TITLE : 特攻
講談社電子文庫
特攻
御田重宝 著
目次
第一章 送る側、送られる側
引き金となったマリアナ海戦の敗北
軍令部も承知の体当たり作戦
捷一号作戦に向けた窮余の策
第二章 「神風たち」の周辺
反跳爆弾攻撃が特攻の前身
全員志願の裏側
正攻法の二航艦も特攻を決意
第三章 「全軍突撃セヨ!」
日本海軍の総力を投入
「武蔵」の沈没と「大和」の反転、再反転
不可解な栗田艦隊の戦場離脱
第四章 さまざまな曲がり角
続く「神風」の誕生
「特攻は、統率の外道」と大西長官
陸軍も独自の特攻隊編成
冨永司令官の異常な言動
一航艦も台湾へ転出
部下を見捨てた四航軍の首脳たち
第五章 「回天」と「桜花」の狭間
竜巻作戦の挫折と回天の出現
九三式魚雷から「金物」へ
一号艇、浮上せず
ベニヤ板の特攻ボート
帰還隊員たちの苦悩
ロケット推進の人間爆弾
第六章 壊滅への日々
自殺行為に士官も強く反対
潜水艦の犠牲も続出
“死なばや死なん”
終 章 激浪の果てに
さまざまな破局
何を語る三千九百数十人の死
あとがき
主要参考文献
特 攻
第一章 送る側、送られる側
引き金となったマリアナ海戦の敗北
マニラに司令部を置く第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の後任予定者として、大西瀧治郎中将がニコルス飛行場に降り立ったのは、昭和十九年十月十七日であった。
この日の朝――午前七時、レイテ湾口にあるスルアン島の海軍見張り所は「戦艦二、特空母二および駆逐艦群近接」と速報し、一時間後「〇八〇〇(午前八時)敵上陸を開始」と平文(暗号でない普通文)で発信したまま連絡を絶った。
「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」の言葉を残して、オーストラリアに脱出したマッカーサー元帥の復帰宣言が、スルアン島への第一歩だったのである。日本側から見れば、敗北に続く敗北の確認であり、フィリピンが戦場となることは、日本本土の危機を予告するものであった。大本営は「捷一号」作戦(フィリピン防衛)の発動を下令し、全力を挙げて連合軍に決戦を挑もうとした。
大西中将が軍需省航空兵器総局総務局長からマニラに赴任させられたのは、いわば背水の陣の指揮をとるためであった。
二日後の、十九日夕刻――陽が沈もうとしていたころ――マニラからリンガエンに通じる街道ぞいに点在する飛行場の一つ、マバラカット飛行場の二〇一空(航空隊、戦闘機部隊)指揮所に黄色い将官旗をなびかせて、黒塗りの自動車が滑り込み、大西中将が異常な決意を漂わせながら降りてきた――。
大西中将が特攻を口にしたのは、このマバラカットの二〇一空でである。このときの模様を書いた最初のものは第一航空艦隊先任参謀猪口力平中佐(十一月大佐、まぎらわしいので以後中佐と書く)と二〇一空飛行長、中島正少佐(後中佐)共著の『神風特別攻撃隊の記録』(昭和二十六年、日本出版協同刊)である。翻訳もされて広く読まれているだけでなく、防衛庁の公刊戦史にもほとんどそのまま引用されている。はっきりした事実誤認もある。問題がそれほど複雑であるためであろう。
『レイテ戦記』を書いた大岡昇平氏が、
「元参謀が『きけわだつみのこえ――日本戦没学生の手記』(昭和二十四年、東大協同組合出版部刊)に対抗して神風特攻を正当化するために書いた本であるから志願を美化する意向が働いている」
と手厳しい批判をしていることも念頭において読むことも必要であるが、現場に居合わせて、特攻の命令を聞き、若い隊員に特攻出撃をさせた当事者の記録であるから無視することはできない。
『神風特別攻撃隊の記録』によれば、その時の事実関係は次のようになっている。
たまたまマニラからマバラカットの二〇一空に現地指導に来ていた猪口参謀は、二〇一空副長玉井浅一中佐(十一月一日司令に昇格)と共に急いで大西中将を迎えた。大西中将は夕刻の忙しい基地作業の光景を指揮所のいすに腰を下ろして見渡していたが、やがて口を開いて、
「今日わざわざやってきたのは少しばかり相談したいことがあったからだ――」
大西瀧治郎中将の言葉で猪口力平中佐と、二〇一空副長玉井浅一中佐は、大西中将の自動車と二〇一空の自動車に分乗して、マバラカットの町なかにある本部に引き揚げた。
そこへ第二六航空戦隊参謀の吉岡忠一少佐も呼び、玉井副長、先任飛行隊長指宿正信大尉ら六人が二階の一室でテーブルを囲んだ。『神風特別攻撃隊の記録』の共著者の中島正少佐は、ケガをしていてこの場に居合わせていない。
大西中将は全員の顔を見渡し、おもむろに口を切った。
「戦局は皆も承知している通りで、今度の『捷号作戦』にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる。一航艦としてはぜひとも栗田艦隊のレイテ突入を成功させなければならないが、そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする必要がある」
と言って口をつぐんだ。
栗田艦隊のレイテ突入は、後で詳しく経緯を見ていくが、栗田健男中将指揮下の第一遊撃部隊「大和」「武蔵」以下の艦隊が出動し、瀬戸内海からオトリの機動部隊として出撃する小沢治三郎中将指揮下の一隊と呼応、さらに西村祥治中将と志摩清英中将の率いる各艦隊が加わり三方向からレイテ湾に向かい、レイテに上陸中のマッカーサーを叩きつぶし、七百キロ平方にわたる海域で日米最後の艦隊決戦となるはずであった。
すでに「大和」以下の第一遊撃部隊は、レイテに突入すべく、「捷一号」発動と同時に、十九日シンガポール近くのリンガ泊地を出航し、ブルネイ(ボルネオ)に向かっている途中であった。
「一週間ぐらい敵空母の甲板を使えないようにする」と言った大西中将の発言は記憶にとどめておいてほしい。
が、この時点で二〇一空の出動可能機はわずかに三十機しかなかった。猪口中佐はいかにしてこの難局に対処するのか、といぶかった。大西中将は言葉を継いで、
「そのためには零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うが、どんなものだろうか」
と言った。ここで猪口中佐は次のように、注目すべきことを書いている。
「このとき玉井中佐の胸には、その瞬間ピーンと響くものがあった。『これだ!』そう思った」
さらに、
「われわれが、ずっと前から考えていた、そして待っていたものはこれだ。搭乗員も整備員も、八月初頭に二〇一空の編成以来、ことに触れ、時に際して、形こそ変わっていても常に考え続けていたものは、この体当たり戦術の道ではなかったか」
と続く。第一線の中級指揮官としては、勝てない戦闘に対するいらだちがあり、すでに「体当たり」を戦術の一つとして考えていたことを意味していたのではなかったか。
しかし玉井浅一副長は、
「私は副長ですから、勝手に隊全体のことを決めることはできません。司令である山本(栄)大佐の意向を聞く必要があると思います」
と、軍組織のなかで生きている者としては当然の考えを述べた。すると大西中将は押しかぶせるような調子で、
「山本司令とはマニラで打ち合わせ済みである。玉井副長の意見は直ちに司令の意見と考えて差し支えないから、万事副長に任せる、とのことであった」
と言った。実はこのとき、大西中将は山本司令とは会ってはいなかったのである。にもかかわらず「会って話した」ということは、第一航空艦隊司令長官として「何が何でもやる」との決意の表明にほかならない。
玉井副長の責任は重大である。しばらく会議の中断を願って、先任飛行隊長の指宿正信大尉を二階の私室に連れて行き、大西中将の意向について意見を聞き、さらに、
「司令(山本大佐)からすべてを任された自分としては、今の長官(大西)の意見に同意したいと考える」
と言った。副長から「長官の意見に同意」と先手を打たれては飛行隊長の指宿大尉は「副長のご意見通りです」と言うしかない。うなずいた玉井副長は会議の再開を上申し、大西中将に二〇一空としての決意を述べるとともに、
「体当たり攻撃隊の編成については全部航空隊にお任せください」
と希望した。このときの大西中将の顔には沈痛さとともに、わが意を得たという色が浮かんでいた――と言う。玉井副長は大西中将に山本司令の私室で休憩していてもらい、早速特攻隊の編成にとりかかることにした。
『神風特別攻撃隊の記録』によると、真っ先に玉井副長の頭に浮かんだのは「九期飛行練習生の搭乗員から選ぼう」ということであった。が、これは「甲飛十期生」の間違いである。公刊戦史『海軍捷号作戦2』には「第九期乙種飛行練習生」と誤記しているが、甲飛十期生の名誉のために訂正しておかねばならない。乙種の第一期生は昭和五年で、甲飛は昭和十二年が第一期。十期は十七年四月入隊である。飛練での対応は甲飛十期、乙飛十六期である。
それはさておき、甲飛十期生と玉井副長との関係について述べておかなければならないであろう。甲飛十期生が練習航空隊教程を修了し、未熟なヒナ鳥として第一線の玉井部隊に入隊したのは十八年十月、松山基地である。第一航空艦隊二六三航空隊(豹)司令だった玉井中佐は情熱をもって彼らを育て上げた。戦局は急を告げ、十九年二月、訓練半ばの十期生を引き連れ、硫黄島、グアム、ペリリューと転戦した。マリアナ方面に進出して戦った「あ号作戦」では多くの戦死者を出し、フィリピンの二〇一空に落ち着いた時には、搭乗員は三十人余に減っていた。生死をともにした甲飛十期生から特攻隊員を選ぼう、と玉井副長が考えたのは以上のような因縁による。
『神風特別攻撃隊の記録』によると、玉井浅一副長が「九期生(実は甲飛十期生)集合」を命じたときの感激を、玉井副長の証言として次のように述べている。
「集合を命じて、戦局と長官(大西瀧治郎中将)の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手《もろて》を挙げての賛成である。彼らは若い。彼らはその心のすべてを私の前では言えなかった様子であるが、小さなランプ一つの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らせて立派な決意を示していた顔つきは、今でも私の眼底に残って忘れられない。そのとき集合した搭乗員は二十三名だったが、マリアナ、パラオ、ヤップと相次ぐ激戦で、次から次へとたおれた戦友の仇《あだ》討ちをするのは今だと考えたことだろう。これは若い血潮に燃える彼らに、自然にわき上がった激しい決意だったのである」
甲飛十期生二十三名全員の賛成で、列機(指揮官機に従う飛行機)は問題なく決まった。「口外するな」と口止めして宿舎に引き取らせた。午前零時を過ぎていた。後は指揮官をだれにするか――の問題が残った。
その前に、甲飛十期生サイドから見たこの日の実態について目を向けなければならない。徳山市に甲飛十期生だった小柳坤生氏が健在である。六十二歳(住所、年齢などは取材時の昭和六十二年当時。以下同じ)。特攻が組織化されていった時期――昭和十九年八月末、茨城県の神ノ池基地で“ヒナ鳥”の教員をやっていた時、「神雷部隊」(人間爆弾、桜花)搭乗員に志願をした体験を持つ一人であるが、そのやり口に今も憤慨している。
「甲飛十期生の本心はこの一冊に尽きると思う」
と、『散る桜 残る桜』(昭和四十七年、甲飛十期会編著・非売品)をくれた。この本の記述は通史的にまとめられてはいるが、無理に一貫した考えでまとめたものではなく、相反することもそのまま書いている。生存同期会員の「個人の意見」を尊重するためと思われる。調査も丹念で、信頼できる好著である。
この記述の中に、意外な事実が描かれている。その場に居合わせた高橋保男氏(大分県東国東郡在住)の話である。
「十九日の夜、たぶん九時前後だったと記憶する。『甲飛十期生、総員集合』がかかった。そのとき整列した甲飛十期生は、わずかに三十三名であった。同期生(二百二十名)の大半がすでに戦死していた。甲飛十期生には、この集合がなんのためであるか見当はついていた。夜道を本部へ急ぐ途中、誰からともなく『ついに特攻か』というささやきがもれた。
整列した十期生の前には、上級幹部がズラリ並ぶ。部屋の中は暗くカンテラの細い灯がかすかに揺れているだけであった。玉井副長は懐中電灯で、整列している十期生の顔を一人一人のぞきこむようにして、
『体の調子はどうか』と、確かめるようにゆっくりと尋ねて回った。玉井浅一副長が、戦況や大西瀧治郎中将の決意などを説明したのだが、その言葉の一つ一つについてはハッキリ覚えていない。覚えていないというよりも、夜中に総員集合という異常さで、われわれは、ついに来るべきもの『特攻』が実施されるのだと直感し、興奮していたので、細かいことなど耳に入らなかった。
『貴様たちで特攻を編成する』
『日本の運命は貴様たちの双肩にある』
『貴様たちの手で大東亜戦争の結末をつけるのだ』
といった玉井副長の最後の声だけが、いまも耳の底に焼きついている。
玉井副長は、われわれ甲飛十期生に体当たり攻撃を命令した。日本の運命を左右する重大な責任を負わされたことで、若いわれわれは非常に感激し、文句なく全員がこれに賛成した」
いま一人、井上武氏(東京都立川市)の話によるとこうだ。
「玉井副長は、敵がレイテに上陸してきたというようなことを簡単に説明した後、
『いまの状態では、とにかく貴様たちに特攻をやってもらうしかない。頼む――』
と言った。私は『特攻隊』という言葉に特別な印象もショックも受けなかった。とにかく上の人たちは何かにつけて消極的であった。下士官搭乗員の間では、そんな上の人に不平不満が高まっていた。古い搭乗員の中には、半ばヤケ気味で、やる気を無くしている者もいた。われわれは松山のころから玉井さんと一緒だったので、わりに心やすく話ができた。
『こんなことでは敵にナメられるばかりだ。もっと積極的に打って出よう。体当たり攻撃をするぐらいでないとダメだ』というようなことを強く訴えていた。
だからこのときも、特攻ということよりも、玉井さんがわれわれ甲飛十期生を最後の切り札にする決心をしたんだな、という感じの方が強かった。それともう一つ体当たりを命令したのが、親近感を持っていた玉井さんであったということが、甲飛十期生が特攻にそれほどの抵抗感を持たなかった原因で、これが他の人からの命令であったならば、必ずしもそうはいかなかったろうと思う」
井上氏は「玉井中佐は応召の士官だった、と戦後も思い込んでいた」と言う。かつて部下を大声でしかるのを見たことがなかったからで、とにかく温厚な人柄であったらしい。「おまえたち、そんなことをしてはいけないんだよ」といった調子の、親が子供を諭すときのような口調で教え子の甲飛十期生たちに接していた。
「玉井中佐に言われたからわれわれは、体当たりをやる気になった」という、極めて日本人的な側面が、最初の「神風特攻」にはあったようである。
「甲飛十期会」の記録をはじめ、その場に居合わせた現存者の証言によると、「総員集合」の場で玉井浅一副長はあまりくどくどした話はしていない。体当たりの必要性を説いて、甲飛十期生の感情に訴えている。そして興奮のうちに全員の賛同を得ている。が、『神風特別攻撃隊の記録』には、重大な省略がある。猪口・中島両氏が玉井中佐の証言を簡略化したのか、玉井中佐がわざとそのように言ったのか、今となっては確かめようもないが、「特攻隊員の選定は玉井副長の指名であった」ということをはっきりと書いていないし、員数も違う。
「甲飛十期会」の調査によると、昭和十九年十月十九日現在、つまり特攻決定の日の甲飛十期生の人数は六十三人で、中には内地に零戦を取りに帰っていた者もおり、「総員集合」の場に居合わせたのは『神風特別攻撃隊の記録』に書いている“二十三人”ではなく、高橋保男氏が言っているように“三十三人”である。井上武氏(前出)はその場にいても「指名されなかった」一人である。
したがって、『神風特別攻撃隊の記録』に書いている“二十三人”は、初めから「人選されていた数字」という結論になる。もっとも「甲飛十期会」の調査だと、二十三人ではなく二十四人である。同会の執念の調査だから、二十四人とするのが正しいであろう。実は人員といい、出身といい、命令した当事者の調査が不十分であったことは確かである。
甲飛十期生で、戦闘機パイロットではあったが、玉井中佐とは因縁のなかった(訓練部隊が違った)日野弘高氏(大阪府貝塚市)は、ボルネオの三三一空からフィリピンのマバラカットに進出を命じられ、途中エンジントラブルで遅れ、単機でマバラカット飛行場に行くことになった。クラーク飛行場に迷いこんだりして、やっとマバラカットに着いたのが二十日。そこで同期の戦闘機乗りに出会い、「やあ、やあ」と話しているうちに「搭乗員整列」がかかった。日野氏はこのとき十九歳。甲飛十期生はみな二十歳前後の世代である。
「いきなり飛び込んだので前後の事情が全く分からない。『搭乗員整列』の声を聞いて、所属が違うので整列しなくてもよかったのですが、ボンヤリしていても仕方がないものですから最後尾に立っていました。何人いたか記憶にありません。そのうち色の黒い、でっぷりした中佐が黒メガネ、胸に双眼鏡という姿で現れました。訓示があり、しきりに『特別攻撃隊』という言葉が出てくる。が、何のことかさっぱり分からないうちに『搭乗員待機』になりました。これが『敷島隊』出撃の日(敵が発見できずこの日は引き返す)でした」
とすると、二十一日ということになる。
「広島県出身で、後に特攻山桜隊員として突っ込んだ宮原田賢君に『あれはだれだ』と尋ねますと『二〇一空の玉井副長だ。視線を合わさないようにしろ』と忠告されました。なぜか? と問うと『玉井副長と視線を合わせると君も特攻に編入されるぞ』と言うわけです。彼から特攻隊の名前も初めて聞いたようなわけですが、あれは指名だと思っています」
誤解があるといけないので、神風特攻隊の編成のやりかたについては注釈がいるだろう。「指名」だったから無理やり特攻機に乗せられた、と考えるのは間違いである。二十歳前後の若者とはいえ、玉井副長から聞かされるまでもなく、戦局が次第に苦しくなっていることは、身をもって知っている。「なにくそ」という敵愾心《てきがいしん》があったのである。
高橋保男氏によれば「当時の戦局を私たちなりに見て『やらねばならん、生きては帰らない』という気持ちは甲飛十期生三十三人、全員持っていたと思います。『最高の死に場所だ』という満足感もあったわけです。だからこそ全員双手を挙げて賛成したのです」
このとき、全員が本当に爆弾を零戦に積んで、文字通りの体当たりをする、と考えていたかどうかの疑問は残るかもしれない。総員集合の時間的経過から見て、詳しく作戦を立てる余裕もなかったし、まだ指揮官をだれにするかも決まっていない。つまり大西瀧治郎中将の「体当たり」の認識と、甲飛十期生たちの認識との間に多少のズレがあったとしても仕方のない面もあったろう。
その証拠に、猪口力平中佐は『神風特別攻撃隊の記録』の中で、「否か応か、人一倍温厚謙虚な中佐が、この未曾有の攻撃法をはたして受け入れるだろうか? われわれは玉井中佐をみつめながら、むしろ、この攻撃を自身実行するものとして、ある感動に沈んでいた」と書いている。
ともかく戦局は重大であった。緒戦の圧倒的な勝利から、米軍が本格反攻を開始した十七年八月のガダルカナル攻防戦以来、日本軍の敗勢は加速した。
「敗北」を身をもって体験したのは第一線の兵士たちである。前進基地として占領していたアッツ島の玉砕(十八年五月二十九日)に始まりマキン、タラワ(同十一月二十五日)、サイパン(十九年七月七日)、グアム、テニアン(同九月二十九日)――と玉砕が相次ぐにつれ、第一線も内地も異常な心理に追いこまれた結果、まず第一線将兵の間から「肉弾攻撃」的な思想が芽生えたことを理解しないと、「特攻」の意味が分からなくなる。
なにしろ「戦争」をやっているのである。戦争末期の絶望的な特攻は、民族の自殺指向のような側面も確かにあったが、それは“特攻”の精神の変質であり、一種の狂乱状況下の出来事である。このことは、やがて明らかにしていくが、少なくとも初期の海軍特攻隊員たちが「無理に殺された」と見るのは、特攻死した人に対する冒涜になる。
日本がマリアナ海戦(「あ号作戦」十九年六月十九日)に惨敗し、豹部隊(二六三空・司令玉井中佐)がペリリューからフィリピンのダバオへ移動する八月ころ、玉井中佐は、
「もうこうなったら体当たり攻撃して戦局挽回《ばんかい》の突破口を開くより手がない。貴様たち十期生がそれをやるのだ」
としきりに口にするようになっていた、と戦闘機パイロット笠井智一氏(兵庫県伊丹市)は証言している。
玉井浅一中佐が甲飛十期生の士気を十分に知り、最初に特攻を命じた理由は、
「なんといってもわれわれの旺盛な闘志にあった」
笠井氏は重ねて、次のようなエピソードを語っている。
当時、内南洋と言っていた西カロリンのパラオが、二回目の空襲(十九年三月三十一日)を受けた時、パラオ島の南隣にあるペリリュー島のガドブス基地も、敵の艦載機にたたかれて、さんざんな目にあった。可動機数が少なかったせいもあるが、反撃しない味方のふがいなさに憤激して、「オレ一人でも敵空母に体当たりしてやるから、ワイヤで零戦に爆弾を縛りつけてくれ」
と泣いてゴネた一人の甲飛十期生がいた。後に第一神風葉桜隊で戦死した隼《はやぶさ》(部隊。三四三空)の山下憲行一飛曹である。みんなでなだめたが、聞き入れない。
「早く爆弾を縛れ」
と怒鳴られて整備員もオロオロするばかりである。玉井中佐も説得にてこずって、
「必ず体当たりをさせるから、そのときまで待て」
と言って、ようやく思いとどまらせた。
山下一飛曹の行動は戦場の瞬間的な“逆上現象”と、現在では説明できるかもしれない。が、それは戦場の話であり、「命のやりとり」という人類の愚行が国家の名において行われていた時代の話である。勇敢な兵士の物語はアメリカにもイギリスにもこと欠かない。思えば遠い昔である。
水中特攻「回天」の創始は二人の若い士官の超人的な発想による。レーダーなど電波兵器の差から次々と撃沈されていく若い潜水艦乗り士官がこれを支援した。
「それなら人間が魚雷に乗って敵艦に近づけばよいではないか」
という逆転の発想である。人間が魚雷を運ぶのではなく、魚雷が人間を運ぶのである。「あ号作戦」の敗北は潜水艦乗り、駆逐艦乗り、飛行機乗りに限らず第一線の若い将兵をいらだたせた。少なくとも「あ号作戦」の決定的な敗北が、若い使命感に火をつけ、「特攻」を生む動機になったことははっきりしている。日本の敗北はミッドウェー海戦(十七年六月五日)が契機となったとみる史観に異存はないが、「あ号作戦」こそ日本人の精神史に一つのエポックを刻み込んだ意味で、今少し掘り下げて見つめる必要がある。
同じ甲飛十期生で、「あ号作戦」時に基地航空隊の零戦パイロットとしてペリリュー島で苦闘を続け、十九年六月九日、重傷(左脚切断)を負って内地に帰還を余儀なくされた祭木正康氏(広島市安芸区中野)の話によっても、当時の基地パイロットの実情が分かる。
「私は隼部隊でしたから豹部隊の玉井(浅一)中佐とは直接指揮関係はありません。隼は中心が甲飛十期生の部隊で、張り切っていたのは事実です。
全体的な戦局は私ら下士官には分かりませんが、切迫してゆく厳しさは、敵の攻撃が次第に激しくなっていくのを見て察しられました。零戦も各自が持っていた一機しかなく、補給が全くありません。やられると終わりです。毎日昼、晩に哨戒に上がっていましたが、燃料切れで着陸したときを狙われると手も足も出ません。量の問題で、大変なことになったな、ということは実感で分かりました」
祭木氏が負傷した六月九日といえば、「あ号作戦」――マリアナ海戦(米国ではフィリピン沖海戦)の前哨である。
十九年六月十五日、内南洋のマリアナ諸島の中心、サイパン島に敵が上陸を開始したため、海軍は連合艦隊の水上、潜水艦兵力のほとんど全部、基地航空隊は連合艦隊の大部隊である第一航空艦隊と内地から移動させた八幡部隊、南西方面の可動機の全部を投入した。同十九、二十日の両日戦われた、最後の海戦である。が、連合艦隊は完敗した。小沢治三郎中将指揮下の第一機動部隊は三隻の空母(大鳳、翔鶴、飛鷹)を沈められ、基地航空隊は中核である第一航空艦隊が壊滅した。さらに潜水艦十八隻を失い、海軍は文字通り再起不能となった。もはや「特攻」しか手がなくなったのは、実にこの一戦の完敗にあった。
大西瀧治郎中将が登場した背景には追い詰められた戦局の挽回、という海軍の、かすかな願望があったのである。
大西中将が「特攻は統率の外道《げどう》」と言ったことは有名だが、
「栗田艦隊のレイテ突入が成功すれば、特攻はやめる」と言っていたことはあまり知られていない。もともと大西中将は特攻には反対であった。同中将が軍需省航空兵器総局の総務局長時代(フィリピンに着任する前)に、部下として一緒に仕事をした片山滋雄中佐は、『昭六級会私記』(昭和五十九年末刊・非売品)の中で「特攻機製作に関する会議も半年がかりで、繰り返し繰り返し開かれて、初め反対だった大西中将も現地から要請に来ているものの熱意を汲んで賛意を表明されるに至ったが、その直後特攻隊司令長官に転出されたのは、山本(五十六)連合艦隊司令長官の場合に似ている」
と書いている。
『昭六級会私記』は海軍兵学校五十九期、海軍機関学校四十期、海軍経理学校二十期のクラス私記で、遠慮のない海軍批判もある。いわゆる海軍の“同期限り”という記録である。
片山氏は家族を広島市に残して間もなく死亡。この間の経過を詳しく聞けなかったのは残念である。
軍令部も承知の体当たり作戦
大西中将が特攻に踏み切るまでの心理的な経過、ならびに軍令部内の動きは、後で可能なかぎり追跡するが、第一神風特攻隊の編成は十月十九日夜、甲飛十期生の情熱的な賛成で、これまで見てきたような経過で実施されることになった。ただし、この時点では「神風特別攻撃隊」の名称はまだ決まっていない。隊長をだれにするかの決定を待って決められたのである。実は隊名についてもだれが、いつ付けたのかに異説があり、特攻隊編成のナゾは複雑で奥が深い。
「甲飛十期会」の記録の中に次のような注目すべき記述がある。
「一般には、このとき玉井(浅一)中佐が体当たり機の志願者を“募った”ように思われているが、そうではない。もちろん、体当たり攻撃の決行に、甲飛十期生が全面的に賛意を表したことは間違いないが、体当たり機の人選は“指名”によって、既にこのときより以前に玉井中佐の手もとで出来上がっていたのである」さらに、
「いままでの神風特攻隊の記録では、総員集合で整列した甲飛十期生の人数を二十四名(前に指摘しておいた通り『神風特別攻撃隊の記録』では二十三人)としているが、この人数は実は整列した人数(高橋保男氏によれば三十三人出席)でなくて“最初に体当たり機に指名された十期生の人数”なのである。つまり整列した十期生の賛意を得て、その全員を体当たり機にしたように言っているのだが、総員集合に出た中にも体当たり機に指名されていない者がいる」
――ここから重大な結論を引き出していく。
「第一神風に限って言えることは、大西長官の命令は一つの引き金にすぎなかったのである」
つまり玉井中佐こそが、特攻の創始者であったのだ――ということである。
玉井中佐が計画していたのは、必ずしも大西中将のもとで実施された神風特攻のような形ではなかったかもしれないが、もはや尋常のことでは戦局を挽回することは不可能であるとして、もっとも信頼していた甲飛十期生を使ってそれまでの消極方針をかなぐり捨て、最後の総攻撃をかけるべく作戦を立て、機をうかがっていたに間違いない――という推定である。
日常、玉井中佐と接していた隊員の感じであるから、部外者がいちがいに批判は加えない。
その証拠として、次のように論証している。
「十九日の夜半、わずかな時間で行われた特攻編成の作業は、人員配置といい、水際だったその命名といい、あまりにも手際がよすぎる」
まだある。
それは、指揮官決定後に出された命令第一号(後述)のことである。人員配置については、
「(隊員には)心技共に優れた者が選ばれたのであるが、同期の中でも特に親しかったもの同士、または長く同じ隊にいたものを組み合わせていた。(神風特攻隊の)大和隊は元の隼(三四三空)部隊にいた者、敷島、朝日、山桜隊は狼部隊(二六五空)にいた甲飛十期生――という具合である」
と指摘している。
起死回生の大作戦を行うのであるから、チームワークが特に大切である以上、気が合い、共同作業がスムーズにできる組み合わせは当然と思われるが、「甲飛十期会」の記録では「組み合わせ」そのものも事前に決められていた証拠としてあげている。さらに推論は進む。
後述する指揮官――関行男大尉の選任についても、意外な推定を試みる。
関大尉は艦爆(艦上爆撃機)乗りである。艦爆パイロットが戦闘機パイロットに転向することは異例だと言う。もっとも筆者(御田)は艦爆乗りから零戦パイロットに転向し、活躍した人を知っている。この人によると「すぐに慣れる」とのことである。
が、「甲飛十期会」の記録には、
「関大尉がマバラカットの二〇一空に来たのは『零戦による降下訓練のため』と公表されていたが、搭乗員の間では、特攻の指揮官として呼ばれたのだ、との見方が圧倒的だった」
と書いている。確かに『神風特別攻撃隊の記録』を見ても、気にかかる記述はある。
玉井(浅一)中佐は戦後仏門に入った。小僧からの修行をしたというから、なみなみならぬ苦労であったろう。各方面からの嫌がらせもあった、と聞くが、既に死亡している。特攻隊については『神風特別攻撃隊の記録』の中の証言者としての発言しかなく、今となっては真実をただせない世界にいる。
歴史的真実の解明は、なかなか一筋縄ではいかない。ただ『神風特別攻撃隊の記録』と「甲飛十期会」の記録を突き合わせてみても、最初の特攻は「合意の上」で玉井中佐が任命したものであり、劣勢の戦局を挽回するための、せっぱつまった選択であったことは確かである。戦争は現場の指揮官や、若者の血を要求するものである。
とまれ、甲飛十期生を中心とした特攻隊員の指揮官をだれにするか、の段階に来た。
『神風特別攻撃隊の記録』によれば、次のように描かれている。
「私(猪口力平中佐・一航艦参謀)は玉井副長から搭乗員達の模様を聞いて、言いしれない感動に打たれた。しかし、この純一無垢な搭乗員を誰の手に託せばいいのか? 玉井副長との間に相談が始まった。――玉井(浅一)副長の脳裏にひらめいたのは菅野直《なおし》だ、菅野がいいということだった。しかし残念ながら当時彼は、要務を帯びて内地に出張中であった。
『菅野がおればいいのだがなあ』
そうつぶやきながら玉井副長は考え込んでしまった」
菅野大尉はこのとき、飛行機を受け取りに内地に帰っていたのである。当時二〇一空には、指揮官資格の士官搭乗員は十四、五人いたが、今度の指揮官には人物、技量、士気の三拍子そろった、最も優れた者を選び出さなければならない。
「こうして思い悩む玉井副長の胸の中に次第に現れてきたのが関行男大尉であった」
そして、関大尉について次のように書いている。
「関大尉はもともと戦闘機乗りでなく、艦爆出身で、一ヵ月くらい前“ひょっこり”台湾からマニラのニコルス飛行場に着任してきたのであった。(中略)彼は戦闘の暇を見て、熱心に戦局に対する所見を申し出て(中略)玉井副長の脳裏には『この先生なかなか話せるわい』という気持ちが早くもしみこんでいたのであった。菅野も兵学校の七十期、関も七十期でどことなく性格まで似ているぞ、とそんなことも玉井副長の頭をかすめた」
この『神風特別攻撃隊の記録』は一航艦参謀猪口力平中佐、二〇一空飛行長中島正少佐の共著でありながら、文体が統一されており、やたらと心理描写や風景描写が多い。出版にあたって、第三者の筆が入ったものと思われるので、文章から揚げ足を取るのもどうかと思うが、関大尉が、一ヵ月くらい前“ひょっこり”着任した、といったような表現は、いやしくも海軍士官の着任に対する言葉遣いではない。
こんなところから「甲飛十期会」の記録が「二〇一空の搭乗員たちの間で、関大尉は特攻の指揮官として呼ばれたのだ、という見方が圧倒的であった」と書く原因になったのであろうか。いかに何でも、考えられないことであるが。
記述から推移を見てみよう。
「どうだろう、おれは関を出してみようと思うんだが? ――」
と玉井副長が、猪口中佐に言った。玉井中佐の人選である。猪口中佐は直ちに同意した。
深夜、ゆり起こされた関大尉は、長身にカーキ色の第三種軍装(戦闘服)をひっかけて猪口、玉井両中佐の前に現れる。
「お呼びですか?」
と玉井副長の前に近寄って関大尉が聞いた。
十九年十月二十日午前一時前であったろう。あるいはも少し前だったかもしれない。
『神風特別攻撃隊の記録』では次のように描かれている。
「玉井副長は、隣に座った関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽く叩いて、『関、きょう長官(大西瀧治郎中将)がじきじき当隊に来られたのは、捷号作戦を成功させるために、零戦に二百五十キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが――ついては、この攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?』
と涙ぐんでたずねた。関大尉は唇を結んで何の返事もしない。両肱《りようひじ》を机の上につき、オールバックにした長髪の頭を両手で支えて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……
と、彼の手がわずかに動いて、髪をかき上げたかと思うと、静かに頭を持ち上げて言った。
『ぜひ私にやらせてください』
すこしのよどみもない明瞭な口調であった」
『レイテ戦記』の中で大岡昇平氏は、
「私には、黙ってうつむいていた五秒間に、大尉の心に去来した想念のほうが重く感じられる」
と書いている。この場の感想、批評、想像は読者に任せたい。
はっきりしている事実関係は、玉井副長によって関大尉が、特攻機の指揮官に任命されたことである。たしかに、最初の特攻は、いわば栗田艦隊のレイテ殴り込みを達成させるための、緊急処置であった、という公刊戦史の説は納得させるものがある。
もちろん、すでに陸・海・空の特攻兵器の開発は進められており、やがて組織的な「全機特攻」に進んでいくが、一つは栗田艦隊の“敵前回頭”が大きく運命を変える契機となったことは否定できないのではないか。
関大尉の指揮官受諾によって、猪口中佐は玉井副長に対して、
「これは特別のことだから隊に名前を付けてもらおうじゃあないか」
と言って二人で考え、ふと思いついて、
「神風隊《しんぷうたい》というのはどうだろう」
と猪口中佐が、玉井副長に言った。玉井副長に異存はない。そこで猪口中佐一人が、大西中将の待っている司令室に向かった。大西中将は暗い司令室で、思いにふけりながら、じっと待っていた。
「二十四名決まりました。隊長には兵学校出の関大尉を選びました」
と報告し、隊名を神風隊としたい、と願った。大西中将は暗闇の中で、
「うむ」
と言った。二十日午前一時を過ぎていた。
『神風特別攻撃隊の記録』によれば、
「神風特別攻撃隊という名称は、一航艦参謀猪口力平中佐の発案で決めた」ということになっているが、防衛庁戦史部に一通の奇妙な発信電報原稿が残っている。発信日は昭和十九年十月二十六日。あて先はフィリピンの大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官。発信者は軍令部第一部長中沢佑少将。電報の起案日は十三日で、起案者は軍令部参謀源田実大佐である。
第一航艦司令長官予定者として、九日に東京をたった大西中将は、この電報が起案された十三日は、まだフィリピンに着いていない。台湾沖航空戦のため、フィリピンまで飛べず、台湾で足止めをくっていた。そしてこの電報が実際に軍令部から打電された二十六日は、関行男大尉が神風特別攻撃隊、敷島隊を率いてレイテに突入した翌日である。
電報名は「機密第二六一九一七番電」。「二六一九一七番電」というのは二十六日十九時十七分に打電したという海軍独特の処理方式である。
つまり、大西中将がまだフィリピンに着かないときに起案され、敷島隊が突入に成功したのを確認して打電されたのである。電報の内容は次の通りである(原文はカタカナ交じり、旧仮名)。
「神風攻撃隊の発表は全軍の士気昂揚ならびに国民戦意の作振に至大の関係のあるところ、各隊攻撃実施の都度、純忠の至誠に報い攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)をも併せ適当の時期に発表のことに取り計らいたいところ、貴見至急承知いたしたし」となっており、さらに主務者の意見として、
「本電案には一航艦同意し来たれる場合の発表時期、その他に関しては省部さらに研究のことと致したし」
という文章が書き添えてある。
「特別な隊名を付けて国民に発表したいので、一航艦の意見を聞かせてほしい」という意味である。「その他に関しては」とあるのは、特攻で戦死した者に対する処遇の問題であろう。二階級特進とか、下士官は一律少尉に特進させる――などであると思われる。
防衛庁の公刊戦史『海軍捷号作戦2』は、この電報によって、
「一航艦司令長官の予定者となった大西中将が、やむを得ない場合には応急的な体当たり攻撃を行うことを(大本営)海軍部(軍令部)に伝え、承諾を得ていたことは間違いない」
と書いている。つまり大西中将は、東京を出発した十月九日以前に、軍令部で、「場合によっては体当たり攻撃を行う」ことを公的に表明し、軍令部もこれを了承して、隊名までも考えて、国民向けの新聞、ラジオによる発表は、省部(海軍省と軍令部と)で研究したい、ということである。
大西瀧治郎中将が東京をたつとき、軍令部で「場合によっては、特攻をやる」と言って出たことは、今では多くの研究書によってもはっきりしているが、一航艦参謀の猪口力平中佐が『神風特別攻撃隊の記録』の中でなぜ、
「神風《しんぷう》特別攻撃隊という名前は特別のことなので、別に名前を付けようと、自分が思いついて大西中将の許しを得た」
と書いているのか分からない。
この『神風特別攻撃隊の記録』が書かれた時期は、昭和二十六年で、太平洋戦争に対する国民の見方はなまなましく、しかも占領下であった。一説によれば軍令部の上司の責任を軽く見せるため、というのもあるが、それは個人的な問題だから、本書ではあえて問題にしようと思わない。
が、特攻への道を選択した当時の戦争指導者たちの行動は正確に明らかにしていかねばならない。
防衛庁の公刊戦史は、
「当時、一航艦首席参謀猪口力平中佐の戦後の回想によると、『神風』なる呼称は同中佐の提案になる『神風隊』を大西中将が承認し、かつ『敷島』などの隊名は大西中将自身がつけたという。現地側の『神風』と海軍部が名づけた『神風』とは偶然の一致であったかもしれない」
としながらも、
「体当たり攻撃を行った場合の名称などまで主務者(軍令部)との打ち合わせが済んでいたのである。また源田参謀は零戦百五十機の準備を同中将に約束したという」
と、軍令部が体当たり攻撃の実施を事前に知っていたことをはっきりと認めている(公刊戦史『海軍捷号作戦2』)。
軍令部電報の起案者という源田実大佐が神奈川県厚木市に在住していた八十三歳時に、直接この問題をただした。公刊戦史の記述を読みながら、
「この通りだと思うが、はっきり覚えていない。ただ大西中将がフィリピンに赴任する前、軍令部で話した感じでは、やるな、とは思った」
これは源田大佐の逃げ口上ではないだろう。参謀には決定権はない。大西中将と源田大佐は山本五十六連合艦隊司令長官の下で、真珠湾攻撃の航空作戦を練った間柄である。しかし、この起案は正式な指揮系統を通して行われたものではない。同じ航空畑を歩いたもの同士、という関係で大西中将から源田大佐(当時少佐)に個人的に研究が依頼されたことは、今でははっきりしている。といって、大佐になりたての(十月に昇進)源田氏と、大西中将とでは格が違う。命令とか示唆をするとかの立場ではない。
源田実氏は語る。
「大西瀧治郎中将は特攻をやる気だな、と私が感じたのは以心伝心というか、長い付き合いの間に培われたものです。大西中将はあれこれと口に出してしゃべるような人ではありません。が、考えていることは私には分かった。
正確な日付は覚えていませんが、神風特攻隊の名称を聞いたのは、連絡のため私がフィリピンに飛んだときで、大西中将から直接でした」
源田氏にはすでに遠い昔であろうか。
「神風特別攻撃隊」に付けられた「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」という名称は、よく知られているように、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」からとったものである。『神風特別攻撃隊の記録』の著者猪口力平中佐は、「敷島隊」等の隊名は大西中将自身が付けた、と言っているから、やはり軍令部と大西中将との間で、はっきり話がついていたと見るべきであろう。
が、大西中将がフィリピンに赴任する前、軍令部総長及川古志郎大将に、
「特攻の発動についてはお任せ願いたい」
と言ったことも広く知られている。この言葉は「できうればやりたくない」という含みが濃厚である。
フィリピンに赴任する途中、台湾で足止めをくったことは既に述べたが、たまたま台湾に、連合艦隊司令長官豊田副武大将がいた。豊田大将の『最後の帝国海軍』(昭和二十四年、実業の日本社刊)の中に、
「十二日から十四日にかけて戦われた台湾沖航空戦の結果を見て、大西中将は特攻の決意を強くしたようだ」
という記述がある。台湾沖航空戦の実情を目の当たりにして、日米間の物量と技量の差をはっきりと認識した結果であったという意味だ。が、T部隊(陸海軍航空隊で編成した部隊。Tは台風の頭文字からとったといわれる)の失敗が大きいとの説が有力だ。
大西中将が、特攻について、当初は反対であったことは前に書いた。その具体的な理由は後で述べよう。大西中将の心のブレを追跡することは、とりもなおさず戦争指導者たちの特攻への傾斜を追跡することにもなるからである。
現実に特攻を実施したのは紛れもなく彼である。多くの人がこの問題については書いているが、大西中将が特攻を決意した最も直接的な理由は、フィリピンに着任して、実動兵力の絶望的な少なさを知り、がく然としたためではなかったか。
防衛庁の資料によると、十月一日現在の全機数は次の通りである。
零戦 三十五
偵察機 一
天山艦攻 十一
陸上攻撃機 二
銀河(陸上爆撃機) 二
計 五十一
(ただし一三航艦からの来援を含む)
ちなみに、陸軍の第四航空軍(十月十九日現在)には三十機しかなかった。これではまともな戦闘はできない。
なぜフィリピンに飛行機が少なかったのだろうか。直接原因は「あ号作戦」による損失がひどかったこと、いま一つは「ダバオ誤報事件」と呼ばれている海軍始まって以来と言ってもよいような、不名誉な失態の結果である。なけなしの飛行機を空襲によって失う結果をもたらしたのである。
「あ号作戦」では定数千七百五十機をそろえたが、機材の不良が多く、実動五百機しか整備できず、しかもそれがほとんどやられたのである。米海軍戦史に「マリアナの七面鳥打ち」と書かれているほどの手痛い敗北であった。
「ダバオ誤報事件」は、白昼のフィリピンで起こった“水鳥の羽音に驚いた平家”のフィリピン版であった。
ダバオはフィリピン群島の南端に位置するミンダナオ島の南端近くにある町である。
ここには第一航空艦隊(一航艦)司令部(八月編成、司令長官寺岡謹平中将)のほか海軍第三二特根(特設根拠地隊)司令部、六月に新編成されたばかりの百師団(原田二郎中将・名古屋)の司令部があった。同師団の司令部は九月一日、米軍の本格的な空襲を受けたため、ダバオ市西方十五キロにあるミンタルに移転していた。
ミンダナオ島に限らず、首都マニラのあるルソン島でさえ、陸軍も防備陣地は全くといってよいほど造っていなかった。昭和十七年一月占領以来、フィリピン防衛の任に当たっていたのは第一四軍であったが、三代目軍司令官の黒田重徳中将は、フィリピン政府要人と「ゴルフと宴会ばかりしている」とうわさされていた。米軍の進攻が間近くなった十九年九月、山下奉文中将と交代させられたが、時既に遅く、占領以来二年余りの平穏な暮らしに慣れていた将兵は、緊張した空気に欠けていた。
黒田軍司令官は「飛行場を造っても、敵に利用されるだけだ」と言って物議をかもしたこともあった。事実その通りになったのは皮肉だが、全般的にたるんだ空気であったのは否定できない。「ダバオ誤報事件」はこんなムードの中で起こった。
九月十日未明の午前四時ごろ、サランガニ海軍見張り所から、
「ダバオ湾口に敵上陸用舟艇が見える」
との報告があった。根拠地隊司令部は、一航艦司令部に飛行機による偵察を依頼してきた。が、ダバオ第一基地には飛行機はなかった(実際には一機あったが、これについては後述する)。
午前八時ごろ、サランガニ見張り所から再び、
「湾口に上陸用舟艇見ゆ」
「陸軍とともに水際にこれを撃滅せんとす」
と伝えてきて、さらに一時間半後、今度はサマル島対岸のダバオ見張り所までが、
「水陸両用戦車がダバオ第二基地に向かっている」
と報告してきた。
第三二特根司令部は不審だとは思ったが、見張り所の指揮官が直接やってきて、
「敵の水陸両用戦車は自分で確認した」
と報告したので、信じないわけにはいかない。通信中隊は暗号書を焼いた。根拠地隊司令部はダバオ北方のラバンダイに撤退を開始した。
「ダバオに敵上陸開始」
の知らせは東京にも打電された。
寺岡謹平一航艦長官も機密暗号書を焼いて、奥地のバレンシアに自動車で移動を開始した。
途中、一航艦司令部へ意見具申に急行していたダバオ第二基地の戦闘九〇一飛行隊長、美濃部正大尉(後少佐)に出会った。
この美濃部大尉は、海兵六十四期。七十二歳時には、愛知県豊田市に住んでいた。自分の隊からは特攻機を一機も出さなかった人である。
大西瀧治郎中将と、ひと晩中語り合い、
「貴様のやりたいようにやれ」
と言わせた男である。この人のことについては後でふれるが、大西中将が、特攻についてどのような考えを持っていたか、を追跡する上で参考になろう。
美濃部大尉のいる第二基地からは、ダバオ湾が見えた。上陸の気配など全くない。司令部の電報に驚き、意見具申のため、大急ぎで一航艦司令部に行く途中、寺岡中将一行と出会ったのである。美濃部大尉は、
「目下の急務は状況の確認です。飛行機が一機でもあれば、まず偵察することです。第一基地にあるのなら、自分が操縦して飛びます。敵が湾内にいたら急降下します。それまで司令部の移動は待ってください」
と言って、第一基地に車を走らせた。途中、陸軍が橋を爆破しようとしているのも中止させ、ダバオ第一基地に着いた。
ここから先は防衛庁の公刊戦史の記述を借りる。
「ダバオ第一基地には二〇一空副長の玉井浅一中佐が来ており飛べる零戦一機があったが、同中佐はセブへ乗って帰る必要があるから貸してもらえず、やむを得ず別の零戦を急拠整備して、一時間後に美濃部大尉は発進した。同大尉は湾内外の偵察を行い、敵のいないことを確認して日没後帰投した」
美濃部大尉の挺身的な行動によって「ダバオに敵上陸」は誤報であることが分かったが、同じ「ダバオ誤報事件」を記述している『神風特別攻撃隊の記録』の中で、猪口力平中佐は、
「第一ダバオ基地の二〇一空から戦闘機で玉井副長自ら飛び立って偵察したところ、湾内に敵影を認めず、との報告であった」
と書き、美濃部大尉のことは無視している。特攻をやらせた参謀と、拒否した飛行隊長との心理的な関係が見えるような気がする。
「ダバオ誤報事件」は信じられない白昼夢であった。三二特根首席参謀島村浩二大佐は戦後の回想で、
「直接的には湾内の沈没船に三角波が当たって異様な形をしていたのを、海面にモヤがかかっていたため海岸の見張り員が、漁船を敵の上陸用舟艇と早合点したこと。いま一つは、数日来の空襲で、いつ敵は上陸するのだろうか、という不安がダバオの部隊全部に行き渡っており、それが疑心暗鬼を生みパニック状態になった」
と言っている。が、なぜ積極的に敵情視察をやらなかったのだろうか。上級司令部に士気の緩みはなかったか。米軍の上陸パターンは、まず空襲でたたき、その後に猛烈な艦砲射撃を加えるのが常という手段であった(これは日本海軍の発明である)。
ダバオに空襲はあったが、艦砲射撃はまだなかった。そんな初歩的なことを、プロ軍人が知らぬはずはない。一航艦も三二特根の司令官も文字通り“富士川の水鳥に驚いて”狼狽したのである。
公刊戦史も、
「一航艦、三二特根と、いずれも海軍中将の司令部が所在する現地ダバオで、まさかこうしたバカげた原因によって大騒動が起きたとは、南西方面艦隊司令部では想像も及ばなかったので、真相がつかめなかった。あるいは敵の謀略かと言う説もあり――」
と珍しく手厳しい批判をしている。事件(うわさ)が拡大し始めると、寺岡謹平一航艦長官は、さっさと指揮権をマニラの第二六航戦司令官の有馬正文少将に委譲して奥地への避難を優先させようとした。その行動は、士気の低下と言われても弁解の余地はないであろう。この時ダバオ基地にいた偵察機パイロット梅本正信氏(乙飛十六期、広島市安佐南区長束二丁目)は、
「航空地図を大急ぎで焼却するよう命じられ、熱さと目にしみる煙で涙が出ました」
と回想している。
しかし、何といっても「ダバオ誤報事件」による最大の禍根は、「すわ、一大事」とルソン島のクラーク基地群から飛び立ってセブ島の基地に進出していた二〇一空の主力である戦闘機隊が、敵の急襲にあって手痛い被害を受けたことであろう。
セブ島は、レイテ島と並んでフィリピンの中央部に位置し、海軍基地航空隊の重要飛行場があったところである。寺岡司令長官から指揮権を渡された第二六航戦司令官の有馬正文少将は、温厚だが責任感と闘志にあふれていた提督のようである。
直ちに二〇一空の出動を下令し、自らもセブ島に進出していた。有馬少将にとっての悲劇もここから起こる。
セブ基地に集めた戦闘機は、再び各基地に帰さなければならない。事件の翌十一日には約四十機の零戦をマニラのニコルスへ、二十四機を他の基地に送ったが、セブにはまだ約百機が残っていた。そこを敵に狙われたのである。
スコールの雲間から敵艦載機が突然現れ、セブ基地に攻撃をかけてきたのは、九月十二日の午前九時二十分だった。攻撃は午前中いっぱい、波状的に続いた。迎撃に飛び立つ間もないほど、執拗な攻撃を繰り返した。飛行機の最も弱いのはこのときである。戦闘機二十五機が地上で大破炎上、三十機が中小破した。不利な態勢ではあるが、戦闘機パイロットは本能的に飛び立つ。激しい空中戦が展開され、自爆(撃墜)九、行方不明九、落下傘降下二機、着陸時の機体破損七機、計二十七機がさらに空中で散っていった。
空中戦の被害はパイロットの死を意味する。練達の搭乗員の喪失は、「捷一号作戦」を目前にして、二〇一空の痛手を決定的にした。「特攻」の芽は、次第に大きくなりつつあったのである。
一航艦司令部はこのような中で、十一日予定通りマニラに移った。二六航戦司令官有馬正文少将は、偶然にも空襲の前にセブ基地をたち、クラークに復帰した。
が、基地に降り立つと同時にセブ基地の悲劇を知らされ、再び機上の人になってセブへ向かった。
有馬司令官は、それからひと月もたたない十月十五日、ルソン島東方海上に姿を現した敵機動部隊に対して、陸軍・海軍共同攻撃隊の第二次隊(一式陸攻十三機、零戦十六機、陸軍制空隊の四式戦七十機)の一番機に乗って出撃し、午後三時五十分、全軍突撃を下令したまま再び帰ることはなかった。
覚悟の死であった。少将の襟章を外し、双眼鏡に書いてあった「司令官」の文字を削り取り、司令や参謀の止めるのも振り切って一式陸攻に乗り込んだ。
「ダバオ事件後、セブ島で二〇一空のとらの子の零戦を失った責任をとっての出撃であった」
と『神風特別攻撃隊の記録』の中で猪口力平中佐は書いている。果たしてそうか。
有馬少将が二六航戦司令官に任じられたのは十九年四月一日である。当時の海軍省教育局長は高木惣吉少将で有馬少将とは海兵同期(四十三期)。二人は親友であった。高木少将は『自伝的日本海軍始末記』の中で、次のように書いている。
「十九年三月二十八日の午後、膚寒いのに雨外套を濡らした有馬少将が前触れもなく目黒の教育局長室に入ってきた。
『おめでとう』
と言い終わらぬうちに、
『戦いはどうすれば勝てるかね』
と真剣な目つきで問いかけてきた。
『それは僕のほうから戦場の経験のある貴様に聞きたいところだ』
と言うと、
『おれは指揮官の強いほうが勝つと思う。指揮官の勇は、おのれの信ずるところを部下に命じ、その命令を実行させることだ』――」
と前置きして、昭和十七年十月二十六日から二十七日にかけて戦われた「南太平洋海戦」の回想を始めた。
ガダルカナル島をめぐる攻防の際に起きた海戦で、空母「ホーネット」撃沈、「エンタープライズ」大破という戦果をあげた。が、日本側は徹底追撃をせず、米国の戦史家をして「勝ったほうも、負けたほうも逃げた、不思議な海戦」と言わしめた。
「おれは空母『翔鶴』の艦長だった。敵陣が崩れて追撃に移ると、艦橋の司令部(南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長)には、これで十分だという空気が出た。おれは度々失敗の経験もあり、徹底した追撃の必要を痛感して、戦果もこの分では非常に疑問だから、是非もっと進撃するよう進言したが、聞いてくれなかった。
戦闘終了後、基地に帰り、旗艦で山本(五十六)長官に経過の報告が行われた。報告が済んで、おれが最後に室を出ようとすると、
『オイ、ちょっと』
と長官に呼び止められた。
そして、
『もう少し追撃できなかったのか?』
とたずねられた。おれは癖として直属上司を庇いたくなる衝動にかられる。このときも、無意識に、
『ハイ、あれが精一杯でした』
と言ってしまった。すると黒島(亀人大佐、作戦参謀)が、
『アンタところは北にばかり走りたがっていたから、追撃の考えは出なかったんでしょう』
とヤジった。おれはなおさらムカムカして、なにをぬかす、という気になりそんなものではなかったと強弁したが、十八年四月に山本長官が戦死されたのを思うと、なぜあのとき、日本海軍にも一人や二人は、長官と同じ意見の人間がいることをハッキリ知らせてあげなかったのかと、かえすがえすも残念だ」
「あくまで追撃をやって、敵をねじ伏せるという気迫が足りない。それは兵術眼がないからである」
重要なのは次である。
「若い者を先に立てて、年寄りが後から指図してゆくのは、勝ち戦のときはいいが、今はそんなことでは駄目だ。オレは予備学生の制度などを考え出し、戦後まで生き残って貰わねばならない青年たちを多数、戦場に送った。これからは年寄りが先に死ぬのが順序だと思い、それを念願にしている」
高木少将は言う。
「有馬少将は修練では私の兄貴分だと思っていた。他人の批判や、海軍の気迫が足りないなど口が裂けても言う人ではなかったが、この日の言葉は間違い無く彼の遺言、と深くこころに刻んだ」
上級指揮官の闘志不足は初めから見られたのである。そして有馬少将の死の意味はこのときの言葉に象徴されている気がする。
有馬正文少将の死を大西瀧治郎中将が知ったのは、十月十七日、フィリピンに着いてからと思われるが、そのときどんな感想をもらしたかの記録はない。
大西中将の副官として、フィリピンから台湾に迎えにいったのは、門司親徳大尉(後少佐)で、大西中将の前任者寺岡謹平中将の副官でもあった人である。東京帝大経済学部を出た、六期短期現役主計士官である。真珠湾攻撃、ミッドウェー、ラバウルと緒戦から太平洋戦争と付き合ってきた珍しい体験をもっている。六十九歳。
大西中将がマバラカットの二〇一空へ「特攻」を命じに行った時、同行したのがこの人である。神奈川県大磯に住んでいて『空と海の涯で――第一航空艦隊副官の回想』(昭和五十三年、毎日新聞社刊)の著書がある。門司氏には後でゆっくりと語ってもらう。
門司副官は、
「私は、フィリピンに帰って初めて有馬司令官の死を聞いたが、最初は不思議に思った。二六航戦は基地整備の司令部であり、特別の場合を除いて戦闘部隊の指揮をすることにはなっていない。
その指揮官が攻撃隊の先頭に立って出撃したというのは腑に落ちなかった。有馬司令官は死に場所を求めていたのではないか。それも、かねがね消極戦法を歯がゆく思っていた司令官らしく、指揮官先頭の範を示したやりかたで――」
と書いている。門司氏はプロ軍人ではないだけに、見方も偏らず冷静である。大西中将がマバラカットに行くときのこと、特攻を志願した若い隊員を前にしての演説の模様など、貴重な証言がある。
前に「特攻作戦実施の過程で大西中将に心のブレが見られる」と書いたのは、冷静で、客観的な観察者、門司副官の証言によるところが大きい。
だがその前に、軍中央でどのような「特攻認識」が醸し出されていたかを見ておかないと、「特攻」の成立過程が理解できない。
軍令部は海軍の統率の根本責任を負う。陸軍の参謀本部と同じである。軍令部というのは大ざっぱに言って、作戦全般の仕事を分担し、海軍省は軍政に関することに専念する。統率は天皇の大権に属する問題であるから、これを受けて、軍令部が作戦を実行する仕組みになっていた。もちろん天皇がいちいち作戦を立てるわけがないから、軍令部で立案し、天皇が裁可する、という形式をとる。作戦、用兵すべて軍令部の所管事項であった。特攻も作戦事項である。
大西中将がフィリピンに着任する時の軍令部総長は及川古志郎大将である。山本五十六大将より海兵一期上の三十一期。昭和十五年九月、海軍大臣になると、それまで海軍が反対していた日・独・伊三国同盟に賛成し、山本大将から、とっちめられたのは有名である。太平洋戦争の遠因となった、三国同盟に賛成した及川大将の軍令部総長時代に特攻が始まったのは、妙な因縁である。
捷一号作戦に向けた窮余の策
サイパン島陥落(十九年七月七日、大本営発表は同十八日)の責任をとらされた形で東条英機首相(大将)退陣という政変があり、海軍大臣と軍令部総長を兼ねていた(十九年二月二十一日―八月一日)島田繁太郎大将の後を受けて、及川古志郎大将が軍令部総長になったのだが、それまでは永野修身大将が、開戦以来の軍令部総長であった。
軍令部次長は、戦艦「大和」に乗って沖縄特攻として突っ込んだ(突っこまされた)伊藤整一中将である。
軍令部には第四部まであるが、作戦を主務とする第一部長が中沢佑少将、第二部長が黒島亀人少将であった。黒島少将は山本連合艦隊司令部の作戦参謀として、真珠湾攻撃の計画を立てた人である。“変人参謀”として知られていた。
「真珠湾攻撃など、数理を踏まえた計算ではとてもできない。彼のアブノーマルな頭からひねり出されたものだ」
と彼をよく知る人の評があるが、奇才で知られた軍人である。この人が、実は特攻兵器に非常な興味を示していたことは事実だ。
第二部は軍備充実、艦戦兵器の開発実験が主務で、第二部第三課は、
「水上、水中特攻兵器の開発、研究」
という専門部門であった。組織的に特攻兵器の研究、開発が義務付けられていたわけであるから、一部、二部が共同して、特攻作戦をやる仕組みが中央でできていたのである。軍人は任務に忠実だから、いきおい特攻はエスカレートせざるを得ない。
昭和十八年暮れごろ――第一線の現場から、澎湃として“体当たり攻撃”の声が上がっていたものを、正式に業務として吸い上げたのである。海軍は特殊潜航艇という小型潜水艦の開発を早くからやっていたから、抵抗はあまりなかったであろう。
黒島第二部長は「竜巻作戦」と称する水陸両用魚雷艇「特四内火艇」の開発を積極的に推進した。開発は見事に失敗したが、これが「回天」作戦に拍車をかける役目をする。「もはや尋常な手段では戦局の挽回は不可能」という気分が全軍にみなぎっていたことは事実で、第一線の突き上げもあって、特攻作戦は「全員特攻」にまで発展していくのである。
初期の特攻はともかく、二十年一月八日、大本営と戦争指導会議は全機特攻を決定する。こうなれば、初期の神風特攻とは全く別の次元に、日本が突入していったとしか考えようがない。
日本人が特攻の道を選択した最初は、切羽詰まった窮余の策であったことは否定すべくもないが、この視点を見逃すと、正確な特攻の姿は見えてこない。
一航艦長官、寺岡謹平中将と、大西瀧治郎中将との事実上の事務引き継ぎは、大西中将がフィリピンに着いてすぐ、マニラの一航艦司令部で行われている。門司親徳副官の証言の前に、この場でどんな会話が交わされたのかを見てみよう。すでに多くの研究書があり、広く知られていることであるが、防衛庁戦史部の公刊戦史から読む。
「連合軍の比島進攻の気配がにわかに濃厚となったのにもかかわらず、これから自分が率いようとする一航艦の兵力が話にならぬほど僅少であることを同(大西)中将は知った。翌十八日に捷一号作戦が発動された。連合艦隊司令部では基地航空部隊の協力下に水上艦隊(栗田艦隊)を敵上陸地点に突入させようと企画し、その準備を進めていた。基地航空部隊としては、水上艦隊の突入日までに、米空母を撃沈出来ないまでも、少なくともこれを撃破し、飛行機だけは使用できないようにしておく必要があった。
しかし、決戦まであと幾日もなく、また航空兵力も弱小の現状では、もはや、体当たり攻撃の実施に踏み切るほかはないと、大西中将は決断した。同中将は寺岡長官に自己の決断を述べ、その同意を得た。寺岡長官は後任予定者である大西中将に編成を一任することにした」
と書いている。
この出典は、寺岡中将が書いた(戦後まとめた)『寺岡日記』(防衛庁所蔵)によっている。日記の日付は十八日である。
この日記の中に一つ気になる記述がある。
「捷一号作戦が発動された。これには余日がない。この一戦のためには最も有力な方法を採択する必要に迫られておるので、ここに大西中将の決断の体当たり戦法が物を言う時機が到来したわけである」
この記述によると、二人が会った時には、大西中将が、はっきりと体当たり攻撃を決断していたことになる。
戦後に書かれた記述であるから、微妙なニュアンスを求めるのは無理としても、正直にこの記述を読めば、まず大西中将の特攻決断があってその後に、いかにしてこの攻撃方法を有効にするか、という議論に入ったことになる。
しかし、この記述は、台湾沖航空戦の失敗という前提がないと、成り立たない議論である。が、どこを押してもそのような言葉は『寺岡日記』からは読み取れない。このあたりが、なかなか微妙で、「日記」といえども後で書かれたものは無条件には信じられないということであろうか。
ともかく、二人の結論は「まず戦闘機隊の勇士で編成すれば、他の隊も自然にこれに続くであろう。海軍がこの意気でゆけば、陸軍も続いてくるであろう」という結論に達した、ということになっている。
これまで見てきた神風特攻隊の編成過程は、主として防衛庁戦史部に残る資料、公刊戦史、第一航空艦隊先任参謀猪口力平中佐・二〇一空飛行長中島正少佐著『神風特別攻撃隊の記録』や、甲飛十期会編の『散る桜 残る桜』、その他の生存者の証言を中心に記述してきた。が、事実をより正確に見つめていくためには、公平な観察者の証言が必要になる。
幸い、神風特別攻撃隊編成時の経緯については前に紹介したように、大西瀧治郎中将の副官をしていた門司親徳大尉が健在であり、『空と海の涯で』という著書もある。細かい疑問点については、筆者(御田)がさらにただした。それを中心に、いま一度、観察者の目から前後の模様を再現する作業を進めていこう。
大西中将が台湾の高雄基地を出発したのは、十月十七日である。ちょうど台湾沖航空戦も一段落していた。
台湾沖航空戦では敵空母、戦艦、巡洋艦など十二隻撃沈、大破二十三隻という結論が出て、天皇にも上奏し、日本中が久方ぶりにわいていた時である。連合艦隊は、残敵掃討のため、志摩清英中将を司令官とする艦隊を派遣するなど、本気で大勝利を信じていた。が、夜間に突撃したT部隊(詳しくは後述)の戦果の見誤りで、やられたはずのハルゼー艦隊は、巡洋艦が二隻損傷しただけで、ほとんど無傷であった。原因はパイロットの未熟である。鳴りもの入りで放送した大本営発表を聞いたハルゼーが、「海底より引き揚げられ、ただいま全力航行中」と打電をしたなどと、米国の戦史は伝えている。
大西中将が、門司副官に「今日中にマニラに行こう」と言って、手に持っていた電信紙を見せたのは、敵がレイテ湾のスルアン島に上陸したという趣旨の写しであったというから、このとき大西中将が、台湾沖航空戦の戦果を、あるいは疑っていたのかもしれない。
初対面の大西中将と門司副官が多くを語らず、わずか一週間で男同士の連帯のようなものを感じていく過程が面白いのだが、本書の目的ではないので割愛せざるを得ない。ただ一言で言えば、大西中将は若者を引き付ける、異様な魅力を持っていたことは間違いない。
ダグラス輸送機で高雄をたったのが午後二時過ぎ。敵機を警戒して迂回し、ニコルス飛行場に着く前にバターン半島やコレヒドールがはっきり見えたというから、午後六時ごろであろうか。南国とはいえ、フィリピンの日没は案外と早いのである。この日の晩、寺岡謹平中将との実質的な引き継ぎが行われた。寺岡中将はダバオ誤報事件の責任をとらされ、わずか二ヵ月半の一航艦長官であった。
門司親徳副官は『空と海の涯で』の中で次のように書いている。
「十九日午前中、敵艦載機の空襲があったが、昼からはやんだ。午後三時ごろ参謀長小田原俊彦少将に呼ばれた。
『大西(瀧治郎)長官がクラークに行かれるから用意しなさい』
参謀長にそう言われて、私は精力的に動く新長官だと思った。ついて行くのは運転員と私だけであった。
長官と並んで車に座っていたが、会話は全然なかった。
大西長官はマニラを出てから、ずっと一言も口をきかなかった。アラヤット山というすりばち型の孤立した山があり、黒色の雨雲が見えた。暗い陰鬱な雲だなあと見ていたとき、長官が低い声で何か言った。初めはよく聞き取れなかった。ちょっと顔を右に傾けると、長官が、
『決死隊を作りに行くのだ』
と言った。私はただ、そうかと思って黙っていた。
体当たり攻撃という意味とは、その時、分かっていなかった。言ったほうの長官は、決死隊という言葉を体当たりの特別攻撃という意味で使ったのであろう。ずっとそのことを考え続けたに違いなかった。長官はそれ以上何も言わずに、また沈黙が続いた」
ここには、大西中将がマニラからマバラカット基地に向かうときの、孤独な姿が見られる。それにしても「決死隊を作りに行くのだ」という古風な表現は、案外本音であったのかもしれない。
マバラカットの町は街道に沿って粗末な家が並んでいた。道の左に赤瓦の比較的立派な二階建ての西洋館があった。二〇一空の本部である。警笛を鳴らしたがだれも出てこない。二、三度鳴らしてやっと従兵が出てきた。
「大西長官が来られたんだが、だれか士官はいないか」
門司副官が尋ねた。従兵が屋内に入り、ボサボサに髪を伸ばしたやせ型の大尉が急いで出てきた。三〇五空の先任飛行隊長指宿正信大尉で、体の具合が悪く宿舎で休んでいたらしかった。
指宿大尉は、車から降りている大西中将に敬礼して、
「司令(山本栄大佐)と飛行長(中島正少佐)はマニラに行っており、玉井(浅一中佐)副長は飛行場に行っております」
と言った。大西中将は、
「じゃあ飛行場に行こう」
と言って、指宿大尉を隣に座らせた。門司副官は助手席に座った。車は西洋館の門を出て左に曲がり、いま来た道をさらに先に進んだ。
自動車は指宿大尉の指示に従い、街道から右にそれ、草原に乗り入れてマバラカット東飛行場に入った。車が止まり、門司副官がドアを開けた。指宿大尉と大西中将が降りると、指揮所にいた玉井副長と猪口(力平)参謀が折りたたみいすから立ち上がった。二人とも、けげんな顔をして近づいてきた。
大西中将と分かると、飛行機乗りの玉井副長は「親しさを顔に表して、まるで親分を迎えるような感じ」で近寄って来た。暗くなる少し前で、だだっ広い草原の飛行場は静かでやわらかい感じであった。大西中将は天幕を張っただけの指揮所の、折りたたみいすに腰をかけて、飛行場の景色を見ていた。
指揮所には玉井浅一二〇一空副長、現場指導に来ていた一航艦参謀猪口力平中佐ら十人ぐらいがいた。玉井副長が、
「宿舎に行きましょう」
と言うと、大西中将は立ち上がって、のっそのっそと自動車の方に歩いた。
『神風特別攻撃隊の記録』では、大西中将が、いきなり「話があって来た」と言ったことになっているが、門司副官の記憶と少し違う。
大西中将は、見送りに来た搭乗員に、
「乗れるだけ乗っていけ」
と言った。大西中将の自動車は大型車で、ステップが付いていた。大西中将や猪口参謀のほかに四、五人が中に乗り、ステップにも搭乗員が立った。後ろから二〇一空の自動車が続いた。
二〇一空本部の士官室兼食堂は、入り口を入ると左手にあった。その士官室に座ると大西中将は、二六航戦の首席参謀吉岡忠一少佐を呼ぶようにいった。そして玉井副長に、
「ちょっと話があるんだが、部屋はないかね」
と尋ねた。玉井副長は考えていたが、
「ベランダにしよう」
と言った。玉井副長について二階に上がった。階段を上がると、二階は真ん中が板の間の狭いホールで、仮設ベッドが数個並んでおり、周囲の部屋は、士官の個室になっていた。
道路に面した側のドアを開けると、建物の正面が凹字型にへこんで、手すりの付いた部屋のようなベランダになっていた。
以上がマバラカット基地にある二〇一空本部の描写である。門司副官の記憶は極めて具体的で、当時をほうふつとさせてくれる。
そうしてここに、六つか七つのいすが並べられ、大西中将、猪口参謀、玉井副長、指宿正信三〇五飛行隊長、横山岳夫三一一飛行隊長が座った。明かりはフィリピンのビール瓶にヤシ油を入れたカンテラであった。
フィリピンのビール瓶は小型でふっくらとしている。日本の小瓶とは違い“二合とっくり”の形をしている。今でもフィリピンで飲まれている「サンミゲル」というビールである。
しばらくして、吉岡参謀が来た。
門司氏によると、
「私は副官として、階下の食堂で大西長官の寝る部屋とか食事のことなど、打ち合わせをしていたんです。ベランダでの会談はそんなに長くはなかったですね。一時間とちょっとくらいだったでしょうか。みんなが階段を下りてきてライスカレーを食べました」
ということである。
「マバラカットの二〇一空本部食堂でライスカレーを食べ、しばらく雑談をしてから大西長官は山本栄司令の部屋で寝ることになりました。
私も士官室を遠慮して二階のホールの仮設ベッドで休むことにし、上着を脱いだだけでひっくり返っていました。
その時ベランダでどんな会談があったのか――決死隊を作る、と大西長官が言っていたのでそのことだろうとは思いましたが、深くは考えませんでした。
すると、静かな宿舎の中のどこからか、階下の方で話し声が聞こえてきました。だれかが、低い声で演説でもしているような感じでした。内容は分かりません。遠くの声を聞きながら、うつらうつら眠っていたんですね。
どのくらい経ったか、分かりませんが、階段を上がってくる靴音でハッと目を覚ましました。反射的に時計を見ようとしたのですが、暗くて見えません。足音は私のそばを通って、大西長官の部屋の前に行き、ノックしました」
門司氏が遠くで聞いた声は、甲飛十期生たちを前にして、玉井副長が“体当たり”の必要を説き、それに応えた感動の叫びであったはずだ。そしてその後、指揮官に関行男大尉を選んでいるから、真夜中は過ぎていたであろう。
ここから先は門司副官の『空と海の涯で』から引用する。
「『長官、長官――』と低い声で呼んだのは猪口参謀の声であった。
『うむ』
という声が聞こえて、猪口参謀は中に入った。
三、四分で長官と猪口参謀は部屋を出てきて、二人とも階段を降りていった。私は暗い中でベッドの上に半身を起こした。が、長官はなかなか上がって来ない。私は脱いだ半長靴をはき、上着をつけると階下に下りていった。士官室兼食堂には、暗い灯がついていた。
私がそっとドアを開けて入って行くと、
『まだ起きていたのか』
と副長が言った。士官室には長官、猪口参謀、玉井副長のほかに二、三人の士官が座っていた。私は端の方に腰掛けた。
猪口参謀が一人の士官に、
『関大尉はまだチョンガーだっけ――』
と言った。私はその時初めて関大尉に会ったのである。髪の毛をボサボサのオールバックにした痩せ型の士官であった。彼は、
『いや』
と言葉少なに答えた。
『そうか、チョンガーじゃなかったか』
と猪口参謀が言った。そしてこの会話で、今度の決死隊が、ただの決死隊でないことを悟った。関大尉は、
『ちょっと失礼します』
といって、われわれの方に背を向け、もう一つの机でなにかを書き始めた。みんな黙っていた」
特攻隊の指揮官に任命された関行男大尉は、すでに結婚していた。マバラカット二〇一空本部士官室兼食堂で、「ちょっと失礼します」と断り、みんなの見ている前で新妻あての遺書を書く姿は、現在の感覚からすると、いかにも無残である。が、ここは戦場である。レイテ湾のマッカーサー軍に対して、日本の持てるだけの力を出しきって総攻撃をかけ、なんとか態勢の挽回を図ろうとする、ギリギリの瞬間である。
指揮官に海兵出身の士官を選んだ理由は簡単である。海軍の面目にかかわるからである。常々、海兵出身者は海軍の表舞台を歩き、学徒兵、予科練出身者たちを、とかく風下に見る風潮があった。それでなくても、海軍では海兵、陸軍では陸士出身者が優遇され、他は消耗品と考えられている、という風評があった。それに対する前線指揮官の配慮がこの場合、濃厚に感じ取れる。
冷静な観察者であった大西瀧治郎中将の副官門司親徳大尉は、この場の様子を次のように感じとっている。
「この夜更けの士官室の空気は、なにか沈み切った落ち着きみたいなものがあった。緊迫もしていなければ、チグハグでもない。静かであった。沈黙が続いた」
猪口力平参謀から、
「副官はもう休みなさい」
と言われて、門司副官は二階のベッドに引き揚げた。時計を見ると、午前二時(二十日)に近かった。
翌朝――二十日、空は曇っていた。士官室で食事を終わってから、しばらくたって玉井浅一副長が大西中将のところに来て、
「そろいました」
と言った。門司副官によれば、この朝は珍しく敵の空襲がなく、大西中将が特攻隊員に訓示をする時間ができた、という。
宿舎の前庭の南側に、北に向かって二十数人の搭乗員が並んでいた。右の先頭に関大尉が立っていた。木箱の上に大西中将が立つと、玉井副長が、
「敬礼」
と言った。飛行服の搭乗員が、一斉に注目して挙手の敬礼をした。
その場にいたのは猪口参謀、玉井副長、門司副官、それにニュース映画の稲垣というカメラマンの四人であった。この時の大西中将の演説はよく知られているが、門司副官の記憶によると、おおむね次のようなものであった。
「この体当たり攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。今の戦局を救えるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君たちのような純真で気力に満ちた人たちである。みんなは、もう命を捨てた神たちであるから、なんの欲望もないであろう。ただ自分の体当たりの戦果を知ることができないのが心残りであるに違いない。自分は必ずその戦果を上聞に達する。国民に代わって頼む。しっかりやってくれ」
大西瀧治郎中将が特攻隊員に対して訓示を行ったとき、『神風特別攻撃隊の記録』でも門司親徳副官の記憶でも、
「大西中将の身体が小刻みに震え、頬が青白くひきつったようであった」
ということは共通している。この場にいた甲飛十期生で生存者はいない。直接感想を聞くことはできないが、猪口力平参謀は、
「私はこれほど深刻な訓示は知らない。青年の自負心をあおる言葉でも、それに媚びる言葉でもなかった。日本はこれら身を殺して国難に殉じようとする青年の行為にのみその運命を託していたのである」
と書いている。「特攻を正当化する命令者の言い訳」という見方もあるが、これは正直に受け取ってもよいのではないか。
門司副官は、
「聞いていて涙が出そうに目の底がうずいたが、涙は出なかった。甘い感傷ではなくもっと行くところまで行った突き詰めた感じであった。稲垣カメラマンも映画を撮らず、長官の訓示を聞いていた」
と書き、
「チグハグな感じがなく、純一な雰囲気であったのは、大西中将が自分は生き残って特攻隊員にだけ死を求めるという気持ちのないことが、誰にも分かったからでしょう」
とその時の雰囲気を証言している。さらに興味のある観察は、
「搭乗員たちは、初めて見る大西中将に注目していたが、その顔つきは、いまだ子供っぽい者が多く、そこから心中忖度《そんたく》出来る顔つきではなかった」
と言っていることである。このとき、大西中将の前に整列した搭乗員は二十数人である。十六、七歳で予科練に飛び込んだ若者たちである。国難に殉じるという使命に、疑問を持ったものは一人もいなかったはずである。もっとも直掩機を命じられた者の中には、相当に年期の入っている搭乗員もいた。特攻隊と同じ危険度を伴うから、直掩機の搭乗員も特攻隊として任命されたのである。
若い搭乗員が、命をかけて職務――日本を守るという使命に燃えていたことは疑うべくもない。
神風特別攻撃隊大和隊に編入され、後に第五聖武隊員として十一月十二日、レイテ沖に突っ込んだ石岡義人上飛曹は尾道市の出身で、尾道商業三年から甲飛十期生として入隊した戦闘機乗りである。十九年三月一日夜、四国松山へ飛行機を取りに行く途中、尾道で短い時間、肉親と会うことができた。その時、足の親指の生爪をはぎ、「形見だ」と言って渡し、そ知らぬ顔で出発している。「悲壮」と言ってしまえば簡単だが、なまはんかな覚悟でできることではない。
既に両親はなく、尾道市に妹の本谷浩子さんがいる。
「まだ寒い晩でした。尾道駅から電話があり、家族が飛んでいきました。お仲間が五、六人一緒でした。飛行服を着ていて、松山に渡る便船を待っていたのです。兄が予科練に入ったのは昭和十七年四月で、太平洋戦争が始まった翌年でした。母は反対でしたが、『いま若い者が行かなければ日本はどうなる』と言って、志願したのです。そんな時代でした。兄は血のついた生爪を置いていったのが最後でした。新聞で特攻戦死したことを知ったのです。父が新聞を見て『義人が死んでいるぞ』と。多くの若い人が死んでいきましたね」
母親のイワさんが残した手帳がある。生命保険会社のポケット判である。入隊の前から「義人」という文字が出てこないことはない毎日のメモである。十九年の記述は裏から書いている。
「三月一日の夜九時半ゴロ帰りて家内うれしく会ひました 其時義人わツメ 銀行かよい(通帳)を母に渡し元気よく出て行った 妹二人に小使といって十円ヅツやりました」
「三月四日 義人の(たん生)赤白のモチで心ばかりのお祝いをした」
母親の願いはともかく、当時の日本は、青年がそっぽを向くような、国家でなかったことは確かである。この認識に欠けると、正確な特攻の姿は見えてこない。
三期予備学生、小島清文著『栗田艦隊』は同期生の行動と生死を中心にしながら栗田艦隊の敵前回頭が退却であったことを、暗号士であった立場から立証していく好著だが、その中に一つの記述がある。
重巡「利根」の通信士橋本敏明少尉の母親が打った電報である。
「ソツゲフトニウタイヨロコビカギリナシ アヒミズトモハハワオンミノソバニアリ イサギヨクタチマセ サラバ」(卒業と入隊喜び限りなし。逢い見ずとも母は御身のそばにあり。いさぎよく立ちませ。さらば)
橋本少尉の母親が、ひそかにつける日記には、全く逆の感慨があったかもしれぬ。男も女も戦うよりほかに選択肢のなかった時代であった。
「イサギヨクタチマセ サラバ」の持つ比重は大きい。あらゆる意味で。
視点をマバラカットの現場に戻す。
特攻隊員を集めて、神風特別攻撃隊の敷島、大和、朝日、山桜四隊の編成(この時、四隊の搭乗員割ができていたかどうかが分からない)を告げた大西瀧治郎中将は隊員一人一人に時間をかけて、握手して回った。門司親徳副官は、
「見ているうちに、長官と特攻隊員は、私にとって何か別の世界の人間になったように思われた。ただ、私が確実に思ったことは、もし、長官自身が若かったら、自分が真っ先に体当たりをやったのではないかと言うことであった」
と書いている。
神風特別攻撃隊が初めて編成されたときの実像は以上見てきたようなものであった。
大西中将は再び一階の士官室に戻り、いすに座ると発信紙を持ってこさせ、二〇一空に対する特攻隊の編成命令を書くように言いつけた。
『神風特別攻撃隊の記録』によれば、神風特別攻撃隊に正式命令が下されたのは、甲飛十期生を中心とした体当たり攻撃の志願者と、指揮官の関行男大尉の人選が決まった直後、すなわち二十日午前二時ごろとなっている。
また同書は、命令が出た後、関大尉が下痢をしているので軍医に注射をしてもらうように言い、明朝にも体当たり攻撃に出動をしなければならないからと、玉井浅一副長が関大尉を二階に帰した、と書いている。
この時間的経過から、甲飛十期会の『散る桜 残る桜』は「特攻の実質的な発案者は玉井二〇一空副長である」とし、「思えば、十九日の夜半のわずかな時間で行われた特攻編成の作業にしては、人員配置といい、水際立ったその命名といい、あまりにも手際がよすぎる」ということを根拠にしている。
確かに、隊名の命名が特攻隊編成の直後であれば、事前におぜん立てができていないと、甲飛十期会の言うように、スピーディーにはできなかったかもしれない。
が、門司親徳大尉によれば、命令の起案は前述したように、翌二十日、朝食が終わった後である。筆者(御田)は甲飛十期会の見解に異論を申し立てるつもりは毛頭ない。ただ、当時の経緯を明らかにするために、関係者の証言を広く求めて、再検証することが必要だと考えているにすぎない。「神風特別攻撃隊」成立の経緯は歴史的にそれだけの価値を持つもの、と考えるからである。
門司副官の証言を聞く。
「大西中将の特攻隊員を前にしての訓示は、二十日の朝食を済ませた後、午前八時過ぎでした。前の晩、といっても既に二十日にはなっていましたが、いったん全員が解散し、それぞれの宿舎に戻って休み、待機していたのです。
二十日朝は、珍しく敵の情報が入らず、隊員たちの黎明出撃がなかったので、急きょ大西長官の訓示となったわけで、計画的なものではありませんでした」
大西中将は一人一人に時間をかけて握手をした後、前述のように一階の士官室に戻り門司副官に電報の発信用紙を持って来させ、二〇一空に対する特攻隊の編成命令を書くように言いつけたという。
「私はそんなことをやったことがない。猪口(力平)参謀がすぐに代わってくれたが、結局長官も加わって、命令が作られた」
と門司副官は書いている。
これは納得のいく記述である。なぜなら、二〇一空に対する命令は、上部の一航艦が出すべきもので、命令者は大西長官でなければならない。猪口中佐は一航艦の先任参謀だから当然命令を起案する立場だ。
副官が命令を起案するのは異例だが、大西中将自身が起案する場合、副官として手伝うのはおかしくない。ここはマバラカット基地である。二〇一空に対する命令を二〇一空副長の玉井中佐が起案するのはおかしい。
マバラカットの二〇一空基地で大西瀧治郎中将と猪口力平参謀が起案した「神風特別攻撃隊」に対する命令第一号は次の通りである。
(1)現戦局に鑑《かんが》み艦上戦闘機二十六機(現有兵力)をもって体当たり攻撃隊を編成す(体当たり機十三機)
本攻撃はこれを四隊に区分し、敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少なくとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。今後艦船の増強を得次第編成を拡大の予定。
本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す
(2)二〇一空司令は現有兵力をもって体当たり特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし
司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし
(3)編成
指揮官 海軍大尉 関行男
(4)各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす
門司親徳副官は、電信紙に書かれたこの命令書は玉井浅一副長に直接手渡されたと証言している。これは間違いないであろう。
ところで、この命令書をよく読むと、神風特別攻撃隊は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の四隊だけでなく、兵力の増強をまって、なお編成投入するという大西中将の決意のようなものが感じられる。わずかに三十機程度の体当たり機ではとても米機動部隊の数量には勝てないという、航空生え抜きの実戦体験からきたものであろうか。日本を出発するとき、軍令部参謀源田実大佐が「百五十機の零戦をフィリピンに送る」と大西中将に確約した文書が防衛庁に残っており、「その程度のことは幕僚にもできる」と筆者(御田)にも証言している。
神風特別攻撃隊の編成は、あくまでも水上部隊(栗田艦隊)のレイテ突入を成功させるため、という大前提があってこその作戦であった、ということである。少なくとも大西中将はそれを信じて特攻に踏み切ったことは、前後の関係から立証できる。いかに栗田艦隊の殴り込み作戦に大きな期待をかけていたかということである。
大西中将がまだ台湾にいるとき、台湾沖航空戦の実情を見て、体当たりを決意したという、豊田副武連合艦隊司令長官の戦後の談話が残っているが、実はこれも戦後のつじつま合わせではないか。
台湾沖航空戦が絵空事ではないかと、大本営が疑い始めたのは、十月十七日か十八日であるが、それでも国民に向けては十九日夜、つまり二十日付の新聞で総合戦果として「空母十九、戦艦四隻撃沈破」と発表しているから、大西中将が台湾で豊田連合艦隊司令長官と会っていたときには、まだ楽観ムードがあった時期である。この辺りが実は分からないことだらけなのである。
くどいようだが、特攻の本当の命令者はだれか、そして大西瀧治郎中将はどのような役割を果たしたのか、を再検証しておかないと、話は先に進まない。日本人の精神構造とも密接につながる根本的な問題を含んでいるからである。
それを解くカギが、前に紹介した軍令部の「神風特別攻撃隊の編成」に関する電報原稿にある。
十月十三日に軍令部参謀源田実大佐が起案し、二十六日に――つまり関行男大尉の敷島隊が成功した翌日、中沢佑軍令部第一部長から、大西瀧治郎一航艦長官に打たれたことは前に書いた。
電文は、既述の通り隊名を神風特別攻撃隊とし、その中に敷島、大和、朝日、山桜の四隊を設け、逐次拡大していくことを、はっきり規定したものである。
この十三日がくせ者なのである。戦後、中沢軍令部第一部長は「特攻は大西中将がフィリピンで始めたものだ」と言い、研究書もこれにならっているものが多い。
大西中将が最初に特攻を送り込んだのは紛れもない史実だが、よく調べてみると特攻の組織化は、「すでに敗北を覚悟した」軍部指導者が、若者のいちずな“殉国の意志”に乗っかって、しゃにむに突き進んだ絶望的な抵抗であったことが、明瞭に浮かび上がってくるのである。
大岡昇平氏は「この時期に日本の勝利を信じていた指導者は一人もいなかった」と『レイテ戦記』に書いている。軍部が、部分的にでも勝利を上げ、和平の道を探るという、日露戦争時代の感覚で太平洋戦争を見ていたことは、今では多くの資料が証明している。
門司親徳氏は、
「電文の起案日が十三日でなく十日後の二十三日であれば、すんなりと納得がいくんですがね」
という。
十月十三日は、台湾沖航空戦で日本が敵空母など撃沈の大戦果をあげたと、国民向けに新聞、ラジオで発表した最初の日である。以来、大本営は十七日まで連日五回にわたって公表し、十九日には総合戦果を発表している。
残念ながら新聞、ラジオとも、この時代は軍の検閲下にあったから、新聞発表は大本営が本気で台湾沖航空戦の戦果を信じていたことの証明になる。海軍部も、電報が起案された十三日の段階では、台湾沖航空戦の戦果が絵空事とは、まだ考えていない。
敵に大打撃を与えておきながら、果たして特攻に踏み切るであろうか。門司副官が、
「十月十三日ではなく、二十三日に起案したものなら、すんなりと納得がいくんですがね」
と言った意味は、台湾沖航空戦が敗北であったことを知った軍令部が、大西中将に予定通り特攻の編成をさせ、それを受けて、二十三日に起案した――と考えれば、つじつまが合うということである。
台湾沖航空戦の戦果が過大であったことを海軍が知ったのは、十月十六日である。少なくとも一日前の十五日である。にもかかわらず、国民には大勝利を公表し、しかも天皇にも上奏し、お褒めの言葉をもらった。そしてこの戦果発表は、ついに訂正することなく、敗戦を迎える。それはともかく、十三日に特攻実施の電報を起案したということは、台湾沖の大戦果が真実であったとしても、軍令部では日本の劣勢挽回は不可能との判断に立ち、大西瀧治郎中将が台湾に赴任する時、打ち合わせした通りの「特攻」を実施するつもりであった、という結論に到達する。
善意に考えれば、台湾沖航空戦が空振りであったことが分かったものだから、一度は引っ込めていた十三日起案の電報を、そのまま二十六日に打電したとも考えられるが起案者の源田氏は「記憶にない」と言う。このあたりがナゾなのである。
いずれにせよ海軍は、航空隊関係者が持っている大西中将に対する人望と、実行力、無欲な人間性をフルに利用した、ということは確かであろう。
源田大佐が十三日に起案したという文章の写しは筆者(御田)も見たが、どう見ても脱字ではない。二十三日には読めない。二十三日を十三日に書き間違えたということもあるが、そこまで考えるのは、うがち過ぎというものであろう。
「神風特別攻撃隊」の本当の命令者――すなわち特攻をやらせたのはだれか。大西中将が切腹して死んでしまっている以上、今となっては確かめようがないが、特攻は軍令部による既定路線であったことは確実に言えると思う。むしろ、栗田艦隊のレイテ突入を援助するための「緊急措置」として実施した大西中将こそ、先頭を切らされる羽目になった一人であったかもしれないのである。
いま一つのナゾ。甲飛十期会が「艦爆乗りである関大尉が、戦闘機隊の二〇一空に転属になったのは、特攻の指揮官予定者として、台湾からフィリピンに赴任させられたのだ」というのは、時期的な動きが背景にあって、うわさされたものである。
特攻作戦が軍令部で準備されたのは、上の記述のように早い。十九年二月に「回天」の試作が始まり、九月には大森仙太郎中将を部長とする特攻部が海軍省内に新設された。水上、水中兵器の開発研究専門の部署である。陸軍も十九年初頭、艦船に体当たりする研究を始めた。
「人間爆弾・桜花」の神雷部隊(七二一空)の発足が十九年十月一日。それ以前に隊員の異動が当然ある。
門司親徳副官は、
「この種の情報の流れは非常に速い。パイロットはしょっちゅう内地に飛行機を取りに帰っていたから、神雷部隊に備えての異動も知っていたと思う」
と証言している。
艦爆から戦闘機に代わるのはやさしい、と言った人の証言を前に書いたが、これは「乗るだけなら乗れる」という意味である。艦攻乗りから二式艦上偵察機に配属替えになった一人に前に紹介した梅本正信氏がいる。甲飛十期生と同じ時期の飛練三十一期である。六十一歳で広島市内に在住だった梅本氏は「乗るには乗っても、先頭の機について行くのが精いっぱいで、とても戦闘にはならない」という。梅本氏は零戦、紫電という戦闘機にも乗ったが、目的はあくまでも本来の偵察任務であった。梅本氏は十月十九日、レイテ沖で輸送船三十隻以上、巡洋艦などを偵察員の佐川潔中尉(後大尉)と共に初めて発見し、レイテ上陸が本格的なものであることを知らしめた人であるが、
「ミスト(もや)がかかっており、船団の後尾は見えなかった」
と言う。その時、敵空母の上を知らずに通り、驚いて追加打電している。空中での任務はそれほど難しい。
「甲飛十期会」が「関行男大尉は特攻の指揮官として呼ばれた」と推定するのも、戦闘機と艦爆の機能的な違いがそれほど大きいということである。
門司親徳氏は十七年秋、土浦航空隊に主計科分隊長として在職し、約九ヵ月予科練生たちと起居を共にした体験があるだけに、彼らを見る目は温かい。その門司氏が大西瀧治郎中将の副官として、死地に赴く甲飛十期生たちを見るのも奇縁である。
マバラカットに話を戻す。
「大和隊」は二〇一空飛行長、中島正少佐と共にセブ基地に移動。クラーク基地群に残ったのは「敷島」「朝日」「山桜」の三隊であった。
二十日午後三時ごろ、大西中将はマニラに帰る前、
「皆にもう一度会いたい」
と言って、「敷島隊」隊員のいるマバラカット西飛行場に案内させ、水筒の水で別れの杯を交わした。
門司副官は、その時の様子を次のように書いている。
「大西長官が近づくと、みんなは一斉に立ち上がって敬礼した。私には関(行男)大尉の他はみな同じように見えた。誰が体当たり機で、誰が直掩機か分からなかった。彼らの大部分は二十歳以下の少年で、そばで見ていると子供っぽさが感じられた。若い搭乗員は、長官が話しかけると、はにかんだり、テレたりしていた。ウブで、しかも気負いのない謙虚さがあった。この少年たちはもうすぐ死ぬのだ。どんな気持ちでいるのだろうか。心中、葛藤はないのだろうか。しかし私がこの時バンバン川の河原で見た彼らは、ほんとうに深刻ではなかった。何の夾雑物(余計な混ざり物)もなかった」
大西中将がマニラの一航艦司令部で寺岡謹平中将と正式な事務引き継ぎを終えたのは二十日の晩であった。寺岡中将は二十二日にマニラをたって台湾に向かった。一航艦大西長官の肩に、「捷一号」作戦の重しがのしかかった。
正式に第一航空艦隊司令長官としてマニラの司令部に入った大西瀧治郎中将が、真っ先にやったことは、同じマニラにあった南西方面艦隊司令部に出かけ、司令長官三川軍一中将に、
「特攻隊が敵空母の甲板をたたくまで、栗田艦隊の出動を待ってもらえないか」
という、いかにも大西長官らしい率直な申し入れであった。が、陸上(神奈川県日吉)にあった連合艦隊司令長官豊田副武大将は、二十日午前八時十三分、GF(連合艦隊)電令作第三六三号を発していた。
「第一遊撃部隊(栗田艦隊)は二十五日(X日)黎明時タクロバン方面に突入、まず所在海上兵力を撃滅、次いで敵攻略部隊を殲滅すべし」
航空関係へは、
「第六基地航空部隊は主力をもって二十四日(Y日)を期し敵機動部隊に対し総攻撃を決行し得る如く比島に転進、南西艦隊司令長官の作戦準備下に入るべし」
という命令である。
連合艦隊は、翌二十一日にもGF機密第二一一〇一五(二十一日午前十時十五分)番電で、X日(二十五日)、Y日(二十四日)の念押しまでしてきていた。
第六基地航空部隊とは台湾に司令部を置く第二航空部隊(司令長官・福留繁中将)のことで、大西長官の一航艦は第五基地航空部隊と呼ばれていた。二十日をもって両艦隊とも南西艦隊司令長官の指揮下に入り、空と海から、レイテの敵を撃滅しようという連合艦隊の意気込みを示す命令であった。
レイテに殴り込みをかける艦隊は瀬戸内海、シンガポール、ブルネイ、台湾などに散在しており、それらを電報一本で統一指揮しなければならないだけに、一航艦の都合だけで作戦期日の変更は不可能であった。結果は通信能力が劣り、作戦は挫折するのであるが、それはともかく、戦争には相手のあることであるから、こちらの都合で待ってはくれない。
ただ一つの望みは、二航艦(第六基地隊)の比島進出によって、数字の上では三百九十五機、実働二百二十二機がフィリピンに集結し、栗田艦隊のレイテ突入を成功させるため、一日前の二十四日(Y日)に、航空総攻撃を行うことになったことである。
