっては一度|磨《す》って、皿をあぶってから膠を入れ直してお使いになるぐらいのもんです。
そういうことがあるうえに、濡らした大きな紙を何十回となくひっくり返して仕事をするわけですから、濡れ紙のどんな大きなものでも自由に扱える技術がなくっちゃいけません。
第三に技術で、何といってもこれは糊加減です。織物地の赤を使ってアブラの強い物で表具する時には糊を濃く、古い糊は力が弱いから、力のいる所へは新糊を、しかし裏打ちしたものには古糊をなんて基本から微妙なカンの所まで、表具のコツは糊の加減にあるんです。
あたくしも昔は、糊は必ず自分で作りましてね、煮るのに使う燃料は必ず薪。それも赤松に限る、なんて凝《こ》ったもんですが、近頃はそれほどやかましくは言わなくなりました。
それでも初めまっ白なやつを狐色になるまで煮て、虎屋の羊かんのように固まってからもう一時間も煮るんです。
あとは絵に対する表具の寸法ですが、これは表具師の性格――といいますか、個性ですから、絵と使う布の色とのかねあいで、それぞれ腕の見せ所というわけです。
あたくしは「横は長めに、タテは短か目に」「絵を見せるんだ、表具を見せるんじゃない」「ビラビラ・デコデコ・ピカピカはつけない」「旧式といわれようが何と言われようが、ギュッと詰ったムダのないもの」と心がけております。
四条大橋の涼風のよう[#「四条大橋の涼風のよう」は太字]
東京へ帰って神保町に店を持って、一年半ほどしたら関東大震災で――。はあ丸焼けです。当時、職人の手間が七十銭という時に、墨光堂の師匠を見習って千五百円ぶんほどの裂地を買い込んで持ってたんですが、それを全部やられちゃったのは惜しいことをしました。
それでもお客様からお預かりしていた品の二十三点は全部からだ一つで抱いて出まして、焼いたのは竹田《ちくでん》の色紙一枚でした。
翌日、騒然としてる焼けあとを歩いて、そのお客様にお詫びに行きましたら、
「二本頼んだうち、大観が戻って来たんだってめっけもんだ、竹田《ちくでん》は良いよ」
と言って頂いてホッとしました。
途中で毎日新聞の田沢という美術記者に逢って、
「鶴心堂、まっ青な顔してるがどうした。商売はやれるか?」
って聞かれましたから、
「糊の壺は抱え出したからやれますよ」
って答えたところ、この二つのことが新聞に出ましてねえ、ハハハ。
そのあとは、大正天皇の銀婚式式典に文武百官が献上する画帖と四巻の巻物の表具の御指名が、美校の正木校長先生からあったり、先ほどお亡くなりになった大倉喜七郎さんの肝煎《きもい》りで開かれた「イタリー展」に、大観、御舟《ぎよしゆう》、百穂《ひやくすい》の諸先生のお伴をして、半年ほどイタリーを見物させて頂いたり、まアこの七十一の年までには、ずいぶんいろんなことがございました。
――けれどもこの道は、やればやるほど奥も深く、広くもなって参りますので、うかうか年もとっておられません……。
はあ、裂地もだいぶ貯《たま》りました。それにあたくし、いま裂地は京都三条の森|白兎《はくと》さんのものばかり使っております。
森さんは七十二になる方ですが、仕事が実に正直で、その草木染めは絶品です。箔のものはポッタリと厚いし、織りものは機械は使わず手|機《ばた》で丹念な仕事をなさる。古い裂地の歴史や模様にも詳しいのでいろいろ教えられることが多いんです。
はあ、最初は、イタリー展の時に、京都の師匠に裂地の相談をしましたら紹介してくれまして、その時からのおつき合いです。
良い仕事というものは、心にしみて良いもので、森さんの裂地を見ていますと、こちらもヨシ、という気になって仕事の張り合いが出てくるんです。
こういう方がだんだん少なくなるのは淋しいですね。
はい、もちろん幾ら幾らのものなどというご注文はしませんし、幾らですかとも聞きません。良い仕事は高いのが当然で、その品物にひき合ったお値段をお払いして、それを手にとって眺める時の良い気分というものはございません。
表具では鶴心堂――、日本画・掛物では鶴心堂――など言って下さる方もいらっしゃるようになった果報の一つは、こういう方の良いお仕事に支えられているわけで、あたくしより一つ年上の森さんが、元気で正直な良いお仕事をしてらっしゃるのを考えますと、鴨川にかかった四条大橋のまン中に立って、涼風にサーッと吹かれたような良い心持ちが致します。
[#地付き](三十八年二月)
多聞堂《たもんどう》四代
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岡村多聞堂[#「岡村多聞堂」は太字] 本名辰雄 明治三十七年信州上田市に生れ、十四歳、表具師原清曠堂に弟子入りして二十七歳までいた。昭和五年独立して「多門堂」開店、後に「多聞堂」と改めた。表具から額縁に関心を抱きはじめたのは戦前からだが、戦後はこれに専心、「額装」と呼ぶと共に独自の仕事を展開している。梅原、安井、岡田三郎助、靫彦、古径、蓬春らの諸大家に愛され、最近赤坂に多聞堂ビルを作り社長である。
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東京都港区南佐久間町。
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その暁の氷砕く音[#「その暁の氷砕く音」は太字]
伊豆の、修善寺の手前に、大仁《おおひと》って所があるでしょ? あすこで梅原龍三郎先生が富士を描《か》いていらっしゃるところを、はからずも拝見したことがあるんですよ。
エエ、梅原先生の御作品の額装は、あたくしがズッとさして頂いてるもんですからね、その仕事のことで伺った時なんです。
――そう、あれは終戦まもなくの、なにからかにから物が不自由な頃でしたねェ。
宿もまだ充分整ってはいない粗末な状態で、お描きになる位置の関係からか、お部屋は北向きの寒い部屋でした。
あたくしが隣室で寝《やす》んでおりますと、日の出の直前の、一月初めのひやひやと冷たい中で、隣の先生のお部屋ではもう筆洗《ひつせん》にあてたバケツに張った氷をこわしてお仕事にかかっていらっしゃる物音がするんです。
先生は、あの大作の「大仁の富士」を、富士の側面から太陽が昇る瞬間の微妙な光と影で捉えようとなすったわけですね。
時刻も、富士にかかる雲のたたずまいも、すべて同じ季節の同じ瞬間の同じ条件の時だけお描きになって三年間、そうして完成されたわけです。
あたくしは、あの、暁の氷を割って仕事をお始めになる物音が耳に残って、自分の仕事をする時にもどんなに良い教訓になっているか分りません。
仕事ってものは、意志でのしかかるような気力のいるもんですから、額装の意匠に悩んで行き詰り、投げ出したくなる時なんかは、あの、梅原先生がパリパリと氷を割って仕事をお始めになった時の、鋭い、意欲的な音を耳に思い起して、勇気を奮い立てるんです。
五千年前の昔話なら[#「五千年前の昔話なら」は太字]
ええ、あたくしが、額縁作りに専心するようになったのは戦後です。そして梅原先生から、
「額装というのは新語のように思うが中々ぴったりしている。或は岡村君の創語かと思う。……
自分は岡村君を得る前は一つ絵が出来る毎にその額縁が苦労の種であった。近頃その心配がなくなった事を独り岡村君の徳としている。……」
なんて有難い序文を頂いて「額装の話」という本を自費出版したのは昭和三十年です。
けれども、額縁に関心を持ちはじめたのは遠く戦前に遡《さかのぼ》ります。
――ええ? ええ……、あたくしのこの道に入ったのは十四の年で、清曠堂原千代吉――清曠があたしの師匠です。ここで年《ねん》が明けてからも二十七まで職人で居りました。
はあ? はあ。家内の家が祖父の代からこの商売でしてね。祖父は経鉄といって信州上田の出身ですが、徳川さんの御用を承っていたので御一新の時はお伴をして駿河へ行き、また江戸へ帰り、なかなか苦労したようです。
清曠師匠は七十八の老齢ですが、いまも元気に仕事をしています。
ええ、書画など東洋美術のほんとの修理は外国じゃア出来ませんから、カンサス市の博物館長なんという方々が、大幅《たいふく》の宗・元の絹本・巻物などを自身持参で飛行機で飛んで来るんです。
――仕事をしていると、頭も使うし体も使うから年をとらないんですね。画家の先生方だってそうでしょ? 歿年八十九、晩年ますます花やいだ富岡鉄斎を挙げるまでもなく、梅原先生の七十五歳の逞しさなんかどうです。
あたくしもうんと良い仕事をしてうんと長生きしたいもんだと思ってます。
だいたいあたしは、昔話なんかするのは嫌いです。あれは老いこみ、仕事が縮こまる元です。
日本にはまだ確《かく》たる額装スタイルというものが打ち樹《た》てられてはないんだから、何でも勉強して自分のものにし、次にはそいつを否定してまた前に進む――そうありたいと思ってるんです。
「終った仕事はタレタくそ」……っていうビローなことわざがありますけど、あたくしはこれの信奉者です。前へ前へ――。だから、昔話はこれでおしまい。
どうせ昔話なら五千年前、千二百年前、六百年前の昔話ならしてもいいです。ヘヘ。エジプト、奈良時代、足利時代、みんなたいしたもんです。
正倉院の蔵《しま》い方[#「正倉院の蔵い方」は太字]
今度の「エジプト展」を見て、あたくしは進化論を疑いたくなりましたね。人間は猿から進化したんだそうですが、五千年も前にこんなすばらしいレリーフを作ってるんだからなア――と、しばらくその前を動けませんでしたよ。
猿のどこがどうなって、何千年何万年たつとあんなすばらしいものが出来るんですかね。エジプトから五千年たっても今日の程度にしか進まないとなれば、逆にエジプトから五千年前だって相当の文化があって――、すると一万年前の人間と猿とはどんな関係になるんでしょう……。ははは、マ、そう言ってもみたくなるじゃありませんか。
五千年は昔すぎますから、千二百年前の本朝奈良時代をふりかえってみても、まことに、大変な時代ですよ。
これはあたくしの仕事にも深い関係があるし、よく書画の保存について聞かれるんでお話しするんですがね、あの正倉院の御物の保存法は、カンペキと言って良いんじゃないでしょうか。
まず第一があの校倉《あぜくら》造りです。床《ゆか》を高くして地面の湿気を吸わないようにしてあるのはもとより、あの丸太組みの隙間は、梅雨時には丸太が湿気を含むので自然にふさがってしめった外気を遮断し、乾期には乾いて痩せた丸木組みが爽やかな風を通風させる――、うまく考えてるもんじゃありませんか。
更に御物の衣類なんかの納まっている唐櫃《からびつ》は、タップリ間隔を置いて並べられ、中はと言うと、これまた大きな容《い》れ物に僅ゥかしか入れてない。
保存ってものは、あまりキッチリすると却って傷《いた》むんで、空き間をタップリとって蔵《しま》っておけば、間の空気がクッションになって外の温度の高低に直ちには影響されないわけですよね。
しかも毎年十一月の一日から五日までの好天を選んで必ず曝涼《ばくりよう》をやることに昔っからきまっていて、さらして風を通す――。
日本では、この季節が虫干しに一番良い季節なんで、書画でもこの時いっぺん虫干しすれば大丈夫一年はもつんです。
ところが今の人は殆んどこの虫干しをなさらないし物の蔵い方も忘れてしまっている――。
例えばあの、書画を入れる桐箱ですがね。昔の経師屋や美術商は、緊急の火事なんぞの時には、書画は桐箱に納めて井戸に投げ込んで逃げたもんです。
四日や五日井戸に沈めたって印籠作りの桐箱は水を通しませんし、それに万一焔に表をなめられてまっ黒に焦げたって、中身の書画はピリッともしていません。
桐ってものはそれほど火にも水にも強いもんなんです。ですから衣類の総桐|箪笥《だんす》っていうのも軽いから使うばっかりじゃありませんし、金庫の小引出しに桐が使ってあるのも火に強いからです。
ところがこれが逆になるとひどいことになります。梅雨時や雨ふりに絵を掛けて、それをそのまま桐箱に入れたら、グッショリ水気を含んだものがピッタリ桐箱に入って永久に水分が発散しませんから、夏の暑さでカビが生えるのは当然のことです。
それで虫干しもせずに風通しの悪い蔵なんかに納まっておいたらどういうことになるか言うまでもありません。
虫干し一つ、蔵い方一つでも、千年前の人はよくよく考えているんですから、いろいろ学ばなくっちゃいけません。
だから額装や軸物の蔵い方は、普通の家なら、階下の下の段や地袋なんかの湿気の多い所はぜひ避けて、押入れの上段か、出来れば二階にして下さい。
額装を入れる棚も縦の差込み式がよく、平積みに重ねると硝子や縁が傷みやすいです。またギッチリ詰め込むよりは少しでも空間を取って通風を計った方がよいことは、千年前に正倉院が教えてくれているとおりです。
額装は伴奏[#「額装は伴奏」は太字]
さて今度は、六百年前の話ですが、この足利時代というのは、「床《とこ》の間《ま》」が、「仏座」「貴人の座」から「美術鑑賞の座」に完成した時です。
左右に壁を取って横明りを防ぎ、斜めの自然光線で適当な高さと深さを持ち、これに花を添え香を焚いて書画を鑑賞する場所を作ったんですから、嗅覚まで動員しての美術鑑賞の演出――、イヤ見事なもんですよ。
そしてこの「床の間」が、僧院から茶室に、また町家にまで建築様式の影響を及ぼし、更にはそこに掛けられる書画にまで影響しながら、そのまま書画の額縁として永い歴史を歩んで来たことはご存じのとおりです。
ところが近来、特に戦後は建築がガラリと大きく変って、いわばアメリカ式のシャープさが大いに取り入れられるようになりました。
昔のヨーロッパや中国ふうのデコレーションが廃されて、建築は「住むための機械」になろうとさえしてます。アールや彫刻を施すことは無くなり、直線に、単純に、機能的に、ということになりました。
