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夜市
恒川光太郎
目 次
夜市
風の古道《こどう》
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夜 市
今宵《こよい》は夜市が開かれる。
夕闇の迫る空にそう告げたのは、学校|蝙蝠《こうもり》だった。学校蝙蝠は小学校や中学校の屋根や壁の隙間に住んでいる生き物で、夜になると虫を食べに空を飛びまわるのだ。
夜市は岬の森にて開かれる。
学校蝙蝠はいった。
夜市にはすばらしい品物が並ぶことだろう。
夜市には北の風と南の風にのって、多くの商人が現れるからだ。
西の風と東の風が奇跡を運ぶだろう。
学校蝙蝠は、町をぐるりとまわりながら自分が町に告げるべきことを告げた。
今宵は夜市が開かれる。
秋の夕暮れどきの空の下をいずみは歩いていた。いずみは大学の二年生だ。向かう先は、高校時代の同級生が暮らしているアパートだった。
同級生の名前は裕司。
いずみは、高校時代には、裕司とろくに話したこともなかったのだが、去年アルバイトをしたレストランでたまたま一緒になった。そのときからのつきあいだ。
裕司は高校を二年生の二学期に退学して以来、学校には行っていない。現在はアルバイトもしていないらしい。少し心配だ。
アパートで一人暮らしをしている裕司の家にはじめて遊びにいく。電話で誘われたときは、あまり考えずに、あっさり「いいよ」と答えた。
襲われたらどうしよう。いずみは思う。そうでなくても、告白されたらどうしよう。
いずみにとって裕司は微妙な存在だった。嫌いではなく、少しは気にかかる。異性としての魅力は感じなくもない。だから、本当のところは告白ぐらいされても別にいいのだ。まあ、されなくても別にいいのだが。
電話で自分が書き取った地図の紙切れを時折見ながら歩いているうちに、目的地の古い木造アパートが現れた。
部屋の前に立ち、呼び鈴を押した。少しだけ緊張する。
「こんばんは」
すぐにドアが開いた。
「やあ、入って」
殺風景できれいに片付いた部屋に入りつついずみは思った。ああ、私一人なんだな。誰かが集まってみんなで飲み会をやっている、という構図も想像していた。
でも、裕司は友達が多そうには見えなかった。社交にあまり興味を示さないタイプだ、と会ったときから感じるものがあった。
裕司はいずみを座布団に座らせると、インスタントのコーヒーをいれた。
いずみは微笑んだ。
「どう、元気?」
裕司は心なしか暗い声で答える。
「ぼちぼち」
「ねえ、暗いんじゃない? どうしたの」
「そういう性格なんだよ。いずみはいいね、いつも溌剌《はつらつ》としているよな」
「ハツラツって?」
大学生が、ハツラツという言葉を知らないはずもなく、それをあえて問う自分は、相手に媚《こ》びているのかもしれない。いずみはいったあとにすばやく思った。そんなことを瞬時に考える自分が嫌だった。
「元気だということだよ」
「そう? そうね。元気」
裕司はきりだした。
「夜市が開かれるそうなんだ」
「なあにそれ?」
「市場だよ。いろんなものを売っている。行けばわかる。行ってみない?」
「今日?」
「今日だよ」
少しめんどうだった。せっかく来たのだから部屋でゆっくりしたい。冷蔵庫にはビールかもしくは甘いカクテルが入っていて、音楽を聴きながら飲みつつ、とりとめもない話を楽しむ。そんな夜を想像していた。
「その、疲れてる?」
裕司は市場とやらに行きたいらしい。いずみは曖昧《あいまい》な笑みを浮かべて、首をひねった。
「んーと……」
でも、殺風景な部屋に二人でいて話もはずまず、特にすることもなくなんとなく気詰まりで、帰りたいなと思いながら、すぐ帰るのも悪いよな、と相手に気を遣う状況に陥ることもありえる。そういう経験は、過去に、主に同性の友達とだが、何度かあった。それなら外にいたほうがいい。
「うん、別にいいよ。どこで?」
「場所は……岬のほうなんだ。口ではうまくいえないな。お金はある?」
「全然よ」
肩をすくめたいずみを見て裕司はくすりと笑った。
「うん、じゃあ見るだけでもさ」
アパートから歩きだし、途中でタクシーに乗って二十分ほどで岬の公園についた。近くには古い墓地がある。岬の公園とその駐車場は、本当の岬と呼ばれるべき場所よりもかなり手前に配置されている。海の見える本当の岬は、その公園から藪《やぶ》をかきわけるような林道を三キロも歩かなくてはならないのだ。三キロ歩けば小さな灯台のある断崖《だんがい》に出る。
タクシーの運転手は、代金を受け取る際に何かききたげな顔をしたが、結局何も詮索《せんさく》せずに去っていった。
裕司は駐車場から公園に入った。いずみは後をついていく。駐車場から離れると街灯もなく月明かりしかない。
「ねえ、本当にここで市場なんかあるの? こんな夜に?」
普通に考えて、ここで市場なり祭りなどが行われているなら、駐車場には車が何台も停まっているはずだが、がらがらだった。公園には人の気配はない。民家から外れているからか、犬の散歩やジョギングをする人もいない。
「そうだよ」裕司は自信のある声で答えた。「でも、もうすこし歩かないと」
「フリーマーケット?」
「うん。みたいなもの。秘密の」
「でも、誰もいないじゃない。場所が違うんじゃないの?」
「いや、ここだよ。森に入るんだ」
森とは公園の奥の暗い木々の茂みのことだ。細い林道があるにはある。公園から茂みに入れば、海まではずっと森の中だ。
「ここの森の中で、夜に、市場が、その、フリーマーケットみたいなのが開かれる。それは確かなのね?」
「確かだ。すごく特別な市場だからね。それじゃあ、行ってみよう」
闇に包まれた森の中を、二人は手をつないで歩いた。
「ところでさ、誰からそんな秘密の市場があるってきいたの?」
「学校|蝙蝠《こうもり》」
「それって空を飛ぶ蝙蝠のこと?」
「まあね」
いずみは手を離した。
「私帰る。レポート提出があるんだよね」
「ちょっと待ってよ。騙《だま》されたと思ってさ、夜市は、どんなものでも手に入るといわれているんだ」
「それも蝙蝠がいっていたの?」
「うん。でも、小さい頃に、ここではない別の場所で夜市に行ったことがある。本当に市場が開かれている……はずなんだ」
「でも、別の場所なら、ここの市場と同じじゃないでしょ。別のものでしょ」
「まあそうなんだけどさ」
暗がりをしばらく歩くと、やがて前方に青白い光が見えてきた。木々がまばらになり、決して眩《まぶ》しくはない、仄《ほの》かな青白い光に、闇が切り取られていった。
最初に姿を現したのは永久放浪者だった。永久放浪者は、商品を並べた黒い布を地面に広げて、その前に座って煙管《キセル》をふかしていた。並んでいる商品は石や貝殻だった。
「夜市にようこそ。世界の石や、貝だよ」
永久放浪者は、森から出てきた裕司といずみにやる気なさそうにいった。
「掘り出し物はある?」裕司が並んだ商品をのぞいた。いずみの目には永久放浪者の商品は、どれもそこらの川や海に行けば手に入りそうに見えた。でも、それを口に出してはいわなかった。石には詳しくないのだ。
永久放浪者は丸い石を手にとって、どうでもいいや、という口調でいった。
「これは丸い石だ。黄泉《よみ》の河原で拾った。値段は、一億円だ」
「もう少し安くならないの」
裕司はいってみた。
永久放浪者は言葉を返さなかった。
二人は黙って永久放浪者の前を離れた。
永久放浪者の石屋はただの入り口の最初の店で、その奥には無数の店が間隔をとりながら並んでいた。店の前に、あるいは店と店の間には青白い炎を灯《とも》した燭台《しよくだい》が並んでいる。
着物をきた狸がのんびりと歩いていた。目をうつせば、鬼火とも人魂《ひとだま》ともいえる炎が木々の間をふわふわと浮かびながら通り過ぎていく。
いずみは息をのんだ。
「これが……夜市さ。他の店も見てみよう」
木々の間に一時的な店が並ぶその光景は、お祭りの屋台に似ていなくもなかったが、夜市は根本的なところで、お祭りとは違っていた。お祭りは賑《にぎ》やかだが、夜市は静かだった。お神楽《かぐら》も、ラジカセから流れる音楽も、人の声もしない。静かな森の中に、静かに店が並んでいた。
刀剣を並べている店があった。「刀」と書かれた提灯《ちようちん》がテントの前に二つぶらさがっている。
コートにハンチングをかぶった老紳士が商品を見ていた。客は彼しかいない。店主の口上をきいているようだった。裕司といずみもやりとりをきこうと近寄った。
刀剣屋は一つ目ゴリラだった。
テーブルの上には鞘《さや》におさまった刀剣が並べられていたが、刀剣屋は台の向こうにある、岩に突き刺さった抜き身の長刀について話しているらしい。形状としては日本刀だ。
「めったにお目にかかれる品じゃない」
一つ目ゴリラは長刀の柄《つか》に手をやる。
「俺が抜こうとしても抜けないんだ。こいつは、歴史上何度か現れたという、〈なんでも斬れる剣〉だよ。岩から抜き取ったら、斬れないものはないのさ」
「それでいくらなのかね」
老紳士は腕組みをして問いかけた。
「抜くことのできる人が現れたら、そりゃ英雄だもん。剣は十万円でいいさ。抜くことのできない人には、岩も買ってもらうから十五億かね」
一つ目ゴリラは剣が刺さっている岩を軽く蹴《け》った。
「ほう」
「英雄の剣さ。値引きしてもいいんだよ。だが、十四億八千万円までだな。それから抜けるかどうか試してみるのはタダだ。後ろのお兄ちゃん、あんた、やってみるかい」
裕司はふらりと前に出た。老紳士は振り返り、裕司を見て目を細めた。
「試してみようかな」
「やめなって」いずみが袖《そで》をひいた。
「そうとも」老紳士がいった。「やめたほうがいい。抜けたらどうするんだ」
「お遊びさ、お遊び、岩から剣を抜く英雄なんてそうはいないんだから! 千年に一人いるかいないかだよ! 試してごらんよ」一つ目ゴリラは笑った。
裕司が迷うそぶりを見せていると、老紳士が、裕司の袖を引っ張り、店から何歩か引き離した。「あんた、あの剣が欲しいのかい」
「いや、別に欲しいってわけじゃ」
「じゃあ、やめとくといい。あの剣はある意味で、本物の、なんでも斬れる剣だ。私はあちこちで調べてきているから知っている。だが、あの一つ目ゴリラはヤクザだよ。君が剣を抜くとめんどうなことになる。あのゴリラは、英雄がついに現れたと大騒ぎして、君に十万円で剣を買わせるだろう。君が拒めば、岩から抜いた分を弁償しろといいだすだろう。そのせいで商品価値が下がったとかいって」
「わかりました……でも、本物のそんなにすごい剣が、十万円なら安いのでは?」
「どうかな。なんにせよ剣は人を殺すためにある。殺したいやつがいるのか?」
裕司は首を横に振った。老紳士は袖から手を離してささやいた。「なら、譲ってくれないか」
二人は店の前まで戻った。
「では、この子の代わりに私が挑戦してみよう」
「ああ、やってみたらいいさ」
「抜けたら十万円で譲ってくれるのだな?」
「安すぎたかな。人間の貨幣の価値を今一つ知らないんでね」
「少し高いと思うが。〈なんでも斬れる剣〉では、百回決闘に勝っても、誰も腕前は認めてくれぬだろう。相手よりもはるかに有利な立場で試合をしたのだから。それに、実戦においても銃を相手にしては、いくら切れ味が良くとも意味はないだろうし、鞘もつかぬのだろう」
「なら九万でもいいさ」一つ目ゴリラは舌打ちをした。
老紳士は先に財布を取りだし、紙幣を数えて一つ目ゴリラに握らせると、片手で柄を握り、事も無げに岩から抜いた。
「まいどあり」
一つ目ゴリラは陽気にいった。
裕司といずみは店から離れた。
少し歩くと、老紳士が追いかけてきて声をかけた。
「さきほどはすまなかったな。どうしても欲しい品物だったのでね」
「いや、ご忠告ありがとうございます」裕司は礼をいった。「買わされるところだった」
「あの……お金が」いずみは口を開いた。老紳士が財布から札を取りだすのを見ていたのだが、その紙幣は、一万円札ではなかったのだ。色や大きさからして日本円ではなかった。
「お金、ああ」老紳士は納得して微笑んだ。
「あなたたちの世界のものとは違っていた、ということだね?」
「そうなの?」老紳士の紙幣を見ていなかった裕司が目を丸くしていずみを見た。
「私があなたたちの世界とは、別の世界から来ているということだろう。大丈夫。夜市では、どの世界の貨幣でも、きちんと流通しているものなら問題なく使える。安心して買い物をしたらいいよ」
いずみは感心した。別の世界なんてものがあるなんて。
老紳士は話を変えた。
「で、良いものはあったかね」
「いえ、まだ来たばかりで。でも欲しいものがあれば」
「欲しいものか。そうだな。見たところ君たちは、夜市にはじめて来たのではないか?」
「昔、子供の頃に経験あるんです」
「そうか。そうなのか」老紳士は頷《うなず》いた。「ちょいと用事が済んだら、さきほどの、その詫《わ》びといってはなんだが、案内してあげようかと思ったのだが、かまわないかな」
「ぜひおねがいします。ところでおじさんは、それで何を斬るつもりなんですか?」
「幻だよ。この年になると、過去の幻がまつわりつくようになってな。この剣で斬ってやろうと思っている」
裕司はそれ以上問わなかった。
「でも、九万円とはいい買い物ですね」
老紳士は鋭い目つきで剣を眺めた。
「たいした剣ではないんだ。この剣は特殊な代物で、本当になんでも斬れるのは最初だけ、あとはどんどん切れ味が悪くなって最後には鉄ですらない、ただの土の塊になって消えてしまうという代物だ。その土をまいたところには長い年月を経て再びこの剣が生えてくるというから、植物の一種かもしれんな」
裕司といずみはまたぶらぶらと歩いた。老紳士は途中で、またあとで、といい残して姿を消した。
森は際限なく続いているようで、また、あちこちに出ている提灯と店も際限なくあるようだった。
それらの店で売られている品物の数々は、どれも裕司やいずみには全く手の出ない金額か、買って手元においてもほとんど意味のないようなものばかりだった。
蜘蛛《くも》や蛇や、名も知れぬ生き物の入ったケースの前を通り過ぎ、奇怪な仮面を並べた店の前を歩く。
ある店先でいずみはのっぺらぼうに呼び止められた。
「老化が早く進む薬だよ」
「そんなのいらないわ」
「違う違う、周りの相手に使うんだよ。七十歳で死期を迎える六十歳のじいさんと遺産目当てで結婚したとしな。十年も待てないだろう? 百万円ぽっちだよ」
「私は遺産目当てで結婚したりしないわ」
「じゃあ、こっちは老化が遅く進む薬だよ。年をとらないわけじゃないが、人よりも遅いはずさ。これも百万円だよ」
「飲めば効くわけ? 効果はどうやってわかるの?」
「十年たったら、同窓会の同級生の中で、誰が一番若く見えるか見回してみればいいさ。もしかしたらそれはあんたじゃないかもしれないが、もしも薬を飲まなかったらもっと老けているはずなんだから気にすることはないんだよ」
「……いらない」
「じゃああっちに行きな」
首を売っている店もあった。台の上に、ライオンや象、ムースやバッファロー、そして明らかに人間と思われる男と女の首が並んでいた。その店の主《あるじ》は葉巻カウボーイで、ライフルを分解して暇をつぶしていた。
「ねえ、あの人間の首は、つくりものよね」
いずみが青ざめて裕司の袖《そで》をひいた。裕司はそれには答えなかった。
鳥を売っている店があったが、鳥かごの中の鳥はどれも、足が三本あったり、鱗《うろこ》に覆われていたりして、図鑑や動物園も含めて、いずみが一度も見たことのない鳥ばかりだった。
棺桶《かんおけ》を売っている店があった。店の前には腐敗した死体が三つ立って、いずみにはわからない言葉を呟《つぶや》いていた。腐敗した死体たちからはひどいにおいがした。並んでいる棺桶の一つからうめき声が漏れたので、いずみは小さな悲鳴をあげた。
「何よあれ」
すかさず棺桶職人が声をかけた。
「ああ、こっちの大きいのは、海で手に入れた箱磔《はこはりつけ》の箱だよ。またうめいている」
「ハコハリツケ? あまり知りたくないけど、誰かはいっているというわけね?」
「昔、人を何人か殺した妖婦《ようふ》がいてね。代官が刑として板にはりつけにして、その板を箱に組み立てて、生きたまま海に流したんだよ。箱磔の刑さ。だがあいにくこの妖婦は不老不死でね。とっくに気が触れているんだが、三百年近く経つけれど、まだ箱の中にいる。今も箱の中でぶつぶついっている。怖いんで誰もあけちゃいない、未開封の箱磔の箱だよ。欲しいなら五百万円でいいよ。プレゼント用だ。リボンもつけるよ」
「欲しくないし、お金もないの」
「じゃあ、あっちに行きな。それからそこの死体ども、あんたらも無一文だろうが。さあ、墓場に帰りな」
死体たちはたじろいだそぶりを見せ、とぼとぼと店を離れた。彼らは自分たちが入っていた棺桶が腐ってしまったので、新しいものが欲しかったのだといずみは思った。
「ねえ、もう帰ろう」
いずみが裕司の手を引っ張った。
「怖くなってきた」
裕司は頷いた。
「あまり驚かないでほしいんだけど」
「なあに? これ以上驚くことがあるの」
「実はさっきからずっと帰ろうとしているんだ」
「どこから来たかわからないの? あれ? そういえば、私も方向がわからないわ」
「そうなんだ。迷ったみたいだ。ちょっと待って。あそこの人にきいてみよう」
裕司は目についた一番近い出店を目指した。
その店では頭髪の代わりに頭に草を生やしている少女が植物を売っていた。売っているのは主に花と草だ。裕司といずみが近づいていくと、植物頭髪少女が声をかけた。
「世界の草を置いてますよ。マリファナもあるし、トリカブトの粉末もここで売っているわ。それからこれは癌にきくという南米でとれた……」
「すみません、道をききたいんですけれど、駐車場はどっちに行ったらいいんですか」
少女は目を丸くして裕司を見た。
「注射する場所? 注射の店があるところ? 注射器ならここにも」
「そうじゃなくて、車を停めるところです」
「さあ、まさか……道に迷ったということ?」
「まあそうです」
「無理よ。どこから来たのか知らないけれど、あなたは夜市の仕組みをわかっていない。ここに迷い込んだら、買い物をするまで出ることはできないの」
「誰が決めたんです?」
「そういう仕組みなのよ。誰かが決めたのではなくて、そういう風になっているの」
「わかりました。海へ行く方向はどっちですかね?」
駐車場は海と反対方向にある。海がどちらにあるかを知れば、歩くべき方向の目安にもなる。ここは岬なのだ。山奥ではない。迷ったにせよ、迷い続けることはないはずだった。
「わかってないのね」少女は残念そうにいった。「たぶんあなたたちはもうしばらく迷うはずよ。そしてどのぐらいの時間夜市をさまようのか知らないけれど、最後には気がつくでしょうね。ここからは出られない、ということに。だからここで買い物しなさい。悪いことはいわないわ」
二人は草屋の前を離れた。
少女のいったことは本当で、それから数時間歩き続けたが、裕司といずみは市場の外には出られなかった。歩いても、歩いても、際限なく森と、店が続くのだ。
店先で何度も道を尋ねたが、答えはいつも同じだった。
「何も買ってないんだろう。出られやしないよ。この夜市は生きているんだ。ここは取引をする場所なんだよ。家に帰りたければ取引をするんだ」
二人は道端に置かれているベンチに腰掛けた。
「さっぱりわからないわ」いずみが口を開いた。「ああ疲れた。来るんじゃなかった。どうして帰れないんだろう。本当に買い物しないと出られないのかな」
「すまない」
「いいよいいよ。明日の授業はたいしたものないから学校には行かないし」
いずみは顔の前で手を振ってみせた。
「そっか」
「何とかうまく方法を見つけないとね。それについて考えましょう。ねえ、裕司は一度、夜市に来たことがあるのよね? そのときはどうやって帰ったの? そのときも今日みたいに帰れなくならなかったの?」
「ほんの子供のときだった」
「それ、話してくれる?」
「ぼくはある田舎町に住んでいた。近所でお祭りがあって、弟と一緒にそれを見にいった。山のふもとの神社で、ごく普通のお祭りだった。たこ焼き、焼きそば、あんず飴《あめ》、型ぬき、裸電球の下で、金魚すくい。ぼくたちは少ない小遣いを握り締めていた」
裕司は遠い目をした。
「屋台の明かりの向こう側は、神社の暗い森だった。その闇の奥に青白い光が灯《とも》っているのを見たんだ。弟にいった。あっちにもなんかあるぜ、行ってみよう。弟はその光が見えないらしかった。お兄ちゃん向こうは暗いよ、怖いよ、あっちには行けないよ、それに向こうはお墓があるところじゃないか」
「それで?」
「大丈夫だよ、と、弟の手をひいて森の奥に入っていった。弟が怖がるのがおもしろかった。歩いていると、青白い光は一つから三つに増えた。すぐに三つから九つに増えた。すごいぞ、明日仲間たちに自慢ができる、と直感した。気がつけば化け物市の中にいたんだ」
「そこでは妖怪たちが妖怪たちにものを売っていた。ここみたいにね?」
いずみの言葉に裕司は頷《うなず》いた。
「ちょっとのぞいて、おもしろかったのはほんの束の間、すぐに怖くなった。売られているものがさっきの場所とは根本的に違うことに気がつき、そこにいる人たちもさっきの場所とは根本的に違うことに感づいた。人間の子供がいるべき場所ではないとすぐに悟った。でも、もう手遅れだった。何かを買わないと出られない。ぼくの小遣いで買えるものなどそこにはなかった。さまよい続けた」
「ねえ、じゃあ、やっぱり何かを買えば、ここからも出られるのね? はやいところ何か買いましょう」
「うん。そう思う」
裕司は暗い表情で答えた。
「それを知っていて、何も買わずにさんざん歩き回ったのは何のため? もしかして何かを探しているの?」
「すまない。その通りだ」
「今日はいくら持ってきているの?」
「七十二万円。銀行でおろした。ぼくの全財産だ」
「それで、あなたは本当に欲しいものが何かあって、それを買わないといけないわけね」
いずみは確認した。少しばかり腹が立っていた。それなら最初からそういえばいいのに。
裕司はいずみの硬くなった表情を和らげようとしているのか奇妙に朗らかな声でいった。
「お金で買えないものってあるかな?」
「七十二万で買えないものならたくさんあるけどね。何よ。石ころだって一億円だったんじゃないの? 高いね、ここ。一万円以下のものは一つもないし」
いずみは、自分の財布の中には二千円しかないことを思いだし、もっとお金をもってきていればと悔やんだ。
「まあお金があっても、身長、年齢、愛情や友情、才能や遺伝子は買えないね」
「遺伝子って?」
「例えばだけど遺伝的に目が青い人には、お金を出してもなれないんじゃない? 青いコンタクトをはめるとか、青く見せることはできてもさ。もしも青い目になる手術とかがあって、それをしても、その人限りで、子供まで青くはならないでしょ。それよりも話がそれてない? 子供のときの話をしてよ。さまよい続けてどうしたって? 買い物して出たんでしょ?」
裕司の顔が微《かす》かに強《こわ》ばった。
「さまよい続けて……たくさんの商品を見た。興味をそそられるものは、あまりなかった。でも、なんとなく理解したのは、そこにはなんでもある、ということだった。自転車、スーパーカー、本物の。洋服、生き物、家具、スパイス、日本刀、銃、麻薬、身長が伸びる薬。
ゆっくり見る気持ちの余裕はなかった。ぼくは何よりも一刻もはやくそこから出たかった。ある店先で、欲しいものにふと巡りあい、それを買って帰った。ねえ、誓ってもいい。ずっと忘れていたんだよ。子供のときのことは」
「何よ、そのとき欲しかったものって? そのとき何を買って外に出たの」
「それは……」
「いいなさいよ。お金もなかったんでしょ」
裕司はうつむいた。
「思いだせない。いや……名前なんかあったかな。それは……野球選手の器だったのかな……」
「だったのかな? 野球選手の器? どういうものなの? 皿とか鍋《なべ》とか?」
「違うよ。形はないんだ。形はない。ただ、それを手に入れれば、野球が上手《うま》くなる、そういうものだったように思う」
「じゃあ、才能が……買えるの?」
「わからない。とにかくそれを買ったと思う。本当によくわからないんだ。それはとんでもなく高いものだった。でも、欲しいものはそれだった。プラモよりも、ゲームよりも、ずっと価値があるように思えた。実際、ずっと価値がある。それで……」
いずみは、ただ黙ってきいていた。
「野球選手の器は、とにかくぼくが野球選手の器と名づけたその形のない商品は、人攫《ひとさら》いが売りに出していた。なぜ、人攫いとわかるかというと、どこからどう見ても人攫いだったからだ。彼はぼくにいった。〈坊や、お金がないなら、その連れている子で代わりに支払ってもいいんだぜ。そうすればすぐにここから出られるし、問題は何もなくなる〉ぼくは本当にどうかしていた。でも、どうにもできない状況だった。品物を買わなければならない。そうしなくては出られない。
人攫いの店の奥には攫われた子供たちが並んでいた。人形のように並んで突っ立っていて、みな生気のない目をしていた。〈わかっているだろう?〉人攫いはいった。〈運が良かったって。おまえたちと会うのが今日でなく昨日だったら、おまえたちは両方とも、ここに並んでいたんだぜ。だが今日は夜市の日。おまえたちは客だ。夜市がおまえを客と認めているからな。でもな、何も買わずにずうっとうろうろしているなら、おまえたちは客ではないと、じきに夜市は思うだろう。そうしたら、おまえも弟も両方ともこっちに並ぶことになる。さあ、おまえは助かる。何が欲しいんだ? いろんな器があるぜ。何を得意になりたい?〉」
裕司の表情は完全に強ばっている。彼がそこで何をしたのかいずみは察した。
「それでお金を持っていなかったあなたは」いずみの声は少し震えていた。「弟を売った? そういうことなの?」
裕司はしばらく黙ってから口を開いた。
「悪夢だと思った。夢から覚める方法は一つしかなかった。ぼくはいったん器を前にすると、それが欲しくて欲しくてたまらなくなった。逆に、弟はいてもいなくてもどうでもいいように思えた。〈取引が済めばおうちには帰れるさ。なあにおまえが思っているような心配はさらさらないぜ〉人攫いはそうぼくにいった。ぼくは弟にささやいた。ここから出るにはこれしかない。必ずお父さんとお母さんを連れて、警察も連れて戻ってきておまえを救いだしてやるから。弟はただ泣いていた。逆もありえた。つまり、弟が兄を売るということだ。でも、弟は泣いて何も判断できない状態だった。二人のうちどちらが取引をする相手なのか人攫いにはよくわかっていた。人攫いはぼくにだけ話しかけた。
もちろん、ぼくはひどいやつだ。そんな目で見なくても、自分でよくわかっている」
裕司は額に手をやった。
「話を続けよう。望みの品物を手に入れると夜市は消失した。ぼくは神社で倒れているところを見つかって、家まで運ばれた。弟は、どうなったと思う?」
「さあ?」
「目覚めたのは自分の部屋で、すぐに隣の弟の部屋に様子を見にいった。ひょっとして、帰ってきてやしないかと。不思議なことに弟の部屋は一晩のうちに、本棚と楽器の置いてある父の書斎になっていた」
「一晩で? それおかしくない?」
「おかしいさ。でも一晩だよ。弟は消えていた。最初から存在しないことになっていた。ぼくの記憶にはあったけれど、父と母の記憶からは消えていた。そして、弟が存在したあらゆる証拠もまた消えていた。神社に弟がいるんだ。ぼくはいった。人攫いにさらわれたんだ。助けないといけないんだ。でも、誰もとりあってくれなかった。頭がおかしいと思われる前に、最初から存在していない弟について、口に出すのをやめたんだ。
それからぼくは野球が上手くなった。ずっと下手くそだったけれど、何か、今まで使えなかった筋肉が使えるようになり、おぼろげだった、球とバットとの、あるいは球とグラブとのタイミングの感覚が、はっきりと見えるようになった感じだった。すぐにリトルリーグのエースになった。最高だった。中学でも野球を続けた。でも、その頃から、あまり野球がおもしろくなくなってきた。そして罪悪感。日々を重ねれば夜市の記憶は大昔の悪夢でしかなかったけれど、説明できない罪悪感があった」
裕司は罪悪感について話した。
弟がいないのは悪いことじゃない。おやつも独り占めだ。母親も独り占めだ。すぐに泣く足手まといの鼻たれがいない……悪くない。しかもぼくに責任はないんだ。ぼくは子供で、大人たちは、みんな弟なんてモウソウだっていっているもの。警察もぼくを犯人だなんていわない。ぼくは捕まらない。安心してもいい。安心しても……。
それなのに、この気持ちはなんだ? なぜ、青空に吸い込まれる、自分が打ったホームランを見て泣きたくなるんだ?
