坂東眞砂子
旅涯ての地(下)
第三章
[#地付き]あなたがたから隠されているものを、
[#地付き]わたしが顕《あきら》かにしましょう。
[#地付き]『マリアによる福音書』
〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉に住む人々
〈司教〉 ベルナルド
〈大子〉 ジュリアーノ
〈小子〉 アルミド
〈善き人・男〉アンジェリコ
エンリコ
カルメロ
クリストファノ
ゲラルド
シルベストロ
パンドルフォ
フランコ
〈善き人・女〉アレッサンドラ
ボーナ
マッダレーナ
リディア
〈信徒・男〉 カルロ
グイード
ダビデ
ピエトロ
ベンベヌート
マウロ
リザルド
〈信徒・女〉 アレグランツァ
アンナ
キアーラ
ソニア
〈客人〉 夏桂《カケイ》
シムズ
1
なぜ、ここにいるのだろう。灰色にうねる冬の樹海を見下ろしながら、私は考える。
母の国の倭《わ》でもなく、父の国の蛮子《マンツー》でもなく、なぜこの西の涯《は》てにいるのか。答えのない問いであるが、想《おも》いを巡らせるのは大切なことだ。自分が辿《たど》ってきた足取りを振り返っていなければ、この山の奥で朝ごとに目覚め、糞《くそ》をして、ものを喰《く》って寝るだけの一日を永遠に繰り返してしまいそうだから。
私が今いるのは、連なりあうアルピの尾根の彼方《かなた》、誰かが鑿《のみ》でもって削りあげたような奇妙な形の山々の懐に分け入ったところだ。余所者《よそもの》はめったにやってこない奥地だが、山腹の平坦《へいたん》地や谷間で、人は小さな村を作って細々と生きている。この地の者が〈龍の背中〉と名づけた薄い鱗《うろこ》を重ねあわせたような岩山のすぐ下にも、そんな村がある。木々を従えた穏やかな丘陵が絶壁にぶつかって止まるところの手前に、木造の粗末な家が四十軒ばかり建っている。放牧地や畑に囲まれた小さな家々が、狼に追いつめられた羊の群れのようにひしと寄り集まっている。
この村はアッツォという名で、背後の〈龍の背中〉の絶壁の手前には小さな城まで控えていた。そそり立つ青灰色の岩塊の上に造られたものだが、城壁のまわりには松や樅《もみ》がおい茂り、崩れかけた建物の壁や屋根が土台の岩塊と見分けがつかなくなってしまっている。岩でできた鳥の巣のようなこの古城は〈山の彼方〉と呼ばれ、〈善き人〉たちの隠れ家《が》となっていた。
瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女、マッダレーナに連れられて、私が〈山の彼方〉に来たのは、冬に入る前のことだった。アルピの山中をさまよい、やっとのことで村に辿りついた時には、〈龍の背中〉にどんよりと雪雲が垂れこめていた。それから雪が降り続け、今では村に通じる道は閉ざされ、アッツォ村も古城も踝《くるぶし》ほどの深さの雪に覆われてしまっている。
「東の涯てにも、冬はあるのかい」
隣で木槌《きづち》を振るって、地面に杭《くい》を打ちこんでいたカルロが聞いた。私は頭の中で泳いでいた考え事を振りおとした。カルロは無花果《いちじく》のような鼻をつけた、ぼってりした体格の男だ。私と同じく頭巾《ずきん》をかぶり、毛織りのつぎはぎだらけの上衣を着て、雪に靴を濡《ぬ》らしている。この男は好奇心が強く、しきりに東の涯ての話を聞きたがる。強い訛《なまり》のせいで、最初は何をいっているかよくわからなかったが、しつこく話しかけてくるので、この頃は私自身、訛混じりで答えられるほど慣れてしまった。
「ああ、冬も夏もある」
私は雪に覆われた地面から杭を拾いあげた。手首ほどの太さの木の枝を適当に伐《き》って先を尖《とが》らせた簡単な杭だ。これに山蔓《やまづる》をひっかけて波形に編んでいくと、頑丈な柵《さく》ができる。そうやって作られた柵が、〈山の彼方〉の者たちの畑を取り巻いているのだが、二晩前、熊が襲ってきてあちこち壊してしまった。冬場とはいえ、畑には蕪《かぶ》が植わっている。それで春を待たずに、簡単に修理しておくことになったのだった。
私は凍った硬い土に杭を突きさし、槌を振りおろした。槌がぶつかるたびに、杭が地面に少しずつめりこんでいく。
「あっちの冬はやっぱり寒いのか」
白い息を吐いて、またカルロが聞いてきた。笑いがこみあげてきて腹が波打ち、杭の頭を打ち損なった。
「寒くなけりゃ、冬といわない」
槌を握りなおして、私は怒鳴った。カルロは槌を手にしたままぽかんとしていたが、やがて赤っぽい髯《ひげ》に包まれた頬《ほお》にじんわりと照れ笑いを浮かべた。この男の考えは、死にかけた蠅のように頭の中をよたよた飛んでいる。あまりにのろくて、片手で捕まえることだってできそうだ。
カルロは、〈龍の背中〉の裏側にある村から来た。山間の村を巡り、自らの神について説教する〈善き人〉の話に耳を傾けるうちに、居ても立ってもいられなくなり、〈山の彼方〉にやってきた。崩れかけた古城には、そんな男女の信徒が十数人いて、〈善き人〉と共に働き、共に祈り、共に暮らしている。
ひゅっ、と口笛がした。顔を上げると、少し先のところで杭に山蔓を編みつけていた二人組がこっちに合図していた。〈善き人〉のアルミドと、信徒のリザルドだ。痩《や》せてひょろりとしたリザルドが、反っ歯の口に指を入れる真似《まね》をした。昼食にしようといっているのだ。別のところで柵の破れた部分の山蔓を繕っていた女の信徒のアレグランツァとアンナも脱いでいた外套《がいとう》を着て、雪のくっついた外衣の裾《すそ》をはたき、帰り支度をしている。
私とカルロは打ちかけの杭を手早く地面に立てた。そして槌だけ持って、引きあげはじめた他の者たちの後に続いて畑の外の道に出ていった。
空気は冷たく、足許《あしもと》は所々凍りついている。人の足や駄馬の蹄《ひずめ》で踏みかためられた細い道は、下の村に続く冬枯れした森から出てきて、雪に覆われた畑地や、羊の一頭もいない牧草地を突っきり、村の中へ、さらにその頭上に聳《そび》える古城に達している。それは〈山の彼方〉と外の世界を繋《つな》ぐ一本の糸だ。〈善き人〉たちは二人連れとなり、その糸を辿って外に出て教えを広めては戻ってくる。
「壊れた杭を引っこ抜いたら蛇がとぐろを巻いて寝ててよ、金玉ぁ縮んでしまったよ」
リザルドが、カルロに話しかけた。カルロは目を瞬《しばた》かせて、後ろの畑を振り返った。
「あそこにゃ、いっぱい蛇がいるのか」
リザルドが、うじゃうじゃいるとも、と請けあったので、カルロは無花果に似た鼻の周囲に皺《しわ》を寄せた。
「案じるな、カルロ。寝ている蛇は襲いやしない。寝ている女を起こしたら、襲われることはあるがな」
白髪混じりの顎鬚《あごひげ》を生やしたアルミドがカルロに目配せしてみせた。小柄で浅黒い肌のこの男は〈善き人〉であるのに、男女の寝間のことも平気で話の種にする。生《き》真面目《まじめ》な仲間からは白い目で見られているが、信徒や、教えを聞く村人の間では人気があった。カルロがアルミドの言葉の意味を考えている間に、リザルドが茶々を入れた。
「まったくだ、起こした蛇がアレグランツァだったりしたら大事だ」
「あたしのこと、いってるね」
先頭を歩いていたアレグランツァが男顔負けの頑丈な体躯《たいく》を揺すらせて振り返った。頭を覆う亜麻の被《かぶ》り物の下から、白いものが混じった茶色の髪が覗《のぞ》いている。引っこんだところにある小さな目に、悪戯《いたずら》っ子のようなきらめきがあった。
「ほらっ、襲ってくるぞ」
リザルドがカルロの腕に縋《すが》りつき、カルロはどう応じていいかわからず、腰を引いた。アレグランツァは太い人差し指をぴんと立て、横に振った。
「いくらあたしでも、あんたを襲ったりはしないさ、カルロ。安心おし」
外套の頭巾《ずきん》を目深にかぶり、静かに歩いていたアンナがしゃっくりのような音をたてて噴きだし、それがきっかけでアルミドもリザルドも笑いだした。
澄んだ冬の青空に、白っぽい太陽が輝いていた。布のあちこちをつまんで、ひっぱったような形の岩山が連なり、天に向かって背比べしている。天気が悪いと、くすんだ褐色にしか見えないのに、太陽の光を浴びると薄い薔薇色《ばらいろ》に輝く不思議な岩質をしている。皆と一緒に古城に戻りながら、私の心の中もその薔薇色の岩肌に似た明るさに満ちていた。
もう奴隷ではないのだ。心に思ったことを秘めていなくてもいい。好きなところにいけるし、好きなところに留《とど》まることもできる。ここでは誰も私がタルタル人であることも、逃亡奴隷であることも頓着《とんちやく》しない。
いちおう私は信徒の一団に加わっているが、べつに彼らの信仰に帰依《きえ》したわけではない。〈山の彼方〉で暮らす以上、信徒と同じ規律に従っているだけだ。
私は、この地に居たいだけ居ればいいし、気が向けばいつ出ていってもいいといわれている。〈太陽をまとう女〉と引き替えにもらった金は、ほとんど手つかずで残っていた。私を縛るものはもう何もないし、懐には充分な金もある。今の私の心には、ひとかけらの憂いもなかった。
私たちはアッツォ村の中に入っていった。南向きの斜面に横に三、四筋の列をなして建つ家々は、どれもよく似ている。一階には家畜小屋と台所、二階に寝室、屋根裏は秣《まぐさ》干し場になっている。窓のほとんどは木扉でしっかりと閉ざされて、開いているところは薄茶色の羊皮紙が張られていた。石の壁で造られているのは、火を使う台所と居間のまわりだけで、あとの壁はすべて木造だ。二階の露台《バルコーネ》につけられた、橋の欄干のような手すりの彫刻や、風通しをよくするために格子や千鳥格子をあしらった破風《はふ》や屋根裏の窓。そういった木の飾りは、私が生まれた倭の国の建物を思い出させる。故郷の家と同じく、ここの家々の屋根も草葺《くさぶ》きだったり木羽葺《こばぶ》きだったりする。木羽葺きの家は、草葺きの家より裕福な様子だが、それも雛《ひよこ》の喧嘩《けんか》で、たいした差はありはしない。どの家も寒いことは同じで、こんもりと雪の積もった屋根の隙間《すきま》から、薪《まき》を燃やす白い煙を盛んに立ち昇らせていた。
村の真ん中には広場があり、大きな菩提樹《ぼだいじゆ》が太い枝を四方に広げている。枝の下には、屋根だけの小屋があり、村の〈掟《レゴレ》〉の寄り合いに使われていた。広場に面して建つ三軒の家の中で最も立派な建物は、村一番の財産家、ヅィビリーノ家のものだ。屋根は瓦葺《かわらぶ》き、四方の壁は石造りで、一階は半円形の柱廊を巡らせ、二階の飾り窓には硝子《ガラス》すら嵌《は》まり、ヴェネツィアの商館を思わせる豪華さだ。
広場の片隅には、山から引いてきた水場がある。牛馬の水飲み場兼洗濯場として使われていて、石造りの二つの四角い水盤の上には屋根も架かっていた。水場の背後にあるのは、村一軒の居酒屋だ。居酒屋といっても、葡萄酒《ぶどうしゆ》を売る店の中に、長椅子《ながいす》が置かれているだけだ。朝の仕事を終えた男たちが店の前で立ち話していたが、広場に私たちが現れると、「|ご機嫌よう《サニン・ダ・ポ》」と土地の言葉で挨拶《あいさつ》を送ってきた。私たちは片手を上げて返事をして、ゆっくりと広場を横切っていく。
〈善き人〉の語る教えは、彼らのいうところのローマ教会からは敵視されている。それを信じていることが見つかったら、異端と呼ばれて火炙《ひあぶ》りになるという。それでも、ここで〈善き人〉たちが平穏に暮らせるのは、村にはローマ教会もなく、村人たちは密《ひそ》かに〈山の彼方〉の教えに帰依しているためだった。
広場を抜けると、村は不意に終わり、雪の積もった斜面の上に〈龍の背中〉が屹立《きつりつ》していた。絶壁の手前に突きだした岩塊の上の城までは、人の足に踏み固められた細い道が続いている。私たちは一列になり、急な坂を登っていった。岩塊と一体となった古城が少しずつ大きくなってくる。歯の抜けた櫛のように崩れた城壁。最も高い建物の屋根は見事に陥没し、硝子はもとより布張りの覆いすらなくなった窓は、壁に開いた黒い穴にすぎない。ここに人が住んでいるようには見えないが、近づくにつれて、城の細部に人の手が入っているのがわかってくる。城壁の崩れている場所は、絶壁に面していて、外敵が近づいてくる心配のない部分だけだし、窓に覆いはなくても木扉はちゃんとついている。屋根も派手に破れているのは奥の建物の一箇所だけで、他のところは細かな修繕がされている。うち棄《す》てられたように見えるのは、城に住まう者がいると余所者《よそもの》に悟らせないためなのだった。
坂道はやがて岩の間へと入りこんでいく。ここも一見、荒れ果てた道に見えるが、実は歩きにくいところは、ちゃんと岩を削って足がかりをつけている。松や樅《もみ》が根を張る岩の間を、私たちは前かがみになり、凍った地面に足を滑らせないようにゆっくりと登っていく。体は温かくなり、男たちは上衣の腕をまくり、外套を着ていた女たちも裾を肩に撥《は》ねあげて、外気を中に入れた。大きな岩と岩に挟まれて細い亀裂《きれつ》のようになっている場所は、隙間を石壁で塞《ふさ》いで、半円形の門を作っている。昔はそこに細い門扉をつけて、敵が来た時に備えていたのだ。道はやがて城の西側に曲がりこんでいく。城は正面からだと小さく見えるが、横から眺めると南北に向かって奥行きがかなりあり、表門は城の南西の角に開かれていた。開け放たれた門扉はしっかりと鋲《びよう》打ちされ、破れ目ひとつない。夜間、この門扉を閉じると、古城は今でも充分に要塞《ようさい》として役立つようになっていた。
私たちは息を切らせながら表門をくぐり、小石を敷き詰めた歪《いびつ》な形の庭に足を踏みいれた。城の中には中庭が三つあるが、どれも毎日掃き掃除をしているおかげで雪は積もっていない。三方を城壁に囲まれたこの表の庭の西側には雨水を溜《た》める大きな水瓶《みずがめ》が置かれ、東面と南面は平屋の建物が占めている。東の建物前の階段を降りていくと蝙蝠《こうもり》の棲《す》み家《か》になってしまった広間に通じ、南面の兵器庫や兵士の詰め所だった建物は、農具置き場や、鍛冶《かじ》小屋、大工仕事場、粉挽《こなひ》き場などに使われている。私たちの姿を見て、鍛冶小屋で鍬《くわ》や鎌の手入れをしていた〈善き人〉のゲラルドとフランコ、それに挽臼《ひきうす》で粉を挽いていた信徒のピエトロが仕事を止めた。〈山の彼方〉に住む者は、〈善き人〉か信徒かに関わりなく働かなければならない。力仕事が得意でない者は、厨房《ちゆうぼう》係や家事仕事、または自分の得手《えて》の仕事を務めることになっていた。桶《おけ》や手押し車、藁束《わらたば》などが置かれた農具置き場に、畑から持ち帰った槌や鎌を置くと、私たちは北側にある中の門をくぐって、次の庭に入っていった。東西を二階建ての頑丈な建物によって塞《ふさ》がれた正方形の庭は、〈山の彼方〉の暮らしの中心部だ。東の建物の一階は、厨房と食堂、二階は女たちの寝所のある〈女の家〉、西の建物の一階は家畜部屋、二階は男の信徒の住まう〈信徒の家〉となっている。庭には、中の門の上に作られた柱廊へと続く立派な階段があり、その柱廊から東の〈女の家〉と西の〈信徒の家〉に直接入れるようにもなっていた。
庭の北側には、奥の門が作られている。門の向こうは、やはり小石の敷かれた庭で、〈善き人の家〉、祈りの場などがある。三つの門と三つの庭に分かたれた城は、奥にいくに従って高いところに建てられているので、それぞれの庭の北側の門の手前は坂になっている。最も高所にある〈奥の庭〉に面した建物に、〈山の彼方〉の司教が住んでいた。
朝の仕事を終えた者たちは、中の庭に入っていくと、家畜部屋の前に置かれた水樽《みずだる》の水を汲《く》んで手を洗いだした。〈山の彼方〉の者たちは、顔や尻《しり》は洗わなくても、手だけはいつも清潔にしている。食事の前に手を洗うのを怠ると、とてつもなく悪いことをした気持ちになるらしい。
私は水桶に群がる者たちの後ろに立って、皆が洗い終わるのを待っていた。色石で四角い渦巻き模様の描かれた中の庭は、家畜の臭いと厨房から漂ってくる野菜を煮る匂《にお》いが入り混じっている。中の門の前の日溜《ひだ》まりには椅子が並べられ、五人の女が座って、手仕事をしていた。縫い物や織物をする女たちの中には、マッダレーナの姿もあった。金髪を黒の被り物で隠し、粗末な灰色の衣類を着て、他の女たちと同じく老女のような服装をしている。しかし、被り物の間に覗《のぞ》く白い陶器のような肌にはまだ艶《つや》があり、瑪瑙色の瞳は活《い》き活《い》きと輝いている。
マッダレーナは私と目が合うと、一瞬身構え、それからにっこりとした。優しげな笑みだったが、その底には近寄りがたいものが潜んでいた。
瑪瑙色の瞳の女の肉体の芯《しん》には、鋼が埋めこまれている。それに気がついたのは、ヴェネツィアから逃げだした翌朝、二人の女の呟《つぶや》く祈りの言葉に送られて筏乗《いかだの》りが息絶えた時だった。マッダレーナにいわれて、私は平底船から骸《むくろ》を岸辺に運びだした。上半身を黒々と血に染めた大男の死体を茂みの間に横たえるや、マッダレーナが船を出そうとしたので私は驚いた。このままにしていくのかと聞くと、マッダレーナは怪訝《けげん》な表情をした。
野晒《のざら》しにしておくと、あんたの仲間は野犬や烏に喰われてしまうと説明すると、マッダレーナはもの静かな口調で、それはただの霊魂の抜け殻、塵芥《ちりあくた》と同然ですと答えた。
私は髪の毛をぐいとつかまれたような気がした。商人をしていた時、密輸船の通詞をしていた時、死んだ仲間を埋葬もせずに棄ててきたことは何度もあった。そのたびに少し心が痛んだ。どこか仲間に悪いことをしたと思ったものだった。もっといえば、家族の首を花旭塔津《はかたつ》の辻《つじ》に晒したままにしてきたことに対して、後ろめたくも思っていた。しかし、そういうものかもしれない。死体は霊魂の抜けだした後の袋。それを棄てさることに、心の咎《とが》めを感じる必要があるだろうか。
私は筏乗りの死骸《しがい》を見下ろした。衣類は血で汚れていたが、頭巾《ずきん》つきの短い外套《がいとう》はきれいなままだ。肉体が塵芥同然でも、衣類はまだ充分に使える。私は大男の体から外套を剥《は》ぎ取った。外套がなくなると、男の腰の革帯も、そこに括《くく》りつけていた火打ち石の入った小袋も、短刀も欲しくなった。私はそれらも奪い、さらに革靴までむしりとった。平底船の前方に座っていた、蒼《あお》ざめた頬《ほお》の女、フランチェスカが何かいいたげにマッダレーナを振り向いた。しかしマッダレーナはそれには応じず、私に微笑《ほほえ》んでいったものだ。その男のものは、あなたのものでもあります、と。
その時のことを思いだしながら、私も口の端を少し曲げて、縫い物をするマッダレーナに笑みを返した。マッダレーナは私の笑みを認めると、ついと目を逸《そ》らした。
苦しい旅を共にしてきた者同士の親しみなぞ、どこにもなかった。
「ザンザーラ、どうだ」
先の丸まった鼻に大きな目、いかにも人の良さそうな顔つきのゲラルドが水をたたえた柄杓《ひしやく》を持って、私に合図していた。ザンザーラとは蚊という意味で、私のあだ名だ。手足が蚊のように細いことから、〈山の彼方〉に来て、そう呼ばれるようになった。私はゲラルドの持っている柄杓の下に手を差しだした。藁の浮いた冷たい水が、土で汚れた私の掌《てのひら》にぶつかって砕けた。ゲラルドが流してくれる水で私は手をこすり、最後に掌に受けて飲んだ。
「もっと飲むか」
ゲラルドが聞いた。私が頷《うなず》くと、水桶の上のほうから澄んだ水をすくって、掌に流してくれた。私はそれをまた飲んだ。柵《さく》作りの後、急な坂道を登ってきたので、喉《のど》が渇いていた。
「ただの水はどんなに飲んでも、また渇く」
ゲラルドは空になった柄杓を手にしたまま、私の顔を覗きこんだ。
「しかし、一度飲めば、その人の内で泉となり、決して乾くことのない水がある。そんな水を飲みたくはないか」
私は口のまわりを手の甲で拭《ふ》いた。ここの暮らしは楽だが、落とし穴もある。時に〈善き人〉の誰かが私にそっと爪《つめ》をかけてくる。謎《なぞ》に満ちた言葉を呟いて、彼らの神にまつわる話の中に引きこもうとする。用心して黙っていると、ゲラルドは大きな口の両端にえくぼを浮かべて私に囁《ささや》いた。
「永遠の命に至る水を飲みたくはないか」
「昔、中華《カタイ》に永遠の命に至る仙薬を求めて、船に乗って旅に出た男がいた」
私は水桶に片手を置いて、灰色の粗末な上衣を着た男にいった。ゲラルドは興味をそそられて唇を少し突きだした。
「永遠の命に至る仙薬は、東の海に浮かぶ蓬莱《ほうらい》山にあるという。男は従者を従えて、東へと旅していき、日の昇るところにある小さな島に着いた。そこには男の生まれた国の者によく似た男女が、やはり泣いたり笑ったりしながら生きていた。男は、その島こそ永遠の命に至る仙薬のある場所かと聞いた。島の者は、そうだ、ここの山のどこかには不老不死の薬があると請け合った。男は大喜びで船を降りて、島に住みついた。そして島を巡り、不老不死の仙薬を探し続けたが、見つける前に死んでしまった」
何かいいたげなゲラルドを手を上げて制して、私は続けた。
「おれはその東の島に生まれた。島の者は皆、どこかの山の奥に不老不死の薬はあると口を揃《そろ》えていう。しかし噂《うわさ》は聞くが、仙薬を見つけて長生きした者をこの目で見たことはない。永遠の命なんて屁《へ》のようなものだ。臭いはするが、実体はない」
「おれのいっているのは、肉体の永遠ではない。永遠の命、永遠の魂の話だ」
「魂こそ、まさに屁のようなものじゃないか。そいつの臭いはするが、目には見えない」
私は水桶を叩《たた》いた。桶が揺れて、中の水が小気味よく跳ね返った。〈善き人〉はあきれたようにかぶりを振ると、庭を横切っていった。私はにやにやしながら、そのがっちりした後ろ姿が食堂になっている大広間の戸口に消えるのを見送った。
私とゲラルドが話をしている間に、中庭から人気《ひとけ》がなくなっていた。縫い物や織物をしていた女たちの姿も消えている。奥の門の前に置かれた五脚の椅子《いす》だけが、まだお喋《しやべ》りに興じているように少し乱れた形で残されていた。
私は、マッダレーナの座っていた椅子に腰を下ろした。でこぼこした城壁の上に、青い空と薄い薔薇色《ばらいろ》の岩山の尾根が見える。
まさにここは〈山の彼方〉だ。
マッダレーナが私に初めてその名を告げた時のことを思い出した。筏乗りの死骸を岸辺に放りだしてから、トレヴィーゾに向かって平底船を漕《こ》ぎはじめた、同じ日のことだった。太陽はすでに空に昇りきり、赤や黄色に色づいた木々に秋の日射《ひざ》しを投げかけていた。筏乗りの血の滲《し》みた船に座ったフランチェスカはもの想いに沈んで川面《かわも》を眺め、前後に立って櫂《かい》を漕ぐ私とマッダレーナは、ヴェネツィアに荷を運んでいく帆船が川上からやってくるたびに、人目を気にして、外套の頭巾を深くかぶり直していた。
朝から何艘《そう》もの帆船とすれ違ったので、私はマッダレーナに、ここはずいぶんと船の往来の激しい河なのだなと話しかけた。櫂を漕ぎつづけるマッダレーナは息を弾ませ、船は川上のトレヴィーゾという町から来るのだと答えた。その積み荷の中身のほとんどは、北に広がるアルピと呼ばれる深い山の奥から、筏や馬の背に乗せられて運ばれてくるのだといって、マッダレーナは河の彼方《かなた》の霞《かすみ》の中に横たわる影のような山々に目を遣《や》った。
アルピの遥《はる》か奥に、ウルトラ・モンテスという場所があります。
金色のほつれ毛に包まれた線の細い横顔に、とろけるように微笑みが浮かんだ。限りない幸せが約束されている場所だといわんばかりだった。女の表情は、赤々と燃える鋼のように私の胸に突きささった。
ウルトラ・モンテス。
なぜだかわからない。その言葉は、私の内に憧《あこが》れの波を湧《わ》きたたせ、居ても立ってもいられない気持ちにさせた。きっと、その響きを耳にした者の心を奪い、そこに行ってみたい気持ちにさせる魔法の言葉だったのだろう。
死んだ筏乗りの代わりに、〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉まで自分たちに同行してくれないか、警護役を務めてくれるなら、向こうに着いた時はいたいだけ匿《かくま》ってあげるようにすると持ちかけられた時、私の心は動いた。
ニッコロに怪我《けが》させた逃亡奴隷の身で、すぐにヴェネツィアに舞い戻るのは得策ではなかった。〈山の彼方〉でほとぼりが醒《さ》めるまで待って近くの港に行き、東に戻る船に乗ればいい。そう思って、私はマッダレーナの頼みを引き受けた。
アルピの懐に分け入って、〈山の彼方〉を囲む薔薇色の山々を初めて仰いだ時、私の目はその屹立《きつりつ》する頂に吸い寄せられた。霧をまとわりつかせて頭上に聳《そび》える山は神々《こうごう》しかった。薄板を重ね合わせたような絶壁があるかと思えば、指を立てたような頂がある。平らな部分には白い雪が積もり、垂直な部分は薔薇色に輝いている。白と薔薇色の線は山肌をうねりながら天に向かって突きあげていた。見ているだけで、体の底から湧きあがる力を感じた。その力に弾きとばされ、私は空に舞いあがり、絶壁を這《は》いあがり、山の周囲を巡った。
以来、〈山の彼方〉は、私の心を捉《とら》えたままだ。
私は股引《ももひき》に包まれた細い膝《ひざ》を抱え、あの時のように薔薇色の山々の頂に心をさまよわせようとした。だが私の心が肉体から飛びたつ前に、家畜部屋の戸口でひらひらと動くものに目が止まった。
手だった。朽ちて黒ずんだ木の扉の隙間《すきま》から突きだされた細い手が招いている。中庭には私しかいなかった。私はあたりを見回した。食堂になっている大広間の入口の戸は冷気を防ぐために閉められている。庭に面した建物の窓のどこにも人影はない。それを確かめると、椅子から腰を浮かせ、家畜部屋に近づいていった。
中の庭の西側を占める家畜部屋は、かつては兵士や旅人の寝場所に使われていたのだろうが、今では驢馬《ろば》や牛のねぐらとなっている。〈善き人〉は獣の肉も乳も口にしないから、乳牛や山羊《やぎ》はいなくて、飼われているのは荷役用に去勢された雄ばかりだ。
私は家畜部屋の戸の前に立った。隙間から出ていた手は、すでにひっこんでいる。私はもう一度あたりを見回すと、戸の内に滑りこみ、後ろ手で素早く閉めた。
そこは低い天井が太い木の梁《はり》によって支えられている暗い部屋だ。正面にある細い窓から入ってくる弱い光で、牛や驢馬を繋《つな》ぐ杭《くい》や餌箱《えさばこ》、床に敷いた干し草などがかろうじてわかる。日中、家畜は、奥の庭の先にある狭い草地に繋がれているのでがらんとしていたが、部屋全体に獣の臭いがこもっていた。そのべたつくような臭いに慣れるため、浅く息をしながら視線を巡らすと、入口|脇《わき》に積まれた干し草の山の前に、頭に白い布を被《かぶ》り、前掛けをつけた若い女の姿があった。村から手伝いに通っているディアマンテだ。
厚い唇の間から乱杙歯《らんぐいば》が覗《のぞ》き、左右の大きさの違う瞳《ひとみ》のせいで、片方の目は遠くを、もう片方は近くを見ている感じを受ける。美人とはいえないが、ちぐはぐな顔立ちが男を落ち着かない気分にさせる娘だ。〈善き人〉の教えを尊ぶ母親が寄越しているのだったが、信仰を学ぶことよりも、男を誘惑することのほうに熱心で、体の中に慾望《よくぼう》の火がつくと、家畜部屋に男の信徒を誘いこむ。私の知っている限り、ディアマンテはカルロともリザルドとも寝ていた。
ディアマンテは頭の被り物を取ると、羊に命令する牧人のように干し草の山のほうに顎《あご》をしゃくってみせた。私は股引の紐《ひも》を解くと、ディアマンテの肩を捕まえ、干し草の上に倒した。女の生柔らかな唇が私の喉《のど》に吸いついた。私はディアマンテの汚れた上衣の裾《すそ》をまくりあげ、腐りかけた乳酪のような臭いのする太腿《ふともも》の間に、硬くなった陰茎を押しこめた。ディアマンテは私の尻《しり》を両手で引き寄せ、荒い息を吐いた。
熱くなった雄と雌の山羊が交わるように、交わりはあっという間に終わった。のけぞり、小さく悲鳴を上げてぐったりと草に沈みこんだディアマンテの中に、私は背筋を震わせて白い血を吐きだした。そうして私たちは仰向けになって並び、息を整えた。
「あんたのものって、けっこう細いのね、ザンザーラ」
ディアマンテは私を横目で見ていった。手足が細いといわれるのは慣れていた。しかし、自分の陰茎まで細いといわれると、さすがに気分を害した。
「そりゃあ、カルロとは違うだろう」
私は濡《ぬ》れた陰茎を下穿《したば》きの中にしまいながら言い返した。
「カルロのものは、あの人の鼻に似てるんだ。大きいけど軟らかい」
ディアマンテは乱杙歯を覗かせて、下卑《げび》た笑いを洩《も》らした。頭の被り物は外れ、栗色がかった黒髪が浅黒い顔をくしゃくしゃと包んでいる。この田舎娘の体にむしゃぶりついた自分に腹立たしさを覚えた。
「おまえが信徒のちんぽこ比べをしていると知ったら、〈善き人〉はさぞかし怒るだろうな」
私は干し草の上から起きあがり、下穿きの上に股引を引きあげた。
「がっかりはしても、怒りはしないよ」
ディアマンテも半身を起こすと、指で髪の毛を梳《と》かして藁屑《わらくず》を落とした。
「〈善き人〉たちだって、もとは肉の慾望のままに生きていたんだもの。今じゃ罪を犯したことは一度もございませんって顔しているけど、救慰礼《コンソラメンタム》を受ける前は結婚していたり、愛人がいたりしたんだからね」
私が驚いた様子も見せなかったので、ディアマンテは声を張りあげた。
「お上品な顔をしているマッダレーナなんか、罪深いことじゃ、あたしよりすごいよ。三回も結婚して、子供だって二人はいるって話だもの。前の二人の旦那《だんな》は死んだらしいけど、三人目の旦那はまだ生きてるんだよ。なのに、夫も子供も棄《す》ててここに来て、生まれた時から男に指一本触れなかったみたいに澄ましてるんだからね」
女の小さなほうの瞳が勝ち誇ったように白目の中で泳いでいた。マッダレーナの弱みを突くことを喜んでいる。ディアマンテは、マッダレーナが嫌いらしかった。
「そんな女だって救慰礼を受ければ〈善き人〉になれる。あたしだって、今どんなに重い罪を犯しても、死ぬ前にあれを受ければいいんだ。そしたら、あたしだって天の国に迎えられるんだもの」
ディアマンテは立ちあがると、藁の山から被り物を拾って頭を包んだ。そして服の裾をばたばたと払って、私からぷいと顔を逸らして家畜小屋から出ていった。
2
私の父は花旭塔津《はかたつ》の寺にお布施をしては、太鼓腹をした印度《インド》の神の機嫌を取っていた。母は父の目を盗んでは、棚の奥に隠したご先祖さまの木札をせっせと拝んでいた。父は死んだら極楽に往《ゆ》くのだといっていたし、母は死んだらご先祖さまの許《もと》に戻るのだといっていた。二人とも死後の世を、いかにも平和で静かなところであるかのように語っていた。
首を斬《き》られた父がうまく極楽に往けたか、母がご先祖さまの許に戻れたか、私にはわからない。しかし私には、二人の言葉通りなら、両親の往った場所が平和で静かなところだとは思えない。死後の世が、いくつもあるのならば、それぞれ境があるだろう。境があれば、人は競いあい、いがみ合い、やがては戦いを始める。そんな世が、どうして平和で静かでいられようか。
〈山の彼方〉の者たちは、死ぬと、天の国というところに逝くという。誰もが天の国に逝けるのではない。救慰礼を受けた者だけだそうだ。天の国とは、極楽やあの世なぞよりも入ることが難しいところのようだ。
こんなことがわかったのは、トレヴィーゾの亜麻布職人の家に隠れていた時だった。私たちを迎えてくれた職人はアントニオといい、親方《マエストロ》の称号を得ている男だった。アントニオは、異端者の女たちを匿っていると他人に知られることに脅《おび》えながらも、同時に〈善き人〉が自宅に泊まっていることを誇らしく思っていた。だから私には台所の隅に寝場所が与えられただけだが、女たちには二階のこぎれいな部屋を提供していた。
人目を憚《はばか》る身だった私は、昼間は使用人や不意の来客の目から逃れるためにマッダレーナとフランチェスカの居室にいることになった。階下から響いてくる、ぱったんぱったんという織り機の音を聞きながら、私たちは小部屋にこもっていた。そんな時、マッダレーナとフランチェスカは寝台に腰を下ろして、もっぱら神やら罪について議論し、私は部屋の窓際の椅子《いす》に座り、布張りの窓の隙間《すきま》から狭い路地で立ち話する女や、浮き草のように流れていく物売りや物乞《ものご》いの姿を眺めていた。
死んだ者のことを、いつまでも思い悩むことはありません。
親方の家に厄介になるようになって二日ほど経った時、窓辺に座っている私に、マッダレーナのそんな言葉が聞こえた。どうやらフランチェスカは、筏乗《いかだの》りの死骸《しがい》を岸辺に棄《す》て、さらに私が衣類を剥《は》ぎ取ったことを気にしているらしかった。目の前に、筏乗りの靴やら短刀やらを身につけた男が座っているのだから、無理もない。おまけに私は、船を乗り棄てる時には、筏乗りの持っていた旅道具の入った革袋までもらい、そこに金を入れていた。耳をそばだてていると、マッダレーナは、あの男の霊魂は救慰礼を受けて、無事、この地上を離れていったのだから案じることはないといった。
救慰礼とかいうものなんか受けなくても、人は死んだら皆、魂となって地上から離れていくんじゃないのか。
退屈していた私はつい口を挟んだ。マッダレーナは瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》を見開き、家で飼っている豚が、突然、腸詰めの作り方を説明しはじめたみたいな顔をした。しかし、すぐにいつもの余裕をとり戻して、かぶりを振った。
救慰礼を授けられた霊魂だけが天の国に逝くことができるのです。天の国に逝けなかった霊魂は、またこの苦しみと悲しみに満ちた地上に戻ってくるしかないのです。
霊魂が地上に戻ってきて、どこが悪いのか、私にはわからなかった。父は極楽に往ったら、ずっとそこに居座るつもりらしかったが、母はよくいっていた。ご先祖さまの許に戻ってしばらくしたら、わたしたちはまた子孫の体に入って、この世に戻ってくるのだよ、と。
もちろん、人がどのような死後を描こうが、そいつの勝手だ。私はマッダレーナの言葉を考えながら、〈太陽をまとう女〉を運んできた放浪楽師のことだがな、といった。マッダレーナは、ヴェネツィアで死んだ男の話が出てきたので意外な顔をした。
あの男は死ぬ前、俺《おれ》に〈善き人〉かと聞いたんだ。何気なく、そうだ、と答えると、救慰礼を授けてくれと頼んできた。授けてやるといったら、筏乗りのように安らかな顔で死んでいったよ。天の国とやらに逝けなかったとしても、あの男は幸せに死んでいった。それでいいんじゃないか。
あなたは〈善き人〉ではありません。
マッダレーナは蠅を叩《たた》くみたいに、ぴしゃりといった。あなたには聖霊《スピリト》を授ける力はありません。天の国に逝けなかった楽師が幸せなはずはないでしょう、と。
いつも穏やかな態度を崩さなかったこの女の言葉に、棘《とげ》がこもっていた。蒼《あお》ざめた頬《ほお》のフランチェスカがちらと連れを見たほどだった。マッダレーナは頬を赤らめ、唇を横に結んだ。そして目を閉じ、膝《ひざ》の上で組んでいた手をきつく握りあわせ、心を落ち着けてから、また口を開いた。
〈善き人〉とは、救慰礼を受け、聖性のうちに生きる誓願を立てた者のことなのです。つまり、殺人、姦淫《かんいん》、盗みをなさず、何人《なんぴと》であれ誓いを立てる者は悪を為《な》す者であるがゆえに、いかなる時においても誓いを立てず、人を欺かず、乳酪、獣乳、鶏卵、鳥獣、および地を這《は》うものの肉を食べず、自らの心ならびに自らの財貨を、神と教会とクリスト教徒の奉仕に委ねる者。そういう生き方をしている者だけが救慰礼を行えるのです。
父が寄進していた寺にも、極楽に人を導くために厳しい暮らしをしている僧侶《そうりよ》がいた。だがそれはたいてい男で、マッダレーナやフランチェスカのような女はいなかった。
あんた、ほんとに、そんなものを守っているのか。
私はあきれて呟《つぶや》いた。マッダレーナは当然だという顔で頷《うなず》いた。
だけど、つい破ってしまうことはないのか、と私は聞かないではいられなかった。つい肉を喰《く》ってしまったり、男に触れたりすることはないのかと。
誤って異性の体に触れたりすれば、絶食して潔斎をしなくてはなりません。
それで私は、筏乗りの介抱をして以来三日三晩、二人の女が水しか口にしなかった理由に気がついた。そして、ヴェネツィアで会った時、私と決して約束をしようとしなかった訳も。すべては〈善き人〉となるための誓願からきていたのだ。
天の国とやらがほんとうにあるかどうかなんて、誰にもわからない。いざ死んで、天の国がなかったら、どうするんだ。あたりを見回して、他のさんざん好き勝手なことをしてきた魂と一緒に地上をふわふわしてたりしたら、あほらしくなるぞ。厳しい掟《おきて》を守って一生を送ることなんぞ無駄になるんだ。
天の国はあります。神がいる限り、神の住む天の国はあるのです。
マッダレーナは、きかん気の子供をあやす母親のように辛抱強くいった。
誰か死んで、見てきた者がいるのか。
私は喰いさがった。私の舌は餌《えさ》を見つけた鼠の尻尾《しつぽ》のように喋《しやべ》る喜びに震えていた。奴隷だった時、身の内に貯《た》めこんでいた言葉が堰《せき》を切って溢《あふ》れだしていた。フランチェスカが聞くに耐えないというように両手で耳を塞いだ。しかしマッダレーナは岩の如く揺るがない。
クリストです。クリストは、天の国から遣わされてきたと、福音書に書かれています。
それを書いた者だって、死んでから書いたのではないのだろう。すべては生きている者のでっちあげだ。
人は、神を通して、真実を視《み》ることができるのです。『ヨハンネスによる福音書』には、クリストは天より下ったとあります。また、イザヤという預言者は夢幻の中で天に昇り、七つの層から成る天の国を視てもどってきたことが記されています。
おれだって、いろんなものを視る。夢で、幻で。
マッダレーナは憐《あわ》れみと苛立《いらだ》ちの混じった瞳で私を見据えた。
あなたにはわからないのです。
鞭《むち》のような言葉が宙に鳴り、会話の終わりを告げた。
3
木の椀《わん》から湯気が立ち昇っていた。あまりに薄くて、汁の底のほうに沈んでいる蕪《かぶ》と野草の屑《くず》が見える。私は自分の前に置かれた椀の中にため息を落として、顔を上げた。
半円形の梁《はり》を二本の石の円柱が支える大広間は、昔は城主が家臣たちに命令を下したところだという。そのために細長い部屋の片隅には階段があり、城主が座っていたらしい一段高い座へと続いている。しかし今、その座は、広間との間に壁を築いて厨房《ちゆうぼう》として使われ、松明《たいまつ》に照らされた広間は、細長い三つの卓が並ぶ寒々とした食堂となっている。中央に置かれているのは〈善き人〉の卓、出入口に近い側に信徒の卓、奥の厨房側の卓には〈善き人〉も信徒も交えた女性だけが座っている。前に置かれているものは皆同じ、野菜汁だ。各自の汁椀の前で頭を垂れる人々の肩が、食卓の両側に山脈のように連なっている。
「天にいますわれらが父よ、御名《みな》が崇《あが》められますように、御国がきますように」
中央の食卓で、司教が震える両手に鍋《なべ》ほどの大きさの丸い麺麭《パン》を捧《ささ》げ持ち、祈りの言葉を唱えている。肩まで垂れる、ふさふさした銀色の髪、鷲《わし》の嘴《くちばし》のように曲がった鼻に、こけた頬。銀の羽を持つ禿鷹《はげたか》を思わせる高齢の老人だ。ベルナルド・ダ・トローザというこの司教はフランチアの人間で、口の中に泡を詰めているような響きの言葉を使う。司教の右隣に座っているのは、|大 子《フイリオ・マツジヨーレ》の地位のジュリアーノ・ダ・ヴェローナ。左隣はアルミド・ダ・ナポリ。この南から来た陽気な男は、|小 子《フイリオ・ミノーレ》という立場にある。司教が死んだ場合、大子のジュリアーノが次の司教の座に就き、小子のアルミドが大子になるのだという。その三人が〈山の彼方〉の重鎮で、大子も小子もそれぞれ麺麭を手にしていた。
司教と大子小子を囲んでいるのは、男の〈善き人〉だ。近くの村で生まれたゲラルドとフランコは、同じようなくしゃくしゃした褐色の髪に先の丸まった鼻、幅の広い腰をして、兄弟のように見える。実際、二人は従兄弟《いとこ》同士だ。この二人と、小柄で早口で喋るカルメロ・ダ・ヴィチェンツァ、濃い眉《まゆ》と秀でた額、生《き》真面目《まじめ》な雰囲気のクリストファノ・ダ・シルミオーネ以外は、皆、遠くから集まってきている。貴族の血を引いているというパンドルフォ・ダ・フィレンツェ、司教と同じくらい高齢のシルベストロ・ダ・ミラノ。透けるような細い金色の髪と青い瞳のジェルマニア人のエンリコ・ダ・ヴィエンナ、氷柱《つらら》に似た長い鼻を持つスパーニヤ人のアンジェリコ・ダ・バルチェローナ。〈善き人〉ではないが、特別に同じ卓に座っているのは、シムズ・ベン・ヤコブだ。縮れ毛を額の真ん中でふたつに分けたこのヘブライ人は、前の春、ここにやってきて以来、その博識で司教の良き話し相手となり、客人待遇を受けている。
信徒の卓には、八人の男が座っている。頭のすっかり禿《は》げたマウロ爺《じい》さん、反っ歯のリザルド、小麦の詰まった麻袋のようにずんぐりしたピエトロ、猫背のグイード、まだ少年のダビデ、もの静かな若者ベンベヌート、そしてカルロと私だ。男たちは皆、粗末な衣に身を包み、髯《ひげ》も髪も伸ばしっ放しだ。この場を覗《のぞ》く者がいたら、山賊の住処《すみか》のように見えるだろう。女の卓にも八人いた。〈善き人〉は、マッダレーナとアレッサンドラ、そしてリディアとボーナだ。アレッサンドラは白髪混じりの初老の女、いつも口許《くちもと》に微笑をたたえているリディアは死んだフランチェスカと同じくらいの若さ、ボーナは歯も抜けた老婆だった。〈善き人〉と向き合う形で卓を挟んで座る四人の信徒たちは、いかにも農婦然とした雰囲気のアレグランツァ、寡黙なアンナと、まだ若いキアーラとソニアの姉妹だ。この姉妹はアレッサンドラの娘たちで、母娘《おやこ》そろってここに暮らしている。ディアマンテはここにはいなかった。あの奔放な村娘は、昼食は皆と一緒に食べるが、夜になると村の自分の家に戻るのだった。
「わたしたちの真の麺麭を、今日もお与えください。わたしたちが負債ある者を赦《ゆる》しましたように、わたしたちの負債をもお赦しください」
司教の祈りは続いていた。私はうつむいて手を組み、女の卓にいるマッダレーナを窺《うかが》った。目尻《めじり》には細い皺《しわ》があり、衣類に包まれた体の丸みは成熟した女のものだ。私は昼間のディアマンテの言葉を思いだしていた。マッダレーナが人の妻であり、子供もいたとは聞いていたが、三人もの夫を持っていたとまでは知らなかったし、信じられなかった。今のマッダレーナは肉の慾《よく》とはまったく別のところにいた。
「世の初めから終わりにいたるまで、アーメン」
司教がかさかさと骨ばった手で麺麭を分けた。老衰で力の弱っている司教には硬い麺麭をちぎるのは大儀であるらしく、ふたつに分けるまでしばらく待たねばならなかった。麺麭が両側の〈善き人〉の手に渡されると、食事の前の儀式はやっと終わりだ。マウロが足をもつれさせるようにして中央の卓に行き、司教がちぎった麺麭のかけらを信徒の卓に運んできた。信徒たちは、大子のジュリアーノや小子のアルミドの割ったものより、司教が分けた麺麭をありがたがる。それを食べると、司教に一歩でも近づくと思っている。私は皆が「善きものを」と呟《つぶや》きながら麺麭のかけらを恭しく口に入れている間に、野菜汁をあらかた飲んでしまっていた。
野菜汁と麺麭。たまに酢のような葡萄酒《ぶどうしゆ》がほんの少しという貧相な食卓を前にすると、ついポーロ家の食卓と比べてしまう。奴隷だったとはいえ、あのヴェネツィア商人の家に居た頃のほうがまだうまいものにありつけた。残りものとはいえ肉や甘いものも口にできたし、第一、料理は塩味が利いていた。山の中では塩が手に入りにくいため、ここの料理は野菜汁にしろ麺麭にしろ味が薄く、ひどい代物《しろもの》だった。
「東の涯《は》てじゃあ、なにを食べるんだ」
カルロが分厚い肩を寄せて、私に聞いてきた。この問いは三度目だった。最初は、米といい、次は餅《もち》だと答えた。今度は、稗《ひえ》だ、といってやった。前の二回と同じく、カルロは、それは何だと訊《たず》ねた。私は、黄色くて泡みたいな穀物の粒だと説明した。カルロは野菜汁を啜《すす》るのを止め、じっと椀を見つめていたが、やがて匙《さじ》を持った手で無花果《いちじく》形の鼻の下をこすった。
「この前には、確か別のものをいっただろう。白くて粘っこい麺麭みたいなものを食べると」
「餅のことか」
珍しく前の会話を思い出したらしかった。
「餅は米からできている。虫の卵みたいな白い穀物だ。それはうまいが、金持ちの食べ物だ。普通の者がしょっちゅう食べられるものじゃない。貧乏人が食べるのが稗だ」
カルロの口許に煙のように笑みが広がっていった。
「東の涯てにも、貧乏人はいるんだな」
私は頷《うなず》いて、ぽそぼそとした麺麭を割って口に放りこんだ。ピエトロが粉を挽《ひ》いて焼く麺麭には、時々砂が混じっている。案の定、奥歯からじゃりじゃりという音が聞こえた。
「貧乏人は、この世の蚤《のみ》だ。どこにでもいる」
私とカルロの向かいに座っていたグイードが話に加わった。
「蚤は人の血を吸うが、貧乏人の血を吸うのは金持ちのほうだ」
首筋まで垂れた髪をくしゃくしゃにして、猫背のグイードは太い目を剥《む》きだした。この男の内には不満が渦巻いていて、口を開くと容赦のない口調で世間を批判する。
「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである=v
数本しかなくなった歯で麺麭を噛《か》みながら、マウロがもごもごといった。グイードは皮肉な笑みを浮かべた。
「そりゃあ、貧しい者は神の国には近いさ。ろくなものを喰《く》わずに働いてばかりだから、命が短い」
リザルドが背筋をくねらせ、ひゃっひゃっ、と笑ったので、カルロも何がおかしいかわからないままそれに加わった。二人の笑い声に、〈善き人〉や女たちが振り返った。しかし食卓の笑い声を咎《とが》める者は誰もいなかった。
城の壁は厚く、天井は重くのしかかっていたが、食堂には春の日射《ひざ》しのように軽く透明な明るさがたゆたっていた。私たちは、今日直した柵《さく》の出来、村人の様子、天候など、他愛《たわい》ないことを話しながら食事を続ける。〈山の彼方〉に来るために村に置いてきた家族や、自分の過去を語る者は誰もいない。過去を棄《す》てた者が語ることのできるのは、今のことだけなのだ。
麺麭と野菜汁の食事はあっという間になくなってしまった。食事が終わると、人々は手分けして、食器を片づけたり、城門や雨戸を閉めたりしはじめた。それぞれの持ち場の仕事をすませると、大広間の隣の厨房に集まっていった。
厨房は中央に四角い台のような炉があり、薪《まき》がしゅうしゅうと音を立てて燃えていた。煙は厨房に霧のように漂い、敵の攻撃に備えて壁に細長く穿《うが》たれた覗《のぞ》き窓から流れでていく。奥の壁を刳《く》りぬいて、もうひとつ麺麭焼き竈《かまど》も作られている。その隣にはずらりと木の杓子《しやくし》や鉄の鍋がぶらさがり、棚には亜麻の種から採った油や蜂蜜《はちみつ》、玉葱《たまねぎ》や茸《きのこ》の酢漬け、干し林檎《りんご》や干し葡萄《ぶどう》といった果物などの壺《つぼ》が並んでいた。隙間《すきま》風の吹きすさぶ城の中では、この厨房が最も暖かな場所だった。老齢の司教や、瞑想《めいそう》を選ぶ〈善き人〉などを除いて、ほとんどの〈山の彼方〉の者たちは就寝前にこの厨房に集まってくる。そして、瞼《まぶた》が重くなるまで、〈善き人〉が交替で語る教えを聞いて過ごすのだ。
私はそこでの話には興味はないが、炉端の温《ぬく》もりに惹《ひ》かれて一座に加わっていた。
皆のだいたいの位置は決まっている。炉に最も近い長椅子《ながいす》に〈善き人〉たちが座り、信徒や女たちは壁際の逆さにした桶《おけ》や薪や干し草の束に陣取る。女たちはたいがい料理番であるアレッサンドラと二人の娘のいる棚の下に集まった。私は厨房と食堂を隔てる戸の前に腰を下ろして、膝《ひざ》を抱えた。
司教や大子小子、フランコとボーナが去った後に残った〈善き人〉の中で、今夜の話し手となったのは、スパーニヤ人のアンジェリコだった。この男は身だしなみに気遣うほうで、黒々と縮れた髪や尖《とが》った顎《あご》の先の鬚《ひげ》を鋏《はさみ》できちんと切りそろえていた。しかしそれも、黄ばんだ肌や、不意にこみ上げてくる咳《せき》によって、病弱に見えるのを隠そうとしているからではないかと私は勘ぐっていた。
「〈淫乱《いんらん》の母〉ローマ教会の者たちが崇《あが》めているのは、真の神ではない。この悲哀に満ちた世を作った悪しき神だ。ローマ教会が崇める旧《ふる》き聖書はその悪しき神を讃《たた》える書に他ならない」
アンジェリコはがらがらした声で語りはじめた。スパーニヤから来たとはいえ、この地の言葉を完璧《かんぺき》に操っている。
「悪しき神は、この世の土や木や草を造った後、天を仰いだ。そこには、真の神、善き神に作られた国があり、輝く天使たちがなんの憂いもなく暮らしていた。悪しき神は、嫉妬《しつと》を覚えた。天の国の平安を突き崩してやろうともくろんだ。そこで天の国の入口で千年の間、機会を窺《うかが》い、ついに中にもぐりこむことができた。そして天使たちに、もし自分について地上に降りたら、使いきれぬほどの富と、妻や夫を持たせてやろう、ここよりもっと楽しい暮らしをさせてやろうと持ちかけた。それに心を揺さぶられて次々と天使が地に下ったから、九日九夜、地上は光る雨が降り続けたように見えたものだった」
薪から弾ける火花が光る雨の飛沫《しぶき》のように炉の上で踊っていた。ソニアとキアーラの姉妹は、語られた光景をそこに重ね合わせているのか、夢みる目差しで煤《すす》に汚れた天井を見上げた。マウロ老人は顎の下で指を組んで、一人で頷《うなず》いている。剽軽《ひようきん》者のリザルドでさえ神妙な顔で耳を傾けている。〈善き人〉になるには、話術も必要とされる。毎晩のように聞いていると、それぞれの〈善き人〉は、自分なりの話し方を編みだしているのがわかった。司教は常に相手に確認するように目を見つめ、ジュリアーノは熱狂的に語り、エンリコは静かに相手の心を惹《ひ》きつけ、アルミドは巧みに笑わせる。そしてアンジェリコは粘っこい語り口で、相手を説き伏せていく。
「悪しき神は、天使の霊魂《アニマ》が地上に達するや、それを捕らえて泥で作った肉の衣に閉じこめ、悪と汚れにまみれた地上に繋《つな》いだ。われわれは皆、もとは天の国にいた天使なのだ。だが今やこの世という牢獄《ろうごく》に囚《とら》われている。この肉の衣が破れれば、霊魂はまた新たな肉の衣に閉じこめられ、衣から衣へ、われらは永遠に移り続けているのだ」
〈善き人〉の語る内容はだいたい同じなのだが、話す人によって、少しずつ言い回しが違う。信徒たちは、それをお伽話《とぎばなし》のように毎晩聞き、やがてそらんじるほどになり、救慰礼《コンソラメンタム》を受けて〈善き人〉になれば、村々を回り、自分流にこの教えを話すことになる。
「しかし幸いなことに、天の国には囚われた天使たちの精霊《スピリト》と、霊魂の容《い》れ物たる魂の衣《コルプス》が残された。精霊と魂の衣は、天使の霊魂がもとのところに戻るのを待っている」
アンジェリコはこみあげてきた咳を我慢するために顔をしかめた。その合間を縫って、干し草の束の上に座ったアンナが前掛けをいじりながら、精霊と霊魂はどう違うのかと訊《たず》ねた。アンジェリコは喉《のど》に絡んだ痰《たん》を呑《の》みくだすと、尖った顎を女に向けた。
「精霊とは神に近いもので、人の頭上に宿る神的なるもの。霊魂とは心の内にあり、より人的なるものだ」
横に引かれた線のような目と口を持つ生《き》真面目《まじめ》な表情のアンナは頷きはしたが、さほど釈然としているふうではなかった。しかしアンジェリコは熱っぽく話に戻った。
「われわれは天の国に還《かえ》らなくてはならない。救慰礼を受けて、天の国に残された精霊をこの身に再び取り入れるのだ。そして、われわれの霊魂は、慰めの霊《コンソラトル》を授かり、その力でこの世で犯した罪の穢《けが》れを洗い流し、肉の衣から解き放たれ、天の国にある魂の衣に戻ることができるのだ。クリストは、われわれを天の国に還すために、真の洗礼、救慰礼を授けにきた天使だった。だからこそクリストは、忌まわしい男女の交わりによって生まれたのではなく、天上より投影された幻としてこの世に現れ、役目を果たすと天の国に戻っていったのだ」
「最後の審判の日にゃ、クリストさまはまた地上に降りてくると聞いたけど……」
壁際の麺《パン》麭焼き竈の前に陣取ったピエトロがぼそりといった。
「誰がそんなことをいった」
アンジェリコは神経質そうにそちらに目を遣《や》った。ピエトロはまずいことを口走ったかのように、ずんぐりした体をますます丸め、「誰って、〈善き人〉だけど……」と呟《つぶや》いた。その場の視線が、長椅子の端に座っていたジェルマニア人のエンリコに注がれた。ピエトロとエンリコは協同で麺麭焼きの役に当たっている。ピエトロがいう〈善き人〉とは、たいがいエンリコを指していた。
「そういう説もあるといったのだ」
エンリコは、ジェルマニアの訛《なまり》の残る低い声でいった。金色のふさふさした髭《ひげ》を生やした獅子《しし》のようなこの男は、司教にも劣らぬ威厳があったが、〈山の彼方〉に来たのは、この前の冬に過ぎないということだった。アンジェリコは、同じ長椅子の端に座ったエンリコを一瞥《いちべつ》して、また説教に戻った。
「最後の審判なぞ、ローマ教会がでっちあげたものだ。そんな日はやってはこない。われらの霊魂は、救慰礼によって救われない限り、未来|永劫《えいごう》、肉の衣から衣へ移りながら、この世をさまよい続けるのだ」
落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底に嵌《は》まるアンジェリコの黒い瞳《ひとみ》が、熱っぽく光っていた。
〈山の彼方〉の者たちは、目に見えないものを分けることに一生懸命になっている。善き神と悪しき神、霊魂と精霊、天の国とこの世。だがそれは、米と麦を選《よ》り分けるみたいに簡単にはいかない。まるで泥遊びしている子供だ。どんな形にこねあげようと泥は泥。水と砂と土の混ざりものでしかない。
話を聞くことにも退屈してきた私は、体も暖まったので、そっと厨房の戸から滑りでた。すでに食堂の松明《たいまつ》は消えている。細長い覗《のぞ》き穴から入る月明かりが、石の床に長く青白い帯を落としていた。私は食堂を横切り、中庭に出ていった。
空には鎌のような三日月がかかっていた。〈龍の背中〉は蒼《あお》く染まり、城の頭上に覆いかぶさっている。下方に広がる森から、狼とも亡霊ともつかないものの声が聞こえてくる。中庭に面した家畜部屋の戸は閉められ、牛や駿馬ももう眠っている。二階にある〈信徒の家〉も〈女の家〉もすでに木扉は閉ざされている。ぼんやりと中庭を眺めていた私は、奥の門の上の窓に朱色の筋がちらちらしていることに気がついた。閉ざした木扉の隙間《すきま》から明かりが洩《も》れているのだ。
私は少し思案してから、奥の門のほうに歩いていった。門は、中の庭と奥の庭の間を隔てる二階建ての建物の一階を刳《く》りぬいた形で作られている。明かりの灯《とも》っているのは、まさにその門の真上の部屋だった。奥の庭からその二階の部屋までは、狭い外階段がついている。私は門をくぐって、奥の庭に入っていった。
信徒の群れに混じっている私がこの奥の庭に足を踏み入れることはめったにない。地面の敷石はあちこち掘り返され、下の岩肌が露出している。城の三つの庭の中で、ここは最も荒れていた。建物もまた、盛大に屋根の破れた三階建ての建物と、半分崩れた物見の塔が東側に固まっている。三階建ての建物の一階は、祈りの場と〈善き人〉の寝所に、二階は司教の居室になっている。木扉の隙間から明かりが洩れているのを見ると、司教室に三人の重鎮が集まって、秘密の話をしているのかもしれなかった。人目を忍んで布教を続けているだけに、まとめ役たちの抱える問題も多いのだろう。
私は奥の門の上の建物に続く石段を昇り、細長い木の戸の前に立った。立て付けの悪い戸はほんの少し開いている。隙間から中を覗くと、壊れた長持や、埃《ほこり》の積もった棚のある殺風景な部屋が見えた。窓際には食堂にあるような細長い机がひとつ。上には燭台《しよくだい》と、墨汁|壺《つぼ》に羽根ペン、革表紙の本が重ねられている。戸口に背を向けて、狐《きつね》の毛皮を背中に掛けた男が書きものをしていた。前脚の先に紐《ひも》を通して肩にかけ、後肢《あとあし》を伸ばした形の毛皮なので、背中に狐が縋《すが》りついているように見える。
ヘブライ人のシムズだった。私はわざと戸を乱暴に引いた。蝶番《ちようつがい》のきしむ音とともに、シムズは書いていたものをぱっと腕で隠し、驚いた顔をこちらに向けた。波のように額にかかる黒髪。丸みを帯びた長い鼻に細い目。まだ青年のように若く見えるが、私より少し年下くらいの男だ。
「どうだ、進んでいるか」
私は部屋に入ると、戸を閉めた。
「まあまあだ。亀の歩みほどの進み具合だがね」
シムズは腕を机からだらりと落とした。この男はヴェネツィアの近くのパドヴァ生まれだが、父親がフランチアのトローザに住んでいた。そこで、ベルナルド司教と知り合い、お互い信仰は違うが、友情を結んだ。ベルナルドが〈山の彼方〉に逃げ延びる時にも色々と助けたりしたという。その後、父親はトローザからパドヴァに移り、司教と再会した。そんな関わりで、まずいことになってパドヴァから追放されたシムズは司教を頼って、〈山の彼方〉に身を寄せたのだという。〈善き人〉の教えに帰依《きえ》している信徒でもなく、ヘブライ人の神を信じているわけでもないが、パドヴァ大学で修辞学を教えていたという学識を買われて司教の秘書のようなことを務めている。私もシムズも〈山の彼方〉で宙ぶらりんの立場にいるということで、お互い気安いものを感じていた。
私は部屋を横切って歩いていくと、シムズが隠したものに目を落とした。両掌《りようてのひら》ほどの小さな羊皮紙が数枚重ねられている。薄茶色になった紙の上には、苦しんでいる芋虫を横に並べたような文字がびっしりと記されていた。
「なんと書いてあるんだ」
私は一番上の列を指さして聞いた。シムズはその古い羊皮紙を見ながらいった。
「心宿るところに、宝がある」
私は、ふん、と鼻を鳴らした。シムズの部屋を訪れるたびに、気の向くままに芋虫に似た文字の列を指さして、その意味を問う。たまに考えるに値する言葉にぶつかる。
「心とは宝ということか」
シムズは今度は羊皮紙の横に置いていた別の紙を取りあげた。そして、椅子《いす》に背をもたせかけて上を向き、紙を顔の前にかざした。
「マリアはいった。主《しゆ》よ、わたしは今日、あなたの幻を見ました。主は、マリアに答えていわれた。褒《ほ》むべきかな、おまえはわたしの姿を見てもたじろがなかった。心宿るところに、宝がある」
シムズの持っているのは、芋虫の文字をラテン語に訳したものだった。それをまた私にわかる言葉に変えていったのだった。私はその件《くだり》を考えた。
「なにを目にしてもたじろがない心は、宝に等しいということだな」
シムズの目尻《めじり》から頬《ほお》に痙攣《けいれん》のようなものが走り、口の端に達して笑みに変わった。この男の頭の中はカルロとは正反対で、考えが目にも止まらない速さで動いている。時々、それが表情に現れ、神経質な印象も与えていた。
「まあ、そうだが、この一文には、〈山の彼方〉の人々にはもっと深い意味がある」
どういう意味だ、と私は聞いた。
「主というのはイエスのことだ。やがて救世主《クリスト》として人に知られるようになった男だ。クリストは十字架にかけられて死んだ後、肉体が復活したといわれている。だが、この書には、幻としてマリアの前に現れたと書かれている。〈山の彼方〉では、イエスは肉の衣、つまり生身を持たなかったと教えている。もとから肉体はなかったのだから、死からの復活もない。イエスにまつわることは、すべて幻だったのだ。その証《あかし》のひとつだとして、この言葉を解釈して喜ぶだろう」
私は唸《うな》った。さっきアンジェリコがそんなことを話していたと思った。
「それじゃあイエスとは、亡霊のようなものだったというんだな。亡霊が人の真似《まね》をして、一生送ったということになる」
シムズは、まあな、とおかしそうに頷《うなず》いた。
「だけど、大昔に生きていた一人の男が幻だったかどうかなんてことが、どうしてそれほど大切なことなんだ」
私が聞くと、シムズは羊皮紙を机に戻して、手で両肩をこすった。その部屋も、城の他の部屋と同じく、臭い鯨油の煙を吐く洋燈以外に火はなく、寒々としていた。
「クリスト教徒にとっては、イエスは神でもあり、神の子でもある。天から下ってきた者なのだ。そこがクリスト教の教義に混乱をもたらす原因となった」
私は部屋の隅の壊れた長持の上に腰を下ろした。このヘブライ人が説明を始めると長くなる。難しいので半分くらいしかわからないが、よく聞いていると、厨房《ちゆうぼう》の教えよりもおもしろい場合が多かった。
「教義の混乱はイエスはどうやって生まれたかということに焦点があてられた。清浄なる神が、他の人間と同じく、ただの女の腹から生まれたと考えるのは具合が悪い。そこで、どう解釈するかで大議論が起きたんだ。結局は、母親のマリアを処女のまま懐胎したとし、神に近い存在に祀《まつ》りあげることで決着がついた。しかし、ずっと前からあるもうひとつの説も今なお根強く残っている。それはイエスは生身の肉体を持たなかった、すべては人の目に映った幻だったという説で、ローマ教会から異端として遠ざけられてきたものだ。〈善き人〉はその説を取っているためもあり、異端ということになってしまった」
女が男を知らないままに子を生むなんて、普通ではありそうもない。しかし一人の男が生まれてから死ぬまで幻だったという説も無理がある。
「ローマ教会も〈善き人〉も、絶対に入らない靴を履こうと必死になっている女みたいだな」
シムズは、自分の長い鼻をつまんで引っ張った。
「イエスはヘブライ人だ。クリスト教とは、イエスが|ユダヤ教《エブライズモ》の新たな一派を作ったところからはじまった。ぼくは、イエスはヘブライ人の教師《ラビ》の一人にすぎなかったと思っている。たぶん、それまでの伝統に刃向かうような過激なことをいったのだろう。そして自分は救世主だと主張した。ヘブライ人の聖書には、いつか救世主が現れるという預言がある。ラビの中からは時々、自分こそその救世主であるといいだす奴《やつ》が現れる」
「イエスは、自分は救世主だといいだした、ただの男だったというのか」
私は長持の上であぐらを組んで聞いた。シムズは椅子に背を反らしたまま茶色になった羊皮紙を眺めた。
「普通の男とはいわない。ただ、これを読んでいると、ローマ教会がいっているような神でも、〈善き人〉がいっているような幻でもなく、その時代に生きて新たなことをしようとした一人の男と思えるんだ」
「さっき、そこには女がイエスの幻を見たと書いてあるといっただろうに」
シムズは緩やかな黒い波のような髪の毛に手をあて、薄い唇を歪《ゆが》めた。
「一文だけ取りあげるとそうだが、全体を読むと……」
「もう全部訳してしまったのか」
私は驚いて聞いた。この男は頭の動きが速いがゆえに、舌まで動きすぎる欠点がある。シムズは慌てて、すべて訳したわけではない、ざっと目を通しただけだと言い訳した。だが、それが真実かどうかは私にはわからなかった。
シムズは思案するように、ラテン語に訳した紙の束を指先でめくった。
「司祭は、ご自分が天の国に召される前に教えて欲しいといっているが……」
洋燈の芯《しん》がじりじりと音をたてて燃えている。揺れる朱色の光に鶏の足跡のようなラテン語の文字が照らされていた。ヘブライ人は息を吐いて、頭を横に振った。
「だが、これを読んでどう思うか……」
4
雪に覆われた〈山の彼方〉に辿《たど》りついた時、マッダレーナは私を従え、真っ先に司教ベルナルドに会いにいった。
旅の途中、マッダレーナの口から司教のことは何度か聞いていたので、私は、ヴェネツィアのクリスト昇天祭で見た男を想像していた。それはヴェネツィアの総督《ドージエ》と海が結婚する祭りで、私はポーロ家の者たちを乗せたゴンドラを漕《こ》いで、外海に面したリド島に行ったのだ。人混みの中にやっと見えたのは、何か唱えながらしきりに手を動かしている男だった。海との結婚に使う指輪を祝福していたその人物こそ、ヴェネツィアの北東にくっついている小さな島にある聖ピエトロ教会に住む司教ということだった。頭には宝石を縫いこんだ赤く大きな冠を戴《いただ》き、黄金の錫《しやく》を持ち、金糸銀糸で刺繍《ししゆう》をした肩掛けを引きずっている。そのきらびやかな衣装や、背後に控えるおつきの僧侶《そうりよ》の多さに驚いたものだった。
しかし、物見の塔を昇り、屋根の破れた建物の二階にある司教室に通されて拍子抜けした。背もたれの彫刻のすり減ってしまったほど古い椅子《いす》に座っているのは、粗末な灰色の衣を着て、室内の寒さから身を守るために外套《がいとう》を肩にかけ、黒い頭巾《ずきん》の下から銀色の髪の毛をはみださせた老人。横に控えているのも大勢のお供ではなく、狐の毛皮を背中にかけた男、秘書役のシムズだけだった。中庭に面した布張りの窓から洩《も》れてくる光は弱く、壁際に設けられた炉に燃える炎も、部屋を明るくする役には立っていなかった。司教はシムズと何か議論していたが、マッダレーナが部屋に姿を現すや喜びの声を洩らした。
「マッダレーナ、マッダレーナ。よく戻ってきた」
実の娘に会ったように叫んで、司教は椅子の上で両手を広げた。マッダレーナは手にしていた袋を床に置き、「善きことを」といいながら、三度、軽く膝《ひざ》を曲げてお辞儀した。禿鷹《はげたか》に似た司教も「善きことを」と挨拶《あいさつ》を返して、マッダレーナの背後に立っていた私を見た。マッダレーナは、この者は用心棒として旅についてきてくれたのだと説明した。そして、まだ視線をあたりにさまよわせている司教にいいにくそうに告げた。
「フランチェスカは……天の国に逝きました」
司教は顎《あご》を反らせた。後頭部が小さな音をたてて、背もたれにぶつかった。
「彼女には長旅は負担だったのです。路傍で倒れました。ペラガローネから、わたしたちについてきてくれた筏乗《いかだの》りも……死にました」
マッダレーナの報告に、老齢の司教はうなだれて目を閉じた。口の中でぶつぶつと祈りの言葉を唱えながら、骨張った指がしきりにもう片方の手の甲を掻《か》いている。マッダレーナはためらいながら続けた。
「わたしもこの旅の間、罪に汚れてしまいました」
司教の青灰色の瞳《ひとみ》が開かれた。
「大きな任務を果たすためには、さまざまな困難があっただろう。安心するがいい。罪はまた清められる」
マッダレーナは目に見えてほっとしたようだった。司教は前かがみになって聞いた。
「それで、あれは手に入ったのか」
マッダレーナは床に置いていた袋を拾いあげて、中から四角い布包みを取りだし、司教に渡した。老人は包みを膝の上に置いて、用心深い視線を私に向けた。
「その男はこれのことを、どこまで知っているのか」
マッダレーナは私を振り向きもせずにいった。
「アクレから届いた〈太陽をまとう女〉を、最初に手に入れたのはこの者でした。それについては私と同じだけのことを知っています。ですが、さらになにか知ったとしても、たいした興味も覚えないでしょう。この者は邪教の教えに染まっていて、クリストさまの教えを伝えようとしても無駄でしたから」
司教は安堵《あんど》と落胆の混じった表情を浮かべて、信用はできるか、と聞いた。マッダレーナは私を横目でちらりと見た。そして少しためらってから、「できるでしょう」と答えた。その口調には苦渋が滲《にじ》んでいたが、司教は気づいたふうではなかった。老人は四角い布包みを骨ばった手で撫《な》でた。
「〈太陽をまとう女〉のことは、〈山の彼方〉の者にはまだ内密にしてある。大子にも小子にもいってはいない。皆、マッダレーナとフランチェスカは布教の旅に出たと思っている。これからここで見ること、聞くことは、わたしがいいというまで内緒にしておいてもらいたい。いいな」
マッダレーナもシムズも私も頷《うなず》いたことを確かめると、司教はまた膝の包みに注意を戻し、震える指で女の衣類を剥《は》ぐようにゆっくりと布を外していった。中から現れたのは、黄金の薄板と宝石で縁取られた板絵だ。見ないでも、それは私の頭に刻みつけられている。太陽の描かれた青色の衣をまとい、月を踏みつけ、真珠でできた十二の星の冠を戴く女。シムズが興味をそそられたように、司教のほうに体を傾けた。
「板絵《イコナ》じゃないですか」
シムズは当惑したようにいった。司教は、板に描かれた女の姿を眺め、むっつりと呟《つぶや》いた。
「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた=v
司教が、『黙示録《もくしろく》』だ、とつけ加えると、マッダレーナは顔をしかめ、シムズはますます困った表情をした。
「あなた方は聖像崇拝も、マリアの出産も認めてなかったはずですが」
「最後の審判も認めていない」
司教は鋭くいった。そして板絵を手にしたまま椅子から立ちあがると、よろめく足取りで窓辺に近づいていった。布張りされた窓を開くと、〈龍の背中〉の岩壁が迫っている。司教は板絵を外光にあて、両手の指で撫でまわした。
「だが、この絵には別の意味がある。アクレの修道院に隠される前、コスタンティノポリで細工をしたと聞いてはいたが……なるほど、考えたな」
「ローマ教会の追っ手はそれを聖杯だといっていました」
マッダレーナの言葉に、司教は口を大きく開いて笑った。上下数本ずつしか残ってない黄色い歯の間から、掠《かす》れた声が押しだされた。
「バビロンの子らは、常に器を追いもとめる。信徒を押しこめるための教会、肉体を隠すためのきらびやかな衣服、霊魂の抜け殻に過ぎない骸《むくろ》を入れるための棺《ひつぎ》。聖杯もまた神の血を満たす器と思っているのだ。愚かな者たちだ。この世のどこにも神を受ける器なぞないことに気がついてない」
司教は〈太陽をまとう女〉をひっくり返し、何か調べはじめた。窓辺にあった書き物机の上から短刀を取ってきて、板絵のまわりを額のように縁取る金の薄板の下に差しこんだ。小さな釘《くぎ》で留められていた額が少し浮きあがった。司祭は短刀をひねり、板絵の横面から裏全体を覆っていた金の薄板を外した。そして、板の裏に重ねられていた両掌《りようてのひら》ほどの大きさの羊皮紙を取りだした。羊皮紙は七、八枚あり、焦茶色に変色していた。私もマッダレーナもシムズも、板絵の底から現れた羊皮紙のほうに吸い寄せられた。そこにはびっしりと芋虫を転がしたような小さな文字が並んでいる。司教の脇《わき》から覗《のぞ》きこんでいたシムズが、「ヘブライ語ですね」といった。司教は嬉《うれ》しそうに頷いた。
「どうだ、読めるか、シムズ」
シムズは羊皮紙を調べ、古い文字だし、どうやらヘブライ語にあまり詳しくない者がただ写しただけらしく、おかしな部分もあるが、時間をもらえれば読めるだろうと答えた。司教は見るからに有頂天になって椅子に戻ると、膝の上に羊皮紙を置いたまま、しきりに手の甲を指で掻きだした。二つに分かれた板絵は窓辺に置き去りにしたままだ。シムズが冷気が入ってくるのを防ぐために司教室の開いた窓を閉め、板絵と外した黄金の薄板を書き物机の上に置いても気がつかないほど興奮している。
「いったい、それはなんなのですか」
マッダレーナがこらえきれずに尋ねた。司教は、摩滅して飴色《あめいろ》に光る椅子に背中を預け、薄い胸を上下させて深く息をした。
「南フランチアのリングワドッカ地方のことは知っているな」
シムズが気をきかせて、旅で疲れた様子のマッダレーナに部屋の隅にあ った椅子を出してきた。それに腰かけながら、彼女は頷いた。
「百年ほど前、わたしたちの教えが人々の間にあまねく広がった土地ですね」
「そうだ。ローマ教会に異端の汚名を着せられ、十字軍の攻撃を受けた土地だ。わたしはその十字軍が暴れまわっている最中にトローザの町に生まれ、彼らが引きあげた後の荒廃したリングワドッカで育った。父も母も〈善き人〉の教えに帰依《きえ》していたから、わたしたちの館《やかた》にも時に夜陰に紛れて〈善き人〉が立ち寄り、さまざまな話を聞かせてくれた。十字軍によって〈善き人〉たちの舌が切られたわけではなかったのだよ。ローマ教会の探索の目を逃れるために、説教の場として使われるのは、民家の納屋や、森の中の洞窟《どうくつ》といった人目につかないところだった。ピレネイ山脈の麓《ふもと》に広がるサルバテスの森にも洞窟がいくつもあり、よく布教に使われていた。この羊皮紙を入れた古い素焼きの壺《つぼ》が見つかったのは、そんな洞窟のひとつだった」
司教は手の甲を掻いていた指で膝《ひざ》の上の羊皮紙に触れ、昔を思い出すように目を細めた。
「リングワドッカの山中にモンセギュールという小さな山城があった。妻も娘も信徒になっていた領主の好意により、〈善き人〉たちはそこを住処《すみか》として使わせてもらい、信徒と共に厳しい規律を守って暮らしていた。羊皮紙を入れた壺が運ばれたのは、この城だった。城には、貴族や騎士をはじめ、文字を操る者がかなりいたから、早速、羊皮紙を読もうとした。しかし紙の文字はヘブライ語で書かれていて、誰も理解できなかった。ただし、素焼きの壺にラテン語でこう彫りこまれていた」
司教はマッダレーナを見て、囁《ささや》くようにいった。
「『マリアによる福音書』とな」
マッダレーナは驚きに口を半ば開いた。しかし、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女が何かいう前に、司教は続けた。
