斎藤栄
まぼろしの完全犯罪
目 次
勝海舟の殺人
第一部 勝海舟の殺人
第一章 長谷川竜五郎先生
第二章 恋慕の群れ
第三章 懊 悩
第四章 百日紅の花
第五章 突然の不幸
第六章 鮮 血
第七章 葬 儀
第八章 妻のみぞ知る
第九章 追 う 者
第二部 黒 の 構 図
第一章 溺 死
第二章 解 剖 結 果
第三章 竹 井 京 子
第四章 誕 生 日
第五章 看 護 婦
第六章 真 相
第七章 嫌 疑
第八章 死 の 注 射
第九章 波高き日に
日本のピラミッド殺人事件
勝海舟の殺人
第一部 勝海舟の殺人
第一章 長谷川竜五郎先生
1
私は万騎《まき》が原《はら》という地名が好きである。万騎が原と聞いただけで、もう眼前に、騎馬武者の大群と風に揺れる旗指物が見えてくる。このあたりには鎌倉時代からの古い街道が残っていて、往時、新田義貞《につたよしさだ》などの武将が往《ゆ》き来《き》していたと言う。ここは鎌倉にはいる地の重要な往還であった。
今、この美しくも恐ろしい話を書き起こすにあたって、私はもう一度、あの事件の現場に来て見た。
延命地蔵の脇道《わきみち》を通って、十分ほど北に向かう。できるかぎり小高い場所を選んで尾根道を行くと、見渡すかなたに、ぽっかりと白い壁面の続いた巨大な住宅団地が現れる。万騎が原の公営住宅団地である。
そのあたりで尾根道を右に切れ、だらだらの谷戸へおりていく。谷戸には未《ま》だ緑陰の涼風がわずかに残っている。風に乗って、この辺に群生する野生の夾竹桃《きようちくとう》が、かすかな香を漂わせてくる。
降るような蝉《せみ》の声は、あのときのままだった。
私は谷戸田《やとだ》沿いの田の畔《くろ》を急いだ。茂みが途切れてアスファルトの道が見えると、そこは新興住宅街である。
一瞬、私の方向感覚が乱れた。つい先ごろまで、ピーマンやトマトの畑だった土地に、カラフルな屋根の小住宅がいくつも建っている。変わらないのは神明神社の境内だった。私は境内の杉木立を目当てに、ぐるっと大回りした。
大きな樫《かし》の木の梢《こずえ》の間から、雨戸の閉まった二階家が見えた。忘れられない離れの黒い庇《ひさし》も、木の間に見え隠れした。
この邸《やしき》は、明治の末年に陸軍中将で退官した仙波友三郎の別邸だと言う。造りがしっかりしていたので、関東大震災でも、壁が落ちた程度で持ちこたえた。私の知っている限りでは、ほとんど建築当初の俤《おもかげ》を残しているはずである。
しかし、こうやって改めてながめると、既に周囲の住宅から浮きあがっている。明るい中高層のビルディングやモダンな新建築と比べて、いかにも一時代前の存在であった。
本年末ごろから、この邸宅を含めて、土地区画整理事業が始まり、それを機会《しお》に古い邸も姿を消すと言う。
私は正面に回った。
ぴったり閉じた門の前に立つと、人気《ひとけ》のない邸宅のものすごいばかりの静寂が、私の胸に滲《し》み込《こ》んだ。
これが大衆作家として高名の、長谷川|竜五郎《りようごろう》が住んでいた邸なのだ──私は感慨をこめて門柱を振り仰いだ。
が、そこには先生の標札はなく、ただ青黒い柱の上に、一匹の蛞蝓《なめくじ》が細い光る跡を描いているばかりだった。
2
私が長谷川先生を知ったのは、五年前の秋である。
先生はその年の夏、幕末の風雲録に新しい解釈をくだしたと言われる大作「桂小五郎」で、玄海社の大衆文学賞を受けた時だった。
知り合った経緯《いきさつ》はごく些細《ささい》な出来事がキッカケである。
そのころ、私の方はN商事の経理部に勤めていて、毎日、伝票と帳簿の整理に明け暮れていた。実は私も大学の仏文科を出たくらいだから、できることなら作家になろうと夢見てはいたのだ。しかし、アテのない懸賞に応募する気はしなかったし、これという師にめぐり会えぬまま、サラリーマン稼業《かぎよう》を続けていたわけである。
だが、おかしなことに、その私を長谷川先生に結びつけたのは、外ならぬN商事だった。最近はどこの会社でもそうだが、社員の厚生施設が完備していなければ人が集まらない。そうした時代の要請で、N商事も独身寮を建設した。それが万騎が原の一角であった。
私は九月の末に、新築の独身寮「清光荘」に移った。「清光荘」の周辺は、ほとんど畑ばかりで、バス停留所の付近に、三、四軒の店が軒を並べるのが商店街《ヽヽヽ》という程度のお粗末さ。遊ぶためには、横浜駅までバスで二十分もかかって遠征する有り様。会社から、いったん家にもどれば、パチンコひとつできないのだ。
勢い、私は根が好きな小説づくりに、時間をつぶすようになってしまった。といっても、どの雑誌に発表するわけでもなく、ひたすら、原稿用紙のマス目を埋めては、書棚《しよだな》に積みあげていたのだ。
その年の十月のある日だった。日にちは忘れたが、日曜日の朝早くである。
私は散歩に出た。
五時半か、そこいらだったような気がする。「清光荘」の裏山に足をのばして、胸一杯に郊外地の空気を吸い、手に持った小型手帳に思いつくまま、小説のストーリーを書きとめたりした。
山の下草は色づいて、薄《すすき》が風に揺れていた。私は山をおりる途中、木通《あけび》の実をもいだり、枯れかけた雑草の茂みを駆けぬけたりして、ひとりでエネルギーの発散に努めたものだ。
そうこうするうちに、私は狭い山道を見あやまって、いつしか見慣れぬ谷戸へ迷いおりていた。谷戸の尽きたところに、一間幅の農道が走っている。その農道に立つと、社の鳥居が見えた。
私は調子に乗って、その鳥居の下まで、ランニングしてやろうと思った。とても気分がよかったのだ。郊外地の自由といったようなムードが、私の心を浮き立たせていた。
私はまるで陸上競技の選手みたいに、猛然とダッシュした。
秋の風が頬《ほお》に心地よかった。鳥居のそばに来てみると、境内は狭く、社殿も小さい神社だった。これが神明神社であった。久しく神社に詣《もう》でたことのない私は、所在ないままに、社殿の正面にあがった扁額《へんがく》を眺《なが》めていた。
特徴ある筆体で「神祇殿《じんぎでん》」と読めた。
不意に背後に下駄《げた》の音がした。
振り向くと、目付きの鋭い四十がらみの男が私の方を見ていた。
「この手帳、あんたのだろう?」
言われて気づいたが、尻《しり》のポケットに入れたはずの手帳がない。
「あ、そうです」
私はあわてて答えた。
「そうだろう、そうだと思った」
と、男は無造作に、右手を伸べて手帳を差し出した。私は受け取るとき、男の中指にある大きなペンダコを見た。
「どうもすみません。つい、うっかりして……」
私は頭をさげた。
男は薩摩絣《さつまがすり》に似た気楽な和服を着流してはいたが、何処《どこ》かに侵《おか》しがたい威厳のようなものがあった。
近所の農民や、平凡なサラリーマンでないことは一見して分かった。
〈何者だろう?〉
訝《いぶか》しがる私に構わず、男は私の目をのぞき込んで、
「あんたは小説を書いているの?」
と訊《き》いた。
「はあ……」
私は男の正体が分からないので、歯切れの悪い返事をした。
「……小説は事実よりも奇《ヽ》でなければならぬ……悪いけれど、その手帳をちょっと読んでしまったんだ。手帳の中に二個所ばかり、この言葉が書いてあるが……あんたはどう思う?」
「好きな言葉だから書いたんです。それだけですよ」
「どういうところが好きなの?」
男は面白そうに畳みかけた。散歩の途中で、私の手帳に興味を持ってしまったらしい。
「それは……つまり、事実は小説よりも奇なり、という糞《くそ》リアリズムに堕すことなしに、ここには小説家の挑戦《ちようせん》があるでしょう……」
私は相手の巧みな誘導につり込まれていた。
『小説は事実よりも奇でなければならぬ』という文句は、玄海社刊の「桂小五郎」のあとがきで、長谷川竜五郎が書いているのだ。
「挑戦? 何に対する?」
「イマジネーションの不足した奴等《やつら》にですよ。つまり、現代の大衆小説の世界そのものにです」
「あんたは大衆小説を書きたいの?」
「ええ……まあ」
ここで再び私は警戒した。こんな神社の境内で、こんな時刻に、文学論をやろうとは予想もしなかったのだ。
男は小鬢《こびん》のあたりに光るものがあった。口元の締まった感じは、かなり神経質な性格を思わせた。この時、私は気がつくべきであったのだ。しかし、思いがけない不意の遭遇で、私の思考は冷静を欠いていた。
〈この男は、物好きな小説狂かも知れないぞ〉などと思った。
さいわい、男はそれ以上きかずに、ゆっくり私から離れていった。あるいはそのまま、互いに関係を持つことなしに終わったかもしれなかった。
が、私は木通のつるをぶらさげたまま、すぐに男の後を追ったのだ。私はやっと、その中年の男の顔に、ある面影をダブらせることができたのである。
男は神明神社の境内を出、間もなく左折すると、大きな邸の通用門をくぐって消えた。私はその邸を初めて見た。都会で2DK暮らしをした末に、今また独身寮のコンクリート生活を続ける私には、まったく空気の違った家に思えた。
私は正門の前に立った。
尾錠の錆《さ》びついた門柱の標札を振り仰いだ。──長谷川寓《はせがわぐう》
〈あ〉
と、私は思った。
これが先生と私の最初の出会いだった。
3
私はチャンスを掴《つか》んだと思った。積極的に行動した。朝夕、きまったコースを散策する先生を待ち構えて、私はとうとうその知己を得た。いや、ズバリ言って、押しかけ弟子の待遇を獲得してしまったのである。
生来、先生は自分の弟子を持つのが嫌《きら》いだった。話に聞くと、今までにも入門希望者があったけれど、先生は|テン《ヽヽ》からそうした者と面会しない習慣だという。これは、先生の奥さんが、かなり後になって私に教えてくれた事実である。
私のどこが気に入ったのか、私にもよく分からないけれど、先生はとにかく弟子として遇してくれたのである。おそらく、私の熱意に根負けしたのか、あるいは私の手帳に書きとめられた先生の言葉を見て、何か感じたのであろう。
先生の知己を得て間もなく、私は書きためてあった書き下ろしの中から、「明治の花火」と題した五十枚ものを選んで、読んでもらうことができた。幕末から明治にかけて生きたある花火師の生涯《しようがい》を、その青春の断面で切りとってみた一種の時代小説だった。
原稿を受けとるとき、
「必ず読んであげるからね……ただ、催促はしないでくれたまえ」
と、先生は言った。
〈|アテ《ヽヽ》にならないかな?〉
私は少しがっかりしたのを覚えている。しかし、先生の言葉は、先生が非常に几帳面《きちようめん》な性格のため、言わないではいられなかったのだ。
それが分かったのは、一週間後に、先生が「明治の花火」の批評をしてくれたからである。
「なかなか筆力はあるね。面白かった。ただ、欲を言えば、筋立てに、もうひと工夫あってもいいところだ」
先生は原稿を入れた書類袋を私に返しながら、静かな口調で言った。
「ものにならないでしょうか?」
私はそれだけが気がかりで、すぐ訊き返した。
「そう……精進次第だけど……とにかく、大切なのは良い材料が第一。それから調べること……」
先生の微笑していた眼に、何かが素早く動いた。
「どうかね、ひとつ、歴史の謎《なぞ》と取り組んでみる気はないかな?」
「え?」
私は意味をとりかねた。
「歴史上のある事件に焦点を合わせて、その真相を解明する形でかくわけだ。つまり、ミステリー調の作品に仕上げる……筆力があるんだから、この仕事は君にぴったりだと思うが……」
「はい……考えてみます」
私は先生の忠告が嬉《うれ》しかった。が、反面、そんなにうまい材料があるだろうかと、いささか不安になった。
その気持ちを見透かしたように、先生は言葉を継いで、
「君さえよければ、ぼくの温めていたものを使わせてあげるよ」
と言ったのだ。
私は聞き違いかと思った。先生が私に材料を提供してくれようとは、想像もできないことだった。私の胸は熱くなった。
「本当ですか、先生。信じられないくらいです」
「いや、それほど恐縮することじゃない」
と、先生は濃い口髭《くちひげ》のあたりを手でこするようにした。
「|もの《ヽヽ》になるのかどうか、それは君に判断してもらわないと駄目《だめ》なんだ。資料はかなり揃《そろ》えてあるけれど……」
「先生、一体、なんの事件でしょうか?」
「勝海舟だよ。海舟は、万延元年に咸臨丸《かんりんまる》で渡米している。誰でも知っていることだ。しかし、海舟は咸臨丸で渡米する前後で、まるで人が変わったようになる。幕府の忠臣が丁度、勤皇の志士みたいな言動を始める。坂本竜馬を門下にしたのも、渡米の翌々年なんだよ。なぜだか、今まで一度も議論されたことはないが、これは調べる価値があると思うんだ」
「そうしますと、勝海舟が咸臨丸で渡米したとき、新しい思想を吸収して帰国した経緯というようなものを?」
「違う」
先生は言下に首を振った。
「君に調べてもらいたいのは、帰国した勝海舟が|本当の《ヽヽヽ》海舟自身だったかどうかだ」
「先生……」
私は度肝を抜かれた。なんという大胆な設定だろう。これが真実ならば、材料の点だけで、大衆文学賞ものではないか。しかも、先生はその貴重な材料を私に与えてくれるのだ。
「詳しいことはいずれ話してあげよう。そのときまでに、資料を整理しておくから」
最後に先生はそうつけ加えた。
4
ところで、先生を語る場合、奥さんのことを忘れるわけにはいかないだろう。
先生の代表作「維新の女」のお葉や、「桂小五郎」に描かれている良子内親王のように、先生は女性を美しい形で徹底的に賛美しあげている。
その原理となる心の支えが、言うまでもなく涼子夫人なのである。
先生は大衆作家きっての愛妻家で通っている。いつだったか、某誌のアンケートに答えた先生の名文句を私は読んだことがある。それは「なぜ、あなたは大衆小説を書くか?」という質問に応じたものだった。先生の答えは|フルッテ《ヽヽヽヽ》いた。「なぜなら、妻の次に|それ《ヽヽ》を愛しているから」こんな調子で、先生は自分の妻ノロジーを隠す気はまるでなかった。
だから、先生の周辺には、いつも和やかなムードが漂い、気むずかしい作家の風貌《ふうぼう》を大いにやわらげていたのは確かである。
余計な話かもしれないが、後で、あんな身の毛のよだつような殺人事件が起きたそもそもの原因を考えると、やはり奥さんのことは詳しく説明しておく方がいいような気がする。
先生の随筆のうち、三分の一は奥さんとの思い出や楽しみを綴《つづ》ったものが多いが、とくに二年ほど前の有名な話は、紹介する価値があると思う。
それは先生の看病記である。
奥さんがその年の春先、かなり強度のネフローゼにかかった。ネフローゼというのは腎臓病《じんぞうびよう》の一種で、腎臓の細尿管の細胞が変性することによって起こる病気だ。
症状はたいてい、食欲がなく、口がかわく。からだがだるくなるので、初めは春から夏にかけておこる|B《ビー》足らん、つまり、脚気《かつけ》だろうとたかをくくっていたらしい。
そのうちに足にむくみがきて、医者に診てもらうと、尿のたんぱくが非常に沢山でている。これはネフローゼだと診断されて、奥さんは市民病院の内科に入院したのだが、ここで先生らしい看病記が始まる。
もっとも、内科の婦人病棟に入院した以上、いかに愛妻家の先生でも、泊まりこんでの看病はできない。
病室は特等の個室なので、人目は少ない。そこで先生は、昼間だけ、原稿用紙を持って病室にはいりこみ、看病しながら、あの有名な「維新の女」をほとんど書きあげてしまったのだという。
この話は大衆文壇で、誰一人知らぬ者のいない逸話である。
しかし、この程度なら、似たりよったりの男はいるだろう。先生の場合はさらに徹底していた。
大体、ネフローゼという病気は、むくみがひどくなると、顔は人相が変わって、まぶたが開かないほどになる。奥さんのときは、それほどでもなかったにしろ、先生の随筆によれば、日ごろ、ほっそりした面立ちの奥さんが、オカメの面のように見えたそうだ。
治療としては、厳重な食塩、水制限を続けなければならない。昔から、食だち、水だちというのは、願かけの手段に数えられているほど、肉体的に苦痛なのだ。病人の奥さんは、治りたい一心で、医者の指示にしたがって食事制限をした。
ところが、先生も奥さんと一緒になって、塩だちを実行したのだという。塩だちすると、普通でも躰《からだ》の調子が狂う。いわんや、大作「維新の女」に取り組んでいた先生には、どれほどキツカッたことか。
けれども、先生はとうとう、これをやり抜いてしまった。奥さんが退院するまで、ほとんど奥さんが病院で食べるものだけを先生自身も摂《と》り続けたのである。
先生は病院の中二階に続く特別の階段を利用して出はいりしていた。その階段の脇《わき》にある裏口の受付にいた職員が怪しむくらい、先生は自分を虐げた人であった。
それほど、先生の愛は、異常なまでに激しかった。
私は、初めて奥さんの前に出たとき、何よりも、この看病記を思い出したことである。柿茶《かきちや》と緑と濃藍《のうらん》のきりりとした翁格子《おきなごうし》の羽織を着こなした奥さんは、病人の跡はどこにもない、落ち着いたはなやかさを身につけた女《ひと》だったけれど、この平安な態度も、結局、先生の深い愛情に支えられているのだと思って、感慨|一入《ひとしお》であった。
「よろしくお願いいたします」
私は奥さんに挨拶《あいさつ》しながら、その向こうに大きな影を宿している先生に対して、自《おのずか》ら頭のさがる思いだった。
第二章 恋慕の群れ
1
先生の知遇をえて、またたく間に半年が過ぎた。
新しい年を迎え、雪の少ない冬が過ぎると季節は変わって、風の吹く春先である。
そのころになると、私は先生のお宅の自由通行証《フリー・パス》を貰《もら》ったような身分になっていた。
子供に恵まれない先生夫妻の生活には、お手伝いの若い娘を除けば、時折、訪れる奥さんの妹──三十になる洋子という独身の女性以外に、滅多に来訪者もいなかった。
その自由な雰囲気《ふんいき》の中で、私は先生の家族の一員のように足繁《あししげ》く通いつめるようになったのだ。N商事の寮を、三日も続けて空けたりしても、少しも苦にならないのが不思議なくらいだった。
むろん、いつもいつも先生が相手をしてくれはしない。そんな機会は十日に一度ぐらいで、むしろ珍しい。たいていは、莫大《ばくだい》な先生の蔵書を納めてある離れの一室で、小説を読んだり、資料を書きぬいたりしているわけだ。
しかし、そういう私を、いつも優しくもてなしてくれたのが、先生の奥さんであった。
「|たく《ヽヽ》は何も言いませんけど、性が合うというのか、とてもあなたが可愛《かわい》いらしいわ。妙なものね」
ある日曜日の午後、三時のお茶を運んできたとき、奥さんはしみじみ言った。私は無性に嬉《うれ》しかった。奥さんの言葉の裏には、先生にかこつけて、自分の気持ちを表現したような調子が窺《うかが》えたからである。
思いきって告白するが、私は奥さんが好きになっていた。
いけないと心の中で叱咤《しつた》しながらも、気持ちは日ごとに昂《たか》ぶる一方だった。
理由はいくらもある。
が、最大のそれは、奥さんが実に美しい女《ひと》だからだ。すらっとした背丈に、色白の面立ちは、みるからに日本髪の似合いそうな風情があった。先生の大切にしている蔵書の中に、江戸時代の浮世絵師、懐月堂度繁の美人図があるのを発見したが、そこに描かれた女性の表情こそ、正しく奥さんそのものである。妻を持たない私が、奥さんに深い興味を持っても不思議はないのだ。
その上、奥さんの文学に関する素養は相当なものらしい。私は時折、奥さんと小説の話を始め、時の経《た》つのを忘れてしまうことがあった。
さらに、私が奥さんを好きな理由をつけ加えれば、それは奥さんの天衣無縫な動作のためだ。
どちらかといえば、当初、私は奥さんの世間知らずな、体裁ぶらない点に呆《あき》れた方である。しかし、間もなくそれは、奥さんの先生に対する愛情の強さから来る自信だと分かった。奥さんはある意味で、私の存在なぞ、眼中にないかのように振る舞った。
書庫がわりになっている離れ家は、古い時代の造りで、すべてが旧式にできていた。トイレットなぞも、廊下のつき当たりに設けた落とし便所である。夜遅く、私が時代物小説の材料にするために、「慶安太平記」の一部分を写していると、お茶をいれてくれた後、奥さんが小走りにトイレットへ駆けこむことがよくある。
周囲が実に静かなので、奥さんの一挙手一投足が、逐一、私の耳に響いてくる。
ばたあんと戸が閉まる。裾《すそ》をたくしあげる衣《きぬ》ずれの音。奥さんの姿勢が私の目の前に、はっきり浮かびあがってくる。すると、間髪を入れずに、実に心地よさそうなさわやかな音が起きるのだ。聞くまいとしても、夜の空気は容赦なく私の耳にそれを伝える。やがて紙の音、衣の音……用をすませた奥さんは、廊下を戻《もど》ってくると、必ず私に、
「ごゆっくりなさいね……」
と、声をかけてくれる。時には、
「今夜は、たくは熱海なのよ。よろしければお泊まりなさい」
と、勧めることもある。男気のない邸が頼りなく感じるので、他意のない言葉を言ったにすぎないのかもしれない。
そんなとき、私は奥さんの言う通りにしながらも、耳の底で、あの生理の音がいつまでも聞こえるような気がして、なかなか寝つかれないのだった。
2
「頼みがあるんだ」
五月の末。N商事の万騎が原独身寮へ訪ねてきた露木が私に言った。露木は私の高校時代の親友で、芸大の大沢教授の下で修業した日本画家の卵である。
「いやに思い詰めた声じゃないか? できることなら頼まれてもいい」
私はイスの上に大《おお》胡座《あぐら》をかいた露木の、自由業にありがちのだらしない服装を見返した。私の知る限りでは、現在の日本画は、狭い世界の中で、脱皮し難い悩みを抱いている。露木のような新人は、よほどの蔓《つる》をつかまないと浮かばれない。露木は生活に困っているらしい。
「実は今、本格的な美人画を描こうと思っているんだ」
露木は猿《さる》のように皺《しわ》の多い額へ、ひと際、深い筋を刻んでいた。
「結構じゃないか。日本画の真髄は、花鳥風月、それに美人と相場がきまっている。そのうちに、おれも本職の小説家になったら、立派な挿絵《さしえ》を頼むぜ」
と、私は半ばからかい気味に言った。
「その美人画のモデルなんだが……」
「モデル?」
「うむ」
と、露木はじっと私の目を覘《のぞ》き込んだ。
「長谷川竜五郎の奥さんを使いたいと思っている……それで、頼みというのは、君からモデルになるように口説いてほしいのさ」
「先生の奥さんをモデルにか!」
一瞬、私の脳裏に多くの言葉が浮かんだ。
〈奥さんならいい。あの女《ひと》なら本当の美しさを持っている……〉
〈でも、奥さんをこのヤクザな画家に描かせるのはご免だ。第一、先生が許すわけがない……〉
「どうだろう、やってくれるか? 絵が成功すれば金は払える」
露木の言葉を裏がえせば、モデル料も充分払えない状態なのが分かる。私は困った。
「嫌《いや》だとは言わないが、奥さんはもう年だぜ。純日本的なタイプには違いないけど、三十を過ぎているから美人画には無理だ」
これは咄嗟《とつさ》に思いついた断わりの口実だった。
「知っているさ。むろん、そのままを描くんじゃない。そこに創造がある。ただ、創造の原型だけが欲しいんだ。その点、あの女《ひと》はぴったりだよ」
そうまで言われると、私は頭から断わりきれない弱みがあった。というのは、露木に先生の奥さんの話をし、口を極めて褒《ほ》めたのは、外ならぬ私だったのだ。しかも、雑誌や週刊誌に掲載された奥さんの写真を、私は切り抜いて露木に見せたことがある。
「まあ、承知しないと思うな」
私は遠回しに諦《あきら》めさせようとした。しかし、露木は決するところがあるらしく、執拗《しつよう》に私を口説くのだ。私は面倒になったので、
「一応、奥さんに訊《き》いてはみるよ」
と、その場を逃れておいた。
二、三日後、私は先生に会う機会があったので、思いきって露木の話をした。
〈奥さんをモデルに──〉という頼みを聞くと、
「ほう……日本画にかい?」
と、先生は口許《くちもと》に微笑を見せた。
「失礼な話だと思いましたが……」
私は先手を打ったつもりだった。が、先生は意外に明るい声で、
「本人さえよければ、描かせてもいい。あの年では、もう滅多にモデルの口もかかりはしないから」
「いや、先生。奥さんにそんなことをさせるわけには……」
「いいじゃないか。あれも退屈しているだろうし、一度くらいモデルも悪いものじゃない。なんなら、口添えしてみよう」
先生は楽しそうに、そう言うと、居間のベルを押した。これは執筆中の先生が、お茶を所望するために、別室の奥さんを呼ぶ必要があって設けたベルである。普段、奥さんは本邸の居間か、渡り廊下でつながった棟《むね》の洋間にいるので、ベルはその両方で鳴る。
待つまでもなく姿を現した奥さんは、先生の話を聞くと、心なし頬《ほお》を紅潮させたように、私には思えた。
「そのお話……ご冗談じゃなくって?」
奥さんは私の方にそう訊き返した。
「本当には本当なんですけど……」
私は言葉に詰まった。奥さんの顔を見ると、余計に露木の目に触れさせたくない気がした。
「どうだ? 描いてもらったら……ヌードモデルは困るが、座像か何かなら、モデルとしても楽な方だ」
先生は興に乗っていた。
「モデル料がろくに払えないと思います。とても貧乏な奴《やつ》ですから」
「構うものか。芸術家はすべからく貧であるベシ……それはむしろ、芸術家の資格なんだよ」
この一言で決まった。露木を断わるつもりの私が、なんとなく彼のために一骨折ってしまったのだ。
話が一段落したとき、誰かが廊下を歩くスリッパの音が聞こえた。
奥さんが覘《のぞ》いて、
「あ、五十二《いそじ》さん……」
と、声をあげた。
それで私は、不意の来訪者が、長谷川五十二、つまり、先生の実弟だと知った。これまでにも、二、三度会ったことがある。市立大学の磯村《いそむら》外科にいる医者だ。
私はぎくっとして、反射的に、
「先生。おかげんでも悪いのですか?」
と尋ねた。
「いや、そんなことはない。めしもよく食べられる。ただ少し疲れているような気はするが、これは仕事のせいで仕方がないな」
先生は磊落《らいらく》に笑ってみせた。後で考えると、このとき既に、先生は何か予感のようなものを抱かれたに相違ないのだ。
私は席を立った。
奥さんが五十二を大切にしているのは、当然のことだろうが、私には不快でさえあった。私のエゴイズムが、私と同様にこの家の自由通行証《フリー・パス》を持っている男に、嫉妬《しつと》していた。
3
露木は話の決まった翌週から、デッサンにとりかかった。大体、二、三カ月で仕上げるというので、毎週金曜日の午後、二時間ずつ邸を訪れる約束にしたらしい。
露木は棟《むね》つづきの洋間で仕事をさせてもらうらしいが、一方、私はといえば、いよいよ懸案だった勝海舟のナゾを取り纏《まと》める大仕事に正面から取り組むので、特別に二階の六畳を空けてもらった。これは先生の好意である。勝海舟の問題については、前年から聞かされていたが、なにしろ、多忙な先生のこと、資料を一個所に整理していただく予定がのびのびになっていたのだ。
海舟の人物に、重大なナゾがある──それを解き明かす歴史小説を書くという企画は、最初に教えられたときから私の念頭に深く印象づけられている。私はこれを自分の本当の処女作にするつもりだった。
問題のポイントは、海舟が咸臨丸《かんりんまる》で渡米する前と後で、すっかり人間が変わってしまったこと──この事実を確認して、一体、そこで何がおこなわれたかを調べるのだ。その上で、一体、誰が、なぜそうしたか、特に裏面で動いた人物を明らかにする。手がかりをつかんだら、主要人物を決めて小説に仕たてるわけだ。
「ほかの資料を読む前に、海舟全集十巻を読み通しなさい」
先生の言葉があったので、私は毎週日曜日の午前九時から午後九時まで、必ず二階の六畳間に閉じこもっては全集のページを繙《ひもと》いた。
私は勢い込んでいた。
平凡なサラリーマンで終わるか、それとも念願の大衆作家になれるか。一にかかって、幕末のこの巨大な人間像の解読にあった。
そればかりではない。
この仕事に失敗したら、私は惨めな負け犬になるだろう。折角、目をかけてくれた先生の信頼を裏切り、自信も喪失して、私は人生そのものに敗れることになるのだった。
張り切っていたから、全集の一巻二巻「開国起源」は苦もなく読み切って、カレンダーは六月を迎えた。私は「吹塵録《すいじんろく》、吹塵余録」も一息に読み進めた。
これは使えるぞと思う部分は、片端からノートした。
しかし、漢字の多い文章を、行間の意味を考えながら辿《たど》るのは、大変な作業だ。ひどくシンドイ時間が続いた。特に、第六巻から八巻の「陸軍歴史」「海軍歴史」は、私の知ろうとしている海舟の秘密に、直接関係はなさそうなので、余計、難行苦行の連続だった。
私が調べている内容を、もう少し具体的に言えばこうなる。
まず、文政六年(一八二三年)に生まれた海舟は、万延元年(一八六〇年)に咸臨丸で渡米するまで、忠実な幕臣であった。
ところが、文久年間にはいると、にわかに積極的な「一新」論者になってしまう。その結果、幕府最後の陸軍総裁になりながら、抵抗らしい抵抗をせずに、江戸無血開城を実行してしまうのだ。
君子は豹変《ひようへん》する、というが、これはあまりに大きな変化である。後年、史家はもとより、本人の海舟が、この間の事情を説明しているが、先生の話では、眉《まゆ》ツバものらしいのだ。海舟の主張した「一新」とは、結局、倒幕維新論なのだから、幕府の責任者にはあるまじき行為といわねばならない。
しかも、公の面ばかりではなく、私生活でも、海舟は渡米前後に大きく変わっている。このころ、海舟は随筆「牆《まがき》の茨《いばら》の記」を書いているのだが、どうしたわけか、咸臨丸で帰国した部分で筆を折ってしまう。この辺に、海舟の大きな断層があるような気がする。
私は、先生の文机《ふづくえ》に肘《ひじ》をつき、むさぼるように海舟の文章を読んだ。開け放った窓外には、新緑に色づいた庭と池が見おろせる。池の縁に一本の百日紅の巨木があり、その向こうに離れの入り口が覘《のぞ》けた。
静かだった。私はその静かさの中で、「牆の茨の記」の序文を目で追った。
「……いにしへのためし今に伝はりし事とも曖昧《あいまい》としてわかち難きを見るにも頗《すこぶ》る憤りに堪へさるあまり、当時の世評かくありししかなりと云《いふ》こと見もし聞もせしこといささかおもひ出るにまかせ記しぬ……」
サインは、臣、勝物部義邦《もののべよしくに》とある。とにかく、海舟は、盛んに思い出話を書きまくっているが、不思議なことに、みんな咸臨丸渡米以後の執筆が多い。この「牆の茨の記」だけは、渡米前後に書いたものだが、これは帰国した所で筆を折っている。
この辺が、疑わしい点の第一だ、と私は睨《にら》んだ。
先生のヒントにあるように、海舟が、渡米中に|入れ替わった《ヽヽヽヽヽヽ》とすれば、書き物に断層が現れるのは当然である。
例えば、「牆の茨の記」の趣旨が「いにしへのためし今に伝はりし事とも曖昧としてわかち難きを見るにも頗る憤りに堪へさるあまり」ならば、海舟はなぜ、桜田門外の井伊《いい》大老の事件を詳細に記さなかったのか。
その部分はごく簡単に、数行だけ触れたに過ぎない。
「……同三月三日大老登城の処桜田御門外にて争闘の事あり大老討れたり
水戸家の士十七人国を脱せしか此《この》日|終《つい》に大老を討ちたり此日大雪大老の家臣手負即死等あり、其《その》門前を去る纔《わずか》四五町なれとも雪|故《ゆえ》別に出合う者なし、供の士等|彼是《かれこれ》支ゆれとも力防く能《あた》はさりしと云《いふ》」
この後、海舟は桜田門外の変について、いくつかの資料だけを挙げ、そこでぷっつり筆を断っている。
私はこの点を、次のように推理した。
〈「牆の茨の記」を書き出した海舟──これを第一の海舟とすれば、ラストの部分を書いた海舟は全然別人の第二の海舟だった。そのために、文体の相違を知られないように、早々に完結してしまったのだろう。それでなければ、幕末の大事件である桜田門外の変を、数行の表現にとどめるわけはない……〉
私がそう感じたのは、六月十日だった。
私は自分の考えを確かめたくなって、二階の階段をおりた。先生の批評が是非欲しかったからである。
先生は二日ほど前から、胃の具合が悪くなって、階下《した》の風通しのいい八畳間で横になっていた。
階段をおりるスリッパの音で、襖《ふすま》が中から開き、眼鏡をかけた丸顔の女がのぞいた。奥さんの妹の洋子である。昨日、偶然、訪ねてきたまま、泊まりこんで先生の看病に当たっているのだ。
「先生は?」
「横になっていらっしゃるわ」
「眠ってはいない?」
「ええ」
「よかった」
私は入れかわりに、先生の休んでいる部屋にはいった。
先生は三つ重ねのフォームラバーを敷いた布団の上で仰臥《ぎようが》していたが、私の気配に首を回した。食欲がないせいか、顎《あご》のあたりが窶《やつ》れて見えた。
「おかげんはいかがですか?」
「大丈夫。たいしたことはないさ。ただ、食欲がないから力がつかん」
先生はしっかりした声で言った。
「吐きけはなくなりましたか?」
「医者が注射してくれたから、落ち着いたらしい。単純な食当たりだと思うが、レントゲンを撮るそうだ」
「胃の?」
「うむ。どうせなら、五十二《いそじ》に頼むつもりだよ」
「その方がいいでしょう」
私は病気の会話が一段落するのを見計らって、
「ところで、先生」
「なんだ?」
「今、『牆の茨の記』を読んでいるんですが、どうも、あの随筆あたりに、海舟の秘密があるような気がします。違った人間が、最後の文章を書いたのかもしれません」
「それで?」
先生は軽く目を閉じた。剃《そ》っていない顎《あご》の髭《ひげ》が、痛々しく思えた。
「それで、この辺から深く掘りさげてみたいと思うんです」
「着眼はいいよ」
と、先生はそのままの姿勢で続けた。
「大切なことは、そうなったことの動機だ。それを動かした真実の力のことだ。そこまで調べ尽くさないと、モノにはとてもならない。おそらく、単なる想像で片付けられてしまうだろう。そうなれば、歴史小説としては、すこぶる安物に評価されるだろうな……」
「分かりました」
と、私は言った。
「ある程度、まとまったら、もう一度話してみなさい。いい考えが出せるかもしれない」
「ありがとうございます。少しも早く治っていただかないと、どうも心細くて」
「バカ言え。こんな軽い病気に、心細いとは何事だ」
真顔で先生が叱《しか》ったので、私は言葉に窮した。すると、先生はすぐに声を立てて、
「ハハハ」
と笑い飛ばしてしまったけれど、私は不吉な思いに囚《とら》われていた。
第三章 懊 悩
1
私の予感は当たった。先生は胃ガンの初期だった。
昔から私は、自分の悪い予感は当たり、期待に裏切られることに慣れていた。しかし、先生が致命的な病気にとりつかれたかもしれない、という予感ぐらい外れてもよかったと思う。
診断は実弟の五十二《いそじ》医師がした。
「ガンはごく初期だし、部位が幽門に近いから、手術も簡単らしい」
市立大学病院に入院と決まって、私が手伝いに行ったとき、先生自身、むしろ意外なくらい明るい顔で言った。
私は口下手で、うまい慰めの言葉も捜せなかった。
奥さんと私は目で挨拶《あいさつ》しただけで、後は入院に必要な洗面具などの準備を、口数少なく進めていた。
小雨の降る日だった。
ハイヤーは午前九時に、邸のポーチにはいってきた。
執刀は五十二医師の師である大学病院の磯村《いそむら》教授に決まっていた。磯村教授の名声は私もかねてから聞いている。幽門部の手術にかけては、日本でも五本の指に数えられるほどの名外科医なのだ。私はそれを信じようと決心した。
ハイヤーの後部シートに納まるとき、先生は東京の文芸家協会へ出席するような気軽い調子で、
「ごくろうさま」
と、運転手に声をかけた。
私はその優しい態度に、むしろ不安を覚えた。──神は心の優しき者を愛《め》で給《たま》いき──私はこんな一節を思い出していたのだ。まったく、後で考えると滑稽《こつけい》なくらい、私はびくびくしていた。
奥さんは先生の後から、先生の隣に乗り込んだ。膝《ひざ》には唐草まがいの地味な風呂敷包《ふろしきづつ》みを載せていた。
私は何か奥さんに言ってやりたかった。
〈大丈夫ですよ、じき帰るんですから〉
とか、
〈これが旅行にお出かけだといいんですが〉
などと、冗談にまぎらしたいのだが、奥さんの真剣な表情を見ると、かえって言葉にならないのだ。
お手伝いの小島という娘が助手席にのり込んだとき、門の外から駆け込んできたのが露木だった。傘《かさ》もささずに、頭から雫《しずく》がしたたっていた。
彼は私には目もくれずに、後部シートを覘《のぞ》いた。
「奥さん、すぐ後から行きます!」
露木は窓ガラスを叩《たた》いた。
奥さんが口を動かすのは見えたが、声は私の耳まで届かなかった。
車はゆっくり走り出し、すぐ門の外に消えた。
私は自分以外の者が、奥さんに直接、呼びかけたのを聞いて、ひどく不快であった。それが親友の露木であればこそ、なおさらの思いだった。
先生の入院したのは、大学病院三階の特別室である。
入り口の右手には、カーテンで仕切られた小さな炊事場が特に設けてあった。次に三点セットのある小部屋。そこには見舞い客用の小型テレビや花瓶《かびん》、額縁の絵など、一見してホテルのように立派な備えがある。
ベッドにも、書見台やラジオ、寒暖計など、これが病室かと思うほどの設備ができていて、一日一万円の入院料はなるほどと思えた。
先生の入院中、私はほとんど毎日のように見舞った。
手術は入院して七日目。総合的な検査が終わってから、予定通り、磯村教授の執刀でおこなわれた。
当日。
N商事を休んで病院に行く予定だった私は、少し遅れて病室についた。
病室には、奥さんとメガネをかけた妹の二人がいた。
先生は既に患者運搬車に横たわって、鼻孔から胃の中へゴム管をさしている。これは、全身麻酔による胃内分泌液の滞留を排出するために必要な装置なのだ。これは患者自身の手で挿入《そうにゆう》する。
なかなか入れ方がうまい、と看護婦に褒《ほ》められていた。
「人間、いざとなると度胸がすわるね。君もこんなとき、褒められるようになれよ。ま、俎《まないた》の上の鯉《こい》の気持ちだ」
先生は私の顔を見ると、待ちかねたように喋《しやべ》った。全裸を白い衣でまとった先生は、ゴルゴダの丘にのぼろうとするキリストのような威厳さえあった。
きっとそれまで、先生は、女二人の哀《かな》しそうな顔に包まれて、内心、困っていたのだと思う。
奥さんが先生の右手の指を、一本一本握って、それから白衣の下に入れてやった。洋子はじっと先生の眼《め》を見ている。何か物言いたげな様子だった。
私が病室に着いて五分もしないうちに、先生は手術室へ運び込まれてしまった。
手術は二時間足らずで終わるとの看護婦の説明があった。しかし、手術の後、回復室《リカバリー・ルーム》に入れられるので、午後二時ごろ、病室に戻るような話だった。
手術が終わった直後、立ち会いの五十二医師が病室の奥さんを呼びに来た。
私は表情を硬張《こわば》らせた医師の態度に、先生の容態が容易ならぬことを直感した。
三、四十分して戻ってきた奥さんは、両の眸《ひとみ》を真っ赤に泣き腫《は》らしていた。
「どうなの?」
ひきつったように、待ちかねた洋子が訊《き》く。
「とても難しいらしいの。でも、手術は成功したって言うんですよ」
奥さんは半ば、私の方を向いて答えた。
「転移のことは?」
私は一番心配な点を確かめた。
「やはり、転移しているそうですの。でも、ほとんど危ない部分は、とってしまったようですけど」
奥さんの話に自信がなかった。
私は嫌《いや》な予感がした。私はその予感を、気の迷いだと思い込みたかった。
|ほとんど《ヽヽヽヽ》とってしまった──医者がそう言ったとすれば、どうしても転移した部分で、手術できない所があったのではなかろうか。例えば、肝臓だとかそのほかのひとつしかない臓器に転移して……。
それを確かめる術《すべ》はなかった。
先生は午後二時半に、病室へ戻《もど》ってきた。
2
翌日から、先生の病室は賑《にぎ》やかになった。当代一流の大衆作家だけあって、出版社、雑誌社からの見舞い、あるいは作家仲間、評論家などの著名人の来訪が多かった。
勤めの関係で、私は夕方から病室にかけつけるわけだが、そのころには、見舞い客も一段落して、奥さんは甲斐甲斐《かいがい》しく、先生の下《しも》の世話などをしていた。
先生は胃を三分の二以上、剔出《てきしゆつ》したために、食事ができず、三、四日で、ゲッソリと痩《や》せてしまった。栄養剤の点滴ぐらいでは、体力の回復は遅いのだ。
「本当のことを教えてくれ」
五日目の午後。
その日は日曜日で、奥さんがそばにいなかった。
先生は私に訊《き》いた。
「おれのガンはどうなんだ? みんな安心するような話ばかりだが、信用できない。知っていたら、本当のことを教えてくれ」
そのときの先生の眼差《まなざ》しを、私は初めて見た。人生の奥底まで見抜こうとするような、蒼白《あおじろ》い光を帯びた視線が、そこにあった。
「よくは知りません。しかし、手術は成功したと聞いています」
私はそれだけ言った。ガン患者に、容態の話をするのはタブーだった。患者はガンノイローゼになっているものである。それに、私は実際、真実を知らされていないのだ。
私の答えに、先生は淋《さび》しそうに口を噤《つぐ》んでしまった。
先生は十中八、九、自分の致命的な病気を理解していたのだと思う。
とにかく、このこと以来、先生は二度とこの件を喋《しやべ》らなかった。私は先生が|知ること《ヽヽヽヽ》を諦《あきら》めたと思った。
十日目になると、比較的食欲がでたらしく、先生は目に見えて回復してきた。一時は痩せ衰えた口のあたりが、小児《こども》のように可愛《かわい》かったのに、髭《ひげ》を整えると、どうやら元の威厳を取り戻した。
約一カ月の闘病の末、いよいよコバルト照射による仕あげのときが来た。これは病人にとって、かなりきつい治療なのである。先生はそれにも耐えていた。が、七月の最後の日になって、不意に「家に戻りたい」と言い出して奥さんを困らせたのだ。
もうしばらく入院していた方がいいと、五十二《いそじ》も勧めたが、先生はがんと聞き入れない。結局、七月三十一日の夜、先生は大学病院を退院することになった。むろん、コバルト照射には通うという条件で。
病室から玄関まで、私が先生の躰《からだ》を支えて歩いた。奥さんや付き添い婦は少し先に車の方へ行っていた。
先生は私と二人だけで、自動エレベーターに乗ったとき、まったく前後の脈絡なしにこう言った。
「おれはもう長くないよ……」
「えッ」
私は思わず、先生を見た。
先生は白いエレベーターの天井を見、それから、3・2・1と光が移る階数表示板に目を移していた。
「今年いっぱいもつかどうか。弟から聞いたよ。肝臓に転移したらしい。覚悟はしている」
「先生、何をおっしゃるんです!」
私は先生の言葉をかき消すようにわめいた。が、先生は静かに微笑を浮かべただけだった。私は不意に、そこにいるのが先生ではなくて、何かもっと崇高な存在のような気がした。その荘厳な力に圧倒されて、私は気安めの言葉を言い出せなかった。
3
退院のときの言葉とは逆に、帰宅した先生は目に見えて元気になった。血色もよくなり、何よりも食欲がでてきた。寝てばかりいては回復によくないと、自ら早朝の散歩をするほどになったのだ。
私は奥さんから、先生の容態を聞いて、なんだか狐《きつね》につままれたような思いさえした。先生が元気であれば、中断していた勝海舟の研究を続ける勇気が湧《わ》く。
八月なかばに、先生はわざわざN商事に電話をしてきた。電話口へ出ると、
