TITLE : シベリア抑留
講談社電子文庫
シベリア抑留
御田重宝 著
目 次
ソ連参戦
混迷の始まり
崩壊する関東軍
見捨てられた在留邦人
流浪する邦人
相次ぐ悲報
言語に絶する避難行
“捕虜”輸送
ハーグ条約違反
だまされた“捕虜”たち
強制労働
苛酷なノルマ強制
自殺、脱走をはかる者も
飢えと酷寒の中で
抑留下の悲劇
つくられた“戦犯”
民主化運動
ソ連製「日本新聞」の創刊
ソ連主導の政治運動
巧妙な“洗脳”教育
人民裁判という名のリンチ
日本人同士を敵対させたアクチブ
エピローグ・さまざまな影
スターリン批判の意味するもの
戦争の矛盾が生んだ悲劇
文庫版へのあとがき
シベリア抑留
ソ連参戦
混迷の始まり
地図で見ると旧満州、朝鮮半島、ソ連との国境が入り交じっているように見える満州東部の国境守備隊陣地、虎頭、五家子(琿春南方約三十キロ)から「ソ連軍の砲撃を受けている」との第一報が第一方面軍司令部(牡丹江)に入ったのが昭和二十年八月九日午前零時であった。相次いで東部正面の国境守備隊からも同様の入電があり消息を断った。第一方面軍司令部はソ連の本格的な進攻が開始されたとの判断に立たざるをえなかった。
新京にあった関東軍総司令部(山田乙三大将)に第五軍(第一方面軍隷下)の情報参謀前田忠雄中佐から緊急電話が入ったのは午前一時であった。前田参謀はさらに「東寧、綏芬河《すいふんが》にもソ連軍が攻撃を始めた。牡丹江はソ連機によって空襲を受けている」と報告して電話を切った。
関東軍はソ連の進攻に備えて東正面、北正面、西正面の三つに分けて兵力を配備していた。まず東正面から「ソ連進攻」の第一報が入ったことは、他の二方面からも進攻してくる可能性があることを示唆した。関東軍司令部内には殺気が漂った。
同一時三十分、新京郊外の寛城子が空襲を受けた。いきなり満州の中枢部に攻撃を仕かけてきたことは、ソ連が国境を越えて三正面からなだれこんでくる意思を持っていることの証明であった。果たせるかな、北正面守備隊から「ソ連軍が黒竜江の渡河を始めた」と報告が入り、西正面守備隊からは「満州里の国境監視哨を急襲され、有力な機械化部隊がハイラル方面に進出するもよう」との報告が入った。こうなっては、ソ連が全面戦争に踏み切ったと判断する以外にない。一方的なソ連の武力攻撃はこうして開始された。
関東軍総司令官山田大将は大連に出張中であったため、総参謀長秦彦三郎中将が大本営に急報(電話)すると同時に、全部隊に対して「全面開戦準備」を指令、さらに「それぞれの作戦計画に基づき進入してくる敵を破砕すべし」と下令した。
関東軍からの急報に接した大本営も、また驚きを隠さなかった。この時期「本土決戦」を叫ぶ主戦派と、日本降伏を求めた連合国のポツダム宣言の受諾をめぐって、軍部首脳、政府要人の間で対立が続いていた。
が、だれよりもソ連進攻の事実を知って困惑したのは大本営参謀総長梅津美治郎大将、参謀次長河辺虎四郎中将、東郷茂徳外務大臣ら少数の“和平派”であった。武力進攻を開始して来たソ連に、連合国との和平仲介を工作していたのである。
ソ連は日本と中立条約を結んでいる唯一の国であった。昭和二十年四月五日、ソ連は日ソ中立条約を延長しない旨、通告してきたが、条約はまだ有効であり、モスクワには佐藤尚武大使、東京にはマリク大使が駐在していた。六月中旬から「ソ連を仲介とする対米和平」の工作がひそかに進められ、具体的には七月十二日、天皇の特使として「近衛文麿元総理を派遣したいのでソ連の意向を調整するよう」、外務省はモスクワの佐藤大使に訓電していた。
この和平工作の推進論者の一人だった河辺参謀次長が、ソ連の参戦を知り「ソ連に対する判断を誤った」と八月九日の手記に書いているほど、日本にとっては“寝耳に水”であり、広島への米国の原爆投下を待っていたかのような武力進攻を開始したソ連の行動は日本人の理解を超えるものであった。河辺手記は政府、軍上層部の情報収集能力、国際感覚の欠如を物語ると同時に、日本人の“お人好し”の証明とも受け取れよう。
歴史的な事実から見ればソ連の武力進攻は“無通告”であり計画的なものであった。ソ連がソ満国境から進攻してきた九日午前零時の段階では、日本人でソ連の「対日宣戦布告」の事実を知っていたのは、クレムリンでモロトフ外相から文書を突きつけられた佐藤大使一人である。
佐藤大使は「和平仲介」をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めていた。スターリン首相、モロトフ外相ら首脳はポツダム会談に出掛け、八月初め帰国した。七日クレムリンから電話があり「八日午後八時(日本時間九日午前二時)にモロトフ外相が会見する」と言ってきた。しばらくして「午後五時(日本時間八日午後十一時)にしたい」と変更申し入れがあった。佐藤大使は和平の仲介依頼が可能になったものと考え、クレムリンを訪れた。が、あいさつもそこそこに、モロトフ外相が佐藤大使に手交したのは対日宣戦布告文であった。「無線を使って日本に打電してよい」と言いながら、どうした理由か、大使の打った電文は日本に届かなかった。届いたとしても手の打ちようはなかったろう。
日本がソ連の対日宣戦布告を知ったのは、すでにソ連が武力進攻を開始した四時間後、モスクワから打電されたタス通信を傍受してからである。当時、外国と交信できる無線機を持っていたのは軍部以外には外務省ラジオ室と同盟通信社などにしかなかった。松本俊一外務次官は「九日早朝、外務省ラジオ室からと同盟からとの電話によってソ連の参戦を知った」と言っている。
佐藤駐ソ大使が、モスクワから発信したはずの「ソ連、対日宣戦布告」の電文が日本に届かなかったことを裏付けるいま一つの証言は、同盟通信社海外局長長谷川才次氏の談話である。昭和二十二年、『婦人公論』八月号に同社の求めに応じて語った内容だ。「九日(昭和二十年八月)午前四時ごろ(同盟からの)電話でソ連が日本に宣戦布告したことを伝えてきた。これはタス通信を受信したのです。それを東郷(茂徳外相)さんと迫水(久常内閣書記官長)さんに知らせたときに、二人とも意外のような口ぶりで、東郷さんなどは『ほんとうか』となんべんも念を押すのだな。というのは仲介の労を依頼して、いい返事のくるのを待っていたところだから」と語っている。
「仲介の労」とはソ連を通じての日米和平工作のことである。ソ連がヤルタで米英と対日参戦の密約を結んでいたことなど、日本はまったく知らなかったのである。
マリク駐日大使が、東郷外相に面会を申し入れてきたのは九日の朝である。日本から日米和平の仲介を頼まれながら、日本があと一押しで倒れようという時期を見はからったように、武力進攻を行い、対日宣戦布告をしたことを知っていた東郷外相は、マリク大使の面会申し入れを鼻白む思いで聞いたであろう。
ソ連参戦とわかった以上、外相にとってはポツダム宣言の受諾回答をまとめることが最優先課題である。外相は面会を翌十日に延期し、ポ宣言受諾の方向へ必死の努力を続けた。そのうち長崎への原爆投下の情報が入り、軍部の抗戦派の力が急にしぼんだ。ポ宣言が出された七月二十六日以来、上層部は受諾、拒否をめぐって大ゆれにゆれていた。九日夜、決定は御前会議に持ち込まれ、十日午前二時半、ついに天皇の発言によって受諾が決まる。
十日午前六時四十五分、スイス加瀬俊一、スウェーデン岡本季正公使に第一電を打電し、事実上の日本降伏の意思表明が行われたのである。
外相とマリク大使との会談が行われたのは十日午前十一時十五分から十二時四十分までの一時間二十五分である。マリク大使は形式通り対日宣戦布告文を読み上げた。宣戦の理由は骨子だけでも知っておく必要があるだろう。外務省資料からみる。
「ヒットラードイツの壊滅及び降伏後においては日本のみが引続き戦争を継続しつつある唯一の大国となれり。日本兵力の無条件降伏に関する本年七月二十六日付のアメリカ合衆国、英国及び支那(中国)三国の要求は日本により拒否せられたり。これがため極東戦争に関し日本政府よりソ連邦に対しなされたる調停方の提案は総ての根拠を喪失するものなり」
ソ連の言い分はまだ続く。
「日本が降伏を拒否せるに鑑《かんが》み連合国は戦争終結の時間を短縮し、犠牲の数を減縮し且《か》つ全世界における速やかなる平和の確立に貢献するためソ連政府に対し日本侵略者との戦争に参加するよう申し出でたり。
総ての同盟の義務に忠実なるソ連政府は連合国の提案を受理し本年七月二十六日付の連合国宣言に加入せり。斯《かく》の如きソ連政府の政策は平和の到来を早からしめ今後の犠牲及び苦難より諸国民を解放せしめ且つドイツが無条件降伏拒否後体験せる如き危険と破壊より日本国民を免るることを得せしむる唯一の方法なりとソ連政府は思考するものなり。
右の次第なるをもってソ連政府は明日、即ち八月九日よりソ連邦は日本と戦争状態にあるものと思考することを宣言す」
ソ連の対日宣戦布告文に注釈を加えると「本年七月二十六日付のアメリカ合衆国……」とあるのはポツダム宣言を意味し「……ソ連政府に対し日本侵略者との戦争に参加するよう申し出《い》でたり」とあるのは二十年二月四日から十一日までルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)の三首脳がソ連のクリミヤ半島のヤルタに集まって開催されたヤルタ会談を意味している。いわゆる「ヤルタの密約」と呼ばれているもので、主題はドイツ敗戦後の処理であるがごく秘密裡《り》に「(1)ドイツ降伏後二、三ヵ月を経てソ連が対日参戦する(2)その代償としてソ連は樺太の南半分とこれに隣接する島嶼《しよ》、千島列島の領土権を獲得する」という密約が交わされた。密約の締結日は二月十一日である。
このヤルタの“密約”は戦後の二十一年二月十一日、米国務省から公表されている。ルーズベルトは急死したため回想録はない。チャーチルの回顧録『第二次世界大戦』にはポーランド問題については多く書かれているが、日本問題については一行の記述もない。一説にはチャーチルは“遠慮”して署名はしたが会議には出なかったと言われている。
戦後、数多くの研究が行われ、ヤルタの密約はルーズベルトの失政とか、疾病のため(事実二ヵ月後の四月十二日、脳出血で急死)判断力を失っていたともいわれている。ヤルタ会談の時点では米国の原爆開発の見通しは立たず、ソ連を対日参戦させることによって日本降伏を一日でも早めたいため、スターリンに大きな譲歩をしたとも言われる。
「ヤルタ体制」は平成にはいって劇的に変化しようとしている。平成元年十二月二日、三日、ブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領(当時ソ連最高会議議長兼党書記長)が地中海のマルタで会談し、新しい世界の政治秩序について話し合い、「ヤルタからマルタへ」と世界の注目を浴びた。会談で合意にいたらなかった懸案の一つ「ドイツ統一問題」は“ベルリンの壁の崩壊”という民族の意志の爆発という形で実現した。ヨーロッパにおいてはヤルタ体制は崩壊しつつある。日本との関係でいえば「北方領土問題」だが、平成三年四月のゴルバチョフ大統領の来日もあり、解決の手がかりはつかめたとみてさしつかえないだろう。さらにいえば、ソ連のグラスノスチ(情報公開)政策で、「日ソ中立条約を破ったのはソ連だ」との説を公表する学者も出現している。もっともこうした考え方が、今後ソ連の対日政策に直接結びつくかどうかは予断のかぎりではない。
ヤルタ会談はスターリンの名前で昭和二十年一月十日、チャーチルとルーズベルトに公式な招待状が送られ開催されたものだ。だから主催者はスターリンである。しかし内実は大統領に四選(十九年十一月)されたルーズベルトがテヘラン会談(十八年十一月。この会談でスターリンは対日参戦をほのめかしている)に続く三巨頭会談をスターリンに申し入れ、たまたま開催地がソ連領内のヤルタに落ち着いたからそうなったに過ぎない。
独ソ戦は続いており「最高責任者として国外に出られない」というスターリンの主張が入れられたのである。ヤルタと聞いてチャーチルは“腹を立てた”という。が、老年のルーズベルトが、わざわざヤルタまで出向いたことから「それほどまでしてもスターリンを対日参戦に引き入れたかった」という研究者の根拠になっている。
とは言っても、重要な国際会議でありながらヤルタ会談ほど公式記録の少ない会談はない。議事録さえ残されていない(米国務省に未発表のまま残されているかも不明)。わずかに米国務省が二十一年二月十一日に発表した、いわゆる「ヤルタの密約」程度である。なぜこの時期に米国務省が公表したかは大いに研究を要するところだ。すでに“米ソ冷戦”ははっきりと始まっており、両大国の国際的な綱引きはうかつに予断できないところがあるにしても、アメリカが目的なしに公表したとは思えない。
もっとも広島大学の山田浩教授(国際関係論)によると「米ソ冷戦の宣戦布告ともとれるトルーマン・ドクトリン(二十二年三月。“全体主義に抵抗する”ことを明白にした)につながると思われるが、トルーマンの対ソ政策に反対する米国内の、いわゆる“ハト派”に対する公表ではなかったか」という。
とまれ“ヤルタの密約”をほのめかしポツダム宣言を受諾しないから日本に「宣戦を布告する」というソ連の主張はいかにも苦しい。国際法的にみても米英ソ三国の密約に日本が拘束される理由はないから、ソ連参戦はあくまでも一方的なソ連の武力進攻である。
ソ連は終戦後、ポ宣言を無視して関東軍将兵や民間人を「捕虜」としてシベリアに抑留し数年間にわたって労働させることになるが、それはポ宣言の都合のよい使い分けである。ポ宣言第九項に「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且《か》つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」とある。シベリアの捕虜収容所が「各自の家庭」であるはずはない。
くどいようだが、シベリア抑留の法的関係を明らかにするためにも、ポツダム宣言を避けて通れない。八月十五日(正式には十四日)の終戦はポツダム宣言の受諾という形で幕を下ろした。
ポ宣言の発出は七月二十六日であることは既述した。宣言の署名者は米、英、支(中国)の三国である。ソ連はこの時期、日ソ中立条約が生きていたから署名国にはなっていない。が、ソ連の対日宣戦布告文の中で「総ての同盟の義務に忠実なるソ連政府は連合国の提案を受理し本年七月二十六日付の連合国宣言に加入せり」と言っている。米英支がソ連に参戦を求めて来たので後からポ宣言の署名国に加入した、という意味である。自ら加入したと言っているのだから、当然ポ宣言を守る義務がソ連にはある。「同盟の義務に忠実なソ連政府」とも言っているから。では「日ソ中立条約はどうなるのだ」と反論したくなる。が、一方的に武力進攻したソ連に宣戦布告文の論理矛盾を指摘しても意味はないであろう。
同盟とか条約に忠実なのは日本政府であろう。ポ宣言受諾に関する八月十日付の回答文に「……帝国政府は一九四五年七月二十六日ポツダムにおいて米英支三国政府首脳者により発表せられ“爾後ソ連政府の参加”を見たる共同宣言に挙げられたる条件を……受諾す」とはっきり書いている。
ポ宣言のいま一つの抑留者(捕虜)に関する重要な問題は“戦争犯罪人”の処罰に関する第十項である。「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加へられるべし……」とある。
シベリアに抑留された日本人が、収容所内でどのように扱われたかは、やがて明らかにしてゆくが、一方的な武力攻撃で押しまくられた日本兵または民間人が、ソ連に対して「戦争犯罪人」となるような状況を引き起こす可能性はまず無かったことは確実に言える。が、シベリア抑留では、ソ連に対する「戦犯」が作り出され、長期抑留された者がいたこともはじめに書いておく。
なによりも、停戦協定によって武装解除された兵士が、はたして「捕虜」に該当するかどうかの法的問題もある。国際法的には捕虜はあくまでも戦時捕虜であり、明治四十年に制定されたハーグ条約に照らしてもそうである。同条約第十四条には捕虜の処遇について明記してある。また二十条には「平和克復ノ後ハ、成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムヘシ」とある。日本は調印批准しており、ソ連は条約を尊重すると宣言している。ソ連の宣言は第二次大戦開始間もなくで「ドイツ軍に毒ガスを使用されることを恐れた」結果であったにせよ、条約の尊重を世界に公表したことに変わりはない。
昭和二十年三月まで大本営作戦課長の職にあった服部卓四郎氏の『大東亜戦争全史』によるとソ連軍進攻当時の関東軍の状態について「いわゆる“根こそぎ動員”による新設部隊は、七月末主要部隊の人員を概《おおむ》ね充足したが、装備の整わない部隊が多く、その戦力は微弱であった。また既設部隊の大部分は、未教育兵の教育等に必要な人員および火砲等を本来の駐屯地に残し、その他は挙げて新たな主陣地におもむいて築城作業に没頭していた」と書いている。新たな主陣地とはソ連国境の近くである。武器も持たず、兵力を築城作業に使っていた時にソ連の本格的な攻撃を受けたのだから、まともな反撃が出来るわけがなかった。
後で再びふれるが、大本営が「対ソ攻勢案」から「持久守勢」に切り替えた昭和十九年九月十八日の時点から、在満兵力の他方面への転出が開始され地上骨格兵力は一般師団六個と戦車一個師団が残るだけとなった。そこで中国戦線から兵力の抽出となり、三十九師団などの正規部隊が満州警備にかけつけるがすでに間に合わなかった。
本格的な守備陣地として早くから地下要塞として造った虎頭陣地――興凱湖東北百二十キロのウスリー江岸にあり、シベリア鉄道が望見できる唯一の地点――などはともかく、急造の陣地などソ連の機甲部隊の敵ではない。
関東軍の東正面陣地(虎頭など)から、ソ連軍の奇怪な行動が報告されたのは八月五日――ソ連軍進攻の四日前――である。前記虎頭陣地の南方地区にソ連兵約百人が日本軍の監視哨を射撃しながら越境して来ている。日本軍が応戦しなかったのは、そのうち引き揚げるからだ。ノモンハン事件(昭和十四年五月)の手痛い敗北もあり、すでにこの時期には、うかつには反撃しない、という関東軍の方針があった。
戦後、ソ連側から見た戦史もかなり刊行されている。エリ・エヌ・フノトチェンコの『極東における勝利』(ソ連国防省刊)によると、ソ連の対日作戦計画は六月中旬には策定されている。八月一日から五日の間に国境に兵力の集中を終わり、行動開始――満州進攻は両二十日から二十五日の間に行う予定であった。それが急に計画変更され、八月七日に「九日午前零時に進攻開始」を決定したという。米国の広島への原爆投下をみて行動計画を早めたとの記述はないが、作戦計画の繰り上げと原爆投下とは無関係ではあるまい。
八月五日のソ連軍の武力を伴った越境行動は、多分に威力偵察の意味を持つ。ソ連側戦史から戦後にわかったとはいえ、この時点ではソ連は何が何んでも――日本が降伏しない前――対日参戦して米・英・支(中国)に対する発言権をより強くしようとの「意思」が明白に読みとれる。その意図も知らず、ソ連に対米和平の仲介を依頼した日本外交は、逆に日本の敗北の近いことを自ら告白したのと同じである。ソ連は労せずして“戦いに勝つ”時期を待っていたのだ。
実質的な戦闘能力を失っていた“張り子のトラ”の関東軍に、内地からも動員兵が集められた。が、内地からの応援の実情がどんなものであったか――を知る上で興味深い証言がある。
二十年三月、広島の部隊に三十二歳で召集され、一週間後に満州東正面の守備隊琿春に配属された岩崎一三氏は「広島を出発する時の私たちの装備は貧弱なものでした。水筒は竹でした。一番驚いたのが細い竹で編んだ飯盒《ごう》を受領した時です。形はちゃんと飯盒ですが、水も入れられないし、もちろん炊さんも出来ない。軍靴がないので地下足袋です」と語っている。二十年三月といえば内地はこのような物資不足の状態であった。おそらく満州に渡った最後の部隊であろう。岩崎氏は一期の検閲(兵隊としての基礎教育)も終わらないうちに終戦となった、星一つの陸軍二等兵である。「ほとんどが老兵でした。琿春に着いて陣地構築をやらされましたが、資材不足で本格的な守備陣地は造れません。四十年も昔のことで正確な地名は忘れてしまいましたが、図們《ともん》の方まで下がって陣地構築中、ソ連が参戦するかもしれないとの情報がありました」
それは多分「ソ連が参戦した」との情報であったろう。
「あわてて大砲を陣地に入れようとしましたが、撃つ弾丸が間に合わないのです。仕方なく山の上の陣地まで大砲を引き上げることをやめ、途中で応戦する計画に変更したのですがついに砲弾は来なかったですね。幸い私たちの陣地はソ連軍と交戦することなく終戦となり、確か二日後に武装解除されました」
本書の章扉のさし絵(電子文庫版では割愛)を描いた田中清養氏は昭和十八年、虎林陣地に駐屯していた体験を持っている。東は、ソ連の満州進攻の主正面で、なかでも虎頭、虎林陣地は国境守備隊の中心の一つであった。
「昭和十八年四月か五月に西部六部隊に召集され、どうしたわけか夜中に非常召集をかけられて広島駅を出発、貨車に乗せられて下関まで行き、釜山からはずっと汽車で虎林に着きました。虎林駅の次が虎頭駅で、ウスリー江をはさんでソ連兵と対峙していました。私たちは六百人は全員自動車の運転免許証を持っていました。満州七一〇二部隊に配属され架橋材料の運搬が任務でした。兵舎は穴グラ――地下陣地でした。双眼鏡で見るとソ連人がしゃがんでおしっこをしている。女のソ連兵を見た最初です。十八年といえばあまり緊張感はなく、河が結氷すると真ん中あたりに酒保で買った甘味品を置いておく。翌日ウオツカのお返しがあったりして……。国境警備はそんなふうでしたね」
田中氏の体験は日ソ中立条約によって一応の平和が保障されていた“よき時代”で、ソ連はヨーロッパ戦線に全力をあげてドイツと戦っていた時期にあたる。二正面作戦はソ連の方こそ避けたかったのである。
ソ連軍の進攻に対する日本軍の戦闘状況は、実は正確にはわからない。間もなく終戦となり関東軍司令部は書類を焼却した。旧日本軍は戦闘の度に大隊、連隊、師団ごとに「戦闘詳報」を残した。たとえ負け戦であっても、軍が健在である限り、多少の虚飾はあっても部隊の動きはほぼ正確につかめた。だが終戦前の戦闘は軍部そのものが解体したため「詳報」が残らなかった。まして関東軍について言えば、関東軍司令官以下全員がソ連に抑留されたから、個々の戦闘詳報を残すことは不可能となってしまった。日本では戦後間もなく戦史研究が行われるようになり、防衛庁の発足とともに戦史室が造られ多くの資料が集められた。関東軍の終戦直前の戦闘については、復員局が抑留を解かれて帰国した将兵から聞き書きしてまとめ、戦後ソ連国防省が刊行した『極東における勝利』『第二次世界戦争』などを参照して防衛庁戦史部(室から昇格)がまとめあげたのが現在の日本の公刊戦史である。
ソ連側戦史によると満州(現中国東北部。以下同)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国。以下同)、樺太(現サハリン。以下同)、千島に進攻したのは極東ソ連軍(ワシレフスキー元帥)で司令部はハバロフスクにあった。満州東正面には第一極東方面軍(メレツコフ元帥)、北正面には第二極東方面軍(プルカエフ大将)を向け、西正面にはザバイカル方面軍(マリノフスキー元帥)に担当させた。ソ連軍の兵力、戦力は日本守備隊の比ではなく、たとえば東正面の一部、虎頭、虎林陣地攻略に向けられた第三十五軍(ザフバターエフ中将)は三個狙撃師団、三個国境守備隊に火砲九百五十門、戦車、自走砲百六十六両という強力なものであった。
同じ東正面の綏芬河、東寧に向けられたのは第一極東軍主力で、十二個狙撃師団、二個戦車師団、十五個国境守備隊に火砲三千五百九門、ロケット砲四百三十二門、戦車、自走砲七百二十両のほか予備軍、助攻軍が八個狙撃師団、二個戦車師団、火砲、ロケット砲千六百六十九門、自走砲百六十六両であった。
北正面の孫呉地区から進攻して来た第二極東方面軍の戦力も同規模であり、西正面の外蒙から進攻したザバイカル方面軍は、第一極東方面軍よりも兵力、戦力、機動力が勝っている。ソ連戦史によればザバイカル方面軍が新京(現長春。以下同)、奉天(現審陽。以下同)の占領を目的とした進攻の主力部隊である。戦車の一日の行動距離は七十キロ、一般軍でさえ一日に二十三、四キロであった。これでは無人の野を行く感があったろう。他に空挺部隊(落下傘部隊)まで使用されている。
東正面の国境監視哨は何の連絡もなく消息を断ったところが多く、やや堅固な陣地でも十日から十五日にかけて全滅したところが多い。一部が退却に成功したがソ連軍との遭遇戦となり八百五十人中、生存二百人といったケースもあった。
一番抵抗したのは虎頭の陣地であろう。地下要塞でありベトン、コンクリートで固めた“永久要塞”と言われただけにソ連軍の猛攻によく耐え、八月二十六日――終戦後十日間以上も頑張り続けている。第十五国境守備隊の守る虎頭陣地は一つではない。東、西、中猛虎山、虎東山、虎嘯山といった高地にそれぞれ要塞を設け、交通壕を掘って連絡していた。守備陣地であるから大砲が中心となる。守備隊員も少なく、虎頭街に住んでいる在留邦人五百人(三百人ともいう)と共に立てこもってソ連軍を迎えたのである。一番最後までソ連軍と戦闘を続けた虎頭守備隊の抗戦の模様を追ってみよう。
虎頭の第十五国境守備隊にいて奇跡的に脱出した岡崎哲夫氏は「八月十九日から二十五日までは休戦状態でしたが、二十六日に一挙につぶされました」という。
防衛庁公刊戦史『関東軍II』によると守備隊長西脇武大佐以下千四百人の優秀な隊員がおり、虎頭陸軍病院の四十人と各隊からの分遣者・連絡者五十人、虎頭街の邦人約五百人はソ連軍来襲の場合は陣地内に入って守備隊長の指揮下に入るように定められていた。たまたまソ連参戦の当日、西脇隊長は掖河《えきか》の第五軍司令部の会合に出席中で帰隊できず、砲兵隊長大木正大尉が指揮をとった。陸軍の最大口径を誇る四十センチ榴弾砲は、はじめから放棄して使用せず、約五万メートルの射程を持つ二十四センチ列車砲は黒台駅(東安南西方三十キロ)に退避させたという。このあたりの記述を読むと、関東軍に本当の戦意があったかどうか、はなはだ疑わしい。
岡崎氏は著書『北満永久要塞』の中で、砲兵第二中隊の山西栄少尉の戦闘日誌と生存者の証言をもとにして四十センチ榴弾砲は撃った、と書いている。四十センチ榴弾の爆風で「砲塔前面の遮蔽《しやへい》林は、ごっそりとえぐりとばされ、異様な火炎に包まれた旋風が西猛虎山頂に走ったと見ると、頂上の保護林の大木数本が巨弾の弾道に吸い込まれて根こそぎ上空に吹き飛んで行くのが見えた」という。
この記述は体験者でないと書けないものだ。四十センチ砲といえば戦艦の主砲級である。火薬を使って弾丸を発射するから爆風が激しく戦艦では甲板上に人間は立っていられない。砲の前の樹木など吹き飛ぶはずである。公刊戦史の記述とは食い違うが、関東軍の最後はナゾの部分が多く、資料も不十分なので、併記しておく。
崩壊する関東軍
大正八年四月十二日、関東州の旅順に創設された関東軍は歴史的に見ると、えてして“独断専行”が多く、常に軍中枢(大本営・陸軍省)や政府を悩ましている。
昭和三年六月の張作霖爆殺事件、同六年九月の柳条湖事件など、謀略をほしいままにして戦火を拡大。日中戦争、太平洋戦争の導火線ともなった。かいらい政権による満州建国以後も、強大な軍事力を背景に満州に君臨した関東軍がソ連の参戦によって終戦処理もままならぬまま崩壊したのは歴史の皮肉である。逆に言えば、この時期、関東軍に召集された兵士こそ不運なくじをひいたことになる。
砲撃、空爆によって大きな打撃を受けた虎頭の守備隊員は「主として夜間を利用して切り込み攻撃を加えた」(公刊戦史)が、ソ連軍に対して効果はなかったろう。公刊戦史に記述されている関係各隊の最後は次のようになっている。
〈守備隊本部〉八月十九日までにガス発生・自爆により全員玉砕。脱出者なし。
〈歩兵第一中隊〉初め虎東山に位置したが十四日夜切り込みにより東猛虎山に転移。十九日までに完全包囲を受け爆薬により全員自爆。脱出者は一人。
〈同第二中隊〉二十六日最後の切り込みを行った。脱出者は十二人。
〈同第三中隊〉主力は二十一日までに出撃ならびに敵のガソリン攻撃で大部分戦死。二十一日最後の出撃を行った。脱出者十三人。
〈同第四中隊〉十七日、残存者は本部陣地に合流し、十九日ほとんど全滅。脱出者二人。
〈速射砲(歩兵砲)中隊〉各主力は本陣地に位置し各一部を第一・二中隊に配属していた。二十六日までにほとんど全滅。脱出者十人(二人)。
〈砲兵隊本部〉守備隊本部と同じ。脱出者なし。
〈砲兵第一中隊〉十五日中隊陣地陥落。脱出者一人。
〈同第二中隊〉十五センチ・カノン砲と九〇式野砲で応戦。二十日ソ連軍の重囲に陥り二十二日十五センチ砲を破壊して十三人が脱出。
〈工兵隊〉脱出者二人。
〈虎頭陸軍病院〉十九日全員自爆。生存者は陣地外にいた二人。
〈守備隊外の分遣者〉脱出者一人。
〈在留邦人〉脱出者二人。
このほかに、約百五十人が虎嘯山の西方にある平頂山陣地にいたが、奇跡的に攻撃をまぬかれている。こちらからも攻撃しなかったのだろう。大部分は二十九日ごろ脱出したが、清和駅付近でソ連軍の攻撃を受け大部分が戦死した。終戦を知らなかったから日本側がソ連軍に攻撃をしかけたのか、ソ連側が一方的に攻撃したのかはわからない。
「ソ連進攻」を最初に牡丹江にある第一方面軍司令部に打電した綏芬河には天長山、観月台の主陣地があった。観月台は十日に破られ、天長山は十五日に全滅した。後退できたのは一部であった。本格的な守備陣地であったが、人員は少なく、陣地の機能を十分に生かせなかった――というよりもソ連軍の火力のすごさを思い知らされるものであった。
たとえば虎頭要塞の場合、最盛時には一万人の守備隊員が陣地内に収容でき、籠城作戦も可能であったが、実際のソ連参戦時には千四百人の守備隊員しかいなかった。ソ連軍は一部を陣地攻略に残し、主力は“無人の野”をかけ抜けてどんどん西下していったから、手薄な日本軍の守備配置ではひとたまりもなかった。簡単に言えば大きな抵抗ができなくなった要塞陣地はほうっておいて自滅を待ち、主力は作戦通り、前進すればよかったのである。東正面での日本軍の被害はどの程度のものであったろうか。公刊戦史も素直に「正確な資料がない」としながらも、戦後、当事者たちの証言から類推して、行方不明を含めて四万人の戦死者が出たとしている。これは大きな被害と言わねばならない。
北正面孫呉地区の孫呉、勝武、〓琿《あいぐん》陣地も本格要塞である。が、備砲はたとえば勝武陣地の場合、十センチ榴弾砲、中(型)迫撃砲各四門、高射砲八門である。〓琿には十センチ榴弾砲十二門、中迫撃砲十四門、十センチ・カノン砲十二門を持っていたが、ソ連軍の進攻時、これらの火砲を他方面に移動させるために準備中であった(公刊戦史)。これではまともな防戦が出来るわけはない。全兵力を比較するとソ連軍百五十七万七千人余(ソ連国防省資料)に対し関東軍の総兵力は七十万前後と推定されている。しかし「根こそぎ動員」で開拓団員、一般在留邦人を片っぱしから召集して急造した“員数合わせ”部隊が多かったから、最初から戦争にはならなかったと見てよい。
終戦ということもあったが、兵隊の士気もかなり落ちていたとみられる資料も多い。孫呉を守備していた百二十三師団は、十六日無線の傍受で終戦を知り、直ちにソ連と停戦交渉に入り、十七日午前中に武装解除を終えて部隊を集結した。全関東軍の中で最も武装解除の早かった部隊であろう。戦死者は五百人しか出なかったが、独断で離隊した将兵は一万一千五百人を数えている。この兵士たちは肉親の待っている満州の各地に帰ったのである。北正面の停戦が早かったのは第四軍司令官上村幹男中将の英断であった。同中将は、昭和二十一年三月二十三日ハバロフスク収容所で「在満居留民ならびに家族の実情を思うとき上級将校として慚愧《ざんき》にたえない」という遺書を残して自殺した将軍である。ともあれ関東軍内の方針も一定せず、第一線指揮官の判断によるしかなかったのだ。
関東軍司令部は、ソ連と開戦の場合の作戦計画を当然たてていた。何度も修正され、二十年七月――最後の計画では関東軍主力が通化、臨江付近を中心とする鴨緑江南北の山脈の線に立てこもって持久戦を行うというものであった。関東軍司令部も、満州と朝鮮半島の国境に近い通化に移転する計画であり、事実、ソ連参戦後の八月十日、司令部の移転を決め、十一日午後一時、先発隊が出発、山田総司令官は翌十二日の午後、二、三の幕僚を連れて通化に向けて出発した。朝満国境の線でソ連軍を迎えて持久戦を行うという考えは、在満邦人のことなど考慮しない作戦計画である。戦闘の目的は敵の戦力をせん滅することをもって野戦軍である関東軍は実際に通化移転を実施したのだ。このあたりが、指揮系統を乱し「関東軍は在留邦人を見捨てた」との邦人の憤りにつながっていると指摘、反省している旧軍関係者は多い。
ハルビ(ピ)ンの司令部で十五日の終戦の詔勅を聞いた第四軍司令官上村幹男中将は独断で第一線部隊に停戦、ソ連との交渉を指示したことは前述した。この処置は上村司令官の聡明な性格によろう。関東軍司令部は十五日に従来通りの任務達成、第二松花江鉄道の破壊準備を命令し、翌十六日午前中には「なお交戦を続行せよ」と督促を出している。が、上村司令官は関東軍の命令を無視して戦闘継続を第一線兵団に指示しなかった。第四軍の担当区域は北正面と、ソ連軍の主力ザバイカル方面軍の進攻路にあたる満州里以東の満ソ国境にかけてである。関東軍命令に従って第一線に継戦を指示していたなら、日本軍の将兵、在留邦人の犠牲はさらに大きかったろう。
広大な満州国の国境地帯に配備されていた守備隊と司令部間で完全な連絡がとれたとは考えられない。ハイラル守備隊は同じ第四軍指揮下の独立混成第八十旅団(野村登亀江少将)が要塞陣地によってソ連軍を迎え撃った。しかしザバイカル方面軍の戦力は日本軍の比ではなかった。守備陣地はつぎつぎと攻撃され、十二日には同守備隊第三地区隊に収容されていた国境警察隊員の家族が集団自殺を遂げた。邦人家族の集団自殺が記録された最初のものであろう。十五日終戦放送を通信隊が傍受した。野村旅団長は十八日、自己の判断で停戦している。この判断は正しかった。
関東軍はソ連の進攻が近いとの判断に立って、在満邦人百三十二万人余を内地に送還する計画を立てた時期がある。満州国の軍事上の責任を持つ関東軍は、それなりにソ連の“出方”を探っていた。昭和十九年十一月七日、革命記念日にスターリンが「日本は侵略者である」と演説していたし、二十年四月五日には、ソ連政府は日本政府に日ソ中立条約の不延長を通告して来た。国境でのソ連軍の越境事件はたびたび発生していたし、純軍事的な立場からも「ソ連は何かやる」との結論に到達せざるをえなかったのである。外交とは別に軍事的な見地からソ連と交戦する場を想定して対策を研究するのは、関東軍に背負わされた義務でもあった。日ソ中立条約の不延長通告を知らされた関東軍は「ソ連の進攻は近い」との確信をますます強めたであろう。
日ソ開戦の場合、最も困るのは在留邦人の保護である。百三十二万人もの邦人が満州国全土に散らばっている現状では手の打ちようもない。
それに加えて満州から内地に邦人を輸送する船舶がすでに日本にはなかったし、食糧事情は内地よりも満州の方がよかった。百三十二万人もの邦人が内地にどっと引き揚げた場合、内地の食糧の欠乏は目に見えていた。日本の周辺海域には米国の潜水艦が出没していたから、満州あるいは朝鮮半島から内地への航路の安全さえ保障しかねる状態となっていた。関東軍に同情するとすれば、在満邦人の百パーセント安全な処置は、すでにとりようがないところまで、戦局が追い込まれていたということであろう。それは大本営であり、戦争をここまで引っぱって来た政府の責任であろう。
新京にいた多くの在留邦人の証言によれば関東軍の上級将校の家族は二十年三月、民間人輸送の最後の船で内地に引き揚げている。これは南方などへ兵力を抽出された部隊の家族もおり、必ずしもソ連侵攻を見越して避難させたものではない。が、在留民の間では「日本は空襲がひどいというのに、なぜ帰国するのだろう」と不審がった人は多かった。裏を返せばむしろ満州の方が安全と考え、それだけ関東軍を信頼していたということになろう。満州に渡って二代目という家庭は多く、長年築き上げた財産を捨てて内地に引き揚げる気にはならなかったことも否定できない。
榊谷建設(株)新京本社にいた永浜天一氏(故人)の八月十三日の日記に「関東軍司令部には既に首脳部はいない。目前にソ連軍が来ているというのに何とした事か」という記述がある。榊谷建設は満鉄の仕事を手広くやっており関東軍とも深くつながっていた。それでさえ、重要なことは知らせてもらえなかった。
主要都市にいた在留邦人はまだよい。ソ満国境地帯――三江省、東安省、牡丹江省、間東省(いずれも当時の呼称と区分)などには、開拓団員、少(青)年義勇隊員などの入植者が多かった。開拓団の青壮年層は“根こそぎ動員”で関東軍に召集されていたし、少年義勇隊員一万二千人(防衛庁資料)も動員されて倉庫警備などの任務についていた。辺境の開拓地に残されたのは婦女子だけという家庭が多く、ソ連進攻によって悲劇を大きなものにし現在もなお尾を引いている。
中国残留孤児、現地人と再婚して中国に残留している婦人の問題がそれである。残留孤児は日本を訪問して肉親捜しも可能だが現地人と“再婚”しなければならなかった婦人は、帰国の夢は捨てざるを得ない。ノモンハン事件(昭和十四年)に従軍した佐竹信朗氏は昭和六十年八月下旬、多くの戦友を失った激戦の地を慰霊巡拝した際、ハイラル市で三人の“再婚妻”と会っている。
開拓団は昭和七年、満州建国と同時に“国策”として本格化され終戦時には開拓団数約八百、団員数二十二万人余がいた(外務省調査)。
少年義勇隊は満州では開拓青年義勇隊と呼ばれていた。高等小学校を卒業した少年を内原訓練所(茨城県)で四十日間基礎訓練し、満州でさらに三年間教育。ソ連国境近くの開拓団に配置された。一種の“民兵”である。終戦時の隊員は九万二千人であった。
「強権を発動してでも開拓団員の家族を国境地帯から引き揚げさせるべきであった」という関東軍参謀たちの戦後の反省が残っているが、万事が後知恵である。一方開拓団員や義勇隊員にしてもかつて敗北の体験が無く、むしろ「ソ連が来れば一泡も二泡も吹かせてやる」との気概があったし「関東軍健在なり、と信じていたから安心していた」と述懐している者も多い。このあたりの当時の日本人の心情は現在では理解し難いであろう。
開拓団といっても、これら入植者は未開拓地だけ開墾したのではない。朝鮮人や満州族が現に耕作していた土地を強制的に、安価に買い取りそこに開拓団員を送り込んだケースが多い。日本の植民地政策の失敗の一つはこのような“横暴”を行ったことだ。これがソ連進攻時の開拓団員の悲劇をより大きくした原因となる。現地住民が日本人の“敵”として登場したのである。
防衛庁公刊戦史によると、関東軍はソ連参戦の八月九日、国境地域の邦人退避について関係方面軍、軍司令部に「東安、東寧、牡丹江方面は図們経由北鮮へ、黒河、ジヤムス(佳木斯)方面はハルビン経由新京へ、ハルビン付近は新京へ、ハイラル、チチハル方面は奉天及び四平街へ、熱河方面は南満及び関東州を目標に後退する意図を通達した」とある。しかし、これは机上の作文でしかありえない。
前述したように虎頭要塞の作戦計画では、在留邦人を要塞の中で保護することしか出来なかったし、ほとんど死亡している。ソ連が“無警告攻撃”であったせいもあるが、国境近くの邦人に退避命令が届いたとも思えないし、届いたとしても輸送手段が用意されない以上、南満への開拓団員の退避は不可能である。
開拓団員が退避を開始したのは関東軍が頼りにならないことを知ってからで、しかも多くは徒歩である。家財道具を大八車に乗せての老人や女、子供の逃避行は想像を絶する。土地を没収された現地農民の報復的襲撃もあったし、ソ連軍の進攻下では暴行、凌辱《りようじよく》の限りを尽くされ、幸運にそれらを逃れても、身一つになり疲労、病気、飢えのため多くの悲劇を生じたことは今さら説明するまでもない。
広大な満州での開拓団の苦難については、場所によって体験が異なる。昭和五十四年八月、中国新聞河田茂編集委員が取材執筆した「満州開拓団」は広島県高田郡から第二松花江沿いの開拓地に入植した団員の記録だが、団員の受難はソ連参戦時ではなく八月十五日の終戦の日から始まっている。高田開拓団のあった場所は満州中央部――関東軍総司令部のある新京特別市(長春)と同じ吉林省内にあったせいか、ソ連参戦で開拓団員が動揺した様子はみられない。「関東軍がいる限り大丈夫だ」という安心感があったからだというが、むしろ情報網の欠如であろう。
ソ連軍の軍使が空路新京入りしたのは八月十九日である。前日、関東軍総司令部はハルビンにあったソ連の総領事を介して停戦を申し入れ、それに応じたソ連軍の処置である。第二松花江沿いにあった高田開拓団員たちが十五日の終戦の日まで平穏でいられたのは地理的好条件による。同開拓団が敗戦を知ったのは親日的な現地人から「今夜、開拓団が襲撃される」と知らされてからで、事実その通りとなった。「民間人を先に避難するよう指示した」という関東軍の主張はこのあたりから崩れる。広大な全満の邦人に、一度に避難命令が届くはずはなかったのだ。戦後書かれた公刊戦史も注意して読まねばならない。
たとえば新京における邦人の避難について見よう。ソ連参戦の翌十日朝、関東軍総司令部は、満州国務院の武部六蔵総務長官、大迫幸男新京特別市副市長、山崎元幹満鉄総裁、吉田悳電電総裁らを招いて邦人の避難について協議している。席上関東軍は「総司令部の通化移転と新京防衛のため婦女子を速やかに避難させる必要」を説き、避難は十日(つまり会議当日)夕刻以降、民間、官吏、軍の順序で行いたいと言った。あまりにも急な避難計画である。
満州国務院の武部総務長官は関東軍の通化移転に反対し、大迫副市長は「長年住んでいる住民に“数時間内に出発”を要求するのは現実問題として不可能だ」と言っている。満州国務院側からみれば、日本人だけが避難することに対する負い目がある。五族協和を目標に掲げて発足した“満州国政府”の総務長官としては当然の発言であり、大迫副市長としては長年にわたって築いた日系市民の財産処分が数時間で出来るはずはないというこれまた当然の反論であったろう。むしろ、なぜ関東軍は逃げ急ぐのか、という不満が強かったはずだ。新京副市長といえども関東軍の“実情”を正確には知らない。
満鉄はすでに関東軍の、正確に言えば大陸鉄道司令官の指揮下に入っていたから反対できる立場にない。議論はあったが「十日午後六時新京発、順序は民、官、軍で集合場所は新京駅前広場」と決まった。正午であった。しかし民間、官側の反応は鈍かった。計画通りの行動をとったのは軍側の家族だけであった。夫の転属先について来ていたから身軽であったことも幸いした。避難コースはとりあえず新京から朝鮮の平壌――新義州の沿線と決められた。が、民、官側の準備が大幅に遅れ、希望者も意外に少なかったことから第一列車が新京を出発したのは十一日午前一時四十分であった、と記録にある。「関東軍は自分の家族だけをまっ先に逃がした」という後からの悪評はこんなところからも生まれた。緊急避難の難しさを物語るものであろう。
同様な証言はチチハルでソ連軍参戦を迎えた大心池洋氏の回想の中にもある。
同氏はハルビン学院ロシア語科を繰り上げ卒業した第一回学徒出陣組で、家族は内地におり、妻子はない。終戦時二百七十四連隊の少尉であった。ソ連参戦当日、「直ちにハルビンに撤退。民間人を優先せよ」との命令を受けた。しかし民間人の反応は鈍く、身軽な軍人の家族が優先された格好になったという。仕方がないので列車の出発時間を延長し、民間人と軍隊とが同一列車でハルビンまで下っている。がとても全民間人を列車で輸送し終えたとは思われない。
ソ連軍の進攻スピードは速かった。“永久要塞”陣地へは一部兵力で攻撃を続け、主力は要塞のそばをすり抜けて満州中央部へ、北朝鮮へと向かっている。
東正面のソ連軍は十一日にはムーリン(穆稜)河左岸に移り、十四日には牡丹江市を目前にしていた。この進攻速度はソ連軍の計画より四日も早く、牡丹江進入は八月下旬としていたが、十五日の日本敗戦があって、日本軍はほとんど無抵抗であったからソ連軍の一方的な行動となった。
北朝鮮の清津にはソ連極東海軍が支援し八月十三日に先発隊が上陸している。当然日本軍は反撃している。北朝鮮が関東軍の指揮下に入ったのは二十年六月十八日である。中国中部の武漢地区にいた第三十四軍(櫛淵一中将)を引き抜き、主力の五十九師団が咸興に到着したのは八月初旬である。当時直接使用し得たのは永興湾要塞だけ(公刊戦史)という実情で、他の有力部隊は輸送途中であり、北朝鮮の日本軍もまた泥縄式の防備体制しかとりえなかった。
朝鮮半島が三十八度線で南北に分断された形の線引きになっているのは、北半分が関東軍の指揮下にあったからである。ちなみに朝鮮全土には七十万人の軍人、一般人がいて、南北それぞれ三十五万人ずつ分かれて住んでいた。たしかに三十八度線以北は前述のように六月十八日に関東軍の指揮下に入った。しかしソ連参戦に際して、ソ連軍の占領地域が満州および北緯三十八度線以北に決定したのはW・H・マクニール(現シカゴ大学教授)著『アメリカ、ブリテン及びロシア』によると、ポツダム会談(昭和二十年七月十七日〜八月二日)の際の第二回軍事協定で取り決められたという。ポツダム会談と並行して行われた米ソ軍事協定だが、これは純軍事的な会議で、いわゆるポツダム会談とは性格を異にしたものだ。この時点で「北緯三十八度以北」と協定された理由が、同地域が関東軍の指揮下に入っていたからだとする根拠は見当たらないにしても、ソ連が六月十八日、関東軍が北緯三十八度以北を指揮下に入れたという情報を持っていたことは十分に考えられる。
金日成朝鮮民主主義人民共和国主席は当時ソ連に亡命しており、戦後ソ連の武力を背景に北朝鮮入りしているところからみても、金日成主席がこの情報をキャッチし、ソ連軍部に要請したことは想像に難くない。とすると六月十八日の関東軍の決定が朝鮮分割の原因を作ったことになるかもしれない。
知日派アメリカ人で国際問題研究家のウィリアム・F・ニンモ氏が、バージニア州ノーホークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念公文書館に保存されていた資料を掘り起こして書いた労作『検証―シベリヤ抑留』(加藤隆・訳、時事通信社・一九九一刊)に興味ある記述がある。対日理事会(日本占領後に設けられた米・英・ソ・中華民国による東京での諮問機関)などでの日本人抑留者のソ連からの引き揚げをめぐっての米・ソのなまなましいやりとりが一次資料によって紹介されている。ソ連が北朝鮮を占領した経緯について同書は、
「ヤルタ会談の私的な会合でルーズベルトとスターリンは日本敗北後、朝鮮をソ連、イギリス、アメリカ、中華民国の代表によって統治される信託統治下に置くことにした。この約束は一九四五(昭和二十)年春、サンフランシスコで行なわれた国連の会議およびポツダム会談でも確認されたが、日本の降伏があまりにも突然だったため実現のための具体的な計画にまで話が発展しなかった。ソ連、アメリカの両軍代表は大急ぎで朝鮮での日本降伏を迅速に進めることを決定。三八度線以北の日本軍はソ連軍に、以南はアメリカ軍に降伏することにした。全朝鮮の信託統治は日本の降伏に引き続いて行なわれるはずだったが、しかし、ソ連軍は間もなく北の全領土を占領下に入れ、境界線を確定して厳重な防備体制を敷いた」
と書いている。引き揚げ者が、満州から朝鮮経由で日本に帰ろうとしても三十八度線で引っ掛かった意味が、時間が経過するとともに解ってきたということであろうか。
三十八度線は日本人の満州からの内地帰還の大きな障害となり、多くの死者、ソ連抑留者を出すことになった。
ソ連占領下のソ連軍と日本軍の停戦の態様は、各部隊によって全部異なると言ってよい。八月十四日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。連合国はこれを「日本降伏」と受け取り、自国の第一線部隊に停戦を指示している。それは中国戦線でも同様であった。
が、ソ連は進攻の手をゆるめなかった。ソ連軍参謀長アントノフ中将は八月十六日「日本の回答(ポ宣言受諾)はステートメントである。極東におけるソ連軍の攻撃は継続しなければならない」と布告し逆に武力進攻を命令している。米・英・支(中国)の諸国がポ宣言受諾をもって実質上の日本の敗北と認め、日本軍に対する武力攻撃を中止し、マニラにあったマッカーサー司令部と日本政府との間で具体的な戦後処理事務に入ったのとは大きな差である。アングロサクソン民族とスラブ民族の“精神文化”の問題というよりも、ソ連流の強引な占領地拡大の意思がはっきりと読み取れる思いがする。
ポ宣言受諾の南方戦線では、宣伝ビラなどによる投降の呼びかけを行い戦闘は中止された。フィリピンのルソン島の山中にこもっていた山下奉文大将が、山を下りて降伏調印(バギオ)したのは九月三日であるが、その間、組織的な戦闘行動は皆無であった。
ソ連軍が武力進攻をやめなかった最大の理由は前述したように“占領地の確保”であり、対米英への発言権の強化であった。ソ連参戦の翌十日、日本はポ宣言受諾の意思表示を行っている。十四日まで正式受諾に時間を要したのは「国体保持」の言質を連合軍から引き出そうとしたためである。少なくとも歴史的にはそうなっている。その十日の時点で、ソ連のモロトフ外相は駐ソ米大使のハリマンに「日本占領時の司令官をソ連からも出して二人制にしたい」と申し入れ「二日しか戦争していない国が過大な要求をしすぎる」とやりこめられている。
「トルーマン回顧録」によると、スターリンは直接トルーマンに電報を入れ「ソ連軍に降伏すべき地域の中に千島列島全部を加えること。東は釧路、西は留萌《るもい》に至る北海道の北半分を加えたい」と要求を出している。トルーマンが承知するはずはなく、逆に「千島に米軍の航空基地を造りたい」と逆襲されている。要するにソ連のねらいは“占領”という既成事実を作ることであった。関東軍が大本営命令によって停戦命令を指揮下部隊に発令したのは十六日午後十時である。しかしソ連軍と交戦中の部隊もあり、ソ連があくまでも武力進攻する“意思”を持っている以上、関東軍の思うように事は運ばない。
ソ連軍は開戦と同時に樺太の国境(北緯五十度)からも日本進攻を開始したのは当然であるが、記述がわずらわしくなるので、満州国内の状況について先に進める。
関東軍は停戦命令発令(十六日午後十時)後、対日作戦総司令官ワシレフスキー元帥との交渉を急ぐこととし、翌十七日朝、ハルビン特務機関長秋草俊少将(部隊名は関東軍情報部)を介して、同地のソ連領事に連絡し、秦彦三郎総参謀長、瀬島竜三、野原博起、大前正〓の三中佐参謀の四人が空路新京からハルビンに飛んだ。ソ連側は「期日は当方から指定する」と答えただけであった。瀬島、野原参謀は開戦直前に関東軍に赴任したばかりで、ソ連に抑留されるために満州入りしたようなものであった。
ソ連は十九日、ジャリコーウォ(興凱湖西の寒村)のソ連軍第一極東方面軍司令部で会見すると回答をよこし、ソ連軍機に前記の四人のほか宮川祐夫ハルビン総領事を乗せ目的地に向かった。
飛行機は午後ジャリコーウォのソ連軍司令部に到着した。司令部にはワシレフスキー元帥以下日本進攻軍の司令官も姿を見せた。時間がかかったのは、西正面から進攻してくるザバイカル方面軍司令官マリノフスキー元帥、沿海州方面軍司令官メレチコフ元帥などを呼び寄せたためであろう。このほかに極東空軍司令官ノービィコフ航空元帥、太平洋艦隊司令官ユマシェフ提督らが同席している。
会談の要点は「武装解除に際し都市の権力も一切ソ連に渡す」「後方補給のため局地的なものを除き、軍隊、軍需品の大きな移動は行わない」「日本軍の名誉を重んじ、軍人に階級章をつけ、帯刀を許可するほか将官に副官、将校全部に当番兵の使用を認める」など七項目で、なごやかなうちに協定の成立を見たという(公刊戦史)。
が、この協定はすべて一顧だにされなかったことになる。「軍隊、物資の移動は行わない」どころか、在満の工業生産品、工場などすべてソ連に持ち去り、関東軍六十万人はソ連全土の収容所に“移動”させられ強制労働につかされる。「将校に当番兵をつける」という項目は、はなはだ虫のよい要求だが、当時の軍隊の習慣であった。この項目に関しては、収容所内の民主運動の結果、日本人の手で雲散霧消するが、それは後のことになる。
ザバイカル方面軍の軍使が新京に飛来したのが十九日正午。一時間半後にコワリヨフ軍管区司令官が到着した。翌二十日、関東軍総司令部に入ったコワリヨフ大将らは、まず通信機関を差し押さえ、在新京部隊を武装解除の上新京の南嶺に集結させる処置をとった。日本軍は内密の無電機を使って東京との連絡をとったが、それも九月六日から切れる。満州の様相は協定とは裏腹にしだいに重苦しくなっていった。
八月十九日、ジャリコーウォで結ばれた停戦協定をソ連は正式なものとして認めていなかったと思われる。少なくとも実行はされなかった。第一線部隊においては特にそうであった。
ソ連は九月二日、東京湾のミズーリ艦上で交わされた連合国と日本政府の正式な降伏調印をもって「戦争終結」と考えていたことは八月十九日以後のソ連軍の行動を見れば理解できる。いや正確に言えば九月二日の調印式もソ連にとっては「停戦」ではなかったのである。その理由はすぐにわかる。もっとも場所、部隊によって事情は異なるが、ソ連軍の南下はやまず当然武力行動を伴い、戦車を先頭に日本軍を席捲した。攻撃されれば日本軍は反撃する。「不敗関東軍」のプライドを持っていた将兵もいたから、いきおい小規模ながら戦闘が各地で発生した。そして悲劇を大きなものとした。
八月十七日、外務大臣名の「大本営発、マツクアーサー司令部宛」電では次のような要請をまだフィリピンのマニラにあった連合軍総司令官に行っている。
「第五号 八月十七日。我方ニ於テハ既ニ停戦ノ大命発セラレタル処、ソ連軍ハ今尚積極攻勢ヲ続行中ニシテ今朝ノ先鋒ハ既ニ奉天西方面ニ到着シツツアリ、之ガ為在満日本軍の停戦実施ニ多大ノ困難ヲ感シツツアリ、貴司令官ニ於テ『ソ』側ニ対シ即時攻勢停止方要請セラレンコトヲ切望ス」
当時日本政府(軍部も含めて)は連合軍最高司令官、つまりマッカーサーに、ソ連をも拘束するだけの権限があるものと誤解していたのである。が、ソ連占領地区に対する連合軍最高司令官の権限は及ばなかったのである。七月二十六日、ポツダムで行われた米ソ軍事協定によって、ソ連軍の占領地区は定められており、協定地区内でソ連がどのようなことを行おうと、マッカーサー司令部はそれを制止することはできなかった。ソ連占領地区内で発生したあらゆる不法行為はポツダムにおける米ソ軍事協定から発したと言ってよい。
八月十八日午後十時二十分に、関東軍が大本営に電話連絡したところによると、「満州内事情」として以下のような状況にあった。秦総参謀長がソ連のハルビン総領事との会談の結果である(防衛庁戦史部蔵)。
「一、明十九日『ワシレフスキー』ハ、ハルピン接収ヲ形式付ケ且総参謀長ヲ『ハバロフスク』ニ誘導ノ為ハルピンニ来ル。2、新京、奉天等満州国内重要都市ノ権力ハ『ソ』側ニ引渡サレ度。
二、満州内ニハ国民党(蒋介石軍)其の他暗躍シアリ。国民党ハ中央銀行等乗取リヲ決意シアリシガ重慶ヨリノ指令ニヨリ差控エタリ。
三、在満日系満系ハ統治者トシテ張作霜(相)引出工作中ナリ」
八月十八日の段階で在満の日本人および、現地の親日派が、新しい統治者として張作霜をかつぎ出そうとした感覚は、ソ連がヨーロッパでドイツやハンガリー、ポーランドに対して行ってきた実績をまったく知らなかった理由による。昭和十六年、太平洋戦争に突入していらい“鎖国状態”にあったとはいえ、海外の事情――とくにソ連のやり方に未知であったことは、在満邦人の不幸をいっそう大きなものにしたと言える。
政府、軍部は満州でなお在留邦人の“生活社会”は保てると考えていた証拠がある。もっとも大本営は終戦後すぐ在外邦人の引き揚げを計画し、日本に残っている船腹の計算、食糧供給のための手段とその可能性について一応の推計を行っている。
満州に関して言えば在留邦人を百万人(軍隊は七十万三千人)と見込み、その引き揚げに要する船腹を三百万総トンとしている。もちろん敗戦直後の日本には引き揚げに使用し得る船は八十万総トンしかなかった。他に中国、朝鮮、樺太、台湾、中部太平洋、ラバウル、小笠原と広域にわたって将兵三百二十二万人、在留邦人四百七十一万人、計八百二十六万七千人(合計数が多いのは海軍関係者がいるため)がいた。これらをなけなしの船腹八十万総トンをフル稼動させて内地に運ぶ計画である(大本営陸軍部八月十八日作成の極秘資料)。
在満邦人百万人という計算の中には三十二万人余が除外されている。少なくともこの程度の日本人は敗戦後もなお現地に留まって生計を立てることは可能であろう――との甘い判断が作用していたものと考えられる。その証拠に九月二十四日の次官会議で「極力之《これ》を海外に残留せしめるため、その生命財産の安全を保証するとともに居住民の生活の安定を期する……」と決定している。まさかソ連が在満の将兵や民間六十万人余をソ連の領土内に抑留し“民族の大移動”を実際にやって見せるなど、日本人の遠く想像のおよばないところであったろう。
第一次大戦では敗戦国居留民を本国に総引き揚げさせた例はなく、まさか捕虜として将兵を自国に抑留し、強制労働させるような例はなかった。ましてソ連がソルジェニーツィン言うところの「収容所群島」であろうとは、日本政府も軍部も想像だに出来なかったことは十分理解できる。
日本政府の方針が一定しないのは“情報不足”に原因があるとはいえ、七百万人を超える海外の在留邦人が一度に帰国したとすると、食糧問題が一番の難問になったことも確かであろう。厚生省が引き揚げ援護の記録の中で「人類が経験した最も広範囲な集団人口移動」と言っているのは正しい。ゲルマン民族の大移動は数百年を要している。
見捨てられた在留邦人
大急ぎで樺太方面のソ連軍進攻の実情を見ておこう。この方面の守備は札幌に司令部のあった第五方面軍の管轄であった。陸軍一万九千人、在留邦人四十三万人がいた。樺太には八月九日のソ連参戦と同時の進攻はなかった。三日後の十一日午前五時、戦車三、四両を先頭にした一個中隊が半田川付近から越境して来ている。迎え撃った日本軍は歩兵百二十五連隊第二大隊第八中隊である。第八中隊は善戦しソ連軍の進攻を食い止めている。小部隊ながらもその健闘ぶりは見事で、ソ連軍戦史をして「連隊長は全連隊を展開させようとしたが、日本軍の濃密な火網の火制下にあったので身動きができなかった」と書かせたほどであった。
同連隊指揮下の安別守備隊もよくソ連軍を苦しめている。これら百二十五連隊の善戦はたたえたいが、本稿の目的ではないので省略せざるを得ない。安別守備隊の場合、海岸にあり、極東ソ連海軍の艦砲射撃、上陸用舟艇による本格的な上陸作戦に遭いソ連軍を撃退することは不可能ではあったが、終戦後の十七日になっても、なお戦いが続いているのは見逃せない。
樺太の防衛を増強するための大本営の処置もとられたが、八月十五日の終戦で中止され、樺太は孤立する。実際にソ連軍の攻撃は九月五日まで続けられたのである。ソ連軍の「終戦」の意味は「ミズーリ艦上での降伏調印を意味した」――と前述したが、その後もなお日本進攻をやめなかった。スターリンが「ポ宣言受諾はステートメントにすぎない」と言ったことも前に紹介した。それは戦後、ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が出版した『大祖国戦争』の中に記述してある内容だ。モスクワ駐在米軍事使節団長ジョン・ディーン少将の「奇妙な同盟」によると、ソ連の日本攻撃を中止させてほしいという日本の要請を受けたマッカーサーが、ソ連軍参謀長アントノフ将軍に伝えたところ、同参謀長は「作戦を中止するかどうかは作戦軍司令官の判断による」とつっぱねている。何がなんでも計画通りの地域を占領する目的である。
千島列島にソ連軍が上陸したのは八月十八日である。第五方面軍司令官(札幌)が大本営に報告した同日午前四時発の電報は「今十八日未明、占守島北端ニ敵(現地ノ報告不明ナルモ『ソ軍』ナルガ如シ)ノ一部上陸シ第九十一師団ノ一部モ亦《また》之ヲ迎ヘテ自衛的戦闘ヲ実施中ナル処《ところ》、敵ハサキニ停戦ヲ公表シナガラコノ挙ニ出ヅルハ甚ダ不都合ナルヲ以テ関係機関ヨリ速カニ接衝セラレ度上申ス」と悲鳴に近い文章である。
樺太の日本領の北端に近い真岡(ホルムスク)にソ連軍が進攻して来たのは八月二十日である。しかも信じられないような「軍使射殺」という行動に出ている。真岡を守備していたのは歩兵二十五連隊主力であった。八月十八日、連隊旗を焼却(それは連隊の終末を意味した)し、古年次兵の現地除隊を行い、文字通り“軍隊でない組織”として平静にソ連軍の進駐を待とうとしていた。そうした状況下の真岡に、いきなりソ連海軍は艦砲射撃を行い、兵員を上陸させた。
二十五連隊第一大隊長仲川少佐は大隊副官村田徳兵中尉ら十七人に白旗を持たせ、軍使として派遣した。以下の出来事は札幌の第五方面軍参謀長から、大本営参謀次長あての電文をナマのまま書き写した方がよいと思われる。人員に多少の差があるが、原文通りに掲戦する。
「八月二十日二二五五(午後十時五十五分)発。
当方面ノ『ソ連』不法行動ニ関シテハ当方正当ナル平和的解決努力ニモ拘ラズ本二十日真岡ニ於ケル進攻上陸(軍)ハ我ガ軍使ノ射殺(七時ゴロ白旗ヲ掲ゲ明瞭ニ軍使タルヲ表明セル将校以下十三名ニ対シ自動小銃ヲ以テ不法十名ヲ射殺)或ハ古屯ニ於ケル我ガ軍使ニ対スル回答(略)等真ニ不信極マルモノアリテ且ツコレラ行動ハ敵側最高司令官『ワ』元帥ノ意図ニアラザルニ於テハ、敵側最高指揮官ヲシテ然ルヘク厳命ヲ発セシムル要アリト認ムルニ付、関東軍総参謀長ヲ通シ速急『ワ』元帥宛折衝等ノ方法取計ハレ度」――という信じられないような報告であった。文章が乱れているのは事態の異常さに参謀が動転したのであろう。
「第八十八師団調書」(北海道庁民生社会課作成)によると、軍使は十七人である。軍使一行が荒貝沢出口付近に出るとソ連兵の歩哨に制止され、武器を地上に置くよう指示された。武器を置くのを待っていたように、ソ連兵は自動小銃(通称マンドリン)で軍使一行を射撃した。難をのがれた兵が大隊本部にたどり着き状況報告したのは十時を過ぎるころであったという。第五方面軍参謀長の報告は二十三日も続いている。