「偽書という可能性はある。しかし、偽書は世を騒がせるために書かれたものだから、たいていギリシア語やラテン語で書かれている。わざわざ、|ユダヤ教《エブライズモ》を信じる者の言葉で書きはしない。そして『マリアによる福音書』が、マリアが書いたものなら、彼女はヘブライ人だ。ヘブライ語で書いてもおかしくはない。わたしのいうのは、クリストの母といわれるマリアではない。弟子となったマリア、マグダラのマリアのほうだ」
司教は鉤鼻《かぎばな》を上向けて、空に飛びだす前の鷹のように息を吸いこんだ。
「マグダラのマリアは、七つの悪霊に取りつかれた女だったとも、罪の女だったとも、マグダラに生まれた裕福な家の娘だったとも、香油の匂《にお》いをまきちらす己の髪でクリストの足を洗った女だとも、それらすべてにあてはまる女だったともいわれている。そして、この世におけるイエスを最後まで看取り、十字架につけられたと信じられたイエスが再び地上に現れた時、最初にその姿を目にした女でもあった。それだけではない。南フランチアに残る伝説では、マグダラのマリアはイエスが死ぬと、弟のラザロ、姉のマルタ、そして聖マクシミヌスを連れて帆も舵《かじ》もない小船に乗って故国から出ていき、プロヴェンツァに流れついて布教を行ったという。聖ラザロはマルシリアの司教に、聖マクシミヌスはエクスの町の司教に選ばれたが、マリアは三十年間、洞窟にこもって、ぼろをまとい、木の実や草を食べ、隠者として暮らし、天の国に逝ったらしい。だから南フランチアにマグダラのマリアが書いた福音書があっても不思議ではないのだ。その福音書を見つけて写しとった者が、サルバテスの森の洞窟に隠した。シムズがいった通り、この羊皮紙に書かれたヘブライ語がさほど文字を知らない者の手によるとしたなら、その人物は書かれているものの内容はおおよそわかったが、訳せるほどの能力はなかったと見るべきだろう」
司教は息を継ぐために話すのを止めた。マッダレーナとシムズは身じろぎもしないで聞いていたが、私には、イエスという男の女弟子が何か書いたものを残したということしかわからなかった。それがなぜ重大なことかぴんとこなかったが、耳にすることは、何であれ、いつかは役に立つことがある。私は司教の言葉を覚えておけるように、注意を向けていた。
「なぜ洞窟の中に隠す必要があったのでしょうか」
マッダレーナが先を促すように尋ねた。司教は人差し指を立てた。
「そこだよ。わたしたちも羊皮紙を前にして考えた。そして、マグダラのマリアが書いたものはローマ教会が是としない内容だったのではないかと推量したのだ。『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』、どれもイエスが天に昇られた後何十年も過ぎて書かれたものだ。書いた者たちも実際にイエスに会っているわけではない。最も早くに福音書を書いたといわれているマルコとて、イエスと会っていたとしても幼い子供の頃でしかない。福音書は、クリスト教徒の道しるべだ。それが間違っていると、とんでもない方向に行ってしまう。それでローマ教会は自分たちの目的に合った福音書を慎重に選び、それだけを正統と認めてきた。イエスの教えをじかに受けたのではない者たちによって書かれた福音書には、バビロンの子らの意図が働いている。わたしたちが頼りとする『ヨハンネスによる福音書』もそこから免れてないだろう」
司教は少し悲しそうにいうと、マッダレーナに同意を求めるように頷いた。
「今、われわれの目にする福音書は、砂金を洗いだす前の川砂みたいなものだ。イエスの言葉が砂と一緒に混じっている。わたしたちが福音書を読んで心を打たれるのは、そこに金が混じっているからだ。しかし、純粋な金ではない。同時に、マルコやマタイやルカらの創りあげた挿話やら、彼ら自身のものの考え方やらも読まされる。イエスが語った真実の言葉が見つかれば、それこそ本物の宝だ。その言葉を通じて、じかにイエスに出会えるからだ。マグダラのマリアは、イエスに従っていた。イエスに仕え、直接の教えを受けた。イエスの真の言葉を知っている。『マリアによる福音書』には、ローマ教会を公開討論で徹底的に叩《たた》きのめすことのできるものが書かれているのだろう。わたしたちは色めきたった。ヘブライの言葉がわかる者を探しだして、その書を読み解こうとした。しかし、そうする前に厄難が降りかかってきた」
司教はかぶりを振って、「新たなる十字軍だ」と忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》いた。
「モンセギュールで救慰礼《コンソラメンタム》を受けることが最大の願いであるほどに、リングワドッカの信徒にとっては城は聖地のようになっていた。それを危険視したイノケンティウス四世は、異端審問官一行が暗殺された事件を口実にして、南フランチアに向けての二度目の十字軍を呼びかけたのだ。険しい岩山に建てられた小さな城の麓《ふもと》に一万もの軍勢がひしめいた。片や、戦いで身を汚してはならない〈善き人〉を除くと、わたしたちの側で戦える者は、城に居住していた騎士や傭兵《ようへい》、信徒の男を含めても、二百人ほどしかいなかった。しかし、水も食糧もたっぷりあり、城を囲む険しい絶壁が敵を阻んでくれる。持ちこたえてさえいれば、世の情勢が変わって、十字軍が引き揚げていくかもしれない。そんなふうに、わたしたちは事態を楽観しようと努め、警戒と祈りの日々を送っていた。だが、悪しき神の誘惑は、わたしたちの牙城《がじよう》にも忍びこんできた。冬に入る頃、寝返る者が現れたのだ。その者は敵兵と通じ、山稜《さんりよう》の秘密の道を教え、城のすぐ近くの岩場に案内した。すぐさま投石機が置かれ、牛の頭ほどの石が城壁を越えて降りそそぐようになった。押しつぶされて即死する者、手足を切断して石の下から這《は》いだした者、負傷者は日毎《ひごと》に増えていった。モンセギュールは血に染まり、昼も夜も人々の呻《うめ》き声が流れつづけていた。地響きをたてて落ちてくる石の塊。血まみれになって次々と倒れていく仲間たち。しかし〈善き人〉は、死にゆく者に救慰礼を授けつづけることしかできない。〈善き人〉の味方だったトローザ伯ライモンド六世の息子、ライモンド七世が窮状をみかねて助けにきてくれるという希望もなくはなかったが、わたしたちは狼に追いつめられた兎だった。生き残る希望はまずなかった……」
老人の顔には霧のような感情の波が浮かんでいた。それは苦しい戦況には似つかわしくない、優しい表情だった。
「だが、絶望するほどに、わたしたちの内には喜びが生まれた。試練が激しければ激しいほど、天の国は近くなる。皆、それがわかっていた。あの冬のモンセギュールを満たしていた空気は、居合わせた者にしかわからない。苦しみつつ死んでいく者も、それを見守る者も、全員が感じていた不思議な高揚感、泣きたいほどのもの悲しさと、はちきれそうな幸福感。今でも思い出す。朝、冷たい冬の空気の中で目覚めると、薄靄《うすもや》の中には死んだとも生きているともわからぬ仲間たちが横たわり、小声で神への祈りを呟いている。それは歌のようだった。瀕死《ひんし》の騎士も、足をなくした女も、頭の潰《つぶ》れた子供も、それぞれが囁く祈りの声がひとつとなって、明るくなりはじめた空へと昇っていく。やがて敵も起きだしてきて投石機が動きはじめる。飛んでくる石が城壁を壊し、地に落ちるたびに体が震えるほどの音が響く。だが、その地響きすらも神を讃《たた》えるわたしたちの歌の伴奏でしかない。わたしたちは自らの血で贖《あがな》った賛美歌に包まれて天の国に逝くのだ。誰もがそれを確信していた。誰も死を怖れてはいなかった。死は怖れるものではなかった」
マッダレーナは話に引きこまれて、しきりに頷《うなず》いている。シムズも司教の横の椅子《いす》に腰を下ろして、真剣に耳を傾けている。
「だが、ただひとつ、怖れることはあった」
司教は酒に酔ったような表情を引き締めた。
「『マリアによる福音書』だ。わたしたちが全滅すれば、敵の手に渡ってしまう。ローマ教会の手に落ちれば、すぐさま偽書として燃やされてしまうだろう。原本がまだプロヴェンツァのどこかの洞窟に隠されてるかも、他にも写したものがあるかもしれないが、わたしたちにわかる限り、手許《てもと》にあるのはこの世で唯一の『マリアによる福音書』だった。わたしたちが天の国に還《かえ》った後もこの世をさまよい続ける哀れな霊魂にとって、大きな救いになるかもしれないものだった。この書だけは安全なところに保管する必要があった。そこで、とりあえずもとの洞窟《どうくつ》に戻すことにした。降誕祭の頃、二人の〈善き人〉が城の後ろの危険な絶壁を降りて、福音書を洞窟に戻しにいった。そのうちの一人、トローザ教団の助祭だったピエール・ボネはそのままトローザに行き、もう一人、マテューは年が明けると、また城に戻ってきた。死の待ちかまえるモンセギュールに戻ってくるとは、なかなか勇敢な男だった。春が近づくようになると、戦いはますます苦しいものとなった。わたしたちのうち戦える者は六十人にも満たなかった。このままだと傭兵や城に住んでいた信徒の子供たちまでも巻き添えにしてしまう。そこでとうとう降伏することに決まった」
司教は言葉を切った。皺《しわ》の刻まれた皮膚の下でさまざまな想《おも》いが渦巻いているのだ。立ちっぱなしだった私は足がだるくなって、床に腰を下ろそうとした。シムズがすかさず、出窓に造りつけの石の腰掛けを示してくれた。私はそっとそちらに近づいていって、ひんやりした石の座に座った。
「十字軍側との話し合いにより、城を明け渡すことが決まった」と、司教はため息と共に口を開いた。
「雇っていた兵士は無罪で、〈善きクリスト教徒〉の教えを棄《す》てるなら釈放されるという、奴《やつ》らにしては驚くほど寛大な申し出だった。しかし、教えを棄てないなら火炙《ひあぶ》りだ。天の国に逝こうとするならば火刑は逃れられない。それでも救慰礼を受けた〈善き人〉で、棄教しようとする者はいなかった。それどころか、信徒や傭兵やその家族の中から、火刑覚悟で救慰礼を受けて〈善き人〉になりたいという者が二十人以上現れた。しかしモンセギュールの〈善き人〉全員が死んでしまうわけにはいかなかった。教団が貯《たくわ》えていた財宝が城に残っていたし、第一、『マリアによる福音書』が洞窟に置かれたままだ。城から抜けだし、財産を他の教団の資金となるように運び、福音書を確かなところに預ける〈善き人〉が必要だった。マテューとビエール・ボネがしたように、城の後ろの絶壁を降りる勇気と体力のある者でなくてはならない。そして、ペイタヴィ、ライモンド・ド・マ、ライモンド・メルシィエール、そしてわたしが選ばれた」
司教はシムズとマッダレーナに微笑《ほほえ》んで、自分にも若い時はあったのだといい添えた。
「当時、わたしは救慰礼を受けて〈善き人〉になったばかりだった。我ながら、よくやったと思うよ。なにしろ〈龍の背中〉にも匹敵するような絶壁だった。モンセギュールに集まった銀貨や宝石を入れた袋を腹に括《くく》りつけ、城の窓から下ろされた縄を頼りに崖《がけ》を降りていった。吸いこまれそうに切り立った岩肌や、その底にひしめく尖《とが》った石や枝ばかりとなった木々を、夜の闇《やみ》が隠してくれたのは幸いだった。あれが昼間だったら、足がすくんで降りられなかったかもしれない。教会の財産を手分けして持ったわたしたちは、一足先に城を抜けだしていたマテューと合流してサルバテスの洞窟に行くと、『マリアによる福音書』を持ちだし、二手に分かれた。ライモンド・ド・マとライモンド・メルシィエールはクレモナの教団に財産を運び、わたしとペイタヴィとマテューは、『マリアによる福音書』を〈山の彼方〉に運ぶことになった。しかし、海岸伝いにジェノヴァまで来た時、当時の〈山の彼方〉の司教から連絡が来た。アルピのあたりも今、領主たちの権力争いでがたがたしているから、福音書は〈海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉に運べということだった。しかしコスタンティノポリにある〈海の彼方〉には、それがなにかは告げてはならない。福音書は〈山の彼方〉に運ばれたうえで、公にされなくてはならないという命令がついていた。それでマテューが福音書を携えて、コスタンティノポリ行きの船に乗った。向こうでそれを〈太陽をまとう女〉という別の形のものに隠したが、コスタンティノポリの政情不安で〈海の彼方〉も危なくなった。マテューは福音書をさらに安全なアクレまで運んで、彼《か》の地で一生を終えたと聞いた」
窓の外から、牛の鳴く声が起きた。建物の裏手に繋《つな》がれている家畜が何かに驚いている。すぐに人の騒ぎ声がした。狼だ、といっているようだった。司教は疲れたらしく椅子《いす》の背に頭をもたせかけた。
「後は、あなた方も知っている通りだ。わたしはやがてトローザの教団に戻り、司教になったが、身辺に異端審問の手が伸びてきたので逃げだして、〈山の彼方〉に身を寄せたのだ。しかし、どこに行こうと、わたしは『マリアによる福音書』を忘れることはなかった。あれは〈山の彼方〉に運ばれるべきものだった。わたしはずっと〈海の彼方〉から取り戻す機会を窺《うかが》っていたが、安全な方法でこちらに運ぶ手だてはなかなか見つからなかった。しかし、アクレの地が回教徒の手に落ち、コスタンティノポリの〈海の彼方〉も壊滅状態になったと聞くと、もう躊躇《ちゆうちよ》してはいられなくなった。回教徒の宮廷に、われわれの教えを守る楽師を送りこんで、〈太陽をまとう女〉を運んでもらうことにしたのだ。こうして、長い時を経て、ようやく『マリアによる福音書』が戻ってきた。幸い、ここにはヘブライ語のわかるシムズがいる。まもなく福音書に書かれていることが読めるだろう」
ヘブライ人は大役を仰《おお》せつかって誇らしげではあるが、少し不安そうな表情をしたが、司教はそれには頓着《とんちやく》せず、縁のぼろぼろになった羊皮紙を胸に押しあてた。窓の外から人々の走る足音が聞こえてくる。しかし部屋の中は静かだった。マッダレーナもシムズも、じっと老齢の司教を見守っていた。
「モンセギュール……」
青灰色の目を宙にさまよわせて、司教は呟《つぶや》いた。
「三月十六日、城の麓の丘で二百人を超える〈善き人〉たちが火炙りになった。わたしはサルバテスの森から、その黒々とした煙を眺めた。皆、ためらうことなく、薪《まき》の上に登っていったことだろう。赤い炎に舐《な》められて、皮膚は黒く煤《すす》けていき、髪の毛や瞼《まぶた》が焼け落ちていく。だが苦痛に歪《ゆが》んだ顔には、歓喜の表情が混じっている。わたしにはそんな仲間たちの顔が見える。最も激しい状況にも屈することなく、死に立ち向かったのだ。天の国は開かれている。仲間たちは喜びのうちに死んでいった。しかし、わたしは苦しみに満ちたこの世に残された。後でどんなに思っただろう。あの時に仲間と共に火炙りになっていれば、わたしは今頃、天の国にいられるのだ、それ以上の仲間の苦しみを見ないですんだのだと」
マッダレーナがそっと、二十年前のヴェローナのことですね、と呟いた。ベルナルドは頷いた。
「モンセギュールと同じだ。二百人の〈善き人〉が火炙りになった。ヴェローナの真ん中の野外円形劇場《アレーナ》に二百本の杭《くい》を立てて、人々を括りつけて焼いたのだ。ほとんどが〈山の彼方〉に来てからのわたしの布教の旅によって、真の道を見つけた者たちだった……」
老司教の声が震えた。今にも泣きだすのではないかと私は思った。しかし、泣きはしなかった。二、三度瞬きすると、意外としっかりした声で、「その時もわたしは火刑から免れた」といった。
「信徒が自分の命を懸けて逃がしてくれたのだ。わたしは生かされているのだと思った。以来、何十年も、〈善き人〉の座から引きおろそうとするさまざまな誘惑を退けながら、地獄に生きてきた。すべてこの古ぼけた羊皮紙のためだった。わたしには役目が与えられていた。『マリアによる福音書』を世に出すという役目が。それが終わったら、わたしは天の国に迎えられる。ようやく主《しゆ》の御許《みもと》に逝けるのだ」
司教の口許に微笑みが浮かんだ。それは、夢見るにも似た、安らかで楽しげな表情だった。
5
赤子のような微笑みを浮かべて、血に染まった手を洗っていた男を知っている。それは倭《わ》の国の男。臨安で荷役をして働いていた時に、私に密貿易の通詞をやらないかと持ちかけた男だ。私と同じく倭の国から逃げてきて、慶元《けいげん》沖の小さな島に根城を構え、倭と元《げん》の国の間を行き来していた。商品がある時は密貿易をして、ない時は海賊をして他の船から奪いとった。漢の言葉は少し話せたが、蒙古《もうこ》や蛮子《マンツー》の言葉となるとよくわからない。そこで私を通詞に雇ったのだった。
男は鮫童子《さめどうじ》と名乗ったが、ほんとうの名前であるはずはなかった。私も自分の名を騙《かた》り、棄光《すてみつ》と告げた。それで、お互い追われている身であることを暗黙の了解で悟ったのだった。私たちは幾度となく同じ船に乗って、商いの旅をした。陶磁器、銅銭、黒檀《こくたん》、白檀《びやくだん》、麝香《じやこう》、象牙《ぞうげ》など、慶元から泉州、広州といった元の港に集まるさまざまな品物を買い取っては、税を取り立てようとする元の役人の目を盗んで、倭の国に運んだ。花旭塔津《はかたつ》から少し離れた人目につかないところで、やはり密貿易に絡む商人たちと積み荷の引き渡しを行った。
事がうまく運んでいる時の鮫童子は、穏やかな男だった。しかし、沖で見張りの役人の船に追われたり、たまに海賊を働く時になると、まさに獲物を追いかける鮫にも似て、躊躇《ちゆうちよ》なく相手を斬《き》り殺した。目には凶暴な光を宿らせて怒声と共に襲いかかり、自分たちの顔を見た者は、どんなに懇願しようと容赦なく殺してしまった。その姿を見ると、密貿易の時の鮫童子はただ優しげな皮をかぶっているだけで、この残虐な男こそほんとうの鮫童子なのだと思った。
戦いが終わると、甲板に転がった血まみれの死体を眺めながら、鮫童子は微笑《ほほえ》んだ。潮に焼けて黒光りする頬《ほお》に、切り傷にも似た皺《しわ》を幾重にも刻んで、微笑んでいた。まるで赤子のような屈託のない笑みだった。
鮫童子の根城は、御殿のようだった。沖からはわからない入り江に立派な屋敷を建てて、毎晩、部下には酒と女と馳走《ちそう》が振る舞われた。共に働き、共に戦ううちに、私と鮫童子との間には、兄弟のような親密さが流れるようになった。もっともそれは逃亡の身である者同士らしく、どんなに親密になっても、肌がくっつき合うほどの近さはなかった。私たちは似た者同士だった。どちらかが裏切ったり、刀を持って向かってきたりしたら、逃げることができる程度の距離は常に保っていた。
たまに宴がたけなわになると、鮫童子は、踊るぞ、といって、大広間で手足をふらふらさせて踊りだすことがあった。
皆も一緒に踊れ、踊ればいいことがあるぞ。
鮫童子は怒鳴った。
はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
のりのみちをば しる人ぞしる
ともはねよ かくてもをどれ こころこま
みだのみのりと きくぞうれしき
唱えながら、鮫童子は輪になって踊り続ける。そこに酔っぱらった手下たちが入っていく。皆、鮫童子を真似《まね》て頭を振って足を上げ、同じ言葉を唱えている。
これさえ唱えていればいいんだ。これさえ唱えておれば、往生できるんだ。
かちんかちんと食器を箸《はし》で叩《たた》きながら、鮫童子は陽気に怒鳴る。
私は酔った目で人の輪を眺めている。そこに屋敷の女たちも加わった。船で攫《さら》われてきて、ここで働かされている女たちだ。
手足を揺すって踊る男女の渦から笑い声が湧《わ》きおこる。誰も彼もがすべてを忘れて、ただ踊っていた。その時の鮫童子には、血まみれの死体を前にした時と同じ屈託ない赤子の笑いが浮かんでいた。
そうやって、鮫童子は禍々《まがまが》しいことも、楽しいことも、いつも同じ赤子のような微笑みで受けとめていった。
一度、私は鮫童子に訊《たず》ねた。あんた、どうしていつもそんなに笑っているんだ。踊りの時はわかるけど、人を殺した後なんか後味が悪くはないかい。
鮫童子は、忘れるためだ、と答えた。どんな悪行に染まっても、そのことを忘れ、ただ念仏を唱えれば救いの世が現れる。一遍上人《しようにん》はそういってくださった。
一遍上人という名前は聞いたことがあった。踊念仏とかいうものを行い、人々の間を巡っている僧侶《そうりよ》だ。
鮫童子は腰の巾着《きんちやく》から小さな札を取りだした。そこには、「南無阿弥陀仏決定往生《なむあみだぶつけつじようおうじよう》 六十万人」という文字が書かれていた。
一遍上人に頂いたのさ。
それを信じているのか。私は疑いながら聞いた。
鮫童子は海を眺めた。しばらくして、いや、とかぶりを振った。
信じてはいない。すべては手段だ。
何のための手段だ、と私は聞いた。
忘れるためだ。鮫童子は答えた。
念仏を唱え、救いの世が現れると思えば、まあ少しは安心する。安心すれば、忘れることができる。すべてのことを。俺《おれ》がしてきた悪行も、善行すらも。昔のことも、先のことも。そしたら俺は今だけを生きていける。
鮫童子は目を閉じて、小さくつけ加えた。
人は生きていくために知恵というものが要るんだよ。それが信心ってものなんだろう。
泉州沖で密貿易が見つかった時、鮫童子は死んだ。元の役人たちを四人殺した後、全身、斬り刻まれて甲板の血の海に横たわった。そして、役人に捕らえられて暴れている私に顔を向けた。血にまみれた唇を、あばよ、というふうに動かしてから、ゆっくりと頬に皺を刻んでいった。そこには幾度となく目にしてきたあの赤子のような笑いが浮かんでいた。その微笑みを目にして、私は思った。この男は今、自分の死すらも忘れようとしているのだと。鮫童子は微笑みを浮かべながら、血の海に沈んでいった。
6
風の中に甘い春の匂《にお》いが漂っていた。日射《ひざ》しは暖かくなり、〈山の彼方〉の城やアッツォ村を埋めていた雪も融け、ところどころ茶色の地面が顔を覗《のぞ》かせている。村の周囲では、牛に引かせた鋤《すき》で畑の土を耕す人々の姿が見られるようになっていた。私は村の放牧地を下ったところにある湖の畔《ほとり》に腰を下ろし、釣り糸を垂れていた。
木々に囲まれた湖の岸辺には私以外の人影はなく、あたりは静かだった。まだ朝は明けたばかりで、うっすらと靄《もや》が漂っている。時折、魚が水面に跳ね、丸い波の輪がゆっくりと広がっていく。村人は、この湖を〈ミンネガルドの楯《たて》〉と呼ぶ。ミンネガルドは、遥《はる》か昔、東方から襲ってきた蛮族の男だった。自分の一党を率いて、この〈龍の背中〉の足許《あしもと》に腰を据えたミンネガルドは、戦いの前になると、※[#「木+(山/今)」]《とねりこ》の樹の枝に、熊の毛皮や、羚羊《れいよう》の頭、足を縛った鳥、槍《やり》や兜《かぶと》といったものを飾りつけ、その下で火を焚《た》いて、呪術師《じゆじゆつし》に勝利を祈らせていた。ある時、祈りの最中に樹に掛けていた丸い楯が地面に墜《お》ちた。その場にいた男たちは、戦いに負けることを意味すると思って青ざめたが、ミンネガルドはいった。
俺の楯は戦いについてきたくないらしい。それならば、この世が滅ぶ最後の日までそこにいるがよい。
ミンネガルドは楯なしで出陣し、死んでしまった。しかし、楯にかけた呪《まじな》いは消えることはなかった。丸い楯は長い年月、錆《さ》びもせずにそこに残され、いつか湖となった。きっとこの世の終わりまでそこにあることだろう。
私にこの話をしてくれた村人は、だから、あんた、〈ミンネガルドの楯〉には近づかないがいいよ、あそこは呪《のろ》われた場所なんだから、と忠告した。しかし私はたびたび人目を忍んで、ここにやってくる。藻が揺らめく湖の底には、太った鱒《ます》がいっぱい泳いでいるからだ。
〈善き人〉たちは、魚は草や樹のように水中に自然に生じるものだと考えている。食べてもいいものとしているのに、厨房《ちゆうぼう》係のアレッサンドラと二人の娘は魚料理が不得手なうえ、城の者は魚を獲《と》る方法をよく知らない。魚は、村人からの差し入れがあった時以外は食卓には上らないご馳走だ。三十人近い城の住人の口に行き渡るだけの魚が釣れることはめったにないし、持ち帰っても、料理を面倒臭がるアレッサンドラに渋い顔をされるだけなのだが、もっぱら私自身、魚が食べたくて釣りにきている。
湖面に釣り糸を垂らして佇《たたず》みながら、私は蒼《あお》い水鏡に映る自分の顔を眺めた。髪と髯《ひげ》を伸ばし、筏乗《いかだの》りの短い外套《がいとう》を着ていると、ちらりと見ただけではタルタル人とはわからない。グレチアかダルマチアのほうの黒いごわごわした髪の毛を持つ男たちの一人としても通用するだろう。私は今やザンザーラと呼ばれる得体の知れない男だ。
水盤の私の後ろには、〈龍の背中〉の切りたった崖《がけ》が聳《そび》えている。空は雲までくっきりと映っているが、岩山の内側は影となっていて、目を凝らせば、山の影の中に湖底の藻が透き通って見える。先が幾つにも枝分かれした藻の群は水中に生えた森林だ。冬も夏も関わりなく、黒々とした葉をそよがせている永遠の森。それはピアーヴェ河の両岸に広がっていた晩秋の森林を思い出させる。亜麻布職人アントニオに案内されてトレヴィーゾを発《た》った私たちの前に現れた、蒼《あお》い闇《やみ》に包まれた夜の森だった。
その日、朝まだ暗いうち町を出た私たちは、セーラ川沿いに東に進み、やがてピアーヴェ河に合流した。フェルトレに行くには大きな森を抜けなくてはならない。アントニオは森を出たところにある村で泊まるつもりで歩きだした。だが、トレヴィーゾで数日休んだというのに、フランチェスカはまだ元気を取り戻してはいなかった。麺麭《パン》と水しか食べてないのだから無理もない。蒼ざめた頬《ほお》の女に合わせて、皆の歩みはどうしてものろくなり、森から出ないうちに日が暮れてしまった。幸い、空には膨らみかけた月が浮かび、さざ波を立てて流れる河とその両側に広がる森林を照らしている。私たちはとにかく森を出ようと、先を急いだ。葉を落とした木々は骨ばった枝を伸ばして幾重にも重なり、その奥からいつ狼や追い剥《は》ぎが現れるかわからない。先頭のアントニオもしんがりの私もぴりぴりしながら歩いていたが、真ん中のマッダレーナは落ち着いたものだ。狼に喰《く》われても天の国に逝けるから安心しているのか、旅の危険はすべて私やアントニオに任せきっているのかよくわからない。フランチェスカに至っては皆と歩調を合わせることに頭がいっぱいで、周囲の危険に気を配る余裕もない。
月はますます照り輝き、小石の転がる道に絡み合った木の枝の蒼い影を落としていた。私たちはそれぞれのもの想《おも》いに浸りながら、黙々と歩いていた。
かたかた、かたかた、という音が聞こえてきたのは、森も終わりにさしかかった頃だった。私たちの行く手から何かが近づいてきていた。獣は、こんな木を鳴らすような音はたてない。盗賊なら息を潜めて待ちかまえているはずだ。不安に駆られて、先頭のアントニオが立ち止まった。私は腰に下げた蒙古《もうこ》刀の柄《つか》に手をかけた。ポーロ家から持ってきた槍《やり》は手放したが、ニッコロの部屋に飾られていたその刀は護身用に取っておいたのだった。
私たちは考えるより先に、暗い道の真ん中でひとつに固まっていた。かたかた、かたかた、という音は徐々に大きくなり、やがて木々の間に肩を寄せあった人の姿が見えてきた。二人とも丸い巡礼帽を目深にかぶり、鼠色の外套《がいとう》をはおっている。朽ちた革の袋を下げた一人は、三枚の木の羽根のついた鳴子を振っている。もう一人はその連れの肩に手をかけ、残る手で杖《つえ》を突いていた。鳴子を持った男の手の先は瘤《こぶ》のついた樹の枝のように捻《ねじ》れ、もう一人は鼻から下を布で隠していた。
癩《らい》病を患っているのだ。この病に罹《かか》ると、家も身内も棄てて、修道士が世話する癩病人の家に入るか、放浪や隠遁《いんとん》生活をしなくてはならないと聞いたことはあった。彼らは放浪を選び、こうして夜の間、ひっそりと旅をしているのだろう。病に冒された二人の放浪者は、私たちに気がついて足を止めた。鳴子を鳴らしてはいたが、こんな夜道で誰かに出会うとは思ってなかったようだった。二人は道|脇《わき》の茂みの中に隠れようとした。
まってください。マッダレーナの声が響いた。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は私の横をすり抜け、癩病者の許に駆け寄った。そして、神さまのお慈悲を、といいながら自分の持っていた袋の中から麺麭《パン》の塊を取りだして渡した。鳴子を持った癩病者はそれを受け取り、革の袋に入れてから、嘲《あざけ》るようにいった。
慈悲をかけてくれるような神さまなら、俺たちにこんな病を押しつけはしないさ。
マッダレーナはその場に立ちすくんだ。二人の癩病者は、また鳴子を鳴らしながら道脇の茂みの中に消えていった。
私たちは、二人を見送っているマッダレーナに近づいていった。月明かりの中のマッダレーナの顔は、いつにも増して青白かった。
この世は地獄です。
マッダレーナは呟《つぶや》いた。
私は黒い影絵のような森を眺めた。青ざめた月の光に、木々の枝や道の小石がうっすらと反射している。冷えてきた空気を震わせて、かたかた、かたかた、という鳴子の音がまだ流れてきていた。
なるほど、ここは地獄というものか。
私は思った。地獄とは、人をさまざまな責め苦に遭わせるところという。地獄だからこそ、私の家族は首を斬られて辻《つじ》に晒《さら》され、子供も妻も死んだのだろうか。地獄だからこそ、私は奴隷になったのだろうか。
だが楽しいことだってあった。幼い頃、母の膝《ひざ》に頭を預けて横になっていた時の安らぎ、眠れないほどわくわくした初めての航海、商売がうまくいって乱痴気騒ぎをした幾たびもの夜、短かったけれども妻との楽しい暮らしもあった。地獄というほど、この世は悪いところではない。かといって、極楽というほどいいところでもない。この世はこの世だ。地獄と極楽の狭間《はざま》で、ふらふら揺れている場所。本来ならば名前もつけられない、ただの通り過ぎるだけのところ。人はこの世を旅していきながら、その行き着く先を想像する。しかし、旅の行く手に何が待っているか、誰にわかるだろう。
アントニオに促されて、私たちはまた歩きだした。頭巾《ずきん》をかぶったマッダレーナは、うつむき加減に歩いている。この女はいつもこうなのだろうか。人の苦しみを見て、一緒に悲しみ、この世は地獄だと考える。だが、この世には、苦しんでいる者は掃いて棄《す》てるほどいる。そんな調子では生きているのが辛《つら》くてたまらないではないか。膿《う》んだ傷口を刃の先で突っつかれながら歩いているようなものだ。いったい何を好きこのんで、他人の苦しみまで背負うことがあるのか。まだ若く美しい自分を棄て、そんなことにかかずらうことはないではないか。私は無性に腹立たしさを覚えて、マッダレーナの肩を強く揺すぶってやりたくなった。
つんつんと竿《さお》の先が揺れた。私は素早く釣り竿を引いた。魚が餌《えさ》に喰《く》らいついた手応《てごた》えがあった。私は竿を後ろに引いて、糸を手繰《たぐ》り寄せはじめた。水面を揺らせて、銀鼠色の鱗《うろこ》に黒い斑点《はんてん》が光る。よく肥えた鱒だった。私は釣り針を口から外して、水中に沈めた魚籠《びく》を引きあげた。そこにはもう七匹の魚が暴れていた。骨の多い似鯉《にごい》や川《かわ》梭子魚《かます》が混じっているが、ほとんどは鱒だ。清流を伝ってやってきて、湖底で冬を越す鱒がここにはたくさんいる。鱒を魚籠に投げこみ、次の餌を釣り針につけようと、沙蚕《ごかい》を入れていた草の葉をさぐった。しかし、数匹残っていた沙蚕はどこかに逃げていったらしく、そこには何もなかった。岸辺に座っている間に、尻《しり》から冷えて寒くなっていた。収獲は少なかったが、もう帰ることにして、釣り竿と魚籠を手にして立ちあがった。
湖の畔《ほとり》から森の中にうっすらと人の足で踏みかためられた道がついている。その小道を歩いていくと、二手に分かれた。片方は村に続く道、もう片方は谷に下っていく道だ。谷底に流れる渓流まで行けば、もっと多くの種類の魚が獲れるのだが、険しい道を往復するだけで半日はかかる。私は村に戻る道を歩きだした。
ほんのりと赤い若芽の吹きだした木々の枝の隙間《すきま》に、太陽が覗《のぞ》いている。日あたりの悪い窪地《くぼち》や大きな木の幹の陰には、冬の忘れ物のように雪が残っている。私の気配を聞きつけた獣が、茂みを揺らせて走り去っていく。やがて森が切れて、村はずれの放牧場に出た。村を囲むあちこちの放牧場の中に、何百頭もの薄汚れた羊たちがひしめいていた。釣りに行く時にはいなかった。突然、宙から現れたようだ。いったい、どういうことだろうと訝《いぶか》りながら、山蔓《やまづる》を編んで作った柵《さく》に沿って歩いていくと、大きな荷物を載せた驢馬《ろば》と、立ち話している三人の男女がいた。
白い被り物をした頭を盛んに振って、嬉《うれ》しそうにしている女はディアマンテ。それに、がっしりして背の低い男と、綿毛のような髭《ひげ》が生えはじめたばかりの、ディアマンテによく似た少年。男は二人とも汚れた毛織りの短い外套を着て、腰に短刀をぶら下げ、二の腕ほどもある太さの杖《つえ》を手にしている。近づいていく私に気がついたディアマンテが乱杙歯《らんぐいば》を覗かせて笑いかけた。
「朝っぱらから釣りかい、ザンザーラ」
いつもは往来ですれ違っても知らんぷりをするのに、今日はずいぶん愛想がよかった。私は魚籠の中を見せてやった。隣に立っていた男が、小さな黒い瞳を白目の中で泳がせるようにして籠《かご》を覗きこんだ。
「〈ミンネガルドの楯《たて》〉の鱒《ます》だな」
私は頷《うなず》いた。呪《のろ》われた場所で釣りをしたと小言めいたことをいうかと思ったら、爪《つめ》の先ほどの長さに無精髭を伸ばした頬《ほお》に深い皺《しわ》を刻ませて、にやりとした。先のしゃくれた鼻、大きな目には小さすぎる黒い瞳。焦茶色の髭に白髪がぽつぽつ混じりこんでいる。美男ではないが、落ち着いた男らしい顔だ。
「あそこの魚はすぐわかる。渓流の奴《やつ》みたいに痩《や》せておらん」
ディアマンテが男の肩に手を載せて揺すった。
「パエジオ叔父《おじ》さんもよくあの湖で釣ってくるものね」
パエジオは斜面に横に並ぶ小さな家々を見上げて顎《あご》を反らせた。
「ミンネガルドが飼っている鱒はうまいからな」
それは、呪われた場所で魚を釣ることを怖がる村人を嘲《あざけ》っているような言い方だった。私は魚籠を持ちあげて、皆でこの魚を喰《く》わないかと誘った。パエジオが気に入ったこともあるし、ディアマンテの機嫌を取っておけば、肉の慾《よく》が燃えた時、カルロやリザルドより先に私を思い浮かべてくれるかもしれないという計算も働いていた。ディアマンテはその話に飛びついて、だったら自分の家に戻って、炉の火で焼いて食べよう、そしたら早く叔父や弟の顔を見たがっている両親や祖母も喜ぶといいだした。しかしパエジオはかぶりを振った。
「雨でもないのに家の中で喰うだと」
パエジオは、荷物の一番上に載せていた大きな袋だけ取って驢馬を柵に繋《つな》ぐと、道から外れ、放牧場の裏の森のほうに歩きだした。少年が足許《あしもと》に置いていた大きな袋を担ぎあげ、後を追った。ディアマンテは、しかたないというふうに目配せして、私と一緒に二人についていった。男たちの体からもったりした獣の臭いが漂ってくる。羊皮の背中あてのせいだろうか、彼らの体臭だろうかとぼんやりと考えていると、ディアマンテがいった。
「叔父も、弟のフィオリートも羊飼いで、冬の間は〈龍の背中〉の向こうにあるアンペッツォの盆地で羊の世話をしていたの。でも、村の寄り合いのために今日、戻ってきたのよ」
寄り合いと聞いて、私は何か問題が起きたのかと訊《たず》ねた。ディアマンテは、問題があったのではなく、毎年春になると、村の家長が集まって、その年の村の世話の代表や助役、監査役を決めるのだといった。その時、村の各家が持っている羊をまとめて山に連れていき、放牧の面倒をみる羊飼いも選ばれる。それで前の年の契約が終わり、新しい年の契約が続くかどうか決まるのだという。
パエジオは、放牧場の柵と森との間の乾いた場所に陣取った。野外の食事のためによく使われるのだろう、そこにはすでに石で簡単な炉が作られていた。フィオリートが枯れ草や乾いた木の枝を集めてきて、火打ち石で火をつけた。私は木の枝を削って串《くし》を作り、魚の口に刺しこんでいった。言葉を交わさなかったが、やるべきことはわかっていた。ディアマンテは柵の前の岩に腰を下ろして、この前の冬はどこそこの爺《じい》さんが死んだだの、熊が出てきて鶏を三羽喰い殺したが追い返しただの、村のことを喋《しやべ》りつづけた。やがて盛んに燃えていた木が燠《おき》になると、私はその上に串刺しにした魚を並べた。
「〈山の彼方〉にいる魔法使いって、あんたか」
向かいに座って、ちらちらとこちらを窺《うかが》っていたフィオリートが聞いた。私は突然、妙なことをいわれたので驚いた。
「おれは魔法なんぞ使わん」
フィオリートは叔父に似た大きな目を見開いた。その目と厚く反った唇のせいで、この少年は鴨を思わせた。
「だけど、アンペッツォの冬小屋に来た油売りがいってたぜ。〈山の彼方〉には、背中に狐をつけた魔法使いがいると」
シムズのことだ。私は熱で皮の膨れてきた魚をひっくり返した。
「別の男だよ。だが、その男だって魔法は使わん」
「それ、ヘブライ人よ」と、ディアマンテが口を挟んだ。
「〈山の彼方〉に住んでいるの。ヘブライ人なら魔法を使うんじゃない」
「魔法を使うのは、ヘブライ人だけじゃない」と、パエジオが遮った。
「おまえの祖母《ばあ》さんだって、呪《まじな》いをしては病を治してるじゃないか。わしら羊飼いも魔法を使うと陰口を叩《たた》かれることもある。ヘブライ人どころか、おまえだって魔女の孫だの親戚《しんせき》だのといわれてるんだぞ」
ディアマンテは、天に向かって吐いた唾《つば》が自分の顔にかかってきたことを悟って口を噤《つぐ》んだ。
「〈山の彼方〉の話は、それほど噂《うわさ》になっているのか」
ヘブライ人の話がすでに〈龍の背中〉の裏側まで聞こえていっているなら、自分の噂も広がっているかもしれないと案じながら、私は聞いた。パエジオは、私の不安を察したらしかった。
「心配するな、油売りはこの村の者だ。〈山の彼方〉のことは身内にしか話しはしない」
この村の者とは、〈善き人〉の教えに従っている者ということだ。私は少し安堵《あんど》した。
魚の皮が破れ、うまそうな匂《にお》いが漂いだした。それにつられて、柵の前にいたディアマンテが私の隣に来て座った。
「で、叔父さんたちは、この冬はどうやって過ごしたの」
パエジオは赤い燠の上でじっくりと焼けていく魚を眺めながら、いつもの通りさ、と答えた。
「アンペッツォ村のはずれに、去年と同じ小屋を作った。二度ほど狼がやってきたが、なんとか追い払った。冬の間に仔羊《こひつじ》は十頭生まれたが、一頭は死なせてしまった。それを喰うために、他の村から来て小屋を作っていた羊飼いも呼んで宴会を開いた。大勢集まったもんだから、口に入ったのはほんのひとかけらだったけど、柔らかくてうまかったこと。あんな肉は死ぬまでに何度も食べられるものじゃない」
この男は話はあまり得手《えて》ではないらしかった。ようやくこれだけ話すと、うんざりした顔をした。そこにフィオリートが、叔父さんは大男を見たんだよね、と口を出した。
「えっ、そうなの、叔父さん。どこで見たの、話してよ」
身を乗りだしたディアマンテがせっついた。パエジオは、ああ、といって、何度か頷《うなず》いた。
「ついこの前のことだ。羊を集め、アンペッツォからこっちに向かって移動しはじめた日だった。昼飯の後、いい天気だったから、わしは羊の番をしながら草の上に横になって、うとうとしていた。ふと目を覚ますと、羊たちはおとなしく草を食べていたが、見張り番をしていた仲間はみな、眠りこんでいる。六人も羊飼いがいれば、誰かが目を覚ましているものなのに、おかしなことだった。こいつはまずいなと思って起きあがろうとしたが、全身だるくてたまらない。そのまま、わしはぼんやりとしていた」
パエジオは地面に落ちていた木の枝で、魚の腹についた煤《すす》を落とした。フィオリートもディアマンテも前かがみになって、叔父の口許を見つめている。
「わしらが羊を休ませていたのは、ボイテ川を挟んで両側に広がる斜面の南側だった。横になったまま、向かいの北側の斜面を眺めていると、中腹に突きだした城ほどもある、でかい岩の塊に気がついた。派手にでこぼこした岩で、見ているうちに人の顔に思えてきた。長くて曲がった鼻に、尖《とが》った顎《あご》をした男の顔にな。冬中、向かいの山の斜面を見ていたが、今までそんな岩に目を止めたことはなかったと考えていると、それがぐらりと動いた。そして、ひょいと顔が外に出てきた。顔に続いて、やっぱり灰色の胴体や手足が土の中から現れた。体は顔の二倍くらいしかない、頭でっかちの大男だった。頭の後ろから背中にかけて、山嵐《やまあらし》みたいに柘榴色《ざくろいろ》の棘《とげ》がいっぱいついていた。わしは怖くてたまらなかったよ。大男は、わしらが眠っていると思って出てきたんだ。起きているのが見つかったら、殺されると思った。大男は山の頂まで二、三歩で上がり、柘榴色の棘のついた頭を左右に振って、あたりを見回していた。そしてボイテ川の下流に目を止めた。ピエーヴェの町のある方向だ。そちらをじっと見つめていたが、やがて山の頂を跨《また》いで向こう側に行ってしまった」
ディアマンテが手で口を押さえて、ふう、と息を吐いた。私は村を囲むごつごつした岩山の連なりを見回した。その岩肌のどこかに、やはり人の顔が潜んでいそうな気がした。
「そのあと、おれも起きだしたんだ。馬車の音が聞こえたもんでね」
フィオリートが嬉々《きき》として割りこんできた。
「ボイテ川に沿ってアンペッツォ村まで道がついているんだけど、その下流のほうから、牛に曳《ひ》かれた車がやってきたんだ。叔父《おじ》さんのいう大男が眺めていたほうだよ。牛は老いぼれだし、車軸はがたがたしているし、今にもぶっ壊れそうな車だった。御者《ぎよしや》台に座っていた男は、おれたちを見かけると、ボテスタイノ城はどこかと聞いてきた。教えてやるために斜面を下っていったら、天蓋《てんがい》に覆われた荷台には手風琴《てふうきん》や喇叭《らつぱ》を手にした楽師やら、筋肉がむっちりついた男、頭から薄い布をすっぽりかぶった薄気味の悪い女やらが座っている。旅の見世物一座だった。御者台にいた男が座長だったというわけだ。ピエーヴェの代官《ポデスタ》の館《やかた》で芸を披露して、これからボテスタイノ城に行くんだと。カドーレ一帯を守っている傭兵長《ようへいちよう》が住んでいるからね」
「その一座って、こっちにも来ないかしら。あたしも見てみたいわ」
ディアマンテが浮き浮きといった。しかし、弟は、ちっ、と舌を鳴らした。
「こんな辺鄙《へんぴ》なところに来るものか。座長は、ジェルマニアにいくつもりだといっていた。ボテスタイノ城に寄って少しばかり稼いだら、さっさとチロル伯領のほうに抜けていってしまうだろうさ」
そこまでいってから、がっかりした姉の顔に気がついてフィオリートはつけ加えた。
「でも、市のたつ日にアンペッツォ村に行ったら見られるかもな。座長は、様子によりけりで、興行するかもしれないといっていた。火吹き男に、ぐにゃぐにゃ兄弟、道化に楽師、それに悲しい運命によって流されてきたタルタル人の姫君もいるってさ」
タルタル人の姫君という言葉に、私はぎくりとした。
「見たのか、その姫君」
「いや、荷台は暗かったし、女たちは被り物をしていて誰が誰だかわからなかった」
フィオリートは何か問いたげに私を見たが、そこにパエジオの声が響いた。
「魚が焼けた。喰《く》おう」
八匹の魚はこんがりと焼けていた。パエジオは持ってきた袋の中をかき混ぜた。薬草らしい乾いた木の葉や草の中から塩の包みを出して、皆の掌《てのひら》に少しずつ落とした。私たちは塩を舐《な》めながら、魚の熱い白身にかぶりついた。脂ののった魚はうまく、汁が口の中に広がる。骨までがじがじと噛《か》みながら、私はタルタル人の姫君のことを考えていた。フィオリートの話を聞いて、私の頭に浮かんだのはイル・ハン国で別れた春花《チユンホウ》のことだった。一緒に旅したコカチン姫が死んでしまい、その後、どうしたのかわからない。ひょっとしたら、ここに流れてきたのではないか。もちろん、そんなことは万にひとつしかないだろう。春花はイル・ハン国の貴族の妻となったはずだから。しかし東の涯《は》てにいた私が西の涯てにいるくらいだ。世の中、何が起きるかわからない。春花がこのあたりにいることだって、まったくないとはいえない。
魚を二匹ずつ平らげると、フィオリートが燠になっていた火を揉《も》み消した。私たちは道のほうに引き返していった。
パエジオとフィオリートは肉親の待っているディアマンテの家に、ディアマンテと私は城に戻らなくてはならなかった。パエジオが驢馬《ろば》の手綱を解き、私たちは村へと向かった。家々を取り巻くようにして広がる放牧場のまわりには、羊が帰ったと聞いて人々が集まっていた。子供たちは羊をからかってはしゃぎ、大人たちは自分の家の羊を目で探している。冬の間、閑散としていた村に活気が蘇《よみがえ》っていた。
「羊飼いは、夏はどうしているんだ」
私は空の魚籠《びく》を手にして歩きながら、パエジオに聞いた。
「夏は山の高いところまで羊を連れていって、やっぱりそこで暮らすのさ」
パエジオは答えた。だったら家にいる時はほとんどないではないかというと、パエジオは笑った。
「羊飼いには家はない」
「父さんは、叔父さんもいい加減、奥さんをもらって、自分の家を持ったらいいのにといってたわよ」
弟と並んで先を歩いていたディアマンテが振り返った。
「女房子供を養うには金がかかる。わしには、そんな金はない」
「お金ができても、〈善き人〉にあげたり、人を呼んでご馳走《ちそう》したりして、すぐに使ってしまうからよ」
「地に富を積んでどうなるんだ。富は天の国に積むものだ」
パエジオは厳《いか》めしく〈善き人〉めいた言葉を吐くと、少し口調を和らげた。
「わしは今のままでいいんだよ」
広場を通りかかると、菩提樹《ぼだいじゆ》の下でジャコモとゲラルディアが言い合っていた。丸顔にくっついた三角形の太い眉《まゆ》が目よりも雄弁に動くジャコモはヅィビリーノ家の当主で、村唯一の公証人でもある。話に夢中になると、両手を広げて体を左右に大きく揺らせる癖があり、「ゴンドラ殿」というあだ名がついている。船なぞほとんど見たことのない村人がそう名付けた裏には、文字の読み書きができる公証人に対する敬意がこめられているらしい。ジャコモはまさにゴンドラとなって体を揺らせていた。相手のゲラルディアは、金色の髪と、眉《まゆ》の下にのめりこんだような青い目を持つ寡婦だ。いつも黒ずくめの格好をして、肩をいからせ、分厚い腰に両手を当て、村のあちこちで男たちと対等に話している。村人は、ゲラルディアをただの女《ドンナ》ではなく、女主人《ドミーナ》と呼んでいた。
「だから、牛の仔《こ》二頭分は羊毛で払うといっているだろう」
「羊毛刈りなんてまだ先の話じゃないか。今、代金をもらわないと困るんだよ。それでもう一頭雌牛を買うつもりなんだから、な、わかるだろう、ゲラルディア。うちだって大変なんだよ」
「あんたんちが大変だって。よくいうよ」
ゲラルディアは手を上げて、石造りの立派な家を示した。ジャコモは困った表情で広場を見回した。居酒屋の前や洗濯場に集まっていた村人が二人の諍《いさか》いを眺めていた。
「その話はまた改めてしよう」
「羊毛刈りまで待ってくれるんだね」
ゲラルディアは決めつけた。ジャコモが、そうでない、と声を張りあげた時、パエジオの声が二人の間に滑りこんだ。
「いい日和で、ジャコモの旦那《だんな》」
ジャコモもゲラルディアも、喧嘩《けんか》を中断された猫のようにぱっと振り向いた。ジャコモは口論から逃れられるので大喜びで、両手を広げてパエジオのほうに近づいていった。
「こりゃあ、パエジオ、わしらの羊飼い。帰ったんだってな。どうだ、わしの羊は元気か」
「ええ。仔を三頭産みましたよ」
「|いいぞ《ベーネ》、|いいぞ《ベーネ》」
ジャコモは緑色の上衣の裾《すそ》を揺らせて、体を前後させた。ゲラルディアがやってきて、二人の間に割りこんだ。
「うちの羊はどう、仔を産んだ」
パエジオがかぶりを振ったので、ゲラルディアはますます不機嫌になった。
「次の冬にはきっとたくさん産むさ」
パエジオは慰めるようにいって、驢馬の背中の袋の中を掻《か》き混ぜた。そして鍋《なべ》や杓子《しやくし》の間から、四つにたたんだ細長い紙を引きずりだして、ジャコモに手渡した。
「アンペッツォ村から手紙を預かってきましたよ」
ジャコモは細長い紙の上に書かれた文字に目を落として、義兄からだと叫んだ。
「待ってたんだよ。冬中、便りは途絶えていたからね。ありがとうよ、パエジオ。皆、元気だったか」
パエジオはためらいながらいった。
「なんだか、あんたの妹さんの具合がよくないということだったよ」
ジャコモの顔の表情が止まり、手紙を握りしめて踵《きびす》を返した。そそくさと一階の暗い回廊の下に消えようとする公証人に、ゲラルディアが怒鳴った。
「仔牛は羊毛で払うからね」
ジャコモの返事はなかった。ゲラルディアは頭から肩を覆った黒い毛織りの布を巻きなおして、パエジオを振り向いた。
「また舞い戻ってきたのね」
パエジオは、広場の喧噪《けんそう》なぞどこ吹く風で口をもぐもぐ動かしている驢馬の背を撫《な》でた。
「出ていっては戻ってくる。それが羊飼いというものだ」
「羊飼いなんて、今にいなくなるわ」
ゲラルディアは薄笑いを浮かべた。
「下のほうの村では、どんどん羊から牛に切り替える家が増えているのよ。羊より牛がいいに決まっている。体は大きいし乳もよく出る。今に仕事がなくなって、困るわよ」
「牛からは毛は採れない。暖かな織物を欲しがる者はいなくなりはしないさ」
パエジオはゲラルディアに微笑《ほほえ》んだ。ゲラルディアはまだ何かいいたげに唇を舐めたが、すぐに羊飼いから顔を背け、黒い衣の裾を蹴《け》りあげて広場から出ていった。
派手に喧嘩していた二人が消えると、広場にはいつもの和やかさが戻ってきた。居酒屋の前の男たちは店に入り、洗濯場からは女たちが布を洗う音が響きはじめた。パエジオは、私とディアマンテに手を上げて挨拶《あいさつ》すると、フィオリートを連れて歩きだした。私とディアマンテは城へと続く小径《こみち》に入っていった。
「ゲラルディアは昔、パエジオ叔父《おじ》さんの恋人だったの」
道が岩だらけの険しい坂に変わると、ディアマンテは私の前に出ていきながらいった。
「だけど、パエジオ叔父さんはちっとも落ち着きたがらないから、アルタイア家のフルコと結婚しちゃった。子供を三人産んだところで、フルコは崖崩《がけくず》れに遭って死んだってわけよ」
「ゲラルディアは、自分の不運の種はパエジオが蒔《ま》いたと思っているのか」
ディアマンテは嘲笑《あざわら》うようにいった。
「きっと今でもパエジオ叔父さんと結婚したいのよ」
小石のごろごろする坂道を私たちは登っていく。そそり立った崖の上から、灰色の城が見下ろしている。道の真ん中にある大きな岩をよじ登るたびに、青い上衣の下からディアマンテの脹《ふく》ら脛《はぎ》が覗《のぞ》き、丸い尻《しり》がぶるりと揺れた。弾けるようなその尻に、抱きつきたいと思った。
「フィオリートがいってた旅の一座、見にいきたくない」
突然、ディアマンテが振り返って聞いた。尻ばかり見つめていた私は、慌てて視線を女の顔に向けた。
「アンペッツォってのは遠くなんだろう」
どっちつかずの返事をすると、ディアマンテは足を止めて、こちらに体を向けた。
「一日も歩けば着くわよ。二、三日、どこかに出かけてくるといえばすむ話だわ」
左右の大きさの違う女の目が私の表情の底を探った。
「あんた……タルタル人の姫君を見たいんじゃないの」
私は、ああ、まあ、と呟《つぶや》いた。会ってみたい気もしたし、会ってもなんにもならないだろうとも思った。見世物の一座に紛れこんでいる女だ、ほんものの姫君ではないだろう。タルタル人というのだって怪しい。黒海あたりから連れてきた娘ではないか。
「そのタルタル人の姫君って、あんたの知り合いなの、ザンザーラ」
ディアマンテがまた聞いた。私はその口調に嫉妬《しつと》を感じて驚いた。ディアマンテにとって、私は肉の慾《よく》が湧《わ》いた時に家畜部屋に引きずりこむ男の一人にすぎない。会ったこともない、タルタル人の姫君に嫉妬する理由なぞなかった。
しかし人の心はおかしな方向に働く。嫉妬は女にとって、関心もなかった男に心を向けさせる力がある。私はこの機を利用することにした。
「おれの恋人だった」
私は答えた。ディアマンテはあからさまに疑った声でいい返した。
「嘘《うそ》でしょ、お姫さまが、あんたなんかの恋人になるはずないじゃないの」
私は黙ったまま、春花のことを思い浮かべた。少女から娘へと変わっていった春花。白磁の肌に、澄んだ瞳《ひとみ》と赤い唇が花のように咲いていた。嵐《あらし》が来て、私に抱きついてきたこと、この手で抱きしめた柔らかな体。私の顔に浮かんだ表情に、ディアマンテは苛立《いらだ》った。
「嘘よ、そんなはずないわ」
「おれは、おまえが赤ん坊の時、もう女を知っていたんだぞ」
ディアマンテは、はっとした。そして私をまじまじと見つめた。私は女の肩をつかんで顔を近づけ、その分厚い唇を舐めた。魚の味も一緒に貪《むさぼ》り、唇を吸った。ディアマンテは喘《あえ》いで、顔を離そうとした。しかし、その動きにたいして力はこもってなかった。私は両手を女の尻へと下ろし、自分の腰に引き寄せた。硬くなった陰茎を感じてディアマンテは腰を引こうとしたが、それはかえってお互いの肉慾の炎を燃えたたせただけだった。私はディアマンテを近くの岩に押しつけた。これまではディアマンテが家畜部屋に男を引きこんでいた。今度は私の番だ。
私はディアマンテをひっくり返して、上衣をまくりあげ、浅黒い尻を露《あら》わにした。小便と糞《くそ》と秘所の臭いが混じった女の匂《にお》いが鼻を衝《つ》いた。私は下穿《したば》きを外すと、硬くなった陰茎を後ろから差しこもうとした。
「だめ、そんなことしたら……地獄に堕《お》ちる……」
ディアマンテは逃げ腰になり、身を捩《よじ》らせた。肩ごしに振り向いた目には、恐怖すら宿っていた。
「救慰礼《コンソラメンタム》があるだろう。なにをしてもいいんだろうが」
女の顔に戸惑いが浮かんだ。ディアマンテが考えている間に、私はその丸々とした尻を抱え、潤った太腿《ふともも》の奥に陰茎を押しこんでいった。
7
獣のように交わるのは、悪魔だそうだ。私にこのことをいったのはフェルトレの娼婦《しようふ》、ヴェネツィアから逃げだして初めて交わった女だった。
亜麻布職人のアントニオに従ってフェルトレに辿《たど》りついた私たちは、〈善き人〉の信徒である農家に身を寄せた。〈山の彼方〉は、ピアーヴェ河をさらに溯《さかのぼ》っていったところだという。そこから先はアントニオもついてこられないので、死んだ筏乗《いかだの》りの仲間に頼んで道案内をしてもらうことになった。〈善き人〉の教えに従う者たちにはちゃんと横の繋《つな》がりがあるらしく、農家に厄介になっている間に、そこの家の者たちがつけてくれた段取りだった。フェルトレを発《た》つ前日、その筏乗りたちに誘われて淫売宿《いんばいやど》に行った。
淫売宿といっても、うわべは居酒屋のようになっている。一階が酒を飲ませる店、二階が客を引きこむ部屋となっていた。私は逃亡奴隷だし、店にはどんな密告屋がいるかわからない。外套《がいとう》の頭巾《ずきん》を目深にかぶったまま葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲むうちに、筏乗りたちはさっさと気に入った女を連れて二階に上がっていった。私に残されたのは目と目の間の離れた狆《ちん》に似た女だった。だが面相なぞどうでもよかった。ポーロ家の奴隷だった間、女には縁がなかった。その柔らかな体を抱きしめ、太腿の間にある湿った穴に陰茎を突っこむことができれば、それでいい。私はその女と一緒に二階に上がっていった。
長持の上に洋燈がひとつ灯《とも》っただけの暗い部屋に入ると、私は身につけていた蒙古《もうこ》刀を壁にたてかけた。外套をかなぐり棄て、女にむしゃぶりついた。あまりに焦がれていた肉体だったから、どうしていいかわからなかったほどだった。下に敷いた藁《わら》ががさがさと音をたてる寝台には、前の客の汗と白い血の臭いが残っていたが、気にはならなかった。私は性急に女の中に入り、尻《しり》や腹や太腿、その間の暖かな秘所を舐めまわり、撫《な》でまわし、揉《も》みあげ、女が熱い声を洩《も》らしはじめると、また交わり、やがては獣のように後ろから差しこんだ。女は全身を震わせ、死んだように動かなくなった。
あんた……獣だ。
女が呟《つぶや》いた。
おかげで、あたしまで獣になっちまったじゃないのさ。
女は暗闇《くらやみ》でそう詰《なじ》った。クリストを崇《あが》める者たちは、男女向かい合う形で交わるように定められている。獣のように交わると、地獄に堕《お》ちるといわれている。もちろん淫売宿に来た客で、獣のような交わり方をしたがる者もいる。だが、心は獣になっていないから、自分まで獣になることはない。我を忘れて叫んだり、震えたり、気を失いそうになったりしないのだと女はいった。
獣になってどこが悪い。私は疲れて、寝台に仰向けになったままいい返した。犬だって鶏だって馬だって交わって仔《こ》を産む。人も子を生むのだから、同じ獣だろう。
女は脅《おび》えたように私から身を離した。そして、長持の上の洋燈を手に取って、床に散らばった衣類を拾い集めた。その朱色の光が、頭巾を取った私の顔を照らしだした時、女の口から悲鳴が洩れた。
悪魔《デイアボロ》……。
女の手から洋燈が滑り落ちそうになった。私は洋燈を取りあげて、何でそんなことをいうのだと聞いた。
だって、あんたみたいな変わった顔は見たことないもの。悪魔が人の姿を借りているにちがいない。なんてこった、あたしは悪魔と寝てしまった。罪深いことを続けてきたせいだ。
女は床にへたりこんで泣きだした。私はあきれて寝台に座りなおした。
西の涯《は》てに来てから、悪魔の名は幾度となく耳にしていた。山羊《やぎ》の頭と蹄《ひづめ》を持っているとか、全身|鱗《うろこ》で覆われているとか、狼の顔に四重の翼、女の乳房をつけているとか、人によっていうことが違っていた。聞くだに奇妙な姿をした魔物らしかった。
だが、私はたくさんの仮面を持っている。無邪気な幼子の仮面、金勘定ばかりしている守銭奴の仮面。好色漢の仮面もあれば、人殺しの仮面もある。それを、つけたりはずしたりしながら生きている。手持ちの仮面の中に異形《いぎよう》の悪魔のものも混じっているかもしれない。
そうだ、おれは悪魔だ。私はそういってやった。女は呻《うめ》き声を上げて、両手に顔を埋めた。私は阿呆《あほ》らしくなって身支度をしはじめた。衣類を身につけ、筏乗りの死体から取った靴に足を突っこみ、腰に蒙古刀を下げた。そして虚《うつ》けたような女の手に金を握らせた。女は掌《てのひら》の銀貨を見つめて、わかったよ、と呟いた。
あたしを地獄に連れていくなら、その前に願いを叶《かな》えてちょうだいよ。悪魔は、魂を売り渡した人間には、それくらいのことはしてくれるって聞いたよ。
悪魔がそんな施しをしてやる魔物とは知らなかった。面倒なことになったと思ったが、今さら悪魔ではないといっても、話をややこしくするだけだった。願いとは何だと訊《たず》ねてみた。
女は、涙が滲《にじ》んだ出っぱった瞳《ひとみ》で私を見上げた。その顔に恥じらうような表情が浮かんでいた。
あたし、一度でいいから貴婦人《ジエンテイルドンナ》ってものになってみたいのさ。
貴婦人なら、ヴェネツィアでよく見かけた。お付きの奴隷を二、三人従えて、絹の見事な服を着て聖マルコ広場を歩いていた女たちだ。ポーロ家のイザベッラやカテリーナも、貴婦人と呼ばれていた。しかし、貴婦人とは生まれながらのものだ。被り物を取り替えるように、娼婦を貴婦人には変えられない。
困ったなと考えていると、女は、服はあるのだと、長持から深紅の衣類を出してきた。古びてはいるが、襟や袖口《そでぐち》に刺繍《ししゆう》を施した絹の上衣だった。確かに貴婦人が着そうなものだ。女は、客にもらったと説明したが、追い剥《は》ぎで手に入れた服を花代《はなだい》代わりに置いていったというのが真相だろう。
女は深紅の衣を両手で抱きしめて、おずおずといった。
いつかこれを着て、町に出たいと思ってたのさ。紳士と腕を組んで歩いてみたいってね。
淫売宿に行ったとわかっただけで、罪に問われる世だ。娼婦と手を組んで町を歩く男はいやしない。
一遍だけでいいんだ。これを着て、貴婦人として歩きたいんだ。
この後、一生涯、貴婦人として暮らしたいといわれたら退散するしかなかったが、その程度の願いなら、私でも叶えてやれそうだった。
たまには心優しい男の仮面をつけてもいいだろう。そう思って、今夜でよければ一緒に歩いてやろうと私はいった。
悪魔は夜にしか出歩けないものね。
女はしたり顔で頷《うなず》いて、早速、その深紅の絹の衣を着た。黒い紗《しや》の被り物ですっぽりと顔を覆うと、貴婦人に見えないことはなかった。冬も近いというのに、服を隠したくないのだといって、女は外套は着なかった。私たちは淫売宿の主人に見つからないように裏口から外に出た。
月は出ていなかったが、空には星が瞬き、石畳の路上を仄《ほの》かに照らしていた。蛍の光ほどの明かりの灯った家々に挟まれた細い道を、私たちは腕を組んで歩きだした。強盗や乱暴者の横行する夜は、家に閉じこもっているほうが安心だ。外を歩く者はほとんどいない。酔っぱらいが大声を上げたりして賑《にぎ》やかなのは、酒樽《さかだる》の印のある居酒屋ぐらいだ。
フェルトレの町はなだらかな丘陵の上に作られている。女と腕を組んで、くねくねした坂道を登っていると、松明《たいまつ》を持った数人の男に呼び止められた。町の夜警団だと女が囁《ささや》く。私は女を庇《かば》うようにして立ち、腰の蒙古刀の柄《つか》を松明の光にきらめかせた。そして、貴婦人を守る騎士のように見えることを願いながら、頭巾の下から厳《いか》めしい声をだした。
この方はさる高貴な家の婦人で、お忍びの用で出ているのだ。
黒い紗の被り物の下で、狆《ちん》の顔をした女は頷いた。
夜警団は訝《いぶかし》みながらも立ち去っていった。女が、私の腕に触った。そして私たちはまた歩きだした。話なんかしなかった。石の路上にこつこつと足音を響かせながら、黙って夜の町をさまよい続けた。女の黒い紗の被り物が、深紅の絹服の上で波のように揺れる。それを透かして見る横顔が、だんだんほんものの貴婦人に見えてきた。
やがて城のすぐ足許《あしもと》にある広場に出た。回廊のある市庁舎や貴族の館が建っている。石の胸を張って威圧するように並ぶ建物こそ、ほんものの貴婦人たちの住まいだった。その貴婦人たちは、昼間、紳士と腕を組んで外に出て、長い裾《すそ》を引きずってしゃなりしゃなり歩くのだ。
女は広場の端に立ち、貴族の館を仰いで叫んだ。
あたしは夜の貴婦人。あたしの館は淫売宿。あたしの領土は地獄。
女は大きな声で笑った。市庁舎のほうから、誰だっ、という声がして、警備の者がこっちに駆けてきた。私と女は逃げだした。手と手を繋《つな》いで、町の坂をばたばたと駆け降りて、淫売宿に飛びこんだ。そして二階の部屋に戻り、服を脱ぎちらして抱き合った。仔犬がじゃれあうように寝台を転がり、唇を吸い、秘所を吸った。後ろから尻を抱えて交わると、女は獣となって咆吼《ほうこう》した。
翌朝、フェルトレの市門が開くと同時に、私は町を出て、厄介になっている農家に急いだ。幸い、まだ筏乗《いかだの》りたちは来ていなかったが、隠れていた納屋でマッダレーナとフランチェスカは起きだしていた。
どこに行っていたの。
すでに旅支度を整えたマッダレーナが聞いた。
夜の貴婦人と会ってきたのさ。
私は欠伸《あくび》をしながら答えた。瑪瑙色《めのういろ》の瞳の女は放蕩《ほうとう》の匂《にお》いを嗅《か》ぎとって、悲しげな苛立《いらだ》たしげな表情をした。
8
まだ火照《ほて》った顔のディアマンテと一緒に城に戻ると、魚釣りに出る時は静まりかえっていた〈山の彼方〉も、朝の活気に満ちていた。〈中の庭〉に面した建物の二階の窓は開け放たれ、人影が歩きまわっている。厨房《ちゆうぼう》からは麺麭《パン》を焼く匂いが流れ、回廊の手すりから身を乗りだしたアレグランツァが、ばたばたと毛布の埃《ほこり》をはたいていた。自分の仕事である朝の掃除がはじまっていることに気がついて、ディアマンテはあたふたと〈女の家〉に入っていった。
井戸で洗った魚籠《びく》を、庭の陽あたりのいい場所に置いていると、家畜小屋から驢馬《ろば》を引きだしてきたアルミドが声をかけてきた。
「どこに行ってたんだ、ザンザーラ。朝飯にいなかっただろう」
私は魚籠を振って、釣りに行っていたことを示した。収獲はなし、とつけ加えると、アルミドは駿馬《ろば》の手綱を庭の隅の杭《くい》に縛りつけていった。
「魚を釣るより、人を釣ることだ」
私はどきりとした。魚ではなく女を釣っていたのだろうという、あてこすりかと思ったのだ。しかし、〈善き人〉は他意のない表情で驢馬の背を叩《たた》いた。
「今日、〈山の彼方〉から、人を獲《と》る漁師が説教の旅に出る」
私が怪訝《けげん》な顔をしたので、アルミドは、春になったので、いよいよ〈善き人〉たちが布教に出ていくのだと説明した。
「フランコとゲラルド、それに大子のジュリアーノと、わしが旅に出るのだ」
「あんたも行くのか」
私は少し驚いていった。〈善き人〉の中では最も気楽に話せるこの男が出ていくのは残念だった。
「ああ。トレヴィーゾからパドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナと大きな町をぐるりと回るんだよ」
アルミドは人差し指でぐるりと宙に輪をかいた。トレヴィーゾと聞いて、私は亜麻布職人のアントニオのことを思い出した。親方の家に匿《かくま》ってもらっている間、マッダレーナとフランチェスカがしきりに信徒の家を説教に訪れていた。
「トレヴィーゾには信徒がいっぱいいるみたいだな」
「いるとも、いるとも」
アルミドは、いかにもたくさんいるというふうに右掌を上向けて手を顔の前で回した。南部から来たというこの浅黒い小男は手ぶりがなくては話せないように、活発に体で語る。
「トレヴィーゾの一帯は、わしらの教団が古くからあったところなんだとよ」
「トレヴィーゾだけではない、ヴィチェンツァもヴェローナにも勢力を持っていた。百年ほど前、ニコラ司教が教団を設立した頃のことだ」
響きのいい声がして、家畜小屋から大子のジュリアーノがもう一頭の驢馬を曳《ひ》いて出てきた。この次期司教は、目が大きく、頬《ほお》のだぶついた男だ。頭はほとんど禿《は》げているが、灰色の髯《ひげ》は元気よく四方八方に伸びている。ジュリアーノはアルミドの繋《つな》いだ驢馬の横に、二頭目の驢馬も繋ぎながら続けた。
「しかし、ニコラ司教の後を継いだピエトロ・ガロ司教の時代、ドメニコ派の坊主ジョバンニ・ダ・ヴィチェンツァの手によって、六十名もの〈善き人〉がヴェローナで火炙《ひあぶ》りとなってしまった。一二三三年の悲劇だ。おかげでヴェローナの〈善き人〉のほとんどが天の国に逝ってしまった」
「その九年後に、モンセギュールで二百名ほどの仲間が火炙りになった」
アルミドが口を挟んだが、ジュリアーノは無視した。夕食後、説教の順番がまわってきた時もそうだが、この男は夢中になると横からの言葉は耳に入らない。さらに今は旅を目前にして興奮しているようだった。
「ヴェローナに生まれたわたしは、その話を〈善き人〉の信徒だった両親から聞いて育った。天の国に逝った者の代わりに、新たなる〈善き人〉をこの地に増やさないといけない。そう思ったものだ。時代はわたしたちに優しくなっていた。ダ・ロマーノ家のエツツェリーノ三世が、トレヴィーゾ地方とヴィチェンツァ、ヴェローナ、パドヴァの大きな町を牛耳るようになっていたからな」
エッツェリーノ三世の名前は、〈山の彼方〉に来て何度か耳にしていた。ジェルマニア人や回教徒、グレチア人の傭兵《ようへい》も含めて一万人の軍勢を従え、近隣の都市を荒らしまわり、自分に刃向かう者は残虐に殺していった男だ。その一方で占星術や魔術に凝っていて、何を決めるにあたっても、城に侍《はべ》らせている占星術師の意見を聞いてからにしていた。そのせいで、山の異端者、悪魔の息子と呼ばれ、ローマ教会から何度も破門された。この男が、実は〈善き人〉の守護者でもあり、自分が統治するトレヴィーゾやヴェローナ、パドヴァといった都市で、異端審問官が気ままに動けないように目を光らせていた。
それは放蕩に身を溺《おぼ》れさせていた私の父が、しきりに寺に寄進していたのと同じ心情だろう。エッツェリーノ三世は、〈山の彼方〉をローマ教会の手から守ることで、血まみれの手を清めようとしたのだ。
当時、〈山の彼方〉は、トレヴィーゾ地方の教団の司教の座を退いた、ピエトロ・ガロ司教が率いていて、アルピの山中で居を移しながら、各地の教団の中心となっていた。エッツェリーノ三世は、かつては交通の要所として城も村もあったが、すでに誰も住まなくなっていたアッツォの地を地元の領主から買い取り、密《ひそ》かに〈山の彼方〉の司教に与えたのだった。
ピエトロ・ガロ司教は〈善き人〉たちと共に廃墟《はいきよ》となっていたアッツォ城を改修して住みはじめた。その後、〈山の彼方〉を慕って集まってきた信徒が森を切り拓《ひら》き、やはり打ち棄《す》てられていた城の下の村を再建した。
エッツェリーノ三世は、当然のことだが、あまりの専制ぶりに、多くの敵を作った。最大の敵は弟だったという。自分が孤立しつつあることに気がついたエッツェリーノ三世はこの土地を村人に解放した。先見の明があったともいえる。エッツェリーノ三世が戦いで捕虜になって死ぬや、ローマ教会に異端者として断罪され、ダ・ロマーノ家の財産は没収となった。しかし、このアッツォ村は村人のものとして、村の自治体《コムーネ》が動かしている。
「エッツェリーノ三世が死ぬと、再び苦難の時代がやってきた」
ジュリアーノは唇を曲げて、悲しげに首を振った。あまりに大仰な表情なので滑稽《こつけい》にすら見える。それぞれ大きな袋を抱えて中の庭に入ってきたフランコとゲラルドが、大子の声を聞いて近づいてきた。毛布の埃をはたいていたアレグランツァもいつか手を止めて耳を傾けている。
「ローマ教会の狼の牙《きば》は、次々とわたしたちのまわりに伸びてきた。まず、トレヴィーゾ教団のジェレミア司教が捕まって、パドヴァで他の十名の〈善き人〉と一緒に火炙りになった。次に、ヴェローナの二度目の悲劇が続いた」
この男は、よくよく悲劇という言葉が好きらしい。しかし、その言葉の響きには似つかわしくない陽気な表情で目玉をぐるりと動かして、聴きいる者の顔を眺めた。すでにそこには、リザルドやカルロ、マウロ爺《じい》さん、アンナとボーナも加わって十人以上聴衆ができていた。
「その頃、わたしはフランチアから来たベルナルド師と出会い、共に布教してまわるようになり、ヴェローナの北のガルダ湖畔の町、シルミオーネで多くの信徒を得た。〈善き人〉となる者も多く、教団がひとつできるほどだった。しかし、またもやローマの狼たちの異端審問に捕まってしまった。シルミオーネの信徒は次々と異端者として告発された。そして一二七八年、ヴェローナのローマの野外円形劇場の中で二百人もの仲間が火炙りとなった。わたしはこっそり処刑を見にいった。黒く膨れあがっていく人の体は、焼けていく麺麭みたいだった。天の国の神さまは、この〈善き人〉の黒焦げの麺麭をお喜びになるだろうと、わたしは思ったものだ」
ジュリアーノはにやりとして、驢馬の背中をぴしゃりと叩いた。
ヴェローナで二百人の〈善き人〉が火炙りになったとは、ベルナルド司教も話していたことだ。大子はその頃から司教と共に危ない目に遭ってきたのだ。しかし同じことを語るのに、ベルナルドは涙を浮かべ、ジュリアーノは笑いを浮かべる。
「ジュリアーノさま、今回はヴェローナにまで布教に行くのでしょう。そんな危ないところに足を向けて大丈夫ですか」
アンナが心配そうに聞いた。ジュリアーノは、陰気な顔つきの女信徒を振り向いた。
「危ないからこそ行くのだよ。わたしたち〈山の彼方〉の大子と小子が揃《そろ》っていけば、ヴェローナばかりか、トレヴィーゾ地方全体の教団の信者たちはどんなに力づけられることだろう。わたしたちは、トレヴィーゾ一帯の教団をもう一度、昔のように盛りたてるために行くんだよ」
危険が大きければ大きいほど興奮するとでもいうように、その口調には張りがあった。
ジュリアーノは二個の大きな袋を地面に置いて立っていたフランコとゲラルドに気がつくと、驢馬《ろば》を指さした。
「こっちがきみたちの驢馬だ。飼い葉はやっておいたから。もう荷を乗せられるぞ」
二人は礼をいって、大きな袋を手に驢馬に近づいていった。ひとつは毛布や着替えが入っているらしい柔らかな袋、もうひとつはあちこち出っ張った袋で、中で金属のぶつかり合う音がする。私は二人が〈山の彼方〉の鍛冶《かじ》や鋳掛《いか》け仕事を引き受けていることを思い出した。
「鍛冶道具でも入ってるのか」
半ば冗談でいうと、ゲラルドがこちらを振り向いて、にこっとした。
「おれたちが鍛冶屋だったと、知らなかったかな、ザンザーラ」
アルミドが私に頷《うなず》いた。
「わしらは行く先々で仕事を請け負いながら、説教の旅をしていくんだよ」
あんたも何かするのかと私は聞いた。アルミドは団栗《どんぐり》のように細長い顔の前で、人差し指を立てた。
「こう見えても、わしはナポリでは腕のいい指物師《さしものし》だったんだぞ」
アルミドが人差し指を私に向かって振りながら、さらに何かいおうとしたところに、後ろから、「失礼しますよ」と大きな声がした。振り返ると、中の門の下に、ヅィビリーノ家のジャコモが立っていた。