「もちろん、自分で自分にいい聞かせた。ぼくには弟なんて最初からいなかったし、夜市の記憶はただの子供のときの変な夢なのだ、と。野球はぼくのもとからの才能で、なんら恥じる必要はないのだ、とね。ぼくはそのことを七割は信じたよ」
「残りの三割は?」
「信じられなかった。ぼくには夜市を感じられる力があったから。だからこそ幼い頃夜市にまぎれ込んだのかもしれないし、あるいは夜市にまぎれ込んだからこの能力がついたのかもしれない。いったん買い物をした店からダイレクトメールが送られてくるようにね。夜市がどこかで発生したり、発生しそうになると、ぼくにはわかるんだ」
「市場が発生というのは言葉の使い方としておかしいんじゃない?」
「いや、発生なんだよ。台風とか、竜巻とかと同じ種類だ。よくわからないけれど、ある条件が重なるとある一定の確率で夜市はどこかで発生するんだと思う。たぶんある程度周期的に。あるいは、夜市そのものは恒常的に存在していて、ぼくらの世界に周期的にその入り口が発生するのかな」
「それがあなたにはわかる」
「うん。鳥や虫、蝙蝠《こうもり》がぼくに教えてくれる。言葉ではない言葉で、夜市が近づいてくると、雨が降る直前のように、夜市の気配としかいいようのないものがじわじわと空気に満ちる。そうすると信じていたことが、ガラガラと崩れてしまい、ぼくは弟と、野球選手の器のことを思いだす。ぼくは、両耳に手をやり、うずくまって、それが去るのを待つ。なんてことをしてしまったんだ。後悔してももはや遅い。天気が変わるのを待つしかない」
黄昏《たそがれ》どきに蝙蝠や虫やヤモリが語りだす。昨日はそれらは語らなかった。だが今は語っている。たぶん明日は語らないかもしれない。だが今は語っている。
今宵、市場が開かれる、と。
泥まみれのユニフォーム、一人で住宅街を歩きながら、風にざわめく木々を見上げる。あの日が来る。あの日ってなんだ? わからない。正月やクリスマスとは正反対のもの。もっとずっと暗いお祭り。起きれば忘れてしまう夢の中の怪異の気配が本当になる日。どうしてそれがわかる? それは……風が少年の代わりに答える。
おまえは一度そこに行ったことがあるからだよ。弟を売っただろう?
「野球についていうなら、ぼくは中学に入ってあまりおもしろくなくなっても、それでも続けた。その頃、ぼくはピッチャーで、ぼくの投げる球は誰にも打てず、バットを振ればヒットをとばした。そして、高校は野球が強いところに推薦で入学した。でも、憂鬱《ゆううつ》だった。ずっと憂鬱だった」
「本当? そうはいったってあなたは注目を浴びていたでしょう」
いずみの言葉に裕司は意外そうな顔をした。
「本当に? どんな注目?」
「さあ?」
いずみは言葉につまった。いずみと裕司は同じ高校だったのだ。高校の野球部は甲子園に行き、そこに裕司はいた。
ホームに滑り込んで、両腕をあげて満面の笑みでガッツポーズを決めて、仲間に肩を叩《たた》かれている少年。いずみの知る数少ない高校時代の裕司。あの頃の裕司は、今ここにいる裕司とはまるで別人のようにも感じる。
「注目なんて浴びてやしないさ。ぼくがヒーローだとすればそれは『野球』という時間に限ってね。教室で座っているときは、ただのぱっとしない坊主の学生。女の子にもてるわけでも、成績がいいわけでもない。おもしろい話ができるわけでもない。確かに、野球の試合で自分が活躍すればそのときは注目を浴びる。でもそれだけさ」
裕司は自嘲《じちよう》気味にいった。
「それはもう終ったことなんだ。ずっと忘れていたよ。単純だった。子供のとき、野球の漫画が流行《はや》っていて、それで野球に興味を持った。てんで下手くそで、リトルリーグの仲間からはよく馬鹿にされた。上手《うま》くなりたいと本気で祈った。でも、それは一時の熱だったんだ。中学で、野球部で、坊主にして、毎日筋トレだ、球拾いだ、ランニングだってやっているときには、流行はバスケットボールになっていた。また、バスケ漫画が流行っていてね……」
「馬鹿じゃないの。結局流行りなわけ。そういうのとは縁遠い人だと思っていたけど」
「本当の理由は……好きな女の子がいたんだ。ちょうど夜市が起こったときにね。その子は、同じクラスで、やっぱり同じクラスの野球が上手な活発な男の子が好きだった。ぼくは野球が上手になってその子を自分に振り向かせたかった」
「振り向いた?」
「小学生だったからね。実のところ振り向くも何もなかったよ。ぼくは彼よりも野球が上手になったけど、次の年のバレンタインデーには、その子はまた全然別の男の子にチョコレートをあげていたし」
「残念ね」
「ああ。弟まで売ったのに。なんにせよ、野球である必要はないと思っていた。スポーツである必要もない。もっといろんなことができるんじゃないか。野球以外にもあるんじゃないか、と考えるようになった。それと同時に、自分にはそんな別のことをやる資格も能力もないとも思った。たった一つの取り柄でさえ、弟を売って買ったんだ。他の何ができる? そして、ぼくは高校二年のとき、甲子園に行った。それを最後に高校を退学し、野球と手を切った。その頃には野球はおもしろくないどころではなく、ただ辛《つら》いものになっていた」
「逃げださなければプロ野球選手になれたんじゃない?」
「たぶん無理だったろう。あるいはなれたかもしれないけれど、一流の選手にはなれなかったと思う。ぼくが得た、野球選手の器は、野球が下手くそなぼくの野球に対する能力を高める、そういうものだった。誰にも負けない一流の能力を約束してくれるものではなかった。甲子園ですら、ぼくよりも能力のある選手は何人もいた。他でもない自分のことだからわかるよ。ぼくは天才ではなかった。ただ人より野球が少し上手い、それだけだった。加えて、ランニングも筋トレも、運動部の上下関係も好きじゃなかった」
「それで?」
いずみは先を促したが、裕司は答えなかった。
「それで……さんざん帰り道がわからないといって私をひきずりまわして、何がしたいというの」
「夜市の性質は、ぼくがいっても上手く伝わらないし、実際に体験するべきだと思ったんだ。ぼく自身もまだ二度目だから、確認したかった。本当に品物を買わないと出られないのか。でも、本当だ。ここはぼくが幼いときに迷い込んだあの市場と同じ市場だし、買い物をしないと出られない」
「でも、場所が違うんでしょ……」
「わからないよ。同じだと思う。ぼくが思うに、場所なんて関係ないんじゃないか? 場所はいつも変わるのかもしれない。あるいはあちこちに入り口があって、どこから入ってもここにたどりつくのかもしれない」
いずみは腕時計に目をやった。針は六時をさしていた。もう夜明けを迎えている時刻だが、あたりは暗いままだった。店の売り子も店をたたむ気配は全くなかった。
「ねえ、朝が……」
裕司がさえぎった。
「朝はないんだ。おぼえている。あのときも最初に待ったのは朝だった。でも、朝は来ないんだよ。夜市は買い物をしない限り、ずっと続くんだ。ここでは外の世界の時間は流れていないんだよ」
いずみの顔に恐怖が広がった。どのように迷おうと、朝は来ると思っていたのだ。夜市から出られないなら、夜市が終るまで待てばいいじゃない、と思っていた。
「落ち着いて」
「明るくならないの? 最悪だわ」
いずみは泣きだした。
裕司は目を伏せて、じっと黙っていた。
いずみは考える。
才能が買えるなら自分なら何を買うだろうか。何を買っても同じなのかもしれない。例えば、ピアノの才能を買ってピアノがすごく上達しても、世の中にはすごく上手いピアニストは何百人もいるだろう。おそらくそれを職業にするのは難しいだろうし、兄弟を売るほどのものじゃない。
美貌《びぼう》の才能。美しさには興味がある。女として当然だ。でも、それが今と違う顔になるという意味なら、整形手術をしたいとこれまで思ったことがないように、美貌の才能も、買って手に入れようとは思わない。
結局自分には欲しいものなどないのかもしれない。まあ、今のところは。
いずみは泣き止《や》んだ。
「で……今度は何を買うつもりなの?」
裕司が何か答えようとしたときに、横から声がかかった。
「おや、お二人さん。また会いましたね」
抜き身の刀を片手に持ったコートにハンチングの老紳士だった。抜き身の刀は物騒だが、老紳士は穏やかな目をしている。
「よかった」いずみは老紳士にすがるような目を向けた。「案内してくれるっていってましたよね」
老紳士はきさくに笑った。
「そのつもりだよ。じゃあ、欲しいものは見つかったかい」
「そうじゃなくて、帰りたいんです」
「帰るだけ? 何も買わずに?」
いずみは裕司を素早く見る。あなたが嫌なら私だけでも。
「はい」
「それは難しいね。ここでは何かを買わないと、出られないんだよ。そういう呪力《じゆりよく》が働いているんだ」
「それはききました。でも、何かってなんですか?」
「それをじっくり探すのがこの市場の楽しみ方でね。人それぞれ、買わねばならないものが決まっているようにも思える。その商取引がここから出る方法。なんにせよ買いさえすれば、帰りたいと思った瞬間、帰れます。私はこの刀を手に入れたので、ぶらっと歩いてから引き上げるところだったのだが」
「すみません、まだ、帰らないでください。あの……買えないとどうなるんです?」
「そうなるとまずいですね。見当もつきませんな。夜市の毒気にやられて、妖怪《ようかい》化するか。あるいは市場に喰《く》われるか……なんにせよろくなことにはならない」
黙っていた裕司が口を開いた。
「人攫《ひとさら》いを知っていますか?」
いずみと老紳士は裕司を同時に見た。
「ええ」老紳士は目を丸くした。そして少し声を低くした。「知っていますよ。人攫いね。ええと、そこで買い物を?」
「ぼくが買いたいのはね」裕司は笑みを浮かべた。その目はいずみも老紳士も見ていなかった。「弟なんだ。買い戻したいんだよ」
いずみと裕司は老紳士に導かれながら、際限のない森の中の道を歩いた。
二人は状況を老紳士に説明した。
「人攫いね。そこに弟さんがいるのかね」
「わかりません。ずっと昔のことだから」
「ねえ、裕司。悪いけどさ、たぶん、もういないと思う」
いずみが口を出した。
十年近く前に売ったものが今もあるはずはない。
「そうかもしれない。でも、とりあえず、確かめたいんだ」
意を決していずみは歩みを止め、いった。
「あなた、私を売るつもりでしょう?」
先を歩いていた裕司と老紳士が振り向く。
「え?」
「わかるのよ。私、馬鹿じゃないもの」
「誤解だよ」裕司は眉《まゆ》をひそめた。「そんな」
「大丈夫かね」老紳士がいう。「なんなら席を外すが」
「いいんです、いてください」いずみはいった。老紳士には本当にいてほしかった。
「正直にいって。あなたは私を売る。そして、また人攫いのところで、何かの才能を買おうと思っている。足りなければ七十二万円もつけてね。今度はよく考えて自分に適した才能を。そうでしょう?」
裕司は首を横に振った。
「正直にいおう。ぼくがここに来たのは弟を買い戻すためで、才能を買うなんて二度とごめんだ。君は何の関係もない。夜市に誘ったのは、悪かったと思っている。君を売ろうなんて、ひとかけらも思っていない」
「信じるからね」
いずみは念を押した。もしも裕司が本当に自分を売るつもりでないなら、ここで別れるのは得策ではない。財布の中には二千円しかないし、それではおそらく死ぬまで夜市の森をさまよい続けることになる。
しかし、果たして信じていいのだろうか。
「話が済んだら行こう。人攫いの店はもうすぐだ」
歩きながら老紳士がいった。
「売るとか売られるとかの話だが、売られる方がそれを受け入れなければありえん話だよ。犬や猫ではないのだから」
青白い光に照らされた白いテントが近づいてきた。遠目にも、テントの中に少年少女が人形のように立っているのが見えた。
彼らはみな無言で虚空を見ていた。
人攫いはベレー帽をかぶり、椅子に座って煙草を吸いながら客を待っていた。人攫いは人間の姿をしていたが、いずみにはそれが悪魔だとわかった。考えれば、これは悪魔と取引する物語そのものではないか。セールスマンの恰好《かつこう》をした悪魔は物語では定番だが、悪魔だって店をかまえた方が楽だろう。取引しようという人間が自分から来るならば。
「すみません」裕司は人攫いに声をかけた。いずみと老紳士は裕司の後ろに立った。
人攫いはねじれた笑みを浮かべた。
「お兄さん、探し物はここかね」
裕司は深呼吸をすると話をきりだした。
「十年ほど前にここで売られた子供をおぼえていませんか。五歳ぐらいの男の子。兄弟で、兄が弟を売ったのです。野球選手の器とひきかえに」
「ふうむ」人攫いは唸《うな》った。「それで?」
「その子を探しているんです」
「その子の名前は?」
裕司は、答えようと口を開いたが、名は出てこなかった。長い間があった。
「……わかりません」
人攫いは小ばかにしたような、やれやれという顔をした。
「じゃあ、その子の特徴は?」
「男の子で……五歳か……六歳」
「男の子で? 五、六歳。他には?」
「わかりません」
「あんた肉屋に行ってこうきいてるんだぜ? 十年前にここで売られていた肉を知りませんか。何の肉かはわからないんですが。なんだよそりゃ」
裕司はうつむいた。
「別の子じゃ駄目なのかい? いいのがいるぜ。男の子も女の子もさ」
裕司は首を横に振った。
「ふん」人攫いは鼻を鳴らした。「探しているものが確かにここにあって支払うものを支払えば渡さないこともない。だがね、あんたは名前をおぼえていない。顔だってうまくおぼえていないだろう。そういうあんたに俺はいうことができる。この奥にあんたの探している男の子がいるよ、こいつだ、とね。だが俺の言葉以外には何の保証もない。それであんた、買うかい。その男の子を。これは親切でいっているんだが。一応教えておこう。十年前から売れ残っている子供はいるにはいる。だが、多くは売れちまってここにはいない」
「売れ残った子を見せてもらいましょう」
「見るだけだぜ」
「ねえ、どんな子なの? 腕に火傷《やけど》のあとがあるとか、毛の生えたほくろが左頬にあるとか」
「おぼえていないよ」
裕司といずみは人攫いが示す何人かの子供を見た。みな半ズボンをはいていて、感情のない暗い目をしていて、一言も口をきかなかった。生きてはいるようだが人形に近かった。裕司は、きっと違うと呟《つぶや》いた。
「この子たちはしゃべれないの? 本人にはきけないの?」
「凍結してるんだ。年をとらんように。買わない限りは凍結を解くわけにはいかんね」
「売れた子はどうなるの?」いずみは人攫《ひとさら》いではなくぼんやりと刀をぶらぶらさせている老紳士にきいた。人攫いとは一言も口をききたくなかったからだ。
「何者かにひきとられ、その何者かが属している世界の何処かの地で、元とは別の名前で成長する。そのような美しくも幸運な例外を除けば、きかない方がいい死に方をしているでしょうね」
「売れた子を探すことはできるの?」
「場合によるが、困難だろう。十年前にスーパーで特定の豚肉を買った人の住所を探しだすよりも困難だ。なにしろここは夜市なんだ。複数の世界が重なりあっている場所なんだよ。どの世界にひきとられたかすらわからない状況だな」
老紳士は言葉を切ると、途方にくれている裕司に声をかけた。
「さあ、どうするね?」
「無理……ですね」裕司は力なく微笑んだ。
老紳士はやさしく頷《うなず》いた。
「あきらめたらいい。残念だが時が経ちすぎている」
「さて、こうなったところで俺が明かそう……」人攫いが笑って子供の一人を指した。
「俺は知っている。十年前に弟を売った兄弟を。それ、その半ズボンのやつがあんたの弟だよ。おめでとう」
「まさか」裕司はありえないといった風に顔をしかめた。老紳士は、鋭い目で人攫いを睨《にら》んだ。
「あんたは、わかるはずがないとさっきいったのじゃないか」
「そりゃあ試したんだよ。お兄さんを。十年前に消えた記憶の中だけの幼児を十年後に見極められるものなのか、興味があってね」
人攫いはあくまで狡猾《こうかつ》に意地悪く笑みを浮かべた。
「信じられない」
裕司は人攫いが示した売れ残りの少年――五歳ぐらいの男の子を見た。黒の半ズボン。白いワイシャツに蝶《ちよう》ネクタイをあわせている。私立の幼稚園の卒園式にでもいそうな子供だ。
ぼっちゃん刈りで、青白い肌、暗い目はじっと裕司を見ているが、そのまなざしに感情はない。いや、あるとすれば絶望か。
「彼は全てを奪われてここにいる。服なんかはもちろん商品を飾ろうとこっちで用意した。元の服やら持ち物はみんな処分したよ。でも、この子さ、あんたが探しているのは。間違いないよ」
「でも……」
「でも? いいさ、別に。信じられない。そうだろ? それはあんたの勝手だよ。弟はすごく運がよくここで待っていた。あんたは服以外別れたときとそのままの弟にここで会えた。でも、信じられないから帰る。それで結構。あんたの欲しいものはきっと弟じゃなかったんだろうし、別のものを見つけて元の世界に帰ればいい。俺にはどうやったらあんたが信じるかってことはわからないんだ。ただありのままをいうだけでね、信じさせようといろいろしたりはしないよ。結局のところ、何も思いだせないあんたにとっちゃこれは信じるか信じないかの問題だろ。あんたがこの子を弟だと信じればこの子は弟さ。信じないなら弟じゃない。真実はあんたが選べばいい」
「本当にぼくの弟?」
「俺はそうだと思う」人攫いは裕司を見て頷いてみせた。「俺が嘘をいっているかどうかあんたに知る術《すべ》はない。クレームもクーリングオフもないからな。よく考えたらいい。ただ、買い戻すにしても高いぜ。子供というのは値がはるものなんだ。まあ売れ残りの子だし、あんた次第で、ちょっとは勉強させてもらうけどね」
「どう思います? 本当にぼくの弟だと思いますか?」
裕司は老紳士に声をかけた。老紳士はぼんやりとしていた。いずみが老紳士の袖《そで》を引っ張った。
「私にきかれても……。その可能性は低いのではないか。弟については何も特徴のようなものを思いだせないのかね?」
裕司は声をひそめた。
「はい。残念ながら。夜市では詐欺もありえるのですか?」
「うん。詐欺は夜市においては罪だからめったにはないと思う。だが、ありえるな」
「さっきもいったが、別に買わなくてもいいんだぜ」人攫いがいった。「そっちが納得できない取引なら、あとあと気分が悪いからよ、こっちもよ」
裕司は人攫いに向き直った。
「ぼくはかつて弟とひきかえに野球の才能を手に入れた。その才能を逆に売ってその子を買い戻したい。そういうことができますか」
人攫いはぽかんと口を開けた。
「できないね」
「できない……」
「ただ純粋にできない。わかるか? 子供一人の価値はあんたが思っているようなものではないし、あんたの野球の才能と交換するには見合わない。金のほうがてっとりばやい。どうだ?」
「では、いくらですか」
「うん? いくらがいい? いやいや、ぶっちゃけてな、いくら持っている?」
「七十二万円。これが正直な金額で、これが今もっている金額の全てで、これ以上は一円もでない」
人攫いの笑みが凍った。
「あんたな。人間が、人間の子供が、七十二万円で買えると思うか?」
人攫いは、出来の悪い子供を叱る教師のようになった。
「なあ、買えると思って来たのか? 車よりも安いだろ。違うか?」
「でも、七十二万円しかないんだ」裕司の目に涙がたまっていた。
「考え方次第じゃないか?」老紳士が形勢不利な商談に割って入った。
「さらってきた子供の元値はタダに等しいだろ。この子は本当に彼の探している弟かもわからない。違っていても返品はできない。だいたい売れ残りなんだろ。十年も売れなかった。この先だって売れるかどうかわからないんだ。誰がひきとる? こっちには、七十二万円はずいぶん大金だ。それで買えないなら、あきらめて別の店に行くさ」
人攫いは迷惑そうに老紳士を見た。
「誰がなんといおうと、七十二万円じゃあ売れないよ。帰ったらいい」
「いくらなら売れる?」
「あんたがいったことを全部考えてみて、三百万円かな」
「では買えないな。さあ、行こう」
「七十二万円に人間を一人つけるよ」
裕司はきっぱりといった。
いずみは店から一歩下がった。
「それなら……考えてもいいが」
人攫いは用心深げにいった。
「老人ならいらない。若いのか。男か女か。なあ。誰だ? そこの女の子か」
裕司はいずみに目をむけた。
「私は……絶対に嫌だから。それに、あなたの持ち物ではないし……」
「ごめん」
「はあ? 何いってるの?」
「君の買い物のチャンスをくれ。君がぼくの弟を買うんだ。ぼくは心の奥底でずっと死ぬことを考えていた。望んでいるんだよ」
いずみはすぐに裕司がいっていることを理解した。人攫《ひとさら》いも同時に理解したらしく、ぱちんと手を叩《たた》いた。
「そうか。あんたか。いいぜ。あんたは若い。七十二万円と年若い青年だ。取引は成立するがそれでいいかい?」
「いいわけがない。考えなおせ」老紳士が厳しい声でいった。「ヤツの商品になってみろ。二度と元の世界に戻れなくなるぞ」