日本建築でさえもハリを見せずカモイも「ハッカケ式」で隠したり、カマチも取れば脇|床《どこ》の天袋もとって棚板一本というふうです。
洋風はもとより和風建築からも床の間が追放されそうな状態です。
こうなれば美術鑑賞の場所が移動し、表具が変ってくるのは当然で、額装は時代の要求になった、と言って良いと思います。
しかも、新しい建築にマッチした更に新しい額装が創られなければならない。あたくしはそう思って、去年の暮あたりからまた新しい試みを始めています。
建築がムダを省き虚飾を取るなら、額装もルイ式やバロック式というわけにはいきませんから、色も単純に、材質も二種類ぐらいで、とステンレスの額縁を使ってみました。この応接間の壁を見て下さい。あの奥村土牛先生の「蘭」橋本明治先生の「紙ひな」、共に内外の縁をステンレスにして、単純明快な硬質金属の線を生かし、内外の縁をつなぐ中間の装飾を工夫してみたんです。
「蘭」の方は内外の縁を、同じステンレスの軽い曲線で所々つなぎ、冷たいキリッとした中にもある柔らか味《み》を出したつもりです。これは奥村先生の御作品の、静かでデリケートな蘭の花の形と色がそれを要求するんです。
こちらの「紙ひな」には、裂《きれ》地などを張る「マット」の所に「竹屋町《たけやまち》」を張ってみました。ご覧のように、蝶の羽みたいに薄い紗《しや》です。軽い模様が浮いていて、しかも透明な紗ですから壁の地色が透き出て調和するわけです。
はは、そうですか、壁の色をこの裂《きれ》の地色だとお思いになった? それが狙いなんですよ。ほんとはホレ、こんなふうに白い透明な紗です。こういう古い布地や裂も、うまく使うと新しい味を出してくれますね。けれど勿論これは、この「竹屋町」が橋本先生のこのお作品に合う、と思ったから使用したんで、裂の面白さだけで無理に新しい試みをしてみたわけじゃありません。
あたくしは、額装はあくまで作品の伴奏だと思ってます。独唱なさる作品が更に生きるように、よくその作家の歌と曲を理解し、それが要求する伴奏をりっぱに奏《かな》でるべきだと思うんです。
諸先生列伝[#「諸先生列伝」は太字]
マットの裂地の話が出ましたが、日本画はもとより油彩画でも額縁に裂地を貼ることは前から行われ、サビのある時代裂などなかなか味のあるもんです。
岡田三郎助先生は、ヨーロッパと日本衣裳の時代裂を沢山蒐集してらして、ご自分の滞欧作品にこれを使って額装されたのが時代裂額装の最初じゃないでしょうか。
先生の晩年のお作品に時代裂を扱ったあたくしは、はじめて洋画にそれを利用することを教えて頂いたわけです。
「あやめの裸婦」なんかのお作品を拝見しても分るように、岡田先生は実にきれいな繊細な感覚の方でしたから、集めてお使いになる裂にもそれが出て、日本の物では慶長裂《けいちようぎれ》、外国のものではフランスのデリカな裂がお好きでしたね。
そこへいくと梅原先生は南方裂がお好きでしてね、それがまた先生の、特に北京時代のお作なんかにはよくマッチして、あの華麗多彩なお作と南方裂のけんらんさは、まことに良い調和をかもしました。
そもそもあたくしがこの南方裂をはじめて知ったのは昭和十五年の六月で、岡野繁蔵さんが蒐集された蘭領東印度諸島の陶磁工芸品の売り立てを美術倶楽部に見に行ったからです。
そこに並んだジャワ、スマトラ、インドの印金《いんきん》更紗やペルシャ縫い、シャム、モール裂なんかの、チンデ織のもつあの絣の美しさなんかを見ていますと、これが十六世紀から十八世紀に作られたものかと疑いたいほど新鮮でした。
素朴であらあらしくって、その輝くような美しさは目をみはるばかりでしたね。ジャワ印金のけんらん豪華さなどいうものは全く凄いほどのもので、梅原先生もこれが大変お好きでした。
それがまた「北京のための梅原か、梅原のための北京か」などとさえ言われた昭和十四年から十八年の先生の北京時代のお作にはよく調和しましたね。
ジャワ印金は、梅原先生とは画風もご性格もまことに対照的な安井曾太郎先生のお作品の「無花果」なんかの額装にも使ってみましたが、これはまたこれで、静かでいて新鮮で爽やかな先生の画風によく合いました。
ええ、お二人は全く対照的で、お仕事ぶりもそうですが、梅原先生はお食事前にはビール、間も絶えずウイスキーを召し上るのに、安井先生はお吸物にミリンで味をつけても酔っぱらって真ッ赤になるという方でした。
しかしお仕事になるとシンの強い方でしたね。
同じように静かな方では小林古径先生がいらっしゃいますけど、「古径先生と二十分座がもてたらたいしたもんだ」って言われるくらい無口な方。
冬でも画室にストーヴを置かないで、禅寺のようなお部屋に、火のいけてある八寸の手|焙《あぶ》りをお互いに一つずつ。まン中にモウセンを敷いた所に相対座して、先生は天皇陛下じゃありませんが、
「そう」
「ああそう」
とおっしゃるだけ。
あたくしは、そういう先生にこそ喜んで頂ける仕事をしよう、と、まア一城を攻めて落す侍大将ぐらいのつもりで、仕事を持っては伺ったもので、幸い長くお仕事をさせて頂いたことは有難いことだと思ってます。
亡びるものか![#「亡びるものか!」は太字]
画家が作品に精魂をこめるのはもとより、われわれ額装の仕事をするものもまた全力をうちこんで仕事をするんですから、鑑賞なさる方も最も良い状態でご鑑賞下さるようにお願いしたいんです。
たとえば位置ですが、それが悪いと部屋全体がなんとなく落ちつきません。
これは家具調度や壁面の広さ、天井の高さによる額の大小の問題もありますし、壁と額装の配色もありますが、位置や掛け方も大きな原因になります。
カモイの和額を見馴れて来たせいか、額を下向きに傾斜をつけて掛ける方がありますけど、洋間はもちろん和室でも、今日では壁に垂直にピッタリ固定した方が良いです。
柱、カモイ、畳寄せなんかの外囲いは一種のフレーム、額ですから、なるべく小品か素描を、額装の作りの細目で単純なものを、と思います。
ヨーロッパでは二段掛、三段掛をしている所もあり、アメリカの建築雑誌でみると日本の二幅|対《つい》、四幅対のように関連性のある額を相対的に並べるやり方もとっているようですが、面白いですね。
それから掛ける時には壁の湿気を注意して下さい。特にコンクリート壁は気をつけて下さい。セメンは泥だし、一階や地階はジカに地面とつながってるわけで、壁の中は水気で充満してるんです。
タライの上に絵を置く者はありませんが、見たところ固そうなコンクリ壁だと安心して掛けてしまいます。
なんでも、鉄筋コンクリートの地階や一階の水気がほんとに断《き》れるのには十八年もかかるそうじゃありませんか――。曾我兄弟なら「十八年の天津風」で、子供が大人になって工藤|祐経《すけつね》を討ち取っちまってますよ。ははは。
それからビルで困るのは冷暖房や送気口・吸気口で、あれが中央の一番良い場所を取ってしまって、絵をかける場所のないことです。
テもなく田舎の店やが時計や金庫を店のドまん中に据えてるのと同じで、そんなものを見せびらかす「貧乏人の見栄《みえ》」みたいなことはやめてもらいたいですね。
さすがにパレス・ホテルやホテル・オークラなんかは冷暖房を隠すのに苦労して設計してますが、今後のビル建築はああいうふうに願いたいです。
――そうそう、ビルの湿気のことで思い出しましたが、あたくし、やがて赤坂に「油絵のドック・センター」を作ろうと思ってるんです。
油絵っていうものは日本のような気候の湿度には弱いですからねえ。しかも戦後の冷暖房の普及で、油絵の寿命がどのくらい急激に縮まってるか分りません。
長男はここで仕事させてますが、三男はいまローマの中央研究所へ油絵やフレスコ画の修理の仕事の修業にやってるんです。その前はパリのルーブル美術館の絵の修理をしているマルセって店で五年その方を勉強させてますから、あれが帰って来たらやるつもりです。
ええ? 親子四代? そうです。権勢の座は変転しますが、権力に関係なく町の片隅で手作りでやっている名前もいれない手仕事というものは、連綿とシブトク続いて決して亡びるもんじゃアありませんよ。
[#地付き](三十八年四月)
台湾ホネ屋・陳乞朋《タンキチビユン》
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陳乞朋《タン・キチビユン》[#「陳乞朋」は太字] 一八九五年台湾台北市の額縁屋の子として生れた。二十四歳「内地」へ来て翌年東京巣鴨の「日本籐製品」に入って技術を覚えた。以来五十年、籐椅子の組み立て職人「ホネ屋」としては都内有数の熟練工である。途中三年ほど帰国した以外関西と東京の下請問屋の渡り職人となり昭和十六年渋谷の籐竹製造KKに入社してからでも四半世紀になる。奥さんは日本人で小学校の先生。
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東京都渋谷区代官山町。
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台湾、バナナ食べたいナア[#「台湾、バナナ食べたいナア」は太字]
ボク、チンよ。ちん、こう、めい。「めい」は明治の「明」書くね。「月」ふたつ書くの――。台湾の発音で「タン・キチビュン」いうね。
エ? 「明治」の「明」よ、ツキふたつ。「ホー」とちがうよ。自分の名前だから間違えないよ。
ボク、無学校。学校行かないから字、知らない。先生、迎えに来ても行かなんだ。学校きらいね、ハハハ。でも、名前、自分のだから、だいじょうぶよ、ツキふたつよ。
トシ? もうダメよ。明治二十八年うまれ、カゾエの六十九ね。トコロは台北市|宮前《みやまえ》町。台湾神社の前だから、宮前町。台湾戦争で死んだキタシラカワノミヤまつってあるのじゃナイカ?
ソウ。町の中。ボクのお父さん、ガクブチ屋やってた。でも、ボク十幾つ時、お父さんお母さん死んだ。
日本に来たの、大正七年、二十五歳ね。それまでなにしてたか――て……、それ、ちょとグアイワルイヨ。……アソンデタヨ……。
とにかく、日本、来た。ヨクネン、巣鴨の「日本籐製品」いう会社に入った。そこでこの仕事おぼえた。台湾から三人一緒に来たね、ひとり死ぬね、あと、ひとり仕事してないね。仕事してるのボクひとり。
籐の仕事、ホネ屋と、マキ屋とある。ホネ屋は組み立て、籐椅子なんかのホネつくるね。マキ屋は仕上げ。椅子の背中編むよ。
ボク、東京ホネ屋で一番古いね。ビンボーで命長いよ、ハハ。
もっとも、途中で一度、昭和九年から三年間、台湾に帰って来た。なにしに行ったかって? バナナ食べに行ったよ。ハハこれ冗談。
ソウ。バナナ、東京の、あれ、バナナじゃないね。みんな三角してるもの。台湾のほんとのバナナの実《み》、丸い。熟してよくふくらんでるから――。東京ではそんなバナナ、なかなか見チからない。
あれ、七分熟した青い時とって、船の中で黄色くさせる。だから美味《うも》ない。台湾の、バナナ、二、三本あると部屋じゅう一ぱいに匂うナ。アア台湾のほんとのバナナ食べたいナ……。
ボク昭和十二年にまた日本に来てからあと一度も国に帰ってない。もう帰らない。ウラシマタローよ。ソウ? ウラシマさんは帰るの? ボク帰らない。台湾行くだけ二十万かかる。なにやかや百万円かかる。ボクお金ない。
それに、ボク、今の会社の社長さんの世話で日本人のツマもらったからね。半分日本人よ。戦争すむまでは日本人で、みなよくメンドー見てくれたものね。
ソウ。会社、ボクが一番古いからね、社長さん、よくしてくれる。入ったの、昭和十六年。会社出来た時、戦争のはじまった年よ。二度目に日本来てから名古屋・大阪・東京の下請け問屋歩いて、そうして籐竹製造会社――、今の会社へ入ったよ。
それからでも二十二年――、選挙権ない若い日本人よりか、ボクの方もっと日本人ね。その前の時のと合わせたら、アナタより長く日本に生きてるかもしれないヨ。ハハ。
シブイシブイ、クサイクサイ椅子[#「シブイシブイ、クサイクサイ椅子」は太字]
そうね。話いろいろアルネ。なにしろ、「ドブヅケ」やってたころからの、ボク、職人だからね。
ン。「ドブヅケ」言うたら、アク出しするために、籐を、ほんとにドブに漬《つ》けとくのヨ。そうするとね、灰色のような、茶色のような、カレた色になってなんとも言えないの味出るね。
ン、ン! 「シブイ」のね、それで編んだ籐椅子、渋い渋い。けれどもクサイクサイ。ドブだものね。
ああ、なんにもしないよ。そのままにしとく、臭《にお》いとれる、それから売る。――いまはクリスで色つけるからなんでもないけど、昔はそんなこともしたよ。
ウチの会社古いから、うまい人多いね。うまい人、古い人ね。マキ屋の清水さん、三浦さん、みんなうまいね。だからウチの会社、いろんな所に納めてるね。ミチコシ・デパートのもの、たいがいウチね。
図面《ジめん》もらうと、ボク、ホネ組むね。写真見ただけでも作れるよ。ボク、この仕事、ながいからね。
そう――、ウチの会社の仕事、珍しいの、この前の南極探検の犬ゾリつくったよ。二間の長ゾリね。籐、軽くて丈夫《じようぶ》いから、便利なので南極に持って行った。
物のせるソリね。木で作ると、木はホゾでねじれてうまくないと。そこへいくと籐でまいたのはねじれに強いからね。
それから、力道山の三つ折り寝椅子も作った。昔スモートリであとプロレスの大将じゃナイカ? 目方重いからね、ホネよほど丈夫に作らないとダメね。キチンと仕事すれば、どんな重い人のっても大丈夫。
東横デパートの社長だった五島慶太サンにもウチの会社、ずいぶん納めた。病気中にもいろいろ納めた。体に熱があって痛いから、籐椅子はチメたくて気持が良いし、楽チンだからね。坐ったままヨーがたせるのも作ったよ。「ヨー」ってウンコよ。
「なおったら、籐椅子に腰かけたまま自動車に乗って、東京中を走るんだ」
