ワールドカップの世紀
〈底 本〉文春文庫 平成十三年四月十日刊
(C) Takeo Goto 2002
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目  次
第一章  「ドーハの悲劇」もしくは神の教訓
第二章  地域予選 復活と転落のドラマ
第三章  観戦の初心者が目覚める時
第四章  一次リーグの罠にはまったデンマーク
第五章  イタリアのシニシズムと八百長の誘惑
第六章  FIFAの世界戦略 目標は北米、そしてアジア
第七章  強豪が激突する決勝トーナメント一回戦
第八章  神の造りたまいし偶然のチーム
第九章  PK戦 悪魔のルシアン・ルーレット
第十章  三位決定戦 決勝前日の余興?
第十一章 決勝戦 夢から覚める時
あ と が き
参 考 文 献
文庫版のための特別対談
ワールドカップを経験するということ
岡田武史(一九九八年フランス大会日本代表監督)×後藤健生
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ワールドカップの世紀

第一章 「ドーハの悲劇」もしくは神の教訓
一九九三年十月二十八日、場所は巨大なアラビア半島からアラビア湾(ペルシャ湾)に突き出た小さな半島に位置する石油と天然ガスの国、カタールの首都ドーハである。一九九四年アメリカ・ワールドカップ・アジア最終予選の最終日だった。これまでの試合はすべて、ドーハ南郊の砂漠の中に聳えているカリファ・インターナショナル・スタジアムで行われていたが、日本の最終戦であるイラクとの試合は、市内南部に位置する小さなアルアリ・スタジアムで行われた。時計はすでに午後六時をまわって、後半も残り時間が少なくなっている。ギラギラと輝いていた太陽も西に傾き、空は熱帯特有の美しい夕景に転じようとしている。バックスタンドにはイラクの応援の人々が入り、日本からの応援ツアーは、メインスタンドから見て左側のゴール裏スタンドに陣取っている。この大会では、主催者側が、各国の応援団の入るべき位置を指定していた。イラクとイラン、イラクとサウジアラビア、あるいは南北朝鮮など、政治的な対立を抱えている国の組み合わせがいくつもあり、トラブルを未然に防ごうという配慮があったのだろう。日本からの応援ツアーがいかに数多く駆けつけたといっても、地理的にイラクから近い商業都市であるドーハには、もともと多くのイラク人が住んでいるだけに、イラクの応援が圧倒的に多い。なにしろ――これは、試合終了後に知ったことなのだが――、このアルアリ・スタジアムは在カタール・イラク大使館の、すぐ目の前にあったのだ。
この日は、この試合だけでなく、サウジアラビア対イラン、韓国対北朝鮮の二試合も同時に行われていた。数字の上だけとは言っても、北朝鮮を除くすべてのチームに本大会進出の可能性が残されていたので、公平を期すために、アジア・サッカー連盟(AFC)の役員が携帯電話を使って連絡を取り合い、前後半とも、文字どおり同時刻にキックオフという運びになっていた。他の試合の結果を知ってから試合をするチームが有利にならないようにするためである。しかし、もちろん、試合中のロスタイムは調整できないので、試合終了時刻は多少ズレることになる。サウジアラビアの試合は、陸続きのサウジアラビアから多くの応援団がバスを連ねてやってくるために、大きなカリファ・スタジアムで、南北朝鮮の試合は、このアルアリ・スタジアムと同じ大きさで、同じような形をしたカタール・クラブのスタジアムで行われていた。カタールのスポーツクラブは、すべて政府が音頭を取って作られたクラブなので、どのクラブのスタジアムも基本的に同じデザインで作られている。
日本チームは、長谷川健太のシュートがバーに当たったところを三浦知良が頭で押し込んで、前半5分で早くも先制し、そのまま1点リードしてハーフタイムを迎えた。後半に入ると、この試合に勝たない限り、予選突破の望みが完全に絶たれるイラクは、開始直後からフォワードを一人増やして猛攻をかけてきた。日本チームは、イラクの戦術の変化に対処できず、開始9分でエースのアーメド・ラディに同点ゴールを許してしまう。じつにエレガントなプレーをする、アジアを代表するストライカーの一人である。だが、69分に中山雅史が勝ち越し点を決め、日本は再び2−1とリードして、いよいよ残り時間もわずかとなった。
この2点目の時のラモス瑠偉からのパスは、日本人の目から見てもオフサイド気味に見えたが、レフェリーのセルジュ・ムーメンターラー(スイス)は、ゴールを認めてしまった。
一九九四年のワールドカップは、サッカーの世界では新興国であるアメリカ合衆国で開かれることになっていた。そして、アメリカとイラクは、ここドーハからアラビア湾岸を北西に六〇〇キロほど行った所にあるクウェート国をイラクが軍事占領して、イラクに併合してしまった事件をめぐって、この試合の三年ほど前の一九九一年一月に「湾岸戦争」と呼ばれる奇妙な戦争を行ったばかりだった。「奇妙な」というのは、アメリカはクウェートの領土保全を名目としてサウジアラビア領内に陸空軍部隊を展開し、アラビア湾に海軍機動部隊を配置していたはずだったのに、クウェートの領土保全のためには不必要とも思われる地上軍によるイラク進攻に踏み切り、戦争が両国のプロパガンダのためのものに変質してしまったからだ。ブッシュ米大統領の人気は戦勝で一気に高まり、イラクのサダム・フセイン大統領もまた、この戦争を利用して反米キャンペーンをはって国内の引き締めに利用した。
次のワールドカップは、そのアメリカで開かれる。イラク政府は、この予選を勝ち抜いて、ワールドカップに出場し、「敵国」アメリカ領土に合法的に乗り込むことを狙っていた。逆にアメリカ政府としては、なんとかしてそれを阻止したかったに違いない。アメリカは敵対国であるイラク国民に対するビザの発給を規制していたが、一方ではワールドカップの開催国として、出場国の選手団、役員、報道関係者などに対して無制限にビザを発給することをFIFAに確約していた。ヨーロッパでの開催ならば、政府もワールドカップという大会の重要性をよく理解しているから、約束通りビザ発給を行うだろう。だが、サッカーに理解のないアメリカ政府は、はたして本当にビザを発給するだろうか。もし、政府がビザ発給を認めたとしても、議会は反対しないだろうか。そして、湾岸戦争の勝利によって、異常なほどナショナリズムが高まっているアメリカ国民は、イラク選手団の入国にどのような反応を示すだろうか。イラクがワールドカップ出場を決めた場合には、政治を巻き込んだ紛争が起こることも予想された。FIFAも、あるいはアメリカの主催者も、そういう事態は、ぜひとも避けたいところだったろう。
アメリカとしては、友好国である韓国かサウジアラビア、あるいは日本に出場してもらいたかったはずだ。日本が出場すれば、そして、日本が西海岸のロサンゼルスかサンフランシスコで試合をすれば、多数の日本人観光客が訪れ、円を大量に落としていくだろう。そうなれば、主催者の利益も上がるというものだ。事実、すでに、ロサンゼルスやサンフランシスコでは、アメリカ・ワールドカップのマスコットである犬の「ストライカー」が日の丸の旗を担いだバッジとか、日の丸入りのTシャツといったような日本人向けの土産物が売られていた。
FIFAの意を受けた(かどうか、筆者は何も証拠を持っているわけではないが)大会のレフェリーは、イラクに厳しい笛を吹いていた。大会組織委員会も、かなりあからさまな“イラク封じ”と思われる(これも、何の証拠もないが)手をうった。イラクは、主力選手を次々に出場停止で失っていく。イラクのババ・ダウード監督は、日本との最終戦の前夜、苦心してスターティングメンバーを決定した後、午後九時になって再び大会組織委員会から、電話で出場停止処分者追加の連絡を受けて、また新たにメンバーを変更したほどだ。
イラクは第一戦で北朝鮮相手に2−0とリードしながら、退場者が出ることなどの不運が重なって、2−3と逆転負けを喫してしまう。怒ったアドナン・ムタール監督は、ベンチの椅子を蹴って壊してしまい、さらに試合後の記者会見もすっぽかして、FIFAから厳重注意を受ける。すると、イラク・サッカー協会は、アドナン監督を更迭し、ババ・ダウードを急遽本国から送り込んできたのだ。ババ監督は、試合後の記者会見でも、話し出したら止まらない、ベテランの理論派監督である。いわば、イラクの切り札だった。ババ監督は第二戦から指揮を取り、「私が最初から監督だったら、半分ぐらいは別の選手を連れてきた」とぼやきながらも、チームをまとめあげていく。最後の日本との試合では、中盤の底と両ウィングの三人のレギュラー選手を欠いて戦わなくてはならなかったが、それでもババ監督は、日本の弱点を考えてチームを組み直し、最終戦に臨んでいたのだ。
イラクのサッカーは、中盤からきちんとビルドアップするヨーロッパスタイルの近代的なサッカーだった。FIFA視察団の報告書も認めているように、このアジア最終予選大会の参加六チームのうち、おそらく、イラクと日本が、最も近代的なサッカーをしていた。韓国は体力ずくのサッカーだし、サウジアラビアは個人技を前面に出したサッカー、そしてイランは守備重視のサッカーだった。
日本では、イラクの選手は負けて帰ったら鞭打ちの刑が待っているなどという噂がマスコミを通じて流されたが、イラクは日本人が思っているよりも、ずっと近代的な国だ。
中東、あるいは北アフリカも含めたアラブ人のサッカーには、共通した特徴がある。それは、立ち足に非常に近いところにボールを置く、独特のボールの持ち方だ。こういう持ち方をしているために、キックの時には立ち足のすぐ横、普通のキックよりもずっと深いところからボールが出てくるし、また、ドリブルの時にも、深いところにボールがあるために、相手から見るとアタックしづらいのである。
現在イラクがあるティグリス河とユーフラテス河に挟まれたメソポタミアは、古代文明が栄えた地域である。時代が下り、ギリシャ、ローマの古典文明が滅びた後、ヨーロッパは停滞の時代に入るが、アラブ世界は古典文明を継承しており、当時はヨーロッパに比較して、はるかに進んだ文明を持っていた。だがその後、大航海時代にスペインが収奪したアメリカ大陸の黄金によってヨーロッパ経済が活況を呈し、さらにそのスペインの貿易船に対する海賊行為で富を蓄積した英国で産業革命(工業化)が成功したことで、ヨーロッパと中東の地位は完全に逆転する。英国は、工業の原材料の補給と製品の市場を求めて、インド、中国に進出したが、そのルートとなったのがエジプトから紅海を通るルートと、トルコ、イラクを通ってアラビア湾に抜けるルートだった。
そのアラビア湾ルートに位置していた昔からの交易都市が、このカタールのドーハ(アラビア語ではダウハ)であり、あるいは日本チームが半年前に一次予選を戦ったアラブ首長国連邦(UAE)のドゥバイだった。こうした都市を、英国はインド、中国へと連なるアジア航路の寄港地として、また、もう少し後の二十世紀前半には、航続距離の短かった当時の航空機の給油地として勢力圏に収めていったのである。つまり、こと近代に限って言えば、アラビア湾は英国の勢力圏だった。そして、世界の多くの地域と同じように、英国人は、こうした寄港地にフットボールを携えてやってきたのだ。
もっとも、石油収入で潤うようになるまでは、ドーハやドゥバイのような都市はあまりにも貧しく、湾岸諸国にサッカー協会ができて活動を始めるのは、石油収入が入り始め、そして独立を達成した一九六〇年代、一九七〇年代になってからだった(協会創立はサウジアラビアが一九五九年、カタールが一九六〇年、UAEが一九七一年)。こうした国々は、一九七〇年代以降、各国の王族が競ってブラジルのコーチを雇い入れて、ブラジル流のサッカーを追求し、アラブ人独特のボールテクニックとブラジルサッカーが結び付いた中東のフットボールが出来上がった。これに対して、古い歴史を持つイラクは、協会設立も一九四八年と早く、十九世紀以来の英国の影響もそのまま残っていた。さらに、王制を転覆した一九五八年の革命の後、革命政府はサッカーの強化に熱心だったが、革命政府が政治的にソ連と親しかったこともあって、東ヨーロッパのコーチにも教えを受け、ヨーロッパスタイルのサッカーが根付いていたのだ。
イラクのサッカーのスタイルは都市的なイラク人の国民性を反映していると言うこともできる。もともと、イスラムというのは都市の商人の宗教だと言われているが、アラビア半島の砂漠の都市は人口の規模も小さく、湾岸諸国は砂漠の遊牧民である。砂漠の民、ベドゥインは、砂漠を海のように移動する。都市を襲撃するのは、ヒットエンドラン戦法だ。湾岸諸国のサッカーが、守りを固めて長駆カウンター攻撃を狙うのも、こういった民族の伝統と関係があるのかもしれない。これに対して、八世紀に作られたバグダード(現在のイラクの首都)は、イスラム共同体の指導者であるアッバース朝カリフの所在地、つまり広大なアラブ世界の首都で、文化的にもギリシャ、ローマの古典文明を受け継いだ、世界の中心地の一つだった。後にカリフの権威が衰退し、アラブ世界の首都がエジプトのカイロに移ってからも、バグダードはイスラム世界最大の都市の一つであり続けた。つまりイラク人は基本的に都市の民なのだ。勤勉で、倹約家も多く、砂漠の民からは、イラク人はケチだと思われているという。ちょうど、スペインのカスティージャ(マドリード)が勇猛果敢なサッカーをするのに対して、スペインの中でも都会的で、早く工業化を達成したカタルーニャ(バルセロナ)が都会的で、効率的な、パスをつなぐサッカーをするのと同じように、イラクのサッカーがヨーロッパ的な、パスをきちんとつなぐサッカーをするのも、その歴史と関係があるに違いない。
ナイーヴすぎた選手、ファン、マスコミ
時計の針を元に戻そう。午後六時を過ぎ、日本チームが2−1とリードして、残り時間はほとんどなくなっていた。このまま試合が終わりさえすれば、アメリカの組織委員会やFIFAの思惑通り、そしてJリーグを開幕させたばかりの日本のサッカー関係者の目論見通り、日本が史上初めてワールドカップ本大会に進出することになるはずだった。あとはただ、時間だけが過ぎていけばいいのだ。だが、フィールド上で戦っているナイーヴな日本代表選手たちは、そんなことは思ってもいなかったように見えた。まるで、予選突破のためにはもう1点追加点が必要なのだと思い込んでいるかのように、せっかくボールをキープしているにもかかわらず、攻め込んでいって、ゴール前にボールを送り、そこで、ボールを奪われて、イラクに反撃の機会を与えてしまう。外でボールをキープしたり、シュートを打ってボールを外へ蹴り出すといった、この時間で当然とるべきプレーはまったく見られなかった。
時計の針が45分を回ったところで、イラクがコーナーキックを得た。時計に目をやったレフェリーは、ラモス瑠偉に向かって「あとワンプレーだ」と告げたという。レフェリーとしては、じつに異例なことである。そのワンプレーにイラクは賭けた。日本は、妨害するでもなく、その右コーナーからのボールを、イラクがつなぐことを許してしまう。ショートコーナーからムンテール・ムッシンが上げ、そのままフラフラとしたセンタリングが日本のゴール前に上がる。キーパーの松永成立が出てくるが、タイミングが合わない。ボールは、ジャンプしたイラクのジャファール・オムラン・サルマンの頭に当たって、日本のゴール左下スミに転がり込んだ。
日本のワールドカップ本大会初出場の夢が|潰《つい》えた瞬間だった。「ドーハの悲劇」に、深夜にもかかわらず、五〇パーセント近い視聴率を記録した生中継を見ていた日本中が沈み込んだ。
一方、カタール・クラブのスタジアムで日本対イラクの試合と同時にキックオフされた韓国対北朝鮮の試合は、すでに韓国が3−0で勝って終了していた。しかし、韓国の選手は、日本がイラクに対して2−1とリードしているという知らせを受け、フィールド上にうずくまっていた。一九八六年、一九九〇年のワールドカップに連続出場し、選手たちも国民も、当然三大会連続の出場を信じていた韓国だったが、日本との試合で、得点こそ0−1だが、完敗を喫し、韓国の新聞は「日韓併合以来の国辱」と伝えた。国内での人気をプロ野球に奪われている韓国サッカー界にとって、ワールドカップ出場をのがすことは、大きな痛手であり、また大きな屈辱でもある。|金浩《キムホ》監督以下コーチ陣は帰国後、当然解雇されることだろう。
そこに、「イラクが同点ゴールを決めた」という知らせが飛び込んできた。韓国にとっては、まさに地獄からの復活だった。アメリカ・ワールドカップ本大会に進出した韓国は、スペイン、ボリビアと引き分け、前回優勝のドイツに対しても前半で0−3の劣勢から終盤2点を返すという健闘を見せた。
その後二〇〇二年ワールドカップの招致をめぐって日本と競い合うことになった韓国は、「われわれは、ワールドカップに(北朝鮮も含めて)五回も出場しているのに、日本は一度も出場したことがない。したがって、アジア初のワールドカップは韓国で開かれるべきだ」と主張した。イラクにとっては、ほとんど無意味なゴールだったが、あの1点は、日韓両国のサッカーに大きな影響を与えることになったのだ。韓国のサッカー協会国際部の部屋には、その後もしばらく、イラクチームのサインボールが飾ってあった。
もし、イラクのゴールがなかったとしたら、韓国チームは帰国後、マスコミや国民から強い非難を受けたに違いない。一度でもワールドカップに出たことのある国ならば、予選は勝って当たり前。内容の如何にかかわらず、予選で敗退してしまえば、当然、大失敗として非難されることになる。予選は内容ではないのだ。
しかし、まだ本当の意味でワールドカップを戦ったことのなかった日本では、敗れて帰国した選手たちが英雄として歓迎を受け、この年開幕したJリーグはブームの様相を呈するに至った。
本大会の決勝で敗れたチームが凱旋して歓迎を受けたという例は数多く聞く。また、一九六二年に初出場して以来、本大会で一勝もしていなかったブルガリアが、アメリカ・ワールドカップで初勝利を収めた上、ベスト4に残った時も選手たちは祖国で大歓迎を受けた。だが、予選で敗退したチーム、それも前半1点をリードしておきながら戦術ミスによって前半のリードを守れず、さらにもう一度リードしたのに、時間稼ぎの|術《すべ》も知らずに、ロスタイムで同点に追いつかれて敗れたようなチームが、帰国して大歓迎を受ける例など、およそ聞いたことがない。
時間稼ぎすらできなかった選手がナイーヴすぎるとするなら、それを迎えるファンも、「悲劇」だ「英雄」だ、と騒ぎ立てるマスコミも、まだまだあまりにもサッカーを知らなすぎた。たしかに、テクニックも戦術も、あの時の日本チームはアジアでナンバーワンになっていたかもしれないが、やはり、ワールドカップに挑戦するには、まだ日本サッカーは若すぎたのかもしれない。
「悲願のワールドカップ」などという言い方が、予選を前にして、あちこちで聞かれた。だが、あのカタールでの予選の前は、日本人にとって、ワールドカップは、まだ「悲願」ではなかったはずだ。「悲願」というのは、本気でそれを望み、全力を尽くして戦った末に、それをのがしたことがある場合に使う言葉だ。ワールドカップに出るために本気で努力をして、それが失敗に終わった経験がなければ、「悲願」などとはいえない。いわゆる「ドーハの悲劇」の瞬間に、日本人にとって、ワールドカップは初めて「悲願」となったのである。
たしかに、日本は一九九三年より前に、八回もワールドカップ予選に出場している。だが、かつて本気で出場を望み、本当にその可能性を信じて、韓国に勝てると信じて戦った大会が何回あるというのだろう。日本の最終目標はオリンピックであり、ワールドカップ予選がその準備と捉えられていた時代すらあった。ドーハ以前に日本チームが最もワールドカップに近づいた一九八五年のメキシコ大会予選でも、最初から本気でワールドカップに行こうと思っていたわけではなかったはずだ。日本は、一次予選で北朝鮮と戦い、ホームで1−0、そしてアウェーでは一方的に攻め込まれながら、キーパー松井清隆の好守といくつもの幸運によって0−0で引き分け、なんとかこれを破り、二次予選では香港に連勝し、最終予選で韓国と当たった。香港戦の出来を見て、「これはもしかしたら」と思われたが、同国サッカー史上最強のチームを作ってきた韓国の前に、ホームで1−2、アウェーで0−1と連敗して涙を呑んだ。だが、はたして一次予選の前に、北朝鮮には必ず勝てる、最終予選で韓国と対決するまで行くと、予想した人が何人いただろう。あるいは、選手やスタッフは、それを信じていたのだろうか。いや、そうではない。北朝鮮との厳しい戦いを多分に幸運も手伝って勝ち抜けたことで、スタッフも予想しないほどのスピードでチームが結束し、力をつけていったと言った方が当たっているのではないだろうか。
こういういい加減な気持ちで、何回予選を戦ったといっても、日本サッカー界全体としては、おそらくたいした経験にはならないだろう。もちろん、選手個人個人にとっては、大きな経験だったに違いない。一九八五年の予選を通じて、ディフェンシブハーフの宮内聡とか、キーパーの松井清隆など何人もの選手が力を伸ばしていったのは事実だ。だが、それは、日本のサッカー界には、何も残さなかった。第一、ピョンヤンでの死闘などは、日本ではテレビ中継すらなかったし、現地に取材で入った報道陣はわずかに八人だけだった。中継がなかったのは当時の北朝鮮との通信事情や政治情勢のせいでもあるのだが、それでも、技術的に不可能だったわけではない。結局、日本でのワールドカップ予選に対する関心はその程度だったのだ。これでは、「経験」は実際に出場していた選手たちだけのものでしかなく、次の世代に継承される記憶とはならない。本当に勝とうと思って戦ったわけではなかったから、こういうことになるのだ。
だが、カタールでの経験は、おそらく今後数十年にわたって、日本サッカー界の記憶として残ることだろう。あのイラク戦、前半をリードして迎えたハーフタイムで、日本チームのロッカールームはパニックを起こしていたという。オフト監督の言うことに耳を傾けようとする者もなく、ただ、選手たちは、興奮してわめいていたという。そして、監督自らも、それを鎮め、冷静な指示を出すことができなかった。誰もまだ経験したことのない領域、彼らにはまだそこで戦うだけの能力も資格もない領域に足を一歩踏み入れていたからだ。
だが、もし四年後、八年後、あるいは十二年後のワールドカップ予選で、同じような状況が再現されたとしたらどうだろう。その時、まだ日本が一度も予選を突破したことがなかったとしても、今度はおそらくパニックにはならないはずだ。たとえ選手個々は誰も経験したことがなくても、また監督が誰であれ、冷静にハーフタイムを迎え、冷静に時間を消費して、そのまま勝ちにつなげることができるだろう。
なぜなら、監督も、選手も、個人的な体験としては未経験ではあっても、日本サッカー全体としては、一九九三年十月二十八日にすでに経験しており、そしてその経験は、その時の代表選手たち(おそらく、彼らの多くは、「ドーハの悲劇」をテレビの前で見ていたことだろう)にも共有されているはずだからだ。
サッカーの神様は、悪戯が大好きだ。その悪戯に翻弄された選手やチームの例は、ワールドカップの歴史上、枚挙にいとまがない。だが、サッカーの神様は、驚くべきほどに公平でもある。
あのドーハの予選で、いくらテクニックや戦術が急激に進歩しているとしても、まだあの状況を冷静に戦うだけの経験も能力もなかった日本チーム、まだアマチュアの実業団サッカーの域を出ていなかった日本サッカー界の代表が、組織委員会やレフェリーの協力を得て、予選を突破してしまったのでは、あまりにも身も蓋もないではないか。そこで、サッカーの神様は、この機会を利用して、日本のサッカーにレッスンを与えることにしたのだ。それも、ただの負けよりも、レッスンの効果が一層大きくなるように、まず一敗一分のスタートで絶望かと思わせ、そこから三、四戦で連勝させて一度希望を持たせ、最後までその希望を最大限に膨らませておいてから、最後にどんでん返しという、念の入ったレッスンの筋書きを用意したのだった。
しかも、そのどんでん返しの敵役には、政治的事情から、ワールドカップ参加を拒まれたイラクを起用するという凝り方だ。イラクは、日本と引き分けただけでは、ワールドカップには行けなかった(これで、アメリカの組織委員会もFIFAも一安心というわけだ)。つまり、あの1点はイラクにとっては無意味な1点なのだが、イラクは最後に一応、ドラマの主役にはなれたのだ。日本は湾岸戦争に参戦してはいなかったものの、「国際貢献」の名の下に、アメリカを中心とした「多国籍軍」に対して巨額の資金を提供していた。それも、自らの政治判断というよりも、アメリカから回されてきた請求書の通りに支払った形だった。そんなことは日本人の方はすっかり忘れてしまっていたかもしれないが、イラクから見れば、日本は明らかにアメリカ側についた敵性国家だったのである。そもそも、「湾岸戦争」のきっかけとなったクウェートが一九六一年に独立した時も、日本政府は早々とクウェートを承認して、イラクと対立したという歴史もある。その日本を沈めたことで、イラクにとっても多少の慰めにはなったことだろう。
ところで、日本のサッカー界はその後、この念の入ったサッカーの神様のレッスンを、きちんと受け止めることができたのだろうか? その後の日本サッカー界の代表強化のプロセスを省みると、どうもあの時、神様が示したもうたものを、十分に受け止めてはいないように思える。もし、あのレッスンを活かすことができなかったら、日本は次の機会にはサッカーの神様の怒りに触れることになるだろう。
日本人は、あの「ドーハの悲劇」を、何か特別のことと考えているかもしれない。だが、これから本書で見ていくように、じつは予選の段階でも、本大会に入ってからでも、ワールドカップには、あの種の「悲劇」やドラマや運・不運が、あるいは様々な駆け引きや陰謀、トリックが満ち溢れているのだ。もちろん、ドーハの悲劇は、世界のサッカー史にも特筆できるほど劇的で手のこんだものだったが、ドラマのあら筋自体はそれほど珍しいものではない。そして、日本が、本当に真剣にワールドカップに出たいと思って戦ったドーハの経験が、初めて後世にまで伝えられる、日本サッカー界に共有される経験となったのと同じように、世界の国々もこれまでのワールドカップでの様々な体験を国民的レベルで共有化してきたはずだ。今から半世紀以上前のワールドカップで犯したたった一つの失敗によって、せっかくの決勝進出がフイになってしまったとか、ちょっとした油断から予選敗退の屈辱を受けたとか、そういったひとつひとつの過去の経験を、今でも人々は覚えている。その記憶(選手たちが生まれるずっと以前の記憶)があるからこそ、次の機会に似たような状況に出くわした時に、同じ失敗を二度としないですむのだ。もし、そのせっかくの経験が語り継がれていなかったとするなら、次の機会にその国の代表は再び同じ過ちを犯してしまうだろう。
たとえば、大会の中には、どうしても、どんなに無理をしてでも勝たなくてはならない試合と、勝った方がいいのはもちろんだが、無理をする必要のない試合、勝つことよりも負けないことの方が大事な試合がある。その判断を間違って、無理に攻め込んだ結果カウンターを食って負けてしまった経験があったとしよう。その失敗を、国民的レベルで語り継いでいる国なら、次に同じような場面に遭遇した場合には、ファンも、マスコミも、無理な勝ちは要求しない。そうなれば、選手も落ち着いて、負けない試合をして、次のラウンドに勝ち進むことができる。だが、そういう経験の蓄積のない国が、同じような場面に直面したとしよう。ファンや、マスコミは、積極的な勝負を求める。そうなると、いくら監督や選手のレベルで、「ここは無理をせずに、引き分けでもいいのだ」という意識を持っていたとしても、マスコミに煽られて、中途半端に攻めにいって、結局自滅してしまう。
世界中で、「悲劇」の記憶をいちばんたくさん持っているのは、ワールドカップを何回も本気で戦ったことのある国、そしてワールドカップに勝ったことのある国だ。そういう国、つまり、ワールドカップ優勝経験を持つのは、「ドーハの悲劇」の時点でわずかに六つの国(ウルグアイ、イタリア、ドイツ、ブラジル、イングランド、アルゼンチン)しかなかった。しかも、最後の優勝からすでに半世紀近くたってしまったウルグアイは、一九七四年以降の大会の試合では、韓国に一勝した(一九九〇年)だけだし、また、イングランドは地元開催、それもホームグラウンドのウェンブリー・スタジアムで全試合を戦った一九六六年大会で優勝しただけだから、現在も優勝を狙う力を持つのは、ブラジル、イタリア、ドイツ、アルゼンチンの四カ国だけだ。ここでは、この四つの国を「ビッグ4」と呼んでおこう。
一九七四年と一九七八年にオランダが決勝に進出して、ともに地元チームに負けているが、そのオランダを除くと、一九七〇年大会以降一九九四年大会までの決勝戦はすべて「ビッグ4」によって争われていたのだ。
一九七〇年 ブラジル 4−1 イタリア
一九七四年 西ドイツ 2−1 (オランダ)
一九七八年 アルゼンチン 3−1 (オランダ)
一九八二年 イタリア 3−1 西ドイツ
一九八六年 アルゼンチン 3−2 西ドイツ
一九九〇年 西ドイツ 1−0 アルゼンチン
一九九四年 ブラジル 0−0 イタリア
ワールドカップの決勝にたどり着くまでは、「ドーハ」に匹敵するドラマをいくつも乗り越えていかなければならない。汚い反則やトリックもザラだ。予選に比べて、本大会ではプレッシャーも強くなるし、戦う相手も強くなる。普通の国では、たとえテクニックに優れたプレーヤーがいくら多くても、経験豊富な外国人監督がいても、戦術の理解度が高くても、あるいは鋼鉄のような体力を持っていても、やはりワールドカップのドラマの重圧を跳ね返すことはできないのだ。程度の差はあれ、そういう国は、優勝までのステップの中のどこかで、イラク戦のハーフタイムで日本チームが味わったと同じようなパニックを経験して、そこで押し潰されてしまうのだ。
「ビッグ4」との差を縮め、そしていつの日にかそれをひっくり返して、日本がワールドカップで優勝を狙うようになるには(もし、それが可能なことだとして)、とりあえず「ドーハの悲劇」クラスの経験を、ひとつひとつ、今度はもっと上のレベル、つまり本大会で積み重ねていくしかない。
ワールドカップというのは、単にサッカーのテクニックを競うサーカスではないし、選手の体力を試す競技会でもない。ましてや、単なる駆け引きだけで勝てるような勝負事でもない。そうした、すべての能力のトータル、そして、あらゆる事態に冷静に対処できるだけの人間性、知性、チームをサポートするための協会の|兵站《へいたん》能力、そして、先ほどから述べているような経験、それを記憶として共有している国民……。そうした、すべてのものをトータルした戦いなのだ。どれか一つが欠けても、ワールドカップは戦えない。
ワールドカップを観る側の面白さもそこにある。けっして、フィールドの上だけを観ていてはいけないのだ。もちろん、フィールド上の戦い、テクニックや戦術を無視していいわけはない。最も中心的な話題はあくまでもフィールド上のプレーなのだが、それだけを観ていてはワールドカップの本当の面白さは理解できないのである。ひとつひとつのプレーや試合の攻防だけなら、何もワールドカップでなくても、普通の国際試合でも十分に楽しめる。だが、様々な駆け引きや運・不運が織り成すドラマ、そうした濃密な人間ドラマがあるからこそ、ワールドカップは面白いのだ。
本書は、そうしたワールドカップをめぐる数々のドラマを、「リアリズム」の眼をもって振り返ってみることを目的としている。そうした、遠い、間接的な記憶を心の片隅にでも持っていれば、次の予選、あるいは将来の本大会の決勝トーナメントで日本代表チームが戦う時のために、少しでも役に立つのではないかと思うのだが。

第二章 地域予選 復活と転落のドラマ
ワールドカップの歴史をひもとけば、「ドーハの悲劇」のようなドラマは、地域予選から決勝戦まで、いくらでも見出すことができる。だが、ドラマとしての悲劇性が最も強いのは、やはり地域予選を舞台にした逆転劇である。なぜなら、本大会に出てしまえば、たとえ一次リーグで敗退してしまったとしても、世界のサッカーの祭典、ワールドカップに一応参加できたのだから、それはそれなりに満足もできるからである。だが、予選敗退と本大会進出の間には、天国と地獄のような大きな隔たりがある。中間はないのだ。失敗か、成功か。一つの試合だけの勝敗ではけっして味わえない、奈落の底への転落の快感がそこにはある。「ドーハの悲劇」もそうだった。ほんの数秒、たった一つのゴールが、まさに天国から地獄ヘの転落を意味していたところに、その悲劇性、ドラマ性が潜んでいたのである。
ワールドカップの予選は、地域つまり各大陸連盟別に行われる。各大陸別に出場枠が定められており、FIFAに対してエントリーした参加国は、大陸別に分けられ、それぞれの大陸連盟が定めた方式に従って、本大会への進出を目指す。一九八カ国がエントリーした二〇〇二年ワールドカップ本大会の参加枠は、ヨーロッパが十四または十五(前回優勝のフランスを含む)、南米が四または五(南米五位の国とオセアニアでプレーオフを行う)、アジアが四または五(開催国の日本と韓国を含む。アジア三位の国は欧州の一カ国とプレーオフを行う)、アフリカが五、中北米カリブ海が三、そしてオセアニアが〇または一となっている。その予選の方式は、各大陸連盟が決めるので、統一性はない。だが、どんな方式で試合が行われようと、いつかは予選突破か失格かという分かれ目となる瞬間が生じてくる。そこに、ドラマが生まれる。勝ったチームにとっては、それは「歓喜のドラマ」であり、負けたチームにとっては、それは「悲劇」なのだが、勝ったチームにとっては、まだ続編がある。いや、いよいよこれからが本編なのだ。したがって、憤懣やるかたない中でドラマの幕を閉じなければならない敗者にとっての「悲劇」の方に、より強くドラマ性が感じられるのだ。
一九九四年大会予選、日本チームがドーハで地獄への転落を味わったその直後に、同じように天国から地獄へ落ちる、転落の快感を味わったチームがある。ヨーロッパの強豪フランスだ。
フランスは、「ナポレオン」ミシェル・プラティニが君臨していた一九八〇年代前半にその頂点を迎え、一九八二年、一九八六年の二回のワールドカップで連続して準決勝進出を果たし、その中間年の一九八四年に自国で開催されたヨーロッパ選手権では、みごとな内容のサッカーで優勝を遂げている。しかし、一九九〇年イタリア・ワールドカップでは予選で敗退しており、次回、一九九八年大会のフランス開催が決まっていただけに、その直前の大会となるアメリカ大会には、是非とも出場しておきたかったところだ。プラティニらは引退しても、エリック・カントナ、ジャン=ピエール・パパンなど、好選手はそろっており、チーム力はかなりのものがあるはずだった。
そのフランスは、ヨーロッパ第六組に所属していた。そして、緒戦のブルガリアとのアウェー戦こそ0−2で落としたものの、その後の試合は快調に勝ち進み、八試合を終えた時点で六勝一分一敗、勝点「13」の成績でトップに立っていた。この組で二位以内に入れば予選突破である。二位のスウェーデンの勝点は「12」、三位のブルガリアは「10」。各チーム二試合ずつを残していたとはいえ、フランスの予選突破の確率はかなり高いと誰もが信じていた。しかも、残りの二試合はホームグラウンドのパルク・デ・プランス(パリ)で戦えるのだ。相手は、イスラエルとブルガリアである。フランスとイスラエルとは、イスラエルがかつてはアジア連盟に属していたため、これまであまり試合を行っておらず、フランスの一勝三分の成績だが、このグループで最下位のチームだ。また、ブルガリアとは、過去七勝四分七敗と互角だが、ホームゲームでは六勝三分一敗とフランスが圧倒的に優勢だった。誰が考えても、フランスは「当選確実」だった。
ところが、カタールでのアジア最終予選が始まる直前に行われたイスラエル戦で、フランスは意外にも2−3で敗れてしまう。だが、それでもあと一試合、つまりブルガリアとのホームの試合で引き分ければいいのだ。イスラエルに対する敗戦も、「いい薬」になるはずだ。
一九九二年春から一年半以上をかけて世界中で繰り広げられてきた地域予選も最終日となった、一九九三年十一月十七日にフランスはブルガリアと対戦した。試合は、まず前半32分にカントナが先制し、フランスが1点リードした。これで、ますますフランスは優位に立つ。その後、ブルガリアのエミル・コスタディノフに1点を返されたものの、前半は1−1で終了し、後半も無得点のまま残り時間もわずかになった。この試合自体も、内容的には必ずしも満足のいく試合ではなかったし、イスラエル、ブルガリア相手にホームでの二試合で勝点「1」というのは、ワールドカップで上位進出を目指すフランスとしては、ちょっと問題だが、予選は結果がすべてだ。引き分ければ、本大会進出なのだ。それで満足するしかないだろう。そろそろロスタイムという時に、フランスはブルガリア陣内の深いところでフリーキックを得た。フランスは、どういうわけか簡単にこのキックを蹴って、すぐに相手に取られてしまう。ブルガリアは得意のカウンターから、コスタディノフが抜け出してゴールを決め、2−1と逆転してしまった。この瞬間、ブルガリアの勝点が「14」となり、フランスの「13」を抜いて、ヨーロッパ第六組からはスウェーデンとブルガリアが本大会に進出することになったのである。
スウェーデンとブルガリアは、翌年の本大会ではともに準決勝まで進出したのだから、このグループのレベルは高かったのかもしれない。だが、同点で、ロスタイムに入る直前という場面で、敵陣でフリーキックのチャンスをもらっておきながら、それを無造作に蹴って相手に渡してしまうなんて、信じられないようなプレーだ。極言すれば、この場面ではフリーキックをなかなか蹴らずに時間稼ぎをすることも、フリーキックから大きくバックパスして、バック陣の間でボールを回して、時間の経過を待つこともできたはずだ。日本チームのように相手のコーナーキックからつながれたのでは、防ぎようがないかもしれないが、味方のフリーキックなら、時間をつぶす方法はいくらでもあったはずだ。
それも、日本のようなワールドカップ初心者がやったことなら納得もできようが、フランスは、第一回のウルグアイ・ワールドカップから参加している伝統のあるチームだ。この第一回大会の開幕戦は、フランスとメキシコの試合だったし、ワールドカップの記念すべきファーストゴールも、フランスのルシアン・ローランが決めたものだった。いや、そもそも、プロ選手も含めたサッカーの世界選手権を開こうというアイディアそのものも、フランス人のジュール・リメらの提唱によるものだ。フランスは、どう考えても、ワールドカップの伝統国であるはずなのに、フリーキックの失敗から逆転ゴールを許すなど、信じられないようなナイーヴさとしか言いようがない。
だが、この「勝負弱さ」も、ちょうど「勝負強さ」がドイツの伝統であるように、フランスの伝統なのかもしれない。
フランスは、かつてプラティニのいた時代に「シャンパン・サッカー」とも呼ばれていたように、じつに芸術的なパスゲームをする国だ。その伝統は世界チャンピオンおよびヨーロッパチャンピオンとなった現在の、ジダンのチームにも受け継がれている。フランスの選手は、トラップでボールをぴたりと止めるのではなく、ボールの勢いを利用して、次のプレーがしやすくて、しかも相手に届かない位置にボールを動かしながら、パスをつないでいく。そうした中で、フリーのスペースを作って、それを利用して攻撃を展開するのだ。
パスを受けたフランスの選手は、そこで体の向きを変えて、パスの角度に変化を付けて、パスをつないでいく。そして、短いパス、長いパスを使い分けるから、見ていて非常にリズミカルなプレーになる。しかも、キープ力が非常に高いのだ。突破はできなくても、徹底的にキープして、パスに変化を付けることで、突破口を見出す。
二〇〇〇年のヨーロッパ選手権では、フランスが優勝し、オランダとポルトガルが三位に入ったが(ヨーロッパ選手権は三位決定戦がない)、オランダもポルトガルも、やはりパスを受ける瞬間の変化がすばらしかった。オランダの選手はパスの勢いを利用して、ボールを置く位置を変化させると同時に体の向きも変えることで、相手のアタックを防いで前を向いてボールを処理することができるようにした。ポルトガルの選手は、パスを受ける瞬間に、足の裏や足のアウトサイドなどを使ったり、ボールを切ってスピンをかけたりして、ボールを意のままに変化させていた。そして、ポルトガルの選手の場合、パスに角度を付ける方法としては、多様なキックのテクニックを多用する。足腰の柔軟さを利用して、立ち足の膝の角度や蹴り足の足首の角度を調節して、ボールの打ち出し角度を変えたり、キックの瞬間のボールと足との接触時間を長くすることでボールに微妙なスピンを与えたりするのだ。
ボールテクニックがうまい国といっても、フランスとオランダ、オランダとポルトガルでは、パスの回し方やキックの仕方などで、それぞれプレースタイルには大きな差があるのである。こうした国々のパス回しを見ていると、パス・サッカーが好きな者にとっては、じつに|堪《こた》えられないものなのである。
一九八〇年代前半のフランスは、ジャン・ティガナ、ミシェル・プラティニ、アラン・ジレス、ドミニク・ロシュトーといった名手たちがいた。彼らが微妙な角度を付けたパスを高速で回して、敵の密集を突破していくのを見ているだけで、思わずため息が出てしまうほどだった。さらにフランスの選手たちは、シュートでさえも、強いシュートを突き刺すことよりも、思い切りスピンをかけた、やや力を抜いたシュートを使って、ゴールの隅に流し込むようなシュートを打ちたがる。一九八二年大会の準決勝、ワールドカップ史上初めてのPK戦となった西ドイツとの試合前、ちょうど目の前の位置でシュート練習を繰り返すジレスのキックはいくら見ていても飽きなかった。
だが、このフランスのサッカーは、芸術的ではあるが、じつに勝負弱い。そうでなかったら、プラティニ時代に必ずワールドカップ優勝が実現できていたはずだ。
ブラジルも、フランスとはまったくタイプが違うが、個人技のレベルが高く、芸術的なボールテクニックを持っている国だ。だが、ブラジルは、サッカーの社会的な影響力があまりにも強すぎるためなのか、またワールドカップに勝ったことのある国とそういう経験のない国との違いなのか、フランスと違って勝ちたいという意思が非常に強く、勝ちにこだわったサッカーをすることが多い。たとえば、一九七〇年大会ではペレなどのスーパースターをそろえたチームで圧勝したが、その次の一九七四年大会には体力重視のサッカーをしてみたり、一九八二年、一九八六年の大会でテレ・サンターナ監督の下で黄金のカルテットと呼ばれるミッドフィールドを擁して芸術的なサッカーを見せたかと思うと、一九九〇年のようにスイーパーを置いた守備的なサッカーをしたりする。一九九四年に二十四年ぶりの優勝を遂げたマリオ・ザガロ総監督とカルロス・アルベルト・パレイラ監督のチームも、基本的にはドゥンガを中心とした守備的なチームだった。フランスも、ブラジルのように勝負にこだわって守備を固めれば、また別のスタイルのチームもできるだろう。実際一九九八年に地元で開かれた大会ではそのフランスが優勝したが、ブラン、デサイーをはじめ守備の強い選手がそろっていた。だが、フランスにそんな試合はしてほしくない。たとえ優勝できなくとも、フランスには芸術性にこだわってほしいものである。
オランダのドラマチックな予選敗退
オランダは、一九七四年と一九七八年に、準優勝を遂げたが、次の一九八二年大会では、勝点「2」の差の中に四チームがひしめき合う大混戦の結果、四位で予選敗退という屈辱を味わった。したがって、オランダとしては、次の一九八六年メキシコ大会にはぜひ参加したいところだった。そのメキシコ・ワールドカップの予選で、オランダはヨーロッパ第五組に所属していた。この組は四カ国参加のグループで、二位になると、同じく四カ国参加で行われている第一組の二位チームとプレーオフを行うことになっていた。第五組の首位はすでにハンガリーに決まっていた。オランダのライバルであるオーストリアが、最終戦でキプロスに4−0と大勝した結果、オランダとしては最後のハンガリーとのアウェー戦で勝たなければ、失格が決まってしまうことになった。オランダは、地獄の縁に立っていたわけだ。だがハンガリーは、すでに本大会進出を決めていたために、最終戦に対してモチベーションを維持できなかったのだろう。オランダは最終戦でそのハンガリーを破って、なんとか二位に滑り込み、望みが復活した。プレーオフの相手は、ちょうど日本と韓国のように、これまで数々の大会で当たってきた宿敵である隣国のベルギーだった。四年前の大混戦となった予選でトップになったのも、奇しくもベルギーだった。
まず、ブリュッセルでのプレーオフ第一戦ではホームのベルギーが1−0で先勝した。ハンガリーに勝って、なんとか辛うじて地獄から這い出してきたオランダだが、この敗戦によって、またも絶望の淵を覗くことになった。ロッテルダムでの第二戦では、引き分けでもいいベルギーが守りを固め、勝つしかないオランダは攻め込んではいたものの、どうしてもゴールを割れないでいた。しかし、後半15分にホウトマンが先制ゴールを決めると、27分にもデビッドが2点目を決めて、オランダは一勝一敗で得点2・失点1とベルギーを逆転する。二度までも地獄の縁まで行ったオランダが、ついにメキシコに行ける。オランダのファンは勝利を信じて狂喜した。だが12分後、ベルギーが1点を返した。右からオーバーラップしたエリク・ゲレツのクロスを、ジョルジュ・グルンが頭でたたき込んで2−1としたのである。これで、一勝一敗、得点、失点ともに2点ずつと、両国はまったくタイで並んだのだが、こういう場合には、「アウェーでの得点を倍にする」というルールがあった。アウェーでは守備的な試合をすることが多いヨーロッパでよく使われるルールだ。このワールドカップ予選のプレーオフでも、この「アウェー・ゴール二倍ルール」が適用されていた。つまり、ロッテルダムの試合におけるグルンのゴールが重くのしかかって、オランダは、再び奈落の底に突き落とされたのである。
このオランダのドラマチックな予選敗退の記事を読んだ時に、筆者は「たとえ負けてもいい。いつの日にか、日本チームがワールドカップでこういう目にあうところを見てみたい」と思ったものだが、まさかそれからわずか八年後に、その夢が叶えられるとは思ってもみなかった。
一九八二年のスペイン・ワールドカップのアジア最終予選は、一次予選各組トップの四チームによるホーム・アンド・アウェーの総当たりで行われた。日程の関係で、中国が最初に全試合を終了したが、この時点で中国は三勝一分二敗、勝点「7」で首位に立っていた。二位以内に入れば、本大会進出が決まる。
中国にとっては、この大会が初めてのワールドカップ挑戦であった。
中国は、かつてはアジアのサッカーのリーダーだった。十九世紀から二十世紀にかけての中国は、欧米列強や日本の侵略を受けて、半植民地、半独立状態にあった。香港は、十九世紀の半ばに英国の直轄植民地とされ、また各都市には列強の租界が置かれていた。こうした困難な状況におかれていた中国だが、サッカーの世界では、ヨーロッパとくに英国からの影響を直接受けて、アジア最強の地位を築くことができたのだ。
かつてのアジアでは、インド、ビルマ(現ミャンマー)、香港など、英国植民地にされた国のサッカーが強かった。たとえば、日本サッカーの恩人の一人として、ビルマ人留学生のチョウ・ディンという名前がよく知られている。チョウ・ディンは、日本にショートパスのサッカーを伝えた人物と言われているが、なぜビルマ人が日本を指導することになったのかといえば、それはビルマが英国の植民地で、チョウ・ディンが英国からサッカーを学んでいたからにほかならない。
香港に、中国人のスポーツクラブ「南華体育会(サウス・チャイナ・アスレティッククラブ)」が創立されたのは一九〇四年のことだ。それ以来、この南華体育会は英国直轄植民地香港にあって、直接英国の影響を受け、中国サッカーのリーダーとなった。南華は多くの中国代表選手を輩出、一九三六年には、南華体育会がそのまま中国代表としてベルリン・オリンピックに参加した。また、南華を中心に、中国本土あるいは東南アジアの華人社会にサッカーが普及していった。
日本の、記念すべき最初の国際試合の対戦相手も中国だった。一九一七年五月九日、東京の芝浦で開かれた第三回極東選手権大会(いわゆる極東オリンピック)でのことだ。極東大会は、日本、中国、フィリピンの三カ国が参加して開かれていた総合競技大会で(末期には、オランダ領東インド=現在のインドネシアも参加)、まだ協会もできていなかった日本のサッカーだが、東京高等師範チームがそのまま日本の代表となって、この年の極東大会に初めて参加している。この初めての国際試合に日本は0−5で敗れ、以後中国に勝つことが日本サッカーの目標となったのである。なお、日本サッカーの二試合目の国際試合は、中国戦の翌十日のフィリピン戦だったが、この試合で日本はフィリピンに2−15という大敗を喫してしまう。十九世紀の終わりの米西戦争の結果アメリカ植民地となったフィリピンは、現在ではアジアの中でも最もサッカーの弱い国の一つだが、当時のフィリピンは、かなりの力を持っていた。フィリピンでサッカー普及の中心になっていたのも、やはり香港に留学して帰国した学生たちだった。このフィリピン戦の15失点というのは、日本のインターナショナルAマッチでの最多失点記録となって現在も残っている(なお、この試合は日本チームが東京高師単独チームだったことと、フィリピンにはフィリピン人以外のメンバーが含まれていた可能性があるため、インターナショナルAマッチとして認定できるかどうか疑問がある)。ちなみに、そのちょうど五十年後の一九六七年九月のメキシコ・オリンピック予選で、日本は釜本邦茂のダブルハットトリックなどで、フィリピンを15−0で破っており、これが日本のAマッチでの最多得点記録である。つまり、奇しくも日本のAマッチでの最多得点記録も、最多失点記録も、ともに相手はフィリピンで、記録は15点ということになる。
その後、中国に挑み続けた日本は一九三〇年に東京・明治神宮競技場(現在の国立競技場)で開かれた第九回極東大会で初めて3−3で引き分けに持ち込むことに成功、日中両国の協議で再試合は行わず共同優勝となり、これが、日本代表チームの国際大会における初めての優勝だった。日本のサッカーは、その後、六十年間以上にわたって国際選手権大会のタイトルに縁がなく、二度目のタイトルは一九九二年秋のダイナスティカップまで待たなければならなかった。なお、一九四〇年に、日本チームが中国に6−0で勝った記録が残っているが、この時はすでに日中戦争が始まった後で、相手の中国というのは、南京にあった日本の|傀儡《かいらい》政権である汪兆銘政権側の代表だった。つまり、日本は戦前本物の中国にとうとう一回も勝てなかったことになる。
第二次世界大戦後の一九四九年十月、北京に中華人民共和国が成立し、介石総統の中華民国国民党政府は台湾に逃れ、そこで全中国の正統政府を名乗っていた。FIFAには、北京のサッカー協会が加盟していたが、アジアでも冷戦構造が確立すると、台湾のサッカー協会が一九五四年にアジア・サッカー連盟(AFC)の創立メンバーとして参加し、FIFAも二重代表を認めようとしたのだが、北京のサッカー協会は、これは「二つの中国政策である」としてFIFAを脱退してしまう。非公式交流はあったものの、日本と中国の公式試合は、戦後行われなくなってしまった。
一九七四年にジョアン・アヴェランジェがFIFA会長に就任すると、最初に手掛けたのが中国問題の解決であった。おりから、一九七一年にはニクソン米大統領の訪中が発表され、同年秋には北京政府が国連の代表権を回復、さらに翌七二年には日本と中国も国交を回復し、アジアでも中国ブームが吹き荒れていた。AFCも中国を加盟させていた。こうした流れを受けて、アヴェランジェ会長は、台湾のサッカー協会を「中華台北(チャイニーズ・タイペイ)」の名前でオセアニア連盟(OFC)に加入させ、北京の中国サッカー協会のFIFA復帰を実現した。その後、この方式は国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ、多くの国際スポーツ団体が踏襲することになるが、FIFAは数ある国際スポーツ団体の中で最も早く中国の復帰を実現したのである(なお、現在は「中華台北」はAFCに復帰している)。