さっき広場で出会ったばかりだ。先ほどと同じ緑色の上衣姿に黒の長靴下という出で立ちだが、頭には同じ緑色の折り返しのついた帽子をかぶっている。坂道を急いで上がってきたらしく、丸々した肩を上下させ、息を切らせていた。アルミドは、こりゃあ〈ゴンドラ殿〉、とあだ名で呼びかけようとして、慌てて言葉を濁した。ジュリアーノが代わりに両手を広げて近づいていった。
「ああ、ジャコモ。どうしたのかな」
ジャコモは、〈善き人〉の前で「善きことを」と早口で唱えて三度|膝《ひざ》を曲げた。そして最後に、「わたしたちを善き最期と〈善き人〉の手中に導きたまうように、神さま、お願いします」とつけ加えた。〈善き人〉はジャコモが膝を曲げるたびに「善きことを」と応じた。挨拶《あいさつ》を終えるや、ジャコモはもどかしそうに司教にお会いしたいといった。
「とうとう救慰礼《コンソラメンタム》を受ける心構えができたのかな」
ジュリアーノが嬉《うれ》しそうに聞いた。村の者が〈山の彼方〉に訪ねてきても、応対するのは〈善き人〉だ。司教にじきじきに会うのは、〈山の彼方〉で救慰礼を受けることを決めた時だった。
「いえ、そうではなく……」
ジャコモはいらいらと三角形の眉《まゆ》を釣りあげた。
「私の妹が死にかけているんです」
ジュリアーノは「ほう」と驚いた顔をした。しかし、その場であれこれ問い質《ただ》して、時を無駄にすることはなかった。ジャコモについてくるようにといって、先に立って歩きだした。中庭にいた者たちは、ジュリアーノとジャコモの姿が〈奥の門〉の中に消えていくのを見送った。〈善き人〉の旅立ちの日のために浮ついていた中庭に、つむじ風が舞ったようだった。皆、その風の吹いていった行方を考えて、当惑した表情をしていた。
「さあ、仕事だ」
アルミドが手を叩いた。
「日の高いうちに出発したい。みな、支度を手伝ってくれ」
中庭に集まっていた者たちはのろのろと動きだした。フランコとゲラルドは、また驢馬の背中に荷物を括《くく》りつける作業に戻っていった。アルミドは自分の荷物を取りに〈奥の庭〉に戻り、アンナとボーナは四人分の食糧の準備のために食堂に入っていった。私はさしあたっての用事はなかったので、車輪作りをするというカルロとリザルドの手伝いをすることにした。それは、牛に曳《ひ》かせる荷車の車輪で、壊れていたために春の畑仕事がはじまる前に新しくつけ替えておいてくれと、マウロ爺《じい》さんからいわれたものだった。
私たちは〈表の庭〉に行くと、南の城壁の下に並ぶ建物の東の端の戸口に入っていった。そこは、大工仕事や指物といった木を使った仕事をする時の部屋になっていた。部屋の片側には大きな木が丸太のまま横たえられている。栗や樫《かし》といった硬い木で、食卓や扉を作る時のために乾かしてあるということだった。もう一方の壁には、大小の鋸《のこぎり》や金槌《かなづち》、釘抜《くぎぬ》きといった大工道具がぶら下がり、奥の細長い窓際には轆轤《ろくろ》が置かれていた。すでにリザルドとカルロは丸太を轆轤にかけて、車軸受けを作っていた。次にはその周囲につけた八つの穴に、車輪の外枠を支える輻《や》を差しこんでいくことになる。八本の幅はすべて同じ太さと長さにしないといけない。私たちは明るさを求めて、庭に面した窓の下に行って、樫の丸太を適当な長さに切り、手分けして作りはじめた。私が斧《おの》で樫の棒を適当な細さに削ったものを、カルロが鉋《かんな》をかけ、リザルドがその端を車軸受けの穴に嵌《は》まるように削っていく。剽軽者《ひようきんもの》のリザルドも、頭の鈍いカルロも、この仕事をはじめると別人となる。リザルドの手は舌とは反対に慎重に動き、カルロの手は頭の回転より遥《はる》かに早く滑らかになる。窓の下に置かれた丸太の上に並んで腰を下ろし、私たちは黙々と働きだした。だが、まもなくリザルドの舌がおとなしくはしていられなくなった。
「死にかけてる〈ゴンドラ殿〉の妹って、誰だろう。トロト家に嫁いだアンナマリアなら、昨日、家の裏で鶏の首を絞めていたが」
パエジオがジャコモに手紙を渡すところに立ちあった私は、アンペッツォ村というところに嫁いだ妹のことらしいといった。
股《また》の間に木の棒を立てて鉋で表面を削っていたカルロが、「アンペッツォだって」と聞き返した。私は、パエジオの手紙のことを説明した。するとカルロは、「だったら、カドリーナのことだ」といった。
「カルロはアンペッツォの生まれなんだよ」
車軸受けの穴に削った輻の端を差しこんで具合を確かめながら、リザルドが説明した。
「おれはアンペッツォからボイテ川を少し下ったところにあるサン・ヴィトって村から来たんだけどね。おれもカルロも、同じカドーレ出身ってことさ」
私は今日、パエジオもカドーレという名を何度かいっていたことを思い出した。それで、カドーレとは何だと聞いた。
「〈龍の背中〉の向こうからピアーヴェ河上流まで広がる大きな一帯だよ。アクイレイアの総大司教の領土さ」
アクイレイアという名前は、聞き覚えがあった。確かヴェネツィアのほうの町ではないかというと、リザルドは顔をしかめた。
「さあな。おれはよく知らない。とにかく遠いところなんで、実際に領土を治めているのはダ・カミーノ伯という人だ。だけどダ・カミーノ伯だってトレヴィーゾとかそのあたりにいて、こっちに来ることはまずないんだ。カドーレを牛耳っているのは、ピエーヴェの町にいる代官さ」
「代官は悪い奴《やつ》だ」
カルロが手を止めて、激しい口調でいった。いつものんびりしたこの男には珍しかった。続けて何かいうかと思ったら、カルロは無花果《いちじく》に似た鼻を膨らませて息を吸って、また鉋を滑らせはじめた。
「おい、カルロ。代官がどうしたんだ」
リザルドが聞いた。しかしカルロは、削り終わった輻をリザルドに放りなげ、怒ったように私の作った棒をつかむと、また鉋仕事に戻っていった。リザルドは、しかたないなというふうに唇を曲げて、輻の端を削りはじめた。誰だって喋《しやべ》りたくない過去はあるだろう。私もまた自分の仕事に戻った。冷たく暗い石の部屋に鉋屑《かんなくず》が飛び、木を削る音しかしなくなった。
「フィリッポは、おれを苛《いじ》めるのが好きだった」
カルロが口を開いたのは、私が八本目の輻を粗く削ったばかりの時だった。カルロは鉋を動かす手を止めずに、もそもそした声で続けた。
「道で出くわすと、うすのろ、と罵《ののし》っては、おれの尻《しり》を蹴《け》りとばした。餓鬼の時から、ずっとだ。奥さんをもらって子供ができても、道で会えば、おれの足をひっかけたり、頭を殴ったりした。フィリッポは樵《きこり》で、力があった。おれはいつもやられっぱなしだ。おれはあいつの顔を見ると、いつだって背を向けて逃げだした。うまく逃げおおせても、フィリッポの大きな声が追いかけてきた。おい、うすのろ、足だけは達者だな、ええっ」
フィリッポというのが誰で、なぜこの話が出てきたかわからない。しかし、しゅっしゅっ、という鉋の音に合わせるようにカルロの口調は滑らかだった。まるで鉋を動かす手が、舌も動かしているみたいだった。
「おれは車輪作りがうまかった。村の男なら誰でも車輪くらい作れるが、おれが作ると長持ちした。時々、村の者に頼まれて、馬車や牛車の車輪を作ってやっていた。その礼金で、家族はけっこう助かったもんだ。なにしろ十二人もいたんだから。フィリッポも、山で伐《き》った木を運ぶ馬車の車輪が壊れた時、新しいのを作ってくれと頼んできた。おれはフィリッポだからって手抜きはしなかった。立派で頑丈な車輪を二つ、作ってやった。フィリッポはそれを受け取ったが、金は払おうとしなかった。払うように頼みにいったら、反対に殴られて追いかえされた。困っていたら、村の調停役《コンコルダトーレ》がなんとかしてやるといってくれた。それで調停役は、フィリッポに会いに、仕事場の山に行ったんだ。そこで、どんなことになったのか、よくわからない。口喧嘩《くちげんか》になったらしく、フィリッポは手にしていた斧で調停役の頭を割って殺してしまった。フィリッポは捕まり、死刑と決まった」
カルロは顔をしかめたが、手も舌も止めはしなかった。
「役人を殺したのだ、代官は車刑にするといったという。おれは車刑なんて知らなかった。村で知っていた者なんかいなかったんじゃないか。なんでもジェルマニアのほうでよくやられる刑だと。代官はそれを傭兵《ようへい》隊長から聞いたんだ。刑の日、代官と傭兵隊長は、わざわざアンペッツォまで見に来たよ。フィリッポは地面に打ちこんだ杭《くい》に手足を縛りつけられていた。死刑執行人が鉄の輪を嵌《は》めた重い車輪をフィリッポの体に落として、手や足の骨を折っていった。車輪が体の上で転がるたびに、フィリッポは喚《わめ》いていた。腕や向こう脛《ずね》から白い骨が突きだして、血が流れだした。おしまいに心臓めがけて車輪を落としたけど、死にやしなかった。手足のねじくれたフィリッポの体は車輪に縛りつけられて、村はずれの晒《さら》し場に持っていかれた。車輪は高い柱の上に置かれたものだから禿鷹《はげたか》や烏が来て、まだ生きているフィリッポの肉をついばんでいた。おれは毎日、フィリッポの様子を見にいったよ。フィリッポはおれを見ると、車輪の上から罵《ののし》った。うすのろ、おまえのおかげでこうなったんだぞ、畜生、わかってたんだ、おまえはおれに悪いものを運んでくるとな。餓鬼ん時からわかってたんだ、この淫売《いんばい》の息子め、よりによって車輪に括《くく》りつけるとは考えたな、牛の糞《くそ》め……」
いつかカルロの手が止まっていた。同時に舌の動きも鈍くなっていった。
「フィリッポの骨が地面に散らばり、柱に置かれた車輪も朽ちて枯れ木みたいになっても、晒し場を通りかかるたびに罵り声を聞いた。うすのろめ、おまえのせいだ、わかってるか、おまえのせいだぞ……」
おまえのせいじゃないよ、とリザルドがいった。カルロは鉋がけした八本目の輻をリザルドに渡し、唇の端をぴくりと動かして笑った。
「ああ、おれのせいじゃない。この世を作った悪い神のせいだ」
そうとも、悪い神のせいだ。リザルドは繰り返して、八本目の輻の端を削りだした。カルロは首を捻《ひね》ってそれをぼんやりと眺めた。この男の舌を操っていたものは、すでにどこかに抜けだしていた。鉋を放した手が物足りなそうに膝《ひざ》の上でもぞもぞしていた。
リザルドは手早く仕事をすますと、車軸受けに八本の輻を差しこんだ。外枠をつける前に、輻の歪《ゆが》みを直すために万力《まんりき》で締めつける。部屋の隅から万力を出していると、外から「出発だぞ」という声がした。私たちは仕事を放りだして、大工部屋から出ていった。
中の庭には、すでに〈山の彼方〉の住人が勢揃《せいぞろ》いしていた。ジャコモはもう帰ったらしく、シムズに支えられた司教の姿もあった。皆に囲まれて、荷物を山と積んだ二頭の驢馬《ろば》と、旅に出る四人の〈善き人〉が立っていた。皆、鼠色の頭巾《ずきん》つき外套《がいとう》を着て、足には木底のついた革靴、肩から袋を下げている。大子のジュリアーノは、司教としきりに何か話しあっている。アルミドやフランコ、ゲラルドはそれぞれ仲間や信徒からの祝福を受けていた。私は人々の輪から少しはずれて立っているマッダレーナに気がついた。その瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》に寂しげな色が宿っていた。
〈太陽をまとう女〉を求めて、フランチェスカと一緒に旅だった時のことを思い出しているのだろうか。そのほっそりした姿を見ていると、マッダレーナの視線とぶつかった。マッダレーナは、微笑《ほほえ》むべきか、無視すべきか戸惑っているようだったが、結局、どっちつかずの淡い笑みを浮かべて、さっと消した。
「旅立つ者たちに、神の言葉を贈る」
司教の大きな声が響くと、ざわめいていた中庭が静かになった。司教は太い杖《つえ》の頭に両手を置いて、背筋を伸ばした。そして、城の屋根に四角く切り取られた青い空を仰ぐようにして口を開いた。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を棄《す》てる」
司教は頭の中に記された文字を拾うように、目を半ば閉じて唱えつづける。〈山の彼方〉の者たちが、何事につけても引用するクリストの言葉だ。良い羊飼いという出だしに、パエジオの顔を思い出していた。
私はめったと他人を羨《うらや》まない人間だ。人の行く末なぞどうなるかわからない。今、羨むほどのものを持っている者も、先には憐《あわ》れまれる側になりかねない。羨むだけ無駄だというものだ。しかしパエジオの暮らしに、私は羨望《せんぼう》を感じた。あの男は、私と同じだ。家も妻子も持ってない。しかし、私と違うところは、あの男には根を下ろす土地があるということだ。このアルピの山奥の広がりが、あの男の領土だった。あの男は羊を従えて、王者のようにその領土を巡っていく。
「だれもわたしから命を奪いとることはできない。わたしは自分でそれを棄てる。アーメン」
その場にいた全員が、アーメン、と唱えたので、私も慌てて声をだした。この言葉の意味は知らないが、皆が声を合わせた時の響きが好きだった。
司教はジュリアーノの肩を抱いて、頬《ほお》をすりあわせて唇をすぼめた。右左右と、頬に三度、それを繰り返して、「善きことを」と告げた。男と女の間ではしないが、これが〈善き人〉同士の挨拶《あいさつ》だった。同じことを他の三人にも行うと、司教は頷《うなず》いた。
「さあ発《た》て。ここから出かけなさい」
四人は二頭の驢馬の手綱を引いて、〈表の庭〉に向かった。司教はシムズと一緒にそこに残ったが、他の者たちは旅人が城の表門を出るまで、ぞろぞろとついていった。
「アンペッツォのカドリーナのところに寄るのを忘れないように」
司教が最後に声をかけた。ジュリアーノが頷いて、残る人々に手を振った。アルミドは浅黒い顔に笑顔を浮かべて、「夏には戻ってくるさ」といい、ゲラルドは名残り惜しそうに城を見上げた。フランコは驢馬の背に括りつけた荷が落ちないかとしきりに確かめていた。やがてジュリアーノとアルミド、そしてフランコとゲラルドの順で、一列になって急な坂道を降りはじめた。がらがらと陽気な音をたてる鍋《なべ》や鍛冶《かじ》道具。はしやぐように大きく揺れる肩から下げた袋。春めいた日射《ひざ》しが、大地をひっかいてつけられた細い道を照らしている。岩場を下り、草葺《くさぶ》き屋根の家々の並ぶ村を通り抜け、羊が草をはむ放牧場を突っきり、若芽の吹きだした広大な森の中に消えている、その糸のような細い道を辿《たど》り、四人の〈善き人〉は、外の世界に旅だっていった。
9
山の春は、やってくるのは遅いくせに、一度腰を据えると、とたんに我が物顔でふるまいだす。雪融け水が〈龍の背中〉の絶壁のあちこちに白い滝を作り、山肌に草花が勢いよく頭をだし、木々の枝は輝く緑の若葉をひらつかせるようになった。放牧地には羊や山羊《やぎ》が放たれ、人々は牛に曳《ひ》かせた鋤《すき》で畑の土を耕しはじめた。冬には内にこもっていた音は、家の外に出てきた。牛の啼《な》く声や馬の嘶《いなな》き、けたたましい雄鶏の声、寒さで朽ちた板壁や屋根を修理する音、そして人々の話し声も通りに溢《あふ》れだす。〈山の彼方〉でも、火のある厨房《ちゆうぼう》に集まって籠《かご》作りや木彫り、繕い物といった手仕事ばかりしていた者たちが、傷んだ城の窓や戸の修繕や畑の作付けに外に出て働くようになった。それぞれ自分に合った仕事を見つけて手分けして働くのだが、これといって得手のない私は、気の向くままに他人の仕事を手伝うことになった。エンリコと一緒に山の木を伐《き》って運んだり、アンジェリコが器用な指で革靴を縫う横で靴底になる木を伐りだしたり、ピエトロと一緒に粉挽《こなひ》きをしたり、大工仕事の得意なグイードの戸や窓の修繕を手伝ったり、マウロ爺《じい》さんの小言を聞きながら森に行き、養蜂《ようほう》箱から蜜《みつ》を採りだしたり茸《きのこ》を集めたりした。どの仕事も目新しく、おもしろかった。しかし最もよく手伝ったのは、カルロとリザルドと一緒の畑仕事だった。二人の他愛《たわい》ない会話に笑いながら、私は汗を流して土を耕し、種を蒔《ま》いていった。そうやって、これまで商いや船に乗ること、旦那《だんな》方の身のまわりの世話をすることしか知らなかった私は、山奥で暮らしていくすべを覚えていった。
その日、私は奥の庭の裏手の岩場で働いていた。〈龍の背中〉の絶壁と城との間にある大広間ほどの広さの岩場は、冬の間は牛や驢馬を繋《つな》ぐ場所になっていたが、驢馬は〈善き人〉と一緒に旅に出たし、牛は畑に連れていかれ、その土地の使い道はなくなった。岩が多いとはいえ、絶壁を伝って流れてくる清水を溜《た》める水場もあるし、わずかに土のある場所もある。〈山の彼方〉の医者役を果たしているカルメロが、薬草を植えるといいといいだした。岩場に花壇を作るようなことだから一人でもできるだろうと思い、私が薬草園を作ると申し出たのだった。
薬草園にする場所には、すでに城の下から足らない土を運んできていた。岩場に転がっていた牛や驢馬の糞《ふん》と混ぜあわせたので、いい土になるはずだった。あとは、薬草を野兎や雉《きじ》に喰《く》われないように周囲に柵《さく》を巡らせばよかった。カルロやリザルドに習った通り、まず杭《くい》になるまっすぐな枝を立てる。岩場なので、岩の裂け目を見つけて押しこむしかない。杭の幅はばらばらで見た目は悪かったが、私は気にせずに柔らかな若木の枝を杭代わりの枝に波形に編みこんでいった。
頭上から降りそそぐ暖かな日射《ひざ》しと小鳥の囀《さえず》り。岩場の下方から吹きあげてくる風は、若草の匂《にお》いがした。私は口笛を吹きながら、手を動かしていた。
〈山の彼方〉での暮らしに慣れてくるにつれ、私は深い落ち着きを覚えるようになっていた。たぶん、この景色のせいだろう。四方に聳《そび》える薔薇色《ばらいろ》の岩山。その下に広がる緑の絨毯《じゆうたん》のような森。季節は移っても、山や谷の形は大きく変わりはしない。ここに住む人もまた、その一部だ。確かに、人は生まれ、死んでいく。しかしそれは蟻が生まれ、死んでいくのと似ている。生まれてきた蟻がすぐに巣に餌《えさ》を運びはじめるように、ここに生まれた者は、死んだ者がやっていたと同じことをはじめる。畑を耕し、牛や羊の世話をして、柵を作り、食べ物を作り、子を作る。大きな目で見れば、ここでは、人の営みも、山や谷と同じゆるやかな時の流れの中にある。人は、静かな流れの中に身を浸すと安らぎを覚える。私はとても満ち足りた気分だった。
ぎいっ、と蝶番《ちようつがい》の軋《きし》む音がした。顔をそちらに向けると、シムズが奥の庭の門扉を開いて出てきたところだった。黒い上衣に黒の長靴下、暖かくなったのに、背中にはまだ狐の毛皮をあてている。うつむき加減に岩場に歩いてきてふと顔を上げ、私に気がついた。
一瞬、シムズは引き返す素振りを見せたが、私が、やあ、と声をかけると、ためらいながら挨拶を返し、私から少し離れたところの岩の上に腰を下ろした。
シムズは、よく一人でぼんやりと城の人気《ひとけ》のないところを歩いていたりする。今も何か考え事でもあって、ここに来たのだろう。若木の枝を編みこみながら横目で窺《うかが》うと、ヘブライ人は膝《ひざ》に肘《ひじ》を置き、額に手をあてて顔をさすっている。
「気が重そうだな」
私は声をかけた。シムズは顔を上げた。目尻《めじり》の下がった細い目に戸惑いの色を浮かべている。
「気が重そうだな、といったんだ」
もう一度繰り返すと、シムズは口を丸く開いた。ああ、と返事したみたいだが、声にはならなかった。ヘブライ人は岩場に面した城の建物を仰いだ。屋根の真ん中が見事にへこんだ三階建ての建物の二階には、司教の部屋がある。部屋の布張りの窓に目を遣《や》って、さっき司教に『マリアによる福音書』のラテン語訳を渡してきたところだといった。私は、シムズがそれを司教に渡すのを引き延ばしていたことを思い出しながら、新しい若枝に手を伸ばした。
「一仕事終えたんだったら、暇だろう。薬草園の柵作りを手伝うか。頭だけじゃなくて、たまには体を動かしてみるのもいいぞ」
しかしシムズは私の誘いを無視して、縮れた髪の毛の間に指を埋め、長い鼻の脇《わき》に皺《しわ》を刻んだ。
「司教はずっと、一日も早く福音書のラテン語訳を仕上げろといって、ぼくを急《せ》き立てていた。もうこれ以上、遅らせることができなくなって、さっき渡してきたんだ。司教は大喜びだった。涙まで浮かべていた。だが……あれを読んだら、どんな顔をなさるか……」
シムズは目を閉じてかぶりを振った。私は若木の細い枝を杭に絡みつかせながら、ずっと昔の女の書いたものなのだから、何が書かれてあっても、たかが知れてるんじゃないか、といった。シムズはふさいだ表情のまま足許《あしもと》にあった小石を取りあげて、岩場の向こうに投げた。石は音もなく崖《がけ》の底に吸いこまれていった。
「福音書というものが、司教や〈山の彼方〉の者たちにとってどれほど大切なものか、きみにはわからないんだ」
「わかるさ。ここの連中は、そこから借りてきた言葉ばかり唱えているものな。福音書がなければ、自分の頭から言葉をひねりだすのに苦労するだろう」
シムズの薄い唇に、ようやく微《かす》かな笑みが浮かんだ。そして、また司教の部屋のほうに迷うような視線を送り、ごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。喉《のど》まで出かかっていることがあるが、いってもいいかどうか考えている。頭の中とは、革袋と同じだ。詰めこむ一方では、いつかぱんぱんになる。シムズの頭も今や膨れあがっていた。詰まっていることを吐きださないではいられない心境なのだ。
「おれはここの信徒ではない。なにを聞いても、驚かんよ」
私は手の動きを止めないで、あまり興味はないふりをしていった。ここまで思わせぶりにいわれたものだから、もちろん『マリアによる福音書』の内容を知りたくて、うずうずしていた。しかし、秘密を捕まえるには、猫のように狡賢《ずるがしこ》くないといけない。
「福音書の序文には、こう書かれていた」
シムズは細い両脚を前に投げだして、体を反らせた。
「これはイエスが語り、行った、隠された言葉、隠された秘儀である。これをイエスの第一の弟子であり、第一の対話者であるマグダラのマリアが書き記した」
シムズは探るように私の顔を見た。
「この言葉が真実なら、そこにはイエスの真の姿が伝えられている。真実でないなら、書いた者は大嘘《おおうそ》八百を並べたことになる。真実か嘘かを判断するのは、読む者だ。しかし、その判断が難しい場合、その書物は、ただ読む者を混乱させるだけのものとなる」
私は、何をいいたいのかよくわからない、と応《こた》えた。シムズは頭のいい男だから、まどろっこしい言い回しをした自分自身に腹を立てた。私のほうに体を向けて、きびきびした調子で話しはじめた。
「『マリアによる福音書』は、おおまかにいうと、二つの部分に分かれている。ひとつはイエスが十字架に架かって死ぬ前に語った弟子との対話、それから十字架の後、マグダラのマリアの前に現れて、語り、示したことを、マリアが他の弟子たちに話す場面に続く」
今度の話は、被り物を取った女の顔みたいにはっきりしている。私は、猫の爪《つめ》に秘密がひっかかったのを感じた。
「イエスには十二人の男の弟子と、七人の女の弟子がいた。マグダラのマリアは序文にもある通り、その弟子たちの中で最も信頼を受けていた。前半部の対話の中で、シモン・ピエトロが怒っていっている。この女は、主に質問ばかりして、わたしたちが質問する機会を奪っている。もう我慢できない、どこかに去らせてください、と。イエスの答えはこうだった。マリアは祝福された女である。わたしが天の秘儀を完成させることができる相手、なにひとつ隠すことなく語ることができる相手だ。なぜなら、彼女の心は他の弟子の誰よりも天の国に向かっているからである。福音書によると、マグダラのマリアが語る言葉は美しく、明晰《めいせき》で、イエスのいわんとしていることを完全に理解していたという。文字も書けるし、頭もいい。かなりの教育を受けた女だったのだろう」
「だが、それはその女が書いた言葉だろう。自分を褒《ほ》めているのか」
〈善き人〉は何かといえば、謙虚でいなさい、といっていた。自らを褒めるのは、彼らの教えには入ってないはずだった。シムズは縮れ毛を真ん中で分けた額に皺《しわ》を寄せ、もどかしげな表情をした。
「結果的にはそうだが、違うんだ。それは、なんといったらいいかな、ただ、事実を述べているという感じの書き方なんだ。あれを読んでいると、イエスのいった言葉をどんな些細《ささい》な断片も洩《も》らさずに書き記そうとしている真摯《しんし》なマリアの姿が浮かんでくる。自己を吹聴《ふいちよう》するようではないんだよ。マリアにとって、自分が実際に見聞きしたイエスの言葉と行いを再現することだけが重要だったんだ。というのは最後の付記にあるんだが、イエスがいなくなると、十二人の男の弟子とマリアはうまくいかなくなった。マリアを推す信徒たちもいたらしいのだが、結局、彼女はパレスティーナを離れ、何人かの仲間と共にプロヴェンツァに行った。ほら、司教がいっていた伝説だ。そうやって、南フランチアにクリストの教えが広まったといっていたが、ぼくは話す言葉も違う土地で易々と布教できたとも思えない。彼女にできたことは、イエスの身近にいた弟子として福音書を書くことだけだった。マリアだけが伝えられる言葉と天の秘儀を……」
シムズは少し黙った。そしてまた頭上の司教の部屋を見上げた。布張りの窓の向こうは静まりかえっていた。シムズは声を低くして、話を続けた。
「前半のイエスの言葉はすばらしいものだ。力強く簡潔で、わかりやすい。ほんとうにイエスがいったと思わせるものだった」
どんな言葉なんだ、と私は訊《たず》ねた。
「そうだな」
シムズは長い鼻の脇を指で掻《か》いた。
「おまえたちの父が憐《あわ》れみ深いように、憐れみ深い者になれ。
人を裁くな。そうすれば、裁かれないですむ。
おまえたちの裁きに使う物差しが、逆におまえたちを裁く物差しになるからだ」
私は若木を編む手を休めて、その言葉を考えた。〈善き人〉たちが引用する福音書の言葉に似てはいるが、もっと簡単だった。シムズは、指を鳴らして、こういったものもあったといった。
「隠されているもので知られずにすむものはなく、明るみにでない秘密はない。
わたしが暗闇《くらやみ》でいうことを、光の中でいうのだ。耳に囁《ささや》かれたことは、屋根の上でいい広めるのだ」
よほど信念がなければ、こんなことはいえはしない。イエスとは、鉄のように頑固で、したたかな男だっただろう。生きていれば、会ってみたかった。
「他の福音書のように、イエスが盲人の目を治したとか、死者を生き返らせたとか、湖の上を歩いたとかいう奇蹟《きせき》はなにも書かれてない。たまに弟子の質問が混じりつつ、イエスの言葉だけが連なっている。そんなに長くはない。羊皮紙四枚くらいの分量だった。ほとんどの言葉は、マルコやマタイなどの書いた福音書にある言葉と似ている。ぼくは思うのだが、イエスの語った言葉はひとつだったはずだ。かつては、その言葉だけを集めた書物があったんだろうな。マルコやマタイやルカはそれを元にして、自分たち流の解釈でイエスの姿を綴《つづ》っていったんだろう。だから、『マリアによる福音書』の前半は、さして驚くべきことは書かれてない。しかし後半部分は様子が違う。マリアが死んだはずのイエスに会ったことを語っている。他のどの福音書にも書かれてないことだ。それこそ、マリアがパレスティーナから追いだされる原因となったことだと……」
この時、頭上の窓の向こうで、男の叫び声が起こった。建物の中からなので意味はわからなかったが、ただ事ではない響きだった。怖れながらも、この時を待っていたかのように、シムズは話を止めてぱっと立ちあがり、走りだした。私も若木の枝を投げだして、狐の毛皮を背中ではためかせて奥の庭に向かうシムズのあとを追った。
庭に足を踏みいれると、半分崩れた塔の半円形に刳《く》られた出入口に、マウロ爺《じい》さんが現れた。石の壁に手を突いて、ぜえぜえと息を切らしている。歯の抜けた口を大きく開けて泣いている。私たちが駆け寄っていくと、両手を組んで祈るようにしていった。
「司教さまが……司教さまが……天の国に逝ってしまわれた」
もつれる舌でそう呻《うめ》き、マウロは腕で涙をごしごしとこすった。シムズの浅黒い顔が驚きで強《こわ》ばった。それでもマウロに、カルメロを呼んできてくれと頼むだけの冷静さは残っていた。震えるように頷《うなず》いたマウロがつんのめりかねない様子で中の庭に歩きだしたのを確かめるや、シムズは塔の中に飛びこんだ。塔は、隣の建物と接していて、一階の祈りの場や〈善き人〉たちの寝室、二階の司教部屋への通路となっている。私たちは塔の階段を駆けあがった。
階段の内側は、壁に囲まれた四角い空間になっている。昔、そこには牢《ろう》があり、床は抜けるようになっていた。城主の機嫌を損ねた騎士がその牢に入れられ、飲まず食わずで弱さられた末に深い穴底に落とされた。穴底は糞尿溜《ふんにようだ》めになっていて、囚人は糞で口をいっぱいにして死んでいったという。この話をしてくれたのは、〈善き人〉のボーナ婆さんだ。歯の抜けた口の中で、酷《ひど》いことじゃ、酷いことじゃ、と呟《つぶや》きながら、冬の炉端で騎士の苦しみを事細かに語っていた。
私たちは今は糞の臭いも囚人の悲鳴も聞こえない塔を出て、二階の殺風景な小部屋に入った。三方に戸口が開いている。外に面した東側のふたつの部屋は、城に人が住んでいることを隠すために壊れた窓も修繕されずに放っておかれている。司教の部屋は、外からは見えない庭側になっていた。開かれたままだった戸口から中に入ると、窓辺に転がった椅子《いす》の横に、司教が倒れていた。長めの上衣の裾《すそ》から、骨ばった細い足が突きだしている。銀色の髪や髭《ひげ》が乱れて広がり、倒れた時に椅子の脚にぶつけて切ったらしく、額から血が流れていた。周囲には茶色の羊皮紙やラテン語を書いた紙が散らばっていた。
「ベルナルド司教っ」と叫んで、シムズが司教に駆け寄った。ぐったりした体を抱き起こして揺すぶったが、指一本動かない。
「死んだのか」
私の声に、シムズがこちらを振り返った。なぜ私がそこにいるのか、と聞くように怪訝《けげん》そうにしたが、すぐに我に返った。シムズは司教の首筋に指を当てて、ほっとしたように、死んではいない、と答えた。
私とシムズは司教の頭と脚を持って、部屋の隅にある粗末な寝台に運んでいった。司教は口を半ば開いて息をしていた。シムズは手で、司教の乱れた銀色の髪を整え、端のぼろぼろになった灰色の毛布を体にかけた。それから床に散らばった古い羊皮紙とラテン語の訳文を眺めた。司教は福音書の訳文を読んでいて、椅子から転げ落ちたのだ。しかし、私もシムズもそのことについては何もいわずに、紙を拾いはじめた。私が長持の下に飛んでいた最後の一枚を拾いあげた時、部屋の外で足音が響いた。転げた椅子の横にかがんでいたシムズが鋭い声で、隠せ、と囁《ささや》いた。私は『マリアによる福音書』のことは秘密にしておいてくれと司教がいっていたことを思い出して、慌てて上衣の襟から拾った紙を押しこんだ。紙は胸の上を滑り落ち、腰に巻いた革の帯留めのところでうまく止まってくれた。
血相を変えて部屋に入ってきたのは、カルメロとエンリコだった。他の者も続いているらしく、塔のほうから騒がしい足音が響いている。エンリコが床に落ちた血痕《けつこん》を見つけて、「司祭はどこだ」と聞いた。シムズが転げた椅子の後ろから立ちあがった。腹に手を置いて、上衣の下に隠した紙を押さえたまま、もう片方の手で寝台を示した。カルメロが寝台に近づいていって、司教にかがみこんだ。そして額の傷を調べたり、胸や手首を押したりしはじめた。その間に戸口には、知らせを聞いた者が次々に現れた。アンジェリコにアレッサンドラ、マッダレーナ、ピエトロとキアーラとソニア、ボーナ婆《ばあ》さん。畑仕事に出ている者以外はそこにいた。マウロ爺さんも、まだ泣きながら皺だらけの顔を人の間から突きだしている。皆、司教は死んだと思っていたので、カルメロが「生きておられる」と宣言した時にはどよめきが起きた。
「気を失っておられるだけだ。心配はない。誰か、暖かな湯ときれいな布、気付け薬になるサルビアの葉を少し持ってきてください。それからわたしがついていますので、みなさんは司教を煩わせないようにここから出ていってください。司教は大丈夫です。すぐに気がつかれることでしょう。心配はありません」
人々はおとなしく司教の部屋を出ると、ぞろぞろと塔の階段を降りていった。私が〈奥の庭〉の裏の門扉を開いて、岩場に戻ろうとすると、シムズが近づいてきて耳打ちした。
「ザンザーラ。あの紙を返してくれないか」
私はあたりを見回した。皆のしんがりになったボーナ婆さんが門をくぐって中の庭に消えていくところだった。庭に誰もいなくなると、私は服の襟から手を突っこんで、紙を引きずりだした。ラテン語訳二枚と、ヘブライ語の書かれた羊皮紙が二枚あった。シムズは自分の服の下に隠していた紙も出して、全部の枚数を確かめ、脇《わき》に挟んだ。
「ぼくがさっき話したことは、誰にもいわないでくれ」
シムズは私に頼むと、自分の書斎のある中の門の上の部屋に続く階段を昇っていった。
私は門扉を押して、岩場に戻った。そして編みかけだった若木の枝をまた杭《くい》に絡みつけはじめた。指を動かしていると、頭の中でさっきの光景が思い出されてきた。額から血を流し、喉《のど》からごおごおと音をだして息をしていた。カルメロは、司教は気を失っただけだといっていたが、それだけではない気がした。慶元《けいげん》の妻がよく診てもらっていた漢人の医者がいっていた。人は高齢になると、何かに驚いたりしたはずみに、血の管が破けることがある。心臓の管が破れるとすぐに死ぬが、頭の血の管が破けると、そこから魂が出ていってしまう。魂が出ていったまま戻らないと、眠ったまま死んでしまうし、魂が戻っても半分だけしか戻らないことが多くて、その場合は体も半分しか動かなくなったりするといっていた。司教は頭の血の管が破れたのではないかと、私は疑っていた。
「夏桂」
私を呼ぶ声がした。〈山の彼方〉で、昔の名前を知っているのは一人しかいなかった。私は驚いて、声のしたほうを見た。マッダレーナが奥の庭に続く門扉の前に立っていた。そして岩場に誰もいないのを確かめながら、こちらに歩いてきた。この女が自分から私に近づいてきたのは、〈山の彼方〉に来て以来、はじめてだった。背中を蹴《け》りとばされたみたいに、胸がどんと鳴った。私は信じられない想《おも》いで、枯れ葉色の被り物と上衣の裾《すそ》を揺らせてやってくる女を見つめていた。
マッダレーナは薬草園を挟む形で私と向かい合った。いつものように私の視線をはぐらかせはしなかった。
「司教が倒れたことと、『マリアによる福音書』は関わりがあるのですか」
低い声で単刀直入に訊《たず》ねてきた。この女はこうなのだと私は思った。自分の目指すものに、まっすぐに突き進んでいく。あまりにまっすぐすぎて、途中に壁があっても目に入らない。そこに壁がないかのように我が身をぐいぐいと押しつけて、肌がこすれて血が滲《にじ》みでるまで止めはしない。
「どうしてそう思うんだ」
私は新たな若木を手にして聞き返した。
「マウロの次に司教の部屋に入ったのは、あなたとシムズだと聞きました。……それにさっき、あなたがシムズに紙をこっそりと渡しているところを見たのです」
あの時、マッダレーナはすでに中の庭に入っていたはずだった。私とシムズのやりとりを見るためには、門の陰から覗《のぞ》いたとしか考えられない。
「〈善き人〉でも盗み見をするんだな」
マッダレーナが傷ついた表情をしたので、私は後悔した。奴隷でなくなって以来、私の口は破れた笊《ざる》に似てきた。いわなくてもいいことまで、つい外に流してしまう。彼女は寒さに荒れた手を握りしめ、また開いた。
「わたしの問いに答えてください。なぜ、あなたは福音書の紙を持っていたのですか。あれはシムズか司教の手にあるはずのものでしょう」
「おれが司教のところから福音書を盗んだ、それが見つかってシムズに返したとでも思っているのかな」
マッダレーナは悲しそうにかぶりを振った。
「そんなことは考えていません。事実が知りたいのです」
『マリアによる福音書』をもたらしたのはマッダレーナだし、司教が秘密を洩《も》らした唯一の〈善き人〉でもあった。福音書のことを気にかけるのは当然だった。
「シムズは、あの福音書のラテン語訳を司教に渡したんだ。それを読んでいて、司教は倒れた」
マッダレーナの瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》が大きくなり、夏のヴェネツィアの運河の色になった。
「なにが書かれてあったのですか」
マッダレーナは薬草園の縁を回って、私のそばにやってきた。もうシムズとの約束なぞどうでもよくなった。福音書の話をちらつかせている限り、マッダレーナはまた私に近づいてくる。重要なことはそれだけだと思った。
マッダレーナは腕を伸ばせば届くほどの距離に来ると、司教のいる建物に背を向けて、岩の上に座った。そして小声で教えてください、と頼んだ。
「序文には、マグダラのマリアとかいう女がイエスの第一の弟子、第一の話し相手だったとかいうことが書いてあるらしい」
マッダレーナは真剣な眼差《まなざ》しで私の口許《くちもと》を見つめている。私はシムズのいったことを思い出しながら、できるだけ細かに喋《しやべ》った。福音書の後半に驚くようなことが書かれていること、しかし、それが何か聞く前に司教の転倒騒ぎがあったことを告げた。マッダレーナは前に投げだした膝《ひざ》を抱えて、しばらく考えこんでいた。
「ローマ教会は、女は男よりも劣っているといっています」
マッダレーナは枯れ葉色の衣の上に突きだした自分の膝をじっと見つめながらいった。
「女は教会では黙っていなさいと教えられ、主に仕えるように夫に仕えよと勧めます。女が頭に被り物をするのは、足りない頭に力を授けるためだともいわれます。女は心も体も頭も弱いものだから、守ってやらねばならないと思われているのです」
最初は静かな声だったが、マッダレーナの言葉にだんだんと力がこもってきた。〈山の彼方〉に来る旅の途中、私たちは何度か言い合った。私に自分の信仰を説明しようとするマッダレーナと、それに疑いをさしはさむ私の言葉は宙でぶつかり、砕けて地面に落ちていった。その時もやはりマッダレーナはこんなふうに頬《ほお》を染めて喋っていた。すべての欲を棄《す》てて生きているこの女が、唯一、情熱を燃やすのは言葉に対してだった。喋ればその場で消えていく言葉を、どれほどの力をこめて吐きだすことだろう。相手を説き伏せようという情熱も、欲のひとつの形ではないかと私は思うのだが、信仰という名の下《もと》ではそれは善いことらしい。
「女とは、結婚する前は父親の僕《しもべ》、結婚してからは夫の僕。信仰の道に入っても、修道女には司祭になる道は開かれていません。人を導くには、あまりにも弱く愚かだと思われているのです」
奴隷と同じだと私は思った。マッダレーナも、夫と共に暮らしていた時、私がしたように口を閉ざし、愚かであるふりをしていたのだろうか。いいや、この女はそんなことはしない。まっすぐに立ち向かい、そして破れたのだ。だから、ここにいるのだ。
マッダレーナは息を継いで、首を捻《ひね》って司教の部屋のある建物を眺めた。その視線には気遣いではなく、挑戦的なものが宿っていた。
「〈善きクリスト教徒〉の教えは、信仰には男も女も関係ないといいます。女も、人を導く〈善き人〉になることができます。わたしはそれに感動しました。でも、ここにも女の司祭や大子小子、女の助祭すらいません。男たちは口ばかりなのです。不安なのです。魂のことを女に任せるのが」
「あんた、司祭になりたいのか」
マッダレーナは、違う、と答えた。
「そういうことではないのです。天の国は誰にでも開かれているといいながら、門を作って男と女をこっそりと区別している。それが腹立たしいのです。でも、『マリアによる福音書』が、あなたのいったような内容であれば、マグダラのマリアが主の第一の弟子であり、第一の話し相手であったというのなら、なんと、すばらしいことでしょう」
マッダレーナは少し黙り、また落ち着いた声で続けた。
「おまえは弱い、愚かだ、導き手が必要だ。いつもそういわれていれば、人はそう信じるようになります。おまえは強い、賢くあろうとすれば賢くなれる、おまえ自身が導き手にもなれるだろう、そういわれ続ければ、女もそこに近づいていくでしょう。そんなことを語ってくれる福音書があれば、どんなに励まされることでしょう」
励ましだけではない、司教がひっくり返るほどのものが書かれてあるのだと私はいった。マッダレーナはかぶりを振った。
「なにが書かれていようと、わたしはたじろぎません」
冬の夜、寒々とした部屋でシムズが訳していた言葉が不意に私の頭に閃《ひらめ》いた。
「マリアはいった。主よ、わたしは今日、あなたの幻を見ました。主は、マリアに答えていわれた。褒《ほ》むべきかな、おまえはわたしの姿を見てもたじろがなかった。心宿るところに、宝がある」
マッダレーナは弾かれたように私を見た。私はシムズに聞いた『マリアによる福音書』の一文だと答えた。マッダレーナは、その言葉を口の中で繰り返して微笑《ほほえ》んだ。
「マッダレーナとは、マグダラのマリアを指す名前です。昔から、わたしはこの名に強く惹《ひ》かれていました。ほんとうの名前は別にあるのに、〈善き人〉になる時に変えたほどです。そうすれば少しでも天の国が近くなる気がして……」
マッダレーナは膝の上で頬杖《ほおづえ》を突いて、空を仰いだ。前には〈龍の背中〉の絶壁がそそり立っていた。淡い薔薇色《ばらいろ》のその岩壁は、気の遠くなるほど垂直で、まっすぐに青い天に向かって突き立っていた。
「天の国を目指すとは、素手であの崖《がけ》に立ち向かうようなものだと思います。岩のわずかな裂け目に指を差しこみ、崩れそうな足がかりを探りながら、強い風に晒《さら》されても、寒かろうが暑かろうが、ひたすらじりじりと昇っていくこと。少しでも気を抜くと、谷底に落ちてしまいます。そんな中でも昇り続けるには、わたしたちを叱咤《しつた》し、励ます言葉が必要なのです。『マリアによる福音書』は、きっとそんなものとなるでしょう。わたしはそれによって天の国まで昇っていくことができるでしょう」
「絶壁の彼方《かなた》に天の国があるとしたら、だがな」
私は自分の作っていた薬草園を指さして、天の国はこっちにあるのかもしれないぞ、といった。マッダレーナは馬鹿にされたと思ったようだった。瑪瑙色の瞳に浮かんでいた焦がれるような色は消えた。
「神を信じるとは、すべてをまるのまま受け入れることです。そこに疑いのかけらでも混ざっていれば、信仰とは呼びません」
「疑うとは、考えるということだ。考えもせずになにかを信じるのは、目を閉じて岩だらけの海に飛びこむようなものだ」
「わたしたちは岩だらけの海に飛びこむことを怖れはしません」
「まったくだ。火のついた船から逃げだす鼠だって、怖れずに海に飛びこむさ。なにも考えてないからな」
私たちは睨《にら》みあった。旅の間、幾度となくこの女とこうして睨みあったものだった。天の国に関して、神に関して、激しく言葉を戦わせ、最後はいつも睨みあって終わった。
それまで、すべての欲を棄てたマッダレーナの心を乱すものはなかったと思う。マッダレーナが説得すればよかったのは、同じ神、同じクリストの言葉を信奉している者たちだ。その者たちに、ローマ教会の庇《ひさし》の下から、〈善き人〉の庇の下に移ってこないかと誘えばいいだけだった。
だが、異教徒への説教は、天の国があること、クリストという男がいたことから納得させないとだめだ。そして私は頑固ときていた。私たちはいつも同じところでつっかかり、口論となった。体を使っての戦いなら、相手が二度と起きあがれないまで叩《たた》きのめせば決着はつくが、舌を使っての戦いには終わりがない。何度も繰り返されるうちに、それは考えのぶつかり合いから、感情のぶつかり合いに変わっていく。反感、憎しみ、憤り、苛立《いらだ》ちが生まれる。しかし、たまにその中から共感や好意がひょいと飛びだすことがある。やがて私たちの言い合いには弾む響きが、睨みあう眼差しには、喧嘩《けんか》遊びする子供のような熱狂が混じりこむようになった。それは、今、薬草園の前で睨みあう私たちの視線にも混じっていた。憎しみの形を借りた好奇。歓びを伴う刺激。〈山の彼方〉に戻って以来マッダレーナが用心して避けていた眼差し――。
「ザンザーラッ」
甲高い声が響き、私たちはぱっとお互いの顔から視線を引き剥《は》がした。見ると、ディアマンテが門扉の間を抜けて、こちらにやってくるところだった。マッダレーナは枯れ葉色の服の裾《すそ》をはたいて立ちあがった。
そして私によそよそしく挨拶《あいさつ》すると、背を向けた。ディアマンテとすれ違う時も、黙って軽く頭を下げただけで、奥の庭に消えていった。
「あの女となにを話していたのさ」
ディアマンテが私の横に立って聞いた。私はまた新しい若木を手にとって、司教が倒れた話だと答えた。
「ああ、そうなんだってね。あたしも村から戻ってきて、今、聞いたところなんだ」
ディアマンテは唇を曲げて悲しそうにしてみせたが、すぐに私の肩に手をかけて揺すった。
「ねえ、アンペッツォに行く話どうなったのさ」
タルタル人の姫君のいる見世物一座を見にいく話だとわかるまで、少し時間がかかった。その一座はもうジェルマニアに発《た》ったのではないかと私はいった。
「ううん、ボテスタイノ城の軍隊長に気に入られて、まだいるんだって。今度の牛市には広場で興行するんだってさ。さっき、アンペッツォから来た鋳掛《いかけ》屋に会ったら、そういってた。ねえ、行こう。二人でこっそり城を抜けだしてさ」
ディアマンテは甘えて私の背中に抱きついた。このところ、この娘はやけに私にべたべたしたがるようになっていた。人目がなければいいのだが、いつ司教の部屋の窓が開き、カルメロや見舞いの信徒の顔が覗《のぞ》くかわからないようなところでいちゃつくつもりはなかった。私はディアマンテを押し返した。娘は気分を害したようだった。
「なんだい、マッダレーナと見つめあったりしてたくせに」
ディアマンテは背筋を伸ばすと、左右の大きさの違う瞳《ひとみ》で私を見下ろした。
「あの女に惚《ほ》れてるとしても、おあいにくさまさ。〈善き人〉は誰にも惚れないんだよ。誰とも寝ないんだよ。あんたと寝てやれるのは、あたしくらいのもんだよ」
ディアマンテはずり落ちそうになった被り物を首のまわりに引き寄せると、憤然として立ち去った。ばたん、と門扉が乱暴に閉まり、ようやく岩場は静かになった。太陽は西に傾きはじめ、目の前の絶壁の岩肌は薔薇色《ばらいろ》を増していた。私はその先にある蒼《そう》窟弩《きゆう》を仰ぎ、空が飛べたらいいなと思った。そしたらあの天の高みまで昇っていって、天の国があるかどうか見てきてやるのに。
10
天の国は、ほんとうにあるのでしょうか。
フランチェスカは死ぬ間際にこう訊《たず》ねた。
あるに決まってます。
マッダレーナは悲しそうに答えた。
どうして疑うのですか。あなたは天の国に逝くために、〈善き人〉になったのではないのですか。
マッダレーナは、年若い連れの手を握りしめたが、相手にはもうそれを握り返す力は残ってはいなかった。
フランチェスカが倒れたのは、フェルトレを出て二日目、ひっそりとした深い森の中の路上だった。まだ陽は空の高みで輝いているのに、横に大きく張った木々の枝のせいで森の底には灰色の薄闇《うすやみ》が漂っていた。フェルトレから道案内をしてくれた五人の筏乗《いかだの》りは、ピアーヴェ河支流沿いの村から来ていた。〈山の彼方〉の方向とは違っていたから、その日の昼、メルの村で別れたところだった。私たちは三人きりとなったが、森を越えたところの村にある信徒の家で次の道案内を頼めばいいとマッダレーナがいうので、日暮れ前にそこに着こうと急いでいた。不意にうしろで物を投げたような音がしたので振り向くと、フランチェスカが伐《き》られた木のように地面に横倒しになっていたのだった。
私が駆け寄る前に、マッダレーナが、触らないで、と叫んだ。私は〈善き人〉の戒律を思い出して立ち止まった。マッダレーナがフランチェスカを抱き起こすと、頭を自分の膝《ひざ》に載せた。蒼《あお》ざめた頬《ほお》をした女の顔は、月夜のように白く、唇は紫になっていた。フェルトレを出て以来、筏乗りたちの歩調に合わせて無理を重ねていたのが、ついに限界に来たのだ。よろよろしながら必死でついてくる女に、私たちは時々いたわりの声はかけたが、力に溢《あふ》れている者には、弱っている者の体の具合はわからない。大丈夫だという返事をそのまま受け取り、歩調を緩めることもなかった。フランチェスカと同じく麺麭《パン》と水だけの粗末な食事で旅を続けているマッダレーナも、自分がついていけるのだから連れも持ちこたえるだろうと考えていたようだ。私たちは二人とも、倒れたフランチェスカを見てはじめて、これほどに弱っていたのかと驚いた。
しっかりして、もうすぐ村に着くから。マッダレーナは声をかけたが、フランチェスカはかぶりを振って、自分はもう死ぬと呟《つぶや》いた。わかるのです、体から力がどんどん抜けていきます。そして、マッダレーナに聞いたのだ。天の国はほんとうにあるのでしょうか、と。マッダレーナがしきりに、あるに決まっているといっているところに、森に漂う薄闇《うすやみ》の奥から犬の吠《ほ》え声がした。瀕死《ひんし》の犬の悲鳴のような、厭《いや》な感じの響きだった。その声を聞いたとたん、フランチェスカは頭をもたげて、ベアトリスクだ、ベアトリスクが来る、と喚《わめ》きだした。
悪魔が自分の魂を取りにくる。あの男を殺した罪は赦《ゆる》されてないのだ。自分は天の国には逝けない。そんなことを泣きながら叫んでいる。
マッダレーナが、フランチェスカの言葉を遮ろうとしたが無駄だった。死にかけた女はがっくりと頭を地面に落として、譫言《うわごと》のようにいい続けた。
わたしは、この手で愛している男を殺した。あの人が憎かった。他の女に手ばかり出しているあの人が憎かった。憎くて憎くてたまらなくて……殺してしまった。
あなたは救慰礼《コンソラメンタム》を受けたのです。赦されたのです。マッダレーナはいった。フランチェスカは震えるように頭を左右に振った。
赦されたのなら、なぜ、あの人の苦しげな顔が消えないのですか。あの顔が、わたしの心にしがみついて、囁《ささや》き続けるのです。おれを殺したな、おれを殺したな、おれを殺し……。
喋《しやべ》るうちに咳《せ》き込みに襲われた。フランチェスカは顎《あご》を突きだして必死に空気を吸いこもうとした。しかし、牛の啼《な》き声に似た、喉《のど》の詰まった音が洩《も》れるだけだ。マッダレーナはその背中をさすりながら、祈りなさい、といった。フランチェスカは涙の滲《にじ》んだ目を瞬《しばた》かせた。そして口を開きかけた時、すぐ近くで再び犬が狂ったように吠えた。
ベアトリスク。
マッダレーナの後ろの木立を見つめて、フランチェスカは絶叫した。落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底で、栗色の目が恐怖をたたえていた。私とマッダレーナはそちらを見た。そこには黒い影が立っていた。黒い鉄のように光るふたつの目。もつれた長い髪の中に嵌《は》まった皺《しわ》だらけの顔を見たと思った。しかし、それは樫《かし》の木の後ろにある柊《ひいらぎ》の茂みの影に過ぎなかった。私とマッダレーナが、もう一度フランチェスカに向き直った時、女はすでに息を止めていた。ベアトリスク、と叫んだはずみに、魂まで口から飛びだしてしまったのだった。瞳は恐怖に見開かれ、唇は開かれたまま死んでいた。マッダレーナは連れの瞼《まぶた》を閉じてやると、膝に抱えていた頭をそっと地面に置いた。マッダレーナは跪《ひざまず》いて何か祈っていたが、やがて、フランチェスカの持っていた旅の道具の入った袋を手にしてのろのろと立ちあがった。陽は西に傾きつつあった。私たちは女の死体を道端の茂みの中に運ぶと、村を目指して歩きだした。
ベアトリスクとは何なのだ。しばらくして私は聞いた。アルピの山に住む者たちが信じている悪魔の化身だと、マッダレーナは答えた。親たちは、悪さをする子供にベアトリスクが来て連れていくぞといって脅すのだという。ここに生まれたフランチェスカも、小さい頃から、そう脅されて育ってきたのだろう。そういってから、マッダレーナは悲しそうに呟いた。
信じさえすればいいのに。ひたすら神を信じさえすればいいのに……。
フランチェスカは、死ぬ間際に自分からベアトリスクを呼んだんだ。
マッダレーナは、そういった私を訝《いぶか》しげに振り向いて、どういうことですか、と訊《たず》ねた。
あんたたちの神は、あの女を納得させなかったということさ。
その言葉は、マッダレーナを打ちのめした。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は黙ってしまった。
夕闇が降りてくる頃、私たちは森を抜けだした。ピアーヴェ河を見下ろす丘の斜面に村があった。黒牛の群れのように、草葺《くさぶ》き屋根の小さな家々の影が固まっている。屋根の隙間《すきま》からは白い煙が立ち昇り、人々は夜に備えて戸締まりをしたり、外に放っていた家畜を家の中に入れたりしている。人里に着いた安心感からか、フランチェスカがいなくなったことが急にひしひしと心に迫ってきた。ほとんど話をしたこともなかったが、それでもヴェネツィアからここまで毎日一緒だったのだ。いつも何かにびくびくしていたあの若い女は今、暗い森の中で冷たくなっているのだと思った。
村に向かって坂道を下りながら、私はうしろのマッダレーナを振り返った。瑪瑙色の瞳の女ももの想《おも》いに沈んでいた。
フランチェスカは、天の国とやらには逝けたのか、逝けなかったのか。私は聞いた。マッダレーナはぼんやりとした眼差《まなざ》しで、かぶりを振った。
わかりません……。フランチェスカが天の国に逝けたか、筏乗りが天の国に逝けたか……私が天の国に逝けるかどうかも……。
マッダレーナは、はっと息を止めた。そして思わぬところからこぼれ出てきた自分の言葉を後悔するように、指の先が白くなるほど拳《こぶし》を握りしめた。
11
広場の大きな菩提樹《ぼだいじゆ》の枝を、艶《つや》やかな緑の若葉が覆っていた。樹下の草葺き屋根の掘っ立て小屋では、村人の寄り合いが開かれている。ゲラルディアと他にもう一人、女がいたが、残りは男ばかりだ。壁もない小屋なので、少し高い台に載った毛虫のような眉毛《まゆげ》の男が何か話すたびに、村人の人差し指を立てた腕が上がったり下がったりする様子が丸見えだった。
「なにをしているんだ」
私は隣にいたリザルドに聞いた。畑で種蒔《たねま》きをしていた私たちは、昼飯のために城に戻る途中だった。
「今年の村の長《おさ》やら助役やらを決めているのさ」
私は興味を覚えて立ち止まった。台の上の男がまたなにかいうと、村人からざわめきが湧《わ》いた。頭を寄せて小声で話し合う者、かぶりを振って不賛成を示す者、黙って突っ立っているだけの者。つむじ風に吹かれた草のようだった。
「村の役職は、しょせん、あそこに集まっている家長たちの回りもちなんだけどな。一応、みなに認めてもらわにゃならんのさ。今の時期、このあたりの村はどこもあればっかりやってる」
尖《とが》った顎《あご》を小屋のほうにしゃくって、リザルドは説明した。
「カルロがアンペッツォに戻ったのも、父親の代わりに寄り合いに出るためなんだと。まったく村を棄《す》てて〈山の彼方〉に来た信徒が、なにを突然寄り合いなんていいだすんだ」
カルロは一昨日から城を留守にしている。仕事の合間にからかって楽しむ相手がいないのでつまらなくて、リザルドはつい毒づいてしまうのだ。家族に会いたくなったんだろうというと、リザルドは雀斑《そばかす》の浮いた頬《ほお》の肉をぴくりと動かし、先を行く信徒たちを見遣《みや》った。服の袖《そで》をまくりあげ、土に汚れた腕を露《あら》わにしたアレグランツァが、アンナやダビデに盛んに喋りかけながら城に向かう小径《こみち》に入っていくところだ。私たちは洗濯場と菩提樹の中間に立っていた。近くには誰もいない。それらを確かめて、リザルドは囁いた。
「このところ、ディアマンテも休みを取っている。村の者に聞くと、どこかに遊びにいったそうだ。……どう思う、ザンザーラ」
そういえばここ二日、ディアマンテの姿も見てなかった。カルロを誘ってアンペッツォの見世物を見物にいったのだ。そんな考えが頭に閃《ひらめ》いたが、口に出すのは控えた。
「どう思うって、どういうことだ」
リザルドは私の顔を探るように覗《のぞ》きこんでから、背筋を伸ばした。
「あの娘は、男の信徒にとっちゃ厄難の種だ」
意味がわかるだろう、というふうに片目を閉じて、目配せした。
「だがこの頃、あの娘はあんたにご執心みたいだ。頼むぞ、ザンザーラ。厄難の種をしっかり捕まえておいてくれ。そして、おれやカルロを〈善き人〉にさせてくれ」
返事に困っている私の肩をぽんと叩《たた》いて、リザルドはいった。
「本気だよ、ザンザーラ」
そしてリザルドは、アレグランツァやダビデの後を追っていった。私はしばしあっけに取られて、種籾《たねもみ》の袋や草刈り鎌を入れた背中の龍《かご》を揺らせて遠ざかっていく男を眺めていた。自分の女に手を出すな、といわれたことはあるが、手を出して繋ぎとめておいてくれといわれたのは初めてだった。
確かに〈善き人〉になりたいと切望している男にとっては、目の前にぶら下がった餌《えさ》のようなディアマンテは邪魔で仕方ないだろう。しかも、この餌は自分から相手に飛びかかるときている。しかし、私だって厄難の種といわれている女を一人で引き受ける気にはなれない。私はちっと舌を嶋らすと、背負った籠を揺すりあげて、また歩きだそうとした。その時、寄り合い小屋の台の上に羊飼いのパエジオの顔が見えた。毛虫眉の男が、何かいいながらパエジオを紹介すると、すぐに男たちの腕が上がった。ただ、ゲラルディアだけは腕組みしたまま小屋の隅で足を踏んばって立っている。パエジオは頷《うなず》いて台から降りた。次に、また誰か台に上がったが、背が低すぎて頭しか見えなかった。パエジオは村の家長たちをかき分けて小屋の外に出てくると、台の上から私を認めていたのだろう、こちらに大股《おおまた》で近づいてきて、「元気か《サニー》」と土地風の挨拶《あいさつ》をした。目尻《めじり》には皺《しわ》が寄り、満足げだった。
「村の長にでも選ばれたのか」
私が聞くと、パエジオは、あははと笑った。
「家もないおれが、村長になれるものか。今年も村の羊飼いに雇われることになっただけだよ」
それでもパエジオは嬉《うれ》しそうだった。私は、また羊を連れて出ていくのかと聞いた。
「いいや、夏場はこの村の近くの小屋にいるさ。そこで羊の毛を刈ったり、乳酪を作ったりしなくちゃならん」
「羊飼いは乳酪も作るのか」
私は驚いた。乳酪はヴェネツィアにいた頃、料理女のモネッタがたまにかけらを恵んでくれた。うまいものだと思っていたが、羊の乳から作るとは知らなかった。
「羊飼いはなんでもやる。小屋作りから麺麭《パン》焼き、繕い物、料理、たまには踊ったりもする」
パエジオはそういって、踵《かかと》を上げ、破れた靴でたんたんと地面を踏み鳴らした。
「見に来るか」
私の前で跳ねるように踊りながら、羊飼いは陽気に聞いた。頭の茶色い頭巾《ずきん》の端が翻り、つぎはぎだらけの上衣の裾《すそ》がふわりと丸く広がった。私は笑いながら頷いた。
「夏小屋はあそこにある」
パエジオは足踏みを止めて、〈龍の背中〉の西を指さした。城のある南側は絶壁になっているが、西側は背骨のようなごつごつした尾根が連なって下っていき、やがてなだらかな斜面へと続いていた。
「明日から羊を連れてあそこに移る。暇を見て、ディアマンテに案内してもらって来ればいい」
「ディアマンテは、アンペッツォに見世物一座を見にいったんだってな」
パエジオがどれくらい姪《めい》の所行をつかんでいるのか興味を覚えて、鎌をかけてみた。パエジオはあっさりと、そうなんだ、と答えた。
「〈善き人〉がアンペッツォに行く用ができたから連れていってもらうといっていた」
それが〈善き人〉ではなく、ただの信徒とは知らないらしかった。
「司教さまが倒れて大変な時に休みをもらうなんて、とんでもないと母親は止めていたが、聞きやしない。こうと決めたら、どんな手を使ってもやってしまう娘だ。アンペッツォに行く〈善き人〉の用というのも、ディアマンテがせっついて、作らせたのかもしれん」
パエジオは無精髭《ぶしようひげ》を撫《な》でて、にやりとした。この羊飼いは姪の方便を見抜いているのだろうか。そんな想《おも》いが私の頭を過《よ》ぎった。
「まあ、どうせアンペッツォに行くのなら、〈ゴンドラ殿〉の妹さんを見舞ってくるようにいっておいたけどな」
「どうかしたのか」
「なんでも、もう長くはないそうなんだ。ジュリアーノ師が救慰礼《コンソラメンタム》を授けて以来、耐忍《エンドウーラ》をして死ぬのを待っていると聞いた」
ジャコモがこの前、妹が死にそうだといって、慌てて城を訪ねてきたのは、救慰礼を頼むためだったのだ。それにしても、耐忍とは何なのだと私は聞いた。
「死ぬ間際に救慰礼を受けても、最期の時までにまたどんな罪を犯すやもしれない。それで、また罪を犯す前に早く天の国に逝こうと、水しか飲まないで過ごすことさ」
変なことをするものだな、と私は呟《つぶや》いた。
「死ぬ間際に救慰礼を授けるのは、ベルナルド司教が始めたことだ。フランチアのほうのやり方だっていっていた。だけど、それを村人の中ではよく思ってない者もいる」
パエジオは白目の中で小さな黒い瞳《ひとみ》を泳がせて、広場を見回した。菩提樹の下で寄り合いをしている男たち。洗濯物を洗っている女たち。牛に水を飲ませている牛飼いの少年。居酒屋の前で犬が交尾をして、広場の端の日向《ひなた》で寝そべっている猫の横で、老女が数人、繕い物をしている。
「こんな小さい村でも、いろんな意見がある。どんなに〈善き人〉の説教を聞いていても、人の諍《いさか》いは起きる。悲しいことだ」
パエジオは頭の茶色の頭巾をぽんと叩いた。そして、突然、「ほぅい」といって、手を上げた。寄り合いの行われている小屋からフィオリートが出てきたところだった。この若者も無事、今年の羊飼いとして認められたらしく、鴨のような唇を自慢げにさらに突きだしてやってきた。パエジオは甥《おい》と一緒に羊の様子を見てくるといって放牧場のほうに立ち去った。
城を見上げると、表門のすぐ下に小さく、四人の信徒の姿が見えた。パエジオと話している間に、仲間はすでに帰りついていたのだ。私は慌てて広場を横切り、城に続く小径に入っていった。
急いで帰ったのだが、城の表門をくぐった時には、表の庭には人気はなかった。鍛冶《かじ》部屋にも大工部屋にも、働く者はいない。納屋の前に背負《しよ》い籠を放りだして中の庭に入り、大広間の戸をそっと開くと、すでに〈山の彼方〉の者は全員食卓について、祈りを捧《ささ》げているところだった。私は薄暗い大広間に滑りこむと、壁沿いに忍び足で進んで〈信徒の卓〉の長椅子《ながいす》の端にそっと腰を下ろした。向かいのリザルドがちらりと目を上げ、その隣のマウロ爺《じい》さんが鼻を鳴らして不満を表した。私は神妙な顔で、皆と同じように膝《ひざ》の上で手を組んで頭を垂れた。
「わたしたちが負債ある者を赦《ゆる》しましたように、わたしたちの負債をもお赦しください」
司教の代わりに祈っているのは、医師ということで一目置かれているカルメロだ。後頭部の禿《は》げたこの小男は、司教を真似《まね》ておごそかな声を出すように努めているのだが、もそもそした喋《しやべ》り方のために芋でも喰《く》いながら祈っているみたいだった。
「われらを誘惑に遭わせず、悪しき者よりお守りください。司教が一日も早く目覚めるように、お方をお貸しください。世の初めから終わりにいたるまで、アーメン」
カルメロはいつも通り、最後に司教の回復を祈る言葉をつけ加えて祈りを終え、丸い麺麭を二つに割った。いつも司教が割る麺麭をもらっていたマウロ爺さんは、カルメロのところまではいかず、背中合わせに座っているアンジェリコの分けた麺麭をもらった。カルメロは自分の割った麺麭の片方をエンリコとクリストファノに分けて食べはじめた。
「司教さまはまだ目を覚まさないのか」
マウロ爺さんが野菜汁に麺麭を浸してふやかしながら、ベンベヌートに聞いた。もの静かなこの若者は、カルメロから司教の看護係を命じられて、毎日、部屋に詰めていた。
「ものも食べずに眠り続けておられるんで、体が保《も》つかどうか心配です」
食事で顔を合わせるたびに聞かれることだったが、ベンベヌートは面倒臭がりもしないで、老人に答えた。マウロは傍目《はため》にもがっかりとした様子だった。
「もう六日も気を失ったままだ」
「五日だ」とグイードが訂正した。しかしマウロは聞こえなかったふりをして続けた。
「こんなに祈っているのに、どうして目を覚まさないんだ」
グイードは黒々とした大きな瞳で卓にいる信徒の顔を見回して、きっぱりといった。
「司教さまの霊魂は、すでに天の国に逝かれたということだ」
「そしたら肉体はどうなるんだ。まだ体は生きているんだぞ」
ピエトロがうろたえて聞いた。グイードは木の器に盛られた野《の》萵苣《ぢしや》をつまんだ。
「この葉みたいに、やがて萎《しお》れていくだろうさ」
信徒たちは突風に吹かれたように体を強《こわ》ばらせた。
「司教さまは、わしらに挨拶《あいさつ》もされないで逝かれてしまったというのか」
目やにのくっついた瞼《まぶた》をマウロは掌《てのひら》で拭《ぬぐ》った。今にも泣きだしそうな老人の肩を、リザルドが揺った。
「大丈夫だって、爺さん。今に目を覚まして、挨拶くらいしてから逝ってくれるさ。アドューってさ」
リザルドが司教のおかしげな訛《なまり》を真似て挨拶をしたので、マウロの口許《くちもと》にうっすらと笑みが戻った。
春になって、食卓には彩りが増えていた。ほろ苦い野萵苣や、口の中でぷつぷつと弾ける木苺《きいちご》、新鮮な茸《きのこ》などが並んでいる。野菜汁には豌豆《えんどう》が混ざり、少しは腹持ちするようになった。しかし食材の賑《にぎ》わいとは裏腹に、会話はどこの卓も沈みがちだ。布教の旅に出た四人が抜け、司教も倒れた今、男の〈善き人〉は六人になっていた。時折パンドルフォやアンジェリコがほそぼそと話すくらいで、〈善き人〉たちは静かに食べ物を口に運んでいるだけだし、女の卓ではアレグランツァの声だけが空回りしていた。私はそっとマッダレーナを窺《うかが》った。瑪瑙色《めのういろ》の瞳の女もまた大広間の空気を探るように、ちらちらと視線をさまよわせていたが、私の視線とぶつかることは巧妙に避けていた。
私は食卓に置かれた麺麭を手に取ろうとして、指が土にまみれていることに気がついた。急いでいたので、手を洗うことを忘れていた。服の裾《すそ》でこっそり指を拭《ふ》いていると、ピエトロの声が聞こえた。
「グイード、おまえ、昔、粉挽《こなひ》きだったんだろう。司教さまの容態、なんとかできないのか」
野菜を噛《か》んでいたグイードの口の動きが止まり、大きな目玉が正面に座るピエトロを捉《とら》えた。ピエトロはがっちりした手をもどかしげに上下に動かした。
「ほら、粉挽きってのは、悪魔とだって取引するほど不思議な力を持ってるというだろう」
「それ以上いってみろ、挽臼《ひきうす》にかけて、魂まで粉々にしてやる」
猫背の下から、グイードが唸《うな》るように呟《つぶや》いた。ピエトロが口を横に大きく開いたので、丸顔がひしゃげた感じになった。
「おれの魂を粉々にするだと。なんて酷《ひど》いことを……。おまえ、それでも〈善きクリスト教徒〉か」
「おまえが粉挽きを馬鹿にすることをいうからだ」
「おれがいつ馬鹿にした。粉挽きってのは、おかしげな力を持ってると……」
「もう、たくさんだ」
グイードは卓を叩《たた》いた。野菜汁の器が飛びあがり、汁がこぼれた。信徒たちは、食卓や自分の器を手で押さえた。グイードは向かいに座るピエトロのほうに身を乗りだした。
「おれが、なぜここに来たかわかるか。村の者に、さんざんそんなことをいわれたせいだ。粉挽きは悪魔と友達だから、こっそり金の粉を挽いているんだろう、夜になったら、悪魔と酒盛りをするんだろう。村はずれの水車小屋に一人で暮らして粉を挽いているだけで、そんなことをいわれる。寄り合いには出ることはなく、領主に頼まれて水車を動かしているということで陰口を叩かれる」
グイードの声が次第に大きくなった。カルメロが腰を浮かして、もごもごと「やめなさい」といったが、興奮した男の耳には入らなかった。
「川で村の子供が溺《おぼ》れ死んだ。その死体が流れてきて、水車に引っかかった。おれが死体を外していると、村人はいいだした。あいつが子供を殺して、悪魔にその魂を売ったんだと。そんなことを考える者こそ心に悪を抱えているくせに、みなでおれをぶちのめして川に放りこんだ。もう少しで死ぬところだった」
怒りを押しこんでいた部屋の扉の蝶番《ちようつがい》が外れたようだった。グイードは顎《あご》を震わせて怒鳴りちらしていた。首筋に垂れるくしゃくしゃの縮れ毛が、黒い炎のように揺れていた。〈善き人〉の卓からアンジェリコが立ちあがり、落ち着きなさい、神に祈りましょう、と話しかけた。
「落ち着けだと、祈りましょうだと。おれはそれを求めてここに来た。なのに、〈山の彼方〉に来ても、こんな阿呆《あほ》がいて、下らぬことを聞いてくる。おれの心は少しも安らぎゃしない」
グイードはピエトロに指を突きつけた。まさかこれほどグイードが激情すると思ってなかったピエトロは、ずんぐりした体を丸めて小さくなっている。
「ここも他のところと同じだ。悪しき神の息吹のかかった場所だ。おれはこんなところを求めてきたんじゃない。おれは誰にもなんもいわれないで、ただ静かに暮らしたいだけなのだ。なのに、なぜ、それができないんだ。なぜ……」
グイードの言葉がぷつんと途切れた。マッダレーナが卓を挟んで、ピエトロのすぐ後ろに立っていた。青白い手を胸の前で組んで、祈る時の格好をしている。マッダレーナは何もいわなかった。静かな眼差《まなざ》しで、グイードをひたと見つめているだけだ。しかしその瑪瑙色《めのういろ》の瞳は悲しみに満ち、薄い唇は言葉を探すように微《かす》かに震えていた。グイードはピエトロにいいかけたことを口の中で呟いた。しかし、それは声にはならずに喉《のど》に滑り落ちていった。まるでマッダレーナが粉挽きの怒りを吸いこんで、自らの内で深い悲しみに変えてしまったようだった。そしてグイードは、自分が抱えていたのは怒りではなく、悲しみだと気がついた。粉挽きの体から力が抜け、長椅子《ながいす》にどさんと腰を下ろした。半円形の梁《はり》の連なる大広間に静けさが広がった。
「あ……グイード……」
カルメロが咳払《せきばら》いして何かいおうとした時、庭に面した扉が乱暴に開かれた。皆は反射的にそちらを向いた。外光を背中から浴びて、ずんぐりした大男が立っていた。
「カルロじゃないか」
リザルドが叫んだ。
カルロは、誰かを負ぶっていた。よたよたとした足取りで大広間に入ってくると、背中の人物を〈善き人〉の長椅子に下ろした。長椅子の端に座っていたシムズが、アルミドだ、という声が響いた。私たちは全員、中央の卓に集まっていった。
長椅子に仰向けに寝かされたアルミドは、叩かれてくたくたになった藁束《わらたば》のようだった。浅黒い顔の左の頬《ほお》は火傷《やけど》でひきつり、指の半分は布が巻かれて血で汚れていた。衣類は泥と血にまみれ、右腕に添え木がしてあるのは折れているためらしい。皆、その姿にうろたえ、立ちすくんだ。
「いったい、どうしたんだ」
しっかりした声で、カルロに問うたのは、エンリコだった。カルロもアルミドの様子に動転していて、「おれ……おれ……」といいながら、顔を戸口のほうに捻《ひね》った。ちょうどそこから、ディアマンテが入ってくるところだった。城で働いている時とは違って、青地に黄色の模様の入った晴着を着て、頭には透かし編みの被り物をしている。ディアマンテは急いで城の坂道を登ってきたようで、息を弾ませながらいった。
「アルミド師は、アンペッツォの村から戻る道端に倒れていたんです」
ディアマンテがなぜカルロと一緒だったか、問い質《ただ》す余裕のある者はいなかった。気を失っていたアルミドが目を覚まし、弱々しい声で何か呟《つぶや》いたのだ。
「なんだ、どうしたんだ、アルミド」
エンリコが、小柄なナポリの男を抱き起こした。横からパンドルフォが水の入った器を差しだした。アルミドは血で黒ずんだ布を巻いた手でそれを受け取り、ひび割れた唇の間に流しこんだ。
「ジュリアーノ……」
アルミドは掠《かす》れ声を絞りだした。
「ジュリアーノがどうした」
カルメロが聞いた。アルミドはエンリコの逞《たくま》しい腕に頭を支えられたまま、目玉を動かして、集まっている者たちを見回した。まるで、そこが〈山の彼方〉だと信じられないというふうに瞬きをしてから口を開いた。
「ヴェローナで……ヴェローナで……」
言葉を押しだそうとして、瘤《こぶ》のような喉《のど》の骨が何度も上下に動いた。
「火炙《ひあぶ》りにされた」
アルミドはようやくそう告げて、目を閉じた。焼け焦げて短くなった睫毛《まつげ》の下から、涙の筋が流れ落ちてきた。
12
アルミドとジュリアーノがヴェローナに着いたのは、〈山の彼方〉を出て七日後だった。ヴェローナ生まれのジュリアーノは、ヴェローナ教団の司教に会いにいくより前に、ひとまず自分の昔からの友人のボンピエトロの家に顔を出そうといいだした。
暖かい季節になると〈山の彼方〉から出ていき、パドヴァからボローニャ、フィレンツェまで布教して歩いているジュリアーノに知り合いは多かった。土地勘のないアルミドは、ジュリアーノのいう通りにした。あとで考えてみたら、司教のところにまず行くべきだったのだ。そうすればヴェローナの信徒たちの噂《うわさ》が耳に入ったことだろう。ボンピエトロが寝返って、ドメニコ派の異端審問官に〈善き人〉の行動を密告しているという話が。