「海舟の研究はどこまで進んだの? 期待しているんだから、やめずに続けなさい。病人を気にすることはない」
と、先生は懐かしそうに言うのだ。
それで、私は毎日曜日に、二階の六畳で仕事を続けることにした。私は覚悟を新たにしたのだ。つまり、万一、先生の生命《いのち》の灯《ひ》が年内に消えるようなことになる場合、なんとか私の研究をそれまでに完成させようと考えたわけである。
私は書類袋に、原稿用紙、メモ用紙、鉛筆とひと揃《そろ》えして、長谷川寓《はせがわぐう》とある門をくぐった。
私が来たと知って、先生は玄関口までわざわざ姿を見せた。
「先生! そんなお躰《からだ》で、大丈夫ですか?」
「平気さ。もう、少しぐらいの労働はできる」
と、先生は単衣《ひとえ》の裾《すそ》から、回復したばかりの臑《すね》を見せ、平手でぴたぴた叩《たた》いた。
「とんでもない、そんな……」
私は慌《あわ》てて式台へ飛びあがったが、先生は子供のような笑顔で私を迎えてくれた。
二階へあがると、すっかり掃除が行き届き、窓も開けてあった。
目の下のカンナも今が盛りで、池の端の百日紅の花が目につく。
「いらっしゃいませ」
奥さんだった。春慶の盆を手にしている。グラスに注《つ》いだ麦茶が冷たそうである。
「おじゃまします」
と、私は感情を殺して言った。退院以来、長いこと奥さんに会っていないような気がした。
「さっき、ざっとお掃除しておきましたのよ。でも、なんとなく埃《ほこり》っぽいでしょう……」
「いいえ……それより、先生のお加減はどうなんですか?」
「はい。お陰さまで、とてもいいんですの。この分なら……」
奥さんは語尾の方を、言いにくそうに濁した。おそらく、期待と不安と、そして祈るような気持ちが錯綜《さくそう》しているのだろう。
私はむろん、|そのこと《ヽヽヽヽ》に触れずにすませた。
「露木の絵はどうなっていますか?」
「はい。また来週の金曜日から始めますわ。もう、下絵はできたようですよ。でも、露木さんには悪いわ……こんなに面窶《おもやつ》れしてしまって」
「仕方がありませんよ。窶れない方が不思議じゃありませんか」
私は口を尖《とが》らせた。
「では、ごゆっくり……」
丁寧に挨拶《あいさつ》すると、奥さんは話の途中でおりていった。階下で先生の呼ぶベルが鳴っていた。
奥さんの立ち去った後に、かすかな脂粉が漂っている。私が来るというので、口紅《べに》をひいたのかな……などと、しばらく気を奪われた。心なしか、麦茶にも甘い香りがする。
気を静めるために、池を見渡すと、睡蓮《すいれん》の紅《あか》い花が真っ盛りの夏を誇示していた。
私は書棚《しよだな》の海舟全集第十巻を抜き出した。いよいよ、最後の追い込みである。この巻には、「経歴世変談」の項目があって、海舟が自分の経歴を語っている。
このあたりに、決定的な証拠を発見しないと、先生の仮説──海舟は人間《ヽヽ》が入れ替わっている──を立証するのは難しい。
私は、死を意識しながら、なお創作と、妻の身の上を案じているに違いない先生を考えた。その先生のためにも、私は頑張《がんば》るのだ──「経歴世変談」を読み進むうちに、問題の咸臨丸《かんりんまる》のくだりになった。この文章は、海舟が晩年に回顧談として、人に語ったもので、口語体のごくわかりやすいものである。ひどく平易な内容なので、ともすれば読みとばしそうになる。
それをこらえて読み返していると、私は新しい発見をした。
その個所だけが、何か有機的な関係をもつように見え始めたから不思議だ。気づいた文章は二つある。
まず第一に、出帆当時の海舟のことだ。
──丁度|其頃《そのころ》、おれは熱病を煩つて居たけれども、畳の上で犬死をするよりは、同じくなら軍艦の中で死ぬるのがましだと思つたから、頭痛でうんうん云《い》つて居《お》るをも構はず、予《か》ねて通知して置いた出帆期日も迫つたから、妻には一寸《ちよつと》品川まで艦を見に行くといひ残して、向ふ鉢巻《はちまき》で直《す》ぐ咸臨丸へ乗りこんだよ。(中略)おれの病気もまた熱の為《ため》に吐血したことも度々あつたけれども、一寸も気に掛けないで置いたら、桑港へ着く頃《ころ》には、自然に全快してしまつた──
私が気づいた第二の点は、咸臨丸が浦賀港に着いたときの海舟である。
──浦賀に着いたから、おれは一同を入浴のために、上陸させて遣《や》らうとして居る所へ浦賀奉行の命令だといつて、捕吏がどやどやと船中へ踏み込んで来た。(中略)さてそれから品川へ船を廻《ま》はして一同上陸したがおれも久しぶりで家へ帰らうとすると途中で虎烈刺《コレラ》病に取りつかれたのだ──
私はこのくだりに至って、目から鱗《うろこ》の落ちる思いだった。
海舟は、出帆直前には、熱病でうんうん苦しんでいたのである。ところが「妻には一寸《ちよつと》品川まで」と言い残して、その病身のまま、アメリカへ渡ってしまったという。これが本当なら、大胆不敵としか言えない。新幹線で旅行するのとは違うのだ。これからアメリカへ行く男である。しかも、当時のアメリカ行きは安全の保証もない。
今日でも、渡米する人間が、「ちょっと品川まで」と言い残すとは考えられないではないか。
つまり、海舟は病身のまま、|無理に《ヽヽヽ》、咸臨丸に乗船したことになる。
さて、船に乗ってからはどうか。海舟の言葉を借りれば、「熱の為に吐血したことも度々あつた」にかかわらず、サンフランシスコに到着したときには、自然に全快してしまったことになる。
実に奇奇怪怪な事実と言わざるをえない。いやしくも、熱で吐血するほどの病気が、設備の悪い船の中にいて、自然に治癒《ちゆ》するとは信じられない。しかも「全快」だとある。
私は、この疑問に突き当たって、先生もこの文章から「二人の海舟論」を展開されたのだろうと想像した。
病気は全快しなかった。勝海舟は死に、水葬された。海舟を名乗ったのは別の男だ。その男は、病気にかかってはいない。しかし、よく似た人物ではあったろう。
あるいは、ここで海舟のすり替えが予定されていたのかもしれない。
私は想像の羽根をのばした。
違う人間ならば、重い熱病が全快したように見えるのは当然であろう。
熱病で窶《やつ》れた顔──そこに多少の相違があっても、芝居の打てる可能性はある。
同じ状況が帰宅直前に起きている。
品川へ上陸した勝海舟は、「久しぶりで|家へ帰らうとすると途中で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》虎烈刺病に取りつかれた」ことになっている。
このタイミングの良さ。海舟になりすました男は、誰《だれ》よりも海舟の内室がこわかったろう。そこでコレラ病になったのだ。コレラ病だと言えば、まず尋常の者は恐れて近寄らない。大体が衰弱する病気だから、人相が変わってもおかしくはない。
とにかく、熱病とか、コレラとか、人相の変わる衰弱病を、渡米前後にやっているのは、どうにも不自然である。
特に、当時、最も恐れられていた伝染病、コレラにかかったというのに、海舟の回顧談では、この一文のみにそれが現れるだけで他《ほか》にはない。しかも、そのあと、どんな治療をしたのかも分からないのだ。
この年のコレラの記事も定かではない。
一切が謎である。
が、私には一本の筋が読めてきた。先生のヒントにあるように、海舟は渡米中に死亡したに違いないのだ。そればかりではない。代わりの海舟そっくりの男が、あらかじめ乗船していたことは、それが単なる死亡ではない有力な根拠となる。
勝海舟は謀殺された! 江戸開城で、西郷と会見した男は、正体の不明な人物なのだ。
私は、全集を伏せる自分の指が、興奮のために震えるのを感じた。
〈なぜ早く、これに気づかないでいたろう?〉
私は自分が腹立たしかった。
すぐに先生に話そうと思った。
第四章 百日紅の花
1
階段を降りた私は、先生の病室になっている奥のひと間を覘《のぞ》いた。
先生の姿はなかった。
敷き布団の上に、水色の夏掛けが丁寧に畳まれているばかりだ。軽い運動をした方が、かえって筋肉が動いて、一日中寝ているより楽なのかもしれない。
私は庭先の沓脱《くつぬ》ぎのサンダルをつっかけた。邸内は昔風の庭園に作られているから、むしろ昼なお薄暗い風情で、蝉《せみ》の鳴き声ばかり、徒《いたず》らに囂《かしま》しい。
庭をぐるっと回ってみると、黄色く大きな帽子が目についた。麦藁《むぎわら》帽に似せたビニールハットで、着流しの先生は、池の中央に架けた橋の上にいる。しゃがんでいる恰好《かつこう》からして、鯉《こい》に麩《ふ》を投げてでもいるのだろう。
「先生! こちらですか!」
私は大声をあげた。
大きなツバ広の帽子が動いた。その下から先生の太い眉《まゆ》と鋭い目がこっちを見た。
私は芝生の上を走り、池の縁に来た。
「大丈夫ですか? そんなことをして……」
「鯉にエサをやれんようじゃ、何もできやしない。もう傷はすっかり治っているぞ」
先生は元気のいい声で言い返した。
「そうですね。随分と、血色がいいようですね」
お世辞ばかりではなく、真実、光線の具合でそう見えた。
「太陽はたいしたもんだ。直射日光が当たらんように、こんな不恰好な帽子をかぶっているが、どうだい……こんなに皮膚がやけた。病気の前より、かえって健康に見えるんじゃないか」
「見えますよ」
複雑な気持ちで私は答えた。
一体、先生の病気はどうなっているのか、首をひねるほど明るい会話だった。
〈先生は全《すべ》てを諦《あきら》めたのかな……それとも……〉
「君もここへ来て鯉を見ないか」
「はい」
私は先生のそばに近寄った。
「君は小鳥と魚と、どちらが好きだね?」
「そうですね、飼ったことがありませんから」
「飼ってみなさい。面白いものだよ。魚だって、こうして飼い主のところに集まってくる。いわんや、小鳥は比べものにならないんだ。なぜって、文鳥や目白のようなつまらない小鳥にしても、卵を生み、それを育てる姿が、実によく分かる。魚にはそうしたところが分からないだろう……」
「そうですか」
「つまり、本能的な愛情の美しさがある。ある意味では人間より信用がおける……」
先生は麩《ふ》を、池の中にすっかり千切って落とし込んだ。錦鯉《にしきごい》や黄金鯉が、剽軽《ひようきん》な顔でそれを呑《の》みこむ。
「鳥や魚には、幸福という感情はないものでしょうか?」
「あるものか、君。幸福とか、幸福でないとかいう考えで、人生の尺度としてはいけないよ。それは感情だけの問題だ。人間にとって大切なのは、約束を守ること、この一事だけなんだ」
「約束を?」
「そうさ。西洋では契約と言うだろう。そこに人間の信義がある。約束を守れない人間は生きる価値がない」
私は先生が何を言おうとしているのか、よく分からなかった。しかし、大手術を受けた先生が、私に何かを教えようとしていることは理解できた。
けれど、話題がこの方向に進むのは、どうも気詰まりなので、私は勝海舟の話をすることにした。
「先生! やっと分かりかけました。先生のおっしゃるとおり、海舟は咸臨丸乗船前後に、大病を患っている点から見て、やはり何かあったようです」
先生はじろっと私を見た。私は自分が組み立てた仮説を、少し雄弁にまくしたてた。本当の海舟は、咸臨丸の船中で病死または謀殺された。偽の海舟は、帰国のときに、コレラだといつわって、内室の眼を誤魔化《ごまか》した……。
「大体、そんなことだと思うが……」
話が終わると、先生は橋の上でゆっくり腰を伸ばした。
「咸臨丸に乗り込んでいた軍艦奉行、木村|摂津守《せつつのかみ》の話は未《ま》だ知らんだろうね?」
「はあ」
「回顧録の中に、君の仮説を裏付けるような言葉がある。それは、海舟は艦に乗っている間、始終部屋にばかし引っ込んでいたということ。相談しても、『どうでもしろ』という調子で、万事投げやりだったというんだね。分かるだろう……海舟は部屋からほとんど出なかった、というのは、人目に顔をさらしていないわけだよ。大切な艦長という任務にありながら投げやりだったのは、細かい指示が出せない事情にあったと見るべきだろう」
「先生、その話の原本がございますか?」
「ある。それよりも、君に見てもらいたい資料が用意してあるんだ。時期が来たら見せようと思っていた」
「何ですか?」
「来たまえ」
先生は先に立って、離れの方へ歩き出した。私はすっかり海舟のトリコになっていた。日本歴史の上で、確実に実在した人物。江戸開城の大難事を切り抜け、明治の御代《みよ》には伯爵にまでなった男……
〈来たまえ〉
という以上、先生は、何か決定的証拠を握っているに違いない。それを、私に見せてくれるというのだ。
先生は離れの玄関をあがり、六畳の和室にはいった。そこは先生の書庫というべき部屋だった。三方の壁には、びっしりと書籍が並んでいる。その一隅《いちぐう》に、古びた手提げ金庫が忘れたように、安置してあった。
先生はその前に座った。ダイヤルを二、三回まわすと、鍵《かぎ》はかけてなかったとみえ、ピンと蓋《ふた》が開いた。
「これだよ」
私は覘《のぞ》き込んだ。
先生の手許《てもと》には、十枚以上の写真や肖像画の複写があった。
「海舟の……」
「そうだ。絵もあれば、写真もある。若いころから晩年まで、十二、三枚くらいかな。これを年代順に並べてみよう」
先生は、まるで手品師がカードを配るように、さっさと畳の上に複写を並べた。いろいろの写真がある。大刀の|つか《ヽヽ》に手をかけた青年時代のもの。幕府|瓦解《がかい》当時の横浜公使館で撮影したもの。あるいは、晩年、海舟書屋で徳川家達公と並んだもの。
「これがどうかしたんですか、先生……」
「分からないかな。よく見て考える。そうすればひとつの法則が発見できるよ」
「法則ですか?」
私は半信半疑だった。平凡に撮った写真のどこに法則があるのだろう?
「咸臨丸前後で、写真に違いがあるんでしょうか?」
私は直感で言った。
「えらい! そうだよ。その通りさ。さ、ここがその境になる。比べてご覧……」
言われたように、私は咸臨丸乗り組みまでの海舟と、以後、晩年までのそれを、じっと睨《にら》むように見比べた。
「さあ……よく似ていますね」
「似ているさ。似ているように撮ってあるんだよ。ほら、これだ。海舟を正面から撮ったのは、晩年のものしかない。あとは右向きか左向きか、とにかく横顔になっている。晩年は髪と髭《ひげ》が伸びているから人相が変わっているし、どの写真もぼやけている……」
「あ」
と、私は思わず声に出した。
「分かったような気がします。よく見ると、咸臨丸に乗るまでの海舟は、どの写真も左の横顔を見せているのに、それ以後になると、必ず、右の横顔を撮らせていますね」
「やっと分かったらしいね」
と、先生は笑った。
「これは偶然の一致としては、できすぎているだろう。若いころの海舟の写真や肖像のすべてを、左の横顔だけにしてしまった上、偽の海舟は右の写真しか撮らせなかった。これは右の横顔だけが本物に似ていたのを、その男が知っていたからだよ。こんなことを、今まで誰も気がつかないとは、まったく不思議なくらいじゃないか」
「そうですね。これは確かに偶然じゃないでしょう。しかし、先生。これだけの証拠があれば、たとえ歴史を告発できなくても、小説に仕たてるくらい簡単じゃありませんか」
「どうして」
先生は居住まいを正した。
「君。大衆小説、とくに歴史小説は、君の言葉を借りるまでもなく、常に歴史のよき告発者であるべきだよ。それには未《ま》だ足りない部分がある」
「なんでしょうか?」
「背景さ」
「背景ですか?」
「そうだよ。一体、これは海舟になりすました一人の男の意思なのか。それとも、糸を引く何者かがあったのか……ヒントをあげよう。海舟と西郷|隆盛《たかもり》の関係を、もう少し突っ込んで調べなさい」
「隆盛を?」
私は、はっとした。心の奥の不透明な部分で渦巻《うずま》いていたものの正体が、やっと表面に浮かびあがった気がした。
「分かりました。徹底的に調べましょう」
私は元気よく答えていた。
2
残暑は例年になく厳しかった。
初め、日曜日だけ、先生の邸に伺う予定だったのに、隆盛《ヽヽ》のヒントを聞いてからは、じっとしていられなくなった。私は午後七時半から十一時近くまで、二階の一室に詰めて、ウイークデーにも研究を続けた。
研究の焦点は、言うまでもなく、勝海舟と西郷隆盛の出会う前後の事情である。
日本史の通説によると、海舟が隆盛と会ったのは、元治元年の九月十一日となっている。元治元年は、西暦一八六四年だから、咸臨丸で渡米した一八六〇年から四年後の話になる。したがって、これが二人の最初の出会いならば、隆盛が海舟|すりかえ《ヽヽヽヽ》を指揮するような可能性はほとんどない。
私は、元治元年の事情を、多角的に頭に入れようとした。そうすると、この年に、海舟が初めて隆盛に会ったと考えるには、不自然な事実が現れた。
第一は、海舟が西郷に言った言葉──幕府にはもう天下の政治をとりしきる力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かさなければならない──というのは、初対面としては、余りに重大すぎる発言なのだ。
幕府の重要な地位を占めている海舟が、初対面の男に、なぜ軽々とこんなことを漏らしたのか。
当時、幕臣の多くは、勝海舟を薩摩《さつま》の回し者ではないかと疑っている。当然のことである。
そこで、この年の十一月十日付けで、海舟は役高二千石も取りあげられ、お役御免となっている。
ところが、ここに第二の不思議な出来事は、それまで海舟の下にいた坂本竜馬は、薩摩に走ってしまうのだ。これは海舟が隆盛に依頼したことになっている。
この事実から見て、海舟と隆盛──いや、海舟と薩摩の関係は、かなり以前から続いていた感じがする。
私は歴史をたどって、海舟と薩摩の関係を洗ってみた。
すると、海舟は、咸臨丸で渡米する一年半前に、薩摩を訪れていることが分かった。海舟はこのとき、英主のほまれたかい島津|斉彬《なりあきら》に会っている。また、斉彬は、海舟のことを西郷隆盛に、はっきり伝えているという。そこで考えられるのは、海舟に接した斉彬が、胸にある遠大な徳川打倒のプログラムを実現する手足として、海舟に目をつけたという想像だ。海舟を利用するのはいいが、説得で味方につくわけがない。そこで、海舟|すりかえ《ヽヽヽヽ》の大ばくちが計画される。
不幸、斉彬は病死するが、この計画の実現に当たったのは、西郷隆盛なのだろう。大体、隆盛のように、神経の図太い人間に、仕組めるような筋とは思えない。だから、実の計画者は病死した斉彬で、実行者は隆盛だと考える方が妥当のようだ。
私は長い時間をかけて、「海舟座談」を読み、西郷が大久保|利通《としみち》に送った書簡へ目を通した。
冷房のない部屋の温度は、窓を開け放していても、三十度を越えるほどだった。扇風機は新しいのを一台、奥さんが心配してくれたけれど、紙がひらひら動くために、とうとう利用するチャンスがなかった。
それよりも、私は、海舟の体臭が放つミステリーの雰囲気《ふんいき》にすっかり魅せられていた。
二階のその部屋では、同じ場所に座ってばかりいるので、私の躰《からだ》からしたたり落ちる汗が、畳にシミを作るほどだった。
おかげで、間もなく、私は持病の痔《じ》に悩まされるようになった。
私の痔は、いわゆる痔核で、肛門《こうもん》の周囲全体に花輪のようにできるのである。N商事に勤務するときは、円座に似た座布団を使っている。が、先生の家まで、それを運び込むのは嫌《いや》だった。
私はやむをえず、朝と晩、万年筆用のスポイトで、冷たい水を患部にかけてみた。この方法によると、自然に血管が収縮して、いくらか調子がよくなるのであった。
しかし、海舟にとりつかれた私には、痔のことより、資料の読解の方が、どれほど重大かしれなかった。
八月の第四日曜日だった。
私はいつもの場所に座って、「氷川清話」の書き抜きを進めていた。
疲れた手を休めて、ふと目をあげると、窓の外に、百日紅の枝がまぶしいほど光って見えた。艶《つや》のある表皮に、真夏の太陽が照り返しているのだ。
〈暑いな〉
と思ったとき、池の端の藤棚《ふじだな》の下に、黄色く動くものが見えた。
〈おや……〉
なんだろうかと、瞳《ひとみ》を凝らすと、どうやら大きなビニールハットらしい。
先生がいる、と分かった私は、ペンを置いて窓際まで立って出た。
藤棚の下には、ベンチが一脚ある。先生は執筆に疲れると、よくベンチに腰かけて、池の深い緑をいつまでもあきずにながめる習慣だった。今日はむろん、軽い足ならしの途中で緑陰を求めただけのことだろう。
風が藤の葉を裏返して吹き抜ける。その瞬間、先生のそばに寄り添っている奥さんの姿が見えた。一瞬のことだったが、私の目に焼きついた二人の姿は、正に、愛情あふれる夫婦の語らいというのにふさわしかった。
奥さんの楽しそうな笑顔が、はっきり私に見えた。もし、私が先生の退院のとき、|あの言葉《ヽヽヽヽ》さえ聞いていなければ、この光景は幸福そのものだと思ったろう。
不意に、先生の姿が、ベンチから立ちあがった。私はあわてて机の前に戻《もど》った。盗み見したような後ろめたさがあった。
それから四、五分もしたろうか。階段をあがってくる音がした。歩き具合で、奥さんだと分かった。
私は一心に書き抜きを続けるふりをした。
「ご熱心ですわね」
奥さんの呼びかけで、私は初めて振り向いた。
「階下《した》へいらっしゃいません? 主人もご一緒にお茶を飲みたいと申してますわ」
「ありがとうございます」
私は礼を言って、すぐにペンを置いた。実際、考えることは面白いが、写本のような単純な作業は退屈なのだ。
階下《した》では先生が、単衣《ひとえ》をくつろげて、白いクロスをかけた座卓の前であぐらをかいていた。
「どうだ……メドはつきそうかな」
先生は扇風機のスイッチを入れながら訊《き》いた。先生はクーラーの嫌《きら》いな人だった。
「はい、おかげさまで」
私は答えながら下座にすわった。
「白玉はお嫌《きら》い? 今朝、作って冷やしておいたのよ」
奥さんは、クリスタルの容器《うつわ》にスプーンを添えて、私に勧めた。
「いつごろ、メドがつく?」
先生は構わずに私に話しかけた。私は奥さんに、「嫌いじゃありません」と言った後、急いで先生の方を向いた。
「今月中には、下調べを全部すませたいと思いますが……」
「そうだね。秋風が立ったら、書き始めることだな」
「そのつもりです。でも、あくまでも慎重に取り組みます」
「うむ」
と、先生はそこで奥さんに目くばせをした。少なくとも私にはそう見えた。
「今度の日曜日に、ちょっとしたパーティをやるつもりなのよ。妹や義弟《おとうと》も来るでしょうから、ご一緒にいかが?」
奥さんは微笑して私を誘った。
「なんのパーティですか、それ……」
私は先生と奥さんの顔を、半々に見くらべた。
「これの誕生日なんだ」
と、先生は奥さんをちらっと見た。
「だから、別に大がかりなパーティじゃないよ。せいぜい、弟や義妹《いもうと》が来るだけのことさ。それも、お祝いに来るとは言いながら、つまり、わが家の特別なご馳走《ちそう》を食べに来るのが目的なんだよ」
ははは、と先生は腹の底から声を出して笑った。
「そりゃ、是非、ご一緒にお願いします」
私は即座に言った。
「露木さんにもお話しして、来ていただくつもりなのよ」
奥さんは私を喜ばすつもりなのだろう、そうつけ加えた。
「それはどうも」
私は軽く頭をさげたが、内心は嬉《うれ》しくなかった。長谷川邸の中で、自分と同じウェイトを持つ者を、私はふやしたくないのだ。ぼんやりスプーンを動かしている手に力がはいって、〈あ〉と思う間もなく、クリスタルの容器が倒れ、白玉の液《つゆ》が卓上を走った。丁度、私のそばにいた奥さんの着物の袖《そで》が汚れた。
「すいません。失礼しました」
私が謝るより早く、先生の手が、ついと伸びて、持っていた手拭《てぬぐい》で奥さんの着物を拭《ふ》いた。奥さんは実に嬉しそうだった。
第五章 突然の不幸
1
パーティの当日にも、私は相変わらず二階の一部屋を占領して、資料調べを続けていた。前日に、先生が久坂|玄瑞《げんずい》の「解腕痴言」を読むように勧めてくれたからである。
もっとも、私だけが仕事を続けていたわけではない。
露木は、棟《むね》つづきの洋間を、自分の画室のように使って、いよいよ最後の仕あげにかかっていた。本来ならば、とっくに完成しなければならないのが、先生の入院騒ぎで、丁度一カ月遅れたらしい。
日本画というものは、洋画のように、対象物を見ながら、イーゼルの上で完成させるものではない。デッサンに当たる小下絵さえ完全ならば、これを拡大した下絵をもとに、本紙にひき写すことになる。
露木の場合は、既に、〈ねんあて〉の段階が終わって、下塗りも一週間前に済んでいた。
午前中に、私が顔を出すと、露木はショートパンツ一枚で、床に腹ばいながら、筆を動かしていた。二丁|梭《ひ》の絵絹の周囲には、筆洗やら乳鉢《にゆうばち》やらが、七、八枚の絵の具皿《ざら》にまじって、ごたごた並べてある。
ずうずうしい露木が、すっかりこの一室に住みついた感じだった。
「今日はなん時ごろまでやる?」
私は訊《き》いた。
「やれるだけ……支度ができたら呼んでくれよ」
露木は私を見ずに答えた。
「ふざけるなよ。少しは手伝え」
と、私は言った。気ままな男だとは知っていたが、その原因が奥さんへの甘えにあると思うと、私は大いに反発したくなった。
絵絹の上には、三分の一くらい岩絵の具が盛られて、絵のテーマは、はっきり浮き出しになっていた。
中央には、白い地に紅葉を散らした和装の女が、長イスの上で眠っている。むろん、これが奥さんをモデルにしたことは間違いない。その周囲には、犬、狐《きつね》、兎《うさぎ》、猿《さる》などの小動物が取り巻き、それぞれ特異な姿態をとった構図だ。
題は「夢」だと言う。
私には不潔な構図としか思えなかった。後で考えると、露木のこの絵までが、あの殺人に関係していたように思える。大体、「美人画」を描くと言いながら、こんな絵に仕あげた神経が私には気に入らないのだ。ある意味で、奥さんを間にして、私と露木は少しずつ互いの感情を傷つけ合っていたわけだ。
「手伝ってくれと頼まれたらやるさ」
露木は筆を置いた。
「だから、言ってるじゃないか」
「頼む人が違う……」
露木はしゃあしゃあと言ってのけた。私はムッとした。奥さんをモデルに頼んだのは、外でもない、この私ではないか。貧乏な露木が奥さんに信頼されたのも、私という友達があればこそなのだ。それを忘れて、この言い種《ぐさ》はないものだ……私は返事もせずに、洋間を出ると、二階へ引き籠《こも》ってしまった。
先生の宏大《こうだい》な邸は、私や露木が居候のように出はいりしても、一向に狭く感じない。私は、露木のことを忘れようと努め、読書に耽《ふけ》った。
午後には雲が湧《わ》き、薄鼠色《うすねずみいろ》の空が陽差《ひざ》しをさえぎった。
先生は昼食がわりに、桃を二個と西瓜《すいか》を二切れ食べ、後は昼寝をしているらしい。階下に物音はしなかった。
一番大変なのは奥さんだろう。夜のパーティに備えて、食器をそろえたり、料理の下ごしらえをしたり……お手伝いのほかに、妹の洋子の手はあるものの、日ごろは小人数であるだけに、総勢七人の準備に追われていた。
パーティは、母屋の縁先に面した庭で、ガーデンパーティ風にやるようであった。私は奥さんを喜ばすために、誕生祝いとして、マジョリカの大皿《おおざら》を包んできた。
仕事をしながらも、いつものように集中できないのが分かった。
午後六時のパーティに先立つ一時間前、私のわきのインターホーンが鳴った。奥さんの声だった。
「今、離れにいるんですけど……」
「はあ……なんでしょうか」
「『慶安太平記』が畳の上に出ていますの。これ、お使いになっているんですか。よければ片付けようと思うんですけど」
私は面くらった。確かに、大分前、「慶安太平記」を読んだことはある。しかし、ちゃんと書棚《しよだな》に返したはずだ。
「いいえ。使ってはいません。片付けていただいて結構です」
私はそう答えるほかなかった。しかし,奥さんはなぜ、この忙しいときに、離れの片付けごとを始めたのだろう。
「よろしいのね。はい、それでは……」
奥さんはインターホーンを切ろうとした。私は追いかけるように詫《わ》びごとを言った。
「どうも申しわけありません。いつもいつもちらかし放しで……」
「いえ、それは構いませんけど」
会話はそれだけだった。
しかし、これがキッカケで、私は仕事をやめる気になった。パーティには間があるが、どうも気乗りしないのだ。
私は本を閉じ、机の上を整理した。それから、インターホーンのキーをたおして、洋間にいるはずの露木を呼んでみた。ところが、誰も応答してこない。
応答がないのは、露木がいないばかりではなく、女たちもインターホーンの近くにいないことになる。
奥さんが離れにいる点から推して、洋子とお手伝いの小島の二人も、そっちへ行っている可能性はある。パーティに必要なクロスや何かを捜しているのだろう、と私は思った。
私は窓から離れの方を見た。夕闇《ゆうやみ》が迫っていて、枝葉の生い茂った辺りは、すでに夜の気配だった。
ふと眼をめぐらした私は、飛び石伝いに離れに歩いていく先生を見た。ビニールハットをかぶり、着物を着た姿は、病みあがりの感じがしたが、しゃんとした歩き方だった。私が先生の姿に気づいたのも、石を打つ下駄《げた》の歯の音がはっきり聞こえたためである。
先生はすぐに、離れの玄関先に消えてしまった。
〈一体、離れで何をしているのだろう?〉
私は不思議に思った。
奥さんは片付けごとだと言った。何か、先生が命じて、捜し物でもしているのか。案外、今夜のパーティの趣向のためかもしれない……私がなおも離れを見ていると、ほとんど先生と入れ違いに、離れの玄関から、薄紫のワンピース姿が現れた。
奥さんであった。
奥さんの白い顔が、薄暗くなりかけた庭先に、はっきり見えた。サンダルを履いていた。
奥さんは忙しそうに駆け足で、丁度、私の目の下を横切っていった。その具合からして、洋間のある方へまっすぐに向かったようだ。
〈自分の誕生祝いだというのに、女はやっぱり損だな〉
私はそう思って、同情した。
そのときである。
異様な悲鳴が、私の耳に聞こえてきた。短い甲高い叫びだった。私はこれまで、一度もこのような絶叫を経験したことはない。男か女かも分からなかった。はっきりしているのは、たった今、奥さんが姿を消した方角だという事実だった。
2
私は迷った。後で考えると、迷う必要はなかったのだ。すぐ、階段を駆けおりて、現場へ向かえば、事態は変わっていたかもしれない。ただ、悲鳴がたったの一度しか聞こえなかったのと、邸内が依然として、ひっそりしていたので、自分ひとりが大袈裟《おおげさ》な行動をする気になれなかったのである。
が、やはり気になるので、私は迷いながらも階段をおりた。階段はよく磨《みが》き込んであった。
階段をおりて、左へ廊下を折れ、洋間の方へ向かった。誰《だれ》にも会わない。
「奥さん! 奥さん!」
私は大声で呼んだ。
〈もしや?〉
との不安が湧《わ》いた。返事がない。不安は恐れに変わった。
「奥さん……」
私は台所の前を駆け抜けるとき、怒鳴った。台所と食堂の間の戸が閉まっていて、内部《なか》からガタガタ音がする。誰《だれ》かが叫び声をあげた。
私は戸のそばに寄った。カギが外からかけてある。簡単な掛け金だけだが、内部からはあけられない。
それをあけると、エプロンをした洋子が飛び出した。洋子は眼鏡の下で、怯《おび》えた目を光らせていた。
「どうしたの? あの声……」
まるでメンスの時のように、顔色も唇《くちびる》の色も悪かった。
「分からない……奥さんじゃないかな?」
「姉さんですか?」
「とにかく、どっちの方で声が聞こえた?」
私はますます急《せ》き込んだ。
「うらなんだけど、ここから出ることができないわ。そこの戸も外から締められているのよ」
聞くより早く、私は裏への出口に体当たりした。木製の戸はぎしぎし鳴った。外からカギをかけるようにはできていない。誰《だれ》かが裏口の戸に桟《さん》をはめたのだ。
「お手伝いの人は?」
私は戸をはずしながら訊《き》いた。
「カンキリが見つからないのよ。姉さんが買いにやったわ」
「露木はどこにいるんだろう?」
「ああ、露木さんも買い物よ」
「何を?」
「赤い色電球……お庭に点《つ》けてムードを出すための……」
「どこまで行ったんだ!」
腹立ちまぎれに、ひと引き、力を入れて戸を動かすと、がたんと音がして、戸は苦もなく開いた。
私はスリッパのまま、外へ飛び出した。妙なことに、このとき、空を茜色《あかねいろ》に染めている夕焼けの見事な色を、はっきり見たのである。赤というより、沈んだ朱色と紫の空だった。
足もとには、醍醐寺《だいごじ》奥の院の金剛杖《こんごうづえ》が倒れていた。この金剛杖を桟にして、洋子を台所に閉じ込めたのだ。
「奥さん! どこにいるんです?」
叫び声を張りあげた私は、そのまま、後の言葉を飲みこんでしまった。
白い人間の手が、壁面のはずれからのぞいている。人が台所の裏に倒れているに違いない。
私は駆け寄った。そして、心臓がとまるほどのショックを受けた。
私の不安は現実となった。奥さんが血達磨《ちだるま》となって殺されていたのだ。右手を頭の上に伸ばし、左手で胸をかきむしった恰好《かつこう》で、仰臥《ぎようが》した奥さんの心臓に、大きな鋭いサシミ包丁が垂直に突き刺してあった。
「奥さん!」
私はもう一度、呼びかけたが、声は咽喉《のど》にひりついて掠《かす》れた。それが徒労なのは明らかだった。
「先生を……先生を呼んでください! 離れにいるはずです!」
私は、後ろで呆然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んだ洋子に、叱《しか》るような声で言った。
それからもう一度、奥さんの顔を見た。突然の死に遭遇して、瞳《ひとみ》は半ば開いていた。しかし、奥さんの死に顔は、やはり、何処《どこ》か遠くを見詰めるように見えて、私は美しいと思った。
たったひとつ、心臓から迸《ほとばし》り出た鮮血の恐ろしいマダラを除いては……。
第六章 鮮 血
1
先生の奥さんが殺される──なんというムゴイことだろう。優しく美しく、しかも貞淑であった奥さん。その奥さんが、無残な殺され方をしたのだ。しかも、私は事実上、その殺人の発見者となってしまった。
私は奥さんが殺されたと分かったとき、これは決して偶然の出来事ではないと確信した。また、できることなら、自分がその犯人を突きとめて、奥さんの霊前に報告したいと思った。
私がした第一の作業は、冷静に、関係者の行動を観察してみることだった。
まず、先生はどうか?
先生は、奥さんが殺されたとき、疑いもなく離れにいた。洋子のしらせで、現場へかけつけた先生の悲しみは、決して偽りのものではなかった。私は断言できる。奥さんの所作のひとつひとつに気をくばり、あれほど奥さんを愛していた先生。
先生の激しい慟哭《どうこく》を直視しながら、私はきっと、この事件が先生の命を縮めるに違いないことを恐れた。
次に、奥さんの妹の洋子。
彼女は、奥さんが殺されたとき、台所の内部《なか》に閉じこめられていた。他人《ひと》の助けがなければ、絶対に外へ出られるはずはない。現に、掛け金は私があけたのだし、金剛杖の桟も、私がはずしてやった。
事件の直後、彼女は先生の腕に抱かれるようにして、気を失いかけた。先生はその重さに耐えかねて、危うく抱き合ったまま、倒れるところだった。
私は見かねて、洋子を支え、洋間のソファまで運ばねばならなかった。その間、彼女は熱病やみのように、小刻みに躰《からだ》を震わしていた。
カンキリを買いに出ていたお手伝いの小島キヨ子は、騒ぎの最中に戻《もど》ってきた。年は二十歳前後だと思うが、この娘が一番、気がたしかだった。
余計なことを訊《き》きもしなかった。ただ、死体の足許《あしもと》にしゃがんで泣くとき、「奥さま!」と悲痛な呼びかけをしたのを、私ははっきり聞きとった。
私は露木のもどるのを心待ちにしていた。こんな非常のときには、なんといっても友達が頼りになる。しかし、キヨ子の次に姿を現したのは、先生の弟の五十二《いそじ》で、ほとんど警察官と一緒になった。
この暑いのに、黒の背広にネクタイを締めてきたのは、冷房つきのマイカーで到着したせいばかりではない。この男《ひと》は、医者によくあるダンディなタイプなのだ。
私の見る限り、現場で涙を流さなかった縁故者は、五十二医師ひとりくらいであった。死体を見る目付きは、初めのうち、職業的な光を帯びていた。
「誰《だれ》だ、こんなバカな真似《まね》をしたのは?」
そう言って顔をあげたとき、この若い医者の瞳《ひとみ》に、私は怒りの色を読んだ。
「分からないんですか、この邸《やしき》の中でこんなことが起きて……」
医者は、病みあがりの兄を非難する口調で言い、次にその怒った視線を私の上に投げた。私は目をそらせた。なんとなく、五十二が私を疑っているような気がした。
検視が始まったとき、露木が手に買い物の包みを持って、門をはいってきた。事情を知らないものだから、大いに戸惑っているところへ、私が顔を出したわけだ。
「この辺では、色電球を置いてある店がなくて、ちょっと遠くまで行ってきたんだ」
露木は猿《さる》のように、額に皺《しわ》を寄せて、自分の遅れた言いわけをした。彼は死体に対面するのを許されなかった。そのせいか、彼の動揺はさほどでないように見えた。
ただ、このころになると、殺人についての事情が少しずつ分かりかけていた。
例えば、犯人が心臓をひと突きにしているために、相当量の鮮血が吹き、返り血を浴びたという推定である。これは五十二医師も、死体を一見しただけで、先生に言っていた。
「ここへ駆けつけたとき、血のついたやつはいなかった?」
先生はこの質問に、はっきりと首を横にふった。
私に訊《き》かれても、同じようにするほかはなかったろう。
私の知る限り、洋子も先生も、返り血に汚れてはいなかった。この点は、キヨ子、五十二、露木……そして、私自身、まったく潔白なのだ。
検視の結果、奥さんは即死と断定された。死亡時刻は、悲鳴の聞こえた午後五時十五分ごろである。
心臓を狙《ねら》って、力まかせに直角に刺したもので、おそらく、奥さんの不意を襲ったことは間違いないという。
検視の結果を五十二医師の口から聞きながら、私は先生たちとひとつ部屋にいて、奥さんの冥福《めいふく》を祈った。
が、事態は皮肉な方向に発展し始めた。奥さん殺しの一番の容疑者が、なんと、私だというのだった。
2
順序だって、警察の言い分を説明すれば、なぜ私が疑われたか、はっきりするだろう。
調べに当たったのは、色の黒い三十四、五の羽毛田《はけだ》という警部である。なかなか礼儀正しい男で、私に名刺を渡すとき、
「ハゲタと濁って呼ばないで下さい」
と、頭をさげて挨拶《あいさつ》した。
私は反射的に男の頭を見たが、気のせいか、年の割には髪の毛が薄かった。
「通りがかりの者の犯罪ではありません。これは確かです。凶器がこのお宅のものだし、周囲の情況からみても、物盗《ものと》りや何かじゃないんだから……」
羽毛田警部の言葉はもっともだった。しかし、問題のサシミ包丁が、いつから見えなかったかは、誰も明確に答えられないのだ。
物盗りの犯行でなければ、長谷川家に関係する者の怨恨《えんこん》か痴情の果てとでも考えるほかはない。
そこで、現場に居合わせた者の行動が、捜査の焦点になる。羽毛田警部は、関係者一人一人を順に呼んで、犯行時刻に何処《どこ》にいたかを訊《き》いた。私も、むろん訊かれた。
「二階の六畳間にいました」
と、私は正直に答えた。
「何かしていたわけだろうが?」
羽毛田警部はねちねちと訊く。性格だろうが、感じはよくない。
「調べ物をしていましたよ」
「ほう……」
「『解腕痴言』を読んでいたんです」
「カイワンチゲン? それはどんな本ですか?」
「論より証拠で、お見せしますよ」
「事件の起きたのは、どうして分かったんです?」
「奥さんの悲鳴を聞いたから、それでね。その直前に、窓の下を駆けていく奥さんを見たばかりだし……」
「それは離れから出てきたんですね?」
「ええ」
「長谷川さんもその点は認めていますよ」
「そうでしょう。先生と入れ違いに、奥さんが出てきたんだから」
「悲鳴と同時に階段をおりた?」
相変わらず、陰にこもった質問だ。
「まあ……初めは訳が分からないんで、どうしようか、少し迷いましたね」
「まっすぐに現場へ?」
「いや、台所へ来てみると、誰かが内部《なか》に閉じ込められている。それをほうっておけないから、助け出しました」
「それが水谷洋子……つまり、被害者の妹だったってことですねえ」
「はい」
「それは大丈夫でしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「内部《なか》に閉じ込められていた状況が、本当に思った通り、外へ出られなかったかどうか」
「間違いありません」
私は少々、不愉快になったから、強く断言した。
「そうすると、長谷川さん、水谷さんのお二人は、疑う必要がなくなるわけですよ。ところが、おかしなことに、台所の戸を外から金剛杖で開けなくしたのが、当の被害者らしいというんです」
「誰が?」
「水谷洋子……水谷さんも見たわけじゃないらしいですがね。マヨネーズを作るために、夢中でビーターを動かしているときに、戸が閉まった。それを横目でちらっと見たと言っていますよ」
「そんなバカな。なんの必要があって、奥さんがするんですか?」
「それはこっちも知りたい点ですがね」
警部は一向に動じなかった。
「露木やお手伝いの方を調べましたか?」
私は、そばに人気のないのを見すまして、訊《き》いてみた。
「調べましたよ。何か?」
羽毛田はトボケていた。
「あの二人は、本当に買い物に行ったんですか?」
「行っています。カンキリを買った店、色電球を買った電気屋。彼らの言う時間と足取りは、一応、一致するようです」
「困ったな」
私は腕を組んだ。誰も怪しい人物はいない。奥さんを殺したやつは、風か煙のように、サシミ包丁を振り回したあげく、消えてしまったのである。
「あなたが困るのはおかしいな」
と、若い捜査官が、上唇《うわくちびる》に笑いの皺《しわ》を作った。
「なぜです?」
私はこしゃくにさわって反発した。
「なぜってことはないでしょう。あなただけが殺しの出来る立場にいたんだから」
「えっ」
本当に私は自分の耳を疑った。
「もう一度言って下さい、今言ったことを」
「困ったのは、こっちですよ。ほかの人にははっきりしたアリバイがあるのに、あなただけは裏付けを持っていないんだ」
〈ひどいことになったぞ〉
私はそう思った。頭の中で、熱い湯気のようなものが、ぐるぐると回転した。
「どうしてそんな風に考えるんです? 事件を発見したのはぼくなのに……」
「だから困っているわけですよ。誰かが、あなたのアリバイを立証してくれるとうまいですね」
「一日中二階にいて、それで……」
「一日中二階にいたことは、誰が証明しますか?」
私は詰まった。警部の方は、こうした畳みかける質問に慣れているだろうが、私は苦手だ。
「正直のところ、ほかの者にできないことをあなたは全部できたはずでしょう……つまり、二階の窓から見張っていて、誰がどこにいるかを確認できる。
長谷川さんが離れに行く。被害者が出てくる。それを見届けた上で階段をおりる。後を追って刺す……いや、怒らんで下さい。可能性の話です。あなたが殺《や》ったとは言いませんよ。ただ、できないことはないというだけですから……もうひとつ訊《き》きたいのは、あなたに犯人の心当たりがあるかどうか……」
警部は話の最後を、照れ隠しのように濁した。
私は、誰が奥さんを殺したのだろうかと、真剣に自分の胸に訊《き》いた。洋子だろうか? 彼女は先生に気がある。奥さんさえいなければよいと、思ったかもしれない。しかし、実の姉を殺すだろうか?