さらに、陸軍の第四航空軍(軍司令官・冨永恭次中将)の保有機数も、すでに百機に減少していたとはいえ、二十四日の航空決戦に合わせてパコロド(ネグロス島)に進出、陸海軍が共同して世紀の海空戦を試みる態勢ができつつあった。
レイテの陸軍による迎撃戦は、圧倒的な火力、兵力に押され、二十日にはタクロバンとドラッグに敵が上陸、二十一日にはタクロバンは敵の手に落ちていた。
陸軍の第十四方面軍と南方総軍との間に、レイテ決戦かルソン島決戦かをめぐって対立があったが、戦局はもはやレイテの動向に絞られていた。
第二章 「神風たち」の周辺
反跳爆弾攻撃が特攻の前身
敷島隊の指揮官、関行男大尉が現地にいた同盟通信社(共同通信社の前身)の小野田政記者に、
「僕ほどの優秀なパイロットを殺すなんて日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、体当たりしなくても、五百キロ爆弾を空母に命中させて帰ることができる。僕は明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかに行くんじゃなくて、最愛のKA(ケイエイ・妻を意味する海軍隠語)のために行くんだよ」
と語った話はよく知られている。
「天皇陛下のおんため」というのは一種の形式用語で、「天皇陛下万歳」という言葉と同じように、軍人の覚悟のほどを示す修辞語であった。
ただし「日本帝国のためでもない」というのは注釈がいるだろう。当時の青年が、「国を守るため」に軍人となったことは疑うべくもない。小野田記者の回想は戦後間もなく書かれたものであり、多少の軍国主義批判の意味があったはずである。
山本五十六連合艦隊司令長官のもとで、南雲艦隊の航空機全部の指揮官としてハワイやインド洋などで、第一段作戦を全部やった淵田美津雄中佐(後大佐)は、源田実氏と海兵同期のパイロットだが、戦後の昭和二十六年、『ミッドウェー』という本を書いた。四十九年に朝日ソノラマから再出版した「あとがき」で、当時の事情を次のように書いている。
「当時は、わが国の置かれた特殊な環境および国民感情などから、軍あるいは戦争という言葉は、禁句に近かった。したがって、この種の記録を公にすることは並々ならぬ苦心と勇気を必要とした。ある人からは、占領軍への遠慮からであろう、出版を見合わせてはと忠告され、またある人からは、われわれの常識を云々された」
この時期、この種の出版物を出そうとした人なら、一度は味わった不快さであった。そのくせ、アメリカ人の書いた、たとえばキング元帥(米連合艦隊司令長官)がフォレスタル海軍長官にあてた『キング元帥報告書』は昭和二十二年に、フィールドの『レイテ湾の日本艦隊』は二十四年に翻訳されてベストセラーになっている。米軍の占領下にあったとはいえ、日本人の自主性のなさと無縁ではない。
海軍予備学生出身の士官、吉田満氏が書いた『戦艦大和の最期』にしても、二十七年にやっと活字になったのである。
『戦艦大和の最期』は二十年四月、戦艦「大和」以下の残存艦隊が、沖縄特攻(この時期、日本の勝利を信じていた軍人はいなかった)として、飛行機の掩護もなく沖縄に突入する際の、若い海軍士官たちの死に対する覚悟のほどを書いた“警世の辞”とも言えるものであり、そして戦争のむなしさを痛いほど教えてくれる著書であるが、それでさえ、相手にする出版社がなかったのである。
『戦艦大和の最期』の中で著者の吉田満氏は、「大和」が沖縄特攻として出陣するとき、若い士官がケプガン(一次室長、中・少尉のまとめ役)臼淵磐大尉と「死の意味」について議論するところを描写している。臼淵大尉は、敷島隊の指揮官関行男大尉より一期下の七十一期である。
臼淵大尉は言う。
「進歩ノ無イモノハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトダ。日本ハ進歩ト言ウコトヲ軽ンジスギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ本当ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メズシテ何時救ワレルカ。俺タチハソノ先導トナルノダ。日本ノ新生ニサキガケテ散ル。マサニ本望ジャナイカ」
死を克服しようとする努力とその表現には、それぞれの個性がある。関大尉の場合は「最愛のKAのため」であり、臼淵大尉の場合は「進歩」という概念であった。いずれにしても当時二十代初期の若者である。敷島隊の甲飛十期生たちはもっと若い。言葉の選択よりも、その奥に潜む苦悩に目を向けなければならない。
「神風攻撃隊」の記録は数多く出版されていて、フィリピンにいたら関大尉の代わりに敷島隊の指揮官として出撃していたかもしれない菅野直大尉が、
「しまった。俺がいたら関のところをやるんだったのになあ」
と言ったことも広く知られている。『神風特別攻撃隊の記録』によれば、内地からマバラカット基地に帰った後、猪口力平一航艦参謀に言ったことになっているが、実際にこの言葉を口にしたのは、飛行機を取りに帰っていた群馬県小泉の中島飛行機工場で、神風特別攻撃隊の編成を聞いた時である。
聞いたのは一緒にいた甲飛十期生の笠井智一氏である。笠井氏はいま兵庫県伊丹市に健在。
「甲飛十期会」の記録には、菅野大尉がマバラカット基地に内地から帰着したとき空輸員を集め、
「『われわれは今まで内地に行って、少し休養してきた。その分だけこれから一層張り切って戦わなければならない。ただし、特攻は最後の最後のものだ。俺の隊からは、絶対に体当たり機を出さない。その代わり今後の出撃には落下傘を着用しない』と言って、事実その通りにしたそうだ」
と書かれている。同じ甲飛十期生の高橋良生氏(愛知県渥美郡田原町)の証言である。
が、関大尉の敷島隊が突入した二日後(二十七日)、菅野大尉と一緒にマバラカットに帰った笠井氏によると、この時の菅野大尉が「俺の隊からは体当たり機を出さない」と言ったという記憶はない。ただ菅野大尉は、零戦パイロットとしての“腕を買われ”、源田実大佐が司令となって発足した松山の三四三空に転属になっている。その際、笠井氏も菅野大尉の部下として転属した。菅野大尉は二十年六月、屋久島上空で戦死したが、笠井氏は生き残った。
特攻隊員に志願し、生き残った人たちの心理は複雑である。「送る側」と「送られる側」との間におのずとズレが出てくるのは仕方がない。前に紹介した高橋保男氏は菊水隊の爆装零戦(体当たり機)に乗ったが脚が引っこまず、セブ島に不時着したところ、中島正少佐の指揮下に入れられて、今度は大和隊の直掩機として出撃した体験をもっているが、
「神風特別攻撃隊員を募ったとき、最高の死に場所として双手を挙げて賛成したが、二度目となると、なかなか――」
と口が重くなる。もちろん四十三年後の現在の理性である。高橋氏が臆病であったとか、やる気がなかったとかの問題ではない。やる気があり、勇気があったからこそ二度も死ににいったのである。
「大和隊の二十六日の第二回目の特攻出撃で、帰ったのは直掩の私一人のはずです。グラマンが待っていて近寄れないのです。すでに米軍の戦闘は単機空戦でなく編隊空戦でした。護衛艦の弾幕は想像を超えます。前日の二十五日にダバオから菊水隊員として爆装零戦で出た時もグラマンにやられ、ばらばらになりました。仕方なく単独行動になり、燃料も無くなったので抱いていた爆弾を捨ててやっとスリガオに不時着し、セブ基地にたどり着きました。待ってましたとばかりに今度は中島少佐の指揮下に入れられて、大和隊の直掩機として再度の出撃を命じられたのです。特攻攻撃は簡単ではありませんよ。戦果をあげたのは敷島隊と菊水隊だけだったのですからね。行けば必ず体当たりに成功するような状況ではありませんでした」
大和隊は二十一日、二十三日、二十五日、二十六日に二度、二十七日に一度計六隊出撃しているが戦果は芳しくなかった(「戦闘報告」によると「不明」が四隊、二隊が敵艦船に小さな被害を与えただけである)。それよりも高橋氏が憤るのは『神風特別攻撃隊の記録』の記述である。
「猪口力平、中島正という特攻の関係者が書いたものにしては死んだものは立派だというだけで、生還したものについてはどこか冷淡で――」
と見る。この見方は、笠井智一氏にも共通している。
『神風特別攻撃隊の記録』の中で中島少佐が書いた記述に、
「菅野大尉の空戦技術は抜群であった。そしてその卓越した技量のために、再三、特別攻撃隊員を熱望したにもかかわらず、隊員にしてもらえなかった。彼はどうしても掩護隊や制空隊になくてはならぬ存在だったのである」
というのがある。技量のまずい者を特攻隊員にしたと言っているようなものである。菅野大尉をたたえるのが過ぎて、筆が滑ったとも考えられるが、あるいは当時の指揮官の本音がチラリとのぞいていたとも読める。
菅野大尉が空戦技術に優れていたことは事実だが、現場の指揮官に求められていたのは、そのやる気が大いに作用していたものと思われる。戦場を移動する時、私物入れの小箱に「故海軍少佐菅野直の遺品」と勝手に一階級進級させて、つまり戦死した場合の用意をしていたことは、多くの人が見ている。B24の尾翼に体当たりし、自分も片翼の半分をもぎ取られて生還したこともパイロット仲間では、広く知られていた。
菅野直大尉は再三特攻を熱望したがその戦闘技術の優秀さから、希望が入れられなかった、という二〇一空飛行長中島正少佐の記述に対して、次のような相反する証言もある。
ウォーナー著、妹尾作太男訳『神風』に出てくるエピソードである。妹尾氏は海兵七十四期。同書の日本側部分は彼が書いたというから、いわば共著者である。その中に、菅野大尉が松山の三四三空(司令・源田実大佐)時代に、同僚の宮崎富哉大尉に対して、
「どんな隊長であれ、オレに特攻隊に参加するように命令し、しかも彼自身でその隊を指揮することを拒否するなら、オレはその男をたたっ斬ってやる」
と言ったという記述である。筆者も妹尾氏から聞いた。命令者は率先しろ、という怒りの声が耳に響く。大尉の指揮官に特攻を命令できるのは司令クラスである。
零戦で夜間攻撃を敢行した美濃部正大尉(後少佐、芙蓉部隊指揮官)も既に紹介したように、部下からは一機の特攻も出さなかった。特攻よりも効果的な戦闘ができるなら、少なくともフィリピン戦線では、大西瀧治郎中将は指揮官のやりたいような戦闘をやらせている。大西中将の特攻に対する考え方がよく分かる選択である。
特攻は栗田艦隊のレイテ突入失敗、二航艦(司令長官・福留繁中将)の正規攻撃の敗北によって、はっきりと「思想的変革」をもたらすことになるが(後述)、特攻隊員たちと一緒にいた人が見た“内なる特攻の姿”を記述しておかなければならない。
耕谷信男氏は甲飛一期生(昭和十二年入隊)で六十六歳。山口県玖珂郡美和町に住んでいる。
二〇一空で大西中将が神風特別攻撃隊を編成したとき、関行男大尉と同じ宿舎にいた飛曹長(後中尉)であった。艦爆パイロット出身だが、ラバウル、サイパン、トラックと転戦し、十九年一月トラック島で零戦操縦に転向した。艦爆から戦闘機パイロットに転向した経歴は、関大尉と同じである。
ついでにいえば、艦爆とは艦上爆撃機で、そのほかに艦攻と、艦戦がある。艦上攻撃機、艦上戦闘機の略称で、航空母艦から離発着できる機種のことである。零戦は艦戦である。他に陸攻がある。これは海軍の陸上攻撃機で、中攻と総称されているが、陸軍の飛行機ではない。大型なので航空母艦から離発着できないから、陸上に基地を置き、雷撃、偵察、爆撃などに使用された。沖縄戦からは「人間爆弾・桜花」の母機となって苦闘を強いられる。
耕谷氏は菅野大尉らと体当たり攻撃の前哨ともいえる「反跳爆弾」(スキップ・ボム)の訓練をやり、実戦した体験を持つ。この人の観察が興味を引く。
「大西瀧治郎中将がマバラカットの二〇一空に来て、特攻を編成したことは士官宿舎では分かりませんでしたよ。すぐ後で聞きましたがね。『自分が指揮官に選ばれるのではないか』とその時思いました。私は関(行男大尉)さんの分隊士(次席)でしたし、反跳爆弾(スキップ・ボム)の訓練をやり、真っ先に飛び込む役割だったんです。『こりゃあくるな』と思ったわけです。
結局、兵学校出の関さんが隊長に決まったのですが、海軍の面目ですね。私はそのとき、足の親指にヒョウソウができていて飛行靴が履けず、直掩機にも指名されなかったですがね。菅野(直大尉)さんがいたら――という声もありましたしな。もし菅野さんがいたら行っていたかもしれません。が、それ以上は分かりませんよ。海兵出にもいろいろあります。
菅野さんが張り切り屋だったことは事実で、私は菅野さんとも一緒に反跳爆弾の訓練をやった仲ですが、あの人は勇敢だったですね。
関さんはおとなしい人で、敷島隊の指揮官を命じられた時はちょうど下痢をしていてね、気の毒だったですな。悪い顔色をしていましたよ。反対に甲飛十期生たちは張り切っていましたが、夜の姿をみていませんから、何とも言えません。私は甲飛一期ですから、彼らとは六、七歳違います。宿舎も違いますし、励ましにいってみようか、と思いましたが、気の毒なという気が先にたって、行けなかったですな。こんなこと言いたくないんですが、古い者ほど戦争というものを知っていますからね。なかなかカッとはならないものです。戦闘しにいくのと必死とは違いましてね。私と大の仲よしで、丙飛(水兵から志願)出身の名パイロットだった飛曹長は、直掩機に指名されただけでノイローゼになったんです。夜中にね、爆撃されたような錯覚を起こしたのか、大声を上げて床の上をはい回るんです。特攻というのはそれほど圧迫感がありました。
もちろん個人差がある、という前提での話ですよ。だからこそ関さんは立派ですよ。見事にやったんですから。何度もやりなおしながら、堂々と体当たりをやったんですから。なまはんかな覚悟ではできることではありません」
耕谷氏の観察では、出撃が長引くほど、つまり待機の時間が長くなると、どうしてもその間に心理的な動揺が起こる、という。それは若い特攻隊員とて例外ではなかった。本来人間の精神力は弱いものであり、緊張状態をいつまでも保つことは、生理的にも不可能なのである。これは生理学、心理学的にも証明されている。
こうした苦しみを乗り越えた特攻兵士たちは、やはり強靭だったのである。
「たとえば、反跳爆弾攻撃は九九パーセント死ぬかもしれませんが、特攻とは精神的に次元が違うと思います」
反跳爆弾の訓練をやり、実戦出撃した体験を持つ耕谷信男氏は言う。
反跳爆弾攻撃を一航艦が採用することにしたのは一航艦の航空参謀松浦五郎中佐の提案によって、十九年八月七日、一航艦司令長官に発令された寺岡謹平中将の時代に計画されたものだ(防衛庁公刊戦史『海軍捷号作戦1』)。戦術的に見ればこの反跳爆弾こそ、特攻の前身だったのである。
反跳爆弾戦法は投下した爆弾をいったん海面にたたき付け、反跳させて空中に飛ばし、敵の艦船に当てるという軽業的な戦法だが、飛行機の操縦は空中戦の高等技術を必要としない利点があった。海面上十メートルの超低空を二百五十ノット(約四百六十キロ)の高速で飛び、二百メートル手前で爆弾を投下すれば、海面に当たって反跳した爆弾が敵艦に命中するというメカニズムである。アメリカの「スキップ・ボミング」(反跳爆撃法)にならったもので、十八年から横須賀航空隊で研究していた。
飛行機を低空で真っすぐに飛ばせて爆弾を投下するだけだから、練度の低い搭乗員でもよいとの判断である。が、爆弾を投下して飛行機を引き上げるまでの時間は二〜二・五秒という計算になるから、体当たりの危険性が大きい。逆に二秒程度の短時間に、スルリと体をかわすことのできる技量の持ち主なら、なにも反跳爆弾戦法をとらなくても、有効な攻撃が可能なはずである。ともかくも、この攻撃法は体当たりと大差はない。寺岡司令長官や、参謀長小田原俊彦大佐が松浦参謀の提案に対して難色を示し「熟慮の末に採用に踏み切った」と戦後GHQ(連合軍最高司令部)の調査に対して、三川軍一南西方面艦隊司令長官が陳述している。が、戦力の少ない一航艦の現状では「採用やむなし」として反跳爆弾戦法の採用に踏み切ったのは、結果が体当たりになっても仕方がない、ということで、この時点で実質的な体当たり戦法の芽生えがあったのだ。横須賀航空隊の高橋定少佐がダバオに来て現地指導をするという熱の入れ方であった。
耕谷氏は、
「ラバウル時代にやっていたような、正規の戦闘ではどうせアメリカに勝てんのだから、やむを得ないとだれもが考えていた時期でした。だから零戦に爆弾を積んで敵艦にぶつけるような戦術も仕方がないと、反跳爆弾の投下訓練に取り組むことになったんだと思いますよ。私たちはレガスピー基地で毎日訓練をやりました。零戦五二型に二十五番(二百五十キロ爆弾。海軍では十分の一で呼んでいた)を積んで投下するわけです。菅野直大尉が直掩、私が指揮官となって四隊作りました。低空で突っ込む訓練だけで、模擬爆弾もなかったですね。それで実戦に出ることは出たんですが、敵がいなくてね」
と言う。
二〇一空飛行長中島正少佐の記述によると、反跳爆弾の訓練はセブ基地を飛び立ち、ボホール水道の海面でやったという。訓練には三十キロ、六十キロの小型爆弾を使用したが、反跳が不規則で五十メートルも跳び上がるものがあったりして驚く。やがて上達し、実艦を標的にする訓練が必要である旨を司令部に要求するまでになった。しかし、ダバオ誤報事件で零戦が不足し、反跳爆撃戦法は実戦ではついに用いられなかった、という。が、耕谷信男飛曹長は、
「セブ基地から一度だけ出撃はしたんです。しかし敵が見つからず反跳爆弾の投下はしませんでした。これが成功する、しないにかかわらず、最初にして最後でした」
と語っている。
耕谷氏たち戦闘員の実戦体験をたどると、特攻に至るまでの一つの筋道が見えてくる。大西瀧治郎中将の視点が上からのワク組みなら、耕谷氏ら戦闘員のそれは下からのものと言えるだろう。人類史上に類を見ない特攻を追う場合、上からと下からのフィルムを重ね合わせると案外本質が分かるものである。
戦闘員の皮膚感覚から十九年九、十月の時点――マニラ空襲が本格化した時期――を見ると、敗色歴然とした戦場の姿が浮かんでくる。
九月二十二日、マニラ空襲の二日目、ニコルス(ルソン島)の二〇一空は、鈴木宇三郎大尉を指揮官とする戦闘機隊十五機が、零戦に六十キロ爆弾二個を着装し「挺身攻撃隊」としてラモン湾東方海上の敵機動部隊に攻撃をかけた。戦闘機に爆弾を積んで実戦に出撃した最初は「あ号作戦」だが、この時ほとんど撃墜されている。それでもこの時の挺身攻撃隊は五発の命中弾を敵艦に与え、三度にわたって空母を銃撃した。出たとこ勝負みたいな作戦だが、ほかに手がなかったのである。この中には、神風特別攻撃隊、大和隊の指揮官として最初に特攻死した久納好孚中尉も加わっていた。五機の未帰還があったが、うち四機は甲飛十期生であった。
奇襲だったので、米機動部隊が対空砲火を開いたのは三航過目からであった。米軍の対空砲火はすごいから、弾に当たったり、直掩のグラマンに食われたりして五機がやられたのである。
この挺身隊攻撃は、案外な戦果をあげた。それでは、と各地の部隊に広がるのが日本的だ。逆に一度やられると、二度目から、すぐに対策を立て直してくるのがアメリカである。このギャップが太平洋戦争の勝敗を決めたといってよい。耕谷氏の証言を聞こう。
「マニラの連中がやったのでセブもやれ、ということになって、たしか九月二十三日に私が指揮官となって、列機を十一機連れて早朝出撃しました。零戦に六十キロ爆弾を二個搭載して、ラモン湾沖の敵を求めて出ました。積乱雲が多くて潜り込めず、仕方がないので帰投したら今度は薄暮に反跳爆弾攻撃をやれ、との命令を受けました――」
「反跳爆弾」による攻撃命令を受けて、耕谷信男飛曹長以下十一機は、二百五十キロ爆弾を零戦の胴体に着けた。南西方面航空廠ダバオ支廠(ミンダナオ島)で、落下燃料タンクの取り付け位置を改造して爆弾の搭載ができるようになっていた。
耕谷氏の証言。
「早朝出撃して、しかも跳弾による初の薄暮攻撃をするのはきつい搭乗割ですが、命令ですからやるしかありません。
敵がいなかったと言って帰ってきたから、その嫌がらせに出した、などということはありません。特攻出撃して引き返した者も多いですが、私の見たかぎりでは、逃げて帰ったなどと言われた者はいません。仮に逃げて帰ったとしても、飛行長や司令が見ていたわけではありませんから、文句の言いようがない。そんなものですよ」
とはいえ、一日に二度の出撃はあまりいい気はしない、という耕谷氏の正直な告白がある。
「他に士官が何人もいることだし、とは思ったけど、考えてみると、薄暮攻撃して生きて帰るにしても、攻撃するにしても、夜間に仕事のできるパイロットは私しかいない。
既に敵はレーダーの性能のよいのを持っていることがわかっていましたから、高度五十メートルぐらいで、北東に向けて針路を取りました。しかし目的海面で敵は見つからない。二百五十キロ爆弾を積んでいるものだから燃料をよけいに食います。とてもセブまでは帰れないところまで頑張っていたら、暗くなった。ニコルスに夜間着陸することにして、機首をルソン島に向けました。私は夜間着陸は平気ですが、列機の若い人が気になる。爆弾を海に捨てるのももったいない。どうするか迷っているうちに、陸地部に入ったので運を天に任せて着陸しました。幸運にも全機無事でした。これが反跳爆弾攻撃の最初で最後です。記録に残っているかどうか知りませんが、出撃はしたんです」
公式記録には残っていないが、しだいに攻撃方法が接近戦的な考え方に傾いていく過程がうかがえる。
耕谷氏は、マニラ空襲が激しくなるとともに、マバラカット基地に転進。二六航戦司令官有馬正文少将をそばで見る。
「随分と海軍の兵隊さんを見てきたけど、これくらい勇敢な人は見たことない。空襲を受けても、銃撃されても防空壕に入らず、指揮所においでる(おられる)」
有馬少将の話になった途端、耕谷氏の口から山口弁の敬語が出る。ダバオ誤報事件に関連して十月十五日、自ら先頭出撃して自爆したことは既に書いたが、この日は耕谷氏にとっても忘れ難い出撃であった。
「この朝、二〇一空の指宿正信大尉が総指揮官、私が六十キロ爆弾を搭載した零戦十一機の指揮官、計二十七機で出ました」
指宿大尉は大西瀧治郎中将が特攻隊を編成した時立ち会った先任飛行隊長である。
一航艦長官寺岡謹平中将の日記によると、耕谷信男氏ら第一次攻撃隊がクラーク基地(八つの飛行場があった)を出撃したのは午前九時十五分である。
午前八時、「マニラの六十六度二百四十カイリ」に空母四、戦艦その他十三隻からなる機動部隊をマニラ哨区の索敵機が発見している。
「マニラの六十六度二百四十カイリ」というのは海軍式の表現で、真北を〇度とし、時計の針と同じ右回りに方向を示す。真南は百八十度。六十六度は北東方向。距離約四百四十五キロである。
攻撃隊の機種は、いずれも零戦で、六十キロ爆弾を積んだ爆装機が七機、掩護隊(特攻の場合は直掩隊と呼んだ)十九機、計二十六機。隊長は耕谷氏の証言通り指宿正信大尉である。
第一次攻撃隊は一時間半後の午前十時四十五分、大型空母二、中型空母二、その他七隻を捕捉し攻撃を加えた。迎撃グラマン七機を撃墜、空母一隻に至近弾、飛行機発艦中の空母に銃撃を加えて甲板上の飛行機を炎上させたほか、甲板上の飛行機が海中に転落するのを認めた。
爆装零戦七機のうち六機が未帰還となり、掩護隊は全機帰投した。
零戦による爆撃攻撃が、いかに危険率が高いかを物語るものである。生還者となったたった一機は耕谷氏である。その体験を聞こう。
「このときはどうせやられると覚悟していました。普通なら高度六千メートルが安全だとされていましたが、裏をかいて四千で行きました。それがよくて、敵空母まで近づけたんですね。米海軍は日本の攻撃法をよく研究していましたから、六千で迎撃態勢を整えていたんです。
うまく突っ込めたのはよかったんですが、敵の対空砲火のすごさは、例えようもないですね。目の前が真っ白になる。爆弾を落とした後は、超低空に機をもっていき、九十度旋回や急激な横滑りを左右に繰り返し、敵弾を避けながら退避しました。敵は軍艦の主砲まで撃ってきました。水柱が上がるんです。
私の飛行時間は二千五百時間ぐらいでしたから、当時としては長い方でした。無意識のうちに飛行機を操って逃げ切ることができたのでしょう。列機がどうなっているのか、分かりません。上からならともかく、機銃掃射まで命じられていたのですから、下に潜ると弾幕で何も見えませんよ」
爆装零戦で突っ込んだパイロットの実感である。
問題になるのは、こうした挺身攻撃、特攻攻撃の戦果である。後で述べる敷島隊など「第一神風」の場合はともかく、アメリカの公刊戦史と日本のそれとの間に、差があり過ぎることである。筆者の立場としては、当時の若者が身をていして国難に殉じた、という行為自体、ならびに戦争指導者や国民の特攻への傾斜の経過を問題にしているわけであるから、戦果の差は論じない。
耕谷信男氏の話を続ける。
「挺身攻撃を終え、帰投しようと思って燃料計を見たらルソン島の中央部にあるマバラカット基地(クラーク基地は総称。八飛行場があった)まで帰ることは不可能と分かりました。仕方なく、レガスビー辺りだったと思うんですが陸軍飛行場に降り、翌朝マバラカットに帰ったところ、有馬正文司令官の自爆を知りました。かねがね玉井中佐(浅一・二〇一空副長)がダバオにおるころから、
『負けたら困る。体当たりでもしなけりゃあ勝てんな』
と言っていたのも聞いていましたし、有馬司令官の自爆が、特攻の起爆剤になったと私は思っています。当時フィリピンにいたパイロットで、生きて帰れると思っていたものは一人もいなかったはずですよ。死ぬのは誰だって嫌ですが、志願して飛行機乗りになったんだし、戦争をしているんだから覚悟はしていました」
第一線兵士の本音であろう。
このような背景の中で「捷一号作戦」の発動、大西瀧治郎中将の登場があり、神風特別攻撃隊の編成へと時は容赦なく動いてゆく。
「捷号作戦」という言葉については解説がいるだろう。敗勢に立った大本営は、十九年七月二十四日「陸海軍爾後ノ作戦指導要綱」を定め、次のような“決戦”方面を想定した。
捷一号=フィリピン方面。
捷二号=九州南部、南西諸島及び台湾方面。
捷三号=本州、四国、九州及び状況により小笠原諸島方面。
捷四号=北海道方面。
したがって、台湾沖航空戦では「捷一号、捷二号」が発動されたが、台湾空襲はフィリピン上陸の陽動作戦と分かり、「捷一号作戦」一本に絞られたのである。
「捷一号作戦」は実は陸軍側から見ても、ごたごたが絶えなかったのである。大本営の作戦指導について、フィリピン現地軍――第十四方面軍(黒田重徳中将、のち山下奉文大将)と、マニラに司令部のあった南方総軍(寺内寿一元帥)との間で決戦地をめぐって、かなり激烈な争いがあったのである。
黒田中将がフィリピン防衛にあまり熱心でなかったことは、前にちょっと触れたが、「捷一号作戦準備」(十九年七月二十四日)発令の二週間前の十日、フィリピン管内の兵団長会議を開いた席上、
「今まで治安第一主義であったが、すでに米軍の西進が切迫している今日、戦闘第一主義でなければならない」
と訓示して、激戦地から新しくフィリピンに赴任してきた兵団長をあきれさせた軍司令官であった。
「十四軍はこれまで何をしていたのか」
と第一線からきた新任の兵団長が不満を漏らしたことはよく知られている。フィリピンには大小約七千の島があり、わずかな兵力で守り通せるものでないことは分かっていたにせよ、これから決戦正面となる現地軍のムードではなかった。
全員志願の裏側
レイテにしろ、ルソンにしろ米軍との本格的な会戦は、陸軍も無理だったのである。例えば、フィリピンでルソン島に次いで大きいミンダナオ島の守備を担当する三十師団(両角業作中将。福山四十一連隊が所属していた)の役割を、第十四軍司令官黒田重徳中将は、“黒豹作戦”と名づけた。三十師団の秘匿名が“豹”であるところから、ミンダナオ島の密林に潜み「好機に乗じて一挙突進し、豹のように咬み殺す」作戦のことである。まるでゲリラ戦だが、ふざけて言っているのではない。
フィリピンが決戦正面となって、大本営は七月二十八日、十四軍を方面軍に昇格させ、その指揮下に第三十五軍を新設、鈴木宗作中将を司令官に発令した。鈴木中将は宇品(広島)の船舶司令官だった人である。黒田中将は方面軍司令官に格上げされたが、二ヵ月後の九月二十二日(発令は二十六日)山下奉文大将と交代させられる。
山下大将は、言うまでもなくマレー、シンガポール作戦を勝った将軍で、満州(中国東北)の第一方面軍司令官からの転出であった。
が、時既に遅く山下大将をもってしても、どうにもならないところまできていた。山下大将はフィリピンに赴任する前、参謀本部で「決戦地はルソン島」という確約を得ていた。ルソン島決戦という意味では黒田中将と同じ戦術思想だが、山下大将が赴任してみると、マニラに南方総軍司令部があり、第四航空軍(陸軍)司令官は東条英機陸相(兼首相)の次官だった冨永恭次中将で、指揮系統的にも人脈的にもやりづらい面が多かった。後に冨永中将は、山下大将の指揮下に入ることを嫌がり、フィリピン航空戦で壊滅的打撃を受けると、二十年一月十六日、独断で台湾に脱出してしまう。怒った軍中央が予備役に編入する、という不祥事を引き起こす。
が、山下大将との約束にもかかわらず、参謀本部は決戦地をレイテ島に変更し、南方総軍を通じて実施を迫った。
第十四方面軍は、
「ルソン島の守備だけでもおぼつかないのに、レイテ決戦は無理」
と反論。十月二十一日は終日、「やれ」「できない」を繰り返し、二十二日になって寺内寿一元帥と山下大将との間で最終的な話し合いが行われ、結局レイテ決戦実施となる。
両首脳の会談は、幕僚同士のやりとりとは違い、
「やれよ」
「はい、そうしましょう」
の一言で終わったが、レイテ島では、この間に十六師団(牧野四郎中将)が壊滅していた。
レイテ決戦を迫った南方総軍は十一月十七日、司令部をマニラからサイゴンに移してしまう。身軽になった山下大将だが、もはや山に入ってゲリラ的な戦闘しかできなくなる。空も陸も海も、押し寄せる連合軍の力の前に屈服するよりほかなかった。
レイテ島に敵が上陸した日――十月二十日の午後五時過ぎ、二〇一空飛行長、中島正少佐以下八機の零戦がマバラカット基地からセブ島の基地に着陸した。
「(特攻のことは)大和隊に志願任命された四人の隊員と私しか知らず、編隊を組んでいる搭乗員も知らなかった」
と中島飛行長は『神風特別攻撃隊の記録』の中に書いている。この八機の零戦の中に特攻第一号となった久納好孚中尉がいた。中島少佐は、
「(特攻隊の編成は)秘密保持の必要上、隊員志願の少数の搭乗員と、幹部士官の一部に内々に通達されただけで、他の者には全く知らされていなかった。久納中尉は、私と共に作戦のためマバラカット基地にあったが、昨夜は熟睡していてその編成にもれたのである」
とも書いている。
久納中尉は、朝起きてからマバラカット基地の空気がいつもと違うのを感じ、
「飛行長、なにかあったんですか」
と聞いたが、中島飛行長は、
「なにもないよ」
と、とぼけていた。
中島飛行長の記述を読むと、久納中尉は本当に特攻編成のことを知らなかったことになっている。マバラカットからセブまで零戦で約二時間の飛行距離である。したがって久納中尉が中島飛行長とともにマバラカットを出発したのは、午後三時ごろであったはずだ。特攻編成から約半日も、本当に関係者――志願任命された人――以外には分からなかったのだろうか。
しかし、甲飛十期生たちの証言や、久納中尉と同じ士官宿舎にいた耕谷信男飛曹長の体験を聞いても、特攻隊編成のうわさは、またたく間にマバラカット基地全体に広がっている。むしろ、中島飛行長のほうが、情報は遅かったのである。
前にも触れたが、中島飛行長は、大西瀧治郎中将がマバラカットに特攻隊編成に来た時、飛行機事故でけがをし、マバラカットに着いたのは編成が終わった後、二十日朝である。中島飛行長は、
「二十日朝、私は夜明けを待って自動車でマバラカットに駆けつけた。昨夜のうちに関大尉以下二十四名の体当たり搭乗員が決定し、神風特別攻撃隊という命名も済んで、それぞれ秘密のうちに待機していた。
そしてそれが、非常に円滑に編成されたことを心から喜んだ」
と書いている。
神風特別攻撃隊に指名された隊員はマバラカット西飛行場の天幕に移って待機していたから、一般の搭乗員は知らなかったとしても、士官宿舎の指揮官たちが知らなかったとは考え難い。つまり、久納中尉は、知っていたと思われる。
いささかショッキングな証言であるが、二十日朝、マバラカット基地で、特攻隊の拡大編成が行われた時、整列していた搭乗員に対して、
「体当たり攻撃隊を志願する者は一歩前へ」
と中島飛行長が言った時、すかさず、久納中尉が、
「遅かれ早かれ皆死ぬんだから行け行け」
と声をかけたというのである。この証言は丹念に取材を積み重ねた森史朗氏の労作『敷島隊の五人』(昭和六十一年、光人社刊)の中にある。この現場にいたのは丙飛(水兵からの志願)十四期出身の飛長である。
ところが、中島飛行長の記録では久納中尉はこの日、ぐっすりと寝ていて特攻編成のことは知らず、マバラカットで中島飛行長に、
「なにかあったんですか」
と前述したように聞いたことになっている。記述はさらに続く。少し長いが引用する。当時の特攻隊に対する指揮官の心理と同時に“記憶”を積み重ねて構築するこの種の著作の難しさの証明にもなろう。
「彼(久納中尉)は日ごろから口数も少なく、素直で、一見おとなしそうに見えたが、心中には烈々たるものを秘めていた。
だから神風特攻隊の編成には、まず第一に志願する人物だったのである。しかし、私が例の不時着で、マバラカットにおける特攻隊編成に間に合わなかったため、彼を選抜してやることができなかったのであった。
人はともに住めばおのずと心が通じるものである。まして死生をともにするわれわれ飛行機搭乗員は、なおさらのことである。彼が必ず特攻隊員を志願するであろうことは、私にはわがことのように分かっていた。それで、彼のために、とくに二百五十キロ爆弾を装備できる零式戦闘機を、私自身が操縦して持ってきていたのである。
私は彼の目をいつくしむような気持ちで、眺めながら言った。
『君の乗る特攻機は、ちゃんとマバラカットからきょう持ってきているよ』
彼はニッコリ笑って敬礼すると、そのまま私の前を辞していった」
いかにも独断的な、そして“特攻隊に選抜してやること”が指揮官としての愛情である、という前提に立っていなければ、絶対に書けない文章である。このことによって、当時の指揮官が無慈悲、横暴で、部下を死においやるのに平然としていたことを印象づける証拠となっている。
が、四十二年前に日本人が体験した“狂乱時代”には一般的にも、軍人の考え方としても抵抗なく受け止められていたのである。“部下に死に場所を与える”という、現在では考えられない思考形態が日本人の精神構造のなかにあったことは否定すべくもない。このことを前提としないと、当時を体験し、今を生きている日本人は全員“異常者”ということになる。
たしかに、現在の理性で特攻を見て、かつての日本人はとんでもない野蛮な精神状態にあった、と一刀両断できるとしても、特攻へと傾斜していった、歴史的経過を理解することはできない。思えば、四十年という時間は長いのである。
いま一つ、記憶の問題である。本書を新聞に連載中、甲飛十三期生だった読者から、
「上海で訓練中に特攻“敷島隊”を見た」
という情報をもらった。ちょうど訓練の切れ目で、期間は十九年十月二十日から十一月一日までの間であった、と極めて具体的であった。しかし、敷島隊は編成されて以来、フィリピンにくぎづけであった。資料をあげて説明したが、どうしても敷島隊であったと反論し、筆者の説明に納得しなかった。
こうした問題は、証言記録の収録には常につきまとう。思い違い、他人の経験がいつの間にか自分の体験にすり替わる類である。信じてしまうと、にわかに訂正がきかなくなるのである。
中島正飛行長の記憶が違っていたのか、丙飛十四期生の思い違いなのか、あるいは中島飛行長の作り事なのか、分からないのが悲しいのである。
したがって、何が本当なのかを見極めることは、簡単なようで、なかなか一筋縄ではゆかないことを白状しなければならない。
とまれ、記録によると、中島飛行長が特攻隊の編成を初めて口にしたのはセブ島の基地である。
十月二十日午後五時過ぎ、マバラカットへセブに無事到着した電報を打つと、すぐに搭乗員、整備員の総員集合を命じた。下士官兵が正面に、搭乗員、整備員の順に十列ばかりの横隊で整列し、准士官以上が左手の側方に並び終わると、当直将校が集合完了を告げた。そして特攻隊編成のことを告げる。大西瀧治郎長官がマバラカットで神風特別攻撃隊の編成を終わり、ただちに敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四隊が編成され、いま自分と共に飛んできた四機は、そのうちの大和隊であることを説明した後、次のようにして特攻隊員を募った、としている。
一、私は当セブ基地において神風特別攻撃隊員の編成を命じられてきた。したがって、これからただちにその編成に取りかかる。下士官搭乗員は、用紙を八つに切ったものに、特攻攻撃隊員を志願するものは等級氏名を書き、志願せぬ者は白紙を、それぞれ封筒にいれ、先任搭乗員はこれをまとめて、本日午後九時に私の手もとまで持ってこい。
一、蛇足であるが、われわれは軍人になった時、すでに身命を君国にささげたものであるが、身の回りの整理ならびに内地の家族状況から考えて、今すぐ特攻隊員を志願できない者もいることだろう。飛行機は少なく、搭乗員は多い。志願者は多くは不用である。また志願、不志願は私のほかにだれもわからない。今から三時間ばかりあるから、このことをよく考えて、他人に関せず、思うままに書いてきてほしい。
以上が特攻編成の時の、中島飛行長の証言要旨である。志願は下士官兵に限って行っており、准士官以上は別であった。
よくも悪くも、今では神風特別攻撃隊の基本文献ともなっている『神風特別攻撃隊の記録』によって、大和隊の指揮官として出陣した久納好孚中尉の志願の様子、下士官兵の志願の状況を見るしかない。
セブ基地の作戦室は、小高い丘の中腹にある二階建て住宅の二階広間にあった。映画会社の白人社長宅を、海軍が接収したものである。作戦室は中島正飛行長の寝室としても使用していた。
中島飛行長が、下士官兵の意思表示の結果を待っていると、チーク材の階段を上がってくる靴音が聞こえ、大きなドアをノックして久納中尉が入ってきた。黙って作戦室のテーブルに近寄る。
「なにか用かね」
と中島飛行長がたずねると、久納中尉は、
「私を特攻隊から除去されることはないでしょうね」
と“まるで当然”のことのように、押し付けるように言った。
「やっぱり来たな」
と中島飛行長は思った。
そして前に紹介したように、「君の乗る特攻機は、ちゃんとマバラカットから持ってきているよ」と言うと、久納中尉はニッコリ笑って敬礼して去っていった、という記述につながっていく。
そして夕食の後、久納中尉は食堂で古ぼけたピアノを弾く。心なしか、この夜の音色は冴え渡る。整備の士官が、あふれる涙をこらえて泣く。弾くピアノは無心。泣く者は何を思って泣くのか?
と中島飛行長の心理描写が始まるのであるが、ここまで書かれると、いかにも作りものめく。特攻志願が自発的な意志であったかどうか、そして中島飛行長がその弁明に『神風特別攻撃隊の記録』を書いたかどうかはともかく、明日は決定的に死ぬと分かっていながら、久納中尉が“無心”であったなどと、勝手に解釈している独断が白々しくなるのは確かだ。
まだある。
作戦室の中島飛行長の所へ今度は偵察機隊の国原千里少尉がツカツカと入ってきて、赤い顔をして、怒鳴るように言った。
「飛行長は、下士官兵に対しては神風特別攻撃隊の志願を聞かれた。それなのに、准士官以上に対してはなんの話もされない。われわれはどうしてくれるんですか?」
中島飛行長はニッコリ笑って答えた。
「准士官以上はどうするのかな?」
「准士官以上も一人残らず熱望です」
「それだから何も聞かなかったのではないか」
国原少尉は瞬間顔をほころばせて敬礼し、
「ありがとうございます」
と言って出ていった。
そして午後九時がやってくる。先任搭乗員が二十通余りの封筒をもってきた。はさみで封を切ると、二通を除いて全員志願者の名前が書いてあった。二通の白紙は病気で寝ているものであった。
以上が十月二十日のセブ基地における神風特別攻撃隊編成の模様である。
神風特別攻撃隊としては、マバラカットから出撃した関行男大尉指揮の敷島隊がよく知られているが、敷島隊は二十一日出撃して敵に会わず引き返し、その後も悪天候などに阻まれ二十五日まで敵艦を攻撃することができなかった。
いやな表現だが、“特攻第一号”はセブ基地から二十一日に飛び立った久納好孚中尉の大和隊である。久納中尉は法政大学から志願して飛行科予備学生十一期生となった学徒兵である。太平洋戦争の始まった翌年の十七年に入隊したクラスである。
海軍飛行予備学生の制度が発足したのは昭和九年で、第一期生五人が十一月に採用されている。第十三期飛行専修学生で、島根県簸川郡斐川町に住んでいる陰山慶一氏の調査によると、太平洋戦争の始まった十六年の第八期生までは、年一回募集で各期とも五十人ほど。八期までの合計は五百六十八人にすぎなかった。
昭和十七年には第九、十、十一、十二期(このうち第十、第十二期は兵科予備学生からの転科で、第十二期の正式転科は十八年三月)の四クラス、二百七十七人が一挙に採用された。応募資格は大学令による大学の学部、予科、あるいは高等学校(旧制)、専門学校を卒業した者であった。
十八年九月からは旧制師範学校を加えて、その卒業見込み以上とした。急激に飛行科予備学生の数は増え、四千七百二十六人がこの年に採用されている。これが一番多くの特攻犠牲者を出した十三期である。またこの年、第一期予備生徒千九百九十三人が採用されている。予備生徒とは、在学中に飛行予備学生に採用された者である。厳密にいえば、第一期から第八期までが海軍航空予備学生、九期から十二期までが海軍飛行科予備学生、十三期から十五期までが海軍飛行専修学生である。
海軍飛行科予備学生十三期が最も多くの特攻戦死者を出している組で、神風特別攻撃隊の士官戦没者七百六十九人のうち、飛行科予備学生、生徒出身者は六百五十二人(約八五パーセント)で、この中には十三期が四百四十七人(約六九パーセント)もいる。士官の特攻死者は学生出身者が一番多かったのである。この十三期の中にセブ基地にいた生存者がいる。
愛知県尾張市に住んでいる奥井三郎氏である。六十四歳の同氏の記憶によると、ダバオ誤報事件以来、米軍の空襲は恒常的となり、混乱の極にあって、飛行隊としての体をなしていなかったという。
「私は二〇一空の戦闘三〇五飛行隊の所属でしたが、セブ基地に着任したのは九月上旬でした。同期では立教大出身の植村真久少尉、中央大出身の佐藤慕少尉、それと佐伯美津雄少尉の三人。先任の分隊士として久納中尉、彼と同期で彦根高商出身の長門達中尉らがいたと記憶しています。が実は中島正飛行長が特攻を命じにマバラカットからセブ島に来たとき久納さんがその場にいたかどうかよく覚えていないのです。
中島正飛行長がセブ基地に来たとき、私達士官も整列して神風特別攻撃隊志願の訓示は聞きました。特務士官の国原千里少尉もいましたが、海兵出身の士官は一人もいませんでした。
下士官兵に対して中島飛行長が、
『志願するものは一歩前へ出ろ』
と言ったことはありません。セブ基地に関するかぎりそんなことはありませんでしたよ。下士官兵に対して、
『志願する者は氏名を書いて封筒にいれ、先任搭乗員に提出せよ』
と言ったのと、
『神風特別攻撃隊と命名する』
との言葉は覚えています。
ただ私の記憶としては、なにか飛行隊がばらばらになっていた感じが強くて、特攻隊で私と同期の植村真久少尉と国原千里少尉の出撃(十月二十六日大和隊)の記憶しかないんですよ。
久納(好孚)さんが大和隊の指揮官として出撃したことは、覚えていません。いつ出ていったのかも知らないんです。
久納さんたち十一期生が張り切っていたのは事実で、特攻の命令がくる前から、
『こんなことでは戦争には勝てない。予備学生が真っ先に行かないとだめだ』
と言っていたのは聞いています。あのクラスはやる気がありました。私と同期の植村だってやる気があったのは事実で、特攻で出ていく時、ニッコリ笑ってね。握手して零戦に乗り込んだ姿は神々しくて――。私は涙が出て止まりませんでした」
奥井氏の証言によっても分かるように、特攻隊員として出撃する場合、下士官兵には志願の形をとり、士官は指名であったことは確かだ。
「士官は当然特攻の先頭に立つものとの前提があったのです。みんな死にましたからね」
ただ、奥井氏の記憶の底には、中島飛行長と飛行機事故でケガをした二〇一空司令山本栄大佐が、包帯を巻いてセブ基地に姿を現し、演説をした姿が目に焼き付いている。
「どこで、いつ聞いたのかはっきり覚えてはいないんですが、中島飛行長が、
『おれは死なない。神風特別攻撃隊の記録を後世に残すために内地に帰る』
と言ったのを聞いています。中島飛行長から飛行機を取りに内地に帰るよう命じられて零戦を操縦して、マバラカットに着いた時、フィリピンでの戦闘はもうどうにもならず、
『全員玉砕』
というところまでいったんですが、戦闘機乗りは玉砕してはいかん、ということで、私は月光(双発夜間戦闘機)で内地に帰りました。が、館山に着いてみると、隊長クラスはずらり帰っていて少々驚いたことがあります」
神風特別攻撃隊の“第一号”となった大和隊は『神風特別攻撃隊の記録』などの公式記録によれば、十月二十一日午後四時二十五分、セブ基地を出撃している。直掩の零戦二機は敵を見ることなく帰投したのに、指揮官久納好孚中尉一人だけが帰らなかった。
中島正飛行長の記述によれば、久納中尉は、大和隊の指揮官に決定したとき、
「飛行機の少ない現状で特別攻撃隊の戦果確認のために直掩機をつけるのはもったいないと思います。私たちは何も自分たちの戦果を新聞やラジオで発表してもらいたいとは思っていません。ただ戦果をあげて――陛下の御馬前に討ち死にすることだけが本懐なのです。どうか直掩機を付けることだけは止めてください」
「将来の作戦資料を得るためにやるのだから気兼ねせんでもよい」
「それじゃあ機銃も要りませんから置いていきます」
「進撃中に敵に遭ったら困るではないか」
といった会話が二人の間で交わされたという。
また、久納中尉は、
「空母が見つからなかったらレイテへ行きます。レイテなら目標は必ずいますから。決して引き返すことはありませんよ」
と、断言したそうだ。
同じセブ基地にいながら飛行予備学生十三期の奥井三郎少尉が、
「久納中尉の出撃は知らない」
と言っているのは、出撃前に空襲があり、大慌てで予備機を用意しての出撃となった上に、マバラカット基地とは違って新聞記者やニュース・カメラマンもおらず、さみしい出撃となったためであろう。
午後三時、
「空母六を基幹とする敵機動部隊、スルアン島東方六十マイル(約百キロ)付近にあり」
との情報が入電した。中島飛行長は出撃用意を整備員に命じ、久納中尉以下搭乗員を整列させた。飛行機は山すその木の下に巧みに隠されており、ふだんでも滑走路に出して出撃完了までに三十分以上かかった。まして今日は爆装するから四十分はかかるとみて、そのつもりで進撃コースなどを地図に記入させ、所要事項を与えていた。
ところが、まだ終わらないうちに整備の士官から、
「準備完了」
の報告があった。初の特攻出撃なので整備員が張り切り過ぎて、十分もかからないうちに準備が完了したのである。飛行場に並ぶ飛行機を見たら、敵がどこからともなく姿を現す時間なのであわてた。やっと所要事項の説明を終え、搭乗員と共に滑走路にかけつけようとした時、敵のグラマンがやってきた。滑走路に出して暖機運転をしていた零戦が襲撃され、六機がやられた。あわてて予備機を用意させ、帰るグラマンを追尾して出撃させようとした。
予備機はわずか十分ほどで爆装二機、直掩一機が用意された。
十九年十月三十日、一航艦が作成した「第一神風特別攻撃隊戦闘報告」によれば二十一日出撃したのは久納中尉と中瀬清久一飛曹(爆装零戦)、直掩は大坪一男上飛曹である。大和隊編成当時の隊員は中瀬、塩田寛、宮川正一飛曹の三人であったから、グラマンの襲撃のため完全編成では出撃できなかったのである。一飛曹はいずれも甲飛十期生である。
この後すぐ大和隊は拡大編成されて、二十三、二十五日に各一回、二十六日に二回、二十七日に一回と合計六回にわたって出撃している。
二十三日は佐藤馨上飛曹、石岡義人一飛曹(生還)、二十五日は大坪一男上飛曹、荒木外義一飛曹、国原千里少尉、大西春雄飛曹長(全機未帰還)、二十六日は午前十時十五分に植村真久少尉、五十嵐春雄二飛曹、日村助一二飛曹(全機未帰還)と午後零時十分に塩田寛、勝又富作一飛曹、勝浦茂夫飛曹長(爆装組)と直掩として移川晋一(未帰還)、高橋保男一飛曹が出撃している。大和隊で出撃できなかった宮川一飛曹は菊水隊で、石岡一飛曹は第五聖武隊で間もなく戦死している。変転めまぐるしい戦場では編成通りの出撃はできなかった。
特攻隊の初期の編成は体当たり機三、直掩機二を標準としていた。運動性――少数機ほど小回りがきくし、敵からの避退にも便利だからである。といって単機だと敵に与えるダメージが少ない。まあ三機程度が適当であろう、という蓋然性から出した結論であった。はなはだ無責任な計算であるが、機材の欠乏が生みだした苦肉の策である。
「神風特別攻撃隊」の最初の出撃――久納中尉の場合は特攻攻撃の将来を暗示するかのように少々異様である。
この日はレイテ方面は天候が悪く久納中尉だけが未帰還であった。直掩機とも離れて一人で突っ込んだことになっている。
「敵を発見できなかったらレイテ湾に行く。あすこには必ず敵がいる」
とつねづね言っていた通りを実行したのであろう。
「第一神風特別攻撃隊戦闘報告」には、
「――本人ノ特攻ニ対スル熱意ト性情(性格と情熱)ニヨリ判断シ――体当リ攻撃ヲ決行セルモノト推定ス」
と書いている。
戦後米海軍は多くの戦争資料を公表している。が損害は戦闘艦艇に限っており、輸送船については詳細がない。したがって久納中尉の特攻攻撃が何もしなかったと断定することはできない。
前にも紹介したウォーナー夫妻の『神風』によると、この日午前中にレイテ湾で豪重巡「オーストラリア」が特攻攻撃によって戦死三十、負傷六十四人を出し艦橋部に大損害を受けたと書いている。米国の公刊戦史はオーストラリアにまで及んでいないから『神風』の記述は無視できない。ただし時間的には大きな隔たりがあるが、日本側の戦闘記録にはこの日レイテ方面に出撃したのは、大和隊しかない。ウォーナーの『神風』はオーストラリアの公式記録に基づいており、いい加減な作品ではない。このように戦争を細部にわたって調査検討するのは難しい。
それにしても久納中尉の死はあまりにもさみしい。
「おれは一度出撃したら、二度と帰ってこない」
と戦友に言っていた通りのことを、実行してみせたのである。これと同じ行動は後で述べる陸軍の最初の特攻出撃にも見られる。
こうした若者たちの行動様式をどう理解したらよいのか判断に苦しむが、少なくとも闘志の反映であったことは疑うべくもないだろう。
久納中尉の特攻死は戦果確認ができなかったため、一航艦内部では評価のラチ外にあったようだ。それは“特攻第二号”である大和隊の佐藤上飛曹についてもいえる。二回目の大和隊は同じセブ基地から、前述したように二十三日午前五時、スルアン島の敵を求めて出撃したまま消息を絶つ。同行したのは甲飛十期の石岡一飛曹であるが、エンジンの故障で引き返している。
「第一神風特別攻撃隊戦闘報告」の戦果の項目には、「不明」の二文字が見えるだけである。前に紹介した甲飛十期生の高橋保男一飛曹が、
「二十六日の大和隊の二度目(実は通算五度目)に爆装して出撃したが、途中グラマンの待ち伏せに遭ってどうにもならず、全機爆弾を捨ててばらばらになり、避退するのが精一杯でした」
と言っているように、すでに米軍は日本の特攻攻撃を嗅ぎとり、グラマンを常に上空で待機させていたのである。こうした危機管理的な戦術は米軍の最も得意とするところで、特攻戦術が思ったような戦果をあげることができなかった大きな理由となっている。
もっとも高橋一飛曹が爆装して出撃した、と言っているのに対して「戦闘報告」は高橋一飛曹を「直掩機」としている。しかも名前を高橋良生一飛曹と誤記している。良生一飛曹は現存しており、このとき飛行機を受け取りに内地に帰っていた。本人が証言しているのだから間違いない。したがって保男一飛曹が、本人の言うように「直掩」でなく「爆装」であったことは信用してよいであろう。
セブ基地の指揮官は中島飛行長で、彼が書いた『神風特別攻撃隊の記録』は佐藤上飛曹のことなど全くふれていない。
ただ二十四日の午後、敵発見の通報が入り、大和隊の三回目の出撃に際して、敵を発見しなかった場合帰投が夜間になるので、技量の未熟な植村真久少尉(飛行予備学生十三期)が出撃を熱望したにもかかわらず、甲飛十期生の塩田寛一飛曹と交替させたことは書いている。この出撃は敵を見ずにセブに帰投したから戦死者はいない。
植村少尉が“念願の”特別攻撃を果たしたのは前述のように二十六日である。
つまり、大和隊は五回にわたって出撃しているのに、戦果のあがらない特攻出撃は『神風特別攻撃隊の記録』には全部書かれていない。感動的なエピソードの記録に終始している。大岡昇平氏が、
「特攻隊を正当化したもの」
と批判した要素は確かに見られる。
正攻法の二航艦も特攻を決意
国民が神風特別攻撃隊の体当たり攻撃を知ったのは、二十五日に出撃した関行男大尉の敷島隊が十月二十八日、連合艦隊告示という形で二十九日の新聞に一斉発表された時である。これが特攻第一号として国民に強く印象づけられたことは確かである。が、この裏には大和隊の久納好孚中尉、佐藤馨上飛曹の死など通算六回にわたる出撃、それに後でふれるが、最初に戦果をあげた菊水隊の出撃が隠れているのである。
敷島隊が第一号となったのは戦果確認がはっきりしていたことと、国民の“戦意高揚”を狙いとしたものである。神風特別攻撃隊の新聞発表は以下の通りである。
当時の新聞は、見出しは各社によって違うが、中身は同じである。中国新聞の場合を見てみよう。
「必死必中あゝ海鷲魂」「忠烈、神風特攻隊五勇士」「スルアン島(比島)沖に、体当たり三艦屠《ほふ》る」「敷島隊の偉勲全軍へ布告」「空母めがけて驀《まつしぐ》ら、敵機群に目もくれず」の大見出しをちりばめ、本文は、
「海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に対し連合艦隊司令長官は左の通り全軍に布告せり。
【布告】
戦闘○○○飛行隊分隊長海軍大尉 関行男
戦闘○○○飛行隊海軍一等飛行兵曹 中野磐雄
戦闘○○○飛行隊付同 谷暢夫
同海軍飛行兵長 永峰肇
戦闘○○○飛行隊海軍上等飛行兵曹 大黒繁男
神風特別攻撃隊、敷島隊として昭和十九年十月二十五日○○時、スルアン島○○度○○海里において中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を捕捉するや、必死必中の体当たり攻撃をもつて航空母艦一隻撃沈、同一隻撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収め悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦《さん》たり。よつてここにその殊勲を認め全軍に布告す。連合艦隊司令長官 豊田副武」
しかし発表後、中央でクレームがつき、久納中尉の大和隊をはじめ、沖縄戦を含めて合計百二十隊に余る特攻隊が出撃(回数はさらに多い)していったが、「連合艦隊長官布告」として戦果と個人名を結び付けて、大々的に新聞に公表することはなかった。理由は特攻隊員のほかにも全員が命をささげて戦っているのだから特別扱いはしない方がよい、という配慮からである。ただし、久納中尉以下の第一神風特攻隊員の布告は十一月十三日に行われており、特攻として戦死したことは公表している。海軍はこうした形で、最後まで通した。
大本営海軍部参謀だった奥宮正武中佐によると、久納中尉、佐藤馨上飛曹の告示が遅れたのは、連合艦隊告示の起草に責任と影響力を持っていた連合艦隊航空参謀、淵田美津雄大佐の慎重な処置の結果であろうという。もし生きていたら……という心配があったからだ。
淵田大佐は生え抜きのパイロットで真珠湾攻撃、インド洋、ソロモンの初期作戦やミッドウェー海戦の飛行隊長である。その豊富な体験から見て、大和隊の二人はどこかに不時着していて、生還する可能性が残っていたからである、という。事実、神風特別攻撃隊に特攻死したことになっていて生還した例があったし、陸軍の特攻にも同じような例があった。混乱の極致での特攻作戦であったから正確を期することは難しかったであろう。特攻隊員が戦意を失い、逃亡した例も末期にはあった。
それは後にして、最初に連合艦隊布告という名誉に浴するのは、敷島隊ではなく、二時間も早く体当たりに成功し、戦果確認もあった菊水隊でなければならなかったのである。少なくとも敷島隊と同時発表となるべきであった。が、戦場にありがちな手違いからか、あるいは隊長が兵学校出身でなかったためか、戦果の確認が遅れ、第一号の名誉を逃した。
神風特別攻撃隊編成後、マバラカット基地に残ったのは敷島隊だけである。大和隊はセブ基地に、山桜隊は六一航戦司令官上野敬三少将指揮下のダバオ第一基地に、朝日隊と菊水隊は同第二基地(ともにミンダナオ島)に進出し待機していた。
菊水隊の戦闘の概略を述べると、二十五日午前六時三十分、ダバオ基地を出撃した菊水隊は、同八時ごろ、スリガオ(ミンダナオ島)東方四十カイリ(約七十四キロ)に北進中の空母五(うち軽空母二)、戦艦二を発見して突っ込んでいる。うち一機が大型空母の艦尾に命中したのが認められた。
菊水隊の奮戦の模様は敵側の戦史に拠るのがよい。モリソン戦史は菊水隊の粘り強い攻撃を丹念に描写しているが、読むものをしてある種の感動に引きずり込む。菊水隊が捕らえた敵はT・L・スプレイグ少将の「タフィ1」(護送空母四、駆逐艦八)であった(同じ第七艦隊の所属に同姓のC・A・F・スプレイグ少将というのがいるが、同姓異人)。いずれもマッカーサー指揮下にあった。陸軍元帥のマッカーサーが海軍の艦隊を指揮するという、いかにもアメリカ的な組織運営である。何が何でも対日戦争に勝利するというアメリカの意気込みが感じられる。この点を見ても、終わりまで陸海軍がツノ突き合わせていた日本とはわけが違う。
それはさておき、菊水隊が攻撃したT・L・スプレイグの「タフィ1」に特攻をかけたのは、六機の日本機であったという。菊水隊で突入したのは二機であったから、ダバオ第二基地から出撃した朝日隊も同じ目標を捕らえたのかもわからない、と防衛庁の公刊戦史は推定している。
菊水隊がT・L・スプレイグ少将指揮の「タフィ1」に襲いかかったのは二十五日午前七時四十分であった。菊水隊がダバオ第二基地をたったのが午前六時三十分であったから、一時間ちょっと後である。これが、神風特別攻撃隊が敵空母を発見し、攻撃した最初となった。
狙われた敵空母「サンチー」は、ちょうど攻撃隊の発艦を終わったばかりである。乗組員が瞬間ほっとする時である。と、一機の零戦が雲の中から「サンチー」めがけて突っ込んできた。あまりにも突然な出来事であったので、対空砲火で応戦する間もなかった。零戦は機銃を発射しながらまっしぐらに直進し、飛行甲板左舷前部に命中した。格納甲板を突き抜け、その爆発で四十三人が殺傷された。甲板には幅五メートル、長さ十メートルの穴があいて、火災が起こったが十分後には鎮火した。これはアメリカ海軍のダメージ・コントロールのすばらしさを示したものだ。が、後で日本の潜水艦の雷撃によって撃沈されたから、不運な空母ではあった。
この特攻機の突入直後、空母「スワンニィ」の後方で旋回していたもう一機の零戦が、空母「サンガモン」に向かって急降下した。千五百メートルまで迫った時、ようやく対空砲火で応戦を始めた「スワンニィ」によって海中に撃墜された。
同じころ、空母「ペトロフ・ベイ」の近くに対空砲火で火だるまとなったもう一機の零戦が“至近弾”となって落下した。
二機の零戦を撃墜した「スワンニィ」は、今度は自らが特攻機の犠牲にならなければならなかった。艦尾方向の高度八千メートルの雲の中で旋回していた三機目の零戦を発見し、対空砲火を浴びせた。それにもめげず、零戦は「スワンニィ」の右舷めがけて急降下し、後部エレベーター前方に命中した。飛行甲板に直径三十メートルの穴をあけ、爆弾が格納庫と甲板の間でさく裂、さらに直径七十メートルの穴をあけて、多くの死傷者を出した。
特攻機の攻撃は、モリソン戦史の記述を読めば、極めて冷静勇敢である。一航艦の「神風特別攻撃隊戦闘報告」によると菊水隊の戦果は、
「大型空母の艦尾に一機命中炎上停止」
とだけ書いてあるが、モリソン戦史に見た通り、予想以上の戦果をあげていたのである。
この模様は直掩機の塩森実上飛曹がレガスピー基地(ルソン島)に帰投(ダバオ基地に帰るより近い)して司令部に報告し、同基地から午前九時四十八分に打電された。しかし、この電報はなぜかすぐに、正確に伝わらなかった。この日は栗田艦隊のレイテ殴り込み――水上決戦の当日であり、艦隊の無線が飛び交い、混乱していたためかも分からない。
公刊戦史は、菊水隊の直掩機だった塩森上飛曹がセブ基地に帰投した、と書いているが、それはレガスピー基地の誤記であると思われる。六一航戦の菊水隊への命令書には「直掩機はレガスピーに帰着し、急速補給の上マバラカットに進出せよ」とあった。セブには二〇一空の中島正飛行長がいたから、直掩機がセブ基地に帰投すれば見逃すはずがない。その証拠に中島飛行長の手記には出てこない。なぜ遅れたのだろうか。
ミンダナオ島のダバオ基地から打電した菊水隊の戦果確認報告について、二日後の二十七日、二〇一空司令山本栄大佐からの、
「戦果をあげたる菊水隊搭乗員、担当区域至急知らせ」
という電報を見て、六一航戦司令官上野敬三少将はいぶかった。
同航戦司令部は、前日の二十四日午後十一時一分に電令作(電報による作戦命令)第四号で、
「一、明二十五日神風特別攻撃隊は左により敵空母の索敵攻撃を実施すべし」
として朝日、山桜、菊水三隊の攻撃位置まで指示していた。電報だから当然二〇一空にも一航艦司令部にも届いているはずだからである。
ただ、特攻隊に限らず、出撃には変更がつきものだから、隊員の氏名を明記するべきであったかもしれない。
公刊戦史は、
「菊水隊の戦果がよく合点できなかったものか――ダバオの六十一航戦司令部に照会電が発せられた」
と書いている。同司令官上野少将は、体当たり機と直掩機の氏名を、あらためて打電している。
体当たり機は甲飛十期生の加藤豊文、宮川正の一飛曹である。前に紹介した高橋保男氏は編成替えされて菊水隊員として爆装零戦に乗ったが、幸運にも生還できた。直掩機は前述の甲飛八期生の塩森実上飛曹である。
公刊戦史は、
「敷島隊よりも約三時間前に体当たり攻撃に成功した同隊は、本来ならば神風特別攻撃における、戦果を確認された最初の隊として、その栄誉を与えられるべきであったが、連合艦隊司令長官への報告が遅れたためか、その栄誉は関(行男)大尉指揮の敷島隊が担うことになった」
と書いている。
が、今ここでは、だれが“第一号”かを検証するつもりはない。ただ、陸軍の特攻隊について一言しておかねばならない。陸軍は神風特別攻撃隊と同じ日に、陸軍の特攻隊「万朶《ばんだ》隊」「富嶽《ふがく》隊」を急いで編成している。まず隊名を決め、内地の茨城県鉾田教導飛行師団で、二十一日隊員を選定している。
命名者は梅津美治郎参謀総長である。それは「海軍に負けるな」という意味あいが強く、編成と同時に先端に信管の付いた(飛行機が爆弾となる)改造四式重爆、九九双軽を用意していた。
これは大西瀧治郎中将がフィリピンの現地で「緊急避難」的に特攻を編成したのとは根本的に違った意味を持つものだ。この陸軍特攻のフィリピン進出が、やがて全機特攻へと変質する大きな潜在エネルギーとなる。
後でふれるが、海軍が神風特攻隊の戦果と氏名を敷島隊に限って海軍省公表としたのに比べ、陸軍は十一月十三日以後、十二月十七日まで、十一回にわたって大本営発表を繰り返し、戦果と氏名を公表した。陸軍特攻については陸軍報道班員だった高木俊郎氏の『陸軍特別攻撃隊』という痛烈な批判の書がある。
Y日――二十四日の航空決戦を戦うため、第二航空艦隊(二航艦)司令部が台湾からフィリピンのマニラに移動したのは二十二日である。司令長官福留繁中将と司令部職員は、一航艦司令長官大西瀧治郎中将ならびにその司令部と同居することになった。
二航艦司令部はそれまで台湾にあって、台湾沖航空戦を戦った部隊である。厳密に言えば、残存の全航空兵力――第三航空艦隊、五十一航空戦隊、第三航空戦隊、支那方面艦隊、第十四連合航空隊を統合して第六基地航空部隊とし、二航艦司令長官福留中将が指揮をとるという組織になっていた。
大西長官の一航艦は第五基地航空部隊である。が、紛らわしいので、これまで通り、一航艦、二航艦として記述を進めていく。
大西長官の副官門司親徳大尉によると、二十二日に福留長官以下幕僚は、ダグラス輸送機に乗り、戦闘機の護衛付きでニコルス飛行場に降りてきたという。
同時に台湾をはじめ各地から飛行機隊が大挙してクラーク基地群に進出してきた。同基地には、慣れているはずの一航艦のパイロットでさえ迷ったというほど、たくさんの飛行場があった。初めて進出してきた二航艦のパイロットは、どこに着陸してよいかわからず、あてずっぽうに着陸したから、どの飛行場も非常に混乱した。その数は零戦百六十機を筆頭に、紫電戦闘機四十機、艦爆、艦攻など計約二百九十機。加えて、翌二十三日には、第二攻撃集団三十二機もやってきたから、混乱に拍車をかけた。実は飛行隊の掌握が完全にできなかったことが、二航艦の作戦に思わぬ障害をもたらすことになる。それにしても“決戦”というだけあって、よくもこれだけの飛行機を集めたものである。
大西長官は福留長官に、
「もはや特攻以外に現在の窮状を救う道はない」
と力説し、二航艦も特攻に踏み切るよう、持ち前の率直な語り口で申し入れた。
福留長官の戦後の回想によると、
「大西長官から二航艦も特攻に踏み切るよう、マニラの司令部で懇願されたが同意しなかった」
といい、その理由として、従来訓練してきた攻撃法を突然変更することの不利、体当たり攻撃の搭乗員士気に及ぼす影響を重視したことを挙げている。
大西長官と福留長官は海兵同期である。ハンモック・ナンバー(海兵卒業時の席次)は福留長官が上であり、大西長官と違って海軍大学校卒で、エリートコースを歩んできたが、「貴様、オレ」の間柄であった。多分に遠慮のない意見の交換であったろうが、その詳細はわからない。
福留長官の固執した正攻法攻撃は、技量も機材も勝る米軍には、もはや通用しなくなっていた。航空育ちでない福留長官自身にはそのことが理解できなかったのである。
二航艦長官福留繁中将は、二十四、二十五の両日にわたって戦われた二航艦による正攻法攻撃の無残な敗北によって二十五日夜、ついに特別攻撃に同意する。
この総攻撃の模様は後で追ってみるが、福留長官が特攻に同意した理由は、神風特別攻撃隊敷島隊の関行男大尉以下五機が挙げた戦果の方が、二航艦の二日間にわたる総攻撃の戦果よりも大きかったからである。これについては、戦後のエピソードがある。
一航艦先任参謀猪口力平中佐、二〇一空飛行長中島正少佐の二人が『神風特別攻撃隊の記録』を昭和二十六年、日本出版協同から出版したことは前に書いた。企画したのは海軍部参謀だった奥宮正武中佐である。前記二人のほかに、特攻の指揮者であった航空艦隊司令長官の生き残りである福留中将と寺岡謹平中将の協力を求めた。四者による会談が数日間にわたって持たれたが、全員の意見の一致が見られなかった、というのである。
終始この会談に立ち会っていた奥宮氏は、次のようにこの時の模様を書いている。
「この新戦法の創始に重要な役割を果たした両著者と、遅れてこの戦法を採用した二人の元中将の間に、この戦法の捕らえ方に、かなりの隔たりがあることを知った。このため(二人の元中将は手を引き)、両著者の考えで書かれることになった。意見の主な相違点は、猪口、中島氏が、わが民族の歴史にある種の精神的な寄与を与えるということを重視していたのに対し、両中将はより少ない被害でより大きな打撃を与えるという形而下の面を最大の目的としていた点にあるように感じた」
比較的若い現場の指揮官と一段上の司令長官との、特攻に対する考え方の相違をよく物語っていると思われる。それはともかく、福留二航艦長官が二十五日、ついに特攻に同意したのは、作戦の効果を上げるためであったことがわかる。
ちなみに、これ以後大西長官の一航艦で編成された神風特別攻撃隊は「第一神風」、二十六日に編成された二航艦の特攻隊は「第二神風」と呼ばれた。
二航艦の飛行機が、大挙してフィリピンに進出を開始していた二十二日――前述のようにセブ基地からは大和隊の久納好孚中尉が単独レイテ湾に突っ込んだ――マバラカットでは、関大尉指揮の敷島隊が午前九時過ぎ岡の上の指揮所で、出撃前の儀式を行った。大西長官が残していった水筒で水杯をかわした。出撃する隊員は映画館のニュース映画で紹介されたから、長身の関大尉のどこか弱々しい姿を覚えている人は多いだろう。これが最初の出撃か、最後の出撃の時の撮影かはわからない(四度目に成功した)。関大尉は下痢をしていたのである。壮行式は自然に「海行かば」の合唱となり「予科練の歌」が低く流れた。
関大尉は飛行機に乗り込む時、玉井浅一副長に、
「これを願います」
と、ひと握りの頭髪を渡した。
関行男大尉が頭髪を手渡した心境は、確かに日本人的であったろう。
江田島海軍兵学校――現在の海上自衛隊第一術科学校にある教育参考館には、あらゆる特攻隊員の遺書の類が保存されている。管理している狩山文治事務官によると、見学に訪れる外国人の特徴的な質問は二つあるという。一つは、日本人は今もあの時代を顕彰しているのか、という思想的な懐疑。いま一つは、なぜ日本人は遺書を残すのかという“日本人の精神的神秘性”に対する疑問である。外国人の遺書は財産など権利の死後の行使しかなく、死に直面しての心境を残すことはまれである。その意味では外国人にとっては、特攻の意味が理解でき難いようである。と同時に、民族的な精神習慣にはなじめないらしい。もっとも戦後の調査では、アメリカ人兵士も「七〇パーセントはその場になれば特攻をやるだろう。三〇パーセントは拒否する」と言っている。
それはともかく、関大尉が頭髪を玉井副長に託したのは死を肉親に伝えるという極めて当たり前な、死を前提とした行為であった。もはやそこには“死に直進する”行為に対して迷いはない。ただ、二十四歳の青年が、そして列機となった二十歳の青年が、ひそかに何を思ったのか、は分からない。苦悩がなかったというのは明らかにウソである。簡単に生からの脱出ができるはずはない。にもかかわらず、特攻兵たちは死の壁を乗り越えたのである。
「爆弾を抱いて飛び上がる。もし敵が見つかれば――と思うと、複雑な心境になる。途中でグラマンの待ち伏せに遭い、爆弾を捨てて空戦に入れば、そこは戦場だ。食わねば食われる。その時に初めて死を忘れる」
と語ってくれた生き残り隊員の告白を筆者は何度も聞かされた。「特攻隊、新聞記者の美辞麗句」と報道班員を皮肉った川柳も残っている。特攻となった十三期飛行科予備学生の出撃前の心境である。特攻隊員に限らず、戦場にあった戦士たちが、日常朗らかで、なんの屈託もなく、義務として戦ったのもまた事実である。簡単に断定できる問題ではない。
敷島隊員たちは、二十二、二十三、二十四日と出撃したが敵が発見できずに帰投した。そのたびに指揮官の関大尉は体を小さくして、
「相済みません」
と涙を流して謝った。隊員たちの見送りを受け、出発しては帰投する。恐らく、帰投することの方が、苦痛であった側面もあったであろう。あらゆる意味で、二十歳そこそこの青年が、よくも耐えたものだ、と思われる毎日であったに違いない。
視点を二航艦の航空総攻撃に戻す。
二十三日から二十五日までが、「捷一号作戦」の死命を制する時期である。マニラに移動したばかりの二航艦の幕僚たちは、落ち着く暇もなく、作戦に取りかかっていた。
二航艦のフィリピン到着で、マニラの司令部はかなり混乱していたらしい。
大西長官の副官門司親徳大尉の『空と海の涯で』によると、
「マニラの司令部は離れたクラーク地区の状況が的確につかめず、二十三日には敵機動部隊をたたいておかねばならないため、いらいらしていた。しかも敵機動部隊の様子は、はっきり把握することができない。
その二十三日の朝、クラークフィールドの各飛行場から必死の努力によって、百数十機の編隊はルソン島東部の敵機動部隊に攻撃に向かった。しかしこの日、天候は悪く、攻撃隊は敵に到達する前に、天候に阻まれて引き返さざるを得なかった」
とこの日の模様を書いている。
公刊戦史の記述によると二十二日夜半、台湾から出動した九七式飛行艇による索敵も敵機動部隊の存在をつかむことができなかった。
といって、栗田艦隊は既にレイテ湾に向けて進撃中であり、その前に敵機動部隊をたたいておかなければ航空艦隊としての責任が果たせない。敵情不明のままでも、とにかく飛び立って、索敵しながら攻撃しなければならないという、はなはだ不利な戦いを初日から強いられる羽目になったのである。
零戦、紫電(戦闘機)約百機、九九艦爆三十八機、天山艦攻六機、計約百五十機と、索敵攻撃隊として彗星艦爆五機(うち二機は故障で引き返す)の二隊に分かれて午前六時五十三分から七時半の間にクラークの各基地から出撃していった。この時期のフィリピン地方は、気象条件が悪い。洋上の天候はずっと不良で、雲が八百メートルの高さで全天を覆い、雨が降っていた。視界はわずかに十キロ。当時はレーダーを備えていなかったから、敵の捜しようもなかった。全機が攻撃をあきらめ、一時間後にはクラーク基地に帰投した。一航艦の神風特別攻撃隊も出撃しては帰投するという繰り返しで、待つしかなかった。
米軍側の資料(米海軍第二次大戦作戦史。通称モリソン戦史)によると、この時間帯に、米機動部隊は三群に分かれていて、一群はポリロ島の東北約九十カイリ(約百七十キロ)――マニラの北東三百二十キロの海面。他の一群はサンベルナルジノ海峡(栗田艦隊の進入航路)の北東百七十キロ、もう一つはサマール島の東方にいた。敵が発見できたとしても大編隊攻撃には、距離が遠過ぎたかもわからない。シブヤン海まで来た栗田艦隊の旗艦「大和」以下が、初めて敵機の攻撃を受け始めたのは午前十時二十三分である。二航艦の攻撃隊が既にクラークに引き返した後であった。
正規の大編隊攻撃を企図していた福留二航艦長官は、二十三日午後十時十五分から十一時十五分にかけて、九七式飛行艇三機をキャビテ軍港から出撃させて索敵に当たらせた。
マニラから夜間索敵に飛び立った三機の九七式飛行艇はレーダーを持っていた。現在のようなレーダー・マップの描けるようなものではなく、「電探」と呼んでいた真空管のオッシロ・グラフ方式である。性能も悪かった。
午前零時五十分、中央索敵線上を飛んだ香田四郎飛曹長の索敵機がレーダーで敵を見つけた。
「電探により『レラ2シ』に敵大部隊を探知」
と打電したまま消息を絶った。この敵はシャーマン少将指揮の第三任務部隊で、同少将の記録によると、香田機は空母「イントレピット」の戦闘機によって撃墜されている。
道口俊夫中尉の索敵機は発信後すぐ消息を絶ち、本多行中尉の索敵機は午前一時、
「使用電探故障」
と知らせ、さらに午前三時半には、
「第四エンジン故障」
と打電して、索敵線上から離れた。したがって敵情は香田飛曹長の知らせて来た「レラ2シ」の敵群しかつかめなかった。
「レラ2シ」とは、海上を碁盤の目のように仕切り、文字と数字で地点を決める方式である。言葉自体に意味はない。これはマニラの九十度(東)四百六十キロにあたる。
福留繁二航艦長官はこの敵に攻撃をかけることにして、夜間戦闘機月光、陸上爆撃機銀河、一式陸攻を出撃させ索敵に当たらせ、これと並行して、黎明攻撃のため天山艦攻がクラーク基地から、瑞雲水上爆撃機がキャビデ軍港から出撃した。が、瑞雲が敵艦船一隻を発見しただけで、まだ敵情はつかめなかった。
ともかく――と、第一攻撃集団がクラーク基地群から飛び立ったのは午前六時半から七時にかけてである。零戦百十一(爆装六)、紫電二十一(以上戦闘機)、彗星艦爆十二、九九艦爆三十八、天山艦攻八、計百九十機。これは真珠湾攻撃の第一波と同程度の機数である。
第一攻撃集団が進撃中、索敵機は敵空母群を見つけた。飛行艇がレーダーで探知した距離よりも近く、空母群は二群からなっていた。マニラの北東二百八十キロと三百三十キロであった。が、この報告はシャーマン隊(正規空母二、小型空母二)を別々に見て二群と見誤ったものであった。
福留長官が最も重視した昼間集団攻撃は、しかし無残にも敵戦闘機に阻まれ、失敗する。戦闘機と艦爆、艦攻隊がばらばらの隊形で出撃したものだから、戦闘に弱い攻撃隊はグラマンに食われて、進撃を阻まれたのである。
ツキがなかったといえば、その通りであった。マニラ上空は晴れていたが、敵空母群に近づくにつれて雲と雨がひどくて視界が狭く、集団攻撃には全く不向きな天候であった。
各隊の「戦闘詳報」を読むと、天候不良、制空隊、掩護隊(ともに戦闘機)との連携不良をあげているが、その実は大編隊攻撃の経験がなく、それよりも敵の技量と機材(飛行機)がはるかに日本のそれを上回っていたからではないか。
福留長官は第一次攻撃隊が発進した後、直ちに第二次攻撃隊を準備しようとしたが、クラーク各基地の状況を把握することもできなかった。
二十四日の航空総攻撃は失敗に終わったが、第二攻撃隊として、午前七時ごろからマバラカット西基地を単機ごとに飛び立って行った彗星艦爆十二機の中の一機があげた戦果は特筆に値するものである。集団攻撃が失敗し、単機攻撃が成功するというフィリピン戦を象徴するような戦闘である。
モリソン戦史によってその戦闘ぶりを見てみよう。
第一次総攻撃隊がシャーマン隊の戦闘機によって打撃を受けた後、ひそかに一機の日本機が空母「プリンストン」の上空に接近していた。「プリンストン」は日本軍機の迎撃を終えた飛行機を甲板に収容しようとしていた。甲板に飛行機を収容するときは、空母は風に向かってひたすらに直進しなければならない。空母にとっては最も警戒すべき時であった。時刻は午前九時三十八分。雲の上で旋回しながら機を狙っていた単機のジュディ(米軍は彗星艦爆をそう呼んでいた)が雲のすき間から突如急降下して、五百五十ポンド(二百五十キロ)爆弾を“悪魔のような熟練さ”で投下した。二百五十キロ爆弾は「プリンストン」の甲板を直撃した。
この彗星艦爆は対空砲火によって撃墜されたが、格納甲板には燃料を満載して魚雷を付けたままの雷撃機が六機あった。爆弾はこの雷撃機の一機を直撃して格納甲板と、中甲板の間で爆発。あっという間に火災を起こした。ミッドウェーで空母「赤城」がアメリカの攻撃機にやられたのとおなじ状況が「プリンストン」で起こったのだ。
炎は後部機械室に吹き込み、格納甲板を巻き込んだ。十時ごろ火災は各所に広がり、誘爆が始まった。午後三時二十三分ついに大爆発を起こして艦尾と飛行甲板の後半部を吹き飛ばした。
この爆発は、救援のため艦尾に近づいていた軽巡「バーミンガム」を巻き添えにして即死二百二十九人、負傷四百二十人を出した。「バーミンガム」は大破した。
「プリンストン」は午後六時、ついに味方の魚雷を撃ち込まれて沈没処分された。
一機で正規空母と巡洋艦を撃破大破させた大戦果である。この沈着で“悪魔のような熟練さ”を持った彗星艦爆のパイロットが、だれであったかは分からない。マバラカットを単機ごとに発進した彗星艦爆は五機の未帰還機があったから、その中の一機に間違いないが、その後の目撃者がいなかったので、ただ「空母に直撃弾一、巡洋艦一撃破」と報告されただけであった。
マニラの第二航空艦隊司令部の無線が、栗田艦隊から発信された、
「敵機十機と交戦中」
との無電を受信したのは昼前であり、午後になってからは、
「第三次数十機と交戦中」
「第四次数十機と交戦中」
など悲壮な状況が次々と入ってきた。福留長官は昼間の集団総攻撃が、はっきりと失敗に終わったことを自覚しないわけにはいかなかった。
門司親徳大尉によると、マニラの司令部では二十三、四日はほとんど眠ることなく過ごしたという。
レイテ殴り込みの栗田艦隊の苦闘が、司令部の無電を通して、断片的ではあるが入ってくる。航空攻撃で栗田艦隊を掩護する責任があるだけに、二航艦、一航艦の幕僚たちは眠ろうにも眠れないのである。
戦闘は錯誤の連続とよく言われているが、二航艦にとっては、それを絵にかいたようなことが起こる。二航艦は、敵はマニラ東方海上の機動部隊だけであると信じ、この方面に全力を集中していたのであったが、実は栗田艦隊に空襲をかけ、進出を阻もうとしていたのは、ボーガン少将指揮の第二任務軍(正規空母三、改装空母一、戦艦など計二十九)で、サンベルナルジノ海峡の沖合二百キロ(レガスピー東方百キロにあたる)を行動しながら、全く日本軍の飛行機の妨害を受けることなく、自由に栗田艦隊を苦しめていたのである。
(栗田艦隊はルソン島とサマール島の間――サンベルナルジノ海峡を通過し、サマール島の東岸を南下し、レイテ湾に向かうという航路をとっていた)
実は栗田艦隊の正面にあって一方的に空襲を繰り返していたボーガン隊の存在は、二十四日午前九時四十五分に、日本軍によって発見されていたのであった。どの飛行機が発見し、どこの基地から転電されたのかも分からないが、マニラの福留司令部に届いたのは、午後三時――敵発見から六時間後であった。
もっとも異説があって、福留司令部はこのボーガン隊の存在に気づいていて、攻撃命令を発していたが、攻撃隊は敵を見ることができなかったという。いずれにしてもボーガン隊に指一本触れることができなかったことについては同じであった。
とまれ、福留司令部は栗田艦隊あてに二十四日午後三時二十一分、
「昼間攻撃はできないが、薄暮攻撃を行う」
と打電し、南西方面艦隊司令部(三川軍一中将)も同じ電報を打った。
が、この時栗田艦隊はシブヤン海の中程から反転し、西に向かって走っていた(その後、栗田艦隊は再びシブヤン海に向かう。後述する)。なにか作戦がちぐはぐし始めていたのである。
混乱と手遅れのままに福留中将は、二十四日夜半台湾とマニラから夜間索敵機として九七飛行艇を出撃させ、栗田艦隊を空襲した敵の機動部隊を必死になって捜した。キャビテから出撃した小林鹿一少尉の飛行艇が敵の大群を発見したのは、二十五日午前二時であった。
一航艦は神風特別攻撃隊の全力、二航艦は戦闘機と爆撃機の全力をあげて攻撃することを下令、午前六時五十分零戦七十五機、九九艦爆二十四機、彗星艦爆五機、計百四機の第一次総攻撃集団を発進させた。
だが、この航空総攻撃も前日と同様、敵を発見することができずほとんどがレガスピー基地に帰投。引き続いて行われた午後の二次攻撃も不発に終わった。
これに加えて、この昼間攻撃中に、栗田艦隊を誤爆するというアクシデントがあった。損傷を受けて単独でサンベルナルジノ海峡に避退していた重巡「熊野」から、
「日本機に爆撃された」
という無電がマニラの司令部に入ったのである。誤爆したのは天山艦攻と水上偵察機瑞雲であった。被害がなかったからよかったようなものの、米軍の空襲によってわずかに十五ノットしか速力の出ない一万トン級の巡洋艦に二度も爆撃を加えながら、命中弾の一発も与えられなかったことは喜んでばかりもおれないであろう。
誤爆はまだあった。午後五時と五時三十二分に栗田健男長官名で、
「われを爆撃した九九艦爆あり」
との抗議電が来たのである。
栗田艦隊本隊に対しても、入念に二度にわたって爆撃し、しかも命中弾がなかった。この味方艦隊に対する誤爆は、福留繁二航艦長官に夜間攻撃の続行を中止させるという、戦術的な変更を余儀なくさせた。頑強に編隊攻撃を主張してやまなかった福留長官が特攻に踏み切ったのが、この日の夜であったことを思うと、いかにも後味の悪い出来事であった。
が、関行男大尉を指揮官とする敷島隊――谷暢夫・中野磐雄一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛曹の五機と、これを直掩する西沢広義飛曹長(生還)、本田慎吾上飛曹(同)、管川操、馬場良治飛長(同)の一隊と、大和隊の攻撃隊――大坪一男上飛曹、荒井外義飛長と直掩の国原千里少尉、大西春雄飛曹長、朝日隊の攻撃隊――上野敬一、磯川質男一飛曹(同)、山桜隊の攻撃隊――宮原田賢、瀧澤光雄一飛曹(若桜隊も出撃したが、中瀬清久一飛曹が未帰還、会敵しなかったもよう)、それに前述した菊水隊と二航艦(総攻撃隊)の中でも少数機で出撃したものだけが、会敵して攻撃に成功している。
特攻隊をはじめ、少数の攻撃隊があげた戦果は、当時こそ知るよしもなかったが、戦後米軍の戦闘記録によって、相当の戦果をあげていたことがわかっている。つまり大編隊の戦闘では米軍にかなわなかったが、捨て身の特攻攻撃には、米軍も相当に手を焼いていたのである。
総攻撃の結果が思わしくなく、加えて栗田艦隊の悲壮な被害電報がマニラの司令部に入ってきていた時――昼過ぎ――敷島隊の大戦果が届いた。
門司親徳氏によると、大西瀧治郎長官は二階のチャート・テーブル(地図台)から少し離れた、一人掛けのソファにぽつんと座っていたそうである。その時電報取り次ぎの兵が走ってきて、電信箱を届けにきた。
大西瀧治郎長官は、電報取り次ぎ兵から電信箱を受け取り、平らな箱のふたを開けると、ゆっくりと黒縁のロイド眼鏡をかけて電文を読んだ。何度か読み直した後、ヒモのついた鉛筆でサインして、すぐ近くにいた門司親徳大尉に黙って電信箱を渡した。大西長官は、電信用紙と鉛筆を持ってこさせて、セブ基地から中島正飛行長が打って来た敷島隊攻撃成功の報告を基礎にして、自分で電文を起案した。戦果の内容よりも、特攻隊員のけなげな奮闘をたたえたものであった。
公式記録によると、十二時五分セブ基地発で、
「敷島隊、〇七一五(午前七時十五分)マバラカット発、スルアン島の三十度(北北東)三十カイリ(約五十五キロ)中型空母四隻を基幹とする四隊の敵を一〇四五(午前十時四十五分)攻撃。戦果空母一隻二機命中、撃沈。空母一隻一機命中、火災停止。軽巡一隻一機命中、轟沈」
という身ぶるいのするような文面であった。「一機命中」といったような報告はかつてない。
この電報は直接、東京の海軍軍令部にも届いた。奥宮正武海軍部参謀によると、航空先任参謀の源田実大佐が、沈痛な面持ちで近寄り、
「二機命中、一機命中だぞ。おい、わかるか。二機、一機だぞ」
と感極まったように言ったという。航空関係者だけでなく、中枢にいた戦争指導者に対して強烈なショックを与えることになった一通の電報であったのだ。
門司副官は読んでいるうちに胸がつまって、言いようのない感動が身内を走るのを感じとっていた。その時、
「――かいがあった」
と大西長官が低い聞き取れない声で何か言ったことを、門司氏は今でも鮮明に記憶している。
「――――」
と聞き取れなかった初めの“無声音”と「かいがあった」というはっきりした“有声音”の間にどのような心理的な距離があったのだろう。
大西長官の目はうるんで興奮していたが、明るい感じであった。門司氏は涙が出そうになったので、慌てて電信箱を取り次ぎの兵に返した。
大西長官の心情や関大尉以下の身を捨てた行為が、どっと胸の中に押し寄せ、
「あの連中が、あの連中が――」
というような言葉にならない言葉が、門司氏の頭の中でぐるぐる回っているようだったそうである。
大西長官はしばらくたって、独り言のように、
「これで何とかなる――」
という意味のことを言った。栗田艦隊の突入の前に、敵の空母をせめて一週間は使用できないようにしておきたいという、所期の目的は完全には達成できなかったが、一機で一艦を屠ることができれば行き詰まった戦局に一脈の活路が開かれると大西長官は“新しい考え”に進んだのではないか。門司氏はそう理解した。
モリソン戦史によると、敷島隊が攻撃をかけたのはC・A・F・スプレイグ少将(菊水隊が攻撃したT・L・スプレイグ少将とは同姓異人)の「タフィ3」(第三任務軍)である。C・A・F・スプレイグの「タフィ3」は栗田艦隊から砲撃を見舞われ、やっと逃げのびた護送空母部隊である。飛行機を収容しようとしていたとき――午前十時五十分、敷島隊に不意を突かれた。
敷島隊の特攻機は低空で接近したので、空母のレーダー・スクリーンに現れなかった。零戦は高度千五百―二千メートルに急上昇したかと思うと、急降下を始め、上空警戒の敵戦闘機が何の手だしもできないうちに、旗艦の空母「キトカン・ベイ」を最初に狙った。
「一機の零戦がその艦首を左舷から右舷に横切り、急上昇したと見るや機首を翻して機銃を掃射しながら艦橋を目がけて急降下した。同機は艦橋の上を飛び抜け、命中しなかったが、機銃掃射によって搭載の爆弾が炸裂して相当の損害を出した」
モリソン戦史の記述はさらに続く。
空母「ファンション・ベイ」に突入した二機は撃墜された。
空母「ホワイト・プレーンズ」に向かった他の二機は高度千五百メートルから、護衛の軍艦や空母が撃ち出す四十ミリ機銃の集中射撃を受けながらも急降下した。機銃に撃たれて、すでに煙を吐いていた一機は、途中から旋回して空母「セント・ロー」の甲板に突入した。甲板を突き破った零戦は下部で爆発炎上したため、格納甲板にあった魚雷と爆弾が引火誘発。七回にわたって大爆発を起こし、二十四分後の午前十一時十五分に沈没した。まさに“轟沈”であった。
「ホワイト・プレーンズ」に向かったもう一機は、対空砲火を縫うようにして突進した。零戦に対空砲火が吸い込まれるのがはっきりと見えたが、なお突進を止めなかった。艦尾約千メートルぐらいまできて、力尽きたのか零戦はくるりと横転して惰性で突っ込む格好となり左舷外側をかすめて水面で爆発した。機体の破片と搭乗員の肉片が飛行甲板に飛び散り、乗員十一人が負傷した。恐るべき執念であった。
二航艦の攻撃も果敢だった。同じ二十五日の十一時十五分、「キトカン・ベイ」は十五機の彗星艦爆が接近してきたのを見つけ、直ちにカタパルトで戦闘機を発射したが間に合わなかった。一機が艦尾から突っ込んできて、片翼を高角砲で吹き飛ばされながらも、投弾した。さらに二機が現れ、「カリニン・ベイ」に向かって突っ込み、一機は甲板に激突し、もう一機は後部煙突に当たり大損害を与えた。
大岡昇平氏は『レイテ戦記』で、これは、
「攻撃法、機種、機数から見て二航艦の攻撃機でなければならない」
としている。大岡氏の見解は正しいと思う。爆装零戦は彗星艦爆と見間違えやすい、という説もあるが、この日十五機も特攻機は出撃していない。
二航艦の編隊攻撃が失敗に終わり、局面は一挙に転換する。それは戦局の帰趨がはっきりした、というのではなく、正攻法攻撃がもはや通用しないと悟った日本が、全面特攻への道を歩む一つの転換点を迎えたということである。
福留繁二航艦長官が大西瀧治郎一航艦長官と、どのような話し合いを行ったか、つまびらかではないが、門司親徳氏によると、敷島隊の成功電報を見て、司令部では一、二航艦の参謀を問わず一様に興奮状態にあったというから、二航艦司令部の空気が、一挙に特攻へと傾いたことは想像に難くない。
敷島隊の成功電が届いた時、福留長官は個室にいた。大西長官は電報を中央に転電するよう自分で電文を起草した後、福留長官のいる個室に入っていった。セブ基地から電報を打ったのは十二時五分。暗号の解読に二十分、大西長官が事務的な処置を終えた時間を三十分と見ても、二人の話し合いは午後一時過ぎから行われたであろう。
マニラ司令部にいた一、二航艦の幕僚と司令部付士官が、全員二階の作戦室に呼ばれたのは午後二時を過ぎていたと門司氏は記憶しているから、二人の会談は長くなかったはずだ。
福留、大西両長官が連れだって現れ、大西長官が、
「第一航空艦隊と第二航空艦隊は合体して、第一連合基地航空部隊を編成する(正式発表は同日午後五時三十分)。福留長官が指揮をとり、私は幕僚長となる」
と言った。門司氏によればまだこの時、二航艦も特攻を行うという話はなかった。
大西長官は自分を主張しない性格で、前職の軍需省航空兵器総局総務局長時代にも、陸軍の遠藤三郎中将を長官にすえて、自分は次席に甘んじている。航空兵器総局は、陸海軍の航空機材料の分配などを調整するために設けられた部門で、いわば陸海軍の腕利きを持っていったのだが、大西中将は自分から陸軍の下位に甘んじている。陸海軍の対立をもっとも嫌っていた珍しい海軍軍人であった。「こんな大事なときに陸海軍がいがみ合って何になるか」という発想のできる男であった。
もっとも大西、福留中将は海兵同期でも、席次は福留長官の方が上であるから、合体すれば福留長官が上席に座るのは当然であった。
が、この時二人の間で二航艦も特攻に同意する話し合いが済んでいたものとみてよい。公刊戦史は、
「福留長官は自己の採った戦法がもはや通用しないことを悟った。そして二十五日、ついに体当たり攻撃の実施を決意した」
と書いている。
この時編成されたのが「第二神風特別攻撃隊」である。二航艦所属の零戦には爆弾をつる装置を付けていない。従って二航艦による最初の特攻は七〇一空所属の艦爆隊をもって組織されたのである。
「第二神風特別攻撃隊」の編成経過は十九年十二月十日付で、七〇一空が連合艦隊に報告した「経過概要」には次のように書かれている。
「二十五日戦況において結論的にこれを見れば、味方水上艦艇(栗田艦隊のことを指す)は概《おおむ》ね損傷を被り、敵は我に比し数倍の損害ありといえども、なお差し引きにおいて、存在せる勢力比較的多く、このままに推移せんか、明日以後味方部隊の引き上げ途上の空襲による損害はなはだしきは想像を難からず、戦勢急迫その極に達せり。ここにおいてこれが唯一の打開策として艦爆に対しても体当たり攻撃の方策決定せられ、急遽編成を命じられたり」
正攻法による航空攻撃が成功しなかったため、栗田艦隊の引き上げに際して敵の空襲が多いであろうから、空襲を防止し、引き上げを順調に行わせるために、特別攻撃を行うことになった、という意味である。栗田艦隊のレイテ殴り込みを中心にすべてが動いていたのである。
幕僚集合の後、午後四時過ぎ、大西瀧治郎長官は門司親徳大尉を伴って七六一空の本部があるストッツェンベルグに行った。このドイツを思わせる地名はクラーク基地群の一つで、マニラから自動車で二時間余りで着く。夕方、本部の士官室には同地区にある各航空隊の飛行隊長以上三、四十人が集められていた。士官室は七十平方メートル程度でみんな立ったままであった。門司氏の記憶によると、大西長官は薄暗い電灯の下で、怖い顔をして、原稿もなしに、一航艦、二航艦が合体して連合基地航空部隊が組織された経緯を述べ、
「知っている通り、本日神風特別攻撃隊が体当たりして大きな戦果をあげた。自分は日本が勝つ道はこれしかないと信じるので、今後も特攻隊を続ける。このことは批判を許さない。反対する者はたたっ斬る」
と強い力のこもった声で、じっくりと、しかし痛烈に話した。
門司氏はこの時の感じを、
「フィリピンに進出してきたばかりの二航艦の士官たちが多かったせいか、どうもピンとこなかったようです。第一神風の時とは違っていたことは確かで、それを敏感に感じとった大西長官に、『たたっ斬る』という強い言葉を吐かせたように思いますよ。私のよく知っている岡島少佐は、二〇三空の飛行長として列席していましたが、明らかに反発しているように私には見えました。大西長官は握手して、つい先ほど特攻として死んでいった若い人たちのことを思うと、強いことを言わざるを得なかったのかもしれません。この時大西長官は、死んでいった若い人たちと一緒に、別の世界に入っていったように見えました」
