坂東眞砂子
旅涯ての地(上)
[#地付き]この世は橋である
[#地付き]渡っていきなさい
[#地付き]しかしそこに
[#地付き]棲家《すみか》を建ててはならない
[#地付き]インド、ファテプル・シークリーに遺《のこ》る城門碑文
水面に漂う虹《にじ》の輝きのようなその都を目にした時、私は幻を見ているのだと思った。寝ぼけ眼《まなこ》を掌《てのひら》でこすり、汗と垢《あか》の臭いの滲《し》みついた毛布の下から首だけ出して、舳先《へさき》のほうをもう一度じっくりと眺めたが、都はやはりそこにある。帆船の揺れに従って、船首楼の陰に見え隠れしてはいるが、海の上に浮かんでいるのは確かだった。
夜はようやく明けはじめたばかりだ。淡い桜色から菫色《すみれいろ》へと流れるように変わっていく空と、藍色《あいいろ》の海の間には、うっすらと朝靄《あさもや》がかかり、都は、その白い靄に包まれて、静かに佇《たたず》んでいた。低いところにびっしりと連なる赤茶色の屋根の間に、高々と突きだした四角い塔や葱坊主《ねぎぼうず》に似た丸屋根。朝焼けの中、水平線に紫の影となって広がる都の周囲には、親鳥に群がる雛《ひな》のように、帆をたたんだ色とりどりの船が隙間《すきま》なく並んでいる。
島にしては、家々を支える陸地も、背後に連なる山影も見えない。家々は土からではなく、水面からそのまますっくと立ちあがり、都は、海から忽然《こつぜん》と生まれたかのように漂っている。
私は、子供の頃、母から教わった通り、左手を額の前に翳《かざ》し、擦りきれた袖《そで》の下から海を覗《のぞ》いた。だが、悪霊に誑《たぶら》かされた時の呪《まじな》いは利かず、海上の都は消えはしない。私は腕を降ろすと、舌を鳴らした。
初冬の冷たい潮風の吹きすさぶ甲板には、他にも数人の船客の姿があった。中央の帆柱の下に三、四人固まって太い声で話しているのは、茶色の髪にずんぐりした鼻を持った男たちだ。色褪《いろあ》せた布を肩からだらりとかけ、頭に平たい布の帽子をかぶり、朝早くにもかかわらず、興奮気味に議論している。船底へと続く階段の前では、頭巾《ずきん》つきの外套《がいとう》をまとった金色の髪の男が座りこんでいた。頬《ほお》には醜い刀傷があり、まだ若いのに世の中に絶望しきった表情でぼんやりと宙を眺めている。しかしその片手は、脇《わき》に置いた鉛色の剣にいつでも届くところにある。剣士から少し離れたところでは、空気の悪い船倉よりは、寒くても甲板で寝るほうを選んだ老人とその息子が、水溜《みずた》め樽《だる》に隠れるようにして眠りこけている。何かというと、呪文《じゆもん》のような言葉を呟《つぶや》きながら、胸の前で十字を切っている親子だ。しかし今は十字を切るのも忘れ、体を丸めている。
議論をしている男たちも、金髪の剣士も眠っている親子も、あの幻の都について話したくても、言葉の通じない、この西の涯《は》ての人間たちだった。
私は毛布を撥《は》ねのけて立ちあがった。皮の上衣や、だぶだぶとした下衣の下から、長い航海で痩《や》せ細った手足を突きだして伸びをして、水上の都をもっとよく観察しようと舳先のほうに足を踏みだした。だが、二、三歩行ったところで、先客がいるのに気がついた。船縁《ふなべり》から身を乗りだすようにして前方を見つめている長身の男だ。羊の毛の帽子をかぶり、やはり羊の毛皮の上衣を着て、黄色の帯を締めていた。この船であのような蒙古《もうこ》人の格好をしているのは、私の仕える旦那《だんな》たち以外にはいなかった。
船尾楼のほうを振り向くと、楼の上の甲板は物見台になっているが、監視役の水夫は居眠りしているのか姿は見えない。その下が、船長や、金に余裕のある者たちの船室だ。旦那一行はそこの客室を占領していた。皆すでに目覚めたのなら、ご用を伺いに飛んでいかなくてはならないと考えたのだが、起きだしたのは舳先にいる旦那だけらしく、船室入口に垂らした赤い布の覆いは閉められたままだ。