日本と中国は、一九七五年にアジアカップの予選で一度だけ顔を合わせていたが、ワールドカップでは一九八〇年末に香港で開かれたスペイン大会のアジア一次予選で初めて対戦した。この大会の日本チームには、金田喜稔、木村和司、風間八宏、戸塚哲也、都並敏史などのテクニシャンがそろい、とくに中盤でのキープ力はすばらしいものがあった。中国との試合でも、日本がゲームをコントロールし、押し気味だったものの、中国のエース容志行にロングシュートを決められて、日本は0−1で敗れてしまった。容志行は、一九七〇年代の中国を代表するストライカーだったが、その全盛期は中国が国際社会から孤立しており、国際的には活躍できなかった選手だ。だが、この一九八〇年の大会では、その柔軟で強靱なシュート力など、能力の高さを窺い知ることができた。
中国チーム全体としても、一九八〇年には、もうすでに峠を越えていた観はあった。中国の全盛期は一九七〇年代だったのではないだろうか。なぜ、一九七〇年代、つまり、まだ孤立を続けていた時代に強い中国チームが出来上がったのか。それはかなり難しい問題だが、東ヨーロッパの例を見ても、社会主義圏のサッカーは、国の政治が自由化、開放化に向かっている時代に強くなることが多い。サッカーという、自分の頭で考えて判断しなければならない自由で発散的なスポーツでは、思想的に統制された全体主義の社会からは、好選手が出てこないのだ。その点、抑圧が緩み、自由の風が吹き出すと、社会主義国からも強いチームが現れる。一九五〇年代の自由化路線のハンガリー、一九六〇年代の「人間の顔をした社会主義」のチェコスロバキア、あるいは一九七〇年代に自主労組「連帯」が自由化を求めて戦っていた当時のポーランドなどがその例である。いずれも、抑圧的な体制が復活するとともに、サッカーの力も衰えてしまった。中国も一九六〇年代後半の文化大革命が終息し、左右に揺れながらも、ようやく開放路線が定着してきたのが一九七〇年代なのだ。こうした政治の開放と、強い中国チームの出現にはなんらかの因果関係があるのかもしれない。
その後、日本と中国は何度か顔を合わせており、どの試合でも日本が押し気味の試合をするが、勝負は中国のものといった展開が続き、ようやく一九九〇年代に入って次第に日本優勢が定着してきている。だが、一九九四年にプロ制度が発足した中国のサッカーは、これから大きく伸びてくる可能性もあり、行き詰まりを見せている韓国に代わって、中国が今後、東アジアにおける日本の強敵となってくる可能性が強い。
中国の悲劇
さて、一次予選で日本、北朝鮮を破った中国が出場していたスペイン・ワールドカップの最終予選に話を戻そう。
一九八一年十一月三十日に最終戦を終えて、中国は三勝一分二敗、勝点「7」でトップに立ち、二位のクウェートは三勝一敗の勝点「6」、三位のニュージーランドは一勝二分一敗の勝点「4」となっていた。二位以内に入れば、本大会行きである。クウェート、ニュージーランドが、ともに二試合ずつを残しているとはいえ、中国の予選突破の可能性はかなり高いものと思われた。中国を国際舞台に復帰させ、アジアでのサッカーの振興を狙っていたFIFAにとっても、またアヴェランジェ会長個人にとっても、このまま中国が予選を突破することを期待していたことだろう。その後、クウェートがサウジアラビアに勝ち、ニュージーランドと引き分け、勝点を「9」と伸ばして、中国は二位に後退した。一方、ニュージーランドは、勝点が「5」となっていたが、得失点差は「0」のままで最終戦を迎えることになった。中国は勝点「7」で、得失点差は「+5」だから、ニュージーランドが最後のアウェーでサウジアラビアに勝って、勝点で並んだとしても、5点差以上にならないと中国が二位となる。
ところが、ニュージーランドはリヤドで行われた最終戦で本当に5−0と、5点差で勝ってしまったのである。すでに、最下位が決まっていたサウジアラビアが戦意を喪失していたのかもしれないが、とにかく、これでニュージーランドが中国と並び、中立地のシンガポールでプレーオフが行われることになった(この大会では得失点差が並ぶと、総得点数や当該チームの対戦は考慮されず、すぐにプレーオフが行われることになっていた)。プレーオフは、年が明けて一月十日に行われた。すでにスペイン本大会の組分け抽選も終わっており、「中国/ニュージーランド」はブラジル、ソ連と同じ組に入ることも決まっていた。
シンガポールは、中国系の華人人口が多いから、中立地と言っても、中国の準ホームのような都市だった。だが、赤道直下で暑いシンガポールでの試合は、南半球にあって、一月と言えば真夏のニュージーランドの方が有利だったのかもしれない。中国本国は、この時期は厳冬期である。このプレーオフを2−1で制して、ラグビーの「オールブラックス」になぞらえて「オールホワイツ」と呼ばれる白のユニフォームのニュージーランドが初めてワールドカップ本大会に進んだのだ。
中国は、まさに本大会の切符をもぎ取られたかっこうだった。
四年後のメキシコ・ワールドカップ予選では、中国は一次予選で香港に敗れてしまい、北京では暴動騒ぎまで起きた。そして、さらに四年後、その中国はイタリア・ワールドカップのアジア最終予選に臨む。この時の予選は、カタールで日本が敗れた時と同じように、一次リーグの勝者六チームが集まって、一回戦総当たりのリーグ戦形式で行われた。一九八九年十月。場所は、中国にとっては因縁の地となったシンガポールである。
一九八〇年代後半は韓国サッカーの全盛期だったが、シンガポールでの最終予選でも、|崔淳鎬《チエスンホ》、|金鋳城《キムジユソン》、|皇甫官《フアンポクアン》など新旧のスター選手が集まった韓国は圧倒的な強さを見せ、最終戦を待たずに三勝一分の成績で二位以内を確定し、一九八六年のメキシコ大会に続いての本大会進出を決定した。残る一枚の切符をめぐる争いは|熾烈《しれつ》だった。すでにイタリア行きを決定した韓国と脱落が決定したサウジアラビアを除く四チームが、最終日に予選突破を賭けて戦った。この時も、最終日はそれぞれ別のスタジアムで、午後五時にいっせいにキックオフという形だった。観客が最も多く集まるであろう中国対カタールの試合は、市内カラン地区にある六万人収容のナショナル・スタジアムでキックオフとなり、両チームともゴールが奪えず、無得点のまま進んだ。一方、シンガポール島西部の工業都市ジュロンのスタジアムで行われた韓国とアラブ首長国連邦(UAE)の試合は、前半8分に皇甫官、17分にアドナン・アル・タリヤニと、両チームのエースが点を取り合って1−1となり、それ以後は、韓国も無理はせず、もともと守備的なUAEも攻めあぐむといった展開が続いていた。この試合の前までの成績では、UAEは一勝三分で勝点「5」、得失点差「+1」。中国は二勝二敗の勝点「4」、得失点差「0」である。UAEが負ければ、中国は引き分けでも上回ることができるが、UAEがこのまま韓国と引き分けるとすると、中国は勝つしか道はない。その中国は、後半になっても得点できないで苦しんでいたが、77分、ついに寧省の点取り屋、馬林が先制ゴールを決める。これで、中国は勝点「6」、得失点差「+1」となり、韓国と同点のまま進んでいるUAEと勝点、得失点差ともに並んだ。だが、同じく得失点差が「+1」といっても、中国は得点が5で失点が4だが、UAEは得点が4で失点が3。この大会では得失点差が同じ場合は、得点の多い方が上位となっていたから、このまま試合が終われば、中国の八年越しの「悲願」、ワールドカップ本大会進出が決定するはずだった。
UAEのベンチにも、中国先制という情報は当然伝わっていただろうが、UAEはどうしても追加点を奪えず、このまま中国が逃げきるかと思われた。ところが、試合時間も残り4分となった86分、カタールのマンスール・スーフィが同点ゴールを決めてしまったのだ。さらに、その2分後、今度はマンスール・ムフターが追加点を奪い、中国はとうとう逆転負けを喫してしまう。この結果、中国は勝点が「4」でカタール(勝点「5」)にも抜かれて、四位となってしまった。
ブラジルのマリオ・ザガロ監督に率いられたUAEは、守備が堅いチームで、結局五試合を終わって一勝四分という成績で二位に入り、イタリア行きが決まったのだが、その貴重な一勝というのは、最後に当面の敵となった中国を倒したものだった。そして、じつはこの試合も、中国が後半に先制し、残り2分までリードしておきながら、88分、89分とUAEに連続得点を許して逆転負けしてしまった試合だったのである。つまり、UAEとの試合またはカタールとの試合のどちらかで、もし中国の守備陣があと3、4分もちこたえることができたなら、中国は文句なくイタリア行きの切符を手にしていたはずなのだ。
こうして、中国は、ほとんど手にしかけていたワールドカップ行きをまたもや逃してしまったのだ。
このようにワールドカップの地域予選は、数々の悲劇のドラマを演出し続けてきた。
地域予選の場合にも、やはり組分けの運・不運はある。一九九〇年大会と一九九四年大会のアジア予選の場合は、いずれにしても最終予選ですべての国が対戦するので、あまり抽選の運・不運はなかったが、各組の一位、二位が本大会に進む方式のヨーロッパ予選の場合は、組分けの運・不運が関係してくるだろう。一九八五年に行われたメキシコ・ワールドカップ予選では、日本は最終予選まで行って、韓国と対戦して敗れたのだが、この大会の予選では、アジアが東西に分けられ、東アジアから一カ国、西アジアから一カ国が本大会に進出できるという方式だった。しかも、中国が一次予選で香港に敗れる波乱があったため、本当の強敵は韓国と北朝鮮だけだった。これなどは、抽選の運・不運というよりも、地域の分け方の運・不運といっていい。中東の側から見れば、サウジアラビア、イラン、イラク、UAEなど強豪がひしめき合っている西アジアに一カ国しか出場枠が与えられないのは、東アジアに比べて不公平だということもできただろう。
そういう意味で、きわめて幸運な国がメキシコだ。メキシコはワールドカップには第一回大会から出場しており(第一回の開幕戦に出場)、過去十六回のワールドカップのうち、じつに十一回も本大会に出場し、二回ベスト8に進んでいるが、ともに地元での開催の大会でのベスト8である。メキシコの場合、地元というのはつまり海抜二〇〇〇メートルの高地での試合ということだから、他の国の場合の「地元」というよりも、いっそう有利な条件になる。メキシコはそういう有利な条件で戦ってようやくベスト8程度のチームだったのだ。メキシコは、十一回の大会に出場してじつに十九敗を喫しているが、これはワールドカップ本大会での最多敗戦記録であり、また第一回大会の開幕戦以来、一九五八年大会の第二戦でウェールズと引き分けるまで、なんと九連敗という記録も持っている。つまり、それほど強い国ではなかったのにもかかわらず、中北米地域に属していたという理由だけで、何回も予選を勝ち抜いて本大会に進出することができたのだ。
メキシコにとって、国が中北米にあるということ自体、そして地域の大国であるアメリカ合衆国とカナダでサッカーが盛んではないということが大きな幸運なのだ。そう考えると、日本の場合も、アジアという世界で最もレベルの低い地域に属していることは、ワールドカップ出場の可能性ということを考えると幸運なことなのかもしれない。

第三章 観戦の初心者が目覚める時
筆者がワールドカップを観戦するために、生まれて初めて現地まで出かけて行ったのは一九七四年の西ドイツ大会のことだった。今では入場券のかなりの部分がスポンサー筋とか旅行会社に流れてしまうが、当時は、今と違ってワールドカップも商業化されておらず、ルフトハンザ航空の東京支店に行くと申し込み用紙が置いてあって、必要事項を書き込むだけで、好きな試合の券を買うことができた。まさに、古き良き時代である。そこで、夜行列車で移動しながら、毎日違う町で試合を見ることにした。そして、初めて生で見ることになったワールドカップの試合が、この大会の開幕戦、つまり前回優勝のブラジルが名ウィング、ドラガン・ジャイッチを擁するユーゴスラビアの挑戦を受けた試合だった。場所は、フランクフルトの空港のそばのヴァルトシュタディオン。その名の通り森(ヴァルト)に囲まれた、古びてはいるが、落ち着いた雰囲気のスタジアムだった。
フランクフルトの市内のあちこちにも、明るいグリーンの地に白でワールドカップ西ドイツ大会のエンブレムをあしらった旗が|翻《ひるがえ》り、「ああ、これがワールドカップなのだ」と|逸《はや》る気持ちを押さえながら、電車でスタジアムに向かったものだ。六月十三日だというのに、霧雨の冷たい、陰鬱な日だったことを覚えている。
開会式――。ワールドカップの開会式には、オリンピックと違って選手たちは参加しないから、マスゲームとか合唱とか、ショー的な要素を取り入れざるを得ない。それでも、一九七〇年のメキシコ大会くらいまでは、少年たちが各国のユニフォームを着て場内を一周したり、参加各国あるいはFIFA加盟各国の国旗が登場したりといった程度の地味なセレモニーだったが、この西ドイツ大会のころから、ショー的要素が強くなり始めていた。西ドイツ大会ではほとんどのスタジアムは公共団体の所有で、また陸上兼用だった。ヴァルトシュタディオンも、フィールドの周囲には陸上のトラックがあったが、その上に(一部は芝生の上に)十六個の大きな白黒ボールが置かれ、その中から参加各国の歌手やダンサーが飛び出してきては、それぞれの国の民族音楽や民族舞踊を披露する。そういう趣向の開会式だった。
ブラジルのボールからは、もちろんサンバが出てきたのだが、雨の、肌寒いドイツの空気には、ブラジルのサンバはあまり似合わなかった。同様に、ブラジルチームの前評判も、パッとしなかった。前回一九七〇年のスーパーチームとは様変わりして、手堅く、守備的なチームなのだという。ブラジルは、振り子が左右に大きく揺れるように、守備的なチームを出してくる時と、華麗で芸術的な、いかにもブラジル的なチームを出してくる時とがある。さらに、何よりも残念なのは、前回まで四回のワールドカップで、活躍した時はもちろん、不調の時でも、あるいは負傷欠場している時でさえも話題の中心にいたスーパースター、「サッカーの王様」ペレが代表チームから引退してしまったことだった。
そのペレが、同じく前回のワールドカップを最後に引退してしまった西ドイツの英雄ウーヴェ・ゼーラーと一緒に背広姿で出てきて、この大会のために新しく創られたFIFAワールドカップを披露する。前回大会でブラジルが三回目の優勝を飾ったため、一九三〇年の第一回大会以来ワールドカップのトロフィーとして使われてきたジュール・リメ杯は、規定によりブラジルの永久保持となった。そこで、新しいトロフィーが製作されたのだ。当時のFIFA会長の名をとって、「スタンリー・ラウス杯」としようという案もあったが、結局カップは「FIFAワールドカップ」というシンプルな名称で呼ばれることになった。デザインはイタリアのミラノのシルビオ・ガッツァニカ。十八金製で高さが三十六センチ、重さが五キロというトロフィーである。このカップは、今後三回優勝するチームが出ても、永久保持にはならない。
そして、待ちに待った、初めて見るワールドカップのゲームがキックオフを迎えた。だが、時間が経過し、ユーゴスラビアがそのテクニックを披露して、優勢に試合を進めるのだけれど、なかなか興奮するような試合展開にはならない。「これが、ワールドカップなのか」と落胆の気持ちが強くなる。
ワールドカップの開幕戦が0−0の無得点引き分けに終わることが多いということは、もちろん知識としては知っていた。一九六六年のイングランド大会(イングランド対ウルグアイ)、一九七〇年のメキシコ大会(メキシコ対ソ連)が、ともに無得点引き分けに終わっている。一九七〇年大会までは、開幕戦には開催国が出場していたのだが、この西ドイツ大会からは前回優勝国(この大会の場合は、四年前のメキシコ大会で圧勝したブラジル)が出場することに変わった。それでも、やはり開幕戦は0−0だった。さらに、その後一九七八年のアルゼンチン大会(西ドイツ対ポーランド)も、開幕戦は無得点引き分けに終わり、無得点引き分けはじつに四回連続となった。
ちなみに、一九八二年以降を見てみると、一九八二年がアルゼンチン対ベルギー(0−1)、一九八六年がイタリア対ブルガリア(1−1)、一九九〇年がアルゼンチン対カメルーン(0−1)と、無得点引き分けはなくなったが、どういうわけか、いずれも前回優勝国の敗戦または引き分けという結果が続いた。そして一九九四年大会になって、ドイツがボリビアを1−0と破り、苦戦の末とは言いながらも、ようやく前回優勝国が初めて開幕戦で勝利を記録した。
とにかく、初めて観たワールドカップの試合については、意外につまらないことに失望した記憶があるのだ。
この時の大会は、なにかと政治絡みの話題が多かった。そもそも、西ドイツという開催地自体が、第二次世界大戦後の米ソ対立の結果出来上がった分断国家の一方であり、冷戦を象徴するような場所だった。ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連に分割占領され、その後西側の米英仏三国占領地域は統合されてドイツ連邦共和国(西ドイツ=首都はボン)となったが、ソ連占領地域にはそのまま共産党政権ができてドイツ民主共和国(東ドイツ=首都は東ベルリン)となり、ドイツは分裂してしまったのだ。だが、問題がもっと複雑になったのはベルリン問題だった。かつてのドイツの首都だったベルリン市は、東ドイツ領域内にあるのだが、この首都自体も分割占領されており、東ドイツが成立すると、米英仏の占領地域(西ベルリン)は東ドイツの中にある飛び地のような形になって残ってしまっていた。西側は、西ベルリンは西ドイツの一州だと主張していたが、ソ連および東ドイツ側は、西ベルリンは西側連合国の占領下にあるのだと主張しており、西ドイツの一部であることを認めようとはしなかった。
ワールドカップを開催することになった西ドイツは、西ベルリンがその一部であるという主張を明確にするために、西ベルリンでも試合を行うことにした。一九三六年に開かれたベルリン・オリンピックの時のメインスタジアムは一九七四年当時でもドイツで最大のスタジアムだったが、このスタジアムは西ベルリン側にあったのだ(二〇〇六年のドイツ大会でも、このスタジアムがメイン会場として使われるらしい)。もちろん、東側は西ベルリンでワールドカップの試合を行うことに反対していた。アメリカのリチャード・ニクソン大統領とドイツ生まれで熱狂的なサッカーファンでもあるヘンリー・キッシンジャー国務長官の手で、ソ連との緊張緩和「デタント」が進んでいたとはいえ、まだまだ、冷戦時代だった。
サッカーの神様の悪戯好きは、どうやらフィールドの中だけのことではなかったらしい。問題の西ベルリンは、一次リーグ第一組の会場とされており、この組に西ドイツチームが入り、西のチームが西ベルリンで試合をすることは最初から決まっていた。政治的な象徴の意味が込められていたのだ。だが、まさかその第一組に、西ベルリンでの開催に反対していた当の東ドイツが入ってくるなどとは、誰も予想していなかった。組分け抽選の結果、第一組で西ドイツと対戦するのは、東ドイツ、チリ、オーストラリアとなったのだ。そして、東ドイツは第二戦、チリとの試合を問題の西ベルリンで戦うことになった。
東ドイツは、一九七〇年代に入るとオリンピックなどで驚異的な強さを見せて、スポーツ大国として知られるようになっていた。陸上競技、水泳、バレーボールなどが有名だった。国家的な英才教育を行い、子供のうちに適性を判断して、それぞれの種目のエリート教育を受けさせる。そして、後に判明したようにドーピングなどの不正手段も積極的にとっていたようだ。だが、この手の英才教育は、サッカーには通用しない。サッカーは、いくら筋力を強化しても、いかに技術を習熟させても、どれだけ戦術パターンをたたき込んでも強くはなれない。サッカーで必要なのは、フィールド上で選手個々がその場で最も適切なプレーを選択して実行する、創造力あるいは判断力なのだ。東ドイツ式の英才教育、あるいは共産主義という名の全体主義の思想教育(つまり、党の指導に全面的に服従することが大事で、自分の頭で判断してはいけない)は、むしろサッカーに必要な創造力の発展を妨げるのだ。その結果、オリンピックではあれほど多くの金メダルを取ったソ連、東ドイツなど共産圏のスポーツ大国でも、サッカーだけは、西側のプロにどうしても勝てなかった。東ドイツは、一九五二年九月にポーランドと初めて国際試合をして以来(0−3の負け)、一九九〇年九月のベルギー戦(2−0の勝ち)まで、ちょうど三〇〇回の国際試合を戦って、一四三勝六九分八八敗とそれほど悪くはない成績を残し、一九七六年のモントリオール・オリンピックでは金メダルを獲得しているが、しかし、ワールドカップに出場できたのは、四〇年近い歴史の中で、たった一回だけだった。その一回が、なんと皮肉なことに西ドイツ大会で、しかも東ドイツは西ドイツと同じ組に入ってしまったのだ。
さらに、サッカーの神様の悪戯は続く。ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンでの最終戦で東ドイツは優勝候補の西ドイツを破ってしまうのだ。
このグループに入った、もう一つの国、チリも政治的にいわくのあるチームだった。
一九七〇年十月の大統領選挙で社会党のサルバドール・アジェンデが勝利を収め、世界で初めて自由選挙によって生まれたマルクス主義政府として知られたチリの人民連合政権が、アウグスト・ピノチェト将軍らの軍事クーデターで倒され、アジェンデ大統領は大統領官邸であるモネーダ宮で戦死を遂げた。ワールドカップ予選が行われていた最中の一九七三年の九月十一日のことである。軍事政権による、左翼に対する大弾圧が始まった。チリは、ワールドカップ予選では南米地域予選第三組に入っており、すでにペルーを破っていたのだが、第三組の勝者は、ヨーロッパ第九組の勝者であるソ連とのプレーオフに勝たなくては本大会に進めないことになっていた。プレーオフの第一戦は、九月二十九日に無事モスクワで行われ、無得点で引き分け、チリはホームで勝てば本大会進出が決まるという有利な状況にあった。しかし、チリのホームゲームが行われる予定になっていた首都サンティアゴのナショナル・スタジアムは、軍事政権によって左翼の収容所として使用され、多くの左翼活動家(および一般市民)が、ここで拷問にかけられたり、処刑されたりした。このため、アジェンデ政権を支持していたソ連としては、そういう血塗られたスタジアムで試合をするわけにはいかないと主張して、この試合を第三国で行うことを要求した。FIFAは、チリ国内のサンティアゴ以外の都市での開催を提案したが、ピノチェト将軍はこれを断固拒否し、FIFAもそれを認めた。こうなると、政治的な意味でもソ連は試合を断固拒否するしかなくなった。結局FIFAはソ連に五千スイスフランの罰金を科し、チリに出場権を与えたのだ。第二戦が行われる予定の日、スタジアムにチリチームが現れ、儀式的なキックオフを行って、勝利を祝った。
その、いわくつきのチリが、こともあろうにソ連の支配している東ドイツの真っ只中にあって、しかもソ連など東側がワールドカップ開催に反対している西ドイツのオリンピアシュタディオンで三試合を戦ったのだ。チリは、東ドイツおよびオーストラリアと引き分けただけで、無勝利で帰国した。
その他、一九七二年のミュンヒェン・オリンピックでイスラエル選手団を人質にとるという事件を起こしたパレスチナ・ゲリラの動き、英国四協会のうちただ一つ出場権を獲得したスコットランドを標的にしたIRA(アイルランド共和軍=北アイルランドの反英ゲリラ組織)の動きなどもあり、東西ドイツの試合の行われるフォルクスパルクシュタディオンにロケット弾を撃ち込むなどという脅迫も舞い込んだ。だが、西ドイツの警備当局の手によって、ゲリラの妨害はなんとか押さえ込まれ、大会は無事に終了したのである。
丸二日かけて一次リーグ敗退したスコットランド
一次リーグの最終戦は、いくつものチームの運命を決する試合となる。一次リーグの順位は勝点、得失点差、総得点数、さらに当該チーム同士の試合の結果で決まるから、最終戦が近づくと、当落線上にいるチームのサポーターの頭の中は、数字でいっぱいになる。単に、決勝トーナメント進出がなるかどうかだけでなく、自分の国の順位、そして他のグループの順位によって、決勝トーナメントの組み合わせが違ってくるからだ。自分の国は、決勝トーナメントに進めるのだろうか、そして、トーナメントではどの会場でどこと当たることになるのか、そういったことが、すべて複雑な勝点や得失点差の計算で決まってくるのだ。
それでも、直接試合で敗れて敗退となったチームは、諦めもつこうというものだが、中には、他の試合の結果を待たされたあげく、じらされた末に、結局失格が決まってしまう気の毒なチームもある。
スコットランドは、いつでも「犠牲者」だった。この国は、一九七四年大会以来一九九〇年イタリア大会まで、五回連続で予選に勝って、ワールドカップ本大会に出場した。このこと自体、一九六二年から八二年までのイタリアの六回連続予選突破、一九七八年から九四年までのブラジルの五回連続予選突破と並ぶ大記録である。もちろん、ブラジルは過去十六回の大会すべてに参加しているし、ドイツ(東西分割の間は西ドイツ)は十四回も本大会に出ているが、こうした強国は、自国開催とか前回優勝によって、予選なしで自動的に出場権を得て出場することが多い。優勝とはまったく無縁で、自国開催もできないような小国のくせに、予選を五回連続で勝ち抜いて、本大会に出てくるだけでも、スコットランドの記録は大したものなのだ。ところが、五回続けて本大会に出ておきながら、その五回すべて一次リーグで敗退し、一度も決勝トーナメント(あるいは二次リーグ)に進めなかったとなると、これはもう立派な珍記録の部類に入る。
さて、その連続出場の第一回目となった一九七四年大会で、スコットランドは第二組に所属していた。開幕戦で無得点引き分けに終わったブラジルとユーゴスラビアの属するあの組である。フランクフルトで開幕戦を観戦した筆者は、翌日はドルトムントのウェストファーレンシュタディオンで、スコットランドの緒戦を観た。相手はワールドカップ史上初のブラック・アフリカ代表、ザイールだった。まだ、現在のように、アフリカサッカーが脚光を浴びる前の話で、誰もザイールが勝つなどとは思っていなかった時代である。
一方、スコットランドは、中盤のダイナモ、ビリー・ブレムナーや、ゴールゲッター、デニス・ローをはじめ、ケン・ダルグリッシュ、ジョー・ジョーダン、ピーター・ロリマーなど、若手からベテランまでのスターを擁した好チームだった。そのスコットランドが、予想通り2−0で完勝。後半などは、余裕で手抜きをしながらの勝利だった。ドイツでは珍しい、サッカー専用競技場であるウェストファーレンシュタディオンに詰め掛けたスコットランドの大応援団も満足そうに歌を歌いながら引き上げた。このスタジアムは、この大会用に新設されたスタジアムで、西ドイツ大会で使われたスタジアムの中では唯一サッカー専用だから、フィールドのすぐそばまでスタンドが迫り、まるで、イングランドのスタジアムのようだった(スコットランドのスタジアムは、サッカー専用でも楕円形のスタンドが多かった。グラスゴー・レインジャースのホームグラウンドのアイブロックス・パークなどは現在イングランド型の四角いスタンドになっているが、改修前はやはり楕円形だった)。そのゴール裏に大応援団が駆けつけていたのだ。そして、これがスコットランドにとって、ワールドカップ本大会における歴史上初めての勝利だった。
その後、スコットランドはブラジルとは0−0、ユーゴスラビアとは1−1で引き分け、結局一勝二分無敗で日程を終えた。久しぶりの参加にしては、上々の結果だと言っていいだろう。ところが、この組の試合は上位三チームが、お互いの試合は全部引き分けて、ザイールには勝って、三チームとも同じ勝点「4」で並んだのである。ユーゴスラビアはザイールに対して、9−0と大勝した(これは、一九五四年大会で世界最強と言われたハンガリーが、韓国を破った時と同じスコアで、ワールドカップの最多得点タイ記録だった)。
この大量失点に気落ちしたのか、一時はザイールが最終戦を棄権すると伝えられた。もしザイールが棄権ということになると、最終戦はブラジルの不戦勝となり、スコアは2−0として計算されることになっていた(最近は3−0とする場合が多い)。本来は大量点が狙えるザイール戦が2−0となってしまっては、ブラジルの一次リーグ敗退の危険も出てきてしまう。結局FIFAの説得が功を奏したのか、ザイールは、なんとか気を取り直して試合を続けることになったのだが、そのザイール相手に、ブラジルは攻めあぐね、なんと3点しか取れなかったのだ。だが、この「3点」が、スコットランドを失格させることになった。緒戦で、ザイールから2点しか取らなかったスコットランドは、無敗のまま一次リーグを終えながら、得失点差で及ばず、一次リーグ敗退となったのである。スコットランドは得点3で失点1、そして二位のブラジルは得点3で失点0。もし、ザイール相手に大量点とはいかずとも、せめてもう1点取っていれば、スコットランドはブラジルを上回ることができたはずだった。
この第二組の結末を見て、筆者はようやくこの「一次リーグ」と呼ばれる試合のカラクリにうすうす気がついた。そうだ、これは試合内容がどうこうとか、勝つか負けるかの勝負なのではない。ただ、勝点、得失点差の辻褄を合わせるために行われている儀式のようなものなのだ。とすれば、強豪同士は、負けないことを第一に試合をするはずだ。そして、アウトサイダーには確実に勝つようにする。第一戦である開幕戦、しかもグループ一位、二位の候補がぶつかるとあれば、無得点引き分けになるのも当たり前のことだったのだ。それを見て不満を言っていてもしかたがないのではないだろうか、と。このことに気がついた時、初めて「リアリズム」の眼が開き、筆者の本当の意味でのワールドカップ観戦がようやく始まった。
ザイール戦は一方的な試合内容だったから、スコットランドだってその気になれば3点以上は必ず取れたはずだ。しかしスコットランドは、2点取った後は明らかに流してしまって、3点目を是が非でも取りにいこうという意欲がなくなっていた。もし、スコットランドが最終戦でザイールと当たっていれば、スコットランド人だって「大量点が必要だ」あるいは「ブラジルが3点なら、われわれも3点が必要」といったことが(たぶん)計算できたはず。緒戦でザイールと当たったのも、不運と言えば不運ではあった。だがこれで、スコットランドも一次リーグの戦い方を勉強したはずだった。ところが、これを全然教訓にしないところが、いかにもスコットランドなのである。その後のワールドカップでも、スコットランドは同じようなパターンで一次リーグ敗退を繰り返すのだ。
次の一九七八年アルゼンチン大会では、スコットランドはペルーに敗れ、アウトサイダーのアジア代表、イランとも引き分けて、一分一敗で最終戦を迎えた。最終戦の相手は、前回準優勝で、このアルゼンチン大会でも、その後、西ドイツ、イタリア、オーストリアという強豪ぞろいの二次リーグを勝ち抜いて二大会連続の準優勝となったオランダだった。そして、スコットランドは、この強豪オランダを3−2で破る。だが、ともに一勝一分一敗で並んだものの、オランダの方が得失点差で上回り、スコットランドは強豪オランダに勝ったにもかかわらず、またも一次リーグ敗退となったのである。アンデス山脈の山麓の都市メンドーサのスタジアムでは、勝ったスコットランドがフィールド上でうなだれ、負けたオランダの選手が両手を上げて喜んでいるという不思議な光景が見られたものだ。
スコットランドというのは、不思議な国だ。こんな惜しい負け方をいつもしていながら、サポーターはじつに陽気で、楽しそうなのだ。イングランドといえばフーリガンが有名で、チームが負けたと言っては、あるいは勝ったと言っては、いつも騒ぎを起こして、スタジアムの設備を壊したり、路上の自動車を焼き討ちしたりといった愚行、蛮行を繰り返す。スコットランド人も、例のスカートのようなキルトと呼ばれる民族衣装を身に|纏《まと》い、あるいは上半身裸で|刺青《いれずみ》をあらわにした大男たちが数千人単位の団体で押し掛けてくる。スコットランドの試合当日の中央駅は、いつも大騒ぎだ。そして、ご自慢のスコッチウィスキーを浴びるほど飲んで、大声を上げて観戦している。いかにも、ひと騒動起こりそうな騒然とした雰囲気になる。だが、スコットランド人は、試合に勝った時はもちろん、負けた時でも、これもお国自慢のバグパイプに合わせて、大合唱しながら、じつに陽気に引き上げていくのだ。
スコットランド人というのは、寒く貧しい土地に見切りをつけて、移民として世界中に散らばっていった人たちも多いが、じつに結束が固い民族だ。世界のあちこちで、その地に住むスコットランド人たちが自分たちだけの運動会を開いては、「棒投げ」のような昔ながらの競技を楽しんでいる。北アメリカに渡ったスコットランド人がやっていた、そうした素朴な競技のいくつかは、アメリカの陸上競技ひいては現在の陸上競技の種目にかなりの影響を与えているらしい。そういった、世界中のスコットランド人が一堂に会し、民族の団結心を新たにし、また世界中の人たちに、スコットランド民族の存在をアピールする場。彼らは、ワールドカップをそんなふうに捉えているようなのである。勝つことよりも、世界中に散らばったスコットランド人が集まること自体に、より大きな意味があるのだ。だから、勝っても負けても、試合の結果はさほど重要なことではない。スコットランド人は、お互いの親睦を深め、また世界にスコットランド人の気概を示すことができるだけで、十分に幸せなのだ。しかも、もともと優勝を狙えるほどの実力はもっていないから、気楽なものである。これが、スコットランドの応援の楽しさの秘密である。
これは、アイルランド人の応援団(アイルランド共和国も北アイルランドも共通して)の陽気さとも通じるところがある。スコットランドとアイルランドは、大昔から交流が多く、たとえばスコットランドという国の名前も、元々現在のアイルランドに住んでいて、その後ブリテン島北部つまり現在のスコットランドの地に移住してきた「スコット人」が語源になっているほどだ。アイルランド人も、やはり貧しい本国から世界中に移住していった。文化も、境遇も似ている。応援が似てくるのも当然なのかもしれない。もっとも、スコットランドは五回連続で一次リーグ敗退という憂き目にあっているのに対し、アイルランド共和国は初めてのワールドカップ出場となった一九九〇年イタリア大会で、いくら四引き分けで得点がたったの2点とはいえ、いきなり準々決勝に進出してしまったのだから、勝負強さではアイルランドの方が上のようだが……。北アイルランドも、一九五八年スウェーデン大会で準々決勝、一九八二年スペイン大会で二次リーグにまで進んでいる。
その点、強い国のサポーターは大変だ。勝てなかったら満足できない。たとえば、ブラジル人だったら、ブラジルらしい攻撃的なサッカーをして、その上優勝しなければ満足できないのだ。ちょっとでも試合内容が悪いと監督を批判し、内容はよくても優勝できないと失望のどん底にたたき込まれる。イタリア人もそうだ。イタリア的美意識に基づいて、うまく相手をあしらっての完勝でないといけないのだ。頑張って、体力ずくで勝ってもだめ。負けたりしたら、帰国したチームには腐ったトマトや卵が投げ付けられる。
そういうサポーターの意識が、チームにも、試合にも反映される。ブラジルやイタリアは、どんなに苦しい状況でも、あるいはどんなに疲れていても、がんばれば勝てそうな時には、勝つために全力を尽くし、粘る。ただし、イタリアも、ブラジルもそれぞれの美意識に従って、従順に敗者としての運命を甘受することがある。そこがドイツ人との違いだ。ドイツの場合だったら、どんな内容の試合でも、最後まで勝利という結果を追求する。だが、スコットランドは、サポーターの要求も、勝利よりもスコットランド民族の祭りなのだから、応援団にも勝利という結果ヘの渇望が感じられず、それがフィールドの方にも反映されて、選手もなんとなく粘りがない試合をしてしまい、結局そこそこのチームで、それほど悪い成績ではないのに、勝負には弱く、一次リーグ敗退を繰り返すのだ。ワールドカップでは、勝利ヘの欲求が強いものしか勝つことができない、ということを証明しているのがスコットランドなのである。
そのスコットランドが、五回目の大会となる一九九〇年イタリア大会では、ついに一次リーグを突破したかに思えた。スコットランドは、この大会の一次リーグC組に属し、いきなり弱小のコスタリカに敗れ、「またも、お決まりの一次敗退か」と思わせたのだが、スウェーデンに勝ち、ブラジルに敗れ、スコットランドは六月二十日のブラジル戦を終えた時点で、一勝二敗ながら、なんとかグループ三位に入った。二十四カ国参加のこの大会では、各組三位の六チームの中から、成績のいい四チームがトーナメントに進むことができることになっていた。スコットランドはギリギリの成績である。この日までに、A、B、C、D組は全日程を終了しており、この時点で、スコットランドとA組三位のオーストリアは勝点「2」、得失点差「-1」で並んでおり、一方、B組三位のアルゼンチンとD組三位のコロンビアは勝点「3」、得失点差「+1」で、スコットランド、オーストリアを上回っているから、すでに決勝トーナメント進出を確定していた。だが、スコットランドが最後の試合を終えた翌日に行われるE、F組最終戦の結果によっては、スコットランドにも念願の決勝トーナメント進出の可能性は、まだ残されていた。
一次リーグの最終日、まず午後に行われたE組の試合では、一分一敗で勝点「1」のウルグアイと、二敗で勝点「0」の韓国が対戦していた。しかし、どちらのチームも勝たなくては望みがなくなるということは知っているはずなのに、どういうわけかまったく消極的な試合運びで、後半になっても、無得点のまま試合が進んだ。このままいけば、韓国は勝点「1」で四位、ウルグアイは三位だが、勝点「2」得失点差「-2」で、スコットランド、オーストリアを下回るはずだった。ところが、後半も時計が45分を回り、ロスタイムに入って2分ほどたったところで、ウルグアイにフリーキックが与えられ、このフリーキックのボールをダニエル・フォンセカがヘッドで決勝ゴールを決めてしまったのだ。この時点でウルグアイの勝点は「3」となり、スコットランドを上回った。
スコットランドの最後の望みは、その夜に行われるF組の試合にかかっていた。この組は、二日目までの四試合がすべて引き分けに終わっており、すべてのチームが勝点「2」ずつという状況で最終日を迎えていたから、イングランド対エジプト、オランダ対アイルランドのうち、どちらかの試合が引き分けに終わると、三位チームの勝点が「3」になってしまい、スコットランドとオーストリアの失格が決まるが、もし二試合とも勝敗がつけば、三位チームは勝点「2」でスコットランド、オーストリアと並ぶはずだ。同時刻に行われた二試合のうち、まず、オランダが前半10分、続いて、イングランドも後半に入った58分に、それぞれ先制ゴールを決める。両方とも、1−0だ。このまま、あと32分無事に経過すれば、エジプトとアイルランドは勝点「2」、得失点差「-1」でスコットランドと並ぶが、ともに「得点1・失点2」なので、「得点2・失点3」のスコットランドとオーストリアを下回る。そうなれば、決勝トーナメント進出は、スコットランドとオーストリアの間の抽選で決まることになるはずだった。
やっと、スコットランドにチャンスが巡ってきたか、と思われた。
ところが、後半も残り少なくなった71分になって、アイルランドのナイアル・クインが同点ゴールを決め、アイルランドとオランダが引き分けに終わって、両チームの勝点が「3」となり、抽選でどちらが三位になったとしても(抽選の結果、三位はオランダに決定)、スコットランドを上回ることになった。こうして、スコットランドは真綿で首を絞められるように、丸二日もかけて失格が決定し、またしても一次リーグ敗退が決定したのである。
一九九四年アメリカ大会では、スコットランドはとうとう地域予選で敗退してしまい、六回連続本大会出場はならなかった。

第四章 一次リーグの罠にはまったデンマーク
ワールドカップという大会は、他の国際大会とは、いろいろな面で違いがあるが、約一カ月にわたる長期戦であることが、最大の特徴の一つである。
国内リーグは週一試合のペースで、九カ月ないしは十カ月にわたって、ホーム・アンド・アウェーの総当たりで試合が行われるから、本当の長期戦だ。こういう長期間の大会では、シーズンを通して好調を維持するというのは不可能に近い。負傷者が出たり、警告の累積で出場停止者が出たりで、レギュラーメンバーがそろわない時もあるし、そうでなくとも、数カ月にわたって緊張を維持するのは難しいことだ。したがって、控え選手の層が厚く、どんな状況にも対応できる戦術的に多彩なチームの方が有利だし、あるいは不調の時に、それなりにチームをまとめて、星勘定をそろえる監督の手腕が試される。だが、多少の好不調や運・不運はあっても、一年経ってみると、そうした運・不運もだいたいならされて、実力ナンバーワンのチームが決定するものなのである。最も合理的で、真の実力が試される大会形式が国内リーグ戦ということができるだろう。したがって、サッカーの世界ではリーグ戦優勝チームが「チャンピオン」と呼ばれ、多分に運が作用するカップ戦(FAカップとか天皇杯)の勝者は「カップウィナー」と呼ばれて、はっきり区別されているのだ。
国際大会のように、参加チームが一カ所に集まって行われる集中トーナメントの場合は、(たとえば、三日に一試合とか四日に一試合とか)もっと試合の頻度は多いが、しかし、大会の期間は二週間程度というのが普通だ。たとえば、オリンピックは二週間強の大会だし、ワールドユースなどサッカーの他の国際大会も二週間程度が普通だ。ヨーロッパ選手権は、一九九六年大会から十六チーム参加の大規模な大会になったが、それでも期間は三週間強、南米選手権(コパ・アメリカ)も二週間半である。それに対して、参加国数が三十二チームに増えた一九九八年のフランス・ワールドカップでは、ついに大会日数は一カ月を超えて、三十三日間にまで延びた(二〇〇二年大会は三十一日間)。
二週間程度の短期間の大会の場合は、スタートから全力で戦いを挑み、波に乗れれば、決勝まで一気に突っ走ってしまうこともできる。
たとえば、一九九二年のヨーロッパ選手権はスウェーデンで開かれたが、誰も予想していなかったデンマークが突っ走って、初優勝を遂げた。この大会では、予選を無敗で乗り切ったユーゴスラビアが優勝候補に挙げられていたが、民族対立による内戦が激化したため、大会開幕直前の五月三十日には国連決議七五七号によって、ユーゴスラビアとのすべてのスポーツ交流が禁止され、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)は、ユーゴスラビアの出場を取り消し、代替国として、予選でユーゴと同組で二位になっていたデンマークを繰り上げ出場させたのだ。デンマークは開催国スウェーデンの隣国でもあり、同国の出場によって、海を渡って観戦に訪れる観客も増えるだろうから、主催者側にとっても好都合だったわけだ。そして、大会開幕一週間前に出場が決まったデンマークは、シーズンが終わって休暇に散っていた選手たちをかき集めて、急遽代表チームを結成して出場し(実際には、正式決定の一週間ほど前から準備はしていたようだが)、あれよあれよという間に準決勝に進出、さらに準決勝ではオランダ、決勝ではドイツと優勝候補の二チームを破って初優勝してしまったのだ。
ところが、ワールドカップでは、こうはいかない。従来の大会なら四週間半、フランス大会なら五週間近くかかるのだ。そして、この四、五週間の間に、現在の試合方式では決勝までに七試合を戦わないと優勝できない。四日か五日に一試合程度のきつい日程で、一カ月戦い抜くのは容易なことではない。一気に波に乗って決勝まで突っ走るのは不可能である。しかも、選手たちは、長い国内リーグのシーズンを終えた直後に、ワールドカップのための事前合宿を含め、もし決勝まで勝ち抜いたとすれば、六週間あるいは七週間もの長期間にわたって代表チームに拘束されるため、精神的ストレスも大きくなる。
これだけ長い期間の大会だと、ヨーロッパ選手権のデンマークのように、好調を維持したまま最初から最後まで突っ走るというのは無理な要求になってくる。しかし、だからといって国内リーグのように、好不調の波をならして、トータルで勝率が高ければいいというものでもない。大会後半には強豪チーム同士が当たり、しかも一回負ければそれで終わりというノックアウト式のトーナメントが待っているのだ。
いかにして、その段階の試合に好調の波をもってくるか、それが優勝争いの勝負の分岐点になる。つまり、チームのコンディショニングが非常に重要になってくる。ワールドカップとは、そういう大会なのだ。優勝を狙う国は、決勝トーナメントに入った後に、コンディションがピークを迎えるように調整しなければならないのだ。
ワールドカップ本大会は、まず、参加国を四チームずつのグループに分けて一次リーグを行う。そして、二十四チーム参加の頃は六グループ、参加国数が三十二チームに増えたフランス大会以降は八グループに分かれ、一次リーグで上位二位以内(二十四チーム参加の時は、三位の中で成績のよい四チームも)に入ると、ベスト16による決勝トーナメントに進めるのだ。なお、最初のミニ・リーグのことを、日本では「予選リーグ」と言うことが多いが、ワールドカップの場合「予選」というのは、大会前二年以上にわたって全世界で繰り広げられる地域予選(Preliminary Competition)のことで、二十四チームあるいは三十二チームが一カ国に集まって戦う大会のことは「本大会」または「決勝大会」(Final Competition)と呼んでいる。したがって、本大会のグループリーグに「予選」という言葉を使うと紛らわしいので、本書では「一次リーグ」(First Round)と統一して呼ぶことにする。
だが、この複雑な試合方式をとる結果、ワールドカップ本大会では運・不運が、勝負を分けることが多くなる。
スポーツだけではなく、およそあらゆる勝負事には、運・不運の要素が付きまとうものだ。そして、ヨーロッパの人々は、運・不運もゲームの一部と考えている。たった一人のレフェリーにすべてを委ね、誤審があってもそれを尊重していたぐらい、それは徹底していた。というよりも、そうしたいろいろな不運を乗り越えることができてこそ、真に尊敬すべきチャンピオンと呼ぶことができると考えるわけだ。
そもそも、「フットボール」と呼ばれていた、中世イングランドのただの乱暴な遊びには、公平という感覚は必要でなかった。プレーの行われるフィールドは、平坦でもなければ、境界もない、単なる畑地だとか河川敷だとか、あるいは町の街路がそのまま使われたし、フットボールに参加する両“チーム”のプレーヤーの人数も、決まっているわけではなかった。それは、単にボールを奪い合い肉体的接触を楽しむ遊びなのであって、そもそも、勝負を争うための競技であるとか、勝負事であるとさえも言えないものだったのだ。そうした中世のフットボールが、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、パブリックスクールの教育の中に取り入れられていく過程で、ジェントルマンやブルジョア階層の持っていた近代合理精神を反映して、フットボールには明確なルールが決められ、勝利を目的とする近代的な競技に進化していった。さらに十九世紀半ばに、前近代社会が姿を変え、近代に移り変わりつつあった産業革命の過程の真っ只中のイングランドで、そのルールを全国共通化しようという意図で生まれたのが、アソシエーション式フットボール、つまりサッカーだった。ルールというのは、競技の参加者が公平な立場で競争を行うために定められたものだ。この明示的なルールが整備され、公平さが保証されることによって初めて、「フットボール」という粗野な遊びは、勝負を争う競技としての条件を整えたのである。
だが、どんなに巧妙に作り上げられたルールでも、どんなに考え抜かれた大会規定でも、それが勝負事である以上、運・不運からはのがれられない。最も合理的なはずのホーム・アンド・アウェー方式のリーグ戦の場合でも、対戦順(たとえば、強豪と連戦になるとか、アウェーの試合が続くとか)の運・不運は避けられない。そこに、気候(たまたま重要な試合が大雨になった)とか、負傷者(重要な試合で、中心選手が負傷して使えなかった)とかいった、外部的な運・不運の要素はいくらでも絡んでくる。ホーム・アンド・アウェーのリーグ戦であったとしても、大きな国のリーグ戦だったら地理的に辺境の地にあるクラブは、遠征試合の移動距離が長くなってしまうため、首都のクラブに比べて不利になってしまうのは避けられない。
いや、十分に公平に配慮した上で、それでも運・不運の要素が残っているからこそ、勝負事は面白いのだ。もし、完全に公平なルールがあったとして、まったく運・不運の要素がいっさい排除されてしまって、試合はいつも実力通りの結果に終わるとしたら、大会は強い者が常に勝つことに決まってしまうではないか。それでは、面白くない。いや、そもそも試合をする必要さえなくなってしまう。そうではなくて、弱い者が、常勝の王者をなんとかして倒してやろうとして知力と体力の限界に挑み、一方、強者は弱者の挑戦を跳ね返し、勝つ可能性を一パーセントでも上げようと努力する。その両者の努力の過程にこそ、勝負事としてのスポーツ競技の神髄がある。そういう、強者と弱者の努力の積み重ねの上に、最後に運・不運というスパイスのようなものが加味されて、勝負の面白さが味わえるのだ。
そして、サッカーという競技は、1点、2点という少ない得点を争う競技であるから、たとえばバスケットボールやラグビーのように得点の多い、つまりボール支配率がそのままスコアに反映されるようなボールゲームに比べて、番狂わせの可能性はずっと大きい。圧倒的に攻めて攻めて、攻めまくったチームがどうしても1点を取れず、たった一回のカウンター攻撃でやられて敗れてしまう。そんな試合も、サッカーの魅力の一つなのだ。
あくまで公平を期そうとすると、規則があまりにも複雑になりすぎてしまうという問題点も生じてくる。公平さに眼をつぶってでも、ルールというものには、ある種の単純さ、分かりやすさが必要になることもあるのだ。ノックアウト式の勝ち抜き戦(どう考えても、運・不運の要素が大きい)の方が、勝点とか得失点差といった計算など必要でなく、勝つか負けるかという単純な勝負であるだけ、リーグ戦よりも興奮を感じるというのも、人間の自然な感情なのかもしれない。
つきまとう「地元有利な組分け」の疑惑
もっとも、勝点をめぐる駆け引きや勝負の綾の数々も、言ってみれば、それがこの本のメインテーマなのだから、それはそれで面白いものだ。どちらの方式がより面白いと感じるかは、国民性によっても違うようで、たとえばイングランドでは、リーグ戦と同じくらい、いやそれ以上にノックアウト式トーナメントで行われるFAカップに人気があるが、ヨーロッパ大陸諸国、とくにラテン系諸国では、リーグ戦に比べてカップ戦はあまり重要視されていない。
一九九六年のヨーロッパ選手権の予選から、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)は、極端に複雑な順位決定方式を導入した。単純化して説明すると、順位決定のために勝点や得失点差を計算する際に、従来のように全試合を対象に計算すると、ただ単にリヒテンシュタインだとか、サンマリノ、フェロー諸島といった弱小チームから大量点を奪ったチームが有利になってしまう。そこで、それを防ぐために、勝点が同じになった時には、従来のように全試合の得失点差を計算して順位を決めるのではなく、当該チームの対戦で決定することとし、さらに各グループの二位チームの中から決勝大会あるいはプレーオフに進出するチームを決めるために勝点や得失点差の計算をする時には、最下位チームとの対戦成績を除外して計算をするというやり方だ。
たしかに、より公平な、合理的な方法ではある。だが、大きな欠陥が二つある。一つは、四位と五位を決めるような、本来ならどうでもいいような試合の結果が、上位の順位を左右することになりかねないという矛盾だ。つまり、どのチームが四位になるかによって、上位チームの順位決定のための得失点差の計算の対象になる試合が変わってくることになるから、そういういわば消化試合のようなゲームが、他の国の運命を決する重要な意味を持つことになってしまうのだ。消化試合になったら、どちらかのチームが勝負を捨てて若手中心のチームを使うことだってあるだろう。そうだとしたら、本当にこの方式は公平な、合理的な方法と言えるのかどうか?