露木はどうか? 奥さんを好きになっているのは間違いない。だが、情痴のもつれにしては、何処《どこ》かにピンとこないものがある。
結局、私には見当がつかないのだ。
「別に……ありません」
私は、この不愉快な尋問を、一刻も早く終わらせようと思って、わざと素っ気ない返事をした。
3
警察の調べが済むと、私は先生の居間へとんでいった。何よりも、この不意の不幸で、先生がショックを受けたに違いないし、私はそれを心配していたのだ。
先生は八畳間の隅《すみ》に布団を敷き、その上に座っていた。顔色は紙のように白かった。
「すまないが、その水差しをとってくれ。咽喉《のど》が渇く」
先生は私の顔を見るなり、身じろぎもせずに言った。
「横になられたらいかがですか? ご用があればおっしゃって下さい」
私はグラスの水を先生にすすめた。
「ありがとう」
先生は力なく礼を言った。
「きっと、すぐに犯人はつかまるでしょう。まったく、なんと申しあげたらいいのか分かりません」
先生はグラスに口を当て、一息にグラスを干した。真っ赤なチェリーの実が、グラスの底に残った。
「いいやつだった……ああ……」
先生は呻《うめ》いた。奥さんを思い出しているのは、すぐに分かった。水差しに、チェリーの実を入れたのも、おそらく奥さんの心遣いに相違ない。
「憎い犯人です。この上は、一日も早く犯人をあげて、奥さんに成仏していただくだけですが……」
先生は崩れるように、布団の上に伏した。痩《や》せて、尖《とが》った肩の骨が、とても見るにしのびなかった。私は先生を抱いて、横にしてやった。手足の先が、びっくりするほど冷えている。
「もう終わりだ」
横になったとき、私は先生の呟《つぶや》きを聞いた。
「そんなに落胆されますと、お躰《からだ》にさわりますよ」
私は叱《しか》るように言った。しかし、それ以上私は言葉を継げなかった。先生は布団のシーツに顔をうずめて、子供のように泣いていたのだ。
第七章 葬 儀
1
奥さんが殺された晩、私はN商事の独身寮の自分の部屋で、眠られない夜を過ごした。布団にもぐり込んで、明かりを消したまでは良かったが、目をつぶると、血まみれの奥さんの姿が浮かぶ。胸に刺さった包丁を思い出す。すると、自分の心臓までが息苦しくなるのだ。
眠れぬままに、枕許《まくらもと》の時計を探り、夜光の文字盤を見る。ピンクの針が午前零時十分をさしている。
このとき、窓下の道路に車のとまるブレーキの音が聞こえた。
〈なんだろう?〉
聞き耳を立てたのは、それだけ神経が過敏になっている証拠だ。車はそのまま、駐車しているらしい。二、三分たった。ためらいがちのブザーが鳴った。
私のところへ来客というわけである。あわてて飛び起き、明かりをつけて、布団をカシワに畳んだ。覗《のぞ》きから来客の顔を見ると、思いもかけない水谷洋子だった。
「どうしたんです? こんな真夜中に……」
私は声を低めて訊《き》いた。独身の女が、姉の殺された晩に男を訪ねる──それだけでも異常な事態である。N商事の同僚には気づかれたくなかった。
「ごめんなさい。少しご相談があるんですの」
洋子の唇《くちびる》の右端が、ぴくぴく動いていた。
「布団が敷いてあるけど、とにかくはいって下さい」
そう言いながらも、一瞬、私の心のどこかで、〈これが奥さんだったらな〉と思ったのは事実だ。
「どうも興奮して、眠られなかったところです」
と、私は座布団を勧めながら説明した。
「今まで先生のお宅に?」
「はい」
「……それで、ご相談というのはなんでしょう?」
「姉のことですわ」
「奥さんの?」
私は洋子が何を言いだすのか、まるで見当がつかずにいた。
「ええ。そのことで警察の方に話したらいいか、黙っていた方がいいか、自分ひとりで判断できないことがあるんです。ほかの人に相談しても信じてもらえそうもないし、そうかといって、このまま一晩、自分の胸にしまってもおけないし……」
丸顔の頬《ほお》が、いつもよりコケて見えた。
「言って下さい」
「はい……それは……姉は……もしかしたら自殺ではないかと思うんですの」
「自殺! どうして……心臓に直角に包丁が刺してあったんですよ。それに、第一、奥さんには自殺する理由がない。それとも、そんなソブリがありましたか?」
「はい。あのことが起きるすぐ前、台所の戸を閉めたのは姉ですもの」
「聞きましたよ」
と、私はイナスように応じた。
「しかし、それと自殺の線とは、必ずしも結びつきませんよ」
「でも……見たんです」
「何を?」
「サシミ包丁を、こっそり外へ持ち出したのは姉でしたわ」
「………」
「あれは三時ごろですわ。姉はエプロンの下にあの包丁を隠して、台所から出ていきましたの。すぐもどってきたから、きっとどこかへ隠しておいたんだと思うのです」
「随分、手間のかかる自殺の方法ですね」
「信じていただけません?」
「信じませんよ、奥さんが自殺だなんて。そのこと、先生にお話しなさいましたか?」
「いいえ、誰《だれ》にも。きっと信じられないと思って、黙っていましたの。でも、思いあぐねたものですから、こんな夜更けに……本当にご免なさいね」
「それは構いませんが……どうもわからないなあ」
「警察には言わない方がいいかしら?」
洋子は両手を膝《ひざ》の上に重ね、女学生のように俯《うつむ》いてしまった。
私も判断はできなかった。正直に警察に言うのは良いとしても、奥さんが自殺したとは到底考えることができない。
「様子を見るんですね。包丁の話なら、後で思い出したって不自然じゃありませんよ」
そんな知恵をつけるのが、せい一杯の私の好意だった。
「はい。ありがとうございます。お話ししただけで、随分、気持ちが楽になりましたわ。夜分、本当に失礼しました」
洋子はそう言うと、車が待たせてあるので、と断わり、来たときと同じように、たちまち身を翻して帰っていった。
彼女は〈気持ちが楽になった〉にしても、私は余計、眠られなくなった。
どう考えても、奥さんには自殺の原因がない。また、周囲の状況も、自殺らしからぬ要素が多すぎた。輾転《てんてん》反側するうちに、いつの間にか私は眠ってしまったらしい。しかし、午前二時の針を、枕許《まくらもと》の夜光文字盤で確かめたのは覚えている。
2
まったく奇妙な殺人事件であった。
情況判断からすれば、長谷川邸にいた人物が犯人としか思えない。その中で、はっきりしたアリバイのある者を除くと、私だけが容疑を受ける立場にある。それで、捜査当局としては、私の身辺を、全力をあげて調べ始めたようだった。
事件の翌日なぞ、小半日、私は羽毛田警部とつき合わされてしまった。彼は根掘り葉掘り、私と先生の関係を問い詰めた。その結果、かなり、私と奥さんが親しくしていたという印象を受けたはずである。
だが、土台、私からしたら、こうした尋問はナンセンスなのだ。私が犯人でないことは、本人である私には、至極、当然の話だった。私の目から見ると、警察はまったく無駄《むだ》な作業に全力を挙げているわけだ。
とはいうものの、警察という巨大な組織が、私に焦点を当てて活動しているのが分かると、なんだか自分が事件の関係者であるような錯覚に陥るのはどうしたわけだろう。
とても落ち着いて、経理事務が執れる心理状態ではない。私は課長に断わって、三日間の有給休暇をもらった。
奥さんの遺体は、司法解剖された後、ドライアイスに詰められて、次の日の夕刻、長谷川邸に戻《もど》ってきた。
世間体を考えた先生は、その日のうちに通夜、密葬の手筈《てはず》を決めたようであった。
不幸な死を遂げた人の葬儀は、どれもみんな同じなのだろうか? いかに内密の通夜だとはいえ、人の心にまで荒寥《こうりよう》たる風を吹き込む必要はないのに……。
通夜には、先生が稿を寄せている出版社の関係者は、ひとわたり顔を見せた。だから、とりわけ寂しいほどではなかったが、誰《だれ》も彼もがシメッポイ感じで、事件の話を外側から撫《な》でている有り様なのだ。
私は通夜の間中、先生の脇《わき》にいて、先生の手足となって働いた。先生は夏の黒い喪服を着て、終始、奥さんの霊前で正座を崩さなかった。じっと首を垂れ、身動きをしない先生の後ろ姿には、修道僧の厳しささえ感じられた。
来客が引きあげ、霊前が、がらんとした後も、先生は祭壇の前から離れようとはしなかった。
「お休みになって下さい。お躰《からだ》をこわしたらいけません」
私は先生に呼びかけたけれど、
「いいんだ。君こそ休みなさい。明日、また働いてもらわなければならん……」
と、逆に労《いたわ》りの言葉を受ける始末であった。
密葬の日も、あっけなくたった。なにごとも、仕事に追われる日は早く過ぎてしまう。おかしいように、二日、三日と経過して、殺人の生々しい記憶すら、ふっと忘れ去るほどになる。
人づてに聞くと、今度の殺人事件は、初動捜査がうまくいった方らしい。それにもかかわらず、きめてになる証拠がつかめないのだ。裏をかえせば、私に着せられていた汚名が、次第に色あせたことにもなる。
結局、捜査線上に浮かぶ人物は、どれもこれも白となって、いわば不可能殺人の様相を呈してきたのだ。
洋子とは、殺人の夜以来、二人だけでしゃべる機会がない。だから、確かめはしないけれど、おそらく〈自殺説〉を警察に言い出さなかったのだろう。新聞記事を見ても、それに言及したのは見当たらなかった。
3
秋の彼岸の中日に、私は先生のお供をして上野駅から急行白山に乗った。一等の座席指定をリザーブしていなければ、一等車でも立つほどの混雑だった。
先生は膝《ひざ》の上に、白布に包んだ奥さんの骨箱を抱いていた。
奥さんは自分の故郷である信州の滋野《しげの》を、生前、とても好んでいた。上野から数えて、滋野は小諸《こもろ》のひとつ先になる。急行を小諸でおりて、鈍行を利用するか、タクシーを使うかしなければならない。そこの古い墓地へ、先生は遺骨を埋葬しようと思い立ったのである。
「犯人が逮捕されないと、奥さんも浮かばれませんねえ」
高崎を過ぎたとき、私は郊外の工場地帯を見ている先生に話しかけた。
「まさか、自殺なさったわけではないでしょうに……」
「自殺? 誰《だれ》が言った?」
「いえ。あまり不思議なので、想像しただけですが」
「自殺じゃない。殺されたんだ」
先生はきっぱり断言した。
「そう思うんですが、一体、誰が犯人なんでしょうか?」
「洋子は台所にいたんだから、数メートル離れたところで事件が起きたことになる。それでも犯人を見ていないわけだね」
「それは、外から戸が閉まっていたからでしょう」
「誰が閉めたの?」
「奥さん自身で閉めたそうですよ」
「おかしな話だね、君。おかしいと思わないかい?」
先生はそこで急に膝《ひざ》をのり出した。
「おかしいと思います」
私は正直に自分の感想を言った。
「おかしい? え、やはり、そう思うかね?」
先生はそこで念を押すように私に訊《き》き、私がそれを認めると、それきり黙ってしまった。私は、先生の心の中に、私には分からない心の波がうねっているのを感じた。
先生は黙想し、両手でしっかりと奥さんの骨箱を抱きしめた。
滋野は小さな駅である。プラットフォームのはずれに、名も知らぬ洋花が一面に咲き乱れていた。
私達は駅からハイヤーを頼み、まっすぐに目的の墓地に向かった。奥さんの血縁はすでになく、わずかに姻族が数人いると聞いたが、先生は菩提寺《ぼだいじ》に連絡してあるからといって、墓地へ直行することにしたのだ。
車は平地から山間部へはいり、狭い畑地の間を縫って進んだ。
高原の古い墓地は、妙に空気が乾燥していた。墓石を吹き過ぎる秋の風は、私の想像以上に冷たかった。
墓地に同行したのは、菩提寺の住職と墓掘り人足だけだった。
土饅頭《どまんじゆう》の上に、数本の卒塔婆《そとば》を立てただけの鄙《ひな》びた墓地の前で、住職はやたらと長い読経をした。先生が用意した謝礼を渡すと、住職は用済みとばかりに帰ってしまった。墓掘り人足は黙々とスコップをふるい、軟らかい土饅頭に深い小さな穴をあけた。古い骨壺《こつつぼ》と赤茶けた人骨の端が見えた。人足は軽い舌打ちをして、少し右側に穴を掘り直した。骨箱が埋葬された後、先生は別に用意したタバコ銭を人足に渡した。
やがて、先生と私の二人だけが、墓地の午後に取り残された。少し長く影をひいた先生の姿は、新しく盛りあがった土饅頭の前で合掌していた。
私は先生の背後から、こっそり聞き耳を立てた。先生はぶつぶつ低い声でつぶやいている。よくは分からなかった。ただ、途中のひと言だけが、風の具合ではっきり聞きとれた。
「……イソジを責めないでくれ。おれは……」
その後は、一段と低い声音に変わってしまった。
第八章 妻のみぞ知る
1
十月にはいって、私は再び、旧《もと》の生活のリズムを取りもどした。
奥さんを殺した犯人は、捜査当局でも確証がつかめずに、事件は迷宮《おみや》入りになりそうであった。
事件の当座は、週刊誌が大々的に書き立てたけれど、今ではニュースバリューを失ったらしく、人の口の端に上がることもなくなった。
私は、捜査当局以上に、何ひとつ、目新しい事実を知らないので、八方ふさがりだった。たったひとつ、気になることといえば、滋野の墓地で、私が先生の口から聞いた「イソジを責めないでくれ。おれは……」という文句だけである。
イソジというのが、先生の弟の五十二医師なのは分かるとしても、「責めないでくれ」とは、一体、なにを意味するのだろう。
私はいろいろに考えてみた。
責めないで、という以上、五十二が奥さんに責められるような行為をしたはずである。五十二医師が奥さんを殺したのか? 彼だけは、あの日、遅れて到着している。警察官と一緒に長谷川邸に来た。そのために、アリバイの確認も、かえってルーズであった。犯行の後、何くわぬ顔で出直すこともできるだろう。それどころか、返り血を浴びたとすれば、出直さざるをえない。
疑えば、五十二は一番怪しい。返り血のことを最初に騒ぎ出したのも、警察官ではなく、彼だった。
けれども、私には五十二を尋問する権利も方法もなかった。それに、先生は五十二を庇《かば》っている。最愛の奥さんを殺された先生が、犯人を庇う以上、そこには重大な理由がなければならない。
私は口出しすべきではない、と判断した。それよりも、再三、中断した勝海舟の研究を進めて、中編小説にまとめる方が大切かもしれないのだ。
先生も、「そろそろ書き出したらいい」と許可を与えてくれたし、私も時機が来たと思った。
私は先生の許しを得て、相変わらず、邸の二階を借り受けた。資料の関係で、この方が好都合なのだ。
題名は「二人の勝海舟」と決めた。
ストーリーは文字通り、二人の勝海舟の生い立ちから始めることになった。
本当の勝海舟は、文政六年の正月|晦日《みそか》、旗本|勝左衛門《かつさえもん》太郎小吉の長男として江戸に生まれた。
三十歳までは、ほぼ名もない小普請組四十俵どりの小役人であるが、三十七歳までには軍艦操練所教授方頭取にまでなっている。ところが、万延元年正月、熱病にかかったにもかかわらず、咸臨丸に乗り組み、その航海中に行方不明になってしまう。
そもそも、熱病にかかった原因にも、大きな疑問は残されている。
一方、後年、勝海舟を名乗り、江戸開城の大芝居を、西郷隆盛とやってのけた男は、薩摩《さつま》藩士、松本柔太郎であろうと推定した。
松本柔太郎は文政九年に鹿児島《かごしま》で生まれた。しかし、早くから江戸に出て、剣術の修業と並行して、永井|青崖《せいがい》の門で蘭書《らんしよ》を読んでいる。この点、本物の勝海舟と、ほぼ同程度の知識を持っていたことは間違いがない。
そうして、安政二年、長崎に集まったオランダ軍艦伝習生のメンバーに、彼は勝海舟と名を連ねている。
ただ、最大の問題点は、松本が海舟とどれだけ容貌《ようぼう》が似ているか、それを立証する資料が何ひとつ残されていないことだ。
とにかく、咸臨丸の乗組員の人数は約九十名なのだが、この員数がどうもぴったりしない上、松本柔太郎の姓名は、帰国メンバーの方から消えている。従来、この説明として、正副使の乗船したポーハタン号に乗りかえたため、とされているが、実は確認すべきものがない。勝海舟と容貌さえ似ていれば、この松本柔太郎がその代役を務めても、一向に不自然はなかったろうと想像される。
コレラ病にかかって、品川に上陸したときの勝海舟は、いわば第二の勝海舟であった。このときから、「彼」の苦しみ悩む歴史が開始するのだ。
私は、この第二の海舟に焦点を置いて、ペンを進めようと考えた。これには、ふたつの軸がある。
ひとつは、政治的な使命を帯びて、歴史を動かそうとする野心家の生きる姿。
他のひとつは、人間、勝海舟として、周囲を欺瞞《ぎまん》しながら、新しく生きる道を発見しようとする男の心。
おそらく、第二の海舟は、一生、野心家としての秘密を守るために、個人の幸福を犠牲にしてしまったであろう。私は、その辺の経緯を、大衆にウケるように、面白く描いてみたかった。
およその粗筋《あらすじ》が固まったとき、私は先生に相談をしかけた。奥さんを亡くした先生は、それ以来、一度もペンを持とうとはしなかった。身辺を整理することを除けば、ほとんど一日中、布団の上で寝たり起きたりの有り様。
私は勝手な時間に、先生の居間にはいることができた。
「柔太郎が海舟になりすました場合ですね、一番の悩みはなんだったでしょうか? 職務上の悩みとか、友人関係の苦労とか、いろいろあるでしょうが……」
「君だったら、一体どう思う?」
先生は私のつまらぬ質問に、正面からは答えなかった。
「やっぱり、技術上の矛盾でしょうか」
「それもある。だが、君が念を押したいのは、そんなことじゃあるまい?」
先生は寝たまま、じろっと私を見あげた。頬骨《ほおぼね》は高く突き出しはしたが、初めて神祇殿《じんぎでん》の前で会ったときのように、眼光は少しも衰えていない。
「はい……実は、松本柔太郎と勝海舟の妻女の心理的な葛藤《かつとう》を柱にしたいと考えているんです。しかし、どうもよく分からないのは、なぜ、妻女が夫の変化を見抜けなかったのか……あるいはですね、分かっていながら、それを騒ぎ立てなかったか、その辺の理由なんです」
「内室一人だけの問題じゃないだろう」
と、先生は言った。
「海舟には早くから妾《めかけ》がいたはずだね」
「はい。長崎伝習時代、すでに一人……」
「そうした女たちにも、海舟の肉体や嗜好《しこう》の違いが分かったと思う」
「でも、誰《だれ》一人として、それを表立てた者はいません。だから、今まで、|二人の海舟《ヽヽヽヽヽ》説を考え出さなかったんでしょう」
「妾にはなんの力もない……特に社会的にね。女たちは、経済的に安定できる条件なら、どんな男とも寝たはずだよ。その点、妾と内室を一緒にすることは無理だが……」
「そう思います。それだけに、妻女の問題は興味深いんです」
「単なる男と女の関係以上に、夫と妻の関係は微妙だよ。特にあの時代には……もし、自分の夫だと思っていた男が、別人だと分かったとき、どうしたらいいんだろうね。偽者はあらかじめ、周囲の者を味方につけて乗り込んできている」
「相手を問い糺《ただ》したでしょうか?」
「したろう。でも、自分は本人だと言い張れば、最後には夫が勝つ。それでも妻の方で問い続ければ、結局、妻が狂ったことになるわけだよ。妻は、社会的には、無能力者だからね。夫がなければ妻もない。妻が妻として存在するには、何があろうと、そこに夫が存在する必要があった。分かるかね……」
「分かるような気がします。海舟の妻女にしてみれば、夫が変わった以上、|自分も変わるほかはなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というわけでしょう」
「その通りだ」
と、先生はうなずいた。
「そうした妻女の苦しい心の動きを現代風に追究したら成功しそうですね」
「するよ、君。現代でも、夫があるから妻がある。この関係は変わってやしないさ」
「はい」
「もうできたようなものだ。急がず焦らず、しかし、書けるときに、力一杯書くことだね」
先生は疲れたように目を閉じた。
「そのテーマは、大衆小説の基本なんだよ」
「ありがとうございます。先生のテーマを、そっくり拝借してしまって、申しわけないと思います」
「違うな、それは。君に頼んで、書いてもらうようなものだ」
先生には珍しく、投げ出すような言い方だった。〈おや〉と思って、私は顔色をしげしげとながめた。驚いたことには、全体が黄色味がかっている。黄疸《おうだん》の徴候である。気がつかないうちに、病気が進行していたのだろう。
私は眩暈《めまい》のようなものを覚えた。先生は完全に病んでいた。
2
それから三日目。
先生は再び大学病院の特別室へ入院した。手術したときと同じ三階だが、東側の端の部屋だった。
なかなか入院を承知しない先生を、五十二医師が強引に勧めて、手配を整えてしまったのである。
特に強い痛みもなく、日常の生活は一人で足せはしたが、誰の目にも病魔の進行は明らかであった。
入院の前の日に、先生は几帳面《きちようめん》に身の回りを片付けていた。
「あまり整理をなさらない方がいいんですよ。退院したら、ご一緒に片付けごとをしましょう」
私は見かねて言った。
「それは無理だよ。人間、最後は自分の手でキレイにするものだ」
先生は平静な調子で私に言い、その言葉には非難も自棄の色もなかった。私は黙ってしまった。
先生が入院してしまうと、邸にはお手伝いの小島キヨ子ただひとりが残されることになる。
今は、麦茶をすすめてくれる奥さんもいない部屋で、私は仕事を続けるほかはなかった。露木の方は、下絵が完成していたから、とにかく、なんとか恰好《かつこう》をつけたらしい。が、私はこれからが勝負だった。
十枚、二十枚と稿を積み重ねて、やっと五十枚になった日の午後である。丁度、土曜日なので、私はかなり書けると思っていた。
五時過ぎに、五十二医師と見知らぬ男の二人が、無遠慮に邸ヘあがりこんできた。五十二は、執筆中の部屋を覘《のぞ》き、叱《しか》りつけるように言うのだ。
「君は一体誰だね?」
初めから挑戦的《ちようせんてき》な切り出し方だった。こんなことを訊《き》くのは、私を怒らせる算段なのは見えすいていた。先生との交際も長くなった。その間、私は五十二とも、幾度となくこの邸内で会っている。親しく話し合うことは少なかったにせよ、お互いに顔も素性も十二分に承知している相手だ。
〈何かあるな……〉
と直感したから、努めて冷静に、
「よくご存知じゃありませんか」
と答えた。
「何をしているんだ?」
次の質問も、極めて悪意に満ちていた。グレイの背広に、インテリらしく幅広の蝶《ちよう》タイをしていたが、五十二の高い鼻が、このときほど高慢に見えたことはない。彼は、私が大衆小説家を志望して、先生に師事していることも、「二人の勝海舟」を執筆中なのも、先刻、承知なのだ。
「いつものヤツを書いているんです。おかげさまで、とても捗《はかど》ります」
「誰の許可を得て、そんな真似《まね》をしているんだね?」
「先生です。先生が便宜を与えてくださったからですよ」
「聞いていないな」
と、五十二は部屋へはいり込み、窓際へ、ずかずかと歩いた。
「先生に訊《き》いて下さい。間違いありませんから」
「病人を苦しめることはできないよ」
と、五十二は即座に言った。
「とにかく、すぐにここをあけてもらいたいね。そんな仕事は、自分の家でできるだろう」
夕照が、五十二の頬《ほお》を赤く染め、妙に陰惨な印象を与えた。
「ここの方が便利ですから……」
私は下手に出た。ここで喧嘩《けんか》したら私が損だと思ったのだ。が、五十二は是が非でも私を追い出したいらしい。
「君。他人《ひと》の家を無断で自由に使っておきながら、便利とはなんだい……兄がいない以上、こっちに管理の責任はあるんだ」
「先生はご存知ですからね」
「そんなことはどうでもいい。ま、今日から使うなとは言わない。明日の日曜日まではいいとしよう。明日、君のものは紙一枚残さずに持っていってくれ。分かったね?」
そして、私の返事を待たずに、足音を荒らげて階下《した》へおりていった。それは、私に初めて見せる五十二の一面なのだった。
私は諦《あきら》めた。
3
お手伝いの小島キヨ子は、奥さんの遠縁に当たる娘だと聞いていたが、現代には珍しい素直な性格だった。無口で、マメで……今日限りで私が二階を引き払うと知っても、「そうですか。寂しいですね」と言っただけで、余計な無駄話《むだばなし》もしたがらない。
私は、最後の日曜日だと思って、ペンの続く限り書いた。先生は私が追い出されることを、おそらく知らないのだろう。が、病床にあっても、私の成功を祈っているに違いないのだ。それに、この二階で書いていると、優しかった奥さんの霊が、じっと私を見守ってくれるような気がする。
入院前に先生は言い残した──。
「急がず、焦らず、しかし、書けるときに、力一杯、書くことだね」
私は書いた。手首が痛いほど疲れて、気づいたときには、庭に夕闇《ゆうやみ》が迫っていた。
腕時計を見ると、午後五時である。
私はペンをとめた。窓から離れの方角を見た。夕闇のために、枝葉の茂みには、暗い翳《かげ》ができていた。
〈そうだ──あのときも、丁度、この時刻に、この方角を見ていたんだな〉
私は妙な暗合を感じた。
いまにも、飛び石伝いに、先生の姿が現れるような錯覚がした。ビニールハットと着物。石を打つ下駄《げた》の音の高かったことも覚えている。
先生と入れ違いに、奥さんは向こうの離れから出てきたのだ。薄暗くなりかけた庭先に、奥さんの白い顔が浮かんでいた──
〈………〉
私はこのとき、小さな疑問にとりつかれた。すでに陽《ひ》は翳《かげ》り、夕闇の漂っている庭先である。そこに先生のビニールハットが歩いている風景。よく考えると、実におかしいのだ。ツバの広い帽子は日よけが目的である。この時刻に、あの帽子は不要ではないか。それとも、脱ぐのを忘れたのか。事件後、離れから出てきた先生は、もう、ビニールハットをかぶってはいなかった。
しかも……あのときの先生の歩き方は、病みあがりと思えぬくらい元気があった。飛び石を踏む下駄の音で、私は先生に気づいたような記憶がする。
私の目の前の灰色の壁が、風に吹き払われるごとくに散り始めた。
私は重大な事実に気づいたのだ。私は先生を見たと思い込んでいたが、実は、先生のビニールハットと着物しか見てはいない。もし、誰かがその服装に身を包めば、二階の窓から見る私には、先生としか映らないはずである。
私が二階の六畳間の、一定の位置にいることは、長谷川邸の者なら知らぬ人間はいない。このトリックは充分に成立する。
では、誰が先生に扮《ふん》したのか?
答えはひとつしかない。その人物は奥さんだ。奥さんだけが、この芝居をやり遂げられる。なぜならば、先生と入れ違いに奥さんが離れの玄関から現れている。奥さんは、このビニールハットの人物と、正面から会ったことになる。しかし、なんの騒ぎもイザコザもなしに、奥さんが現れたのは、その先生に扮したのが当の奥さんだとすれば、簡単に説明がつく。
奥さんは薄紫のワンピースに、サンダルを履いていた。もし、ワンピースの上から先生の着物をきて、ビニールハットをかぶれば、上からの見分けはつきそうもない。離れにはいると同時に、着物を脱ぎ、サンダルに履きかえる。こうすれば、丁度、先生が離れに行き、離れの奥さんが出てきたように見える。
和服と洋服を混用している日本だからこそ、こうしたトリックが使えるわけだ。私は感心した。感心すると共に、なぜ、奥さんがこんな真似《まね》をしたのだろうと思った。
奥さんは、この直後、殺されてしまう。ところが、殺される前の奥さんの行動は、いちいち解せない点が多い。
殺人の凶器を持ち出したのも奥さんなら、洋子を台所に閉じ込めたのも奥さんだ。私の考えが正しければ、奇妙な変装をしたのも、奥さんということになる。
奥さんはやはり、自殺だったのか?
私は暮れていく庭先へ、じっと瞳《ひとみ》を凝らした。
奥さんは先生に扮《ふん》することによって、一体、私にどんな錯覚を与えたろう? それはひと言で言って、先生が離れにいたと見せかける効果だ。
〈先生が……奥さんを殺した……?〉
私は愕然《がくぜん》とした。
先生なら、奥さんを自由に動かすことができる。奥さんに命令して、自分のアリバイを作らせ、その奥さんを殺す……これほどの完全犯罪も少ないだろう。
しかし、なぜだ? なぜ、先生があれほど、真底から愛していた奥さんを殺す必要があったのだろう?
私には分からない。どうしても分からないのだ。
それに、先生が真犯人ならば、とっくの昔に、一切の証拠を処分してしまったはずである。もしかすると、あの通夜の晩、先生は奥さんの棺の中に、殺人の証拠を入れて、死体と一緒に焼いてしまったかもしれない。
〈バカなことだ。おれの考え過ぎだろう。先生が奥さんを殺すはずはない……〉
私は強く、自分の想念を否定した。
第九章 追 う 者
1
いったん、心に湧《わ》いた疑惑は、振り払おうとすればするほど、私を攻めたてた。私はその疑惑にとうとう負けてしまった。
私は、所詮《しよせん》、今日限りで、この邸《やしき》とも別れる運命にある。せめて、この際、先生に対する疑惑を霽《はら》して、ここを去りたいと思った。そのチャンスは、あと数時間しか残っていないのだ。
私は、奥さんが殺された日の先生を、心静かに思い浮かべた。
先生は、奥さんが殺されたとき、離れにいたことになっている。あのとき、洋子が先生を離れに呼びに行ったのだ。
だから、先生が犯人ならば、先生は奥さんを殺した後で、離れへ駆け込んだことになる。丁度、二階からおりた私が、廊下伝いに台所へ捜しに来たころの話だ。
もし、この想像を証明するには、犯行現場から離れの間に、先生の歩いた証拠を発見する必要がある。しかし、いまさら、そんな都合のいい話はありえないだろう。
思い悩んでいる私の頭に、五十二医師の声が響いた。
現場を一目見た彼が、先生に訊《き》いた言葉だ。
「ここへ駆けつけたとき、血のついたやつはいなかった?」
〈そうだった。奥さんの心臓から、真っ赤な血が吹き出して、犯人に返り血を浴びせたはずだった……〉
先生が犯人なら、先生こそ、当の返り血を浴びた人間になる。しかし、先生は血に汚れていなかった。
離れで着がえたのか? ごく短時間での着がえも不可能ではない。が、すべてを計画的に運んでいる点からいって、多分……私は想像するのだ。多分、先生はビニールのレインコートを着用し、手袋をはめた恰好《かつこう》で包丁をふるったのではないか……。
それでは、ビニールコートや手袋を離れに脱ぎ捨てたのか? 私は自問した。それは危険な行為だ。離れなどは、殺人が起きれば、捜査の手がのびる。第一、不注意な血痕《けつこん》を落とすかもしれない。たちまち、ルミノール反応で血《ヽ》を検出されてしまうだろう。現に、離れは徹底的に調べられている。
離れではない。離れに隠さなければ、残った手段は、犯行現場と離れの間で、それを始末したと考える外はない。
〈捜そう〉
と、私は決心した。
すでに庭先は薄暗い。だが、あと三十分ぐらいなら、懐中電灯の世話にならなくても、歩き回れるだろう。
私は階段を駆けおりた。一秒でも早くする必要がある。暗くなったら万事休すだ。明日という日は、私に与えられていない。
私の荒いスリッパの音に、小島キヨ子が怯《おび》えた眼《め》で食事室から覘《のぞ》いた。
「ちょっと庭を歩いてくる」
私は台所の裏に回った。
奥さんが刺されていた場所。このあたりには八手《やつで》の木が一本植わっているほかに、物を隠す陰がない。この辺に重大な証拠品を残すわけがなかった。
私はそこから、離れへのコースを考えた。コースは二通りある。ひとつは芝生の方から東側の庭を回る道。もうひとつは、渡り廊下の下をくぐり抜けて、飛び石伝いに離れへ行く道。
私は、芝生の方へ出る道ではない、と判断した。先生がそこを駆け抜ければ、私が階段をおりたとき、ガラス戸越しにその姿を目撃しやすい。邸の構造から見て、一番、開放的な部分に当たるからだ。
飛び石伝いのコースは、二階から私さえ見ていなければ、物陰の多い裏道みたいなものである。
私は注意深く、飛び石伝いに歩いた。先生は時間の関係で、最短距離を歩いたに違いないし、コースから余り離れた場所に、品物を隠さなかっただろうと推理した。第一、石から踏みはずせば、柔らかい土の上に、はっきりした足跡が残る。
羽目板とか雨どいとか、気のつく場所に目を配って歩いた。が、丸めたビニールコートにせよ、隠せそうな個所は見当たらぬ。左側が母屋で、右側は池だ。池の端に、百日紅の木が一本。この木にも、|うろ《ヽヽ》ひとつなかった。
十分……十五分。秋の日は暮れかけると早い。あっと思う間に、藍色《あいいろ》の夕闇《ゆうやみ》が濃くなった。
私は焦った。
離れの玄関口に立って、左右をながめる。縁の下の通気口には、金網が張ってある。しゃがんで調べる。最近に補修した跡もない。
〈やっぱり、先生は潔白なのかな?〉
私は芝生の庭へ回り、再び、犯行現場へもどった。
私はそこから、もう一度、池の方へ出た。
〈分からんぞ、分からん……〉
自分でも少し気が変になったように思う。頭が重い。このまま、ここを去るのは気がかりだった。
池の中央に架けた木の橋を渡る。この橋の上から、先生はよく鯉《こい》に麩《ふ》を投げていたものだ。その習慣のせいだろう、私が橋の中央まで来ると、足許《あしもと》の水面が動いた。水に映っている月が砕けた。鯉が何匹も、水面に口を突き出すように群れている。
〈池に沈めたとしたら?〉
そんな気も、しないではなかった。ビニールコートを脱ぎ、石を包んで池に沈める。池は水藻《みずも》が生え、かなり濁っている。発見されるとしたら、池を掻掘《かいぼ》りしたときだけだろう。
〈しかし、うまく沈まなければ、かえって手間どるぞ〉
私は考え直した。それに池に沈めるとき、相当、大きな音がしそうだった。それほどの危険を冒したろうか?
私は鯉の動きから目を移した。睡蓮《すいれん》の大きな葉が、黒々と水面に影を落としている。が、そこで私はある地点を、吸いつけられるように凝視した。
飛び石寄りの池のほとり。そこの水面から五センチほど上に、ぽっかりと黒い土管が穴をあけている。池が満水のときの放水口らしい。そこにそんな穴があることは、橋の上に立って初めて分かるのだ。
私は思わず腰を浮かせた。鯉に麩をやる先生は、日ごろから放水口をながめ続けたはずである。
私は橋を駆けおり、池の端にしゃがみ込んだ。右手を伸ばす。穴の中は乾燥していた。ない……指先には何も触れない。さすがにがっかりした。頼みの綱が切れた思いであった。意外な場所と言えば、池の畔《ほとり》から見えない、この放水口ぐらいしかないのである。ここに隠してなければ、私の仮定は根本から崩れる。私は身を起こして、そばの夾竹桃《きようちくとう》の小枝を折り取ってきた。
もう一度、この枝で放水口の狭い穴を探る。何か重いものが触れた。布のような感じだ。注意しながら手前にかき出す。最後に、手を入れてつかんだ。
引き出してみる。軍手が一組、まるめこんである。しかも、指先の黒いシミは古びた血痕《けつこん》らしい。こんな奥では、捜査官も気づかなかったろう。けれども、私の想像していたビニールコートは何処《どこ》へ行ったのか?