言って、籐椅子も、自動車も特別のものをこしらえさせたんだけど、ダメだったね。
籐椅子は、三つ折り寝椅子に横に棒を通してかついで、そのまま自動車にかつぎこめるようにしてあった。だから自動車は、寝椅子がそのまま入るだけ広くタップリとボデーをこしらえたんだよ。
それで、東京見物が出来なかったから、五島サンが死んで、その、死んだ五島サンをウチの籐椅子にのっけて、その自動車で、東京じゅう走ってやったそうだよ。
エライ人でも死んだらキノドクね。
ああそうそう、エライ人言えば、王子製紙会社の藤原銀次郎サンのカゴを作ったのもウチの会社よ。カゴ? ええ、あのクモスケがかつぐカゴ。会社の誰かが、日活撮影所へ行って調べて来てね。藤原サンは、パルプという紙にする木の原木を、北海道に視察に行った時、山ン中でそのカゴに乗ったね。ふたりで担《かつ》ぐようになっていて、アグラかいて坐る。トノサマね。
ソウダソウダ、ウッカリしてた。エライ人では、エライ人のテッペン、皇太子サマの椅子もウチの会社で作った。大きい寄りかかりのある椅子ね。形があたりまえなので、思い出すのおくれた。シツレイしました。
冬は竹、チメたいからね[#「冬は竹、チメたいからね」は太字]
ボクのホネ屋の仕事ね、いまはホネはみんな太民《たいみん》いう太い籐つかうけどね、戦争まえから昔は竹チかった。竹、泣いたよ。
竹、来るだろ、それ、カツブシ削りみたいなカンナで、竹、回して「フシトリ」する。
今はガスで曲げるの、当時は炭火で曲げたね。この手、見てごらん。竹でやった時分のマメ、残ってて、皮一枚ムケてるだろ? 冬は竹、チメたいからね。指先割れてる……。
曲げるのも竹はむつかしいね。今の若い人には曲がらない。コツいる。それに力いるから、コツ知っててもボクにももう曲がらない。
ボク、背大きい。痩せてても力あってどんな竹でも平気で曲げたけど、もうダメね、年よ。
それでも戦後は、ホネに竹つかわないで太民チかうようになったから助かるよ。竹、虫くう。やはり、木や竹のホネよりは、太い籐の太民つかった方が仕上がりはキレイよ。
ソウ。太民いうのは、ケイ六分から八分のもの。雙棟《そうかん》が四・五分、三棟《さんかん》が三分五厘、四棟《よつかん》は三分六厘か四分ね。
丸《まる》籐はこの四種。これで椅子やテーブルの足や、腕木、モチオクリつくるよ。
マキ屋のつかうのは割《わり》籐。丸芯《まるしん》籐、半芯籐、皮籐の三つあって、タテ編み、横編み、フチ編みにつかうね。
ふつうの籐張りにチかうのは皮籐で、これで座や、背や、ヒジなど張る。座張りは、座枠の上はしの内ら側を、籐の厚さだけ欠き取って、ズーッと小穴をあけて籐を通す。ふつうタテ横に籠目《かごめ》に組んで編んで、フチにまわして編むよ。
編み方にもいろいろあるね。ボクも最初はマキ屋やらされたから、知ってるよ。
四つ目、市松、籠目、網代《あじろ》、菱《ひし》目、矢来簀《やらいす》ノ子、筏《いかだ》――。そのほか鎧《よろい》、笊《ざる》、松葉、掛《かけ》編み、いくらでもあるね。菊、浮菊《うきぎく》、牡丹、桔梗なんて、花の形の浮き出る編み方まであるよ。
巻きだって、綾巻き、筋入れ巻き、元禄なんてあってサ、昔のサムライの弓もこんな巻き方で巻いたんダロ。
「タメトモがひと矢で三艘の舟、射通して沈めてしまった重《しげ》籐の弓も、『籐でていねいに巻いた弓』ということだ」
てウチの社長サンいつも言うよ。ハナシ、シコシ、ソレタ。
ハハハ、やはりネンキよ[#「ハハハ、やはりネンキよ」は太字]
籐、シンガポールから来るボルネオ・スマトラ・ジャワのもの良い。やわくてチかいやすく、色もアメ色できれい。
仏印の籐、一番悪い。固《かつた》い。黒い。かったいなのは、タマに割れる。ボクの国の台湾からも来るが、これ、あまり良くないな。
持って重いなは固い。細工しにくくて割れる。やわいなはクシャッといくことあるし、籐はむチかしい。
でも、良いの、良いとこへ、悪いの悪いとこへ、白いの白いとこへ、黒いの黒いとこへ使う。白いのばりでもいけない。
ン。台湾の細工、あまりうまくないナ。むこう、小さい店ばかり。職人チかってやってる店ない。おやじさんひとり、手間ヒマかまわずやってる。時間かければね、良いの出来るよ。内地は、数《かず》上げねばならないからね、早く、うまく、ね。
上海、香港の人、細工うまいよ。マニラもうまいよ。日本、籐家具、明治イシンあと、中国、あっちから来た。あっち本|家《け》よ。うまいはずね。
だけど、四年まえからウチでクレハロン使い出したよ。これはもう、キレイ、キレイ。本家かなわないね。
色、なんでもある。アカ、ムラサキ、ミドリ。シンガポールから来るほんものな一番上等の籐となんにも違わない色なもある。
色ものは、夏だけでなく冬もチかえる。汚れはスグ落ちるし、色も塗り直し出来るしね、昔思えば夢みたいね。
ボクラが仕事覚えた頃は、色と言うたて、形と言うたていろいろありはしない。
一番良く売れたのは「西京丸《さいきようまる》」ね。ホラ、今でもあるダロ、ふつうの椅子で、後が丸いの。
あれは、ボクの居た日本籐製品会社で京都|三越《ミチコシ》へ出したね。そこで名前出たね。東京と大阪の三越でも一日何千本も売れた。震災まではこの「西京丸」よ。チくってもチくっても売れた。震災後もこれ売れたナ。
いろいろのものチくる様になったの、昭和なってからナ。組み合わせセットなど、出すは出してもサッパリ売れなかった。
「西京丸くれ、西京丸くれ」
言うて、お客さんは、籐家具いえば西京丸おもてた。
それからはやったのは三つ折り寝椅子ナ。昭和十六年、この会社出来てから、神田の「主婦の友」社代理部へ毎日三十本ずつ納めた。
あれは、竹曲げて背を出す。トーチ・ランプで曲げた。ハメ組みね。足は切り組み。
一本の竹、グルグル曲げて、寝椅子のウシロまで出すのやっかい。ホネ屋は、こわさないで、カド、小さく曲げるのが一番メンドー。竹、こわしても良ければカンタンよ。
これは、焙《あぶ》り方と、曲げる時の力の入れ方がコツね。シロトが焙っても曲がらない。いま、籐の太民曲げてる職人でも、竹なら曲げれないのはいくらもいる。
焙りすぎれば焦げる。焦げて固い。焙り足りなければ曲がらない。曲がらなくて固《かつた》い。どっちもダメ。
手を方くイごかすね、イごかして焦がさないようして、竹の色みるね。アブラ出て来る。出かた見るね。
それから「シャクリ」にはさんで、手早く、そして静かに曲げると曲がるね。「シャクリ」? ハイ、「タメ直し」とも言うよ。カシの木の棒、まん中に穴あいてる。ホネ屋はみんな手製するナ。
ホネ屋の道具いうたらなんにもない。
竹びきノコ、ナタ、曲げる時に欠けこみの内肉削る「肉取り」、「シャクリ」、ハサミ、ヤットコ、ランプそんなものナ。
これでうまく曲げてシナモノ作る。竹なくなって太民チかうようなって、らくになったが、それでもコーヒ・テブルの台なんか、若いひと組むとよくネジレルよ。
アレ、だえん形の輪を筒《チチ》形に積んでいくが、二尺も積むとカドがネジレて、まっすぐスキリいかないナ。上から言るとデケボクになってまってね。
ハハハ、やはりネンキよ。
ボク、淋しいないよ[#「ボク、淋しいないよ」は太字]
西京丸チくてれば良い時は良かたよ。三つ折り寝椅子、ホイキタよ。竹チかわない結構よ。足に鉄やアルミのパイプや木をチカうので、ホネ屋、らくになったおもたら違うよ。ホネ屋みな勉強せねばね。
新しいものどんどん出来てくる。毎年カタ変る。デパートの、春先の陳列、毎年変る。毎年新しい図面《ジめん》来て、新しい注文来る。新しいのチくるのむつかしい。ボク、うで立つから、なんてじまんしてもダメ。まにあわない。馴れたものなら一日三本チくれるのに、新しいもの、一本に二日かかることあるよ。
かっこいいけど、どうしても出来ない設計来ることもある。ボク、遠慮なく言うよ。
「これ、もシコシ大きく曲げるようにせねば出来ないよ」
「そうかそうか」
デパートのひと言うよ。ボク、別の時また言う。
「これいけない、これ弱いよ」
「そうかそうか」
デパートのひとまた言うよ。籐はやらかいから、木の椅子のようにはいかないね。木だと一本で立つけど、籐は一本じゃ立たないよ。
でも、デパートの「設計」のひと、無理言わないでよく聞いてくれるよ。ボクだってもアタマいたくなるくらい考えて、ほんとにやってみて、ダメだからそう言うんだからね。
ゴ互い、相談ずくでやってるよ――。
新しいものは、むチかしいけれど、やってみるとおもしろいね。
三つ折り寝椅子、安楽椅子、菊型椅子、三点セット、スツール、マガジン・ラック、どんどん新しくなっていくから、ボクの腕もどんどん新しくしていかなくっちゃ。
年とって体シコシ弱ったけど、キモチは若いよ、ボクは――。
ああ、国のことあまり思い出さない。思い出すとチョとチライからね……。
ン。新しいメンドーな仕事が終って、ヤレヤレいう時、一年に一ぺんくらい、横浜のシナ町へシナ料理食べに行く。
――東京シナ料理は、あれ、シナ料理ないよ。アナタも横浜へ行てごらん。おいしいよ。マンジューかてね、東京なとはまるで違うんだ。
そして横浜シナ町のシナ料理へ行くとね、台湾人いることもあるんだ……。
ボク、台湾言葉、まだ覚えてるからね。子供とき覚えた言葉忘れるないね――。
だから、話しごえ聞いてると、
「ア、国の人ナ!」
スグ分る。
けれどボク、話しかけないね。顔知らないしね。それに、なんだかチライね。分らないけどチライィ気していつでも黙ったままシナ料理食べてね、黙ったまま出て来てしまうよ。
なんでも、ボクの国の台湾、蒋介石、大陸から来てから、もとからの本島人、チョとチライそうナね。
やっぱし、大陸から来た人たちの方、役人や兵隊や、エライ人多いからね。
……ボク、そんな話きくとね、
「ボク、日本にいて、良かったナア」
しみじみ思うよ。
ボク、子供ないけど、日本人の良いツマいるから、淋しないよ。
ボク、もう年寄りだけど、これからも死ぬまで、この、渋谷代官山の会社の工場でホネ屋つづけて、いくチもりよ。
国に生きたより、日本に生きたほう、ボク、ながいんだものねェ。そしてそのながい生きたあいだ、手の皮むけて、新しい皮うまれたほど籐の仕事して来たんだものねエ……。
[#地付き](三十八年五月)
重《しげ》さん理事長チン談義
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藤代 重《しげ》[#「藤代 重」は太字] 明治三十四年千葉市登戸町の飲食店に生れた。十四歳で親戚の漆職人「鷲塚の猪之」を頼って上京。椅子張り開祖大河原甚五兵衛の二番弟子八木下梅吉の店の丁稚になった。二十七歳で独立、田村町に開店してから四十年。昭和三十二年東京椅子張同業組合の、同三十六年には全国組合の理事長に就任、全国「バンコ屋」一万人の統率者として睨みを利かせている。
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東京都港区芝田村町。
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ワレ チンケーナ シッテン力[#「ワレ チンケーナ シッテン力」は太字]
――年をとりますと、妙に若い時のことが思い出されますね。……それも、まとまったことや、自分の事ってわけでもないのに、例えばひとから聞いたことの端っ切れ、なんてものが、ひょんな時にひょこっと思い出されて、今度はそいつが耳についたり口をついたり、仕事をしてるといつのまにやらそのミョウテコリンな言葉を繰り返してるんですが、こんなことはほかの人にもあるんでしょうか。
ワレ チンケーナ シッテンカ
――なんのことだかお分りですか?
あたしにゃア泣けちゃうんですよ。小僧奉公の辛《つら》さってものが、この言葉にはしみついてます。
「バンコ屋」――椅子張り職人の仲間には隠語《いんご》がありましてね、
ヤツのセーデン、シカツだぜ
って言えば、「あいつ、良い着物ウ着てやがるぜ」ってことになるんですが、これはそんなんじゃありません。意味は「てめえ、『チンケーナ』って唄を知ってるか?」
ってだけのことです。これを言われたのは、関口浜次郎っていう、あたしより七、八つ上の先輩ですが、奉公のお目見えの時に、兄弟子《あにでし》からこうからかわれたんですね。
神奈川県ウミオー村|生麦《なまむぎ》なんて、例の「生麦事件」の起った村の出身だから、浜さんはもちろん、
「知らない――」
と答える。すると、先輩が「知らなきゃア教えてやろう、こんな唄よ」って、歌ったそうですよ、
※[#歌記号、unicode303d]いやだお母《か》さん 今度《こんだ》の嫁は
仕事ぎらいの 怠《なま》けもの
パカパー チンケーナ……
唄を聞いてて、浜さん、涙がこぼれたそうですよ。「チンケーナ」は、「珍《ちん》かいナ」が訛《なま》って出来た唄の囃《はや》し言葉でしょう、ポット出の小僧の新入りが、ノソノソしていて「珍《ちん》」に見えたんでしょう。「仕事ぎらいの怠けもの」に見えたのかもしれません。
けれど十二か三の子供ですからねえ。親の許《もと》を離れて、師匠の家の、兄弟子という鬼より恐い他人の中で、最初に迎えた日ですからねえ、目からハナミズが垂れたって、こいつは無理ありませんや。
なアに、唄った兄弟子たちが、いつも親方から「仕事ぎらいの 怠けものめ」と叱られていたのを、新しい小僧が入って来たんで、兄ィ風を吹かして二年兵が新兵いじめをする伝《でん》でやってみたまでのこと――、なんて考えが回るまでにゃア手先が霜焼けで崩れるあと、ぐらいまでの時間はかかります。
――一念|発起《ほつき》、この浜さん、十八歳で二十の兄弟子を連れて、品川の遊廓《ゆうかく》に登楼して酒をのんで、今度は自分で
パカパー チンケーナ!