「これでいいんです。ある日、ぼくは死のうと思いました。高校の時、つきあっていた女の子と喫茶店で午後を過ごしながら、ああ、もういいや、と思ったんです。なぜそう思ったかなんて口では説明できない。それは曇った冬の日のことで、その女の子は無口で無表情な人形みたいな美人だった。ぼくが何を話しても、うふふ、とか、すごい、とかそんな反応しか、かえってこなかった。タオルを殴るような手ごたえのないいつもの会話の中で、彼女はふといった。〈私の友達、野球選手としたことがあるのよ〉それは、プロ野球のなんとかという選手に、彼女の友達が偶然、沖縄の酒場であって、そのまま一晩を共に過ごした、という話だった」
「ねえ、裕司?」
「その恋人には、ぼくの知る限り女友達と呼べるものは一人もいなかったし、何一つ信用できない子だった。でもその話はとても本当のようにきこえた。その子がその話をした瞬間、ぼくはその喫茶店も、その子も、その子が語るその友達も嫌いになった。でも、嫌だからって、変えられることじゃない。あるときにある場所で生まれて、そして誰かと出会うって、嫌だからって変えられることじゃないだろ? その日を境にずっと死を考えていた。生きていくのがひどく怖くて億劫《おつくう》になった」
いずみは首を横に振った。老紳士も首を横に振った。
「理解不能ですけど」
「当の本人のぼくにもね。ねえ、その子は、まるで自慢するようにいったんだ。私の友達はプロ野球選手とセックスしたことがあるんだ、と」
「その子じゃなくてあなたがよ。だから、それが何? ちっぽけなことじゃないの? その子が浮気したわけじゃなくて、その子の友達でしょ」
「そのあと、その彼女は続けた。〈裕司も早くプロ野球選手になってね〉そういってうふふ、とその子が笑った瞬間、ぼくは、自分が大切だと思っていたものが、さほど大切ではない、それどころかゴミのようなものだって気がついたんだ。だからといって変えられるものではない。もうそれは、ただそこにある、現実、としか呼べないものだった」
「さっぱりだわ」
いずみはいいながら、自分が裕司だったら、例えば、自分がピアニストの卵で(幼き日の夢はいつもピアニストだった。家にピアノはなかったのだが)つきあっている男が、〈俺の友達は有名なミュージシャンのなんとかと寝たことがあるぜ、おまえもはやくプロになってくれよ〉といったとしたら、たぶんすごく嫌だろうなと思った。自分の周りの世界がそんなふうにできていたとしたら。確かに……でも、それはひどい話には違いないが、世の中にはもっとひどい話がいくらでもあるのではないだろうか。
「最後には、弟を買い戻してから死のうと思った。だから、弟とひきかえに売られることはいいんだ。別に……」
「あなた何いってるの? 私はどうなるの? 残された人たちはどうなるの? 自分の命をなんだと思っているの? ゴミみたいな女が、ゴミみたいなことをいったからといって、どうしてあなたが死ぬの? あなたの周りがゴミでできていたからといって、世界の全てがゴミでできているとは限らないでしょ」
「君にはすまないと思う。君は残された人かもしれない。でも、ぼくの親はどうも思わないよ。それ以外の人たちも。ぼくは、弟がそうなったように、存在しなかった人になるんだ。彼らは悲しみはしない。何も失ったと感じないからだ。素敵じゃないか。〈死ぬ〉のではない。〈存在しなかった〉んだ。こんな素晴らしい条件に魅力を感じない自殺者がいるかな。たぶん世界ではそういう取引があちこちで行われているんだ。誰にも気がつかれずにひっそりと。ぼくは消える。代わりに弟が世界に残る。それを願う」
「ねえ、この子は弟じゃないかもしれないでしょ!」
「弟でないなら仕方がない。ぼくは不幸なさらわれた少年を一人解放し、そして世界から消える」
「でも……」
「理解してくれ。それに……気がついてた? このままなら君はここからは出られないんだ。お金をたいして持ってきていない君が夜市から出るには、ぼくを売るしか、この方法しかないんだよ。君がぼくの弟を買えば、君は取引をしたことになる」
「私は、嫌よ」
いずみは答えながらひどく動揺した。そうだ。裕司が買い物を済ませれば自分も帰れるものだと漠然と思っていたが、確かに違う。裕司が何かを買えば帰れるのは裕司だけで、自分はこの化け物市場に取り残されることになる。これはまるで、罠《わな》だ。
「嫌よ」いずみは呟《つぶや》いた。「帰れないってあんた七十二万円あるんだから、四十万円ほどで何か別のものを買って、私に残りの三十二万円貸してくれたらいいじゃない。戻ったらすぐに返すし、利息をつけて返したっていいんだから……」
「嫌だね」裕司は笑みを浮かべた。「ごめんだね」
「それ、ひどい……」
「もちろんさ。ぼくはひどい男なんだよ。君がどれほど善人ぶろうとも、ぼくを変えることはできない。二つに一つだ。ぼくを売ってあの子を買い、ここから出るか、一人ここに残るかだ。君がいいというのなら、代わりに君を売ったっていい。それでも弟は戻ってくるだろう。変な良心を出すのはやめてくれ」
「ずるい、嫌よ、あなたを売ってわけのわからない子供なんか買いたくない!」
いずみの両目に涙が滲《にじ》んだ。たぶん、彼は最初からこのつもりだったのだ。アパートで、お金はある? ときいたときから。
「じゃあ、ぼくの代わりに売られてくれ。あの弟は元の世界に戻る権利がある。それは絶対だ。何をひきかえにしても戻してみせる」
裕司はいい張った。いずみは言葉を返せなかった。裕司は引きつった笑みを浮かべたままいずみから視線をそらした。
「望むようにするといい」老紳士が口を挟んだ。「間違いなく愚かな行為だが、君の生は君のものだから」
裕司は人攫いに向き直った。
「彼女は嫌だといっているけれど、ぼくは売られたがっている。お金とぼくと交換で弟を彼女に渡してください。そしてその取引の効果で彼女を夜市から出られるように。できますか?」
「できるともさ」
人攫いは嬉《うれ》しそうだった。
「よかった」
「確認だ。その子は本当にその青年の弟なんだろうな」
老紳士が人攫いを睨《にら》んだ。
「もちろんだとも」
人攫いはにっこり笑った。
「契約成立だ」人攫いは誰にともなく、それでいて誰かにきこえるようにいった。「このあんちゃんとの契約は二度目で、一度目の借りがある。だから……仕方ないな? こういうことで」
どこかで錠がかかるような、ガチャリという音をいずみはきいた。夜市での取引の契約完了を告げた音なのか、老紳士が動いたときに刀が何かに触れた音なのか。
老紳士の動きは無駄がなく速かった。
脅しも告白もためらいもなく、老紳士は前に飛びだし、刀を振った。
人攫《ひとさら》いの首はいずみの目の前で両断された。
老紳士は刀を振り切っていた。
首は地面に転がる。
裕司が何か叫んだ。
老紳士は大声をはりあげた。
「この男は詐称をした。神聖なるこの市場の誠意ある取引に間違った商品をそれと知っていながら用いた。それでは、仕方ないな? こういうことで」
頭を失った人攫いの体が、首から血を噴出しながら探るように裕司に両手を伸ばし、裕司は後退して尻餅《しりもち》をついた。人攫いの体が向きを変え、いずみに向かったところを、老紳士が斬り倒した。
呆然《ぼうぜん》としているいずみの視界が暗くなった。
光がどんどんと薄くなる。店の明かりが弱まっていき、潮がひいていく音がした。
いずみの暗くなる視界の中で……。
老紳士は尻餅をついて目を見開いている裕司に向かってゆっくりと刀を振り上げた。
「詐称? なんで……」
「あの子供は君の弟ではない。なぜなら弟はずっと前に……」
老紳士は刀を放り捨てた。
人攫いの店の明かりが消えた。
森のあちこちに散らばっていた店の明かりが一つ一つ消えていく。
暗くなっていく。
何人もの子供が音も姿もなく、だけれど、それでいて子供たちのものとわかる、わああっと尾をひく歓声の気配を残していずみの両脇を走りぬけていった。
そうか。人攫いが死んだから、子供たちも、元いた場所に帰るんだ。いずみは思った。
そうあって欲しい。
自分の姿さえ見えない暗闇にあたりは包まれた。
見回せば、遠くに提灯《ちようちん》が二つ並んで灯《とも》っていた。存在する明かりはそれだけだった。いずみは提灯の明かりを目指して闇の中を歩いた。不思議と石につまずくことも木にぶつかることもなかった。
並んだ提灯の間を通り抜けると眩暈《めまい》がした。
いずみが目を閉じるのと同時に夜市は閉じた。
そして眠りこれは夢の一部となる。
夢の中でいずみは夜明けの森の中を歩いていた。もう店はどこにもない。風が地面から空に向かって吹いている。闇の粒子が空に舞い上がっていき、あたりに光が満ちていった。透明な秋の夜明けの光だ。森にこびりついた大量の煤《すす》のような闇を風と光がこそぎおとしていた。
森を抜けて海に出た。空には凄《すさ》まじい黒雲があった。舞い上がった煤が雲に吸い込まれていく。自分が出てきた森の上空を見ると、まるで黒い雪が降っているように見える。だがそれは逆向きに降っているのだ。地から天へと。
黒い巨大な塊。雲と呼ぶしかないが、本当は雲とは別の属性の何かなのだろう。
風がその巨大な塊を海へと押しやっていた。四方から強い風が吹いていた。頭上を覆っていた黒雲がやがて完全に陸を離れ、水上のものになり、水平線の彼方《かなた》に消えていくまでを、いずみは髪をなびかせながら見守った。
やがて夢は現実にとすりかわる。
午前十一時。
海の見える岬の断崖《だんがい》の小さな灯台の下にいずみは座っていた。
太陽は中天に昇り、潮の匂いのする穏やかな風が海から吹いていた。
長い間こうして座っている。口の中はべとつき、尻は痛み、頭の奥にもやがかかっていた。
夜市は去った。
去ってしまえばそれは存在したことすら疑わしかった。
いずみは、夜市について思考を巡らそうとしたが、首を横に振って中断した。昨晩のことなのに、赤ん坊のときの記憶を思いだそうとするように不確かだった。
誰かがそばにいる。気配を感じて隣を見ると、コートにハンチングの男が灯台に背をもたせかけて海を眺めていた。
二人はしばらく黙っていた。
いずみは待った。やがて男は語りだした。
「彼の弟の話をしましょうか?」
それで通じた。
「はい」
「あそこにいたのは彼の弟ではなかった。弟は……兄が弟を売ったその日、弟は人攫いのところを走って逃げたんです。そして、目についた商店にとび込んで、〈自由〉を買った。どのような品物かはわかりません。形などなく、〈自由〉としかいえないものでした」
いずみは頷《うなず》く。
「自由。それは人によって指すものが異なりますが、それは当面のところ、人攫いの呪縛《じゆばく》から一時的に逃れるといった意味での自由でした。そして、その代価は〈若さ〉でした。運良く自由を買わなければ、弟はすぐに人攫いに捕まっていたでしょう」
ハンチングの男は話を続けた。
兄が自分を売った。それを理解した瞬間、ただ泣いていてはいけない、と瞬時に判断した。少年は走りだした。その判断の速さは幸運だった。まさに人攫いが少年の肩に手を伸ばしていたところだったのだから。
少年が走りだし、人攫いが追おうとした瞬間、牛車を引いている鬼がたまたま通りに現れ、二人の間を塞《ふさ》いだことが少年の逃走を助けた。
全力で、後ろを振り返らずに、藪《やぶ》の中もかまわず走った。蔦《つた》に引っかかって転がり、顔を上げると、そこにあったテント小屋に飛び込んだ。
テント小屋の店の中に入ると、奥に座っているしわくちゃの老婆が、あんたはお客さんだね、と少年に問いかけた。少年はとっさに頷く。人攫いが追ってくる。助けて! 少年は老婆にすがるが、老婆は相手にしない。あと十秒だけあんたはお客さんだ。さあ、何を買う?
壁には仮面と服が並んでいる。
自由という言葉を五歳の少年は知らなかった。ただ、心より願った形なき商品。
そうかい……老婆は少年がその名をいえないことを気にしない。それじゃあ、あんたの若さをもらうとしよう。今のあんたが持っていて、ここで売れるただ一つのもの。
さあ、そこにあるローブをはおるといい。
そして壁にかかった仮面をつけるんだ。
少年はいわれた通りにする。
もう出ていっていいよ。あんたは望むものを手に入れ、あんたの若さは私がもらった。さあ、取引は終ったんだよ。
見ればそこにいるのは老婆ではない。年若い青白い女だった。女は笑みを浮かべていた。
少年が自由を買って店を出たとき、人攫《ひとさら》いがあたりを見回しながらやってきた。少年はもはやこれまでと観念しかけたが、人攫いは少年を一瞥《いちべつ》することもなく、通り過ぎていった。なぜだろう。人攫いは気がつかなかったのだ。そこに立っていた、ローブをまとい仮面をつけたものが、自分の探している五歳の少年であることに。あるいは、買ったばかりの〈自由〉が効果を発揮したのかもしれない。
少年は、夜市から出ることを望んだ。買い物をしたことにより、夜市は少年を解放した。
あたりに朝が訪れる。
森を抜けるときに仮面を外した。自分の顔に触れてみたかったのだ。少年は、ああ、と声をもらした。
そこにいたのは一人の男だった。少年でも青年でもなく、おそらくは中年と人が呼ぶ年代の……。
背が伸びていた。
彼は年をとったのだ。
髭《ひげ》も髪も伸び放題に伸びていた。五歳の男の子を探していた人攫いが自分に気がつかなかったのも無理はないと思った。
それで終りではなかった。
昨日まで少年だった男の前に開かれた世界の朝は、元の世界の朝ではなかった。
全てが違っていたわけではない。人が住み、電車があり、飛行機があり、戦争があり、資本家と労働者がいて、宗教がある、元いたところとよく似ている世界だった。似ているどころではなく、ほとんど同じともいえた。言葉も同じだった。
漠然とだが、空気の質が違っていた。もしも少年が大人だったら、もっと前の世界のことを知っていれば、その違いを列挙できただろう。動植物の相違、文化や流行の相違、政治家や芸能人など著名人の相違、歴史の相違などを。
ついこのあいだまで、幼稚園で消防車の絵をクレヨンで描いていた少年にとって、何が違うのかといえば、そこには少年の帰るべき家がなかったという点だった。
男はその世界を流浪した。
家族もなく、金もなく、若さをもたないその体の主は五歳の心の持ち主。楽な旅ではなかった。涙はかれることなく、彼は泣き続け何度となく死にかけた。そしてその度に成長した。
男は家族と元いた家を探した。最初のうち男はそれがどこかにあると信じていたからだ。ほどなくして男はその世界の警察に捕まり、その世界の施設に入れられることになる。男は施設の職員に愛された。男は身なりとは別に、その心はきれいだったし、無知だったが、知識の吸収は見た目の年齢からすれば、信じがたいほど速かったからだ。
男は施設の職員や、そこでできた仲間を通して、その世界に馴染《なじ》んでいった。だが、男の心の奥底には、彼にしか理解できない恐怖と、希望があった。それは自分を追ってくる人攫いの幻影であり、いつか帰る日を夢見る元の世界の幻だった。
元の世界に戻りたい。元の世界がどのようなものだったか忘れてしまってからもずっと願っていた。
一つのイメージ。
陽だまりの縁側で、少年はクレヨンで絵を描いている。隣で兄が算数のドリルをやっている。
皿をもった母親が顔を出した。
「おやつはクレープよ」母親がいう。
「なあに、クレープって」兄がいう。
「作ってみたのよ、食べてみて」
黄色い、ふわふわと柔らかく温かい食べ物が載った皿が少年の前に出される。一口食べると、見かけからオムレツをイメージした味とは違い、甘い。兄が少年のほうを見る。うまいな、と微笑む。少年も兄を見て微笑む。
母親がどう? と顔を出す。二人は声をそろえる。
「おいしい! なあに、これえ!」
「あら、じゃあまた作ってあげなきゃね」
「クレープル!」
兄が訂正する。
「クレープだよ」
クレープは三つあり、最後の一つは半分にわけた。もうすぐテレビのアニメがはじまる。二人はそれを待っている。
男は思う。兄がどんな顔をしていて、母親がどんな顔をしていたのか、クレープがどんな味をしていたのか。もはや何一つ定かではなくなってしまった。母親はもう二度と少年にクレープを作ることはないのだ。それはついこのあいだのことでありながら、遠い異世界のことだった。
男は最初から筋道をたてて考えた。自分はある種の門を通過してここに来たのであり、帰るならばその門を逆にくぐらなければならない。
方法はおそらくただ一つ。自分にとってこの世界の門となった夜市に再び巡りあうこと。
だが、あそこには悪魔がいる。悪魔を倒さなければいけない。悪魔とは……もちろん人攫いである。
夜市に再び足を向け、人攫いを前にすることを考えると、全身に震えがはしった。
施設を出てからはそれほど困らなかった。男は勉強をしながら、施設が紹介した工場で働くようになり、単純作業をしながら、機械の使い方をおぼえた。
施設で仲良くなった職員が時折男の元に遊びにやってきて、生き方について教えた。
得た給料は特に使い道もないので、家賃や食費をさしひいたそのほとんどを貯金した。
男の生活は、その世界の平均水準からすれば、高くはなかったが、男は何も気にしなかった。
夜市で〈自由〉を買った男は、その世界の標準的な尺度で、他人よりも自由であるというわけではなかった。しかし男の本来の年齢の子供たちに比べれば、学校に行く義務もなく、住む場所も寝る時間も食事のメニューも、あらゆることを全て自分ひとりで決められるのだから、圧倒的に自由ともいえた。
生活が落ち着くと男は知識と力を欲した。
どれほど控え目に見ても、自分は無知で愚かで弱いということがわかっていた。
男は自分で自分を教化しながら、強い肉体を作るために、その世界の訓練施設で、トレーニングをはじめた。人攫《ひとさら》いが現れたときに、負けないためだ。体を鍛えながら、いつの日か自分に訪れるかもしれない状況をイメージした。繰り返し繰り返しイメージした。夜道で人攫いに出会ったときの対応、帰宅したら人攫いが部屋で待っていたときの対応、そして夜市に自らが赴き、人攫いを前にしたときの対応。
部屋には鍵《かぎ》を三つつけた。護身用にいつもナイフと、電流で相手を感電させる武器をポケットに忍ばせた。
だが実際に、人攫いが男の前に現れることは、一度もなかった。それでも男は人攫いと、自分を売った兄の存在をひとときも忘れることはなかった。忘れようにも忘れられないものがあるのだ。
いつの日か兄に会う。それが、生きる目的だった。
兄と会ってどうしようということは考えていなかった。
兄はあのとき、ここで待っていれば戻ってきて助けてやる、といった。兄は本当に助けに戻ってきただろうか。自分は逃げだしたがそれでよかったのだろうか。男は眠れぬ夜には何度も考えた。答えはでなかった。
兄は自分を売った。
そうだとしても悪いのは全て人攫いであり、兄は悪くないとも思えたが、自分を売ったことをどうしても許せないとも感じた。
どうするかは会ってから決めればいい。
戻らなくてもいいのではないか。男はそう考えることもあった。今の世界ではひどく苦労はしているが一通りうまくやってきている。元の世界に戻っても何があるわけでもない。自分の居場所もすでにないだろう。第一、元の世界なんて本当にあるのだろうか。
これは自分の妄想で……。
いや、妄想ではない。証拠がある。施設にいた頃、そこの職員は男にいった。あんたはすごく不思議だ。検査をしたら、あんたの歯は新品同様で虫歯が一本もない。普通はあんたぐらいの年齢で、あんたのような暮らしをしていた宿無しは歯がぼろぼろなんだが。
最初の五年がそのように過ぎた。
夜市が再び訪れる。男は予兆を感じた。
大気がざわめき、風に悲鳴や笑い声が混じりだす。
男には、夜市が男の住んでいる町からしばらく先の、無人の荒野の丘のふもとに発生したことがわかった。風の匂いと太陽光の具合と影のでき方、鳥や虫、草花、生き物たちの気配でそれがわかった。夜市の気配というものは、それがわかるものにとっては間違いようのないものだった。
男はすぐには夜市に足を向けなかった。
夜市に向かう、と考えただけで、恐ろしくて足が震えた。
仕事が終って夕方の町を歩いているときだった。男の前を一人の少女がとぼとぼと歩いていた。
学校帰りに友達と遊んだ帰りだろうか。
少女は人気のない細い路地のほうに足を向けた。男もほとんど何気なく少女の跡をつけるような形で道を曲がった。
男は考えた。
少女は学校に通っている。洋服からみて裕福な家庭の子供だ。比べて、自分は学校には通っていない。だから文字すら満足には書けない。独学で勉強をしているが……。
少女は成長すれば、自分のような無学な労働者を馬鹿にするような女に育つだろう。これまで何度も馬鹿にされてきたからわかる。
ふと怒りが芽生えた。
何も知らないくせに。全てを与えられ、自分が全てを与えられてきたからこそ高慢でいられるということも知らないくせに。少女は同じような家庭で育った男と結婚し、幸せを手に入れるだろう。
男の中で暗い感情が広がっていった。
少女を捕らえるのは簡単だ。
ナイフもあるし、護身用のボタンを押せば電流が流れる武器もある。捕らえてどうするのか? 彼女を夜市に連れていく。それで……何が買えるだろう。何が買える?