と証言している。「たたっ斬る」といった言葉は、聞いた人によって、「極刑に処する」などと記憶されているが、要するに大西中将の決意の表明とみてよい。
「大西長官の新しい一歩だったのかもしれません」
と付け加えた。
第三章 「全軍突撃セヨ!」
日本海軍の総力を投入
神風特別攻撃隊編成に至る、一つのキーワードとなった栗田艦隊のレイテ殴り込み――迎撃作戦については多くの考察がなされている。前に紹介したフィールドの『レイテ湾の日本艦隊』、モリソン戦史、ニミッツの回想記に始まり、日本では伊藤正徳氏や、栗田艦隊参謀長小柳富次少将の回想、吉田俊雄・半藤一利氏、大岡昇平氏、小島清文氏、戦史研究家外山三郎氏、石渡幸二氏さらには戸部良一氏と戦後派に属する人たちの共同研究など肯定、否定の立場から、なお論議を呼んでいる。四十三年前の海戦が現在までも論じられているのは、それほど不可解な問題を含んでいるからである。
「作戦の推移」を結論的に言えば、栗田艦隊はレイテ湾を目前にしながら、そして若い人たちが特攻として自ら命を絶つという極限状況の中で、栗田艦隊を待ち望んでいたにもかかわらず(栗田艦隊では航空隊の無力に絶望していた)、反転して戦線から離脱してしまうのである。
だが、「特攻」を検証する場合、栗田艦隊の行動を避けて通れない理由は、なぜ「ナゾの反転」をしたのか、を特攻で死んでいった若者に代わって見極めてみる必要があるからである。
栗田艦隊の行動については概略を記すにとどめる。
連合艦隊が「捷一号」を発動したのは十月十八日の夕刻である。その作戦計画は、
一、第一遊撃部隊(第二艦隊、司令長官栗田健男中将)はサンベルナルジノ海峡を通って二十五日黎明、敵の上陸地点(レイテ島タクロバン地区)に突入して敵を撃滅する。
二、西村艦隊(第二戦隊、西村祥治中将)と志摩艦隊(志摩清英中将)はスリガオ海峡を進んで二十五日黎明に敵上陸地点に突入し敵を撃滅する。
三、小沢部隊(小沢治三郎中将)はルソン島東方海上に敵機動部隊を引き付け、レイテ突入部隊の作戦を容易にする。
つまり、栗田艦隊の主砲にものを言わせて、レイテ湾の敵輸送船団(マッカーサーが前線指揮を執っていた)をたたき、レイテの陸上決戦を援助するのが第一目的であった。その場合、敵の主力艦隊をたたくことができれば、それにこしたことはない、というのが連合艦隊のねらいであった。
捷一号作戦に関する打ち合わせが、レイテ決戦前の八月十日マニラで行われたとき、軍令部作戦参謀榎尾義男大佐、連合艦隊作戦参謀神重徳大佐、実施部隊である栗田艦隊参謀長小柳富次少将との間で論議があったのである。
連合艦隊の神大佐は、戦艦「大和」の沖縄特攻を立案した参謀で「神さん神がかり」と言われたが、もはや帝国海軍には米国相手の艦隊決戦など望むべくもないのだから、せめて敵上陸部隊を壊滅させるために艦隊を使うべきだ、とある意味では実態を踏まえた考えを持っていた。
栗田艦隊のレイテ突入には陸軍の反対――いたずらに燃料を空費するだけだ、という批判があった。参謀本部戦争指導班の「機密戦争日誌」(部内かぎりの業務日誌)は歴代の関係者が書きつづったもので、公表を前提にしていなかっただけに率直かつ大胆である。敗戦にならなければ、恐らく国民の目に触れることはなかったろう。十月十九日の記述に、
「昨夜軍令部より捷一号の発動に伴うGF(連合艦隊)出撃作戦のため油槽船六隻の使用を申し出たり――作戦発動後に切り出したる海軍の非常識もさることながら――(事前に)検討しあらざりし事は一大手落ちなり」
とまず事務的処理のまずさを挙げ、さらに、
「かかる危険のもとにGFの出撃目的如何。吾人の戦略常識をもってせば、奇跡の存せざるかぎり現状における水上艦艇の行動は不可能にして、いたずらに敵の士気を鼓舞する以外何物もなし。
もし海軍伝来の面目を維持せんがため敢えてこの暴挙に出ずることを固執せんか、真に海軍は海軍のみに存するにありて国家なしと悪評を受くるもまた至当と言うべし」
と手厳しい。これはいささか陸軍の言い過ぎで、海軍は陸軍のレイテ決戦を助けるために、艦隊を“スリ減らす”覚悟での突入である。が、油槽船の問題で、ここまで陸軍が激昂するほど、陸海軍の間がこじれていたということである。
事実、連合艦隊はレイテ殴り込み作戦で使用する艦隊の油の問題から、心配しなければならなかったのである。油は栗田健男司令長官の独断で油槽船を手配して片付けたが、栗田艦隊の内部にも「レイテ湾の敵輸送船との心中はご免」という強硬論があり、すっきりした作戦ではなかったのである。
いま一つは、戦術的な問題である。戦艦「大和」が呉海軍工廠で進水した後、副長として艤装《ぎそう》(兵備を整えること)に関係した砲術の権威者である黛治夫大佐は、重巡「利根」の艦長としてレイテ作戦に参加したが、
「スリガオ海峡の北が狭く、敵の駆逐艦や魚雷艇に出ばなをくじかれる心配があるし、タクロバン(レイテ島の敵上陸地点)の沖は浅瀬が多く魚雷戦の邪魔になる。なによりも敵のガダルカナル上陸以来の上陸のやり方を見ると、上陸して二日目には揚陸を完了し、安全な海域に姿をくらますのが常であった」
と語っている。栗田艦隊の艦長クラスの考え方は黛大佐の意見に代表されよう。二十日に上陸した敵輸送船は、X日――二十五日のレイテ殴り込み当日――には既におらず、いても空船であろう、という戦訓を踏まえた推定である。が、実際は、敵は揚陸を完了しておらず、マッカーサーは乗っていた軍艦から陸上に上がっていた。後年、『マッカーサー回想記』の中で、
「勝利はいまや栗田艦隊のふところに転げ込もうとしていた」
と書かしめたほど、心理的にも戦術的にもマッカーサーを追い込んでいたのである。
栗田艦隊の参謀長小柳富次少将の戦後の著書『栗田艦隊』によると、第二艦隊は徹底した“艦隊決戦主義”を主張し続けている。
「かりに当面の船団撃滅に成功しても、敵機動部隊の厳存するかぎり敵は何回でも上陸作戦をやり直すことができる――これに反して敵機動部隊をせん滅すれば、輸送船などほっておいても自滅し、抜本的な敵の進行を断念せしめ、ひいては戦局収拾の要因ともなりうるのである。――連合艦隊の作戦計画は本末を転倒しているというのが、第二艦隊全般の空気であった」
と言い、さらに、
「連合艦隊の司令部は輸送船攻撃第一主義であり、第二艦隊では、艦隊決戦第一主義であった」
と、断言している。これほどおかしな議論はないわけで、それではなぜそれまでにやらなかったのか、と反論したくなる。
初期の小競り合い的な艦隊同士の決戦はソロモン海戦(ガダルカナル島の奪回をめぐる海戦)以来絶えてなく、以後は航空機中心の戦闘ばかりである。艦隊決戦など日本海軍が待望していただけで、アメリカはとっくに空母中心の戦術に切り替えており、戦艦や巡洋艦は空母を護衛する地位に成り下がっていた。
日本の海軍もその点は同じで、すでにミッドウェー海戦の戦訓から、艦隊決戦など起こり得ないことはだれもが知っていた。現に栗田健男中将は飛行機の援助がない艦隊単独の行動などできないと言っている。
戦後に書かれた小柳氏の『栗田艦隊』はレイテ沖で反転したことに対する弁解にすぎないことは多くの研究者が認めるところだ。レイテ決戦の時点で、艦隊決戦論など持ち出すのはおかしいのである。従って、連合艦隊が栗田艦隊にレイテの輸送船を撃滅せよ、と命令したのは、いたずらに艦隊を保全していても意味がないことを前提にしていたからに外ならない。既に艦隊の使用法は、しゃにむに突っ込んで輸送船でも撃つしかなかったのである。
ただ、レイテ殴り込みに三方向から向かうという兵力の分散は理にかなっていなかったとは言えるだろう。しかしそれも燃料、艦隊速力、時間的余裕のなさからきたことで、日本の海軍の実力が、そこまで低下していたことを意味する。作戦自体が戦理を超越していたのである。繰り返すがこの時点で、“帝国海軍”には八方破れ的な選択肢しか残されていなかったのである。
広島県安芸郡音戸町に在住で、レイテ戦当時戦艦「大和」の主砲の測的長だった隠沢兵三大尉(海兵七十期)によると、捷一号が発動され、リンガ泊地(シンガポール沖)からブルネイ(ボルネオ)に艦隊が集結し、旗艦「愛宕」で図上演習をやったが、結果は悲壮なものであったという。
「栗田艦隊がレイテ殴り込みをやるという具体的要領の説明は、ブルネイで旗艦『愛宕』に各級指揮官、関係科長以上が集められた席上で聞きました。その時図上演習をやったのですが、結果は『艦隊がレイテ湾に着くまでに全滅』でした。
艦隊の上層部に行けば、大尉の私などぺいぺいで、図上演習の電報運びです。そのため図演の内容を知ることができたのですが、全滅とはショックでしたね。連合艦隊の命令ですから、やる以外にありませんでしたが――」
七万トンを超える超重量の戦艦「大和」「武蔵」をもってしても敵の航空攻撃にはかなわないという結果が出たのであるから、装甲の薄い巡洋艦、駆逐艦の乗員にとっては、まだ「特攻」という言葉はなかったが、隠沢氏に言わせると、
「艦隊の特攻出撃の気分でした」
と言うことになる。
艦隊の行動は司令長官の一言で決定するから、図演の結果を一番心配したのは栗田長官であったろう。
一口に栗田艦隊と言っているが、正確には艦隊、戦隊の呼称がある。が、わずらわしいのでこれまで通り栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊の略称で記述してゆく(栗田艦隊は第一遊撃部隊、志摩艦隊は第二遊撃部隊である)。
「全滅を覚悟」とは言いながら、栗田艦隊の陣容を見ると大した戦力である。
第一戦隊=第一部隊=戦艦「大和」「武蔵」「長門」
第四戦隊 重巡「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」
第五戦隊 重巡「妙高」「羽黒」
第二水雷戦隊 軽巡「能代」。駆逐艦「早霜」「秋霜」「岸波」「沖波」「朝霜」「長波」「藤波」「浜波」「島風」の十九隻。
第三戦隊=第二部隊=戦艦「金剛」「榛名」
第七戦隊 重巡「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」
第十戦隊 軽巡「矢矧」。駆逐艦「野分」「浦風」「磯風」「浜風」「雪風」「清霜」の十三隻。第一部隊、第二部隊合計三十二隻。
第二戦隊=第三部隊=戦艦「山城」「扶桑」。重巡「最上」。駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」「時雨」の七隻。
これにパラワン島(フィリピン)北のコロン湾にいた第二遊撃部隊(志摩清英中将。第五艦隊)が加わった。志摩艦隊は台湾沖航空戦の大戦果を信じた連合艦隊が、残敵掃射のため、岩国沖にいたのを派遣した艦隊であるが、敵機動部隊の健在なのを知り、驚いて奄美大島から澎湖諸島の馬公に退避していた。そこでレイテ殴り込みを知り強引にコロン湾に進出したのである。
志摩艦隊(志摩清英中将・第二遊撃部隊)の陣容は次の通りである。
重巡「那智」「足柄」。軽巡「阿武隈」。駆逐艦「曙」「霞」「潮」「不知火」。
重巡二、軽巡一、駆逐艦四という小さな艦隊だが、栗田艦隊の戦艦七、重巡十一、軽巡二、駆逐艦十九計三十九隻を加えると総計四十六隻の大艦隊である。今の海上自衛隊とは比べものにならない五十万トンの艦艇群である。
これに敵機動部隊をおびき寄せるために、瀬戸内海から小沢治三郎中将の率いる唯一の機動部隊が出撃した。その陣容は次の通りである。
空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」(ただし制式空母は瑞鶴だけで、後は小型、もしくは改装空母である)。航空戦艦「伊勢」「日向」。軽巡「多摩」「五十鈴」「大淀」。駆逐艦「桑」「槙」「杉」「桐」「初月」「秋月」「若月」「霜月」の総勢十七隻、約十五万トン。参加艦艇は日本海軍の持てる力のほとんど全力――総合計で七十万トン。
レイテ湾に殴り込む艦隊が三方向から進むのは、兵力の分散という意味で、兵理にかなっていないことは前に述べたが、兵力を分散しなければならなかった最大の理由は油の問題であった。
ブルネイからレイテまでの最短距離はパラバック海峡からスル海に抜け、スリガオ海峡を通るコースの千五百七十キロであるが、途中でモロタイ島の米軍基地に待機する飛行機に狙われる不利があった。といって安全な新南群島の西側を回り、シブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けるコースは二千六百七十キロもあり、二十五日のX日(海上決戦日)には燃料補給の関係で間に合わない。開戦時の真珠湾攻撃にはタンカーを連れていったが、レイテ戦の場合は制空権は米軍にあり、タンカーがあったとしてもいたずらに撃沈されるだけである。
結局、栗田艦隊は敵の潜水艦に発見される危険性はあっても(事実その通りになった)、パラワン水道を通ってミンドロ島の南側からシブヤン海―サンベルナルジノ海峡に抜ける二千二百二十キロのコースを通ることになったのである。
第二戦隊の西村艦隊が最短距離のコース――千五百七十キロを通ることになったが、これは航続距離が極端に短い「山城」「扶桑」という旧式戦艦中心の小部隊であったため、出たとこ勝負の選択をしなければならなかったからである。
とはいえ、この作戦は広大で、オトリとして日本の機動部隊をフィリピンの北方に出動させて敵の機動部隊をおびきだし、その留守の間に栗田艦隊をレイテに突入させるという、なかなか手のこんだものであった。事実この作戦は成功し、ハルゼーは機動部隊を引き連れて北方に走り、レイテをがら空きにしてマッカーサーを真っ青にさせるのである。
小沢治三郎中将指揮下の機動部隊は、瀬戸内海で訓練中であったが、六十九機を搭載できる制式空母は「瑞鶴」ただ一艦で、「瑞鳳」「千代田」「千歳」は小型、改装空母で搭載機も二十機に満たなかった。
「瑞鶴」は大和建造と同じ年の予算(昭和十二年度)で建造されたもので、真珠湾攻撃からこれまで、ずっと第一線で活躍してきた武運めでたい空母であった。
ただパイロットは訓練中の者が多く、ハルゼーの機動部隊と互角に渡り合うだけの技量は望むべくもなかった。
十九日午後一時、小沢長官は各級指揮官を旗艦「瑞鶴」に集め、
「自己の被害を省みる事なく、極力敵を北東方に誘出するごとく努め、わが遊撃部隊(栗田艦隊)の敵上陸地点に対する突入作戦の必成を期す。昼は敵に近づき、夜間は敵に遠ざかるよう行動し、所期の海面に敵を誘出するとともに、好機に捕捉したなら決戦を期す」
と初めて作戦目的を明らかにした。夜間は逃げ、昼間は敵の機動部隊をフィリピンの北東方に引き付けておき、栗田艦隊のレイテ突入の成功の捨て石になる――オトリ作戦に徹する決意である。機動部隊にこのような命令が下されたことはかつてない。
飛行機の母艦収容は出港日の二十日早朝から伊予灘で開始されたが、自力で母艦に着艦できるのがやっと、といったパイロットが多かった。空母艦隊はこれまでに、陸上基地にパイロットを取られてきた。米軍の攻撃が急なあまりに、母艦訓練をする途中で、「これが最後だ」と連合艦隊司令部に口説かれては、母艦パイロットを陸上に持っていかれたのである。最後の母艦対母艦の決戦となった「あ号作戦」で決定的な敗北を受けたのも、充分な訓練をせずに戦闘に投入したことに原因がある。そしてその舌の根も乾かぬうちに、今度はオトリ機動部隊として、艦上機を積んで出撃せよ、というのだから小沢長官としてははなはだ面白くなかったはずだ。
言っても仕方がないことだが、真珠湾をやる前、母艦に着艦するパイロットの技量を飛行長が見ていて「あれはだめ」などと選考していたのとは時代が違っていた。
いまさら泣き言はいってもおれない状況である。瑞鶴に六十五機、他の三隻に十七、八機を積み、合計百十六機が小沢機動部隊の全機となった。米海軍のエセックス級一艦分である。しかも練度が格段に違っていた。
二十日午後五時三十分、予定通り佐田岬に集結して序列を整え、豊後水道へと向かった。まず警戒隊として巡洋艦「五十鈴」を先頭にして駆逐艦「桑」「槙」「桐」「杉」が豊後水道の南東予定航路の前方二十カイリ(三十七キロ)を対潜掃討し、豊後水道の出口で合流した。水道を抜けると艦隊速力を二十ノット(三十七キロ)に上げて針路を百四十度にとった。南下である。
昭和十九年十月二十日――フィリピンのマバラカット基地で第一神風が編成された日、まず瀬戸内海にいた小沢治三郎中将指揮の機動部隊が行動を起こしたのである。
この日は、西日本を中心に雨雲がたれ込めていた。夕方から細雨がけむり始め、機動部隊が豊後水道を出て間もなく視界が不良になった。レーダーの性能は悪く、水兵の見張りに主力を置いていた日本海軍にとっては、一番危険な、そして敵潜水艦にとっては絶好の活躍日和となった。案の定、豊後水道を出て間もなく午後五時四十五分、瑞鶴の電探(電波探知機)は敵潜水艦の発信する電波を捕らえた。本土を離れると同時に、敵潜に監視されていたのである。
小沢機動部隊は大きく針路を変えて潜水艦をまき、二十一日午前、針路を元に戻した。この迂回は実は時間稼ぎに役立ったのである。
連合艦隊の作戦命令「X日(レイテ殴り込み予定)は二十四日とす」にしたがって、小沢長官は十九日に先発隊として駆逐艦を出していた。その後連合艦隊司令部から「X日を二十五日とする」という変更電報が入ったのである。艦隊が一度動きだすとやり直しはきかない。二十四日のつもりで行動日程を組んでいた小沢機動部隊は二十日に出港した後で、一日の調整をしなければならなかったから、燃料の心配さえなかったなら、迂回はかえってよかったのである。X日が変更になったのは、ブルネイで出港準備中の栗田艦隊の給油が間に合わなかったためであるが、作戦がどことなく性急で、ちぐはぐなところが目立ち始めていたことは否定すべくもない。
翌二十一日午前七時、小沢機動部隊は初めて索敵機として天山艦攻九機を発動させた。が、二機は帰ってこなかった。一機は沖縄に不時着し後で帰還したが、一機は行方不明である。洋上に飛びたったあと母艦の位置を正確にとらえて帰還する技量に欠けていたのである。
この日の索敵範囲命令は二百八十カイリ(五百二十キロ)から三百七十カイリ(六百八十五キロ)の間であった。全速なら零戦は一時間三百カイリを飛び、天山艦攻は二百七十カイリを飛んだ。海軍は時速をノットで表現し一時間に一カイリ進むのを一ノットという。一カイリは千八百五十二メートル。したがって零戦の最大速度の三百ノットを、メートルに換算すると約五百五十六キロメートルである。本書では艦船、航空機の速力表示は慣例通りノットで表すが、距離はメートルで表示してゆく。
ベテランのパイロットともなれば、六百カイリ(千百十キロ)四方の索敵は日常やれるだけの技量を備えていた。“太平洋戦争”開戦間もなく英空母「ハーミス」を航空機で撃沈したとき、偵察を命じられた美濃部正大尉(フィリピンで部下から特攻を出さなかった隊長)は十時間も飛んで「ハーミス」が沈没する写真をとり、燃料切れ寸前まで粘って帰還している。
翌十月二十二日、小沢機動部隊は第一次索敵に九機、第二次に五機、計十四機を発進させたが、うち五機が母艦に戻ってこなかった。二機は明らかに帰路を失したと思われ、一機は沖大東島付近の海上に不時着して乗員は助かったが、残る一機は全くの消息不明であった。風も波もなく、母艦の位置も大きく移動したわけではない。索敵の度に未帰還機が出るようでは、小沢長官ならずとも背筋が寒くなったろう。
“死んだ子の年を数える”ということわざがあるが、太平洋戦争開戦時、フィリピン攻略の飛行機は台湾から発進した。台湾―クラークフィールドはおよそ九百三十キロ。間はバシー海峡で海の上である。双発の陸上攻撃機のほかに零戦が制空隊として参加しているが、燃料の関係でエンジンを絞って飛び、五時間かかって戦場に到着。空戦して再び九百三十キロを帰っている。索敵機と違って単独行動ではなかったにしても、海上の長距離飛行の技術をしっかり身につけていたパイロットが多かったのは事実だ。
同じ日の午前八時、栗田艦隊はブルネイを出港していった。旗艦「愛宕」には第一遊撃部隊司令長官栗田健男中将以下、参謀長小柳富次少将、作戦参謀大谷藤之助大佐ら司令部の首脳が乗り、「大和」には第一戦隊司令官として宇垣纏中将が乗っていた。「愛宕」は一万トン級の巡洋艦で速力は三十七ノットも出たが通信能力、防御などの点では戦艦「大和」よりはるかに劣っていた。「大和」は二十七ノットしかでないが、敵の空襲が当然予想されるレイテ殴り込みに当たって、全般的な指揮を執るためには「大和」を旗艦にするべきではなかったか。
事実、小柳参謀長は、
「栗田艦隊の旗艦は『大和』にすべきだ」
と連合艦隊に主張したが、連合艦隊司令部は、
「『大和』は夜戦部隊として使用するため旗艦に適当ではない」
という理由で承知しなかった。後で「愛宕」は沈没し、結局「大和」を旗艦として使用することになるのだが、そのために作戦が大きく変容する一つの理由になる。
栗田艦隊の出撃には、スリガオ海峡に出て最短距離を通ってレイテ湾に向かう西村艦隊(西村祥治中将)――戦艦「山城」「扶桑」などの旧式艦艇――の将兵がひっそりと見送った。西村艦隊は七時間半後に出港するのであるが、この時自分たちが先に全滅することなど、神ならぬ身で、知るよしもない。
栗田艦隊は昼間は十八―二十ノット、夜間は十六―十八ノットで“之字《のじ》運動”を行いながら敵潜水艦の攻撃に備えた。ジグザグ運動である。
パラワン水道が近くなった午後九時、軽巡「矢矧」が魚雷音らしいものを探知して赤色信号を上げた。艦隊は緊急左に移動して回避運動を行った。この道草が思わぬ不運を招くことになる。
この間に敵潜水艦「ダータ」と「デース」は最大船速の十九ノットで艦隊の前方に進出し、パラワン水道で待ち伏せする余裕を得たのである(モリソン戦史)。
栗田艦隊がパラワン水道の南口に達したのは二十三日未明である。
水道の長さは二百八十キロ、幅が狭く軍艦の航行できる水深を持った水路は幅四十六キロしかない。艦隊が戦闘する水面としてはあまりにも狭い。逆に潜水艦から見れば絶好の攻撃海面となる。
果たせるかな、二十三日午前六時三十三分、艦隊が速度を十八ノットに上げ、之字運動を行いながら前進中に、旗艦「愛宕」に四本の魚雷が命中した。乗組員が早朝訓練を始めた瞬間であった。と同時に「高雄」の艦腹を二本の魚雷が刺した。先回りした敵潜「ダータ」「デース」が放ったものである。さらに二十四分後、「摩耶」にも四本の魚雷が命中し、あっという間に沈んだ。「愛宕」は二十分後に沈み、栗田健男長官や司令部の職員は駆逐艦「岸波」に移乗、一時指揮権を「大和」の宇垣纏中将に委譲しなければならなかった。
この間に敵潜水艦の潜望鏡を見た者も、電探で気づいた者もいなかった。敵ながら完璧な攻撃である。というよりも、日米の科学技術の差を見せつけられたのである。
二十二日午前八時にブルネイを出港して二十二時間後に栗田艦隊は重巡二隻を失い、一隻を大破されたのである。大破された「高雄」には駆逐艦「朝霜」「長波」の二隻を護衛に付けブルネイに引き返させたから五隻の戦力を一挙に失ったことになる。パラワン水道はまだ三分の一残っていた。
栗田長官ら司令部職員が「岸波」から「大和」に移乗し、将旗を掲げたのは九時間後の午後四時二十三分。この間にも敵潜水艦発見騒動があったりして、栗田艦隊の進撃は大幅に遅れた。まさに魔の二十三日であった。
栗田艦隊がやっとパラワン水道を抜け、ミンドロ海峡の北西入り口付近に達したのは二十四日午前零時、つまり真夜中である。
「大和」の艦橋は二十畳(三十三平方メートル)ぐらいある。第一戦隊司令官宇垣中将の司令部が左側に陣どり、艦長森下信衛少将は右側に座るのが通常配置である。
それが艦隊司令部が乗り込んできたので、宇垣司令部が右に移り、栗田司令部が左に席を占めた。森下艦長は別にイスを持ってこさせて、宇垣中将の後ろの方に座った。前に紹介した「大和」の主砲測的長、隠沢兵三大尉の目撃談である。この時、栗田長官以下艦隊司令部の者は防弾チョッキを着ていたという説があるが、隠沢氏によるとライフ・ジャケットであったという。
一度海に入ると(撃沈されて)やはり恐怖心が付いて回るのだろうか。宇垣、森下両提督が三種軍装で指揮を執っている姿と、ややちぐはぐな感じがしないでもない。
「大和」の艦橋は五十センチもあるアーマー(甲鉄)で囲まれており、防御の堅さは世界一であった。栗田、宇垣の二人は作戦中に一度も相談しなかった、という証言がある。重大な時の組み合わせではなかった。それは二人の生い立ちから見てもうなずける。
「武蔵」の沈没と「大和」の反転、再反転
宇垣纏中将は海軍の主流と言われた砲術畑を歩み、海軍大学校出のいわばエリートであり、開戦時の連合艦隊参謀長の経歴を持っている。栗田健男中将は水雷畑を歩き、艦隊回りが主で、水雷学校の校長(兵学校長になったのはレイテ戦後)を務めた以外には、顕職には縁がなかった。二人が親密でなかったのは、大砲屋と水雷屋の相違があったのかもしれない。
兵学校は栗田中将が二期先輩だが、中将になったのはわずかに半年しか違わない。性格的にもウマの合うタイプではなく、宇垣中将の日誌『戦藻録』を読んでみても、栗田観は冷たい。レイテ戦では傍観者的であり、明らかに皮肉っている。
この二人が同じ艦橋にいたのだから、間に立った森下信衛艦長はどんな気持ちであったろうか。
先に進もう。
十月二十四日、この日はフィリピンに集結している一航艦、二航艦の航空総攻撃の当日である。「捷一号作戦」のすべては当然、栗田艦隊の司令部は知っている。
航空総攻撃の実効はともかく、フィリピンにいるのは大西瀧治郎、福留繁の両中将である。一応は敵潜を回避することに専念して午前二時、艦隊はミンドロ海峡に入った。十六ノットの艦隊速力で午前六時前――四時間かかって海峡を通り抜けた。ミンドロ島を迂回して、日の出時分、午前六時二十五分にはタブラス海峡にさしかかった。
このあたりから敵機動部隊の攻撃範囲内に突入する。すでに七時半ごろ、敵の接触機が栗田艦隊を発見したらしく無電を打っているのが傍受されている。
栗田長官は「大和」「金剛」の二戦艦を中心にして対空輪形陣を組んだ。今で言うリングフォーメーションである。ただしアメリカの場合、「大和」「金剛」の位置には航空母艦がいる。日本はついに戦艦が航空母艦を守ることをしなかったのである。
「大和」の見張り員が北方向、五十キロに敵機三機を発見したのが午前八時十分。栗田長官は九時四十五分に、
「〇七三〇(午前七時三十分)より敵艦上機われに接触中」
と連合艦隊(神奈川県の日吉に司令部があった)に報告した。これが第一報である。
が、第一報を入れた三十五分前の九時十分、ボーガン少将の第一次攻撃隊が栗田艦隊めがけて発艦していた。
ボーガン少将はハルゼーの第三艦隊に属する第二機動群指揮官である。機動群は空母三―五隻を中心に二十隻以上の艦隊からなっていて、第三艦隊には同じような規模の機動部隊が四群あった。
栗田艦隊の旗艦「愛宕」などを一瞬にして沈めた潜水艦「ダータ」からの通報によって、ハルゼーは栗田艦隊の出動を知り、二十四日未明には、百八十キロ間隔に開いた配備点に機動部隊群を配備し待ち構えていたのである。
この時の敵の配置を説明すると、ルソン沖にシャーマン少将の第三機動群、サンベルナルジノ沖にボーガン少将の第二群、レイテ沖にダビンソン少将の第四群がいた。第一群のマッケーン中将隊は休養のためウルシー基地に帰投中であったが、ハルゼーは呼び戻しもしなかった(ニミッツ『ニミッツの太平洋海戦史』)。完全に栗田艦隊をなめてかかっていたとしか思えない。
敵の接触機は執拗で勇敢であった。「金剛」を中心とする第二部隊の十二キロ後方の艦隊に対しては射程距離にまで接近して、逐一無線電話で報告した。
米軍機の使用電波が五千三百七十五キロサイクルであることが分かったので、「武蔵」が妨害電波を出すと、六分後には五千七百十キロサイクルに変えて通報を続けた。無論日常の英語である。
マニラの一航艦、二航艦は早朝から索敵機を出し、神風特別攻撃隊が出撃する一方、福留繁中将の二航艦は前日に続いて編隊総攻撃をかけたが、既述したように敵を見ることが出来ず、護衛の敵戦闘機に食われて大きな損害を受けて敗北してしまう。
ただ一つの朗報は、彗星艦爆隊の一機が、ルソン島沖にいたシャーマン隊の空母「プリンストン」を“悪魔のような熟練さ”をもって二百五十キロ爆弾を投じ、軽巡洋艦も巻き添えにして撃沈したことである。
栗田艦隊に航空攻撃をしてきたのは午前十時四分、と記録にある。ボーガン隊の「キャボット」「イントレピッド」の二空母から飛び立った戦闘機、急降下爆撃機、雷撃機計四十五機であった。「大和」「武蔵」は四十六センチ砲に三式弾を込めて応戦した。
三式弾は一種の時限爆弾で、信管で爆発時期を決定し、中に入っている数千個の機銃弾を散らして敵機を撃ち落とす。
「大和」測的長の隠沢兵三大尉によると、最初に三式弾を打った距離は二万五千メートルで、信管秒時は四十秒であった。敵機が近づくにつれて秒時は短くなり五―七秒にまでなったと言う。大和型の四十六センチ砲の初速(弾丸が打ち出される瞬間の速度)は秒速七百四十メートルであるから、極めて近い距離まで敵機が襲ってきたことを物語っている。
ただ主砲を撃った時の爆風が凄く、甲板では遮蔽物がないと吹き飛ばされるか、内臓破裂で死ぬ。したがって、対空砲火の担任からは「主砲は撃たないでくれ」と言われるほど評判はよくなかった。
第一次の空襲で、「武蔵」はあっさり右舷後部に魚雷を一本受けた。これは、日米の兵器の能力差がはっきりと現れた結果ともいえる。アメリカは昭和十八年には、弾丸が目標物に近接するだけで爆発するVT信管を開発し、それを対空火砲にも活用していた。そのため、日本の雷撃機はアメリカの艦艇に近づくこともむずかしかった。一方、日本にはそれがなく、アメリカ機は直接被弾さえしなければ撃ち落とされることもない。だから、日本の対空砲火の弾幕をくぐり抜けて魚雷をたたきこむことができたのである。
二十四日朝の第一次空襲で、戦艦「武蔵」と重巡「妙高」がともに魚雷一本を受け、「武蔵」は戦闘行動に差しつかえなかったが、「妙高」は意外な損害で、駆逐艦「長波」に護衛されて戦列から去った。
が、栗田艦隊はひたすらに進む。十一時二十四分、シブヤン海にさしかかろうとした時、「大和」の見張り員が「右前方に潜望鏡」と叫んだ。第一部隊は全艦が左六〇度の一斉回頭を行って避けた。その途中で「能代」が「雷跡発見」の信号を出したので、全艦隊は再び緊急一斉回頭を行った。すると六分後に「武蔵」から「雷跡発見」の信号。艦隊はまたも回頭して避ける。九分後に「鳥海」が、続いて「岸波」が潜望鏡を見た。その度に艦隊は見事な艦隊行動で回避した。十一時五十四分には艦隊の進行方向は一二〇度(北東)になっていたが、一本の魚雷も当たらなかった。
が、一本の魚雷もあたらなかったのは当たり前のことで、戦後に分かったことであるが、この海域には米軍の潜水艦は一隻もいなかったのである。「大和」の見張り員が「潜望鏡発見」と叫んだことに端を発した連鎖反応で、戦場心理とはいえ栗田艦隊全体に、ある種の不安感が付きまとっていたように思える。電波兵器の差、航空機の援護のないことなど、だれもが知っているから“幻の潜水艦”に振り回されることになったのであろう。
第二次空襲は正午であった。「大和」は全部の魚雷を回避したが、「武蔵」にはさらに三本が命中した。わずか八分間の出来事である。
一時間後に第三次。
このあたりから、栗田艦隊首脳部の頭の中に、
「航空総攻撃は奏功しなかったのではないか」
という不安が生じ始めたのではなかろうか。向かってくる敵機を見て、栗田健男長官は、
「機動部隊本隊と南西方面艦隊に電報を打て」
と命じた。機動部隊本隊とは、小沢治三郎中将のオトリ機動部隊のことであり、南西方面艦隊とは三川軍一中将がマニラで指揮を執っている艦隊で一航艦、二航艦もその指揮下にあった。
この時の電報が、有名な、
「敵艦上機、我に雷爆撃を反復しつつあり、貴隊触接ならびに攻撃状況速報されたし」
という文面である。「攻撃状況速報せよ」とは「あなた方は攻撃しているのか」という詰問である。戦場にありがちな、“自分一人が戦っている”という錯覚に栗田艦隊司令部が陥ったのである。
前述したように一航艦、二航艦は全力を挙げて戦っており、オトリ機動部隊も必死で頑張っていたのである。
日本軍にとって何よりも不運だったのは、栗田艦隊を攻撃しているボーガン隊の存在に気が付かなかったことである。ボーガン隊は日本の攻撃機に邪魔されることなく、一方的に栗田艦隊を攻撃していたのである。
いや実は、ボーガン隊の存在は、日本の索敵機が発見して打電していた。
二航艦の索敵機が午前九時四十五分にスリガオ沖にボーガン隊を見つけて、
「敵の大群を発見せり」
とリアル・タイムで打電していたのである。が、福留繁二航艦長官の手元に届いたのは午後三時ごろであった。
どこかの(たぶんレガスピー)基地がそれを受け、マニラの二航艦長官あてに転電している間に、六時間もかかったのである。現在、防衛庁の戦史室に残っている資料を見ても、転電した基地の名前は分からない。
レイテ殴り込み作戦は通信の弱点が表面に出て、作戦全般を狂わせてしまうが、仮にこの電報が早期に届き、神風特別攻撃隊か、二航艦の総攻撃の対象になっていたら、いかにボーガン隊といえども、そうそう安易に、据え物を斬るように栗田艦隊を攻撃することはできなかったろう。ツイていない時はこんなものだろうか。
第三波空襲には、モリソン戦史によると、ボーガン隊だけでなくハルゼー麾下の空母群から飛び立った攻撃機が参加している。シャーマン隊はルソン島沖にいて、二航艦の航空総攻撃の対象になった部隊であるが、戦闘機に邪魔をされて近づけなかったのである。ニミッツは、
「マリアナの七面鳥撃ち(あ号作戦で日本の戦闘機が撃ち落とされたことをいう)さながらに、百戦錬磨の米パイロットは未熟な相手を片っ端から海中にたたき落とし始めた。この空戦において一機の日本機もシャーマン隊を攻撃できるほど近寄ったものはなかった」
と言っている(『ニミッツの太平洋海戦史』)。
勝ち戦の自慢は勝手だが、たとえそれが本当であってもニミッツにそこまで言われては面白くない。が、事実シャーマン隊はカスリ傷も受けていなかったのである。それがボーガン隊と協力して栗田艦隊に襲いかかったのだからたまらない。
とまれ、この第三波攻撃で「矢矧」が損傷を受け、「武蔵」はさらに五本の魚雷と五発の直撃弾を受けた。計九本の魚雷を食らっては、いかに強靭な構造の戦艦も浮いているのがやっと、という状況であった。
第四波空襲が四十分後の午後二時二十一分。
三十機の敵攻撃機は瀕死の「武蔵」は狙わず、「大和」に攻撃を集中してきた。艦長森下信衛少将の巧みな回避運動で、直撃弾はわずかに一発。前甲板左舷錨鎖庫に当たった。大和型はバイタル・パートといって、艦中央の重要部分は厚い甲鉄で囲ってあるから、大した損傷ではない。三千トンの海水が入ったが、右舷に同量の海水を注入すれば水平になる。戦闘能力に全く影響はない。
シブヤン海での栗田艦隊に対する第五波空襲は第四波から約三十分後の、午後二時五十五分から始まった。この日の朝――午前十時過ぎに第一波を受けてから、ほとんど一時間置きに空襲は続いたのである。しかも第五波空襲は襲撃機約百機で、これまでの最高を数えた。オトリ機動部隊(小沢治三郎中将)は敵を引き付けていないのではないか、基地航空隊の総攻撃は失敗したのではないか、という栗田艦隊司令部の危惧がますます強くなったであろうことは想像に難くない。
艦隊は速度を二十四ノットに上げて、対空防御態勢を整えた。瀕死の「武蔵」は置いてけぼりにするしかない。そのため「武蔵」は、攻撃機の大半を一手に引き受ける羽目になった。この時だけで魚雷十一本、直撃弾十、至近弾六発を受けた。被雷総数は二十本である。この被雷数は「大和型」(「武蔵」は同型艦)を建造したときの、基本計画の限界をはるかに超えるものであった。
艦長は猪口敏平少将で、神風特別攻撃隊編成時の一航艦先任参謀力平中佐より六歳年長の実兄である。敏平艦長の長男智中尉(海兵七十二期)は戦闘機パイロットであった。十月三十日、フィリピンに着任した時、叔父の力平参謀に、
「親父はどうなったのかなあ」
と独り言のように尋ねたので、
「そりゃあね、艦と運命を共にしたらしいよ」
と力平参謀が答えると智中尉は黙っていた。それから三日後、智中尉は搭乗割もないのに、下士官の零戦に、
「おい、オレが代わる」
と言って強引に乗り込み、父親の乗艦「武蔵」が沈んだシブヤン海上空へ出撃して帰らなかった。父の後を追ったのである。
瀕死の「武蔵」を目のあたりにして、
「『武蔵』を掩護する必要ありと認む」
と打電したのは「利根」の艦長黛治夫大佐である。すると「金剛」の司令部から、
「直ちに北方にいたり同艦を掩護すべし」
と言ってきた。
「『利根』一隻で何になるか」
と黛艦長は怒鳴りたい感情にかられた。結局、駆逐艦「清霜」「島風」も掩護することになるが、戦場は非情なものでしかない。
さしもの「武蔵」も午後七時三十五分、シブヤンの海底に沈む。水深八百メートル。「武蔵戦闘詳報」による沈没位置は北緯十三度七分、東経百二十二度三十二分である(戦後探索したがいまだ沈没位置の確認はできていない)。
ここで、レイテ殴り込み作戦の中で問題となっている一つの電報について述べなければならない。午後一時十五分、第三波空襲の最中に、「大和」から、
「敵艦上機、我に雷爆撃を反復しつつあり、貴隊触接ならびに攻撃状況速報されたし」
と催促の電報を打ったことは前述したが、問題はここから始まる。いやこの前に始まっていた。
栗田艦隊が催促電を打つ前にオトリ機動部隊の小沢治三郎中将が、
「攻撃隊全力、艦戦四十、艦爆二十八、艦攻六、偵察二、フシ2カの敵機動部隊を攻撃す」
と十一時三十八分発で打電していたのである(機密二四一一三八電)。つまりオトリの小沢機動部隊が、
「敵機動部隊と接触したのでこちらは攻撃を始める。栗田艦隊はどんどん進撃を続けてくれ」
と言う意味の重要な電報を打っているのである。しかしこの重要な電報は、なぜか「大和」の栗田健男中将の手に届かなかった、というのである。
作戦終了後、陸軍でも海軍でも戦術単位の部隊で「戦闘詳報」を作るが、この電報の受信は「大和戦闘詳報」には載っていても、「第一遊撃部隊(栗田艦隊)戦時日誌及び戦闘詳報」には載っていない。
同じ艦橋にいて、行動を共にした栗田司令部と宇垣司令部の、重要電報の扱いが違うのはおかしいのである。
が、「戦闘詳報」は結果報告であるから、自分に都合のよいように書くのは仕方がないという側面もあったと考えるべきであろう。もっと極端に言えば、陸海軍とも一種のつじつま合わせになることが多いのは常識である。まして栗田艦隊は作戦目的であるレイテ殴り込みを放棄して反転しているから余計に、都合の悪いことは書かなかった、と考えても不自然ではない。
しかし第三期兵科予備学生(慶大出身)で少尉の暗号士として「大和」に乗っていた小島清文氏の『栗田艦隊』によると、小沢機動部隊からの電報は見ていないという。小島氏は栗田艦隊を弁護するためでなく、むしろ「栗田艦隊は退却したのだ」という立場に立っている人であるから「知らなかった」と言うのは本当だろう。
ただ、暗号士の小島氏が知らなかった可能性として挙げているのは、電信兵の受信状況が不良だったため、暗号室へその電報が回送されなかったのではないか、ということと、もう一つは回送されたが、栗田司令部がすでに退却を決意していたので不用になりボツにしてしまったのではないか――の二点である。
しかし、この電報が打たれていたのは事実で「利根」の通信士橋本敏明少尉のノートにはっきり受信したと書いている。
なのに、なぜ「大和戦闘詳報」にだけ載っているのだろうか。
一番考えられることは、やはり栗田艦隊が戦闘詳報を作文したということである。別に悪気はなかったろう。作戦を放棄したことに対するつじつま合わせをやったまでである。陸軍でも同じようなことをやっている。当時の軍人といえども、しょせんは官僚で、退却してもさらに上級の司令部が、後で命令を出し、退却を正当化することはざらにあった。何よりの証拠に栗田艦隊が退却しても、その責めを負う者は誰一人も出なかった。栗田中将は海軍兵学校の校長になっている。その意味では、堕落していたと言ってもよい。
小沢機動部隊からの電報は、栗田艦隊が第三波空襲を受けている時に打たれている。「大和」の主砲四十六センチ砲の発射音と風圧は想像を超えるほど大きく、小口径の対空火砲も全力を挙げて応戦している時であるから、「大和」の通信兵が受け損なったということも考えられるのである。
栗田艦隊が敵の空襲と戦いながら、シブヤン海を進んだ労苦は、並大抵ではなかったことは理解しなければならない。
昭和五十年、中国新聞に「人間の記録・郷土兵士の足跡」という企画を連載中、レイテ戦に関して記述を進めていたとき、読者から長文の手紙をもらった。広島県佐伯郡廿日市町地御前に住んでいる人で、当時四十八歳。特別少年練習兵第一期生の、少年電測兵である。したがって従軍当時の年齢は十七、八歳である。ある理由で、匿名が条件であったが、筆者もそれを了承したので匿名のまま紹介する。
「私は第一艦橋後部の方向探知機室が戦闘配置で、常に艦長や司令官のいる前艦橋に出て、戦況を見守っていました。したがって栗田司令長官の命令をこの耳で聞いたわずかな生き残りの一人です。
この戦闘でわめく参謀たちの姿に、私たち下士官はいささかがっかりしたものです。特に通信参謀のわめき方はひどく、『大和』の“森蘭丸”森兵長(吉田満氏の『戦艦大和の最期』に出てくる)は、散々泣かされたものです。
小休止で方向探知機室に帰り、声を殺して、参謀の無謀に近い命令に抗議するように泣いていました。森兵長は私と同年兵なのですが、少年通信兵の出身で、すばらしく電話(超短波無線により各艦に号令する暗号電話手)がうまく、その上大変な美少年でした。
私の『大和』乗艦は昭和十九年三月ごろだったように覚えています。初めての参戦は『あ号作戦』マリアナ沖海戦からです。レイテ戦の時は『戦艦大和の最期』を著した吉田満氏が私たちの電測班の分隊士でした。
私は電測兵でありながら、戦闘配置は通信分隊に所属する方向探知機室におり、ここの逆探と呼ばれている機械(現在は逆レーダー)を操作しておりました。したがって命令系統は通信長を頭にしたもので、吉田氏の命令系統から離れてしまうのです。『大和』の中で最も不思議な継子だったのです。そのため通信科のことも、ある程度知っておりました。
通信障害のことについて知っていることを書きます。
対空戦闘において、メインマストから後部三本マストにかけて張ってあるメイン送信用の太いアンテナ線が、両舷とも落ちたのです。これは全く太い銅のワイヤ線で、三人や四人の兵では直ちに張り替えることは不可能です。まして空襲下のことです。甲板には十二センチ高角砲や機銃弾の薬莢がうずたかく堆積しているのです」
戦艦「大和」がシブヤン海での空襲下に、どのような通信上の苦戦を強いられていたかは、艦橋からの視点よりも、甲板上で実体験を持った戦闘員の方が、より正確に知っている。完璧な基本計画のもとに建造された「大和」にも意外な弱点があったのだ。少年電測士の体験をいま少し聞こう。
「(空襲下の)甲板上で、アンテナの張り替えは容易ではないことを知りつつも“なぜ早くやらないのか、急げ”とわめき散らしていたのが通信参謀です。これには通信長もホトホト弱り、後で副長か艦長を通じて、この通信参謀に忠告があったと聞いております。
アンテナは夕暮れが迫るころ(二十四日)戦闘が一段落したところで、やっと張り替えたと記憶しています。これがまた落ちたのです。
通信が思うようにできなかったもう一つの理由は、『大和』の対空戦闘の時に起こる激震と、ごう音です。激しい超音波の中で脳ずいからはらわたまで、揺すり壊されるような感じです。五分も続くと頭が正常に返るまでに相当な時間がかかります。一般の人には想像できないと思います。
それと主砲です。主砲の射撃は思わぬ事故を自艦に起こします。まず電探や通信機の真空管が飛び出すのです。ひどい時には機械が移動してしまうのです。『大和』もこの障害で送信機が故障し、なかなか修理できず、通信が遅れたことを覚えています。届いた電報と届かぬ電報があったかもしれないのはそのためです。通信機のメカを知っている人なら別に不思議ではありません。
アメリカの記録に“日本の受信機の故障”とありますが(フィールドの著作の日本語訳に出てくるが翻訳の間違い)これが本当だと思います。
ここで日本の使っていた受信機(通信用)について書きますと、戦後、呉海軍工廠の無線関係の人たちが、米軍は日本海軍の受信機を見て、大変お粗末なのに笑った、と言っていました。しかし送信機には大変感心して持って帰ったそうです。昭和二十一年、第二復員局に勤め、駆逐艦『夏月』(復員船として使用)に乗っていた時に聞きました。私はカラーテレビの修理技術者として生活していますが、今考えると、まことにお粗末です。
『大和』の通信機室では一波帯ごとにコイルセグメント(区分け)を取り換えていたのです。それが四つぐらいのボックスになっており、これに四、五本の足が付いていました。したがって一艦(小型艦)に五台あっても、各自違った波長受信を持っており、まことに面倒なもので、現在のラジオのようにスイッチ一つの切り替えでパチパチと中波、短波、超短波など自由に切り替えることはできなかったのです。
それに全艦、士官、下士官、兵士とも極限に達するぐらい疲れておりました」
レイテ戦は、体験者が一様に語っているように、将兵にとっては、想像を超える苦闘の連続であった。そのことに異議はない。ただ、その過程の中で、旗艦「大和」の艦橋にいた栗田艦隊上層部の判断が、あまりにも不透明であったことは否定すべくもない。そのために、現在でもなお論議の的になっている栗田艦隊の行動をいま少し検証する必要があるだろう。
十月二十四日、午後三時三十分、栗田艦隊に対する第五波空襲が終わろうとしていた時、栗田健男長官は突然、
「左に一斉回頭し、針路二百九十度」
と命じた。針路二百九十度とは西向き、すなわち反転である。
これがシブヤン海での最初の反転である。翌二十五日、レイテ湾を前にしての決定的な反転――退却をする前に、栗田長官は、既に進撃をためらっていたのである。
「大和」司令室の幕僚も、各艦の指揮官も栗田長官の意図を解しかねた(防衛庁公刊戦史)。それ程突然の反転命令であった。そして三十分走った時(午後四時)、連合艦隊司令長官や、一航艦、二航艦、小沢機動部隊に宛てて、「航空攻撃に策応して日没一時間後、サンベルナルジノ海峡強行突破の予定にて進撃せるも、〇八三〇より一五三〇まで敵艦上機来襲機数のべ約二百五十機。漸次頻度および機数を増大しあり。今までのところ航空索敵、攻撃の効果も期待し得ず、逐次被害累増するのみにして、無理に突入するもいたらずに好餌となり、成算期し難きをもって、一時敵機の空襲圏外に避退し、友隊の成果に策応し進撃するを可と認めたり」(原文は片仮名交じり文)
と打電した。これは作戦変更を求める場合の慣用句である。
「こちらは一方的な攻撃を受けており、約束とは違う。したがって栗田艦隊はレイテ突入を止めたい」
という意思表示である。小柳富次参謀長は昭和二十五年二月に出版した『レイテ沖海戦』(アテネ文庫)の中で、
「栗田艦隊のみが敵機動部隊の全攻撃を吸収して、ひとり悪戦苦闘しているように思われた。基地攻撃部隊はなんら有効なる攻撃を加えている模様もない。また小沢機動部隊の戦況も皆目不明である。このまま推移せば日没を待たずして栗田艦隊は無力化するであろう(中略)――として意見具申した」
と書いている。
栗田艦隊は反転を開始して五十分後、おいてけぼりにするしかなかった戦艦「武蔵」の近くに戻った。「武蔵」は船首を水面に浸しながらも、巡洋艦「利根」、駆逐艦「島風」「清霜」に守られて、なお懸命に浮かんでいた。僚艦の「大和」は近寄り、宇垣纏中将が、
「全力を尽くして保全に努めよ」
と信号を送った。
前に紹介した「大和」の暗号士、小島清文少尉の説に従うと、時間的な経過から栗田艦隊が再反転してレイテに向かったときには「武蔵」は既に沈んでいることになるが、「武蔵」は浮いていたのである。宇垣中将の『戦藻録』には、「一度行き過ぎて再び反転、日没近く(一九〇〇前)更に『武蔵』の傍を過ぐ。状態大なる変化無く機械の一部及び舵も効くという」
という記述があり、終始「大和」と行動を共にしていた駆逐艦「浜波」の山口勝士主計中尉(広島市東区福田八丁目)も、
「再反転してレイテに向かうとき浮いている『武蔵』をはっきり目撃しています」
と証言している。他にも目撃者は多い。これにたいして小島氏は、
「GF(連合艦隊)からの指示を待ちながら同じ海面で円運動をしていたということもある」
と言っているから、沈没前の「武蔵」を見たのは“円運動”中のときということになるのだろうか。
小島説にしたがって「大和」の行動を整理してみると、シブヤン海での空襲後に反転を開始し、一時間半ほど走った時点で、
「一時敵ノ空襲圏外ニ避退ス」
の反転電を連合艦隊に打電。一方連合艦隊司令部としては空襲で艦隊の被害が多いことが分かっていたから、栗田長官は進撃を止めて引き返すかも分からないと判断(航空総攻撃も効果がなかったことも分かっていた)し、そこで、
「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
の激励電を打電。それを見て栗田長官は再進撃を開始した、ということになる。
いずれにしても「大和」の反転、再反転(再進撃)を巡っての論争は今も続いており、ナゾはなかなか解けない。
栗田艦隊の一方的な「反転」の通報を受けた連合艦隊司令長官豊田副武大将は、
「栗田長官は苦しくなって、進撃をやめて引き返すかも知れない」
と心配した(公刊戦史)。栗田長官にはこれまでにも心配させるような前歴があったからである。
ところで、二十四日午後四時(午後五時半を過ぎていたという証言もある)に打電した栗田艦隊の反転電が、何時何分に東京の連合艦隊司令部に届いたかは、公刊戦史にも書いてない。このことは、重要な意味を持つものであるから、読者は記憶しておいてほしい。
ただこの電報で連合艦隊司令部の中にかなりの論議があったが、容認する者もいて連合艦隊の意見は一時その方向に傾いた(公刊戦史)。
参謀の一人が、作戦を中止する趣旨の起案電文を持って情報参謀中島親孝中佐のところに来て、
「発信してほしい」
と言った。中島中佐が案文を見ると長官や草鹿龍之介参謀長の決裁印もあった。これは大変だ。反転を許せば捷号作戦は駄目になってしまう――と中島中佐は考え、ふと見ると参謀副長高田利種少将の捺印がないのに気づいた。
「こんな大事なこと、参謀副長の意見も聞いてみる必要がある」
と案文を突き返した。参謀はその足で高田副長を訪ねた。高田副長は航空機作戦の専任で、艦隊作戦には関係していなかったが、反転には不賛成であった。そこで再び参謀が集まり、栗田長官の反転電を承認せず、作戦続行となった。
ただ、高田副長の記憶は少し違う。二十四日の“夕刻”に突然、豊田長官に呼ばれ、
「栗田長官から反転したいと言ってきたがどう思うか」
と聞かれた。高田副長は、
「連合艦隊司令部はさきに全軍突撃せよと打電したばかりであり、ちょっとケガがあったからといって、反転を許せばこれまで苦心してきた捷号作戦が水の泡になる」
と答えた。司令部で協議の結果“反転反対”ということになった(公刊戦史)。
ここで注目したいのは、高田副長が、
「全軍突撃電を打ったばかり――」
と言っていることである。このことは重要な問題なので後でふれる。
「栗田艦隊が反転電を打ったのは、午後五時半を過ぎていた」
と述べているのは、小島清文少尉である(同少尉著『栗田艦隊』)。小島氏の証言によると、反転の電文が栗田艦隊の司令部から暗号化するために小島少尉の手元に回ってきたのは、夕食後であった。既にその時には栗田艦隊は反転していたのである。電報起案の時刻は一六〇〇(午後四時)となっていたが、司令部としても容易に結論が出ず、遅れたのであろう、と言う。
小島少尉は「これで命が助かる」と思いながら急いで暗号化して通信兵に渡した。通信室に笑い声が起こった。
それから約一時間たった午後七時ごろ、連合艦隊司令部から緊急電報が「大和」の通信室に入った。小島少尉は急いで「呂《ろ》暗号書」と乱数表で翻訳した。小島少尉が愕然としたのは、
「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
という連合艦隊機密二四一八一三(二十四日午後六時十三分)番電であったからである。
小島氏が書きたかったのは、戦場の実相であり、世に出ている多くの栗田艦隊に関する著述が「作りものの戦史」によっていることが我慢ならなかったためである。
公刊戦史には、栗田艦隊が二十四日午後四時の日付と時刻で連合艦隊に打ってきた「反転電」が何時に東京に着いたかの記述のないことは先に指摘した通りである。このあたりの公刊戦史の記述は、つじつまを合わせるのに苦労していることが、丹念に読むと分かるのである。
「大和」に関連したレイテ作戦の戦闘詳報は、米国から返還された(占領後、重要なものは米国に持ち去られた)「大和戦闘詳報」と「第一遊撃部隊(栗田艦隊)戦時日誌及び戦闘詳報」とがあるのは前に書いたが、「大和戦闘詳報」は栗田艦隊が午後五時十五分、自発的に再反転してレイテに向かった、と書き、「第一遊撃部隊戦闘詳報」は、連合艦隊の「全軍突撃セヨ」の電報を見て反転した、と書いている(時刻の記述はない)。公刊戦史は、「大和戦闘詳報」の方を採用しているわけだ。連合艦隊から、しりをたたかれてやむなく反転した、と書くよりも、自発的にレイテに向かった、と書いた方が栗田健男司令長官以下、首脳部の体面を傷つけないからである。
小島氏の著作は、連合艦隊や栗田艦隊所属艦の暗号士として乗り組んでいた予備学生出身士官のメモも資料として使用しており、決していい加減なものではない。たとえば巡洋艦「利根」には同期の橋本敏明少尉がおり、丹念なノートを残している。
確かに、公刊戦史の記述に連合艦隊参謀副長高田利種少将の、
「連合艦隊は先に、全軍突撃せよという電報を打っておきながら、反転を認めるのはおかしい」
という意味の証言が出ているのは、次々と僚艦が空襲でやられ、航空部隊の戦果もおもわしくなく、嫌気を起こした栗田長官が反転してしまうのではないか、という不安があったことを物語っている。
なによりも豊田連合艦隊司令長官が、
「栗田長官は苦しくなって引き返すかも知れない。それで全軍突撃せよ、という電報を打った」
と回想している。公刊戦史の筆者も困っていることがうかがえる。
シブヤン海で、栗田艦隊が反転して一時間十四分後、栗田長官がいきなり、
「引き返そう」
と告げた。
伊藤正徳氏の著作『連合艦隊の最後』は、この時驚いた幕僚が問い返すと、
「いいんだ。行くんだ」
とだけ答えて黙った、と書いている。
伊藤氏はかつての海軍記者であり、栗田健男長官とは中学の同窓という個人的な関係もあった。徹底した海軍ファンでもある。
それはともかく、公刊戦史によると、栗田艦隊は午後四時に反転したが、敵の空襲はぴたりとやんで、キツネにつままれたような時間が過ぎていった。実はこの時、オトリの小沢機動部隊がハルゼーの空母群を引き付けることに成功していたのである。もちろん、このことは栗田長官は知らない。
栗田艦隊が自発的に引き返した(公刊戦史)一時間半後に、連合艦隊司令長官から、
「天佑ヲ確信シテ全軍突撃セヨ」
という電報が入り、さらに一時間十二分後、栗田長官の「反転電」に対する回答が来た。
これは、
「先の電報の通り、突撃せよ」
というもので、さらに草鹿龍之介参謀長の説明電が付いていた。内容は、今反転されると捷号作戦の根幹が崩れてしまうという、もらってうれしくない電報である。戦場に臨んでいる司令長官が、「しっかりやらないと、作戦の根幹が崩れる」とやられては、昔なら切腹ものだろう。
要するに、栗田艦隊は「全軍突撃セヨ」という電報を二度もらったのである。
公刊戦史は、
「どうしたことか、自隊の反転の報告は行ったにもかかわらず、その再進撃については、東進以来四時間も連合艦隊にも、関係部隊にもなんら報告をしていなかった」
と書いている。いかにも苦しい。空白の四時間は説明のしようもないのである。
栗田艦隊が反転中も、再反転中も敵の空襲を受けなかったのは、高速空母部隊を指揮するハルゼーが栗田艦隊の反転を知り、午後三時三十分、航空攻撃を中止したためである。
栗田艦隊は退却中であり、西村艦隊、志摩艦隊も取るに足らない。それらはキンケイドの第七艦隊(護衛空母と戦艦)にまかせ、北方海上にいる小沢機動部隊に全力攻撃を加えることが重要と考えた。ハルゼーは午後八時過ぎ、全艦隊に北上命令を下してつっ走った(モリソン戦史)。
このためサンベルナルジノ海峡はがら空きとなり“連合艦隊司令部の「全軍突撃」電”によって再反転した栗田艦隊は二十五日午前零時三十分には、同海峡を何事もなくすり抜けていた。連合艦隊司令部の作戦が、この限りにおいては、まんまと当たったのである。
栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡通過でレイテ湾のマッカーサー軍は大恐慌を起こす。このため戦後にハルゼーは査問委員会にかけられたが、それはアメリカの問題だ。
不可解な栗田艦隊の戦場離脱
二十五日午前零時半、栗田艦隊(第一遊撃部隊)がサンベルナルジノ海峡をすり抜けた時の戦力は戦艦四、重巡六、軽巡二、駆逐艦十一隻の計二十三隻に減っていた。ブルネイ出港時三十二隻だったものが、空襲による沈没と、損傷艦の護衛などで脱落したのである。予定時間は計画より六時間も遅れていた。
ここで小沢機動部隊の動向を見たい。
二十四日午前十時四十八分、基地航空隊(フィリピンの一、二航艦)の索敵機の報告が入り、二十七分後には「瑞鶴」から飛びたった索敵機が「敵空母不明なるも十数隻発見」という報告をしてきた。
小沢治三郎中将は旗艦「瑞鶴」にZ旗を掲げ、全機出動を命じた。が、発艦取りやめがかなりあり、「瑞鶴」から二十四機、「瑞鳳」から十三機、「千歳」から十一機、「千代田」から九機、計五十七機が正午過ぎ発進したにとどまった。
攻撃機は発進一時間後、グラマンの待ち伏せに遭い、空戦となった。ハルゼー指揮下のシャーマン隊である。六、七機の爆装零戦が空母「レキシントン」「エセックス」「ラングレイ」に急降下爆撃を行ったが、効果はなかった(モリソン戦史)。既にこの時、空母「プリンストン」は二航艦の彗星艦爆の奇襲によって損傷していたことは前に書いた。小沢機動部隊と基地航空隊とが、連携は取れなかったものの、同じ敵を攻撃し始めたのである。
ただし小沢機動部隊にとっては、手持ちの飛行機を失うだけの結果となった。空戦で撃墜されたのは八機であったが、ほとんどがフィリピンのアパリとツゲガラオの基地に着陸し、母艦に戻ってきたのはわずかに三機であった。
栗田艦隊がシブヤン海で空襲を受け、損害を出していることを小沢長官は「大和」からの無電で知っていたから、任務である「敵機動部隊を北方に誘いだす」ことがまだ成功していない、と判断した。そこで任務に忠実な小沢長官は、ためらうことなく、
「戦艦『伊勢』『日向』と駆逐艦は南方に進出せよ」
と命じた。敵に発見されることが目的という、あまり例のない作戦を成功させるためには、しゃにむに目立つように行動する必要があったのである。
この分派行動は確実にハルゼー艦隊のレーダーに捕らえられていた。ニミッツは言っている。
「こんな大規模な海軍部隊の作戦に空母兵力を使わないことはあるまい」
と。そして探し求めていた小沢機動部隊をやっと捕まえたのである。小沢艦隊の犠牲的な行為をニミッツは褒め、
「小沢提督は確かに北方にいた。しかも、米軍側の注意を引き付けるためにあらゆることをやった。煙を高く出したり、種々の波長を出して無線封止を破り、第三艦隊(ハルゼー艦隊)と接触し交戦するため水上部隊を前に出してみたりしながら――」
と書いている。
ハルゼーが小沢機動部隊の誘いに乗ってきたのは二十四日の夕刻である。敵の触接機が小沢機動部隊を離さなかった。小沢治三郎中将は、明二十五日こそ敵の攻撃を受けるだろう、と予測した。そしてこの読みは完全に当たっていた。
小沢長官はエンガノ岬(ルソン島)沖に先行させた「伊勢」「日向」との合流地点に急行しながら、二十五日午前五時四十五分、上空直衛に必要な戦闘機と潜水艦攻撃用の艦上攻撃機二、三機を残し、他は全部フィリピンの基地に向かわせた。捨て身の覚悟も、ここまでくればすごみさえ感じる。が、これは小沢長官がパイロットの技量を信じていなかったというよりも、量的に敵に食われるだけでしかないパイロットに、違った形の戦いをさせたかったからではないか。
小沢機動部隊の旗艦、「瑞鶴」と戦艦「日向」の電探が、ハルゼーの攻撃機群を探知したのは二十五日午前七時十三分である。真西の方向、百七十キロの上空であった。
七時三十二分、小沢治三郎長官は、問題の電報、
「機動部隊本隊は敵艦上機の触接を受けつつあり」
を連合艦隊司令部をはじめ関係部隊に打電した。この意味は、
「ハルゼーを釣り上げた」
という“作戦成功”を報じた第一報である。これまでにも、小沢機動部隊が攻撃機の全力を挙げて出撃すること、前衛部隊(「伊勢」「日向」)を先行させた(敵に発見されるため)ことなど逐一無電で通報しているが、これほどはっきりした内容ではなかった。
「敵機動部隊を引き付けた」
というこの重要な電報は「大和」の受信室まで届いていたのに、艦橋の栗田長官の手元には届かなかったという、いわく付きの電報となったものである。
とまれ、小沢治三郎中将の打った電報と入れ違いに、栗田艦隊が午前七時に発信した「空母三に対して砲撃開始」という電報が届いた。これは後述するが、サマール島沖まで進出した栗田艦隊が敵空母(護送空母を正規空母と間違えていたが)と偶然にも出くわし、砲撃するという信じられないような海戦の通報であった。
これはマニラの一航艦、二航艦の司令部にも届いた。
ハルゼーの攻撃機は、八十機と五十機に分かれて午前八時十五分、第一波が小沢機動部隊に襲いかかってきた。直衛の零戦十八機が突っ込む。群は増え百七十機になった。
が、ハルゼーの計画によれば、空襲で空母を沈めるだけでなく、第三艦隊の旗艦「ニュージャージー」以下の主砲にものを言わせて、艦隊決戦によって日本艦隊を沈めようという魂胆を持っていたのだ。
空襲でまたたくまに空母「千歳」が沈没。敵の攻撃は間断なく続き、午後五時までの間に、「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」の三空母もついに海底に沈んだ。米側資料によれば、出撃機数は五百二十七機であった。
殺到するハルゼーの攻撃機に、小沢機動部隊としてはもはや対抗する手段はない。
小沢治三郎中将は、しかしオトリとしての役目を十分に果たした。が、この勇猛な司令官は、なおもハルゼーを引き付けておくつもりであった。
午前十時五十四分、沈没寸前の「瑞鶴」から巡洋艦「大淀」に移乗して将旗を掲げ、十一時七分に、
「『大淀』に移乗、作戦を続行中」
と打電した。あくまでも戦っているぞ、という意思の表明である。
この電報は「大和」に十二時二十一分に届いた。この時、栗田艦隊は敵空母との戦闘を終了して、レイテに向けて進行中であった。だが、この電報もまた「大和」艦橋の栗田長官の手元には届かなかったことになっている。
出撃時十七隻だった小沢機動部隊は空母四、軽巡一、駆逐艦二を失い、十隻に細っていた。
“ブル・ランス”(雄牛の突進)とあだ名されていたハルゼーが、ニミッツ(太平洋方面最高指揮官)によって呼び戻されなかったなら、戦艦「ニュージャージー」の四十センチ砲によって、小沢機動部隊は本当に全滅になっていたかもしれない。
ここで、ハルゼーの反転の経緯について少し触れる。
栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡を通過したこと、西村、志摩両艦隊がそれぞれレイテ湾を目がけて突入していることなど、ハワイの司令部で戦闘の全般を眺めていたニミッツはあらゆる情報を分析して知った。レイテ湾ががら空きとなったのを見た時、作戦の指導に乗り出すべきだとして、一通の電報を打たせた。その文面は、ハルゼーを怒らせるに十分であった。
「第三四任務部隊(ハルゼー艦隊)はどこにありや、(繰り返す)全世界は知らんと欲す」
という、戦後アメリカの海軍関係者間で有名になった電文である。
米軍の通信は、本文の前後に不必要な文章を加えて送信することになっている。ハワイ司令部の通信士は、たまたま若い少尉候補生であった。ふと思い付くままに、「全世界は知らんと欲す」という詩の一節を付け加えたのだ。この電文を「ニュージャージー」の通信室が受けたのが十時過ぎ。緊急電となっていたため、前の不要な文章は削ったが、後の方はいかにも関係ありそうな言葉なのでそのまま生かし、ハルゼーに手渡したものであった。それを見てハルゼーはプライドを傷つけられ、怒り心頭に発した。一時間ほど黙って走って、やっと命令通りの反転をしたが、その時の位置は小沢機動部隊と七十八キロしか離れていなかった。あと一時間で「ニュージャージー」の主砲は火を噴いていたはずだ。
それとも知らず、小沢長官は十隻の弱小艦をもって一戦交える積もりで南下していたのである。
小沢機動部隊は、力尽きて敵に会うこともできず、ついに針路を北に向けた二十六日午前一時ごろ、前日の午後十時四十分に発信した栗田艦隊の作戦終了電を見て戦闘の終末を迎える。作戦の終了を告げた帰投電を見ては、もはや単独の戦闘は意味がない。小沢長官は残隊を率いて二十六日午後、奄美大島に回航した。
一方、主隊の栗田艦隊より七時間半後にブルネイを出港し、最短距離を通ってスリガオ海峡からレイテに向かう西村祥治中将の艦隊は二十五日午前一時三十分、大した抵抗も受けることなく海峡に入った。栗田艦隊に敵機が集中的に攻撃を加えていた時に前進することになったのが幸いした。
海峡入り口で、西村中将は駆逐艦「満潮」を先頭に、「朝雲」、戦艦「山城」「扶桑」、巡洋艦「最上」の順に並び、「山城」の左右一・五キロに「山雲」と「時雨」を配置、二十ノットに増速して敵の攻撃に備えた。
ところが、午前三時十分、いきなり戦艦「扶桑」が魚雷艇によって攻撃を受け、誘爆によって二つに割れた。続いて駆逐艦「満潮」「山雲」も魚雷でやられた。この間五分であった。
スリガオ海峡の北口で待ち受けていたのは、キンケイド中将の第七艦隊であった。先頭に魚雷艇、次いで駆逐艦群、最後に戦艦群という三段構えの布陣であった。
敵駆逐艦群に襲われた場所はレイテ島の南端ママグサン岬とディナガット島に挟まれた幅二十八キロにも満たない狭水道である。夜戦は日本海軍の最も得意とする戦法で、長年の訓練を積んできたものであるが、人間の目でみる以外になかったから、レーダーで魚雷を発射するアメリカ海軍の戦法にはかなわない。
それでも西村艦隊はひたすらに前進した。が、十分後の午前三時五十分、「山城」「最上」「時雨」はどこからともなく飛んでくる艦砲射撃の弾幕下に置かれていた。
夜間、探照灯で照射することもなく敵の砲弾が飛んできて、「山城」の艦橋に火災を発生させ、三番砲塔以下を使用不能にする命中弾を与えた。年配の読者ならよく知っている名前であるが、この弾丸を撃ち込んできたのは、第七艦隊司令長官キンケイド中将指揮の米戦艦六隻を中心にしたものであった。「ミシシッピー」はともかく、「メリーランド」「ウェストバージニア」「カリフォルニア」「テネシー」「ペンシルベニア」の五艦はいずれも開戦時に南雲艦隊のパイロットが、パール・ハーバーの湾内に沈めた戦艦であった。まさか、と思うのは仕方ない。米国はサルベージして浮き上がらせ、完全に修理し、レーダー射撃装置を完備し、西村艦隊を待ち受けていたのである。
ニミッツによると、二万一千メートルに西村艦隊が近づいた時、まず巡洋艦隊が発射、一分後に戦艦が砲列を開いた、という。真珠湾から生き帰った戦艦は、主砲をもって復讐したのである。
西村艦隊に対して行ったレーダー射撃は、四十センチ砲と三十六センチ砲が約三百発、二十センチ砲と十五センチ砲が四千発であった。どうにか沈没を免れたのは、重巡「最上」と駆逐艦「時雨」であったが、「最上」は艦橋を撃ち抜かれて首脳部を失い、砲術長が指揮を執って炎上しながら退避行動をしなければならなかった。
スリガオ海峡での夜戦は、ミンダナオ島のスリガオを警備していた陸軍兵を感動させた。福山市を徴兵区に持つ四十一連隊の一部がおり、陸上から狭い海峡で展開された海戦を見た珍しい例である。
「どちらが敵か味方か知るよしもないが、燃えている軍艦から次々と大砲が発射され、海軍魂とはこんなものか、と感動を覚えた」
と言わしめた。主砲の射撃は夜間なら曳光弾のように見える。燃えていたのは日本の艦隊であったが、真っ赤に炎上している軍艦から、すごい勢いで火線がしきりに飛んでいたそうである。
そのころ、第二遊撃部隊として、西村艦隊の後方、四十キロを進入していた志摩清英中将の艦隊――旗艦「那智」のほかに重巡一、軽巡一、駆逐艦四の小艦隊――がスリガオ海峡に到達する。西村、志摩艦隊は指揮系統が違い、連携は全くとれていなかった。午前四時十五分、不幸は重なり、すれ違いざま運動の自由を失っていた「最上」と「那智」が接触する事故を起こした。「那智」の速力は二十ノットがいっぱいとなった。
スリガオ海峡に入って志摩艦隊の将兵が見たものは、日本艦隊の残がいであった。将兵はそのすさまじさに驚愕した。北の方に戦艦「山城」が炎上しながら浮かび、駆逐艦「時雨」は艦首を左右に振りながら退避中であった。はるか南方には戦艦「扶桑」が二つに割れて炎上し、そのさまは“溶鉱炉から出てきた鉄塊を見るようであった”(志摩清英中将日誌)という。近くには駆逐艦「朝雲」が艦首をもぎ取られて徐行していた。「最上」はさらに敵機の空襲によって被害を増し、結局、志摩艦隊の駆逐艦「朝雲」の魚雷で撃沈する(二十五日午後零時三十分)。西村艦隊で脱出に成功したのは駆逐艦「時雨」だけであった。
レーダー射撃のすさまじさをだれもが、はっきりと見たのである。
西村艦隊の残がいを見た志摩中将は、全滅を覚悟して突入しようとしたが、幕僚の意見は「敵情が不明であり、主隊の栗田艦隊の動向がはっきりするまで、海峡外に出て様子を見ることが賢明である」との方針に固まった。
「当隊攻撃を終了、一応戦場離脱、後図を策す」
と打電したのは午前四時二十五分。これを見たマニラの南西方面艦隊司令部(志摩艦隊はその指揮下にあった)の参謀は、
「命令違反だ。指揮官は銃殺だ」
と激怒した。が、いかんともし難い。
「最上」が退避行動中、のたのたと十ノットの速力で応急措置を行いながら、なおもレイテに突入せんとしている軽巡「阿武隈」を見る。
魚雷にやられて、応急操舵による十ノットの低速でなおもレイテに進撃を続けていた軽巡「阿武隈」には、司令官として木村昌福少将が乗っていた。
木村少将は同じ「阿武隈」で昭和十八年七月、奇跡と言われたキスカ島の撤退をやってのけた、冷静で闘志のある指揮官である。
戦後は徳山市に住んだ。製塩業を営み、三十五年に死没したが、キスカ撤退のことなど一言も語らず、「文藝春秋」(三十二年十一月号)に元連合艦隊参謀千早正隆氏が寄稿した一文を読んで初めて家族も知ったというほどの人であった。これが縁となって名誉山口県民の栄誉が贈られた。
はうようにしてでも、レイテに向かおうとする闘志――それは与えられた任務を忠実に果たそうとする使命感である。はしなくもレイテ戦で指揮官たちの人間性があからさまになる。
とまれ、十ノットしか出ない応急操舵で戦闘はできない。志摩長官は主隊、西村艦隊の全滅を信号し、午前五時三分反転を命じた。
戦後、志摩艦隊と西村艦隊の連携の無さを非難したのは、フィールドやニミッツたち戦勝国側の著作だが、連携がとれなかったのは前述したように、油の問題で同一距離を進めなかったことと、各艦の速力があまりにも違いすぎて、艦隊行動が不可能であったからだ。また無線封鎖の処置がとられていて、交信もままならなかったことにも原因がある。
志摩艦隊は損傷した「最上」の処分などで手を取られているうちに、栗田艦隊からの「集結せよ進路零度(真北。反転を意味する)」という電報に接する(十二時三十六分「大和」から打電)。やがて栗田艦隊がレイテ突入を断念したことを知り、すべてが終わる。が、これは八時間後のことである。
主題である栗田艦隊の動向を見なければならない。
小沢機動部隊、西村艦隊、フィリピンの一航艦による特攻攻撃、二航艦の航空総攻撃におけるばく大な味方の犠牲も有効に作用して、サンベルナルジノ海峡をすり抜けた栗田艦隊は、午前四時過ぎにはサマール島北岸約百キロの海域に迫っていた。
この日、サマール島沖の日の出は午前六時二十七分であった。
十八分後の六時四十五分、「大和」の見張り員は進行方向の左側、三十五キロの海面に数本のマストを発見した。スルアン島(レイテ戦で最初に米軍が上陸した島)灯台のほとんど真北、九十五キロの地点である。
「まさか」の敵発見であった。栗田長官が全軍に「最大戦速即時待機」を命じた時、それが敵空母であり、飛行甲板から飛行機が離発着しているのが見えた。
戦艦が空母を射程距離に捕らえることはまず考えられない幸運である。殺気と闘志がみなぎった。
正規空母は三十ノット以上のスピードが出る。合成風力の関係で、低速では飛行機の離発着ができないからである(栗田艦隊はサマール島沖で見つけた護送空母を正規空母と思っていた)。「大和」の二十七ノットよりも速い。海戦には戦闘隊形が確立されていて、明治以来その訓練に命を削ってきたのだが、この場は戦闘隊形など整えている暇はない。
「現陣形のまま全速突撃」
栗田長官は命じた。
この時、「困った」と「大和」の主砲測的長隠沢兵三大尉は思った。艦隊と撃ち合いするなどこの時点ではまだ考えていなかったので、自慢の四十六センチ砲には、対空戦用の三式弾が残っていたからだ。
「前日の対空戦が三式弾の信管秒時を五秒か七秒にした時点で終わったので、次の空襲に備えて四十五秒に修正して砲身に装填したままでした。三式弾が残っていたわけです。秒時は砲口から兵隊を入れて三式弾の頭に付いている秒管を回して修正します。夜中に作業をやったのですが、砲身の中は暗く、作業をする兵は懐中電灯を持ち、外からは作業灯を照らしました。まさか対艦砲戦になるとは思ってもいなかったので、慌てました。したがって『大和』が敵の空母に対して撃った第一弾は三式弾だったですね」
体験者でないと分からない裏話だが、それほど意外な敵空母との出合いであった。
ついでながら「大和」は三連装の砲塔が三つ。前向きに六門、後ろ向きに三門、計九門の主砲を持っていた。最大射程は四万メートルを超えた。
艦長は対空戦の時には、屋根もない艦橋のてっぺんの防空指揮所に上がって指揮を執る。そばには副長(副艦長)が付く。
隠沢大尉は、副長の能村次郎大佐が砲術長兼任であったため、対空戦の時には砲術長に代わって前六門を指揮した。水上戦(対艦砲戦)になると、砲術長が方位盤(統一発射装置)のある主砲指揮所で全部の指揮を執る。
宇垣纏第一戦隊司令官が指揮下部隊に射撃開始命令を出したのは、午前六時五十八分である。敵空母との距離三万二千八百メートル。「大和」「長門」が水上艦艇に向けて主砲を撃ったのはこの時が最初である。“艦隊決戦”など帝国海軍の片思いであったのだ。
最も敵空母に接近したのは戦艦「金剛」で、午前七時、距離二万四千メートルで第一弾を発射した。
「大和」の初弾が命中した、いやしなかった、と両説があるが、隠沢大尉の記憶だと「当たったと思う」。いずれにしても護送空母を正規空母と見ての攻撃であったので、攻撃方法に迷いがあったことは確かだ。モリソン戦史は、
「絶体絶命の境地から、全く信じられない栗田艦隊の攻撃中止によって救われた」
と書いている。
栗田艦隊が遭遇した敵空母群はC・A・F・スプレイグ少将の率いる三群の一つ、「タフィ3」で護送空母六、駆逐艦三、護衛駆逐艦四の計十三隻である。マッカーサーの上陸軍を守る第七艦隊に所属していた。護送空母は商船やタンカーを改造したもので、最高速力は十七、八ノット、飛行機の積載能力は一艦で十八機以下の、いわば弱小空母群であった。
栗田艦隊が午前七時に第一弾を発砲し、九時二十分攻撃を中止するまでの約二時間で、空母「ファンション・ベイ」を撃沈、同「カリニン・ベイ」「ガンビア・ベイ」を大破、駆逐艦三隻を沈めた。(米側資料には損傷艦はなかったと記述されている)
栗田長官は正規空母だと思っていたので、スピードのある巡洋艦や駆逐艦を先に出しても雷撃は間に合わないとみた。日本の誇る九三式魚雷(これが特攻兵器“回天”に改装される)でも動き回る敵艦に有効な射程は一万メートル以下である。そこまで近づくには時間がかかるから、軍艦の主砲の方が有効と考えた。
これまで敵の空母を直接見た者はいないのだから、栗田司令部の判断は非難できない。ただ、攻撃前進している間に敵を目前にした巡洋艦や駆逐艦はいた。九時十二分、突然、艦隊司令部が、
「逐次集まれ」
と全軍に命令を出した時、あと一歩のところまで追い詰めていた重巡「羽黒」「利根」(敵空母まで一万メートル)、「矢矧」(同一万三千メートル)の将兵はじだんだを踏んだ。
「利根」の通信士、橋本敏明少尉(兵科三期予備学生)が克明な電報のノートを残していることは前に紹介した(小島清文『栗田艦隊』)が、一万メートルに敵を追い込んだ時、艦長の黛治夫大佐が、橋本少尉に電報作成を命じた。目前にいる敵艦隊はなお健在であり、これまで伝えられているような戦果はまだあげていないことが分かったからだ。
「敵艦隊は煙幕を張りつつ逃走中なるも敵空母五隻なお健在なり」
という極めて具体的な内容であった。この時、黛艦長によれば「羽黒」に対して、
「敗走の敵空母に対し、統一魚雷戦を行われたし、われに三回分の魚雷有り」
と信号したが、「羽黒」からの返事は、
「効果なしと認む」
であった。橋本少尉によれば「利根」の魚雷指揮官が、しきりに魚雷を撃ちたがって、黛艦長に催促したという。魚雷戦の難しさを物語るエピソードである。
それはともかく、この時、橋本少尉は十八センチ望遠鏡で、敗走する敵艦隊の行く手に突然、多数の艦艇や輸送船団、病院船まで見ている。輸送船や病院船がいることはまぎれもなく、ここがレイテ湾内であることの証明である。黛艦長は、
「通信士、電報だ」
と命令した。橋本少尉は伝声管に飛びついて、
「レイテ湾内に敵艦、輸送船、病院船多数あり、絶好の攻撃の機と認む」
と通信室に叫んだ。この電文は平文(日常の文章)で「大和」に打たれた。すぐに空襲が始まったが、「大和」からは返事がなかった。橋本少尉は通信兵を呼んで、「大和」が間違いなく受信したかどうか、もう一度念を押した。通信兵は、
「間違いありません。あの了解という打ち方は、彼に間違いありません」
と答えた。通信兵にはそれぞれ通信機をたたく時の癖があり、お互いに訓練して熟知している間柄だという。
ただし黛艦長によれば、この時、阿部航海長が、
「艦長、これはおやめになったらいかがですか。これをやれば、『利根』一隻だけがやらされます。そうすれば効果がありません。わが主力は、北に現れた新しい敵主力と決戦するのです。味方の重巡は二隻(『利根』と『羽黒』)だけです」
と言って中止させた、としている。
黛艦長の記憶違いか、問題をぼかしたのか、この時にはまだ「大和」から「北方の敵」については、なにも言ってきてはいない。
レイテ湾近くまで栗田艦隊の一部が、前進していたことは、米公刊戦史も認めている。ハルゼーを求めて、ニミッツ太平洋艦隊総指揮官の打った電報、キンケイド第七艦隊司令長官の慌て方、マッカーサーの心配と枚挙にいとまがない。
とまれ、この時の米駆逐艦群の防御戦闘の勇敢さについては、日本側も褒めている。煙幕を張って空母を隠し、魚雷を撃ち尽くすと、威嚇動作をするなど身をていして栗田艦隊の近づくのを防いだ。
二時間の戦闘であった。
栗田長官は九時五分、艦隊の集合の決意をする。艦隊は陸軍の各個攻撃のように、ばらばらになって広い海面に散らばり、「大和」の艦橋にいる栗田長官には、どの艦がどのような戦闘をしているのか、よく分からなかったらしい。各個攻撃の弱点が出たともいえた。
護送空母から飛び立った飛行機の空襲が始まり、各艦はそれを排除しながら定められた集合地点に向かった。が、このあたりから、しだいに栗田長官の考え方に変化が見られる。
栗田長官の指示した集合隊形は、
「針路零度、速力二十二ノット」
である。針路零度とは真北、つまりレイテとは逆の方向に進みながら艦隊集合を下令したわけである。そして艦隊の集合に二時間かかった。
午前十一時、
「針路二百二十五度(南西)に一斉回頭」
と信号してやっとレイテに針路をとった。この時の地点はスルアン島から約百十キロ。目的地のタクロバン(レイテ湾の敵上陸地点)まで同じく百十キロあった(公刊戦史)。
栗田艦隊が攻撃をやめ、艦隊に集合を命じ、二十五日午前十一時に一斉回頭してレイテに向かった地点は、栗田艦隊がC・A・F・スプレイグの護送空母群と遭遇して戦闘を開始した時と同じ海域であった。四時間後に振り出しに戻ったわけである。
栗田長官の艦隊集合の慌ただしさは、乗り組みの将兵にとっては意外の感を抱かせたほどである。大和測的長の隠沢兵三大尉によると、傾斜した敵の空母が浮いているそばを通っていったという。
「一発撃てば沈没するのになぜ撃たしてくれなかったのかと、今でも不思議に思う」
と回想している。
戦後米国の調査団が、栗田長官に対して、
「レイテに突入する前、なぜレイテの方向に進みながら隊形を整えなかったのか」
と、もっともな質問をした時、栗田長官は、
「早くレイテに突入するのが最善とは考えなかった」
と答えている。米軍でさえ不思議がるほど奇妙な行動であったことは確かだ。
栗田長官の頭の中には常に燃料の不安があった。であれば、なぜ二時間も二十二ノットで北に向けて走りながら隊形を整えたのだろうか。二十二ノットといえば時速四十キロである。
かりに、艦隊集合後の“レイテに向けての一斉回頭”が、公刊戦史のいうレイテまで百十キロ地点であったとすると、同じ時速で走って二時間の距離である。米軍の調査団が指摘した通り、レイテに向けて走りながら集合していたら、集合した時点で目的地に着いている。
米国の公刊戦史を見ても、栗田艦隊が攻撃したC・A・F・スプレイグ少将の護衛空母群は、サマール島側からレイテ湾に入る入り口に位置している。まさに今一歩のところだったのである。
先を急ぐ。
レイテに向けて進撃中に空襲があり、その途中で栗田長官は北方の敵を求めて変針し、レイテ突入を放棄する。実はこの時の栗田長官の変針の理由が公刊戦史を見てもよく分からないのである。
ただ、具体的には、午前九時四十五分に発信し(発信場所は分からない)、午前十一時に「大和」に届いた「ヤキ1カに敵機動部隊あり」という電報の敵を求めて(レイテ突入を放棄して)北上したことになっている。そして栗田長官はこの電報の発信者はマニラの南西方面艦隊司令部である、と信じていたとしている。
「ヤキ1カ」とは場所を指す暗号で、具体的な位置は「スルアン灯台の五度(ほとんど真北)、二百十キロ地点」であり、もしこの敵がじっと動かずにいたら、栗田艦隊が北上を決意した午前十一時二十分の位置は、栗田艦隊からわずかに十キロ余りである。
確かに、この敵を見たという証言は多い。前に紹介した「大和」艦橋にいた少年電測兵も「艦影をはっきりと見た」と言っている。
栗田長官がレイテ突入を放棄して“「ヤキ1カ」の敵を攻撃するため北上する”との意思表示を、連合艦隊司令長官に電報で伝えたのは二十五日午後零時三十六分である。通算して八度目の空襲を受けている最中であった(公刊戦史)。
これが「第一遊撃部隊機密二五一二三六番電(二十五日十二時三十六分)」である。
「第一遊撃部隊はレイテ泊地突入をやめサマール島東岸を北上し、敵機動部隊を求め決戦、爾後サンベルナルジノ海峡水道を突破せんとす。地点スルアン島灯台の北四十五カイリ(八十三キロ)。針路零度(真北)」
東京に在住している「大和」暗号士の小島清文少尉によると、
「おりもおり、小沢機動部隊から例の“『大淀』(巡洋艦)に移乗、作戦を続行す、一一〇〇(午前十一時)”という電報が届いたのです。私が空襲を受けている『大和』の暗号室で翻訳しました。
これは小沢治三郎中将が“空母『瑞鶴』は沈没したけど、『大淀』に移乗して作戦を続けるぞ”という意味ですね。作戦通りに小沢機動部隊はハルゼーをおびきだしたということになります。しかし、西村艦隊は全滅し、志摩艦隊は反転して戦場から去り、唯一の正規空母『瑞鶴』が沈んだとなると、もう我々の艦隊しか残っていないのだ、と敗北感に打ちのめされた記憶が鮮明です。
翻訳した電報はすぐに『大和』艦橋の栗田長官の手元に届けさせました。この電報が小沢機動部隊から届いたものの栗田長官の手元に届いたのは夕方であった、と公刊戦史には書かれていますが、それは後でつじつまを合わせた作文です。小沢長官からの電報を見て、栗田艦隊は“敵を求めて北上する”との電報を連合艦隊に打って戦場から離脱したのです」
少し余談になるかもしれないが、レイテ戦を戦った将兵たちのその後に触れておきたい。レイテ戦後、沈没した戦艦「武蔵」の乗員はマニラ湾にあるコレヒドール島に隔離して秘密が漏れるのを防いだ(公刊戦史)。
小島氏たち予備学生出身の士官は、ルソン島の警備要員として配属された者が多く、マッカーサー軍にさんざんやられ、陸《おか》に上がったカッパと同じで戦時捕虜となった。一航艦、二航艦の隊員の中にも投降した者は多い。置いてけぼりにされ、武器もないのに戦えるはずはない。
フィリピンのルバング島で昭和四十九年二月、救出された小野田寛郎少尉の場合は例外で、陸海軍将兵の戦時捕虜は多くいた。昭和十八年の段階でオーストラリアのカウラ捕虜収容所には千人単位の日本兵捕虜がいた。捕虜になるのは幸運であり、丹念に調べてみると、捕虜になる前に殺されてしまう場合が多い。
栗田艦隊の戦場離脱について、現場にいた人の証言を今少し聞く必要がある。
「大和」の測的長として艦橋にいた隠沢兵三大尉は、
「機関参謀が栗田長官に対して“このまま北方の敵に突っ込むと、駆逐艦の燃料が無くなってしまいます”と言っていたのを記憶しています。駆逐艦には『大和』からでも給油できますが、空襲下では不可能です。駆逐艦は全速で一時間も走ると、たちまちガス欠を起こす。栗田長官が北方の敵を攻撃するのをあきらめて、帰投する決心をしたのは、機関参謀の意見具申が大きかったと思う」
と語っている。
今一つは、艦隊に弾丸の余裕がなかったという証言がある。
栗田艦隊がレイテ突入をやめたのは、各艦の弾丸が、うち続く対空砲戦と、サマール島沖の対空母群への砲戦の結果、残り少なくなったためではなかったか、という。
栗田艦隊の第十戦隊、駆逐艦「雪風」にレーダー担当士官として乗り組んでいた兵科三期予備学生、松島喬郎少尉(広島市在住)によると、
「サマール島沖で敵空母に不時遭遇して海戦となった時、『雪風』は雷撃戦をやると同時に、砲戦でかなりの弾丸を撃ちました。それ以前にもシブヤン海で空襲にあった時、猛烈に撃っています。正確な時間の記憶はありませんが、旗艦『大和』からの信号で“残弾を知らせ”という信号がきたのを覚えています。その時、『雪風』の残弾は四〇か四五パーセントと答えていたように思います。栗田艦隊全体でもそんなものだったでしょう。せめて八〇パーセントぐらいあれば、と思ったものでした。突入を見合わせ帰投する旨の信号が上がったのはそれから間もなくだったように思います。
ここまできて反転とはいかにも無念でしたが、弾丸がなければ戦闘になりません」
と言っている。確かに燃料と弾丸の消費は、あれだけ空襲をやられては、想像以上の量に達していたであろう。
同じようなことはオンデンドルフの第七艦隊にもあった。モリソン戦史によれば戦艦群は弾丸不足を理由に、ハルゼーの呼び戻しをやかましく言ったのである。
が、それはともかく公刊戦史によれば、弾丸不足が原因ではなく、栗田長官やその幕僚たちの、艦隊決戦思想が大きな比重を持っていたように書かれている。
「レイテに突入して輸送船と心中するよりは、宿願の敵機動部隊と一戦交えたいという武人の心情があり、大谷作戦参謀が進言し、首席参謀山本祐二大佐が同意、小柳富次参謀長と栗田長官、大谷参謀の三人が協議して決めた」
と書き、さらに、
「北方に針路を向けたものの空襲が激しく続き、栗田長官自身の頭の中には、この様子では敵を発見することは難しいという気持ちが広がり、燃料の関係もあり、もはやレイテに向かう気は起こらなかった」
と言っている。
栗田艦隊の戦場離脱の決定については、「大和」の艦橋で宇垣司令部と栗田司令部との間でかなり激烈な論争があったとの証言もある。
が、ともかくこれでレイテ殴り込み作戦は万事終了したわけである。
栗田艦隊が針路をサンベルナルジノ海峡に向けたのは二十五日午後五時十八分であった。
栗田艦隊のレイテ殴り込み中止については、現在もその是非をめぐって論争があることは紹介した。栗田艦隊の戦場離脱を是認するのは伊藤正徳氏(『連合艦隊の最後』)と、「戦術的に正しい判断」とする外山三郎防衛大学教授である(『太平洋海戦史』)。氏は海軍兵学校(六十六期)出身である。
ただ、弁護するにしても栗田艦隊が「ヤキ1カ」の敵を求めて北上した行動は、どう考えてもおかしい。正規空母は栗田艦隊よりも速力が速く、しかも敵がいるという情報は三時間も前のものである。
同じ艦橋にいて栗田長官の意思決定をずっと見てきた宇垣長官には『戦藻録』という記録があり、かなりの栗田批判があるが、栗田、宇垣両提督の性格的な相違もあり、加えて感情的とも見られる記述があるのであえて取り上げなかった。
戦術論からすれば、レイテ殴り込み作戦自体が“戦術の外”にある計画である。艦隊決戦などすでに時代遅れのものであり、連合艦隊司令部はそれを承知で実行に移したのである。「大和」の沖縄特攻がその極致だが、レイテ作戦の時には、まだレイテ湾の敵輸送船を打ち砕き、それこそ栗田艦隊待望? の第七艦隊と艦隊決戦が行えたのである。
小柳富次参謀長は、
「空船との心中はご面」
という気持ちが強かったと言っているが、これもおかしい。勝手に空船と決め込んでしまっているが、空であったにしても、栗田艦隊はそれを壊滅するために出撃したのである。なによりも、戦後、栗田長官自身が、親友の伊藤氏の質問に対して、
「今考えると僕が悪かったと思う。なにしろ命令なんだから、その命令を守らなかったのは軍人として悪かったと言うほかはない」
と認めている(『連合艦隊の最後』)。
ではレイテ湾の実際はどうだったのか。『マッカーサー回想記』によれば、
「もし敵がレイテ湾に入ってきたらその強力な砲のために、そのあたりの脆弱な輸送船団はこっぱみじんに粉砕され、海岸にあったかけがえのない補給物資は打ち砕かれてしまう。また陸上の何万という米部隊は孤立し、陸海からの敵の砲火にさいなまれて身動きできなくなる。さらに補給計画はめちゃめちゃになり、レイテ進攻そのものもおぼつかなくなる」
という実情であった。勝利者にとっては相手が強敵であり、自己が苦難に立ったことを強調した方が箔がつくにしても、空船でなかったことは確かであった。
レイテ湾には、おびただしい戦略物資を積んだ米軍の輸送船が在泊していた。
艦艇総数約七百隻に、十七万四千の兵員を支える弾薬や食料、兵器を満載していた。兵員一人に対する食料、衣料、医薬品などが十トン、弾薬が一人一トン以上、トラックなどの車両と重火器もあり、合計百七、八十万トンの物資を揚陸中であった。日本軍の比ではなかった。いかに米軍といえども、三日や四日で揚陸できる量ではない。そのためマッカーサーは上陸できず、栗田艦隊以下殴り込み艦隊がレイテに向かっているという確証をつかんだ二十三日、巡洋艦「ナシュビル」から急いで上陸している。
補給が完了したからではない。ハルゼーが空母群を引き連れて、小沢機動部隊の誘いに乗り、北上してしまったため、“第七艦隊だけでは危険度が高い”という、キンケイドの要請で艦を降りたのである。
マッカーサーが栗田艦隊の突入におびえ、ハワイのニミッツに三回も電報を打って、
「ハルゼーを呼び戻せ」
と要請したのはこれまでに記述した通りである。
「大和」は軍艦を撃つ鉄甲弾をサマール島沖海戦では約百発しか撃っていない。対空用三式弾も意外に少ない。大和型主砲の鉄甲弾の保有は一門につき二百発である。九門の主砲を持っていたから、まだ千七百発も残っていた。
一方、キンケイドの率いる艦隊は西村艦隊を砲撃したため残弾が少なかった。「大和」の四十六センチ砲の射程距離は四万メートル以上で、アメリカよりリーチが長い。敵機の攻撃を抜きにすれば(これが大変であるが)、敵のレーダー射撃を受ける前に、「大和」の鉄甲弾が敵の戦艦をぶちぬいていたはずだ。
大岡昇平氏は「栗田艦隊の自爆拒否を非難するつもりはない」としながらも、
「たとえ『大和』がレイテ湾頭で沈没しても、アメリカ輸送船を一掃し、レイテ島の橋頭堡――上陸後作戦の拠点――に四十六センチ砲をぶちこんで、十六師団の兵士の恨みを晴らしてくれればよかった、タクロバンの総司令部を爆砕して、マッカーサーを吹き飛ばしてくれたらよかった、とにかく一発打ち込んでくれればよかった、という感情はなお残る」と書いている(『レイテ戦記』)。
偽りのない心情と言うべきか。
栗田艦隊のレイテ殴り込み放棄は当時の海軍部内でも評判は悪く、高木惣吉少将は、
「全滅を賭して突撃せよと激励された艦隊が、いまさらのごとく形勢不利を云々して遁走したことは、史家をして浩嘆《こうたん》を禁じ得しめないであろう」
と痛烈に書いている(『太平洋海戦史』)。遁走と言っているのである。
栗田艦隊のシブヤン海における反転、再反転(再進撃)、そしてレイテ突入中止についての論議は、これまで紹介してきたように多くの問題点を残しているが、これを書き始めると袋小路に入ってしまう。ただ、実戦に参加した将兵の実感について、補足的に書き加えておきたい。
問題は二つある。
一つは栗田艦隊がシブヤン海で反転した後、連合艦隊からの「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」とのケツたたき電報によって再反転したのが本当か、その前に自発的にレイテに向かって前進したのが本当かということ。
もう一つは、レイテ突入をやめたのは、オトリ艦隊の小沢機動部隊からの電報(ハルゼーの機動部隊を引き付けたという意味の何通かの電報)が、本当に栗田艦隊に届いていたかどうかである。
最初の問題については、駆逐艦「雪風」のレーダー担当士官として乗っていた松島喬郎少尉(広島市)の証言がある。
戦艦「武蔵」が落後し、駆逐艦が交代で警備に当たったが、「雪風」も一時その任務を命じられた。「武蔵」ほどの大艦になると、沈没すれば駆逐艦など巻き込む恐れがあり、遠巻きにして回っていた。
「『雪風』に『武蔵』の警備を命じた『大和』(栗田健男司令長官座乗)は“全艦隊ハ我ニ続ケ”という旗流信号を出してサンベルナルジノ海峡に向かって去ってゆきました。『雪風』はしばらく警備して、まだ明るい夕方――たぶん午後六時前に栗田艦隊を追って再びサンベルナルジノ海峡へと向かいました。『大和』の『戦闘詳報』にある“午後五時十五分再反転した”というのは時間的に見て、たぶん本当と思います。
『雪風』が島陰を回った時に『武蔵』の大爆発音を聞き、沈没したなと思いました」
と言う。「武蔵」が沈没したのは二十四日午後七時三十五分である。日没一時間後であった。とすると栗田艦隊の再反転、つまり再進撃は時間的に見て、ぎりぎりのところで、「自発的に再進撃した」としてもおかしくなくなる。連合艦隊司令部が「全軍突撃」電を打ったのは二十四日午後六時十三分だからである。