私はぼろぎれのような上衣の前を掻《か》きあわせると、甲板にうずたかく置かれた樽や麻袋の山の間を抜けて、旦那のほうに近づいていった。
私の仕える旦那たちは三人いた。そのうち二人は兄弟で、残る一人は兄のほうの息子だった。三人とも西の涯ての人間だが、長年、元《げん》帝国のクビライの宮廷で暮らしていただけあって、蒙古の言葉は話せたし、漢人のしきたりもわかっていた。一番年かさの旦那にいたっては、蒙古人の妾《めかけ》との間にできた二人の息子を、クビライの宮廷のある大都《カンバリク》から連れてきているほどだ。
微《かす》かに風をはらんだ帆の下を通って歩いていくと、船縁に立っているのは、一番年若の旦那だとわかった。もっとも、年若といっても、私より七つかハつ、多く歳を経ている。髪はすでに灰色がかり、男盛りも過ぎた年頃だ。
旦那は、瀝青《チヤン》でべとつく船の手すりから身を乗りだし、顔だけ前に捻《ひね》って、行く手に浮かぶ幻の都を見つめている。細面の顔の中央に聳《そび》える折れそうなほど高い鼻。落ちくぼんだ薄茶色の瞳《ひとみ》。縮れた頭髪や、頬から下を覆うもじゃもじゃの髯《ひげ》、肌は潮風や砂漠の空っ風を受けて銅色になっている。かつては金糸銀糸の刺繍《ししゆう》が施されていた帯はほころび、羊の毛皮の上衣は袖口や襟が擦りきれて黒光りしている。泉州《ザイトウン》の奴隷市場で私を買いとった時には、まばゆいばかりの服装に身を包んでいたのだが、長い船旅の間に、旦那の格好も私の格好も大差はなくなっていた。
旦那の背中に手が届くところまで来て、私は立ち止まった。首を伸ばして、そっと旦那の横顔を観察し、声をかけるのをためらった。そこに私の見たことのない表情が浮かんでいたからだった。
この年若の旦那は、新しい港や町に着くと、率先して見物に出かける物見高い男だった。土地の食物や産物、女の器量やしきたり、風習、何にでも興味を抱き、案内の者を質問攻めにした。だが、どんなに珍しいものを見ても、味わっても、心の底から驚嘆することはなく、口許《くちもと》には常に皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。それは、船が海賊に襲われたり、嵐《あらし》に見舞われたりした時も変わることはなかった。しかし、その旦那の顔に、今は弱さに似たものが現れていた。私は黒ずんだ皮の上衣の下に手を突っこんで、掌を開いてまた握りしめた。
ぎいいいっ。頭上で帆桁《ほげた》が揺らぎ、結んでいた縄がきしんだ。もの想《おも》いに沈んでいた旦那がふと後ろを見遣《みや》った。肩まで伸びた髪の毛をひとつに結び、四角ばった顔に一重瞼《ひとえまぶた》の細い目、大きな口をした、下僕の姿を認めて動揺したのか、旦那は少し怒った顔をした。
「おはようございます《サイハン・アムラスノー》」
私は蒙古の言葉でいって、深々と頭を下げた。旦那は、うむ、と喉《のど》の奥で返事をして、それから気を取りなおしたように海上に浮かぶ都を指さした。
「あれを見たか」
私は頷《うなず》いた。
「悪い霊が、わたしたちを誑かしています」
旦那の薄い唇が歪《ゆが》み、いつもの皮肉な表情が戻ってきた。
「悪霊の仕業ではない」
私は目を瞬かせた。旦那は私を自分のそばに寄せると、よく見ろ、というふうに、尖《とが》った顎《あご》で前方をしゃくった。
東からの風を受けて、船は滑るように海上の都に近づいている。空はますます明るくなり、霧も晴れてきて、視界は鮮明になってきていた。