ジュリアーノとアルミドは、ボンピエトロの家から出てきたところで捕まった。古くから知る人物の内通だったために、ジュリアーノは自分が〈善き人〉であることを否定することはできなかった。ボンピエトロは、連れも〈善き人〉だと密告したが、アルミドはナポリ訛《なまり》を使って、のらりくらりと質問をはぐらかし、拷問にもなんとか持ちこたえた。
宗教裁判が行われ、ジュリアーノは火炙り、アルミドは追放となった。アルミドはジュリアーノの処刑を見にいった。ジュリアーノは主の祈りを唱えながら、炎に包まれて雄々しく死んでいったという。そしてアルミドは拷問で傷ついた体を引きずるようにして〈山の彼方〉に戻ってきた。これがアルミドが泣きながら語った話だった。
〈山の彼方〉には、今や沈痛な空気が流れていた。司教は眠り続けているし、大子のジュリアーノは火炙りとなった。小子のアルミドは拷問で弱っていた。
アルミドが戻った次の日の夜、私はシムズを訪ねた。この一連の出来事を、あの頭の動きの早いヘブライ人がどう見ているか知りたかったのだ。奥の門の二階にある部屋の戸を叩《たた》くと、「誰だ」と少し緊張した声がした。
おれだ、と答えて入ろうとすると、いつもは開きっ放しの戸に閂《かんぬき》が掛かっていた。足音が近づいてきて、門の横棒が外された。
「急に用心深くなったんだな」といいながら、部屋に足を踏みいれた私は、寝台の上に衣類が散らばっているのに気がついた。冬の間ずっと着ていた狐の毛皮まである。隣には大きな袋が口を開いていて、荷造りをしているように見えた。
どこかに行くのか、と聞くと、シムズは、出ていくのだと答えた。突然の話に、私は驚いた。シムズは衣類の散らばった寝台に腰を下ろすと、両足の間に袋を挟んで私を見上げた。
「ヘブライ人は、この世界では人間以下の扱いしか受けない。土地を持つことは許されず、商いをするにも領主はめったに保護してくれない。生きていくためには金貸しをするしかないが、それでやっと得た金も高い税金で奪いとられる。外を歩く時には、胸に黄色い布飾りや、角のように尖《とが》った帽子をかぶるように命じられる。疫病や飢饉《ききん》が起きたり、誰かが殺されたりすると、ヘブライ人のせいにされて、証拠もないのになぶり殺しにされたり、財産を取りあげられて追放になる。ぼくらは虫けらと同じだ。だがそんな暮らしを続けてきたために、行く手に狼がいるかどうか察するのがうまくなった」
私はようやくシムズのいわんとしているところがわかった。
「〈山の彼方〉は危ないというのか」
シムズは長い鼻の脇《わき》を掻《か》いた。
「危ないというのではないが……流れが変わりつつあるのは確かだ」
私はシムズの隣に腰をかけた。部屋の中は暗かった。洋燈の置かれた机の上の書物や筆記用具が、夜の燈台のように照らしだされている。シムズは、壁に映った机や椅子の揺れる影を眺めながらいった。
「司教は、もうよくならないと思う」
それは〈山の彼方〉の誰もが思っていることだった。高齢の上に、ものも食べずに寝たきりだ。長くはないことは、目のある者なら誰にだってわかる。
「司教は父の友人だったから、ぼくに親切にしてくれた。しかし新しい司教が決まり、〈山の彼方〉に新しい空気が流れこんだら、ヘブライ人に親しみを抱いてくれるかどうかはわからない」
「〈山の彼方〉の者たちは、悪いことが起きてもヘブライ人のせいにはしないだろう」
シムズは私を憐《あわ》れむように微笑《ほほえ》んだ。きみは人というものがわかってないといわんばかりだった。人の心は暗闇《くらやみ》に落ちた宝石だ。光にあたるまでどんな色に輝くかわからない。それは私だって知っていた。
「あんたが〈善き人〉の信徒になればいいんだ」
私はいい直した。
「善きヘブライ人か」と、シムズは皮肉っぽく呟《つぶや》いた。
「いいや。クリスト教徒にはなれない。たとえ、ぼくがクリスト教徒であろうと」
何をいっているかわからなくて、私は眉《まゆ》をひそめた。シムズは組んだ手を両膝《りようひざ》の間に挟んで、頭を二、三度前後に揺らせ、自分をあやすようにして続けた。
「ぼくが大学で教壇に立てたのは、クリスト教に改宗したからだ。ヘブライの神を棄《す》てることにさほど抵抗はなかった。ぼくはいつも神の存在を疑っていた。神に頼ろうとは思わなかった。クリスト教に改宗しても平気だと思った。もちろん、父や親戚《しんせき》は怒ったさ。約束の地に戻る日までちりぢりになって地上をさまよう定めのわれらの民を支えるものはユダヤ教しかないのだ。それを棄てるとは、ヘブライ人ではなくなるということだ。しかし、ヘブライ人であり続けるより、金貸し以外の職に就くことのほうが、ぼくには魅力的だった。父と大喧嘩《おおげんか》して、ぼくは改宗した。だがそれは今かぶっている帽子が気に入らないからといって、別の帽子に変えたみたいなものだった。帽子をかぶること自体が厭《いや》なのだから、窮屈には変わりない。内にこもった鬱屈《うつくつ》というものは、いつもどこかから出ようとするものだ。そして、出ていく穴はたいてい口しかない。神なんか存在しない、この世は神とは関わりのないところで成り立っている。そんなことを、つい友人に洩《も》らしたために、無神論者は悪魔を信じる者と糾弾されて、大学を追いだされた。あやうく宗教裁判にかけられるところだったよ。もう神のことなんかうんざりだ。ヘブライの神を信じようとクリストを信じようと、なにも信じまいといいじゃないか。そんなことをうるさくいわれないところに行きたいものだ」
「東に行けばいい」
とっさにそんな言葉が口をついて出てきた。すると、それはとてもいい考えに思えた。
「東の涯《は》てには、神がいっぱいいる。風の神、火の神、水の神、狐の神や蛙の神まで。あんまりいっぱいいるものだから、誰もどの神を信じろとか、この神を信じないからいけないとか、うるさいことはいいやしない」
シムズは背筋を伸ばして、顔を上げた。
「無数の神と、唯一の神。結局は同じことだけどな」
そして、足の間に置いた袋にきびきびと衣類を詰めはじめた。
「東に行こうとは思っているよ。ボローニャやルッシャあたりの領主は、ヘブライ人に対してそれほど酷《ひど》い扱いはしないと聞いたからね」
シムズは衣類を詰め終わると、机の上の筆記用具や本も袋に入れた。まるで明日にでも出ていきそうな勢いだった。不安になった私は訊《たず》ねた。
「司教の容態がはっきりするまでは、ここにいるんだろう」
「いいや。気を失ったままの司教は死者と同じだ。ぼくは生者の司教の話し相手はできるが、死者の肉体のお供はできない。ここで、ぼくのできることは、もうないんだ」
明快すぎて、冷たさを感じるほどの考え方だった。ヘブライ人は袋の口紐《くちひも》を縛ると、ああ、そうだ、と指を鳴らして、寝台の下から、手の指を広げたほどの長さの細長い筒を引きだした。何枚かの紙を丸めて、革紐で縛ったものだった。
「これは、きみに預けておく」
中を開いてみなくても、それが『マリアによる福音書』と、ラテン語訳だとわかった。シムズは私に紙の筒を押しつけて、「次の司教が決まったら渡してくれ」といった。〈善き人〉たちにとって、それが宝にも等しいことを知っていたので、私はためらった。
「マッダレーナにでも渡したほうがいいんじゃないか」
「司教がどうなったか知っているだろう。そこに書かれていることは、〈山の彼方〉の者には危険なことなんだ。その点、きみはクリスト教徒じゃない。『マリアによる福音書』はなんの意味もないし、第一、きみにはそれが読めない。興味もなく、読みもできない者にとって、その福音書は害にはならない」
私は少し考えて、預かっておくことにした。〈太陽をまとう女〉が小袋いっぱいの銀貨をもたらしたように、また何かの益を与えてくれるかもしれないとも思ったのだ。
「……出ていく前に、また会えるよな」
私は寝台から立ちあがると聞いた。
「もちろんだよ」
シムズは垂れた目を細めてから、部屋の戸口に歩いていこうとした私の腕を取った。
「いいことを教えておいてやろう」
私は戸口とは反対側に連れていかれた。そこの壁は歪《いびつ》に窪《くぼ》んでいて、正面が中の庭に面した窓、両側が壁になっている。右手の壁に、狭い戸がついていた。シムズはその戸を開いた。中には板の切れ端や積み石の崩れたもの、湿った藁束《わらたば》などが乱雑に積まれている。
「この物置がどうしたんだ」
シムズはにやりとして、机の上の洋燈を持ってきて、物置の中を照らした。その先は、人がやっと通れるほどの暗い通路が開いていた。
「ここは、門の下を通る者を見張る部屋として作られたんだ。そして壁の中に通路を設けて、西の城壁と繋《つな》げた。城壁の見張りの休憩室も兼ねていたんだろう。通路は、西の城壁の中を通って、〈信徒の家〉の奥の小部屋に続いている」
奥の小部屋は、窓枠は朽ち、崩れた壁から隙間風《すきまかぜ》が入ってくるので、誰も使ってなかった。そんなところに城壁に通じる出入口があったとは知らなかった。しかし、通じているならば、階段を使い、庭を横切る手間が省けるぶん、シムズの部屋から〈信徒の家〉に戻る近道になる。
「なんで今まで教えてくれなかったんだ」
私は少し怨《うら》みがましくいった。シムズは、携帯用の洋燈に油を注ぎながら聞き返した。
「知っていることを、すべて他人にいう必要があるかい」
私は口を曲げた。そしてシムズの手から杯のような小さな洋燈を受け取ると、福音書の筒を腹帯に挟み、瓦礫《がれき》の山を跨《また》いで通路に入った。二、三歩進んだところで、後ろから声が響いた。
「揺らめく心に惑わされてはいけない。きみの道を照らしてくれる知の光を消さないように歩いていけ」
私は振り向いた。ほっそりしたシムズの姿は黒い影に包まれ、その表情はわからなかった。
「どういう意味だ」
私は問うた。シムズの右手が別れを告げるように上がった。この男は誰にも何もいわないで、ここを出ていくつもりなのだなとわかった。
別れとは、他人《ひと》の心から、自分の根を引っこ抜いてしまうことだ。根を引き抜くのだから、痛みもついてくる。それが重なると、他人に会っても、相手の心に根を下ろさないように用心するようになる。シムズの明快な考え方は、他人の心に根を下ろさないための方便でもあるのだ。しかし、だからといって、内にある心が冷たいわけではないかもしれないと思った。
私は洋燈を持ったまま右手を上げて、挨拶《あいさつ》を返した。そして地上をさまようことに慣れてしまったヘブライ人に背を向けると、洋燈の炎を消さないように手で覆い、暗く湿った通路を歩きだした。
二十歩も行かないうちに、突きあたりに来た。通路は左右に折れてさらに続いている。所々、壁の石を抜きだした覗《のぞ》き穴が作られていた。位置からいうと、右手は奥の庭の西側を守る城壁の中に、左手は〈信徒の家〉に続く壁の中に通じている道らしい。だとすれば、奥の小部屋への出口はこの左手になる。左に折れてしばらく進むと、通路は瓦礫に覆われて行き止まりになった。洋燈を近づけると、出入口らしいところに向こう側から板が何枚か立てかけられ、出口がふさがれている。そういえば小部屋の隅にそんな板があった。ただの隙間ふさぎだと思っていたが、その先はこの通路になっていたのだ。
板を横にどかそうとして、小さな声が聞こえてくるのに気がついた。
「お赦《ゆる》しください、神さま。おれはまた罪を犯してしまいました」
カルロの声だった。私は板の隙間から小部屋を覗きこんだ。崩れた壁から入ってくる星明かりで、部屋は真っ暗というわけではなかった。中庭に面した窓のあったところに跪《ひざまず》いている黒い影がかろうじて見えた。
「神さま、おれはどうしたらいいのでしょう。〈善き人〉になりたいのに、いつも誘惑の手に捕まってしまいます」
誘惑の手とは、ディアマンテのことだなとぴんときた。私は板の後ろから声をかけた。
「ディアマンテと一緒にアンペッツォで見世物を見たのか」
カルロはその場に凍りつき、脅《おび》えたようにうずくまった。
「神さまはなんでもご存知です。そうだ、その通りです」
カルロは私の声を神のものだと思ったようだった。私はおもしろくなって、重々しい声で聞いた。
「タルタル人の姫君を見ただろう」
カルロはちぎれた枝みたいに頭を縦に振った。どんな女だったか、と私はさらに訊《たず》ねた。
「ザ、ザンザーラみたいな顔の女でした。皿みたいに平たい顔して……暗い幕の中で裸になって……妙な踊りを見せてました。タルタル人の踊りだそうで……でも、神さま、おれ、見たかったわけじゃないんです。ディアマンテが、ディアマンテが見たいと……」
裸で踊っていたのなら、春花《チユンホウ》ではないと思った。あの娘は、人前で裸で踊るくらいなら死を選ぶだろう。だが、わからない。人は生きるためなら何でもする。
「女は足の腱《けん》が切られていたんで、踊りながら倒れては、また起きあがるんだけど、そのたびにあそこが見えるんで、皆、大喜びで……神さま、お赦しください。おれも、やっぱり手を叩《たた》いて喜んだんです」
ニッコロに足の腱を切られたマリアの姿が頭に浮かんだ。タルタル人の姫君とは、マリアのことだろうか。
「その姫君、マリアとはいわなかったか」
思わず聞いてから、自分の愚かさを笑いたくなった。マリアとはニッコロがつけた名前だった。見世物一座に入ったら、また別の名前を名乗るに決まっている。
カルロも、私の質問の不自然さにようやく気づいたようだった。うずくまっていた頭を上げて、こちらを振り返った。そして闇《やみ》の奥で揺れている洋燈の火に気がついた。
「だ……誰だ……」
その声に脅えが混じっていた。悪魔だ、とでもいってやろうかと思った。そしたらカルロは大声で騒ぎたて、他の者がやってくるだろう。からかうのも、このあたりまでだと思った。私は戸を横にずらして出ていった。
「おれだよ、ザンザーラだ」
カルロは拍子抜けして、しばらくものもいえなかった。私は洋燈を手にして、近づいていった。壊れた窓辺から、中の庭が見えた。向かいの大広間の戸の隙間から洩《も》れる光が、庭の敷石に蛍が止まったような光を投げかけている。夕食後の炉端の説教はまだ続いているのだろう。
カルロの横にしゃがんで、私は聞いた。
「そのタルタル人の姫君は、髪が長くて額が突きだしていて、黒くて丸い目をしてなかったか」
カルロはまだ呆然《ぼうぜん》としていたが、ようやく言葉を押しだした。
「わからない……幕の中は暗かったから……顔が平たい感じだとわかったくらいで……」
そしてまだ脅えているように、私の腕に手をかけた。
「このことは内緒にしておいてくれ。嘘《うそ》をついて女と一緒に見世物にいったことがばれたら〈山の彼方〉から放りだされる。おれが悪いんじゃない、ディアマンテが誘ったんだ。おれがいいだしたんじゃない。ディアマンテがディアマンテが……」
カルロはぷつんと喋《しやべ》るのをやめて、「畜生」と呟《つぶや》いた。私の腕にかけていた手を離し、自分の太股《ふともも》をぴしゃりと叩いた。
「〈善き人〉になるためには、そんなところに行っちゃいけない。女に触ってもいけない。わかってるんだ。わかってるんだ。なのに、こいつがいうことを聞かない」
カルロは股間《こかん》の萎《な》えた陰茎を握りしめて、泣きだした。私はカルロの肩に腕を回した。
「大丈夫さ、救慰礼を受ければいいんだよ。そしたらすべての罪は洗い流されて、〈善き人〉になれる」
カルロは頷《うなず》いて、「そうだよな、そうだよな」と繰り返した。
誰もが強い意志を持っているわけではない。弱い者には、挫《くじ》けそうになった時に力づけてくれるものが必要だ。救慰礼という言葉は、それを信じる者にとっては、弱い者に与える砂糖だった。カルロは砂糖でできた言葉をしゃぶりながら、私の腕に縋《すが》って、大声で泣き続けた。私はカルロの大きな体に手を回して抱いた。
肌の温《ぬく》もりは、男同士であろうと、女同士であろうと、男と女であろうと変わりはない。その温もりは、砂糖でできた言葉より、もっと誠実なやり方で人の心を慰める。私は赤子をあやす母親のようにカルロの背中を撫《な》でてやった。
13
陰茎とは厄介なものだ。硬くなりはじめると、頭の中の考えまで吸いとってしまう。〈山の彼方〉に来る途中、股間の疼《うず》きに自戒も棄《す》てて、マッダレーナを襲ったことがある。ペラガローネという村でのことだった。
そこから急流伝いに溯《さかのぼ》り、〈龍の背中〉に着くのだが、道案内がいないと川に流れこんでくる無数の支流に迷ってしまう。案内をしてくれる筏乗《いかだの》りの男が村に戻るまでの間、男の家の納屋を貸してもらって寝起きした。旅の疲れも一日二日ごろごろと過ごすうちに取れていき、力が戻ってくると、陰茎の奴《やつ》まで元気になってきた。そして三日目の夜ともなると、どうしようもなくなった。
フランチェスカが生きていたら、話は違っていただろう。しかし、納屋の中には、私とマッダレーナしかいなかった。眠ろうとして藁床《わらどこ》に横になりはしたが、女の寝息が気になってしかたない。納屋は広く、マッダレーナは私からできるだけ離れた場所で寝ているというのに、まるで耳に息がかかるほど近くにいるように感じる。そしてむらむらと女に対する肉慾《にくよく》が湧《わ》きあがってきた。
私は我慢しようとした。マッダレーナが事あるごとに、触らないで、といっていたことを思い出そうとした。あの女は、普通の女とは違うのだ。男に触れることが大きな害になる〈善き人〉なのだ。そう自分に言い聞かせた。しかし、私は〈善き人〉の信徒ではない。私にとってマッダレーナは、ただの女だった。
目の前に女がいるというのは、目の前にうまいものがあるというのとは違う。どんなにうまくても、食べ物に対しては陰茎は立たない。金に対しても陰茎は立たない。だが、女となると、陰茎が頭をもたげ、脳味噌《のうみそ》の代わりに動きだす。
私はマッダレーナのほうに這《は》っていった。納屋の中は暗かったが、寝息が私を導いてくれた。私は女の上に覆いかぶさり、毛布を剥《は》がして服の裾《すそ》をまくった。マッダレーナが目を覚まして、私を押しのけようとした。私たちは藁床の中で揉《も》み合った。
やめて、やめなさい。マッダレーナは叫んだが、私はがむしゃらに相手を押さえつけた。私のほうの力が強いに決まっていた。私は女の太腿《ふともも》の間に自分の脚を割りこませ、熱く硬くなった陰茎を差しこもうとした。
マッダレーナは力を抜いた。あきらめたようだった。脚を広げたまま、私を迎えいれるかと思った。驚くことに、私の陰茎を握りすらした。自分の内に引き込もうとしているのだろうかと思った瞬間、マッダレーナの手にぐっと力がこもった。
これを潰《つぶ》しますよ。
マッダレーナはいった。
私はマッダレーナの上で動きを止めた。私たちは藁の中でじっと体を重ねあわせていた。陰茎を放すと、私がまた動きだすのではないかと怖れて、マッダレーナは握り続けたままだ。私はそこを押さえつけられたまま動けない。いや、実は動きたくなかった。腰を引けば、マッダレーナの手から陰茎は抜けるのはわかっていた。だが、そうしたくなかった。マッダレーナの指に握られているのは、愛撫《あいぶ》されているのと同じことだった。いかに強く握られようとも、それは私には何の痛みももたらさない。マッダレーナにはそれがわからないのだ。
いや、わかっていただろうか。マッダレーナは握りしめた陰茎をどうしていいかわからなくなったように手の力を少し抜いた。しかし、それを放したら、せっかく止まった私の動きがまた始まるのではないかとも怖れたようだ。どうしていいかわからず、ただ震える手で陰茎を握っている。体の芯《しん》から熱いものが湧きあがってきた。私は背中を強《こわ》ばらせて、マッダレーナの手の中に白い血を迸《ほとばし》らせた。二人の間に生臭い男の白い血の臭いが立ちのぼった。
マッダレーナは小さな声を洩《も》らして、粘つく手を離した。驚きのあまり、言葉もでない。女はよろめく足取りで納屋から出ていった。手を洗いにいったのだ。
私は、さっきまで女の寝ていた藁床の上に転がり、息を吐いた。マッダレーナと交わったような興奮を覚えていた。
そしてマッダレーナは、次の日からまた三日三晩の麺麭《パン》と水の潔斎に入った。
14
「集まれ、集まれっ」
ベンベヌートの大きな声が、雨の中庭に響いた。
「司教が目を覚まされた」
その知らせは、嵐《あらし》の大波のように中庭から、大広間や厨房《ちゆうぼう》、〈信徒の家〉や〈女の家〉、さらには表の庭に面した作業部屋で仕事をしていた者たちのところまで、瞬く間に広がっていった。雨のために、〈山の彼方〉の者たちは、全員城にこもっていた。誰もが仕事を放りだし、奥の庭の司教の部屋へと走った。カルロと一緒に壊れた椅子《いす》を直していた私も、皆に混じって司教の部屋に入った。
粗末な寝台に横たわるベルナルド司教は、骨と皮ばかりとなっていた。銀色の髪の中に埋もれた顔は、朽ち木を削って作った仮面のように艶《つや》も張りも失っていた。しかし、ふたつの青い瞳《ひとみ》は晴れた日の海のように輝いている。
「天の国を見てきた」
司教は弱々しい声でいった。寝台を囲んでいた者たちからどよめきが湧いた。
「翼を持った二人の天使がやってきて、わたしの手を取り、連れていってくれたのだ。白い雲を掻《か》きわけて上へ上へと昇っていくと、美しい歌声が聞こえてきて、雲はやがて淡い虹《にじ》の色に変わってくる。青や黄色や柘榴色《ざくろいろ》や緑色の雲だと思っていると、やがてそれは甘い香りを放つ花の色なのだと気がつくのだ。優しい風に揺れる花畑のあちこちには、さまざまな種類の果実がたわわに実る樹が生え、純白の岩が島のように突きでている。その岩の上では、天使たちが寝ころんだり、話したり、岩から岩を飛び移って子供のように遊んだりしていた。ああ、なんと美しいところだったろう。そこらじゅう花の薫りと、鈴を鳴らしたような天使の笑い声が満ちていた。そここそ、清浄なるものだけが満ちている天の国だった」
司教は窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底の目を細めた。周囲に集まる者たちの顔にも、うっとりした表情が浮かんだ。司教が乱れた息を整えている間、誰もが黙ってそれぞれの想《おも》いに浸っていた。窓の外の雨音が忍びこんでくるのがわかるほど、部屋の中は静まりかえった。
「わたしも天使に混じって遊んでいた。ふと気がつくと、天使の中には顔見知りがいた。モンセギュールで火炙《ひあぶ》りになった者だったり、ヴェローナで火炙りになった者だったりだ。焼かれた跡はどこにもなく、みな、美しい白地に金色の模様のついた衣をまとって、楽しげに野に集っていた。ある時、空を飛んでいると、向こうからにこにこ笑いながら天使がやってきて、わたしに手を振ってすれ違った。あれ、と思って振り返るとジュリアーノだったよ」
司教はそこまでいって、自分の言葉に戸惑った。
「だが、なぜジュリアーノがあそこにいたのだ……」
寝台に集まった者たちの表情が曇った。開け放たれたままだった部屋の戸に縋《すが》って、アルミドが立っているのに、私は気がついた。一階の〈善き人の家〉で寝ていたはずだが、騒ぎを聞きつけて上がってきたのだろう。アルミドはまだ拷問されているかのように、顔を苦痛で歪《ゆが》めて、「ジュリアーノはどうしたのだ」と聞く司教を見つめていた。皆、暗い視線を交わしたが、もう一度司教に問われて、カルメロが、ジュリアーノは宗教裁判で死刑となり、火炙りにされたと答えた。司教の髭《ひげ》に覆われた口がぽかりと穴のように開いた。
「善きことだ……」
司教は安堵《あんど》の息を洩らした。
「あの男は無事、天の国に逝けたのだ」
うなだれて戸口から離れるアルミドの姿が、私の目の端に映った。ナポリから来た男は、その陽気な魂をヴェローナに置き忘れてきたようだった。しかし他の者たちは司教の言葉を聞くことに一生懸命で、アルミドが立ち去ったことに気がつきはしなかった。
「わたしは天使たちと一瞬とも永遠とも思える時を過ごした」
司教は浅い息を繰り返してから、再び話しだした。
「やがてわたしを天の国に連れてきた二人の天使がまた現れた。二人はわたしが座っていた純白の岩を拳《こぶし》で叩《たた》いた。岩は粉々に砕けちり、その下に深い穴が開いた。暗い穴の遥《はる》か下に黒々、とした泥が渦巻いていた。しかし渦と思ったのは、よく見ると人だった。狼の皮をかぶり金貨銀貨を両手に抱えその重みによろめいている者、お互いの裸体に泥をなすりつけあっている男女、重い鎖に体をぐるぐる巻きにされて歩く者、剣を手にして周囲の者を狂ったように切り裂いている者。人々の足許《あしもと》には悪臭の漂う白い川が流れていた。そこから赤子たちが次々と浮かびあがり、泣き叫びながら地獄の渦に巻きこまれていた」
司教は頷《うなず》いた。
「そうだ、そこは地獄だった。あまりの悲惨さにわたしは顔を背けた。しかし、天使はいった。あそこに戻って、おまえのやり残したことをすませなさい。そしてわたしを穴に突き落とした。わたしはどんどんと堕《お》ちていった。かつて悪しき神にそそのかされ、天の国から墜《お》ちていった天使の霊魂のように。地獄の渦は、近づくにつれて山々や川や海の織りなす緑や青の入り混じった光景へと変わっていった。その緑の皺《しわ》の間に〈山の彼方〉があった。この部屋の窓から中に入ると、やつれたわたし自身の肉体が横たわっていた。おまえたちが、寝台をとり囲んでいるのが見えた。わたしはそこに入りたくないと思った。しかし、その時、肉体が両手を広げて、わたしを捕まえた。そしてわたしは地獄の牢獄《ろうごく》に、この肉体に戻ってきた」
私は、部屋の中を見回した。布張りの窓は閉まっている。そこから司教の魂は入ってきたというのだろうか。それに、司教が目覚めた時にはまだ皆は部屋に来てなかったはずだ。司教の話をまるのまま呑《の》みこむわけにはいかなかった。
「天使のいうことは正しかった。そうだ。わたしにはやるべきことが残っていた」
ベルナルド司教は疲れたように息を継いでから、寝台の周囲に集まった者の顔を見回して、自分が倒れた時、床に紙が散らばってなかったかと聞いた。誰もが当惑した顔をして、最初の発見者だったマウロ爺《じい》さんを見た。マウロはかぶりを振って、倒れている司教を見て慌てふためいていたので、そんなものは気がつかなかったと答えた。司教がいっている紙とは、『マリアによる福音書』のことだと私にはぴんときた。そのことを〈山の彼方〉の者が揃《そろ》っている場でいうべきかどうか迷っていると、マッダレーナが目配せした。顎《あご》を小さく左右に振って、何もいうなといっていた。私は口を噤《つぐ》んでいることにした。
司教は誰もその紙のことを知らないのを知ると、雛《ひな》を探す親鳥のように騒ぎだした。首を枕《まくら》からもたげて起きあがろうともがきながら、「シムズはどこだ、シムズを呼んでくれ」と叫んだ。
「あのヘブライ人は消えてしまいました」
司教の背を支えながら、カルメロが答えた。ベルナルドは目を剥《む》き、震える手で医師の腕をつかんだ。
「ほんとうか……」
「ええ、二日ほど前です。朝起きたらいなくなっていました」
「なにも残していかなかったか。なにか言い残してでも……」
カルメロはかぶりを振った。司教の喉《のど》が笛のような音をたてた。
「……なんてことだ……あれは……あの福音書は……」
司教の顎が天を向き、頭ががくんと後ろに落ちた。袋に詰まった空気が抜けていくように、体から力がなくなり、老人は寝台に仰向けに倒れた。カルメロが慌てて抱き起こした。しばらく揺すったり、背中を叩いたりしたが、やがてカルメロは司教の体を寝台に横たえていった。
「司教は天の国に逝かれた」
誰もがその場に根が生えたように動かなかった。魂の抜けていった司教の肉体を取り囲み、じっと眺めていた。そうしているうちに、また司教が目を覚まして、風変わりな訛《なまり》の混ざった声で、天の国の土産話をしてくれるのではないかと期待するように。しかし部屋に響くのは、ぴしゃぴしゃという湿った雨音だけだった。
15
私が『マリアによる福音書』を預かっているといえば、司教はあんなにもあっけなく死ななかっただろう。せっかく生き返ったのだから、もう一度死ぬ前に、やるべきことをしたはずだ。慌てて天の国に戻っていくことはなかった。それにしても、司教はあの福音書をどうしたかったのだろう。天使という、翼のある化け物に何を唆《そそのか》されたのだろうか。私は腹の下で手を組み、皆と同様に頭《こうべ》を垂れながら考えていた。
「天の国に逝かれた司教が、わたしたちをも天の国に誘《いざな》ってくださいますように」
冷え冷えとした部屋にカルメロの祈りが続いていた。司教の死の翌朝、雨が上がるや、死体を埋めてきた後だった。死体とは魂の抜け殻にすぎないという考えに従って、白い敷布に包んだ体を穴に放りこんだだけだ。もっとも土に埋められたのだから、路上に置き去りにされた筏乗《いかだの》りやフランチェスカよりはましな扱いを受けたとはいえた。
私たちが集まっているのは、司教の部屋の下にある広間で、祈りの場と呼ばれていた。西の奥の庭に面した小さな窓がふたつあるだけで、椅子《いす》も長持も何もない穴蔵のようなところだが、〈山の彼方〉の全員が集まって祈ったり、信徒が救慰礼《コンソラメンタム》を受けたり、〈善き人〉が話し合いをしたりする場として使われていた。広間の中央に並ぶ二本の柱を囲むように卵形の輪になった人々は指を絡みあわせて手を組み、静かに頭を垂れていた。
「司教は、天の国がわたしたちを待っていることを告げるために、この地獄に再び降りてきてくださいました。その慈悲深い霊魂に祝福あらんことを。そして生きていた時と同じく、死した後も、わたしたちを導き、助けてくださいますように」
もそもそした声ではあるが、カルメロの言葉は巧みだった。マウロやカルロは鼻水を啜《すす》りあげ、アレグランツァやボーナ婆《ばあ》さんはしゃくりあげて泣いている。司教は天の国に逝ったのだ、よかった、などと口ではいっているが、信徒たちは置き去りにされた気持ちを味わっていた。それと反対に〈善き人〉たちはどこか浮き浮きと張りきっていた。死ぬ間際、司教が語ったことにより、天の国はあるという確信を得たためらしかった。
私にいわせれば、それは年寄りの願いを映しだした夢だったとも、残される者たちと自分自身のためにでっちあげた話だったともいえる。とはいえ、司教が天の国を見なかったと断言もできない。要は司教の言葉だけでは、天の国があるという証にはならないのだ。それは各人が自分で確かめるしか術《すべ》はない。だが人は自分の信じたいことが目の前に出されると、疑うことを忘れる。
アーメン、という声が響きわたって、祈りは終わった。皆がぞろぞろと出口に引きあげていく。私もついていこうとした時、「夏桂」と耳元で囁《ささや》かれた。気がつくと、横にマッダレーナが立っていた。顎《あご》をそっとしゃくって広間の隅を示すので、私はそちらに歩いていった。窓の光も届かない一角で、広間の天井に巣くっている蝙蝠《こうもり》の臭いが微《かす》かに漂っている。中央の二本の柱の間に見える戸口から最後の人影が出ていくのを待って、マッダレーナが近づいてきた。
「あなたは、福音書の行方を知ってるのでしょう」
福音書というのが『マリアによる福音書』を示すことはすぐわかった。私が黙っていると、マッダレーナは早口に続けた。
「昨日、司教が福音書のことを口走った時、あなたはなにかいいかけた。なにをいうつもりだったのですか」
司教が倒れたのは、福音書の訳文を読んだためだということも、その訳文も原文もシムズが持っていたということも、マッダレーナは知っている。言い逃れはできそうもなかった。私はしぶしぶ、あれは自分がシムズから預かっているのだと答えた。マッダレーナは、「やはり」と呟《つぶや》いた。
「なぜシムズはあなたに渡したのでしょう」
言外に、なぜ自分にではなかったのか、という気持ちが滲《にじ》みでていた。
「あれは〈山の彼方〉の者にとっては危険なものだからだ。シムズは、次の司教が決まったら、渡してくれといっていた」
マッダレーナは何か考えるようにじっとしていた。暗がりでその表情はわからなかったが、女の息づかいが私の耳に聞こえてきた。ペラガローネの夜の出来事を思い出して、股間《こかん》に白い血が集まってくるのを感じた。
「次の司教が誰になるかによりますね」
やっとマッダレーナが口を開いた。大子のジュリアーノが死んだなら、次の司教は小子のアルミドじゃないのか、と私は暗がりの中で硬くなりつつある自分の陰茎を服の上から押さえて聞いた。
「そうですが、アルミド師の具合が今の調子では、どうなるかわかりません。それに、アルミド師は、司教には就きたくないという意向を洩《も》らしてもいるようです。そうなれば、〈善き人〉たちで話し合って、司教を選ぶことになるでしょうが……」
マッダレーナは少し言葉を切ってからいった。
「シムズは賢い選択をしたのかもしれません。今、あれの存在が明るみに出ると、ますます〈山の彼方〉は混乱するでしょう。いいでしょう。福音書は、あなたが持っていてください。でも、司教が決まって、それを渡す前に、わたしに相談してくれますか」
マッダレーナは、新しい司教が誰になるのか懸念しているようだった。その司教の手で、福音書が闇《やみ》に葬られることを怖れているのだろう。
シムズのいう通り、私には福音書は読めないし、興味もない。誰の手に渡ろうとかまいはしない。しかし、私はマッダレーナを焦《じ》らしてやりたかった。そうして少しでもこの瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女との繋《つな》がりを作っておきたかった。私はシムズと似ていた。すれ違う者の心に根を下ろさない者だ。だが、マッダレーナの心には、根を下ろしたかった。この鋼の芯《しん》を持つ女の心に、自分の爪痕《つめあと》を残してやりたかった。
考えておく、と私はいった。マッダレーナは不満げに喉《のど》の奥で息を詰まらせた。
突然、広間の中央で蝙蝠の鳴き声が上がり、靴の底と敷石のこすれるざりっという音が続いた。誰かが蝙蝠の動きに身じろぎしたのだ。そこに私たち以外の者がいたことに気がついて、マッダレーナが「誰ですっ」と鋭い声を放った。
「わたしです」
まるで石柱がふたつに分かれたように、柱の陰から背の高い影が現れた。その大きな姿形と、「わたしです」といった時のジェルマニア訛《なまり》で、エンリコだとわかった。
「いったいなんの福音書のことをいっているのですか」
エンリコは、私たちのいる広間の隅に数歩足を進めて聞いた。マッダレーナも私も返事をしなかった。ジェルマニア人はじっとそこに佇《たたず》んでいたが、やがて銅鑼《どら》のような重たい声でいった。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」
エンリコは踵《きびす》を返して、戸口から出ていった。ジェルマニア人がまた引き返してきて聞き耳をたてるのではないかと怖れて、私たちはそこに凍りついたように立っていたが、〈ミンネガルドの楯《たて》〉の湖の真ん中に投げた石の波紋が岸に達するまで待っても、戸口に人の気配は現れなかった。
「まずい人に聞かれてしまいました」
マッダレーナは息を吐いた。
「なぜ、エンリコがまずいんだ」
マッダレーナは自分の心の底を探るように、目を半ば閉じて、胸に手を当てた。
「あの人は……わかりませんが……なにか胸の底に考えていることがあります。心より先に、考えが出てくる人です」
「いいことではないか」
そういったとたん、私はまちがった道に足を踏みこんだことを悟った。マッダレーナは胸から手を落とし、冷たくいった。
「あなたにとって、信仰者とは、考えない者と等しかったのでしたね」
そして、福音書は司教が決まるまで、大事に保管しておいてくれと念を押して、急ぎ足で広間から出ていった。また私と言い合いになるのを避けたのだった。
『マリアによる福音書』は、私の大銀貨を詰めた袋と一緒に寝台の下に置いてある。〈山の彼方〉には盗みをする者は誰もいないと聞いてはいたが、用心のために皆と一緒の長持に私物を入れるのは避けていた。しかし、世の中、何が起こるかわからない。もっと安全なところに隠しなおしたほうがいいかもしれないと考えながら、私も外に出ていった。
暗い広間から出ると、太陽の光が眩《まぶ》しかった。雨に洗われた城壁や庭の敷石が灰色に鈍く輝いている。奥の門をくぐる時、今は誰もいなくなったシムズの部屋を仰いだ。あのヘブライ人は、私に福音書を渡した翌朝、誰にも挨拶《あいさつ》せずに消えていた。〈山の彼方〉の者たちは口に出してこそはいわなかったが、黙って消えたシムズに対していい感情は抱いてなかった。しかし私にはシムズの気持ちがわかる。私もまたここを出る時には、ヘブライ人と同じようにするだろうと思った。
中の庭には、麺麭《パン》を焼く匂《にお》いや野菜を煮る匂いが漂っていた。二階の〈信徒の家〉と〈女の家〉の窓は開け放たれ、寝室を掃除するボーナとリディアの姿が見えた。昼までの間、誰かの手伝いでもして過ごそうと作業部屋の並ぶ〈表の庭〉に向かっていると、ディアマンテとすれ違った。
「ああ、ザンザーラ。ちょうど、よかった」
ディアマンテは弾む足取りで近づいてきた。祈りの場にはいなかったから、今、城に着いたばかりのようだった。上衣の裾《すそ》は露でしっとりと濡《ぬ》れ、被り物には木の葉がひっかかっていた。
「昨夜《ゆうべ》、フィオリートが家に伝言を持ってきたの。パエジオ叔父《おじ》さんが、刈った羊毛を〈善き人〉に贈りたいからザンザーラに夏小屋まで取りに来るように頼んでくれって」
パエジオは、私が夏小屋に遊びにいけるような口実を作ってくれたのだ。司教の死に沈む城から離れられるので喜んで、今すぐにでも行くと答えた。
「じゃあ、あたしが案内する」
ディアマンテはすかさず申し出た。
「いいよ、城に来たばかりだろう。道を教えてくれれば、おれ一人で行くよ」
「叔父さんは、ザンザーラが来る時は、あたしが案内するようにってとも伝えてきたんだから」
娘はきっぱりいうと、厨房《ちゆうぼう》のアレッサンドラに用事で少し出かけてくることを伝えにいった。ディアマンテは城の女たちの手伝いが嫌いなようだった。家畜部屋にカルロやリザルドを引きずりこむのも、肉の慾望《よくぼう》以前に、家事ではなく他のことをしたいからかもしれなかった。
まもなくディアマンテは厨房から出てきて、私を城の裏手の岩場に連れていった。冬は灰色一色だった岩場も、今は緑の草に彩られていた。東側には、丸い柵《さく》に囲まれた薬草園ができている。カルメロが山野に自生していた薬草を植えたので、薄荷草《はつかそう》や苦艾《にがよもぎ》、立麝香草《たちじやこうそう》、迷迭香《まんねんろう》などの葉が爽《さわ》やかな匂いを放っていた。中には鳥兜《とりかぶと》らしい先が三つに分かれた葉も混じっている。それにしても、ディアマンテはここに何の用があるのだろう、パエジオに薬草でも土産に持っていくつもりだろうかと訝《いぶか》っていると、村娘は岩場の西の縁に立って下方を指さした。
「夏小屋に行くには、この道を通るのよ」
それは道というよりも絶壁を稲妻形に西に走る糸のような筋だった。時々、岩場に現れる熊や鹿が通る獣道だ。私はぞっとしたが、ディアマンテは被り物が落ちないように端を頭のうしろで縛り、薄茶色の上衣の裾を腰の帯紐《おびひも》に挟みこんで素脚を剥《む》きだすと、岩にしがみついて進みはじめた。
「ここを通ると、一度、下に降りてまた山を昇るよりずっと早く夏小屋に着くんだ」
夏小屋は、〈龍の背中〉の西側のなだらかな斜面にある。山を降りて麓《ふもと》から登り直すよりも、横に進んでいけば早いのはもっともな話だが、その道の半分は切り立った崖《がけ》なのだから命がけの近道にも思えた。しかし弱音を吐くのも格好悪くて、我慢してついていくことにした。
岩の角や灌木《かんぼく》の根を手がかりにして、ディアマンテはすいすいと進んでいく。その後をついていくうちに、道は見かけよりも楽なことに気がついた。難所には岩を削って足がかりが作られ、手がかりのないところには、鉄の杭《くい》が打ちこまれている。出っ張った岩を削って、階段のようにしているところすらある。
「誰がこの道を作ったんだ」
私は茨《いばら》の生えた灌木を跨《また》ぎながら、前を行くディアマンテに聞いた。娘は笑って、獣だ、と答えた。
「そうじゃない。ここに手を加えて、岩を削ったり、杭を打ちこんだりした者だ」
ディアマンテは振り向きもせずに、パエジオ叔父さんの話じゃあ、と声を張りあげた。
「昔、お城に住んでいた人たちがつけたんだって。その頃、このあたりはパドヴァやヴィチェンツァから、ジェルマニアに抜ける道になっていて、山賊がよく襲ってきたんだって。それで領主は、見張り場としても避難場としても使えるようにあのお城を造ったの。敵に襲われたらすぐに逃げこめるように、あちこちから道が通じているってことよ」
私は古城を振り返った。絶壁から瘤《こぶ》のように突きでた岩塊に建つ城は、下方に広がる谷を一望できる場所にある。アッツォ村はもとより、そこからなだらかに下っていく森も、森を抜けたところにあるクェロ村、さらには〈龍の背中〉を大きく回りこんでアンペッツォ村に通じる細い道まで見渡せた。私が足を止めたことを察したディアマンテは、岩肌にへばりついた楓《かえで》の木の根本で息を継いだ。
「そんなに行き来の盛んだったこのあたりも、アンペッツォから向こうのカドーレ一帯が、アクイレイア総大司教の土地になってからさびれたってわけよ。なんといっても総大司教の力の下にある土地を通るほうが安全だから」
崖の下から吹きあげてくる風が汗ばんだ顔に心地よかった。小鳥の囀《さえず》り、岩の間から落ちる滝の音、木々の葉のざわめき。それらの混ぜあわされた音ではちきれそうな空気を、私は胸に吸いこんだ。
黄緑から深緑までのさまざまな色合いの緑色の糸を織りあわせた絨毯《じゆうたん》のような森が、四方の切りたった山々に向かってうねりながらぶつかっている。風化した骨にも似てざらざらとしていたり、幾重にも斜めの皺《しわ》の寄ったりしている岩肌は、光の具合によって灰色から黄銅色、褐色から薔薇色《ばらいろ》までさまざまだ。ひときわ高い山の頂には、まだ白い雪が残っている。谷間には露草色の湖がぽつぽつと散らばり、白い滝が銀の糸となって岩肌を飾っていた。
「きれいだな」
ため息のような言葉が口をついて出てきた。ディアマンテは唇を突きだして、「なんのことさ」と聞き返した。
「この山や森や……景色がだ」
ディアマンテはあきれた顔をした。
「景色ってのはこんなものに決まっている」
この娘は、糞尿《ふんによう》に汚れたヴェネツィアのじめじめした路地も、薄汚れた獣のような者たちが家から溢《あふ》れでて座っている慶元《けいげん》の貧民|窟《くつ》も、腐った魚の臭いの中に今にも沈みそうなぼろ船がひしめく泉州《ザイトウン》の港の一郭も知らないのだ。
「あんたは幸せだな。この景色があたりまえのものに思えるんだから」
ディアマンテは楓の幹に腕を絡みつけ、絶壁に身を乗りだすようにして、私に向き直った。
「あたしの前にあるものが、きれいでも汚くても同じことだわ。この地は悪い神が創ったものだもの。大地が勝手に草に花を咲かせて色をつけたり、木に緑の葉を茂らせているだけよ」
ディアマンテにも〈善き人〉の教えが体の隅々まで染みこんでいるようだった。娘は被り物の端で顔の汗を拭《ふ》いて、緑の木々と岩山の連なりを眺めた。
「ただ、あたしはこの山や谷を歩くのは好き。外は明るくて、いろんなことが起きていて楽しいから。兎が草むらから飛びでてきたり、大山猫が木の枝の上で目を光らせていたり、栗鼠《りす》が栗の実で頬《ほお》を膨らませていたり。あたし、〈山の彼方〉に行く前は羊飼いをしていたのよ。パエジオ叔父さんたちみたいに大きな群れを連れて村の外に出るんじゃなくて、家に残した羊なんかを集めて、このあたりの山を歩かせるくらいだったけどね。男だったらパエジオ叔父さんみたいな羊飼いになっていたと思う」
私はディアマンテが羊飼いになりたがっていることに驚いた。
「おまえが羊飼いか」
ディアマンテがむっとしたように上唇をめくりあげたので、乱杙歯《らんぐいば》が覗《のぞ》いた。
「女が羊飼いになっちゃおかしいかい」
私は、いや、と答えた。
「おれが女に生まれても、羊飼いになりたかったと思う」
ディアマンテは顎《あご》を天に反らせて、嬉《うれ》しそうに笑った。
私たちは一休みするとまた歩きだした。崖は少しずつ低くなり、やがて下からせりあがってきた山の斜面と合流した。そこが〈龍の背中〉の西側のなだらかな丘陵地だった。ディアマンテは疲れた様子もなくさっさと斜面を登りはじめた。樅《もみ》や松がぽつぽつ生えている一帯を抜けると、石楠花《しやくなげ》や苔桃《こけもも》や躑躅《つつじ》の低木が草地を覆っている場所に出た。ベルナルド司教の語った天の国にも似て、白や黄色や赤の花が咲き乱れる野のあちこちに、灰色の岩が頭を突きだしている。爽やかな草の香りと、柔らかな花の香り。羽音を唸《うな》らせて蜜蜂《みつばち》が飛び、風に吹かれた葉が裏返ると、野原全体が手をひらひらさせて喝采《かつさい》しているように見えた。私とディアマンテは野の花を踏みしだいて歩いていった。
西の斜面は押し寄せる波のようにうねりながら、〈龍の背中〉のぎざぎざした頂の岩塊にぶつかるまで続いていた。なだらかな山肌を進んでいくと、斜面が窪《くぼ》んだところに木造の小屋が大小三軒建っていた。どれも丸太を組んだだけの粗末なものだ。小屋の横には丸い柵が作られ、その中にも外にも白い羊たちが散らばっている。
「夏小屋よ」と、ディアマンテは顎で示して足を速めた。近づくに従って、ふさふさと毛の生えた羊のいる柵の中で働く三、四人の男たちが見えた。男たちは膝《ひざ》の間に羊を押さえつけて、短刀で毛を刈っていた。柵の出入口に若者がいて、杖《つえ》を使って毛を刈った羊の尻《しり》を叩《たた》いて柵から外に追いだしている。
「フィオリートォ、フィオリートォ」
ディアマンテが声を張りあげると、柵の出入口にいた若者は杖を振った。鴨に似た顔の若者はディアマンテを抱いて挨拶《あいさつ》をして、私にも「|元気かい《サニー》」と地元の言い方で聞いた。私は頷《うなず》いて、「|元気だよ《サニー》」とやはりこちらの言い方で答えた。
「叔父さんはあそこだよ」
フィオリートは私たちに柵の中を示した。パエジオは、暴れる羊を股《また》の間に挟もうとしていた。羊は脚をばたばたさせてもがいていたが、両膝に押さえこまれ、小さいけれどもがっちりした腕にひっくり返されると、とうとう動かなくなった。パエジオは短刀を腹帯から外して、薄汚れた毛を刈っていった。羊は瞼《まぶた》をぴくぴくさせて、全身の注意をパエジオの動きに集中させている。その様子は、強姦《ごうかん》される時の女を思わせた。
鮫童子《さめどうじ》の下で密貿易をしていた時、海賊を働いた船に女がいれば攫《さら》ってきて犯した。鮫童子の隠れ屋敷にしばらく引き留め、飽きると奴隷商人に売りとばした。鮫童子の部下たちに混じって、私も数回、その仲間に加わったが、捨て鉢になって股《また》を広げている女と交わっても、さほどおもしろくはなかった。女を殺すよりも、まだひどいことをしている気持ちになって、私はやめてしまった。
毛を刈られ、ひとまわり小さくなった羊が柵《さく》の外に飛ぶように逃げていくと、パエジオはもこもこした抜け殻のような羊毛を麻袋に入れてから、こちらに歩いてきた。柵の前に来ていた私たちにはとっくに気がついていたようで、出入口に着くなり、「司教が亡くなったってな」と話しかけた。
「今朝、死体を埋めたところだ」
昨夜、村に来たというフィオリートから伝わったのだろうか、それにしても耳が早いものだと感心しながら、私は答えた。パエジオは柵から出てきて「死ぬ前に」といいかけて、立て続けにくしゃみをした。羊の毛の残りが鼻をくすぐったようだった。羊飼いは小鼻を親指で潰《つぶ》して、手鼻をかんだ。透明な鼻汁が矢のように草地に突きささった。それから何事もなかったように続けた。
「天の国に逝ってきたといいなさったんだと」
「なぜ、知っているんだ」
司教が死んだ時、ディアマンテはその場にはいなかった。そのことを知っているのは、〈山の彼方〉の住人だけだ。誰か村人と親しい者がいるのだろうかと考えている私に、パエジオはしたり顔で頷《うなず》いた。
「人はお喋《しやべ》りにできている」
そして私とディアマンテの背中を押して、柵から離れた。
「さあ、乳酪小屋を見せてやろう」
私たちは三軒の小屋のうち、最も大きな建物に連れていかれた。床板もない長方形の家だ。丸太と丸太の間をわざと空けて風通しをよくしている。壁際にはぐるりと棚が設けられていたが、乳酪を入れるらしい、小穴の空いた丸い形の容《い》れ物は、空のまま片隅に積み重ねられている。パエジオは私たちを中に入れるや、「アンペッツォはどうだった」と、姪《めい》に尋ねた。ディアマンテは私を横目で見て、「タルタル人の姫君が裸で踊っていた」といった。
「カルロから聞いたよ」
私はぶっきらぼうに答えた。そこには、ディアマンテがカルロを誘惑したことも知っているという含みもこもっていた。ディアマンテが何か言い返そうと口を開きかけたが、パエジオが遮った。
「見世物より、〈ゴンドラ殿〉の妹さんだ。見舞いに行ったんだろう」
「うん。行ったよ」
見世物の話の腰を折られたディアマンテは不機嫌そうに口を開いた。
「痩《や》せて、今にも死にそうだった」
「ほんとうに耐忍《エンドウーラ》をしていたのか」
パエジオは聞いた。ディアマンテは頷いた。
「もう水しか飲んでないんだって。亭主のお母さんが鶏の煮汁を飲まそうとしたけど、断っているといっていた」
「じゃあ、ほんとうにやってるんだ」
腕組みしたパエジオが、灰色の髭《ひげ》がざらざらと生えた顎《あご》を撫《な》でながら呟《つぶや》いた。ディアマンテは壁の棚に尻を押しつけて、濃い眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ、そんなことが気にかかるの、叔父さん」
「〈ゴンドラ殿〉の妹は、子供の時から知っている。なにかというと、めそめそ泣いている気の弱い女だった。それがよく耐忍なんかを決心したもんだと思ってな」
ディアマンテはますますわけがわからない顔をした。
「あんた、ジャコモの妹に惚《ほ》れていたんじゃないか」
「おれが、あの泣き虫の女に」
私の言葉に、パエジオはそっくり返って笑いだした。
「違うか」
私は聞いた。パエジオの目に一瞬、痛みのようなものが走って消えた。そして羊飼いは、羊の毛がいっぱいついた上衣を叩《はた》いた。
「くだらないことに気を揉《も》むのはもうよそう。さあて、お次は羊飼いの台所を見せてやろう」
パエジオは陽気な口調で、私たちをひんやりした乳酪小屋から押しだした。
台所とは、乳酪小屋から少し離れたところにある三方素通しの小屋だ。竈《かまど》と麺麭《パン》焼き炉の背後に石壁を築き、そこに屋根を差しかけただけというほうが当たっていた。
「ここが、わしらの宴会場だ」
パエジオは、差しかけ小屋の真ん中に立って腕を広げた。
「夏の夜は楽しいぞ。森の妖精《ようせい》や狼人間、人喰《ひとく》い鬼を呼んで、夜の更けるまで歌い踊るんだ」
「また、そんなこといって、叔父さん。酔っぱらっておかしげなものを見るだけでしょ。聞き飽きたわよ」
ディアマンテは叔父の肩を叩くと、柵《さく》の中で羊の毛を刈っている二人のうちの一人に手を振った。
「ジャンルーカ、あたしにも羊の毛を刈らせてよ」
ジャンルーカという若者が返事の印に、短刀を宙に放りなげて器用に受けとめた。ディアマンテはそちらに走っていった。見ていると、柵の中に入って羊を捕まえ、上衣の裾《すそ》をまくりあげて跨《また》がり、ジャンルーカから短刀を受け取った。そして、他の羊飼いに負けない素早さで羊の毛を刈っていった。
「うまいもんだよ、ディアマンテ。城で男の尻の毛でも刈ってたか」
ジャンルーカがはやしたてた。
「あんたの尻の毛を刈らなかったからって、妬《や》くんじゃないよ」
もう一人の羊飼いが大声で笑いだしたので、股《また》の間で押さえていた羊が逃げだした。体半分の毛を刈っただけの姿だ。それを捕まえるために、出入口のフィオリートも巻きこんで、またひと騒ぎ続いた。
「楽しそうだな」
私はいった。パエジオは腕組みして、柵の中の追いかけっこに目を細めた。
「若い時はいい。雨が降っても雪が降っても、暑くても寒くても、おもしろいことは転がっている。一人で羊の群れを連れて山を歩くのも、仲間と一緒に騒ぐのも楽しい。たまに村の女が訪ねてくると、天にも昇るほど幸せだ。野に連れだして寝ることのできる娘ができれば、もういうことはない。そうやっているうちに幾つもの夏と幾つもの冬が過ぎていく。気がつくと、若い女と騒ぐには歳《とし》がいきすぎ、重い荷物を背負って山を歩くと足腰が痛むようになっている。体とは、霊魂を入れた袋だ。袋はやがて綻《ほころ》びてくる。革袋の綻びは繕えるが、体の綻びは繕いようはない」
パエジオは小さな黒い瞳《ひとみ》で私を見た。
「あんたの袋もいずれ綻びるよ、ザンザーラ」
私は、まあな、と答えた。
「だけど、おれの袋は今のところ丈夫なもんだ。いろんなものを入れられる。あんたの袋だってまだまだ使えると思うがな」
「わしの袋は綻びつつある。自分でもそれはわかるさ」
羊飼いは石積みの竈を押すようにして、体を動かした。そして、台所の小屋から出ていくと、私を三軒目の小屋に連れていった。そこは乳酪小屋の半分ほどの広さで、窓もない暗い部屋がひとつあるきりだ。布を垂らしただけの入口から入る光に、両側の丸太の壁にくっつくように作られた粗末な寝台が浮かびあがった。地面が剥《む》きだしたままの床、壁の杭《くい》には外套《がいとう》や頭巾《ずきん》がかけられ、寝台には羊の毛皮や毛布がかかっている。狭い小屋の中は粘つくような羊の臭いと男の体臭に満ちていた。パエジオは、ここで五人の羊飼いが眠るのだといった。
「乳酪作りが始まったら、村から親方《マエストロ》や手伝いの者が来て賑《にぎ》やかになるけど、それまではこんなもんだ」
パエジオが入口を覆う布を落としたので、小屋の中は見えなくなった。私たちは小屋に背を向けて、どちらからともなく羊の毛を刈っている柵の中に目を遣《や》った。ディアマンテは次の羊の毛を刈っているところだった。二人の羊飼いは自分の仕事を中断して、何かはやしたてながら眺めている。少し離れた斜面で羊の番をしていた別の羊飼いも、顔を捻《ひね》って柵のほうを見物していた。
羊の啼《な》き声と羊飼いのからかい声、女のはしゃぎ声が雨上がりの澄んだ青空に響いている。空を丸く縁取る、雪を戴《いただ》く山の尾根と緑の森。私とパエジオは、羊飼い小屋の前に生えた二本の木のようにそこにじっと佇《たたず》んでいた。私の爪先《つまさき》は地面に埋まり根を広げ、私の髪の毛は四方に伸びて若葉をつけた。根の先から吸いあげる大地の水が私の血となり、髪の毛の先で葉がざわめくのを感じた。私は〈龍の背中〉の一部になっていた。
「ディアマンテを妻にしないか、ザンザーラ」
突然のパエジオの言葉に、私は地面に下ろした心の根を引っこ抜いた。
「いったい、なにをいいだすんだ……」
パエジオは、羊飼いの間でふざけている姪《めい》の姿を目で追いながら、あの娘はあんたが気に入っている、といった。
「なぜ、おれだけを気に入っているとわかるんだ」
ディアマンテは、カルロやリザルドとも寝ている。村の他の男とも怪しいものだ。たくさんの愛人の中で、どうして自分だけ気に入っているといえるのかという意味を含んでいた。
「ディアマンテは好奇心の強い娘だ。自分にないものを男たちに求める」
その含みは伝わったらしく、パエジオは答えた。
「だから、ただの村の男ではなく、羊飼いや〈山の彼方〉の者に惹《ひ》かれるんだ。しかし、羊飼いの暮らしは、男だけのものだ。女には入ってこれない」
パエジオは、山の斜面に肩を寄せあう粗末な三軒の小屋を顎で示した。
「女にできるのは、たまに遊びにくることだけさ。そして、また自分の村に戻っていくしかない。〈山の彼方〉の者にとっては、婚姻は罪悪だ。あの娘は、はちきれんばかりの好奇心を持て余し、小さな村で男たちとふざけてばかりいる。あの娘には、心を家に縛りつける鎖が要るんだ。一生かかっても飽きない、タルタル人みたいな相手がな。でなきゃ、村を飛びだして、娼婦《しようふ》にでもなるのがおちだろう」
私の頭をフェルトレで会った娼婦の顔が過《よ》ぎった。貴婦人になることを一生の夢と考えていた女。あの女も、もとはディアマンテのような娘だったのだろうか。
「おれは旅の者だ。いつかは村を出ていくぞ」
「あの娘を妻にすれば、あんたはこの村で受け入れられる。ここに住みつけばいいんだよ」
そんなことは考えてもいなかった。私は戸惑い、言葉を失った。パエジオは腕組みして、なだらかに下っていく草地を眺めた。その草地はやがて灌木《かんぼく》となり森となり、村のある緑の谷と連なっていた。
「羊は冬に生まれて、その年の秋には野原のあちこちでまぐわっている。次の冬には、子を生んで親となる。雌の乳が出るのは、春が五回巡ってくるまでで、後は年老いて死んでいくだけだ。人の場合はもっと長い時が要るが、獣も人も生きる流れってのはみな同じだろう。子を持つ季節、働く季節、死ぬ季節というものがあるんだよ。わしにも若い時、妻をもらって子を持つ季節があったが、羊飼いとしてあちこちさまよっている間に逃してしまった。一度、逃した季節は、後から走っても追いつかない。わしは自分の肉体の袋が綻びるまで、羊飼いのままさまよい、どこかの野原で朽ちていくのだろう。それでいいと思っているが、たまに自分の家が、暖かな炉端が欲しくなる時もある。あんたも、そんな時が来るかもしれない」
パエジオは、小さな黒い瞳《ひとみ》を釣り針にして、私をひっかけるように見た。私は、口を開きかけて、何をいいたいのかわからなくなった。先のことはわからない。わからないままに、こんな西の涯《は》てにまでやってきてしまった。いったい、この私に、これからのどんな人生が描けるというのだろう。
「羊飼いの戯言《ざれごと》だ」
パエジオは、肉厚の手で私の背中をどやした。
「わしの頭に閃《ひらめ》いたことにすぎん。実際、あの娘の親は、異教徒のタルタル人が婿になると聞いたら、卒倒するほど怒るだろう。そうなったら、司教みたいに天の国に逝けるかもしれんがな」
羊飼いは片目をつぶってみせた。どこまで冗談か本気かわからない男だった。パエジオは、〈善き人〉に贈る羊毛を用意するといって、羊の柵のほうに歩きだした。ディアマンテが二頭目の羊の毛を刈り終わり、さすがに飽きたらしく短刀を男に返しているところだった。
「だが、羊飼いってのは、先を見通す力があるといわれている」
パエジオは、ついていく私と肩を並べると小声でいった。「ほんとうなのか」と聞くと、頬《ほお》にうっすらと笑みを浮かべた。
「羊を連れて村から村を旅するわしらの耳には、いろんな話が伝わってくる。そんな話を考えながら、草地に座って一人で過ごす。考えはさまざまなところに広がり、先が見える時もある」
ディアマンテが柵に腹を押しつけて、叔父《おじ》に手を振った。すでに被り物はかなぐり棄《す》て、黒髪が肩に広がっていた。浅黒い顔には白い乱杙歯《らんぐいば》が覗《のぞ》き、どこか獣めいて見えた。パエジオは姪に頷いてみせてから、私に向かってにやりとした。
「知っているか。ディアマンテの名前の意味を。金剛石《デイアマンテ》ではないぞ、|神の愛人《デイオ・アマンテ》さ」
16
鮫童子《さめどうじ》と一緒に密貿易や海賊をしていた頃、私にはいつも愛人がいた。臨安《キンサイ》の寡婦や酌婦と、鮫童子の隠れ屋敷の下女や囚《とら》われてきた女たちだ。会えば心のかけらを女に預け、そのひとときだけ肉体を任せて抱き合った。
女が、心のかけらではなくすべてを欲しがり、ひとときではなく常に肌を合わせていたいと望むようになると、私は後ずさりするように離れていった。
女には用心しないといけない。気を抜くと、好きだの惚《ほ》れただのと口走るようになり、相手のことが頭から離れなくなる。相手の過去や、今していることが気にかかり、そのことを確かめたくて口うるさくなり、居心地のいい繋《つな》がりをめちゃくちゃにしてしまう。すべて心を齧《かじ》られたせいだ。心を囓るのは、死者だけではない。生きている者だって囓る。心を囓られ続け、相手の胃袋にすっぽり納められてしまうと、もうおしまいだ。こちらも相手の心を囓り、お互いの胃袋に納めてしまうとまだ助かる道はある。しかし、自分の心だけが相手の胃袋に納まっていると、破滅しかない。相手を追いかけまわし、お互いの暮らしを踏みにじる。それで相手の態度が冷たくなると、絶望のあまり自殺してしまいかねない。
マッダレーナは、神に心を喰《く》われてしまった女だ。心は、神の胃袋にある。だから自分の家を棄ててまで神を追いかけまわしている。幸い相手は生身の人間ではないから、つきまとわれても怒ったりはしない。優しげな顔をして、マッダレーナの辿《たど》りつけない天の国で手招きしているだけだ。この追いかけっこは死ぬまで続くだろう。神こそマッダレーナの愛人なのだ。
マッダレーナを犯そうとした翌日、私たちはペラガローネの村を後にした。遠くの山の頂が雪で白くなっているのを見て、マッダレーナは、もうそれ以上、筏乗《いかだの》りの帰りを待って出発を引き延ばすことはできないと判断したのだった。材木屋の少年に途中までの道案内を頼んだのだが、その子が引き返した後のことを考えて、私をお払い箱にはしなかった。前夜の私の行いを非難もせず、淡々と朝の挨拶《あいさつ》をして、出発を告げただけだった。マッダレーナが私の陰茎を握り、私がその手の中で白い血を放ったことも、闇《やみ》と共に溶けて消えてしまったかのようだった。
私たちは渓流沿いの岩場を黙々と歩き続けた。旅の間中、麺麭《パン》と水だけで過ごし、潔斎のために、朝から水しか飲んでないマッダレーナの足取りは弱々しかった。何度か息を整えるために足を止め、そのたびに私たちは寒風の吹きすさぶ崖《がけ》に刻まれた道で休むこととなった。しかし私が袋を持ってやろうとしても、マッダレーナは頑として自分で持つと言い張った。〈太陽をまとう女〉が入っているせいだろうが、もしかしたら、前夜のことが内心では尾を引いていて、私との間にどんな関わりも持ちたくはないのかもしれなかった。
日が傾くまで歩き続け、上流から流されてくる丸太を堰《せ》き止める水門のところに出た。少年が、今夜は水門|脇《わき》にある小屋で泊まろうといいだした。日暮れまで歩き続ければもっと先に行けただろうが、マッダレーナはすでに立っているのもやっとのありさまだった。私たちはその小屋に泊まることにした。窓も寝台もない、土間の真ん中に四角い炉が石で築かれているだけだ。それでも枯れ枝を集めて炉に火をつけると、暖かな光が小屋に広がり、人の家らしく見えた。
納屋を借りていた農家で用意してもらった食糧は、砂混じりの硬い麺麭だけだ。少年が乳酪を持っていたので、私は金を払って半分分けてもらった。乳酪と麺麭を水で流しこみながら、私は少年と火のそばで話をした。話といっても、他愛《たわい》ないものだ。羊の肉が喰いたいと少年がいえば、私は豚の肉が喰いたいといった。蜂蜜《はちみつ》を塗った揚げ菓子だ、と少年がいい、私は饅頭《まんじゆう》と続けた。饅頭が何か知らない少年に、その味を説明し、少年は私に木苺《きいちご》の菓子のうまさを教えてくれた。食べたことのあるものも、話に聞いたことのあるだけのものも、知っている食べ物の名前をすべていい尽くすと、私も少年ももの悲しい気分になって黙ってしまった。その間、マッダレーナは炉端に転がった切り株に腰を下ろして、水をちびちび飲んでいるだけだった。
あんた、よくそんなものだけで生きていけるな。
焚《た》き火越しに話しかけると、マッダレーナは、意味がわからないというふうに首を傾げた。
肉も乳酪も卵も食べない、毎日毎日、水と麺麭だけ。いい服も着ない、男とも寝ない。そんな暮らしのどこがいいんだ。私が言葉を続けると、マッダレーナはこけた頬《ほお》にうっすらと笑みを浮かべた。
あなたには、すべてを棄てた時の清々《すがすが》しさというものはわからないのでしょう。
おれは生まれ故郷の花旭塔津《はかたつ》から逃げだしてきた時、無一文だった。奴隷としてヴェネツィア商人に買われた時も、自分のものは何も持ってなかった。だけど少しも清々しいとは思わなかった。私は答えた。
するとマッダレーナはまた、自分が辛《つら》いめに遭ったかのような悲しげな表情をした。それが私の気に障った。
おれの苦労は、おれのものだ。おれの痛みも、おれのものだ。あんたに分かち合ってもらう必要はない。
マッダレーナは鼻先を削《そ》ぎ落とされたみたいな顔をした。
あなたはなんと頑固なのでしょう。あなたはなんと自分というものにしがみついているのでしょう。わたしがいっているのは、そういうものをすべて棄てることです。慾《よく》も、怒りも苦しみも、異性への愛と呼ばれる感情も、自分自身すら棄てる。そんなものを棄てきった時の清々しさです。
そんなことしたら、自分が自分でなくなってしまうじゃないか。
炎に照らされたマッダレーナの顔に、からかうような表情が広がった。
自分が自分でなくなることが怖いのですか。
この女は、頼りなげな様子をしていたかと思うと、こうして突然切り返してくる。
そうだ、怖いのだ。私は心の中で返事した。口に出してはいわなかったのは、格好悪かったからだ。自分を棄てるとは、たぶんこんな、格好悪いとか、威張りたいとか、恥をかきたくない、というような気持ちを棄てるということなのだろう。しかしそうやって心を取り巻く感情を棄てていった先に何が残るのだろう。そこに残るのは、果たして私だろうか。誰か別の人間になるのではないか。それがわからないから怖いのだと思った。
あんたは自分を棄てたのか。
私は質問を返した。マッダレーナは膝《ひざ》を抱えて、わたしは夫と子供を棄てました、と呟《つぶや》いた。豪奢《ごうしや》な夫の屋敷も棄て、結婚する時に父に贈られた婚資のお金も、〈太陽をまとう女〉の代金をあなたに支払うために使いきってしまいました。
あの十リラが、マッダレーナ個人の金だとは知らなかった。私は足許《あしもと》に置いた革袋に目を遣り、少し後ろめたさを味わった。それを覆い隠すために、私は言い返した。
ちっとも返事にはなっていない。あんたは自分を棄てたのか。
マッダレーナは考えるように、骨が透けて見えそうな細い顎《あご》を反らせた。材木屋の少年はいつか居眠りをはじめていた。私は炉に息を吹きかけて、弱くなった炎をまた掻《か》き立てた。外はもう暗くなっているのだろう。木々が風に騒ぐ音が聞こえていた。
自分を棄てるためには、まず、自分に属するものすべてを棄てなくてはいけません、とマッダレーナはゆっくりと口を開いた。そうやって自分の中にある欲望や汚れや卑しさを棄てていき、善きことだけをする人になるのです。慈愛と優しさと善良さの塊となってはじめて、神の御許《みもと》に赴くことができるのです。神の国に迎えいれられるのです。
その言葉に、私は心を囓られた者特有の熱狂を感じ取った。
あんたは神に惚れているのか。
神はそのような対象ではありません、とマッダレーナは激しい調子で言い返した。
神は男じゃない。だから裏切ることもないし、追いかけても逃げることもない。
マッダレーナは、目の下の肉をひきつらせた。
汚らわしい。神への信仰を、男女の肉慾から来る感情と一緒にしないでください。
いったいどこが違うというのだ。神に惚れることと、人に惚れることは。あんたは自分を棄てたのか。男への気持ちを、神への愛とやらにすり替えているだけではないのか。
マッダレーナは何かいいかけたが、その言葉を発することはできなかった。
小屋の戸が乱暴に開け放たれ、三人の男が飛びこんできたのだ。足許に置いていた蒙古《もうこ》刀を抜く暇もなかった。村で二、三度見かけたことのある材木屋の男が私の喉《のど》に短刀を突きつけ、毛皮の外套《がいとう》を着こんだ男が私を羽交い締めにした。三人目の男は黒ずくめの外套を翻して、マッダレーナの腕を押さえつけていた。不意打ちをくらって、私たちは瞬く間に手足を縛りあげられた。
もう逃げられないぞ、夏桂。
毛皮を着た男がいった。聞き覚えのある声に顔をあげると、目の前に立っていたのは、かつての私の旦那《だんな》、ヴェネツィア商人マルコだった。
17
山の天気は変わりやすい。朝方には青空が覗《のぞ》いていたのに、太陽が昇るに従って鉛色の雲が広がりはじめ、昼前ともなると空は灰色から黒色の幾筋もの帯を横に張り渡した物干し場のようになってしまった。水分を含んで重く垂れ下がった帯は、山々の尖《とが》った尾根に今にもくっつきそうだ。あの帯が破れると、雨が降ってくるのだと思いながら、私は絶壁の彼方にある曇天から足許に置かれた水桶《みずおけ》に視線を戻した。縦に半分に割った木を刳《く》りぬいて作った樋《とい》を伝ってちょろちょろと流れてくる清水は、まだ桶の半分にも達していなかった。
城の裏手の岩場には、絶壁を流れる清水を引きこんで水場が作られている。毎日、昼食前にそこの水を汲《く》んで、厨房《ちゆうぼう》の飲み水用の水瓶《みずがめ》をいっぱいにしておくのは、いつか私の仕事となっていた。
丸い桶の中に灰色の空を映して揺れている水面を見ていると、ヴェネツィアのポーロ家の中庭の井戸で何度となく水汲みをしたことを思い出した。あれはこの前の夏のことだった。糞尿《ふんによう》と腐った魚の臭いのする都で私は暮らしていたのだ。聖マルコ広場やリアルト橋の雑踏、運河にひしめく小船、帆を大きく孕《はら》んで外洋に出ていく大型船。それらの光景は、奴隷の身でなくなったとたん、夢の中の出来事のように遠ざかっていった。しかし、それが水上の都で育《はぐく》まれた単なる悪夢ではなかったと思い知らされたのは、あのペラガローネの上流の小屋でマルコに捕まった時だった。
マルコやニコラ師の弟子の若造が追ってきているとは、この時まで考えもしなかったのだから、おめでたい話だ。〈太陽をまとう女〉が聖杯だと信じている輩《やから》にとっては、私たちは地の涯てまでも追いかけるに値する泥棒だったというわけだ。
材木屋の男と少年が小屋から出ていってから、マルコと修道士がこそこそと話しているのを私はじっと見つめていた。ちらちらとこちらを横目で窺《うかが》っているところから、私たちをどうしようか相談しているのはわかった。やがて修道士も小屋から出ていき、マルコが葡萄酒《ぶどうしゆ》の杯を手にして、私に近づいてきた時には、心の中の何者かが注意しろと叫んでいた。
マルコは優しげな声で、今夜は寒くなりそうだからこれでも飲んで体を暖めておけ、と葡萄酒を差しだした。冗談混じりに、毒でも入っているんではないかというと、びくっと手が震えた。
しょせん、この男は商人なのだ。顔色ひとつ変えずに、こんな品物はどこにでもあるといってのけ、高価な品を買い叩《たた》くことはできても、虫を殺すように人を殺すことはできはしない。マルコは私たちを毒殺することに迷いを覚えていた。私が、あんたはニコラという坊主に利用されているのだというと、ますますうろたえたようだった。私は時間を稼いで縛っていた縄を解こうとしていた。マルコたちは私たちを縛るのに、小屋に放りだされていた朽ちた縄を使ったので、なんとかちぎれそうだったのだ。しかし、縄が切れる前にマルコがいった。
おまえは父を傷つけた。
そして私の鼻をつまんで、頭を後ろに傾けさせた。息が詰まると、つい口を開けそうになる。マルコは杯を手にして、私が口を開くのを待っていた。隣にいたマッダレーナが、やめなさいと叫んで、マルコにぶつかっていった。マルコは横倒しになり、その拍子に毒杯が宙に飛び、こぼれた葡萄酒が顔にかかった。その時のマルコの恐怖に満ちた顔ときたらなかった。奥歯をかたかた鳴らしながら、毛皮の外套の袖《そで》で必死に顔を拭《ぬぐ》いだした。
ちょうど私の手を縛っていた縄が切れたのは幸運だった。顔を濡らした毒入り葡萄酒をマルコが一生懸命に拭《ふ》きとっている間に、私は足の縄も解き、マッダレーナを連れて夜の闇《やみ》の中に逃げだしたのだった。
マルコはあれからどうしただろう。毒が顔にかかっただけでは死んだとは思えない。聖杯を追って、まだ私たちを探しているだろうか。私は四方を囲む山々を見渡した。遠くの山々は灰色の霞《かすみ》に包まれ、影のような尾根の線が横に連なっている。
シムズは去っていった。ベルナルド司教は死んだ。〈山の彼方〉がこれからどうなっていくかわからない。そうは思っても、緑に包まれた静かな谷間は、危ないことなぞ起こりそうもない平和な場所に見えた。
ざあざあという音に気がつくと、桶の縁から水が溢《あふ》れだしていた。私は水桶を持って厨房へと歩きだした。
「アルミド師は司教にならないかもしれないんだってね」
大広間から厨房に続く階段を昇っていくと、アレグランツァの太い声が聞こえた。
細長い窓からの弱々しい光しか入ってこない厨房には、女たちが集まっている。初夏といっても、石造りの城の中でじっとしていると日中でも底冷えする。このところ村人から贈られた羊毛を鉄の歯のついた四角い櫛《くし》で梳《す》いたり、撚《よ》ったりして、織物にするための糸を作っている女たちは、曇天の日は暖かな炉のまわりに座って仕事を続けていた。
「アルミド師がならないなら、誰がなるのかしら……」
炉から立ち昇る煙に引っこんだ目を瞬《しばた》かせながら、アンナがおずおずと口を挟んだ。アレグランツァは生まれてくる子供が男か女か考える親のように、楽しげにいった。
「あたしはアンジェリコ師かパンドルフォ師だと思うな」
今朝から〈善き人〉たちが祈りの場に集まって、今後のことについて話し合いをしていた。次の司教になるはずのアルミドの具合が悪いので、しばらくは皆の話し合いで〈山の彼方〉の方針が決められるのだという。その話し合いのため、いつもの糸撚りの顔ぶれ、ボーナ婆《ばあ》さんもマッダレーナもリディアも手仕事の輪にはいなくて、信徒のアレグランツァとアンナが勝手な想像を巡らせていたのだった。二人は、厨房の中央にある炉の前の長椅子《ながいす》に並んで座っていた。夕食後の説教の時には、男の〈善き人〉たちが占める暖かな場所を陣取って、二人の信徒は嬉《うれ》しそうだった。長椅子の端にはディアマンテもいたが、こちらはいかにもつまらなそうに葱坊主《ねぎぼうず》の形をした糸巻き棒から糸を引きだしては、唾《つば》をつけた指先で撚って錘《つむ》に巻いていた。