「北部樺太方面ノ防衛平静ナルモ、真岡方面ノ敵ハ頗《すこぶ》ル惨虐ニシテ、住民ヲ惨殺、一般避難民ヲ機関短銃ヲ以テ猛射シ、此ノ機ニ乗ジテ悪質朝鮮人ノ惨虐行為跳梁スル等、真ニ目ヲ覆フベキモノアルヲ以テ同方面等第一線部隊ハ若干ノ対抗手段ヲ執リタルガ、当方ニ於テハ現地部隊ニ対シ国家保全ノ大局ニ立チ万事ヲ諦メ完全ナル無抵抗主義ニ徹スベキ旨指導シアリ……」
そして報告はさらに異常な行動にふれている。カタカナまじり文の当時の軍隊電文は読みづらいので、以降は平易な文に直して大要を紹介しよう。
樺太での常軌を逸したソ連軍の攻撃は、一般避難民にも向けられている。八月二十三日、第五方面軍から大本営にあてた報告電文のなかには「二十二日『ソ軍』ハ左ノ如ク依然航空機並ビニ潜水艦ヲ以テ攻撃ヲ加ヘアリ」として樺太からの避難民を乗せた三隻の船への攻撃を伝えている(防衛庁資料)。場所は北海道の留萌沖だから明らかに日本領海内である。
ソ連潜水艦と断定する資料が無いという理由で、「国籍不明の潜水艦」による攻撃――とされている事件である。この件に関しては現在も厚生省が追跡調査しており、撃沈された日本船の船長から「当時の船長は潜水艦の艦橋、形態などから米国かソ連かの識別訓練を受けていた。潜水艦は艦橋を出して魚雷を発射した。間違いなくソ連の潜水艦だった」という証言を得ている。
樺太・真岡での軍使射殺と言い、留萌沖での日本船雷撃と言い、ソ連の公刊戦史にはもちろん一行も出て来ない。どこの国も都合の悪い事は書かないのだろう。が、ソ連軍の戦果の記述の中に、日本の輸送船、特務艦を撃沈したと書いている。日本海軍にソ連海軍との交戦の記録はなく、ソ連の海上進攻の日時と照らして日本の難民船がソ連の不法攻撃の犠牲になったことは明らかと思われる。
前出『極東における勝利』によると「極東ソ連軍司令部はこの方面(占守島占領)の作戦の遂行を遅延させてはならないという強い要求に応えて、現実に作戦しなければならなかった……。航空基地および海軍基地を千島列島内に設定しようとする米国の要求を阻止するにあった」と千島占領の目的を明確に書いている。日本は、すでに米ソ戦略の挟み撃ちに合っていたのである。
戦後日本で言われている「国籍不明の潜水艦」による日本船雷撃事件は以下の通りである。
(1)二十二日午前四時三十分、小笠原丸(一四〇〇トン)は留萌沖で雷撃を受け沈没。乗員七百人中生存者は六十人。
(2)同五時十三分、特別砲艦第二新興丸(二七〇〇トン)は留萌沖北西三十三キロで雷撃を受け、船尾を破壊せられ乗員四千人中死傷者は約八百人。沈没はせず。
(3)同九時五十二分、泰東丸(二〇〇〇トン)は留萌沖西方二十五キロで雷撃を受け沈没。乗員八百人のうち百人が救出された。
一方、飛行機は北海道に二回(投弾せず)侵入し、樺太では投弾、機銃掃射を加えている。貨物船能登丸(一一〇〇トン)は宗谷海峡で三機の攻撃を受け、撃沈されている。ソ連のマークを翼につけていたからソ連機であることは間違いない。さらに二十四日には樺太の南端に近い落合(ドリンスク)、豊原(ユジノサハリンスク)地区の飛行場に空挺部隊が着陸し、翌二十五日には空挺部隊と地上部隊の連係作戦が行われている。
これらの不法な軍事行動について米軍がソ連に抗議した事実がある。「米国戦略調査団報告」によれば、ソ連の代表団一行が、ミズーリ艦上での降伏調印式に参加するため、マニラのマッカーサー司令部に到着したさい、八月二十二日のソ連潜水艦による攻撃について米側が正式に抗議した、と書いている。米国戦略調査団は、米航空部隊の日本に与えた被害程度、日本の状況を調査するため米本国から派遣された公式機関である。
在満日本人の苦しみは終戦後すぐ始まっている。八月二十三日、関東軍総参謀長が、大本営参謀次長にあてた電報は、次の通りである。
「ソ連軍首脳は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めるも、現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり。今や日本軍の武力全くなく、右に加えて満軍及び満鮮人(中国東北部の先住民である満州族や朝鮮民族)の反日・侮日の事態の推移等、将兵の忍苦、真に涙なくして見るを得ず。関東軍総司令部は本二十二日夕、本庁舎をザバイカル方面軍司令部に譲り、旧海軍武官府に移転す。願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず」
次いで重光葵外務大臣あての電報は邦人の苦悩を次のように伝えている。外務大臣あてになっているのは、関東軍総司令官は駐満大使を兼任していたからである。
「現在全満に推定五十万の避難民あり。わずかな手回り品すら略奪され、着のみ着のままにて食事すら事欠き、数日絶食の者さえあり(軍人を含む邦人約二百万、うち約九万は朝鮮・関東州に疎開)。目下食糧状況悪化、採暖用石炭の輸送は認可されず、冬季用衣糧住宅等を徴発略奪され、冬季に入りたる以後、飢餓凍死者の続出を憂えしめらる。本件ソ軍首脳の内意をただしたるところ、右は東京において取り決めらるべしとのことにて、ソ・支(中国)側にてはなんら措置せず、当方としては全く手のつけようなし。ついては在外邦人に対し措置される時は事情御了察のうえ在満婦女子病人を優先するよう御援助あい煩わしたく懇願す」
満州進攻の第一線に投入されたソ連兵は“囚人部隊”であったとの証言は無数にある。彼らは坊主頭(囚人)で着衣もひどく、日本人を見ると時計、万年筆、衣類など手当たりしだいに強奪し、婦女を見ると昼間、場所を選ばず襲いかかっている。
日赤から従軍看護婦として召集、派遣された高亀カツエさんはジ(チ)ャムス陸軍病院に勤務中にソ連参戦を迎えた。凶暴なソ連兵の目をのがれるため、頭髪を切って軍服を着たという。女性の身でシベリア抑留の体験を持つ珍しい例だが、ソ連兵の印象について「人間という気がしなかった。目はギラギラし、手の指に入れ墨をし日本人から強奪した腕時計を両腕に何個もつけていました。抑留生活ではソ連人個人に悪感情は持たなかったのですが、この時はこわかった」と語っている。
ソ連参戦時、ジャムス陸軍病院には日赤広島・岡山支部から召集された日赤看護婦と陸軍看護婦がそれぞれ二十人と女子事務員数人、それにジャムス高等女学校を卒業して看護婦養成中の隊員七十人がいた。ソ連参戦を知ると部隊長は養成中の女子隊員を親元に帰した。ジャムスには養成隊員の家族が住んでいたからだ。つまり、この時点ではジャムスの民間人に退避命令が出ていなかったとみるべきだろう。ところが七十人の隊員のうち四十人の両親は「こうなったら軍隊と一緒にいた方が安全だろう」と言って、再び教育隊に帰して来たという。
女性約百人を含む部隊は激しいソ連機の空襲を避けながら、松花江を船で下ってハルビンまで後退する計画だった。が、関東軍司令部との無線連絡がうまくとれず、ジャムスからあまり遠くない伊関通《いーかんつう》で下船、徒歩で方正《ほうまさ》に向かった。
終戦を知ったのは十八日である。その夜、部隊長は「部隊をここで解散したい。各自自由行動をとって日本へ帰る道を探せ」と言ったそうだ。部隊長がどういう意味で言ったのかわからないが「勝手に日本に帰れ」とはいかにも無責任なように思える。高亀さんは「私たちは召集されて来たのです。現地解散はできません。日本へ帰るまで部隊と行動を共にします」と部隊長に言った。
高亀さんが一番気にかかったのは、自分が責任を持つことになった若い女子教育隊員の身の上である。女性全員に自決用の青酸化合物が渡され、部隊と行動を共にすることになった。女性全員が頭髪を短く切ったのはこの時である。ソ連の戦車がうなりをあげて通り、部隊は武装解除させられた。若い女の子が赤いハンカチを胸のポケットからのぞかせたりするちょっとしたオシャレにも厳重に注意し、宿舎の農業協同組合から一歩も外に出させなかった。高亀さんの選択はシベリア抑留という、むごい体験はしたが、結局全員が無事に日本に帰っているから正しかったといえる。
そのころだれからともなく「ソ連兵が民間人に乱暴する」という話を聞かされた。事実女性がいることを知ったソ連軍が「女を出せ」と師団司令部に要求して来た。困った司令部は、牛一頭をつぶしてソ連軍の高級将校をもてなし「彼女らは万国赤十字で認められている日赤の従軍看護婦だ」とソ連軍の要求を拒絶したそうである。(女性は百人だったか百五十人か明白な記憶はない)。それでも移動中に一人が不明(さらわれたらしい)になり、仮宿舎は何度もソ連兵に襲われた。そのつど日本兵がかけつけ難を逃れた。
満州防衛軍司令部の暗号手だった平本直行氏が雑誌『文藝春秋』(五十八年三月号)に発表した手記は、ソ連兵の暴虐ぶりをなまなましく伝えている。直接本人から取材もしたが、責任を明確にする意味から手記を引用する。
「鞍山から新京守備のため北上したので新京の街が北も南もよくわからないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たったと思われるころの出来ごとだった。私は終戦の日、交通事故で骨折し病院に入院していたために、その酷《ひど》い事件にあうことができたのだ。ソ連兵が三、四人マンドリンという軽機関銃を胸にぶらさげて歩いているのが見えるが銃声は聞こえない。ソ連軍将校は時々やって来るが、ぶきみなほど静かな日々が続いていたので新京の街で何が起こっていたのかわからなかった。
そんな日、病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三歳の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見られる姿ではなかった。その全員が裸で(中略)幼い子供の下腹部は紫に腫れあがって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。次の女性はモンペだけをはぎ取られ下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出している。次の少女は乳房を切り取られ片目をあけていたが死んでいるのかもしれない。次もその次もほとんど同じ姿である――」
平本氏は毎日このようにして運ばれて来るタンカを見た。病院の婦長が「私の身はどんなにされてもよい。ソ連兵にこれ以上乱暴はさせない」とソ連軍司令部に抗議に出かけた。しばらくしてラジオで「ソ連軍司令官が婦女暴行禁止令を出した」と聞いたが、運ばれて来るタンカの数が減っただけであった。治療に当たった女医は「十人のうち二、三人は舌をかんで死んでいるんです」と言った。抗議に出向いた婦長の姿はいらい見なかった――。
この種の手記、証言はいくらでもある。が同時に忘れてならないのは、中国戦線での日本兵の似たような告白もたくさんあるという事実だ。戦争は人間を動物にするという典型を見る思いがする。
前に紹介した高亀カツエさんの証言の中でいま一つ重要な問題がある。ジャムス高女の看護婦教育隊員を自宅に帰したところ「軍隊と行動を共にした方が安全だ」と両親たちが娘を教育隊に復帰させた、という点だ。
ジャムスはソ連と国境を接している当時の三江省内にあった町だ。ソ連の進攻が早かったために、邦人の中には逃げ遅れる者も多かったと思われる。関東軍に対する非難の一つは「邦人を見捨てて先に逃げた」ということであるが、関東軍だけでなく在満の部隊の中にもソ連参戦の当日、大急ぎで家族を逃がしたという証言もある。
広島文化女子短大教授の福冨康氏は、関東軍の指揮下に入っていない第二航空軍の少尉で、奉天飛行場で部下百四十人を使って飛行機の退避壕を造っていた。八月九日朝、ソ連参戦の報が入った。大急ぎで飛行場のはずれにあった地区司令部に走った。
「地区司令部に行って驚いたのですが、司令官(大佐)以下十七、八人の幹部が一人もいない。古参下士官もいない。兵隊ばかりがウロウロしている。どうしたのか、と兵隊に訪ねると『司令官以下、家族を避難させるために奉天駅に行かれました』と言う。若かっただけにカッときましてね、奉天駅に行ってみると司令官以下幹部が将校行李に荷物をつめ、軍服をぬいで刀をはずし、家族を避難させるために見送りに行っていた。奉天駅はいっぱいでした。司令官の名前は今でもはっきり覚えていますよ。私は言いました。こんなことでどうなりますか。ソ連がそこまで来ているんです、と。司令官はしどろもどろしていましたが『軍、官、民の順で大急ぎで家族を避難させろとの命令が届いた』と答えました。
日本敗れたり、とこの瞬間に感じました。家族が心配なのは軍人といえども同じですから大急ぎで避難させるのはよい。しかし見送りなら当番兵を一人つけるだけでよいじゃありませんか。かりにも地区司令官以下幹部は対ソ戦について真剣に考えるべきです。司令部を空にするなど軍人のやることじゃない。朝鮮経由で日本に帰る予定だったらしいのですが、結局朝鮮が通れず家族は満州に引き返したそうです」
福冨氏は昨日のことのように憤りをかくさない。「ソ連が来たらダメだ」という事実をだれよりもよく知っていたのは高級将校であったろう。張り子のトラにすぎなかった関東軍を信じ、一番損をしたのはソ連兵に暴行され、略奪された在留邦人ということであろうか。
ソ連の進攻作戦は予定通り着々と進んだ。
樺太、千島列島での事実上の停戦は前述のように八月下旬である。武装解除をもって“停戦完了”とすると九月四日――終戦から二十日もたったころであった。国後島、多楽島、志志島などの日本軍部隊がこの日武装解除された。ついにソ連は全満州、北朝鮮、樺太、千島列島を完全に支配下に収めた。
ここで再び満州に、目を転ずる。
九月五日朝、コワリヨフ大将は山田関東軍総司令官、秦総参謀長ら主要将官や参謀を空路新京発、ハルビン一泊という経路でハバロフスクに連行してしまった。大本営参謀で、たまたま作戦要務のため関東軍司令部に出張していた朝枝繁春中佐の回想によると「ハバロフスクで会議を開く」と言って、関東軍司令部の首脳を飛行機に乗せたという。朝枝参謀は昭和二十四年八月までソ連に抑留され、他の多くは三十一年、日ソ国交回復をまって帰国を許された。ソ連人の“会議”はまことに長い。
首脳をごっそり持ってゆかれたため、全満の軍隊、在留邦人の混乱に拍車をかけた。“張り子のトラ”であったとはいえ、関東軍は在留邦人にとっては唯一の頼りであり、冬を目前にひかえて、なす術《すべ》を失っていた。
それにしても関東軍はいま少し早く在留邦人に対して手を打つべきであった。朝日新聞記者稲垣武著『昭和20年8月20日=内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』によると、中国での出来事であるが張家口にいた蒙古自治邦政府企画課長勝田千年氏は「引き揚げ命令」だと荷物をまとめるのに時間がかかるとし「一時避難命令」という、いわば「ニセ命令」を出し、ほとんど着の身、着のままで邦人を列車に乗せ南下させている。この中に芥川賞作家の池田満寿夫氏もいた。まことに見上げた、立派な処置である。指揮者の機転によって、人間の運命が左右される典型である。
関東軍が敗戦を覚悟して日露戦争以来の重要書類を焼却し始めたのは八月十一日である。ソ連参戦の三日目、敗戦の四日前である。秦総参謀長の手記によると「数人の係員が数日かかっても終わるものではない。烈日のもと、炎々と燃えさかる炎は熱風を呼び起こし、濛々《もうもう》と立ちこめる黒煙はあるいは高く空に冲《ちゆう》し、また激しく大地をなめ凄絶そのものである。炎は夜となく昼となく、あたかも関東軍の落城を弔うがごとく猛り狂うように燃え続けた」とある。
書類の焼却は敗北を覚悟していたからである。戦う前から関東軍は戦を“投げ”ていたのだ。軍家族が第一に引き揚げることになった経緯は前述したが、そのことにもふれ「この後送は総司令部の通化移転とともに……非難の的となった」と告白している。
満州防衛については、ソ満国境にあった虎頭、虎林、孫呉、綏芬河などの要塞陣地に重点を置かず、三十キロ〜八十キロ後方に新たな守備陣地を構築中にソ連の進攻を受けた。したがって第一線の要塞陣地には守備隊員の数は少なく、またたく間につぶされ、まったく役に立たなかった。孫呉陣地に“根こそぎ動員”されて守備についていた西原松実氏の証言によると、孫呉陣地でも場所によって戦況は異なり、西原氏らがいた陣地前のざん壕には、まだソ連軍は来ず、対峙している間に終戦になったという。ソ連公刊戦史によると、ソ連軍は孫呉の主陣地に取りついた形となり、ここでは激戦となっている。
「終戦までの間に戦車攻撃用の爆薬を抱いて出て行った兵もいましたが、私たちの陣地にはまだ攻めて来ないうちに終戦となり、確か八月十七日ごろ武装解除され、シベリア抑留になりました」
西原氏は召集される前、黒河で警察官の職にあった。戦後、黒河の土木工程処に勤めていた人たちが中心となって「黒河会」というのが組織された。西原氏と夫人、黒河生まれの紀之氏の三人は「黒河友好訪中団」に加わって、昭和六十年七月末から八月初旬にかけて黒河や孫呉を訪れた。幼かった紀之氏は当然、戦争体験の記憶はないが、北満のソ連参戦時の状況に強い関心を持っている。両親と共に黒河、孫呉を訪れたのもそのためだが「当時の生存者がまとめた戦記と大きな差がソ連公刊戦史にある」という意味の手紙をもらった。事実はその通りで、関東軍が正式な文書を残さなかったため、忘れ去られた“激戦”が各地で展開されたことは疑う余地はないだろう。
石頭予備士官学校の生徒のうち六百五十人は、実戦体験を持たない学生集団だが、ソ連参戦と同時に前線行きを命じられた。すでに前線からは邦人や兵隊が後退していたが、若い使命感は後退を承知せず、牡丹江市から東北へ進んだ磨刀石でソ連軍戦車隊とぶつかり、肉弾戦を展開。わずかに百五十人が生き残った。
こうした戦闘は各地でみられるが、公式文書としては書かれず、生存者の手で書き残されたものしかない。言うまでもなく、戦死した友の慰霊のために、活字として残す作業が進められたものだ。つまり、満州で戦死した兵士の戦没時のもようが、いまだにわからない家族も多いということである。後で詳述するが、ソ連抑留から帰国する際、ソ連は抑留中に書いたメモ、戦没者名簿など一切をナホトカで没収している。
当時の若者たちが、なぜ死を賭《と》して戦ったのか。大戦末期の特攻隊にしても、学業半ばで予備学生として出陣した学徒兵とか、将来のある若い青年が真っ先に敵艦に突っ込んでいる。「なぜあの人たちは絶望的な戦いに殉じていったのか――」と疑問に思う若い人は多いようである。社会観、価値観が今とまったく異なっていたとはいえ、当時の日本人が“好戦的”であったわけでは決してない。
戦前の憲法では兵役は納税、教育と並んで国民に課せられた三大義務であった。帝国憲法第二十条に「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ兵役ノ義務ヲ有ス」とあり、これを受けた兵役法には第一条「帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニヨリ兵役ニ服ス」に始まる詳細な条文が存在していた。兵役拒否など戦前の国民のできる問題ではなかったのである。
兵役を課せられた――徴兵された国民は国策に従って、命じられるままに“天皇・国家のため”という自覚を持って“武力の尖兵”とならざるをえなかった。当時の社会的風潮、国民感情からして、兵役は男子たるものの義務と考えていたことを理解しないと、国のためと信じて散華した生命は浮かばれない。
ソ連占領下にあった日本兵や一般邦人六十万人がシベリアに抑留されたのは相手がソ連であったための不運である。抑留者は厳寒の中で重労働を強いられ、ソ連国刑法第五十八条(資本主義援助、スパイ工作に対する罪・いわゆるゴパチ。一九八九年に廃止)によって約三千人が十年から最高二十五年の刑を受けた。もっとも山田関東軍総司令官以下防疫給水部関係者に対する“細菌戦裁判”は昭和二十四年十二月に行われたが、ソ連最高会議命令によるものだ。いずれにしてもソ連国内法で裁かれた点は同じである。
ひところ話題となった関東軍七三一部隊(細菌兵器開発)の責任者、石井四郎中将の身柄をソ連はアメリカに要求したが、アメリカは応じなかった。アメリカは「七三一部隊の実験データを提供する」という条件で石井中将を「B・C級戦犯容疑」から免責にしたのである。司法取引である。勝者の論理は米・ソとも変わらない。
「新中国」成立後、ソ連は抑留者の中から九百七十一人を昭和二十五年七月、中国に引き渡している。中国のB・C級戦犯としてである。A級は東京裁判という形で行われた。B・C級は横浜地裁でも行われたが、日本が占領していた現地で裁判を受けた者の方が多い。
A級、B・C級とは日本占領後の昭和二十一年一月十九日、マッカーサーGHQ司令官が公布した「裁判所条令」に基づく分類(管轄規定)であって、A項が「平和に対する罪(戦争の計画・共同謀議)」、B項が「戦争慣習(国際条約)違反」、C項が「人道に対する罪(残虐行為、虐待)」を犯した者と規定されている。したがって各項目に該当する関係者をA級戦犯、B・C級戦犯として裁いたのである。いずれにしても事後法で、法的には勝者のおごりである。
中国に対する戦争責任はのがれようもないが、ソ連に対する戦犯が存在した理由はまったく考えられない。一方的に進攻され略奪され犯されたのは日本側である。それなのにソ連は日本人を勝手に収容所の中に入れておいて「反ソ行動」「スパイ活動」を行ったとして国内法で即決裁判し刑を言い渡したのである。こうした現実を見るとソ連に抑留された日本兵は「捕虜」だったのか「奴隷」だったのかわからなくなる。理解し難い国としか、言いようがない。
流浪する邦人
相次ぐ悲報
厚生省、外務省に残っている資料によると、満州、北朝鮮(三十八度線以北)に残留している将兵、邦人の消息がぼつぼつ判明するようになったのは昭和二十年九月下旬から十月初めにかけてである。前述したように、関東軍総司令官山田大将以下参謀がソ連に抑留された九月五日以降は日本との通信は途切れてしまう。
日本政府が情報を入手したのは、ひそかに満州、北朝鮮から逃れて来た邦人によってもたらされたものである。たとえば大連にいた邦人の証言によると、終戦後いち早く現地のジャンク(中国式貨物船)を高額で雇い、日本に向けて出港していった人はかなりいたようである。先に荷物を乗せ、そのまま持ち逃げされたり、途中で身ぐるみ奪われたりして逆戻りした例もある。しかし日本版“ボートピープル”の何パーセントかは成功している。この人たちの情報によって、日本政府は、正式連絡の切れた満州、北朝鮮の情報をある程度知ることができた。
しかし情報は断片的であり、日本も戦後の混乱のさなかにあったから、具体的な行動をとることはできなかった、とみるのが妥当であろう。内地においても戦後の混乱は表現のしようのないほどで、抽象的に言えば一種の“無政府”状況下にあった。無法状況下と言ってもよい。
九月二日、ミズーリ艦上での正式降伏調印を前にして、抗戦派の軍人の強硬意見の沈静、内地部隊の復員、南西太平洋を中心とする前線に派兵、駐留していた将兵の復員業務など、政府の仕事はあまりにも多岐にわたっていた。最初の復員は九月二十日に開始された太平洋の孤島メレヨン島守備隊の将兵であった。二十六日に終了している。メレヨン島守備隊には広島県福山地方の将兵が多く、食糧難のためいろいろな確執の生じた島である。つづいて朝鮮南部の邦人、将兵の復員が始まり二十年中には大体終了している。アメリカ軍管区(アメリカ軍の占領下にあった地区)内の引き揚げが一番早かったのはアメリカの国柄、国民性による。もっとも英軍占領下のシンガポール、マレー半島などで、日本兵による作業隊が編成され、二十二年まで約二年間労働させられたことにも言及しておかないと公正を欠くだろう。ただしソ連の抑留とは意味が違うことは言うまでもないにしても、ポツダム宣言に違反していることは事実である。戦争はきれいごとではすまないのである。
ソ連占領下の邦人のようすが、九月から十月にかけて日本にもたらされたが、正式に外務省の公文書になったのは十一月、北朝鮮からの脱出者による情報である。
「興南から脱出してきた永興守備隊砲兵伍長鈴木某のもたらした情報によれば、平壌(ピョンヤン)の守備隊に属する三千七百の将校と准士官は十月一日興南から船でウラジオストックに送られた。元山地方の武装解除された一万一千の兵隊は……十月に興南に移動し港の荷役に従事した後、ウラジオに送られた。ひどい暑さのため落後した者は全部射殺された。
十一月九日まで、約一万八千の日本兵は興南から出帆した。他に二万三千の捕虜が興南と平壌で乗船を待っている。乗船の際、捕虜の兵隊たちは『日本に向うのだ』と説明された。将校は帰国を信じており、兵隊の逃亡を防ぐように努力している。これらの日本兵たちは毛布二枚と防寒外套を持参するよう命じられた」
一方、満州からの情報を外務省がつかんだのは十二月である。
「新京から脱出してきた満州水産会社斎藤某のもたらした情報によれば、敦化、東寧地方の日本兵はウラジオに移動させられたようだ。新京とハルピンの兵隊は満州里経由ソビエト領へ、Heiho地方の兵はブラゴエシチェンスクへ送られた」
この種の情報は数種類集録されているが、確度という点では高いものとは思われず、日本政府としても全面的に信頼するわけにはいかなかったろう。ソ連占領下にいる日本人が軍人、一般邦人を問わず、最初の冬をどのように過ごしているか――おそらく困窮の極に達しているであろうことは想像できても、正式な政府出先機関との連絡がとれない以上、手の打ちようもなかったのである。ましてやソ連が国際法を無視して、日本軍をソ連領内に連行するなど思いもつかなかったからである。
日本政府は後述するように、軍人も含めて在留邦人がどんな生活をしているかに関心が集中されていた。日本政府が確度の高い情報として「日本兵がシベリアに連行されたらしい」と信じるようになったのは奉天発、二十一年二月二十八日の外電である。外電は簡単ではあるが次のように報じていた。
「奉天地区赤軍司令官スタンウイッチ少将は米英記者団との会見の席上、同地区の日本戦時捕虜は全部シベリア収容所に送還された旨次のごとく言明した。
『奉天地区の日本軍戦時捕虜は、日本に送還される代りにシベリアの収容所に送られた。どこに、いかなる目的で送られたか、正確なことは判明しない』」
さらに同年四月八日のモスクワ放送は第四軍司令官(在満州)上村幹男中将がシベリアの捕虜収容所で三月二十三日自殺したことを報じたから、日本兵のシベリア抑留はほぼ確定的と判断される材料となった。
日本政府が確信したのは、佐藤駐ソ大使が同年五月三十一日帰国し、シベリア鉄道沿線の各駅で日本兵捕虜を多数目撃したと報告してからである。すでにこの時点ではソ連占領下の日本軍将兵、一般邦人の一部のシベリア抑留はほとんど終了していたのである。終戦から九ヵ月余も過ぎて、やっと事実をつかんだことになる。六月十一日、日本政府はGHQにソ連の不法を遠慮勝ちに訴え、釈放を要求するが、当初のGHQの方針は冷たいもので「それは日ソ間の交渉によるものだ」と門前払いに近い行動で報いられている。
前出の『検証―シベリヤ抑留』によると、二十一年四月、対日理事会でソ連代表テレビヤンコ中将は「ソ連には日本人の引き揚げ対象者はいない」と表明。さらに「引き揚げ問題は対日理事会の管轄外である」と抗議しただけでなく、日本政府の引き揚げ担当部門である復員局の廃止を主張、ソ連と米国を中心とする占領国代表と対立する要因をつくった、としている。また対日理事会の初会合が予定されていた二十一年四月の一ヵ月前、テレビヤンコ中将は、
「八千五百人の日本人をサハリン(樺太)へ逆輸送したい」
と逆引き揚げを提案している。同書は、
「ソ連側はなぜサハリンの漁民のところへ日本人家族を連れて行こうとしたのだろうか。戦後の一年間に、モスクワは住民のいる新規獲得領土を植民地化する計画を持っていた。サハリンの漁民に家族を再会させるという動きは、漁民たちを永住させる方針に沿ったものだった。しかし一九四六(昭和二十一)年末、ソ連の入植者が南サハリンに到着したため、テレビヤンコ中将はこの問題を再び持ち出さなかった」
と恐るべき事実を紹介している。アメリカはそれなりに対ソ交渉を苦労してやってくれていたわけで、GHQが「引き揚げ問題は日ソ交渉でやれ」といった裏の事情が、時の経過とともに解ってきている。ただしソ連は対日理事会で引き揚げ問題を議題にすることを拒みつづけている。二十一年十二月十九日、ソ連からの「日本人抑留者の引き揚げ」の米・ソ協定が成立したのはアメリカの蔭の努力の結果である。
日本兵の「シベリア輸送」については後述するが、まずソ連軍占領下――満州、北朝鮮の邦人の消息が、どのようにして日本に伝わったか、そしてその実態はどのようなものであったのかを追及しなければならない。
すでに平壌には満州から朝鮮経由で帰国しようとする日本人であふれ、寒さに震えながら集団生活をしていたのである。それは平壌に古くから居住していた邦人も同じで転々と住居を移されながら帰国の目処《めど》もたたないままに“生活”していた。三十八度線が突破できなかったからである。
南朝鮮(韓国)の大田にあった独立自動車第七十大隊第二中隊長(中尉)だった西川彰一氏の証言によると、
「ソ連の空挺隊が降下し、三十八度線を通る列車のレールをひっぺがしてしまったのです。ソ連軍による南朝鮮との交通遮断です。終戦の翌日(十六日)だったと思いますが、私の第二中隊百八十八人に自動車五十台を持って平壌で邦人の救出をするよう命令が出ました。ソ連との話し合いの結果だと思います。平壌には福山四十一連隊の兵舎があり、軍需物資が各地に貯蔵してありました。それを邦人のために運搬する役目を仰せつかったのです。満州から入って来る邦人が毎日数千人、一万人と平壌駅で下車させられていました。それらを平壌市内の収容所に連れて行くのも仕事です。約一ヵ月間その仕事に武装したまま従事、任務が終わるとシベリア送りでした。私の部隊で抑留されたのは私の中隊だけ。それはそれとしてソ連の行動は徹底したもので日本人に対する暴行の話も随分と聞きました」
西川証言にみる通り、ソ連軍が鉄道を撤去してしまったため、邦人の南下が阻止されたのである。北朝鮮に取り残された邦人はさらに一年以上も、流浪しなければならなかった。
日本の新聞で満州に関する情報が報道されたのは二十年十二月四日の「長春(旧新京)発AP電」である。もっとも満州をめぐる中共軍と国府軍との内戦は伝えられているが、直接日本人と関係のある外電はこのAP電である。「満州工場施設 ソ連領に搬出」の見出し(中国新聞)で次のように伝えている。
「満州における主なる工業施設は最近ぞくぞくソ連領に運び去られていると伝えられているが、AP通信カメラマン、デ・ソーリア氏は終戦以来、丸はだかにされた満州各地の工場の写真を撮影し、その真実性を証明している。同氏は『ほとんど○(不明)城からハルピンにいたる都市という都市の工業施設が次々と運び去られており、日本が十四年間にわたって営々と築きあげたこれら工業施設を元通りに復旧するには巨額の費用と長年月を要しよう』と語っているが、杜逸明国府軍東北保安司令長官は、これら工業施設の移転はソ連及び中共に責任があると非難している」
広島市に本拠を置く中国新聞が“消えた邦人”の消息を、まだ半ペラの紙面しか作れなかった時期に執拗に追っかけたのは地域的な特殊性による。広島県は中支(中国中部)から満州防衛のため移動させられた三十九師団(藤部隊)の編成地であり、青少年開拓団(義勇軍)への参加者は全国二位。加えて満州移住者も多かった。
一般開拓団は長野、山形、宮城、新潟、福島、群馬、熊本、石川、秋田の各県に次いで多く、トータルすると全国でもトップ級の県人が移住していた。それだけに読者からの問い合わせも多く中国新聞社にとっては重要なテーマであった。社説でこの問題を取り上げたのも非常に早い。筆者の調査した限りでは全国紙がシベリア抑留について正面から取り上げたのは読売新聞で、二十二年十月二十一日付である。ソ連軍管区以外の「捕虜」の日本送還が終了したというのに、ソ連から復員が未完であることに疑問を持ったのである。翌日、朝日、毎日が同趣旨の社説を掲げ、ようやく全日本的な関心事となった。
ソ連の工業施設移転作業に日本人が従事させられていることは容易に想像がつくが、百三十万人を超える在留邦人の消息はなお不明である。この不安を現実なものとして報道したのは十二月二十二日付の中国新聞である。「死と闘ふ四十万 自殺者もでる奉天の邦人」という二段見出しで報じている。当時半ペラ(裏表二ページ)しかなかった紙面からすると大きな扱いである。内容は長いが引用する。
「満州各地における邦人は冬将軍の到来と共にますますその苦難が増している。十二月上旬にかけての奉天市の状況が奉天居留民会長宇佐美亨爾氏より福岡市の大陸同胞引揚相談所にもたらされた。以下はその連絡情報による奉天の状況である。
現在奉天市には約四十万の邦人が集結しているが、この中には北満その他より避難して来た約十五万を含んでいる。邦人によって経営されていた百貨店などの主要な建物はほとんど焼き払われ、被害をまぬがれた一般家屋は一戸平均大体十七名程度がすし詰めに入れられている。しかしなお各地から奉天に避難して来る者が多いので、住宅の収容力がなく、全く途方にくれている。一方、北満方面から南下する邦人は全然列車が使用できず、徒歩によらねばならぬため途中で強盗にあったり、暴行を加えられたり奉天に到着した時には精神的、肉体的疲労のため死亡する者が非常に多い。今、奉天ではこの厳しい冬を越すための燃料が全く欠乏している。終戦当時約二十七万トン確保していたが、全部盗まれ現在では一トンもない。そして石炭を買おうとすれば一トン当たり約千五百円もするのでその金もなく、全員凍死する可能性が非常に大きい。
また食糧も支那側行政官庁より一日一合二勺のコウリャンが配給されるが、これを買う金がない者が大多数であり、事実上配給を受けられぬ状態にある。また居留民会議でも資金がなく、みすみす多くの人を餓死させている。こうして死亡者は一日平均百名にのぼり、厳寒の来襲とともに漸次増加の傾向にある。原因は病気によるもの、自殺によるものなどであるが、病没以外の死が増してきたことは憂慮される。日本人の預金、貯金などは全然払い出しは出来ず、かつ有り金も使い果たし、子供も大人も一緒にまっ黒になって石炭拾いをしたり、露天の商いをやっているが、その収入はほとんど問題にならぬ少額である。せめて婦女子だけでも一刻も早く帰国せしむる手段を講じてほしいのが奉天在留民のたっての希望である。多くの邦人は食わんとすれども金なく、暖をとらんとすれども方法なく、ただ空腹をかかえて、厳しい冬の寒空に死と闘いつつあるのである」
この記事の状況は多分十月以前の奉天在留邦人の現実であろう。奉天は十一月になると校庭に水をまいてスケート場が出来るほど寒冷の地である。奉天居留民会長のこの手紙がどういうルートで日本に届いたかはさだかではないが、冬を目前にした邦人の様子が手に取るようにわかる。
日本政府は、くどいほどGHQを通じてソ連の善処を要請しているが一顧だにされた形跡はない。この経緯は前述した通りだ。戦争中、日本の利益代表として、中立国のスイス、スウェーデン、スペイン、ポルトガルに公使館が置かれていたが、十月二十五日、GHQは公使館の資産の引き渡しと外交権の全面停止を、さらに二十一年一月には在外公館員の引き揚げを命じている。モスクワにいた佐藤駐ソ大使ら一行が帰国するさい、シベリア鉄道の各駅で日本人捕虜を見つけ、公式に日本兵のシベリア抑留の報告となったのも前述した通りである。
外務省では在満百三十万人余の邦人(軍人を含まず)のうち約十万は北朝鮮経由で帰国しようとし、約五十万人は南満州、関東州方面へ避難しようと行動を起こしていると二十年十月の時点で推定していた(同省資料)。朝鮮経由組のうち、二十年八月十日新京を出発した人たちは朝鮮に入れはしたものの、前述したように三十八度線で足止めされ、それ以後、新京を出発した組は朝鮮にすら入れず、再び満州に引き返している。いずれにしてもソ連進攻時と終戦が重なり、避難の旅は難渋を極め、多くの死者を出している。
防衛庁公刊戦史が厚生省、外務省の数字を元としてまとめた満州での在留邦人の敗戦の年の越冬記録は読む人をして肌を寒からしめるものがある。以下概要を紹介する。
満州、北朝鮮の敗戦直後の混乱は十月ごろになって一応の落ち着きを見せた、という。ただしこれはソ連進攻時の略奪、暴行、さらに現地人の不法行為が落ちついたということである。日本人は盗まれる物さえ無くなっていたことを意味している。
満州の冬は寒い。邦人の大部分は家なく、職を失った難民である。半年にわたる冬季間において衣類、医薬品、燃料の極端な不足のため、各地に病人が発生し、ことに栄養失調、発しんチフスによる死亡者が多かった。
二十年十月から翌年春までの最初の越冬期間中、満州での死亡者は十七万人を数えたという。興安東省、竜江省、三江省、浜江省、通化省、奉天省など、満州中央部に集中して越冬しているが、これは国境地帯にいた開拓民、居留民が途中まで避難したものの、帰国のすべもなく足止めをくったものである。
冬季間の犠牲者が多発した代表地区として以下のように記述されている(数字は推定)。
▽三江省=満州人の妻になった者は二千〜二千五百人。死亡者は二千五百人以上。
▽間島省=死亡者約七千人。間島市では悪疫により難民一万七千人のうち五千人が死亡。
▽チチハル市=邦人総数五万人(うち避難民約二万五千人)中、死亡者三千五百人。行方不明四千人。
▽ハルビン市=既住者七万三千人のうち一万五千人、避難者五万人中二万五千人、計四万人が死亡。
▽新京=避難民、既住者はほぼ同数の二十四、五万人、計五十万人のうち約三万一千人が死亡。
▽吉林市=避難民一万八千人、既住者二万四千人、計四万二千人中死亡者四千人。
▽四平市=避難民一万七千人、既住者九千人のうち死亡者合計二千五百人。
▽奉天市=避難民七万二千人を合わせて二十八万人。うち死亡者二万六千人。
▽安東市=死亡者約三千人。
以上の数字はあくまでも推定であるが、死亡あるいは行方不明を合計すると十一万五百人になる。一年目の越冬で十七万人の死亡とあるから五万九千五百人は各地で死亡したものである。行方不明四千人は何を意味するか複雑である。“男狩り”によってソ連に抑留された者か、現地人にもらわれた(買われた)幼児も含まれていると思われる。チチハル市のようにまとまった集団の中での行方不明が四千人とは特別の事情があったとしか考えられない。
外務省が二十一年一月四日付でGHQ(連合軍総司令部)のマッカーサー元帥にあてた「在満日本国籍者の救援について」という標題の公文書(英文)が残っている。日本人の救援をGHQに訴えたものである。中国新聞二十年十二月二十二日付紙面で報道した在満邦人の越冬前の実情からさらに事態が悪化していることがこの公文書から理解できる。シベリア抑留を研究している若槻泰雄玉川大学教授の訳文から引用しておく。「しばしば訴えたように日本人の効果的保護と敏速な帰国については、日本政府は深甚なる関心をもつものである……」との書き出しで始まる要請文の「別紙」として添付されたものである。
「奉天在住日本人は奥地からの避難者をふくめ約四十万人である。日本所有の主要建物は焼かれ、その他の家はソ連軍に接収され、一つの家に平均十七人が住んでいる。北満から南満へ移動する日本人は汽車に乗ることは許されず歩かねばならない。彼らの所有物はすべて盗賊に奪われている。
この冬を越すためには四十万トンの石炭が必要だが、終戦のとき二十万トンしかなかった。そしてこれらすべては中国人により盗まれた。日本人は石炭を買うべき資金はなく、ソ連および中国からは何の援助も与えられていない。すでに多数の凍死者が出ている。きわめて少数しか春まで生き残れないであろう。奥地から避難してきた日本人の大部分は学校の建物に宿営し、床にコーリャンを敷いて寝ている。
この収容所には日本人の女と子供を売買する中国人がむらがり、かなりの数の女、子供が一人七十〜八十円で売られている。この値段は奉天における魚二匹にあたる。一日に平均約百人が死亡しており、それは増加の傾向にある。死亡原因は病気、家族による殺害、自殺等で病気以外の原因が最近増えている。
奉天以外の他の地域もほぼ同様の状況にある。奉天以北の日本人在留者が、この冬を越すことは絶対に不可能である」
関東軍がソ連に降伏する際の降伏文書の中には「満州にある日本居留民の保護についてはソ連において十分留意す」の一項目があったが、ソ連は例によって、この種の協定には一顧だにしなかったのである。
奉天に前から住んでいた日本人は、個人財産もあり、主として日本人街に集結して住んでいたからなんとか生きのびることができたが、奥地から避難して来た開拓民あるいは一般邦人は、見知らぬ奉天に降ろされて、なすすべがなかったことは十分に察しがつく。戦争は弱者をまず犠牲にする。
奉天に限らず新京、大連などの大都市の邦人も越冬には苦労している。石炭不足、食糧難で帰国の見通しもないまま絶望的な毎日を送った。
奉天に在住していた坪田強氏の目撃談によると、奉天駅に下車して来る邦人は、途中で盗難に遭い、ドンゴロス(穀物などを入れる粗布)の袋に穴をあけて首を出し、服の代用にしていた、という。途中で身ぐるみ強奪されたのである。各都市では日本人が居留民会を組織して自衛的生活を続けていたが、金が自由に使えず、日本からの金融措置も、政府が外交権を喪失していたから、まったく通じなかった。政府は在留邦人の越冬生活資金に、満州国銀行からの一時借り入れ要請などを行ったが、これもうまくいかなかった。
坪田氏は、昭和二十年五月十日“根こそぎ動員”によって召集され、通化の部隊にいて終戦となった。通化は関東軍総司令部が一時疎開していたところである。ソ連軍と一戦も交えることなく八月二十三日には、召集された部隊員は各自“逃げた”(自由離隊)そうである。在満邦人で召集された者が多かったから、家族のいる場所に帰ったのである。坪田氏も三日がかりで常子夫人と四人の子供のいる奉天市の日本人街――砂山の住宅地に着いた。
すでにソ連軍が奉天市内に入っていたが、日本人街での生活は、日本人同士間の商売で、日本円が通用し、なんとか食いつなげた、という。日本人街の近くに航空隊基地(飛行場)があったがすでに日本兵は一人もいなかった。「倉庫には何か食糧があるはずだ」と数人で探してみると、大豆などが大量に残っていた。それを自宅に運び「五ヵ月間程度なら大豆だけでも生きれる」と思ったという。
坪田氏に登場願ったいま一つの理由は、同氏がいわゆるソ連の“男狩り”に遭い、シベリアに抑留されたからである。通化から“逃げ帰って”九日目くらい(九月上旬)に警察から「軍籍にあった人は出頭するように」と言われ、正直に出頭すると全部で百人ほどの日本人がいた。「まるっきりペテンにかかったようなもので、そのままソ連軍につかまりシベリアへ送られました」。当時ソ連は日本兵、民間人による千人から千五百人程度の作業大隊を組織し、どんどんシベリアへ送っていたのである。作業隊の人員が足りなくなると通行中の男性を捕らえて員数合わせをした例もある。出頭命令を出した日本警察署もソ連の意図はおそらくわからなかったのであろう。そして警察官もまたシベリア送りとなったはずである。
満州での在留邦人は慣れない露天商などをやり、その日を送っていた。旧制遼陽商業に在学中、十八歳で召集され、ソ連軍迎撃に向かう途中、四平街で終戦。指揮官の好判断で「すぐに自宅に帰れ」と解散し、家族のいる大連市で越冬した永浜津一氏の証言によると、日本円も使えたがソ連軍も軍票を発行、流通していた。日本人の中には現地人と気脈を通じて結構商売していた者もおり、そうした人たちを通して物資を購入し、それを日本人に売ってはわずかな口銭をかせいで生活費にしていた。時期や地域にもよるが、二十年の暮れ近くなると治安もかなり落ち着き、第一線部隊となって満州に進攻した粗暴なソ連兵は姿を消し、平均的なソ連軍と交代していたという。
満州土木建築業協会理事長榊谷組社長、榊谷仙次郎氏の日記(全五十八冊。国会図書館蔵)の二十年十二月三十一日に「ニコライレイキンチェフ氏が(事務所に)見え、大連のソ連軍司令部にするための下見に来る。ソ連総領事から家具代金五万円を受け取りに来いとの電話が入る」という意味の記述がある(事務所の買収金額は八十万円)。
同日記八月三十一日の記述に「六時神社に参拝。水野とおはようの声の交換をし、昨夜は霧島町は相当な被害があったそうですが、お宅はいかがでしょうかと尋ねられた。事務所には(ソ連兵が)来たそうであるが、一昨日は缶詰を五、六個持って来て、社員と一時間ばかり話し、昨日はロシア語の稽古等をやって一時間ばかり話し、親善ぶりを発揮して帰った。別に被害はなく、最も性の良いロスケ(ロスキー。ソ連人)らしかったと(社員が)言っておりましたと話したところ、性の良いのと悪いのと両方あるそうで悪いのになると始末に負えないと言っております。お宅は幸福ですねと言っている……」とある。また知人宅にロシア兵が来て現金千円とモーニングなど洋服を盗んで行ったとか、中国人の集団強盗が押しかけたので日本人がピストルや日本刀で応戦しようとしたら引き揚げた、などの記述もある。
十二月の日記には、大連―新京間を社員が仕事で往復している記述もあるから、一方的に日本人がひどい目にあったとは思えないフシもある。やはり一様には言えないのであろう。九月には中共軍(毛沢東軍)が満州に入っているが、十一月には国府軍(蒋介石軍)が奉天、新京に入っている。満州での国共内戦の始まりである。邦人の引き揚げが二十一年から始まったのは国府軍がまだ満州を支配していたから可能になったわけで、蒋介石の「暴をもって暴に報ゆるなかれ」の布告のおかげと言ってよい。
言語に絶する避難行
戦争は常に弱者に犠牲を強いる。それが敗戦となればなおさらである。満州の都会地に住んでいた在留邦人も、軍の命令のままに一時避難とか疎開という移動を強いられ、終戦の混乱の中であてのない流浪を余儀なくされた。
当時、新京市にあった敷島高等女学校四年生、西圭代さん(旧姓・坂本いさよ)はソ連参戦後の十三日か十四日、和歌山県人会の人たちと一緒に新京から安東に“一時避難”をした。父親は三井物産新京支店に勤めていたが、二十年五月の“根こそぎ動員”で満ソ国境にある孫呉の守備隊に召集されていた。母親が孫呉近くの父親の所へ面会に出かけていて、たった一人で留守番をしていた時に避難命令が出たのである。
父親の出身地は和歌山県で、海外在留の邦人は県人会の結束が強かったから和歌山県人会の人たちと安東へ避難することとなったという。家族がバラバラになったわけである。汽車はダイヤ通りは走らず、車中で終戦を知らされたが、県人会の意思に従いそのまま安東に向かった。
安東には十一月までいた。「風の便りというか、新京に両親が帰っていると聞かされ再び新京に引き返した」。情報を知らせてくれた人がだれだったかは記憶にない。再び県人会の何人かと汽車に乗り新京に向かった。すでに戦後である。汽車が駅に止まるたびになんだかだと言っては“料金”を取られた。運転手に手渡すのか、駅員が取るのか理由はさだかではないが、実権は中国人の手に移っており、日本人が汽車で移動するには相当の“そでの下”を必要とする時代になっていたことを物語る。
両親は新京にいた。父親は終戦後“自由離隊”したと聞いている。通化にいた部隊にもみられたように、終戦後、在満邦人で召集された部隊には現地解散あるいは自由離隊者が多かった。敗戦で、関東軍の指揮、命令系統が失われていた証左であろう。
西さんが新京に帰った時、自宅は接収されていた。両親が知人宅に全部手配してくれていたため三井物産の社宅にいることがわかり再会できた。国府軍(蒋介石軍)が新京に入っていた時で、治安がかなり回復していたのも幸いしたのだろう。しかし「ソ連軍が入った時にはソ連の旗を出し、八路軍(毛沢東軍)が来れば八路軍の旗、国府軍が来れば同軍の旗を出し、とても忙しかったのよ」と述懐する。これは今でこそ笑い話として語れるが、西さんの乙女心に強く焼きついているのは、奥地から避難して来た人たちが小学校に収容されていて、そこで亡くなったおびただしい死者を校庭に埋めた光景である。埋葬の場所が足りなくて郊外にまで荷車で死体を連んだ。
西圭代さんが満州から引き揚げたのは二十一年七月、コロ島からである。米軍マクファーデン少佐ら現地関係者と国民政府(蒋介石主席)の好意である。満州の邦人に関していえば錦県に集合しコロ島経由で帰国した日本人は百五万人以上にのぼる。もっとも大連地区の邦人は依然ソ連軍の管轄下にあり、引き揚げは米ソ協定成立後の二十一年十二月末、実際に第一船が出港したのは二十二年正月である。厚生省の記録にはソ連軍管区の引き揚げとして総括されているものと思われる。
大連地区からの引き揚げ者の証言によると引き揚げの際の検査、立ち会いなどすべてソ連兵の手で行われている。歴史資料の多くは、二十一年三月、奉天にいたソ連兵が撤退を開始し同年四月、満州から全面撤退した、となっているが事実ではない。ソ連が大連の権益を日本から奪回したのもヤルタの密約の結果であり、一度進駐するとなかなか引き揚げない。ソ連の全面撤退は毛沢東の中国成立後で、はるか後のことである。二十二年になってもソ連軍を見ている日本人は多い。ソ連人の指揮で引き揚げ船に乗ったのである。引き揚げ船に関しても不明の部分があり、このあたりは大げさな表現を用いれば歴史のナゾに満ちている。
旧制旅順高等学校の理科二年に在学中の二十年八月六日、関東軍の“根こそぎ動員”による召集で学生を中心に約二百人の部隊に加えられ、ソ連軍迎撃のため西安守備隊に派遣された県立広島病院副院長の細馬静昭氏は、終戦後大連に引き返し、約二年間を過ごした体験を持つ。二十二年二月大連から引き揚げているが、ソ連軍の管理下にあったことを認めている。召集されながらソ連に抑留されなかったのは、部隊長が賢明であったという幸運に恵まれたからである。同じ旅順高でも文科の同級生は五月に召集され第一線に投入されたからジャムスあたりで多くの戦死者を出しソ連抑留者もいたろう。召集された時、銃はなく、手榴弾と地雷、ゴボー剣(銃剣)しかなかった。「死んで来い」と命令されたのと同じである。
配属された西安は第二線陣地だがソ連軍戦車に遭遇した。終戦後、奉天まで撤退、部隊長から「君たちは学生だからすぐに帰れ」と部隊解散を言い渡された。旅順に帰らず大連に居を構えたのは、戦後すぐ旅順を中国軍が占領して入市させなかったからである。
細馬氏の大連での体験は、まさに“流浪する邦人”の一つのタイプであったろう。氏の回想記から大連での生活を紹介する。聞き書きよりも体験記をそのまま引用した方がよい場合がある。これはその部類に属する。
「……八月下旬にやっと大連にたどり着いた私たち学徒兵はすぐ学生服に着がえて、市内の日本人家庭に四人の友人と一緒に用心棒のような立場で住み込ませてもらった。
その当時(終戦後の大連市)は日本人居住区の周辺にある中国人地区から、夜になると集団で掠奪にくるので、これに備えて当時十九歳だった私たちが役に立ったものである。昼は仮眠していて、夜になると白い鉢巻きをし、日本刀を持って掠奪に備える毎晩が続いた。しかしこれでは収入にはならない。引き揚げ船がいつ来るのかわからないまま、毎日を食べさせてもらうのは心苦しい。私たち(四人)は考えた末、大八車を手に入れて、旅順高等学校と書いた旗を立て、みそ、しょう油の大樽を乗せ学生服で大連市内を行商して歩くことにした。殿様商売とは違って学生商売には同情が集まった。かなり利益があがったので、おばさん(下宿)にもうけを提供して食費の足しにしてもらうことにした。一ヵ月ぐらいは続けることができたが、そのうちみそもしょう油も現物が手に入らなくなったので、委託販売に切り替えることにした。そのころには治安もよくなってきたので日本人家庭にある着物とか時計とか家財道具類を、大連市内を闊歩している進駐ソ連兵に売りつける商売である。
進駐ソ連兵はドイツを攻略し反転して満州に来た少年のような兵隊たちであった。服装や靴は大変粗末だったが、持っている自動小銃や拳銃はすばらしく、生活レベルや教養は低かったがドイツ語会話を理解した。私たちもドイツ語を一年半ばかり習っていたのでこれが役に立ち意思を通ずることができた。
彼らが一番欲しがるものは時計であった。高く売れたが驚いたことには腕時計のネジを巻くことを知らない。ネジが切れて時計が止まると、壊れたものと思ってすぐに捨ててしまう。だから腕には数個の時計を持っていなければならない。捨てられた時計は、日本人や中国人が拾ってまたソ連兵に売りつけた。うそのような話だが本当である。それくらい第一線のソ連兵は戦争に勝つことのみを考え、兵器には心血をそそいで素晴らしいものを持っていたが、日常生活レベルが低かったのである(略)。
日本の着物は高く売れたが日本人の持っていた楽器はもっとよく売れた。ソ連人は音楽好きな国民であり、踊りも好きである。印象に残ったのはギターを売った時のことであった。彼らも中国人同様、猛烈に値切ってから買う習慣がある。それを見越して最初は倍以上の値段をつけておき交渉を始める。ギターもすごく高い値をつけ、そして値切られた。私は商売が上手になっており値引きしなかった。有金全部をはたいたが私は売らない、とうとう拳銃に手をかけた。
私は恐ろしくなり、もう売らなければと考えているうちに、有り金と拳銃を机の上に並べて、ニッコリ笑って黙ってギターを持って帰った。私は実弾の入った拳銃と軍票を持って、この日はすぐに下宿に帰ってしまった。申すまでもない。拳銃を手放してまで自分の欲しいものを手に入れて、笑顔で帰って行ったソ連兵の童顔は、いつまでも私の頭の中に残った。しかし兵舎に帰って、失くなった拳銃の始末をどうするのであろうか。日本の軍隊ではとても考えられないことをする国民、欲しい時にはどんな事をしても手に入れる粘り強い国民だということを痛感した。
ともあれ満州を守っていた関東軍はこのような、ちょうど私と同年代(十九歳)のソ連兵たちによって、わずか数日間で潰滅させられてしまったのである」
以上の細馬手記の中にいろいろな当時の大連での生活が描かれていることに注目する必要がある。
大連地区には比較的良質なソ連兵が駐留していたこと、ソ連発行の軍票が使用されていたこと、男性が外に出て、女性は外出せず、日本人あるいはソ連人相手に生活のための商売が可能であったことなどなどの事実である。大連からソ連が全面撤退したのはいつのことか正確にはわからないが、大連在留邦人の回想によると、大連をソ連名の「ダルニー」と呼んでいた一時期があったそうだから、毛沢東の新中国成立を目前にして、旅順、大連地区の永久使用を意識していたのかもしれない。ただし二十年の暮れには、大連市内では女性の一人歩きも可能であったようだ。病院でも日本人医師、看護婦による診療も日常的に行われていた。旅大(旅順・大連)地区の特殊性であろうか。
大連での在留邦人の生活についていま少しふれる。奉天や新京といった都市とは異なった戦後生活があったように思える。国府(現在の台湾政権)、中共(現在の中国。当時、中国は国内未統一であった。新中国の成立は二十四年十月一日)、ソ連三者のかけ引きが大連市を巡って行われていたことは対日本人関係についてもみられたように思われる。
当時の外電の報ずるところによると二十一年九月には中共は満州の六割を支配下に置いていたことになっている。もっとも国府サイドから見た外電によると二十年十一月十八日発UPは「国府軍、満州に侵入」と伝え、同じ日に同じUPが「共産軍、ついに全満を制圧」(以上いずれも中国新聞)と伝えているから、特派員のいた場所、視点によって内容が変わっている。つまり満州事情はそれほど混乱していたということで、国府、中共、それにソ連の思惑も加わって本当のことは日本には伝わらなかったとみるべきであろう。それだけに肉親が満州にいた本土の人たちの不安は募るばかりであった。
大連在住の日本人から見て、同じ中国人でも国府側か中共側かはわからない。実は筆者の家内(旧姓・長浜順子)も大連からの引き揚げ者であるが、次のように語っている。
「中国人に日本人が強奪されそうになった時、ソ連兵が追っぱらってくれたこともありましたし、その逆の場合もありました。二十二年三月、大連から帰国しましたが、ソ連兵以外に中国人の兵隊を見た記憶はありません。二十一年の秋に自宅を中国人に接収されたのですが、それまではみんな戦争中のままでした」
日本人に対する思想教育は、ソ連が入って来て間もなく始められたようで、町内ごとに日本人の講師が共産党についての講義をしていた。講師は戦前、思想犯として獄につながれていた人が中心であったらしい。「講義する人は威張っていました」と家内は語っている。
『検証―シベリヤ抑留』によると、二十一年初め、大連軍政司令部(ソ連)が日本人の行動を管理するため、共産党の日本人労働組合を結成するよう命令し、組合は食料の配給、就職、住宅、住民の教育まで支配し、個々の引き揚げについても優先順位をつけ、人民裁判、脅迫、ごまかしをやったと指摘している。この資料の出所は米軍の軍事情報(MIS)によったものだ。
体験記としても出色の好著である富永孝子著『大連―空白の六百日』(新論社・一九八六)もソ連軍司令部が日本人労働組合に引き揚げに関する業務を任せた、と書いている。同時に一億二千五万円の引揚対策資金を全市民に階級別に割り当てた事実も書いている。私事になるが同書に書かれている、公債引受委員会副会長の榊谷組社長、榊谷仙次郎氏は筆者の同郷の先輩で、筆者の妻の親戚でもある。妻の父は同社の重役で、引き揚げ時の苦労話はよく聞かされた。メモもしてある。同書の指摘どおり「大連市建設国債」である。実際にはかなりの低額で話がまとまったらしいが「引揚資金は中国とソ連への袖の下だ」と言っていた。それにしても賠償金を市民が払ったようなものである。
「引き揚げは二十二年三月で新興丸という貨物船でした。大連の埠頭から出ました。人員は千人くらい。偽名を使っていたS満鉄副総裁夫妻と一緒の船でしたが、トラックで荷物を運び込みました。碁盤までありました。着いたのは佐世保です」。厚生省の資料によると新興丸が佐世保に入港した記録はない。が、富永氏の記録によると二十二年三月三日出港とある。ただし筆者の家内の記憶によれば大連を一日出港し、佐世保に五日の朝早く着き、六日上陸したという。引き揚げのさいソ連側と相当な裏取引があったらしい。引き揚げには多くのナゾがある。証言を総合するとソ連人にもかなり裏取引を好むのがいたようだ。
満州から朝鮮を通って日本に帰国しようとした邦人は多く、それらの邦人は平壌、鎮南浦、咸興などの北朝鮮の都市で足止めされ、難民生活を強いられたことは前に少しふれておいた。
新京から朝鮮経由で帰国しようとした敷島高等女学校の教員の家族や軍関係者の家族たちの流浪の記録が二つある。村永真理子さんが五十六年に自費出版した『風よ雲よ心あらば』と、同校二年生だった尾上陽子さん(旧姓・研谷)が二十一年七月に帰国し、新制中学二年生に編入、夏休み中に書き上げた長文のガリ版刷り記録である。尾上さんの記録は、小、高女時代の同級生で、同一行動をとった沢崎洋子さん(旧姓・畑中)から提供を受けたものだ。「敷島高女の教員ら新京の教員の家族が約五百人と他に軍関係者の家族が同じ数ほどで団体を組んだと記憶しています」
尾上さんの手記によると「十日午後二時ごろ、お上(かみ=関東軍司令部)から命令が出て一時疎開するから一週間分の食糧を持って、すぐ忠霊塔前に集合せよ、とのことで大急ぎで用意した」という。同高女の教師の妻だった村永さんの記録だと集合場所は大和ホテル前である。軍関係、民間関係によって集合場所が違ったのである。関東軍総司令部の記録の通り、徹底、不徹底はあったにせよ、たしかに市民に対してソ連参戦による「一時避難命令」は出たのである。もっとも同校四年生だった筆者の家内は「同級生と二人で十日朝登校したらだれもいなかったので、どうしたのかしら、と話しながら帰宅した」と言っているから、知らなかった市民も多かったと思われる。
忠霊塔前に集合した軍関係者の家族は、午後八時ごろ軍用トラックで駅前に運ばれ、大和ホテル前組は、そこが駅前だから移動する必要はない。たちまち駅前は避難民でいっぱいになった。尾上さんたちのグループは午後十一時に満員列車に押し込まれ、十一日午前六時に出発。行き先はわからず、十三日午後十時ごろ、北朝鮮の平壌駅に下車させられる。その夜は野宿し、翌十四日、軍のトラックが来て鉄道宿舎に分宿させられた。
村永手記によると新京出発は十二日昼過ぎで、長い有蓋《ゆうがい》貨物列車であったと書いている。途中で見かけると無蓋貨車に乗せられた避難民が多かったそうだから、村永さんたちはまだ運がよかったらしい。安東の近くで「安東に着いたら、知人のある人は下車して下さい」と前から伝令が来たそうだ。「なんと無責任なむごい言葉でしょう」と憤っている。
新京から乗った一時避難の有蓋貨車は十三日、平壌に着き、ここで客車に乗り換えて小さな駅に降ろされる。夜中であった。金谷面という小さな国民学校(小学校)に収容され、朝鮮人のもてなしで白いご飯にありつく。もちろん軍による給食であったろう。が、八月十五日の敗戦を境に環境は逆転する。一行五百人の団長が「死ぬ時はいさぎよく死んで下さい」と覚悟をうながした。その夜すでに暴徒となった朝鮮人が学校に押し寄せて来て「日本人は死ね」「死んでしまえ」と棒切れを持って床などをたたいて回った。
前に紹介した尾上陽子さんの記述(中学時代のもの)によると「本部から全員集合の伝令があり、自殺の方法を教えてもらった」そうだ。日本の敗戦を知った朝鮮人は、男性をつかまえて集団暴力を加え「三十六年間の恨みを知れ」と口々にののしった。
平壌に居留していた邦人も似たような体験をしなければならなかった。大武玲子さん(旧姓・富士本)は父親が鐘紡に勤務していた関係で現地の生活歴は長く、平壌高等女学校を卒業してすぐ秋乙の部隊(福山四十一連隊の本拠地)に通信隊員として勤務していた。したがってソ連参戦のことも関東軍が“逃げた”こともいち早く知っていて「乙女心に義憤を感じた」そうである。九月にソ連軍が入って来たため会社の社宅を追われて十一回も転居し、最後は船橋里の日本人集落に集結した。金や荷物を奪われ「二時間以内に家を出ろ」と迫られたりしている。やがてソ連兵が入って来て、「女を出せ」と社宅に押しかけるので、女は坊主頭にして天井裏やアパートの床下に身を隠し、畳の下の五十センチくらいの空間で寝た。大武さんは背が低かったので「オカッパ頭にして子供のふりをした」そうである。古くから住んでいた居留邦人も「避難組」と同じような苦労を強いられている。
村永さんの記録によると朝鮮人の殴り込みも一段落して落ち着き、八月下旬、日本人の多い方が安全だから、と鎮南浦に移動した。年配の読者なら覚えている人も多いと思われるが「鎮南浦三十八キログラム」と印刷された白い米の袋の日本向け積み出し港である。戦争末期、内地ではその米袋で作ったシャツを着た人を見た記憶もあろう。印刷された文字は洗っても消えなかった。