波止場に停泊しているのは、私が見てきたどの港にも負けないほどの数の船だった。無数の櫓《ろ》を船腹の両側から突きだした戦船《いくさぶね》や、私たちが乗っているような太鼓腹をした丸い運送用の船、尖った舳先と船尾に唐草模様をほどこした細長い船、赤と朱色の三角形の帆を鶏の尾のように張りだしたペルシアの商船。その間を荷を載せて軽快に動きまわっている小舟。小さなものから巨大なものまで、さまざまな船が港にひしめいている。帆をたたんでいる船あり、これから出航するのか、色鮮やかな三角や四角の帆を張りつつある船もある。ぎゃあぎゃあと啼《な》きながら、帆柱の間を飛んでいる白い水鳥。大型船の間を、水澄ましのように行き交う平底船。海面すれすれに作られた波止場の上に、集まっている人々が見える。
人や小舟がさかんに動きまわる港を睥睨《へいげい》しているのは、白い石造りの四角い建物だ。上部が半円形になった柱廊が一階にも二階にも並ぶさまは、透かし模様のように美しい。その後ろには、鉛色の丸屋根の寺院が続いている。そこがこの都の中心らしく、寺院を取り囲んで、木造の小さな家々が広がっている。所々に鐘楼らしい塔の突きだした町並みは、周辺部に来ると次第に葦《あし》やひょろひょろした灌木《かんぼく》が生えた沼沢地に変わっていく。それでようやく、これは沼沢地に建てられた本物の都なのだと気がついた。
唖然《あぜん》としている私の隣で、落ちくぼんだ目を細めて旦那が何か呟《つぶや》いた。「長い……長い年月」という言葉が聞こえたようだったが、語尾はもつれて消えた。私は、目尻《めじり》に涙を滲《にじ》ませた旦那の表情を盗み見した。
背後で人の叫び声がした。船尾楼の物見役の水夫が手すりから身を乗りだして、前方を指さしている。「ヴェネーツィア、ヴェネーツィア」と繰り返す声が聞こえた。私はそれが、旅の間中、旦那たちの会話に幾度となく出てきた都の名前だということに気がついた。旦那たちの生まれ故郷だといい、この旅はそこに辿《たど》り着くためのものだった。
では、あれがヴェネツィアなのだろうか。私が考えているうちに、帆柱の下で議論していた男たちも、眠りこけていた親子も、金髪の剣士も船縁に集まりはじめた。船首楼の下の船室からも、船倉の寝床からも、起きだしたばかりの人の顔が現れた。船縁に駆けつけた者たちは、知り合いであろうとなかろうと、興奮してわめき散らし、肩を叩《たた》きあっている。両手を天に上げて跪《ひざまず》き、祈るようにして涙を流す者もいる。甲板はあっという間に人でいっぱいになった。
「マルコ、マルコッ」
私と話していた旦那の名を呼びながら、船尾楼の船室から、二人の老人ともいえる男が転げるように出てきた。やはり蒙古人の格好をした、西の涯ての旦那たちだ。
自分たちの言葉で何か嬉《うれ》しそうに叫びながら、三人のポーロ家の旦那は抱きあっている。頭頂が丸く禿《は》げた年かさのニッコロはずんぐりした小男、弟マフィオはマルコに似た長身だが、兄弟二人とも長く高い鼻を持っている点ではよく似ている。その後ろから、蒙古人の血を引くニッコロの二人の息子、ステーファノとジョヴァンニーノがおずおずと近づいてきた。背後には、クビライの宮廷からついてきた蒙古人が追従《ついしよう》笑いを浮かべて控えている。私と同じ奴隷の境遇とはいえ、旦那方のお気に入りで、特別に船室の床に眠ることを許されているのだ。
「みんな、どうしたの」
切れ長の目をした弟のジョヴァンニーノのほうが、抱きあっている父や叔父《おじ》、異母兄を顎《あご》でそっと示して私に聞いた。
「西の涯てに着いたみたいです」
私の返事に、ステーファノが歓声を上げて船縁に飛びついた。ジョヴァンニーノも兄の真似《まね》をして隣に立つと、前方の都に気がついて、びっくりしたように背筋を伸ばした。元の帝国から来た二人の少年は、期待と怖れの混じった様子で肩を寄せあった。