第二の問題。小沢機動部隊からの電報が栗田艦隊に届かなかったのは「小沢機動部隊の旗艦『瑞鶴』の送信機が故障していた」ためとするのは、戦後に書かれたフィールドの『レイテ湾の日本艦隊』が最初であると紹介したが、この「故障」というのが誤訳である、と指摘したのは半藤一利・吉田俊雄氏の『全軍突撃』である。フィールドの本の訳書には「明らかに『瑞鶴』の送信機が故障していた」と書かれているが、これはapparently(アパレントリイ)を「明らかに」と訳した結果で、コンサイス英和辞典を見ても「見たところ――らしい」という理論的にそうとしか考えられない場合の用語として出ている。実際に「瑞鶴」の送信機は故障していなかったのである。
フィールドの『レイテ湾の日本艦隊』の誤訳によって、小沢機動部隊の旗艦「瑞鶴」の無線送信機が故障していた、という新たな“既成事実”が生まれ、ニミッツの邦訳版回想記にもそれが受け継がれている。
送信機が故障していて「ハルゼーを引きつけたことが栗田艦隊に分からなかったので、やむなくレイテ突入を中止したのだ」とした方が、戦後の栗田艦隊司令部の職員にとっては都合がよい。そのためレイテ突入中止は、戦術的にも人命尊重の意味からも、中止してよかったのだ、という根拠になった。
が、「瑞鶴」の送信機がぴんぴんしていたことは戦後のあらゆる資料、調査から明らかになってきたのである。栗田艦隊の巡洋艦、駆逐艦などの「戦闘詳報」が出てきて、「瑞鶴」からの受信記録を残していることが明らかになった。「瑞鶴」の送信機故障説など全く通用しなくなったのである。
それどころか、栗田艦隊の駆逐艦の乗員の中には、小沢機動部隊の戦闘機がハルゼーの戦闘機と渡り合っている生の声さえ聞いているのだ。広島市に住んでいる森脇武夫氏は駆逐艦「島風」の電信員(一等兵曹)として栗田艦隊と行動をともにした一人だ。「島風」は昭和十八年五月に舞鶴海軍工廠で完成した新鋭艦で、無線設備も新しかったせいもあるが、
「二十四日の小沢機動部隊の戦闘の模様は、シブヤン海の『島風』の無線室で聞き取れました。小沢機動部隊の戦闘機から発信する緊迫した攻撃の模様が傍受できたのです。感度は悪かったですが、戦闘機パイロットは無線電話を使って生の声でやっていましたから内容は分かるのです」
と言っている。その時、小沢機動部隊がいたのは、エンガノ岬(ルソン島)の東南東三百五十キロ海域である。同時刻(二十四日正午ごろ)にシブヤン海にいた栗田艦隊との距離は約六百キロである。それでいて戦闘機の無線電話が傍受できたのである。「大和」の無線室の能力は、連合艦隊の旗艦をつとめたこともあり、駆逐艦などの比ではない。
艦隊勤務で、現場の将兵は司令部職員と違って全体が分からない、というのは本当にしても、小さな体験、見聞から意外な事実がわかるものである。
栗田艦隊のレイテ突入中止が、栗田長官の人命尊重の結果(伊藤正徳氏『連合艦隊の最後』)であったにしては途中であまりにも多くの人命を無駄にしてきた。ここまできて、何をいまさら、の感があり、だいいち人命尊重と言っていては戦争はできない。
レイテ突入作戦の日本側の損害は、栗田艦隊が十月二十二日、ブルネイを出撃し、二十三日にパラワン水道で栗田艦隊の旗艦「愛宕」が雷撃によって沈没して以来、作戦終了(艦隊が基地に帰投)の二十七日までの五日間に空母四、戦艦三、重巡洋艦六、軽巡洋艦六、駆逐艦十一隻を失ったのである。あまりにも痛ましく大きな犠牲であった。そして特攻作戦は一段とエスカレートしていくのである。
第四章 さまざまな曲がり角
続く「神風」の誕生
香川克巳氏は広島市で個人タクシーを営みながら静かに暮らしている。中国新聞で「特攻」の企画が始まった時、「ケー・アイ航空サービス」の稲本敬二専務から、特攻隊の生存者の一人として紹介を受けた。稲本氏自身、丙飛十一期出身の水上機パイロットだった関係で親しくしている仲間である。前に書いたが、レイテ湾に押し寄せてくる敵の大船団を見つけて、米軍の本格上陸であることを報告した艦上爆撃機のパイロット、梅本正信氏も稲本氏の紹介による。そういえば梅本氏も個人タクシー業である。
香川氏は広島市の修道中学(旧制)から甲飛九期生として志願した生粋の戦闘機パイロットである。爆装零戦(特攻)や直掩機のパイロットとして十回も出撃した。フィリピンから沖縄戦の最後までを戦って生き残った数少ない人である。
最初の会合の時、仕事の関係もあったらしかったが、姿を見せなかった。稲本氏の勧めでやっと二度目に会えた。
「あまり覚えていないのですよ」
ぶっきらぼうな言葉が最初に出た。戦後、大西瀧治郎中将の副官だった門司親徳氏や、吉岡忠一・二六航戦参謀と二度にわたって、かつての激戦地を慰霊して回ったことなどをぽつり、ぽつりと語るだけだった。
「何機ぐらい敵機を撃墜しましたか」
と、取材者にとっては当然と思える質問をした。撃墜のスリルとか、空の武勇伝を聞くためではない。少し太平洋戦争を追っかけてきた者から見ると、戦闘機パイロットが生き残れた条件は、余程の幸運に恵まれたか、腕達者かのどちらかである。例外的には特攻を非公式に拒否して、エンジンを故障させたり、攻撃地点とは逆の方向に不時着した人だ。
戦闘は敵を倒さなければ、自分が殺されるという、極めて冷厳で当たり前の論理の上に成り立っている。戦闘機の戦闘は、特に一対一の戦いになる要素が強い。
が、香川氏は言葉をそらして、慰霊の旅の話しかしなかった。
その後、電話で証言を確認したりしているうちに、門司氏が広島に所用で来ることになった。せっかくの機会だというので、筆者と三人で会った。香川氏がフィリピンでの、あるいは沖縄戦での実相を語るようになったのは、それ以後である。
「あなたは私に敵を何機撃墜したかと聞いたでしょう。“何人殺したか”と聞くのと同じです」
――敵を撃ち落とさなければ自分がやられる、という極限状況を体験しながら、特攻で生き残った人たちは、なお人の生死にこだわり続けているのだ――と筆者は異様なショックを受けたことをまず白状しておく。今もなお戦争の罪悪に、彼らは特攻という自己犠牲の死を含めて、こだわり続けているのである。
香川克巳上飛曹は三航艦の所属で、二航艦がフィリピンに進出した後、あるいは同じころに、フィリピンに進出していることは確かだが、この時期の記録は極めてあいまいで、部隊全体が一度に進出するというようなことはなかったから、正確ではないかもしれない。だが、香川氏の記憶によると、館山航空隊から九州の国分、台湾を経て十九年の十月十九日に、クラーク基地群の一つ、アンヘルスに着いたという。この日は一航艦長官大西中将がマバラカットで神風特別攻撃隊を編成した当日である。
「アンヘルスに着くと同時に後輩の甲飛十一期生と特乙一期のパイロットが迎えの自動車に乗せられて連れてゆかれました」
と言う。
香川上飛曹の所属する二五二空が、フィリピンのアンヘルス飛行場に着いたのは、香川氏の記憶によると十月十九日としているが、一ヵ月後であったかもしれない。
「日にちの記憶など全くない」
と本人が言っているようにフィリピンはすでに戦場であり、しかも特攻という前代未聞の戦術がとられていた時期である。記憶など遠くにかすんでいても不思議はない。香川氏は、
「私たちの隊(戦闘三一六)がアンヘルスに着いて、早い者はその日の夕方には、指名されてトラックでマバラカットに連れてゆかれました。今すぐ記憶に出てくる名前は藤山義彦一飛曹(山口県出身)、川淵静夫一飛曹(広島県出身)、竹内彪一飛曹(不明)といった甲飛十一期生たちの名前です。全員年内には神風特別攻撃隊金剛隊として突っ込んでいます」
と言っている。特攻隊員の選抜の方法から見ても、少なくとも第一神風(大西瀧治郎中将が二〇一空の甲飛十期生を中心に編成した最初の特攻隊)時期のものではない。
第一金剛隊が突っ込んだのは、厚生省に残っている「神風特別攻撃隊戦闘報告」によると十二月十一日だが、二〇一空所属の隊員だけで編成されている。香川氏らの二五二空の隊員が神風特別攻撃隊として参加したのは第二金剛隊からで、十二月十三日である。
香川氏の記憶にある竹内一飛曹が出撃したのは十二月十六日、第十一金剛隊としてである。二〇一空の辻誠夫大尉を隊長とする十六機で彗星艦爆二機が加わっている。午前六時五十分、マバラカット基地を出て、ミンドロ島サンホセ付近の輸送船に、一機を除いて全機突入した。
福留繁二航艦長官が、編隊攻撃の失敗を悟り、大西中将の要請を入れて「第二神風」の編成に同意したのは十月二十六日であるが、約二ヵ月の間に、基地はすっかり“特攻の発進基地”の様相を呈することになる。
戦闘三一六飛行隊の零戦パイロットの香川克巳氏は、
「私たちの隊がフィリピンに進出する時、すでに特攻のうわさは耳に入っていたので、来るものが来たという感じでした。当時の戦闘機乗りは戦局の推移から見て、死をみんな覚悟していました。ただ、特攻について抵抗があったかもしれませんが、それは古い搭乗員ですね。大空で戦って死ぬというのが戦闘機乗りに限らず、航空兵の本心でしたから。しかし、そんなぜいたくな戦を敵はさせてはくれません。あの時のムードでは、特攻だろうとなんだろうと、死ぬのは当然と思っていました」
と当時を思い出す。前に紹介した偵察機パイロットの梅本正信氏も、
「そりゃあ、あの時なら、行けと言われりゃあ行っていますよ」
と語る。確かにこの時期の特攻隊員の心境は、現在の感覚をもってしては理解できない、えたいが知れないと言っても言い過ぎでないような、日本人のエネルギーの燃焼があったとしか思えない。戦争とは怖いものである。が、こうした日本人の精神史を見過ごすと、つい四十二年前の“歴史”を読み間違えることにもなりかねない。
栗田艦隊のレイテ突入の放棄、フィリピンの一航艦救援に駆けつけた二航艦の正攻法による航空攻撃の失敗が、特攻を決定路線としてしまうが、その背景に前線将兵の自己犠牲の精神と、闘志があったことはいうまでもない。
連合基地航空部隊が一、二航艦の合併という形で現地で編成(二十五日午後五時三十分)され、福留繁中将が司令長官に、大西瀧治郎中将が幕僚長になったことは既述したが、その福留中将の同意によって「第二神風」が十月二十六日編成され、その日の午後には二航艦の七〇一空から艦爆特攻が出撃することに決まった(出撃は二十七日)。
七〇一空は二五航戦に所属し、もともと北方部隊であった。それが急拠、台湾沖航空戦に投入され、フィリピンに進出してからは二十三、二十四日の航空総攻撃という第一戦の激しい戦闘を体験した。二〇一空の戦闘機隊で編成された神風特別攻撃隊敷島隊の体当たりを聞き、この艦爆隊の搭乗員は、
「敵艦を沈めるのは自分たちの役目だ」
と言って進んで特攻隊を志願したと大西中将の副官門司親徳大尉は当時の実情を語っている。
この艦爆特攻は、マニラのニコルス飛行場から発進することになり、二十六日午後、十五機の艦爆と戦闘機約二十機の第一陣がクラークからマニラに飛んだ。艦爆は二人乗りだから、直掩機の零戦隊員を合わせると五十人ほどになる。
命名式と壮行会はマニラの司令部前の庭で行われた。
二十六日に編成(正式には出撃日の二十七日になっている)された七〇一空の艦爆特攻隊は、忠勇、義烈、純忠、誠忠、と命名された。
門司親徳副官は儀式のために、テーブルに白布を敷いたり、茶わんを並べるのを手伝いながら“形式的な儀式”になることが気になった。
この部隊は前にも書いたように北方から駆けつけた部隊であったから、まだ冬服を着たままの者もいて、敷島隊など第一神風隊員の子供っぽさとは違い、おとなに見えた。確かに年齢も高かった。
福留繁長官がマニラの司令部の庭で訓示を行い、乾杯の音頭をとっている間、幕僚長の大西瀧治郎中将はじっと黙ったままであったが、乾杯が終わると、テーブルの間を回って、時間をかけてひとりひとりに握手した。
その晩、隊員たちは設営された宿舎で遺書などを書いていたが、兵学校出の山田恭司、深堀直治大尉が、
「もう金はいらん。みんな出せ――」
と言って隊員の有り金を出させて、飛行機をつくる足しにしてくれ、と二航艦の藤原副官に手渡しているのを門司副官は見た。
七〇一空の木田司令は特攻隊員に対して特別の人のように接し、隊員も誠実な態度で応じた。門司氏は、
「二〇一空の玉井浅一副長は隊員を秘蔵っ子のように扱っていましたが、木田司令は自分より一段上の人に対しているような態度で接していました。七〇一空の隊員は、寝具の準備などをしていましたが、その雰囲気に、二〇一空とはまた違ったまとまりがあり、気持ちがよかったですね」
と感動を受けたことを隠さない。
七〇一空の四隊は二十七日午後三時過ぎニコルス飛行場を出撃し、一機を残して帰らなかった。
その一機が、純忠隊の指揮官深堀大尉である。風車止め引き上げ装置(爆弾の安全解除装置)の故障でやむなくレガスピー基地経由でセブ基地に不時着したものだ。この時の深堀大尉の態度を二〇一空飛行長中島正少佐が目撃して『神風特別攻撃隊の記録』に次のように書いている。
深堀大尉が爆弾の安全解除装置の具合が悪いのに気づいたのは出撃後で、レガスピーに不時着して修理し、再びレイテ湾に向かったが、すでに暗くて敵がつかめなかった。それでセブに降り、明日再び単独で出撃することにしたという。淡々としたその報告ぶりは、死ににいって生き帰り、再び死ににいく者の話しぶりとは思えなかった。中島飛行長が、
「明日一機で行くのもいいが、一度隊に帰り、次の機会に列機を連れて再出撃すればよいではないか」
と意見した。「このような人材を単独で突入させるのはもったいない」と感じたからである。しばらく考えていたが、静かな声で深堀大尉は答えた――。
「それもそうですが、列機がもう決行しておりますからなあ――。やはり明日を期して出撃したいと思います」
と答えた。いかにも穏やかな声であった。
翌二十八日の早朝、中島飛行長が見送りに飛行場に出ると、深堀大尉と操縦の松本賢飛曹長はすでに薄暗い指揮所のいすに腰をかけて待機していた(艦爆は二人乗り)。
「朝食はすんだか」
「弁当をもらいました」
そして操縦員の松本飛曹長を振り向いて、
「朝食は」
と聞いた。言葉はそれだけであったが、その語韻には、あふれるばかりの慈愛の心がこもっていた。松本飛曹長もすでに食事はすませていた。
深堀大尉は、お茶がわりにもらった一本のサイダーを松本飛曹長と飲みあって機上の人になった。昨夜の宿の礼を言って、レイテに向かったが、出発に際して、
「これをニコルスとマバラカットにいる七〇一空の木田司令と江間飛行長に渡してください」
と、手紙を中島飛行長に渡した。
『神風特別攻撃隊の記録』の中で、中島飛行長は、
「彼の絶筆であるが余りにも淡々としていて、これが遺書だろうかと疑われるほどのものである」
と書いている。それは次のような手紙であった。
「本日私の飛行機は風車止め引き上げ装置(爆弾の安全解除装置)不良のためレガスピー飛行場に着陸し、風車を回転して直ちに離陸、同飛行場上空にて純忠隊のみ集合、レイテ湾に進出しました(直掩機および誠忠隊は先行しました)。純忠隊の戦場到達は十八時五十分で、すでに日没後でありました。高度千メートルにて約三十分捜索しましたが、防御砲火によって敵の艦船数隻の存在を知るのみで、艦種の識別不能、輸送船に体当たりする公算極めて大でありましたので、攻撃を断念、セブ飛行場に向かいました。
二番機は戦場上空にて解散後不明ですが、体当たりをやったものと思われます。雲ならびに視界不良のため成果は私も見ておりません。三番機は防御砲火により被害を受けたもののごとく、運動不規則でセブ飛行場に向かうまで一緒でありましたが、途中より再び戦場に引き返したのではないかと思われます。捜索するも見つけることは出来ませんでした。二十時三十分、私のみセブ飛行場に降着いたしました。明朝黎明を期して体当たりを決行いたします。本日教訓となりましたことをご参考までに記して戦闘機に託します」
そして特攻出撃に際しての機体の点検、爆弾搭載時の機体の速力などを細々と書き、さらにつけ加える。
「列機は本当に可愛いものです。きょうも戦場突入時、各人きちんと敬礼して“ニコッ”と笑って解散しました。私は涙が出て仕方がありませんでした。これで皇運の隆盛断じて疑いなしと確信いたしました。
歳は若年でも列機の人々の態度の実に立派であったことは、いまも私の目に残って離れません。特攻隊員の人選には頭を悩まさずとも大丈夫であると信じます。
ではお別れします。ご健闘を切にお祈りいたします」
当時の青年士官の、責任感を表現した文章であるとも言えるであろう。
ただ、『神風特別攻撃隊の記録』の中には、純忠隊にセブ基地にいた二〇一空の零戦四機が直掩機として同行しながら、途中で全機引き返し、深堀機だけが単機で突入している事実を書いていない。
この点を指摘しているのは大岡昇平氏の『レイテ戦記』である。
「中島飛行長の計らいで二〇一空から零戦四機をつけたが、途中一機がエンジン不調で引き返すと、他機もいっしょに引き返してしまった(これは列機が編隊飛行に馴れなかったためもあろうが、やはり他の隊の特攻機と心中してはつまらないというセクショナリズムの現れと見る方が当たっていよう)。したがって戦果は未確認となっているが、この日、第七艦隊の重巡デンバァーが特攻機によって損傷の記録が米側にある。深堀機の戦果とみなすことができよう。この日他に出撃した特攻機はなかったのだから」
と書いている。たしかに厚生省に残っている「神風特別攻撃隊戦闘報告」には、
「一番機ハ翌二十八日(午前四時三十分)『セブ』発進、直掩四機ト共ニ攻撃ニ向カイタルモ直掩一番機発動機不具合ノタメ『セブ』ニ引キ返シ、列機コレニナライタルタメ、単機ニテ『レイテ』湾ニ進入セルモソノ後ノ消息不明ナリ」
という記述がある。
海軍は陸軍から見ると「どうも死に急ぎする」傾向にある、という指摘がある。現地の将兵の目撃談である。
四十一連隊(福山市)は三十師団に属し、ミンダナオ島を警備担当区としていたが、レイテ決戦で、急拠派兵させられたものの、第三大隊と師団司令部が、輸送の関係(米軍の攻勢が激しく、すでにレイテに渡れなかった)で取り残されるという変則的な師団であった。第三大隊はミンダナオ島のスリガオあたりに駐在していた。西村艦隊が米第七艦隊にたたかれた海峡に面した地帯である。したがってレイテ戦当時、海峡を守っている米軍の駆逐艦や魚雷艇を目視するという珍しい体験もしているが、航空総攻撃(十月二十四、五日)以後、スリガオ飛行場に不時着した特攻隊員の世話をしたりしている。その第三大隊の作戦主任松浦修三中尉から昭和四十八年に取材したメモとカセットテープが筆者の手元にある。
外から見た特攻隊員の意外な素顔と言えはしないか。
「十月の末から十一月の初めにかけて、海軍の飛行機がスリガオの飛行場に不時着したことが何度かありました。飛行場と言ってもちっぽけなものでしたが、警備は私たちがやっていました。そのとき特攻という言葉を初めて海軍さんから聞きました。スリガオでは修理がきかず、飛び立てないままでしたが、
『必ず基地に送り届けてあげるから安心していなさい』
と慰め、スリガオの近くにあるマブハイの温泉場に兵隊七、八人を護衛に付けて行かせたことがありました。海軍さんは三人でした。
しばらくしてパンパンと小銃の音がするので、すぐに斥候を出したら、ゲリラに襲われて交戦していたのでした。すでに日本の敗北を見越して、ゲリラの暗躍がひどくなっていました。
応援に駆けつけてゲリラは追っぱらったのですが、うちの隊員も四人戦死しました。
その時海軍さんは三人ともピストルで自決していましたよ。陸軍と海軍の思想の相違なんですかね。海軍はすぐにあきらめる。『もうだめだ』と思ったら簡単に自決する。その点陸軍は一人になっても頑張るようにしつけられていました。それが“自活抗戦”という戦法を生みだしたと思います。
海兵六十九期の、たしか柏大尉とか言っていたように記憶しているんですが、その部下と二人が、彗星艦爆で不時着したことがありました。名前の方はどうしても思いだせません。
この人も特攻隊でした。海軍の第三三根拠地隊と連絡がつき、ナシピットの飛行場まで迎えの飛行機が来ました。トラックで送ったのですが『今度はうまく突っ込む』と言って帰ってゆきました。すかっとしていて、命を捨ててかかっている態度には、同じ戦場にいた私たちも感動を覚えました」
今から十四年も前の証言メモである。
「神風特別攻撃隊戦闘報告」を見ていくと柏井宏という大尉の記録がある。最初に出てくるのは「第二神風」の神武隊指揮官としてである。松浦氏は「柏井」を「柏」と記憶していたのであろう。十月二十九日午後三時、ニコルス海岸滑走路を艦爆に乗って出撃している。これはマニラ湾に面した海岸道路をこの日初めて滑走路として使用したものである。空襲が激しくて、他の基地はなかなか使えないので苦肉の策で道路を滑走路にしたのである。
現在ならマニラ湾の夕日を撮影しようとする観光客が群がる所であるから、見た日本人は多いはずである。
とまれ大西瀧治郎中将や副官の門司親徳大尉もこの時の出撃を見送っている。操縦は山崎武男飛曹長であった。門司氏は目撃した神武隊の出撃風景を著書『空と海の涯で』の中で「彼らだけが別世界の仲間のように見えた」と書いている。
マニラの海岸通りを滑走路にしての、神武隊の出撃風景は、『空と海の涯で』を読むと、ほうふつとして目に浮かぶ。
「私は海岸通りの北の方、スタートライン近くまで見送りに行った。隠された場所から引き出された六機の艦爆と三機の零戦は、海岸通りに一直線にならんで、プロペラを始動し出撃準備をしていた。機上の搭乗員は、まだ風防を開いたままで、発進準備をしていた。先頭機の偵察席にいるのは、神武隊隊長の柏井大尉で、彼は自分の飛行機の準備ができると、席の上に立ち上がって、後ろに並んでいる列機の方を見つめていた。一緒に体当たりを決行する列機の準備をながめていて、見送るわれわれには見向きもしなかった。彼らだけが別世界の仲間のように見えた。
やがて、列機から準備完了の合図があると、彼は座席に腰を下ろし、伝声管で操縦員に何かを話した。プロペラがごう然と回転を増した。――この時になって、初めて彼は見送る人に顔を向け、ちょっと微笑して頭を下げた。『ありがとうございます』という感じであった。からだ中がぎゅっと締めつけられるような感動が貫いて、涙はこぼれず、胸の中が慟哭する思いであった。
列機の方でも搭乗員が整備員に笑いかけていた。そして機体から離れた整備員は泣きそうな顔をしていた」
シビアな文章である。が、それにもまして筆者が感じたのは、お互いに何の人間的な脈絡もない人々が、場所、時代を超えて同じものを見、同じような感動を持ったという奇縁である。
実は柏井大尉が出撃したのはこれが最初ではない。十一月六日、マバラカットで編成された第四神風特別攻撃隊(香取隊、鹿島隊、神崎隊、湊川隊)の隊長として二度目の出撃をし、操縦員北村良二上飛曹の負傷でスリガオに不時着している。福山四十一連隊の松浦修三氏と出会ったのはこの時である。
その後を記せば、柏井大尉は昭和二十年三月十九日、沖縄戦の特攻、菊水部隊彗星隊(艦爆)の隊長として九州の国分基地から出撃、空母「ワスプ」に突入している。恐るべき意志の強さである。
スリガオに不時着した時、「今度はうまく突っ込む」と松浦氏に言い残して帰っていって以来、実に五ヵ月もかかって突入に成功したのである。
さて、松浦氏が目撃した、もう一組の特攻隊員の自決も、「スリガオに不時着して陸戦で戦死」と記録されている。日付は十月二十七日。「第一神風」の大和隊である。
大和隊は二十一日、二十三日、二十五日、二十六日、二十七日の五日間にわたって計六隊(前述のように二十六日は二隊出撃)セブ基地から出撃しているが、二十七日に出撃したのは、木村幸男、松村茂一飛曹の二機で、新井康平上飛曹、関川利三郎飛長の二機が直掩している。「神風特別攻撃隊戦闘報告」には、
「午前十時スリガオ北東十八キロの敵機動部隊攻撃のためセブ発進せるも、途中敵機と交戦、目的を達せず。松村機未帰還、他三機帰着(木村機スリガオ不時着)」
とある。さらに「記事」として次のように注釈をつけている。
「木村幸男一飛曹はスリガオに不時着後陸上戦闘において戦死」
単独でゲリラに襲われて戦死したものなら、誰にもわからない。スリガオ警備の陸軍から海軍に連絡が入ったのである。松浦中尉が見たという“ゲリラに襲われて自決した海軍さん”とは、木村一飛曹たちであったろう。人数についての記憶の相違は往々にしてあるし、「戦闘報告」にしても、あの混乱の中で正確は期し難かったろう。どちらが正しいかわからない。
ただ、簡単に自決を選択した木村一飛曹たちの心境は、単に“海軍さんはあきらめがよい”という解釈だけで済むものだろうか。特攻作戦のさまざまな影を見る思いのするエピソードである。
爆装零戦で出撃しながら、敵機に撃墜されて「目的を達せなかった」、つまり体当たりできなかったがために、二階級特進、したがって連合艦隊告示もされなかった例はたくさんある。
スリガオに不時着してゲリラに襲われ、自決した木村一飛曹もそうである。あらゆる意味で、歴史的となった関行男大尉以下敷島隊のあげた戦果を見届け、セブ基地に帰投して報告を行った西沢広義飛曹長ら三人の場合も悲壮である。
三人が直掩のために乗っていた三機の零戦は、中島正二〇一空飛行長の強い指示で、特攻機として使うためセブ基地に残して置かねばならなかった。西沢飛曹長と本田慎悟上飛曹、馬場良治飛長の愛機である。
そのため、ダグラス輸送機でマバラカットに帰ることになったが、途中、グラマンに襲われて撃墜され、全員戦死した。
ラバウルいらい幾多の激戦をくぐりぬけてきた西沢飛曹長の場合、零戦を操縦していたら、めったにひけを取ることはなかったろう。腕の立つ名パイロットの死に方としては、いかにも残念である。
ところで、特攻隊は連日各基地から出撃し、連合基地航空隊司令部としては、正確な資料の作成に音を上げるほどであった。海軍の特攻作戦は日常的となったのである。
大西瀧治郎中将が陸軍の第四航空軍司令官冨永恭次中将を訪ねたのは十一月の初めであった。このころのレイテ決戦は、日本軍の増強輸送が最大の作戦目的であり、そのためにガダルカナル以上の消耗戦が続けられていた。
この時、大西中将と冨永中将が話し合ったのは、陸軍の百司偵(偵察機)による海軍特攻隊の戦果確認のための出動であった。十一月七日に出撃した柏井宏大尉の「第四神風」の戦果確認機として百司偵二機が同行している。
「特攻は、統率の外道」と大西長官
レイテ島の陸上戦闘は陸軍の兵力や物資を逆上陸させて、あくまでも決戦することに比重が移っていた。
戦闘九〇一(ダバオ基地)の美濃部正大尉は、一、二航艦が合体した十月二十五日、各航空隊の幹部をクラーク地区のストッチェンベルグに集め、大西中将が特攻作戦の続行を宣言し、
「反対するものは極刑に処す」
と言ったのを聞いている。そしてこの時、第一師団(玉兵団)のレイテ輸送に関しての作戦会議が開かれた、と記憶している。
フィリピンには冨永恭次中将の率いる第四航空軍(陸軍)がいたものの、兵員輸送(逆上陸)の海上護衛は海軍に比重が移るのは仕方ない。陸軍を乗せた輸送船を守るためにどうするか、という問題が当然持ち上がったのである。
「大西長官が意見を求めたが、だれも発言しない。名案がないんですよ」
と美濃部氏は当時を振り返る。異様なムードだった。
第一師団をレイテに逆上陸させる「多号作戦」は既に決定しており、具体的な打ち合わせが十月二十八、九の両日マニラで行われているから、航空関係の指揮官級が大西中将を中心にして会合したのはこの時かもしれないが、美濃部氏の記憶は鮮明によみがえる。
「第一師団のレイテ輸送には敵の魚雷艇ががんでした。どうしてつぶすか、が大きな問題でしたが、だれも何も言いません。それで最後に私が、長官、私がやります、と言ったんです。私には自信があったのです」
大西中将はじろりと目をむいて、
「どうやってやるのか」
と美濃部大尉に聞いた。
「セブまで出て夜間に零戦で魚雷艇を銃撃します」
「零戦で夜間銃撃がやれるのか」
と大西中将はいささか意外そうな顔つきだったそうである。
「大西長官は零戦が夜間攻撃できることを知っていなかったらしい」
と美濃部氏は言う。実は美濃部氏はこの後、彗星艦爆で夜戦専門の芙蓉部隊指揮官として、最後まで戦う。
水上機パイロット出身で開戦時は重巡「阿武隈」の乗組員であった。十時間もねばって英空母「ハーミス」と接触を保ち、沈没する「ハーミス」の航空写真を撮ったことは前に紹介した。
小柄だが闘志があり、ダバオ誤報事件では「敵上陸」との流言で、奥地に退避しようとしていた寺岡謹平中将と司令部職員を途中で押しとどめ、自分で零戦に乗ってダバオ湾上を飛び、誤報であることを確かめた。大西中将は美濃部氏がそのようなことを平気でやる、命知らずの指揮官パイロットであることを知っていたふしがある。
大西瀧治郎中将は、
「兵力はいくらあるか」
と尋ねた。
「私を入れて四機しかありません」
と答えると、大西中将は、
「他にだれかやると言う者はいないか」
と見回した。みんな黙っていた。大西中将は、
「水上爆撃機ではやれないか」
と発言し、水上爆撃隊が魚雷艇攻撃に加えられることになった。公刊戦史を見ると、
「海軍水爆隊はカモテス海、カリガラ湾、スリガオ海峡の魚雷艇攻撃」
と作戦計画に書かれている。
そして、美濃部氏の記憶によると、やおら立ち上がった大西長官が、
「意見がなければ、最後の部隊は特攻を命じる。異論もあろうが、反対するものは極刑に処する」
と言い切った。
「どうしてよいのか、各級指揮官も分からなくなってたんだと思いますよ。日本は戦前からの戦法で一生懸命やるしかなかったのに、アメリカときたら機材も戦法も日進月歩でしたから」
と美濃部氏は回想している。
「実はゲタばきの水上爆撃機では夜間の銃撃などできないんです。私は後で大西長官と二人だけで話す機会に恵まれたのですが、大西長官は指揮官を信用されていないなあと思ったことがありました。長官はね、
『オレは若いパイロットを信用するしかない』
としみじみ言われました」
結局、美濃部大尉は部下三人を引き連れてセブ島に進出。連夜出撃して七隻の魚雷艇を銃撃し、オルモック湾には一隻の魚雷艇も出なくなった。特攻隊の出撃もあり、十月三十一日マニラを出港した第一師団を乗せた輸送船は十一月一日夕刻、レイテ島オルモック着。九五パーセントの物資の揚陸に成功した(第一水雷戦隊日誌)。
「夜間に零戦などの飛行機を利用する以外にないと、私は早くから着目していたんです。セブ基地から夜間出撃した部下は同じ水上機出身ですが、猛烈な夜間訓練をやりました。訓練すればすごいもので、エンジンの排気管から出るかすかな青白い炎を見て編隊飛行ができるまでになります。もともと二座の水上機は空中戦ができるんです」
水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達するという。敷島隊の関行男大尉は艦爆出身だが、戦闘機パイロットに転科しても不思議ではない、という論者である。
美濃部氏が水上機パイロットを零戦に乗せ、夜間に使用することを思い立ったのは十九年一月、トラック島にいた時で、意見具申してそれが採用された。
美濃部正大尉が水上機パイロットを零戦に転科させた時、トラック島の大空襲(十九年二月)にぶつかり、計画は挫折する。が、内地で新しい夜戦専門の新部隊を編成することになった。軍令部員だった源田実中佐が一枚かむが、この間の経緯は省略する。戦闘三一六飛行隊として、三〇一空に所属した新部隊の訓練は厚木で始まった。百五十飛行時間ぐらいの、若いパイロットばかりであった。
「隊員五十五人のうち二十人ぐらいは水上機出身でした。それを急速訓練しましたが、三月に開隊して五月末には全員が海上六百キロを飛べるようになりました」
それで三〇一空の司令八木勝利中佐に訓練完了を報告すると、
「空戦ができるか」
と言われた。八木司令は水上機出身のパイロットに何ができるか、といったふうな、当時の飛行機乗り一般の思い込みがあり、訓練中、一度も厚木に来なかった。
「戦闘機隊の任務は空中戦ばかりではありません。今のうちに第一線に出て訓練しないと意味がなくなります」
といった論戦が続いた。
「視点が違うんです。そんなに短時間に空戦訓練ができるはずがない。そうした視点が安易な特攻に結びついていったような気がしてなりません」
と美濃部氏は言う。
レイテに話を戻す。
「零戦で夜間出撃して魚雷艇を銃撃するのは、魚雷艇のスクリューで夜光虫がかすかに見えるからです。それを目標にして超低空で突っ込みます。これは効率のよい攻撃法で、夜間に飛ぶ訓練さえしていれば十分にできます。レイテにも黎明、夜間の銃撃に行きましたが、従来通りの考え方ではもはやアメリカには通用しませんでした」
セブ基地とレイテ島のオルモック間は五十キロぐらい。アメリカは既に特攻機の来襲に備えて、常時上空の三層に戦闘機を配備して警戒していた。二千、四千、六千メートルの高度に百機ぐらいずつ飛ばしていたのである。
「あんな所に昼間二十機や三十機の飛行機を持っていっても何にもならない。多数の敵機に頭を被られてはどうにもならないのはだれでも知っている。それなのにやるんですね。
十一月中旬だったと思いますが、第二金剛隊の零戦五機が、セブに来て『これからレイテの銃撃特攻に行きます』と言ったのには驚きました(「神風特別攻撃隊戦闘報告」によると第二金剛隊の零戦五機がセブ基地から出撃したのは十二月十三日となっている)。
この中には小松島空時代の私の教え子がいました。待て、ととめましたよ。明日の朝おれが銃撃に行くから一緒に行けばよい、と言ったのですが、聞きません。命令ですから、と本人は懸命でした」
美濃部正大尉は、
「どうしても行くと言うのなら、海上一メートルぐらいの超低空でレイテまで行き、山脈を越える時はプロペラが木の葉をたたく程度の高度で近づかないとレーダー射撃にやられてしまう」
とていねいに注意して出発させた。命令権がない以上、中止させられない。
「こうした考えが、特攻を安易にやらせた、という私の不満なところです。たとえレイテの山越えに成功して、銃撃できたとしても、全弾撃った後、人と機体で何を目標にするのか。軍艦に体当たりしても効果はほとんどありません。
昼間は三層の敵戦闘機、夜間はレーダーと一基地に四連装四機の機関銃陣地が六、計九十六門の吹き上げる火の矢です。私は何度もやっていましたから、初めての者ではとても無理だとわかっている。私がセブ基地に連れてきた部下は、私が鍛え上げてきた者ばかりで、夜間でも私の思う通りについてきます。
私たちがレイテ銃撃から戻ってプロペラを調べると、葉っぱの樹脂がべっとり付いています。プロペラで葉っぱを切るぐらいまですれすれに山越えをしないとレーダー射撃の餌食なのです。海軍の悪口は言いたくありませんが、一線の指揮官がよくなかったですね」
美濃部大尉が五人の特攻隊員をレイテへ送り出し、ものの三十分もたったころ、一機だけが引き返してきた。風防は砕け、パイロットの顔面は鮮血で彩られていた。
「よく聞いてみると、山を越えた瞬間、四機が機関銃で撃ち落とされた、と言いました。葉っぱを切るぐらい低く飛べ、と言った注意を守れなかったのです。もっとも、そんな操縦はなまはんかな腕前ではできません。特攻隊の指揮官とは、ただ繰り出すことのみとなったのかと、暗然としました」
十一月下旬、美濃部大尉は大西瀧治郎中将からの電報でマバラカットに出頭した。
大西中将は長官室で待っていた。
「航空隊司令を経ずに直接私に、
『コッソル水道に敵の飛行艇が四十八機いる。それを君のところの月光(夜間戦闘機)でたたけないか』
と言われました。私の隊員の中から、特攻隊を出せ、ということですね。そこで、私は、月光は斜め銃(B29を下から攻撃するため銃口が斜め上に向いていた)ですから有効な攻撃は期待できないむね説明申し上げました。そして私が零戦四機をもって参ります、と言いました。
『それで君たちは帰ってこられるのか』
と長官。即座にそれは無理です、と答えました。燃料も往復千百キロの飛行には足りないし、途中のパラオ、ペリリューには米軍基地があり戦闘機を制圧しなければならない限り生還はありません。
ただし、やれる自信はあります、と答えました。
私は大西長官に申しました。
夜間単座機の航法には自信があり、パラオの地理にも通じています。夜明けのコッソル水道に殺到すれば、飛行艇襲撃任務は果たせますと。すると大西長官は、
『君ら零夜戦(夜間零戦)は引き続きレイテで頑張ってもらわなければならぬ。飛行艇(攻撃)はやめよう』
と決心されました。そして、
『今夜はゆっくり話していけ』
と言われました。第一線の指揮官の本当の言葉が聞きたかったのかもしれません」
その夜、美濃部氏が大西中将に語った内容を整理すると次のようなことになろう。
零戦の銃撃特攻の効果は疑問であること、艦船攻撃も敵戦闘機の警戒が厳重で近づき難いこと、艦船の識別が困難なこと、司令部をセブに進出させること、夜戦隊を強化すること、などであった。
「長官はうなずきながら、私の話を聞いてくれました。実際レイテ湾上を一度でも飛んだことのある前線指揮官なら、常時二千隻に近い敵の艦船がいて、艦種の識別がいかに困難かということがすぐわかるはずです。輸送船の少し大きいのになると、航空母艦に見えます。それを見間違えて、特攻で突っ込んだ若い生命がいくらあったことか。ただ、この時点で戦う余地が残っているとしたら、夜戦しかありません」
中将と大尉の話し合いであった。階級社会の軍隊にあって、中将が大尉と直接話し合うようなことは、かつてなかったろう。この点を見てもレイテ戦が、いかに激烈であったかの証明になる。同時に大西中将の真剣さがわかるエピソードである。
特攻隊員の生き残りである、前に紹介した香川克巳氏によれば、隊員が航空隊の参謀とか、司令と直接口をきくようなことは、まずなかったという。せいぜい特攻として出撃する時の激励程度であったろう。それに対して、大西中将は大尉どころか一兵士とも車座になって話している。
「また海軍の悪口になるんですが、大西長官は悪い時に一航艦長官として赴任されたのです。フィリピンが戦場になる前――九月二十一日の空襲の時をはっきり覚えているんですが、ニコルスでは朝方点々と見える機影に対して、内地からの増援だと、喜んでいました。一見して敵の編隊隊形です。『敵だ』と警告しても本気にしない。訓練中の味方機が気づいて警告射撃し、やっとわかりました。
午後になって敵機が去りました。直ちに反撃すべき戦機です。しかしこの時指揮所にいたのは有馬正文少将と二〇一空の玉井浅一副長だけで、他の各級幹部はマニラへ避難していました。幹部級の戦術眼、戦意は末期症状だったのです。大西長官が特攻を強行した裏には、このような事情もあったと思います」
マバラカットの長官室で、美濃部正大尉は思いのたけを吐いた。長い一夜であったという。
「若い特攻隊員がとっさの判断で艦種の識別、対空砲火からの防御などできません。長官、技量がないから特攻をやらせると申しましても、現状を見れば、技量がなければ特攻はできません」
美濃部大尉の言葉に、大西瀧治郎中将は、
「飛行機はダバオ、セブ、マニラで泡のごとく消えてしまった。今の基地航空部隊にそれができるならば、だれがこんなむごい戦いをするものか。若いパイロットたちに何とか死に花を咲かせてやりたい。君の隊は君の思うようにすればよい」
そして一呼吸置き、
「オレは若い者を信用するしかない。特攻は私の信念である」
と自分自身にいい聞かせるように言った。
「若い者に死に花を咲かせてやりたい」という、この極めて日本人的な発想は、今の若い読者には理解できないかもしれない。どうせ戦争で死ぬ身であれば、犬死にだけはさせたくないという考え方である。「引退の花道を作ってやる」といったふうな形で今に残っているが、当時の日本人にとっては、日常的な倫理性さえ持っていた言葉である。
だが、
「むごいこと」
と言ったのは大西中将の本音であったはずだ。
特攻攻撃(体当たり)の計画を最初に大西中将に持っていったのは、資料の範囲内では、侍従武官だった城英一郎大佐である。城大佐は昭和十八年六月、ラバウルを視察し、海軍航空の、というより米軍の航空兵力の威力をまざまざと見て、通常の戦闘ではもはや勝てないと判断した。海兵四十七期。侍従武官を務めるほどであるから、がむしゃらな性格ではない。分別もある四十四歳だった。その城大佐が、当時海軍省航空本部総務部長だった大西中将を訪ね、
「もう体当たりでなくては戦に勝てません。私を隊長にしてやらせてください」
と三度も申し入れている。この時大西中将は五十四歳。城大佐の申し入れに対して、大西中将の返答が、
「そんなむごいことができるか」
であった。若者を自ら絶対死に赴かせるようなことは、元来が大西中将の好みではない。
城大佐は、栗田艦隊をレイテに突入させるためオトリ艦隊となり、ハルゼーをまんまと引き付けた、小沢機動部隊隷下の、空母「千代田」の艦長として、二十五日、エンガノ岬沖で艦と運命を共にした。本望であったかもしれない。
「特攻はやね、統率の外道だよ」
と兵庫なまりでふと漏らしたのを門司親徳大尉は聞いている。
とまれ、フィリピンでの特攻出撃は日ごとに激しさを増した。
門司親徳大尉によれば、
「十月の末には、陸攻、艦攻、一部零戦の通常攻撃を除いては特攻攻撃が中心になりました。命名は指揮官が現地で行い、後から司令部に報告される例もありました。隊員も敵を発見せずに帰り、それが他の隊に編入されたり、不時着して別の隊と再出動したりして的確に把握することが困難になってきました」
という状況であった。大和隊の久納好孚中尉が突っ込んだ二十一日はともかく、二十五日の菊水隊、敷島隊の出撃が戦果をあげたことにより、連合基地航空部隊として特攻作戦に踏み切ってから五日目にして、すでに隊員の完全把握ができなくなるほどエスカレートしていった。セブ、ダバオ、マバラカットとかなり離れた基地から戦況によって飛び立つので、戦果はともかくマニラの司令部で的確な行動――特攻死か不時着か――がつかめないのである。
「神風特別攻撃隊戦闘報告」は後で整理して記述したものだが、それでさえ、なお正確さに欠ける。司令部の怠慢ではない。若い隊員の情念が燃えたぎり始めたのである。多くの若者は“国のため”と信じてひたすらに死んでいったのだ。少なくともフィリピン戦の初期段階の特攻隊員にはそれが見られる。長い間の緊張が続き、軍が“全機特攻”を決めた(二十年一月)以後は特攻隊員の中に精神的な変質が見られるようになるが、これは後のことだ。本書の主題はその変質の過程を追跡していくところにある。
ところで、前に書いたように、国民に「神風特別攻撃隊」が新聞で報道されたのは十九年十月二十九日。
マニラの司令部にその新聞が届いたのは十一月の初めであったと門司大尉はいう。そして著書『空と海の涯で』の中で、注目すべき感想をもらしている。
「一面トップに『神風の忠烈万世に燦たり』と横書きに見出しがあり、関大尉以下の体当たり攻撃に対する連合艦隊長官の全軍布告、二階級特進の報道が掲載されていた。
そしてクラーク地区にいる報道班員の現地取材が、生々しい筆致で書かれていた。初めこの新聞を見た時、その報道の大きさにちょっと驚いた。ひそやかに命名され、バンバン川でささやかにたむろしていたあの人たちが拡大されて、びっくりするほどの大きさになっていた。彼らはこんなことは期待していなかった。もし、これを見たらはにかんだように照れるのではないか――そんな気がした」
当時、物資不足で半ペラ(一枚)の新聞ではあったが、裏面には「雑感記事」として半ページを使って報道班員(特派員)の現地報告が掲載されている。中国新聞の場合、同盟通信社(現共同通信社)の配信を受けていたが「比島方面前線基地小野田馨報道班員二十八日同盟」という署名記事がある。国民の奮起を促すという、当時の手法ではあっても、おざなりな扇動記事ではない。
関行男大尉以下、敷島隊の突入成功の新聞記事は、
「讃へん必至必中魂」「澄み切った闘魂・責任感の権化関大尉」「にこにこと出陣・同室の士官が語る人柄」「空で散るのが念願・女手一つで育てた甲斐」「よくも行男さんが、折柄の常会に湧く郷土」(用字は当時のまま)と大きな見出しが躍っている。
「――指揮官機劈頭に続く日本海軍の伝統を受け継いで今ぞ敵空母と刺し違え、水漬く屍と散華した関大尉の横顔を出撃の朝まで基地で親しく仰いだ記者が今ここに見たまま、感じたままの印象と、併せて戦友が描く関大尉の思い出をつづる」
と、小野田馨同盟記者は書き出している。
「記者が基地で初めて関大尉と会ったのは台湾沖、比島沖航空戦(十月十二日)前後のことであった。
記者の乗用車に血走った目で、日焼けしているが、長身秀麗の一士官が搭乗員四名を引き連れ、あわただしくかけ込んできたことがあった。
『すぐこの車をかして貰いたい。次の作戦に出撃の搭乗員を飛行場に届けるのだから早く』
記者が喜んで車を提供したことはいうまでもない。この士官が後で関大尉とわかった。このころは挺身攻撃隊の隊長をしておられたようである――。関大尉はこのときのことを後になっても覚えていて、記者の顔を見るたびに、
『あのときは急いでいたので失礼しました』
と何回もわびるように言うのだった。関大尉にはこのような優しい反面があった。同大尉は神風隊編成のことが一度伝わるや率先志願してその隊長をかって出られた。記者は指揮所や飛行場で見かける関大尉が、日一日と寡黙になり、
『敵至る』
の報が入るごとに、その目が異様に輝いたことを知っている。この目の輝きはただ敵撃滅の旺盛な闘志と決意を物語っているように見えた。
『ああ、もう少し足(航続距離)が長ければなあ』
と愛機の翼の陰で独語しておられたのを見かけたこともあった」
クラーク基地の報道班員は関大尉の敷島隊が三度出撃して、敵を見ずに引き返し、四度目に成功したことを知っている。そのつど見送っていたからだ。記事は検閲されたものだが、それでも今改めて読むと案外本当のことが書かれていることに気づく。だんだん寡黙になり、「敵が見えた」という報が入るたびに異様な目つきになっていく過程である。
また同室だった(指宿正信)大尉の談話も載せている。
「――いよいよ攻撃に行くことになった時、猛烈な下痢に悩まされており、クレオソートを一服くれ、と言ってきたのでさし出すと『いよいよ攻撃に行きます』と一言いい残して行った」
敷島隊の関行男大尉については、いろいろなことが伝えられている。もともと艦爆乗りの関大尉が、戦闘機乗りとして台湾からフィリピンに赴任させられたのは、特攻隊の隊長予定者としてであったこと、弱々しい士官で、海軍の伝統である“指揮官率先”の犠牲になったのだ、などなどの説である。
しかし小野田馨同盟特派員の報道にもあったように、関大尉は挺身攻撃隊――反跳爆弾で敵艦を沈める戦法――の隊長として貴重な存在であった。神風特別攻撃隊が編成された時、同室で同じ反跳爆弾投下の訓練をしていた耕谷信男飛曹長に、
「自分のところに指揮官の役目が回ってくるかもしれない」
ともらしたように、覚悟していたことは前にも紹介した通りである。特攻以前の肉薄攻撃として、反跳爆弾攻撃が有効だと、陸軍でさえも訓練していた時である。もっとも陸軍では「飛跳爆弾」と呼んでいた。
関大尉と海兵同期(七十期)で、広島市に住んでいる古米精一氏によると、
「私も関と同じ飛行機の方向に進みましたが、飛練では私の方が一期前の三十八期でした。海兵時代の関は剣道が強く、下級生の“修正(海軍式制裁)”も率先してやっていましたよ。まあ元気のよい、言ってみれば兵学校の生徒らしい生徒でした。関が神風特別攻撃隊の最初の指揮官に選ばれたのは、菅野直大尉が内地に飛行機を取りに帰っていて、フィリピンにいなかったからであったことは間違いないでしょうが、もしいても、菅野を指揮官にしたかどうか。
菅野という男は、飛練でまだ垂直旋回の訓練中に自分で教科書を読んで、勝手に宙返りをやっていました。そんな男でしたから、操縦の腕は抜群でした。最初の指揮官として関を選んだのは、菅野よりも腕が悪かったからでしょうね。腕達者は死なせない」
と言っている。さらに、
「関は戦地でも兵学校一期下の中尉に気合を入れていた(殴る)そうです。一緒にいた同期の者が『あいつはやるよ』と言っていたのを知っています。決して、めそめそした男ではありません。しょんぼりとして死んでいった、と見るのは間違いですよ」
と、戦後の“犠牲”説はうそであると断言する。
「当時の軍人ならあきらめるのが常識です」
古米氏自身、二十年三月「人間爆弾」の神雷部隊の分隊長を命じられ九死に一生を得る。
ただ、特攻隊の成功が日本人の間に感動と闘志を盛り上げる役目を果たしたことは当然であった。戦争は国民の意識を変える。国民も「満蒙(中国東北部とモンゴル)は日本の生命線」「鬼畜米英」など、しきりに言っていた。日本は強国だと教えられ信じていた時代だから、国民の向こう意気も強かった。それを抑えなかったのは指導者の無能のせいである。
陸軍も独自の特攻隊編成
陸軍の特攻が初めて出撃したのは十一月七日であるが、それまでに神風特別攻撃隊は連日出撃し、多くの戦死者を出していた。同日現在の時点で、出撃した特攻隊は以下のようになる。
《セブ基地》大和隊が六隊(十五人)、葉桜隊が三隊(十二人)計二十七人。
《マバラカット基地》敷島隊(六人)、艦爆彗星隊(四人)、白虎隊(三人)、左近隊(二人)、艦爆香取隊(二人)、艦爆鹿島隊(八人)計二十五人。
《ダバオ基地》朝日隊(三人)、山桜隊(二人)、菊水隊(二人)計七人。
《ニコルス基地》艦爆義烈隊(四人)、同忠勇隊二隊(八人)、同純忠隊(四人)、同誠忠隊(六人)、同神兵隊(四人)、同神武隊(四人)、同至誠隊(四人)、義烈隊(二人)、初桜隊(三人)、桜花隊(一人)、梅花隊(一人)、艦爆神兵隊(三人)、天兵隊(八人)、至誠隊(二人)計五十四人。総合計で百十三人(「神風特別攻撃隊戦闘報告」による。艦爆は二人乗り。同一隊名は爆装または直掩零戦)。
陸軍が特攻参加した十一月七日までにこれだけの若者がすでに死んでいた。もっともこの数字は、連合艦隊告示の数字より少し多い。戦場の混乱が生存者を特攻死と見ていたこともあったろう。
フィリピンの海軍特攻作戦が終了したのは二十年一月八日(他の研究によると九日)であるが、その間四百三十一人が特攻死した。それにしても、わずか十八日間で百十三人とは重い数字である。
ニコルス基地から出撃した艦爆初桜隊の三人は、二機出撃したのだが、他の一機に一人しか乗っていなかったためだ。十月二十九日、神兵隊として出撃した相田展生二飛曹は機内で敵弾を受けて戦死。そのため基地に引き返した。十一月一日、同僚の正木広飛曹長は初桜隊として突入する際、強く願って相田二飛曹の遺骨を艦爆に乗せて出撃したのである。戦闘報告には「一人は遺骨」と書いている。
陸軍の特攻については生田惇氏の『陸軍航空特別攻撃隊史』という著作がある。生田氏は陸軍航空士官学校五十五期。大尉で終戦。戦後防衛庁防衛研修所戦史部に勤務し、公刊戦史『陸軍航空の軍備と運用』の共同著作者でもある。
同氏によると、鉾田教導飛行師団(茨城県)の今西六郎少将が、教導航空軍(航空総監部と同じ)から双軽(九九式双発軽爆撃機・四人乗り)体当たり機の部隊編成の内連絡を受けたのは十月四日であった、と今西師団長の日記を基にして述べている。今西少将は、
「体当たり部隊の編成化は士気の保持が困難で統御に困り、かえって戦力が低下するだろう。この種の決死隊は第一線で情勢が真に緊迫して、皇国の興廃がこの一戦にあることを将兵一同が認識した時に、下部から盛り上がる気勢を巧みにとらえて自然に結成されるのが適当である」
と常時編成に反対であると書いている。
昭和十九年十月四日、航空総監部から、鉾田教導飛行師団長に対して、特攻隊の編成準備命令が来たことを、師団長の今西六郎少将は自己の信念から部下には一言も伝えなかった。一回限りの体当たりよりも、成功すれば何度でも出撃可能な、現在訓練中の「飛跳爆弾」攻撃の方が有効であり、部下に絶対死を強いることは統制上長続きしない、という当然の戦理に基づく考えであった。
が、一師団長の思いとは別に陸軍特攻の準備は中央でどんどん進められていたのである。これは海軍も同じで“声の大きい方が勝つ”という今も変わらぬ現象である。
陸軍では航空本部(後宮淳大将、参謀次長兼務)に所属する第三航空技術研究所(所長、正木博少将)で飛行機の改装が行われ、十月二十日過ぎ、双軽(双発軽爆撃機)を特攻用に改装した数機が鉾田に着いた。飛行機の突端に爆弾の信管が突き出し、見るからに異様な姿をしていた。
「なんだろう」
といぶかる主要部下を前にして今西師団長は初めて体当たり部隊の編成命令が来ていることを告げた。ここまできては隠してはおれない。事情を説明して人選について意見を求めた。全員の結論を言えば、
「志願者を募れば全員が志願するであろう。したがって指名するしかない」
という極めて明快な、そして乱暴とも言える論法である。が、それなりの理由が当時はあったことは理解しなければならないであろう。
しかし陸海軍とも中央で特攻戦術について研究していたとはいえ、陸軍機と海軍機では用途が違い、思うようにはいかなかった。陸軍機は対ソ戦用に設計され、航続距離は短く、航法も陸地を見ながら飛ぶ対地航法である。海軍機は洋上を飛ぶ作戦計画が多いから、乗員の養成過程からして違っていた。
その陸海軍航空隊が、アメリカ艦隊を撃滅するため、同一訓練をする計画が陸軍の要請で実行に移されたのである。十八年の終わりころであった。同年十二月二十日、大本営陸海軍部の間で協議に入り(いざとなると難しい問題がある)、翌十九年一月二十一日、正式に決定をみた。
陸軍が海軍の指揮下に入って指導を受けるわけで、末端の隊員の意識はともかく、仲の悪い陸海軍がよくも歩み寄ったものよ、という感慨のする協定である。もちろん、それまでには陸海軍間に複雑な経緯があってのことであるが、裏返せばそれ程戦局が苦しくなっていたからに外ならない。
訓練は第九十八戦隊(陸軍)が二月一日から鹿屋基地に進出して開始された(七月下旬には飛行第七戦隊が参加)。訓練二ヵ月にして、陸軍の雷撃訓練は上達し、四月二十一日には海軍航空本部教育長が、
「訓練終了時には、あるいは海軍以上になるかもしれない」
と報告している。
陸軍の飛行隊が海軍航空隊の指揮下に入って雷撃訓練をしたところ、たちまち上達して海軍の航空関係者を驚かせたのは、練度が違っていたのと、やる気があったことに起因する。海軍航空隊はうち続く米軍との戦闘で、ベテランパイロットが少なくなっていたのに対し、陸軍のパイロットは相当の飛行時間を持っている者が多かった。飛行機の操縦は若い海軍パイロットよりもうまい道理だ。
ただしあくまでも訓練上のことである。十月の台湾沖航空戦には、T部隊の一員として陸軍パイロットが海軍に交じって出撃したが、夜間洋上の攻撃では撃ち落とされた日本機の火災や、米艦隊の撃ち上げる猛烈な対空砲火を敵艦の炎上と見間違えて、「敵航空母艦十四隻撃沈」などの“大誤報”の原因を作る。陸軍はこの誤報を、海軍の大失態とした。事実レイテ戦では、レイテ湾に押し寄せた敵艦隊を「避難行動であろう」と考えて対策が遅れるなどの実害を生んだ。
が、この誤報は、パイロットの報告を積算すると、「敵空母十四隻」になってしまうという、仕方のない側面もあったのである。
が、陸軍はやる気で、「陸軍飛行隊が海上に出動しなければ戦に勝てない」という自負があった。海軍航空隊で陸軍の飛行隊が雷撃訓練を受けたのもそのためであったにせよ、陸軍の“本流主義”は抜き難いものがあり、航空機の生産材料配分でも、海軍が中心になって戦っているにもかかわらず、常に同率あるいはそれ以上の比率を譲らず、海軍は常に飛行機不足に悩まされていた。大西瀧治郎中将が航空兵器総局に転出したのも航空機材料の配分を陸軍との間で円滑に行うためで、陸海軍の対立は天皇でさえ憂慮していた。
そのため陸軍と海軍の特攻に対する対応の仕方に相違があるのは、マリアナ海戦以後の経緯を見てもうなずける。
米軍の攻勢はとどまるところを知らず、日本の戦争指導者はついにサイパンの奪回を放棄することに決し、十九年六月二十四日天皇の裁可を得たが、その時天皇から、「陸海空軍の統合」について要請があった。要するに航空隊の一本化である。サイパン島の陸海軍将兵は七月七日玉砕した。
が、言うはやすく、行うは難しで、長年凝り固まってきた陸海軍の対立は、天皇の要望があったとしても、容易に解けなかった。
結局、十九年七月二十四日、天皇の要請から一ヵ月後に「陸海軍中央協定」がやっと成立した。要旨は、
「海軍航空隊は主として空母攻撃を行い、陸軍航空部隊は攻略部隊および陸戦に協力する。が、決戦前の米軍の攻撃には、極力これをかわして、飛行機の温存を図る」
という消極的な協定となった。兵力の小出しをやめ、一挙に航空決戦をやるという陸軍の主張が通ったのである。これは背景を理解しないとよく分からない論旨だ。
かねがね陸軍には、
「海軍航空隊は、これまでに米機動部隊と決戦をやる度に敗北して飛行機を失い、米陸軍(攻略部隊)が上陸して来て、守備している日本陸軍と地上で決戦する時には、海軍の飛行機は役に立たなかったではないか」
という海軍に対する不信がある。もし陸海軍の航空隊が統一されたら、陸上決戦の前に、陸軍の飛行機まで米機動部隊との戦闘に巻き込まれ、やられてしまう。それよりも航空機を温存しておいて、米陸軍を乗せた輸送船が出現した時、陸海軍の航空隊が全力を挙げて殺到した方が効果的である、と主張していた。海軍としては、これまでの経緯が陸軍の言う通りであったから、妥協せざるを得ない。
前述したような陸軍機による雷撃訓練が陸軍の要望によって始められたのも、陸軍の手で特攻をやる前提であったと言える。
陸海軍両者の不信はますます募り、陸軍は潜水艦までも自前で造った。
陸軍特攻の採用は十九年三月二十八日に参謀本部で決定した。
陸軍航空の全般について責任を負う航空総監部は全般的に特攻について否定的だったと言われ、そのため航空総監兼航空本部長、安田武雄中将は軍事参議官兼多摩陸軍技術研究所長に転補され、参謀次長後宮淳大将が航空総監を兼務。同次長に菅原道太中将を据えて、特攻採用に踏み切っている(公刊戦史)。
以来、陸軍独自で艦船撃沈の研究(特攻兵器の開発)が第三航空技術研究所長正木博少将の下で行われた。艦船の撃沈は海軍の任務であり、少なくともデータは豊富にある。それを海軍に相談することなく、独自であれこれやったものだから、結論が出るのに約三ヵ月かかり、七月中旬に「棄身戦法ニヨル艦船攻撃ノ考察」としてまとめた。
結論は、
「即刻可能な方法は、九九双軽に一トン爆弾を搭載し、敵艦に激突する方法である――」
であった。陸軍には一トン爆弾はない。海軍の八十番(八百キロ爆弾)を使用するしかないが、
「将来は爆弾は二トン以上とし、これに適合する飛行機を設計するとともに、爆弾を合理的に装備する方法を研究する必要がある」
と夢のような研究結果を作成した。可能性を文書にすればこうなるしかない。
『陸軍航空特別攻撃隊史』の著者生田惇氏は、
「それがいかに困難な問題であるかは、旧陸軍機を操縦した者であれば、直ちに理解されるであろう。九九双軽の爆弾の標準搭載量は四百キロである。この場合は相当の機動が可能であるが、その二倍半の爆弾を積んでは飛行性能が極端に低下する。そのうえ五百キロ弾でも、弾体が大きくて弾倉が閉まらないのであるから、一トン爆弾ではなおさらである。弾倉を半開きにしたまま敵艦に激突できる状態ではない」
と書いている。
陸軍特攻機の改装は十九年七月から、前述の九九双軽の外に四式重(四式双発重爆撃機・飛竜、乗員六―八人)も同時に行われた。
通信、酸素の装備以外の生還に必要な重量物は全部除かれ、乗員は一人。操縦室の風防ガラス以外の窓は全部閉鎖された。
九九双軽には海軍の八百キロ爆弾一個、四式重には弾倉と操縦席の後方通路に一個、計二個が取り付け可能になっていた。
九九双軽は機首に信管が長く伸び、爆弾は機内で爆発する。四式重も、同様の装置を持ち、操縦席の後にある一個は弾倉内の爆弾が爆発した後から誘爆するようになっていた。爆弾は体当たりしないかぎり落ちない(公刊戦史)。
したがって出撃して敵に会わず、不時着する場合でも、信管になにかが接触すれば万事が終わりである。現在の感覚では考えられない残酷兵器である。
さすがに当時でも部内で問題となり、フィリピンへ出撃する途中、立川で緊急時には爆弾投下ができるようにするため航空審査部の竹下福寿少佐から説明があった。爆弾投下が可能なように再改装されることになったのである。
発想は海軍の“人間爆弾”「桜花」と同じであるが、特攻士が「桜花」に乗り込むまでの過程が陸軍のそれとは大きく違う。後で詳しく紹介するが、「桜花」は母機の一式陸攻につり下げて運び、特攻士は「桜花」に乗り込んで発進するまで母機の中で待機している。投下前に敵戦闘機に見つかり、目的が達成できない場合には「桜花」を切り離して、母機とともに退避することもできた。
が、特攻機九九双軽、四式重は、途中で敵戦闘機に出会い、攻撃目的が達成されない場合でも、爆弾を落として身軽になることができなかった。陸軍の発想のすごさ、というよりも改装した技術者の精神を疑いたくなる兵器――まさに棺桶である。
隊員の任命のやりかたも、前述したように海軍とは異なっていた。陸軍の場合は“まず特攻兵器有り”で、隊員の任命は壮行会が開かれた翌日、十月二十一日に行われていた。
この日の未明フィリピンのマバラカット基地で大西瀧治郎中将が神風特別攻撃隊の編成を終えていたことに注目する必要がある。神風特別攻撃隊編成の報告はすぐに大本営海軍部に報告されており、陸軍部も承知していた。
二十日夜鉾田で行われた壮行会は、冷酒に、するめいかの簡単なものであったが、将校集会所と、下士官集会所で別々に行われた。まだだれも特攻のことは詳しくは知らないらしかった。レイテ島に米軍の上陸があったので鉾田教導飛行師団からも出撃する、と今西師団長は説明した。そしてフィリピンに出撃する中隊を「万朶《ばんだ》隊」と命名した。これは異様なことであった。陸軍中央の論理で、天皇の大権によって編成された正規の部隊でないことを意味した。
万朶隊の隊員名簿の発表があったのは二十一日であった。中隊長岩本益臣大尉以下十六人である。これに整備員十三人が加わった。
岩本大尉は陸士五十三期、昭和十五年の卒業で二十七歳。海兵の六十八期と同年度である。神風特別攻撃隊隊長関行男大尉より士官歴からみれば二期先輩になる。
小隊長は陸士五十五期―五十六期の中尉が三人。隊員は少尉候補生出身の少尉以下、少年航空兵、逓信省航空機乗員養成所卒業の下士官などである。この中で出撃した度に爆弾を投下し、体当たりを拒否し通してついに生還した佐々木友治伍長(北海道に在住)は、逓信省航空機乗員養成所出身である。
逓信省航空機乗員養成所は元来民間機パイロットの養成機関であるが、卒業後は一定期間軍務に服することが義務付けられていた。同養成所五年コース(米子)に在所中終戦となった松中義明氏(広島市東区牛田二丁目)によると養成所出身者で特攻死した者は陸軍百五十三人、海軍三十五人にのぼる。
万朶隊がフィリピンのリパ基地(マニラ南方百キロ)に着いたのは二十六日である。
二十四日には浜松教導飛行師団の第一教導飛行隊を母体として隊長西尾常三郎少佐以下二十六人の特攻隊が編成された。
西尾少佐は陸士五十期(特攻隊員として戦死した陸軍将校、海軍士官は少佐が最高位で陸軍が四人、海軍が一人の計五人)。もっともこの時、西尾少佐は特攻とは知らず、艦船攻撃の特殊任務に出撃すると思っていたらしい。
ところが特攻機として改装された四式重爆撃機が二十五日、岐阜から空輸されたのを見て、その任務のただならぬことに気づいた。例の信管が飛び出し、風防ガラス以外の窓は全部閉じられ、副操縦席がとっぱらわれている大型機である。
さらに任務の重大さ――というよりも周囲のムードの異様さに緊張した。隊員ならずとも、圧倒される催しが行われたのである。
二十六日、梅津美治郎参謀総長代理として菅原道太航空総監が出席して、出陣式が行われ、参謀総長の公式命令として、
「悠久の大義のために出動するにあたり、この部隊を特別攻撃隊、富嶽隊と命名する」
と伝えたのである。
午後二時、隊員二十六人と師団長副官を乗せた四式重九機は、浜松飛行場を飛び立ったが、目撃者によると、西尾隊長機は離陸と同時に浜名湖の方向に直進し、編隊を組むための上空旋回もしなかったという。これは明らかに自分たちが「体当たり特攻」のための出陣であることを知ったうえでの行動であったと思われる。いつ、誰から聞いたかは知るよしもない。しかし西尾少佐以外は、体当たりするための出撃だとは誰からも聞いていなかったので、隊長の異様な行動をいぶかった。
富嶽隊の隊員が自分たちが「体当たり機だ」とはっきり聞かされたのは、中継基地の宮崎県新田原飛行場に着陸してからである。西尾隊長機に便乗して来た浜松教導飛行師団長の副官が、宿舎の会食の時、酒食をもてなしながら伝えたのである。この間の経緯は、高木俊朗氏の『陸軍特別攻撃隊』に詳しい。
富嶽隊がクラーク基地に着いたのは十月二十八日であった。すでに神風特別攻撃隊は一、二航艦が合体して「第二神風」の編成が行われ、忠勇、義烈、純忠、誠忠の四隊が突入して戦果をあげており、良くも悪くも陸軍の特攻隊員を刺激した。
富嶽隊は飛行場のピスト(空中勤務者控え所)を敵の軍艦に見立て、四式重爆撃機に実際の八百キロ爆弾を装備し、すさまじい気迫で降下訓練を行った。その姿は“ピストにいる指揮官が敵である”かのように見えたという。
ここで、当時の陸軍航空の配置を見ておく。
陸軍は五つの航空軍を配備していた。
第一航空軍――内地
第二航空軍――満州(中国東北部)
第三航空軍――南方地域
第四航空軍――フィリピン
第五航空軍――支那(中国)
である。
第四航空軍の軍司令官は、ついこの前まで東条英機陸軍大臣(兼首相)の次官だった冨永恭次中将である。
サイパン島の玉砕(七月七日)をきっかけにして表面化した国内の政変で、東条首相は十九年七月十八日退陣に追い込まれた。東条首相は独裁者として恐れられてはいたが、反東条派の巻き返しも強く、国民からも不人気だったのである。日本国民がこぞって東条首相を信奉していたわけではない。
そのため“東条色一掃”の意味から、新しく陸軍大臣となった杉山元《はじめ》大将は八月三十日、第四航空軍司令官寺本熊一中将に代えて冨永中将を軍司令官に任命した。冨永中将はこの更迭人事を“追い出されたもの”と受け取った。それは事実であったにしても、適切な人事であったかどうかは議論のあるところだ。
冨永中将はかつて航空を指揮した経験がないどころか、師団長さえもやったことがなかった。東条首相のお気に入りであったところから次官になった、と言われていた官僚型の軍人である。
この人事は、フィリピン防衛に少なからず問題を投げかける。その強烈な個性は、フィリピン防衛の責任を持っていた第十四方面軍(山下奉文大将)と確執を生じた。特攻隊の取り扱いに関しても、航空の知識がないにもかかわらず独走することが多く、決定的な問題は「航空は地上部隊の補佐役である」という、戦場の実態を解していなかったところにあるというのが通説である。
第四航空軍には八万三千人の将兵がおり、八五パーセントが地上勤務員ではあった。ルソン島に連合軍が上陸し、航空軍が無力化すると、部下を見捨てて勝手に台湾へ“戦場離脱”してしまう。その責を問われて予備役に編入(くびになること)されるという不祥事を引き起こすが、このことは、後で詳しく述べる。
冨永中将に同情するとすれば、陸軍もまた歴戦のパイロットを既に持っていなかったことであろうか。
陸軍中央部は十一月六日、六隊の特攻隊の編成を命じた。第一から六までの「八紘《はつこう》隊」七十八機である。「八紘」とは「八紘をもって家となす(八紘一宇)」という“大東亜戦争”の戦争名目の文章から取った。出典は『日本書紀』(中国の古典『淮南子』による)である。
この特攻隊は、海軍の爆装零戦が大戦果をあげたのを知った大本営陸軍部が、小型機の、一式戦(一式戦闘機・隼)と九九襲撃機(二人乗り、偵察や戦車などの攻撃に使用した)をもって急きょ編成を命じたものだ。繰り返すが、フィリピンの現地で大西瀧治郎中将が“緊急避難”的に、神風特別攻撃隊を編成したのとは性格が異なる。
特攻隊は次の通りである(公刊戦史による。第五十一教育飛行師団は八日)。
第一・八紘隊(明野教導飛行師団・一式戦・隊長田中秀志中尉)
第二・八紘隊(常陸教導飛行師団・一式戦・隊長栗原恭一中尉)
第三・八紘隊(第五十一教育飛行師団・一式戦・隊長出丸一男中尉)
第四・八紘隊(第十飛行師団・一式戦・隊長遠藤栄中尉)
第五・八紘隊(鉾田教導飛行師団・九九襲・隊長松井浩中尉)
第六・八紘隊(下志津教導飛行師団・九九襲・隊長高石邦雄大尉)
『陸軍航空特別攻撃隊史』の生田惇氏によると、第五十一教育飛行師団は、内地と朝鮮で下士官などの戦技教育を行っており、第十飛行師団は関東地区の防空師団。隊長は陸士五十六期、隊員は同五十七期と特操一期という編成のものが多く、五十七期・特操一期は教育を終わった者ばかりである。
なお八紘隊はその後続々と編成されてはフィリピン戦に投入され合計十二隊となった。これに現地で編成された隊が五隊以上ある。結論を言えば、万朶隊以下フィリピンで二百五十一人が散華している。
内地で編成された特攻隊はフィリピンに到着するまでに、長距離飛行の不慣れ、機材整備の不良などで苦労する。加えて米軍の空襲があり、移動に一ヵ月もかかったものさえある。特攻隊の掌握に第四航空軍が苦労したのは海軍と同じであった。
中央から八紘隊として送り込まれたものを、冨永恭次軍司令官は、自分で八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と名前を変える。この“改名”はずっと続く。元陸軍次官の自負が見え見えで、命名式を派手に行い、特攻隊の出撃にあたっては、陸軍の出撃式と同じように軍刀を抜き振りかざして号令をかけた。およそ航空軍の総指揮官とは思えなかった、という目撃者は多い。
もちろん、フィリピンにいた第四航空軍の各隊は連日苦闘し、しだいに消耗していった。冨永軍司令官が現地で編成した特攻隊は二十年一月十日編成の旭光隊以後で、既に内地との連絡や飛行機補給もままならなくなった時期である。
万朶隊は出撃を前にして不運な幕を開けた。
十一月五日朝、岩本益臣大尉以下岡田芳巳中尉、安藤浩中尉、川島孝中尉、中川克己少尉の五人は、リパ基地から連絡のためマニラのニコルソン飛行場に九九双軽で飛んだ。マニラまで約百キロで、五十分の飛行であるが、折あしくマニラの空襲に出合い、グラマンに撃ち落とされて全員が戦死した。フィリピン戦の前途を象徴したような出来事であった。この人たちは通常の戦死とされたが、大本営は、万朶隊の残機が突入した十一月十二日の翌十三日午後二時には発表(新聞に出たのは十四日)している。
「我が特別攻撃隊万朶飛行隊は、戦闘機隊掩護のもとに十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当たりをもって戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員は次の如し。
陸軍曹長 田中逸夫
同 生田留夫
陸軍軍曹 久保昌昭
陸軍伍長 佐々木友治
右攻撃において、掩護戦闘機隊員陸軍伍長渡辺史郎もまた敵艦に体当たりを敢行せり」
そして岩本大尉以下五人の名前を公表し、
「五人は攻撃実施数日前敵機と交戦戦死し、本攻撃に参加せず」
とつけ加えている。
海軍が戦果発表に慎重であり、関行男大尉以下の敷島隊を公表したのが、直掩機の確認があったにもかかわらず三日後であったことを考えると、いかにも早急だ。このため、爆弾を落としただけで生還した佐々木伍長は、何度も特攻隊員として出撃させられる悲劇を生む。
もっとも十一月二十五日に陸軍省(進級問題は参謀本部の所轄ではない)が発表した(新聞は二十六日付)感状と少尉特進者の中には佐々木伍長の名前はない。佐々木伍長が生還したことが分かり、名前を消したのである。
慎重なはずの海軍でさえ同様なことがあった。甲飛十期会の『散る桜 残る桜』にも記述されているが、前にも紹介した高橋保男氏の体験である。
第一航空艦隊が十月三十日に作成した「神風特別攻撃隊戦闘報告」には、甲飛十期生の磯川質男一飛曹は朝日隊員として十月二十五日、ダバオから二度目(二十一日には敵を見ず引き返す)の出撃を行い、上野啓一一飛曹と直掩の箕浦信光一飛曹とともに全機不明となっている。
海軍省はこれに基づいて、十一月十三日、敷島隊の関行男大尉ら五人の全軍布告(十月二十八日)の続報として三十七人の氏名を公表した。
十九年十月二十九日付の中国新聞を見ると、朝日隊として磯川質男一飛曹の名があるが、生きていたのである。名も知らない飛行場に不時着し、機体を破損。無電もなかったので、ゲリラを注意しながら二ヵ月近くかかってマバラカットに帰った。
十一月下旬には飛行機もなくなり、最初のころの特攻隊の生き残りはフィリピンから内地に帰還させられるようになった。が、特攻隊員として戦死したと、海軍省から全軍布告された磯川質男一飛曹も、同期生たちと一緒に内地に帰還することになっていたにもかかわらず、輸送機に乗り込もうとしていた時、上官から呼び戻された。
甲飛十期会の『散る桜 残る桜』の記述によると、
「同期生たちと輸送機に向かっていた彼の背後から、『磯川、待て』と、某指揮官の声が飛んだ。ギクリとして立ち止まった一同の前で、
『貴様は特攻で死んでもらわなければならない』
と言われて内地帰りからはずされた。
同期生を乗せて北の空へ飛んで行く輸送機を、ただ一人飛行場の片隅で手を振りながら見送っていた磯川の姿は、今も同期生の胸に焼き付いている」
と書いている。
「某指揮官」がだれであったかは分かっている。が、名前を明かさないのも人情というものであろう。この指揮官は「最後には自分も行く」と言いながら、甲飛十期生たちが台湾の飛行場に降りると、先に台湾に帰っていたという離れ業をやっていた。
磯川一飛曹がどうして日本にたどり着いたかは分からない。二十年五月二十八日、大村湾上空で夜間戦闘機で交戦中に戦死した。
全軍布告といった形が一度とられると、“死んでもらわねば困る”側面があった。しかし、そんな中級指揮官たちの行動が特攻に対して、内部からの不信の種を育てたことは間違いない。
陸軍の特攻に記述を戻す。
陸軍特攻の最初は、記述が前後したが、万朶隊よりも後から編成された富嶽隊で、十一月七日である。西尾常三郎少佐以下四機が午前三時マルコット飛行場(ルソン島のニコルス飛行場群内にある)からラモン湾東方の敵機動部隊を求めて出撃したが、発見できず、全機引き返した。が、山本達夫中尉機(浦田六郎軍曹同乗)は基地近くで再び東進。帰ってこなかった(公刊戦史)。
初の神風特別攻撃隊、大和隊の久納好孚中尉にしても一度飛び立ったら帰らなかった。陸軍最初の富嶽隊二番機、山本中尉機もそうである。もっとも山本機については一つの説がある。富嶽隊はばらばらの飛行となり、僚機は引き返したが、空襲がいつあるか分からないので、着陸した飛行機はすぐ隠ぺいする。遅れて基地の上空まで帰った山本機は、滑走路に僚機がないのを見て、自分だけ引き返したと錯覚し、再び敵を求めて出撃した、と言うのである。いずれにしても、最初の特攻機は、だれにも見取られず、戦果確認もないままに、ひっそりと死んでいるところに共通点がある。当時の若者のひたむきな生き方を見る。
西尾隊長機が突入を果たしたのは十一月十三日で、クラーク東方四百キロの海上である。
冨永司令官の異常な言動
冨永恭次第四航空軍司令官は陸軍の航空総攻撃が行われていた時期、ネグロス島のパコロド基地で陣頭指揮をしていた。ネグロス島は地図の上で見るとセブ島を挟んでレイテ島に隣接しており、当面の戦場とは距離的に近い。
しかし現地軍の中央機能を持つ南方総軍(寺内寿一元帥。十一月十七日サイゴンに移動)、第十四方面軍、海軍の連合航空隊などの司令部があるマニラ地区(ルソン島)から遠く、無線でも中継の事情で二日間もかかることがあった。
富嶽隊がマニラに進出したのは十月二十八日だが、十一月三日、危険を冒して西尾常三郎少佐がパコロドに飛び、冨永恭次第四航空軍司令官に申告している。内地で命名した八紘隊を自分流に改名したのは冨永中将だが、それをマニラで伝達したのは、冨永中将と抱き合わせで四航軍の参謀長に航空総監部総務部長から転出した寺田済一少将である。
軍司令官の陣頭指揮は非難すべきではない。が、戦況が複雑になると軍司令官が出先の基地にいては困る場合が多い。ことに出先の師団長など、迷惑さえ感じた。食うか、食われるかの戦の最中に航空に経験のない上司が作戦に口を出し、最前線の飛行場で命課布達式(平時の儀式)を行ったり、軍功のあったパイロットが軍司令官の目の前で敵機を撃墜した場合など、自分で書いた賞詞をれいれいしく読み上げて渡したりした。その場合、師団長以下幹部は列席を強いられ、口も出せない。いわば古風な指揮ぶりであった(公刊戦史)。
南方総軍もこの間の事情を承知していて、冨永中将をマニラに引き戻す方針を決定し、飯村穣参謀長が書簡を送ってマニラ帰還を促したほどである。冨永中将は仕方なくマニラに戻るが、万事がこの調子で、ついに“飛行師団長罷免”という暴挙に出る。太平洋戦争を通じて、前線で“師団長罷免”をやったのは、このほかにはビルマのインパール作戦の時の牟田口廉也第十五軍司令官があるのみである。牟田口中将はその行為がもとで予備役に編入される。
事の起こりは、戦争の重大性を理解しないところにあり、偏狭な性質による。
十一月二十四日の航空総攻撃の時、パコロド基地の第二飛行師団長木下勇中将は、冨永中将がオルモック(レイテ島)で苦戦している第三十五軍への空中輸送用機として予定していた九九双軽十機のうち四機を、独断で総攻撃に使用した。当時、第二飛行師団が所持していた実働機は約五十機。一機でも欲しいところである。冨永中将の気質を承知している木下中将は、総攻撃に九九双軽を一時使用したいと意見具申を重ね、そのつどけられていた。
パコロドには第四航空軍参謀長寺田中将が駐在していたので、木下師団長は背に腹は代えられないと、使用する旨を伝えた。寺田参謀長もあえて反対しなかった。
木下勇第二飛行師団長が独断で出撃させた四機のうち一機が未帰還となった。
これを聞いて、冨永中将は激怒した。直ちに木下師団長を罷免したのである。
陸軍次官までやった男が師団長は親補職(天皇の命令によって任命される)であることを知らぬはずはなく、一軍司令官の権限外である。明らかに異常で個人感情の交じった嫌がらせだ。事態の報告を受けた南方総軍は冨永中将に罷免命令の変更を要求し、軍法会議にかける、という要請も拒否した。事実、中将級の軍法会議には所定の条件が必要であり、戦場でできる性格のものではない。既に冨永中将の異常な言動は関係者の間で知られていた。木下中将は十一月六日の日記に、
「(冨永)軍司令官はある時期には全飛行機部隊に対して体当たり必中攻撃を命じる考えなること明らかなり。
(略)航空部隊指揮官たる航空軍司令官は神経衰弱とならず、感情に走らず、泰然自若たること望ましけれ」
と書いている。何事につけて、神経衰弱ぎみな言動があったものと考えられる。国運を左右する最後の戦闘で指揮官に神経衰弱的な傾向が見られ、それに振り回されざるを得ないようでは、戦の推移はおのずとわかる。
太平洋戦争を丹念に調べてゆくと、必ず指揮官の“異常”に突き当たる。その傾向は軍縮(大正中期―昭和初期)の時代をうまく乗り切り、栄達を遂げた将官級によく見られる――と源田実元軍令部参謀は言う。レイテ湾頭でなぞの反転をやった栗田健男中将もその部類に入る。レイテ島から独断セブに脱出して一ヵ月の指揮停止処分を受けた百二師団長の福栄真平中将。レイテで戦死した二十六師団長山県栗花生中将は十八年(当時ブナ支隊長で少将)に東部ニューギニアのギルワ陣地から撤退の際、軍規問題を起こした過去がある。その他数えればきりがない。
武人らしくもない軍人官僚が戦争を始め、指揮を執ったのだから戦いの行く先は決まっていた、という分析は案外的を射ている。
神風特別攻撃隊の動向に目を移す。
レイテの戦況は日ごと悪化し、第十四方面軍がレイテ放棄の処置にでたのは十二月十五日で、これを受けたようにマッカーサーは、十二月二十五日のクリスマスにレイテ戦の終結宣言を出す。が、フィリピンの航空隊はまだあきらめたわけではない。特攻はますます激化していた。
門司親徳大尉は、十一月二十五日、空襲の合い間をぬって、マバラカット西飛行場に大西中将と一緒に出かけた。すでに特攻隊員の待機所はテントであった。この時の印象を強烈におぼえている。
マバラカット西飛行場に着くと、山すそのがけに沿った小道を歩いて特攻隊員の控えのテントに向かった。ここは関大尉たち敷島隊の出撃を見送ったところであった。
二〇一空司令玉井浅一中佐(十一月一日に昇格)と特攻隊員が七、八人待機していた。事前に連絡していなかったので、びっくりして立ち上がり敬礼した。
この日は空襲の合い間をぬってすでに吉野隊の艦爆六機、彗星艦爆二機が出撃していて、ここに待っている隊員は次の出番を待つ若者であった。
大西中将は玉井司令から紹介された隊員一人一人と握手して、差しかけのテントの下に腰を下ろした。
この時、敵の空襲が始まった。
「後で分かったことですが、吉野隊の四機が敵空母に体当たりして大きな戦果をあげたのですね。それで敵はクラーク基地をたたけ、と全力を挙げて空襲をかけてきたのかもしれません。午前中の比ではなかったですね」
と門司氏は昨日のことのように覚えている。
門司氏はあわててがけの真下に飛び込んで身をひそめた。何発目かの爆弾が近くで破裂し、土がぱらぱらと落ちた。下敷きになってはたまらないと、今度ははい上がって地面に腹ばいになった。
玉井司令も同じように飛び出して伏せた。そして、ふと目を上げると、大西中将と特攻隊の人たちは、がけを背にして相変わらずあぐらをかいたままだった。
「私はみっともない行動をしたわけだが、不思議に恥ずかしい気はなかった。
『あなた方には、とてもかないません』
という感じが素直に出て、頭に手をやりながら身を起こした。長官も特攻の人たちも笑い顔であったが、軽べつしている感じでもない。妙になごやかな気分であった」
と書いている。
玉井司令が、
「長官、ここはあぶないですよ」
とせきたてたので、大西中将は、にやにやしていたが、どっこいしょと腰を上げ、がけから離れた河原の真ん中の方まで歩いていった。特攻隊員も一緒についてきた。
大西中将はしばらく座っていたが、やがてごろりとひっくり返って空を見上げた。クラーク平原に点在している飛行場を制圧攻撃している敵機は、編隊を組まず、勝手に飛び回って、何かを見つけると舞い降りて銃撃を加えた。
余談だが、終戦前の日本の状況を思い出せばよいのかもしれない。呉市などすでに攻撃する目標がなく、多数のグラマンはてんでに低空を飛んで、遊んでいるように見えた。もちろん日本の対空砲火は沈黙のまま。
門司氏も大西中将に倣ってあお向けに寝たが、怖くてすぐうつぶせになった。
大西瀧治郎中将は十一月十九日、一度日本に帰っている。飛行機の増援を要請するためである。
その時同行したのは猪口力平一航艦参謀で、同月中旬大西中将がフィリピンに帰った後も台湾に残り、特攻として参加することになった元山(朝鮮半島)航空隊などの飛行士を台湾で教育してはフィリピンに送っていた。これが金剛隊である。
『神風特別攻撃隊の記録』の中で猪口中佐は次のように書いている。
「(大西中将の要請で)大本営海軍部が苦心さんたんしてようやくひねりだして編成したものは、教育航空隊である大村、元山、筑波、神ノ池の各航空隊で、実用機教程をまさに終わろうとしていた飛行時間百時間足らずの予備少尉を主体とし、これに若干の練習生と教官数名を加えた搭乗員と、各航空隊から三十ないし四十機ずつを出しあった百五十機であった」
予備少尉とは多分、十四期飛行専修学生のことであろう。一期前の十三期は、大和隊として十月二十六日、セブ基地から出撃した植村真久少尉のクラスで、飛行時間は、百時間ということはなかった。
前述のように、神風特別攻撃隊として戦死した士官は七百六十九人であるが、飛行科予備学生、予備生徒出身者は六百五十二人。うち十三期は四百四十七人にのぼっている。
猪口中佐が台南、台中の基地で約十日間訓練して、最後の十三機とともにフィリピンに戻ったのは十二月二十六日である。
金剛隊の最初の出撃は、前にもふれたように十一月十一日である。第一金剛隊で、このころから一連番号を特攻隊に付けるようになった。
十二月上旬になるとレイテの戦況は決定的になっていて、陸海軍とも絶望的な戦しかできなくなっていた。
十二月十五日、米軍はミンドロ島のサンホセに上陸。ルソン島に手が届くぞ、という姿勢を示した。ミンドロ島はルソン島のすぐ南の大きな島である。
この上陸部隊に対して当然特攻がかけられ、十五日から十六日にかけて、第七、第八、第九、第十、第十一、第十二金剛隊が出撃した。零戦三十九機、彗星艦爆二機である。門司親徳氏によると、学徒出身の中尉、少尉が多かったという。昭和十八年の秋、大学生に徴兵延期の特典がなくなり、一挙に多数の学生が入隊(団)した。東条英機首相が激励のあいさつをし、明治神宮競技場での雨中の壮行会の模様は新聞、ニュース映画で広く宣伝されたから知っている人も多いと思うが、その後海軍航空隊に入って飛行科予備学生となった若者が金剛隊には多かった。
猪口中佐に訓練された特攻隊員は、夕暮れ時に台湾から飛んでくるが、十機、五機とわずかずつで、日によっては全く来ないこともあった。
台湾で猪口力平中佐によって訓練された金剛隊も、二十年一月七日、エチャゲ飛行場から出撃した第二十八金剛隊の八機と第二十九金剛隊の三機で終わる。エチャゲは陸軍も最後に集結したルソン島北部山中の飛行場で、それだけ米軍に追い詰められたことを物語る。
米軍のリンガエン湾上陸は二十年一月九日であるが、六日から上陸準備を始め、多数の敵艦船が集結していた。
リンガエン――この地名を記憶し、複雑な思い出を持っている日本人は多いであろう。
十六年十二月二十二日午前二時十分、本間雅晴中将を軍司令官とする第十四軍隷下の四十八師団(土橋勇逸中将)以下諸部隊の日本軍約三万人が上陸した地点である。
この時の日本軍の輸送船は七十六隻で、ともかくもマッカーサー指揮の米比軍を追い落とした。マッカーサーが、「アイ・シャル・リターン」と宣言したのは、バターン半島からオーストラリアに逃げた後である。
そして三年後、マッカーサーの逆上陸軍は輸送船八百隻で、日本がフィリピン進攻の火ぶたを切った同じ場所にやってきたのである。しかも約十倍の兵力を持って。空から米上陸軍を偵察した飛行士は、上空から見てもなお輸送船の後尾が見えなかったという。
リンガエンは海岸線が数十キロにも及ぶ海岸である。陸軍は海岸一帯の要所に防護陣をはっていたが、敵輸送船を目撃し、猛烈な上陸前の艦砲射撃を体験しただけで、圧倒されていた。
陸海軍の特攻は猛烈を極め、この期間の特攻死が一番多いのは当然であったろう。ありったけの特攻機をつぎ込んだのである。事実フィリピンでの特攻は、リンガエンに限らず手当たり次第の感じで各方面に飛び立ち、海軍は九日、陸軍は十二日をもって終了する。まさに断末魔であった。
「神風特別攻撃隊戦闘報告」で見ると、金剛隊の特攻死者は百四十九人を数える。同一隊名の死者としては、フィリピン戦では最大である。
この数は、「戦闘報告」から拾った数字であり、その後になって特攻死と確認された人もいたし、その逆もあった。正確とは言えないが、金剛隊だけでなく旭日隊(攻撃一〇二飛行隊・艦爆隊)も同時期に数隊出撃しており、フィリピン戦の特攻死は総計で四百七十一人になる(資料によって多少の誤差がある)。
陸軍の特攻死は、フィリピン戦で二百五十一人が確認されているが、レイテ戦よりもルソン島攻防戦に入ってからの方が多い。ルソン島の攻防戦こそ、太平洋戦争の天王山との認識があったせいである。
日本の戦争指導者は、次には沖縄戦こそ天王山との認識を若い特攻隊員に植え付け、フィリピン戦の六倍の特攻隊員を沖縄に突っ込ませる。思えば悲しい時代である。
フィリピン戦については、まだ語っておかなければならない問題がある。
クラーク基地に大型機のB24の編隊が戦闘機ロッキードP38の護衛付きで姿を現したのは十九年十二月二十二日である。レイテに大型機が離発着できる飛行場が完成したことを意味する。以来決まって午前十時半ごろになると姿を見せる定期便になった。
このB24を二十五番爆弾で撃ち落とす目的で編成された特攻金鵄《きんし》隊三機ずつと直掩機が十二月二十六、二十七の両日出撃している。
二十五番爆弾とは敵の編隊の上から投下して一挙に爆破撃墜するために設計されたもので、一種の時限爆弾である。爆発力で自分もやられるから、もとより生還の余地はない。が、この金鵄隊はみんなの見ている前で決行され、二度とも特攻機は帰還せず、敵の編隊はびくともしなかった。門司親徳氏の目撃談によると、小型の特攻機がぴかり、と光っただけであった。
この光景を大西瀧治郎中将も見ていた。大西長官は一言も口をきかず、黙ってバンバンの司令部に帰ったという。すべてにおいて無力であることを自分の目で見た時、何を考えていたのだろうか。
大西中将が門司氏を、
「副官、散歩に行こう」
と誘ったのはこのころであった。門司氏は、
「実はこの日が山ごもりを検討し始めた第一日だったのですね」
と回想している。
大西瀧治郎中将が、門司親徳副官を散歩に誘った十二月の下旬といえば、フィリピン諸島の中でも一番多くの兵力を蓄え、決戦の場と決めていたルソン島の攻防戦も先が見えた時期である。
ルソン島上陸はすでに時間の問題であり、航空兵力は底をつき、陸軍の戦闘能力も限界にきていた。第十四方面軍司令官山下奉文大将がレイテ島を見捨て、ミンダナオ島に“自活自戦”を命令し、ルソン島でも全軍が山にこもって自活しながら戦う――という戦国時代的な決定をしていた。現状では、ただ本土に米軍の来攻する時期を遅らせるため、という消極的な選択しかなかったのである。
山下第十四方面軍司令官は、十二月十九日に「ルソン作戦指導要綱」を策定してこの方針を示していた。これはマニラ市の放棄を意味していたから、陸軍では第四航空軍司令官の冨永恭次中将、海軍ではマニラ警備の任にある第三十一特別根拠地隊司令官岩淵三次少将が猛烈に反対した。
冨永中将の「マニラ死守」の理由は、クラーク地区の飛行基地群を放棄しては、作戦が成り立たないという、もっともな論である。が、すでに飛行機もない飛行場に意味はない。
海軍としては膨大な海軍関係の施設を、むざむざ敵の手に渡すには忍びない――海軍が山の中では戦えない、というある意味では仕方ない側面があった。
海軍と陸軍では当然指揮系統が違う。フィリピン防衛について全面的な責任を負う山下奉文第十四方面軍司令官は、フィリピンにおける軍組織最高の司令官ではあっても、全軍を指揮する立場に無かったことがフィリピン戦を複雑なものにしたと言える。第四航軍司令官冨永恭次中将を指揮する権限もなかったのである。第四航軍は独立した部隊で、指揮権は、サイゴンに司令部を置いている南方総軍司令官寺内寿一元帥の手にあった。
南方総軍が四航軍を十四方面軍の指揮下部隊に加えるよう部署したのは二十年一月一日付(発令は十二月二十五日)で、戦局はもうどうにもならない時期になってからである。
陸軍省は十九年十一月八日“覆面”を脱いで、山下大将が第十四方面軍司令官、第四航軍司令官は冨永中将であることを特別発表し、国民に宣伝したが、内実は人事面でしっくりいっていなかったのである。
しかも、そんなに切迫した時を迎えながらも、かつて東条英機陸相(兼首相)の次官であった冨永中将は、山下大将の配下になるのをいさぎよしとせず、
「四航軍司令官を辞めさせてくれ」
と南方総軍に上申するなど、最高指揮官の間に感情的な問題が生じていた。このころすでに冨永中将は神経衰弱ぎみであったらしい。この問題については後でふれる。
さて、バンバンの司令部近くの山に門司氏を散歩に誘った大西中将の目的は、山ごもりに適当な場所を偵察するためであった。突然、
「副官は、剣道何段だ」
と聞いた。
「三級です」
と門司氏が答えると、
「三級は心細いな」
と言った。自分が切腹する時の介添人にしては、腕が不十分だという意味である。飛行隊でありながら、山にこもって戦い、最後には腹を切って死ぬつもりである。
やがてバンバンの司令部に戻ろうとして、道を探す。二人とも丸腰でナイフ一本持っていなかった。門司氏は草の坂道を見付けて先に下り、
「大丈夫です」
とどなった。ここから先は門司氏の筆を借りる。
「長官は斜面を少し下りかけると、急に草の上に横になってその斜面をゴロゴロと子供のように転がって下りてきた。――私の立っているそばまで転がってきて止まると、草の上にゆっくりと上半身を起こして、あぐらをかいた。少しあみだになった帽子のまま、人の顔を見上げてニヤニヤと、何ともいえない顔で笑った。私は、何だか人なつこい気持ちになって長官に近づいて手を出した。その手につかまって、長官は、どっこいしょと立ち上がった。長官の周りを一回りして草を払いながら私は、
『長官の首は、骨が太くて斬りにくそうです』
と言った。
『そうか、骨が太いか』
長官はそれ以上何も言わなかった」
海軍の航空隊関係者は、山ごもりの後、万策尽きれば、みな自決するつもりであった。基地連合航空部隊の司令長官福留繁中将の副官藤原盛宏大尉も、
「うちのおやじも首が太いんでなあ」
と言っていた。海軍の最高指揮官の心意気が伝わってくる話だ。
「基地連合航空部隊」といっているものの、実態は大西瀧治郎長官の一航艦と福留長官の二航艦の一時的な合併である。二航艦は一航艦を助けるためにフィリピンにやって来たものであるから、飛行機を使い果たしたいま、フィリピンにとどまる必要はない。大西中将はそのことを非常に気にしていて、常々福留長官に内地への帰還を促していた。
福留長官以下十三人が、バンバンの司令部を出発したのは一月六日である。
「助っ人に来てもらった人たちを、これ以上道連れにはできません」
という、いかにも大西中将らしい論理による。
結論を言えば、二航艦が正式に戦時編成を解かれたのは二十年一月八日で、司令部要員と航空隊員の大部分は一航艦に編入され、福留中将は十一日、仏印経由でシンガポールに向かい、十三日、第一南遣艦隊司令長官に親補された。
これは陸軍の四航軍司令官冨永恭次中将の対処の仕方とは際立って違う。
陸軍特攻万朶隊、富嶽隊の活躍が熾烈を極め、地上で勤務していた海軍をも感動させたほどであっただけに、最高司令官の身の処し方としては汚点として残る。
たとえば、海軍士官のこんな体験もある。
海軍三期兵科予備学生(十八年入隊・飛行科十三期と同期)の那須春夫少尉(東広島市西条町在住)は、二十五ミリ機関砲二十四門を操作する一二七防空隊の士官としてセブ基地に十九年六月赴任した。神風特別攻撃隊、大和隊の久納好孚中尉や同期の植村真久少尉が出撃したのも見送ったし、飛行機が底をつき、敵にやられっぱなしの末期も体験した。二十年三月二十六日、米軍がセブ島に上陸してからは、全員山にこもって終戦を迎える。
「セブ基地に赴任した当時は、飛行機は三百機もあったでしょうか、飛行場に入りきれないのではないか、と思ったくらいでした。それがダバオ事件(十九年九月)前後からの敵の大空襲で、見る間に飛行機がなくなりました。徹底的にやられたわけです。
久納中尉が出撃する時(十月二十一日)、中島正飛行長が激励の訓示をしている最中に空襲があり、出撃前の特攻機が滑走路でやられたのも見ています。
私たちは対空砲火の担当ですから防空壕には入らず応戦しますが、敵も勇敢でしてね。そりゃあサーカスのようなことをやってきますよ。
すぐ日本の飛行機を見ることはなくなりました。日時の記憶はないですが、対空監視中に敵の編隊がセブ基地の上空にやって来ました。