村永さんたち一行は鎮南浦中学校に入れられたが、すでに多くの見知らぬ「疎開者」が住んでいた。
尾上陽子さんの手記によると、二十年八月下旬、通化に派遣されていた父親が同僚数人と平壌に南下して来て再会している。もっとも同じころ入って来たソ連軍によって「終戦の際軍籍にあった者は取り調べる」と四人が連行され、翌日は「二十歳以上の男子は出頭せよ」と男性のほとんどがトラックで連れ去られている。尾上さんの父親も連行された。シベリアへ作業大隊として送り込まれたのである。
新京からの軍命令による疎開組の中には自炊をしたグループもあれば、会社の独身寮に一室(六畳)に十三人ぐらいつめこまれ、一日に二度、カボチャ、サツマイモなどをあてがわれただけというグループもあったようだ。栄養失調や疾病で毎日のように死んでいった。
同地に住んでいた大武玲子さんの目撃談によると「私は日本人会の受け付けをやったこともありましたが、北満からのがれて来た集団がたくさんいました(厚生省資料と防衛庁資料に相当の差がある)。みんな裸一貫です。その人たちは酒屋の蔵などに押し込まれていましたが、多くの死者を出し、冬季には材木のように死体が積み上げてありました」という実情であった。
尾上手記によると「平壌市に住む日本人の死亡率があまりに多くなり、死体を完全に埋葬することができなくなったので墓地への勤労奉仕が割り当てられ、案内の女子が半数ずつ毎日交代で墓地へ行った。そこに運ばれる死体を受け取って穴を掘って埋めるのだが、棺がなく、むしろに包んでいた。すぐにむしろもなくなり死体を荒縄で棒にくくりつけて運んだ」と大武証言を裏付けている。三千人の避難者が半分になったところも出ている。
また尾上手記に出てくるソ連兵による“男狩り”の実際も大武さんは見ている。「朝鮮人が先導して若い男を連行して行きました。秋乙の兵舎(福山四十一連隊)から逃亡した日本兵も捜し出されてシベリアに送られました。同居していた洋服屋さんも引っぱってゆかれました。もっとも半年間ぐらいそんなことがありましたが、あとは一段落の形で共存共栄と言いますか、日本人がソ連軍の使役に出て賃金ももらえるようになりました。ただ疎開組の方々は越冬は大変だったと思います」
尾上手記、村永手記も似たような経過をたどっている。村永手記には鎮南浦製錬所(日本興業株式会社)に勤務していた役職員や技術者も社宅を追われて長屋住まいだったが、製錬所には毎日勤務していたという。村永さんたちも製錬所勤務をさせられたが、無報酬であった。住居も刑務所に入れられたり、居留邦人と同居させられるなど転々としている。
ソ連軍の使役に出るようになって賃金が入るようになった。村永真理子さんの手記によると「日本側から接収した物品を本国に運ぶのに懸命なソ連軍なのです。私たちはかつての日本の工場、それは大きな製粉工場に行きました。工場内に入っている貨車にたくさんの小麦粉、米粉をかついで運ぶ作業を命ぜられたのです。……無報酬の製錬所とは違って六円也の賃金をもらいました」とある。ソ連人の点呼の遅いこと(数の計算に弱い)。ノルマがあることなどを知って驚く。日本人もなれてきて「ロスケー」と呼ぶと「ヤポンスキー」と手を上げるソ連兵もおり、女性のソ連兵も鎮南浦に入って来ていたそうだ。日本の自動車の部品工場にも作業に行かされたが、数を数えるのが遅くイライラする。朝夕の点呼と同じである。この部品も全部ソ連に持って帰る“戦利品”であった。
女性らしい次のような観察もある。
「午後三時休憩時間がきます。ソ連兵たちは朝がおそいので午前十時が朝食、午後三時が昼食です。私たちが昼食をしていても食べないはずです。アルミのやかんを二つ三つ持って来ました。机の引き出しからナイフを持ち出し黒パンを汚れた机の上でごしごし切りました。腰かけもせずに立ったまま黒パンをかじり、胸ポケットから大きなサジを取り出すとやかんに突っこんでかき回しました。どろどろ状のスープのようです。スープを飲みパンをかじります。立ったままで、もう一つのやかんにはジャガ芋を煮たようなものが入っています。たいした食事ではないようですが、難民の私たちには、机の上で無造作に切られる黒パンには魅せられます。難民の私たちから見てもソ連という国はどうも貧しい、きびしい生活をしているように思われます。短いランチタイムが終わるとスプーンを胸のポケットに入れ、空やかんをさげてどこかへ行ってしまいます」
年を越して、春になると朝鮮人農家のリンゴ園の中耕作業に出るようになり日当十円をもらう。昼食には温かい米のご飯と朝鮮づけが出たという。町の中も露店市場でにぎわうようになっており、居留民が手放した日本の衣類が売られている。中華めんを食べると十円とられ、一日の稼ぎが無くなってしまう。しかし考えると、社会にある“落ち着き”が戻ったということであろう。
しかし三十八度線を越えるという難事がまだ残っている。居留邦人もそうだし“難民”も同じである。終戦直後の集団強盗からまぬがれた、わずかな所有物さえ売り食いしなければならないほど、居留邦人にもそろそろ限界が見えて来た。
興南でずっと生活し、朝鮮語に不自由しなかったという沖本ハマさんはソ連が進攻してきて、日本兵が武装解除され、興南監獄(刑務所)に収容されていた時、寮母の資格で刑務所に出入りしていた。五人の子供を連れて三十八度線を越えたが、ソ連に亡命していた、のちの朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席が「日本帝国には恨みはあるが、日本人に恨みはない」とラジオ演説したのを聞いたという。
二十三年八月十五日、大韓民国樹立宣言の後を受けて、朝鮮民主主義人民共和国も政府樹立宣言となったものだが、それまでの“南北統一会談”が流れた結果である。米ソ冷戦が分裂の、少なくとも統一を阻害した原因だというのが歴史的通説だ。米ソ冷戦の激化は後でシベリア抑留者の“民主化運動”とも密接に関連することになるので一言しておきたい。
朝鮮に“根をおろした”ような沖本さんでも三十八度線を脱出する時には、グループ(邦人は日本人会を組織し、その下に小グループに分かれていた)の長に「少しでも南朝鮮に近づいて死のう」と言われ、「そりゃあそうだ」と思ったそうだから、やはり望郷の念が強かったのである。
帰国するには「旅費」が必要であった。村永手記によると、一人が六十円であった。「難民にとって、とりわけ子供や老人たちを抱えた人には大変な金である。日本に帰って返すことにして持っている者が出し合った」という記述がある。難民の帰国に旅費が必要だと書かれた回想記は他に知らない。
十三歳の時に書いた尾上陽子さんの手記によれば、三十八度線を越えることが決まったのは二十一年六月二日だったという。満州から朝鮮に避難した人数は厚生省と防衛庁の数字に差があると前に書いた。防衛庁の資料では約十万人が避難したというが、厚生省の詳細な資料では六万人が避難し、うち二万人が再び満州に引き返している。残った四万人が新義州と平壌、鎮南浦間の鉄道沿線に収容されたとしている(引揚援護庁編集『朝鮮引揚史』)。多分この方がより正確と思われる。この四万人のうちの生存者が「三十八度線突破」を決行したのである。大武玲子さんの証言によると「後で知った話ですが、金日成主席が日本人の帰国を黙認したということです」という。この証言を裏付ける客観的な動きがある。二十一年夏前といえば日本政府がGHQを通じて、ソ連占領下の邦人の保護と早期帰還、ソ連抑留者の帰国を執ように訴え、米・ソ間で協議が開始され始めた時期である。
満州のソ連占領地区の居留邦人引き揚げは、米国のあっせんによる「三人小組協定」によって、二十一年八、九、十月の三ヵ月間に計二十三万六千七百五十九人が中共地区から国民政府地区に引き渡され、実施されている。北部朝鮮の居留邦人や難民の日本帰国(三十八度線突破)をソ連占領下の北朝鮮が“黙認”した背景には、こうした国際的な動きがあったことを無視できない。蒋介石主席は、日本がポツダム宣言の受諾を通告した二十年八月十四日、全世界および中国民衆に対して「暴に報いるに暴をもってするなかれ」という内容の宣言をしたことも、同じ中国人である中共軍に影響を与えないわけはない。蒋主席の宣言は非常に長文で、中国古来の道徳観よりもキリスト教的博愛精神を強調した格調の高い文章である。
満州からは邦人を国民政府の管理下に置き、新京、奉天に集結させてコロ島から合計百万人余を引き揚げさせている。実際には奉天に事務所を置いた「日僑管理総処」(国府側)と「東北日僑俘善後連絡総処」(日本側)が二十一年五月から引き揚げを実施している。ついでに言えば、二十三年六月ごろになると中共軍の中国統一が進み、そのため新京の邦人は孤立した時期があった。中共軍が奉天―錦州間(コロ島への経路にあたる)を遮断したからだ。この時、米軍は大型機を動員して邦人を空輸し、二十三年八月十五日、コロ島を出発させている。これが満州地区の最後となった。
「ソ連地区引揚米ソ協定」の締結は二十一年十二月十九日である。ソ連対日理事会のN・テレビヤンコ代表(中将)とGHQのポール・J・ミューラー代表(中将)が署名者である。ソ連は協定の成立前の十二月八日、ナホトカから大久保丸、恵山丸の二隻に五千人を乗せて舞鶴に帰している。ただし同協定第二節には「引揚使用港はナホトカ、真岡、元山、咸興、大連」の五港とし「月間引き揚げ数は五万人」となっている。にもかかわらず、抑留者、邦人も含めて十二月に帰ったのは二万八千四百二十一人(厚生省資料)にすぎない。これはソ連の協定違反である。ナホトカからの抑留者の引き揚げは二十二年一月四、六日に二隻の船で五千九人を運んだが、今度は「ナホトカ港の凍結」を理由に実行を中止している。米国が「それなら砕氷船を出そう」と言ってもソ連は回答しなかった。
とまれ、北朝鮮の邦人による三十八度線越えは、二十一年夏、ようやく開始されることになった。ほとんど徒歩で、文字通りの“死の行進”である。
大武玲子さんの記憶によると平壌在留の邦人が“金日成の黙認”によって、三十八度線突破が可能となり「日本人会」を通じて十〜二十人の班を組織して三々五々平壌を出発していったのは二十一年八月十日ごろであったという。
「全員が裸一貫といってよく、多くは徒歩でした。牛車を雇って進んだこともあります。悪い人にあって牛車に乗せたわずかばかりの荷物を奪われたこともありました。山では野宿です。親切な朝鮮の方もいて助けられたこともありましたが、みじめで苦しい避難行であったことに違いありません。一週間か十日の“旅”でした。三十八度線を越える時など前から『子供を泣かすな。一切しゃべるな』など口伝えの指示がありました。お互いに他人の事など構っておれず、死人も出ましたが、どうすることもできません。私たちは三十八度線を越えて、板門店に近い開城に出ましたが、その間のことは筆舌ではとても……」
尾上陽子手記によると、二十一年六月二日、一貨車に百六十人もつめ込まれて、駅に着く度に身体検査と称する強奪にあいながら「カツケン」で下車、ここから歩いている。三十八度線を目の前にして最後の関門があり、団長が「治安隊から話があってソ連隊が女を要求している」と青くなって告げた。この時ある女性が「私が行きます。どうせ汚れた身ですから五百人の犠牲になりましょう」と進み出たという。尾上手記は子供(当時十三歳)の目で見たもので虚飾がない。幼い子供に死なれた母親が「お前は本当に親孝行してくれた」と言ったとも書いている。“人身御供”の件は村永真理子手記にも出てくる。一日に三十キロ歩いたこともあり「三十八度線を越えると裸電球がともっている所がある。そこに米兵の歩哨が立っていて安全だ」と聞かされた。
敗戦までは“鬼畜米英”と言っていた日本人が米兵を見て安心する、というのも変な話だが、それだけソ連占領下、植民地での戦後生活が大変だったということだろう。この人たちは青丹から汽車に乗り開城で下車、テント村でしばらく過ごし仁川から引き揚げ船に乗った。
朝鮮半島を南北に分断する三十八度線は長い。米軍の管理下に日本人世話会が三十八度線沿いに注文津、春川、抱川、東豆川、〓山、開城、土成、延安、青丹、甕津、仁川にキャンプまたは救護所を設けて、日本人の世話を行っている(厚生省『引揚援護の記録』)。米軍の協力は大変なもので、多くの引き揚げ船も貸与され活躍している。
米軍占領下にあった南朝鮮(三十八度線以南)から日本に脱出した例を一つだけ記しておく。敗戦は日本人にとってどこにいようと不安と衝撃であったことに変わりはない。まして植民地にあっては、原住民と日本人との“地位逆転”現象が起こり、反動も大きかった。北朝鮮(三十八度線以北)ほどではないにしても、南でも不穏な行動は多く見られた。すでに連絡船は無かったから、邦人の引き揚げ手段は“密航”しかない。木浦《モツポ》に住んでいた久松和枝さんは、同地で日本人の船頭を雇い、帆が一本と櫓が一丁の小さな運搬船に、親類縁者四家族二十三人が乗り、瀬戸内海の生口島まで四十三日間かかって“脱出”している。二十年九月十四日木浦を出発、途中、枕崎台風(九月十七、十八日)の余波を受け、対馬に一週間ほど滞在したほかは、風まかせで執念を実現させた。南朝鮮からの帰国は、小さな機帆船による脱出はかなりあったと聞いているが、久松さんたちのように、風まかせの帆船を利用しての帰国はあまり聞いたことがない。
ところで、その後の満州地区抑留残留者の一般状況を二十四年九月二十七日、高砂丸で帰還した人たちから厚生省が聴取した記録から記述しておく。
▽中共軍及び政府機関(生産部門)留用者――一応軍属の身分留用。給与その他は必ずしも良好といえないが、機関留用者(技術者)は月収最高六百万円をとっているものもあり、平均二百五十万円内外で生活は保証されている(同資料によると米一斗十三万〜十八万円。軍外とう二百五十万円)。
▽医療関係留用者――中共軍は一部後方病院を奉天、ハルビン、チチハル、牡丹江、東安、ヂ(チ)ャムス、延吉、通化、安東等に残し南方に移動した。東北軍区総衛生部に勤務している邦人が確認した移動数は約三千六百人である。
▽一般邦人――主要都市に失業群として散在しほとんど自由労働者である。難民化一歩手前である。ある程度集結すれば炭坑地区に送出されている。炭坑地区での収容所外への外出の自由は全然ない。
▽婦人および孤児――東北各地の主要都市、辺地で日本婦人並びに孤児の姿を見ないところはない。孤児はほとんど日本語を忘れ一見しては日本人と判別することは困難である。婦人は悲惨な状況に置かれている者も少なくない。延吉の例では、引き揚げを希望する者に対しては「四ヵ年間の食費代を支払え」など身代金を請求しているところもある。帰国の意思はあっても本人の自由意思による引き揚げは困難である――。
日本の植民地政策は敗戦という現実で多くの犠牲者を出した。日本の植民地政策の完全な失敗を永久に忘れてはなるまい。
“捕虜”輸送
ハーグ条約違反
大本営は二十年三月、関東軍から建制(正規編成)の七個師団とその他の有力部隊を一挙に南方などに転進させた。前述したようにすでに十八年八月ごろから有力師団の南方抽出を行っていたから“精強関東軍”も実は“張り子のトラ”であった。在満邦人を寄せ集め、一応の員数合わせはやったが、とても戦力になり得るものではなかった。
二十年四月上旬、ソ連は「日ソ中立条約」の一方的破棄を通告した。五月八日ドイツは全面降伏した。ソ連参戦は当然戦略的には予測されるものであり、大本営は五月三十日、これまでの作戦を全面改正し、防衛主義に切り替えざるを得なかった。通化を中心とする満ソ国境の線に立てこもってソ連軍を迎え撃つ計画である。
もともと軍隊は固有の領土と国民の生命、財産を守るのを本務とする。だから過去の戦争でも「邦人の保護」の名目のもとに多くの海外派兵がなされた。関東軍の創設も日露戦争(明治三十七、八年)勝利の権益として取得した鉄道線路の保護――沿線住民の生命保護を目的として置かれたものだ。その関東軍が国境線に主力を配し、満州中央部を戦力的空白地帯とする作戦を立てざるを得なかった(第一線将兵の戦意は別である)のは、軍の戦略・理論としては首肯できるとはいえ在満邦人を見捨てる結果になったことは、関東軍の建軍の精神にももとる。戦争遂行のために、民衆に犠牲を強いる軍隊の側面を露呈したのである。軍隊だけで国は守れないことの証明でもあろうか。
“張り子のトラ”となった関東総軍を増援するため、大本営は在支(中国)の四個師団を急きょ満州に振り向ける作戦をたてた。二十年六月から七月にかけてである。五十九師団(東京・秘匿名=衣)、百十七師団(東京・同=弘)、六十三師団(宇都官・同=陳)、三十九師団(広島・同=藤)である。三十九師団以外は支那派遣軍が十七年以降に編成した丙編成の警備師団だが、関東軍が急編成した“員数合わせの軍隊”よりはるかに強かった。
三十九師団は中国地方の現役兵を中心に十四年八月編成した五師団(広島)の弟師団とも言われ、中支方面に投入されてから六年間、最も活躍した部隊の一つである。多くのB・C級戦犯を出したのも警備・討伐戦闘が激しかった証拠である。二百三十一(広島)、二百三十二(福山)、二百三十三(山口)の三個連隊編成で、各連隊の第三大隊だけは浜田二十一連隊の補充隊から充当した。が、三十九師団の満州移駐は、結果的にはソ連の捕虜になるための移駐ともいえた。
三十九師団(広島・藤)は中国における日本軍占領地の最前線、宜昌にいた。二十年六月上旬、満州移駐が決まると、ほとんど徒歩で夜間に移動した。山科美里氏の『ラーゲル流転』によると「湖北の大平原を連日四十キロ余の徒行軍によって東に進み、京漢線(漢口―北京)孝感駅から線路づたいに北上し、大別山脈を越えて河南省『確山』まで行軍、ひきつづいて貨車輸送により黄河を渡って北支に入り、そして満州へ。首都新京に着いたのは昭和二十年八月十三日午後三時であった。雲山万里はるばる四千キロの行程を三ヵ月という日時を費やして転進した部隊の行手に待っていたものは……」と書いている。
一個師団の転進ともなると出発開始の日時、場所、途中の状況などは連隊、大隊、兵種によってバラツキがあるのは普通だから、全員が山科氏の行動と同一であったとはいえないが、同じような苦労を重ねながら満州に向かったことは確かだ。
同部隊の増井正次郎氏の『歩兵第二三一連隊始末記』によると、ソ連参戦時には満州の通化北方山脈で陣地構築中であった。山科氏は第二機関銃中隊長(二大隊)、増井氏は第十二中隊長(三大隊)である。大隊が違えばこのような行動経過の相違は常に起こるものである。
増井氏の記述を引用する。「ソ連の参戦で急きょ北上、八月十五日の早朝、新京駅に着いた。終戦のラジオ放送は聞かなかった。下車命令のないまま、無蓋貨車の上で寸暇を惜しみ各種の訓練に没頭していたのである。終戦の噂はさざ波のように各中隊に伝わっていった。(中略)夜になり土砂降りの雨をついて新しい任務(関東軍司令部警備等)のため整々と散っていった。
八月十八日、連隊長福永大佐は大隊長、中隊長の集合を命じた。今後の部隊の行動、特に連隊旗の処置について各隊長の意見を聞きたかったものと思われる。(中略)(意見は)この際、師団司令部のある四平に後退し、師団長の下で軍旗を処置することに一決した。翌十九日午後八時までに各隊は新京駅に集結し列車で四平に後退する命令が発せられた。新京の街は終戦の夜から各所に満人の暴動が起きた。永い日本の桎梏の下にあえいだ満人、朝鮮人たちがせきを切ったように暴れ出したのである。
十九日夕刻から新京駅への集結が始まったが、その間に状況は刻々と変化していた。この時新京に集結を終わっていたのは連隊本部の約半分と軍旗護衛中隊である第十中隊、それに第十二中隊と弾薬班の一部であった。
福永連隊長は後事を連隊副官山口大尉に托し、軍旗を先頭に手元の部隊をかき集めるようにして列車に乗せ、逃れるように発車させた。遅れた兵隊は動き出した列車に群がるように飛び乗るありさまであった。将兵は貨車の中でいつしか深い眠りに入っていた。突然至近距離からの砲撃の音と、続いて鋭い蒸気の噴き出す音と共に列車は急停止した。真夜中ごろと思われた。砲撃に呼応するかのように二発、三発と手榴弾の音が聞こえたが、その後はもとの静寂にかえった。部隊は下車し陣地確保の隊形をとった。暗い空から音もなく雨が降り始めた。
第十二中隊長M中尉(増井氏のこと)は連隊長の命を受けて軍使に立つことになった。この時の状況判断は、列車を停止させたのは満州国軍による寝返りであろうということであった(中略)。
M中尉は屈強な部下三名と通訳を連れて敵の最前線と思われる方向へ進んでいった。闇の中で鋭い声が響いた。歩哨線らしい。声の様子では二十メートルくらいの距離である。『こちらは日本軍の軍使である』と二度、三度呼び掛けた。それに答えないでいきなり撃って来た。小銃ではない。といって音の様子が軽機関銃とも違うし重機関銃でもない。声高に話し合う言葉は今まで聞いたこともない言葉である。通訳に聞いても全然わからないという。満州語ではない。とすると……背筋に冷たいものが走った――」
二百三十一連隊の兵士とソ連軍との接触は、このような形で起こった。その後この部隊は、その場(陶家屯)で武装解除されたのである。「部隊がバラバラにされましたから私たちは特警第二、第五大隊と一緒の作業大隊に入れられることになりました。憲兵大佐が団長で、とかくソ連からニラまれました」と増井氏は言う。
増井氏にはほかに『中央アジア抑留記』という著書がある。昭和二十五年、シベリアから抑留を解かれて帰国した直後、友人三人で記憶の薄れないうちに抑留中のあらましをメモにし、後日(昭和五十年)稿を改めて出版したものだ。そのメモには、次のように記されている。
「(昭和二十年)八月二十日〜二十四日黒林鎮で福永勇吉連隊長(大佐)ソ連軍に連行される。二十五日劉房子泊。二十六日公主嶺着。ソ連軍の指示で旧日本軍兵舎に入る。九月二十三日公主嶺出発。十月二十三日黒河着。三十日アムール(黒竜江)を渡る。十一月三日ブラゴエ市出発。二十二日ウズベグスタンベグワット着」
個々の入ソ状況を調べる前に、ここで少し視点を変えて、鳥瞰図的に入ソさせられた意味を考えておきたい。
ソ連に抑留された将兵、一般邦人は六十万人を越える。帰国後、多くの体験記が出版された。雑誌に発表したもの、自費出版したものなどを加えると予想もつかないほど多くの体験記が書かれている。しかも戦後四十年たった現在も出版され続けている。シベリア抑留者の怨念がなお燃え続けている証拠であろう。もっとも、六十万人の体験者の数から言えば表に出た体験記は少ないとの見方もある。
若槻泰雄玉川大学教授の『シベリア捕虜収容所』上(昭和五十九年サイマル出版社刊)によると「日本におけるこの問題の扱い方の冷淡さは、ほとんど不思議なくらいである。私の知っている限り高等学校の歴史の本で、この問題に一行でもふれたものは一冊も見当たらなかった」という。こうした社会的背景が多くの日本人から「シベリア抑留」の事実を忘れさせ“冷淡”に取り扱わせている原因かもしれない。
また同教授によると三百五十万人のソ連抑留者を出したドイツでは全十三巻におよぶ膨大な資料が完成しているとのことである。日本では厚生省、外務省にかなり詳細な資料が残されているが、とかく一般国民の目にはつきにくい。本書もこれから「シベリア抑留」の実態にふれることになるが、もう一度若槻教授の意見を引用しておこう。
「シベリア抑留は厳しい寒さ、苛酷な労働。そして飢餓というような問題のほかに、早期帰還者の一部を除き、これを述べようとする者は必ず、あの冷酷無残な“民主運動”に自らがいかに処したか、という告白なくしては、これを語ることはできないという性格をもっている。このため多くのシベリア抑留者たちは久しきにわたって沈黙を守りつづけ、他方筆をとった少数の者は自己の立場を弁明し、あるいは重要な部分を語らず、もしくは声高に自己を主張せざるを得ない立場におかれている」
以上の意見は、実際に取材してみての私の実感と表裏をなすものだ。屈折した心理がたしかに存在するように思えるし、逆に「このまま発表すると相手を傷つけることになるのではないか」といった趣旨の証言にも、ままつき当たった。“相手”とは抑留所内で民主運動をやった活動家(アクチブと呼ばれていた)のことである。「あいつだけは許さない」と人名をはっきり指摘して激怒する人もいる。後で詳しく述べるが、ソ連の指導によって収容所内で思想教育を行い(ハーグ条約では違反である)、日本人をして日本人を酷使させ、死に追いやることになるのだ。
世に発表されたシベリア抑留体験記といってもあくまでも個人体験の域を出ない。収容所(ラーゲリ)はソ連領のほとんど全域に及んでいる。東はカムチャツカ、ベーリング海に面する東経百六十度の地方から西はドニエプル川の流域東経四十度まで、北は北緯七十度の北極海に近い地域まで、南は北緯四十度までの広大な地域にバラまかれている。地域を言えばシベリア、外蒙古、中央アジア、さらにはウラル山脈以西のヨーロッパ・ロシアの各地である。抑留者の中には「トルコに行った」という人もいるし、大まかな収容所数は三十二地区、九百五十分所にのぼるが、百人、二百人単位の収容所もあったから、数え方によれば千、あるいは一万という研究者もいる。実態はわからないままである。
ソ連全土にばらまかれた抑留日本人はラーゲリを転々とさせられ、多い人は十ヵ所を超える。だが、多い人で十ヵ所だからとても全体像はつかめない。したがって、できるだけ多くの体験記、体験者に当たり、全体を組み立てるしか方法がないのである。
最初にソ連が日本人捕虜についてふれたのは二十年十一月十二日付『プラウダ』紙面である。「……わが陸海軍は極東において、昭和二十年八月九日から九月九日にいたる間(八月十五日の終戦など問題にしていない)に次のごとき損害を与えた。わが軍は敵の将校、兵五十九万四千以上及び将官百四十八名を捕虜としたが、そのうち二万名は負傷者である。日本軍の戦死者は将校・兵八万名以上である(捕獲兵器の数量などは略)」二十年九月十一日現在の発表であるから正確さに欠けると思われるが、三年後の二十三年十一月二十六日ソ連国防省軍事図書部刊の『第二次世界戦争』によると「死亡八万三千七百三十七人。捕虜六十万九千百七十六人。うち百四十八人の将官及び提督がいる」と一ケタの数字まで発表している。
厚生省の調査(五十一年十二月末現在)によると、約千人単位で編成された作業大隊は五百六十九隊(満州四百三十、北朝鮮六十八、樺太、千島七十一)五十六万二千八百人で、このほかに官吏、警察官、技術者など一万一千七百三十人もソ連に送られている。総計五十七万四千五百三十人である。
ここで注意しなければならないのは作業大隊の中に一般邦人も加えられている事実だ。このうち作業の役に立たない病人、虚弱者など四万三千人が満州などに逆送されているから五十三万一千五百三十人がソ連で強制労働につかされたことになる。いずれにしてもソ連発表の数字と大きな差があるが、実態は厚生省でもつかめていないというのが真相である。
ゴルバチョフ大統領の時代になってグラスノスチ(情報公開)が行なわれ、ソ連科学アカデミー付属東洋学研究所国際協力部長アレクセイ・キリチェンコ氏が、ソ連側を代表して「日ソ中立条約を破って武力進攻したのはソ連である(北方領土に関連する)」「シベリヤ抑留は国際法違反であった」などこれまでのソ連の公式見解を覆す発言をして話題をまいた(雑誌『文藝春秋』平成二年八月号「非はわがソ連にあり」)。同氏によると「日本人五十九万四千人の内五十四万六千八十六人をソ連領内に連行し、四万六千八十二人が死亡した。前線の収容所や捕虜集結地での死者を入れると六万二千八十六人」だという。
いま少し数字にふれる。厚生省が舞鶴港でつかんだソ連からの引き揚げ者数は四十七万二千九百四十二人である。軍人、軍属が四十五万三千七百八十七人、一般邦人が一万九千百五十五人という内訳だ。抑留された一般邦人の数より舞鶴に引き揚げてきた数の方が、七千四百二十五人も多いというのは奇異な話だが、統計処理をするとそうなったということで、厚生省の責任ではない。抑留された実数が不明確なためであり、さらに勘ぐれば“所属不明の一般邦人”がいたとも考えられる。具体的にはノモンハン事件(昭和十四年)当時の捕虜が、望郷の念やみがたく、一般人に交じって帰国したことなどもあったろう。事実、取材中にこの種の証言にもまま突き当たった。とまれ中国政府成立後、ソ連から戦犯として九百七十一人が中国に引き渡されているから、舞鶴から帰国したソ連での“生存者”は、四十七万三千九百十三人ということになる。ソ連に抑留された日本人は、五十七万四千五百三十人(厚生省調べ)だが、むろんこれは概数である。たとえば作業大隊についていえば「十六個大隊一万四千人」といったように、千の単位で表記されており、きわめて大まかな数字である。
こうした数字から、舞鶴だけの引き揚げ者を差し引くのは不正確のそしりを免れないが、その差は十万六百十七人となる。舞鶴港以外の引き揚げ者数は、少数だから、これらを勘案すると、ざっと十万人がソ連領内で死亡したことになる。少数の“ソ連戦犯”を除いて約十万人が、三度の冬を越す間に、寒さ、飢え、病気で死亡したのである。恐るべき数字と言わねばならない。ただし厚生省の死亡確認数は六万二千六百三十六人である。
「いったい何人の日本人がソ連に抑留されたのか」という正確な数字がつかめないのは、雲散霧消した関東軍総司令部の責任が大きいが、いま一つの要因は、ソ連がナホトカから帰国する際、書いた物は一切持ち帰らせなかったところにある。作業大隊を編成する時に一度既存の組織(部隊)を解体し、ラーゲリ生活では、さらにあちこちに分散させて、旧軍体制の破壊を行った。それでも抑留日本人は、乏しい紙を利用して死亡者の住所、氏名、年月日などを記録した。が、どの回想記にも共通しているのがナホトカでの乗船前の徹底したソ連兵による身体検査である。およそ文字の書かれた紙切れはすべて没収された。人間の記憶には限界があり、あとで思い出して正確に記録できるものではない。
山科美里氏によると「ナホトカを出発する前検査がある。持ち物とてあるわけはないのでいくら調べられても問題はなかったが、書いたものでも隠し持っていようなら、ソ連軍からとやかく言われる前に日本人のオルグ(組織者)から文句を言われる。日本人同士の間の目や耳をより恐れるといった方が適当だ」と語っている。浅本数正氏は二十三年六月ナホトカから乗船帰国した一人で、その手記『シベリア抑留記』に「乗船前に厳重な身体検査を受け、文字を書いたものはすべて没収され、持っていた日本円四千円も取られた」と書いている。
ソ連軍による作業大隊の編成は二十年八月末から二十一年秋にかけて行われている。六十万人におよぶ“民族の大移動”をやったのだから時間もかかったろう。戦時捕虜ならともかく、敗戦によって武装解除され、当然“復員”させるべき将兵を“捕虜”とする扱いに問題があるのに、さらに軍人でない一般邦人――非戦闘員までを“捕虜”としてソ連に連行したのである。
ソ連が何万人の非戦闘員を連行したかはさだかでないが、厚生省が舞鶴で把握した一般邦人帰国者数は前述したように一万九千百五十五人である。非戦闘員は老齢だったり若年者が多い。冬を越し、ノルマを果たすために死亡した率は軍人よりも多かったと思われる。小原二郎氏は、奉天二中を卒業し公主嶺の伝書バト訓練所に勤務していて、十七歳でモンゴルのウランバートルに抑留されている。
若年層といえば、新京の陸軍軍官学校七期生は三百八十人中三百人が捕虜となっている。十九年十二月に入校したクラスである。学校は終戦と同時に解散となった。新京に家族や親類、知人のある生徒は帰宅したが、内地や他地区から入校して来た者は団体行動をとらざるをえない。それで捕虜となったのである。もっとも病弱者と満十七歳以下の者は、ソ連の収容所から“追放”された、と当時同校の第六連隊長だった及川正治氏は昭和二十一年八月に書いている。
及川氏が捕虜にならなかったのは、生徒のいる収容所に近づこうとすれば逆に発砲されて追っぱらわれたからで“追放”された生徒を連れて内地に帰っている。一歳の差が運、不運を分けた例だ。生徒のうち半数は収容所内で伝染病などで死亡している。十七歳以下はソ連といえども捕虜にしなかった、という証言はこれ以外にもあった。
老齢者の抑留は、職業軍人の場合は多い。司令官、連隊長クラスはかなり年をとった軍人が務めるからだ。だが一種の政争に巻き込まれ、満州協和会の幹部でありながら四十歳で二等兵として召集された伊木貞雄氏のような例もある。石原莞爾将軍(中将で退役)らの理想の下に建設された「五族協和」の満州国の推進役の一つは協和会という組織であった。伊木氏によると、
「石原構想はたとえば開拓団には本当の荒れ地を開墾させ、現地人の畑を買いたたいたりするようなものではありませんでした。私はその理想に共鳴し満鉄から協和会に入りハルビン協和会の事務長にまで進んだのですが、石原将軍の失脚で撫順市にとばされたのです。
満州国についての批判は当然あります。が石原莞爾将軍らの理想が後任者らによってメチャメチャにされてしまったことは確かなんです。石原将軍が失脚すると、いつまでも理想にこだわっていた私など煙たい存在になってきたのは当然かもしれません。撫順協和会の事務長に飛ばされたと言っても、一応は満州国の高官であることは間違いないのですが、二十年五月の“根こそぎ動員”で牡丹江の部隊に召集されました。星一つの二等兵です。牡丹江省の次長など友人だし、部隊内にも私のことがだんだんとわかって、上官も扱いにくかったと思います。私がハルビン協和会時代に『ソ連を刺激しないように』との内報もあり、ソ連参戦は近いと思っていました。安東省の鳳城県に移動したが、副県長もかつての私の部下でした。
ここでソ連参戦となり、実戦はせず十九日か二十日に現地で部隊が解散され、私は撫順の自宅に帰りました。元軍人狩りをやっているとの話は聞いていたが、二、三週間後にゲー・ペー・ウー(今のKGBの前身)の将校ら二人と通訳が自宅に来て、家宅捜索までして私を連行しました。兵隊狩りだったのか、協和会の事務長だったために連行されたのか、そこのところはわからないのですが……」
多分に“密告”のにおいがする。撫順の民家に二、三日いて奉天警察署の地下に一週間留められた。ついで奉天の第二監獄に入れられた。百人ぐらいになったところで、貨車に乗せられ、ハルビン経由でチタへ。ここで劇場に集められ、一週間後にシベリアの山の中の小さなラーゲリへ送られた。この時には千二百人の作業大隊にふくれていた。
軍隊は終戦とともに解散し、いわゆる復員した兵士は民間人である。満州に家庭のある兵士が、自宅に復員するのは当然である。すでに民間人以外の何者でもない。国際法に言う「非戦闘員」である。それを見つけ出し(男狩り)作業大隊員としてソ連に抑留し、強制労働させるのは国際法違反を通りこした“国家的犯罪”以外なにものでもない。人間の“奴隷化”そのものと言ってよいであろう。
こうした行為はソ連占領下ではどこでもみられた。ひどいのになると道を歩いていて捕まり、そのまま作業大隊に入れられ、シベリア送りになった例もある。ソ連軍から見れば作業大隊の編成にノルマがあったのである。
まったく兵役に関係のなかった大学教授が、いわゆるソ連の“男狩り”にあって四年間もシベリアに抑留された、現在京都府立大学名誉教授西元宗助氏の回想記『シベリアの真実 一九四五―四九』がある。昭和二十八年に出版したものを、五十五年に教育新潮社から再出版したものだ。二十四年秋、帰国と同時に執筆した原稿を、出版社に持ち回ったが、“左旋風”の吹き荒れていた戦後の世相を反映し、出版社がためらって引き受けてもらえず、二十八年まで待たねばならなかった。戦後日本の世相を物語るエピソードともいえよう。
西元氏は新京にあった建国大学の教授であった。
七月になると白系ロシア人の学生はほとんど姿を見せなくなった。ソ連参戦後の十一日、“建国大学隊”が組織された(もちろん武器などはない)が、参加したのは日本人の教官と学生だけで、朝鮮人学生はたった一人であった。それもいつか姿を消した。二十日ごろにソ連兵が進攻して来たが、その時白系ロシア人の学生二人は、通訳として赤軍(ソ連兵)高級将校と自動車を乗り回していた。
ソ連兵が西元氏の官舎を訪ねて来たのは十二月十四日であった。夫人がドアを開けると、ソ連兵と白系ロシア人の通訳が土足のまま上がって来て「相談したいことがありますから出頭して下さい」と言い、夫人に「奥さん心配いりません、二、三時間でご主人を帰します。ただ服装はお寒くないように」と念を入れたという。マンドリン(ソ連製自動小銃)を持ったソ連兵に引き立てられ、町内会事務所に入るとすでに十数人の日本人がいた。それが二十人になった時、トラックが来て「神武殿裏の丁公民館」の一室に投げ込まれた。午後五時ごろであったという。間もなく同僚教授と学生十人余が引き立てられて来た。バンド、万年筆から財布まで取り上げた上で一人ずつ呼び出して取り調べを始めた。
この時一人の赤軍士官がさっそうと入って来たが、その顔を見て一同は「あっ」と驚いた。「一年前に大学から姿を消した白系ロシア人のスタブスキーという学生であった。『教官はともかくとして、ここにいる君の同級生には何の罪もない。ぜひ釈放するように尽力を頼む』とこもごも述べた。彼はうなずいて別室に姿を消したが、ソビエトより潜入して来ていた軍諜報者の一員であったのだろうか」と西元氏は書いている。
後でわかったことだが、ハルビン学院の白系人自動車運転手、三井百貨店の洋服販売店員は赤軍将校であり、ことに満鉄調査部の白系事務員、タイピストの大半はソ連と内通していたそうだ。西元氏は深夜にわたって取り調べられ「この調書にサインせよ」と迫られた。
「深夜呼び出される。二十五歳ばかりの取調官と若い女通訳である。履歴を再び聞き直して調書を取る。『学業年十六年』と答えると心なしか彼の目が光る。さらに憲兵隊に出入りしたことがあろうと問いかける。否(ニエット)と答えたが、必ずあるはずと頑強に責めたてた。『よく考えてみよ』とピストルで脅す。――入ソして知ったのであるが、学業年限十五年以上ということはソ連側としてはほとんど考えられない最高の学業年限で、それだけでブルジョアジーの子弟を意味することになり、抑留するに足る十分の理由となった。事実、われわれの同僚の中には大学教師で小学校卒業と答えたため放免されたものがある」
こうして西元氏はソ連に抑留されることになる。十二月十七日早暁であった。ものものしいマンドリンの包囲の中で中庭に出て見れば三百人近い日本人がおり、その中に知人が意外に多いのに驚く。
「吉林省次長の飯沢重一氏、長春県副県長の大石義光氏等もおれば同盟通信社の塚本理事長以下広報関係の面々、それに満鉄や電電の調査部関係者がぞくぞく呼び出されてトラックに乗せられる。さらに驚いた事にはかつてのプロ作家の山田清三郎氏や淡徳三郎氏というような文化人の名前も見える」。ソ連式「反ソ行為者」の乱造である。建国大学の森信三教授だけは老齢のゆえをもって釈放されたそうだ。老人は労働力にはならないと考えたのであろう。
幌を深くたれたトラックは大同大街(官庁街)を走る。車中で、教え子のスタブスキーに「どこに連れて行くんだい」と尋ねると「先生、向こうに着いたらロシア美人をもらいなさい」と真顔で答えた。寛城子の駅に着くとすでに貨車がずらりと並んで待っていた。貨車の中は二段になっており、真ん中にストーブがある。例の“捕虜輸送用”に改造されたものだ。「気がついてみると建国大学で同僚の小糸夏次郎助教授がいる。二人はならんで席をとり、運命のはげしいうつり変わりにしばし呆然としていた」
西元氏の記述はいかにも学者らしい“客観的”シベリア観察である。これからも何度か引用するつもりであるが、結局十日間も真っ暗な有蓋貨車に詰め込まれたままシベリアに送られ、チタの監獄に入れられる。その日は十二月二十七日であったと明白に記憶している。
作業大隊に編入された日本人抑留者は、二十年八月から翌二十一年秋にかけて入ソさせられたことは前にふれた。野沢恒夫氏は二十年の九月一日に松花江経由でソ連に入ったという。同氏は非常に特異な体験を持つことになる(後述)が、まず入ソの経緯からふれる。
「弱体と言われた関東軍でしたが私の属していた百十一連隊(姫路)はなかなかの部隊でした。ジャムスに大隊本部があり、ソ連参戦時は方正にいましたが、一個小隊に重機関銃が六丁もあるほどで、現役兵ばかりでした。
八月十一日にソ連と交戦しましたが飛行機や戦車、大砲にはかなうはずもなく、まったく孤立した部隊になりました。終戦を知ったのは八月二十日ごろだったと思います。武装解除される時、ソ連兵に『なぜ厳しく抵抗したか』とひどくやられました。終戦がわかったのは現地人の態度の変化からです。方正で他部隊と共に集結を命じられた時八百人ぐらいになっていました。
方正には関東軍の糧秣基地があったものですから現地人の略奪が始まりました。手薄だったのか、私たちに再び武器を持たせて警備させました。入ソする時、松花江もウスリー江も水車のついた船です。途中で船を降ろされて野宿し、翌日高級将校と下士官兵を分離しました。私は中隊長(中尉)でしたので再び乗船させられ、ハバロフスクまで連れてゆかれました。ですから入ソ中の苦労はあまり記憶の中にありません」
方正地区にいて武装解除され、同じく船でソ連に送られたというのは、前出の画家、田中清養氏である。
「日本に帰してやる、と言われて船に乗せられ、どこか知らない地点で降ろされました。汽車にたしか二、三日乗っていたように思う。ところが着いた所がハバロフスクでした。ハバロフスクには日本人看護婦が坊主頭にして軍服を着せられ、連行されていた姿も見ました」
この看護婦さんたちは高亀カツエ(旧姓・林正)さんらジャムスにいた日赤、陸軍看護婦と、ジャムス高等女学校を卒業したばかりの訓練生たちではなかったろうか。
吉林にいた岩崎一三氏によれば「一ヵ月ほど吉林にいて作業大隊に入れられ、一週間ほど歩いて汽車に乗りました。えらい人から『直接日本に帰れないので樺太経由で帰るらしい。朝鮮は通れないそうだ』と聞かされました。汽車に乗ること約二週間。着いたところがムーリーでした。コムソモリスクの近くです」。とんだ樺太回りの帰国であった。
だまされた“捕虜”たち
日本人抑留者のソ連への連行にはいろいろの形態がある。戎喜佐登氏は広島から二十年五月十七日、野砲兵第四十二連隊に二等兵で召集され、東安省の滴道で訓練中にソ連参戦、日本敗戦と、めまぐるしい動きに巻き込まれた一人である。野砲隊だというのにタコツボ陣地を掘らされ、最後には手榴弾を渡されたそうだ。二、三日たって牡丹江への後退命令が出たので生き残った。後退は鉄道線路沿いに歩いた。その時開拓団の婦女子の乗った列車とすれ違い「兵隊さん頑張ってね!」と励まされた声が耳にこびりついているという。
牡丹江で武装解除され、ハルビンの手前の横道河子に集結させられた。この間もずっと徒歩だったそうだ。横道河子に集結させられた時、十日ほどバラック建ての収容所に入れられザコ寝をさせられたが、民間人も居り大きな集団になっていった。
「ウラジオに迎えの船が来るまで作業を手伝え」というソ連軍の話で、九月三日トラックに乗せられてソ連領のガリオンキで降ろされ雑役に使われた。九月二十二日か二十三日の中秋の名月をガリオンキで見たのが忘れられない。「関東軍で七番目に入ソした部隊だ」と聞かされた記憶がある。前に紹介した野沢恒夫氏の入ソが九月一日だったそうだから大体同時期である。野沢氏はハバロフスク―エラブカと回されるが、戎氏も三ヵ月後にハバロフスクに貨車輸送され、ここで“仕分け”されて各地の小さな収容所で作業をやらされた。中央アジア(カザフ共和国)に送られ炭鉱の町カラカンダで坑内作業をやらされたのが一番長かった。引き揚げは二十三年十二月だから「ウラジオに迎えの船が来るまで」に三年以上もかかったことになる。
同じ二十年五月に満州で召集され、通信隊員として牡丹江に配属された下山庄兵衛氏はハルビンで終戦となり、武装解除後は「日本に帰す」と言われて一ヵ月間以上も歩かされ、綏芬河―シベリアと移動させられている。
あまり例のない入ソをしたのは河野彰氏らのグループかもしれない。ソ連参戦の当日(八月九日)西正面にあたるハイラルで満州生活品必需会社に勤務していたところ、防衛召集(青紙)をかけられた。要塞陣地は地下にあり、上り下りするのに五十段ものハシゴがあったほど深く頑丈だったが、肝心の火砲はなかったし守備兵力も少なかった。主力は青紙召集の在郷軍人であったという。
「ソ連参戦の時、私のいたハイラルに限って言えば、とてもソ連兵を防御する実力はなかったと思います。要塞陣地こそ立派でしたが、火砲も、兵力も少なく、在郷軍人を防衛召集したほど弱体でした。私は第十三軍の通信隊所属で十六年に現地で満期除隊した伍長です。伍長の私が六十数人の在郷軍人を指揮して要塞陣地の前にざん壕を掘って入り、ソ連軍を迎え撃つわけです。五十歳ぐらいの人もいました。とてもソ連軍にかないっこない。結局部下を後退させ要塞陣地の中に入りましたが、兵隊はめしを炊いたまま逃げて、いなかったですな。
武装解除されたのが八月十八日でした。ハイラル市民はトラックと列車で逃げ、最後はハイラル鉄橋を爆破して逃げました。武装解除後、兵器廠《しよう》に入れられましたが満員で、私どもは外に寝ました。特務機関員や憲兵もいました。九月末までハイラルにいましたが、その間白系ロシア人の通訳がソ連将校を案内し、現地人に首実検させていました。『この男だ』と現地人が言えば銃殺されましたよ。
私たちが入ソした時は、関東軍倉庫にあった糧秣を一年分くらい貨車に積み込み、その上に寝起きしながら十日間ほど汽車に揺られ、ハイラル―満州里―ソ連領というコースを取りハバロフスクを経てアンデルスカヤ収容所に着きました。収容所でも一年間は食糧に不自由しなかったですよ。入ソ中の貨車は三段にし、真ん中にストーブ、食糧は貨車の上にまで積みました。貨車に乗る時、ソ連人は『日本に帰すのだから乗れ』です。まったくウソの上手なと言うよりウソの平気な民族でしたな」
岩崎関男氏は二百三十一連隊(三十九師団。広島編成の藤部隊)の伍長。中国から満州入りした経緯は、既述した三十九師団の行動と同じだ。その話。
「孟家屯で捕虜になり汽車で黒河まで出てソ連兵と一緒に船が来るのを待ちました。『反抗はするな。天皇の命令だ。ウラジオ経由ですぐ日本に帰れる』という上官(上官もまたソ連兵からそう聞かされた)の命令のまま、外輪船でアムール(黒竜江)を渡りブラゴエシチェンスクに着きました。ここで部隊は混成になりました。各地から集めて編成し直すわけです。ここから汽車ですが、ミソや大豆を積んだ貨車の中に五十人あまりが詰め込まれたわけですから苦しかったですね。汽車の中で死人が出ました。ところどころに給水塔があり、列車が止まっている間に食事、用便、死体の始末です」。こうして苦難の旅が始まる。
いま一つ千島列島からソ連に抑留された人たちの動向にも目を向けておきたい。河野卓男氏は、日本興業銀行から軍需省に転じ、十九年六月、中部第三十七部隊に教育召集され、玉砕要員として南千島エトロフ島に派遣されたまま終戦を迎えた。同島は太平洋戦争の引き金を引いた南雲忠一機動部隊が、ひっそりと集結して真珠湾へ出撃(十六年十一月二十六日)していった単冠《ヒトカツプ》湾のある島――現在の“北方四島”の一つである。
九月に入って、ソ連の進駐軍と師団長との間に現地協定が結ばれた、との中隊回報に接した。「一、将校は佩刀《はいとう》および当番兵を許可す。一、将校は祝祭日には飲酒を許可す。一、下士官には帯剣を許す」
同氏はソ連抑留が解けて帰国した二十三年八月、記憶の鮮明なうちにと手記を書いた。二十六年後の四十九年八月『シベリヤ抑留記 シベリヤにおける民主運動』と題して原書房から出版した。法学士(京都帝大法学部卒)らしい冷静な体験記である。ソ連軍との現地協定について次のように書いている。
「戦時国際法に関する何らの知識のない連中ばかりが師団参謀をしていることが私には回報からすぐわかった。(中略)千島南部諸島にソ連軍が進駐したのは八月十五日以後、九月に入ってからである。これは戦時占領でなく保障占領であるから、関東軍とは事情が違いはしないか。占領におけるこの点の相違を考慮して南千島は千島独自の対策を講ずべきである」
つまり、暁部隊(陸軍船舶隊)の船や漁船を使用して、一日行程で帰れる北海道に、ソ連が進駐する前に脱出したらよいではないか、というわけである。「私としてもよもやシベリヤへ護送されるとは思ってもみなかった」と正直に書いている。
九月十六日朝、帰国準備命令が出る。十七日午前零時、集合を終えた隊員に、中隊長が「わが師団はただ今より北海道に向かって前進せんとす。わが中隊は午前十時までに天寧飛行場に至り、ソ連側検査を経て乗船予定」と言った。ソ連船(実はアメリカのリバティーC型。約八○○○トン)に乗船したのが十九日午後四時。翌二十日、船は海流と太陽の関係から判断して西に向かっているようであった。二十一日陸地が見えた。「稚内らしいや」など素人の意見が出る。すると、大泊に住んだことがあるという兵隊が「これは大泊だぜ」と言った。樺太の港である。ここで師団長、旅団長などがどこかに連れ去られる。船が北に向かっている、とわかったのは二十二日であった。「船は鉄だから磁石が狂う」など希望的観測をしていたが、午後四時、太陽が西側に沈むのを見て「万事休す」と悟らざるを得ない。巧妙な「ら致」は見事に成功したのだ。
再び増井正次郎氏の『中央アジア抑留記』によって入ソのもようを見よう。
「公主嶺から黒河まで、通常どれくらいの時間がかかるものか知らないが、なんとこの間一ヵ月かかっている。
公主嶺で列車に乗せられた時はホッとした。帰国するのだ、と言われていたからである。それにしては扱いが少々手荒い。我々二三一連隊の二ケ中隊は公主嶺で和田憲兵大佐の指揮する特別警備隊二ケ大隊を基幹とする梯団に編入された。満州の事情に暗く、その大隊の性格もわからなかったが特殊任務を持つ部隊で憲兵出身等が多かった。ソ連側からはマークされている部隊であった。それに編入されたことが不運だった。上級者は連隊高級軍医の川副軍医少佐だったが、兵科出身の先任者は沖政中尉と私の両中隊長、それと同期の熊野中尉だった。
有蓋貨車を二段に仕切って五十人くらい詰めこまれた。炊事と用便の時だけ扉を開かれ、それ以外は締め切りである。俘虜という実感が骨身にこたえた。こういう状態が半月も続くと病人も出る。公主嶺以来、栄養状態も悪く、特に野菜の不足でだんだん顔がむくんでくる。北安で重傷の患者を残すことにした。残される者にとっては必死の思いである。いったん収容された病院から脱走して、連れて行ってくれと泣いて哀願するのを涙でしかる中隊長という悲劇があった。
十月三十日、北満国境はもう冬であった。どんよりと暗い空の下アムール(黒竜江)は薄い氷を時折り流した。夜になって黒河からブラゴエシチェンスクへの渡河をした。ソ連軍の舟橋である。橋はゆらゆら揺れた。体力は衰え足元は定かでない。しかも夜である。途中舟の中から手が伸びて兵隊の背のうを奪う。ソ連兵の掠奪である。子供のものを取り上げるように、安々たるものであったろう。奪われた兵隊にとっては無けなしのとらの子だったのだが。
無残な行進であった。顔はすすけ、汚れ切り、憔悴しきって、寒さと飢えでトボトボと隊列も乱れ落後者が出る。小隊長は声荒く叱咤激励するがもう利き目はなかった。道ばたのソ連市民から憎しみの罵声が飛ぶ。ブラゴエシチェンスクの街外れの幕舎に着くまでは次々と三人の兵が倒れた。久保貞雄、狼二郎、小川十四男のいずれも初年兵だった。
ブラゴエシチェンスクから再び列車輸送の始まった時はまだ心は明かるかった。大部分の者がウラジオから故国へ帰るんだという、ソ連輸送指揮官の言葉を信じていたからである。列車は西に向かって走った。ウラジオなら東ではないか? という質問に、いや迂回する線路が出来たんだ、という答えである。そう言われてみればそうかもしれない。いやそう思いたい心がその言葉を納得させた。しかし列車は西へ西へと走る。二日経ち三日経つうちに、皆の表情はだんだん沈うつになった。そのうち先発の日本兵が線路沿いに作業しているのを見て、事は明白になった――」
だんだんとシベリア抑留が現実となる将兵の心理が痛いようにわかる。「すぐ帰国させる」とソ連の輸送指揮官が言った意味は二つある。ソ連社会は完全な縦割り社会であるから、さらに上級の指揮官からそう言われていたか、あるいは知っていてウソを言ったかである。多くの証言の中には両説あるが、いずれにしても日本人から見れば「ソ連人は平気でウソを言った」ことには変わりはない。
陸軍士官学校最後の卒業生(五十八期)で任官(少尉)してすぐ満州の老蓮の飛行隊に勤務を命じられた矢上義忠氏はソ連進駐後、列車で南下中、機関車を没収され、開原の中央公園に集結させられてシベリア抑留された一人である。陸軍幼年学校時代にロシア語を習ったが、会話が思うように行くはずはない。交渉の時、ロシア語で作文し、それを大声で読み上げるなどの思い切った行動もやった。向こう見ずの年齢だからできたのだろうと語っている。開原市にあったパルプ工場の解体作業(ソ連は戦利品として本国に持ち帰った)の指揮をやらされた後、ソ連軍将校から「お前はロシア語ができるのだから我々と一緒にモスクワに行き、勉強しソ連のアカデミーに入ったらどうか。明後日出発するからそれまでに返事をせよ」と言われている。
毎日の通訳でロシア語も上達し、国敗れ、軍崩壊という若い将校の不安な心理につけ込んだ甘言であったようだ。結局、ソ連アカデミー入りは自発的意思によって中止したが、十月ごろ貨車に詰め込まれて入ソさせられた。例の前後に三段ベッド、中央に小さなペチカのついた“捕虜専用車”だ。「大きな声を出す元気もなかった」。ソ連国境の満州里までに、日本兵の逃走事件が三回あり、二回はピントフカ(自動小銃)の一斉射撃を受け、祈りもむなしく失敗したという。
ソ連に連行されて行く途中、脱出に成功した例もある。“捕虜列車”から飛び降りて、幸運にもソ連兵の乱射する自動小銃の弾幕下をくぐり抜け、一目散に逃げたのである。
木村謙氏は少年飛行兵九期生出身の軍曹で奉天の第二航空軍に在任中に終戦となった。八月十九日、北陵でソ連軍に武装解除され、正確な日時の記憶はないが、奉天駅から“捕虜列車”に詰めこまれた。
「奉天駅で貨車に乗せられた時『これは危い』と感じたんです。ソ連兵の警戒がものものしく『日本に帰す』とは言うものの、何をされるかわかったものじゃない、という感じがしました。日本に帰すつもりなら南下するはずですが新京方向に貨車が動き出したんです。だれ言うとなく脱走しよう、幸い夜間ですからうまく行けば成功するかもしれない、ということになりました。奉天からしばらく行ったところに鉄嶺という町があるんですが、そこに上り坂になっている場所があり、列車のスピードが落ちます。決行するならそこだ、と話がまとまりました」
奉天―新京で急行列車の停車するのは鉄嶺だが、鉄嶺と奉天間は六駅ぐらいある。鈍行の“捕虜列車”なら、脱走の相談をする暇はあったろう。
「列車のスピードが落ちたところで、窓を開けてどっと飛び出しました。私は毛布を頭にかむって飛び降りました。何人が実行したか、それはわかりません。ソ連兵の撃つマンドリン(自動小銃)の音が聞こえ、撃たれた一人が私の上になったこともありましたが、不思議と私は無傷でした。後はもう夢中。走りに走りました」。同氏は奉天から一般邦人に交じって、二十一年八月コロ島から帰国している。
それにしてもソ連軍の「日本にすぐ帰国させる(スコーラ・ダモイ)」という言葉ほど当てにならないものはない。満州第二十七対空無線隊隊長だった北島米一氏は二十三年六月、帰国するとすぐシベリアで亡くなった部下三十五人の家族にガリ版刷りで「シベリア抑留の実状を連絡する文」(あとで師友会機関誌で活字化)を書いて実情を伝えた。部隊長としての任務に最後まで忠実であったわけである。
「……九月二十四日、海城(奉天省)に移動せしめられ、第十三作業大隊第一中隊(隊長壺井弥須義大尉、香川県)を編成し、十月五日海城を出発しました。その当時、日本軍を乗せた輸送列車が大連、旅順へと南下しておりましたし、ソ連の輸送官が中隊長以上を集合させて、『戦争は終わった。日本軍を内地に帰還させるための輸送である。不安や動揺がないように』ということをはっきり申しました。若干の不審はありましたが、懐かしい故国の土を踏める日の近いことを夢見ておりました。
はじめ南に向いていた機関車が、発車寸前に北に向きを変えました。奉天、新京、ハルピンを過ぎて満州里を出て幾日になるのか、列車は北へ西へと走り続け、雪の降る朝、ヤブノロガヤ(チタ市西方二百キロ)という山あいの小さな駅に着きました。十月二十四日朝のことでありました。下車を命じたソ連輸送指揮官は不信を恥じる色もなく平然としておりました――」
北島氏の手記には“裏切られた”という不信感と、平気でウソをつくソ連人に対する憤りが強くにじみ出ている。前に引用した文章に「その当時日本軍を乗せた輸送列車が大連、旅順方面へと南下しておりました……」とあるのは、多分にソ連の列車輸送の都合による迂回であったろう。どこかで列車は向きを変え北上したはずである。ソ連が抑留した日本兵を大連から日本に送還させた記録はないからだ。
いま一つの日本人の入ソのパターンにはあらかじめ“ソ連戦犯”の容疑者として連行した高級将校の場合がある。山田関東軍総司令官、秦総参謀長ら軍部首脳(他に方面軍、軍司令官などの将官クラスがいる。ソ連軍発表によれば百四十八人の将ら以外の特務機関長、憲兵隊長、情報関係者ら佐官級の軍人や民間人、政府機関の責任者たちである。
ソ連刑法第五十八条による“ソ連戦犯”であるから、いつでも、何人でも“製造”可能だったことは前にも書いたが、収容所内で日本人による“密告”によって長期刑を言い渡された“前職者”(憲兵、特務機関員など)も数多い。正確な数字は不明だが、年次の遅い帰国組の中に多い。ソ連長期抑留者の会の資料によると千余人となっているが、三千人程度はいたという研究者もいる。ソ連戦犯として判決を受けながらも、早期に帰国してどの会(各種のグループがある)にも所属しない人も多いと考えられるからだ。収容所内ではアクチブ(活動家)として羽振りをきかせていたが、失脚してソ連刑法第五十八条にはめられた者や、ソ連将校に反抗してやられた人もいる。複雑、屈折した心理状態が現在も続いているのはそのせいだろう。
ソ連戦犯――長期抑留者の帰国は、厚生省の記録によると昭和二十八年十二月の第一次帰還を皮切りに、三十一年十二月二十六日舞鶴上陸までの間、第十一次をもって終了している。山田関東軍総司令官の帰国は第七次で三十一年六月九日舞鶴上陸、秦総参謀長は最終組で、第三方面軍司令官後宮淳大将らと一緒である。
ソ連戦犯といっても、二十五年四月二十二日に舞鶴に上陸した佐藤利行氏のような人もいる。同氏は著書『ラーゲルをこえて』(五十七年七月、葦書房刊)にみられるように、アクチブ(活動家)であったが、ソ連将校と衝突し懲役十年の刑を受けた。が、二十五年に帰国しているところをみると、同氏のような例が他にも多数あったということだろう。なにしろ統計とか囚人の扱いのずさんさには定評のある国(実例はいくらでもある。死者名の間違いまであった)だから、本当のことは不明だ。
最初からソ連戦犯として入ソさせられた小原豊氏の場合を見てみよう。終戦時は新京にあった第二航空軍特殊情報部員で陸軍中佐であった。広島陸軍幼年学校時代からロシア語を専攻していた。新京での特殊情報部の主任務はソ連の無線傍受である。当然、軍の任務である。ロシア語を解すること、ロシアの無線傍受をしていたことが“ソ連戦犯”に該当する罪状になろうとは、後になって思い知らされる。
ソ連参戦後の十二日、第二航空軍司令部は、約千人の家族を北部朝鮮に避難させた。関東軍が発令した「家族避難命令」は十日で、民、官、軍の順に従い、十二日に新京を出発させたものであった。
八月十五日の終戦いらい、北朝鮮へ避難させた家族との連絡が途切れた。十七日、司令部命令で避難家族を保護誘導するため、主計以下数人の部下を連れ双発高等練習機で十八日新京飛行場をたち、各地を捜索したのち、鎮南浦にいることがわかり、十九日に合流した。
九月になって進駐ソ連軍のスメルシ機関が小原氏を逮捕に来た。スメルシ機関は「スパイに死を」の言葉の略で、ソ連の防諜機関のことである。国防人民委員部に昭和十八年に設置された防諜部の通称である。小原氏には『遺托児孫 ソ連抑留十一年記』という回想記(自家版)がある。それによると平壌のスメルシ機関が「私を大物と間違えて逮捕し、飛行機に一人を乗せてウオロシロフへ連行した」とのことである。ウオロシロフはウラジオストクの北に位置する都市である。
小原豊氏は“ソ連戦犯”として昭和三十一年十二月二十六日、最終組として舞鶴に着いたが、その回想記を引用する。
「ウオロシロフ市内の監獄に連行されたのは九月中旬の某日夜であった。この監獄にはすでに相当数の日本軍将校がいることを直接見たり、彼らの声を耳にしたりした。後で得た情報では現職の在満特務機関長たちが主体であって、彼らは後で処刑されたようである。平壌のスメルシ機関は目ぼしい獲物がなかったとみえ、私を大物として扱い、わざわざ将校と兵の護送をつけて飛行機で送りこんだのだが、ここでは“その他大勢”組に過ぎないと認められたようで、間もなくここから別の収容所に送られた。これが運命の第一の岐路である。平壌の取り調べでは私は本職を秘匿し、かつてクリエール(外交伝書使)としてモスクワ旅行をしたことだけを述べたし、本属部隊と離れ単独で逮捕されて傍証者のいないことも幸いしたと思う」
小原氏はロシア語のわからないふりをして通した。ロシア語のわかる人は「反ソ行為」をした疑いが持たれるらしい。ある晩取り調べがあった。通訳は若い女性の少尉であった。日本語が未熟、デタラメなので思わず訂正したところ「それ見ろ、お前はロシア語がわかるではないか」と本職が露見した。囚人ラーゲリ入りを覚悟していたら、間もなく他の収容所に突然移動になった。「ソ連は横の連絡が悪いので、取り調べ中であることがわからなかったらしい」とのことである。結局、小原氏は二十三年カラカンダでソ連刑法五十八条六項によって矯正労働二十五年の判決を受ける。ソ連刑法、裁判のやり方については項を改めて書くが、小原氏の回想記によると「ハルビン学院出身の若い見習士官、野村光男君も二十五年だった」とある。野村氏はハルビン特務機関員であった。
野村氏よりハルビン学院の一年先輩でロシア語科出身の少尉、大心池洋氏もソ連に抑留され、二十二年十一月二十日舞鶴に帰還しているが「ロシア語を勉強した者でも、私たちのような一般兵士は別に問題にはならなかったようです。しかし特務機関とか、一般商社などにいったん就職した人だと、詳しく調査したようです。反ソ行動には特に神経質だったように思う」と証言する。後で書くが、収容所内はソ連のスパイが居たのである。日本人が「スパイをやらされていた」と言ってよい。