「おい! そんなところで何をしている?」
怒鳴る声と足音がした。見ると、五十二である。
私は反射的に軍手を隠そうとした。が、遅かった。
「あ。その放水口に、まだ、そんなものがあったのか……」
五十二の驚く声に、私は〈おや〉と思った。彼は私と同じように、この放水口を捜して、別のもの──多分、ビニールコートを発見したのではないか。私はそれを直感した。
「あなたはご存知なんですね? 先生のことを……」
「なんだか知らないが、他人《ひと》の家で変な真似《まね》はしないでほしいな。その手袋はこの家のものだろう……」
「そうですよ。ここに血のシミがあるのを見て下さい」
「何を、バカな……」
五十二はやにわに軍手を私の手許《てもと》から奪った。
「さあ。早く、この家を出ていってくれ。昨日、言い渡したはずだ」
私は抗議しようとした。が、胸許《むなもと》に込みあげた言葉は、遂に声にならなかった。五十二はすべてを知っているのだ。おそらく、先生の性格と病状から、事件の真相を見抜いたのではないか。そして、私と同様にビニールコートを捜し、この放水口から発見した。ただ、その奥の軍手には気づかなかった。実兄の犯罪を知って、五十二は私の存在が気になり、私を追い出しにかかった……私には、急に変わった五十二の態度が読めたのである。
結局、私は何も気づかなかった文学青年として、この場を立ち去ることにしたのだ。
2
長谷川邸を出た私は、タクシーを拾って、大学病院へ急いだ。先生に会って、何かひと言、聞きたかった。
病院の周囲には人影がない。大きな花時計が、闇《やみ》の中で時間を刻んでいた。文字盤を作っている菊の白さが、夜目にしみる。
案内板を見る必要もない。先生の病室には通いなれている。自動エレベーターさえ待ちかねて、私は三階まで階段を駆けあがった。階段をあがりきった角に、記録室がある。宿直の看護婦はそこにいる。
だが、私を待っていたのは、意外な騒ぎだった。
先生が無断外出したまま、行方不明だというのである。医者、看護婦はいうに及ばず、事務の職員までが八方に手を尽くしているのに、先生の立ち寄り先が分からないらしい。
私は詳しく事情を聞きたかったが、付き添いの派出婦も興奮して、一向に要領をえない。主治医が「自殺のおそれ充分」と判断したとかで、関係者は余計、神経を尖《とが》らせているわけだ。
騒ぎの最中に、私は黒い背広を着た羽毛田警部を見つけた。私は顔を合わせまいとした。が、職業的な素早さで私を認めた警部は、近寄ってきた。
「ちょっと伺いたいことがあるんです」
と、羽毛田は私をロビーのソファに座らせた。
「これは大切なことなんで、もう一度、よく思い出してもらいたいんですがね。長谷川さんの奥さんが殺されたときのことです」
「なんでしょう?」
私は本能的に身を堅くした。
「長谷川さんが離れの方へ歩いていく姿を見たと言いましたね?」
「はい」
「それは確実なんでしょうか。例えば、長谷川さんの顔を見ましたか? 大きな帽子をかぶっていて、見えなかったはずでしょう……」
「いえ、ちゃんと見ました」
私は自信たっぷりな言い方をした。
「顔が見えたんですか?」
「見えましたよ。先生がちょっと仰むいたんで」
「今までは、一度もそれを話してくれなかったのに──なぜです?」
警部の笑いが、色黒の表情から消えた。
「いや、先生が離れに行ったのは当然だと思ってましたよ。そんなに細かいことは必要ないと考えて、言わなかったんです」
私がなぜ、こんなうそを言ったのか、その心理はよく分からない。不思議なことに、先生が奥さんを殺したのだとすれば、それは先生夫妻のごくプライベートな問題で、他人が干渉すべきではないような気さえした。
「誓いますね」
「うそだとでも言うんですか?」
私は居直った。
「いや……」
「どうして今ごろ、先生のことを訊《き》くんです? まさか、先生を疑ったわけじゃないでしょう?」
「そんなことじゃないです」
警部は不愉快そうだった。しかし、警察の捜査が、先生の身辺に迫っているのは、私にも想像できた。
翌日。私は先生の消息を知った。大学病院へ電話して分かったのである。
先生は、信州の小諸《こもろ》の駅で、夜遅く行路病者として保護されていた。その夜、信州一帯は小雨で、気温は冬のように寒かった。
小諸到着の最終便急行列車「越前《えちぜん》」をおりた乗客の中に、先生がいたのだ。先生は列車をおりると同時に、激しい貧血に陥り、駅のベンチに横になったまま、意識不明の状態だった。
駅員が駅前の病院へ収容し、財布にあった名刺から、先生の素性が知れたそうである。私が大学病院で聞いたところでは、五十二が迎えに行ったらしい。
私はその日から、毎日、大学病院へ電話を入れた。先生が帰ったら、すぐに飛んでいく気だった。
二日|経《た》ち、三日が過ぎた。四日目。私は電話で、先生の死を知った。高原駅の冬の夜雨が躰《からだ》にしみて、先生は悪性の肺炎を併発してしまったのだ。
私はとうとう、先生の本心を聞くことができなかったのである。
先生の死は、新聞、テレビなどで、かなり派手に報道された。特に、先生が亡くなる前まで「助左衛門日記」の前編を連載していた週刊文芸では、まるで大衆作家長谷川竜五郎の特集号のような扱い方をした。愛妻家として評判の先生が、その死を予感して、滋野《しげの》の墓地へ奥さんを求めていき、不幸、その途上に倒れた──これはむしろ、現代の美談である、というのだ。
私はこの週刊文芸の記事を、繰り返し読み直した。「現代の美談」……私はこの表現の支える重みを、じっと感じとっていた。
3
私は、完成した「二人の勝海舟」の原稿を、神田の文芸社に持ち込んだ。中編のつもりが、いつの間にか五百枚近い長編になっていた。文芸社では、無名の私の原稿だったが、私が長谷川竜五郎に師事していたこと、資料が先生から出ていること、それに何よりも着眼点の面白さで、出版に踏み切ってくれた。
ひとたび、「二人の勝海舟」が世に出ると、果然、毀誉褒貶《きよほうへん》が相半ばした。保守的な批評家は、歴史の冒涜《ぼうとく》であると言い、新しい派の読者は歴史小説の可能性を追究するものとして、高く私の小説を評価した。おかげで、たちまちベストセラーになって、私は大衆小説家の仲間入りをしたのである。
露木はひどく羨《うらや》ましがった。彼も、奥さんをモデルにした「夢」で、一旗あげるつもりだったのに、五十二がその発表を好まず、五十万円で買収したのだ。そのために、「夢」は文字通り、露木の夢に終わり、陽《ひ》の目を見ることがなかった。
「二人の勝海舟」が大当たりしたので、文芸社は私のために、出版記念会を開いてくれた。記念会は東京プリンスホテルで盛大におこなわれた。私はその帰りみち、文芸社の週刊文芸担当記者と一緒に、銀座のバー「ドルーク」に寄った。
茂手木というその若い記者は、アルコールにはとても強かった。私はうれしさのあまり、適量以上にウイスキーのグラスを重ねた。話はやがて、亡くなった先生のことに落ち着いた。
「あの事件は、犯人がなかなか挙がりませんねえ」
と、茂手木は言った。
「小説は事実よりも奇でなければならぬ、という長谷川竜五郎の言葉を知っていますか?」
「よく知っていますよ」
と、私は答えた。
「しかし、どうも事実は小説よりも奇なりの方が、迫力ありそうですね」
「そうかもしれない。だからこそ、余計、先生はその言葉を強調されたんだけど」
「実は、面白いものがあるんです」
茂手木は悪戯《いたずら》っぽく笑って、手帳の間から一枚の紙片を取り出した。
「なんですか?」
私は覘《のぞ》き込んだ。
「うちの社で、『助左衛門日記』を頼んでいたでしょう。その後編はとうとう書いてもらえなかったけど、ぼくは長谷川竜五郎の書斎で、後編の創作メモを見つけたんです。これはその一部の写しです」
「ほう。面白そうだ。見せてください」
私は手にとった。
「後編では、助左衛門の晩年を描くことになっていましてね。殿様切腹の大事に、助左衛門は殉死するらしいんですが、その直前に、彼は妻を殺してしまう筋になっているんです」
「妻を殺す?」
「まあ、メモをご覧なさい」
私の手は、アルコールのせいばかりではなく震えた。創作メモはごく短い部分である。
──殉死の三日前。場所は城外の丘。遠くに出羽三山が見える。風吹く。妻、太刀を持ち出す。すべて助左衛門の命令どおり。妻を送り出す前、いつものとおり彼が、妻に三里の灸《きゆう》をすえてやる。
──妻を殺した後の驚きに工夫。時間的な問題。武将の目。
──助左衛門の日記の最後のページ。自他の意識。床の間の椿《つばき》、落ちる。慈《いとお》しい者を残さぬ心。単なる愛とは違う。ツマの宿命。
「面白いでしょう」
と、茂手木は重ねて言った。
「これから殺そうとする妻に、延命の灸をすえる着想は、やはり長谷川竜五郎の独擅場《どくせんじよう》ですよ」
「そうねえ」
と、私は別のことを考えていた。
「しかし、こんな筋を考えたためかどうか、奥さんが殺されたんだから、皮肉だな、世の中は」
私は茂手木の言葉が、満足に耳にはいらなかった。私は先生の創作メモの一点に気を奪われていた。
──慈《いとお》しい者を残さぬ心──ツマの宿命。
分かった。これが先生の本心だったのだ。このために、先生は愛する奥さんを殺した。自分の死を覚悟して滋野へ向かったのだ。五十二医師から絶望を宣告された先生は、あの計画をたてた。そのことは、「イソジを責めないでくれ」と奥さんに謝っている。
私はこれで一切が氷解したと思った。先生は武士である助左衛門のように、妻と心中することを潔しとしなかった。それより、己《おの》が手で殺す道を選んだのであろう……。
「どうです、面白い着想でしょう。え?」
茂手木がグラスを口に運びながら訊《き》いた。
私は即座に答えた。
「実にすばらしい着想ですよ。先生の場合は、小説と事実が渾然《こんぜん》としていて、このメモの一字一句までが、血を滴らせているのが分かりますか」
第二部 黒 の 構 図
第一章 溺 死
1
九月二日の午後十時五分だった。剣持巡査は自分の腕時計で確かめたから自信がある。卓上の黒電話が鳴り出した。
この吉田橋派出所は、横浜の伊勢佐木町《いせざきちよう》の入り口にある地理的な関係から、午後九時を過ぎると泥酔者保護とけんかの後始末が多かった。
〈また酔っぱらいがショーウインドに石でも投げたか……〉
剣持巡査はゆっくり電話機に手を伸ばした。
「はい、吉田橋派出所ですが……」
「交番ですね。こちらは福井医院です。先生とかわりますから」
若い女の声がせわしなく聞こえた。〈交番〉と聞いて、剣持巡査はまゆをひそめた。〈交番のおまわり〉という連想があるので、きらいだった。
電話の主は、医院の看護婦らしい。福井医院は派出所から五十メートルと離れていない。剣持巡査も一度、風邪をひいたとき診察を受けたことがある。医者は五十がらみの、額の広い温厚な博士だった。
「ああ、私、福井ですが……実は今、近所のドウエルで急病人だというから行きましたら、すでに死亡しておるんですよ。浴槽内《よくそうない》での溺死《できし》です。変死ですし、状況がおかしいのでご連絡しておきます」
福井博士の言葉は穏やかだが、〈変死〉と言ったときの抑揚には強い響きが感じられた。
「病死ですか、それとも事故死?」
〈こいつはちょっとやっかいになりそうだぞ〉そう考えた。剣持巡査は拝命以来日が浅く、変死者を扱った経験はなかった。
「病死の症状はありませんよ。間違いなく溺死ですね。事故死かどうかはお調べになって下さい。多分、入浴中に一種の心臓マヒが起きたんだと思います」
「心臓マヒなら、病気が原因でしょう?」
剣持巡査は、事件をごく常識的に理解しようとした。
「いや、そうとばかり言えないんです。そのことは現場に来られればご説明しますよ。すぐに来ますか?」
「ええと……どこですか、そのドウエルというのは?」
「伊勢佐木町の野沢屋の裏です。私の所から二十メートル離れているでしょうか」
言われてみると、剣持巡査にも見覚えがあった。ドウエルとは、昨今はやりの、マンションとかコーポラスなどの一種で、中級アパートのたぐいである。
「つまり、ヨコハマ・ドウエルのことですね?」
「そう。そこの二階の五号室で、水野昇という男が死亡者です」
「水野……昇は、昇進するなどという昇ですか?」
「ええ、すぐ来ますね?」
医師は少しいらだっていた。
「行きますが……その……だれか肉親の者でもそこにいるんですか?」
「肉親はいませんよ。私のところへ呼びに来たのは、死亡者の友達だそうで……露木と言っています」
「ツユキ……」
巡査は文字を考えながら、メモ用紙に書き込んだ。
「いいですか、それじゃ……」
〈あと何かきいておくことはないかな〉と思っているうちに、福井博士は電話を切ってしまった。
剣持巡査は同僚に電話の内容を伝え、すぐに伊勢佐木警察署へ連絡をとった。署では、「心臓マヒによる溺死」なら、事故死の扱いにして、立ち会い医師の死亡診断書をもらっておけばいいと言う。しかし、福井博士の言葉に気になることがあったので、それを強調した結果、中山刑事が来てくれる手はずになった。
剣持巡査がヨコハマ・ドウエルに歩いていく途中、小雨が降り出した。台風が日本へ近づいているニュースはあったが、その影響だろうと巡査は思った。
水野の部屋は簡単に分かった。廊下で福井博士と若い男が立ち話をしている。若い男は白いセーターを着込んでいる。
「この人が露木さん」
福井博士は、剣持巡査に紹介した。
「露木です」
セーターの男が長髪をかきあげながらあいさつした。水野の中学時代からの友人で、現在、東京の二陽会に属する洋画家だと名乗った。岩手県出身で、まじめ一本やりの剣持巡査には、一番苦手のタイプであった。
「現場は発見したときのままでしょうね?」
と、巡査は不安気にきいた。現場保存が悪いと、署の刑事にいやみを言われやすい。
「そのままです。あなたも、発見してから、動かしてはいないでしょう」
と、博士が露木に言った。
「はあ……バスに浮いていたんで、手のつけようがないと思いましてね」
部屋は独身者用の1DKである。ただし、公営住宅なぞと違って、テラスはしゃれているし、浴室は西洋便器とバス(浴槽《よくそう》)の組み合わせが、丁度、ホテルのようにぜいたくな造りだった。
室内の空気は暖かい。
福井医師の案内で、剣持巡査は浴室をのぞいた。白い裸身が、バスの前に横たわっていた。若い男だ。体の色からいって、労働者ではなく、明らかにホワイトカラー族である。
「私が来たときは、この洋風バスの中に顔が沈んでいましてね。引きあげてみたけれど、完全にコト切れていましたよ」
巡査はうなずいた。
「さっき電話で言ったことはこれです」
と、医者は死体の顔を指でさした。
「この男のひとみが広がっているでしょう。これは医学的に散瞳《さんどう》現象といって、なにかの薬物を飲んだか、特別に肉体的なショックを受けたときに起きるものですよ。だから、どうもこの死亡は普通の溺死とばかり言えないんです」
言われてみると、ひとみが広がっているように思える。しかし、剣持巡査には、コトの重大性がはっきりのみ込めなかった。
死体は右腕を曲げていた。全裸のまま、眠りこけているようなかっこうだし、陰茎が軽く勃起《ぼつき》しているのも奇妙であった。巡査には医師の意味することが分からなかったけれど、彼は頭の中で、〈この男は女《ヽ》を知っているんじゃないか〉などと、別の想像を働かせていた。
待つほどもなく、署の中山刑事がドウエルに到着した。中山刑事は伊勢佐木警察署きっての敏腕刑事である。すでに四十に近かった。
彼は福井医師の説明をきくと、すぐに死体のひとみを調べた。
「これは問題だぞ。すぐ本部の一課に連絡して、鑑識にも来てもらった方がいい」
中山刑事の判断は素早かった。彼は他殺≠フ可能性が充分あると言った。
神奈川県警察本部へ電話を入れてから、パトカーが到着するまで十八分かかった。他殺の疑い濃厚というので、殺人事件捜査の体制がとられた。
遠藤警部の指揮下に、大沢部長刑事、折原刑事などの猛者《もさ》連が、パトカーに同乗して急行した。
折原刑事は独身である。事件発生先が、独身男のアパートだと聞いて、
「ぼくのなわ張りみたいなもんですよ。独身は悲しからずや……気持ちはよく分かるから、きっとお役に立ちますよ」
と、出かけしな、ボースン(部長刑事)に冗談を言った。
「そうかい。独身は悲しからずや……か。おれの独身時代は、そんなムード的なものじゃなかったな。もっとこう、生々しいにおいのする時代だったよ」
大沢部長刑事はフフフと、意味深長に笑いながら、先頭をきってパトカーに乗りこんだのである。
現場に着くと、いっせいに飛び込むようなヘマはしない。まず指紋に注意。それから現場にある家具の状況などの保存……こうした作業をぬかりなくすませる。
折原刑事は死体を一目見て、
〈ほう。なかなか女好きのする顔つきだな。それに、体が小太りで、運動不足というところらしい〉
と思った。
水野昇は、ふっくらとした面立ちで、しかも鼻筋が通っている。これが独身なら、大抵のOLはほうっておかないようなタイプだ。
「福井先生。死体を元通り、バスの中に入れますから、発見当時のように直してみて下さい」
遠藤警部は博士に言った。
福井博士はダイニングルームで、捜査官の行動をながめていたが、
「もどしますか。それでは、そのままの位置で、顔が丁度、湯につかるまで沈めて結構です」
と答えた。
「湯の温度はどのくらいでした?」
大沢部長刑事は寒暖計の目盛りを見ながら博士にきいた。それはバスに備え付けてあるものだった。
「かなり熱かったですね。四十一、二度はあったと思いますよ」
「大沢君。その腕を曲げてくれないか?」
警部がボースンにいった。
死体は博士が発見した当時の状態にもどった。死亡者の陰部が、生きているように、ふわふわ動いた。
「なんだね。これは浴槽の中で座っていたか横になっていたときに、突然、発作に襲われたと考えるべきだな」
遠藤警部が福井博士の顔をのぞいた。
「多分、そんなところです」
「しかし、左手がこの位置にあるなら、バスの縁に手をかけて、外へころがり出られなかったものですかね?」
部長刑事が当然の疑問を投げた。
「ちょっとそれは無理ですよ。この西洋バスの型は、底が丸くてすべすべしていますからね。とっさに起きあがるって芸当はできないでしょう」
博士に言われてみると、洋式バスの特徴がいまさらのようにはっきりするのだった。
「よし、写真を撮ったら引きあげてくれ」
警部は命令した後、
「薬物を飲んでいるような外的所見は、散瞳《さんどう》のほかに見当たらんようですね」
と、福井博士に言った。
「その通りですね。薬物の点は解剖してみないことには……」
「これは何かな?」
目ざとく警部が発見したのは、明らかに、少量の嘔吐《おうと》の跡だった。マットのわきに隠れていたので、気づきにくかったのだ。
「吐いたんだ」
と、部長刑事が叫んだ。
「重大な証拠になるかもしれないぞ」
警部が注意した。体のどこにも傷がないために、警部は手がかりを懸念していたところだった。
「今、そこで同じような嘔吐のアトを見つけました」
折原刑事が浴室の入り口で警部に報告した。
「どれ?」
「このイスの下です」
警部はダイニングルームに行き、渋いカーペットの上に、あまり目立たない粘液の跡を見た。
「ふいてあるな」
「本人でしょうか?」
と、折原刑事が疑問を投げた。
「本人だとすれば、吐き気のある人間が、なぜ、わざわざふろにはいったか、その辺が問題だぞ」
「飲み過ぎのとき、ぼくはふろにはいると調子がよくなりますよ」
「人によるだろう」
警部はニヤッと笑い、
「さて……発見者の話を伺おうじゃないか。いつまでも待たせておいては悪い」
と、部長刑事に催促した。
白いセーターの露木は、先刻から薄ら寒い戸口で立ち続けていた。
露木は居間に呼び込まれ、畳の上であぐらをかいた。正面に警部、その両わきに、大沢と折原の両刑事が露木を囲むように座った。
長髪の画家は、自分の名前と職業を言ってから、発見当時の模様を語った。
「ここへ着いたのは九時半ごろでしょう。チャイムを鳴らしても返事がないんです。しかし、あいつの……水野のことだから構うものかとノブを回したら開くんです。で、まあ、のぞきこんでみたけど姿は見えないわけです。ただ、ドアが開いているし、あかりがついている。いるんだな、と思ったから、どんどん、あがりこみましてね、水野、水野と呼びました。でも、返事がないでしょう。トイレかもしれないと考えて、そこのドアをノックしました。これには理由があるんです。あいつは前から痔《じ》が悪くて、トイレが長かったものだから……とにかく、そこでも返事がない。おかしいと思ってドアを開けたら、バスルームの方に足の先が見えたってわけです」
「死んでることは分かったろうけど、死体には触れなかったね?」
と遠藤警部。
「ええ。そこで、実は、今から考えると大分、混乱していました。本当は一一〇番に電話すべきだったんです。ところが、あわてて外へ飛び出したのは、福井医院のことを思ったためです。医者を呼びさえすれば、人工呼吸をやって、助かるかもしれないと思ったわけで……矛盾していました」
「あなたが来たとき、だれかほかにいたような様子は?」
「そんなのは全然……」
「今晩、ここへ来た理由はなんですか?」
「偶然です。この先の福富町で、絵を買ってくれる人がいたものですから、そこへ寄った帰り道なんです」
「この水野昇は勤め人かね?」
「いや、今は違うでしょう。今年の三月で昭和銀行を辞めたはずです。水野は作家志望ですから。多分、どこかの雑誌社の手伝いをしながら、小説に専心していたんじゃないですか」
「小説家?」
「まだ売れてやしませんよ。佐々木|文吾《ぶんご》って有名な大衆小説家を知っていますか?」
「うん、佐々木か」
と、折原刑事がすぐうなずいた。彼は大の小説好きで、大抵のベストセラーは読破していた。
「あの人に師事していたんです。詳しいことは知りませんが」
「随分、思いきった転換だな。銀行員から小説書きにねえ……」
警部は皮肉たっぷりに言った。彼は余り読書をしない。特に最近の小説家は、すべてロクデナシだと心得ているのだ。
が、折原刑事は、佐々木文吾の名を聞いて、表情が生き生きしてきた。一週間ほど前に、その作品集を読んだばかりであった。
2
水野昇の死亡推定時刻は、外的所見による限り、午後九時前後であろうと判断された。死体は直ちに、犯罪科学研究所の解剖室へ送られ、徹底した解剖をしてみることになった。
県警本部はこの事件を、事故死と他殺の両面から捜査する方針だった。解剖結果がでるまでは、いずれとも決めかねる情況なのである。
遠藤警部は、ともかく、水野昇の行動について聞き込みをさせた。
さし当たっての収穫は、隣室の住人の証言だ。聞き込みをした折原刑事の誘導も巧みだったせいか、二つの重大な事実が分かった。
水野昇の隣人は、香山|雅子《まさこ》というバー勤めの若い女だが、この日は風邪をひいて一日中部屋に伏せっていた。髪の茶色い、がらがら声の娘だ。
折原刑事が訪れると、心得たように彼を請じ入れた。
「水野さんは変わったひとですから、あまり口をきいたことがありませんけど」
と、雅子は前置きした。
水野がヨコハマ・ドウエルへ住むようになったのは、今年の四月。昭和銀行を退職してからの話らしい。
ドウエルに来てからの生活は、毎朝十時ごろ起きて、昼すぎにどこかへ出かけるといった様子だが、雅子も水野が何をしているのかを知らなかった。
「小説を書いていたんだよ」
折原刑事が教えてやると、
「小説家……そういえばそんなところもあったわ」
「それで、今日はどうでした? 家にずっといた?」
「いたようでしたわ。時々、ドアの開く音がしたから、出はいりはあったでしょうけど。そうね。こんな話をしていいかどうかしらないけど、この部屋は、鉄筋コンクリートなのに、水の音がよく響くのよ。お隣のトイレの音が、何度かしていたわ」
「トイレ?」
「ええ」
折原刑事は考えた。トイレの水の音が聞こえたとすれば、それは部屋に人のいた証拠になる。水野は一日中、在宅したのかもしれない。
「夕方、変わったことに気がつかなかった? 人が訪ねてきたような……」
「あるわ。ついさっき……夜の九時ごろよ」
九時ごろといえば、水野が死亡した時刻だ。
「どんな?」
「だれかがドアを開けて、部屋へはいったの。でも、すぐに出ていったけど」
「九時半だろう、それ……」
「ううん、違う。それより三十分くらい前よ。だから、九時半ごろ、くつ音がしたとき、また、さっきの人がもどってきたと思ったくらいよ」
「男だね?」
「そうよ」
「足音を聞いただけか?」
「でも、階下でだれかに見られていたら……」
「調べよう。水野さんは食事はどうしていたんだ? 例えば、今日の場合」
「さあ、よく知らないけど、自炊でもするのかしら。店屋物はとらないらしいわね。それとも、今日は外へ行ったのかどうか……」
香川雅子の話はすこぶる重大である。水野昇が死亡した時刻に、一人の男が部屋を訪れたというのだ。
折原刑事は階下の住人に、雅子の聞いた足音の主について、心当たりがないかどうかを確かめた。
結果は徒労だった。ドウエルの住人は、出はいりのときしか、階段を利用しないから、外部の人間を見かけるチャンスが少ないのだ。
が、捜査陣にとっての幸運は、現場が伊勢佐木町の入り口だったことである。横浜一の繁華街だから、午後十一時近くになっても、裏通りの店はまだ開いている。特に、このあたりはバー、おでん屋、すし屋などの飲食店が多い。たまたま、ヨコハマ・ドウエルの真正面に「初音ずし」があった。そこの主人が野次馬となって、パトカーのわきに立っていたのを、折原刑事が見つけた。
「午後九時ごろに、見知らない顔が、この建物から出てきたはずだが……」
「九時ごろ? ひとつ、うちの若い者にきいてみましょう。店のガラス戸は開いていたし、出前の者の目もあるから、見ている者がいるかどうか」
二、三分たって、すし屋の主人が、向こうはち巻きの若い店の者を連れてきた。
「それらしい者を見かけたっていうけど、その男がだんなの言う人間ですか、そいつは分かりませんよ」
主人に前へ押し出された若いニキビ面の男は、パトカーのわきで折原刑事に言った。
「午後九時ごろの話でしょ。そのころ、確かに一人の男がこのアパートから出てくるのを見ました。でも、まるっきりの知らない顔じゃないんです」
「だれだった?」
「ジローって名の男で」
「ジロー? 姓はなんだ?」
「知らないんです」
若者は困ったような表情に、照れ隠しの笑いを浮かべた。
「ジローは、この辺をうろうろしている遊び人で、だれも詳しいことは知らないでしょう」
主人が応援した。
「ドヤはどこだ?」
刑事は重ねてきいた。
「そいつが、どうも」
若者が頭をかいた。
「ただ、この辺のパチンコ屋で網を張っていれば、会えると思いますよ」
「ジローの特徴を教えてくれ」
「背の高い、やせ型の男です。ま、美男でしょう。髪は慎太郎刈りで、普段は派手な背広を着ています」
「色は?」
「夏のうちは、白っぽいやつでした。でも、さっき見たのは、確かグレイかな。それとも、光線の加減だかどうだか……」
「見間違いってことはないだろうな?」
「ありません。背かっこうにジローの特徴があるんだから。うちの店にも一週間に一度や二度は来て、ニギリを食べていくくらいで」
若い者はそこでキッパリ断言した。
「ジローが出てくるのを見たとして、はいる姿は見なかったのかね?」
「そこんとこはどうも……でも、午後九時っていうと、ちょっと店が手すきになった時間で、ほかに見落とすことはないと思うんです。ほら、うちの店のあの窓から、このアパートの入り口が丸見えでしょう……」
ジローの件は、警察側にとっては貴重な情報である。つまり、以上を通じて、次の二つの事情が、警察に分かってきたのだ。
ひとつは、死亡者水野昇が、朝からほとんど外出をしていないこと。
二番目は、死亡時刻前後に、ヨコハマ・ドウエルの出口から、若いヤクザ通称ジローが姿を見せたこと。これが水野と関係を持っているかどうかは、ジローを捜して聞き出すほかはない。
折原刑事が聞き込みに力を入れている間、大沢部長刑事は部下を指揮して、死亡者の室内に不審なものがありはしないかと、捜査して回った。
小説を書いている独身者にしては、身の回りが片付いていた。
電気冷蔵庫の中には、ビールや卵、ハム、チーズなど、二、三回分の食料もあった。キッチンの流しには、昼食用と思えるインスタント焼きそばの残りが出ていたが、不思議なのは、夕食の用意の跡がないことだ。
水野が気分を悪くして、食事をしなかったかどうかは、解剖しないとはっきりしない。
居間のすみに座卓がひとつ、壁際の書だなには、書き損じの原稿用紙が二、三十枚も積んであった。
水野は、黒いインクで、職人のように字画の整然とした文字を書いていた。
〈なるほど。前身が銀行員だっただけあるわい〉
と、大沢部長刑事は感心した。
この捜査では、水野の他殺を裏付けるような証拠は、何ひとつ発見されなかった。
折原刑事は聞き込みの報告をした後、一緒に家捜しに加わった。
出しなに、
「ぼくのなわ張りみたいなもんですよ……きっとお役に立ちますよ」
と言っただけに、折原刑事は自分の手で、水野という独身男の死の秘密を探り出したいと思った。
彼は、水野が何か薬を飲まされたあげくに、バスにつけられたのかもしれないと想像していた。
が、予期に反して、薬を飲ませたような痕跡《こんせき》はないし、大の男を裸にして運んだ形跡も見当たらなかった。
すべてが、きちんとしていた。殺人犯が証拠を残さないために、なんらかの細工をしたとも思えないのだ。
しばらく家捜しを続けるうちに、折原刑事の頭には、
〈これは、やっぱり不意の心臓マヒかもしれないぞ〉
という考えが浮かんできた。
さして大きくないスチール製の簡易書架に、数十冊の文学書にまじってハトロン紙の包みがあった。
捜索の手は最後にその書架で終わった。
折原刑事はハトロン紙の包みを取りあげた。麻のひもが十文字にかけてある。中は原稿のようだった。
「……東京都千代田区飯田橋四丁目一─一東京文化社……第三回推理小説募集係……」
折原刑事は声を出して読んだ。
「発送しそこなった応募原稿だね」
大沢部長刑事がわきからのぞいた。
裏の発送人の住所氏名は、ぴったり死亡者と一致する。
「大衆小説を書いているって話なのに、これは推理小説ですよ。一体どういう気持ちなのかな」
「君は推理小説が好きだったね」
と、部長刑事が思い出したように言った。
「ええ……まあ……」
刑事は興味をそそられていた。
「原稿の包みの具合から見て、昨日か今日、これが完成したようなかっこうですね。出来たてのほやほやだ」
「なるほど」
大沢部長刑事も折原刑事とは別に興味を感じ始めたらしい。
「ぼくは、この東京文化社の募集要領を読んだことがあるんです。単なる推理小説じゃなしに、歴史上のなぞとか社会問題に取り組んだ作品を求めていたはずですよ。一体、水野って男は、どんな作品を書いたのかな」
「開けてみればいい」
と、古参刑事が促した。
「きっと、何か参考になることがあるだろう。いいものが残っていたな」
折原刑事はひものかけ方に注意を払いながら、包みを開いた。
包みの中から、二分冊にとじられた原稿の束が現れた。原稿の文字は、独特の整然とした字体で、やはり黒インクでもって書き込まれていた。
「うん。水野の字だな」
大沢部長刑事が納得したようにうなずく。
「こんな風に応募しているところを見ると、まだ、まとまった作品を発表したことはないんでしょうね」
折原刑事が言った。
「多分、そうさ」
「あるいは迷っているんでしょう。佐々木文吾に師事しているなら、推理小説を書くのは畑違いなんだから」
「今の若い人はなんにでも手を出すんだろう……」
「でも、ちょっと変だな」
折原刑事は心のどこかに、ひっかかるものを感じた。彼は無造作に原稿をぱらぱらと繰った。
最後のページに、作者の氏名、住所、年齢、略歴がしたためてあった。
「昭和十三年九月二日生まれ……ぼくより五つも年下なんだな」
「そんなこと言って、年が知れるぞ」
部長刑事は笑った。
「露木の言う通り、今年の三月に昭和銀行を退職して、作家専業になったように書いてありますよ」
「とにかく、この原稿は役に立ちそうだ」
「ぼくが読んでみましょう。構いませんか、それで?」
折原刑事がきいた。
「いいだろう。しかし、念には念を入れて、その原稿の指紋は鑑識に採らせておいてくれよ」
「分かりました」
答えた折原刑事は、もう一度、手の中の原稿へ目を落とした。
特徴ある固い字体の題名がそこにあった。
──第三回推理小説応募原稿
勝海舟の殺人──
第二章 解 剖 結 果
1
翌日は残暑がきびしかった。下りの国電に座っている折原刑事の背に、朝の強い日がさしていた。
彼はひざの上のふろしき包みに両手をのせ、軽く目を閉じたままである。桜木町行きの国電だから、終点でおりればいいのだ。毎朝のことだから、目を閉じていても下車駅が近いかどうかは分かる。
目の前に立った若いOLの香水のにおいも気になるが、今の折原刑事の心は、別のことに捕われていた。
それはひざの上の原稿である。昨夜、伊勢佐木町のヨコハマ・ドウエルで変死した水野昇の書いた推理小説を、持ち帰って読んだのだ。題名は「勝海舟の殺人」とつけてあった。応募原稿だから、きちんと清書してあって、とても読みやすかった。
午前一時半に読み始めて、気がついたときは三時だった。まったく、一息に読破したというのが正しい。
折原刑事は大衆小説が好きで、推理ものもかなり読む。目は肥えているつもりだが、この「勝海舟の殺人」は久しぶりに満足感を与えてくれた。
まず第一に、私小説風な書き込み方をうまく使って、全体に異様なムードを醸し出している。
第二には、着物のトリックをはじめとして、日本的なふんい気を巧みに利用していた。
それから、作中人物のうち、犯人とその動機が、非常に特異でありながら、なおかつ相当の迫力を持って描けていることだ。
睡眠不足の刑事の頭にも、小説の各シーンが、今でもありありと思い浮かんでくる。
〈水野は、すでに力量を持った作家に成長していたんだな。この作品は、少なくともベストスリーに残ったに違いない〉
折原刑事は考えた。
小説の中で、「私」という人物は、「先生」に、『なかなか筆力はあるね』と評価されている。あるいは、作者である水野が、作中人物「私」にかこつけて、自分のことを宣伝したかったのかもしれない。
どっちにしても、「勝海舟の殺人」はとても興味のある小説だった。というのは、折原刑事は大の子母沢寛ファンで、特に大河的歴史小説「勝海舟」の愛読者だったからである。作中人物が、歴史上の実在人物である勝海舟の研究を続けて、そこに存在するミステリーから大衆小説の題材をひき出す……こうした設定は、まったく珍しい。しかも、「私」がその研究のために、一定の場所に座っていたことが、ミステリーの重大なカギになっているわけだ。
〈近ごろ、珍しい傑作だ〉
刑事は幾度も、胸中で賛嘆した。この小説が印象に残った最大の理由は、彼がすっかりそれに魅了されたためである。
しかし、国電に揺られて、県警本部へ向かううちに、彼はやはり、もうひとつの気がかりが、どうしても忘れられなくなってしまった。
それは、作中人物に出て来る日本画家の露木という男だ。この男は、先生の奥さんをモデルにして、「夢」という絵をかくのだが、貧乏画家として設定されている。
問題は、この露木と、現実に折原刑事の目の前に現れた露木との、名前の一致である。もし、作中の「私」が、作者の水野ならば、日本画家の露木は、洋画家の露木をモデルにしたものと考えるような対比も、自然に出来るのだ。
そればかりではない。
小説における「私」が、長谷川竜五郎に師事しているように、水野は、大衆作家佐々木文吾を師と仰いでいる。
つまり、「勝海舟の殺人」という推理小説の背景あるいは内容となっているのは、現実の水野昇の生活かもしれないのだ。
この想像が正しければ、この小説を分析することで、昨夜の変死の事情が解けないとも限らない。まして、殺人事件だとすれば、この原稿自体が、重要な証拠物件となるだろう。
折原刑事は、相変わらず目を開けない。
いつの間にか、鼻先ににおっていた香水が消えた。横浜駅でにおいの主がおりたのである。
2
その日の十二時半。折原刑事は県庁の大食堂で大沢部長刑事に会った。食堂の窓から、センターピアの倉庫と船体の汚れた貨物船が見えた。
二人はA定食をカウンターで受け取り、明るい日差しの窓際に座った。ここでは、すべてがセルフサービスになっている。
「読み終えましたか?」
座ると同時に、折原刑事は上司に尋ねた。
「ひと通りはね」
大沢部長刑事は言いながら、どびんに手をかけて、お茶を自分の茶わんにつぐ。
「ぼくの言った通りだったでしょう」
「そうだな」
部長刑事は深くうなずいた。
今朝、折原刑事は大沢に会う早々、「是非ともこの原稿を読んで、今度の事件との結びつきを考えて下さい」と言ったのである。大沢部長刑事は、特別会議室にとじこもり、今しがた問題の小説を読み終えたばかりだった。
「とても珍しい推理小説になっているでしょう。一種の私小説みたいな。しかし、実によく書けている……大沢さんはどう感じられました? 『私』というのは、やはり水野のことでしょう?」
「一応、そう考えて書いてある。でも、君の思うように、小説の中に現実を解くカギがあるかどうか分からないぞ。小説の『私』については、随分、フィクションがはいっているから」
「それはそうです。住居に関するくだりは、全部、事実とは違っているし……『二人の勝海舟』の出版も現実にはないことだと思いますよ」
折原刑事は、定食のウインナーソーセージにかぶりついた。
「それにしても、水野が解剖の結果、殺されたと分かった場合、参考になるような気がするんです」
「参考にはなるさ。そうそう、解剖の方は、食事が終わったら確かめにいってみよう。どうもあまりぱっとしそうもないが」
部長刑事の言葉には力がはいらなかった。従来から、解剖に新事実が発見されると、必ず真っ先に担当部長刑事の耳にはいるのだ。今回などは、とっくにニュースがなければならない。
「散瞳《さんどう》の事実があるんですから、きっと薬物が検出されると思いますね」
折原刑事は自信ありげだった。
「そうとも限らん……何かのショックで、そうなったことも考えられる……」
「精神的な原因だけで、散瞳が起きるものですか?」
「よく知らないが」
「大沢さん……」
「あの小説ですが……」
「うむ」
「独身者の話を書いた独身者の作品として見た場合にですね、ぼくは独身者の立場から、相当、強烈な印象を受けたところがあるんですよ。それは殺しなんかじゃなくて……」
「どこ?」
部長刑事は、刻みキャベツにトンカツソースをたっぷりかけ、割《わ》り箸《ばし》で口へほうりこんだ。
「ほら。離れで『私』が本を読んでいるとき、奥さんがトイレットへはいるシーンがあるでしょう」
「うん、ある」
「その物音に耳を澄ましている情景……あの気持ちが、妙に生々しく感じました。大沢さんはそうでもなかったでしょうけど」
「そうかい。確かにおれはそうでもなかった。大体、女房の小便の音を聞いても、もののあわれを感じようがないからな。しかし、これで、若い娘のなんなら、なんとも言えないぞ」
「あの感じは独身者のものだと思うんですよ。ただ……」
と、そこで刑事はお茶を一口すすった。
「あの書き方に実感があったでしょう。だから、水野は若い女……いや、若くないかもしれませんよ、とにかく女性と関係を持っていたんじゃないかと考えてみたんです」
「それは勘ぐり過ぎやしないか。あのくらいのことは、想像でも書けるだろう」
「ええ。書けるかもしれません」
そう言って、折原刑事は付け合わせのサラダを口へほおばった。大沢は食べ終わって、タバコに火をつけている。食堂はすき始めた。
「その話は別として、水野は露木という友達の画家に、あまり好意を持っていないな」
と、部長刑事の方から言い出した。
「露木は、洋画家として、近ごろ、かなり売り出しているそうだ。昨夜の身なりも、相当、デラックスだったろう。ところが、小説の中だと、モデル料も払えないような貧乏画家になっている。ちょっと、いやらしく書いてあると思わないか」
「その通りです。それはぼくも読んで感じました。水野は露木の成功をうらやんでいたでしょうね。小説では、露木が水野の成功をうらやむようになっている……」
「水野という男は、それだけ、エゴイストだったと言えるな」
「小説家には多いタイプなんですかね。けれど、それだけに、勝海舟の話を出して、小説に二重の興味となぞを作ったのは、なかなかうまいと思いました。ぼくは、子母沢寛の小説を知っているんで、今度のやつには度肝を抜かれたってところです」
「全部が全部、水野の創作かな?」
と、大沢部長刑事が首をひねった。
「なぜですか?」
「だって、小説の中の『私』は、長谷川竜五郎のヒントで書くようになっているだろう。水野自身、あれを書くとき、師事している佐々木文吾あたりの意見を参考にしたかもしれないぞ」
「それは考えられますね」
「長谷川竜五郎は死んじゃうが、佐々木文吾の方は、今月も中間雑誌に書きまくっていたから、話は聞けるわけだ」
「今日中に、一応、当たってみてもいいです」
「一緒に行くか」
「はい」
「その前に解剖結果と……どうやら、遊ばせてくれそうもないぞ」
部長刑事はタバコをもみ消しながら笑った。
3
水野昇の法医解剖は、昨今、例を見ないほど、慎重かつ厳密におこなわれた。これは、捜査の責任者である遠藤警部が、事件解決には解剖の結果が最重要であると強調したからである。
実際に、死因がはっきりしないために、他殺か病死かの区別がつかないのだから、すべては解剖の結果待ちになるのだった。
大沢、折原両刑事が、犯罪科学研究所を訪れたのは、午後一時だった。
藤木《ふじき》裁判医は丁度、昼食がわりに、滝川豆腐を食べ終わったところなので、愛想よく二人を応接室に通してくれた。
「解剖は終わったけど、まだ検査がすんどらんよ」
裁判医は目を細めて言った。仕事熱心は結構だが、急いでもだめだという表情である。
「ご覧になったところではどうなんです?」
大沢部長刑事がきいた。ざっくばらんな話が出来るのは、彼が藤木博士と碁敵だからである。二子ならば、部長刑事は十中八、九、老裁判医に勝てる。しかし、藤木博士は、なかなか先で打つことを許さないのだった。
「わしの見た限りでは、あの男は健康そのものだ。病気らしいものは、痔《じ》ぐらいだが、これは日本人なら十人に七、八人は持っている症状だし、病気のうちにはいらん」
「散瞳が見られたので、薬物を飲んでいるようなことはありませんか?」
「ない」
と、この道四十年の大家が断言した。
「とにかく、入浴中の突然、衰弱の発作に襲われるような原因はなかった。心臓は健康人のものと変わりがないし、膵臓《すいぞう》、甲状腺《こうじようせん》、下垂体もまったく異常はなかった。今度はかなり念入りにやったが……腸や脾臓《ひぞう》の細菌検査はしてみたが、これも感染の様子はない。
皮膚には注射の跡もないし、胃には薬物がなかった。まあ、ないないづくしさ。あとは、化学病理の方で、化学分析をしてもらうだけだが、まず新しいことはでまい」
「どのくらいで結果がでますか?」
「早くて一週間だ」
「胃の内容物はどうですか?」
「すしだね」
「え?」
「すしといっても、稲荷《いなり》とのり巻きだ」
藤木裁判医は、あはははと、歯の抜けた跡を見せて笑った。
「いつごろ、食べたものですか?」
折原刑事が横からきく。
藤木裁判医はデスクの上にひじをつき、記憶をたぐりながら、
「検案書にはっきり書いておくが、夕食なんだろう。大部分、消化していた」
「それはおかしいですね」
「なぜ?」
と、これは大沢部長刑事である。
「ヨコハマ・ドウエルは、真正面に初音ずしがあるでしょう」
「あるよ」
「だから、稲荷ずしでものり巻きでも、それはドウエルで食べる限り、あの店で取るのが常識じゃありませんか。しかし、ぼくの聞いた範囲では、昨日、水野はあの店に、何も注文していないんです」
「ほかの店から取ったんだろう」
「いや、大抵、初音で食べるそうだから」
「出前でなければ、外へ出たのかもしれないよ。あの隣の女だって、水野が外出しないとは言い切れないだろうし」
「面白そうだな」
と、藤木裁判医は細い目を余計細めた。まゆの長い白毛が風に揺れている。
「その辺に何かがあるだろう。ひとつ、ヒントになる話をしようかな」
「なんでも伺いますよ」
大沢部長刑事が身をのり出した。
「わしも稲荷ずしは好きだ。それから、すしにつく生姜《しようが》も……普通、すし屋に行けば、生姜はガリといって、色のついていないやつ。ところが、死体の胃にわずか残っていたのは、どうも紅生姜らしいな」
「先生のおっしゃる意味は、水野の食べたのは、手づくりの稲荷ずしだとでも……」
折原刑事はメモに何やら書き込みながら、その姿勢できいた。
「じゃないのかな」
「それだと、初音ずしに注文のなかった理由がはっきりする」
大沢はうなずいた。
「でも、大沢さん。そのかわり、水野が自分で、のり巻きや稲荷ずしを作ったことになりますよ。これはどうもおかしいと思いませんか。部屋の中には、すしを作った形跡もなかったし、第一ですね、独身の男が、つまらない稲荷ずしを自分で作りっこないですよ」
「そうなるともらいものか」
「もう一度、聞き込みをして確認すべき事項です、こいつは」
折原刑事は、ますます、水野という男に興味を覚えていた。
「それより、一番の眼目は、あの男が、なぜふろの中で溺死《できし》したか、そこなんですが、先生の解剖経験と現場の状況から、医学的に何か言えませんか。結論でなくても、方向だけでいいのですが」
大沢部長刑事の質問に、藤木裁判医は腕を組んだ。
「話によると、軽い嘔吐《おうと》、意識喪失、散瞳《さんどう》の三つが症状としてあったようだ。そうだろう?」
「そうです」
「それからふろにはいっている。だれかに強制されたのでなければ、その理由はひとつしかない。気分が悪くて、ひどく発汗したに違いないな。全体に、疲労、嘔吐、発汗、衰弱、意識喪失、散瞳という症状だ」
「………」
「これにぴったりの病名があるよ」
「なんですか?」
「低血糖症だな」
「と言いますと?」
「簡単に言って、血中の糖含有量が低下した場合のことだよ。生命を保つには、この糖含有量が適正な値を示していなければならない。これが低下すると、今言ったように、嘔吐、発汗、失神を起こす」
裁判医は、講義するような口調で、二人の刑事にしゃべっていた。
「では、先生。解剖の結果、水野が低血糖症を示していたんですね?」
若い刑事は食いついた。
「いや、それなら話は早いが、その点、逆の結果が出ている」
「え?」
「待ちなさいよ」
藤木博士はゆっくり回転イスから立った。
二人の刑事は、その少しねこ背になった老躯《ろうく》を、不安な目で見詰めた。警察の捜査において、最も困難なのが、医学的な犯罪である。これはどうしても、専門の医師の見解を尊重するようになる。場合によっては、医者の言葉ひとつで、解決したり、迷宮入りになったりする。
捜査官は互いに顔を見合わせた。いやな予感がした。
間もなく、藤木は何かのメモを持って、部屋へもどってきた。
「低血糖症だと思うのに、それがはっきりしないのはね……」
二人の前にメモを置いた。何かドイツ語が並び、数字が乱雑に書き込んである。意味は分からなかった。
「さっき、血糖値測定をしてみたんだ。これは死体の心臓にある二つの心室から、混合血液を採って、それをはかったものでね……ほら、その結果だ」
折原刑事は、老博士の指先を目で追った。
「百ミリリットルに対して、二百十ミリグラム……これは血糖の正常値をかなり上回っているんだよ」
「そうですか」
と、大沢部長刑事は失望の色を隠さなかった。
「低血糖症が死因ではないことになりますね?」
折原刑事は畳みかけて、大切な部分の結論を聞き出そうとした。
「分からんな。わしははっきりしとる事実だけを話しているんだから」
「病気とも言えないような原因で、急に体の自由がきかなくなって、溺死《できし》することはありませんか? 例えば、貧血か何かで」
「貧血なぞ起こしとらんよ」
藤木裁判医は、いくらか不快そうにすぐ答えた。
「わしもその想定に立って、大腿骨《だいたいこつ》を関節から切り離してみた。貧血かどうかは、骨髄を検査すれば分かる。異常はなかったよ」
「どうも分からなくなりました」
と、大沢部長刑事はため息をついた。
「きめ手がないので、事故死とも言いきれないし……今のお話だと、どうも他殺の線は薄いようですな」
「まあ五分五分と考えておきなさい。碁でも、早くからキメを打つのは悪手とされているくらいだ……」
ハハハと、藤木裁判医は大口を開けて笑った。
「そんなに焦っては、まだまだ、当分二子の壁は厚いぞ」
第三章 竹 井 京 子
1
佐々木文吾の屋敷は、横浜線の中山駅で下車した後、西へ三百メートルばかり歩いた位置にあった。
国鉄横浜線は大都市近郊電車には珍しく単線である。大沢部長刑事と折原刑事は、鉄路に沿って調べてきた道を急いだ。
当代の有名な作家の家らしく、鉄筋コンクリート造り二階建ての屋敷は遠くから見えてきた。敷地は千平方メートル程度ある。難を言えば、横浜線の線路に隣接しているのと、三角の地形が住みにくいようだった。
「小説とは大分違うようですね」
と、折原刑事がつぶやいた。
「長谷川竜五郎という先生の家は、樹木に囲まれたものすごいばかりの静寂に包まれているはずなのに、ここは道路と鉄道にはさまれているし……」
「家も違うよ」
部長刑事も、白いRC構造の建物を見上げて言った。
「この家は一、二年前に建てたばかりだ」
「似ているのは、佐々木文吾にも子供がいない点だけですか……」
「まさか、それだけってことはなかろうが」
門から玄関までは、飛び石の間に、ぎっしりと玉砂利が敷きつめてあった。
呼び鈴を鳴らすと、お手伝いさんらしい若い娘がガラス戸をあけた。
「佐々木先生はご在宅でしょうか?」
「はい。お約束でございますか?」
「いや、別に……」
「どちらさまでございますか?」
「警察の者です」
大沢部長刑事が官職を刷り込んだ名刺を出した。折原刑事もそれにならった。やたらに警察手帳は出さないのがエチケットなのだ。
「少々、お待ちくださいませ」
待つほどもなく、二十分間だけ≠ネらという約束で、二人は玄関わきの応接間に通された。この応接間は、外から来た客が、くつを履いたままはいれるように設計されている。主人はサンダルに履きかえて、おりてくる仕掛けだ。いかにも、寸暇をおしんで執筆する流行作家らしい家の配置だった。
折原刑事は、佐々木文吾を一目見て、〈あれ……〉と思った。「勝海舟の殺人」に出てくる長谷川竜五郎のイメージとは違い、ふくよかな表情に、でっぷり肥えた貫禄《かんろく》。どこからながめても、病の影なぞはなかった。
「水野さんの亡くなったことで、いろいろとお伺いに来たんです」
部長刑事は丁寧に言った。
「水野昇君……だろう?」
野太い声で言い、佐々木文吾は和服の帯のあたりへ手をやった。
「そうです。死亡の状況に疑問がありますので、生活ぶりを調べているわけです」
「お断わりしたように、明日締め切りの原稿があって、あと十分ぐらいしかお相手が出来ない。あしからず」
横柄とまではいかないが、当然の口ぶりだった。
「では、早速ですが、水野昇は先生の弟子ということになりますか?」
「世間ではそう言っているかな。ほかにも、幾人もいる。が、みんな勝手に集まってきた人間だね。毎月第三日曜日に、この屋敷のひと間を、文学青年に開放しているんで、その席に顔を出せば、まあ弟子のように見られるだろうが。水野君も、二、三年前から、ちょいちょい来とったようだ」
「将来性はあったんですか?」
部長刑事は忙しくきく。
「ない。悪いが、あの男は大成しそうもなかった。特に長いものを、腰を落ち着けて書けないたちでね」
「実は、死んでいた部屋から、水野の書いた小説が発見されまして、その作品はなかなか面白くできているんです」
「ほう」
佐々木文吾は、口をはさんだ折原の方へ、興味深い視線を投げた。
「そうですか。とにかく、あの男の能力は高く買いませんね。まとまりが悪い……」
「その小説は、東京文化社の募集している推理小説へ、応募するやつなんです。まとまりがとてもいい筋で……」
折原刑事は反応を見るように、佐々木の顔を見返した。
「推理を書いた……? そんな緻密《ちみつ》さがあったかな。大体が陽気で、調子ばかりいい男なんだが」
「陽気でしたか?」
「陽気どころか、あの男なら、年をとって養老院へはいっても、スターの座を占めるくらいはやりかねない。まず、一発屋の代表的な人物だ。だから、出入りは許したけれど、信用はしていなかった」
佐々木文吾の話は、小説《ヽヽ》における長谷川先生と「私」の関係とは、似ても似つかないものだった。
「しかし、勝海舟が二人いたというストーリーを骨格にして、読みごたえのある小説を書いておりますよ」
「おお、勝海舟……それは今、わたしが週刊誌に連載しようと企画している筋だ。じゃ、何かね。あの男がそれを書いたのか?」
「書き終えてから死亡しているんです。先生はその筋をご存知ですか?」
「知っているどころじゃないよ。半年ばかり前に、二、三人の弟子に、自分の企画をしゃべったとき、勝海舟のことも言った。それを盗用したんだ」
佐々木文吾は気色ばんだ。
「なるほど」
と、部長刑事は納得した。
「それでどうやら、水野の行動が飲み込めました。実は、その小説は、先生を主人公にして書いてありましてね。先生がガンで亡くなる。亡くなる前に、最愛の奥さんを殺す。こういった筋で……」
「ひどいやつだ。わたしを犯人扱いにしているのか」
「しかし、現実では水野が死に、先生はお元気ですが……」
「当たり前だ。わたしはこの四、五年、病気ひとつしたことがないよ。忙しくて、病気をする暇もない」
「奥さんもご丈夫で?」
「家内は子供のとき、健康優良児だったくらいさ。まったく縁起でもない」
「先生のご兄弟は?」
折原刑事がきいた。
「わたしは天涯《てんがい》の孤児だ。家内にも姉妹はいないよ。なぜ?」
「その小説に出てくる先生は、兄弟がいるもんですから」
「バカバカしい」
佐々木文吾はひどく立腹してしまった。
「その原稿を、わたしにください」
「簡単には、お渡しできませんよ」
「実にくだらん妄想《もうそう》にふけったもんだ。この間、近い将来、結婚するという話を聞いて、やれやれ、あの男もやっと落ち着くかと思っていたんだが」
「だれと結婚する予定でしたか?」
「竹井京子といってね……この女も、わたしのパーティに出席する定連だ」
「そのひとの住所か電話番号は分かりますか?」
「分かるだろう」
佐々木文吾は、テーブルの上にあった電話のメモ帳のTの部を開いた。
若い刑事は素早く、竹井京子の電話番号を控えた。
「これでいいかな? その原稿のことは頼みますよ」
早くも佐々木文吾は腰を浮かしかけている。
「あと二、三分……先生のお宅には離れがありますか?」
「ないね」
そこへ、体つきの大柄な五十がらみの婦人が、お茶を盆に載せて現れた。
「いらっしゃいませ」
と、抑揚のない声で言い、そのまま引きさがろうとした。
大沢部長刑事は直感で、
「奥さまですか。お忙しいところ、おじゃましております」
とあいさつした。
「いいえ。どうぞ、ごゆっくり」
どうひいき目に見ても、下町のかみさんという風情だ。佐々木文吾は、〈早く引きさがれ〉と目で合図をしている。
佐々木夫人が応接間を出た後、部長刑事はこの邸内に、池とサルスベリの木があるかどうかを尋ねた。
「池は金魚を飼っているのはあるが、今はもう熱帯魚の時代だからね」
佐々木は磊落《らいらく》に笑った。
「しかし、なぜサルスベリの木なんぞをきくんだい? 聞いてどうする?」
「例の小説に書いてありましたから、参考までに……他意はありません」
部長刑事は努めて軽く説明した。
2
調べると、竹井京子は西城大学の国文科四年生だと分かった。佐々木文吾宅で書きとった電話番号は、竹井京子の下宿先だった。
四日の午前九時。
折原刑事は一人で目黒にある京子の下宿に出張した。
薄曇りの日だった。半そでのシャツではうすら寒い。
坂道を歩きながら、折原刑事は奇妙なことを考えた。現場で見た水野の死体──陰部を丸出しにしていたが、あの感じでは独身といっても、すでに女を知っているのかもしれない。とすれば、相手はこれから会う、竹井京子だろう。例えば、自分が今、どこかで全裸のまま倒れていたら、ひとは自分を童貞だと思うだろうか?