セブ基地の上空にやってくる飛行機の編隊を双眼鏡で見て、対空射撃の準備命令を出そうとして、よく見るとそれが翼に日の丸をつけた、紛れもなく日本の飛行機の編隊でした。陸軍の隼(一式戦闘機)の編隊だったんですね。
『陸軍の飛行機だぞ』
と叫びながらも、涙が出て、涙が出て仕方がなかったですなあ。長い間日の丸を見ていなかったものですから非常な感激でした。
隼の編隊はレイテに向けて消えてゆきましたが、陸軍も特攻として頑張っていると思うと、双眼鏡のレンズが曇りました」
余程の感激だったのだろう。
四十三年後の今も眼底に焼き付いて離れないらしい。
前に説明したように、陸軍の特攻開始は海軍より十七日も遅い。海上での戦闘の結果はともかく、若者が敵艦船に向けて突っ込んだ意気込みには変わりない。海軍機が底をつき、陸軍機は輸送船を中心目標にした。
が、那須氏が目撃した陸軍機の編隊は十二月六日の薄暮に決行された空挺作戦(テ号・方面軍は和号と呼称した)ではなかったか。挺進第三連隊主力、同第四連隊の一部四百七十四人が一式戦(隼)三十機に護衛された第五飛行団(小川小二郎大佐)の重爆四、百式輸送機三十五機に乗ってレイテ島の敵地にパラシュート降下または強行着陸するという、まさに特攻作戦である(しかし、この部隊は多くが戦死したのに特攻隊員としての特別進級はなかった)。
この当時、六十機に余る日本軍の飛行機の編隊がレイテに向けて飛んだのは、この作戦しかない。
戦いは日々変化する。
敵がスル海に入って来たのは十二月十三日である。栗田艦隊がレイテ湾の敵に殴り込みをかけるため通った海域である。そこを逆に敵船団が航行しているのは、ネグロス島かパナイ島への上陸を目指していることを意味する。
「このころから冨永恭次第四航軍司令官の作戦指導は、半狂乱に近いものになってきた」
と公刊戦史の著者は書いている。
四航軍は手持ちの特攻兵力をほとんど使い果たしてしまい、現地編成の特攻隊を十二月に入って、前述したように「旭光」「若桜」「皇華」と編成して出動させていたが、その最大のものは菊水隊であろう。
冨永軍司令官は第五飛行団に特攻菊水隊の編成を命令した。それが第五飛行団の第七十四、九十五戦隊に伝達されたのは、十二月十四日午前一時であった。
「命令。敵は艦船八十四隻をもってネグロス、パナイ湾付近に上陸を企図しつつあり、飛行団は全力をもってこれを攻撃す。
特別攻撃隊菊水隊と命名される。
飛行場出発〇六三〇(午前六時三十分)」
五時間半の猶予しかなかった。
冨永恭次第四航軍司令官は十二月十四日午前一時、第五飛行団指揮下の七十四、九十五戦隊の重爆に特攻を命令し、攻撃部署を三上喜三第四飛行師団長に実行させた。三上師団長は、冨永司令官とその司令部が台湾へ遁走した後、ルソン島で指揮を執った人である。
なにしろ時間がない。しかも飛行機は鈍重と言われていた百式重爆撃機である。三上師団長の意を受けた小川小二郎第五飛行団長は、第九十五戦隊中隊長丸山義正大尉を長として、九十五戦隊から重爆七機、七十四戦隊から二機を出した。文字通りの“全力特攻”である。
菊水隊という名は海軍の最初の特攻――第一神風――にもあったが、そんなことを構う間もなかったのかもしれない。出動時間は午前六時半との指定があったから、慌ただしい準備である。
百式重に五百キロ爆弾を装備しクラーク基地から出動させた。定員七―八人の重爆だが、特攻として使用する時は操縦者一人でよい。が、いつものように五人、七人と乗り込み、合計四十九人の出撃となった。
小川飛行団長は、出撃に当たって、
「弾を落として、帰ってこい」
と隊員に攻撃方法を細かく指示した。
鈍重な重爆に特攻機としての役目は果たし得ないという重爆乗りとしての長い体験からの言葉であり、特攻作戦に対する懐疑から出た本音であったろう。
菊水隊は小川団長の予感通り、パナイ島からネグロス島に向かう途中で、敵戦闘機に食い付かれ、不時着した二人を除いて全員戦死してしまう。すでに特攻戦法は米軍には通用し難くなっていたのである。
陸軍特攻の最後の集団的な攻撃は二十年一月十二日、ルソン島上陸地点、リンガエン湾の敵艦に対して第三十戦闘飛行集団の五隊三十三人の出撃をもって組織的な抵抗を終わる。
が、特攻隊を見送るたびに酒をつぎ、「『不肖冨永も及ばずながら諸君に続くつもりである』と、白刃をかざした手をぶるぶると震わせていた」(中国新聞十九年二月四日付)。冨永軍司令官は五日後の一月十七日、台湾に独断脱出する(海軍は一月十日に移動したが、正式命令による)。
本格的な上陸を続けているリンガエン湾の敵に十二日特攻をかけた陸軍の諸隊は次の通りである。
富嶽隊(三人)
精華隊(二十二人)
皇華隊(二人)
小泉隊(一人)
旭光隊(五人)
すでにまともな飛行機はなく、やっと整備したものにわれこそと争って飛び乗り、出撃したのである。
富嶽隊の曾我邦夫大尉は、四式重に乗り込む時、八百キロ爆弾の安全弁を抜いていた。若者らしい覚悟の出撃であった。
一航艦も台湾へ転出
ルソン島北部山中のエチャゲ飛行場から、二十年一月七日、第二十八金剛隊八機、第二十九金剛隊三機が出撃してフィリピンからの組織的な海軍特攻が終末を告げたことは前にふれた。
が、他基地から出た特攻機はまだある。公式文書として残っている「神風特別攻撃隊戦闘報告」を見るとマバラカット基地から七日に、クラーク基地からは八日に、ツゲガラオ基地(ルソン島東北部のカガヤン河に沿った町)からは九日と、さらに一月二十五日に、リンガエンの敵艦船に突っ込んでいる。
したがって公式記録に残るフィリピン最後の特攻は一月二十五日午後二時十五分、ツゲガラオ基地から出撃した第二十七金剛隊の爆装零戦二機と直掩二機である。
一月二十五日といえば、マニラ市の死守を叫んで立てこもった第三十一根拠地隊司令岩淵三次少将が決別電を打った日である(同少将は翌二十六日自決)。
米軍によるマニラ市の実質的な占領は一月十八日に終わっており、リンガエンから勢力を伸ばしてきた米軍は、この日、特攻基地だったバンバンに先頭部隊が入った。
バギオに立てこもった山下奉文大将も、陥落を目前にして、さらに奥地への移動準備に疲れていた。
第二十七金剛隊の詳細はよく分からない。が、「神風特別攻撃隊戦闘報告」によれば、住野英信中尉、岡本高雄飛長が爆装零戦に乗り、直掩に村上忠広中尉、杉山光平飛曹が当たった。未帰還は住野中尉機で、岡本飛長はアパリに不時着し、台中(台湾)に帰隊した。
直掩機の報告では「艦種不詳の敵艦に命中」とあるが、米軍側の記録にはこの日の損害艦はない。それにしても、この時期に四機の零戦がよくもあったものである。
フィリピンに残った七六三空司令佐多直大大佐の最後の努力の結果なのだろうか。この海兵五十期出身の佐多司令と大西瀧治郎中将との経緯は後で述べなければならない。
この時期の特攻隊員は気の毒である。基地航空部隊司令部の移動、敵上陸による混乱、通信の不備などによって、現地指揮官の判断で行われた特攻があっても直ちに報告されなかった。後日、整理されて分かったのである。たとえば一月の特攻が六月になって事務処理されたものもある。
フィリピン戦の敗北必至という実感は、戦っている将兵たち自身がだれよりもよく知っていた。
リンガエン湾への米軍の本格上陸は、陸軍の守備能力を超えていたから、陸海軍の若者たちの必死の特攻をもってしてもどうにもならないと自覚せざるを得ない。八百隻を超える艦船に押し寄せられては、戦術のいろはを知らなくても勝敗は分かる。
第一、飛行機が補給できないのである。台湾とフィリピンの間にまたがるバシー海峡の制海、制空権は敵の手にあった。
米軍の戦法は常に“定量爆撃”で、一定区域に何トンの爆弾を投下すれば敵を殲滅できるか、という科学的な計算の上に立っていた。日本のように一発必中といった個人の名人芸的な戦法とは、考え方からして違っていたのである。したがって、彼らが一度橋頭堡を確保すると、もう日本軍は勝てなかった。
飛行場のような広い施設でも、順番に爆弾を落としていけば、いつかは必ず目的の施設を破壊することができるという発想で、事実その通りにやって、勝ってきた。
「もう特攻も出せない。飛行機を持たない搭乗員は山にこもって戦う」
という方針が決まったのは二十年一月になってから、と門司親徳氏は記憶している。その時クラーク基地には、まだ四百数十人もパイロットがいた(公刊戦史)。陸上勤務員は一万人を超える。
米軍がリンガエン湾に足を掛ける前に、陸軍の第十四方面軍(山下奉文大将)はルソン島の自活自戦を決定しており、あくまでも“守勢”の構えであったから、実際に上陸が始まると、戦闘にならなかったことは前に説明した通りである。陸軍が山ごもりの方針であったから、海軍(陸戦隊)や飛行機を持たない空軍はむしろ陸軍の足手まといとなる。
海軍航空隊(連合基地航空部隊)が山ごもりする方針を決めた一月の初めの状況を『神風特別攻撃隊の記録』で中島正少佐は次のように書いている。
「敵は二十年一月五日、リンガエン湾に上陸作戦を開始した。――兵力の数に余りにも大きな差があり過ぎた。当時偵察機が(マバラカット基地に)打電してきた敵情報告は、
『ミンドロ島西方敵部隊三百隻見ゆ、針路北、速力十四ノット』
というのであり、さらに続いて、
『その後方には七百隻見ゆ、針路北、速力十二ノット』
われわれは驚くより先にあきれてしまった。――かんじんのこれを攻撃すべき二〇一空の可動機数はわずか四十機にすぎなかった。
司令部からは五日までに可動機全部をもって攻撃を決行し、残りの故障機は自ら火を放って焼却し、六日以後は全員陸戦隊となるよう発令された」
公式記録によると福留繁長官が、在クラーク搭乗員のエチャゲ移動を命じたのは一月八日である。もっともこの二日前に、福留長官の一行はすでにバンバンの司令部を出ていた。
この時、攻撃を果たせずに生き残っていたパイロットは三十人(二〇一空だけ)であるが、クラーク基地全体では四百数十人のパイロットがいたのは前述の通りである。
この中に零戦パイロットの香川克巳氏や偵察機に改造した彗星艦爆の操縦をしていた梅本正信氏らがいた。
零戦パイロット香川克巳氏の体験を聞く。
「戦争はだんだん絶望的になって特攻を出そうにも飛行機もなくなり、山ごもりして戦う、という方針が決まった時は、
『いまさら飛行機乗りが陸戦で死んでもつまらん』
という者が多く、最後の特攻隊員を選ぶ時は、パイロットがジャンケンで搭乗を決めました。みんなの前で公平にやるジャンケンですから負けても文句を言えません。あの時はそんな実情でした。いえね、特攻隊員は悲壮であったように伝えられ、今考えればたしかに深刻ですが、あの当時ですからね、みんな命はないものと思っていましたし、からっとして明るかったですよ。冗談もしょっちゅう出ていました」
鬼気迫る情景である。
この時の模様は『神風特別攻撃隊の記録』に詳しいが、中島正少佐によると、五日までに可動機を全部出してしまい、六日の朝起きてみると、整備員が夜通し作業して、どうにか飛べる零戦が五機でき上がっていた。玉井浅一司令と相談して、特攻五機の出撃許可を出した。性能が悪いから二百五十キロ爆弾は無理で三十キロ二個、六十キロの爆弾しか積めなかった。それでも全員が志願した。
中野勇三中尉を隊長に選び、中尾邦為中尉、加藤喜一、谷内善之、千原昌彦上飛曹の五人が決まった。出撃する時、滑走路で、
「ありがとうございました」
とエンジンをしぼって大声で叫び、飛び立った。これが第二十金剛隊であろう。
ところで、福留繁長官の転出について、門司親徳氏は、
「もともとフィリピンは一航艦の縄張りですから、福留長官たち二航艦の人が脱出してゆくのは当然だと一航艦の者は思っていました。大西長官はしぶる福留長官を、二航艦の菊池参謀長からも説得するよう強く言っていました。むしろわれわれだけが踏みとどまるのだと誇りのようなものを感じていました」
と証言している。
バンバンの山の洞窟が司令部になっていて、各航空隊の指揮官が集まり打ち合わせを行った。
この会議でパイロットにとっては意外な方向に事態が動く。搭乗員は山ごもりをやめて、台湾への脱出を図る、という計画が決まったのである。他の地上勤務員とか、整備員には気の毒だが、練達のパイロットは一人でも欲しいという大西長官らしい行動様式である。
門司親徳氏は、
「搭乗員がツゲガラオ方面に移動することが指示されたのは、この時の会議で決まったように思う」
と回想している。すると一月六日である。
同時に、
「歴戦のパイロットを陸戦で死なせるのはもったいない。敵がクラーク地区に進出してくるまでにルソン島北東部の山岳地帯に移動させておき、そこにあるツゲガラオなどの飛行場から台湾に脱出させる計画が決められました」
と言っている。
既にこの時、零戦パイロットの香川克巳氏や彗星のパイロット梅本正信氏も、どことも分からない山の中に入っていた。
「わけのわからない道を歩いて山に入りました。こんなことなら、特攻機の戦果確認のために出撃した時に、一緒に突っ込んでいたほうがましだった、と思いましたよ」
梅本氏のその時の実感であった。事実フィリピンの山の中は意外に住みにくいのである。まして、したこともない陸戦をやるなど、まっぴら――という思いが強かったろう。
それが何日だったか、正確には覚えていない。
「搭乗員は下りてこい」
という“ささやき”が口づてに伝わってきた。香川氏は言う。
「今で言う“クチヅテ”ですよ。おおっぴらに『搭乗員だけ内地に帰す』ということがわかればパニックになる危険があったのだと思います。私は持っていたピストルを整備員に渡して山を下りましたが、山に残った者も、どうせ搭乗員は特攻で死ぬのだから、という気持ちだったでしょうね。気の毒なのは口づてが届かなかったパイロットですね。山の奥深く入っていたため伝わらなかったのです」
もっとも、山ごもりして終戦を迎え、生還したパイロットは多いから、どちらが幸運だったかはわからない。内地に帰っても全機特攻である。その意味では、わざわざ特攻死するために呼び戻されたようなものである。
「私たちは悪い道を歩いてエチャゲまで出ましたが、そこは陸攻が離陸できません。それでツゲガラオに戻り、陸攻三機に詰め込まれて台湾まで帰りました。一機に二十人も乗ったでしょうか。陸攻はあれでも、詰め込めば乗れるんですね」
香川氏は、それがいつだったかも「さっぱり覚えていません」と言う。
内地に帰ったものの、彼らを待っていたのは、やっぱり特攻だったのである。
「神風特別攻撃隊戦闘報告」を丹念に調べてゆくと、香川氏は二十年四月五日午前七時十五分、第五大義隊の直掩隊として石垣島基地から、宮古島付近の敵機動部隊の特攻に出撃している。
この時のメンバーは、爆装が堀幸一上飛曹、辻村健一郎一飛曹、大館和夫、古長安雄二飛曹の四人。直掩が竹内好人中尉、小林友一上飛曹と香川氏である。「報告」には、
「この時敵を見ず」
としているが、竹内中尉機が自爆、小林、辻村両機が未帰還となっている。
第五大義隊の直掩機として出た香川克巳氏の名前が「神風特別攻撃隊戦闘報告」に残っていたのは未帰還機があったからであろう。
「全機特攻」となってからは、完全な記録を残すことはもう無理であったと思われる。
このさい、戦争と記録について少し敷衍しておきたい。
彗星の改造型偵察機で、梅本氏は、フィリピン最後の特攻の戦果確認に出た。
「一万メートルの高空から、酸素マスクを付けて見ていましたが、突入するため飛行機を切り返した時、キラリと翼が光ったのが忘れられません」
と言っている。が、梅本氏の氏名は記録にない。
負け戦の末期はこんなものである。既に十八年の初めのポート・モレスビー作戦は完全な負け戦であったためか、全滅に近かった南海支隊(高知一四四、福山四一連隊主力)の「戦闘詳報」は残っていない。
敗戦によって大本営が記録を焼却したこともあるが、「戦闘詳報」はガリ版刷りで数部を印刷したから、作っていれば関係者のだれかがひそかに保存していて、戦後になって出てくるものだ。たとえば、勝ち戦のマレー・シンガポール作戦の主力となった五師団(広島)の「戦闘詳報」は、完全なものが残っている。関係者が保存していたのである。戦争は人間の生死にかかわる記録さえも失わせるという残酷な側面を持っていることを忘れてはなるまい。今でも生き残りの戦友の手で調査が続けられているのは、戦争に対する怨念が燃え続けているからだ。
香川氏の話に戻す。
第五大義隊のうち香川氏と堀幸一、大館和夫機の三機は花蓮港基地(台湾)に帰着している。
この「神風特別攻撃隊戦闘報告」は完璧なものでないことは何度もふれたが、直掩とか戦果確認の出撃者は省略されていることが多い。いや特攻として出撃した者でもずいぶんと脱落がある。
香川氏は第十七大義隊の時も直掩で出ているが、隊長の角田和夫中尉(乙飛・茨城県新治郡に在住)の名だけある。直掩が一機ということはない。
「戦闘報告」によると、第十七大義隊は、
「二十年五月四日午前九時五十分、宜蘭基地を発進。宮古島南方の敵機動部隊を攻撃、十一時三十分、谷本逸司中尉、近藤親登二飛曹、常井忠温上飛曹、鉢本敏英一飛曹の四爆装機は航空母艦に体当たりに成功」
となっている。この日は人間爆弾「桜花」隊など海軍の特攻が十隊百機、陸軍特攻が十七隊四十四機、計二十七隊百四十四機で大攻勢をかけている。沖縄戦の真っただ中にあった。第十七大義隊でも六波に分かれて二十一機が出撃している。この時期は連合軍も特攻隊からの防御戦闘を工夫し、常に戦闘機を飛ばしていた。時間差攻撃でないと効果がなくなっていたのである。
第十七大義隊の戦闘状況を香川克巳氏に語ってもらう。
「谷本逸司中尉は広島市青崎(南区)の出身で、飛行科予備学生十三期です。同郷で、中学(旧制)も同じ修道でしたからよく知っていました。彼は完璧に体当たりしました。相手は英国の空母です。戦闘機のシコルスキーが上がっていましたから」
この記憶は正しい。戦史研究家、妹尾作太男氏の調査によると、第十七大義隊の直掩機は五機である。英空母「フォーミダブル」と「インドミダブル」が大損害を受けている。
戦争の記録についてふれ過ぎたかもしれない。海軍航空隊のフィリピンにおける最後に記述を戻そう。
生き残り搭乗員の内地転出は、タルラックまでトラックを利用し、そこから先は歩いてツゲガラオまで出た。途中でゲリラとの戦闘もあった。
実施は一月九日から始まり、十四日までに陸攻、輸送機、月光(夜間戦闘機)、水偵(水上偵察機)によって、搭乗員、整備員など百二十五人が台湾に移送された。
十五日現在の数字を見ると約千人がまだ残っていた(昭和十九年軍機電報つづり)。空輸による転進は次第に困難になっていたから、潜水艦も使用され、呂四六潜で約四十人が帰った。しかし潜水艦輸送も思うようにいかず一回だけで終わっている。
さらに一月下旬から横須賀と豊橋航空隊の陸攻部隊が転出作戦に加わり、約四百人を運んで、二月十日で空輸作戦は終了した。
クラーク地区の航空隊員一万五千人は、二十六航戦司令官杉本丑衛少将を防衛部隊指揮官としてフィリピンに残った。
結論は以上の通りだが、実は大西中将以下一航艦もまた台湾に転出することになったのである。
バンバンの洞窟司令部で搭乗員を転出させることを決定した会議から二日後の一月八日に、連合艦隊司令部からバギオに司令部を置いていた南西方面艦隊司令部を経由して、一通の電報が届いた。
「一航艦の守備範囲を台湾まで広げ、一航艦司令部は台湾で航空作戦を実行せよ。実施期日は一月八日」
という内容である。福留繁中将の二航艦が解隊となったのだから、この処置は当然であろう。
一航艦参謀の猪口力平中佐によると、電報が来たのは一月六日である。この電報を見た大西中将は、
「私が帰ったところで、もう勝つ手はないよ」
と軽くいなしている。が、命令とあれば軍人なら従わざるを得ない。「台湾で戦争を続けよ」というのが、大西中将を納得させた理由であったろう。門司親徳氏は副官という職務がら大西長官と同行することになったが、心境は複雑であった。やはりこの後、クラーク飛行場で問題が起きた。
大西瀧治郎中将以下、必要な司令部職員が二台の乗用車で、バンバンの洞窟陣地を出発したのは、一月九日の真夜中、いや十日になっていた。台湾から迎えの陸攻がクラーク中《なか》飛行場に来る手はずになっていた。大西中将たちは荷物をほとんど持っていなかった。山ごもりするつもりだったので、山に運んでしまっていたのだ。
ヘッドライトを黒い布で覆った乗用車は、ゆっくりしたスピードで走った。副官の門司親徳氏は助手席に乗った。だれもほとんど口をきかない。
クラーク中飛行場に着いたのは一時間後。外は真っ暗闇で目が慣れるまで顔の見分けもつかなかった。門司氏は懐中電灯でみんなの足元を照らした。
この中飛行場は陸攻、銀河、天山など大型機を使用するためコンクリートで舗装されていた。
この基地の司令は、七六三空の佐多直大大佐である。大西中将たちが、草むらで飛行機の出発準備が終わるのを待っていると、佐多司令がススキの穂を分けてあいさつに来た。
ここから先は門司氏の筆を借りよう。下手に紹介するよりも、この場に居合あわせた“目撃者”の目が、より正確に実態を読者に伝えることができると思われるからだ。
「この生え抜きの飛行機乗りである佐多司令も、部下を率いて山にこもるのである。長身の司令は、長官や参謀長のところへ行って簡単にあいさつすると、あっけないほどさっさとその場を去って、自分の防空壕の方へ帰って行った。直感的に、司令の不満と抵抗的な気持ちが感じられた。
二航艦に続いて、一航艦も逃げるのか――。司令はそう思っているに違いない。私は司令の歩いてゆく姿を見送りながら、後ろめたい気持ちをひしひしと感じた。司令に限らず、このクラークに残る人たちは、みんなそう思うのではなかろうか。
暗い中で、黙って時がくるのを待った。――
試運転の爆音が続いていたが、やがて伝令が走ってきて、
『準備よろし』
といった。みんなちょっと歩きかけようとした時、長官が私に、
『司令を呼んできなさい』
と言った。
長官は、司令がさっさと引き揚げていったのを知っていたようである。私は、その場所から三、四十メートル程離れたところにある指揮所防空壕に走って行った。半地下の防空壕の中に司令はいた。
『長官がお呼びです』
と私は言った。薄暗い壕の中から司令は立ち上がって出てきた。懐中電灯で司令の足元を照らしながら、元のところに案内しかけると、暗い中に長官が一人で立っていた。二人が向かい合った。私は懐中電灯で二人の足元を照らしていたが、異様な雰囲気を感じて、電灯を消し、少し身を引いた。
『そんなことで戦ができるか!』
と低い声でいうと同時に、長官の右の拳が司令の頬に飛んだ。バシッという音がして、司令が一歩よろめいた。私の青白い心臓は、しぼられるような痛みを感じていた。後ろめたいどころではない。いわば、死地に残る人を殴ったのである。長官の声は大声でなく、むしろ静かであったが、怖いような迫力があった。
『分かりました』
と司令がいった。長官は暗い中で司令の顔を見ていたが、くるりと背を向けると、滑走路の方に歩き始めた」
大西中将たちを乗せた飛行機がフィリピンのクラーク中飛行場をたったのは一月十日午前三時近くであった。
「全くあの時は息が詰まりました。長官は初めから死んでいたから、できたのだと思います。人間にはできません。
それと佐多司令も立派だったと思いますよ。最後まで頑張ったんですから」
門司氏は多くは言わない。筆者も批評のかぎりではないと思う。ただ、死地に残る指揮官に対して、あれだけの行動に出ることができた大西中将の心中は、
(今わしたちは戦争をしているんだ。そしてプロ軍人なのだ。死ぬのはどこでも一緒ではないか)
という、善悪を超越して透徹した心境になっていたであろうことは、理解できるような気がする。
大西中将はその後軍令部次長になり、終戦の翌日自決する。終戦が決定した時、
「もう一戦させてほしい」
と、関係方面を走り回り、海軍大臣米内光政大将にどなりつけられる。戦争をするための部署である軍令部が、戦争継続を願うのはむしろ当然であり“戦争罪悪論”はここでは通用しない。
戦争か、和平かを決定するのは、政府――国策指導者の仕事だ。米内大臣はずっと早い時期に怒鳴るべきであった。政府の責任と、戦争指導者の論理とを混同するのはこの際おかしいのである。ただ大西中将は一貫した戦争観をずっと持ち続けた男、という意味ではフィリピンで特攻に踏み切った時から、少しも変わっていないことでわかる。
ところで、ルソン島東北部のエチャゲに行くまでには、激戦では有名なバレテ峠を越え、イゴロット族の居住地である高地を通る。ツゲガラオはさらに北部にあり、行軍が大変であったと思われるが、不思議とこの間の難行軍の記憶が消えている。終戦までさまよった軍人の回想に必ず出てくるのが、この間の苦労話だが、特攻隊員だった人の記憶にはない。常に死と対面していた特攻隊員の苦悩を垣間見る思いだ。難行軍など問題ではなかった。
部下を見捨てた四航軍の首脳たち
フィリピンでの陸軍の特攻出撃が、二十年一月十二日、リンガエンの敵艦船に突っ込んだのを最後に組織的な攻撃が終末を告げたことは既にふれた(翌十三日に一機、二十一日に一機出ている)。
四航軍司令官冨永恭次中将が一月十七日独断、台湾に脱出して、予備役に編入されたことも簡単にふれた。が、冨永軍司令官の行動については、今少し掘り下げてみる必要があろう。なぜなら、若者のひたむきな特攻死の行動と比較して、司令官を含めた四航軍の首脳の行動は、あまりにも対照的であるからだ。
南方総軍が、四航軍を二十年一月一日から、第十四方面軍(山下奉文大将)の指揮下に編入することを決定したのは十九年十二月二十五日である。冨永中将はマニラ死守論者で、とかく十四方面軍の意向に同調せず、その指揮ぶりも感情的であり、南方総軍内部でも、問題視していたことは隠しようもなかった。
十二月下旬には強度の不眠症となり、心身の衰弱が激しく、官舎で伏せていた、という記述が、第四航空軍軍医部長中留金蔵大佐の日記に見られる。
「第十四方面軍の指揮下にはいれ」との南方総軍からの電報を見て床についたとの証言者が多い。
冨永中将が、
「病気のため指揮が執れないので、第四航空軍司令官を辞任したい」
と辞任申請を、南方総軍司令官寺内寿一元帥あてに打電するよう、参謀の松前未曾夫大佐に命じたのは十二月三十日である。松前参謀は驚く。下手をすると、軍司令官の責任回避、命欲しさのため、と受け取られかねないからである。フィリピンの戦局は、はっきりと敗北であり、ルソン島への敵の上陸は目前に迫っていた。この時期に辞任願を提出するのは軍司令官としての責任回避であり、極めて不適当であることは、軍人なら常識である。松前参謀は申請を取りやめるよう意見具申したが、冨永中将は承知しない。それでも、参謀長隈部正美少将と相談して辞任申請の電報は打たないでいた。
隈部参謀長は、木下勇第二飛行師団長罷免騒動(既述)のあおりを受け、第三航空軍参謀長から十一月二十七日、転出して来たばかりである。が、南方総軍から、四航軍が第十四方面軍の指揮下に入ると部署してきた時、冨永中将が激怒したことを知っている。冨永中将にとっては、山下大将とはこれまで通り、対等でなければがまんできなかったのである。前陸軍次官としてのプライドが許さなかったのであろうか。
翌三十一日冨永中将は、
「あの電報は打ったか」
と再び命令した。ついに辞任申請の電報は発せられた。冨永中将にとっての不運は、こうした時、強くいさめることのできる部下を持たなかったことである。もっともレイテ戦の最中にできもしない師団長の罷免をやり、上層部を騒がせた性格だから、止めてもきかなかっただろう。
南方総軍は驚いた。
南方総軍は、一月三日、
「総司令官(寺内寿一元帥)は従来の健闘を賞し、かつ速やかに全瘉するよう激励せられ、その希望を拒否せられたり」
と打ち返してきた。ミンドロ島には米軍の飛行基地が完成し、マニラ一帯は空襲が続いていた時である。
軍刀を抜いて振りかざしながら、
「冨永も後に続くぞ」
と特攻隊員を送っていた軍司令官の姿はそこにはない。
これだけでやめておけば、普通の感覚である。が、冨永中将は、総軍からの返電を見ると折り返しに、自分で電報を起案して、二度目の辞任申請電を打つよう隈部正美参謀長に命じた。隈部参謀長は、官僚的配慮から自分が起案したことにしてその日(一月三日)の午後打電した。
この電報文は今でも残っている(原文は片仮名交じり文、一部省略)。
「閣下(冨永中将)は総司令官(寺内元帥)の絶大なる信頼を受けあるに、はずかしきことながら、心身ともに衰弱して到底決戦の任に耐えず。速やかに決戦意識に燃え、心身ともに強健なる方に統帥を委することが国家のためなりと確信する、と申されたり。以上に鑑みこの際、閣下のご決意を容認せらるるの外なきものと認む。――なしうれば若松(南方総軍)参謀副長来比し、司令官閣下と面接せらるるを適当と思考す」
「とにかく自分と会ってみてくれ」
という懇願で、政治的に取引をすれば何とかなる、といういかにも官僚型軍人の発想である。それにしてもこのような電報の発信者になった隈部参謀長の泣き顔が目に見えるような内容だ。これを冨永中将は、自分で書いたのである。
しかしこの電報も南方総軍によって拒否された。この時期に軍司令官の交代など、実質上不可能でもあった。
この当時、冨永中将はデング熱病にかかり、弱っていたという証言もある。が、第四航空軍が、第十四方面軍の指揮下に入ることが決定した十二月二十五日、第十四方面軍参謀長武藤章中将が、マニラ死守を主張して、方面軍の持久作戦に同意しない冨永中将の説得に出向いて、議論した時には病気の気配は見えない。両中将は陸士同期の、遠慮のない間柄である。武藤中将は戦後A級戦犯として刑死したが、冨永中将の比島脱出を獄中の手記で、
「第四航空軍が台湾に移ったことで悪口を言っているが、失当である。燃料もないカガヤン河谷に、航空軍司令部が固着しているのは意味をなさぬ。速やかに台湾に移って作戦の自由を得る方が適当であった。私は冨永中将にこれを勧めた」
という意味の弁護をしているただ一人の人である。
マニラの四航軍司令部の一室で冨永恭次、武藤章中将は大きなテーブルの上に座り込み、机をたたき、ツバを飛ばしての大論戦を二日がかりでやっている。
冨永中将の心身が衰弱していた兆候は見えない。そばにいた幕僚は口を挟む余地もなかった、という有名な事実がある。
武藤中将は、二度も冨永中将に会って方面軍の作戦に同意するよう勧めた、と書いている。そして次のような重大な事実も指摘している。
「(冨永中将の)マニラに頑張るという外形を単に模倣して、マニラの文化的生活を捨て、山岳地の野蛮生活に移りたくない自己の欲望をごまかす連中も多かった」
これは多分に四航軍の幕僚とか、海軍のことである。第四航軍の幕僚の質の低下については、毎日新聞の特派員で四航軍付の仕事をしていた村松喬氏にも同様な指摘がある。同氏の体験は後で紹介しよう。
幕僚については弁護論があることも紹介しないと公正を欠く。『陸軍航空特別攻撃隊史』の著者、生田惇氏は、
「冨永司令官は、自分の意見に従わぬ幕僚を師団長までも叱責し、罵倒した。そこには、司令部内の上下の信頼が生まれる術はなかった。公正にみて(多くの異論があるであろうが)比島捷号航空作戦を、あそこまで構成し、戦い得た四航軍主要幕僚の努力には、敬意を表すべきものがある」
と書いている。
とまれ、冨永中将は予備役編入後満州にやられ、ソ連参戦でシベリアに昭和三十年まで抑留された気の毒な軍人であるが、事実は事実として書かなければならない。
冨永中将は、武藤中将と会った後に発病した、という。それは「十四方面軍の指揮下に入る」という決定を知ったためのショックであったとも言われている。困った性格である。
冨永中将が心境の変化を来して、いつエチャゲへの移動を決心したか、はっきりした資料はない。
前記の村松喬記者の手記「第四航軍マニラ放棄」によると、大要は次のようになろう。
一月七日、午前十一時の記者会見(冨永中将は新聞記者を大切にした)が終わり、午後四時の会見の時、情報参謀から、一月七日付をもって、南方総軍の直轄部隊から離れて、第十四方面軍の指揮下に入ることになった、と発表があった。そして山下奉文大将の命令によって、四航軍は即日司令部を北部ルソンのエチャゲに移動することになった。情報参謀は悔しそうな顔をした。その時四航軍付の記者は東京出張の日々命令を出すということであった。時間が三時間しかない。大慌てした。
村松氏は既にないが、筆者が昭和五十三年五月に取材した時、多くの証言を得ている。
第四航空軍がマニラ死守の方針を捨てて、第十四方面軍の方針に従ってルソン北東部のエチャゲに移動したのは、一月七日午後十一時ごろであった、と村松喬記者は言っている。あまりにも慌ただしい移動決定で、午後七時の出発予定が、秘密書類の焼却、必要物資のトラック積み込みなどで手間取ったのである。
四航軍の参謀松前未曾夫大佐の回想によると、第十四方面軍参謀朝枝繁春少佐が山下奉文大将の伝言と、武藤章参謀長の手紙を持って、この日の午前十一時ごろマニラで冨永中将と会っている。
第十四方面軍は持久抗戦の方針で、既にバギオに軍司令部を置いていた。朝枝参謀は六日夜、自動車で出発し、七日午前十一時ごろマニラに着いた。
「山下大将の寝耳に水の移動命令が、七日午後四時過ぎに出たことは間違いない」
という村松記者の記憶はおおむね正しい。
山下大将の伝言は、マニラを出て山にこもることを勧めたもので、
「冨永中将をマニラで殺したら、自分の立場がない」
と極めて情理に満ちたものであった。冨永中将は、
「山下大将の名誉を傷つけない」
と言って、エチャゲへの移動を決意している。
村松記者は冨永中将がマニラの司令部を出る時の姿を目撃した。
「黒塗りの大型乗用車に副官と看護婦を乗せ、暗いマニラを出発しました。冨永中将はかなり弱っていましたね。移動の梯団は乗用車、トラックをふくめて数十台になりました。
四航軍はニューギニア以来負け戦ばかりで、私たちは、
『またも逃げるか四航軍』
と言っていましたから、この“マニラ落ち”もそんな感じでした」
なにも四航軍だけでなく、海軍も敗走している。陸軍だけ責められない。日米の戦力の差が出たまでである。
朝枝参謀はバギオに帰る途中まで四航軍司令部と一緒に行動した。公刊戦史は四航軍の山口憲三軍医中佐の日記を引用した形で、
「朝枝参謀は冨永中将に接した印象から、もはや四航軍を指揮する重責を果たし得ないと判断し、
『四航軍は比島で解散し、要員を他に転属させるか、あるいは台湾基地をも併せて作戦を続行させるかを決定すべきである』
という意見具申電を一月九日参謀本部宛に打電した」
と書いている。朝枝参謀の電報は残っていないし、四航軍の軍医がどうして方面軍参謀の動向を知っているのかこのあたりはよく分からない。
四航軍司令部の、台湾への脱出を公刊戦史が正当づけるためとも受け取れる。
マニラからエチャゲまではかなりの道のりである。途中にバレテ峠、オリオン峠の難所があり、米軍機の空襲があったから、夜間に走るしかなく、十日午後になってやっとエチャゲに着いた。
四航軍の司令部が、エチャゲに着いた後、「台湾に移動して軍の再建を図る」ことを考えるようになったのか、その前、つまりマニラを出る時に比島脱出を考えていたのかはわからない。が、エチャゲ飛行場は飛行場といっても設備は悪く、だだっ広い草原の飛行場であった。
第十四方面軍が四航軍にエチャゲ、ツゲガラオの両基地のあるルソン島東北部のカガヤン河谷で抗戦をせよ、と何度も言ったのに、冨永恭次中将は反対してマニラを動かなかった。米軍がルソン島のリンガエン湾に上陸を始めてから、やっと腰を上げたため、この方面の基地作成、飛行機のガソリンの貯蔵など、全く手を着けていなかった。空襲が始まると人員の移動だけでも困難になっていたから、万事手遅れであった。
戦争はある局面ではゆっくりと動くが、急速に局面転回がやってくる場合がある。海軍の艦隊行動、航空隊の行動は、時間が問題である。これまで航空隊の指揮を執ったことのない冨永中将の頭には、歩兵の行軍の速度を標準にした作戦指導しかできなかったのであろうか。
参謀本部第一部長(作戦)の「作戦秘録」には、エチャゲにあるガソリンはドラム罐千本程度と書いている(朝枝繁春方面軍参謀によれば三百本)。
エチャゲ基地を守備していた航空通信隊の土橋政勝軍曹(広島県山県郡加計町)によると、飛行機に燃料を補給するタンクローリーも四台あったものが、空襲でやられて二台になっていた、という。
「えらい人は、後で迎えにくると言って逃げたまま、なしのつぶて。戦後になって聞いた話ですが、えらい人を乗せた飛行機はバシー海峡で落とされたそうですね」
と土橋氏は憤慨するでもなく、淡々と語っている。飛行場も穴だらけで、空襲も連日のようにあった。
一月十日、四航軍はエチャゲで作戦会議を開いた。隈部正美参謀長以下の結論は、
「比島航空作戦を続行するために、台湾に移動し、戦力の回復を図る」
というものであった。エチャゲ到着の翌日、台湾転出の決意をしているところをみると、マニラで既に台湾への脱出を決めていた、と考える方が自然である。
もっとも、部隊の移動は軍独自の判断でできる性格のものではない。統帥事項であるから、参謀本部の、少なくとも南方総軍の命令が必要である。公刊戦史は、
「この間冨永中将はなにも言わず、沈黙していた」
と書いている。
軍司令官が敵前で勝手に持ち場を離れれば、敵前逃亡と言われても仕方がない。陸軍刑法によれば死刑である。それを知らぬはずはないから悩んだであろう。同中将が二度目の辞任申請の時「南方総軍参謀副長の来比をこう」といった意味はそこにある。“合法的”脱出のため、準備が急がれた。
まず作戦参謀、佐藤勝雄中佐がバギオの第十四方面軍司令部に引き返した。四航軍の台湾移転に関して、
「南方総軍司令部に意見具申してもらえませんか」
と頼むためである。前述したように、方面軍参謀長武藤章中将は冨永中将と陸士同期の間柄で、台湾での四航軍再建論者であったから、異存はない。さっそく南方総軍へ意見具申電を打った(もっともこの電報は残ってはいない。佐藤参謀の戦後の回想によっている=公刊戦史)。
この間に、隈部正美参謀長は、冨永中将を、
「台湾にいる四航軍関係部隊の視察」
という名目で、台湾に送り込む準備を着々と進めた。こうした推移を見てゆくと、四航軍の幕僚が、冨永中将の比島脱出の仕掛け人であり、冨永中将は幕僚のロボットであった、との印象も強くなる。
毎日新聞の村松喬報道班員も「参謀たちの勧告である」という説を採る。
が、何でも自分が決めなければ承知しない軍司令官が、幕僚の動きを知らぬはずはない。もっと勘ぐれば、冨永中将がそう仕向けた、という説になる。微妙である。
冨永中将の台湾転出が正式決定した時の準備に、四航軍参謀松前未曾夫大佐が台湾に先発していた。
とまれ、民間人で、四航軍司令部と行動をともにした村松記者の観察は参考になる。
「引き下がっては軍を再建する、という考えは、四航軍の常套的な思考方法になっていましたよ。また航空軍は地上軍と違うのだという優越意識が確かにありました。航空軍だから許されるということですね。
マニラからエチャゲに移った時から四航軍の一般的な心理は敗北感です。一度敗北感に見舞われると、行き着くところまで行ってしまいます」
マニラからエチャゲに後退した段階で四航軍の士気、統帥は壊れていたということである。
「私たち報道班員は飛行場に寝起きして内地への飛行機便を待っていましたが、一月二十日ごろ(正確には十六日)、朝早く車の音がして、黄色い旗(将官)と、赤い旗(佐官)を立てた車が何台か飛行場に入ってきました。おやおや、と思って見ていると、冨永さんが車から降りてくる。また外の車からは四航軍の参謀連中が降りてくる。
私たちの姿を見つけた冨永さんは、よろよろしながら近寄ってきました。そして、
『大本営命令で引き揚げることになりました。皆さんもご苦労さんでした。無事に引き揚げてください』
と言いました。引き揚げ先は、はっきりしないんですが、大本営命令、と言ったことははっきり覚えています。こっちもすぐに帰れると思っていますから、それじゃあご無事で、と見送ったわけです。
飛行場には当時の新鋭機で足の速い新司偵という偵察機が来ていました。冨永さんはそれに乗り込むんですが、エチャゲに来て何日にもなるというのに、まだ足がふらついていました。それで参謀たちがしりを押して飛行機に乗せるような始末でした。
新司偵は性能は良いが重量もあります。滑走路が泥土で、でこぼこしているものだから、途中でのめって離陸できなかったんですよ。とうとうブッシュの中に突っ込んでしまいました。さてどうするか、と思って見ていたら、参謀たちは是が非でも冨永さんを送り出さなければ承知しない気配でした。
それで今度は支那事変(日中戦争)当時に活躍した軍偵という古くて足の遅い偵察機を引っ張り出して乗せたんです。時間的に見ても、こんな飛行機では敵機に見つかって撃墜されてしまいます。幕僚がむりやり冨永さんを送り出した意味は、すぐわかりました」
公刊戦史によると、冨永中将は護衛の憲兵と一緒に第三十二飛行戦隊の渡辺行准尉操縦の九九式襲撃機に乗り、第三十戦隊の一式戦闘機二機が護衛につき、午後四時に出発している。
九九式襲撃機であったことは、操縦した渡辺准尉の証言があり、間違いない。が、四航軍の中留金蔵軍医大佐の日記は、
「泥濘のため飛行機がめりこんで飛べず、午後四時軍偵二機にて内藤准尉随行、無事離陸」
と村松記者と同じ機種だったとしている。
九九式襲撃機は時速四百三十キロの複座機で、一式戦の五百六十キロとは比較にならない。最初に予定されていた新司偵は時速六百五十キロ。当時の陸海軍機の中では最も速かった(データは戦史室)。大西瀧治郎中将が、神風特攻隊の戦果確認機として出撃を依頼したのはこの飛行機である。
部外者の村松氏には分からなかっただろうが、実はこの時、重大なドラマが展開されていたのである。
公刊戦史は中留軍医の日記を基にして、次のような内容を書いている。
出発直前に第十四方面軍が南方総軍に発した「四航軍は台湾で再建した方がよい」という意見具申電報が、参考のために四航軍にも送られてきた。四航軍の移動に関係のある電報だから、四航軍に送ってくるのは当然である。
ただ、この電報は電文の崩れがはなはだしく、他の電報と一緒に入電し、意味不明であったが、隈部正美参謀長は「大本営が冨永中将の比島脱出を許可したもの」と受け取り、出発直前に冨永中将に報告した。電文の崩れとは、発信側か、受信側の機械の不調で暗号文が完全に受け取れないことである。従って虫食いになるが、隈部参謀長が都合のよい方に読んだ、というわけである。
軍偵でエチャゲを飛びたった冨永恭次第四航軍司令官はバシー海峡の天候が不良のため、いったんツゲガラオ飛行場に引き返して、翌一月十七日未明、飛行第三十戦隊の戦闘機四機の護衛付きで台湾に向けて一気に飛んだ。
幸い敵戦闘機に発見されることなく、護衛の一機が屏東に不時着しただけで、無事台北に着いた。
その足で第十方面軍司令部に出頭し、軍司令官安藤利吉大将に、
「これからは十方面軍の指揮下に入って第八飛行師団を合わせて指揮し、台湾で作戦します」
と申告した。が、安藤軍司令官に、
「そのような命令は受けていない」
とつっぱねられた。勘ぐれば、冨永中将の悪評はかなり広く伝わっていたから、安藤大将は冨永中将の勝手な行動を当然知っていて、不愉快に思っていたのかもしれない。少なくとも冨永中将に、よい待遇はしなかった。
先に連絡のためエチャゲから台北に来ていた四航軍参謀松前未曾夫大佐は屏東で、フィリピンに帰るため、飛行機の便待ちをしていた。ここで不時着した護衛戦闘機のパイロットから冨永中将の比島脱出の事実を聞かされて驚いた。間もなく第十方面軍の幕僚から、冨永中将の身辺を警戒してほしい、という連絡が入った。“自殺するかもしれない”という意味である。松前参謀は急いで台北の北投温泉に向かい、冨永中将と同宿して警戒した。
松前参謀に、冨永中将は、
「十五日に隈部正美参謀長から口頭ではあったが、
『東京からの至急電報で、第四航空軍は台湾軍司令官の指揮下に入って、比島の作戦を続行することになった。ついては軍司令官は病気静養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので至急台湾に渡ってもらいたい』
という報告を受けた。台湾軍の指揮下に入ることが決定した、と思って私は台湾にやってきたのだ」
といった意味のことを、ぼそぼそと話した。
しかし、この言葉はいかにも弁解じみている。一歩間違えば敵前逃亡の罪で、死刑にもなりかねない比島脱出をするのに「東京からの至急電報」を自分の目で確かめなかったのも不思議な話である。
常々「幕僚統帥は絶対にやらない」と言いながら、細かいことにも口を出していた冨永中将が、そんな重大な電報を見もしないで、台湾に脱出したというのもおかしい。それとも指揮を執ることもできないほど衰弱していたのだろうか。
とまれ“自殺するかもしれない”という不安は、冨永中将の場合、全く思惑違いであった。
翌十八日、エチャゲにいる隈部参謀長をサイゴンの南方総軍司令部に派遣し、台湾後退の経緯を説明させるように処置した。冨永中将の行動はそれだけではなかった。
大本営参謀次長秦彦三郎中将あてに、
「第十四方面軍の作戦を積極的にさせるよう指導されたい」
と意見具申の電報を打った(公刊戦史)。
自決どころか、山下奉文大将の作戦がまずい、と参謀本部に非難の電報を打ったのである。第四航軍司令官の辞任願を、自分で起案したのと同じように、いかにも強気な性格まる出しである。
南方総軍の幕僚の中には、そのうちフィリピンに帰るだろう、と好意的な見方をする者もいたが、冨永中将にその気配は全くなかった。
後述するが、隈部正美第四航軍参謀長は、冨永中将の後を追って十九日に屏東に着いた。冨永中将は、隈部参謀長に、
「サイゴンの南方総軍に行って、比島脱出にいたった経緯を弁明してもらいたい」
と命じた。
参謀長は二十一日サイゴンの総軍司令部に出頭したが、寺内寿一元帥自らが隈部参謀長を激しく叱責した。総軍司令官(元帥)が、航空軍の参謀長(少将)を直接叱責した例は聞いたことがない。
寺内元帥は二十日午後七時に、叱責電を台湾軍司令官あてに打っていた。まだその時の怒りが残っている翌日、隈部参謀長が、のこのことサイゴンにやってきたものだから、寺内元帥の憤懣が、滝のように隈部参謀長に注いだであろうことは想像に難くない。この叱責電は今も残っている。
「台湾軍は第四航空軍司令官に伝えられたし。
捷号完遂のため滅私奮闘されたし。
本職の意図は既に数次にわたり貴官に開陳せるところなるにかかわらず、あるいは上級司令部の作戦指導を誹議《ひぎ》するがごとく、また順序を得ずして意見を上司に致せるがごときは統帥の神聖を保持する所以《ゆえん》にあらずと考え、本職の甚だ遺憾とする所なり」
少尉候補生を叱っているような文面である。
もっとも、南方総軍は二十二日付で、台湾を基地としてもよいという処置をとる。いわゆる“追認”という悪い習慣である。冨永中将のその後を記すと、二十年五月に予備役、七月召集されて満州(中国東北部)第百三十九師団長となり終戦。シベリアに三十年まで抑留されていた。
記述を冨永中将が脱出後のエチャゲに戻す。
村松喬記者の目撃談を聞いた方がエチャゲの空気が理解しやすい。
「冨永中将がエチャゲから脱出する時の現場に居合わせていた者なら、冨永中将が自分の意思で台湾に逃げたとは考え難い点があるんですよ。参謀たちが勧告したものですよ。戦闘力を失った航空軍が台湾に引き揚げたいと思っていたことは、普段の記者会見などで交わす話の節ぶしから感じ取っていました。それにはまず軍司令官を送り出さなければなりません。
四航軍の参謀たちが考えていたことは、まず軍司令官を出し、それから自分たちも出ようということです。軍司令官が残っているのに参謀たちが脱出するわけにはゆきません。それで、まず病気になっている冨永さんを飛行機に乗せればよい、ということになったと思いますよ。航空隊関係者が持っていた“飛行機乗りだけは別なんだ”という特権意識です。これはたしかにありました。
私は冨永さんは熱帯性の神経衰弱ではなかったかと思っているんです。特攻隊をめちゃくちゃに出して、若い人を死なせたことも、神経の細かい冨永さんには相当にこたえていたと思います。
そんな冨永さんを、新司偵が使えないとなると、危険極まる軍偵に無理やり乗せたのです。空に舞い上がれば後は戦死しようが知ったことではないからです。そんな空気がありありと見えました。
その証拠に、冨永さんがエチャゲをたった翌日から、参謀や各部長たちが次々と台湾へ脱出していったのです。兵隊は完全に置き去りです。
もっともフィリピンを離れると同時に、敵機の攻撃を受けて戦死した人が多かったと聞きましたがね」
公刊戦史は、四航軍参謀副長山口槌夫少将と軍医部員山口憲三中佐の回想と日誌をもとに、次のように記述している。
「十八日隈部正美参謀長(台湾着は十九日)、十九日に各部の先発者がそれぞれ台湾に出発し、また別に幕僚若干名が後退していた。二十日には第三十戦闘飛行集団長、青木武三少将が後退した。二十一日には輸送機二機に、第九飛行団長坪内剛直大佐、第三飛行団長本多三夫大佐、溝口泉四航軍高級副官以下司令部要員が搭乗してエチャゲを出発した。一機は行方不明となり、一機は米機動部隊の攻撃を受け、恒春飛行場(台湾)にようやく不時着し、搭乗員の大部分が死傷する状況であった。
ついで二十五日夜、第四航軍飛行班の重爆撃機が澎湖島上空で友軍高射砲の誤射を受けて海上に不時着水し、将校一名を除いて搭乗者は死亡した。この搭乗者の中には兵器部長小沢直治大佐、経理部長西田兵衛大佐、軍医部長中留金蔵大佐、二十二飛行団長佐藤猛夫中佐らがふくまれていた」
飛行機で脱出中に起きた四航軍幹部の戦死は気の毒である。肝心の冨永軍司令官が台湾に脱出した以上、司令部職員は当然、軍司令官と行動を共にする義務がある。これを現地で見ていた村松記者ら一般人は、航空隊の特権を利用して脱出した、と受け取ったのである。新聞記者も一般兵士と同じように、敗戦の日まで山中をさまよい、栄養失調や敵の弾丸に当たって死んだ者が多い。その感慨が村松記者をして、司令部職員を弾劾させたことは理解せねばなるまい。
四航軍司令部の参謀や各部長たちが、翌十八日から次々とエチャゲを脱出していったのは異常な事件であった。このため、現地軍の幹部も一方で特攻を出しながら、われ先にと移動する姿が見られるようになった。
精華隊がリンガエンの米輸送船団に向けて出撃したことはふれた。精華隊の特色は特別操縦見習士官(特操)の一期生が多いことである。
ポーラック飛行場(ルソン島クラーク基地群の一つ)から十二月十二、十三日にかけて出撃した二十四人のうち八人が特操出身の少尉である(特操は昭和十八年七月に制定された制度で、大学、専門学校在学中の学生から選抜した。第一期は海軍の第十三期飛行科予備学生と同期にあたる)。
陸軍特攻の場合、内地で編成しフィリピンに進出するのが一般的であったが、精華隊は第三十飛行集団の飛行第一、十一戦隊(戦闘機)の操縦者で現地編成された(したがって精華隊という名前は台湾に引き揚げた後につけられた)。
鳥取高等農林から特操一期を志願した藤原一三氏(広島県甲奴郡甲奴町在住)は、
「私たちの部隊は内地で再建されたもので、特操一期生が補充され、十二月中、下旬にかけてポーラックに進出しました。私は二十四日に哨戒飛行中、エンジンが火を噴き、草原に不時着して大やけどし、一月七日まで基地外で治療していました。
一月十一日深夜、特攻隊が私たちの隊からも出撃することになり、十二日午前中に第一波、午後第二、三波、十三日午前に第四波と、順次出撃しました。
私たち病人は、内地に空輸されることが決まり、小さくなって戦友が特攻出撃するのをピストの陰で見送っていました。
同期の加藤昌一少尉が軍帽に印鑑と階級章を入れ、
『内地に帰ったら、京都の実家に届けてくれないか』
と言いました。内地に帰るというだけで負い目があるのです。おどおどしながら、
『無事に帰ることができればお届けする』
と受け取りましたが、友人の死の出撃を前にして私は狼狽していました。しばらくして今度は軍服を持ってきました。が、荷物は最小限に、と言われていたものですから、断るしかありません。今でもその時の加藤の顔が忘れられません。
太田義晴少尉は目を悪くしたまま出撃しました。
その夜、加藤や他の戦友たちの遺品を指定された飛行機まで運び、翌朝三時に集合するよう命令されたので、行ってみると積み込んだ荷物はほっぽりだされていて、飛行機の姿はありませんでした。
『飛行団は逃げたな』
と直感しました。第四波の三浦広四郎少尉は前日直掩で出撃したあと、今度は特攻で突入しました。鹿児島澄行少尉は三日前に単機で到着したばかりでした」
若い将兵が「飛行団は逃げた」と感じたことは事実だ。
四航軍司令部の参謀や各部長たちの脱出は、現地軍幹部に悪影響を与えたことは否定できない。
村松喬報道班員の説に従って、冨永恭次軍司令官の比島脱出の首謀者が参謀たちであったとしても、ではだれが“真犯人”だったのかは正直いってわからない。
特に二十二日以降の脱出は南方総軍の正式な命令が出ていたから、合法的な移動である。その飛行機が撃墜されたのは完全に制空権が米軍の手に移っていたからに外ならない。
エチャゲには参謀の広瀬茂中佐が一人残って連絡に当たったが、その責任感の強さに感服する。
とまれ、こうして四航軍の最後を見ると、統制のとれなくなった組織のもろさが一挙に噴き出た感じである。
村松記者は言う。
「この軍司令部は極めて劣悪な人的要素で構成されていたと見るべきです。冨永さんも立派ではなかったが、司令部の首脳は、戦場に対する責任も部下に対する愛情もなかったと言われても仕方ないのではないですか」
『陸軍航空特別攻撃隊史』の著者、生田惇氏の論評がある。生田氏が航空士官学校出の元軍人であることは前にふれた。冨永中将やその司令部を非難しながらも、「命が惜しくて逃げたのではない」という弁護論である。
「世上一般に、冨永軍司令官は命が惜しくて台湾に逃げたように非難されているけれども、それは当たらないであろう。冨永軍司令官も隈部正美参謀長も、ともに同じ幼年学校出身であり、幼時から身を鴻毛の軽きに比する将校の鍛錬を経ていた」
として、陸軍幼年学校出身という経歴をクローズアップしている。
この感覚はもはや現代人には理解し難いであろう。が、特攻を日本人の精神史的視点から考えようとしている本書では、無視できない意味を持っている。
陸軍エリートの道は、幼年学校から陸士、陸大と進むコースである。陸幼は十三、四歳で入学し三年間学ぶ。最も重点を置いていたのは精神教育であった。その是非はここでは論じない。
士官学校は一般中学出身者も入学させるが、エリートとして立身出世するのは幼年学校―士官学校のコースをたどった者である。
一般中学出身者で陸士に入り、大将にまで昇進したのは陸士十九期の今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一、塚田攻(死後)の五人である。この期の入校は明治三十八年だが、十八期が日露戦争のため繰り上げ卒業となったので十九期に陸軍幼年学校卒業者が皆無となったにすぎない。
それだけに陸幼、陸士の銀時計組――優等生になると徹底的に“保護”されるのが陸軍の不文律になっていた。危険な戦場からは遠ざけられ“陸軍官僚”の道を歩む。海軍が一般中学校出身者から入学する兵学校しか作らなかったのとは対照的だ。
この不文律がフィリピンでは破られたのである。
十九年十二月二十一日、殉義、一誠、旭光、小泉の四隊、八人が陸軍特攻としてミンドロ島ネグロス島近海で突入している。ミンドロ島に上陸する新手の米輸送船団が発見されたのに対して、冨永恭次軍司令官は、
「四航軍の出動可能機を全部突入させよ」
と命じた。これがフィリピンにおける陸軍最後の特攻となるはずであった。その後、前述したように特攻は続くのだが、陸軍特攻の末期的な出撃であったことに変わりはない。
〈殉義隊〉(一式戦)敦賀真二中尉(陸士五十六期)、日野二郎少尉(同五十七期)、若杉是俊少尉(同)、山崎武夫軍曹、門倉好也伍長
〈一誠隊〉(一式戦)相川清司少尉(特操一期)
〈小泉隊〉小泉康夫少尉(不詳)
〈旭光隊〉(九九双軽)小林智軍曹
小泉少尉、小林軍曹の二人は飛行第二師団の所属でパコロド基地(ネグロス島)付近で戦死した。この基地は十二月中旬には完全に孤立していた。小泉少尉の隊名を「小泉隊」とした意味が理解できよう。飛行二師団の独自判断で出撃させ、後で特攻と認定したものである。
「殉義隊の若杉さんの死ほど、当時の私たちに大きな衝撃を与えたものはありませんでした」
と、今もその時の余韻が続いているかのように語るのは竹村照雄氏である。
「若杉さんは広島陸軍幼年学校(広幼)の二年先輩で、一年生の時の運動班長です。昭和十五年から六年にかけての一年間、みっちりと薫陶を受けました。すべての生徒の尊敬の的でもあった先輩でした」
広島陸軍幼年学校は中国放送の北側、お濠ばた角の公園の位置にあった。陸幼の運動班長とその指導を受ける一年生の位置関係は独特なものがあり、多感な少年期の心の奥に目いっぱいの感動を植え付ける。
竹村氏は広島高検の検事長だが、暇を見ては江田島の旧海軍兵学校、教育参考館を訪れる。自分は陸軍だが、神風特別攻撃隊の遺書、遺品に強く引かれるからだ、という。特攻死した若杉少尉のイメージと重なるものがあるのだろうか。
「若杉さんの特攻死を知ったのは、私が座間の陸軍士官学校に進んでいた、二十年の一月でした。新聞の一面に大きく出ていました。若杉さんは幼年学校、士官学校、航空士官学校すべて恩賜の銀時計組でした。こういう人材は戦局がいかに激しくても中枢の幹部要員として温存されるのではないか、とだれもが思っていたのですが、その人が先がけて特攻となったのです。陸軍将校部内における戦意高揚の目的があったのかもしれませんが」
エリートは温存されるという陸軍の不文律が破られたから、竹村氏の体験を紹介しているのではない。若杉少尉と遺書の問題――特攻隊員と最後のことばに、ある興味がわく。
竹村照雄氏が戦後もずっと気にかかっていたのは、殉義隊の一員としてミンドロ島沖の米軍輸送船団に突っ込んだ先輩、若杉是俊少尉の最後の言葉はどんな内容であったのだろうか、という問題であった。
若杉少尉は、陸幼から航空士官学校まで全部優等生として通してきた、先輩としてのプロ軍人であり、死に対しては一点の曇りもなく“天皇に帰一”する心境であったはずだ、と竹村氏は長い間考え続けていた。
若杉少尉の同期生の多くもまた、そう信じていたらしいのである。竹村氏は、
「長い間、若杉さんの最後の言葉は何であったか、を捜し求めてきたとき、若杉さんと同じく広島陸軍幼年学校四十二期、陸士五十七期生として過ごした作家村上兵衛氏の『桜と剣』に出合いましてね。ひとつのショックに似たものを感じました」
と言う。
村上氏の著作『桜と剣』によると、若杉少尉は航空科を志願し、真っ先に特攻隊にも志願したと言う。
若杉氏の所属した殉義隊は、陸軍教導飛行師団で編成された一式戦だけの特攻隊である。隊長の敦賀真二中尉は教官で五十六期、隊員は戦技教育を終了したばかりの五十七期生の少尉と下士官十二人で、十九年十二月三日、水戸飛行場を出発、十二日にフィリピンに着いている。
村上氏は若杉少尉について次のように述べている。
「むろん戦局が優秀なパイロットを要求したからだが、その志願のとき、申し出る若者の決意の表情の影には、ある暗さが揺曳する。しかし若杉だけは、その暗さが全く窺えず、じつに晴ればれとした顔つきだった――と、その志願の場に立ち会った先輩の話を私は戦後になって人伝てに聞いた。私もそのほかの誰であっても疑うが、若杉なら……と思ったものだ」
同クラスの村上氏でさえ、若杉少尉は一点の曇りもなしに特攻として死ねることのできる男――と信じていたほどの精神生活を送っていたということであろう。
竹村氏が強い衝撃を受けたのは、村上氏の以下の記述である。
「戦後になってから、ある同級生の集まりでそのことに触れると、
『それは違う……』
と言うものがあった。若杉はフィリピンに飛び立つ前夜、台湾の高雄で、同期生の姿を捜し求めた。そして歩兵連隊にいたその男を、一晩中離さず語り続けたという。
『今まで俺は天皇陛下のため、お国のためと言い続けてきた。自分でもそれを信じ、いや信じていると思っていた。しかしその言葉にはどうも本当でない部分が混じっているような気がする。……俺はそのことを誰かに言い遺しておきたかったんだよ』
若杉はそう言い遺し、そしてフィリピンに飛んで、体当たりして死んだ」
竹村照雄氏は言う。
「陸軍特攻殉義隊員として、二十一歳で死んだ先輩の若杉是俊さんの遺言として、私が知っているのは村上兵衛さんが書いた『桜と剣』に出てくる、台湾で同期生と交わした最後の言葉だけです。
これは、死に臨んでの真情だと思います。が、この言葉は生粋の軍人として、当時としては遺書にはできなかった言葉だったと思います。
『ひたすらに天皇陛下のため、お国のためという言葉には本当でない部分がある』
と言うのは、まさしくそうですね。人間には独自に生きる価値がある。若杉さんほどの人であったからこそ、あの環境の中で彼は広く世界を思い、人間を考え続けて到達した心境ではなかったのか、と感じています」
陸軍幼年学校出身者は、身を鴻毛の軽きにおく、という軍人としての鍛錬を積んでいる、との当時の体験者の言葉は、現代人にはもはや通用しないであろうと、『陸軍航空特別攻撃隊史』の著者、生田氏が書いたのは、当時のプロ軍人としての精神形成過程の特殊性を理解してもらいたかったからに外ならない。ただそうした気持ちが、栄達の道を歩み始めてなお持続できるか、の問題は残るが。
それにしても殉義隊に殉じた若者たちは、教官が一年先輩の中尉、隊員はその教官に戦技教育を教わったばかりの少尉、ともに実戦経験を持たない二十前後の若者たちであったのだ。彼らが戦うに当たって唯一のよりどころを、唯心的なものに求める以外になかったのは、時間とより優れた武器を与えられることがなかったからである。このことは忘れてはならない。
竹村氏は言う。
「当時の陸幼、陸士を通じての精神形成は、常に“天皇に帰る”の一点に尽きると思います。私がそうでした。今の私は当時を振り返り、若杉さんなればこそ、われわれの思いもつかなかったことを考えていたのか、と驚きに似た感情を持っています。それだけに、彼の心の軌跡を知りたくて仕方ないのです。
『天皇のため、お国のためという言葉にはどうも本当でない部分が混じっているような気がする』と遺言した若杉さんの、本当でない部分とは何であったのか、をこの年になってもこだわるのですね。
村上兵衛氏は『桜と剣』のなかで、
『若杉さんの心根を思うと、あわれでならない』
と書いていますが、私は『あわれでならない』以上にこのような思いを遺して死んでいった人たちに代わって、その本当の部分を求め続けて生きたいと思っています」
暇を見ては、江田島の海軍兵学校教育参考館を訪れ、特攻隊員の遺書を読みふける、元陸軍幼年学校生徒、現広島高検検事長の、心のひだをのぞき見る思いがする。形、思いこそ違え、このような感懐を今も持ち続けている人は多くいるだろう。特攻はいまだに、日本人の心のどこかに生きているということであろうか。
第五章 「回天」と「桜花」の狭間
竜巻作戦の挫折と回天の出現
工作機械設計者だった沢崎正恵氏の奇妙な――というより時世を反映した、と言えるかもしれない――体験から紹介したいと思う。
沢崎氏は広島市佐伯区楽々園に住んでいる。支那事変(日中戦争)に従軍して負傷し、兵役免除になって機械設計の勉強を始め、昭和十六年十一月、大阪の工作機メーカー松下金属株式会社の設計課に入社した。太平洋戦争の始まる一ヵ月前である。正恵は「しょうえ」と読み、れっきとした男性である。
大東亜戦争(太平洋戦争)は緒戦こそ素晴らしい戦果をあげ、国民は戦勝気分に酔ったが、それもわずか半年であった。十七年六月のミッドウェー海戦の敗北、同年八月からのガダルカナル島の攻防以来、つまり米国が、日本が考えていたよりも半年も早く本格的な反攻に転じてからは、日米戦争の帰趨は、軍関係の仕事をしていた人たちにはある程度の察しはついていた。
「正確な日時の記憶はないんですが、大阪砲兵工廠から十五センチ榴弾砲の弾丸荒削り機の発注があり、旋盤の設計に苦労しました。マザー・マシンといわれる工場の工作機械の多くは米国製、ドイツ製で日本製の工作機械は残念ながら性能が落ちました。その設計作業でかなりの無理をしたため身体をこわし、白浜の温泉療養所に入ったのが十八年の六月だったと思います。
このころは日本の敗色ははっきりしていて、このままではとても戦争には勝てないと思っていました。大方の国民が『これはおかしい』と気づき始めたのもこのころだとおもいます。
絶対に敵の空母を沈めることのできる兵器を開発して、起死回生をはからねばならないと私は思い込み、療養中に“人間魚雷”の設計に取り組みました。十九年の正月に完成しました。もちろん私が乗ってゆくつもりでした」
ラバウル方面を視察した侍従武官、城英一郎大佐は戦局の容易ならざるをつぶさに見て、大西中将に飛行機による特別攻撃の必要を説いた時である。陸海軍とも一気に「特攻」の機運が出てきた時代的な背景がある。
沢崎氏が戦局をそこまで正確、詳細に知っているはずはなかったが、七月には愛知一中、米子中学などで生徒が甲種飛行予科練習生に集団応募するという、悲壮な出来事(後述)が相次ぎ、新聞論調も国民の戦意高揚をしきりに書き立てた。日本中が異常に燃え上がっていた時代――といってよい。
「人間魚雷の製図――といっても概念的な図面にすぎなかったのですが、私が乗り込んで敵空母に突っ込むためには海軍に直訴するしかありません。具体的にどこにするか、随分考えた末、大臣、次官はとても無理だろうから、軍務局長に直訴しようと決心して、嘆願書を作りました。その内容は『戦局は重大な時期にきていて、尋常な手段ではもはや勝ち目がないこと、自分の設計した“人間魚雷”によって一発必中の作戦をたててもらいたいこと』という内容でした。
“人間魚雷”の名称を“特別決死隊”として、海軍軍令部に出頭したのは十九年二月八日の大詔奉戴日でした」
開戦日の十二月八日の末尾の日付をとって大詔奉戴日として、毎月、戦意高揚の日としていた。
「霞ケ関の海軍省がどんな建物だったか、はっきりした記憶はないんですが、威圧を感じるようなものではありませんでした。向かって左手に艦政本部の部屋がありました。右手に入ろうとすると、事務官のような方に呼び止められました。
『軍務局長閣下にお会いしたいのですが』
と来意を告げました。
『誰かの紹介状を持っていますか』
と、柔らかい口調できかれました。
『ありません』
と答える私を、けげんそうに見ながら他の事務官と相談していましたが、奥の部屋に通してくれました。その部屋で応対してくださったのは軍人か文官かわかりませんが、同じように用件は何か、との質問を受けました。
『局長閣下に直接お話ししたいのです。ここで申し上げるわけにはゆきません』
『局長はとても忙しいのでお会いするのは無理です』
となだめられました。陸軍と違って海軍省の人たちは物柔らかで、決して人を見下げたりしないのに大感激した記憶があります。
『それでは嘆願書を置いておきます』
と、設計図と一緒に手渡しました。
白浜の療養所に帰って返事を待ちましたが、何の音さたもなく二ヵ月が過ぎました。個人の力は、誠意と関係なく弱いものだと考えていた時、海軍省から返事がきたのです。海軍というところは誠実な人の集団で、あたたかい心遣いをするところだと思いました」
海軍省人事局員の名で来た邦文タイプの返信を、沢崎氏は今も大切に持っている。十九年四月二十四日の日付で、次のような内容である。
「拝復
貴翰拝誦名誉アル戦傷ノ身ヲ以テ再ビ国難ニ赴カントスル貴殿ノ熱意感激ニ不堪《たえざる》次第《しだい》――」
といった文章で始まる丁重な手紙である。文意は、
「陸軍の兵籍にある者を、海軍に採用することはできません。あなたの意思に添えないのが残念ですが、戦局はご存じの通りで前線、銃後の区別はなく、決戦場でありますから、病がなおったらその熱意をもって職域に邁進されるよう希望します」
という内容である。
「返信があって、何ヵ月か過ぎたころ、新聞で“回天”という名前と、特別攻撃隊が必死の攻撃を行ったことを知りました。その時、なにか非常に申しわけのないことをした、という気持ちになったものでした。私の考案した兵器に乗って死んでいった若者がいる――と複雑な気持ちでした――」
形こそ違え“人間魚雷”を海軍省に設計図を添えて直訴した沢崎正恵氏の「回天の製造に手を貸して、多くの若者の命を犠牲にしたのではないか」という自責の念は実は杞憂であろう。
海軍省の人事局が多忙にもかかわらず、一民間人である沢崎氏の思いつきに返事をしたためた真意はわからないが、海軍が計画していた“人間魚雷”の着想を民間人でさえ支援している、という精神的な支えになったであろうことは、前後の経緯から推察できる。
海軍は沢崎氏に返事を出した十九年四月の時点では、軍令部第一部長中沢佑少将の下で日本の誇る九三式魚雷を母体とした水中特攻兵器「回天」の製造を呉海軍工廠水雷部で実施することにしていた。「回天」が誕生するまでには、海軍機関学校五十一期生黒木博司中尉、海軍兵学校七十一期生仁科関夫少尉の“熱意”の物語がある。
軍令部員だった吉松田守中佐の回想記『回天誕生の経緯』に見てみよう。
黒木中尉と仁科少尉が人間魚雷の構図を携えて、海軍省軍務局で潜水艦や甲標的などの戦備を担当していた吉松中佐を訪れ、その採用方を要請したのは昭和十八年十二月二十八日のことである。この日のことを、次のように書いている。
「その日、私は終日会議に追われて、自室に戻ったのは午後五時過ぎであったが、私の帰りを長時間待っていた両君は、軍服に威儀を正して自己紹介したのち、極めて真摯な態度で来訪の目的を述べた。
『(前略)願わくばこの人間魚雷を速やかに実現してわれわれに与えてください。われわれは真っ先に搭乗します(中略)』
構図を私の机上に広げて見せたが、提示された構図も極めて具体的であり、技術的にも優れたものである。
私は軍務局着任まで潜水艦長として戦場にあったので、戦局の重大さは身をもって痛感させられていた。そしてこの難局を打開するのは、尋常一様の手段では不可能であり、何か画期的な新兵器の登場以外にないと考えていたので、軍務局着任後ただちに技術当局に対し、新兵器の研究開発促進を要望し続けていた。それだけに両君の提案には非常に大きな共鳴と可能性を感じたのである。
しかし、こと人命に関する“必死必殺”の兵器は、甲標的(小型潜水艦、ハワイの真珠湾攻撃に使用された)設計時の経緯で明らかなように軽々に処理することは慎まなければならない。そこで軍令部に連絡するとともに、上司である軍務局第一課長、山本善雄大佐に報告して決裁を仰ぐことにした。
山本課長は沈思黙考の後、自ら黒木中尉と仁科少尉を自席に呼んで、まず両君の憂国の情熱に敬意を表し、その研究努力に対して大いに賞賛するところがあったが、しかし、この兵器の採用については諸種の問題があること、とくに、“必死必殺”の人間魚雷の採否は、天皇の大御心を拝する時、軽々に処理できないことなどをじゅんじゅんと説いて時期到来を待つよう懇切に説得した」
まだ人命に対する配慮が働いていたのである。
が、人事、予算を主務とする海軍省はともかく、戦争指導が主務の軍令部では、十八年の中ごろから特攻兵器の開発と実用が真剣に検討されていた。当時、軍令部第一課長だった山本親雄大佐が、昭和三十二年十二月に発表した「大東亜戦争回想手記」によると、連合艦隊の首席参謀黒島亀人大佐は、十八年中ごろ、
「モーターボートに爆薬を乗せて敵艦に体当たりできないか」
と軍令部に出向いて語っている。これは後で「震洋」として実現する。この黒島大佐(十八年十一月に少将に進級)が、同年七月十九日の人事で、軍令部第二部長に就任してから、特攻への動きは急速に進展し具体的になる。
軍令部は大まかにいって第一部と第二部が主流である。第一部は「作戦・戦争指導」、第二部は「兵器の開発運用」が主務である。十九年八月、黒島第二部長の下で特攻兵器と直接関係していたのは、丙部員の神川茂紀中佐で、厳密に言えば、「水陸施設、艦船兵器の選定、整備、研究」の任務が与えられていた。したがって軍令部第二部長黒島大佐の意思が強く反映されたのは当然である。後になると組織的にも改編され特攻を専門に受け持つ部署ができる。そのすべての始まりは黒島大佐といってよい。断っておくが黒島大佐が悪の根源だという意味ではない。特攻を必要とした時に黒島大佐を持ってきたまでで、同大佐(当時)を軍令部第二部長にした時の軍令部総長は永野修身元帥、海軍大臣は嶋田繁太郎大将、海軍次官は沢本頼雄中将である。軍人であるかぎり特攻と無縁ではあり得なかった時代である。
「回天」と同時に「桜花」も登場する。後述するが「桜花」は飛行機輸送部隊の特務士官大田正一少尉の発案で十九年八月十六日、海軍航空技術廠(和田操中将)で製造が開始されるが、これらは黒島軍令部第二部長が強く主張した内容の反映である。
「桜花」は発案者といわれる大田少尉の名をとって「マル大兵器」と仮称で呼ばれるが、少尉の働きかけで“人間爆弾”「桜花」が航空技術廠で作製されたとは思えない。戦争が末期になるにつれて不可解な現象が現れてくる。
サイパンの失陥(十九年六月)による国民の衝撃は大きなものがあり、軍令部第一部が十九年十月、天皇に上奏した内容に、
「国民から海軍省や軍令部に必死必殺の兵器を採用して皇国を護持すべしとの意見が急増しました」
というのがある。前に紹介した沢崎正恵氏の意見も反映されたのであろうか。公刊戦史は、
「黒島亀人大佐が軍令部の軍備担当の責任者に就任したことは、海軍が特別攻撃を採用するうえで決定的な意味を持つことになった」
と書いている。事実黒島大佐は、十八年八月六日、軍令部で今後の海軍戦備の方向を決める戦備考査部会議の席上、
「突飛意表外の方策によって、必殺の戦を行う必要がある」
と強調し、その一例として“戦闘機による衝突撃戦法”をあげている。
前出の山本親雄軍令部第一課長の回想記によれば、五日後の八月十一日の戦備考査部会議で、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、嶋田繁太郎海軍大臣、沢本頼雄海軍次官、杉山六蔵艦政本部長、塚原二四三航空本部長らを前にして、「第三段作戦に応ずる戦備方針」として「必死必殺戦法」をはっきりした形で主張している。
先に簡単に紹介したように侍従武官だった城英一郎大佐が、南方戦線を視察して戦局の容易でないのを目撃し、十八年六月、海軍省航空本部総務部部長だった大西瀧治郎中将に特攻の必要を説いたが、大西中将は同意していない(「城英一郎日記」)。大西中将はフィリピンで、結局は城大佐の主張していた特攻を実行したが、それまで自分の胸に納めて、公式な席で特攻攻撃の話はしていない。特攻の創始者は大西中将と広く信じられているがそれは違う。
海軍の軍令部で、特攻に以後の海軍戦法としての“市民権”を与えたのは軍令部第二部長の黒島大佐と、軍令部第一部長中沢佑少将のコンビである。
黒島大佐が山本五十六大将のもとで真珠湾攻撃の具体的な作戦を立てたことは何度もふれたが、以来南方戦線で苦労しており、特攻以外に戦争を続行できない、との考えを持つようになったのは特攻思想の善悪は別として、彼なりの結論であったろう。いろいろな資料から見て、黒島大佐を軍令部第二部長に持ってきた海軍人事に問題があるとしか言いようがない。
黒島大佐が激烈な特攻兵器の開発促進論者であることは多くの関係者が知っていた。それを軍令部第二部長に持ってきたものだから、特攻が組織的に行われるようになった。彼のもとで多くの特攻兵器が造られている。“だぼはぜ”と言われるくらい、黒島大佐は各種の特攻兵器に手を出している。
このことはゆっくり説明するが、海軍は広島県安芸郡音戸町大浦崎に「P基地」の秘匿名を付けて特殊潜航艇の乗員訓練を行っていた。原型は真珠湾攻撃に持っていった二人乗りの小型潜水艦である。「甲標的」とこれも秘匿名で呼ばれ、発電装置を付けるなどの改造をして航続距離を伸ばし、実戦に役立てようと、ひそかに準備を続けていた。実態はともかく、これは特攻兵器ではない。乗員の脱出は可能であった。しかし「回天」の出現がこの甲標的と密接に結び付いていたのである。
P基地での訓練乗員の身分は第六艦隊司令部兼呉海軍工廠付である。特殊潜航艇の改造とか調整で、海軍工廠と密接な関係を持つからである。潜水艦に関しては呉海軍工廠が最も充実した建造設備と技術を備えていた。特殊潜航艇もここで建造された。「回天」も呉で建造されるが、それは九三式魚雷を同工廠水雷部で製造していたからである。この関係は後で詳しく説明しよう。
P基地の部隊長は井上正之中佐、後に山田薫中佐に代わる。第六艦隊司令部兼呉海軍工廠付のP基地隊長とはいえ、作戦関係については直接海軍部(軍令部)の指示を受けていたから、特殊潜航艇がいかに最後の決戦兵器として期待されていたかが理解できる。
甲標的――特殊潜航艇はずっと研究開発が続けられ、高度な機能を加えたが、使用目的は敵の泊地攻撃から局地防御用に改められた。十八年秋から、呉海軍工廠で丙型(乗員三人)が建造されるようになった。初期の甲型(乗員二人)から乙型(試作艇)を経て制式化したもので、ラバウル、サイパンにも進出している。ただし実戦の使用例はない。甲標的は二十年になってT型(五人乗り)が完成するが、これも実戦には間に合わなかった。「蛟竜」がこれである。潜水艦の成り立ちを見てゆくのは、非常に興味を引くが今はその余裕がない。
「回天」の創始者黒木博司中尉、仁科関夫少尉らが訓練を受けていたのは丙型である。
「回天」への道とつながる運命の糸は、ある特殊兵器の開発実験が触媒の役目を果たす。皮肉にも仕掛け人は軍令部第二部長黒島亀人大佐である。
十九年二月五日、クエゼリン環礁が敵の手に落ちた。
軍令部は、敵がこれを機動部隊の根拠地に使用するのを阻止するため、奪回もしくは破壊する作戦を立てた。占領された日の翌六日朝には破壊作戦を決定し、その戦備を海軍省に要求してきたから、クエゼリン環礁の戦略的地位が理解できよう。黒島大佐は、海軍省軍務局の吉松田守中佐に、特殊兵器の製作を命じた。予算は海軍省の所管だ。
この作戦が「竜巻作戦」である。吉松中佐によれば、魚雷艇を改装した、特四内火艇を潜水艦九隻に二隻ずつ積んで環礁外まで潜航したあと、暗夜に乗じて潜水艦から発進させる。魚雷艇は水上航走によってリーフに接近し、戦車のキャタピラーのような無限軌道でこれを乗り越えたあと、再び水上航走して敵艦に肉薄し、搭載した二本ずつの魚雷計三十六本を発射、敵艦を海の藻くずと化して、根拠地を使用に耐えないものにする計画であった。
「構想は極めて壮大だが、いざ実施となると大きな障害があった。第一、魚雷艇に無限軌道を付け、水陸両用とすることは矛盾であって、速力を低下させ魚雷艇の用をなさなくする。低速と主機械の騒音とが、奇襲作戦に不適当なことは論をまたない」
と書いている。
「竜巻作戦」の実験を見たイ四一潜(イ四十一号潜水艦)の艦長、板倉光馬少佐の感想がある。
板倉少佐は後に、徳山市大津島で特攻戦隊参謀兼回天隊指揮官として特攻隊員の養成に当たる役割を担う。
兵庫県明石市に在住する板倉氏は、
「海軍大学出の偉い人はどうもねえ。私には海軍や先輩を批判する資格はありませんけど、黒島さんの『竜巻作戦』は神がかりですよ。あんなもので敵をやっつけられるはずはありません。音は大きいし速力は遅い。泊地に侵入したとたんに、特四内火艇だけでなく、母艦の潜水艦までやられてしまいます。しょせんは机上の空論です」
と一刀両断である。が、ともかく黒島第二部長から潜水艦参謀(第三課)藤森康男中佐に作戦の起案命令が出された。
黒島大佐は呉市吉浦町の出身で、山本五十六連合艦隊司令長官時代――太平洋戦争開戦時の作戦参謀である。“変人参謀”と下士官兵からあだ名されていたことは有名だ。個性的で、山本司令長官が「オレでなければ黒島は使いこなせない」とかばっていたのは、山本長官らしい海軍式ダンディズムであったかもしれない。傲慢といわれていた宇垣纏参謀長も、
「作戦は長官と黒島がやっている」
とさみしげだったことは関係者ならよく知っている。それだけに黒島参謀には敵も多かったようだ。
特四内火艇の成り立ちについて見ておきたい。
そもそもは堀元美海軍技術少佐(後中佐)が、呉海軍工廠造船実験部時代、南方の孤島に物資を輸送するために考案した水防式の無限軌道付き内火艇である。潜水艦に積んで近くまで行き、後は自力で水中を走り、陸地にはい上がることができる。潜水艦が水中にあるときはエンジンを水防の鉄板で覆い、水上に出ると窓を開けて空気を取り入れ、エンジンをかける。
堀氏の戦後の著作『潜水艦――その回顧と展望』によると、図面は造船実験部の金庫にしまったままになっていた。
十八年秋ごろ、軍令部の藤森中佐がこの図面を見て黒島大佐に報告したところ、飛び付いたという。艦政本部第一部(大砲関係)に図面を渡し、戦車製造会社に十八基製造させた。
図面をひいた堀技術少佐が呉海軍工廠砲熕《ほうこう》部(大砲製造工場)に呼ばれてゆくと、戦艦大和型の砲塔を製造した大きな工場内にずらりと並んでいた。「特四内火艇」という名称が付けられ、
「第六艦隊はこの内火艇による攻撃隊を編成し、潜水艦輸送をもってウルシー基地の環礁内にあるアメリカ艦隊を攻撃すべし」
という作戦命令まで付いていたという。既にクエゼリンから、より日本に近いウルシーに敵が迫っていたのである。
「誰よりも驚いたのは、考案者たる筆者である。艇の性能は筆者が一番よく知っている」
と堀氏は書いている。
「竜巻作戦」のために、十九年四月、各方面に散らばっていた既に数少ない潜水艦六隻(イ三六潜、イ三八潜、イ四一潜、イ四四潜、イ四五潜、イ四六潜)が呉に呼び戻され、連合艦隊(豊田副武司令長官)の潜水艦参謀渋谷竜穉《たつかわ》大佐から作戦説明があった。
会議の席上、一斉に潜水艦長から反対論が起こった。レーダーを自由に駆使していた敵が、日本の潜水艦をいいカモにしていた時である。イ四一潜艦長の板倉光馬少佐が反対論を述べると、軍令部や軍務局の作戦指導部が激怒したばかりでなく、特四内火艇の搭乗訓練をしていた若い士官をも怒らせた。
「祖国の危急存亡のとき、潜水艦長がしりごみするとは何事ですか」
と顔色を変えた。この中に、後で「回天」で特攻死する上別府宜紀大尉(海兵七十期)もいた。
特四内火艇の乗員訓練は、呉市にあった水雷学校の教官竹内仁司少佐が指導官に選ばれ、七十人の若者が、P基地(広島県安芸郡音戸町大浦崎)沖合の情島(Q基地)で厳しい訓練を受けていたのである。
議論は続いたが、第十五潜水隊司令官高橋長十郎大佐の、
「ものは試しだ。特四内火艇を潜水艦に積んで実戦的用法をしてみたらどうか」
と言う発言でやっとケリがついた。
間もなく呉海軍工廠から三十トンクレーンなどの用具を柱島泊地(山口県)に回航し、潜水艦から特四内火艇を走らせた。
「いやもうその轟音は戦車がほえている感じです。最高速力は四ノット。陸に上がったら、こぶし大の石でも無限軌道が外れました。これを見て、さしもの『竜巻作戦』もさたやみになりました」
板倉少佐は簡単に経緯を語っているが、第六艦隊(潜水艦隊)の水雷参謀鳥巣建之助中佐によると、訓練は四、五日間続けられ、日がたつにつれて特四内火艇の欠陥――水漏れ、エンストなど――が続出。このため、決死志願した上別府大尉でさえ、ためらわざるを得なかった。遂に第六艦隊から、連合艦隊司令部に作戦不可能の電報が打たれることになった。
連合艦隊司令部は第六艦隊司令長官高木武雄中将と、水雷参謀の鳥巣中佐を、木更津沖の旗艦大淀に呼びつけて事情を聞きやっと納得した。
が、軍令部は、
「兵器の改善をまって作戦を再開する」
ということにして事態を収拾した。
こうした海軍中央の作戦の選択は、水中特攻「回天」の使用に拍車をかける結果となる。P基地で特四内火艇の失敗を知った特殊潜航艇の乗員、黒木博司中尉(十九年五月大尉昇進)、仁科関夫少尉(十九年三月中尉昇進)らが、ますます回天の必要性を痛感するようになったのは想像に難くない。
特四内火艇の完成日時と、山口県の柱島で訓練した公式な記録は分からない。
特四内火艇を設計した堀元美技術少佐の『潜水艦――その回顧と展望』では、試作設計した設計図を呉海軍工廠水雷実験部の金庫にしまって置いた時から数ヵ月後に、戦車工場で造らせた特四内火艇が呉海軍工廠砲熕部に来ていた、となっているだけである。第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐の戦後の著書『人間魚雷――特攻兵器「回天」と若者たち』では、特四内火艇の柱島での実験は十九年五月、となっている。直接本人に確かめたところ、「記述の通りで、五月だったことは確かだが、日にちまでは記憶していない」と言っている。
堀少佐の前述書には実験の写真が掲載されており、その日付は五月二十三日である。もっとも呉海軍工廠に、いつ搬入されたかは分からない。早い時期であったろう。
一方、海軍省軍務局員、吉松田守中佐の回想は、
「山本課長はかねてから水陸両用魚雷艇(特四内火艇)の戦備に疑問を抱いていたので、言下に人間魚雷三基を試作し、すみやかに諸性能を検討するよう指示を下した。忘れもしない昭和十九年二月二十六日のことであったが、この日こそ、回天誕生の日となったのである」
と書き、時間的なずれがある。吉松中佐は既に鬼籍に入り確かめようがないが、後述するように軍令部第一部長中沢佑少将の業務日誌を見ると、はっきり「二月二十六日『回天』の試作を命じた」と書いてあるから、「回天」がこの日に初めて兵器としての“市民権”を得たということになろう。特四内火艇については公刊戦史もほとんど黙殺しているが、この出現が妙に絡み合って、水中特攻、特に「回天」の誕生に拍車をかける起爆剤となったのは紛れもない事実である。
以上、状況を整理してゆくと、クエゼリン環礁が陥落した二月に水中特攻は計画され、実現段階が五月になったということであろうか。
とまれ、「回天」の試作を迫る、黒木中尉の執念はますます募る。
黒木中尉と接した呉海軍工廠の職員の現存者や、一緒に訓練した人は多い。
庄原市実留町に住んでいる徳永道男氏は、P基地で特殊潜航艇の訓練を受け、黒木中尉の熱っぽい訓話に感動し、「回天」の採用嘆願書に血書署名した一人である。
「昭和十六年五月に十六歳で呉海兵団に志願し、十八年一月に大竹潜水学校に入校、同年五月二十六日、校長室に機関科兵十人が呼ばれ、第六艦隊司令部付を命じられました。赴任したのがP基地で、家族との連絡は『呉潜水艦部隊気付、山田事務所』でした」
と、軍歴簿を見ながらの説明であった。山田事務所とは山田薫中佐を“部隊長”とする誕生前の仮の名称である。海軍はこのような形式を用い、例えば軍艦が艤装完成する前、乗員を乗り込ませて慣熟訓練をするが、その部隊を初代艦長の名前を冠して“○○事務所”と呼んでいた。
九三式魚雷から「金物」へ
海軍は兵隊の特性を見て、水兵時代から各種の学校に入れて専門的な教育をやる。扱うものが機械であるから、専門知識を必要としたのである。徳永道男氏の場合を見ると、新兵教育の後、巡洋艦「三隈」に乗艦、十七年四月、横須賀工機学校で電機関係の教育を受け、さらに十八年一月に潜水学校に入校し、五月にP基地に転任したのは前述した通りである。
「私たち十人が潜水学校からP基地に着任した時、第五期搭乗員の訓練中でした。この人たちは十七年半ばに発令された尉官、下士官です。黒木博司中尉も第五期で機関科から志願した熱血漢でした。同じ機関科出身の私たち十人が赴任したものですから、弟のようによく面倒を見てくれました。
そのころは特殊潜航艇乙型での訓練で、特潜の存廃が論議されていたためか、基地全体に活気がなく、基地も閑散としていたような印象を受けました。
しかし士官も下士官もひげぼうぼうで、油まみれ、一種独特の雰囲気がありました。黒木中尉を中心にして丙型の試作が進められ、十八年九月にはディーゼル発電機を搭載したものができました。乗員も三人となり、P基地もにわかに活気が出てきたように思います」
徳永氏の記憶は正しく、十八年五月といえば、開戦時の特潜(甲型)の性能の向上のため、呉海軍工廠で従来の甲型を改良したテスト用の乙型を建造していた時期である。
黒木中尉たちは搭乗員で、特潜の開発研究には直接タッチしない。訓練に励み、テストに全力を傾けたということである。潜水艦の建造を決定するのは艦政本部の責任であり、呉海軍工廠は建造部門である。ただ計画通りゆかないから、現場でいろいろと苦労する。艦政本部から来る図面は、いわば仕様書で、呉海軍工廠では設計に従って実際に鉄板を切断し、びょうを打ち、熔接して建造。実験しては改造、調整する。これが海軍の仕事の流れである。
初期の甲型は六百馬力バッテリーだけで動かしていたから、航続距離は十九ノット(三十五キロ)で五十分(水中)しかなかった。バッテリーを消耗したら、万事おしまいであった。
改造型の丙型は四十馬力の発電用ディーゼルを装備したもので、浮上してディーゼルを回して発電できるから、通常型潜水艦の小型と思えばよい。
「十八年十月に第六期、十二月に第七期、十九年三月に第八期が入ってきましたが、五期の途中で入った私たちは“五期半”などとからかわれていました。
特潜はなかなか難しい潜水艇で、一トン近い魚雷を発射しますと、艦が小さいから飛び上がって半分ぐらい姿が海面に出ます。十五秒ぐらいで海水を入れ、第二弾を発射しますがまた飛び上がるので、敵に姿を見られずにはすみません」
海軍省軍務局員吉松田守中佐の回想によると、海軍省に再び姿を現した黒木中尉の熱意にうたれ、戦局打開のためにはこれ(回天)しかないと思い、軍務局第一課長の山本善雄大佐に伝えたのは十九年二月二十六日であったという。
黒木中尉はこのほかに何度も上京しては各方面に働きかけている。追いつめられてゆく戦局を見ながら、
「おれたちが何とかしなければ」
と言う青年士官のあせりが目に見えるようである。
吉松中佐に面会を申し入れた時は、仁科関夫少尉と一緒だったという説もあるが、吉松中佐の回想にはない。海軍省に提出した嘆願書は血書の署名がしてあった。
特潜の訓練生としてP基地にいた、前述の徳永道男氏によれば、
「特潜の訓練生が黒木中尉に引率されて呉市の二河峡に行き、大きな岩の上で血で署名しました」
と言う。その帰り、呉市内の写真館で記念写真を撮っている。黒木中尉はなかなかの美青年士官で、世間に出ている訓練中の蓬髪の写真の面影はない。
「生還を期し難い特潜の訓練中から、武士道、尊皇、日本思想を説き、大楠公とか吉田松陰の話を聞かされていました。試作された回天のツリム(前後傾斜)試験などをやりましたが、最初はとても使えないと思ったほどでした。私は試走もしないまま、十九年八月二日付で特潜搭乗員として沖縄根拠地隊に転任になりましたので、それ以後の回天を知りません。
前にも説明したように、特潜だって魚雷を撃つと海面に飛び出るほどのものでしたので、回天を見たとき、すっきりした兵器だとさえ思ったのは事実です。黒木中尉の回天採用の嘆願書に血書した一人として、私がどんな役割を果たしたのか、深いかかわりがあったのではないか、と今でも胸の中にわだかまりがあるのです」
徳永氏は、「回天」誕生の責めを負う必要はないであろう。軍令部は既に決死兵器の方向に動いており、サイパン島陥落を目前にして十九年六月二十五日午前十時、皇居で開かれた元帥会議で、
「奇襲兵器の促進係を設け実行委員長を定めること」
などを決めている。出席した元帥は伏見宮博恭王、永野修身(以上海軍)、閑院宮載仁親王、梨本宮守正王(以上陸軍)。この中で現役は永野元帥だけである。このほかに寺内寿一、杉山元、畑俊六の三元帥がいたが、戦地にあった。もともと元帥会議は形式である。
元帥会議に出席(決議権はない)していた嶋田繁太郎海軍大臣兼軍令部総長は、軍令部に戻ると、直ちに奇襲兵器の促進係を設けるよう命じ、大森仙太郎中将を実行委員長に任命した。大森中将は水雷学校長であった。軍令部が水中、水上特攻を重視していたことがよくわかる。
海軍省軍務局員吉松田守中佐の回想を、回想誌『回天』(回天刊行会編)の中に書かれている手記から、要旨だけを紹介する。
昭和十九年二月二十六日、黒木博司中尉の二度目の嘆願を受けた吉松中佐は、軍令部に連絡するとともに、軍務局第一課長の山本善雄大佐に詳細報告して、人間魚雷の試作だけでも実施するように上申した。
山本大佐はかねてから水陸両用の魚雷艇(特四内火艇)に疑問を抱いていたので、言下に人間魚雷三基を試作して、すみやかに諸性能の検討をするよう指示した。
試作については二つの条件をつけて、呉工廠魚雷実験部長に委嘱することにした。
一、軍機扱いとし、秘密を厳守する。関与する人員を局限し、軍務局の許可なきものは何人といえども立ち入りを禁止する。
二、人命を尊重するため脱出装置を考慮する。
海軍では重要兵器、機関、艦船の研究開発に関しては、海軍技術会議の議を経たあと、海軍大臣が決裁して発動することになっていたが、この人間魚雷は山本大佐の独断で試作を開始したもので、まことに異例に属していた。
しかし山本大佐が本当に独断で試作に踏み切ったかどうかは疑問である。軍令部第二部長黒島亀人大佐の“最後の決戦兵器”構想は内部では広く知られており、海軍技術会議にかけるという、形式的な手続きを省いても問題ないところまで戦局は行き着いていたのである。現存する軍令部第一部長中沢佑少将の業務日誌を見ると、「二月二十六日試作を命じた」とある。軍令部も海軍省もすべて了解済みだったことは疑うべくもない。
吉松中佐は艦政本部担当大竹大佐とともに呉海軍工廠の魚雷実験を訪ね、部長に山本大佐の意のあるところを伝え、人間魚雷三基を早急に試作するよう依頼した。
呉海軍工廠の魚雷実験部では渡辺清水技術大佐、鈴川溥技術大尉(後少佐)、楠厚技手らが中心になって設計を開始した。
山本大佐が特に要望した脱出装置の設計には相当苦慮したようだが、この脱出装置に対して黒木中尉は最初から反対であった。
その理由には、艇速が減退するばかりでなく、航走安定にも影響することなどがあげられていたが、最大の反対理由は、首尾よく敵前で脱出に成功したところで、人命は救助されても、それは敵の捕虜になることを意味するからである。
吉松中佐は設計の状況から、山本大佐の人命尊重方針と黒木中尉らの意見を調整して、訓練中は人命を絶対に尊重するため、脱出装置の代わりに、操縦室の上下に乗員の出入り口を設けて、危急の際には、ここを開けて脱出する方法を提案し採用された。
さしも難航した「回天」の設計もその後順調に進み、七月初旬には三基とも完成をみた。秘密保持のため、これを「(まるろく)金物」と命名した。
完成した第一号艇は黒木中尉が操縦して呉軍港内で航走試験を行い、予期通りの成果をあげ関係者を喜ばせた。
が、本当は簡単ではなかった。東京都世田谷区に在住の呉海軍工廠水雷設計部主任鈴川溥技術少佐によると、
「世も末だ、と思いながら技術者として脱出装置を付ける作業と取り組みました。方向、進路、スピードを決めてしまえば九三式魚雷を改造したものですから、乗員は脱出しても諸元(深度・速力・進行方向)通りに『回天』は進んでくれます。しかし黒木中尉が反対したということは後で聞きました。実際に図面を引いたのは楠厚技手です。九三式魚雷を二つに切り、真ん中に人間を乗せるだけのことですが、それがなかなか大変なんです」
楠技手らは艦政本部にもいたことのある、いわば工廠子飼いのベテランで、大学出の技術士官が書いた思い付きを具体的に製図する技術の所有者たちである。堀元美技術少佐の構想した、特四内火艇を製図したのも工廠子飼いの技手である。
「呉海軍工廠に試作命令が来たときには、既に兵器という名称は決まっていたと思います。艦政本部からの指示でした」