この子をあいつのところで売れば。
男はその考えに驚いた。夜市の気配が訪れるまでは、自分は記憶に問題を抱えた哀れな妄想癖のある中年の男だと半ば思っていたし、あの恐ろしい人市場にはどれほど金をつまれたとしたって二度と行きたくはないと思っていたのに。昨日と今日で人は変わる。
男は少女との距離を縮めた。
たぶんこの子は本来の俺と同じぐらいの年だ。俺は知っている。この世界は弱肉強食だ。そして少女はそのことを知らない。これは悪でも罪でもない。野獣が獲物に出会った。ただそれだけのことだ。野獣には幸運で獲物には不運だった。
野獣はその瞬間自分が野獣であることを知り、獲物は自分が獲物であることを知る。
人攫《ひとさら》いはわざと自分を逃したのかもしれない。男は思った。この少女は一人目で、おそらくは一人では終らないだろう。夜市があるたびに俺は子供を連れていく。やつの下に。そうだ。己に芽生えた暗い感情。これは呪いなのだ。
男が手を伸ばしたとき、少女が振り向いた。男は手をとめた。少女の表情に恐怖はなく、まっすぐに男を見た。
男は手を下ろした。夕暮れの細い路地にて、男と少女はしばらく無言で相手の目を見ていた。
唐突に男はいった。
「俺は人攫いだ」
「私をさらうの?」
「たぶん」
男は動かず、少女も動かなかった。男は声を和らげた。
「もしも……おじさんが、君と同い年で、悪い魔法にかかってこの姿になっているのだとしたら、君は友達になってくれるかい?」
男は自分の言葉に驚いた。一体何を話している? こんな何の関係もない……。
少女は肩をすくめた。
「さあ。どっちみち、男の子とは口をきかないようにしているから」
男はたじろいだ。
「おじさんは人攫いに見えない」
少女は確信をもっていった。
「じゃあ、何に見える?」
「泣きそうな人」
男はその言葉を咀嚼《そしやく》した。泣きそうな人。
走って逃げだしたい恥ずかしさにおそわれた。あるいは今すぐ泣きだしたい気分になった。
男はこらえていった。
「確かに」
「でしょ? 人攫いじゃない」
「家は近いのかい?」
「うん、すぐそこ」
少女は通りの角にある家を指差した。
「わかった。じゃあ、人攫いに気をつけて」
「うん。おじさんもね。ねえ、私も本当は泣きそうな人なんだよ」
少女は涙を浮かべた。
男は尋ねた。
「どうして?」
少女は男を家に招き入れた。
少女の兄は床に伏していた。
「お兄ちゃんの病気は絶対に治らない病気なんだって。少しずつ弱って骨も駄目になっていくんだって」
床に伏して眠っている青年の横で、少女は男にそう話した。少女はその日も遅くまでその病気を治せる医者を探していたところだったのだ。少女がどれだけ兄を愛しているのか男にはわかった。
「どんな薬もきかないの。たぶん、あと一週間ももたないんだって」
男はじっと黙って立っていた。病名を少女に尋ねた。少女はその病名を教えた。
その病名は男も何度か耳にしたことのある、死に至る病の一つだった。
少女の家を出た男は二度目の夜市に一人で足を向けた。足は震えていなかった。町を出て荒野に入り、気配を感じるままに丘のふもとの森に入ると、夜市は開かれていた。
そこで男は、そのときまでに貯めていた金をほとんど全て使い、〈知識〉を買った。もちろん、男の金ではたいした〈知識〉は買えなかったが、小学校を出ていない男にとっては、知識は何よりも重要だった。単純な計算術や、文字を読む知識にしろ、働きながら独学で勉強していた男にはとても難しく感じていたのだ。
そしてそのときの夜市で、買い物をしないと帰れないことや、夜市は複数の世界にまたがっているということを知った。これまで自分の中で推測してはいたが、確認のとれていなかったことや、誤解をしていたことなどがきれいに整理された。
また、男は元の世界に戻る方法も知ることができた。知ってしまえばそれは男が前から思っていたことと同じだった。
夜市は複数の世界の交じりあう点に出現する。だが、夜市を通って他の世界に行くことは普通はできない。通常買い物客は、自分の世界に戻るようになっている。
そのことを教えてくれたのは夜市で店を開いていた白衣の数学教師だった。彼は数学の公式を売っていたのだが、男の問いに快く答えてくれた。
白衣の数学教師はいった。
「元の世界はあんたの侵入を拒んでいる。なぜなら、あんたは夜市での契約により、向こうでは存在してはいけないことになっているからさ。その契約を無効にするには、あんたとその契約をした人攫いと話しあうか、さもなければ殺すしかない」
「話しあうことはおそらく無理です。でも、殺すといいましたが、夜市で店をやっているような存在を殺すことができるでしょうか」
「人間のあんたには難しいね。だからあきらめることを勧めるところだが。夜市で商売をしているのはな、みな夜市の一部なんだ。相手を傷つけても夜市が回復させてしまうだろうよ。いつだったかピストルをもった男が財宝売りの品物を奪おうとして、財宝売りに鉛の弾を撃ち込んだが、見る間に傷がふさがって、財宝売りはその暴漢の首をへしおったよ。いいかい、問題になるのは……道理なんだ」
「道理とはなんです?」
「ふん、教えよう。いいかい。この世界の神は〈夜市〉なんだ。なぜならここは夜市だからね。ここで商売をしているやつらは、俺も含めてだが、さっきもいったように〈夜市〉の一部だ。〈夜市〉自体は俺らにとってすら、姿もないし触れることもできないけれど、そこにはルールが生きている。外の世界とは異なる法則、商売をする上でのルールがね。こいつがなければなんでもあり。商売なんてなりたちゃしない。ライオンの店主がシマウマのお客を食っちまうだろうし、めちゃくちゃさ」
「なるほど」
「そうしたルールに則《のつと》った上で俺たちは夜市として存在する。さっきの例でわかるように、客がまっとうな商売人を殺すことは、この夜市の中ではできない」
「それはルール違反だから、市場の神様が、〈夜市〉が回復させてしまう」
「そうだ。ものわかりがいいな」
「まっとう……でないなら?」
白衣の数学教師は声を落とした。
「そこだな。まっとうでないなら殺せる。まっとうとは、取引の話だよ。その店の主が、嘘をついたり……例えば、道端の石を、永遠の若さが手に入る賢者の石です、なんていって売ったりしちゃいけないってわけだ。そういうことをしているやつなら、客が怒って殺したってこの市場の神様はなんにも怒らない、むしろ自分の中の腐った部分を切り落としてくれて喜ぶってわけよ」
「ありがとうございました」
白衣の数学教師はニヤリと笑った。
「なるほど、あんたの相手はまっとうじゃないわけだ。人攫いか。もっとも、殺すとなりゃ、それ相応の武器で一撃で仕留めないとな。そういう武器なら夜市で売っている。どうだ、今日やるのかい」
男は戸惑った。
「それは、まだ」
白衣の数学教師は頷いた。
「次の機会に譲るのもいいがな。あんたたち人間は、この市場には三回しか来られないんだ。何度でも際限なく来られるとなりゃあ、人間の煮えたぎるような欲望も薄まっちまうと〈夜市〉はお考えよ。冷やかしはお呼びでないからさ。まあ、機会があれば逃さないようにな……」
その夜、男は人攫いの店を遠目に見た。
見た瞬間、悪寒が走り、吐き気をこらえきれずに吐いてしまった。
あの店がまっとうであるはずはない。絶対にだ。
少女が教えてくれた病名にきく薬は簡単に見つかった。値段もすごく安かった。男は本当にその薬に効果があるのか何度も確かめた。
「馬鹿にしちゃいけないよ」薬売りはいった。「その病は、場所によっちゃあ不治とされているらしいが、別の空の下じゃあ、普通の薬屋でだって特効薬が売っている代物だからな。まあ、あんたら人間は、別の空の下にいく自由がきかないから、この夜市があるわけだ」
二度目の夜市から帰ってくると、世界は変わっていた。男は町に溢《あふ》れる文字のほとんどを読むことができるようになり、基礎の数学を理解していた。
男は少女の家に向かった。そして、少女の見ている前で、床に伏している青年に薬を飲ませた。少女の両親もそこにいて、男に胡散《うさん》臭そうな目を向けていたが、男が医師だと名乗ると何も口出しはしなかった。
「代金は」父親が冷めた目で男にいった。
「いりません」男は薬を飲ませると、すぐにその家をあとにした。
ただほど高いもんはないんだ。何を飲ませたのかわかったもんじゃない、と父親が娘か母親のどちらかにわめいている声が去り際に耳に入ったが気にしなかった。
男は相変わらず工場で働き続けながら、次の夜市を待った。
最初、工場の仲間たちは男を馬鹿にしていた。恐ろしいほど無知な男はかっこうの笑いの種だった。だが、もはや、男を笑うものはいなかった。彼が確実に、そして着実に変わっていっていることを彼らは認めなくてはならなかった。
男は黙って働いた。金をため、体を鍛え、心を鍛えた。
人攫《ひとさら》いを殺す決意はより深くなった。男に親はなく兄弟もない。いたとしてもそれは前世の話。男のルーツは人攫いであり、どこに逃げようと、それはつないだ鎖が長く長く引き伸ばされているのにすぎず、首輪が外れたわけではない。人攫いを殺さない限り、本当に自由にはなれないのだ。
季節が巡り、工場が休日のある晴れた午後、町を歩いていると、前から若い男女が歩いてきた。それは、いつかの少女とその兄だった。少しだけ背の伸びた少女は、男に目をとめると、連れている兄の袖《そで》を引っ張った。
二人は足を止め、男から少し距離を置いたところで深くおじぎをした。
通行人も多いところで、男は気恥ずかしくなったが、嬉《うれ》しくもあった。薬はきいたのだ。このような感謝を人から受けたのは生まれてはじめてだった。そして、それ以上の感謝を示してもらおうとは思わなかった。
男は二人が顔を上げる前に路地裏に飛び込んだ。
一人で歩いていると、ふと笑いがこみ上げた。
その日は一日中笑っていた。
男にとって三度目の夜市がいよいよ発生すると感じたのは二度目から数えれば五年後のことで、男は十五歳になっていた。男は夜市の予兆を感じ取ると、最初に自分をひきとった施設の人から、工場の上司や仲間、その世界で出会った大切だと思える人たち全員に挨拶《あいさつ》をしてまわった。
うまくいけば、もう二度と彼らと会うことはないのだ。そしてうまくいかなくても、もう二度と彼らに会うことはないだろう。挨拶をされた人たちは、みな、自分がいったい何の挨拶を受けていて、男が何を考えているのかさっぱりわからなかった。ただ一人、全てを話していた施設の職員、その頃にはもう親友と呼べる存在になっていた男だけは、彼をぎゅっと抱きしめて送りだしてくれた。
風が街路樹を揺らす夕方、夜市は訪れた。
男は、これまでの日々を思いながら歩き始めた。
前回とは別の場所で、海辺の森の中にそこへ至る入り口は開かれていた。
「これで、彼の弟の話は終りです」
「それで、その三度目の夜市が昨日の夜だったというわけね?」
「そうです」
「あなたが弟だった」
男は黙って頷《うなず》いた。
「あなたは、いつ私と一緒にいたのが自分を売った兄だと気がついたの」
「見た瞬間に予感はしました。兄が何歳になっているか、私は知っていましたし、夜市に人間が来ることはそれほど多くないでしょうから。向こうは自分のことを気がつかなかったけれど、それは好都合だった。彼が若い女の子を連れてきている。どうするつもりなのか見てやろう、と。最初に別れてからずっとあなたたちの跡をつけて見ていたのです。場合によっては彼も斬るつもりでした。同じことを繰り返すようなら。だが、彼はそのあと、見事に人攫いを殺す機会を与えてくれた」
ふと二人の間に沈黙が訪れた。
まだ、きいておくべきことがある、いずみは思った。
「彼は……今もあそこにいるの?」
「おそらく」
「戻れないのかな。戻ってくるのが嫌だったのかな」
男は、口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。そして視線を地に落とした。
地に尻《しり》をついた裕司は放り捨てられた刀に視線を走らせ、それから男を見上げた。脇では人攫いの胴体がぐずぐずと溶けだしている。
「あなたは……」
男は口を開いた。
「遠い昔、約束をしたね」
裕司は目に涙をためた。
「約束は守られなかった。ぼくは……」
「いや、約束は今日、果たされたんだ」
男は裕司に手を伸ばした。
裕司はその手を掴《つか》み立ち上がった。
「さあ、帰ろう」
あたりの光が失《う》せていき、世界は無限に広がる漆黒になる。やがて遠くに二つの提灯《ちようちん》だけが残った。
「帰って、何か食べよう。そちらの世界の料理を味わいたい。料理屋はあるのだろう?」
「もちろんさ」
「クレープという食べ物があったと思うが」
「クレープ?」裕司は笑った。「そりゃあ、あるさ。ああ、あるとも」
「そりゃあいい。あの提灯だ。出口だよ」
男が明るい声でそういうと、闇の中から裕司の声が返ってきた。
「ぼくには見えない」
男は、はっとした。
「帰りたいと念じなくては」
「いや……見えないんだ。念じているけれどただ、暗いだけだ」
裕司の声に焦りはなかった。申し訳なさそうないい方。それが男を不安にさせた。
迂闊《うかつ》だった。男は悔やんだ。人攫いを斬り捨てたことにより取引は無効になったが、連れの女の子は、夜市にて取引をしたのは事実。今頃は朝へと導かれているだろう。だが、兄は、まだ……。
まだ何も買っていない。
いくつ買い物をしてもかまわない。だが、何も買わずに帰ることはできない。
「暗いのか?」
「うん、暗い。全て消えた。声だけがきこえる。あなたの……声だ」
買い物をしていないのに、彼の周囲はなぜ暗くなっているのだ? 男は考えた。可能性としてもっとも高いのは……裕司の、のんびりした声がきこえる。
「たぶん、ぼくはもう客じゃないんだろう」
「欲しいものを念じて」
男は懇願した。ここでは無欲なる者はどこにも行けない。
「そうしなくては君は……」
どうなるのかは実のところ男にもわからない。
だが、確証のない直感ならある。どこにも行けないものは夜市の一部になるのだ。永久に。
「ないよ。本当に。思いつかない」
男は声のする方に手を伸ばした。
「手を伸ばして、さあ」
しばらく探っていたが、やがて男の伸ばした右手が握られた。
「そうだ……」
(ありがとう)
確かに手を握っているはずなのに、今度の声はひどく遠かった。
(きっと無理だよ。見えないんだ)
「ゆっくり歩こう。私が導く」
二つの提灯が弱い光で照らしている先にあるのは、トンネルの出口のような半円の空間だった。外には夜露に濡《ぬ》れているだろう垂れ下がった蔓《つる》や、夜明けを待つ静かな樹木が見える。まるで漆黒の壁にかけられた絵画のようだ。
男が出口を通り抜けようとしたその瞬間、男の右手を握っていた感触がするりと消えた。
入れ代わりに手に何かを握らされ、背中を押された。果てしなく遠い最後の声は、
(あなたの幸運を祈る)
あっと思ったときには通り抜けていた。
明け方の森。
男は振り返り、すぐに自分が出てきた藪《やぶ》の穴に飛び込んだ。無限の漆黒も提灯も、もはやなく、そこはただの藪の中の狭い空洞だった。
夜市は閉じたのだ。
男は立ち尽くした。
右手が握り締めているものに気がつき、手を開いた。膨れ上がって折ることのできない状態になっている七十二万円の入った財布だった。
男が黙っているので、いずみはそれ以上問わなかった。
裕司はどこにいるのか。
それはもはやたいしたことではないといずみは思い始めた。彼はこの世界にいない。この世界にいない以上、彼がここでないどこかにいるのか、それともいないのかということは思索の域を超えていることだ。
「あなたは、これからどうするの?」
男は空を見上げた。
「父親と母親にあって」
男は考えながら言葉を続ける。男の顔にはとてつもない疲労が滲《にじ》んでいる。
「とにかく話をして、信じてくれなければ自分の居場所を探すために旅に出る。信じてもらえれば……そこでしばらく暮らすのも悪くはない」
「いつかもう一度、夜市には行けないの?」
いずみは思わずいった。それができれば、若さも何もかも買い戻せばいい。
「普通の人間は三回までしか夜市に行けないそうですから、私はこれで終りです。だが、あなたはいつか……」
いずみは悪寒をおぼえた。あちこちに青白い炎の灯《とも》った幽玄な市場の情景が瞬間、閃光《せんこう》のように脳裏に浮かんで消えた。
男は歩きだした。いずみは跡を追うべきかと思ったが、思い直してそうするのをやめた。十五歳の老紳士は振り返らずに去っていった。男は一人で長い長い旅をしてきたのだ。そしてその旅はまだ続いている。もう自分が介入できる余地はないような気がした。
いずみは木漏れ日の林道をのんびりと歩いた。夜市の記憶はさらに遠くなった。それがどんなところで、どんな商人がどんな品物を売っていたのかなど、ほとんど思いだせない。
一緒に行った男の人はどんな人だったっけ。いや、思いださなくてもいい。そう、夜市なんてものが本当に存在し、自分にそれが再び訪れるのなら、そのときまた思いだすのだろうから。
やがて夜市は完全に遠い秋の夜の夢になる。
それが彼女に再び巡るそのときまで。
[#改ページ]
風の古道《こどう》
私が最初にあの古道に足を踏み入れたのは七歳の春だった。
私は父に連れられて、車で小金井《こがねい》公園という花見の名所に桜を見にいった。
四月の公園では、淡いピンク色のさらさらした花びらをつけたソメイヨシノが立ち並び、萌《も》え出た若葉と共に、逆光に眩《まばゆ》いばかりに輝いていた。その下ではたくさんの花見客がシートをひろげていた。
どうしたわけか、私はその公園で父とはぐれてしまった。初めての迷子体験だった。
私は恐怖にかられ泣き始めた。七歳の私にとってその公園は家から遠すぎた。どうしたらいいのか全くわからなかった。
公園をさまよっているうちに、花見客が消えた。
誰もいない桜並木の道を私は歩いた。
昼の十二時ぐらいだったと思う。
前方からおばさんが歩いてきた。そのおばさん以外に目につくところに人はいなかった。
花見の季節の賑《にぎ》やかな昼間の公園で、周囲に誰もいないというのは、今考えると不自然だが、もちろんその時はそんなことは思わなかった。
「あら、迷っちゃったの」
おばさんはかがみこんでやさしくきいた。
私は泣きながら、家に帰りたいことと、自分の住所と名前を告げた。おばさんの柔らかい物腰から親切な人間であると判断した。
おばさんは独りごちた。
「武蔵野《むさしの》市の吉祥寺《きちじようじ》北町なら……あの道ならまっすぐだねえ」
おばさんは少し思案したあと、ついてくるようにといって歩き始めた。私はいわれた通りにおばさんのあとをついて歩いた。フェンスに囲まれた下水道の施設のようなものをぐるりと廻《まわ》り、木々の間にある細い熊笹《くまざさ》の小道を歩いた。
林を抜けると、その道があった。
車一台分かもうすこしの幅がある、未舗装の田舎道だった。
おばさんは指で道の先を指し示した。
「武蔵野市だったら、この道をずっと向こうに歩いたらつくから。ぼく歩ける? 寄り道しないでまっすぐいくんだよ。夜になったらお化けが出る道だからね」
瞬間、得体の知れない不安を私はおぼえた。「お化けが」のあたりで、おばさんの声が妙に太くなったような気がしたのだ。
おばさんは、私が礼をいおうとした時にはもういなくなっていた。
寄り道などする気は全くなかった。一秒でも早く家にたどりつきたかった。
私は世間を何も知らない七歳の少年だったけれど、この道が特別な道であるということは漠然と感じていた。
未舗装という点がまず珍しかった。私の住んでいる武蔵野市も、桜の公園がある小金井市も、基本的に住宅が密集している土地で、主要な道は全て舗装されていた。
歩いていると、この道には未舗装という点以外にも、ただならぬ奇妙さがあることに気がつく。
道の両脇の風景はブロック塀や生垣、板塀に囲まれている家が並んでいたが、どの家も玄関を道側に向けていなかった。両脇に建つ家がこの、路地裏と呼ぶには少しばかり幅の広い未舗装道に向けている向きは、一つ残らず、後ろか、もしくは側面なのだ。表札付きの門など一つもなかった。また、電信柱もなかった。郵便ポストもなかったし、駐車場もなかった。
人気のない道はところどころで曲がりくねりながらも住宅の中を切れることなくずっと続いていた。なんだか夢の中にいるような気持ちだった。
私は緊張しながら早歩きで進んだ。誰とも出会わなかった。出会いたくもなかった。
しばらく夢中で道を歩いた。両側の風景は移り変わったが、道自体はずっと未舗装のままだった。やがて視界が開けた場所で、私は自宅の近くにあるゴルフの練習場のネットを認めた。
私はどこかの家の生垣の隙間をくぐって、道から脱出した。他所《よそ》の家の庭に侵入するのはよくないことだとわかっていたが、そうしなければこの切れ目のない道から出られずに土地勘のある場所を通り過ぎてしまう、と判断したのだ。
生垣を抜ける時、殴られたような頭痛をおぼえた。どこかに頭をぶつけたのだと思った。
生垣の向こう側は、建物と建物の隙間に、細い上りの石段が続いていた。
頭を抱えながら細い石段を上がり、他所の家の、小便小僧のある庭を夢中で突っ切ると、学校の近くのお稲荷《いなり》さんの裏にでた。
そのお稲荷さんは、住宅街の中に残された小さな社だった。
そこから振り返っても、もう木々や家が邪魔して歩いてきた道は見えなかった。アスファルトの道路に出ると、不思議な未舗装道を歩いたことはなんだか幻だったように感じた。
自宅にたどりつくと、母親が驚いた顔で、
「あら、お父さんと一緒じゃないの?」ときいた。
私は得意になって答えた。
「はぐれたから一人で歩いて帰ってきた」
その日の夕飯の食卓では、公園からどのようにして一人で帰ってきたのか、いろいろと問われた。私は公園で出会った親切な人が教えてくれた道を通って、家まで帰ってきたのだと説明した。
父親はきんぴらゴボウを口に運びながら頷《うなず》いた。
「ははあ、その道は遊歩道だよ」
父がいうには、小金井公園の近くには武蔵野市まで延びている遊歩道があるのだそうだ。
母親は複雑な表情でいった。
「駄目よ、知らない人と話したりしては。その人は、たまたま、いい人だったから良かったけれど」
しばらくの間は二度とあの道に入りたいとは思わなかった。あの道……父のいう遊歩道は、私の町が町ぐるみで隠している、踏み込んではならない秘密のように感じていたし、道を教えてくれたおばさんの「夜になったらお化けが出る」という台詞《せりふ》も、気になった。
あの、全ての家が背後を向けている人気のない住宅街の中の未舗装道は、日が暮れればおそらく真っ暗闇に近い状態になるだろう。なぜなら電信柱のないあの道には当然街灯もなかったのだから。そこをひたひたと「お化け」が歩いている。私は布団の中で想像して震えた。
翌年私は自転車を買ってもらい、父と一緒に遊歩道にいった。
その遊歩道は、「多摩湖《たまこ》自転車道」と呼ばれているところで、犬の散歩をしている人や、制服を着た高校生などが往来していた。
あの未舗装道の、時空間がねじれたような薄暗い密《ひそ》やかさなどそこには欠片《かけら》もなかった。
去年ぼくが通ったのはこの道じゃないんだよ、と思ったが、口に出さなかった。そんなことより自転車に乗ることに夢中になっていた。
いや、私は、ある直感によって道のことを口に出すのを忌んだのだ。
あそこは父さんも知らない秘密の道だったんだ。
そのように思った。
秘密は秘密として守らねばならない。もしも守らなければどうなるか? わからないが、何か良くないことが起こる予感がした。
私が秘密の道の存在を友人に打ち明けたのは十二歳の夏休みだった。
正午少しすぎに、予定もなく、退屈な夏の一日の残りをだらだらと過ごしそうな気配だった私は、自転車で団地の近くの公園を訪れた。誰か暇を持て余しているクラスの友達でもいないだろうかと思ったのだ。そこでアイスを舐《な》めているカズキを発見した。
カズキは私のクラスメートで親友だった。球技をやらせると手に負えないぐらい下手という点で、彼は私と共通していた。休み時間にサッカーや野球をする話が出ると、私とカズキはクラスメートの輪から外れ、自然に二人で遊ぶようになった。
カズキはいつもしている黒ぶちの眼鏡をかけ、木陰のベンチに深く腰を下ろして、滴の垂れる水色の氷菓子を舐めていた。
私は彼に気がつかれないように自転車で背後にまわりこんで、ベルを鳴らした。
カズキが振り向く。まだこの夏休みはどこにもいっていないのだろう。肌が白い。
私はおどけていった。
「こら、何してる!」
「アイス食ってるって見てわかんないの?」
カズキは気の抜けた声で答えて、私に手招きをした。
「あたり棒だったらおまえにやるよ」