〈おれは確かに童貞だ。失いかけたことはあるけれど、いつの間にかこの年まで一人で過ごしている……しかし、世間では童貞といっても通用しないだろう。おかしなもんだな〉
竹井京子の下宿は、大きな消防署の裏手にあった。
歩きながらの、とりとめない考えは、やはり、これから会う竹井京子に関係することばかりだった。
水野は、小説の「私」には、恋人がいないように書いてある。なぜだろう? ストーリーの上で必要がないためか? それとも、小説を書き出してから、竹井京子が水野の恋人になったものか、さらに勘ぐれば、水野はあの小説を発表したとき、「私」に恋人がいては都合の悪い事情を持っていたかもしれぬ──
京子の下宿は、普通のしもた屋づくりで、住居の半分を改造したものらしい。
京子は、おっとりした面立ちで、いわゆる文学好きの娘にふさわしかった。夜更かしのせいだろう、全体に怠惰な感じを身につけている。ネグリジェみたいな薄物のワンピースだけを着て、折原刑事を室内に迎え入れた。
「水野さんが亡くなったのをご存知でしょう?」
「はい、知っています」
「長いこと、交際されていたんですか?」
会話はこんな具合に始まった。
「はい……そんなに長くはありませんわ。あの……心臓マヒで亡くなられたと聞いたんですけど、何か……」
「別に特別おかしなことがあったわけじゃありません。ただ、一種の変死ですから、いろいろと事情を聞いておくだけです」
「それならいいんですけれども」
「一番最後に、水野さんにお会いになったのはいつでした?」
「一日の日曜日でした。有楽町で映画を見ました」
「そのとき、変わったこと、聞きませんでしたか?」
「いいえ。応募小説が出来あがったことを、とても喜んでいました」
「横浜には、もう何度も?」
「いえ、まだ三、四回しかまいりませんわ」
「ほう……」
この辺の関係を、折原刑事は聞きたい衝動に駆られたが、プライバシーに触れそうなので、自制した。
「二日の夜はどちらにいられましたか?」
「新宿のタイピスト学院におりました」
「タイプをやっているんですか?」
「英文ですの。いずれ役に立つだろうと思って、四月から始めたんです」
「時間は?」
「午後八時から九時までですけど、少し早く行って、お友達とおしゃべりしましたから、午後七時から十時近くまで、タイピスト学院にいましたわ。だから、昨日の夜まで、水野さんの亡くなられたこと、全然、知らないで……」
京子はそこで両手を顔に当てた。肩のあたりの盛りあがった肉が、折原刑事の目に毒だった。
〈アリバイありか……〉
その点をひとまず聞けば、長居は無用であった。
「失礼なことを聞きましたが、これは職業ですから……気を悪くしないで下さい」
ころあいを見計らって、折原刑事はそう言った。
3
折原刑事が東京から、神奈川県警察本部へもどったとき、丁度、ヨコハマ・ドウエル変死事件の担当者会議が終わったばかりだった。
会議室にまだ残っていた大沢部長刑事に、竹井京子のアリバイを報告した後、会議の模様をきいた。
「新事実も、いくつかは出てきた。第一がジローだ」
と、部長刑事が説明した。
「浅倉次郎は平塚のパチンコ屋にいるところを、橋本君が見つけたんだ。偶然じゃない。やつは以前、ヤク(薬)の売人をしていたんで、麻薬捜査官がジローの立ち回りそうな場所を教えてくれたわけさ」
「吐きましたか?」
「うん。初めはシラを切っていたらしいけど、あの晩、水野の部屋に行ったことは認めたよ。部屋の柱に残っていた右手中指の指紋が、やつのものだった……」
「もう指紋調べは終わりましたか?」
「いや、まだ……指紋は整理できたんだが、本人のでもジローのでもない、未確認の指紋が相当、検出されたらしい。どうも、第三者のにおいがするな」
「京子のものでしょうか?」
「調べる必要はあるだろう……ま、その方はそれとしても、ジローが何かしたのかどうか、その辺が分からなくて弱った」
大沢はまゆをひそめた。会議でも、きめ手が見つからなかったとみえる。彼は何本目かのタバコに火をつけた。
「なんと説明してますか、あの晩のことは」
「お互いに顔見知りの間だから、マージャンの仲間に誘うつもりだったと言っている」
「それはうそですよ」
「うそは分かっている。どう考えても、水野がジローの遊び相手になるのはつり合わないもの。顔見知りは間違いなさそうだが……」
「それで、死体との関係は?」
「部屋をのぞいて声をかけたそうだ。しかし、返事はない。仕方がないから、そのまま帰ったと言うんだ」
「死体を見て驚いたんじゃないかなあ……あがり込んだことは、指紋の方でわれませんか?」
「居間の柱に、ジローの指紋があったから、その辺で追及することはできる。ひとつは、住居侵入を口実に締めあげる手だな。でも、こいつを使うには、水野が殺されたことが証明できないと困る」
「まったくやっかいなヤマ(事件)ですね」
「医者にもはっきりした見通しが立たないんだから、おれたちが悪いわけじゃないさ。こっちは、いざ鎌倉《かまくら》のときに、適切な処置ができるようにしておけばいい」
「それで、大沢さんは結局、どうにらんでいるんですか? 殺し?」
「それは死体検査の結果がでてからでも遅くないだろうと思っているよ」
「ジローはほっておくんですか?」
「しばらく泳がせるつもりだ。仕方がないだろう。それに、これはおれの勘だけど、薬物を使った殺しにしろ、今度の状況が、どうもジローの単純な脳細胞ではできそうもない……ヤマが殺しと決まった場合だけどな」
部長刑事は歯に衣《きぬ》を着せないで、自分の見解を言った。
折原は黙ってうなずいた。殺しだとすれば、実に巧妙なやり方になる。あるいは、結局、病死とか事故死とかに落ち着かざるをえないかもしれなかった。これは世間に対する警察の方便として、しばしば使われる策なのだ。例えば、他殺か自殺かが不明なケースでは、大体、自殺として片付けられる。これは警察の検挙率を少しでも高める措置だった。今度のような場合では、余計、事故死または病死として、終止符が打たれやすいのだ。
「ぼくもジローは端役だろうとガンをつけますね。金銭問題以外で、やつが人を殺すわけはないし……」
「ヤクザのやり口じゃないさ」
「大沢さん……」
「うん?」
「稲荷《いなり》ずしの方の聞き込みは、どうなっていますか? 近所のだれかが、すそわけしたってようなことは……」
「ないそうだ」
と、大沢は苦い顔をした。
「あのヨコハマ・ドウエルの住人は、家族的な人種は少ないらしい。それに、第一、目の前には、初音ずし以外にも、専門の店が一杯、並んでいるんだから」
「店も聞いたんですね?」
「聞いた。出前をした店はないし……まったく不明だ」
「しかし、このすしの一件は、大きな手がかりになりそうですよ。かりに、水野が殺されたのだとすれば、すしを届けた人物が一番怪しくなる。しかもですよ、そんな世話女房的行為をするのは、女性と相場がきまっているでしょう……」
「でも、君が調べてくれた竹井京子は、アリバイもあるんだろう?」
「竹井でなくてもいいですよ。もう一人くらい女性がからんでいても不思議ではありませんよ」
「おい、それは君の経験から割り出した推理かい?」
部長刑事が冷やかした。
「いやあ、ぼくの経験は貧弱ですよ。ただ、水野は死に顔を見ても、なかなかの男前でしたから」
「君も相当にいいんだぞ」
「大沢さん。それはぼくの死に顔を見たら言って下さいよ。生きているうちは、あまり上品な顔になりそうもなくて」
「分かったよ。そう言いながらおれの顔をながめられると、背中に毛虫でもいるような感じがする」
と、大沢は笑った。
「お互いにお面の話はよしにしようや……」
第四章 誕 生 日
1
水野昇が溺死《できし》して、丁度、一週間が過ぎた。神奈川県警察本部には、水野の死に関する化学病理上の分析結果がすべて出そろった。
結果はすべて陰性であった。
この検査は、横浜市立大学病院の天野第一内科部長、石井第二内科部長、猪狩《いかり》神経科部長までが参加して、徹底的におこなわれた。
彼らはこの数日間に、死体の消化器官全般を検査した。特に、問題の嘔吐物《おうとぶつ》、尿、血液の精密検査は言うに及ばず、肝臓、脾臓《ひぞう》、肺臓、脳などの資料を分析したのである。
水野昇の死亡が、他殺か病気によるものかの区分は、この検査の結果次第にきまるので、医者達も例になく熱を入れてくれたのだ。
検査の報告書によれば、彼らは、数百種類もの薬物や毒物に対する周知の検査法も試みたし、血液病や代謝不全を発見するためのあらゆる生化学的検査をおこなったようである。しかし、なんら毒物の痕跡《こんせき》は認められなかったし、衰弱を起こさせ意識を失わせるような代謝不全のいささかの兆候も発見できなかったと言う。
こうなった以上、県警察本部としては、殺人事件として捜査することは、事実上、不可能になった。たとえ、犯人が名乗り出たとしても、犯行方法の立証が困難だから、自白にまつより仕方がない。
そこで、水野事件の直接の指揮者である遠藤警部は、一応、「水野は、自己の不注意と、医学的にはほとんど立証できないような一時的失神状態によって、溺死《できし》したもの」と判断をくだした。
ただ、水野の死の周辺には、浅倉次郎の関係とか、胃の内部から発見された稲荷《いなり》ずし等の出所が不明なので、引きつづき、その面の捜査は続けられた。
水野の死体は、必要な臓器を切りとった後、火葬に付された。
切り取った部分は、広口ガラスビンに入れて冷凍庫に時限保管したが、それは次の臓器である。
第一が心臓と血液、それから胃とその内容、腸と付属物、肝臓の一部、尿、脳の一部と肺臓の一部、それに加えて、痔《じ》を患っていた肛門《こうもん》の一部などだった。
こうした動きに対して、捜査を担当する刑事の間には、割り切れない感情があった。ことに、若い折原刑事は、死亡した水野に、強い関心を持ったせいで、単なる事故死と言いきれなかった。
「随分、早い結論ですね。まだ現場の指紋のことも残っているんでしょう?」
折原刑事は、遠藤警部の判断を聞いた夜、大沢部長刑事に言った。屋上ビアガーデンのしまう時刻である。
「仕方がないさ。このところ、凶悪な殺しばかり続いているんだ。人も予算も少ないのに、あやふやな事件ばかりを追ってもいられないわけだろう」
部長刑事は苦笑しながら、ジョッキをかたむけた。この夏、神奈川県内では、陰惨な殺人が相ついで起きている。水野の事件とほぼ同時に、横浜市港北区では、三十歳になるサラリーマンの妻が、全裸で両手を縛られた上、暴行|扼殺《やくさつ》されていた。この犯人もまだ挙がっていない。
「上の考えも、分からなくはないんです。でも、これだけ臭いヤマを、一週間やそこいらで投げ出すなんて……」
「まあ、医者の助けがいる捜査になると、こっちは弱いからな」
「しかし、さっきも言ったように、正体不明の指紋もあったんだから、せめて、それをつきとめてですね……」
「指紋の主が分かっても、今度の場合はキメ手にならんだろう。言うならば、殺人方法それ自体がはっきりしてないんだよ」
堅いモツ焼きを丹念にかみながら、ボースン(部長刑事)はあきらめた口調だった。多年の経験で、上層部が事件と見なければ、とりつくしまのないことを知っていた。
「ホシが吐けば別なんでしょう……」
「そりゃ、もちろんさ。ジローでもたたいてみるか」
「それもいいですけど……」
折原刑事は別の考えを口にしたかった。できれば、なんとかこの大先輩を自分のペースに引きこんで、もう少し、水野の死を追及したいと思っていた。
彼は冷えたビールを一口飲んで、しばらく言葉を選んだ。
「大沢さん……」
「………」
語調の変わった折原刑事の態度に、大沢は驚いた目付きで見返した。
「これはあくまで、ぼくの六感ですよ。けど、どうも水野のヤマは臭い……臭いけれど、医学的、科学的にはおかしなところがないわけですよ。だからといって、もしかりに、犯人がまったく新しい殺人方法を使ったのだとしたら……そんな可能性がなくはないと思いますよ」
「君。そんなことを警部に言ったら、推理小説の読み過ぎだと思われるぞ。科学的におかしくなければ、つまり異常ではないわけだろう……」
「常識的にはそうです。分かっているんです」
折原刑事はアルコールの力も手伝って、いくらか舌の回転が早くなった。
「でも、悪いことをするやつを、ナメてかかるのはいけませんよ。世の中が進歩すれば、犯罪も進歩する道理じゃありませんか」
「しかし、すべては証拠だよ。君。手がかりがない議論は、どこへ出しても負けるぞ」
大沢は堅いモツのかみかすを、困ったように灰ざらの中に吐き出した。
「証拠は捜しますよ。医学の方は弱いから、別の方向から食いついてみせます」
「何か言いたいことがあるんだな?」
「ええ」
と、折原刑事はそこで言葉を切った。
久しぶりに蒸し暑い一日だったが、この時刻になると、さすがに夜が冷えてくる。閉店間際のせいか、周囲のテーブルに人影はまばらだった。
「ぼくの考えを聞いて下さい。話してみると、また考えが変わるかもしれませんけど……」
「言ったらいい」
部長刑事はハンカチで口の回りをふき、タバコを一本抜き出した。
2
「問題は、例の小説なんですよ」
「『勝海舟の殺人』か?」
「ええ。あれです。あれは大沢さんと一緒に調べたように、水野の体験を基に書いてありながら、実際とは相当に違っている。それは確かだと思うんです。あれをあのまま信じるのは危険でしょう。にもかかわらず、ぼくはあの小説がとても気になって仕方がないんです」
「小説は証拠にならないな。つまり、フィクションで、つくりものの世界じゃないか」
「それでも、全然のつくりものはないんでしょう。どうしても、書いた人間の経験や考え方がはいってくる。いくらかの真実はあるはずですよ」
「それはね……」
「そこで、問題の小説ですが……」
と、折原刑事はしゃべり出した。
「あの中で、先生の奥さんは、先生に殺されてしまいますね」
「うむ、読んだよ」
「その日はなんの日かというと、奥さんの誕生日になっているでしょう。先生は奥さんの誕生日に殺人を計画している」
「あまりいい趣味じゃない」
言下に部長刑事は言った。子供の誕生日に、きまって土産物を買って帰る大沢にすれば、不愉快なのも無理はなかった。
「ああいう犯罪者の心理は特殊ですよ。趣味やなんかは問題じゃなくて、ひとつのキッカケなんでしょう、その日を選んだのは……」
「そうかな」
「とにかく、小説の中の奥さんは、自分の誕生日に殺された。その日にしたのは、犯人である先生の決めたことなんです」
「それが水野とどう関係する?」
「気がつきませんか……」
折原刑事はちょっとうれしそうに笑いを見せた。
「水野昇の誕生日は、九月二日なんですよ。昭和十三年九月二日……ほら、応募原稿の末尾に書いてあったのを……」
「そうだったかあ、うっかりしたぞ」
部長刑事は大声を挙げた。
「九月二日にやつは死んだんだな……君の言いたいことは分かったよ。だれかが、あの小説のまねをして、水野の誕生日に、というわけだろう?」
「そんなことですが、ぼくも単純にそれを主張しやしません」
折原刑事は用心深く言った。その方が、かえって効果的なのを知っていた。
「偶然の一致だってあるでしょう。ひとの誕生日なんか、普通、知らないと思いますよ。小説では、夫婦だから、互いに誕生日を知っていても不自然じゃないけど、水野は独身ですから。殺しだとしても、他人が誕生日を知らないと考えるべきでしょうね」
「折原君」
「はい」
「そんな言い方をしているけど、実際は、あの小説が今度の事件と深く関係しているのを、君はおれに知らせたいんだな?」
酔いがさめかけたような口調だった。
「正直に言えばそうです」
あっさり、折原刑事が答えた。
「小説で殺されたのは女性、水野は男で、性別こそ違っていますが、どうも、二つの事件は結びついていそうなんです。誕生日のことは、そのひとつの証拠として」
「そうなれば、犯人は先生のはずだが、あの佐々木という小説家はどうも……」
「ぼくもその点は疑問に思います。今はどうも、うまく表現できませんが……」
突然、スピーカーから、螢《ほたる》の光≠ェ流れ始めた。いよいよ、ビアガーデンの閉店なのである。ボーイ達が、忙しく、折り畳みのイスを片付け出した。
「出るか?」
「ええ」
二人は席を立った。
「たびたび言うように、ぼくはあの小説に、とても興味があるんです。勝海舟の話にしても、それだけでひとつの問題だと思うし……あの先生の考え方にもひかれます」
出口の方へ歩きながら、折原刑事は言った。
「それに……佐々木文吾は、水野の才能を買っていないと言いましたね?」
「ああ、言ったよ」
「もし、あの小説を読んだ後でも、そう言うでしょうか?」
「そりゃ分からない。小説家がうまいと思う小説と、われわれの感じとでは、相当違うだろうから」
「でも、大衆小説や推理小説は、それが一緒であるべきですよ」
「そうかな……」
「ぼくは、あれを読めば、佐々木文吾だってほめると思うんです。つまり、水野は、佐々木の知らない間に、小説書きがうまくなっていたんでしょう……」
「そんなことがあるかな?」
二人はエレベーターの前まで来た。
「きっとそうですよ」
若い刑事は、自信ありげに言いきった後、ふっと、心の片すみをかすめた疑惑を感じた。が、その正体がなんであるか、自分でも気づかずにいた。
ビルの出口で、二人は右と左に別れた。
「お休みなさい」
と、折原刑事はあいさつした後、自分は夜更けの街を歩いて酔いをさますつもりだった。
3
折原刑事は、伊勢佐木町通りを、根岸の方へ歩き出した。
人通りはまばらだった。
歩道に、ネオンの赤と街灯の青白い光が交差していた。
買い物かごを持った主婦姿の女が、ちらっと刑事の酔眼をのぞいた。が、声はかけなかった。女がなんの目的で、夜更けの街にいるのか、彼には分かった。が、声をかけられなければ関係はない。それに、こんな仕事は、彼の課の受け持ちではないのだ。
折原刑事は女の体に触れるほど、そばをゆっくり通り過ぎた。夜の女が、きまったように、買い物かごをもっているのは、なんとなくこっけいであり、どこか生活の悲哀さえ感じられた。取り締まりの目をカムフラージュするためのかごが、むしろ目印になって、外国人の船員からレッド・バスケット≠ニ呼ばれている女の話を聞いたことがある。三十四、五なのに、二十歳娘のような化粧と身づくろいをして、赤いかごを腕にかけていた。
歩道の二、三十メートルごとに、それらしい女がいた。商店の大半は、すっかり店じまいをしている。ところどころ、まだ開いていても、もう客の姿はなかった。
折原刑事はアテもなく、舗道に光を投げている店の前に立った。時計、貴金属の店である。
「金芳堂時計店」
〈あ。この店か〉
記憶がよみがえった。つい一カ月前、この店に二人組の強盗がはいった。住み込みの使用人が重傷を負い、時価五百万円見当の商品を強奪されている。
犯人二人は、一週間後に、静岡市内で逮捕されたが、折原刑事はこの事件も手がけたのだ。
そうした事件にかかわらず、ショーウインドには、豪華な商品が目白押しに並んでいる。ゼネラル・タイム・コーポレーション製の水晶時計、ユングハンスの腕時計、キンツレのものなど、外国製品から、日本のメーカーの目覚まし、電気時計……オパール、翡翠《ひすい》などの宝石指輪と並んで、目を奪うような豪華さである。
〈随分、いろいろな型の時計が出たものだ〉
刑事は感嘆した。特に、ウインドの中央に並ぶグッドデザインのマークがある目覚まし時計は、型も色彩も一工夫してあった。独身の彼にとって、目覚ましは必需品である。数年来、今使っている安物時計の調子が悪くて、気になっていたところだった。
〈ひとつ、買いかえるかな〉
思いつきが心に浮かぶ。
正札を見る。国産の目覚ましなら、千円以下でもある。グッドデザインなら、その二、三倍する値段になる。
〈もう少し、今のを使ってからにするか〉
考え直した末、ウインドの前を離れようとした。
このとき、折原刑事の視線は、ある時計の文字盤に吸いつけられてしまった。それはグッドデザインのひとつで、女性用目覚ましだ。色彩はピンクのトーンで、型もゆるやかなカーブを基調にした丸型である。文字盤の数字は、ピンクの夜光塗料を使ってあった。
〈ピンク色の文字盤……〉
瞬間に、折原刑事は、「勝海舟の殺人」のある個所を思い出していた。彼は幾度となく、それを読みかえしたので、かなり微細な描写まで心に留めていたのだ。
〈あの小説にも出てきたな〉
それは、確か、殺人事件のあった日の夜。「私」の寮へ、洋子という女性が訪ねてくるくだりだ。
「私」は眠れないので、まくらもとの時計を探って、時刻を読みとろうとする。このときの時計の文字盤に、ピンク色の文字と針があったように、折原刑事は記憶していた。
現在、彼の目の前の女性用時計は、文字も針もピンクである。
その隣に、対をなしているグッドデザインの男性用目覚ましは、角型で、針と文字がブルーに統一されている。
男物はブルー。女物がピンクなのだ。
小説の中の「私」はもちろん男で、しかも独身という設定であった。女性用の目覚ましを使用するのはおかしい。
考えられるのは、作者の水野が、なにかの具合で、ピンク色の文字盤をした時計を持っていたために、不用意に小説に書いてしまったケースだ。ありえないことではない。
ただ、水野も独身だし、先日の捜査のときに、女性用の目覚ましらしいものは見当たらなかった記憶がある。大体、水野は、目覚ましを使わなかったようだ。
とすれば、特にピンク色の針と書いたのには、何か理由がなくてはならない。
折原刑事は頭の中で、忙しく考えを整理した。
〈どこかに、男ものか一般用の時計で、文字や針をピンクに塗った変わりものがあるかもしれない〉
ごく普通の疑問が起きた。
彼は直ちに確かめようと思った。
刑事が店内にはいると、店じまいの準備をしていた主人が彼を見つけた。
「今晩は……」
と、刑事が言った。
「どうも……あの節はありがとうございました。何かご用でしょうか?」
主人は刑事の顔を覚えていた。愛想笑いと、かすかな不安が、主人の表情に現れた。
「教えてもらいたいんですよ。あそこに変わった目覚ましが並んでいる。あれですが……」
「あの……男物と女物に別れた?」
「そう。あれは最近の型ですか?」
「ええ。新しいといっても、小売り店には四、五カ月前から出回っているやつですが」
「文字盤が桃色に塗ってあるのは……」
「女物です。しかし、あれはよくありませんな」
「売れませんか?」
「ダメです。同じ時計でも、腕時計と違って、目覚ましは一軒にひとつあればいいでしょう。家族で使うんだから。あんな風に、女物、男物にすると、家族持ちは買やしません。結局、独身の若い人だけってことになりますね」
「女物のあの色ですが……」
「ピンクの?」
刑事はうなずいた。
「ああいうやつは、あれだけですか? ほかの会社の製品で、文字盤があの色になっているのはないですか?」
「ありませんよ。あいつはグッドデザインだから、あれだけですねえ」
「そうすると、針や文字盤がピンクなのは、あの型の女物の目覚ましだけと思っていいですか?」
「そうです……何か盗難でも?」
金芳堂の主人は、勘を働かせた。
「そうじゃないんだ」
折原刑事は首を振った。彼のねらいを説明する必要もなかった。
「ちょっと気になることがあって……」
あいまいに微笑を見せながら、折原刑事は、自分の思った通りなのを確認した。あの小説を書くとき、水野は女性用の目覚ましを、意識の下にもっていたのだ。女性用の目覚ましを、記憶していたのは、女性とひとつベッドに寝たことがあるからではないのか。ベッドの中でまくらもとを見たとき、水野はピンクを記憶した。それが、あの小説の中で、無意識に出たのかもしれない。
〈竹井京子の部屋にあったのか?〉
それは分からなかった。
刑事は主人に礼を言った。
「またやられないように用心して下さいよ」
そう冗談めいた言葉をつけ加えると、折原刑事は夜更けの伊勢佐木町へ出た。
「ご苦労さまです」
背中で、追いかけるような主人のねぎらいが聞こえた。
第五章 看 護 婦
1
天候が崩れ出した。九月九日の夜半から降り始めた雨は、まるで入梅時分のように、なかなか降りやまない。時には、集中豪雨めいた降り方さえする。
しかし、雨が降っても、犯罪捜査に当たる刑事は休むわけにはいかぬ。労務者なら一息できるのに、刑事は黙って雨のちまたへ聞き込みにいく。
折原刑事は、その日も西区に起きた老女絞殺事件の聞き込みに出かけた。中間報告のために、同僚刑事と本部の一課へもどったのは午後二時であった。
庁内食堂のモリソバを急いでかきこみ、どうやら昼食を終えたとき、もう三時近くだった。それでも、満足に昼が食べられればよしとしなければならない。一日二食で一週間、駆け回った経験もある。そんなときは、外出中、チャンスさえあれば、構わずに牛乳を飲む。飢えと渇きの両方を、これで一時しのぎをするわけだ。
階段を昇りかけたら、後ろから大沢部長刑事に呼びとめられた。
「ワレたよ、折原君」
と、部長刑事が言った。
「なんのことですか?」
折原は階段に足をかけたかっこうで、大沢の顔を見た。
「ジローがゲロをしてね……」
「なんだ、やつがやったんですか。まさか……」
「いや、早合点は困るよ。やったとは言わないんだ。強くゆさぶりをかけたら、面倒だと思ったらしいな。今まではうそをついてたと言うんだ」
ゆさぶりとは、数名の刑事が被疑者に、集中尋問をすることである。大抵の者は、この手で自白してしまう。
「うそというのは?」
「マージャンの件さ」
「そうだと思った」
と、折原は笑った。
「見えすいてましたね。それで?」
「遊びに行ったんじゃなしに、やつは、水野を恐喝《きようかつ》するつもりだったのさ」
「恐喝? ネタは?」
「ま、会議室で話そう。ここでは具合が悪い」
大沢部長刑事は先に立って、三階の空き会議室へ歩き出した。
「あるいは、水野について、面白い事情が分かってくるかもしれないんだ」
大沢はそう言って、折原の気をひいた。
会議室にはいると、大沢は手近のイスに座り込んだ。
「ジローの話だと、やっこさんには、実の姉が一人いるんだな」
と、部長刑事はすぐにしゃべり始めた。
「この姉というのが、名前は千加子といって、病院の看護婦をしている。勤め先は医療法人の横浜東病院だ。この千加子と水野とは、内縁関係だったらしい」
「内縁の妻ですか」
折原刑事は複雑な気持ちで口走った。
「そうだ。ジローがどこまで本当の話をしたかは別だが、とにかく、やつが言うには、三年来、二人の関係は続いていたようだな」
「同居したことはないんですね?」
「ない。なにしろ、女は看護婦で、横浜東病院の看護婦宿舎に住みこんでいる。もっとも、この寄宿舎というのが、一人一間を与えられた鉄筋アパートで、待遇はとてもいいそうだ。だから、夫婦関係は、お互いの部屋か、外を利用したんじゃないのか」
「それは知らなかったですね。やっぱり、水野は独身を通したわけじゃないんだなあ」
「大体、見当はつくだろうが、最近、千加子と水野の仲が冷たくなったらしい」
「最近というのは、いつごろですか?」
「ジローは今年になってだと言ってるよ。とにかく、冷たくなったのは、水野の方なんだな」
「竹井京子のせいでしょう」
折原刑事は言った。
「それもある。が、どうもそればかりでもなさそうだ。ジローは言葉を濁しとったけれども、男と女の関係は難しいよ」
タバコに火をつけながら、大沢はフフフと低く苦笑した。
「ジローが恐喝しようとしたのは、その千加子のためですか?」
「そうなんだ。もっとも、恐喝する気はないと本人は言ってるさ。一人の女を自由にしておきながら、勝手なことはさせないぞという理屈だな。慰謝料ぐらいはとるつもりで、あの晩、かけ合いに行ったわけだ」
「それで分かりますね……それは千加子という姉がけしかけたんですか、それとも、ジローが自分で……」
「分からない。それを知りたければ、千加子に会ってみるのが一番だ」
「会いましょう。水野に内縁の妻がいたとすれば、大分、局面は変わってきますよ」
「おれもそう思う」
独身者のはずの水野昇。その死亡をめぐって、竹井京子と浅倉千加子の二人が現れてきた。しかも、千加子はここ数年来、水野の隠し女として生活してきたという。
折原刑事は、目先が明るくなった思いだった。
彼は大沢部長刑事に、伊勢佐木町の金芳堂で確認した女物目覚まし時計の事実を、かいつまんで話した。
「千加子という女がいたなら、あの小説の記述も筋が通りますね」
折原刑事の推理に、経験豊かな大沢も感心してしまった。
「なるほど。どうも、君の言う通りに、もっとあの小説を研究する必要がありそうだな」
「で、大沢さん、ジローは勢い込んで、あのアパートへ行ったんでしょうが、それから後は……」
「うん。その先は前と同じでね。人気がないんで、出直すつもりだったと言っているよ」
「その辺も臭いな。やらないとしても、死体を見て逃げ出したか、どちらかでしょう」
「おれも、そこいらがいい見当だと思うよ。さて……と、話はこれだけだが、君はどうする? できれば、千加子に会って、少し掘りさげた方がいいと思うけどな」
「やりましょう。どっちにしてもむだはないはずです。丁度、今、一息なんで、大沢さんの都合さえよければ……」
「行く行く。行くよ」
と、部長刑事は万事飲み込んだ風に言った。
「おれが千加子の話を君にしたのは、おれ自身、水野の死が釈然としないからさ。調べ尽くして、それでお手あげなら、仕方がないけれどね」
「横浜東病院か……」
折原刑事はつぶやいた。
「病院の看護婦とはねえ……」
そうつぶやいたとき、不思議なことに、折原刑事は、また、あの小説「勝海舟の殺人」を思い浮かべたのだった。
2
医療法人、横浜東病院は、中区|三吉《みよし》町の東橋に近い堀川《ほりかわ》べりにある。RCの五階建てで、比較的新しい建築物だった。
通りに面した病院のビルに並んで、ちょっとひっこんだかっこうの看護婦宿舎ができていた。それはいかにも、二階建ての小さな古めかしい宿舎であった。
折原刑事は大沢部長刑事と一緒に、横浜東病院へ、浅倉千加子を訪ねていった。千加子の所属するのは外科である。
受付の窓口で、面会したい旨を伝えると、受付係がすぐ、外科の外来に電話してくれた。
「今、まいります」
そう言うので、捜査官二人は、病院の廊下に立って、千加子の現れるのを待った。
五分たった。
その間、折原刑事は、大勢の患者がたむろしている投薬口を、所在なくながめていた。大病院は、診察にも長時間待たされるが、薬をもらうのも一仕事である。しかし、患者は治りたい一心で、あきらめ顔で薬の調剤を待っている。
病院へ来ると、はじめて、〈世の中には、こんなにも病人がいるのか〉と気がつくものだ。折原刑事の心境がそうだった。みんながみんな、青白い顔をしているわけではない。中には、見るからに健康そうな若い娘もいる。けれども、ひとには見えない、ひとには言えないようなどこかが、きっと具合が悪いのだ。そう思うと、刑事は複雑な気持ちになった。
「……来た」
大沢部長刑事が階段の方を見て、そっと折原刑事に合図した。
刑事は見た。背のすらっとした白衣の看護婦が、足早に近づいてくる。細面ではあるが、二重まぶたのかわいらしい女だ。ジローによく似た美人である。胸の豊かなふくらみが目立った。
「浅倉さんですか。県警の大沢と言います」
部長刑事がまずあいさつした。その看護婦が浅倉千加子なのは、胸のネームプレートで分かった。
「あの……何か?」
「ええ、少しお伺いしたいことがあるんですが」
「長くなりますかしら?」
千加子は、はきはきとものを言った。
「そうですね……勤務中でご迷惑でしょうが、ひとつ……」
「構いませんわ。長くなるようでしたら、裏の宿舎の集会場で伺いますわ」
「そうですか」
部長刑事は目で合図をし、千加子の後に従った。折原刑事はそれに続いた。千加子は頭の良い、勝ち気な女性のように見えた。看護婦によくあるタイプである。
「……弟のことでしょうか?」
裏庭へ出たとき、千加子は大沢にきいた。
「弟……?」
「次郎のことではないんですの?」
「ああ……いや、違います。実は、水野昇さんのことですよ。ご存知でしょう、先日、亡くなった……」
「はい」
と、千加子は素直に言った。
裏庭には、小さな池があった。池の面に、サルスベリが黒い影を落としていた。
二階建ての宿舎の一階に、会議室のような集会場ができている。千加子はそこへ二人を通すと、自分で炊事場から茶器を運んできた。
「構わんで下さい。じきに失礼します」
大沢は大仰に辞退した。
「空茶ですけど」
「浅倉さん。お忙しいでしょうから、用件にはいりますが、あなたと水野さんのおつきあいは、相当、長いんですか?」
千加子は座ると、白衣のひざに両手をそろえ、じっとうつむいた。
「弟さんの話だと、最近、水野さんとの仲がうまくなかったようですね。その辺の事情を、差しつかえなければお話しいただけませんか」
「刑事さん……水野さんは事故でお亡くなりになったのでしょう?」
「ええ、まあ」
と、大沢部長刑事は軽くいなした。
「それより、水野さんとはどうだったんです? 弟さんの言うのは本当ですか?」
「次郎が申したのなら、仕方がありませんわ。確かにおつき合いしましたけれど、最近ではあきらめておりましたの」
「ごく最近では? あそこのアパートへ行きませんでしたか?」
「亡くなった日には……ただ、たまたま、前の日におじゃましたのは事実ですわ。それは、あのひとが『お互いの気持ちをはっきりさせるために話し合おう』と申しましたので」
「別れることに決めたわけですね?」
「はい。それほど深い気持ちはお互いにございませんでしたし……この辺が潮時だと思って……」
うつむきながらも、千加子の語調はしっかりしていた。
「でも、水野さんが死んだのには、びっくりなさったでしょう」
「はい。何がなんだか、事情がのみこめませんでしたの……本当に不意に……」
千加子は声をつまらせた。感情が高ぶってきたようだ。
二人の刑事は、相前後して、茶わんを口へ運んだ。興奮した女はどうにも扱いにくいものである。そこで、部長刑事は質問を控えた。折原刑事はこのとき、美しい小鳥のさえずりに気がついた。別の部屋に鳥かごがあるらしい。
「カナリヤかな?」
と、折原刑事が首をかしげた。
「はい。上の部屋にいるんですよ」
小鳥の話になると、千加子は元気をとりもどした。
「丁度、この上あたりが、わたくしのお部屋なんですの。文鳥や、目白や、飼いやすい小鳥が二十羽もいるんですよ」
「ほう。お好きなんですね」
「小鳥はかわいいものですわ。手はかかりますけど」
「以前から?」
「いいえ。もっと若いときは、スポーツをなんでもやりましたわ。ヨットなんかも……でも、今はお仕事も忙しいし……」
「失礼かもしれないが……」
と、大沢部長刑事が口をはさんだ。
「あなたは竹井京子というひとをご存知ですか? 正直に言って下さい」
「承知してますわ。そのために、わたくしは身をひく気になりましたの」
「会ったことは?」
「陰で、ちょっと顔を見た程度ですわ。その話はあまりしたくありませんし……」
「話は違うけど、弟さんはここへ来ますか?」
「いえ。本当にしようのない次郎ですわ。わたくしに会うのは、小遣いが欲しいときだけですもの」
「最後にききますが、あなたは、水野さんを本当に愛していたんですか」
大沢は突然、鋭くきいた。
千加子のほおが、みるみるうちに赤くなり、彼女は口ごもった。一、二分の間を置いてから、
「でも……わたくしはあきらめておりましたから……」
と答えた。
二人の刑事は、互いに口数少なく、病院の正面出口に急いだ。
若い折原刑事にとって、特にショックだったのは、たったの今、千加子の同僚に聞いた事実である。
同僚の看護婦は、千加子と水野の関係を、面白く思っていなかったらしく、敵意ある口調でしゃべった。話の大半は、陰口めいたことだが、中でひとつ、ぎくっとするような事実があった。
「浅倉さんは去年の暮れ、乳ガンの手術を受けたんです。片方の乳ぶさはないんですよ……」
白衣の上から、かっこうのいい胸のふくらみを見てきた折原刑事は、それがパッドとは思いもよらなかったのだ。
それで、水野との不仲が説明できるような気がした。
折原はゆううつだった。
男女の愛をひき裂くものが、案外、散文的な原因にあることを再確認した気持ちになった。彼は大沢を追い抜き、回転ドアを駆けこむように通り過ぎた。
外は再び小雨にぬれていた。
「車が拾えるかな?」
部長刑事が太い声で呼びかけた。が、返事はなかった。
折原刑事は正面玄関から左側のポーチへ歩き、そこで立ち止まったまま、化石のようになっている。
「折原君。どうした?」
大沢は、折原が気分でも悪くなったのかと心配した。折原はポーチの縁石に乗り、少し低くなった場所へ、視線を落としていた。
「何かあるのか?」
「ボースン」
折原は、神奈川県警独特の呼び方で、部長刑事に言った。
「ボースン、これを見て下さい」
「え?」
大沢は駆け寄った。小雨が降りかかって、彼のほおをぬらした。大沢はハンカチで顔をふきふき、部下の指さすところを見た。
ポーチのわきには、大理石で型どられた大型の花時計が、ゆっくり、時を刻んでいた。
「花時計じゃないか」
と、部長刑事は拍子抜けして言った。
「サルビアの花が鮮やかだな」
「大沢さん。何か気がつきませんか?」
「気がつくって、何を?」
「この花時計を見て」
「………」
「大病院に花時計があるのは、ここだけじゃありませんか? 横浜市内でほかにありますかね?」
「知らないなあ」
「市立大学の病院にも、花時計はなかったはずですよ」
折原刑事は興奮した面持ちでしゃべった。
「ない。あそこはおれも知っている」
「そうすると、この病院しかないわけですよ。ところが、例の小説の中に出てくる大学病院の入り口には、大きな花時計があることになっていたでしょう……」
「そうだったか?」
大沢部長刑事はやっと、折原の意図がのみこめた。
「すっかり忘れていたよ。それとこれとが、結びつくわけか……」
「多分……」
と、折原刑事は腕を組んだ。彼は花時計に関係して、別の事実に気づいたのだ。それをどうしても確認したくなって、大沢に言った。
「ちょっと待っていていただけますか? もう一度、病院の中を見てきたいんです」
「いいよ、それは。一体、何を見るんだ?」
それには構わず、折原刑事は駆け出していた。
正面玄関に飛びこむと、折原刑事は電気仕掛けの掲示板を見た。
一階──外来受付、薬剤室、事務室……
中二階──ロビー、電話室、整形外科……
二階──内科受付、レントゲン室、病室
掲示板の文字を、彼は食い入るように見た。五階建ての病院内配置をひと通り見終えてから、裏手へ回った。
そこには、中二階へ続く階段があり、裏側の受付案内所が設けてあった。
彼は深くうなずくと、階段をひと息に三階まで駆けのぼった。
三階は診察室と病室が半々、四階以上が病室になっている。
彼は三階の特別病室の前に立った。そして、すぐ手近なドアをノックすると同時に、ドアを押しあけた。
中から、付き添いらしい五十がらみの品のいい婦人が顔を見せた。
「小谷野さんの病室はこちらですか?」
刑事はデタラメを言った。
「いいえ。ここは池田でございますよ」
「あ、そうでしたか。失礼しました」
刑事はドアを閉めた。しかし、その短い時間を使って、折原刑事は病室内の模様を観察してしまった。
入り口の右側に、こぢんまりした炊事場ができていた。その奥には、見舞い客用に三点セットをおいた部屋があり、全体のムードはデラックスだった。
〈そうか。これだ!〉
見た瞬間、折原刑事は快哉《かいさい》を叫んだのだ。
彼は廊下を走った。階段を二段ずつおりた。一階に来て、大沢部長刑事を目で捜した。大沢は玄関の中で、病院内の配置図を見ている。
「大沢さん、分かりましたよ」
と、折原は言った。
「分かった?」
「ええ。この病院ですよ、あの『勝海舟の殺人』という小説に出てくる大学病院のモデルは。花時計もここのを使ったんだし、特別病室の描写も、そっくりここと同じなんです。今、病室をのぞいてみたら、あの小説の中の人物みたいな気がしましたよ。中二階のこともありましたし……」
「そう……それは不思議じゃないだろう? 水野は浅倉千加子と関係があったんだから、ここに来ただろうし、もしかすると、病室の配置なんかは、千加子に教えてもらったような気がする」
「その通りですね」
折原刑事は自分の発見に満足していた。
「ぼくはますます、『勝海舟の殺人』が気になってきました。今夜はもう一度、あれを研究してみますよ」
「君には向いているよ。どっちにしても、千加子から何かが出なければ、水野の件は警部の言った通りに、ジ・エンドにするほかはないんだ。やるだけやったらいいさ」
「やります。実はね、大沢さん、ぼくはたったの今、とんでもない空想にとりつかれてしまいました」
「空想?」
「ええ。本当の空想です。でも、これに根がつき葉がつけば、どんな実りを結ぶか、ぼくにも想像できません……」
折原刑事は言い終えると、ぎゅっとくちびるをかんだ。
病院の外には、相変わらず、細い糸のような雨が降っている……。
第六章 真 相
1
九月十三日は金曜日だった。十三日の金曜日でも、無神論者の折原刑事には、別に不吉な日ではない。それどころか、十三日の明け方、彼はとうとう、「勝海舟の殺人」の分析を終えて、ひとつの結論に到達していた。
まったく、一編の小説を、これほど読んだことは、彼の経験にはなかった。これからもありはしないだろう。刑事仲間でも有数の本の虫だが、小説の文章を分析するのは初めてだった。
が、彼はそれをやったのだ。ほとんど、徹夜の作業になった。まず、もう一度、全編を読み直す。問題点を書き出す。書き出したものを、分類整理する。整理したものを意味づけして分析する。しんどい仕事ではあったが、彼には目標が与えられていた。
つまり──「勝海舟の殺人」と千加子の関係を明白にすること──これがある限り、仕事の混乱は考えられなかった。
まず、全編を読み直した印象は、
──病気の話、病人、医者の話、そして病院の記事が多い──
という、決定的なストーリーの構成が目につく。看護婦である千加子の知恵を彷彿《ほうふつ》させる個所ばかりだ。
奥さんに関するネフローゼの記事。登場人物に長谷川|五十二《いそじ》医師を置いたのも、発想者の職業を想像させる点である。
けれども、折原刑事が最も重要視したのは、病院関係の記事ではない。それは、ごく些細《ささい》な文中の会話だった。
小説全体が、一字一句、抜きさしならない文章で埋められていながら、その部分だけが冗漫なのだ。いや、冗漫というより、ストーリーに無関係な不要部分になっている。そこに折原刑事は目を止めた。
その部分を彼は幾度となく読んでみた。第四章百日紅の花の冒頭の文章である。そこは、先生《ヽヽ》と私《ヽ》が屋敷の庭にある池のそばで、歓談するシーンだった。
──「君もここへ来て鯉《こい》を見ないか」
「はい」
私は先生のそばに近寄った。
「君は小鳥と魚と、どちらが好きだね?」
「そうですね、飼ったことがありませんから」
「飼ってみなさい。面白いものだよ。魚だって、こうして飼い主のところに集まってくる。いわんや、小鳥は比べものにならないんだ。なぜって、文鳥や目白のようなつまらない小鳥にしても、卵を生み、それを育てる姿が、実によく分かる。魚にはそうしたところが分からないだろう……」
「そうですか」
「つまり、本能的な愛情の美しさがある。ある意味では人間より信用がおける……」
さらっと読んだのでは、単なる師弟の会話に過ぎないように見えるけれど、折原刑事は見のがさなかった。浅倉千加子は、カナリヤや文鳥、目白などを二十羽も飼っているのだ。千加子は小鳥が好きな女なのだ。水野昇にはそうした趣味はなさそうである。そうだとすれば、水野は千加子から小鳥の話を聞いて、ここへ書きこんだものだろうか?