と鈴川技術少佐は回想している。
公式文書として残っているのは連合艦隊の「昭和十九年機密電報綴」である。これによると十九年四月四日、軍令部第二部長の黒島亀人少将は、軍令部第一部長中沢佑少将に「作戦上、急速実現を要望する兵力」として、
「体当たり戦闘機」
「小型で航空界における戦闘機のような潜水艦」
「局地防備用可潜艇、航続距離五百カイリ、五十センチ魚雷二本搭載」
「装甲爆破艇、艇首に一トン爆弾装備」
「自走大爆雷」
「大威力魚雷、一名搭乗、速力五十ノット、航続距離四万メートル」
などをあげている。このほかに民間研究家の考案による「飛行機の増翼」があるが、これは問題外としても、「体当たり戦闘機」が“人間爆弾”「桜花」に、「装甲爆破艇」が「震洋」に、「大威力魚雷」が「回天」になったことは疑問の余地はない。
黒島少将の発想――軍令部の合意が、海軍省内で検討され艦政本部を通じて生産過程に入るが、この時、特殊兵器に秘匿名が付けられている。(まるよん)兵器が「震洋」、兵器が「回天」である。「回天」が兵器と言われたのは、ここから出たのであるが、鈴川技術少佐の回想のように、呉工廠に命令がきた十九年二月末の時点で、既に兵器という名称が付けられていた、というのは本当であろう。書類的なものは、後で処理すればよかった。
呉市坪ノ内町に住む赤木良三氏は呉海軍工廠の水雷設計を担当していた技手養成所十六期出身の技手で、昭和十八年には、魚雷実験部と第二水雷部兼務であった。
「第二水雷部は特兵部といって特攻兵器の担当です。特兵部とはいかにも露骨なので第二水雷部としたのです。ここは『回天』の世話をする部署で、黒木博司中尉や仁科関夫少尉もよく出入りしていました」
古い記録もよく保存していて、昭和二十九年三月、旧海軍駆逐艦「梨」を引き揚げて解体するとき、手持ちの資料から九三式魚雷の設計図を引いた。解体時の爆発を防止するためで、戦後、海底に投棄した魚雷を引き揚げて密解体し、死亡事故が相次いだこともあり、正確な設計図がないと危険だったからである。
「兵器の九三式魚雷の設計図は頭部を左にして書くことに決まっているんですが『回天』は人が乗りますから船扱いで、設計図の頭部は魚雷とは反対で右になります」
と細かいことまで説明してくれた。
「九三式魚雷は軍需部の倉庫の中に千基か二千基眠っていたんです。性能は世界一ですが、それを発射する機会がなくなったんですね。駆逐艦が近寄って敵艦に魚雷を発射するような戦争ではなくなった、と海軍士官がよくこぼしていました。
黒木さんは軍需部に眠っていた魚雷に目をつけたんですね。ええ、黒木さんはよく水雷部に出入りしていました。九三式魚雷を改造してそれに乗り、敵艦に突っ込むという発想です。
特兵部というのは『回天』特攻隊員の世話をする部署で、説明図だとか資料を用意して渡し、隊員の訓練をやりやすいようにするのです」
赤木氏は「回天」を試作した時のことも覚えている。
「私は直接設計に参加してはいません。鈴川溥技術少佐が詳しいですよ。艦政本部から製図工が五、六人来たように記憶していますが、呉工廠の水雷設計の職員も加わったかもしれません。
水雷実験部の一室で外部と遮断して二ヵ月ぐらいやっていました。私は二基完成したように――そうですか公式には三基になっていますか。船体は造船部で造り、主機は水雷部で造りました。たしか甲鈑工場で組み立てていました」
「回天」が甲鈑工場で造られていたという証言は、当時呉工廠の補修科に在籍し、特殊潜航艇を造っていた船田満宝氏(広島県安芸郡下蒲刈町)の証言と一致している。当時を知る人でも、既に細かいことは案外と忘れ去り、今更ながら時の長さに気づく。
黒木中尉は十八年十一月、呉工廠の水雷実験部の渡辺清水大佐を訪ねている。すでに専門家の手になる設計図を携えていたというから、呉工廠の製図員が書いたものと思われる。が、その人の名はわからない。
「回天」の母体となった九三式魚雷についてその性能を知っておく必要がある。この危険な、そして強力な兵器に乗り込み、敵艦に突っ込むという発想は、当時の若者でなければ出てこないものであったろう。九三式魚雷は紀元二千五百九十三年(昭和八年―一九三三年)に制式化された酸素魚雷で、紀元の末尾二けたをとって命名したものである。
一口に言えば、酸素を空気の代わりにエンジンに送り込んで石油を燃焼させ、馬力をアップさせた魚雷である。したがって速くて射程距離があり、重い爆薬を搭載できる。
酸素を助燃材として使用するため気泡が出ない。敵側にとっては雷跡が見つからないから、回避する暇もないという恐るべき魚雷であった。日本だけが持っていた自慢の兵器である。
ただ欠点は、下手をすると爆発する危険が多く、先進国といわれたイギリスでさえ開発をあきらめていたものだ。それを艦政本部の岸本鹿子治大佐、朝熊利英技術中佐、呉工廠魚雷実験部員大八木静雄少佐らの努力で完成させたのである。酸素魚雷が太平洋戦争で使用されたのはスラバヤ沖海戦(十七年二月二十七日)が初めてだが、射程距離が長く無航跡のため、日本軍は機雷を敷設していたのではないかと疑われたほどである。
九三式魚雷の構造と、開発の苦心は、頼淳吾技術少将が『秘密兵器の全貌』(原書房刊)の中に書いている「魚雷」に詳しい。その概略を紹介しておく。
酸素魚雷の最も困難な問題は複動二気筒、横置きエンジンの加熱装置の点火である。圧縮空気の代わりに、いきなり圧縮酸素を送って石油を噴霧し、信管で点火したら、大爆発を起こしてしまう。純酸素を用いて、しかも加熱装置内の点火で爆発を起こさない――これが酸素魚雷の秘密であった。
九三式魚雷の特徴は、加熱装置の中に、まず減圧した圧縮空気を送り、石油を噴霧し点火して石油を燃焼させ、圧縮空気にしだいに酸素を加えてゆくところにある。燃焼は次第に熾烈になるが、爆発は起こらない。そして最後に全部純酸素に切り替えても燃焼は最も激しくなるものの、爆発は起こらない。
そのため圧縮酸素を充填した気室と、エンジンの発停装置との間に不還弁と約十三リットルの高圧空気瓶が置いてある。
魚雷発射と同時に開いた発停装置の不還弁(工廠では「不帰弁」と言っていたが、頼少将の著作には「不還弁」と使ってある)から、まずこの空気瓶の中に充填した圧縮空気が調和機を通して加熱装置に送り込まれる。点火は穏やかに行われ、燃焼――エンジンが動き出す――は静かに始まる。
内容の減ってゆく空気瓶への補充は、不還弁を経て後ろに連結している気室から行われるようになっていて、酸素がしだいに空気に添加されてゆき、最後には純酸素だけの最も強烈な燃焼に落ち着く。それだけに整備が大変であった。
呉工廠の現場の目から九三式魚雷を見てみよう。
水雷設計部技手赤木良三氏はメモを見ながら語ってくれた。
「魚雷の構造は、前から頭部、気室、前部浮室、機関室、後部浮室、尾框《びきよう》(舵)、推進機に分類できます。
九三式魚雷の改一型は、燃料が石油、二気筒のレシプロ・エンジンと考えてもよいと思います。
第二空気と呼んでいた圧縮酸素は純度が九十八パーセントで、送気管の曲がり角などに油があると爆発します。したがってパイプ部門を掃除するのが大変でした。
第一空気(普通の圧縮空気)は十三・五リットルですが、外に操舵用の気室が二個で四十・五リットルあります。
舵(縦、横ジャイロ)は圧縮空気の圧力で回します。どちらも二百三十気圧です。
第二空気は二百二十五気圧で容量は九百八十リットル。ニッケル、クロム、モリブデン鋼の削り出し(むくの鋼材をくり抜いたもの)の容器に入っており、厚さは十二ミリです。
長さ九メートル、径六十一センチで、第二空気室の長さは三メートル四十八センチ、魚雷の三分の一以上を占めています。この気室のところで頭部と後部をつないでいます。
『回天』に人間を乗せる装置を付けたのはこの部分です。
外装は普通鋼板で三・二ミリ―一・八ミリ(後部の薄いところ)で、全部熔接です。
エンジン部分は海水が入るようになっていて、冷却水の役目をしていました。気密を保つことは水雷部はうまかったから、薄い鉄板で十分だったわけです。
燃焼室で爆発(石油と酸素)したガスが、気筒に入ってピストンを動かし、シリンダーを回しますが、ベベル・ギア(傘歯車)があります。主軸が中と外の二重になっていて、四枚羽根二基の推進翼(スクリュー)を、一基は右回り一基は左回りさせ、魚雷の進行方向がぶれるのを防いだわけです。これは日本独特の発想でした。
深度計は海水の圧力で調整するようになっていました。例えば五メートルで発射する場合、水圧板を五メートルの目盛りに合わせますと、横舵に作用して深度を調節してくれます。
縦舵計はジャイロコンパスのことです。ジャイロを回す時期は、目標を定め発射管から撃つ時で、一度ジャイロを回すと逆方向に発射しても慣性の作用で目標に向かって進みます。したがって潜水艦の魚雷は、後部発射管から撃っても前の目標物に進むことが可能です。これらの機器は操舵空気で回します(回天は電動式に改造された)。
魚雷は試験発射(領収発射)して海軍に納めますが、九三式魚雷以外は大入《だいにゆう》(呉市阿賀南)の発射場で十分でした。
昭和十二年、私が技手養成所を出て、水雷部に入ったときには、すでに大津島(徳山市)に試験場がありました。四国に向けて最大の直線距離がとれたからです」
「回天」の母体となった九三式魚雷の性能について、いま少し述べる。
魚雷の速度と射程距離は次の通りである。
五十二ノットで二万二千メートル。
四十一ノットで三万三千メートル。
三十六ノットで四万四百メートル。
日本は魚雷の速度を、マイナス十ノット、射程距離を半分で公表していた。したがって四十二ノットで一万一千メートルが最高性能と思われていたのである。
炸薬は四百八十キログラムを頭部に付け、全重量は二・八トン―三トン近くあった。けん引力(エンジン馬力に相当する)は六十四キロ。この数字の説明は難しいが、三トン近い魚雷を五十二ノット(九十六キロ)のスピードで二十二キロも走らせることができるエネルギーを備えていたことを考えると、酸素魚雷エンジン性能の良さが理解できる。
さて、いよいよ呉海軍工廠水雷実験部で「兵器」――まだ「回天」という名称はつけられていない――の開発が始まった。十九年三月である。九三式魚雷を改造して、そのエンジンのエネルギーを利用し、人間が搭乗できるようにするだけとはいえ、これは簡単ではない。水雷設計部、鈴川溥技術少佐の回想を聞いてみよう。前に紹介した回天刊行会刊『回天』の記述を参考にする。
「後部エンジン部は九三式魚雷の気室以降を全部使い、その前に直径一メートルの円筒部を取り付け、そこに乗員が乗り込む操縦室、航続距離を増すための別の高圧酸素気室、そして操縦用高圧気蓄器を入れた前部空気室を設け、さらにその前に一・六トンの炸薬を持った頭部がつく。
操縦室には浮上観測用の一メートルの潜望鏡を装備して、全長約十五メートル、全重量八トン、最高速力三十ノットで二十三キロ、十二ノットで七十キロの航続距離をもつ。その上、観測のために水面すれすれに浮上して、低速で安定航走の機能が要求されたものであった」
と鈴川技術少佐は書いている。
開発命令と同時に、水雷部では、当時設計主任で酸素魚雷の権威、渡辺清水技術大佐が開発責任者となり、その下に鈴川溥技術少佐、担当技手として魚雷設計に多年の経験をもつ楠厚技手らを任命。多くの水雷部の有能な設計メンバーが集められて、緊急開発グループが発足したことは前に紹介した。
この開発グループは、機密保持の目的と、試作実験の効率的な進行を考えて、呉工廠から少し離れた大入にある水雷部の魚雷調整工場内に分室を設け、設計と試作を並行して開始した。この調整工場内には、魚雷の試験発射場があり、入り江だから「金物」の航走実験を秘密裏に行うのに適していた。「金物」の基本設計を進めていく段階で、最初にどうしても実験的に確認しなければならないことは、九三式魚雷の前に直径一メートルの胴体を付けて、果たしてうまく安定航走ができるかどうかの点にあった。
人間魚雷としての機能を発揮するためには、目標に接近するまでは中速で運動。時々水面すれすれに浮上して、低速運動しながら(魚雷のエンジンを止めることができない)潜望鏡で観測することができ、最後に突入するときには最高速に変換されて、調定された深度で指示された方向に自動制御(縦舵機――ジャイロにデータを与える)によって走ることが必要である。
そのためには速度をいろいろ変えて、水中および浮上観測状態で安定航走させることが可能かどうか、この実験が開発グループの第一の仕事となった。
造船部で造った直径一メートルの胴体に九三式魚雷の尾部(操縦部分)を付けて、まだ肌を刺す冷たい海風に吹きさらされながら、大入沖の実験海面で航走実験を繰り返した。が、特に低速での浅海航走では、頭を出したり潜ったりするイルカ運動を繰り返した。艇の安定が悪いためである。これでは潜望鏡の観測もできない。開発グループは時間との戦いもあり、ほとんど泊まり込みの作業となった。
「使いものにならないのではないか」
という不安を持った人が、関係者の間に多かったことは前に説明した通りである。
が、得意の技術を生かして、魚雷の尾部のひれを取り除いたり、固定翼を大きくしたり、深度安定のために、横舵とそれを動かす横舵機の機能を改良。さらに、方向変換の操舵性能を増すため縦舵および縦舵機(オートジャイロ)を改良したりして、次第に“人間の搭乗可能な魚雷”が完成していった。
九三式魚雷の縦舵機などの運動はすべて圧搾空気で行っていたが、「金物」はバッテリーによる電動にした。
呉工廠水雷部で、縦舵機担当工場主任であった大住教次技師(広島市南区に在住)によると、
「電源はバッテリーで、直流を交流に変えて機器を動かすようにしました。九三式魚雷の縦舵機は後部浮室に置いていましたが、それを操舵席のところに持ってくるなど、かなりの変更をしたのです。
魚雷は、九五式といわれる五十三センチの潜水艦用のものは長崎の三菱造船でも造っており、ジャイロは北辰電機も造って呉工廠に納めていました。それを呉で簡略化したりして工夫したのです。
『金物』のジャイロは訓練用のものと、実戦用のものがあったのです。直径十五センチ、厚みが七、八センチ程度のもので、一分間に二万回転しました。九三式魚雷の圧搾空気を使用した八千回転(八千メートル走るまで)に比べると性能はぐんとよくなりました」
と回想している。
「金物」は、短時間といえども人間の生活空間を必要としたから形も大きく、したがって重量も増加した。全長十四メートル七十五センチ、直径一メートル、全重量八千三百キロとなった。九三式魚雷と比較して長さで一・六倍、重量で約三倍である。
一号艇、浮上せず
呉工廠水雷部設計主任渡辺清水大佐を開発責任者とする「金物」開発グループの苦心は次第に実ってきた。技術者として、邪道ともいえる“自殺兵器”の開発という側面はあるにしても、脱出装置をつけ、搭乗員の生命はぎりぎりのところで守られるという歯止めが、技術者の良心を支えたことは否定できない。日本は戦争をしているのである。しかも追いつめられ、敵は日本本土の目前に迫っている。
このような状況の中でエンジンの運転試験も同時に進められ、安定駆動、安定速度変換の可能な運転条件の設定や、速度、射程の確認試験が行われた(以下、鈴木薄氏の記述から)。
元来、魚雷は攻撃目標に対して発射諸元(深度・速力・進行方向)を一度インプットしておけば後は自動的に進むが、「金物」は目標への接近から突入まで、深度・速力・方向ともに搭乗員の判断で度々変更する必要がある。そこで条件に従った、陸上での燃焼試験、実験海面での航走試験が厳密に要求された。
一番の不安は、浅深度で最低速の場合、魚雷のエンジンが冷走を起こす可能性があることであった。
魚雷の冷走とは、燃焼室の火が消えることである。一度火が消えるとエンジンは圧搾酸素の圧力で回転するが、速度がでない。行動不能になるばかりでなく、酸素と燃料はそのまま燃焼室に送り込まれているから、たとえ海水が送り込まれているといっても、爆発を起こす危険があった。
そこで、酸素・燃料・海水の注入量をいろいろと変えて、陸上での燃焼実験の結果、最適混合比が選ばれ、さらに実際の航走試験を行って、低速で安全航走するには速度八ノットまで下げることができることを突き止めた。安全を重視して「金物」の最低速力は十ノットと定めた。
また、エンジンの耐久性の確認も必要であった。「金物」は二つの気室を装備しており、九三式魚雷の二倍の運動量に耐えなければならない。
酸素魚雷では、海水を蒸気化してエンジンを駆動するため、どうしても海水中の塩分が固形化して、気筒の中に送り込まれることになり、それが集積して気筒が破損する恐れがあった。そこでこれを防ぐために、気筒の端面カバーに銅を使用した。銅が膨張するため、気筒の破損を防止することができたのである。しかし二倍の酸素量になった場合、この構造で十分に安全かどうかは、どうしても確認しておかねばならなかった。
その結果「金物」の航走性能は十ノットで七十八キロ、二十ノットで四十三キロ、三十ノットで二十三キロと決められた。
これら一連の試験によって基礎データを確認しながら、実用機の設計が進行していった。
最も重点が置かれたのは操縦室である。直径一メートルの胴体は、人間一人が入るのには、十分な空間とは言えない。搭乗員は足を伸ばして床に腰を下ろさねばならないほど狭かった。操縦席の周りには、操縦に必要な装置がいっぱいに配置されていたからだ。
頭の上には機内に入るハッチがある。目の前には観測のための潜望鏡があり、観測時にはそれを上げ下げする昇降装置が手元に装備され、観測後に進行方向を設定する電動縦舵機、速度と深度を調定する装置がある。
その他「金物」を発進させる人力発停装置、頭部の爆薬を爆破させる起爆桿《かん》、発進まで潜水艦と連絡する電話機まであった。
この操縦室の後ろには、九三式魚雷の頭部を取り外した気室以後を持ったエンジン部があり、操縦室からエンジン部にエンジンの発動、速度、深度の調定、縦舵機の制御などのための各種の連続桿や、操作用空気パイプが走っていた。
操縦室の前には浮室を兼ねた前部空気室があり、航走距離を増すための別の気室が置かれ、また操縦用の空気を詰めた気蓄器が納められた。そのほかここには二百二十五気圧の気室の酸素が使用された後、重量が減って「金物」の浮力が増し、前後の釣り合いが崩れた時に、それを補正する海水タンクと釣り合いタンクが設けられた。この空気室の前に炸薬一・五トンを納めた頭部が付いている。
「金物」として用いるために九三式魚雷の尾部をいろいろと改良する必要があった。安定航走と、操舵性の改良のための尾翼と縦横舵系の改造、エンジンの速度調整装置および操舵装置と魚雷気室との配管をはじめ魚雷と「金物」本体との結合部の改造などが、魚雷の設計担当グループによって進められた。
このように、夜を日に継いだ改造は、大入で罐詰作業をしている設計グループだけでなく、各機能部の設計データを確定していくための実験グループ、設計の決まった部分を試作する現場でも優先第一の突貫作業が進められた。
設計グループはソファをベッド代わりにしたり、製図板の上に毛布を敷いて泊まり込みを続けた。
設計が進むにつれて大入分室グループだけでは手が回らなくなり、工廠の本室のグループも、機能設計の応援をするように作業が拡大されていった。
造船部から「金物」の胴体が送られ、それに装備された機材や装置類を取り付け、配管配線をして調整し浮力試験を行ったのは七月初旬であった。
浮力試験は大入の魚雷発射場の岸壁で慎重に行われた。未装備部分の代用バラスト船を安定させるための底荷にする砂など――を積んだ。前後左右の釣り合いも、ほぼ計算値に近いことを確認した時、開発グループは胸をなでおろした。
「金物」の実用試験機が完成し、大入沖の実験海面で有人航走試験が行われたのは七月二十五日であった(公刊戦史)。
最初の搭乗員は「金物」の発案者、黒木博司大尉(五月十五日進級)と仁科関夫中尉(三月十五日進級)が自ら買って出た。彼らは試作発令後は開発グループと一緒になって討議や実験に協力をしてきたのである。
「発射艇に横抱きされた『金物』の小さなハッチから、機内に消えていった黒木大尉の後ろ姿が今でも鮮やかに眼底に残っている」
と鈴川溥技術少佐は回想記に書いている。
第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐もこの時立ち会っているが、航走テストをやったのは二隻で、一号艇に黒木大尉、二号艇に仁科中尉が乗り込んだ、という。
実験担当官の合図に従って、作業員が「金物」をつないでいる作業艇のワイヤをはずした。艇は水面すれすれに浮かんで揺れた。
竹ざおで押すと、わずかに発射艇の舷側から離れる。この瞬間、黒木大尉は長さ一メートルの潜望鏡を上げてくるりと回し、二回上下させて発信の合図をした。工廠の係員がハンマーでハッチをカンカンと軽くたたくとエンジンがかかり、スクリューが回転し始めたと思う間もなく水中に姿を消した。
それを高速艇が追尾する。無気泡航走のため、専門家でも追跡の困難な「金物」の航跡を追って、追跡艇はエンジンを全開し、サイレンを響かせた。関係者は黒木艇が赤い頭部を見せて浮上するまで、名状しがたい感情に支配されて海面を見つめていた。
わずかに五分であった。ぽかりと一号艇が水面に姿を現した。紅潮しながらも、落ち着き払った表情でハッチから出てきた黒木大尉は、
「予想以上の静かな航走状態でした」
と報告した。続いて仁科中尉が二号艇に乗って試乗し同じように成功した。
この時の水中速度は三十ノット(五十六キロ)。秒速十五メートルである。かつて水中をこの速度で走った者はいない。
「黒木大尉たちが発想して九ヵ月、着工して五ヵ月、長い苦難の幾つかの峠を越えて二人の目的の一歩は達せられた」
鳥巣中佐の回想である。
その日の午後、P基地で軍務局、軍令部、潜水艦部、艦政本部、第六艦隊、潜水艦長、呉工廠の関係者が集まって研究会が開かれた。開発グループ以外は「金物」の性能を知らない。試作責任者の渡辺清水大佐から性能を聞かされて驚いた。
が問題は「金物」の耐圧深度であった。元来九三式魚雷は、水上艦艇から発射する兵器である。発射時に瞬間二十メートルまで沈むが、敵艦の喫水線下を狙うから、深くても六メートル前後で直進するようにできている。これを母体として造った「金物」は航続距離が七十キロしかない。使用海面までは潜水艦の上甲板に乗せて運ぶしかなかったが、潜水艦の耐圧限度――百メートルの深度に耐えてもらわないと用兵上都合が悪い。
渡辺清水技術大佐ら関係者は頭を抱えたが、やるしかない。
耐圧深度の見通しを立てるため、大入沖の最も深い海域――それは呉市仁方町と安芸郡下蒲刈町との間といった方がよい――で耐圧試験を行った。深度三十メートル、五十メートル、六十メートルと各種の変形測定器を取り付けて「金物」の耐圧値を測定し胴体、頭部などを補強した。が、八十メートルが限度であった(実戦で、いざ発射という段階で「回天」のエンジン部分に浸水し、出撃を中止した場合があった)。
とまれ戦局は焦眉の急に迫っている。耐圧深度を増すため、開発期間の延長はできなくなっていた。軍令部は、
「八月中に実験を完成すべし」
と命じ、期待の大きいことを示した。
何回となく持たれた会議の席上で、軍令部の森藤康男中佐が、
「この兵器の耐圧深度が八十メートルしかないということは、潜水艦の潜航可能深度を八十メートルに拘束することになる」
と発言した。戦術的には正論である。
これに対して第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐が、
「八十メートルの深度に、潜水艦を合わせればよい」
とやり返す場面もあった。
「実施部隊が新兵器の性能に文句をつけるのは普通ですが、黒木大尉たちの顔を見ているうちに、潜水艦の方で合わせればよい、という気になってしまいました」
と鳥巣中佐は回想している。そうなれば用兵者側――潜水艦は八十メートル以上潜航しないで作戦をするしかない。乱暴な話だが、結論はそうなったのである。もっとも、百メートルの深さに潜航しなければならない時は、敵に追いつめられて潜水艦としても最後を意味する。その時は艦長が「金物」を捨ててもよいということにしたのである。
脱出装置は、黒木大尉たちが、
「兵器の性能を犠牲にしてまで脱出装置を必要としません」
と強く進言してやまなかった。彼らの主張通り、脱出装置は廃止された。脱出しても搭乗員の助かる確率はほとんどないであろう。
海軍大臣が「金物」を制式兵器と決定したのは十九年八月一日である。黒木大尉の希望通り「回天」と名づけられた。
「天業を既倒に挽回する」から取った(明治二年、官軍に孤艦殴り込んで倒れた、幕軍の軍艦「回天」から取ったという説もある)。
せっぱつまった戦局を反映した、若者らしい命名である。
呉工廠に「回天」の急速生産命令が出され、搭乗員、整備員の訓練と戦闘準備が進められた。
潜水艦も改造が進められ、上甲板に搭載する装置と「回天」搭乗員が潜水艦内部から乗り移るための交通筒が造られた。
「金物」を制式兵器として海軍大臣が決裁し、「回天」と名づけた十九年八月一日以前に、海軍の組織は特攻作戦へ向けて大きく動いている。
七月一日、嶋田繁太郎海軍大臣兼軍令部総長の命を受けて、海軍省が大森仙太郎中将を「奇襲兵器の促進係」委員長に任命したことは先に述べた。この時大森中将は、
「全権を任せてほしい。大臣、総長の訓令で工廠長でも何でも自分の要求を聞くようにしてくれれば、引き受けてもよい」
と条件を付けている(公刊戦史)。大森中将が条件を付けた意味は、素人からうるさい注文を付けられては仕事ができないという、水雷畑一筋に歩んできた中将の自負もあったと思われるが、やる以上は――というこの人なりの決意であったろう。
七月十日、第一特別基地隊が呉鎮守府に設けられ、司令官には長井満少将が任命された。
「特殊潜航艇(甲標的)と『回天』の研究並びに要員の養成」
がこの部隊の目的である。組織的に言えば「回天」の搭乗員を第一特別基地隊で訓練し、潜水艦で出撃する場合は、潜水艦と「回天」とで特別攻撃隊を編成し、先遣部隊(この場合第六艦隊)の指揮下に入って作戦する軍隊区分が確立した。
「神風特別攻撃隊」の場合と違って、組織的に特攻作戦を展開することを明確化したことになる。
「回天」と特殊潜航艇の搭乗員訓練は、P基地(広島県安芸郡音戸町大浦崎)で一緒に行っていたが、「回天」隊を九月一日、大津島(徳山市)に移し五日から訓練に入った。
九月十三日付で海軍省内に「海軍特攻部」が正式に発足、大森中将が特攻部長となった。
もはや海軍の戦備体系は特攻なしには考えられなくなったわけである。
この当時、製造の最も進んでいた特攻兵器は「艇」と呼ぶ水上特攻「震洋」で、既に量産態勢に入っていた。
大西瀧治郎中将がフィリピンで神風特別攻撃隊の編成(十九年十月二十日)に踏み切った背景には、大西中将の意思とは関係なく、海軍部内で特攻に向けての大きなうねりがあったのである。
実行力をもち、部下の信頼を担っていた大西中将に航空特攻を実施させ、軍令部第二部長に黒島亀人大佐を持ってきた、海軍人事の裏が見え見えのような気がしてならない。
後でふれるが「○大(マル大)」と呼ばれる“人間爆弾”「桜花」が横須賀の海軍航空技術廠で試作開始されたのは八月十六日である。
絶望的な戦いに日本は転げ込んだのである。
十九年七月十日、大津島で「回天」隊を編成した時の陣容は次の通りである。
司令官 長井満少将
先任参謀 山田勲大佐(蛟竜隊指揮官兼務)
水雷参謀 板倉光馬少佐(回天隊指揮官兼務)
整備参謀 吉野伊太郎少佐
「回天」隊の増強(独立)に伴い、大津島基地以外に十九年十一月二十五日、光基地隊が開設され、十二月一日から訓練開始した。
さらに二十年三月一日、第二特別攻撃戦隊が発足した。司令官長井少将と水雷参謀板倉少佐はそのままだが、先任参謀に有近六次大佐、整備参謀に森迫勝美中佐が任命され、さらに次のような編成となった。カッコ内は司令。
「光突撃隊」(中村二郎大佐)
「大津島分遣隊」(板倉光馬少佐兼務)
「平生突撃隊」(沢村成二大佐)
「大神突撃隊」(山田盛治大佐・二十年五月五日開隊)
九月一日、「回天」隊が大津島に移動(実際に着任したのは五日)した時の人員は多くない。
第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐によると、「回天」の創始者黒木博司大尉、仁科関夫中尉の外に、特四内火艇の乗員だった上別府宜紀(七十期)、樋口孝(同)の両大尉、加賀谷武(七十一期)、久住宏(七十二期)、川久保輝夫(同)、吉本健太郎(同)、豊住和寿(機五十三期)、福田斉(同)、村上克巳(同)、都所静世(同)の八中尉、本井文哉(機五十四期)、八木悌二(同)の両少尉、村上実、福本百合満、有森文吉の三上等兵曹、佐藤勝美二等兵曹など甲標的(特殊潜航艇)の乗員訓練を受けていた人たちであった、というから非常に少ない人員から始められたのである。この外に整備員が呉工廠魚雷実験部の篠原弘大佐、整備長浜口米市大尉に引き連れられて大津島に来た。
搭乗員訓練の責任を持たされた板倉少佐は、
「十九年末までに百基の回天が生産されることになっていましたが、訓練を開始した九月五日の時点では、使用できる回天はわずか三基に過ぎませんでした。しかもこれで『急速に戦力化せよ』と厳命してくるのですから、木によって魚を求めるより至難でした」
と着任当時の模様を語っている。
板倉少佐が、整備長の浜口大尉に、
「一基の回天で、三日に二回訓練する必要がある。整備を頼む」
と言うと、浜口大尉は、
「むちゃです、いくらなんでも三日に二回整備するなんて、できません」
と憤然として答えた。当時、九三式魚雷の整備は四日ないし五日を要した。バルブやパイプの油抜きだけでも大変で、わずかでも油の痕跡が残っていると、爆発の原因となるからだ。
「回天」隊の訓練は不幸な幕開けとなる。試練といえば彼らは満足だろうか。
九月五日、着任した日の午後、早速訓練を始めた。まず黒木博司大尉と仁科関夫中尉が一号艇、二号艇に乗って徳山湾内を三十分ずつ走航した。完璧であった。
「回天」を操縦した経験があるのは、黒木大尉と仁科中尉しかいない。甲標的の乗員から転科して「回天」隊に来た兵学校最上クラスの上別府宜紀、樋口孝大尉は、これから増加する隊員の先頭に立ってもらわなければならないので、二人の訓練が急がれた。
翌六日、午前中はよい天気であったが、午後になって風が出、海面に白波が見え始めた。内海特有の現象である。
午前中に訓練ができなかったのは「回天」が三基しかなく、しかも整備に時間がかかるからである。元来魚雷は、領収発射する以外は、一度ぶっぱなせばよい兵器である。何度も使用するものでない。
一回目は三号艇に、仁科中尉と上別府大尉が同乗し、湾外から発進して馬島を右に見ながら魚雷調整場に戻ってくるコースを走った。
次は一号艇で黒木、樋口孝大尉組が訓練することになっていた。
先に訓練を終えた仁科中尉が、黒木大尉に、
「湾外は波が高い。潜入するとき、波にたたかれて十三メートルぐらい突っ込んでしまいました。今日は中止した方がよいですよ」
と言った。黒木大尉は、
「これくらいの波で中止していたら、実戦の役には立たないよ」
と言い、中止を命ずる指揮官板倉光馬少佐の言葉をも振り切って、
「指揮官、やらせてください。時間がありません」
と頑張った。もっともな言葉と気迫に押されて、板倉少佐は湾内を走航する条件を付けて訓練を許した。
不幸はこの直後に起こったのである。
黒木、樋口大尉が狭い「回天」の操縦室で書き残した報告書(遺書というにはあまりにも私心がなさ過ぎる)によると、一号艇がエンジンを発動したのは一七四〇――午後五時四十分である。夜間に向かっての訓練であったことが、不幸を決定的にした。
浮上予定時間を過ぎても一号艇は姿を見せなかった。
漁船も動員して徹夜の捜索が続いたが、発見できず、翌七日午前十時、捜索艇の一隻が、予定コースの中間辺りで気泡が海底から上がっているのを見つけた。潜水夫が素早く海底に潜り引き揚げた。が、既に二人とも絶命していた。訓練開始から十六時間たっていた。報告書には、
「午前六時(七日)まだ二人とも生存」
との文字がある。「回天」内での生存可能時間は一人十時間の計算だが奇跡的にも、二人で十二時間以上も生きていたのである。あと四時間、酸素がもってくれたならよかった。
「回天」の沈没事故の原因は、一口に言えば「予備浮力」が小さいことである。海に浮かべただけで海面すれすれにしか浮かばない。潜航中は深度調整機(調深)で、操作するのであるが、深度調整機の整備不良で、うまく操作しないことがある。
光基地の整備長だった高島靖太郎少佐も、テスト潜航中に深度調整機に故障を生じ、四十五メートルの海底に沈座して死にかけたことがあった。昼間の事故であったため五時間後に救助されたが、「回天」は無理を承知で短期間に開発した兵器であるから、いたるところに無理があったのだ。まさに“人間魚雷”そのものである。
樋口孝、黒木博司大尉は二人とも“遺書”を残し、原因とその改善の提言を忘れていない。
神風特別攻撃隊、純忠隊の指揮官深堀直治大尉が、爆弾の爆破装置の故障でセブ基地に不時着し、その改善策を細々と書き残し、再び飛び去っていったように、この時代の若者は、現代人の想像を超える行動様式を平然として見せてくれる。黒木、樋口大尉ともに二十三歳。深堀大尉と同年代である。
まず樋口大尉が、「回天」の中で赤い表紙の手帳に書き残した内容を見てみよう。原文は片仮名交じりだが、現代用語に訂正して紹介する。
「一九―九―六。一七四〇(午後五時四十分)発動。一八一二沈座。
指揮官に報告。
予定のごとく航走、一八一二潜入時突如傾斜、DOWN(ダウン・突っ込むこと)二十度となり海底に沈座す。その状況推定原因、処置等は同乗指揮官黒木大尉の記せる通りなり。事故のため訓練に支障を来たし、まことに申し訳なき次第なり。
後輩諸君に。
犠牲を踏み越えて突進せよ。
七日〇四〇五、呼吸困難なり。
大日本帝国万歳を三唱す、戦友黒木と共に。
訓練中事故を起こしたるは戦場に散るべき我々の最も遺憾とするところなり、しかれども犠牲を乗り越えてこそ、発展あり、進歩あり、こい願わくば我々の失敗せし原因を探究し、帝国を護るこの種兵器の発展の基を得んことを。
周到なる計画大胆なる実施。
生即死〇四四〇、国歌奉唱す〇四四五。
〇六〇〇なお二人生く、行動を共にせん。
大日本帝国万歳。〇六一〇
十九年九月六日。海軍大尉 樋口孝」
日付の九月六日は七日の誤記である。それにしても酸欠で意識がもうろうとしているはずなのにもかかわらず、しっかりした精神状態を保っていたものと思われる。
黒木大尉の報告書は横長の手帳に書かれている。約二千字。それでは足りず「回天」の壁面に断片的な文章を、樋口大尉とともに書いている。絶望的な小さな空間の中で、二人は何を考えたのであろうか。いたずらに死者の心中を推測することは失礼であろうが、十二時間の苦痛はあまりにも長かったであろう。
黒木博司大尉の報告書(遺書)は具体的である。これによって事故が発生した過程を克明にトレースすることができる。事故は次のような経過で発生した。
黒木、樋口孝大尉の乗った「回天」一号艇は、午後五時四十分発動し、予定の湾内コースを走り、二十分後に針路を百八十度取り舵(左回転で逆方向に向かうこと)し、速度二十ノットで大津島クレーンに向かって帰ろうとした。
二分後、一号艇は頭を下に向け始める。D(ダウン)がかかったのである。浮上を決意して樋口大尉に命じようとした時、急にDがいっぱいになって、海底に突っ込んだ。しかし、突入時のショックはなかった。深度計を見ると十八メートルであった。
海上には必ず追跡艇が付いているが、航跡が見えないので、予定のコースを行くしかない。事故が起これば、気泡を出して合図を出すことになっている。
圧縮酸素を助燃材にしているため、水蒸気しか出さない(航跡がわからない)九三式魚雷の長所が、この場合は裏目に出たのである。まして白波の立っている悪天候であり夜に向かっていた。悪条件が重なって、わずか海底十八メートルの一号艇を発見することができなかったのである。
しかし、海上の追跡艇に発見されようと、あらゆる努力は重ねている。
「ハッチ(入り口のふた)啓開を試みしも開かず」
「五分間隔に主空気一分間放気、調圧を十平方センチとなし気泡を大ならしむ」
が、午後七時十三分、弁の故障で気圧が急上昇し耳が痛くなり、放気も不可能となる。それでも七時二十五分、もう一度主空気を放気したが、他の気室から空気が噴き出て、狭い操縦席の気圧を上げたため、すぐに中止しなければならなかった。
救助艇のスクリュー音を聞いたのはその十五分後。
「午後七時四十分ごろスクリュー音二を聞く。前者は直上にて停止せるものの如し。ただし爾後遂になんらの影響無し。爾後種々の音響を聞くも近き音無し」
あまりにもツキがなかったとしか言いようがない。
「陛下の艇を沈め奉り、なかんずく(回天のこと)に対しては畏《かしこ》くも陛下のご期待大なりと拝聞致し奉りおり候際、生産思わしからず、しかも最初の実験者として多少の成果を得つつも十分に後継者に伝うることを得ずして殉職することは誠に不忠申し訳なく慙愧に耐えざる次第に候」
「仁科(関夫)中尉に。万事小生の後事に関し武人として恥なきよう頼み候。潜水艦基地隊在隊中の機48渡辺もしくは権藤大尉に連絡を頼み候。御健闘を祈る。機五十一級友切に後事を嘱す」
「〇四〇五(七日午前四時五分)絶筆。樋口大尉の最後従容として見事なり。我また彼と同じくせん」
「〇六〇〇、猶二人生存す、相約し行を共にす万歳」
死んだと思っていた樋口大尉は生きていたのである。
「回天」の搭乗員は海軍兵学校、機関学校出身、予備学生、予科練、一般兵科出身者などから集められた。
募集時期は十九年八月以降であり、公式記録が完全でなく正確な人員の把握は困難だが、あまり多くはなかったろう。「回天」の生産基数(終戦までの完成基数は四百二十基)から見ても千人前後と思われる。
八丈島回天隊長として終戦を迎えた小灘利春大尉は、
「十九年八月、潜水学校学生を命じられて、各艦隊から大竹(広島県)に集まっていた兵学校七十二期のうち七人が田辺弥八少佐にひそかに呼び出され、直ちに大浦崎を経て大津島に赴任した」
と回想している。先に紹介した第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐の回想よりも少し人員が多い。大津島基地開隊時の実情をより正確に把握するためにも、小灘大尉の記憶から陣容を見てみる。
「吉本健太郎、川久保輝夫、石川誠三、福島誠二、柿崎実、土井秀夫、それに私の七人と、特潜(甲標的)搭乗員であった久住宏と河合不死男、コレス(海軍各種学校同期生)の機関学校五十三期の村上克巳、福田斉、都所静世、豊住和寿、川崎順二がおり、この十四人が中堅搭乗員の形になった」
「回天」隊員は特潜搭乗員養成のP基地から転科したものが多かったが、その後、予備学生出身者、甲種予科練出身者が加わる。前述のように、十九年七月二十五日、黒木博司大尉、仁科関夫中尉によってテスト航走は成功したが、耐久性に問題があり、八月一日、海軍大臣は制式兵器として採用し「回天」と命名したものの、呉工廠で水漬けテストの最中であったから、一度に大量の人員は無意味であったろう。
小灘大尉は、大津島に赴任した時、
「まだ金物と呼ばれていて『回天』という名を知らなかった」
と言っている。殉職した黒木大尉の遺書(報告書)も「」と書き「回天」の名は使っていない。この辺りを見ると案外と地道に計画は進められ、華々しさはない。量産のきかない「回天」であるから、乗る艇がないという側面があった。
昭和十八年十月、十三期(後期)甲種飛行予科練習生として土浦海軍飛行隊に入隊した横田寛氏(東京都調布市)は、卒業間近の十九年八月、朝食後に突然スピーカーで、十三期生の総員集合を命じられ、そこで“新兵器搭乗員の志願”を聞かされている。横田氏は「回天」で三度戦場に出たが、事故や敵襲で潜水艦がやられ、三度とも生還したという強運の人である。
「敵撃滅の新兵器が考案され、試作も終えた。この兵器に乗りたい者は名前を書き二重丸をしろ。どちらでもいい者は丸、行きたくない者は紙を捨てろ」
と司令から言われた。二千人あまりの中から選ばれたのは百人であった。九十四パーセントが二重丸を書き、未提出は一パーセントであったという。
「回天」搭乗の講習員として大津島基地に十九年暮れに赴任した横田寛氏は、初めて回天を見て驚くが、指揮官の板倉光馬少佐が最初に、
「もし嫌だという者がおれば、今日にでも申し出ろ。もともと飛行機乗りとして訓練を積んできた貴様たちだ。希望通り航空隊に帰してやる。つまらない面子にこだわらず申し出ろ」
と言われたと書いている(『ああ回天特攻隊』光人社刊)。
板倉少佐は、「私がそんな気持ちで訓練したことは事実ですが、志願したとはいえ、死と直面することは難しいものです。中にはどうしても悟りが開けず、脱落した者もいたんです」
と多くは語らないが、このことと、志願の在り方は別であろう。
昭和十八年十二月十日、第四期兵科予備学生として大竹海兵団に入団した岡村清三氏(広島県安芸郡江田島町・立命館大学法学部出身)は基礎訓練後、横須賀の第二海兵団(武山海兵団)に移動、航海学校に入校後に、「回天」と「震洋」搭乗員の志願を求められた体験を持っている。
「横須賀の第二海兵団では学徒出身ばかり三千人ほど集めて専門教育をやります。六ヵ月後に航海、通信、電探――といった専門に分かれますが、私は同じ横須賀の航海学校に行かされました。三百五十人もいたでしょうか。
十九年の十月ごろだったと思いますが、講堂に全員が集められて、
『爆弾を抱いて体当たりする兵器ができた。搭乗員を募集している。志願者は“熱望する”“希望する”“希望しない”のいずれかを書いて、明朝六時までに分隊士のところまで持ってこい。体当たり兵器には限りがあり、全員が志願してもかなえられるものではない。よく一晩考えて返事をするように』
といった意味の訓示がありました。私は“熱望する”と書いたのですがはねられました。結局十人あまり(実際に志願した人の証言によれば八十人)が行ったと思います。家庭の事情など考えて選考したのでしょう。強制的な感じはなかったですね。あのころのことですから、みんな死ぬものと思っていましたし、体当たり兵器の搭乗員として行く同期の友に、『回天』だったら何、『震洋』だったら何と手紙に暗号を書いて知らせろ、と約束した記憶があります。と言ったかと言ったかは、はっきりしないんですが」
と回想している。
武山海兵団教官だった野地宗助中佐(後大佐)の『海軍兵科予備学生』によると、十九年二月三日学生受け入れ開始、三千三百五十五人が入団している。ジョンベラの水兵服を脱いで短剣をつった学生服に着替える。厳密に言えば命課布達式を行った二月八日が第四期の誕生日で、卒業は七月十四日。学生長は光基地(山口県)で「回天」の訓練中に殉職した和田稔中尉であった。
「回天」搭乗員として山口県の光基地で終戦を迎えた大石法夫氏(広島市南区向洋本町・京都大学法学部出身)は、先に紹介した岡村清三氏と同じく兵科予備学生第四期で、航海学校までの経歴は全く同じである。大石氏は希望が入れられて「回天」搭乗員になった。ただ志願した時の様子が少し違う。証言記録の生きている証拠である。四十三年前のことだが、やはり厳密に考証しておくのが本書の性格である以上、くどいようだがやむを得ない。
大石氏の記憶はこうだ。
「航海学校に入って二、三ヵ月たった(十九年九月か十月)ある日、全員講堂に集合を命じられました。人払いして厳粛な、重々しい空気の中でした。校長が――名前を思い出しませんが、大佐の方でした。次のような話をしたと記憶しています。
『自分も知らない水中特攻兵器ができた。半年間訓練したら一発必中で敵艦を撃沈できるものらしい。上層部がその搭乗員に、航海学校の学生も応募するよう求めてきた。軍機(軍の最高機密)であるから誰にも相談せず、午前中までに申し出よ』
私は応募しました。あの時代は軍隊に入った以上、生命のことなど考えなかったのです。むしろ自分がやらなければ、という若者としての自負のようなものがあったように思います。区隊長も、
『お前は適任だ。兄が二人もいるから』
と言っていました。私もそうだと思ったから志願したのです。除外された者もいました。区隊は五十人単位で、大尉の長がいました。区隊長の性格にもよりますが、
『おまえはやめとけ』
と言われた者もいました。もっとも、応募しなかったといって殴られたという話も戦後聞きましたが、それは志願しなかったからではなく、気合を入れるためのものだったでしょう。いずれにしても伝聞です。
航海学校の学生三百人のうち八十人が選ばれて(志願がかなって)行くことになりました。九州じゃないか、といった程度のことしかわからず、上京して宮城の前で礼拝して、汽車で行き着いたところが長崎県の大村湾ぞいの彼杵《そのぎ》でした。魚雷艇の訓練所で、艇がありました。『震洋』という水上特攻艇です。突入訓練をやりました。
十九年の暮れでした。中尉が二人来て私たち八十人の中から三十人を引き取って、光に連れていったのです。どうして私が三十人の中に入ったのか、そんなことはわかりません。上で勝手に決めたものです。特攻隊員に志願した以上、水中も水上もあったものじゃありませんからね。
光駅に下車すると、トラックが迎えに来ていて、
『荷物を乗せ』
です。小さな衣嚢をトラックに乗せると、
『四列縦隊、手腰ッ、駆け足』
光基地までの四キロを走らされました。
駆け足で光基地に着いてすぐ、三十人が一列横隊で行進をさせられました。一種軍装(冬の正装)のままです。水たまりがあってだれか一人それをよけたところ、いきなり殴られたのにはちょっとびっくりしました。ピーンと気合が入っているというか、殺伐とした、といっても決して陰惨ではなく、張りつめた戦場の感じですね。
『日本最後の切り札はこの兵器だ』
という使命感が基地内に漂っていたように思います。
『回天』を見たのも、もちろん初めてですが、この兵器は一度使用すると整備が大変で、十人余りの整備員が苦労して長時間整備しますが、ミスをしてうまく走らなかったため、責任者の兵曹長クラスが特務大尉に殴られているのを見ました。兵曹長自身が、
『こんなことは初めてだ』
と言っていました。それほど整備員も真剣でした。下手をすると訓練中に事故死します。私も二度か三度事故死を見ています。整備員でさえそうですから、搭乗員の訓練は厳しかったですね」
光基地の訓練開始は十九年十二月一日であるから最も熱の入っていた時期であろう。兵曹長といえば下士官兵の神様のような存在で、ふだんなら縦のものを横にすることもしなかった。従兵が全部してくれる身分である。その神様が殴られるというのは余程の緊張感の中でないとあり得ない。
すでにフィリピンでは神風特別攻撃隊(海軍)と八紘隊(陸軍)が連日のように航空機特攻として出撃しており、特攻が日本の今後の作戦の主流となった時期である。
「桜花」隊の母体となる神雷部隊七二一空が十月一日、茨城県の百里ケ原基地に開隊し、「桜花」は試作機からようやく実用機の訓練に入ろうとしていた。マクロ的に見てゆかないと、この時代の日本人の行動様式は理解できないかもしれない。
ところで、大石氏が光基地に赴任した時期、「回天」の保有数は、
「そんなにたくさんありませんでした。三十基あったかなかったかですね」
といった程度である。
「予科練出身者がどんどん入ってきて、光工廠の工員養成所の宿舎に入っていましたが、なかなか乗る機会がありません。私の経験ですと十六回搭乗して出撃資格をくれましたが、訓練は二十回を目標にしていました。搭乗員には不向きで外の配置に回された者もいました。なにしろ整備に時間がかかるので何度も乗れないのです。
私たちが行ったころは『回天』はまだ研究段階といってよく、伝統もありませんから、模索しながら共同研究をしている感じでした。毎夜のように研究会を開いて反省やら工夫をしていました」
しかし海軍の期待は大きく、「回天」の潜航訓練を追跡するため艇多数、魚雷艇一隻、高速内火艇二隻、零式水上偵察機四機が配置されていた。
「回天」の訓練は大石法夫氏の言うように、大変であった。甲飛出身の搭乗員、河崎春美氏が回想誌『回天』に書いている記述と、大石氏の記憶とで操作の実際を追ってみよう。
「回天」の操縦部は直径一メートルしかない円筒で、各種の操縦機器が付いているから非常に狭い。右足は電動縦舵器があるので曲げたまま、左足をやっと伸ばした格好で操縦しなければならなかった。
速度調節のための調圧ロッド(酸素の圧力を調整して速度の調節を行う)、深度調整のための調深ロッド、針路調節のための電動縦舵器に角度を与える斜針装置、補助的に針路を変えたり旋回半径を小さく、早く回頭させるための人力縦舵機、潜航・浮上・襲撃時の運動状況を良くするために、頭部を上下させる注水装置などがある。
発進の手順は、
1 電動縦舵機のスイッチを入れる。
2 起動弁全開――主空気(第二空気。酸素のこと)を燃焼室に導くパイプの元に起動弁があり、三十センチくらいのハンドルで、約九十度の角度で十六回、静かに力いっぱい、急激なショックを与えないように開く。
3 ベント弁全開。バランスをとるためツリムタンクの上にある。
4 金氏弁(キングストン氏ベン)閉鎖――ツリム作成の主要な弁で、深度と、ツリムを自由につくることができる。
5 縦舵機排気弁全開――1でスイッチを入れた電動縦舵機のジャイロの回転は電気で行われるが、縦舵を操作するのは操舵空気で、普通空気である。
6 操空塞気《そつき》弁全開――操舵用空気の弁を開く。
7 縦舵機発動弁全開――発動弁を開くことで、縦舵機に操舵空気が開通する。
8 安全弁閉鎖。
9 燃料中間弁全開。
10 潤滑油導水弁全開。
11 人力縦舵作動確認(クレーンで回天をつり上げ、面舵いっぱい、舵中央、取り舵いっぱい、舵中央と操作し、回天を左右、上下に振り縦舵、横舵の動きを外で見ている指揮官が確認する)。
その他いろいろと機器を操作確認する。特眼鏡(潜望鏡)の昇降、左右、倍率変更、分画目盛り、照準角目盛り、俯仰角装置確認を終えて、電動縦舵機固定装置解脱――いわゆる「ケッチ外します」となって始動準備が終わる。この間五分かかった。
以上でハッチを閉鎖、発動桿を倒せば発進する。
身体を左に百八十度ねじって、後ろ上方の発動桿を力いっぱい後方に倒す。
魚雷のエンジン始動は、高圧の第二空気(酸素)がエンジンに入る前に、まず空気圧だけで推進器が回る。八回ぐらい回ると点火装置の導火薬に火がつき、さらに五回転した後、第二次点火装置に火がつき、酸素と石油が混合されてエンジンが始動する。面倒な操作がエンジン始動前にあったのである。
ベニヤ板の特攻ボート
十九年九月十三日付で海軍省内に「海軍特攻部」が発足し、大森仙太郎中将が特攻部長に就任したことは既にふれた。部員は海軍省軍務局、兵備局、人事局、教育局の課長や局員九人と、潜水艦部、艦政本部、施設本部からの七人、計十六人であった。
「神雷部隊」(“人間爆弾”「桜花」隊)の編成は十月一日であることも前に述べたが、配備の一番早かった特攻隊であるにもかかわらず、航空特攻や「回天」の陰に隠れて、兵器「震洋」はあまり知られていない。
前述したように十九年二月には「回天」の試作命令が呉海軍工廠に出されており、サイパン奪回作戦をあきらめた六月二十五日の元帥会議の席上、実質的な特攻作戦は軍の方針となった。この直後に「震洋」隊はフィリピンに配備されている。大本営海軍部が「捷号作戦」(フィリピン、台湾、日本本土での決戦計画)に間に合うよう最初に「震洋」隊を配備したのは製造と操縦が簡単であり(普通のモーターボート)、要員の訓練も容易であったからだ。
「震洋」は各工廠や軍需工場で造られ、呉市広町の十一空廠でも造られた。
艦政本部で十九年四月に設計に着手し、五月二十七日には試運転している。材料はベニヤ板であった。動力は自動車のエンジンで、据え付けの時、決められた位置から足をずらすと船底が抜けた、という体験をした者は多い。陸軍も同様の特攻艇「連絡艇」を造っており、「○れ(まるれ)」と仮称していた。大本営陸海軍部は総称して「○八(まるはち)」と呼んだ(海軍の電探に同じ名がある)。
諸元は全長五メートル、重量一・三五トン、六十七馬力、一人乗りで時速二十三ノット(四十二・六キロ)、頭部の炸薬は三百キロ。「震洋」の頭部に炸薬を付ける作業は横須賀海軍工廠と佐世保海軍工廠で行われた。
後で改良型ができたが、軽量で波に弱いため沿岸防御用にしか使えず、威力は計算通りには発揮できなかった。
特攻作戦の成り立ちを考える上で「震洋」ほど象徴的なものはない。元来、海軍の首脳部は“必死”戦法には疑問を持っており、脱出装置を付けなければ許可しなかった、という伝説がある。
最初に神風特別攻撃隊を編成した大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官こそ特攻隊の創始者だということになっているが、資料と事実を丹念に積み重ねてゆくと、海軍全体の“意思であった”としか思えないところに行き着く。
「震洋」艇がよい例である。艦政本部が「震洋」艇の設計を始めてから試運転までの時間の短さも当然である。戦局は既に絶望的であり、日本近海で敵を迎え撃つ時がくることは当然上層部は予測していた。
軍令部第二部長の黒島亀人少将がしきりに特攻兵器の生産に力を入れたことは、彼の立場上からとはいえ、海軍全体がそれを支援していたからできたのである。
「震洋」はその最初である。
特攻部長となる前、十九年八月十五日、大森仙太郎中将は「回天」が呉市阿賀南大入沖で航走に成功し、海軍省が作製命令を出したのと時期を同じくして、
「もはやこの兵器(回天)を使用すべきや否やを断定する時機に達した」
と関係者を集めて発言している。既に「回天」をマーシャル方面に在泊している米艦隊の攻撃に使用する作戦を立て、「震洋」は大量生産に入っていた。
「桜花」の試作も進み「震洋」艇と合わせて搭乗員募集も同時進行していた。いかに隠そうとしても、特攻作戦の実施を前提としての諸施策がどんどん進められていたのである。
九月二十一日、軍令部総長及川古志郎、参謀総長梅津美治郎大将は、天皇に戦局説明(上奏)の後、「捷一号作戦(フィリピン決戦)」を目標に作戦準備を進めるよう連合艦隊司令長官豊田副武大将に「大海指(大本営海軍部指示)第四百六十二号」を発令している。
真珠湾攻撃の時も「大海指」が出されてから具体的に動いているが、このような指示は短時日に作成できるものではない。練りに練った後の作戦計画であるから、かなり前の準備である。その中で、
「○八(まるはち――陸海軍が共同して呼んだ『震洋』のこと)の大部は比島にこれを展開使用するを目途としてその準備を促進す」
と規定している。「震洋」は人が乗っていても「兵器」として扱われた。これは「回天」も同じである。つまり海軍部(軍令部)の編成規定によることなく、海軍省(大臣)が兵器として要求してきた部隊に供給するという形をとる。
たとえば「震洋」の展開(配置)について見ると、八月二十九日には第一「震洋」隊が父島方面特設根拠地隊(特根)に決まったのをはじめ、第二隊が十月五日に同じく父島方面特根に、第三、第四隊が母島警備隊に部署されている。十月二十五日の時点では二十三個隊の所属配置が決まっている。
フィリピンを防備する責任を持つ第三南遣艦隊に所属する隊は九月十日に編成された第六、七隊と、十月一日と五日に決まった第十三、十四、十五隊である。もっとも第六隊はボルネオに配備された。
フィリピンに敵が攻撃を仕掛けてくると、当然配備の変更を伴うが、一人の命が「兵器」であったことに変わりない。
フィリピンに配備された「震洋」隊は二十年二月十五日午後九時、コレヒドールから三十六隻(不正確)が出撃し、戦車揚陸艦を警戒していた支援艦三隻を撃沈した(モリソン戦史)。この攻撃に参加したのは、東京都に在住している乙飛十九期の辰巳保男氏の証言によれば、甲飛十三期、乙飛十九期を中心にした第十二震洋隊(松枝義久中尉)である。が米軍は艦の周囲に防材をつないで流し「震洋」の攻撃を封じた。リンガエン湾でも出撃したが正確な資料はない。
「震洋」艇の乗員訓練は、初めは横須賀の海軍水雷学校で行っていたが、東京湾は海上交通の関係でうまくゆかず、長崎県大村湾の川棚臨時魚雷艇訓練所の施設を拡大していった。期間は一ヵ月。先に紹介した予備学生出身の大石法夫氏もいったんここに配備され、その後山口県光基地の「回天」訓練基地に転属している。乗員は兵学校出身者、予備学生、一般兵科、甲・乙予科練出身者で、太平洋側の海岸線に分散配備されていた。
最初にして、恐らく最後となったフィリピン・コレヒドール島、リンガエン湾の敵に突進したのは、一般兵科出身の乗員である。
資料によると終戦時四千隻近くが伊豆諸島、小笠原諸島、三浦半島、四国、九州、奄美大島諸島、沖縄、宮古島、まだ占領中であった中国本土、海南島、台湾、香港などに配備されていた。
特攻隊が正式の部隊となり、連合艦隊司令長官から短刀をもらって特攻隊員となった若者たちである。
「震洋」隊員の戦死は陸戦に巻き込まれた者が多い。沖縄戦では特にそうであった。
「震洋」特攻隊員だった森正義氏(広島市中区舟入川口町)は十八年、大竹海兵団に入団した機関兵である。
初年兵教育を終え、戦艦「伊勢」に一年間乗艦、十九年八月「伊勢」の機関長に呼ばれて、魚雷艇の講習員として行く気があるかどうか希望を聞かれた。
「私は内燃機関をつついた職歴があったものですから、特に選ばれたのかもしれません。長男だったものですから機関長は心配していたようでしたが、行かせて下さい、と言ったのです。戦艦『伊勢』から水雷学校に転属を命じられたのは十九年八月十四日でした」
同艦から十人ぐらい希望者があり、水雷学校に入校を命じられたが、着いたところは九州の川棚臨時魚雷艇訓練所であった。八月十五日に到着したが既に「震洋」があった。森氏の履歴表を見ると、
「十九年八月から九月まで水雷学校所属の震洋講習員」
とある。
「魚雷艇講習員でしたが、訓練する魚雷艇がないのです。従って一ヵ月で訓練を終えましたが、一度も魚雷艇に乗っていません。自分が『震洋』に乗るとは知りませんでした」
森氏は必殺の魚雷をたたき込む魚雷艇の乗員になるはずであったかもしれない。
海軍は航空機エンジンを活用した魚雷艇を持っていたがガソリンの消費量が多い上に、艇の振動が激しくて無線電話が聞き取れず、双眼鏡も震えて視点が定まらないため使えなかった。ディーゼルエンジンに転換して量産することを検討していた時であった。
九月五日、横須賀の水雷学校に転属になった。が、ここでも配置がないので(配置区分がはっきりしないこと)待機していた。
横須賀に近い久里浜にあった文沢部隊に、水雷学校から配属されたのは、文沢部隊に欠員ができたからであった、という。
そこで初めて自分が「震洋」艇の乗員になったことを知った。
「当時のことでしたから、どこで死のうと文句はないと覚悟はしていました。あきらめがあったかもしれませんが、自分たちがやらねば、という気概があったことも事実でした」
文沢部隊は正式には、文沢義永大尉(海兵六十八期)が部隊長の第三「震洋」隊のことである。編成は十九年九月五日。
「震洋」特別攻撃隊は士官七、搭乗員五十のほか、特攻隊員を支える本部付き、整備員、基地隊員を加えて総計九十二人が一般的な編成であった。
部隊長の下に第一艇隊(部隊長が兼務)から第四艇隊まであり、「震洋」艇は五十五隻あった。五隻は予備である。一艇隊に十二、三人の搭乗員が所属していた。
終戦までに編成された部隊数は全部で七十隊である。部隊長は海兵六十八期から七十三期、兵科予備学生二期から四期出身者で、中、大尉であった。
艇長(少尉)はたまに海兵七十四期がいたが、予備学生か予備生徒(大学在学中に志願した者)出身者、一般兵科出身の兵曹長クラスが任命されていた。
部隊の配置場所によって部隊長も艇隊長も全部海兵出身者というのもある。
隊員は森氏のような一般兵科出身から、乙種飛行予科練習生(高等小学校から入る)十九期から二十期、特別乙種飛行予科練習生(十八年新設、資格は乙種と同じ)五期と六期、甲種飛行予科練習生十三、十四期であった。
飛行機乗りを志しながら、既に乗る飛行機もなく、訓練する期間もなくて、すぐに「震洋」特攻隊員に転科させられた若者たちである。飛行機に乗らない飛行下士官兵がたくさんいたのである。
森氏の話を聞こう。
「文沢部隊に配置されて母島基地に配置になり、九月二十三日出港したのですが、既に敵潜水艦がいて妨害していました。船の故障もあったりして引き返し、再出港して八丈島に寄ったりし、一ヵ月かかって十月二十三日母島基地に着きました。出撃する時、豊田副武連合艦隊司令長官から短刀をもらいました。特攻隊員にくれる刀です。
隊員は若く、二十歳ぐらいが中心でしたが、予科練出身者は、若かった私が見ても、まだ子供こどもしていました。十七、八歳ぐらいではなかったでしょうか。整備員だけは三十代、四十代の人がいましたが――」
もっとも第三「震洋」隊は母島基地に到着できただけでも幸運であった。途中で輸送船が撃沈されることが多かったのである。
第三「震洋」特攻隊員の森正義氏が配属された母島基地の現在の行政区は、東京都小笠原支庁小笠原村母島西浦である。
「『震洋』は防空壕に入れていました。夜間訓練が主体です。既に物資は不足していて燃料はアルコールで、潤滑油はヒマシ油でした。シュロ屋根の隊舎に分かれて住んでいました。敵が攻撃可能範囲内に来たら夜間に突っ込む作戦でした」
森氏は母島基地を訪ねている。そして感想を丹念に語ってくれる。
そこには堂々の大軍をもって敵を迎え撃つ海軍伝統的な作戦の面影はない。こそこそと、小人数の兵隊が隠れ住み、ゲリラ的に特攻作戦を加えるという、いじましい“帝国海軍”の姿しかない。
実はこの時期、押されていたとはいえ、敵のすきを見ては前進基地に――ボルネオのサンダカンとか、前述したようにフィリピン、厦門《アモイ》、香港、台湾などに進出していたのである。「震洋」隊の編成が早かったからできたのである。
フィリピン・コレヒドール島に進出していたのは第七から第十二「震洋」隊の六隊である。海兵出身者五人、予備学生出身者一人を部隊長とする特攻隊で、隊員は甲・乙飛出身者や一般兵科出身者であった。進出は十九年十月二十二日から十一月一日にかけてである。この中の三十六隻(公刊戦史)が二十年二月十五日に出撃して戦果をあげ、またリンガエンでも活躍している(これには、異説があるので、後で述べる)。ただし特攻隊としての扱い――全軍布告はされていない。
第十三、十四、十五「震洋」隊の三隊はフィリピン進出中に輸送船が敵潜水艦の魚雷で撃沈されている。
「震洋」隊の海没は意外に多く、例えば第三「震洋」隊より遅れて母島基地に進出しようとした第四「震洋」隊は十二月九日父島沖で海没している。記録文書をたどると海没は十隊を超える。
駆逐艦「神風」の艦長だった春日均少佐(海兵五十九期、後中佐、呉市焼山町)は数少ない生き残り駆逐艦長の一人であるが、二十年に入ると船団護衛の仕事が主で、門司から台湾まで輸送船団を護衛するのも大変であった、と回想している。
「讃岐丸が『震洋』と乗員を満載して台湾に輸送するのを護衛したことがあります。台湾には直接行けず、関門海峡―済州島と島伝いに行きます。朝鮮海峡を離れるとすぐ、黄海で潜水艦の魚雷にやられ讃岐丸は沈没しました。二十年一月二十八日のことです。讃岐丸は軍艦旗を掲げた特設輸送艦で船長は予備士官です。この時海防艦『久米』もやられ、乗員を収容して鎮海湾岸に上陸させた後、船団を追いましたが間に合いませんでした。
讃岐丸に乗っていた『震洋』隊の乗員のうち何人かが、毎年乗り組み関係者が集まる『神風会』に出席してくれますよ」
と語っている。が、讃岐丸で海没した「震洋」隊の詳細な記録はない。調査はまだまだ不十分なのである。
「震洋」隊に関しては関係者の戦後の調査があるが、川棚臨時魚雷艇訓練所教官(震洋)の後、天草突撃隊派遣隊長となった水谷秀澄少佐と川棚臨時魚雷艇訓練所教官福岡義雄少佐(ともに海兵六十二期)の詳しい研究が『海軍水雷史』(刊行会刊)に記述されている。
これによると、特攻出撃を行ったのはフィリピン・コレヒドール島の「震洋」隊で、前述のように海兵出身の士官と一般兵士や甲・乙予科練出身者である。
二十年二月二十日に出撃して四隊七百二十人が戦死している。
二月二十日の時点でフィリピン戦を見ると、山下奉文大将を旗頭とする第十四方面軍は山ごもりしており、陸海軍とも航空兵力は台湾に脱出し、ひとりコレヒドール島で、海軍を中心とした部隊が頑張っていたのである。
コレヒドール島は、太平洋戦争緒戦、マッカーサー将軍がここからオーストラリアに脱出した要塞で、攻略に半年もかかっている。マニラ湾に面したバターン半島にあり、このため第十四軍司令官本間雅晴中将は責任を取らされて予備役に編入された。敵も味方も、守れば強いところであったから、二十年二月の時点まで頑張れたのである。
前記両少佐の調査によれば、「震洋」で突入したのは六隊である。第七(山崎健太郎中尉)、第八(石井澄男少尉)、第十(石川誠三大尉)、第十一(中島良次郎中尉)、第十二(松枝良久中尉)、第十三(安藤未喜中尉)「震洋」隊である。各隊ともそれぞれ百八十人が戦死しているのは、陸戦に巻き込まれて玉砕したことを意味する。本部付きも整備員も全員が死んだということで、「震洋」七百隻にみんなが乗って突っ込んだわけではない。
さらに両少佐によると、二十年一月九日、リンガエン湾に米軍が上陸した時、突っ込んだのは陸軍の「○れ(まるれ)」艇百隻で、マニラ湾(百隻)、ラモン湾(三百隻)、バタンガス湾(三百隻)も全部陸軍である。
ところで、本土決戦を控えて、日本近海で待機していた「震洋」隊は一型(一人乗り)が五十四隊、二十年に登場した五型(二人乗り)の「震洋」隊が四十六隊である。
五型は全長六・五メートル、重量二・四トン、時速三十二ノット(六十キロ)で、六気筒の自動車エンジンを使っていたが、一型より倍の百三十四馬力もあった。
二十年四月になって、この五型を製造していたのは横浜ヨット、呉工廠、長崎三菱、豊田刈谷の四工場だが、五型だけで月産六百隻で、川棚臨時魚雷艇訓練所には一万人を超える講習生がおり、訓練を終えてはつぎつぎと各基地に巣立っていったという。陸軍も「○れ」艇を二十年九月までに四千隻を用意し、十月に予想されていた米軍の本土上陸に備えていたというから、まさに一億総特攻の姿そのものである。
帰還隊員たちの苦悩
本書に使用している資料、データについては、中国新聞に連載中、読者から多くの意見が寄せられた。無視できない意見に対する回答を兼ねて資料紹介をする。
例えば「回天」の製造基数である。防衛庁に残っている資料(線表)によって、
「終戦までに製造した『回天』の基数は四百二十」
と書いたところ、尾道市に住んでいる秋山洋氏から、
「二百基以下と思う」
という意見が寄せられた。秋山氏は当時呉海軍工廠第二機械工場(気室工場)主任であり、いい加減な証言ではない。気室は九三式魚雷や「回天」に必要な圧搾空気を入れる重要な部品で、秋山氏の所属する第二機械工場で造っていた。
「工場には製品を造るとき伝票が回ってきます。『回天』用の気室は二百個でした。『回天』の気室は九三式魚雷より二十センチ短いのです。特殊な機械で中から削り、前後をしぼる技術が難しく、一日に三個ぐらいしかできませんでした。
百八十ばかり造ったところで『もうよい』との指示があり中止しました。従って『回天』が四百二十基完成していたとは考え難い」
という納得性のある意見である。
が、先に紹介した呉工廠水雷部の縦舵機担当工場主任の大住教次氏の証言は、
「正確な記憶ではないが、ひと月三十個程度は供給していたと思う」
と言う。縦舵機も「回天」になくてはならない部品である。
「回天」の製造命令が呉工廠に来たのは十九年八月である。それ以前の十九年三月から「回天」の試作をしているから、縦舵機の製造はかなり早くから行われていたはずである。仮に正式生産命令の出た八月から翌二十年八月十五日の終戦まで月産三十個として計算すると、三百六十個になる。月産三十五個平均とするとジャイロ(縦舵機)は六十個増え、四百二十個になる。呉海軍工廠の資料を見ても「回天」の月産能力は五、六十基となっている。
それはさておき、使用した「回天」の数と終戦時に各基地に残っていた「回天」の数を合計すれば大体正確な生産基数がわかる。
「回天」が出撃、または乗っていた潜水艦とともに沈没した数は百二十六基。別に訓練中の事故が十四基ある。うち三基は、米軍が瀬戸内海に投下した機雷に触れてのものであるから再使用できない。残り十一基を再整備して使用したとして、百三十七基。再整備できなかったとしたら百二十六基である。
多くの証言からすれば、衝突事故を起こしたような「回天」は再整備しなかったと考えてよいようである。
さらに作戦中、潜水艦と敵との戦闘の事情で、海中に放棄したのが、筆者の調査では二基から十基ある。合計百四十から百五十基である。長い間の潜水作戦中に使えなくなったものも多い。これらはどうなったか不明である。
だが未使用の「回天」の基数はわかっている。
沖縄戦に敗れ、本土決戦用として二十年七月末までに展開された「回天」基地に、残されていた基数は次の通りである(第二復員局作成「本土上陸に対する反撃作戦準備特攻関係綴」・海軍省「本土邀撃特攻関係綴」)。
(1)横須賀鎮守府管内(三十六基)
第七特攻戦隊第十七突撃隊(千葉県小浜)第十二回天隊―六基。
第一特攻戦隊第十一突撃隊(神奈川県油壷)第十四回天隊―八基。
同第十六突撃隊(静岡県下田)第十三回天隊―十基。
第四特攻戦隊第十三突撃隊(三重県鳥羽)第十五回天隊―四基。
同八丈島突撃隊第二回天隊―八基。
(2)大阪警備府管内(四基)
第六特攻戦隊第二十三突撃隊(徳島県小松島)第十六回天隊―四基。
(3)呉鎮守府管内(三十二基)
第八特攻戦隊第二十三突撃隊(高知県須崎)第四、第六、第七回天隊―二十四基。
同第二十一突撃隊(高知県宿毛)第十一回天隊―八基。
(4)佐世保鎮守府管内(四十六基)
第五特攻戦隊第三十五突撃隊(宮崎県細島)第八回天隊―十二基。
同第三十三突撃隊(宮崎県油津)第三、第五、第九、第十回天隊―三十四基。
以上総合計 百十八基。
「回天」の陸上基地を作ったのは、潜水艦からの発射が潜水艦の全滅的壊滅で不可能になったための窮余の策で、陸上からレールで「回天」を海に導き発射する。
出撃したり、潜水艦と共に沈没したり、事故を引き起こした、つまり実際に消耗した「回天」約百五十基(最も内輪に見て)とを合わせると二百六十八基はあったことになる。
その他訓練用のもの、実験用のもの、欠陥製品などもあったから公刊戦史のいう、
「回天の総生産数は四百二十基」
というのは妥当なところであろう。
この種の企画で一番困るのは、正直に見て客観的な資料の欠如である。
例えば「回天」隊の隊員は「千人余」と「約二千人」というのがある。第六艦隊水雷参謀の鳥巣建之助中佐は前者であり、公刊戦史は後者の説をとっている。
多くの体験者の証言を総合すると、確かに「回天」に搭乗する訓練は連日のようにやっていない。
たとえば航空兵だと搭乗時間がメドになるが、「回天」の場合は乗った回数の問題ではなかったことは確かなようである。
後でふれるが、敵の泊地攻撃でなく、洋上に出て走っている艦船の攻撃に「回天」を使用するようになるが、それでさえ潜水艦から発射(飛び出す)する訓練を、多い人で数回やった程度である。技術の訓練だけではなく、精神面の訓練にも力を入れた。
テニアン島まで、広島、長崎に投下した原爆の部品を運んだ米重巡「インディアナポリス」をハワイに帰港する途中で捕らえ、魚雷で撃沈したイ五八潜の艦長橋本以行中佐は「回天」を四度も積んで出撃した人であるが、「回天」搭乗員の技術そのものよりも、
「『回天』隊の指揮官板倉光馬中佐は、海兵同期、同じ潜水艦乗りとして過ごしてきました。が、彼が『回天』隊の指揮官として、搭乗員を精神的にここまで鍛え上げたことに敬意を抱いています。敵の駆逐艦を追い回し、ついに捕らえて体当たりした『回天』搭乗員も見ていますが、敵を求めての長い潜水艦内の生活の中での隊員たちの態度はすがすがしいものでした。心中何を考えているのか推測の余地はありませんが、潜水艦内に積んでいる魚雷で間に合えば『回天』は使用しないに越したことはないのに、催促するんですよ。
『艦長、早く出してください』
とね。なまはんかな覚悟ではできることではありませんよ。この気持ちは死んでいった若者を見た者でないとわからんでしょうね」
と精神教育との関係に重点を置いて語る。
後で詳述するが、大津島基地から二度目の出撃になる「回天金剛隊」の一艦として橋本中佐はイ五八潜を駆って十九年十二月三十日出港した。
同艦の攻撃目的地はグアムであった。
「士官は士官室で艦長の私も交えて食事しますが、予科練出身の下士官は遠慮して士官室に来ません。しかし下士官は下士官なりに丁重に扱っていました。わかりやすく言えば神様扱いです。それはまあいいんですが、そのころはまだ全部の『回天』に潜水艦の中から乗り込む交通筒の設備がなく、二、三号艇に乗り込む森稔、三枝直の二飛曹は浮上して甲板から『回天』に乗り込みます。
森、三枝両君とも大正十五年生まれでしたから十八歳です。防暑服に白鉢巻きのりりしい姿で甲板に上がってきたのが、二十年の一月十一日午後九時四十五分でした。しばらく無言で甲板の上に立っていましたが、三枝二飛曹が、
『艦長、南十字星はどれですか』
と尋ねるんです。突然でしたので空を見上げましたが見当たりません。航海長はまだ出ていないという。
『もう少ししたら南東の空に美しく出てくるよ』
と言った時、
『乗艇します』
ときれいな挙手の敬礼をしましたよ。私は思わず二人の手を握って、
『成功を祈ります』
と暗やみの後甲板に向かって歩み去る両君を見送りました」
十八歳の少年が、艦長に敬語を使わせたのである。ここには虚飾のかけらもない。人間としての尊厳があっただけだったろう。
「この時の光景がいまだに忘れられませんでね」
橋本氏の声はかすむ。
「回天」隊員の教育は前に紹介した、第四期兵科予備学生出身の大石法夫氏が指摘していたように、伝統のない兵器の悲しさ、最初(最後までと言った方がよいであろう)は「共同研究」の色彩が強かったのは事実である。
黒木博司大尉と仁科関夫中尉しか実際の操縦体験者はおらず、しかも黒木大尉は大津島基地開隊の翌日(十九年九月六日)、樋口孝大尉と共に殉職していたから、ひとり仁科中尉がまず同僚士官に操縦を教え、教わった士官が予備学生、予科練出身者を教育するという過程をたどった。「回天」隊の指揮官板倉光馬少佐でさえ、かつて乗ったことのない兵器なのである。
開隊当時の訓練表が残っている。
士官には「回天隊の教育方針」という、いまでいうカリキュラムがあった。予備学生出身者が操縦技術を身につけると彼らが教官となって予科練出身者を教育してゆく。
しかもそのサイクルは短かったから、そして「回天」の基数が少なかったから、若者が手探りで“死への驀進”をやるしかなかったのである。
あの戦争の痛ましさは、そこまでして戦争を続けようとした政府の無能さにある。
とまれ、訓練が精神的なものに行き着くのは当然で、脱落者が出たとしてもそれが人間的なところであり、今にして思えば、ほっとする側面がないでもない。
「機械、構造、整備、艇による航走慣熟訓練」の基礎訓練を経て、初めて訓練用の「回天」に乗る。中にはいきなり単独で「回天」を操縦した者もいたようであるが、指導教官が同乗するのが普通であった。
「黎明訓練」は日の出一時間前、「昼間訓練」は午前八時から午後四時まで。「薄暮訓練」は日没後である。
「艇による訓練」は操縦席に暗箱を固定し、これに「回天」と同じ特眼鏡(潜望鏡)をつけ、操縦員はこれを見ながら「」を操縦する。
これは板倉少佐の発案である。
「シーマン・シップに欠けている若者にいきなり『回天』の操縦をやらせるわけにはゆきません。肌で体得した勘が必要だからです。といって乗せなければ隊員の不満が爆発する。そこで艇の活用を思いついたのです」
いかにも海の男として過ごした人の言葉らしい。
もっとも促成栽培はしないというのが板倉少佐の本音であったようだ。
「第一、『回天』を乗せて戦場まで連れてゆく潜水艦が圧倒的に少なかったし、『回天』を使用する時は“一億玉砕”の本土決戦だと考えていましたから、予科練出身者は時間をかけて十分に訓練をやるつもりでした」
という観念があったのである。
こうして次第に高度な技術を習得するが、「回天」を比較的自由に扱えるようになると、艦底通過訓練になる。
艦底通過訓練はダミー(目標船)を走らせ、その底を通過するかどうかの訓練である。深度が調節してあり、激突しないようにはしてあるが、機器の不備と促成教育のため事故が多かった。この場合事故は死と直結した。
ダミーに激突したり、岩礁や民間の航行船にぶつかって殉職したのは、光、平生、大津島基地で六人いる。殉職者は窒息(ガスもれ)、行方不明、機雷と接触など十五人(十四基)であるから、艦底通過訓練時の事故死が約半数ということになる。
第四期兵科予備学生のトップ和田稔少尉(東大卒)は二十年七月二十五日、光基地沖で潜水艦からの発進訓練中に行方不明になった。終戦二十日前である。
和田少尉はすでに五月二十八日「轟隊」の一員としてイ三六三潜で出撃したが発進のチャンスがなく帰投。再度の出撃のための訓練であった。「回天」ほど殉職者を多く出した兵器はない。
“人間爆弾”「桜花」でさえ訓練中の殉職者は二人である。「回天」の操作が難しいこともあったが、艦艇の操縦には長い経験を必要とするという海軍の伝統を無視した結果である。
「桜花」搭乗員を、零戦を操縦させれば相当の腕前の者から選んだのと大きく異なる。そうした意味では「回天」と「桜花」の間には兵器としても本質的な差がある。
和田少尉が航海学校在学中の十九年七月二十二日の日記に「人間魚雷の考え方」という一章がある。
「現在ではこのような兵器によるよりほかに、打開の道はないであろう。――もし人間魚雷というものが日本において現れ、また現に採用されつつあるとすれば、それに搭乗するのはわたしたちをおいてほかにないであろうということを、不思議にテキパキと、そして落ち着き払って考えてみるのである」
当時の若者の、国家と戦争と個人についての考え方がよくわかる。もっとも和田少尉がこの日記を書いた時点では、具体的な“人間魚雷”の存在を知ってはおらず、“運命の先取りであった”というのは実妹の西原若菜さん(千葉市花園町)である。兄の死後ずっと兄の心境と「回天」を自分なりに追ってきた人の証言である。西原さんによると和田少尉の日記は弁当箱の中に隠したり、チョッキに縫いこんだりして日々の心境を綴り、戦後家族の手に渡ったという(角川文庫『わだつみのこえ消えることなく』に完全収録されている)。
とまれ板倉少佐は、
「学徒出身の士官が全員このように透徹した心境にあったとは思いません。正直言って呉鎮守府に転出させたり、本人の希望で基地の要員に配置替えした者もいたのです」
と言っている。たしかに出撃した隊員の行動は潜水艦の乗員サイドから見ても、一種独特の解脱ぶりを自然に漂わせていたようである。
大石法夫氏の光基地時代の教官は哲学者の上山春平氏(当時、中尉。京大卒・三期兵科予備学生)であったが、訓練中数珠を手に巻いていたという。上山氏は二十年八月「多聞隊」員としてイ三六三潜で出撃、空襲を受けて艦が損傷し、終戦三日後に帰投している。
十九年九月七日、大津島基地開隊の翌日、「回天」の創始者ともいうべき黒木博司大尉は樋口孝大尉と殉職し、長文の事故報告書を残したことは前にふれた。
この事故死によって最大のショックを受けたのは、黒木大尉とともに「回天」を推進してきた仁科関夫中尉であったろう。
海軍軍令部の意向はどうであれ、海兵七十一期、二十一歳の若者らしい責任感を一身に背負ったはずである。
「回天は役に立たず」
との判定を上層部から下されはしないか、という不安である。その心配は絶対になかったとはいえ、軍令部の真の意思を知らない仁科中尉は自分の責任として受け取ったはずである。
海軍機関学校出身である黒木大尉は、その報告書の中で、
「ただ長官、総長、二部長、島田少佐等に意見書これ有り、いささか微衷お取り扱いくだされたく候」
「仁科中尉に、万事小生の後事に関し武人として恥じ無きよう頼み候」
と名指しで頼んでいる。長官とは豊田副武連合艦隊司令長官、総長とは及川古志郎軍令部総長、二部長は黒島亀人少将のことである。「回天」の開発が海軍最上層部と深くコミットしていたことを物語るもので、それは「桜花」の開発、部隊の編成についても言える問題である。
上層部は打つ手を失い、若者のひたむきな心情にすがってのみ、戦争を継続し得たという、組織としては最低の様相を呈していたと言える。
目撃者によると、仁科中尉は黒木大尉の事故報告書を、食い入るような目で長いこと読んでいたという。
とかく後世の人物論は正鵠を欠く。筆者も人物を論じる自信はない。
ただ本人から感じ取ったという個人の感覚はそれなりに真実である。海兵で仁科生徒が一号(最上級生)の時、二号生として接した樋口輝喜氏(広島市東区牛田東一丁目)の仁科観には興味がわく。
「剣道をよくやっていましたが、学生時代でも相手を威圧する、というか一種異様な迫力のある人でした。向かい合っただけで人間的に圧倒されるような人間にそうそう出会えるものではないでしょう。仁科生徒には少年時代からそれがありました。一種のカリスマ性でしょうか」
なるほど、と思う。それなればこそ「回天」隊をまとめ得、そして自ら「回天」隊の第一陣「菊水隊」の一員としてイ四七潜に乗ってウルシーに突っ込んだのだ。十九年十一月八日大津島を出港し、十一月二十日突入している。
「あの人たちは不思議な人たちでした。私はイ三六潜の聴音長として、『回天』を乗せて五回出撃していますが、私たちには考えられないような度胸を持っています。
『回天』の発進音を聴音機で聞くと、シューンと、澄んだ、きれいな音がします」
杉本彰氏(広島市安芸区矢野東三丁目)は言う。
杉本彰氏は潜水学校を出ないで潜水艦乗りとなった聴音の専門家で、昭和十五年一月呉海兵団に入団した現役兵である。
横須賀水雷学校で聴音を学んだ第一期水中測的練習生で、当時としては新式の高周波式聴音機で敵艦の位置、速度などを測定する任務である。敵のレーダーに対抗する唯一の手段であった。
十六年五月、イ六八潜乗り組みを命じられ、ハワイの真珠湾攻撃に参加して以来、「回天」作戦までの間ずっと潜水艦で過ごしてきた。
「回天」隊が登場した時はイ三六潜乗り組みで、五回も作戦に参加している。最も忘れられないのは、二十年六月四日、光基地を出撃した「轟隊」の時の出来事である。
イ三六潜の艦長は菅昌徹昭少佐。「回天」搭乗員は池淵信男中尉、園田一郎、久家稔少尉(以上兵科予備学生)、柳谷秀正、野村栄造、横田寛一飛曹(以上甲種予科練)の六人で、野村一飛曹が二回目、他の五人は全部三回目の出撃であった。
池淵中尉と久家少尉は囲碁が好きで、よく打っていたそうで、艦内の士官も挑戦するがかなわなかったという。集中力を要求される囲碁が、絶対死の道中に打てるということは筆者には言葉として抵抗があるが“生死を超越”していたとしか表現のしようがない。
隊長の池淵中尉が出撃したのが六月二十八日である。
「出撃して二十日たった時、夜間に浮上して『回天』を調べてみたら、潮漬けが長かったものですから故障していたようです。修理して一、二、五号艇が使用可能になったと聞きました。グリスを塗っているんですが溶けてしまうんです。
池淵中尉は秒時計(ストップ・ウオッチ)を首につって、軍医長なんかと悠然と出撃のあいさつをしていました。
『回天』を出撃させる時は艦内からバンドを外すようになっています。出撃したのは午前十一時です。
私は聴音機のレシーバーを耳に当てて『回天』のシャーンというきれいな音を聞きながら、水雷学校で教わった通り、アナウンサーが野球の実況放送をやるように逐一耳に聞こえたことを伝声管で伝えます。
『敵輸送船音源、右二十五度、感三(感度三)強、 やや艦首方向に移動します。『回天』推進機音右十度、だんだん遠ざかります、感三』
艦長は『回天』を発進させた後潜望鏡を上げっぱなしで見ていました。乗員は全部『回天』発進を知っていますから、かたずを飲んで爆発音を待っています。
十分もたったころだと記憶していますが、右艦尾百六十度方向に別の音源が聞こえました。艦尾方向には自艦の音源が常に聞こえますが、私が聞いたのは別の音です。万が一にも間違えることはありません。
『右百六十度方向に音源らしきもの聞こえます。感一。音源種別不明』
伝声管で司令塔にその旨を伝えました。が、司令塔からは、
『何も見えない』
と言ってきました。
右舷側は十度付近から百二十度付近まで敵輸送船の音源や『回天』の推進機の音が感二、三近くで聞こえてきますので、その反射音かとも考えていました。潜望鏡で見えないというのですから、仕方ありません。
『回天』の方向に聴音機を向けると、小爆発音とも思える、ばあーん、どどど、といったような音が入ってきました。敵は『回天』を見つけたらしくて、機関銃か何かで『回天』を撃ちながら逃げている様子がよくわかります。必死必中の『回天』を敵が最も恐れていたことは事実で、見れば逃げ回ります。
『敵輸送船の音源は感二から感三へと急に感度上昇。『回天』の音源はほとんどつかめません。砲撃音は依然続いています』
と、実況報告します。そして再び右百六十度付近の音源を探ると、百五十五度くらいのところに移動し、しかもはっきりしてきました。
『司令塔――先程の右百六十度付近の音源は、艦首方向にやや移動。ただ今右百五十五度。感二。音源種別はディーゼル音に近い』
と伝声管で報告しました。
しかし、ややあって、
『右百五十五度付近には何も見えない』
と同じ返事が帰ってきました。不思議に思っていると聴音室のドアをノックする音が聞こえました。急いでドアを開けると水測長兼砲術長が立っています。
『聴音室は何をやっているのか。右艦尾方向には何も見えないと艦長が言っておられる。うろたえずにしっかりやれよ』
と言って去りました。口調は穏やかですが、聴音担当者にとっては一番こたえる言葉です。
小一時間たつが、まだ『回天』の爆発音はしません。兵員室や発射管室の下士官が顔を出して、
『回天の爆発音はまだか』
と言って来ます。みんな心配しているんです。
艦長も必死になって敵の輸送船を潜望鏡で追っているわけです。一時間も敵の制海権内の海面に潜望鏡を出しっぱなしにしているのも、艦長が心配している証拠です。
そのうち右百五十度付近のディーゼル音がより高くなってきました。敵駆逐艦の音源に間違いありません。
『右百五十度の音源はただ今百四十五度。わずかずつ艦首へ移動しながら近づきます。感四。音源近い』
と大声で伝声管だけでなく、拡声器を使って叫びました。全艦内に伝わったのです。艦長は急速潜航を命じましたが手遅れでした。
敵駆逐艦の爆雷攻撃で艦内至る所で故障が発生しました。前部発射管室は中段発射管の後ろ扉が爆圧でリベット(鋲)がゆるみ、海水が艦内に入ってきました。敵の駆逐艦は十二、三分おきに真上を通って、その度に爆雷を落とします。艦は揺れるし、ツリム(前後傾斜)がかかって沈没寸前です。そうなると気温が上がり、空気は濁ってきます。敵の爆雷攻撃は七回も続きました」
記録によると、この時イ三六潜は七十メートルも沈下している。艦のツリムを調整するにはタンクの海水をブロー(圧搾空気で海水を押し出す)するしかないが、その時空気が海上に出るから、艦の位置を敵に知らせる結果となる。
「『回天』搭乗員の久家稔少尉が、
『ようし、おれがしとめてやる』
と発令所に走って行ったのを見たのはこの時です」
ここから先は、艦長菅昌徹昭少佐の報告にある。
久家少尉の直談判に、決心し兼ねたが、敵駆逐艦にイ三六潜の位置を知られた以上、水中速力の遅い艦は敵にやられる公算が大きい。この際、久家少尉の念願通りにしてやるのがいいかもしれないと思った。
「やれるのか」
念を押すと久家少尉は、
「できます。ぜひお願いします」
と言い切った。
菅昌艦長は二号艇と五号艇の発進用意を命じた。久家少尉と同行したのは、柳谷秀正一飛曹である。この時の深度は六、七十メートルであった。既に「回天」の電動縦舵機(ジャイロ)が故障していたことはわかっていたから、人力による操縦で敵艦にぶつかろうというわけである。
「回天」をくくり付けていたバンドが外され、交通筒の下からハンマーをたたいて出発の合図をした。電話も通じなくなっていたのである。
「回天」のエンジンがかかり、後甲板の柳谷艇が大仰角で発進し、前甲板の久家艇も数分後に発進した。
杉本聴音長は、
「発進して七、八分後にドカンという大きな音がして、聴音機では耳が痛いほどでした。完全に『回天』の命中音です。この音から敵駆逐艦の攻撃がピタリと止まりました。二人のお陰でイ三六潜は救われたのです」
と回想している。
イ三六潜は十七時間ぶりに浮上し、内地に帰り着いたが、この時、久家少尉が書いた遺書に気になることがある。「回天」隊指揮官板倉光馬少佐は、
「終戦前に見ました。内容は、
『みなさん、お願いします。園田(一郎少尉)、横田(寛一飛曹)、野村(栄三)、みな初めてではないのです。二度目、三度目の帰還です。――どうか暖かく迎えて下さい。お願いします』
といったものでした――」
特攻隊員が一度出撃して、生還する時の気持ちは、いいものではなかったらしい。特に「回天」隊のように、五人、六人が一緒に同じ潜水艦で盛大な見送りを受けて基地を出撃し、艇の故障で出撃不能となった場合、基地に帰るのはいかにも卑怯で、逃げ帰ったような気持ちになる、という告白は多い。
三度出撃して、三度とも艇の故障で帰ってきた横田寛氏は、著書『ああ回天特攻隊』(光人社刊)の中で、
「いったいどのツラさげて、送ってくれた人の前に立てるんだ」
「多くの搭乗員の中から選ばれて出撃したんだ。――その期待を裏切った」
などの感情を率直に書いている。
「回天」隊員の場合、他の特攻兵器と違って数も少なく、従って隊員も厳選されていたことの影響があるかもしれない。
生還した隊員に対して、冗談とか、軽い気持ちで言ったことが、生還者に負い目を与えるという心理状態は、厳密に分析する必要はあろう。しかし、ここでそれをやるだけの自信は筆者にはない。
が、「轟隊」で出撃した久家稔少尉が、艇の故障で出撃できなかった同僚の帰還を案じて書いた手紙(遺書)を見る時、「回天」隊員の別の苦悩をかいま見る感に打たれるのは、ひとり筆者だけではないであろう。
「回天」隊指揮官板倉光馬少佐は、
「帰還した者を白眼視する者はいなかったと思いますが、ちょっとした冗談でも、帰還した者にとっては突きささるような精神状態になっていたのです。もとはといえば帰還した搭乗員を再出撃させたことに端を発した、私の不明、不徳でした」
と言っている。が、その真剣さを疑う証拠は少ない。特攻隊員に心理的な乱れのようなものが見られるのは、終戦間際の一時期である。が、それには理由がある。
イ四七潜艦長折田善次少佐は、横須賀市馬堀海岸に在住だが、
「初めて出撃した菊水隊(十九年十一月八日大津島基地発。ウルシー攻撃)の時、私が連れていった佐藤章少尉は九大から予備学生を志願した人ですが、既に結婚していたんです(二十六歳であった)。本人が一言もしゃべらなかったから、このことは誰も知らなかったんです。『回天』隊員で結婚していたのは彼一人ですが、遺書にも奥さんのことは書いていません。戦争が終わって私は彼の奥さんに会いました。いえ奥さんには遺書を直接書き送ってはいます。黙って死んでいった心境を現代の人に理解してもらえるでしょうか。潜水艦内での隊員には後光がさしていましたよ。心の奥底まではわかりませんが、彼らが信じて死んでいったことは真実と思う以外にありません」
と証言している。実は結婚していた隊員はもう一人いる。二十年六月二十八日、イ三六潜で突っ込んだ轟隊の池淵信男中尉である。兵庫県に住んでいる、ゆきこ夫人によると、出撃前の帰省が許された十九年十一月二十二日、親戚の手で挙式がお膳立てされていて、結婚に否やも応もなかった。最後の親孝行だね、と中尉は言ったそうだ。ゆきこ夫人も、みんな死ぬ時代だから、と抵抗はなかったという。
「回天」隊は優れた指揮官と隊員が、それぞれはっきりした目的意識を持っていたようである。少なくとも資料はそう語っている。
山口県平生に「回天」基地を開隊したのは二十年三月で、平生突撃隊特攻隊長兼教官(副長兼任)に任命された橋口百治少佐(海兵六十二期、神奈川県中郡二宮町に在住)はその体験を、
「私の隊に関するかぎり脱落者はいなかったですね。終戦の日まで懸命でした。訓練にはあらゆる意味で時間がかかります。従って『回天』の生産が間に合わなかったとは思っていません。
『艇に乗せて訓練させてください』
と言う者ばかりでしたから人選も大変でした。私も指揮官として乗ってみなければすまないと思い二度乗艇訓練をやりました。
平生からは、二十年七月十八日に出撃した『多聞隊』の六人だけで、五人が突っ込んでいます。
小学生が遠足に行くように、ニコニコしながら、
『あと願います』
です。この隊員の心境はわかってもらえないだろうとは思うんですが、みんな勝たねばならないと必死だったんです。私自身が狂っていたと言ってもらってもいいんですよ。
でもね、出撃の時の隊員の笑顔が今でもまぶたに焼き付いて――」
と語っている。
二十年三月一日、特別基地隊が第二特攻戦隊と改められ、司令部は山口県の光基地に移った。本土決戦用に組織を改めたもので、この時の陣容は以下の通りである。
司令官 長井満少将。
先任参謀 有近六次大佐。
整備参謀 森迫勝美中佐。
水雷参謀 板倉光馬少佐。
光突撃隊司令 中村二郎大佐。
光突撃隊大津島分遣隊司令 板倉光馬少佐(兼任)。
平生突撃隊司令 沢村成二大佐。
大神突撃隊(四月十五日開隊)司令 山田盛重大佐。
板倉少佐についてはエピソードがある。
昭和十年、少尉任官後の配置が巡洋艦「最上」の航海士。艦長は鮫島具重大佐(後中将)であった。海軍は艦長が上陸したら時間などあってないような側面があった。酒好きで、正義感の強い板倉少尉はかねてからこれが不満であった。
秋の演習が終わって艦隊が東京湾の芝浦に入港した時、都民の大歓迎もあり、財布の底をはたいた。それでも海軍魂である「人は艇を待つ、艇は人を待たず」の教訓を守り、夕刻五時発の定期便に間に合うよう桟橋に急いだ。
が、「最上」からの迎えのランチ(小型艇)が来ない。艦長が客を招待していたので遅れたのである。海軍が民主的と当時から言われていたのは民間人を拒否しなかったからである。
板倉少尉がいらいらしていたところへ、やっと「最上」のランチが着いた。
その瞬間、泥酔していた板倉光馬少尉は、
「わっー」
何か叫びながら中に飛び込んでいた。ここまでは記憶にある。
気がついてみると二、三の士官に両腕を取られてランチにほうりこまれていた。
こともあろうに、客を送って桟橋までランチで来た鮫島具重大佐を殴っていたのだった。
こうなれば、ことのいかんを問わず重大問題である。上司から、
「海軍始まって以来の不祥事だ。荷物をまとめて謹慎しておれ」
と言われ、軍法会議を覚悟し、あこがれの海軍を辞めざるを得ないことを悔やんだ。
翌朝、艦長室に呼ばれた。重々しい声に迎えられ、一礼して艦長を見ると、左のほおが赤くはれている。用意したわび状を差し出すと、黙って読み終わり、板倉少尉の顔を凝視して、
「酒をやめることはできないかね」
と言っただけであった。もちろん艦長と少尉では貫禄が違う。が、艦長は許しても“海軍”が許さないであろうことは常識だ。
しかし、板倉少尉は巡洋艦「青葉」乗り組みの転勤辞令ですんだ。別れのあいさつに対して、
「平岡艦長によく指導してもらい給え」
静かに艦長はさとした。
八年後――十八年一月末。