水桶を持った私が厨房に現れると、三人の女は一斉にこちらに顔を向けた。
「ザンザーラはどう思う。誰に次の司教になって欲しい」
アレグランツァが聞いてきた。私は炉の横を通り抜けながら、「おれにはさっぱりわからん」と答えた。
飲み水用の水瓶は、麺麭《パン》焼き竈《かまど》の横にある。竈の下では薪《まき》が燃え、麺麭の焼ける香ばしい匂《にお》いが漂っていた。水桶の中身を水瓶に注ぐと、八分目までいっぱいになった。私は窓辺の調理台に立っている二人の少女に「これでいいか」と声をかけた。
姉のキアーラが爪先立《つまさきだ》って水瓶の中を覗きこみ、小さく頷《うなず》いた。そして額に浮かんだ汗を被り物の裾《すそ》で拭いて、また野菜を刻む仕事に戻っていった。料理係のアレッサンドラも〈善き人〉の集まりに出ているため、昼の準備をしているのは娘のキアーラとソニアだ。白い前掛けをつけた少女たちは、生《き》真面目《まじめ》な顔をして忙しげに野菜を切ったり、桜桃や無花果《いちじく》の実を洗ったりしている。
「水を水差しに汲んでおこうか」
手伝ってやる気になって聞くと、キアーラは唇の端をぴくりと動かして少し微笑《ほほえ》んだ。はにかみやの少女たちが私と言葉を交わすことはまずない。それでも、姉娘が私の申し出をありがたがっているのはわかった。
私は棚に並んだ素焼きの卓上用水差しを手にすると、水瓶の中の水を移しはじめた。
「あんたも、ここの暮らしにすっかり慣れたみたいだね、ザンザーラ」
糸巻き棒をくるくる回しながら、アレグランツァがいった。私は三個目の水差しを炉の縁に置いて、そうかな、という意味をこめて唇を曲げた。
「ここはいいでしょ。みんなが一緒に仲良く暮らしてる。この世で他には、こんなところ、ないわよ」
アレグランツァが、同意を求めてアンナを振り向いた。アンナはアレグランツァの鏡に映った像のように、そっくり同じ仕草で頷き返した。
私は、アンナはアレグランツァに惚《ほ》れているのではないかと疑っている。というのも、時々、女が男を慕うような目で見つめているからだ。
「あんたも信徒になって、ずっとここにいればいいのに」
アレグランツァがそろりといった。まただ、と私は思った。自分たちの仲間に引き込もうとするこの類《たぐい》の誘いを受けるたびに、私は身を硬くする。
「そうもいかないさ。今におれもシムズみたいに出ていく」
反発から思ったより強い口調になった。
「ここを出て、どこに行くの、ザンザーラ」
ディアマンテがぱっと私を見つめた。姪《めい》はこのままだと村を出て、娼婦《しようふ》にでもなってしまうだろう。パエジオがそういっていたことが頭を過《よ》ぎった。アンペッツォに行くためにカルロを誘ったように、村から出ていくために私も利用されかねないと思った。
「さあな。東のほうに帰るかもしれないし、わからない」
私は曖昧《あいまい》に答えた。ディアマンテは考えるような顔つきで指を唾で湿した。そしてまた糸撚りに戻っていった。
私があからさまに信徒になることを断ったせいで、厨房には気詰まりな空気が流れていた。七個の水差しに水を容《い》れて、大広間の食卓に並べると、私はそのまま中庭に出ていこうとした。その気配を察したのか、「ザンザーラ」と、キアーラが私を呼んだ。厨房に顔だけ出すと、少女は木の椀《わん》に入った野菜汁と小さな麺麭の塊の載った盆を差しだした。
「これ、アルミド師のところに持っていってくれるとありがたいんだけど……」
ヴェローナから戻って以来、体調のすぐれないアルミドはまだ起きて働く元気はなく、寝たきりだ。食事も寝室で摂《と》っている。食事はいつも姉妹が交替で部屋に運んでいるが、今日は手が回らないのだ。私は木の盆を受け取った。
外に出ると、空はますます重く垂れさがり、山の頂は灰色の雲に頭を突っこんでいた。湿った風に吹かれながら奥の庭に面した建物の横の塔に足を踏みいれた。二階に通じる階段の昇り口に、祈りの場と、その背後にある〈善き人の家〉への入口が並んでいる。盆を手にして暗い塔の中を横切っていると、祈りの場から声が洩《も》れてきた。
「かつては各地の教団で揉《も》め事があると、〈|大地の間《メデイテラネオ》〉の海の東方なら、コスタンティノポリの〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉に、西方ならアルピの奥のこの〈山の彼方〉に相談して指示を仰いでいたものでした」
喉《のど》が詰まったような響きは、アンジェリコの声だった。次期司教は、このアンジェリコになって欲しいとアレグランツァがいっていたことを思い出して、私はそっと祈りの場を覗きこんだ。中央の二本の柱を囲むようにして、〈善き人〉たちが立っていた。白々とした窓から入る光は、人々の顔の輪郭しか照らしだしてはいない。窓辺に作りつけた石の長椅子に座る老齢のボーナとシルベストロの表情だけがはっきりと見えた。
「しかし〈海の彼方〉は倒れ、〈山の彼方〉もまた往時の勢いは失われ、他の教団と大差はない田舎の教団となってしまいました。この憂うべき状況を変え、〈山の彼方〉を失われた〈海の彼方〉の役割も担うほどの聖所としなくてはいけないでしょう」
他の者より頭ひとつ高いアンジェリコが発言し終えると、輪になった人々のいくつかの頭が動いて同意を表した。
「アンジェリコ師のお言葉はもっともだ」
口に出して賛同したのは、パンドルフォだった。
「亡くなられたベルナルド司教は守りの姿勢が強すぎた。司教の在位の間に、われらの動きは萎縮《いしゆく》してしまった。その轍《てつ》を踏んではならない」
「それは違う」
クリストファノが怒りの声を上げた。
「ベルナルド司教が命を懸けてシルミオーネで布教したことをご存知ないのか。それで二百人近くの〈善き人〉が生まれたのだぞ」
「そして、ヴェローナで火炙《ひあぶ》りになった。過去の話だ。その後、〈山の彼方〉の司教になられてからは、自ら他の教団との交渉を控えてしまわれた。そしてトスカナやナポリ、シチリアの教団は次々と消えていった。今や教団があるところは、ミラノとデセンツァーノ、マントヴァ、それにこのトレヴィーゾ一帯だけだ」
「他の教団とは意見が合わなかったのだ。マントヴァの教団もミラノの教団も、トレヴィーゾの教団すら、悪神は、唯一神なる善神の創られた天使ルシフェルが堕落したものだったなどという曖昧《あいまい》な説を信奉している。この世の始まりから、善神は善神、悪神は悪神として、天と地の如くふたつに分かれていたという事実を認めるにはあまりにも臆病《おくびよう》なのだ」
「ベルナルド司教は、教義の行き違いのために分裂した教団をまとめる仕事を怠った」
他の者よりひとまわり大きな影がいった。その重たい訛《なまり》からエンリコだとわかった。
「あなたは、ベルナルド司教から救慰礼《コンソラメンタム》を受けたために、その事実から目を逸《そ》らしている」
クリストファノのずんぐりした体が、隆々たる体躯《たいく》のジェルマニア人に飛びかからんとするように揺れた。しかしなんとか押しとどまり、唸《うな》るように言い返した。
「あんたなら、分裂した教団をまとめられるというのか」
エンリコは一呼吸置いて言い放った。
「わたしはそのために〈海の彼方〉から遣わされてきた」
人々の影が波のように揺れた。
「そんなことがあるのか」
「〈海の彼方〉は失われたのではなかったか」
薄暗い広間に声が湧《わ》いた。エンリコはその声が静まるのを待って、また口を開いた。
「コスタンティノポリにあった〈海の彼方〉は確かに壊滅した。だが、そこにいた〈善き人〉たちは、ブルガリアやスロヴェニア、ダルマチアといったバルカン地方に散っていった。バルカン地方こそ、われらが教えの生まれた場所。もとの地に戻っていったに過ぎない。今では教団としての〈海の彼方〉はなくなったが、その志を継いだ者たちはまだ残っている。わたしはかつての〈海の彼方〉の司教だったアリストディオス師について、ブルガリアの教会で教えを受けた。師はすでに天の国に逝ってしまわれたが、その遺志は、〈海の彼方〉と〈山の彼方〉をひとつにして、再びわれらが教えをこの地獄に大きく広め、肉体から肉体へとさまよい続ける霊魂を救ってやってくれというものだった。師から手紙を託されたわたしはここに来て、真っ先にベルナルド司教に会って、そのことを伝えた。しかし司教は、神の教えは今に顕《あきら》かとなる。そうなったら、教団をまとめるというだけだった。神の教えが顕かになるとはどういうことか、さっぱりわからない。逃げていただけなのだ。以後、司教は〈海の彼方〉の意向を無視しつづけていた」
「そうではありません」
マッダレーナの声が響いた。
「ベルナルド司教は時機が来るのを待っておられたのです」
何の時機だ、とエンリコが聞き返した。マッダレーナは言葉を噤《つぐ》んだ。
私には何のことかわかった。『マリアによる福音書』だ。司教は、それが訳されるのを待って、ローマ教会や自分たちの教団に向けての神の書として突きつけるつもりだったのだ。
「あなたは、神の教えが顕かになる、という意味を知っているのか」
エンリコがまた聞いた。誰もがマッダレーナに注目していた。〈善き人〉は嘘《うそ》をつけないはずだ。私は、マッダレーナは『マリアによる福音書』のことを白状せざるえないだろうと思った。
「それは、今わたしたちが直面していることとは関わりはありません」
マッダレーナは突き放した。
「わたしたちがなさなくてはならないことは、ベルナルド司教のできなかったことをあげつらうことではなく、この場にいる一人一人が〈善き人〉であることをまっとうしていくことでしょう。そうすることによって信徒もついてくるのだし、教団も栄えていくことでしょう。〈山の彼方〉のあるべき姿なぞを議論するのは愚かなことです。わたしたちは、自分たちの足許《あしもと》を固めることから始めなくてはならないのです」
「まったくだ、足許を固めるところから始めないといけない」
エンリコはあっさりと同意した。
「ベルナルド司教は、一度、救慰礼を受けて〈善き人〉となった者が大きな罪を犯した場合、密《ひそ》かに救慰礼を授け直すことによって清められるとしていたな」
広間にいた人々の動きが凍りついた。窓からの明かりに照らされたボーナとシルベストロの顔つきから、その言葉が〈善き人〉たちにとって喉元に刃《やいば》を突きつけたほどの力があることがわかった。エンリコもそのことは承知していたのだろう。余裕たっぷりの様子で声を張りあげた。
「〈海の彼方〉でも、ブルガリアやスロヴェニアの教団でも、そんな子供騙《こどもだま》しは通用しない。本来のわれらが教えは、そのような甘いことはいってはいない。一度罪を犯した〈善き人〉は、再び〈善き人〉になることはできない。大きな罪だろうが小さな罪だろうが、罪は罪だ。救慰礼を受けた者の過ちは赦《ゆる》されない。例外を認めていけば、堕落したローマ教会と同じになってしまうではないか。足許を見直すとは、そういうことだ。ここにいるわれらのうちにも、もはや本来の意味では〈善き人〉ではなくなった者たちが混じっている。〈山の彼方〉の今後を考えるには、その問題から見直すべきではないか」
誰も何もいわなかった。人々は薄闇《うすやみ》の中に消えさってしまったようだった。立ち聞きをしているうちに、盆の野菜汁が冷めてしまいそうだったから、私はそっと戸口から離れた。
アルミドのいる〈善き人の家〉は、ふた間続きの部屋から成っている。手前の部屋には、三、四人が一緒に寝られる寝台ふたつ、奥の部屋にはひとつ置かれていた。しかし寝たきりのアルミドのために、奥の部屋の壁際に藁《わら》で作った一人用の藁床が特別に設けられていた。
私が奥の寝室に入っていくと、アルミドは寝台に横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。石壁に縦に切り込まれた細い窓から入ってくる光に、すっかりやつれてしまったナポリ人の横顔が浮かんでいた。近づいていくと、そのこけた頬《ほお》が涙に濡《ぬ》れていることがわかった。
「どうしたんだ」
アルミドは目だけ動かして私を認め、拷問で潰《つぶ》されて篦《へら》のようになった指先で涙を拭《ぬぐ》ったが、小さく鼻を啜《すす》りあげただけで返事はしなかった。私はそれ以上、問うことはしないで、盆を差しだした。アルミドは頭を左右に振った。
「食べないと、体は弱る一方だぞ」
浅黒い頬に幾筋もの皺《しわ》を刻んで、アルミドは唇を震わせた。喉《のど》から掠《かす》れ声が洩《も》れたが、声にはならなかった。寝台は、祈りの場とを隔てる壁に接している。石の壁を通して、誰かがぼそぼそと話す声が聞こえていたが、何をいっているかはよくわからなかった。私はアルミドの藁床の縁に腰を下ろすと、野菜汁を匙《さじ》ですくって口に持っていってやった。しかし、アルミドはそれを屈辱と受け取ったようだった。力をこめてかぶりを振ると、細い腕を支えにして、なんとか自力で半身を起こした。体を動かしたはずみに、薄汚れた灰色の内衣の下から糞尿《ふんによう》と腐っていく肉の臭いが漂ってきた。私は体を起こしたアルミドの膝《ひざ》の上に盆を置いた。
かつての陽気さを失ってしまった〈善き人〉は、のろのろと木の椀《わん》を取った。その時、壁の向こうからエンリコの太い声が響いた。
「再度、救慰礼を受けることは無効だ」
アルミドの手から椀が滑り落ち、野菜汁を飛び散らせながら床に転がっていった。しかしアルミドはそんなことも気がつかないように、両手の中に顔を埋めた。
「死ぬ間際に信徒に救慰礼を施し、俄《にわか》仕立ての〈善き人〉にして、天の国に送りこむのも無効だ。その後、耐忍《エンドウーラ》をしても無駄だ。そんな小手先騙しで霊魂は天の国に戻ることはできない」
エンリコの声が続いていた。私は椀を拾い、アルミドの膝から盆を取りあげて、椀と一緒に窓辺に置いた。そして、野菜汁で濡《ぬ》れたところに、藁床から引き抜いた藁を置いて足で踏んだ。
「どうしたというんだ」
呻《うめ》きながら肩を震わせている男に、私は声をかけた。アルミドは指の間から私の顔を見つめ、それからゆっくりと手を顔から離した。背中を枕《まくら》に預けて、弱々しい声でいった。
「わしは……拷問に耐えたんじゃない。……屈したんだ。〈善きクリスト教徒〉の教えを棄《す》てると誓って……釈放された」
私は、やっとこで指を潰《つぶ》されて、すぐさま仲間の名前を白状した父のことを思い出した。その後、父は首を斬《き》られたが、もし生き延びたら、やはりアルミドのように後ろめたさに苛《さいな》まれたかもしれなかった。
「わかるよ。誰だって痛いめには遭いたくないものな」
アルミドは大きな口の端に、ちらりと笑いを浮かべた。
「そういってくれるのは、あんたが異教徒だからだ。だが、それはやってはいけないことだったんだ。わしはジュリアーノのように火炙《ひあぶ》りにされるべきだった。だが、わしは自分に負けた。信仰を貫くことができなかった。苦痛から逃れたい一心だった」
エンリコの声はもう低くなっていた。〈善き人〉たちが言い合う声がざわざわと聞こえている。アルミドはまだ拷問が続いているように苦痛に顔を歪《ゆが》めた。
「釈放されて、ジュリアーノが火炙りになるのを見てから後悔が襲ってきた。わしはなんという恥ずかしいことをしてしまったのかと思った。そのまま姿をくらまそうかと考えた。その時、ベルナルド司教の顔が浮かんだのだ。すべてを司教に告白したら、もしかしたら、もう一度、救慰礼《コンソラメンタム》を授けてくださるかもしれない。この罪は赦《ゆる》されるかもしれない。やり直せるのではないかと。わしは這《は》うようにして戻ってきた。なのに司教は死に……エンリコは再度の救慰礼は無効だといいだした……もうだめだ、わしは悪しき死を迎えるしかない。もう天の国には逝けない」
老人の繰り言のようにくだくだと愚痴をいい続けようとするアルミドを、私は遮った。
「たいしたことないじゃないか。天の国に逝けないなら、またこの世に生まれ変わって、やり直すだけだろうが」
アルミドは息を止めた。そして涙で赤くなった目を見開き、まじまじと私を見つめた。私は、あんたたちの考えではそうだろう、とつけ加えた。
「あ、ああ」とアルミドは喉《のど》に痰《たん》が詰まったような声で答えた。
「ベルナルド司教はいわれていた。霊魂は、肉体から肉体へと移る間に真理を学んでいき、やがてはすべての霊魂が天の国に戻っていくと」
だとしたら、ずっと先のいつか、西の涯《は》てのすべての者が〈善き人〉になる日が来ることになる。私は口を曲げた。
「おれには、それがほんとうかどうかはわからん。だが、人は蝶《ちよう》みたいなものかもしれない。卵から出て、虫になったり、蛹《さなぎ》になったりしながら、最後には蝶になって飛びたっていく」
アルミドは顔をくしゃくしゃにさせた。また泣きだしたのかと思ったら、笑っているようだった。
「異教徒に慰められるとはな」
ナポリ人は手で濡れた目をこすって、にやりとした。ほんの少し、昔のアルミドが戻ってきた。私は野菜汁を取ってくると告げ、椀を手にして厨房《ちゆうぼう》に引き返していった。
18
私には、罪が赦されるとか、赦されないとかいうことがわからない。罪というものがわからない。なぜ〈山の彼方〉の連中が、そのことに対して必死になるのかわからない。
人は確かにまちがいを犯す。まちがいとは、自分が同じことをされたら厭《いや》だと思うことをすることだ。自分でまちがったことをしたとわかる場合もあれば、まわりの者や役人にそういわれる場合もある。それは体についた目に見えない泥のようなものだ。泥がついているとみなせば、まちがいを犯したのだし、泥ではないとみなせば、まちがいではなかったのだ。
他人に泥だといわれ、自分も泥だと思うならいいが、泥が他人にだけ見えたり、自分にだけ見えたりすることもある。さらには、それはただの土でできた泥ではなくて、反吐《へど》だとか糞《くそ》だとかいわれると、話はややこしくなる。〈山の彼方〉の連中のいう罪とは、泥を反吐とか糞とかいっているようなものだ。
私にいわせれば、それはしょせん泥だ。糞でも反吐でもない、ただの汚れだ。自分の肌が泥に汚れたなら、きれいにすればいい。自分の肌についた泥を落とせるのは、自分しかいない。目に見えない泥だから、目に見えない方法で取るしかない。それには時間がかかるし、唾《つば》を塗って汚れを落とすみたいなわけにはいかない。
私はこれまで無数のまちがいをしでかしてきた。花旭塔津《はかたつ》で私を助けてくれた飯炊き女を慶元《けいげん》の港で棄《す》てたのは、まちがいだったと思う。これまでついてきた無数の嘘《うそ》も、海賊との戦いで、人を殺してきたことも、深く考えればまちがいだ。それらのまちがいの中には、そうしなければ、こちらが死ぬしかない場合もいっぱいあった。生きていくとは、無数のまちがいを犯し続けることだ。死んでもいいから、まちがいを犯すまいと決心したとしても、やはりどこかで新たなまちがいを犯してしまうのではないかと思う。人はせいぜい、自分がまちがっていたと認めて、同じまちがいを犯すことを減らしていくことしかできやしない。それが体についた泥をきれいにするということだ。
泥がきれいに落ちたかどうかを決めるのは自分だ。だが、人は自分に甘くできている。泥がついているか、もうきれいになったか、そんなことを決めるのも曖昧《あいまい》になる。そして生きている間中、同じまちがいを犯し続けることになる。
ただ、まちがえば、結局はしっぺ返しが来る。石を蹴《け》れば、爪先《つまさき》が痛む。空を飛ぼうと崖《がけ》から飛びだせば、落ちて怪我《けが》をする。それが世の流れというものだ。無理なことをすれば、自分や他人の心に抗《あらが》うようなことをすれば、無理は自分に返ってくる。戻ってきたしっぺ返しに気がつかないで、まちがいを繰り返し、自分がどうしてそうなったかわからないまま、泥の中でもがきながら死んでいく。それが人というものかもしれない。
〈山の彼方〉の者にとっては、自分に泥がついているか、いないかを決めるのは、天の国とやらにいる神だ。泥を落として、赦すといってくれるのも神だ。だが、神の姿は見えないし、神の声は聞こえない。だから、神の言葉が書かれているという本をめくっては、自分の行いの是非を確かめている。それが高じて、本に書かれている戒めすべてを守ることを決めたのだ。人を殺さぬ、嘘をつかぬ、金を欲しがらぬ。誓いを立てないとか、肉の交わりをしないなどというような、私にとっては泥とも思えないことまで含めて、きっちりと守ることにした。
しかし、人殺し、強盗、戦い、貧困ばかりのこの世の中で、そんな戒めを守って生きるのは無理な話だ。まちがいのひとつも犯さないで誓いを守り抜くには、早死にしたほうがいいくらいだが、彼らには自分たちの教えを広めるという仕事がある。天の国目指して、さっさと死ぬわけにもいかないのだ。
同じ戒めを守る者同士、〈山の彼方〉に集まって生きることは、〈善き人〉たちにとっては最善の道だろう。ただ、アルミドやジュリアーノのように外に出ていけば、遅かれ早かれ死か破戒かという瀬戸際に立たされる。それ以外に進む道がないというのは、なんと悲しいことだろう。
彼らは頭をぶつけて死ぬ以外にない絶壁に向かって突き進んでいく人々だ。愚かだと思う。それでも私が〈山の彼方〉に居座り続けるのは、絶壁の彼方《かなた》に駆けあがることを求めて、無邪気に全速力で走りつづける姿に惹《ひ》かれるからかもしれない。自分についた泥を必死でこそぎ落としながら、無理としか思えないものに対して突き進んでいく。それがどのような結末を迎えるにしろ、天の国を目指して無心に走りつづける姿には強さがあった。
彼らは神に頼らなくてはならないほどに弱く、神を信じ続けるほどに強いのだ。
19
布教の旅に出ていたゲラルドとフランコが〈山の彼方〉に戻ってきたのは、〈善き人〉たちの集まりが開かれて数日後のことだった。私たちが畑の雑草取りを終えて城に戻り、表の庭で土のついた大鎌や手や顔を洗っていると、城壁の外から、がっちゃんがっちゃんと鉄の鳴る音が聞こえてきた。祭りのような楽しげな響きに顔を向けると、表門の入口に長い影を引いて、二人の男が立っていた。羽毛のような褐色の髪の毛も髭《ひげ》も、もつれるほど長く伸び、外套《がいとう》も靴も泥だらけだ。くたびれた様子の二人の後ろから、鋳掛《いか》け道具を積んだ驢馬《ろば》が、がっちゃんがっちゃんと呑気《のんき》に荷の音を鳴らしてついてきていた。
「ゲラルド師っ、フランコ師っ」
アレグランツァが前掛けに濡《ぬ》れた手をこすりつけて飛びだしていった。畑仕事に出ていたいつもの顔ぶれ、リザルドもカルロもアンナも慌てて立ちあがり、表門に走った。信徒たちは〈善き人〉の前で膝《ひざ》を曲げ、「善きことを」と唱える挨拶《あいさつ》をはじめた。おかげで、しばらくそこは「善きことを」という言葉が小鳥の囀《さえず》りのように湧《わ》きあがった。私は、皆がそのまどろっこしい挨拶を続けている間、放りだされた大鎌や熊手を農具置き場に運んでいった。農具をしまって、また表の庭に出ると、フランコが信徒たちに尋ねる声が聞こえた。
「ベルナルド司教が亡くなったというのはほんとうか」
信徒たちは沈んだ表情で頷《うなず》いた。フランコとゲラルドは、よく似た丸い鼻を突きあわせるようにして顔を見合わせた。
「ヴァルダオラの村で会った信徒の一人に、そんな噂《うわさ》があると聞いたのだが……やはり、亡くなられたのか」
ゲラルドとフランコは幾度もため息をつきながら中の庭に入っていった。リザルドが先に立って、他の者に二人の帰還を知らせにいったので、驢馬から荷物を下ろしている間に、祈りの場で夕刻の祈りを捧《ささ》げていた〈善き人〉たちや、厨房《ちゆうぼう》や仕事場で働いていた信徒たちが集まってきた。中には、昨日から起きだしたアルミドのやつれた姿も混じっている。
「よく戻ってきた、兄弟たちよ」
カルメロが手を広げて二人の肩を抱き、三度|頬《ほお》を擦りあわせた。中の庭は、またもや「善きことを」という挨拶で騒がしくなった。
私が隅のほうに立っていると、厨房から出てきたディアマンテが近づいてきた。〈山の彼方〉の一員ではないこの女も、私と同様、すんなりとは皆の輪に入れないようだった。私たちは家畜部屋の入口に背を向けて立ち、肉の関わりを持つ男女特有の馴《な》れた微笑を交わした。
「パエジオ叔父《おじ》さんがよろしくって」
ディアマンテは私と並ぶとそういった。二人きりになる機会があれば、家畜部屋に忍びこんでそそくさと交わることに時を費やしたから、ゆっくり言葉を交わす機会はそう多くはなかった。
「あれからまた夏小屋に行ったのか」
「ううん。葡萄酒《ぶどうしゆ》がなくなったからって、叔父さんが家に取りに来たのよ。羊の乳搾りを始めたので、二、三日中に乳酪造りに入るって」
ディアマンテは、私を上目遣いに見て、乳酪造りが始まったら、また一緒に見にいかないかと聞いた。男を操ろうとする時、女はいつもこんな手を使う。カルロはそれに乗って、アンペッツォ村の見世物見物につきあわされた。
「行くなら一人で行くさ」
素っ気なく答えると、娘の瞳《ひとみ》に怒りが走った。そして、ぷいと私から離れて、挨拶を続ける人々の中に入っていった。
夏小屋に乳酪造りを見に来いというのは、パエジオの入れ知恵だったろうかと私はふと思った。未だもって、なぜあの羊飼いが、自分の姪《めい》を妻にするようになどという馬鹿げたことを勧めたのかわからなかった。
〈山の彼方〉の人々は、まだゲラルドとフランコの肩を抱いたり、頬を擦りあわせたりしている。カルロとリザルドが気をきかして驢馬の荷物を降ろしている。中庭の四角く切り取られた空は、夕焼けの茜色《あかねいろ》に染まっていた。その下で羊の群れのように集まって、頭を下げたり、抱き合ったりしている人々は、ひとつの大きな家族に見えた。
ここ数日、〈山の彼方〉には硬い空気が漂っていた。食事時の会話も活発ではなく、夕食後の説教も、語るほうも聞くほうもあまり熱が入らない。〈善き人〉たちは、野菜汁を啜《すす》りながら、仕事に汗を流しながら、落ち着かない様子で、時折仲間の顔を盗み見ている。先の集会でのエンリコの発言が、〈善き人〉の内に波紋を投げかけたせいだろうと私は思っていた。しかし、
ゲラルドとフランコの帰還で、そんなものが一時的にせよ消えていた。
「あなたたちのいない間に、ここでは不幸が重なった」
ひととおり挨拶が終わると、カルメロが旅から戻った二人に告げた。ゲラルドが、司教の死は知っていると答えた。
「それだけではない。大子のジュリアーノはヴェローナで火灸《ひあぶ》りになった」
ゲラルドとフランコは、申し合わせたかのように、奥の庭に通じる門の前に立っていたアルミドを振り向いた。杖《つえ》に縋《すが》って、なんとか歩いている状態のアルミドは、びくっと背筋を伸ばした。一人だけ無事に戻ってきたことを非難されるのを怖れるかのようだった。もちろん、〈山の彼方〉の者すべてがそうだったと同じく、二人もアルミドを詰《なじ》ることはなかった。憔悴《しようすい》したナポリ人に近づいていって、大変だっただろう、と同情の言葉をかけただけだった。アルミドはそれを受けて、泣きだしそうになった。
「悪い話ばかりですね」
ゲラルドが仲間を振り向いていった。
「さらに悪い知らせをお伝えしなくてはならないのが残念です」
不安げな面持ちを浮かべる仲間の前で、ゲラルドはフランコに目配せした。おまえがいえ、というふうにフランコが顎《あご》を動かし、ゲラルドは頬を膨らませて息を吐いた。きっと子供の時から、この従兄弟《いとこ》同士はそんな仕草を交わしてきたのだろう。
「旅の途中、耳にしたのですが、異端審問官がこのあたりを回っているそうです」
ゲラルドがいったとたん、波のようなものが人々の間を走り、誰もが言葉を呑《の》んだ。
「この春、ピエーヴェのローマ教会の司祭にアクイレイア総大司教からのお達しが来たそうです。アルピの山中に異端カタリ派がはびこっている噂《うわさ》がある。異端審問官を派遣するから、調査に協力するようにと。すでに異端審問官はピエーヴェの助祭と二人で、カドーレの村を巡って、カタリの者たちを知らないかと尋ねまわっていると聞きました」
拷問の辛《つら》さを思いだしたのか、アルミドが真っ青になって杖に縋りついた。ベンベヌートが近寄って、震える肩を支えるのが見えた。それがきっかけに人々は口々に、「今、どこにいるのだろう」「ここにまで来るのだろうか」とざわめきはじめた。
「まだ、この村にまで来ると決まったわけではありません」
アンジェリコが声を張りあげた。それで、人々の動揺は和らいだようだった。
「とにかく中に入りましょう」
アンジェリコが大広間へと人々を促した。あたりは暗くなりつつあった。さっきまで全て茜色に輝いていた空の端は、菫色《すみれいろ》に変わりはじめている。〈善き人〉も信徒たちも、ゲラルドとフランコを囲んで大広間に流れこんでいった。
中庭には、荷物を降ろされた驢馬が一頭、残された。私はその驢馬の手綱を取ると、庭を挟んで大広間とは反対側の家畜部屋に連れていった。飼い葉の臭いの漂う部屋には、すでに畑から戻された牛が二頭、繋《つな》がれていた。窓や戸口から入ってくる光は弱く、物の影しか見えないところで、長旅に疲れた驢馬に水と飼い葉を遣《や》っていると、背後で物音がした。肩越しに振り返ると、戸口に被り物をした女が立っている。男一人の家畜部屋に忍びこむ女といえば、ディアマンテしかいない。
「今は駄目だ。さっさと家に戻ったがいいよ、ディアマンテ」
私は蠅を追うように手を振った。
「あの娘なら、もう帰りました」
返ってきたのは、マッダレーナの声だった。私は慌てて手を引っこめた。マッダレーナは後ろ手で入口の戸を閉じると、家畜部屋に入ってきた。
私の言い方に、ディアマンテとの肉の交わりを感じさせるものがあっただろうか。頭の中でそんな想《おも》いが駆けめぐった。しかしそれを嗅《か》ぎ取ったとしても、暗い部屋の中ではマッダレーナの表情はつかめなかった。
「『マリアによる福音書』を見せてください」
瑪瑙色《めのういろ》の瞳の女は、私の近くに来て囁《ささや》いた。
「あれは……」といいかけた私を、女は遮った。
「新しい司教が決まってからでは遅いのです。お願いです。見せてください」
その声には、どこかせっぱつまった響きがあった。
「なぜ新しい司教が決まってからでは遅いのだ」
私は聞いた。マッダレーナは少しためらってから口を開いた。
「アルミド師は正式に司教を辞退しました。そうなれば、このままでは……エンリコが司教になるだろうからです」
次の司教は、アンジェリコだという見通しばかり聞いていたから、私は、おや、と思った。
「エンリコは、ベルナルド司教の行った二度目の救慰礼《コンソラメンタム》は無効だといっているんだろう。そんな男を司教にしたら、困るんじゃないか」
マッダレーナの顔に痛みのようなものが走り、いい加減血の気のない頬《ほお》がますます白くなった。
「どうして……そのことを知っているのです」
マッダレーナは衝撃から立ち直ろうとするように細い声で聞いた。私は肩をそびやかして、「盗み聞きは、おれにとって罪じゃないもんでね」と答えた。暗くてマッダレーナの表情はわからないが、あまり機嫌がよさそうではないだろうと思った。
「それが正しいことなら認めないといけません」
ようやくマッダレーナが応酬した。言外に、私が盗み聞きしたことは正しくないことだといっていた。しかし、私は無視したし、マッダレーナもそれにこだわるほどの余裕はなかった。
「ベルナルド司教の行いが正しかったか、正しくなかったか、わたしたちは確かめないといけません。エンリコは正しくなかったといっています。〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉のやり方がそうなら、このままではエンリコの言い分が正しいとなるでしょう。そして正しい者こそ、司教となる資格があるのです」
「だったら『マリアによる福音書』は、その正しいエンリコに手渡せばいいだろう」
「エンリコがまちがっていることもあります」
マッダレーナは素早くいった。
「ただ、今のわたしたちには、ベルナルド司教が正しかったか、エンリコがまちがっているかを決めることができません。二度目や、死ぬ間際の救慰礼について、福音書にはなにも書かれていないからです。でも、『マリアによる福音書』には、それについてなにか書かれているかもしれません」
瑪瑙色の瞳の女の声には、必死なものが滲《にじ》みでていた。ベルナルド司教が正しかったという証拠をつかむことは、よほど大事なことなのだ。ベルナルド司教がまちがっていれば、〈善き人〉の資格を失う者が出てくる。確かにそれは〈山の彼方〉の〈善き人〉たちにとって一大事であるはずだった。私はマッダレーナの言葉をよく考えた。
「あれを読んで司教が倒れたのは、今までの行いがまちがっていたと書かれていたからかもしれないぞ」
わかっています、とマッダレーナは返事した。
「それならそれでいいのです。わたしはただ、エンリコの言い分が正しいことを、はっきりと神の言葉で示してもらいたいのです」
私は黙っていた。時折、身動きする牛の気配と、驢馬《ろば》が飼い葉を噛《か》みつづける音が小屋に響いていた。
「『マリアによる福音書』に、エンリコが正しいという証拠があればいいのです。でも、そうではなく、ベルナルド司教が正しいということが出ていたとしたら、エンリコはあの福音書を握りつぶしてしまうかもしれません。だから先に読みたいのです」
「ベルナルド司教が正しいのなら、なぜひっくり返るほどびっくりしたんだ」
「もっと別の驚くようなことが書かれてあったことも考えられます。すべては福音書を読まないことにはわからないのです」
マッダレーナはじれったそうに声に力をこめ、私の顔に息がかかるほど近くに身をかがめた。
「ベルナルド司教のなさった事が、まちがいとは思えないのです。〈善き人〉に再度、救慰礼を受けさせたり、死ぬ間際の人に救慰礼を受けさせたりすることのどこがいけないのでしょう。そうやって救慰礼を授けられた人々が天の国に逝けなかったということを、簡単に受け入れることはできないのです」
「そうなら、あんたが死ぬ間際の筏乗《いかだの》りに授けた救慰礼も無駄になるものな。おれが楽師に授けた偽りの救慰礼と同じように、効き目なしということになる」
マッダレーナは、罠《わな》に勘づいた狐のように、私から後ずさった。被り物の裾《すそ》が私の手をかすめて過ぎた。
私は皮肉っぽいことをいってしまったことを後悔した。それと同時に、集会でのエンリコの言葉を洩《も》れ聞いて、めそめそ泣いていたアルミドの姿が頭に浮かんできた。
「わかった。福音書はあんたに見せよう」
感謝の言葉をいいかけたマッダレーナを制して、条件がある、と続けた。
「おれにもわかる言葉で、福音書を読んで聞かせてくれることだ」
マッダレーナは当惑したように、なぜ信徒でもないのに、福音書に興味を持つのかと聞いてきた。ただの好奇心だ、と私は答えた。ベルナルド司教が倒れたほどの内容だ。関わりのない者だって、どんなものか知りたくなって当然だろうといった。なんとしてでも福音書を読みたいマッダレーナは厭《いや》とはいえなかった。不承不承|頷《うなず》くと、いつ見せてくれるのかと、たたみこむように尋ねてきた。
「今夜、奥の門の上のシムズのいた部屋で待っている」
「わかりました。シムズのいた部屋で」
マッダレーナは、私の気が変わるのを怖れるように早口で応じると、家畜部屋の戸を開いた。中庭にはすでに蒼《あお》い闇《やみ》が降りてきていた。夕食の支度がはじまったのか、正面の大広間の松明《たいまつ》の明かりが庭の敷石に落ちている。マッダレーナの影は外に滑りでて、庭の闇に融けていった。
20
食卓には、ゲラルドとフランコの帰還を祝って、茸《きのこ》の酢漬けや干し葡萄《ぶどう》、鱒《ます》の燻製《くんせい》といった珍しいものが並んでいた。大広間の三つの食卓に〈山の彼方〉の全員が座ると、いつものようにカルメロが祈りを捧《ささ》げた。私ですら暗唱できるようになったほど聞き飽きた祈りが終わり、小子のアルミドが麺麭を割って分けると、やっと食事がはじまった。一日中、外で畑仕事をしていたから、腹は悲鳴を上げている。鱒の燻製をつまんで麺麭に載せ、かぶりついた。
「東の涯《は》てにも匙《さじ》はあるのか、ザンザーラ」
指についた鱒の脂を舐《な》めていると、隣のカルロが木の匙で野菜汁を啜《すす》りながら聞いた。
「あるけど、ものを食べる時は、匙より木の棒を使うことが多い」
木の棒だって、とリザルドが話に割りこんできた。私は、細い二本の木の棒に食べ物を挟んで口に運ぶのだと説明した。カルロが鼻のまわりに皺《しわ》を寄せ、グイードがぎょろ目を剥《む》いて、「そんな器用なことができるのか」と叫んだ。
「簡単さ」
私はカルロの匙を借りて、自分の匙とふたつ合わせて逆さにして、箸《はし》を使う真似《まね》をしてみせた。匙の柄の間で麺麭のかけらをつまむと、食卓の信徒の目が私の手許《てもと》に集まった。私は得意になって、果物の鉢の中から無花果《いちじく》を挟みとって食卓に置き、箸の先でふたつに分けた。「うまいもんだ」とマウロ爺《じい》さんが呟《つぶや》いたが、その口調にはどこか人真似のうまい猿を見ているような響きがあった。
私はカルロに匙を戻して、麺麭を野菜汁に浸けて口に放りこんだ。カルロは締まりのない笑いを浮かべて、私を眺めた。
「あんたも、おれと一緒に天の国に来れるといいな」
麺麭が喉《のど》に詰まりそうになって、私は咳《せ》きこんだ。
「おれが天の国に逝くだと」
天の国とは西の涯ての者たちの逝くところで、私とは関わりのない場所だと思っていた。カルロは屈託ない表情で頷いた。
「だって、あんたの話、おもしろいんだもの。天の国でも聴けたらいいなと思ってさ」
「おれは天の国には逝かない」
私は、麺麭|屑《くず》の浮いた薄い野菜汁に目を落としていった。〈善き人〉ばかりの天の国の食卓は、やはりこんなものしか出てこないだろう。そう思うと、さほど行きたい場所ではなかった。カルロは悲しそうな顔をした。
「残念だな、ザンザーラ」
私は、おやと思った。この前まで〈善き人〉になれるかどうかもおぼつかない様子だったのに、今では天の国に逝くことを確信している。
「余裕たっぷりじゃないか、カルロ。天の国に逝ける約束でも取りつけたのか」
カルロはにたっと笑った。私の斜め前のリザルドが口を挟んだ。
「この頃、カルロは誘惑に勝って心安らかな日々を送っているんだよ」
そして、おれもそうだけどな、と片目をつぶった。誘惑とはディアマンテのことを指しているのだと、すぐにわかった。
そういわれれば、最近カルロやリザルドが家畜部屋から忍びでてくるところを見たことはない。では、ディアマンテと繋《つな》がっているのは、〈山の彼方〉では私だけとなったのか。競争に勝ったような、ただ一人取り残されたような複雑な気分だった。
「それはよかったな」
私は鉢の中の無花果を取っていった。
「天の国に逝ったら、誘惑にとっつかまってじたばたしているおれに手でも振ってくれ」
その様子を想像したのだろう、少し間を置いてから、カルロが喉を鳴らしてくっくと笑った。
「ザンザーラだって、いつか天の国に逝くさ」
リザルドが空になった野菜汁の椀《わん》を食卓に置いた。
「ベルナルド司教は、すべての霊魂はいずれは天の国に迎えられるとおっしゃっておられたからな」
「それはちがうぞ、リザルド」
突然、背後から太い声が投げつけられて、リザルドはぎょっとして両肩を上げた。〈善き人〉の卓に座っていたエンリコが体を捻《ひね》って、こちらに向いていた。
ジェルマニア人は青い目で細長い食卓に並んだ信徒たちの顔を見渡した。
「この世には断罪されるべき霊魂と、救われるべき霊魂がある。断罪されるべき霊魂とは、天の国より墜《お》ちる時、自ら進んで悪しき神の後に従った天使を指し、救われるべき霊魂とは、悪しき神に力によって無理矢理に地上に拉致《らち》された天使のことをいう」
〈善き人〉の食卓についていた人々もエンリコのほうに顔を向けた。女の卓の者たちも、何事か起きたことに気がついて、会話を止《や》めて振り向いた。それらを充分に感じ取って、エンリコは大広間全体に聞こえる声でいった。
「救われるべき魂は、人の体から体へと移り宿るうちに、やがては真理を悟って天の国に戻っていく。しかし断罪されるべき邪悪な魂は、何度、人の体から体に移ろうとも救われることはない」
カルメロは不審な様子で首を傾げ、パンドルフォは長くて華奢《きやしや》な指で顎を撫《な》でて考えている。アンジェリコは厳しい眼差《まなざ》しでエンリコを見つめた。またもやエンリコの語る言葉が、〈善き人〉の間に波紋を投げかけていた。エンリコはそれをおもしろがるように続けた。
「そして、最後の審判が下される時、救われるべき霊魂はことごとく天の国に還《かえ》り、断罪されるべき魂は地獄たるこの世に永遠に繋がれるのだ」
「最後の審判だと」
ついに〈善き人〉の卓の端にいたクリストファノが立ちあがった。
「そんなものはありはしない。悪しき神の作ったこの世という牢獄《ろうごく》は、すべての霊魂が天の国に還るまで続くだけだ」
クリストファノは両手を広げ、小柄な体を湯の中の卵のように揺らせた。しかし、エンリコは穏やかにかぶりを振った。
「兄弟よ、〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉では、そうはいってはいなかったのです」
「〈海の彼方〉が正しかったと、どうしていえるのだ」
クリストファノは言い返したが、その口調は弱くなっていた。エンリコは自明の理だといわんばかりに、小山のように盛りあがった肩をすくめた。
「〈海の彼方〉は、〈山の彼方〉の母胎だからだ」
なぜ〈海の彼方〉の意向が問題になっているのかわからないゲラルドとフランコは驚いた顔をした。カルメロは心配そうに会話の行方を見守り、アルミドは青ざめた顔で、両手を硬く組み合わせている。そこにアンジェリコがやんわりといった。
「食事中に教義上の問題を語るのは、善きこととは思えませんね」
エンリコはアンジェリコに向き直ると、青い目を細めて微笑《ほほえ》んだ。
「あなたのおっしゃる通りだ。麺麭を呑《の》みこむことと、考えを吐きだすことは同時にはできない」
そして脇《わき》に置いてあった麺麭のかけらを取り、「善きことを」と呟《つぶや》いて頬《ほお》ばった。大広間にいた者全員が見ている中で、ジェルマニア人は何事もなかったかのように食事に戻っていった。馬鹿を見たのはクリストファノだった。公衆の面前で頬をぴしゃりと叩《たた》かれ、文句をいう前に叩いた相手に置き去りにされたような格好となった。クリストファノは納得のいかない表情で長椅子《ながいす》に腰を下ろした。大広間の面々も夕食を続けたが、それ以降、どこの食卓でも会話が弾むことはなかった。
夕食の後かたづけが終わると、人々はいつものように、〈善き人〉の説教を聴きに厨房《ちゆうぼう》に集まった。今夜の語り手はパンドルフォだ。この男は、風で戸が開いたことひとつにも、風の優しい手が戸を押し開いた、などとまどろっこしい言い方をする。座る場所を探して、皆がざわざわしている間に、私はマッダレーナに目配せして厨房から出た。
薄い雲に覆われた夜空に朧月《おぼろづき》が浮かんでいた。中の門の上の柱廊に続く階段が、月明かりにうっすらと照らされている。私はそろそろと階段を昇っていった。柱廊を右に曲がった突きあたりが〈信徒の家〉だ。戸を開いても、中は真っ暗で何も見えない。燭台《しよくだい》を持ってくるべきだったかなと思いながら、がらんとした大きな部屋に足を踏みいれた。家具の位置は頭に入っている。城壁側に頭をつけるようにして並ぶ三つの寝台。その足許《あしもと》に置かれた、信徒の私物を入れる長持。中庭の窓側のへこみには、作りつけの長椅子がある。それらに躓《つまず》かないように手探りで暗闇《くらやみ》を進んでいく。
長持や寝台の縁にぶつかりながらも、なんとか寝室を横切り、奥の小部屋の戸を探りあてた。戸を開くと、崩れた壁から入る月明かりで、かろうじて部屋の輪郭だけがわかった。私は部屋を斜めに横切ると、左手の壁に立てかけてあった板を外した。そこから城壁の間の通路が始まっているはずだが、暗闇しか見えやしない。足許の瓦礫《がれき》の山を跨《また》いで通路に入り、二歩目のところでしゃがみこんだ。壁と床の合わさるところを指で探り、積み石が抜けて穴になっているところを見つけて、中から袋を引きずりだす。布を通して銀貨の丸い縁が感じられた。他の信徒と共用の長持に私の財産を入れておくのは不安で、ここに移し変えてあったのだ。銀貨の袋を脇に置いて、さらに奥に手をつっこむと、細長い紙の筒に指先が触れた。『マリアによる福音書』だ。それを上衣の中に入れると、銀貨の袋を穴に戻し、また通路を歩きだした。手を右側の壁につけていると、やがて壁が右に折れるところがわかる。壁なりに進んでいくと、黴《かび》臭い布が顔にふわりとかかった。布を押しのけたところは、かつてのシムズの部屋だ。しかし、ここも真っ暗で何もわからない。私は椅子を探りあて、それに腰をかけて、マッダレーナを待つことにした。
閉ざされた石の部屋の中は静かだった。暗闇にじっと座っていると、死者の霊になった気がした。肉体は朽ちても、地上に残り、生きている者の心を齧《かじ》ろうと漂っている魂。
暗闇に、人の顔が浮かんだ。目尻《めじり》の下がった無精髭《ぶしようひげ》に覆われた老人の顔。船頭だった母の父、祖父の顔だった。小さな頃、船荷の積み卸しの場に顔を出すと、肩車をしてくれた。祖父の丸く禿《は》げた頭に両手を載せていると、嵐《あらし》の時の海の波だとか、凪《なぎ》の時の波だとかいって、全身を揺すった。嵐の時には私は悲鳴をあげて祖父の首根っこにかじりつき、凪の時には背筋を伸ばして、水平線の彼方《かなた》を探るようにあたりを見渡した。祖父の顔の下には、祖母の顔が浮かんでいる。いつも母と何かひそひそ話をしていた物静かな老女。夫が死んでから、私の家で一緒に暮らしていたが、父や私、弟たちを怖れるように肩を縮めていた。視線を横に動かすと、その背後の暗闇には、父と母の顔があった。弟や妹たちもいる。笑いながら死んでいった鮫童子《さめどうじ》もいる。慶元《けいげん》で娶《めと》った妻、梅楊《メイヤン》もいる。商人をしていた頃、よく一緒に売春宿に行った遊び仲間もいる。花旭塔津《はかたつ》の幼なじみもいる。私の周囲には、さまざまな人の顔が川原の石のようにひしめいていた。私がかつて出会ったことのある顔もあれば、知らない顔もある。
暗闇の中というのに、瞼《まぶた》に焼きつくほどくっきりと見えた。
闇は空虚なものではない。そこには何かがぎっしりと詰まっている。私は自分の人生を見た。そこにあるのは、私が一生をかけて出会い、出会うだろう人々の顔だった。
きいっと音がして、光が現れた。橙色《だいだいいろ》の光の中に細い女の顔が浮かびあがった。マッダレーナだ。手に持つ燭台に、がらんとしたシムズの部屋の床や壁が照らしだされ、私を取り囲んでいた顔は瞬時にして消え失せた。
「遅くなりました」
マッダレーナは戸を閉めると、息を弾ませていった。
「エンリコとアンジェリコが教理のことでまた言い合いをはじめたものですから」
「あんたたちは議論ばかりしている」
半ば皮肉でいうと、マッダレーナは私の前まで歩いてきて、息を吐いた。
「教理がしっかりしていないと、人をまとめることはできません。でも教理にこだわりすぎると、ただ神を信じるという単純な信仰心を忘れてしまいます」
マッダレーナは、シムズの机の上に燭台を置くと、部屋の片隅の重い椅子《いす》を持ってきて、私の斜め横に据えた。それに座って、椅子の背にもたれた。全身から、疲れたような気怠《けだる》い空気が広がっていた。
「悩み事でもあるみたいだな」
瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は、膝《ひざ》に肘《ひじ》を突いて、両手に顔を埋めた。
「なにも持たず、誰をも傷つけず、ただ善いことだけをして生きていきたい。単純なことなのに、どうして仲間同士で言い争うのでしょうか」
「人というのは、喧嘩《けんか》をしたり、欲張りだったりするものだ」
「わたしたちは人を超えたところを目指しているのです」
「あんたたちのいう神にでもなるつもりか」
マッダレーナは自分がどこにいるのか、誰を相手に話しているのか、突然、気がついたように手を顔から離して、小さく頭を振った。
「『マリアによる福音書』はどこですか」
私は上衣の中に入れていた紙を引きずりだして渡した。マッダレーナは丸めた紙を縛っている革紐《かわひも》を解くと、原文と訳文に分けた。そして、訳文の一枚目を燭台の光にかざし、私の顔に目を遣《や》った。私が頷《うなず》くと、マッダレーナはゆっくりと読みはじめた。
「これはイエスが語り、行った、隠された言葉、隠された秘儀である。これをイエスの第一の弟子であり、第一の対話者であるマグダラのマリアが書き記した」
かつてヘブライ人のシムズが暗唱してくれた冒頭だった。私は腕を組んで、紙に目を落とすマッダレーナの青白い横顔を見つめた。
「イエスはいった。
なんと幸運な者だ、貧しい者は。彼らには、神の王国がある。
なんと幸運な者だ、飢えている者は。彼らは腹いっぱいに満たされるだろう。
なんと幸運な者だ、泣いている者は。彼らは笑うだろう」
『マリアによる福音書』の前半は、イエスの言葉が連ねられているとシムズがいっていたが、その通りだった。〈山の彼方〉の人々がいつも読んで聞かせている福音書の言葉とよく似ているが、もっと素朴でもっと力強い。それは濁った水を通して川底の石を見ることと、川底から石を取りだして陽の光にあてて見ることほどの差があった。
「イエスはいった。
おまえたちにいっておく。敵を愛し、呪《のろ》う者を祝福し、侮辱する者のために祈ってやれ。おまえの頬《ほお》をぴしゃりと打つ者には、反対の頬も向けてやれ。上衣を奪いとろうとする者には、シャツもくれてやれ」
やはり言葉の力強さを感じているのだろう、私のために訳してくれるマッダレーナの声に興奮が混じってきた。
「イエスはいった。
父や母を憎まない者は、わたしから学ぶことはできない。娘や息子を憎まない者は、わたしの弟子にはなれない。
十字架を受けいれて、わたしに従わなければ、わたしの弟子の一人になれない」
マッダレーナは楽しげに次々とラテン語訳の福音書を読み下していった。十二か十三ほどのイエスの言葉が終わると、マッダレーナは四枚目の訳文を机に置き、五枚目の紙を読みはじめた。
「イエスはこれらのことを告げた後に立ち去った。弟子たちは嘆き悲しんだ。彼らは泣きながらいった。
主は逝ってしまわれた。どうやってわたしたちは異邦人の中に入っていき、人々に真実なる人の国のことについて説教することができるだろうか。主の言葉に耳を傾けなかった人々が、どうしてわたしたちの言葉に耳を傾けるだろうか」
福音書の調子はがらりと変わった。これから後半部分なのだ。そこにベルナルド司教をひっくり返らせたほどのことが書かれているはずだった。内容が、聞き慣れていたイエスの言葉ではなくなったので、マッダレーナの訳する声はのろくなった。
「マリアは立ちあがり、すべての弟子を抱きしめた。そして仲間にいった。
悲しんではいけません、思い悩んでもいけません。主の恩恵は永遠にあなたたちと共にあり、あなたがたを守ってくれるのですから。むしろ、わたしたちと共にあり、わたしたちを人としてくださった主の偉大さを賛美しましょう。
マリアがこれをいった時、彼女は弟子たちの心を善きものに変えた。弟子たちは、主の言葉を議論しはじめた。
ペトロはマリアにいった。
姉妹よ。わたしたちは、主が、女たちの中であなたを最も愛したことを知っている。あなたが覚えている主の言葉を、わたしたちに教えてください。
マリアは答えていった。
隠されているものを、あなたがたの前で顕《あきら》かにしましょう。
そこで、彼女はこの言葉を彼らに告げた。
わたしは、と彼女はいった。わたしは、幻の中で主を見ました。それでわたしは、主にいいました。主よ、わたしは今日、幻の中であなたを見ましたと。
主は答えていわれた。
あなたに祝福あれ。あなたは、わたしを見てもたじろがなかった。心あるところに宝がある」
マッダレーナは言葉を切った。そして訳文から顔を上げて眉《まゆ》をひそめた。どうかしたのか、と私は聞いた。
「イエスさまは死んでから、マグダラのマリアの前に幻として現れ、他の弟子たちへの言づてを伝えました。その後で弟子たちの前に現れたのです。この福音書の後半は、死んだイエスさまが弟子たちの前に現れ、再び去った後の弟子たちの会話のようです」
死んだイエスが現れたことを、ローマ教会は死体が蘇《よみがえ》ったと受け取り、〈山の彼方〉では幻が現れたのだと見なしていると、シムズがいっていたことを思いだした。この『マリアによる福音書』では、マリアは、イエスの幻を見たといっている。〈山の彼方〉の考えに沿った言葉だから、私にはなぜマッダレーナがひっかかったのかわからなかった。瑪瑙色の瞳の女は自分に言い聞かせるように続けた。
「死んだはずのイエスさまが、まずマリアや他の女たちの前に現れ、次に十二人の弟子たちの前に姿を現すことは、他の福音書にも書かれています。だけど、ここには別の新たなことが記されています。マリアは、死んだはずのイエスさまに会って、今日、幻の中であなたを見ました、といっているということです。これは弟子たちの前に姿を現す前に、イエスさまは二度、マリアの前に現れたことを意味します。そして二度目に会った時、他の弟子たちには伏せていた重大なことをマグダラのマリアだけに伝えた……」
「さっき、イエスって男は、女たちの中でマリアを最も好きだったとか書かれていただろう。だったら重大なことを伝えてもおかしくはないじゃないか。マリアってのは、イエスの愛人だったのかもしれない」
「なにをいうのです」
マッダレーナは叫んで、私を睨《にら》んだ。また私はこの女の心を逆撫《さかな》ですることをいってしまったらしかった。マッダレーナは続けて何かいおうと口を開きかけたが、言葉を発することはなかった。その時、外から、「わあああっ」という男の悲鳴があがったのだ。
「大変だっ、誰か、誰か来てくれーっ」
奥の庭のほうから助けを求める声がした。マッダレーナが訳文の紙を机の上に置いて、部屋の戸口に走った。
「どうしたんだ」
「なにがあったんだ」
細く開いた戸の間から、人々の声が切れ切れに聞こえた。厨房《ちゆうぼう》で説教を聞いていた〈善き人〉や信徒たちがやってきたのだ。戸口のマッダレーナが振り返り、手振りで明かりを消すように示した。私は机の上に置いていた福音書を丸めると服の下に突っこみ、燭台の火を吹き消した。部屋は真っ暗となり、マッダレーナが外に滑りでた気配がした。私も手探りで戸口に向かって歩いていった。
奥の門の上にある階段から身を乗りだして下を覗《のぞ》くと、松明《たいまつ》や燭台《しよくだい》を手にした人々が、物見の塔の入口に集まっていた。人々に囲まれた一人の男が両手で宙を掻《か》き混ぜるようにして叫んでいた。
「アルミドが、アルミドが自殺した」
21
なぜ、アルミドが死ななくてはならなかったのか。その理由を知っているのは私だけだろう。
翌朝早く、物見の塔の深い穴の底からアルミドの体を縛った綱を引き揚げながら、私は考えていた。
厨房《ちゆうぼう》での議論から抜けだして塔に戻り、亡きベルナルド司教を偲《しの》ぼうとしたフランコは、司教室のある二階からさらに上に続く塔の階段の踊り場に佇《たたず》むアルミドを見つけた。司教室のある建物と同じく、物見の塔の屋根も半ば崩れていて、階段は三階には達していない。階段に囲まれた塔の中心にある四角い空間は牢《ろう》になっていたが、二階と三階の間の踊り場のところで、床も壁も失われ、床を外して囚人を突き落として殺した深い穴が口を開けていた。燭台を手にしたフランコが階段を昇っていくと、アルミドはその前に立っていたという。そんなところでなにをしているのだ、とフランコは聞いた。
生と死の両方に足を置いて悩む者は、どの足をどの側に動かすかを決めるきっかけを探している。アルミドに決心をつけさせたのは、きっとフランコの声だったのだろう。アルミドは大きな口を横に突っぱるように広げて微笑《ほほえ》むと、陽気にいった。
ちょっと旅に出てくるよ。
そしてナポリから来た男は暗い穴に身を翻した。
きききいっ、ぎぎぎ。綱のきしむ音を引きずって、朝の柔らかな光の中にアルミドの姿が現れた。穴の底に降りたリザルドが足首を縄で縛ったために、アルミドは逆さになっていた。即死だったのか、昨夜はまだ生きていたのかわからない。フランコの叫び声を聞いて集まってきた人々は、暗い穴の底に向かって何度も声をかけたが返事はなかった。夜に穴の底まで降りるのは危なすぎたため、夜明けを待って身軽なリザルドが助けにいったのだが、アルミドはすでに息絶えた後だった。
私と一緒に綱を引っ張っていたカルロが、アルミドの足首の綱を解き、下に残っているリザルドのためにまた穴の底に放りこんだ。私はベンベヌートに手を貸してもらって、灰色の上衣に包まれた骸《むくろ》を階段の踊り場に横たえた。機知に輝いていたアルミドの大きな瞳《ひとみ》は光を失い、陽気な言葉を吐いていた口のまわりは黒い血で汚れている。首や手足の骨が不自然な形で折れ曲がり、干からびて死んだ蟷螂《かまきり》のようだ。それを不眠のために腫《は》れぼったい目をした人々が囲んだ。ここまで昇ってくるのが大儀な年寄りを除き、〈山の彼方〉のほぼ全員が顔を揃《そろ》えていた。中にはマッダレーナもいる。ちらちらとこちらに送ってくる気懸かりそうな目つきで、昨夜、この騒ぎのために放りだした『マリアによる福音書』の件をどうするか聞きたがっているのがわかった。しかし人目を忍ぶ話題だけに、今それを話すことはできなかった。
カルメロが「アルミドの霊魂に神の祝福を」と唱えて、細く開かれていた死者の目を閉じた。それを見下ろして、パンドルフォが美しい弧を描く眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せた。
「それにしても、なぜ自殺などしたのでしょう」
「ジュリアーノにベルナルド司教。大切な人の死が続いた。この世にいることに耐えられなくなったのだ」
クリストファノが重々しくいってから、フランコたちのもたらした異端審問官の噂《うわさ》に脅《おび》えたのかもしれないと小さくつけ加えた。
「まさか」
アンジェリコがかぶりを振った。
「アルミドは体が弱っていた。耐忍《エンドウーラ》をして、自らの死期を早めたのでしょう」
「耐忍は死に瀕《ひん》した病人のためのものだ。アルミドは弱ってはいたが、回復してきていた。彼の自殺は耐忍とはいえない」
エンリコに自分の言葉を真正面から否定され、アンジェリコの痩《や》せた頬《ほお》が赤味を帯びた。
「これ以上、この世での罪を犯さないために、死を選ぶ。そのことにおいて、これも耐忍ではないですか」
「アルミドは小子だった。司教となるべき務めがあった。それを棄《す》てて自殺するべきではなかった」
エンリコは冷ややかにいった。再び議論がはじまりそうな気配に、その場にいた〈善き人〉や信徒たちが不安げな表情を漂わせている。アルミドだけが生きている者たちの諍《いさか》いにはまったく関わりはないという涼しい顔をして地面に横たわっていた。
アルミドの霊魂がこのあたりをさまよっていたら、今の会話をどう受け止めるだろうかと私は思った。
どれも的外れの類推だった。ほんとうは、拷問によって教えを棄てた罪の意識が、アルミドを押し潰《つぶ》したのだ。教えを棄てた罪は救慰礼《コンソラメンタム》では償われないということに打ちのめされていた。それに追い打ちをかけたのが、昨夜のエンリコの意見だ。生まれ変わっても、永遠に救われない霊魂があると聞いて、絶望したのだ。しかし、自分の霊魂が救われるものか救われないものかは、大きな罪を犯した今の人生では決してわからない。それはもう一度、人生をやり直して確かめるしかない。旅に出てくるとは、生まれ変わってこの世に戻ってくるという意味だったのだ。
「ああ、畜生。ひどいめに遭った」
明るい声が響き、崩れた壁の向こうにリザルドの顔が突きでた。リザルドは綱を伝って、穴の底からよじ登ってきたところだった。髪の毛には蜘蛛《くも》の巣が絡みつき、顔や手足は泥に汚れている。
「蛇や百足《むかで》はうじゃうじゃいるし、あたりは骨だらけときている。前の領主の機嫌を損ねた奴《やつ》はよっぽど多かったみたいだな」
呑気《のんき》な口調に、エンリコとアンジェリコの間の張りつめた空気が破けた。エンリコは、リザルドの薄い背中をどんと叩《たた》いた。
「ご苦労、ご苦労。ご苦労ついでに、アルミドの死体を片づけてくれないか」
「ひぇっ、まだやることがあるんですかい、旦那《だんな》」
リザルドがおどけて手足が萎《な》えたように手首や膝《ひざ》を震わせたので、あたりに笑いが起きた。
私とカルロがリザルドを手伝うことになり、アルミドの死体を抱えて塔の階段を降りはじめた。死体は、ベルナルド司教の隣に埋めるように命じられた。私たちは、アルミドの死体と土掘り道具を持って、城の表の門から出ていった。
司教を埋めたのは、村に続く小道を少し下ったところの石楠花《しやくなげ》の茂みの奥だった。そこの土は柔らかいので、墓穴を掘るのは楽なのだ。司教を埋めた場所には小さな石が一個置かれている。私とカルロはアルミドの死体を地面に置くと、リザルドの運んできた鍬《くわ》で、朝露に湿った土を掘りだした。黒々とした土が弾けて、中から蚯蚓《みみず》が這《は》いだしてくる。
あたりには初夏の草の匂《にお》いが立ちこめていた。斜めに射してくる朝日が煙ったように筋になっている。その中に横たえられたアルミドの死体は、熟しすぎて地面に落ちてそのまま腐っていく巨大な果物のようにも見えた。
「もうアルミド師の冗談も聞けないんだなぁ」
カルロが鍬を振りおろしながらいった。
「おれたちが天の国に逝ったら、また聞けるさ」
リザルドが答えた。カルロは頬から流れてきた汗を舌で舐《な》めて、にたりとした。
「そうだな。おれたちが天の国に逝ったら、また会えるんだな」
「ああ。ベルナルド司教にも、ジュリアーノ師にも、先に逝ってしまった〈善き人〉みんなに会えるんだ。そこではこの〈山の彼方〉みたいに、みんなが一緒になって楽しくやってるのさ」
リザルドの言葉に、ふんふんと楽しげに頷《うなず》きながら穴を掘っていたカルロの足許《あしもと》で、がつっ、と鈍い音がした。
「あーあ」と、カルロがため息をついたので、私は、どうしたんだと聞いた。カルロはゆっくりと鍬を持ちあげた。その先には、人の腕の先が挟まっていた。肉はほとんど落ちて、蛆虫《うじむし》が這《は》いまわっている。猛烈な悪臭があたりに広がり、リザルドが鼻をつまんで怒鳴った。
「早く土の中に戻せったら」
カルロは鍬を揺すって、腐った腕を穴の底に落とした。私は急いで、その上に土をかけた。それでもあたりに広がった肉の腐った臭いが消えるにはしばらくかかった。
「おれたちはアルミド師の死体を埋めにきたんだぞ。司教さまの死体なんか掘りだして、どうするんだ」
リザルドに文句をいわれ、カルロは司教を埋めたところからできるだけ離れて鍬を振るいだしたが、しばらくして口を開いた。
「司教さまの死体も、やっぱり腐って臭うんだな」
「霊魂を入れた袋はどれも同じだ」
リザルドが答えた。カルロはまた黙々と穴を掘っていたが、やがてぽつりといった。
「袋は同じなのに、中に入っている霊魂はひとつずつ違うんだろうか」
「そりゃあ、違うだろうさ。おれとおまえが違うようにな」
なんか、つまらないな、とカルロは呟《つぶや》いた。いつか鍬を動かす手は止まっていたが、それには気がつかないようだった。
「おれの頭がとろいのはわかっている。天の国に逝っても、おれの霊魂はやっぱりとろいままなんだろうか。だとしたら、天の国に還《かえ》るだけのことがあるのだろうか。この地上で、肉の袋に入っていても同じじゃないか」
リザルドは雀斑《そばかす》の浮いた鼻の真ん中に蠅が止まったような顔をした。そして、鍬を放りだして、「これくらいでいいだろう」といった。墓穴の大きさのことだった。カルロの疑問には答えないことに決めたらしかった。
私たちはアルミドの死体を穴に放りこみ、上を土で覆いはじめた。
「魂ってのは、闇《やみ》の中に浮かんだ人の顔なんだ」
私は自分でも気がつかないうちに、こんな言葉を口に出していた。リザルドは怪訝《けげん》な顔をしたが、カルロは先の自分の問いへの返事だとわかったようだった。期待する表情で私を振り向いた。
「人の顔がそれぞれ違うように魂の顔も違う。だけど、その顔の後ろにあるのは同じ闇だ。魂が闇に融《と》けていけば、どれも同じ闇としてひとつになるんだ」
昨夜、シムズの部屋に座っていた時に見た無数の顔のことだった。あの時には気がつかなかったが、喋《しやべ》っているうちに、そんなものだったのだろうと思った。
「東の涯《はて》ての異教徒の考えだな」
リザルドが、アルミドの死体にかぶせた土を踏みながらいった。私もその横で、どんどんと足踏みして答えた。
「おれの考えだ」
カルロの口の周囲に笑みが広がった。
「おれ、そんな考えも好きだな。霊魂がひとつになるなら、おれの頭がとろいのも誰も気にしやしない」
カルロは鍬を放りだして、私たちの足踏みに加わった。柔らかな土に足の裏がめりこむ。アルミドの死体の上に、私たち三人の足跡がつけられていく。谷間から吹きあげてくる風の中で、私たちは踊るようにアルミドの死体の上で足踏みする。石楠花の茂みの下方には、草葺《くさぶ》き屋根のアッツォ村の家々が集まっている。牧草地に牛や山羊《やぎ》が放たれ、畑仕事に出ている人々の姿が兎の糞《ふん》のようにころころと散らばっている。牧草地の先に光るものは、〈ミンネガルドの楯〉の青い湖面。そしてなだらかな谷の緑が切り立った薔薇色《ばらいろ》の岩山の間を埋めている。
死んだら魂がどうなるかわからない。ただ、いえるのは、その骸《むくろ》はこの地に戻るのだ。骸がそれを生んだ地上に戻るなら、魂もまたそれを生んだところに戻るのだろう。
風に乗って女の声が聞こえた。私たちは足踏みを止めた。村から登ってくる小径《こみち》に、ふたつの人影が現れた。顔を確かめないでも、一人はディアマンテだとわかったが、連れの男は遠目には誰とも知れなかった。二人が石楠花の茂みにやってきて初めて、それは村の有力者ジャコモだと悟った。
ディアマンテはジャコモの腕に馴《な》れ馴《な》れしく手をかけて、何事か話しかけている。ジャコモは何度も頷いては、それに応じていたが、ついと顔を上げ、石楠花の茂みから頭を突きだしている私たちに気がついた。
「これはこれは……」
ジャコモは当惑したように呟いて、ディアマンテの手を振りほどいた。ディアマンテはそれに気分を害した様子もなく、私たちに、こんなところで何をしているのか、と聞いてきた。
「アルミド師が亡くなったんで、死体を埋めていたところだ」
ディアマンテは厚い唇を丸く突きだして、驚きの表情を見せたが、それは本人の知らないうちに男の気をそそる仕草になっていた。ジャコモはアルミドの死を聞いて顔をしかめた。しかし、それは村の集会や広場で、不吉なことを耳にした時に見せるお定まりの表情で、ことさら心を痛めたふうはなかった。
「このところ人の死続きだ……」
「アンペッツォに嫁いだあんたの妹さんの容態はどうなんだ」
アルミドの死体を埋めたところから降りて、リザルドが聞いた。ジャコモはますます顔をしかめて、「元気だ」と答えた。
「夫の母親が無理やり、鶏の煮汁やら肉やら、砂糖やらを食べさせたんだ。元気にはなったが、せっかく司教に頼んでお膳立《ぜんだ》てしてもらった救慰礼《コンソラメンタム》も無駄になってしまった」
ジャコモは苦々しげに続けた。この男はむしろ妹が死ぬことを願っていたようだった。
リザルドは土に汚れた手をはたいて、「ははあ、それで朝っぱらから、愚痴をいいに〈山の彼方〉に来たんだな」とにやりとした。ジャコモは、とんでもない、というふうにかぶりを振り、隣でディアマンテが左右の大きさの違う目を見開いて、「それが大変なのよ」と叫んだ。
「異端審問官がこの村に来るって手紙が届いたんだって、ね」
最後の言葉はジャコモに対してだった。ジャコモはあっさりと重大事を洩《も》らされたことに不満な様子で、ふむ、と頷いた。
「ピエーヴェの代官からの依頼状が来たんだ。十日のうちに、ピエーヴェの教会の助祭と一緒に、異端審問官がこの村を訪ねるから、わしの館《やかた》を宿として使わせてくれという申し出だった」
リザルドとカルロは不安そうな顔を見合わせた。
「そりゃあ……大変だ」
間の抜けた頃合いに、リザルドがようやく掠《かす》れ声で返事した。
「それで、一刻も早く〈山の彼方〉に知らせようと思ってな」
ジャコモはまたせかせかと山道を城に向かって歩きだした。ディアマンテがその後に従った。
リザルドが地面に散らばっていた鍬を集めはじめた。私はアルミドの死体を埋めた穴の上に小さな石をひとつ置いた。城のほうに遠ざかっていく二人を呆然《ぼうぜん》と見送っていたカルロが呟《つぶや》いた。
「おれたち、火炙《ひあぶ》りになるのかな」
いつもは冗談で切り返すリザルドも、今度ばかりは何もいわずに、天に向かって祈る仕草をしただけだった。
22
霧がたちこめていた。刺々《とげとげ》しい葉を茂らせる松や樅《もみ》の間を、白い薄絹の幕がすり抜けていく。空を仰げば、太陽が銀灰色に満月のように輝いている。あたりは静かだ。聞こえるのは、私の息づかいと、足許《あしもと》で押し潰《つぶ》される草の音だけ。霜に覆われた下草は地面の上で捩《ねじ》れ、絡みあい、銀色に輝き、金銀細工師が腕によりをかけて作った装飾品のようだ。少し先の木の間では、灰色の人影が揺れている。頭巾《ずきん》つきの外套《がいとう》の裾《すそ》を翻し、ふらつく足取りで森の中を歩いているのは瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女。木立にまとわりつく霧がその姿を覆い隠し、ややもすると女を見失いそうだ。
これは夢だ。悪い夢だ。私は何度もそう思う。毛織りの外套を通して、凍えるような寒さが滲《し》みこんでくる。空腹の感覚はすでになくなり、体に力が入らない。疲れで、足はもつれ、目は霞《かす》む。誰かに追いかけられる夢を見ると、決まってこうだ。逃げなくてはと気は焦るのに、足が進まない。そして、ついには悪漢に追いつかれ、殺される、と思った瞬間に目が覚める。
だが、今回ばかりは、いくら待っても目覚めることはない。夢ではないからだ。私と瑪瑙色の瞳の女は、マルコと修道士の若造の手を逃れ、一日中、飲まず食わずで山をさまよっていた。
まもなく夕闇《ゆうやみ》が降りてくる。どこかで休もうといっても、瑪瑙色の瞳の女は承知しない。雪が降る前に〈山の彼方〉に着かないと、このアルピの山の中で凍え死にしてしまうのだという。私にとっては、ここはすでに山の彼方《かなた》だ。大海原の波のように広がる山々の峰。歩いても歩いても人の気配はなく、葉を落とした木々が続くだけだ。せめて道らしいものがあれば、この女と別れるのだが、こんなところに一人放りだされては山で迷ってしまうのは目に見えている。私は渋々、マッダレーナの後についていくしかない。先を行く女も、疲れているのは私以上のはずなのに、ゆっくりとはいえ、粘り強い歩調で進みつづけている。気の強い女だ。その紫貝色の唇から吐き出される言葉は天鵞絨《ビロード》のように肌触りがいいが、心の芯《しん》は鋼でできている。
〈山の彼方〉への道が、こんなに険しいとは思わなかった。女の足で辿《たど》れる道ならば、たいしたことはないだろうと高をくくっていたのだ。
まだ遠いのか。
私は先を行く女の背中に声をかけた。もうすぐです、といつもの答えが返ってきた。
この調子なら、〈山の彼方〉とやらに辿りつく前に二人とも行き倒れてしまうぞ。そんな皮肉をいっても、女は取り合わない。
ほんとうに道はわかっているのか。
私は心に抱いていた疑問をぶつけてみた。ペラガローネで少年に案内を頼んだぐらいだ。少年の助けなしで、どうやって迷わないでいけるのか不思議だった。
大丈夫です、と瑪瑙色の瞳の女はいった。神さまが導いてくださいます。
神さまだって、と私は叫んだ。それほど、あてにできないものはない。神の導きより、道を知っている人間に導いてもらいたいのだ、方角もわからないままにさまようのは、死に両手を広げて、いらっしゃい、といっているようなものだ。
このまま山の中で死ぬことになったら、筏乗《いかだの》りにしてやった救慰礼とやらを、おれにもひとつ頼むよ。
マッダレーナがくるりと振り向いた。金色のほつれ毛に縁取られた顔は、怒りで赤くなっていた。
神聖な儀式を冗談の種にしないでっ。
いつもは静かな女が珍しく怒鳴ったかと思うと、華奢《きやしや》な肩が大きくひと揺れして、膝《ひざ》から地面に崩れ落ちた。
私は、腹を抱えるようにうずくまる女に近づいていった。大丈夫か、と聞くと、女は荒い息づかいでこちらを見上げた。頬《ほお》はこけ、目の下にはうっすらと隈《くま》ができていた。
私は、少し休もうといって、瑪瑙色の瞳の女の隣に座った。女は悔しそうな表情をした。自分のために歩みが止まったことが腹立たしいのだ。
西のほうから冷たい風が吹いてきて、粉雪が舞いはじめた。
女は近くの木の幹に縋《すが》って立ちあがった。まだ疲れは取れてないようだが、体を折り曲げて山肌を歩きだした。私は女の様子が気になって、隣を歩きだした。尾根に近づいているらしく、斜面は急になってきた。倒れそうな馬のように、女の顎《あご》が前に突きだされてきた。あたりの霧はますます深くなり、粉雪が舞いはじめた。マッダレーナが不意によろりと倒れた。歯を食いしばって起きあがろうとするが、疲れ果ててもう先には進めない。神はもう女の肉体に奇蹟《きせき》を起こしてはくれなくなった。
粉雪は舞いつづけている。ここのままでは凍え死にだ。私は女の腕を取ろうとした。
触らないで。
瑪瑙色の瞳の女が弱々しく叫んだ。
馬鹿なことはいうな。触れるだけで汚れるなぞ、嘘《うそ》だ。あんたたちは心だ、魂だと叫びながら、なぜそんなに体のことが気にかかるんだ。