もう一つの問題点は、完全に公平なルールというものは、計算があまりにも複雑になりすぎて、分かりにくくなってしまうということだ。オーストラリアの国会議員選挙では、「プリファレンス(優先投票)制」と呼ばれる独特の投票方法が採用されている。有権者は、一人の候補だけを選んで投票するのではなく、すべての候補者に順位を付けるという方法だ。たしかに、この方法は死票が出るのを防ぎ、民意を代表させるために、非常に公平で合理的な方法なのだが、集計があまりに複雑すぎて、有権者にとっては投票用紙に間違いなく書き込むだけでも大変だし、最終的に選挙の結果が確定するまでに一週間もかかってしまうという大きな問題点がある。いくら公平でも、ちょっと複雑すぎるので、このオーストラリア式の選挙制度を採用する国は他にはないのだ。
ワールドカップの前年の秋に予選大会が終了すると、本大会の半年ほど前、大会前年の十二月に一次リーグの組分け抽選会が行われる。この模様は世界中にテレビ中継されて、各国のチーム関係者やファンは、自分の国の運・不運に一喜一憂するのである。
一九九八年のワールドカップ開幕直前にパリで開かれたFIFA総会で、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)会長のレナート・ヨハンソンを破って、ゼップ・ブラッター前事務局長がFIFA会長に選出されたが、それまでは、ワールドカップ(他のFIFA主催大会もそうだが)の抽選会の司会といえばブラッターに決まっていた。堪能だといわれる語学を駆使して(それほど流暢ではないが)、分かりやすい(つまり、大して面白くもない)ジョークを交えながら、ボールから紙片を取り出して、「ジャポン!」とかやっていたのが懐かしい。現在の事務局長でブラッターと同じスイス人のゼン・ルフィネンは、ちょっとまじめ過ぎて面白さに欠ける。やはり、抽選会はブラッターのはまり役だったようである。
もっとも、この組分け「抽選」は完全にオープンな抽選でなく、まず事前に過去の実績を勘案してシード国を決め、以下チーム力の順に、第二シード、第三シード、第四シードと、参加国を実力的に四つの段階のグループに分けて行われる。実際の抽選会では、国名が記入された紙片の入った小さなプラスチックのボールが、それぞれのシード別に、四つのガラスのボウルの中に入れられ、ゲストが出てきて、そのボウルの中から国名の入ったプラスチックボールを一つずつ選ぶことで、一次リーグの組分けを決めていく。その結果、各グループには、第一シードから第四シードまで、四つのシードグループから一カ国ずつ入った、すなわちチームの力に偏りのない四チームずつの組が出来上がり、一九九四年大会までなら六組、フランス大会からは八組のグループに分かれるのだ。二〇〇二年大会の組分けもこうして行われる。
ただし、その抽選を行う際に、一次リーグの間は南米同士とかアジア同士が顔を合わせないように、つまりヨーロッパ大陸以外の大陸からのチームが、同一の組に入らないように考慮されるから、抽選の進行は、かなり複雑になってしまう。それで、FIFAが抽選を操作しているのではないか(つまり、あの抽選はインチキではないか)と、いつも疑いの眼を持たれることになるのだ。
たとえば、開催国が有利な組に入るように抽選が行われるのではないかという疑問は、いつの大会でも根強い。地元チームが早々と負けてしまったら、観客動員に響き、興行的にもマイナスになるから、FIFAとしても地元有利な組分けを作ろうとするのではないかというのである。それは、もっともな疑問である。
イタリア大会の抽選の時、ディエゴ・マラドーナが、誰もが感じてはいたのに口をつぐんでいた、こういう疑念を公言してしまって、|顰蹙《ひんしゆく》を買った。
一九九〇年大会の開催国イタリアは、オーストリア、アメリカ合衆国、チェコスロバキアと一緒にA組に入ったが、これは明らかに「楽な」組み合わせだとマラドーナは言ったのだ。たしかに、これは易しいグループだ。ヨーロッパのチーム三カ国が一緒というのは、一見厳しそうにも見えるが、アルゼンチンとソ連が入ったB組、西ドイツとユーゴスラビア、コロンビアのD組、ベルギーにスペイン、ウルグアイのE組、あるいはイングランド、オランダ、アイルランドが入ったF組に比べて、イタリアのA組が楽なグループであるという印象は避け難かった。しかも、イタリアのグループに入った三カ国は、イタリアが一九三四年に、やはり自国で開催した第二回大会で優勝した時の対戦相手と奇しくも同じだったのだ。第二回大会の時、名将ヴィットリオ・ポッツォ率いるイタリア代表は一回戦でアメリカと当たって7−1でこれを破り、二回戦はスペインと1−1で引き分け、再試合で1−0で勝ち、準決勝ではオーストリアに1−0、そして決勝ではチェコスロバキアに2−1で勝って、独裁者ベニト・ムッソリーニの目の前で、その至上命令であった優勝を飾ったのだ。一九九〇年の組分け抽選の結果を知った時、イタリア人はそのことを思い出して、そこに幸運を見出し、また他国人はそのことによって、「やっぱり、開催国は有利なのか」と疑惑を強めたのだ。
だが、一九九〇年のイタリアはたしかについていたし、また一九八六年のメキシコも、パラグアイ、ベルギー、イラクという組に入ったから、まあ楽な方だったけれど、一九七八年大会のアルゼンチンのように地元チームが非常に厳しい組に入れられてしまったこともある。この大会で、アルゼンチンはイタリア、ハンガリー、フランスというかなり強いヨーロッパ三カ国と一緒の組に入れられた。緒戦のハンガリー、第二戦のフランス相手には苦戦の末、辛くも二試合とも逆転勝利をおさめて二次リーグ進出を決めたものの、最後のイタリア戦には敗れて、グループ二位になってしまい、二次リーグはブエノスアイレスにあるメイン会場であるリバープレート・スタジアム(エスタディオ・モヌメンタル)で戦うことができず、パラナ河(ブエノスアイレスを流れるラプラタ河の上流部の名前)を遡ったアルゼンチン第二の都市ロサリオ市の小さなスタジアムで試合をせざるをえなかったのだ。FIFAが、なんらかの理由でアルゼンチンとイタリアの場合で扱いを変えたのならともかく(それも、ありえないことではないが)、一次リーグの組分けには作為はない。イタリアは単に運がよかっただけなのだと信じてもよいのではないだろうか。
これまでのワールドカップを振り返ってみると、大会二日目か三日目に緒戦を迎える組に入っていたチームが優勝することが多い。一九九〇年の西ドイツはD組だったが緒戦は大会三日目、一九九四年大会のブラジルはB組で、B組の最初の試合はやはり三日目(ブラジル自身の緒戦は大会四日目だったが)。一九九八年のフランスはC組だが、これも大会三日目が緒戦という日程だった。つまり、たとえばG組とかH組に入って、大会開幕後何日も経ってから緒戦という日程だと、一次リーグの最終戦から決勝トーナメント一回戦、準々決勝あたりで日程がきつく、中二日で試合といったことが起きてしまうからである。
一九九八年フランス・ワールドカップで日本と同じH組に入っていたアルゼンチンは、一次リーグの最終日にクロアチアと対戦(さいわい、この時は双方とも二勝した後で消化試合だったのだが、アルゼンチンのパサレラ監督はそれほどメンバーを落とさずに戦った)、決勝トーナメントに入ると、中三日でイングランドと対戦した。イングランドと延長戦を戦ったアルゼンチンは、再び中三日の準々決勝でオランダと対戦し、ここで敗れてしまう(ここで勝っていたら、中二日でブラジルとの準決勝を迎えることになっていた)。大会の早めに緒戦があるグループに入っていた国の方が、決勝トーナメントに入ってからの日程が多少とも楽になるのだ。
したがって、開催国は有利な大会前半組に入れられるのがこれまでの慣例だった。開催国が優勝を争えば、大会は大いに盛り上がるからである。ところが、二〇〇二年大会の日程を見ると、開催国である韓国と日本は、それぞれ一次リーグ最終日に試合があるD組とH組に入ることになっている。FIFAは、韓国も日本も、どちらも決勝トーナメントの上位には進んでこないと踏んだらしい。
初出場では勝てないワールドカップ
ただし、作為はなかったとしても、運・不運はもちろん残る。
優勝を狙うチームは、一次リーグの間の三試合では、まだ本調子にもっていってはならない。この段階では、ケガなどしないようにしながら、無理をせずに、しかも確実に勝点を稼いでいかなくてはならないのだ。また、一次リーグの間は、他の強豪チームの偵察もあるから、戦術的にすべてをさらけ出すことも望ましくない。だが、あまりに力をセーブしすぎてしまって、もし下位チームに取りこぼしたりしたら、「一次リーグ敗退」という屈辱が待ち受けている。しかも、厄介なことに、優勝など狙うことのできないアウトサイダーは気楽なもので、ズバリ開幕に照準を合わせて、強豪を食ってやろうと、虎視眈々と狙っているのだ。彼らには、もし敗れたとしても、失うものは何もない。そして、弱小国は、決勝トーナメントのことなど、まったく心配しなくてもいいのである。
うぶなチャレンジャーが一次リーグですばらしい試合をして、一躍、優勝候補としてもてはやされる例も多い。かつてのソ連なども、いつもそうだった。あるいは、一九八六年メキシコ大会に出場したデンマークがそうだった。ドイツ人のゼップ・ピオンテク監督率いるデンマークは、その二年前に開かれたヨーロッパ選手権で大躍進し、3−5−2という斬新なフォーメーションを駆使して三位に入り、メキシコ・ワールドカップでは地域予選の段階から注目のチームの一つであった。だが、デンマークのワールドカップ本大会進出は、じつはこのメキシコ大会が初めてだったのだ。
そのデンマークは、一次リーグE組で、西ドイツ、ウルグアイ、スコットランドと戦うことになった。アジア、アフリカなどの弱小国が入っておらず、しかもワールドカップ優勝経験のある西ドイツとウルグアイを含む、最大の激戦区だった。西ドイツは前回準優勝チームである。
だが、デンマークは、初陣となった緒戦のスコットランド戦で、前半こそ押され気味だったものの、後半に入ってプレベン・エルケア=ラールセンが決勝点を奪い、その後のスコットランドの追撃を振り切って、見事に1−0でワールドカップ・デビュー戦を飾った。さらに圧巻だったのが、現役の南米チャンピオン、ウルグアイを6−1と粉砕してしまった第二戦だ。デンマークから乗り込んできたサポーターのシャツで真っ赤に染まったネサワルコヨトルの小さなスタジアムで、ミカエル・ラウドロップからのパスを受けたエルケア=ラールセンが先制したのは、開始後わずか10分。その後、ウルグアイが退場で一人少なくなったこともあって、前半終了前にはソーレン・レアビーがハーフライン手前から独走し追加点。後半も攻撃の手を緩めず、最終的にはなんと6点を奪ってしまったのだ。デンマークからのサポーターたちはもちろん、白地に「Danish Press」という赤い文字を浮き上がらせた、そろいのシャツを着込んで取材に当たっていたデンマークの報道陣まで大歓声を上げ、歓喜に浸っていた。
だが、たとえそれがどんなにいい内容の試合であったとしても、ブラジルとかドイツ、イタリア、アルゼンチンといった優勝常連国だったら、一次リーグで勝ったからと言って、こんなに騒ぐことなど絶対にありえない。後から考えてみれば、この騒ぎ方を見ただけで、デンマークはあまりにもナイーヴすぎるということが分かったはずだった。
とにかく、この快勝で世界中がデンマークに注目し、優勝の呼び声も高まっていった。世界中の人々は、ヨハン・クライフに率いられたオランダが一九七四年に巻き起こしたような旋風を期待したのだ。実際、一次リーグ最終戦では、西ドイツにも2−0で快勝し、デンマークの力は本物かと思われた。
決勝トーナメント一回戦で、デンマークはスペインと対戦した。スペインは、世界のサッカー大国の一つだが、ワールドカップではパッとした成績を収めたことはないし、このメキシコ大会も不調と見られていた。だが、一次リーグを勝ち抜いたことで、本国から大西洋を越えてヌエバ・エスパーニャ(新スペイン=スペイン植民地だった時代のメキシコの名称)に駆けつけたサポーターたちだけでなく、メキシコ在住のスペイン人たちが、いっせいに赤いユニフォームを着用してケレタロのエスタディオ・コレヒドーラを埋め尽くした。
メキシコはスペインの元植民地で、フランコ総統の独裁時代には、スペインの自由主義者たちの最大の亡命先の一つだったぐらいで、もともと、スペイン人の人口は多い。そして、独裁者フランコ総統が死を迎え、スペインが民主化を始めると、メキシコは一種の「スペイン・ブーム」を迎えていた。スペイン人にとっては、独裁時代と違って、メキシコ社会の中で表に出やすい雰囲気が生まれていたのだ。そんなこともあってか、母国スペインが一次リーグを勝ち抜くと、スペイン人たちが、いっせいにケレタロ市に集まってきた。筆者がメキシコ滞在中泊まっていたホテル「ステラマリス」のマネージャー氏も、じつはスペイン人で、スペインの試合の日になると赤いシャツに着替えて、われわれホテルに滞在中の観戦客と一緒に、いそいそとスタジアムに出かけて行った。
ケレタロは、メキシコがスペインから独立した後、新しいメキシコ共和国の首都の候補になったこともある、植民地風の美しい高原都市である。メキシコシティのスラムの一つが正式の都市に昇格したばかりのネサワルコヨトルでスタンドを埋め尽くした「デンマークの赤」に代わって、ケレタロのスタンドは、デンマークに比べていくぶん深みのある、燃えるような「スペインの赤」に埋め尽くされていた。
そのせいでもないだろうが、デンマークは、この決勝トーナメント一回戦でなんと1−5と大敗を喫してしまい、あえなく帰国の途についたのである。デンマークは、スペイン戦で前半33分にイェスパー・オルセンがペナルティキックを決めて、1点をリードした。だが、一次リーグを快調に三勝で乗り切った後、トーナメント緒戦でも早々とリードしたことで、気の緩みが出た。その意味でも、デンマークはナイーヴだった。スタンドや記者席のデンマーク人たちも、楽観ムードに包まれた。しかし、前半終了2分前、イェスパー・オルセンの横パスを、スペインのストライカー、エミリオ・ブトラゲーニョがかっさらって、同点に追い付いた。イェスパー・オルセンは、自陣ゴール前で、しかも外から内に向かってパスをするという、とんでもないミスを犯したのだ。ブトラゲーニョは、この得点をきっかけにこの試合でペナルティキックを含めて、四ゴールをたたき込み、一試合最多個人得点のワールドカップ新記録を樹立する。
じつは、バックの間でのゆっくりしたパス交換はデンマークの特徴の一つでもあった。パス交換をしながら時間を作り、その間に前線にスペースを作り、そのスペースを縦パスやドリブルで突くというのが、デンマークの狙いの一つだったのだ。当時最新のシステムであった3−5−2の、中盤での厚い守備網を突破するための方法だった。後ろでボールを回し、機を見て縦パスもしくは縦のスピードドリブルで突破する。それが、見事に的中したのがウルグアイ戦だったが、こういう後方での横パスは、相手チームにとっては、逆に狙いどころでもある。スペインとしては、それを十分に偵察して、その横パスを予想して、カットすることを狙っていたのだろう。後から考えれば、たとえば大量リードしたウルグアイ戦、あるいはすでに一次リーグ勝ち抜きを決めた後の西ドイツ戦などで、デンマークは、何も自分たちの戦術を、全部さらけ出す必要はなかったはずだ。持っているカードを隠すこと、これも、一次リーグの戦い方の原則だ。
一次リーグの間から全力でしかけたこと、勝ちが決まってからもカードを隠さなかったこと、そして、リードしたことで浮かれてしまったこと。いずれにしても、デンマークは、ワールドカップで優勝を狙うためには、あまりにもナイーヴすぎるチームだったと言えるだろう。一次リーグで勝っただけで、ファンだけならともかく、報道陣まで舞い上がってしまっているようでは、デンマークがワールドカップで上位に進出できるはずはなかった。
デンマークは、ヨーロッパの強豪の間で揉まれた国だし、少なくとも前回のヨーロッパ選手権では、予選ではウェンブリーでイングランドを破り、本大会では優勝した地元フランスには敗れたものの、準決勝まで進出し、準決勝ではスペインに1−1で引き分け、PK戦で敗れて三位になったチームだ。また、たとえばイェスパー・オルセンはマンチェスター・ユナイテッド、エルケア=ラールセンはユベントスといったように、選手個々は、オランダ、ドイツ、イングランド、イタリアなど、ヨーロッパの有名なクラブに所属して、ヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)など重要な国際試合の経験を積んでもいた。だが、それでも、やはりワールドカップの戦い方を知らなすぎたのだ。ワールドカップ出場が近づいた時に、ファンだけでなく、報道陣も、選手も、監督さえも舞い上がってしまったカタールでの日本と同じだった。

第五章 イタリアのシニシズムと八百長の誘惑
ワールドカップ常連の国は、絶対にデンマークのようなヘマはしない。一次リーグの間は、どれだけ力をセーブして、戦術を隠しながら結果を出すか、そして決勝トーナメントの試合では、1点とってリードしたら、その後どのように慎重に試合を進めるべきか、それぞれの段階によって戦い方が自ずから違ってくるのだ。強豪国、とくに優勝経験の豊富なビッグ4は、優勝までの道程にどんな困難が待ち受けているか、それぞれの段階でどのようにして戦うべきなのか、そういったことを知り尽くしているのである。
優勝を狙う強豪は、一次リーグは慎重の上にも慎重に戦わざるをえない。
そうなると、三試合の戦いで、最も注意しなければならないのが緒戦ということになる。もし、万一緒戦を失うと後の二試合で一つも負けられず、しかも、必ず一つは勝たなくてはならなくなるから苦しいのだ。一つは勝たなくてはいけないということになると、攻めに出ざるをえず、そうなるとカウンターを狙われる危険が大きくなる。とにかく一次リーグでは、こういう危険な要素は最小限にしておきたいのだ。もし緒戦に負けさえしなければ、残り二試合は二引き分けでもいいし、一勝一分でもいいし、一勝一敗でも決勝トーナメント進出の可能性は高いから、余裕を持って戦える。それは、アウトサイダー以外に共通した思いのはずだ。そこで、もし一次リーグの緒戦で強豪同士、たとえばブラジルとユーゴスラビアが当たったりすれば、双方の思惑通り、引き分けになるのは当然なのである。それを見て、「意外」とか、「つまらない」というように感じたとすれば、それは観戦者として、まだあまりにもナイーヴであったということなのである。
そういえば、せっかく第一戦を引き分けでスタートしながら、第二戦で勝ちにこだわって攻めに出て、イランに敗れてしまった、アメリカ・ワールドカップ予戦での日本チームも、やはりあまりにもナイーヴすぎた。
一九九七年秋のフランス・ワールドカップ最終予選で、日本は緒戦でホームに迎えたウズベキスタンを6−3で撃破したのに続いて、第二戦は猛暑のアブダビでアラブ首長国連邦(UAE)と0−0で引き分けた。「ホームで勝って、アウェーで引き分ける」のがリーグ戦(とくに参加チームが少ない場合)の鉄則である。予選の戦いは始まったばかり。そして、気温が四〇度近く、湿度が極端に高いという条件を考えれば、そして第一戦で大勝していたことを考えれば、0−0の引き分けは完璧に近い試合だったと思ったのだが、日本では引き分けに不満の声が上がっていた。やはり、「ドーハ」から四年経っても、日本の観客はまだまだナイーヴだったのだ。
こういう、計算をしながら、手抜きしながら戦うのが巧いのは、なんといってもイタリアである。イタリア独特のシニカルな現実主義(レアリスモ)なのだろう。
たとえば、一九七〇年のメキシコ大会以来、イタリアが決勝に進出した大会では、いずれも一次リーグは薄氷を踏むような戦い(のように見える)の末に、辛うじて突破したものだった。
一九七〇年のメキシコ大会では、イタリアは一次リーグで、ウルグアイ、スウェーデン、イスラエルと対戦した。ウルグアイは、過去二回ワールドカップに優勝したことのある強豪だし、スウェーデンも一九五八年の地元での大会では準優勝を経験した難敵である。イタリアは、緒戦のスウェーデン戦で、開始からまず攻勢をかけた。そして、ショートコーナーから、アンジェロ・ドメンギーニがシュートしたボールが、スウェーデンのキーパー、ロニー・ヘルストレームの腋の下を抜けて、ゴールに転がり込み、幸運にも1−0でリードすると、後は「カテナッチョ」で知られるイタリアの強力な守備が、スウェーデンの反撃を封じ込んだ。「カテナッチョ」というのは、一九五〇年代のイタリアで、名監督エレニオ・エレラが発明した戦術で、とにかく守備の網を敷いて、カウンターで1点を取って逃げきろうという作戦だった。拙著『サッカーの世紀』で詳しく述べたように、守備を固めたディフェンスに、フォワードが単騎突撃する中世的な戦い方がイタリア人に受けたのだ。当時、イタリアの国際試合や国内リーグでは、0−0とか1−0といったスコアがほとんどだった。
メキシコ大会は、高地での大会として問題になったが、とくにイタリアのグループの試合が行われたトルーカは海抜二六五一メートルもあり、メキシコの各会場の中でも最高所にあった。そこで、第一戦に勝ったイタリアは、あとの二試合はできるだけ消耗を避け、守りに徹しようとした。第二戦の相手は、強豪ウルグアイだった。ウルグアイも守備力では定評のあるチームである。ウルグアイも緒戦でイスラエルに2−0で勝っていたので、やはり当然イタリア戦を引き分け狙いできた。そして、両チームの思惑通り、試合は無得点で引き分けとなり、ともに勝点「3」を確保して、一次リーグ突破をほぼ確実なものにした。イタリアは最終戦で格下のイスラエルと対戦する。負けさえしなければ決勝トーナメント進出が決まる。もちろん、ここでも格下の相手だからといって、イタリアは不用意に攻め込んだりはしない。イスラエル相手に、きちんと守りを固め、無得点引き分けに持ち込むことに成功し、ウルグアイがスウェーデンに敗れたため、一次リーグ・トップで準々決勝に進んだのである。一次リーグでのイタリアの成績は、なんと三試合合計で一勝二分〇敗、得点が1、失点は0であった。
ところが、決勝トーナメントに入って、イタリアはそれまでの試合ぶりが嘘だったかのように攻撃力を爆発させる。まず、準々決勝で地元メキシコと対戦し、これを4−1で一蹴。準決勝では西ドイツと壮絶な延長戦を演じた末、4−3という大接戦で勝利する。そして、ペレのブラジルと対戦した決勝では、準決勝の疲れもあって(と、イタリア人は今でも悔しそうに言う)1−4で完敗した。準々決勝以降の三試合では得点9、失点8。一次リーグの時とは、まったく違うチームのような成績だ。ロベルト・ボニンセーニャ、ルイジ・リーバという強力なツートップに、アレッサンドロ・マッツォーラやジャンニ・リベラの中盤という豪華なスター軍団だ。攻撃が下手なわけがなかった。
一九七〇年の次に、イタリアが決勝まで駒を進めたのは、一九八二年のスペイン大会だったが、この大会の一次リーグでイタリアと対戦したのは、絶頂期のポーランド、斜陽のペルー、躍進のカメルーンだった。そして、詳しい経過は省略するが、イタリアはこの三試合をすべて引き分け、得点2、失点2で、得失点差でもカメルーンと並んだ。だが、カメルーンは得点、失点とも1点ずつで、総得点の多いイタリアがグループ二位、カメルーンが三位となって、イタリアは辛うじて二次リーグに進んだのである。そして、スペイン大会でも、一九七〇年大会と同じように、二次リーグでイタリアは大爆発した。イタリアは、二次リーグで、アルゼンチン、ブラジルと一緒というとんでもない組に入ったが、この南米の強豪二カ国と点の取り合いを演じ、アルゼンチンを2−1、ブラジルを3−2と連破し、準決勝はポーランドを2−0、決勝で西ドイツを3−1と破って、四十四年ぶりに優勝する。
やはりイタリアが決勝進出を果たした一九九四年のアメリカ大会も、一次リーグは薄氷ものだった。第一戦でアイルランドに敗れ、続いてノルウェーに1−0と辛勝(しかも、この試合では、キーパーのジャンルカ・パリューカが退場。キャプテンのフランコ・バレージが負傷というおまけつき)、最後にメキシコと引き分け、結局全チームが一勝一分一敗、得失点差0で並んだ末に、総得点数でイタリアは三位となって一次リーグを通過したのだ。もっともこの大会では、計算ずくでこういう結果になったというよりも、どうも本当に危なかったようなのだが、とにかくイタリアは一次リーグでは、死んだふりをしている時の方が強い。
たしかに、|老獪《ろうかい》なイタリアは、一次リーグの間は力をセーブして勝ち抜き、決勝トーナメント以降に爆発させるパターンで、決勝進出を果たすのがうまい。だが、もちろん、こういう戦い方では、弱小チームに寝首をかかれる危険も大きい。大番狂わせ(負け)も、イタリアの得意とするところだ。
たとえば、一九六六年イングランド大会では、イタリアはなんと北朝鮮に敗れて、一次リーグで敗退してしまう。
一九七四年大会では、ヨーロッパ予選を無敗、無失点のまま勝ち抜いて、本大会では「イタリアを破るチームはどこか?」ということよりも、「イタリア相手に得点をあげるチームはどこか?」の方に興味が集まるほどだった。ところが、イタリアは弱小ハイチとの緒戦で、ハイチのエマヌエル・サンソンに後半開始早々先制ゴールを奪われてしまう。もっとも、ハイチには逆転勝ちし、アルゼンチンとは引き分けた結果、最終戦で引き分け以上なら、二次リーグ進出が決まるまでには漕ぎつけた。考えてみれば、一勝二分で二次リーグ進出なんて、いかにもイタリアらしい勝ち方ではないか! まあ、ちょっとした手違いはあったものの、イタリアとしては予定通りだったのかもしれない。しかも、最終戦の相手は、アルゼンチン、ハイチに二連勝して、もうすでに二次リーグ進出を決めているポーランドだったから、イタリア式のレアリスモの思考方法から言えば、ポーランドも引き分け狙いでくるはずだ。そこで、ポーランド戦で、イタリアはベテランのジャンニ・リベラとルイジ・リーバの二人を温存した。もしも、ポーランドがイタリアやウルグアイのように計算ずくで戦うチームだったら、イタリアの計算通り、無得点引き分けで仲良く一次リーグ通過となったのだろうが、三十六年ぶりの本大会進出となったポーランドは正直者だった。ポーランドは、イタリアの計算を裏切って、ベストメンバーをぶつけてきて、イタリアも破ってしまったのだ。これで、前回準優勝で、予選無敗の「本命」イタリアは、あえなく一次リーグ敗退となってしまったのだ。この大会では、イタリアは西ドイツ南部でイタリアからも近いミュンヒェンとシュトゥットガルトで戦い、多くのティフォージ(イタリア・サポーター)が見守る中で敗退となり、イタリアにとっては、苦い思い出の大会となってしまった。だが、この大会だって、もし二次リーグに進めていたとしたら、イタリアはそこでメキシコ大会、スペイン大会の時のように爆発していたかもしれない。
一次リーグでの手抜きは、イタリアのお家芸なのだが、それでも、こういう危険があるのは確かなのだ。一次リーグの戦い方は、じつに難しい。
なお、さすがに一次リーグではいつも手抜きをするイタリアチームも、地元開催の大会では手抜きをするわけにはいかなかったようで、一九九〇年のイタリア大会では、一次リーグでオーストリア、アメリカ、チェコスロバキアに三連勝して、イタリアらしくない勝ち方で決勝トーナメントに進んだ。まさか、これがいけなかったわけでもなかろうが、イタリアは結局準決勝でアルゼンチンに引き分けに持ち込まれ、PK戦の末、敗れてしまう。
一次リーグの試合が面白くないワケ
イタリアが優勝を狙うために力をセーブして、一次リーグは結果だけを求めて、要するに守備を固めて引き分ければいいという試合をしてきたのに対して、自分たちの力で一次リーグを突破するには引き分けを狙うしかないと考えて、ただただ引き分けに持ち込むことで、なんとワールドカップのベスト8にまで残ってしまったのが、一九九〇年イタリア大会に初出場したアイルランド共和国(エール)だった。
アイルランドチームは、イングランドやスコットランドのリーグで活躍している選手をかき集めたチームだった。というよりも、イングランド生まれのイングランド育ちだが、両親や先祖の中にアイルランド人がいるので「アイルランド人」になる資格のあった選手をかき集めた、と言った方が正確だろう。イングランド代表にはなれそうもない、二流選手の寄せ集めでもある。だから、試合前にアイルランド国歌が吹奏された時に、あるアイルランド選手が、「おや、この歌はどっかで聞いたことがあるぞ」と言ったという話まである。
アイルランドは、かつてヨーロッパを支配していたケルト民族の血をひき、古くからキリスト教に改宗した、熱心なカトリック教国だが、長い間、イングランドの植民地支配を受けていた国だ。だから、貧しいアイルランド人の多くは、飢饉が起きるたびに、農民としてアメリカ大陸に渡ったり、単純労働者としてアイリッシュ海を越えて数多くイングランドに渡ってきた。サッカーが労働者階級のスポーツとして根付いていくうちに、多くのアイルランド系労働者がプロ選手として活躍するようになっていたのだ。監督は有名なボビー・チャールトンの実兄のジャッキー・チャールトン(彼は、先祖にアイルランド人がいなかったから、あくまでもイングランド人ということになる)。イングランドが一九六六年大会で優勝した時のストッパーである。チャールトン監督率いるアイルランドは、すでにイタリア大会の二年前に西ドイツで行われたヨーロッパ選手権に出場し、いきなり緒戦で憎き(つまり、元の宗主国)イングランドを1−0で破り、ソ連とも引き分け、強豪オランダ相手に互角の戦いを繰り広げた末に終了8分前になって決勝点を奪われて、惜しくも一次リーグ敗退となった。オランダは、結局この後西ドイツ、ソ連を破って、この年のヨーロッパ・チャンピオンの座に就くのだが、もしオランダのヴィレム・キーフトがアイルランド戦で決勝ゴールを決めることが出来なかったとしたら、オランダは一次リーグで失格となり、このヨーロッパ選手権で、チャールトン監督はアイルランドの英雄となっていたはずだ。
しかし、イングランドリーグの中では一流とも言えない選手たちで構成されているアイルランドチームの実力がそれほど高くないことは、チャールトン監督も選手たちもよく知っていた。イタリア・ワールドカップ予選も勝ち抜いて、一次リーグで、再びオランダ、イングランドと同じ組に入ったアイルランドは、そこで徹底的に守りを固める作戦をとった。それも、戦術がどうのこうのという守備ではなく、とにかく激しく当たって、来たボールを蹴り返すという、泥臭い守備だ。それでも、アイルランドの健闘は、結構人気を博した。アルゼンチンのような優勝経験のあるチームが守備一辺倒の作戦をとったら、非難の嵐を呼ぶものだが、アイルランドのような初心者には、観客の目も優しいようだ。おまけに、このチームに付いてまわっているサポーターがめちゃくちゃに陽気で、楽しく、明るいというので、よけいに人気が出たようだ。
嵐の中のイングランド戦を、イングランドのディフェンダー、スティーブ・マクマホンのミスに乗じて1−1の引き分けに持ち込むと、アイルランドは、エジプトと0−0、オランダと1−1の引き分けで、三戦三引き分け、得点2、失点2で一次リーグを終了した。オランダとまったく同じ成績だ。そこで、抽選を行って順位を決めた結果、アイルランドはこの組の二位として決勝トーナメントに進み、トーナメント一回戦でルーマニアと対戦したのである。ルーマニアも、決勝トーナメント進出は初めてという、初心者対決となったのだが、ここでも守備を固めたアイルランドが延長まで120分間粘り切って、無得点の引き分けに持ち込んだ。そして、PK戦ではルーマニアの五人目ダニエル・ティモフテのシュートをGKのパット・ボナーがセーブして、なんとアイルランドは四試合連続引き分け、四試合合計で2得点という成績でベスト8入りを果たし、準々決勝ではローマで地元イタリアと対戦することになったのである。ローマ進軍を果たしたカトリックの国アイルランドの選手たちは、ローマ法王の謁見を賜るというおまけ付きでイタリアと対したが、サルバトーレ・スキラッチの一発のシュートの前に沈んだ。
イタリアの例のように力を温存した計算ずくの試合とか、アイルランドのように、弱者が守りを固めて引き分けを狙うような試合などが横行しているのだから、一次リーグの試合が総じてつまらないのは当たり前だ。しかも、ワールドカップ本大会の参加国数が二十四カ国に増えた一九八二年大会以来、一次リーグの試合数は増えて、連日、まったく休みなしで試合が行われるようになった。
ワールドカップは、ずっと十六チーム参加で行われていたが、一九八二年大会から二十四チーム参加に規模を拡大した。十六チームの大会では、一次リーグは四組で、各組の上位二チームずつ八チームが決勝トーナメントまたは二次リーグに進む方式だったが、二十四チーム参加となると、一次リーグが四チームずつ六組となったため、一次リーグの計算は一段と複雑化してしまった。一九八二年大会の場合は、各組上位二チームずつの合計十二チームが二次リーグに進んだのだが、次の一九八六年大会からは、一次リーグの各組上位二チームずつに加えて、各組の三位の中から成績のよかった四チームを加えた合計十六チームが決勝トーナメントに進む方式に変更された。
ベスト16以降は、ノックアウト式のトーナメントになったために、スリリングな試合が多くなったが、しかし、逆に一次リーグは三位でも決勝トーナメントに進める可能性が大きいため、さらに守備的な試合が多くなってしまったのだ。考えてみれば、延々二週間もかけて、三十六試合も行うというのに、二十四チームのうち八チームを失格させるだけの無意味な試合、それが一次リーグだったのである。おまけに、一九七八年大会までのワールドカップでは、一次リーグの間にも試合のない日があり、結構観光などもできたのだが、今では一次リーグの間は大して面白くもない無意味な試合のために、飛行機、列車、バスを連日乗り次いでの移動を強いられる。本当は、自分の国のグループの試合を生で観戦して、他の組はテレビ観戦というのが正しい観戦方法なのかもしれないが、悲しいかな「自国の試合」がない日本人ジャーナリストなどは、ついつい飛行機、列車、バスを使って移動を続けながら、毎日毎日観戦を続けてしまうことになったし、自分の国が出た一九九八年大会でも、この癖は抜けなかった
それは、苦労が多く、実りのない観戦旅行となるのだ。だが、その後の決勝トーナメントでの、いろいろなドラマ、どんでん返しのための伏線が一次リーグの試合には仕込まれているのだ。だから、一次リーグの間、観戦をサボッていては、その後の決勝トーナメントでのドラマの鑑賞の際に十分楽しめなくなってしまう。やはり、退屈でも、疲れていても、一次リーグから付き合って精一杯観戦することが、ワールドカップを本当に楽しむ方法なのである。
こんなわけだから、一次リーグの間は地元チームの試合かよほどの好カードでないと、スタジアムは満員にはならないのが普通だった。たとえば、イタリアの人は、普段から毎週イタリアリーグ一部、いわゆる「セリエA」の、非常にレベルの高い試合を観ることができる。セリエAのトップクラス、ACミランとか、ユベントスともなると、ワールドカップに出てくる中堅国の代表チームよりも間違いなく強い。つまり、一次リーグの手抜きやら駆け引きがぎっしりつまった試合は、イタリアのサッカー通にとって面白いわけがない。だから、(入場券販売の能率の悪さのせいでもあるが)イタリア・ワールドカップの一次リーグは、空席だらけの試合が多かったのだ。ところが、一九九四年のアメリカ大会では、一次リーグの間から、ほとんどの試合が満員の盛況だった。合計観客数は、三五八万七五三八人。過去最高のイタリア大会に比べても、一〇〇万人も多かった。なにしろ、驚くべきことに、韓国対ボリビアなんていう試合まで満員になったのだ。「サッカーがあまり盛んではないアメリカで、なぜ?」と思うのだが、じつはアメリカ人がサッカーを知らないからこそ、どんな試合でも満員だったのだ。一級のサッカーを観たことがないから、一次リーグの試合がつまらないということも分からない、どのチームが強くて、どの試合が面白そうだということも知らないから、アメリカ人は、とりあえずワールドカップというビッグイベントを見に、どんな試合にでも詰め掛けてきたというわけなのだ。
フランス大会では満員の試合が多かった。
フランスのスタジアムが、イタリアに比べると小さかったこともあるだろうが、出場各国からの観客が多数詰め掛けたのが最大の原因だった。ワイドボディ機登場以来、航空運賃は格安化しており、金持ちではない一般サポーターにとってもワールドカップ・ツアーは手の届く範囲の贅沢になってきた。またフランスは、イタリアやスペインなどに比べれば、それほどサッカー熱が高い国ではない。そしてワールドカップの時には、それまではサッカーを毛嫌いし、サッカーを生で見たこともなかったような金持ちあるいはインテリ層のフランス人もスポンサー筋から入場券を手に入れて、生まれて初めてスタジアムにやってきたという例も多かった。こうした傾向は二〇〇二年以降も強まっていくだろうから、今後のワールドカップでは、イタリア大会の時のようにガラガラなスタンドを目にすることは少なくなるだろう。
二〇〇二年には日本でも、アメリカの時と同じように、一次リーグの試合が満員になるのだろうか? それとも、イタリアみたいに、「ワールドカップよりもJリーグの方が面白いじゃないか」と言われ、どうでもいいようなカードはガラガラになるのだろうか?
二大「八百長」試合とは
一九九四年アメリカ大会の本大会から、一次リーグの勝点は、勝ちが「3」、引き分けが「1」、負けが「0」と改正された。従来の、勝ちが「2」、引き分けが「1」の方式に比べて、試合をより攻撃的にするためである。つまり、従来の方式だと、三引き分けでも一勝一分一敗でも勝点は同じ「3」になるのに対して、新方式だと、三引き分けでは今まで通り「3」だが、一勝一分一敗の場合は勝点「4」になる。だから、引き分け狙いの勝負が減り、勝負をつけにいく、攻撃的な試合が多くなるというわけだ。たしかに効果はあったようだ。ただ、それでも、もし緒戦に勝ってしまえば、それで勝点「3」が稼げたわけだから、後の二試合は、当然引き分け狙いになる。それは従来と変わらない。一九九八年フランス大会からは参加国数が三十二に増えたため、各組の上位二チームだけがベスト16に残ることになった。つまり、三位では必ず失格となり、一次リーグの結果、全出場国の半分の十六チームは失格するために、一次リーグから激しい試合がかなり多くなった。
こういう複雑なリーグ戦ともなると、「八百長」疑惑をもたれる試合も当然ある。たとえば、一九七四年大会一次リーグ最終戦で、イタリアがポーランドに敗れて敗退してしまったのはすでに見た通りだが、もしこの時、すでに決勝トーナメント進出を決定していたポーランドが、メンバーを落とすなりして引き分けていれば、イタリアとポーランドが(イタリア式の考え方なら「無事に」)、二次リーグに進むことになったはずだ。逆の立場だったら、イタリアはたぶんメンバーを落とし、無理をしないで引き分けを狙っただろう。だが、ポーランドは正直者で、本気で試合をして、イタリアを破り、おかげで優勝候補の一角だったイタリアが一次リーグ敗退となってしまった。だが、もしポーランドが自分たちのために無気力試合を行っていたとしたならば、それは「八百長」と呼ぶべきなのだろうか?
この場合、ポーランドは、イタリアのために手を抜いたのではなく、力を温存し、自分たちに有利になるようにしただけなのだ。「八百長」という言葉の定義が問題になってくる。だが、その結果として、一次リーグ敗退となるチーム(この場合はアルゼンチン)から見れば、ポーランドがもし手抜きをしたとすれば、これは明らかな「八百長」ということになる。
実際に、このイタリア対ポーランドの試合には「八百長」の噂があった。ポーランドが1−0とリードしてハーフタイムになり、両チームの選手たちが控え室に戻る途中、イタリアのピエトロ・アナスタシが、ポーランドのキャプテン、カジミエジ・デイナに近づき、英語で「一万ドルで引き分けというのはどうだい?」と八百長を持ち掛けたというのだ。他のポーランド選手の中にも同じような働きかけを受けた選手がいるという。しかし、デイナは「何を、バカな」と取り合わず、結局ポーランド選手はイタリアが八百長を持ち掛けてきたことでかえって自信を深め、ポーランドが勝ったというのだ。だが、さらにじつはアルゼンチンも、ポーランドに対して、イタリアに勝ったら二万二〇〇〇ドル出すと提案していたという話もある。つまり、アルゼンチン側としては、イタリアが八百長工作をする可能性があるということを予測し、それを事前に防いでおこうとしたのだ。イタリアが敗れ去ったためもあって、FIFAはこの噂(新聞記事にもなった)について調査を行わず、事実は闇に包まれたままとなった。だが、普通、八百長というのは相手に負けてくれと持ち掛けるものだが(だから、イタリアの提案は完全な「八百長」だ)、たとえばアルゼンチンが持ち掛けたように、「勝ってくれ」という依頼は「八百長」と呼べるのだろうか……?