さざ波に覆われた海の表面が柿色に染まった。東の水平線に、太陽が姿を現したのだ。波止場に面した建物の石壁が白く輝き、塔の鐘が金色を放ちはじめた。遥《はる》かな東から来た旅入たちを乗せた船は、海にたゆたう都へとまっすぐに引き寄せられていった。
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第一章
[#地付き]真理の認識を持つ者は自由である。
[#地付き]そして自由なる者は罪を犯さない。
[#地付き]罪を犯す者は罪の奴隷だからである。
[#地付き]『フィリポによる福音書』
「シ・デウス・エスト・ウンデ・スント・マラ。エ・シ・デウス・ノン・エスト・ウンデ・ボナ」
呪文《じゆもん》のような言葉が頭上を覆う木の梢《こずえ》に消えていく。私は紫色の小さな花をつけた木の下にあぐらをかいて座っていた。前の木箱の上には、頭頂だけ見事に禿《は》げた男が座り、表紙も背もぼろぼろになった羊皮紙の本を読みあげている。身を乗りだしてそれを聞いているジョヴァンニーノの後ろで、私は時折、腕の内側の皮膚を抓《つね》って眠気を追い払っていた。
目の前に広がっているのは、土埃《つちぼこり》の舞う空地だ。中央に赤い石で縁取られた井戸があり、女が二人、話しながら水を汲《く》んでいる。空地の隣に丸い尻《しり》を突きだすようにして建っているのは、赤|煉瓦《れんが》でできた三角屋根の教会《キエーザ》。ヴェネツィア人たちが信じる髪の長い半裸の男《クリスト》を祀《まつ》る礼拝所で、天に届きそうに高い鐘楼を従えている。教会は水路に面していて、船着き場には三|艘《そう》の小舟がもやっている。そのうちの一艘は私が漕《こ》いできたポーロ家の船だ。大小無数の島が集まってできたこのヴェネツィアの都では、船がないと片足をもがれたようなものだ。盗まれては大事《おおごと》なので、ちらちらと目を遣《や》っては、船がそこにあるのを確かめていた。
「ほら、きみの番だ」
呪文を唱えていた男が、不意に私にもわかる言葉で命じた。私はびくっとして、腕の肉を抓るのをやめた。
「はい、先生」
答えたのは、ジョヴァンニーノだ。蒙古人の母親譲りの茅《かや》の葉に似た目で梢の間の青空を見あげると、さっき男が語った一節を復唱しはじめた。
「シ・デウス・エスト・ウンデ・スント……」
この呪文に似た言葉はラテン語といい、ヴェネツィアでは教養のある人々が使うものだという。父親のニッコロに連れられて、蒙古からやってきたジョヴァンニーノは、兄のステーファノと共に、ヴェネツィアの言葉を習うことになった。すでに父親からある程度の言葉を習っていた二人は、一年間で簡単な読み書きを覚えてしまい、二年目に入ると、ステーファノはヴェネツィア商人としての仕事を覚えるために海に出ていったが、ジョヴァンニーノはもっと勉強を続けたいと父親に頼みこみ、家業の手伝いの合間にラテン語を学ぶことになったのだった。
ラテン語教師バルトロメーオは、鼻の頭の赤い、落っこちそうなほど大きな目玉をした大男だった。羊皮紙に綴《つづ》った本を片手に、ジョヴァンニーノの暗唱を聞いている。ジョヴァンニーノがつっかえると不機嫌な声で助け船を出すのだが、そのたびにこの哀れな若者は緊張のあまり尻をもぞもぞと動かすことになる。
外は真夏の強い日射《ひざ》しに満ちている。地面は白っぽい色に変色し、空地を囲む木造の家々は黒い影となって地面にひれ伏している。屋根を葺《ふ》いた麦藁《むぎわら》は、今にも燃えあがりそうだ。木陰は涼しいはずだが、ジョヴァンニーノは首筋に汗を流しながら、うろ覚えの言葉を必死でひねりだす。最初こそ、つっかえながらも暗唱できていたが、やがてバルトロメーオの助けなしには進まなくなった。
「ウンデ・スント・マラ……エ・シ・デウス……デウス……ノン・エスト……」
ジョヴァンニーノの暗唱はついに座礁し、同じ箇所を何度も繰り返しはじめた。バルトロメーオは手にした鞭《むち》でぴしりと地面を打った。