触れるというのは、そこに交わりが生まれるのです。
マッダレーナはうつむいた。
それほど、わたしたちは弱いのです。
私はじっと待っていた。粉雪が降りつづけている。霧は深くなってくる。
では、あんたはここで死ぬつもりか。
マッダレーナは〈太陽をまとう女〉の入った袋を見遣《みや》った。ここで死ねば、それを〈山の彼方〉に届けることはできないのだ。
瑪瑙色の瞳の女は決心したように顔を上げた。
助けてください。
私はマッダレーナを背負って歩きだした。
23
薄暗い祈りの場の隅に、酢漬けの莢豌豆《さやえんどう》や玉葱《たまねぎ》の入った壺《つぼ》、干し葡萄《ぶどう》や干し杏《あんず》の鉢などが並べられていた。女たちは土埃《つちぼこり》にまみれた石の床を箒《ほうき》で掃き、男たちは木で簡単な寝台や長椅子《ながいす》を作っている。広々とした広間で交わされる言葉は少なく、ざっざっという箒の音と、材木のぶつかりあう音が響いていた。
異端審問官が来ると聞いて、〈山の彼方〉の人々が考えたのは、城に隠れることだった。遠目には、城は荒れ果てた廃墟《はいきよ》に見える。村人が何も語らなければ、異端審問官はそこに〈善き人〉がいるとは気がつかず、通り雨のように過ぎていくだろうと踏んだのだ。
水は城の裏手に引きこまれているので心配はないが、異端審問官がどれくらい長く村に滞在するかわからないので、食糧はできるだけ多く蓄えることになった。グイードは朝から晩まで粉を挽《ひ》き、ビエトロはそれを片っ端から麺麭《パン》にして焼き、アレッサンドラは二人の娘と一緒に果物や野菜を集めて保存したおかげで、十日ほどは保《も》つということだった。それでも隠れている間、いい加減貧弱な食事がますますひどくなるのは容易に想像できて、私は憂鬱《ゆううつ》になった。
「おれたち、見つかったら、どうなるんだろうな」
私と一緒に寝台を作っていたカルロがいった。ジャコモが凶報を伝えて以来、この男は口癖のようにそのことを憂えている。
「火炙《ひあぶ》りだよ」といってやると、カルロは脅《おび》えと興奮に頬を赤くした。
「火炙りか、ええ、火戻りか。痛いだろうな。だけど、そうなったら絶対に天の国に逝けるだろうな」
四人用の寝台の枠に板を並べながら、私は、ああ、そうだ、と答えた。カルロの無花果《いちじく》形の鼻のまわりに笑みが広がった。鳴り物入りで天の国に迎えられている自分を想像しているのだろう。
私は薄暗く湿った祈りの場で働く人々を眺めた。〈善き人〉も信徒たちも不安と緊張にぴりぴりしながら、身を潜める準備をしている。しかし、床を掃く女の箒を動かす踊るような手つきに、食糧を積みあげる男の動きに、周囲に憚《はばか》るように交わす短い会話の底に、カルロの態度にも通じる興奮ともいえるものが感じられた。
「ザンザーラはいるか」
寝台に板を並べ終わったところに、名を呼ばれた。振り返ると、リザルドが、背後に信徒の若者二人を従えて広間の入口に立っていた。私が、ここだ、と返事すると、リザルドは大股《おおまた》で近づいてきた。
「ダビデとベンベヌートと一緒に、ディアマンテの家までちょっと行ってきてくれないか。寝床に敷く藁《わら》を都合してくれるというんで、取ってきてもらいたいんだ」
とっさに掃除する女たちの中にディアマンテの姿を探そうとして、もうここにはいないことを思いだした。皆が城に隠れることを決めて以来、ディアマンテは自宅にいるように申しつけられていたのだ。
「いいけど、ディアマンテの家はどこにあるか知らないぞ」
「大丈夫、ダビデがわかってる」
リザルドは戸口に立ったまま待っていた華奢《きやしや》な手足をした少年を指差した。ダビデはよく走り使いを頼まれて〈山の彼方〉と村との間を行き来していたがディアマンテが城に来なくなってからは、ますますその回数は頻繁になっていた。私は頷《うなず》いて、ダビデとベンベヌートと一緒に祈りの場を出ていった。
中の庭に面した家畜部屋は、がらんとしていた。城に潜んでいる間、牛や驢馬《ろば》は村人の家に預けることになったのだ。そこで何度となくディアマンテと交わったことを思いだしながら中の庭を通り抜け、表の庭に面した農具部屋に入る。若枝を編んで作った漏斗形の大きな籠《かご》を背負い、私たちは城から出ていった。
昼も過ぎて、太陽は少し西のほうに傾いていたが、まだまだ日射《ひざ》しは強く、夏が近いことを感じさせた。私たちは一列になって、急な坂道を下っていく。司教とアルミドを埋めた石楠花《しやくなげ》の茂みの前を通った時、真ん中のベンベヌートが立ち止まったので、しんがりにいた私も仕方なく足を止めた。ベンベヌートは濃緑色の石楠花の茂みの向こうを、その垂れた目で少し悲しそうに眺めた。
司教が死ぬまで辛抱強く看病したのは、この若者だ。そのことでも思いだしているのだろうと思っていると、先頭のダビデが振り返ってじれったそうに呼んだ。
「おい、ベンベヌート、なにしてんだよ」
ベンベヌートはまた歩きだした。そして二十歩ほど行ったところで、突然、独り言のようにいった。
「ベルナルド司教は、こんな日が来ると予想しておられた」
私は驚いて、へえ、と声を上げた。
「だって司教は気を失ってたんじゃなかったのかい」
先頭のダビデも聞き返した。
「譫言《うわごと》で何度もいっていたんだ。異端審問官が来る、全員、火炙りになるぞって」
ダビデが肩を震わせたので背中の籠が小山のように揺れた。私は、『マリアによる福音書』を手に入れた時のベルナルド司教の話を思いだして聞いてみた。
「フランチアのモンセギュールとかいうところであった、実際にあった話を夢みていたんじゃないか」
知らない、と漏斗形の籠の向こうでベンベヌートは答えた。
「ただ、おれが付き添っている間、何度も何度も、火炙りだ、火炙りだといっていた」
「預言だったんだ」
ダビデが甲高い声で叫んだので、近くの草むらにいた雀が飛びたっていった。
「どんなに隠れても、〈山の彼方〉の者は異端審問官に見つかって、全員、火炙りになるんだ。きっとそういうことなんだ」
捨て鉢になったような口調だった。異端審問官が来ると聞いて以来、〈山の彼方〉の者たちの頭には火炙りのことしか浮かばないらしかった。私は地面に転がっていた土竜《もぐら》の死骸《しがい》を蹴《け》りとばした。
「火炙りが厭《いや》なら、逃げればいいじゃないか。異端審問官が来ている間、山の中にでも隠れていればいい」
ベンベヌートとダビデはそんな考えを初めて聞いたというように、怪訝《けげん》な顔を私に向けた。
「どいつもこいつも、なぜ追いつめられた鼠みたいに、びくびく震えているだけなんだ。なぜ逃げないんだ」
ベンベヌートが皮膚にくっついた瞼《まぶた》を引き剥《は》がすように、二、三度、強く瞬きしてから、自信がなさそうに答えた。
「〈山の彼方〉は、おれたちの家だ。そこを離れることはできないんだ」
「また戻ってくればいいじゃないか。なにも異端審問官相手に肝試しをすることはない」
ダビデもベンベヌートも戸惑いのあまり、言葉を失っていた。二人ともこれまで、考えることは〈善き人〉にまかせっきりにして、自分の頭を使ってなかったのだ。神の教えを受けるように、自分の人生も教えてもらえると思っていたのだろう。
「おまえたちはまだ若い。足腰の萎《な》えた年寄りみたいに、ここにへばりついていることはない。どこに行っても生きていけるじゃないか」
「だけど、ここを出ていったら、〈善き人〉の教えは受けられない」
私は鼻先で笑った。
「おまえたちは一人では生きられないのか」
ベンベヌートは黙ってしまい、ダビデは黄色い歯を剥《む》きだして、ぺっと唾《つば》を吐いた。そして二人はまた山の斜面を降りはじめた。
ベンベヌートは子供の頃、母親に連れられて〈山の彼方〉にやってきて、母の死後も残っている。ダビデはアッツォ村の娘が生んだ私生児で、〈山の彼方〉に棄《す》てられたようなものだと聞いたことがあった。〈善き人〉の教えに従ってはいるが、カルロやグイードのように、大きな挫折《ざせつ》を味わって、ここを選んでやって来たのではない。この二人は私と同じく人生に流されているうちに、〈山の彼方〉にひっかかっただけなのだ。
人生の流れとはそんなものだ。どこに行くともわからずに押し流されているうちに、不意に静かな水の淵《ふち》に着く。そこがあまりに落ち着きのいい場所だったりしたら、また他のところに行くのが面倒で、つい自分で選んで辿《たど》りついたところだと信じてしまいがちだが、それはまちがいだ。流れに運ばれただけで、自分で選んだわけではない。自分で選んで〈山の彼方〉に辿りついた者には、そこから離れまいとする力がある。しかし、ダビデやベンベヌートにはその強さが感じられない。私やシムズと同じように、彼らはただここで休んでいるだけなのだ。
やがて道はなだらかになり、アッツォ村に入っていった。村を取り囲む牧草地では、村人たちが夏草を刈っている。白っぽい亜麻の服を着た男女が大鎌や熊手を振っている。麦藁帽をかぶり、裸足《はだし》になった村人の開放的な笑い声が響いていた。畑には、小麦の穂が緑の波を打っている。枝を編んで作った柵《さく》の縁に咲き乱れる黄色や白の小さな花々。草葺《くさぶ》き屋根に巣を作る鸛《こうのとり》のつがい。鳶《とび》や鶫《つぐみ》の囀《さえず》りに村人の飼っている鶏や犬の声が混ざりこむ。平和な村を歩いていると、火炙りだと騒いでいる〈山の彼方〉が滑稽《こつけい》に思えてくる。
広場に足を踏み入れると、石造りのヅィビリーノ家の二階の窓に、毛布や敷布を干したり掃除をしたりしている女たちの姿があった。異端審問官一行の泊まる部屋を整えているのだ。居酒屋の前で葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲んでいる男たちや、水場で洗い物をしている女たちが、そちらを眺めてはこそこそと話し合っている。異端審問官が来るという噂《うわさ》はすでに村中に広がっているらしい。
私たちが広場を横切っていくと、人々が挨拶《あいさつ》を送ってきた。使い走りをしているダビデの名を呼ぶ者も多い。おとなしいベンベヌートや無愛想な私とは違い、ダビデはきさくに挨拶を返している。
ダビデは、広場から西に向かう小道に入っていった。丘陵地にある村の西の一郭には、六、七軒の似たような二階建ての木造の家々が並んでいる。どれも一階が石造りで、二階から上は木造。外階段があって、外から直接二階の部屋に昇っていける形になっている。その中のどれかがディアマンテの家だとは私も知っていたが、ダビデが目指したのは、西から二番目の家だった。二階の手すりには洗濯物が干され、軒下には四角い枠に張られた山羊の皮が陰干しされている。家の周囲では雌鶏が雛《ひな》を従えて歩き、薄茶色の犬が盛んに毛づくろいをしていた。私たちに気がついたのは、家の前の菜園で球菜《たまな》についた虫を採っていた女だった。足許《あしもと》には、布で全身をぐるぐる巻きにした赤ん坊が籠に入れられて横たわっているが、女の腹はまた次の子供のために膨らんでいた。女はダビデを認めると、陽に焼けて雀斑《そばかす》の浮いた頬《ほお》に笑いを浮かべた。
「敷き藁《わら》を取りに来たんだね」
そしてダビデの返事も聞かずに、女は家のほうに向かって、「ラザロ、ラザロ父さんっ」と怒鳴った。少しして、家の裏手から、金槌《かなづち》を手にした白髪の男が出てきた。フィオリートのように突きだした唇の両端にうっすらと皺《しわ》が刻まれている。ディアマンテの父親のようだった。
ラザロは私たちを見ると、家のほうに手招きした。私たちは家に近づいていった。一階の石造りの部分の戸が開いていて、中の暗がりで燃えている火が見えた。そこは台所になっていて、四角い石の炉が作られている。炉を囲む長椅子《ながいす》に女が二人座って、背中を丸めていた。ディアマンテかなと思って覗《のぞ》いたが、火明かりに照らされた顔は皺に覆われていた。きっと、ディアマンテの母や祖母だろう。
「ディアマンテなら、息子たちと一緒に夏草刈りに行っているよ」
ラザロにいわれて、初めて私はディアマンテを探していたことに気がついた。あの放蕩《ほうとう》な娘が城に現れなくなり、自分ではせいせいしたと感じていたが、違ったらしい。確かに私は履き慣れた靴をなくしてしまったような、物足りなさを覚えていた。
ラザロに示されるままに、薪《まき》を積みあげた家の角を曲がって裏手に回った。斜面に建てられているために、二階が裏からの出入口になっていた。
「さあ、入ってくれ」
ラザロは開いたままの裏の引き戸の中に入った。そこは仕事部屋になっていて、刃物の研ぎ台や、鉋《かんな》がけのための作業台などが置かれていた。ラザロは手にしていた金槌を放りだすと、部屋の奥にある梯子《はしご》を昇っていった。後から昇ると、屋根裏の秣《まぐさ》置き場に出た。吹きさらしの広い屋根裏に、秣はもとより丸太や農具が置かれている。柱には玉葱《たまねぎ》や大蒜《にんにく》、藁にくるまれた乳酪もぶら下がっていた。日射《ひざ》しが秣置き場に斜めに差し込んで、小さな草の葉の屑《くず》や埃《ほこり》を浮きあがらせている。ラザロは眩《まぶ》しい光の中で目を細め、隅のほうに積みあげられた藁の山を指さした。
「あれを全部持っていってくれていいぞ。もうすぐ小麦の収穫だ。また新しい藁ができるから」
私たちは漏斗形の籠を下ろして、中に藁を詰めはじめた。ふわふわした藁は籠の底にしっかり押しこんでやらないと、たくさんは運べない。跪《ひざまず》く私の横にしゃがみこんで、ラザロが話しかけた。
「あんたが〈山の彼方〉にいるというタルタル人か」
どうせディアマンテやパエジオの会話に出てきたのだろうと思いながら、私は頷《うなず》いた。ラザロはごわごわした顎鬚《あごひげ》を撫《な》でて、私の顔をしげしげと覗きこんだ。検分されているようで、あまりいい気持ちはしなかったが、藁をもらっている手前、我慢することにした。
「なんでまた、こんなところに来たんだ」
ラザロは、〈山の彼方〉の者なら遠慮する質問をずばりと聞いてきた。私は藁を押しこむ手を休めずに、おれにもわからない、と答えた。
「弟のパエジオが、あんたのことを褒《ほ》めていた。羊飼いにしたいような男だって」
「それは嬉《うれ》しいな」
私はいった。ラザロは肩をすくめた。
「わしなら嬉しいとは思わんな。羊飼いは、この世の外に生きている。野良犬みたいに、村の縁と山の間をうろうろするだけだ」
「おれは野良犬だ。村の縁どころか、自分の生まれた国のずっと外側をうろついている」
ラザロは鼻先に皺を寄せて笑った。笑い顔が少しパエジオに似ていた。
「確かに、あんたは羊飼いと同じ血を持っている」
漏斗形の籠が藁でいっぱいになると、私たちは肩に背負った。ぎゅうぎゅうに詰めこんでも、藁だけにさほど重くはなかった。私たちは秣置き場から降りて裏庭に出ると、ラザロに礼をいった。
「礼には及ばない。〈善き人〉たちによろしく伝えてくれ」
そして少しためらってから聞いた。
「その……〈山の彼方〉の司教はいつ決まるのかな」
私たちは顔を見合わせた。ダビデが唇をすぼめた。ラザロは、〈龍の背中〉にへばりつく小さな灰色の城をちらと見上げた。そこからだと、城は岩肌との区別はつきにくく、ほんとうに誰も住んでない荒れた建物に見えた。
「村の者もそのことを気にしている。〈山の彼方〉に司教さまがいないと、尻《しり》の穴に糞《くそ》が詰まってるみたいに心のおさまりが悪くてな」
「もうすぐ決まると思いますよ」
ベンベヌートがおずおずといった。
「でも、おれたち信徒には〈善き人〉たちのご意向はちっともわからないんで……」
「それはそうだな」
ラザロはあっさりと認めた。
「まあ、すべては異端審問官のごたごたが片づいてからだろうな」
ダビデがベンベヌートと私の顔をちらりと見てから、口を開いた。
「もし……異端審問官が来たら、村の人たちは、〈善き人〉の秘密を守ると思いますか」
ラザロは硬い顎鬚に覆われた顔をしかめたので、パエジオによく似た表情になった。そして、周囲に並ぶ村の藁葺き屋根の家々を見渡した。
「この村には、四つの大きな家がある。ヅィビリーノ家、ブルサモリン家、アルタイア家、そしてうちのカルモ家だ。わしの母は、ヅィビリーノ家の血を引いている。アルタイア家に嫁いだゲラルディアは、ブルサモリン家の娘だ。ブルサモリン家には、わしの従兄弟《いとこ》が養子に行った。そんな具合に、どの家の者も雑草の根みたいに絡みあっている。誰かが、誰かを異端だといって密告すると、その矢は巡り巡って、自分の身内に戻ってくる」
ラザロは、華奢《きやしや》なダビデの背中をどんと叩《たた》いた。
「安心しろ。村の者は大丈夫だ」
ダビデは弱々しい笑みを浮かべた。それでも、まだ不安が完全に去ったわけではなさそうだった。
血の繋《つな》がりは強くても、人は脅えから、どんなことだってやりかねない。私もラザロの脳天気な説明に安心したわけでもなかった。
私たちはラザロと若い嫁に挨拶《あいさつ》して、ディアマンテの家から出ていった。斜面を少し降りて、広場にさしかかった時、村の外に続く道のほうから、村人が数人、走ってくるのに気がついた。
「馬車が来たぞ」
「異端審問官だぞ」
そんな声が聞こえて、私たちは足を止めた。広場にいた人々も声のしたほうに集まってきた。丘陵地の斜面にあるだけに、広場からでも、村の家々の間を抜け、畑や牧草地を貫いて谷間に広がる森の中に消えていく細い道が見晴らせた。村と外の世界とを繋ぐその道を往来する者といえば、徒歩や驢馬《ろば》で旅する行商人かアッツォの村人くらいのものだった。しかし、今、その道を黒塗りの立派な二頭立ての馬車が土煙を舞いあがらせて進んできていた。馬車の前に立って先導しているのは、馬に乗った二人の騎士だ。騎士の脇《わき》には長槍《ながやり》を持った従者がつき従い、馬車の後ろには八人の兵士たちが徒歩でついてきていた。半円形の屋根のついた細長い馬車の四つの車輪に嵌《は》まった鉄の外輪が、太陽を反射して黒々と光っている。従う兵士たちの胸当てや、従者の持つ長槍の鈍い光。銀色に輝く鎧兜《よろいかぶと》に身を包んだ二人の騎士は、それぞれ臙脂色《えんじいろ》に金色の房のついた旗と、白地に赤の十字のついた旗を押し立てている。旗が風に翻り、黒と銀色の行列に鮮やかな色彩を与えていた。
広場の見晴らしのいいところに集まった村人たちは、行列に目を奪われていた。洗濯で手を濡《ぬ》らした女も、葡萄酒《ぶどうしゆ》を口に含んだ男も、遊んでいた子供も、自分のしていたことを忘れ、ただあっけにとられて、砂利をはね飛ばしながら近づいてくる馬車を見守っていた。
放牧場での夏草刈りを放りだし、異端審問官の到来を告げながら走ってきた村人たちが広場になだれこんできた。その中にディアマンテもいるなとぼんやりと考えていると、娘は熊手を持ったまま私の前にやってきて、「ザンザーラ、こんなところでなにしてんのよ」と叫んだ。きょとんとして見返すと、ディアマンテは迫ってくる馬車を肩越しに振り返り、じれったそうにいった。
「隠れるのよ。あいつらに見つかって、顔を覚えられたらどうするのさ。審問に呼びだされるよ」
いわれてみればそうだった。異国人の私ばかりではなく、ダビデやベンベヌートも顔を覚えられて、出頭せよなどといわれたらまずいことになる。しかも私たちは、よく目立つ大きな漏斗形の籠を背負っている。慌てて隠れる場所を探していると、ディアマンテが「こっちよ」といって、居酒屋のほうに走りだした。
客も主人も異端審問官の馬車を見物しに外に出ていたので、居酒屋はがらんとしていた。部屋の暗がりには大きな葡萄酒の樽《たる》が三個並び、棚には素焼きの葡萄酒入れが並んでいる。狭い店の出入口の横には、細長い卓と長椅子《ながいす》がひとつずつ置かれ、客が座れるようになっていた。私たちは、葡萄と黴《かび》の混じったような臭いが漂う店に入り、藁の詰まった籠を床に置いたが、店の奥にじっと潜んでいるのもつまらなくて、戸口に這《は》っていって、そっと外を覗《のぞ》いた。
広場には、馬の蹄《ひづめ》と車輪の音が響いていた。村の外に通じる道の前に人々が群がり、行列の到着を見守っている。まもなく村人たちが蠅のようにわっと散らばり、旗を掲げた騎士が現れた。黒塗りの馬車と歩兵がそれに続く。二人の騎士は馬に乗ったまま広場をぐるりと一周すると、唯一の石造りの家であるヅィビリーノ家の柱廊の前で止まった。続いて馬車と歩兵が整然と動きを止めた。
すぐに家の中からジャコモが飛びだしてきた。外がこれほど騒いでいたのだから、もっと前に出てきていてもよかったはずだが、もたもたしていたのは身繕いをしていたためらしい。緑色に黄色の織り模様の入った絹の上衣に赤い長靴下、緑の頭巾帽《ずきんぼう》という派手な出で立ちだ。後からばたばたと出てきたジャコモの妻も隠居した両親も子供たちも、それぞれ一張羅を着込んでいた。
「ようこそおいでくださいました。お待ちしておりました。わたしが、アッツォ村の公証人のジャコモ・ヅィビリーノでございます」
ジャコモのうわずった声が居酒屋まで聞こえた。私たちは、会話を聞こうと戸口から首を伸ばした。
旗を持った騎士が馬上から、ジャコモの一家を見下ろしていった。
「異端審問官殿とピエーヴェの聖母生誕教会の助祭殿を警護してまいった。しばらく厄介になる」
ジャコモは、承知しております、と恐れ入って繰り返した。いつもはふんぞり返っている男だけに、ひたすら下手に出ているありさまはなかなかの見物だった。広場の隅に散らばっていた村人たちは、アッツォ村の昔語りになるだろうこの事件をもっとよく見ておこうと、異端審問官の一行にそろそろと近づいていった。
いかにも重そうな鎧兜を身につけた二人の騎士は、従者の手を借りてのったりと地面に降りたった。騎士が恭しく馬車の前に並ぶと、それを待っていたかのように、黒塗りの扉が開かれ、白い法衣に黒い外套《がいとう》を着た男が現れた。頭を丸く剃《そ》った背の高い僧侶《そうりよ》だ。続いて、同じ格好ではあるが、もっとずんぐりした姿形の男が出てきた。
先に降りた背の高いほうの男が手を広げて、ジャコモの肩を抱いて挨拶した。それから顔を巡らせて、広場に集まっている村人たちを見た。縮れた金髪に白い肌の美しい若者だ。その顔を目にしたとたん、私の胸が大きく波打った。
それは、マルコと一緒に、ペラガローネの丸太流しの小屋まで私を追ってきた、ニコラ師の弟子の若造だった。
「アッツォ村のみなさん。わたしは、ヴィットリオ・ダ・ヴェネツィア。ドメニコ派の修道士です」
ヴィットリオは、うっとりするほど優しい微笑を浮かべて、広場に集まった者たちにいった。
「このたびわたしはアクイレイア総大司教の命を受けて、異端審問官としてこの地に派遣されてきました。神の御心《みこころ》をねじ曲げた邪《よこし》まな教えを広める異端者たちを見つけるため、明日より、村の方々にいくつかの質問をさせていただくことになるでしょう。不愉快な思いもなさるかもしれません。しかし、これも神の御国をこの世に顕《あら》わしめるために辿《たど》らなくてはならない道のひとつ。どうか寛大なるお心でご協力くださるようにお願いいたします」
甘く端整な顔つきとへりくだった言い方に悪い印象は持たなかったようで、村人たちはヴィットリオの口上にどぎまぎした会釈を返した。
私は、ヴィットリオの言葉に嘘《うそ》を嗅《か》ぎつけた。あの若造は異端者を見つけるために来たのではない。私とマッダレーナが持って逃げたと信じている聖杯を探すために来たのだ。
「異端審問官って男前ね」
私の横で、やはり外を覗いていたディアマンテが囁《ささや》いた。
「おれはあの男を知っている」
そう答えると、ディアマンテも、私とは反対側の戸口の後ろに隠れているダビデもベンベヌートも驚いた顔をした。私はヴィットリオのほうを顎《あご》でしゃくっていった。
「欲しいものを手に入れるためなら、人を殺すことも平気な奴《やつ》だ」
ディアマンテは唇を丸く突きだして疑うような表情をしたのに対して、ダビデとベンベヌートは脅《おび》えた顔をした。
ヴィットリオは自分の魅力をよく知っている者特有の自信に満ちた眼差しでもう一度、広場の村人を見渡すと、連れの助祭や警護の騎士たちと一緒にヅィビリーノ家に入っていった。黒塗りの馬車や騎士の馬や兵士たちが、下僕に案内されて屋敷の裏手に消えていくと、広場にはまたいつもの通りの賑《にぎ》わいが戻ってきた。子供たちは小石を投げて遊びはじめ、女たちは水場で洗濯物を絞り、男たちは居酒屋に入ってきて、先の出来事を話題にして葡萄酒を飲みはじめた。
「異端審問官の来たことを〈山の彼方〉に早く知らせないといけないな」
私はダビデたちにいった。夕食の準備に煮炊きの火でも使って、城から煙が出ているのが見つかったらまずいと思った。
「あんたたちが今、城に戻るのはまずいわ」
ディアマンテが口を挟んだ。
「藁を持って帰るのは暗くなってからのほうがいい。心配しないで。あたしが〈山の彼方〉に知らせてくる」
「あんただって、山をふらついているところを見つかったらまずいんじゃないのか」
ディアマンテは顎《あご》を反らせて、私を見上げた。
「村娘が木の実や山菜を探して山を歩くのは、ちっともおかしくはないでしょ」
その左右の大きさの違う目には、楽しむような光が宿っていた。
「気をつけてな」
私はディアマンテの肩をつかんでいった。娘の顔は陽が射したように明るくなった。そして乱杙歯《らんぐいば》を覗かせてにっと笑うと、居酒屋の外に飛びでていった。
どうしてディアマンテがあんな嬉しそうな表情をしたのだろうとしばらく考えていた私は、あの娘を気遣うような言葉を口に出したのは、はじめてだったことに気がついた。ディアマンテだけではない。女に優しい言葉をかけるのは、慶元《けいげん》で娶《めと》った妻の梅楊が死んで以来、なかったことだった。
24
女はいつも優しい言葉を求めている。一度その甘さを味わうと、菓子を欲しがる子供のように飽くことなくせがんでくる。
梅楊と夫婦になった時、私は妻が喜ぶ優しい言葉をふんだんに与えた。
おまえは美しいとか、おれの妻になるために生まれてきた女だとか、歯の浮くような言葉を大まじめに贈った。梅楊はそれを貪《むさぼ》り、私にも甘い言葉を返してきた。あんたは最高の男よ、初めて見た時から惚《ほ》れていた。だって、あんたは他の男とはちがっていたのだもの。梅楊は私の腕の中で囁いた。
私たちは、蜜《みつ》の言葉の海に漂って暮らしていた。惚れあった者とはそんなものだろう。
私は優しさに飢えていた。妻の優しさが、花旭塔津《はかたつ》で家族を失った心の傷や、生まれた町を追われ屈辱感を癒《い》やしてくれると信じていた。妻の優しさは、確かにそんな働きをしてくれた。私に安らぎを与え、心の傷を癒やしてくれた。それがありがたかったから、私は優しい言葉を贈り続けた。私は愚かだった。優しさと、優しい言葉を同じものと見なしていた。
だが、私のやったことは、実は商取引だったのだ。優しい言葉が欲しかったから、妻に優しい言葉を与え続けた。私は商人だった。金を出して商品を買うように、優しい言葉で妻からの優しい言葉を買っていた。妻は甘い言葉が大好きだったから、そのことには頓着《とんちやく》しなかった。いや、むしろ商人同士の暗黙の協定のように、優しい言葉の売り買いに積極的に協力した。
そうやって私たちは蜜の海に漂い続けた。二人の切り盛りしていた小間物屋には、優しさが満ちていた。ねぎらいの言葉、気遣いの言葉、賞賛の言葉。私たちの唇の間をそんな言葉が行き来した。すべての言葉には本心と、ほんの少しの金勘定がこもっていた。だが、人の心の金勘定とは桃の実に取りついた虫のようなものだ。虫は甘い果肉にもぐりこみ、中にある真実を喰《く》っていく。言葉は、心の上っ面を滑るだけとなる。私たちは真実のこもらない、力のない言葉を交わすようになる。しかし、虫に喰われた言葉に慣れると、そのことに気がつきもしない。
不慮の事故で、子供が次々と死んでいった時、私は妻を慰めた。
かわいそうに。いい子供だったのに。でも、また子供は作ればいい。泣かないでおくれ、梅楊。
私の言葉を聞きながら、妻は泣き続けた。その涙は涸《か》れることはなかった。
私のかける言葉には、妻の心を癒やす力はなかったのだ。きっと優しい言葉ではなく、強い言葉が、言葉ではなく、優しさそのものが必要だったのだろう。しかし私にはどうしていいかわからなかった。私だって子供の死を嘆いてはいた。ただ、世の中に死はごろごろとしていた。それが肉親のものであっても、いつまでも死に拘泥《こうでい》してはいられない。私が、妻との暮らしによって、父母や弟妹たちの死の痛みを忘れることができたように、妻も子供の死の痛みを乗り越えられると考えていた。私は優しい言葉をかけ続け、それ以上の努力はしなかった。
妻は傷ついた心を癒やすために、次の子供を作ることに執念を燃やすようになった。しかし子供はできない。その焦りや怒りを私にぶつけてきたが、私は以前の通り、優しい言葉で応対した。だが、協定は破れてしまった。妻は、私に対して、もう優しい言葉を返してはくれなかった。
やがて私は臨安《キンサイ》に商用の旅に出るたびに、女を抱くようになった。妻は、嫦娥《こうが》を崇《あが》め、子供を授かるようにひたすら祈るようになった。妻が子供を生むために命を落としてから、私は何がまちがっていたか悟った。
私たちはあまりに優しい言葉に頼りすぎていた。優しい言葉を交わしている間、すべてはうまくいっていると思っていた。しかし、私たちは虫に喰われて腐りかけた言葉をやりとりしていただけなのだ。真実の癒やしの言葉が必要となった時、どれがその言葉なのか見分けすらつかなくなっていた。
優しい言葉は他人を騙《だま》し、自分も騙す。以来、私は、虫に喰われた言葉を吐かなくなった。
25
「世は言葉によって成ったが、世は……言葉を認めなかった。言葉は……自分の民のところへ来たが、民は……受け入れなかった」
薄暗い広間に、福音書を唱える声が流れていた。
「しかし、言葉は、自分を……自分を受け入れたい人、その名を……ああと……信……信じる人々には神の子となる資格を与えた」
蛙の歩みのようにのたのたと唱えているのはシルベストロだ。〈山の彼方〉の〈善き人〉の中で最長老の男は、震える右手で縁の破けた小さな福音書を手にして、左手をカルロの頭に置いている。こざっぱりした衣類に身を包んだカルロは地面に膝《ひざ》と両手を突いて這《は》いつくばい、神妙に頭を垂れていた。
カルロがリザルドと一緒に〈善き人〉になるために救慰礼《コンソラメンタム》を授けてほしいといいだしたのは、異端審問官がアッツォ村に現れた数日後だった。その前から、真剣な顔をして何かこそこそと話し合っていた二人だったが、〈山の彼方〉の人々が城の広間に隠れ住むようになってから、正式に申し入れた。〈善き人〉たちは話し合った末に二人に救慰礼を授けることに決め、司教が定まっていない今は最長老のシルベストロが儀式を執り行うことになった。しかし、墓穴に片足を突っこんでいるようなこの老人は、福音書の文句を思い出すのが一苦労らしく、その口調は信徒でもない私の目から見てもたどたどしかった。カルロもリザルドも、耄碌《もうろく》しかかった老人の手で〈善き人〉になる不運に落胆しているかもしれないなと、祈りの場の壁に背をもたせかけて立ったまま、私は考えていた。私から少し離れたところの寝台には、マウロやピエトロやグイードたちが腰を下ろして、熱心に儀式を眺めている。普通なら、信徒は救慰礼に同席できないのだが、今は特別な時だからと広間に居ることを赦《ゆる》されていたのだ。
〈山の彼方〉が異端審問官に見つかったら、信徒は軽い罪ですんでも、〈善き人〉は火炙《ひあぶ》りになりかねない。なのに、災難が降りかかるかもしれないこの時を選んで、カルロとリザルドが救慰礼を受けたいといいだしたことに、皆、感動していた。しかし、私は二人が火炙りを怖れつつも、心のどこかで憧《あこが》れている気がしてならなかった。火炙りになれば、天の国とやらに簡単に逝けると考えているふしがあった。もっとも火刑に対する怖れとも憧れともつかないものは、この二人だけではなく、〈山の彼方〉の全員の心に巣くっていた。日中、祈りや食事の合間に、薄暗い広間の片隅でぼそぼそと話している会話の中に「火炙り」という言葉が熱っぽい響きとともに、人々の口から吐きだされることに、私は気がついていた。
「わたしたちはみな、この方の満ちあふれる……ゆ……豊かさの中から、ああと……恵みの上に、さらに恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと……あああ……真理はイエス・クリストを通して現れたからである」
ようやくシルベストロが福音書を唱え終わると、カルロを立たせ、頬《ほお》をすりあわせて右と左の頬に唇をつけた。救慰礼は終わった。カルロはこれ以上の幸せはないという表情で、まわりを囲む〈善き人〉たちを見回して、その輪に入っていった。次にリザルドがシルベストロの前に進みでた。シルベストロは青筋の浮きでた細い首を伸ばして、助けを求めるように天井を仰いでため息を洩《も》らすと、ゆるゆるとリザルドに向き直った。
「兄弟よ。われらの信仰に身を捧《ささ》げることを望むか」
「はい、望みます」
リザルドは跪《ひざまず》いて挨拶《あいさつ》をした。これからカルロの時と同じ儀式が繰り返されるのだ。私は退屈して、もたれかけていた壁から背を離した。信徒も〈善き人〉たちも儀式にじっと視線を注いでいる。私は忍び足で広間の縁を進んで、外に出ていった。
奥の庭に撒《ま》いた麺麭屑《パンくず》をついばんでいた小鳥たちが、人の気配に驚いて飛びたっていった。急に明るい日射《ひざ》しに包まれて目をしばたかせながら、私は裏庭に向かった。裏木戸を開くと、薬草園に植わった香草の爽《さわ》やかな匂いが漂ってきた。埃《ほこり》と湿気と汗臭い体臭の詰まった祈りの場にいた私は、それだけでも儀式を抜けだしてきてよかったと思った。
裏庭の岩の間には、膝まで伸びた夏草がおい茂っている。私は草の中に身を埋めるようにして岩場の縁に這っていった。異端審問官が村に居座っている間、〈山の彼方〉の者たちは出ていっていい場所といけない場所を取り決めていた。城壁や建物に囲まれている中庭は歩いてもよくて、城の建物の窓辺や表門の外、水場に水を汲《く》みに来る時以外に裏庭に出ることはいけないとしていた。しかし、私はこっそり岩場の西の縁に這ってきては下方の村を眺めていた。
前方に張りだした城に阻まれて村全体を望むことはできないとはいえ、そこからだとかろうじて村の広場に面して建つヅィビリーノ家の屋敷の裏が覗《のぞ》けた。石造りの建物の裏側は広い庭になっていて、厩《うまや》や菜園、秣《まぐさ》小屋や牛小屋などが並んでいる。そこに馬車や騎士の馬が繋《つな》がれていれば、異端審問官一行がまだ村にいる証拠だ。今日こそは出ていっているのではないかという期待をこめて覗いてみたが、馬は相変わらず裏庭に繋がれたまま、のんびり草をはんでいた。
二日前、様子を窺《うかが》いに村に忍んでいったダビデの話によると、ヴィットリオと助祭は、戸主にあたる男とその妻を一組ずつ呼び出してはちくちくと尋問しているという。夫に対しては、異端に協力した者は財産を没収され、一生胸に黄色の十字をつけて暮らすことになると脅し、妻には、あなたたちが地獄に堕《お》ちる運命から救いたいのですと、美しい顔に憂いを浮かべて説得しているらしい。尋問された者の中には戸惑いや揺らぎを見せる者もいるが、まだ誰も口を割った者はいない。それというのも、ヴィットリオの「カタリ派の者たちを知っているか」という質問の仕方にずいぶんと助けられているのだ、とダビデは笑いを噛《か》み殺して告げた。
このあたりでは誰も〈善き人〉たちの教えを信じている者を、カタリ派などとは呼ばない。〈善きクリスト教徒〉という。〈善きクリスト教徒〉の教えでは嘘《うそ》をついてはいけないことになってはいるが、カタリ派を知らないかという問いに、知らないと答えるのは、嘘にはならない。それで何の後ろめたさも覚えずに、村人は否定できるのだ。
しかし、そのからくりをヴィットリオが感づけばおしまいだ。
私は腹這いになったまま、頬杖《ほおづえ》を突いた。村は夏の緑に包まれていた。丘陵地の笑い皺《じわ》のように横に並ぶ草葺《くさぶ》き屋根の家々では、洗濯物が翻っている。家の近くの小麦畑では、麦が黄金色に色づきつつある。先日、刈って放牧場に干していた秣を積んだ牛車がのろのろと各戸の秣置き場目指して動いている。放牧場からさらに西へ、〈龍の背中〉の西の斜面に目を遣ると、白い羊たちが山肌に撒いた氷砂糖のように散らばっていた。パエジオたちは夏小屋で、異端審問官騒ぎから離れて乳酪造りに精を出していることだろう。
背後で草の揺れる音がした。びくっとして振り返ると、マッダレーナが少し離れたところにしゃがんで、草むらから飛びたつ機会を窺っている雲雀《ひばり》のように瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》で私を見つめていた。リザルドの救慰礼は終わったらしかった。
何の用だと聞こうとして、マッダレーナが私の許《もと》にやってくる理由はひとつしかないことに気がついた。
「『マリアによる福音書』のことだろう」
私は岩場の縁から四つん這いになって退きながら聞いた。アルミドの自殺のために中断されて以来、マッダレーナが続きを読みたがっているのはわかっていた。私はマッダレーナの横までごそごそと這っていくと、並んで座った。
「約束は約束だ。あれならまた見せてやるさ」
マッダレーナは膝《ひざ》を抱えて座り直した。
「いつですか」
私は女の青白い顔を見た。司教の死以来、目はますます落ちくぼみ、鼻梁《びりよう》に細い青筋が浮かんでいた。この女は血の滴る肉を食べるべきなのだ。頬を赤くする血が必要なのだ。心の中で思いながら、「そのうちにな」と答えた。
マッダレーナの顔が怒りで赤くなった。私は、どんな理由であれ、青白い頬に血の気が生まれたことに微《かす》かな喜びを覚えた。
「そのうちに、とはどういうことですか。わたしはすぐにでも読みたいのです」
「だが、今の状態では、二人きりでどこかにこもって読むのは無理だろうが」
「あなたが、わたしに渡してくれさえすればいいのです」
「それはできない。あれを渡すのは、次の司教だ」
そういえば、マッダレーナに反論はできないと踏んでのことだった。案の定、マッダレーナは何もいえなくなった。
瑪瑙色の瞳の女は息を吸いこみ、気持ちを落ち着かせているようだった。頬の赤味がまた消えて、青ざめた色が戻ってきた。
「もし……もし、新しい司教が決まる前に、わたしたちが異端審問官に捕らえられることになったなら、どうするつもりですか」
「福音書なんぞ棄《す》てて逃げだすしかないだろうな。運の尽きということだろう」
「そんなことはいけません」
思わず声が大きくなり、それを恥じるようにマッダレーナは唇を噛《か》んだ。
「『マリアによる福音書』をすぐにわたしに渡してください」
マッダレーナは半ば命令するように低い声で告げた。
渡せば、私とマッダレーナを繋《つな》ぐ最後の糸は切れてしまうだろう。いつまでそれを繋いでいたいのか自分でもわからなかったが、私はまだ糸を手放したくはなかった。「それはできない」と、私は答えた。
「あなたはわたしたちの大事な宝を玩具《おもちや》にしています」
マッダレーナは憤然といった。
「おれは異教徒だ。あんたたちの神やら信仰とは関係ない」
「わたしたちの神は、あなたたちの神でもあります」
マッダレーナは自分を落ち着かせるように薄い鼻を膨らませて息を吸った。顔の前で草の葉が揺れている。廃墟《はいきよ》のような城がその尖《とが》った白い横顔を浮きたたせていた。
「あなたは、わたしたちの神、自分の神、と分けてばかりいますが、神は神。同じものではないですか。東の涯《は》てと西の涯ては海をいくつも隔てるほどに離れているのでしょうけれども、そこに暮らす者たちの貧しさや悲惨さ、不幸は同じではないですか。だとすれば、それを救ってくださる神も同じものであるはずです」
「神がおれたちを救ってくれることなぞ、できるもんか」
私は印度の神に祈りながら処刑された父や、嫦娥《こうが》を崇《あが》めた末に血の海で死んでいった妻のことを想《おも》い、嘲笑《ちようしよう》した。しかし、マッダレーナは一途な口調で続けた。
「あなたは、わたしたちを取り囲む苦しみや悲惨さをなんとかしたいとは思いませんか。お金がいくらあっても、どんなに愛する人がいても、やはり心の底には物足りなさが巣くっている。それがなぜか考えたことはありませんか」
私の頭の中をこれまでに出会ってきた人々が通り過ぎていった。私を役人に売った飯炊き女、鮫童子《さめどうじ》、春花《チユンホウ》、奴隷のピエトロや、ジョヴァンニーノ、女奴隷のマリア、マルコやニッコロのポーロ家の人たち、カテリーナやモネッタ、小間使いのルチーアの姿すら浮かんで消えた。誰もが心の底に不満を抱えていた。誰もが手の届かない何かに手を伸ばそうとして、それができない憤りを覚えていた。もちろん、そんなことは気がついてはいない。気がついていないままに、手を振り回し、指先に触れる何でもいいからつかもうとあがいていた。
私自身もきっとそうなのだ。私もまた何かをつかみたいのに、それが何かわからず、わからないから、つかむことができず、海を渡り山を越え、こんなところまで来てしまった。
「みんな、なにを求めているのだろう」
私は漠然とした悲しさを覚えて呟《つぶや》いた。
「永遠の心の安らぎです」
自分自身にしがみつくように膝に回した腕に力をこめて、マッダレーナは応じた。
私は目の前に広がる緑の谷間と、そこから垂直に屹立《きつりつ》する薔薇色《ばらいろ》の岩山の群を眺めた。そうかもしれないと思った。私がこの山々を前にして深い落ち着きを覚えるのは、それが安らぎに通じるからだ。だが、それで私の胸の底にくすぶる不満は消えるわけではない。やはり何か物足りなさは残り、またどこかに旅に出なくてはという気持ちに駆りたてられる。
「永遠の心の安らぎなんか、死ぬまで得られないものかもしれない」
「そんなことはありません」
マッダレーナは素早く言い返した。
「神にお縋《すが》りすればいいのです。神は、永遠の心の安らぎを与えてくださいます。ただ、それを信じていれば、天の国に逝けるのです」
マッダレーナとの話がここに来ると、私はいつも立ち止まる。心の中で、私の体が壁にぶつかる音がした。
「信じさえすれば救われるなど、そんな戯言《ざれごと》、誰が信じる」
「だからこそ『マリアによる福音書』が必要なのではないのですか。あれに記されているものがわかれば、わたしは神への道を人々に示すことができます。この悲しみと苦しみの世から、みなを救うことができます」
「自分も救えない者に、他人が救えるか」
マッダレーナは血の流れが止まった顔をした。血の代わりに空気を取り込むように息をぐっと呑《の》みこんで、震え声でいった。
「他人を救うことで、自分も救うということもあるのではないでしょうか」
そしてすっと立ち上がり、草むらに身をひそめることも忘れて裏木戸のほうに走り去っていった。
再び岩場に一人になると、私は草の中に仰向けになった。天に向かって伸びる緑の葉の奥に、青い空が広がっている。白くて小さな綿雲が西のほうに散らばっている。あの雲を足がかりにして天穹《てんきゆう》の極みに昇っていけそうに見えた。私は空に手を伸ばし、雲をつかもうとするように掌《てのひら》を広げた。もちろん雲まで届くはずもない。私の手は虚《むな》しく宙を握りしめた。
そうだ、マッダレーナは正しい。
私たちはみな、永遠の心の安らぎを求めている。ただ、それをどこに見つけていいのか、誰にもわかってはいないのだ。
26
粉雪が舞っていた。空からばらまかれる綿屑《わたくず》のように小粒の雪が森の中を渦巻いていた。私はマッダレーナを背負って、凍った枯れ葉で滑りそうな山の斜面を登っていた。マッダレーナの重みに加えて、筏乗《いかだの》りの死体から奪った革袋に入れた銀貨がずしりと肩にのしかかる。ニッコロから奪った蒙古《もうこ》刀が、マッダレーナの足首と腰骨の間に挟まって邪魔っけで仕方ない。しかし、いつ狼や熊が襲ってくるかもしれないので手放すわけにもいかない。疲れと空腹でふらふらしていたが、マッダレーナをアルピの山中に置き去りにはできなかった。あの時の私は、銀貨か女か、助かるためにはどちらかを棄てなくてはならなくなったら、迷った末に金のほうを放りだしただろう。旅の先々で言い争いを繰り返し、〈善き人〉であろうとするマッダレーナの熱意や信仰を嘲《あざけ》ってはいたが、私は心の底では、この瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女に驚嘆していた。この女は、弱さを武器にして、男を利用したり、縋《すが》ろうとはしていない。細いけれども、鋼の芯《しん》の入った自分の足で歩いている。力尽きて倒れた時も、私が説得しなければ、助けを求めるよりも死を選んだだろう。そのことが私を驚かせ、尊敬の念すら起こさせた。もちろん、そんなことは口に出していいはしなかったが。
マッダレーナは私の背中で震えていた。男に触れているという恐ろしさのためなのか、寒さのためなのか、よくわからない。喉元《のどもと》に絡みつく女の白い手。首筋に吹きかかる暖かな息。背中で揺れるふたつの乳房を感じたが、私は肉慾《にくよく》を燃えたたせる余裕はなかった。寒さは氷の刃《やいば》となって、私たちの体を切り刻んでいた。女を背負って歩いている間はいいが、立ち止まれば凍え死にしてしまうという怖れが、慾望に勝っていた。〈山の彼方〉の方向がどちらで、いつ辿《たど》り着けるのかなどということも考えなかった。頭の中を占めていたのは、今夜一晩、無事に過ごせる暖かい場所さえあればありがたいということだけだった。
しかし、粉雪の吹きすさぶ森の中に、そんな場所は見あたらない。あたりは次第に夕靄《ゆうもや》に包まれてきた。灰色の薄闇《うすやみ》が木々の間からじわじわと広がってくる。私は疲れ果て、足取りがもつれるようになった。走りすぎた馬のように、今にも口から泡を噴いて倒れてしまいそうだった。霞《かす》む目で前方を見た時、夕靄の彼方《かなた》で、何か赤いものがちらちらしていた。樵《きこり》小屋か、世棄て人の家かもしれない。とっさにそう思って、私はそちらに進みだした。
木立が切れて、目の前に低い崖《がけ》が現れた。山の斜面が削れて、岩盤の部分が露《あら》わになっている。こんなところに小屋があるだろうかと首を巡らした私は、素手で腸《はらわた》をつかまれた気分になった。
崖の左手の岩の上に、全身、鈍い朱色の奇妙な生き物がいたのだ。子豚ほどの大きさで、羽と尻尾《しつぽ》を持っている。頭には鶏冠《とさか》がついているが、全身を覆っているのは羽毛ではなく、ぶよぶよした鱗《うろこ》のようなものだ。その鱗の奥から鈍い朱色の光が放たれていた。それは小首を傾げ、近づいてくる私たちの気配に耳を澄ましているようだった。
あそこにいるものが見えるか。
私は震えそうな声で聞いた。マッダレーナが首を伸ばす気配がした。
なにか……赤い火のようなものが見えるけど……。
マッダレーナは確信の持てない口調で答えた。
火ではない。おかしげな生き物だ。鶏冠のついた蛇みたいな頭をして、羽を持ち、魚のような尻尾のある……。
バジリスコ、とマッダレーナは囁《ささや》いて、脅えに体を強《こわ》ばらせた。
見てはいけません。山の妖獣《ようじゆう》です。その息の一吹、その一瞥《いちべつ》で、人は死にます。バジリスコの這《は》ったところの草は枯れ、体から滲《にじ》みでる毒によって土地は不毛になるといわれています。アルピの山中に住む者は、一生に一度は見るといって怖れています。
私は妖獣から目を逸《そ》らせた。下手に動いて、警戒させてもまずいと思い、私はマッダレーナを背負ったまま、そこに樹のように立ち尽くした。目の端でそっと相手の様子を窺《うかが》う。バジリスコは、いわれているほど危なくは見えなかった。なぜここに二本足の生き物が現れたのか訝《いぶか》るように頭を左右にくいくいと動かしていたが、私が瞬きをする間にふっと消えてしまった。岩の裂け目に這いこんだのか、ただ宙にかき消えたのかわからなかった。
ほっとしたと同時に膝が砕けて、私は枯れ葉の中に跪《ひざまず》き、マッダレーナは地面に転げおちた。なんとか立ちあがりはしたが、腹に力が入らない。再び女を背負って歩くことは無理だと悟った。
目の前の低い崖には、小さな窪《くぼ》みがあった。地面より少し高いところにあり、湿気も少なそうだ。私は蒙古刀を手にすると、よろよろと崖のほうに進みだした。
バジリスコがいるのよ、死んでしまうわ。マッダレーナが掠《かす》れ声で叫んだ。
バジリスコの毒で死ぬか、凍え死ぬかどちらかだ。おれはバジリスコのほうを選ぶよ。少なくとも、あいつはそんなに悪い奴《やつ》には見えなかった。
私はそういって、岩の窪みに入った。そこは洞窟《どうくつ》ほど深くはないが、うまい具合に抉《えぐ》れているせいか、不思議と暖かかった。バジリスコという妖獣も見あたらないし、ここで一晩を過ごすのは悪くはなかった。おまけに窪みの奥には、誰かが貯《た》めておいたらしい乾いた木の枝が山積みになっていた。私は窪みから出て、マッダレーナを呼びにいった。
マッダレーナは、私が振り落としたところに座りこんでいた。今夜はここで泊まると告げても、異を唱える気力も残ってなかった。
私は銀貨の入った革袋を取り、マッダレーナを連れて窪みに戻った。筏乗りの腰につけていた革の小袋から火打ち石を取りだして、なんとか中の麻の切れ端に火をつけた。ぱちぱちと音をたてて木の枝が燃えはじめると、マッダレーナはようやく人心地ついたようだった。
鉄や銅や水晶を探している山師たちがこのあたりまできます。
突然、何をいいだしたのかと思ったら、枯れ枝を集めたのは、ここを仮の寝場所にしたその山師たちだろうと、マッダレーナは推し量っているのだった。私が、盗賊のねぐらでないことを祈るよ、と軽口を叩《たた》くと、マッダレーナは両腕を体に回して、微《かす》かに身震いした。いかにも、いいところの奥方のような仕草だった。戒律を破り、私の背に担がれていたせいか、〈善き人〉になる前の、貴族の妻であり、女であった頃のマッダレーナの姿が仄見《ほのみ》えた。
あんた、お屋敷で旦那《だんな》や召使いに守られているほうが似合っているよ。
私がなぜそんなことを口にしたのか察して、マッダレーナは腕をふり解《ほど》き、私との間に距離を置いた。
あんた、なぜ、安楽な貴族の妻の座を棄《す》てて、〈善き人〉になんぞなろうとしたんだ。
私は火に枯れ枝をくべながら訊《たず》ねた。
お屋敷に住んで、召使いにかしずかれて、夫がいて子供がいた。贅沢《ぜいたく》な暮らしのどこが不満だったんだ。夫を憎んでいたのか、意地悪な義母でもいたのか。
わたしは幸せでした。
マッダレーナは、そんな当て推量をされるのも厭《いや》だというように、きっぱりと答えた。
わたしは夫を愛していました。子供を愛していました。夫の家族は厳しいところはありましたが、意地悪ではなく、暮らしには何不自由ありませんでした。
だったら、どうして屋敷を出たんだ。
私はマッダレーナを見た。赤い炎に照らされて、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女の顔は朱色に染まっていた。その背後の岩壁に私たちの影が蛇のように踊っていた。マッダレーナは私の視線を受けとめ、小さく答えた。
幸せだったからです。
私が目を細めたのを見て、マッダレーナは早口でつけ加えた。
世の中のほとんどの人は、貧しく、悲惨な暮らしに苦しんでいるのに、わたしだけが幸せだった。そんなことは赦《ゆる》されない。赦されるはずはないでしょう。
馬鹿げたことだ。
私はあきれて大声をだした。
あんたは屋敷で幸せでいるべきだったんだ。その幸せを、他の者に分け与えるだけでよかったんだ。あんたは、自分の幸せが後ろめたくて、自分を不幸せにしてしまった。
わたしは幸せです。
マッダレーナは叫んだ。
今、わたしは神と共にいます。自分の暮らしがまちがっているのではないかと不安になることはありません。わたしの心は平安で、満ち足りています。
嘘《うそ》をつけ、と私は言い放った。
あんたは満ち足りてなんかいるもんか。あんたの体は男への慾望《よくぼう》に燃えている。男と寝たくて寝たくて、爆発しそうだろうが。
マッダレーナの静かな顔に稲妻のようなものが走り、唇の端にまで達した。
冗談をいわないでください。
吐き棄てるようにいったマッダレーナに、私は身を乗りだした。私たちの間に炎が燃えさかっていた。
気がつかなかったと思うのか。ペラガローネの納屋で、おれのものを握った時、あんたは肉の慾に燃えただろう。襲おうとしたおれを止めようとして、こいつを握ったんだろうが、指が触れたとたんに、あんたの中から肉の慾が噴きでてきた。あんたが自分自身にびっくりして手を離す前におれは白い血を放っていた。流れ星みたいに一瞬のことだった。どうしてあんなことになったかわかるか。おれのものが、あんたの肉の慾を感じて、歓《よろこ》びに震えたからだよ。
嘘です、嘘ですっ。
ほんとうだ。あんたは男が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。なのに、我慢している。
やめて、やめてちょうだい。わたしに汚らわしいことを吹きこまないで。
マッダレーナは耳を塞《ふさ》いだ。その仕草はいかにも女っぽかった。この女は聞きたいのだ。自分の慾望を聞きながら、それに興奮している。私の陰茎が硬くなってきた。
体のどこが汚いんだ。肉の慾のどこが汚いんだ。ただの肉の袋だろうが。
肉は邪魔になります。肉の棘《とげ》で刺されると、もう神のことなどどうでもよくなります。それはいけないことです。神のことは、常に考えてないと……。
神とは、あんたの夫か。だけど、その夫は不能だ。あんたの体を満足させるには、肉体を持った愛人を持つしかないじゃないか。
マッダレーナは、ぱっと顔を上げて、私を見つめた。嫌悪、怒り、憤りが炎に照らされた顔に渦巻いていた。しかし、その炎の渦の奥底に、燠《おき》のようにちらちらと肉の慾が輝いていた。マッダレーナは、私の言葉を拒絶しながら、私の言葉に興奮していた。神である夫ではなく、愛人を持つという言葉に。
私の全身から疲れは吹き飛んでいた。私はマッダレーナに飛びかかり、硬い地面に押し倒した。マッダレーナはもがき、暴れ、叫んだ。しかし、私がその股《また》の奥に手を這《は》わせた時、そこは泉のように濡《ぬ》れていた。私はマッダレーナの噴きだす熱い泉に、肉の棘を差しこんだ。マッダレーナは鋭い声を上げた。しかし、それは引き裂かれた悲しみによるものではなく、歓びによるものだった。
私たちは、赤い舌を天に向かって舐《な》めあげる炎の横で抱き合った。女の肌は赤く火照《ほて》り、慾望の炎を燃えたたせていた。女の体は蛇のようにのたうち、鋭い声を上げ続けた。瑪瑙色の瞳は、炎を照り返して、朱色に変わっていた。
バジリスコ。
夢中になって腰を突き動かしながら、私は頭の隅で悟った。
朱色の妖獣は、マッダレーナの中に隠れていたのだ。
27
窓の外はまだ暗かった。奥の庭に面した城の広間では、ぽつぽつと起きだしてきた人々が朝の祈りを捧《ささ》げていた。跪《ひざまず》いて主の祈りを唱えている者、目を閉じて瞑想《めいそう》している者、東に向かって頭を垂れている者。思い思いのやり方で祈っている。
城に潜んで十日が過ぎた。朝から晩までひとつ部屋に寝起きして、出ていく場所は中庭だけ。そんな日々の疲れが人々の重たげな動作に滲《にじ》みでている。
私は信徒の寝台に座り、薄暗がりの中で祈る者たちの影を眺めていた。二十人以上の者がひとつ部屋にいるにしては、とても静かだ。女たちは慎ましやかに部屋の隅で固まり、〈善き人〉はばらばらに、信徒たちは自分たちの寝台の周囲に集まっていた。〈善き人〉になったばかりのカルロとリザルドは連れだって、戸口の近くで手を胸にあてて祈っている。救慰礼《コンソラメンタム》を受けて数日過ぎただけというのに、二人の物腰には落ち着きが出てきていた。カルロの頭の働きののろさすら、今では知らない者が見たら、深く考えているせいだと勘違いしてしまいそうだ。
人は放っておいても〈善き人〉にはなれない。善き人であらねばと思う気持ちが、人を〈善き人〉にさせるのだろう。
細長い窓の外に奥の庭が白々と浮かびあがってくると、人々は祈りをやめた。料理係のアレッサンドラと二人の娘が、台所代わりになっている部屋の南の壁際に行って朝食の支度を始めると、私はいつものように手桶《ておけ》を持って城の裏手に水を汲みにいった。
東の山の端が淡い茜色《あかねいろ》に輝き、空全体が深い藍色《あいいろ》に染まっていた。露に濡れた草を踏みしだき、水場に向かいながら、私はマッダレーナと交わった翌日のことを思い出していた。
目覚めると、岩の窪《くぼ》みはやはりこんな淡い茜色の朝日に満ちていた。しかし前夜、炎の朱色に染まっていた岩肌を見た目には、古くなった寺院の柱のように色褪《いろあ》せて映ったものだった。ほんとうに私は瑪瑙色の瞳の女と寝たのだろうか。夢とも現《うつつ》ともつかない気分で首を巡らせたが、マッダレーナの姿はなかった。一人でここを出ていったかもしれないという不安に駆られて、窪みから顔を出すと、女は裸になって地面に跪き、うっすらと積もった雪を手ですくっていた。髪はくしゃくしゃに乱れ、喉《のど》からは嗚咽《おえつ》を洩《も》らしている。マッダレーナは、その細い太腿《ふともも》の奥に、青白い腹に、青筋の浮きでた丸い乳房に、冷たい雪を押しつけては必死でこすっていた。男が触れたところを雪で洗い落としているのだ。私はしばしぽかんと眺めていたが、やがてばかばかしさと苛立《いらだ》ちが湧《わ》き起こってきた。
おれと寝たといって、あんたの魂が汚れたわけではないんだぞ。
私は初冬の冷気に身を震わせながら、マッダレーナに歩み寄った。女は慌ててそばに置いていた外套《がいとう》に体を隠し、苦しみと後悔と悲しみのこもった眼差《まなざ》しを私にぶつけてきた。
これ以上、わたしを誘惑しないでください。わたしは救慰礼を汚し、わたし自身を汚しました。もう〈善き人〉ではいられなくなりました。
マッダレーナは泣きながらいった。
なんだか私一人が卑劣漢になった気がした。しかし私が一方的に女を求めたのではない。マッダレーナだって男を求めたのだ。昨夜は自分の慾望を認めたはずなのに、一晩過ぎると、また同じところに舞い戻っていた。肉の慾は人の内にあるものだ。それを完全に心の外に押しだすことなんかできやしない。無理をすれば、どこかがねじ曲がる。心の均衡を崩してしまう。
このことは誰にもいわない、秘密にしておけばいい。私はマッダレーナを慰めようと、そういってみた。しかし女は悲鳴のような声をあげた。
人は騙せても、神を欺くことはできません。わたしは大きな罪を犯し、すべての徳を失ったのです。
マッダレーナは雪の積もった森の中でしばらく泣き続け、最後に目許《めもと》の赤く腫《は》れた顔をもたげていった。
ベルナルド司教になにもかも告白します。〈太陽をまとう女〉を届けて、司教のご判断にお任せします。
私たちは岩の窪みを後にした。マッダレーナはまるで死者だった。落ち窪んだ目や頬《ほお》、半ば開いた口許。虚《うつ》ろな表情で、黙々と歩きつづけた。倒れても、もう私に助けを乞《こ》おうとはしなかった。這《は》うようにして、斜面を登り、沢を下り、雪に覆われた山を丸一日さまよい、ようやく〈山の彼方〉に辿《たど》りついたのだった。
ベルナルド司教がどう応じたかはわからない。しかし、その後、マッダレーナが何事もなかったかのように、〈善き人〉として〈山の彼方〉で暮らしつづけているのは、ベルナルド司教の赦《ゆる》しがあってのことだと思う。きっと司教は再び密かに救慰礼を授け、マッダレーナはすべてを過去に押し流した。
しかし、肉慾はまだマッダレーナの中に潜みつづけている。
私は、フランコやゲラルドがせっせと瀉血《しやけつ》しているのを知っている。瀉血は体にいいというのだが、血を抜いて、女に対する慾望を衰えさせることが真の目的だ。頑強な肉体を持つ男が、女の肉に対する慾を無くすことが無理なのだ。
この世のものはすべて、さまざまなものが絡みあって形を成している。緑一色に見える山には、杉の濃い緑から、樫《かし》の黄色っぽい緑、雑草の淡い緑まで含まれているし、青一色に見える海も、目を凝らせば、淡い水色から紺色、紫色まで含んでいるのがわかる。人の心も同じだ。色々な色が混ざりあって、ひとつの色を成している。色のばらつきを減らして、全体の色をひとつにまとめていくことはできても、一色だけ完璧《かんぺき》に抜き取ってしまうことはできはしない。だが、〈山の彼方〉の者たちは、それをしようとしている。意志の力によって、心を純白に変えようとしている。私にはそんなことができるとは思えない。
水桶を持って、祈りの場に戻っていくと、食卓の埃《ほこり》をアレッサンドラが払っていた。すでに食糧はほとんど食べつくし、食卓に出すものは硬い麺麭《パン》しか残ってないのだが、この女にとって食卓を清めることは、食事を出すことよりも大事なのだ。水用の杯を準備していたソニアに水桶を渡すと、杯を数えていたキアーラが祈りの場を見回して呟《つぶや》いた。
「ダビデはまだ帰ってないのかしら」
ダビデは昨夜《ゆうべ》村の様子を探りに城を出ていった。いつもなら朝には戻っていて、村人に聞いてきたことを報告するのに、その姿が見えない。ダビデはどうしたんだ、何かあったのではないか。そんな声がさざ波のように広間に広がった。
「ベンベヌートもいないぞ」
グイードが寝台をめくって大声を上げた。グイードとピエトロとベンベヌートとダビデは皆、ひとつの寝台に寝ている。ピエトロが、そういえばベンベヌートは、深夜、小便に出ていったまま帰ってこなかったといいだした。
「便所に倒れてるんじゃないだろうな」
冗談めかしていいながらリザルドが塔にくっついている便所を見にいったが、頭を左右に振って戻ってきた。グイードが暗い大きな瞳《ひとみ》を光らせながら、信徒の私物を入れる長持の蓋《ふた》を開いた。
「なくなっている。ダビデとベンベヌートの持ち物が消えている」
グイードは勝ち誇ったように叫んだ。二人は逃げたのだという思いが全員の頭を過《よ》ぎったはずだが、誰も口には出さなかった。気まずい沈黙が祈りの場を支配した。
「これは試練だ」
クリストファノが重々しい声でいった。数人の〈善き人〉が頷いた。しかし、その試練をどう乗り越えればいいのか誰にもわからず、皆、途方に暮れた顔をしていた。
「司教だ……」
シルベストロが呟いた。広間にいた者たちは、背中を曲げて寝台に座った老人のほうに顔を向けた。シルベストロは白く長い髭《ひげ》を揺らせて頷いた。
「こんな時こそ〈山の彼方〉をまとめていく司教がいなくてはならない。司教を選ぶ時が来たのだ」
まるでお告げのような言い方だった。ボーナ婆《ばあ》さんやマウロ爺《じい》さん、アレグランツァやピエトロといった信徒たちは感銘を受けたように、そうだ、そうだ、と囁《ささや》いた。しかし私は、シルベストロは最長老だからという理由で司教の代わりに儀式に引っぱり出されることにうんざりしていたのではないかと思う。早く司教が決まって欲しいという気持ちを胸に抱えていて、それがちょうどの時機に口をついて出てきたのだろう。だが、それに乗じた者がいた。
「同感です。今こそ司教を選ぶ時です」
壁に向かって立って祈っていた男が、ゆっくりと広間の中央に出てきた。エンリコだった。そのよく響く太い声でいった。
「司教になる資格を持っていたアルミドは自殺しました。〈山の彼方〉は中心を失っています。われわれは、すぐにも司教を選ばないといけません」
「しかし、どういう方法で選ぶのがいいのでしょうか」
アンジェリコがやんわりと聞いた。〈善き人〉は、新しく入ったカルロとリザルドを含めて十四人いた。それぞれがお互いの顔をそっと窺《うかが》った。
「大子も小子もいない今、全員の評議で選ぶしかないでしょう」
パンドルフォの言葉に、六、七人の〈善き人〉が頷いた。
「僭越《せんえつ》ながら」とエンリコが口を挟んだ。
「司教になる資格は、わたしにあります」
その場にいた者たちは、エンリコの発言の意味がすぐにはわからずに怪訝《けげん》な顔をした。エンリコは、広間の薄闇《うすやみ》に佇《たたず》む〈山の彼方〉の面々に余裕たっぷりの微笑を送った。
「わたしが〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉から遣わされてきたことはご存知でしょう。壊滅状態になったとはいえ、〈海の彼方〉は、〈山の彼方〉の母胎です。そのかつての〈海の彼方〉の司教アリストディオス師に、わたしは命じられました。〈山の彼方〉に赴いて、人々を正しい方向に導きなさいと。ベルナルド司教が亡くなり、大子も小子もいないこの状態においては、〈海の彼方〉の司教に命じられた務めを果たすためには、わたしが司教になることが最善の道だと信じます」
「あなたはベルナルド司教が亡くなってから、そんなことをいいだした」
アンジェリコが青白い顔でひたとエンリコを見つめた。その口調には詰《なじ》るような響きがこもっていた。
「なぜ司教が亡くなる前に、それらのことを顕《あきら》かにしなかったのですか」
「いいにくいことですが」
エンリコは、アンジェリコの追及に動じることなく答えた。
「アリストディオス師から、ベルナルド司教に宛《あ》てた手紙には、そのことが書かれていました。しかし、〈山の彼方〉を正しい方向に導こうとするわたしの助言を無視したのは、ベルナルド師です。ベルナルド師は、フランチアから持ちこんだ自らの教えで、〈山の彼方〉を汚そうとしたのです」
「汚そうとしただとっ」
クリストファノが怒りの声を上げた。
「ベルナルド司教を非難するつもりか」
「過ちを正す道はひとつだけです。まちがいはまちがいと認めることです。あなたがたはどう思いますか。〈海の彼方〉の意向を無視し、異教徒のヘブライ人を秘書役に選び、二度目の救慰礼《コンソラメンタム》を密《ひそ》かに行って〈善き人〉の罪を勝手に清めたりしたことは善きことといえますか」
すぐには誰も反論できなかった。私は、司教がシムズを身近に置いていたことを非難されたことに驚いた。シムズは司教の庇護《ひご》がなくなると、こういう事態が来ることを見越していたのだ。
祈りの場の空気はぴんと張りつめていた。庭から流れてくる小鳥の囀《さえず》りがやけに呑気《のんき》に響いている。湿っぽい薄暗がりの中で、誰もが身じろぎもせずに立っていた。ベルナルド司教を非難することは、〈善き人〉たちの根底を揺るがしていた。皆、頭の中で必死に考えているのがわかった。エンリコの意見に与《くみ》するべきか、ベルナルド司教を擁護すべきか。だがベルナルド司教側に立つ〈善き人〉は、司教によって密かに二度目の救慰礼を授けられた者かもしれないと疑われる覚悟が必要だった。エンリコは、ベルナルド司教派をうまく追いつめていた。私は、このジェルマニア人の手腕に感心していた。確かに司教になる器ではある。
「あなたが〈海の彼方〉から遣わされてきたという証拠は、どこにあるのですか。ベルナルド司教に宛てた手紙でも残っているのですか」
やっとアンジェリコが反撃に出た。
「手紙は、わたしの手許《てもと》にはありません」
エンリコはそういう質問は予期していたようで、余裕綽々《しやくしやく》の足取りで自分の私物を入れてある長持を開け、中から小さな本を出した。
「しかし、わたしがこれを持っていることが、〈海の彼方〉より来たことの証拠となるでしょう。この『ヨハンネス問答録』を持っているということが」
シルベストロがびくっと背筋を伸ばした。パンドルフォが細長い指を組み合わせ、アンジェリコは額に手をあてた。遠くの地から来た〈善き人〉の幾人かは本の名に思い当たりがあるようだったが、ボーナやリディア、ゲラルドやフランコなどアルピの者たちは困惑した様子で首を傾げていた。
「いったい、そのヨハンなんとかという本はなんなんですかい」
カルロが途方に暮れた声で聞いた。
「『ヨハンネス問答録』とは、別名『秘密の晩餐《ばんさん》』。天の国で、使徒たちがイエスを囲んで晩餐をしている。その時に、ヨハンネスの問いに答えて、イエスが真理を解き明かしている様子を記した書という」
アンジェリコが額に手をあてたまま、頭の中を探るようにして続けた。
「それこそ〈善きクリスト教徒〉の秘伝書。偽りに満ちた福音書ではなく、本来の神の教えを書いたものといわれている」
「そうだ。これこそ、われらが教典。〈海の彼方〉に伝わる正統なるわれらが教えの書かれた書だ」
エンリコは角はすり減り、革の装幀《そうてい》もぼろぼろになった本を掲げた。
「ここに書かれている教えを〈山の彼方〉に伝えるように、わたしはアリストディオス師より頼まれた。わたしはこの書の内容を、あなた方に伝える役目を背負っている」
カルロはますます困った顔になり、ボーナ婆さんは追いつめられた鶏のように首をきょときょとさせている。リザルドが恐る恐る訊《たず》ねた。
「おれたちがここで教わったことと、その『ヨハンネス問答録』に書かれていることは、どこか違いがあるのですか」
「おおいにある」
エンリコは太い声でいって、背後の寝台にどかりと腰を下ろそうとした。そこに座っていたピエトロは、自分の膝《ひざ》の上に落ちてくるエンリコの尻《しり》に気がついて慌てて飛びのいた。ジェルマニア人はそれには頓着《とんちやく》もせずに、ピエトロが暖めていた寝台に腰を据えて、ぱらぱらと本をめくった。
「ここには、なぜこの地獄が生まれたのか、いかにクリストがこの世に遣わされたか、最後の審判がどのように下されるかが、すべて記されている」
最後の審判なぞない、とアンジェリコが遮った。エンリコは本を叩《たた》いた。
「最後の審判はある。この世の終わりはある。〈海の彼方〉では、最初からそう教えていた。だが、教えが西に伝わる間に歪《ゆが》められてしまったのだ」
アンジェリコは憤然とした表情をしたが、言い返しはしなかった。エンリコは薄い唇を曲げて、うっすらと笑った。優しげな笑みだったが、いかついジェルマニア人の顔に浮かぶと、どこかぎくしゃくしたものに感じられた。
「〈山の彼方〉において歪められている教えは数多くある。この世の起源からして微妙に違って捉《とら》えられている。ベルナルド司教の教えは、始源において善き神と悪しき神とがあったというものだったが、そこからしてまちがっている。悪魔とは、もともとは神に仕える天使だったのだ」
クリストファノやカルメロが不満の声を洩らした。しかしエンリコは無視して、轟《とどろ》くような声を発した。
「悪魔はかつて天使だった時、他の天使たちを統《す》べるほどの力と栄光に満ちていたがために、神に近づこうという野望を抱いて、他の天使たちを誘惑した。しかし、その目論見《もくろみ》が全能なる神に知られないはずはなかった。悪魔の企《たくら》みは露見し、誘惑された天使たち共々、天の国より放逐された。その時、神は、傲慢《ごうまん》の罪でもって悪魔より天使の輝く光を取りあげ、その姿を醜いものに変えた。尻には蛇の尾が生え、顔は熱せられた鉄の如く灼《や》けただれ、ひきつり、人の顔に似たものとなった。悪魔は痛みに泣き叫びながら、その長い尻尾《しつぽ》に誘惑された天使たちを引きずりつつ、天の国から墜《お》ちていった」
エンリコの声は広間の広い天井に大きく響き、神々《こうごう》しさすらこもっていた。それは夕食後の炉端での説教を彷彿《ほうふつ》とさせるものだったが、内容はまだ誰も耳にしたことのないものを含んでいた。耳新しい話は、刺激的だ。〈善き人〉も信徒たちも黙って耳を傾けることを選んだようだった。
「悪魔は、神の慈悲に縋《すが》って、七日の猶予をもらい、この世を創造した。これこそ旧約聖書に書かれている天地創造の話だ。悪魔は地に草と樹を芽生えさせ、天の国より引きつれてきた天使の冠でもって太陽と月と星を造った。悪魔の所産であるがために、太陽と月は性あるものであり、月ごとに交合する。その太陽と月の淫《みだ》らな悦楽より生まれるものこそ、われらが地上で目にする露と蜜《みつ》なのだ」
蜂蜜が好物のマウロ爺さんは、胸許に手をあてて顔をしかめた。朝露に濡《ぬ》れた畑で働くことの多いアレグランツァは救いを求めるように天を仰いだ。エンリコはますます声を張りあげた。
「悪魔は、この世に水に群がるもの、翼のあるもの、地を這《は》うものを造ると、最後に泥土でもって男の形を造り、共に墜ちてきた天使をその中に入れた。次に、その体の一部をもぎとり、女の形をした泥土の体を造り、そこにも天使を入れた。天使たちは自分たちの霊魂が朽ち果てるべき泥土の体に閉じこめられたのを知って泣いたが、どんなに泣いても、泥土の体は涙で融《と》けることはなかった。だが、悪魔の辱めはそれだけでは終わりはしなかった。その泥土の体を使って、こともあろうに肉の業を為《な》せと命じたのだ」
肉の業という言葉をいかにも汚らわしそうに口にすると、エンリコは激しい調子で続けた。
「しかし、もともと汚れを知らぬ天使たちだ。肉の業の為し方なぞ知りはしない。そこで悪魔は一計を案じた。天使たちを果樹のたわわに実る美しい楽園に移して、安心させた。そして芦《あし》から蛇を造って中に入り、女の形の天使に近づいていくと、その頭に肉の慾への憧れを注ぎこんだ。誘惑された女が燃ゆる坩堝《るつぼ》の如き慾情に駆られると、悪魔は蛇の姿から出てきて、自らの蛇の尾でもって交わったのだ」
私の目の隅に、両手で顔を覆うマッダレーナの姿が映った。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女の心で、私は今や悪魔となったのだと思った。
〈善き人〉の肉慾に対する戒めには厳しいものがあるが、エンリコの語る言葉には燃えるような憎しみがこもっていた。
「これこそ人が、悪魔の子、蝮《まむし》の裔《えい》と呼ばれるようになったゆえんだ」
エンリコは本を膝《ひざ》に置くと、口を噤《つぐ》んだ。それでもまだ広間はエンリコの太い声がこだましているようだった。人々はその騒がしい沈黙の中で不安げな表情を浮かべていた。エンリコの話は、私が〈山の彼方〉の炉端で耳にしたどの話よりも起伏に富み、おもしろかった。憎しみがあり、悲しみがあった。私は、肉の業が悪魔の業とは思わない。しかし、話としてはおもしろい。おもしろい話というのは危険だ。嘘《うそ》も真実のふりをして、話の中でまかり通る。おもしろい話というのは、毒がこもりやすいものなのだ。その場の人々の心に毒がゆっくりと広がっていくのが、私にはわかった。