ワールドカップ史上最も有名な「八百長」は、一九八二年スペイン大会一次リーグ第二組の最終戦、西ドイツ対オーストリア戦だろう。
この大会、一次リーグ第二組の緒戦で、ヨーロッパ選手権のチャンピオンでもあった西ドイツはアフリカ代表のアルジェリアに1−2で完敗してしまう。ワールドカップでアフリカの代表が初めてヨーロッパのチームを破った歴史的な試合だった。一次リーグ第一組でも、カメルーンが三引き分け無敗の成績を残し、そして第二組でもアルジェリアがセンセーションを巻き起こした。このスペイン大会こそ、今をときめくアフリカサッカーの夜明けとなった大会だったのだ。
アルジェリアは、次のオーストリアには0−2で敗れるが、六月二十四日の最終戦でチリを3−2で破り、二勝一敗と勝ち越し、勝点「4」、得失点差「0」で一次リーグを終了した。西ドイツは、チリに4−1で大勝し、二試合を終えて、勝点「2」得失点差「+2」だから、最終戦に勝ちさえすれば、ゴール数に関係なく二次リーグ進出が決まる。一方、オーストリアも、二試合を終わって二勝。勝点はすでに「4」で、得失点差も「+3」だったから、最後の試合で大敗しない限り(2点差で失っても)、アルジェリアを上回ることができるのだ。この両チームが、アルジェリアの最終戦が終わった翌二十五日に対戦した。
西ドイツは、まず全力を上げて攻撃にかかった。勝つ以外に生き残る方法がないから当然だ。しかし、ピエール・リトバルスキーのクロスを、ホルスト・フルベッシュが頭で決めて1−0とすると、その後はまったく攻撃をしかけず、しかも負けているオーストリアチームも反撃を試みようとせず、ただ時間をつぶすばかりのプレーに終始。結果は、1−0で西ドイツが勝って、同じドイツ語を話す隣国同士の西ドイツとオーストリアが、仲良く、そろって二次リーグに進んだのだ。たとえ事前に謀議が行われていなかったとしても、選手全員が勝点、得失点差の計算をすれば、暗黙のうちに、両チームにとって最も望ましい結果は、すぐに分かる。結果は「八百長」である。この試合が八百長あるいは無気力試合であることは誰の目にも明らかだったが、FIFAからの処分はなく、アルジェリアは、二勝していながら一次リーグ敗退となって帰国した。この試合の結果、辛うじて二次リーグに進んだ西ドイツは、この大会で結局、準優勝に輝いた。
もう一つ、八百長の疑惑がある試合として有名なのが、一九七八年アルゼンチン大会の二次リーグで、地元アルゼンチンが決勝進出を決めたペルーとの試合である。
二次リーグのB組は、アルゼンチン、ブラジル、ペルーの南米三カ国にポーランドを含めて行われ、二日目に行われたアルゼンチン対ブラジルが無得点引き分けに終わったため、両チームが一勝一分で並び、得失点差はブラジルが「+3」アルゼンチンが「+2」で、二次リーグの最終日を迎えた。
最終日六月二十一日の午後、まずアンデス山脈の麓のメンドーサでブラジル対ポーランドが行われ、ブラジルが3−1で勝って二次リーグの日程を終えた。前半、ネリーニョのゴールでブラジルが先制したものの、ハーフタイムの直前にポーランドのグジェゴーシュ・ラトーが同点ゴールを決める。すると首都のブエノスアイレスでも、自動車のクラクション、地下鉄の警笛、船の汽笛がいっせいに吹き鳴らされた。全アルゼンチン人がポーランドの応援に回っていたのだ。だが、ブラジルは後半、きちっと2点を追加して、得失点差を「+5」としてしまった。
この結果、その夜キックオフされるペルー戦で、アルゼンチンは4点以上とって勝たないと、ブラジルを上回ることができないことになった。3−0では、得失点差で並ぶものの、総得点でブラジルが上回るのだ。4−1なら同点となるが、一次リーグの成績のいいアルゼンチンが決勝進出となる。4点差以上なら、文句なしにアルゼンチンが上である。
パラナ河畔のアルゼンチン第二の都市、ロサリオのスタジアムは、サッカー専用競技場だから、フィールドからスタンドまでの距離が短く、しかも四方を二階建てのスタンドが取り巻いているので、熱狂的なアルゼンチンの応援の歌声がフィールド上に響き渡り、選手の登場に合わせて観客が投げるアルゼンチン名物の紙吹雪がスタンドを舞い、フィールドを覆い尽くす。軍事政権の首脳部も全員そろってロサリオに駆けつけた。この大会ではもともと攻撃的な試合をしていたセザール・ルイス・メノッティ監督のアルゼンチンが、4点という目標を追って全面攻撃に出たのは言うまでもない。しかし、20分を過ぎても、得点が生まれず、満員のスタジアムに焦りが生まれたその時、ダニエル・パサレラのパスを受けたマリオ・ケンペスが決め、アルゼンチンが先制。前半終了前には、コーナーキックのボールをディフェンダーのアルベルト・タランティーニがヘッドで決めて2−0。後半、さらに4点が入って、アルゼンチンが決勝進出を決定したのだ。アルゼンチンにとっては、一九三〇年の第一回ワールドカップ以来、約半世紀ぶりとなる決勝進出だ。
だが、このアルゼンチンの勝利には、八百長の噂がつきまとった。アルゼンチンの軍事政権が、ペルーに対して八百長を依頼したというのだ。だが、西ドイツ対オーストリアのような、意図的なものと違って、大量点の必要なアルゼンチンが猛攻をかけて、期待通り大量点を奪ったこの試合で八百長を証明するのは、なかなか難しい。
たしかに、両チームの力関係から言って、ペルー相手に6点差というのは難しいことだが、けっして不可能な数字ではない。
この試合で八百長がささやかれた背景には、この大会を開いたアルゼンチンの軍事政権への批判がある。また、この試合以外でもアルゼンチンに有利な判定が多かったこと、さらにペルーのキーパーのラモン・キローガが、もちろん当時はペルー国籍を持っていたものの、元々はアルゼンチン生まれの選手だったことも疑惑を深めた。ブラジル人は、もちろん今でもこの試合は八百長だと思っている。当時ペルーは、アルゼンチンと同じく、やはり軍事政権の下にあり、原油価格の引き上げなどで、経済的困難に直面していたのだが、アルゼンチンがペルーに大勝した数日後、アルゼンチンから援助の小麦を満載した船が何隻もペルーに向けて出港したという。
一九七八年のアルゼンチンがらみの疑惑も、その四年後の西ドイツがらみの疑惑も、原因はミニ・リーグの最終戦が、他のチームの試合がすべて終わった後に行われたところにある。こうなると、最終戦を戦うチームは、完全に勝点や得失点差の計算ができてから試合を行うことになる。この反省から、次の一九八六年メキシコ大会以後、二次リーグの方式は廃止され、ベスト16以降は、ノックアウト式トーナメントということになり、また一次リーグの最終戦も同じ日の同じ時間に、二カ所同時にキックオフされることになった。もし他チームの最終結果が分からなければ、計算が難しくなり、八百長を組むことが困難になるからだ。たとえば、オーストリアが無気力試合をして、計算通りに西ドイツが1−0で勝ったとしても、もしアルジェリアがチリに大量点を奪って勝ったりすれば、オーストリアが失格してしまう可能性もあるから、「八百長」または「無気力」試合は簡単にはできなくなるのだ。

第六章 FIFAの世界戦略 目標は北米、そしてアジア
ワールドカップ開催国は、大会の六年前にFIFAの理事会での投票で決まることになっている。たとえば、二〇〇二年大会の日韓共同開催は一九九六年五月三十一日に決まり、一九九八年大会のフランス開催も、六年前の一九九二年六月に決まった。この時は、フランスの他にスイスとモロッコが立候補していた。スイスのような小さな国で、三十二カ国出場の大規模なワールドカップができるのだろうかと、疑問にも思うが、決定直前にヨーロッパ選手権が行われていたスウェーデンでも、スイスはプレス関係者向けのプレゼンテーションやボート・トリップなどを開いて、積極的にPR活動を行っていたから、スイスも本気だったのだろう。ところが、FIFA理事会での投票直前になって、スイスが突然立候補を辞退し、フランスとモロッコの決戦となり、結局フランス開催が決まったのだ。だが、大会直前まで活発に運動していたスイスが突然辞退し、ヨーロッパ票がフランス支持に一本化されたこと、そして、投票といっても、ジョアン・アヴェランジェFIFA会長の意向が強く反映された形でフランスに決まったこともあって、モロッコ支持のアフリカ・サッカー連盟(CAF)が猛反発し、CAFの機関誌がアヴェランジェFIFA会長批判の特集をするなど、「FIFAの投票は本当に民主的に行われたのか」との疑問が沸き起こった。
もっとも、この時のモロッコの計画は、施設の整備面一つをとっても、スタジアムのほとんどがまだ計画段階のもので、客観的に考えてもフランスに決定したのは無理もないと言える。だが、この時のエピソードに示されているように、ワールドカップ開催地決定の経緯にいろいろと不明朗性があるのは否めない事実だ。
開催国決定が六年前に行われるようになったのは最近のことで、かつては、ずいぶんと先の大会まで決まっていた。一九六四年のオリンピックに先立って東京で開かれたFIFA総会では、一九七〇年メキシコ、一九七四年西ドイツ大会の開催が決まり、さらに一九六六年のイングランドでのワールドカップの前に開かれたFIFA総会では、一九七八年アルゼンチン、一九八二年スペイン、そして一九八六年コロンビアでの開催が、それぞれ決まった。
しかし、ワールドカップ開催は政治や経済とも密接に絡んでいるから、将来の開催国をあまり早く決めてしまうと、その後、FIFAにはコントロール不可能な政治、経済情勢の変化が生じることも多く、そのため、六年前に決定という現在の方式がとられるようになったのだ。スポーツと政治は別だと言っても、これだけ大規模な大会であるワールドカップの場合、政治や経済との分離はほとんど不可能なことだ。
たとえば一九七八年アルゼンチン大会では、アルゼンチンの軍事政権批判という立場からヨーロッパでボイコットの動きが起こったが、こんなことはアルゼンチンでの開催が決まった一九六〇年代には、まったく予測不可能なことだった。一九六六年当時にはスペインに亡命していたファン・ペロン元大統領が、一九七三年に帰国して大統領に就任。そして、ペロンの死去が発表されたのは、一九七四年七月一日、つまりアルゼンチン大会の四年前、西ドイツで開かれていたワールドカップがちょうど二次リーグにさしかかっていた時のことだった。二次リーグ最終戦が行われた七月三日には、各会場でペロン大統領のために黙祷が捧げられ、アルゼンチンチームは喪章を付けて東ドイツと戦った。その後、未亡人のイザベル・ペロンが大統領に就任。アルゼンチンは左右のテロの応酬などで大混乱に陥り、さらに一九七六年には軍事クーデターが起こり、陸軍の将軍であるホルヘ・ラファエル・ビデラが大統領に就任して、左翼活動家に対して弾圧の国家テロを仕掛けることになるのだ。だが、一九六六年当時、十数年先までの政治情勢を予想できるはずもなかった。
一九七六年三月二十四日早朝のクーデターによって政権を掌握した直後の軍事評議会の会合で、海軍のエドゥアルド・マッセラ提督から、一九七八年に予定されているワールドカップは絶対に、予定通りアルゼンチンで開催すべきだという提案が出され、それが軍事政権としての基本方針となった。もし、大会を返上したり、あるいはボイコット運動に屈伏したら、アルゼンチンの国際的イメージを悪化させるというのがその理由だ。そのため、まだ白黒テレビしかなかったアルゼンチンにカラーテレビの中継システムを作るなど(大会中も、海外の視聴者はカラー放送を楽しめたが、アルゼンチン国内では白黒テレビしか見られなかった)、軍事政権は多額の予算をワールドカップ開催のために投入し、アルゼンチン・ワールドカップのためにかかった経費は四年後のスペイン大会の経費の五倍にものぼった。開催反対を主張した将軍が暗殺されたり、また、大会中の治安維持のため、都市ゲリラ「トゥマパロス」との裏取引がなされたとも噂された。同時に、軍事政権は反政府活動家に対する「汚い戦争」と呼ばれる弾圧政策を実行し、数万人の一般市民が連行され、拷問を受け、行方不明になったと言われているが、ワールドカップの開催もその口実の一つとして使われたのだ。この大会が、「血塗られたワールドカップ」と言われる所以である。
皮肉なことに、この軍事クーデターが起こった時、アルゼンチン代表チームの監督を務めていたのは左翼思想の持ち主と言われたセザール・ルイス・メノッティだった。クーデターが起こった時、メノッティ監督に率いられたアルゼンチン代表チームは、軍事政権が忌み嫌う共産主義者の首都モスクワに遠征中だった。メノッティ監督は、政治亡命の可能性も考えたというが、結局母国に戻り、軍事政権から代表チーム強化の全権を与えられた。軍事政権としては、大会自体の成功とともに、アルゼンチンの優勝が最重要課題だったのだ。ちょうど、第二回大会でムッソリーニの命令で優勝を義務付けられて戦ったイタリアチームのヴィットリオ・ポッツォ監督のような厳しいプレッシャーの中で、メノッティは仕事を続ける。青年監督だったメノッティの風貌は、たちまち老いていった。
それまでアルゼンチンのサッカーは、クラブのレベルでは、南米クラブ選手権「リベルタドーレス杯」の優勝回数でブラジル、ウルグアイを上回るなど、好成績を収めていたが、ワールドカップでは、隣国ウルグアイで開かれた第一回大会で準優勝して以来、パッとした成績は収めることができなかった。ブラジルなどは、大会の何カ月も前から代表の合宿を行うなど代表強化に力を入れていたのだが、アルゼンチンでは、クラブの発言力が強く、クラブは代表チームに選手を出すことも渋るような有り様だった。また、第一次世界大戦後には、ヨーロッパの食糧基地として、牛肉や小麦の輸出で潤っていたアルゼンチン経済も、ペロン政権による無理な工業化政策の失敗などで、経済的に停滞しており、プロサッカー選手は高額の移籍金と年俸を求めて次々とヨーロッパのクラブに流出していった。おかげで、代表チームに入って活躍した選手が、すぐにヨーロッパに引き抜かれ、代表の強化が不可能になってしまうことも多かった。
こういう状況を打破したのが、政治的立場では対立関係にあったメノッティ監督と軍事政権の奇妙な同盟だった。メノッティ監督は、それまでの守備的で、また汚いラフプレーが多いという汚名を着せられていたアルゼンチンのサッカーのイメージを一新するために、攻撃的でインテリジェンスに富んだ無名の選手を多数起用した。そして、それはアルゼンチンの国家イメージを少しでも良くしたい軍事政権の利害とも一致していた。また、従来は首都ブエノスアイレスが中心だったアルゼンチンサッカーの因習を破って、タジェーレス・コルドバなど、地方都市のチームからも、多くの選手が選抜され、選ばれた選手が海外に流出することは禁止された。代表を強化させることができたのは、軍事政権の強権がメノッティ監督およびアルゼンチン協会(AFA)の背後にあったからこそだった。軍事政権のある将軍は「代表選手を出すのを渋るようなクラブは、潰してやる」と語ったという。
アルゼンチン大会は、結局ボイコットも回避され、予定通りに開催され、テロ事件なども起こらず、しかもメノッティ監督のアルゼンチンが優勝し、二五〇〇万のアルゼンチン国民がこぞって祝福し、お祭り騒ぎになるという大成功を収めた。メノッティ監督のインテリジェンス溢れる攻撃的サッカーも、従来のアルゼンチンサッカーに関するダーティーなイメージを一掃するものだった。スーパースターがいなかったとか、アルゼンチンの試合に八百長の疑いがかけられるなどの問題はあったが、大会としては成功したと言っていいだろう。だが、その裏に数万人の命を奪った軍事政権の弾圧があったことなどは、ワールドカップの歴史にとって大きな汚点になったのも確かなことだ。
その四年後の一九八二年に開かれたスペイン大会は、独裁者フランシスコ・フランコ総統が死んで、ちょうどスペインの民主化が始まったところだったのは幸いだったが、これも、開催が決まった一九六六年の時点ではまったく予想もつかないことだったはずである。
一九八六年に大会が開かれることになっていたコロンビアの場合も、その後の同国の政治情勢、あるいは麻薬問題をめぐる政府とマフィアの暗闘もしくは癒着などがあって、ついにコロンビアは大会開催を返上したのだが、これもとても二十年前に予想できるものではなかった。しかも、ワールドカップの性格も、二十年の歳月の間に大きく変わっていた。ワールドカップは、「サッカーの世界選手権大会=大規模ではあるが普通のスポーツ大会」から、商業主義にどっぷり浸かった「単なるスポーツ大会以上のイベント」に変質していた。もっと具体的に言えば、かつては十六チーム参加の大会だったものが、二十四チーム参加になり、試合数、観客数、テレビ放映権料など、二十年前とは比べものにならないほど大規模な大会になっていた。こうした経験を踏まえて、ワールドカップの開催国決定は大会の六年前ということになったのである。六年前なら、大会開催時の政治、経済の情勢もある程度までは予想することができる。
コロンビアには、かつてFIFAに加盟しない、いわゆる「海賊リーグ」があり、ペレ、マラドーナと並ぶ偉大なアルゼンチン人FW、アルフレード・ディ・ステファノもこの海賊リーグの「ミジョナリオス・ボゴタ」というチーム(現在ではFIFA傘下に入ったコロンビアリーグで、今でも強豪チームの一つ)でプレーしていたこともあったぐらいのサッカー大国だったが、一九八六年ワールドカップに備えて、選手強化システムも改善され、後にアルゼンチン代表監督になるカルロス・ビラルドが代表監督として|招聘《しようへい》され、次々に若手の有望選手が育ってきていた。そうした選手育成システムから生まれた有望選手たちは、一九九〇年代に入って成熟期を迎え、コロンビアは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイに次ぐ、南米の第四のサッカー大国となり、一九九〇年イタリア大会、一九九四年アメリカ大会と二回のワールドカップに連続出場したほか、クラブレベルでもリベルタドーレス杯を制し、代表チームもコパ・アメリカなど、南米の各種の大会で好成績を収めるようになったのだ。そういう意味で、大会自体は返上したものの、コロンビアサッカー界にとってワールドカップ開催が予定されていたことは大きな意味を持っていた。
もっとも、政界、財界を|蝕《むしば》む麻薬カルテルの汚い手は、サッカー界にも伸びており、試合中にレフェリーがピストルで射殺されるというような事件が発生していたコロンビアでは、一九九四年のワールドカップで、ついに最悪の事件が起きてしまった。サッカーくじに絡んで、アメリカにいる代表チームに対して選手起用をめぐる脅迫状が届き、さらにはアメリカとの試合で自殺点を入れたアンドレス・エスコバル選手が帰国直後、アメリカではまだ大会が続いていた最中に、組織の手で暗殺されてしまったのだ。
とにかく、コロンビアは一九八六年大会の開催を返上することになった。大会開催の返上は、ワールドカップ史上、この時のコロンビアが唯一の例である。
アヴェランジェFIFA会長の野望
大会が「二十四チーム参加」と規模が拡大したことは、多くの国にとってワールドカップ開催を困難にした。たとえば、周知のように南米は「サッカーの大陸」である。だが、一九七八年のアルゼンチン大会以来、南米ではずっとワールドカップは開かれていない。一九九八年はフランス、二〇〇二年は日本と韓国で開催され、二〇〇六年もドイツ開催が決まっているので、南米開催は早くても二〇一〇年ということになる。つまり、アルゼンチン大会以来、なんと三十二年もの長きにわたって、この「サッカーの大陸」ではワールドカップが開けないのだ。大会の規模が二十四チーム、さらに一九九八年からは三十二チーム参加と拡大してしまっては、多くの国では、いくら国内でサッカーが盛んで、スタジアムの建設はできたとしても、交通、通信面などでの不足で開催は困難になってしまう。
現在、三十二カ国参加のワールドカップを開催できる国は、数少ない。ベルギーとオランダ、あるいは北欧四カ国(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド)などには、共同開催の動きもあるらしいが、単独開催ができる国は、ヨーロッパでもフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、イングランドぐらいのものではないだろうか。まして、南米でワールドカップを開催できるのは、せいぜい最近経済が安定してきているアルゼンチンくらいのものだろう。ブラジルも、スタジアムの老朽化などで、ほぼ不可能と言っていい。
参加国数が二十四に増えたことは、開催国の問題以外にも、いろいろな面で運営に支障をきたすことになった。それまでの十六チーム参加の場合は、四チームずつ四グループに分けて一次リーグを行い、上位二チームずつが決勝トーナメント(または二次リーグ)に進出するというふうに、大会の日程もバランスがとれていたが、二十四チームになると一次リーグを四チームずつのグループで行うと、グループが六つできてしまい、しかも大会の期間は大幅に延ばすこともできないので、日程的に無理が生じてくる。その結果、一九八二年大会では、一次リーグの後三チームずつ四組の二次リーグが行われ、この二次のトップの四チームが準決勝に進むという方式がとられたが、二次リーグは各組三チームずつだったので、各試合日に一チームは休みになってしまったのだ。一九八六年大会からは、ベスト16以降は決勝トーナメントということになったが、こんどは一次リーグで二十四チーム中十六チームを選ぶため、グループ三位になった六チームのうち成績のいい四チームが決勝トーナメントに進むということになり、複雑な勝点と得失点差の計算が必要になってしまったのだ。そして、三位でも上に進めることになるので、ますます勝点を計算した守備的な試合が多くなってしまった。
そもそも、参加国数が増えたのは、アヴェランジェ会長の公約が発端だった。ジョアン・アヴェランジェは、一九七四年の西ドイツ大会の直前にフランクフルトで開かれたFIFA総会でイングランドのサー・スタンリー・ラウス前会長を投票で破ってFIFAの会長に就任した。アヴェランジェは、ベルギー系ブラジル人の大富豪で、かつては水泳、水球の選手としてオリンピックにも出場したことがあり、バス会社、保険会社などを経営し、政界でも力を持っていた人物だ。政界に進んでいたら大統領になることも可能だったとも言われているが、アヴェランジェはスポーツビジネスへの進出を選び、ブラジル・スポーツ連盟(CBD、現CBF=サッカー連盟)の会長も務め、そしてFIFA会長に就任した。
そのアヴェランジェがFIFA会長選挙に出馬した時の公約が、第三世界でのサッカー振興だった。一九〇四年の創立以来、それまでのFIFAの六人の会長はすべてヨーロッパ人だった。歴史的にみれば当然のことだが、FIFAの運営はヨーロッパ主導で行われていたのだ。これに対してアヴェランジェは、南米の支持はもちろん、国数、つまり票の数が多いアジアやアフリカの票を集めて、会長選挙に打って出たのである。公約の具体的内容が、アジア、アフリカでのコーチングスクール開催などとともに、ワールドカップ出場枠の拡大だった。
かつて、アジア、アフリカのサッカーが、ヨーロッパや南米に比べて実力的に大きく劣っていた時代には、出場枠はアジア、アフリカを通じて一つしかなかった。そのため、一九六六年大会ではアジア、アフリカ諸国が抗議して、ほとんどの国が予選参加をボイコットしたほどだ。その結果、予選に参加したのは北朝鮮とオーストラリアだけとなり、中立地であるカンボジアのプノンペンでの予選では、北朝鮮が6−1、3−1でオーストラリアに二連勝し、イングランドでの本大会に駒を進めた。そして、イングランド大会では、ボイコットによってタナボタ式に出場を決めた北朝鮮がイタリアを破り、チリと引き分けて準々決勝にまで進出するという大番狂わせを演じたのだった。
当時の試合のフィルムを現代の目で見ると、まだ中盤でのチェックなどはかなり甘い。フォワードの選手は後ろからのパスを受けてから、ゆっくりターンして、前を向いて、それからいよいよディフェンダーと相対して、ドリブルの技をかけて抜きにかかる、そんなサッカーだった。そういう時代に、北朝鮮はまったくペース配分も考えず、中盤から走りに走り、当たりに当たった。足腰の強さは、第二次世界大戦前の日本の植民地にされていた時代からの朝鮮民族のサッカーの伝統だったし、とくに朝鮮半島北部の選手は伝統的に南部の選手に比べて、体が大きく、強い選手が多かった。そういう戦い方が、番狂わせを生んだのだろう。
準々決勝でも、北朝鮮はポルトガル相手に一時は3−0でリードするほどの健闘を見せたが、さすがに後半に入ると疲れでガクッと動きが落ち、そこをスーパーストライカーであるモザンビーク出身の黒豹エウゼビオに突かれて、3−5で逆転を許してしまった。とにかく、ボイコット事件の結果、ろくに予選も戦わずに(それだけに、待ち受けるヨーロッパのチームにはまったく情報がなかった)イングランドにやってきた北朝鮮が活躍してみせた結果、次のメキシコ大会からは、アジア、アフリカそれぞれ一カ国ずつと、出場枠は拡大された。
だが、それでも、非常に多くの国が加盟しているアジアとアフリカの大陸連盟では、各国の不満は高かった。そこで、アヴェランジェは、アジア、アフリカの出場枠拡大を公約して、アフリカ票を取りまとめてFIFA会長選挙で当選を果たしたのだ。
ヨーロッパには、独裁的なアヴェランジェのFIFA運営に対して批判の声があったが、アヴェランジェ会長は持ち前の実行力、政治力を発揮して、ワールドカップの商業化によってFIFAの財政を立て直し、また冠スポンサーと契約することでユースレベルの世界選手権(ワールドユース)開催を実現するなど、ヨーロッパ、南米以外でのサッカーの普及に積極的な政策をとって成功する。しかし、アジア、アフリカのワールドカップ出場枠を増やしたからといって、その分ヨーロッパの出場枠を減らすことはできない。そんなことをしたら、ただでさえアヴェランジェに批判的なヨーロッパ勢が黙っているはずがないからだ。だが、アジア、アフリカに対する公約も実行しなければ、再選がおぼつかない。その妥協が、参加国数の拡大だったのだ。
いかに加盟国数が多かろうと、ワールドカップのエントリーが多かろうと、実力的には、当時のアジア、アフリカはまったく問題にもならなかった。一九七四年大会に、サハラ以南のブラック・アフリカ代表として初めて参加したザイールは、三戦全敗。得点が0で、失点が14という惨澹たる成績だった。ザイールの独裁者モブツ大統領が、ワールドカップ予選を突破した選手たちに、家と高級乗用車を与えたなどという話が伝えられていただけに、この成績は嘲笑をもって受け止められた。ザイールが入った一次リーグ第二組では、残りの三カ国はお互いの試合ですべて引き分け、ザイールから9点をもぎとったユーゴスラビアがトップで、ザイールから2点しか取らなかったスコットランドが、得失点差で「1」ブラジルに及ばず、三位で失格してしまった。同大会での「アジア」代表のオーストラリアも、一分二敗、得点が0、失点が5だった。アジアからは、一九七〇年大会がイスラエル、一九七四年大会がオーストラリアと、白人国家が代表として出場し、本来のアジア代表としては、一九七八年大会のイランまで待たなければならなかった。もっとも、イランも人種的に言えば、ヨーロッパに近いアーリア系のペルシャ人の国だ。初めてのアラブの代表が一九八二年のクウェート(この大会からは二カ国出場となったが、もう一つは白人国家のニュージーランド)、そして北朝鮮以来の東アジアの代表は一九八六年の韓国まで待たなければならない。東アジアでワールドカップに出たことがあるのは、韓国(五回)と北朝鮮、そして日本だけなのである。
こうして、ヨーロッパ、南米の枠を減らさずに、アジア、アフリカの出場枠を増やすために、出場国数は十六カ国から二十四カ国、そしてさらに一九九八年大会からは三十二カ国へと増えてきたのだ。
ライバルはオリンピック
ジョアン・アヴェランジェのFIFA会長就任と時を同じくして、国際オリンピック委員会(IOC)会長にはスペイン(カタルーニャ)人のジョアン・アントニ・サマランチ、国際アマチュア(!)陸上競技連盟(IAAF)会長にはイタリア人のファビオ・ネビオロが就任した。世界のスポーツ界で最も権威と権力のある三つの団体にともにラテン系出身の富豪が就任し、これを機に、世界のスポーツ界は一気に商業主義化の方向に傾いていくのである。
そもそも、現在われわれが親しんでいる近代スポーツというもののほとんどは、もともと十九世紀のイングランド、あるいは北アメリカを発祥の地とするものだ。イングランドで、中世からの伝統的なスポーツを近代化したのは、パブリックスクールあるいは大学に在籍しているイングランドの貴族およびジェントルマン階層だった。彼らは、スポーツを楽しむために十分な余暇および経済力を持っている裕福な階級で、スポーツから格別の利益を得なくても、スポーツ活動に携わることができた。そして、彼らは厳格なアマチュア規定を作って、彼らのような経済力や余暇を持たない労働者階層をスポーツ界から排除しようとしたのだった。北アメリカのスポーツでは、ベースボールは下層階級に親しまれ、十九世紀からプロスポーツとして発展したが、陸上競技やアメリカンフットボールは、大学つまり富裕階級のスポーツだった。プロのフットボールリーグ(NFL)が人気の面で大学フットボールを上回るのは、第二次世界大戦後のことだ。
その後、十九世紀後半になってアソシエーション式フットボール(サッカー)の世界ではプロ選手が生まれ、サッカーは労働者階級のスポーツとなっていったが、それでもアマチュア的な運営が幅をきかせていた。クラブの経営は収益を上げざるをえないから、クラブは株式会社となりプロ的な運営も取り入れられるが、協会(FA)は、その後も長くアマチュア的な運営が続いた。そして、世界の主要なスポーツ団体も、アマチュア至上主義だった。FIFAもヨーロッパ大陸の知識人、ジャーナリストなどがずっと会長を務めていた。アヴェランジェの前の会長のサー・スタンリー・ラウスはイングランド人で、教師。「対角線審判法」を考案した名レフェリーとして知られた人物である。彼らアマチュア階級にとっては、プロ選手を出場させるといっても、ワールドカップは一つのスポーツ大会にすぎなかった。

だが、ビジネスマンでもあり、政界人でもあるアヴェランジェ会長は、ワールドカップを世界に売り込むための商品と考え、そこから巨額の利益を得ようとしたのだ。利益はサッカーの普及、プロモーションのために使われるのだが、もちろんアヴェランジェ自身も、金銭的な利益や名声という形で報酬を受け取ることができるのである。一方、IOCも、アメリカのアベリー・ブランデージ、アイルランドのキラニン卿と、英米系が会長職を占めていた時代には、従来通りのアマチュア路線を堅持していたが、一九八〇年代になってラテン系の富豪たちが国際スポーツ界を牛耳るようになってからは、すべてのスポーツが商業主義化していった。一九九〇年代になると、時代の波はアングロサクソン主体のラグビー・ユニオンにまで及び、とうとうラグビーもプロ化を容認するまでになったのだ。
オリンピックでは、かつてはプロ選手(元プロも含む)の出場が完全に禁止されていた。プロとアマチュアの区別が緩い(そして、ついに一九七〇年代にはその区別を撤廃してしまった)サッカーの場合、プロ選手の出場をめぐってのトラブルが再三起こっていた。そうしたIOCとFIFAの対立の結果、一九三二年ロサンゼルス・オリンピックでは、サッカーが盛んでない北アメリカでの開催ということもあって、サッカー競技は実施されなくなってしまったし、一九六四年の東京オリンピックでも、日本代表と同組に入っていたイタリア代表チームに若手プロ選手が入っているという疑惑が持ち上がり、イタリアは東京オリンピックに参加できなかった(この時問題になった若手プロ選手が、後に世界的なスターとなったアレッサンドロ・マッツォーラとジャンニ・リベラだった)。そのため、戦後のオリンピックのサッカーでは、東ヨーロッパがメダルを独占していた。東ヨーロッパには、公式にはプロ登録がなかったから、実質的にはプロのワールドカップ・クラスの選手が出場しており、西側の純粋のアマチュアおよびプロ契約をする前の若手選手を集めたオリンピックチームにとっては、とうてい勝ち目がなかった。
ところが、最近は、バスケットボールの「ドリームチーム」(NBA選抜)を皮切りに、アイスホッケーでも北アメリカのプロ・リーグ(NHL)選抜チームがオリンピックに出場できるようになり、サッカーの場合でもIOC側がワールドカップ・クラスのフル代表チームの参加を求め、FIFA側がそれに抵抗するという逆転現象が起こっている。IOCは、あらゆる競技でオリンピックを世界最高のスポーツ大会としたいのである。また実利的には、サッカーの人気が低い北アメリカで開いた大会も含めて、オリンピックで最も観客を動員できるのはサッカーであるという事実がある。東京大会ではサッカーより陸上競技の方が多数の観衆を集めたが、それはイタリア、北朝鮮が参加を取りやめ、試合数が減り、払い戻しをした結果だった。もし、予定通り十六チームが参加していたら、東京大会でもサッカーが最高の観客動員数を記録していたはずなのである。つまり、ワールドカップ・クラスが出場し、サッカーがさらに多くの観客を集め、テレビ放映権料がさらに高く売れれば、IOCにとっては大きな利益になる。だが、FIFAにしてみれば、いくらサッカーの試合に観衆が集まっても、利益はIOCのものだ。オリンピックにトップクラスのプレーヤーを参加させることによって、ワールドカップの威信を損なってしまっては、FIFAの利益に反するのである。
さて、コロンビアが一九八六年大会を返上したため、FIFAは早急に代わりの開催地を決定しなければならなくなった。準備期間は少ないのだ。
開催の意向を示したのは、メキシコ、西ドイツ、そしてアメリカ合衆国の三カ国だった。メキシコ、西ドイツは、それぞれ一九七〇年と一九七四年に、すでに一度大会を開いており、施設面では問題がなかった。アメリカには、アメリカンフットボール用の大規模スタジアムがいくらでもある。コロンビアと同じアメリカ大陸で行うということで、候補はアメリカとメキシコの二カ国に絞られた。
アメリカ合衆国では、一九七〇年代に北米サッカーリーグ(NASL)が成功し、ペレ、ベッケンバウアー、クライフなど世界の超一流選手が参戦して人気を博したが、アメリカ人選手が育たず、次第に人気は低迷し、NASLは一九八〇年代に入ると衰退し、一九八四年のシーズンを最後に消滅してしまった。少年・少女層を中心にサッカーの競技人口は増えたものの、プロリーグは人気を失っていた。そこで、起死回生策として、ワールドカップ開催が計画されたのだ。そして、元国務長官のヘンリー・キッシンジャー博士を先頭に、ワールドカップ招致を計画した。キッシンジャー元国務長官は、ナチスの迫害を逃れて少年時代にアメリカに渡ってきたドイツ系ユダヤ人で、ドイツ生まれということもあって、国務長官在任時代でも、ワールドカップともなると必ず観戦に駆けつけるほどのサッカー好きとして有名だった。一九七四年大会の時など、モスクワでブレジネフ・ソ連書記長との会談を終えて、その足で西ドイツに直行し、西ドイツ政府の要人たちとともに、スタジアムで準決勝、決勝を観戦した。しかし、そのキッシンジャー博士の招致運動にもかかわらず、FIFAは、ほとんどアヴェランジェ会長の独断といっていいような形でメキシコを開催地に選んだ。
FIFAがアメリカ開催に反対した公式の理由は、「アメリカは広大すぎて、全土でワールドカップを開催するにはふさわしくない。どうしてもアメリカで開催するなら、東海岸か西海岸で集中して開くべきだ」というのだ。一応もっともな理由ではある。本土だけでも国内に三時間も時差のある国での開催は、たしかに問題は大きい。だが、その八年後の一九九四年には、アメリカで、一九八六年の時の提案と同じように、西海岸も東海岸も含めてワールドカップが開催されたのである。そして、準決勝が同日にニューヨークとロサンゼルスで行われ、決勝のためにニューヨークからロサンゼルスまで大陸横断飛行を余儀なくされたイタリアが、コンディション調整で大いに苦労することになるのである。
アメリカ取り込み大作戦
FIFAの心変わりの原因は、いったい何だったのだろう?
これは、FIFAの世界戦略と絡めて考える必要がある。もっとはっきり言えば、FIFA対IOC、あるいはジョアン・アヴェランジェ個人対ジョアン・アントニ・サマランチ個人の、世界スポーツ界における権力争いの一環なのである。
昔は、「オリンピック=アマチュアスポーツ=IOC」対「サッカー=プロ・アマ統括=FIFA」と、両者の立場ははっきり違っていた。プロスポーツの分野に限っても、北アメリカではアメリカ系プロスポーツ(ベースボール、アメリカンフットボール、それに最近バスケットボール、アイスホッケーが加わった四大スポーツ)のメジャーリーグ、ヨーロッパや南米ではサッカーのFIFAと、いわば棲み分け、あるいは縄張りが確立されていたのだ。ところが、北アメリカにプロサッカーができ、オリンピックにプロが参加するようになると、勢力関係は流動化し、縄張り争いが激化する。まして、テレビ放映権料が高額化する中で、とくに放映権料が群を抜いて高い北アメリカをめぐる争いは|熾烈《しれつ》化する。FIFAの立場から見れば、その中心的な戦場は北アメリカということになる。
というのは、ヨーロッパや南米は、とりあえずFIFAの勢力圏と考えていいが、北アメリカは、FIFAにとって処女地であり、しかも、アメリカでのテレビ放映権料などは、他の大陸とは比べものにならないほどの金額だからである。ここをIOCに取られてしまっては、世界のスポーツ市場におけるFIFAの影響力は限られたものになってしまう。
国際陸連とIOCは、アメリカで盛んな陸上競技を実質的にプロ化させることに成功し、さらに攻勢を強めている。アメリカの四大プロスポーツのひとつであるバスケットボールで、全米プロ選抜チーム「ドリームチーム」を作ってオリンピックに出場させ、さらにベースボール、アイスホッケーもそれに|倣《なら》わせようとしている。これで、従来プロスポーツの方に興味があり、オリンピックには無関心だったアメリカの大衆にもオリンピックに興味を持たせることができるのだ。こうなると、北アメリカは完全にIOCの勢力下に入ることになる。そこで、FIFAとしても、北アメリカにサッカーを根付かせるために、あらゆる手段を講じなければならなくなったのだ。
北アメリカにおけるサッカーのPR。そのための手段が、アメリカでのワールドカップ開催だった。
一九八六年大会がメキシコ開催となったのは、じつはアヴェランジェの利権のためだったという説がある。メキシコサッカー連盟の会長を長く務め、FIFAのワールドカップ組織委員会の中心人物で、アヴェランジェ会長の腹心でもあるギジェルモ・カニェード(FIFA副会長)という人物がいた。このカニェードは、じつはメキシコ最大のテレビネットワーク「テレビサ」のボスなのだ。そして、この「テレビサ」というネットワークは、メキシコだけでなく、ラテンアメリカ全体にネットワークを広げている。さらに、この「テレビサ」とアヴェランジェ会長の会社の間には資本的なつながりがあるという。つまり、メキシコでワールドカップが開催されれば、「テレビサ」は有力なソフトを持つことになり、世界市場にそのソフトを売り込むことで儲かり、また南米大陸進出を促進する助けにもなるのだ。そして、「テレビサ」が儲かれば、アヴェランジェにとっても損はない。そこで、アヴェランジェ会長はメキシコ開催を支持したというのだ。
さて、FIFAはIOCとの対抗上、アメリカ合衆国でのワールドカップ開催をしたいのだが、考えてみれば「テレビサ」にとっても、アメリカ合衆国でのワールドカップ開催は、決して損なアイディアではないはずだ。前述のように、「テレビサ」の番組は南米大陸全体で広く視聴されている。一方、北アメリカでは最近、通常「ヒスパニック」と呼ばれる、中南米系でスペイン語を話す人口が急増している。そこで、「テレビサ」としては、このヒスパニック系の人たちをターゲットに、北アメリカにも進出を図りたいはずである。その場合の、最も有力なソフトとなりうるのが、中南米向けに実績があり、また北アメリカでもヒスパニック系の人たちの間で人気の高いサッカー中継なのだ。北アメリカでサッカーが盛んになれば、「テレビサ」にとっても利益になるはずだ。
FIFAは、一九八六年はメキシコに渡したけれども、その八年後、一九九四年の大会はアメリカで開催させた。一九八六年にいきなりアメリカでやるよりも、準備の時間があるから、FIFAはアメリカ・ワールドカップ開催を精一杯ショーアップすることができる。それが一九八六年にアメリカでやらずに、八年待った理由だったのかもしれない。あるいは、一九八六年にはメキシコ、一九九四年はアメリカという暗黙の合意が、アヴェランジェ会長とカニェードとの間でできていたのかもしれない。
北アメリカでサッカーを盛んにするために、ワールドカップをショーアップしなければならない。そのためには、じつに様々な手段が取られた。たとえば、ワールドカップのアメリカ開催決定は、大会六年前の一九八八年に行われたが、FIFA理事会はアメリカ独立記念日に当たる七月四日に、チューリヒ近郊のレーゲンスドルフで開かれた。候補地にブラジル、モロッコも挙がっており、理事会では規定の通りに投票が行われ、ブラジルは|杜撰《ずさん》な提案書を提出したためわずか二票しか取れなかったが、モロッコは七票も取った。だが、その理事会の日付がアメリカ合衆国の独立記念日である七月四日に定められたことを見ただけでも、FIFAがすでに投票を前にアメリカ開催を事実上決めていたのは明らかだ。その直前の六月三十日の理事会では、FIFA主催のすべての大会におけるメキシコの出場停止の処分が決まっていた。十九歳以下という規定があるワールドユース選手権の中米予選で、メキシコが年齢オーバーの選手を使っていたというのである。しかし、ユース大会での年齢詐称事件は、それまでにも何回もあったはずだ。そうした前例と比べてメキシコに対する処分は厳しすぎたのではないだろうか。とにかく、メキシコは、ユースでの不祥事の結果、フル代表が出場するワールドカップ予選も失格となったのである。
メキシコは、ワールドカップでの最高の成績は、一九七〇年と一九八六年に地元で開かれた大会でのベスト8だが、過去十三回の大会中九回も出場していたサッカー界の地域大国である。所属する北中米カリブ海連盟(CONCACAF)の中では、圧倒的な強さを誇っている。なにしろ、政治、経済的な「北の巨人」アメリカ合衆国も、その北のカナダもサッカーの世界では発展途上国だし、他の中米、カリブ海諸国は、国としての規模も小さく、時としてすばらしいチームも生まれるが、コンスタントにメキシコに勝つだけの力はない。したがって、メキシコがワールドカップ予選に出場すれば、アメリカ合衆国がイタリア大会に出場できる可能性は少なくなってしまう。それでは、せっかく四年後にワールドカップを開催することになったアメリカの国民に、ワールドカップという大会に興味を持たせるための絶好の機会が利用できなくなってしまう。イタリア・ワールドカップにアメリカ代表チームを出場させることこそ、アメリカでのワールドカップの成功のために最も効果的なPR手段なのだ。
そこで、ワールドユースの年齢制限違反事件を利用して、メキシコをイタリア大会予選から排除してしまったのだ。メキシコのサッカー界、そしてカニェードにとっては、すでに前回の一九八六年にアメリカ開催提案を退けて、自国でワールドカップを開催できたのだし、しかも北アメリカでサッカーが盛んになれば、十分にペイするのだから、イタリア大会に出場できなくても損はないはずだ。
アメリカ合衆国は、最終予選ではコスタリカに首位の座を譲ってしまったものの、なんとかトリニダードトバゴとの最終決戦に勝って、FIFAとカニェードの思惑通り、イタリア大会出場を決めた。そして、一九八九年十二月九日にローマで行われた本大会の組分け抽選で、アメリカはイタリア、チェコスロバキア、オーストリアとともにA組に入り、フィレンツェとローマで戦うことになった。ワールドカップの組分け抽選は、毎回いろいろと物議を醸すことが多い。この時も、マラドーナが「イタリアは楽すぎる、アルゼンチン(カメルーン、ソ連、ルーマニアと同グループ)はきつすぎる」とクレームを付けた。抽選とはいっても、シード国があらかじめ決められており、またヨーロッパ以外の同一地域のチームが一次リーグで当たらないように配慮されるので、かなり工作が行われているようにも見えるし、運・不運もあるが、一般的に言えば抽選に不正はないものと考えていい。だが、アメリカがイタリアのグループに入ったというのは、とても偶然とは思えない。少なくとも結果的には、宣伝効果が抜群となったのだ。あまり観客の入っていない地方のスタジアムでの試合ではなく、大会のメイン会場となるローマのスタディオ・オリンピコで、地元イタリアの熱狂する観衆の中で行われる試合を見れば、初めてテレビでワールドカップを見るであろう北アメリカの人々にとっても、多少はワールドカップの面白さが感じ取れるはずだからだ。結局、アメリカ代表チームは、経験不足を露呈し、チェコスロバキアに1−5、イタリアに0−1、オーストリアに1−2と三戦全敗で帰国することになったし、またアメリカの三大ネットワークは、ついにイタリア・ワールドカップを放映しなかったのだが、北アメリカにおける四年後のワールドカップPRに多少は役に立ったはずだ。
アメリカには既存のアメリカンフットボール用大規模スタジアムが全国に多数存在し、しかも、それを小規模な改修だけで使うことができたのだが、スタジアムには、大きな問題があった。アメリカンフットボール専用のスタジアムには、フィールドの横幅がFIFAの規定に足りないところが多いのだ。いくつかのスタジアムでは、コーナー付近のスタンドの一部を削りとって、幅を広げることになった。だが、ニューヨーク(実際には、ハドソン河を渡ったニュージャージー州側にある)のジャイアンツ・スタジアムは、スタジアム自身がワールドカップ開催に積極的とは言い難く、改修工事に応じようとしなかったし、構造的にも改修は難しかった。もちろん、ここを使わなくても、開催を希望しているスタジアムの数は十分すぎるほどあったのだが、ニューヨークで試合が行われなくては、アメリカの一般国民にサッカーを認知させることは難しくなる。FIFAとしては、イメージアップのためにも、どうしてもニューヨークで試合を行いたかった。観客席の最前列をつぶして、本来のフィールドより数メートル上のレベルにプラットフォームを組み立て、そこに芝生を貼るなど、いろいろの提案はあったが、結局FIFAは横幅の狭いまま、ジャイアンツ・スタジアムで試合をすることを認めた。やはり、FIFAにとっては、競技規則よりもアメリカにおけるサッカーのプロモーションが最優先だったのだ。
そして、まさかイタリア大会でアメリカがイタリアのグループに入ったことの恩返しでもないだろうが、イタリアがニューヨークで試合をすることになった。ニューヨークは、世界中でローマの次にイタリア人が多い町と言われるように、イタリア系移民の多いところだ。また、「抽選」の結果、イタリアのグループにはアイルランドも入っており、ジャイアンツ・スタジアムで二試合行うことになった。ニューヨークは、ボストンに次いでアイルランド系移民の多い町だ。イタリアとアイルランドがそろい、ヒスパニック向けにはメキシコも入り、これで、ニューヨークの会場が盛り上がり、アメリカ社会にサッカーが認知されるようになるという仕掛けである。
ここまで苦労して、北アメリカでのサッカー振興、世界のスポーツ界における勢力圏拡大を図ったFIFAだが、それでもアメリカのサッカー人気は盛り上がらなかった。ワールドカップ期間中の観客動員数は、前回イタリア大会を大きく上回ったにもかかわらず、国民のサッカーに対する評価は低いままで、当初はワールドカップ前にスタートの予定で、その後ワールドカップの翌一九九五年に発足とされていたメジャーリーグ・サッカー(MLS)も、参加チームがそろわず、結局スタートは一九九六年四月まで延期されてしまったのだ。FIFAが規約を無視してまで使用することに固執したジャイアンツ・スタジアムでは、同スタジアムでの最後の試合、準決勝のイタリア対ブルガリア戦が終了すると、その数時間後には、スタジアムの人工芝の上に敷き詰められていた天然芝がはぎ取られ、希望者に売り出されてしまった。アメリカのサッカーの将来を予見させるような出来事だった。
政治的駆け引きに利用された日韓
アメリカに次いで、今後のFIFAの世界戦略の中心地となるのは、アジアのはずである。アジアは、サッカーの実力としてはアフリカを下回り、世界で最も弱い地域だ。だが、一方で経済発展は目覚ましく、二十一世紀はアジアの世紀とさえいわれている。一九七〇年代に高度経済成長を成し遂げ、今や世界第二のGNPを誇る日本、「アジアの四匹の龍」と形容される韓国、台湾、香港、シンガポールの四つの国と地域。さらに、そのすぐ後ろには、めざましい経済発展段階に入ろうとしている、マレーシア、タイ、インドネシアを中心としたASEAN諸国。そして、巨大な人口を抱える中国。こうした国々でサッカーが盛んになれば、世界のサッカーの利益にもなる。
一九九四年ワールドカップをマーケティングの道具として使って北アメリカ市場進出を図ったFIFAとしては、次なる目標がアジアになるのは当然だった。アヴェランジェ会長は、すでに一九八〇年代後半から「二〇〇二年ワールドカップはアジア開催」と語っていたが、それはこうした世界戦略に基づいた発言だったはずだ。
アヴェランジェ会長の当初の目論見通りなら、日本開催または中国開催となる予定だった。
日本は、FIFAのオフィシャルスポンサーとして多くの企業が参加している国だ。FIFAのオフィシャルスポンサー十一社(一九九六年二月現在)の中で、アメリカ系企業の六社に次いで、日本系企業は三社(キヤノン、富士フイルム、JVC)入っていた。FIFAの本拠地であるヨーロッパ企業はフィリップスとオペルの二社にすぎないのだ。その経済力から言っても、日本はアメリカの次に押さえておくべき国だし、また他の国と違ってサッカーが根付いていないという点でもアメリカと共通しており、ワールドカップという強力なプロモーションの道具を使って、アメリカに次いで日本でもサッカーの地位を確立したかったはずだ。
中国は、アヴェランジェにとっては、FIFA会長として最初の実績を作った国だ。国連やIOCなどの多くのスポーツ団体と同じく、一九四九年の中華人民共和国成立以来、中国代表権問題はFIFAにとっても頭痛の種だった。中国は、FIFAを脱退したままだった。そこで、アヴェランジェ会長は、台湾の協会を中華台北(英語でチャイニーズ・タイペイ)の名称に変更し、中華民国の国旗である青天白日旗に代わって「協会」の紋章を使わせ、さらに中国がアジア・サッカー連盟(AFC)に加盟すると、台湾の協会はオセアニア連盟に加盟させることによって、中国の国際舞台復帰を実現した。IOCなど他のスポーツ団体に先駆けて、FIFAは中国の国際舞台復帰をいちはやく実現させたのだ。一九七四年にFIFA会長となったアヴェランジェにとって、中国問題が最初の目に見える功績となったのである。したがって、二〇〇二年アジアで初のワールドカップを世界最大の人口を抱える潜在的市場である中国で行うことも、アヴェランジェ会長にとっては魅力的だったはずだ。
だが、中国は二〇〇二年ワールドカップより、二〇〇〇年のオリンピックの北京開催を選ぶこととなった。そこで、一時はIOCとFIFAが「オリンピックは北京、ワールドカップは日本」という取引を行うのではないかという臆測まで出ていた(オリンピックは北京有利と言われていたが、結局IOCでの投票では人権問題をめぐって中国に対する批判が集まり、北京は最初の投票ではリードしていたにもかかわらず、決選投票でオーストラリアのシドニーに逆転負けを喫してしまう)。
二〇〇二年ワールドカップに関しては、サウジアラビア、マレーシアなども開催の希望を持っていると伝えられたが、サウジアラビアは宗教上の制約が多く、ワールドカップのような外国人観客を多数入国させるような大会は不可能だろうし、マレーシアは国の地理的、経済的規模から言って不可能。二〇〇二年ワールドカップ開催国は、事実上、日本で決まりと思われていた。
そこに、突然韓国が名乗りを上げたのである。韓国の意図は、簡単に言えば日本に先を越されたくないということだった。韓国第二位の財閥「現代」グループの創始者、|周永《チヨンジユヨン》の六男で、現代重工業の顧問(実質的なオーナー)の|夢準《チヨンモンジユン》が韓国サッカー協会会長、さらにFIFA副会長に就任して、じつに精力的な誘致活動を展開し、出遅れを取り戻した。なにしろ、家族経営の側面が色濃く残っている韓国の財閥のことだ。領収書のいらない資金がいくらでも動かせるし、夢準の号令で、全世界の現代系企業が動く。誘致委員会の委員長にはLG財閥の|具平会《クピヨンフエ》が就任、韓国の有力財閥が全面的に協力して運動を繰り広げた。たとえば、一九九五年七月にウルグアイで開かれたコパ・アメリカでは、選手入場のトンネルには日本の招致委員会のロゴが入っていたが、フィールド横の広告看板を見ると、韓国系企業の広告が多く、しかもその韓国企業の広告看板すべてに「2002KOREA」のロゴが入っているのだ。しかも、韓国はアジア諸国の支持も受けている。
一九九五年九月には、日韓両国がFIFAに対して、提案書を提出。提案書の内容で日本の方がはるかに豊富であることは、韓国側関係者までもが認めている。マルチメディア・サーバーやらヴァーチャル・スタジアムまで、いかにもハイテク国家日本らしい内容で、二十一世紀最初のワールドカップにふさわしい内容だった。一方、韓国の誘致活動は、いかにも政治的なものだ。韓国の提案書の内容を見れば、それがいかに政治的なものであったかということが窺い知れる。
それは、韓国がワールドカップの収益金のうち、本来開催国の取り分となるべきものを、FIFAおよび各大陸連盟に寄付するというものだった。日本が、ヴァーチャル・スタジアムの収益で、FIFA管理の基金を作るという提案を盛り込んだのを見て、急遽韓国側が盛り込んだ提案だという説もあるが、じつはこの韓国提案こそ、韓国のポイントだったのだ。ヨーロッパ諸国がFIFAのアヴェランジェ体制に批判的なことはすでに述べた通りだ。アメリカ・ワールドカップでオフサイド・ルールの解釈を変更したり、キーパーに対するバックパスを禁止したり、最近FIFAがイニシアティブをとって、ルールおよびその解釈をたびたび変更している。しかし、その変更の内容はともかくとして、本来ルールの変更は英国系四協会とFIFAによって構成される国際ボードで決められることになっており、FIFAにはルールの変更の権限はないはずなのだ。それを、アヴェランジェ会長あるいはゼップ・ブラッター事務局長が次々とルール解釈の変更を打ち出すので、伝統的なヨーロッパ人の批判の原因になっている。
しかし、これまでのFIFA会長選挙で、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)は、アヴェランジェに対する対抗馬を立てなかった。アヴェランジェの支配体制は揺るぎのないものに見えたからである。ただし、すでに八十歳を目前にしたアヴェランジェの権力も先が見えるようになった。しかも、アヴェランジェ自身が七選目となる次回の会長選挙(一九九八年)には出馬しないと述べたところから、UEFAのレナート・ヨハンソン会長(スウェーデン人)がFIFA会長選挙に出馬することを表明した。ヨハンソン会長は、UEFA会長就任以来、従来単純なノックアウト式トーナメントとして行われてきたヨーロッパ・チャンピオンズカップをミニ・リーグ戦の要素を取り入れたヨーロッパ・チャンピオンズリーグに変更し、統一ロゴを作り、従来各クラブが個別に運営していたのに代わって、オフィシャルスポンサーを募り、テレビ放映権料をプールすることで、アヴェランジェ流のビジネス路線を成功させた人物だ。