〈違う!〉
折原刑事は心の中で思った。
ひとから聞いたくらいの話を、ここで使う必然性はないのだ。先生《ヽヽ》は鯉に麩《ふ》を投げている設定だし、同じ表現を鯉にかこつけてもできる。小鳥の話はいかにも唐突だった。
〈書いた人間が、小鳥を好きでたまらないのだ……〉
彼はこの結論に達したとき、内心にわきおこる強いスリルを押さえきれなかった。
その結論は、反射的に、もうひとつの大きな疑惑を解くカギになるのだ。
折原刑事が、伊勢佐木町の金芳堂で確かめたように、ピンクの文字盤と針をもつ目覚まし時計は、女性用のグッドデザインである。そのほかのタイプに、ピンクの夜光塗料を塗ったものは市販されていない。
小説の中の私《ヽ》は、夜中にまくらもとのピンクの針を見たことになっている。そこで、折原刑事は、水野昇がどこかで、このピンクの針を見た経験にもとづいて書きあげたと推理してみた。そのどこかは、竹井京子の部屋か、浅倉千加子の寮だと考えられる。
しかし、小説の作者が女性だとすれば、この疑惑は容易に解けてしまう。
〈『勝海舟の殺人』の真の作者が、浅倉千加子だとしたら?〉
千加子自身が書けば、まくらもとの時計の針がピンクなのは当然になる。私形式で書いたために、そこだけ不用意な表現が、つい、出てしまったのだろう。
〈浅倉千加子が書いた……〉
そう思うそばから、
〈待てよ。全体の筆使いは、どうも男の文章だぞ。それに、私《ヽ》という人物が痣《じ》の悪いことを書いてあるのも、丁度、水野に一致してくる……〉
などと、反証が心配だった。
彼は自問自答した。
〈とにかく、原稿の文字は、水野昇自身のものだ。水野が書いたことは間違いないぞ〉
〈千加子は下書きをしたんじゃないか? 水野はそれを基にして、自分で書き直したかもしれない〉
〈現場に下書きはなかったようだ〉
〈千加子に返したとしたら?〉
〈別れる寸前に、小説を書いてやるだろうか?〉
〈女の気持ちは分からない。女の方は別れる気持ちがあったかどうか?〉
それらの疑問のすべてに、折原刑事が答えられはしなかった。が、千加子が「勝海舟の殺人」にひと役買ったことは、疑う余地がないような気がした。
小鳥のこと、文字盤のこと、そればかりではないのだ。
数えあげればきりがない。
横浜東病院の正面わきにあった花時計、あれは確かに小説に使われた花時計に違いない、折原は思った。
調べた限りでは、横浜市内はおろか、神奈川県下でも、花時計のある病院はほかになかった。それから、推理の糸口はほかにもある。小説の文章はこうなっている。
──病院の周囲には人影がない。大きな花時計が、闇《やみ》の中で時間を刻んでいた。文字盤を作っている菊の白さが、夜目にしみる──
花時計は昼の飾り物である。だから、文字盤全体が花で作られている花時計は、夜には不向きだし、第一、病院へ夜来る人は、花時計の存在すら気づかないだろう。菊の白さが、夜目にしみる、などと書いたのは、千加子が日ごろ、夜の花時計を見るチャンスに恵まれていた証拠だ。少なくとも、水野の書きそうなことではない。
折原刑事は、洋罫紙《ようけいし》の上に、特別病室の描写の件と、中二階のある病院の描写の部分を書き出した。いずれも、千加子の筆を想像させる所だ。
けれども、浅倉千加子が、この小説の真の作者である大きな証拠は、作者の視点──つまり、見ている位置の一致にある、と折原刑事は気がついた。
作中人物の「私」は、「先生」の屋敷の二階にこもってむさぼるように海舟の文章を読んだ≠アとになっている。
その辺の描写によると、
──開け放った窓外には、新緑に色づいた庭と池が見おろせる。池の縁に一本の百日紅の巨木があり、その向こうに離れの入り口が覘《のぞ》けた──
となっている。いつも、「私」は二階から、池と百日紅の木を見おろして、仕事を進めているのだ。
ところが、水野が住むヨコハマ・ドウエルからは、池など見えずに、ネオンや、屋台や、ビルの屋上しかながめられない状態だ。
一方、千加子は、小説の風景にぴったりの生活をしている。
彼女は木造建築の二階に住み、宿舎の窓から中庭を見おろす毎日の生活が続く。中庭には、サルスベリの木があった。小説の中で、百日紅と書いてあるのは、サルスベリのことだから、彼女の見ている風景と、「私」の見ていた風景はぴったり一致する。病院の中庭には、小さな池もあった。
こうまで視点が一致するのは、千加子が|それ《ヽヽ》を書いたからだと断定できる立派な証拠ではないのか。
十三日の明け方に、折原刑事はそう確信した。
多少、水野が手を入れたにせよ、これだけの長い小説を書いた千加子は、相当の才能の持ち主に違いなかった。
佐々木文吾の批判するように、水野に才能がないとしたならば、ほとんど千加子のおかげで、応募原稿がまとまったものと考えていいわけだ。
不意に、千加子の存在がクローズアップされた感じだった。
〈でも、なぜ、あの女はあっさり、水野と別れることを承知したんだろう?〉
次の疑問がこれだった。
2
四角い大型の鳥かごが三つ、畳の上に並んでいる。一番手前のかごには、シジュウカラが二羽いた。カナリヤを入れた円型のかごだけは、窓際にさげてある。
シジュウカラとカナリヤが交互に、美しい声で鳴き合っていた。
折原刑事は、千加子の部屋に案内されたとき、一種独特の臭気を感じた。おそらくは、鳥の糞《ふん》と餌《えさ》の発するにおいが混じり合ったものだろう。
千加子は先日同様に、白衣に身を包んだ姿で、折原に煎茶《せんちや》をすすめた。ちょこのような小さな茶わんを前にして、若い刑事はどきまぎしていた。彼はまだ、一度も正式の煎茶を点じられた経験がなかった。
「ご自由にお飲みになって構いませんのよ」
千加子は、納豆菓子を菓子器のまま勧めながら言った。
「どうも不調法で」
と、刑事は頭に手をやった。
「抹茶《まつちや》の方は、二、三度いただいたことがあるんですが……」
「いえ、この方が自由で、お気軽にしてよろしいんですの」
刑事は茶わんを口に当てた。ごく少量のぬるい玉露だった。千加子は二杯目の用意にかかった。それが作法になっていた。
その間に、折原刑事は、部屋の全体を観察した。
質素な中にも、女らしいほのかな色気が漂っていた。白い三面鏡の右そでに、グッドデザインの目覚ましがあった。
〈あれだ〉
と、彼は思った。
洋ダンスに並んで、グリーンの紗《さ》に覆われた書箱が目についた。K社刊の世界文学全集と歴史物の数冊が、紗のすきまにのぞけた。
「小説はお好きなんでしょう?」
刑事は口火を切った。
「好きですわ。文学の話がもとで、水野さんとおつき合いを始めたくらいですの」
「浅倉さん。今日、ぼくが来たのは、本当のことを教えていただきたいからです。水野さんの応募原稿のこと……覚えているでしょう。あれは、あなたがお書きになって、それに水野さんが手を入れたんじゃありませんか?」
千加子は視線を、菓子器の上に落とした。
「『勝海舟の殺人』……よく書けていました。実は、ぼくは推理小説が好きなので、五、六回も読みました。いや、五、六回読んだのは、好きだったばかりじゃなしに、あの原稿の中に、いろいろぼくの興味をひく事実があったからですよ。例えば、勝海舟の話……あれなんかは、あれだけでも大長編が書ける材料ですね。西郷|隆盛《たかもり》の仕組んだ芝居で、勝海舟をとりかえる……もし、この背景に、リンカーンでも配置すれば、世界的な歴史事件小説になったはずです……どうですか、浅倉さん、あなたがお書きになったんでしょう?」
「どうして、それをお知りになりたいのかしら?」
「知りたい理由は、ぼくの推理が正しいことを確認するだけです。ぼくはこんな風に考えたんですよ……」
折原刑事は、相手の態度が優しいので、自信を持った。彼は、「小鳥の話」に始まって、「目覚まし時計」「花時計」「百日紅」「特別病室」などの相似点や関連を、こと細かに話して聞かせた。自信があったから、話がスムーズに口から出た。千加子は、その間、ひと言もしゃべらなかった。
「……少なくても、あなたはあれだけの作品を、水野さんに書いてあげたのだから、むしろ、誇ってもいいんじゃないですか? それとも、隠しておく必要があるんですか?」
「分かりましたわ」
折原刑事の話が一段落したとき、すかさず千加子はうなずいた。
「それだけお分かりになっているなら、お教えしますけど……あの小説の下書きは、たしかにわたくしが書きましたの。
こんなこと、世間に知らせたくないと思ってましたけど、あの人が死ねば、あの小説も永久に日の目を見ないのでしょうから、構わないわけですわね」
「やっぱりね」
と、刑事はうれしそうに笑った。白い前歯に、子供っぽい明るさがあった。
「わたくし、書くことが好きなんですの。発表するチャンスもありませんし……あてもないのに勝手に……もう随分、書きましたわ。あの小説のもとは、わたくしが今年になって書いたのを見せたら、『これをタネにして使っていいか?』と言うので渡したんです」
「それと、あの清書したのと、どのくらい改まっているんですか?」
「それは存じませんの。出来あがってから見せていただきませんから」
「そんな……」
と、刑事は職業意識を離れて気色ばんだ。
「当然、あなたに読ませるべきだ」
「あの人はそういう人でした。わたくしは性分を知っていますから……あの人はやりたいようにやればいいんです」
「でも、それじゃ、あなたを踏み台に成功しようと考えている……つまり、エゴイストだ」
「それでもいいと思いますわ、愛されてさえいれば」
急に、引き締まった口調で千加子は言った。若い刑事はしかりつけられた感じがした。千加子の両のこぶしが、白衣の上で震えている。
折原刑事は二の句が継げなかった。彼は無意識に、煎茶を口へ運んだ。
〈愛されてさえいれば〉
どれだけの女性が、この言葉のために泣き、耐え忍んできたことだろう。
しかしまた、どれだけの男性が、この言葉を逆用して、エゴを押し通したかも分からない。
〈愛されてさえいれば〉
そう思って、女は自分の首を絞めあげているんだ、と折原刑事は考えた。
〈この女も、結局、報いられないで終わったのだな〉
「わたくしは、あの人がとても好きなんです。だから、あの小説も渡したのです。もちろん、あれが世の中に出ても、わたくしは無関係でいてよかったんですものね」
千加子は言葉を改めて続けた。
「それに、あの話の中心になっている勝海舟のことは、あの人が自分で材料を捜してきたんですし、あの人が考えたところもあったんですよ」
「そうでしょう、それは当然じゃないですか」
刑事は少し腹立たしかった。
「こんなきれいなお話をしてますけど、わたくしもよくないんですわ」
「なぜです?」
「わたくしは、あの人が成功して、少しでも早く世の中へ出る……そればかりを夢に見ていたような気がするんです」
「そうですか」
「あれを書いて、当選させて、つまり、出世させたかったのですもの」
「当たり前ですよ、それは」
と、折原刑事は先刻と立場を変えて、千加子に言った。
「小説の中で、先生《ヽヽ》が『現代でも、夫があるから妻がある。この関係は変わってやしない』というくだり、あれはあなたが書いたんでしょう……」
「はい」
「でもね、浅倉さん、これは余計なことだけど、『夫があるから妻がある』し、『妻があるから夫がある』この関係は同じだと思うんですよ。あなたは考え過ぎる……」
「さあ……どうでしょうか」
「ま、しかし、水野さんは死んだ。過ぎた話は意味がないからやめましょう。ところで、あなたは水野さんがどうして溺死《できし》したんだか想像がつきませんか、看護婦として」
千加子は首を横に振った。
「一応、事故死になってるんですが……人間の体というものは、複雑にできているらしくて、医者にもはっきりしないんですね」
「生き物はそうですわ」
「え……」
「昨日、文鳥の雄が急に死にましたの。理由は分かりませんのよ。そうしたら、今朝、つがいの雌がまた死にました。餌《え》にも気をつけているんですのに」
「鳥は死にやすいんでしょ?」
「ええ。でも、続けて死ぬことはありませんでしたわ」
「寿命かな?」
笑いながら言った後、折原刑事は腰をあげた。
「長いことおじゃましました。そのうちに、鳥の飼い方をおそわりに来ますよ。よろしいですか?」
第七章 嫌 疑
1
折原刑事は、千加子の部屋で失敬してきた小さな茶わんを、鑑識に回しておいた。彼が千加子のもとを訪れた理由のひとつは、彼女の指紋採取にあったのだ。
三時間後に、彼は鑑識に呼ばれて、その結果を聞くことができた。
彼はそれを持って、大沢部長刑事の出張先である伊勢佐木警察署へ飛んでいった。
中山刑事が彼を見かけてあいさつした。中山は、水野の死体が発見された直後、他殺の疑いがあることを主張した当人である。
「デカ沢さんだろう? いるよ」
と、中山刑事は二階を指さした。署は三階建てである。大沢のことをデカ沢と言うのは、小沢部長刑事が本部にいるので、デカ沢、チビ沢という一種のニックネームなのだ。
「ヨコハマ・ドウエルの件、だいぶにおってきたんだ」
それだけ言うと、折原はものすごい勢いで階段を駆けあがった。本部発表の後、折原刑事一人が孤軍奮闘して、殺しの線を追っている声は、署の方まで聞こえていた。
「大沢さん、煮つまってきましたよ……」
顔を見るなり、折原刑事は言った。
「何かネタをつかんだらしいな。まあ、聞かせてくれ」
二人はテーブルをはさんで座り直した。
「例の小説、あれは浅倉千加子が、大部分、書いたもんです。本人もはっきりしゃべってくれました」
「えらいことをしたな。責めたのか」
大沢はタバコに火をつけた。
「推理の結果ですよ。あの小説が千加子のものだとすれば、彼女は相当、水野に夢中だったことになるでしょう」
「そこへ第二の女か……なるほど、かっこうはついてきた」
「しかも、千加子は女として、乳ぶさを失う痛手を受けている。動機は充分すぎるわけですが……」
「殺人《ころし》の方法か?」
「ええ。それもありますが、もうちょっと、わきから攻めてみますと……水野の部屋で発見された正体不明の指紋、あれは千加子のものでした。さっき、鑑識ではっきりしました」
「そうかい。でも、それだけじゃだめだぞ。千加子は初めから、あの部屋にはいったことを認めているんだ」
「そうなんですよ」
折原は固い表情をした。
「ぼくは、あの女が看護婦だから、何かうまい殺しの方法を考えたに違いないとにらみますね。どこから崩したらいいものか……指紋はあるけど、大沢さんの言う通り、証拠にはならないし」
「折角、君がそこまで苦労したんだから、あくまでやれよ。君は空想だと言ってたが、あの小説が千加子のものだと見破れたのだから、もう空想とばかりは言えないぞ」
「大沢さん。ぼくは徹底的に見込み捜査に踏み切ろうと覚悟をしました。いいですか?」
「千加子にしぼるんだろう?」
「はい。最後は医者の協力を得る必要があると思いますが」
「うむ」
部長刑事は窓の方をちらっと見て、次にタバコで灰ざらをたたいた。それから腕を組み、首をかしげた。
「ひとつ、とにもかくにも、はっきりしとく必要のあるのは……ほら、あのすしだ。稲荷《いなり》ずしを持ってきたのが、千加子なのかどうか……これは寄宿舎の賄いに当たれば分かると思うね」
「そうでした」
と、折原は答えた。
「すぐに調べます」
「当日、千加子がすしを持って、ヨコハマ・ドウエルに来たものなら、彼女が計画的に殺した線が強い。そこまでやってくれれば、おれは藤木《ふじき》のじいさんに頼んで、もう少し、医学的なツメをやってもらうよ。あのじいさんには借りばかりできるな」
部長刑事が笑ったのは、碁の話にかけて言ったものである。
「しかし、乗りかかった船とは言いながら、こんなにやっかいな事件は初めてですよ。小説を読んだり、この分だと、医学書まで読まされそうだ……」
二人の捜査官はおかしそうに笑った。
2
天候はぐずつき気味だった。十四日の朝、小笠原《おがさわら》諸島|硫黄島《いおうじま》の南西約千キロの海上に、台風15号が発生したという。
秋晴れは望めそうもなかった。蒸し暑い日中だなと思うと、夕方から気温が急にさがる。体のコンディションはとても悪い。折原刑事はそれにもめげず、帰宅すると「勝海舟の殺人」に首っぴきでメモを取り続けた。
彼の考えはこうだった。
浅倉千加子が内縁の夫を殺したと仮定する。その千加子の書いたこの小説は、夫が妻を殺す話になっている。性別こそ逆だが、それを心得て、よく読めば、犯人の心情がこの小説に盛り込まれていはしまいか、というのである。
折原刑事は、小説の中から、犯人の性格や動機を示すフレーズを書き出しては、これに注釈を添えてみた。
例えば、こんな風に──
──それほど、先生の愛は、異常なまでに激しかった。
(これは千加子が、どれほど強く水野昇を愛していたか物語るものだ。本人も、異常であることを認める。が、表面はそれを隠している)
──「今年いっぱいもつかどうか。弟から聞いたよ。肝臓に転移したらしい。覚悟はしている」
「先生、何をおっしゃるんです!」
私は先生の言葉をかき消すようにわめいた。が、先生は静かに微笑を浮かべただけだった。
(この気持ちは、乳ガンの手術をした千加子自身の体験に違いない。彼女はきっと、乳ガンが肺ガンに転移するのをおそれていたはずだ。そこで、例の計画を立てたとき、静かな微笑を浮かべたことだろう)
──「鳥や魚には、幸福という感情はないものでしょうか?」
「あるものか。君、幸福とか、幸福でないとかいう考えで、人生の尺度としてはいけないよ。それは感情だけの問題だ。人間にとって大切なのは、約束を守ること、この一事だけなんだ」
「約束を?」
「そうさ。西洋では契約と言うだろう。そこに人間の信義がある。約束を守れない人間は生きる価値がない」
私は先生が、何を言おうとしているのか、よく分からなかった。
(千加子が、この一節で言おうとしていることは、よく分かるではないか。彼女は水野昇と結婚の約束をしたに違いない。その約束を守るべきだと、ここに書きこんでおいたわけだ。水野は平然とそれを破ったが)
──「まさか、自殺なさったわけではないでしょうに……」
「自殺? 誰《だれ》が言った?」
「いえ。あまり不思議なので、想像しただけですが」
「自殺じゃない。殺されたんだ」
先生はきっぱり断言した。
(恐ろしい想像だが、千加子はかなり前から、他殺と見えない方法で、人を殺す手段を考えていたのではあるまいか。奥さんが先生に殺されたように、水野は千加子が殺したとしか考えられない。しかし、どうやってだ? どうやって溺死《できし》させたのか?)
──すべて助左衛門《すけざえもん》の命令どおり。妻を送り出す前、いつものとおり彼が、妻に三里の灸《きゆう》をすえてやる──慈《いとお》しい者を残さぬ心。単なる愛とは違う。ツマの宿命。
(この助左衛門日記のメモは、『勝海舟の殺人』の根本的テーマを示す部分だ。そうすると、ここになぞを解くカギがありはしないか。すべて助左衛門の命令どおり……先生は、奥さんに命じて、完全犯罪の準備をさせている。この考えから推せば、千加子もまた、水野に命じて、殺す用意をしたことになる。妻に三里の灸をすえてやる……この代わりに、千加子は水野に何かしたのだ。それから、このツマの宿命という表現。これは水野の文章じゃないだろう。千加子がわざと、ツマと仮名で書いた裏には、夫をツマと読ませる古い言葉を意識したに違いない。水野は内縁の夫《ツマ》だ。
折原刑事は、古文書をひもとく学者のように、「勝海舟の殺人」を詳細に検討していった。調べるに従って、この小説の中に、水野殺しのすべての秘密が隠されているような気がしてきた。
3
午後十時だというのに、裏の家から電話の呼び出しがあった。「勝海舟の殺人」を読みつづけていた折原刑事は、下駄《げた》をつっかけて出た。電話の主は、大沢部長刑事だった。
「おい、喜べ」
と、のっけから大沢が言った。
「うれしいしらせですか?」
「そうさ。千加子はやはり、あの日、ヨコハマ・ドウエルに行ったんだ」
大沢の声は弾んでいる。
「しゃべりましたか?」
「しゃべった。たったの今、報告を受けたよ」
「すると……」
「うん。すしの件、あれは千加子が持参したものでね。宿舎で目撃者が出たから、千加子も隠し切れないわけさ」
「それだけですか?」
折原刑事は半ば落胆した。千加子が現場に行ったことは、百パーセント当然の事実だからだ。
「それだけだ」
「水野の死との時間的な関係は?」
「水野は午後九時の死亡だが、千加子は夕刻から八時ごろまでいたと言っている。事実、手もとの情報では、午後九時少し前に、千加子が宿舎の浴室にいたのを、同僚の看護婦が見ているんだな」
「間違いありませんか」
「九分九厘はね。君もがっかりしたろうが、時間的に割り出すと、千加子は水野が溺死する数十分前に、横浜東病院へ舞いもどった計算だよ」
気の毒そうな部長刑事の口調である。
「大沢さん。犯人は千加子ですよ。何かやっています。徹底的に調べて下さい」
「分かっているよ。藤木のじいさんにも当たってみる」
「とくに、三十分ぐらいしてから効き目のでる薬で、痕跡《こんせき》の残らないものを調べる必要がありますよ」
折原は頭にひらめいた言葉を口にした。
「おれも、そういう便利なクスリを考えていた」
「今、丁度、例の小説を読み返しているところです。印象はますますクロですね」
「ハハハ。ご苦労だな。そのうちに、小説を暗唱できるようになるだろうな」
「冗談じゃないんです。あれは暗唱するだけの価値がありますよ」
折原刑事は、自分だけがあの小説の価値を理解しているんだ、と少し寂しい気がした。
「じゃ、その報告だけしておくよ。これは呼び出し電話だろう。悪かったな」
一方的に電話が切れかかった。
「あ、ちょっと」
折原刑事はあわてて言った。何かしゃべろうとした。が、とっさにうまい言葉がない。
「なに?」
「あの……浅倉千加子の態度はどうですか? 変化ありませんか?」
「それは変わった。落ち着きはなくなったようだ。特に、すしの一件を吐いてからは、様子が変わっている」
「充分、気をつける必要がありますよ」
「どういう意味で?」
「ぼくにもよく分かりませんけど。非常に頭のいい女性ですから」
「おい、君がほれたってわけじゃなかろう?」
「まさか」
「そうだ。変わったといえば、このところ、彼女の飼っている小鳥が、毎日のように、一羽二羽と死んでいくらしい。それをこぼしていた」
「小鳥が死ぬ……ああ、そうですか。理由は分からんようですね」
「病気なのかな。君と一緒にいったとき、きれいな声で鳴いとったカナリアね」
「はい」
「あれもダメになったようだぞ」
「小鳥は非常に敏感ですからね。なにかありそうだな」
「餌《え》でも悪いのかもしれない」
「いや、そうじゃないでしょう。飼い主が精神的に動揺していて、やったと思った餌を忘れてしまえば、すぐ参っちまうはずですよ。さもなければ……」
不意に、折原刑事は、ぞくっと背筋が寒くなった。
「もしもし……」
部長刑事が声を張りあげた。
「はいはい」
「どうした?」
「いや、ちょっぴり気になる文句を思い出しました」
「なんだ、また小説か……」
「ええ」
「あまり凝り過ぎるなよ。小説は結局、小説にすぎないからな。まさか、小説を根拠にして、送検もできないから……じゃ、これで……お休み」
「お休みなさい」
受話器をかける金属製の音がした。折原刑事はわれにかえったように、電話機の黒光りするツヤを見詰めた。
〈分かった。水野は千加子の書いたものを、ほとんど手を入れずに小説にしたのだ。ひきょうな男だ。それでも……〉
彼の頭では、短い文句が呪文《じゆもん》のように、繰り返されていた。
慈《いとお》しい者を残さぬ心……慈しい者を残さぬ心……
第八章 死 の 注 射
1
二陽会三人展は、銀座の藤田《ふじた》画廊で開いていた。
折原刑事は、銀座に出ることがあっても、今まで一度も、画廊と称するものをのぞいた経験がなかった。それで、入り口から内部の様子をうかがったとき、気恥ずかしい感じさえした。
赤いセーターを着込んだ露木は、画廊の中央のソファで、くわえタバコの青年と話し込んでいた。
折原はやむをえず、三人展の会場をゆっくりながめ回した。
露木の絵は、入り口付近にあったので、そのままの位置から見えた。
ほとんどが裸婦であった。しかも、非常に無理なポーズをとったものが多く、それが露木の絵の特徴のようだった。裸婦のどれもが、荒々しいタッチの豊かな黒い陰毛をもっている。
折原刑事はまゆをひそめた。下品だと思った。が、次の瞬間、彼ははっとした。そこに描かれている裸婦の面影が、どこか千加子に似ているのだ。
〈思い過ごしだろう〉
打ち消そうとすればするほど、裸婦は千加子に似てくる。
露木が立ちあがった。話が終わったらしい。目の端でその様子を監視していた折原刑事は、露木に近寄った。
「露木さん」
こっちを見た。
「どなたでしたか?」
絵の愛好家だと勘違いしたらしく、露木は愛想笑いを浮かべた。
「神奈川県警の折原です」
「警察……ああ……」
と、露木は露骨に不快な表情を見せ、長髪を後ろへかきあげた。
「何か?」
「浅倉千加子のこと、ご存知ですか?」
「知っているけど」
「座りましょうか……」
折原は露木を、元のソファに引きもどした。
「浅倉千加子と水野昇の関係ですがね。どうだったんです?」
刑事はてきぱき問いただした。
「どうってこと、なかったな。ありふれた関係じゃないのかな」
「浅倉千加子は水野昇を憎んでいたでしょう?」
「どうしてそう思うんです?」
露木は、はぐらかすように言った。
「そんな気がしただけですよ。あなたに対してはどうでした?」
「あの女は水野に夢中だったから、ほかの男を男とも思わないだろうし、こっちも関心はないから」
「あの絵のモデルは、浅倉千加子じゃないんですか?」
折原は、わざとにわかに話題を変えた。
露木はそっちを見、それから折原刑事の顔を見直した。
「分かる? それが。これは驚いた……」
折原の眼力に驚いたのか、自分の才に感嘆したのか、とにかく急に気安い調子になった。
「なぜ、浅倉千加子が、モデルなんかしているんですか?」
「水野が言い出したからですよ。こっちはどうでもいいんだけど、やつが使わせてやると言うし……あいつ、あの女に飽きていたんだな」
「代わりの女ができたからですか?」
「それもあるだろう」
「冷たい男だなあ」
「やつはそうさ」
と、露木は無感動で言った。
「女は若い方がいいって、よく言ってたしね。おれたちの仲間と酒を飲んだときなんか、やつは大ボラばかり言いやがった……昨日は二十七人目の女の話をしたから、今日は二十八人目の女についてしゃべろう……とかね。ほれた女が悪いんだ」
「女のうらみで死んだとは思いませんか?」
「だれが? 水野? うん、そうかもしれないな。あの女ならやりそうだ」
「なぜ、そう思うんですか?」
「あんたは、一体、おれから何を聞き出すつもりなんだ?」
「いや、これは失礼しました」
折原刑事は頭をさげた。
「二人の関係を教えてもらうだけですよ。気を悪くしないで下さい」
刑事はソファから立ちあがった。画廊を立ち去るとき、千加子をモデルにした絵を、もう一度見返した。
全裸で、心もち股《また》を広げた仰臥位《ぎようがい》は、妙な生々しさがあった。
2
〈千加子が水野を殺した〉
折原刑事は心の中で叫んだ。
〈死体が散瞳《さんどう》していた以上、千加子は何かの薬を水野に与えたのだ〉
確信に近かった。ただ、なぜ、与えた薬物が、死体から検出できないのか、それがとても不思議であった。
こんな事件は、今まで日本になかったような気がした。
〈薬を体内に吸収させる方法は、どんなやり方があるだろう?〉
刑事は乏しい知識で、いろいろと考えを巡らした。考えを整理するために、買ってあった医学の本を開いた。
薬物が体内に吸収されるには、次の四通りの方法がある。
内服、注射、外用、浣腸《かんちよう》。
内服をさらに分類すれば、散薬、水薬、丸薬の区分が考えられる。例えば、「これは胃の薬ですよ」と言って勧めることもできる。水薬の場合なら、こっそり、酒やビールに混入しても目的は果たせる。
けれども、内服には決定的な弱点があるのだ。つまり、どんな薬でも、それが作用して、肉体が死ねば、薬の一部は、胃なり腸なりに残留してしまう。
解剖すれば、必ず、これは発見されることだ。看護婦である千加子が、こんな簡単な原理に気づかないのはおかしい。千加子は、薬を飲ませなかったに違いない。何かほかの方法によったのだ。
注射ではどうか?
注射には、皮下、筋肉、静脈などの区分がある。
皮下注射や、筋肉注射で人を殺すには、相当、毒性の強い薬を使う必要があるだろう。これによったものなら、やはり解剖のときに、毒物が発見されているはずなのだ。
静脈注射は、有効な手段である。折原刑事の知っている犯罪実例では、静脈に空気を注射して殺すのがあった。これならば、一種のショック死だから、体内に毒物は残らないし、死因は心臓マヒか何かと診断されてしまう。
ただし、今回の水野昇の場合には当てはまりそうもない。千加子が犯人の場合、注射と同時に水野は死んだだろうし、水野の死亡推定時刻、午後九時と千加子のアリバイの関係で説明がつかないのだ。
そればかりではない。
注射ならば、どんなことがあっても、水野の膚に、注射の跡が残っていなければならない。が、裁判医が拡大鏡で水野の膚を調べてみても、注射の跡はおろか、ノミの食った跡もなかった。
薬物の外用で殺せるか?
折原刑事は、随分と突飛な場面を想像した。
湿布を繰り返して、徐々に何かのアレルギー作用を起こさせる方法。
あるいは、歯みがき粉に毒を混入するやり方。
どれもこれも面白いが、皮膚に、なんの痕跡《こんせき》も残さずにやり遂げるのは不可能のようであった。
残るのは浣腸《かんちよう》だ。
浣腸殺人の例がなくはない。しかし、腸内にはいった毒物は、どんなに吸収しても、吸収し尽くすことはないのだ。下手をすれば、浣腸と同時に、下痢をおこしてしまう。
ところが、水野は嘔吐《おうと》をしている。症状の点では、内服の線が強い。
分からなかった。分かっているのは、千加子がこのうち、どれかひとつのうまい方法で、警察医の目をごまかしたに違いないことだった。
折原刑事は丸二日間、家庭医学の本を持って歩いた。
その結果、彼なりの結論に達したのだ。つまり、毒物を分からぬように体内へ入れるのは、注射が一番うまい方法なのだ。
注射の跡は、小さな点である。他の方法は、面的な変化が膚に残る。どうしても、注射以外にはない。
〈医者の目をくらますような個所に、注射をしたとしたら、それはどこだろう?〉
刑事は、自分でも頭がおかしくなったように、人体の場所《ヽヽ》を考え続けた。
注射する位置は、普通、だれでも知っているように、腕とか尻《しり》とかが選ばれる。しかし、水野の尻にも腕にも、注射の跡は見当たらなかったのだ。
背や腹への注射もあることはある。この場合には、はっきり注射跡が残る。目立たない部位への注射として、一番ありふれているのが、口腔内《こうこうない》への注射である。これは歯科医へ行けば、だれでも一回や二回、経験するだろう。
〈でも、千加子には、水野の口の中へ注射する理由がない……〉
折原は思い直した。
角度を変えて、水野がなんの必要があって注射を受けるだろうか、と想像してみた。
〈むろん、病気だから、注射を打ってもらうのだ。まして、水野のように、自由業になると、安い金で医者にかかれなくなる。一日一剤十五円の健康保険のない身では、コネを利用して、千加子に注射を頼むことは充分に考えられるだろう〉
問題は、水野がかかった病気の種類だ。ここで、折原刑事は、またしても「勝海舟の殺人」を思い出す。
第四章の2に、「私」の病気が書いてあるではないか。
──おかげで、間もなく、私は持病の痔《じ》に悩まされるようになった。
私の痔は、いわゆる痔核で、肛門《こうもん》の周囲全体に花輪のようにできるのである──
水野を解剖した藤木裁判医の言葉通り、水野は、痔以外に病気を持っていなかった。彼は痔が持病《ヽヽ》だった。
けれども、痔が悪くて、千加子に注射を頼むようなことが、現実に起きるものかどうか。
千加子は、横浜東病院の外科に勤務している。
〈痔は外科が扱うのかな?〉
思いつくと、すぐに折原刑事は、横浜東病院の外科の外来に電話した。
「痔が悪いんですが、おたくには肛門科はないんですか?」
「ありませんよ」
電話に出た看護婦の声は邪慳《じやけん》だった。肛門科のないことが、不名誉であるような、それを照れ隠しするような、そんな返事であった。
「外科では扱っていませんか?」
「やっていますよ」
「そうですか……」
〈なんだ、畜生!〉と思いながら、折原刑事はほっとした。と同時に、水野と千加子の出会いが、やっと納得できたのである。
水野は、痔に悩んで、横浜東病院へ行く。そこの外科には千加子がいた。二人は長い治療期間を通して親しくなる。お互いに、文学に関心のあることが分かって、仲は一層、深まる。
こうした間柄なら、水野が千加子に注射を頼む理由があるわけだ。腹の中では、千加子に見切りをつけていながら、利用できるだけ女を利用しようとする水野の打算が、はっきりとうかがえる行為だ。
痔を治す注射──そんなものがあるだろうか? 刑事の身には、残念ながら知識がない。そこで、再び、医学書と首っぴきの作業が始まった。
だが、苦労は間もなく報いられた。痔核の治療法のひとつとして、薬品を痔核のなかに注射する注射療法のあることが分かったのだ。
痔核に注射する……実にうまい手段ではないか。いかにも、日本的な発想の殺人ではないか。
肛門の内部ならば、容易に注射の跡に気づかれないと千加子は計算したにきまっている。
注射療法の文字にぶつかった後、折原刑事は大沢部長刑事に連絡した。大沢を通じて、藤木博士に精密検査を依頼したのだ。
さいわい、水野昇の患部は、時限的に、冷凍保管してあった。
大沢部長刑事の依頼を受けた藤木博士は、こころよく、このやっかいな仕事をひきうけてくれた。
摘出してある局部を、明るい光線の下で拡大鏡を使って調べるのである。藤木博士はこの作業を小一時間も続けた。
そして、肛門の筋肉付近に、小さな注射の跡を二個所も発見した。男の肛門の周囲には、かなり長い陰部の毛が生えているために、簡単には気づきにくいものである。
藤木博士は、用心深く、注射の跡らしい部分を、皮膚、脂肪層、それから下の筋肉組織まで切り裂いたのだ。こうして、博士は、そこに、注射が原因と思われる小さな炎症を観察した。
これは疑いもなく、水野が死亡の直前、この部位に、注射を受けたことを意味する。だが、依然、注射された薬物は検出できなかった。
藤木博士は、肛門の注射の跡には、すっかり驚いた様子だった。
「どうして、あそこに注射したと分かったんだね? ありゃ、本当に、とんでもないところの征《しちよう》アタリみたいなもんだよ」
電話で博士は言った。
「征ですか……こいつはいいですね。とにかく、注射したことが分かれば、大前進ですよ。早くこいつを片付けて、お手合わせを願いたいもんです」
「あの仏の事件は片付いたと聞いていたのに……」
博士はいぶかしげだった。
「いや、うちに、おそろしく馬力のある男がいて、あれは殺しだと思い込んでいるんですよ」
答えながらも、大沢部長刑事は、折原のネバリにあきれる思いだった。
「君の勝ちだよ」
大沢は、次に、折原刑事へ電話をかけた。
「水野の肛門に二個所、はっきりした注射の跡があるようだ」
「そうですか!」
折原刑事はうれしさを抑えて言った。
「薬物は分かりましたか、それで?」
「残念だけど、それはだめらしい。しかし、注射の跡がある以上、何かを打ったのは間違いない。じいさんも、よく調べてみると言っていた」
「じゃ、もう一息ですね?」
「そうだ。ここまで来たんだから、やってみたらいい。上の方には、おれから適当に言っておくよ」
「ありがとうございます」
まったくうれしかった。孤軍奮闘してきて、やっと前方に一点の灯を見た思いであった。これで、水野が死亡の直前に、千加子によって痔核附近へ注射された事実を、やっと突きとめたことになる。
おそらく、水野が千加子にそれを頼んだか、または、彼が頼むように千加子の方からしむけたに違いない。
折原刑事の頭に、そのときのシーンが浮かぶ。
「さあ、ズボンを脱ぎなさいよ。股《また》を広げて……ひざを立てて……」
千加子は看護婦のもつ特有の職業的な口調で、水野昇に命じたことだろう。昇は言われた通り、服を脱ぎ、全裸になって、局所をさらけ出したはずだ。
昇は、殺されるとは知らない。自分がこの女を利用していると思っている。
だが、このとき、昇は助左衛門の妻≠フように、言いなりになっていたわけである。「勝海舟の殺人」に、千加子が書き、昇が清書した通りの姿が、そこに実現したのだ。
──すべて助左衛門の命令どおり──
昇の方で、千加子の注射を待ち受けたことになる。
殺してくれ、と言わんばかりの愚かな姿である。少なくとも、昇に絶望した千加子は、今こそ永久に、この男を自分のものにしてしまおうと決心したことだろう。
あさはかな姿……全裸になって、股を広げて……折原刑事はそう思った途端、
〈おや、どこかで見たかっこうだな〉
と、ひらめくものがあった。
銀座の藤田画廊だ。
あそこで見た裸婦のポーズそっくりではないか。
全裸で、心もち股を広げた仰臥位《ぎようがい》……なんという皮肉だろう。水野が露木に売った千加子のポーズ。それがそのまま、水野自身の姿になってしまったのだ。
それに気がついたとき、折原刑事は、女の底知れない執念の深さを、ひょいとのぞいたように思った。
千加子は、あるいは意識しなかったかもしれない。けれども、露木の絵を見、今、注射のことを考え合わせると、折原にはそこに、目に見えぬ深い結びつきが感じられるのだ。
3
九月二十日の朝。
大沢部長刑事と折原刑事は、再び、犯罪科学研究所に、藤木裁判医を訪ねた。藤木博士が、解剖の結果に、ひとつの訂正をしたいと申し入れてきたのだ。
これは、あくまで非公式であった。大沢部長刑事が、注射の跡を根拠にして、薬品の使用を証明してくれと、強く頼んでおいたせいだった。
「解剖の判断が違っていたんですか?」
大沢はさっそく遠慮のない口をきいた。
「判断は違ってはいないよ」
藤木博士はさして気を悪くした風もなかった。中学生に追及された大学教授のように、諭すような口調だ。
「部分的には正しい判断でも、見方を変えると、正反対の結論を生むことがあるものだ。わしは面白い外国の例を見つけたよ……」
博士は、英文の医学雑誌を、テーブルの上に広げた。
二人の捜査官には、なんのことやら、専門の単語が理解できなかった。
「前に生化学検査をしたときの話をしたろう……心臓の血糖値の測定のことを?」
と、老博士は言った。
「血糖値が正常だったというやつですか?」
と、大沢部長刑事は反問した。
「そうだよ、覚えているね。そのときには、百ミリリットル中に二百十ミリグラムという正常値よりかなり上回った結果を話したような気がする。その場合には、あの男が、丁度、低血糖症のような症状で死んだことの裏づけができなくなってしまうんだ。ところが、この間、この雑誌を読んでいたら……」
と博士は雑誌の中ほどを、人差し指でぽんぽん弾いた。
「ここに面白い実験報告がでているんだね。これは一九四〇年に、J・L・ハミルトン・パターソンと、E・W・M・ジョンソンの二人が、死人の血糖値測定の実験をした結果だが……こう言うんだよ。つまり、心臓の混合血液の糖の量は、体内の血液全体としての糖の量と、なんにも関係がない、したがって、低血糖かどうかを、心臓の混合血液で測定してもだめだというわけなんだ。これはひとつの見解だな」
「じゃ、この間の結論は……」
と、折原刑事は驚いてきいた。
「常識的には正しいんだが、急激な窒息死や溺死《できし》した人間には通用しないことになるんだ」
藤木裁判医は気の毒そうに言った。
「パターソンやジョンソンは、溺死した非糖尿病患者三十八人について調べているんだが、そうすると、体内のどの部分の血糖値も極端に低いのに、右心室の血糖値だけが異常に高いことが分かったんだ。それは、突然の死に際して、糖の大貯蔵庫である肝臓が、糖の最後の貯蔵分を動員するわけだ。え……よくしたものだね。生きるものの本能的な機能なんだ。そうして、この貯蔵分の糖は、死の瞬間に右心室にたどりつく。循環の停止とともに、糖がそこに、とどまる仕掛けだ。だから、溺死した男の両心室からとり出された混合液が高い血糖値を示したんだろう……」
「そうしますと、水野はやはり、何かを注射されて、低血糖症を起こしたと言えますか?」
折原刑事はたまりかねて、叫ぶようにきいた。
「言えるな、今となっては」
と、裁判医はうなずいた。
「あの症状、あの注射の跡……あれから推して、君の想像通りだろう」
「適当に、発汗して、失神に至る薬を打って、ふろをすすめれば、十中八、九、入浴中におぼれ死ぬ……この時間を計ってやればいいわけですね……なるほど……そこで、先生そういう薬があるんでしょうか?」
じっと医師を見詰める折原刑事の目は、ぎらぎら輝いた。大沢部長刑事も息をのんで、藤木裁判医の次の言葉を待った。
藤木は英文の雑誌を、テーブルの端に押しやった。
「あの男が起こしたと思われる低血糖症を、薬物で再現することはできるよ……わしも君たちが来るというので、それを考えてみたんだ」
「その薬を教えて下さい」
「インシュリンだ。インシュリンを注射すれば、低血糖ショック状態になって死んでしまう。むろん、失神などは当然に起きるものだ。つまり、このホルモンが、血中の必要量の糖分を奪ってしまうわけだね」
「先生!」
と、若い折原刑事は、少し興奮気味だった。
「なぜ、解剖したとき、インシュリンが検出できなかったんでしょうか?」
「インシュリンは検出できないホルモンだ」
と、藤木博士は沈痛な口調で言った。
「現代の医学でも?」
「現代医学でもだ。インシュリンは血液の中に溶け込んでしまって、絶対に痕跡《こんせき》を残さないから、見破ることが不可能だよ」
「そんな、バカな……」
「バカにもなにも、いまだかつて、日本でインシュリン殺人を犯した者はいないし、人体組織の中のインシュリンを検出した者がないことも事実だ」
「先生! とにかく、水野の死体から、インシュリンを証明して下さいよ。ぼくらの方で、犯人がインシュリンを盗み出した証拠をつかんでみせます」
「むずかしい仕事なんだ、それが……」
「是非やって下さい。お願いします」
折原刑事は言った。
「時間がかかるぞ。比較検査法以外に方法がないから」
「どのくらいですか?」
「まず二カ月だな……」
「二カ月も?」
折原刑事は大沢部長刑事を見た。ボースンは首を振った。
「長すぎますね。なんとかなりませんか?」
「ならないよ」
と、有名な裁判医は科学者的な冷たさで言い切った。
「大体、死体からインシュリンを得ることがそれ自身、むずかしい。ただ、わしが思うには、インシュリンは酸性の人体組織では安定性のあるものなんだ。多分、筋肉のように乳酸の発達したところでは、長い間、インシュリンが保存されているとは思うけれど……つまり、肛門の筋肉に注射したインシュリンなればこそ、わしは可能性があると考えているくらいでね。普通では二カ月でも自信がないよ」
「困ったですね」
「ま、やってみてからのことだ。君たちはどれだけ手間がかかるか知らないから、そんな顔をするんだよ。説明を聞けば納得するだろうが……」
藤木裁判医はメモを広げ、エンピツでそこにハツカネズミと書いた。
「やり方は、ハツカネズミに、インシュリンの量をいろいろに変えながら注射するんだ。そこで現れる症状を観察しておく。いいね?」
と、行をかえて、抽出物と書く。
「こっちの方が問題の抽出物で、これをネズミに注射する。もし、抽出物がインシュリンならば、同じ症状を呈するはずだろう? 分かるね?」
「分かります」
と、折原刑事は言った。
「しかも、その症状を比較すれば、どのくらいの量のインシュリンが注射されたか見当もつく。確実を期すには、モルモットや、ネズミの横隔膜での比較実験も、しなければならんだろう。それから、欲を言えば、インシュリンを分解する酵素を使って、抽出物を処理してみる必要もあるな。例えば、システインやペプシンだ。こうしたもので処理した抽出物が、インシュリンと同じ作用をしなくなれば、それがインシュリンということになる。それと……まだある。低血糖症と同じ症状をもたらす糖の代謝産物とも比較しないとだめだよ」
「それで二カ月ですか……」
「長いかな」
「長すぎます」
と折原刑事。
「長くても、それをお願いするより仕方がないだろう」
と、部長刑事は言った。
「君たちの苦労は分かるよ」
高名な裁判医は最後に言い添えた。
「できるだけ早くやるように、わしが検査員にハッパをかけてみるがね」
第九章 波高き日に
1
実に冷酷で、計画的な完全殺人事件であった。もし、折原刑事が、「勝海舟の殺人」という応募原稿に、異常な興味を抱かなかったならば、ここまで追いつめることはなかっただろう。