艦長は中将になり、第八艦隊司令長官としてブーゲンビル島ブインにいた。既に敵に囲まれて動きも取れず、援軍もなかった。
少尉は少佐になりイ四一潜の艦長になっていた。
日本の敗勢ははっきりし、レーダーの差から潜水艦は敵駆逐艦のカモとなっていた。
イ四一潜にブインへの物資輸送命令がきた。
ラバウルの司令部でブインの司令長官が、鮫島中将であることを知らされた板倉少佐は、万感胸に迫って、
「よし」
ひそかに期するものがあった。確率ゼロに近い潜水艦輸送であっても、成功させずにはおくものか。
板倉少佐は細心の注意と、大胆な行動でブイン輸送に成功する。個人的に持ってきたウイスキー、たばこなどの包みと一緒に一通の手紙を鮫島中将に託した。
「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。感無量であります。司令長官閣下並びに守備将兵の武運長久を祈ります」
板倉少佐は、さらに二度ブインに突っ込み、困難な輸送に成功している。
「戦いは私情ではありません。成功は運です。それよりも、私の潜水艦を守るために、貧相な大発(陸軍船舶部隊の舟艇)で敵の魚雷艇と渡り合ったブインの将兵のことが思い出されてなりません」
「回天」隊員はこのような人生体験をも持っている指揮官に指導されたのである。
ロケット推進の人間爆弾
“人間爆弾”「桜花」は成り立ちからしてナゾの多い特攻兵器である。
防衛庁公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(6)』は「桜花」の成り立ちについて、次のように書いている。少し長いが重要なので引用する。〈 〉内は筆者注。
「このようなとき〈軍令部第二部が特攻兵器の生産に踏み切り、から兵器の整備を命じた十九年七月十日前後〉海軍部に、人間爆弾の着想がもたらされた。それは大田正一海軍少尉(飛行特務)を中心とする下級将校からのものであった。
大田少尉は戦局上かねてから、非常手段に訴えるほかはないとの考えを持ち、同じ考えを持つ同僚数名とその方法について研究していた。そして結局、製造も操作も簡単で大きな攻撃効果を予期できるとの理由から、人間操縦のロケット体当たり機に着目した。そして十九年七月ころ大田少尉が代表してその構造と攻撃方法を説明し、『われわれが搭乗してゆく』と熱烈な希望を述べた。
大田少尉の案は、頭部に爆薬を充填し尾部にロケット推進機を装備する滑空機で、操縦者一名が搭乗する。これを一式陸上攻撃機の下部に懸吊《けんちよう》して敵部隊の近くまで運搬し、適当な位置で母機から離れる。その後ロケットをふかして高速で接敵のうえ、操縦者もろとも敵艦に体当たりしようというものであった。
海軍航空本部は以上の意見具申を受けて、軍令部等と協議した。そして海軍中央部はついに、この兵器の研究と試作を行うべしとの結論となり、横須賀にある海軍航空技術廠(廠長、和田操中将)に、その任務を課した。同廠では三木忠直技術少佐が主担当者となって研究試作に入り、試作機の製造が開始されたのは十九年八月十六日であった。
この兵器にはからまでの例にならって、「○大」と仮称を付した。着想者を代表する大田正一少尉の姓から採ったものである。
以上「○大」兵器試作発令までの経緯は当時の海軍航空本部総務部第一課長高橋千隼大佐、航空本部造兵監督官巌谷英一技術中佐ならびに和田中将、三木技術少佐の証言するところである」
結末を言えば、発案者とされている大田正一少尉(階級について異説がある。終戦時は中尉)は、終戦三日後の二十年八月十八日昼過ぎ、神ノ池基地(茨城県)から零戦に飛び乗って鹿島灘の沖合に向かい姿を消した。戸籍は死亡として抹消された。
大田少尉は偵察員ではあったが、零戦の操縦は見よう見まねでできたという。公刊戦史には輸送員であった、とも書いてある。以来、死んだとされていたが北海道で戸籍を新しく作り、どこかで生存していたらしい。北方領土から命からがら引き揚げてくる者の多かった時代で、戸籍を新しく作ることは可能であった。戦後に会ったという「桜花」隊員もいる。が、公式に人前に姿を現したことはない。
大田正一少尉は愛知県出身で大正元年八月二十三日生まれである。生きていれば今年まだ七十六歳で、そんなに老人ではない。
昭和三年に尋常高等小学校の高等科を卒業と同時に海兵団に入団。十五歳の志願兵である。海軍には少年兵制度が昔からあった。
生死がわからず、姿を現さないからいっそう関係者が消息を知りたがる。
終戦後、零戦を操縦して神ノ池基地から鹿島灘に向けて飛び立ち、姿を消したのは、“非情な兵器”の発案者として責任を感じたから、というのが一般の見方である。
だが、公刊戦史にいう、
「大田少尉ら数人の“下級将校”の発想」
だけで「桜花」が実現したのだろうか。ここに問題がある。
「桜花」については、航空技術廠に勤務していて終戦を迎えた内藤初穂技術大尉(鎌倉市在住)の詳細な研究、『桜花――非情の特攻兵器』(文藝春秋刊)に詳しい。氏の意見も後で紹介しよう。
同じような水中特攻兵器「回天」については開発した技術者の回想が多くあり、軍令部と技術部(海軍工廠など)との関連が明確につかめるが、「桜花」に関してはこの種のものはないといっても過言ではない。そのためか「桜花」の成り立ちをベールに包んでしまっている。
昭和五十八年二月三日の中日新聞は「けさの話題」というコーナーで、
「生きている? 桜花“生みの親”・特攻の本命誕生のナゾ聞きたい」
ほとんど一ページを割いて特集記事を載せた。執筆者は同新聞東京本社特報部の神谷紀一郎記者である。
同新聞は本社が名古屋市にある関係上、愛知県出身の大田少尉の故郷の関係者から消息を聞き出したいという目的があった。
この特集記事は、戦後も「神雷部隊」(桜花隊のこと)の関係者と大田少尉が会っていることなどをあげ、「桜花を作らせたのは、本当は誰なのか」という視点に立ち、
「大田少尉は単なるダミー(仮名義人)に過ぎない。本当は軍上層部の命にしたがって表面に立ち、軍の下部からの突き上げで『桜花』が実現したように見せかけたのだ。大田少尉に名乗り出てもらって真相が聞きたい」
と、「桜花」のナゾを長年追っかけている学者、秦郁彦氏の説を紹介している。
「この記事は北海道新聞社から来たものに手を入れて作成したものです。読者からの感想はありましたが、関係者からの反応はゼロでした」
と神谷記者は語っている。
大田少尉が名乗りをあげないのは、「桜花」隊員の生き残りの目をいまだに気にしてか、あるいは死んでしまっているからか、その点はわからないが、「桜花」が隊員の間で不評だったことの証明にはなる。
この点が「回天」と大いに異なる。
「桜花」が実現してゆく過程は公刊戦史によれば、昭和十九年七月ごろ大田正一特務少尉(この時はまだ兵曹長であったはずだ)が海軍航空本部を訪ね、
「われわれが乗ってゆくから『人間爆弾』(これが桜花になる)を造ってほしい」
と熱烈に希望した、となっている。
大田少尉は神奈川県厚木基地輸送部隊(第一〇八一航空隊)に在籍し、司令は菅原秀雄大佐であった。
「桜花」の研究者で当時航空技術廠にいた内藤初穂氏によると、
「大田少尉が航空技術廠に嘆願に来た時には、すでに東京帝大工学部の付属機関、航空研究所で作った設計図を持っていました。ここの外部との窓口は小川太一郎教授です。同研究所では木村秀政所員が設計を担当し、風洞実験まで済ませていたようです」
と言う。風洞実験とは空気抵抗を測定し、機体のブレなどを調べる、航空機の開発には欠かせない実験である。
が、たかだか特務少尉の依頼で東大航空研が人間が乗って体当たりするような物騒なものを設計し、風洞実験までやるだろうか、というのがだれもが持つ疑問である。
小川教授も木村所員もすでに鬼籍に入っていて、真相を聞くすべもない。木村所員は戦後航空の権威者として知られ、YS11の設計者でもある。
「私が木村さんに直接会って話を聞いた時には、その(桜花)設計図をなくしてしまわれたとかで、何もわかりませんでした」
と内藤氏は言う。窓口が小川教授であるから、研究者の木村所員が直接大田少尉と交渉することはなかったとしても不思議はない。木村所員は上司の要求にしたがって設計図を描き、風洞実験をしたのであろう。
だれが大田少尉を東大航空研に紹介したのかという経路を解くカギはここで消える。
設計図を持った大田少尉は菅原司令を通じて、航空技術廠長の和田操少将に会う。和田少将は三木忠直少佐にゆだねた。三木少佐は設計部第三班の長であった。第三班は開発機の担当である。
水中兵器の「回天」がすでに試作段階にあった。航空機の特攻専用機(桜花)が開発のプログラムに乗せられても不思議はないムードにあったから、計画はすぐに海軍航空本部にもたらされた。
航空本部で大田少尉の説明を聞いたのは総務第二課の伊藤祐満中佐である。伊藤中佐は総務部第一課の高橋千隼大佐に報告し、処理を仰いだ。伊藤中佐は軍令部第一部(作戦)航空参謀の源田実大佐に連絡した。
伊藤中佐は海兵五十一期で佐賀県に在住だが、戦後黙したままで、農業に専念している。内藤 氏が『桜花――非情の特攻兵器』を出版して贈呈した時、海軍出身者の親睦団体水交会の機関紙 「水交」三四三号(五十七年七月)に書評の形で、初めてその間の経緯らしいものにふれた。
東京帝大航空研究所で作られた、大田正一少尉が“依頼した”「桜花」の原形設計図は、厚木基地司令菅原秀雄大佐を通じて海軍航空技術廠に、そこから海軍航空本部に伝わる。
航本で新作機のテストをしなければ、海軍航空機として民間の製作所に大量生産を任せることはできなかったからである。当時の航本はあくまでも航空技術の開発センター的な役割を持っているだけで、実際に製造はしなかった。生産は三菱とか中島飛行機が一手に引き受けていたのである。
航本総務第二課の伊藤祐満中佐は、その時の模様を「水交」紙上で次のように書いている。
「私は十八年四月、航本に着任した。当時すでに開発または途上にあった水上・水中特攻兵器(震洋・回天)に類した航空兵器の出現でしか、頽勢の挽回は見込めないのではないかとの悲観的空気が、上下を通じて動き出していた。
大田特務少尉が持ち込んだ新案兵器案を聞いた私の感想は次の通りであった。
『これは部外で相当に研究されたものらしい』」
大田少尉と伊藤中佐がいつ会見したかはこの手記ではわからないが、多分、十九年七月であろう。
「外部で相当突っ込んで研究されたものらしい」
と言うのは実感であったろう。前述のように風洞実験までしていたのである。
「しかも必死兵器であることだった。私は、大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できるはずがないと思い込んでいたからである。誠に迂闊千万であった。
私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」
つまり、航本の責任者伊藤中佐は大田少尉がパイロットであり、パイロットの代表として航本に直訴したものと信じていたのである。だから戦局挽回のために、若者の熱意に感激し軍令部第一部が航空参謀源田実大佐に「桜花」の採用を促した、というのである。
これで「桜花」が制式兵器として軍令部で採用されるに至った筋道はわかった。
戦後田舎に引っ込んだまま、世に出ようとしなかった伊藤中佐だが、伊藤中佐自身にのみ責任をおっかぶせるのは正しくない。
「大田少尉がパイロットであり、彼が同僚の意見を代表したものと考えた」
というのは、当時の空気からみて、若者の一見無謀な必死兵器構想も、比較的容易に航空本部や、軍令部を動かすだけのエネルギーにはなり得たのである。いや待っていたと言ってよい側面もある。すでに水上・水中の特攻兵器は前述のように開発、もしくは訓練中であった。
「回天」と「桜花」の相違は、何度も指摘したように「回天」が現場の若い士官から出た案で、現実に創始者の黒木博司大尉は殉職し、仁科関夫中尉は自ら「回天」に乗って敵艦に突っ込んでいるのに対し、大田正一少尉は自分で「桜花」を操縦できないのに、体当たり専用飛行機としてその実現に走り回ったところにある。
何か割り切れないものを感じるのである。間に大佐の基地司令が噛んでいたとはいえ、他人に死を求め自分は知らぬ顔をしているところが、「回天」と本質的に異なっているのである。
とまれ「桜花」の採用は軍令部で正式に決定された。
「桜花」隊員の生き残りは戦後ずっと毎年三月二十一日に靖国神社に集まる。
昭和二十年のこの日は、「桜花」の「神雷部隊」が沖縄戦に初出撃し、「桜花」十六機、母機の一式陸攻十六機、直掩の零戦などの搭乗員百六十人を一挙に失い、しかも戦果ゼロという悲運な幕を開けた日である。
昭和三十七年三月二十一日、源田実元大佐が珍しくこの自然発生的な会合に姿を見せてあいさつし、「桜花」の成立について、
「航空本部の伊藤祐満中佐から依頼を受け、早速軍令部第二部長黒島亀人少将の承諾を取り、それを伊藤中佐に伝えた。日本の下士官は世界一優秀だった」
と言った。源田元大佐が参議院議員選挙に立候補した年であるから、票集めのためだったかもわからない。聞いていた隊員の中から、どっと笑い声が起こった。
「何もいまさら」
という気持ちだった、と証言する人は多い。筆者が源田氏に質問したところでは、すべて、
「あうんの呼吸である」
と多くは語らなかったが、選挙となれば別の意味で必死だったのだろう。
こうした証言をつづり合わすと「桜花」の成り立ちの経緯は、
某(高官)→大田少尉→東大航空研→航空技術廠(和田操廠長から三木忠直技術少佐)→航空本部(伊藤中佐)→軍令部第一部(源田大佐)→軍令部第二部(黒島亀人少将)と計画が進んでゆき、→源田大佐→伊藤中佐→大田少尉と回答が返ってきたという図式が出来上がる。
特攻の取材を通じて感じられるのは、初期のフィリピンにおける神風特別攻撃隊、回天特別攻撃隊、桜花の神雷部隊と進むにつれ、隊員の意識に大きな相違が見られる現象である。終戦末期の「白菊特攻」(爆撃機搭乗員の訓練用中葉機・五人乗り)、「赤トンボ特攻」(複葉の中間練習機)に至っては戦術的にも問題外であるが、こうした戦争指導者の意識は敏感に隊員に伝わる。神風特別攻撃隊の二〇一空飛行長中島正少佐は、フィリピンから引き揚げ後、鹿屋基地で神雷部隊の作戦主任(中佐に昇級)となったが、隊員の心のすさみを感じとって、
「神風特別攻撃隊の時はこんなのではなかった」
と慨嘆している。末期になると隊員の中に“厭戦気分”さえ感じられるようになる。
十九年八月五日、軍令部第二部長黒島亀人少将はロケット特攻機の必要を軍令部会議で発表し、十六日には航空本部と、航空技術廠に対して○大兵器の試作を命じた。そして十八日には軍令部で開かれた定例会議の席上、
「火薬ロケットで推進する『○大兵器(桜花)』を軍令部としては十月末までに二百機を要求しているが、塚原二四三航空本部長(七月まで軍令部次長の重責を兼任していた)は百機が限度であろう、と言っている」
と具体的な進捗具合を語っている。いずれもロケット特攻機が「桜花」であることは言うまでもない。
もっとも「桜花」という名称が決定したのは、さらに二週間後である。
特攻部長の大森仙太郎中将は八月三十一日、これまで仮称で通してきた兵器――兵器を「震洋」、兵器を「回天」、○大兵器を「桜花」と名づけた(書類上の制式認定は二十年三月十七日。内令兵八号)。これですべての手続きは終わり、後は兵器の量産と搭乗員の訓練、部隊編成ということだけが残った。
前述したように「回天」隊は九月一日大津島に開隊、「震洋」隊はすでに訓練を始めていた。
「桜花」隊は九月十五日編成準備に入り、十月一日、茨城県百里ケ原基地に第七二一部隊として出発するが、このことは後で述べる。
ただ開発が大変で、空技廠では三木忠直少佐が中心となって行われた。試作番号はMXY7と決められた。
「桜花」の出撃は既述のように二十年三月二十一日であるが、海軍省が国民に発表したのは四十日後の五月二十八日である。
「一発撃沈、神雷特攻隊」
「敵陣営を震撼させる/恐るべき威力発揮/燦《さん》たる殊勲、全軍に布告」と大見出しが躍り、一式陸攻で出撃する隊員を見送る大勢の陸上隊員の写真が付いている。
ただしこの時期には「桜花」という名は見られず、「ロケット機『神雷』」である。サイド記事として、当然開発者、三木忠直技術少佐と「神雷」を提案した大田少尉(新聞記事は中尉)の手柄ばなしが載っている。
「【海軍某基地報道班員発】神雷特別攻撃隊の偉勲発表に、神雷生みの親三木忠直技術少佐の感激は一入《ひとしお》であった。『自分が設計したあのロケット機でこれら勇士たちが神去りませしとは』と、少佐は肉弾ロケット機『神雷』が生まれるまでを次のように語った。――
昭和十九年夏であった。ドイツのV一号に呼応してわがロケット兵器の研究もまた全力をあげて行われていた。しかしV一号の目標は地上の間であるが、わが目標は空母、戦艦、輸送船の海上の点である。――目標に対して一発必中の成果を上げるためにはV一号のごとく無人機では到底不可能である。どうしても人力を借りねばならない。だが、人の力を借りれば必中と同時に必死である。ここに悩みがあった。
この悩みを解決したのが大田正一中尉(当時少尉)である。『V一号に人間が乗ってゆくことだ。まず自分が乗ってゆく』と、烈々の至情を吐露して肉弾ロケット機『神雷』を各方面に説き回った」
海軍省発表にしても、この文脈は矛盾に満ちている。
「V一号と違って人間が乗ってゆくことが必要だが、この悩みを解決したのが大田中尉である」
とはいかにも苦しい。悩みを解決したのなら人間が乗る必要はないはずだから解決ではない。
ただ「桜花」完成までの時間的経過はよくわかる。
「大田中尉の熱意は遂に入れられて、その設計製作が開始された。三木忠直技術少佐以下『われわれの技術の足りなさを命をもって補うというこの精神に応えねば』と、夏の真っ盛りを徹夜また徹夜、真っ赤に目をはらした工員に対して『寝ろ寝ろ』と言ったが誰一人として寝るものもいない。
――かくて約二週間、驚異的な早さで図面は完成し、一号機は全関係者が一丸となり、かくて悲壮な決意をこめて立派に出来上がった」
「約二週間で図面が出来上がった」のは事実に近い。
「桜花」の試作チームは三木技術少佐が中心となり、構造設計は服部六郎技術大尉、計算は鷲津久一郎技術大尉以下十数人で、庁舎の三階の一室にこもった。大田少尉も八月十八日付で航空技術廠に籍が移された。
『桜花――非情の特攻兵器』の著者内藤初穂技術大尉によると、航本からの「試作計画要求書」は、
(1) 頭部の爆弾は全備重量の約八〇パーセント。
(2) 爆弾は徹甲弾とし信管に一〇〇パーセントの信頼性を持たせる。
(3) 極力高速とする。
(4) 航続距離は片道航行に多少の余裕を持たせること。
(5) 目標を照準するに足る程度の安定性、操縦性を持たせること。
(6) 極力小型として組み立て、分解がたやすく狭隘な地下壕等にも多数格納しうるようにする。
(7) 構成材料には貴重な軽合金を排し、比較的入手容易な木材等を用いること。
チームは航空本部の要求通り全体を木製にし、翼はベニヤ板にした(ただし実験機――K1型――は胴体と尾部が軽合金)。
計算で五百五十ノット(千キロ)までは空中分解しないようにした。
操縦席には速度計、高度計、前後傾斜計の三つ。操縦桿には火薬ロケットの起動ボタン、これを運ぶ母機の一式陸攻との連絡用の伝声管と簡易通信機を取り付けるだけでよかった。
母機の一式陸攻につり下げるには操縦席の前方上方に輪型の金具で母機のフックに引っ掛け、投下する場合はフックに付けた爆管を機上から爆発させて外すようにした。
設計は一週間でできた。
海軍航空本部からの「試作計画要求書」の「高速性を持たせること」という要求は、敵戦闘機グラマンF6F(時速三百四十ノット――六百三十キロ)の攻撃を振り切る――という航本としては切実な問題だが、そのためには落下と同時にロケット噴射で加速する必要があった。
当時まだ研究中だった、ドイツから提供された「シュワルベ」の資料に基づくジェット推進機は実用の段階にはなかった。
どうにか使えるのは火薬式のものだが、燃焼時間はわずかに九秒で、自走力をつけるには程遠く、自然落下速度を加速する程度に過ぎない。
それでも火薬ロケット担当の千葉宗三郎技術中佐の協力で、推力八百キロのものを三基後部に付け、推力四百キロのものを主翼の下に左右一本ずつ装備した。ただしこの両翼のロケットは滑空テストをした結果おもわしくなく、すぐに取り除かれることになった。
「桜花」の設計速度五百五十ノット(千キロ)というのは安全範囲であって、これだけのスピードが出るというわけではない。
設計終了時のデータは、
全長――六・〇七メートル
全幅――五・一二メートル
全高――一・一六メートル
主翼面積――六平方メートル
全備重量――二一四〇キロ
自重――四四〇キロ
爆弾――一二〇〇キロ
尾部ロケット――三六〇キロ
翼下ロケット――一四〇キロ
である。これが実験機K1型で四十五機造られた。
実戦機として量産された11型は、K1型よりも全長が四ミリ短い六・〇六六メートル、全幅は十二センチ短い五・〇〇メートルとなった。いずれにしても翼面荷重(翼にかかる重量)の大きい、爆弾に翼をちょっと付けたようなものである。
K1型の投下テストは十月二十三日に行われ、伊豆大島沖合三千五百メートル上空から一式陸攻の胴体を離れ、真っすぐに海面に突入した。観測の結果、機体の横ブレとか不規則飛行も見られなかった。
後は人間によるテスト飛行である。
このころフィリピンでは神風特別攻撃隊の敷島隊が出撃しては、敵が見つからないために帰投し、指揮官の関行男大尉が「すみません」と小さくなってわびていた。特攻作戦はすでに幕を切っていたのである。
「桜花」に搭乗する隊員、これを運ぶ一式陸攻隊員による神雷部隊――七二一部隊の編成も終わっていた。
まだ兵器も完成していないのに、周囲のおぜん立てはすべて整ったのである。
三木忠直技術少佐は、テスト飛行を安全有効に行うために脳髄を絞った。爆弾を付けたままの重量では着陸できないことはわかっていた。
そして出した結論は、一・二トンの爆弾に匹敵する重量を装備して母機の一式陸攻から投下されたK1型機は、操縦性、安定性を試し、着陸する場合に爆弾に相当する重量を捨てる案であった。
「桜花」の試作機K1型の有人飛行テストは、頭部に爆弾の重量に匹敵する一・二トンの水を入れ、着陸体勢に入る前、後部から排水することに決定したが、設計者の三木忠直技術少佐に不安がなかったわけではない。
強度の問題もその一つである。着陸時のスピードは百ノット(百八十キロ)以上が予測されたから、そのショックで機体がばらばらになる可能性もあった。
安全のため胴体と後部を軽金属製にしたのはこのためで、着陸するのに車輪の代わりにそりを胴体に取り付けた。いかにも必死兵器のそれだ。
有人テストは十月三十一日、茨城県百里ケ原基地の上空で行われた。七二一部隊司令岡村基春大佐はもちろん軍令部、航空本部、航空技術廠の関係者がかたずをのんで見守っていた。
K1型を抱いた一式陸攻と観測用の一式陸攻が横須賀航空隊を離陸して、百里ケ原基地上空に姿を見せたのは午後である。
雨あがりの空が澄んでいた。
高度三千五百メートル。
K1型を抱いた陸攻は東にコースを変え、霞ケ浦上空で旋回していたが、信号弾を投下した。いよいよK1型の投下だ。パイロットは長野一敏飛曹長(乙飛七期)で、生えぬきの戦闘機乗りである。
二十年五月二十八日に海軍省が発表した新聞記事は、
「親飛行機の爆音についで碧空高く雲の間から真っ逆さまに降りてきた。それは正に『神雷』の名のごとく電光弾丸とまがうほどの早さだ。後を追う零戦をぐんぐん離して飛ぶ。八幡様の護符を高く捧げて塑像のように立つ生みの親の祈る心は神に通じて、遂に無事接地した。試験飛行者長野少尉(当時飛曹長)は傍らの『神雷』を顧みて、『零戦より操縦性がよいですよ』と悠々と笑っていた」
と報じている。
「生みの親」とは三木技術少佐である。八幡様の護符を高くささげたというのは、当時の新聞記事のレトリックとしても、祈りたいような気持ちではあったろう。
この時の模様を比較的正確に書くと、次のようになる。
親機から切り離されたK1型機は瞬間三百メートルほど垂直に落ちる。瞬間、後部ロケットと、翼の下のロケットが点火された。が、翼下のロケットはすぐに切り離される。K1型機は白い煙を吐きながら猛スピードで降下した。煙のように見えたのは排出された水である。
K1型機は空気を切る軽い金属音を響かせながら、基地上空を二周して接地、そりの音をきしませながら滑走路の隅で止まった。
トラックで駆けつけた三木技術少佐は、風防を開けて降りてきたテスト・パイロットの長野飛曹長に抱きついた。
翼下ロケットを切り離したのは左右のブレがひどかったからだとわかった。均等に燃焼する火薬ロケットが未開発だったのである。
三千五百メートルの高度から「桜花」K1型を投下して、地上に降りるまでの時間は、途中の旋回時間があったにしても数分で終わる。地上からの目撃者には、物体が急速度で、地上に落下しているとしか思えない。
昭和十七年横須賀海兵団に志願し、航空隊に配属されて整備技術を学び、一式陸攻の地上整備員(飛行機に乗り込む機付き整備員とは別)だった松岡甲子夫氏(広島市南区出汐三丁目)は神雷部隊が編成されて間もない十月中旬、鹿屋の七〇八飛行隊に配属された。分隊長が、
「特攻隊だ。死ぬ気でやってくれ」
と言った。ここでK1型の降下訓練を何度も見た。
「あれは乗った瞬間から操縦者は気絶しているとしか思えません。実際に瞬間、失神するんだとパイロットから聞いています。一式陸攻から投下された『桜花』は三百メートルくらいの半径を描きながら螺旋状に落ちます。ひどいものでした」
といまだに身ぶるいする。
操縦した体験のない者から見るとそのように見えるのだろう。
操縦体験者も実は同じであった。訓練は怖かった。だから「桜花」の隊員は練度の高いパイロットで編成したのである。いくら必殺の兵器だといっても、人が乗ってさえいれば命中するというものではない。
保田基一氏(愛媛県北宇和郡吉田町)は甲種予科練十一期出身の水上機パイロットで、十九年には香川県詫間基地で水上機搭乗員の教員をしていたが、つねづね、
「第一線に出してくれ」
と申し出ていたところ、十九年夏、特攻兵器要員にとの打診があった。二つ返事で承諾し、十二月二十八日、七二一部隊(神雷部隊)に転属。「桜花」の搭乗員になった。もちろん特攻隊員である。
K1型での投下訓練体験をこう語っている。
「投下訓練は一度やればたくさんですよ。二度目は本番でさよなら。皆そうです。
『桜花』にいきなりは乗れません。事前に零戦で降下訓練を思う存分にやります。エンジンを徐々に絞ると飛行機が沈みますが、できるだけエンジンを低回転にして着陸します。最後にはデッド・スロー(ほとんど停止する)にしての着陸です。吸い込まれるような、降下スピード感覚に慣れるための訓練です。
初めてK1型に乗った時は怖かったですよ。落ちるだけですし、スピードが違いますからね。二度訓練をやるくらいなら、いっそのこと死んだほうがましです。
ですからよほどの操縦経験者でないと『桜花』には乗れません」
この体験は「桜花」隊員だった者ならだれでも持っている。したがって地上勤務者がそれを見て、
「乗った時には気絶している」
と感じたのは、あながち誇張ではない。
海軍省が「神雷(桜花)」のベールをはいで国民に公表した時(二十年五月二十八日)の、設計者三木忠直技術少佐の新聞談話がある。
「生みの親三木技術少佐は『八木前技術院総裁が言われたように、われわれは必殺でなく必中の兵器を造らねばならない。設計をなしつつ、これに乗る特攻勇士のことどもを思って胸に迫り、これら勇士に報いる道は“必死”でなく、せめて“決死必中”の兵器を創りだすことだと心中固く誓った。大田少尉が原案を持参したからこそ設計製作したのです。この気持ちお分かりでしょう』両眼をきらりと光らしながら、さらに『神雷の成功はひとえに岡村(基春)司令をはじめ関係者一致一丸の賜です』と、世紀の神器製作についての責任感について黙々と陰の力として挺身する謙虚な技術者らしく、いささかも誇らなかった」
よく読むと三木技術少佐の本心がチラリのぞいている。書いた記者の抵抗感覚でもあったのだろうか。
もっとも海軍省が発表したこの時点では、「桜花」は第一回攻撃で全員グラマンに食われて戦死するという大きな失敗をしていたのである。開発者の三木技術少佐はその事実を知っていたはずである。さらに性能(ロケットで飛行距離を増す)アップの努力をしていたのだ。
だが、「必死でなく、決死必中」と言ったのは技術者としての本音であったろう。
「回天」の開発に従事した技術者が、脳髄を絞って、より完璧なものを造ろうと努力したのと同じように、「桜花」の開発チームもまた必死であったのだ。
「殺人兵器の開発」と現代流に批判するのは自由だが、戦争という大きな渦の中では、科学者の良心などふっ飛んでしまう。
これに比べて、大田正一少尉の談話は対照的である。
「命中率九九パーセント、一発轟沈という今次大戦中最高の新兵器は、皇国将兵の尽忠大義に生きるという魂があってこそできる。
科学者たちは特攻兵器の原理とか、その他の概念とかいったものについては、とっくの昔に分かっている。ただ自分がその兵器の実施者でないということに躊躇を感じ、将兵を必ず死に就かせることに気遅れを感じているまでだとおもう。だが戦局は躊躇などしている時でないと考える。将兵を殺すなどということを考えてはいけない。そういう事態ではない、ときっぱりした口調で話を結んだ」
恐るべき談話というべきであろう。三木技術少佐が、「決死必中」を力説していたのに対して、大田少尉は、
「よい特攻兵器ができないのは科学者の怠慢」
と言わんばかりの鼻息である。「回天」の創始者が即実施者であったのと違い、大田少尉は偵察員で操縦ができない以上(もっとも操縦の真似ごとぐらいはできたが)、他人に死を強要しているだけだ。「桜花」が疑問視されているのはこの点である。
「桜花」搭乗員の募集は既述したように「桜花」がまだ航本で設計図段階にすぎなかった十九年八月中、下旬から行われている。
「八月二十日過ぎだったように記憶しています」
と語るのは、甲飛十期生出身で戦闘機パイロットだった小柳坤生氏(徳山市久米旭ケ丘)である。大西瀧治郎中将の「神風特攻隊」として、最初にフィリピンで敵空母に突っ込んだ二〇一空の若者たちと同期生である。
小柳氏は、千葉県銚子の北西にあたる茨城県鹿島郡神栖村(当時の行政区)、神ノ池航空隊で甲飛十二期、予備学生十三期生(後期)の操縦教員をしていた。
「予備学生はすでに零戦二一型(初期の型)で、追跡攻撃の実戦教育課程に入っていた時期でした。一人の教育に約二十分かかりますが、午前中に六人の教育をやっていました。
四回目の教育を終えて、指揮所で冷たいコーヒーを飲んでいた午前十一時半ころでした。
『搭乗員、一三〇〇(午後一時)飛行長室に集合』
と伝達がありました。同期の者たちと何事だろうか、と顔を見合わせましたが、飛行長の鈴木中佐さえも知らなかったようです。
『集合五分前』のスピーカーの合図で、飛行長室に駆けつけると、入り口に衛兵が立っていました。かつてないことです。
搭乗員は三十人ぐらいいました。
やおら、青ざめた顔で司令の福田太郎大佐が入ってきました。
『本日、皆に集まってもらったこと、これから私が言うことは絶対他言してはいけない』
と前置きして、
『人間は誰でも名誉心があり、命は惜しいものである。サイパン島は玉砕し、大日本帝国は一大危機を迎えた。いま神国日本を救うものは、われわれ搭乗員のみである』
と一気に言い、
『最後の手段はただ一つ。今まで人類が予想だにしなかった、いや想像さえし得なかった兵器を使用することによってのみ日本を救うことができる。その兵器を使用できるのはわれわれ搭乗員だけである』
そしてはっきりと、新兵器の説明をこう言いました。
『この最後の兵器は一度飛び立てば生還を期すことはできない。しかもこの兵器を使用するには、死ぬための長い訓練が必要である。要員は優秀な君たち搭乗員でなければならない。
君たちに来てもらったのは、その搭乗員を募集するためである。決して指名するものではない。志願を強制するものでもない。一時の興奮や名誉心にかられて志願してはならない。そんな者は役に立たないからだ。今から一日の余裕を与える。よく考え、訓練の苦痛に耐えられる者は、オレの机の上に箱を置いておくから明日正午までに名札を入れてくれ――』」
小柳坤生氏が茨城県神ノ池航空隊で、「桜花」搭乗員志願の勧誘を受けた時は一飛曹で、現代流に満年齢でいうと十九歳と一ヵ月であった。
「“絶対死の兵器”の搭乗員と聞いた時、みんな無言でした。
宿舎に帰ると、だれからともなくベッドに寝転んで毛布を頭からかぶっていました。私もそうするより外にすることがありません。
一人が寝返りをうてば連鎖反応的につぎつぎと寝返りします。誰かがタバコを吸えば吸う。しかも誰も口をききません。悩んでいることはお互いにわかっています。が、そんなことは、口には出しません。
志願してまで戦争に身を投じた私たちです。空中戦をやって敵に撃ち落とされ、死んでゆくなら本望ですが、この時ばかりは考えました。人間は弱いものだと、つくづく思いましたね。
夕食のラッパが鳴っても食事に行く者はいませんでしたよ。『死とはなんだ』と考えたのはこの時でした。松島海軍航空隊時代に瑞巌寺に参禅した時のことがふと思い出されて、『よし』という気になったのでした。
暗い司令の部屋には、机の上に白い箱が置いてありました。白状しますと、ノドがからからに渇いていました。
志願するという意思表示の名前を書いて外に出ますと、重圧から解放されて、むしろ壮快さがありました。
砂浜に腰をおろして周囲を見ると、同僚が何人か黙って空を見上げていました。でも、その晩は本当に熟睡しましたね」
十九歳の“少年”にとっては、苦しい数時間であったろう。この間の心境を文章で表現してもウソになる。読者の解釈にまつしかない。
同じ「桜花」隊員だった堂本吉春氏(広島県安芸郡海田町幸町在住)の場合は、少し志願の時の様子が違う。
昭和十四年に志願した乙飛十二期出身の堂本氏の教え子の一人に、神風特別攻撃隊山桜隊として十九年十月二十五日、レイテ島に突っ込んだ宮原田賢一飛曹がいる。
つまり堂本氏は小柳氏ら甲飛十期生(飛練三十一、二期)の教官をやったクラスである。
「台湾沖航空戦(十九年十月十二日―十五日)の後、台中基地(台湾)で『搭乗員整列』がかかりました。パイロットはすでに消耗していましてね、十五、六人しかいませんでした。
飛行長の五十嵐周正中佐が静かに、
『生還し難い飛行機が出来た。搭乗員を募っている。女房、子供のいる者、一人息子、後顧の憂いのある者は一歩下がれ』
と言いました。数人が下がりましたよ。
腕のよいパイロットを集めたことは確かで、当時の私で飛行時間は千五百時間に近かったですね。二番機(隊長機を守る難しいポジション)でした。飛行時間千時間前後のパイロットが中心に集められ、予備士官でも三百時間以上の者でした。
台中基地から『桜花』搭乗員として七二一空に配属されたのは、私の他に藤城光治(乙飛十三期・愛知県在住)、川上菊臣(甲飛十期)上飛曹の二人、計三人でした。それが各航空隊から集められ、一緒に入隊したときは十人になっていました」
海軍神雷部隊戦友会(本部東京都新宿区若宮町)が昭和五十二年に編纂した『海軍神雷部隊史』を見ても、「桜花」隊員は一時に大挙して入隊しているわけではなく、数人単位で集められている。
「川上君は二十年四月十四日『桜花』搭乗員として沖縄に出撃して戦死しました。特攻死です。
『桜花』搭乗員として配属される前、台中基地で同じ乙飛出身の先輩、長野一敏飛曹長(乙飛七期)が試験飛行に成功し、操縦性は零戦と変わらないという話を聞いていましたので操縦に不安は持っていませんでした。
が、神ノ池基地で初めて『桜花』を見た時、
『これがわしの棺桶か』
と思いましたね。どうせやるなら半年前にやって欲しかった、とそんな気持ちでした。そのくせ『いい飛行機だなあ』と思ったことも事実でした。
あの時代ですからね、死ぬのは仕方ないとみんな思っていたのではないですか」
堂本氏が台中基地からダグラス機で大分航空隊に着き、そこから汽車で百里ケ原基地に行ったら、七二一空は神ノ池に移動していたというから着任は十一月七日以降であろう。
七二一空が百里ケ原から神ノ池に移動したのは十一月七日である。
「零戦を改造した二式練戦――後部に教官が乗る複座機――で高度三千から四千メートルでエンジンを絞って着陸する訓練から始めます。そして零戦での単独降下訓練と進み、それから初めて『桜花』に乗ります。
『桜花』の訓練は体験者が証言しているように一回ですね。
一式陸攻に吊られた『桜花』を鹿島灘上空から落としてもらい、神ノ池基地の滑走路に着陸しますが、『桜花』にも浮力がありますから、思うように母機から離れません。それで懸吊装置を爆薬で切って落とすような仕掛けになっていますが、切り離された瞬間二、三百メートル沈みます。振動もなく音もしない奇妙な感触です。
着陸コースに入ったらフラップを下ろして機首を上げ、百ノット(百八十キロ)くらいのスピードに調整して着陸します。その間二、三分の滞空です。
訓練中の殉職事故も見ました」
この訓練事故については後でふれる。
「桜花」搭乗員の募集、訓練の様子はこれまで見てきたような実情で、「回天」隊員と同じように、ひそかに各地から集められたのである。
第六章 壊滅への日々
自殺行為に士官も強く反対
「桜花」隊の編成は十九年十月一日である。がその前に特殊部隊編成としての準備があった。
海軍省は九月十五日、常々特攻攻撃の必要を進言して走り回っていた、局地戦闘機部隊三四一空(千葉県館山基地)司令岡村基春大佐を準備委員長に発令し、横須賀航空隊付とした。
神風特別攻撃隊の編成は、軍令部の源田実大佐(軍令部第一部長中沢佑少将と軍令部総長及川古志郎大将の承認があったと見るべきである)と大西瀧治郎中将との間に、事前に“私的な部隊名”の打ち合わせがあったとはいえ、一種の“緊急避難”的な要素があり、若者の情熱に訴えて、栗田艦隊のレイテ殴り込み作戦を支援するという明確な作戦目的があったが、「桜花」隊の編成は、海軍が組織的な特攻の実施に踏み切ったことを意味する。「回天」隊、「震洋」隊の編成と変わりない。
九月十五日といえば、大西中将はまだ東京にいた。米内光政海軍大臣がひそかにフィリピンに展開している第一航空艦隊司令長官に大西中将を予定していた時期である。
「桜花」の研究家で、航空技術廠に勤務していた内藤初穂技術大尉によると、三四一空の飛行長であった岩城邦広少佐も横須賀航空隊付の辞令を受けたが、なんのことかわからず、横空に行ってみると岡村司令がおり、ここで初めて「桜花」隊の説明を受けた。さらに準備副委員長に発令されていることも知ったという。
生き残りの「桜花」隊員ならだれでも知っている“海軍の三大バカ”の一人と陰口された岩城少佐は神雷部隊――七二一部隊の飛行長として、岡村大佐とともに戦いぬく。
岩城少佐は自分の体験から戦闘は精神力にある、という信念を持ち、部下を遠慮会釈なしにしかり、殴りつけることが多かった。
彼のために弁護しておくなら、日中戦争(支那事変)中の十三年二月、水上偵察機で敵の戦闘機多数に囲まれて空中戦となり、百三十八発の敵弾を受けた。乗機はキリもみ状態となって回復しない。どうにでもなれ、と操縦席にあぐらをかいたら奇跡的に立ち直り、生還できた体験をもっている。
「精神力さえしっかりしていれば、道は開ける」
という悟りである。必死を前提とした「桜花」隊員の規律はどうしても乱れる。そのさいでも岩城少佐は遠慮しなかったようである。
とまれ「桜花」隊は十月一日、茨城県小川町にある百里ケ原基地に七二一部隊として誕生した。
司令 岡村基春大佐
飛行長 岩城邦広少佐
飛行隊長 野中五郎少佐
というのが首脳部の顔ぶれで隊員は十五、六人しかいなかった。副長五十嵐周正中佐が着任したのは十一月五日で、基地を神ノ池に移して本格的訓練を開始する二日前である。あわただしい編成ぶりがうかがえる。
「桜花」隊とこれまで書いてきたが、正確にいえば体当たりする「桜花」隊と、これを運ぶ一式陸攻隊、掩護する戦闘機隊の三隊で構成された部隊の総称――海軍第七二一航空隊というのが正式な呼称である。所属は連合艦隊直属であった。宇垣纏中将が司令官となった五航艦に編入されたのは二十年二月十日である。
七二一空は「神雷部隊」とも呼ばれた。命名者は同空司令岡村基春大佐である。
自走力をほとんど持たない「桜花」は母機と呼ばれる一式陸攻の胴体に懸吊されて戦場に運ぶしかない。正攻法の攻撃の場合は、これに護衛の戦闘機が付く。「桜花」の搭乗員は一人だが、一式陸攻の通常搭乗員は八人である。「桜花」の要員の八倍もいたわけである。これに整備員など地上要員を加えると「桜花」一基の運搬に二十倍近い人員を必要としたのである。「桜花」の搭乗員だけが“決死”だったわけではない。
鹿島灘からの潮風が吹きつける神ノ池基地の正門には、「第七二一航空隊」「海軍神雷部隊」の大きな門札が左右に分けて掛けられた。
発足当時の七二一航空隊の構成は次の三隊であった。
(1) 体当たりする「桜花」パイロットの分隊(四個)
(2) 攻撃第七一一飛行隊(「桜花」を搭載する一式陸攻部隊)
(3) 戦闘三〇六飛行隊(陸攻隊を掩護する戦闘部隊)
十一月十八日、七二一空は連合艦隊直属となり、拡大されて二十日、攻撃七〇八飛行隊(陸攻隊)、さらに二十年二月一日には戦闘三〇七飛行隊(戦闘機隊)が加わる。
数字の隊番号は一見無造作のようだが、それぞれ意味を持っている。蛇足だが、理解を深めるために注釈を加える。百の位は機種、十の位は所属鎮守府、一の位は常設か、特設かを表す。
百の位の一は偵察機、二、三が戦闘機、四が水上偵察機、五が艦上爆撃機と艦上攻撃機、六が航空母艦機、七が陸上攻撃機、八が飛行艇、九が哨戒機、一〇が輸送機。
十の位の〇から二までは横須賀、三、四が呉、五、六、七が佐世保、八、九が舞鶴鎮守府である。
一の位は奇数が常設、偶数が特設。
したがって「七二一空」は「陸上攻撃機で横須賀鎮守府に所属した常設航空隊」ということになる。フィリピンで神風特攻隊を出した二〇一空は「戦闘機隊で横須賀所属の常設航空隊」を意味する。
ところで、「桜花」作戦は専門家から見れば、発足以前から大きな不安が予測されていた。「桜花」隊員の突入技術、意識の問題もさることながら、一式陸攻の性能である。巡航速度は百七十ノット(三百十キロ)であるが、「桜花」を懸吊することによって重量、空気抵抗が増加し時速百五十ノット(二百八十キロ)程度に落ちる。グラマン戦闘機の三百ノット(五百六十キロ)と比較すれば、スピードで半分、空戦性能を比較すると問題にならない。それでなくても一式陸攻は“一式ライター”と呼ばれていたように敵弾に極めて弱かった。掩護戦闘機隊の充実が重要視されたのはそのためである。
「神雷部隊」七二一空は、初の搭乗訓練で隊員が殉職死するという象徴的な出来事で幕を開ける。
神ノ池基地で投下訓練が開始されたのは、百里ケ原基地から移転して六日目の十一月十三日であった。機種は「桜花」実験機K1型である。
指名されたのは海兵出身の刈谷勉大尉であった。何事も海兵出身者が最初にやるのは海軍の伝統である。
K1を抱いた一式陸攻は滑走路をほとんどいっぱいに使って離陸し、規定通り鹿島灘上空三千メートルで投下した。
刈谷大尉の滑空は見事で、滑走路の方向に弧を描いて猛スピードで回り込んできた。水バラストは、着陸体勢に入った段階で後部から抜きさり、機体重量を軽くして着陸するのがセオリーである。テストパイロットの長野一敏飛曹長が理論を組み立て、実験して成功した結果の決定である。
基地の待機所から、K1が水抜きする時に出る白い煙が見えた。高速のため水が白い煙のように見えるのだ。
と、K1の滑空姿勢が崩れ、頭部を上下しながら落下し始めた。地上で待機していた搭乗員や関係者は総立ちとなった。目の前でK1は滑走路の真ん中に突っ込んだ。
目撃した堂本吉春氏によると、
「K1が横になったまま急角度で落ちてくるのを見ました」
と言う。
刈谷大尉は全身打撲でまだ生存していたが、二時間後に死亡した。
事故の原因は水バラスト弁の操作の間違いらしかった。着陸するとき、まず後部の水バラストを抜いて(機首が重くなる)頭を下げぎみにし、その後、頭部のバラストを抜くとバランスが崩れない。が、刈谷大尉は先に頭部のバラストを抜いたため、K1のバランスが崩れたのである。
すぐに対策会議が持たれたのはいうまでもない。その席上、テストパイロットの長野飛曹長が、
「バラストなしでも着陸時の操縦感覚は変わらない」
と発言した。そのため以後の投下訓練は、水バラストなしで行うことになった。
「桜花」は再使用されることはないから、そして一度投下された搭乗員は生還する必要がなかったから、敵艦までの操縦ができればよいという、身ぶるいするような発想である。いかに早急に実用化を急いだかを物語っている。
内藤初穂氏によると、航空本部は刈谷大尉の操縦ミスを伏せて、
「水タンクニ水積ミ込ミ時、機内ニ流入セル水ガ空中ニテ離脱後、操縦席内ニ吹キ込ミ操縦視界ヲ不良トナセルニヨルト推定サレル」
と事故原因を記録した。
源田実大佐が軍令部第一部の方針として、
「搭乗員の養成は十月末までに三百名を予定」
と発言していたのと比較して、一ヵ月以上も日程が遅れている。事故死を大げさにはしたくなかったのである。
七二一空(神雷部隊)による「桜花」隊の使用は、軍令部第一部の腹案(源田実航空参謀が八月二十六日、連絡会議で発言)では、
「いずれにしても『捷号作戦(フィリピン作戦)』には間に合わない」
ということになっていたが、海軍の神風、陸軍の八紘特別攻撃隊のねばりに刺激された軍令部は、計画を変更して急拠、フィリピン決戦に「桜花」の使用を決定する。
折よく、戦艦「大和」型の三番艦として横須賀海軍工廠で昭和十五年起工、十七年六月、ミッドウェー海戦の戦訓から空母に変更して建造した超空母「信濃」が完成(十九年十一月)し、呉軍港に回送することになった。これに「桜花」百基を載せてフィリピンに送り込み、「桜花」作戦を展開することにしたのである。
空母「信濃」は基準排水量六万二千トン。骨格は戦艦「大和」と同じであるから、空母の最大弱点である防御能力は戦艦なみに備えていた。
魚雷によるダメージにも注、排水機能を使って艦の安定が保たれるような設計になっていた。文字通り世界最強の空母のはずであった。
これに「桜花」百基を積めという命令が二十四日、空技廠に発せられたのである。
民間工場も動員して、やっと大量生産ラインに乗った「桜花」だが、「信濃」が横須賀を出港する一日前――十一月二十七日までの三日間で、百基を生産するのは大変だった。空技廠は徹夜に継ぐ徹夜で工員を督励し、第二工場でやっと五十基が完成した。
が、「桜花」にとっても、「信濃」にとっても、日本にとっても決定的な不運が見舞う。
公試運転を終えたばかりの「信濃」は、二十八日午後六時、横須賀を出港し、ジグザグコースをとりながら南下した。敵潜水艦の魚雷攻撃を避けるためである。日本近海がすでに敵潜水艦の行動範囲だったのである。
出港六時間半後の二十九日午前零時三十二分、「信濃」が遠州灘にさしかかって間もなく、先回りしていた米潜水艦「アーチャーフィッシュ」は六本の魚雷を放った。うち四本が「信濃」の右舷に命中した。
完成間もない「信濃」は急工事のため水密、気密検査を省き、しかも千人を超す乗員の半数以上が艦上勤務は初めてという素人集団で、艦の操作になじまず、危機管理体制は全くできていなかったのが不幸を決定的にした。
それでも二十ノット(三十七キロ)の高速で走ったが、「信濃」は次第に傾斜し、十時五十五分、潮岬沖百八十キロの海上で横転して沈没する。ウソのような現実であった。
もっとも「桜花」がフィリピンに届いたとしても、客観的にみて、一式陸攻を飛ばし「桜花」を投下することは不可能ではあったろう。十二月初めの時点では、フィリピンはすでに敵の制圧下にあり、零戦によるゲリラ的な特攻作戦しかできなかったからである。
空母「信濃」の沈没で「桜花」の海上輸送が失敗すると、軍令部は呉軍港に在泊している空母「雲竜」「竜鳳」の二隻を使ってフィリピンへ輸送することにし、十九年十二月一日、横須賀から呉へ八十八基を陸送した。
同じ日、軍事参議官で前軍令部総長永野修身元帥と連合艦隊司令長官豊田副武大将が神ノ池基地を視察し、「桜花」隊員に「神雷」と染め抜いた鉢巻きと短刀を授与した。そして、
「十二月二十二日、高雄基地(台湾)からフィリピンのクラーク基地に進出し、翌二十三日レイテ湾内の敵艦船に突入すべし」
との内意を岡村基春司令に示した。
この時局認識は、甘いというより、現地の実情を全く理解していないとしか言いようがない。
「桜花」作戦実施予定の十二月二十三日にならずとも、作戦を内示した十二月一日の時点で、クラーク基地群は敵の制圧下にあった。
一式陸攻が堂々と飛行場に展開し「桜花」を抱いて飛び立てるような状況ではない。戦場が時間単位で日本に不利に傾いていることが、この二首脳――参謀たちも含めて――には理解できなかったのである。
フィリピン現地軍はクラーク基地群の一つ、マルコット基地を「桜花」の出撃基地に予定したが、それは多分に軍令部に対するジェスチャーではなかったか。
十二月十五日、米軍はルソン島の隣の島、ミンドロ島に上陸を開始した。
レイテ決戦は実質的に終了したと宣言したのと同じである。
が軍令部はミンドロ島に米軍が上陸すると、ますます迎撃の意思を募らせた。台湾進出予定の「桜花」もすべてフィリピンに注ぎ込んで“勝負”に出ようとする。
「桜花」を積んで空母「雲竜」は十七日に呉軍港を、「竜鳳」は十八日佐世保軍港を出た。
出撃は攻撃七一一飛行隊(野中五郎少佐)から二十七機、七〇八飛行隊(足立次郎少佐)から二十七機、計五十四機の一式陸攻と、掩護戦闘機として戦闘三〇六飛行隊(神崎国雄大尉)の六十機と決まった。
ところが、「桜花」三十基(他に「震洋」を積載)を積んだ「雲竜」は十九日夜、宮古島の北北西四百二十キロの海上で米潜水艦「レッドフィッシュ」に雷撃され、三十分で沈没してしまった。
散文的な表現を借りれば“見えざる手”が「桜花」の使用を妨害しているように思えてならない。
下関海峡で待機していた「竜鳳」はフィリピン進出をやめ、当初の予定通り台湾に向かうことになったが、「桜花」の使用については問題がありすぎた。台湾からレイテ島まで千四百キロ。「桜花」を抱いた一式陸攻では行けない。「桜花」は兵器としては扱いにくいものとなった。
「神雷部隊」七二一空のフィリピン進出は「桜花」を積んだ輸送空母の沈没で取りやめとなる。
それにしてもこの部隊は、指揮官の個性を反映した風変わりな部隊である。司令の岡村基春大佐が特攻の信奉者で、がむしゃらな性格であるところもあったが、七一一飛行隊長、野中五郎少佐の奇怪とも思える言動がいっそう、うわさに拍車をかけた。
野中少佐は海兵六十一期。根っからの飛行機乗りであった。霞ケ浦で飛行学生時代の昭和十一年、二・二六事件が起きたが、その首謀者の一人野中四郎大尉(反乱三日目に自決)は実兄である。
飛行学生時代をともに過ごした中攻パイロットの巌谷二三男少佐によると、当時からべらんめえ調の江戸っ子弁を使い、私室に香を焚き、茶の湯を楽しんでいたというから多分にペダンチックなところがあったらしい。
「彼は攻撃のことを『殴り込み』といい、自分の飛行隊を『野中一家』と称して平然たるものだった。二月(二十年)のある日、用事があって神ノ池基地を訪ねた。桜色の頬に真っ黒い八字髭を生やした彼が私を迎えて、さっそく茶の振る舞いをしてくれた。
彼が陣どる戦闘指揮所の四周は長大な吹き流しと南無妙法蓮華経の大旗がはためき、大きな陣太鼓さえ備えられていて、全海軍中どこへ行っても見られぬ光景だった。
粗末なバラックで彼と対座していると若い彼の部下、いわゆる『野中一家』の面々が訓練を終えて食堂に入ってきた。皆、寒風に頬を赤く染めた二十代の青年だが、彼はその一人一人を私に紹介してくれた。これも彼独特の礼儀であった」
と巌谷氏は著書『中攻』の中に書いている。
大島長生大尉(名古屋市北区本通り三丁目)は、七〇八飛行隊の整備分隊長(名古屋工大卒、一期兵科予備学生と同期)として、神ノ池基地に赴任、野中少佐にあいさつをした時の印象を、
「初めはふざけているのかと思いました。『野中というケチな野郎でござんす。以後お見知りおきを』と大まじめですからね。『桜花』を、
『こんな軽業みたいなもの兵器じゃねえ』
と言っていました。航空本部から担当者が来ていろいろと戦訓について議論することが多いんですが、野中少佐は食ってかかっていました。
『国賊と言われたって反対してやる』
と言っていたのも聞きました。
『どうせ、おれは出世しねえんだ』
と言っていたのは本気だったのか冗談だったのか――」
と回想している。
正式部隊名といっしょに「神雷部隊」の看板を掲げたのは司令の岡村大佐であったにしても、幟といい、陣太鼓といい、組織をはみ出している。海軍も特攻作戦をとり始めてから少し変になる。
七一一飛行隊長野中五郎少佐が、一式陸攻に「桜花」を懸吊して、のろのろと戦場に出かける戦術に批判的だったのは、戦場に着く前に肝心の母機――一式陸攻が敵戦闘機に食われてしまって効果がない、という極めて現実的な道理を踏まえた見識である。
十二月十九日「神雷部隊」――七二一空に編入された七〇八飛行隊(足立次郎少佐)の分隊長だった八木田喜良大尉(金沢市新保町一丁目)はこう回想している。
「『神雷部隊』の存在を知ったのは十九年十一月上旬です。台湾沖航空戦の後、鹿屋基地で再建中だった七〇八飛行隊の分隊長として、豊橋空から赴任して間もないころでした。
その時の第一印象は“一式陸攻を母機として使用する強襲はあぶない”でした。一式陸攻は十八年末ごろには、ラバウル戦場の戦訓で、夜間しか活躍は期待できないと、大体海軍内部で意見は一致していたのです。
それで私たちの隊は鹿屋でT部隊の中核として夜間雷撃の訓練に励んでいたのです。訓練の成果も上がった十二月(正確には十九日)に、急に七二一空に編入になり、鹿屋から宮崎に移動しました。
母機に改造された一式陸攻は岡山県の水島にあった三菱工場から空輸され、二十年二月末には四十機がそろいました。
『桜花』用として改造された点は、私の記憶によりますと、懸吊架の取り付け、主操縦席と胴体内タンクを二十ミリ程度の防弾板で囲う、主翼タンクの下部に三十ミリのゴムを張り付ける、といった程度だったと思います。自動消火装置もありました。
自重が増えたうえに、翼面下の防弾ゴムが空気抵抗を大きくして、巡航速度はこれだけでも十ノットは下がったでしょう。これに二トン以上もある『桜花』を懸吊したらどうなるか。とてもじゃないがスピードは出ません」
淡々と語る。
八木田大尉は足立隊長の命令で、二十年一月、神ノ池基地に出張した。ラバウル時代から野中少佐と面識があるので、指揮所でひとしきり懐旧談をやったが、急に改まった野中少佐から、
「隊長室に来い」
と誘われた。野中少佐はしみじみと言った。
「おれは『桜花』作戦は司令部に断念させたい。もちろん自分は必死攻撃を恐れるものではないが、攻撃機を敵まで到達させることができないことが明瞭な戦法を肯定するのは嫌だ。クソの役にも立たない自殺行為に、多数の部下を道づれにすることは耐えられない。
司令部では『桜花』を投下したら陸攻隊は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら、自分たちだけが帰れると思うか」
と言った。
「これが野中少佐の遺言になりました」
と八木田氏は語る。
潜水艦の犠牲も続出
戦局が深まるにつれ、若者はひたすらに死ぬ。
まず「回天」隊に対して十九年十一月五日、豊田副武連合艦隊司令長官から、三輪茂義第六艦隊(潜水艦部隊)司令長官に、ウルシー泊地に停泊している敵艦船への攻撃が命令された。特攻攻撃が公式文書として出された最初である。記録文書は次の通りである。
「GF(連合艦隊司令部)電令作第四〇〇号(五日一一四二発電)
先遣部隊指揮官ハ左ニヨリ『玄作戦』ヲ実施スベシ。
一、西『カロリン』方面在泊中ノ敵機動部隊ヲ捕捉『回天』ヲ以テ挺身奇襲ス。
二、攻撃期日 十二月二十日頃。
三、兵力 第十五潜水隊ノ作戦行動中ノ一部潜水艦ヲ以テ隠密実施ス」
「玄作戦」とは単なる名称で言葉自体に意味はない。
この命令は突然出されたものではない。
八月下旬――まだ「回天」の搭乗訓練も行われていない時期――大津島での訓練開始は九月六日――に特攻戦隊司令官長井満少将が軍令部に呼ばれ、次のような「回天」第一次攻撃の内示を受けていた(鳥巣建之助第六艦隊参謀資料)。
一、出撃予定は十月末、遅くとも十一月初旬を目途として、「回天」の戦力化をはかる。
二、出撃基数は十二ないし十六基。
三、出撃搭乗員は全員士官を充てる。
長井司令官は「回天」の生産がはかばかしくないことを理由に作戦の延期を要請したが、承認されなかった。
軍令部がこの時点で「回天」作戦にこだわっていたのには証拠がある。軍令部第一部長中沢佑少将と同第一課員土肥一夫中佐のメモが残っている(防衛庁公刊戦史『潜水艦史』による)。
大本営海軍部は九月十二日、及川古志郎軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究を行い、丹作戦(要地在泊敵艦艇に対する航空特攻攻撃)とともに、玄作戦(回天攻撃)の検討を行っている。
計画は次の通りであった。
〈使用兵力〉大型潜水艦六隻を用意し、同二隻を予備とする。回天の準備が出来れば、予備の二隻も使用する。
潜水艦一隻に回天四基を搭載する。
回天要員は九月末までに、三十二基分を用意する。
〈作戦時期〉月明期とする。十月二十八日から十一月四―五日を目標とする。
〈攻撃目標〉局地奇襲とし、目標を空母とする。メジュロ、クエゼリン、ブラウンを狙う。
〈作戦要領〉潜水艦は内海からマーシャルまで、二十日間で進撃する。回天の進撃は環礁外五カイリ(約九キロ)で行う。
敵泊地の偵察は、ウエークを経由して「彩雲(高性能偵察機)」六機で実施する。四機を事前偵察に使用し、二機を戦果確認に使用する。
この作戦計画は、若者の至情に訴えるといったような生易しいものではない。軍令部作戦として、既定の路線をひた走りに走らせるだけであった。そこにはただ若者の生命を、戦争継続のためにひたすらに求めた、としか言いようのない事実が浮かび上がってくるだけだ。
さらに計画が進んでゆく過程が九月二十七日、軍令部員藤森康男中佐(水中、水上特攻担当)が軍令部第一部長に報告した内容によって明らかとなる(軍令部第一部長中沢佑少将メモ)。
その骨子はつぎの通りである。
〈回天の準備〉累計三十二基については、九月二十六日までに工廠で完成し、十月二日までに部隊が領収し、十月六日までに出撃準備を行う。累計五十基については、九月二十九日までに工廠で生産が完成し、十月五日までに部隊が領収し、十月十二日までに出撃準備を行う。
〈回天要員の訓練〉要員一人について、航走訓練を十五回行う。九月十日までに十六基の訓練を実施する。
潜水艦から発進する訓練は、一人五回行う。
〈潜水艦の整備〉回天搭載の工事と準備は次の通り完成させる。
伊三六潜、伊四一潜は九月二十七日。
伊四四潜、伊四六潜は同二十八日。
伊二六潜は同二十九日。
伊三八潜、伊四五潜、伊五四潜は同三十日。
これら潜水艦の出撃可能見込みは、十月七日、十三日、十八日にそれぞれ二隻ずつ、合計六隻となる。
〈作戦時期〉X日を十一月三日とする。
また、藤森中佐は、
「『回天』の命中確度は七五パーセントと考えられ、兵器性能からも価値が極めて大きい。技術関係では水漬け実験がまだ検討中であり、冷走の原因除去に努力が払われている」と報告している。
潜水艦は作戦海域などから呼び戻され、呉海軍工廠で「回天」搭載に必要な改造が不十分ながら行われた。命令次第でいつでも出撃できる体制は整えられていたのである。
軍令部は、黒木大尉たちが「回天」の使用計画を持っていった時、
「人命尊重のため脱出装置がなければ許可しない」
と言った口の下から、一方ではそれを使って行う作戦計画を着々と進めていたのである。ではだれが作戦を推進したのか、という段階になると資料的には証明することが不可能な、いとも不可思議な図式が出来上がっていた。
「回天」にしても「桜花」にしても、すべておぜん立てが整った上での特攻作戦だったのである。
若者の至情を軍上層は巧みに吸い上げ、美談的既成事実として突っ込ませるのは、軍令部の一貫した行動様式である。
ただ、当時の若者たちはひたすら“祖国”のために身をささげたのである。上層部の思惑などどうでもよかった。
「回天」の出撃準備はいつでも可能なように整えられていたとはいえ、技術的にみれば満足のいくものではなかった。
例えば「回天」の防水の問題や、潜水艦内部から「回天」に搭乗員を乗り込ませる装置の取り付けなど、まだまだ不十分だったのである。
「回天」が九三式魚雷の動力部分をそっくり使って動力源としたことは前にふれたが、潜水艦と同程度の水深百メートルに潜水すると、エンジンの気筒内に海水が侵入する。これを防止することがどうしてもできなかった。
出撃海域に到達するまで、パッキングで固く締めておき、出撃時に緩めるという手段しかないが、戦場海域でパッキングを操作するようでは戦争にならない。呉海軍工廠の技術者も頭を抱えた。
この時、思わぬ方法を発見したのは山崎正八郎大尉で、兵学校時代に応急運用術として習ったビンツケの利用であった。
軸受けと軸との間にビンツケを塗ると、一時的な防水効果がある。窮余の末「回天」に使用してみると、思わぬ防水効果をあげた。以来山崎大尉は“ビンツケ大尉”とあだ名されたが、いわば弥縫的な手段しか取り得なかったからに外ならない。
第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐は、
「ビンツケは出発間際まで改善研究を続けてやっと間にあったのです。と同時に交通筒の設置問題は現場の参謀としては重大なことでした。
『全基の搭乗員が潜水艦内から乗り込めるように交通筒を付けてもらいたい。装備が整うまで作戦はできないので延期して欲しい』
とまで、連合艦隊や軍令部に強硬に申し入れたのですが、取り上げてもらえませんでした。『回天』搭乗員を乗せるため、潜水艦が敵前で浮上するということは、レーダーの発達している米海軍から見れば『沈めてください』とわざわざ姿を現すようなもので、百人近い乗員がいる母艦の潜水艦まで危険にさらされます。
功を焦り過ぎた軍令部や連合艦隊のゴリ押しです。『回天』に対する憤懣が私には当初から燃え上がっていました」
と今でも憤りを隠さない。
潜水艦の内部から搭乗員を搭乗させる交通筒も一艦に二基しか取り付ける余裕がなく、他の二人は潜水艦が敵前でいったん浮上して乗り込むしかなかった。
それでも命令とあればやるしかなく、呉軍港に在泊していた第六艦隊旗艦「筑紫丸」で十月末、最後の作戦会議を開き軍隊区分と攻撃部署を決めた。
この会議で「回天」隊の第一次出撃は「菊水隊」と命名された。
出席者は連合艦隊主務参謀、第六艦隊司令部、実施部隊(回天隊、潜水艦)の首脳部と、軍令部の意向に従って大津島で訓練中の士官十二人が加わった(この後の会議であったという説もある)。
十九年十月末、呉軍港に在泊していた第六艦隊旗艦「筑紫丸」で開かれた「菊水回天作戦」の会議で、攻撃目標はイ三六、イ四七潜がウルシー泊地。イ三七潜はパラオ島コッソル水道の敵艦船攻撃と決定した。
が、この作戦会議に出席した潜水艦長たちは「回天」の存在を全く知らなかった。
三ヵ月前に佐世保海軍工廠で完成し、母港の横須賀で訓練中、呉の第六艦隊司令部から、
「至急呉に回航せよ」
との命令を受けたイ四七潜艦長折田善次少佐は、「筑紫丸」の作戦室で初めて詳細を知らされて驚く。
「迎えのランチで旗艦に行き、作戦室に通ると第十五潜水隊司令揚田清猪大佐、イ三六潜艦長寺本巌少佐、イ三七潜艦長神本信雄中佐らが先着していました。
間もなく先任参謀の井浦祥二郎大佐、水雷参謀鳥巣建之助中佐、第六艦隊司令長官三輪茂義中将、参謀長佐々木半九少将が姿を現し、作戦室の扉が固く締められて、井浦先任参謀から作戦の説明を聞きました。
新造のイ四七潜には後甲板に穴が開いていて、何に使用するのかわからなかったのですが、井浦先任参謀から『軍機』と書いてある封筒から取り出した図面を見せられ、
『実は金物四基を搭載するためです』
と聞かされて初めて知ったようなわけです。
呉に回航命令を出した時、理由を聞いても、
『期するところあり』
としか、どうしても言わなかった鳥巣参謀が『回天』の成り立ちから説明し、初めて潜水艦長の責任の重さを知ったようなわけです」
と回想している。折田氏には、作戦会議の席に仁科関夫中尉ら隊員が出席していた記憶はない。
「搭載兵器は単なる新兵器ではなく“精神兵器”だと直感しました。肉迫攻撃の最終責任は潜水艦長に託されているわけです。絶好の発射地点を求めて潜入することさえ難事なのに、最後には人間に対して断固一声、
『ゆけ!』
と死地に突入を命じなければならないのです。使命の重大さに冷水を浴びた感じでした」
と語っている。
同氏の記憶によると、会議を終わって艦に戻ると先任将校に案内されて飛行服に似た作業服を身にまとった長身の士官が艦長室に入ってきた。目と耳を覆うばかりの蓬髪で切れ長の目が鋭かった。
「大津島基地隊付教官、海軍中尉仁科関夫」
と申告した。後甲板の特殊工事を子細に見て、要望事項と所見を述べ、
「夜間訓練がありますから失礼します」
と休憩もせずに帰った。さっそうとした立ち居振る舞いに吉川英治の小説『宮本武蔵』を連想した。
軍隊区分を決めたのは数日後で、この時出撃隊員十二人が加わっている。
「回天菊水隊」の出撃が決まった隊員は十一月三日、突然の帰省が許される。呉鎮守府長官沢本頼雄中将から特攻戦隊司令官長井満少将に通達されたもので、海軍大臣の訓令に基づいたものである。
帰省可能な出撃隊員はひそかな別れを家族に告げた。
上別府宜紀大尉は鹿児島の実家で母親の手料理に舌鼓を打ち、父と囲碁に興じ、黙って別れていった。
仁科関夫中尉は滋賀県大津市の自宅へ、伸び放題の頭髪のままひょっこり姿を見せた。あいにく父は不在。翌朝、ふろ場で頭から何杯も水をかぶった。
「散髪する暇もないの」
と尋ねた母に無言。
「恐ろしい顔になったね」
やはり無言。
夕食は進まない。心配する母に、
「もう子供じゃあない。がつがつ食えないよ」
結婚話には、
「前に言ったことはみんな取り消し、全部取り消し。今はとても忙しいんだ」
翌朝、母手作りのにぎり飯を持って門前で別れ、振り向きもせず去った。
福岡に帰った福田斉中尉は子供の時と同じように母と一緒の部屋に寝る。病気がちで食欲が進まないという兄嫁に、遺品として送られた荷物の中に「姉さんへ」と書いた酵母剤“ワカモト”のびんが入っていた。
「急ぎ過ぎる出撃だった」
と、第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐が指摘しているように「菊水隊」の出撃は三隻の潜水艦に「回天」がわずかに十二基。ウルシー、コッソル水道に停泊する敵艦船数百隻を攻撃するには、あまりにもひ弱い。戦術的に見てもうなずける数字ではない。
戦いに勝つ要諦は常に大軍をもって敵を包囲することではなかったか。第一次世界大戦後の軍縮交渉の結果、日本は米、英の六割海軍になっていたとはいえ、ハワイといい、ミッドウェーといい、常に敵に勝る戦力で戦ってきた。
ミッドウェーでは敗北したが、勝敗は戦いの常であり、少数精鋭主義は戦いの本旨ではなかったはずだ。特攻作戦が展開されるようになって、戦術的にも日本の敗北ははっきりしていた。軍首脳はすべてを知っていて、なぜもかくのごとき戦闘を若者に強いたのだろう。
軍令部が、
「もう戦えません」
と立場上、口が裂けても言えない以上、為政者はこの辺りではっきりした方針を連合国に表明すべきではなかったか。血の気が多くて、未熟な主戦派、中堅幹部の暴走が怖くて(命が欲しくて)、為政者が“終戦”を言い出せなかったのは、卑怯者だった証拠といえる。命が惜しくて言い出せなかったにすぎないことは、今では資料的にはっきりしている。何よりも“八月十五日”が日本にはあったではないか。開戦責任がある以上、終戦責任も存在する。若者の死が、ひたむきであったればこそ、思いは募る。
十一月七日。大津島出撃の前日。「回天」隊指揮官板倉光馬少佐は、出撃前の晩は心静かに過ごさせてやりたいと思っていた。が第六艦隊司令部から、壮行会をやると言ってきた。
先任搭乗員の上別府宜紀大尉は、
「なるべく簡素に願います」
と希望した。
板倉少佐はカチグリ、スルメ、塩コンブの盛り合わせだけにし、酒は「忠勇」、杯は「神武杯」にした。あらかじめ用意していたものである。
夕刻、三輪茂義長官や幕僚たちが陸路やって来た。豊田副武連合艦隊司令長官から贈られた短刀(特攻刀)を伝達するためである。
壮行会の会場は急造バラック兵舎であった。出撃搭乗員の同期生や、ごく親しい戦友だけにしぼったが、立錐の余地もないほど隊員がつめかけた。
三輪長官が、涙ながらに出撃の辞を述べると、上別府大尉が、
「必ず敵艦に命中します」
と答える。割れるような拍手がわき起こった。
板倉少佐がふと桟橋の方に目をやると、仁科関夫中尉の乗る「回天」の整備担当赤坂松男少尉がイ四七潜から戻ってくるのが見えた。
搭載した「回天」を確認しての帰りだった。赤坂少尉は、板倉少佐にしんみりと、前夜目撃したことを語った。
出撃する「回天」をそれぞれの潜水艦に搭載するのは出撃前日で、前々夜は「回天」調整場をはき清め、実用頭部を付けた「回天」にお神酒を供えて待つ。
深夜、赤坂少尉が今一度点検しようと、調整場に行ったところ、仁科中尉の乗る「回天」のハッチが開いている。不審に思って近づくと仁科中尉が一心に点検していた。
「合掌して拝みました」
短刀の授与式が行われたのは出撃当日の十一月八日午前八時である。白ざやの短刀には「護国」と及川古志郎軍令部総長直筆の墨書があり、にしきの袋に入っている。この時、豊田司令長官は内地にいない。
「沖を見ると、出撃準備を完了した三隻の潜水艦が『回天』を乗せ、恐ろしいほどの迫力でした。艦橋には日の丸の上に菊水のマークがくっきりと浮かび上がっていました」
と鳥巣建之助水雷参謀は語っている。菊水のマークはイ四七潜の潜航長岡之雄中尉が思いついて描いたものを各艦がまねたという。
出撃隊員は第一種軍装から薄茶色のワイシャツに紺のネクタイ、淡緑色の第三種軍装に着替え、上別府大尉を先頭に乗艦の行進を始めた。仁科中尉の胸には訓練中に殉職し、特に仁科中尉に後事を託した黒木博司大尉の遺骨がしっかりと抱かれていた。
「順番号出港」
の信号が上がったのは午前九時。各艦に応旗が揚がり、イ三六、イ三七、イ四七の順で出港していった。
十数隻の内火艇や魚雷艇に乗った隊員や整備員たちが艦について離れなかった。
初の「回天菊水隊」の攻撃決行は十一月十九日である。イ三六潜に、揚田司令が乗艦し指揮を執った。
この日は、「桜花」の搭乗訓練を神ノ池基地で開始して一週間目。そして及川古志郎軍令部総長が天皇に、
「七二一空の桜花隊の練度も順調に進みまして、近く作戦地に進出可能の見込みにございます――」
と奏上した日である。
「回天」はすでに泊地攻撃を決行していた。
防衛庁公刊戦史『潜水艦史』は次のように書いている。大まかだが、引用しておく。
「十一月十九日『イ三六潜』は北側から、『イ四七潜』は南側からウルシー泊地を偵察し、二十日黎明、左のように回天を発進した。
『イ三六潜』――三基は故障のため発進できず、〇四五四(午前四時五十四分)に一基を発進し、〇五四五に大爆発音を、〇六四五誘爆音を聴取した。
『イ四七潜』――〇三二八から〇三四二の間に、四基を発進、〇四一六および〇四二二に、大火柱各一および火災を確認した。
『イ三七潜』はコッソル水道の攻撃に向かったが、第三十根拠地隊(パラオ)は攻撃の模様を認めなかった。先遣部隊指揮官は二十二日、同潜に、
『二十二日黎明までに攻撃の好機を得ざれば攻撃を止め呉に帰投』
を命じたが、同艦は帰還しなかった(沈没したのである)。
『イ三六潜』、『イ四七潜』は三十日呉に帰還し、戦果は空母二隻、戦艦三隻撃沈と判定された。
(注)米側資料(COMBAT COMMAND, by Admiral Frederic C. Sherman, E. P. Dutton & Company, Inc. NEW YORK, 1950)によれば回天の戦果はタンカー一隻撃沈だけであった。当時ウルシーにはシャーマン隊が在泊していた。
二十日午前六時過ぎ、シャーマン少将は敵の小型潜水艦がいるとの報告を受けていた。巡洋艦「モビール」は潜望鏡を発見して発砲、潜水艦が沈没した。港口の外側では、一隻の小型潜水艦が駆逐艦の衝突を受けて沈没した。礁外では一隻の駆逐艦が、もう一隻の潜水艇を探知し爆雷攻撃を加えて浮上させた。
しかし、この回天攻撃は米軍に大きな脅威を与え、シャーマンは自著で、
『その日と翌晩はいつ爆発するかも知れぬ火薬庫の上に腰をおろしているように感じた。休養時間を楽しむどころではなく、洋上の方がよほど安全に感じた』
と記述している」
「回天」の戦果は、米軍戦史によるとあまり多くはない。が、米軍が「回天」の存在を恐れていたことは事実で、母艦に対する爆雷攻撃も少なくなった、という証言は多い。
イ四七潜艦長折田善次少佐によると、十一月八日大津島基地を出撃し、目的地のウルシー環礁に着いたのは十九日である。約十日。
折田艦長のクラスは大尉時代、真珠湾攻撃に潜水艦で出撃し、二十三ノット(約四十三キロ)の高速で水上を走り回った体験を持っている。
大津島からカロリン諸島のウルシーまで図上直線距離で約千五百キロ。普通なら四、五日の行程だろう。
それがこの時期になるとアメリカのレーダーの発達で昼間はもちろん、夜間も潜水したまま航行することが多く、水中で四、五ノット(最大九ノットだが、短時間しか走れない)しか速力が出ないので、十日もかかっての戦場到着であった。
潜水艦の犠牲は想像以上に多く、戦時建造も含めて百二十六隻(計算の仕方で多少の差がある)が撃沈されている。九〇パーセントをはるかに超える損害である。
潜水艦にとっても「回天」作戦は“墓場”であったわけで、結論的に言えば「回天」作戦に従事した潜水艦、十五隻(延べ三十一隻)のうち八隻が撃沈されている。八十五人の「回天」搭乗員が出撃して特攻死した陰には、三十人の整備員(潜水艦に「回天」の整備員が一基に一人ずつ同行する)と潜水艦乗員八百四十五人、計八百七十五人が共に海底に眠ったのだ。「桜花」もその点は同じで、母機の一式陸攻には七、八人が乗っており、掩護戦闘機も犠牲が大きかった。
それはさておき、折田艦長の証言を聞こう。
ウルシー泊地の敵艦船情報が入ったのは十六日。トラック島基地から飛んだ偵察機情報の転電である。
「十九日朝、目的海域に侵入できました。午前十一時、ウルシー泊地の南西方から潜望鏡で観察しますと、最も近い艦まで約七千メートルでした。潜望鏡がやっと海面に出る深度十九メートルでの観測です。
空母、巡洋艦、輸送船が視界内だけでも五十隻以上いました。
倍率の大きい二番潜望鏡で仁科関夫中尉に観測させました。息をのんで約二分ほど見ていましたが、
『よし!』
と自分に言い聞かせるように言って、福田斉中尉に代わりました。続いて佐藤章、渡辺幸三少尉が観測しました。
少し深く潜航し、搭乗員を集めて最後の打ち合わせを行い、朱杯で乾杯しました。
全部の『回天』搭乗員を艦内の交通筒から乗せられませんので、一度浮上しないといけません。潜航して遠ざかり、日没一時間後にウルシー泊地の南東三十カイリ(五十六キロ)で浮上しました。泊地の上空がボーと明るかったのをはっきり覚えています」
シャワーを浴びて福田中尉は長髪を刈り、渡辺少尉はひげを剃り落として死出の旅支度。佐藤少尉はあか抜けていた。
仁科中尉だけは「怒髪天を衝く」蓬髪のまま。
いったん浮上したイ四七潜は「虎の尾を踏む思い」(折田善次艦長の回想)で、そろりそろりと予定地点に再反転した。
甲板上から「回天」に乗る佐藤章、渡辺幸三少尉に折田艦長が搭乗を命じたのは二十日午前零時半。
「佐藤少尉は三号艇に乗艇。令により発進し敵艦に突撃命中します!」
と大声。渡辺少尉も同じように復唱し、折田艦長と握手して身を翻し、タラップを駆け上がっていった。
「このときの隊員の姿は何とも言えません」
乗艇を命じたことのある艦長が等しくいう言葉である。
潜水艦に同乗して出撃した整備員の心境もあわれである。棺桶に納まった肉親を野辺の送りに出すときに似ている。搭乗員を「回天」に乗せハッチを締めると、冷たい鉄の“棺桶”を両手で叩きながらオイオイ大声で泣くという。自ら整備した「回天」が若者の即身仏と化す小さな空間になると思えば、泣かずにおれない日本人のメンタリティである。整備員にとってもまた「回天」はつらい兵器であった。
三、四号艇の乗艇が終わるとイ四七潜は潜航して発射地点に進む。
仁科関夫、福田中尉の乗艇は、艦内の交通筒から行うので午前三時過ぎでよい。
それから約二時間、先に甲板から乗っている佐藤、渡辺両少尉は狭い「回天」の中で、潜水艦から送られてくる小さなパイプの空気で呼吸し、電話で整備員たちととりとめのない話をして過ごす。
「回天」の搭乗員にとって最も苦しい時間ではなかったか。健康な人間が小さく、ほの暗い密室で死を待つ長い時間。瞬間的に選択する死は、戦場にあればあるいは容易かもしれない。が、死を命題としての数時間は残酷である。
彼ら若者たちをここまでかり立てたものは何であったか。ひたすらな祖国への“愛”だったのか。自ら選んだ“戦士”としての義務感からか。
「仁科中尉は全艦員に対して感謝すると謝辞を述べて黒木大尉の遺骨とともに交通筒から『回天』に消えてゆきました。艦長の私にとって断腸の思いのする瞬間がきます。
『一号艇発進用意!』
どうせ私たちも死ぬ、という前提があったからこそ命令できたのです。仁科中尉の最後の言葉は、
『発進用意よし! 後頼みます!』
後頼みます、でしたよ。
『用意、発進』
四時四十五分、エンジンがかかり、仁科中尉は電話線をちぎるプツンという音を残して発進しました。
三号艇の佐藤少尉は、
『ありがとうございました。艦長以下全員の武運長久をお祈りします』
四号艇の渡辺少尉は、
『落ち着いて行きますからご心配なく』
最後の福田中尉は電話線がちぎれる前、
『バンザーイ!』
と叫びました。
『回天』の戦果確認――爆発音を聞くまでには二、三十分かかります。夜が明け始めたころ、艦尾方向の水平線上に、そこはまぎれもなくウルシー泊地の真ん中ですが、大きな火柱が上がりました。瞬間的に時計を見ると五時五分でした。
『命中一発確認!』
大声で叫びました。二度目の火柱を見たのは五時十一分でした」
「回天」隊のあげた戦果は論じない。ただ、「菊水隊」の仁科関夫中尉は、ウルシー泊地の敵艦に突入する前まで潜水艦内で書き記した戦誌に、
「在泊艦無慮百数十隻なり。わが『回天』使用の絶好の戦機なるに、われらの潜水艦わずかに二隻、『回天』八基のみ。百基の『回天』あらば――遺憾の極み」
という文章を残した。折田善次イ四七潜艦長からウルシー泊地に停泊している無数の敵艦隊を潜望鏡で見せてもらった時の感想である。
この絶望感は悲しい。戦局はもう、どうにもならないということを一番よく知っていたのは、隊員たちであったのだ。
十二月三十日、大津島を出撃し、二十年一月十二日、グアム島アプラ港に突っ込んだ「金剛隊」の石川誠三中尉は、イ五八潜の中で、
「写真偵察のもっと詳しい状況が知りたかった。大体敵の防御状況、港湾の状況をちっとも教えることなく出撃させるとは、いささか無責任ではないだろうか。
出せば必ず戦果があがるんだと簡単に信じてもらいたくない。人力の尽くせるところまで尽くしてこそ戦果もあがるのである」
と批判的な文章を残したのが、長く心に残っている、とイ五八潜艦長橋本以行少佐は書いている。
前後するが、第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐は「菊水」作戦に対して、
「『回天』の訓練、整備も潜水艦の整備も不完全のままで、しかも実施部隊の意見を無視して大本営や連合艦隊が強行した焦り過ぎの作戦であった」
と言い切っている。
「菊水隊」でコッソル水道に出動したイ三七潜は、艦長神本信雄中佐以下百十六人の潜水艦乗員と、上別府宜紀大尉以下四人の「回天」搭乗員、整備員として同行した時田久義上等兵曹ら四人の兵曹を乗せたまま敵の攻撃を受けて撃沈されている。“裏方”の犠牲も大きかったのだ。
戦後刊行された米軍の戦史を見ても、ウルシー泊地は、防潜網が艦の出入りのため開いていた時、「回天」が侵入できたという幸運があり、二基は環礁に乗り上げ、二人の死体が環礁内で発見されている。
泊地には相当の防御が施されていたのが米軍の実際であった。防潜網をくぐり抜けてやすやすと侵入できたとは思えない。
十二月二日、呉港の「筑紫丸」艦上で「回天菊水隊」の研究会が開かれた。軍令部、軍務局、潜水艦部、連合艦隊、潜水学校などからも関係者が出席した。鳥巣参謀が、
「『回天』の献身的な攻撃を国民に公表してほしい」
と言ったのに対して、軍令部は、
「いや、敵はどこから攻撃されたか分からないかもしれないではないか。こっちからバラす必要はない」
と否定した。この時米軍は環礁に打ち上げられた「回天」を見ていたのである。
鳥巣建之助中佐が「筑紫丸」での会議の席上、
「『回天』の戦果公表をしてほしい」
と軍令部関係者に要請した理由は、すでに神風特別攻撃隊の戦果発表があったので「回天」隊員の名誉も国民に知らせたいという気持ちである。が、鳥巣参謀の言いたかったのは泊地攻撃を一度だけで打ち切り、「目先を変えて洋上攻撃に戦術転換するべきだ」との狙いがあったのだ。
一度泊地攻撃をやられると米軍は危機管理対策に優れているから“おなじ柳の下で二匹もドジョウはとらさない”という実施部隊の体験的な理論から、鳥巣中佐としては泊地攻撃を避けたかったのである。
板倉光馬少佐は、
「軍令部はすでに第二回の泊地攻撃を決めており、いまさら作戦変更はできなかったのです」
と、その場の空気を語っている。硬直した軍令部の姿を物語るもので、組織としても末期状態にあったと言える。米軍の“フレキシブル・オペレーション(柔軟戦術)”と極めて対照的である。
「菊水隊」で突っ込んだ仁科関夫中尉は、潜水艦内で克明な所見を書き残しているが、「回天作戦ノ戦果未発表ノ件」というのがある。
「一、回天特別攻撃隊菊水隊ノ戦果確認ニツキ、潜水艦長以下特ニ意ヲ持チヒラル。
後続隊ノ用法ニ就キテハ更ニ作戦指導上極メテ重要ナリ。タダソノ中ニ『搭乗員ノ気持チノ上カラ』ナル理由ハ一擲《いつてき》サレタシ。戦果確認ニ捉ハレ、戦果挙ガラザルト、戦果不明ナレドソノ実アルト何レゾ。
二、飛行機ノ用法ト異ナリ回天隊ハ特ニ奇襲ニ依ラザレバ、ソノ成果ヲ期シ難シ。一旦ソノ実ヲ敵ニ察知セラレタル以上、再ビ同一使用法ハ、極メテ難事タラン」
という内容である。
フィリピンのセブ島から出撃した神風特別攻撃隊「大和隊」の久納好孚中尉が、戦果確認機の出撃に対して、
「飛行機がそれでなくても少ないのに戦果確認機など不用です」
と言ったのと同じである。
板倉少佐によると、仁科中尉が第一項で言いたかったのは、
「潜水艦ができるだけ近くまで近づき、『回天』を発射した後は、戦果確認のためまごまごせず、深深度で速やかに退避してほしい」
ということである、と説明する。
出撃時の会議で軍令部は戦果確認にこだわり、潜水艦に安全な海域――「回天」にとっては長距離――から出撃させることにしたのである。決定した作戦に潜水艦側も、搭乗員も文句をつけるわけにはゆかなかった。
第二項は、微妙だが二度と同じ作戦はやるな、という直感である。中尉の方が戦術眼は正しかった。
“死なばや死なん”
呉港内の第六艦隊旗艦「筑紫丸」での対策会議(「菊水作戦」の反省会)の後、東京にとって返した軍令部の藤森康男中佐は十二月六日、大本営海軍部に「回天菊水隊」の戦果報告と爾後の対策について報告している。
報告の骨子は全体的に“成果があった”という前提に立っているが、依然として「回天」の潜航深度の低いことをあげ、改善を求めている半面、出撃前に親潜水艦との緊密な合同訓練の必要性を説いている。
この会議の席上、「菊水隊」作戦でイ三六潜に同乗して出撃した第十五潜水隊司令揚田清猪大佐の要請で「回天」搭乗員、上別府宜紀大尉、仁科関夫中尉ら九人の殊勲が部内限りの極秘扱いで布告されることになった。
「回天」作戦が国民の前に公表されたのは、「金剛隊作戦」の後である。
そしてこの日、第二次「回天」攻撃隊として「金剛隊」を編成し同じ泊地攻撃を実施することになった。
軍令部は、
「米軍が『回天』の秘密と攻撃方法を知って、その対策をたてる前に攻撃を続行する必要がある」
と考えたのである。これはひとりよがりであったのだ。
米国は既述したように、すでに「回天」の実物をウルシー環礁で確認し、攻撃方法も知っていたのである。
米軍が「神風特攻隊」を恐れたのは、その成果よりも若者が絶対死を前提として果敢な攻撃を繰り返す精神力に圧倒されたからである。「回天」を恐怖したことは紛れもない事実だが、それは「神風」に対する恐怖と変わらない。やがて実戦に用いられる「桜花」についても同じことが言える。
戦後多くの体験者が語っているように、特攻作戦は米国にとって恐怖となったが、その戦果は必ずしも大きくなかった。
米海軍は科学的な防御対策と戦術を考え、特攻機が近づく前に徹底した予防線をはったのである。「回天」攻撃に備え、徹底した対潜攻撃を行い、泊地には「回天」の侵入を防ぐ防潜網を張り巡らせた。
とまれ「金剛隊」に使用される潜水艦はイ三六、イ四七、イ四八、イ五三、イ五八、イ五六の六隻で、「第二次玄作戦」と名づけられた。実施要領は第一回と同じく泊地攻撃である。攻撃命令は、
「西カロリン諸島、マリアナ諸島、ブラウン、アドミラルチー、フンボルト方面に在泊中の敵機動部隊を捕捉し撲滅する。
攻撃決行期日を一月十一日と予定す。但しイ四八潜の決行日は一月二十日」
であった。
実施命令が出されたのは十二月十九日(電作令第四四八号)。
イ五六潜は十二月二十一日、イ四七潜は三十日、イ四八潜は一月九日、各艦とも予定通り大津島を出港、予定攻撃地区に向かった。
「第二次玄作戦(金剛隊)」に使用された六隻の潜水艦は、当時残っていた大型潜水艦の精鋭を集めたものであった。
この攻撃から一般兵科水兵――志願して海兵団に入団した――若者たちや、甲種予科練出身者が海兵、海機出身者に交じって参加していることを忘れてはならない。
特攻隊といえば海兵などのプロ軍人の養成学校出身者と、予科練出身者ばかりと思われがちだが、一般の志願兵もいたのである。海兵団に入団し、潜水学校で潜水艦教育を受け、P基地(広島県安芸郡音戸町)で特殊潜航艇(小型潜水艦)の乗員訓練を受けていて「回天」隊に志願した若者たちである。
この時の人選で板倉光馬少佐は苦しい立場に立たされる。
板倉少佐と隊員たちの間では「菊水隊」の出撃の際、一度出撃して何らかの事情で帰投した場合、理由のいかんを問わず再び出撃はしないという申し合わせができていた。
「一度死を決したものが死ねなかった時の心境の変化――たとえ変わらなかったとしても無視できない問題があると判断したからです」
との板倉少佐らしい判断による。往々にして一度特攻隊員として出撃したら死ぬまで出撃させられる、という証言の多い中で「回天」隊の“再出撃禁止”の申し合わせには救いがある。
が、隊員が承知しなかった。吉本健太郎(海兵)、豊住和寿(海機)、工藤義彦(予備学生)の三中尉が長井満司令官に直訴し、承諾を取ったのである。人選を任されていた板倉少佐は憤激し長井司令官に電話で確かめると、
「わしが許した。無理に止めると自殺しかねない」
と、言った。
「一度出撃したものがおめおめと」
という当時の若者らしい心境である。
板倉少佐は、ちょうど沖縄や八丈島に「回天」基地を展開する計画が進められていたので、それに転出させようとした。が、イ四八潜が新たに加えられることになり、三人の出撃は決定する。
「悪い習慣がこの時できたのです」
といまでも悔やんでいる。
出撃は盛大な見送りを受けた。
イ五八潜艦長として出撃した橋本以行少佐は、
「三輪茂義第六艦隊長官以下参列して出陣式があげられ、記念撮影の後、同僚から盛大な見送りを受けて出港した。内火艇がいっぱい集まってきて出撃隊員の名を連呼している。搭乗員は『回天』の上に乗り、白鉢巻き姿で軍刀を振ってこれにこたえた。
特に予科練出身者の先陣をたまわる森稔、三枝直二飛曹に対しては、同じ予科練出身者が熱烈な見送りをした。いつまでもついてくる。艦には『イ五八』と書き抜いて、日の丸の標識の上に菊水の紋章を掲げ、高く『非理法権天』と宇佐八幡大武神の旗が艦橋の大軍艦旗とともにさわやかな朝風にはためいていた」
と書いている。
「金剛隊」で一番早く大津島を出ていったのはアドミラルチー諸島のセアドラー港に向かったイ五六潜で、十二月二十一日であった。
各艦とも予定通り目的地に着いたが、すでに「回天」攻撃を予期して警戒が厳重であり各艦とも苦戦している。
イ四八潜は二十年一月二十日の夜中、ウルシー西方十八カイリ(三十三キロ)の海上で夜間偵察機のレーダーに探知された。ウルシーで待機していた三隻の駆逐艦に、二十二日は終日追い回された。
二十三日は午前三時半、浮上(酸素不足と思われる)したところを再びレーダーで捕らえられ潜航したが、五時間にわたるヘッジホッグ攻撃を受けて午前九時半、水中爆発を起こして沈没した(セオドア・ロスコウ『第二次大戦のアメリカ駆逐艦史』)。
防衛庁公刊戦史は次のように各艦の状況を伝えている。
〈イ五六潜〉(アドミラルチー諸島セアドラー港)
一月十二日から十四日まで侵入に努めたが、敵の警戒厳重で攻撃の機を逸す。
〈イ四七潜〉(フンボルト湾)
十二日〇三一六から〇三二六の間に四基発進、水上避退中、命中予想時刻である〇四五五フンボルト湾に一大火災を確認。
〈イ五三潜〉(コッソル水道)
〇三四九から〇三五六の間に三基発進(一基故障で発進せず)、一基は発進直後爆沈し二基は攻撃成功と認められ、命中予想時刻である〇五二〇および〇五二五に大爆発音二を聴取。
〈イ五八潜〉(グアム島アプラ港)
〇三一〇から〇三二七の間に四基発進、避退中の〇五三〇アプラ港に黒煙二条天に沖しあるを視認。
〈イ四八潜〉
ウルシーに向け出撃後連絡なし。
各潜水艦は、一月二十一日から二月三日までの間に呉に帰投したが、イ四八潜は未帰還となってしまった。
セアドラー港の攻撃に向かったイ五六潜は三日間にわたって動けなかった。
艦長森永正彦少佐の報告によれば、飛行機と駆逐艦が連係プレーで見張り、全く浮上できなかったという。ラバウルから飛んだ零戦の偵察によると、港の入口は防材で完全にふさがれていた。
「回天」搭乗員、柿崎実中尉は、
「自分が防材をふっとばすから、その後から残り三基を発射してほしい」
と言いはったが、無謀を戒めて思いとどまらせた。
森永艦長はタクロバン(フィリピン)沖で敵空母四隻に肉薄し、魚雷四本を発射したような冷静で、執ような艦長である。「回天」の使用は不可能と判断したのだ。
米軍はウルシー泊地が「回天」に狙われた後、全泊地に防御強化を指令している。
セアドラー港が防材で固められ、潜水艦対策を強化していたのはそのためである。
米軍の進攻は速度を速め、二十年二月十五日、三十隻以上の機動部隊が内南洋を北上しているのを、日本の哨戒艇が発見し打電した。
フィリピンの次は当然日本領土のどこかに上陸する公算が大きい。その前提として日本軍が兵力移動、偵察、輸送の中継基地として使用していた硫黄島への上陸が予想された。
特にマリアナ失陥後(十九年七月)の硫黄島は、米軍の前進基地に対する反撃基地として重要な位置にあった。
陸軍も防衛に力を入れ、一〇九師団を新編成し、師団長栗林忠道中将に所在の陸海軍部隊を統一指揮させていた。陸軍兵力一万三千五百八十人、海軍七千三百四十人であった。
常に硫黄ガスの噴き出る住みにくい島だが、マリアナと日本の中間(東京から千二百五十キロ)に位置し、戦略的には重要地点であった。
米軍が、早くから硫黄島の占領を計画していたことをもってしても、その戦略的地位がわかる。日本空襲の中継基地として使用するためである。事実広島に投下した原爆の観測機(B29)はここから飛び立って、搭載機「エノラゲイ」と合流している。
上陸前の艦砲射撃が開始されたのが二月十七日。上陸は二日後の十九日である。
軍令部は空中特攻を強化するとともに「回天」の出動を計画した。
空中特攻は十九日、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の命令によって、六〇一空(司令杉山利一中佐)で編成された「第二御盾隊」で、戦闘機隊、艦爆隊、艦攻隊の五個攻撃部隊からなっていた。
同特攻隊は二十一日朝、香取基地から八丈島に進出。補給の後、正午ごろから発進を始め、体当たりを敢行した。特攻攻撃は三月一日まで続けられ四十五人が散っている。
『米海軍作戦年史』によると護衛空母「ビスマルク・シー」が沈没、空母「サラトガ」大破、その他四隻の艦船が損害を受けている。
陸軍の重爆も夜間攻撃を行い、駆逐艦、高速輸送艦に損害を与えている。
“死なばや死なん”を地で行き始めたのだ。若者たちはただ祖国の将来を信じて黙って消えていく、前奏曲を奏で始めた感じがする。
連合艦隊は十七日「回天」作戦を第六艦隊に命じた。
一、イ三六八潜、イ三七〇潜、イ四四潜ヲモッテ回天特別攻撃隊「千早隊」ヲ編成シ先遣部隊指揮官直属トス。
二、イ三六八潜、イ三七〇潜ハ回天五基、イ四四潜は回天四基ヲ搭載ノ上、内海西部ヲ出撃、硫黄島方面ニ進出シ敵艦船ヲ奇襲ス。
板倉光馬少佐によると、この時即応できる潜水艦は前記のイ三六八潜、イ三七〇潜、ロ四三潜と四ヵ月にわたる大修理を加えたばかりのイ四四潜の、わずか四隻に過ぎなかったという。
大型潜水艦は「金剛作戦」から帰ったばかりで、ドックで修理中であった。
硫黄島の米軍に対する「回天」作戦は「千早隊」と名付けられた。
出撃基地と隊員名は次の通りである。
〈大津島基地〉
イ三六八潜 艦長入江三輝少佐、回天搭乗員川崎順二中尉、石田敏夫、難波進少尉、磯部武男、柴崎昭七二飛曹。
イ四四潜 艦長川口源兵衛少佐、回天搭乗員土井秀夫中尉、亥角泰彦、館脇孝治少尉、菅原彦五二飛曹。
〈光基地〉
イ三七〇潜 艦長藤川進少佐、回天搭乗員岡山至、市川尊継、田中二郎少尉、裏佐登一、熊田孝一二飛曹。
元来、イ三六八潜は輸送専門の潜水艦として建造されたが、潜水艦の消耗で「回天」が搭載できるように改装したものである。
艦長の入江少佐は大尉時代、イ一六五潜に水雷長として乗り組んでいたが、
「人間魚雷しか戦局挽回はできない」
との意見書を航海長の近江誠中尉と連名で連合艦隊に上申した経歴を持っている。
近江中尉は大尉に昇進し「回天」隊員となり、隊長であった。大津島基地で再会した二人はそれだけに感慨があったろう。
残念だがイ三六八潜もイ三七〇潜も再び帰っては来なかった(米軍の戦史によると両艦とも二月二十六日硫黄島の南方と北西で駆逐艦と飛行機によってそれぞれ撃沈されている)。
イ四四潜だけは帰投したが、これには多少の問題があった。
公刊戦史『潜水艦史』は特にイ四四潜の行動について書いている。
三月一日、イ四四潜から第六艦隊司令部に、
「イ四四潜大島方面ニ向カフ、地点『ニコヨ』33(北緯二十五度四十八分、東経百三十六度二十八分)」(三月一日午後七時半発電)
との電報を受けた司令部は疑問を持ち、二日午前九時四十五分、
「回天発進セシヤ」
と打電した。翌三日になって、
「二十八日に打った電報を見たか」