「ノン・エスト・ウンデ・ボナ。エット・ホック・ポスイット・ドゥオ・プリンキピア」
噛《か》みつくようにいうと、文法教師は羊皮紙の本を乱暴に閉じた。
「今日はこれまでだ」
ジョヴァンニーノは、ほっと肩の力を抜いた。私は、ジョヴァンニーノが自分のほうを振り向く前に、地面から立ちあがった。
本来なら、奴隷は主人の前で座ることは禁じられている。しかし、授業中に立っていられると目障りだとバルトロメーオにいわれて、特別に座ることを許されているのだ。
バルトロメーオはラテン語の本と鞭を地面に置くと、木箱から腰を上げた。
「この件《くだり》を講釈するのは三回目だぞ」
ジョヴァンニーノは、小さな声で「はい」と答えた。日常の会話に不自由はしないくせに、この若者はヴェネツィアの人間が相手だと、いつも自信なさそうに話す。
バルトロメーオは、木箱に縮こまるように座っているジョヴァンニーノにかがみこんだ。
「しっかりしてくれよ。きみが覚えてくれないと、わしはニッコロ殿から金がもらえないんだ。わかるね。一年で初歩文法を覚えさせるという約束で雇われてるんだから」
ジョヴァンニーノが頷《うなず》く。文法教師はいらいらした声で続けた。
「ほんとうにわかっているのか、ジョヴァンニーノ。おまえの脳味噌《のうみそ》にラテン語の知識を詰めこんで、わしはやっと金が手に入る。その金がないと、家賃が払えない、酒も買えない、食物も手に人らない。世の中、すべて金、金、金ときてる。なぁ、夏桂《カケイ》」
突然、この文法教師は、私のほうに顔を向けた。
「|はい《シ》、|旦那さま《シニヨーレ》」
私は、ジョヴァンニーノの緑色の帽子を両手に捧《ささ》げもったまま、木偶《でく》の坊《ぼう》のように答えた。「シ・シニョーレ」はヴェネツィアに来て、真っ先に覚えた言葉だ。何があっても、こういっておけば間違いはない。主人の命令に、奴隷が「いいえ、旦那《だんな》さま」などということは、誰も期待してはいない。
「そうだろうな、夏桂。おまえなら、金とはどういうものか、骨の髄からわかってるだろう。なにしろ金で買われた身だものな」
バルトロメーオの大きな目に意地悪な光が浮かんだ。
「金の力で鼻面をつかまれて引きまわされるのは、悔しいだろう。なあ、夏桂、そうだろう」
この男が、私からとんでもない言葉を引きだそうとしているのがわかった。しかし、尻の穴が裂けたって、そんな糞《くそ》みたいな言葉をひりだしてやるつもりはない。私は馬鹿のひとつ覚えのように、「はい、旦那さま」と繰り返した。
「はい、旦那さま、じゃない」
文法教師はがなりたてた。
「神が人間を創《つく》りたもうた時、誰が優れているとか劣っているとかはなかったはずだ。同じはずの人間が人間を金で売り買いする。おかしいとは思わんのか」
私は、ますますきょとんとした顔で、バルトロメーオの顔を見返した。
一年間、ジョヴァンニーノとステーファノのお供をして読み書きの授業に立ち会ったおかげで、今ではかなりこの土地の言葉を理解するようになっている。だが、人は、奴隷の頭は空っぽだと信じている。そして、旦那方にはそう信じさせておくほうが利口だと、私は知っていた。
「先生、夏桂は、こちらの言葉は、まだよくわからないんです」
ジョヴァンニーノが救いの手を差しだしてくれた。バルトロメーオは鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、私のほうをじろりと睨《にら》んだ。まだ一抹の疑問が残っているようだったが、やっと私から目を離し、ジョヴァンニーノにいった。
「次の授業はあさってだ。天気だったらここ、雨なら家に来てくれ」