って大声で唄ったってえから、出世? したもんです。
けれどもね、登楼する前のくら闇で、肩のシツケ糸を取ってアゲをおろしてから、妓夫太郎《ぎゆうたろう》に、
「オウあんちゃん、登楼《あが》るぜ!」
と言ったんだそうですから、「こいつア大笑いさ」と後年《こうねん》自分で笑ってました。
ワレ チンケーナ シッテンカ……
あたくし、金槌で釘の頭なんか叩いている時には、ついこのフイフイ教の唱《とな》えごとみたいな文句を、頭ン中で繰り返しちまってるんですよ。
――それというのが、あたしも小僧からの叩き上げですからねえ。
今でこそ、「理事長」だなんて肩書きを頂いて、東京の組合の長は六年まえから、全国の組合の方でも二年になりますが、はじめてこの社会に入ったのは、本年六十二歳ですから四十八年まえ、十四歳のはなたらしの頃なんです。
二十三銭也で上京[#「二十三銭也で上京」は太字]
あたくしの生れは千葉なんです。いまの千葉市登戸町。うちは飲食店をやっていましたが、父の従兄弟《いとこ》に「鷲塚の猪之《いの》」ってえ小父《おじ》さんがいましてね。
本名は岡本猪之助ってえ立派な名前があるんですが、神田の「鷲塚」っていう漆屋の職人をしていましたから、人呼んで「鷲塚の猪之」。
――っていうのが、この小父さん、背《せい》は小さいし、酒ときたら猪口《ちよこ》に一杯のんでも胸まで赤くなっちまう下戸《げこ》なんですが、「山椒《さんしよ》は小粒だッ。」ってわけで、喧嘩ッ早いのなんの。小さい背中に、倶利迦羅《くりから》もんもん、凄いような「昇《のぼ》り竜・降《くだ》り竜」の刺青《いれずみ》をしていましてねえ。
「腕なら、仕事のウデでも喧嘩のウデでも、どっちでも持って来やアがれ!」
っていう方でしたから、わりかし顔も通っていました。
あたくしは学校が嫌いで、この小父さんが東京から遊びに来るたんびに「奉公がしたい。奉公がしたい」って言ってましたから、「ヨシ」ということで、高等小学を出るとすぐこの小父さんの口利きで、師匠八木下梅吉の所へ小僧に入ったんです。
どうして鷲塚に世話をして貰わなかったかって言いますと、
「身内のいる店は当人に我儘《わがまま》が出ていけねえ。それに、なんでも椅子張り屋は、今度の御大典《ごたいてん》の時に、えらく儲《もう》けやがったそうだぜえ」
ということからなんです。「御大典」っていうのは、大正天皇の御即位だったか御結婚でしたかね。
そこで汽車賃を二十三銭也、払いまして、千葉から両国駅へはじめて着いたんです。ところが、迎えに出てくれるはずの猪之小父さんが、どんな手違いからか来ていない。
土産《みやげ》の、砂詰めの海老《えび》の入ったバスケットを膝にのっけて駅のベンチでベソをかいてますと、人力《りんりき》車の車夫が寄って来て「あんちゃん、どうした」と聞いてくれました。
こうこうしかじかで、小父さんの家のある天現寺《てんげんじ》まで行きたいんだが西も東も分らなくて困っている――ってわけを話しますと、「乗んな」ってことで、腰かけにかけさせてくれた上、毛布で膝を巻いてくれました。
自分の稼業《かぎよう》になった椅子張りの、元祖の横浜派に対する「東京派」は、この人力車のふとん張り職人が転向して始まったんだ、なんてことは、もとより知ろうはずもありません。
車夫は溜りまで車を引いてって、その車宿の親方が「天現寺まで四十五銭」と定めてくれました。
途中、草ぼうぼうの原っぱに通りかかったら、車夫が、
「オウあんちゃん、此処に『東京駅』ってえ、でっけえステンショが出来るんだよ」
と自慢げに説明してくれたのと、いまにして思えば芝公園で、車を止めてどうにも辛抱が出来なくなったオシッコをさして貰ったのを覚えてます。人間てなア変テコなことはよく覚えてるもんですねえ。
それと、やれ嬉しやと小父さんの家についたら、車夫がイロをつけてもう五銭くれ、って言ったのを、
「なによゥ、見損なうねえ、鷲塚の猪之だぞ」
って小父さんが腕まくりして追い返したのが、昨日のことのように鮮《あざ》やかです。
「馬丁」のごとく「馬」のごとし[#「「馬丁」のごとく「馬」のごとし」は太字]
十一月三日――。「菊薫る天長節」――、大正に変ってほんの間もないこの頃は、この日はスグ、学校で紅白の餅をくれた旗日を思い出しちまうんですが、後の「明治|節《せつ》」、いまの「文化の日」、あたくしは椅子張り屋の小僧奉公に入ったわけです。
「旗日」も「文化の日」もあらばこそ、「チンケーナ」でからかわれなかったことがせめてもで、たちどころに絣の着物はひん剥《む》がれて「裏返し」の半天におさがりの腹掛|股《もも》引、と、なんとも「非文化」な姿にされちまいました。
最初にやらされた仕事は、昔の丁稚《でつち》小僧なら誰でもがやったランプ掃除。まだ電燈《でんき》の数の少ないころで、奥の座敷の電燈を、仕事の時には細工場へ引っぱって来てしまうので、座敷の方がランプになりますからそいつのホヤ掃除です。
これが終ると馬毛|梳《す》きです。上下に釘のある板に三尺からある馬の毛をひっ掛けて、それに踏ンまたがって櫛で梳くんですが、これが夜業になるともっとひどい。
霜|凍《こお》る冬の夜でも、小僧は表で馬の毛ほぐしです。馬毛は椅子の詰め物で、ほごす時のその煙の濛々たるや、まったくひどいもんです。
上物《じようもの》は、特に弾力をつけるためによじってあるんで一層めんどうですし、また時には舶来の、船のマットレスの中の馬毛ほぐしなんかもさせられて閉口しましたよ。
詰め物にはワラもありますからね、空の米俵と取っ組んで悪戦苦闘してほぐさなくっちゃなりません。
ワラをほぐしたり、馬のタテガミやシッポを梳いたり、まるで馬丁《ばてい》の見習いになったようなココロモチでした。
関東大震災まではね、椅子なんてものは、一般じゃアあんまり使わなくて、それこそ「社長の椅子」で、外人だの宮様だの、社長・重役なんて人がお使いになるんだから、その仕事もキレイゴトなんだろうぐらいに思ってたところ、どうしてどうして、馬のタテガミに踏んまたがったり、米俵と取っ組み合いをさせられたんですから、この世をハカナミましたね。
そんなのはまだ良いんです。「馬丁」ならば人間ですがね、まさに「馬ソノモノ」みたいな心持ちにさせられちまう作業があるんです。
そいつは「バネ糸|解《と》き」って言いましてね、椅子のスプリングを綴じるのに使う糸をほどくんですが、これは郵便局で収納庫かなんかの頑丈な荷作りに使ったものらしくって、物凄く固くコゴリついているんです。
しかも、解《と》けないようにってんでしょう、塗料や瀝青《チヤン》で固めてあるんです。指じゃア解けませんから歯を使います。
歯を剥き出してバネ糸に食いついてる図なんてものは、これはテもなく「馬」ですよ。
――かと思うとね、ユウにやさしい作業もあるんですよ。「運針」ってえましてね、ええ、あのお裁縫のウンシンとおんなじことです。
「針を使えなきゃア良い職人にはなれねえ」
って言われまして、夜なべには毎晩運針の稽古です。しかも、「糸と布とがもったいねえ」というんで、糸のついてない針をチクチクチクと運んじゃア、ツーとしごいて、布にあいてる針穴の間隔《かんかく》が揃ってるかどうか見るわけなんですが、糸のついてない針で縫うってのは、いかにも張り合いのないもんですよ。
囚人《しゆうじん》の刑罰《けいばつ》に、一つのバケツの水を別のバケツに移す、それを何百回でもくり返させる、ってのがあるそうですが、マ、そんなムナシサですね。
稽古の布は椅子に張った布の落しぎれなんぞを使うんですが、ないしょで天竺木綿《てんじく》を買って来て、刺子《さしこ》に刺してサルマタを作って怒鳴られたこともあります。
囚人じゃアありませんや、ひと晩じゅうチクチクのツーとやってなんにも出来ねえ、なんてばかなことがありますかい。
ね、右手の中指のこの節《ふし》ン所が輪になって凹《へこ》んでるのは、その時以来の運針の、金《かね》の指貫《ゆびぬき》をはめたあとですぜ。だから今だって単衣《ひとえもの》や襦袢《じゆばん》の一枚ぐらいなら、女房の手を借りずにチョコチョイと縫えますよ。
まったく昔の職人は、なんでもやらされたもんで、ジュータン・リノリューム・カバー・カーテンなんてものは、椅子張り屋がやったもんです。帝国ホテルの室内装飾を最初に全部やったのは、「チンケーナ」の関口浜次郎の師匠、八木下常吉ですよ。
だから昔は、
西洋家具室内装飾椅子蒲団張業
って看板を出してたぐらいのもんです。まるで「サキノカンパクダジョーダイジン」みたいにデラ長くって、区切って言わないと舌を噛みそうですが、ほんとにこのとおり何でも屋でやれる腕を持ってたんだから仕方ありません。
はっきり分業になったのは震災後でしょう。横浜なんて、いまだに一緒にやってます。
落語の金馬《きんば》が、修業中に笛の稽古をさせられて、シンの夜中に表の通りを、
ピ、ピ、ピーヒャララ
ってやって来たら「うるせエッ!」って怒鳴られて危うく撲られそくなったってえ話を高座《こうざ》でしてましたが、昔は職人がなんによらず広く稽古をさせられて、そのことが自分の本業を深めるのに役に立ったんでしょうね。
時の流れで分業も結構、専門化で深めるのも良いことですけど、「広く知らなきゃ浅くなる」ってことだってあるんじゃないでしょうか。
元祖大河原甚五兵衛[#「元祖大河原甚五兵衛」は太字]
さて、「馬丁」も「馬」も「チクチク・ツー」も卒業して、あと弟子が来るころになるとやらされるのが「底張り」の釘打ちです。
指を叩きつぶすぐらいはお安い御用で、口に含んだ平《ひら》三|分《ぶ》針を、うっかりした拍子《ひようし》に呑んじまうこともあります。一ぺん転んで三十本ほど一緒にゴクンとやっちまったことがありました。
「呑んじゃいました……」
ってったら、
「鉄はクスリだ!」
って言われてそのまんま――。その日は、「どこかやぶけやしないだろうか」と一日気持が悪かったですが、別に胃袋に穴もあかなかった所をみると、やっぱり無事に出るべき所から出ちまうんですね。
――釘打ちも、戦後はマグネット・ハンマーなんてものが出来て、金槌の頭に釘を吸いつけさせて叩くんで、ケガもしないし早くもなった、なんて言われてますけど、あたくしはあいつは使えません。
使えないのを自慢にしてる所も少しはあるかもしれませんが、口から、つまむ、叩く、って方が、あのデンキより早いんですから仕方がないでしょう。
マグネット・ハンマーは、外国から輸入されたリノリュームの荷の中に、それを截《き》る刃物と一緒に入って来たのが最初だと思いました。
「バンコ屋」の工具ってものは僅ウかで済むもんです。椅子の木地《きじ》職なら、鋸も金槌も、ノミ・カンナも数種類いるし、積んだらリヤカー一台ぶんは充分あるでしょう。
そこへいくとバンコ屋は、風呂敷にクルクルと包んで持って歩けるくらいのもんです。金槌、鋏、「截《た》ち切り」ともいうスキ刃、巻きワラの土手《どて》を直す「かき出し」ギリ、両頭針にハガシと引き板ってところですからね。
ええ、「引き板」ってのは、なんの変哲もないもんですが、スプリングを立てる底麻を強く張るための、テコ応用のうまく考えた工具です。それから大型物の時だけミシン。
タッタこれだけの道具で椅子の台輪に力布を張り、そこへスプリングをバネ糸で吊り上げて、シートをかぶせ、土手布を刺したら下ごしらえは出来上り。詰め物をつめて下張りをしたらバッグを張っておしまい、という、工程は至極簡単です。
けれどもどうしてどうして、椅子張りの命は、「掛けぐあいの良さ」っていう、分ったような分らないような微妙な所にあるんです。
どこがどうとは言えないけれども、腕の良い職人が心をこめて張った椅子というものは、第一に、それぞれの形に応じた弾力性があって張り上りの線が美しい。
そしてその接触感というものは奥深くってデリケートです。
形が簡単で広く愛用されている「深張り」という、事務用・応接用のあれでさえ、技術者の腕の見せ所とされているならば、安楽椅子やソファの前アオリ、三方アオリ、スツールなんかの四方アオリとくると最高の技術者が一心にやったって、会心の仕事ってものはそうポカポカ出来るもんじゃアありません。
あたくしも、二十七でこの田村町に店を持ってからでも三十五年、毎日毎日が研究と勉強でした。この仕事を明治の初年にはじめた先輩たちのご苦労はどんなもんでしたろうね……。
ええ、物の本によりますと、
「明治初年、横浜に百貨店『五十九番館』開店せるところ、家具屋の経験ありしE・G・A教師某、布地を購入にゆきし折、店主コールソン氏に椅子張りをも開業されては如何と言われ、同五年バンコ屋を開業」
とありますからこれが最初かもしれませんが、同じ五年には大河原甚五兵衛が開業しています。
この人が日本人の椅子張りの元祖で、なんでもホテルのボーイをしていて、器用で壊れた椅子の直しをしていたのを、外人から正式に習って開業したんだと聞いてます。
「甚五兵衛」なんてものものしい名前は、ボーイはもちろんバンコ屋にも向きそうもないと思うとそうではなく、この人が十二人の弟子を仕上げ、私の師匠はこの人の二番弟子です。
ほかに通称「馬具安《ばぐやす》」こと原安造が五人の弟子を仕立てて、これらの人々がいわゆる横浜派をつくり、そうしてあとで芝へ進出して東京派と合流、今日の隆盛の基礎が生れたわけです。
今日、全国のバンコ屋一万人、東京の港区だけでも百軒はありますが、それもこれもみんな「甚五兵衛さん」以下請先覚のお蔭です。
けれども、組合の理事長と致しましては、「全国バンコ屋一万人」とばかり威張ってもいられないんです。
――というのが、「人つくり」でやかましい政府が、椅子張り業は、まだ一本の職業と認めて技能士の国家試験を受けさせてくれないんです。
椅子張りという職業名は、税務署まではありますが、労働省には登録されていないんです。労働省の方には「船舶家具の内張り」ってのはありますけど、「椅子張り」はゼイムショしかありません。
ゼイムショで認めて下すったのは、ありがたいような、ありがたくないような……へへ。
それで全日本椅子張同業組連では組合として独自のテストをして、昨年は四十二人、今年は二十八人の合格者を出しましたが、今年はどうしても労働省にかけ合って認めてもらって、国家の技能士試験をやってもらおうと思ってるんです。
木地の椅子作りには今年から技能士試験があるんですよ。ままッ子あつかいはひでえじゃありませんか。「張ってない椅子」が「椅子」って言えますかい、ねえ!