ソ連への連行のされ方について各種のパターンを記したが、道中の苦労――それは苦闘と言った方が当たっている――についていま少しふれておきたい。入ソは長期にわたる行軍か貨車輸送によって行われた。満州、シベリアは九月になるともう冬である。厳寒期になると零下五十度以下に気温が下がるのが普通である。矯正ラーゲリのあったナリリスクなどは北極海に近い。九月から二十一年春にかけて入ソし、各地のラーゲリにバラまかれた作業大隊の中には、一ヵ月以上も貨車に乗せられた者もいる。一貨車を二、三段に仕切り、真ん中に小さなストーブという一般的な貨物列車の旅は、すでに一種の拷問であった(食糧を持って入ソした幸運組もあったことは紹介した)。京都女子大教授後藤敏雄氏の『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』(六十年八月、国書刊行会刊)によると「私たちの列車は普通の人員車二十四両、医務室車一両、ほかに糧秣、被服の倉庫車その他合計四十両からなっていた。貨車は二段装置になっていなくて、一両に六十五人ないし七十人で私の車両は六十七人であった」という。
ほとんど座るだけという状態で、皇姑屯駅から黒河(いずれも満州国内)まで一ヵ月以上もかかっている。そこから入ソし、各地に散在するラーゲリへの旅がまだ続くのである。「輸送中の給養はかつてないほどひどかった」という。
入ソ後の貨車移動については前出の野沢恒夫氏の手記が非常に参考になる。
「ゴトゴトと走り続ける貨車はまるで密室のようで、うす暗く、昼だか夜だかさだかでない。屋根近くの一隅に換気のための鎧板をつけた小さな窓があってわずかに光がもれていた。ダモイ(帰国)をあきらめてしまった後は、固い床板に横たわりお互いの身の上話をしていたが、そのうちだれも口をきかなくなった。
貨車の振動ときしむ騒音は絶え間なく私たちを苦しめた。さらに苦しめたのは大小便の始末である。床に設けられた小さな穴が排泄物の流し場になっていた。震動が激しく衰弱した体ではまともに流したり落としたりは不可能に近い。臭気は密室に充満していた。ビラカンからビヤツキエポリヤヌイまで、こうして一ヵ月の輸送の旅が続いたが途中で狂気のあまり貨車から飛び出して射殺されたり、密室の中で何人もの人が息を引き取った。貨車が止まると死体と交換のように黒パンと水が積み込まれた。私たちはこの時点で死者に対してほとんど無感覚であった――」
恐ろしい文章である。
強制労働
苛酷なノルマ強制
章を改めるに当たってまず大ざっぱな説明から入る。強制労働はノルマによって労働を強制されたところから出た呼称である。ノルマという言葉は正確には「ノルマ・ビラボートキ」を略したもので標準とか基準を意味する。強制労働の同音異義語に「矯正労働」がある。ソ連刑法によって“ソ連戦犯”に仕立て上げられた抑留者が働かされた囚人ラーゲリでの労働である。現在のソ連の政治犯たちが労働させられているのも「矯正」の方である。
ソ連領土内のラーゲリに送りこまれた日本人抑留者たちは、そこで各種の労働に従事させられた。作業内容は当然のことながらラーゲリの場所や性格によって異なる。共通している事は厳寒下に少量の食糧で酷使されたことである。
厚生省が舞鶴港で引き揚げ者の個別体験を作業種別に集計した資料によると次の通りである。合計が一〇〇パーセントを超えているのは端数処理の関係である。
▽一般土木建築 四三パーセント
▽鉄道とその付帯物の建設 三〇パーセント
▽採炭、採鉱とその付帯労働 一四パーセント
▽生産工業 一一パーセント
▽その他 四パーセント
抑留者の証言に最も多く出てくる伐採作業は土木建築や鉄道のまくら木、付帯物の建設、燃料にするための木材伐採である。
画家田中清養氏はハバロフスクに抑留され、二十二年四月十二日に舞鶴に上陸した。抑留期間が短かったという意味では幸運組の一人だが、わずか二年間の収容期間中に「五里(二十キロ)四方の山を坊主にした」と証言している。「木材は赤松、白カバ、モミ、カラ松などで、主として冬季に二人がさし向かいでロシア式のノコギリで切ります。冬の方が木を切りやすい。夏だと樹液が出てノルマが上がらないからです」
冬季に雪の上に腰を下ろしての伐採作業は脳細胞までも凍らせるようだが、ノルマがある以上仕方がなかった。
「一人一日に何立方メートルというノルマがあり、規定に従って寸法通りに切断します。それを積み重ねてソ連人監督が計測します」
冬季気温は零下四十度、五十度に下がり、その環境下で作業をやったという証言や回想記も多いが、屋外作業は零下三十度になると中止になったとの証言もかなりある。いずれにしても日本では想像もつかない寒さである。軍医だった山川速水氏の回想記『ラーゲルの軍医 シベリア捕虜記』によると、心拍が一分間に一つか二つに減少し、一種の冬眠状態になった兵隊作業員の治療をした体験を記録している。
ラーゲリでの作業の中で一般土木建築が多いのは官庁舎、集会所、工場などの建築を抑留者にやらせたからである。次に多い鉄道工事はバム鉄道(バイカル―アムール幹線鉄道)――いわゆる第二シベリア鉄道の建設に従事させられたためだ。バム鉄道の完成は、マスコミで報道されていたが、ドイツ、ポーランド人捕虜やロシア人囚人たちに交じって五万人(一説には十万人)の日本人が投入された。“まくら木三本に一人の日本人が死んだ”とさえ言われている。第二次大戦前からの計画で、対独戦のため工事が中断していたのを戦後日本人抑留者を使って工事を継続したのである。
採炭、採鉱作業は説明するまでもない。ただこの作業に従事させられたため「シベリア珪肺」という後遺症が現在も続いていることは特に注目しなければならない。いわゆる塵肺で、鉱山のチリを吸ったために発生した難病である。
チタ州のブッカッカ収容所でタングステン、鉄マンガン重石(ロシア語でオイルフラム)の採掘作業をさせられた山本泰夫氏は帰国後(三十八年九月)、突然に気管支ぜんそくのような症状に見舞われた。最初は肺結核と診断されて治療を受けたがさっぱり治らない。そのころ鹿児島大学医学部縄田千郎教授(現名誉教授)によって、シベリア抑留体験者で鉱山作業に従事した帰国者の中に珪肺患者が多いことが発見され学会発表されたとの報道に接した。
「四年間も治療を続けたのにまったく治らない。結核菌も出ません。もしや、と思って縄田博士のもとに私のレントゲン写真を送ったところ“シベリア珪肺”と診断されました。普通日本では十年以上の粉塵作業歴がないと発生しないというのが学界の通説になっていますが、シベリアでは一年でも採鉱作業をやった抑留者の中から患者が出たのです」
山本氏らの努力で昭和六十一年五月現在、恩給局は百四十四人の「シベリア珪肺」患者を認定し毎年増加している。
「復員後十年から二十年を経て発病するのです。症状は肺結核と同じですから外科手術、薬物療法を行いますが、効果がありません。当然ですよ、病気が結核とは違うんですから。認定患者で死亡した人は五十一年から現在までの九年間に二十二人います。それ以前に肺結核として死んだ珪肺患者は多かったと思うと残念でなりません。栄養失調の抑留者が地下深くに入って、旧式な機械で採鉱作業を、しかも防塵マスクなしでやったのです。シベリア鉱山の粉塵が今も肺の底に沈着しているのです……」
シベリア珪肺患者が出ているのはチタ州のブッカッカ(タングステン鉱)、ベルハ(同)、スコウォロージ(モリブデン鉱)、カザフ共和国のチキリ(鉛鉱)、カラカンダ(石炭)、ケーメル州のアルゼルカ(同)、モンゴル共和国のベルオマイカ(モリブデン鉱)など十八鉱山で作業した抑留者たちの中からである。
作業内容についての記述を進めよう。運河、ダム、発電所、学校などの建設、石割り、収穫期あるいは植え付け期のコルホーズ(集団農場)の手伝いなどがある。コルホーズの作業は苦役の中での楽しみの一つだったと多くの人が語っている。ソ連農民との接触、ジャガイモ、大根、キャベツ、ニンジンなどの“余禄”が多少はある。当時の農民が日本人と同じように質素な生活をしていたことを直接見たという人も多い。変わった作業ではビール会社の作業に出たというのもある。
カザフ共和国のカラカンダは石炭の膨大な埋蔵量を誇っている。初めドイツ人捕虜が手をつけ、続いて日本人が加わって発展の基礎をつくったという。三十九師団の二百三十一連隊(広島)の四平街組(同地で武装解除された第一大隊と師団司令部、師団通信隊など)が抑留されていた場所である。カラカンダは東経七十三度、北緯五十度の地点である。内陸部だから厳寒の地と言ってよい。藤部隊戦友会藤友会刊の『はるかなる戦場』(松下葆氏記述)によると「吉田大隊長の指揮する作業大隊千人余りは街の郊外にある第六収容所に入れられた。ここにはすでに関東軍の千五百人余りとドイツ人の捕虜二百人が先着していて、炭坑作業に従事していた」とある。以上の人員約二千七百人は第六収容所だけのものである。全カラカンダ収容所には万単位の抑留者がいたはずだ。
二百三十一連隊の「新京組」「公主嶺組」はウズベク共和国のベグワードに送られた。同連隊の増井正次郎氏の『中央アジア抑留記』によればベグワード着は二十年十一月二十二日である。ここのハルット運河、ダムは日本人抑留者の手で完成されたことは有名だ。同抑留記によると「約二十日間、ようやく目的地に着いた。ノボシビリスクでシベリア本線に分かれ南下を続けるうち気候は大分暖くなった。ウズベク共和国のベグワット(ベグワード)というところで首都タシケントの南方だという。(中略)西から南へかけて空を切って山脈が続いている。後で知ったことだがこれが天山山脈だった――」
ウズベク共和国のベグワードに収容所の施設はまだ完成していなかった。前出の『中央アジア抑留記』には「(収容所の)肝心な炊事場さえ未完成だった。炊事が大変だった。炉の送風機のモーターが無く、人力で送風機を回さなければならない。毎日交替で風車回しの使役に出た。病人も多発した。集団で最も恐れられていたチフスが発生した」と第一印象を記している。
さらに作業内容については十二月十七日から作業を開始しているが「ベグワット地区には五つのラーゲリがあった。第一から第五分所と名づけられたが一分所千人から千五百人程度の収容人員だったらしい。我々が収容されたのは第一分所で、隣り合って第二分所があった。土で造った細長い建物に木で二段の棚が造られ、各中隊ごとに小部屋が一つずつ付いていた(中略)。
アフガニスタンの北、パミール高原が北西にそのスソを下ろしたところに中央アジアの大広野が広がっている。パミール高原に源流を発したシルダリヤ河が広野を北西によぎり、アラル海にそそぐが、シルダリヤをせき止めて、水力発電所を造り、更に灌漑《かんがい》用の運河を掘って砂漠のような広野を沃野にしようというのが我々作業隊に与えられた課題であった」。これから収容所内での作業と、複雑な人間関係に神経をすり減らすことになるが、それは後の事である。
この連隊の戦友会を取材した際「われわれの入る収容所を自分たちの手で建てた」という話も聞いた。同連隊員でチタに連行された山科美里氏の『ラーゲル流転』の中にも出てくる。
「捕虜のための家造りがチタ収容所に来て間もなく行われた。次第にふえてゆく捕虜を収容する所がなくなってきたためである。半分を、いやそれ以上を地下に埋めて家を造るのである。
工法は極めて簡単である。要するに大きさ、寸法は条件に合うように造ればよい。まず位置を決め、掘り方である。掘り方が終われば四隅に適当な間隔を置いて間柱をたてる。柱を立てれば丸太ん棒をタポール(オノ)でわずかずつ両面をはつり、柱と柱の間に積み重ねてゆく。丸太と丸太の間はスキ間があくが、それは綿のようなものか、ノコクズ等をつめこんでつぶす。屋根も同じ要領でやり、土を三十センチ位かぶせる――」
丸太と丸太の間にはコケをつめたという手記もある。二段ベッド式で、小さな窓が一つ。しかし丸太の“床”に眠るのは背中が痛かった。
作業にはノルマがあることは前にもふれた。社会主義国の特徴であるが、ソ連の場合は徹底したものであった。研究者によれば作業種別、地域別、季節別などを考えた詳細なもので、百科事典ぐらいの大きさの、数百ページのノルマ表が何十冊もあったという。最も簡単な例を言えば、二人で一日十立方メートルの木材を切り出すのがノルマとすると、それをやり遂げれば達成率は一〇〇パーセントとなり平均賃金が支払われる。八〇パーセントしか達成できない場合は二〇パーセント引き賃金しか払ってもらえない。日本人抑留者の場合は、ノルマの達成率によって黒パンの量で加減した。「働かざるものは食うべからず」を地でいったのである。金本位制をもじって、“黒パン本位制”と称したのは、若槻泰雄玉川大教授だが、なかなかうまい表現である。がこの黒パン本位制がシベリア抑留の悲劇の源泉の一つになったことを思えば感心ばかりもしておれない。
「長期抑留者の会―朔北の道草」(ソ連戦犯の会)の調査した資料によると、ソ連は日本人抑留者一人一ヵ月分の「必要経費」を四百五十六ルーブルとして算定していた。内訳は食費二百六十ルーブル、被服費五十ルーブル、寝具その他の器具損料二十ルーブル、文化費十ルーブル、運搬費(食糧、炭等)十六ルーブル、入浴費二十五ルーブル、便所掃除費十五ルーブル、税金三十ルーブル、人件費十五ルーブル、光熱費十五ルーブルである。この数字は、ソ連収容所側の説明である。
当時(昭和三十年)の物価は砂糖一キロ十・三ルーブル、黒パン十キロ十五ルーブル、マーガリン一キロ十六・一ルーブルであった。が初期の抑留者がこのような待遇を受けなかったことは多くの手記、証言が証明している。入浴にいたっては「二年に一度だけ」と言う人もいる。物価体系が日本とまったく異なる国だから四百五十六ルーブルで、どの程度の生活水準を保ち得たかは不明だが、抑留者が“いいくらし”であったはずはない。それどころか収容所当局の過酷な労働強化に対し将官、佐官クラスの年配者がサボタージュ事件(ハバロフスク事件、後述)を引き起こし、ソ連当局と命がけの闘争を行っている。
西元宗助元建国大学教授によれば、一人一ヵ月の必要経費は三百六十ルーブルであったと書いている。
この数字は二十二、三年頃のものであろう。ソ連も戦後物価体系が大きく変わっている。ルーブルを切り下げたり、物価を下げたりして“社会主義”独特の経済政策を行った。国際性の乏しかった時代だから、これもまた単純な比較は不可能といってよい。
いずれにしても収容所の作業量によって、ソ連政府が各収容所長に金を支払い、ノルマ以上の達成者に対して、その分に応じた賃金を支払ったのが、ソ連政府の“実際”であったかもしれないが、抑留者たちがその恩恵に浴したのはまれであったろう。収容所長の横領が実際にあったし、少なくとも初期の抑留生活時代には、賃金の支給など考えられないことである。
日本人が収容されていた収容所はソ連内務省の管轄である。収容所長は、企業体から工事を請負い、日本人捕虜を上手に使って能率をあげさせるのが職務となる。別に党直属の政治部将校がおり、思想教育などに直接タッチする二本建て方式であった。この方式は現在も行われていて、たとえば軍艦には、艦長の他に政治部将校が同乗している。
ただし、ナホトカなどの送還収容所は外務省人民委員会に所属していたようである。
ソ連人収容所長の横領が当局に発覚し降級、懲罰を受けたという抑留者の記述も多い。ソ連はそれなりに厳しかった。
石井兵衛氏は満州の第二航空軍の通信連隊にいて終戦。満州里回りでチタの収容所に連行された。二十年の十一月であった。寒い大草原の中を十二時間も歩かされ、大きな古い収容所内に一歩足を踏み入れたところ、「天井から南京虫の雨が降ってきた」という。以前ドイツ人捕虜でも入っていたらしい。百メートル四方もあるような建物が上下に並んで五棟もあった。南京虫とシラミはどの抑留者の回想記にも出てくる。厳寒の地でも南京虫とシラミは死滅せず、特に伝染病の媒体となるシラミに対してはソ連兵は敏感で、時々、衣類を熱湯消毒して死滅させた。毛ジラミを防ぐため、だれもが陰毛を剃られたと回想している。陰毛を剃るのはソ連の女医だそうだ。女性抑留者も例外ではなかったという。シラミによる発疹チフスの流行で一作業大隊の三分の一――およそ五百人の死亡者を出した、と書いてある体験記もある。栄養は悪く薬も欠乏していたから死亡者が続出したのである。
石井氏らの作業大隊はさっそく労働させられた。
「千五百人の作業大隊でしたが、五百人がモリブデン鉱山にやられました。夕方になると全員が体中まっ白になっていました。労働はきつかったのですが、モリブデン鉱山に行けば黒パンが六百グラム給与されるので志願者が多かったですね。私たち一般労働者は一日に黒パンが二百グラムで、目の玉が映るようなうすい塩っからいスープが少しありました」
正確な収容所の名前を記憶していないそうだが「シベリア珪肺」の発見者、縄田千郎鹿児島大学名誉教授の調査によると、チタにはモリブデン鉱山が二つある。スコウォロージ鉱山とタベンダ鉱山である。石井氏の入っていた収容所の日本人はどちらかの鉱山で労働させられたと思う。
「残りの千人は橋、道路、科学研究所、発電用貯油タンクの建設などに回されました。私は建築中隊でした。腹はへるしノルマは上がらない。水と土とセメントが相手の毎日でしたからきつかったですなあ。道に落ちていたジャガイモの皮まで拾って食べたことがあります」
ある日、食事当番が黒パンを受け取りに行って戻って来ない。みんなで捜しに行くと炊事場と寝所との間で気絶して倒れていた。「黒パンを強奪されました」と言う。状況に不審があり隊長が問いつめると、腹いっぱい食べた後、残った黒パンを隠し、自分で自分の頭を殴って“強奪”されたように見せかけたと白状したそうだ。一度でもよいから満腹になりたかったのだ。
手先を使う作業などは別にして、肉体労働となるとソ連人を標準にして作られたノルマ(基準)を、小柄で非力な、腹ペコの日本人抑留者が十分にこなすことは不可能である。したがって黒パンの給与量が減る――作業能率はますます低下する――の悪循環が始まる。もっとも山川速水氏によると「われわれのノルマはすべてソ連人の七〇パーセントであった。たとえば木材伐採でもソ連人は一日五立方メートル、日本兵の場合は三立方メートルであった」し、さらに「しかし想像もつかない寒さと、連日休みのない重労働と、さらに耐えられない空腹のため連日三立方メートルの伐採はほとんど不可能となってきた」という。
連日のノルマ不足で処分されるのは日本人隊長である。石井兵衛氏の体験によると、やけっぱちになった隊長がソ連人を殺害してトラックを奪い、数人でアムールまで逃げたが結局は捕まって収容所に戻って来たそうだ。処分結果までは知らない。逃亡は実際にあり、成功した例もある。このことは後で書く。
日本人とソ連人の文化の差――国家体制の差、はっきり言えば自由社会と社会(共産)主義社会との差による確執が生じない方がおかしい。西元宗助京都府立大学名誉教授によれば「たとえば三人で十六立方メートルの穴掘りをやったとすると一人約五・三立方メートルとなる。しかしこのような労働量の均分はノルマ制の趣旨にそわないのでソ連当局は非常に嫌う。事実、三人は同等の作業力ではない。若い元気なAは七立方メートル、Bも少なくとも六立方メートルは掘ったと思っているであろう。こうなると作業力のない私は精一杯やっても結局三立方メートルしかやっていないことになる。しかし三人一緒に作業したのであればこの判定は実はなかなか容易でない。もっとも判定は作業班長(ソ連人)がやることになっているが作業班長がわれわれの作業状態をよく見ているわけではなし、私の感情が混入することも避けがたい。こんなわけでこの判定は紛議のもとである」と言っている。
さらに同氏によれば一九一七年(大正六年)の十月革命後、ソビエトを支配した最初の精神は均等的平等であった。しかし均等的平等は心なき人々を怠惰にし生産力を低下させた。そのためスターリンが一九三一年(昭和六年)反均等賃金制を提唱し「労働の量と質に応じて」報酬を与えるノルマ制を確立したという。日本流に言えば「出来高払い制」である。がこれがまた、なかなかむつかしい。
ノルマ制は日本人抑留者に多くの問題を生じさせた。ソ連人監督(コンボーイ)と日本人隊長との衝突、さらには日本人同士の対立、やがて収容所内に生じた民主化運動と合体して、故国を遠く離れたシベリアの地で血で血を洗う争いにまで発展する。
モンゴルのウランバートル収容所で発生した「暁に祈る」事件(吉村隊長事件)、ナホトカ人民裁判事件(いずれも後述する)など、帰国後に、日本で問題となった。
「暁に祈る」事件ではノルマを強制して隊員を死亡させたとして吉村(本名池田)重善隊長は「逮捕監禁」「遺棄致死」罪で懲役三年の実刑に服している。真相はヤブの中とはいえ、少なくとも吉村隊長が、ノルマを強制して隊員を死にいたらしめた(という)ことは事実として日本の裁判所で認定されたのである。
増井正次郎氏の『中央アジア抑留記』にもノルマに対する苦悩の記述がある。ベグワード収容所の出来事である。各中隊から大工、左官、電工、鍛冶職が募られ、技術のない者は土工となった。増井氏は土工二個小隊を指揮したが、同じ土工でも鉄筋工の作業を担当させられた小隊は、日本人特有の器用さで見る間に腕を上げ、一二六パーセントもノルマをこなし特大のパンをもらっていた。いま一つの土工小隊はソ連人並みの成績が上がらず、いつも八〇パーセントノルマで小さな黒パンであったという。同氏の記録によれば八〇パーセント以下は小、八一〜一〇〇パーセントは普通、一〇一〜一二五パーセントは大、一二六パーセント以上が特大であったという。
「中隊長として小隊によって差のあるのが苦しかったですな。一般兵に対しては賃金はなく、将校だけが数回、十ルーブルぐらいもらった記憶があります。入ソ当時はまだ私たちの部隊(二百三十一連隊)は旧軍の制度が残っていて『敬礼!』とか『宮城遥拝』などやっていました。ソ連の政治部将校は苦々しく思ったでしょうが、作業関係のソ連兵将校はキビキビした私たちの中隊に目を細めていました。もっともすぐに民主化運動が起こって来ましたが……」
吉田誠一氏は昭和十七年、西部六十四部隊(福知山)に現役入隊して渡満。蓋平で作業大隊に再編され、ブラゴエシチェンスクを経由してクラスノヤルスクで抑留された。
「部隊は建制(正規)のままで、私はオブシャンカにまず分散させられて伐採作業をやらされました。ノルマはとてもこなせなかったですな。二十三年八月に舞鶴に着きましたが、賃金など一度ももらわなかった。完全にタダ働きでした。
黒パン百五十グラム、カーシャという魚粉の入ったスープがまあ毎日の献立です。人間は娯楽なしには生きてゆけないというか、そんな環境の中でも収容所の中で花札とかマージャンをやりました。黒パンをかけてです。負けた者はすきっ腹のまま作業です。配給のせっけんを水でふくらませてソ連人の食糧と交換したこともありました。当時ソ連人もろくなものを食べていなかったですね。監督でさえ、たいしたものを食べていないんです。ジャガイモ、黒パン、時に魚でしたね。私は四度収容所を変わり伐採を主にやりました。一日二立方メートルがノルマ。私たちはノルマを早く消化して遊んでいました。民主化? ですか、私たちのラーゲリには、帰国するまで不思議と民主運動なんてなかった。現地で発行されていた日本新聞を読んだのもナホトカに出てからで、それまで肩章をつけていましたよ。将校はノルマのことでソ連人監督とガンガンやり合っていました。最後はスエドロスクで材木の積み出しと軽便鉄道の路盤造り作業です。一般的に言って、私のいた収容所は炊事班が工夫してつくってくれ、うまい食事でした。屋外作業は零下二十五度を超えると中止。屋内作業は零下四十度でした」
吉田氏の体験は特別であったのか、氏のこだわらない性格によるものか、暗さがない。ナホトカに着くまで軍隊の規律を残し、民主化運動など全く知らず、汽車の中で「民主主義とは何か」と言った話を聞かされたという。ラーゲリでは「働いて早く帰してもらおうぜ」ということだった。
「ナホトカで肩章をとらされ、隊長は主任と変わりました。赤旗の歌もナホトカであわてて習っただけです」
吉田氏の顔が曇ったのは初年兵の死を語った時である。
「初年兵は体力が無く、抵抗力が弱いものですから最初の冬に多くの者が死にました。栄養失調です。抑留生活でも要領が必要だったんですねえ」
だれに体験談を聞いても、最初に死んでいったのは初年兵であったという。「旧軍思想のもとで酷使されたのが原因だ」とアクチブの回想記には必ず出てくる事例だ。たしかに初年兵は体力的にも劣っていた。ふだんなら兵役免除になる弱い体力の者までが二十年には入隊させられたのである。まともな軍隊教育について行けないような体力の青年がシベリアで強制労働させられてはたまったものではなかったろう。そうした者まで入営させた国家に責任があることは言うまでもないが、アクチブが言うように、将校が初年兵を酷使したために死んだ、と断定する意見には、にわかに同調しがたいというシベリア体験者は多い。
西元宗助氏の『ソビエトの真実』によるとソ連は毎月一回、軍医によって体位検査を行った。
「ソ連軍医が一級、二級、三級、四級、OK(オーカー、五級)と等級判定を行う。一級というのは最強の者、二級は普通の体力、三級は虚弱であるが軽作業に耐えるもの、四級は身体障害者、五級は静養を要する回復期のもので作業をやらしてはならないもの、その他にディストロフィ(栄養失調衰弱患者)というのがあって入院患者に準ずる待遇が与えられているが普通はOKに含めて取り扱っている」と書いている。抑留体験者のだれもがこの話をする。しかも真っ裸になって立ち、軍医はおしりの肉をつまんで体力、体調を調べる。
軍医だった山川速水氏の回想はもっと具体的だ。
「兵隊の体力が衰えて休養者が多くなったころから一ヵ月一回、部隊全員の身体検査が行われた。ソ連の軍医一名と我が部隊の連隊長とそして私が立ち会った(中略)。
全員の兵隊を全裸にして体調をみる。主として女医の仕事であった。一人一人の皮下脂肪の程度をみるため皮膚をつまみ上げた。
兵隊たちの皮膚はシワだらけでまったく弾力が無くなっている。皮下脂肪はまったくなく、皮膚はカサカサに乾いてシラミにせめられ、全身いたるところ、かきむしった跡がある。女医は腰かけて兵隊の一人一人を点検しているので前向きとなったとき、女医の目の前に男性の象徴を露出させなければならずへきえきした。
皆、栄養の衰えかたはすさまじかった。ろっ骨はつき出て、波を打っている。背部の筋肉は薄く、皮膚のみ肩胛骨にはりついているように見える。腹部の筋肉も陥没して舟底型をしている。特に下肢の筋肉の衰えはひどかった。大腿は細い二本の棒のようになり、背部から見ると左右の臀筋《でんきん》が衰えて委縮し、左右に広がり、その間は大きく陥没して、その中央に肛門が見える者が多い。まことに異様な姿である」と専門家から見た抑留者の姿を描いている。
同氏によればソ連将校(収容所長)は発熱は三十八度以上でないと休養を認めず、栄養失調は病気ではない、と言ったそうである。同氏のラーゲリにはソ連人軍医が男女二人ずついて、個人的にはいい人間だがソ連隊長と同行した時の態度の豹変に驚いている。
抑留者は熱を測る時、体温計をコスったり、トントンたたいたりして発熱したように見せようとし、体温計をよく壊した。はかない抵抗だが、そうでもしないと休養できないからだ。
抑留者の食事のことを書いておく。広大なソ連領内に散らばっている収容所であるから、同一でないことは言うまでもないが、一つの目安として西元宗助氏の前出書から見てみよう。
朝食はプノセスというキビアワのカーシャ(おかゆ)で、飯盒八分目を三人で分ける。それに黒パン三百五十グラム。昼食はアワのカーシャ飯盒一杯を四人で分ける。それに野菜、魚肉入りスープ。夕食は朝食と同じ量のカーシャだけで副食なし。アワがラーゲリの倉庫に入るとアワばかり続くし、大麦が入ればそれが無くなるまで続く。野菜もキャベツ、ニンジン、ジャガイモ、砂糖大根に限られている。野菜といっても貯蔵用に加工された漬物野菜が主で、ジャガイモも乾燥ジャガイモが主である。魚は川魚が主でコイ、フナ、ナマズ、時折、塩マス、棒ダラ、塩サケ。肉はヤギ肉に限られていたが、ときに牛肉やラクダ肉があった。
若槻泰雄玉川大教授の『シベリア抑留』によれば、量は時期によって将校と下士官兵との間に差があったが、二十二年以降は差がなくなったという。将校と下士官兵の分離が進み、作業大隊内の将校が少なくなってくると別々に食事を作る必要がなくなったからだ。資料はまちまちで厚生省にも帰国者からの聞き書きとしての定量表が残っているが、私の見た限りでは全部異なっていると言ってよい。西元氏の『ソビエトの真実』から拾ってみる。ちゃんと食堂に掲示してあったそうだ。カッコ内は上段が兵隊および民間抑留者、下は将校の量である。単位はグラムである。
黒パン(三五〇、三○○)、穀類(四〇〇、三〇〇)、野菜(八〇〇、六〇〇)、肉(五〇、七五)、魚(八〇、同)、砂糖(一八、三〇)、油(一〇、二五)、塩(五、同)、たばこ(五、一五)、茶(一、同)、マッチ(五本、同)、せっけん(三〇〇、同=ただし一ヵ月分)。
主食類は兵隊の方が多い。国際法によって将校の労働は禁じられており、ソ連も一応は、将校に対して「量よりも質」の給与方法をとったようだ。もっとも前述したように将校も労働に出るようになったからソ連の抑留者に対する給与は将校も兵隊もなくなる。しかも前に記した数字はノルマの定量をあげた者に対する量である。かなりの量と思われるが、定量通りの給与はなかった。なぜか。西元氏によれば「ソ連経理将校及び倉庫係の不正横流しがあった」としている。ちなみにソ連人は一日に黒パン一キロ〜一・五キロ食べるのが普通だったそうだから、やはり日本人抑留者の食糧は極端に少なかったのである。
自殺、脱走をはかる者も
満州で作業大隊に組み込まれ、貨車でソ連の抑留所に送られる途中、黒パンを支給された日本兵は、最初のうち「こんなものが食えるか!」と見向きもしなかった。それも空腹と慣れで黒パンの量に目の色を変えるようになるまでに、たいして時間はかからなかった。体験者によると「少し酸っぱいが、なかなかうまかった」という。一般ソ連人の常食だったから、慣れるに従ってうまくなったのも当然であろう。
ライ麦粉を中心に焼き上げたものだから表面はチョコレート色、中は淡い褐色である。ただしライ麦粉だけでなく、大麦粉、トウモロコシ粉、ときにはモミ殼や麦わらが混入していたという。ソ連の国内事情もあったろうが、抑留者が粗悪なものを食べさせられていたことは間違いない。もちろん収容所や時期によって差があり、時がたつにつれて、黒パンも質が良くなったことを体験者は認めている。
雑穀粉を水でこね、イースト菌で発酵させ、型に入れて焼くのであるが、水分が多く、冬季、外気にさらして置くと凍ってしまってナタでも切れない。抑留者は外皮の焼けた部分の方が腹持ちがよいので、少しでも皮の多い部分を取ろうと目の色を変える。黒パンを支給する時、等分するのに苦労する。目方を量って、多い方を少しちぎり、少ない方に加える。衆人環視の中でやるのだから分配する方も大変である。この種の経験は抑留者全員が持っていることで、この男がと思われる人が意外な側面を見せるのもこの時である。“黒パン本位制”は二十二年ごろまで続き、二十三年になるとルーブルと黒パンの両方が通用した。
ビラカンの収容所に入れられた野沢恒夫氏によるとコウリャンが主で時たま植物繊維の多く混じった黒パンが支給されたという。ソ連軍が満州で略奪したコウリャンの脱穀していないのがひと握りと岩塩少々が一日分であった。洗って飯盒で炊くのだが、水が冷たくて手が痛い。やっと炊き上げると渋いポロポロのコウリャンめしが出来る。こんな生活が一ヵ月、二ヵ月と続くうち重労働と栄養失調で死者が続出した。入ソ当時はまだ将校行李を持っているのがいて、衣類と黒パンをソ連人と交換するようになった。発見されるとその場で射殺されたが、それでもなお黒パンを求めて交換する者が絶えなかった。野沢氏は戦闘中に捕虜になったから将校行李などない。そこで一計を案じた。
友人のT中尉と相談、応急手当て用の薬品・昇汞《しようこう》水でピンク色に染めた一メートル四方のガーゼと黒パンを交換することを計画した。伐採作業のため収容所の門を出る。前後左右には自動小銃を持ったソ連兵がいるから実行は昼の休憩時間しかない。T中尉に見張りを頼み、雑草の中をはって進み、現地人にピンク色のガーゼを振って見せる。ソ連兵に見つかれば射殺である。現地人は目ざとく見つけ、黒パン一本を手にして四つんばいでやってきた。交換成功である。T中尉と握手した時全身の力が抜けたが、パンははっている間に地面とすれて半分くらいになっていた。「それでもシベリアで初めて見た巨大なパンであった」。帰りは雑草で偽装して収容所に持ち帰り、神経痛で動けないY大尉に「食べて下さい」と提供した。
「私たちが命をかけて入手した黒パンを、Y大尉が動けないのをいいことに盗んで食べた経理部将校がいました。その男もすぐ死にましたが、人間とは何か、という問題にイヤでも直面しました。上級将校が平気で盗む。東大出身の将校も同じでした。そうした意味でも収容所生活は地獄でした」
将校が特権を利用して、平素用事のない炊事場に姿を見せたり、黒パンの大きいのをさっと取り上げた、といったふうな証言もよく聞かされた。“反軍闘争”“民主化運動”などがほうはいとして発生した背景の一つに、無神経で無教養(必ずしも学歴と一致しない)な将校が存在していたことも無視できない。
一方、部下のために体を張った将校も数限りなくいる。何度も紹介した増井正次郎氏もそうだし、山科美里氏もそうだ。山科氏は八百人くらいにふくれ上がった混成の収容所の隊長であったが「それぞれの部隊も経歴も違うし民間人もいた。いつか統制などとれなくなり、栄養失調の体でソ連兵の収容所長からは『ダア、ダア』(やれ、野郎の意)と責められる。食事を増やせ、衣類を与えよといくら陳情してもダメ。食糧不足はソ連もそうだったが、所長の食糧のピンハネはひどかった。いずれにしても隊長である私の責任ということになる。私はついにけんか腰でソ連所長とやり合ったが、日本人幹部の中には柔軟姿勢の方がよいという意見もあった。その先ぽうがロシア語のうまいM少尉だった。結局、私は追放という処分になり、チタからカダラの収容所に単身移されました。ラポーチカ(労働者)としてです」
新しい収容所の作業隊長はF軍曹であった(山科氏は中尉)。到着した夜、初対面のあいさつをすると「ああ」と体を動かしただけであった。「ものを言うのもイヤなほど疲れ切っている」と山科氏は直感した。ここでの作業はれんが造りであった。まず原料土の採取から始まる。長いトンネルのようになっていて昼でも裸電球のついている中で土を掘って運ぶ。工場長ザイソオフは日本人につらく当たった。興安嶺の守備隊長だった福園大尉は、年齢と栄養失調に勝てず、常に劣悪労働者の烙印を押されていたが、ある日、ザイソオフ工場長から腰をけられ、二メートルもあるカマの中に落ちた。火は消えていたから灰まみれですんだが、歯をくいしばって我慢している福園大尉の目から大粒の悔し涙が流れているのを見た。
一年、れんが工場にいて、再びチタの収容所に連れ戻された。ソ連人収容所長は同じで、再び山科氏を作業責任者(隊長)に任命した。ラーゲリは完全に“烏合の衆”と化していた。抑留者はいつ帰れるのかもわからず自暴自棄になっている。秩序も規律もあったものではなかった。
「中傷があり、猜疑心が生じ、やがてソ連側に密告、迎合、追従という形をとるようになる。同じ捕虜でもドイツ人は常に整然とし堂々としていた」。ここでガラス切りが二本紛失する事件が発生した。犯人はソ連人か日本人かわからない。結局、責任者の山科氏が“営倉入り”させられる。
営倉入りの体験記は非常によく出てくる。山科氏の体験を見てみる。同氏の『ラーゲル流転』から引用する。
「真冬でなかったからよかった。しかしそれでも夜はかなり冷えこんだ。営倉はラーゲルの片隅の物置きのような場所で他の部屋とは隔離されていた。出入り口は腰をかがめて入らなければ頭を打つほどの小さなもので中は板の間になっており、人一人が横になって寝返りをうてる程度である(身動きもできなかったとの回想記もある)。天井は低く電気もない。一枚の毛布をくれた。その上に座り静かに考える――」
さらに徹底してソ連軍当局と対決し、成功した例もある。福知山の中部第六十三部隊に昭和十七年入隊し、カダラ地区に抑留された部隊の現場作業責任者(小隊長)の抵抗である――。
斎藤高志氏は伐採作業のノルマの過酷さに抗議してストライキをやり、ついにソ連側を屈服させた。昭和二十三年で、民主化も相当に進み、隊長も抑留者の投票によって選出したそうであるが、ソ連側の意向で将校と下士官兵を分離する時も「あの隊長だけは分離しないでほしい」と何日もかけ合って成功した例もあった、と語っている。隊長の人柄であろう。斎藤氏は五人いた小隊長の一人で、カダラ地区モクゾンで伐採作業をやらされた。
「みんな頑張ったが検収員(ソ連人)が意地悪で作業量をノルマの三〇パーセントくらいにしか書かなかった。私たち五人の小隊長は毎晩のようにソ連の大隊長室に呼ばれノルマの督促を受けた。いくら頑張ってもこの検収員ではやりがいがない。しかし収容所におけるストライキは厳しい管理体制で不可能である。
各小隊長は決死の覚悟でストライキに入った。翌日から伐採の現場には行くが、たき火を囲んで仕事はしなかった。ところが一番初めに困ったのが検収員であったから皮肉である。作業終了後、検収員の書いたノルマ票に日本の小隊長が署名し、事務所に届けることになっている。事務所に届いたノルマ票は小隊長の署名がないので通用しない。従って検収員は仕事をしないことになり食糧の配給が停止された。検収員は困って、寝ている各小隊長に署名するよう依頼に来たが、絶対署名しなかった。ついに五人の小隊長と検収員が山の中で団体交渉することになり、雪の中で相対して交渉した。以後作業量を一〇〇パーセントに書くことで妥結した。その後は日本人も真剣に作業に励んでノルマの完遂に努力した」
ソ連社会の面白い側面であろう。斎藤氏らは検収員もまたノルマを課せられているという点をついたわけで見事に成功した例といえよう。後藤敏雄氏は作業現場によって政府予算があり、たとえば緊急を要する重要な国営建築物の作業には高額の予算がつくため、抑留者の待遇もよかった、と言っている。
信じられないようなこともソ連にはあった。例えば脱走者の処理である。ソ連が死刑を廃止したのは昭和二十二年であるが、死刑廃止するまで脱走者は直ちに処刑された。が処刑しても死なない者は国外追放になるのがしきたりであったという。平本直行氏はそのため北朝鮮に迫放され、二十二年四月、平壌から帰国している――。
平本氏と同じ作業隊にいた杉山広済氏の著書『オーロラ 私のシベリア記』にも、平本氏の脱走のことが書いてある。「進藤隊の初年兵である町田と平本の二人が、例の無謀な冒険を決行したころが収容所生活の一つの峠であった――」という書き出しで始まり「町田は銃殺され、平本は傷を負って護送されてくるという噂も流れて来た――」とある。平本氏の話によると以下のようであった。
「アムールから図上直線距離で十キロ地点にあるシワキの収容所で製材工場の労働をやらされていました。昼夜交代の作業でノルマは上がらず、兵は衰弱するし、このままでは全員ソ連に殺されると言っていました。玉木少尉(正確な名は失念)という人がいて『直接国際赤十字社に実情を訴えるしかない』と言い始め、まず七人が集団脱走して満州から日本に帰ろうとひそかに計画したんです。
まず毎日の食糧を少しずつ残し、製材工場までの道の途中にこっそり埋めました。黒パン、ジャガイモ、ヒマワリの種子などです。結局食糧の関係で私と町田が脱走することになり、玉木少尉の書いた書類を持って脱走したのが二十年十一月二日の夜です。町田は開拓団出身で満州語が達者でしたから選ばれたのです。アムールは凍っているから歩いて渡れます。二日間かかってやっとアムールに着いたのですが、月光が明るいので、月が落ちるまで待つことにしました。これが失敗でした。追っ手のソ連兵に発見され、照明弾を打ち上げられ二人ともつかまりました。私は書類をのみこみました。
場所はチタあたりだったと思います。十一月十一日、私たちは死刑台に登りました。十五メートルぐらいのところからピストルで撃ちます。まず町田が銃殺され次は私です。一発目は耳をかすり、二発目ははずれ、三発目はピストルの故障で鈍い音だけしました。すると射手(執行者)がピストルを投げ捨てて飛んで来て、日本語で言いました。『平本さん別室に行きましょう。ソ連では三発発射して死ななかったら国外追放となります。私は百人以上も死刑執行したがこんな事ははじめてです。第二の人生に乾杯』と言ってブドウ酒をのませてくれました。再びシワキの収容所に連れ戻されたのですが責任者が十日、私が十五日間の減食営倉の処分を受け、平壌に連行されました」
死を賭しても国際赤十字に訴えよう、というほど抑留生活は苦しかったということであるが、それにしてもソ連にはわからないことが多い。
収容所から脱走に成功した人もいる。満州興安総省警務庁に勤めていてハバロフスクの北方にあるトイルマに抑留されていた長谷川周作氏である。ソ満国境まで冬のシベリアの二百キロを周到な用意と行動力で一人で脱走したのである。
二十一年三月、長谷川氏は鉄道支線延長のための地盤造成作業に従事していた。同氏には新京に家族がおり、アムールを渡ってしまえばなんとしてでも新京までたどり着く自信があった。脱走を決意した動機は「このままだと全員が栄養失調で死ぬ」と思ったほど収容所の食糧事情が悪かったからである。同氏は将校の持っていた地図から国境までは二百キロであることを確認し、食糧確保、防寒服の準備、国境線突破の三点について計画を練った。食糧は昼食用の黒パンを少しずつ残して蓄え、収容所入りする時に持っていた焼き米を加えると十分にあると計算した。作業では長靴をはかされていたが、防寒短靴が脱走には欠かせない。
幸い短靴は同僚が持っていた。毛布と交換して入手できた。問題はアムールの渡河である。泳いでは渡れないので、結氷した川が解け出す前の四月初旬までには河岸までたどり着かねばならない。二百キロを一週間かかる(一日三十キロ)として三月下旬に決行しなければならない。当時、作業は土曜が半休、日曜は全休であった。ソ連兵は土曜日になると酒を飲んで騒ぐ。月曜日に脱走が発覚したとしてもすでに数十キロも行っている。決行は三月二十三日の土曜日と決めた。
以後昼食のパンを少しずつ蓄え、日曜日にはリュックを小さく作り変えた。薬、塩、砂糖などを入れ、少しずつ持ち出して作業現場の山に隠した。同僚の何人かは気付いていて、眠気ざまし用にと、茶の葉を提供してくれる者もいた。
二十三日の土曜日、いつものように四キロ離れた作業現場に十列縦隊で出発した。現場は小さな丘が連なっている地形で草も枯れ見通しがよい。ソ連監視兵にもっとも発見されやすい条件がそろっていたが、逆に監視兵は安心してマンドリン(自動小銃)を持って、ぼんやりと反対方向を見ていた。この瞬間をねらった。二十メートルほど走って匍匐《ほふく》し、さらに三十メートル前進。物陰にかくれて日の沈むのを待った。ソ連兵は作業やめの合図をした。ソ連兵の数字に弱いことは定評があり、全員集合して点呼したがバレなかった。日が暮れ、寒くなった。防寒外とうを埋めてくれるように友人に頼んでいた場所には、埋めもしないで投げられていた。掛かり合いになるのを恐れたのだろうか。
防寒外とうを着て荷物を隠していた場所に行き、はいていた長靴を短靴にはき替え「第一関門突破」と自分に言いきかせながら歩き始めた。「実は私の脱走は当日わかり、皆に随分と迷惑をかけたことを後で知りましたが、脱走には万事幸運がつきまとったのです」。氏の行動を詳しく紹介するだけの紙幅がないのが残念だが、途中でソ連人に見つかり「どこに行くのか」と聞かれ「この先の収容所に帰るところだ」と答え、あやうく難をのがれたこともある。雪と夜の寒さには参ったが、茶の葉をかんで眠気を覚ましたり、ソ連人の民家の間をすり抜けたりしながら、計画通り七日目にアムールの岸に出ることに成功した。
幸運にもアムールは凍っていた。以下同氏の手記のままを引用する。
「山を降り真っ黒な道路を横断してしばらく行くと突如黒竜江の岸辺に出た。……ようやく我に返り付近の観察を始めた。下流はよく見えないが上流に向かって数キロが一望でき、ソ連領には点々と望楼が立っている。一向に人影は見当たらない。黒竜江上は氷が折り重なって凍結しており、氷上には岸辺から流れ出た水が静かに流れているが湧水がないことから氷に割れ目はなさそうだ。約三十分たっても人の気配がないので意を決して白昼堂々と渡河することにした。時刻は正午ごろ、河幅は四、五百メートルあろうか。水の冷たさに耐えつつ、はやる心を抑えるように向こう岸にたどり着いた。車陸湾子であることを知る――」
同氏はこの地で二ヵ月滞在し、警察隊の世話になった。まだ国府軍の支配下にあったのも幸いした。渡河に成功して一週間後にアムールの氷が割れて流れるごう音を聞いたという。ハルビン経由で新京に着き、妻と再会して二十二年十一月コロ島経由で帰国している。
逃亡はかなりあったらしい。成功率は低かったが、周到な計画と意志があれば成功している。陸軍主計中尉だった金井利博氏は中国新聞の筆者の大先輩だが、収容所から脱走に成功したことを直接聞いている。大学時代に冬山登山で鍛錬したのが大いに役立ったらしい。ハバロフスク収容所に抑留された当初、兵隊たちが「冬になってウスリー江が凍ったら逃げてやる」と言っていたのを記憶している従軍看護婦もいる。長谷川氏の同僚が二十四年帰国後「あんたの骨を拾いに行ったら別の隊の兵隊だった」と言ったそうだから、各地の収容所で脱走し、途中で射殺されたり、凍死した例が多かったということであろう。
収容所からの脱走についていま少しふれる。昭和二十二年八月、ソ連から帰国した小池照彦氏が同年十一月、永和書館から出版した『赤い星の下に陽を求めて』は、筆者の知る限りでは最初のシベリア抑留記である。著者の経歴をみると大正十三年生まれ、東京高等獣医学校卒業。十九年十一月応召、戦後、シベリアに抑留され、二十二年八月十日舞鶴に上陸、復員している。この著述の中にも逃亡(脱走)者、自殺者の記述が出てくる。ハバロフスク南方百キロのホール地区収容所の出来ごとで二十一年一月五日の日付がある。まだ軍隊組織が残っていて、ソ連側の命令で大隊長が“成績の悪い”山の作業(伐採)隊に注意に行かされた時の報告である。夜、下士官以上を集合させた大隊長は次のような訓示をしている。
「ホール地区長官の命令で山の大隊の成績が非常に悪いから注意して来いと言われて行って来ました。なるほど軍紀は乱れ士気も衰え、兵隊個人にも当大隊のようなハツラツさが欠けているように見られました。主な事件は逃亡一件、殉死(注、事故死)二件、自殺一件であります」
逃亡兵は二日目に捕まっている。その時の調書の記録がある。いろいろな意味で興味深い。
「なぜ逃亡したか」
「この生活がイヤになったからであります」
「作業がつらいか」
「内務班がイヤなのであります」
「逃亡して成功すると思ったか」
「わかりませんでした」
「このあたりの地理を知っているのか」
「知りません。ただ満州がこっちの方向であるということを聞きました」
さらに重要な記述が出てくる。
「大隊長は話を続けられた。逃亡兵の話によると薄暗くなって山から下りて来て、やれやれと休む暇もなく、古年兵の食事の世話から班内の掃除、飯盒の洗い方が悪いと言っては殴られ、返事が悪いと言っては殴られ、初年兵は始終ビクビクしている。捕虜になってまで、日本人同士でこんな目にあわされたくない。どうしても逃げようという気になったわけです……。このような事件を出さぬよう対策を願います。
次に自殺者です。日ごろから気の弱い男で作業もてきぱきできぬ兵でした。その前日上等兵にマキで殴られ、当日はまた作業場で班長にノコで殴られた。それでイヤになりゲートルで首をつったのです。上級者の私的制裁に耐えかねての自殺であります。最も注意しなければならないのは初年兵に事故が起こっていることです。諸君はよく考えてほしい」
この部隊は満州で編成された輜重《しちよう》隊である――。
小池照彦氏の『赤い星の下に陽を求めて』は初期抑留期のいろいろなことを教えてくれる。逃亡兵についての記述では初年兵でなく現役の二年兵二人が逃亡し、しかもソ連側の対応が、いたってのんびりしている点に特色がある。シベリアは途方もなく広く、収容所、時期によって大きな相違があることに気付く。二十一年某日の記述である。
「夕方の点呼近くに逃亡兵が出たと言って騒ぎ出した。二小隊の兵隊が二人足らぬというのだ。二人とも十九年の現役だが一人は東京で香具師《や  し》をやっていたという非常に朗らかな面白い兵でいつも皆を笑わせている。もう一人はその戦友で鼻っぱしの強い男である。夕食にもいない。点呼準備になっても来ないので騒ぎ出したわけだが、人員が足らぬのに作業から帰る時よく衛門を入れたものだ。ロスキー(ソ連人)の方ではまだ知らぬ様子なので、さっそく大隊本部から衛兵司令に連絡したが、ソ連側ではあまり驚きも騒ぎもしない。
『いつから居ない? 昨日はいたか』などのん気なことを聞いている」
二人は翌日帰って来た。「寒くてダメだ」と言っていたそうである。ソ連兵はニコニコして「ソルダート・ダモイ(兵隊が帰って来た)」と言っただけで、処罰もせずに作業に出させている。
いらい作業に監視兵がつくようになり、ちょっと現場を離れるとうるさく言う。不快になって「いつもいないのに今日はどうしているのだ」と言うとソ連兵は「兵隊が逃げるからだ」と答える。「逃げはしないから向こうに行け」「よしそれではお前がよく指揮しろ。それで兵隊が逃げたらお前を殺す」「よかろう、そうなればオレも逃げる」「お前が逃げるとオレが罰せられるから困る」という会話を交わしている。
この記述は入ソして五ヵ月目くらいの、二十一年一月のできごとであることに注意する必要がある。旧軍組織がほぼ完全な形で残っていた時期(入ソの時、多くは正規編成を解かれている)の、ホール地区での話である。
小池氏の所属していた輜重隊では、いまだ初年兵を古年次兵がコキ使っていたこと、大隊長が部隊を統率していたことなどがうかがえる。ただし隊長の訓辞は、軍隊調の武張ったものではなく、かなり“民間臭”の強いトーンが感じられることは注目してよい。初年兵をイビったのは、隊長でなく古参兵である。旧軍隊では私的制裁は公式には禁止されていたが日常的に行われていたことは否定できない。初年兵への私的制裁については注釈がいるが、旧軍隊のあしき習慣であった。戦後の日本でも反軍思想教育の出発点はここから始まったし、シベリア民主化運動もそうであった。運動が変質してゆくのはソ連の介入もあったが、運動自体の持つ法則でもある。
飢えと酷寒の中で
シベリア抑留者が科せられた強制労働は、どれ一つとして楽なものはないが、なかでも炭坑作業とか厳寒期の野外作業は日本人の想像をはるかに超える厳しさであった。
ハルビンに在住していた昭和十九年末、現役兵として白城子の飛行隊に入営、各地を転々として北朝鮮の咸興飛行場で終戦を迎えた藤森隆行氏は船でナホトカに送られ、約四十キロ奥地のスーチャン地区六十一収容所に抑留された。ハルビン時代、白系ロシア人からロシア語の片言を習ったのが幸いし、半年ばかり通訳のような仕事をやらされた。ソ連のやり方がおかしいのでスターリンの悪口を言ったら、たちまち石炭採掘の現場にほうりこまれたという。ハルビン育ちだから大陸的な寒さにも強く、現役入隊の二年兵だから体力もあった。内地育ちの日本人と比較すると「抑留生活に対する耐久力もありましたが、炭坑に入れられたときは弱りました」
藤森氏がやらされたのは切り羽の最先端で石炭を掘るザボイシフ(採炭夫)であった。
「エアポンプによる削岩機とノコギリを肩にかけて、腰にバッテリーをヒモでしばりつけ、ヘルメットの前にライトをつけ、足には靴下代わりの布切れを巻き、ゴムの短靴をはいて入坑します。作業服はだれかが何年も着古したキャンバス製でしたが、まあ浮浪者と言った方がわかりやすいような格好です。こうした姿で毎日三交代で急な斜坑を登り降りし、削岩機で石炭を掘りました。防塵《ぼうじん》マスクなどありません。石炭をいくら掘り進み、その後に丸太棒を切って何本立てるかがノルマです。またある時は坑道を掘ります。穴あけドリルでガラガラと石英層を掘るのですが、穴の先端から噴き出す白い石の粉が坑内いっぱいに立ちこめ、鼻の中も口の中も石の粉で固まってしまいます。石炭を掘るときは全身まっ黒。実働八時間の作業を終えると坑内からはい上がり、入浴(日本風でなくシャワー)を済ませてノルマを認めてもらい、隊列を組んで収容所まで二キロを戻ります。
睡眠時間を込めて次の作業まで十六時間ありますが、入坑する寸前まで炭塵のタンが出ます。タンがやっと白くなったかな、と思うころはまた入坑です。毎日この繰り返しです。坑道によっては天井からしたたる地下水で体中びしょぬれになりますが防水衣などありません。採炭夫はノルマに対する食糧の配分量が多かったので黒パンだけは多くありましたが、収容所で、他の者に分けてあげようとしてもソ連兵が許可しません。約三年間炭坑の中にいましたが、現在でも気管支炎が続いています――」
浅本数正氏も一兵卒として北朝鮮の興南から船でナホトカに送られ、スーチャン地区の収容所に入れられて採炭作業をした経験を持っている。この話は後述するとして、だれもが体験しているソ連人の計算能力の低さにふれておく。収容所を出て作業現場に行く時と帰った時に必ず人数を調べる。計算能力が低いから時間がかかり、特に厳寒期などは苦痛であった。ノルマ計算の場合でもトラブルの原因になったりしている。浅本氏の著書『シベリア抑留記』の中にも出てくる。
「ナホトカに下船して、さていよいよ出発。整列して番号を掛け、隊長が人員の報告をソ連の将校に行なったところ驚いた(船と陸ではソ連の軍人は全部入れ替わる)。隊長に向かって『お前は数を数えていないではないか。どうして数がわかるのか』と怒っている。彼らは日本の掛け算がわからないのである。
もう一回自分で数を当たると言って、我々を五列縦隊に並ばせ、一列ずつ前に出させ、手の指を一本ずつ折っている。手の指を十本使ってしまうとその五十人は別の場所に移動させ、混ざらないようにする。なんと時間のかかることおびただしい。彼らはこの手法でないと信用しないらしく三年間これでやられたのにはうんざりした――」
浅本氏が最初にやらされたのが伐採作業であった。抑留者が倒れる巨木の下に何か大声で叫びながら飛び込んで死亡した現場や、収容所内で発狂した少佐が立ち入り禁止となっている柵に近づいて射殺された現場を見ている。作業はそれほど苦痛であったのだ。
シベリアも六月になると新緑となる。が、このころになって栄養失調患者が急増したという。ビタミンCの欠乏による肝臓疾患で、朝起きてみると隣で寝ていた人が死亡しているといったようなことが度々あった。ビタミンCの補給のため、松葉をスープにしてみたが「飲める代物ではなかった」そうだ。浅本氏も大腿部を両手で握ると指先が交差するほどやせた。山で雑草(多分アカザ)をつみ、飯盒で煮て食べる者が多かった。ところがスーチャン病院で死体解剖したのを見ると野菜のアク抜きをせずに煮て食べたため、腸の内壁にアクがびっしりついていて、栄養の吸収ができなくなっていたという。同氏はケガをして入院し、回復後、軽作業の死体解剖の手伝いをやらされていた。「同じような死体を多く見た」とのことだ。
病気で収容所が変更になり、以前入っていた収容所の連中は帰国した。取り残された浅本氏は採炭作業を志願した。“命をかけてみる”気になったのである。
人の嫌がる危険な坑内作業を志望した時、ソ連将校が「みんな嫌がるのにどうして志望したのか」と聞いた。「夏、冬の気温が変わらない。それに食糧が多くなる」と答えたらソ連側は納得した。本心は、同僚が帰国して行くのを目の前にして、ただ一人残されたことで少々やけっぱちになっていたのかもしれない。浅本氏の回想記には具体的な作業内容が書いてある。
「まず坑内作業で一番初めにやらされたのはトロッコ押しの仕事。坑内作業は各団とも同じと思うが、一日二十四時間を三つに分け、一番が午前六時から午後二時、二番が午後二時から午後十時、三番が午後十時から午前六時の三班編成で私は午後二時に坑内に入って午後十時に坑内から上がって帰る。往復が約一時間ずつかかる……。坑道の真上に石炭の取り出し口があり、その下にトロッコを押して行き蓋《ふた》をずらして石炭をトロッコの中へ落とし、一杯になると蓋を閉めてトロッコを昇降機の近くまで押してゆく仕事で八時間で四十台がノルマになっていた。石炭掘りがしっかり掘ってくれないと、ノルマは絶対に達成できないのだが、それは私には関係なく、とにかく何台運搬したかで成績を採られるのだから変なことである。
初めて坑内に入ってびっくりしたのは、仕事をやろうにも石炭が全然ないうえに、たまるまで待っていろと言われ、三時間くらい寝て待つ。それから運搬して帰るまでには、まだ遊びの時間がある。……気温は冬は暖かく、夏は涼しい。食糧は最重労働で陸上作業の約二倍分配給があり、私の感じでは一番楽な仕事に思えた。運搬作業は一応、八時間だが、そのうち三時間は仕事が無くて、真っ暗ヤミの中で寝るのが仕事みたいなものだった。生産性は全く零に等しい」
こんな仕事から石炭を切り出す作業に回された。
「地下百五十メートルの斜坑で坑道から斜めに百メートルくらい登ったところが切り羽である。天井までの間隔が六、七十センチ、今にも落下してくるばかりの岩肌で覆われ、その中を匍匐前進で登る。肩には石炭を掘るエアハンマーをかけ、登りつくと真っ暗ヤミで、あかりは自分の頭につけている坑内灯だけが頼りで、休憩をはさんで前後四時間バリバリと掘ってゆく。その切り羽にはまったく私一人で、この作業ほど孤独な思いをしたことはない」
別の炭坑でも切り羽で石炭を掘ったが、落盤や機械の故障で危険も大きかった。
しかし炭坑内の作業が、伐採とか石切り、建設現場などの戸外作業よりも楽であった――という浅本数正氏の回想は、逆説的な意味を持つ。つまり戸外での作業の方がより苦しかったことの裏返しである。初めて手に持つ削岩機を使っての石炭掘りが楽であろうはずはない。
カラカンダとアルマータで炭坑内作業をやらされた戎喜佐登氏は「ロシア人の囚人を加えた三人組でトロッコ押しをやりましたが、それはひどい作業です。少しでも体を休めるとすぐに『ダワイ』(早くやれといったような意味)とソ連人の監督からしりをたたかれる。もっともノルマは上がりました。私はハラショー・ラポーチ(優秀労働者)で、最初の間は黒パンの増配でした。時がたつにつれてノルマ以上達成した者には賃金をくれたように記憶しています。どうせたいした金額ではなかったし、収容所内では使うこともなかったから金額はまったく覚えていません。ただ印象に残っているのは、ドイツ人捕虜と一緒に作業した時、まったく働こうとしないドイツ人の威張ったような態度です。ソ連人をバカにしていましたなあ」と回想している。
戦後のソ連社会は、戦勝国といっても食糧、住宅、衣料などの事情はいたって悪かった。敗戦国日本の戦後と同じような状況下にあったと思えばよい。厚生省の『舞鶴地方引揚援護局史』によると次のように分類している。
昭和二十年九月〜二十一年春=定量時代(窮乏時代)
同二十一年春〜同年冬=ノルマ時代(改悪時代)
同二十二年春以降=定量時代(改善時代)
この区分は引き揚げ者からアンケート調査した結果をまとめたものだ。もちろん一般収容所と特殊収容所(受刑者、未決拘置者)とによって相違があり、都市部と周辺部、または地区(ソ連側)の方針、ソ連人管理者の個人差によって相当な開きがあったことは言うまでもない。
最初の「定量時代」は全員に「少量ずつ給与した」時期で、しかも厳冬期を越えるという悪条件が重なり一番多くの死者、栄養失調者が出た。ノルマ時代は抑留者にとっては“改悪時代”と言うしかない。前にも記したように、体力の弱っている者はノルマがこなせないから食糧の給与が少なく、したがってますます体力を消耗する――という悪循環を生じたのである。ソ連が再び定量方式に戻したのはノルマ制の持つ悪循環に気づいたからである。一〇〇パーセント以上達成した者には賃金という形で現金を支払うようになった。もっとも全員が賃金をもらったわけではなく額も少なかったことは確かだ。
陸軍幼年学校――士官学校を卒業し、少尉に任官した直後にソ連に抑留された矢上義忠氏はチタ州のブカチャーチャ収容所に入れられ、幼年学校時代からロシア語を専攻していたということで通訳をやらされた。伐採、流木(春になって川の水がとけると冬に切った材木を下流に流す)作業などの現場で通訳にあたったが、ソ連人監督と衝突することが多かったという。
当時の体験を「二十一年になると『日本人も作業に慣れたであろうからノルマを厳しくする』とソ連側から押しつけられました。この時期から元気な者と体力の無い者との間で、食糧をめぐって険悪な空気が漂うようになって困りました」と語っている。同氏記述の『シベリア抑留記』は「ノルマの強制はこのような環境にある人間にとっては最も嫌な半面、最も効果的なやり方であった。それまでも一応はノルマを適用して食料を配分されていたが、個人個人には配分の差をつくらず、部隊内で全員が公平に割って支給する方法をとっていた。しかし、この方法は次第に許されなくなった。即ちほんとうの達成率によって個人個人に分配するよう厳しい監視つきの毎日が訪れるようになった。
一〇〇パーセント以上の者には三品も四品もの副食がつき主食も十分ある。五〇パーセントの者はそれを前に見てどうすることもできず半分ぐらいの量で辛抱しなければならない」と、ノルマ制の残酷さを切々とつづっている。
それといま一つの重要な問題は少々の凍傷や神経痛など病気として認めないことであった。発熱は三十八度になると作業中止になったが、目に見えない神経痛はいくら苦痛を訴えても通用しなかった。
「どんなに説明しても理解してもらえず、特に零下三十度の中で一日中重労働をしている日本人の中には年配者がかなりいて痛みを訴える者が多かったのですが、注射や投薬を望んでも聞いてくれません。休養しますと無許可の労休でサボタージュということになります。私はとうとうソ連人監督と大衝突し“恐怖大隊”と恐れられていた炭鉱のある収容所へ移されました」
二十一年十一月ごろ、伐採現場で、一組だけ「どうしても動けない」という訴えがあった。見ると手も足も凍傷にかかっていて作業のできる状態ではない。矢上氏がソ連人監督に休養を訴えると、烈火のごとく怒り「サボタージュだ」と言ってきかない。それどころか凍傷の二人を引き起こして突き飛ばした。矢上氏は反射的に監督に飛びかかり突きとばした。「所長に言って銃殺にする」「よろしい、じりじり殺すより一度に殺せ!」と大口論になった。