ジョヴァンニーノは頷いて、私の手から帽子を取ってかぶった。バルトロメーオは、ラテン語の本と鞭を小脇《こわき》に挟むと、授業中、椅子《いす》代わりにしていた二個の木箱を重ねて持った。そのまま背を向けて歩きだそうとした時、ジョヴァンニーノが私に命じた。
「家まで先生の荷物を運んでさしあげろ」
そして、自分は船の前で待っているから、とせっつくようにつけ加えた。
いつもは授業が終わったら、私を連れてさっさと帰途につくのだが、今日は虫の居所の悪い教師の機嫌を取っておくことにしたようだ。
「はい、ジョヴァンニーノさま」と返事して、バルトロメーオに手を差しだすと、文法教師は当然のような態度で木箱を渡し、ラテン語の本と鞭だけ持って歩きだした。私は木箱を両手にひとつずつぶら下げて、教会の裏手を回りこんでいく教師の後を追った。
聖ジャコモ・デロリオというこの教会の向こう側は、こんもりと盛りあがった墓場になっている。ぽつんぽつんと墓石が並ぶ荒地の背後には、粗末な二階建ての家々がひしめいている。バルトロメーオの借りている部屋は、その中にある。私たちは墓場の真ん中を通る小径《こみち》を突きぬけていくことになった。死体を埋めた目印として木や石を置いている墓はさほど多くはなく、たいていは穴に放りこんで土をかぶせただけだ。沼地を申し訳程度に埋めたてて作った墓場なので、そう深い穴は掘れないのだろう。夏の暑さで腐乱した死体の臭いがうっすらとあたりに漂っていた。
こういう場所には、昼間でも死者の霊がさまよっている。うっかりしていたら、乗り移られる。昔、私の家の近くに住んでいた娘がそんな霊にとり憑《つ》かれた。朝から路上で裸になって、生き返ったと踊り騒ぐので、困った家族の者が呪《まじな》い師を呼んだが、娘を煙で燻《いぶ》して霊を追いだそうとしているうちに髪の毛に火がつき焼け死んでしまった。炎に包まれた娘の体から、人の姿をした影が出ていったのを見て、震えあがったものだった。
死霊にとり憑かれないためには、素早く通りすぎるに限る。なのにバルトロメーオは擦りきれた絹の上衣を引きずるようにして、ふらりふらりと歩いていく。じれったい思いで後に続いているうちに、木箱の角がバルトロメーオの太い尻《しり》にぶつかってしまった。
「なんだ」
バルトロメーオが渋い顔で振り返った。
「すみません、旦那さま」
謝りながら、私は墓地のほうを木箱で示してみせた。墓地を通るのを厭《いや》がっていることを察してくれたらしいが、文法教師はおかしそうに笑っただけだった。
「死んだ者は噛《か》みつきゃせん」
噛みつく、とよほどいってやろうかと思った。ラテン語などという難しい言葉を知っているくせに、この男は肝心なことは何も知りはしないのだ。死んだ者は、生きている者の心に忍びこみ、そっと心を齧《かじ》りとっていく。心を喰《く》われた者は、死んだ者のことしか考えられなくなってしまう。人が、いつまでも死んだ者のことを忘れられないのは、だからなのだ。しかし、このことを説明してやる気もなかったから、私はしかたなくバルトロメーオの尻から少し離れた。
足許《あしもと》の土は湿っていて、所々、白い骨のかけらが混じっている。文法教師は、木で作られた革靴の底で、その骨も平気で踏んでいく。
「噛みつくのは生きている者だけだ。罪を犯して死んだら、地獄にいって苦しむだのというのは、教会の肥え太った奴《やつ》らが考えだした戯言《ざれごと》にすぎん。天国に逝かせてやるとほざいて、金を巻きあげる方便だ」
墓地の小径を行進しながら、バルトロメーオは酔っぱらいの独り言のようにがなりたてた。
「教会の連中は頭がいい。罪を帳消しにしてやるといって、寄進をせびる。貧しい者からも十分の一税を搾りとるだけじゃない、婚姻の秘蹟《ひせき》やら、終油の秘蹟やら、告解の秘蹟やら考えついて、わしらの暮らしをがんじがらめに縛りおった。おかげで今じゃ罪を犯したら告白せにゃならんわ、めったやたらに女に手は出せんわ、夫婦になっても、床入りできる日まで決まってるときてる。鐘楼の影は太る一方≠ウ。教会の奴らのいうことを素直に聞いていたから、こんな窮屈な世の中になってしまったんだ」