[#地付き](三十八年六月)
首がついてた辰次郎
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筒井辰次郎[#「筒井辰次郎」は太字] 明治二十五年博多で生糸商番頭の三男坊として生れる。八歳、父が横浜へ引揚げて生糸の仲買商を始めたが失敗。十一歳で母の甥坂巻宗三に丁稚奉公。二十歳、三越家具部の椅子張り職人となり翌々年上野の展覧会で金椅子が一等入選。二十三歳大正天皇御料車の中張り。続いて京都ホテルの仕事などの後二十六歳で独立、横浜元町に開店。開港記念館、李王家などの仕事がある。道楽の清元は志寿《しず》太夫と同門。
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東京都港区西新橋。
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数えの七十二歳です[#「数えの七十二歳です」は太字]
サ、どうぞ、お入り下さい。イエ、大丈夫です。こいつは吠えるだけで、食いつきゃしません。コラッ! お客さんだゾ! 大丈夫です。警察犬で、訓練してありますから、命令、スグ聞きます。
「お坐りッ! お坐りッ!」
――坐りませんね……。でも、大丈夫です。図《ず》ウ体《たい》が大きいだけで、食いつきません。念のために、皮の口輪《くちわ》も掛けてありますから……。
「お黙りッ、お黙りッ、やかましいゾッ!」
言うことを聞かない時は頭を叩いてやります。……叩いてもダメですね。イヤそのうち静かになります。馴れると安心して唸《うな》らなくなるんです。
へ、お尋ねの筒井辰次郎です。唸るんじゃない! こう、叩いて、やりますと……やめませんね。そのうち、やめるでしょう。
ア、それは文鳥です。ヘェ、「手のり文鳥」なんですが、サッパリのりませんので、そうして籠ン中に突っこんであるんです。
へ、梅酒《うめしゆ》です。あたしが作ったんです。おいしいですよゥ、上ってみて下さい。夏はこいつに限ります。それにしても毎日お暑いことですねえ。どうです、この毎日の暑さ……。
どうもお暑いところをご苦労さまでしたね。
椅子張りのバンコ屋が、まさか中華菜館「同発」なんて店の、四階に住んでいようたア、お思いにならなかったでしょう。
ヘェ、あたくしが大家《おおや》なんです。こんな管理人室みたいな所に押しこめられちまってますが、少しでも余計貸そうと思って欲ばるもんですから、こんなことになっちまって、――ご窮屈で済みません。
田村町の交叉点っていう場所柄、新橋・銀座・丸ノ内を控《ひか》えて、貸事務所にと思って建てたんですが、中華料理店が最初に借りに来ちまったもんですから……。
――イイエあなた、金なんてあるわけのもんじゃありません。たかがシガナイバンコ屋ですからねえ。借金で建てたんですよ。店が、空襲でまる焼けになっちまったもんですから、そのあとにね……。
ハイ、工場は芝園橋の方にあります。
エ? アア、年は明治二十五年生れの数えの七十二歳です。
ええ、仲間はみんな死にましたねえ……。
――四、五年前にね、仲の良かった友達の消息をね、風の便りにチラッと聞いたもんですから、仕事の暇を見て茨城まで訪ねて行ったんですが、あなた、もうとっくに、十年も前に水戸の養老院で死んだ、ってことが分ったんです。養老院でねえ……。
バクチも好きなら、女も好きって男でしたが、腕も滅法《めつぽう》良い男だったんです。なにも養老院で死ななくったって良いじゃありませんか、ねえ……。
先ゆきのことを考えておかないと、職人ってものは可哀そうなもんでしてねえ、体が元手ですから、こいつがいけなくなりゃ、もうダメです。
腕に覚えがある、手にワザがあるってことが一番強いように思って、「お天道様と米の飯はついて回らア」の、「宵越しの銭は持たねえ」のと、若い時は本気でそう思いますが、それは、職人なんてものは、宵越しの銭を持てるほどは稼げないシガナイものだ、ってこと、それに気がついた頃には体が利かなくなってお天道様も米の飯もついて回らなくなっちまって養老院――、ってことになるんです。
年をとって、歯が抜けるようにだんだん昔の友達が欠けていって、それもスッカリ落魄《らくはく》して死んだ、なんてのを聞くのは、イヤーなもんですよ。
首が付いてりゃ命がある[#「首が付いてりゃ命がある」は太字]
――落魄っていえば、あたくしがこの「張り屋」の世界に入ったのも、父が死んで家が落魄したからなんです。
父は、博多で義兄の生糸商の番頭をしてましたが、あたしが八つの年に東京へ引き揚げて来て、横浜で生糸の仲買いを始めました。
幸い商売はトントンといって、番頭だけでも五人、女中が三人、電話が三本というぐあいに繁昌したんですが、あたしが尋常四年を終った年に病死してしまいました。
ああいう商売は、ご存じのように当人が派手にやっている間はそれで結構問題もなく店も張っていけるんですが、それが死んだとなると、もう薄情なもんです。
店は取られる、家屋敷も取られる、もちろん電話なんか一番先です。この電話の番号が横浜の八○六番七番八番で、今でも「江戸ッ子」っていううなぎ屋で使っているんで、懐しいままに横浜へ行くとここの鰻重《うなじゆう》を食べに入ります。
けれど当時は鰻重どころじゃありません。これからどうするか、というわけです。幸い長兄は蔵前《くらまえ》の高工を出て八幡《やはた》製鉄の技師になり、次の兄は慶応を出てのちに三井物産に入ってニューヨークの支店に勤めるようなことになりましたが、尋常小学の当時四年というのを終ったばかりのあたくしは、あとから生れたばっかりに大学どころか中学へ上げてもらうことさえ望めなくなりました。
そこで、母の甥《おい》に当ります坂巻宗三に丁稚《でつち》奉公に入ったわけです。これがあたくしの十一の年です。
この坂巻っていいますのは、日本バンコ屋の元祖、大河原甚五兵衛の一番弟子で、腕の良いのも滅法《めつぽう》ですが、口やかましいのも滅法で、
「血につながる親類だからこそ、余計ブチ叩かなくっちゃお他人さまの弟子たちに相済まねえ」
って、イヤ義理ガタイのなんの、遠慮|会釈《えしやく》なくブチのめしてくれました。
それにまたあたくしの母親と来ましたら、これまた輪をかけた昔者で、
「奉公ってのはそういうもんだよ。首が首根ッ子についてるうちは、まだ命があるんだ、男のくせに泣きごとをお言いでない!」
ってわけで、年二回の藪《やぶ》入りに帰ったって、叱られに帰ったんだか何のために帰ったんだか分りゃアしません。シトーばかにして、ねえ、首根ッ子から首がコロガリ落ちるほどブンなぐられてたまるもんですかい、ねえ……。
「もう、九時だよ、九時だよ」
って、タマの宿下りにも、帰る時間を追い立てるんですが、こっちももう他人の中でもまれてますからねえ、母親の胸のうちを見透せるくらいにはマセてます。何気ない顔して、
「ン」
とか何とか言って、何気なく帰ってくるほどの才覚は出来ました。けれど外のくら闇に出ると、ツーンと鼻の奥がキナ臭くなって、そして今ごろは母親もちょうどおんなし思いでいるだろうってことが、痛いくらいに分りましたよ。
神棚に上げた十五円[#「神棚に上げた十五円」は太字]
坂巻には十年おりました。大正元年あたくしの二十の年には、三越にはじめて家具部が出来ることになり、そこに呼ばれて参りましてね。最初が弁当持ちで七十銭、六年いてやめる時にやっと一円三十銭になりましたかね。
それでも、東京駅の左側にあった三越の加工部まで通《かよ》う省線の電車賃が、新橋から一年分三円六十銭。二回目からは割引で三十六銭五厘引いてくれるってえ時代です。
だいいちみんなの通勤姿っていうのが半天腹掛で、冬はモジリっていうんですから意気なもんでしたよ。
そして二十人の職人の宰領《さいりよう》が切石《きりいし》の豊《とよ》さんていう、当時三十四、五の睨《にら》みの利いたニイさんで、この豊さんの発案で互いの仕事にみんなが検査官になって文句をつけ合うなんてことをして仕事に励《はげ》みましたから、ずいぶん勉強になりましたね。
「辰公、この詰め物は少ゥしムラがあるようじゃねえかい」
なんて、ほとんど分らないムラを探し出してチャンをつけるんです。腕自慢の連中が、自分の時にはピリッとも言わせまい、他人の時には鵜の毛のキズも見つけて目の利く所を教えといてやろう、というんですから、出来上りはイヤでも立派な仕事になります。
結局男を挙げたのは宰領の豊さんだ、なんだ詰らねえ――なんて当節なら言うところでしょうが、昔はみんな本気に張り切ってやったもんです。
三越へ入った翌年は、初代の寺内元帥が総督になって、朝鮮総督府を作ることになったもんですから、呼ばれて石川貞太郎という男と二人で京城で一カ月、総督府の椅子張りをして暮しました。
いいえ、特別に面白い思い出なんかはありませんが、路地を通ると板を渡して用を足して、その出た物を豚に食わしているムナクソの悪い景色を見てキモをつぶしたのを覚えてます。
二十二歳で上野の展覧会へ、三越を通じて金椅子を出品してこれが一等に入選したのは嬉しくって今でも忘れません。
ハイ。フランス型の猫足で、長いのと肘かけと小椅子、テーブルで、金箔《きんぱく》を施してあるやつに、釘を打つと「ビリ」が来るように薄い布で張ったんです。
そんなことでお目にとまったのか、翌年、大正天皇の御料車の中張りの仕事に選ばれました。
もう一人が「チンケーナ」のご存じ関口浜次郎。浜さんは皇后様の車、あたくしが天皇様の方をやることになりました。
これは二人掛け四尺の張りくるみの長椅子で、外でやって持ち込むわけには行かないので、木地屋からはじめ中で作業をさせられましてねえ。
場所は新橋の汐留駅なんですが、今みたいにコセコセ狭っくるしい所じゃありませんでした。
仕事は朝の十時から夕方の四時まで、夜は十六の菊の紋がついた覆いを掛けちまうんです。
ヤ、やかましいのなんのって! 技師が付きっきりでね、一々寸法を計っちゃア文句が出るんです。土手《どて》をつけただけで終り、なんて日もありましたよ。
詰め物の馬毛も、イギリス直輸入のまッ白な毛で、厳重な消毒が施してあるっていう代物《しろもの》です。
期限の二十日間を通《かよ》って鳳凰《ほうおう》が織り出しになっている京の西陣で張って無事仕上げましたが、あとから当時の東京市長尾崎行雄さんから、「ご苦労だった。記念品をやりたい」という話があったとかで、その仕事を請けた小沢慎太郎さんが配下の木地、布、塗師、張り屋なんか十人以上を連れて宮内省へ出頭しました。
頂いたものは金一封と塩瀬の御紋章入りお菓子、それに鳳凰のふるしきでした。ハイ? 金一封というのには酒肴《しゆこう》料五円と御膳料十円が入ってましたね。
ほかに一日一円の手間は出てるんですし、米一升二十銭ぐらいの時分で物価の安い折からではあり、なによりも、忝《かたじけな》さに涙コボルル――って時代ですから、もうもう誰も文句を言う奴なんてありゃアしません。まず神棚に上げて柏手を打って――ってなもんでしたよ。
恐縮ながら旅費拝借[#「恐縮ながら旅費拝借」は太字]
そうそう、京都ホテルの張り替えの仕事をしたのもちょうどその頃ですね。あすこは外国の皇族なんかが見えると必ずお泊りになる場所なんで、改装中休業になる従業員にも半年近くタダで給料を払うというオーヨーさなんです。
あたくしも盆前に行ってから九月近くまで、丸太町に半年近くも宿をとって、しまいには少しは馴れましたが、こっちはザッカケない職人だし、先様《さきさま》はミヤビな京都弁で、全く閉口しましたよ。
だいいち、最初に七条駅に降り立って、三越を聞いたら、
「北へノボッテ、南へサガッテ、あちゃへお行きやしてこちゃへおいでやす」
ってわけで、どうにもこうにもなりゃアしませんや。「ノボル」にも「サガル」にもまっ平らな道なんですからねえ……。
それでもお蔭さまで仕事は順調にいきまして、当時は椅子張り屋でもジュータン、カーテン一切の心得を仕込まれてますから、そういう仕事もみんな致しました。
あすこは当時カーテンにしても三枚掛けで、一番下が富士絹、次にレース、最後に緞帳《どんちよう》を重々しく取りつけて垂らす、って式です。
椅子もこれと同じ布地で張って、またそれと同じ布を裏打ちして経師屋が壁に張る――、マア「統一をとった」というわけなんでしょう。
椅子の張り具合もなかなかやかましいもんでしたが、三越は当時ロンドンから本場の椅子を取り寄せちゃア剥《は》がして研究したくらいですから、文句の出るわけはありません。
エ? そうなんです。当時日本では、パンヤさえも作れないでシナから輸入してるという状態でしたが、ロンドンの椅子は立派でしたねえ!
軽ウく腰かけてから立ってみますとね、フワーともち上る。手でちょっと押すと柔らかく受けとめて、離すとフワーともどる。柔らかくって力があって、そしても一度柔らかくって、なんてんですからねえ。昔の講釈《こうしやく》に出てくるシナの美人の肌ってのがあんなもんだったんですかねえ。けれど人間の肌じゃとてもああはいきますまい……。
それもそのはずで、剥がしてみて驚いたんですが、詰め物には鴨の羽毛が使ってあるんです。しかもそれが揃って胸毛ばっかりで、ほかの所は使ってない。
ためしにひとひら取って軽ゥくフッと吹いてみると、どこまでもまッすぐ舞い上っていく――ってわけなんですよ。
これじゃアいかな女の肌もかないますまい。こんなのを研究して、羽も舶来品をとりよせて、スプリング、テープ、布地も輸入品を使って、当時三越は仕事をしてましたから、どうやら仕事も無事にやり上げて、「ご苦労」というので三越の家具部長の田中忠三郎さんが、一夕《いつせき》慰労の宴に招待してくれました。
場所は鴨川河畔の料亭「魚清《うおせい》」で、鴨川に突き出した座敷には青|簾《すだれ》に提燈もともっていようという――、前には珍しいスッポン料理から二の膳、三の膳がズラリと並んで、きれいな芸者衆も三、四人は来て、あたくしの印半天と盲縞《メク》の股引姿を見て、
「東のお職人衆のなりは、スッパリしていてやっぱりよろしおすな」
なんてうまいお土砂《どしや》もかけるんですが、どうもこっちは落ちつかないんです。
――と申しますのが、実は、みんなの帰りの旅費を預っていたあたくしが、「頼む頼む」で拝み倒されて、みんなに野放図に貸し出しちまって、帰りの旅費が無くなっちまってたんです。
もちろんあたくしも若気の至りで、祇園《ぎおん》の京女の胸のふくらみが、ロンドンの鴨の胸毛とおんなしに柔らかく思えましてね、「倍の八十銭払えば回しはとらねえのか」なんて大尽ぶったお恥しいこともありましてね、へへ。
へえ、およばれが終ったあとで、あたくし、男ぶりの悪い思いをしましてね、蛸薬師《たこやくし》の田中部長さんのお宅へ旅費拝借を願い出ましてね、それでどうやらやっと帰って参りました……。
――あれもこれも、五十年も昔の話ですねえ……。
昼は歯を食いしばって[#「昼は歯を食いしばって」は太字]
二十六で独立して横浜の元町に店を持ってから、八年後に関東大震災で焼け出されるまで、道楽もしないでよく働きましたね。
手間取り職人じゃなくって、稼げば稼ぐだけ自分が儲かって、店が大きくなって行くっていうのは、これは何とも言えないウマ味のあるもんで、ナマじっかな道楽よりは稼ぐ方がよっぽど面白かったんです。
開港記念館の長椅子三百本、ホイ来た、李王《りおう》さんの貴賓室・食堂・応接・スモーキングルーム計見積り二十万円、ホイ来た! ってあんばい式です。
注文のうるさい外人のお客には特に文句を言われないように、カタログもドイツ・フランス・イギリスから、出来るだけ手に入れましたし、注文の十分の一の図面を木地屋と夜明かしで頭をつき合わして相談したことも何度もありました。
昔の張り屋は、道楽もしたけども仕事もしましたよ。昼は歯を食いしばって仕事をして、夜は酒で呑みつぶれても、次の朝は時間にはケロリとして仕事にかかってましたね。
道具なんかもみんな自分で作ったもんです。今はカッコいいのを売ってますが、やはり自分のクセに合わせて手作りしたものにゃアかないません。
ハイ、両頭針なんか、洋傘の骨で作るんです。反《そ》り針も三寸針をローソクの火でこう、焙《あぶ》りましてね、ヤットコで自分の仕勝手に良く曲げるんです。
截《た》ち庖丁だって鋏《はさみ》だって、ドキドキするようなやつをみんな四、五梃は持ってました。ハイ、截ち庖丁は、皮スキをガラスの上でやる時に使うんです。
十坪の山羊《やぎ》の皮、五十坪の水牛の皮、なんてものを昔は自在に剥《は》いで縫って皮椅子を張ったんです。
外国から皮つきの鋲が輸入されるまでは、山羊の皮をどうやって薄く剥《む》いて打ち抜いてノリで張るか、なんて苦労もしたし、ドイツ人が持って来た牛皮の家具の角《かど》に折り目がないのは、あれは確かに機械で押したんだが、サテそいつを機械なしでどうしてやるか、なんて頭を絞《しぼ》ったりも致しました。
――それもこれも、初期創成のころのたのしい苦労で、東京へ移って敗戦の年に二度目に丸焼けになっても、性コリもなくこの年までバンコ屋を張り通して来たのも、やっぱり祇園の女の肌よりも、鴨の胸毛の坐り心地をどうやって出すかの方が、あたくしには面白かったんでしょうねえ……。
イイエとんでもない、そんな仰言られるような隠し芸をあたしが持ってるわけがないじゃありませんか。
志寿太夫《しずだゆう》? 同門だなんていったって、横浜であの人が経師屋の小僧をしてた時に、バンコ屋の小僧のあたしがおんなし清元のお師匠《しよ》さんに一緒についたというだけですよ。
あちらは名人、こちらはメイの字の違う方のメイ人で、あたしが唸るとうちの犬も唸るんで閉口してるトコロなんですよ。
実は若い手間取りの頃に、下宿していた家が水木流のお師匠さんで、二年ほど稽古をしましたが例の京都ゆきでおヤメ。横浜の元町で持った店の隣が検番で、また少しやりましたが、この二年は坂東流を少しお稽古しております。
――へへ、実は今月二十八日に、新丸ビルで「浴衣《ゆかた》温習《ざらい》」がありましてね、あたくしは常磐津の「鰹売り」と「五万石」をやることになってるんですが、年寄りのヒヤミズで、キクラ疝気《せんき》でも起すといけないから――って婆さんがうるさいんですよ、へへへ。
[#地付き](三十八年七月)
二代目源さん組子噺《くみこばなし》
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佐藤重雄[#「佐藤重雄」は太字] 明治四十四年山梨県|都留《つる》市、旧甲州郡内|谷村《やむら》に生れた。父は飾り障子――棧を花や模様に組みこむ「組子」の名人で重雄も「二代目源さん」と呼ばれる。大正二年吉原川本楼の仕事で父が上京したのに連れられて上京、十人兄弟の三番目がこの業を継いだ。ふつうの棧は十文字に組む時双方をコの字形にくり抜いて組むので合せ目は六面だが、重雄の「剣先止め」は二十一の面が十文字の面に互いに噛み合い、これは彼だけにしか出来ない。面倒な秘伝も公開主義で、仕事にはホテル・オークラの麻の葉の組子があり組子の葉の数は六万枚に上る。
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東京都練馬区関町。
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わが父「谷村《やむら》の源さん」[#「わが父「谷村の源さん」」は太字]
サア、ズッと上って下さい。――と言っても、相変らずの六畳ひと間のバラック住まいですから、裏の青梅《おおめ》街道へ飛び出しちまうかもしれませんが……ハハハ。
どうぞ、その、あいてる所へおすわり下さい。
この前お目にかかってから、五年――そう、六年ぐらいにもなりましょうかね。少しお肥りになったようじゃありませんか?