「かつて〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉の教えは口伝で西方に伝わった。それが誤謬《ごびゆう》に満ちたさまざまな説を生みだすもととなった」
エンリコは頃合いを見計らって、静かにいった。
「しかし、あなたがたは教えの拠《よ》り所となる教典を得た。これを土台にして〈山の彼方〉を立て直すのです」
その時、痩《や》せた影が寝台の縁を伝ってふらふらとエンリコに近づき、膝に置いた本を奪いとろうとした。
「なにをするんです」
エンリコが本をさっと引いたので、影の手は宙をつかみ、床に倒れた。
「そ、それは邪悪の書だっ」
シルベストロの喚《わめ》き声が響いた。エンリコは本を胸に抱いたまま、ぱっと寝台から離れた。同じ寝台に座っていたピエトロが老人を抱きおこした。
「シルベストロ師、どうしたのです」
筋肉の盛りあがったピエトロの分厚い体を押しのけるようにして、シルベストロはなおもエンリコの手にある本を奪おうともがいた。
「それは神の言葉ではない。神の言葉を偽った偽書だ」
「落ち着いてください、シルベストロ師。落ち着いて」
ピエトロが耳許《みみもと》で繰り返した。シルベストロは力を抜いて、さっきまでエンリコの座っていた寝台にへたりこんだ。広間の全員がシルベストロの突然の行動に呆気《あつけ》にとられていた。
「昔、ミラノにあるわれわれの教団が禍《わざわい》に見舞われた」
シルベストロは乱れた息を整えると、少し先の暗がりに立つエンリコを睨《にら》みつけるようにしていった。
「司教であり最長老でもあったナザリウスが、ブルガリアから伝わった秘伝書に沿って、教団の教えを改めるといいだした」
ほう、とエンリコが呟《つぶや》いた。掠《かす》れがちのシルベストロの声をよく聞こうと、広間の人々の輪がじりっと縮まった。
「だが、大子デシデリウスは反対した。なぜならその秘伝書は偽書だったからだ。われらの教えを歪めて広める邪悪の書だったからだ。その秘伝書こそ、『ヨハンネス問答録』だった」
シルベストロは挑戦的にエンリコを見つめた。骨と皮ばかりとなり舌ももつれていた老人に、これだけの気力が残っていたことが驚きだった。エンリコも意外だといわんばかりに、青い瞳《ひとみ》を見開いたが、老人の敵意はさらりと受け流した。
「いつの世にも、物事の流れを変えようとすると、それに逆らう流れが生まれてくるものです」
「物事の流れはデシデリウスにあったのだ。デシデリウスは、それまでミラノの教団が守ってきた教えを貫こうとしただけだ。ナザリウス司教こそ突然、ブルガリアからもたらされたというおかしげな秘伝書を持ちだして、物事の流れに逆らおうとした。結局、教団は分裂してしまい、デシデリウスは分派したがまもなく流浪の地で死んでしまった」
エンリコは、ははあ、と喉《のど》の奥から声を洩《も》らした。
「思いだしました。ブルガリアの教団で、そんなことを聞いたことがあります。ミラノの頑迷な一派が、『ヨハンネス問答録』に言いがかりをつけて出ていってしまったと。あなたはその一派だったのですね」
「言いがかりではない。デシデリウス師は正しいことを貫いただけだ。そして、わしはデシデリウス師によって〈善き人〉となった者だ」
シルベストロは重々しく答えた。
エンリコは息をひとつ継いでから、いかにも重大なことを告げるのだといわんばかりに厳《いか》めしい顔でいった。
「その後、デシデリウスは悪しき最期を遂げたために、デシデリウスもその一派も、彼らによる救慰礼《コンソラメンタム》は、いかなる罪の赦《ゆる》しも施すことはできないということになった」
「嘘だっ」
シルベストロは叫んだ。
「デシデリウス師は悪しき最期など遂げてはいない。病床で死んだのだ」
「〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉では、そう伝えられている」
エンリコは老人を圧する勢いで告げた。〈海の彼方〉という言葉に、シルベストロはたじろいだ。〈山の彼方〉の者たちすべて、エンリコの背後に横たわる〈海の彼方〉というものの前では、生まれたばかりの赤子のように無力感を覚えるようだった。
「嘘だ……そんなことはない……嘘だ……」
譫言《うわごと》のように呟《つぶや》くシルベストロの言葉を遮って、エンリコは冷厳と告げた。
「あなたに〈善き人〉の資格はありません」
シルベストロは打ちのめされ、膝の上に頭を埋めた。広間は静まりかえっていた。私にはエンリコが鉄の甲冑《かつちゆう》に身を固めた兵士のように見えた。その重い剣で、周囲の者を容赦なく叩《たた》きつぶしている。
「エンリコ師……」
おずおずとした声が、広間の隅から起きた。リザルドとカルロがへつらうような笑みを浮かべて、エンリコに近づいていった。
「あの……おれたち……先日、シルベストロ師から救慰礼を受けたんですが……それはどうなるんですか」
リザルドが聞いた。エンリコは低い声で繰り返した。
「シルベストロ師の救慰礼には、罪を赦す力はなかった」
老人の背中がますます丸くなった。それは、瀕死《ひんし》の老人にさらに剣の一撃を与えるようなものだった。しかし、リザルドとカルロには、シルベストロの悲哀を感じる余裕なぞなかった。エンリコに縋《すが》りつかんばかりにして、自分たちはどうすればいいのかと聞いた。
「わたしが救慰礼を授けなおしてあげよう」
そして、広間に集まった人々に向かって声を張りあげた。
「わたしは〈海の彼方〉のアリストディオス司教より救慰礼を授かり、正しい教えに従って、真なる信仰生活を送ってきた。このわたしによる救慰礼には罪を赦す力がある。道を誤ったベルナルド司教には、その力があったとは思えない」
「ベルナルド司教を冒涜《ぼうとく》する気かっ。モンセギュールの悲劇を味わった方だぞ。ヴェローナでの二百人の火炙《ひあぶ》りをくぐり抜けてきた方だぞ。ただのお方ではなかったのだぞ」
クリストファノが顔を真っ赤にして怒鳴った。忍耐がとうとう最後のところに来てしまったという様子だった。しかし、怒声に怯《ひる》むエンリコではなかった。小柄なクリストファノを見下すように聞いた。
「なぜ生き延びたのですか。なぜ火炙りの運命を受け入れなかったのですか」
「善き教えを広めるために決まっている」
エンリコの薄い唇が半月形に曲がり、淡い笑みが広がった。
「そうでしょうか。もしかしたら、火刑を怖れて逃げたのかもしれません。ベルナルド司教は、〈善き人〉に密《ひそ》かに二度目の救慰礼を授けていた。自分に甘い者は、他者にも甘くなる。つまり、ベルナルド司教自身、〈善き人〉となってから大きな罪を犯し、二度目の救慰礼を受けたことを証明しているようなものではないですか」
「いいがかりだっ」
クリストファノが今にも殴りかかりそうに、拳《こぶし》を握りしめた。だが、エンリコの舌の動きのほうが早かった。
「もちろんこれは類推です。しかし少なくとも、〈海の彼方〉では二度目の救慰礼は許可していません。教えに反することを行っていた前司教に〈善き人〉たる資格はあったでしょうか。罪を赦す力があったでしょうか」
クリストファノは怒りの浮かんだ顔を背けた。それ以上、抗弁するのは無駄と知ったらしかった。エンリコは静かに、力強く続けた。
「しかし、どんなことも遅すぎるということはありますまい。ベルナルド司教によって救慰礼を受けた者や、自分に救慰礼を授けた者の資格について不安のある者はみな、わたしの許に来るがよろしい。わたしがもう一度、真の救慰礼を授けてさしあげよう」
ボーナとアレッサンドラが糸に手繰られるようにエンリコの許にいって跪《ひざまず》いた。フランコもゲラルドも目配せを交わしながら、エンリコに近づいていった。アンジェリコとパンドルフォは苦々しい顔で暗がりに佇《たたず》み、カルメロとクリストファノはこそこそと小声で話している。そして、シルベストロの曲がった背中から嗚咽《おえつ》が洩《も》れてきた。
私はマッダレーナを探した。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は壁に背をもたせかけ、もう何も聞きたくも見たくもないというふうに、青白い顔で闇《やみ》に沈む天井を仰いでいた。その横ではリディアが途方に暮れて立ち尽くしている。
エンリコはその場の様子を眺めると、気軽な調子でいった。
「案じることはない。これからは、まちがったことは正され、正しい道が示される。さあ、食事をしようではないですか」
エンリコは水と麺麭《パン》の置かれた台に近づいていった。信徒たちがそれを追うように歩み寄った。
マウロ爺《じい》さんが丸麺麭を取りあげて、エンリコに差しだした。エンリコは麺麭を手に持って、人々に聞いた。
「主《しゆ》の祈りを、わたしが唱えてもいいですか」
食卓において麺麭を持ち、主の祈りを唱えるのは、司教の役目だった。信徒たちは熱心に、〈善き人〉たちの幾人かはまだ戸惑いながらも頷《うなず》いた。アンジェリコやパンドルフォ、クリストファノは不満そうではあったが、敢《あ》えて何もいわなかった。人々は主の祈りを聞くために、エンリコを囲むように集まった。
「天におられますわれらが父よ、御名が崇《あが》められますように。御国がきますように」
ジェルマニア訛《なまり》の残る太い声が、広間に朗々と流れだした。
こうしてエンリコは、〈山の彼方〉の司教の座に就いたのだった。
28
私とマッダレーナが司教室に呼ばれたのは、翌日のことだった。長く使われてなかった塔の階段を昇り、二階の司教室の扉を開くと、金髪に青い目をしたジェルマニア人はかつてベルナルド司教の座っていた椅子《いす》に腰を下ろしたまま私たちを迎えた。
夏の太陽が司教室の窓から注ぎこみ、部屋は明るかった。粗末な寝台も、浮き彫りの消えかかった古椅子も窓際の机も、ベルナルド司教が生きていた頃そのままだ。ただ、老司教が長く病床に就いていた部屋にはまだ蒼《あお》ざめた死の色が漂っているようで、精力|溢《あふ》れるエンリコとはそぐわないものがあった。
「お待ちしていました」
私たちを目にすると、エンリコは指をひらつかせて扉を閉めるように示した。カルロとリザルドが救慰礼を受けてから〈善き人〉らしくなったと同様、エンリコも司教になってから、司教らしい雰囲気を身につけようとしていた。重々しい口調、丁寧な物腰。だがそれは借りた衣装を着ているようで、まだ身に馴染《なじ》んではいなかった。
私は戸を閉めて、マッダレーナに続いて部屋の中央に歩いていった。マッダレーナは私のほうには一瞥《いちべつ》もくれずにエンリコの前に立った。明るい部屋の光の中で、女の痩《や》せ方が浮きたっていた。目は窪《くぼ》み、頬《ほお》はこけ、手足は枯れ木のように細くなっている。エンリコもその衰弱ぶりに気がついて、自分の前の椅子に座るように勧めたが、マッダレーナは応じようとはしなかった。私は女を守るように、その背後に立っていた。
「あなた方をここにお呼びしたのは、以前、お二人が下の祈りの場で話していたことに関係しています」
エンリコが『マリアによる福音書』のことをいっているのだとぴんときた。マッダレーナの表情は見えなかったが、亜麻の衣服に包まれた骨張った肩が緊張して震えたのがわかった。
「あなた方は、確か福音書とかいっていましたね」
案の定、エンリコはそのことを持ちだした。
「それは次の司教に渡すべきものだということでした。今やわたしが司教です。渡していただけますか」
マッダレーナは身じろぎもしないで立っていた。エンリコは言葉を失っている女から、私のほうにゆっくりと視線を移した。マッダレーナの舌の代わりにおまえが喋《しやべ》ってくれと告げる青い瞳には、女に対する強い不信感が覗《のぞ》いていた。私が返事しないので、エンリコはまたマッダレーナに話しかけた。
「おおよその見当はついています。その福音書とは、あなたとフランチェスカがヴェネツィアに行って受けとってきたもの――」
エンリコはマッダレーナのほうに首を突きだして囁《ささや》いた。
「モンセギュールから持ちだされた宝なのでしょう」
マッダレーナの頭がびくっと動いた。驚いて当然だった。ベルナルド司教との会話を知っている者は、シムズと私とマッダレーナ以外、いないはずだった。私たちの反応に満足したらしく、エンリコは擦りきれた木彫りの椅子に背をもたせかけた。
「〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉に持ちこまれたモンセギュールの宝のことは、亡き司教アリストディオス師が洩《も》らしてくださいました。アリストディオス師は、〈山の彼方〉の司教の頼みを聞いて、それの中身を確かめようとはしませんでしたが、なにか新しい福音書らしいということまではご存知でした。やがてコスタンティノポリの〈海の彼方〉が崩壊し、それがアクレのどこかに消えてしまったことを、アリストディオス師は気にかけていました。そして、モンセギュールから宝を持ちだした〈善き人〉の一人が〈山の彼方〉の司教になったと聞いて、わたしにいわれたのです。いずれ宝は〈山の彼方〉に行くだろうと」
エンリコはマッダレーナの顔色を窺《うかが》うように睫毛《まつげ》を瞬かせて目を上げた。しかし、そこに何の感情も見いだせなかったらしく、息を吐いた。
「こちらに身を寄せたわたしは、ベルナルド司教がしきりにどこかと連絡を取っていることに気がつきました。なにかあるなと思っていたら、あなたとフランチェスカがヴェネツィアヘの旅に出ていったのです。東方からの船が着く港に、男ではなく女を遣わした。男の二人連れは〈善きクリスト教徒〉だと見破られる恐れがあるが、女の二人連れならまだローマ教会の目をくらましやすい。ただの布教の旅ではないと感じました」
「あなたはモンセギュールの宝を手に入れるために、〈山の彼方〉に来たのですね」
マッダレーナの言葉に、エンリコは激しくかぶりを振った。
「とんでもない。みなの前でいった通りです。わたしは〈山の彼方〉を正しい方向に導きにきたのです。〈海の彼方〉と〈山の彼方〉をひとつにまとめにきたのです」
エンリコはマッダレーナを見据えて続けた。
「ただ、ふたつのものをひとつにまとめるためには、ふたつの教典は混乱のもとです。その新しい福音書が『ヨハンネス問答録』と合致しないならば、人の目に触れる前にどうにかしなければいけません」
どうにかする、とは始末するという意味だろう。身じろぎもしないでいるマッダレーナに、エンリコは子供を諭すようにいった。
「人々の混乱を防ぐためでもあるのです。その福音書を渡してください」
マッダレーナはゆるゆると首を捻《ひね》って私を見上げた。瑪瑙色の瞳には苦しみと悲しみが浮かんでいた。マッダレーナがエンリコの言葉に何一つ心を動かされなかったこと、福音書を渡すことを厭《いや》がっていることを私は悟った。しかし、マッダレーナは〈山の彼方〉の一員だ。司教に逆らえるはずはない。その口から出た言葉は「福音書を持ってきてください」というものだった。
エンリコは、私がそれを保管していたことに驚いたらしく、金色の眉《まゆ》をぴくりと動かした。私は頭を軽く下げて、司教室から退いた。
塔の階段を降りていくと、そこに腰をかける男の姿が目に入った。シルベストロだった。階段に腰を下ろし、背中を丸め、両手に顔を埋めている。昨日、エンリコに〈善き人〉ではないといわれて以来、その姿勢を一度も崩さなかったかのようだった。
シルベストロの横を通りすぎる時、老人が何かぶつぶつと呟《つぶや》いているのに気がついた。独り言のようだったので、そのまま横を通り過ぎようとして、私は立ち止まった。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいれば……わたしは……その者を裁く。わたしは世を裁くために……きたからである……わたしを拒み、わたしの言葉を受けいれない者に対して、裁く者がいる……」
どこかおかしかった。〈善き人〉たちの語るクリストの言葉とやらを時々耳にしていたから少しは慣れ親しんでいた。しかし、イエスという男がこんな言い方をするとは思えなかった。
私はシルベストロの顔を窺《うかが》った。骨ばった指で膝《ひざ》を叩《たた》きながら、ぶつぶつと呟き続けている。
「わたしは自分勝手に語ったのではなく……わたしをお遣わしになった父が……わたしの言うべきこと……なすべきことを……お命じになったからである……」
私はシルベストロの痩せた肩に手をかけた。
「大丈夫か」
シルベストロは私を横目で見た。その目には涙がとめどなく流れていた。しかし、自分がなぜ泣いているのか、シルベストロにはもうわからないようで、瞳に浮かんでいるのは怪訝《けげん》な表情だった。
「なんのことだ」
シルベストロはもごもごした調子で聞き返した。私は痩せた肩から手を離した。
エンリコはこの老人を打ち砕いたのだ。
私は暗い気分に包まれて、奥の庭に出ていった。敷石の間に雑草の生えた庭は眩《まぶ》しいほどの光に満ちていた。昼下がりの太陽は頭上に輝き、黒くくっきりした影を落としている。
こんなにいい天気だというのに、ほとんどの者は暗い建物の中にこもっていた。異端審問官の目を怖れてというより、昨日エンリコにベルナルド司教やシルベストロの救慰礼《コンソラメンタム》が無効だと告げられてから、自分の清らかさに自信が持てなくなったらしく、競い合うように祈っては神の赦《ゆる》しを得ようとしていた。
四角い奥の庭を横切っていると、奥の門を通して中の庭が見えた。今は使われていない食堂の入口の日陰に、アンジェリコとパンドルフォが座っていた。憂い顔をくっつけあわせるようにして、ひそひそと話している。きっとエンリコのことについてだろう。エンリコが司教になったことに対して彼らが不満を覚えているのは、周知の事実だった。二人共あまりに真剣に話していたので、奥の門の上の見張り部屋に続く階段を昇っていく私にも気がつきはしなかった。
『マリアによる福音書』は、かつてのシムズの部屋から入る壁の中の通路にまだ隠していた。エンリコに知られた以上、福音書のことを他の人々の目から隠す理由もなくなったので、私は戸を開けっ放しにして見張り部屋に入っていった。
部屋は荒れていた。天井や書き物机、寝台の脚、いたるところに蜘蛛《くも》の巣が張り、床は埃《ほこり》でざらざらしていた。この前、ここに来た時は暗闇《くらやみ》の中だったので気がつかなかったのだ。シムズがこの部屋からいなくなったのは春だった。季節がひとつ変わったのだ。
私は部屋を横切って、窓の横に垂れている幕を引いた。埃っぽい闇がずっと先まで続いている。しかし行く手には城壁に穿《うが》たれた覗《のぞ》き穴から洩れてくる光がぼんやりと浮かんでいた。私はその弱い光を頼りに通路に入っていった。床に転がった石や木片を靴の裏で確かめながら、数歩、進んだ時だった。
――揺らめく心に惑わされてはいけない。
頭の中にシムズの声が響いた。〈山の彼方〉を立ち去る前の晩、この通路の端に立ったヘブライ人は私にこういったのだった。
――きみの道を照らしてくれる知の光を消さないように歩いていけ。
言葉とは不思議なものだ。石ころのように心の隅に放りだしていても、何かのはずみで輝きだすことがある。ずっと後になってから、そこに意味があったことに気がつくのだ。
シムズは、なぜそんなことをいったのだろうか。あの男自身は揺らぐ心に惑わされる人間ではなかった。死の瀬戸際にいる司教を棄《す》てて、〈山の彼方〉を出ていったくらいだ。ヘブライ人を嫌うエンリコが司教になったことを考えると、正しい選択だった。
あの言葉は、私に向けてのものだった。シムズは私に忠告したのだ。揺らぐ心に惑わされるなと。
シムズの目には、私は揺らぐ心を持っていると見えたのだ。そう見えたとしたら、理由はひとつだ。マッダレーナに対してだ。シムズが実際にマッダレーナに対する私の気持ちに気づいていたかどうかはわからない。ただ、私が揺らいでいることは勘づいていたのだろう。信徒でもないのに、〈山の彼方〉にだらだらと居座り続けていること自体、シムズのような男の目には、心が揺らいでいる証拠としかいいようがなかったのではないか。
冷静に考えれば、私のことを知るヴィットリオが異端審問官として目と鼻の先にいる今、〈山の彼方〉に隠れていることは、墓穴に横たわって死を待っていると同じだ。信徒でもないのに、ここに居続けるのは愚かとしかいいようがない。
シムズのいう通り、マッダレーナに心が惑わされているせいなのだ。私の心は、あの女の中の鋼の杭《くい》にひっかかってしまった。反発を覚えながらも惹《ひ》かれていた。それは辿《たど》る道は違うが、同じものを探していたせいだ。あの女は、それを永遠の心の安らぎだといった。それを聞いて、私にはわかった。なぜ、マッダレーナに心を惑わされたか。
私もマッダレーナと同様、心の安らぎを求めてきた。マッダレーナはそれは天の国にあると信じ、私はそれはこの世のどこかだと信じて東から西にさまよってきた。そして二人共、そこに辿りつくための正しい道は見つからず、途方に暮れている。
私もマッダレーナも道を誤っている。正しい道なぞ誰にもわかりはしない。シムズのいう通り、知の光が道を照らしてくれるならいいが、私たちの道を照らしているのはたいてい愚の光なのだ。
これ以上〈山の彼方〉にいても、私には得るものなぞないだろう。しょせんは行きずりの場所なのだ。『マリアによる福音書』は、私には何の意味も持たない。〈善き人〉たちの神も信仰も、私には何の関わりもない。
通路が城壁に突きあたり、二手に分かれた。西の壁に沿って細長い覗き窓がぽつんぽつんと続いている。左に曲がって進んでいくと、覗き窓から緑に燃える丘陵が見えた。白い羊たちが豆粒を散らしたように〈龍の背中〉の西の山肌に群れている。その彼方《かなた》には、青味がかった山稜《さんりよう》が連なっている。
ここを出ていこうと私は思った。『マリアによる福音書』をエンリコに手渡して、すべてにおさらばするのだ。〈山の彼方〉にも、マッダレーナにも。イエスとかいう半裸の男にも、その言葉にも。城の中に閉じこめられているのは、もうたくさんだ。私はまた旅に出るのだ。
通路の崩れたところの手前で、私はかがみこんだ。石壁の奥に手を伸ばして、筏乗《いかだの》りのものだった革袋を引きずりだした。中には銀貨の袋と福音書が入っている。私は袋ごと抱えて、通路を引き返した。
見張り小屋を出ると、中の庭でアンジェリコとパンドルフォは真剣な顔でまだ話し続けていたが、塔の階段の昇り口からシルベストロの姿は消えていた。私は天井の崩れた階段を昇り、二階の司教室に入っていった。
エンリコとマッダレーナは私が出ていった時と同じ位置にいた。エンリコは椅子《いす》に座って膝《ひざ》の上で両手を組み、マッダレーナは青ざめた顔で立ち尽くしたままだ。言葉すら交わすことなく、石と化していたのではないかと、私は思った。
私は、茶色の羊皮紙を丸めた筒を袋から出してエンリコに渡した。マッダレーナは苦痛を滲《にじ》ませて、エンリコが革紐《かわひも》を解いてヘブライ語の写本とラテン語の訳文を取り出すのを見つめた。エンリコはヘブライ語の写本のほうはかぶりを振ってまた紐で丸め、ラテン語の訳文を広げた。
「『マリアによる福音書』だと」
エンリコは当惑して呟いた。
「マグダラのマリアによって書かれたものだということです」
マッダレーナが口を挟んだ。一枚目の最初の二、三行にさっと目を走らせたとたん、エンリコは苛立《いらだ》たしげに紙を握りしめた。マッダレーナは自分の体が潰《つぶ》されたかのように胸に手をあてた。
「マグダラのマリアがイエスの第一の弟子で第一の対話者だっただと。たわけたことを」
エンリコは吐きだすようにいった。
「マグダラのマリアは、イエスの最期までつき従っていた女性です。第一の弟子だったとしてもおかしくはありません」
マッダレーナが抗弁すると、エンリコはますます不機嫌になった。
「こんなものは偽書に決まっている。もし本物だったとしても、マグダラのマリアは罪の女、娼婦《しようふ》だった女だ。そんな女が書いた福音書なぞ、考えるだけでも汚らわしい」
エンリコは訳文の紙を両手で引き裂くと、部屋の隅の暖炉に投げこんだ。そして福音書の写本も一緒にして、私にいった。
「下から火を持ってきてください、ザンザーラ。このようなものは、すぐにも始末しておかないと、どんな禍《わざわい》をもたらすか……」
「いけません」
悲鳴のような声がマッダレーナの喉《のど》から洩れた。今まで石のように立ち尽くしていた女は、突然、身を翻して暖炉に走り寄ると、丸めた写本を拾いあげた。
「なにをする、マッダレーナ」
近づいていったエンリコに、マッダレーナは向き直った。
「女に触れると汚れますよ、司教」
両手を広げて、マッダレーナを押さえようとしていたエンリコは動きを止めた。マッダレーナの瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》に楽しげな光がきらめいた。
「罪を犯すと、赦《ゆる》されることはないんですものね、司教。わたしに触れるとおしまいですよ。〈善き人〉でも司教でもいられなくなる」
エンリコの喉仏《のどぼとけ》が大きく波打った。しかしジェルマニア人は静かな声で語りかけた。
「馬鹿な真似はよしなさい。それを、わたしに渡すのです」
マッダレーナはかぶりを振った。そしてエンリコとの間合いを測りながらじりじりと戸口のほうに近づいていった。エンリコはマッダレーナに触れるのを恐がりつつも、戸をその巨体で塞《ふさ》ぐと、部屋の隅で二人の様子を眺めていた私にいった。
「マッダレーナを捕らえろ。福音書を取り戻すんだ」
それを耳にしたとたん、マッダレーナは戸口に突進した。エンリコにとって福音書を取り返したい気持ちより、女に触れることの恐怖のほうが大きかった。マッダレーナが近づいてくるのを見て、飛蝗《ばつた》のように横に飛びのいた。
「ザンザーラ、捕まえろ、捕まえろっ」
エンリコが叫んだ。私はマッダレーナの後を追って司教室から出ていった。
エンリコの命令に従うつもりはさらさらなかった。ただ、マッダレーナのことが心配だったのだ。塔の中には、マッダレーナが階段を降りていくぱたぱたという足音が響いていた。私は階段を二段続きで走り降りた。
「誰か、マッダレーナを止めてくれっ。マッダレーナの気が触れた」
エンリコの叫び声が後を追いかけてきた。祈りの場にいた人々が訝《いぶか》しげな顔で外に出てきた。そして突風のように塔の階段から出口に駆け抜けたマッダレーナと私に驚いて、小さな声をあげた。
外に出たマッダレーナは中の庭に行こうとして、こちらに戻ってくるアンジェリコとパンドルフォに気がついた。二人は騒ぎを耳にして、当惑した様子でマッダレーナを見た。福音書の筒を抱えた女は足を止めた。
「こっちだ、マッダレーナ」
城の裏手に続く木戸に走りながら私が声をかけた。マッダレーナが、はっとこちらを見た。私は手にしていた革袋を揺すった。
「逃げるつもりなら、おれについてこい」
銀貨で膨らんだ革袋を見て、マッダレーナは私もここから出ていくつもりであることを悟った。ついてくるかどうか一瞬ためらったが、すぐに木戸を開いて待っていた私のほうに走ってきた。
私たちは膝《ひざ》まで雑草の生い茂る岩場に飛びだした。水場を通り過ぎ、岩の途切れたところで止まると、そこから〈龍の背中〉の絶壁に線のような道が刻まれている。以前、ディアマンテに案内してもらった山の西側に抜ける近道だ。ディアマンテは山羊《やぎ》のように身軽に進んでいったが、山娘ではないマッダレーナは絶壁を前にして怯《ひる》んだ。しかし木戸からこちらにやってくる人々を見て決心したようだった。福音書を丸めて筒にしたものを帯紐に挟むと、私の後について、崖《がけ》にへばりついて進みはじめた。
「二人とも戻ってこい。そんなところにいたら、異端審問官に見つかるじゃないか」
十歩ほど進んだところで、エンリコの声がした。ジェルマニア人は巨体を草の間にかがめ、私たちに怒りをぶつけていた。他の者たちはエンリコにいわれたのか、少し下がったところでやはり草の間に身を伏せている。子供が隠れんぼをして遊んでいるような格好だった。
私たちは返事をしないで前に進みつづけた。マッダレーナは足を滑らさないようにするために言葉を返す余裕もなかったし、私はエンリコと話すことなぞなかった。エンリコは尚《なお》も私たちの気持ちを変えようと、あれこれと話しかけていたが、やがてその声も風の音に消されて聞こえなくなった。しばらくして振り返ると、エンリコはあきらめたらしく、岩場から姿はなくなっていた。
下方では夏の緑がうねっていた。私とマッダレーナは岩面を這《は》う蛞蝓《なめくじ》のようにのろのろと進んでいく。足許《あしもと》の崖は遥《はる》か下方でなだらかな斜面とぶつかっている。茶色がかった毛皮のような芝に覆われた斜面は、やがて灌木《かんぼく》の茂みとなり、その下に広がるアッツォの村を包みこんでいた。
やがて道が少し広がり、絶壁に突きだした小島のようなところに出た。人が二人座れるほどの空間がある。私はそこで少し休むことにした。少し遅れて辿りついたマッダレーナは岩の上に根を張った松の根本に腰を下ろして、顔を流れる汗を拭《ぬぐ》った。そして私たちは稲妻のようにぴりぴりした笑みを交わした。
「この道はどこに続いているのですか」
マッダレーナは絶壁の先を見遣《みや》って聞いた。私が〈龍の背中〉の西側に通じると答えると嬉《うれ》しそうに口許《くちもと》を綻《ほころ》ばせた。
「だったら、アンペッツォの村に抜けることができます」
そして、帯紐に挟んだ福音書の写本に私が目を落としたことに気がついた。
「これはヴェローナの教団に届けるつもりです。あそこの司教なら、読みもせずに燃やすことはしないでしょう」
エンリコから福音書を奪って逃げたことの言い訳を私にしているようだった。私は銀貨の入った袋を膝に抱えて、肩を丸めた。
「あんたがそれをどうしようと、おれには関わりないよ」
マッダレーナは鼻を平手で押し潰《つぶ》されたような顔をした。「もちろんです」ときつい口調でいって、尖《とが》った顎《あご》を上げた。
ひょっとしたらマッダレーナは私にヴェローナまでついてきてもらえると期待したのかもしれなかった。そしてそれを微《かす》かに願っていた自分に気がついて憤慨したのだ。
「あんたラテン語訳のほうは持ってこなかったのか」
私は筒状に丸めた写本を眺めて聞いた。マッダレーナは帯紐《おびひも》から写本を引き抜いて、中をめくってがっかりした顔をした。
「あれはエンリコがまとめて暖炉に投げこんでしまいました。もう燃やしてしまったんでしょう」
「じゃあ、もう読めないんだな」
マッダレーナはかぶりを振った。
「わたしたちにはこれが残っています。また、誰かヘブライ人に頼んで訳してもらえばいいのです」
そうはいったが、マッダレーナは悲しげだった。再び訳文が手に入るまでの時間を考えて、気落ちしたのだろう。マッダレーナは写本を膝に載せて、ぼんやりと下方を眺めた。
陽が西に傾きはじめていた。夏の光にすべては包まれていた。アッツォ村を囲む放牧地には牛が散らばり、畑では小麦が黄金色に染まりつつあった。大豆ほどの大きさの人たちは干し草を運んだり、家の修繕をしたり、牛を小屋に入れたりしている。村の道を走る子供たち。広場にたむろする男たち。家の前で立ち話する女たち。不意にマッダレーナが「あら」と声を洩《も》らした。そして私の視線を捉《とら》えて、広場の少し上のほうを指さした。
菩提樹《ぼだいじゆ》が大きく枝を張る広場から、細い道が城に向かって延びている。その道を頭巾《ずきん》つきの短い外套《がいとう》を着た一人の男が村に向かって降りていっていた。異端審問官が滞在している間、村人は誰も〈山の彼方〉に近づかないはずだ。〈山の彼方〉の人間も、夜でもない限り村に降りていくはずはない。なのに誰かが城と村とを繋《つな》ぐ道を歩いていた。
マッダレーナは目を凝らしてその男を見つめた。
「〈善き人〉の誰かのようです」
どうして、そうだとわかるのだ、と私が聞くと、あの頭巾つきの短い外套は、〈善き人〉が夏場、布教の旅をする時に着るものだと答えた。〈山の彼方〉の女たちは布を織って、皆の衣類を縫っている。マッダレーナは自分が作ったものだけに、その形を覚えているようだった。
「だが、いったいなぜ村に向かっているんだ」
マッダレーナは不安な面持ちでかぶりを振った。
城から降りてきた男は広場に入っていくと、ヅィビリーノの家に歩いていった。異端審問官のヴィットリオたちが滞在している場所だ。マッダレーナと私の視線はその姿にぴたりと張りついて離れない。〈善き人〉が、ヅィビリーノ家の戸を拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「なんてこと……」
マッダレーナが身を乗りだした。その弾みに写本が膝から滑りおちた。マッダレーナはとっさに手を伸ばして、『マリアによる福音書』をつかもうとした。白い亜麻布の衣類に包まれた細い体がふわりと揺れた。マッダレーナの目が恐怖と驚きで大きく見開かれた。しかし、もう遅かった。指の先を福音書を丸めた筒が通りすぎていったと同時に、その体も後を追うようにぐらりと松の幹からころげ落ちた。白い服の裾《すそ》が別れを告げるように翻り、宙にかき消えた。
私は岩の縁にしがみついた。白い衣を着た女がもがきながら落ちていく。悪魔に誘惑され、天の国から墜《お》ちた天使。光の尾を曳《ひ》きずりながら、遥かな地上に放りだされた霊魂……。〈善き人〉の話に出てきたそんな光景が頭に浮かぶと同時に、女の体は斜面にぶつかり、小さく弾んだ。そして樹から落ちた実のように転がっていき、灌木《かんぼく》の茂みに突っこんで動かなくなった。
29
人生とは不意打ちの連続だ。わかっていても、不慮の出来事が起きるたびに人はそのことに改めて驚かされる。
指を三回ほど鳴らす間、私は呆然《ぼうぜん》とマッダレーナの倒れている灌木の茂みを見つめていた。何とかしなくてはと思ったのは、それからのことだった。
私のいる崖の中腹からは、マッダレーナの姿は白い布きれが落ちているようにしか見えない。
「マッダレーナ、大丈夫かっ。マッダレーナ」
何度か声をかけてみたが、返事はなかった。灌木の間に覗《のぞ》く白い服が揺れた気がしたが、風にはためいただけかもしれなかった。まだ生きているとしても、動けないのだろう。
助けにいきたかったが、転がり落ちない限り、崖の下まで行くのは無理だった。絶壁が途切れるまでこの道を進み、山裾から迂回《うかい》するしかない。
「そこで待っているんだ。助けに戻ってくるから」
聞こえたかどうか、まだ生きているかどうかもわからなかったが、私はそう怒鳴って歩きだした。気が急《せ》くあまり、足がかりを踏み誤りそうになる。爪先《つまさき》の岩が崩れて、からからと小石が落ちていく。落ち着かなくては。私は自分にいい聞かせた。マッダレーナは死んだかもしれないという考えが、強く心を揺さぶっていた。ついさっきマッダレーナから離れようと決心したというのに、どうしてこれほど動揺するのか、自分でも不思議だった。
絶壁は次第に緩やかになり、やがて松や樅《もみ》の樹がまばらに生えている斜面に出た。そこから崖の下に回りこんで、マッダレーナの落ちたところに引き返そうとした時だった。
「ザンザーラ」と私を呼ぶ声がした。あたりを見回すと、木々が途切れて草地の始まる斜面の上のほうでパエジオが長い羊飼いの杖《つえ》を振っていた。褐色に汚れた布を頭に巻きつけ、肩から革の袋を下げている。背後では白い羊たちが散らばって草を食べていた。
「こんなところで、なにしてるんだ」
パエジオはのんびりした調子で聞いてきた。すべて秘密にしておいたほうがいいのではないかと思ったが、パエジオの手を借りたほうがマッダレーナを早く助けられると考え直した。
「〈善き人〉のマッダレーナを知っているか」
パエジオが頷《うなず》いたので、そのマッダレーナが崖《がけ》から落ちたと告げた。パエジオは私の来た方向を振り向いたが、そこからでは絶壁に通じる道もマッダレーナの落ちた場所も見えるはずはなかった。
「助けにいかないといけない。手伝ってくれないか」
羊飼いは後ろを振り向くと、ひゅっ、と口笛を鳴らした。羊たちの間から麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶったフィオリートの姿が現れた。パエジオは、少しの間羊の群れを離れると怒鳴り、甥《おい》の返事も聞かずに私のほうに走りおりてきた。
「どこだ」
私は絶壁についた道の先を指さして、崖の下からでないと行けないと説明した。パエジオは長い杖で行く手の草を薙《な》ぎ払いながら、崖の下に回りこんでいった。
なぜマッダレーナがこの道を歩いていたのか。なぜ二人は城から出てきたのか。なぜ私が重たげな革袋を持っているのか。パエジオには聞きたいことがたくさんあったはずだが、口に出したのは別のことだった。
「今年の乳酪造りはさんざんだ」
ほう、と私は相槌《あいづち》を打った。
「羊の乳の出は悪いし、味ときたら酢みたいだ。村の不安を羊が草と一緒に喰《く》ってしまったんだ」
村の不安という言葉に、異端審問官のことかと聞き返した。パエジオは羊飼いの杖で目の前の雑草を薙ぎ払った。さすが山歩きに慣れていた。大股《おおまた》でゆったりした歩調のくせに、けっこう速く、遅れないように歩こうとする私の背中に汗が流れだした。
「もう十日以上も〈ゴンドラ殿〉の屋敷に居座っている。アルピの山中の村にしてはご大層な長逗留《ながとうりゆう》だ。村人は口を割ってはいないが、あの若造がなにか普通ではないものを感じ取っているのだと思う」
私の頭に、ジャコモの屋敷に入っていった〈善き人〉の姿が浮かんだ。胸の底に不安が湧《わ》いたが、それはすぐに「〈山の彼方〉の司教はどうなったんだ」というパエジオの声に押しやられてしまった。
「エンリコが新しい司教になった」
パエジオは肩越しに私を振り返った。
「ジェルマニアの〈善き人〉か」
「そうだ。自分の流儀で〈山の彼方〉を変えようとしてひっかきまわしている」
パエジオはまた前を向いて、雑草のおい茂る岩の間を進みながら、「夢を見た」といった。
「城が海の中に沈んでいく夢だ。緑と青の入り交じる不思議な色の海の波が覆いかぶさろうとしていた」
「当たっているかもしれん」
私は口の中で呟《つぶや》いた。その声はパエジオの耳には届かなかったが、かまいはしなかった。
絶壁の下を城の方向に戻っていくうちに、陽は次第に暮れていった。寂しい夕暮れの風が吹きはじめ、草の葉を揺らす。その細い葉の上に茜色《あかねいろ》が宿りはじめた頃、マッダレーナの墜落したところに着いた。
「あそこだ」
私たちは同時に草の間に白いものを見つけた。パエジオの後をついて走り寄っていきながら、私はそれがマッダレーナが落ちていったところとは少し離れていることに気がついた。その理由は、駆け寄ってみてわかった。マッダレーナは胸に『マリアによる福音書』を抱えていたのだ。巨大な蛇が這《は》ったように草が倒れ、血がついていた。マッダレーナは怪我《けが》をした身を引きずって、福音書を探しまわったのだ。
頭や口から血を流しているマッダレーナを私は抱き起こした。睫毛《まつげ》がぴくぴくと動いていた。右腕が折れ、頭の傷から血がおびただしく流れてはいるが生きていた。
「早く手当てをしてやらないと……」
そういって、肩越しにマッダレーナを覗《のぞ》いているパエジオを見上げた。さっきまで私の前に立って草をかき分けてやってきた羊飼いは、急に枯れ草のように萎《しな》びていた。〈山の彼方〉の信者だけあって、女の〈善き人〉であるマッダレーナに、私が触れていることにうろたえているのだ。まるで初めてマッダレーナが性を超えた〈善き人〉ではなく、生身の女だったということに気がついたようだった。
「この人を手当てしてやれるところはないか」
私の声で、羊飼いは我に返った。血を流しているマッダレーナから、薄暗くなりはじめた周囲に目を遣った。
「村の兄の家に運びこもう」
パエジオはまだ落ち着かない様子でそう答えた。
青紫色の淡い闇《やみ》の中に、アッツォの村は沈んでいた。星のように小さな灯が丘に沿って横に並んでいる。なだらかな斜面を下っていけば、村まではそう遠くはない。私たちの姿は闇に紛れて、誰にも見とがめられないですむだろう。
私はマッダレーナの手の間から福音書の筒を抜き取って、銀貨を入れた自分の袋に押しこんだ。そして袋ごとパエジオに預けて、マッダレーナを背負った。手触りで袋の中に入っている銀貨に気がついたはずだが、パエジオはやはり何もいわなかった。
羊飼いが先に立って、私たちは村に続く斜面を降りていった。まもなくぽつぽつと雨が降りはじめた。小雨は汗ばんだ体の熱を洗いおとしてくれる。りろりろりろ、と虫の鳴く声があたりから湧《わ》きあがってくる。
「おれは〈山の彼方〉から逃げだすところだった」
パエジオの兄、ラザロの家に着く前に説明しておいたほうがいいと思って、私は口を開いた。
「マッダレーナはエンリコと衝突して、やはり〈山の彼方〉を逃げだそうとしていた。それで二人であの崖道を歩いていたわけだ」
前を行くパエジオが草を踏む音がしばらく続いた。
「使い走りのダビデともう一人の若者も逃げだしただろう」
パエジオがいった。私は昨日のことをパエジオがもう知っていたことに驚いた。
「どこで聞いたんだ」
パエジオはちらりと私を振り向いた。しゃくれた鼻をした横顔が闇を通してうっすらと見えた。
「ダビデはこの村の者だ。あの若造が城に村の様子を伝えるということは、村に城の様子も伝えることでもあると考えたことはないかな」
私は、ああ、と思った。ならばエンリコの救慰礼《コンソラメンタム》に対する非難も、〈善き人〉の資格についての疑問も、すべては村に筒抜けだったということだ。村の者は、ダビデとベンベヌートが城を抜けだした昨日の朝以来のことをつかんでないだけだったのだ。
「〈山の彼方〉はうまくいってないみたいだな」
パエジオはまた前を向いていった。
「村の者はこれまで〈山の彼方〉を心の中心に据えてきた。しかし、今度のことで〈山の彼方〉を頼ってはいられないという気持ちが生まれてきている」
「〈山の彼方〉は海に沈んでいくよ」
パエジオが頷《うなず》くのが見えた。
以前、藁《わら》をもらいに訪ねたことのあるラザロの家は村の上のほうにあった。私たちは村人の目を惹《ひ》くことなく、家の背後から近づいていくことができた。裏から見ると、家は真っ暗だ。二階の寝室に通じる裏口から薪《まき》の山の横を通り、表に回りこんだ。入口の戸の隙間《すきま》から、揺れる光が洩《も》れてきている。パエジオは私の肩を押さえて、待っているようにと合図すると、戸口をそっと開いて中に滑りこんだ。戸の向こうで驚きの声が起こり、すぐにこそこそ話に変わった。そして戸が開いて、パエジオが手招きした。私はマッダレーナを背負って、家に入った。
そこは台所兼居間になっていた。部屋の右手の壁には、鍋《なべ》や杓子《しやくし》、水樽《みずだる》や壺《つぼ》が並び、その前に小さな食卓があった。食事は終わったらしく、食卓の上は片づけられている。部屋の真ん中には四角い炉があり、朱色の火がちろちろと燃えていた。炉を囲んで長椅子《ながいす》と背もたれ椅子があり、豚の脂と野菜汁の匂《にお》いが混ざる白い煙の向こうに、三人の女と一人の男が座っているのが見えた。
男は痩《や》せた老人で、女の一人は太い眉毛《まゆげ》の初老の女、もう一人は以前に見た雀斑《そばかす》のある女で腕の中の赤ん坊に乳を与えている。そして三人目の女はディアマンテだった。ディアマンテは私を見て「ザンザーラじゃない」と、驚きの声を発して腰を浮かせ、背中の女に気がついた。
「どうしたのさ、その人、血まみれ……」
そして怪我《けが》をしているのがマッダレーナだとわかると、口を噤《つぐ》んだ。私はディアマンテの母親らしい初老の女が空けてくれた長椅子にマッダレーナを横たえ、「手当てをしてやってくれ」と頼んだ。
初老の女が台所に走り、桶《おけ》に水を汲《く》んでくると、布で頭の血を拭《ふ》きだした。ディアマンテはその様子をちらちらと眺めて、ふてくされたように私に聞いた。
「マッダレーナとなにしてたのさ」
銀貨の入った私の袋を床に置いて、パエジオが「黙っていろ」と叱《しか》ったが、ディアマンテは叔父《おじ》の戒めを守る気配はなかった。私を睨《にら》みつけるようにして続けた。
「〈山の彼方〉に異端審問官が踏みこもうって知って、二人で逃げようとしたんだろ」
「異端審問官が踏みこむだと」
私は思わず大きな声になった。パエジオも驚いたように姪《めい》を見据えた。ディアマンテは、私たちがそれを知らないことを悟って、気勢を削《そ》がれた。
「聞いてないの、村中大騒ぎだよ。今日の午後、クリストファノ師が〈ゴンドラ殿〉の屋敷に出向いて、自分は〈善き人〉だと告白したんだって」
ディアマンテは衣類の長い裾《すそ》をひっつかんで、脚を広げてどさりと椅子に腰を下ろした。
それでは私とマッダレーナが見たのは、クリストファノだったのだ。エンリコが新しい司教になって以来、ベルナルド司教によって〈善き人〉になったクリストファノが不満を抱えていたことは顕《あきら》かだった。その不満が異端審問官のところに出頭するなどという無茶な行動に走らせたのだろうか。私が考えていると、パエジオがあたりを見回して聞いた。
「ラザロとパオロはどこに行ったんだ。いないのか」
マッダレーナの血を拭《ぬぐ》っていた初老の女が、村長の家で開かれている秘密の寄り合いに出ていったと告げた。
「クリストファノ師は、異端審問官に村の者も信徒だというかもしれない。そうなったらどうするか、話し合っているんだよ」
ラザロの妻らしい女の声は鉛でできているように重かった。赤ん坊の口に乳を含ませていた若い女が、ため息とも啜《すす》り泣きともつかない音を喉《のど》から洩《も》らした。
入口の戸がきしみ、人影がふたつ家に滑りこんできた。一人はラザロ、もう一人はラザロによく似た若い男だ。こちらがパオロで、ラザロの息子なのだろうと私は見当をつけた。小雨にしっとりと濡《ぬ》れた二人は、泥の河を泳いでやっと岸辺に上がったといわんばかりの鈍い動きで部屋に足を踏みいれた。部屋にいるパエジオに目を止めて、ラザロの顔が一瞬輝いたが、私と手当てを受けているマッダレーナに気がつくや、表情を曇らせた。
「どうしたんだ」
ラザロは、これ以上悪い知らせを聞いてももう驚かないと決心したように暗い調子で訊《たず》ねた。
「マッダレーナ師が山で足を滑らせて怪我をした」
パエジオが短く答え、ラザロがさらに何か聞く前に続けた。
「寄り合いはどうだったんだ、兄さん」
ラザロは重苦しい息を吐いて、炉端の椅子に腰を下ろした。
「クリストファノ師はヅィビリーノ家で異端審問官に尋問されている。もし師が村中の者が信徒だといいだしたら、村を棄《す》てようという話になった」
「村を棄てるって」
ラザロの妻が小さく叫び、赤ん坊を抱いた嫁がびくっと頭を上げた。パオロは若妻のところに近づいていって、隣に座った。ラザロはごつごつした農夫の手で自分の顔を撫《な》でて頷《うなず》いた。
「山の奥に逃げて、そこに新しい村を作る」
「家を棄てるのかね、畑を棄てるのかね、羊も牛も、椅子も鍋も木の卓も……」
ラザロの妻は部屋を見回して、目に入るものすべての名前を挙げはじめた。いつかマッダレーナの血を拭く手が止まっていた。
「そんなものより大事なのは命だろうが。わしらや子供たちや孫たちの……」
ラザロは、息子の嫁の乳首を吸っている赤ん坊を目で示した。そして妻が言葉を呑《の》みこんだのを認めて続けた。
「〈ゴンドラ殿〉が尋問の進み具合を探って、なにかわかったら、下僕を村長のところに寄越すことになっている。その報告次第で、すぐにも村を抜けだすことにした」
「すぐにだって」とまたラザロの妻が叫んだが、夫に一瞥《いちべつ》されて苛立《いらだ》たしげに口を噤んだ。
「逃げるんだ。どこまでも逃げるんだ」
それまで炉端に黙って座っていた老人が声を張りあげた。
「エッツェリーノ三世がこの土地をくださるまで、わしらはずっとそうしてきた。村を作り、家を建て、〈善き人〉の教えを守って生きてきた。ローマ教会が疑いの目を向けてきたり、荒くれ者が襲ってきたりしたら逃げだして、別のところにまた村を作った。蟻みたいなものだ。巣を壊されれば、引っ越して、別のところにまた巣を作る。そうやって生き延びてきたんだ。また昔に戻るだけだ」
痩せた老人は首だけ突きだして、家族を見回した。顔には染みが浮かび萎《しな》びていたが、目は炉の火を反射して活き活きと光っていた。昔の生き方に戻るという考えが、この老人を若返らせたようだった。
「寄り合いでもそんなことをいう年寄りが多かった」
蚊に喰《く》われた足首をぼりぼり掻《か》きながら、パオロが不機嫌に応じた。
「山の中に分け入り、ひっそりと信仰を守って生きているうちに、やがて時代が変わって、異端審問官もいなくなるとさ」
パオロはあまりその考えが気に入っているようではなかった。炉を囲んだ家族全員、黙りこんだ。乳を吸い終わって満足げに両手足を伸ばしている赤ん坊を除いては、朱色の炎に照らされる顔はどれも先々の不安に沈んでいた。私は、ラザロの妻がマッダレーナの血を拭き取って傷口に緑色のものを塗った布をあてるのを眺めていた。頭の血は止まっていたが、果たして容態がどんなものかはわからなかった。
「クリストファノ師がすべてをぶちまけると決まったわけではないわ」
ディアマンテが開いた両膝《りようひざ》を衣類の上からぱんと叩《たた》いた。
「それに〈善き人〉があたしたちに禍《わざわい》を運んでくるとも思えない」
「ヅィビリーノ家の下僕、ピゼリーノの話じゃあ、クリストファノ師は気が狂ったということだ」
パオロが苦々しげにいった。
「なにしろ自分を火炙《ひあぶ》りにしてくれと異端審問官の前で喚《わめ》いたんだと」
「いったいなんだって、そんなことを……」
パエジオが当惑した顔で呟《つぶや》いた。
「天の国に……逝くためです」
部屋の片隅で、弱々しい女の声が湧《わ》きおこった。土砂降りの雨の中で微《かす》かな笛の音を聞いたように、その場にいた者たちがはっとした表情をした。
「クリストファノ師は……信仰のために……死んで、確実に天の国に逝くことを……願ったのです」
ラザロの妻の膝に頭を載せたまま、マッダレーナが喋《しやべ》っていた。言葉遣いは明瞭《めいりよう》ではなく、譫言《うわごと》のようだった。いつの間に目覚め、部屋の話を聞いていたのか、その場の誰にもわからなかった。
マッダレーナは焦点の定まらない瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》を宙にさまよわせた。
「わたしには……クリストファノ師の気持ちがわかります。……〈善き……人〉であることを否定されて、そうでもしないと身の証《あかし》ができないと考えたのです……クリストファノ師は……」
マッダレーナは痛みに襲われたらしく、小さく呻《うめ》いた。ラザロの妻が、静かに、と囁《ささや》いたが、マッダレーナはかぶりを振った。
「クリストファノ師は〈山の彼方〉のことを話すでしょう。……ベルナルド司教が語ったモンセギュールのような最期を〈山の彼方〉にもたらすために……」
モンセギュールのことなど知らないラザロやパエジオは当惑したが、私にはマッダレーナのいうことはわかった。
ベルナルドが〈山の彼方〉の司教になる前から付き従い、尊敬してきたクリストファノは、モンセギュールの話を何回となく聞いていたはずだ。山城を囲む十字軍との激しい戦い。傷ついて死んでいく人々。その中の平穏。そして火刑を選び、天の国に逝った〈善き人〉たち……。
〈善き人〉であることを否定されたクリストファノは、火炙りを選ぶことで、自分が〈善き人〉である証をしようとしたのだ。
そして、クリストファノが、〈山の彼方〉のことを異端審問官に告げ、兵士たちが城を囲めば、事態はますますモンセギュールで起こったことに近くなる。異端審問官を迎えた〈山の彼方〉と、ローマ教会の軍勢に囲まれたモンセギュール。なんと似ていることか。クリストファノの確信は強まるだろう。自分は正真正銘の〈善き人〉だ、モンセギュールの〈善き人〉たちと同じ運命を辿《たど》っているのだから、と。
「そうだ。クリストファノは〈山の彼方〉のことを白状するだろう。もうすでにいっているかもしれない」
私の声に重ね合わせるように、マッダレーナが、「知らせにいかなくては」と小さく叫んで、身を起こそうとした。しかし頭を拳《こぶし》ほど持ちあげただけで呻き声を洩らして、またラザロの妻の膝に沈んだ。
「誰か……お願いです……〈山の彼方〉にこのことを知らせて……」
ラザロはパエジオとパオロと顔を見合わせた。
「わしらは今夜にも村を出るかもしれん。……荷造りもせねばならん……」
ラザロはもごもごと言い訳して、私を見た。つられたように、パエジオもパオロも、女たちまで、私に目を向けた。皆、マッダレーナの頼みを聞くのは私だと考えていた。怪我《けが》したマッダレーナをここに連れてきたのは私だから当然だった。
「わかった。行こう」
私はしぶしぶいった。
「〈山の彼方〉に行って伝えてこよう」
私は自分の袋の中から、革紐《かわひも》で丸めた『マリアによる福音書』を出して、マッダレーナの胸の上に置いた。マッダレーナはそれを握りしめて呟いた。
「ありがとう……」
そして、私の顔をじっと見つめて、「さようなら」とつけ加えた。〈山の彼方〉への伝言を伝えたその足で、ここを後にしようと考えていることを感じたのだ。
「さよなら」
私はマッダレーナの言葉を繰り返した。そして、もう二度と会うことはないだろうと、瑪瑙色の瞳を覗《のぞ》きこんだ。その瞳に浮かぶ表情はやはり私には謎《なぞ》のままだった。この女と交わり、口論し、一緒に逃げたが、やはりこの女のことは、永遠の安らぎを求めているということ以外はよくわからなかった。だからこそ、これほどまでに辿る道が違っているのだ。
マッダレーナから目を上げると、そこにディアマンテの顔があった。ディアマンテは嫉妬《しつと》の混じった表情で私たちを見つめていたが、ついと視線を逸《そ》らせた。私は何も気がつかなかったふりをして革の袋を肩に担ぎ、パエジオやラザロに挨拶《あいさつ》した。
「じゃあ、おれは行くよ」
ラザロ一家は今夜にも村を出るかもしれなかった。誰もがこれが最後の別れになるかもしれないと知っていた。しかし、そのことを改まって口に出す者はいなかった。
私は炉で燃える朱色の炎に目を遣《や》り、外に出ていった。
雨は上がろうとしていた。空を覆う真っ黒い雲の切れ間に星が瞬いていた。私は濡《ぬ》れた道を踏んで歩きだした。家々から弱い光が洩れてきている。いつもと同じ静かな宵だ。しかし、どこの炉端でも村を出ることを巡ってラザロの家と似たような会話が交わされていることだろう。それを考えると、村を包む沈黙は重く、憂鬱《ゆううつ》なものに思えた。
道はやがて広場に出た。がらんとした広場の菩提樹《ぼだいじゆ》の下では、放し飼いの犬が二、三匹寝そべっている。居酒屋も店を閉め、広場に面した三軒の家の中で、ヅィビリーノの屋敷の窓だけ雨戸を閉めてなくて、煌々《こうこう》と灯が外に放たれていた。それは屋敷の中で尋問が行われていることを村中に知らしめようとしているかのようだった。
クリストファノは、ヴィットリオ相手にいったい何を喋っているのだろう。人目につくのを怖れて暗い物陰を選んで歩きながら思った時だった。
きいいっと音がして、屋敷の裏手に通じる門が開き、中から馬に乗った騎士が現れた。小姓《こしよう》らしい若者とヅィビリーノ家の下男が門を開いて馬を通した。甲冑《かつちゆう》に身を固めた騎士は、「はあっ」と声を上げて馬に拍車をくれると一気に走りだした。馬の蹄鉄《ていてつ》の音が耳を聾《ろう》するばかりに広場に響いたが、それも束の間、馬はまっすぐに村の外に続く街道に飛びだしていった。かつかつという蹄《ひづめ》の音は、やがて村の外へ、外の世界へと通じる森の中に遠ざかっていった。
旅をするには危険な夜にもかかわらず、騎士が村から出ていったのは、よほど緊急の用ができたせいだ。クリストファノが投げた石のために、何かが起ころうとしているのは確かだった。
私は村の上に聳《そび》える〈龍の背中〉を見上げた。絶壁の陰に隠れて、〈山の彼方〉は見えなかった。ただ黒い影だけが壁となってそそり立っている。私は心に広がる不安を押し殺して、古城へと続く山道を登りはじめた。
30
〈山の彼方〉に着いた時には、雨は闇に融《と》けるように消えていた。外から見た限りでは、城にはひとつの光も見えず、まったくの廃墟《はいきよ》のようにひっそりしている。しかし表門をくぐって中の門を抜けたところで、興奮した人の声が耳を打った。
「〈|海の彼方《ウルトラ・マーレ》〉の考え方がどうであれ、ここは〈山の彼方〉だ。わたしたちは、わたしたちなりの道を行けばいい」
アンジェリコのようだが、これほど激した口調を聞くのは初めてだ。中の庭を横切っていると、エンリコの返事が聞こえた。しかし、そのジェルマニア訛《なまり》の語調は強すぎて、私には何をいったのか理解できなかった。
奥の庭に入ると、祈りの場の細長い窓に明かりが灯《とも》っていた。雨に濡れた敷石を光の筋が照らしている。私は塔から建物の中に入っていった。
床より少し高いところにある広間の入口に立つと、丸く輪を描くようにして立つ人々が、燭台《しよくだい》の光に浮かびあがっていた。ふたつの燭台は中央の二本の柱に取り付けられているために、人々の影は車の輻《や》のように四方八方に広がっていた。
「〈海の彼方〉は〈山の彼方〉とは別物だ。〈山の彼方〉は、〈海の彼方〉の意向には左右されない。これまで〈山の彼方〉の考え方は司教に代表されてきた。従って司教は、ベルナルド司教の考え方を踏襲する者であるべきだ。つまり、あなたではない」
エンリコと向き合っているアンジェリコが小難しいことをいっていた。いつもきちんと手入れされていた髭《ひげ》は、ここ何日間もの籠城《ろうじよう》暮らしで伸ばしっ放しになっている。おかげで痩《や》せて尖《とが》り、黄ばんだ顔は、掘り起こされた枯れ木の根のような印象を与えた。片やエンリコは昼間と同様、司教らしい鷹揚《おうよう》さをかもしだすため、分厚い胸を不自然なほど反らしていた。これで手に錫《しやく》でも持っていれば、王を演じる役者になれるだろう。
「司教がまちがっていた場合は、その論旨は通用しない。正しい者が司教となるのに、なんの問題があるのか」
重々しく応じたエンリコの背後には、カルロとリザルドが居心地の悪そうな顔で控えていた。対峙《たいじ》するアンジェリコの側に立っているのはパンドルフォだ。ゲラルドやフランコ、ボーナやリディアといった残りの〈善き人〉たちは、その二組の間に散らばり、どうしていいかわからないふうだった。議論に加わる資格もない信徒たちに至っては、広間の隅の寝台に腰掛けて、池の縁石にくっついた苔《こけ》のようにじっとしていた。
「あなたが正しいという根拠はない」
パンドルフォが口を挟んだ。エンリコはフィレンツェ人を横目で睨《にら》んだ。
「〈善き人〉は嘘《うそ》はつかない。そしてわたしは〈海の彼方〉より来た」
私は革袋を肩に担いだまま、広場の入口の扉を拳《こぶし》でどんと叩《たた》いた。樹が破裂したような音に、人々はびくっと頭を動かした。
「誰だっ」
エンリコが鷹揚さを忘れて怒鳴った。私は階段を数段降りて床に立つと、燭台の光の届くところまで進んでいった。
「ザンザーラ」とエンリコは呟《つぶや》き、次の言葉を探して息を止めた。マッダレーナが持って逃げた『マリアによる福音書』のことを聞きたいのだが、まわりに人がいるので躊躇《ちゆうちよ》しているのだ。その隙《すき》に、私はいうべきことを告げた。
「クリストファノが異端審問官の前に出頭した」
何のことだかわからないというようにきょとんとしていた人々の顔から、まもなく血の気が引いていった。
「まさか……そんなことをするはずがない」
真っ先に反応したのはアンジェリコだ。黄ばんだ肌が土気色《つちけいろ》に変わり、目は必死にクリストファノの姿を探している。しかし、壁の穴まで覗《のぞ》きこんでも、クリストファノはそこにいるはずはなかった。
「自分を火炙《ひあぶ》りにしてくれといっているらしい。〈山の彼方〉のことも異端審問官に告げたかもしれない。おれはさっきヅィビリーノの屋敷から馬に乗った者が村の外に飛びでていくのを見た。一刻も早く、ここを立ち去ったほうがいい」
アッツォの村人も事の成り行きによっては、村を棄《す》てる決心をしているとつけ加えると、誰もが呆然《ぼうぜん》とした。
「村人までも〈山の彼方〉を見棄てるのか」
「おれたちは火炙りになる」
「ああ、おしまいだ。なにもかもおしまいだ……」
部屋の隅の暗がりからさまざまな囁きや呻《うめ》き声が湧《わ》きあがった。突然襲ってきた恐ろしい知らせに、信徒の心も〈善き人〉の心も、脅《おび》えた鼠のように縮こまっていた。
「ザンザーラのいう通りです。今夜のうちに、ここを抜けだしたほうがいい」
エンリコはいった。アンジェリコとパンドルフォも頷《うなず》いて、賛意を示した。しかし、ほとんどの〈善き人〉も信徒もすぐには決心がつかずにもじもじしている。エンリコは再び司教らしい鷹揚さを漂わせて話しかけた。
「いいですか、ここを棄てたとしても、〈山の彼方〉は終わりはしないのです。ただ、別のところに行って、新たなる〈山の彼方〉を建設するのです」
「どこに行くというのですかね」
吃《ども》るような口調でそう聞いたのは、ボーナだった。自分の孫ほどの歳《とし》のリディアに支えられ、寝台に腰を下ろしたこの老女は怒りとも興奮ともつかないものに全身を震わせていた。
「いったい、どこの村が、あたしたちを受け入れてくれるというのですかね。あたしは〈善きクリスト教徒〉の教えに従っているというだけで、家を追われ、村を追われて出てきた。いったい、どこに行くというのですかね」
自分を主張せず、いつも一人、壁に向かって祈っている老女が司教に詰問していた。それに勇気を得たように、フランコがいった。
「そうです。おれたちにとって、〈山の彼方〉はここだけです。他の場所に作ることはない。たとえ火炙りになるとしても、最期の時が来るまで、ここに残るべきだと思う」
隣で従兄弟《いとこ》のゲラルドが頷いた。
「おれたちは〈山の彼方〉を守るべきだ」
カルロとリザルドが目配せをしあって、じりっとエンリコとの間に距離を置いた。それが二人の気持ちを雄弁に語っていた。
「試練じゃ」
そう叫んだのは、シルベストロだった。ここ数日、打ちのめされていた老人に、再び命の火が灯っていた。
「これは神の下された試練だぞ。それを揺るがぬ信仰心でもって受けとめてこそ、天の国に召されることができるのだ」
食卓代わりの台の前で、シルベストロは骨ばった両手を振りあげた。エンリコとアンジェリコの口論は夕食後すぐにはじまったらしく、台の上にはまだ杯や麺麭屑《パンくず》、水差しや短刀などが片づけられずに残っていた。
「あなたたちは天の国に逝けない」
エンリコは苛立《いらだ》たしげにいった。
「火炙りになったとて、天の国には逝けない。あなたたちは〈善き人〉ではないからだ。罪を赦《ゆる》す力のある者より、救慰礼《コンソラメンタム》を授けられてないからだ」
そして、エンリコは太い指で一人一人指さした。
「ゲラルドとフランコ、きみたちはベルナルド師によって救慰礼を受けた。つまり、それは無効だということだ。ボーナ、あなたも同じだ。従って、ボーナから救慰礼を受けたアレッサンドラも〈善き人〉とはいえない。ミラノの教団から脱落した大子に救慰礼を受けたシルベストロはいわずもがなだ」
それは〈山の彼方〉の一人一人を殺していくと同じことだった。指さされ、名を挙げられた者たちは、全身の力が萎《な》えたように生気が抜けていった。エンリコは肉体は殺さないが、その太い指で人々の魂を虫けらのように押し潰《つぶ》していた。
「そして、カルロとリザルド、シルベストロに救慰礼を授けられたきみたちももちろん……」
エンリコの喉《のど》から悲鳴が放たれた。エンリコは「なにをするんだ」と叫んで、後ろを振り向いた。そこにはシルベストロが立っていた。燭台の火に照らされた老人の手は、黒く粘つくもので覆われていた。まるで漆塗りの黒い手だ。黒いものは、エンリコの太い首筋からも筋となって流れていた。
シルベストロは震える手に短刀を握りしめていた。私は、それが食卓に置かれていたものだと気がついた。アレッサンドラがよく蕪《かぶ》を切るのに使っている短刀だ。シルベストロはそれで羊を屠《ほふ》るようにエンリコの首の血の管を切ったのだった。
呻き声を曳《ひ》きずりながら、ジェルマニア人の巨体がゆっくりと床に崩れていった。どさりと袋を投げだしたような音がして、人々は我に返った。
「エンリコッ」
アンジェリコがジェルマニア人にかがみこんだ。私も革袋を肩に掛けたまま、広間の中央に近づいていった。エンリコは泥にも似た血の池の中で痙攣《けいれん》していた。肉体から逃げていこうとする命をつかもうとするように、両手で宙を掻《か》いている。歯をがちがちと鳴らして、何事か呟いていたが、ジェルマニアの言葉らしく、その場の誰にもわからなかった。
「なんとかしなくては。手当てを、カルメロ師、手当てを……」
アンジェリコが慌てていった。カルメロは燭台を手にしてエンリコの脇《わき》にしゃがみこんだが、手の施しようがないという仕草で顎《あご》をわずかに横に振った。血の池は洪水のようにぐんぐんと広がっていく。いくらがっしりした体つきとはいえ、よくこれだけの血があったものだと驚くほどだ。血は広間の二本の柱の間の床をどす黒い色で染め、エンリコの体は動かなくなった。
「死んだ……」
パンドルフォが誰の目にも顕《あきら》かなことをいった。それでも人々はエンリコの死を確かめたがっているかのように、骸《むくろ》を囲む輪を縮めた。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいれば、わたしはその者を裁く」
沈黙の中にシルベストロの声が響いた。老人は血まみれの手で短刀を握りしめたまま、無表情にエンリコの死骸《しがい》を見下ろして、呟いていた。
「わたしは世を裁くためにきたからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受けいれない者に対して、裁く者がいる」
シルベストロの手から短刀が滑りおちて血の池に転がった。老人はエンリコから目を逸《そ》らすと、広間の出口のほうに歩きはじめた。
「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしのいうべきこと、なすべきことをお命じになったからである……」
シルベストロはふらふらと外の闇《やみ》に消えていった。カルメロが「シルベストロッ、待ちなさい」と叫びながら、後を追っていった。
「〈善きクリスト教徒〉が人を殺すとは。シルベストロ師は気が狂われてしまった。罪人になってしまわれた」
パンドルフォが細長い上品な指を揃《そろ》えた両手を持ちあげて、悲劇的な口調でいった。
私はシルベストロが気が触れたとは思わなかった。エンリコは、自分以外の者が〈善き人〉であることを否定することによって、その者たちの魂を殺そうとした。一度ばかりか、二度までもだ。シルベストロはその殺人者を殺すことによって、魂の殺戮《さつりく》を止めようとした。道理は通っていた。その証拠に、シルベストロの罪を嘆いても、エンリコの死を嘆く者はなかった。ジェルマニア人に親しんでいた信徒のピエトロだけが悲しげに骸の上に敷き藁《わら》をかぶせていた。
「これから、わたしたちはどうすればいいんでしょうか」
リディアが呟いた。まだ若いこの女は、同じ寝台に座る年寄りのボーナの手を命綱であるかのように固く握りしめている。ボーナが顎を反らして鼻を啜《すす》ったので、目の皺《しわ》の間に溜《た》まった涙が滴り落ちた。
「わからないよ、リディア。あたしにはもうなんにもわからない。あたしが〈善き人〉であるかどうかもわからないんだから……」
それは、この場の誰にとっても同じだった。〈善き人〉も信徒も途方に暮れていた。そうでなくてもエンリコに名指しで救慰礼は無効だと宣言されて、誰が〈善き人〉で誰がそうでないのかも、もうわからなくなっていた。エンリコは死んだが、生きている時に吐いた言葉は毒となって〈善き人〉たちの魂を蝕《むしば》んでいた。
「〈山の彼方〉は内側から腐ってしまった」
ゲラルドが悲しそうにいって苦い笑いを浮かべた。大きな口の両端のえくぼは、今や頬《ほお》に刻まれた皺にしか見えず、この男は一挙に老人になったようだった。
「モンセギュールの者たちは幸せだった。最初から敵に囲まれていた。内側から腐る暇もなく、人々は一枚岩のような信仰心を保っていられた。敵がないと、試練は内からやってくる。そして内からの試練ほど難しいものはない。〈山の彼方〉は平和を味わいすぎた。平和すぎて内から腐ってしまった。クリストファノがなぜ異端審問官のところに行ったか、わしにはわかる。外からの敵を作って、内からの敵を防ぎたかったのだ。だが、すべては遅かった。わしらにできるのは祈ることだけだ」
太い声でこういい終わると、ゲラルドは自分のいつもの場所である奥の壁の前に行って祈りはじめた。従兄弟のフランコがそれに続いた。そしてボーナが、アレグランツァが、マウロ爺《じい》さんが、パンドルフォやアンジェリコが続いた。人々は悩みをぶつけあうのをやめて祈ることに没入していった。毎日の祈りの時と同様、それぞれの格好で祈っていたが、いつもよりさらに真剣で、縋《すが》るような空気が漂っていた。
私は革袋を持って、薄闇に包まれた広間を眺めた。マッダレーナに頼まれたことはすませた。もういつ〈山の彼方〉を出ていってもよかった。私は最後の挨拶《あいさつ》をしようと、カルロに近づいていった。この男にだけは、私がここからいなくなることを、自分の口から知らせておきたかった。
カルロは水瓶《みずがめ》の横で跪《ひざまず》いて祈っていた。他の者の祈りの邪魔をしないように足音を忍ばせて近づいていくと、カルロの声が聞こえた。
「神さま、おれを天の国に連れていってください。火炙《ひあぶ》りは痛いけれども我慢します。エンリコ師のいった通り、おれがまだ〈善き人〉になってなくても、どうか天の国にお迎えください。お慈悲です、お願いします、神さま」
まるで子供が母親にものをねだるような祈り方だった。私は横で小さく「カルロ」と名を呼んだ。カルロはこちらを振り向いた。薄暗い中に白目と歯が光り、顔は喜びに輝いているのがわかった。しかし声をかけた者が神ではなく私だと悟って、喜びはすぐに闇に消えてしまった。
「お別れだ」
私はいった。カルロは驚いた顔をした。
「おれたちと一緒にいないのか」
私はカルロの隣にしゃがみこんで、水瓶の太った腹の前で肩を並べた。素焼きの瓶の上には、広間の中央の燭台の光が鈍く宿っていた。
「おれは火炙りになりたくない。ここから逃げだす」
カルロは太い尻《しり》をもぞりと動かして、私のほうににじり寄った。
「おれだって火炙りは痛いから厭《いや》だ」
カルロは囁《ささや》いた。
「だけど天の国に逝けるんだから、我慢しなくちゃ」
「おれは火炙りになったからといって、天の国に逝けるとは信じない」
カルロは無花果《いちじく》形の鼻に皺《しわ》を寄せて、あんたは異教徒だからな、と悲しげにいった。カルロを含めて〈山の彼方〉の者全員に対する苛立《いらだ》ちが、私の中で沸きたってくるのを感じた。
「異教徒でも信徒でも〈善き人〉でも同じことだ。火炙りが天の国への近道なんて、嘘《うそ》っぱちだ。おまえは黒焦げになって、魂はやっぱり地上をさまよってるだけだ。おまえは騙《だま》されているんだよ」
カルロは頭を殴られたように上体を揺らし、声を詰まらせた。
「火炙りになったら、天の国に逝けるんだ。嘘っぱちなんていわないでくれよ。そんなこといわれたら、おれ、どうしていいか……」
水瓶の前に跪いた男は、両手を顔にあてて泣きだした。私は自分がエンリコと同じことをしていることに気がついた。自分にとって真実だと思うことを突きつけて、相手の心を引き裂いている。
だが、私に何がわかっているというのだろう。私もまた天の国のことも、魂の行方も知りはしないのだ。
私は自分の愚かな舌を噛《か》みきりたくなった。背中を震わせているカルロから顔を背けて、ぼんやりと広間を見回した。広間の暗がりで祈っていた人の姿が少なくなっていた。私は目を凝らした。アンジェリコとパンドルフォが消えていた。アレッサンドラと二人の娘もいない。そして扉の向こうに今また別の男が消えようとしていた。ずんぐりした背格好からピエトロだとわかった。自分の私物を入れた袋を肩に背負っている。〈山の彼方〉を棄《す》てていくのだ。
「みんな、逃げていくぞ」
私はカルロの肩を揺すった。カルロは濡《ぬ》れた目を瞬《しばた》かせて、私が示した方向を眺め、ほんとだ、と声を洩《も》らした。カルロの寝ている寝台の隣でも人影がもぞもぞしていた。リザルドが自分の荷物をまとめていた。毛布と着替えの上衣一枚、それに頭巾《ずきん》程度のものだが、袋に入れると一抱えほどになる。私とカルロは、リザルドが冬用の頭巾つき外套《がいとう》を着込むのを見守っていた。リザルドは時々頭を動かして、こちらを窺《うかが》っていたが、結局、挨拶には来ないで、荷物を抱えると戸口に向かった。一緒に救慰礼《コンソラメンタム》を受けて〈善き人〉になったカルロに向かって、自分は逃げるとはいいにくかったのだ。カルロはリザルドの影が扉の向こうの闇に融けるや、片手で顔を覆った。
「わかっただろう。少しでも考えのある奴《やつ》は逃げている。おまえも逃げるんだ」
私は今度はカルロの心を踏みにじらないように用心していった。カルロは顔を覆った指の間から私を見つめ返した。
「逃げて、どこに行くというんだい、ザンザーラ。おれは自分の村にいられなくなって、ここに逃げてきた。わかるだろう、ボーナ婆《ばあ》さんと同じさ、他に行き場所がなかったんだ。ここを離れたら、もうおれを迎えてくれる場所はない。天の国に逝くしかないんだよ」