UEFAは、ヨハンソン会長の出馬表明に合わせて「ヴィジョン」「ヴィジョン」と呼ばれる提案をした。その主な内容は、ワールドカップの放映権料や商業化権からの収入を増やすこと、ワールドカップ開催地を各大陸連盟の持ち回りとし、FIFA会長の任期を四年として、ワールドカップを開催した大陸連盟から選出することなどだ。これが実現すれば、FIFAは現在のようにサッカー界で独裁的決定のできる万能の機関ではなく、各大陸連盟の連合体のような性格の組織に変わる。
二〇〇二年開催提案書によれば、韓国は収益金の九割を各大陸連盟、一割をFIFAに寄付することになっていた。つまり、韓国は、すでにアヴェランジェ体制に見切りをつけ、将来のFIFAの権力構造をにらみながら、各大陸連盟の支持を取り付けようとしていたのだ。ワールドカップ開催国決定の投票権を持つFIFA理事は各大陸連盟の代表者なのだから、これは効果が抜群だ。日本の基金がすべてFIFAの手に渡るのとは、政治的効果がまったく違う。
一九九五年三月にナイジェリアで開かれる予定だったワールドユース大会が、衛生上の理由で直前にキャンセルされ、アフリカ諸国が反発して大問題になった。ところが、一九九五年秋にナイジェリアを訪問したアヴェランジェ会長は、マレーシア開催がすでに決まっていた次回(一九九七年)のワールドユース大会をナイジェリアに変更すると言明したのだ。ただ、タイミングの悪いことに、アヴェランジェ会長のナイジェリア訪問は、ナイジェリアの少数民族の指導者がナイジェリア軍事政権の手で処刑された直後だったので、国際的な批判を浴びることになった。その批判に対するアヴェランジェの会見での答えがふるっている。「スポーツと政治は分離すべきだ」というのだ(他の人物が言うのならともかく、それを言ったのがアヴェランジェだったところが、ブラックジョークになっている)。すると、夢準は、このナイジェリア問題でアヴェランジェ会長を名指しで批判した。明らかにポスト・アヴェランジェの動きを踏まえて、各大陸連盟の支持を取り付けようとしていたのだ。
日本という国は、政府や外務省も外国での権力闘争には関心が薄い。中国で文化大革命が起こった時も、林彪副主席が飛行機で脱出を図って墜落死した事件でも、中国政府自身がそれを認めるまで、日本の政府はそのニュースを否定しようとした。あるいはソ連で反ゴルバチョフ・クーデターが起きた時も、日本政府はロシア政府(クーデター側)の公式発表のみを信じて、実際にはゴルバチョフ大統領が政権に復帰することになるのに、適切な対応がとれなかった。ワールドカップ招致委員会もそれとまったく同じで、日本の招致活動を行っていたサッカー関係者は、FIFAの権力構造、アヴェランジェの引退後の権力の行方といった問題には、まったく関心を持っていなかったのだ。韓国の方が、はるかに国際感覚は鋭い。韓国の勝利の方程式が完成しようとしていた。
ところが、さらに事態は複雑化する。アヴェランジェ会長が引退の言辞を撤回し、次期会長選挙に再び立候補する意思を表明したのである。先のナイジェリア問題に関する発言も、また二〇〇六年ワールドカップの南アフリカ開催の示唆も、次期会長選挙でのアフリカ票を意識した発言だったのである。こうして、二〇〇二年ワールドカップ開催地問題も、従来のワールドカップ開催地問題と同様に、あるいはもっとあからさまに、FIFA会長職をめぐる政治的駆け引きのカードとして使われることになってしまった。日本と韓国の運営能力だとか、スタジアムなどの施設面などは重要ではなく(どちらの国にしても、開催能力は十分だ)、FIFA対UEFA、アヴェランジェ=ブラッター連合対ヨハンソンの対立とリンクされてしまった。そして、最後の段階(理事会での投票の前日)になって、アヴェランジェ会長が自らの影響力保持のために、日本単独開催支持の態度を覆して、共同開催を提案。夢準は限りなく勝利に近い引き分けを手にしたのである。

第七章 強豪が激突する決勝トーナメント一回戦
一次リーグが終了し、ベスト16が決定すると、いよいよこれからワールドカップの本当の戦いが始まる。一九七四年と一九七八年の二回の大会ではベスト8を選んでから二次リーグを行うという方式だった。また、一九八二年大会では、ベスト12を選んでから二次リーグ・準決勝・決勝を行っていたが、一九八六年以降はベスト16が決まると、それ以後は一発勝負のノックアウト式トーナメントで優勝を争うことになった。一発勝負の連続だから、この段階からは、一次リーグの時のような手抜きや駆け引きは許されない。勝つか、負けるかのどちらかだ(ただし、守って守って引き分け、PK戦を狙うという作戦は残っているが)。
決勝トーナメントの組み合わせは、「F組の1位」対「E組の2位」といったようにあらかじめ枠だけが決まっており、一次リーグが終盤に近づくと、その枠が一つ一つ埋まって、一回戦の顔合わせが決まってくる。各国のファンは、自分の国が決勝トーナメントに残れるかどうかを気にすると同時に、自分の国が一回戦で対戦する相手がどこになるのか、固唾を呑んで成り行きを見守ることになる。
サッカーの大会の形式にはいろいろあるが、基本的にはリーグ戦とノックアウト式トーナメントである。ワールドカップのように、その二つの形式をいろいろと組み合わせることによって、主催者は大会を少しでも面白く見せようとする。一番シンプルで実力が反映されるのは、国内リーグのような、ホーム・アンド・アウェーの総当たりリーグ戦だ。一方、運・不運の要素はあるにしても、人を興奮させるのはノックアウト式のトーナメントの大会である。
もっとも、これも国によって違いがあり、たとえばイングランドではノックアウト・トーナメント方式で行われるFAカップはリーグ戦以上に人気がある。この大会は、一八六三年にフットボールの統一ルールと、それを統括する協会(FA)が誕生してから初めて行われた全国規模の選手権大会で、一八七二年に第一回大会が行われている。リーグ戦が始まったのは、十七年後の一八八九年のことである。イングランドのサッカーが、実力的には世界一流ではなくなった現在でも、毎年五月にロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われるFAカップの決勝は、世界中にテレビ放映されるなど、やはり一種独特の雰囲気のある伝統の大会である。
だが、ヨーロッパ大陸諸国、とくにラテン系諸国では、カップ戦はリーグ戦ほど人気がないし、さらに南米大陸に行くと、リベルタドーレス杯など国際的なクラブカップはあるが、国内選手権としてのカップ戦(つまりトーナメント式の大会)は存在しない。ブラジルに「コッパ・ド・ブラジル」という大会があるが、名前は「コッパ(カップ)」でも、大会はミニ・リーグの積み重ねで行われている。
そのブラジルで開かれた一九五〇年のワールドカップでは、そういったラテン国民の嗜好を反映してか、一次リーグ終了後もトーナメント戦は行わず、各組首位の四チームによる決勝リーグという形式で優勝を決定することになっていた。ワールドカップで決勝リーグという形式がとられたのは、この時ただ一回だけだ。したがって、ブラジル・ワールドカップには公式の決勝戦は存在しない。普通、この大会の決勝戦というと、一九五〇年七月十六日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行われたブラジル対ウルグアイの試合とされており、この試合は、公式観客数一九万九八五四人(有料入場者一七万二七七二人、他にも非公式の入場者が多く、実際には二二万人ほどの観客が入っていたと言われている)を集めて行われ、ウルグアイが逆転勝ちして優勝を決めたのだが、公式にはこの試合は決勝というわけではなく、単に大会最終日の決勝リーグ最終戦であるにすぎなかった。決勝リーグで二戦二勝、しかも、スウェーデンに7−1、スペインに6−1と大勝したブラジルと一勝一分のウルグアイが顔を合わせ、この最終戦で優勝が決定することになったのは、偶然の結果でしかなかったのだ。
ブラジルは、この最終戦を引き分けても優勝できた。ブラジルの選手は自信満々で臨んだ。そして、ブラジルが後半2分に先制して、ますます優位に立ったのだが、こういう試合でも、引き分けを狙おうとせずに勝ちにいくところが、ブラジルのいいところでもあり、また弱点でもある。「守備を固めろ」というフラビオ・コスタ監督の指示が伝わらず、また現在と違って、当時は選手交替が許されていなかったので、交替を使って戦術を変えることもできなかった。そのため、ブラジルはその後も攻撃を続行してしまい、その裏を突いてウルグアイのファン・アルベルト・スキアフィーノが66分に同点ゴールを決め、さらに終了11分前にアルシデス・ギッジャが逆転ゴールを決めてしまう。ブラジルのワールドカップ初優勝は、それから八年待たなければならなかった。そして、それまで白のユニフォームを着ていたブラジル代表は、この悲劇的な敗戦の記憶を払拭するためか、ユニフォームの色を変えることを決める。こうして、有名なカナリア色のユニフォームが誕生するのである。
決勝トーナメントの組み合わせは、一次リーグの結果で決まり、そこで一位になれば、相手は他のグループの二位チームになる(一九八六年から一九九四年までの三回の大会では、他のグループの三位チームの場合もあった)から、一次リーグで一位になったチームは、強い相手と当たらずにすむことになるはずだ。しかし、一次リーグの試合というのは、強いチームは力を温存し、優勝経験のないようなチームが、波に乗って一気に首位で通過することもある。実際に、どのような組み合わせになるかは、最後の最後まで見当もつかないのだ。
決勝トーナメント一回戦の好カード
一九九四年のアメリカ・ワールドカップの一次リーグでは、アルゼンチンが、大混乱を引き起こした。
この大会のアルゼンチンは、南米予選でコロンビアにホームで0−5という信じられないような大敗を喫したものの、オーストラリアとのプレーオフを前にディエゴ・マラドーナが代表に復帰し、辛うじて世界中の予選の最終日、十一月十七日、それも時差の関係で世界中で最後に行われた試合で(フランスがブルガリアに敗れた、その数時間後のことだ)オーストラリアに1−0で辛勝して、本大会に滑り込んだ。そのアルゼンチンが、一次リーグで好調なスタートを切る。ギリシャに4−0、ナイジェリアに2−1と快勝。中盤ではマラドーナの周囲にフェルナンド・レドンド、ディエゴ・シメオネ、アベル・バルボを配し、トップにはガブリエル・バティストゥータとクラウディオ・カニージャという、豪華な大型メンバーを並べた攻撃力は圧巻で、「これは、もしかしたら優勝も狙える」と多くのアルゼンチン・ファンが期待し始めた。
アルゼンチンの所属する一次リーグD組でトップになると、決勝トーナメント一回戦では、ボストンのフォックスボロ・スタジアムでE組の三位のチームかF組の三位のチームと対戦することになっていた(E組、F組の三位が決勝トーナメントに進めなかった時はB組三位と対戦)。というのは、三位で決勝トーナメントに進んだチームが、どの枠に入るかは、どことどこの組の三位チームが決勝トーナメントに進むかによって変わってくるからだ。まるで乱数表のような表があって、たとえばA組、B組、E組、F組の三位チームがベスト16に進んだ場合は、A、B、E、Fのそれぞれの組の三位チームがどこの枠に入るかが書いてあるのだ。
「乱数表」の実物は、前ページの図のようになっている。右端がD組トップのチームが当たる相手である。
アルゼンチンは、最終戦でブルガリアと引き分けても、勝っても、いずれにしても、D組の首位で決勝トーナメントに進出できるのだが、もしアルゼンチンが引き分ければブルガリアが勝点「4」で三位になって、B組三位のロシア(勝点「3」、得失点差「+1」)が失格となるし、アルゼンチンが勝って、ブルガリアが負ければD組三位のブルガリア(勝点「3」で得失点差は「0」以下)は失格となり、ロシアが勝ち抜くことになる。ロシアの運命を、アルゼンチンとブルガリアが握っているのである。しかも、その結果によって、D組首位のアルゼンチンが一回戦で対戦する相手が変わってくるのだ。ブルガリアが残れば、D組首位のチームはE組の三位チームと、もしロシアが残れば、D組首位はF組の三位チームと当たるのだ。
E組は、D組の最終戦よりも二日早い六月二十八日に全日程が終了し、四チームがすべて一勝一分一敗で並ぶという大混戦となり、総得点数、当該チームの勝敗などによって、三位はイタリアと決まった。つまり、決勝トーナメント一回戦で、早くもアルゼンチン対イタリアという黄金カードが実現する可能性が出てきたのである。四年前のイタリア・ワールドカップでは、準決勝で当たり、アルゼンチンが地元優勝を狙っていたイタリアをPK戦で破ってしまった因縁のカードである。当時、マラドーナはSSCナポリのキャプテンとしてナポリに君臨しており、北部が独占していたイタリアリーグ(セリエA)のタイトルを南部ナポリに奪い去ったのに続いて、ワールドカップまでもイタリアの手から奪い取ったというので、イタリア全土、とくに北部ではマラドーナは激しい憎しみの対象となってしまい、結局、麻薬疑惑でイタリアを追放されることとなった。
その、因縁の対決が、遠く大西洋を渡ったボストンで再現されようとしているのだ。「それにしても、一回戦でアルゼンチン対イタリアとはもったいない」という気持ちと、早く見たいという期待感が入り交じる。
だが、ストーリーはもっと複雑に展開した。
翌日には、F組の三位はベルギーと決まった。つまり、アルゼンチン対ブルガリアの試合の結果は、D組の当事国だけでなく、ロシアにとっても、ベルギーにとっても、イタリアにとっても、重要な意味を持つことになったのだ。もっとも、この時点では、まさかルーマニアにとっても意味があろうとは、思ってもいなかったのではあるが……。
ところが、アルゼンチンの最終戦の前日になって、ナイジェリア戦後のドーピング検査の結果、マラドーナの尿から禁止薬物が検出されていたことが明らかになった。本人は疑惑を否定したものの、アルゼンチン・サッカー協会はマラドーナにチームを離れることを命じた。
アメリカ・ワールドカップの一次リーグ最終日の夜。それも、D組の二試合の、後半もロスタイムに入ったところで、次々とどんでん返しが起こった。マラドーナを欠いたアルゼンチンは、ダラスでの試合で、ブルガリアに苦戦していた。次世代の中盤の指揮官として期待されていた二十歳のアリエル・オルテガが出場したが、オルテガには、まだマラドーナの代役は荷が重かった。ブルガリアのエース、フリスト・ストイチコフに先制され0−1のまま、試合は進んでいた。一方、同じ時刻にボストンで行われていたギリシャとナイジェリアの試合は、前半にナイジェリアが1点を先制したものの、その後膠着状態が続き、そのまま試合が終わろうとしていた。このまま試合が終わると、アルゼンチン、ナイジェリア、ブルガリアが勝点で並ぶが、得失点差によって、アルゼンチンが一位、ナイジェリアが二位、そしてブルガリアが三位となり、アルゼンチン対イタリアが本当に実現することになる。一回戦の組み合わせは、アルゼンチン対イタリア、ナイジェリア対メキシコ、ブルガリア対ルーマニアである。
ところが、じつは、まだドラマは終わっていなかった。ダラスでの試合はロスタイムに入った後半47分15秒に、ブルガリアが右コーナーを得て、これをクラシミール・バラコフにつなぎ、バラコフの上げたロビングをナスコ・シラコフがヘッドで、アルゼンチン・ゴール右下に流し込んだのだ。ちょうど、イラクが日本の夢を砕いたゴールと同じような形のゴールだった。フランスとの予選最終戦といい、この試合といい、ブルガリアもロスタイムの好きなチームだ。
「そう言えば、白いシャツにグリーンのショーツというブルガリアのユニフォームはイラクにそっくりではないか」――そんなことを考えたのは、たぶん日本人だけだろう。
試合終了。ブルガリアが、アルゼンチンを2−0で破った。これで、順位が変わった。アルゼンチンとブルガリアは、勝点、得失点差、得点数も並ぶが、当該国同士の対戦でブルガリアが勝ったので、ブルガリアが一位となってイタリアと、アルゼンチンは二位でメキシコと対戦することになったのだ。ダラスにいたアルゼンチンのファンは、次の旅行先をボストンから、ニューヨークに変えなくてはならない、と思っていただろう。まあ、ボストンとニューヨークならば、すぐ近くだ。
だが、アメリカ・ワールドカップでは、FIFAの指示によって、レフェリーはどの試合でもかなり長めにロスタイムをとっていた。まだ、ボストンでは試合が続いていたのである。後半49分34秒、ナイジェリアが2点目を決めた。なんと、これでナイジェリアの得失点差がブルガリア、アルゼンチンを抜いて「+4」となり、ナイジェリアが一位、ブルガリアが二位、そしてアルゼンチンが三位の順位になってしまったのだ。
暑い中を、二週間もかけて戦い続けてきた一次リーグだったというのに、最終日の二試合の最後の数十秒の間に、アメリカ南部のダラスと北東部のボストンで決まった二つのゴールのおかげで、当事者である三チームはもちろん、決勝トーナメント進出に|一縷《いちる》の望みをつないでいたロシアと、すでに決勝トーナメントの枠が決まって、対戦相手の決定を待ち続けていたイタリア、メキシコ、ルーマニアの三チームの運命をも巻き込んで、順位そして決勝トーナメントの組み合わせがガラガラと変わったのだ。まるで、抽選のような決まり方だ。だが、たった数十秒で運命を決めることができるのだったら、今までの、猛暑の北米大陸で繰り広げられてきた長い長い二週間の戦いには、いったい何の意味があったのだ。アルゼンチン・ファンの旅行日程は、東部のボストンでも、ニューヨークでもなく、西海岸カリフォルニア州のロサンゼルスに変更。アルゼンチン対イタリアの因縁の対決は、こうしてお流れとなってしまったのである。
結局、ロサンゼルスに飛んで、アルゼンチンは中二日で一回戦を戦うというきつい日程になってしまい、マラドーナを失った後の立て直しができず、ルーマニアに対しても、まるでブルガリア戦のビデオでも見ているような、そっくりな負け方で一回戦敗退。ナイジェリアはイタリアと対戦し、1点リードしながら終盤まで進み、大番狂わせかと思わせたが、結局ロベルト・バッジョの二ゴールで逆転負けを喫した。首位になって、イタリアなんかと当たっていなければ、準々決勝進出も夢ではなかったかもしれない。そして、ブルガリアはニューヨークでメキシコと対戦し、これをPK戦で破ると、準々決勝ではドイツにも勝って、ベスト4まで進出した。予選のフランス戦でのロスタイムのゴールがなかったら、ブルガリアはアメリカ大会に出場することすらできなかったはずだった。そして、ナイジェリアのロスタイムのゴールがなかったら、ブルガリアはイタリアと当たっていたはずだ。そうすれば、順当に一回戦敗退となっていたかもしれなかった。ロスタイムに入ってからのいくつかのゴールが、すべての国の運命を変えていったのだ。
マラドーナ再三の「お騒がせ」
それにしても、アルゼンチンとマラドーナは、「お騒がせ」が好きだ。じつは、四年前のイタリア大会の決勝トーナメントでも、アルゼンチンはブラジルといきなり当たって、そのブラジルを、たった一回のカウンター攻撃で沈めてしまうという「事件」を起こしていたのだ。
一九八六年大会で圧倒的な強さを見せて優勝を飾っていたアルゼンチンのカルロス・ビラルド監督は、四年後もほとんど同じようなマラドーナを中心としたチームで、イタリアに乗り込んできた。だが、選手の多くは負傷を抱えており、とくにマラドーナが合宿に合流した時には、彼は両足首やヒザの故障などで、満足に歩くこともできないような状態だった。イタリアリーグで、SSCナポリを優勝に導く、長く厳しいシーズンが終わったばかりでは、やむを得なかった。
アルゼンチンは、前回優勝国として開幕戦でカメルーンと対戦し、マラドーナにスクデット(イタリア一部リーグ「セリエA」の優勝盾)を奪われたばかりのミラノの観衆の強烈なブーイングを浴びながら、カメルーンに敗れ去ってしまう。
アルゼンチンは、第二戦でマラドーナの本拠地ナポリに戻り、ソ連と対戦した。ソ連も第一戦でルーマニアに敗れていたので、この試合で負けた方は早々と失格が決まってしまう。前半開始後、わずか10分で、アルゼンチンはキーパーのネリー・プンピードが、味方のフリオ・オラルティコエチェアと激突して、脚の骨を折って退場。急遽サブのキーパーのセルヒオ・ゴイコチェアと交替する。この交替の後、プレーはソ連の左コーナーキックで再開されるが、コーナーキックからのオレグ・クズネツォフのヘディング・シュートを、マラドーナが腕でストップした。だが、このプレーを目の前で見ていたスウェーデンのエリク・フレデリクソン主審がこの明らかなハンド(当然、PKとなる)を見逃してしまった。一九八六年大会の有名な「神の手」ゴールに続いて、マラドーナは、今度は味方ゴール前で「神の手」を使ったのである。これで九死に一生を得たアルゼンチンは生き返り、2−0でソ連を破り、ルーマニアとは引き分けて、一勝一分一敗の成績で、ようやくのことで三位となり、決勝トーナメントに進出したのである。フレデリクソンは、このミスジャッジでイタリアを離れ、帰国の途に就くことになった。
一方、セバスチャーノ・ラザローニ監督のブラジルは、スイーパーを置いた守備的な試合で一次リーグを三戦全勝で勝ち抜いて決勝トーナメントに進出した。一九八二年、一九八六年と、テレ・サンターナ監督が華麗な中盤を作る「ブラジルらしい」チームでワールドカップに挑んだものの、決勝進出もできず、このイタリア大会では、守備的な、勝負にこだわったチームで臨んだのだ。選手の多くはヨーロッパのクラブでプレーしており、スイーパーシステムには慣れているというのが、ラザローニ監督の思惑だった。守備的なブラジルに対しては、国内外から批判が浴びせられたし、チームの内部にも、ボーナスをめぐる不満などが充満しており、内紛の種もあった。しかし、決勝トーナメントで勝ち進めば、守備的すぎるという批判も収まるだろうし、勝っていけばチームのムードもよくなるはず。ラザローニ監督としては、一応予定通りの決勝トーナメント進出だったはずだ。
ところが、ブラジルが全勝で決勝トーナメント進出を決めてみると、一回戦で待ち受けていたのは南米大陸の宿敵アルゼンチンだったのだ。ブラジルは、過去のワールドカップではアルゼンチンと三回顔を合わせ、まだ一度も負けたことはなかった。アルゼンチンが優勝した一九七八年大会でも、二次リーグで当たったが、無得点引き分けに終わっている。しかし、同じ南米同士で、手の内も知られているし、アルゼンチンの恐さも知っている。そうした思いは、アルゼンチンも同じだろう。「神の手」まで使って、ようやくの思いで決勝トーナメント進出を決めてみたら、そこにブラジルがいたというわけだ。アルゼンチンの方は、三位になったのは自分の招いたこと。ブラジルと当たったのも、自業自得である。だが、ブラジルにとってみれば、せっかくグループ一位になったというのに、どういうわけか三位で勝ち抜いてきたアルゼンチンと当たったわけだから、ブラジルは被害者の立場になる。第三者の立場から言えば、一回戦でこのカードとはもったいないの一言だ。
下馬評は圧倒的にブラジル有利だった。トリノのスタディオ・デッレ・アルピに詰め掛けたブラジル人たちも勝利を確信している。キックオフ直後から、予想通りブラジルが攻め込む。開始早々、ブラジルのカレッカにペドロ・モンソンが簡単にはずされ、カレッカが抜け出すが、キーパーのゴイコチェアが辛うじて防ぐ。その後もブラジルのシュートが再三アルゼンチン・ゴールを脅かし、18分にはブランコのクロスをドゥンガがヘッドで狙うが、これはポストに当たる。ハーフタイムを迎えて、ブラジルはまだ無得点のままだったが、ブラジルの勝利の確信は、試合前の予想よりも、ますます強くなっていた。後半に入っても、ブラジルの一方的な攻勢が続いた。51分、カレッカのシュートをゴイコチェアがパンチで防ぎ、このボールが右のポストに当たる。この間、アルゼンチンの反撃は、まったく単発の弱々しいものばかりだった。マラドーナも、ほとんどプレーに参加できないような状態が続いていた。
ところが、残り10分となった時、マラドーナが自陣深いところから、スピードに乗ったドリブルを始めたのだ。それまでのマラドーナの動きから考えると、信じられないような動きだ。ブラジルのディフェンダーが三人ついていたが、マラドーナの突破を警戒して、ズルズルと後退を続ける。すると、マラドーナのドリブルのコースの右前方にいたカニージャが、ドリブルのコースを横切るような形で、フィールドの中央に向かって走り始める。カニージャにもディフェンダーが一人ついていたのだが、カニージャについて走るうちに、マラドーナについて後退してきた三人のディフェンダーと重なってしまい、しかもマラドーナの動きにつられて、四人のディフェンダーが一カ所に集中してしまった。ディフェンダーが何人いても、こういうふうに一カ所に集められてしまうと、ディフェンスは無力化されてしまう。カニージャがフリーになって中央に走る。そして、マラドーナはブラジルのディフェンダーの股の間を通して、決定的なパスをカニージャに通す。カニージャは、まったくフリーで抜け出し、キーパーのタファレルもかわして、ブラジル・ゴールにボールを流し込んだ。
もし、アルゼンチンがもっと早い時間帯に1点リードしていたら、ブラジルにも反撃の余裕があったろうが、残り10分となってからの失点は致命的だった。アルゼンチンにとってみれば、狙い通りの時間にカウンターを成功させた、まさにこれしかないという勝ち方だった。
もうひとつの「宿命の対決」
そのわずか二時間後、今度はトリノのすぐ隣のミラノのスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで、ヨーロッパの宿敵同士の西ドイツとオランダが対決した。ブラジル対アルゼンチン、西ドイツ対オランダという、ヨーロッパ、南米両大陸の宿敵同士の試合が、続けて行われるのだ。西ドイツは、一次リーグD組で、緒戦のユーゴスラビアを4−1で破るなど、二勝一分で、問題なく一位で通過して、対戦相手が決まるのを待っていたところに、オランダが出てきたのである。オランダは、F組に所属し、エジプト、イングランドと引き分け、他の組の試合がすべて終わってしまった一次リーグ最終日の夜に、アイルランドと対戦していた。アイルランドも、同じく二引き分けの成績だった。そして、オランダが前半を1−0とリードしていたものの、71分にアイルランドのナイアル・クインに同点ゴールを決められて、またも引き分けに終わり、アイルランドとオランダは勝点、得失点差、直接対決も含めて、まったく同じ成績となり、抽選でアイルランドが二位、オランダが三位となったのだ。そして、三位チームのうち決勝トーナメントに残ったのがB組、D組、E組、F組となったので、例の乱数表に照らし合わせて、オランダが対戦する相手を調べてみると、D組一位、つまり西ドイツが相手ということになったのである。
西ドイツとオランダが宿敵と言われるようになったのは一九七〇年代からだ。
ドイツとオランダは、長身選手が多く、体力的に強いという面では共通性がある。だが、サッカーというものに対する態度は、かなり違う。ドイツ人は、とにかく勝つことを重視する。どんな内容の試合でもけっして諦めることがない。一九六六年大会の決勝でイングランドに1−2とリードされていたのを終了直前に追いついて延長に持ち込んだり、一九七〇年大会の準決勝で、やはりイタリアに0−1でリードされていたのを、後半のロスタイムに追いついて延長に持ち込み、華々しい点の取り合いを繰り広げて、3−4で敗れたり。さらに、一九八二年スペイン大会の準決勝では、延長に入ってからフランスに2点を取られて、1−3となってから粘って追いついて、PK戦を制して決勝に進出したり……。ドイツの勝負強さのエピソードは枚挙のいとまもない。
一方、オランダ人にとっては「いいサッカー」をすることが大事なのだ。ドイツ人にとっては「いいサッカー」とは勝つことだが、オランダ人にとってはきれいなパスのつながる試合だ。そういうゲームなら負けてもいい。もちろん、オランダ人だって勝ちたいとは思っているのだが、しかし、「どうしても勝ちたい」とは思っていない。たとえば、親善試合や三位決定戦などでは、オランダ人はさほど勝利への執着は見せない。そして、勝ちにこだわりつづけるドイツ人のことを半ばは呆れ、半ばは馬鹿にしているのである。
そして、オランダのアヤックス・アムステルダムが一九七一年から一九七三年までヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)で三連覇すると、一九七四年からは西ドイツのバイエルン・ミュンヒェンが三連覇を達成。当時は、アヤックス対バイエルンが、ヨーロッパ・カップの黄金カードだった。ナショナルチーム同士では、そのバイエルンの時代が始まったばかりの一九七四年西ドイツ大会で、オランダが決勝に進出し、バイエルン勢で固めた西ドイツと対戦し、1−2で敗れていた。このころから、両国は宿敵と呼ばれるようになっていた。この西ドイツ大会は、オランダにとってじつに三十六年ぶりのワールドカップで、ヨハン・クライフらアヤックス中心のメンバーで、アヤックスのサッカーをさらに発展させた、当時の感覚で言えば超近代的な、「未来のサッカー」を実践していた。
それは、ディフェンダーも次々に攻撃参加する、じつに流動的なサッカーだった。一見「自由奔放」と見えたが、じつはその裏にはディフェンダーが攻撃参加した裏のスペースを他の選手がしっかりカバーするという戦術的な約束ができていたのだ。「ローテーション・サッカー」とか、「トータル・サッカー」と呼ばれたオランダのサッカーは、この大会でセンセーションを巻き起こしたのである。それは、ウィングバックが攻撃参加を繰り返し、その裏のスペースをボランチやセントラル・ディフェンダーがカバーするという、一九九〇年代に一般的になった3−5−2システムに近いものだった。たしかに、オランダのサッカーは「未来のサッカー」だったのである。
オランダは、決勝でも華々しい立ち上がりを見せた。オランダのキックオフで始まり、西ドイツが一回もボールに触れないまま、クライフが自陣でパスを受けて、一気にドリブルで攻め上がって、ペナルティエリアに入ったところで倒されて、開始1分でPKを得る。これをヨハン・ニースケンスがゴール中央に豪快に蹴り込んで1点を先制した。しかし、その後、オランダは守りに入ってしまい、逆にPKで同点とされ、さらに前半終了直前に逆転されてしまう。
この大会で初めて相手チームにリードを許したオランダは、後半は、革新的な「トータル・サッカー」を捨てて、ハイボールを|抛《ほう》り込むだけの、昔ながらのサッカーに戻ってしまい、結局1−2で敗れてしまう。オランダにとって気の毒だったのは、バイエルン・ミュンヒェンの選手が五人もいた西ドイツにとって、この決勝の会場だったオリンピアシュタディオンが本当の意味のホームグラウンドだったことだ。しかし、1点リードされただけなのだから、落ち着いて本来のトータル・サッカーを続ければ、再び同点、そして逆転するチャンスはいくらでもあったはずなのに、冷静さを失って、その近代的な戦術を捨ててしまったところに、オランダの粘りのなさを見ることもできるし、最新の戦術というものは、選手たちに十分身についていないために、苦しい局面になると、それを徹底できないことがあると見ることもできる。
やはり、三十六年ぶりのワールドカップということで、オランダもワールドカップの初心者だったのだろうか。
一方、西ドイツの方は、オランダのような近代的な戦術を使うわけではなく、昔の通りのドイツのサッカーを徹底することで、たとえ不調の時でも、それなりの強さを発揮し、ワールドカップでもほとんどの大会でベスト4以上の成績を収めている。一九六六年大会で準優勝して以来、一九九〇年まで、七回のワールドカップで、準決勝に進出できなかったのは、わずか一回だけ(一九七八年)なのだ。オランダのような、新しい、超近代的な戦術を披露するわけではないが、その分ドイツのサッカーには安定感がある。
その後、一時下火になっていたオランダのサッカーだが、一九八〇年代後半になって、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトなどの若手選手が育ってきて、第二の黄金時代を迎える。一九八八年に西ドイツで開かれたヨーロッパ選手権では、一九六〇年代後半にアヤックスのサッカーを築き上げ、一九七四年に代表チームを率いて戦ったリヌス・ミケルス監督が現場に復帰して、優勝を飾る。そして、この大会の準決勝で、オランダは奇しくも十四年前と同じ2−1のスコアで西ドイツを破り、見事に十四年前の借りを返すのである。
そのオランダは、ヨーロッパ選手権優勝の実績もあり、イタリア・ワールドカップでもかなり期待されていたのだが、一次リーグではうまく噛み合わず三位になって、決勝トーナメント一回戦でいきなり西ドイツと激突することになったのだ。
さて、一九九〇年大会、ミラノでの西ドイツとの試合に話を戻そう。前半の20分にオランダのライカールトが西ドイツのルディ・フェラーに対してファウルをしかけて、もみ合いになり、両者ともに警告を受け、さらにその直後にも再び小競り合いを繰り返して二人とも退場になってしまう。この間、フェラーがスリナム系黒人のライカールトに対して人種差別的な発言をしたとも言われているし、ライカールトがフェラーに対して唾を吐きかける場面がテレビにも映し出されるなどの汚い応酬があった。だが、この後双方十人ずつとなって、攻撃のスペースができたこともあって、試合は白熱化し、皮肉なことにこの十人ずつの試合が、イタリア大会で最高の試合だったという評価を受けることになる。この退場劇は、ミッドフィールドの中心選手のライカールトを失ったオランダにとって、より大きな痛手となったようで、結局西ドイツのユルゲン・クリンスマンとアンドレアス・ブレーメが見事なゴールを奪い、オランダをペナルティキックの1点だけに押さえて、西ドイツが準々決勝に進出したのである。
とにかく、ブラジル対アルゼンチン、西ドイツ対オランダという、南米とヨーロッパの宿命の対決が決勝トーナメント一回戦で実現してしまった一九九〇年六月二十四日は、長いワールドカップの歴史の中でも忘れることのできない一日となった。
苛酷な条件は当たり前
一カ月にわたる長期戦のワールドカップを戦う場合、もう一つの敵は気候などの環境である。大会の後半になると、各チームとも疲労とか選手の負傷とか、コンディショニングが明暗を分けることが多くなってくる。
オリンピックは、開催国の気候が最もいい時期を選んで行うことができる。東京やソウルの大会は「夏季」大会と言っても、九月〜十月に行われたが、バルセロナ、アトランタは七〜八月、シドニーは南半球の春に当たる九月だった。だが、ワールドカップの開催時期は、規則で六月、七月と決められている。これは、ヨーロッパでの国内リーグが終わった直後、という意味である。もともと、中世以来フットボールは冬の遊びであり、十九世紀イングランドのパブリックスクールのゲームでも、夏はクリケット、冬はフットボールだった。今でも、伝統の色の濃いラグビーは、日本でも冬がシーズンとなっている。サッカーも、ラグビーと同じく、もともとはウィンタースポーツであったのだ。その後、シーズンは徐々に拡大し、現在ヨーロッパでは夏の終わりの八月末から九月に新シーズンが始まり、翌年六月初めあたりまでがシーズンとなっている(北欧、ロシア、スイスなど冬の気候が厳しすぎる国は別)。そして、ワールドカップあるいはヨーロッパ選手権などは、国内リーグが終わった直後、つまりそのシーズンの終わりである六、七月に行われることになっているのだ。
しかし、ワールドカップを六、七月に行うことには問題も多い。一つは、国内のリーグ戦やヨーロッパ・チャンピオンズリーグなど、長く、苛酷なシーズンを終えた直後のこの時期、選手たちには疲労が蓄積し、また負傷を抱えている選手も多いということだ。疲れきった、負傷した選手たちが合宿に集まっても、ワールドカップの戦術的な準備というよりも、ただ休養し、負傷を治してリハビリをしているうちに、大会が始まってしまう。
もし、ワールドカップを次のシーズンの前、つまり八月、九月ごろに行えるようにすれば、前のシーズン終了後すぐに治療と休養をして、十分なコンディションの中で戦術的準備もできるようになるから、試合のレベルも上がることだろう。
ワールドカップに出る選手は大変だ。普通なら、国内のリーグ戦が終わって休養に入るはずなのに、ワールドカップの年(普段より早めに国内シーズンは終わる)は、リーグ戦の日程が終わるとすぐに代表の合宿に呼び出され、そのままワールドカップ開催国に乗り込み、準備期間も含めて一カ月から二カ月の合宿生活になる。この間、厳しい試合の数々をこなし、またメディアや国民の期待といったプレッシャーの中で生活しなければならないのだ。早々に、チームが負けてしまえばまだしも、もし決勝にまで勝ち上がっていったら、帰国は七月後半になってしまうのだ。
アメリカ・ワールドカップのイタリア代表チームには、ACミランの選手が七人も含まれていた。ミランが、イタリアの王者として君臨し続けており、しかも、代表監督が元ミランのアリゴ・サッキであってみれば、当然のことである。そして、この七人は完全なレギュラーで、たとえば決勝戦には、出場停止のアレッサンドロ・コスタクルタとマウロ・タソッティを除く五人がそろって出場していた。イタリアは、一次リーグは不調で、しかもキャプテンのフランコ・バレージも負傷してしまうなど、散々の出来だったが、一勝一分一敗の成績でようやく決勝トーナメントに勝ち上がり、その後も薄氷を踏むような試合の連続で、暑いアメリカの太陽の下で、決勝まで執念で勝ち進んできた。そして、決勝戦は延長となって、ブラジルと120分の死闘を演じた末、PK戦で敗れてしまう。決勝が終わったのは七月十七日のことだった。
ミランは、サッキが監督だった時代から、プレッシングのサッカーを実践していた。プレッシングのサッカーは、中盤で相手のボールを積極的に追い込んでいくために、運動量も多く、また、一人の相手に人数をかけてプレスをかけるため、逆サイドに振られると危険な状況が生じやすい。そこで、選手たちはボールがない状況でも、つねに集中を切らすことができない。古典的なサッカーに比べて、はるかに肉体的、精神的消耗が激しいサッカーである。監督が、サッキからファビオ・カペッロに代わって、サッキ時代よりも、機械的で、古典的な守備に近くなったものの、基本はプレッシングである。そのような消耗の激しいサッカーで、ミランは何年もの間イタリアの一部リーグでタイトル争いを続け、また毎年ヨーロッパ・カップに出場していた。選手たちには、慢性的な金属疲労の状態が続いていた。
イタリア代表がワールドカップを終えて帰国したころ、イタリアの他のチームは、すでに休養を終え、そろそろ次のシーズンに向けて調整を始めようかといったところだった。そのため、代表選手を多数送り出したACミランは、調整が大きく遅れてしまった。新シーズンが始まってみると、ワールドカップでの疲労は思いのほか大きく、数年にわたって積み重なってきた疲労が一気に噴き出して、ミランは大きく出遅れてしまった。すでに前年度(一九九四年五月)に、FCバルセロナを4−0と破って、ヨーロッパ・カップのタイトルを獲っていたACミランは、十二月のトヨタカップで来日したが、金属疲労のせいか、バレージが率いるご自慢の守備ラインまでがおかしくなっており、ディフェンスラインがデコボコになってしまうような状態。結局ミランは、アルゼンチンでも無名に近いベレス・サルスフィエルドに二ゴールを奪われて敗れてしまった。
その後、年末年始の休みをはさんで始まったリーグ戦後半では、ミランは見事に復調を見せたが、結局シーズン当初の出遅れが響いて、この年(一九九四/九五シーズン)のスクデットは、ユベントスに譲ってしまったのである。翌一九九五/九六シーズンでは、ミランは楽々と王座に返り咲いている。一九九四年秋のミランの不調の原因は、やはりワールドカップでの疲労のためだったようである。
もう一つ、ワールドカップを六月、七月に開催することの問題点といえば、北半球では夏。つまり、本来ウィンタースポーツであるサッカーをプレーするには暑すぎる季節だという問題である。
一九七四年、一九七八年は、寒いワールドカップだった。一九七四年の開催国西ドイツは北半球にあり、もちろん夏だったのだが、アルプス以北のヨーロッパでは、夏でも日によっては寒いことも多い。とくに、この一九七四年という年は、七月に入ると、雨が降り続いた。雨中の豪快な点の取り合いとなった西ドイツ対スウェーデン、冷たい、しのつく雨の中でヨハン・クライフが舞った東ドイツとオランダの戦いなど、雨の記憶は今でも鮮明だ。さらに、二次リーグ最終日にフランクフルトで行われた西ドイツ対ポーランド戦では、試合開始直前の豪雨のおかげでフィールドは水浸しになり、消防ポンプ車が出動して、懸命にフィールドの排水作業を続けた結果、試合開始を30分遅らせて、ようやく試合ができたのだ。
一九七八年は南半球のアルゼンチンでの大会だった。こちらは、季節も本当の冬。そして、ブエノスアイレス市の東側を流れる大河、ラプラタ河からの湿気が入り、体の芯から冷えるような天候が毎日のように続いた。
この二回の大会は寒かったが、それ以後、一九八二年のスペイン、一九八六年のメキシコ、一九九〇年のイタリア、そして一九九四年のアメリカと、暑さの中の大会が続いた。
暑さの中での長期戦は、チームの状態に大きな影響を与える。そして、ここでも運・不運がチームの明暗を分ける。たとえば、一九八二年のスペイン大会である。スペインという国は、文化的にも多様な国だが、気候も地域によって大きく違っている。バルセロナなどの地中海岸は湿気があって蒸し暑いかと思えば、南部、アンダルシア方面は猛暑である。首都マドリードのある中央高原は乾燥していていくらかマシだとはいえ、日中は摂氏四〇度を大きく超える。一方、大西洋岸、スペイン北西部のガリシア地方などは、雨も多く、涼しいというか、雨でも降れば肌寒いような天候だ。
こういった環境の違いが、勝敗の行方に大きな影響を与えたのだ。
このスペイン大会では、イタリアが優勝、西ドイツが準優勝となったが、両チームとも一次リーグの間は、北西部の涼しい地域で戦ったチームだった。これは、偶然ではないだろう。優勝のイタリアは、ガリシア地方のビーゴで一次リーグ三試合を戦い、力を温存しながら、三引き分けで二次リーグに進出。西ドイツは、ヒホンで三試合。この大会では、各組のシード国は一次リーグの間、まったく移動がなかったこともあって、消耗は一層少なかったはずだ。ちなみに三位のポーランドも、イタリアと同じ組で、ガリシアのビーゴとラ・コルーニャで戦ったし(この両都市は距離も近いし、環境も似ている)、四位フランスも北部のビルバオとバジャドリッドの組だった。ビルバオは海岸(海抜二・七メートル)で、バジャドリッドは高原(海抜六九八メートル)という環境の変化はあったが、第一戦をビルバオで戦い、第二戦、第三戦をバジャドリッドで戦うことで、フランスは二次リーグの会場であるマドリードの環境に慣れることもできたはずだ。
一次リーグの各会場での試合開始時刻の平均気温を比べてみると、最も涼しかったガリシア地方のラ・コルーニャで摂氏二〇度ちょうど。ビーゴは二一度ちょうどである。これに対して、最も暑かったアンダルシア地方のセビージャでは摂氏三〇・五度。マラガが三〇度ちょうどだった。しかも、これはキックオフ時の気温で、涼しい地方では試合は夕方の午後五時十五分、また暑い地方では夜九時キックオフだったのだから、日中の気温差はもっと大きい。ラ・コルーニャとビーゴはイタリア、ポーランドのいた第一組の会場。そして、セビージャ、マラガはブラジル、ソ連のいた第六組の会場だった。ブラジル、ソ連は、すばらしい内容のサッカーをしていたが、アンダルシアから来たこの二チームは、二次リーグで敗れ去ったのだ。ブラジルが、バルセロナに移って戦った二次リーグで、涼しいガリシアからやってきたイタリアに敗れたのは偶然ではなかっただろう。とくに、一次リーグでブラジルに善戦したソ連の選手たちは、もともと涼しい北国の人間だったのだから、アンダルシアの暑さは、大きな負担となったに違いない。ソ連も、二次リーグでは、涼しいガリシアから来たポーランドに得失点差で及ばず、敗れ去った。
もちろん、暑い地方の試合は午後九時開始なのだが、夏時間を採用しているヨーロッパでは、午後九時といっても、まだ夕日が残っている。また、たとえ試合時間の気温が低くなっていたにしても、暑い地域で合宿を行い、緊張を保ちながら一カ月間過ごすことで、選手たちの疲労は蓄積していく。
四年後の一九八六年メキシコ大会では、気候的な条件はさらに厳しく、しかも、地域差も大きかった。
というのは、メキシコは高原の国だったからである。首都のメキシコシティは、海抜二二三八メートル。普通に暮らしている分にはそれほど大きな影響はないが、ここで試合を行うとなると、これは苦しい。
一九六八年のオリンピック、そして一九七〇年のワールドカップ当時と比べると、トレーニング法の改善などで、選手の走る量などは、かなり増えていた。だが、試合の時の運動量というよりも、やはり高地での一カ月間の生活が選手の負担になる。また、メキシコには、「モンテスマの報復」と呼ばれる、下痢がつきものである。モンテスマというのは、スペインの征服者エルナン・コルテスによって殺されたアステカ帝国の皇帝で、高地障害のひとつとして、メキシコで引き起こされる下痢の症状を総称して、こう呼ばれるのである。メキシコシティでは、さらに、高地の薄い酸素で不完全燃焼を起こした、整備不良の大量の自動車から排出される排気ガスによる大気汚染も、体調不良の原因となる。
実際、メキシコ・ワールドカップに参加した各国選手のうち、三分の一ほどが下痢に悩まされたという。一般観光客ならともかく、ドクターからコックまで帯同し、食材や水まで本国から持ち込むことの多いワールドカップの選手団で、これだけ下痢の症状が発生するというのは、かなりの高率だ。ソ連のキーパーのリナト・ダサエフは下痢がひどく、一次リーグのカナダ戦で欠場を余儀なくされる。そう言えば、一九七〇年のメキシコ大会でも、準々決勝を前にイングランドの名キーパー、ゴードン・バンクスが下痢を起こして欠場し、イングランドが西ドイツに逆転負けを喫したこともあった。
しかも、高原という性質上、ここでは開催都市によって、その条件は大きく違っている。たとえば、北部のモンテレイは、標高が五二二メートルとかなり低く、ここでは「高地」よりも、暑さが問題となった。
もう一つ、選手にとっての負担は、試合開始時刻の問題だった。メキシコでは、早い試合では正午キックオフで試合が行われた。これは、テレビ中継の問題で、七時間の時差があるヨーロッパの夜のゴールデンタイムに合わせるために、昼と夕方の試合となったのである。昼の試合は、もちろん暑さの問題を激化させる。また普通、午後あるいは夜の試合に慣れている選手たちにとっては、こういう普段と違った時間にプレーすること自体が負担になるのだ。
かつて、十九世紀にイングランドで、フィールド上にランプを多数ぶら下げてナイトゲームを行おうとした時、あるいは今世紀に入って電気照明によるナイトゲームが可能になった時、当時の選手たちは、普通、試合を行わない時間(つまり夜間)に試合を行うのは、健康を害するもので、また、労働強化でもあるとしてナイトゲームに反対した。
その当時は、選手たちのそうした主張が通って、ナイトゲームが普通に行われるようになるのは第二次世界大戦後になるのだが、二十世紀も末の一九八六年になると、選手の発言力はテレビの持つ資本の力の前には、まったく無力だった。
だが、この巨大な力(テレビ=メキシコのサッカー連盟の実力者、ギジェルモ・カニェードは、中南米を支配する一大テレビネットワーク「テレビサ」のボスであり、またFIFAの会長、世界サッカー界のドン、ジョアン・アヴェランジェの腹心でもあった)に立ち向かう勇気ある男が現れたのである。それが、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナだった。マラドーナは、スペインでずっと活躍し、インテリとして知られているフォワードのホルヘ・バルダーノ(フィールド上では、マラドーナの忠実な副官)と組んで、正午キックオフというFIFAの決定に歯向かおうとしていた。マラドーナは、大会開幕直前に、わざわざイタリアチームが合宿しているホテルを訪れ、この問題について、イタリアの主力選手と語り合っている。
しかし、もちろん、バルダーノとマラドーナの抵抗が実を結ぶわけもなく、後に残ったのはアヴェランジェとマラドーナという、世界のサッカーの超実力者同士の確執だけだった。その後、十年にもわたって、アヴェランジェとマラドーナの対立が世界のサッカーに暗雲を投げかけ続けることになるのである。
気候風土の問題による疲労の蓄積を避けるためには、いかに省力化して、つまり手抜きして一次リーグを乗り切るかが勝負となるし、また、大会中の移動をいかに避けるかも問題になる。
大会中の移動は、しかし、組分け抽選の段階で、かなりの部分が決まってしまう。要するに、これもまた運・不運の問題になってしまうのである。
「移動の悪夢」につぶされた強豪
さて、メキシコでアヴェランジェとの対立の種を蒔いてしまったマラドーナだが、このメキシコ・ワールドカップは、マラドーナによる、マラドーナのための大会だった。イタリア戦での、バルダーノとのすばらしい着想によるワンツーからのゴール。イングランド戦での「神の手」ゴールと六人抜きのゴール。名キーパー、ジャン=マリー・パフの体勢を、フェイント一発で崩してしまったベルギー戦の二ゴール、決勝でのホルヘ・ブルチャガへの決勝ゴールのパス。アルゼンチンの優勝は、まさにマラドーナの独創的なアイディアと個人技が生んだものだった。だが、同時にアルゼンチンが最も移動の少ないチームだったことが優勝の原因の一つであるのも間違いない。
アルゼンチンは、一次リーグは、メキシコシティおよび、そこからバスで三時間ほどのプエブラ市で戦った。そして、決勝トーナメントに入ると、一回戦はプエブラでウルグアイと当たり、準々決勝(対イングランド)以後は、ずっとメキシコシティのアステカ・スタジアムで戦った。
地元メキシコチームを除いて、メキシコで最も人気の高いのはブラジルだが、ブラジルも一次リーグから、もし勝ち抜けば、準決勝まで、ずっとグアダラハラ市のハリスコ・スタジアムで戦うことになっていた。一九七〇年にブラジルが優勝した時と同じだ。だが、ブラジルは、準々決勝でプラティニのいたフランスと当たり、ワールドカップ史上最高の試合と言われた試合の末、PK戦で敗れ去ったのだ。
もちろん、ブラジルの例を見ても分かるように、いくら移動が少なくてコンディショニングが楽だからといって、必ず優勝できるわけではない。ただ、もしアルゼンチンが、移動と気候風土の条件に苦しめられていたとしたら、優勝できたかどうか、それは疑問だ。アルゼンチンが準々決勝で当たったイングランドは、一次リーグを北部のモンテレイで戦って、最終戦のガリー・リネカーの活躍でポーランドを下して、辛くもグループ二位で決勝トーナメントに進み、一回戦からアステカ・スタジアムに乗り込んできた。決勝トーナメントに入ってから移動がなかったのは、助かったはずだが、それにしても、一次リーグの期間は低地の暑さで疲れがたまり、その後、いきなり高地で試合という日程は、きつかったはずだ。もし、アルゼンチンとイングランドの日程が逆だったら、アルゼンチンはイングランドの軍門に下っていたかもしれない。
イングランドは、次のイタリア・ワールドカップでも、再び「移動の悪夢」を体験した。
イタリア・ワールドカップの一次リーグで、イングランドは南のサルディーニャ島で戦うことになった。フーリガンを他の会場から孤立した場所に封じ込めるために、やはりフーリガン問題を抱えるオランダとともに、サルディーニャ島とシチリア島で行われるF組に入れられたのだと言われていた。イングランドはシード国だから、どの組に入って、どこの都市で試合をするのかは、抽選ではなく、主催者側が決めたのだ。そして、ここを一位で通過したイングランドは、イタリア半島縦断の旅に出る。まず、決勝トーナメント一回戦のベルギー戦が中部のボローニャ(延長戦まで戦って、1−0)、準々決勝のカメルーン戦が南部のナポリ(また延長で、3−2)、準決勝の西ドイツ戦が北部のトリノ(またまた、延長で1−1の引き分け。PK戦で敗れた)、そして三位決定戦のイタリア戦がまた南部のバーリと、イタリア半島を南北に行ったり来たりを余儀なくされたのである。これは、疲れる。しかも、延長戦の連続である。これに対し、準決勝でイングランドが敗れた相手の西ドイツの場合は、一次リーグから準々決勝までミラノで移動なし、そして、準決勝もミラノからすぐ隣のトリノで戦うという有利な日程だった。この、イングランド対西ドイツの準決勝は、じつにフェアで、イーブンな戦いだったが、イングランドは押し気味だった。もし、イングランドに疲れがなかったとしたら、結果はどうなっていたか分からない。
一九九四年のアメリカ大会は、一つの大陸を占める広大な国での開催だっただけに、距離の暴虐はいっそう苛酷なものになった。最大の犠牲者は、決勝戦に進出したイタリアだった。というのは、この大会では準決勝は、二試合とも同じ七月十三日に行われたからだ。準決勝の第一試合はニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで行われ、イタリアがブルガリアを2−1で破ったが、その翌日、イタリアは大陸横断飛行を余儀なくされることになったのだ。ニューヨークからロサンゼルスまでは、飛行時間だけでも五時間以上。まる一日がかりの移動となる。一方、準決勝第二試合のブラジル対スウェーデンは、イタリアの試合の直後にロサンゼルスのローズボウルで行われ、勝ったブラジルチームは、翌日はゆっくりと休養に充てることができたのだ。しかも、一次リーグからずっとイタリアが戦ったニューヨーク、ワシントンは湿度も高い猛暑続きで、一方ブラジルが戦ったロサンゼルス、サンフランシスコは、気温もそれほど高くなく、湿度も低く、過ごしやすい環境だった。
じつは、このアメリカ大会も、最初の予定では、準決勝は一日ずらして、まず十二日にニューヨークで準決勝第一試合が行われ、翌十三日にロサンゼルスで第二試合が行われることになっていたのだ。ところが、ベースボールのメジャーのオールスター戦が十二日にピッツバーグで行われることになったために、これとぶつかるのを避けて、準決勝二試合が同じ十三日に行われることに変更になったのだ。サッカー後進国アメリカの特殊事情が、イタリアに重荷を課したのである。
決勝戦は、ともに守備的な戦いとなり、延長まで120分戦って無得点。ワールドカップ決勝で初めてのPK戦による決着となり、疲労の限界に達していたイタリアは、攻守の中心選手であるフランコ・バレージとロベルト・バッジョがペナルティをはずして、涙を呑んだ。まさに、日程と距離の犠牲者だった。
一九九八年のフランス大会は試合の平均レベルが高く、面白い大会だったが、気候的に過ごしやすかったのも一つの原因だ。一九九四年のアメリカ大会は異常気象で東部が猛暑に見舞われたし、一九九〇年のイタリアは暑い大会だった。そして、一九八六年のメキシコは海抜二〇〇〇メートル以上の高地だった。