はずれだった。
私たちは午後の公園で話した。
会話の方向がふと、この町の心霊スポットのような話になり、私は思わず、誰も知らない長い路地があることを話してしまった。
話した後に、禁を破ったような後ろめたさに襲われたが、すでに遅く、彼はその話にいたく興味をひかれたようだった。
「じゃあさ、これからその道にいってみようぜ」
「もうなくなっているかもしれない」
私は自信なさ気にいった。
「なんでだよ。道がなくなるかよ」
「いや、そういう場所って、人に話すともう二度といけないんじゃないかって気がするんだよ」
カズキはふっと笑った。
「はあん、そういうことね。おまえ嘘つきだからなあ」
私はむっとした。
「なんだよ。じゃあ、とりあえず、あるかどうか確かめにいってみるか」
私は自転車に乗った。カズキの自転車は市営プールの駐輪場で盗まれたというので、私は彼を後ろに乗せた。
団地の中を突っ切り、用水路の橋を渡った。私たちはお稲荷さんの鳥居の前で自転車を降りた。
そこからは忍び足だった。社の裏の藪《やぶ》にはかつて私がそこを通った時にはなかった金網ができていたので、よじ登った。
小便小僧の庭を身を屈《かが》めて通過し、細い路地の階段を下りた。生垣の隙間に強引に体を押し入れる。
金属的な頭痛がした。
生垣の向こう側には、あの時のまま、住宅に挟まれた未舗装の道があった。
カズキも私同様に頭痛に襲われたらしく、両手でこめかみを押さえてしゃがみこんでいた。
私たちはしばらく一歩も動かずに立っていた。
「な、本当だったろ?」
私は得意気にカズキを小突いた。七歳の時に歩いた道が、私の記憶の中だけのものではないことが確認できて嬉《うれ》しかった。
カズキが目をしばたたいた。まず道を見回し、私に顔を向ける。
「これ、小金井公園に続いているんだって?」
私は頷く。
カズキの目が悪戯《いたずら》っぽく輝いた。
「おもしれえ、歩いてみようぜ」
「え、いくの?」私は口の端に笑みを浮かべながら眉《まゆ》をひそめた。
小金井市の公園まで歩くこと自体は悪くなかった。時間はかかるだろうが、日が暮れるまでにたどりつくだろう。七歳の時に一人でできたことだ。十二歳で友達と一緒ならできぬはずもない。
ただ問題は、帰り道は日が暮れてしまう可能性があるということだ。
「夜はお化けが出るってよ」
私は冗談めかしていってみた。
「だったら帰りはさ、この道を通らないで、電車で帰ってくればいいよ」
カズキは私の心配に対してあっさりとそのように答えた。私にとって、電車に乗るという考えはまだ思考の外にあった。外出といえば、自転車でいって帰ってくることのできる範囲の場所、と決まっていたのだ。
私はそれで少しカズキを尊敬した。カズキは、新しいゲームソフトを買うつもりで五千円ほど持っているから、電車賃ぐらいは貸してやるといった。
そのようなやりとりのあと私たちは歩きだしたのだ。
私たちはポストも電信柱もない未舗装道を歩いた。私の記憶のままだった。家はみなこの道に背を向けていた。この道に玄関を向けてはいけない知られざる因習でもあるのかもしれないと思った。
道は五年前と同様に、密《ひそ》やかな静けさに満たされている。
人通りは全くない。
やがて道の両脇の家は土手の上に建つようになった。その後も道は周囲よりも高くなったり、低くなったりしながら、どこにも交差せずにまっすぐ続いた。
時々土が半円に掘られているだけで、何の補強もされていない危なっかしいトンネルをくぐる。
ところどころの道の脇に、背の高い楠《くすのき》やブナがこんもりとした葉を茂らせ、影を落としていた。
歩きながらカズキが小声でいった。
「この道、もう他の奴には教えんなよ。でも、なんなんだ、ここ?」
私は首をひねった。
「たぶん、大昔からあって、家を建てる時も、この道だけ残すように建てたんじゃないかな」
カズキが何気なく小石を前に蹴飛《けと》ばす。歩を進めてその小石を今度は私が蹴飛ばす。
「線路の予定地かな?」
「あ、それありえる」
だとすれば立ち入り禁止の場所で、大人に見つかってこっぴどく叱られるかもしれない。
まあ、その時はその時だ。
両脇が林になった。
顔を向けると、木々の隙間から、二車線の舗装道路が見えた。どうやら私たちのいる道が、国道を斜めに横切って塞《ふさ》いでいるようだ。
一台のトラックがかなりの速度で、私たちの方へまっすぐに向かってくる。
「危ない」
私は身を縮めて目を瞑《つぶ》った。
居眠りか酔っ払ってか知らないが、雑木林にあの勢いで突っ込めば、かなりの惨事が予想される。
ところが、いくら待っても何の音もしなかった。私はおそるおそる目を開いた。
カズキが口を開いたまま固まっていた。
私は木立の向こうの道路を覗《のぞ》いた。そこには幹にフロントをくい込ませたトラックがあるはずだったが、見当たらない。
しばらく立ち尽くし、私はトラックがどうなったのか理解した。
トラックは、幽霊みたいに木立とこの道を突き抜けて通り過ぎたのだ。
見ていると車が次々に、減速せずに林に突っ込んでいく。だが木々に接触した瞬間、どの車もふわりと消滅した。隣の車線からは車が唐突に出現していた。透明なトンネルでもあるかのようだ。
「ワープだワープ」カズキが呟《つぶや》いた。
私たちには国道は見える。だが、どうやら国道からは、私たちがいるこの道は見えないし、存在しないらしい、ということが車の走りっぷりを見ているとわかった。
少し歩いたところで、私たちは再び足を止めた。
道の先の蜃気楼《しんきろう》のようなゆらめきに、何やら赤いものが見えたからだ。
その赤いものは上下に小刻みに動きながらやってくる。
私とカズキは道の端に寄った。身を隠すものはなかった。
道の向こうから迫りくるものの姿が次第にはっきりしてくる。
赤い傘をさした、着物姿の女性の一団だった。全部で七、八人いる。傘は古風な紙貼りのもので、着物は藍《あい》や紅の中に金糸が織り込まれた上等なものだった。髪は結ってあり、顔には白粉《おしろい》が塗ってある。
先頭の女性が、私たちに会釈して通り過ぎると、後ろに続く女性たちもそれに倣った。
彼女たちは風の中を舞うように、悲鳴に似た尾を引く音を残して、私たちの前を通り過ぎていった。
時間にして数秒のことで、駅のホームでの特快電車の通過を思わせた。
私たちは彼女たちが砂埃《すなぼこり》と共に去っていった道の先をぼんやり眺めた。
「お化けだよな、今の」カズキがぽつりと呟いた。「昼でも、でるじゃん」
速度からして人間ではなかった。それに、なんといっても彼女たちの足は地についていなかった。
カズキが囁《ささや》いた。
「やっとわかった。お化けの道なんだよ、ここ」
「じゃあ、帰るか」
「ここまで歩いたんだから、小金井公園まで歩いた方が早いよ」
私たちは、歌を歌ったりしながら楽しく歩いた。自分が恐がってはいないということをお互いに相手に見せようとしていた。
さきほどの着物の一団からは、すれ違うものはいなかった。
日が傾いていく。
会話は途切れがちになる。
小金井公園に接触する出口は一向に現れない。いや、それどころか、この道から抜け出るための枝道すらも、一つも出てこないのだ。
カズキが何度目かになる台詞《せりふ》をいう。
「なあ、まだかよ」
「そんなの、俺にもわかんねえよ。何年も前のことだぞ」
「大丈夫かよ」
「おまえがいきたいっていい始めたんだろ」
最悪の場合は来た道を戻るしかないが、ずいぶんな距離を歩いたのだ。戻っている間には夜になる。
とにかく前に進むしかなかった。両脇の景色に小金井公園のものがないか注意を払って、必死に歩いた。
「通り過ぎちゃったのかな」
私は呟いた。空を見上げれば金星が見つかる時間帯だが、それどころではない。
道の先に提灯《ちようちん》と水色ののぼりが見えた。
「なんだろう、あれ」
私はカズキを振り返る。
カズキは眼鏡の奥の目を細めた。鼻が日焼けして赤くなっている。
「人がいるぞ」
海の家を思わせる雰囲気の茶店だった。木製の椅子とテーブルが外にでている。のぼりには「氷」と書かれていた。ジーンズをはいたぼさぼさの長髪の男が一人で何か飲み物を飲んでいる。客は彼だけだった。
私たちは目を見張った。この道に入ってから道の側に向いた建物が出てくるのは初めてだったからだ。
おそらくこの家の正面玄関は普通の住宅街の道に向いているのだろう。だが、家の裏側では秘密の道に向けて店を開いているのだ。
私たちが近づくと、ジーンズに長髪の日焼けした青年が顔を向けた。
「すみません」私は彼に話しかけた。「小金井公園はもう通り過ぎていますか?」
ジーンズの青年は目を瞬《しばたた》いた。
「え? 小金井公園? ちょっとわかんないな。まってな、きいてやろう」
店の奥に向かって大きな声をだす。
「おーい、小金井公園はどこですかっていう子供が来ているよう」
ランニングシャツのおじさんが店の奥から出てきた。筋骨たくましい。彼は私たちを見ると、まず驚きの表情を浮かべた。小金井公園については答えずに、逆に質問をされる。
「こりゃあまた、どっから来たね」
私は、武蔵野市の生垣からこの道に入り込んだことを話した。
「お稲荷《いなり》さんの裏か? ずいぶん歩いたもんだ」
私は頷《うなず》いて笑ってみせた。こうしている間にも、刻一刻と日は暮れていく。心中穏やかではなかった。
ランニングシャツのおじさんはため息をついた。
「あんたたち、人間の子供だろう?」
奇妙な質問だったが、私は「そうです」と答えた。
「小金井公園はね、もう通り過ぎてるよ。だけど小金井公園のところにでる道は、あそこの桜が咲いている期間だけ、開かれるんだ。それでも普通の人間は通れないんだよ。まいったな」
後ろに立っていたカズキがいった。
「電話を借りられますか」
おじさんは答えずに腕を組んで私たちをじっと見た。
「お金、払いますから」
おじさんは頭を掻《か》いた。それから説明を始めた。
わかってないな。全然。
君たちは実のところちょっとまずいことになっているよ。
この道はね、大昔から日本にある特別な道なんだよ。今は両脇に家が建っているけどね、もともとは雑木林の中にあった神々の道なんだ。君らも道を歩いていて両側に立派な木が立っているのを見ただろう。
いいかい、道というものの中には……君たちは勘違いしているだろうけど、決して足を踏み入れてはいけないものもあるんだ。稲荷の裏の家の生垣から入っただって?
全くなんてことを。
この道はね、そもそも人間で通ることのできる者は、ほんの一握り、何年も修行を重ねたお坊さんか、特殊な血族の者だけだった。戦で国が分かれてあちこちに関所があっても、そういう人に限って関係なく抜けていける便利な裏街道だったんだ。
だけど、君たちにとってはそうじゃない。
君たちが使っていい道じゃない。
「どうもすみませんでした。もう二度と入りません」
カズキが口を挟んだ。
「話は終っていないんだがね」おじさんは不愉快そうな顔をした。
私はカズキを小突いた。今一番大切なのは、このおじさんの機嫌を損ねないことなのに。
「いや、でも、武蔵野市に〈綻《ほころ》び〉があるなんて知らなかったね」
椅子に座って、私たちのやりとりを聞いていた青年がおじさんにいった。
おじさんが青年に顔を向けた。
「三十年ぐらい前には、あのあたりにも入り口があったんだよ。年々入り口が閉鎖されていくからな。ほっときゃじきに閉じるだろう。よくそんなところから入ってきたもんだ」
西日が差し、木々は黒い影になりつつある。
おじさんは少し間を置いてから話を続けた。
「君たちは……たぶんこう思っている。この店の中を通って、反対側の玄関から出れば、アスファルトで舗装された普通の道に出られる、と。そうすれば、あとはなんとか、電車かバスで帰れると」
私は頷いた。ほとんどその通りのことを考えていた。できればその前に電話を借りたい。夕飯の時間に間に合わなくなるし、親も心配するだろう。
「電話はここにはないんだ。それにとてもじゃないが、協力できないな。それはしてはいけないことなんだよ。とても危険なんだ。間違った電車に乗ったから窓から飛び降りるというような類《たぐい》のことだ。下手をすれば命の危険もある」
私はかなりのショックを受けた。
何故そんな意地悪をするんだ? という気持ちもあったが、おじさんのいうことはもしかしたら全面的に正しいのかもしれない。
私は道に入った時の頭痛をおぼえていたし、林の中に消えていく車も見ている。
この道には、何か特殊な力が働いている。それは間違いない。
おじさんは古くから守られているここのルールを話しているだけで、ルールを無視してこの道に入ってきたのは私たちの方なのだ。
青年が口を挟んだ。
「おじさん、脅かしすぎだよ。間違った電車に乗れば、次の駅で降りればいい。そうだろ」
おじさんは、眉を上げた。
青年は私たちにいった。
「いいかい、坊主ども。わからんかもしれないが、このおじさんのいっていることは本当だよ。この道から出るにはきちんとしたところから出ないといけない。正式な出入り口からな」
私たちは頷いた。
「この道をさらにまっすぐいけば、竹林の中に出口がある。細い枝道なんで、わかりにくいがな。そこから出ればひとまずは大丈夫だ」
おじさんが付け加えた。
「日野市だよ。だいぶかかるぞ」
日野市! そこまでは自転車ですらいったことがない。日野市の竹林まで歩くには少なくとも二時間か、いや、もっとかかるだろう。話がどんどん大きくなっている。ルール違反でもなんでもいいから、家の中に通して電話で親を呼ばせてくれ、という気持ちもあったが、とてもいいだせなかった。
おじさんはやれやれといった風に首を横に振ると、店内に戻った。とりあえず話は青年に譲ったようだった。
私は青年が話すのを待ったが、青年は言葉を発しなかった。
もしかしてもう話は終りなのか。
道の先を見るとずいぶん薄暗くなっている。
この時間帯から、何キロも何時間もお化けの出る道を歩いて、日野市の竹林にたどりつけということか。
暗さのあまり通り過ぎるかもわからないのに。お化けが出るのに。昼間ですらお化けは出たのに。
泣きそうな気分でカズキと顔を見合わせた。
おじさんが両手にコップを持って戻ってきた。
「ほら、お水」
私たちはコップを受け取り、冷水を一気に飲み干して礼をいった。渇いた喉《のど》が歓喜に震える。
「今夜は、ここに泊まっていったらどうかな?」
青年が口を開いた。
「わかると思うが、子供だけで夜の道を歩くのはかなり危ない。ねえ、おじさん、この子たちの宿賃は、俺が払いますから」
「いいよお、そんなの」おじさんは顔中に皺《しわ》を寄せて泣きそうな表情を作る。「しょうがねえだろ。特別にタダにしてやらあ」
どうやら茶店は宿も兼ねているらしかった。
私にとって茶店で過ごしたその夜は、人生のうち忘れ得ぬ特別な夜の一つ。
私たちと青年は路上に出されたテーブルで、夕食をした。青年の奢《おご》りで、私たちは牛丼を食べた。相当な時間歩いたので、足は痺《しび》れていた。
家族の心配は気になったが、家はさして遠くはない。歩いて帰れる距離だ。十二歳の夏に無断外泊が一泊ぐらいあっても別にいいではないか、と私は思うことにした。
いったん泊まることを決めてしまうと心が軽くなった。
私は食事をしながら、青年にここで何をしているのかきいた。
「俺か? 旅行者だよ」
私が驚いていると、青年は照れたように頭を掻《か》いて笑った。
「まあ、古道を通ってあちこちぶらぶらと、旅して廻《まわ》っているんだ」
「古道?」
「この道のことさ。いろいろないい方がある。古道、鬼道、死者の道、霊道、樹影の道、神わたりの道」
実家はどこなんですか、というようなことをカズキが質問した。
「どこなんだろうな」青年は少し暗い表情になった。「能登《のと》の方かもしれない。よくわからないよ」
私たちは青年の出身地についてそれ以上問うのをやめた。小学生の私たちは二人とも地理に疎く、石川県の能登ですら、なんとか聞いたことのある遠方の地名という感想しか浮かばなかった。
私はきいた。
「あの、この道って、どこからどこまで続いているの」
「どこまで?」
青年は質問の意味がわからないというように首をかしげた。それから青年は古道について教えてくれた。
私たちは、武蔵野市からの道のりで、古道は一本道だと思っていた。しかし、青年が語るには、どちらに進んでもしばらく歩けば道は途中で分岐するらしい。古道は進めばあちこちで分岐を繰り返し、迷路のように日本中に延びているという。中には、他の道では決してたどりつけない山奥の隠れ里のようなところに通じている道もあるという。
どこまで、ということはないのだ。どこまでも続いているのだ。
「どちらかを選んだら、別の方にはいけない。そういうもんさ。だが、俺の生涯のテーマは、古道の全てを頭にいれて、全ての道を踏破すること。途方もない夢だけどな。古道の全てを書いた地図がどこかにあるって噂もあるが、本当だったら、とんでもない値打ち物だろうな」
私は話しながらこの青年をとても好きになった。妙に子供扱いしたり、威張ったりしないで普通に話してくれる珍しい大人だった。青年に年はきかなかったが、見たところは十八歳から二十五歳ぐらいの幅だった。
話をしている間に、夜を旅する異形のものたちがテーブルの前を通り過ぎた。やたらに頭が大きい真っ赤な顔色の男が、下顎《したあご》から牙《きば》の生えた毛長牛をひいている。
「あんまり見るんじゃないぞ」青年が声を潜めて注意した。「からまれたらどうするんだ」
提灯《ちようちん》をぶら下げた骸骨《がいこつ》の一団も通った。骸骨の一団はぼろぼろの着物を身につけて、茶店には目もくれずに通り過ぎた。彼らには彼らの旅路があり、どこから来てどこにいくのかは青年も知らなかった。
青年に名をきいたのは、部屋にいく少し前だった。彼はレンと答えた。
レンは私たちの名前をきいた後、明日は日野市の竹林まで一緒にいってやると約束した。
おじさんに案内された部屋は茶店の二階にある六畳の和室だった。
店の奥の階段から二階に上がる時、私は古道の反対側、いうなれば元の世界に面しているドアや窓が家の中にないものか探してみたが見つけられなかった。そんなものはないのか、隠されているかのどちらかだ。
すでに布団がしかれていた。ベランダからは夜の古道が見える。私とカズキは部屋の電気を消した後、すぐには寝ないで、窓から暗い道を眺めた。時折通る、得体の知れない物の怪に名前をつけて遊んだ。
カズキはくすくす笑って囁《ささや》いた。
「向こうからのっぺりさんがきました」
「こんばんは。のっぺりさん」
「やっべえ、のっぺりさんこっち見た。隠れろ」
翌朝、私たちは、茶店の主人に礼をいい、レンと一緒に日野市の竹林を目指した。レンは水牛車で旅をしていた。黒い毛の立派な角を生やした水牛一頭に、リヤカーのような台車をひかせているのだ。
未舗装の道には水牛車はよく似合った。当然、古道にはガソリンスタンドなどないのだろう。
「昼ちょっとすぎにはつくよ」
レンは水牛車をひいて歩き、私たちはその横を歩いた。
歩きながらカズキは冗談めかしてブロック塀を指差す。
「でも、あの塀を乗り越えれば近いのにね」
私は顔をしかめた。
「だからそれはやっちゃいけないんだって。おまえ、昨日いわれたこと聞いてなかったのかよ。ものわかり悪いな。ねえ、レンさん」
レンは足をとめた。
「やっちゃいけないというより、できないんだ。うん、試しにやってごらん」
私はブロック塀をよじ登った。他所《よそ》の家の平凡な庭が見える。芝生の上に空の犬小屋と三輪車。
すぐ近くに見える景色なのに、妙に現実感がなかった。
古道と外では、光の当たり具合が違っていることに気がついた。それに、向こう側にある、音や匂い、空気の流れ、そうしたものが伝わってこない。
硝子《ガラス》越しに水族館の水槽を覗《のぞ》いているようだ。外と内、こちらと向こう、隔てられている。
見えない障壁を前にじっとしていると、こめかみのあたりが痛くなった。死の予感のようなものが背筋を這《は》い上がってくる。巨大で底の見えぬクレバスの縁に立っているかのような皮膚感覚。
気分が悪くなって塀から下りた。
私はカズキにも同じことをやらせた。カズキもしばらく外を眺め、唐突に悲鳴をあげた。
「ああ、無理だ、向こうにはいけない」私たちは認めた。
「これも知らないんじゃないか」
レンは道端の枯れ枝を拾い上げると、私たちに見せ、それを塀の向こうの家に投げた。
枯れ枝は塀を少し越えた中空で停止した。
一秒ほどの間があって、枯れ枝は見えない何かにはじかれて戻ってきた。
私たちも面白がって試してみたが、同じようになった。
「この道のものは何一つ持ちだせないんだ。間違っても、記念に石とか持って帰れないからおぼえておけよ」
「写真は?」
「さあな。やったことはないけど、たぶん、何も写らないと思うよ」
少し歩いてから、カズキが質問した。
「ねえ、レンさん。昨日、茶店のおじさんがいっていた、年々入り口が閉鎖されているってどういうことなんですか」
「最近じゃ通る者も少ないから、この道に通じる不要な入り口は閉じていく、ということさ。でもそれでいいんだ。変な奴が入ってくると困るからな」
「日野市の竹林の入り口は?」
「あそこはまだ大丈夫だと思う。でも、何年後か、近いうちにはなくなってしまう可能性もある」
ふいにカズキが足をとめた。
私とレンが振り返る。
「ほらいくよ」私が声をかけた。
カズキは首を横に振る。
「帰りたくないよ」
「なんでだよ」
「せっかく来たのに、もっとここにいようぜ。帰るのもったいなくないか?」
私にはカズキの気持ちはわからなかった。
何をいってるんだ、充分冒険したじゃないか、と思っていた。
「とりあえず、今日は帰ろうよ。親とか心配してるだろうし」
「全くだ」レンも相槌《あいづち》を打った。
カズキは渋々歩きだす。
「大人になったらまた来ようぜ」
私はカズキを励ました。少し意外だった。カズキは私よりもずっと家に帰りたがっているのではないかと思っていたのだ。
「絶対来ような」
「二人で高校生ぐらいになったら、バイトとかしてお金を貯めてさ、いけるところまで泊まり歩きしながらいってみようぜ」
カズキを励ますために思いつきでいったのだが、改めて考えると、とても魅力的な計画かもしれない。
「でもその頃には入り口がなくなっている」
「大丈夫さ、レンさんがその時まで開いていそうな入り口を知っているよ。ねえ」
「うん?」話を振られたレンは空を見上げた。「そうだな。別れ際に教えるよ。京都の鞍馬山《くらまやま》の方に大きいのがあったかな。熊野《くまの》神社の参道に通じる森にもあったと思う」
「何年かして俺たちがもう一回この道に入って旅をしたらさ、またレンさんに会ったりしてな」
「ふん。ありえるな」レンはそう言って笑みを浮かべた。「その時はメシでも奢《おご》ってもらうとしよう」
災厄とは唐突に現れるものだと、後の私は思う。その男が現れなければ、その先の展開は全く違っていた。
前方から旅人が歩いてきた。
レンは水牛車をとめた。
緊張した面持ちで、レンは呟《つぶや》いた。
「まずいな」
前からやってくる旅人も、レンを認めると、そこで足をとめた。
十五メートルほどの距離を挟んで、二人は睨《にら》みあった。
見た目の印象では、三十代半ばの男だった。チノパンにポロシャツ。リュックサックを背負っている。休日の会社員という雰囲気だった。筋肉か脂肪かはわからないが、体の線は太い。
「おおや?」その男は目を見開いてわざとらしいほどの大きな声をだした。
「コモリ」レンは目を細める。
「センパイ! こないだはどうも。久しぶりじゃない。偶然ってすごいね。あれ、なんで子連れ?」
レンは冷たくいった。
「おまえの知ったことか」
「いうねえ。こっちはさ、センパイにお金返してもらわないと困るんだよね」
レンと男の関係はわからなかった。センパイとレンを呼んだが、何のどんな先輩かわからない。年齢ならレンよりこの男の方が上に見える。
コモリと呼ばれた男は私に手招きした。
「ぼくたち、こっちにおいで」
私はレンを見た。レンは首を横に振った。
コモリはなおも手招きする。
「早くおいで。その男は人間じゃないよ。君たちは騙《だま》されていたんだよ。殺されるところだったよ。早くおいで。ねえ、センパイ?」
私は再びレンを見上げた。レンは厳しい表情で男を凝視しながら、低い声で言った。
「いくなよ。向こうにいけば、殺されるぞ」
「そうそう、そんな風にいうよね。まあ、その子たちなら自分で決めるよ。自分はこんな恰好《かつこう》をしているけど、刑事なんだ。そいつは手配中の犯罪者なんだよ。間に合ってよかった。もう大丈夫。さあ、こっちにおいで」
「コモリ。いい加減にしろ」
私はカズキを見た。カズキも私に視線を合わせる。目で問いかけている。
どうする?