この前の時は、この女の子はまだ来ておりませんでしたね。小学校一年生、七つです。ナ? ソウダナ? 「今日ハ」シナイノカ。ヨシヨシ、ソウダソウダ。ン。イイヨ、行ットイデ。アンマリ遅クマデ遊ンデチャ駄目ダヨ。イイ、イイ、オ茶ハ伯父サンガ入レル。
あれ、私の姪《めい》でしてね。幼稚園の時からあずかってるんです。妹ってのは、昭和女子大を出ましてね、ディザイナーなんかをやってるんですが、都合で、男やもめの私があずかる成り行きになっちまいましてね……。
ええ、飯ぐらいは炊いてくれたり、あれでなかなか役に立つんですよ。
夜、蚊帳《かや》の中で、となりに寝てるあの子のお河童《かつぱ》の髪の毛にね、指を突っ込んでパラパラやって、汗をかいてないかどうか見てやる時など、乾いてサラサラ冷たい髪が手の甲に散りかかったりしますとね、フッと哀れを覚えます。
――五十二歳の男やもめの伯父と、七つの、母と都合で離れて暮さなくてはならない姪とが、こんなボロ屋で雨露をしのいで肩を寄せ合って暮している風景なんていうものは、自分で考えても、にぎやかな景色とは思われませんからねえ。
そのうえ、この伯父さんが、稼ぐのがきらいで、あんまり金になる仕事はしたがらない、というんですから一層かわいそうなわけです。
――どうも、これは、親譲りのようで……。ハア? おやじの昔話を? ハイ……。
父は、「甲州|谷村《やむら》の源さん」という名で人に知られた男で、マア、建具の組子では「名人」ということになっていました。
どうも世間では「名人」という名が好きなようで、私まで、東京新聞から出た「名人」という本の中に入れられて、「組子という飾り障子や欄間《らんま》の透《すか》し彫りでは東京一の名人」なんて書かれましたが、おやじだけは、肉親の身びいきかもしれませんが、そう言ってやって良い男のような気がします。
「おやじ――」というとすぐ思い出す姿があるんですが、あれは終戦の翌年でした。赤羽の先の鳩ヶ谷という所にいる兄の家で、病気が重くなってもう駄目だと言われた、というので、見に行ったんです。
庭からなんの気なしに入って行きますとね、病み衰えて、痩せて軽ウくなっちまったおやじがね、丹前《たんぜん》を着て、というより、つくねた丹前の中に落ちこんだようにチマチマっと見える哀れな姿で、陽のいっぱい当っている廊下に道具を並べて、ノミ、毛引きカンナ、胴づき、と、一つ一つを手に取り、眺め、打ち返し、また吸いこまれるように眺め入ってる姿が目に入ったんです。
ゾーと全身|粟《あわ》立ちましたね。かけようとした声をアフッと飲みこまされて、棒立ちのまンましばらくその姿を眺めておりました。
父は柔道の三船久蔵さんに似ていましてね、五尺に足りない小男の、痩せぎす細面ですが、目は鋭くてちょっと冗談なんか言いかけにくいような威《い》のある男でした。
それが、見るかげもない幽鬼《ゆうき》のように痩せさらばえ、老いさらばえ、病みほうけながら、なお道具に見入っている執着《しゆうちやく》は、見事というよりは不気味でした。
父六十八歳、私三十四歳。その時私は、
「おれも、ひとをゾーッとさせるような男になりたい」
と思ったんですが、未《いま》だにそんな人間には成れずに五十の坂を二つも越えてしまいました……。
誠に難《むつか》しかった仕事の話[#「誠に難しかった仕事の話」は太字]
父は仲間うちの通り名のとおり、甲州郡内|谷村《やむら》の出身で、いま山梨県の都留《つる》市といっている所です。
谷深く山重なり、相模川と多摩川の水源地になっていて、米は出来ないが甲斐絹《かいき》の産地で知られ、昔は秋元|但馬守《たじまのかみ》の城下で甲府に次ぐ所だったというのが土地の爺さまたちの自慢です。
おやじのおやじというのが名主《なぬし》で漢方《かんぽう》医を兼ね、御一新からは医者一本になったようですが、おやじは十で建具屋に弟子入りしたんだそうです。
この師匠は甲州|建菊《たてきく》という人で、八王子寺町の建吉《たてきち》の弟子でしたが、縁あって父の叔母に婿入りして来たので、父には義理の叔父さんというわけです。
大師匠の建吉さんは、芝の浜離宮の仕事や、柴又《しばまた》の帝釈天《たいしやくてん》の唐戸を作ったりして名の通った人でした。
おやじは、私が十一の年まで谷村にいましたが、今でも谷村に残っている組物には、木を集めはじめてから十四年、細工にかかってからでも十人|口《く》で四年かかった間仕切《まじき》り、なんてものがあります。
これはいろいろの組物をとり合わせて両面の面《めん》取りという厄介《やつかい》な仕事ですが、腕じまんで東京から「西行《さいぎよう》」(旅)に来ていた職人衆が、おやじの差配で働いていました。
修業も兼ねた腕じまんで、仕事のためなら甲州谷村くんだりまで来ようという人たちですから、ずいぶん変った人もおりましてね、深川のメクさん、御殿《ごてん》の新《しん》さん、筑波のタアさん、まげし屋のタカちゃん、なんていう人たちの顔が今でもすぐ浮んで来ます。
エエ、深川のメクさんは横山明九郎という、イカめしいような無造作のようなのが本名で、明治九年に生れたんでしょう。
野暮《やぼ》な名前に似ない、まるで芝居に出てくる職人のようにイナセで気ッ風《ぷ》の良い人でした。この人はうちに三年も居てくれましたが、若い時に暮した所が忘れられないというので、戦後も中気の体を谷村で養っていたようです。
筑波のタアさんは、結城《ゆうき》の織物問屋の若旦那でいられる結構な御身分を、我から捨てて道楽で組子や透し彫りに凝《こ》ったが因果の、スイが身を食ったのか助けたのか、なんとも言えませんが、死んだ時は浅草区役所の代書人をやっていたというんですから、若旦那、ガクがあったんでしょう。
変り者ぞろいの中でも変り者はまげし屋のタカちゃんで、うちには四年居ついてくれましたが、小田原生れの強情者で、まアこんな具合です。
近所に甲斐絹の問屋の主人で、金があるから普請《ふしん》道楽の、注文のうるさい旦那がいたんですが、
「組子の出来る腕の良い職人を一人寄越してくれろ」
というので行ったのがタカちゃんなんです。
旦那は、会うや早々、タカちゃんに一つの組子をつきつけて、
「前に東京から職人を呼んでこういうのを作らせた。気に入ってるんだが、これとソックリなのをもう一つ欲しい。お前に出来るか」
というわけです。
「ヤ、それはムツかしいですね」
「そうだろう。出来ないか?」
「マ、ムツかしいけど、一所懸命やってみましょう」
ということで、タカちゃんは、
「ムツかしいムツかしい」
と言いながら仕事を終って帰って来たんだそうですが、帰ってからも、
「今日の仕事はムツかしかった」
と言ってるので、おやじが、
「その、見本の組子っていうのは、そんなにうまい仕事だったのかい?」
って聞いたんだそうです。
「イヤ、うまい仕事をマネるのは、それほどホネじゃアないけれど、ヘタな仕事をそっくりマネるということは、まことにムツかしいもんですねえ」
と、タカちゃんが言って、「へへ」って笑ったそうです。聞くと、組子の微妙なユガミひずみから、仕上がりの汚なさまで、チクイチ気を入れてそっくり写して仕上げて来た、と言ったそうです。
これにはさすが、日頃は苦虫《にがむし》を噛みつぶしたような顔をしているおやじも、ブッ! と吹き出してしまったということでした。昔は、こんなヒニクな職人がよくいたもんです……。
古法「干網」[#「古法「干網」」は太字]
私たち一家が東京へ移ったのは、大正はじめのガラで、甲斐絹の問屋が軒並みイカれて注文が薄くなったからですが、そのキッカケをつくったのは、父が大正二年に吉原川本楼の仕事をしたからでした。
凝《こ》った仕事で、父の所へ持ちこまれるまでに「下谷の名工三人がとりかかっていずれもお手上げでした」なんて曰《いわ》くつきのもので、「半月《はんげつ》の障子」と「遠見の組子」でした。
「半月」っていうのは、中棧《なかさん》が半月形に反りかえっているのに上の桟は直線になってますから、間が猫間《ねこま》になって、カマチを止めるのがちょっと面倒なんです。
それに塵がとまらぬように桟は全部「塵返し」になっていて勾配《こうばい》がついてますしね。
「遠見」の組子の方は六尺に二間の欄間でしたが、清長の錦絵なんかにも背景に描かれてよく出てきます。障子の中に遠近法に従って棧で座敷を描こうというものです。
一番遠く見せる正面四枚の画中の小さい障子が更に左右あけたて出来るように組むのが特徴で、新しいディザインに技法の一つとして応用でもすれば別、そのままではあんまり趣味の良いもんじゃありません。
徳川も末になって、町人の生活が爛熟《らんじゆく》した頃に生れた、いわばある頽廃《たいはい》を含んで細かく繊細になっていった技法なんですが、障子の棧を組んで模様や絵を描こうという「組子」というもの自体がそうも言えば言えるものなんですから致し方もありません。
それはそれとして、誰も出来なかった吉原の大籬《おおまがき》川本楼の面倒な仕事をやり上げた、というので、東京でも一層名前の通りが良くなったことも、おやじを上京に踏み切らせた原因の一つでしょう。
下谷に住んで、震災で丸焼けになって、荒川に移って、父の「谷村の源さん」が「尾久《おぐ》の源さん」と呼ばれるようになったころ、私は夜学の中学に通って、将来は作家か画家になるつもりでいました。
それが、十人兄弟でタッタ一人だけこの道に入ってしまったのは、十八の年のある晩に、家じゅうが寝静まってからおやじの道具を持ち出して、イタズラにうちの仏壇の組子の「麻の葉」を組んでみたのが見つかってからです。
それから、自分で研究したぶんも含めると、おやじから習ったり見ていて覚えた組子の数は二百種以上、その間いつでもおやじの仕事が目の前にあったわけです。
若いうちはおやじの仕事がブッキラ棒の不愛想に見えて、内心「ナアニ、おやじもたいしたことアねえや」なんて思いましてね、「干網《ほしあみ》」の組子でも、おやじは干網ひとつをポツリ組むところを、こちらはまわりに蛇籠《じやかご》をあしらったり雲を飛ばしたり、腕の良いつもりで良い気でやっておりました。
ところがおやじが死んで自分が「谷村の源さん」なんとも呼ばれるようになった頃から、だんだん飾りやいらないものがとれて、そのものポッツリ一つで勝負するようになって来ましたね。
たとえば、「干網」にしても、蛇籠や雲はいらないもんなんです。干網自体で勝負すべきなんです。
「干網」はふつう、両側の網の斜線をなだらかなスッとした線にしてそれに合わせてなんの変哲もなくタテヨコの網目の線を組んでゆきますから、出来る網の目も全部おんなしで曲《きよく》のないものになってしまいます。
ところが、徳川時代の絵図を見てみますと、干された網の線が、ふつうの富士山型の甘い斜線ではなくって、中心の棒に添ってタラリと垂れて、裾でツグまっている写実的で重厚な迫力のある、そして渋いものなんです。
したがって絞った図柄なので網目もただの円ではなくて中がすぼんでいますから、技術的にはだいぶ凝ったことになるわけです。
ふつうの「干網」でも組めれば日本中を大威張りで西行《さいぎよう》出来る、とされていたもんですが、突っ込んでみれば先には先があるもんです。
以来私は、この古い型の「干網」を組むことにしてるんですが、ほかの同業がそれをやらないのは、出来ないからだ、とは思いません。心を凝らして、基本に従ってキチンとやれば、誰にだって出来ることなんですよ。
皆さんほかに誰一人おやりにならないのは、現代、そんなに手間をかけていたら、経済的にアワないから、それだけのことだろうと私は思っております。
けれども、そういうバカな仕事をするものが全くなくなり、何百年も生きてきた技法が途絶《とだ》えても困りますから、私は若い人たちには講習会で隠さずに教え、二百種の組子の見本も作ってしかるべき所に寄附して参考にしてもらいたいとは思っているんです。
こんな今日に合わない考え方も、おやじと膝をつき合わせて仕事をしているうちに、いつのまにやらしみこんだものなんでしょう……。
ボロボロになって死んだ犬[#「ボロボロになって死んだ犬」は太字]
晩年、父は尾久の仕事場で、小さい背中を丸めては、松坂屋さんに納める仕事とか、進行している戦争にはなんの関係もない茶席の風炉先屏風《ふろさきびようぶ》だの、香炉の台になる燭台だの、そんなものを作っておりました。
私は徴用逃れに店を海軍の協力工場に指定してもらって、無線器の箱作りをしていましたが、例の三月十日の大空襲ですっかりやられて、父は先に申しました鳩ヶ谷の兄の家へ参りました。
私は杉並清水町の作家の片岡鉄兵さんのお宅の隣に兄妹五、六人で家を借りて絵描きだのディザイナーだの、いずれもやくざ稼業の連中が梁山泊《りようざんぱく》よろしくの生活を始めました。
そこで驚いたことには、実は私、戦災のあとの焼野が原を見まして、「もうこれでおれの仕事なんかもおしまいだ」と思っておりました所、戦後すぐに川口の鋳物《いもの》屋さんから、組子のしかも「干網」の注文が来たんです。
続いて荒川の病院長さんから檜物の贅沢な書院障子の注文――、
「日本人と建具とは、切っても切れない仲なんだなア」
しみじみそう思いましたね。私のおやじの様に、爆弾の落下音の中で背中を丸めて組子を組んでるやつもあれば、焼野原に立って「干網」の組子の注文をする人もある……。
そして、注文のおかげでどうやら食いつなげそうなのでホッとすると同時に、まわりでは人々が食いもののことで餓鬼《がき》のように目を血走らしている時に、「干網」を注文する人がいて、自分がそれを作る人間なんだ、と思ったら、なにかイヤーな気がしたのも事実ですね。
私は時々映画やテレビでダム工事やガンの研究の文化映画なんかを見ると、自分の仕事がイヤーになるんです。
あっちは人類文化に貢献してるのに、おれの仕事はなんだ、金持のお道楽のお手伝いじゃねえか――、なんて、良い年をして青臭いってお笑いになるかもしれませんが、そんな気がして仕方のなくなる時があるんです。
――そんな気持をどうにかダマして、また仕事を続けられるようになったのは、拾って来た犬の死ぬのを見た時からなんです。
そこの上りカマチの土間にチッポケな犬が寝てるでしょう?