二〇〇二年大会は韓国と日本である。日本の六月と言えば、梅雨が心配である。高温に加えて、高い湿度が体力を奪う。これまで六月に開かれたキリンカップでも、ヨーロッパから来たチームは高温多湿に苦しむことが多かった。もちろん、ワールドカップともなれば暑さ対策にも万全の準備はしてくるだろうが、それでも、慣れない高温多湿での生活で疲労が蓄積するのは間違いない。そこが暑さ慣れしている日本チームの付け目でもあるのだが、しかし、試合内容ということを考えると、二〇〇二年六月が涼しい空梅雨となることを祈るしかない。

第八章 神の造りたまいし偶然のチーム
アメリカ系の自由にタイムアウトをとれるスポーツと違って、サッカーの場合は、監督が試合中にあまり細かく指示を送ることができないので、監督の存在は目立たないが、チーム作りにおいては、監督の役割が非常に大きい。だが、監督は万能ではない。監督にはどうにもならない運・不運というものがある。これは、神の領域である。不運に見舞われて、監督が意図していたチームが瓦解してしまうこともある。中心選手の負傷、大事な試合での出場停止、レフェリーの誤審……。何が起こるか分からないのが、勝負事の世界である。
だが、逆にちょっとした偶然によって、監督が当初考えていたのとはまったく違う強力なチームが出来上がってしまうこともある。言わば「神が見えざる手を下して、自らお造りになったチーム」である。監督は、不運でチームが瓦解してしまった時にどのように手当てして、どのように立て直すかという能力も必要だが、時には偶然によって出来上がってきた「神の」チームの持っている勢いをうまく利用することも必要なのだ。自らが、うまく、流れに乗ることも必要なのである。流れに乗ることは、一見やさしいことのようにも見えるが、これはこれで案外難しいものだ。まして、それが当初自らが考えていたチームの構想とかけ離れているものであるとすれば、「神の手」に自らを委ねることは、人間としてかなりの心理的葛藤を伴う決断になる。
第二次世界大戦後、東西に分断されたドイツ。西ドイツの方は、すでに一九五四年ワールドカップ決勝で、当時三十一試合連続無敗と圧倒的な強さを誇っていたハンガリーに逆転勝ちして優勝を遂げ、一九六六年には準優勝、一九七〇年には三位と、世界のサッカー界の強豪にのしあがっていた。そして、一九七二年に開かれたヨーロッパ選手権では、ギュンター・ネッツァーのパスが冴えわたり、優勝。一九七四年に地元西ドイツで開くワールドカップでも、当然優勝が期待されていた。その西ドイツ大会に、東ドイツも予選を勝ち抜いて出場することになった。ワールドカップ本大会進出は、東ドイツ建国以来初めてのことだった。東ドイツは、水泳や陸上での活躍で知られたスポーツ大国だったが、サッカーではヨーロッパの中堅どころで、ワールドカップ予選を勝ち抜いたのは、後にも先にもこの一九七四年大会だけだった。そして、それが兄弟国家の西ドイツでの大会で、しかも皮肉なことに係争地であるベルリンを会場の一つとする一次リーグ第一組に入り、西ドイツと対戦することになったのだから、大会前から話題を独占していた。
その、東西ドイツの決戦は、一九七四年六月二十二日に、ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンで行われることになっていた。この日のフォルクスパルクシュタディオンには、東側からも三〇〇〇人の応援団(実は党幹部など)が駆けつけ、静かな興奮に包まれていた。すでに、西ドイツは二戦二勝で二次リーグ進出を決めた後だから、勝敗は重大ではなかったが、東西の初対決ということで会場は異様な雰囲気だった。しかし、西の連邦共和国が優勝候補の筆頭なのに対して、東の民主共和国は、アウトサイダーの一つにすぎない。勝負は最初から決まっている、と多くの人は思っていた。
ところが、試合は西ドイツが押し気味だったものの、東ドイツが堅い守りを見せ、なかなか点が取れず、ハーフタイムを迎えていた。
じつは、この時点まで、西ドイツには「ネッツァーか、オフェラートか」という問題が、まだ解決できずに残っていた。「中盤の名手、ネッツァーとオフェラートのどちらを使うべきか」で、大袈裟に言えば国論が二分されていたのだ。ギュンター・ネッツァーは、バイエルン・ミュンヒェンと並んで当時の西ドイツサッカーをリードしていたボルシア・メンヘングラッドバッハからちょうど一年前にスペインのレアル・マドリードに移籍した選手。一方ウォルフガンク・オフェラートは1FCケルンの中盤の選手。ともに高い能力を持つゲームメーカーだけに、この二人をどう使い分けていくかという問題が、ネッツァーが代表チームに入った一九六八年以来、西ドイツ代表監督ヘルムート・シェーンをつねに悩ませていた。
プレーのスタイルも違う。ネッツァーは、右足からのイマジネーション溢れる一本の長いパスを繰り出して、敵陣をえぐり、味方を自由に操る天才肌の選手。そして、オフェラートは、左足で単純なパスを正確に出し、何本ものパスを交換することで中盤を構成する選手だ。オフェラートは、西ドイツが準優勝した一九六六年大会以来、フランツ・ベッケンバウアーとコンビを組んでおり、ベッケンバウアーの信頼も厚い。ベッケンバウアーがリベロの位置から攻撃参加をする場合、オフェラートはベッケンバウアーをサポートできる。
ネッツァーの方が一歳年長だが、代表入りはオフェラートの方が早く、一九六六年には二十二歳のオフェラートはすでにワールドカップ準優勝を経験している。そして、四年前の一九七〇年大会では、ネッツァーが負傷して出場できず、当時は中盤を担当していたベッケンバウアーをオフェラートがサポートして、三位に入賞していた。しかし、一九七二年のヨーロッパ選手権では、ネッツァーとベッケンバウアーがリベロの位置から交互に中盤に出撃して、そこから長い、イマジネーション溢れるパスを繰り出す形で、すばらしい試合をしていたのだ。とくに、この大会の準々決勝、イングランドとのアウェーの試合でのネッツァーのプレーは、多くの人々に強烈な印象を与えていた。
一九七四年のワールドカップでは、ネッツァーの体調が悪いこともあって、ヘルムート・シェーン監督は、第一戦からオフェラートを使っていた。もちろん、東ドイツとの試合でも、オフェラートが先発し、ネッツァーはベンチに座っていた。
ところが、前半西ドイツが攻めあぐね、無得点に終わったものだから、観衆はネッツァーの投入を期待し、ハーフタイムには「ネッツァー、ネッツァー……」という声がまるで合唱のように、スタジアムに広まっていった。さらに、後半も0−0の展開が続き、ネッツァーの出場を望む声は、さらに高まった。後半24分、ついにシェーン監督はネッツァーを投入する。ネッツァーが入って、西ドイツの攻めのリズムは変わった。しかし、それでも西ドイツは1点がどうしても奪えず、逆に終了10分前に、エーリッヒ・ハマンのロングパスを受けたユルゲン・シュパールヴァッサーが、西ドイツのディフェンダーとキーパーのゼップ・マイヤーをかわして決勝点を奪い、なんと東ドイツが西ドイツを破るという大番狂わせが起きたのだった。
試合後のスタジアムは、まるで「信じられないものを見た」とでもいうような沈黙が支配した。六万人の観衆が、静寂を保ったまま、黙々とUバーン(地下鉄)の駅に向かう光景は、じつに異様なものだった。
この結果、一次リーグ第一組の順位は、一位が東ドイツ、二位が西ドイツということになり、二次リーグでは東ドイツがA組、西ドイツがB組に回った。その結果、西ドイツは二次リーグでオランダと当たらずにすんだのである。オランダは一次リーグから、多彩な攻撃を見せるローテーション・サッカーを披露しており、多くの人が優勝候補に挙げていた。もし、西ドイツがA組に入っていたら、ルール地方の炭鉱都市ゲルゼンキルヘンで両国は対戦することになっていた。ゲルゼンキルヘンなら、オランダ国境にも近いから、オランダから多くのサポーターがやってくることができたはずで、西ドイツは苦しい戦いを余儀なくされるところだった。ところが、東ドイツに敗れてB組に回ったため、西ドイツはオランダ戦を回避して、決勝に進出することができた。そして、決勝は南部バイエルン州の州都ミュンヒェンで行われた。この時の西ドイツ代表の主力は、ベッケンバウアーのほか、GKのゼップ・マイヤー、DFのハンス=ゲオルグ・シュヴァルツェンベック、FWのゲルハルト・ミュラーなど、バイエルン・ミュンヒェンの選手だったから、ミュンヒェンのオリンピアシュタディオンは、まさにホームグラウンドだったのだ。言わば、東ドイツ戦での敗戦が、西ドイツの優勝を可能にしたようなものである。
さて、東ドイツに敗れた西ドイツは、キャプテンのベッケンバウアーのリーダーシップの下で、二次リーグが始まる前に、チームを組み替えた。
まず、「ネッツァーか、オフェラートか」の問題は完全に決着がついた。結果がすべてである。あの東ドイツ戦の敗戦は、まったくネッツァーの責任ではない。東ドイツに対してオフェラートの中盤もとうとう点が取れなかったのだし(オフェラートの方が長い時間プレーしていた)、失点を防ぐのはネッツァーの仕事ではない。だが、ネッツァーが唯一出場した東ドイツ戦が敗戦に終わったことで、以後この大会でネッツァーには二度と出番はなく、ベンチ入りすらできなかった。天才ネッツァーにとってあの20分間が生涯でただ一回だけのワールドカップであった。西ドイツは、中盤で守備的な仕事をしていたベルンハルト・クルマンに代わって、二次リーグ以降は二十二歳と若いライナー・ボンホフを入れた。これは、ボンホフが中盤の後方から長いドリブルで崩しを入れることで、攻撃力を増そうという狙いだった。たとえば、二次リーグ最終戦のポーランドとの試合の決勝点も、ボンホフが中盤でドリブルで持ち込んで、ミュラーに渡したものだったし、決勝戦の決勝ゴールも、右サイドでボンホフが突破して入れたクロスを、ミュラーが彼一流の反転能力を生かして決めたものだった。
このように、東ドイツ戦での思わぬ敗戦が、西ドイツチームにとっては、すべてうまく作用して、大会前に監督が思い描いていたチームとは違う形で完成していったのだ。たとえば、もし東ドイツ戦で、西ドイツが順当に勝っていたらどうなっていただろう。ゲルゼンキルヘンでオランダと戦うということは別としても、一次リーグとは違った形の攻撃パターンを採用することはできなかったかもしれないし、さらにもし東ドイツ戦でネッツァーのパスから得点が生まれて勝ってしまっていたら、「ネッツァーか、オフェラートか」の難問は、ますます西ドイツチームを縛って、動きが取れなくなってしまったかもしれない。もちろん、ネッツァー中心の、華麗な中盤で西ドイツが圧勝した可能性だってあるのだが……。
まるで、東ドイツという劇薬を使って、サッカーの神が自らの手で新しい西ドイツチームを作っていったようではないか。このような、「神の造りたまいしチーム」は、必ずしもこの時の西ドイツだけではないのである。
偶然でき上がったチームの妙
サッカーの母国イングランドなどの英国系四協会は、かつてはワールドカップに参加しなかった。世界選手権などやらなくても、本場のイングランドがいちばん強いのは当然のことと信じ込んでいたからである。ところが、このイングランドが初めてワールドカップに出場した一九五〇年のブラジル大会では、一次リーグでなんとアウトサイダーのアメリカ合衆国とスペインにともに0−1で敗れて、決勝リーグに進むことすらできなかった。
イングランドは一九六六年ワールドカップでは優勝しているが、これは地元での大会で、しかも全試合をホームグラウンドのウェンブリー・スタジアムで戦うという、きわめて有利な条件での優勝だった。その四年後のメキシコ・ワールドカップの準々決勝で西ドイツに2−3と逆転負けを喫してからは、まったく上位進出のチャンスはなく、一九七四年、一九七八年大会ではついにヨーロッパ予選で敗れて、出場すらできなかったのだ。
一九八六年のメキシコ大会でも、一次リーグF組に入ったイングランドは、モンテレイの暑さのせいでいつもの運動量豊富なイングランドサッカーができず、緒戦でポルトガルに0−1と敗れ、第二戦はモロッコとも0−0の引き分けと、さんざんなスタートだった。だが、イングランドは第三戦で大きく変身を遂げる。最初の二試合のメンバーのうち、攻撃的ミッドフィルダーのブライアン・ロブスンと左サイドのアタッカーのクリス・ワドルが負傷し、守備的ミッドフィルダーのレイ・ウィルキンスがモロッコ戦の退場で出場停止処分となり、ボビー・ロブスン監督はメンバーチェンジを余儀なくされたのだ。そして、このメンバーチェンジが、偶然にも新しい、攻撃的なチームを作ったのである。それまで、右サイドにいたテクニシャンの戦術家グレン・ホドルがミッドフィールドの中央に移り、ここで才能を存分に発揮し、右にガリー・スティーブン、左にスティーブ・ホッジが入り、ディフェンシブにはピーター・レイド。つまり、最初の二試合の4−3−3が4−4−2に変わったのである。
この布陣でポーランドと対戦したイングランドは、ガリー・リネカーのハットトリックで快勝、F組二位で決勝トーナメントに進出した。そして、一回戦ではまたもリネカーが2得点で、準々決勝に進出。フォークランド(マルビナス)諸島をめぐる戦争以来初めてのアルゼンチンとの対決を迎えたのだ。この試合は、マラドーナの「神の手」ゴールと六人抜きゴールで敗れてしまうが、それでも終了10分前にはリネカーが1点を返して、リネカーは6得点で大会の得点王になった。
これも、「神が造りたまいしチーム」であった。
イングランドは、その四年後のイタリア・ワールドカップでも、またも大会途中に大変身を遂げて、準決勝にまで進出することになる。
イングランドサッカーが弱体化してしまった原因は、いろいろ考えられるが、要するに伝統を墨守しすぎているのが根本的な原因だ。ボールを正確につないでいくのではなく、せっかくキープしているボールを、ゴール前に向かって蹴り込んでしまうのだ。せっかく味方のボールだったのが、これではイーブンボールに変わってしまう。ただし、そういうイーブンボールを激しくヘディングで競り合うようなプレーをイングランドの観客は歓迎しているし、それはまた中世以来の伝統なのだから、われわれがとやかく言う必要はないのかもしれない。フランスは、最後の勝負には弱いけれど、芸術的なパス回しをする。それと同じことだ。
そういうイングランドの伝統の一つに、四人のディフェンダーによる、フラットなラインディフェンスというのがある。イングランドの(あるいは、英国系の)サッカーは、これが伝統なのだ。ドイツをはじめヨーロッパ大陸諸国の多くは、マンマーク。そして、ブラジル、アルゼンチンなど南米はゾーンディフェンスというように、それぞれに伝統がある。だが、現代のサッカーでは、お互いの影響を受け合って、戦術はどんどん変わってきている。ボールの受け方、持ち方といった個々の選手のプレーは、やはり国によって今でもはっきり違うが、戦術は世界中で共通化しているのだ。すべてのチームが同じ戦術をとっているということではないが、同じ国の中におけるクラブによる違い、あるいは監督による違いの方が、国と国の違いより大きくなってきているのである。
メキシコ・ワールドカップでは、アルゼンチンがスイーパーシステムを取り入れ、イタリア・ワールドカップでは、ブラジルまでがスイーパーを置いて戦った。同じ英国のスコットランドも、すでにイタリア・ワールドカップの前に、スリーバックにトライしている。だが、イングランドは頑なに四人のラインディフェンスに固執していた。クラブの一部にはスリーバックを試みる監督もいたが、ボビー・ロブスン監督は、ずっとフォーバックを貫いてきたのである。
イタリア・ワールドカップでは、イングランドは緒戦でアイルランドと当たった。嵐のような天候の下で両チームが見せたのは、まったく見所のない蹴り合いだった。アイルランドは戦術もなく、ただ相手の攻撃を蹴り出すだけ。一方、イングランドの方も、ただロングボールを|抛《ほう》り込むだけのひどい試合だった。ところが、第二戦のオランダとの試合で、ロブスン監督はイングランドにとっては「革命的」なスイーパーシステムを採用し、これが見事に成功するのである。マーク・ライトをスイーパーにして、デス・ウォーカーとテリー・ブッチャーがストッパー、そしてポール・パーカーとスチュワート・ピアスがウィングバックとして、積極的に攻撃参加するというシステムだった。ライトは、たしかにクラブではスイーパーの経験もあった。しかし、これはかなり無謀な賭けだった。なにしろ、代表チームとして3−5−2で戦うのは、これが初めての経験だったのだ。それも、いきなりワールドカップの本番で、しかも相手は一次リーグで最強の敵ともいえるオランダなのである。しかし、この賭けは見事に功を奏し、イングランドがオランダを上回る流れるような攻撃を見せたのだ。
だが、ボビー・ロブスン監督がスリーバック(またはファイブバック)を採用した本当の意図は、攻撃ではなかった。マルコ・ファン・バステンとヴィレム・キーフトのツートップが強力だから、それをストップするために二人のストッパーを起用したのだった。つまり非常に守備的な意図だったのだ。ところが、オランダはこの試合にはキーフトを出さなかったし、監督の意図とは違ってイングランドは3−5−2で攻撃的なチームに生まれ変わってしまったのだ。選手たちも、この新しいフォーメーションが気に入っていたようだ。
それでも、ロブスン監督は一度はフォーバックに固執した。次のエジプト戦では再び4−4−2に戻したのだ。ところが、これはうまく機能せず、格下のエジプトに対してようやく1点を取るのが精一杯だった。そこで、ロブスン監督は結局、決勝トーナメントは3−5−2で戦うことを選んだ。カメルーンとの準々決勝では、後半残り時間も少なくなってから、スイーパーのライトが頭を負傷してしまい、その後はディフェンダーとしてプレーできそうもなかったので(もう、二人交替した後だった)、ライトウィングでプレーさせたり、準決勝の西ドイツ戦ではライトにユルゲン・クリンスマンをマークさせて、ブッチャーにスイーパーをやらせたりといった変更はいろいろあったが、スイーパーシステムは崩さなかった。
さらに、偶然も重なった。中盤のテクニシャンのブライアン・ロブスンが、オランダ戦で足の指と古傷のアキレス腱を傷めて帰国してしまったのだ。代わって、決勝トーナメントからはデービッド・プラットが中盤に入った。まだ若くて、しかも代表チームでの経験の少ないプラットの出場は不安視されたが、このプラットとやはり若いポール・ガスコインのダイナミックな動きで、イングランドの中盤はすっかり活気づいてしまったのだ。決勝トーナメント一回戦は、延長の終了直前に、そのガスコインのフリーキックのボールをプラットが難しいボレーキックで決めて、ベルギーを下した。
こうして、ボビー・ロブスン監督の当初の目論見とは大きく違う、まったく新しいイングランドチームが誕生したのだ。準決勝では西ドイツ相手に互角以上の、しかもフェアで、ポジティブな好ゲームを展開した。それは、最初の対アイルランド戦のどうしようもない、低レベルの試合からは想像もつかないぐらいの大進歩であった。
この二回のワールドカップで、同じように偶然の作用によって、イングランドは、大会緒戦とは打って変わったチームに変身して、好結果を残している。ボビー・ロブスン監督は、後の展開を読み切ってチームを変えたのではなかったが、偶然でき上がったチームがうまく機能し始めた時に、自分の考えに固執せずに、偶然の結果あるいは神の意思を受け入れる柔軟性を持っていたのではないだろうか。そういう柔軟さも、また人間の能力の一部なのである。
信念と柔軟性のはざまで悩む監督
同じくイタリア・ワールドカップで、やはり偶然の作用で新しいスーパーチームができ上がっていながら、十分それを利用できず、自説に固執して、失敗してしまったのがイタリア代表チームのアゼリオ・ヴィチーニ監督だった。
イタリアは、過去三回の優勝経験があり、地元での開催ともなれば、当然優勝が期待されていた。守備は、フランコ・バレージを中心とする、ACミランとインテル・ミラノの混成のラインで問題はなかったのだが、ヴィチーニ監督が抱えていた問題は攻撃陣だった。ヴィチーニ監督の構想としては、ASローマのゲームメーカー、ジュゼッペ・ジャンニーニから相手のディフェンダーの裏をえぐる、長いパスを出し、それをジャンルカ・ヴィアッリが受けて、ヴィアッリが単独突破するか、ヴィアッリがキープしてポイントを作り、第二列の上がりを待つというものだった。だが、大会直前になって、これ以外に二つのオプションが浮かび上がってきたのだ。一つは、フィオレンティーナからユベントスに移籍が決まって、フィオレンティーナのファンが反対運動を繰り広げ、大騒ぎになったロベルト・バッジョ。もう一つはシチリア島出身でユベントスに所属していたサルバトーレ・スキラッチである。
バッジョは、当時二十三歳。そのテクニックはイタリアでも最高のレベルにあったが、彼はトップの選手のすぐ後ろのポジションに入ることを得意としており、ジャンニーニとヴィアッリのコンビを使い続けるとすると、バッジョのポジションはなくなってしまう。ヴィアッリの相棒は、ヴィアッリがキープしてポイントを作ったボールからフィニッシュをするセカンド・ストライカーであるべきだったのだ。ヴィチーニ監督は、アンドレア・カルネヴァーレを使う予定だった。
スキラッチは、決定力のあるストライカーで、すでに二十五歳だったが、一部リーグの経験も少なかったし、国際試合にデビューしてからまだ二カ月しか経っていなかった。それだけに、信頼性に欠けると思われていた。だが、ファンやマスコミの間には、「スキラッチを使え。あるいはバッジョを使え」という意見が強く、監督としては辛い状況であった。ヴィチーニ監督の立場は、ちょうど「ネッツァーか、オフェラートか」という、一九七四年のヘルムート・シェーン監督の立場に似ていた。
ヴィチーニ監督は一九七四年以来、イタリアの二十三歳以下代表(U−23)、二十一歳以下代表(U−21)の責任者で、一九八二年にはU−21のヨーロッパ選手権で準優勝している。一九九〇年の代表チームも、自ら作り上げたU−21代表を中心に発展させたチームだっただけに、ヴィチーニ監督としては、自分のチームの骨格をあまり変えたくなかったのかもしれない。
イタリア代表チームは、第一戦でオーストリアと戦った。七万二三〇三人の観衆の応援を受けたイタリアは、いつものワールドカップ一次リーグとは違って積極的に攻めた。22分には、ジャンニーニから左サイドのヴィアッリに狙い通りのパスが通り、ヴィアッリの折り返しをカルロ・アンチェロッティが狙いすましてシュートしたが、ボールは右のポストをかすめてしまう。42分にはジャンニーニが中盤で抜け出すところを倒されて、フリーキックを得、ロベルト・ドナドーニが上げたボールをカルネヴァーレが頭で狙ったが、今度は左へはずれる。後半は、立ち上がりにオーストリアが攻めに出たものの、すぐにイタリアペースとなって、以後は前半と同じような形勢になった。だが、どうしてもイタリアは1点がとれない。75分、ヴィチーニ監督は、カルネヴァーレに代えて、スキラッチを投入する。そして、その3分後、右サイドに進出したヴィアッリからのクロスを、スキラッチが頭でたたき込んで、イタリアはなんとか1−0でこの試合をものにした。スキラッチにとって、ゲームに入ってから最初のボールタッチがこの得点につながったのだ。バッジョには、まだ出場の機会は与えられなかった。
第二戦で、イタリアはアメリカ合衆国と対戦した。アメリカ国内での、国民およびメディアに対するワールドカップのプロモーションということ以外に意味のある試合だとは思えなかった。アメリカの大学選抜のような若いチームが、ローマでイタリアと互角に戦えるわけはなかったからだ。
この試合も、アンチェロッティに代わってニコラ・ベルティが入ったほかは、第一戦と同じスターティングメンバーだった。イタリアは11分、早くもジャンニーニのゴールでリード。その後も、イタリアが攻撃を繰り返し、大量点の期待も高まったが、アメリカはゴール前に人数を集めて、徹底的に守りを固める。27分ベルティが倒されてペナルティキックを得たが、ヴィアッリのペナルティキックは、ポストに当たってしまう。後半アメリカが何回か同点機をつかんだが、結局試合は1−0のまま終了する。この日も、51分でカルネヴァーレがスキラッチに交替するが、スキラッチにゴールは生まれなかった。バッジョには、まだ出番がなかった。だが、比較的楽な相手に対して、二試合とも攻め続けながら最少得点に終わってしまったことで、イタリア代表に対する批判は強まり(なにしろ、イタリアはメディアが厳しいことでも世界一だ)、新聞の見出しには、まだ一度も試合に出ていない「BAGGIO」という大きな文字が躍っていた。
イタリアの第三戦は、チェコスロバキアが相手だった。チェコもすでに二勝しており、両チームとも決勝トーナメント進出は決めていたのだが、開催国イタリアとしてはA組一位になって、メイン会場であるローマで決勝トーナメントを戦う責任があったし、得失点差ではチェコがリードしていたから、一位になるには勝つしかなかった。この試合を前に、ジャンルカ・ヴィアッリが負傷した。ドクターによれば、故障の原因は不明ということだったが、ヴィアッリの「負傷」という理由で(本当の理由は分からない)、ヴィチーニ監督はついにスキラッチとバッジョを先発させた。初先発のスキラッチが、9分に1点先制。その後もイタリアが圧倒的に攻め続けるが、一戦目、二戦目と同じようになかなか追加点が生まれず、またも1−0かと思われた77分、ハーフライン付近でボールを受けたバッジョがチェコのディフェンダー陣の間を鋭いドリブルで切り裂いて、最後はキーパーを翻弄し、この大会随一のビューティフルゴールを決めたのだ。
これで、バッジョ、スキラッチ問題は解決だ。
決勝トーナメントでも、一回戦のウルグアイ戦、準々決勝のアイルランド戦ともにスキラッチが挙げた得点を守りきって、イタリアが勝利を重ねる。得点こそ少ないが、無失点できている。
準決勝はイタリアにとって、一回だけローマを離れ、ナポリでの試合となる。イタリアには、八万人以上入る競技場がローマ、ミラノ、トリノ、ナポリの四カ所にあって、開幕戦と二つの準決勝、そして決勝をこの四つのスタジアムで一試合ずつ行う日程になっていた。開幕がミラノ、決勝がローマ。そして、準決勝がトリノとナポリだった。そのため、準々決勝までずっとミラノで試合をしていた西ドイツがトリノで、準々決勝までローマで戦ってきたイタリアがナポリに回ることになったのだ。ところが、そのナポリでイタリアを待ち受けていたのは、SSCナポリ所属のディエゴ・マラドーナが率いるアルゼンチンだった。
このアルゼンチン戦で、ヴィチーニ監督はまったく不可解な選手起用をした。「負傷」が癒えたヴィアッリを、あのペナルティをはずしたアメリカ戦以来の先発で起用し、バッジョをベンチに下げてしまったのだ。スキラッチ、ヴィアッリのツートップである。もちろん、ヴィアッリは開幕前の構想ではレギュラーだったはずだが、いったいなぜうまく機能しているバッジョ−スキラッチのコンビを切り離してしまわなければいけないのだろう。それでも、わずか17分でいつものようにスキラッチが飛び込んで1点を先制したのだが、イタリアはこの1点の守りに入ってしまう。これまでの五試合を無失点で乗り切ってきたのだから、守備には自信があったのだろうが、これで攻めるしかなくなったアルゼンチンの方は、この大会で唯一、攻勢をとることになった。
後半も半分の時間が経過した67分に、フリオ・オラルティコエチェアのクロスをクラウディオ・カニージャが頭で決めて、アルゼンチンが同点に追い付く。すると、まだリードされたわけでもなく、ただ、同点に追い付かれただけだというのに、イタリアはパニックに陥ってしまった。1点を狙って、バッジョを投入したのは分かるのだが、中盤の指揮官であるジャンニーニに替えての交替だった。1点がほしい気持ちは分かるが、だからといって、中盤を捨てて、フォワードを並べることで攻撃がうまくいくはずはない。結局、イタリアは追加点を奪えず、試合は1−1のまま引き分けに終わり、PK戦の結果イタリアは地元優勝の夢を絶たれてしまうのである。イングランドとの三位決定戦では、再びバッジョ−スキラッチのツートップに戻ったイタリアが、フェアでオープンな試合をして、スキラッチのペナルティキックで決着をつけ三位に入った。
大会中の試合の流れ、チームの状況、そして偶然をうまく受け止め、イングランドにとってまったく革命的とも言うべきスイーパーシステムを取り入れて、地元優勝の一九六六年大会以来の準決勝進出を果たしたボビー・ロブスン監督の柔軟性と、結局大会前の自分の構想に固執して、せっかくの追い風を利用できなかったヴィチーニ監督。監督という職業には、信念も必要だが、思い切って新しいものを取り入れていく柔軟性も大切な資質であると言えるようだ。
あの、アメリカ・ワールドカップのアジア予選での日本チームのハンス・オフト監督も、カタールで新しいフォーメーションを採用することで、ワールドカップ出場一歩手前まで行った。
この時の、日本チームの問題は、左サイドバックだった。一次予選まで不動のサイドバックだった都並敏史がJリーグで負傷。この傷が悪化して、最終予選で都並が使えなくなってしまったのである。夏のスペイン合宿に、オフト監督はジェフ市原の江尻篤彦を連れていくが、本来ミッドフィルダーの江尻では、攻撃はともかく守備に問題点があることは明らかだった。カタールへの出発直前に東京で行われたアイボリーコーストとの試合で、オフト監督は、スペイン合宿にも連れていかなかった三浦泰年を起用する。三浦は、所属の清水エスパルスではディフェンシブハーフだったが、かつて読売クラブ時代にサイドバックの経験があった。
このアイボリーコースト戦では、三浦は一応無難に任務を果たしたように見えた。だが、アイボリーコーストは、最初右ウィングの位置にいたヤヤ・ドゥンビアが、どういうわけか、前半の途中から左サイドに回ってしまっており、三浦のサイドからは、あまり攻めてこなかったのだ。だから、三浦は試合でのチェックをほとんど受けずに、一番大事なワールドカップ予選の緒戦で、ぶっつけ本番の状態で試合に臨んだのだった。
問題は、このチームには、左サイドバックだけではなく、どのポジションにも、ちゃんとしたバックアップ・プレーヤーがいなかったことだ。中盤におけるラモス瑠偉に対する依存度は非常に高かったが、ラモスが壊れたら誰が中盤でゲームを作るのか、ディフェンシブハーフの森保一が出られない時にはどうするのか。つまり、十一人の一つのチームはできたが、控えまでは手が回っていなかったのだ。当時の日本のサッカーのレベル、とくに戦術理解度が低かったことを考えると、わずか一年半でチームを作るという責任を負わされたオフト監督にしてみれば、時間的に間に合わせるためにはバックアップ・プレーヤーにまで手が回らなかったのかもしれないが、しかし、厳しい予選の試合でつねに同じ十一人のメンバーが使えるということはありえないことだ。あまりにも、無謀な賭けだった。しかも、都並が使えない状態になった時、どうしてスペインには江尻一人しか連れていかなかったのか。あそこから、三浦泰年も帯同しておけば、うまくチームにとけ込めたかもしれないのだ。
とにかく、緒戦のサウジアラビア戦で、三浦泰年は攻撃面では、かつての読売クラブ時代の同僚であるラモスや、実の弟である三浦知良とのコンビで組み立てに参加したが、守りに入ると、中に絞りすぎたり、戻りが遅れたりしてしまった。三浦泰年の責任ではない。こういう重要な試合で慣れないポジションをやらされたことは気の毒だった。だが、いずれにせよ日本チームの弱点は緒戦で明らかになり、第二戦でイランのアリ・パルヴィン監督は、徹底して右(つまり日本の左)から攻撃をしかけてきた。さらに、不可解なことに、第一戦を引き分けていた日本は、最悪の場合、イラン戦も引き分けでもいいという状況だったにもかかわらず、相変わらず三浦泰年が攻めに出すぎてしまっていた。イランは、第一戦で敗れているのだから、日本としては、守っておいてイランの焦りを誘えばよかったのだ。
さて、一分一敗の最下位という絶望的な状況に追い込まれた日本は、第三戦でガラリとメンバーを入れ替えて、新しいチームに生まれ変わる。
懸案の左サイドバックには、頑強な守備の専門家だが、これまでは右サイドを担当していた勝矢寿延が入り、守備に専念する。そして、オフト監督がターゲットマンとして使い続けた高木琢也が警告の累積で出場停止になったため、スーパーサブとしてこれまでいくつもの重要なゴールを決めていた中山雅史が入り、さらにどうしても勝つしかない試合になったため、長谷川健太も入れて、スリートップにしたのだ。これまでの試合で、一度も試したことのない新布陣だった。
だが、幸いなことに相手はこの大会で一番弱い北朝鮮だったし、北朝鮮の主な攻撃パターンは、右サイドバックの|金光民《キムグアンミン》のオーバーラップが中心だった。ここに、守備専門の勝矢が入ったおかげで、うまく北朝鮮の攻撃を押さえることができたのだ。相手の右サイドがもっと違ったタイプの選手だったら、勝矢もうまくいかなかったかもしれないが、日本陣深くまで一気に上がってくる金光民は、勝矢にとって、ちょうどいいタイプだったようだ。あんなに苦労してとうとう見つからなかった都並の代役は、じつはすぐそばにいたのだ。三浦知良の2点と、先発出場した中山のゴールで日本が3−0と勝って、ついに神の手による新しい日本代表ができ上がったのだ。
次の韓国戦は、高木が出場できる試合だったが、オフト監督は第三戦でつかんだ流れを重視し、三浦知−中山−長谷川のスリートップをそのまま使い続けた。もちろん、左サイドバックは、勝矢である。韓国は、この勝矢のサイドを、スピードのある|盧廷潤《ノジヨンユン》や突破力のある|高正云《コジヨンウン》などでえぐってくることもできたのに、どういうわけか盧廷潤はトップで、そして高正云は中盤の後ろの方、右サイドバックの位置でプレーしていた。このため、この韓国戦でも日本の左サイドは安定し、宿敵韓国に対して日本は1−0で完勝し、二連勝で首位に立って最終日を迎えることになったのだ。
そして、運命のイラク戦でも、オフト監督は、流れに乗った新しいフォーメーションを使い続けた。ポストプレーヤーとして、オフト監督があれほど固執していた高木には、第三戦以降出番はなかった。この時の日本チームも、やはり監督の思惑とは別の、偶然の積み重ねででき上がってきた「神の造りたまいし」チームだった。ただし、この時、サッカーの神様は、じつは最後にとんでもないどんでん返しを用意していたのではあったが……。

第九章 PK戦 悪魔のルシアン・ルーレット
サッカーには、ラグビーの認定トライのように判定によって得点を与える制度がない。そこで、もしその反則がなかったら間違いなくゴールインしたであろう悪質な反則を取り締まるためにアイルランド協会の提案で一八九〇年に採用されたルール、それがペナルティキックである。だが、このルールは、もともとサッカーという単純なスポーツの中では極めて異質な性質を持った「極刑」なのである。
サッカーというスポーツの大きな特徴は、プレーの中断が少ないことである。アメリカ型のボールゲームと比較すると、はっきりと分かる。アメリカンフットボールでも、ベースボールでも、アメリカ型のスポーツでは、ワンプレーごとに中断があって、攻守両軍が改めて位置について、いわば相撲の仕切り直しのような形で次のプレーが行われ、それが終わると、また中断がある。たとえば、アメリカンフットボールで、ダウンボールしたら、その時の攻守両軍の選手がどんな状況であろうとも、新たにピッチの中央にボールをセットし、攻守両軍が、それぞれ相手の出方を読んで、フォーメーションを組み直してから試合が再開されるのである。いわば、ボールの位置というただ一つの抽象的でディジタルな情報を除いて、ダウンボールされた瞬間の両軍選手の配置といったアナログ情報は、すべてが一旦クリアされてしまうわけである。
サッカーの試合にも、もちろん中断はある。ボールがタッチラインを割ったらスローイン、ゴールラインを割ったらコーナーキックかゴールキック、そして反則があった場合にはフリーキックで再開される。しかし、それは中断とは言っても、アメリカンフットボールの中断とは違って、たとえばフリーキックが与えられる直前の選手の配置状況という情報が完全に消去されるわけではないのだ。もちろん、攻撃側がゆっくりボールをセットしていたり、レフェリーが壁の位置を直していたりすれば、そうしたフリーキック直前の情報はたちまち拡散して、消え去ってしまう。攻撃側も、守備側も、その間にどんどん有利な位置をとろうとして、小競り合いが起こる。だが、戻りきれなかったディフェンダーが相手のフォワードを引きずり倒したような場合、攻撃側は相手の選手が十ヤード離れていなくても、すぐにリスタートすることもできる。それは、その反則が起こった時点での、攻守両軍の配置が攻撃側に有利だったら、その反則でプレーが止まる直前の状況をそのまま継続させることを攻撃側が選択できるということである。それがアメリカンフットボールとの大きな違いだ。
つまり、サッカーの場合、たとえリスタートの状況であっても、プレーが止まる直前の状況と、リスタート後の状況との間には、なんらかの形で因果関係が存在するのである。それがアメリカンフットボールとの大きな違いだ。
ところが、ペナルティキックの場合は、反則が起こった瞬間のアナログ情報はプレー再開時には、完全に消去されてしまうのだ。残っているのは、ただ「守備側が自陣のペナルティエリアの中で、直接フリーキックに相当する反則を犯した」という、たった一つのディジタル情報だけだ。反則がゴール前たった三メートルの地点で起ころうと、ゴールラインから十八ヤードのエリアの隅あたりで起ころうと、それはいっさい関係がない。相手にケガを負わせるような悪質な反則でも、ただボールが手に当たってしまっただけでも、ボールは同じようにゴールから十二ヤードのペナルティマークの上に置かれるし、反則が起こった時にペナルティエリア内に守備側の選手が一人しかいなかった場合でも、ゴール前に密集ができていた時でも、ペナルティキックになれば、リスタート時にはエリア内にはキッカーとキーパーしかいなくなる。サッカーでも、ペナルティキックの場合だけは、反則の前の状態とキックの瞬間の状況の間の因果関係は完全に断ち切られてしまうのである。
さらに、空間的にだけではなく、ペナルティキックは時間的にも、サッカーの時間体系から切り離されてしまう。サッカーの場合、競技時間を律する審判の時計は、競技の進行とは関わりなく、客観的な時を刻み続けている。ラグビーだと、プレーが続行されている間はタイムアップにはならない。プレーが中断した時に、レフェリーが笛を吹いてタイムアップ(ラグビーではノーサイドと言う)になるのだ。ところが、サッカーはプレーがどんな状況にあっても、時計の針が45分を指せば、レフェリーはタイムアップを宣告する。一九七八年アルゼンチン・ワールドカップのブラジル対スウェーデン戦で、こういう事件が起こった。試合終了直前にブラジルがコーナーキックを得、ジーコがゴールしたかに見えたのだが、ウェールズのレフェリー、クライブ・トーマスはコーナーキックのボールが空中にある間に45分が経過したとして、タイムアップの笛を吹き、この得点を認めなかったのだ。
ところが、ペナルティキックの時だけは、試合時間が延長されて、ペナルティキックが終わるまで試合は続くのだ。ボールがゴールに入るか、キッカーがミスしてゴールをはずれるか、あるいはキーパーがセーブするか、いずれかの瞬間に試合終了となる。
とにかく、ペナルティキックというプレーは、サッカーの中ではかなり異質なプレーなのである。
ましてや、試合が引き分けた時に行われるペナルティ・シュートアウト、つまりいわゆる「PK戦」は、サッカーの試合中に使われるのと同じ「キック」という技術を使うけれど、サッカーという競技とはまったく別の種類のゲームなのだ。それは、けっして試合の一部ではない。単に、ノックアウト式トーナメントで次回戦に進むチームを決めるために行う抽選の代わりのようなものなのである。初期のころのJリーグのように、リーグ戦の試合でPK戦を使って勝負を決めるというのは、皆無とは言わないが、ほとんど世界に例がない。
PK戦は必要悪か?
このPK戦という制度は、ワールドカップでは一九八二年のスペイン大会から採用された。最初のうちは、エキサイティングな勝負としてけっこう人気があったのだが、一九九〇年イタリア大会の後、ヨーロッパではペナルティ・シュートアウトは廃止すべきだという意見が強くなった。最初からPK戦を狙ったような消極的で守備的な試合が行われたからだった。しかし、PK戦に代わる有力な代案もなく、PK戦は、その後も採用され続けている。
たしかにPK戦で「勝敗」が決まるというのは、なんとも不合理なことだが、ではPK戦を廃止するとしたら、引き分けになった場合は、いったいどうしたらいいのだろうか。「コーナーキックの多い方、あるいは反則の少ない方のチームの勝ちにすべきだ」という意見もあった。コーナーキックの数は、比較的正確にゲームの攻勢の割合を反映するからだ。だが、この方法の欠点は、試合が終わる前に、引き分けた場合どちらのチームが勝つのかということが、あらかじめ分かってしまうということである。延長戦のハーフタイムまでに、コーナーキックや反則の数を勘定して、もし自分たちのチームが有利に立っていたら、あとは15分間守って、引き分けに持ち込めばいいということになってしまう。延長をサドンデス制(FIFAはゴールデンゴール方式と呼び、日本ではVゴールと呼んでいる)にするという提案もあり、これがフランス・ワールドカップから採用された。さらに、一定時間延長を行っても点が入らなかったら、両軍の選手の数を減らしながら、延長を続けるという提案もあった。だが、延長戦のやり方というのは、けっして本質的な解決にはならない。つまり、延長をやっても、点が入らなかった時にどうすべきかということが、問題になっているのだ。まさか、無限延長というわけにもいくまい。それとも、いっそ抽選にしてしまうのがいいのだろうか? そんなことをしたら、今度は抽選が不正だという議論が出てくるに決まっている。それよりは、観衆の目の前で行われ、しかも、当事者が関与できるPK戦ほどオープンな抽選のやり方はない。第二次世界大戦以前のワールドカップのように、引き分けの時は再試合ができれば、いちばんいいのだが、それが不可能である以上、やはりPK戦は必要悪なのであろう。
一九八二年のスペイン大会では、一次リーグ各組の上位二チームずつ、ベスト12が選ばれてから、またミニ・リーグ形式の二次リーグが行われた。それが終わって、四組の二次リーグの勝者が、準決勝、三位決定戦、決勝を戦って、順位を決めた。したがって、延長・PK戦が行われる可能性のある試合は、準決勝以降のたった四試合しかなかったのだが、その四試合のうち、二試合目、つまりセビージャで行われた西ドイツ対フランスの準決勝が、いきなりPK戦となったのである。
この試合は、1−1の同点から延長に入った。前半18分にフランスのGK、ジャン=ルック・エトリのミスで西ドイツが先制すると、その9分後に、ミシェル・プラティニのPKで、フランスが追い付き、それ以後、両軍無得点のまま90分が終了したのだ。延長に入ってすぐにゲームが大きく動き出す。開始わずか2分、西ドイツのペナルティエリアのすぐ外のフリーキックをアラン・ジレスが蹴り、マリウス・トレゾールが豪快にボレーでたたき込んで、フランスが2−1とリード。さらに98分にはアラン・ジレスがペナルティエリアの外から技巧的なシュートを決めて、フランスが2点リードをしたのだ。普通だったら、延長に入ってから2点差がついたら、もう試合は終わりである。たしかに西ドイツは、どんな場合でも勝利を諦めたりはしない。それは、これまでにも何回も目にしてきた光景だったが、しかし、それでも延長に入ってから2点取られたのでは、もう終わりだろうと誰もが思った。しかし、ユップ・デアバル監督は、体調のよくないカール=ハインツ・ルンメニゲを投入、フランスの3点目からわずか4分で、ピエール・リトバルスキーがいかにも彼らしい、技ありのセンタリングを入れ、出場したばかりのルンメニゲが決めて1点差。ピエールというフランス人のような名と、リトバルスキーというポーランド系の姓を持ったこのドイツ人は、他のドイツの選手とは、ちょっと変わったボール扱いをする。名前の通り、フランス的なテクニックと、東欧的なパスのセンスを持っている。西ドイツは、延長後半に入ってすぐ、ホルスト・フルベッシュの折り返しをクラウス・フィッシャーがオーバーヘッドシュートを決めて、なんと同点に追い付いたのだ。
ワールドカップ史上初のPK戦では、西ドイツの三人目、ウリ・シュティーリケ主将がキーパーのエトリにストップされてドラマの幕を開けた。フィールドの上に泣き崩れたシュティーリケの姿は、このPK戦という勝負の苛酷さを世界中にアピールした。その後、フランスのディディエ・シクスがはずし、PK戦も五人が終わったところで4−4の同点。サドンデス段階に突入したフランスの六人目、マキシム・ボシスがはずし、フランスは、準決勝で敗退となった。
この西ドイツ対フランスの試合は、一九七〇年メキシコ大会の同じく準決勝、西ドイツ対イタリアと並ぶ、ワールドカップの歴史に残る延長戦の死闘だった。ところが残念ながら、フランス・ワールドカップからは、ゴールデンゴール方式の延長戦が採用されてしまったから、これからはこういう延長の死闘が見られなくなってしまうのだ。
90分間は無得点でつまらなかった試合が、延長に入ったとたんに点の取り合いになるという例は、どのレベルのサッカーにも見られる現象だっただけに残念な気がする。
ゴールデンゴール方式は、延長が終わってもデッドロックが解消できず、PK戦に持ち込まれるのを防ごうとして導入されたのだが、しかし、逆に「1点取られたら負け」という意識が強くなって、守備的な試合になることも多い。
もちろん、きつい日程で戦っている選手にとっては、延長が30分ではなく10分で決着するのは歓迎されるかもしれないが、たった一つのミスが命取りとなり、ミスを取り返すことができないゴールデンゴール方式は「選手にとっても厳しいシステム」ということができる。果たして、ゴールデンゴール方式の採用は正しい決定だったのだろうか。
次の一九八六年メキシコ大会では、準々決勝四試合中なんと三試合がPK戦にもつれ込んだ。
まずこの大会の最初の準々決勝は、ブラジル対フランスの顔合わせとなった。これは、おそらくワールドカップ史上でも最高の試合だったろう。ブラジルは、前回のスペイン大会で、ジーコ、ファルカン、ジュニオール、トニーニョ・セレーゾという夢のようなMFに、DFのオスカール、FWのエデルらを配し、大会最強であったにもかかわらず、二次リーグでイタリアに敗れて優勝を逸した。その四年後のメキシコでも、再びテレ・サンターナ監督が復帰し、ジーコ、ソクラテス、ジュニオールの中盤に、カレッカ、ミューレルのツートップという豪華な布陣で、順当に勝ち上がってきた。ただ、ヒザを負傷しているジーコがベストコンディションでなく、フル出場できない状態だった。
一方、フランスは、一九八四年のヨーロッパチャンピオン。
一九七八年大会で、ミシェル・プラティニとドミニク・ロシュトーがワールドカップにデビュー。当時は、このメキシコ大会から代表監督となったアンリ・ミシェルがまだキャプテンだったが、その後、一九八二年にはジャン・ティガナとアラン・ジレスが加わり、一九八〇年代半ばにフランスはまさに成熟期を迎えていた。一九七八年から数えると八年かかっている。代表チームの場合、これだけ長い時間をかけて、一つのチームが熟成してくるという例も珍しいだろう。
この優勝候補の両国が、決勝トーナメント一回戦では、ブラジルがポーランドに4−0、フランスがイタリアに2−0と、ともに完勝。準々決勝に駒を進めて、グアダラハラで対決の時を迎えたのだ。グアダラハラは、メキシコ市から約七〇〇キロ。海抜も一五七四メートルと、かなり低く、またメキシコ市のような大気汚染もない美しい町だ。夜行バスでメキシコ市を深夜に出発して、早朝グアダラハラに到着して観戦、という旅は肉体的にはきついが、そこで観戦するのがブラジル対フランスとなれば、長旅も快適なものに変わる。
試合は、両国の、それぞれスタイルははっきり違うが、ともに芸術的なパスの交換が続き、双方がまったく休む間もなく攻め合いを展開し、しかも、それが前後半90分に留まらず、延長まで120分間、絶え間なく続くという期待通りのすばらしいものだった。フランスが攻勢をかけたが、先に1点を取ったのはブラジルだった。前半17分、右サイドのミューレルとジュニオールの間で決定的な、深く速いパスがつながって、最後は左サイドでカレッカがほとんどフリーでシュートを決めた。しかし、その後フランスが左右のサイドバックのマークを付け替えて再び互角の展開に持ち込み、41分ジレスがロシュトーを走らせ、ロシュトーのクロスがディフェンダーに当たったところをプラティニがプッシュして、同点に追い付いたのだ。
その後も、攻め合いが続くが、どうしても点が取れない。すると、73分にブラジルがジーコを投入する。ジーコは、試合に入ってすぐのファーストタッチで、決定的なスルーパスを通した。これは、いかにもジーコらしいパスだった。ジーコのスルーパスというのは、自らのボールキープで相手のディフェンダーを何人も引き付けておいてから、インサイドキックで簡単なパスを送るだけなのだが、それがジーコ自身を取り囲む相手のディフェンダーの脚の間を抜けて、スペースに走り込んでくる味方に、正確に渡るのだ。この時、抜け出したのはブランコだった。そのブランコが飛び出してきたフランスのキーパー、ジョエル・バツに倒されて、ペナルティキックとなる。そのペナルティキックをジーコが蹴ったが、バツがはじき出す。ペナルティキックを失敗したジーコの肩を抱いて、プラティニが慰める。だが、じつはプラティニも、その一時間後には、やはりペナルティを失敗する運命にあることを、まだ誰も知らなかった。延長に入っても攻め合いは続くが、どうしても決勝点が奪えず、フランス対ブラジルの試合は、とうとうPK戦にもつれ込んでしまったのだ。メキシコ大会初の(つまり、ワールドカップ史上二回目の)PK戦である。
PK戦は、いきなりソクラテスがはずし、フランスも試合中にジーコを慰めていたプラティニが失敗という形で始まった。この日はどういうわけか、両チームの名手たちのペナルティがことごとくはずれるという、不思議な一日だったわけだ。そして、五人目で、ブラジルはジュリオ・セザールが失敗、フランスはルイ・フェルナンデスが決めて、フランスが準決勝に進出し、西ドイツとメキシコの勝者と顔を合わせることになった。すでに、人々の夢はもう一つの黄金カード、「プラティニのフランス」対「マラドーナのアルゼンチン」の決勝に移っていた。
同じ日の夕刻、モンテレイで行われた準々決勝、西ドイツ対メキシコも無得点引き分けとなって、PK戦となってしまう。メキシコは地元の観衆の大声援を受けて戦ったにもかかわらず、PKを一本しか決められず、西ドイツが4−1でPK戦を制して、準決勝では四年前と同じフランス対西ドイツの対決が実現することになる。メキシコは、この地元でのPK戦を失ってから、以後各種の大会のPK戦でことごとく大敗を重ねる。そして、一九九四年のワールドカップでも、決勝トーナメント一回戦でブルガリアと対戦し、1−1で引き分けた末、PK戦ではやはり一本しか決められずに敗れてしまう。一方の、西ドイツは一九八二年に史上初のPK戦を制して以来、一九八六年のメキシコ戦、一九九〇年のイングランド戦と、まだPK戦には一度も敗れていない。
ブラジルとの死闘で疲労の極にあったフランスは、ロシュトーが負傷で欠場するというアクシデントもあって、またも準決勝で西ドイツに敗退してしまう。前半開始早々、8分に西ドイツがフリーキックから先制する。アンドレアス・ブレーメのシュートが、なんとセーブしようとしたバツの体の下を抜けてゴールインしてしまったのだ。その後、中盤でウォルフガンク・ロルフにぴったりとマークされ、またロシュトーという気心の知れたパスの受け手がいなかったこともあって、プラティニが中盤を捨てて、トップのポジションに張り付いてしまい、すっかり試合は西ドイツのペースになってしまう。まるで、一九七四年大会の決勝で、絶対有利とみられていたオランダが、最後に近代的なローテーション・サッカーを捨てて、昔ながらの|抛《ほう》り込みを始めてしまったのと同じように、フランスがプラティニを中心としたパスワークという最大の武器を捨てて、力攻めを繰り返して、自滅してしまったような展開だった。その点、西ドイツには新鮮味はないが、いつも堅実だ。
メキシコ大会の準々決勝は、二日目にもまたPK戦があった。
アルゼンチン対イングランド戦は、マラドーナの明らかなハンドによる先制と、その5分後の六人抜きのスペクタキュラーなゴールでアルゼンチンが勝った。しかし、イングランドは終了10分前に、リネカーのゴール(彼自身この大会で6点目。得点王を決めた)で1点差に詰め寄っていた。もし、チュニジアのレフェリー、ベンアスールがマラドーナの(神の?)手を見逃さなかったら、この試合も1−1の同点でPK戦にもつれ込んでいたかもしれない試合であった。
その日の夕方に行われた最後の準々決勝は、ベルギーのフランク・フェアコーテレンの左クロスをジャン・クーレマンスが頭で合わせて先制すると、その後スペインが猛攻をかけ、フリーキックからビクトールが戻したボールをファン・アントニオ・セニョールのロングシュートで追い付き、PK戦になった。ちょうどスペインのサポーターが詰め掛けているスタンドの前にあるゴールで行われたPK戦で、ベルギーの名物キーパー、ジャン=マリー・パフが、サポーターを挑発して、楽しんでいた。ベルギーが全員決めたのに対して、スペインはホセ・エロイがはずし、この大会三試合目のPK戦はベルギーが勝って、準決勝に進んだのだ。
ベルギーは、準決勝ではパフがマラドーナの個人技に振り回されて完敗、結局三位決定戦でも若手主体のフランスに敗れて四位となったが、考えてみれば、ベルギーはヨーロッパ地域予選では、オランダとのプレーオフを最後のアウェーゴールのおかげで勝ち抜いてきたチームだ。そして、メキシコでの本大会の一次リーグでも、メキシコに1−2で敗れ、イラクに2−1で辛勝し、パラグアイと2−2で引き分けるという、不甲斐ない成績の三位でようやく決勝トーナメントに進み、一回戦で好調のソ連を、乱戦に持ち込んだ末に4−3と破って、とうとう準決勝まで上がってきたのだ。
優勝候補にまでは挙げられないけれども、名監督のグイ・ティスに率いられたベルギーはいつでもワールドカップでは善戦する、やたら勝負強いチームだった。ティスは、名将レイモン・ゲータルスの後を継いで、一九七六年に代表監督に就任すると、一九八〇年のヨーロッパ選手権では大ベテラン、ヴァンムールを押したてて準優勝させ、一九八二年、一九八六年のワールドカップに参加。一九八二年大会では開幕戦で前回優勝のアルゼンチンを破って二次リーグに進出、一九八六年には四位という成績を残した。さらに、一九八九年にいったん退いてワルター・メーウスに監督の座を譲ったが、メーウスがチーム作りに失敗すると、一九九〇年大会のわずか三カ月前に監督に復帰。決勝トーナメントに進出して、一回戦でイングランドに対して押し気味の試合をしながら、延長終了の寸前にプラットにボレーシュートを決められて涙を呑んだ。さらに、監督がパウル・ヴァンヒムストに交替した一九九四年大会でも、ベルギーは決勝トーナメント一回戦でドイツに善戦しながらも、2−3で惜敗する。