私は首をひねった。
考えるまでもない。どちらを信じるか、というなら、いきなり現れた男よりも、レンを信じる。カズキに向かってレンの方に顎《あご》をしゃくってみせる。
カズキがコモリにいった。
「おじさん、警察手帳見せてよ」
コモリは、舌打ちをした。リュックサックを下ろして中を探る。
コモリがとりだしたものが拳銃《けんじゆう》だとわかるまでに少し時間がかかった。手帳の代わりに銃を見せて、刑事である証明にしようということか。そう思った時には、コモリは銃口を私たちに向けていた。
レンが荷台から鉈《なた》を掴《つか》んで、横飛びに飛ぶのと、ほぼ同時にコモリが発砲した。
破裂音が響いた。
全ては瞬間の出来事だった。
レンはコモリに向かって駆け、鉈を投げた。その間、コモリはわめき声をあげてさらに二回発砲した。弾はレンには当たらず、レンの投げた鉈はコモリの肩をはじいて地面に落ちた。
レンはコモリに飛びかかって押し倒すと馬乗りになった。拳銃を毟《むし》り取って放り投げる。
「鉈をとってくれ」
レンが叫んだので、私は慌てて地面に落ちている鉈を拾い、コモリを押さえつけているレンに手渡した。
レンは鉈の刃先をコモリの首にあてがった。
「コモリ、俺のことがそんなに気になるか。おまえが俺のことをあちこちでききまわっているのは耳に入っているぞ。外では過ごし辛《づら》くなっているともな」
コモリは目を泳がせている。口の端に笑みが浮かんでいる。不敵な笑み、というやつではなく、『冗談だからなかったことにしよう』で済ませられないかと画策している笑みだ。
「俺にはあんたは殺せないみたいだな。試しただけだよ。もうわかったから、離せって」レンは離さない。コモリは繰り返した。「もういいから、わかったから、二度と現れないから、あやまるから、な?」
私はなんとか収束しつつある場を離れ、カズキを探した。
カズキは水牛車の荷台の陰に倒れていた。シャツが血で染まっている。見ればシャツの腹部にぎざぎざの穴が開いていた。黒ぶちの眼鏡はどこかに飛んでしまっている。
私はカズキを助け起こした。カズキは一度立ち上がったが、よろけて膝《ひざ》をついた。顔には血の気がほとんどなかった。
ズボンの裾《すそ》から血が流れ落ちていた。
「カズキが撃たれている!」
コモリに馬乗りになっているレンに向かって叫んだ。コモリがはじけたような笑い声をあげた。
「何がおかしい」レンが怒気を孕《はら》んだ声でコモリをさらに押さえつけた。コモリは私の台詞《せりふ》を真似して嘲《あざけ》った。
「かじゅきがうたれていりゅう」
カズキに視線を戻した時に、豚の悲鳴のようなものが聞こえた。
私はおそるおそるレンたちの方に再び顔を向けた。
はっと息を飲んだ。
コモリの首に鉈が突き立てられていた。
コモリの足が痙攣《けいれん》している。
レンは鉈を引き抜くと、とどめをさすように大きく振り上げて、再びコモリの首に打ちつけた。
レンがこちらに向かってくる。
いくらなんでも、すでに取り押さえた状態なのだから、殺すことはないのではないか。私は思った。全体的な状況では正当防衛かもしれないが、人を殺せばレンは殺人犯だ。
コモリなる男が何者なのか知らない。どうせろくな奴ではないだろう。こいつは銃でカズキを撃ったのだ。だからといって殺すことはない。ここは警察を呼ぶべきで……。
警察?
私は悟り、ぞっとした。ここは日本でありながら、国家権力の及ばぬ特別な道。古道には警察も留置所も裁判所も、法律もないのだ。電信柱やガソリンスタンドや道路標識がないのと同様に。
それをわかっていたからこそ、コモリは白昼堂々何のためらいもなく発砲したのではないか。そしてまた、レンも、ためらうことなく鉈をふるった。
「大丈夫か」
レンがきいた。カズキは弱々しくかぶりを振った。
「腹を撃たれている」
私はレンに告げた。
「早く外に出て病院へ連れていかないと」
レンは、カズキのシャツをたくし上げると、焼け爛《ただ》れた銃創の上に、傷止めの薬草を貼り付けた。それから包帯をぐるぐると巻いた。
たいして効果のありそうな手当てではなかったが、仕方がなかった。
二人でカズキの足と手をもち、水牛車の荷台に乗せた。
「急ごう」
そうはいったが、結局のところどんなに急いでも牛の速度でしか進めなかった。出口までこうやっていくより他に方法はないのだ。
コモリの死体は道の脇に寄せて、そこに放置した。
こんなことになったのは、自分のせいだとレンは申し訳なさそうにいった。
レンが語るには、コモリとはしばらく前に、茶店で出会ったのだそうだ。
少し一緒に旅をしたが、そこでひどく揉《も》めて、恨みを買うような別れ方をしたのだとレンは説明した。
「恨みを買うような?」
「次に会った時には殺し合いになるだろうという別れ方だ。実際そうなった」
説明としては不足だったが、その時はそれで流した。
「寒い」
カズキが荷台で呟《つぶや》いたので、レンが毛布をかけた。カズキは口の端に泡を浮かべていた。布で拭《ぬぐ》う。
カズキは虚《うつ》ろな目を私に向けた。
「ごめんな迷惑かけて」
「気にすんなよ。じっとしてろよ」
「頭も打ったみたいで、気分わりい」
カズキの耳から血が流れているのに私は気がついた。私は焦り始めた。
「レンさん、何か方法ないかな。この際だから、きちんとした出口以外で道の外に出られないかな。すぐに出たいんだ」
レンは首を横に振った。
「正式の出口以外でも、君たちがここにくる時に通り抜けてきたところのように、かろうじて出たり入ったりできるところはある。〈綻《ほころ》び〉と呼んでいるんだけれどね。あればいいが、めったにはない」
「竹林までには〈綻び〉はないの?」
私は確認した。
「自分も道の全てを知っているわけじゃないが、ないと思う。考えたくないことだが、竹林のところの出入り口が閉鎖されている可能性だってなくはない」
両脇にあった塀が消え、道は林の中に入った。木々の間から信号や交差点、線路や舗装道路といった風景が垣間見えたが、投げた木切れが戻ってくるのを体験していた私は、そちらにいこうとは思わなかった。手を伸ばしても空の月に触れられないのと同じこと。見えてはいるが、隔てられているのだ。
やがて道の両側が竹林になる。私は出口が近づいていることを予感し、少しほっとした。
「カズキ、もう少しだぞ」
返事はなかった。眠っているのかもしれない。外に出たらまっさきに救急車を呼ぼう。
水牛車は停まった。
竹林の中に、細い獣道があった。目印なのだろう、苔《こけ》むした石灯籠《いしどうろう》が一つ立っている。誰かがここが出口といわなければ決してわからぬような地味な分岐路だった。道が細すぎて水牛車は入れない。カズキを背負っていかなくてはならなかった。
「悪いが自分はここまでだ。薬草も包帯も外から持ち込まれたものだから、そのままで大丈夫だ」
一瞬、レンが何をいったのかわからなかったが、すぐに理解した。古道のものは、小石一つ持ち出せない。そんなルールだった。薬草が古道産なら持ち出せないが、そうじゃないから大丈夫だということだ。
レンは分岐路を指で示した。
「まっすぐいけばすぐに外だ。お別れだな。すぐに病院へ連れていけよ」
「ありがとうございました」
私は小さく礼をいった。実のところ不満もあった。あんたの知り合いのせいで、ぼくの友達が撃たれたんだ。あんたは病院まで一緒に来るのが筋じゃないか? 警察になんやら話すのだってあんたの役目で……。だがレンは人を殺している。彼に一緒にくるつもりがない以上、無理に来いとはいえない。
荷台に横たわっているカズキを揺さぶる。反応はない。
「おぶっていくからな」
カズキの体がやけに柔らかい。完全に脱力している。瞼《まぶた》は薄く開いて白目を剥《む》いている。
腹の包帯は早くも赤く染まっている。
嫌な予感はしていた。
だがそのことについて考えたくなかったので、何もいわずにカズキを背負った。
数歩進むと体中から汗が噴き出た。目の中に汗が入るが、親友を背負っているおかげで拭えない。汗と血にべっとりと濡《ぬ》れたカズキのシャツと、自分の体から噴き出てくる汗が混じり合い、体全体がぬるぬるしてくる。
竹林の出口が現れた。整然と並んでいる墓石と卒塔婆《そとば》が見える。
ところが、いくら歩いてもその風景は近づいてこない。二メートルほど前に見えている風景だというのに、その二メートルの距離が縮まらないのだ。
竹林から出られない。
私は力尽きてカズキを地面に下ろした。
カズキをそのままにして道を駆け戻った。レンはまだいるだろうか。これはどういうことなのだろう。
この出口は……閉鎖されている。
どうしたらいい?
レンは石灯籠の前で、水牛車の荷台に腰掛けていた。何かあった時のために待っていたのかもしれない。
「どうした?」
私は出口が見えているのに出られないことを荒い息で伝え、カズキを寝かせている場所にレンを案内した。
レンはすぐ目の前にある墓地の風景には目もくれず、カズキの体に屈《かが》みこんだ。脈をとり、呼吸を確かめる。そして、私が思考から排除していたことを口にした。
「だめだ。死んでいる」
竹林は静寂に包まれていた。
呆然《ぼうぜん》としている私に、レンは説明した。
おそらく、私がとても苦しそうな表情をしていたせいだろう、レンも話すのが辛《つら》そうだった。
この入り口は、まだ閉鎖されていない。
自分は長く古道にいるからわかるんだ。外の空気や匂いが、流れ込んできているからね。
君が出られなかったのは、おぶっているカズキ君が、死んでしまっているからだ。
古道では、古道の所有物は持ちだせない決まりなんだ。古道の所有物の中には、古道で死んでしまった人も入るんだよ。
私はそれを確かめるために、一人で竹林の外に出てみた。レンのいう通り、カズキを背負っていなければ簡単に外に出られた。正式の入り口だからか頭痛もなかった。急いでカズキとレンの元に戻る。
レンはカズキの死体の前で腕を組んで考えていた。私は横で嗚咽《おえつ》していた。ほとんど何も考えられず、完全に途方に暮れていた。
やがてレンは口を開いた。
「ここでこうしていても仕方がない。君はどうするか、自分で決めないといけない」
「わからないよ」
「すでに古道の所有物となった友達を連れて帰るのは不可能だ」
私は頷《うなず》いた。
「でも、ここにカズキを残したら、カズキは、どうなるの?」
レンはためらいがちにいった。
「古道で死んだ者は、場合によっては魔が宿り、夜を歩く者になる。もしくは古道の土になる。カズキ君がどっちになるのかはわからない。だが、それも彼の運命だ」
しばらくの沈黙のあと、レンは呟いた。
「こんなことを教えるべきかどうか」
「なに」
レンは次のようにいった。
古道を通っていける土地の中には、蘇生《そせい》の秘儀を伝えているところもある。
雨の寺と呼ばれているところだ。
そこでは一度死んだ肉体も、再び息を吹き返すと聞いている。
困難な道のりだが、そこまで友達の死体を連れていけば、友達は蘇《よみがえ》るかもしれない。
だが、これを聞いて喜んではいけない。その場所はここから遠い。一週間か、天気や状況しだいではもっとかかるだろう。目指してはみたが、たどりつけない、ということもありえる。
「生き返る」
私は呟《つぶや》き、顔を上げた。
一筋の光明だった。
「そんなことができるの?」
レンは私から目をそらした。
「わからない。雨の寺で、死人が生き返ったという話を、俺は何度か聞いたことがある。雨の寺があるというだいたいの場所もわかっている。彼の死には俺の責が大きい。こうなった以上は、俺は彼をそこへ連れていくつもりだ」
「ぼくは……」
「君はここで家に帰った方がいい。後のことはとりあえず俺にまかせて……」
私は自分の意志を告げた。
「ぼくもそこにいく。カズキは、ぼくの友達だ」
レンは私の目を見据えた。
「君自身が、二度とこの古道から出られなくなる可能性もある。それでもいくかい」
私はほとんど何も考えずに、いく、といいはった。
彼はしばらく考えてから、私の同行を了承した。
カズキは布で何重にも包まれ、再び水牛車の荷台に乗せられた。
レンはカズキを包んだ後に護符をとりだすと、仕上げのように何枚も貼り付けた。
「こうしておかないと、夜のうちにカズキ君が攫《さら》い取られてしまうんだ。昨日茶店で見たような死者たちの行列に勝手に加わっていってしまう」
私たちは出発した。
竹林を抜けて少し歩くと、畑の中を通る道になった。農作業をしているおじさんが近くにいたが、水牛車で横を通り過ぎる私たちには一瞥《いちべつ》もくれなかった。見えていないのだろう。
山道に入った。周囲に住宅がなければ、古道も普通の山道と大きな違いはなかった。
最初のうち私は水牛車の荷台に乗せてもらっていたが、上り坂での速度が遅くなったので、降りて歩いた。時には後ろから押した。
夕刻になると、俄《にわ》かに曇り、雨が降ってきた。レンは荷物をシートで覆うと、荷台の上に天幕を作った。水牛は雨を浴びて嬉《うれ》しそうだった。
道はぬかるみ、水溜《みずたま》りにはまったために私の靴には水が染み込み、歩けばがっぽがっぽと音をたてた。
少しすると雨はあがった。
夕日の染み込んだ雲が流れていく。
長い上り坂のあと、木々の間を抜けると、住宅街に続く下りの坂道が見渡せた。密集した家々の間を古道がまっすぐに分断しているのがわかる。古道は遙《はる》か先の、鉄塔が建っている高台まで続いている。
自分が何市にいるのかもうわからなかった。
都内を抜けたのかもしれない。
道を下っていく途中の林の中に、こちら側に入り口を向けているあばら屋があった。崩壊しかけているが、古寺のように見える。板壁のあちこちに穴が開き、窓|硝子《ガラス》は割られ、屋根|瓦《がわら》の半分は崩れていた。明らかに無人だ。
レンはあばら屋に入ると、革表紙のノートをとりだした。しばらくページを繰る。
「情報が古いな。ここは宿泊所か何かだったようだが、つぶれているみたいだ」
「そのノートはなに?」
「旅手帳だよ。本格的にこの道をいく人間はみんな持っている。最重要の貴重品だ」
レンは説明した。
「古道の全体図は売られていないし、全てを知っている人間もいないからね。どこに旅籠《はたご》や茶店があるのか。どの入り口が閉鎖されたのか。誰かから聞いたことや自分が辿《たど》った道の情報を記入していくんだ」
その日は、古寺の庇《ひさし》の下で野宿をすることに決定した。レンはゴザを敷き、蚊帳を吊《つる》るして寝床を作った。
私は廃屋の裏にあった切り株を椅子代わりにもってきて座った。
その日の夕食は米に、野草と芋と人参の入った塩味のスープだった。圧倒的な物足りなさを感じたが不味《まず》くはなかった。
食事が終ると、私は今日一日尋ねようと思い、結局きけなかったことをきいた。
「レンさんは、古道から出られないの?」
「どうしてそう思うんだい?」
私は理由をいうのをためらった。
やはり、カズキを運ぶ時に、病院の前まで付き添ってもよかったはずだ。でも彼はそうしなかったし、竹林のところでは古道の出口を見もしなかった。私が彼の教えたところからは出られないといっているのだから、普通は試すぐらいするだろう。
それだけではない。昨日の夜からレンとの会話に違和感があることに気がついていた。
レンは、ある種の話題を、確実にはぐらかすか、黙殺していた。スポーツ選手や、芸能人、例えば、「プロ野球はどこのファン」とかその手の話だ。そして、学生か社会人か、中学、高校時代に部活はどこに入っていたのか……そのような自分の身元に関する話。
レンは切り株に腰掛けて、どこか沈んだ目で七輪を見ていた。
「隠していたわけじゃないんだ」
レンは語り始めた。
君のいう通り、俺は古道から出られない。
古道のものを身につけているからじゃない。
死者でもない。
そういう体なんだ。
俺はここで生まれたんだ。
この古道でな。
母親は外から来た人間だった。
そして彼女はこの古道で俺を産んだ。
父親はいなかった。ある程度成長するまで、子供は母親だけでできるものだと思っていた。
俺は生を受けた瞬間、「道の所有物」になった。
俺の記憶の中の、最も古い風景は、山深い樫《かし》の森の中、四軒の古めかしい瓦屋根の建物が古道を挟んで向かい合っている通りになる。
俺は幼い頃をそこで母親と過ごした。
四軒ともそこを通る旅人を相手に旅籠を営んでいた。
自分とは姿形の異なる不思議な旅人たちが、遊び相手をしてくれた。彼らは道の彼方《かなた》から現れ、道の彼方へと去っていった。
俺は手毬歌《てまりうた》を歌いながら毬をつき、道の先を見ていた。
道の先はいつも薄く光っていた。時刻によって、藍《あい》色や、金色や、霞《かすみ》がかった白色に色合いを変えた。
いつか自分もあの道の先へいくんだろうな、と幼心に思う。
そのことを考えると、すごく恐ろしく感じると同時に、胸が甘く高鳴った。
長く付き合える同じ年頃の友達はいなかった。友達ができてもしばらくすれば別れなければならなかった。彼らは旅籠の客だったからだ。
母は四軒の宿屋の一つで働いていた。部屋が何十もあるような大きな宿だった。どんな仕事をしていたのか俺は知らない。
別にどんな仕事でもよかった。一生懸命自分を育ててくれているということはわかっていた。
行灯《あんどん》の灯《とも》された座敷で旅人たちと過ごす夜は物語の宝庫だった。
百年かかって龍に成長した蛇の話や、なんでも手に入る夜の市場の話。最初の人間が生まれた土地の話。都市を火の玉で包んだ大きな戦争の話。
俺はそんな物語を聞いて育った。宿屋の従業員たちの中の一人は、暇を見ては俺に読み書きを教え、その代わりに雑用を命じた。
ある夏の日だった。座敷で鬼の子供とおはじきで遊んでいると、母親が呼びにきた。
――いきましょう。
どこにいくのかわからなかったが、手をつないで道を歩いた。
四軒の宿屋の通りが後ろに遠ざかっていく。
胸中では期待と不安が入り混じっていた。
宿屋の通りを離れるのは、はじめてのことだ。決して宿屋が見えぬところまで遠くにいってはいけない、宿泊客が何をいってもついていってはいけない、そのようにきつくいいきかされていた。
樹木に囲まれた平坦《へいたん》な道がしばらく続いた。
母と手をつないで、樫の森を抜けた時の情景は忘れられない。
風景が急に開けた。
俺たちが立っていたのは、長大な蛇行した下り坂を見下ろす山の上だった。視界を遮るものは何一つない。
俺は息を飲んだ。これまで世界は常に木々に囲まれていた。こんな広がりのある景色は一度も見たことがなかった。
眼下の遠い部分には白っぽい町が一面に広がっている。信じがたい数の建物の集積。その先には何もない深い藍色が平坦に広がっていた。なんという無慈悲で魅惑的な色彩。
――あれは海というのよ。あれは全部、塩が混じった水なのよ。
母親は説明した。
――うみ?
俺は呆然《ぼうぜん》と繰り返した。それがあの深い藍色の名前。
午後の水平線上には巨大な積乱雲が二つ、高さを競い合う塔のように発達していた。
そして母親は風景について、白い街やその他のものについて説明する。
――よく見てごらんなさい。あそこは家が集まってできているのよ。たくさんの人が住んでいるの。街というの。
まち。母親を握る手に力を込めた。百軒の、千軒の家。知ってしまえばどうということもないが、その時はとても恐ろしかった。
――海も街も見えはするけれどね、決していくことはできないのよ。ただそこにあって眺めるだけ。
俺は了解した。きっとそれは屏風《びようぶ》に描かれた絵のようなものなのだろう。だが、これほど緻密《ちみつ》で巨大で鮮やかで圧倒的なものを誰が描いたのだろう。
道沿いに山を下っていった。傾斜が緩やかになり、途中に四つ辻《つじ》が現れた。
楓《かえで》の大樹が緑の葉を茂らせ、枝を広げて日陰を作っている。そこで母親は歩みをとめた。
母親は懐からお守りをだした。
――これを見なさい。この中には種が入っているの。
母親のいうことが今一つわからなかった。お守り袋に種が入っている。だからそれで?
母親はお守り袋を俺に握らせた。上から手を重ね合わせる。
――持っていなさい。決してなくさないようにね。これはあなたが持つべきものよ。あなたも大きくなったら多くのことを知るでしょう。
俺は首を横に振った。嫌な予感がする。どうしてそんなことをいう? 大きくなるまで教えてくれないのか?
――あなたは強く、優しく、勇敢に、成長する。私にはわかる。
四つ辻に馬車がやってきた。日焼けして、無精ひげを生やした大きな初老の男が乗っている。母親はその男と何かを話している。
俺は黙っていた。
母親は泣いていた。
ふいに母親は身を屈《かが》め、俺に接吻《せつぷん》をした。そして背中を向けて元きた道を戻り始める。俺が後を追おうとすると、馬車の男は俺の肩に分厚く大きな手を乗せ、首を横に振った。
――誰もがいつかはこうなる。この先百回も繰り返すことだ。
男は俺を抱えあげて、馬車の中に乗せた。
馬車は母親と反対方向に走り始め、四つ辻は遠ざかっていく。母親の背中は小さくなり、点となる。
それを最後に俺が母親と会うことはなかった。
俺は長い旅のさなかで、自分が生まれた土地、旅籠《はたご》の並んでいた街道を見失った。あえて帰ろうとは思わなかったが、複雑に入り組んだ古道のどこにそれがあったものか、わからなくなった。
レンは話を切り上げた。
私に、荷台の方を見てみろと、顎《あご》で示した。私が首をめぐらして見ると、荷台の周囲に細く背の高い影が三つ立っていた。それぞれ二メートル以上あり、暗くゆらゆらと水草のように揺れていて、影としか形容できなかった。
死神かもしれない。
彼らは物欲しげに荷台の中を覗《のぞ》き込んでいた。
「護符を貼らないとああいう奴らが死体を持っていっちまうこともある。生きている人間には何もしない。大丈夫だ。さあ、もう寝よう。続きは今度にしよう」
私たちは蚊帳に入り、身を横たえた。
疲れきっていたが、心が騒いでなかなか寝付けなかった。
隣ではレンが寝息をたてている。
蚊帳の中で虫の声に耳を傾けていると、百年も前にタイムスリップしたような気持ちになった。
いつのまにか眠り、目を覚ますとまだあたりは暗かった。私は蚊帳を抜けだした。外に出て叢《くさむら》に小便をする。太陽はまだ昇っていないが、星はもう消えている。夜明け少し前の、夜と朝の境界の時間帯だった。乾燥した空気が夜明けを待っている。
何かが道をやってきた。砂利を踏む足音が響く。
私は木陰に身を潜めた。
コモリだった。首はざっくりと抉《えぐ》られ黒い血がこびりついて、蛆《うじ》のたかった肉をのぞかせている。半開きの口に、目は見開かれていたが、意志の光はなかった。
夢遊病者のような足取りだ。
彼は蠅をたからせ、死にながら歩いていた。死んだ魚が川を流れていく印象だった。
彼はレンの水牛車を目に留めたが、ほとんど関心を払わず、歩き去った。
夜が明けた。
レンは蚊帳を畳み、素早く身支度をした。
荷台には布に包まれ護符を貼られたカズキがいる。私は布の上からそっとカズキを撫《な》でた。布は湿って、十数匹の蠅が群がっている。すでに布を通して甘い腐臭がする。
私たちは出発した。
私は、明け方にコモリの死体が歩いて通り過ぎたのを見たと話した。
「死者がどこへ向かうのかは誰も知らない。ついていったりしなければ危険はないよ。生きていた頃と別の存在だ」
私はレンにきいた。
「入り口を通れば、誰もがこの道に、入ってこられるわけじゃないよね?」
「もちろん」レンは笑った。
「ほとんどの人間には入り口なんか見えない。それでも時に、君のように迷いこむ者もいる。千年も昔には、道を自由に行き来できる能力を持つ集団が、あちこちにいたんだ。今、外の世界から迷いこんでくるのは、たいがいその集団の末裔《まつえい》だそうだ。君もそうだろうし、あのコモリもそうなんだろう」
しばらくすると、気分が悪くなった。
揺れに酔ったのだと思い、水牛車を降りて歩いたが、一時間も歩くとさらに眩暈《めまい》がして、荷台に倒れこんだ。
前日の疲労と、寝不足がたたって私はばてていた。熱もあったと思う。
隣では布に包まれたカズキの死体が蠅をたからせている。このまま自分が友人の隣で死んでもなんらおかしくはないと思うと、気分が落ち込んだ。
少し眠った。あるいは気を失った。
目を覚ますとあたりの風景は街中に変わっていた。
繁華街だろうか。
ビルとビルの隙間のような路地を進んでいる。道全体が建物の影になっていて涼しい。
この古道はこんなところにも続いているのかと驚く。
荷台で揺られながら悔しさで涙が溢《あふ》れた。
蘇生《そせい》の地は、レンですら詳しくは知らないところなのだ。
カズキの体はこの先どんどん腐っていくだろう。護符には魔物を寄せ付けぬようにする効果はあるが、腐敗を止める効果はない。
真夏に死体を積んで、牛の進む速度で、伝聞でしか知らない土地を目指す。
これこそ愚かではないか?