しかし、今もって、浅倉千加子がインシュリン注射によって、水野昇を死に至らしめた物的証拠は何もないのだ。インシュリンの存在を死体の組織に証明できるのは、二カ月も先のことであった。
大沢部長刑事は、遠藤警部と相談の上で、折原刑事と中山刑事を、この事件の専任として、県警本部内に、ヨコハマ・ドウエル殺人事件の捜査本部を置く準備にかかった。
二十一日は土曜日だった。
台風15号が南九州に接近していた。横浜地方は、朝から天候が変わりやすかった。
正午近く、県警本部の折原刑事に電話がかかってきた。横浜東病院の看護婦宿舎を監視中の中山刑事からである。
「今のところ、浅倉千加子の態度に、おかしな点はなさそうですよ。ちゃんと勤務についています」
中山刑事は鼻声で言った。雨の中を、傘《かさ》なしでうろついたためらしい。
「ありがとう。ぼくも午後に調べて行くつもりなんだ。特に、外出するとき、気をつけて尾行をしてもらいたいんだ。こっちから言うことはそれだけ……」
「分かっています……それから、今、妙なことを聞きましたよ」
中山刑事が声の調子を変えた。
「妙?」
と、折原が聞く。
「ええ。浅倉は小鳥を飼っているらしいですね」
「いるよ。二十羽ぐらい……」
「いやあ、それがもう三羽しか残っていませんよ。手のり文鳥が二羽とシジュウカラが一羽……」
「えっ。なんだって? どうしたの? あとのは……」
「死んだんですよ。宿舎の賄いのおばさんの話では、毎日一羽ずつ死んでいるとか言ってました」
「毎日一羽……おかしいじゃないか?」
「おかしいでしょう。でも、事実のようですよ。浅倉は毎朝、小鳥の死骸《しがい》を、中庭に埋めているらしいんだ」
「何かありそうだな」
と、折原は重々しく言った。
「この調子だと、火曜日の朝までには、小鳥が一羽残らずいなくなる勘定ですよ」
「よし……結構です。こっちでも考えてみましょう。では、お願いします」
折原刑事は電話を切った。切ると同時に、自然につぶやきが漏れた。
〈あと三羽……あと三日ってわけか……一体、何を計画しているのかな?〉
2
折原刑事は午後になって、横浜東病院の事務室に現れた。小雨が降りながら、時折、日がさすような天気だった。
土曜日は午後三時までで、外来の受付が終わる。折原が着いたとき、締め切り間際で混雑していた。
折原刑事が身分を言い、用件を告げると、庶務主任に会うことができた。丸顔の人の良さそうな年寄りである。
「この病院で購読している医学、薬学関係の図書、雑誌のたぐいを教えてくれませんか?」
折原はまず、庶務主任に購読書の一覧表を見せてもらった。どれもこれも、日ごろ、なじみのない本や雑誌ばかりである。
「これはどこに保管してあるのですか?」
「来れば、それぞれの医局に渡してしまいます。医局が一杯になれば、廃棄処分をするわけですが」
「医者以外の人が利用できますか? たとえば、看護婦さんなど……」
「まあ、看護婦が読むことはありませんな、滅多に……そりゃ、読みたければ、医局の先生に断わって借りればいいでしょう。医局の方で購読しているのは専門誌ばかりでねえ。看護婦はどうですか……」
庶務主任はそう言って、デスクの周囲に、気がねの視線をなげた。
折原刑事が、こんな質問を思いついたのは、藤木裁判医の態度に学んだためである。インシュリン殺人という奇抜な犯罪は、高名な博士でも気がつかなかったくらいである。いかに怜悧《れいり》とはいえ、看護婦の千加子が独創できるわけはない、と彼は推理したのだ。それには必ず参考にした書物があるに違いないとにらんだ。
ごく最近の雑誌か何か……それを千加子が発見したはずだった。
「そうすると、医局にきくより仕方がないかな」
それはうまくない方法だった。下手をすると、千加子に気どられる虞《おそれ》もある。
「そういうことです……しかし、だんな、ごく一般的な雑誌類なら、庶務課にもありますよ」
「ある?」
希望がわいた。
「はあ。一般的なのと、内科関係のもんです。ご案内しましょうか?」
「頼む」
「貸し出し簿がありましてね。借りた者の名前は控えてあるんです」
「そいつはうまいな」
庶務主任に案内された折原刑事は、庶務課の一隅《いちぐう》に設けられた書架の前に立った。
「だれでも利用できるんですか、ここを?」
「はい」
そんな会話の後、刑事は貸し出し者の名前を追った。目的はむろん、浅倉千加子の名を捜すことにあった。
九月……八月……千加子の名はない。ひと月に二十件ぐらいの借用者があるが、いずれも男の名ばかりだ。
「何をお捜しで?」
庶務主任がきく。
「お手伝いしますよ」
「いや、いい」
彼はページを繰り続けた。千加子が犯罪を計画したのは、もっと前のことに違いない。七月……六月……五月……とうとう四月になった。
四月十三日、Therapeutics 三月号 浅倉千加子〈見つけたぞ〉
刑事は名前を確認した。四月十三日に借りて、同月の二十五日に返却している。
「ええと、この本は今、どこにありますか?」
彼は英文の上を指で示した。英語が読めれば、こんな拙劣な聞き方をしないですんだはずだ。
「ええと……」
庶務主任は、雑誌の名を見るついでに、千加子の名を頭に記憶していた。折原にはそれが分かった。しまったと思った。が、もう遅い。
「それはこのたなにあるはずですが……」
Therapeutics の積んであるたなには、該当のナンバーが欠けていた。
「おかしいな、ちょっと待ってくださいよ」
貸し出し簿をめくった庶務主任は、急に大きな声で、
「ああ、これは内科の木村先生が持っていってる」
と叫んだ。
「内科に行けば、その先生に会えますか?」
「会えるでしょう。丁度、診察時間も終わるし……」
「お忙しいのに、すいませんでした」
折原刑事は礼を言って別れた。
尋ねる木村医師は、気さくに会ってくれた。さいわい、捜していた雑誌が、デスクの上にほうりなげてあったので、折原刑事は簡単に内容を読むことができた。
Therapeutics 三月号、二十七ページ……折原刑事は、そこに、藤木博士の指摘したような恐ろしい犯罪実話を発見したのである。
一九五七年、イギリスのブラッドフォードで、エリザベス・バーロー夫人が入浴中、溺死《できし》した事件があった。ところが、これを調べてみると、バーロー夫人は散瞳《さんどう》していて、何かの薬物を注射されたことが分かった。結局、これは夫のケネス・バーローが、妻の尻《しり》にインシュリンを注射して、完全犯罪をたくらんだものであった。
医学の専門誌だけあって、詳細な紹介だった。むろん、実話の方は医学的な検査が中心に書いてあるが、千加子がこれにヒントを得たことは疑う余地がない。
折原刑事は木村医師に無理を言って、その雑誌をしばらく貸してもらった。彼は捜査の成功に酔っていた。
3
大失敗だった。
折原刑事の計算では、二十三日までにケリをつければ間に合うことになっていた。月曜日は祭日で病院は休みだし、千加子の手もとには、最後の小鳥が残っている……。彼は、千加子が身の回りを整理しながら、最愛の小鳥を毎日、殺しているのではないかと想像していた。
しかし、それは油断であった。原因は彼自身にある。彼が庶務主任に、浅倉千加子の名前を読まれてしまったのがいけなかった。人の良い主任は、千加子に折原刑事の話をしたのだ。
千加子は二十二日の正午過ぎに、中山刑事の監視の目をくぐって、看護婦宿舎を脱け出してしまった。
中山刑事は十分後に、千加子の脱出に気がついた。彼は即座に千加子の部屋に踏み込んだ。室内は、千加子の覚悟を物語るように、整然と片付いていた。書き置きらしいものはなかった。
たまたま、宿舎を脱け出す寸前に、千加子は同僚の看護婦に姿を見られている。千加子は黒っぽいスーツに小さなバッグ、それに紙包みをひとつ、手にさげていたという。
「あれは鳥かごだと思うわ。ツビーッって、鳴き声がしたみたい」
その看護婦はこう言った。
調べてみると、部屋にあった赤塗りの鳥かごがない。千加子が最後の一羽を、道連れにしたのは確かだった。
直ちに、黒いスーツを着て、鳥かごの紙包みを持つ女が手配された。主要駅、タクシー会社には、電話で連絡がとられた。
午後三時過ぎ。
大船駅の構内タクシー会社から連絡で、手配の女性らしい人物を、大船から江の島へ乗せたことが分かった。
神奈川県警察本部は色めいた。折原刑事は大沢部長刑事と一緒に現地に急行した。タクシーが女を降ろした場所は、小田急電鉄の片瀬江の島駅の前だった。
だが、千加子がその後、小田急に乗車したという確認はできなかった。考えられるコースは、そのほかに、いわゆる江の電を利用して藤沢《ふじさわ》か鎌倉《かまくら》に出る線、または、バスを利用する方法などがある。
現地に急行した五名の刑事は、思い思いの方角に散って聞き込みを始めた。
午後五時ごろ。折原刑事は耳よりのニュースを聞いた。江の島ヨットハーバーで、午後二時から四時までの間に、スナイプ型ヨットが盗まれたというのである。ヨットは10フィート程度の小型だった。チラーの修理を終え、艇庫へ格納する前に、防波堤内に浮かべてあったのだ。
折原刑事は、盗難の話を派出所の巡査に聞くと、ぴんと心にくるものがあった。千加子はヨットの操縦が好きだと、彼に話したことがある。
刑事はヨットハーバーに駆けつけた。大沢部長刑事も一緒であった。が、係船柱が白い波に洗われているばかりで、千加子が来たことを証明するものはなかった。
夕やみの迫った防波堤は寒かった。空はどす黒く、空と海の区別なく、一面に塗りつぶされていた。強い風と、足もとの激しいしぶきだけが、膚に感じられるすべてだった。
「行ったんでしょうか?」
岸壁に立った折原刑事が言った。
「行ったんだ」
と、大沢部長刑事がうなずいた。
「無理かもしれないが、海上保安庁に捜索を頼んでみよう」
二人はヨットハーバーを後にして、藤沢警察署に行き、そこから関係方面への手配をした。
なにもかも、することをし終えたのは、午後八時過ぎだった。千加子の行方は分からず、盗まれたヨットの目撃者も出なかった。
二人の刑事は、遊行寺下の小さな喫茶店にはいった。
「ご苦労だったね」
大沢は折原刑事をねぎらった。折原は熱いコーヒーを口に当てかけたが、
「助かってくれるといいですね」
と、しんみりした口調で言った。
大沢は、目の動きだけで、〈そうだ〉という意味を見せた。
店のテレビが台風情報を流していた。
「……中心付近の気圧は九五五ミリバール、中心付近の風速は四十メートル、半径二百キロ以内では風速二十五メートル以上の暴風になっておりますので……」
折原刑事は画面を見た。静岡付近の海岸に打ちあげる大波が放映されていた。彼は千加子に会いたいと思った。彼が追いつめ、死に追い込んでしまったのだけれども、このままではやりきれない感じがした。〈愛されてさえいれば〉と言った千加子。千加子は自分が愛した水野以外の人間に、危害を加えることは絶対にないのだ……。
「何を考えている? え……」
と、大沢が微笑した。
「別に……何も……」
折原刑事はコーヒーを飲んだ。
「おい。8チャンに回してくれよ。全日本フェザー級のタイトル・マッチがあるんだ」
と、店の奥でだれかが言った。
日本のピラミッド殺人事件
1
日本にピラミッドがあるという、一大キャンペーンは、毎朝新聞社が特別取材班をつくって、全国的におこなわれた。
日本の古代史は、記紀の時代を境にして、それ以前はまだ充分な研究がされてはいない。なぜか学者によって、タブー視されている。
それだけに、長野の皆神《みなかみ》山とか、広島の葦嶽山や|のうが《ヽヽヽ》高原というふうに、隠された古代の遺跡を捜し求めるリポートは、多くの人々の関心を喚《よ》んだ。
毎朝から委嘱された社外リポーター、岩見重夫記者は、自分自身、古代史に興味を持っていたので、喜んでこのキャンペーンに参加した。
岩見記者は、大学時代から、「竹内文書」「九鬼文書」や「東日流《つがる》外三郡誌」といったものに関心を持っていた。それだけに、毎朝の特別取材班の一員として、
「十和田湖周辺の古代遺跡に、ピラミッドを探りあてろ」
という命令を受けたときは、心が浮き立ったのである。
かつて、十和田湖のあるあたりに、超古代の文明が栄えていた。それが大噴火によって湖底に沈み、その文明が亡《ほろ》んでしまったという伝説がある。
それを実証するには、大規模な発掘をしなくてはならないだろうが、今回はそこまでは費用の関係でできない。しかし、積極的に調査をすれば、その超古代文明の片鱗くらいはつかめるのではないか──これが日本のピラミッド探求班のうち、十和田担当の者が一様に懐《いだ》いた〈夢〉だったのである。
岩見は、自分なりに、下調べをして、一行に加わった。
第一陣として、青森県三戸郡|新郷《しんごう》村へ現地入りしたのは、十名であった。団長は、東北国際大学の荒木四郎教授で、その研究室員三名を率《ひき》いていた。毎朝新聞社としては、社会部の堤副主筆以下、岩見のようなリポーターを入れて四名。このほかに、特殊探査のため、かなり大がかりな電探器や可搬性の磁石などを扱う電気技師の福沢茂という人物と、推理作家の赤西栄次郎が加わっていた。
なぜ、赤西が参加したかといえば、この作家の代表作に『キリストの秘密』という長篇があり、この作品の中で、十和田湖周辺のキリスト伝説≠扱っていたからだ。
『キリストの秘密』は、長篇だから、簡単に要約することはできないが、新約聖書における記載事項の矛盾を分析し、キリストが青森県三戸郡の新郷村で死亡したのではないかという、大胆な推理を展開している。
こうした推理を、別の角度からみると、古代文明が十和田湖周辺にあったという事実とも、オーバーラップしてくるし、ひいては、日本のピラミッドの存在とも関連してくるというわけである。
そこで、毎朝は、赤西を特別のリポーターとして委嘱し、現地での討論会などにも出席してもらうということを考えていたわけだ。
2
現地入りの|アシ《ヽヽ》は、まず三沢空港まで一般の航空機で行き、そこから、特別チャーターした大型ヘリコプターで、戸来《へらい》岳や十和田新山を北に望む迷ケ岱《まよがたい》の牧場に着陸するというコースだった。
三十三歳の岩見にしてみると、この取材旅行は、ドキドキするほど刺戟的だったので、航空機の中でも、隣りに坐った作家の赤西とよく喋った。
五十一歳の赤西は、
「いや……随分、便利になったね。昔、私が〈キリストの秘密〉を執筆するために、新郷村へ行ったときは、東北本線で八戸から、バスではいったものだよ。タクシーも満足になかったから……。今回は、朝|発《た》って、その日の正午《ひる》には、目的地にゆうゆうと到着しているというんだからね。古代も近くなったもんだよ」
と言って笑った。
「あまり便利になると、古代の神秘というのが薄れてしまう感じがしますね」
岩見は調子を合わせた。
赤西はフフフと低く含み笑いを繰り返して、
「いや、そう簡単に薄れるのは、本物の神秘とは言えないだろう。実際に、われわれは、埋もれている古代に、それほど迫っているとは言えないんだ」
と言った。
「先生は、今度の取材に、どういうことを、一番期待されているんですか?」
岩見は、リポートの主軸を、この作家の視点におくことも面白いかな、と思っていた。
「十和田湖周辺の場合は、キリストとか|へらい《ヽヽヽ》とかいうことが強すぎて、古代日本への素直なアプローチが少なかったんだね。そこで、今回は、いったん、白紙状態にもどって、あなたのような若い人の目で、埋もれた歴史を見た方がいい。私はなんらかの物証《ヽヽ》がつかめることを期待していますよ」
赤西は落ち着いた口調で言った。
確かに、岩見としても、できることなら、科学的、実証的な部分で、一歩でも前進できればよいと考えていたので、
「その通りですね」
と、相槌を打ったが、すると、赤西は、ちょっと悪戯《いたずら》好きの中学生みたいな顔をして、
「しかし、地底に眠っている霊が、喚《よ》び起こされるかもしれないんです。そうなると、ちょっと怕《こわ》いな」
と話の方向を転換した。
「霊ですか……」
「|ない《ヽヽ》と思いますか?」
「いや……」
岩見は口籠った。
「古代エジプトのピラミッドを発掘したりした者は、多く、謎の死を遂げていますね。今回、毎朝さんは犠牲者が出ていないようで、ご同慶の至りだけれど、それは単なる偶然かもしれない。この先のことは分からんでしょう……」
「おどかさないで下さい」
岩見は、わざと快活を装って言ったが、なんとなく胸騒ぎがしたのは、虫の知らせというものだったかもしれない。
三沢空港までは、ほんの少し、機が揺れたのを除くと、これという変った出来事もなかった。
快晴の秋空から空港に舞いおりた一行は、そこで待っていたチャーター便の大型ヘリコプターに乗りかえた。
元航空自衛隊員だったという機長は、巧みにヘリを離陸させ、迷ケ岱に向けて飛行した。
ヘリの中では、岩見の隣りは、電気技師の福沢だった。
「ご苦労さまです。機械類はどうしたのですか?」
岩見が訊くと、
「一足先に、現地入りしていますよ。組立て作業も必要なので、一緒に行ったのでは、使用が遅れるわけです」
と、福沢は説明してくれた。
福沢は年齢、四十歳くらい。長身で、なかなかの男前である。
「照明とか送風機とか、いろいろ持って行くんでしょう?」
「そうです。地底の探査ですからね。古代のピラミッド跡と思われる山の中腹に、洞穴があるという、そこの探険が最大のテーマですから……」
「なん千年、なん万年という大昔の文化は、木でも鉄でも、一切が腐り果てて消えてしまうのだし、残っているものがあるとしたら、宝石の類《たぐい》でしょうか?」
「そうだと思いますよ。とにかく、奇蹟を期待するしかないんです」
福沢は、技師らしい生真面目な態度で言った。
ヘリは、海抜九九〇メートルの十和利《とわり》山を望む草原地帯まで、ほんのひと飛びだった。このあたりは、キリスト伝説にちなんで、〈エデンの園〉と呼ばれている。
ここでヘリを車に乗りかえ、毎朝の新郷村通信員の加納安男の先導で、写真撮影をしながら、秋田県側への自動車道路をひた走りに走った。
さし当りの目的地は、鹿角《かづの》市郊外にある小さな丘だ。この丘には名前らしいものもなく、今回の調査で、〈雨傘山〉という名をつけたくらいだ。ピラミッドのように、鋭角の四角錐にはなっておらず、丁度、雨傘の柄をとって、フンワリと、地上に広げた恰好だからだ。
しかし、この〈雨傘山〉には、昔から、「古代大王の墓」とか、「ピラミッド」という呼び声のあるほか、近頃では、「UFOの発着地」といった説まであるのだ。
同行した荒木教授の話では、雨傘山も、昔は、エジプトのピラミッドと同じ恰好だったが、日本は雨が多く、土をかぶったところに草木が生えてしまい、状況が一変したのだろうという。
このキャンペーンで、第一にとりあげられたのは、三カ月前、この山腹に、人が一人、はいれるような穴がみつかり、
「これはピラミッドの入口に違いない」
ということになったのが原因である。
穴の中に何が隠れているのか……もぐり込んでみないと、皆目見当がつかない。一応、人工のものという説と、自然にできた陥没穴の二説がある。それを確かめるのも、今回調査の大きな目標であった。
3
現地に到着した日は、地元関係者による、ささやかな小宴が、市内の目ぬき通りにある料亭で開かれた。
別に、これといううまいものもなく、ただ地酒のコクのあるのが、岩見には嬉しかった。一行の宿所は、〈津軽屋旅館〉というところで、宿の主人は青森の出身だという。
岩見は、宴の後、取材班の若い者と、麻雀をやり、午前一時に寝た。
翌日も相変らず快晴だった。雨傘山が、日本にある古代ピラミッドのひとつかどうか、間もなく、分かると思うと、岩見の気持も急にシャンとしてきた。
太古、十和田湖周辺は、亜熱帯の植物が生えており、気候は、現在と著しく違っていたといわれる。しかし、今日《こんにち》では、鎮まりかえった山々には、頃合いの樹々が茂って、奥入瀬《おいらせ》の景観のような、静かなたたずまいを見せている。
岩見は、一台の車に、作家の赤西と技師の福沢、そして毎朝社会部の堤副主筆と共に乗り込んだ。
堤は、非常に陽気な男で、
「雨傘山には、不思議な霊気がありますよ。私は半月前に、下調べに来たとき、洞穴の中を十数メートル、降りただけなのに、何か、恐ろしい霊魂が、闇の中に漂っているという感じでした」
と、話の内容とは裏腹に、アッケラカンとした言い方で喋った。
赤西は頷き返すと、
「古代の人間は、ピラミッドの中に、科学的な神秘というものを、閉《と》じ込める才能を持っていたように思うんです。それを、今回、自分の肌で感じられれば、それだけでもいいと思っていますよ」
と応《こた》えた。
技師の福沢は、技術屋らしく、何も言わないで、終始、黙っていた。
岩見は、なぜか、
〈雨傘山というのは、本当に古代日本人のつくったピラミッドで、その内側には、あのピラミッド・パワーと呼ばれる、神秘な力が働いているに違いない〉
という、確信めいたものが心に浮んできた。
この感じは、車が、草原の一角でとまり、真正面、北側の方角に、突兀《とつこつ》として聳《そび》える雨傘山を見たとき、一層、強くなった。
すでに、昨日から、雨傘山の脇にテント三張りを建て、そこで作業をしていた別働隊は、岩見らの車を見ると、何人かは、走り寄って来た。
移動テレビカメラのほか、洞の入口を中心に撮るカメラは、高い台の上に据えつけられている。
現在までに分かっているのは、雨傘山の洞の入口は一箇所で、人間一人がやっとはいり込めるくらいの大きさ。内部になると、かなり大きくなる。それは天然のものとは思えない傾斜角を持ち、三方に分岐している。それぞれ、約三十メートルくらいまでは、探査してあるが、その先は、ローソクの光が、今にも消えそうな酸素不足で、未だなんとも解明されていない。
もし、この雨傘山が人工のピラミッドならば、奥へ行けば行くほど、人工の手の加わった様子がハッキリしなければならない。この洞穴が、単に後世の人間が、入口のみを改修して、何かの目的に使用したことも考えられるからである。
車をおりて、堤は赤西に、
「先生。ひとまずテントの中で休んで下さい。一応、現状をご説明します。それから、洞内へはいっていただきます」
と、言った。
赤西と岩見は、堤の後から、テントの中へはいったが、福沢技師は、すでに、照明と電話線関係のチェックのために、洞の方へ姿を消した。
4
堤は、現状の説明を簡単にした。
「……洞内の道は、われわれが、本殿道と呼んでいる中央の、やや太い道のほか、右上方へ進む坑道と、左下へ行く通路の、都合三本が発見されています。このうち、赤西先生には、右上方の坑道を、まずお調べいただきたいと思うのです。これは、三十メートルほどはいったところに、人が二人か三人はいれる空間がありまして、そこに、線画らしいものが発見されました。おそらく縄文期のものだろうと、荒木教授はおっしゃっておりますが、人の首が宙を飛んでいるようにも見えます。一応、ここを祭壇室と教授は命名されています。おそらく、ピラミッドなら、奥に主室があるのでしょうが、その入口を占める礼拝の部屋というわけです」
「そこまで行けばいいんですな?」
と、赤西が訊いた。
堤は頷いた。
「はい。その先は、実は、急な奈落のようになっていて、底から水の流れる音がしています。多分、地底の川があって、これが雨傘山ピラミッドの、何かの秘密をつくりあげていると思われるのですが、天井の崩壊の虞《おそ》れもあって、この先は危険なため、今回は調査できません」
「しかし、地底の川というのも、人工の構築物かもしれない。それが一番、興味あるなあ……」
と、赤西は少し不満気だった。
「はあ。いずれ、手をつけるつもりでおりますが、とにかく、目下の急務は、山全体が人工なのか、それとも、自然の山かということです」
と、堤は弁解した。
「それはあんた、日本のピラミッドは、大自然に加工したというつくり方かもしれないんだよ」
赤西は、彼の持論《ヽヽ》を主張した。彼は、エジプトとは違い、緑豊かな日本のピラミッドは、天然の山に加工してつくりあげているケースがかなりあるというのだ。
とにかく、議論していても始まらないので、赤西は、その場で作業服に着換え、福沢の手を借りて、ヘルメットをつけた。
すでに、祭壇室には、電灯を引き込み、インターホンの装置も設けられていた。そして、祭壇室と洞の出入口まで、蛍光塗料を塗った細いロープが張られているから、それを辿りさえすれば、赤西のような初体験の人間でも、迷わずに、目的の場所に着ける仕組になっているのだ。
インターホンは、特殊なもので、内部の者の声は、マイクロフォンによって、外の人間には受話器なしで響くようにつくられていた。
赤西は、度胸よく、ロープを伝いつつ、ライト付のヘルメットをかぶって、やっと人間一人がはいれる洞へもぐっていった。
岩見は、マイクから聞こえてくる音響に、じっと耳を澄ませていた。そばには、堤もいた。彼は、次にはいる順番だったが、一応、赤西に独りで、充分取材させてから、狭い空間に向かうことになっていた。
福沢は、マイクの調子などが、順調に働くかどうか不安らしく、岩見の隣りにいて、じっと、耳を澄ませる様子だった。
やがて、マイクから、人の跫音《あしおと》のようなものが、ピチャピチャ、カンカンという風に甲高く響いてきた。
「赤西先生、赤西先生、福沢です。聞こえますか?」
と、電気技師が呼びかけた。
「おお、よく聞こえます」
赤西の野太い声が、地底からハッキリと響いてきた。
「照明の方はどうですか?」
「良好だね。しかし、この先は、随分、深い穴になっているようだ……」
赤西の声には、驚きの様子がアリアリと窺えた。
「先生。私も、これからまいりますが、そこは狭いので、お一人でごゆっくりと、右上の線画を確認しておいていただきたいのです」
と、堤が言った。
「よし、そうしよう」
マイクの奥から、赤西が躰を動かした気配がし、岩石がひとつ、奈落に落ちるような音が響いた。
だが、その直後だった。テント内の誰にも分かるような、物凄い悲鳴が、マイクを通じて、地底から送られて来た。
「………」
一同は、顔を見合わせた。
「もしもし、先生。どうしたんですか?」
堤が聞いたが、もはや反応はなかった。明らかに異常事態の発生である。
〈赤西先生が、深い穴に転落してしまったのでは……〉
岩見は最悪の事態を考えた。地底へはいる準備をしていた福沢は、第一にとびこんでいった。
「先生、先生……」
堤は、しばらく呼んだが、答えがないので、周囲にいる特別取材班の社員に合図し、自分もロープを伝わって洞内にはいることに決めた。
5
これが、ピラミッドの怨《たた》りというものであろうか。いや、怨りにしては、あまりに現実的である。
作家の赤西栄次郎は、祭壇室において、咽喉を、鋭利な刃物で刺され、絶命していたのである。
凶器は見当らなかった。
が、何よりも、不思議なのは、赤西が刺されたとき、この洞内には、誰もいなかったはずなのである。
すでに説明したように、この雨傘山洞穴の入口は一箇所。約十メートルはいると、三方に岐《わか》れている。赤西のはいったのは、この最右翼のコースだ。中央道は幅広く、どれだけ奥へ続いているか不明だが、岩が崩壊していて、とても危険な状態だった。また、もう一つの下方への道は、次第に狭くなり、現在の研究では、全体の空気穴の役目を果しているらしい。人間は、進めなくなっている。穴が塞《ふさ》がっている恰好なのだ。
となれば、赤西を殺した犯人は、初めからこの洞内に籠り、はいって来た赤西を待ち受け、殺してから、一体、どこへ逃げたのだろう。文字通り、煙のように消えたとしか思えなかった。
とまれ、赤西の死体を最初に発見した福沢技師は、沈痛な面持ちでこう語った。
「……私が現場に行きついたとき、すでに犯人の姿はありませんでした。しかし、犯人の行方を詮索するより、赤西先生の手当の方が先だと思いましたから、続いてはいって来た堤さんと協力して、地上へ運び出そうと考えたわけです。でも、二人ではできないことが分かりました……」
何しろ、現場は狭いし、すぐそばには、深淵が開いていて、とても危険だった。そこで、連絡をうけて到着した秋田県警の刑事も、死体を洞外に出すのがひと仕事になったのである。
洞外で検死してみると、赤西は、咽喉を鋭い刃物で切られている。出血のために窒息死したものと判断された。
死亡時刻やそのときの状態は、マイクロフォンを通じて、多くの洞外の人間が聞いている。
〈あの暗いところなら、誰が近づいても、そばに寄るまで、赤西は気がつかなかったに違いない。けれども……犯人はどうしたんだ? どこへ消えたのか……〉
岩見は、今更のように、ピラミッドの謎の怕《こわ》さを感じた。
しかし、現実に赤西は殺されている。そして、ナイフのような鋭い刃物を用いている以上、これは人間の仕業と考えるべきだろう。
〈おれは、ひとつ、この事件を徹底的にリポートしてやろう〉
岩見は、突然の事件に巻き込まれながらも、ここが自分の腕の見せどころだと思い直した。
当面の責任者である堤は、すっかり気が動転してしまい、事態を客観的に見る余裕は、まったくない様子だった。
当然のことながら、〈雨傘山調査〉という大計画は、赤西の殺人事件で一時中断となり、山の麓に張ったテントは、俄かに捜査本部の様相を呈した。
特別取材班の中でも、ヒソヒソの噂や囁きが乱れ飛び、
「ピラミッドの怨りだ」
とか、
「内部に、地下人間が棲《す》んでいるらしい」
という怪情報まで、岩見の耳にはいった。
赤西の妻、睦子が急遽、東京から飛来したのは、そうした騒然たるムードの最中《さなか》であった。
6
岩見は、かつて一度だけ、赤西邸を訪問し、あるノンフィクション・ノベルのネタについて打合せをしたことがある。その際、睦子夫人には面識をえていた。
睦子がヘリコプターから車で、現場のテントに着いたとき、遺体は、夕闇の迫った幕の内側に安置されていた。
彼女は、夫の遺体と対面すると、
「あなた! どうしてこんなことに……」
と、絶句し、人前も憚らずに、号泣し始めた。
その声の悲痛さは、聞く者の肺腑を抉《えぐ》るほどだった。
岩見は、その後ろ姿を見ながら、
〈夫人には、なんと言って、慰めたらいいのだろう〉
と、迷ってしまった。
岩見と睦子が、顔をあわせたのは、対面《ヽヽ》の五分くらい後であった。彼女は、そこにリポーターの岩見がいるのに気がつくと、
「岩見さん!」
と、掠《かす》れた声で言い、よろよろと、崩れんばかりに、彼の手にとり縋《すが》った。
睦子の掌《て》は、ほんのりと温かく、どこか甘酸っぱく悲しい匂いが、その襟元あたりから漂って来た。
「ぼくがついていながら……先生を守れなかったのは……申しわけありませんでした」
岩見は、思わずそう言っていた。彼の目の前には、四十歳とは思えぬくらい、若々しく白い睦子の襟足が見えた。
「私……どうしたらよろしいんでしょう? 主人がいなくなったら……とても……一人では生きてゆけませんわ」
今にも、息絶えんばかりに、悲しく訴え、岩見の方をちらっと見た。その瞳《め》は濡れ、何かを求めるような唇は、可憐でさえあった。
「信じられないことなんです。犯人の姿は見えないんですから……。まるで……夢でも見ているようです」
岩見は、睦子の言葉が、自分に助けを求めているように聞こえたので、それに正面から応えるわけにはいかず、見当違いにも受けとれることを言った。
「……私は……こんなことになるといけないと思って……主人を引きとめたんですの。それでも、『作家は新奇なものに、いつも挑戦する精神が大切だ』と申して……。きっとこんなことになるのではと……。でも……私はこれから……どうやって生きてゆけばよいのでしょう……」
睦子は、涙を流した。美人の涙は、男心をひどく唆《そそ》るものである。岩見は、ドギマギしてしまった。
「とにかく……犯人を逮捕してですね。この無念をはらすことが第一でしょう」
岩見は、自分でも、女性に対して、変な発言をしていると思ったが、ほかにうまい言葉も言えなかった。
「この山はピラミッドだと言いましたわね」
睦子はテントの外を見た。茫洋として暮れなずむ、雨傘山の景観は、さながら墨絵の世界の桂林のそれにも似ていた。
「はい」
「でしたら、主人は、ピラミッドに呪い殺されたのです。私……とめたのに……それを」
と、夫人は泣くのをやめなかった。
「いや、霊の力で殺されたというより、鋭いナイフのようなもので、咽喉を掻き切られているわけです。今、ご覧になったでしょう?……」
「はい。でも、よくは見ませんでした。とても……見られないで……」
「無理もありませんよ」
「実は……私……主人と共著で、近く、毎朝新聞の出版部から、本を出す予定でしたの」
と、睦子が言い出した。
「ほう、初耳です。なんというご本ですか?」
岩見は訊いた。
「『純愛の星は輝いて……』というんです。なんだか、この年齢《とし》になって、少女趣味みたいだと、思われるかもしれませんけど、私、十八歳のとき、ピンクサロンに勤めていて、主人と知り合ったんです。主人は二十八歳でした。作家になる前のあの人は、ああいう世界にはいっていた私を、心から愛してくれて、今日まで可愛がってくれました。それを毎朝の出版部の人が、『まれに見る純愛物語』ですねとおっしゃって……。本にまとめまして、もうゲラもできていたんですの」
「それは知りませんでした。それでは一層、お悲しみですね」
岩見は暗然とした。
今や、流行作家となった赤西が、あえて、自分達の〈純愛〉を本にまとめるという折も折、突然、襲った不幸である。
〈その本は、きっとベストセラーになるだろう〉
と、岩見は、口に出かかった言葉を、ぐっと呑み込んだ。
「……私……このピラミッドの調査に、主人が加わることは反対でしたわ。なんだか、悪い予感がしたんです。主人は、ノンフィクション作家じゃありませんでしたもの。何も、こんなことに首を突っ込む必要はなかったんですわ」
睦子は、いかにも残念で、口惜しいというように、そこで首を左右に振った。
「ま、いろいろ、考え方はあったと思いますけど、とにかく、奥さまは気をしっかりお持ちになって下さい」
と、岩見は形式的な言い方かもしれないが、励ますより仕方がなかった。
「主人の荷物はどこにございます。せめて、それを形見にしておきたいので……」
「あ、そうですね。それでは、毎朝の堤さんの方へいらっしゃって、そちらの係から、お受け取りになったらいいと思いますよ」
岩見は、睦子を、毎朝の者が集まっている別のテントへ案内した。そこでは、今後、ピラミッド調査をどうするか、延期か、それとも決行かで、話合いが続いていたのである。
7
こんな山奥で、いつまでも女性の身の睦子を引きとめておくことはできない。赤西の遺体は、司法解剖のために、秋田へ運ばれることになったので、必然的に、睦子もそれに付随して、秋田へ行く運びとなった。
岩見は、未だ、現地へ残るしかないが、睦子が別れるとき、ちょっとしたトラブルを惹《ひ》き起こした。
その相手は、電気技師の福沢だった。
睦子は、岩見に、
「最初、主人の事件を発見したのは、どなたですか?」
と訊いた。
「電気技師の福沢茂さんという人ですよ。事件の起きたことを知って、第一に洞穴へ飛びこんでくれたのです」
岩見は、自分が見聞したことを、睦子に丁寧に説明したつもりだった。しかし、かなり取り乱している睦子は、福沢が第一に発見してから、遺体が地上に搬出されるまで、時間がかかり過ぎると言った。
「福沢さんは、どんな人ですか?」
と、彼女が訊くので、岩見は、
「おとなしいけれど、|シン《ヽヽ》のあるいい人ですよ」
と、好意的な発言をしたが、それすら、彼女には気に入らなかったらしく、
「会わせて下さいな」
と言うので、岩見は、電気器具の整備をしていた福沢に、睦子の所まで来てもらった。
彼女は、胸の中の悲しみが怒りに変ったかのように、
「主人を発見したとき、未だ、息はあったのでございましょう?」
と、問い詰めるように言った。
この権幕に、福沢は、びっくりしたように眼を大きくあけたが、すぐに、
「いやあ……もうほとんどダメな様子でしたね」
と応えた。
しかし、これが睦子には気に入らなかった様子で、
「ほとんど……ですって?……少しでも息があったのなら、どうして、すぐに病院へ運ぶように手配して下さいませんでしたの? まるで初めから、助かる見込みがなかったみたいじゃありませんか……」
と難詰した。
「そうなんですよ、奥さん。これは毎朝の堤さんも、ご存知ですがね、咽喉をやられていて、窒息なさっているんです。ですから、とても……」
「素人の方が、そんな判断してよろしいのですか? 何がなんでも、救急車を呼んで、手当をして下さるべきでしたわ。そう思いません?」
睦子は、岩見の同意を求めた。
岩見は安易に、「そうですね」とは言いにくかった。作業服を着て、真っ黒になりながら働いている実直そうな技師を非難するのは、どうにも心苦しかった。と言って、勢い込んでいる睦子夫人の気持も、分からないではなかった。
「ま、あの際は、できる限りのことをしたと思いますが……」
仕方がないので、曖昧な言い方をすると、睦子は腹立たしげに、
「もう少し、気をきかせてもらえれば、こんなことにはならなかったと思いますわ。主人が死んだのは、最初の手当が悪かったためなんです」
と、泣きながら叫び出した。
さすがに、この言葉は福沢の心を傷つけたとみえ、
「奥さん。それじゃ、まるで私がご主人を殺したように聞こえますよ。いくらなんでも、それはひどい」
と、抗議した。
頭に血がのぼっている女性には、その抗議が火に油を注《そそ》いだ恰好になったからたまらない。わっと叫ぶようにして、福沢にとびかかろうとした。それを岩見は、後ろから羽交い締めの恰好でとめた。
「落着いて下さい。ご主人の死は、誰の責任でもありませんよ。殺人犯人を見つけ出すことだけが、ご主人の供養になるんです」
岩見は必死になって言った。
彼が睦子を引きとめているうちに、福沢はプイとその場を離れていった。
8
赤西の遺体と、睦子が、司法解剖のために秋田に去った後、毎朝新聞社としては、
「……このたび、不慮の事件で、みなさまにご心配をおかけしましたが、断乎として、当初計画通り、十和田湖周辺ピラミッドの探査は続行いたします。いかなる妨害があろうと、われわれは、それに負けることなく、古代日本の謎を探るべく全力を傾注する覚悟です……」
という声明を発表した。
これで、殺人事件の捜査は、担当の秋田県警にまかせ、特別取材班は、一応、祭壇室を除き、他の部分から、発掘調査、磁力調査、写真撮影などを、逐次、進めて行くことが確認されたのである。
翌二十六日のテレビニュースの報道では、民放の中には、「ピラミッドの怨りか?」というようなショッキングな言葉を並べて、事件を紹介しているものもあった。殺されたのが、推理作家だったことや、地底の事件で、しかも犯人が煙のように消えているという謎の多い点で、視聴者の興味をひいたのは、疑う余地がない。
この日、三沢空港経由で、十和田市まで十和田観光鉄道に乗り、そこからタクシーに乗った一人の女がいた。
「ピラミッドの発掘をしているところへ行きたいんです。分かりますか?」
と、女は言った。
運転手の東郷は、その女がかなり厚化粧なのに気がついたけれど、何よりも、女の着ている衣装に驚いた。まるで舞台衣装のように、丸い金属製の板を綴り合わせたもので、その下に薄いピンクの布《きれ》が貼ってあるから、肉体こそ見えないが、ひどく人目を魅《ひ》く。
「ピラミッドですか?」
東郷は、一瞬、びっくりして訊き返した。
「テレビのニュースでやっていたでしょう? 雨傘山という山の洞穴の中で、人が殺されましたわね。あそこへ行きたいのです」
そう女に言われて、東郷はハッと気がついた。彼は五十歳になる。出身は新郷村であるが、この村の付近には、いろいろと珍しい遺跡があり、キリストが日本で死んだという話や、その墓のことも知っていた。
「ああ、あれですかね?……あれは鹿角市の方ですよ。ここからだと、奥入瀬を通って行くようになります……」
「遠いんですか?」
「六、七十キロあります」
「そのくらいなら構いません。急いでください」
と女は言った。
「はい」
東郷は応えて、車を走らせ始めた。女は、まるでミラーボールのように、キラキラ輝く衣服を、それほど気にした風でもなく、やがて、たばこに火をつけ、後部座席で一服つけた。
たばこの匂いが、車内に漂ってきた。
〈この女は何者だろう?……観光客とも思えないし……もしや、テレビニュースにあった殺人事件の関係者ではあるまいか?〉
東郷は、ミステリー・ドラマが好きだったので、なぜか、この女が殺人事件に関係しているような気がしてきた。
車は、国道102を西に進み、奥入瀬沿いに十和田湖へ向かって行く。
しばらくすると、女は口を開いた。
「雨傘山のそばで、泊れるような旅館かホテル、ありますか?」
東郷は、ちらっと後ろを振り向いて、
「何もないところですよ。観光地じゃないし、山と畑ばかりで……。市街地へ出るしかありませんよ」
と答えた。
「あ、そう。困ったわね」
女の言い方には、どこか蓮っ葉な調子があった。
先刻から、この女の正体を知りたいと思っていた東郷は、思わず、
「お客さんは、あの殺人事件の関係者の方ですか?」
と訊いてしまった。
「え?」女は、少しびっくりしたように東郷を見、それから、吸いさしを、灰皿でゆっくり揉み消した。
「そんな風に見える? 私……」
「いや、事件の後で、急いであんなところへ行くのは、関係者しかないと思って……」
「じゃ、私はなんに見える? 探偵?……それとも被害者の奥さん?……」
「そうですねえ」と言ったものの、どう見ても、この女は水商売をしている、どこかのクラブのホステスという感じだった。「どっちかといえば、参考人か証人で呼ばれている女性ですな、お客さんは……ハハハ……」と笑いにまぎらした。
「まあ、嫌だわ。重要参考人というのは、犯人のことじゃないの。これでも、人殺しだけはしたことはないわ」
女の客は、東郷を睨むようにして言った。車は、十和田湖畔を走った。もう秋|酣《たけなわ》で、所々に、ななかまどが真っ赤に色づいているのが、車窓越しに見えた。休屋を過ぎ、十和田道にはいると、そこはもう秋田県である。
東郷には、最後まで、この女の正体が分からなかった。
9
「岩見さん。女のひとが面会に来ているんですがね」
と、福沢がテントの中を覗いて、岩見を呼んだ。
「どなた?……誰に?……私に面会?」
岩見は立ちあがった。テントの外には、もう夕闇が迫って来ている。
「名前は古葉《こば》朱美さんというんですよ。毎朝新聞のかたに会いたいというんで、ひとつ、聞いてあげて下さい」
と、福沢が言った。
「なんだろう? 一人ですか?」
「そうです」
「女一人で、こんな淋しいところへ来るなんて、随分、勇気があるな」
と、岩見は言いながら、テントの外に出た。
「この先の渓流のそばにいますよ」
福沢が案内してくれたので、岩見は、大湯川の支流が蛇行している一角まで出て行った。暮れかかった渓流の、岩角に彼女は立っていた。その衣装に、たそがれの陽《ひ》がわずかに反射し、まるで蛇の鱗《うろこ》の光を連想させた。
〈………〉
岩見はなぜか、背筋がぞくっとした。
「あの女《ひと》ですか?」
「そうですよ」
こんな会話が聞こえたのか、岩角にいた女が、一歩か二歩、歩き出したときであった。突然、恐ろしい光景が起きた。
女は「あっ」と悲鳴をあげた。岩見が見たのは、その女の着ている鱗のようなものが、一斉にけば立ったかと思うと、それこそ、一瞬のうちに、女の躰は宙に浮き、浮いた直後には、もうそれこそ、物凄い絶叫と共に、渓流の中へ落ちてしまったのである。
このとき、岩見は、何か異常なショックを全身に受けた。それは、〈髪の毛が逆立つ……〉という表現がピッタリのものだった。
「どうしたんだ?」
と、岩見は思わず叫んだ。
「女のひとが渓流に飛び込みました」
福沢が言った。
「いや違う。何か、目に見えないものの力で、渓流にひきずり込まれたんだ。ぼくにはそんな風に見えた」
岩見は言いながら、たったの今、女が消えた岩頭に立って、十メートルほど下の岩だらけの瀬を見おろした。
女の躰は、頭から水中に没し、わずかに一本の足が覗いていた。
「とにかく人を呼んで来ないことには……」
岩見は、自分でもハッキリ分かるくらい嗄れ声で言った。
「じゃ、お願いします。私はあの女《ひと》が流されないか、ここで監視していますから……」
福沢技師の言葉を背に、岩見は元のテントまでとって返した。
夢中で駈けながらも、岩見の耳には、あの女の絶叫が、いまも木霊《こだま》していて、空恐ろしい気分が去らなかった。
〈それにしても、あの女は、どうして墜落したのか? われわれの姿を見た瞬間、とびあがったようになったが、未だ十メートル以上も距離はあった。しかも、あの異様なショックの正体は……〉