ベルギーは、北部はオランダ系のフラマン語を話す人々、南部はフランス系のワロン語を話す人々が住む、代表的な二言語国家だ。オランダ、フランスともに地続きだが、しかし、オランダやフランスに統合すべきだということにはならずに、ベルギーはベルギーで独立の地位を保っているのだ。サッカーでも、オランダの力強さとフランスの芸術性を併せ持っている。さらに、大きな炭鉱が多かったベルギーには、炭鉱労働者として、ヨーロッパ各国から出稼ぎ移民が入っており、彼らの二世、三世も多い。たとえば、メキシコ大会からアメリカ大会まで三回のワールドカップに出場したビンチェンツォ・シーフォはイタリア系だったし、一九九四年大会のメンバー、アレクサンドル・チェルニアティンスキはポーランド系だ。シーフォはイタリア国籍も持っていたが、生まれ育ったベルギー代表でプレーすることを選択していた。
メキシコ大会は準々決勝四試合中三試合がPK戦となったのだが、しかし、この大会ではPK戦批判の声はあまり上がらなかった。PK戦となった三試合が、西ドイツ対メキシコはともかくとして、いずれも攻め合いの好ゲームの末のPK戦だったからだろう。
イタリア大会がつまらなかった理由
PK戦に対する批判が一気に高まったのは、イタリア大会からだった。それは、最初からPK戦を狙って守りを固め、PK戦を利用して勝ち進んだチームがあったからだ。アイルランドとアルゼンチンである。
アイルランドは、一九九〇年イタリア大会で、ワールドカップ初出場を決めた。
イタリア大会一次リーグのF組は、それぞれ二試合ずつ終わって、すべてのゲームが引き分けという大混戦となった。アイルランドは、イングランド、オランダに対してはとうてい実力ではかなわないから、守り切る作戦に出た。それも、戦術がどうという守りではなく、ただただ蹴り返すことで、90分もたせようというのだ。だが、皮肉なことにイングランド、オランダ相手には、相手のミスを拾ったような点だったが1点ずつ奪ったのに、エジプトには無得点で、アイルランドは三戦三引き分け、得点2、失点2で、オランダとまったく同じ成績ながら、抽選で二位となって、決勝トーナメントに進んだのだった。
一回戦の相手は、ルーマニア。アイルランドは、この試合でも徹底的に守り、結局延長まで120分間双方無得点で引き分け、PK戦をものにして、準々決勝進出に成功する。なんと、四試合で四引き分け、得点2、失点2という成績で、ワールドカップのベスト8にまで進んでしまったのだ。準々決勝は、首都ローマでの地元イタリアとの対戦となり、例によって守りを固めたものの、スキラッチに奪われた1点に泣いて、アイルランドはベスト8の成績で帰国の途についた。もし、準々決勝のイタリア戦でも守備作戦が成功して、万一PK戦でイタリアを破ってしまってでもいたら、アイルランドは非難の的になっていたことだろう。四年後のアメリカ・ワールドカップでも、アイルランドは一次リーグE組でいきなりイタリアを破り、このグループを大混戦に持ち込み、またも決勝トーナメントに進んで、一回戦でオランダに敗れ去った。
アイルランドのような、ワールドカップ初出場の弱小国が守りを固めて、引き分けを狙うというのは、仕方がないことかもしれない。イタリアのように、優勝を狙うために一次リーグで手抜きをして、引き分けで辻褄を合わせて、決勝トーナメントに出てくるのとは違うのだ。
ところが、アルゼンチンのような前回優勝の強豪チームが、引き分け、PK戦狙いで勝ち進んできたら、反応は違ってくる。もともと、ヨーロッパでも、南米でも、アルゼンチンは嫌われている。南米の中で、白人人口が圧倒的で、経済的にも最も豊かな国であるので、他のラテンアメリカ諸国からはうとまれているし、ヨーロッパでは政治的に親ファシスト的だったことや一九七〇年代の軍事政権の人権抑圧のイメージも強い。そして、サッカーの世界でも、一九六〇年代にリベルタドーレス杯で優勝して、ヨーロッパ・カップ優勝チームとインターコンチネンタル・カップを争ったエストゥディアンテスやインデペンディエンテが、守備的で、ラフな試合をしたことが、悪いイメージを生んでいた。また、マラドーナの「神の手」のゴールも、イングランドでは、きわめて評判が悪かった。南米の基準でいえば、「そういったトリックもサッカーのうち」なのだが、イングランドではそういう意味でのフェアプレーには非常にうるさいのだ。一九七八年大会では、メノッティ監督が、インテリジェンスに溢れたクリーンなチームを作って優勝を遂げたが、この時も、軍事政権のイメージやペルー戦の八百長疑惑があって、アルゼンチンのイメージは必ずしも、好転してはいなかった。
そのアルゼンチンが、イタリア大会でも、マラドーナの二回目の「神の手」でソ連を破って、なんとか生き残りに成功すると、守りを固めて、PK戦に強いキーパーのセルヒオ・ゴイコチェアを活用して、決勝トーナメントを勝ち進んできたのだ。なにしろ、アルゼンチンの監督は、あのヨーロッパでは評判の悪かった一九六〇年代のエストゥディアンテス・デ・ラプラタの中心選手、それもディフェンシブハーフというポジションでダーティーワークを担当していたカルロス・ビラルドなのだ。このチームはラプラタ大学のチームで(「エストゥディアンテス」とは、スペイン語で「学生」の意)、ビラルド自身も当時は医学部の学生で、現在は産婦人科の医者である。ビラルド自身は、コロンビア代表監督を務めて、後のコロンビアの躍進のきっかけを作った優秀なコーチでもあり、非常にまじめな人物であるが、当時のエストゥディアンテスの監督で守備的サッカーの信奉者であるオズバルド・スベルディアの理論を受け継いでおり、やはり守備的なサッカーをする。一九八六年大会でも基本的には相手の良さを殺す、守備的なチームだったのだが、ディエゴ・マラドーナの出来がすばらしかったので、守備的という印象は薄かった。しかし、マラドーナが負傷して動けない状態だったイタリア大会では、守って、PK戦に持ち込むしか勝ち進む方法はなかったのだ。
決勝トーナメント一回戦では、マラドーナのたった一回だけのカウンターでブラジルをしとめ、準々決勝に進出。熱波に襲われたフィレンツェでの準々決勝では、ストイコビッチ、プロシネツキ、サビチェビッチなどがいたユーゴスラビアと対戦し、31分にザバナゾビッチが退場となり、十人になってしまったユーゴスラビアに一方的に攻め込まれながら、なんとか120分間耐えて、PK戦でユーゴスラビアを破ってしまう。そして、ナポリでの準決勝では、またもPK戦に持ち込んで地元イタリアを破り、決勝に進出する。
しかし、ただでさえ負傷者が多い上に、警告の累積や退場で四人の選手が出場停止となってしまったアルゼンチンにとって、堅実に勝ち進んできた西ドイツと優勝を賭けて戦うには、守りを固める以外に道はなかった。ブラジル戦のようなカウンターを使おうにも、トップでマラドーナのパスを受けるはずのカニージャも、準決勝でのまったく無意味なハンドの反則で出場停止になっていた。
それでも、西ドイツがそのアルゼンチンの守備をズタズタに切り裂いてくれていれば、よかったのだろうが、西ドイツの方もまったく最終ラインを突破する形を作れず、惜しいチャンスは後半立ち上がりのピエール・リトバルスキーのシュート一本というありさま。アルゼンチンの思惑通り、延長、PK戦にならなかったのは、メキシコのレフェリー、エドガルド・コデサル=メンデスが誤審を犯して、西ドイツがペナルティキックを得たからだった。もし、この決勝がPK戦となり、アルゼンチンが勝ってしまっていたら、アルゼンチン代表とワールドカップに対して、世界中の非難が浴びせられたに違いない。そう考えれば、コデサル=メンデスは、FIFAとアルゼンチンの名誉のために、すばらしい貢献をしたことになる。
イタリア大会の後、PK戦をなくせという声がヨーロッパのメディアを中心に高まった。だが、それに代わる有力な代案もなく、アメリカ大会でもPK戦は行われることになった。
アメリカ大会は、FIFAにとって、北アメリカにおけるサッカーのPR・普及活動という意味合いもあるのだ。守備的な試合やPK戦が多くならないように、FIFAはバックパスをキーパーが手で処理することを禁止するルールを作ったり、オフサイド・ルールの解釈を変えたりして、攻撃側が有利になるようなルール改正を強引に行った。そのおかげで、アメリカ大会はゴールの数も増え、PK戦も一回戦、準々決勝で各一回ずつしかなかった。FIFAの政策は、一応成功していたわけである。ところが、なんと肝腎の決勝戦で、イタリアとブラジルが、よく言えば「慎重な」、悪く言えば「臆病な」試合ぶりで無得点引き分けの試合を演じてしまったのだ。ワールドカップ決勝戦史上初の無得点引き分け、PK戦である。PK戦は、イタリアの攻守の中心選手、フランコ・バレージとロベルト・バッジョが最初と最後のキックをはずして、ブラジルが優勝する。暑いアメリカ東海岸で、厳しい試合を連続で戦った末に、準決勝の翌日、大陸横断飛行をさせられたイタリアが疲労の極にあり、涼しい西部で、比較的楽な相手との試合を続け、準決勝の後もロサンゼルスでゆっくり休養できたブラジルとの差が出たのだ。勝ちにも美学をもっているイタリアは、もしPK戦で優勝していたとしても喜んだりしなかっただろうが、二十四年ぶりの優勝を狙っていたブラジルは選手も国民もとりあえずは手放しの喜びようだった。ワールドカップに対する執念の差が出たPK戦だったとも言える。
アメリカ大会での攻撃的サッカー
ところで、イタリア・ワールドカップで守備的な試合が多くなってしまったのは、単にアイルランドやアルゼンチンの責任ばかりではなかった。一九八〇年代前半に登場した3−5−2という新しいシステムが、未消化のまま各チームに採用されていたという事情があったのだ。
一九五〇年代に、ブラジルが4−2−4のフォーメーションでワールドカップの王座に就いた。4−2−4自体は必ずしもブラジルのオリジナルではなく、古いところでは、戦前のイングランドのクラブ、ハダースフィールドがこれに似たフォーメーションを使っていたらしいが、それが世界中に流行するようになったのは、やはりワールドカップにおけるブラジルの成功からだった(一九六〇年代ころまでは、ワールドカップが世界のサッカーの戦術に与える影響は非常に大きかった)。だが、一九六〇年代に入ると、中盤を厚くするために4−3−3が主流となり、さらに一九七〇年代には4−4−2のフォーメーションが流行していた。4−3−3だと、相手方の三人のFWに対して三人のDFがマークに付き、残りの一人がスイーパー(リベロ)となることで、攻守のバランスは均衡していたが、双方が4−4−2ということになると、ディフェンダーが二人余ってしまうことになった。これではバランスが悪い。相手のフォワードが二人しかいないのならば、ディフェンダーを四人配する必要はないではないかという考えから生まれたのが、3−5−2なのである。
3−5−2での攻撃のポイントとなるのが、ウィングバックの攻撃参加である。これがうまくいけば、あるいは両軍で十人の選手がひしめく中盤から前方のスペースにうまくボールを持ち出すことさえできれば、3−5−2は攻撃的なシステムと言うことができるのだ。だが、逆に、こういったことがうまくできなければ、人数を増やした中盤での潰し合いが延々と続くだけの、守備的なシステムということになる。相手の二人のストライカーを二人のストッパーがマンマークし、一人がリベロとなり、また中盤にも五人の選手を配置することで、3−5−2は守備が強化されたシステムでもあるのだ。つまり、3−5−2は攻撃的にも守備的にも使える両刃の剣のようなシステムなのである。
一九八四年にフランスで開かれたヨーロッパ選手権から一九八六年のメキシコ・ワールドカップにかけては、デンマークなどが3−5−2をうまくこなしていた。デンマークは、後方でのパス回しからエルケア=ラールセンなどが、ドリブルでぶ厚い中盤を突破するのが巧く、またフランスは4−4−2だったが、相手が中盤に五人の選手を配置していても、例の独特のショートパスを回すことによって、少しずつ相手のマークをはずしながらフリーの選手を作って、スペースを利用することができた。あるいは、西ドイツは左サイドから攻め上がるウィングバックのアンドレアス・ブレーメが強力な武器となっており、3−5−2フォーメーションを最も有効に使ったチームだった。さらにアルゼンチンのビラルド監督も、南米伝統のラインディフェンスを捨てて、3−5−2システムを採用し、相手の良さを潰す守備的なサッカーをしていたが、ディエゴ・マラドーナという天才を擁していたおかげで、そのドリブルあるいはスルーパスによって容易に攻撃の糸口を作ることができていた。システムは守備的でも、マラドーナという天才のおかげでバランスのとれたチームだったのだ。
だが、強豪チームが3−5−2システムで成功するのを目撃して、こうした天才的な選手がいないチームや、パス回しの技術など、3−5−2を有効に使いこなすだけの能力を持たない凡庸なチームまでが、競って3−5−2を取り入れようとするようになり、その結果、うまく攻撃ゾーンまでボールを持ち出せず、中盤での潰し合いに終始してしまうような試合が多くなってきた。これが、一九九〇年のイタリア・ワールドカップのころの状況だったのだ。あのイタリア大会が守備的で、つまらないと言われた基本的な理由は、多くのチームが、どう攻撃につなげるかという課題を克服できないままに安易に3−5−2システムを模倣したことで、中盤の潰し合いに終始する試合が多くなってしまったことにあったのだ。
一九九〇年代に入って、この問題を解決したのが、ボランチによるカバーリングという戦術の徹底だった。
「ボランチ」というのは、「ディフェンシブハーフ」とか「中盤の底」と言われていたポジションの選手のことを指すポルトガル語の表現である。アメリカ・ワールドカップのころに日本でも、この言葉が流行のように使われるようになった。「ボランチ」は、スペイン語では「ボランテ」になるが、スペイン語の「ボランテ」という言葉は、ポルトガル語とは違って守備的ポジションに限らずミッドフィルダー全般を指して使われている。
そのボランチの役割は、中盤で相手の攻撃の芽をつむこと、中盤のスペースを消し、スペースに入ってくる敵のミッドフィルダーをチェックすること、さらにディフェンダーの補助をしたり、ディフェンダーが奪ったボールをつなぐことなど、じつに多岐にわたっているが、そのボランチをうまく使って、サイドバック=ウィングバックが攻撃参加した後のカバーをさせることができれば、天才的能力を持った選手がいなくても、ウィングバックの攻撃参加が容易にできるようになり、普通のチームでも3−5−2をこなせるようになる。一九九〇年代に入ると、そのことが明らかになってきたのだ。
3−5−2で、ボランチがカバーリングの約束事をきちんと実行すれば、ウィングバックは自分が攻め上がった後の敵のカウンターを恐れずに攻撃に出られるし、もともとサイドバックの位置よりも高い位置にポジションをとれるようになり、サイドバックの位置から上がるよりも攻め上がる距離も短くてすむ。したがって、ブレーメのような、天才的な能力を持った選手でなくても、サイドからの攻撃に積極的に参加できるようになったのだ。これが糸口になって、各国がウィングバックの攻撃参加を生かした試合をするようになり、あのイタリア大会のころのような、陰鬱なサッカーから、より攻撃的な試合が見られるようになった。それが、アメリカ大会での攻撃的サッカーの増加につながったのだ。
ところが、FIFAの思惑は最後にはずれて、決勝がPK戦になってしまった。PK戦で世界チャンピオンが決まるとは、驚くべきことだった。一九八二年大会までは、決勝戦が引き分けとなった場合は、決勝に限って再試合ということになっていた。それが、日程の関係などで一九八六年メキシコ大会から、引き分けの場合はPK戦ということになったのだ。一九七八年の決勝戦、アルゼンチン対オランダの試合は、1−1で延長に入ったが、六月二十五日日曜日の決勝でもし引き分けになった場合は翌々日の二十七日火曜日に再試合ということになっていた。試合が延長に入る前に、「再試合の場合の入場券は、試合終了後にスタジアムで売り出す」という内容の場内アナウンスまで行われていた。
さらに、遠い昔は、引き分けとなった場合は、決勝に限らずすべて再試合が行われていた。当時の大会の日程はかなり余裕があり、たとえば第二回イタリア大会など準決勝から決勝まで一週間開いていたくらいだから、再試合の余地もあった。また、現代の運動量の多いサッカーとは違って、再試合をやることにあまり抵抗はなかったのであろう。たとえば、そのイタリア大会の準々決勝でのイタリアとスペインの試合などは、1−1で引き分けた翌日に再試合をやっている(1−0でイタリアの勝ち)。もっとも、この再試合でスペインには負傷者が多く、最初の試合のメンバーのうち七人が出場できず、とくに伝説的な名キーパーのリカルド・サモーラの欠場が響いたらしい。まして、現代のような運動量の多いサッカーでは、とても再試合は不可能だ。
ワールドカップで、引き分けの時にPK戦によって次のラウンドに進むチームを決めるという方式が採用されたのは、一九八二年大会からのことだった。では、その前はどうなっていたのだろう。そこで、過去の記録を調べてみると、不思議なことに決勝トーナメントにおける引き分けは、何十年の間一度もなかったのである。一九七四年大会と一九七八年大会では、二次リーグという方式が採用されたから、決勝戦と三位決定戦を除いて、引き分けはそのまま引き分けとなった。また、戦後最初の大会である一九五〇年のブラジル大会は、ベスト4以降がトーナメントではなく決勝リーグという形で行われたから、同点なら引き分けでいい。だが、次の一九五四年スイス大会から一九七〇年メキシコ大会までは、ベスト8以降は、決勝トーナメントという形で行われていた。決勝トーナメントの試合は、各大会八試合ずつ、つまり一九五四年から一九七〇年の間に、決勝トーナメントの試合は四十試合もあったのだが、驚いたことに、引き分けになった試合は一回もなかったのである。
ちなみに、戦前の三回の大会では、第一回大会の決勝トーナメント三試合では引き分けは一試合もなかったが、一九三四年の第二回大会では十六試合中で一試合、一九三八年の第三回大会では十六試合中で三試合あり、この第二回、第三回の合計四試合については、再試合が行われている。第二回、第三回大会は、一次リーグは行わず、参加十六チームによるノックアウト式トーナメントで優勝を争った。
いったい、なぜ戦後の大会ではずっと引き分けがなかったのだろうか。考えられる理由は、昔のサッカーは現在よりも攻撃的で、点がたくさん入ったから、引き分けが起こりにくかったのではないかということだ。そこで、各大会の決勝トーナメント以降のゴール数を調べてみた。すると、たしかに決勝トーナメントの平均得点数は時代とともに減っているようである。ただし、準々決勝に限ってみると、それほど変化はないような気もする。それに、攻撃的サッカーなら引き分けが少なくなるかと言えば、必ずしもそういうこともないだろう。とすれば、一九八二年大会以降、急に引き分けの試合が増えてしまったのは、PK戦というシステムが採用され、PK戦まで含めて一つの試合であるという意識が芽生えてしまったからなのではないだろうか。引き分けの場合、抽選になるとすれば、抽選の結果は自分たちの力では左右できないものだから、選手たちも、コーチも、できるだけ避けたいと思うだろう。だが、PK戦は、自分たちの技術で決められるものだ。だとするなら、同点で延長に入った場合、リスクを冒すよりも、より慎重に戦いを進め、PK戦で勝負しようという意識が生まれるのではないだろうか。ましてや、戦力的に自分たちのチームが劣っているとか、ペナルティキックに強いキーパーがいるというチームなら、なおさらである。
PK戦は必要悪だし、PK戦にも、たしかにドラマはある。だが、サッカーという試合のドラマを見たいから、人々は競技場に詰め掛けるのだ。あのフランス対ブラジルのような、ドラマチックな試合の後のPK戦なら歓迎だが、試合の内容の記憶はなく、ただPK戦の場面だけが記憶に残っているような試合だけは、ご免こうむりたいものである。

第十章 三位決定戦 決勝前日の余興?
準決勝が終わると、決勝戦の前日に三位決定戦が行われる。ワールドカップと同じくFIFA主催の世界選手権大会であるU−17世界選手権、ワールドユース(U−20)、そしてオリンピック(U−23)にも、それぞれ三位決定戦という試合はあるが、その他のサッカーの国際大会では、三位決定戦は行われないことが多い。ヨーロッパ選手権、南米選手権、各種のクラブカップ、アジアやアフリカの大陸選手権、そして国内のカップ戦などには三位決定戦はない。
何年にもわたる準備と、大会前と大会中の二カ月近い合宿を通じて目標としていたワールドカップ優勝の可能性が準決勝で|潰《つい》えてしまった選手たちが、疲れきった体と心に鞭打って、もう一試合戦わなければならないのだから、これはずいぶん残酷な試合である。もう、どちらが勝っても、誰も興味なんかないような状況だ。
三位決定戦は、本当に必要なのであろうか?
たとえば、一九九四年ワールドカップの三位決定戦ではスウェーデンがブルガリアを4−0という大差で下してしまったが、ブルガリアにとって、この試合はまったく無意味で気の乗らない試合だった。
そもそも、ブルガリアの選手たちは、帰国がこんなに遅くなるなどとは、誰も考えてもいなかったことだろう。いつものブルガリアなら、一次リーグが終わる六月三十日あるいはせいぜい決勝トーナメント一回戦(ブルガリアにとっては、一勝もしないまま決勝トーナメントに進出した一九八六年の一回戦敗退が過去最高の成績)が行われる七月初旬には帰国の途につけるはずだったのだ。しかも、ブルガリア代表選手の半数以上が、ドイツやスペインなど、西側各国のクラブでプレーしていた。外国のクラブでの長く厳しいシーズンを終え、すぐにワールドカップに出場し、これが終われば故国に帰ってゆっくり休養できると、選手たちは帰国を楽しみにしていたはずだった。
それでも、もちろん、優勝目指して勝ち進んでいるうちはいい。だが、ニューヨークで行われたイタリアとの準決勝に敗れたブルガリアの選手たちは、失望を味わった準決勝の翌日に、故国のブルガリアとは正反対の西の方向に向かって五時間もの飛行時間をかけてロサンゼルスまで移動しなければならなかったのだ。そして、中二日とはいっても、一日は移動でつぶれるから、実質的にまる一日の休養で、慣れないスタジアムでの三位決定戦に臨まなければならなかった。
決勝に進んだイタリアも、準決勝の翌日移動だから大変だが、イタリアはその後二日の休養(準備)日があるし、何よりも「優勝」という目的があるから、まだいい。こうして、ブルガリアは気の進まないままにスウェーデンと戦って、大敗を喫してしまうのである。
ブルガリアにとって、このワールドカップはまさに歴史的な大会となった。緒戦こそナイジェリアに完敗してしまったが、一次リーグの第二戦でギリシャを破って、一九六二年に初めてワールドカップに出場して以来十八試合目にしての初勝利を経験した。
これまでにも勝てそうな試合は何試合かあった。一九七四年大会のウルグアイ戦では、勝利まであと一歩というところまで漕ぎつけていた。75分のエース、フリスト・ボネフのシュートでリードしたまま、終了直前まで進み、ついに初勝利かと思わせながら、結局あと5分という時間に、リカルド・パボーニのゴールで追い付かれて勝利を逃したのだ。あるいは一九八六年メキシコ大会では、韓国に対して11分にプラメン・ゲトフのゴールで先制して、今度こそと思わせながらも後半25分、|金鍾夫《キムジヨンブ》に同点とされるなど、ブルガリアはどうしても本大会では勝てなかったのだ。
しかし、アメリカ大会のブルガリアは、一勝では終わらなかった。ドーピング問題でマラドーナが抜けてしまったアルゼンチンを破って決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメントでは一回戦でメキシコをPK戦の末で破って、準々決勝に進出。準々決勝では、ペナルティキックで先制されながらも諦めず、フリスト・ストイチコフのフリーキックで追い付き、ヨルダン・レチコフのヘッドで逆転して、ディフェンディング・チャンピオンのドイツまで破ってしまったのだ。
準決勝ではイタリアに先制パンチを浴びて、1−2で敗れ、あのフランスとの予選最終戦ロスタイムのゴール以来のブルガリアの大冒険は終わったのだが、ブルガリアサッカー始まって以来の快挙であることは間違いない。いや、ヨーロッパの東の隅にひっそりと暮らす、この南スラブ系のブルガリア人、広大な領土を獲得したこともなければ、世界を戦争に巻き込むような大英雄を生んだわけでもない彼らにとって、世界の舞台で名を売り、ドイツ、イタリアといったヨーロッパの強大な民族と互角に戦うなどということは、何世紀に一度という歴史的な事件である。準決勝のドイツ戦のキックオフの前に、ニューヨークのジャイアンツ・スタジアムの記者席でブルガリア人の老記者が、ブルガリア正教会式に複雑な十字を切って神に勝利を祈っていた真剣な顔が忘れられない。ブルガリア人にとって、古代トラキア人がローマ帝国の支配に抵抗して以来の、あるいは中世にバルカン半島で一大王国を築いて以来の大事件だったのだろう。ブルガリア国内では凱旋式典の準備が整って、ストイチコフをブルガリア正教会の聖人に列すべきだという話まで流れていた。準決勝で敗れた後、ブルガリアの人々は一刻も早い英雄たちの帰国を望んでいたし、選手たちも帰国を待ち望んでいた。
しかし、彼らの帰国は延ばされた。三位決定戦のためにアメリカ大陸を横断しなければならなかったからだ。
東ヨーロッパ勢の活躍
一九九四年アメリカ・ワールドカップでは、東ヨーロッパ勢が大活躍した。ベスト4に入ったブルガリアと、ベスト8進出のルーマニアの二カ国である。東ヨーロッパ諸国は、第一回ウルグアイ大会に、ルーマニアとユーゴスラビアが参加するなど、ワールドカップではこれまでもずいぶん活躍してきた。優勝こそないものの、チェコスロバキア(一九三四年、一九六二年)、ハンガリー(一九三八年、一九五四年)の両国が二回ずつ準優勝を経験しており、その後も決勝進出こそないが、一九六六年のソ連、一九七四年のポーランド、一九八二年のポーランド、そして一九九四年のブルガリアと、準決勝にはコンスタントに出場している。東ヨーロッパ勢は、ワールドカップの歴史の中で無視できない実績を上げている。
東ヨーロッパと一口に言っても、スラブ系からラテン系(ルーマニア)、さらにアジア系(ハンガリー)など、民族的にも歴史的にも多様な国々であり、「東欧」と一言では言えないが、彼らのサッカーのスタイルには共通して非常に高い個人技とカウンターアタックの巧さが基本にある。
たとえばポーランドは、スピードを生かしたカウンターアタックが武器だ。ポーランドは、一九七四年の西ドイツ大会で三位に入って世界に強烈にアピールしたが、この大会ではフォワード陣に、グジェゴーシュ・ラトー、ロベルト・ガドハ、アンジェイ・シャルマッハという、いずれも俊足の選手をそろえて、破壊的な攻撃力を持っていた。三位決定戦のブラジルとの試合での決勝点は、ハーフラインより手前でパスを受けたラトーが、まっすぐゴールに向けて全速力のドリブルで抜け出したものだった。ドリブルの途中でブラジルの選手がブロックに来ると、ラトーはドリブルのコースのすぐ内側に寄ってきたズジスラフ・カプカにパスを渡すような顔をしてボールを出す。カプカはオフサイドの位置にいたので、線審はフラッグを上げた。しかし、一瞬ディフェンダーの足が止まったところを、ラトーが自分で抜け出して、飛び出してくるキーパーのレオンの脇を抜けるシュートを決めた。自分で出したボールを自分で受けたのだから、これはドリブルであり、カプカがオフサイドの位置にいても、反則にはならないのだ。
選手の顔ぶれが変わっても、ポーランドのプレースタイルは変わらない。二十年近く経った一九九二年のバルセロナ・オリンピックでも、ポーランドはツートップのヴォイチェク・コワルチク、アンジェイ・ユスコウィアク、第二列から飛び出しを見せるリシャルド・スタニエク、マレク・バヨールなどのスピードで銀メダルを獲得したが、その試合ぶりは、一九七〇年代のポーランドそのままだった。
ただし、気をつけないといけないのは、ポーランドのカウンターはスピードだけに頼っているのではないということだ。いかに足が速くても、スピードだけで点が取れるほど、ワールドカップは甘いものではない。スピードの裏には、様々な技巧が凝らされているのだ。一つは、相手の中盤でのプレスの中で、俊足フォワードの足元にパスを出す選手のテクニックだ。一九七四年、一九七八年大会では、中心選手はカジミエジ・デイナだった。そして、もう一つは、ブラジルに対する1点の時に、ラトーとカプカが見せたような、ドリブルで走る選手とそれをサポートする選手のコンビネーションだ。内側からサポートに寄った選手にパスを出したり、パスを交換したり、さらにその選手を|囮《おとり》にして、自分で突破するなど攻めに変化をつける。
スピードの緩急というのはドリブルの基本の一つだが、ドリブルする選手が一人走るスピードに緩急をつけるだけでは、ディフェンダーは対応しうるかもしれない。だが、そのドリブルにサポートが付き、そのサポートの選手とパス交換をするようなフェイントで緩急をつけると、その効果は一層高くなる。
ポーランドは、東ヨーロッパの中でも最もスピードのあるカウンターをするが、他の国もカウンターは得意である。一九九四年アメリカ・ワールドカップ一次リーグA組緒戦のコロンビア対ルーマニアは、両国の特徴を発揮し合った非常に面白い試合だった。コロンビアは、南米の中でも今や古典的とでも言うしかないような個人技を生かしたサッカーをする。とくに、カルロス・バルデラマが立ったままボールをキープし、フェイントを一発かけただけで、簡単なインサイドキックで味方にパスをする、そのタイミングの絶妙さには目を見張るものがある。そして、まるで意地になっているかのように、コロンビアは個人技を見せ付ける。だが、これに対して、ルーマニアは長いパスを通すカウンターで対抗する。コロンビアが攻め込んでいながら、たちまち30分くらいのうちにルーマニアが2点をとってしまうのである。それが、単純な|抛《ほう》り込みや、走るスピードのカウンターではなく、スペースに出る味方の走りと、そこに合わすパスの絶妙のタイミングがすばらしかったのだ。バルデラマの場合、「静」の中での個人技、つまり、「どうして、あんなゆっくりしたパスが簡単に足元に通ってしまうのか」という驚きなのに対して、ルーマニアの場合、「どうして、あれほど大きく、速く動きながら、絶妙のタイミングで正確にスペースにパスを通せるのか」という驚きだった。
決勝トーナメント一回戦でアルゼンチンを破った時のルーマニアのカウンターも、これもじつに見事なものだった。スペースに走り込む味方に、正確なパスが通り、スピードドリブルで崩す間に味方がサポートし、そこで短いパスの交換があって、それがタメを作って、最後はフリーで抜け出せる。とくに、自陣深いところからスピードドリブルで上がったイリエ・ドミトレスクが、一度スピードを落として、アルゼンチンのディフェンダー二人をひきつけ、右からフリーで上がってきたゲオルゲ・ハジにラストパスを通した57分の3点目は圧巻だった。
東ヨーロッパの選手のパスは、相手と味方の選手の走るコースを計算しつくしたものだ。たとえば、左サイドでボールをキープしていたとしよう。中央から味方が一人サポートに寄る。そして、その味方には敵のマークがついている。そのサポートに入る選手のコース取りによって、敵のディフェンダーの手前にパスを送ることもありうるし、敵の向こう側にパスのコースを作ることもできる。さらに、そのディフェンダーの外側のスペースにも、さらに別の味方の選手が走り込んでいて、そこにもディフェンダーがもう一人ついているとすると、そのディフェンダーの手前と外にもパスのコースができる。これに加えて、ボールを持っている選手が自分でドリブルで抜けるというオプションも含めて、パスのコースは無限に生まれてくるのだ。東ヨーロッパの選手は、ボールを持っている選手も、ボールを受けようとサポートしている選手も、こうしたパスのコースのイメージがじつに多彩なのだ。それによって、パスのコースは多様になり、さらにそのパスにタイミングの要素が加わり、観客席で見ているわれわれにとっても驚くような、深さのあるパスで相手の背後をえぐることができる。
前にも述べたように、ブラジルのドリブルというのは、体を大きく左右に動かし、一発の大きな切り返しで、相手をはずす。そして、アルゼンチンのドリブルというのは、小さな、細かなボールタッチでボールのコースを微妙に変えながら、相手のそばをすり抜ける。あるいは、フランスの選手は、ボールの勢いを完全には止めないで、ボールを動かしながら、体を入れ替えて、角度を付けたパスを出せる。このように、ボールの持ち方、ドリブルのフェイント一つとっても、国によって大きな違いがある。そこが、サッカーの面白いところなのだ。東ヨーロッパのドリブルやフェイントも、非常に高いレベルにあり、またそのスタイルも、ボールを動かし、足のアウトサイド、インサイドを使い分けた、非常に古典的なフェイントをかける。そうしてキープしておいて、パスのコースを探して、相手の裏のスペースをえぐるパスを入れるのだ。
ユーゴスラビアのボールテクニックの高さを形容して、よく「東欧のブラジル」といった言い方をするが、ユーゴスラビアはユーゴスラビア。ブラジルのボールの持ち方、ブラジルのフェイント、ブラジルのスルーパスとは、まったく違うスタイルなのだ。東ヨーロッパの各国が持っている様々な要素(たとえば、ポーランドの速攻、チェコやハンガリーのショートパス等々)を併せ持っているのがユーゴスラビアなのだとも言える。ユーゴスラビアは民族構成が複雑なので、サッカーの面でも、いろいろな国のサッカーの要素が混じり合っているのかもしれない。
その意味でも、一九九四年アメリカ大会に(旧)ユーゴスラビアが出られなかったのは残念なことだった。ユーゴスラビアは、東ヨーロッパの中でも最も伝統のあるサッカー大国だった。第一回のウルグアイ大会から出場し、一九九〇年のイタリア大会までの間に八回出場、そのうち七回はベスト8に残っている。その後、一九九八年フランス大会では決勝トーナメント一回戦で敗退し、ワールドカップの総合成績は三十七試合で十六勝八分十三敗となった。これは、優勝経験のある六カ国とソ連、フランスに次ぐ第九位の成績だった。オリンピックでも、一九四八年ロンドン大会から一九六〇年のローマ大会まで、四回連続で決勝に進出している(優勝はローマだけ)。
昔からタレントの宝庫と言われていたが、一九八七年にチリで開かれたワールドユースで優勝した時には、ロベルト・プロシネツキ、ズボニミール・ボバン、ダヴォール・シュケールなどがそろっていた。プロシネツキは、出場停止で決勝に出られなかったにもかかわらず、この大会の最優秀選手に選ばれた。翌年のソウル・オリンピックには、このワールドユース組より年長のドラガン・ストイコビッチやデヤン・サビチェビッチなども加わり、その選手たちが一九九〇年のイタリア大会にそろって出場したのだ。一九九〇年大会のハイライトは、準々決勝のアルゼンチン戦だった。熱波に見舞われたフィレンツェでアルゼンチンと対戦したユーゴスラビアは、31分にマラドーナをマークしていたレフィク・ザバナゾビッチが退場になって、一人少なくなってしまったものの、ストイコビッチからの東欧独特の斜めのパスがアルゼンチン・ディフェンスをえぐり、プロシネツキとサビチェビッチのドリブルがアルゼンチンの守備を切り裂いた。この試合は、結局無得点引き分けに終わり、PK戦で敗れたものの、ユーゴスラビアの底力を見せつけた。このチームが、あと四年経って熟成した時は、ワールドカップ初優勝も夢ではないと思わせたのだ。
だが、イタリア大会の前年に東欧革命が起こり、東ヨーロッパ各国の自由化が始まると、ユーゴスラビアでは、東部のセルビア対西部のスロベニアおよびクロアチアの民族対立が始まっていた。民族の|坩堝《るつぼ》と言われる東ヨーロッパだが、とくにユーゴスラビア連邦は、「一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国」と言われる複雑な国だった。その複雑な国家を統合する力となっていたヨジプ・ティトー大統領が亡くなり、また冷戦構造が崩れてくると、より豊かで、西欧的なスロベニア、クロアチアと、比較的貧しく東欧的なセルビアとの対立が激化し、ついには内戦状態にまで発展してしまった。結局、旧ユーゴスラビアの各共和国は独立し、セルビアとモンテネグロ共和国が新ユーゴスラビア連邦を結成するのだが、この結果ユーゴスラビア代表チームは崩壊してしまう。一九九二年のヨーロッパ選手権予選に出場した新ユーゴスラビアは、クロアチアやスロベニアの選手は使えなかったにもかかわらず、予選を無敗で通過した。しかし、内戦が激化して、ヨーロッパ選手権開幕の半月前には国連がスポーツを含むあらゆる分野での新ユーゴスラビアとの交流を禁止する決議七五七号を採択し、ユーゴスラビアはヨーロッパ選手権には出場できず、ユーゴスラビアに替わって出場したデンマークが優勝してしまう。
この交流禁止で新ユーゴスラビアは、アメリカ・ワールドカップの予選にも参加不可能になり、また新たに独立したクロアチアやスロベニアも、FIFA加盟がアメリカ大会のエントリーに間に合わず、旧ユーゴスラビアの各国はすべて、一九九四年アメリカ大会には参加できなくなってしまったのだ。
さて、三位決定戦の話に戻ろう。三位決定戦は、観客にとっても、必要な試合ではない。明日は、いよいよ四年間待ちに待ったたいへん重要なワールドカップ決勝があるというその前日に、あまり意味もないような試合を見ても楽しくもない。一九九四年大会のように、決勝と同じ会場で行われるのならともかく、一九八二年や一九八六年、一九九〇年のように、決勝の会場から何百キロも離れたスタジアムで行われるとなると、わざわざ足を運ぶ必要があるのかどうか、悩むところである。
筆者は、一九八二年から一九九〇年までの三回のワールドカップで、三位決定戦を見に行ったのはたった一回、メキシコ大会だけだった。それも、試合を見たいという気持ちよりも、三位決定戦が行われるプエブラ市(メキシコ市からバスで三時間ぐらい)の名物、モーレ・ポブラーノを食べたい一心からだった。モーレは鳥肉に独特のソースをかけた料理で、チョコレート味の甘みとシナモン、ニッキなどの辛さが一体となった、じつに不思議な食べ物だが、メキシコの人たちでも、わざわざ本場プエブラまでそれを食べにでかけるのだというので、プエブラでの三位決定戦を見てから、午後遅い昼食にしようと考えたのである。料理自体は美味だったが、同じようなことを考える人間も多いとみえて、レストランは超満員で、店の外の路上に大勢客が待っている始末だった。
三位決定戦に力を入れていなかったのは観客だけではなく、フランスチームも同じだった。試合はフランスが延長戦の末、3−2で勝って三位になったのだが、試合終了後の表彰式にプラティニは、ブルーのユニフォームではなく、なんとピンクのシャツを着て現れた。フランスは、バツ、プラティニ、ロシュトーなどはお休みで、ジェンジーニ、ベローヌ、そしてパパンなどといった次代を担う若手を出してきたのだ。二年前のヨーロッパ選手権に優勝し、優勝候補としてメキシコに乗り込んできたフランスにとっては、三位決定戦などは気乗りのしない単なるセレモニーにすぎなかったのだろう。
一方、ベルギーにとっては準決勝進出は願ってもない好成績だった。至上最高の三位に入ってサッカーの歴史に名を残すべく、ほとんどフルメンバーでフランスに挑んだのだが、延長の末に敗れ去ってしまった。
一九九八年のフランス・ワールドカップの三位決定戦も、やはり出場した両国のモティベーションに大きな差のある試合だった。
優勝を狙っていたオランダにとっては、準決勝のブラジル戦でPK戦の末敗れたのは大きな痛手であり、メンバーこそそれほど落としはしなかったものの、それまでのフォーバックをスリーバックに変えて、自由なサッカーを楽しんでいた。そもそもオランダ人は、三位決定戦などで頑張ったりするメンタリティーの持ち主ではない。一方のクロアチアにとっては、ユーゴスラビア連邦から分離独立して以来初めて出場したワールドカップであり、クロアチアという国の存在を世界に知らしめるためにも、ぜひとも勝って三位の座を確保したかっただろう。こちらは、まじめに、クロアチアらしい戦いをして、2−1でオランダを破った。
この試合は、パリのパルク・デ・プランスで行われた。翌日の決勝は、パリ郊外のサン・ドニで行われることになっていたから、まさに前日の余興としてはすばらしいものを見せてもらったことになる。とくにクロアチアの決勝点などは、クロアチアの選手が次々とスペースに入り込み、正確なパスを回し、最後はシューケルがシュートのタイミングをちょっとずらすことによって、相手ディフェンダーの股間を抜いた見事な得点だった(シューケルは、この一ゴールで得点王の座を確実にした)。
一九八六年のフランス対ベルギーもそうだったし、一九九〇年のイタリア対イングランド、そして、一九九八年のクロアチア対オランダなど、お互いに勝負は重要ではなくなってしまった三位決定戦は、開幕戦とか決勝戦とは違って、オープンな攻め合いで面白い試合になることも多いから、余興としては最高だとも言えるのである。

第十一章 決勝戦 夢から覚める時
三位決定戦が終わると、決勝戦の朝がやってくる。決勝戦の朝には、独特の感慨が胸に去来する。「今日の試合で世界一が決まる」という高揚した気分と、「これで四年間楽しみにしていたワールドカップも、もう終わりになってしまうのだ」という寂しさ、あるいは「一カ月にも及ぶ厳しい日程の旅行も無事に終了することができた」という安堵感、そうした様々な感情が入り交じって、朝が明ける。試合前の緊張感とは違う。何か、一種の解放感に包まれるのである。地域予選の時の、胸が締めつけられるような緊張感もないし、本大会の一次リーグの時にずっと感じている倦怠感もない。つい数日前に終わった準決勝までのような重苦しさもない。自分が、ワールドカップ決勝には関係のない日本人だからそう感じるのだろうか。いや、何かスタジアム全体が、緊張感というよりも、祭りを楽しむような解放感に包まれているように思えるし、もしかしたら、フィールドに立っている選手自身も、それを感じているのかもしれないとさえ思うのだ。
地域予選は、本当に結果がすべてだ。予選で負けたら、どんなに内容のいい試合をしていたとしても、すべてが無になってしまう。予選で負けたチームが英雄視されて、もてはやされるなんていうのは、極東の島国だけの話だ。勝てば面目が保て、負けたら地獄という試合が予選の試合である。また、地域予選はホーム・アンド・アウェーで行われるのが基本だから、選手たちにとっても、またサポーターたちにとっても、常日頃試合をしている、戦い慣れた会場での試合となる。まさに、「ハレ」ではなく「ケ」。どこまでも日常的な試合なのだ。祭りの要素なんて、まったくありはしない。
本大会に入ると、日本人が一九九八年六月十四日のトゥールーズで経験したように、一次リーグの試合でも、弱いチームにとっては祭りになる。アウトサイダーにとっては、本大会に出られたというだけでも、あるいはブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツなどと真剣勝負の場で試合ができるだけでも、満足しなければならないだろう。だが、強豪にとっては、一次リーグの間は祭りどころではない。なるべく無駄な消耗を避けながら、必死で挑みかかってくるアウトサイダーたちの挑戦を退け、駆け引きや勝点、得失点差の計算をしながら消化する三試合なのだ。舞台にしても、一次リーグの試合では、小さなスタジアムが使われることも多いし、地元チームではないのだから、必ずしも満員というわけでもない。ワールドカップの試合がどの試合もすべて満員になるのは、アメリカや日本のようなサッカー後進国だけだ。イタリアのような国では、「一次リーグの試合なんか、ふだんの国内リーグよりつまらないに決まっている」というわけでガラガラの試合もある。とても、まだ本格的な祭りになどなりはしない。
決勝トーナメントに入ると、今度は真剣勝負が始まる。弱い相手に寝首をかかれ、一次リーグ敗退となるのもなんとも格好悪いが、伝統の強豪同士の試合も、意地があるから、どうしても負けたくはない。決勝トーナメントとは言っても、一回戦や準々決勝で負けてしまっては、まったく名誉になどなりはしない。ワールドカップ優勝経験のあるビッグ4のような国にとっては、準決勝敗退でもとても満足はできない。いや、あと二試合とか三試合勝てば、ワールドチャンピオンになれるという段階にまで来てからの負けは、余計に悔しい。準々決勝とか準決勝も、ある意味では地域予選とは違った意味で、天国と地獄だ。天国が近づいていただけに、そこから突き落とされることは、かなり精神的にこたえてしまう。準々決勝、準決勝の段階までは、祭りというよりもやっぱり真剣勝負なのである。
そして、ようやく最後に「祭り」と呼べる試合がやってくる。決勝まで来れば、たとえそこで敗れたとしても、「ファイナリスト」という名誉が得られる。決勝で敗れたのなら、たとえビッグ4のような国のマスコミでも、それほどひどい非難はしないだろう。それに、この試合は、勝っても負けても最後の試合となる。長い、苦しい合宿と試合が終わるのだ。前年秋の国内リーグの開幕以来、ずっと厳しい試合の連続だった代表選手たちにとっては、ようやく待ちに待った休暇が始まるのだ。
しかも、この最後の試合では、もう駆け引きなどはいらなくなる。準決勝までは、次の試合の対戦相手のことを気にしながらの試合になる。相手に偵察されているのも気になる。次を考えれば、警告を受けて、出場停止になるのも恐い。国内リーグでも、ワールドカップでも、いつも他のチーム、他の会場の試合結果が気になるものだ。国際親善試合だったら、監督にとってはいつも次のタイトルマッチの準備が気になるし、選手にとっては、うまくプレーして次の代表にも招集されるようにしなければといった思惑もある。だが、決勝戦は最後の試合なのだ。世界最高の試合。これは、何かのための準備ではない。これ以上の試合はないのだ。だから、当面の敵に集中すればいい。この一試合にすべてを出しきればいいのだ。これは、楽しい。少年のころ、他のことは何もかも忘れて、そのゲームに集中していたのに近い部分さえある。
一般に、どんな大会でも決勝というのは、勝負にこだわった守備的な試合になってしまうことが多いものだ。そういうゲームのことを、よく「典型的なファイナルマッチだった」などと形容することがある。だが、ワールドカップ決勝戦は、意外にオープンな攻め合いの試合が多いのだ。それは、選手たちも、何か重苦しさから解放されたように感じているからなのではないだろうか。
ワールドカップの決勝は、一九九〇年、一九九四年と二回連続して、守備的な試合だった。二試合合わせて210分間戦って、得点はたった1点。それも、間違いなく誤審だと思われるペナルティキックだけなのだ。この二回は「典型的なファイナルマッチ」だったわけだ。だが、それ以前の大会の決勝は、いずれも「ファイナルマッチ」にしては、よく点が入っている。遡ってみると、一九八六年が両チーム合計で5点、一九八二年が4点、一九七八年が4点、一九七四年は3点とちょっと少なかったが、一九七〇年は5点、一九六六年は6点となっており、最近二回の大会を除くと平均で約四・七ゴールとなっているのだ。そして、一九九八年大会の決勝は再び点の入る試合となり、フランスが3−0でブラジルを破った。たぶん、これもワールドカップ決勝独特の何か特別な解放感のせいであるような気がする。
いよいよ、ワールドカップをリアリズムの視点から見てきたこの本も、決勝戦を迎えたところで、終わりとなる。
野望、希望、欲望、失敗、失望、執念、トリック、反則、悪意、中傷、熱意、努力、暴力、諦め、皮肉……。そういった人間の持つありとあらゆる感情と、人間がなしうるあらゆる美醜両面の行為。そうしたものがない交ぜになり、折り重なって、神の見えざる手による偶然の数々がそれらの断片をつなぎあわせて、全体として一つの大きなドラマを形作っていく。それが、ワールドカップのリアリズムなのである。これは、けっして奇麗事の世界ではない。
これまで、日本人のスポーツ理解は、スポーツというものは「無欲で、さわやかで、純真なものである」、あるいは少なくとも「そうあるべきだ」というフィクションに基づいたものだった。「汗と涙の甲子園」の世界である。純真無垢であるはずの高校球児たちが、実際にはそれほど純真でも、無垢でもないことは、誰もが知っているはずなのに、それには誰もあえて触れようとせず、その汚い部分からは眼をそむけてきたのである。「紳士たれ」と|謳《うた》っているプロ球団が、ドラフト制度の裏をかくために、実際には紳士的でない行動をとったことも、誰もが知っていることなのに、センセーショナルで声高な非難の言葉を投げつけただけで、誰もそのことの意味を深く追求しようとはしなかった。オリンピックには金と利権が絡まり、アマチュアであるはずの陸上競技の外国人スプリンターたちがいろいろな形で高額の出場料をとっているのも、今では公然の秘密になっている。各アマチュアスポーツ団体の幹部たちの汚染ぶりも、週刊誌が面白おかしく暴露するが、話半分としても、世間ではいかにもありそうなことと受け取られている。オリンピックやワールドカップでは、試合開始の時刻のような基本的なことまでも、ビッグマネーを動かせるスポンサーやテレビが牛耳っている。
スポーツ界は、一皮剥けば欲望の渦巻く世界である。なにしろ、一流のトップアスリートにでもなろうという人物の中には、もともと有能ではあるが、自己顕示欲の塊のような人物が、一般社会に比べてはるかに多い。

アマチュア的な、レクリエーションのレベルの競技ならば、スポーツの試合に参加することは楽しみであり、また健康のためにもなるだろう。だが、今日の競技スポーツともなれば、そこに参加することは、楽しいことであるのと同程度に苦しみであり、競技スポーツは多くの場合、選手の健康をむしばむ。要するに、選手たちにとって、競技スポーツに専念することは、多くの犠牲を伴うものである。とすれば、選手たちが物質的、あるいは精神的な報酬(金と名声)を要求するのも当然のことである。選手は、金のため、名誉のため、相手を打ち負かす快感のため、あるいは自己顕示欲のために戦うのだ。
スポーツは純真で、純粋で、さわやかだ。――そんなありきたりの神話を信じなければスポーツを面白いと思えないのは、それはスポーツの本当の面白さをまだ分かっていないからに違いない。スポーツの面白さが分かっているなら、スポーツが純粋だなどという虚構を維持しないでもスポーツを楽しめるはずだ。一般社会と同じだ。きれいな者もいれば、汚い者もいる。競技者としての優秀さと、倫理性はまったく別のことなのだ。麻薬をやっていたディエゴ・マラドーナは、社会人としては欠格者であるのは間違いない。だが、麻薬中毒であろうと、なかろうと、彼がサッカーというスポーツの百数十年の歴史の中で最高のプレーヤーの一人であることに変わりはないのだ。マラドーナという個人の人生なんて知っていても面白くもないが、マラドーナの繰り出す一本のパスの裏には、宇宙の真理みたいなものが潜んでいる。それを見られるから、スポーツは面白いのだ。
裏金がいくら多く動いていたとしても、純粋に金儲けのためにスポーツをやる人はいないだろう。世の中には、もっと確実で、あるいは割のいい金儲けの手段は、(少なくとも先進工業国の場合なら)他にいくらでもあるものだ。なにも、金を儲けるためだけに、スポーツのような割に合わない、確実性の低い職業に就く必要はない。
建前上は「アマチュア」のスポーツでさえ、スキャンダルはあるのだ。たった一人の選手の移籍に関してですら、数億円、数十億円単位での金銭が動くビッグビジネスであるサッカー、その中でも最大規模の競技会であるワールドカップを巡ってなら、薄汚い欲望あるいは野望が渦巻く世界であるのは当然である。大会開催地の決定は、ビッグビジネスである。政治的陰謀や、裏金が飛び交うのもしかたがない。
それにしても、ワールドカップというのは、ずいぶん汚いことが絡んでいる大会である。スポンサーとの取引、スタジアム建設にかかわる政府、地方自治体、土木建設業界の絡み。政界、財界の思惑。巨額な放映権料をバックにしたテレビ局の圧力。ワールドカップ利権に群がる政治屋たち。監督や選手の利害、協会や連盟の無能なお偉方。そして、大会が始まってしまえば、汚い駆け引きやトリック。悪質な反則をめぐる選手と審判の虚々実々。引き分け狙い、勝点を計算した八百長試合。守りを固めて、PK戦に持ち込もうとする、卑怯な戦術。ゴール前での故意のハンド。人間のクズのようなフーリガン。フーリガンを利用しようとする右翼煽動家。いきなりフーリガンと|思《おぼ》しきファンの集団を襲撃する警察官の一団。フーリガンをネタにした、センセーショナルな記事をでっちあげるジャーナリスト。そして、ワールドカップを利用しようとする軍事政権の将軍たち。
もし、ここで目指しているタイトルが取るに足らない優勝カップであるなら、奇麗事も通用するだろう。だが、ここで問題になっているワールドカップというのは、世界のすべての大陸の大部分の国で、最高の競技スポーツであるサッカーの最高峰に位置するワールドカップなのである。たとえば、二〇〇二年ワールドカップ開催をめぐる日本と韓国との競争を思い出してみよう。日本は、Jリーグの開幕によってせっかく根付いたサッカー人気に|翳《かげ》りが出始めていただけに、まるで二〇〇二年ワールドカップの開催権を失ったら、日本のサッカーは終わりになるかのようなヒステリックな招致活動を行った。また、そこには不況脱出のための経済的な刺激を期待する感情もあったし、これで金儲けをしようという様々な業種の男たちの野望が渦巻いていた。もちろん、韓国側の事情もまったく一緒である。後発のプロ野球に完全に逆転されてしまった韓国のサッカー関係者にとって、ワールドカップは起死回生の手段だった。現代財閥の御曹司で、現代重工業の実質的オーナーである|夢準《チヨンモンジユン》は、私財をなげうってでもワールドカップを韓国に招致しようとした。重工業の実績を上げ、現代グループ総帥の地位を確保し、しかもワールドカップによる膨大な利益を各財閥と分かち合うことによって、韓国経済界のリーダーとなり、さらに二〇〇二年十二月に行われる大統領選挙に出馬しようという野望があったからと言われている。
サッカーの世界では新興国である日本や韓国でさえもこれである。サッカーが、完全に一つの産業として根付いているヨーロッパや南米の国で、ワールドカップを開催する、あるいはワールドカップに優勝することが(あるいは、ワールドカップで優勝できないことが)どれだけ多くの人々の利益と結び付くことだろう。ワールドカップでの敗戦で巨額の損失を負ったコロンビアの麻薬マフィアたちは、自殺点を入れたアンドレス・エスコバルを射殺してしまった。まだ、大会が続いている最中の事件である。それは極端な例だとしても、競技場やテレビの前で自国の敗戦にショック死したり、自殺したりする純粋なファンもいるかと思えば、自国サッカーチームの勝敗で、巨万の富を手に入れたり、またそれを失う人々も世界中に大勢いる。軍事政権を率いる将軍連中が、自分たちの正統性を実証するために、あらゆる犠牲を払って、邪魔者を抹殺してまでワールドカップ開催を強行した例もあった。これほど多くの人にとって、これほど重要な大会であるならば、奇麗事ですむわけはないではないか。そこに、数々の汚いトリックが生まれる原因がある。トリックは、開催権の獲得競争から、組分け抽選、そしてフィールド上のハンドまで、ありとあらゆる段階で数限りなく生じる。ワールドカップならばこそ、そこに渦巻く権謀術数もまた、他の競技スポーツの中でも、最高に汚く最高に面白い。