言葉の最後のほうは弱々しく口の中に呑《の》みこまれてしまった。カルロにとって天の国は最後の救いの場所なのだ。
私は残っている者を見回した。残っているのは、ボーナ婆さん、マウロ爺さん、グイード、アレグランツァとアンナ、リディア、そしてフランコとゲラルドだけだった。シルベストロを追っていったカルメロの姿もないところを見ると、そのまま逃げたのかもしれなかった。広間で祈っているのは、信仰に燃えるゲラルドとフランコ以外は、なにもかも棄ててきて、どこにも帰る場所がなさそうな男女ばかりだ。
私はやりきれない気分になった。結局この世は強い者だけが生き延びるようになっている。弱い者はどんなに美しい心を持っていても、こうして固まって滅びていくだけだ。
こんな奴《やつ》らと一緒にいたら、私まで巻き添えを喰《く》ってしまう。
「まあ、なにも異端審問官が来ると決まったわけじゃない。きっと〈山の彼方〉は無事さ」
自分の良心を安心させるためにそういって、カルロの背中を叩いた。カルロは私を振り返ってひきつれたように微笑《ほほえ》んだ。
「わかるだろう、おれは無事でいるより、火炙りのほうがいいんだ。いくら痛くてもさ……」
天の国に逝くことは、今やカルロの生きる目的になっていた。そして生きる目的は、死と重ねあわさっていた。
まちがっていると思った。どこか根本のところで道を誤っている。しかし、どこがまちがっているのか、なにが正しい道なのか、私にもわかりはしない。
私は無力感を覚えながら、カルロに別れを告げ、革袋を肩にかけて外に出ていった。
31
後になって何度も考えた。あの時、あと少し早く〈山の彼方〉を去っていたなら、その後の人生は変わっていただろうと。私はそのまま新たなる旅に出ていただろう。さらに西に向かったかもしれないし、東に戻ったかもしれない。倭《わ》の国に戻り、再び妻を娶《めと》ったかもしれない。だが、それはすべて為《な》されることのない仮想の話となってしまった。
カルロと話して道草をしていた私は、再び出会ってしまったのだ。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女に。それが私の道を決めてしまった。
銀貨の袋を担いだ私が表門をくぐった時、下方の道から驢馬《ろば》の嘶《いなな》きが聞こえた。深夜になって出てきた満月の光に、三つの影が照らされている。一人は驢馬に乗り、二人が付き従っている。今頃、誰がここを訪れたのだろうと訝《いぶか》っていると、聞き慣れた声がした。
「ザンザーラか」
パエジオだった。私は驚いて、ここに何をしに来たのだと聞いた。
「マッダレーナさまが、どうしても今夜、〈山の彼方〉に戻りたいとおっしゃるんでね」
皮肉っぽく答えたのは、ディアマンテだった。闇《やみ》を透かして見ると、驢馬の背に乗っているのはマッダレーナだ。頭に布を巻き、朦朧《もうろう》とした様子で驢馬の首にしがみついている。ややもすると驢馬の背から滑りおちそうなマッダレーナを、横に付き従ったディアマンテが支えてやっていた。服の袖《そで》や裾《すそ》に隠されてはいるが、手足はだらりと力がなく垂れている。骨が折れているようだった。
「怪我《けが》しているのに、なぜ、おとなしくラザロの家で休んでなかったんだ……」
私は憮然《ぶぜん》として呟《つぶや》いた。マッダレーナがここに戻るつもりだったのなら、私に伝言を頼まなくてもよかったのだという気持ちも混ざっていた。しかしマッダレーナには答えるだけの気力はなかった。
「〈山の彼方〉の司教さまはどこかな」
パエジオが驢馬の手綱を引いて表門に入っていきながら尋ねた。死んだと告げると、驢馬の上のマッダレーナが頭を動かして、「どうして」と弱々しい声をあげた。表の庭でパエジオが驢馬を止めたので、私は簡単に事の成り行きを説明した。〈山の彼方〉の少なくとも半分の者は逃げていったと告げると、ディアマンテが「じゃ、来る途中ですれ違ったあの影……」と呟いた。パエジオが、しっといって姪《めい》を黙らせた。マッダレーナは私の話を静かに聞いていたが、残りの者は祈りの場でただ祈っていると知ると、そこに行きましょう、とパエジオに告げた。パエジオはマッダレーナの乗った驢馬を奥の庭へ進めた。
「なにかあったのか」
私はディアマンテに囁《ささや》いた。ディアマンテは驢馬についていきながら、一緒に来い、というふうに顎《あご》をしゃくった。
マッダレーナが今夜無理をして〈山の彼方〉に戻ってきたのは、何か理由がありそうだった。私は好奇心に引きずられて再び奥の庭に引き返していった。
驢馬を祈りの場の建物の前につけると、ディアマンテはマッダレーナの体を抱えあげた。若くて健康なディアマンテにとって、痩《や》せ細ったマッダレーナを抱えるのはたいした労力ではなさそうだった。
私は三人と共に祈りの場に入っていった。燭台《しよくだい》が弱々しく燃える広間では、残った人々が祈りを捧《ささ》げていた。誰かが入ってきたことはわかっただろうが、仲間が出入りしているだけだろうと思ったらしく、こちらに顔も向けない。マッダレーナが、パエジオに許可するように頷《うなず》いた。羊飼いは広間の入口で声を張りあげた。
「〈山の彼方〉のみなさん、聞いてください」
祈っていた人々は、ゆっくりと顔をパエジオのほうに向けた。そして、羊飼いと、ディアマンテに支えられたマッダレーナを見つけて、驚いたように身じろぎした。
「どうしたのです、マッダレーナ」
リディアの声が広間に響いた。マッダレーナは指で唇を押さえて、駆け寄ってきた仲間に静かにするようにと示した。マッダレーナがリディアに助けられて寝台に横になっている間、パエジオとディアマンテは、しきたり通りに三度|膝《ひざ》を曲げて「善きことを」と唱える〈善き人〉たちへの挨拶《あいさつ》をすませた。
「わしはアッツォ村の村長の使いで来ました。ザンザーラが、クリストファノ師のことについてはお伝えしたことと思いますが……」
パエジオは、悄然《しようぜん》と耳を傾けている人々を眺めた。
「ヅィビリーノ家からの知らせでは、クリストファノ師は〈山の彼方〉のことを喋《しやべ》ったということです。異端審問官はアンペッツォのボテスタイノ城に使者を送って、傭兵《ようへい》隊長に兵士を百人寄越すように頼みました。明日にでも、この〈山の彼方〉を攻めるつもりらしいのです」
広間はひんやりした沈黙に包まれた。さっきまでの祈りの余韻も、人の息づかいさえ凍りついて地面に落ちてしまった。
「百人もの兵士だって。奴《やつ》らはそれほど臆病者《おくびようもの》なのか」
ゲラルドが驚愕《きようがく》を冗談に変えていった。
「ここには老人と女と、男といっても農夫や鍛冶屋《かじや》しかいないぞ」
「ローマ教会に歯向かう者はどうなるか知らしめたいのだろう」
フランコが黒い目を燭台の明かりにきらめかせて呟いた。パエジオは息を継いで、いいにくそうに続けた。
「さっき、今夜二度目の寄り合いが開かれ、村の者はすぐにもアッツォを離れることに決めました。アルピのさらに奥に入って、村を作るつもりです。明日の朝には村は空になっているでしょう。村長は〈善き人〉たちが同行してくださるなら、ありがたいと申しています」
パエジオは人々の返事を待って、慎ましく口を噤《つぐ》んだ。後ろからは、ディアマンテの好奇心に満ちた顔が覗《のぞ》いている。
マッダレーナが今夜のうちに〈山の彼方〉に戻ってきたのは、明日になれば、村が空になるとわかったからだったのだ。それにしてもマッダレーナは村の意向に従うように忠告しにきたのだろうか。それとも、自分もまた火炙《ひあぶ》りになる運命に身を委ねる覚悟で戻ったのだろうか。
広間に集まっていた人々はお互いの顔色を窺《うかが》っていた。その時、ほとんどの者ははじめて、多くの仲間の姿が消えていることに気がついたらしい。口々にいなくなった者の名を呟き、さらには途方に暮れた表情になった。絵空事ではなく本当に異端審問は目の前に迫っていた。火炙りは現実のものとなっていた。皆が決断を迫られていた。
「あたしの心は変わらないよ」
寝台に腰掛けて、ボーナ婆《ばあ》さんがきっぱりといった。それが呼び水となったかのように、カルロも「おれもここにいる」と宣言した。ゲラルドとフランコも「もちろんだ」といい、他の者たちも頷いた。
マッダレーナが弱々しく、しかし満足げにパエジオに微笑《ほほえ》みかけた。
「いった通りでしょう。火炙りになろうと、ここを動かない〈山の彼方〉の者もいるのです」
パエジオは渋々頷いたが、広間の者にかろうじて聞き取れるほどの小声で呟いた。
「それでも、みすみす異端審問にかけられるのを待つことはないとは思いますが……」
しかし誰も気持ちを翻さないことを知ると、ため息をつき、姪に、行こうというように手を振った。それを見たディアマンテは、私のところに走ってきた。
「ザンザーラ、あんた、どうするの」
私は肩に掛けた革袋を揺すって、どこかに行くつもりであることを知らせた。ディアマンテは外のほうに顎をしゃくった。
「あたしたちと一緒に来ない。そのほうが安全だよ」
村を出るつもりではあったが、考えてみると、山中を一人でさまようほどアルピに精通しているわけではないし、異国人の私がふらりとどこかの村に現れれば、面倒が起きることは目に見えている。ディアマンテの申し出はありがたく思えた。
「そうしてもいい」と答えると、ディアマンテの小さなほうの目がぴくりと動き、唇の間に乱杙歯《らんぐいば》が覗《のぞ》いた。娘は興奮したように、ちょうどこちらに近づいてきていた叔父《おじ》を振り返った。
「ザンザーラ、あたしたちと一緒に来るって」
パエジオの黒い無精髭《ぶしようひげ》に覆われた頬《ほお》に戸惑いが走り、それはすぐに笑いに変わった。
「そりゃあいい。わしが羊を追う手伝いでもしてもらうか」
おもしろそうだな、と私はいった。パエジオは私の前に立つと、薄暗い広間に目を走らせて囁いた。
「だったら、ひとつ頼まれてくれないかね」
こんな場合の頼まれ事というのは、面倒の臭いがする。しかし、旅に連れていってもらう以上、厭《いや》な顔もできない。私が無表情のままいると、パエジオはさらに顔を近よせてきて羊臭い息を吐きながら続けた。
「村の者は〈善き人〉を見棄《みす》てるようなことをしたくないんだ。できるなら一緒に逃げてもらいたい。それで夜明けまでここにいて、もし、みなの気が変わるようなら、あの崖《がけ》の道を通って夏小屋に案内してあげてくれないか。わしは羊を連れ、夜明けと同時にここを離れて、村の者を追うことにしているから」
私としてもカルロやマッダレーナにみすみす火炙りになるような運命を辿《たど》って欲しくはなかった。夜明けまでにはまだ時がある。それまで、どんなふうに人々の気持ちが変わるかわからない。
私はゆっくりと頷《うなず》いた。村長に、まだ希望はあると伝えることができるので、パエジオはほっとした様子だった。
「もし、だめでも気にするな。それじゃ、夜明けに夏小屋でな」
羊飼いはディアマンテを促して、戸口に歩きだした。ディアマンテは別れ際にそっと私の手を握りしめて、「待ってるわ」と囁くと、自分の行動に照れたように、そそくさと叔父の後を追っていった。
開いたままの戸の向こうの暗闇《くらやみ》に二人が消えると、私は広間を眺めた。人々は再び祈りに戻っていた。
私は自分の寝台に座ると、銀貨の入った袋を下に押し込んだ。そして少し休んでおこうと、藁床《わらどこ》に横になった。
燭台の光に合わせて人々の影が揺れている。広間にこだまする微《かす》かな祈りの声が波のように私を包む。天井や窓、広間の隅の暗がりから寄せてくる暗い波。私はいつか西に来る船にいた。奴隷の眠る船倉の中。ざざざぁ、ざざざぁ。夜毎《よごと》、暗い波に包まれて眠った。
あの頃、私は不安を覚えなかった。奴隷として見知らぬところに連れていかれているというのに、安心していた。それはポーロ兄弟という旦那《だんな》がいたからだ。奴隷である不自由さは、実は自分で自分の行き先を決めないでいいという気楽さでもあった。旅をしていたが、それは連れていかれる旅だった。自分で選んだものではなかった。しかし私は今、自分で自分の行き先を決めなくてはならない。道はいくつにも分かれているようでもあり、ただ一本しかないようでもある。決めるということ、選ぶということはなんと難しいことだろう。しかし、決めること、選ぶことをしない限り、人は前に進んでいけない。旅をしても、それは他人の旅になってしまう。ヴェネツィアに着くまでの私の旅が、ポーロ兄弟の旅の影に過ぎなかったように。
すぐそばで、がたりと大きな音が起きた。半ばうとうとしていた私は、はっとして飛びおきた。四人は横になれる大きな寝台の向こう側で、床に跪《ひざまず》いて祈っていたグイードが突然、立ちあがった音だった。グイードは黒い大きな瞳《ひとみ》をかっと見開いて、つかつかと広間を横切っていった。
何が起きたのだろうと見守っていると、グイードはマッダレーナのいる寝台に座っているリディアのところに行って、跪いた。
「リディア師、おれに救慰礼《コンソラメンタム》を授けてください」
胡瓜《きゆうり》に似た細長い顔の女は、驚きのあまり体を強《こわ》ばらせた。グイードは、女に近づきすぎないように気をつけながら繰り返した。
「お願いします。おれに救慰礼を授けて、〈善き人〉にしてください」
その声は太かったので、広間の全員がグイードのほうを振り向いた。リディアは皆の注視を浴びて、慌てて答えた。
「なぜ、経験の浅いわたしに頼むのです。わたしはまだ誰にも救慰礼を授けたことはないのです。わたしより、ゲラルド師やフランコ師が適任でしょう」
グイードはきっぱりとかぶりを振った。
「あのお二人はベルナルド司教から救慰礼を授けられた。ほんとうの〈善き人〉かどうかわかりません」
その言葉は、エンリコの撒《ま》いた毒が再び表面に出てきたことを示していた。フランコとゲラルドは息を呑《の》み、祈りを捧《ささ》げていた人々は身を硬くした。リディアは返事の言葉を探すように、他の〈善き人〉を探した。ボーナ婆さんに、カルロに目を遣《や》り、それからぐったりと横たわるマッダレーナを見下ろして、絶望した様子で天を仰いだ。
「あなたがエンリコ師の言葉を信じているのなら……わたしにもその資格はありません」
「なぜですか」
グイードは女ににじり寄った。リディアは勇気をかき集めるように自分の服を膝《ひざ》の上で握りしめた。
「わたしは……ベルナルド司教から、二度目の救慰礼を受けました」
消え入るような声だったが、その場の者の耳に達するには充分だった。リディアはうつむいたまま続けた。
「わたしは……あんまりお腹が空いて、村の農家に忍びこんで、鶏の卵を食べてしまいました。六個も七個も……。食べた後、たいへんな罪を犯したと、ベルナルド司教に告白しました。司教は……救慰礼を授けてくださいました。でもそれが無効なら……」
リディアは呻《うめ》き声を洩《も》らして、背中を丸めた。グイードは口をわずかに開き、また閉じた。そして今度は寝台に横たわっているマッダレーナに縋《すが》りついた。
「マッダレーナ師、あなたなら、おれに救慰礼を授けてくださるでしょう。お願いします」
マッダレーナはうっすらと目を開いて、困ったようにかぶりを振った。リディアが涙に濡《ぬ》れた顔を上げた。
「マッダレーナは怪我《けが》をしています。無理強いしないでください」
「怪我してようとなんだろうと、〈善き人〉だろうが。信徒が困ってるなら、救ってくれるはずだろうが」
グイードは怒鳴った。黒い縮れ毛は汗に濡れて頬に張りついている。その剣幕に押されて、マッダレーナはとぎれとぎれの声で答えた。
「わたしにも……救慰礼を施す……資格はありません。二度目の救慰礼を授かりました……」
「あんたまで〈善き人〉じゃないというのか。あんたはいったいなにをしたんだ」
グイードはマッダレーナに顔をすりつけるようにして聞いた。〈善き人〉ではないと思ったとたん、グイードの態度は横暴になっていた。しかし、その場にいた者は誰もこの荒々しい詰問を止めようとはしなかった。むしろ祈りを中断して、全身を耳にしてマッダレーナの声を聞き取ろうとしていた。〈善き人〉は皆、エンリコによってその資格はないと公に断罪された者ばかりだ。マッダレーナも〈善き人〉ではないというなら、どういう理由でか知りたがっていた。それを知ることによって、皆が対等な立場に立てるからだ。
マッダレーナは人々の注視を浴びて、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》をぎゅっと閉じた。そして唇の間から言葉を絞りだした。
「わたしは……肉の慾《よく》に負けました」
広間の空気が凍りついた。人々は息を止めて、マッダレーナのいる寝台に目を遣《や》った。グイードもさすがにぎょっとして、聞き返した。
「肉の慾に負けたと……つまり、あんたは男と寝たのか」
マッダレーナは小さな声で「そうです」と答えた。
「畜生、なんて女だ。それで、おれたちに平気な顔をして、教えを垂れていたのか」
グイードが寝台を平手でばんと叩《たた》いた。マッダレーナは傷口を揺すられて顔を歪《ゆが》めたが、それを気遣う者はもう誰もいなかった。
ゲラルドとフランコはマッダレーナを横目で睨《にら》んでは小声で話を交わし、ボーナ婆さんは虚《うつ》ろな顔で床を見つめ、婆さんと共にいたアレグランツァとアンナは憎しみと軽蔑《けいべつ》さえ浮かべている。面と向かって罵《ののし》りこそしなかったが、同じ女だけに先の告白は二人の内に嵐《あらし》のような怒りを生じさせたのだ。マッダレーナの横たわる寝台に座っていたリディアは落ち着かなそうに尻をもぞもぞさせた。肉の慾に翻弄《ほんろう》された末にやっと救慰礼を受けたカルロは、大事にしていたものを路上に落とした子供のようにきょときょとした視線を広間のあちこちにさまよわせている。
「ああ、〈善き人〉なんて信じたおれが馬鹿だったよ。みんな口では立派なことをいいながら、裏では好き勝手してるんじゃないか」
グイードは私のいる寝台にやってくると、床に置いていた自分の布袋を拾いあげた。
「これが通用するってんなら、〈善き人〉でなくったって、火炙《ひあぶ》りにならなくったって、誰でも天の国に逝けるさ」
棄て台詞《ぜりふ》を残すと、グイードは大股《おおまた》で広間を出ていった。
「待って、グイード。あたしたちも出ていくから」
そう叫んだのは、アレグランツァだった。南京《ナンキン》豆の片割れのようにいつもくっついているアンナと一緒に、手に荷物を持って後を追った。アレグランツァは戸口で立ち止まり、〈善き人〉たちに向かって、さよなら、というように手を上げた。それはもう信徒が〈善き人〉に対して行うあの儀式ばった挨拶《あいさつ》ではなかった。
三人の信徒たちが消えると、広間には八人の者が残った。ボーナ婆《ばあ》さんとリディア、マウロ爺《じい》さん、カルロ、フランコとゲラルド、マッダレーナと私だ。マッダレーナは横になったまま荒い息遣いで天井の闇を見つめている。皆、肉の慾に負けたと打ち明けた女にどう応じていいかわからず、かといって無視することもできず、マッダレーナを目の隅に捉《とら》えながら、それぞれのもの想《おも》いに浸っていた。
「なんと幸運な者だ、貧しい者は。彼らには神の王国がある。……なんと幸運な者だ、飢えている者は。彼らは……腹いっぱいに満たされるだろう」
マッダレーナが呟《つぶや》くような声をだしていた。周囲の者たちは怪訝《けげん》な様子で横たわる女を見た。
「なんと幸運な者だ……泣いている者は。彼らは……笑うだろう」
苦しげに息を継ぎながら、マッダレーナは語り続ける。
「おまえたちにいっておく。……敵を愛し、呪《のろ》う者を祝福し、……侮辱する者のために祈ってやれ。……おまえの頬《ほお》をぴしゃりと打つ者には、反対の頬も向けてやれ」
広間の隅の寝台から、痩《や》せた影がふらふらとマッダレーナのところに近づいてきた。
「それは……なんの福音書ですかい。イエスさまの言葉だが、そんな言い回しは、はじめてだ」
マウロ爺さんが夢見るような口調で尋ねた。『マリアによる福音書』と、マッダレーナが答えるや、ゲラルドが大声を発した。
「いったい、どういうことだ。そんな福音書は聞いたことないぞ」
マッダレーナは体の脇《わき》に置いていた筒を指先で触れた。
「ここに……あるのが『マリアによる福音書』で……す」
ゲラルドはマッダレーナの寝台から写本の筒を取りあげると、革紐《かわひも》を解いて羊皮紙を広げ、広間の中央の燭台《しよくだい》のところに持っていって眺めた。
「いったい、どこの文字だ、これは。さっぱり読めやしないじゃないか。あなたがいったイエスさまの言葉は、ほんとうにここに書かれているものなのか」
ゲラルドはマッダレーナに写本を返して聞いた。マッダレーナは震える指で写本をまた丸めて縛った。
「これはヘブライ語で、シムズが……ラテン語訳に訳したのです。わたしはそれを……読みました……半分だけですが……」
「どういうことだ」
ゲラルドは真剣な眼差《まなざ》しで尋ねた。他の者たちも、その事実に興味をそそられてマッダレーナの寝台に集まっていった。私も寝台から滑りおりて、人の輪の後ろからマッダレーナを見下ろした。
マッダレーナの顔は囲む人の影に覆われていた。まるで暗い穴底に横たわっている死体のようでもあった。
「『マリアによる福音書』を手に入れることは……ベルナルド司教の……夢でした」
穴底から声が聞こえてきた。マッダレーナは休み休み、ベルナルド司教が『マリアによる福音書』を受け取りに自分とフランチェスカをヴェネツィアに遣ったこと、それを持ち帰り、シムズに翻訳を頼んだこと、しかし福音書の存在を顕《あきら》かにする前に死んでしまったことを話した。最後に、昨日、福音書のことを知ったエンリコが焼こうとしたので、マッダレーナがこれを奪って逃げたことを告げた。
あらましを話し終わると、マッダレーナはぐったりとした。悪寒がするのか、歯をかちかち鳴らせている。リディアが水を飲ませ、少し休むように勧めたが、マッダレーナは、「聞いてください」と逆に声を強めた。
「わたしは大きな罪を犯しました。……わたしもまた……途方に暮れています。なにが正しく、なにが正しくないのか……エンリコは正しく、わたしたちはまちがっていたのか。なにもわかりません……」
マッダレーナの声には真摯《しんし》な響きがこもっていた。人々はさっきまでのよそよそしさを棄《す》てて、少しずつマッダレーナの言葉に引き込まれていった。
「今のわたしたちにできることは……、イエスさまの……言葉に耳を傾けることだけです。マグダラの……マリアはイエスさまの最も近くにいた弟子でした。この福音書の言葉こそ……、イエスさまの……語った……真の言葉が……あるのです」
「さっきのイエスさまの言葉、あたしは好きだよ」
ボーナ婆さんがマッダレーナの寝台に腰を下ろし、鞣《なめ》し革《がわ》色の手で女の肩に触れて、おずおずと頼んだ。
「続きを聞かせておくれ」
マウロ爺さんもリディアも相槌《あいづち》を打った。カルロは必死に言葉を探していった。
「どうしてかわからないけど……他の福音書と同じこといってるみたいだけど……おれの知ってるイエスさまの文句よりずっといい」
マッダレーナはため息のような笑い声を洩《も》らした。
「ええ……とても力強い言葉です」
そして、一度、読んだだけなので、どれくらい覚えているかわからないが、と言い訳をしてから、イエスの言葉を語りはじめた。
「求める者には与えてやれ。おまえの持ち物を奪う者がいても……返してくれなどというな……。自分がしてもらいたいと思うことを、……人にもしてやれ……」
六人の者は、マッダレーナの横たわる寝台やその下の床に座って耳を傾けている。私は足音を忍ばせて人の輪から離れた。食卓の上に置かれていた小さな燭台を持つと、部屋の中央で燃える灯から火種を取り、その弱々しい光を頼りに祈りの場から出ていった。
「おまえたちを愛してくれる者を愛したところで……なんだというのだ。徴税人でさえ……自分を愛する者を……愛するじゃないか」
マッダレーナの声を聞きながら塔の階段を昇り、司教室に入っていく。中は真っ暗だ。燭台でざらざらした床板を照らしながら暖炉に歩いていく。壁に穿《うが》たれた四角い洞窟《どうくつ》にも似た暖炉の前に着くと、私は跪《ひざまず》いた。火床に堆《うずたか》く積まれた古い灰の山の上に、真新しい黒い灰が散らばっていた。灰の表面は、黒焦げの薄い層となった紙の形が残っていた。
エンリコはやはりラテン語訳の紙を焼いてしまっていたのか。私はがっかりした。マッダレーナの言葉を聞いているうちに、もしや、という希望が湧《わ》いたのだが無益だったらしい。
冷たくなった暖炉の灰を手で掻《か》きまわし、何も残ってないことを確かめると、私は顔を上げた。床に置いていた燭台を取って立ちあがろうとした時、斜め前に置かれた司教の寝台の下に白っぽいものが落ちているのに気がついた。引きずりだすと、紙だった。半分に破られていて、ラテン語らしい文字が書かれている。燭台片手に注意深く探すと、長持の後ろにもう一枚の破れた紙が見つかった。
マッダレーナが『マリアによる福音書』を持って逃げた時、エンリコも後を追って司教室から飛びだした。しばらく部屋を留守にしていたその間に風でも吹いて、暖炉に放りこんでいた紙を飛ばしていったのだろう。それでこの二枚が焼けるのを免れたのだ。
私はその紙を持って広間に戻っていった。マッダレーナは覚えている言葉をすべて語り終わってしまったらしく、祈りの場は再び静寂に包まれていた。それでも六人はまだマッダレーナのまわりに集まったまま、イエスの言葉の余韻を味わっていた。そこは暗闇《くらやみ》に浮かんだ小さな島だった。絶望の海に浮かぶ〈山の彼方〉のその島に、行き場のない者たちが集い、救いの言葉を待っていた。
私はマッダレーナに近づいていくと、焼け残った紙を差しだした。私の手にしていた燭台の光に、目を閉じたマッダレーナの顔が浮かびあがった。目の周囲には黒い影が広がり、額には汗の粒がびっしりとはりついている。怪我《けが》のせいか、熱があるようだった。それでも私の気配に気がついて、薄目を開いた。しばしぼんやりと胸許《むなもと》に差しだされた紙面を眺めていたが、突然、はっと瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》を見開いて、半分に破れた二枚の紙を受け取った。私は女に頷《うなず》いた。
「そうだ。エンリコの部屋に残っていた福音書のラテン語訳だ。これだけ焼けるのを免れたんだ」
マッダレーナは胸に紙を押しあてて「ありがとうございます、神さま」と呟《つぶや》いた。私の持っていた燭台に翳《かざ》して読もうとしたが、すぐにかぶりを振った。
「目が……霞《かす》んで……」
「わたしが読みましょうか。ラテン語なら修道院で習いましたから……」
リディアが脇《わき》から紙を覗《のぞ》きこんで、おずおずと申し出た。マッダレーナは少し驚いたように若い女の顔を見上げ、そしてためらいながら紙をリディアに渡した。
「まず、そこになにが書かれてあるか……教えてください」
リディアは燭台に照らして、二枚の紙を調べた。
「一枚は、あなたがさっきおっしゃった言葉がいくつかあります。でもあと一枚は……マグダラのマリアと、イエスさまの会話みたいですが……」
「それはまだわたしも読んでない部分です」
二人の遣《や》り取りを聞いていた他の五人が、興味を抱いて頭をもたげた。マッダレーナは、リディアに頼んで、水を口に含ませてもらい、説明した。
「『マリアによる福音書』は……ふたつの部分から成り立っています。前半は、さっきうろ覚えでお伝えしたイエスさまの言葉、後半は……イエスさまの死後、マグダラのマリアが教わったという隠された天の秘儀についてです……」
カルロやマウロ爺《じい》さん、ボーナ婆《ばあ》さんはきょとんとしていたが、ゲラルドは、隠された天の秘儀、と不安そうに呟いた。マッダレーナは相槌を打つように睫毛《まつげ》を伏せた。
「ベルナルド司教はそれを読んで、驚きのあまり転倒したらしいのです」
「いったい、なにが書かれてあるのだ」
フランコが聞いた。マッダレーナは霞んだ瞳で皆を見回した。
「わかりません……でも、それが正真正銘のイエスさまのことを語っているなら……わたしたちは知るべきではないでしょうか。もしかしたら……そこに……わたしたちの迷いをふっきってくれるものが……あるのかもしれません」
広間の中央に置かれた燭台のひとつが大きく揺らいで、ふっと消えた。残った燭台も今にも消えそうにちらちらとしている。あたりはさらに暗くなった。外から響く梟《ふくろう》の声が、闇を際だたせていた。
「聞かせてください」
カルロがいった。他の者たちも、寝台の周囲ににじり寄ることで、紙に書かれた言葉が読まれるのを待っていることを示した。
「それを、みんなにわかる言葉で読み解いてください」
マッダレーナがリディアにいった。マッダレーナの枕許《まくらもと》に座ったリディアは、私の翳す燭台の明かりを頼りに、緊張した声で『マリアによる福音書』の残された断片を読みはじめた。
32
あなたがたから隠されているものを、わたしが顕《あきら》かにしましょう。
そこでマリアは、これらの言葉を彼らに話しはじめた。
わたしは、と彼女はいった。わたしは、幻の中で主《しゆ》を見ました。それでわたしは、主にいいました。主よ、わたしは今日、幻の中であなたを見ましたと。
主は答えていわれました。
あなたに祝福あれ。あなたは、わたしを見てもたじろがなかった。心あるところに宝がある。
マリアは、弟子たちの前で話を続けた。
主は、わたしを山の上に連れていきました。
そして両手でわたしの顔に触れ、乳房に触れ、腹に触れ、太腿《ふともも》に触れました。風のように軽く、水のように優しく、太陽のように暖かく、わたしのからだの奥の泉は潤い、わたしは主を受け容《い》れました。瞬時に、わたしは永遠に触れました。
主はいわれました。
わたしたちはこのように愛の行為を行うことにより、生きるのだ。
わたしは驚いて、大地に倒れ伏しました。
主はわたしを起こしていいました。
ああ、なんと小さな信仰心だろうか。なぜ、あなたは疑うのです。わたしが教える地上でのことを信じないで、どうして天上のことを信じることができるのですか。
マリアは語り終わると、沈黙した。この性の故に、イエスは彼女に話しかけたのだ。
しかしアンドレアはその言葉に応じ、仲間にいった。
誰がこんなことを聞くことに耐えられるか。この言葉は汚物と同じだ。
ピエトロはこのことに関していった。
主はほんとうに、われらに知らせぬまま、この女の前に現れたと思うか。われわれに、この女を振り向かせ、その汚れた言葉を聞かせるためにか。主はわれわれよりも、この女を選んだというのか。
弟子たちは驚き、うろたえ、マリアの言葉を信じなかった。
これらの性ゆえに、彼らはイエスより遠ざけられたのだ。彼らはまだ完全なる者ではなかったからである。
33
私は笑った。おおいに笑った。
ほら、あんたたちのイエスも女を抱いたんじゃないか。女に、この上ない歓びを授けることすらした。肉の慾《よく》のどこがいけないというのだ。
だが、とうてい、声をだして笑い、そんなことをいってやれる雰囲気でなかった。
何度か途中で止《や》めようとするリディアを励まして、最後まで読ませたマッダレーナは、今や石のように寝台に横たわり、そのまわりに集まっていた者は衝撃のあまり、すぐには言葉も出ないありさまだった。
「……嘘《うそ》だ……」
フランコがようやく喉《のど》から掠《かす》れ声を絞りだすと、堰《せき》を切ったように大声で喚《わめ》きだした。
「『マリアによる福音書』だと。淫売《いんばい》の書いた偽書もいいところだ。おれたちにこんなものを読ませて、あんたは恥ずかしくないのか、ええっ」
いつも無口なフランコが両手を振りまわし、気が狂《ふ》れたように叫んでいた。ボーナ婆《ばあ》さんは耳を両手で塞《ふさ》いで、「こんなものを聞いて、あたしは汚れてしまった。内側から汚れてしまった」と身を捩《よじ》って泣きだした。マウロ爺《じい》さんはマッダレーナの前に禿頭《はげあたま》を突きだして、歯の抜けた口で噛《か》みつかんばかりにしていった。
「いったい、あんたはどういう気だ。男と寝たうえに、こんな厭《いや》らしい福音書まで持ち歩いている。自分の罪を糞《くそ》みたいにわしらになすりつけたいのかっ、ええっ」
リディアは「こんなものを、わたしに読ますなんて、あんまりです」と叫びながら、燭台の火でラテン語訳の紙を焼き払った。私が救いだす間もなく、二枚の紙は黒焦げになってしまった。リディアは汚れがうつるとでもいうように、ボーナ婆さんの肩を抱いて別の寝台へと逃れていった。
皆がマッダレーナを非難していた。私は、彼らの中にこれほどの憎悪が巣くっていたことに驚いた。それは肉の慾に対する憎悪だ。だが、その底にあるのは、彼ら自身の肉の慾だった。それをあまりに強く、あまりに長い間、押し殺していたがために、憎悪という形で噴きだしてきた。しかし、ほんとうは皆、福音書の中のイエスが、マリアが、羨《うらや》ましいのだ。
「やめないか」
私はまだ寝台にへばりついて悪態をついているマウロ爺さんをマッダレーナから引き剥《は》がした。
「たかだか男と女が交わっただけじゃないか。それほど大騒ぎすることか」
「異教徒のあんたに、わしらの信仰のなにがわかるっ」
マウロ爺さんは私に引っ張られた腕をものすごい勢いで振り払った。
ゲラルドが従兄弟《いとこ》のフランコの肩を押さえて落ち着かせようとしながら、聞こえよがしにいった。
「やっとベルナルド司教の正体がわかったよ。エンリコのいう通りだ。真の〈善き人〉ではあるものか。こんな偽書を〈山の彼方〉にもたらし、男と寝たマッダレーナに救慰礼《コンソラメンタム》を授けて罪を赦《ゆる》したんだからな」
自分に対する非難を耳にしたはずなのに、マッダレーナは目を閉じて横たわっているだけだ。もう何も聞くまいと決心したかのようだった。フランコが従兄弟に何か耳打ちした。ゲラルドはすぐに相槌《あいづち》を打って、他の信徒たちに告げた。
「聞いてくれ、われわれはここを出ることにした。エンリコが来たブルガリアの教団に行って、そこの司教にもう一度救慰礼を授け直してもらうんだ」
「ブルガリアの教団ですと」
マウロ爺さんは悲鳴のような声をあげた。
「そんな遠いところに行ってしまうのですか。わしらを置いていくのですか。わしらは、どうしたらいいんですか」
ボーナ婆さんも驚いて泣くのをやめた。ぽかんとして人々の遣《や》り取りを聞いていたカルロが、「ブルガリアってどこだ」と間の抜けた質問をした。
ゲラルドは顔つきを和らげた。
「ブルガリアは、アルピを東にずっと行くと着くという。行って帰ってくるのに、どれくらいかかるかわからない。が、必ず戻ってくる。正真正銘の〈善き人〉となって帰ってきて、あんたたちに救慰礼を授けなおしてやろう」
ボーナ婆さんは「ありがたい」と呟《つぶや》いて、ゲラルドを拝まんばかりだった。ゲラルドは、ボーナの隣でもじもじしているリディアにも、卵を食べた罪の清め方をブルガリアの司教に聞いてきてあげると請け合い、自分たちが戻ってくるまで、他の者たちはアッツォの村人と共に行動するように提案した。
「でも、アッツォの人たちはもう村を出てしまったのではないでしょうか」
リディアが眉《まゆ》をひそめていった。残りの者の顔に暗い影が走ったが、私が、夜明け前に〈龍の背中〉の西の夏小屋に案内するから、そこからはパエジオが村の者たちのところに連れていってくれる手筈《てはず》になっているという話を伝えると、ゲラルドは元気よく声を張りあげた。
「なら問題はない。みなで出発しようではないか。おれとフランコはブルガリアから戻ったら、真っ先にあんたたちを探しにいくよ。なにしろ、ここはおれたちの生まれ育った土地だ。アルピのどこに隠れていても、必ず探しだせるさ。そしてまた一緒に新しい〈山の彼方〉を造りあげようじゃないか」
絶望した時に与えられる希望は、それがどんなにわずかなものでも、明けの明星の如くに輝いて見えるものだ。誰もが嬉々《きき》として自分の持ち物をまとめはじめた。
ゲラルドとフランコは布教の旅に持っていく大きな袋に衣類や福音書を詰めると、夜明け前を待たず、今すぐ出発するといいだした。
「なにしろブルガリアは遠いからな。驢馬《ろば》に乗っても明日着くというわけにはいかない」
冗談ともつかないことをいって、ゲラルドは笑った。大きな口の両端には、再びえくぼが浮かんでいた。
布教の旅の時のように、鍛冶《かじ》道具を驢馬に乗せて出ていくというゲラルドとフランコの出発を手伝うためと見送るために、カルロとマウロ爺《じい》さん、リディアに支えられたボーナ婆《ばあ》さんが祈りの場から出ていった。
ゲラルドとフランコはマッダレーナには挨拶《あいさつ》もせず、私には「他の者を頼んだぞ」とよそよそしくいっただけだった。私が、男女の交わりなんか大騒ぎするほどのものではないといったことが気に障っているのだった。
皆が外に出ていくと、私はマッダレーナに近づいていった。マッダレーナはまだ固く目を閉じたまま横たわっている。枕許《まくらもと》に置かれた弱い燭台《しよくだい》の光に、滲《にじ》むような涙の跡が照らされていた。リディアが焼き棄《す》てた福音書のラテン語訳は床で灰になっていた。そこから目を逸《そ》らせて、私はいった。
「あんたも、おれたちと一緒に来るだろう」
マッダレーナは目を閉じたまま、かぶりを振った。
「なにもアッツォ村の者と一緒になることはない。ここを抜けだしたら、好きなところに行けばいいんだ」
ボーナ婆さんやマウロ爺さんと旅したくないのかと思ってそう伝えると、マッダレーナは目を開いて、私をまっすぐに見上げた。
「わたしは死にます」
私は驚いて、思わず、そんなことはない、といい返した。マッダレーナの紫色の唇の隅に淡い笑みが浮かんで消えた。
「わかるのです……」
その静かな声は、確かにこの女にはわかるのだろうと私に納得させる響きを持っていた。実際、汗は引いて、熱は下がったようだったが、マッダレーナは今やすべての力を消耗しつくして、皮膚は黒ずみ、目の白い部分は艶《つや》を失い、肉体は地面に投げだされた丸太のように見えた。しかし、私はマッダレーナが死ぬという考えを、頭の隅に押しやった。
「ここにいるわけにはいかないぞ。朝になったら、ヴィットリオが兵士を連れてやってくる」
マッダレーナは目を細めた。それは私が、この女の死を認めようとせずにあがいているのを、おもしろがっているふうでもあった。
「これから死ぬ者が、明日のことを煩うことがあるでしょうか」
祈りの場の戸口に人の気配がした。カルロが「夜が明けるよ、ザンザーラ」といって入ってきた。気がつくと、細長い窓の外の闇《やみ》はほんのり紺色に変わっている。マッダレーナが早口で告げた。
「早く、わたしを置いていくのです。他の人たちを無事に逃がしてあげて」
ボーナ婆さんやマウロ爺さん、リディアが広間に入ってきて、荷物を手にした。そしてカルロと一緒に、私のほうを促すように見つめた。
老人二人は、〈龍の背中〉の険しい崖道《がけみち》を進むのに手間取るだろう。足許が見えるようになり次第、出発したほうがよかった。
「なにかして欲しいことはないか」
マッダレーナは首を横に振り、『マリアによる福音書』の写本を胸に抱きしめた。あれほど罵倒《ばとう》されたのに、私はこの女がまだ福音書にしがみついているのに驚いた。マッダレーナはそれを察したのだろう、囁《ささや》くようにいった。
「考えているのです。なぜ……男女の交わりが……隠された秘儀なのか」
「それは偽書じゃないのか」
マッダレーナは深く息を吸いこんだ。それで少し生きている人間らしく見えた。
「誰もが汚らわしいと罵倒するに決まっていることを、わざわざヘブライ語で書いて隠した……それはこの中に……廃れてはならない真実があるからでは……ないでしょうか……いいえ、偽書とは思いません」
ザンザーラ、と今度はマウロ爺さんが呼んだ。禿頭《はげあたま》の老人は少し苛立《いらだ》っていた。マッダレーナは、行きなさい、というふうに顎《あご》を動かした。
一瞬、無理にでもマッダレーナを担いで助けだそうかとも思った。しかし、この女は自分の死を、死に方を決めていた。私の手出しは、それを邪魔することでしかなかった。
「じゃあな」というと、マッダレーナは私に頷《うなず》いた。
「善い旅を」
瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》を黒く落ち窪《くぼ》んだ瞼《まぶた》が覆った。死んだかと思ったが、胸許《むなもと》で組んだ指先が少し震えていた。
善い旅を。
心の中で呟《つぶや》いて、私は寝台の下から革袋を引きずりだし、カルロたちと一緒に祈りの場を出た。
東の空は雲で覆われ、その切れ間から血のような色の朝焼けが覗《のぞ》いていた。私は四人の男女の先頭に立って、奥の庭を通り、城の裏手に出ていった。朝露に濡《ぬ》れた草の匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、私たちは岩場の隅の崖道の入口に歩いていった。
「あれ、誰か倒れてるぞ」
カルロが薬草園を指さして、頓狂《とんきよう》な声をあげた。薄闇を通して、草の間に沈む褐色の衣類が見えた。私たちは走り寄った。この春、私が苦労して作った若枝の柵《さく》を押し倒して、シルベストロが死んでいた。口の周囲は土で汚れ、手には地面から引っこ抜いた鳥兜《とりかぶと》を握りしめている。毒を含んでいる根の部分が半分ほど喰《く》いちぎられていた。シルベストロは苦しんで死んだらしく、舌を突きだし、目玉を剥《む》きだしていた。
「自殺したんだ」
マウロ爺さんが鳥兜を見下ろしてそういうと、エンリコを殺したことで自分を咎《とが》めたのだろう、とボーナ婆さんと話し合った。しかし私はシルベストロを追いかけていったのが、カルメロだったことが気にかかった。動転していたシルベストロに、数多くの薬草の中から鳥兜を引き抜き、毒の部分の根を齧《かじ》るなどという芸当ができるだろうか。いいかげん耄碌《もうろく》していた老人なのに。シルベストロに鳥兜で自殺するように唆したのは、カルメロかもしれないという想《おも》いが頭を過《よ》ぎった。罪を犯して苦しむシルベストロの魂を死によって救う気だったか、〈善き人〉が人殺しをしたという醜聞をもみ消すためだったか、わからなかったが。
マウロ爺さんがシルベストロの手から鳥兜を取り、その手を胸で組み合わせてやった。そして私たちは水場の前を通って、〈龍の背中〉の西側に通じる道の入口へと向かった。岩場の西の縁に立つと、切り立った崖に刻まれた筋のような道が見える。ここを通るというと尻込《しりご》みするかと思ったボーナ婆さんとマウロ爺さんは、意外に平気な顔で承知した。青ざめたのはリディア一人だった。考えてみれば、ボーナもマウロもアルピの生まれで、こんな山道は子供の時から慣れているのだ。カルロを先頭に、ボーナ婆さん、マウロ爺さん、リディア、私の順番に進みはじめた。
山道に慣れている者が多いとはいえ、まだあたりは薄暗い。足許《あしもと》を確かめていると、歩みはどうしてもゆっくりしたものになる。時々、リディアが立ち往生し、それを私が助けた。リディアには、男に触れることを避けている余裕はなかった。ボーナ婆さんも所々、カルロやマウロに手を貸してもらいながら進んでいた。
やがて東の空の血色の朝焼けが桜貝色に色褪《いろあ》せ、空が水色に変わってきた。四方から小鳥の囀《さえず》りが湧《わ》きあがってきた。そして雲の切れ間から、太陽が黄金色の光を放ちはじめた。やがて、マッダレーナが墜落したところにやってきた。崖から岩が少し張りだしていて、休めるようになっている。あまり気は進まなかったが、ボーナ婆さんやリディアが息を切らせていたので、そこで少し留まることにした。三人に腰をおろせる場所を譲って、私とカルロは立ったまま下方を眺めた。
柔らかな朝日を浴びて、アッツォの村が見下ろせた。草葺《くさぶ》き屋根の木造の家々が丘陵に沿って並んでいる。いつもと変わらない光景だが、目を凝らせば、どの家からも煙は立ち昇らず、菜園には人の姿はなく、広場もがらんとしているのがわかる。ヅィビリーノ家の裏手の庭をふらふら歩く二、三人の男の姿だけが目についた。ヅィビリーノ家の者たちではない。異端審問官についてきた兵士たちだ。目覚めて、屋敷の者を探しているらしい。間もなく、ヅィビリーノ家どころか村全体、もぬけの殻になっているのに気がついて、さぞや慌てることだろう。
「なあ、ザンザーラ」
隣で、風を受けて気持ちよさそうにしていたカルロが小声でいった。
「あの『マリアによる福音書』っての、偽物だと思うか」
私は、わからん、とぶっきらぼうに答えた。城に置き去りにしてきたマッダレーナのことを思い出して心が疼《うず》いたのだ。しかし、カルロは話しかけるのをやめはしなかった。
「もしもだ、もしも、イエスさまだって、女に触れたとしたら、それでもって、おれたちだって、女と寝ていいというなら、地獄とはいってもこの世も、なかなかいいもんだよな」
「地獄やら天の国やらを創《つく》りあげるのは、人の心だろうよ。この世は地獄でも天の国でもないんだ」
私は村から出て、丘陵の下方の森の中に消える街道に目を遣《や》りながら答えた。その森の中からちょうど兵士の一隊が湧きでてきているところだった。騎馬の騎士を先頭にして、長槍《ながやり》や剣を携えた男たちがぞろぞろと二列になってアッツォ村への道を進んできていた。
「わたしのからだの奥の泉は潤い、わたしは主を受け容れました。瞬時に、わたしは永遠に触れました」
福音書の言葉を復唱して、カルロは卑猥《ひわい》に、いひひひ、と笑った。頭のとろいこの男があの件《くだり》を覚えているとは上出来だった。
「おれは思うけどな、イエスとマリアの交わりってのは、普通のものじゃなかったはずだぞ。厭《いや》らしいものはなにもなくて、ただ、きれいで優しくて……」
そういいながら、私は粉雪の降りしきる森の中の洞窟《どうくつ》でマッダレーナと交わった時のことを思い出していた。優しさの代わりに慾望《よくぼう》の激しさだけがあったが、そこには厭らしいものはなにひとつなかった。マッダレーナは男を求め、私は女を求めていた。そう思う私の陰茎は、硬くなっていた。
アンペッツォから来た兵士たちは続々と森から現れてくる。これら全部の男たちが、マッダレーナ一人に攻めかかっていくのだ。マッダレーナの死体が、百人の兵士たちに陵辱されるような気がした。
なんということだろうか。私の心は、マッダレーナの死を受け止め、死にかけていた女を城に置き去りにしてきたくせに、私の体はあの女を百人の兵士たちに渡したくないと叫んでいた。
私はカルロの肩に手を置いた。
「この道が終わったら、林を抜けて斜面を上がっていけ。そこにパエジオの夏小屋がある」
カルロは目をぱちくりさせた。
「あんたはいったい……」
私は返事をしないで、崖《がけ》の道を引っ返しはじめた。たとえ返事するつもりでも、何といっていいかわからなかっただろう。私自身、何をしようとしていたのかわからない。マッダレーナの命を助けるのは無理なことはわかっていた。死を看取《みと》りたかったわけでもない。死ではなく、生きることをしたかった。何か、マッダレーナとの間に、やり残したことがある気がした。もしかしたら、もう一度、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女と交わりたかったのかもしれない。あの洞窟の中でのように激しく、ただ激しく……。百人の兵士たちに冷たくなった骸《むくろ》を引き渡す前に。
城に戻ると、すでに太陽はあたりを暖かな色で照らしていた。祈りの場にも、西向きの窓から滲《にじ》むような光が入ってきて、広間の中央にあるエンリコの骸を覆った藁《わら》の塊を浮かびあがらせていたが、マッダレーナの寝台までは達せず、女はまだ夜のような暗闇に横たわっていた。死に瀕《ひん》している現実の女を前にして、私の頭の中で膨れあがった慾望は急速に萎《しぼ》んでいった。陰茎は萎《な》え、私は何をしに戻ってきたのかますますわからなくなった。
引き返してきた私を見ても、マッダレーナにはもう驚くだけの気力は残ってはいなかった。それでも奇蹟《きせき》のように、誰か手助けしてくれる者が来るのを待っていたのかもしれない。私に言葉をかける間も与えず、切羽詰まった声で頼んだ。
「わたしを……光の中に連れていって……。明るい光の中へ……」
明るい光と聞いて、すぐに思いついたのは司教室だった。南側と西側に窓があり、城の中で最も光の入る部屋だ。私は銀貨の入った革袋を祈りの場の床に下ろすと、マッダレーナを抱きあげた。マッダレーナは男に触れられることに抗《あらが》いはしなかった。『マリアによる福音書』を巻いたものを胸に押さえるようにして持ち、じっとされるがままになっていた。女の体は軽かった。折れた手足がぶらぶら垂れているのが痛々しい。マッダレーナを背負ってアルピの山中をさまよったことを思い出しながら、私は塔の階段を昇っていった。
今や主《あるじ》の死に絶えた〈山の彼方〉の司教の部屋は、朝日に満ちていた。南の窓から光が射しこみ、書き物机や肘掛《ひじか》け椅子《いす》の木の肌を黄金色の舌で舐《な》めていた。粗末な寝台に横たえようとすると、マッダレーナは陽の入る窓辺に置いてくれと頼んだ。埃《ほこり》の積もった木の床に、私は女の痩《や》せた体を横たえた。
全身に降りそそぐ陽の光を心ゆくまで味わおうとするように、マッダレーナは目を閉じて顎《あご》を反らせた。私はその隣に座りこみ、司教室の窓の外に広がる空を眺めた。朝日が昇るに従って、空の色はますます青くなってきていた。それでも薔薇色《ばらいろ》の山稜《さんりよう》にこびりついた羽毛のような雲の周囲は、まだ桜貝色に染まっている。明るい青と桜色。夕陽に染まったヴェネツィアの海の色だ。
「マグダラのマリアが……なぜ……あの福音書を書いたか……わたしにはわかります」
気がつくと、いつかマッダレーナも目を開いて、やはり司教室の彼方《かなた》に広がる空を眺めていた。
「それは……イエスさまとの交わりが永遠に触れるものだったから……清く強いものだったからです……でもその教えは迂闊《うかつ》に洩《も》らすと、人々におおきな恐慌を引き起こす。だからこそ……隠された秘儀だった……」
マッダレーナは瑪瑙色の瞳に空を映して、長く弱々しい息を吐いた。
「わたしは……わたしたちは……まちがっていたのかもしれません。……肉の交わりを拒むことは……それにこだわり続けることだった……。きっとわたしたちは……これを超えて、イエスさまのように超えていかないといけないのでしょう。…………このように愛の行為を行うことにより生きるのだ、とは……愛の行為に汚れを持ちこまないこと……罪の意識を持ちこまないこと……汚れのない交わりを識《し》ること……」
汚れのない交わり。私にはマッダレーナのいわんとしていることがわからなかった。ついさっき、私は膨《ふく》れあがる慾望にたまらなくなり、ここまで戻ってきた。瀕死《ひんし》の女と交わるためだ。そこに汚れというものがあっただろうか。いったい、この女のいう汚れとは何なのだ、肉の慾とは何なのだ。最後の最後まで、私とマッダレーナはどうしようもなく不可解なもので分かたれていた。
「隠された秘儀を識らないでは天の国には……逝けないのでしょう……わたしは……それを識るために……また生まれてこないといけないのかもしれません……」
マッダレーナは少し目を閉じて休んだ。息が次第に浅くなってきている。眼窩《がんか》はますます落ちくぼみ、骸骨《がいこつ》のような影を作っていた。やがてマッダレーナは瞼《まぶた》を上げて、胸に抱いていた『マリアによる福音書』を指先で撫《な》でた。
「これを……預かっていてください」
預かるとはどういうことだ、と私は聞いた。
「ここには、わたしが……識らなくてはならないものが書かれています。……わたしはそれを識るために……戻ってくるかもしれない。それとも……わたしでなく……誰か、わたしのように悩みながら、永遠の安らぎを求める誰かが……ある日、これを探して……あなたの前に現れるかもしれません。……そしたら……渡してあげてください」
いつ戻ってくるのか。聞き返しかけて、私はそれがいかに馬鹿げた質問か気がついた。マッダレーナは死にかけている。生まれ変わることをいっているのだ。しかし、それは〈善き人〉たちが天の国に逝くというのと同じくらい、あてにならない希望だった。それでも私は引き受けた。他にどうすることができただろう。
マッダレーナは私に『マリアによる福音書』を渡すと安堵《あんど》したらしく、体の力を抜いた。あちこち血の染みのできた亜麻布の上衣に、細い手足が浮きたっている。太陽の光の中に仰向けに横たわったその姿は、木の床に彫られた後、すり減ってしまった彫刻のようにも見えた。しかし瑪瑙色の瞳だけは今までにもまして強い力を放っていた。その瞳でまっすぐに私を見つめて、マッダレーナはいった。
「わたしに触れてください」
私はどきりとした。
「いいのか……」
マッダレーナは紫色に変わった唇の端に、小さな笑みを刻ませた。
「優しく撫でて欲しいのです……愛する者同士がするように……優しく……優しく」
優しく、という言葉をため息のように吐いて、マッダレーナは目を閉じた。私はためらいながら、その青白い頬《ほお》を掌《てのひら》で包んだ。絹を撫でるようにそっと頬から唇に触れると、私の指先から優しい波が生まれ、女の全身に伝わっていくのがわかった。マッダレーナはその波に揺られ、太陽の光の中で心地よさそうにたゆたっている。
太陽をまとう女。私たちのすべてのはじまりだったあの言葉が、不意に頭に浮かんだ。
海の彼方より
波に揺られてきた女よ
その瞳は愛に燃え
その唇はため息に震える
私の内で放浪楽師の歌が響いた。まるでその歌が聞こえたかのように、マッダレーナの顔いっぱいに微笑《ほほえ》みが広がった。
おいでなさい
わたしの許《もと》に
おいでなさい
わたしの心に
私は、女の華奢《きやしや》な首筋から骨張った肩へと手を滑らせていき、桃のように柔らかな乳房を掌に包みこんだ。マッダレーナの唇が動いて何か呟《つぶや》いたが、私の耳にはその言葉は達しなかった。私はふたつの乳房の間に顔を埋めた。汗と血と、甘くすえたような女の匂《にお》いがした。私の内に強い慾望が噴きあがり、股間《こかん》から頭頂まで貫いた。それは、あまりに瞬時のことで陰茎の硬くなる間もなかったが、慾望の鮮烈さは私の体に永遠に烙《や》きつけられた。痺《しび》れたようになって女の匂いを嗅《か》いでいるうちに、乳房の下の鼓動が遠ざかり、やがて消えていった。マッダレーナの魂が肉体から去っていったことがわかっても、私はしばらくそうして乳房に顔を埋めていた。太陽の日射《ひざ》しが背中を暖かく包んでいる。私はマッダレーナの骸《むくろ》を抱きながら、太陽に抱かれていた。
何かがきらりと目を射て、私は顔を上げた。書き物机に〈太陽をまとう女〉の板絵が置かれていた。その黄金の板枠が光を反射しているのだった。きっとベルナルド司教の持ち物を探っていたエンリコが見つけだして、そこに置いたのだろう。
私は金色の輝きに手繰られるように立ちあがった。考えるより先に、私の手はマッダレーナから預かった『マリアによる福音書』の写本の紐《ひも》を解き、板絵の周囲を縁取る金の板を外して、絵の底に入れていた。福音書は、かつてそこにあったと同じ形で板絵の底におさまった。
私は板絵を手にしたまま、床の陽溜《ひだ》まりに横たわるマッダレーナを眺めた。手足の力は抜け、目を閉じて、唇を少し開いている。そこにはもう命のかけらも見あたらない。
肉体は抜け殻だ。マッダレーナは自分の骸がどうなっても気にはすまい。
私は塔の階段を降りていくと、祈りの場に置いていた革袋に板絵をしまい、奥の庭に出た。
敷石のあちこち剥《は》がれたその庭も、奥の門を通して見る中の庭も、敷石の間から生えた雑草を風が揺らしている。〈山の彼方〉は今こそ本当の廃墟《はいきよ》となっていた。
私は裏の岩場に出て、〈龍の背中〉に刻まれた崖道《がけみち》を進みはじめた。しばらくして下方を眺めると、村から続く小径《こみち》を兵士たちが〈山の彼方〉に向かって登ってくるのに気がついた。先頭に立つのは、白い法衣に黒い外套《がいとう》を着た僧侶《そうりよ》二人。正義は自分の側にあるといいたげにそっくり返って歩いてくる。ヴィットリオと、ピエーヴェの教会の助祭だ。村がもぬけの殻になっていることを発見したばかりだろうから、内心はさぞかし慌てていることだろう。〈山の彼方〉で自分たちを待っているのは死体だけと知ったら、どんなに落胆することだろう。
だが、死んだ男の血を受けた器ばかり探している奴《やつ》には、死骸《しがい》こそが似合っている。
私は兵士たちに見つからないように願いながら、足を速めた。マッダレーナが墜落した松の木のあるところを過ぎて、〈龍の背中〉の西腹の林が見える場所まで来ると、こちらにやってくる娘の姿が目に入った。被り物もなく栗色がかった黒髪を乱し、上衣をたくしあげて膝《ひざ》から下の足を露わにして、山羊《やぎ》のように岩場を伝ってこちらに駆けてくる。
ディアマンテだった。私を見つけると、腕がちぎれそうなほど手を振った。細い崖道の真ん中でぶつかったとたん、娘は私に抱きついてきた。
「なにしてたんだよ、ザンザーラ。置いてきぼりになってしまうじゃないか」
私の肩に顔を埋めて、ディアマンテは叫ぶようにいった。声は私を見つけたことに安堵《あんど》して震えていた。体に押しつけてくる、暖かなふたつの乳房。力強い太腿《ふともも》。ここには生きている女の肉体があった。そしてこの肉体は、私を求めて燃えていた。私は肩に掛けていた革袋を足許《あしもと》に置くと、土や汗や血で汚れた腕で娘を受けいれた。
葦《あし》で葺《ふ》いた屋根の破れ目から、星のきらめきのような朝日が射してきた。私はちくちくとする柴《しば》の寝床で目を覚ました。褐色の泥を塗った石積みの壁、木板の上に置かれた黒ずんだ鍋《なべ》や地面に並ぶ壺《つぼ》。鼻面を土につけて、豚が家の中をがさごそ這《は》いまわっている。
歯のほとんど抜け落ちた口を大きく開いて欠伸《あくび》をすると、胸許《むなもと》まで垂れた白い髯《ひげ》が震えるのが見えた。そろそろ髯の先を切ってやらねばなるまいと思いながら、私は掛け布代わりの藁を押しのけ、両膝《りようひざ》を押すようにして、ふらりと寝床から立ちあがった。
小屋の出入口を塞《ふさ》いでいた板を抱えて横にずらすと、爽《さわ》やかな朝の空気が流れこんできた。その中を泳ぐように両手を掻《か》いて、外に出ていった。
一緒に出てきた豚を家の横の囲いに入れ、雨水を貯めた岩の窪《くぼ》みで口を漱《すす》ぐ。冷たい水で顔を洗うと、少しずつ頭がしっかりしてくる。
朝、起きるたびに、ずいぶんと遠くに旅して戻ってきた気分になる。歳を取るごとにその旅先は遥《はる》か遠くに延びていき、やがて朝になっても戻らなくなる時が死ぬということではないかと、この頃、私は考える。
雑草を刈りとった畑の縁に並ぶ木々の彼方《かなた》に、蒼《あお》い霞《かすみ》のかかった山が聳《そび》えている。指を立てたような山々の間から太陽が昇ってくると、岩肌は薔薇色に輝きはじめた。明るさに誘われ、小鳥の囀《さえず》りが湧《わ》きあがってくる。首を巡らせば、背後には〈龍の背中〉がそそり立っている。時の手によって跡形なく崩れてしまった古城は蔦《つた》に覆い尽くされ、崖《がけ》の一部にしか見えなくなっている。かつてそこに〈善きクリスト教徒〉と自らを呼ぶ人々が住み、天の国に逝くことを願いつつ肩を寄せ合って暮らしていたことを知る者はもうほとんどいない。
私の知っている〈山の彼方〉の人々は、皆、死ぬか行方知れずとなってしまった。
ブルガリアで救慰礼《コンソラメンタム》を授け直してもらってくるといって旅だったゲラルドとフランコは、戻ってはこなかった。カドーレとチロル伯領との境の険しい山岳地帯に腰を落ち着けたアッツォ村の人々と共に、マウロ爺《じい》さんとボーナ婆《ばあ》さんは死ぬまで二人の〈善き人〉の帰りを待ち暮らした。カルロはゲラルディアの末娘と結婚して、義母に牛同様にこき使われ、病で死んだ。リディアはしばらく独り身を託《かこ》っていたが、結局はヅィビリーノ家の血筋の男の妻となって、アンペッツォ村に出ていった。そして私はパエジオの願った通り、ディアマンテと結婚して農夫となった。畑を耕し、パエジオに教わって羊を飼い、子を育て、ただ生きてきた。
時折、私の許まで、アルピの山中を布教して歩く〈善き人〉の噂《うわさ》が旅人や物売りの口を通じて聞こえてくることがあった。パンドルフォやカルメロだろうと思ったが、時とともに彼らの噂は消えていき、〈善きクリスト教徒〉の教えは廃れていった。かつてのアツツォ村の人々もまたマウロ爺さんとボーナ婆さんをはじめとする古い世代の者たちが死んでいくと、異端の教えを信奉する者は減ってしまった。今では新しい村には小さなローマ教会ができて、村人は定められた日には説教を聞きに出かけていく。その中には、私とディアマンテの間に生まれた息子や娘、孫や曾孫《ひまご》も混じっている。
ディアマンテが死んでから、余生を人里離れたところで一人で暮らしたいと私がいいだした時、身内は皆、あっけに取られた。しかし世俗を棄《す》てて山中に引きこもり、神を求める隠遁者《いんとんじや》になる者はけっこういる。食い口がひとつでも減るのはありがたくもあったから、ことさら反対はしなかった。村の者に至っては隠遁先が〈山の彼方〉のあった場所だとわかると、私が〈善き人〉を目指していると考えたのか、大勢の村人が旅立ちを祝福してくれた。〈善きクリスト教徒〉の教えは廃れてしまったが、人々の心の底に〈善き人〉たちの記憶は残っていたのだ。
今でもたまに、狼や熊に出くわす危険を冒してまでも、古い馴染《なじ》みの村人が食糧を携えて訪ねてきてくれることがある。棄てられた地に一人|棲《す》み、誰とも語らず、ただ日々を生きている私に求神者の姿を見て、心を動かされるらしい。私を聖人と呼ぶ者もいると聞いた。
だが、私の祈りがあのイエスという男に対して捧《ささ》げられているのではないことを知ったら、人々は驚愕《きようがく》することだろう。豚の世話や畑仕事の合間、朝は寝床で、晩には炉端の前で、私は頭を垂れて瞑想《めいそう》する。その行いが祈りだというのなら、祈っているのは、私を包む何かに対してだった。それが神という名を持っていようが、どんな顔をしていようが、興味はない。
かつてのアッツォ村の人々とともに住んでいた時、祈りというと決まってそうしていた。私はクリスト教徒というものに見えたことだろう。しかし私にとっては、祈りも、福音書の言葉を皆と唱和することも、ただの形の上でのことにすぎなかった。心の内で祈っているのは、彼らにも、私自身にすらわからない何ものかに対してだった。しかし、そのことを妻にも子にもパエジオにも、誰にも明かしたことはない。
どんなに永い歳月アルピに暮らそうとも、私はこの西の涯《は》ての人々に心のすべてを開くことはできなかった。緑や栗色、水色といった不思議な色の瞳《ひとみ》、鳥の嘴《くちばし》のように尖《とが》った鼻、長い手足を持った異貌《いぼう》の者たち。ほんの少し切れ気味の目や、黒っぽい髪の毛、平たい鼻梁《びりよう》などに東の者の風貌を留めているとはいえ、私の子たちも母の血と育った土地の力により、西の涯ての人々に属している。
かといって再び東に還《かえ》ったとしても、私はやはり落ち着かなさを覚えたことだろう。私は境の上を歩く者。どこにも属さない代わりに、境のこちら側とあちら側に引き裂かれ、東と西のどこにも足を置くことができないでいる。
私がパエジオやディアマンテに惹《ひ》かれたのは、彼らが境を歩かない者だったからだ。彼らは生まれてから死ぬまで、このアルピの山中に属していた。ふたつに引き裂かれることのない強さがあったからだ。
ポーロ家のマルコやニッコロ、マフィオの三人もやはり私と同じだったのではないだろうか。昨日、ヴィットリオの読んでくれた書簡を振り返るだに、彼らもまた境の上を永い間歩いてきたがために、心の還りゆく場所をどこにも見つけられなかったのだと思わずにはいられない。
ヴィットリオのせいか、私の心は過去に向かって雪崩《なだれ》のように押しやられていく。さまざまなことを思い出しながら、私は絶壁にへばりついた古城への道を登っていった。〈山の彼方〉に通じる小径《こみち》は雑草や灌木《かんぼく》に覆われ、岩だらけの斜面に残るうっすらした筋でしかなくなっている。杖《つえ》を突き、息を切らせながら歩いていると、草むらに黒いものが見えた。外套《がいとう》に身を包んだヴィットリオが、皺《しわ》の寄った丸顔にひきつった笑みを浮かべて死んでいるのだった。恐怖に駆られて闇雲《やみくも》に下の村を目指しているうちに、迷ってこんなところに出てしまったのだろう。
ヴィットリオの死骸《しがい》から少しいったところの石楠花《しやくなげ》の茂みには、ベルナルド司教とアルミドが埋められている。かつての追う者と、追われる者が同じ場所で朽ちていく。
崩れた表門の前に来て、私は背後を振り返った。アッツォ村はすでに周囲から攻めてくる森に呑《の》まれていた。私が新たに切り拓いた土地なぞ、森の中の小さな池ほどの広さでしかない。春になり黄緑色の新芽を芽吹かせはじめた木々が緑の波となって〈龍の背中〉の足許まで打ち寄せてきていた。ざわざわと風に鳴る木の葉の音が、海の波の音と重なり、私は眩暈《めまい》を覚えた。泉州《ザイトウン》からの船に乗って、西の涯てに向かって渡ってきた海が、いつか青から緑へと色を変え、ここまで続いていた。その海は、私の生まれた倭《わ》の国の花旭塔津《はかたつ》から、このアルピの山中まで広がっている。私は一生涯かけて、この大海原を渡ってきたのだ。
緑なす海原に背を向けて表門をくぐり、私は〈山の彼方〉の中庭に入っていった。城は完璧《かんぺき》なまでに壊されていた。兵士百人を連れてやってきたヴィットリオたちは、生きている者は誰も残っていないのを見つけて怒り狂った。そしてマッダレーナとシルベストロの死体を中の庭で灰になるまで焼き尽し、兵士たちに、二度と誰も住みつくことができないように城を壊せと命じたと、後で村の様子を探りにいった者から聞いた。
兵士たちは、庭の敷石を剥《は》がし、城の壁を崩し、さらに木造部分に火を放った。今では崩れた壁や燃えおちた屋根や梁《はり》の上に雑草がはびこり蔦《つた》が絡まり、小山のようになっている。それでもうっすらと元の形を遺す瓦礫《がれき》の山に、表の門、作業場、中の門、食堂、〈信徒の家〉、〈女の家〉、奥の門、祈りの場、司教室、と心の中で名を与えながら、私は城を突っきり、裏の岩場に出ていった。
膝《ひざ》まで雑草に覆われた裏の岩場には、私が作った薬草園がある。もちろん柵《さく》は朽ちはて雑草に占領されてはいたが、いくつかの薬草はまだ残っている。ここに戻ってきて、猫の尻尾《しつぽ》にも似た迷迭香《まんねんろう》の茂みを見つけた時、沸き返るような喜びを感じたものだった。
薬草園の横を抜けて、私は岩場が〈龍の背中〉とぶつかるところにある水場に行った。もう水は涸《か》れ、ただの岩の窪《くぼ》みでしかなくなっている。私はその前に跪《ひざまず》き、かつて水の流れこんでいた岩の奥に手を差しこんで、指先に触れた柔らかなものを引きずりだした。それは四角い布の包みだ。布をめくると、〈太陽をまとう女〉が現れた。太陽の飾りのついた衣を身につけ、月を踏み、星の冠をかぶった女が、朝の光に包まれている。ディアマンテと暮らした家の壁の穴から、〈山の彼方〉の岩の窪みに移されてきても、その太陽の黄金の輝きは失われてはいない。
ディアマンテが死んだ時、私をアルピの山中に縛りつけるものは何もなくなった。パエジオもカルロもすでに亡く、子供たちは成人していた。若かったなら、東へと還ろうとしたかもしれない。もっと若かったなら、さらに西に旅したかもしれない。しかし私は年老いて、ただ死を待つしかなかった。私の生において、やり遺したことがあるとしたら、それはマッダレーナとの約束だけだった。『マリアによる福音書』を探しにきた者に渡してやるという約束。遠い昔のことだ。忘れてもいい約束なのに、私はこれを売り飛ばすことも、棄《す》てることもできなかった。だから私は待っている。マッダレーナに似た誰か、もしかしたら生まれ変わったマッダレーナ自身が、この福音書を取りに来る日を。
マッダレーナ。
あの女のことを思い出すと、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》が脳裏に浮かぶ。それはヴェネツィアの運河の色。私の魂は、あの瞳に湛《たた》えられた静かな水の深みに捕らえられてしまった。どんなに歳月が過ぎても、私の魂はそこにたゆたい続けている。それは惚《ほ》れているというものではない。魂の尻尾が蝶結《ちようむす》びになって、縛りつけられてしまったのだ。
私は板絵を膝に載せ、絵の具で描かれた女の上に骨ばった老いた指を滑らせる。司教室で息絶えようとするマッダレーナに触れた時のように、優しく、ただ優しく。私の指先から瑪瑙色の瞳の女の全身に広がっていった波が蘇《よみがえ》る。その波が女の体の隅々にぶつかり、撥《は》ねかえり、遥《はる》かな歳月を経て、私の許《もと》に戻ってくる時、私は、永遠に触れた慾望《よくぼう》のこだまを聴き、さまざまなものを超えた愛を感じる。引き裂かれていた私の心がひとつに溶け合うのを感じ、無上の幸福感に陶然となる。
こここそ、この板絵《イコナ》に触れる指の先こそ、永遠の安らぎの宿る場所なのかもしれない。穏やかな幸福の波に揺られながら、私はそう思うのだ。
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付 記
中世イタリア史研究家の亀長洋子氏、建築史家の陣内秀信氏、建築家のジョルジョ・ジャニギアン氏、筏乗《いかだの》り研究家のウンベルト・オリヴィエ氏の諸氏のご協力ご助言、渡邊昌美氏及び荒井献氏の著作なしでは本書は完成しなかった。また、角川書店書籍事業部の江澤伸子氏には、長い執筆期間を通して、資料の収集、取材など、おおいに助けていただいた。その他、小説が完成するまでの間、さまざまな形でお世話になった方々、たくさんの書物の著者たちに深く感謝する。
文中の聖書の文句、及びイエスの言葉は、『聖書』日本聖書協会、『トマスによる福音書』荒井献(講談社)、『フィリポによる福音書(「ナグ・ハマディ写本U)3』大貫隆、『失われた福音書――Q資料と新しいイエス像』バートン・L・マック著・秦剛平訳(青土社)等の訳文を引用もしくは参考にさせていただいた。また『マリアによる福音書』に関しては、アンティ・マルジャーネン氏による論文『ジーザスが愛した女――ナグ・ハマディ文書とその関連文書の中でのマグダラのマリア』(Antti Marijanen "TheWoman Jesus loved.Mary Magdalene in the Nag Hammadi Library and RelatedDocuments",Academic dissertation to be publicly discussed, by due permission ofthe Faculty of Theology at the University of Hersinki in auditorium XII, on the16th of December,1995.)収録の言葉を多く引用させていただいた。
参考文献
『中世の日常生活』ハンス・ヴェルナー・ゲッツ 訳/轡田収・山口春樹・桑原ヒサ子・川口洋 中央公論社
『中世の裏社会』アンドルー・マッコール 訳/鈴木利章・尾崎秀夫 人文書院
『中世都市の女性たち』エーリカ・ウイツ 訳/高津春久 講談社
『甦える中世ヨーロッパ』阿部謹也 日本エディタースクール出版部
『プラートの商人』イリス・オリーゴ 訳/篠田綾子 白水社
『中世ヨーロッパの生活』ジュヌヴィエーヴ・ドークール 訳/大島誠 白水社
『ヴェネツィアの冒険家』ヘンリー・H・ハート 訳/幸田礼雅 新評論
『東方見聞録』マルコ・ポーロ 訳/青木富太郎 社会思想社
『ヴェネツィア』W・H・マクニール 訳/清水廣一郎 岩波書店
『ヴェネツィア』陣内秀信 鹿島出版会
『海の都の物語』上・下巻 塩野七生 中央公論社
『ヴェネツィアの放浪教師』児玉善仁 平凡社
『大モンゴルの時代』世界の歴史9 杉山正明・北川誠一 中央公論社
『異端カタリ派の研究』渡邊昌美 岩波書店
『異端カタリ派』フェルナン・ニール 訳/渡邊昌美 白水社
『異端カタリ派と転生』原田武 人文書院
『ナグ・ハマディ写本』エレーヌ・ペイゲルス 訳/荒井献・湯本和子 白水社
『モンタイユー』上・下巻 エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ 訳/井上幸治・渡邊昌美・波木居純一 刀水書房
Rodolfo Gallo, "MARCO POLO,LA SUA FAMIGLIA E IL SUO LIBRO〈Nel VII Centenariodella nascita di Marco Polo〉収録 Istituto Veneto di S.S.L.L.ad A.A.,
G.Orlandini,"MARCO POLO E LA SUA FAMIGLIA",Archivio VenetoTridentino,v.XI,1926.
Giovanni Ganiato監修"La via del Fiume. Dalle Dolomiti a Venezia",Centrointernazionale di studi sulle zattere,1993.
Paolo Marangon, "IL PENSIERO ERETICALE NELLA MARCA TREVIGIANA E A VENEZIA――DAL1200 AL 1350",FRANCISCI EDITORE
Giuseppe , "Scritti etonografici",Museo deghi Usi e Costumi della GenteTrentina――San Michele all'Adige,1991.
角川文庫『旅涯ての地(下)』平成13年6月25日初版発行