と逆に問い返してきた。潜水艦からの電報は通りが悪く司令部に届いていなかった。そこで改めて報告を求めた。すると、次のような行動を知らせてきた(司令部の通信能力も悪く三月四日に中継で受け取っている)。
(1)二十七日朝、硫黄島の南五十カイリ(九十三キロ)で敵の制圧を受けて四十時間潜航していた。
(2)硫黄島に対しては「回天」の攻撃は困難である。
というものであった。司令部はイ四四潜が帰投した三月六日、川口源兵衛艦長を、
「艦隊の意に沿わない」
として更迭した。『潜水艦史』は、
「この出来事は司令部と潜水艦長との、米軍の対潜能力に対する認識の相違が大きな原因であった」
と書いている。だが果たしてそれだけだったろうか。
イ四四潜の行動について、第六艦隊水雷参謀鳥巣建之助中佐は戦後の著作の中で黙殺しているが、イ五八潜艦長だった橋本以行氏は『伊58潜帰投せり』(昭和二十七年十月鱒書房刊)の中で次のように書いている。
「イ四四潜は硫黄島近くまで進出したが、艦の状況、乗員の技量に艦長は初めから自信を失っていた。それを米駆逐艦に発見され、引き続き四十六時間半の長時間潜航を余儀なくされた。爆雷攻撃こそ受けずにすんだが、炭酸ガスが六パーセント近くなり、そのために乗員は呼吸困難で魚のようにパクパクしはじめ、窒息の一歩手前までになった」
参加潜水艦三隻のうち二隻が撃沈され、一隻が全く攻撃できなかった「千早隊」を、
「大失敗に終わった」
と橋本艦長は断定している。
川口イ四四潜艦長が、
「硫黄島にては『回天』による攻撃は困難」
と電報したのは当然の事実を報告したまでで、既に泊地攻撃の困難性が明らかになっていたのである。加えてこの時期になると潜水艦長の中には「回天」の使用を潜在的に嫌がる傾向が見られる。
艦長の意思はともかく、泊地攻撃が無理なら洋上攻撃に使用するという新局面を創る直接動機になったことは確かであろう。
とはいえ「回天」の洋上攻撃は簡単ではなかったが軍令部としては背に腹は代えられない。
潜望鏡を見ると敵の駆逐艦は攻撃をためらった、という艦長の体験談があるから、敵が「回天」を恐れていたことは事実であったろう。
がいずれにしても少数の特攻兵器でもってする戦闘の帰趨ははっきりしていた。
イ四四潜が艦隊命令で帰投する前、修理を終わったイ三六潜とイ五八潜は「神武隊」を編成して、イ五八潜が三月一日光基地から、イ三六潜は二日大津島から硫黄島に出撃しているが、六日になって連合艦隊は「回天」作戦を中止する。イ三六潜は呼び戻されイ五八潜は、
「三月十一日に行われる『丹作戦』の無線誘導艦として沖の鳥島に急行せよ」
との連合艦隊命令を受ける。イ五八潜が命令の無電を受信したのは、九日午前零時ごろで、「回天」発進地点の硫黄島沖十七カイリ(三十一キロ)に突入中であった。艦上から乗る「回天」二基はすでに搭乗員が乗っていたが、急いで収容した後これを放棄し急行した。
「丹作戦」は十九年八月下旬に正式決定をみた飛行機による泊地攻撃である。フィリピン戦が始まったため延び延びになっていたが、硫黄島に敵上陸という段階になって、再び泊地攻撃が叫ばれ「丹作戦」の実施となったものだ。宇垣五航艦長官の強い決意によって実施された新鋭中攻「銀河」による特攻(梓隊)である。
イ五八潜の役目は、ウルシー泊地を攻撃する飛行機に位置を知らせる長波の電波を出すことである。正式には「第二次丹作戦」で、戦果はほとんどあがらなかった。空も陸も海も、もはやアメリカの敵ではなかった。
「銀河」は三人乗りの双発機で最大速度五百五十五キロ(高度五千メートル)。航続距離は六千八百キロで一式陸攻の約二倍である。雷撃、夜間戦闘機としても使われた。実戦には使用されなかったが「桜花」の懸吊も可能であった。十九年十月の台湾沖航空戦から実戦参加した新鋭機である。
「梓隊」の所属は二十年二月十日、新編成された第五航空艦隊(五航艦)で、司令長官は宇垣纏中将である。九州、西南諸島に展開していた航空隊を強化再編したもので、「神雷部隊(桜花隊)」の七二一空が所属していた連合艦隊直属の十一航空戦隊や、第三航空艦隊が所属し九州各地に配置されていた第二十五航空戦隊も五航艦の傘下に入った。
「梓隊」の特攻攻撃は三月十日出撃の予定であったが、ウルシー泊地を写真偵察した結果、一日延期し十一日午前八時五十五分、「銀河」二十四機で鹿屋基地を発進した。天候偵察と誘導のため二式大艇と呼ばれていた四発の飛行艇が同行した。
鹿屋からウルシーまで十一時間の飛行である。エンジンの不調で引き返したり、不時着したのもいて、結局十一機がウルシーに突っ込んだが、戦果は明らかでない。戦死した隊員は分隊長福田幸悦大尉以下四十七人である。
一日の延期を、宇垣中将は開戦前から書き続けた日記『戦藻録』の中で、「搭乗員に時間的余裕を与えた」
と自賛しているが、参謀の中には、
「気勢がそがれた」
と言っている者も多く、部隊内ではかなり延期に対して不満があった。このためわざわざ『戦藻録』の中に「延期してよかった」と書いたと思われる。
実は逆に出撃を延期しなかったばかりに、これから十日後に実施された「神雷部隊」の初出撃は悲惨な結果をもたらすことになる。
高慢に見えて案外神経質だった宇垣中将の指揮ぶりに陰りが見え始める。
硫黄島守備隊の消息は三月十七日午前二時六分の無線連絡を最後に途絶える。
二十三日には沖縄本島沖に米機動部隊が姿を現し、沖縄上陸に着手する。
日本本土でも空襲は日常的となり、航空部隊の被害はもとより、工場地帯も民間家屋も徹底的に焼却され始めた。サイパン、テニアン島から出撃するB29の飛行圏に入ったのである。
沖縄攻略のため、米第五十八任務部隊(スプルアンス大将)の大部隊が、ウルシーを出撃したのが二十年三月十四日。「ヨークタウン」「エンタープライズ」など空母十、軽空母六、戦艦十八、巡洋艦十六、駆逐艦十二隻その他補給船団を伴っていた。
この部隊の艦載機が九州の各飛行場――日本の特攻基地――を空襲したのが十八日。十九日には呉、神戸、広島などを襲った。上陸作戦の前に見せるアメリカの攻撃パターンである。
スプルアンスの第五十八任務部隊を哨戒機(一式陸攻と飛行艇)の電探が発見したのは十七日午後十時二十五分であった(この日硫黄島守備隊玉砕)。
軍令部と連合艦隊の判断は硫黄島の攻略を終えたばかりの米軍が、いきなり沖縄に上陸するとは考えられないとして、
「本格的な沖縄上陸はいったんウルシーに帰って補給した後であろう」
と結論した。連合艦隊は十七日午前、
「敵が攻略部隊(上陸部隊)を伴っていない場合は、五航艦は兵力を温存すべし」
との方針を指示したばかりである。つまり沖縄決戦を前にして兵力を消耗するな、ということである。
五航艦司令長官宇垣纏中将もその方針に従って一式陸攻の待避計画をたて、野中五郎少佐の攻撃七二一飛行隊二十四機は朝鮮半島の迎日基地に向かうことになり、鹿屋から大村基地に移動した。その他は四国、北九州の基地に避難した。五航艦は編成後間がなく、訓練も人的なスリ合わせも充分にできていないこともあったろう。
実はこの連合艦隊(大本営海軍部)の「兵力温存方針」が大きな影響をもたらす。
が、敵を見て攻撃をしない方法はない。宇垣長官は連合艦隊と電話連絡して攻撃を加えることにし、傘下部隊に命じた。
日記『戦藻録』三月十八日の記述を読むと、連合艦隊の消極的な方針に対してじりじりしている心境をぶっつけている。
「敵の四群(の機動部隊)は遠慮なく進攻し来る。兵力を温存せんとして温存し得る状況にあらず。地上においては食はるるにしのびず。加ふるに南西方面(沖縄方面)に対する攻撃の前提ならずと誰か判定し得ん。慎重考慮の結果、成否に対し全責任を負ひ〇二〇五全力邀撃《ようげき》を決意、『第一戦法発動』を下令す。
右命に基づき〇三五〇より夜間攻撃隊、重爆(陸軍)、天山(艦攻)、銀河(戦闘攻撃機)の進発を初めとし、〇六〇〇以後昼間特別攻撃隊彗星(艦爆)、爆戦(爆装零戦)発進――」(旧仮名のまま)
陸軍の重爆が参加しているのは理由がある。
陸軍の航空隊も十九年七月以来連合艦隊の指揮下に入り、第六航空軍も二十年三月二十日に海軍の隷下部隊となった。この時期に来て、一本化の骨格ができた。が、遅い。
九州沖に姿を見せたスプルアンスの第五十八任務部隊に対して、陸海軍の若者たちの特攻攻撃ぶりは虚心であり、敵空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」「フランクリン」「ワスプ」のほかに戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一隻に襲いかかって相当の損害を与えている。米機動部隊の飛行機の損害は百十六機、とキング元帥は「報告書」に書いている。
ただし、この攻撃は宇垣長官の「所信に基づくもの」と連合艦隊は念を押し、あくまでも宇垣長官個人の意思の反映を強調している。
攻撃は正攻法もとられたが、どうしても特攻作戦が中心になる。
特に宇垣纏五航艦長官は特攻攻撃に強い信頼を持っていた。
事実終戦の日に特攻として部下を道づれにして死ぬ。「私兵特攻」として今に非難を浴びているが、この人には“戦争とは死ぬこと”という観念しかない。
『戦藻録』三月二十日の記述に、
「優秀なる技量者は本法(正攻法攻撃)をもつてするを経済有効的とす。しかれども本思想を一般に適用せば必中を期せられざるに至る。むづかしき点にして、吾人は依然として、特攻精神に重点を置かざるべからず」
とはっきり書いている。
三月十八日から二十日までの出撃経過は次の通りである(防衛庁戦史室資料・カッコ内は特攻)。
〈十八日〉作戦機数四百四十一機五十九機)
未帰還七十九機(三十二機)
〈十九日〉作戦機数百十九機(三十一機)
未帰還二十五機(十九機)
〈二十日〉作戦機数四十五機(二十機)
未帰還十三機(九機)
わずか三日間の戦闘で作戦機数は十分の一となる。未帰還機合計が百十七機。うち特攻は六十機である。複座、三人乗りの艦爆、銀河の特攻が多かったから戦死者は二倍以上である。
それに特攻とは言えないが攻撃、偵察用に使用された七、八人乗りの一式陸攻、飛行艇がかなり撃墜されているから戦死者数は五倍にはなったろう。
特攻隊員も一般隊員もばたばたと死んだのである。
それにしても、四百四十一機の作戦可能機が三日間で百十七機自爆したにすぎないのだから、あと三百機は作戦できると思いがちだが、整備が思うにまかせなかったため、稼働率が下がったのである。
戦闘は飛行機の機体になんらかの損害を与える。飛ぼうにも飛べない。生産ラインに乗ったときからすでに欠陥商品のような飛行機しか造れなかったのである。学徒動員でかり出された女子学生などが旋盤を回していた時代で、その意味でも日本には戦争継続能力はなかった。
連日の攻撃に対して米軍の損害もかなり出る。偵察機は米機動部隊が南下している(戦場から遠ざかる)のを認めた。日本の偵察機には“よたよたと遁走している”ように見えた。
攻撃は反復して行うのがよいという信念を持っている(過去の戦闘に対しても、指揮官の不徹底を徹底的に非難している)宇垣纏長官は、ついに“とどめを刺す”ために「神雷部隊」(桜花)の出撃を決意する。三月二十一日。もちろん初出撃である。
「桜花」の母機として使用される一式陸攻の七二一部隊指揮官野中五郎少佐が「桜花」の攻撃能力に疑問を持っていたことは前に紹介したが、この野中隊に出撃命令が下ったのである。
一式陸攻十八機(「桜花」十五基)、七二一空所属の零戦十九機、援軍を頼んだ二〇三空の零戦十一機、計四十八機が出撃した(防衛庁資料)。
実は七二一空所属の零戦は、戦闘三〇六、同三〇七飛行隊があり、六十機はいたが、連日の空襲の迎撃に飛び立ってかなりの被害を受けていたのである。
一式陸攻は鹿屋基地に集められた。掩護戦闘機は七二一空所属が三十二機だった、という証言もある。「桜花」パイロットは元来が腕の立つ戦闘機パイロットだから、機材さえあれば乗れたが、それもない。
掩護に間接と直接とがあり、「桜花」を抱いた一式陸攻の直接掩護は七二一空の戦闘機隊でやるが、間接掩護――先行して露ばらいをやる――は二〇三空から援軍を頼むことにしていたのである。合計六十機の零戦が十八機の一式陸攻を守る計画だった。
が、直前になって二〇三空から二十三機しか出せないと言ってきた。
宇垣長官は『戦藻録』の中で、
「神雷部隊は陸攻十八(桜花搭載十六)一一三五鹿屋基地を発進せり。桜花隊員の白鉢巻き、滑走中に瞭然と目に入る。成功してくれよと祈る。しかるに五十五も出る筈の掩護戦闘機は整備完からずして三十機に過ぎず」
と書いている。
数字には相違があるが、原文のまま書く。防衛庁に残っている「戦闘詳報」、「五航艦戦闘経過及び特攻隊戦闘概要」などによると、前述のように「桜花」は十五、戦闘機は七二一空から十九機、二〇三空から十一機の三十機だが、これには途中から引き返した数が含まれていない。
野中隊の一式陸攻副操縦士だったが、出撃を免れ同僚を見送った小西勉氏(広島市西区井口二丁目)の話を聞こう。
小西氏は甲飛十二期。十九年十月鹿屋基地で攻撃七〇三飛行隊に赴任。十二月に七二一空の攻撃七一一飛行隊(野中隊)の三番機と交換されて「神雷部隊」に入った。
「夜間操縦ができるのが欲しいということでした。甲飛五期の鎌田直窮飛曹長がベテラン偵察員だったので選ばれたのです。
空襲があるというので大村に行き(朝鮮半島の迎日基地に避難する予定だった)、また鹿屋に帰ったのですが、鹿屋は空襲で大火災でした。その中を着陸しましたが、すぐ三月二十一日の出撃となりました。隊長の野中五郎少佐の陸攻は『桜花』を積んでいません。陸攻は十八機で、『桜花』は十五基でした。
機長の鎌田直窮飛曹長が一緒に出撃したいと申し出ましたが、編隊上の都合で各小隊の三番機だけが残されたのです。
『この度だけじゃない。次には出撃できる』
と言われて残りました。
『桜花』を抱いての離陸は滑走路をいっぱいに使わないとできません。一機だけ滑走路でよろめいて、見送りの整備員を引っ掛けたのを見ましたが全機出撃しましたよ。
七二一空には指揮所の前に陣太鼓があり、南無妙法蓮華経の幟が立っていました。
出撃のときの野中隊長の訓示は整列して聞きました。
『野中一家の殴り込みだ。てめえらの命はオレがもらった。血の一滴まで戦うんだ』
といったふうな訓示でした。何時間かたって、護衛の戦闘機が帰ってきて、攻撃が不成功だったと知りました。三、四日後でしたか、捜索に行ってみようとの話も出ましたが、取りやめになった経緯がありました」
陸攻十八機に「桜花」が十五基だったのは三隊に分けて、隊長機ほか二機には搭載しなかったからである。
小西氏はその後単機で「桜花」を抱いて出撃し、九死に一生を得るが、
「陸攻での出撃はとてもとても」
と苦悩の色を隠さない。
隊員の立場と、指揮官部の立場はいろいろと違う。
午前八時十分、偵察機が米機動部隊二群の南下を捕らえたのは宮崎県都井岬の百四十五度(南東)、六十キロの海上である。
宇垣長官の『戦藻録』三月二十一日、桜花隊を出撃させる前の心境として、
「敵は相当大なる損害を蒙りたるもののごとく上空警戒も少なし。(略)十八日以来、本特攻兵力の使用に機をうかがひ続け、何とかして本(攻撃)法に生命を与へんとしたり」
と告白しさらに、
「今にして機を逸せば再び遠くウルシーへ梓隊の遠征を余儀なくせられ、しかも成功の算大ならず」
と続いている。
「銀河」特攻「梓隊」の時、宇垣長官は出撃を延ばして不成功に終わり、内部でかなりの論議があったことはふれた。「今にして機を逸せば」というのはそれを気にしていた証拠で、だから「桜花」の出撃はためらわない、という気負いが見える。
出撃前、鹿屋基地の防空壕内作戦室に宇垣長官、五航艦参謀長横井俊之少将、岡村基春七二一空司令、岩城飛行長、野中隊長が集まった。
一番の問題は掩護戦闘機の不足であった。
「神雷部隊」七二一空の初出撃に、掩護戦闘機が少ないのが一番の気掛かりで、岡村基春司令は五航艦参謀長横井俊之少将に、
「もう少し何とかなりませんか」
と訴えた。掩護戦闘機が少なければ速度の遅い一式陸攻などグラマンのえじきになることは目に見えている。しかし二〇三空からの零戦は二十三機が限度と言ってきた。連日の空襲でどの部隊も消耗していたのだ。おひざもとの七二一空の掩護戦闘機だって三十二機しか出せない実情だ。
この時、
「攻撃を中止するか」
というところまで議論があったようだ。
しかし宇垣纏長官はゆっくりと、結論を出した。
「今使わないと、『桜花』を使う時はないよ」
長官から言われては反論の余地はない。宇垣長官の『戦藻録』には、
「さすがに心配顔なる岡村司令を激励す」
とある。強気の岡村司令もこの時ばかりはおびえていたようである。
野中五郎隊長が、飛行長の岩城邦広少佐に、
「飛行長、湊川だよ」
と言ったのは、防空壕から出て飛行場に向かう途中だった。楠正成の故事にちなんだ言葉で、
「もう戻れない」
という意味だ。この時の模様はいろいろと伝えられていて、
「たどり着けねえ湊川だ」など芝居がかったせりふを言ったようになっている。が、ポツンと湊川を口にしたものらしい。
「桜花」搭乗員は三橋謙太郎大尉(海兵七十一期)を隊長とする十五人で、予備学生の緒方襄中尉、乙飛十七期の嶋村中一飛曹といった若い世代であった。十九歳から二十三歳の間である。
海兵出は率先して突入するのが伝統だが、乙飛十七期というのは昭和十六年十二月、岩国航空隊に小学校高等科卒業と同時に志願入団したクラスである。すでにこのクラスが“腕達者”の部類に入っていたのである。
「神雷部隊」の正式名称は、
「第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」「同攻撃隊」「同戦闘機隊」
である。連合艦隊告示はこれで行われている。
「神雷部隊」の出撃は午前十一時二十分であった。野中隊長の陸攻が先頭をきり、掩護隊の零戦が続いた。
笠ノ原基地(鹿屋と同じ鹿児島県)から飛び立った二十三機の零戦と都井岬付近で合流して南下した――。
が、南下したのは十八機の一式陸攻とそれに懸吊した「桜花」十五基、七二一空所属の零戦十九機と二〇三空所属の零戦十一機である。公式記録にある制空隊三十機というのは途中で引き返した零戦を差し引いた実数である。
七二一空の零戦三十二機のうち十三機、二〇三空の零戦二十三機のうち十二機がエンジン・トラブルのために引き返してきたのである。飛行機の整備不良がいかにも多い。
「神雷部隊」が飛び立って間もなく、偵察機から空母三、二、二を基幹とする三群の敵機動部隊が南西に向かっていると打電してきた。
新手の機動部隊の出現である。もっとも、新手と思ったのは日本の索敵能力の不足のせいで、初めからその辺りにいた敵である。
これではひとたまりもない。鹿屋の防空壕内の作戦室では、宇垣長官以下、どうしたものかと議論した。一時は引き返させようとの意見もあったが、宇垣長官は否定的だった。
三十分、五十分たっても何の連絡もない。
『戦藻録』によると燃料の心配があるので、
「敵を見ざれば南大東島へ行け」
と打電したが、これに対する返事もなかった。
一式陸攻には専門の無電係が乗り込んでいる。「桜花」を搭載していない隊長機など三機もいるのに無電一つ打っていない。
「五航艦戦闘経過及び特攻隊戦闘概要」によると、
「一四二五(午後二時二十五分)(野中隊長が) 突撃用意下令」
と書いているが、多分にこれは粉飾(海軍ではメーキングと言った)であろう。
宇垣長官は、
「壕内作戦室に於いて敵発見、桜花発進の電波に耳をそばだてつつ待つこと久しきも、杳として声なし」
と日記に書いている。
「神雷部隊」の消息がわかったのは二十一日午後遅くである。掩護戦闘機が傷つきながら帰投し、
「神雷部隊全滅」
と、報告して初めて重大事を知ったのである。宇垣纏長官以下、愕然としたが紛れもない事実であった。
五航艦の「作戦経過」はつじつま合わせで、帰投した戦闘機の報告をもとにしてつくったものである。いかになんでも十八機の一式陸攻から、「敵機発見」の一声もなかったというのでは、まことに不自然なのである。
野中隊の後任分隊長として三月二十六日、七二一空に着任した古米精一大尉(広島市西区鈴が峰町)は、
「敵機を見たら必ずヒ連送を送ります。モールス信号の『ヒ』一文字を連続して送信するだけです。ツーツートントンツー(−−・・−)と打てばよいのです。上手な通信士なら一分間に六十以上打てます。そんな簡単なことがなぜ――」
と首をかしげる。これはだれもわからない。が想像は可能だろう。わざと打たなかったという解釈も可能だし、待ち伏せしたグラマンに、ほんの一、二分間で撃墜されたかのどちらかであろう。
が帰投した掩護戦闘機のパイロットの報告では、午後二時二十分、敵艦隊との距離百キロでグラマン五十機の襲撃を受け、抱いていた「桜花」を落として身軽になった野中隊の一式陸攻は応戦に入り、野中隊が雲の中に突っ込んで敵をふり切るまでの行動を見ている。とても「ヒ連送」が打てなかったとは思えない。
それにしても「神雷部隊」の初出撃は見事な失敗であった。隊長の野中五郎少佐や、七二一空司令岡村基春大佐が危惧していた通り、敵艦に一指も触れることなく全機敵戦闘機に撃墜されて全員海底に眠った。
連合艦隊告示(二十年五月二十五日)によれば、この日全滅した者は次の通りである。
〈「桜花」搭乗員〉分隊長三橋謙太郎大尉以下中尉三人、上飛曹二人、一飛曹五人、二飛曹四人の計十五人。
〈攻撃隊(一式陸攻搭乗員・攻撃七二一飛行隊)〉野中隊長以下分隊長甲斐弘之大尉、椛沢善雄中尉を含めて大尉三人、中尉五人、少尉九人、飛曹長十人、上飛曹三十人、上整曹(整備兵)七人、一飛曹十五人、一整曹一人、二飛曹二十五人、二整曹十人、飛長十九人の計百三十五人。
〈掩護戦闘機隊〉戦闘三〇七飛行隊分隊長漆山睦夫、同三〇六飛行隊分隊長伊沢勇一大尉の二人、中尉一人、少尉一人、上飛曹五人、一飛曹一人の計十人。総計百六十人である。ただし『海軍神雷部隊史』によると総計百五十九人で一人少ない。
「神雷部隊」攻撃失敗のショックは航空隊を震駭させ、軍令部をますます暴走させる。
米軍は写真撮影で一式陸攻の下に見える「桜花」を分析し、ドイツのV一号に似たロケット弾かと考えたが、沖縄上陸後、飛行場にあった「桜花」の実物を見ている。直ぐに人間が乗って突っ込む特攻兵器と知り、「四月二十八日リスボン発同盟電」は米軍は完全に「桜花」の全容をつかんでいる、と打電した。
そして「BAKA BOMB(バカ爆弾)」とニックネームを付けた。絶対に命中せず、人間の生命を粗末にすることに対する皮肉である。まだ命中の可能性のある飛行機による特攻には勇気ある行動としてある種の“尊敬”の目で見たが、「桜花」に対する評価は極めて低かった。
が、日本の中央はまだ「桜花」の威力を信じていた。攻撃失敗の翌日から二日間、鹿屋基地で軍令部次長小沢治三郎中将、連合艦隊参謀副長高田利種少将らが出席して戦訓研究会を開いた。
『戦藻録』によると、
「艦隊の士気、指揮官の態度=最も満足。成果相当の成績。型通りにはゆかぬもの、兵に常道なし。ゲリラ戦の連続のごとき形となる」
といった結論であった。「桜花」作戦は続行と決まったのである。ただし「桜花」攻撃は“ゲリラ”的な――単機または二、三機による薄暮か早朝の時差攻撃――が中心となる。
時期を同じくして「回天」の使用法も泊地攻撃から洋上攻撃へと戦術転換が検討され、イ四七潜、イ三六潜の二隻に各五基(潜水艦の改造で五基の「回天」は全部艦内の交通筒から搭乗できるようになっていた)計十基を載せて、洋上を航行中の艦船を攻撃してみることにしたのである。もはや陸も空も“ゲリラ”的な特攻攻撃法しかなかったのだ。
終章 激浪の果てに
さまざまな破局
戦局は急スピードで破局へと近づく。
三月十八日から始まり、二十一日の「神雷部隊」の初出撃に至る間の米機動部隊との戦闘は、いたずらに人命と機材を消耗しただけとなった。五航艦はほとんど全力を使い果たしたのである。参謀長横井俊之少将が上京して補充に走り回ったが、それさえ不可能な状況にあった。
一方、フィリピンから台湾に引き揚げてきた一航艦も空襲への対応に追われ、訓練もままならず、加えて五航艦に兵力、機材を優先的に回す羽目になったので、再建は全くできていなかった。
一航艦が三月二十三日現在の保有機数を軍令部に報告した軍機電報が残っている。
〈戦闘機〉零戦七十三、紫電六、月光八。
〈艦上爆・攻撃機〉彗星十八、天山十。
〈攻撃機〉銀河十一、陸攻八。
〈輸送機〉三。
〈偵察機〉瑞雲七、零式水偵三。
総計百四十七機。
これでは航空艦隊の体をなすものではない。が、細々ではあっても、担任区域であるフィリピンへの攻撃を続けていた。
これにたいして米軍の機動部隊は勢力を増すばかりで、三月二十四日、朝から沖縄本島南部地区や中城湾に艦砲射撃を開始した。空襲はますます激しさを増した。空襲に艦砲射撃が加われば、上陸は時間の問題となる。
軍令部は第七基地航空部隊(三航艦)、第八基地航空部隊(十航艦)を九州に配備する方針をとり、沖縄攻防を巡って全力決戦の体制を敷いたが、空襲による妨害で延び延びになる。三十一日に一応の展開を終えたものの、総兵力はもとより知れている。
四月一日現在の航空兵力は、一航艦(台湾)は既述したように約百五十機、九州方面の三航艦と五航艦が約三百機に過ぎない。しかも可動機数は半分強――五六パーセントであった(防衛庁資料)。半分以下は整備不良で飛べなかった。
米軍は二十九日から海兵隊員を満載した輸送船を慶良間に入泊させ始めた。テニアン、サイパン島から発進したB29が加わって九州の航空基地を爆撃し、補給遮断のため関門海峡、豊後水道、長崎港外に機雷を投下した。
その間に一航艦は台湾から、五航艦は九州から攻撃を行ったが、もとより正攻法攻撃は散発的にしかできない。いきおい特攻攻撃が主流となる。
二十七日と二十九日に第二菊水彗星隊が十一機(二十二人)、第一銀河隊が五機(十五人)突っ込んだ。
そして四月一日午前八時、米軍は嘉手納の北飛行場付近に上陸を開始した。
皮肉にも大量の航空特攻を予定していた大本営陸海軍部の計画は間に合わず、無傷のまま米軍は上陸した。
「神雷部隊」の第二回の出撃が決まり、戦艦「大和」の沖縄特攻も決意される。断末魔としか言いようがない。
「神雷部隊」第二回の出撃は四月一日である。第一回攻撃失敗の戦訓から奇襲攻撃に切り替えられ、一式陸攻六機に「桜花」三基の編成で掩護戦闘機もなく、午前二時二十一分、沢本良夫中尉の指揮官機を先頭に鹿屋基地を出撃して沖縄に向かった。
結果は無残である。一機は方向を見失って「桜花」を捨てて帰り、二機は不時着水(乗員は助かった)、一機は大隅半島に墜落、二機未帰還という実情だった。結局一基の「桜花」も投下できなかったのである。
沖縄上陸当日の米軍が特攻機の攻撃を予測していないわけはなく、すでに奇襲さえできる実情ではなかったのだ。
この日のうちに米軍は中、北両飛行場を占領し、前述したように無傷の「桜花」を捕獲している。沖縄に「桜花」隊を展開するつもりで配備していたものだ。
「桜花」の攻撃が効果ないと見てとると、手っとり早く掩護戦闘機隊を爆装特攻機として二日から出撃させる。「建武隊」「筑波隊」である。沖縄戦中に「建武隊」が十一隊八十九人、「筑波隊」が六隊五十五人、さらには六月二十二日には「第一神雷爆戦隊」が編成され、七人が特攻死している。
「桜花」隊の攻撃を中止したわけではなく、ゲリラ的な攻撃は終戦直前まで続く。
日本人の特攻に対する考え方を象徴するものは戦艦「大和」以下第二艦隊の沖縄殴り込みであろう。
沖縄戦は「天一号作戦」と呼ばれ、すべての作戦が特攻的な思考で貫かれているところに特徴がある。
「大和」以下の第二艦隊を沖縄に突っ込ませる、という発案者は連合艦隊参謀の神重徳大佐とみて差し支えないが、その強引とも言える作戦はさておき、第二艦隊の司令部に対しての説得の仕方に問題を解くカギがある。
第二艦隊司令長官は軍令部次長だった伊藤整一中将(後任は小沢治三郎中将)で、もともと特攻には反対だった人といわれている。といってもこの人が軍令部次長時代に特攻が始められている以上、免責にはならない。特攻戦術の善悪は道徳的な基準では量れないが、多くの若者を死に追い立てた軍令部の重要な地位にあった以上、
「特攻には反対であった」
というのは、むしろ伊藤中将にとっては言って欲しくない賛辞であろう。
第二艦隊は「大和」以下軽巡「矢矧」、駆逐艦九隻(他に空母が四隻いたが行動できない)で、艦隊としてのバランスはとれていない。
その艦隊を沖縄へ突っ込ませようとしたのである。神参謀は強引に豊田副武長官の決裁を取り、山口県柱島にいた第二艦隊に沖縄出撃を命令する。
たまたま九州鹿屋基地に出張していた草鹿龍之介連合艦隊参謀長が“説得”に行くことになる。
もともと戦艦「大和」以下の第二艦隊を沖縄に突っ込ませるという作戦は戦術を踏まえたものではない。
「まだ軍艦があるのに使用しないのはおかしい」
「艦隊に死に場所を与えてやる」
という、現代では喪失された思想に基づいたものだ。軍令部も連合艦隊から上がってきた作戦に文句をつける余裕はすでにない。
が、伊藤整一長官はそんな採算の取れない作戦に同意はしない。艦隊には七千人の命がある。
連合艦隊から沖縄への出撃準備命令が来た時、反対を強く表明したのは命の重さに対する指揮官としての責任であったろう。
が、正式に連合艦隊命令が来たのは四月五日午後で、はっきりと、
「海上特攻トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急速出撃準備ヲ完成スベシ」
と明記してある。すでにこの時、山口県の三田尻沖に仮泊して出撃を待っていた。
わざわざ連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将を説得に行かせたのは、特攻出撃である以上気持ちよく出撃してほしい、という儀礼的なものではなかったか。命令を出しておいて、説得も何もあったものではない。命令に従わなかったら抗命罪である。
それはともかく四月六日、出撃準備で多忙な「大和」の長官室で、草鹿中将がはいた殺し文句は、
「一億総特攻の先駆けとなってほしい」
の一語に尽きる(同行した連合艦隊参謀三上作夫中佐の回想)。
「一億総特攻の先駆け」
という形而上の概念で「大和」の沖縄殴り込みを納得した――というのがこれまでの通説だが、多分に前軍令部次長としての“責任の取り方”を意識した行動であったと思われる。
理不尽な特攻出撃を激怒する駆逐艦長もいた。関係もないのに艦隊内の作戦会議に草鹿中将の出席を求めたのは、伊藤長官の計算ではなかったか。
とまれ終末に向けて日本はひた走る。
「大和」以下軽巡「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」のわずか十隻の第二艦隊は、六日午後三時二十分、三田尻沖を出港し沖縄に向かう。
結果は多くの人が知っている。七日午後二時半、「大和」「矢矧」が力尽き、「磯風」「浜風」「朝霜」の三艦も同じ東シナ海で消えた。伊藤長官、「大和」艦長、有賀幸作大佐は艦とともに海底に眠る。
「大和」の乗員二千七百四十人を筆頭に合計三千七百二十一人が戦死した。第二艦隊の出撃で敵に与えた作戦的なダメージはゼロである。文字通り「艦隊の死に場所」を与えられただけであった。
戦死者は二十年七月末、連合艦隊告示という栄誉を得るが、その半月後には日本はポツダム宣言を受諾する。
「回天」隊が、沖縄に来襲した米軍を攻撃するため出撃させられたのはいうまでもない。
イ四七、イ五六、イ五八、イ四四潜と二十二人の「回天」搭乗員で組織された「多々良隊」である。
光基地からはイ四七潜が三月二十九日、イ五八潜が四月一日、大津島基地からはイ五六潜が三月三十一日、イ四四潜が四月三日出撃した。イ五六潜以外は六基の「回天」が搭載できるように改造されていた。
潜水艦長として経験豊富なイ四七潜の折田善次少佐によると、出港当日の午後四時ごろ、宮崎の山影が見えている近海で、戦爆連合の敵艦載機に狙われて爆撃を受けたという。やっとの思いで種子島東方に進出したが、そこには敵の駆潜艇(潜水艦専用の爆雷攻撃艇)が待ち受けていて、午前二時半の暗やみの中で爆雷攻撃をうけ、重油タンクをやられる。作戦行動は不可能となった。
「回天」搭乗員は六人のうち四人が出撃経験を持っていて、帰投することがわかると、姉崎実中尉は、
「どうして私たちばかり三度も突入の機会に恵まれないのでしょう」
と食事もできないほどしょげていたという。
イ五八潜は悪天候に付きまとわれ、浮上して天測をしようとすると、飛行機と駆逐艦に制圧される実情だった。ちょうど「大和」の沖縄特攻と一致し、
「決死突入せよ」
と連合艦隊は厳命してきた。昼間浮上してしゃにむに走ったが、哨戒機が飛んでいてなかなか進めない。
「四月十四日に『太平洋沖合に出よ』という命令を受けた」
とイ五八潜の橋本以行艦長は回想している。つまり「回天」の洋上使用に踏み切ったということであろう。孤艦太平洋に向かったが、途中で帰投命令が来て、一ヵ月ぶりの四月二十九日、光基地に着いた。イ五八潜の「回天」搭乗員も全員二度目。出撃を希望したが、一ヵ月もたつと「回天」は使えない。
「帰投してイ四四、イ五六潜が撃沈されたことを知った」
と橋本艦長は同僚艦長や乗組員、「回天」隊員の不本意な死を悔やんでいる。
「多々良隊」作戦は潜水艦を消耗しただけに終わり、一基の「回天」も発進させていない。できなかったのだ。
帰投後、研究会が開かれ艦隊司令部も連合艦隊も泊地攻撃の無謀を確認せざるを得なかった。
「口にこそ出さないが、潜水艦長の中には『回天』が重荷になっていたであろうことは、想像に難くない」
と「回天」隊指揮官板倉光馬少佐は語っている。「回天」をより近い距離から発進させるためにはどうしても無理な接近をしなければならないからである。
「桜花」と陸攻の関係と同じで、やはり特攻作戦は戦術のラチ外だったのである。
沖縄を巡って、陸海軍の特攻は熾烈の度を極め「桜花」隊も次々と繰り出される。
四月十四日午前十一時三十分から五十三分にかけて沢柳彦二大尉を指揮官とする攻撃七〇八飛行隊の一式陸攻七機(桜花七基)が鹿屋基地を発進し、全機未帰還となった。戦死者は五十五人(「第七二一航空隊・飛行隊戦闘詳報」による)。
第一回攻撃で失敗したにもかかわらず、なりふりかまわぬ白昼攻撃で、沖縄戦に全力を注ぐ用兵者側の意思は読み取れるが、つぶさに資料を見てゆくと、悲壮というよりも、もの悲しい。
とまれ、どうしても戦闘機による制空が前提となる。
これは直接掩護ではなく、「桜花」を抱いた一式陸攻が敵空母群に到着する前に制空権を一時でも確保しておかなければならないからだ。
軍令部第一部の航空参謀だった源田実大佐は松山に基地を置く紫電(戦闘機)隊の三四三空の司令となって指揮を執っていたが、この三四三空の紫電隊が第一国分基地に進出していて、笠ノ原基地の零戦とともに出撃し、総数百二十五機という豪勢な戦力で制空に参加した。
ところが零戦と紫電との合流点となっていた喜界島上空でお互いに敵と間違え、あわや空中戦という場面になった。紫電は一見グラマンF6Fと似ていたから、零戦の方も勘違いしたのである。
同士打ちは免れたが、戦闘態勢をとったため、零戦は増槽(予備タンク)を落とし、紫電は燃料消費が激しく、掩護ができなくなって引き返さざるを得なくなった。
結局「神雷桜花隊」は単独攻撃と同じことになり、全滅したのである。よくよく運がない。
「戦闘行動調書」には、
「全機未帰還ノタメ効果不明」
と記している。
「桜花」を抱いて出撃した一式陸攻隊員の生還者はそう多くはない。筆者の知るかぎりでは三組のペア(乗組員)しかいない。それ程死亡率が高かった。
小西勉氏(広島市西区井口台二丁目)は「菊水三号作戦」が発動された四月十六日、一式陸攻の操縦士として沖縄に出撃し、幸運にも生還したペアの一人だ。
「六機で出撃しましたが、単機による時差攻撃で、『桜花』搭乗員は山際直彦一飛曹でした。機長は甲飛五期の鎌田直窮飛曹長(兵庫県加古川市西神吉町に在住)、正操縦者は丙飛十期の岡田元上飛曹でした。二トン近い『桜花』を抱いての離陸は滑走路をいっぱいに使ってやっとでした。鹿屋からずっと上昇姿勢をとって、沖縄上空でやっと四千メートルの高度になりました。
下をみると敵の戦艦一隻と駆逐艦二隻がいました。戦闘機はいませんでした。白波を立てて逃げながら撃ち上げる弾幕が凄かったですね。
『桜花』搭乗員の山際一飛曹は離陸して以来、いすに座って瞑目したままでした。
『桜花』に搭乗員を乗せるのは戦場に到着する前――発射約三十分前です。
『搭乗時間です』
と山際直彦一飛曹に声をかけますとうなずいて乗り込みました。手空きの整備員が世話をします。
発射命令は機長の鎌田直窮飛曹長が出し、副操縦士の私は発射ボタンを押します。いやな役目ですが仕方ありません。もっともこうして気楽に話していられるのは、実は三度出撃して三度とも成功しなかったからかもしれません。とにかくいやでした。ブー、ブー、ブーと合図の警笛を鳴らし、
『右前方の敵戦艦、発射用意――テッ(撃て)』
機長の命令でボタンを押しました。命令は伝声管を通して『桜花』の搭乗員も聞いています。
ところが落ちないんです。手動の投下機を引っ張っても、操縦桿を使って機体を上下に揺すり、振り落とそうとしてもくっついて離れません。こうなれば、発射は取りやめるしかありません。
山際搭乗員を機内に引き上げましたが『桜花』の安全ピンを抜いたままですから、不時着するのも命懸けの状態になりました。
伊藤博二・二整曹が、
『このまま突っ込もう』
と言いました。
しかし鎌田機長は、
『帰る』
と決断し電信員に帰投するむね打電させ、針路を九州にとりました。
重い『桜花』を抱いていますから燃料を食います。燃料計の目盛りがゼロになっても、まだ九州の山が見えなかったですね。高度がとれないから海面すれすれ。
海に不時着する気でいましたら、
『出水に行ける』
と鎌田機長が言いました。
いい勘でした。
出水基地は敵の空襲の直後で大火災でした。やっと着陸し山の中に逃げ込みましたが、よくも爆発もせずに着陸できたものです。『桜花』を抱いたまま着陸したのは私たちだけです。
基地のえらい人は、
『こんな物騒なものをなぜ持ってきた。燃料をやるからすぐ帰れ』
機嫌が悪かったですね。魚雷を着装する道具で『桜花』を降ろし、鹿屋基地に帰りました。
機長は上の人からしかられたらしかったですね。
『桜花』が落ちなかったのは、一度テストした爆管をそのまま使ったために金具が外れなかったのです。考えられないことが実戦では起きるものです。
山際搭乗員は、
『残念なことをしたのう』
と言っただけでした。もっとも彼は四月二十八日に、沢井正夫中尉機で出撃し本懐を遂げました。私たちも一緒の出撃だったので、海面で爆発したのは目撃しました」
小西勉副操縦士の乗った鎌田直窮機が二度目の出撃をしたのは四月二十八日で、この時、投下できなかった山際直彦一飛曹は、今度は沢井正夫機に乗って再出撃し本懐を遂げた。この時の様子は後で当事者の証言で紹介するが、小西氏の体験にはいろいろ考えさせられるものがある。
「敵の艦船を見ながら『桜花』を投下せずに帰ったというので、二度目に出撃させられたのが沖縄への薄暮攻撃です。『桜花』搭乗員は中川利春一飛曹でした」
「第七二一空飛行隊戦闘行動調書」によると、この日(四月二十八日)の出撃は四機。一番機は途中で片方のエンジンが故障したため「桜花」を捨てて帰投中、そのまま消息を絶った。荒木信正中尉機で、正直に無線で行動を知らせたため、
「攻撃せず。未帰還」
と認定され、「桜花」搭乗員和田信次一飛曹も、荒木中尉以下七人の乗員も一般戦死と見なされて連合艦隊告示から外され、二階級特進も見送られた。
特進については他にも不合理はあるが、人間関係が影響力を持ったのではないか。こうなると“軍隊”の崩壊は時間の問題となる。
二番機は山際一飛曹を投下した沢井機である。
三番機は敵戦闘機に食いつかれ、「桜花」を捨ててやっと帰投。
四番機は小西氏の乗っていた鎌田機で後述するような状態で不時着。
四機出て投下成功一基。しかも戦果は不明、という悲しい結果であった。これは明らかに用兵側の落ち度である。薄暮攻撃といえども沖縄に着くのは夜間になるし、レーダー性能の悪い陸攻では夜間に高空から敵艦が捕らえられるわけはなく、目視も利かない。戦闘機の掩護もないゲリラ作戦だから、戦果を望む方が無理というものである。
四番機の小西副操縦士の回想を聞いてみよう。
「沢井機が山際一飛曹を投下したのは見ました。艦に命中したかどうかは確認できませんでしたが、大きな火柱を見て、
『山際さんもとうとう行ったなあ』
とペアで話し合ったのをはっきり覚えています。
天候が悪いうえに、敵艦の撃ち上げる対空火砲が花火のようで、全部自分の方に向かってくるように見えます。
とても『桜花』の照準を付けることはできません。そりゃあひどいものですよ。そのうち燃料がなくなります。
『桜花』を捨てて帰投することにしましたが、遂に海上に不時着しました。燃料が空っぽでした ので陸攻はしばらく浮いていました。乗員はゴムの救命筏につかまって浮いていました。航法測定の信号弾を海に入れていたので、それを近くの島民が見て助けに来てくれたのが二時間後でした。
『日本人かあ』
と聞くんですね。
甑島《こしきじま》(鹿児島県)の人たちでした」
沖縄への薄暮攻撃でただ一基「桜花」投下に成功した沢井正夫中尉(大阪市住吉区帝塚山=飛行科予備学生十三期)機の関係者から証言を聞いた。
「戦闘行動調書」には、
「敵発見桜花を発進。不時着水沈没」
と書いている。投下に成功しても直接基地には帰れなかったほど、攻撃条件が過酷であったことを物語る。
沢井機の操縦士は酒井啓一上飛曹(栃木県塩谷郡氏家町=昭和十五年横須賀航空隊に徴集)である。すでに四月十六日、搭乗員宮下良平中尉(飛行科予備学生十三期)の投下に成功している。
「宮下中尉は一式陸攻の後ろの席で、悠々と居眠りをしていました。コックリ、コックリと頭が動いていましたから本当に寝ていたんです。
『中尉、時間です』
と乗員がゆり起こすと、
『おっ、そうか』
と、ゆったりと『桜花』に乗り込み、小さな伝声管を通して、
『準備よろし。落としてくれ』
でした。沢井機長が照準をつけて、用意、投下、の命令でボタンを押しますが、投下の瞬間、操縦桿を少し上げますと『桜花』はすっきりと落ちて行き、親機の陸攻の機体がフワッと浮きます。『桜花』が見えるのはほんの数秒で、すぐに見えなくなります」
酒井上飛曹は回想する。もっとも、酒を飲んでポツリポツリと語るだけ。忘れてしまいたいことらしい。
沢井機長もそれは同じで、あまり語りたがらない。
「『桜花』を積んでゆく一式陸攻は、投下して基地に帰り、何度も繰り返すのが仕事です。それが任務で、非情なようだが戦争ですから――」
と言葉少ない。“地獄を見たこともない人間”が地獄の様子を聞いても本当の理解は無理だろう。これ以上の質問は非礼になる。
酒井氏は戦後すぐ、異様な強迫観念にかられて入院生活までした。
四月二十八日、沖縄で二度目に投下した山際直彦一飛曹の投下の瞬間が特に忘れられなかったらしい。
沖縄の上空は厚い雲。中止して帰投しようか、と思っていたら雲の割れ目から敵艦が見えた。
「山際一飛曹は自分でジュラルミンの蓋を開けて『桜花』に乗り込んだのです。
『山際! 見えるか』
と伝声管に口をつけて叫ぶように言いますと、
『何も見えんけど落としてくれ。弾幕の光をめがけて突っ込む』
と強引に投下を要求しました」
下からは敵の弾幕。敵の戦闘機が上がってくればすべてが終わりだ。任務である以上、投下を中止する権限は機長や操縦士にはない。意を決してボタンを押す。
だが投下して帰投する行為を、自分が「桜花」搭乗員を殺して、逃げ帰ったかのように錯覚する。
戦い終わり、正気に返った時の人間の苦悩は重い。
「桜花」特攻隊員に限らず、攻撃に失敗して基地に帰ると上官にしかられた上に、
「また帰ってきたのか」
というふうな悪口が耳に入るという。特攻隊員が食卓番をやったりして小さくなる。何とも言えない焦燥感にかられるからだ。出撃して帰った者の気持ちは微妙で、多くの体験者からこの話は聞いた。
三度目の出撃を命じられた一式陸攻副操縦士小西勉一飛曹は、
「二度も投下に成功しなかったというので、五月十一日、沖縄の中飛行場(現在の嘉手納基地)の滑走路に『桜花』を投下するため夜間出撃を命じられました。ペア(乗員)は全く同じです」
と体験を語る。
「第七二一空飛行隊戦闘行動調書」は、
「北、中飛行場夜間桜花攻撃。午前二時六分鹿屋基地発進、午前五時二十分、予定地点に侵入も雲のため飛行場視認し得ず攻撃断念引き返す。午前七時十分帰着」
とある。「桜花」搭乗員は勝村幸治一飛曹。
沖縄の三千メートルくらい上空に厚い雲があった。
「雲の下に出ましょう」
と岡田元操縦士が言うと、
「バカ、出たらいっぺんだ(すぐやられる)。『桜花』を捨てて帰ろう」
と鎌田直窮機長の言葉で帰投したが、作戦主任の中島正中佐(神風特攻隊をフィリピンで最初に編成した時の二〇一空飛行長)に大目玉を食った。
同じ作戦に出撃して引き返したもう一機は、操縦士が宮崎昇少尉、副が武田剛吉一飛曹のペアで、「桜花」搭乗員は乙飛十七期の山崎三男上飛曹であった。
電信員として乗っていた吉田次郎一飛曹(神戸市北区有野台=乙飛十七期)の回想によると、沖縄上空でいきなり電探(レーダー)射撃にやられ、エンジンが不調になった。宮崎少尉が、
「自爆する」
と言ったら、偵察の中村豊弘飛曹長が、
「犬死はせん。新竹(台湾)へ行こう」
と言って反対。「桜花」を捨てた。しばらくして片方のエンジンが爆発音とともに停止した。機銃や電探まで捨てて身軽くし、やっと鹿屋に帰投できたという。
中島中佐に、
「なぜそばまで行って落としてこなかったか」
としかられた記憶も小西氏と同じだ。
中島中佐はフィリピンから台湾に引き揚げた後、二十年四月初め五航艦司令部付として鹿屋基地に赴任。七二一空の作戦主任と隊員から呼ばれていた。
「神雷部隊」隊員の日常生活、規律の乱れが気に入らず、司令の岡村基春大佐に度々意見具申していた。
「あれでいいんだ。いざという時は黙って死んでくれるんだ」
と岡村司令は弁護していたという。が、この発想には問題がある。
中島正中佐が「神雷部隊」の規律の乱れに敏感だったように、フィリピンの神風特別攻撃隊の実情や、鹿屋での実態を取材してゆくにつれて、筆者も同様な感じを持ったことは否定しない。
これは「神風」と「桜花」と、どちらの質がよかったかなどという低次元の問題ではない。戦局が逼迫するにつれて隊員の間に気風というか、気質というか明らかに相違が出る。その相違がなぜ、どうして出てきたか、が重要なのだ。
“死”との絶望的な長い対面が、若者をいかに精神的に追い込んだかということに、案外気づいていない指揮官に怒りを覚えるからである。
例えば「桜花」を沖縄の飛行場に一基や二基落としてどれだけの効果があるだろう。この程度の疑問はだれでも持つはずだ。
「神風特攻」のお先棒を担いだとして、批判されている中島正中佐だが、ある意味では理想主義者であったかもしれない。
たしかに特攻に対して、軍人的な原理主義(ラジカリズム)を持っていたと考えられる中島中佐にして、なお隊員の心の底に目を背ける。
が、「神雷部隊」の七二一空作戦主任として二十年四月赴任して以来の感じを『神風特別攻撃隊の記録』の中で、こう書いている。
「沖縄作戦時の特攻隊の編成状況は、フィリピンや台湾のころとは少々変わってきていた。B29の大編隊が大挙して本土に来襲し――戦闘部隊だけでなく一般国民の生活までも断末魔の様相を呈し始めた。しかも、これに対抗するためには特別攻撃法のほかに方法がないとなると――従来の志願制度では、だんだん実情にそわないものとなってきた。
一時的な感情に駆られて志願する者も多くなるし、また周囲の雰囲気のため、志願とは形式だけで、命令に近いような『志願』によって特攻隊員となった搭乗員も一部にはあったようである。
彼らの気持ちも以前のそれとは違ってくるのは当然であった」
「志願の強制」はフィリピンでもあった。中島中佐が知らなかっただけで、その下の隊長クラスあるいは仲間同士のメンツから、精神的な強制はあったはずである。従って中島中佐に沖縄戦時の特攻の在り方を批判する資格はないとは思うが、「神雷部隊」に限らず、特攻隊員が特別扱いされ、軍隊の根本である軍規に乱れが生じてきたことは、やはり末期的な現象と言わなければなるまい。
「黙って死んでくれるからよい」
ではヤクザ集団と変わりない。反戦、厭戦的な行動が取れない以上、少なくとも現場の指揮官は必要以上に若者の精神状態に配慮すべきであったろう。統率の本旨を自ら踏みにじったのは指揮官ではなかったか。
やはり恒常的な特攻作戦は邪道としか言いようがない。
絶望的な戦局下にあって特攻隊員たちがどのような日常を送っていたか、を知ることは日本人の精神風土を考える上で重要である。
特攻隊の若者たちが黙って日本の未来を信じ、散華していったことは疑う余地はないが、彼らだけが内輪で見せた素顔はどのようなものであったろうか。もちろんすべてではない。が、このようなこともあったということは報告する義務がある。
「神雷部隊」の小西勉一飛曹は、
「『桜花』の搭乗員と母機の陸攻の搭乗員の宿舎は鹿屋では別でしたが、同じ若い者なので似たような行動をしました。
野中五郎少佐の初の出撃(二十年三月二十一日)後は、夕方になると小さなバスが隊員を迎えに来て遊郭へ連れてゆき、翌朝バスが連れて帰ります。毎日それをやると、
『早く殺してくれ』
と言うようになります」
と証言する。日常的に“脱”(無断外出)が行われるようになる。宿舎にいたら同僚の死の実証がいやでも目につく。“死”から逃れたいのは人情であったろう。
野中少佐の後を受けて、陸攻隊の総指揮をとっていた八木田喜良少佐は、
「どうしても踏み切れない者も出てきます。ふっきれない。そんな者には、
『神様らしくやれ』
と注意しました」
と羽目を外す隊員の存在を否定しない。が同時に、
「全般的には屈託のない、若者らしい覚悟を持っていたのは事実で、見ていて頭の下がる若者が多かったですよ」
という。その通りであったろう。
「桜花隊」に志願し、事故負傷で実戦参加することはなかったが、小柳坤生上飛曹は“出撃即死”を意味していた時期の生活を、
「夕方は戦友の通夜で弔い酒、夜中を過ぎると出撃祝いでした」
と語っている。
「神雷部隊」の整備員だった松岡甲子夫兵長は同じ隊なので出撃の光景はずっと見ている。
「出撃するときの隊員の顔色は土色か、酔って真っ赤になっているかのどちらかでした」
と述懐する。もっとも酒に酔って出撃するほど安易なものではなかったが、酔っぱらっていたように見えたことは事実であったろう。
陸攻搭乗員だった福田三夫氏(岐阜県土岐市駅知町=乙飛出身)は、
「出撃数日前にペア会をやります。正面には戦死した者の遺品と一緒にお酒が飾ってあります。
翌日出撃するものですから私たちも飲みます。飲むうちに悲しくなり、足りなくなると飾ってある酒を失敬します。空になると水を入れて戻しておく――」
死んだ者も、死ぬであろう者も同じ次元にあったのかもしれない。
何を語る三千九百数十人
沖縄戦では陸軍も激しい特攻をかけている。
四月中の特攻戦死者は、海軍は九百五十二人を数えるが陸軍も負けてはいない。
六航軍は九州の都城(東、西)、隈の庄、知覧、大刀洗、目達原、万世。南西諸島の喜界島、徳之島、石垣島。台湾の宜蘭、八塊、花蓮港基地から連日特攻隊を出撃させている。
四月だけで四百三十人が特攻死し、うち百人は台湾からの出撃である。海軍の九百五十二人より少ないが、人数は問題ではない。連日突っ込む若者の姿を想像するだけで胸が痛む。そしてますますエスカレートしてゆくのだ。
沖縄特攻で注目すべきは従来の実戦機に交じって練習機が投入されたことである。
陸軍は四月十六日に「九九高練」、五月二十八日には「二式高練」が爆弾を抱いて出撃している。
海軍では五月二十五日から練習機「白菊」が参加している。それまでに海軍は旧式の九七艦攻(四月六日)、水上偵察機「瑞雲」(四月二十八日)、九六艦爆(五月九日)、零式観測機(五月二十四日)が初使用されているが、ともかくもこれらは旧式とはいえ実戦機であった。
四月六日「菊水一号作戦」が始まり、沖縄の陸上戦が終了(六月二十三日)する二日前の二十一日、「菊水十号作戦」をもって組織的な航空特攻作戦は陸海軍ともに終了する。練習機まで突っ込ませたのは「本土決戦」に備えて実戦機を温存したためもあったが、特攻に使用する飛行機が底をついたのである。
以後、散発的な特攻が続く中で、七月二十九日、海軍の中間練習機が台湾から宮古島を中継して沖縄方面に爆装して出撃している。中間練習機は九三式と呼ばれる固定脚か、浮舟(フロート)の付いた複葉機(赤トンボ)である。
「かわいそうで見ていられなかった」
という目撃者は枚挙にいとまがない。生き残った特攻隊員でさえ、
「あれはむちゃだ」
と口をそろえる。
「白菊」特攻隊の兵器整備係だった、福地義人上等兵曹(広島市中区鶴見町)の回想がある。昭和十五年、呉海兵団に志願し航空関係の任務についた人だ。
「鹿屋基地の近くの串良に『白菊』の基地がありました。出撃はそこからです。予備学生十三期、十四期、予科練出身者など初心者がいました。俳優の西村晃さんや茶道家元の千宗室さんもここです。最初に出撃したのは徳島海軍航空隊の所属で、二百五十キロ爆弾一個を抱いた、二十機近くだったと思います(連合艦隊告示は二十五人)。ついで高知海軍航空隊所属の『白菊』隊が出て行きました(同四十人)。夜間攻撃で、悲壮でしたが使命感に燃えていました。同郷(広島市)で乙飛(特)一期(十八年入隊)の石井正行二飛曹が『第二白菊』(同十四人)で五月二十八日に出撃しました。
『白菊』の風防を開けて挨拶する石井君に、
『何か言うことはないか。しっかり頑張れ』
と励ますしかありません。彼は従容として行きました。
二百五十キロ爆弾を抱いた『白菊』のスピードは私には詳しいことはわかりませんが百五十キロぐらいしか出なかったのではないでしょうか。これは完全に自殺行為の強要ですね」
実戦を全く知らない、飛行技術の未熟な若い隊員の士気が高かっただけに、計画を立てた首脳部の精神状態を疑いたくなるのが、この練習機特攻である。もはや戦闘ではない。
石井二飛曹の遺書がある。
「出撃ニ際シテノ所感。
斯クテ待チニ待ッタ出撃ダ。練成教育ノ始マル以前ヨリ今日ノ来ル日ヲ希望ト意気デ訓練ニ励ンデキタ。
咲イタ花ナラ散ルノハ覚悟。今日マデ実用機教程ト飛行技術ヲ習ッテ来タノモ今日有ル日ニソナエテノ訓練デアルコトヲ出撃ニ際シテ深ク感ジル次第デアル。
練習機デ敵艦に突入スルコトヲ感ズレバ痛快デアル。何モカモ心残スコトナシ。一ニモ二ニモ国ノ為ニト喜ンデ出撃スル次第デアル――国ノタメニ笑ッテ死ナン」
十八歳の若者の“まさに死なんとする時”の言やよしである。
「練習機で敵艦に突入することを感ずれば痛快である」
「国のために笑って死なん」
という文字の重みが胸に響く。が果たして練習機で沖縄の敵艦に体当たりできるだろうか。できると信じているだけに心情は哀れである。
このような状況の中で、陸軍航空本部は五月下旬、陸軍特攻の中心基地であった知覧に、望月衛技師を派遣して特攻隊員の心理調査をさせている。この内容は生田惇著『陸軍航空特別攻撃隊史』(ビジネス社)に詳しい。
もっとも、調査を必要としたのは、隊員よりも戦争指導者の心理状態であったろう。が、ともかく航空本部でさえ、特攻隊員の士気の問題に気づき始めたということであろう。
望月技師は面接、アンケート調査し、結果を二十年六月、航空本部教育部長名で関係部隊に配布している。
教育部長は六月一日着任したばかりの寺田済一中将である。フィリピンにあった四航軍(冨永恭次司令官)の参謀長から、冨永軍司令官の意にそわなかったため、決戦最中に更迭された木下勇中将の後を継いで第二飛行師団長に任命された人だ(既述)。
最初に特攻隊員を送り出した側の人だけに、特攻隊員の心理についてこの人なりに疑問をもっていたため、発表をためらわなかったのではないか。ある意味では勇気のある調査結果で、意外な真実を教えてくれる。
六航軍の「特攻隊員の心理調査」は、
「戦場心理ヨリ看タル特別攻撃隊員ノ士気昂揚策」
となってはいるが、むしろ隊員の特攻作戦に対する赤裸々な告白が読み取れる。
筆者はこの調査書の現物を見ていない。以下生田惇氏の『陸軍航空特別攻撃隊史』の記述を借りる。
「特別攻撃隊員ヲシテ欣然其ノ任務ニ就カシメ得ルヤ否ヤハ編成ヨリ出撃ニ至ル間ノ精神指導ノ適否ニ係ハルコト極メテ大ナリ」
と精神指導が大切であるとし、
「隊員ニシテ攻撃ヲ忌避シ或ハ是レニ臆スル如キ者若干ヲ認ムルモ性格的劣格者タリト認メラルルモノヲ見ズ」
としながらも、次のように解説している。
「隊員ニ編入セラレテ尚覚悟ノツカザル時ハ
『ソノ場ニナリテ何トカ決心』
セントシテコレヲ遷延シ、従ツテ直前ノ雰囲気ニ過度ニ敏感トナリ、精神ヲ左右セラレ、却ツテ益々決心ヲナスニ甚大ナ努力ヲ要スルニ至ル。現在ノ隊員ニシテコレニ属スルモノ約三分ノ一アリトスル観察ハ殆ド正シキカ」
当時の文章を読み慣れていない者には少し難解だが、要するに、
「出撃するその場になってなんとか決心しようとして(その場になればなんとかなる)覚悟することを延ばすから、出撃直前になって覚悟をするのにかえって努力がいることになる」
ということで、そうした隊員が、
「三分の一はいるという観測は正しい」
という意味である。つまり三分の一は初めから特攻隊員になることを希望していなかったことを証明している。
そして覚悟をしていた者でも待機する日時が長くなると挫折してゆき、
「抗命などの犯罪が起きる恐れがある」
とずばり指摘している。
精神教育は大切、としながらも、
「お説教的精神教育は全く有害無益。ことに軍人の行う説教がそうである」
と言っている。
若者が進んで特攻隊員として困難に赴こうとしていることは確かだが、いくら特攻を繰り返しても戦局は全く好転しないのみか、ますます敗勢になってゆくことを隊員は知っていた。特攻作戦が長期化、恒常的になって“厭戦気分”が隊員の間にはびこり始めたのであろうか。現場指揮官の不満もあったと思われる。
沖縄の組織的な陸上攻防戦は六月二十三日に終わる。
大本営は「本土決戦(決号作戦)」を叫び、本土を東日本、西日本に二分して第一、第二総軍制を、空軍は航空総軍制を敷く(いずれも統帥発動は四月十五日)。
第一総軍は杉山元《はじめ》元帥、第二総軍は畑俊六元帥、航空総軍は河辺正三大将が総司令官に親補された。
一月二十日に決定した「本土決戦に関する作戦大綱」に基づいた処置である。
もっとも軍部ならびに国政指導者の頭の中には、
「一会戦やって勝利をあげ、講和を有利に導く」
という考えがあったことは事実で、いかにも甘い発想だが“世界の孤児”となっていた日本には連合国指導者の対独、対日方針を知る能力が全くなかったのである。
日本と国交を持ち大、公使館を置いていたのは中立条約を結んでいたソ連のほかはスイス、スウェーデンなどの中立国以外にない。が、ソ連は四月五日、条約の破棄(不延長)を通告していた。
ソ連は第二次大戦では連合国の一員だったのである。
ドイツの敗北(四月三十日ヒトラー・ドイツ総統自殺。降伏調印は五月八日)を見越して、二月四日からソ連・スターリン、アメリカ・ルーズベルト、イギリス・チャーチルの三首脳がクリミア半島のヤルタに集まり、一週間にわたった「ヤルタ会談」(ドイツ降伏後の処置を協議するのが主目的であった)の中で、二月十日、スターリンが、
「ドイツ降伏後三ヵ月以内に対日参戦する」
と米英に対して意思表示していたことなど日本は全く知らない。ついでに言えば、十八年十一月二十八日、同じ顔ぶれが集まったテヘラン会議でスターリンは対日参戦をほのめかしている。この間の経緯を書けば切りがない。
日本が戦争継続の不可能(それは敗北を意味する)を自覚し、五月十一日から三日間開かれた最高戦争指導構成員会議で、極秘裏に、
「ソ連を仲介とする和平交渉」
を討議している。「和平」が内密でも公式に議題となったのはこれが最初である。
最高戦争指導構成員会議はこれが第一回で、構成メンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、及川古志郎軍令部総長の六人である。
この時期になって、軍首脳の一部、為政者、重臣もこの方針を唯一の頼みとしていたことは事実で、七月十二日、近衛文麿氏を特使として訪ソさせるところまで国内の方針をまとめるが、ソ連のだんまり戦術で実現しない。
対日参戦を狙っているソ連が和平の仲介をするはずはなかったろう。だいいち日本の無条件降伏を求めるポツダム会談は始まっていた。
すべてが手遅れで、ソ連の腹が読めなかった日本外交の限界がそこにある。
この間にも、若者の死への驀進は続く。戦争指導者の思考分裂傾向は目を覆いたくなる。
一方では和平の道を探りながら、絶対不可能な、
「一戦して勝利を挙げ、和平条件を有利に導く」
という方針のため、例えば「桜花」は性能アップをねらって「22型」の研究に打ち込み、六月二十六日テストパイロットの永野一敏少尉が殉職する。
特攻隊として実戦に参加する機会はなかったが、特殊潜航艇の生産はマスプロ式で続けられ、新聞は国民の士気を盛んにあおった。
二十年になると「特攻隊」作戦は日本人の常道的な戦法として国民の間に定着した感がある。
国民意識はひたすらに“必勝”を信じた。現在の感覚で当時の新聞を読むと、発表された敵空母、戦艦の轟沈は百隻を下らず、撃墜された敵飛行機は数千機になるだろう。
なのに、日本本土は連日空襲にさらされていた。いくらアメリカでも百隻も艦船を沈められれば、飛行機を運ぶ手段はないはずだが、それでも新聞発表の数字を信じなかった日本人は少なかったろう。
逆説的に新聞を読めば、日本の敗北を大見出しで伝えているようなものだが、国民は大本営の誇大な、というよりも捏造による発表を信じた。矛盾を矛盾と思わず、日本人全体が暗示にかかっていたのである。いまさらながら戦争の持つ魔性に慄然とする。
沖縄特攻は、硫黄島前哨戦ともいえる二月二十一日から始まり、沖縄が占領された後も続き本土上陸の寸前――日本敗戦の日――八月十五日までとみてよい。
航空特攻についてみれば、海軍の特攻機が一千数百機、二千六十八人、陸軍九百数十機、千九十七人(いずれも防衛庁戦史室資料)を数える。
海軍の特攻死者は連合艦隊告示の人員である。海軍の場合、特攻死者に比べて機数が少ないのは大型機の使用が多かったからで、一式陸攻は通常七人、「銀河」には三人が乗っていた。もっと細かく調べれば使用機数もはっきりすると思われるが、資料の壁に突き当たる。
「回天」の洋上攻撃が行われた最初は、沖縄作戦の最中の四月中旬に出撃した「天武隊」である。
イ四七潜、イ三六潜の二艦に、隊員が十二人。ウルシーと沖縄を結ぶ敵の補給路で待ち伏せする任務である。
結論を言えば、八基が発進し、潜水艦乗員は大きな爆発音を聞いている。
「回天」の洋上攻撃となると、走っている敵の艦船に命中させるわけだから、操縦技術が必要になる。小さな潜望鏡からのぞいて目標をつけ、距離と敵艦の速度を目ざとく計算し、全力で突っ込むのであるが、簡単ではなかったろう。イ五八潜の艦長橋本以行少佐は、
「二、三回の発進訓練では無理なので、少なくともその倍の訓練をした」
と回想しているが、「桜花」といい、「回天」といい、爆装戦闘機、練習機特攻といい、あまりにも“やせ馬に荷を負わせ過ぎた”感がする。
勝利を目前にした、連合国それぞれの思惑はどうあれ、海軍は水中特攻「回天」隊も出撃を止めない。
五月五日に大津島を出港した「振武隊」と、五月二十三日から六月十五日にかけて、光、大津島基地から出港した「轟隊」の空しくもけなげな献身が続く(カッコ内は回天基数)。
「振武隊」はイ三六七潜(五基)一艦の出撃となったが、「回天」二基が発進し、駆逐艦と輸送艦に命中している。米軍発表の損害は大破程度だが、一トン半もある「回天」が命中して沈まない駆逐艦とはどのような船体強度を持った船なのか。
「轟隊」はイ三六一潜(五基)、イ三六三潜(五基)、イ一六五潜(二基)、イ三六潜(六基)の四隻である。
イ三六一潜は、光基地を出たまま一回の通信もなく消息を絶った。
百番台の潜水艦は輸送用に建造されたのを「回天」搭載艦に改造したものだ。
イ三六三潜の艦長木原栄少佐は荒天のせいもあったが、「回天」搭乗員の要請を制止して発進させず、手持ちの魚雷で輸送船を沈めて帰投している。これは第一線指揮官の意識の反映と見てよい。少なくとも「回天」使用の本能的な拒否反応ではなかったか。
「回天」最後の出撃は「多聞隊」である。
イ五三潜(五基)、イ五八潜(六基)、イ四七潜(六基)、イ三六潜(五基)、イ三六六潜(五基)、イ三六三潜(五基)の六艦で、これは現存潜水艦のほとんど全力といってよい。
最後の出撃で特攻死したのはイ三六六潜の成瀬謙二中尉、上西徳英、佐野元一飛曹の三人で、八月一日光基地を出港し、十一日に突っ込んでいる。終戦の四日前である。
成瀬中尉については特に記述しなければならないことがあるが、その前に日本を取り巻く連合軍の動向を知っておかなければ、この若者たちの死の重みがわからない。
アメリカは広島(六日)、長崎(九日)に原爆を投下し、ソ連は中立条約を破って旧満州に武力進攻(九日)を開始した。この間の特攻死なのである。
降伏は仕方のないところまで追い込まれていたが、政府、軍部は突き付けられたポツダム宣言の語句にこだわり、「国体護持」をめぐって空しい論議を繰り返し、いたずらに時間を空費していた間に、若者は何も知らずに死んでいったのだ。
米、英、華(蒋政権)三ヵ国の名でポツダム宣言が発出されたのが七月二十六日。
鈴木貫太郎首相は“ポツダム宣言を黙殺”と発表した。阿南陸相は中堅継戦派の暴走を鎮め、終戦を円満に導くためにヌエ的ともみられる言動を取らざるを得なかった。
この日、マレーに駐在していた第三教育飛行隊の徳永勇夫、山本玄治曹長、大村俊郎伍長の三人の「七生昭道隊」がプーケット沖で英国の機動部隊めがけて突っ込んでいる。同隊の中隊長兼副官だった杉浦宗一中尉(愛知県半田市乙川原内林町)によると大村伍長は数えで十八歳(少年飛行兵十五期出身)の少年であった。飛行場には落下傘と飛行靴がぽつんと残してあったという(南方戦線でも特攻は行われ、カーニコバル、スマトラ、マレーで七十五人が特攻死している)。
複雑な国内事情――継戦派の抵抗があったことは確かだが、この期に及んで最高為政者たちが、指導力を発揮できなかったことを指弾されても反論の余地はないだろう。
日本人を特攻にまで駆りたてたことについては、戦後多くの人が語り、あるいは非難し、肯定し(戦争是認の意味でなく)、現在もなお解答は出されていない。解答の出る性質のものでもない。問題が微妙なだけに、学者も避けて通る風潮がある。
大別して、特攻に駆りたてたものは日本人の「軍国主義教育にあった」とする論が多いようであるが、必ずしもそうとは断定できない証拠が幾つもある。教育の成果を誇大に評価し、あるいは“過去”を憎むのを急ぐあまりに、教育のせいにしてしまうのもどうだろうか。教育だけで簡単に意識変革ができたとは思えない。長い歴史の中で培われた“国民性”という立場からの議論も必要な気がする。
日本が太平洋戦争に踏み切り、遂には特攻までやって“悶え死に”したことは歴史的事実だが、日本人をそこまで駆りたてたのは、簡単に理性の壁を乗り越えてしまう“国民感情”という見えない存在を無視しては考えられないことも確かなのである。
昭和初期からの新聞、雑誌の論調を丹念に拾ってゆくと、この得体の知れない“国民感情”が逆に軍部、為政者を追い立てた側面があったことは否定できないように思える。現在の日米貿易摩擦一つを見ても言えることで、“国民感情”とか“世論”という名のもとにエキサイティングな行動が連日報道、論評されている。情報がオープンであり、リアルタイムで入ってくるのにもかかわらず、国民の理性的な判断は完全とも思えない。それに大臣も振り回される。
戦争に突入するのは民族の仏教でいう“業”のようなところがあり、それだけに怖いのである。
特攻に至るまでの道程と実態を本書でたどってきたが、一つ言えることは、特攻隊員として出撃した若者たちが、案外冷静な側面を持っていた事実である。国民感情とプロ軍人の意外な“見方”の差である。
「回天」隊員としてイ三六六潜で七月半ば、光基地を出撃して行った「多聞隊」の成瀬謙治中尉は、愛知一中(現旭丘高校)から海兵七十三期生として入校した人だが、問題は海兵在校中の十八年七月に起こった。
母校の県立愛知一中の三年生以上七百人が全員甲種予科練に志願するという出来事があった(実際の志願者は五十六人)。江藤千秋著『積乱雲の彼方に――愛知一中予科練総決起事件の記録』(昭和五十六年・法政大学出版局刊)に詳しいが、これが十八年七月六日付の朝日新聞で、
「愛知一中の快挙――全四、五年生空へ志願」
と四段見出しで報道された。
この記事で刺激を受けた鳥取県立米子中学(現米子東高校)でも大量の志願者が現れた。海軍からも志願者の割り当てがあったという。全国的な傾向で、海軍は中学生に的を絞って飛行機乗りを育てようとした。
海軍士官のキャンペーンで、甲飛十三期前期生への道を選んだ藤高道也氏(広島市西区打越町)は、
「講堂で海軍士官の話が終わると、
『行くものは立て』
とある男が叫んだんです。この男は結局行かなかったのですが、それがきっかけで、大量志願という図式が出来上がったのです。明らかに作られたものですが、中学五年生とはいえ、判断力がありませんからね。
当時の私は滅亡が日本の行き着く先、と考えていました。勝利か、死かのいずれかしか選択肢はなく、講和だの和平だのという概念がそもそもなかったですよ、当時の多くの日本人には。でも予科練総決起の真相はよくわからないんです」
と回想している。当時の日本人の平均的な認識であったろう。
ところが海軍兵学校の食堂で「愛知一中の快挙」という新聞記事を読んだ、先輩の成瀬謙治、小野静洋生徒は、
「おう、これはいかん」
と言って、愛知一中出身者を集め、母校の甲飛総志願に反対することを決め、成瀬生徒が代表で校長に手紙を書き、翻意をうながしている。内容は、
「全一中生を甲飛に送るのは無意味であり、それぞれの能力に応じた道で国に報いさせるべきだし、この戦争でわれわれだけが死ねば十分だ」
というものであった。
成瀬生徒はやがて中尉となり、
「われわれだけが死ねば十分だ」
と後輩を諭した言葉通り、「回天」で死んだ(前述)。
後輩の一中生全員が甲飛に行くという発想を、海軍兵学校の生徒が、不自然だと感じ取ったのは正常な感覚である。むしろ一般国民の方が、「快挙」と拍手したのである。戦争は国民の後ろ盾がなければできるものではないことを今後のためにも知る必要がある。
「桜花」隊員や一般特攻隊員に士気の乱れがみられ、陸軍航空本部が特攻隊員の心理調査を行ったことも前に記した。誤解があってはいけないので追記するが、酒を飲み羽目を外しても、出撃を拒否した例はない。“逃避”はあったろうが、日常それなりに自分を律していた。
甲飛十四期生で、宝塚基地で訓練中だった水内三郎氏(広島市安佐北区落合三丁目)は、ジェット推進機「秋水」(実戦に間に合わなかった)の乗員養成訓練生とも同一敷地内で起居していたが、決してやけっぱちなムードは感じなかったようだ。
水内氏は、
「私たち予科練の生徒と、特攻隊員との会話は禁じられていました」
と言う。やはり訓練中の若い人が、特攻隊員の表面だけをみるのは教育上問題であったろう。
水内氏は予科練入隊時から終戦まで丹念な日記を書いているが、その中に目を引く記述がある。
二十年五月三十日(水)の日記に、
「(『秋水』の)出撃訓練中カ、『日ノ丸』鉢巻ニ悠々小用ヲナシツ、誘導路作業ノ我ラニ笑ミカケタ、アノ若キ先輩。休憩時、
『オ前タチハ甲ノ十四期ダナ』
ト言イツ話シカケラレ来タレル先輩ニ、
『搭乗員トノ話ハ禁ジラレテヰマス』
ト答ヘレバ、
『ソレデハ俺カラ退散シヤウカ』
トアツサリ予科練習生ノ心境ヲ察シクレタル尊キ先輩。今瞼ニ浮カブ。在リシ日ノ秋水特攻隊勇士ノ顔々。後ニ続カン先輩ノ御後ニ征カン」(原文のまま)
と書いている。階級が下の予科練生から、
「あなたとお話できません」
と言われて、
「それでは俺から退散しようか」
と黙って去ってゆく姿は、すでに階級観念をも捨てている特攻隊員の行動である。
軍隊では下級者が上官に対して、このようなことを言えば、理屈の如何を問わずただでは済まない。よくもあしくも、それが旧軍隊の体質であった。
「秋水」隊員がそれなりに自分を律していたことは、この日記からも察せられる。
今一つの問題は飛行機など機材の質の低下である。
「神雷部隊」第一回出撃(三月二十一日)で掩護戦闘機が約半数引き返したが、その時、笠ノ原基地で引き返した戦闘機の整備分隊長だった海見勝大尉(広島市東区牛田本町五丁目)によれば機材の不良に原因があった。
「燃料の劣悪さ、機材の質の悪さはひどいものでした。士気にも当然影響します。整備を一生懸命やっても欠陥製品のような飛行機が多かったので、限界がありました。整備不良と片づけられては整備員が気の毒です」
と回想している。陸海軍の原料の奪い合いは激烈で、高木惣吉少将の著書を一読すれば当時の実態がわかる。
「神雷部隊」の攻撃七〇八(陸攻隊)の機付き整備員だった山田重隆氏(愛知県豊橋市佐藤町)は手記(私家版)で、
「基地を移動する時、うっかりするとエンジンの部品を盗まれる。整備兵はデッキ(居住区)に安心して寝られない。飛行機の中に泊まりこんで張り番をした」
と書いている。軍隊は員数を確保するために、隊内で盗みをし合うという奇妙な習慣があった。飛行機のエンジンの部品までも盗まれるというのは、あしき習慣という以上に、自分の飛行機だけは、というエゴが出てきたことを物語っているが、そこまでしなければ完全な状態で飛行機を飛ばすことができなかった機材の低劣さの証明でもある。末端の声を聞いてみると、この戦争がいかに無理を重ねていたかが浮かび上がってくる。
ポツダム宣言の発出(二十年七月二十六日)を受けて政府は“終戦”に向けて動くが、第一線の兵士たちには、無論何も知らされていない。
が、この前後の二人の司令長官の言動に注目しておきたい。
神風特攻に踏み切った一航艦長官大西瀧治郎中将は、フィリピンから撤退後、台湾の小崗山で指揮を執っていたが、二十年四月十七日、新竹郊外の赤土崎に司令部を移していた。同月末、同盟国イタリアの総統ムソリーニが処刑されたニュースを聞いた時、副官の門司親徳大尉に、
「おれも死刑だな。ハワイ攻撃を計画したり、特攻隊を出したり――」
とニヤニヤしながら漏らしている。この言葉は明らかに日本の敗北を意識したプロ軍人の予見である。
数日後、大西長官は軍令部付の内命を受けて、十三日午後門司副官を連れてダグラス機で東京に出発する。
大西中将が米内光政海相の推挽で軍令部次長に就任したのは五月十九日である。主戦派の急先鋒である大西中将を軍令部次長に推薦した米内海相の思惑については、いろいろな研究がある。が本書とは直接関係ない。
門司副官が東京まで見送り、台湾へ帰隊するため大西中将にあいさつに行くと、七ヵ月間にわたる苦労を謝し、握手しようとした手を急に引っ込めて、
「おれが握手するとみんな先に死ぬんでなあ」
と言って門司副官の乗った車が動き出すまで見送っていた。
鹿屋基地で書き続けられていた五航艦長官宇垣纏中将の『戦藻録』に衒学的(ペダンチック)な文字が見えるのは六月二十七日である。
「このころ『虚無』ならんことを修養の第一義と心得あり、思想や主義に非ず、心を虚にして己を無ならしむるに在り」
そして毎日少数の索敵、特攻攻撃を命じ、愚直ともいえる前線指揮を続けていた。
宇垣長官がポツダム宣言の発出を知ったのは七月二十九日である。意外に遅い。八月九日のソ連参戦。十日に政府が発したポツダム宣言受諾のニュースをサンフランシスコ放送で知った十一日、
「矢弾つき果て戦力組織的の抗戦不可能とするに至るも、猶天皇を擁して一億ゲリラ戦を強行し決して降伏に出づべからず」
とおよそ彼らしくない、戦略眼のなさを、さらけ出したような自虐的な心境に進んでゆく。
最後の特攻は終戦の二日前――八月十三日で、海軍では百里ケ原基地から平野亨中尉指揮の神風特攻第四御盾隊の彗星艦爆四機、木更津から元八郎中尉指揮の第七御盾隊第三次流星(複座艦上攻撃機)隊の四機、計八機である。
陸軍は同じ日犬吠埼沖、下田南方沖に七人が突っ込んだ。ともに終戦の決定を知らない、絶望的な突入である。
日本は八月十日、ポツダム宣言受諾を表明しており、米軍の戦闘地域では組織的な戦闘はすでに行われていなかった。思えば悲しい。
終戦の詔勅がラジオで国民に伝えられたのは八月十五日正午。
この日の午後四時三十分、宇垣纏五航艦長官は「彗星」艦爆十一機を自ら指揮し、大分基地(鹿屋から八月三日移転)から特攻に飛び立つ。隊員は中津留達雄大尉以下二十二人(生還五人)。
出撃命令を出したのは十五日未明である(十四日夜の説もある)。サンフランシスコ放送で十五日正午に天皇の終戦の詔勅放送が行われることを知ったうえでの決心であった。もとより宇垣長官に政府中枢からの相談はない。
『戦藻録』八月十五日に、
「未だ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし」
戦争とは死ぬことだと信じ、部下を道連れにすることの不条理など宇垣流の“死の美学”には存在しない。部下もまた望んだ。現代人にはもはや、うかがい知れぬ心情であろう。
「私兵特攻」として後世の批判を浴びることになるが、連合艦隊司令長官小沢治三郎中将も、
「死ぬなら一人で死ね」
と出撃を知って激怒したと言う。
軍令部次長大西瀧治郎中将の死とはあまりにも対照的である。
戦争継続工作にあらゆる手を打ち、失敗すると十四日夜、国策研究会の矢次一夫氏宅を訪ね、
「戦争に負けたのは俺ではないぞ、天皇が負けたのさ」
と一世一代の“名セリフ”を残し、十六日午前二時四十五分、軍令部次長官舎で切腹する。駆け付けた人々に、
「生きるようにはしてくれるな」
気になっていたのは、厚木航空隊にこもり徹底抗戦を叫んでいた小園安名大佐のことであった。
「大西が言っていたと、小園を押さえてくれ」
十五時間にわたっての苦痛をかみしめて絶命する。
遺書は言う。
「特攻隊の英霊に曰《もう》す。善く戦ひたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」(原文のまま。句読点、ふり仮名は筆者)
家族への遺書の一節。
「之でよし、百万年の仮寝かな」
宇垣長官が事前に用意した決別電を打たせて、万事儀式として消えたのと最後まで対照的だ。
「神雷部隊」司令岡村基春大佐が鉄道自殺したのは、戦後三年たった二十三年七月十三日。
フィリピンで始められた特攻作戦は、終戦までの二百九十九日間に、海軍二千五百二十四人、陸軍千三百八十六人の若者の命(遺族会などの調べ)をのみ込んだ。
この若者たちのいちずな死の意味はほとんど忘れ去られようとしている。
現在の日本の平和と繁栄。彼らの“死にざま”を重ね合わせるとき、いまさらながら若者たちの“死の重み”がずんと脳髄を突き抜ける。
あとがき
いきなり私事を書く。私の世代は旧制中学と新制高校の接点にあたる。昭和二十年――終戦の年――が旧制中学の四年生で、卒業が二十二年(新制高校進学者は二十三年)である。つまり軍籍に入った最後の世代である。同級生の何人かは甲種飛行予科練とか海軍予科兵学校、陸軍幼年学校に志願している。
戦後、志願していた級友は、中学校に復学した。士官学校、海軍兵学校に進んでいたものは、大学に優先的に進学できたが、中学三年から受験資格のある甲飛の志願者は中途半端で、元の中学に復学する以外になかったのだ。甲飛から復学した仲よしの級友が、
「特攻出撃をするときになあ、海軍のバカヤローと打電して突っ込んだ者もいたんだ」
といかにも秘密っぽくささやいたことを鮮明に記憶している。もっとも私たちの世代が甲飛に志願できたのは、昭和十九年から二十年にかけてであるから、甲飛十五期、十六期である。「ヨカレン」をもじって「ドカレン」(土方練習生――防空壕の穴掘り作業が多かったという)と呼ばれていた組だから、海軍のバカヤローの話は、隊の先輩から聞いたものだろう。
いまひとつの記憶は、一年先輩で、甲飛十三期の後期生(十八年十二月志願)だったKのことである。私は呉市に住んでいて、二十年七月一日の空襲で焼け出され、瀬戸内海のある島に疎開していた。
三種軍装で、長髪にした海軍の一団が突然やってきて白砂の海辺でキビキビした訓練を一日だけしたことがある。どうしてあの島を訓練地に選んだのか知るよしもないが、中にKに似た男がいた。Kは手のつけられない“不良学生”だった。訓練中に直接呼びかけるのも気が引けたので、まだ五歳だった従弟に、
「おい、Kと言ってみろ」
と呼ばせたら、振り向いて私と視線があった。やはりKであった。当時の日記を見ると二十年七月十日、敗戦の一ヵ月と少し前である。
その晩、灯火管制で真っ暗な粗末な二階で、二人寝ころび長いこと話をした。言葉遣い、態度は不良学生のKではなかった。軍隊教育が人間を変えることは知っていたが、こうまでKが変わっていたのは驚きだった。たぶん「回天」の搭乗員ではなかったか。彼は戦後すぐ、復学せず病死した。
「オレたちが死ななかったら、日本は勝てんからなあ」
と、海軍独特の口調で言ったのが今でも耳の底にこびりついている。
「海軍のバカヤロー」と打電して突っ込んだ話と、Kの言葉がこの「特攻」を書く間、常に私の心の底を往来した。
生き残った特攻隊員に取材して感じたのは、二通りの反応である。
「もう少しで殺されるところだった。志願を迫ったあの上官を見たら殺してやりたい」
いまひとつは、
「あの時なら誰だって覚悟していましたよ。志願していながら、いまさら恨みごとなどいう気は、全くありませんね」
という言葉である。体験者でない私にはどちらが本当だったか、を判断する資格はないが、いずれにせよ当時二十歳前後の、失礼だが未熟な人生体験しかない若者が、ギリギリの選択を迫られた時の心境についての、四十数年後の“感懐”である。
特攻隊員を送る側に回った現場指揮官クラスの反応も興味深いものがあった。電話で取材を申し込むと、決まって暗い返事が返ってくる。新聞にいやなことを書かれるのではないか、という警戒感である。何度か不愉快な目にあったと後で聞いた。現場の指揮官も他に選択肢がなかったのだから、彼らもまた犠牲者であるという考えを私は持っているから、そのむね説明してやっと取材に応じてもらった。
部下から特攻隊員を出さなかった美濃部正氏だけが違っていた。
「オレは身体中がガンにやられている。早く来ないと死んじまうぞ」
受話器がガンガン響いた。
「特攻」についてかねがね私が抱いていた疑問は、誰が、いつ、どのようにして“国家意思”としての「特攻」を決定したか、という問題である。本書で可能なかぎり検証したつもりであるが、改めて言及しておきたい。
日本がマリアナ海戦に敗れたころから、軍の前線指揮官の間に“体当たりしてでも”という意識が芽生えはじめ、これが下級士官、下士官兵に波及し、上層部を突き上げる形で実施された、と見てよいだろう。もちろん初期の「特攻」は大西瀧治郎中将が、神風特攻隊の編成のため、マニラからマバラカット基地に向かう途中、車の中で、副官の門司親徳大尉に、
「決死隊を作りに行くんだ」
と言った意味であったことは確かで、特攻戦術を恒常化、組織化する意思はなく、栗田艦隊のレイテ進入を可能にするため、敵空母に爆装零戦を体当たりさせ甲板を一週間程度使用させなくする、という明確な作戦目的を持ったものであった。敵に体当たりした例は多くの戦場であった。兵士たちは瞬間に命を賭したのである。
そうした兵士の闘争本能を巧みに吸い上げ、恒常化させた統帥部のやり方は、調査してゆくにつれて、いささか腹だたしくなってくる。私が本書で追及したかったのはそこである。
戦争は国家と国家の紛争を武力で解決するという原始的な行動である。そのために戦時国際法さえある。悲しいかな、現在でも地球上では戦争が行われている。“民族の業《ごう》”と私は考えるが、戦争の背後にはそれを支持する国民がいるという側面を忘れてはいけないだろう。
日本は戦争を放棄し、平和な繁栄を続けている。日本が平和でいられるのは日米安保、平和憲法があるためでなく、幸運にも、日本に侵略しようとする“意思”を持った相手国が存在しなかったにすぎない。ここで戦争論をするつもりはないが、昭和十六年末、“大東亜戦争”に日本が踏み切ったのは、多くの人が検証しているように、このままでは米・英に屈服するしかなくなる、という危機感を為政者も、国民も持ったからである。
私が問題にしているのは、開戦した以上は「終戦義務」を負っているにもかかわらず、ああいう形でしか処理できなかった、為政者の無能力、無責任についてである。戦うことが義務である統帥部が、
「もう戦えません」
と立場上言えない以上、為政者は時期を見て終戦を急ぐべきであった。四千人近い特攻死者を送り出し、原爆を二度も落とされ、同盟国のソ連に参戦されて、やっとポツダム宣言を受諾したのである。
国際関係論を専攻している知人の大学教授が、
「うっかり終戦を言いだしたら、自分が殺されるという、きわめて個人的な側面はなかったのかなあ」
と言ったことがある。やはりみんなそう感じているなと思った。その証拠はいくらでもある。
特攻作戦の推移を見ても同じだ。第一線の兵士は敗戦続きでイライラしている。連合軍はフィリピンに迫る。飛行機はなく、歴戦のパイロットは少ない。
そんなとき、軍令部は大西中将をフィリピンの一航艦司令長官に任命して、一か八かの勝負に出る。その時点で、すでに「特攻」戦術は軍令部で既定路線として決定していたのだ。当時軍令部の航空参謀だった源田実大佐は、大西中将がフィリピンに赴任する前に軍令部で話し合った。その時の実感を、
「大西さんはやるな、と思った」
と証言している。「やる」という意味は軍令部では暗黙の、いや既に公然化していた「特攻」をやるということである。
源田参謀が軍令部の方針に従って十月十三日に起案した「特別攻撃隊に関する処置」の電報内容を見れば、軍令部の既定方針であったことがはっきりと分かる。
大西中将が東京を出発したのは十月九日。電報を起案したのは十三日である。大西中将はまだ台湾にいた。その時点で、軍令部は「神風特別攻撃隊」の隊名を「敷島」「大和」「朝日」「山桜」とすることまで決めていたのである。この電報は軍令部第一部長中沢佑少将名で二十六日、関行男大尉の「敷島」隊が敵空母への体当たりに成功し、戦果をあげたという電報を見て、フィリピンの大西中将に打たれている。「機密第二六一九一七番電」である。
『神風特別攻撃隊の記録』の中で猪口力平一航艦参謀は、
「敷島隊などの名前は自分が思いつき、大西長官の同意を得てつけた」
と書いているが、これは明らかに作為だ。この記録が書かれたのは昭和二十六年だが、旧軍人のつながりは強く、自衛隊に大挙して旧軍人が入った時期で、誰かを庇ったものとしか考えられない。
すでに故人となっているが、大西中将がフィリピンに赴任するまで軍需省航空兵器総局で直属の部下として仕えた片山滋中佐は、
「特攻機製作の会議も半年がかりで繰り返し開かれ、初めは反対だった大西中将も遂に同意され、その直後特攻隊長官として転出された」
と書き残している(『昭六級会私記』)。
大西長官がフィリピンに赴任する半年前と言えば十九年四月で、これは資料的にもぴったり一致する。大西長官はフィリピンに赴任するまで軍令部とは関係のない軍需省にいたから、軍令部の内部事情には疎かったはずだ。詳しいことを知らずにフィリピンでの「特攻」作戦の幕あけをやらされたのである。
「回天」の試作命令が海軍省から呉海軍工廠に出されたのは十九年二月二十六日であり、艦政本部が「震洋」の設計に着手したのは同年四月。五月二十七日には試運転し、八月二十九日には第一震洋隊を父島方面根拠地隊に配備完了している。
航空本部は同年八月十六日「桜花」の試作命令を空技廠に出している。本文で書いたように空技廠で「桜花」の設計図を見た伊藤佑満中佐は、
「すでに相当に研究されていた」
と語っている。事実、発案者と言われる大田正一少尉は東大航空研で空洞実験まで済ませていたから当然だろう。少尉一人の力で東大航空研がそこまでやるはずはない。片山中佐が「軍需省で“特攻機製作に関する会議”が半年つづいた」と書いているのは、「桜花」のことではなかったか。「桜花」以外に特攻専用機はなかったのだから。
八月中旬には「桜花」搭乗員の募集を開始。九月十五日には「桜花」特攻隊の「神雷部隊」の編成準備を命じ、十月一日七二一空の編成に着手している。
こうみてくると大西中将の「神風特攻」は、軍令部の既定路線に沿った「特攻」作戦の一つの引きがねにすぎなかったとしかいいようがない。
特攻隊員として志願した若者たちは真剣であった。国家総力戦を戦い、敗色濃い国の日常生活がどんなものであったかは、現在では想像もつかないであろうが、国民、とりわけ若者は突っ走る。広島第二市立工業(夜間)在学中、甲飛十三期前期(十八年)生として志願した奥元厚氏は、同級生の佐山一《はじめ》少年に鹿児島航空隊の試験場で便所によばれ、
「お前の小便をくれ」
とねだられている。理由は自分の尿から蛋白がでるので、体格検査で不合格になるからだった。他人の小便で甲飛に合格した佐山少年は二飛曹となり、昭和二十年四月六日、神風特別攻撃隊第一草薙隊の一人として沖縄に突っ込んでいる。この種の若者の行動はいくらでもみられた。なにも日本人が好戦的だったわけではない。当時の若者は、国難に殉じるのは義務と考えていたまでである。
取材した全対象者にお礼申し上げるが、中でも門司親徳氏には資料その他で特にお世話になった。
単行本の出版にあたっては、当時の講談社学芸図書第二出版部の田代忠之部長、松岡淳一郎の両氏、小林編集企画事務所の小林康〓氏に御世話になり、文庫化では守屋龍一氏のお手をわずらわせた。
平成三年十月
広島市の茅屋で 著 者
主要参考文献
『戦史叢書』(一〇二巻のうち関係分)防衛庁防衛研修所 朝雲新聞社
『大東亜戦争全史』服部卓四郎 昭和四〇年 原書房
『神風特別攻撃隊の記録』猪口力平、中島正 昭和二六年 日本出版協同
『神風特別攻撃隊戦闘報告』第一航空艦隊 厚生省蔵
『第七二一空飛行隊戦闘行動調書』防衛庁蔵
『日本陸海軍の制度組織人事』日本近代史料研究会編 昭和四六年 東京大学出版会
『レイテ戦記』大岡昇平 昭和四六年 中央公論社
『きけわだつみのこえ――日本戦歿学生の手記』日本戦歿学生手記編集委員会編 昭和二四年 東大協同組合出版部
『散る桜 残る桜』甲飛十期会編 昭和四七年(非売品)
『昭六級会私記』昭六級会編 昭和五九年(非売品)
『連合艦隊の最後』伊藤正徳 昭和五五年 光人社
『自伝的日本海軍始末記』高木惣吉 昭和四六年 光人社
『高木海軍少将覚え書』高木惣吉 昭和五四年 毎日新聞社
『私観太平洋戦争』高木惣吉 昭和五四年 文藝春秋
『太平洋戦争海戦史』高木惣吉 昭和二四年 岩波書店
『空と海の涯で――第一航空艦隊副官の回想』門司親徳 昭和五三年 毎日新聞社
『大西瀧治郎』大西瀧治郎海軍中将伝刊行会 昭和三三年(非売品)
『特攻の思想――大西瀧治郎伝』草柳大蔵 昭和四七年 文藝春秋
『栗田艦隊――レイテ沖反転は退却だった』小島清文 昭和五四年 図書出版社
『特攻長官大西瀧治郎』生出寿 昭和五九年 徳間書店
『戦艦大和の最期』(新装版)吉田満 昭和四四年 北洋社
『提督小沢治三郎伝』提督小沢治三郎伝刊行会編 昭和四四年 原書房
『ミッドウェー』(新装版)淵田美津雄・奥宮正武 昭和四九年 朝日ソノラマ
『キング元帥報告書』アーネスト・J・キング、山賀守訳 昭和二二年 国際特信社
『レイテ湾の日本艦隊』ジェームズ・A・フィールド、中野五郎訳 昭和二四年 日本弘報社
『ニミッツの太平洋海戦史』C・W・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲、富永謙吾訳 昭和三七年 恒文社
『神風』上下 D・ウォーナー、B・ウォーナー、妹尾作太男訳 昭和五七年 時事通信社
『マッカーサー回想記』D・マッカーサー、津島一夫訳 昭和三九年 朝日新聞社
『海軍航空隊始末記』上下 源田実 昭和三七年 文藝春秋
『敷島隊の五人』森史朗 昭和六一年 光人社
『海軍飛行科予備学生よもやま物語』陰山慶一 昭和六二年 光人社
『ニッポン日記』マーク・ゲイン、井本威夫訳 昭和二六年 筑摩書房
『陸軍特別攻撃隊1―3』高木俊朗 昭和五〇年 文藝春秋
『全軍突撃―レイテ沖海戦』半藤一利、吉田俊雄 昭和四五年 オリオン出版
『太平洋海戦史』外山三郎 昭和六〇年 教育出版センター
『艦船夜話』石渡幸二 昭和五九年 出版協同社
『レイテ沖海戦』小柳富次 昭和二五年 弘文堂
『太平洋戦争陸軍概史』林三郎 昭和二六年 岩波書店
『大本営機密戦争日誌』種村佐孝 昭和五四年 芙蓉書房
『戦藻録』宇垣纏 昭和四三年 原書房
『戦艦大和―その生涯の技術報告』松本喜太郎 昭和二七年 再建社
『陸軍航空特別攻撃隊史』生田惇 昭和五三年 ビジネス社
『桜花――非情の特攻兵器』内藤初穂 昭和五七年 文藝春秋
『軍務局長武藤章回想録』武藤章、上法快男編 昭和五六年 芙蓉書房
『回天』刊行会編 昭和五一年(非売品)
『潜水艦―その回顧と展望』堀元美 昭和六二年 原書房
『人間魚雷―特攻兵器「回天」と若者たち』鳥巣建之助 昭和五八年 新潮社
『回天の思想・人間魚雷ノート』前田昌宏 昭和六〇年(非売品)
『秘密兵器の全貌』頼淳吾、他 昭和五一年 原書房
『ああ回天特攻隊』横田寛 昭和四六年 光人社
『海軍兵科予備学生』野地宗助 昭和五二年 大原新生社
『海軍水雷史』刊行会編 昭和五四年(非売品)
『海軍砲術史』刊行会編 昭和五〇年(非売品)
『日本海軍潜水艦史』刊行会編(非売品)
『堤督伊藤整一の生涯』吉田満 昭和五二年 文藝春秋
『わだつみのこえ消えることなく』和田稔 昭和四七年 角川書店
『海軍神雷部隊史』海軍神雷部隊戦友会編 昭和五二年(非売品)
『中攻』巌谷二三男 昭和五四年 原書房
『伊58潜帰投せり』橋本以行 昭和二七年 鱒書房
『積乱雲の彼方に――愛知一中予科練総決起事件の記録』江藤千秋 昭和五六年 法政大学出版局
『最後の特攻機』蝦名賢造 昭和五〇年 図書出版社
『私兵特攻』松下竜一 昭和六〇年 新潮社
『ああ伊号潜水艦』板倉光馬 昭和四四年 光人社
『続ああ伊号潜水艦』板倉光馬 昭和五五年 光人社
『終戦史録1―6』外務省編 昭和五二年 北洋社
『海軍特別攻撃隊』奥宮正武 昭和五一年 朝日ソノラマ
『秘録大東亜戦争・比島編』 昭和二八年 富士書苑
『実録太平洋戦争・4』 昭和三五年 中央公論社
『慟哭の海』能村次郎 昭和四二年 読売新聞社
『最後の帝国海軍』豊田副武 昭和二四年 実業の日本社
『連合艦隊参謀長の回想』草鹿龍之介 昭和四四年 光和堂
"UNITED STATES NAVAL CHRONOLOGY WORLD WAR II"(米海軍作戦史)
"HISTORY OF UNITED STATES NAVAL OPERATIONS IN WORLD WAR II" S. E. Morison(モリソン戦史)
その他雑誌論文、戦友会誌、旧軍関係機関誌、個人手記、日記の類は本文中に出典を明記したので省略させていただいた。
本書は一九八八年、小社より単行本として刊行され、一九九一年十一月、講談社文庫に収録されました。
特攻《とつこう》
講談社電子文庫版PC
御田重宝《おんだしげたか》 著
Shigetaka Onda 1988
二〇〇二年八月九日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
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