『燃えつきるまで』という一九九〇年ワールドカップのルポルタージュがある。ピート・デイヴィスというイギリス人が書いた本で、日本語版にはちょっと誤訳が多くて困るのだが、「ワールドカップのリアリズム」をイタリア・ワールドカップに参加したイングランドチームの視点から描いた大変に面白い本だ。その中にこういうくだりがある。
「私はサッカーが好きじゃない、と言う人がいると、僕は言う。そいつはまだサッカーに触れていないってことだよ。もし触れたことがあるなら、言うとしたら、私はサッカーを憎んでいる、と――きっぱりと――言うはずだからだ。いったんサッカーに触れ、観戦してしまうと、単に好き嫌いという次元にとどまっていることはできないのだ。……試合場に渦巻いている感情には、何かしょぼしょぼしたハンパな要素なんかまったくありえない」
そう、こんなに権謀術数が渦巻いているサッカーなんて、嫌いなんていう簡単な言葉で言っていいはずがないのだ。「サッカーはビジネスだ。スポーツではない。そんなものを見ていて面白いのか」ヨーロッパには、そう言って、サッカーを非難するインテリが多い。いや、だが、それでも、われわれにとって、サッカーの、ワールドカップの魅力は尽きないのである。サッカーを憎んでいないわれわれにとっては、サッカーは、「好き」なんていう言葉では、言い表せないぐらいなもの、そう、「惚れ込んでいる」ようなものなのだ。
いったい、なぜサッカーは、あるいはワールドカップは、人々にこれほどあらゆる悪事を働かせ、人々の憎しみを掻きたてるのだろう。そして、ある程度物の分かっているファンであるならば、そのことを多少は知っているはずなのに、なぜサッカーのことをあんなに魅力的に思うことができるのだろう。奇麗事ではないということを知れば知るほど、それを憎む人もいるのだろうが、筆者は逆に「リアリズム」の視点を知ってから、余計にワールドカップに惹き付けられていったのだ。
「世界最高の試合」の見方
遠い昔の大会は別として、これまでの最高のワールドカップは、一九七〇年と一九八六年の、ともにメキシコで開かれた二つの大会だった。なぜかと言えば、一九七〇年の大会では七試合全勝というすばらしい成績を収めた、攻撃的なブラジルチームが優勝したからだ。そこにはカルロス・アルベルト、ジャイルジーニョ、トスタン、ロベルト・リベリーノといった、本来であれば、一人一人が大会のスーパースターになりえたような選手がそろい、さらにその上に「サッカーの神様」ペレが、円熟の境地を見せて君臨していたからだ。そして、一九八六年大会が面白かったのは、ペレと並ぶワールドカップ史上最大のスーパースター、ディエゴ・マラドーナがアルゼンチンを率いて出場し、六人抜きドリブルから「神の手」のトリックまで、あらゆるスタイルのスーパープレーを見せてくれ、結局そのアルゼンチンが七戦して六勝一分という、あのブラジルに並ぶような成績で優勝したからだ。
一九八六年のメキシコでは、アステカ・スタジアムまでの道路で近代的な路面電車を新しく作る工事が行われていたが、しかし、この工事はついに大会中に完成することなく、工事のおかげでかえって道路の渋滞がひどくなるといった状態で、運営も万全とは言い難かった。もっとも、それはメキシコだけのことではなく、第一回大会(ウルグアイ)でもメイン会場となるエスタディオ・センテナリオの完成は開幕に間に合わず、歴史的な最初のワールドカップの試合は、センテナリオからすぐのところにあるパルケ・セントラルで行われた。第四回(ブラジル)の時のマラカナン・スタジアムも同様だった。一九九〇年(イタリア)でも、レオナルド・ダビンチ空港からローマ市内へ向かう電車の工事は、とうとう大会に間に合わなかった。あらゆる面で運営がうまくいった大会なんて、一度もなかった。
だが、それがどうしたというのだろう。ブラジル対フランスの、延長120分にわたるあの流れるような美しいサッカーを見ることができ、マラドーナのスーパープレーの数々を見せてもらえるならば、他の問題は小さなものでしかない。
そのマラドーナは、麻薬常習者となり、数々のスキャンダルを起こした人物である。練習をサボり、空気銃をぶっ放し、フィールドの外では、知性のかけらもないと言うしかない男だ。だが、フィールド上のマラドーナは、天才である。敵、味方の全選手の動きをすべて把握した上で、一本のパス、ちょっとしたフェイントで、試合の流れを完全に変えてしまうことができるのだ。
そういうプレーが見られるからこそ、人々はそれを期待して四年に一度の大旅行を繰り返し、期待通りのプレーを見られれば、その大会は「成功した大会」として、長く記憶にとどめるのだ。大会中は、運営のまずさや、暑さや寒さ、案内の不親切や、交通渋滞、物価の高さにブツブツ文句を言っていても、そんなことは、時間さえ経ってしまえば、誰も覚えてなどいやしない。試合が面白ければ、それでその大会は成功なのだし、イタリアのように、デザインも、機能もすばらしく、しかも歴史のあるスタジアムという最高の舞台を用意しても、試合内容がひどければ失敗なのだ。
ワールドカップの主役は、FIFAのボスでもなければ、組織委員会のスタッフでもない。招致委員会の会長である役人なんかでは、もちろんない。開会宣言をするFIFA会長だとか、大統領なんていうのは、ブーイングの対象となることによって、大会開幕を待つ観衆の慰み者となるために開会式に出てくるようなものだ。そして、もちろんフィールドの上でも、相手のスネを削る悪役が主役というわけでもなければ、勝点計算の巧みな監督が英雄というわけでもない。英雄は、スペクタキュラーなプレーを見せてくれる創造的なプレーヤーであり、選手の能力を生かしきって、勝負事の醍醐味を味わわせてくれる名監督たちなのである。
ここ五十年ばかりのワールドカップの歴史を見てみると、一九五〇年ごろから、主役は常にブラジルであった。一九五〇年には、「事実上の決勝」でウルグアイに逆転負けを喫して準優勝に終わるが、最強はブラジルだった。一九五八年に、ジウマール、ジャウマ・サントス、ニウトン・サントス、ジト、ジジ、ババ、ガリンシャ、ザガロを擁し、天才少年ペレがデビューして、初優勝。一九六二年には、ガリンシャがスーパープレーを連発して二連覇。そして、ペレが円熟した一九七〇年に三回目の優勝。一九六六年には、一次リーグ敗退という驚くべき成績に終わったが、その敗退自体が大きな話題となるところが、さすがブラジルであった。その後、体力を前面に出したチーム(一九七四年、一九七八年)とか、守備的なチーム(一九九〇年)を交えながら、その合間に、やはりブラジルらしい芸術的な中盤をそろえたチーム(一九八二年、一九八六年)があり、そして一九九四年にカップを取り返す。
一九六六年大会以降、ブラジルと並ぶワールドカップの主役に躍り出たのが、西ドイツ(一九九〇年のワールドカップ優勝直後に東西統一が成った)。一九六六年イングランド大会で準優勝を遂げると、一九七〇年が三位、一九七四年の地元開催に優勝、一九七八年こそ二次リーグで敗退したが、一九八二年、一九八六年に二回連続の準優勝。そして一九九〇年に優勝。一九六六年大会から九〇年大会まで七回の大会中、一九七八年を除く六回の大会でベスト4に残ったのだ。
一九七八年地元開催の大会で、アルゼンチンは大きなイメージチェンジを遂げた。それまで、ワールドカップでもクラブの国際試合でも、守り偏重で、また荒っぽいファウルを多発することで有名だったアルゼンチンは、クラブ選手権や南米選手権では強かったけれども、ワールドカップでは第一回大会の準優勝以来、優勝には絡めなかった。ところが、一九七八年の代表監督に指名されたセザール・ルイス・メノッティは、インテリジェンスのある選手を集め、スピーディーにパスを回す攻撃的なチームを作り、軍事政権の全面支援ということもあって、準備も十分にできて優勝。以後、一九八六年、一九九〇年の二回はカルロス・ビラルド監督の、相手の良さを消すことに主眼を置いた守りのサッカーに戻ったが、とにかく一九七八年以後、つねに優勝争いに顔を出し、アルゼンチンは主役の一つとなった。
戦前のワールドカップで二回優勝を遂げていたイタリアは、戦後は偉大な脇役あるいは悪役の役回りを演じてきたが、一九八二年に一次リーグの不調から立ち直って優勝を遂げると、以後一九九〇年(地元開催)に三位、一九九四年に準優勝と、主役の座に戻った。
これらの、ワールドカップの栄光をほぼ独占し続けている主役たちに加えて、その時代その時代に、いくつかの脇役が登場する。地元開催で初優勝を遂げたイングランド。ヨハン・クライフのトータル・サッカーで一九七四年大会の実力ナンバーワンと誰もが認めたオランダ。オランダは一九七四年の決勝で地元の西ドイツと、そして一九七八年の決勝でやはり地元のアルゼンチンと対戦して、ともに敗れるという不運もあった。そして、一九八〇年代のミシェル・プラティニの率いるフランスもそうだ。クライフやプラティニを「脇役」と呼ぶのにはいささか抵抗があるが、ブラジル、西ドイツ、イタリア、アルゼンチンの場合、毎回ほとんど上位に進出しており、いつも前回のあるいは前々回の因縁をひきずって登場するのに比べて、たしかにその時の大会では、最高の内容のサッカーをして、最強あるいは最も芸術的と言われるチームであったとしても、やはり、クライフやプラティニが歴史の表舞台から去ると同時に、とても優勝は狙えないような状態になったのだから、やはり脇役でしかない。クライフは、たった一回しかワールドカップに出ていない。ペレは四回(うち三回優勝)、マラドーナも四回(五回目はない?)出場している。オランダなど、そのクライフが育てたマルコ・ファン・バステンやルート・フリットを擁して、クライフ時代の黄金時代を再現するかと期待させたものの、いつもチーム内に内紛が生じて、優勝には届かないでいる。
ところで、われわれは、いったいどうして、スーパースターのプレーに心ひかれるのだろうか。
マラドーナのプレーを見ていると不思議に思うことがある。われわれがスタンドの上から見ている時には、敵、味方の配置がよく分かるから、右へ出せ、左へ出せと叫ぶことができる。だが、選手の視点は、フィールドの芝生の上、約一・五メートルの所にある。おまけに、高速で走りながら、そして相手の強烈なファウルに絶えず見舞われ続けているのだ。そうした中で、逆サイドの敵、味方の位置を瞬時に読み取って、パスを送らなければならない。
どうしてあんな位置の味方の走り込みを予想したのか、どうして相手のディフェンダーの動きまで手に取るように分かっているのだろうか。マラドーナのパスの多彩さを見ていると、まるで彼の頭の中には別の画面があって、そこには目で見たままの状態ではなくて、上空から見た敵、味方の動きが映っているのではないかと思わせる。彼は、まるで、われわれがスタンドから見ているような角度でゲームを見ているのだ。もちろん、マラドーナは偵察衛星を実際に持っているわけではない。彼の、たぐいまれな空間把握能力が、そうさせるのだろう。
そうした空間把握能力は、もちろんマラドーナのような中盤でのパス構成だけでなく、サッカーのプレーのすべてにわたって必要になってくる。
たとえば、一九七四年大会の西ドイツのゴールゲッター、ゲルハルト・ミュラーの「リトルゴール」だ。「リトルゴール」というのは、強烈なシュートとか、きれいにキーパーの逆を取ったような、美しいゴールではなく、腿とか、腹とか、体のどこかに当てて、ボールが転がってゴールに入るような、そんなゴールのことだ。一九七四年大会の決勝の逆転ゴールが典型的なミュラーのゴールだった。右からライナー・ボンホフがドリブルでペナルティエリア内に持ち込んで低いクロスを入れる。ミュラーもオランダ・ゴールの右側に入るが、ここでレイスベルヘン、クロル、ハーン、そしてキーパーのヨングブルートの四人に取り囲まれる形になったのだ。ミュラーは、クロスのボールを右のアウトサイドに当てて、まず、ゴールの反対方向にボールを送り、すぐ左足を踏み込んで、それを軸足にして、振り向きざまにシュートを決めた。つまり、そのままシュートを打ったとしても、自分を取り囲む相手にブロックされるのは確実だから、一度敵も味方もいないスペースにボールを置いて、自分自身でそれを拾ってシュートしようとしたのだ。ミュラーは、それを一瞬のうちに判断して、やってのけた。
自分を取り巻いた相手のディフェンダーの動きと位置、そしてボールの動き、さらにゴールとキーパーの位置によって決まるシュートコース。こうした要素について、いったいどうやって彼は頭の中で情報処理を行っているのだろう。われわれだったら、ゆっくりビデオを巻き戻したり、スローで再生したり、図に描いたりしてようやく理解できるようなことを、彼は瞬時に行っているのだ。
マラドーナの、まったく予測不可能な動きには、驚かされることが往々にしてある。一九八六年ワールドカップでのイタリア戦では、パスのコースから突然離れて、逆サイドのスペースに走り込んでフリーになってみせた。一九九〇年ワールドカップの準決勝では、左のオラルティコエチェアにパスを出してから、なにげない動作でイタリア守備陣に向かってゆっくり歩いていった。そうすることによって、絶えずマラドーナの位置に気を配っていたバレージの動きを一瞬止めて、カニージャが同点ゴールを決めるのを助けたのだ。バレージとマラドーナは、互いに二、三十メートル離れていても、絶えずお互いを意識し、マラドーナが位置を一メートル変えると、バレージもそれに合わせてポジションを修正し、まるで数十メートルも離れたままマークしあっているように動いていたのだが、この時のマラドーナは、左にパスを出した後、ゆっくりとペナルティエリア内にいるバレージの方向に近づいていった。すると、バレージはこのマラドーナの動きに幻惑されて、ボールが左(バレージ側から見て右)に展開し、そこからクロスが入り、カニージャが飛び込んでヘッドで同点ゴールを決める間、ほとんどプレーに参加できなくなってしまったのだ。
こういう、マラドーナの何手も先を読んだ動き(それによって、相手の選手の動きを規制してしまう)を見ていると、マラドーナの頭の中にある画面に映っているのは、現在の敵、味方の状況を上空から映し出したものであると同時に、マラドーナはその画面を、巻き戻したり、早送りしたりして、時間も超越して、画面を参照しているかのように思えてくる。そう、彼の持っている空間把握能力の「空間」は、よくある、敵、味方とボールの配置を示す図に見られるような、単なる平面状の二次元の空間ではなく、パスの高さなども含む三次元空間であり、敵、味方の動くスピードやボールの速さを加味した、一種の四次元空間でもあるようなのだ。彼は、この四次元空間を示す画面を操りながら、プレーしているように思える。
もしかしたら、それはリニアに送ったり、戻したりしているのではなく、試合時間の90分全体を一つの次元として持つ四次元として時空間を意識しているのかもしれない。したがって、マラドーナにとっては、彼が実際にプレーしているその瞬間、あるいはその前後数十秒を認識、把握しているのではなく、90分の試合時間全体を彼は把握しているのかもしれない。彼にとって、今この瞬間も、キックオフの瞬間も、あるいはたとえば20分後の後半38分といったような特定の時間も等価のものなのだ。
とするならば、マラドーナのような天才プレーヤーは、ある時点でパスを右に振るか、左に振るかで、その後の状況がどう違ってくるか、その先の展開まで含めた、多元世界像を頭の中に持っているのだろう。ただ、その場で最適なパスを出すだけではなく、そのパスがその後の残り試合時間の展開をどのように決定していくのか、それを勘案して、一本のパスを選択するのだろう。
マラドーナ自身は、べつにそのようなことを意識しているわけでは、絶対にない。単にその場で、いわば本能に従ってプレーを選択しているにすぎないのだ。ただ、彼の持っているイメージの能力がケタ違いに優れているために、それはわれわれが周到に何手も先まで考えた末に選択するであろう結論に、瞬時のうちに到達することができる(しかも、ボールを操ってその結論を実行する)ということなのだろう。
われわれの頭の中にも、非常に稚拙なものながら、ある場面で、パスを左に振るか、右に振るかで、その後の展開がどう変化するのか、なんらかのイメージは持っている。ただ、われわれの考えるイメージは、甚だ貧弱で、精度の面でも、マラドーナの持っているイメージには遠く及ばないものだ。しかし、われわれも、そういうイメージを持っている以上、その持っているイメージに合致したプレーが実際のフィールド上で展開されれば、それを心地好く感じるのであろう。
さあ、本書もこれで終わりだ。決勝が終われば、われわれの心は、すでにもう次のワールドカップの予選に飛んでいるのである。また、振り出しに戻って第一章から、すべてが繰り返される。次の決勝の日まで。
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あ と が き
一九三〇年に始まったサッカーの世界選手権「FIFAワールドカップ」は、今や世界中の人々を巻き込む地球的な規模のイベントにまで発展した。二十世紀はまさに「ワールドカップの世紀」となったのだ。しかし、ほんの三十年ほど前までの日本では、ワールドカップという大会は、その存在すらもほとんど知られていなかった。一九六六年大会は、ちょうど東京オリンピック直後のサッカーブームだったこともあって、試合の結果なども新聞で報じられ、決勝戦が録画で放映されたりしたので、日本でもこの時初めてワールドカップという大会の存在が知られるようになった。次の一九七〇年メキシコ大会では、録画だったもののテレビを通じて全試合を見ることができた。そして、一九七四年西ドイツ大会で決勝戦の衛星生中継が実現する。
本文中にも書いたけれど、その一九七四年の西ドイツ大会こそ、僕が初めて本物のワールドカップを見に行った大会だった。それ以来、ある時は単なる旅行者として、ある時は記者として、そしてある時は数十人の団体のツアーリーダーとして、僕は一九九四年大会まで六回のワールドカップすべてを観戦し続けることができた。
ワールドカップ旅行は、けっして楽なものではない。現地の旅行会社と延々と交渉を続けたり、プレスセンターでの不能率極まりない運営に付き合わされたり、厳しい暑さの中を毎日のようにバスや列車や飛行機を乗り継いで移動を続けることになる。ワールドカップとは言っても、中にはうんざりするような守備的な試合や八百長まがいの試合もある。こういうことが開幕から決勝まで約一カ月続くのだ。しかし、半分喧嘩腰の交渉を通じて、現地の人たちの運営の仕方や物の考え方に接することで、その国を本当に深く理解することもできる。抽象化された知識ではなく、自らその状況に身を置いて相手と本音をぶつけあうことで、奇麗事ではない相互理解が可能になるのだ。
試合を理解するという面でも同じだ。現地で、猛暑の中で(あるいは寒さに震えながら)毎日毎日移動を続けながら現場の空気を吸いながら試合を見ていると、選手の消耗だとか引き分けを狙う様々な駆け引きを実感することができる。そして、そういうギリギリの切羽詰まった状況を理解できるからこそ、冷静かつ大胆に敵陣をえぐる一本のパスにも心の底から驚嘆できるのだ。いいコンディションで、プレッシャーのない所なら能力を発揮するのは容易だ。だが、疲労の極にあり、厳しい場面を迎えた時にこそ、メッキははがれ落ち、その人間の本当の価値が露呈するものだ。「人間理解」という立場で考えれば、ファインプレーだけではなく、ミスやトリックからもまた、多くのことを考えさせられる。
九五年十月に『サッカーの世紀』を出版したところ好評を得たので、今回もう一度サッカーの本を書く機会が与えられた。そこで僕は、サッカーというスポーツの本質を僕に教えてくれたワールドカップという大会に絞って一冊の本にまとめてみることにした。『サッカーの世紀』とは、なるべく話題が重複しないようにしたが、もちろん一部には論理構成の必要上、同じような話も出てきてしまうこともあるのでお許し願いたい。
先ほど書いたように、ワールドカップでは奇麗事ではない部分から教わることが多かった。だから、この本には汚い駆け引きだとかトリックプレーだとかについてのことに多くの紙面を割いた。だが、「だから、ワールドカップなんてつまらないものだ」ということではなく、汚い部分があるにもかかわらず、あるいはそういう部分があるからこそ、本当のスーパープレーの価値を理解することができるのだということを僕はこの本の中で言いたかったのだ。影があるからこそ、光が引き立つ。
今、アトランタ五輪予選の観戦のためにクアラルンプールに滞在している。日本チームは緒戦のイラク戦で一点を先取し、追加点のチャンスも多くありながら、後半に不運な失点で追いつかれ、なんとか逃げ切って、引き分けでスタートした。技術的、戦術的にはあまり誉められた試合ではなかったが、リアリズムという視点から見れば、内容はともかく緒戦の引き分けは予定通りの勝点「1」という以外の何物でもない。選手も、スタッフも、ファンも、マスコミも、こういう試合の「引き分け」を冷静に受け止めることができるようになった時にこそ、日本が単にワールドカップに出るだけでなく、そこで勝利を目指して戦うという、かつてはまったくの夢であったことが実現するはずだ。
今回の出版に当たっても、文藝春秋の柳澤健氏には大変お世話になった。構成に頭を悩ます筆者を柳澤氏がいろいろ励ましてくれたおかげで、ようやく執筆に取りかかることができた。なお、この本の執筆は僕自身にとってもワールドカップをもう一度考え直す絶好の機会となったが、その際には、多くの先輩、同僚ジャーナリストのレポートを読みなおすことが欠かせなかったことも付記して感謝しておきたい。
一九九六年三月十七日 マレーシアの首都クアラルンプールにて
[#地付き]後藤健生
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定期刊行物 (*)は休刊または廃刊
『イレブン』日本スポーツ出版社(*)
『サッカー』日本蹴球協会(*)
『サッカージャーナル』サッカージャーナル(*)
『サッカースタッツ』サッカージャーナル(*)
『サッカー・ダイジェスト』日本スポーツ企画出版社
『サッカー・マガジン』ベースボール・マガジン社
『ジェイレブ』朝日オリコミ(*)
『ストライカー』学習研究社
『ナンバー』文藝春秋
Bulletin Officiel de I'Union des Associations Europeennes de Football, UEFA, Nyon
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World Soccer, IPC Magazines Ltd., London
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〔特別対談〕
ワールドカップを経験するということ
岡田武史(一九九八年フランス大会日本代表監督)×後藤健生
後藤 僕は一九七四年の西ドイツ大会からワールドカップを観戦していますが、九八年にとうとう日本が初出場して、ワールドカップを経験した日本人監督が誕生しました。是非ともその体験を直にお聞きしたいと思います。
岡田 うーん、もうすっかり忘れてますねえ(笑)。あの大会の直後にミーティングのために試合のビデオを見ましたが、それ以降は全く見ていませんから……。ワールドカップは一つのお祭りですよね。ただ、試合をしているときは全体像なんて見えなかった。日本の試合が終わって、スタンドから他の試合を見て回ったときになって初めて「そうか、こんなすごいところでやっていたんだ」という実感が湧いてきたんです。
後藤 日本は初出場だったから現地でも、日本でも大騒ぎでした。
岡田 やっている僕らは「大事なサッカーの試合があった」という感じでしたね。そういうふうに持っていくように意図したところもあったんですよ。「初めて」ということで選手たちにガチガチになられたら困るなあと思ってましたから。ワールドカップといえども、九〇分の試合にかわりはないということを強調していました。お祭りの部分を見ないようにしていました。だから開会式も見ていません。とにかく、三試合が終わるまでは、お祭りという部分を捉えられなかったですね。
後藤 日本代表も出場経験を重ねるとまた、大会の感じ方も違ってくるのでしょうね。
岡田 よく聞かれるんですよ。(二年を経た)今だったら、戦い方変わりますかって。僕は「どう戦ったか忘れました」って答えるんです。さっき「忘れました」って言ったのも、冗談じゃないんですよ。思い出す必要を感じないんです。あの時点でベストを尽くしたという気持ちがあるから。もちろん今から思えばいろいろな問題点がありますが、悔いは無い。今は今のチーム(コンサドーレ札幌)のことで頭がいっぱいですから。
■負けることを受け入れる能力がないと監督はつとまらない
後藤 では、少し記憶を辿っていただいて……。もう四年も前になりますが、いきなり代表監督を任せられたときはどういうふうにお感じでしたか。フランス大会アジア地区最終予選八試合のうち前半四試合が終わった時点で、日本は一勝二分一敗で、予選B組では韓国、UAEに次いで三位でした。結果自体はそれほどひどくはなかったけれど、最後に逆転されたり、追いつかれたりという試合内容は稚拙で、岡田さんが監督に就任したときも、アルマトイでカザフスタンと戦って、最後に追いつかれて1−1で引分けたあとのことでした。
岡田 とにかくもう、みんながパニックでした。関係者だけでなく、会場掃除の人までも(笑)。加茂(周)監督がクビになるなら、彼と一緒にやってきた僕もクビになるのは当たり前だと思っていましたから。それが、ウズベキスタンに行くのに監督がいないから、監督をやってくれと(日本サッカー協会から)頼まれまして。加茂さんに対する思いと、チームに対する思いの間で、非常に複雑な気持ちでしたが、アシスタント・コーチとしての責任をとるつもりで、一試合だけやるつもりでした。
後藤 監督になって、タシケントでのウズベキスタン戦で1−1で引分けました。
岡田 非常に苦しくなりましたね。ただ、あの試合では、入ったシュートをオフサイドにとられたり、逆にポーンと蹴ったボールがゴールに転がり込んだり……。何でだろうと。これはひょっとしたらひょっとするぞ、という、非論理的な漠然としたフィーリングはありました。あの試合のあと、泣いている選手もいましたけど、ロッカールームで「おい、これ、ひょっとしたらひょっとするぞ」とみんなに言ったのを覚えています。
後藤 記者会見でもそうおっしゃいました。でも、東京に帰ってきて、UAE戦でも勝てなかった。あの頃はどうでしたか。
岡田 カザフスタンの試合のあとから、マスコミはすでに「(ワールドカップ出場は)絶望」と書き立てていましてね。ウズベキスタンに引分けたけど、選手の練習や試合への必死の取り組みを見たのと、あの状況で他の人にチームを渡せないという気持ちから、監督を続けることに決めました。で、監督になって二試合続けて引分けて、もう、開き直ってました。ただ、はっきりとは覚えていないんですが、韓国はダントツだけど、二位のUAEの成績次第で、まだ二位になる可能性はあったんですよ、確か。だから、どうなるかはまだわからないというのもありました。
後藤 でも、外からのプレッシャーはきつかったですね。試合終了後、サポーターたちが生卵や折り畳み椅子を投げ込む騒ぎもありました。協会上層部もパニックになってましたし。ああいう状況はチームにどのように影響するんでしょう。
岡田 うーむ。影響がないと言えば嘘になるでしょうね。「絶望」と書かれてハッピーな選手はいないでしょうから。あんまり真剣に相手したら損をするという程度に考えていたかなあ。選手もスタッフも、この仕事にはプレッシャーはつきものですから。あのプレッシャーの中で戦ってきた選手はやはり強烈に伸びましたからね。
後藤 岡田さんは選手時代からずいぶんいろいろな国際試合を経験なさってますが、ワールドカップ予選というプレッシャーは、特別ですか。
岡田 そうですね。「代表の監督と他の監督の違いは、メディアの扱いだ」と散々言われてはいましたが。とにかくそれまで日本で、サッカーに関してあんなに盛り上がった事ってないでしょう。明らかにサッカーを知らない、豹柄の服を着た茶髪の若いネエチャンに「監督、メンバー替えなよ」って、街を歩いていて言われたこともあるんです(笑)。内心、「何でお前に言われなきゃいけねえんだよ」って(笑)。そういう異常な状況でした。
後藤 少し前まで、サッカーの日本代表チームのことなんて誰も気にしていませんでしたからね。岡田さんがアジア大会で韓国相手に点を取ったという話も、岡田さんが監督になったから紹介されたまでで、当時は誰も知らなかった(笑)。代表チームの存在が昔に比べてどんどん大きくなってきています。
ではまた、フランス大会の予選の話に戻りますが、ソウルで韓国戦に快勝しましたね。
岡田 UAEの次がソウル……。ああ、思い出した。UAEで引分けたあと、確かに暗かった。ぼろっかすに言われてね。三ツ沢(横浜)の競技場で練習していてもみんな元気なくてひどい状態だったんです。で、こんなんじゃ勝てない、思い切ってメンバー替えようかなと思ってたんです。練習あとに川べりを散歩しながら冷静に考えると、選手たちには「おまえらそんなに悪くない。やっていることに間違いはないんだ」と言ってきたのに、ここでメンバーを替えたら、言っていることとやっていることが違うということになる。そしたらここまで付いてきてくれた選手たちが離れていくかもしれないと思ったんです。だったら同じメンバーでいこうと。吹っ切れたんですね。僕の気持ちが変わっただけで、選手たちも吹っ切れてくれた。ソウルへ入ったときは、プレッシャーもなくやれることをやるだけだ、もうだめだって言われてるんだから楽だって(笑)。
後藤 韓国、カザフスタンに勝って予選B組二位になり、いよいよマレーシアのジョホールバルで、予選A組二位のイランと、アジア第三代表の座を目指して戦います。
岡田 あのときが一番きつかったかなあ……。負けたらまた、生卵を投げられるんだろうなとかね。日本中の人に非難されるんだろうなとか。
後藤 あそこで負けてても、オーストラリアに行く道(プレーオフ)がありました。
岡田 そうそう、それが一番嫌だったんです。ジョホールバルで負けて、オーストラリアまでみんなの気持ちを奮い立たせておけるだろうかと考えると、「ここで決めたい」という思いはありました。
後藤 もしあそこで負けていたら、オーストラリア戦も……。
岡田 難しかったと思います。
後藤 それにしても、日本に負けて、オーストラリアまで行って、ちゃんと出場権を得たイランはえらかった(笑)。
岡田 イランがアウェイで戦ったときは、0−2で負けていたのを、オーストラリアのミスに助けられて、同点にしましたからね。
後藤 サッカーというのはわかんないですね。いくらいい試合をしても、勝てないときは勝てないし。
岡田 だから、負けることを受け入れる力、能力がないと、監督はつとまりません。僕はコンサドーレの監督になって一年目は、負けることを受け入れられませんでしたから。
後藤 そうだったんですか。
岡田 サッカーってそんなこといくらでもあるよ、仕様がないよ、って思えるようになりましたから。
後藤 やっと、最近になってですか。
岡田 そうです。僕は監督の経験は、代表で十カ月、コンサドーレで二年半くらいのものですからね。まだまだ。
後藤 でも、選手のときに、今日は絶対勝つはずだったのに、負けてしまった、ということもあったでしょう。
岡田 いっぱいあります。ところが、選手は、仕様がないやってへらへらしていちゃだめだと、僕は思うんです。僕は大嫌いですね、そういうやつ。負けて悔しがらないやつは許せない。
後藤 監督になると、そのへんは割り切って……。
岡田 一年目は負けることが許せなくて、悔しくて……それでアウトでした。二年目は、ある程度それを受け入れられるようになれたかなと……。
後藤 選手と監督の違いは、負けたときの気持ちの持ち方なんですね。
岡田 そう思います。
■一対一でぶっちぎられるフィジカルの差が大きかったアルゼンチン
後藤 予選が終わって、組分けが決まるまで、どんなことをお考えでしたか。
岡田 決まる前に僕、えらいこと言っちゃったんですよね。軽い気持ちで「一勝一敗一分」って言ったら、すごい騒ぎになってしまった(笑)。
後藤 そうでしたね。あれはどういう意図があったんですか。
岡田 客観的な力として言っただけです。それを「最初から負けを計算に入れるとは、何を考えてるんだ」とか、いろいろ批判されて……。目標、気持ちで勝てるなら三勝とも十勝とも言えるけど、じゃあ三勝しますと言って、最初の試合を引分けても、もうそれで終わりですよ。それに全チームが優勝という目標をかかげなければならないことになり、それじゃ目標じゃない。
この考えはコンサドーレに来ても変わりません。「来シーズンはJ1の第一ステージで十三勝、勝ち点三十九、十位」と言ったら、「えっ、優勝狙うんじゃないんですか」って、マスコミに聞き返されましたけど。選手に説明したときには、J1のチームの力を分析してA、B、Cのグループに分けて、このグループではいくつ勝つ、と積み重ねていったら、十三勝だと。勝ち点三十九で、だいたいこれだと十位くらいだと。まずこれを目標にする。これを通過しないと優勝もないんだと。しかし、みんな絶対に外部に言う必要はないけど、この先に優勝ということを意識しておいてくれと。十五試合という短期勝負だと、何が起こるかわからないのだから、可能性はあると。
「一勝一敗一分」というのも、まずそれを通過するんだということを言いたかったんです。まだ対戦相手も決まってないのに「どこに一勝してどこに一敗するんですか」って聞いてきたマスコミもいました(笑)。
後藤 誤解がありますね。あの発言は、対戦相手が決まったあとに言って、アルゼンチンに負けるつもりだったんだと誤解されていますよね。
岡田 そうそう。まあ、誤解は山ほどありましたけど(笑)。
後藤 先日、二〇〇二年ワールドカップに関するあるフォーラムで、平尾誠二さん(前ラグビー日本代表監督)、柱谷哲二さんと一緒になったとき、その「一勝一敗一分」の話になったんです。柱谷さんは「監督にそういうふうに言われると選手は困る。やはり優勝を目指すと言ってほしい」と言った。そしたら平尾さんが、岡田さんとほぼ同じことを言ってました。「三勝と言っておいて、最初の試合で負けちゃうと終わりになってしまう。監督としては、やはり、三勝とか優勝とか言えないよなあ」と。
岡田 平尾さんと、(ラグビーの)ワールドカップの前に話して、「いけそうか」と訊ねたら「どう考えても、一勝一敗一分なんですよ」と。「いやいや、絶対そんなこと言ったらダメだよ、えらい目にあうぞ。俺がそれ言って、説明するのにどれだけ時間割いたことか」と言ったら、「わかりました、じゃあ、言いませんわ」と(笑)。
後藤 その「一勝一敗一分」の話は、選手に対しては何かおっしゃったんですか。
岡田 いや、選手に向かって言った言葉ではなかったので。目標は一次リーグ突破だと、そのためには一勝一敗一分以上が必要だという話はしました。
後藤 実際に、対戦相手がアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと決まったときはどうでした。
岡田 三試合のうち一つは強烈なチームとやりたかったので、アルゼンチンと当たったというのは正直嬉しかったです。ジャマイカはどういうチームか全然わからなくて、聞いたら、イングランドのプレミアリーグでやってる選手が八人くらいいると。逆にそういうんじゃない、純粋なヨーロッパのチームとやりたいなと思いましたね。実際、試合してみると、ジャマイカの方がレベルが低かった。あの試合は勝たなくちゃいけなかった……。クロアチアは、シューケル、プロシネツキなど優秀な選手がいるチームで、やりがいがあるという感じでしたね。
後藤 そこでさきほどの「一勝一敗一分」の計算はしましたか。
岡田 全然できないですよ。緒戦のアルゼンチン戦に、少なくとも引分け、うまくいけば……くらいでしょうか。それくらいアルゼンチン戦に集中しようとしました。というのは、アルゼンチンはワールドカップの経験が豊富だから、最初の試合はそんなにベスト・コンディションでは来ないはずですから。それに、その試合で四、五点入れられて大敗するようなことがあったら、みんなもう自信喪失してガタガタになるだろうと思ってましたから。逆にそこで上手くのれれば、クロアチア戦もいけると考えてました。
後藤 外から見ていても、このチームはアルゼンチン戦のためのチーム作りをしているなというのはわかりました。
岡田 自分としてはアルゼンチン戦の重要度を七〇%……、それはオーバーかな、六〇%くらいに考えていました。で、アルゼンチンとクロアチアで九〇%くらい。ワールドカップは初めての経験で、そこはやっぱり余裕がなかったのかもしれないですね。
後藤 逆に考えれば、一番勝てそうな相手であるジャマイカ戦で確実に勝ち点3を取るという考え方もできますよね。
岡田 いや、僕は緒戦を大敗するようだと、ジャマイカにも勝てないと思ったんです。緒戦がポイントだとその時点では考えてました。
後藤 最初がジャマイカだったらどうでしたか。
岡田 そしたら、ジャマイカにもっと集中していました。
後藤 やはり緒戦ですか。
岡田 初めての試合で大負けして、ワールドカップってやっぱりすごいんだと選手が萎縮してしまったら、あとは試合にならないですから。日本のマスコミも大騒ぎするだろうし。ワールドカップは大したことないと、ずっと言い聞かせてきてましたから。
後藤 ジャマイカはクロアチアに三点、アルゼンチンに五点たたき込まれてましたね。
岡田 ジャマイカのシモンエス監督は「優勝する」って言ってたんですよね。
後藤 そうでしたね。
岡田 あの国はいいなあ、とつくづく思いました(笑)。別に国内で大騒ぎになるわけじゃなし、四、五点入れられても、オフにはディズニーランドで遊んでたじゃないですか。羨ましかったですよ。やはり国の事情が違うので、仕方ないですが。国の事情といえば、昔、アジアカップで北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の選手が審判を殴って出場停止になったことがあったんです。そのとき知り合いの北朝鮮の選手に「日本人があんなことしたら、帰ったらたいへんだ」と言ったら、その選手が言うには、「俺らは帰ったら英雄だ」って(笑)。
日本がジャマイカのような試合をしていたら、たいへんでしたよ(笑)。
後藤 そうそう、あの時点で「岡田クビ!」でしたね(笑)。
岡田 そうですよ。
後藤 アルゼンチン戦は思ったとおりに戦えましたか。
岡田 うーん、それほどでもないんです……。もうちょっと攻撃でいけるかなと思っていたのが……、最後、尻すぼみになってしまったのが残念です。守備に関しても、あそこまでピンチを作らずに済むかなという期待はあったんですが……、アルゼンチンが外してくれてよかったなというのが正直な気持ちです。戦う前より、力の差を感じました。
後藤 思ったより大きかったですか。
岡田 正直、勝ち点取りたいと思ってましたからね、僕は。
後藤 その力の差は何だったんでしょう。
岡田 フィジカルな違いですね。
後藤 フィジカルという表現も幅広いですが……。
岡田 簡単に言うと「一対一でぶっちぎられる」ということです。一対一で負けたら、二人目がカバーには来ますが、だけどやっぱり一対一で負けだしたら、どうしようもないですよ。
後藤 日本が完璧にやられた場面というのはほとんどなかったようですけど。
岡田 それは一対一で粘り強く粘り強く、押し込まれながらもボールを取るからですよ。でも、それで取ったのでは、攻撃に行く余力も何も残ってないんです。一対一で来たボールをすぐ取れないと、そこで力を使い果たしてますからね。
後藤 トルシエが今やろうとしているのはそこですよね。いい形でボールを取って攻撃につなげようとしています。
岡田 そうですね。
後藤 このアルゼンチン戦に六〇%、七〇%の力を注いだとおっしゃいましたが、そのための準備は十分にできましたか。
岡田 僕が監督になってからワールドカップまで約十カ月。自分でもう一度選手を見極めて、という時間はなかったです。スリーバックに変えたりとかのテストはやりましたが、もう少し早ければなあというのは感じてました。
後藤 強化スケジュールをもっと融通してくれたらとか……。
岡田 ワールドカップが終わったあと、エメ・ジャケ(当時フランス代表監督)と話したときに、「あなたは何であんな短い期間しかないのに代表監督を引き受けたのか」って聞かれました。「私は二年かけて選手を見極めて、カントナなどを切ったりして、そしてそこから二年かけてようやくチームを作ったんだ」と。たしかに、そういう意味での時間はなかったですね。
■日本相手にカウンター・サッカーを徹底させたクロアチアの監督に脱帽
後藤 予選が終わってから、本大会までの日程はどういう感じでしたか。
岡田 どうだったっけなあ。オーストラリアへ行って、ダイナスティカップやって、日韓戦やって……キリンカップやったんだ。
後藤 ええ。
岡田 そうそう、海外遠征できなかったんです。
後藤 ヨーロッパ遠征に行きたいとおっしゃったこともあったとか。その時点では代表監督としての希望を出しても無理な段階だったんですか。
岡田 ワールドカップ出場は協会にとっても初めての経験でしたから、どう段取りすればよいのかわからなかったんだと思います。キリンカップのとき、パラグアイの試合の偵察に行こうと思ったら「スポンサー記者会見に出てください」と。「どっちが大切なんですか」と聞いても「監督に出てもらわなくてはこちらも困るんです」と言われて……。その類のことはたくさんありました。さすがに何回か大喧嘩しましたよ。だから協会では僕はあの当時すごく怖がられてたそうです(笑)。
後藤 ああ、そうですか(笑)。
岡田 僕が協会に電話かけて、その相手が席をはずしていると、トイレまでも探しに行ったそうです、「岡田監督から電話はいってますっ」って(笑)。スケジュールのことだけでなく、誰が僕たちと一緒に戦ってくれるんだろうって、何回か協会にたずねたりもしました。
後藤 今トルシエはそういうことを、外部に向かってどんどん言ってますが。
岡田 僕のときと同じ状況なんだと思いますよ。
後藤 ああやって「俺はこう要求してるんだ」と、大きな声で言えるのは羨ましいんじゃないですか。
岡田 いや、人によってスタイルがありますから。僕は内部の人間に言うというスタンスでやってましたから。
後藤 でも、当時のスケジュールを見ると、強い相手と練習試合する機会がなかったですよね。
岡田 現地に行ってからの練習試合がすごくよかったですね。メキシコとユーゴスラビアとできたから。あれが大きかった。
後藤 まずスイスで合宿を行なったわけですが、メキシコ、ユーゴスラビアを選んだのはどういう経緯からですか。
岡田 同じ時期に近所でキャンプをしている国の中から選んで交渉してもらって決まりました。プライオリティの高い候補でよかったです。
後藤 メキシコ戦はクローズド(非公開)の試合でした。
岡田 そうそう、それでまた、マスコミからブーブー言われて(笑)。
後藤 あのクローズぶりはすごかったですね。覗こうと思っても、どこも幕が張ってあって、全部の入口に見張りがついて……。覗けなかった。
岡田 ああ、そうですか。
後藤 あれ、ほんとうはユーゴスラビア戦もクローズドでやりたかったんですか。
岡田 そうですね。クローズドについてある記者が、「これは許されないことだと思う」とか言って。なんで許されないのかなあと思いましたけど(笑)。
後藤 エクス・レ・バンをオフィシャル・キャンプ地に選んだのは。
岡田 FIFAはキャンプ地の候補リストを作ってるんです。ただ、日本は最後から二番目に出場が決まった国だったんです。最後はイラン。だから、よさそうなところはほとんど決まってしまっていた。残ったところをいくつか見て回ったんですが、工場が近くにあって煙がもうもうたっていたり、そばを高速道路が走っていたりで、環境がよくなかったんです。どうしても納得できないって言ったら、担当の人が、リストには載ってないけれど、もう少し奥に、一つあると言うので、そこを見に行った。それがエクス・レ・バンだったんです。奥地だけど、空港も近くにあって交通も心配ないから絶対ここだと。あとで、その空港はFIFA指定のオフィシャルな空港じゃないから使えないということがわかったんですが(笑)。
後藤 ワールドカップは一次リーグの三試合は全部違う場所ですが、移動はたいへんなんですか。
岡田 そうでもなかったですね。すべてチャーター便の飛行機を使って、空港までも先導してもらえましたから。
後藤 中五日という日程はどうでしたか。
岡田 正直言うと、ちょっと長すぎるくらいでした。特に、二敗したあと最終戦までモチベーションをキープするのがたいへんでした。それが、勝てなかった原因の一つだと思います。ジャマイカみたいにこてんぱんにやられても楽しんでる国と、もう、戦犯みたいな気分でいる国とではやっぱり……。
後藤 そうすると、二試合戦った疲れよりも、モチベーションの問題ですか。
岡田 気持ちの面でしたね。ああいう国民性の国だから、5−0で負けもするし、大負けしたあとでも、一勝できるんだと思います。まあ、そう一概に言えないかもしれないけど。ただ結果としてジャマイカに負けたのは自分の責任だと思っています。勝てる相手だったと思うし、チャンスもあったし。
後藤 それはもう、圧倒的にありました。ただ、監督としてできることには限りがあります。
岡田 あまりにも一次リーグ突破という目標を強く言っていたので、二敗した時点で、ジャマイカに勝っても目標達成できない……という気持ちが、選手にも伝わったんじゃないかな。二敗した時点で、僕は腹をくくってましたから……。
後藤 まあ、結局三敗で終わってしまう訳ですが、そこで選手たちには最後に何とおっしゃったんですか。
岡田 何て言ったかなあ。エクス・レ・バンのホテルの情景だけはよく覚えているんだけど……。みんなにほんとうに感謝している。よく成長してくれた。誰かが責任とらなくちゃいけない。そんなことを言ったような気がします。
後藤 選手の方はどうでしたか。
岡田 淡々としていたように思いますけど。
後藤 一番がっくりしたのは、では、クロアチア戦で負けたときですか。
岡田 そうですね。あのクロアチアのブラゼビッチ監督は大したものだと思いましたね。あのチームにはシューケル、プロシネツキ、アサノビッチとかすごい選手がいるのに、僕ら相手に、徹底的にカウンター・サッカーをやったじゃないですか。普通、日本相手にして、あんなビッグネームの選手たちに、やらせられないですよ。「なんでパスつながないんだよ」とか不満がでちゃいますよ。僕は、ここまで徹底するかと感心して見てました。クロアチアの戦い方は、試合前にビデオで研究して、カウンターを使ってくることはわかってましたから、リスクを冒してでも中盤をこじ開けて相手を引き出さないと勝てないと思ってました。だから中盤で(パスをつないで)リスクは負うけれど、引き出して、その裏を狙うという練習を散々していたんです。そこで取られたらやられるぞ、って言いながら。そしたら、その通りにほんとに取られちゃった(笑)。
後藤 確かに、日本相手にここまで守るかなというくらい、クロアチアは守っていました。
岡田 全試合通してね。どうやって選手を納得させたんだろう。
後藤 日本の選手にそこまで徹底するのは難しいですか。
岡田 強烈に監督が指導すれば、できるでしょうね。でも、僕の考えでは、選手が活き活きしないというか、納得せずに、やりたくないのにやっているという状況は好きではないので。あそこまで徹底させられるという事に対する敬意と、なんでああするんだろうという疑問と、両方抱きました。まあ、日本がクロアチアみたいなサッカーしても、勝てないですよ、多分。下がって守ってても、やられますから。
後藤 実際に戦っていて、クロアチアの選手に不満があるように感じましたか。
岡田 ええ。プロシネツキは使えてなかったし、ボバンなんかぜんぜん活き活きしてなかった。ユリッチとか、ああいう選手は後ろからドーンと蹴るのを楽しんでたようですが。
■日本はワールドカップに一回出て三敗した国にすぎない
後藤 こうして日本チームはワールドカップを一回経験したわけですが、この経験はやはり将来重要ですよね。
岡田 僕と、あそこにいた選手にとってはものすごく大きなことでした。でも、それが日本のサッカーにとってどうかって、そんなおこがましいことは、考えたこともありません。それは、みなさんが判断すればいいことです。ただ、ワールドカップのあとヨーロッパに行くと、有名な監督なんかが一緒に食事しようと言ってくれたり、対談してくれたりという変化はありました。
後藤 ワールドカップに出たことのある国、選手、監督は扱いが違うわけですね。
岡田 サッカー界は結局、そうでしょう。二〇〇二年のワールドカップにしても、日本がこれだけFIFAになめられるのは、そういうことでしょう。日本はワールドカップに一回出て、三敗した国にすぎないんですから。これから実績を残していかないと、世界での認識はなかなか変わりません。
後藤 これから世界を相手に戦っていくわけですが、今の日本のサッカーの戦い方でいいんでしょうか。
岡田 うーむ。僕が代表監督をしていた頃と今とではまた、違いますから。
後藤 それはどういうふうに。
岡田 やはり段階を踏んでチーム力はアップしてくるものだと思うんです。昔、コーチングコースを受講したときにミリヤニッチ(元ユーゴスラビア代表監督)に言われたことがあるんです。「なんで代表チームだけで勝とうとするんだ。下のチームから世界で経験を積んでいくものだ」って。
後藤 選手の意識も、岡田さんが代表選手だった時代、岡田さんが代表監督だった時代、そして今の代表チームと、変化はありますよね。
岡田 全然違います。今の代表チームは、世界で実績を積みながら上がってきた世代ですから、確かに実力があります。何年かごとにポーン、ポーンとレベルが格段に上がりますからね。今の代表チームの主力メンバーがシドニー五輪の代表チーム(当時はU−21)だったとき、Jヴィレッジで合宿をやったことがあるんです。そのとき、一人一人のレベルの高さにびっくりしたのを覚えています。だけど、何か物足りないなあとも感じました。ファイティングスピリットと、リーダーシップ。トルシエがそれを植えつけました。だから彼らは更に伸びたのだと思います。
後藤 今の代表チームのレベルの高さを具体的に言うとすると。
岡田 技術と判断力です。レベルがポーンと上がってます。ワンタッチ・コントロールで次のパスを出す動きのスムースさとか、びっくりしますよ。
後藤 アトランタ五輪チーム世代のあと、徐々に上がってきたというのではなく、いきなりポーンと上がったと感じますか。
岡田 いや、もちろん徐々に、徐々に上がってきていて、更にポーンと上がる時期というのがあるんです。
後藤 そうすると、今のチームの前にポーンと上がったのはいつですか。
岡田 プロ化したときかなあ。僕らが代表チームにいた頃から比べると、オフト・ジャパンのチームは、ポーンと上がった感覚があります。
後藤 何が原因なんでしょう。ユース時代の教育とか、周りの環境が整ってきたこととか。
岡田 それにプラスして、目玉になる選手が一人二人必ずいるということ。
後藤 今の代表チームはいかがですか。
岡田 アジア地域ではトップレベルをこれから数年はキープできるでしょう。
後藤 トルシエの練習方法に関してはいろいろ言われていますよね。
岡田 彼が対敵を入れないで練習している(攻撃練習のときにDFをつけないで練習する)ことについて、どう思われますかと聞かれるんです。ああ、こういうやり方もあるんだ、対敵を使わずにどこまでいけるんだろうって、いつも見ています。ある意味、彼に実験してもらってるんです。だから、否定するつもりはありません。逆に、どうなるんだろうと楽しみです。
僕が思うのは、選手と監督の戦い方というのはマッチしなければいけないということです。例えば、トルシエが指導していた前の世代の代表選手のときは、全然チームが機能しなかった。今の、シドニー五輪世代の選手中心になって機能してきた。選手のクオリティと監督の戦術がマッチしているんです。選手のレベルに合わせた練習方法、戦術でやっていかなくちゃいけない。トルシエはそれをやっています。ただ、やっている事が正しいかどうかなんて、誰にもわからないことであって、その結果は彼が責任をとるべきことです。彼に任せればいいんです。サッカーに正解はないんですから。監督は実験して、その結果に責任を取るだけです。
後藤 今のところ、その実験はうまくいってますね。
岡田 おそらくワールドカップまでに、あと一回調子がダウンすることがあると思います。そのときに、協会がトルシエをサポートできるかどうかでしょう。
後藤 そういう意味では、日本の協会はしっかりしてないですから。
岡田 ここでまた、協会批判をさせないでください(笑)。
後藤 ………(笑)。
岡田 コンサドーレに来てよくわかりましたけど、やっぱり、勝たなくちゃ仕様がない。周りの方たちのお蔭で、二年目に結果が出ましたけど、ワールドカップは、そんな簡単なものではないですから。現場だけでなく、もっともっとたくさんの人たちの力の積み重ねがないと勝てません。
後藤 今度は、出場するだけじゃなくて、日本で開催するわけですし。ちょっと早すぎるかなという気もしないでもないですけど。
岡田 僕もそう感じます。もっと実績を残して、FIFAになめられない状況でやりたかった。
後藤 ワールドカップを開催するにあたって各地にスタジアムも建設されて、また、日本のサッカーもレベルアップするでしょうか。
岡田 ワールドカップのあとが問題ですよね。それをどれだけの人が考えているのか疑問です。試合は九〇分で終わってしまうのですから。
後藤 札幌市も札幌ドームを作ってます。ワールドカップが終わればコンサドーレのホームグラウンドになるんですよね。
岡田 ええ。だから、市長さんとも話をして、あとに続くような使い方ができるようにしていただきます。
後藤 日本チームが将来ワールドカップで優勝するということはあるでしょうか。
岡田 その可能性はあると思います。トルシエは実際、優勝すると言っているのですから、楽しみです。優勝しようと思ったら、一次リーグからそんなに飛ばしていけないですからね。一カ月もつチームにしあげなくちゃいけない。そして決勝トーナメントの第一試合の頃にちょうどピークをもっていく……。
後藤 一次リーグ突破をめざしてがむしゃらに戦いを挑んでくるチームを、軽くいなして……。
岡田 僕なんかはまず勝ちたいと思うから、どうしても開幕戦の第一試合にピークをもってくる。決勝まで戦うにはそれではダメなわけだから。トルシエは、そうじゃないチーム作りをしているわけですよ。勇気があるなと思うし、代わりに実験してくれてありがたいなと。
[#地付き]〔二〇〇一年一月 札幌にて〕
単行本
一九九六年 文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
ワールドカップの世紀
二〇〇二年四月二十日 第一版
著 者 後藤健生
発行人 堀江礼一
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bb020404