「その夜十二時ごろソ連兵が私を起こしに来た。昼間のことだな、と直感した。所長室のドアをノックする。中に入るとイスが一つ置かれており、所長の座っている大きな机までの距離が七、八メートルもある。所長の机にはピストルが置かれている。尋問は、なぜソ連人の現場監督と争ったのか、ということである。すごい口調でこちらの答弁のひまなど与えてくれない。『お前は今日の責任をとれ。明日“恐怖大隊”へ送ってやる。他にサボタージュの指揮をしている中隊長三名と共に“恐怖大隊”へ行け』。解放されたのは午前五時ごろであった」
骨っぽい将校を収容所から追放して思想教育をやるための処置ではなかったろうか。“恐怖大隊”とはブカチャーチャの第十三分所のことで石炭採掘作業をやらされていた。
午前八時、トラックに乗せられた。粉雪の舞う寒い朝であった。トラックの荷台にはホロもかぶせてなかったのでトラックがスピードをあげると身を切られるほど寒かった。トラックは三時間走り続けた。すべての感覚が無くなり、凍死の前兆である“ねむけ”に襲われはじめたころ、やっとトラックは止まった。収容所長の取り調べのあと翌日から坑内作業に回された。通訳だった矢上氏に肉体労働はこたえた。
「トロッコに乗って坑内の最深部に送られる。石炭を発破でくずしてトロッコに積み、十台のトロッコが一杯になると外に運び出して新しいトロッコが入ってくる。その間に発破をかけて石炭をくずし、トロッコに積む。この繰り返しである。石炭をすくい上げるスコップの大きさは、日本のものより倍はある。一杯にすると重くて上がらない。この積み込みを八時間、休む間もなくやるのである。発破をかける時間だけ休むが、いきなりの重労働で一週間ぐらいは骨がバラバラになってしまったようだった」
厚生省の資料によると、二十二年春ごろからしだいにノルマ制による給食制度から定量制に戻した、とあるが、矢上氏の記録によると、ブカチャーチャ地区では二十二年二月ごろからノルマ食が強制的に実施され始めたという。食事の時にソ連人を監視につけ、個人のノルマ達成表による給食表を公表してその通りに実施した。食事は食堂で向かい合ってやるが、多い者が少ない者に分け与えようとするとソ連兵が飛んで来て注意した。技術者は重用され鉄工、機械、建築などの技能者は二〇〇〜三〇〇パーセントのノルマ達成率をあげ、ソ連人の肉体労働者よりも、はるかによい状態であったらしい。
技術を身につけた集団――たとえば三十九師団(藤部隊)隷下の工兵三十九連隊はカザフ共和国のウスチ・カメノゴルスクに抑留され、水力発電所の付帯工事――ダムサイト建設作業――をやらされたが、工兵だからお手のものだし、同じ作業隊のなかに戦車一旅団の整備兵五百人が加わっていたからソ連側も“技術集団”として評価していたらしい。入ソ後の作業大隊長だった久野勉氏によると、入ソする時から幸運だったようだ。
「満州防衛のため中支(中国中部)から移動する際、体の弱い者は中国に残し、健兵約八百人で満州に入ったのです。雪中作戦に必要だろうというので白い綿布をトラックに二台買い込んで持っていました。終戦後、現地の満州人に売却したら、現ナマが金ビツに三個分もありました。終戦後一ヵ月間、四平街にとどまっていたので、隊員に思うようにお金を使わせましたが使い切れなかったですね。
入ソの時、四平街にあった野戦倉庫の係員と交渉し、米、みそ、しょうゆなど約一年分を貨車に積み込み、米の上で起居しながら入ソしたようなわけです。将兵の服装も全部新品と取り換えました。歩兵二百三十二連隊(福山)の一部も加え、千五百人で作業大隊を組まされたのです。黒河からブラゴエシチェンスクに渡ったのですが、黒河でニンジン、キャベツなどの野菜類も買い込みました。ウスチ・カメノゴルスクに着いたのは二十九日目でたしか十月十三日です。ここで工兵三十九連隊長の今井洸中佐を長とする八百人はさらに奥地のズイリヤノフスクに向かい、残りの七百人と戦車第一旅団の整備兵五百人、計千二百人がイルティシュ川の水力発電所工事に投入されたのです。
ウスチ・カメノゴルスクの収容所で食糧は全部ソ連に没収された格好にはなりましたが、半年間ぐらいは硬い米のめしを食べて作業しました。やがてソ連式の黒パン、スープに切り替えられました。作業にも慣れ、ノルマも上がるようになった時期でしたので、帰国後、他の人から聞いたような飢餓の苦しみは味わわなかったですね。
作業は最初からノルマ制です。ソ連人監督にごまかされているような感じを受けたので、ノルマ係の女性事務員にノルマ表を見せてもらい、猛勉強してノルマが上がるようにしたわけです。実は収容所としてもノルマが上がった方がよいわけですから、やがて収容所側と共同でノルマを有利な方向に持ってゆくようにしました。
少し詳しく説明しますと収容所は労働力の供給所で、現場はそれぞれの企業体(ホズ・オルガン)として労働力を利用し、収容所に対して賃金を支払います。収容所は独立採算制です。企業体といっても国家機関ですからノルマに厳しいのです。一面では――ノルマに関していえば収容所側と作業大隊とは利害が一致しているわけですから、直接企業体と交渉してノルマが上がるような交渉もやりました。こう申しますと何もかもうまくいったように思われるでしょうが、そこは抑留者の身です。苦しかったのも事実ですね」
ウスチ・カメノゴルスクの久野作業大隊に通訳として配属された香川文雄氏の『北槎記略 ソ連抑留』に久野大隊の描写が出てくる。香川氏は協和会に所属していた人で数ヵ国語に通じていた。久野大隊に“転属”したのは二十一年十一月初めである。
「衛兵所に着くとウィブロフ(作業主任の名)は日直将校に大隊長を呼びに行くように言った。間もなく色の浅黒い精悍な感じの若い日本人が入って来て、ウィブロフの前で止まると正確な動作で敬礼した。カーキ色の軍服に赤皮の長靴、大尉の襟章を付けたこの人が第二分所の大隊長であった――」
久野作業大隊が軍隊組織をそのまま残していることを物語る描写である。そして次のように記述している。
「『大隊長、この二人が君の補佐役だ。もう通訳がいないから……という言いわけはききいれない。いいな。ではこの二人に仕事のことを説明しておき給え』。この程度のことは通訳なしでもわかるらしく大隊長は苦笑して私と石沢さんをうながして構内へ案内した。一棟の中の部屋に入るとそこが大隊長の事務室らしく何か書き物をしていた二、三人が立ち上がって敬礼した」
しばらくして久野大隊長は香川氏と石沢氏を二百人ぐらい入れる棟の奥まった片隅に板で仕切った“将校室”に案内し、炊事係を呼んで昼食を持って来させた。
「私たち二人はその朝出発の時、規定通り一日分の食糧を現物でもらっているのでそれを言うと、彼は笑って『いいですよ。そんなものはあとで炊事に持って行かせましょう』といった。私は食物に敏感になり過ぎている自分が恥ずかしかった――」
香川氏ら通訳は大隊本部と呼んでいる一室に住むことになる。将校の居住区であった。香川氏は“本部”での将校の生活を一種の驚きをもって見る――。
「夕方になると作業隊が帰って来て構内はにぎやかになった。私たち二人は“本部”に入って来る将校たちに紹介された。みんな若い少尉か中尉で、中にはまだ少年のようなあどけなさを顔に残している人もいる。どの人もまず大隊長に向かって『作業、異常ありません』と報告してから、革脚絆を脱いで横になったり、たばこを吸ったりしながら話し始めた。久野大隊長もいちいち労をねぎらったうえ、みんなと学生口調で話している。
私が驚いたことには、彼らの話題がその日の作業現場のことでもちきりなのだ。いままでいた捕虜部隊でも、その前の第四分所でも、さらにはウラル時代は言うまでもないが、一日の労役から帰って、また仕事の話などする者はなかった。だれもが夕食と休憩を考えるだけで頭がいっぱいだし、口をきくのもおっくうなほど疲れていたのであった。
ところがここではみんな口角あわを飛ばしその日の作業を検討し、明日の作業の手順を熱心に研究し合っているではないか! さらに驚いたのは私など、まるで知らない専門的なことが数字入りで、事もなげに論じられていたことである。
『おい沖田よ、今日のあの土はねは〇・四か』ひとりが寝台に座ったまま言った。この人は重田という中隊長だった。『いや〇・四五だ。あの土はどう見ても四級土だ。三級ノルマで計算されたんではやれんわい』。沖田と呼ばれた元気そうな中尉は、肩から図のうを下げたままの姿で答えた――」
軍隊組織を保ちながらも、大隊長ら将校が「学生のような口調で話し合う」までに、久野作業大隊は“ソ連式”とは違った意味で民主化されていることを物語るものだろう。またこの手記には作業班が帰ると、班長が「生産本部」と呼ばれる事務室に入って、もう一度計算尺を使ってパーセントの計算をしている、と書いている。「実はここの下士官たちは工業学校を出ている人もいるし皆計算尺ぐらいは使えるのだ」。さらに「話しぶりは戦地いらいの上官と部下だけにいかにも親しそうで、私はしばしば仕事の手を休めて彼らの会話に聞き入っていた」と手放しで感心している。
二十二年八月ごろから、久野作業大隊の下士官兵は帰国してゆくが、ソ連は日本人将校の動向調査――密告をやらせたり、通訳に若い女性を近づけて情報をとろうとしたりした事実も、香川手記は述べている。察するに“ソ連戦犯”の摘発にソ連が本腰を入れ始めたのである。“戦犯製造”にもノルマがあったのだろう。
チタ州カダラ収容所に抑留された二百三十一連隊(広島編成)を中心とした作業大隊千五百人のうち、一冬で五百人以上が死んだと古田勇氏は体験を語る。死因は栄養失調とシラミを媒体とする発疹チフス、赤痢であった。
同じ行動をとった水田高敏氏によると同連隊のうち第二大隊、第二機関銃中隊、第三大隊のうち九、十中隊と第三機関銃中隊、それに関東軍とか警察官などが加わって第六作業大隊を編成したという。
入ソ後、最初に入れられたのはドイツ人捕虜のいた収容所であった。コルホーズ(集団農場)でとれたジャガイモを入れる倉庫を建てると言われ、命じられるままに半地下式のものを十棟建てたら、中を二段式ベッドにして自分たちが入れられた。脱走防止用の金網も張り、見張り塔も建てた。なんのことはない。自分で自分を閉じ込めたのである。
前に紹介した同じ作業大隊にいた第二機関銃中隊の岩崎関雄氏によれば「作業隊のうち二ヵ月後には第二機関銃中隊の主力二百人がトルム炭鉱に移動し、ここで作業が始まりましたが半年後の二十一年三月にはカダラ収容所は病人と死者続出のため病院となり、動ける者のみがまた他の収容所に移動させられました。ここでバラバラとなったわけですが、今でも忘れられない数字があります。『入所人員千五百人、転出二百人、残員千三百人、三月末収容所閉鎖時、死亡者六百九人』。最初の何人かは遺体を完全に焼いたのですが連日の死者続出で、ついには手首をタポール(オノ)で切り焼骨して戦友が持ち、遺体は凍原に並べて埋葬し、まくら元に番号をつけた五十センチくらいの小さな柱を立てました。わずか半年間に部隊の半数が無念の死を遂げるという残虐極まる収容所でした」と歯ぎしりする。
古田氏も回想する。「死者は裸にして凍原に埋めます。ソ連人に言わせれば死者は物体に過ぎないので、絶対に衣類をつけさせない。凍原を掘るといったって簡単ではありません。ツルハシを打ち込んでもハネ返します。一日がかりで火をたき、凍土がやわらかくなったところで掘りますがせいぜい二、三十センチくらい。その中に死体を置き雪などをかけます。翌日行ってみるとオオカミか山犬かに死体がさらわれていたりして、とても口では表現できないむごさでした」。腹がへり、中には馬糞に交っている未消化の穀物を拾って食べる者までいた。二十一年春ごろまでのシベリアの状況は地獄絵そのものであったという。
チタ州カダラのトルム炭鉱、ノウビ炭鉱などで採炭作業に従事した水田高敏氏は坑内でのトロッコ押し(出炭)と支柱立てを主としてやらされた。一日のノルマがトロッコ二百台であったが、最高の出炭数は百九十五台であったと記憶している。
「一番苦しかったのは坑内が崩れないように支柱を立てる作業でした。狭い坑道の中を、丸太棒を二人で持って切り羽へ運びますが、“肉弾三勇士”のような格好で丸太をわきに抱え、はうようにして進みます。無理な姿勢ですからこれには泣きました。裁縫、時計の修理など技術を持っている人は仕事は楽だったようです」
いつしか坑内でソ連の悪口を言うと、だれが告げ口をするのかソ連人監督の耳にすぐ伝わるようになった。二十二年ごろからいわゆる“民主化運動”が本格化するが、これは改めて記述する。
同じ収容所にいた古田勇氏は坑内労働の苦しさはともかく、日本人収容所の近くにウクライナ人家族の収容所があり、百人か二百人抑留されていて、日本人と同じように採炭作業をやらされていた姿が強烈な印象として残っている。父親は娘の、娘は父親のノルマを気にしながら労働していたという。元来ウクライナは独立連動が盛んであり、独ソ戦の時ドイツ側について戦った部隊もあったし、ソ連からみればはなはだ危険な民族ということになる。ウクライナ人捕虜(というより囚人)がいても不思議はないが、ソ連人女性も坑内で働いており、トロッコが脱線したときなど、若い女が一人で腰を落として持ち上げ元に戻したのには驚いたという。
抑留生活を語る場合、冬季の便所と夏季のブヨの大群のことは欠かせない。地面に深い穴を掘り、その上に木材を渡し、天井に板を置いただけの構造で仕切りや戸はない。ソ連占領下のハルビンでも、ソ連兵が便所の扉を取り除かせたとの証言もあるから、便所をオープンにするのはソ連流なのだろう。女性の性道徳も乱れており、後藤敏雄氏の『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』(国書刊行会刊)には「不道徳と言うよりも無道徳」と書いてある。取材中にもこの種の証言はいくつも聞いた。生まれた子供は「スターリンの子供」であり、妊娠中はそれなりに社会保障が与えられるかららしい。これもソ連流であろう。
とまれ日本人はオープンな場所で用を足さない。前掲書の中に、陸軍少佐がこっそり用便しようとしてサクに近寄り過ぎ、ソ連監視兵に射殺された例を書いている。
どの抑留体験者に聞いても便所には弱ったという。ずらり並んで用を足すのだが紙がないし、下帯を少しずつちぎって用いていたが、すぐになくなる。黒パンを常食にしているソ連人はウサギの糞のようになって、紙など使う必要はなかったらしい。やがて日本人もそうなった、という記述もあるが、慣れるまでには時間がかかった。
野沢恒夫氏の回想記に次のような内容の記述がある。
「ある夜うめき声がして全員が目をさました。土間の入り口から聞こえてくる。K少佐が倒れていておびただしい血が暗いランプの光でドス黒く見えた。K少佐は『何者かに臀部を刺された』という。直ちに収容所長に連絡して私たち五人は警備のソ連兵と共に便所に急いだ。構内のサーチライトが隅々まで照らした。検分の結果、K少佐は人間に刺されたのではなく大便に刺されたのである」
シベリアの寒気は便をも直ちに凍らせる。うずたかくなって先端はやりのようになる。K少佐は、たしなみとして夜間を選び、急いでしゃがんだのである。途端、大便の先端がK少佐のおしりを貫いたわけだ。いらい冬季は、金づちを持って便所に行かねばならなかった。便所のくみ取りは凍った便を削り取って外に捨てるのである。削っている間に小さな水片が衣服に飛び散る。収容所内で衣服に付いた水がとけると、異様な臭気を発することになる。
シベリア抑留者六十万人が全員体験したことで、シャイな日本人にとっては、たまらなく苦痛であったろうと思われる。
旧旅順師範学校を卒業して教職につき、二十年五月、根こそぎ動員で牡丹江の乗馬小隊に入営、満ソ国境の寧安でソ連軍と交戦。二十一年十一月初旬、イルクーツク州のタイシェット地区に収容された高原俊則氏は、バム鉄道建設作業に使われ二年を過ごしたが「夏は毎日必ず夕方前に降るスコールによって、森林地帯は湿度が急上昇し、山蚊、山ブヨの大群に悩まされ、小枝を帽子にさしこんで顔のあたりを振り振り防御した」と思い出の記に書いている。これが「モシ蚊」と呼ばれるブヨの一種で、多発した時には「シャー」と音をたてる。スープをすする時など皿の中に入って来るので仕方なしに食べてしまう。モシ蚊に刺されると痛がゆく、ひどい時には化膿する。
冬寒いだけでなく、夏は四十度近くなることもある。一年の温度差が六十〜八十度もある自然環境の中での抑留生活は想像を絶するものであったと確実に言える。
抑留下の悲劇
シベリア抑留を語る場合、前に事件名だけを紹介したモンゴル人民共和国の首都ウランバートル収容所で起こった“吉村隊長事件”と“ナホトカ人民裁判”を無視するわけにはゆかない。前者は日本人作業隊長の隊員虐待事件で“旧軍将校の横暴”という側面を持つものであり、後者はそれと対極をなす“アクチブ(活動家)”による“左傾化しない日本人(反動)”に対するつるし上げ事件である。まず“吉村隊長事件――暁に祈る”について書く。
昭和二十四年三月二十三日、元隊員二人の告発によって政治的問題ともなり、同年六月参議院在外同胞引揚委員会は四日間にわたって証人喚問。東京地検は全国三十七地検の協力を得て元隊員を調査し、「遺棄致死」「逮捕監禁」で七月十四日、吉村隊長=本名・池田重善(当時三十四歳)=を逮捕した。同隊長は二十五年七月、東京地裁で懲役五年の判決を受け、控訴審でも懲役三年の実刑を言い渡された。三十三年三月、最高裁が上告を棄却したため刑が確定し、大分刑務所で服役。刑期を一年残して釈放された――という経緯をたどった。
昭和二十四年三月十五日付の朝日新聞に、吉村隊長を告発した元隊員の訴えが掲載されたのが、社会問題、刑事問題、国会での審議につながる契機となったものだ。朝日新聞の見出しは「同胞虐殺の吉村隊長・生き残り隊員が語る」「外蒙抑留所の怪事」「生身のまま冷凍人間/鬼畜リンチの数々」とセンセーショナルである。もっとも二十三年ごろから、吉村隊長のことは抑留記の中に出ており、朝日新聞の記事が初めてではないが、全国の新聞が競って取り上げるキッカケは作った。
当時のマスコミは競って報道したから年配の読者なら記憶されていることと思う。雑誌にも隊員の手記が掲載されたし単行本も出された。当時“暁に祈る”という言葉は上司が部下を虐待する代名詞とさえなった。旧軍の体質を暴露する用語ともなった。吉村隊長事件については、二十二年五月、自由出版社から出版された、鈴木雅雄氏の『春なき二年間 ソ連の秘境ウランバートル収容所』の中に紹介されているものが筆者の知る限りでは一番早い。この著書は同じウランバートルに抑留され、吉村隊長と同時期に帰国した小原二郎氏から提供されたもので、同氏は「吉村隊のことはウランバートルでは有名で私も話には聞いています。戦後二年間、収容所内で軍隊の階級章が通用していた文字通りの秘境でした」と語っている。著者の鈴木氏も小原氏も同じ行動をとっており、略歴を読むと昭和十一年東京商大卒業、大連福昌公司に入社。十九年召集され公主嶺で武装解除後、黒河からブラゴエシチェンスクに入り、シベリアを横断してウランバートルに入っている。
小原氏によると九月中旬に公主嶺を出てウランバートルに十二月二十八日に着いたそうだ。シベリアを横断したのだから三ヵ月はかかったはずである。ソ連とモンゴル人民共和国の国境は歩いて越えた。包《パオ》(テントのような住宅)で一冬すごし、作業は伐採であった。もちろん吉村隊ではなかったが、隊員が移動するからうわさは広く伝わる。
吉村隊長の横暴ぶりを伝えるうわさは、ナホトカの民主グループの間にもよく知れわたっていた――と帰国する吉村隊長をナホトカで見た四国五郎氏は語る。
四国氏は帰国後、参議院の特別委員会に証人として出席を求められ、“シベリア民主化運動”について証言した体験も持っている。
「ウランバートルからすごいのが帰って来る。生かしては帰さんと言う者がいるそうだ。同じ船で帰したら船の中で生命の危険があるというので、民主グループがソ連側と交渉し、吉村隊長の一味は一船遅らせて帰ったはずです。私は小さな紙にメモを書き、靴の先に隠して日本に持って帰りましたが、吉村隊長の帰国の時のメモがあります。私は志願してナホトカに残ったのですが(この経緯は後で書く)吉村隊長は将校の肩章をつけ、将校行李らしい荷物を部下にかつがせナホトカに下車しました。ちょうどハバロフスクの日本新聞社を牛耳っていた諸戸文夫がナホトカに来ていて、帰国者の梯団を前にしてアジ演説をやりました。諸戸は途中で急用があるとかでハバロフスクに帰りましたが、吉村隊の隊員から吉村の横暴を発言する者が出て――その男は吉村の配下にやられ血みどろになって入院したことも記憶しています――」
諸戸文夫――モロトフをもじってつけたペンネームで、本名を浅原正基というシベリア民主化運動の一時期の支配者である。ハバロフスクで印刷していた『日本新聞』をバックにソ連の政治部と深く結びつき“シベリア天皇”と称された。諸戸文夫こと浅原氏のことは改めて詳述するので、記憶にとどめておいてほしい。
話を吉村隊長事件に戻す。「肩章をさんぜんと輝かし、兵隊に将校行李をかつがせ、しかりとばしながら入所して来た一団があった。それが吉村隊長であった」という四国氏の記憶に対して「あの当時そんなことはありえない」と否定する証言も多いが、たしかに吉村隊の隊員が新聞記者に証言した中に「モンゴル側から一躍中佐(注=当時、曹長)に任命された」という証言があるから、佐官の肩章をつけていたのは事実かもわからない。とはいえ、日本軍の階級をモンゴル側から任命され、それを肩章に付けて帰国するためナホトカまで出た、というのも不自然な話である。いくら軍隊組織が残っていたとはいえ、日本では通用しない。
ただ吉村隊長とその一味が隊員と同じ船で帰国しなかったのは事実である。とまれ、吉村隊長がどのように見られていたか――を鈴木雅雄氏の『春なき二年間――ソ連の秘境ウランバートル収容所』から引用しておこう。
「私たちを戦慄させたのは吉村隊の恐るべきリンチ(私刑)『暁に祈る』であった。
吉村隊は市の西郊外を流れる川のほとりにある羊毛工場に収容されていた。蒙古(モンゴル人民共和国)側から命じられた作業は採石その他であったが、吉村隊に限りもう一種類の作業が課せられていた。それは川上から流れて来る流木の引き上げやフェルトの靴造りなどであるがこれは隊長吉村少尉(実は憲兵曹長だったという)の内職とでもいうべきものであった。彼は蒙古人と結託して私腹をこやし豪しゃな生活を送っていた。
兵隊は午前四時に起き、朝食前のひととき、冷たい川に入って流木を集め、そして一日の作業を終えて帰って来てから夕食まで、また流木集めが待っていた。しかも夕食後には深夜まで靴造りの作業が課せられるというのだからたまらない。体の具合が悪いと訴えても、隊長と同じ穴のムジナの軍医はなかなか休ませてくれなかった。ちょっとでも不平めいたことを言うと、兵隊の中にまではりめぐらされたスパイ網に引っかかって、たちまち隊長室に呼びつけられ、ぶちのめされた上、減食、絶食のリンチであった。
作業基準を果たさなかった場合も同様だったが、さらに再犯、三犯?となると絶食の上に営倉と称する屋根のない戸外同様の小屋に入れられる。
さらに吉村の憎しみをかった者に与えられる私刑が『暁に祈る』であった。まず彼は宣告を与えた者の衣類をはぎ取り、戸外に設けられた柱に後ろ手にくくりつける。吉村のやることはこれだけだった。彼は暖かい隊長室にもぐって、ロシアタバコをくゆらし、茶を飲み、やがて時がくれば毛皮の布団にくるまって眠るだけ。しかし酷烈な寒気にさらされた彼の被告は、暁に完全に冷たくなっていた。『暁に祈る』は死刑であり虐殺であった――」
この手記は、他人からのまた聞きだし、事実内容について、かなり間違いがある。が、吉村隊長の“横暴”がシベリア収容所内で相当有名になっていたことは言えるだろう。時期的にみるとシベリア民主化運動が隆盛期に向かいつつあった時と一致していたことが“事件”を一層大きくした。
吉村隊長は旧軍の上官の権力を邪道に使った鬼畜――というのが一般の評価である。が彼がここまでくるのには多くの条件が存在していた。これがシベリア抑留の一つの特色であり、なかでもモンゴル人民共和国の置かれた位置――ある種の人種差別と、収容所長の悪らつさと、たまたま吉村隊長が憲兵曹長という、ソ連側に露見すれば“ソ連戦犯”にされる可能性のある「前職者」であったことなどが重なって起きたイヤな事件である。吉村隊長は官崎県出身で本名は池田重善。満州熱河省承徳の警備隊に勤務していた。抑留される時憲兵であったことを隠すために妻の実家の姓、吉村を名乗った。
吉村隊長事件は、本人がすでに刑期を終え、過去のことになっている。したがって年齢、住所は公判当時のものを使用する。参議院在外同胞引揚特別委員会、公判廷の記録から吉村隊長事件の全容をさぐってみよう。
二十四年七月十四日、池田は長崎県南松浦郡富江町から上京して東京地検に逮捕されたあと、東京地裁に起訴された。起訴状の核心部分は「モンゴル側所長から委任された処罰権を超えて隊員九人を不法に営倉に入れ、いわゆる『暁に祈る』処分にしたほか、二隊員に絶食など命じさせて死亡させた」となっている。
吉村がウランバートルに抑留されたのは二十年の暮れで、三百四、五十人の民間人、下士官兵からなる混成部隊であったため、曹長(憲兵)でありながら作業隊長に任命された。憲兵が抑留時に偽名を使った者は多く、初めから憲兵と分かっていたら、作業隊長どころかソ連刑法五十八条による“ソ連戦犯”で矯正収容所入りしていただろう。もっとも、憲兵とわかっていても、普通の収容所生活を送った事実もあったから、いちがいに言えないことを付記しておく。
憲兵という前身を隠すため、収容所長に対して万事が卑屈になる。それは作業能率を少しでも上げ、所長の歓心を買う以外にない。ソ連は人種差別の少ない国と言われているが、対モンゴル人に対しては別だという証言はいくらでもある。その反発か、モンゴル人は同じ黄色人種の日本人に対して冷たくあたったという人も多い。六年前の昭和十四年、ノモンハン事件で直接日本兵と戦った中にはモンゴル人が多かったし、敵視感が残っていたとの分析もある。が、モンゴル人所長の個人差によることはもちろんである。
吉村隊が収容されていたのは皮革、羊毛を作るコンビナートで、すでに同じコンビナートの別の収容所に長谷川貞雄大尉を長とする作業隊二百五十人が収容されていた。食事はアワ、コウリャンのカーシャ(かゆ)にキャベツなどのつけもの野菜という、初期抑留時代の最低なものであった。
が、最初の間はそれなりにノルマをこなしていたが、コンビナートの収容所長がモンゴル人のモチョッグ中尉に代わってノルマ地獄が始まった。二十一年である。五〇パーセント増となりやがて二倍になった。働けば働くほどノルマを上げてゆくソ連方式である。ウランバートルだけでなく、どの収容所でもこれに苦しめられている。「よく働いた者が弱い者を殺したことになる」と言い切る人もいる。結果的にそうなったのである。悪いことはさらに重なる。雪どけ(春)となり、川の氷がとけてくると上流からの木材流しが始まる。冬切った木を流すのである。それを下流で引き揚げる作業が新しく加わった。
事態はいっそう悪化する。モンゴル人所長のモチョッグ中尉はコンビナートで働いている作業隊員の中から流木拾いの作業員を出させ、「コンビナートでのノルマは残った人員で達成せよ」と言ったから、命令そのものがムチャであった。ただし条件として「小麦粉を増配する」と約束した。長谷川隊長は一度は難色を示したが、小麦粉の増配につられて作業員を出すことを承諾した。
しかしモチョッグ中尉は増配の約束を破った。怒った長谷川隊長は翌日から作業員を出すことを拒否した。ソ連流に言えばサボタージュである。モチョッグ中尉は長谷川隊長を一週間の営倉入り処分にして、むりやり隊員を作業にかり立てた。営倉から出て来た長谷川隊長は再び抗議行動に出た。収容所から与えられている小豆のカーシャをコンビナートで働いているモンゴル人に見せて、通訳に「こんなものでノルマ以上の作業をさせられている」と演説させた。
激怒したモチョッグ中尉は長谷川隊長を解任してラポーチ(労働者)に格下げして追放し、長谷川隊を吉村隊と合併させて吉村(池田)重善隊長に全権をまかせた。二十一年の夏である。間もなくモチョッグ中尉の解任事件が起きた。モチョッグが日本人を酷使した超過ノルマ代金や小麦粉を横領、横流ししていたことがバレたのだという。初期抑留時代にどこでもあった収容所長の横暴である。ソ連はこの種の不正が正規の政治将校にわかると処罰もきびしい。重労働五年に処せられたという。
後藤敏雄氏は『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』の中で「ソ連将校の糧秣の横流しは目に余るものがあった」「(収容所は)虐待の意思がなくても虐待せざるを得ないようにできている」と書いている。シベリア収容所での強制労働の本質をみごとに表現した言葉である。
収容所長の不正が政治将校に知られ厳罰に処せられたとの体験記も意外に多い。不正ならずとも悪事が政治将校にバレると厳罰が目に見えているから自殺した将校の話もある。ナホトカの収容所で、女性抑留者に乱暴を働こうとしたソ連兵を、日本人女性がピストルを奪って撃った、という話が伝わっているが、実際を知っていた高亀カツエさんの目撃談によると「暴行されかけた女性が大声を出して逃げたため、政治将校に知られて処分されるのを恐れ、ピストル自殺したのが真相です」と証言する。非常に厳しい側面もあったのである。
吉村隊長事件に戻る。モチョッグ中尉の追放後も食糧不足、過酷な労働は続いたが、二十一年九月から十月にかけては、「暁に祈る」ようなことは起きていない。
自分の体をはってまでも、モンゴル側の無謀な命令をはねつけた長谷川隊長と比較して、万事モンゴル側の言いなりになる吉村隊長に対する隊員の不満は十分に想像がつくが、それは“作業隊長”個人の考え方や姿勢の問題であって、隊員も「相手がソ連の言うことだから」という理解はあったと思われる。が、再び冬が来て、隊員に新しく石切り作業が命じられた時から、隊員の疲労は限界に達した。
ソ連での石切りは、鉄のツチでたたき割るのとノコで切断する二つの方法がある。日本でも“木挽《び》き”作業者は一日に“一升(一・五キロ)めし”を食べると言われるほど体力を使う。不満足な食糧しか与えられないうえに、体力を要する石切り作業に、隊員が耐えられるはずはない。問題はこのあたりから発生した。
「ソ連の言うことを聞いてよく働き、一日も早く帰国させてもらうのが最善」という考え方に立つ吉村隊長は、隊員にソ連式作業を要求したことは確かである。ノルマに達しないという理由で、フラフラになっている隊員を柱に縄でしばりつけ、懲罰を加えたことも公判廷で認めている。だから吉村隊長は、日本の法廷で裁かれ有罪となったのである。さらに吉村隊長が隊員の恨みをかった大きな理由は「隊長は十分に食べ、作業をしなかった」点にある。ソ連は隊長に対しては別の待遇をする規定がある。現在でも訪ソ団を組織して行くと、団長だけはホテルも乗用車も違う。“階級なき社会”ソ連の不思議な構図である。吉村隊長は自分が「憲兵であった」ことを隠すため、必要以上にソ連に卑屈になり隊員に作業を強制し、自供にあるように「ソ連から配給された米や肉を食べ」ながら、がい骨に皮膚をはりつけたような隊員をまで石切り作業にかりたてたのである。しかもリンチにも似た「暁に祈る」処分まで加えての上で。
シベリアで発生した“民主化運動”の起源が、吉村隊長のような不都合な隊長に対する反感にあったこともウソではない。だが、日本人の性格によるものか、何事によらず、少しでもソ連に近い立場に立つと、隊長ならずとも立場を利用してとかく利をむさぼるようになる。沿海州の収容所のことだが、第五軍司令部にいて抑留された鍵田法正氏の体験によると「入院していた時、炊事担当をしていた兵長は、患者の食事をピンハネして丸々と太っていた」という。階級は鍵田氏より下であった。将校も兵隊もない。人間の品格の問題であろう。
“暁に祈る”事件は、すでに法廷で裁かれ、服役も終わっている過去の事件であるため、これまで審理の過程で表れた事実に即して記述してきた。吉村隊の隊員は東北地方の出身者が多かったが、小田猛氏は、珍しく広島県出身者の隊員だった人である。旧満鉄に勤務し昭和二十年三月、第三九八九部隊(自動車隊)に現役入営、満州里経由でウランバートルの吉村隊に入った。もっとも最初からの隊員ではなくユルエ収容所を経て二十一年ウランバートルに入り、吉村隊には二十一年夏に配属させられた経歴を持つ。
「ユルエでは伐採作業で三百人の作業隊のうち一冬で九十人ばかりが死亡しました。民間人の多い混成部隊でしたから死者も多かったですね。ウランバートルに送られ病気にかかり入院していましたが、吉村隊は『魔の収容所』だといううわさが病院まで伝わっていました。
鉄道経験者が必要だというので、私と同僚とが満鉄時代の経験を買われて吉村隊の配属になりました。行ってみると収容所に『清心寮』と書いた建物がある。民主化されているなあと思いましたが、これが営倉だったんです」
小田氏が配属された二十一年夏といえば、まだ問題の起こっていない時期である。
「収容所は二階建てを三階にしたもので背をかがめないと歩けません。私は吉村隊長のいる部屋に起居したのですが、この建物は普通でした。私の仕事は羊毛コンビナートの引き込み線列車のカマたきで、二十キロぐらい離れた場所から石炭を毎日運んでいました。実は私は吉村隊長に悪い感じを持っていなくて、日本に帰って“暁に祈る”が社会問題となったとき、ある新聞社から吉村隊長の名指しだと言って取材されたことがあります。二十一年の冬には数珠つなぎされて“暁に祈”らされている姿も目撃しましたが、つながれている隊員は何かモンゴルの物を盗んだと聞いていました。
吉村隊長の権威はすごかったのは事実です。一度シャワーをあびに連れていってもらったのですが吉田とかいう当番兵が背中を流していました。流木拾いは朝のノルマですが私は元気だったので一番に走って行き、小さな木を五本選んでそれで終わり。それから本業の建築現場へ行っていました。体力の無い人は遅いですから運ぶ木材も大きく大変だったと思います。石切り作業は私はやっていません。吉村隊長も悪かったのでしょうが、最大の加害者は『すぐ帰国させる』とだまして抑留したソ連だと思います」
吉村隊長事件に類する行為があった日本人隊長――シベリア民主化運動も含めて――の作業督励について、若槻泰雄玉川大学教授の見解を最後に引用しておく。
「部下の作業を厳しく督励した指揮官も、わが身かわいさからばかりではなく、彼らなりの一つの見解を持っていたように見受けられる場合もある。……日本政府は何もできないし……自分たちは、ただひたすら我慢して働き、ソ連官憲の好意を獲得して速やかな帰国を嘆願するよりないという考え方である。いわば奴隷の従順さとも言うべきものだが、この従順さはソ連側の厚遇をかち取る代わりに徹底的に利用されただけであった」
少し視点を変える。終戦後日本人がソ連に抑留されていることが確実になったのは、前述したように二十一年夏になってからであるが、国際法に定められた「捕虜通信」が実現したのは終戦から一年後、二十一年九月である。日本政府の強力な働きかけで米ソ協議がもたれ、ソ連もやっと往復はがきによる捕虜通信を許したのである。
こうなるまでには外交権を持たない占領下の日本政府の、GHQを通じての涙ぐましい、ねばり強い釈放要求が続いたのである。だが、国際世論など問題視しないスターリン統治下のソ連は、日本の要求など、本気で聞こうとはしなかった。したがって、ハーグ条約にある「捕虜通信」でさえ一年間も必要としたのである。
ハーグ条約によると捕虜を擁する国は、留置、移動、解放、送還、入院、逃亡に関し相手国に通報する義務があるし、請求があれば回答しなければならないことになっている。戦勝国とはいえソ連は八百万人の人的損害(ソ連国防省発表)を受けたし、都市はめちゃめちゃに破壊されていた。アメリカ側資料だと人的損害は九百万〜千二百万人という。ソ連のために弁解すれば自国の復興、すでに始まりつつあった米ソ冷戦への対処に手いっぱいということもある。その点はわかるにしても、不法にら致した日本人抑留者の消息を一年以上も放任していたことは許されることではない。
捕虜通信は往復はがきである。片方に通信文を書き、片方に家族からの返信が返ってくるようになっている。最初に日本に届いたのは約八万通で、二十一年十二月であった。が、全員に対して捕虜通信が許されたのではなく労働成績の優秀者とか、都市部の収容所の抑留者たちである。もっとも偽名で捕虜になった者もいたから、全員に許されたとしても相当数は出さなかったとも考えられる。同時に日本側の事情もあった。多くの都市が米国の空襲でやられ家族の住居が不明であった人も多い。原爆でやられた広島・長崎などの出身者は特にそうであったろう。二十二年五月二十三日付中国新聞は「宙に迷っている」と広島、呉両市の家族に来たソ連からの捕虜通信七十六通を紹介している。カタカナのあて先もあり、当然ソ連の検閲があったから苦しい労働のことなどには触れていない。
つくられた“戦犯”
ソ連抑留の形態について、一般軍事捕虜(民間人も含む)とソ連戦犯容疑者(軍人と民間人)の二通りあったことは前に少し触れた。
ソ連戦犯容疑者はソ連の刑法五十八条に該当するとみなされた人たちで、関東軍の高級将校、官吏、憲兵、警察官、特務機関、情報機関などの関係者である。アクチブ(活動家)であっても、仲間うちの勢力争いに敗れ、ソ連戦犯に仕立てられた人々もいる。
このほかに中国戦犯九百七十一人が二十五年七月、毛沢東政権下の中国に引き渡されたことも前述した。中国戦犯と言っても、ソ連によって中国戦線に従軍中の“犯罪”が暴かれ、中ソ間の協定によってたらい回しされた人たちである。ソ連が参戦する前、手薄になった関東軍の戦力をアップするため、中国戦線から引っこ抜かれた三十九師団(藤・広島)、五十九師団(衣・東京)、百十七師団(弘・同)、六十三師団(陣・宇都官)が満州に移動して来たことも既述したが、この中では三十九師団が一番古くから中国に派遣されていたため、同師団から最も多く中国戦犯が出ている。
中国戦犯については別の機会に触れることがあると思うが、奇怪なのはソ連戦犯である。約三千人が、一方的に国境を越えて武力進攻して来たソ連によって戦犯と認定されたのである。正当な交戦は制服を着た兵士による攻防だから、ハーグ条約によって禁じられている毒ガスなどの使用さえなければ“犯罪”は成立しない。中国戦犯は、中国戦線で放火、民間人殺害などの事実があるから、いたし方のない点もあるが、ソ連戦犯の場合はどうみても問題がある。日本兵はソ連領内に入って武力行使をしたことはまったくなく、事実は逆である。一方的に日本はソ連にやられたのである。ソ連兵の“日本戦犯”はあっても、日本人の“ソ連戦犯”はあり得ない。
ソ連戦犯に仕立て上げられた経緯は、多くが“密告”である。ソ連戦犯――長期抑留者によって組織されている「朔北の会」の記録によっても明らかで、最初から戦犯容疑者として抑留された高級軍人、特務機関員などは別として、多くはソ連側の強引な取り調べによって一方的に断罪されている。アクチブから“反動”と見なされた人たちはソ連側に前歴を暴露され自白を強要され、ロシア語で書かれた文章にサインさせられている。またソ連側があらかじめ用意した文書をモスクワに送り、そこで審理して判決を下して来る。これは特審と言われている。控訴の権利はあるが、まず取り上げられない。
長期抑留者――ソ連戦犯の中には「行方不明」となっている者も多い。抑留中に死亡したか、ソ連によって処刑されたかのいずれかである。関東軍の情報参謀山下勉少佐、ハルビン総領事宮川祐夫氏、ハルビン特務機関長秋草俊氏以下国境地区にあった特務機関長も例外なく行方不明である。
こうした長期抑留者がどのような形で戦犯に仕立てられたか――は後で述べるとして、昭和二十五年、米ソ協定による一般軍事捕虜の引き揚げが完了したあと、長期抑留者はどのような経過をたどって帰国したか、を概述しておきたい。
長期抑留者は主としてハバロフスク、イワノーウォに集められて、なお数年の矯正労働を強いられた。囚人労働である。この事実が日本に伝えられたのは日本独立後の二十七年四月、まだ日本との国交もない時期、パリのユネスコ会議に出席するために渡欧中、四月三日からモスクワで開催された世界経済会議に参加(日ソ国交がないから不法出国になるが)した高良トミ参議院議員がハバロフスクの収容所を訪れてからである。しかし、ソ連側の高良議員に対する対応は、子供だましにも似た、奇怪なものであった。
終戦時、新京・寛城子の関東軍憲兵隊無線探査隊の憲兵准尉だった平田秀夫氏が『朔北の道草』(長期抑留者の会刊)に書いている「私の見て来たソ連という国」によると高良議員がハバロフスクを訪れたのは日曜日であった。普通なら日曜日は休むが加療中の重症患者以外は全員作業に出された。「彼らは高良女史を医務室にだけ案内したが、さすがに人気のない所内の空気に不審を感じた高良女史の『他の人たちはどうしているか』との問いに対して『毎週日曜には魚釣りや外出に連れて行くことにしており、本日は近くの黒竜江で釣りを楽しんでいる』とあきれ返ったウソを臆面もなくついて高良女史を翻弄して喜ばした」。さらに三十年九月、野溝勝議員以下七人の社会党訪ソ団がハバロフスクを訪れた時の模様を次のように書いている。
「一週間くらい前から収容所側の動きが慌ただしくなり、所内に砂を運び、道を修理し、入口や窓や寝台にカーテンをかけ(ガーゼでわれわれが作らされた)、食堂に売店を設けるなど異常な空気に包まれた。社会党議員団が来ることがわかっていたので『日曜日に必ず作業に出るから今日は出ないで所内に残る』と頑張り、交渉がもつれている間に時間切れで社会党訪問団が着いた」。ともかくソ連側のこそくなやり方が目に浮かぶようだ。
とまれ日本からの訪問団が訪れられるようになったのは日本の独立(二十六年九月四日サンフランシスコ対日講和会議)以後であるが、それまでに国連を舞台にソ連の捕虜問題をめぐって大きな動きが背景にある。具体的な動きが二十五年十二月十四日、国連第五回総会で起こった。
ソ連に抑留されている捕虜問題は当然国連で問題となり、調査委員会が設置され第一回総会がニューヨークの国連本部で開かれた。その後は二十七年から三十二年までジュネーブで六回開かれた。戦争捕虜問題に最も密接な関心を有するオーストラリア、ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、ルクセンブルク、オランダ、ソ連、アメリカ、イギリスの十一ヵ国はすべての会合に代表を送るよう求められた。しかし問題解決にとって最大の障害はソ連がジュネーブの会合に代表を送らなかったことだ(『検証―シベリア抑留』時事通信社刊を参照)。
スターリン死後の二十八年十一月になって、ソ連は赤十字代表を通じて「ソ連における日本人の行方不明、死亡者は一万二百六十七人であったが、名簿作成は難しい」と発表したのが捕虜問題回答の最初である(前掲書)。
昭和二十五年十二月十四日、国連第五回総会は「捕虜問題の平和的解決の措置」を決議した。人道的な立場から「今なお捕虜を有する国はできる限り速やかに無制限に帰国させること」「捕虜の氏名、死亡、死亡日時、死因、埋葬方法および場所を公表すること」などを骨子としたもので、解決のため「的確かつ不偏不党なる人物による三人委員会をつくる」ことにした。
三人委はエステル・ベルナドッテ伯爵夫人(スウェーデン)、ホセ・ゲスタヴォ・ゲレロ判事(サルバドル)、アウン・カイン判事(ビルマ)で構成された。
第一会期がもたれたのは二十六年七月三十日だが、占領下にある日本代表は参加していない。二十七年一月二十二日からの第二会期から日本は参加しているが、国連の三人委がつくられたのは、名指しこそしていないがソ連に抑留されている人たちが対象であることは言うまでもない。戦後七年もたつというのに、ソ連におびただしい各国捕虜がいたのである。ドイツ、イタリア、ポーランド、ハンガリー、ウクライナ、ユダヤ人などが日本人同様に抑留されていたのである。
二十八年三月五日、スターリン・ソ連首相の死亡によってソ連の対外政策は軟化し、第一回帰国(二十八年十二月一日舞鶴着)を皮切りに、長期抑留者の引き揚げが開始された。ロンドンで行われていた日ソ交渉と並行し、三十一年十月七日、モスクワへ乗り込んだ鳩山一郎首相とソ連の共同宣言に基づく第十一次帰国(三十一年十二月二十六日舞鶴着)によって、引き揚げは一応のピリオドを打つ。
もっとも未帰還者の正確な数字は不明だが相当いることはよく知られている。ノモンハン事件(昭和十四年)当時の捕虜に出会ったという証言、記録も多い。細馬静昭氏の手記『ソ連軍元日本兵との出会い』(広島県医師会編『傷痕』所載)によると、二十年十月、大連で言葉を交わしている。
「二十年十月中旬ごろだったであろうか。それまで進駐していたソ連兵が交代して新しい戦車部隊が大連に入って来た時のことである。
上蓋《うわぶた》を外して小休止していた兵隊はソ連軍服を着てはいるがどう見ても日本人に間違いない。恐る恐る話しかけてみると間違いなく日本人のソ連兵であった。聞けばノモンハン事件の時にソ連に捕虜となり、日本に帰りたくても軍規で銃殺されるというのでやむなくソ連に帰化して兵士になった人たちだという。
その部隊だけでも十数人はいたようだ。周囲に大勢集まった日本人から、同情と懐かしさからと、そして進駐ソ連軍の中に日本人がいることの力強さを感じて、みるみる多くの人たちから差し入れが行われた。しばらくすると数人の満人警官が戦車の側にいる日本人を拉致《らち》しようとした。今度はソ連戦車上の元日本兵が怒った。警官はほうほうの体で姿を消した。一時間近い小休止の間にも、それらの元日本兵は名前も出生地も絶対に明かしてくれずに去って行った」
若い読者には、当時の戦時捕虜の心理が理解しかねるかもしれないが、徹底的に軍人精神をたたき込まれた当時の兵隊たちには「捕虜」になることは死以上の屈辱であり、苦悩だったのである。
捕虜になったとわかると、家族、親せきまで白眼視される、という社会背景もあった。ノモンハン事件では二百四人が捕虜交換で帰されているが、例外なく将校は自殺を強いられ、兵隊は軍籍から除かれたうえ内地に置いてもらえなかった。生き恥をさらすよりも、いっそソ連人になろう――と思ったとしても、やむを得ないような社会情勢だったのである。大岡昇平氏が文化勲章を辞退したのは「戦時捕虜になった」ことが理由であった。数ヵ月後には日本軍全員が捕虜になったのだが、大岡氏の世代からすれば戦後四十年近くたっても、やはり“こだわる”のである。
日本は戦争に関する諸問題を規定したハーグ条約の延長線上にあるジュネーブ条約(昭和四年成立)には加入していない。ジュネーブ条約は特に捕虜に関しての規定が強まっている。日本が加入しなかったのは「日本兵に捕虜になるような者はいない」という、つまり「捕虜になるよりも死を選ぶ」というきわめて主観的な理由による。このためハーグ、ジュネーブ条約に規定された捕虜の問題について、ソ連に一方的な法解釈を与え、不法なシベリア抑留を生じさせたという論もあるほどだ。もっとも前述したように日ソとも拘束されるハーグ条約二十条に「平和克復ノ後ハ成ルヘク速カニ俘虜ヲ本国ニ送還セシムヘシ」とあるから、日本政府のシベリア抑留者の解放要求は、国際法理上正当性を持つことに、いささかも変わりはない。日本は戦後の二十八年になってジュネーブ条約に加盟した。「戦争放棄」したはずの日本が、捕虜の取り扱いを規定した条約に加盟したのも変な話である。
平成年代に入っても、現代史研究の学者の間で「戦後四十年もたっているのに、一人ぐらいノモンハン捕虜がソ連から名乗り出てきてもよさそうなものだ」という疑問が発せられている。「ノモンハン捕虜はいなかったのではないか」という目新しいアプローチである。
しかし細馬氏の目撃談のようにノモンハン捕虜はいたし、抑留者と一緒に何人かは帰った――と言う人もいる。二十四年末、ハバロフスク収容所から帰国した下瀬武雄氏の体験によれば、「帰国が近くなったころ、ノモンハン当時の捕虜のうち何人かと一緒になりました。多くは帰化、妻帯していたようですが、どうしても帰りたいという希望者は私たちと同行して帰国しました。しかし本名を名乗る者はなく、過去については一切話してくれませんでした。私どもは捕虜の意識のない、恥を知らない歴然とした捕虜であり、彼らは恥を知る捕虜だったのです」という。少なくとも現在政府が持っている帰国者名簿の中には、ノモンハン事件当時の捕虜名が含まれているはずだ。自分でアクチブの一人であったという下瀬氏の述懐を読者はどう理解するであろうか。
ソ連からの未帰還者がなお相当数いることは広く知られている、と前に書いた。ロシア人女性と結婚し、帰りたくても帰れない立場にあった人、民主化運動をやり過ぎて「日本に帰ったら殺される」と恐怖心にかられた人、スパイになれば早く帰すというソ連の甘言に乗せられ、一度は承諾したものの、スパイすることに対する日本人らしい後ろめたさから断念した人……と理由はいろいろある。「たかがスパイになるくらいで……」と現在の読者は不思議に思われるかもしれない。が“国を売る”“同胞を売る”という行為は、戦前の教育を受けた人なら、とてもたえられるものではない。日本人としての良心の問題――精神文化論に行き着く。
「スパイになったら早く帰国させる」という誘いは、確かにあった、と体験者の小原豊氏は証言する。勧誘は決して露骨ではない。が、うっかりすきを見せると食い下がって放さない。実に巧妙であったらしい。
「私は戦前に外交伝書使をやったことがあり、ソ連もそのことはよく知っていました。政治家、外交官など有力者と縁戚関係にある者に目をつけ、帰国後、ソ連に協力させるためのスパイづくりを全ソ的にやっていたもので、私も外交伝書使の経歴から使えると思ったのかもしれません。その象徴的な例が近衛文麿氏の子息の文隆中尉です。文隆さんは拒否して将官ラーゲリで死にました。ソ連では死体は解剖して死因を確認する規定があり文隆さんも解剖されました。立会った日本人軍医の証言によりますと自殺、他殺ではないと認められるが、若いのに肉体は六十歳の老人のように衰弱していたそうです。強く懊悩した結果でしょう。ある歯科医は苦悩したあげく自殺を選びました」。近衛氏の場合は日ソ復交が宣言されて十日後、帰国寸前の死である。
もっとも現実に、日本では「鹿地・三橋事件」というスパイ事件が昭和二十七年に発覚し話題となった。ある電機メーカーに勤務していた、シベリア帰りの三橋正男課長(当時三十九歳)が、ソ連のスパイである、と自首したのである。東京地裁で裁判に付され、結局米ソの二重スパイであることがわかるのであるが、三橋氏のように「スパイになる」と約束して帰国した日本人はかなりいたように思われる。公判廷での証言でみると、ソ連で誓約書を書かされて二十二年に帰国している。佐々木克己元陸軍大佐もスパイだったが、事件が発覚する前に事故死している。佐々木大佐は三橋氏に「ソ連に忠誠を尽くす必要はないから要領よくやろう」と言ったそうだ。つまり米ソの二重スパイを働いていたのである。一兵士も大佐殿も帰国したい心理は同じであった。
抑留者の帰国断念組の中で、はっきりしているのはチタ地区で民主化運動の大御所と言われた袴田陸奥男氏である。共産党代議士だった袴田里見氏の実弟である。「日本新聞」で実兄の里見氏が出獄したことを知り「自分も共産党員であった」とソ連側に名乗り出てリーダーになったと言われている。ハバロフスクの浅原正基(諸戸文夫)氏と勢力を二分していたことはアクチブを体験した人ならだれでも知っている。
若槻泰雄玉川大教授の『シベリア捕虜収容所』によると「……その最も陰険なものとしてはチタ地区で“志田天皇”と言われていた志田行男にとって代わろうとした袴田陸奥男の陰謀があげられよう。志田は中国語、ロシア語を教える満州国黒河の語学教育隊に属していたのだが、袴田はこの教育隊をアメリカのスパイ学校であるとして、ソ連検察機関に告発したのである。このため志田は失脚し袴田は目的を達したのだが、同時にこの教育隊にいた者が多数まきぞえをくって二十五年の刑に処せられている」とのことである。これではいくらなんでも帰りづらかろう。
長期抑留者の“候補者”として入ソさせられた前出の小原豊氏によると名簿に「スペツコンツィゲント」(特殊分子)と書いてあったそうだ。まず大ワクをはめておき、後でじわじわとワクの中にはめてゆくソ連方式である。長期抑留者にはならなかったが満州国の撫順協和会事務長時代に入ソさせられた伊木貞雄氏も大ワクに入れられた一人で、ほとんど懲罰ラーゲリ暮らしだった。抑留される時「お前は軍人だろう、協和会事務長だろう」と言われたそうだ。「日本人の密告ですよ」と伊木氏は語る。
「ハルビン事務長から撫順事務長に転出したことについても『どんな秘密を持って撫順に行ったのか』と相当しつこく取り調べられました。懲罰ラーゲリは夜は外からカギをかけるんです。用便はタルの中ですませ、朝、タルを外に運び出します。ソ連収容所長の横暴、堕落、嘘言にはあきれました。作業を終えてラーゲリに帰る時、みんなに木材の小さいのを四つ五つかつがせて柵の外に置かせる。廃材という名目で収容所長の自宅に持ち帰り燃料にするためです。食糧のピンハネも相当なものでした。
カラカンダの炭鉱で石炭車を押していて事故にあい左腕を失いました。入院中に『共産党小史』など何度も読み返しましたが、ソ連という国は目的達成のためには何をしてもいいことになっているんですよ」
ソ連兵は取り調べにあたっては拷問を加えないとよく言われている。しかし長期抑留者の会「朔北会」の調査ではそうではない。データもある。がその前に「帰国させる」と言ってナホトカまで出たが、再び奥地に連れ返された古田勇氏の特異な体験を聞こう。古田氏は中国駐留が長かったため、多くの“中国戦犯”を出した三十九師団(藤・広島)の隊員の一人である。
「二十三年の夏すぎ、ナホトカに出ました。約五百人もいたと思います。ソ連将校が海を指さして『見ろ、日本の引き揚げ船が来ていないだろう、日本政府の誠意がないから迎えに来ないのだ』と言って、アルチョングレスという所に連れ戻されました。ここで約一年間、発電所の建設工事をやらされましたが、その間に三日間、取り調べを受けました。ピストルを前に置いて『これに拇印を押せ』と言うんです。私の身上調書でしょうか、一センチほどの厚さの書類がありました。
私は三度とも頑として拒否しました。中国でやったことを調べていたのだと思います。拒否し続けると四度目の取り調べはありませんでした。それで私は助かったのですが……」
まったくおかしな“犯罪者”作りである。書類に名前(拇印)だけ書けばだれでもよかったのだろう。古田氏に“中国戦犯”としての確かな証拠があるなら、まず内容の取り調べから始めるのが筋だ。古田氏はいきなり「拇印を押せ」と言われたそうだから内容については全く知らされていない。事実、ピストルの脅しに抵抗できずにサインし“無実の中国戦犯”になった人もいる。半面、開き直って“戦犯”になった人もいる。
山田浩造氏は“中国戦犯”として中国送りされた一人であるが、ソ連将校の取り調べはとても厳しかったという。二百三十二連隊(藤・福山)の情報将校(大尉)で、抑留中も大尉の襟章をはずさず、カラカンダの炭鉱で作業指揮を執っていた。
「私の中隊は団結していましたから私をよく守ってくれました。ある日、ソ連兵がうちの隊員を殴ってケガをさせたことがありました。カッとなって、ソ連兵を殺すつもりでツルハシで追い回したことがあります。政治部将校に抗議し、殴ったソ連兵を懲役十年にさせました。ソ連はそうした側面もあるんです。まあ、そんなことでソ連からニラまれていたこともありますが、藤部隊の中国での行為に対して目をつけられていたんですね。正直なところ、中国戦線にいた部隊は大なり小なり、たたけばホコりが出ます。
二十四年の暮れだったか二十五年の初めだったか、記憶は正確ではありませんが寒い季節でした。ある日作業から帰ると取り調ベラーゲリに私を呼んで中国戦線時代のことを調査し始めました」
毛沢東政権が樹立したのは二十四年十月だが、すでにそれ以前から中国共産党の中国統一は時間の問題であり、ソ連に対して“中国戦犯”の引き渡しを要求していた。
「取り調べは毎晩行われ、三十日間は続いたと思います。ソ連の政治部将校が一人か二人、朝鮮人で日本軍のことに詳しい通訳がいました。『同期の者は中尉なのにお前はなぜ大尉なのか』といったようなことまで尋ねる。人間あそこまで責められると腹をくくれます。『功績をあげたから大尉になった』と言ってしまいました。『何人殺したか』と言うので『二千人は殺しただろう』と言うとソ連将校は大喜びで『手を出せ』と言って私に拇印を押させました。考えてもみなさい、二千人なんて殺せるわけがない。ただ自供だけ取ればよいのです。ソ連の取り調べはそれだけでした」
同じ二百三十二連隊(福山)で、やはり“中国戦犯”として中国に送られた富永正三氏の場合は、将校(大尉)でアクチブとなった男の“告白”によって、罪を問われたという。富永氏には『あるB・C級戦犯の戦後史』(水曜社、昭和五十三年刊)という著書がある。もっと読まれてよい良心的な著作である。
「昭和二十四年の春、カラカンダの第八ラーゲリに民主運動のアクチブ養成学校が開設されました。その講習生の中に将校の中から、ただ一人K大尉(現存のため名を秘す)が選ばれたのです。その卒業記念講演ともいうべき意見発表をK大尉がやり、白楊寺事件のことをしゃべったのです。何でもしゃべるのが民主主義者だと教えられ、講習で侵略戦争の罪悪性について目を開かれ、自己批判のつもりで暴露したのでしょうが、これが問題となったのです」
前掲書によれば「白楊寺事件」というのは昭和十八年末中国で起きた作戦時の民間人殺害事件である。白楊寺は嶮峻な山の上にあり、中国軍の堅固な陣地となっていた。山の下に集落があり生活物資の交易所になっていて、ここを拠点として中国兵が出兵し日本軍を悩ましていた。一挙壊滅を計画した三十九師団は、砲兵に山頂陣地を砲撃させ、第一大隊を集落に突入させた。第一大隊は女、子供、老人まで百数十人を惨殺し交易物資を牛の背に乗せて引き揚げた。
「白楊寺事件はわが連隊の歴史に一大汚点を残した罪業です。とはいえK大尉が余計なことをしゃべったからだとの非難もありましたし、ソ連側と親しくしている者の中からは『知らぬ存ぜぬで通せ』と入れ知恵された者もいました。ソ連人にはそんな面もある。しかし知っていることは何でも言うのが民主主義の条件という風潮もあり、他人のことまで得意になってしゃべってしまいます。戦争中の出来事などは殺人も放火も略奪も、別に悪いこととは考えていなかったのです――」
以下富永氏の『あるB・C級戦犯の戦後史』から引用する。
「そのころ、どこからともなく中国共産党の毛沢東からスターリンに対して在ソ中国戦犯の引き渡しの要請があったといううわさが流れた。(中略)こうなると自分のことは伏せておき他人の罪を暴く傾向があらわれてきた。――ソ連としては自国に関係のない対中国戦犯の取り調べだから手をかけて本人から白状させるより他人の口を借りる方が手っとり早い。そこで他人のことをしゃべってくれる者は重宝がられ、ソ連の心証がよければ帰国も早いだろうというわけである。それで後から調べられる者には自分の関知しないことが確定事実として調査官から押しつけられるといったことがしばしば起きた」
富永氏は記述こそしていないが、取り調べの過程で、最も人間臭い疑心暗鬼や言い逃れや多少の確執があったのではなかろうか。とまれ富永氏に対する取り調べ状況はどのようであっただろうか。
「短い夏も終わるころ、私に呼び出しが来た。数人の係員がいる。最盛期には数名の者が同時に調べられていたが、もう余裕ができたのか私は一人だった。私を担当したのは朝鮮系のソ連人で軍服は着ておらず日本語が達者だった。私が席に着くと『君がカピタン・トミナガか』と言ったきりジロジロながめ、部隊名、軍歴等形式的な質問をしただけで『もう帰ってよろしい』と言う。あまりにも簡単で拍子抜けの感があった」
つまり、ソ連は中国に引き渡すための大まかな罪状をつかむだけでよかったのだ。ただ一般抑留者の帰国が近づいた時、ソ連は意外な行動をとった。
カラカンダ地区の抑留者も二十四年になるとどんどん帰国者が出始めた。“中国戦犯”の取り調べが終わって秋の気配が感じられるころ、藤部隊(三十九師団・広島)員の多くが収容されている第八ラーゲリにも帰国の順番が回って来た。
「(白楊寺事件を暴露した)K大尉は初めは帰国組に入っていなかったが、出発直前に所長に呼ばれ、帰国者につけ加えられた。彼は荷物をまとめる暇もなく、あわててあいさつに回り整列にかけつけた。この異常な取り扱いが残留者の神経を逆なでした。彼は当然残される身でありながら、白楊寺事件を暴露した『功績』で特別に帰されることになったと考えられた。しかも出発直前に帰国者に加えられたことは、トラブルの起こることを考慮したソ連側のずるいやり方だ、とすべての不満と憤りが彼に集中した。中には『日本に帰ったら生かしちゃおかんぞ!!』といきまく者もあった」
K大尉は中国の白楊寺で婦女子百数十人を殺害した時の機関銃中隊長であり、富永氏は予備隊の指揮官であったから、直接討伐作戦には参加していない。立場は逆である。明らかに、事件を暴露したK大尉への論功行賞と言うしかない。これはまるで“司法取引”である。“した方”はよいが“された側”はたまらない。ただこの手口をみると、ソ連の“中国戦犯”のつくり方も、長期抑留者を国内法で裁いたのも、ずいぶんといい加減であると言える。戦犯製造というノルマさえ果たせば、個人のことなど、どうなってもかまわない、という硬直化した当時の体制の恥部を見る思いがすることは確かである。もっとも“勝者”が“敗者”を裁いた戦犯裁判を見ても似たようなものだからソ連だけを責めてみてもはじまらない側面は確かにある。
“中国戦犯”全体について述べるのが目的ではないので結果だけを記しておく。彼ら(九百七十一人)は二十五年七月、例によって行き先も告げられず、囚人輸送用貨車に乗せられて中国に送りつけられる。中国からの帰国は三十一年九月で終わるが、全員が不起訴となっている。やけになって徹底的に抵抗する日本人容疑者を辛抱強く訓練し、決して怒らず、もちろん暴力を加えず、旧軍の非を自覚させた上で、不起訴処分にして帰国させた中国のやり方はソ連と対極をなすものだ。長期ソ連抑留者の手記を読めば行間からソ連に対する憤りが噴き出ているが、中国戦犯の手記、証言には中国に対する“感動”はあっても非難はまったく聞きとれない。同じ社会主義国とはいえ、ソ連人と中国人の人生観の差なのだろうか。どうみてもソ連の方が分が悪い。
ソ連戦犯はどのようにしてつくられたか――。長期抑留者の会「朔北の会」の調査によると受刑者――ソ連戦犯が受けた拷問の種類と人員は次のようになっている。