水牛車が静止した。
垂直にそそり立つビルの隙間の中の、四つ角だった。空を見上げると、十字形に青空が切り取られている。
「大丈夫か」
レンが私に声をかけた。私は涙を拭《ぬぐ》って、大丈夫だと返した。
レンは道の先を指差す。建物の細い隙間から薄暗い路地に光が差し込んでいる。
「あそこをいくと古道の外……町に出られるぞ。風でわかる。知られざる出入り口の一つのようだ。俺はどうせ出られないから関係ないけれど、一応教えておこうと思ってな。例えば、何か買いたいものがあるとかいうなら、俺はここで待っているよ」
私は首を横に振ったがすぐに思い直して荷台から降りた。自分の体が軽く感じる。足元がふらついたが、歩けないほどではない。
「何か買って来るよ。何がいい?」
レンは目をぐるりとまわした。
「そうだな。君が必要と思うものはなんでも買っておいた方がいいぞ。この先当分出口はないからな。俺にはハンバーガーとか、なんとか、外の世界の食べ物を適当に選んで見繕ってくれればいい」
レンはしわくちゃの一万円札を私に渡した。
「足りるよな?」
「たぶん」
私は腕時計を外すと、時刻を確認してからレンに渡した。十一時半だった。
「これ、預かっていて。遅くとも、二時までにはここに戻ってくるから。時刻の見かたはわかるよね?」
「わかるよ、馬鹿にするな。それよりも体の調子が悪いなら」
私は数歩進み、そして振り返る。
「レンさん、もしもぼくが二時になって戻ってこなかったら」
お互いに最後までいえない。
レンは私にやさしく頷《うなず》いてみせた。
私はビルとビルの隙間から古道を抜け出た。
光に目を細めた。私を出迎えたのは音の洪水だった。車の排気音、道行く人の話し声、お店から漏れ出ている音楽、そうしたものが渾然となって耳を襲う。
夏休みロードショーの広告を貼った大きな看板が目に飛び込む。
ここはどこかの駅前の繁華街だ。
自分が抜け出てきたビルの隙間を振り返った。子供が体を横にしてやっと一人通れるぐらいの幅だ。まさかあの隙間の奥に、夜には死者が歩く道があるなどと誰がわかるものだろうか。
見回せばなんともたくさんの店がある。靴屋にアイスクリーム屋に時計店にラーメン屋に、アクセサリーを売っている屋台。数え切れない。
これが表の世界というものだ。
さあ、どうするか。
地名を調べて、電車に乗って家に帰ればいい。レンも、口にだす機会は逸したようだが、そのつもりで私を送りだしたのだ。これは確信できる。ハンバーガーを買ってこさせるためじゃない。
私が一緒にいても足手まといになるだけだし、私などおまけのようなもの。
カズキだってここで私が帰ったからといって責めはしないだろう。彼はもう死んでいるのだ。
私がファストフードの袋、新しい運動靴その他の紙袋を抱えて、ビルの隙間の十字路に戻ってきた時、レンは驚いて目を丸くしていた。
私たちはビルの隙間で食事にした。ほとんど食欲はなかったが、それでもアイスクリームを口に運んだ。
私は再び荷台に乗った。
後になってレンはきいた。
「あの時、なんで戻ってきたんだ?」
私は、家に帰ったらひどく怒られるのが恐かったから、と答えた。確かにそれもあったが、それだけではない。責任感という言葉を使えば聞こえはいいが、本当の理由は自分自身にもよくわからなかった。
午後遅く、私たちは旅籠《はたご》に到着した。丘の上にあるその旅籠は、最初に泊まった茶店とは比べ物にならないほど大きい三階建ての建物だった。農家によくあるような馬小屋や牛小屋も敷地についていた。
私とレンはそこに三泊した。
到着した日とその翌日、私は座敷で寝たきりだった。
おかゆや果物を食べ、レンが仕入れてきた薬を飲んで眠る。
ビルの隙間から出た時にお菓子を大量に買ってきたのだが、食欲はあまりなかったのでレンに食べさせて反応を試した。
レンは私の枕元で『超刺激! 眠気すっきりガム』を口にして、顔をしかめていた。
一人で天井を眺めている間、私はたくさんのことを考えた。結局出さなかったが親への手紙も書いた。まどろんでいると、レンの話した楓《かえで》のイメージが何度も頭の中に現れた。
高台に立つ、紅と金色に輝く秋の楓が風に揺れている。
断続的な短い眠りの中では、公園でカズキと仲良くふざけている夢を見た。私とカズキは夢の中で走り回った。
寝汗をかきながら目を覚ますと、たった今さっき遊んでいた友人は、布に包まれて荷台で腐っているのだと思い知った。
旅籠には多くの旅人たちが訪れていた。遠めにも彼らが人間でないことはわかった。角を生やした者や、全身が毛で覆われている者や、目が五つもある者。
私は彼ら――異なる理《ことわり》の下で生きる者たちの、纏《まつ》わりつくような視線を感じた。あまりにも見られすぎるため、何か、裸で駅前を歩いているような恥ずかしさをおぼえた。
私は布団の中で、レンの話をせがんだ。彼はぽつぽつと話してくれた。
俺は男の駆る馬車に揺られた。
馬車はところどころで休憩しながらも走り続けた。
俺を引き取った大柄な男はホシカワという名前だった。彼は馬車を駆りながらいった。
――あそこは旅籠よ。保育所じゃない。成長したら客として戻ってくりゃあいい。まあ成長してから、戻りたいと思うかはわからんがな。それに遠く離れてしまえば、おまえもひとまずはあきらめがつくだろう。
俺は一日か二日のうちに、ホシカワと打ち解けた。
ホシカワは古道の住人だったが、彼はその気になれば入り口を通って外の世界に出ることができた。
ホシカワは外の世界にあるものを、古道の茶店や旅籠に輸入する商売をしていた。
描かれた絵の中に入り込み、そこから何かをとって戻ってくる。俺の目にはホシカワは魔術師だった。俺はどうやっても外に出ることは叶《かな》わなかった。俺は彼にきいた。
――大人になったら、ぼくも景色の中に入っていけるかな?
ホシカワは顔をしかめて首を横に振った。
――たぶん、おまえは無理だろう。古道で生まれた子だからな。
俺は失望した。
――気にすることはない。たいしたものなど何一つないさ。欲しいものがありゃあ、わしがとってきてやる。
ホシカワが、古道に食料品やその他のものを持ち込んで売ることを輸入とすれば、輸出はなかった。古道でいくら希少なものを見つけても、外に持ちだすことはできない。古道の所有物は、小石一つ持ちだせない。そうした力が働いていた。ホシカワは代価として茶店や旅籠から金を受け取っていた。
ホシカワは俺に多くのことを教えた。彼は若い頃には学校で教師をしていたこともあったそうだ。彼は……今になってわかるが、とても大きい人だった。頑固で寛大で、強い心を持っていた。
ある時ホシカワに、あなたは自分の父親ではないかときいたことがある。俺は父親というものを知らないが、もしも自分にそういうものがいるとしたら、それはホシカワみたいな存在にちがいないと思ったんだ。だけど、それをきいた時にはホシカワはあっさり否定した。
――ふむ。気を悪くすんなよ。いいか、この仕事はわしが外に出ている間に馬車や荷物を見張っとく番が必要なんだ。だが、古道の旅人はどいつもこいつも、ひとくせもふたくせもある奴ばっかり。信用がおけねえ。時には人間のじじいが馬車ひいてるぜって、襲ってくる奴もいる。カミサマだってろくでもねえのもいるわけよ。
――ところがそういう奴らも、古道で生まれたおまえには手を出さない。おまえは人間だけれど、奴らの側なんだ。おまえは古道から出られない代わりに、不徳な神々の手出しを受けない。それがおまえの持って生まれた才能なのさ。おまえと一緒にいりゃあわしは全てにおいて都合がいいんだ。わしはおまえの父親じゃない。
ホシカワは俺の肩を叩《たた》いた。
――要は、おまえはわしの息子じゃないが、大事な相棒ってことよ。わかったな。
風の強い春の日だった。道の脇に骸骨《がいこつ》が半ば土に埋まりながら横たわっていた。手を組み合わせた胸のあたりから若木が突き出して芽を出している。
俺が立ち止まってそれに見入っていると、ホシカワが横に立った。
――あれは……土をかけてやろう。なんだ、おまえはこれを見るのは、初めてなのか。
ホシカワは不思議そうにしている俺に説明した。
この古道を放浪する者は、認められると種をもらう。死ねば歩く屍《しかばね》となって夜をさまよう者も、ただ朽ち果てる者もいるが、種を持つ者は……道の樹になるんだ。
道の両脇にはずいぶん立派な樹がたくさん生えているだろう?
あれらは、長い年月を経て大樹になったかつての偉大な放浪者たちさ。この古道を見守っていてくださる。
この人も、種を持つ者だったのだろう。今は芽を出したところだ。
おまえも種を持っているだろう? 大切にな。自分は半端者だからな、残念ながら種は持っていない。おまえが少し、うらやましい。
それ以来、俺は古道の樹を見上げるたびに、畏敬《いけい》の念を抱くようになった。そんな時は、自分の胸にぶら下げた袋を握り締めた。
ある日、ホシカワは二日で戻るといい残し、いつものように出口を通って外界に出た。
道の脇に停めた馬車の中で、二日間待つのが俺の仕事だった。
俺はいいつけられた馬の世話を終えると、暇をつぶせそうなものがないか、馬車の中を探った。ふと革張りの小箱に目をとめた。
開くと、中に手紙がたくさん入っている。
誰かがホシカワ宛に書いた手紙だった。差出人を確認しながら、自分の母親に関連したものがないものか探したが、それらしきものはなかった。
黄ばんだ新聞記事の切抜きが膝《ひざ》に落ちた。拾い上げて見出しを読む。
十七歳の少年の刺殺死体、川原で発見
俺は眉《まゆ》をひそめた。十七歳の高校生の死体が川原で発見されたこと。少年はバスケットボール部の部長だったこと。犯人はまだ捕まっていないこと。警察は通り魔殺人として捜査をしていることが記事を読んでわかった。
殺された少年の名前は、西村昌平。
切抜きの裏は株価だった。
新聞の日付はわからない。
なんのためにホシカワはこの切抜きをここにしまっておいたのだろう。
俺は記事の内容を繰り返し読んだが、考えてもわからなかった。
特になんの意味もない紙切れが小箱に紛れこんでいただけということもありえる。
俺は新聞記事を小箱に戻した。
とりあえず、見なかったことにしよう。
その昔の十七歳の高校生の死が、ホシカワにとってどういうものであるにせよ、俺にとっては、どういうものでもない。無意味だ。
二日後の朝にホシカワはおみやげをどっさり持って戻ってきた。
成長していく上で、俺は外の世界に強い興味と憧《あこが》れを抱いた。
木々の切れ目から見えるグラウンドで、子供たちが毬《まり》を蹴飛《けと》ばして走り回っている。
二組にわかれて毬を網の張られた四角い箱に蹴り込む遊びだ。
やがてその遊びを中断した何人かが、俺が立っている林の方にやってくる。楽しそうにふざけあって冗談をいっているように見えるが、音は遠く、あまり聞こえない。誰も俺には気がつかない。
彼らには俺など見えないし存在しないんだ。
でも、俺には彼らが見える。
毬を蹴飛ばすあの遊びはなんだ? あそこに自分が加わったらどうなるだろう。想像する。自分はうまく網のところに蹴り込めるだろうか。
茶店で旅人からファッション雑誌を譲ってもらい、それを片手にホシカワに迫ったことがあった。
――着物に帯なんてださいよ。
その頃、俺はまだ着物を着ていたんだ。ホシカワはせせら笑った。
――伝統は大事にした方がいいぞ。芭蕉布《ばしようふ》なんざ今じゃ外ではすごい値がつくんだしな。
――嫌だよ。外じゃこんなの着てるの誰もいないんだよ。これを着たい。
俺は、モデルの一人を指した。
革コートにジーンズの背の高い男がオープンカーにもたれてポーズを決めている写真だった。なんだか、とんでもなくかっこよく見えたんだ。
ホシカワは写真を見て唸《うな》った。
――それは……大人になったらだよ。
――じゃあ学生服を着たい。
――詰襟のやつか? あんなもの、はやらんぞ。茶店の主人に笑われるぞ。外の子供たちはあれを着るのが嫌で……反抗しているというのに。
服に関してはなかなか思い通りにはいかなかった。
時が過ぎ、ホシカワは血の混じった咳《せき》をするようになった。俺は外の世界の病院にいくことをすすめた。その頃には俺は道の外に見える……自分にとっては大気に描かれた絵に過ぎない世界に関する多くの情報を得ていた。
文明の進んだ外の世界の病院にいけば、きっと病はなおる。古道で生まれた自分にはできないが、外で生まれたホシカワにはそれができる。
だがホシカワは次のようにいった。
レンよ。わしは二十年もこの仕事を続けたんだ。なんでだと思う?
おまえは外の世界に憧れるが、わしは逆よ。こっち側が好きなんだ。
ずっと願っていた。土になるならこっち側の土になりたいとな。
この間の旅籠《はたご》で、明け方にわしは不思議な少女から種をもらった。ついに願いが聞き届けられたというわけだ。
冬だった。雪が降っていた。ホシカワは馬車を駆っていた。俺はホシカワの横にいた。
結晶の混じった冷たい風が顔に吹きつける。
吐く息は白い。
さあ、まだわしが元気なうちに、次の四つ角で別れるとしよう。
わしは北へ向かう。おまえは西へ向かうんだ。
西に少し歩けば旅籠がある。そこの女将《おかみ》にはきっちり話をつけている。かならず立ち寄れよ。女将はおまえに鍵《かぎ》を渡すはずだ。わしからのプレゼントがあるからな。
おまえはいい子だったよ。楓《かえで》の木の四つ角をおぼえているか。わしらが会った場所だ。わしはあそこにいたのが他の誰でもないおまえで本当によかったと思っている。
わしらは親子じゃない。だが、他人でもない。相棒だった。そうだろ?
大丈夫、泣くんじゃない。
相棒として予言してやろう。おまえの人生は決して悪いようにはならない。おまえは生まれた瞬間から祝福されているのが俺にはわかる。外の世界の誰よりもだ。
遠い未来、その肉体は大樹になり、その魂は古道を越えて世界を渡る風となろう。
その頃また会おうや。
冬の田圃《たんぼ》の中で四つ角が現れた。
そこで彼と別れた。
ホシカワは北へ馬車を走らせ、俺は西へ向かった。大きな旅籠がすぐに見つかった。
旅籠の女将は俺を個室に案内した。
――ホシカワさんからいろいろ聞いているよ。私はホシカワさんにはずいぶんいろいろと世話になっているんだ。あんたは気の済むまでここにいていい。これはあんたの部屋だよ。気を遣うことはない。それだけのものはもらっているからね。これからこの地方の冬は深まる。最低でも春まではここにいな。
女将はいったん立ち去るそぶりを見せた後、くるりと身を翻して微笑んだ。
――おっと、忘れていた。
彼女は鍵を投げ、部屋の奥を指差した。
――部屋の奥にある衣装箱の鍵だよ。
静まり返った和室。窓には曇り硝子《ガラス》がはまっている。外では音もなく雪が降っている。
俺は部屋の奥に置かれた木箱を開けた。
最初に目に入ったのは俺が欲しがっていた大人物の革コートにジーンズ。俺はそれをこれ以上はない丁寧さで手に取った。視界が霞《かす》んだ。
その他にも新しいロープにナイフ、新しい靴が入っていた。
そして、ホシカワが二十年もの間、古道で得た情報を書き込み続けた旅手帳。
旅手帳は五冊あった。
俺にとって、ホシカワから譲り受けた手帳は聖書に等しかった。
どこにいけば牛車や馬車を売る商人がいるか。どこに旅籠や茶店があるか、どこに出入り口があるか。
簡単な小遣い稼ぎのやり方や、古道内の貿易の知識も記されていた。
俺は冬の間に、ホシカワの旅手帳を自分の旅手帳に写し取った。ホシカワの手帳はよれていた。この先ずっと使い続けるわけにはいかない。
やがて春になり、俺は宿の者たちに見送られて出発した。宿の前では梅が花を咲かせていた。
私が寝込んでいる間に、レンは旅籠の人たちから、雨の寺に関する情報を集めていた。
私は大量の水を飲み、大量の汗をかいた。
体内にある何かが、じりじりと生の方へと傾いていった。
三日目の朝には、自分が回復したことを知った。ぶりかえすとよくないといわれてもう一泊滞在することになった。
三日目の夜、私はカズキのことが心配になり、荷台をとめてある旅籠の敷地に足を運んだ。
夜気が皮膚に心地よかった。
廃屋の近くで見たような奇妙な影がたかっていたら引き返そうと思ったが、荷台の周囲には何もいなかった。
筵《むしろ》をまくると、布に包まれたカズキがいた。
月の光が白い布を照らしている。どこかの枝で梟《ふくろう》が鳴いている。宿の大座敷から宴会をしている妖怪《ようかい》たちの笑い声が風に乗って耳に入った。
カズキの体をそっと撫《な》でた。
布の中からくぐもった声が聞こえ、私は飛びのいた。
「だ……れ」
しわがれた、消え入りそうな声だった。
「カズキ!」私は叫んだ。「大丈夫か、おまえ」
カズキの頭の部分の布を剥《は》いだ。腐った肉の、少し甘い匂いが漂う。
カズキは薄く目を開けていた。眼球は焦点があっておらず、膿《う》んだように濁っている。水分が蒸発したせいか、骸骨《がいこつ》を思わせるほど頬は痩《や》せこけ、眼窩《がんか》は落ち窪《くぼ》んでいる。夜ということを差し引いてもこの肉体はカズキに見えなかった。
「俺だよ」私は自分の名前をいった。「おまえ今どんな状態なんだ?」
カズキの喉《のど》から声が絞り出される。
「夜で……満たされている。体中、脳みそも、夜でいっぱいだ……ここ……どこ……」
私は、古道の宿屋にいることや、カズキを再生させるためにレンと旅をしていることを話した。
カズキに私の話がどこまで理解できたのかわからない。カズキは確実に死んでいた。私は死体と話しているのだ。
カズキは苦しそうに呻《うめ》いた。
「はなして……はなして」
最初は『話して』だと思ったが、少しして、『離して』もしくは『放して』のことだと悟った。彼はおそらく護符のことをいっているのだ。
私は呆然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。
今ここで護符を全て剥がせばどうなるのだろう。
彼自身を満たしている〈夜〉とやらが力を取り戻し、カズキは起き上がって夜の古道に消えていく。三日目の夜明け少し前に見たコモリのように。
「はなして!」
カズキは一度語気を強め、荷台が微《かす》かに振動した。
彼は少なくとも今は解放を望んでいる。
解放が彼にとって悪いことだと一体誰に決められるのだ?
私は逡巡《しゆんじゆん》し、結局は顔の布を元に戻した。
カズキはやがて声を出さなくなった。完全な死体に戻ったのだ。レンが私を探しにやってくるまで、私は呆然と荷台の前に立っていた。
私たちは翌朝出発した。
古道に入ってちょうど六日目だった。笑いたいような、泣きたいような不思議な気持ちになった。
レンが伸びをしながらいった。
「あちこちで、雨の寺の詳しい行き方をきいたよ。知っている奴は知っているものだな。なんとか情報は集まった」
「大丈夫そう?」
「たぶんな。この先、道は森の奥に入っていく。三十箇所近い分岐を正しく選べばたどりつく」
野原の道を水牛車の荷台に揺られながら、七歳の時の桜の公園のことをふと思いだしてレンに話した。
「あれが始まりだった。今になって考えると、あのおばさんは、ひどい人だよ。運良く偶然抜けだせなかったらたぶん死んでいた」
「それは、おそらく人間ではないよ」レンはいった。「悪意があったのかわからないが、あったかもな。古道には、入り口付近で人間を惑わして古道に誘い込み、頃合を見計らってその肉を喰《く》らう輩《やから》もいる」
背筋が寒くなった。出口のない暗い路地で化けものにじわじわ追いかけられる。どの家も窓からは光が漏れているのに、どんなに叫んでも声が届かない悪夢を思い浮かべたのだ。
七歳の時の私はその状況をすんでのところで回避していたのかもしれない。
「でもその人、人間には見えたよ。いちおう」
「どうかな。古道を通る神々は、大半は外に出る時に姿を変えるんだ。蝙蝠《こうもり》だったり、猫だったり、狐だったり、人間だったりね」
「化けるってこと?」
「そうさ。なかには、人間の男や女に化けて外に出ていき、何十年も人間として普通に生活して、仕事もして、結婚までして……それからある日、全てを後に残して古道に戻ってくる。そんな生活を何百年も繰り返し続けている奴らもいるんだ」
「ばれたりしない?」
「うまい奴はほとんど完全に化けるからな。俺ですら、本物の人間なのか、そうじゃないのか見分けがつかない。本人も、自分が化けていることを忘れるぐらいなりきるんだ」
「楽しそうだね」
レンは笑った。
「いろんなものがいるからな」
「ぼくはあの時、どうして抜けだせたんだろう。生垣を見た時、なんとなくわかったんだ。ここからしか出られないって」
「子供だからだよ。〈綻《ほころ》び〉の微妙な空気の流れと外界の匂いを、本能的に嗅《か》ぎ取ったんだろう」
その日の夜は茶店に泊まり、次の日は、川沿いの鬱蒼《うつそう》とした森の中の旅籠《はたご》に泊まった。
私たちの旅は続いた。草の海を掻《か》き分け、廃墟《はいきよ》の中を通り、白樺《しらかば》の林に入ると、そこで野宿をすることに決定した。私がカズキと古道に入ってから八日間が経過していた。
カズキは深夜になると、ほんの僅《わず》かな間だけ口をきいた。といっても苦しげな唸《うな》り声や、意味のわからない寝言のようなものだった。
「もうすこしだからな」
私は励ました。カズキが、はなして、と呟《つぶや》く。たぶん私は自分を励ましているのだろう。
「一緒に帰ろうな」
レンは夜になると、焚《た》き火《び》を前にして、ホシカワと別れたあとのことを話してくれた。
旅籠から旅籠へ、一つの土地から別の土地へと俺はさまよった。
古道を歩く多くの者にとって古道はどこかへ移動するための線にすぎないが、俺にとっては古道こそが世界であり生活だった。
外からきた者のガイドを引き受けたり、ものを運んだりして、金を稼いだ。時には旅籠で働いた。
辛《つら》くはなかった。むしろ、心安らかだった。他の生活をよく知っているわけじゃないけれど、放浪は俺の性にあっているみたいだ。
俺は無数の人々と出会いながら、母親を探すともなく探していた。
母親とホシカワが旧知の間柄ということはホシカワ本人から聞いて知っていた。だからこそ母親は、信用のおけるホシカワに俺を託した。
だが、ホシカワは俺の母親が今どこにいるのかということは全く知らなかった。
楓《かえで》の木がある四つ角で母と別れたのはある種の必然だったと思う。ホシカワは確かに信用に値する人物だったし、俺としても、世の中を見ることなく、あの樫《かし》の森で過ごすよりずっとよかった。
俺の中に母親に対する恨みは、たぶんなかった。
ただ会いたかった。
母親はあの四軒の旅籠が並んでいた通りにまだいるのだろうか。それともどこか別の場所に……旅をしていればどこかでめぐり合うかもしれない。
谷間にある、三階建ての旅籠での夜だった。
俺は食堂の隅の席に一人で座っていた。
隣のテーブルで、放浪の神々が、自分たちが耳にした虚実定かならぬ物語を披露しあっているのに耳を傾けていた。
古道で聞く物語には、一度ならずどこかで聞いたことのある定番ものも多い。それでも、語り手や地域が変わればオチや設定に無数のバージョンがある。聞くのは楽しかった。
ふとそこで、雨の寺の話がでてきたんだ。
――雨の寺って知ってるか。
――ああ、死者を生き返らせるとかいうところだろう。樹海の中の迷路を正しく抜けるといけるんだってな。いったことはないが。
――そうだ。これは能登の方の茶店できいたんだが、昔、若い女がその雨の寺を目指して七尾《ななお》の方から古道に入ったらしい。
――へえ、普通の人間か? この道の勝手も知らずに踏み込んだら痛い目にあうだろうに。
――そうだろうな。だが、その女は、古道で商売している男の知り合いがいたとかで、なんとかやっていけたらしい。そして何年も迷いながら、雨の寺を探して歩き続けたんだ。
――誰を生き返らせたいんだってな?