岩見には、何がなんだか分からなかった。ただ、その得体の知れない衝撃を思うと、彼はあらためて、太古のピラミッドの恐怖を感じるのだった。
10
それからは、特別取材班が慌てて、警察へ手配したり、墜落死した女を、渓流から拾いあげるなど、大活躍することになった。
幸か不幸か、雨傘山の山麓には、昨日から泊りこみの警察のワゴン車とパトカーの各一台があり、その中に、八人の刑事達がいた。彼等は、カンパンなどの携帯食糧で、ささやかな夕食をすませていたが、
「若い女が渓流に落ちた!」
というテント村の叫びを聞くと、長いロープを持ち出し、ただちに、急坂をおりて、救出に向かった。
そもそも、暗い洞中での事件のために集まっていた刑事なので、ライトやロープなどの用意は充分あった。
このロープを、女の胴体に巻きつけ、大勢で力を合わせると、五十キロ足らずの女の躰は、みるみるうちに崖の上まで持ちあがって来た。
岩見は、懐中電灯を持って、待ち構えていた。ライトで照らすと、
〈あっ〉
と、彼は息を呑んだ。
女の両眼は、怨めしそうに開いたままになっていた。その形相の物凄さは、これまで彼が見た死体のどれよりも凄まじかった。
〈頸《くび》の骨が折れたようだ……〉
岩見は判断した。これでは、即死だったろう。
その上、彼女の着ているメタリックなウェアは、一部が千切れており、その悲惨な最期を物語って充分だった。
「足を踏みすべらせたのか!」
刑事の一人が、崖の上を見て言った。
「実は、この女《ひと》は、ぼくと福沢さんの方へ歩いて来ようとして、急に後ろにのけぞるようにして落ちていったんです。足を踏みすべらせたのではないですよ……」
岩見は言った。
「じゃ、どうしたと思います?」
「そうですね。魔神の力で後ろに引っ張られたという感じでした」
と、岩見は、正直な感想を言った。
「魔神ですか?」刑事はニヤリと笑った。「ピラミッドに巣食う魔神ね」
「冗談を言ってると思うかもしれないが、とにかく、その一瞬、あの衣装がふくれあがったようになって、こう襟にからまりましてね……。エリマキトカゲの怒ったときみたいになって……」
岩見は、見たままの様子を喋っているつもりだった。しかし、若い刑事は、それを岩見の表現の俗な|せい《ヽヽ》だと思ったらしい。
「ホウ。エリマキトカゲですか。いろいろ出るんですね」
「本当ですよ。ぼくも、ひどいショックを受けました」
「なるほどね。しかし、それで、どうやら見当はつきます。これは、渓流沿いの突風という奴が吹いたんですよ。瞬間的な風……現にあるでしょう。山で吹かれりゃ、よう……という|あれ《ヽヽ》だったんです。きっと」
その刑事は、合理的にものを考えることに慣れているらしい。いや、慣らされているというべきだろう。
「風ですか。うん、風ということが一番考えられるけど……」
岩見は納得できなかった。
「風は吹いてなかった……と言うんじゃないでしょうね?」
「ズバリ、それです。あのとき、風らしいものは、そよとも吹いてはいませんでした。そうでなけりゃ、あの女性も、渓流を見おろすような端に立っているわけはないんです。いくら見晴らしがよくても……」
「だから、瞬間的な風と言ったでしょう。突風です」
岩見は首をかしげた。
いつまでも、この刑事とやり合っていても仕方がないと思った。彼は実際に、あの瞬間を目撃しているのである。
〈……さあ……大きな問題を抱えたぞ。この不可思議な墜死……。これと赤西先生の殺人事件とは無関係なのだろうか?……それとも……〉
社外リポーターとして、いくらかでも自由な立場にある岩見は、若い女の突然の死の目撃者となったことで、急にピラミッドより、こちらの事件《ヽヽ》に興味を持ってしまった。
まず、女の身許を知りたかった。この方は、彼女の所持品らしいショルダーバッグが、谷底の岩の間から出て来た。〈クラブ≪朱《あけ》≫……〉という名刺のほかに、古葉朱美という個人の名刺もあった。どうやら、この女は、朱美といい、クラブ〈朱〉のママらしいと分かった。
クラブ〈朱〉が、西銀座にあることも、名刺に印刷されていた。
岩見は、
〈そんな銀座のクラブのママが、なぜ、こんな山奥に訪ねて来たのだろう?〉
と訝《いぶか》った。
その疑問に対する回答は、間もなく、警察の照会で、この日に、朱美を乗せたタクシーの運転手が名乗り出たので分かった。
「……殺人事件の関係者として、そちらへ行ったんですよ。あのお客さんは……」
東郷という運転手は、車内で聞いた情報を警察に流した。
こうした情報は、毎朝新聞の者の口から、岩見のようなリポーターの耳にもはいって来るのだ。
〈……ということは、赤西先生の遺体と対面するつもりで来たのかな?……もしや……〉
岩見は、あることに思いつき、それを自分なりに確かめたくなった。彼は、堤副主筆に断ると、自費で急ぎ帰京することにした。
11
鹿角市の現場を離れた岩見は、そのまま、直ちに東京へ帰ったのではなかった。赤西の遺体解剖の結果を知りたかったし、その上、赤西夫人、睦子にも会って、〈朱〉のママ、古葉朱美について、何か知っているのではないか、それを確かめるつもりであった。
秋田から東京へ、航空機で戻れば、わずか一時間の飛行時間ですむ。
岩見は秋田県警と連絡をとり、睦子の居場所を尋ね、彼女と会う約束をとりつけた。
時間は午後四時。これだと、秋田空港18時55分の東京行に、楽に間に合う計算だった。場所は、秋田駅前の純喫茶〈はたはた〉の二階席ということになり、岩見がその店へはいって行くと、窓際のシートに、薄紫のスーツを着た睦子の姿があった。
「お待ちになりましたか?」
岩見は、形通りの挨拶をして、彼女と向かい合った席に坐った。
「いえ。私も五分くらい前に来たところですわ」
と、手のハンカチをにぎりしめて言った。そのハンカチも、薄紫色だった。
岩見は、北国ブレンドと銘うったコーヒーを注文した。それから、睦子に対して、
「赤西先生の解剖結果は、いかがでしたか?」
と訊いた。
「はい。一応、済みましたのですが、詳細な結果は、一カ月くらい後に、文書でお渡しいただけるようですの」
「一カ月ですか?……そんなにかかるんですか。これは驚きました」
「病理学的な検査をいたしますと、どうしてもそのくらいはかかるとおっしゃっていました」
「では、捜査の進捗《しんちよく》が遅れてしまいますね?」
と、岩見は言った。
「でも、警察の方には、主要な点は、ご連絡ずみのようですけど……」
「そうなんでしょうね。そちらの方で、特別の……変ったことは、分かりませんでしたか?」
「私は……ただ主人の遺体を、頂戴して引き取ればよろしいのですから、ざっと伺っただけですわ。その結果は……一応、咽喉の突き傷のほか、これという死体所見はないというお話でした」
「やはりそうですか。すると、咽喉を突かれて、亡くなられたのですね」
「はい」
「ぼくも見ましたが、刃物で抉ったように、肉を切り取ってあったように思うんです。その肉片が現場から発見されていませんね」
岩見は、自分の心にひっかかっている疑問点を、口に出した。
「ええ。それは……ナイフと一緒に、どこかにあるんじゃないかと、警察の方もおっしゃっておりましたわ」
「不思議な事件ですね。犯人消失というのは、赤西先生のお書きになったミステリーの中にも、二、三ありますね。ぼくも拝見しています。しかし、今回のような、みなさんの目と耳のあるところで、忽然と消えてしまったのは……確か、先生のお作にもないと思いますが……」
「はい。そうだと思いますわ」
「奥さまは、これからは、どうなさいますか?」
「遺体を、特殊の寝台車という搬走車にのせて、一緒に帰宅するつもりですわ。葬儀の予定もございますので……。岩見さんはどうなさるのですか?」
「ぼくは、今夜の全日空で東京へ戻ります。調べなければならないことが起きたので……。奥さまは、雨傘山に近い大湯川支流の渓谷に墜落死した女性のニュース、お聞きになりましたか?」
と、岩見は訊いた。
12
「いいえ……全然……」
と、睦子は首を左右に振った。
「そうですか。そうでしょうね。それどころではありませんからね」
岩見は、運ばれて来たコーヒーカップを手に取り、口に運んだ。
「どなたが亡くなられたのですか?」
「銀座のクラブ〈朱〉というところのママで、古葉朱美という女性ですよ」
「………」
「ご存知ですか?」
「いいえ」
「そうですか。ぼくは、この女性は、赤西先生のお知り合いではないかと、勝手に想像していたんです。では、奥さまは、クラブ〈朱〉のことも、ご存知ないのですか?」
「はい」と、睦子は項垂《うなだ》れた。「全然、聞いたことも……」
「それでは、伺うわけにはいきませんね」
「何か、その女《ひと》と、主人とを結びつけるものでもありましたの?」
睦子は、一瞬、ちらっと上目遣いに岩見を見た。
「それはないのです。だからこそ、奥さまに伺ってみようという気になったわけですよ。とにかく、この女《ひと》の死んだときも、実に不思議なことが起きたんです」
岩見は、自分が目撃したことだけに、喋りたかった。
「どんなふうに不思議でしたの?」
「古葉朱美さんというかたは、渓流を見おろす崖っぷちに立っていたんです。そこへぼくらは行ったんですがね。彼女、一、二歩、歩き始めたとき、急にフラッと、高い崖から落ちてしまったんです……」
「あら。それは、風に吹かれたからじゃないんですか?」
睦子は、眉をひそめて言った。
「ええ。常識的には、風に吹かれて、足許が狂ったということなんでしょうが、ぼくは彼女をじっと見ていましたが、そのとき、強い風は吹いてませんでしたよ」
と、岩見はハッキリ言った。
「でしたら、足場が悪くて……たとえば、石につまずくとか……なさったのとは違いますか?」
睦子は、首をかしげながら、呟くように意見を言った。
「それもあります。確かに、足許には、ゴロゴロと石がころがっていたんですよ。でも、前へころがるのはいいにしても、後ろへころがるというのは、どうしたことでしょうね。信じられませんよ」
「なくもないでしょう?」
「信じられないことも、たまにはありますよ。ゴルフでティショットしたら、ボールが後ろへ飛んだという例もあるんです。これは、ティマークにボールがぶつかっただけなんですが……」
「まあ……」
「ぼくの感じでは、何かあのとき、特異な状況が生じたように思うんです。あの女《ひと》はメタルウェアを着ていたんですが、それが逆立ったようになりましたから……。まるで恐怖に怯えたエリマキトカゲみたいに……」
「分かりませんわ」
と、睦子は言った。
「ぼくにも。ですから、本当のことは分からないんです」
「メタルウェアというのは……」
「珍しい衣装ですね。水商売の女《ひと》が、たまに着るようなものだと思いますよ。ホラ、薄い光った円型のメタルを綴り合わせ、それに裏地をつけたものです。きっと、あのママはそれが趣味だったのかもしれませんね」
「悪い趣味ですわ」
と、睦子は言った。
「ま、いろいろの女がいるってことでしょう。あるいは、あの派手さが、ピラミッドに眠る太古の日本人の霊の怒りを買ったのかな? 本当に、こう言うとおかしいかもしれませんが、彼女の死は、まるで、目に見えない力に引きずり込まれて、あの渓流に落ちていったとしか思えないんですよ」
「可哀そうなかただと思いますけど、私と主人には、直接、かかわりのない事件ですわ」
「そうでしたね。少し、ぼくが余計なことを考えてしまっているようです。この事件は、明日とはいわず、これから夜の西銀座へ行って、〈朱〉のホステスの誰彼をつかまえて、訊いてみれば、彼女がなぜ、雨傘山へ行く気になったか分かるでしょう」
と、岩見は、自分に言いきかすように言った。
「でも、その不思議な死に方は、永遠の謎ですわね……」
睦子は、薄紫のハンカチを、軽く指先で嬲《もてあそ》びながら呟いた。
「そうかもしれません。ぼくは、今、島木健作の『赤蛙』という作品を思い出しました。生きるってことは、不思議なものですね。目に見えない力に支えられて生きている。一方、死に向かって歩いて行く人間も、他人には理解しがたい力に支配されているんです。一匹の赤蛙が、死を賭《と》して濁流をわたって行く。その動機は誰にも分かりはしません。同じように、ぼくには、あの女が、どうして、大湯川支流の渓谷に落ちてしまったのか、理解できないんです」
「岩見さんは、文学的なところがあるのですね。感心しましたわ」
ホッと肩で息をしながら、睦子は感想を洩らした。
「別に文学的じゃありませんよ。あの日本のピラミッドと思われる山々に接していると、誰だって、日常生活から離れた世界を考えてしまうでしょう。まして、奇妙な事件を、連続して経験したんですよ、このぼくは……」
岩見は、思わず、語気を強めて言った。
13
午後九時半、東京・西銀座にある三洋ビル地下一階のクラブ〈朱〉に、岩見の姿が現われた。
朱美はやとわれマダムだったのかもしれない。ママが死んだというのに、店は閉めもせず、狭いドアをあけて、客が吸い込まれてゆく。
岩見が店内を覗くと、客は六人で、四人のグループとカップルだけで、全体にがらんとしていた。
岩見は慣れた物腰で、部屋の隅の人工レザーのソファに坐った。女の姿は三人に見えたが、そのうちの一人、チャイナ服の変型みたいな脇スリットのあるドレスをきた若い女が、すぐそばにきて坐った。
おしぼりが出ると、それを広げて岩見に渡す。
「すいてるじゃないか……」
話のキッカケをつくろうとして、岩見が言った。
「ええ、ちょっと……」
源氏名を〈リリー〉という女は、言いにくそうに口籠った。店の経営者に何か口止めされたのだろう。
「ダブル、つくってくれ」
と、岩見は言い、アルコールの準備ができるまでに、あたりの様子を窺った。
〈ここなら、少しぐらい喋っても、ほかの者には聞こえそうもないぞ〉
と、見当をつけた。
「どなたかと、お待ち合わせ?」
リリーが訊いた。
「いや、そうじゃない。ま、乾杯してからだ……」
と、彼は、女の飲み物のグラスと、軽く自分のグラスを打ち当て、ひと口、アルコールを咽喉に流した。
「初めてでしょう、ここへは?」
と、リリーが訊いた。
「いや、なん度も来ているさ」
岩見は嘘をついた。
「本当? 冗談でしょ? そうよね。私……記憶にないもの」
リリーは、疑わしげに、じろじろと岩見の顔を覗くようにした。
「本当さ。その証拠に、朱美ママのことはよく知っているぜ。彼女、メタリックの衣装が好きじゃないか」
これしかない、という手持の材料で、ドンとばかりにリリーにショックを与えた。
「え?……うそー。どうして知っているのよ、ママのことを……」
果して、リリーは半信半疑の状態に陥った。これが岩見の作戦だった。
「よく知っているよ。しかし、あんなミラーボールを仕立てたみたいなドレス、よく好きになるものだよ。店の中ばかりか、外でも着て歩いているじゃないか」
「そうなのよ。とても好きで……。今年の春先からそうし始めたの。前は、和服なのよ、ご存知?」
「ウンウン」
知るはずもなかったが、調子を合わせて、リリーの次の言葉を誘った。
「急に変ったんで、私達もびっくりしちゃった」
「どうして、そんなことになったんだい、ママは?」
「……分からないわ」
急に、リリーの口が重くなった。しかし、その態度で、岩見は逆に、
〈この女、ママの変身の理由を知っているに違いないぞ。そのことを糸口にして、朱美の真実《ヽヽ》に迫ってみるか〉
と考えた。
そこで、岩見は作戦をたて直した。
「リリーの本名はなんというの? まさか、本名、リリー・マルレーンじゃないだろう?」
「当り前よ。本名は星小夜子。可愛いでしょう」
「星小夜子か。なんだか宝塚、花組のスターみたいだな」
「みんな、星小夜子も源氏名だと思うのね。でも、家は代々、星というのよ。小夜子というのは、父がロマンティックな気持でつけたらしいわ」
「小夜子さんか。いい名だな。小夜子さんに訊きたいけど、この店に、推理作家の赤西栄次郎という男が来たことはあるかい?」
タイミングを見計らって、岩見はズバリと訊いた。
14
この質問に、リリーは、飛びあがらんばかりのショックを受けたようだ。彼女は手のグラスをテーブルの上に置き、まじまじと岩見を見据えた。
しばらくして、少し嗄れた声で、
「お客さん、刑事でしょう? ねえ……」
と言った。
しかし、岩見にしてみれば、リリーがこれほどまでに動揺するとは、予想もしていなかったので、びっくりしてしまった。
「いや、残念ながら、刑事じゃないよ。ぼくは毎朝の記者だ」
「新聞《ぶん》屋さん?……でしょうね。とにかく、ただ者じゃないと思ったわ」
「ただ者さ。吹けば飛ぶようなタダの者だよ」
と、岩見は言って、フフフと含み笑いをした。
「ね、ママの死んだ事件。調べに来たんでしょう?」
と、リリーは、自分から岩見に身をすり寄せ、声を低くして訊いた。
「ま、当らずと言えども遠からずだよ。とにかく、ひとつ、肝心のことを教えてほしいんだ。ママと赤西先生の間に、何かあったのかな? それとも、関係がないのか?」
「しっ。黙って。それについては何も言えないわ。それより、私の方から訊きたいのよ、いいでしょ?」
と、リリーは言った。
相手を自由に喋らせるためにも、向こうの要求をある程度、納《い》れてやらなくてはならない。そのくらいの|コツ《ヽヽ》は心得ている岩見だった。
「いいとも……」
「ママはどうして死んだの? 事故だって話もあるけど、マネージャーは、殺されたとも言うし……本当はどっちが正しいの?」
「実は、そのとき、目撃したのはこのおれなんだ」
と、岩見は、いつもの〈ぼく〉をやめて、少し怕い顔をした。
「見たのね?」
「そうさ」
「で、どっちなの?……誰かに突き落されたわけ?」
「いや、違うな」
「じゃ、足を踏み外して落ちただけなのね?」
「それも違う」
岩見は重々しく言った。
「どっちなの?」
「どっちでもないんだ。ママは、ピラミッド魔神の力で、谷底に吸い込まれたんだよ」
「ピラミッド魔神て……一体、なんなの? そういえば、テレビでピラミッドの発掘とかなんとか言ってたわね。日本にピラミッドあるの? あれはエジプトじゃない?」
「あると言えばある。ないと言えばない」
「嫌だ……。私、頭が悪いから、そんな風に言われると困っちゃうわ。一体、どっちなのよ」
「リリーは、やたらに、どっちだ、どっちだというが、物事は右と左の二つに分けられるものじゃないよ。ピラミッドのことは、こっちへおいて……とにかく、ママは、不思議な力で、谷底に引きずりこまれていったんだよ」
「なんだか神がかりなのね。分からないわ……」
「それが|こっち《ヽヽヽ》にもよく分からないものだから、わざわざこの店まで来たのさ。ところで、リリーの質問には答えたんだから、今度は、こっちの質問に答えてくれないか?」
と、岩見は訊いた。
「え? なんの質問?」
「ホラ。ママと作家の赤西栄次郎先生だよ。先生は、このお店に来たことがあるんだろう?」
「……それを言うと、新聞に出るの?」
「出たければ出してもいいよ」
「別に、出たくはないけど……。とにかく、ここではダメよ」
「ダメとは?」
「いろいろ都合があるのよ」
言われてみると、マネージャーらしい黒蝶タイの男が、二人《ヽヽ》の様子を怪しみ、時折、こちらを盗み見している。
「分かった。リリーの家に行こう。明日にでも……」
「そうして」
「どこだい?」
「ここよ」
リリーは、名刺を出し、その後ろに、岩見の差し出すボールペンで、住所と電話番号をすらすらと書いた。
「……〈ヴィラ・ヘブン〉か」
「そう。ここの三階よ。二階には、ママの自宅もあるの」
「ホウ。それはいい」
岩見には、リリーの証言がきっと役立つという確信に似たものが生じた。リリーと死んだママは、同じマンションに住んでいるのである。ということは、ママの私生活について、何事かを知っているのだ。リリーは、それを喋りたいに違いない。
「明日の午後四時頃に、ね。三時に起きて、お風呂にはいるのよ。だから……」
といい、リリーは、コケティッシュに微笑してみせた。
15
翌日の午後四時。岩見は約束通り、リリーこと星小夜子の住居〈ヴィラ・ヘブン〉の三階に、小夜子を訪ねた。
このビルの構造は、東側に露出した回廊がぐるっと巡っており、各戸のドアがそこに並んでいる。そして、回廊は外気に接しているから、この部分に、キッチンや浴室の換気扇などが取りつけてあった。
捜し求めた三階の301号室が小夜子の部屋で、その真下が、亡くなった朱美の住まいらしい。
岩見は、301号室のインターホンのボタンを押した。室内でチャイムの鳴っているのが、よく聞こえた。
しかし、なんの反応もなかった。
〈おかしいな。留守のはずはないが……〉
と思った。
昨夜、あれだけ約束したのだし、第一、クラブホステスが、そんなに早く外出するとは思えない。
もう一度チャイムを鳴らし、やはり応答がないので、ドアのノブを引いてみた。が、鍵がかかっている様子だ。
〈まさか、眠り込んでいて、目が醒めないというのではないだろうな……〉
と、思ったとき、フト、ひとつの事実に気がついた。
それは、回廊に向かって開いている換気扇のひとつが、回転しているのだ。換気扇は、キッチンかトイレか浴室かである。
岩見は、外側から判断して、星小夜子の部屋のそれが、浴室用だと思った。
〈ああ、そうだ。彼女は、午後三時頃から入浴する習慣だったな……〉
と気がついた。
もしかすると、現在、彼女は入浴中なので、インターホンに応じられないのかもしれないのだ。
岩見は、回転している換気扇のそばへ行った。あるいは、小夜子の入浴しているシャワーなどの音が響いてくるのではあるまいかと、多少、エロティックな空想もした。
ところが、耳を澄ませても、人の気配などまったくして来なかった。そればかりか、岩見は妙な匂いを嗅いだ。
その匂いというのは、何か強烈な花の匂いのようでもあり、薬品のそれとも思えるものだった。
〈なんだろう?〉
と、彼は訝《いぶか》った。
その匂いは、確かに、換気扇の方から洩れてくる。もっとも、岩見は、自分でもおかしいくらい、嗅覚が鋭かったから、そのわずかな匂いを感じたのである。
匂いは、じきに薄れていった。慣れてしまえばそれほどのことはなかった。
〈一体、彼女はいるのか、いないのか?〉
判然としなかった。
浴室の換気扇が、回り続けていることからいえば、小夜子はそこにはいっているのでなければならぬ。しかし、なんの物音もしないのだ。
〈さては……〉
と、岩見が考えたのは、入浴中の小夜子が、心不全か何かのために、浴室内で昏倒してしまった姿だった。
もし、この悪い想像が的中しているなら、少しでも早く、手当をしてやらねばならぬ。
〈どうしたものだろう?〉
と、岩見は、301号室の前で、ウロウロしていた。そこへ、住人らしい中年の女性が、外出から戻って来た姿で、どこかのデパートの紙袋をさげ、通りかかったが、岩見の挙動を怪しんで、
「どうなさったのです?」
と問いかけた。
〈もう、やむをえない〉
と、覚悟した岩見は、
「301号室の星さんを訪ねて来たんですが、応答がないんです」
と言った。
その中年女は妙な顔をして、
「そうですか。星さんは、今頃まで必ず家にいらっしゃるのに……」
と呟いた。
「そうでしょう? そう思って来たんです。ここの換気扇は浴室じゃありませんか?」
岩見が訊いた。女はじっと眺めた末、
「ああ、そうですよ。回っておりますね。ではお風呂にはいっていらっしゃるんでしょう」
と答えた。
「しかし、それらしい物音もしないし、どうにも理解できないのです」
「でしたら、下の管理人さんのところへいらっしゃって、念のために、覗いてご覧になったらどうでしょう? マスターキーをお持ちですし、星さんは、よく管理人さんに、いろいろとおまかせになっていますよ」
「そうですか」
この女の言葉がヒントになって、岩見は、一階のマンション管理人室へ行き、事情を話した。
16
管理人は、六十くらいの頭髪《あたま》の薄い男で、日頃から、星の室の管理は頼まれているとみえ、
「いないはずはないんですよ。そうですか。もし、万一、具合でも悪くなっているといけないから、覗いてみましょう」
と、積極的に言ってくれた。
そこで、マスターキーを持った管理人が、301号室のドアをあけてくれた。
「星さん、星さん、お留守ですか?」
管理人は声をかけつつ、靴を脱いで室内にはいった。岩見も後ろに従った。
「浴室を見て下さい。換気扇が回っているんですから……」
岩見が呼びかけた。
星の部屋は、若い女の生活臭が漂い、壁紙もカーテンも、ピンク系の色調に統一されていて、割にこざっぱりしていた。
〈別に荒らされてはいない……〉
岩見が内心で考えていたとき、管理人が浴室のドアをあけ、脱衣室を見た。
「ホラ」
と言う声がしたので、岩見も覗くと、ビニール製の脱衣籠の中に、色っぽい女の下着が乱雑に脱ぎ捨てられていた。誰にも見られることはないという安心感で、ポンと放り出した恰好なのが分かった。
「浴室ですね」
と、岩見が言った。
管理人は返事をせず、ガラス戸を右手で、ドンドンと叩いた。
「星さん、星さん……。あけますよ」
しかし、なんの反応もない。
管理人は、とうとう曇りガラス入りのドアをあけた。途端に、岩見は、先刻、回廊の方で嗅いだ強い香を、ツンと鼻に感じた。だいぶ、換気扇から放散していたものの、未だ、浴室内に漂っている匂いだった。
「おう。あれは……」
と、管理人が立ち尽くしたので、岩見は一歩進んで、これもピンク系のタイルを貼りつめた浴室を見た。
かすかに、換気扇の回転する音が続いている。ここのマンションの浴槽は、完全な洋式であった。白い琺瑯《ほうろう》製のような浴槽は、舟型でそこにシャボンの泡が立ち、その中に女の裸身がすっぽりと沈んでいた。その状況から見て、彼女が完全に死亡していることは疑いなかった。
「救急車を!」
と、岩見は叫んだ。
洗剤の匂いと、薬品の臭気が二人の男の鼻孔を襲った。
「電話はダイニングキッチンにあるはずですよ」
と、管理人が言った。
彼は、岩見の予想よりテキパキと、物事を進めてくれた。救急車ばかりか、110番へも通報し、万一の場合に備えた。死亡していれば、救急車には乗せてくれないからである。
こうして、星小夜子は、岩見が考えてもみなかった浴室内の死体という恰好で発見された。
救急車はやってきたが、結局、小夜子が三十分ほど前に絶命しているということになり、役立たずに終った。
果して、小夜子の死は、事故か病気か、それとも自殺、他殺などの犯罪行為によるものかが、突如として問題になって来た。
純西洋式バスにあっては、内槽面に沿って、裸身がすべりやすいために、子供などが水に沈むという事故が、|まれ《ヽヽ》にはある。しかし、小夜子は子供ではない。
状況からみて、自殺とは思えないので、病死の線が考えられた。しかし、死因は外傷もないので、心臓麻痺か気分が悪くなり、浴槽に沈んで窒息死したかのいずれかが有力である。
ただ、不可解なのは、バスタブの中から、ハッキリとエーテル様の匂いが立ち昇っている事実だった。バスクリンなどの薬剤と違って、この匂いは、麻酔薬特有のものである。何者かが、換気扇のわずかな空間から、入浴中の小夜子に、強力なエーテル液をふりかけたらどうなるか。沸点の低いエーテルは、バス中で気化し、入浴中の小夜子を襲う。その場で気を失ったとしたらどうなるか。
バスタブは、換気扇の真下にあるのだ。洋式バスは、入浴者が失神すれば、ずるずると躰をすべらせ、全身をすっぽりと湯が覆うに違いない。その結果、彼女はほんのちょっとの失神で、生命《いのち》を失ってしまうだろう。
〈他殺の可能性もある……〉
と、捜査の担当刑事は思った。
第一発見者となった岩見は、なぜか、真っ先に、小夜子が殺されたのではないか、と疑った。そして、その原因は、彼女が岩見に何か喋ろうとした口を封じるためのような、嫌な予感に襲われていた。
17
赤西事件というハプニングはあったが、毎朝新聞による〈日本のピラミッド調査〉は、着々と進展していた。
洞穴の本道に当る部分は、崩れかけていたので、坑道用の支柱を使いながら、掘り進んでみると、側壁には、明らかに石斧によって刻まれた痕跡が現われてきた。
勢い込んだ調査団が、なおも崩落した土砂を除去していくと、右手の壁にポッカリと穴があいた。直径二十センチくらいで、とても人間が通り抜けなど出来ないものである。
「これは他の部分に通じる空気穴ではないか」
と、荒木教授が言った。
エジプトのピラミッドにも、同様の通気孔は掘られていたのだ。
注意しながら、通気孔内部を調べると、それはかなり上方へぬけている。
「おや……」
調査員の一人が、穴の奥に手を突っ込んでみて、不審そうな顔をした。彼の手に、ビニールの包のようなものが触れたのだ。
古代には、ビニール製品など、あるわけもないので、取り出してから荒木教授も、手袋をした手で受け取り、
「どうして、こんなものがここに……」
と、首をひねった。
|こちら《ヽヽヽ》側からは、大量の土砂を除去して、やっと到達したのだから、この現代の品物は通気孔の上方から落ちたものに相違ない。
上方というと、祭壇室のある方角になるのだった。
ビニールの包は、大きさが写真の手札判くらいになっており、折り畳んだものを、ビニールテープで留めてあった。
荒木教授は、その場では開けず、テントまでそれを持ち帰った。毎朝の堤副主筆も、
「妙なビニール包が発見された」
という知らせを受け、なんだろうと、教授の手許を見詰めた。
「これは汚れ具合からみて、ここ数日の間に捨てられたものですよ。それも、あの祭壇室のあたりから、深い穴の底へ……。それが、たまたま、通気孔へとびこんでしまったということでしょう」
荒木は、堤に解説するように言った。
「誰がやったんでしょう?……誰にしても、文化的価値があるわけではないし、一種の遺失物……いや、ゴミという扱いで構わんでしょう」
堤は、自分に言いきかせていた。
「ではあけますよ」
と、教授は、手袋をした手で、ビニールテープをはがした。
ビニール包の内側には、毎朝新聞の日曜版を千切った紙にくるんだ数葉の品がはいっていた。二枚は写真であり、他は白封筒入りの手紙だった。
写真の方を見た堤は、
「おお、これは赤西先生じゃないですか?」
と、びっくりして言った。
「そうだ。赤西先生だ」
と、荒木教授も言った。
一葉は、赤西が浴衣を着て、どこかの旅館で寛《くつろ》いでいる写真だった。前には酒や膳部が並んでいる。隣には、頬を寄せるようにして、一人の女性が撮られていた。二人の関係の深さは、このシーンだけで分かった。
他の一葉は、ホテルの入口らしいところで撮った同一男女の記念写真だが、その女性の方がメタリックな衣装に身を包んでいたので、堤はハッと気がついた。
「その女《ひと》は、そこで転落死した西銀座のクラブ〈朱〉のママじゃないか……」
その通りであった。この二葉の写真は、赤西と朱美の仲を如実に物語る、一種の証拠写真になっているのだった。
「そうすると、この手紙は?」
荒木教授は半白になった頭を、小指で軽く掻きあげながら言った。
「読んでみましょう」
堤が白い封筒を調べると、それは、古葉朱美から、赤西にあてた艶書だった。その中で、彼女は、綿々と彼に対する愛を訴えながら、「……離婚の話を、もっと積極的にしてほしい」と書いていた。どうやら、赤西は、睦子と離婚して、朱美と一緒になるような約束をしたことがあるらしい。
「どういうわけで、こんなものが、洞穴内に捨てられていたんでしょうな」
と、荒木教授は首をひねった。
「その犯人《ヽヽ》というのは、こうした品を他人《ひと》に見られたくないので、あの永遠の闇に閉じ込めるつもりだったのでしょう。ところが、天の悪戯《いたずら》ともいうべき事態になって、品物は通気孔の底に落ち、われわれがそれを発掘してしまった、というのが真相じゃないですか」
堤は、そう呟くように言うと、ぐっと顔をあげた。その目の光には、獲物を狙う猟犬のそれが宿っていた。
18
〈ヴィラ・ヘブン〉で死んだ星小夜子の事件では、当初から、他殺の疑いが濃かった。というのは、小夜子の死亡していた浴室内部には、かなり強い特異な臭気が漂っていたからである。
そこで、浴槽内の湯や、付近に付着していたものの微量を採取して調べた結果、
「この浴槽に、かなりの量のビニールエーテルが滴下された可能性がある」
と、判断された。
ビニールエーテルは、かるい無色の液体で、エーテルより吸気による麻酔の導入が早く、しかも作用の強い薬品である。普通、小手術に用いる。この液体は、沸点が三十度前後なので、浴槽内の湯に滴下すれば、たちまち気化してしまい、入浴中の小夜子は、昏倒してしまうだろう。
彼女が、洋式浴槽の中にいれば、力がぬけた瞬間から、ズルズルとすべって、全身が水中に潜ってしまうことになる。
つまり、この薬品を浴槽内にうまく落せば、間接的に彼女を殺せる。
では、実際にはどうかというと、そうすることが可能だと分かった。換気扇の口に、わずかだが、ビニールテープが残っていた。ここに、換気扇が回転する前に、細いビニール管をテープで留めておく。換気扇の動きの邪魔にならないように……。そして、いよいよ小夜子が入浴したら、この管に注射器の針をとったものをつないで、麻酔薬を注入する。
換気扇のすぐ下が浴槽だから、充分、この方法がとれるのだ。
犯人は、この後、大急ぎで、ビニール管を取りはずしたはずだ。その証拠に、換気孔の下辺に、ビニールテープがはりついて残っていた。急いでいるので、貼るときと違って、ファンが回転しているために、充分にはいかなかったのだろう。
犯人にとって、その殺人方法は、すこぶる安心だ。万一、失敗しても、被害者に顔を見られる気遣いはないし、また、計画をたて直せる。
警視庁の鑑識係が、このビニールテープの一片を、詳しく調べた。すると、この裏に、右手拇指の指紋ひとつが、ハッキリと残されていたのだ。
「犯人の決定的な証拠だ!」
と、捜査陣は色めき立った。
19
赤西と朱美の情事を示す証拠の写真と手紙が出たことは、堤の口から岩見に伝わった。
岩見は、そのビニール包が、ビニールテープでとめられていたことに、ひとつの共通点《ヽヽヽ》を感じた。
彼は、漠然としてはいたが、二つの事件《ヽヽ》の結びつきを思い、堤に、
「それを捨てた者の指紋か何かが、ビニールに残っていやしませんか」
と言って、品物を本社に送り、指紋をチェックするようにヒントを与えた。
しかし、鹿角市の現場に、岩見が戻る以前に、秋田県警でも、この不審な拾得物をマークして、指紋は採取済であった。
こちらは、捨てた人間が油断していたとみえ、七個のほぼ完全な指紋がとれ、その中には右手拇指もあった。もっとも、この指紋を、〈ヴィラ・ヘブン〉のそれと照合するのは、ずっと遅れてしまったが……。
岩見は、現地に戻る前、葬儀を終えたばかりの睦子と会うことに成功した。
睦子は、黒い喪服を着て、やや蒼ざめた表情をしていた。
赤西邸の応接間は、一枚ガラスを通して、秋色の濃い芝生がよく見渡せた。
「……赤西先生と古葉さんという女《ひと》のことを、お聞きになりましたか?」
少し残酷な気もしたが、睦子の口から、詳しい事情を聞き出すためにも、触れないわけにはいかなかった。
「はい。堤さんから……」
と、口数少なく、睦子は答えた。
「ああいう事実を、奥さまは、ご存じなかったのですか?」
「はい」
「古葉さんという女《ひと》は、明らかに、先生の事件を知って、何か言うために、現地へ出張《でばつ》てきたのですよ」
「主人を傷つけるようで……今は、何もそのことについて、考えたくありませんわ」
睦子は目を伏せた。
「それは分かります。しかし奥さん。ぼくはちょっとそのことでひとつの考えを持っているんです。失礼かもしれませんが、あの手紙と写真を捨てたのは、それを世間に知られたくない……奥さんではないかと……」
「岩見さん。いくらなんでも、ひどいですわ。私は、あの洞穴にはいることはできませんし、現に、一歩もはいっておりませんもの……」
「そうです。確かに……。ですから、誰かに頼んだのではないかと……」
「やめて下さい。私……ひどく頭痛がして。そんな想像の話は、聞きたくありませんわ」
睦子に、激しく拒否された岩見は、赤西邸を、むなしく去るしかなかった。
彼の心の中では、ひとつの想念が渦巻いていた。
赤西は、見えない犯人に殺されたのだ。その赤西を愛していた女、朱美も見えない犯人に消された。そして、二人の事情を知っていたホステス、小夜子も、特殊な方法で口を封じられてしまった。
その中心にいるのが睦子だ。しかし、彼女は、いずれの事件のときも、アリバイがあって、犯行は不可能である。とすれば、彼女に力を貸して、彼女の犯意を実行した者がいるのでなくてはならない。
岩見は再び、雨傘山に舞い戻った。折からこの地方には小雨が降っていた。雨傘山の上を、厚い黒雲がすっぽりと覆っており、昼なのに夕方のように暗かった。
ピラミッドの調査研究は、この日も引き続いておこなわれていた。岩見がテントに着いた時に、大部分の人は洞穴にはいっており、庶務を担当する班員が一人、組立式のテーブルの上で書きものをしていた。
「みなさんは内部《なか》ですか?」
と、岩見は訊いた。
「はい」
と答えた班員の手許を見た岩見は、そこに特別取材班各人の出欠表があるのを見た。むろん、岩見のもあり、昨日まで欠席を意味する斜線が引いてあった。が、岩見はその表のある箇所に目を留めると、思わずハッと胸が高鳴った。
テントを出た岩見は、ヘルメットをかぶり雨傘山に向かおうとした。すると、丁度そのとき、作業を終えた電気技師の福沢が、電気器具関係担当者達三名と共に、引き揚げてくるのに、バッタリと会った。福沢達は、磁力式の探査器を運んでいた。スイッチひとつで強力な磁力をつくり出し、土中の金属性物体を吸いつける機械だ。これで幻の古代鉄製品を発見しようという計画なのである。
「福沢さん。ちょっと話があるんです」
と、岩見は呼びとめた。
「なんです?」
と、中年の技師は、腰のタオルで顔を拭きながら立ちどまった。
福沢は、仲間に器具を所定の位置に返して置くように言い、自分は岩見と二人で、すぐそばの資材置場のテントの端にはいった。そこにも人の姿はなかった。
「ぼくはやっと、古葉朱美さんの死と赤西先生事件の真相をつかんだのですよ。この話、聞きたいと思いませんか?」
岩見は言った。
「ホウ。犯人が分かったのですか?」
福沢は、ヘルメットの下から、じっと岩見を見た。
「そうなんです」
「犯人は誰ですか? どうやって赤西先生を殺したんです?」
「その前に、朱美ママのケースを考えてみました。彼女は、私とあなたの見ている前で、突然、渓谷に吸い込まれるように落ちていきましたね」
「………」
「あれはどうしてか? 悪魔の力などというものではなしに、実際、彼女を谷底へ引っ張り込む力があったのです。それは強力な磁力ですよ。ホラ。たったの今、運んでいたあの機械……。あれには長いコードがついている。磁力発射器を、崖の少し下に隠しておいて、遠くからスイッチをオンにする。そうすれば、それまでなんでもなかった世界が、磁力界に変ってしまう。朱美さんが落ちてから、そのスイッチを切れば……」
「岩見さん。あなたは、私があのクラブのママを殺したとでも言うんですか?」
福沢が顔色を変えた。テントの中は薄暗く、お互いの表情の微妙な変化までは見えなかった。
「そうですよ。磁力を使って、メタリックウェアの彼女を殺したのはあなたです」
と、岩見は断定的に言った。
20
「冗談きついですね、岩見さんも。そうすると、私は赤西先生も殺した犯人なんですか? あのときは、あなたも一緒にテントにいたじゃないですか。地底の異変を、テントの中で聞いた私が、どうやって、先生を殺せるんですか?」
福沢は、果して、強く抗議してきた。
「赤西先生は、刺し殺されたんじゃないですよ」と、岩見は言った。「……結果的には、それも加わっているかもしれないけど、先生は、感電死したんです。先生のヘルメットの準備から、照明器具の扱いまで、一切を教えたのはあなたでしょう? そうすれば、先生のヘルメットの咽喉あたりに、電流痕ができるように、金属片をつけて操作するのは易しいことなんだ。先生は、自分が殺されるとも知らずに、一人、地底にはいり、あなたの指示通りにした。そのために、数百ボルトの電流が流れて、先生は倒れた。こうすれば、あんたを犯人だと思う者はいないからね。その後で、一番先に現場にはいったあんたは、用意したナイフで先生の咽喉をえぐった。そこに、電流痕ができていたはずだった。そして、ナイフと肉片を、あの深い穴の底へ投げ捨てた。丁度、あんたが、赤西先生が所持していた朱美さんからの手紙や写真を捨てたのと同じ場所だとぼくは思う。手紙などは、通気孔の方へ落ち込んでしまったけれど……」
と、岩見はひと息で言った。
「おいおい。勝手なことを言うと、ただではすまないぞ」
福沢は身構えた。
「福沢さん、虚勢をはるのはやめなさい。ぼくも、なんの証拠もなしに、こんな重大なことは言わないですよ。今みると、あんたは、星小夜子……あのクラブのホステスで、先生達の仲をよく知っていた彼女が殺されたとき、やはりここを離れている。あの事件も、あんたのしたことだと分かっているんですよ」
と、岩見は|きめ《ヽヽ》つけた。
「何を嘘ばかり……」
福沢は怒鳴った。
「残念ながら、みんな本当のことなんです。というのは、ぼくが調べた限りでは、あの〈ヴィラ・ヘブン〉の換気孔の下についていたビニールテープの指紋と、手紙・写真を包んであったビニールに付着していた指紋は、同一人物のものだった。これが分かったので、多分……このことについて、警察はあなたを追及しますよ。いずれ、あなたは真実を喋らなくてはならなくなる。それを予告してあげることだけが、同じ仕事についた仲間の唯一の親切だと考えたんです……」
岩見の言葉に、力が加わった。
「………」
福沢は、しばらく黙っていた。それは内部で崩れていくものを、じっと耐えるために必要な時間だった。
「これはぼくの想像なんだが……あんたは、赤西先生の奥さんを愛しているんじゃないですか?」
ズバリと岩見が言うと、ここでハッキリ、福沢の頭がさがった。
「そこまで分かっては仕方がないか……。私と睦子さんは、東西高校の同級生ですよ。だからもう二十なん年も前から、よく知っていた同士です。赤西さんは、あの古葉朱美という女にいれこんで、睦子さんとの間に、深いヒビ割れをつくってしまっていたんです。でも、世間体はあくまでも、そうじゃなかった。『純愛の星は輝いて……』という本の出版は、そうした中で計画されたんです。ところが、この計画の最中に、奥さんは私に相談を持ちかけられたわけでした。『私達はもう終りなの。私をなんとかして……』と睦子さんは言うのです。私は、赤西さんに、三億円の生命保険がかかっているのも聞きました。今なら、あの女《ひと》にも嫌疑はかからないかもしれない。それが発想の第一段階だったのです。方法については……ま、岩見さんの考えた通りでした。私には、医者の友人がいたので、ビニールエーテルを手に入れることはやさしかったし、電気のことは専門でしたからね、しかし、とにかく、赤西さん一人を殺しただけでは、あの朱美さんなどが、夫婦仲を喋ってしまう。それではまずい。本人《ヽヽ》も、証人となりそうな星さんも消さなくちゃならないわけです。朱美さんの方は、向こうから乗り込んで来たので、うまく片付いたんです。でも、まさか、睦子さんに頼まれて、洞穴の奥に捨てた包が、あんな通気孔の中へはいるなんて、思いもしなかったことでしたね。つまり、私に運がなかったってことでしょう……」
福沢は、大きく息を弾ませながら告白した。岩見は、相手の様子を、油断なく窺っていた。突然、襲いかかってくるかもしれないと思った。が、結局、そうしたシーンはなかった。
「正直に喋ってもらってありがとう。ぼくは刑事じゃないから、これ以上、何もしません。東京の赤西夫人と相談して、自首するのもいいでしょう。一切、まかせますよ」
「岩見さん」
福沢は不意に顔をあげた。
「なんですか?」
「いや、なんでもありません」
自分で言い出しておきながら、福沢は打ち消し、そのまま、テントを出て行った。外は一層暗くなり、蕭々《しようしよう》たる雨の音が聞こえるばかりだった。
岩見は赤西夫人のことを考えた。睦子は、赤西より福沢の方を愛していたのだろうか? あるいは、夫より三億円が欲しかったのか。そしてまた、朱美さえいなかったら、赤西を殺そうとまで考えただろうか……と。
岩見の脳裡には、さまざまな答が浮び、そして消えた。彼はテントを出た。目の前に、墨絵のような日本のピラミッド雨傘山が謎めいて聳《そそ》り立っていた。
彼はフッと呟き、大きな溜息をついた。
〈女の心こそ……ピラミッドそのものじゃなかったか……〉
初出
「勝海舟の殺人」昭和四十四年十月講談社刊(「紅の幻影」改題)
「日本のピラミッド殺人事件」昭和六十年一月徳間書店刊(『人の心こそ最大の謎である』所収)
底 本 文春文庫 平成九年七月十日刊