▽絶食百二十四人▽減食三百十七人▽水責め三十八人▽寒冷責め六十一人▽睡眠を与えない九十九人▽脅迫百五十七人▽暴力百十五人▽その他六十三人、計九百七十四人。一人で二つ以上の拷問を併用された者も多いがその場合主な方を記載した、と注釈にある。このほかに百八十二人が拷問を受けずに有罪にされているが、これは何もかもおぜん立てして、いきなり裁判で有罪判決を受けた人たちであろう。
陸軍中野学校出身でソ連参戦時ハルビン情報部・特務機関の責任者(大尉)だった小田莞爾氏は二十年八月二十二日、秋草俊ハルビン特務機関長ら十六人の中に加わってハルビンからウオロシロフに飛行機で運ばれた。「東京ダモイ(帰国)」と言って飛行機に乗せたそうである。ウオロシロフでは一ヵ月間、毎日何もせず過ごした。
「ウオロシロフの赤レンガの建物で取り調べが始まったのは入ソ二ヵ月目くらいからです。その間ソ連は情報集めをやったと思います。飛行機の中で全員口裏を合わせて対ソ情報なんか取ったことはないことにしよう、と決めたんですが、特務機関の将兵も全員抑留されたわけですからとても隠すことはできなかったですよ。私は偽経歴で通し、元来が野砲兵五連隊(広島)の出身ですから、ソ連参戦前に着任したばかりだと言い切っていたのです。取り調べはおだやかで拷問なんてありません。調査官はタバコを出して『どうぞ一服』といった調子なんです。それがある晩、夜中にたたき起こされて取調室に入ると、取り調べの将校が直立不動の姿勢でピストルを突きつけ『本当のことを言え!!』ときましたね。
机上の書類を見ると秋草機関長の署名がありました。覚悟を決めてハルビン特務機関で対ソ情報を取っていたことを全部話しました。取り調べはそれで終わりです」
以後すぐに裁判があったわけではない。夏服のまま冷凍車のような貨車に乗せられ一ヵ月ほどかかって着いたのがウラル地方のスエドロクスであった。さらにタウダに回され、何か書類にサインさせられた。「将校だが労働する、という内容だったらしいですね」。ずっと国際ラーゲリで、ドイツ人、白系ロシア人などがいた。いらいウスチカメノゴルスク、アルマータと回され、フェルガナの収容所で二十五年の夏を迎え、はじめて裁判があった。
「フェルガナの収容所といっても正式には判決待ちの囚人のいる“中継監獄”です。ここでは三十人程の作業隊を連れて綿実油搾りの作業に通っていました。昼食は収容所に帰って食べ、また昼からの作業に出ます。二十五年夏のある日、『午後の作業に出るな』と言われ、ウオロシロフで調べられたのと同じことを調べられました。私と日本人の同僚の二人だけに『荷物をまとめよ』と命じ、刑務所に連行しました。ここで初めて裁判が行われたのです。まる五年待ったわけです。『日本語でやるかロシア語か』とまず言葉を選ばせ、下手な朝鮮人の通訳を介して『五十八条の反ソ行為で二十五年、謀略の罪で二十五年、計五十年の判決を下す』と即決です。謀略は陸軍中野学校出身だからだそうです。それでも『上申書を出せ』と言いましたから、日本語で西洋紙二枚に書いて出しました。まったくバカバカしい。
上申書はモスクワに送られたのでしょう。二ヵ月ほど刑務所で返事を待たされ、予想通り二十五年に決まりました。これで“立派な”囚人になったわけで、カラカンダ地区の矯正収容所に入れられました。作業は石切りです。炭坑の試掘もやりました。二千人程いましたが、ロシア人、ウクライナ人、ハンガリー人などがほとんどで、日本人は四人か五人しかいなかったですね」
れんが作りなどの力作業ではノルマが上がらない。ハンガリー人がよくしてくれて、その下の左官班に入れてもらったら半日で一五〇パーセントのノルマを上げるようになり、月に百ルーブルぐらいもらえるようになった。二十九年にハンガリー人が本国送還になったため左官班は解散。再び重労働につき、三十年になって、やっとハバロフスクの収容所に移された。「十年ぶりに日本式のふろに入って生き返った心地がしました」
長期抑留者が一様に体験したパターンで、昭和二十四年から二十五年にかけて裁判が行われ、懲役十年、二十年、二十五年の刑を言い渡されている。抑留して四、五年間労働させ、はじめて即決裁判で刑を決めるのである。刑期の中からこの期間は差し引かれない。取り調べ(裁判準備)に入った期間だけが未決勾留期間として差し引かれる。長期抑留者が刑期満了せず三十一年末の第十一次帰国で全員釈放されたのは国際世論と日ソ国交回復という政治的理由である。もともと実在しなかった犯罪だから釈放されるのは当然だが、人生の大半の歳月を失わせ、多くの死亡者も出している。このことだけは忘れてはなるまい。
“猛威”をふるった当時のソ連刑法五十八条を見てみよう(訳文は「朔北の会」)。
同条は十四項目で構成されているが、項目によってはさらに細分されているものもあるから全体としては相当な長文である。一九二七年(昭和二年)二月、ソビエト社会主義共和国連邦第三次中央執行委員会で採択された「国家犯罪」に対する刑法である。
同法第一項は「政府を転覆、崩壊または弱体化し、もしくはソビエト社会主義共和国連邦の対外的安全、およびプロレタリア革命の基本的な、経済的、政治的並びに民族的成果を崩壊または弱体化するすべての行為はこれを反革命とみなす」。さらに「すべての勤労者の利益の国際的連帯性に鑑《かんが》みて、右の行為がたとえソビエト社会主義共和国連邦に所属しない他の勤労者国家に対してなされた場合にもこれを反革命とみなす」と続いている。前段の文章は戦前の悪法「治安維持法」をほうふつとさせる。体制は異なっても“体制を守る”ためには、この種の発想に立たざるを得ないという見本である。
スパイ行為、国家機密漏洩、敵軍への投降、逃亡の最高刑は銃殺、全財産の没収である。もっとも死刑は昭和二十二年五月二十八日に廃止され、二十九年復活した。東京裁判でソ連の判事がA級戦犯に死刑の投票をしなかったのは自国が死刑を廃止していた時期にあったからに外ならない。「スパイ行為」の処罰規定は同条七、「サボタージュ」の処罰規定は同条十四である。また帝政時代の高官、スパイに対する処分規定(十三項)まである。
日本人抑留者に適用された罪状は「スパイ行為」「資本主義援助」「サボタージュ(怠業)」が主である。
日本人がソ連をスパイしたと言っても、ソ連領内で行ったというわけではない。満州国内や樺太でソ連情報を収集していた行為が同条に該当するというのである。仮想敵国の情報収集はどこの国でも行っていたことであり、相手国内で行わない限り処罰の対象になるべきものではない。
もっとも多くの日本人“受刑者”たちは、五十八条でやられたことは知っていても、どの項目に該当させられたかは正確には知らなかったと思われる。判決文をもらった、という人は非常に少ないからである。「資本主義援助」にいたっては、もはや言いようがない。資本主義国家の国民である日本人が、その体制下で日常の義務を果たす行為が、犯罪とされたのであるから、全抑留者は「資本主義援助」に当てはまる。
長期抑留者の手記集『朔北の道草』の中に、自分が有罪判決を受けた“罪状”を書いた記録がある。軍医大尉だった小日向和夫氏の『わが抑留記』である。
小日向氏は軍医という職掌柄、病死者名簿を持っていた。それがソ連刑法五十八条に抵触したのである。二十四年九月二十日、ウラジオストックの軍事裁判(すべて非公開)で「第五十八条六項ならびに第十一項該当で二十五年の矯正労働の刑を受けた」という。理由は「その名簿を日米諜報機関に提出するつもりであろう。それは即ち、ソ連の医療・衛生状況に関する情報収集でありスパイ行為と認める」というのである。第六項はスパイ行為、第十一項は「六項の予備または実行に向けられたすべての組織行為」を指す。
受刑者には気の毒だが、珍妙な記録もある。満ソ国境の守備隊に配置されていた将校がスパイ行為で調べられた。
たとえば次のような検察官とのやりとりがある。
問「国境監視部隊を巡視したか」
答「もちろんした」
問「ソ連の方を見たか」
答「無論見た」
問「それは諜報だ」
答「見たどころではない。見えるではないか」
問「国境まではみてもよい。その向こうを見れば諜報だ」
また、戦闘に関してのやりとりもはなはだ一方的である。
問「戦車攻撃にあたり、前からするか、後からするか」
答「そんなことは、その場の状況による」
問「それなら後からもやるか」
答「むろん、状況上やってよいときはやる」
問(結論)「それは謀略だ」
もはや五十八条に当てはめるための既定路線を走っているだけの感じである。
小原豊氏の手記『遺托児孫 ソ連抑留十一年記』にソ連法廷の記述がある。
「ある日、突然営倉に入れられた。裁判の準備だった。すべて神様まかせという心境になりジタバタしなかった。その後法廷――と言っても事務室に机を並べただけの所に引き出された。少佐の裁判長、中尉の判事二人、下士官の書記一人がいた。『今から軍事法廷を開く、裁判長○○、判事○○……』と述べて『この裁判構成に不服があるか』と聞いた。日本軍なら裁判長は被告より上級者でなければならない(小原氏は中佐)。が、言ってもムダなので黙っていた。すべてはまったくの形式だった。判事の一人は居眠りしていた。ソ連刑法五十八条六項により矯正労働二十五年の判決だ。
形式とはいえ裁判をやるのはよい方だ。日本人、ソ連人を問わず本人のサインを取った調書をモスクワに送り、後日、判決だけが本人に告知されるのが多い。これを『特審』と称し、ソルジェニーツィン(『収容所群』の著者)も特審であった。上訴の規定だけはあるが必ず棄却だ。中には本気で争う人もいたが、私にはバカらしいという感慨だけで、相手はソ連でなく神だと思っていた」
ソ連戦犯の“製造法”がだいたいのみ込めてもらったと思う。日本人抑留者は虫けらのように扱われたのである。
シベリアの刑務所で刑期を満了し、釈放された抑留者の奇妙な体験を一つだけ記しておく。
石黒章氏の記録である。石黒氏は樺太の国境に近い敷香町で呉服商を営んでいた民間人である。ソ連軍の進駐後、仲間十一人と手こぎ船で北海道に脱出を図ったが、霧と悪天候に阻まれて成功せずソ連軍に捕まり、三年の刑を受けてシベリアの囚人ラーゲリに送られた。労働も苦しかったが、思い出してもぞっとするのは牢名主のようなロシア人の囚人と看守に、金歯を抜き取られたことだったという。口の中は血まみれで激痛が走り生きた気はしなかった。
昭和二十三年刑期が満了。釈放される四人(他の七人の消息は不明)は責任者から「君たちは自由だ。ここから西の好きなところに行け。ただし講和していないから日本には帰すわけにはいかない」と中央アジアのスタセ・チユを指定された。
汽車の切符と食券をもらったが、何をせよとも、だれと相談せよとも言わない。野垂れ死にしてもお前たちの勝手、と言わんばかりであった。汽車での食事は三食ともパンで夜だけ魚の干物がつき、六日かかってチユに着いた。日本人はいない。途方に暮れていたらモンゴル人とロシア人の好意で農地の管理の仕事をさせてもらった。冬は町の劇場の夜警などをやり命をつないだ。ソ連では国に供出した以外の農作物は売ってもよい。商売人らしく石黒氏はバザール(市場)で露天商を思いつく。地面にたばこ、卵、ヒマワリの種、果物などを並べて売った。農民ではないから警官がその気になれば逮捕されても仕方がないが、不思議と文句は言われなかった。バザールの治安は悪く盗人も多かった。石黒氏の商売物も盗まれた。
石黒氏は盗人を迫いかけ、殴りつけ、投げ飛ばしたら盗人が負傷して大騒動となった。警官もやって来た。ソ連ではケガをさせた方が悪者になるが、勇気あるロシア人の証言で何事もなかった。
いらいバザールのボスに祭り上げられる。役人が毎日税金を取りに来るが、気前よく税金を払い、役人にも警官にもそでの下を使ってますます顔役になった。ロシア女性は働き者の日本人と結婚したがり、他の二人が結婚した。ソ連庶民の人種差別感のない、おおらかな素顔を見たわけである。出所して約六年間、ソ連官憲は一度も調査も呼び出しもしなかった。二十九年秋、突然帰国命令が出て第二次帰国組と一緒に帰ったが、駅頭では涙の別れがくり広げられたという。“六年間だけのソ連市民生活”には哀歓が伴っていたようだ。
民主化運動
ソ連製「日本新聞」の創刊
シベリア各地の収容所で「民主化運動」が荒れ狂うまでの経過について、厚生省の『引揚援護の記録』は次のように分析している。
▽第一期 懐柔時代(入ソ当初より)
▽第二期 増産期間(入ソ一年たってから)
▽第三期 教育期間(昭和二十三年当初から)
舞鶴に上陸したソ連抑留者の調査に基づく統計処理と体験者の記録から分類したものである。もちろん広大なシベリアにバラまかれた収容所であるから場所によって差があることは前述した通りである。
ただソ連当局が、参戦前から日本人を抑留して強制労働させると同時に、政治教育を施してソ連的人間――思想改造して“社会主義的人間”の育成を計画していたことは諸種の証拠によって証明できる。その最大のものは、二十年九月十五日に第一号を発行した「日本新聞」の存在である。
日本新聞はハバロフスク市に輪転機をすえた。結論を言うと廃刊は二十四年十一月二十七日で通算六百五十号を発行した。一般抑留者の最終帰国が二十五年四月であるから日本新聞も役目を終えたのである。それにしても二十年九月十五日といえばソ連が終戦――占領終結とみなした九月九日から数えて六日目である。日本人を抑留し、思想改造をほどこして帰国させるという計画はこれをもっても明白と言わねばならないであろう。
日本新聞の編集責任者は元タス国営通信社の日本特派員として八年間の滞日経歴を持つイワン・イワノビッチ・コワレンコ中佐(当時)である。一九一八年生まれ。ソ連対外文化連絡国家委員会、東南アジア部長を歴任、昭和三十六年、ソ日協会代表として来日したのを皮切りに、三十回近くも訪日している。
ソ連の外交路線決定は党中央委員会国際部が行うのは広く知られている通りで、外務省は党の方針に従って動くだけである。グロムイコ前外相もコワレンコ国際部副部長の強い影響下にあった。NHK元モスクワ支局長だった吉成大志東京外国語大学講師は、雑誌『文藝春秋』(六十年十二月号)に「コワレンコ副部長は、戦後ハバロフスクにあった軍捕虜収容所の係官時代、日本人を手なずけるには暴力、つまりムチとビンタがいちばん効くことを覚えたといわれ、党中央委員会国際部副部長に就任した後、このプリミティブな日本人観をもって対日政策を立案したといわれる」と書いている。
さらに次のような驚くべき内容の記述がある。
「一昨年(五十八年)私はワシントンにある某大学のセミナーに参加したとき、コワレンコ副部長(党国際部)についてアメリカ人学者から驚くべきことをきかされた。ある年、アルバートフ米国・カナダ研究所長とともにワシントンを訪れたコワレンコ副部長は、アメリカ人を前にして『日本問題については、私が絶対的な権力を握っている。私が党中央委員会国際部の名で立案した対日政策については、ブレジネフ書記長といえども反対できない。ソ連とアメリカが手を握って日本の頭をガツンとたたけば、日本なんか黙らせるのはわけはない』と豪語した」
当時のグロムイコ外相の、つまりソ連の対日外交姿勢が強硬であったのはそのためであり、ゴルバチョフ政権下の外相として六十年一月十五日来日したシュワルナゼ外相がどのような対日政策の変化を見せるかは興味のあるところであったが、実態はまったく従来通りで変化はみられなかった。
コワレンコ副部長がハバロフスク時代に習得した「ムチとビンタ」の日本人操縦法が事実とすれば、それは一部日本人抑留者の“民主化運動”のやり方と無関係ではない。狭いオリ(収容所)の中に閉じこめて置いて、抑留者を自由にあやつった方法が、現在の日本に通用すると思うのはコワレンコ副部長のご勝手だが、シベリア民主化運動の不毛性が現在も尾を引いているとすれば、なおシベリア民主化運動について掘り下げてみる必要はあろう。
日本新聞社はハバロフスクのレーニン街にある二階建て社屋にあり輪転機がガラス越しに見えた。今立鉄雄氏編著『日本しんぶん』(昭和三十二年、鏡浦書房刊)によれば次のような成り立ちであった。
「日本人側の編集責任者は諸戸文夫のペンネームを持つ浅原正基氏で記者には一九四八年(昭和二十三年)以降、日本経済事情、日本共産党の動きなどを書いた相川春喜(矢浪久雄)、天皇制打倒のスローガンを掲げるのに反対してプチブルと非難され、のち帰国した小針延二郎、東大工学部卒、元工兵中尉で論説担当の宗方肇、袴田陸奥夫(男)=日本共産党袴田里見氏の実弟=、高山秀夫、吉良金之助、井上清等がおり、印刷、植字、文選工等も加えて合計七十名からの日本人がいた」
紙面はタブロイド判四ページ(当初は二ページ)だったが、満州日日新聞(本社奉天市)の活字、用紙を大量に運んで来てからは活字も鮮明となった。編集は時期によって違うが、だいたい一面が国際ニュース、二面が日本の消息、三面が共産主義のPR、ソ連礼賛、四面が各収容所の報告などであった。
ハバロフスクにあった日本新聞の社員(?)の中には、ソ連人が六十三人おり、発行部数は「十万部程度ではなかったか」(若槻泰雄玉川大教授)という。日本新聞が「日本しんぶん」となったのは二十三年八月五日付からで「アカハタ」(日本共産党の機関紙)のスタイルをまねて題字も右肩に横書きにして置くようになった。
現在、一般の人が読むことが可能なのは国会図書館収蔵のものであるが、二十三年二月三日付から十月二十六日付までしかない(平成三年朝日新聞社から全部が復刻された)。その他筆者が知るものでは朝鮮北部の興南収容所に抑留され、二十一年十二月に帰国した清水信夫氏の所有している二十一年九月十八日(百十七号)、十月五日(百二十号)、十一月十六日(百三十七号)、十一月二十三日(百四十号)の四部である。帰国の際、他の荷物にまぎれこませて持ち帰ったという。散発的には一部か二部全国各地で発見されているが、そろったものはない。
北部朝鮮の収容所にまで配布していたところをみると、あるいは発行部数は十万部よりもはるかに多かったかもわからない。四、五人に一部の割合で配布されたというから二、三十万部はあったのだろうか。天皇制打倒をスローガンに掲げることに反対して非難され、帰国させられた小針延二郎氏が「福島民友新聞」の記者時代に『文藝春秋』(二十七年)に発表した「ソ連製『日本新聞』」によると、日本のニュースはNHKラジオをソ連の少佐と向かい合って聞きながら取材したという。後になると「アカハタ」(数日遅れのもの)も参照するようになった。NHKニュースを聞く場合、ラジオ室に日本人が入室できるのは労働ニュースとか新聞解説の時間に限られ、他の時間には入室することを禁止されていたという。
「一階の工場には六号活字(一番小さな活字)と初号(見出し用)から三号(同)までの活字が不格好なウマ(活字を入れるケース)にゴロゴロしている。小さな活字(記事用)がないので新聞記者だった私たちはその活字で新聞をつくる気になれなかったが、ソ連の記者は手ぎわよく大小の活字を巧みにとりまぜて編集している。
そうこうしているうちに満州日報(満州日日の誤りか)の機械と活字が運ばれた。この日から新聞をつくる興味がわいて、日本内地の新聞を想像しては編集をしていた。そして第二十号あたりから、どうにか新聞らしいものができるようになった」
第二十号といえば、週三回発行で出発したというから六週間か七週間目、つまり一ヵ月余りたってから、ということになる。「日本新聞」の本格的発行は十月中旬であろうか。
「ハバロフスク市の十月は、内地青森の十二月ごろのように朝から夜まで冷たい風が吹きまくるが室内は温かである。『コハリさん、だれが今日の新聞を書きましたか』と鋭くトゲのある女の記者エリナ中尉が詰め寄る。ソ連記者の気にいるように書けないのが日本人の常だった。何を書いても『ハラショウ(結構)』とは言ってくれない。ある日曜日の朝だった。エリナ嬢が入って来て『コハリさん次の新聞について話があります。私は軍閥と財閥の腐れ縁を将兵に知らせたいのです。それを書きなさい。私がロシア語に翻訳します。すぐ書きなさい』という。私は『書いてみますがエリナさんの希望通りにはとても書けない』と答えると、血相を変えて『ソ連の将校の命令に背くと罪が大きいのです。このことを承知して書くのですね』とデスクをたたいた。
そこへT少佐が入って来た。『日本人は事実でないものを書いても信じない。それより東京の放送をそのまま書いて知らせた方が新聞に早く親しめるし、ソ連の好意が分かるからその方がよいと思う』。しかし結局は書かねばならなかった。やがて書いた原稿を恐る恐るK少佐に差し出した。少佐の訂正が終わり、翌日私に戻って来たので、すぐ見出しをつけ再びK少佐の机に出す。それも訂正が済むと工場に回す。一つの原稿が三日もかかって活字になる。だから週三回はつらかった――」
日本新聞の草創期のもようがこの手記から十分に想像される。日本でも“軍閥と財閥のゆ着”は、戦後すぐ盛んに論じられた問題である。非常に初期の論点であり日本全体が、価値観の逆転現象の中で、混乱の極にあった状況下のできごとであった。
敗戦に伴って旧軍の独善と横暴が暴露され、軍国主義に非難が集中した。シベリアも日本も、ある意味では同じ主題が論じられたと言ってよいであろう。
当時“社会主義は善であり、従ってソ連はよい国、平和な国である”とされ、資本主義はアメリカにおいて終末期にあり、やがて消滅する“悪の根源”とまで極論された。この種の幼稚な論議が、むき出しの言葉で論じられ、活字となって町にあふれた一時期がたしかに日本でもあった。戦時中、投獄されていた共産党員は全員釈放され、GHQの総司令官マッカーサー元帥は、日本を赤化させる気なのか――と米本国で心配されたほど、その占領政策は徹底したものであった。軍国主義の復活を恐れるあまりの、マッカーサーの錯覚であったという見方もあるほどだ。が、マ元帥は、共産党員でさえも“錯覚”したような解放者ではなかった。
GHQの“解放政策”は労働組合の結成を奨励し、左翼指導者の復活、組織活動もあって日本国中が“一億総左傾化”の状況にあったことは否定できない。二十二年二月一日にはゼネストを予定し、マッカーサー司令官の中止指令が出なかったら、日本全国のあらゆる交通機関、生産企業、教育がマヒ状態となるほど左傾化は“常識的”でさえあったのである。
シベリアでも、敗戦による旧軍の崩壊、抑留という経過の中で、自然発生的に“反軍思想”が芽生えてきたのも時流だろう。旧軍隊で日常的に行われていた上官の私的制裁、将校の横暴を敗戦後も許容するはずはない。問題は兵士が、いつ、どんな形で行動するか、であった。そんな時に日本新聞による指導と啓発は旧軍組織を破壊し、平等な組織を作るという自覚の起爆剤となった。日本新聞は、抑留された兵士たちに“禁断の木の実をくわせる”大きな役割を果たしたのである。
日本国内とシベリアの収容所とでは本質的に異なるところが一つだけある。日本国内では、戦後すぐの急激な“左旋回”に対して、目をそむけ、沈黙し、傍観するだけの自由があったが、シべリアの収容所では、沈黙し傍観者的な立場に身を置く自由がなかったことである。加えて「一日も早く帰国したい」という抑留者の願望は、しだいに“シベリア民主化運動”を激化させるという不幸な経緯をたどった。
各種の回想記、体験談によると、まず“やくざ的暴力”が収容所内を支配した一時期がある。これは米軍管理下の収容所でもみられた現象(影山三郎著『レイテ島捕虜新聞』昭和五十年、立風書房刊)である。軍隊的組織力が喪失した収容所では“暴力”がものを言うが、シベリアではすぐにソ連政治部将校の支配介入によって、かつての左翼運動体験者が台頭する。具体的には収容所内での“反軍闘争”「日本新聞友の会」の結成である。
厚生省資料では次のように書いている。
「ソ同盟、内務省俘虜及び抑留者業務中央局の内規によれば、下士官、兵の規定第十四条は『下士官、兵は収容所長の命令に従い、あらゆる労働に服するものとす』と規定しているのに反し将校の場合はその規定第十二条第二項に『自己の希望及び選択により労働を行うこと』と規定し、その権利を放棄する自由が留保せられている。ここに重大なカラクリが秘められている。その上に給与定量がまだ当初ははっきりしていなかった。そして一般的に極めて不良であった。この二点は見逃すことのできない反軍闘争勝利への重大な因子である」
この手記は「なぜ反軍闘争が成功したか」をアクチブ(活動家)の目から眺めたものである。
「給与が悪いから将校は労働の権利(ソ連では権利と受けとる)を放棄する。兵は否応なしに働かされる。その上少ない糧秣は将校が多く取る。自然、将校と兵の間に、深いギャップが生じる。そして兵隊は『オレたちだけで団結して何とか楽しくやってゆこう』というのが即ち『(日本新聞)友の会』運動提唱の意義であり反軍闘争勝利への第一歩であった。かように、いわゆる被圧迫階級を組織する一方、下級兵士の中の比較的インテリで、将校の布団を敷いてやったり、三度三度の膳の上げ下げをしたりすることなどを、ニガニガしく思っている不平不満分子に呼びかけ“封建的天皇制軍閥打倒”の叫びをあげた。そしてハバロフスクを中心とする『打倒将校』の闘争が一応成功するや、日本新聞はいち早く将校を打倒した後の生活はかく輝かしいものである、と宣伝する。次々に多数下級兵士の不満を挑発しつつある基盤の上にこの闘争は燎原の火の如く成功していった――」
現在の若い読者には多少時代がかった表現に奇異な感じを持たれるかもしれない。が“封建的軍閥打倒”といったような表現は戦後すぐの日本でも連日のように用いられていたのである。
厚生省資料はさらに言う。
「この場合、注意してみなくてはならないことは、あくまでソ連の基本的政策を逸脱していないと言うことである。例えば、日本側の将校が、ソ連の言うことに従順で、卑屈な場合には、軍の建制(正規な組織)を破壊することなく、その幹部の統制力を十二分に利用する極めて巧妙な措置をとっている――吉村隊長事件の如きはこれの一変形であって、日本人の個としての脆弱性を衝くのはいいが、その背後にある強権と、そして政略を指摘し、同時にその角度から究明しなくては、吉村隊長事件の真相などわかるものではない――。
が要するに入ソ当初はソ同盟自体、非常な物資欠乏と人員の損耗に悩んでおったのであって徹底した生産第一主義をとっており、教育どころの騒ぎではなかったのである。しかしこの闘争期間を通じて積極分子(いわゆるアクチブ)を選考マークして後日の教育のために備えておったのはさすがである。――下級兵士もまたご多分にもれず上官を打倒して選挙によって指導階級になると、たちまち堕落してしまった。このような状況のもとにまき起こったのがいわゆる『つるし上げ』である」
戦後日本の“民主化の嵐”は、GHQの方針もあって、急速に広がったが、シベリアの収容所内では、国内ほどではなかったようである。厚生省資料にもあったように入ソ一年間は生産第一であり、本当の意味の民主化運動は二十三年からピークとなる。「友の会」が日本新聞を収容所内の壁にはり出したところ、最初はだれもがおっかなびっくりで眺めていたとか、将校が破り捨てた、といった回想記はいくらでもある。いわゆる「アカ」は戦前の日本人にとっては禁句であり、“帝国陸軍”の尾を引く組織の中で、そうそう容認されることではなかった。
佐藤利行氏の『ラーゲルを越えて 回想のシベリア民主運動』は、カラカンダ地区の民主化運動を回想したものだが、二十三年夏になっても収容所内にはまだ旧軍組織の大隊本部と民主委員会が共存していた事実が記述されている。シベリア民主化運動を、一つの物差しで説明することは難しい。広大なソ連領内に収容所が散在し、捕虜担当のソ連内務省の意向を実施するソ連軍管区の方針も一定ではなかったからである。
たとえばハバロフスク州ムーリー地区の収容所でみられた“民主化”の実態である。二十二年八月、舞鶴港に上陸した――というから早期帰国組に入る岩崎一三氏の体験は、激烈な民主化運動とはほど遠いものといえる。
三十二歳で召集され初年兵教育も終わらない間にソ連に抑留された岩崎氏は、ムーリーの収容所で黒パン一日二百グラム、塩っからいスープに夜は干し魚という給与でバム鉄道工事建設関係のきつい作業に従事させられていた。同郷の下士官が見るに見かねて将校の当番兵にしてくれた。収容所の中でストーブの番をやり将校の世話をするだけで作業に出なくてもよかった。将校の当番兵は必ずしも悪い役柄ではなかったのである。
「ただし夜間にレール(鐘の代用)をたたく音がするとギクッとしたものです。バラストを積んだ貨車が入ったという知らせで、どんなに寒くても総出でバラストを降ろします。凍りついていてツルハシもハネ返すほどで、くたくたになります。私のいた収容所では千人の作業隊員のうち一冬で七百人も死にました」
岩崎氏はヘビースモーカーでたばこに飢えていた。約束では兵士にもマホルカ(刻みたばこ)が配給されることになっているのに、まったくない。ある日、政治部将校の巡視があったので「たばこの配給がないのはどうしたことか」と意を決して訴えた。たばこは収容所長が横領していたことがわかり、翌日から全員に配給されるようになった。これが岩崎氏の運命を変えた。
「政治部将校に直訴したため、たばこの配給はあるようになりましたが、収容所長のシッペ返しにあいました。二十一年の春ごろだったでしょうか。入院を命じられたのです。もうダメだと思いましたね。病気でもないのに入院させるのは『食事を与えない』ということです。病院の食事は一日にサカズキ一杯のカーシャ(おかゆ)が定量です。二週間入院させられ、フラフラになって退院したら、同じムーリー地区の別の収容所に移されました。ここは既に将校と下士官の分離が行われていて民主化もかなり進んでいました。ちょうど委員長の選挙があって……私が選ばれたのです。私が収容所長の悪事を暴いたことが知れ渡っていて『闘士来る』と思われたのかもしれません。初年兵教育も終えていない星が一つの二等兵委員長です。困りましたが引っ込みがつきません。
例の政治部将校がやって来て『民主グループを何人か作れ。ただし強要はいけない』と言うんですね。私の委員長当選にはこの男の指し金が背後にあったのかと思いましたが、民主化しない者は帰国が遅れると言うのです。仕方がないので『それでは娯楽室を作ってくれ』と条件を出したらそれも即座に認めました。私は白樺の木を切ってマージャンパイを三組作り、マージャン仲間の連中を『共産党に入れ、でないと帰国がいつになるかわからない。帰国のためなら表面だけの共産党員になるぐらい何でもないぞ』と口説いて、相当数の賛同者を得ました。委員長と言っても作業は同じで給料なんか無く寝る場所も同じです。夜中に小用に立って戻ると、もう寝る場所もないといった劣悪な生活環境でしたね。
そうしているうちに、二週間ほど学校に入れられました。学校がどこにあったか、まったく記憶にないのですが、各分所から三十人ぐらいの受講者が来ていました。講師は日本人で、ハバロフスクで教育を受けたのだと言っていました。
正直言って講義はサッパリ理解できなかったですな。マルクスだの唯物論だのと言われても基礎知識がないからわからない。ただ帰りたい一心で講義はまじめに出席しました。討論があったかどうか、それも記憶していません。
二十二年になると各分所から四人か五人ぐらいが選ばれて、帰国するようになりました。民主化グループから選ばれたことは確かです。私も何度目かの帰国組に選ばれたのですが、新聞解説者という肩書をくれました。ナホトカではまだ『スターリン大元帥万歳』とまでは言ってなかったですが運動は高揚していました。
ナホトカに着いても、民主化されていないと見られるとまた奥地へ反転させられたグループもありました。だれの指示でそうなったのか――もちろんソ連の権限でやることですから命令はソ連でしょうが、ナホトカの民主グループの意見が反映された結果かもわかりません。そこのところが、なかなか難しいところで、当事者以外には『こうだ』と言明できる者はいないでしょう。私の印象ではナホトカは民主グループの巣窟だったということです」
「民主グループにそんな権限があるわけはない。悪質な中傷でありデマだ」と否定するのは“シベリア天皇”と称された日本新聞の浅原正基氏だが、あるいはそうかもしれない。こうした問題は後で追跡しよう。
岩崎氏が舞鶴に上陸したのは二十二年八月八日である。
「ナホトカから舞鶴までの引き揚げ船内では、私たちに関する限り、なんのトラブルもありません。ひたすら帰国の感激が船内にみなぎっていました。舞鶴で米軍にかなりしつこく調査されたことを鮮明に覚えています。名札を首につけて写真を撮られ『鉄道の引き込み線は何本あったか』『食糧事情はどうだったか』などのソ連事情ですね。初期の帰国順位は民主化されたグループからだ、ということはソ連側からはっきり聞かされました」
入ソ直後の「懐柔時代」から二十二年の「増産時代」にかけての民主化運動の典型が岩崎氏の場合であろう。委員長といえども作業には出たし、専従の制度もなかった。もっとも場所によって差があることは何度も指摘しておいた通りだ。
ムーリーに近く、同じバム鉄道支線の沿線にあるポルトワニー地区の収容所で民主化運動の体験を持つ河野卓男氏によると「二十二年五月には、運動従事者は二人に限って収容所内に残り、作業を免除されることになっていた」という。
同氏は京都帝大出身の一兵士で、シベリア民主化運動に火をつけた、いわゆるインテリ活動家の部類に入る。そして運動から遠ざかる(遠ざけられる)ことになるが、ソ連に抑留されて一ヵ月もたつと、大隊長に対する不満が、まず若い将校の多数からわき起こったという。大隊長、大隊副官、経理将校、作業係将校の四人だけが他の一般将校とは別棟に起居し、病人用の白米を失敬して常食にし、一般将校は兵士と一緒に作業に出ていても知らぬ顔をしていたからである。
兵士と一緒に作業に出ている若い将校の間から大隊長ら少数の“特権者”に対して不満の声があがった時点から、事実上の軍隊組織は崩壊したとみてよい。河野卓男氏の『シベリヤ抑留記』は「かような性質の不満がまず兵士から出ずに将校から出たということに私は非常な興味を覚えた。……大隊長が依然として当番兵を使用していることはまあ許すにしても、作業から疲れて帰り、そして米食から遠ざかっている兵隊が見ている所で、自分たちは日なたぼっこしながら当番兵に玄米に混ざった小石を選り分けさせているという無神経な図はたしかに感心できないことに違いない。
しかしまた、一般将校が作業場に出るとはいえ、兵隊同様の仕事をするわけでもないのに、兵隊より先に不満を表に出すことも、自分たちと兵隊の身分を戦後に到っても画然と区別し、兵隊の生活には何ら関心を持っていない証拠であり、これまた批判さるべきことであろう」と指摘している。階級意識で保たれている組織で、その統制力が作用しなくなると崩壊は時間の問題でしかない。
二十一年七月、日本語のうまいソ連人通訳が、河野氏の分所に大隊長を訪ね、兵隊に壁新聞を書かせて掲示するよう命令を持って来る。ソ連の指導による“官製民主化”の最初である。大隊副官が兵隊だけにまかせては面倒が起こると思ったらしく、各小隊から編集委員を一人ずつ出させるが、実権は大隊本部が掌握するという工作に出た。河野氏も編集委員の一人に選ばれた。大勢は帰国を前にして事を荒立てるのはよくないから、と河野氏が書いた食事配分および作業内容に関して、指揮者である将校連中の独善と不熱心を批判した原稿はボツにされた。が、将校間で回覧され、賛意を表明する者も出たというから、軍隊も事実上は変質していたのである。初年兵の河野氏の将校批判に、なんの報復もできなかったのがその証明であろう。
河野氏が本格的な民主運動に参加することになったのは二十二年五月である。アジレニアから千百人に近い大部隊が到着した。これが評判の“民主化”された部隊で(1)将校が階級章をつけていない(2)言葉づかいが軍隊調を清算している(3)全員が朗らかで和気に満ちていた、という。
「彼らの出現は田舎者が初めて都会人に会ったときのような気恥ずかしさと引け目をわれわれに感じさせるに十分であった」
新着部隊の民主委員長が翌日河野氏を訪れ、運動への参加を求める。
ソ連主導の政治運動
昭和二十二年五月ごろ、当時、“最も民主化された”部隊と評された部隊の姿は将校が階級章をはずし、言葉遣いも軍隊調を改めてはいたが、大隊の指揮者として大尉がいたし、主計将校もいた。それでいて民主委員長がおり、炊事委員、作業委員、宣伝委員、啓蒙委員などがいる。つまり軍隊組織と民主組織とが共存していたといった程度であったようだ。
“評判の民主化部隊”は部隊長と主計将校が率先して民主化――階級章の廃止と食事の公平化をやったということだから、指揮官の人格と思想によるところが大きい、ということでもあろうか。しかし二本立てではいつか組織に矛盾が生じるのは当然であったろう。“シベリア民主化運動”の限界と変質性は、しょせん、収容所内での運動の域を出られなかったところにある。ソ連の政治部という“重し”が厳然として存在し、その意向はいずこにあるのか、だれもがうかがい知ることはできなかったのである。
とまれ河野卓男氏が“シベリア民主化運動”にのめり込むまでの経緯を見よう。河野氏の部隊が“民主化された部隊”の指揮下に入れられたため、河野氏は啓蒙宣伝委員となる。まず民主化大会を開催して、将校と兵の差別一切をなくする目的で全将校の出席を求めた。将校は大会での混乱を恐れ、民主グループと各小隊の代表者のみの出席に制限するという条件でシブシブ同意した。夜半までかかって、階級章の撤廃、将校当番の廃止、将校食の中止を約束させた。河野氏の『シベリヤ抑留記』には次のように書いている。
「兵との差別を正当づけるこれら三つの制度はたしかに彼らにとっては未練の残るものであったらしく、これを無くした瞬間、彼らの持ち物をもぎ取られたも同然で、残るはただ、ひとりよがりな、みずからの優越意識のみである。だからと言って決して将校に同情してはならない。内地ならいざ知らず捕虜という最悪の状態にほうり出されてなんの差別が許されてよいものか。その点みずから進んでこれらの特権をかなぐり捨てた榊大尉以下の面々は逆に捕虜全員の信望を集めてさも気持ちよさそうである。ここにこの分所の民主化の第一歩が確立したのである」
将校にも容赦はないが、同時に、地区本部委員長――つまり当時の民主委員長の横暴さについても興味あるエピソードが記述してある。
民主委員長の座は、獲得と同時に打倒の対象になるもののようである。“コップの中のあらし”のシベリア版である。四十年後の視点で突き放して見ると、ソ連のてのひらの中で踊らされているピエロの姿さえも連想させるものがある。活動家たちが大まじめであっただけに余計にその思いが募る。同時に委員長の座につくと、きわめて傲慢になる人物が多かったようである。厚生省資料にみる「下級兵士もまた選挙に勝ち、指導統率の責任ある地位につくとたちまち堕落する」との分析は正しいと思わざるを得なくなる。
河野氏の手記にも次のような記述がある。
「二十二年六月の末ごろに民主グループ地区本部から漆原委員長が初訪問という形で美勢君という男と一緒にわが分所にやって来た。さっそく全員を広場に集めて大演説会が催され、私が彼らの紹介を兼ねた前座演説をした後、美勢、漆原の順でアジテーションがあった。本部委員の初めての来訪だし半ば恐ろしい人を見るような威圧された気持ちでキョトンとして拝聴している全所員の目が未だに私の脳裏に浮かんでくる。漆原委員長は元曹長だったそうだが、将校ズボンをはいて長靴をつけ意気揚々、人をくったようなところがあり、弁舌は確かに一つの魅力があった。しかし人に親しまれるというより恐れられるような風貌であった――」
問題は夜になって分所の民主グループ委員と会食する時に起きた。
「炊事係が特別のご馳走を準備していたようで、出すのにちょっと手間どった。私は何も特別なものは出す必要はないではないか、と山崎炊事委員にも言ったのだが、なぜか聞き入れられなかった。すると『食事が遅い』と言って漆原が怒り出した。この些細なことを種に、果ては『食事が遅いのはこの分所の民主化の低調なせいだ』とこじつけるというありさまである。菅原分所委員長は『済みません。ハーハー』と彼の悪口罵倒に対し平謝りにあやまっている。『こんなバカな話があるもんか』。私は腹にすえかねた。
第一、彼の服装からして気にいらない。将校制度を廃止するのだと言いながら、まるで民主運動家という新しい将校が出来上がったようなものである。回って歩く分所分所でご馳走が出ないと機嫌が悪いということも耳にしている。山崎君が私の申し出をけったのもここに原因があるようだ。とくに菅原分所委員長にきつく当たっている。民主主義者どころか、見ようによっては暴君である――」
すでに権力抗争が始まっていたのである。
「漆原地区委員長にはバックにソ連の政治部がついている。彼がどういう機会で今の地位を得たかわからないが、ソ連側がこの第一地区で彼に日本人捕虜の民主運動を興し指導する全権を与えている現在、うっかりしたことはできぬ。しかし彼の横暴に対してひそかに打倒運動が進められている」
河野氏は地区本部で行われる講習会に参加するという名目でアジレニアの地区本部に行った。が、漆原地区委員長は、反漆原の動きがあることに対してソ連側に弁解することに追われ、講習会どころではなかったそうである。結局、漆原派が勝つ。つまりソ連側の“お墨付き”をもらうことに成功したのである。地区本部の壁に大きな掲示があり、大略次のように書いてあった。
「最近になって指導者漆原に対して反感を有するものあり。反漆原運動のノロシをあげようとする計画がひそかになされていることが発覚した。その首謀者は元日本軍閥の将校○○中佐であり、これにエセ民主主義者某々等が参画している。この計画は明らかに反ソ反民主運動と規定さるべくソ連側はあくまで同志漆原を真正な民主主義者とみなすから、各位は決してデマに踊らされることなきよう一層民主運動に挺身されたい。
ソ連邦共産党第一地区責任者トール中尉」
ソ連共産党公認という“錦の御旗”を手にすれば委員長の座と権力が保持できるという見本である。それにしてもシベリア民主化運動の秘部をかいま見た思いのする文章であり、「将校を追放した」代わりに新しい“ソ連製将校”が誕生したに過ぎない、との河野氏の直感は正しかったといえる。
事実、地区本部の“漆原是認”のソ連側の意向が各分所に伝わると、反漆原派の分所委員長、委員は退陣する。一ラポーチ(労働者)として作業に出なければならない。
が一ヵ月後、反漆原派が再び闘争をしかけ、地区大会で正面切って打倒漆原を叫び追放したという。河野氏は次のように書いている。
「大会から帰って来た連中の報告によれば大会は反漆原の圧倒的な勝利となり、面白いことに今まで漆原の子飼いであった連中ほど特に大声を張りあげて打倒を叫んだということである。さもありなん。これはこの運動の一番いやな面で、また私が一番憎んでいる面である」
漆原地区委員長が失脚して数日後、ソ連側から政治部将校が二人、通訳を連れて河野氏の所属している分所を訪れ、意見を聞きに来た。河野氏はこう説明したという。
「漆原は民主運動発生当初の水先案内人としては彼のような変わり者でないと、なかなか大衆の目をそちらに向けさせることがむずかしい。その意味では価値はあったと思う。しかし彼は本来、民主主義的人間とはおよそ離れた性格の持ち主で、実際にやったことはファシスト的だ」
やがて地区本部に新役員が選出される。委員長村松氏、組織担当美勢氏(東大卒)、青年部が相原氏(薬専同)、宣伝が田中氏(東京高師同)といった顔触れである。カツコ内に出身校を書いたのは、学卒のインテリが顔をそろえていたことを明らかにするためである。
「ソ連のやり方は徹底したスパイ政治なんです。私の分所の山崎委員長が辞める、と言って来ました。彼とは信頼関係がありましたから何もかも私に話しました。『ソ連政治部のやり方には表と裏があり、民主運動を表面で推進しているほかに、地下に潜っている連中を使っている。意思堅固で純粋の労働者、農民出身者を使い、作業について日本人捕虜の不正があったら密告すること、民主グループの身辺を監視し、日常の言動と表面の運動と背馳するような場合も、内容、日時、場所を詳しく密告することを義務づけ毎週一回、ソ連通訳が分所に来た際報告することになっている。ただしスパイであることが他の日本人に知られたら帰国させないと言っている。スパイ相互はわからない。縦の関係でソ連政治部――ソ連通訳――スパイとつながっている。私はソ連のスパイに命じられたので委員長をやめるのだ』と告白しました。それとなく調査してみると、私の所属する分所に七人のスパイがいました。帰国をタネに同胞を売るようなことを平気でさせます。怖い国ですよ、ソ連というところは」
将校から特権をもぎ取り、炊事の公平化(経済闘争)が実現する二十二年暮れごろから、シベリア民主化運動は「政治闘争」の色彩を強めてくる。
「資本主義国内では数十年間もかかる平等化がシベリアでは一年で実現できたわけです。運動をより以上発展させるためには新しい闘争目標が必要となり、運動に無理が現われて来ることになったのです。これがシベリア民主化運動の曲がり角になりました。
二十二年の暮れだったと思いますが、日本新聞のチタ地区責任者である袴田陸奥男氏の運動方針が新しく提起されました。概略を申しますと、従来までの闘争は単なる経済闘争であり、指導者の多くが学校出のプチブル的インテリでそこに運動のプチブル性がある。よってこの際、運動に筋金を入れなければならない。将校打倒は一応完了したように見えるが、その実は思想的には将校との妥協であり、内心は階級意識に目覚めていない。したがって将校階級を再びつるし上げ、運動指導者からプチブルをたたき出せ、ということです。こんなバカなことがあるはずはないんですが、指令一つでハバロフスクから指導者が来て実行したわけです」
将校をたたき直すといったところに、本当に覚醒した将校もおれば、中途半端な将校もいる。将校を壇上に並べてつるし上げるにしても、中途半端な者だけに批判を集中させ、覚醒している将校は素通りさせるように計画する必要がある。そこで大会の要所要所に若いグループ員を潜入させておき、盛んにアジらせ、大衆を扇動して、なんでもいいから大声でわめかせる。これをシベリア民主化運動用語で「組織する」と言うのだそうである。大会後の上部指導者の講評は「この分所は将校の多数が民主化しているようだからこれくらいでよかろう。ただし議長の議事運営が下手であった」であった。なんのことはない。旧軍隊でやっていた演習後の査閲官の採点と同じ形式である。
「議長は大いに発言しなければならないのです。できるだけアジ・プロを誘発するように進行すべきで、たとえば『発言はありませんか』ではダメで『諸君! これだけの発言でいいのか!』と言わねばならず『もっと発言しようではないか!』とアジるのが最高なのです」
“大衆”も大声をあげ、騒ぐほど“階級意識に目覚めた”ということになる。シベリア民主化運動の原点である。
二十二年末、河野氏は佐藤恭助氏を委員長に推して身を引く。佐藤氏は生粋の労働者で当時四十歳を出ていた。戦前の東京都市交通労組と全協の関東地区委員を兼ね、入獄五回の体験を持つ戦前派の闘士であった。
「インテリ指導型運動の限界を見た感じでした。私の時は先生対生徒といった感じでしたが、佐藤君に対しては同志的連帯といったものを感じるらしいのですね。理屈と弁説で受けた感化よりも体臭でかぎつけた運動の方が強みを発揮するのです」
しかし、佐藤委員長も長続きしなかった。
「私の後継者の佐藤恭助君も間もなく私と一緒につるし上げられ、わずか四ヵ月で身を引くことになりました」
まず夕食後、全員集合の号令がかかり整列していると、突然、地区講習生あがりの二、三人が躍り出てアジりだした。
「“出ろ”と言うので私と佐藤君が台上に上がりました。私は大学出でかつて銀行員や役人をやった経験があるため、プロレタリア階級でなくニセ民主主義者でありプチブルである、というわけです。佐藤君に対しては“労働貴族”の一点張りです。約十分間つるし上げが続いて宿舎に帰る途中、今までわめいていた者が伏し目勝ちに会釈するんです。委員長の山口君がこう言いました。『地区の連中がお前ところの分所はまだ河野の影響下にある。早く河野をつるし上げ、ついでに佐藤もたたいておけ、と言って来たのです。まあ我慢して下さい』。地区本部の方針、指令に分所は踊らされているだけです」
二十三年八月、河野氏ら数名が帰国することになり、地区本部のあるアジレニアへ各分所からの帰国者が集合した。
「案の定、私と佐藤君がつるし上げられて『帰国させるな』です。私は沈黙を守っていたのですが佐藤君が発言して論駁してしまったんです。地区本部は集会の決議として私たち数名を帰国者から除外するようソ連側に申し出たのです」
民主グループだった人の手記、体験記には「捕虜がソ連側に対して『帰国させるな』など言えるわけがない。あくまでもソ連側の意向であり、反ソ・グループのデマだ」と否定しているが、同時に「反ソ・グループ某の中傷によって帰国が遅れた」と矛盾していることを平気で書いている。頭隠してシリ隠さずのでんで「反ソ・グループの言うことならソ連はきくが、民主グループの言うことはきかない」と言うことであろうか。倒錯した理論であり、後で考証する日本新聞の浅原正基氏の手記はその例にもれない。
「民主グループが帰国させまいとしてソ連に要請し、それがその通りになる例は無数にありますよ。ハバロフスク本部からの指令です。ソ連の通訳が私に『地区の連中が君を帰すなと言って申請して来たが、ソ連側政治部将校は君のことをよく知っているから許可しなかった。早く帰って家族に会いなさい』と言ったことでも民主グループが帰国に対してかなりタッチしていたことがわかるでしょう。現に帰国させるな、とソ連に要請された者で帰国させられたのは私一人でした。私の後任の佐藤君は残留させられたのです」
と河野氏はいう。
アジレニアからハバロフスクまで汽車で四日。市郊外の線路上で半日休憩し、ハバロフスクの日本新聞社から派遣された男からアジ演説を聞かされ、ナホトカに着いたのは八日目であった。ナホトカ港とは言うものの、すぐに海が見える場所ではなく、山一つ手前にある帰国のためにつくられた幕舎に入れられたという。ここが第一分所。隣接の第二分所と同格で、帰国者は第三分所を通り越して第四分所に入れられる。第三分所はナホトカの港湾作業者が入る所で、帰国組にとっては鬼門であった、という。もっとも時期によって差はあったようだ。ナホトカに出て再びシベリア奥地に帰され、二十四年夏、二度目のナホトカ到着後も港湾作業をやらされた古田勇氏の証言によると、まず入れられたのは沿海州地区収容所第一分所であった。ナホトカ港の後背地に坑道を掘り、ダイナマイトをつめて爆発させると山が吹っ飛んだ。「さあ、これでダモイ(帰国)だ」とソ連の係官が言った。第一分所から第二分所に移され、二十四年十月二十五日帰国している。一年の差はナホトカを大きく変えたのである。
河野氏の体験に話を戻す。第一分所は民主グループの最後の民主教育の仕上げ場所で、アジ・プロによるつるし上げが盛んに行われた。
「各地から集まっている帰国者はまちまちで、民主運動を全然経験したことのない、旧軍隊のままの哀れな連中もいた」。こういう部隊は最後までソ連と日本人将校、下士官の重圧下に苦労しており、これがナホトカで爆発してしばしば刃傷ざたも起きた。河野氏の証言は四国五郎氏の証言とも一致する。二十二、三年の帰国組の中には軍隊組織を残したままの帰国梯団がかなりあったということであろう。
第四分所になって初めて海の見える場所となる。それでも岸壁(日本人が造った)から三キロあった。ここは完全にソ連側の管理下にあって、民主グループも入り込む余地のない場所とのことであった。
河野氏はいわゆるインテリ指導者であり、一時期アクチブとして渦中にあっただけに、最終的にはチタ地区指導者の袴田陸奥男提案による「プチブル指導者の排除」によって運動から弾圧されるが、その著『シベリヤ抑留記』は、シベリア民主主義の裏と表を多少の皮肉をもって分析した第一次資料に値するものであろう。スパイの存在、権力を握ると次なる者が打倒を策す奇妙な構造は、本格的に分析しておく必要はあろう。
マルシャンスク捕虜収容所――ここはモスクワ東南四百五十キロ地点にある国際ラーゲリであった。日本人の将校とその当番兵が合計四千〜六千人、ドイツ人、ポーランド人などの捕虜が二万人近くいたというのが昭和二十一、二年ごろの状況である。
大心地洋氏はハルビン学院ロシア語科出身の、任官したばかりの少尉で、二十年十月末、ハルビンを出発し、十二月二日、第六百四十四収容所に入れられた。
「ハルビンから汽車が北へ行く。『スコーラ・ダモイ(間もなく帰国する)』とソ連兵が言うので綏芬河を通って南下し、ウラジオストックから日本へ帰すのだな、ぐらいに考えていたから汽車が西に進んでいるのに気付き、ひと騒ぎありました。ソ連の輸送指揮官(将校)に尋ねても行き先はわからない仕組みになっています。縦割り社会ですから、駅に着くつど、指令をもらっていたらしいですね。
着いた所がマルシャンスクの国際ラーゲリだったわけです。私は大佐を長とする大隊本部の通訳をしていました。到着して当分の間は燃料用の薪の採集など軽作業でした。私の場合、週給五ルーブルぐらいもらったような記憶があります。たばこのマホルカ一箱が三ルーブルでしたから、たいした金額ではありませんが、モスクワに近い国際ラーゲリだったためか、国際監視団もやって来るし、国際法を守らざるをえなかったのかもしれません。ビール工場、たばこ工場に半年ぐらいずつ長期作業に出たこともあります。働いている人はほとんど女性です。第二次大戦に男性を総動員したんですね。いや女性も兵隊として参加していて、ロシアの将校が『ベルリンの空はピズダで覆われた』とベルリン陥落時の話をしてくれたほどです。ピズダは女性性器のこと。女性空挺隊員がベルリンに降下したと言うわけです。
その他の作業はビアジリへ行って鉄道建設、さらに奥地のパレンスカヤの森林伐採などに通訳として行きました。作業はやらなかったのですが、ノルマの交渉とか、ソ連人を怒らせずに、いかにして日本人の体力の消耗を防ぐかで苦労しました。政治部将校に皮のカバンとか時計などをワイロに贈ったりしたこともあります。ロシア人べったりの通訳もいましたが、作業する者は困ったでしょう。申しおくれましたが、全員が尉官の将校です。収容所に入って日本人クラブというのが二、三ヵ月後にできたのは記憶しています。石川さんと言う新聞記者だった人が中心で五、六人で始めたと思います。
私は直接タッチしていませんので外から見た民主化運動しか語れません。結論的に言えば過激な運動ではなかったと思います。大佐を長とする将校集団で、しかも尉官は二十二年の暮れには帰国しましたから期間も短いし、前にも申しましたように日本人クラブというのが五、六人の有志から始まり、壁新聞の発行、日本新聞の配布、劇団を作って芝居をしたりしていたようです。一種の文化サークルのようでした。階級章は自然発生的にはずす者が出て来ました。つるし上げは見なかったですね。ただしソ連政治部の指導もあったと思いますが、『軍国主義打倒』とか『天皇制の打破』とかいったスローガンにまで発展したようです。帰国船の中で日本人クラブの活動家が逆つるし上げをされているのを見ましたから、憎まれるような事があったとも思われますが、陸士出身のプロ軍人もいましたから、その人たちから見れば『天皇制打破』と言っただけでも許せなかったでしょうね。
印象にあるのは『突撃中隊(ウダルナヤ・ロータ)』という名の若手将校の作業隊が出現したことと、ナホトカでロシア語通訳をしていた人が何人か残されたことです。ハルビン学院の先輩で自殺した人もいました。私は学校から直接軍隊に入りましたから問題はなかったのですが、ロシア語科を卒業して、他に就職した人はスパイ容疑で狙われたようです。『突撃隊』は『作業もするが食糧もくれ』という発想ですが、裏で『仕事をすれば帰してやる』とソ連側から言われた、という話を聞きました。これが将校の一種の民主化かもしれませんね」
マルシャンスク収容所で民主化運動をやった福冨康氏の体験を記す。大心池氏と同時期に収容所生活をした人であるが、両氏の間に面識はない。数字などに相違があるが半世紀も昔のことである。証言のままを記述する。
「マルシャンスクに入るとき、私たちの部隊(航空隊)は将校二人について一人の当番兵(上等兵以下)を伴って行ったのですが、収容所に着いてみると四千人の将校に対して四百人の兵という比率になりました。ソ連参戦で戦闘部隊にいて交戦した将校は着たきりスズメでしたが、基地にいた将校は行李を一個や二個は持ってソ連入りしたはずです。多い人は七個ぐらい持っているのも見ました。
マルシャンスクの収容所に入れられた当初の数ヵ月はマージャン、花札、碁などをして……まあ将校は労働しなくてもよい、という国際法に従って遊んでいました。ただし当番兵四百人は将校の洗濯、食事の上げ下げをして労働に出、帰ってまた将校の世話をする、という繰り返しでしたから苦しかったでしょう。敗戦というショックもあり、少々やけっぱちになっていたプロ軍人もいましたから、精神的には荒廃した収容所風景でした。話と言ったら食べることぐらいです。そのうちに『これでは帰国した時にバカになっているではないか』という者が出るのは当然で、工学部、法学部出身などの将校が集まって――私もその一人だったのですが、まず回覧文芸誌を作りました。紙不足のソ連ですから回覧誌はたばこの巻き紙に使われたり便所の落とし紙にされたりで失敗でした。
『それなら壁新聞を作ろう』ということになって、私と新聞記者だった石川中尉(大心池洋氏の証言でも出てくる)、林獣医中尉と三人で始めました。文芸誌的な壁新聞で、まだ民主化運動なんて色彩はまったくなかったものです。ある時、当番兵のグループから『階級章をはずせ』という要求が来ました。私たちはもっともだ、とすぐに同意しました。当番兵の苦しさを知っていたし、高級将校の手前勝手も見てきたからです。
兵たちはドンバスからモスクワまでのパイプライン埋設作業をやっていたのです。将校の世話をしながらです。靴、手袋などスリ切れてしまいます。それでソ連側に『作業用の衣類とか靴などを支給せよ』と言ったところ、ソ連側はよく知っていて『将校行李がたくさんあるではないか。その中のを使用すればよい』と言いました。
たしかに将校行李ばかりを積み上げた部屋が一つあったのです。高級将校にソ連の意向を伝えたところ、いい返事をしません。兵は激怒しましたよ。『昨日まで、わしに命をくれ、と言っていた将校が兵の苦労にそっぽを向くのはどういうことだ』と。もっともなことなので、中、少尉二千人が六日間交代で兵と一緒に働こうと提案したところほとんど全員が賛成してくれました。兵は毎日ですが将校は六日間に一度労働するだけです。たいした労働とはいえない。中、少尉といえばまだ二十歳代ですし、兵隊の苦労を一番よく知っています。
ところが、これからがソ連流のやり方ですが、将校が兵と一緒に労働を始めた、とわかると、一週間後に四百人の兵全部を炭坑作業に移し『あとは将校だけでやれ』と言って来ました。ソ連流のだまし戦術に私たちは怒りましたね。
『国際法上、将校に労働の義務はない』と拒否しました。ところが三日目に、隊長の戸田大佐から『病弱者に給与をよりよく与えるため、我慢して働いてくれないか』と懇願されました。戸田大佐は人格者で、人望があり、選挙でも隊長に選ばれたような人ですから『あなたがそこまで言われるなら』と作業に出ることを承諾しました。まあ日本人的といえばそうです。作業は兵隊がやっていたガスパイプの埋設工事です。不思議とノルマが上がり、黒パンから白パンになりました。それを病弱者に与えたのです。スープも濃いやつがタルで支給されるようになりました。底に残ったのはポーランド人が来てキレイにすくい、売ってましたね。ところが私たちの犠牲的行動に対してソ連側がイチャモンをつけてきたのです。働かない者に食糧を与えるのはよくないという言い分です。
『我々はソ連のために働いているわけじゃない。相互扶助の精神だ』と言ったんですが、ついに許可しなかったですな。これが私がソ連に失望した第一点です。大佐、中佐となりますとかなりの年配者でノイローゼになる人も随分出ました。ソ連がどう言おうとほうってはおけず、私たちは『突撃中隊』(ウダルナヤ・ロータ)という作業隊を組織して、腕章をつけて作業に出ました。人員は二千四百人いました。陸士出身の将校は参加しない者がほとんどでしたが、全体のノルマが上がらないから志願するようになり、成績は上がったんです。まあこれが将校ラーゲリでの初期の民主化の実態です。将校行李の中には娘の晴れ着があったりするので、それを借りて『元禄花見踊り』など、ソ連人が嫌がらないものをシアター(劇場)で上演し、各国の人にも見せて楽しみました。国際ラーゲリですから劇場もあったのです。ドイツ人はソ連を皮肉ったような劇を平気でやっていましたが、日本人はそこまではやらなかったですね。
今になって考えてみますと、われわれが同胞愛、正義感、隊長に対する敬意でやった自発的な労働が、ソ連に逆用されたに過ぎなかったのです。これがソ連嫌いになった第二点でしょうか。
きわめて自然発生的な民主化運動――文芸誌、文化的な壁新聞作りに転機が来たのはそうながくなかったですね。仲間の一人だった石川中尉が『実は学生時代は党員だった』と言い出し、だんだんソ連寄りに持って行き始めたのです。もうついて行けなくなりましたね」
マルシャンスクの将校ラーゲリにも日本新聞が配布されるようになり、文化活動として発足した壁新聞もソ連寄りなものに変質していった。
福冨康氏によると「ソ連は、最初はオズオズと、日本人にお願いする形で民主化運動にアプローチしてきた」という。
「ソ連の一番言いたかったことを私なりに整理しますと(1)太平洋戦争を侵略と認めること、すなわちファシズムの否定(2)皇国史観から脱却し、社会主義的史観の裏打ちをすること(3)天皇の神格化の否定――の三点だと思います。私にとっては電気ショックだし、ラーゲリ内で混乱が起こりました。もっとも帰国後、手記を読んで知ったような“狂乱的民主化運動”はマルシャンスクではなかったと思います。
日本人を抑留したねらいは、国土復興のための労働力として用いること、対米的措置、つまり米軍による日本の再武装を恐れたこと、そしてソ連に対するシンパ(同調者)を養成する目的だったと思います。シンパの養成に関する限り私は百パーセント近い失敗だったと思っています。
ソ連は社会主義社会のすばらしさを日本人に見せるどころか、悪い面ばかりを見せました。もっとも一般国民、農民などの『イワンの馬鹿』(トルストイ作)的なナイーブさにふれることができたのは幸運だったとは思っています。国家的政策はともかく一般ソ連人は千人が千人『戦争したらいけない』と思っていると私は信じています。それともう一つ強い印象として残っているのは、ソ連人が日本人を殴ったのを見たことはないが、日本人がソ連人を殴ったのは見たことがあります。理由は作業上の手順で意見が相違して日本人が怒ったのです。問題にはならなかったですがね」