――恋人だとよ。健気《けなげ》なもんだ。ちゃんと骨壺《こつつぼ》を持って旅をしたらしい。十六、七の小娘だっていうぜ。
――で、どうなった? 普通に考えれば行き倒れだろう。
――その女は友人の協力もあって苦労の末にたどりついた。だが蘇《よみがえ》りというのは簡単にはいかんもんさ。よほど状態がいいならともかく、そっくりそのまんま生き返るということはまずないというぜ。記憶を全部失って人格が変わったり、ひどいのは半死人みたいな状態になったり、生き返ったはいいが、夜になったら夜の者についていって結局自分から古道の深淵《しんえん》に呑《の》まれちまうとかな。一回死ぬと自分がどっちに属しているかわからなくなるそうだ。
――そうそう、うまい話はないってことだな。
――そうよ。金もかかるらしい。
俺は黙って聞いていた。妙に胸騒ぎのする話だった。雨の寺にいったことはなかったが、存在はどこかで聞いて知っていた。彼らの話は続いた。
――で、女の思い人はどうなったよ。
――骨と灰の状態だからな。いくら雨の寺だからってとても無理なんだが、能登から来た女がどうしてもというんで、雨の寺の方は、その骨と灰から秘薬を作って、女に与えたんだってよ。で、その女はそれからすぐ男の子を身籠《みごも》った。正真正銘の父《てて》なし子をな。
――恋人を産みなおしたってのか。
――そう。だが古道で孕《はら》んだ子がお腹におったら古道から出られんだろ。どこかの旅籠で産んだらしい。
――古道生まれの人間か。えらいことだな。根性のある娘さんだ。
――全くよ。赤ん坊は元気な男の子だったそうだ。もちろん前世の記憶なんかあるわけないやな。だが母親からすれば、自分の息子が生き返った恋人なわけだから複雑な気持ちだったろうよ。女はあるところまで息子を育てたら、世話になっていた旅籠の勧めもあって、古道で商いをしている友人に子供を預けたそうだ。
――辛いだろうな。だがそれでいい、という気がするよ。古道の子だ。古道で育つさ。これでこの話は終りかい。
――だいたいな。今はその娘は外の世界で新しい生活を送っているということだ。もう古道に立ち入ることはないらしい。
――ふうん。じゃあ今度はおいらの番だな。何を話そうか。
俺は立ち上がった。眩暈《めまい》がしたので部屋に戻り、座敷に寝転がった。
胸の中で何かが暴れまわっていた。
二人が話していた会話の内容を、頭の中で何度も反芻《はんすう》した。
娘。赤ん坊。古道で商売している友人。
間違いなく、自分の出生の話だった。
話の通りなら、母親は古道にはもういない。
彼女は、絵の中より現れ、絵の中に帰っていった。新しい旅籠《はたご》に泊まる時に、淡い期待を持って宿泊客を見回す必要はなくなった。
気持ちが鎮まるのに時間がかかった。やがて胸の中が空っぽになり、部屋の壁をじっと見ているうちに涙がでた。
コモリに出会ったのは、それからずいぶんあとのことだ。
丘の上の森にある茶店で食事をしていると、茶店の主人が俺に声をかけた。
――レンちゃん。仕事が入りそうだよ。
主人はテーブルの一つを指差した。明らかに外から入ってきたばかりと見える服装の男が座っていた。彼は俺を見るとぺこりと頭を下げた。登山用のバックパックがテーブルの脇に置かれていた。
――あの人がね、これから鞍馬山の方にいきたいというんだけどね。あのへん、気の荒い鬼の出る道があるだろう。分岐もいくつかあるし、一人じゃ危ないよって話をしていたんだけど。
俺が立ち上がると、男もそそくさと立ち上がった。主人が男に顔を向ける。
――お金かかるけど、この人と一緒にいれば、大丈夫だよ。若いけど古道のプロガイドだからさ。のろいけど水牛車に揺られていけるよ。
男が頭を下げて手をさしだした。
――自分、コモリといいます。よろしくおねがいします。
古道ではあまり見かけない礼儀正しさに面食らった。名乗って手を握った。
前払いでガイド料を受け取った。通常の額の二倍近くあった。茶店の主人に紹介料を渡して、多い分を返そうとしたが、コモリは顔の前で手を振って受け取らなかった。
最初の印象では、コモリはとても付き合いやすそうな旅行者に見えた。
コモリは荷台にバックパックを積むと、鍵《かぎ》のついた鎖を通して荷台の金具と結びつけた。
――自分、小心なんですよ。たいしたものは入っていないけど、盗まれたり落としたりするとやっぱり困りますからね。
コモリを荷台に乗せ、水牛車を進ませながら話をした。コモリに普段は何をしているのかときくと、彼は空を見上げながら答えた。
――悪い奴を退治してまわっているんですよ。いろいろひどいのがいるでしょ。そういうのに引導を渡す仕事をしているんです。
悪い奴というのは古道の住人のことかときくと、彼はこう答えた。
――いやいや、とんでもない。そんな罰当たりな。外の、です。この道は通らせていただくだけですよ。
外にはいろんな仕事があるんだな、と俺は思った。微《かす》かな嫉妬《しつと》の念が湧いてくるが、それを振り払う。考えても仕方がない。
――何年も前に、この道のことを偶然知りましてね、仕事がほんっとうに、やりやすくなりました。退治すると後が大変なんですが、この道に入ってしまえばなんとかなりますからね。ああ、ボクは選ばれた人間なんだなって思いましたね。
――何人ぐらい退治したの?
――五十人ぐらいかなあ。しくじったことは一度もなし。でも子供も含めるともっといくかなあ。
――子供?
――子供も大人も関係ないですよ。今は子供でも引導渡さないとね。あいつら甘やかされてるから。自分、外じゃ有名なんですよ。
俺は暗い気持ちになった。しばらく黙っていると、コモリが言った。
――レンさんってさあ、いつもそういう口のききかた?
俺は困惑した。
――退治したの? って、さっきボクにきいたでしょ。退治しましたか、だろ。こっちは金払ってる客なんだよ? 敬語使えねえの? こっちが敬語で話して、それで明らかにボクの方が年上だろ? まあ別に、こんなつまんないこといいんだけどさ。ここじゃ、おたくが先輩なんだろうし。で、あんた年いくつよ?
俺は自分が古道で生まれたことや、古道から出られないこと、年は数えられていないことをコモリに話した。
――なんだ、そうなの? それ早くいってよ。じゃあ学校とかもいっていないんだから、きちんとした言葉使えなくても当然だよね。いやあ、よかった。ボク外では、けっこう有名だからさ、つい自分のこと話しすぎちゃったから、最後に先輩のこと殺さないといけないかなって心配していたんだよね。でも先輩、古道から出られないなら全然大丈夫ですわ。
コモリは笑った。出発して一時間で、茶店で会った時とは別の人格になっていた。
夜になると、コモリと焚《た》き火《び》を囲んだ。俺はもはやこの男と口をききたくなかったが、コモリは元気で、俺の沈んだ態度を気にとめることなく、はしゃいですらいた。コモリは自分が外の世界でいかに英雄なのかを繰り返し話した。
コモリの話では、外の世界はすでに終っていて、誰かが正義を実行しなくてはならず、コモリは影の救世主として民衆に求められているのだという。
その割にはコモリの話は私的すぎるように俺は思った。テニススクールで出会った主婦が、不倫をしていることを知ったのでナイフで刺し殺した話や、近所に住んでいる暴走族の少年をバットで殴り殺した話を、奴は得意気に語った。
俺はほとんど聞いていなかった。楽しい話ではなかった。きっとコモリは古道から外に出られない牛飼の男に何を話そうが後腐れはないと思っていたのだろう。
一刻でも早く、このやっかいな旅人と別れたかった。
鞍馬山の出口まで二泊三日の予定だったが、なんとか途中で切り上げられないものだろうか。
ふとコモリがいった。
――ボクが初めて人を殺したのは、けっこう遅くてさ、十七の時だったんだよね。
俺はぼんやりと炎を見ていた。十七、という数詞と、人を殺した、という文章が脳裏に引っかかる。聞き流せない何かがある。
なんだろう?
コモリは焚き火から燃えさしの枝を手にとると、それで煙草に火をつけた。遠い目になる。
――同級生だったよ。何されたってわけじゃないけど、なんか許せない奴でさ。嫉妬じゃないんだ……世間はなんだかんだいうんだけど、本当はわかっているはずだ。許せない奴ってのが、いるんだよ。そいつが生きて笑っているということで、すなわち、ボクの人生がクソみたいに位置づけられる……これは、嫉妬じゃないんだ。わかります? まあ、センパイにはわかりませんかね。
俺は返事をしなかったが、コモリはかまわずに一人で続けた。
――じっくり計画して……普段は友達面してやっていたからな。警戒もされないし、呆気《あつけ》なかった。思えばそこから全てが始まったんだ。警察は全然、見当違いの捜査をしていた。捕まる覚悟も決めてやったのに、ボクは捕まらなかった。
俺はそこで初めて質問をした。
――どんな人だった?
コモリが顔をあげて、煙を吐いた。
――どんなって、何が? そいつ? もうおぼえてないよ。ああ、なんか女にもてる奴だったな。かっこよくもないのに。そういえば、そいつの死体だか、骨壺《こつつぼ》だかが盗まれたって話聞いたよ。笑える。
コモリはそこで耳障りな笑い声をあげた。
――馬鹿女がかっぱらったんだろ。噂ではそいつと付き合っていた彼女が、気が触れて盗んだとかだったな。ボクはすぐ転校したからよく知らない。ま、転校のタイミングを狙ってやったんだけどさ。
俺は思う。なんだったか? ホシカワが手紙と一緒に箱に入れていたあの新聞記事の少年の名前は。十七歳の刺殺死体。
ほら、たしか……。
俺は自分でも意識せぬまま、呟《つぶや》いていた。
――にしむらしょうへい。
奇妙な間があった。俺はあまり考えずに、長い髪をかきあげて顔を突きだした。ただ純粋に、確かめたくてしたことだった。
――そいつはこんな顔だったか?
コモリは目を見開いて、煙草を口から落とした。
何か特殊な酒でも飲んだように、その場の空気が歪《ゆが》んでいるように感じた。
俺の中の何かが、長く悲痛な叫び声をあげていた。全て知っているのに全て忘れているもどかしさ。
――あ、あれ?
コモリと俺は炎を挟んでしばし無言で見つめ合った。コモリが細い震えた声で、なんで、と呟く。
――なんで……はあ? しょうちゃん? なんでこんな、ええ?
俺は理解した。ホシカワの小箱、新聞記事の十七歳の死せる少年は、自分だったのだ。かつて自分は西村昌平であり、この男が自分を殺したのだ。
俺は立ち上がり、腰が抜けて尻餅《しりもち》をついて口を開いているコモリを見下ろした。怒りはすぐには湧いてこなかった。前世で起こったことなど何もおぼえていない。ただ驚きがあった。西村昌平を殺した男が目の前にいる。
かつて自分を殺した男が目の前にいる。
何か、自分が自分でないような気がする。
コモリは身を縮めて俺を凝視している。
俺は確かめるようにいった。
――俺は西村昌平だ。
コモリはわめき声をあげて、素早く立ち上がると、焚き火を蹴《け》り上げた。灰と火の粉が一面に舞い散る。
一瞬だが目を瞑《つぶ》ってしまった。
目を開いた時には視界からコモリは消えていた。
俺は警戒しながらあたりを見回した。
誰もいない。
遠ざかっていく土を蹴る音。
荷車の方に向かい、鉈《なた》をとった。コモリのバックパックはまだ積んだままだった。鎖で繋《つな》いだことが祟《たた》って、即座にはとれずに置いていったのだろう。
一番近い出口は進んできた道を一時間ほど戻ればあった。コモリがそこまで逃げればもう俺に為《な》す術《すべ》はない。
追いかけることも考えたが、まっすぐ走って逃げているなら、今からでは追いつけない。
闇に乗じてやり過ごされる可能性もある。それで水牛車を奪われたら最悪だ。
コモリがバックパックを取りに戻ってくる可能性を考えて、その夜は鉈を手に、寝ないで明かした。
結局、夜が明けてもコモリは戻ってこなかった。
朝になってから、コモリのバックパックの中身を調べた。
煙草にナイフに着替えの洋服。ビニール袋に入った札束。数えれば一千万近くある。カメラとアルバム。手帳。
手帳に書かれている数字や名前は俺には何の意味もなかった。誰かの住所や電話番号、電車の時刻といったものだ。
アルバムに目を通した。写真はどれも人間で、一人だった。ラケットを持ってテニスコートに立っている女や、公園のベンチで足を組んで煙草を吸っている金髪の少年。眼鏡をかけて無精ひげを生やした中年の男。年齢も社会的位置づけも共通しない人々の写真。
カメラという機械がどういうものなのかぐらいは、もちろん知っていた。視線がレンズを向いている写真はほとんどなく、どれも隠し撮りにちがいなかった。写真の下に名前が書かれている。工藤照子、新崎《しんざき》明彦、佐川誠二。
なぜ、こんなアルバムを持って旅行しているのだ?
おそらく、彼の正義を実行する仕事とやらに関係があるのだろう。俺には意味はないが、きっとコモリにとってはとても大切なものなんだ。古道に持ち込むということは、しかるべき人間に見られれば身の破滅を招くようなものなのだと推測した。
一つだけ人物がこちらを見ている写真があった。制服を着た短髪の少年と、ピンクの髪飾りをした少女が、肩を並べて、無邪気な笑顔でピースサインをしている。場所は教室だった。写真の下には、西村昌平と書かれていた。
俺は食い入るようにこの二人を眺めた。
西村昌平。確かに髪型こそ違うが、自分とよく似ている。似ているというのはおかしいかもしれない。――これは自分だ。
西村昌平少年の隣にいる少女。こちらの名前は書かれていない。だが、俺はその少女の顔には、見覚えがあった。
まだあどけない彼女こそ、幼き日に楓《かえで》の木の下で別れた母親だった。
コモリと決別した一週間後、俺はコモリの持ち物(手帳とアルバムとナイフをはじめとする一式)を、紙で包んだ。包み紙にはマジックで、「けいさつへとどけて」と大きく書いた。
街中の人通りの多い道と接触している出口に向かい合う。
コモリのアルバムもナイフも、彼が持ち込んだものであり、包み紙も外から輸入されたもの。どれも古道の所有物ではなかった。
助走をつけて、紙包みを投げこんだ。
神々の領域からの贈り物だ。
紙包みはきれいに境界を抜け、煉瓦《れんが》の歩道に落ちた。
外の世界のルールは詳しくは知らない。だが、紙包みを放り込んだことは、うまくすれば、外の世界においてコモリに深刻な影響を及ぼすだろう。
一千万は預かることにした。
俺は思う。
コモリは向こう側で捕らえられ、裁かれる。
そうだろうか?
あるいは、彼は再びこの道に入ってくるかもしれない。
その時には、あの夜のガイドの青年は、幽霊ではなく、ナイフで刺せば死ぬ肉体の持ち主だと、どこかの茶店でききだす可能性は高い。
コモリはきっとまた自分の前に現れる。そんな予感がした。
10
「予感は的中し、奴が俺の足跡をたどるように古道内をうろついていることを耳にするようになった。戦う覚悟はできていたんだ。君たちは運が悪かった」
レンはそこで話を切ると、しばらく間を置いてからいった。
「話は終りだ。そろそろ眠るとしよう」
レンは焚《た》き火《び》を踏み消した。
見上げれば、黒い影になった木々の切れ間から星が見えた。
「早起きして進めば、明日には到着する」
私は蚊帳の中に横になった。隣に寝そべっているレンに囁《ささや》く。
「じゃあ、一千万がある」
「そういうことだ。カズキ君を生き返らせるために寺に積むさ。気にすることはない。俺の金じゃない。コモリの金だ。それ以外の使い道はありえない」
翌朝、まだ暗いうちに出発した。土にも草にも、全てに夏が染み込んでいるような八月の朝の気配があたりに満ちていた。
道は深い森に入った。植物でできたとても長いトンネルだった。枝や蔦《つた》が幾重にもなってアーチ状の天蓋《てんがい》を作っている。
夏の強い日差しもそこでは遮られ、斑《まだら》の影を落としている。薄暗くも心地よい道だった。
道はところどころで分岐していた。入ることはなかったが、なかには地面に開いた暗い穴に下りていくような道もあった。苔《こけ》むした大樹の根に開いた穴からは、冷気が漂っていた。
死者の国へ続く道かもしれない。
植物のトンネルの道は二股《ふたまた》に分かれ、交差点になり、登っていくかと思えば下っていった。レンは分岐が現れる度に足を止めて、慎重な顔つきでノートを眺めた。
やがて樹木の迷宮を抜けた。そこから二時間か、三時間、私たちは緩やかな傾斜の、長い上り坂を登った。
レンはふと坂の中腹の四つ角で水牛車を停めた。彼は長いこと沈黙していた。私はすぐにその理由を悟った。
楓の巨木がそこにあったのだ。
枝いっぱいに茂った葉が、風にそよいで輝いていた。
見渡せば遠くに海と、港町が見えた。
私にとっては、それは物語の中の風景だった。
しばらく歩くと、樫《かし》の木の森になる。瓦《かわら》屋根に漆喰《しつくい》の壁の古めかしい木造建築が向かい合わせに建っている。
建物は四軒あった。中に人はいるのだろうが、道には誰も出ていなかった。
雨の寺と呼ばれる建物は、その旅籠《はたご》通りのすぐ先だった。
まだ若い見習いらしき僧が門前で私たちを出迎えた。
私がカズキを生き返らせたくて旅をしてきたことを告げると、その僧は寺の中に私たちを案内した。
レンと私は香の焚《た》かれた座敷に通され、門前にいたのとは別の、目の細い、痩《や》せた僧侶《そうりよ》の前に並んで座った。
僧侶が口を開いた。
「この子は東京から来たということでしたね。それから、あなたのことは知っていますよ。レン。よく戻ってきた」
レンは私たちと出会ってからカズキが殺されるまでの過程を一通り話した。話している最中、僧侶はじっと目を瞑《つぶ》って、口をきかなかった。
レンの話が終ると、僧侶は私の目を覗《のぞ》き込んだ。
「君は、どうして友達を生き返らせたいんだい?」
私は考えてから答えた。
「カズキと一緒に帰りたいんです」
一人で帰りたくなかった。カズキと一緒に古道で起こったことや見聞したことを話しながら帰りたかった。
僧侶は眉根《まゆね》を寄せてかぶりを振った。
「申し訳ないが……無理ですね」
レンがきいた。
「無理とは……どうして?」
「確かにこの寺には蘇生《そせい》の秘儀が伝わっている。でも、一緒に帰るのは無理な話だ。おそらくあなたたちは誤解をしているのでしょう。古道で死んだ者は、生き返ったとしても古道のもの。二度と古道から出ることは叶《かな》わない。古道で生まれた者と同様なのです。そうした宿命を持つ者を私たちは永久放浪者と呼んでいます。古道に選ばれた者、死ぬまで古道を旅する性質を帯びた者です」
僧侶はゆっくりとした口調で続けた。
「それでも生き返らせたいというならば、必要なものが三つあります。カズキ君と同じ年齢の健康な肉体。しばらくの間、生き返ったカズキ君を育てる保護者。この寺や旅籠に支払われるまとまったお金の三つです」
私はその意味を考えて絶句した。レンが腰を浮かせた。
「金ならあるんだ。だが……」
「だが?」僧侶はため息をついた。「他の二つがない。そうですね。気付いておられるとは思うが、方法は一つ。この子がカズキ君の身代わりになり、レン、あなたが育てればいい」
レンが何かいおうと口を開いた。が、彼の口から言葉はでてこなかった。
僧侶の表情が厳しくなった。
「それはできませんか」
長い沈黙がおりた。
僧侶が静かにいった。
「いかなる奇跡を用いようとも、生を得るとはそういうことではないのですか? そのはじまりから終りまで、覚悟と犠牲を必要とする。さあ、お引き取り願おう」
私はぼんやりと畳に手をついた。
僧侶は腰をあげた。
「君と友達の道は分かれて久しい。カズキ君もそのような生を望んではいないでしょう。古道の死者は古道のものです。いたずらに自然に逆らわずそのままにしておきなさい。彼には彼の道がある。夜に誘《いざな》われ、しかるべき深淵《しんえん》へと導かれるでしょう」
月が道を照らす晩だった。草陰で虫が鳴いている。
私とレンは楓《かえで》の木の下の四つ角までカズキの死体を運んだ。
木の下に彼を横たえ、護符を外し、布も取り去った。
私はカズキの側に座った。レンは水牛車の荷台にもたれていた。私たちは何もいわずに空を見上げて時を待った。
やがて夜道の彼方《かなた》からやってきた風が私たちの前を吹きぬけていった。それが合図だったかのように、カズキは音もなく立ち上がった。
彼は私を目にとめた。虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》はほんの一瞬だけ光を取り戻した。悪戯《いたずら》っぽいあの目だった。
私は囁いた。
「じゃあな、カズキ、さよなら」
カズキは言葉を返さなかった。
友は歩きだす。
私とレンは夜の果ての闇へと去っていく友人を見送った。
翌日の午後、二股に分かれた麦畑の畦道《あぜみち》に私とレンは立っていた。背の高いまだ青い麦の葉が揺れている。
「ここをまっすぐに進むと外に出られる。それじゃあな。友達のことはどうにもならなくてすまなかった」
私は首を横に振った。
「ううん。レンさん、ほんとうに、ありがとう」
これにて旅は終り、帰路がはじまる。
そう考えると胸がざわめいた。
実のところ、その日の朝から胸はざわめいていたのだ。胸中に風が吹いているのを感じる。この気持ち、なんだろう。
私は家に帰りたいと思っている。
そのはずだ。
だが、古道の食べ物を食べすぎたのかもしれない。古道の風を浴びすぎたのかもしれない。私は帰路の存在しない青年を見上げて口を開く。
「帰りたくないよ」
レンは腕を組んで、微笑を浮かべた。
「ああ、帰らなきゃいいさ」
私はまばたきした。ずいぶんとあっさりいってくれる。
「いきたいところまで運んでやるぜ。そこからは独り立ちだ。五年もすれば旅暮らしも板につくだろう。海を渡る道もあるというからな。いくところにはことかかない。辛《つら》いことはたくさんあるが、楽しいこともある。どうだ?」
私の胸の中で風が一際強く吹いた。なんだかとても嬉《うれ》しい気持ちになり……これまで視えたことなどなかった、広大な世界の拡がりを感じた。
だがそれで終りだった。唐突にざわめきは消えた。
レンは放心している私を、穏やかな目で見ていた。
「気にすることはない。機会があれば、またどこかで会おう」
彼は踵《きびす》を返した。
水牛車をひく青年が去っていくその後ろ姿を、私は見送った。
私はようやく独りになった。
夏風が吹きぬける道を進んだ。
八月の空は水色で、白と灰の雲が流れていく。
古道は麦畑の中に取り残された小島のような木々の茂みをつき抜け、古い墓地の周囲を巡り、小さな鳥居を抜けた。
石段を下りていくと、乳母車を押しながら日傘を差している婦人が見えた。
私は何日ぶりかに舗装路を踏んだ。
11
家にたどりつくまでのことはほとんどおぼえていない。私は電車に乗って、自宅に戻り、玄関の扉を開いた。十日ぶりの我が家は他所《よそ》の家の匂いがした。階段を駆け下りてきた母親が私を見て叫び声をあげた。
私は固く口を閉ざし、誰にも何も話さなかった。何もおぼえていないの一点張りで通した。
実際に、私の十日間の記憶は、家に帰りついた途端に、形が崩れ、順序が乱れ、曖昧《あいまい》で脈絡のない整理不能なものになった。
歳月は流れる。
季節の移り変わりに吹く風に、古道の匂いを嗅《か》ぎ取ることもある。そんな時、私は水牛車をひく永久放浪者と過ごした夏の旅を、夜の道を去っていった友のことを、断片的に思いだす。
あの道は今も、路地裏に、誰にも知られずにひっそりとあるのだろう。
これは成長の物語ではない。
何も終りはしないし、変化も、克服もしない。
道は交差し、分岐し続ける。一つを選べば他の風景を見ることは叶《かな》わない。
私は永遠の迷子のごとく独り歩いている。
私だけではない。誰もが際限のない迷路のただなかにいるのだ。
角川ホラー文庫『夜市』平成20年5月25日初版発行