こいつは野良犬でしてね、もう一匹いたんですが皮膚病でボロボロになって死んじまったんです。
死ぬのを見てますと、その赤ムケの皮膚を舌で一心にペロペロ舐《な》めてるんですね。ひとから見たらどうせ舐めて療《なお》そうたってムダなことで、死ぬのは分り切っているのに馬鹿な話なんですが、自分は舐めることしか出来ないし、舐めてもムダなことが分っても、舐めずにはいられないんです。
私、見ていて体がブルブルっときましてね、おれも、お他人様から見たらロクでもないこんな仕事しか出来ないが、これしか出来ないんだしこれだけは出来るんだ、ひとに笑われてもどう思われても、死ぬまでこの道をやってこうじゃないか――、こう思いましたら、それから幾らか気楽になりました。
このごろ、ひとりで背中を丸めてこの部屋で組物や透し彫りや茶道具の風炉先屏風の仕事をしてますとね、しきりと死んだおやじの姿が目に浮んで来るんです。
――おやじにはこんな迷いはなかったろう……。イヤ、時にはあったかもしれない、あったはずだ……。
そんなことを考え考えノミを運んだりしているんですが、そうしていると自分の姿がたしかに晩年のおやじにだんだん似て来ている、という気がします。
こいつは、いまにそのうちに、おれも後姿でひと様をゾッとさせられるようになるかもしれねえぞ、なんてひとりでニヤリとしたりしてるんですから、私も我ながらおかしな男です、ハハハ……。
エ? エエ、戦後はそんな仕事が主で、時々気が向くとそんなものを作っちゃア売りに行くか、頼まれて深川の篠崎さん、神馬さん、野崎さんなんかに仕事に行くぐらいです。
そうです。杉丸の透しの彫刻なんぞをやるんですが、若い人の組物なんぞはそばについてて面倒を見てあげるんで、それで喜ばれるんでしょう。
名人なんてものが一人二人いたって仕方がありません、若い、仕事を覚えた人が百人、二百人いなくっちゃね――。
それで私、呼ばれれば青森の八戸《はちのへ》へでもどこへでも、講習会にいって来て「秘伝」をみんな公開しちまうんです。
ホテル・オークラの仕事? あれはいけません。突貫工事でやらされたんで気に入っていません。エエ、あれは二間|角《かく》のものを十枚、みんな「麻の葉」の組子にして、葉ッパだけ数えると六万枚入っています。
一月中旬から五月まで、弟子三人とやったんですが、ほんとにやるなら二年ぐらいかけて、ていねいにノリをくれて収めていかなくちゃいけないんです。
それを期日がないのでドンドン叩きこんでいったので、五十年百年もたす自信がありません。葉の筋一本落ちてもみっともありませんし、あればっかりは気がかりです。
おやじは、あんな仕事はしませんでしたなア……。
[#地付き](三十八年八月)
売らない大工道具店
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
土田一郎[#「土田一郎」は太字] 昭和三年小石川の鋸目立職大工道具店の助治長男として生れた。都立三商夜間部卒業の十九歳から家業を手伝って鍛冶屋回りをし、二十四歳から家職を継いだ。十三歳頃から大工道具集めに凝《こ》り、十四歳、鉋鍛冶の名人千代鶴是秀翁に逢ってからは一層拍車がかかって現在蒐集の名品は二万点、これで大工道具博物館を建てるのを悲願としている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
東京都世田谷区三軒茶屋町。
[#ここで字下げ終わり]
罐一杯のヤスリの山[#「罐一杯のヤスリの山」は太字]
ハイ。店で目立てをしているのが親父です。日がな一日、ああやって店番を兼ねてジ、ジ、ジ、リ、リ、リやってます。挟み板で挟んだノコを両足でおさえて、あぐらをかいて乗ってるあの板の台は自分で工夫したもんです。
――誰だかが、ああやってる所は大工のスミツボに似てるって言いましたっけ。繰り出した糸を材木に張ってピチンとスミ付けをするあの使い馴れた大工のスミツボを、起して前に立てかけたら親父のズングリしたあの姿そっくりになるって言うんです。
十二の年から今年七十一になるまで六十年間、ああやって来たんですから姿がイタにもつこうというもんです。親父は小さいうちに両親を亡くしましてね、故郷の越後長岡から上京して四谷の「野口」に年季奉公に入ったのが十二です。日露戦争の終ったばかりの明治四十年でした。
それから年季奉公に入って年季が明けて、礼奉公をやって終って、それでもまだ居て二十九まで、十七年いたわけです。その十七年間、親父は「毎晩」露天の夜店に出たと言ってます。昼間は店に坐って仕事をしたあと、夜また大道に坐ったんです。
「毎晩」というのはオーバーですが、親父の実感にしてみれば、そう言いたいくらいよく出たんでしょう。これは近所にはやる同業の店がありましてね、「野口」の若い衆が落ち着かないせいです。そうでしょう、はやらない店先に坐ってギコギコとヤスリのケツを押してるのはばかみたいに思われて来ますよ。それでなくたって酒屋の小僧のように御用聞きや配達の外回りでイキを抜く――ってことの出来ない商売ですからね。
ついいつでも若い者のカシラに坐る位置になってなかなか手放されず、夜店にも必ず出て行かなくちゃならない貧乏クジをひいたっていうわけです。
やっとのれんを分けて貰って小石川の音羽で目立てと大工道具店の「つちだ」を独立開店したのが大正十二年。二カ月後に例の関東大震災です。よっぽどツイてない生れなんでしょう。それでも親方の世話で調布の百姓から七つ違いの嫁をもらって身を固めたんですが、これがまア当った――。
親父は貸し金の催促に行ってまた貸して来ちまうって方ですが、おふくろの方は理窟のある貸金なら足をかけても取って来るほうです。おふくろが付いてなかったら商売もどうなってたか分りません。
やがて昭和になって三年には私、一郎が生れ、八年おいて弟の毅が出来ましたが、敗戦の年の五月二十五日の大空襲で焼かれるまで音羽で商売が出来たについちゃア、おふくろの陰の苦労も大変だったと思います。
戦後は、調布のおふくろの実家にしばらく居たあと、今のこの世田谷三軒茶屋に「つちだ」の看板をまた揚げたわけですが、朝鮮動乱の特需景気のアオリで商売の忙しくなった二十六年、おやじが持病の痔を踏み出して寝込んじまったんです。
ビローな話で恐縮ですが、鋸目立て職には痔を患う者がとても多いんですよ。一ィ日板の間にあぐらをかいて坐る商売ですし、それに親父のは十七年間も夜店に出たのが崇《たた》ってるんです。
大道に坐るってのは冷えるもんです。冬の夜の地面の冷えなんてものは、あれは足から腰からはらわたまで滲《し》み通って、火鉢の一つや二ァつ抱いたってとても辛抱出来るもんじゃアありません。
それやこれやで親父、ヤマイダレに寺≠チて書く、寺に行くまでは直らぬ持病をしょってたんですが、寝たままよく思い出したのは石油罐いっぱいの使い捨てのヤスリの山だそうです。
「使えば何だって減る。鉄で出来たヤスリだって使いものにならなくなるのに、親から貰った体だけは減らねえ。丈夫なもんだって思ってたっけが、やっぱり仕事は命に目立てをかける事なんだなア……」
親父はマァ寝ていてそんな感慨をモヨオシてりゃ良いんですが、困ったのは店です。起きてあぐらをかいて仕事の出来る病気じゃありません。そこで、ほんとは絵描きになりたかった私が、イヤオウなく店先に坐ることになったんです。
十四で買った「千代鶴」[#「十四で買った「千代鶴」」は太字]
親父のあとを継いだのが二十四。この世界で言う中年者≠ナ、私は目立ては素人です。けれど生れたのが目立て屋で、ひと様は歯が浮くっていう鋸目立ての音を子守唄に聞いて育ったんですから、まア見よう見真似ですぐ仕事にはなりました。
私、それまでは高等小学を出ると深川越中島の都立三商の夜間部へ行って十九で卒業、絵描きになるか大学へ行きたかったのを諦めて家の商売を手伝って鍛冶屋まわりをしてました。
ですから目立てを本業にする気で打ち込んでは居ませんでしたが、道具はいじっておりましたし好きでした。好き、も、度のキツイ半キチ――のほうで、だから絵も学校も諦められたんでしょう。私の道具のいじり初めは小学校の三年生です。店へ出て売り物のカンナに油をひいて、親父にほめられて嬉しかったもんです。
そのころはじめて見たのが千代鶴是秀のカンナです。私の一生の一大事は、千代鶴のお爺さんに逢ったことですが、その時はそんなことは分りゃしません。通《かよ》っていた牛込弁天町の算盤塾までに三軒の大工道具店があったんですが、まン中の一軒の飾り窓に、
「カンナ界大名人千代鶴作」
って木札の立ったカンナが大切そうに飾ってあります。子供心にも思わず吸い寄せられるような気品を感じ、ずいぶんつくづくと眺めて帰ってから親父に聞いたら、
「あれは看板で神棚道具だ」
って言うんです。「神棚道具」が分らないでケゲンな顔をしてますと、わきに居たお客の大工が教えてくれました。
「坊や、切れねえで高いのが神棚道具サ」
千代鶴のお爺さんにジカに逢ったのはズッとあとですし、ましてや名品は調整が大事で使い方を知らなければその切れ味を発揮出来ない事が分ったのもズッとあと。しからば刃と台の角度は――、なんぞと科学的に究明する身になろうなんて夢にも思っては居ませんでした。
それでも私――、十三の年には金物の市へ顔を出して、問屋に、
「千代鶴さんのものある?」
なんていっぱしの口を利くようになっていましたし、十四の年の暮には待望の千代鶴作の八分と二寸の特に良い作を手に入れていました。
あれは昭和十六年、日本が大東亜戦争に飛び込んで街には軍艦マーチが鳴り響いている時に、私は八丁堀の問屋武藤勘助商店で見た一枚三十円と三十五円という値のついた千代鶴作のカンナが、目に灼きついて目の底に残って、どうしても離れないんです。
そこで決心をして日掛けで二十銭の積立を始めました。それでもまだるっこしい。こんなことではいつ金が出来るか分りません。その間にアレが誰かに買われてしまうかもしれない――。丁度その時親父の言いつけで集金にやらされました。二枚合わせて六十五円、それを買うだけの金をイマ自分は懐に持っている――。こう思ったらヤミクモに駆け出して、気がついたら両手でしっかり「千代鶴」を握ってるんです。買っちゃったんですね。
年の暮れの、拝みたいような金をみんなそうして大ソレた買い物に使ってしまったのに、よく親父が叱りませんでしたね。もっともこっちは、叱られようが勘当されようがやっぱり買っちまったことでしょう。
――というのが、その一ト月ほど前に、初めて千代鶴のお爺さんに逢っていたからなんです。
家の者が、お爺さんの話になると私の目の色が変るって言うんですが、ほんとにあれは大変な人でした。最初に逢ったのは昭和十六年十一月八日、忘れもしない鞴《ふいご》祭の日です。
その数日前に麻布中ノ橋に、これも名の高かった石堂輝秀さんを訪ねてカンナの注文をしたんですが、例の「昭和刀」の火造りをしながら、
「今はそんな時代じゃない。みんな御国のために働かなくちゃならん時だ」
と相手にしてくれません。たってと頼むと、
「それじゃア弟子筋に千代鶴というのが居るからそこへ行ってみなさい」
と住所の覚えに手紙の封筒を呉れました。二度訪ねましたが二度留守で、三度目がその鞴祭の日。鍛冶、鋳物師など火を使う職人が守護神の稲荷を祭る神事の日です。中目黒のお爺さんの家は見るからに貧寒で、四畳半の座敷が二タ間っきり。あとで聞いたら鶏小屋を改造したんだそうです。それでも鞴の上には蜜柑が三個とビール瓶が一本供えてありました。
刃に霜結ぶ名品「初霜」[#「刃に霜結ぶ名品「初霜」」は太字]
千代鶴是秀六十九歳。枯れ枯れと痩せて背が高く、頭はゴマ塩でした。ひどい家に住んでいるのに起ち居は折り目正しく、十四歳の小僧の私をキチンと一人前の客として扱ってくれました。なによりも私を捉えたのはその清潔感だったと思います。
世の中は戦争に続く戦争で、荒れ果ててザワザワしているのに、お爺さんの身のまわりからはシンとしたものが感じられたんです。そして少年の私の質問に飽くことなく答えてくれるんです。カンナが専門で鋸は作らない人が、私の親父が目立て職だと聞くと名工助左ヱ門や平治郎の傑れた点を詳しく語ってやまない――。
「これは日本一のものを作る人に違いない!」
私はそう確信しました。
あれから、八十四歳で亡くなったお爺さんと病床でビールの別れの杯を交すまで、十六年間に私、三千回は会ってるでしょう。お爺さんはもっと若い頃は象牙の義歯をしていたんだそうですが、私が足繁くお目にかかっていた頃は貧乏してそんなものもありませんでした。
上二枚、下二枚しか歯のない口で喋る話なので一度では分らず、二度聞いてようやく分っても今度はその意味の深さが理解出来ない。何度か聞いているうちにやっと分って胸に落ちる。それを大事に頭の蔵にしまっておく。ひと頃はほとんど毎日通いました。
ヤミ買いなんてあんまし出来る人じゃありませんし、またお金の余裕がありませんから、さぞお腹《なか》が空くだろうと思って、母の実家が農家なので畑から野菜を引ン抜いていったり、大きな弁当箱にギッシリ銀メシを詰め込んでいって半分食べてもらったり――して話を聞きました。
お爺さんはお酒が好きで、お酒が入るとそれでもホロッと楽しげにいくらか話が弾むので、よく提げて行っては話をねだりました。とうとう最後には聞く話もなくなって、
「風が強いですね……」
ぐらいの事で、寒い細工場で買ってったウイスキーをハナ水を垂らしながら二人で黙って呑んでいた――、なんていうのも今は懐しい思い出で、風の強い冬の夜なんかはシンシンと思い出しますね。
――そういうわけで、千代鶴のお爺さんを知ってからは道具の蒐集熱は更に燃え上る。ノコ、カンナ、ノミ、チョーナからスミツボ、曲尺《さしがね》に至るまで、こうして集めた名品が二万点――、思えばよくも集まったもんです。
それらはみんな二階の陳列ケースに大事に大事に蔵《しま》ってあります。ケースを特別注文した時に、大工が来て笑うんですよ。
「使わない、売らない道具を入れとくのに六尺に四尺五寸の陳列棚? もう少しお店のショー・ケースに金をかけた方が良いんじゃねえですかい?」
なるほど店はチッポケでせまくって、ガラス戸をあけて入ったら腰きりのショー・ケース――というのもおこがましい商品戸棚で身動きする間《あわい》もありません。そこには砥石やカンナの台やスミツボや、売り物がせせこましく溢れて次の間の四畳半の押し入れまで乱入してます。
大工さんの言うとおりなんですがそういうわけには参りません。名品には名品に対する扱いというものがあります。千代鶴のお爺さんのカンナなんてものは、ウチの一番良い場所の一番静かな所に鎮まっていて貰わなくちゃなりません。
谷沢甲太郎作のワリ台を使った「閑古鳥」なんて品からはほんとに山中のカッコウの声が聞えて来、「初霜」銘の五寸三分の刃渡りには確かに初霜が結んでいるんです。なぜそう見えるかって言いますと、お爺さんが刃を打った時に槌の面に石目、サビ目などいろいろの模様を入れてカンナのおもてに変化を出す工夫を凝《こ》らしているからです。
こういう品を良い加減な所に置けますか? いや、それでも不安で銀行の金庫に預けてあるのもあります。例えば千代鶴のお爺さんがまるまる三年かかって仕上げた八分の小口突きノミの「天爵」。小学校の小使をしていた元大工さんに交換してもらった曲尺が「源義次」だったと分ったもの。同じく曲尺でいうなら、錆びて銘の分らないものを電気で磨いてみたら「中や九助《くすけ》」の銘が現われて、京都御所の建前の時に御用人が明治天皇から拝領したという由来の分明したもの……、等々。
集めた二万点について喋ったらキリも限りもありませんが、銀行の金庫の奥深くに眠っているもの、二階の飾り戸棚の中に油をひいて布にくるんで大切に寝かしてあるもの、これらは命に代えても決して売ることなんぞはありません。
実は私、これで大工道具博物館を作ろうという悲願を持っているんです。