地区は違うが凶暴なソ連人と対決した日本人将校もいたこともこの際つけ加えておく。
二十一年夏、捕虜通信が許された時、福富氏は往復はがきに「俘虜用」と印刷してあるのを見て一回目は書かずに捨てたそうだ。「俘虜という文字にどうしてもこだわった」のである。二回目からやっと書く気になった。
引き揚げは二十二年十一月。興安丸であった。沖に出て船長が「公海に出ました。皆様は完全に自由です」とマイク放送があった後、アクチブだった石川中尉ら数人が土下座させられ、逆つるし上げをくっていたのを見た。「お前たちは天皇陛下を呼び捨てにした。われわれは団体を作って不敬罪で告訴する」と数時間も続いた。
「舞鶴に上陸してみると、日本に不敬罪はなくなっていたんですね。まったくの時代錯誤だったんです」。イソップ物語に出てきそうなお話である。
巧妙な“洗脳”教育
ウズベク共和国のベグワードに収容された二百三十一連隊(広島・藤部隊)の増井正次郎氏の見解によると、民主化の過程は次のようである。
民主化運動が起こったのは二十一年夏で、まず文化運動から入っていったそうだ。増井氏の中隊は抑留されていた収容所の中でも軍隊組織を崩さず、ソ連側政治部将校にはニガニガしい存在であったが、作業係将校からはキビキビした動作が好まれ、たびたび称賛されたという。増井氏の中隊がいた第三分所に二百三十三連隊(山口・藤部隊)から武田邦臣という男がやってきた。学生時代からの左翼運動家で「入ソ以来のニワカ民主主義者ではなかった」という。この地区の民主化運動の責任者であった。
五月一日はメーデーでロシア語で「ペールイ・マイ」という。この日全員が広場に集められて、アクチブから「ペールイ・マイ・ハラショウ!(メーデー万歳)」と大声で唱和するように言われたが、ニヤニヤしたり、口の中で言ったりして、台上のアクチブは格好がつかなかったという。
「二十一年五月一日の段階では、運動の成果はその程度だったんです。最初は運動の参加者には軽作業を与えるらしい、というエサもあったようですが、若い兵にとって説かれるものにひかれるのは当然だったと思う。日がたつにつれて深く浸透していったようです。そんな時、同期の沖政春三君が『俳句会をやろう』と言い出し週に一度集まりました。会場は食堂で松尾少尉が宗匠です。これがソ連側の目にとまり、結局解散しました」
二百三十一連隊は中国から来た三十九師団の主力部隊だから中国戦犯を多く出したことは既述の通りで、その面からも増井氏たちは目をつけられていたはずだ。
「二十二年二月二十八日、大隊長和田大佐、福田少佐がどこかへ連行され、二百三十一連隊の将校ほとんどが呼ばれました。『貴官たちは民主運動を妨害している。明日から作業に出ることを禁止する。兵との接触もゆるさない』と収容所の一室に隔離されました。軟禁状態が解かれたのは五月二十八日ですが、その間に何人かが他に転属になり、バラバラにされた格好です。出てみると中隊は団に、小隊は分団と名称が変わっていました。収容所内は美化され楽団も編成されていました。九月のある日、作業係のドビーニン大尉から自動車団の団長を命じられたのです。
作業係長が言うのは『アクチブの団長が作業隊の指揮をしているが、将校がいないと統制がとれない。あなたがやれ』です。作業係将校はノルマを上げるのが職務だから、さらに能率を上げようと考えたのだと思います。頑強に拒否しましたが、それが通るソ連ではない。見知らぬ自動車団に行くことになりました。しかし一緒に作業しているうちに心も通うし、昼夜兼行の作業だったので、指揮者としての立場上、私は昼も夜も現場に出ます。通行証なしで自由に収容所を出入りできるようになりました。
ところが現場にガイネという配車係がいて日本人をよく殴る。廠《しよう》長に抗議し、注意するからとの確約をとりましたが、しばらくしてまた日本人を殴るという事態が発生したのです。今度は所長に直接抗議しました。朝鮮人で日本語が話せる、キムという憲兵からかなり皮肉られ、『君は若いのになぜ天皇制を守るのか』と思想調査までやられました。
ケンカ両成敗でガイネはクビ、私もまた営内待機です。しかも反動将校のレッテルを張られました。第四団の団長の時、当時の壁新聞に『囚はれの涯ての国にも春が来て 砂漠は青み陽炎《かげろう》もえぬ』という短歌を投稿したことが問題となり、引っぱり出されてつるし上げられました。『囚はれのとは何だ! 涯ての国とは何だ、その程度の意識しか持っていないのはケシカラン』とやられ、『ソ同盟はわれわれ労働者の母国であり、われわれは母国復興のために来ているのだ』とアクチブは言うのですから話がかみ合うはずがない。
私はやけっぱちになっていました。そんなある日、政治局員をやっているアクチブから理論闘争をやろう、と挑戦されました。私は断ったのですが、別れる時『あなたは世の中の進歩に逆行している。英雄主義だ』と言いましたよ。この言葉が妙にひっかかり、口惜しさもあってスターリンの『ソ同盟共産党史』を読み始めました。
民主化運動の発生の過程については、別の立場にいたのでよくわかりませんが、古年次兵にこき使われる初年兵とか弱兵がソ連の好餌につられて始めたことは前にもちょっと申しました。作業面では不良労働者ですね。怠け者集団という感じもありました。そのうち日本新聞の輪読とか解説がソ連軍の強制によって始められ、回を重ねていくうちに徐々にしみ渡るようになり、意識の高まりとともに、それまでの不良労働者では人がついてゆかなくなりました。彼らは露払いだったわけで、次に登場したのが勉強もするが作業もやる連中でした。
ソ連の洗脳教育は実に巧妙でしたよ。軍隊で一番弱い兵から手なずけ、ついで下士官を一丸として旧将校を攻撃する反軍闘争に導き、最終的には国家権力に対する労働者、農民の階級闘争にまで進める。刊行物も各国共産党指導者の手記、伝記、マルクス・レーニン主義の教科書、ソ同盟共産党史など相当な数ありました」
増井正次郎氏は“大衆”が民主化されてゆく過程を以上のように体験的に語っている。さらに将校も作業隊を作ったという。各団のアクチブと折り合いの悪い若い将校十五、六人が「将校分団」を作った。増井氏が推されて長になる。将校の民主化グループの誕生ということになる。
二十三年六月、ベグワードから初の帰国者が発表され、将校分団からも三人の名があった。酒も何もないが、送別会ということになり、「愛馬行進曲」の合唱となった。「これが理由で大衆集会でツルし上げられました」
帰国は再三行われたが、その都度増井氏だけが残され二十三年九月、第五分所に移った。「私が憲兵中尉だったと密告した者がいたらしく帰国の選から漏れたのです」
第五分所ではいっぱしの民主活動家だった。日本新聞で哲学者の出隆が入党したことを読みショックを受けた。同じ部隊で一人残されたというやけっぱちからかもしれなかった。友人が「お前の本心を聞かせてくれ」と言ったこともあった。
二十三年十二月二日、ウズベク共和国の首都タシケントへ、翌二十四年一月二十一日炭鉱の町アングレンで坑内作業に従事した。
「民主化運動の主だった連中はほとんど帰国していて残っている者は“反ソ的色彩”の強い者が多く勢力は逆転していました。ソ連側に迎合する積もりはまったくありませんが、心の中では民主化運動は正しいと思うようになっていて、仕事の鬼になって労働しました。無理がたたって病気になってしまったのです」
カラカンダの病院で治療し十二月になって帰国者名簿が発表された。カラカンダは中支(中国中部)派遣軍から関東軍隷下に入れられた三十九師団(広島・藤部隊)の中国戦犯が待機していたところである。増井氏も藤部隊の将校でありソ連側からマークされていたからこそ大幅に帰国が遅れたのではなかったか。
帰国名簿は二組に分かれていて増井氏は第一グループだった。通訳を兼ねていた増井氏に、ソ連側は「第一グループが先に出発する。第二グループの者に失望しないように伝えろ」と言った。
「私の名前は帰国者名簿の第一グループにありました。第二グループの者に『数日後にナホトカで合流するそうだ』と伝えますと『私たちはもう帰れないのだ』とだれかがあきらめ顔で言った声が耳に残っています。同じ師団だった山田浩造君たちは第二組でした。第二組はだれかが言ったようにソ連から中国に引き渡され、なお数年間の抑留生活を送ったのです。
ナホトカから乗船したのは二十五年二月六日、高砂丸でした。いつ帰国が取り消されるかもわからないという不安が乗船後もあり、うれしさは感じずただホッとした気持ちになっただけでした」
将校の民主化運動は下士官のアクチブからは、うさんくさく見られるし、同僚将校からは白眼視される傾向がある。増井氏のたどった民主化運動は、赤旗を立て労働歌を歌いながらデモをする――といった性格とは異なるもので、内なる民主化と言うべきであろうか。
「二十二年ごろからチョロノフスキーでは民主化運動が盛んになりました。長谷川とか袴田とか言うアクチブの指導者がいましたが、党員面をして威張っていました。悪いヤツだった」
増井氏と同じ二百三十一連隊の第二機関銃中隊員だった岩崎関雄氏は、民主化運動の体験を吐き捨てるように証言する。
「私が旧制中学出身者だったのを知っていて『講師になれ』と言って来ました。チョロノフスキー収容所は石炭掘りをやっていましたから三交代制です。その余暇に講師をやれって言うわけです。そんなこと私にはできない、と断ると『罰だ』と便所掃除をやらされました。
冬でしたから便所は凍っていました。ツルハシでふん便を削り馬に乗せて野っ原に捨てる作業を何日間もやらされました。衣類に飛び散った氷が室内で解けると臭くてね。これには参って、講義をすることにしたんです。アクチブに目をつけられ、命令されたことを拒むと徹底的に『やる』というまで追及されます。これがシベリア民主化運動の本質と申しますか、とにかくうるさいのです。命令を拒否したことが“悪”になるのです。
最初アクチブから手渡されたのはロシアで印刷したと思われる、活字の大きな『日本共産党史』でした。収容所は半地下式の建物で内部は三段ベッドです。一番上の段から党史を読み上げましたが疲れているので聞く方も大変です。日本の左翼文学の話などを交えて半年ぐらい続けました。
シベリアでは指導者は将校待遇で、のんきにやっていました。密告が多かったと思いますが、反動分子と見なされると大衆告発にかけられます。私のいた収容所は百人ぐらいのこぢんまりとしたものでしたが、アクチブと言われるのは十人ほどいました。私はそのアクチブに命令されて講義はしましたが、アクチブではありませんよ。だから作業にはずっと出ました。『日本共産党史』から『ソ連共産党小史』も読まされました。マルクスだのエンゲルスだの、名前を知ったのも収容所の中です。一ヵ月に十人なら十人つるし上げる目標――ノルマがあったらしく、毎日のようにやっていました。私の講義もアクチブの監視つきでしたね。
つるし上げは精神的に参ってしまいます。作業から帰ると、待ってましたとばかりアクチブから、あることないことを指摘されてつるし上げられる。暴力は用いませんが三日もやられると死ぬのではないか――と思うほどやつれ、精神的に不安定な状態になります。私など、こっそりと『もうちょっと要領よくやらんかい』と助言したものでした。中に、兵隊でどうしてもアクチブの主張に同調しないのがいましたが、これらは例外で、毎日毎日ソ連――ソ同盟と言っていたんですが――のPRと日本の犯した悪事を聞かされていると、その気になるものですね。不思議なものです」
いわゆる「パブロフの条件反射」という反応である。そう言えばパブロフ博士はソ連人である。
「『天皇島に敵前上陸する』とか『われわれの祖国ソ同盟万歳』と言うようになり、つるし上げられると『どうも悪うございました』と言うようになります。少なくとも格好だけはしないと生活できなくなります。
二十三年夏、帰国列車に乗って、ナホトカに向かったんですが、列車の中で日課があるんです。私はアクチブから日課表を渡され、朝起きると共産党の歌を歌うことから始まり、ソ連をほめそやす講義をやります。われながら心苦しかったですね」
帰国をえさに日本人抑留者を“洗脳”するソ連の計画は表面的には成功していたわけであろう。山田浩広島大学教授によると「二十三年は米・ソ冷戦初期のピーク」とみられた時代だそうで、ソ連が本気で一人でも多くの反米的人間を日本に帰そうとしていたのは事実かもしれない。しかし山田教授によれば「ソ連首脳部ほど人間は改造できないもの、ということを知っている者はいないだろう」という。たしかに「人間に対する官僚主義的アプローチの失敗」ではあった。
ナホトカまで出て来たのに乗船寸前、税関で引き戻された満州国の警察署長の姿が忘れられない、と岩崎関雄氏は悔しがる。
「石岡さんという人でしたがね。税関ではソ連人と日本人のアクチブが名簿を持って名前を呼ぶんです。順番は私の後でした。私が通ったと思ったら石岡さんの異様な声がする。振り向くと石岡さんが引き戻されているんです。思わず『石岡さん、早く乗ろう』と引き寄せるとソ連人将校が『お前も残るか!』とすごいけんまくで、もうどうすることもできませんでした。だれが石岡さんの前歴を暴露したかは今もってわかりませんが、ナホトカのアクチブの仕業でしょう。日本人が日本人をいじめるのがシベリア民主主義でしたから残酷なものです。引き揚げ船には千五百人ほど乗っていましたが、公海に出るとアクチブが逆につるし上げられ、これまたむごいことだと思いました。が今もってシベリアのアクチブのやったことが腹立たしい」
将校で共産党学校に入って勉強しながら、いわゆる民主化運動にはまったく参加しなかったという特異な体験の持ち主もいる。一般大学を出て幹部候補生から将校となったインテリ層は、まず民主化運動の水先案内役をつとめ、やがて労働階級出身者にとって代わられるというケースが一般的だが、野沢恒夫氏の場合は民主化運動にそっぽを向きながらも特別待遇を受けて帰国している。たとえば帰国者は貨物列車で“輸送”されるが、野沢氏は一般の客車に乗せられてナホトカに着いている。引き揚げ船に乗るまで帰国者はテント暮らしだが、野沢氏はビルの一室に寝かされた。
なぜ野沢氏をソ連はかくも優遇したのか。ソ連政治部将校の単なる気まぐれで野沢氏(厳密にいえば三人の将校)を特別優遇したのか、それとも野沢氏らに何か特別なことを要求(あるいは期待)したのか、本人でさえ首をかしげるほどである。私は野沢氏に「スパイになれと要求されたのではありませんか」と非常にぶしつけな質問もしたが、野沢氏は否定した。
「鹿地・三橋事件」というスパイ事件があったことはすでに紹介したが、三橋氏は特別待遇による帰国ではない。さりげなく一般引き揚げ者に交じって帰国し、ソ連のスパイを働いている。スパイは目立たないことが最も重要なことである。仮に野沢氏にスパイを依頼(命令)したのだったら一般帰国者の中にこっそりしのび込ませて帰国させたはずだ。それに野沢氏はそのような、だいそれた事のできるような人柄では決してない。ソ連という国は一本調子では理解できない側面を往々にして見せる。
野沢恒夫氏が抑留されたのはヨーロッパ・ロシアのタタール自治共和国の首都カザンに近いエラブカの収容所であった。エラブカ収容所といえば、厳しい収容所として知られ、ソ連人からは流刑地として恐れられたところである。日本人が収容されたところは、囚人を他に移した“監獄”であった。
「戦争に負けて『教育とは何か』という問題を真剣に考えました。上級将校、最高学府を出た人が平気で盗みをやります。品性――教育の問題なんですね。将校の中には頑固な人もいて『将校は働かんでよい』と抵抗していた人も多かったですが、一般兵士は苦しい重労働に従事しているのですから将校だからといって手をこまねいているわけにはゆきません。一緒に労働しよう――という将校が五人いまして、兵士とともに作業しました。将校仲間から白眼視されましたが無視しました。正直言うと作業すれば食事が多いのです。生きて帰るためにはまず食糧を十分に食べて体力をつけよう、という気持ちでした。
作業するうちに、ソ連に亡命していた日本人の通訳と親しくなり『エラブカには二千人の日本人が抑留されている』と聞きました。私の感じとしてはも少し多かったように思います。
エラブカでは民主化運動という言葉は使っていなかったと思います。収容所は政治部という地下組織が動かしていました。炊事場の実権も政治部の手中にあり、亡命していた日本人を中心に将校やアクチブが集まって洗脳教育をやっているようでした。
私たちは率先して労働する将校というのでソ連側の注目を集めたようで、政治部将校が特に目をかけてくれました。そのためか一週間単位で三回コルホーズ(集団農場)に派遣されたことがあります。
ソ連人が人種差別しないということはよく言われていますが、その通りで、コルホーズの民家に分宿した時など主人が自分のベッドを譲り『ヤポンスキー・カムラート』(日本人の同志)とか言ってよくしてくれました。コルホーズへの派遣は言ってみれば保養のようなもので、バターも副食物も十分にくれます。仕事も楽です。ソ連人の数学能力の低さも定評のあるところで、私たちがやれば十分の一のスピードでやれます。監督も刑務所長も喜ぶし政治部将校の機嫌もよい。
二十二年六月と記憶していますが、日本語の上手な政治部将校が来て『共産党学校に入って勉強してみないか』と誘われました。まだ私も若かったし興味もありました。即座に承知しました。
私と二人の将校が入学しました。カザンの近くに学校があったと記憶していますが、朝トラックが迎えに来て三時間ほどぶっ飛ばして共産党学校に着き、勉強が終わるとトラックが迎えに来ます。在校は一ヵ月でした。規模は私たちのクラスが三十人で他に三組ぐらいあったのでしょうか。ソ連は縦割り社会で校内をウロウロできませんし、横のことはソ連人同士でもわからないと思います。
講義内容は『ソ同盟共産党小史』とか唯物史観です。講師は日本人だったりソ連人だったりで、なかなか勉強になりました。
学校を卒業したら、収容所を動かしている政治部の連中がやって来て『一緒に運動しよう』と言ってくれましたが私たちは断りました。毎日作業に出て労働することにしたのです。
このころ収容所内では『ソ同盟万歳』とか『スターリン大元帥万歳』などと叫ぶ過激派が誕生していました。この種の運動はどうも私の肌に合わないのです。ところが政治部入りを断った私たちに、政治部員が『お前たちはめしを腹いっぱい食べたいために学校に入ったんだろう』など露骨に攻撃して来ました。石を投げられたこともあったし、作業用のノコギリを隠されたこともありました。自分たちの命令をきかないものはソ連では反動であり敵なのです。日本人同士の闘いで、まったく嫌でしたね。
二十三年五月、帰国することになった時、ソ連の政治部将校が来て『何か要求はないか』と言うので『ソ同盟共産党小史をいただきたい。日本に持って帰りたいのだ』という意味のことを伝えました。政治部将校は『よろしい』と即答し、上下二巻の小史をくれました。
帰国する時、私たちは一般抑留者用の貨車ではなく、ナホトカまでずっと客車に乗せてくれ、特別の差し入れもありました。まったくの特別扱いで、ナホトカでも天幕には入らずビルの中の一室で引き揚げ船を待ちました。エラブカの政治部将校がどのような指令を出したのか、私たちにはわかりませんが縦社会ですから引き揚げ船に乗船するまで、指令が次々と申し送られたのだと思います。
ナホトカで乗船する時も共産党小史を持ち込めました。私たちが入港したのは函館でした。米軍の持ち物検査がありとても小史など持って出られそうもないので、毛布の中に小史を入れ、それを手に持って毛布を振って見せて無事通過しました――」
縦割り社会のソ連では、ヨーロッパ・ロシアのエラブカを担当していた一政治部将校の出した指令が、なんの不思議もなくウラル山脈を越え、シベリアを横断して延々数千キロも守られるという奇妙な現象を引き起こしたといえる。この“恩恵”に浴し、抑留者としては「特別中の特別待遇だった」という野沢恒夫氏の体験はいかにも「ソ連的」と言えるかもしれない。
「エラブカの政治部将校の気まぐれだったかもしれない指令が私たちを一般客車に乗せて帰国させたといえるかもしれません。どうしてあんなことになったのか、実のところ私にはよくわかりません」
後日談がある。野沢氏は帰国直後、神戸の商事会社に勤めたことがあった。月給は二千円。世はインフレ時代で生活は苦しかった。そんな時、上下二冊の『ソ同盟共産党小史』が生活の危機を救ってくれたことがある。
どうしても急場の金が必要になり思いあまって「小史」を古本屋に持って行った。古本屋の主人は奥書に印刷してあった「モスクワ出版」の文字を見ると黙って八千円出したという。野沢氏の月給の四ヵ月分である。
「いまあの『小史』がどこにあるのか、日本中を探して歩きたいぐらいです」という。
野沢氏の体験を紹介する最初の記事で、私が「スパイになれと言われなかったですか」と非礼な質問をしたことは書いた。筆者が知る限り一般抑留者が客車でナホトカまで送られたということはないし「共産党小史」を引き揚げ船に持ち込んだということも耳にしたことはない。ナホトカの税関では書いた物は一切持ち出させなかったことは体験者ならだれでも知っている。
後藤敏雄氏の『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』の中にナホトカで『露仏辞典』その他の本、ロシア語版の『ソ同盟共産党小史』も全部アクチブに取り上げられ「どうせ税関では書いたもの、印刷したものは全部取り上げられますから」と言われたことを書いている。死亡者名簿を持っていた軍医が「ソ連の衛生状態をスパイするため」と言いがかりをつけられて罪に問われたお国柄である。
野沢氏の言い分を聞こう。
「あえて言えばエラブカの政治部将校の好意が、次々と伝達されてゆく過程で、しだいに増幅されて、私たちが特別な任務を持って帰国する者と思われたのかもしれません。逆に悪い方に伝達されると悲劇ですね。エラブカでの私たちの態度を見て、ソ連のよい点もPRしてくれという期待はあったかもしれません」
エラブカ収容所については他にもいろいろな資料がある。きわめて一般的な捕虜収容所生活を送った人の記録も紹介しておかないと不都合であろう。
エラブカ収容所はマルシャンスク(モスクワに近い)と同じような将校ラーゲリで九千人から一万人の将校がいたというのが定説のようである。したがってここからソ連戦犯にされて長期抑留された人も多かった。長期抑留者にはならなかったが、野沢恒夫氏とまったく異なって、ごく普通?の抑留生活を送り、昭和二十三年八月に帰国した日原千秋氏の話も書いておく。日原氏は少尉であったが、複雑な経路をたどってエラブカに抑留されている。
「私は戦前、福山市でフォード自動車の代理店をやっていました。そのころは数少ない自動車の販売修理業です。昭和十四年に満州国の高官と軍部の方々が私の店に来て『満州に行って仕事をやってもらいたい』と言うのです。いろいろありましたが結局軍の方針に従うほかはなく、社員二十人ほど連れてハイラルまで行きました。仕事とはノモンハン事件でソ連軍にやられた日本のトラックの修理でした。そのまま満州で仕事を続けているうちに戦局が悪化し、二十年七月三十日、関東軍の“根こそぎ動員”で現地召集されました。ソ連参戦の時、用務で下士官一人を連れて北朝鮮の咸興にいました。入ソ経路は咸興から船に乗せられ、ポセット(ウラジオストックの近く)に上陸、十一月末まで山の中のテント兵舎にいてナホトカから貨車でエラブカに送られました。二十五日間貨車に乗っていました。原っぱに降ろされ二日間行軍して収容所に着いたのです」
エラブカには相沢英之氏(衆議院議員、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会会長)が主計中尉でいたという。
「民主化運動は大学文科系出身の幹部候補生から将校になった連中が中心になって進めていました。つるし上げ、といったような激しいものではなかったですが、二十一年、つまり入ソの翌年には全員が階級章をはずしました。ナホトカで体験した民主化運動と比較するとそれはお話にはなりません。
エラブカで私の記憶に強烈に残っているのは、ソ連兵が『アメリカと戦争をする』と言っていたことです。
帰国の時ハバロフスクで日本新聞の自動車が『雨々降れ降れ』のメロディーをスピーカーで流していました。ナホトカでの人民裁判も体験しましたが、兵隊をバックに従えてすさまじいものでしたね」
人民裁判という名のリンチ
帰国するためナホトカまで出ながら「志願して残留した」という四国五郎氏のことは前に少しふれた。ナホトカ残留の理由は「画家の修業がしたかった」からである。いわゆるシベリア民主主義の総仕上げの場であったナホトカで、二十二年八月から二十三年十月末まで、アクチブたちと生活をともにしながら奥地から帰国のためナホトカに到着した梯団を何組も見て来た一人である。帰国を目前にしてナホトカに残り絵の勉強をしたいという四国氏の行動に奇異な感じを持つ人がいるかもしれないが、他にも希望して残留した人の記録もあるし、当時二十歳を超えたばかりの、独身青年の心を奪うようなエネルギーがナホトカにあったのであろう。
四国氏は昭和十九年十月、関東軍輜重隊(琿春)に現役入営し、敗戦後の抑留地はドーフであった。ドーフはアムール(黒竜江)が日本海にそそぐ位置から、さらに北方――北緯五十度付近――にあるバム鉄道沿線の地である。厳密に言えばバム鉄道建設中の駅名である。
入ソの時、正規編成部隊から作業大隊に切り替えられていたから、将校と隊員あるいは隊員間の心の交流が希薄なのは当然としても、四国氏の軍隊を見る目は厳しい。入ソ直後の空腹、重労働、残されていた軍隊組織の重圧のためか、将校と隊員の心理的対立に敏感だったようである。
入ソ後すぐに発病して入院、退院後の二十年十二月三十一日、零下三十度の寒風をついてトラックで「カンバヤシ大隊」に移された時のもようを次のように書いている。
「二十一年一月一日、兵隊はやせ細っているのに将校食をくらってデップリと太った『カンバヤシ大尉』は、われわれを寒い広場に集め『一つ軍人は忠節を尽くすを本分とすべし……』と(軍人勅諭の)五ヵ条を奉唱させ、一場の訓辞をしたあと『宮城』を遥拝させた」
ここで再び入院生活に入った。親切なソ連人婦長の献身で助けられ、ソ連軍医からサケの缶詰を三個もらった。二百人ぐらいだった病院はたちまち四、五百人に増加した。日本新聞(ハバロフスク印刷)がオルグの役目を果たしたことになるが、自然発生的に病院で“文化活動”が始まる。病院でドイツ人画家と二人で絵の勉強をしている間に民族的偏見もなくなる。ソ連人もドイツ人も純朴であることを知る。「友の会」が結成されて責任者も投票で選んだ。セメント袋を探してきて、リバノール、赤チン、スミなどで絵を描いた。マルクスの本を読んでいる人もおり、しだいに「民主主義を身につけて日本に帰ろう」と決心するようになった。
二十二年春ごろから、ドーフの病院に帰国の話が出始めたが、革命記念日などの時に絵を描く役として残った。が六月に再び帰国命令が出て貨車に乗る。ところがコムソモリスクとゴーリンの間で降ろされ、二ヵ月間鉄道作業に使用された。ソ連兵は「ナホトカまで日本の船が来ない」と言い、日本人の間では「ソ連は帰す気がない」といったようなうわさが流れた。幸い作業は二ヵ月で終わり、ナホトカに着いたのは二十二年八月三十一日であった。日付が正確なのは、小さな文字で書いた日記を靴の先に隠して帰国したからである。
「ナホトカでまず目に入ったのは民主グループ(アクチブ)と、台風の影響で倒れたままになっていた大きな一枚の絵でした。妙に心をひかれ、無性に絵を描いた人に会いたくなり、美術部を訪ねたのです。
美術部には裸の男――帰国後死亡した画家の川崎透氏――がいて『久米宏一さんが描いたのだがハバロフスクへ行かされたよ』と言いました。がっかりしていると、川崎さんに『あんた残って絵を描いてくれんか』と頼まれました。広島が原爆で全滅したことは日本新聞で読んでいましたし、家族のことはあきらめていました。“ヒロイズム”か“ええ格好”かよくわかりませんが『残ります』と答えました。川崎氏が民主グループと話をつけてくれ、私の残留は許されました。
自慢話ではなく、一つの証言として話すわけですが、私の絵は評判がよく、芝居の舞台、ソ連将校の指示するポスター、収容所内の装飾画の製作……と実に多忙でよい勉強になりました。川崎氏と『シベリア鉄道でずっと西に行くとヨーロッパだ。パリまで行けば本格的な勉強ができるのになあ』と本気で語り合ったこともありました」
四国氏がモンゴル共和国、ウランバートルから引き揚げて来た“暁に祈る”の吉村隊(池田重善隊長)を目撃したのもこの時期である(既述)。二十二年の晩秋だ。この時期、マルシャンスクなどの将校収容所からも、多くの梯団がナホトカに着いているから、“シベリア民主グループ”とのトラブルがいろいろと発生している。いわゆる「ナホトカ人民裁判」である。階級章を付けた将校たちが「ナホトカ人民裁判」のうわさを聞いてはいたが、「たいしたことはあるまい」とたかをくくってナホトカ駅に下車したころだ。
「ナホトカ人民裁判は半分は民主グループが仕掛けたかもしれませんが、半分は期せずして起こったように思う」と四国氏は言う。さらに「本格的な人民裁判は二十三年五月ころからで、日本新聞の諸戸文夫(浅原正基氏)がナホトカに来てアジったのが一つの契機」とみる――。
とすると、本格化した「ナホトカ人民裁判」は言語に絶する激しさだったとみるしかない。「本格化とはいえない」段階の「人民裁判」でさえ、相当なものであった。アクチブ達が帰国後に、国会に喚問され、人権問題として追及されたのも当然と言えるだろう。
四国氏の、ウランバートルからナホトカまで引き揚げのため出て来た吉村隊長に対する人民裁判の目撃談は、それが本格化したという二十三年五月よりも半年前の出来事である。それさえも筆者の感覚からするとすでに常軌を逸しているとしか思えないものだ。
隊長たちを舞台上に並べ群衆が次々と旧悪?を暴き立てついに土下座させたというのである。話は飛ぶが、大学紛争を体験した教授たちの体験によると、学生に取り囲まれての“大衆団交”はまず神経的に参ってしまい肉体もボロボロになるという。平和な日本にあってそうだから特異な環境下にあったシベリアでの人民裁判は、群衆の怒号がいかに威力を発揮したか――ということで、もはや精神病理学の分野であろう。この「ナホトカ人民裁判」の実態は、各氏の証言によって明らかにしておかねばならない。
いま一つ、四国氏の見方と多くの体験者の証言との間に異なる点があることに注目する必要があろう。四国氏は、初期の人民裁判は「半分がアクチブの仕掛け、半分が自然発生的」と分析しているが、他の体験者によると「帰国」を人質にしたアクチブの“やらせ”だったという。
群衆に火をつけると日ごろの不満――それはソ連に向けて放たれるものであったにせよ――は爆発するし、加えてナホトカ民主運動のすごさはだれもが“うわさ”で知っており、人民裁判の場で発言しなかったら“反動”とされて帰国できないという恐怖心があったから大声で「そうだ」とか「帰国させずにシラカバのこやしにしろ!」などと同調せざるをえなかった、というのだ。
四国氏の名誉のために言っておくが、氏はアクチブではない。一ルーブルの賃金ももらったことはなく、もちろんつるし上げなどやる立場になかった。純粋に絵の勉強がしたくてナホトカに残留した人である。したがって、もっと率直に言わせてもらえば四国氏もまたアクチブたちの世界を内部から見たのではなく、外部から見たにすぎないということであろうか。たとえばナホトカから反転させられた個人またはグループがあったのは「アクチブがやったのではなく、ソ連側の調査の結果であり、あったとしても同じ梯団の内部告発だと思う」との見解に立つが、これに対して「全部アクチブのやったことだ」と言う人は多い。現にナホトカでソ連将校から直接聞かされたとの証言もある。
ナホトカ人民裁判が「自然発生的か」「アクチブの仕掛けか」にこだわる理由は、日本人の精神文化と大いに関連するからである。具体的に言えば絶対権力者ソ連に対する迎合か、自らが獲得しようとした民主主義志向かの問題である。この種の問題は実態がドロドロしたもので、一刀両断にできる性格のものではないことは承知の上だが、シベリア抑留を考える場合、絶対に避けて通れない命題である。
四国五郎氏の体験に戻る。四国氏はアクチブの近くにいながら、内部を見たのではなく外部から見たに過ぎないのではないか――という問題だ。言葉を換えれば、アクチブの近くにいても、アクチブ内部の動向は決して内部の者以外には漏れなかったのではないかという、限りなく実態に近い仮説を筆者は立てざるをえなくなる。ナホトカでは、すでにかなり強引なアクチブの、ソ連の権威をカサに着た横暴が行われていた証拠はいくらでもある。
二十一年四月からナホトカで港湾作業をやらされていた鍵田法正氏は、外の世界からアクチブの内部をずっと見てきた一人である。
二十二年三月――といえば、前年十二月に引き揚げ第一船がナホトカを出港して四ヵ月後である。鍵田氏はナホトカに入港してくる引き揚げ船の日の丸の旗を見たとたん、むらむらっ、と腹が立ち、半分まで造っていたレンガのカマをぶち壊してしまった。
「たちまち反動ということでアクチブにつるし上げられました。その激しさといったら表現のしようのないもので四十度の熱を出し、第二収容所の病院に入院したほどでした。それでも帰国命令がソ連から出されたのですが、アクチブがやってきて、病院の入り口に『天皇制打倒』という文字を書けと迫りました。黙っていたら『書かなかったら帰さんぞ!』と自信たっぷりに言うのです。書かないと帰国できない以上仕方がなかったですね。言われた通り書きましたが、それが二十二年四月のことでした。
それまでに日本新聞の輪読とか、インタナショナルの歌の合唱、アクチブの講義が毎日行われていました。ナホトカの民主化運動はすさまじいものでした」
四国氏がナホトカに着いたのは鍵田氏がナホトカを出港して四ヵ月後である。つまり四国氏の知らない以前に、すでに激烈なアクチブの締めつけがあったということである。シベリア民主化運動は調べれば調べるほどわからなくなるというのが本音だが、日本人が日本人を苦しめた結果になったことだけは否定すべくもない。
いま一つ具体例でシベリア民主主義はソ連に迎合するアクチブと呼ばれる強硬派に主導権をにぎられていたことを明らかにしよう。
関東軍憲兵司令部に勤務していて、イルクーツクに収容されていた本原政雄氏の体験である。本原氏は憲兵軍曹であった。憲兵や特務機関員は「前職者」と呼ばれ、多くの戦犯を出したことは何度もふれた。
昭和二十三年九月、イルクーツクの収容所からも帰国が始まり、本原氏が抑留されていた第五収容所には憲兵、警察官、特務機関、判事、検事、協和会員らが残留、さらに他地区の「前職者」が転入して来て約三百人が作業隊を組織した。
「イルクーツクの第五収容所の民主化運動は、文化運動といった方が早く、ソ連の言うように『大いに働いて早く帰国しよう』という目的で一致していました。九月中旬、ソ連管理局長(少将)が視察に来て、約三十人の民主委員、アクチブ、作業隊長を集め『働いた者から帰国させる』と言いました。私は文化部長をやっていましたので、少将に『前職者はいくら働いても帰さないのか』という意味の発言をしました。
ソ連の管理局長は『そんなことはない。必ず帰す』と約束し、一ヵ月後の十月下旬、私たち三人の憲兵のほか約百人がナホトカに着きました。私たちのやっていた民主化運動は、軍隊組織のなくなった後、文芸、演芸などを中心に、民主グループが支えになろう――というもので、ノルマの調整、対ソ交渉、収容所内の営繕といった実務が中心でした。つるし上げなど思いもつきませんでした。ナホトカでの体験とはおよそ次元の異なるものでした。ナホトカは化け物ですよ。
長い旅を終えてナホトカに着くと、すぐ日本人委員長から呼び出しがありました。『お前たちはつるし上げをやったことがあるか!』とまず問いました。『全然ない』と答えますと『お前たちが憲兵ということは知っている。二人とも反動分子だ』と決めつけられました。ソ連側からの取り調べは一度もないのに、日本人のアクチブが私たちを反動と認定し攻撃して来たのです。次の収容所に移った夜、それはすさまじいつるし上げが始まり、標的にされたのは憲兵大尉だった野沢清人氏(帰国後衆議院議員、故人)で、帰国梯団から外されたのです。野沢大尉がいなかったら、私たちが標的にされていたと思います。諸戸文夫(浅原正基氏)のアジ・プロを聞いたのもナホトカのつるし上げの時です。日本人の敵は日本人アクチブで、生殺与奪の実権を持っていたことは確かです」
ナホトカで民主グループの側にいて絵の勉強をしていた四国五郎氏は、二十三年五月ごろから異常さを増した民主化運動のあり方に嫌気がさし、帰国したい――と思うようになった、という。四国氏が軍隊に対して本能的な嫌悪感を抱いたのと同じような状況が、シベリア民主化運動の過程で発生した、とみるべきであろうか。軍隊もシベリア民主化運動も、ついに芸術好きな青年を包み込むような環境をつくりえなかったことは共通していたといえるであろう。
「そのころ、日本新聞(ハバロフスク発行)の諸戸文夫(浅原正基氏)がナホトカに出てきてアジる姿を見ました。小柄で目付きが鋭く、初めて見た時『性格異常者ではないか』とさえ思われました。演説は上手だったですが、神がかり的な将校が民主化を吹いて回っている感じでした。小さなこの男に、なぜあれほどの影響力があったのか――今もって忘れられない思い出があります。
諸戸文夫はハバロフスクに常駐しているはずですが、帰国梯団が着いた時など、ナホトカに来るのです。二十三年五月が諸戸がナホトカに姿を見せた最初だと思うのですが、その時諸戸は坊主頭でした。するとナホトカにいた約百人のアクチブが全員坊主頭にしました。これには驚きました。つるし上げ――人民裁判が盛んになったのはそれからでした。
しかし、いくらつるし上げるといったって、相手がそうそういるものではありません。それで今度は言葉じりをとらえる、昔の話を持ち出す、前職が憲兵だった、というだけで人民裁判です。この種のやり方は私の体質に最も合わないところです。民主化運動は全員が納得するものでないとダメだという信念が、そのころから私の頭の中にありました。
運動というのは面白い経過をたどります。ソ連の方針とどのようにかかわり合っていたか――を断定する資格は私にはありませんが、ナホトカのアクチブの中で運動が急進化するとともに農民出身者が勢力を持つようになり、ソ連の方向と考え方の違う人々――農民出身者にとって代わられた人たち――は地下運動のようなことをやり始め、出版物も内密で配布していたような、奇妙な状況が現れました。私が失望したのはそのような“変化”です。
この年の十月、収容所長が『帰国しないか』と言ってくれたので即答し、十一月三日舞鶴に着きました。私より早い船で帰国したアクチブもいましたよ。日本に帰って参議院の特別委員会に証人として呼び出されたこともあります」
「ナホトカ人民裁判」に絶望し、帰国した四国五郎氏とすれ違うように、二十三年十一月十二日ナホトカにウクライナ収容所から到着した後藤敏雄氏の回想を記そう。
「私たちのいたザバロージェの町はウクライナ共和国にありクリミヤ半島に近いと言った方がよいでしょう。ナホトカまで三十日間かかります。かねがねシベリア民主化運動はこっけいだと感じていましたが、日本新聞(ハバロフスク発行)の報道のしらじらしさは特筆ものです。われわれが休日抜きで何週間も十時間労働をしている時『捕虜にも月四日の休日を与え、八時間以上の作業を課さないソ同盟の温かき配慮』とか『冬期の海上輸送のため、米国砕氷船の派遣を提議せるも、ソ同盟これを拒否す。極寒期の輸送により傷病者の出るのを恐れるソ同盟の親心』という記事もありました。この親心という言葉には言いようのない憤まんを覚えたものです。
もっとも読み方によっては、日本新聞の記者の中には可能な限りで抵抗している者もいるのではないかという見方もあったわけです。米国が砕氷船の提供を申し出た、ということなど黙っておればだれにもわからないはずだし、こんな米国の好意を示すような記事を、ソ連べったりの記者が書くだろうか、また親心というのも実に苦しいこじつけではないかなど、将校仲間で話題にはなりました。
さて、帰国命令が出て、日本新聞を読んでいるわれわれは、果たして『中間集結地』を無事に通過できるだろうか、とみな心配したものでした。特に宣伝係だった男は大変で『ソ同盟万歳』とか『ソビエトの人々ありがとう』などと書いた木の板を用意し、車中でやることをいろいろ計画していましたが、すべて付け焼き刃で偽装宣伝ですね。日本新聞には『民主化の不十分な梯団は中間集結地で降ろして鍛え直される』などと書いてありましたから、ソ連人の目はごまかせても日本人には通用しそうもありません。
チタに着いた時、別の帰還列車が出発準備を整えていました。貨車の外壁には板が張られ花輪が飾られている。向こうの宣伝部員が乗り込んできて『あなたたちを民主化の遅れた梯団として闘争目標にする』と言いましたよ。そして『自分たちの梯団には完全に闘争目標が無くなっている』と威張っていました。そんな状況の中でナホトカに着いたのです。中間集結地として予想していたハバロフスクは無事通過です。いやナホトカには驚きました」
後藤敏雄氏には、何度も紹介したように『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』という名著がある。学者らしい、カラシの効いた抑留記で、常に冷静に自己とソ連の内部、収容所の実態を見つめている。ソ連政治部と収容所サイドの関係、民主化運動の分析など見事で、一種の日本人論といってもよい著作だ。その筆を借りる。
「ナホトカの様子は最終集結地の名で日本新聞(ハバロフスク印刷)に何度も報じられていたが、その実態が新聞の報道よりも更に熱狂的なものであることに私達は今更のように驚いた。少し前に着いたらしい梯団はスクラムを組み、手に手に赤旗を振り、革命歌を合唱したり、踊ったり、駆け足で練って回ったりしていた。すぐ近くの収容所に出入りする者はどんなに小人数でも歩調を合わせて歌を歌っていた。お互いに名を呼び合うときには必ず『同志○○』と言っていた。私達の梯団はまさに脳天に一撃を食わされた態《てい》で茫然となすところを知らず、あれよあれよと見守るばかりであった」
なんのことはない、新しい“全体主義”もしくは“規律社会”の出現である。
「下車した所で昼食を済ますと偽装民主派の私達梯団の中隊長が音頭を取って『赤旗の歌』を合唱するのが精いっぱいだった。悲しいかなこれ以外には歌も踊りも何一つ知らなかったのだ――集結地のアクチブらしいのが数名一人ずつ別れて梯団の各所に入った。私達将校の所へも一人やって来た。――『帰国についてどう思いますか。ソ同盟ではこうして次から次へ輸送しているのに、日本から船が来ないために寝る所もない状態です。せっかくここまで来ても、またシベリアへ帰って行かねばならぬ梯団もあります』と言った。私にはどうしても信じられなかった。いくら何でも日本政府が船を出さないようにしているとは思えなかったし、もし戦争で回すべき船もなくなっているのなら砕氷船まで貸そうという米国から借りることぐらいはできるだろう」
後藤氏の著作を読むと、日本新聞、すなわちソ連式PRの裏を察することができる。ま、それはそれとして後藤氏のナホトカ体験を追おう。
アクチブの動きが活発になり、各中隊の幹部に何か策を授けているらしいことが感じられた。翌日午後、後藤氏の梯団は再び浜辺に集められ、所持品検査を受ける。この時、兵たちはアクチブに指導されて将校を取り囲み「ワッショワッショ」とデモを始める。西部劇のインディアンの襲撃を思わせる――。
「ナホトカの浜辺に集められて所持品検査をやったのはアクチブたちです。ソ連人は一人もいません。アクチブたちは中隊ごとに集めて『将校打倒』の演説を始めました。持ち物全部を兵たちの前にさらされたのです。将校の中には私が驚くほどの物を持っているものもいました。階級章の付いた雨外套までありましたからね。日本での生活を考えて少しでも足しにしよう、という気持ちはわかりますが、将校の特権と攻撃されてもやむを得なかったでしょう。持ち物一つ一つがバ倒と冷笑の的になるのです。私は入ソの時大部分をなくしてしまったし、ベルウォマイカでも取られてしまったので、アクチブの方がびっくりしていました。前にも話したように、この時『露語辞典』、ロシア語の『ソ同盟共産党小史』など全部アクチブに取りあげられました。
ロシア語の党史を見てアクチブが『こんな物を持っていてもごまかされませんぞ』と叫びながらページをめくっていました。最後まで書き込みがしてあるのを見て意外そうに考えていましたが『どうせ税関で許可されませんから』と言って没収でした。
検査が済むと、将校の荷物の山を囲んで再び示威運動を始め、収容所に帰ったのは夕刻近くでした。
以後毎日アクチブが中心になって革命歌や踊りの練習です。その間にも将校打倒の扇動は盛んに行われました。それが『暴露戦術』に移っていったのです。こんな具合です。『こいつらは、オレたちを戦争に駆り出し、オレたちの同志を殺し、オレたちの血を吸った鬼のようなヤツらだ。今こそこいつらを徹底的につるし上げるのだ! さあこいつらの罪状を暴露しろ! 何も恐れることはない。オレたちが団結すれば何も恐ろしいことはないのだ』『これからオレたちは日米反動の荒れ狂う日本に“敵前上陸”するのだぞ! こういうヤツらを日本に帰したらどういうことになるのだ!』
ナホトカの訓練?は徹底していて、アクチブが叫ぶと群衆はもちろんのこと、通りすがりの他の収容所の者も必ずバ倒の言葉を浴びせます。私たち梯団の兵たちの間に最初は当惑の表情が見えましたが、情勢はやむを得ない方に傾いたのでしょう。無事に通り抜けて帰れるかどうかの瀬戸際です。だれかがやらねばならないという気分が濃厚になって、まず中隊長――私たち梯団の民主グループで兵隊――が口火を切りました。続いて若い男たちが将校の旧悪を暴露しだしました。こういう雰囲気はやがて本当に憎しみを誘発するらしいのです。幸い私たちの中にはひどい将校はいませんでしたが。
その夜私は見習士官で民主化の先頭を切った村井、井村、藤田の三君を誘って、ハバロフスクで日本新聞の編集をしていた、坂本というアクチブに会いましたが、一方的にしゃべりまくり『理論でなく実践だ。それがわからなければ唯物論はわからない。それよりソ同盟の貴重な食糧を徒食した“大罪”を反省せよ』ときました。もう理屈ではないですね。アクチブの長である木谷という男にも会いましたが、彼は『この収容所は頭から君たちをバ倒する感情的なアジ・プロばかりだから、理論的な疑問を解こうとしても無駄だ』と言いましたよ。しかし『ソ同盟のやり方が最も理想的でこれ以外にない』と断定したのにはあ然としました。さりとは理想の低い、と感じました。
木谷というアクチブは、井村と藤田君に経歴を語ったそうです。某商大から学徒出陣した主計将校で、“軍神”杉本五郎中佐の『大義』一巻を胸に、ひたすら天皇に忠誠を誓って出征したそうです。アクチブになったのは憲兵にひどい目にあわされた経験があったからだそうですが、それほど忠誠を尽くす軍人がなぜ憲兵ににらまれたのか。これまた不可解です。『シベリア天皇』と言われた諸戸文夫(浅原正基氏)が最後は囚人にされましたが、木谷もソ連に利用されるだけ利用され、最後はどうなったでしょうかね。そして本格的な人民裁判を体験することになりました」
いよいよクライマックスである。まず将校が三つのグループに分けられ紙と鉛筆が渡される。「軍隊に入ってからの罪状を残らず書け」とアクチブに言われ、書かされる。それを中隊全員の前で読まされる。人民裁判の“前夜祭”で、やらせたのは直接には中隊の幹部(民主グループ)だが、困惑しながらもアクチブの手前、妥協はゆるされない。アクチブは「こいつらはずるいから罪状の半分も書かないぞ! 全部吐き出させろ。何も恐ろしいことはない。妥協するヤツは反動だ!」と中隊の幹部を脅し、がなり立てた。
「事は梯団が民主化したと認められるか否かの問題です。紙は全部集められて収容所の幹部に届けられ、翌日がいよいよ『人民裁判』です。
私たちは広場の中央に立たされ、周囲を梯団の兵たちがワッショ、ワッショと掛け声とともに小刻みに駆け足で回ります。次第に他の梯団の者も加わって、数千人の集団が私たちを中心にして渦を巻きました。それが終わると広場の一隅に並べられました。他の梯団からも反動として摘発された者もいましたが、驚いたのは中にソ連に重用されていた者が入っていたことです。
ソ連に重用されていた者をつるし上げるのはソ同盟に対する非難ではないのか――と思うのは私の感想ですが、アクチブはそんな事など気にかけている様子はありません。
人民裁判では楽団の音楽に合わせて梯団ごとに縦隊に集まりました。催しの入場式のようでした。木谷委員長が演壇に立って『民主運動』の経過についてまず演説しました。次いで赤旗の歌の合唱、そのあと舞台は野外劇場に移りました。私たちは再び大衆の正面に立たされました。かねてアクチブたちが一般の評判を聞き、前日書いたものを参考にして選び出したのでしょう。私はその中には入っていませんでした。
司会者役のアクチブが、前日書いた紙を手にして、呼び出された将校一人一人に罪状を述べよ、と迫りました。
呼び出された将校は旧部下の前で『私は○○収容所で人のパンを取った何某を殴りました。何某がパンを取ったのは、私が将校食を食べその結果一般の給養が悪くなり栄養不足にしたからであります』とか『私は作業中遊んでいて部下に過重な労働を強いたため、何某を事故死させました』など大声で言わされるさまは、いかにもむごたらしく感じられました。少なくとも私たちの梯団の将校の中には、大衆の前で読まされているような状況は起こり得なかったことは確実に言えます。知らないところであったかもしれませんが、むりに言わされていることは間違いありません。シベリアで将校が働かなかったのは将校に兵を督励させるというソ連の方針に従ったまでです。むしろ日本新聞の記事によれば、将校が追放されて民主化の進んだ所は“自発的”な生産競争をやっていたそうですから、この方が過当労働を強いたことになる。
そもそもソ連が私たちを抑留したから問題が起こったのです。ソ連の責任を将校のつるし上げで免れさせようというのは本末転倒です。本当にアクチブたちが将校の責任と思っているとは私には信じられなかったのですが、ウソを承知でこういうスリ替えをやることによって、何をしようとしているのか私には理解できません。
正面からヤジが飛びます。『声が小さいぞ!』『軍隊でオレたちがそんな声を出したら貴様らは何と言った』『何某とは何だ! 何某様と言え!』『日本に帰すな!』『同志諸君、こいつらをシベリアに送り返してシラカバのこやしにしろ』……。一人がヤジる度に『そうだ』と大合唱が起こる――」
後藤氏の回想はさらにナマナマしく運動の不毛性を暴く。
「不思議なもので人民裁判の席では私たちの梯団の中からすでに『民主化された』ことを示すように立ち上がってヤジを飛ばす者も現れ、中には本当に興奮しているように見受けられる者もいました。司会者は『まだまだそれだけではないだろう。ごまかすな』と罪状告白を要求し、ヤジを誘発させようとします。この日はこれで終わりましたが、いらい私たちは至る所でつるし上げられ、縁もゆかりもなさそうな私たちにみな心から憎しみを感じているみたいでした。
非常に興味ある事実があります。事務所で机を並べていた仲間で、田村軍曹というのがいました。京都帝大在学中に三・一五事件(昭和三年三月十五日を中心に行われた日本共産党員らの大量検挙事件)に連座し奈良刑務所で四年服役し転向した人です。ソ連の打つ手が予測できるようでしたが静かに傍観して動かず、多くを語ろうともしませんでした。かつて傾倒した国の現実を見て複雑な気持ちのようでした。
その田村軍曹が本部のアクチブに呼び出されたのです。本部には日本共産党員だった人の名簿があったそうです。目撃していた人の話ですと、アクチブたちは『裏切り者』と悪口雑言を浴びせたそうですが、『自分は自分の考えで行動しているだけだ。君たちが今ここでいくら騒いでみたところで日本は共産主義にはなりはしない』と毅然としていたそうです。
それはそれとして、宿舎内のつるし上げは続きました。私たちの一挙手一投足が数千の目で監視されていて、どんな小さな事でも材料にされるので四六時中緊張していました。これには弱りました。つるし上げで気が変になった将校もいたのです。これも異常心理というほかはないのですが、私たち将校が率先して三人の大尉をつるし上げよう、ということになりました。
隊長の斎藤大尉が『まず私からやれ』と言うので倉庫の陰に引っ張り出したのですが、案に相違して下士官以下だれも集まらなかったですな。ソ連の少佐が通りかかって『そういうことはいけない』と解散させられました。兵たちも陰ではたばこをくれたり『もう少し辛抱して下さい』とささやいていました。第四分所(ここは帰れないとのうわさがあった)に将校だけ二十五人が入れられ、つるし上げ防止に習い覚えた歌を歌ったり踊ったりして、正気のさたではなかったですね」
十一月二十八日、急に帰国命令が出た。後で聞くと管理部のアクチブが「あっ、名簿を間違えた」と言ったという。
日本人同士を敵対させたアクチブ
シベリア民主主義について整理する段階にきた。シベリア民主主義の様相は時期と場所によって大きな差があることは何度もふれたが、一、二補足的に記述しておきたいことがある。
沿海州のウラジオストックに収容された伊達彰氏は二十三年九月ナホトカから帰国したが、この段階でもまだ大隊長、中隊長がおり、旧軍組織と共存の形で大隊オルグ、中隊オルグがいたという。作業に出発する前、まず旧軍の大隊長が訓示し、次いで大隊オルグが訓示を行った。大隊オルグは民主グループの長である。カラカンダ(カザフ共和国)地区に収容されていた三十九師団(藤部隊・広島)も二十三年にはまだ大隊長と民主グループが共存していたから、ナホトカ、ハバロフスクとは一年以上も“民主化が遅れていた”ことになる。
伊達氏は満州の国境守備隊に十九年五月入営した乙幹(下士官候補)出身の伍長であった。入ソコースは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の興南―ポセット―ウラジオストックである。
「保身に身をやつし激しい生存競争の中で帰国ばかり考える毎日でした。オルグの誘いは断れないし、本当かうそかしりませんが“大衆裁判”の名のもとに、悪事?を暴いて権力者を引きずり下ろす場面も目撃しました。人間として行動することを貫けば帰国をあきらめるしかない世界でした。二十三年のある日の休日に、ひそかに私は呼び出されました。『私は秘密オルグだ。夕食後ある場所に集合してほしい』と要請されました。秘密オルグとはスパイのことです。拒絶すれば私がやられますから指定場所に行くと十人ほどいました。『君たちは同志だ。大隊長と大隊オルグが食糧の横流しをやっている。あすの朝大衆裁判をかけるから同志として参加してほしい』というのです。『日本帝国主義の手先は許せない』と同調者が出て大衆裁判が決まりました。なぜ横流しが日本帝国主義の手先なのかよくわかりませんが、ここではそういうことになるらしいのです。
翌朝、作業前に大隊長の訓示が終わり、大隊オルグが立つと、すかさず一人の男が進み出てアジり始めました。後の方にいた私にはよく聞こえなかったのですが『やれやれ!』『そうだ!』とヤジが飛び始め、大隊長と大隊オルグが外に連れ出され、その場で新しい大隊オルグが任命されて訓示をやりました。筋書き通りです。私は小隊秘密オルグに任命されました。がすぐに帰国することになったので何もしなくて済みましたが、スパイは確かにいました」
三十九師団の師団通信隊の曹長だった三ツ木文雄氏が、カラカンダ収容所での民主化運動について戦友会誌『湖北』(三十九DTL会黄坡会・四十七年刊)に書いたところによると、「どのくらいの日数がたったであろうか。各中隊にアクチブと言われる人々が出てきて民主化が進められ、軍隊組織は崩れて民主委員会が中隊の幹部になった」という。反軍闘争が終わって、民主委員会が実権を握ってから、収容所内に民主講座が開かれ次々と若い指導者が出た。
「仕事を怠ると相互批判といって人の前で厳しく批判される。働かざるを得ない。旧軍隊では上官の目を盗んで息抜きもできたが、民主化された収容所内では自分一人が味方で、いつつるし上げられるかわからない。四周みな注意せねばならない状況に変わってしまった」
シベリア民主化――が逆に苦痛になった図式である。二十三年当時のことであろう。
「またソ連の指導者が次々と失脚交代しているように、収容所内の民主委員会の指導者も失脚交代している。佐藤という、政治部長をしていて全権力を握っていた人が突然『ソ連を批判した』とかでつるし上げられ所外追放になったことがある。佐藤という人はなかなか理論家で、私の記憶している限りでは大衆集会などでの政治演説は最も説得力があった」
実は佐藤という政治部長は前に紹介したことのある『ラーゲルをこえて 回想のシベリア民主運動』を書いた佐藤利行氏のことであろう。三ツ木氏の回想通り、ソ連を批判して追放になる。
佐藤氏はスパスクで教育を受けカラカンダ地区のリーダーの一人にのし上がる。教育を受けたのが二十三年春で、その時、カラカンダの収容所には実権はともかく、旧軍の大隊長がいたことをはっきり書いている。もっともラーゲリによって大隊本部――旧軍組織を廃止したところもあるが、佐藤氏は二百三十一連隊のことにもふれており、前後の関係から、三ツ木氏と佐藤氏は、部隊こそ違え同じラーゲリにいたと思われる。
「日本新聞友の会」「○○会」「反軍闘争」と民主化運動はエスカレートするが、ソ連の収容所側は将校の指揮による作業ノルマの向上をむしろ歓迎していたことは事実だから、三ツ木氏の手記にあるように「民主化されて作業が逆にきつくなった」というのは本音である。佐藤氏は、運動の相手はソ連だ、という認識に立ち、一人で立ち向かって敗れる。一口にシベリア民主化運動というが、厳密に見れば一様ではない。
ソ連邦のことをシベリア民主主義者は「ソ同盟」と呼んだ。ソ連政治部の方針に基づいて、思想教育はこれまで見てきたように活発に行われ、ついには「スターリン(あるいはソ同盟)に対する感謝決議文」を起草し全員に署名を強いるようになる。大会、政治学校の卒業式に際して、生徒(講習生)が行った感謝決議が次第に各地の収容所に持ち込まれたものと思われるが、二十二年八月四日、ハバロフスクの民主運動代表者会議の席上で決議されたものが日本新聞(ハバロフスク印刷)でみられる。
内容はあまり長くないが、収容所によっては一万五千語にも及んだものもある。要点だけを記す。
(1)ソ同盟ならびにソ連市民の厚意によって平和な民主的建設の途を歩み得た。
(2)今やわれらは悪虐なる天皇制ファッシズムの圧制を脱し、祖国に平和なる民主主義社会を建設する情熱に燃えている。
(3)天皇制軍隊に入り、無知迷妄の深淵に呻吟せるわれらを常に啓蒙し、その進むべき大道を明示してくれたのはソ同盟のご厚情に外ならない。
二十二年七月三日、ナホトカに到着した病弱梯団の高原俊則氏によると、人民裁判のあと、スターリンへの感謝決議文に署名させられたという。高原氏の所属はタイセットの収容所であった。満州で教員をしていて、二十年五月末、関東軍の“根こそぎ動員”で牡丹江の乗馬小隊に召集された。入ソ時は星二つの一等兵であった。タイセットはバイカル湖畔の都市イルクーツクから北西約六百キロにあるシベリア鉄道沿線の町である。病弱者だけが各収容所から集められ帰国梯団を組んでナホトカに着いた。
高原氏の体験はナホトカ民主運動の進み具合を知るうえで貴重な物差しとなる。
「ナホトカに着くと人民裁判が始まりました。将校の名をあげて二、三人前に立たせ、アクチブたちが『わあわあ』とつるし上げをやり始めたのです。あまりにもアクチブのやり方が激しいので、たまりかねて前に進み出『東京ダモイでここまで帰って来たのではないか。目の前に日本を見て、このようなことをすることはない』と一席ぶつと『その通りだ』という同調者が進み出て人民裁判はオジャンになってしまいました」
二十二年七月の段階では人民裁判も“この程度”のものに過ぎなかったことの証明であろう。が宿舎に戻ると同僚から「アクチブににらまれると帰国できなくなるらしいぞ」と聞かされ「しまった」と思った。
同僚の言葉にがく然としていたら、深夜「スターリン感謝決議文を作るので委員を出せ」とアクチブが言ってきた。
「ここで帰国をやめさせられてはかなわないと思い、真っ先に手を上げました。他の梯団からも委員が出て五、六人いたように思います。感謝決議文にはひな型がありました。内容についてはまったく記憶にありませんが、だれかが奉書に墨書し、全員がサインしたと思います。サインは奉書の後だったか、別冊の帳面だったか、それも記憶にありません」
「スターリン(あるいはソ同盟)に対する感謝決議文」が帰国者の手で書かれたのは二十二年七月で、ハバロフスクで行われた民主運動代表者会議(日本新聞主催)の決議より一ヵ月も早い。
スターリンへの感謝決議文はしかしモスクワへはほとんど届かなかった。引き揚げ後、膨大な量のサイン帳が収容所の倉庫に残っていたとの目撃談は多くあり、感謝決議は一種の「通過儀式」にすぎなかったとみるべきであろう。
帰国するために引き揚げ船のタラップを上り、船が領海を過ぎ、ソ連の係官が下船するとほっと胸をなで下ろした、というのが一般の引き揚げ者の偽りのない実感であった。
ナホトカ人民裁判は二十三年から最高揚期を迎え、二十四年になると全引き揚げ者が“赤旗梯団”と称されるほど先鋭的となる。
「天皇島に敵前上陸」という奇妙な合言葉が引き揚げ船を包み込み、引き揚げ船の船員のつるし上げ、舞鶴に着いての団体行動など、当時の日本共産党との微妙な関係と呼応して異様なムードを作る。
引き揚げ船内のもようについては二十三年と二十四年との間に、まったく異なった対応が見られる。二十一年、二十二年前期の引き揚げについては特別に問題はない。「異国の丘」として歌われた日本恋しさの心情が全船内にみなぎっており、舞鶴では肉親との涙の再会が繰り広げられた。
二十三年になると引き揚げ船が領海外に出ると突如として「日の丸組」が姿を現し始める。船内では「逆つるし上げ」と言われるアクチブに対する報復が血みどろのシーンとともに展開されたのである。ナホトカでの人民裁判といい、引き揚げ船内での逆つるし上げ――報復といい、あまり誇れたものではないが、左に右に揺れ動いた日本人の心理状況を物語る歴史的事実として記録しておかねばなるまい。二十二年四月の段階で報復はみられている。