大工道具博物館を![#「大工道具博物館を!」は太字]
ドイツの刃物の街ゾーリンゲンには、そういう博物館があって刃物の発展の歴史が一ト目で分るようになってるっていう話じゃありませんか。
おやじの国の新潟の三条も大工道具の刃物では聞えていますがそういう博物館があるとは聞いていません。まして各種に亙《わた》っての名品となると、これは今からでは集めるのが大変でしょう。
正宗・長船、刀となると国立博物館の温度調節つきのケースに大事に蔵《しま》われています。けれど現実に日本の実生活をおし進めて来た職人たちの諸職のかしらと言われる大工の道具は顧みようとはされず、名品も使い捨てられ乱暴に取り扱われてもう無くなろうとしています。
戦後、千代鶴その他、日本の刃物を硬度計と分析や顕微鏡検査をしたら世界最高だったそうじゃありませんか。日本にも大工道具博物館の一つぐらい当然あったって良いと思います。
いま大工道具鍛冶で名工と言える人は全国でも数人しか居りません。この人たちが亡くなったら伝統の技術は絶えます。なんとかして今のうちに傑れた品を広く大衆の展観に供して関心を呼び起し、それを守り受け継ぐ気運を起さなくっちゃなりません。
品物は二万点、私がみんな出します――。ただ、土地と建物がないのです。土地は最小なら五坪あれば足ります。しかし適当な所と思えばその五坪が私には買えません。オリンピックまでには建てて世界の人々に日本の職人の傑れた腕を見せてやろうと思ったんですが、とうとう間に合いませんでした。残念です。
さいわい弟の毅も協力してくれますので、私そのうち必ず悲願を成就させるつもりです。毅ですか? 私より八つ下の三十歳になります。私が中年から入った目立て職で、十五年やってようやくこの頃「なるほど仲谷《なかたに》久作は理想的な姿をした名品なんだな」とヤスリをかける指から腹へ落ちて納得してる程度の素人ですが、弟は小さいうちからカンナ研ぎ専門に心を定めた熟練工で、体操で言えばウルトラC級の腕を持ってると思います。
「兄貴、昔は『乞食《コジ》・立《タ》ン棒《チ》・目立職《メタテ》』って言って目立て屋は社会の下から三番目だなんて言われたけど、今じゃア科学で証明された世界最高の品を扱う世界最高の仕事だ。目立て屋は都内に数百軒あるけど大工道具を専門に売ってる店は五、六軒。大阪にゃありゃしねえ。兄貴、しっかりしてくれよ!」
なんて威勢の良い奴なんです。研究熱心で、内丸ガンナの裏を叩いて出すと大抵ピーンとまン中にヒビが入って割れてしまうやつを、両端だけを攻め抜いて割らずに出すやり方を発見しました。ヒントは、叩いて良い所がハッキリして来た事で、
「いずれ村井先生に数字で出して頂こう」
って二人で話しているんです。村井先生っていうのは学芸大学の教授で、私どもの科学的な助言者なんですが、最初、
「細工が好きなので自分の使い用を」
なんて店に見えました。学芸大の先生だというので「ナアニ付属小学校の先生だろう」ぐらいに思っていたんですが、道具について一々数字で聞かれるのがみなツボに当っているので名刺をもらったら教授でした。
そこで分らなくなると二人で図面をかいて訊きに行くんですが、すると、
「それは重心のせい」
「行動半径が原因」
という具合に答えて懇切に教えて下さるんです。こういう方がいらっしゃるし、女房は女房で肥ったのんきな奴で、私が仕事で三日徹夜すると、一貫五百匁は痩せて九貫五百プルプルになるのを羨ましいから代りたいなんて方ですから、きっとみんなの力が集まって大工道具博物館も建つことでしょう。
ハイ。女房の親戚に鍛冶の延国がおりまして、その世話で六年ほど前に一緒になりました。東条会館の結婚式の時モーニングだけを作って靴は毅の借り物で、式が終ったらスグ作業服ゲタ履きに履き替えて、左の肩から道具袋をぶるさげて黄色いルンペン帽を被ったらびっくらこいてました。新婚旅行にはこの姿で出かけました。これが私の登録商標《トレード・マーク》で、そうして浅草の露店や世田谷のボロ市を歩いてますと道具屋から、
「三軒茶屋の土田さんじゃありませんか」
って声が懸るんです。いつか有名ンなっちゃった私の道具探しの格好がこれで、良き鴨ゴザンナレって狙われるわけなんです。
ハア、新婚旅行の道具袋ン中には、名古屋の大工さんからの注文のノミやカンナやノコが入ってましてね、それを届けながら、掘出物をアテにしながらの新婚旅行だったんです。
子供ですか? 三つと二つの男の年子がおりまして、女房に似ると良いんですが私に似て痩せて時々病気をやるのが心配です。エエ将来はもうほっといたってこの商売を選ぶにきまってますよ。やってみればこんなたのしい商売はほかにゃありませんし、子供の時からすばらしい名品を見せてるんですからね。私が坐ると下の子がエッチラ・オッチラ、
「ハイ、パパノゲンノー!」
って持って来てくれるんです――。
[#地付き](四十一年一月)
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あ と が き
この「職人衆昔ばなし」は雑誌「室内」に五年間連載されたものです。お目にかかった名人上手はすべてで六十人を越え、まとめた聞き書は千二百枚に上りました。
職は諸職のかしら大工からはじまって建具・左官・畳・瓦・鳶・石工のいわゆる六職はもとより、庭師・指物師・塗師《ぬし》屋・竹細工・家具木工・ガラス工芸・飾り師・織物・蒔絵・螺鈿・表具師・籐・銘木の多岐に亙りましたが、うち二十七人の方々のお話を一冊にまとめました。
連載中、意外な方々がお読み下さっていることを知って驚きうれしく、また連載最後の一年間に朝日新聞の「季節風」欄がこの様に特殊なものを三回取り上げて紹介してくれたことを異常な事だと思いました。
「今のように労働基準法だのミンシュシュギだの言ってたんじゃア仕事が半チクになっちまわア」
と口をそろえて語る名人上手を、ただ頭が古いホーケン的だと言ってみても始まりません。徒弟制度の弊害は分りすぎるほど分っても、この人たちの仕事と人生はピカピカ光っているのですから――。
この方々の人生を、この方々の語り口で、もう一度われわれは聞いてそして考える必要があるんじゃなかろうか。「伝統技術の保存・継承・発展」なぞと、四角い言葉で考えるとこぼれ落ちるものが、この人たちの汗と涙のしみこんだ話からはまるまる掬い上げられるのではなかろうか。私はそう思って書き続けました。
この名人たちの生い立ちの話を聞くと、必ずと言って良いほど年季奉公の辛さの話が出ます。冬は霜焼けで、手の指が野球のグローブほども腫れ上ってしまった話。暁に廊下を雑巾がけして後を振りかえるといま濡れたかた端からパリパリ薄ら氷《ひ》が張って「アア早く一人前の職人になりてえなア」と思った話、等々。又もやと思って伺うのですが、建才、建具の田中才次郎さんの時は違いました。
「私たちが削《ハツ》り物をしていると、親方が後から来て『才次郎、アアンしろアアンしろ』ってえから、アーンとやると口の中へポイと何かが入る、食うと氷砂糖です。ああ有難えなアと思った」
と言うからひとごとながらホッとしていると、
「ニコニコしてトントンと二階へ上った親方が『何だアッこの仕事わアッ』って梯子段をダーッと駆けおりて来たかと思うと目から火が出て私は撲り倒されてた。まだ溶けないさっきの氷砂糖を啣《くわ》えたまンま――」
とあとの話が続く。ヤレヤレです。弟子はかわいい。けれど仕事はもっとかわいいんです。
当時八十歳の大工中沢猶太郎さんの話がまだ耳に残っています。
「例えば天井のまわり縁《ぶち》をうっかり間違えて短く切っちまったとしますね。今の大工は『切り違えましたから新しい材料下さい』なんて平気な顔をして言うが、私らの若い時分はわざとそいつを掴んだまんま落っこったもんです。『しまった折っちまった……』それからでなきゃ捨てませんでした」
わが身は大事だ。けれど仕事と職人のめんぼくはもっと大事なんです。
その、からだで覚えた仕事のコツは、秘伝としてひとには隠して教えないのが今までの職人でした。塗師《ぬし》屋の長谷川信太郎さんの話に出て来る名人は、棚に伏せた重箱に水を入れておいて、塗りのコツを盗もうとした後輩に水雑炊を浴びせました。けれども今は新しい職人が出て来ているようです。組子の名人佐藤重雄さんは、秘伝を惜し気もなく公開しています。「ハマのペンキ屋」磯崎祐三老人は、名人にしか出来なかった「マーブル塗装」を、見習い工にも出来るように寝ないで考えて、自腹で各地に講習会をひらいて教えています。更に鋸目立職の土田一郎さんは、十四歳から集めた大工道具の名品二万点を提供して大工道具博物館をつくる悲願を立て、近く実現の気運が進んでいます。職人が、自分自身で「あす」を考えはじめたのです。
この「昔ばなし」の中には、ガラス工芸の芸術院会員岩田藤七氏、美校の講師もされた蒔絵の人間国宝高野松山氏なども入り「職人」というには少し違いますが、異常なほど仕事に打ちこむこと、技術をおろそかにしないこと、他の職人衆を大事になさることで敢えて入れさせて頂きました。なによりお二人の気ッ風《ぷ》がイキの良い職人衆の名人と通ずるからです。
終りになりましたが、福田恆存先生から頂いた過分な序文に厚く御礼申し上げます。また、この「昔ばなし」を五年間、そのあとも続いて今年で九年目に入るのに、なお職人衆のルポルタージュを掲載しつづけて下さる「室内」編集長、好著「日常茶飯事」の著者山本夏彦氏にも深く感謝致します。
両氏、お話を聞かせて下さった職人衆のみなさん、ありがとうございました。
一九六七年一月
[#地付き]斎 藤 隆 介
文庫版あとがき
「職人衆昔ばなし」は、文藝春秋から出版されてから十二年、雑誌に連載を始めた頃から数えると今年で二十年になる。
それが今また「文春文庫」に入って更に広く読まれることになったのは、筆者としてこんなにうれしいことはない。
なぜこう切れずに読者が続くのかを考えてみると、第一に題材が特殊であること。特殊だからこそ一般的興味を呼ぶこともあるのだ。
第二に、文体が職人さん達の独談義《ナレーシヨン》の形をとったこと。ナレーションだからこその真実感や臨場感も伝わり、スラスラと読めたのではないか。そして御本人の癖や生活環境も伝わったのではなかろうか。
第三に、語る職人さん達は、みなその道の名人であり、しかもその道ひと筋に五十年、六十年生きて来た方々なので、何か人生――というふうのものをしみじみ感じさせる所があったのではなかろうか。
と、まアそんな事を考えさせられて、改めて二十年前にお逢いしてお話を伺った折の仕事場のたたずまいなどが浮んで来たが、それにつけてもお目にかかった折から既に御高齢の方が多かったので、もはやとうにこの世を去られた方の多いのも致し方ない。
それらの方々への鎮魂歌として、四十九年六月号の「文藝春秋」巻頭随筆に寄稿した「九十八歳の職人」という一文を掲げてこの「文庫版あとがき」を終りたい。
四月の初め、花冷えのする朝、ひどい風邪で寝こんでいた私に電話があった。東京赤坂山王下の指物《さしもの》師小川才次郎さんのお宅からである。電話は同業の長男正八さんからであった。
「お世話になりましたが――、父が亡くなりました」
私はアッ! と言った。
なぜか才次郎老が亡くなる、などということは考えられなかったのである。本年九十八歳、このことあるのは当然なのに、才次郎老よりは私の方が早く死ぬ、とどこかで確信していた。
つい先日、私はある綜合雑誌の口絵に「日本最年長の職人」という題で、仕事場で道具の手入れをしている老の写真説明を書いたばかりであった。
その末尾は次のように結んだ。
「その仕事ぶりを愛した人々に黒田清輝、和田三造、六代目菊五郎、十五世羽左衛門などの目の利く芸術家から、上原元帥、大島陸相、郷誠之助、松方巌などの顕官富豪もいたが、今はすべてこの世の人ではなく、才次郎老と才次郎老が納めた誠実無比な作品だけが残っている」
雑誌に発表されたこの写真と文章を読んで、才次郎さんはとても喜ばれ、「よろしく」と正八さんを通じてお電話を頂いたばかりだった。
しかし今や最年長の九十八歳の職人は亡く、その誠実無比な作品が残るばかりとなった。
私が才次郎さんを知ったのはもう十三年も前になる。当時私は毎月童話を一篇ずつ書くことと、職人のルポルタージュを一篇ずつ雑誌に連載することで口を糊していた。
そしてのどかなメルヘンである筈の童話のテーマが、現代社会に対決する自分の生きる姿勢の表現であり、現代最も尖鋭な職業である筈のルポライターとしてその道数十年を歩んで来た老職人を訪ねると、なにやらメルヘンめいたものを感ずるのを面白く思って、両刀を使い続けた。
九年のルポの結果が「職人衆昔ばなし」正続、「町の職人」の三冊になって文藝春秋から出版され、八十名をお訪ねして二千枚ほどの談話を書いたが、才次郎さんは勿論その中での最年長、お話も人柄もおもしろかった。
なにしろ明治九年、神風連の乱の年に生れ、西郷さんの西南戦争はその翌年というのだから古いも古い。
十四でこの道に入ってからこの道八十四年。
「水道屋を頼んだらなかなか来ねえんで電話したら、モノサシ屋の小川さん、てのはどうしても分りませんので――」
といわれてプンプン怒っていた。もはやサシモノ師なんて職業のあることが忘れられている世の中である。
「百科事典」によると、
「木地を『さしあわせ』て箱、飾り棚、箪笥、机、長火鉢などの和家具を作る指物師は、尺を正確に箱様地を作って曲物師と区別される」
とある。
指物師の本来は箱物だが、才次郎さんは「箱の小川」で業界に通って来た。
そして、
「おれは不《ブ》器|用《キ》だ。生れついてのブキだ。だから仕事は丁寧に丁寧にと心がけてるんだ」
というのが口ぐせだった。
「あたしゃア長生きだが、品物はあたしより長生きするんだからね」
と、一寸の厚みの品には八分のホゾを入れた。
正八さんが、
「お父さん半分でも――」
なんて言っても聞きはしなかった。
「そこは釘うちでも見えませんよ」
なんて言うと、
「見えねえ所だから、ごまかせねえ」
とノリをつけてネシ釘でおさえた。
「ネジ釘つかうんならノリはいらないでしょうに」
と正八さんはホトホト呆れていた。
そういう誠実な仕事を分ってもらった時は、日頃はまじめすぎる顔の目を細めて喜んだ。
「日本橋の三越の、あの吹き抜けのデケェ『天女』の像を作った佐藤玄々先生てのがいるだろ。あの先生が一杯のんで、おれのテーブルを、『ン、これが小川の仕事か小川の仕事か――』って目をつぶっちゃア何度もなでてくれたそうだよ――」
と、まるで自分の背中を撫でられたように目をつぶった顔を、きのうの様に覚えている。
「職人衆昔ばなし」の出版記念会の夜、書かして頂いた老名人がズラリ並んで下さって、日頃はそういう会には出席なさらない作家、評論家、編集者も出て下さったが、安藤鶴夫氏はスピーチの中で、
「みんな明治の顔で、――町で逢ってもお辞儀したくなるような……」
と涙声で言ったきり絶句なさった。才次郎老の顔はその中でもひときわ謹直で誠実な明治の顔をしていた。
会果ててその帰り、お嫁さんがたってという付き添いを断って一人で歩いて来られたというので、紀尾井町の会場から山王下まで、お送りしようとついて行くと、ご機嫌が悪くて、私よりトットと足を早めて若い私が追いつけない。
赤坂見附の跨線橋でやっと追いついて手をひこうとしたら、私はその手をピシリと叩かれた。
呆然と見送っていると、老は一心に跨線橋を渡って夕暮れの山王下へトットと歩いて消えた。
才次郎老は、今もひとりで、トットと歩き続けているような気がして、瞼に見えるその後姿が、私になにか厳しいものを教えている……。
一九七九年八月
[#地付き]斎 藤 隆 介
単行本
一九六七年一月二十五日 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年八月二十五日刊