田中清養氏は二十二年四月舞鶴に上陸しているが、アクチブだった八人が「船内で旧軍隊の内務班のリンチでもみたことのないような暴行を加えられたのを見ました。顔がバレーボール大にふくれ、今思い出してもぞっとします。一人は甲板に逃れたそうですが、その後どうなったか知りません」と証言している。田中氏はシベリア民主主義の発祥地ハバロフスク地区の収容所にいた。したがって、どの地区よりも民主化運動が激しく行われていた。軍隊気質の抜け切らない者も多く、収容所内で威張り散らしていたアクチブに対する反感は想像以上のものがあったと思われる。二十二年の帰国で、厚生省の公式記録に残されているものは、九月二日舞鶴に入港した第四十九船(四十九番目に入港したという意味)「高砂丸」で「引き揚げ者(実名があるが略す)自殺」が最初である。
「高砂丸」で自殺した人の自殺理由については「スパイを強要され、一度は承諾したが、良心にさいなまれて自殺した」という説と「船内で殴り殺されたアクチブ」という説と二通りある。いつとはなしに「日本海名簿」という呼び名が使用されるようになった。ナホトカで乗船した人員と舞鶴上陸時の人員に差があったのである。取材中、二十三年帰国組であるが、船内で暴行を加え、海に自ら飛び込んだとか、海に投げ込んだのを見た、との証言にもまま突き当たった。
二十三年の厚生省の記録によると、この年の引き揚げ第一船は五月六日「明優丸」の舞鶴入港で、最終は十二月四日入港の第八十七船「朝嵐丸」である。この間、公式に残されている不祥事は、七月十七日入港の「第三十船遠州丸から一人逃亡」、七月十八日入港の「第三十二船信濃丸で民衆裁判事件発生」、八月十二日「第四十船遠州丸で甲板に集合し国歌斉唱、宮城遥拝を行う」、十一月一日「第七十三船英彦丸で引き揚げ者間に紛争事件発生」、十二月二日「第七十四船東山丸、第七十五船高砂丸入港、寮内において引き揚げ者間に紛争事件発生、負傷者生ず」などである。
以上の諸事件はいずれもアクチブに対する“反動”派の復しゅうである。七月十八日「信濃丸」で発生した“民衆裁判”は“逆つるし上げ”であったことは言うまでもない。アクチブであった人、そうでなかった人の証言は完全に現在でも対立している。アクチブは将校の横暴を主張しつづけ、つるし上げられた将校や“反動兵士”はアクチブを「ソ連の犬」「権力主義者」などと逆襲する。が、アクチブの主張に少々無理があることは否定すべくもない。
「日の丸梯団」という、“反動組”が突如として出現したのは二十三年である。シベリア民主化運動の推移は日本新聞(ハバロフスク印刷)を輪読する「友の会」から文化運動に発展し、反軍闘争、反ファシスト運動やがてはマルクス主義の学習による思想運動(一種の政治運動)にまで登りつめたことはこれまで見てきた通りである。思想運動の高揚期が二十三年であり、民主化グループの中での奪権闘争――それがソ連の差し金であったとしても――を繰り返しながら、旧軍の悪事を暴露するという思想が根底に流れていた。が、しだいに運動は政治化の様相を呈するようになり、二十三年十一月から翌二十四年三月にかけて行われた「大冬期闘争」となると完全に共産党の宣伝のための闘争となる。
二十三年に突如として日の丸組が出現し、アクチブたちを逆つるし上げしたのは、ナホトカで赤旗の歌を歌い、ダンスをし、人民裁判で「そうだ」「やってしまえ」と同調していた“群衆”――シベリア民主用語で言えば兵士大衆――である。彼らはアクチブたちの“特権”を見て見ぬふりをし、ソ連という束縛から解放されたとたん、不満を吐き出したのである。アクチブやその指揮者が言うように、運動が真に“兵士大衆”のものなら、領海を出た直後の引き揚げ船の中で逆リンチなど発生するはずがない。
「日の丸梯団」の出現は、シベリアの民主グループの耳にもすぐに入る。記録によれば、舞鶴での復員係官に対する回答のやり方まであらかじめ訓練するようになった。たとえば次のように、である。
――随分寒かったでしょう。
答 寒い時は零下四十度になります。(この答えはいけない。気象条件は重大な軍事情報である。正解は『寒かった』だけでよい)
――体の悪い時の作業は免除ですか。
答 三十八度以上の発熱の時休みます。(これもいけない。三十八度まで発熱患者を働かせるという反ソ材料の提供になる。正解は『はい』)
――ソ連にも泥棒や物もらいがいますか。
答 そりゃあいます。(これもダメ。泥棒や物もらいは社会主義国家にはあり得ない。われわれはソ同盟の真実を伝える階級的義務がある。『知らない』と答えればよい)
二十二年三月に地方大会、八月に全国(?)大会をハバロフスクで開き、スターリンへの感謝決議を決定して以来のシベリア民主化運動は大きく質的な変ぼうを遂げる。もはや反軍闘争などではなく、明らかにアメリカ占領下にある日本の政治的変革を目的としている。
「天皇島に敵前上陸!」「代々木(日本共産党本部)の旗の下に集まれ」「日本の共産主義革命達成に全力を」などのスローガンを掲げた、いわゆる「赤旗梯団」が舞鶴に入港したのは二十四年六月二十七日で、この年の第一船であった。この年四十四隻がナホトカから舞鶴に入港しているが、騒動がまったくなかったのは十一隻で他の三十三隻では徹底した“筋金入り”ぶりを見せている。左右対立のあったのは二隻だが、ポツダム政令(勅令三百号)が公布されていたため大事に至らなかったまでである。
第一船「高砂丸」の引き揚げ者は「歩武堂々、笑顔も見せずスクラムを組んで上陸」と厚生省資料にある。復員業務に携わる人に無愛想極まる非協力的態度をとった。特別仕立ての復員列車に乗ったが、停車の度にホームで労働歌を歌い乱舞した。家族には目もくれず、引き戻そうとする母親を振り払い、物の怪につかれたようにデモった。こうした姿は各地の駅頭でもみられた。
七月四日、第二船「永徳丸」の引き揚げ者は日本中の注目を集めた。京都駅で特別列車から下車し、大規模なデモを行い、座り込みに入った。マスコミはこの行動を逐一報道したが、その論調をみるとある種の戸惑いがみられる。当局はついに警官隊を導入して座り込みを解散させた。
関東、東北方面に帰国する六百人余の行動はさらに激烈であった。東京駅で下車し、公会堂を占拠して二晩明かした。国鉄はそれでなくても少ない終戦後の列車を、やりくりして引き揚げ者用にしたが、無人のまま東京駅を出発しなければならなかった。東京で下車した“闘士”たちは政府官庁、工場の前で渦巻きデモを行い、ソ連大使館を訪問して「ソ同盟の温情ある抑留」に感謝した。ソ連大使館員がどう答えたかは知るよしもない。
七月二十七日入港した「信濃丸」では三人の引き揚げ者を「裏切り者」とつるし上げ、うち一人を処分するため、船長の持っている司法権を要求した。船内では船長に司法権があることを事前に調査していたらしい。船長が拒否すると「船長も第一級戦犯である」とつるし上げた。
問題が発生したのはその前の、七月二十三日舞鶴入港の「信洋丸」である。配給のビスケットに虫が入っており、二度にわたって引き揚げ者の体と荷物に水がかかったことに言いがかりをつけ、航海中の船内で船長をつるし上げた。信洋丸は貨物船を改造したもので、三階が吹き抜けになっており、周囲の居住区には二千人の梯団員がいた。その中でつるし上げられた内川船長は恐怖におののいた。
「信洋丸」の内川船長は、船員組合の応援を受け二十四年八月、同船に乗っていた二千人を「暴力行為等処罰に関する法律違反」「脅迫罪」「公務執行妨害罪」「強盗罪」などで告訴に踏み切った。「強盗罪」は引き揚げ梯団の軍医が船医を追い出し、医療器具や薬品を使用したことも含まれていた。今から考えると内川船長や船長を支援した船員組合、復員局のやり過ぎ、という非難もあろう。が、日本共産党の機関紙『アカハタ』以外の日刊紙は、あまりな“筋金入り”引き揚げ者の行動に次第に懐疑的な目を向けるようになり、筆をそろえて批判した。
昭和二十四年といえば一月二十三日の総選挙で共産党が一気に三十五議席を取り、完全に“市民権”を得た年である。ジャーナリズムは反米・親ソ的な論調で満ちていた。世界的には社会主義諸国の充実期で東ドイツ、毛沢東の中国が成立した。ソ連の原爆実験の成功(九月十三日公表)も“善なる核”として日本の“知識人”に支持されていた。
国内的には公務員の定員法による国鉄十万、郵政二万六千五百人の減員、下山国鉄総裁の怪死、三鷹、松川事件と続いたが、これも左翼に対する“反動政府”のやらせであり、日本の社会主義革命近し――とする一部ジャーナリズムの見方は一般的でさえあった。このような社会背景の中で始まった二十四年の引き揚げだが、左翼シンパのマスコミさえ、引き揚げ者の行動を批判したのである。
内川船長の告訴を受けた京都地検舞鶴支部は四人を逮捕している。対策に弱り果てた政府――GHQは八月十一日「引揚者の秩序維持に関する政令」(ポツダム政令第三百号)を公布し即日実施した。「引き揚げ者を速やかに秩序正しく故郷に帰す」ことを目的としたもので、ナホトカで乗船してから自宅に帰るまでの間、船長、援護局、国鉄、知事の指示に従うことを義務づけ、赤旗を持った共産党の歓迎阻止、違反者に一年以上の懲役、一万円以下の罰金とした。ポ政令による緊急措置である。
ポ政令第三百号の施行は、すぐシベリアにも知れ渡った。民主グループは「植民地治安維持法」と命名した。この名称はなかなかうまい。が帰国者たちは「だんまり戦術」「無視戦術」に転換して、復員業務に非協力的態度は変えなかった。舞鶴で支給された復員手当の中から日本共産党にカンパし、革命の闘士として振る舞い、日本共産党もこれらを“熱烈歓迎”した。共産党への集団入党もこの時の出来事である。引き揚げ者は一様にひとかどの闘士のポーズを見せていた。
「引揚者の秩序維持に関する政令」の公布施行は、無線で復員船に通報されたので、復員業務は平静に行われるようにはなったが、パターンを見ると協力―非協力―協力といったように、ナホトカの指令に基づく色彩が強く感じられるものであった。神経戦への戦術転換であろう。
厚生省は「ソ連が任命したように見える指導者(アクチブ)は実際はカイライであって、真の指導者は陰に隠れている」と書いている。二十四年の引き揚げを終了した時点に書かれた厚生省文書は、今見ると悲壮的でさえある。洗脳された帰国者集団が発するものすごいエネルギーに対する恐怖と、赤化思想に対する警戒心がありありとうかがえる。
一般のシベリア引き揚げは二十五年一月二十一日「高砂丸」、二月八日「同」、四月十七日「明優丸」、四月二十二日「信濃丸」の入港で終わり、同日タス通信は「日本人捕虜の送還完了」を発表した。
二十五年の引き揚げ船は、四隻だが、四隻とも「日の丸組」が登場し、船によっては「日の丸組」の方が優勢であったりしている。最後までシベリアに残されていた“反動”が多かったから、勢力が強くなったのは当然であったろう。
シベリア抑留者を迎え入れる日本側の態度に問題があったと指摘する手記も多いことには注目する必要がある。舞鶴で引き揚げ者が必ず入れられる平寮での日本の現況説明にやたらと「天皇のお陰」を持ち出す説明員の選択にも問題はあった。見せる映画の粗末さ、復員局員の中にはかつての佐官級の元軍人が多くおり、復員業務慣れから、ついぞんざいな口調になったり、命令するような態度を示すことも抑留者の神経を逆なでしたのである。二十一、二年の引き揚げ者ならいざ知らず、二十三年以降の引き揚げ者は、少なくとも戦前の体制に対する疑問だけは、はっきりと持っていたはずである。「天皇のお陰」などと言ってみたところで、しょせんは絵空ごとに映ったに違いない。
“筋金入り”が帰国後すぐ共産党に見切りをつけたのは、戦後の日本社会が社会主義政権下のソ連よりも“まし”であり、一党独裁による不自由さを身をもって体験していたからである。戦後日本が、戦前と同じ体制下にあったと仮定したなら、少なくとも二十四年の“筋金入り”の引き揚げ者の大半は社会主義政党に参画していたに違いない。
シベリア民主化運動は、結果的には幻影であった。しかし彼らは旧軍隊の束縛から逃れ、階級という絶対権力がいかにモロかったかもはっきりと見た。日の丸組が即旧体制の支持者だと即断するのは明らかに間違いである。
若槻泰雄玉川大学教授は『シベリア捕虜収容所』の中で次のように書いている。
「彼らは船の医務室で赤チンをもらい、白い布片に赤丸を描いて急造の日ノ丸をつくったのである。――最初は穏密のうちに“同志”を獲得し、やがて一定の人数に達すると“旗揚げ”をすることになる。この段階から船中における左右の勢力は激突する。“日ノ丸革命”が成功した場合は“民主化組”から“日ノ丸組”への転向者は初めは徐々に、やがて急速に増加するのが普通である。彼らはシベリアですでに日本新聞を通じて舞鶴の騒動についてよく知っていた。したがって自分たちが“天皇島上陸”を呼号する共産党でないことを祖国の人々に示したいと懸命に日ノ丸を打ちふったのである」
だが、日の丸組の感情について次のように分析している。
「しかしながら日ノ丸組のすべてが国粋主義者、反共主義者と考えることは当を得ていない。ましてインタナショナルを歌い、デモをした人々――一部のアクチブを除き――が受けている心理的威迫と強制を除けば、皆日ノ丸の下にはせ参じたいと考えているに違いないと推定するのは的はずれであろう。敗戦という事実とシベリアの数年間の生活は、彼らの気持ちを戦前の日本人の標準的思考から大きく変えていたのである」
この分析は正しいと言うべきであろう。厚生省が帰国者を集めて座談会を開いた記録がある。多くはアクチブで、船上でインタナショナルを歌い、ダンスをし「天皇島へ敵前上陸」と叫んだ人々であるが、その発言のなかに「東京で百円、代々木(共産党本部がある)へのカンパとして取られ、岡山でも八十五円取られた。これが共産党への手切れ金です」というのがある。がこの発言は日本新聞の「飢えと混乱と米軍の軍靴の下にある日本」というプロパガンダが、ウソであると知った後からの発言であることに注目する必要がある。
旧軍部が本当の情報を知りながら、国民を常に欺いたのと同じように、日本新聞を通じて、ソ連の巧妙な誘導があったにせよ、一方的な反米、それにくみする日本政府をあしざまにののしり、抑留者をミスリードした編集担当者――たとえば浅原正基氏(諸戸文夫)、袴田陸奥男氏らの責任もまた大きいと言わねばならない。
浅原氏が三十一年八月帰国後、『中央公論』十月号に手記を書いていることは前にも触れた。そして論旨の矛盾、浅原一派が“横暴”を極めたことに対する彼の「反論」が多くは虚偽であることも述べた。が彼の主張も紹介しなければ一方的な糾弾でしかなくなる。
ハバロフスクで印刷発行していた日本新聞の編集担当者で民主グループに君臨していた浅原正基氏が、三十一年帰国した直後、雑誌『中央公論』十月号に発表した論文「デマ・中傷に抗して」によると浅原氏は昭和十五年東京帝大社会学科を卒業。在学中に学内への軍国主義の侵入に反対したため卒業後検挙されて懲役二年、執行猶予五年の判決を受けた。十八年召集され中支派遣軍の蘇州部隊に入隊し上等兵であった。思想問題で憲兵隊の追及が始まり、同情した某少尉が関東軍ロシア語教育隊に行くようはからってくれた。敗戦時、五日間ほど逃亡ソ連兵を収容していた保護院の増加衛兵についた。これがソ連刑法に触れ、戦犯として懲役二十五年を言い渡される原因となる。「反ソ・グループの密告だった」と書いていることは前にも触れた。
旧軍資料によると、十七年から十八年にかけて、ドイツ軍に押しまくられていた時期のソ連兵が数百人国境を越えて逃亡して来たので関東軍はハルビンに保護院を設けて収容していた。
浅原氏が日本新聞と関係を待ったのは二十一年三月という。日本新聞に入った動機はなぜか書いていない。が、袴田陸奥男氏がそうであったように、戦争中、左翼運動をやっていたことをソ連側に売り込んだためであろう。二十三年にはハバロフスク地区の反ファッショ民主委員の一人に選ばれている。「なぜ反軍闘争に立ち上がったか」という理由は浅原氏によると将校の横暴に耐えかねたからだという。「二十年十一月、収容所内で将校は階級章をつけていたし、病人の食事を横領していた」と書いている。二十年十一月といえば敗戦から三ヵ月しかたっておらず、満州や北朝鮮には、まだ入ソしていない部隊もあった。「将校には労働させない」というハーグ条約に基づく関東軍とソ連軍の協約があった。将校が病人食を横領したかどうかはともかく、階級章をつけていたからといって別に問題はない。むしろ“捕虜”になったとたんに将校も兵も一斉に階級章をはずした、という方が不自然な時期だ。
「シベリア各地に何らの社会的運動の経験を持たない兵士たちが、自然発生的に……反軍闘争に取り組んだのである。反軍闘争の先頭に立ったものこそ日本新聞であった。元来日本新聞は極東軍政治部によって関東軍捕虜将兵のためにその民主主義的啓蒙のために発行されたものであった。だからこそ“上から”の新聞であった。が自然発生的に燃え上がった反軍闘争はこの新聞を自分たちのものとして“下から”獲得してしまった――」と書いている。このあたりから認識がずれる。
日本新聞は“上(ソ連)から”与えられたが、それを“下(関東軍兵士大衆)から”獲得したという浅原正基氏の主張にはだれがみても異論があろう。前述したように同新聞はコワレンコ少佐(元、党国際部副部長)の指揮下にあり、内容はソ連側によって厳しくチェックされていたことは、編集部で働いていた小針延二郎氏の回想で紹介した通りだ。小針氏は日本新聞に「天皇制打倒」のスローガンを掲げることに反対し追放されている。小針氏追放の時代は初期段階だというのであれば、二十三年当時の日本新聞の内容を見てもよい。反米感情をむき出しにした記事が毎日のように出ているのは米・ソ冷戦の宣伝のためのものだ。明らかに反米的であり、ソ連サイドから見た世界観に貫かれている。収容所の中にいる日本人に世界のニュースが入ってくるはずはない。さらにはコワレンコ元副部長の収容所管理者時代の思い出を引用してもよいだろう。はっきりと「日本人はアメとムチで操縦するに限る」と言っている。ソ連が日本人の自主性に任せて新聞を発行させたなど神話である。浅原氏の主張の原点にはソ連の「政治的意図」はまったくなかったという半面、敵は「関東軍首脳」という、すでに存在し得ないターゲットに絞られているところに特色がある。ありもしない敵を想定して、彼らの言う「関東軍兵士大衆」を民主化という“美名”のもとに“大衆裁判”にかけ、労働を強制したにすぎない。しかるに、次のような論調をはる。
「反軍闘争は(ソ連の)権力と結びつくどころではなく、生きるがための、旧関東軍兵士、下級将校の命がけの闘いだったのである」
だが、真実は、抑留者は“関東軍”と闘ったのではなく、ソ連の重圧と闘ったのである。「食糧をくれ」「労働時間を短くしてくれ」「早く帰国させてくれ」という“兵士大衆”の素朴な願いは、抑留されている関東軍首脳になんの決定権もない以上、ソ連当局に対して向けられるべき性格のものだ。浅原流に言えば「敵はソ連」でなければならない。それなのに、いつまでも消滅した旧軍のあしき実態にだけ目を向けざるを得ないところに、浅原氏の主張のムリがある。表現を換えれば“すり替え”であろう。またシベリア民主運動については、
「捕虜という拘禁生活に制約されて、なんら組織的連絡がなく、各収容所独自のものであり、各地との結びつきは日本新聞に投書、寄稿するだけで組織者の派遣など捕虜として許さるべきでなく、政治運動として無組織であった」
とも書いている。なるほどしたたかなアジテーターぶりである。都合の悪いことは一切書かず、自己に有利な解釈だけを公表してはばからないところは、シベリア民主運動の特色をいかんなく物語ってあまりある。
戦後四十年もたった現在、シベリア抑留については多くの回想記、研究書が相次いで公刊されている。いずれも浅原氏の「弁明」を覆すものばかりである。横の連絡はまったくなかったと書いているが、二十二年三月には地方大会、八月にはハバロフスクで日本新聞主催のアクチブ全国大会を開催して「スターリンへの感謝決議」を行い、地区講習会、中央講習会を定期的に開いてアクチブの養成をやっている事実をどう解釈すればよいのだろう。ソ連の意図を忠実に実践していたのである。
シベリア民主化運動の行動と思想が一点のやましさもないことを主張する浅原正基氏だが、運動の行き過ぎについて多少の反省はなくもない。がそれも「反ソ・グループや職業軍人のデマ」として次のように書いている。
「人民裁判などの行き過ぎを批判して、民主運動の指導者は、一般捕虜と異なり特権的生活をして大衆に君臨し、ソ連側権力と結びついて密告し抑留同胞を苦しめた、とデマっている」
まさに「スターリンの無謬理論」そのものであろう。がこれまで本書の証言にみる通り、多くの人々がアクチブの特権を認め、特にナホトカでは人民裁判、密告を恐れて、戦々恐々としていた事実をなんとみるか。
浅原氏がハバロフスクから九百六十キロも離れたナホトカまで出てきて人民裁判でアジ演説を行い、配下のアクチブが「帰国不適当」とソ連に進言(つまり密告)した事実もまた、アクチブだった人が告白している。
浅原氏に言わせると、アクチブとソ連権力との結びつきは、
「反軍国主義に目覚めた兵士大衆が、ソ同盟勤労者と国際的友誼を感じたのは当然である。それをもって排外主義的将校諸君が“権力におもねる”と言うならご勝手である」
と突っぱねている。言葉じりを取るようだが、反軍国主義に目覚めた兵士大衆が「ソ同盟勤労者」と友好を結ぶことに疑問を持っているわけではない。「ソ連政治部将校」と友好を結んでいたからこそ、密告したのではないか、という疑問が出ているのである。「ソ同盟勤労者」を「ソ連政治部将校」と同じ意味で使っている浅原氏の考え方はどう読んでも納得できない。
密告についてはこう書いている。
「密告とは秘密に、しかも敵の中にあって、敵の内情をさぐるのが任務であろう。公然と(民主グループの)看板をかかげ、民主運動と大衆闘争の大道を歩まんとする民主グループが、それに無縁であることは説明を要しまい。憲兵のことは憲兵がよく知っている。だから密告者は密告される者のなかにいる」
この文章はよくわからないが、レトリックにしては難解に過ぎよう。また“つるし上げ”を“思想的糾弾”と置き換えて、
「反軍闘争は軍隊地獄と侵略戦争の責任者、復讐主義者を、平和の敵として思想的に糾弾したのである。その思想的糾弾をもって“同胞を売る”というのであれば、軍国主義に反対するすべての人びとは、売国奴になるではないか」。これもわからない。
シベリア抑留研究者の間で浅原正基氏の反論は「いずれも反論に値しない」とされている。民主運動のリーダーが別室を持ち、特別食を食べ、自由に収容所を出入りし、ソ連権力と結びついて特別な生活をしていたことは、アクチブ自身が認めている。問題となった人民裁判の行き過ぎについては「自己批判的記述」をしながらも「反軍闘争が勝利しあるいは民主運動が高揚するとともに不純分子、復讐分子が潜入し、民主運動にもたらされた害悪は、はかり知れないものがある」と切り捨てている。「自分は正しかったが、悪かったのは不純分子だ」ということであろう。旧軍の悪業を非難しながら、返す刀で民主運動家の多くを不純分子、復讐分子と言うにいたっては、一緒にやってきた仲間が怒るだろう。いかにも独り善がりに過ぎる。浅原氏はこのような手記を書き残すべきではなかったのである。活字とは恐ろしいものである。同時にこのような「幼稚な論議」(若槻泰雄玉川大学教授)で日本新聞が編集されていたと思うと、多くの抑留者に間違った価値観、世界観を植えつけたであろうことは、日本新聞全部を読まなくても十分に想像できる。
浅原氏に対してあまりにも手厳しく批判し過ぎたようだ。が、彼がシベリア民主主義のリーダーであった以上、そして弁明の手記を書き残した以上、後世の批判にさらされることは覚悟しなければならないのである。これが真の民主主義であり、自由主義であり、言論の自由というものである。
ただ一つ、浅原氏の主張する関東軍に対する批判、非難にはまったく同意する。だが、若槻教授の次のような意見もあることを紹介しておく必要がある。
「関東軍が責められるべき点は、在留民を放棄して逃げたこと以上に、関東軍の敵であるソ連軍が、国際法も人道もまったくわきまえない軍隊であることを知らずに、在留民の運命をその手に委ねたことであらねばならない。……(関東軍の)無知こそ最大級の言葉をもって責めねばならないのである。浅原の弁明は侵攻して来たソ連軍が、残虐なあるいは無法な軍隊であることを前提にしなければ成り立たない理論である。満州の一般在留邦人が関東軍を非難するのは当然だが『ソ連軍』を『暴虐なる関東軍からの解放者』と規定する浅原が、このように主張することは理論の破滅と言わねばならない」
さらに若槻教授は書いている。
「(浅原手記の文章の中の語句を)『将校』というところを『民主運動のリーダー』と読みかえ『宮城遥拝』を『スターリン万歳』あるいは『革命歌の合唱』などの正反対のものに置きかえれば、そのままシベリア民主運動弾劾の書ともなるであろう」
言い得て妙である。
“ソ連戦犯”(長期抑留者)を残して「日本人の引き揚げは完了した」とタス通信が報じたのは二十五年四月二十二日であった。その後数年間――最終帰国梯団が三十一年十二月二十六日、舞鶴に入港するまで長期抑留者はハバロフスクで労働させられていた。
長期抑留者が身命を賭して抵抗した「ハバロフスク事件」について概述しておきたい。三十年十二月十九日、第一分所の約八百人は、待遇改善を請願した。ソ連での囚人の平均寿命は九年と言われている。十年間も幽閉されていた日本人のほとんどは高齢化し精神的絶望感もあって体力の限界にきていた(この請願運動には浅原正基氏ら「党史研」グループ二十数人は参加しなかった)。収容所当局が請願を無視したため、三十一年三月二日から約五百人が断食闘争に入った。この闘争に参加した日本人抑留者の平均年齢は四十二歳を超え、旧制中学卒業以上の学歴者が九二パーセント、高専以上五〇パーセントという、分別盛りの男達の蜂起であった。十一日未明、ソ連兵約二千五百人によって強制排除されて事件は終わったが、待遇改善は勝ち取ることができた。珍しい収容所内の“反乱”である。
三十一年十月九日、鳩山一郎総理の訪ソで国交は修復し長期抑留者は全員釈放された。が、シベリア抑留については今も問題が残っていることに注目する必要がある。正確な未帰還者数が不明であること、日本政府が抑留者の本格的な国家補償に手をつけていないこと、後遺症患者がいること――などである。長年の要求運動にもかかわらず、補償が実現しないのは一般戦災者補償との兼ね合いが主原因であろうが、旧軍人に関する問題として反対論があることも作用している。ドイツの場合をみると戦後処理の一環として完了している。敗戦後も不当に長期抑留され、政府がそれを承知で日ソ国交を回復した以上、事後の責任は政府にある。北方領土問題と同じく、政府の懸案である。
シベリア民主化運動は、マルキシズムを根底にした民主化グループと日本軍国主義者との闘争――という図式で行われた。が実態はスターリン統治下で訓練された日本人が、戦前の天皇制下の旧軍組織に対して向けられた、国外における“前近代的な絶対主義者”同士の相克といえよう。軍が無くなった戦後日本の民主主義とは無関係であった。シベリア民主主義が、幻影であった証拠に、筋金入りの闘士も帰国すると対象を失い“転向”せざるを得なかったのである。「戦後四十年もたった現在だから言えることだ」との批判もあろう。が、抑留、そして民主化運動による相克は「戦争すればこうなる」という日ソ両国の最も愚劣な恥部をさらけ出したまでである。中国新聞が「シベリア抑留」を記録してきた意味は、この教訓を再確認するためでもあったのである。
エピローグ・さまざまな影
スターリン批判の意味するもの
本企画が中国新聞に連載されていらい、読者の反応は予想を超えるものがあった。抑留体験者が四十年近い沈黙を破って、セキを切ったように熱っぽく語りかけてきたのは、現在も続くある種の“怨念”を吐き出したかったためと思われる。シベリア体験はなおナマナマしくしかもドロドロした形で生きている証拠であろう。
シベリア体験は、太平洋戦争の従軍将兵のそれとはまったく異質であるところに注目しなければならない。その最大の理由は、国際法的に不当な拘束を受けたうえに「シベリア民主化運動」という関門を、自己の意思とは無関係にくぐらざるを得なかった点にあると思われる。
連載中に「今更なぜ反ソ・キャンペーンをやるのか」という声が当然あった。投書、電話での強硬な意見が伝えられてきたのである。企画発足前からこの種の反応があることは予測していたし「ま、おわりまで読んで下さい」と答えるよりほかに方法がなかった。こうした「反ソ・キャンペーン」反応を寄せる人たちに共通しているのは、決して名前を名乗らないことである。住所、氏名、経歴は一切明かさず、ひたすらに「反ソ・キャンペーン」と繰り返すのである。これでは紙面に反映させようがないのである。
この連載は証言者の氏名、経歴、資料の出所を厳密に公表してきた。記憶違いがあったとしても、疑問だと注釈をつけて書いた。証言者の意見を尊重するためであり、それが現代史の一つの資料として価値を持つと考えたからである。「反ソ・キャンペーン」と見る人の意見、体験もまた同じ意味で貴重であり、それなりに現代史資料として等価だと思われるが、氏名・経歴、住所を明らかにしてもらえない以上、連載の中に登場させることは不可能なのである。裏付けのない証言は“つくりもの”と読者から思われても仕方がないし、この種の企画では絶対に許されないことである。
匿名氏からの電話は「私たちがナホトカを出るとき、ソ連人女性の踊りで送ってもらった」とか「あのまま戦争を続けていたら何十万人の関東軍将兵が死んだかもわからない。それをソ同盟は捕虜として養ってくれたではないか」など次元の異なる“証言”を必ずつけ加える。
「ナホトカを出港するとき、ソ連女性の踊りで見送ってもらった」という証言は、この連載を「反ソ・キャンペーンだ」と批判した匿名氏からのものだが、もし匿名でなかったなら貴重なケースである。残念ながらどの研究書、体験記、証言にも出てこないし、記者の取材した限りでは「そんなバカな……」と一笑に付されてしまったが……。
いま一つの批判パターンである「あのまま戦争を続けていたら多くの将兵が死んだはずだ。ソ同盟のお陰でわれわれは養ってもらい命を永らえたではないか」という主張は「シベリア民主化運動」に参加していたアクチブのものであろう。「日本があのまま戦争を続けていたら」ということがすでに史実と異なる。旧満州に侵攻してきたのはソ連であり、その参戦一週間後に日本は無条件降伏したのである。関東軍とソ連極東軍との間で停戦協定も終え、武器、弾薬も提出した。にもかかわらずソ連は武力侵攻を続け、北方領土までも占領してしまった。そして関東軍将兵と樺太、北方四島駐屯の日本軍を捕虜としてシベリアに抑留したのだ。
「ソ連に養ってもらったから」命を永らえたのではなく、ソ連が捕虜のシベリア抑留という国際法無視の措置に出たからこそ、十万人近い日本軍将兵がシベリアで死んだのである。論理は逆だ。匿名氏が本気でそう信じているなら、堂々と名乗り出て、ソ連のお陰で命を永らえたという根拠を明らかにするべきであろう。
後日、一通だけ「悪口を言って済まなかった」という内容のはがきが届いた。住所、氏名が明記してあったが、このはがきの提出者が、いつ、どのような“悪口”を言ってきた人なのかはわからない。多分、電話で激烈な抗議をしてきた読者であったと思われる。フェアな人だな、とある種の人間味を感じた。たしかにシベリア民主化運動にのめり込んだ当時の若者の中に、純粋性をみることができるからである。
変わった“読者からの反応”の一つに、吉村隊長の再・再審を行うための証人集めをする目的で出版された吉村隊長こと池田重善氏と評論家柳田邦夫両氏による『活字の私刑台――暁に祈る事件の真相』(六十一年九月、星雲社発売)という本を送ってきたことがあげられよう。吉村隊長事件は再審請求したが五十四年に却下されている。この本の中で、柳田氏は私(御田)を「吉村隊長=悪魔説」をとっていると、手厳しく非難している。この種の本はなかなか目につきにくいものだが、直接私に送ってきたからフェアである。言論人は批判も非難も堂々とやるべきだし、そうした意味では柳田氏の態度は立派だと思った。
その著書の内容は「吉村隊長こと池田氏は活字の暴力によって有罪判決を下され、再審も蹴られた。吉村隊長は無罪であり“暁に祈らされて”死んだ隊員は別人である」という結論に達しよう。
かねがね「吉村隊長事件」は状況証拠――証言だけによって有罪と認定されたもので、本書で「イヤな事件」と私が書いたのはそのためである。私が本書で力説したかったのは、旧軍体制の締めつけにしろ、民主委員長の指導にしろ、「結局、厳しい労働を強いたのは、常にその体制側に立った権力者であった」ということである。
しかし『活字の私刑台』の池田氏の「告白」を読むと、巷間で問題になったことは、実際に――程度、正確さの相違はあっても――行われていたと読まざるをえない。氏が特別待遇を受けていたことを認めているのである。モンゴル人所長にもらったウオッカを飲み、衣料の残りギレでズボンを縫わせ、世話になった部下(これが氏の親衛隊と言われていたらしい)には、一人が柔道七段、一人が角力取りあがりで、身体が大きかったので「軍医と相談して」二食分を与えていたとも書いている。私が本書で正したかったのは、“暁に祈る”そのものよりも、まさしくそうした特権者の横暴についてであった。強制労働の項でるる紹介したように、食料などが絶対的に不足していた当時の状況下では、一部特権者の存在は必然的に弱者を生み、弱者は常に死と隣り合わせにおかれていたのである。
盗み、ゴロツキの類が続出するのは、寄せ集め部隊の特色で、どこでもみられている。池田氏が、この種の人を相手に、統制をとっていった努力は大変であったと思われる。
モンゴル人所長が隊内にバラまいたスパイに対抗するため、自分も“スパイ”を作り、動静をさぐらせた、とある。客観的にみればこれはまことにきわどい選択である。少なくとも池田氏が情報者をバラまけるだけの特権者であったことは確かだろう。
柳田氏は、中国新聞が四十年前のイメージにのみよりかかって書いている、と反論しているが「四十年前に何が起こったのか」を私は問題にしている限り当然である。朝日新聞が第一報を発する前に、吉村隊長事件は前述したように単行本として出版されており、ナホトカまで、吉村隊長の横暴が知らされていた“事実”が問題なのである。
ところでシベリア民主化運動の原点とも言える浅原正基氏の手記を読むと、彼の命令一下、ナホトカで人民裁判を行ったアクチブたちを裏切っているのである。「民主運動が昂揚するとともに、不純分子、復讐分子が大量に参加してきた。このような連中は口先が達者だから巧みに大衆を欺まんし、あるいは収容所当局に甘言をろうして分所の指導的地位についた者もいる」と書いている。「このような連中」と見くびり「大衆を欺まんした」とまで言っているのだ。アクチブたちは浅原氏に利用されただけではなかったか。
シベリア抑留は第二次世界大戦後の、スターリン統治下のソ連での“出来事”である。昭和二十八年三月五日スターリンは脳出血で死亡した。三年後の三十一年二月十四日から開催されたソ連共産党第二十回党大会で、フルシチョフ第一書記はスターリンを痛烈に批判した。「フルシチョフの秘密報告」である。「個人崇拝の否定」「集団指導制の復活」「戦後世界の現状認識の誤り」「経済政策の失敗」などスターリンの失政を指摘し、スターリン主義を脱却してレーニン的な本道に戻れ、という内容だが、フルシチョフが、四時間もかけて演説した中で、最も主張したかったことは「社会主義建設が進むほど階級闘争は激化する」という間違ったテーゼのもとに、同時にスターリンが長年にわたる権力保持のために、大量の粛清――殺害、流刑――を行った事実の暴露であったろう。
日本人がフルシチョフの秘密報告を知ったのは一週間後の二月二十日夕刊で、ミコヤン副首相がスターリン批判を行ったという形で伝えられた。スターリン――共産党(主義)の無謬性を信じていた左翼知識人に、大きなショックを与えたことは当時を知る人なら忘れられないだろう。共産主義と無縁だった人もスターリンの血の粛清のあまりのひどさに、ソ連の暗部を知らされる思いで驚がくしたものである。左翼知識人が幅をきかせていた当時のマスコミ界は、たとえば総合雑誌で特集を組み「今後のソ連の方針はどうなるか」について模索し、その周章ぶりは印象的であった。“スターリン主義”を絶対視して宣伝に努めていた人たちにとってはスターリンが全面的に批判されては困惑する。日本的知識人の自信のなさをさらけ出したと言ってよい。
もちろんフルシチョフのスターリン批判報告の中には、多くの外国人捕虜を厳寒の地で酷使し、国際世論の集中攻撃を受けた、という内容はないが、スターリン統治下のソ連が暗黒の時代であり、きわめて前近代的な絶対主義圧制下にあったことを、ソ連の権力者が公式に認めたことには変わりない。
自国民に対してさえ過酷であったスターリンの統治機構が、外国人捕虜に対して寛容であるとは思えないし、その実態はこれまでの証言でみてきた通りである。スターリン絶対主義の延長線上にあった「シベリア民主主義」も、階級闘争の名をかりて人民裁判をやってきた以上、フルシチョフのスターリン批判によって否定されたとみざるを得ない。
取村中に筆者が感じたシベリア体験者のプロフィルは、どこか背骨が一本通っているという力感である。事実、調査してみて実業界、政界、学界、芸能界で成功し、相当の業績を上げている人が多いのである。具体的な名前を挙げればきりがないが、たとえば伊藤忠商事の相談役で中曽根首相のブレーンとして活躍した瀬島竜三氏も十一年の抑留体験者である。NHKの番組に出演して「帰国命令の出る前日まで左官をしていました。いざという場合には呼んで下さい。あなたの家の壁を立派に塗ってあげますよ」とインタビュー役の鈴木健二アナを恐縮させていた。瀬島氏は中佐だった。佐官である。「佐官の人偏が取れただけです」と笑っていた。各地の政・財界にも多い。社会的に成功したかどうかはともかく、苦難にさしかかると「シベリア抑留中のことを思えば……」と腰が据わるそうだ。シベリア体験をプラス要因にした人たちである。宇野宗佑元首相も体験者である。
来島どっくの坪内寿夫氏もシベリア体験を持っている。新ダイワ工業社長の浅本数正氏も、同社専務の横谷厚氏も、マツダ東京支社長の前田市郎氏もそうである。瀬島、坪内氏については、仕事が仕事だけに世間の評価は分かれるが、それはともかく、あのバイタリティーは並ではない。瀬島氏については同じ体験者の中から批判がある。抑留中の行動についてである。が、瀬島氏が思想的な実体験を持ったという意味ではマイナスではあるまい。
瀬島竜三氏について、アクチブだった人の批判は現在もある。日本新聞(ハバロフスク印刷)を根城にしてシベリア民主化運動のリーダーだった浅原正基氏は、その手記の中で瀬島氏の変節――民主化運動に参加して脱退したという意味――を感情的に書きつづっている。もともとシベリア民主化運動それ自体が幻影であったと結論せざるを得ないから、浅原氏の瀬島非難は的はずれであろう。もっともこの企画の取材のため、ある体験者に証言を求めたところ「瀬島氏のような男もいるから」という理由で拒否されたことがある。「理由の理由」を質問したが答えてもらえなかった。筆者なりに理由については想像できるが、これ以上書けばその人を傷つける。瀬島氏に対する個人的な恨みがあるとは思えないから、恐らく思想的な問題であろう。思想は各人の自由だから取材を断念した。
取材拒否は意外と多いのに驚いた。「名前が出ると困る」という理由。同じ引き揚げ船で帰国したという人から在ソ中の行動を聞かされて納得した。シベリア民主化運動が、いかにドロドロしたものであったか――を物語るエピソードだ。気の毒と言うしかない。
シベリアからの引き揚げ者でソ連のスパイとなった人の経緯についてはすでに触れた。が、その他にも相当数いたと思われる。しかし戦後すぐの日本でソ連に役立つような、たいした情報はなかったろう。考えられるケースは、米国に察知され「二重スパイ」をやらされた可能性があることだ。
シベリアに十一年抑留されていた小原豊氏の証言によると、具体的にスパイの話が出てくる。ウスチカメノゴロスクで同室だった、Cという人のことだ。小原氏より陸士十二期後輩で当時二十六歳だったという。父親も将軍で陸大卒のエリートである。終戦時はある兵団の情報主任参謀だった。
そのCが、ソ連の強要と甘言につられてスパイになることを承諾させられたらしいという。同室だったから、ソ連がCにアプローチし始めて以後、Cの態度が変わったのを見ている。本来なら、スパイ容疑で懲役二十五年組だが、二十三年には一人帰国させられている。駐日ソ連大使館員として諜報工作をしていたラストボロフがアメリカに亡命した(二十九年一月)とき、警視庁に自首した。小原氏に言わせると「二重スパイらしい」ということになるが、その後チュメニ油田開発計画を持つ開発会社の役員となり、契約のためモスクワに赴く途中、ハバロフスク上空で急死した。日航機の中の出来事である。警視庁自首も、機内急死も新聞に出たから読んだ人は多かろう。これが変だ――と小原氏は言う。
状況証拠だけでこれ以上の推論は書けないが、それほどシベリア体験者にとっては、今もソ連――たとえばKGB――の存在が重くのしかかっているのである。
在日ソ連大使館の諜報工作担当者で、アメリカに亡命したのにラストボロフとレフチェンコがいる。ラストボロフは回想記を書き、レフチェンコも「リーダーズ・ダイジェスト誌」に二回にわたって日本でのスパイ工作の実態を告白している。この連載企画の執筆にあたって、これらの回想記をわざと使わなかった。しょせん、二人とも「祖国を裏切った」男たちである。裏切り者の告白は正直言ってどうも信頼しにくい。都合の悪い部分は絶対に書かないからである。現代史を正確に記録する立場からみると一次資料にはなり得ないと思われる。
シベリア抑留は日本人にとっては“災難”であった。近代的な国際感覚からは想像もされ得ないことをソ連がやったわけで、ソ連が自国内にバラまいて労働させた各国の戦時捕虜を完全に釈放するまで、国連などで国際的非難を受けたのはいたし方のないことであろう。
ソ連には一体、何百万人の外国人捕虜がいたのであろうか。戦争という混乱に加えて、ソ連の秘密主義――実際はソ連当局さえわからない――が、数字の把握を困難にしたことは確かで、概数しかつかめない、というのが実情であろう。日本だって、関東軍が消滅してしまったから、数字のはじきようがないのである。
ソ連と直接交戦したドイツ人捕虜が一番多いことは当然であろう。国連などに持ち出された数字によると、ドイツ人捕虜は三百十五万五千人である。うち死者は百九万四千人を超えている。日本人捕虜の総数よりもドイツ人捕虜の死亡者が多い。ハンガリー人三十五万人、イタリア人二十二万人、フランス人二万人、オーストリア人五千人である。日本人捕虜は六十万人と言われ、十万人がシベリアで死んだと思われる。日本人はドイツに次いで二位である。
ソ連の捕虜に対する扱いは連合国であっても例外でない。イタリアはムソリーニが倒れ、バドリオ政権となって連合国に加わり、昭和十九年にはソ連と国交を回復した。イタリア政府はソ連に対し、正式に捕虜リストの提出を要求したが、ソ連は応じなかった。ソ連としては応じようにも応じられなかったのだろう。捕虜に対する扱いは、ソ連自身さえ、つかみ得なかったほど無統制だったとみるしかない。
戦争の矛盾が生んだ悲劇
日本人抑留者の釈放要求は占領下の日本であったため、GHQを通して行われたことは既述した。数度にわたる交渉の結果二十一年十二月十九日に米ソ協定が結ばれ、日本人抑留者の引き揚げが開始された(実際の引き揚げは米ソ協定の成立を見越して、その前に第一船が舞鶴に入港している。協定内容の中に「日本人捕虜および一般日本人は引き揚げに際し、各自の所持する個人の書類および限度を超過しない日本円貨の持ち帰りを許される」という一項がある。この項目をソ連が守ってくれていたら、日本人抑留者の数、死亡者数はより正確に判明していただろう。ソ連は米ソ協定を無視して、書いたもの一切をナホトカで取り上げてしまったのである。
日本軍将兵、一般市民がソ連に連行されるとき、ほとんどが正規編成を解かれ、千人から千五百人程度の「作業大隊」に組み換えられている。従って初めて顔を合わせた人たちも多く、しかもシベリアの収容所でしばしば入れ替えをやっているから、だれがどうなったか、わからなくなってしまったケースが多い。
それでも日本人は隊員名簿とか死亡者名簿を丹念に作った。「員数をつかむ」という軍隊時代の習慣で行ったものだが、ある軍医の回想として紹介したように、隊員の死亡名簿を持っていたというだけでソ連刑法第五十八条を適用され、ソ連戦犯にされている。このあたりの感覚がソ連人と日本人の最も違う点である。ナホトカで引き揚げ船に乗る前、アクチブたちがソ連の代理として所持品検査を行い、機械的に書類、円貨など取り上げた。アクチブといえども日本人である限り、せめて名簿の持ち出しぐらいには協力すべきであった。シベリア民主主義を信じるあまりに――それも偽装が多かったと思われるが――ソ連の言うことなら“番犬”のように協力を惜しまなかったのは日本人の思想的矮小性のせいであろうか。
広島・長崎の原爆がもたらした最大の悲惨は「個が消滅」したところにある。高温と超エネルギーによって、名前もわからないままに死んでいった人たちが多かったということである。人間の尊厳が保たれる最後のものは、いつ、だれが、どこで死亡したと記録されることである。日本人の精神文化的視点の中に「死者を弔う」という行為が大きな比重を持っている限り「個の消滅」ほど残酷、非人間的なことはない。シベリアでは現実にそれが行われたのである。死亡者名簿さえ持ち帰らせなかった行為は、ソ連がいかに弁解しようとも日本人の理解の範囲を超える。ソ連は一般国民の死に対しては極めて冷淡であるが、六十万人も抑留した以上、日本人の心情をせめて理解するべきであった。
シベリアの収容所でドイツ人に接した日本人は多く、そのドイツ人観もさまざまだが、マルシャンスクとかエラブカなどの国際ラーゲリでドイツ人と生活をともにした抑留者の印象は非常に興味がある。個人差はあるが、一般的なドイツ人観は「堂々として、ソ連の思想教育に見向きもしなかった」ということである。民主化運動が高揚し、赤旗を先頭にしてインタナショナルを合唱しながら行進している日本人グループを見たドイツ人の一人が、やにわに赤旗をもぎ取り、地にたたきつけて踏みつけた、という目撃談もある。少なくともドイツ人の抑留者の中には「ソ同盟万歳」とか「スターリンに感謝」「天皇島へ敵前上陸」といったふうな倒錯した精神状態になる人はなかったようである。ドイツ人と日本人の精神文化の差とみるべきであろう。
建国大学教授でソ連に抑留された西元宗助京都大学名誉教授は「ドイツ人はソ連人に対して文化的優越感を有し、それが日常生活におのずと現れていた」と、著書『ソビエトの真実』の中で書いている。さらに「ドイツ人捕虜には団結心があり、日本人捕虜が中傷し合い、ソ連のスパイ政策に軽々とほんろうされていたのとはまるで違っていた。従ってソ連人もドイツ人の中に食い込むわけにはいかなかった。ドイツ人は悪いことも全員でやった。作業場の丸太材を共謀して民間人に売り払い、黒パンを買ってたべる。日本人だったらだれかがソ連に密告するが、ドイツ人は団結して抵抗し、ソ連の処分をゆるさなかった」という。
吉村隊長の「暁に祈る」事件が、収容所の隊長の部下虐待として社会的問題となったことはすでに触れたが、西元教授は「その極端な例で、いわゆる股肱《ここう》の部下であった兵隊を酷使し、果ては凍死せしめたというのが吉村隊長事件だが、これほどまでには極端ではなかったが、これに近いことは、われわれの周囲においてしばしば経験した――残念ながら従来抱いてきた日本民族に対する一種の信頼感を根底から覆された」と述懐している。
昭和二十五年二月、カラカンダ収容所にいた抑留者たちが連名で当時の日本共産党、徳田球一氏を「引き揚げ妨害」として国会に訴えたことがある。徳田氏がソ連当局に書簡を送り「立派な民主主義者として帰国させてほしい」といった内容の要請をしたことが日本新聞で取り上げられ、シベリア民主運動が激化する要因の一つとなったことは事実である。徳田氏は否定したが、国会は衆議院に考査委を設けて多くの証人を呼び調査した。問題は証人調べの間に起こった。
「反動は帰国させるな」と徳田球一日本共産党書記長が「引き揚げ妨害」を行ったことは、国会の考査委で事実だったと認定されたが、証人として考査委に出頭した一人――菅季治氏が再出頭の前日、二十五年四月六日、ビルから飛び降りて自殺したのである。国会での議員の質問は、立場によって一般の人間を震え上がらせるほどの迫力を持つ。菅氏を殺したのは政治だ、という論評がなされたが、菅氏の自殺原因は複雑であったと思われる。前年(昭和二十四年)にも「吉村隊長事件」の証人として出頭した渡辺広太郎氏が自殺している。日本に帰っても、なお人を自殺に追いやるだけの“連続性”をシベリア民主化運動は持っていたことに注目する必要があろう。帰国者は舞鶴上陸後、引き揚げ寮で何日か過ごしたが、落書きの中に「日本人は最低の民族だ」というのがある。権力に弱い日本人を皮肉った“自虐”の文句であろう。
日本人が権力におもねったのは、何もシベリア民主主義者だけではなかったことに触れておかないとバランスを失するだろう。敗戦後の日本でも同じようなことが占領軍に対して行われている。アメリカのマッカーサー記念館にはマッカーサー司令官にあてた投書が多数残っている。密告、感謝文の類である。きのうまで不倶戴天の敵としていた米軍の司令官に、手のひらを返したようにおもねったのだ。
東京裁判(極東軍事法廷)に連合国側の証人として出廷し、かつての上司たちを悪しざまにののしった田中隆吉少将のような存在もあった。田中少将は兵務局長(憲兵の元締め)で昭和十八年三月予備役となった軍人だ。キーナン検事の情報係となり、武藤中将を戦争にかり立てた一味だ、と証言した。キーナン検事と司法取り引きしていたことは疑うことのできない事実で、検事団と同居し、身の回りの世話をする女性をはべらせ、MPの護衛つきであった。
GHQに取り入って利をむさぼる者も多く出た。マーク・ゲインの『ニッポン日記』を一読すれば敗戦後の日本人のだらしなさがはっきり出ている。そうした観点からすれば、ナホトカの人民裁判もきわめて日本人的な現象といえるだろう。引き揚げ船がソ連領海から出た途端、日の丸組が現れて、アクチブに復しゅうする姿も、褒められたことではない。自主性の欠如というべきであろう。
日本独立後の三十一年十月、鳩山一郎総理ら全権は、自民党内有力者の反対を押し切って訪ソし、戦争状態終結宣言、外交関係復活、抑留者の釈放、漁業条約の発効などで合意したが、問題の「領土問題」については共同宣言に盛ることはできなかった。与党の自民党内だけでなく、野党でさえ「領土返還という交渉目標がはっきりしない限り、うっかり首相が訪ソすれば、事実上の領土権放棄につながる」と鳩山訪ソに反対した。「領土は継続審議」との含みは残したが、鳩山訪ソに反対した側の言う通りになったことは事実だった。ソ連は甘くなかった。
日本人の長期抑留者の全員釈放は、鳩山一郎総理の訪ソにかかわらず、前年にクレムリンを訪れた西ドイツのアデナウアー首相一行の激烈なソ連首脳とのやりとりの過程で、ソ連としてはいつまでも抑留しておくわけにはゆかない、という国際的な環境づくりができていたと言ってよい。
鳩山訪ソ団は、ソ連首脳の前ではあまり言いたいことも言わず、ひたすらソ連を説きつけようとしただけであったが、その態度が逆になめられたのである。モスクワを訪問した北村徳太郎氏ら議員団に対して、フルシチョフ第一書記は「アデナウアーのような情熱と意思を日本政府がみせるなら、日ソ間の問題解決など四、五日で済むだろう」と皮肉っぽい言葉を浴びせている。
アデナウアー西独首相と、ソ連首脳――ブルガーニン首相、フルシチョフ第一書記、モロトフ外相――との会談はプラウダとか西ドイツの新聞に大きく紹介され、その完訳も日本の月刊誌に発表されている。
ブルガーニン首相が「ソ連戦犯以外のドイツ人捕虜は全員釈放されている」と冒頭発言し、ソ連戦犯となっているドイツ人が、いかに残虐な行為をやったか、を長時間にわたって述べ立てた。これに対し、アデナウアー首相は「あなたは“捕虜”について話された。ご注意申し上げたい。私は“捕虜”とは言わず“抑留者”と言っている。またあなたは“戦犯”について話された。同じことは米英仏三国にも起こった。だが裁判での証言は感情に支配され、いろいろの証拠を平静に調査するのに不適当な空気に包まれていた。ドイツの軍隊がソ連に侵入したことは事実だ。そして多くの残虐行為が行われたのも事実だ。だがソ連軍もドイツに侵入し、そこで多くのひどいことが起こったのも事実だ」と、どちらが先に戦争をしかけたのかわからないような発言を突き付けている。一方的に参戦され、多くの残虐行為の被害を受け、しかも不当に六十万人も抑留された日本の総理を首席とする鳩山全権団からは、一言もソ連の非行をとがめる発言がみられなかったのはどうしたことか。
ブレンターノ西ドイツ外相はさらに言う。「私は人道問題の解決をお願いしているのだ。ソ連国民は過ぎし大戦における残虐行為を忘れてはいないと言われた。われわれは忘れて下さいとは願っていない。ドイツ国民もまた忘れようとは思っていない。……だがドイツ人何十万人の行方の知れない者、消息のわかっている何千の抑留者の問題が解決されない限り、両国の国交正常化はない」
日本人とドイツ人の心意気の問題であろう。
フルシチョフ第一書記が「ソ連が残虐行為をやったと言われたことは断じて受け取れない。ソ連侵入者をソ連から追っぱらった後、気を緩めることなく進撃を続けたのだ。ヒトラーとその一味が不幸を巻き起こした張本人だ」と言えば、アデナウアー首相は「世界の列強はなぜヒトラーがあれほど強大になるのを許したのか。一例を挙げればベルリンで行われたオリンピックのとき、列強はどんなにヒトラーに敬意を表したことか。そのさまを思い出すと私の全身は今でも激しい感情が駆けめぐる」と主張している。
国際間の交渉も、交渉する当事者の信念と思想と心意気で左右されるのである。西ドイツ首脳がソ連首脳に示した“信念”はシベリア収容所で、日本人が見たドイツ人抑留者の信念と同じものであったろう。
日本の進歩的知識人の行為についても言及せねばなるまい。ソ連の招待によって、多くの「ソ連賛美論」が書かれた。日本人の長期抑留者について書いたものはほとんどなく、たまに書けば失礼な偏見と軽視である。桑原武夫京大教授は二十九年一月、雑誌に発表した文章で言っている。「(興安丸の引き揚げ者の手記は)一口に言って、失礼ながらはなはだつまらない。人には目があるから目の前にあるものは、みな見えるはずだという素朴な理論が、いわゆる手記の根底にあるわけだがそんなことはない。……諸君は日本の刑務所から七年目に出てきた人に吉田内閣の批判を求めるであろうか。……そもそも諸君がなぜ戦犯とされたかの理由は、いずれもかすみがかかってよく分からない。……今日帰ってきた人々は、その理由の正当不正当はともかくとして、ともかくなんらかの犯罪によってとらわれていた人である。……。これらの人々を留めておいた国が、これを解放し、帰国させたその厚誼に対しては日本人全部が感謝しなければならない。……ソ連当局に対して感謝すべきである」。知的自由主義者と目されていた桑原氏にしてこうである。ソ連に対するおもねりの代表的意見であろう。
長期抑留者だった小原豊氏は反論する。「この驚くべき無知……。ラーゲリこそソ連の縮図であり、われわれが付き合った相手は囚人だけではない。数週間の招待旅行などでこの学者が見てきたロシアは玄関と表座敷だけだ。本当のソ連を知りたければ招待旅行でなくただの一年でよい、ソ連のラーゲリ生活をしてこい」
シベリア抑留は戦争の矛盾の吹きだまりである。吹き寄せ、集められた日本人こそ不幸であった。だが、この不幸こそ永遠に肝に銘じなければならない。
文庫版へのあとがき
平成三(一九九一)年四月十六日から十九日まで来日したゴルバチョフ・ソ連大統領はシベリア抑留中に病死した約三万八千人の名簿を外務省に引き渡し、埋葬者の通知、墓地の整備、自由墓参の保証を日本側に約束した。生存抑留者とも多忙な日程を割いて対話するなど積極的な姿勢を見せた。
この『シベリア抑留』を中国新聞に連載を始めた、昭和六十(一九八五)年の時点では、シベリア抑留の実態を新聞で明らかにするのは、社の幹部の相当の決断が必要な時代であったことを思えば隔世の感がある。
シベリア抑留がポツダム宣言(これを受諾するという手続きを踏んで日本の敗戦は決定した)違反であり、国際法違反であることを、冷え切った日ソ関係の中で、表立って指摘するのは、まだはばかられた時代であった。それからわずか六年にして、ゴルバチョフ大統領のペレストロイカ(世直し)政策の推進、それにともなうグラスノスチ(情報公開)によって、おおっぴらにソ連内部でも学者の口から自国の非をとなえる者まで現われだしたのは驚きであった。
たとえばキリチェンコ・ソ連科学アカデミー付属東洋学研究所国際協力部長などその最先端で、全抑協(全国抑留者補償協議会・山形県鶴岡市)の斎藤六郎会長との私的な交渉の結果、平成二年暮れから部分的に四回も死亡者名簿の引き渡しが行なわれた。ソ連科学アカデミーのウラジミール・ガリツキー研究員が、同研究所発行の「極東の諸問題」の最新号に書いた論文では、日本人捕虜総数は六十三万九千六百三十五人、うち抑留者は五十四万六千八十六人、死亡者は六万二千六十八人と一桁数字まで発表している。
それにしてはゴルバチョフ大統領が持参した死亡者名簿約三万八千人との差が大きすぎるが、それはスターリン統治下の内務省の管理のずさんさと、日本人捕虜のおかれたシベリアでの厳しい現実を物語っているということであろう。
平成三年三月、時事通信社から発刊された、米国人研究者ウイリアム・F・ニンモ著、加藤隆訳『検証―シベリア抑留』によって対日理事会などでの、ソ連代表の抑留者に対する認識、“捕虜は戦利品”とみなしていたような事実が、マッカーサー将軍記念館に所蔵されている記録を使って明らかにされている。
本書でも述べているように、ソ連が捕虜をそれぞれの国に帰さないという事実は国連でも問題となり、国際赤十字などの手で示された数字によると、スターリン統治下のソ連領内には、ドイツ人捕虜が三百十五万五千人、日本人六十万人、イタリア人二十二万人、フランス人二万人、オーストリア人五千人がいたという状態であった。グラスノスチのおかげで、自国民の矯正労働者が二千万人もいたことがソ連のジャーナリズムによって証されている。ソ連は戦勝国とはいえナチス・ドイツによって大きな被害を受けていたから、いちいち日本人捕虜の実態の確認などに手が回らなかったことは想像に難くない。
とまれゴルバチョフ大統領の来日によって、捕虜問題が日ソ間の正式な政府間交渉になったのは、ベルリンの壁の劇的な崩壊で象徴されるヨーロッパでの「ヤルタからマルタへ」の時代と並行して、アジアでは日ソ新時代という歴史的要請があったと見るべきであろう。ソ連社会主義体制がかかえている苦悩――とくに経済、民族問題など――ソ連内部の行き詰まりが顕在化したこともあるが、ヤルタ体制の“崩壊”によっていま何か、アジアでも新しい動きが始まろうとしていることは見ての通りである。
とはいえ、ソ連の知識人、党中央、官僚がこぞって日ソ間に横たわる諸問題に理解があると思うのは認識不足であろう。「シベリア抑留は国際法違反であった」との理解に立つ側は、きわめて少数派に属するのである。
七年前にソ連のジャーナリスト代表団が広島を訪れ、中国新聞社の編集幹部や担当記者と懇談したことがある。「シベリア抑留」「北方領土」が当然話題となり、ついには喧嘩腰の激論となった。その時の興奮がこの『シベリア抑留』を執筆させる動機となったことを、この際白状しておくが、それほど無理解であり、「日ソ中立条約を破ったのは日本だ」とはっきり言っていた。
平成三年三月、違ったメンバーであったが、ソ連のジャーナリスト代表団が広島にきて、中国新聞社を訪れ前回と同様に懇談をおこなった。確かに七年前の構えた固さは消え、自由にソ連の国内批判も出たが、彼らの日本歴史への理解に基本的な変化があるとは思えなかった。つまり問題の本質を知らないのであり、日本は“危険な国”という感覚は抜けていないのではないかとさえ感じられた。ソ連大使館筋にいたっては「シベリア抑留は国連憲章によって合法化されている」とさえ断言した。
ゴルバチョフ大統領が、海部総理との首脳会談で延長戦に続く延長戦の末、やっと歯舞《はぼまい》、色丹《しこたん》に加えて国後《くなしり》、択捉《えとろふ》の島名を共同コミュニケに書き込むことに同意したが、ゴルバチョフ大統領が、昭和三十一(一九五六)年の鳩山・ブルガーニン共同宣言(平和条約締結後に歯舞、色丹の二島を返還する)の線にさえ戻ることを頑なに拒んだのは、ソ連国内における厳しい対日世論の背景があるからである。共同声明の中で筆者が最も評価できたのは、国連憲章に残っている「旧敵国条項(五三、一〇七条)の撤廃」にふれた点ではないか、とさえ思えるほどソ連は甘くなかった。
とはいえ日ソ間のトゲとして残っている「シベリア抑留」の不当性を、ゴルバチョフ大統領が曲がりなりにも口にしたのは、第一段階としてはよしとしなければなるまい。日ソ交渉はやっと緒についたのである。本書を執筆した目的が六年目にしてやっと陽の目を見たことに、いささか安堵をしている。
本書は中国新聞社常務取締役・編集局長尾形幸雄氏の企画と強い推進力によって実現したものである。参考資料、資料提供者、証言者は、本文中にそのつど明記したので巻末掲載を省いた。ご協力に心から感謝する。「エピローグ」の中で使用した『活字の私刑台』は中国新聞に連載終了後、著者に寄せられたもので、読者からの反応の一つとして書き加えた。
講談社学芸図書第二出版部長田代忠之氏をはじめとする同社スタッフ、小林編集企画事務所の小林康〓《やすはる》氏には特にお手数をわずらわせた。重ねて感謝している。
あわせて文庫化に尽力願った講談社文庫出版部の守屋龍一氏に感謝する。
平成三年五月
著者
本書(単行本)は、一九八六年十一月、小社より出版されました。
本電子文庫版は、一九九一年七月刊行の講談社文庫版第一刷を底本とし、一部字句を改めたものです。
「シベリア抑留」は、昭和六十一年度の日本新聞協会賞(編集部門)を受賞しました。
シベリア抑留《よくりゆう》
講談社電子文庫版PC
御田重宝《おんだしげたか》 著
Shigetaka Onda 1986
二〇〇〇年九月一日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
KD000004-1