背後に建つ教会を時折盗み見ながら熱弁をふるっていたバルトロメーオだが、墓地の小径の出口が近づくに従って、声を細めた。
「だいたいわしがヴェネツィアに来たのも、教会の奴らがあまりいばってないからだよ。ここの人間は、神より金を拝んでおる。わけもわからん神を崇《あが》めるより、ずっとわかりやすい」
こう呟《つぶや》いたのを最後に文法教師は口を噤《つぐ》み、家と家に挟まれて、人がやっと通れるほどの路地に入っていった。私は、演説の終わったことにほっとしながら、木箱を自分の体の前と後ろに振り分けて後に続いた。
細長い空はからりと晴れているのに、路地の底は湿っぽかった。家々の前には窓から落とされた野菜の屑《くず》が散らばり、すえた臭いを放っている。路地に面した家の入口は四角い穴のように暗く、二階の窓辺からは洗濯物が下がっていた。沼地を埋めたててできたこの都では、どの家も一階は湿気がこもり、人は住めない。たいてい商店や物置などになっていて、住まいは二階から上だ。
バルトロメーオは、路地の突きあたりを右に曲がったところにある家に入った。明かり取りの窓から入る光で、木の急な階段がやっと見える。
バルトロメーオが先に立って、階段を昇りだした。その太い足を置くごとに、階段が悲鳴をあげる。私も後ろから木箱を持って上がっていった。
二階には階段室を隔てて、左にふたつ、右にひとつの戸口があるが、左手の片方がバルトロメーオの部屋だ。
「箱は、ここに置いてくれ」といいながら、バルトロメーオは部屋の木の扉を開いた。中は真っ暗だ。文法教師が窓の木戸を開いて、やっと部屋に光が入った。
あまり広くはない一部屋の住まいで、路地に面した窓際に書き物机と椅子《いす》、反対側の壁際に寝台がひとつ。壁には暖炉が作りつけられていて、その前に水瓶《みずがめ》と長持、食事を摂るための小さな机が置かれている。机の上は皿や鉢など食器類の置き場となっていた。私は埃《ほこり》でざらつく床の上に木箱を置いた。
「さようなら、旦那さま」
挨拶《あいさつ》して出ていこうとしたら、バルトロメーオに呼び止められた。振り向くと、寝台に腰かけ、腕組みしてこちらを見ている。
「さっき墓場でわしのいったこと、おまえ、わからなかったよなぁ」
骨を踏みつけながら喋《しやべ》りたてていた愚痴のことだ。私はにっこりとした。
「はい、旦那さま」
バルトロメーオは安心したらしく、寝台にごろりと横になった。
「わからんほうがいい。なにも知らんほうがいい。知識というものは空飛ぶ馬だ。学問すればするほど、人をこの世から遠ざけていく。気がつくと、おまえは落ちぶれた放浪教師となっているというわけだ」
バルトロメーオは息を吐くと、もう行っていいというように、分厚い手を振った。私は頭を下げて、文法教師の部屋から立ち去った。
墓場の小径を駆けぬけて、教会前の船着き場に戻ると、ジョヴァンニーノはすでに船に乗って、先に習ったラテン語の一節を暗唱していた。私は船の綱を解いて、船尾に乗りこみ、櫂《かい》で岸を押した。静かな水面にさざ波をたてて、船は滑りだした。
水路の南方には、葦《あし》や低い木の生えた沼地が広がっている。所々、沼を埋めたてて作った葡萄《ぶどう》畑や菜園、果樹園があり、薄茶色の頭巾《ずきん》をかぶったり、頭にぼろ布を巻きつけたりした男が数大、草刈りをしている。運河沿いのあちこちで、水車小屋の羽根車がゆっくりと回っているのを目の隅に留《とど》めながら船を北上させていくと、まもなく両岸はびっしりと木造の家に囲まれるようになった。水路に面した二階の前面は、細い柱の並んだ外廊下になっている。手すりには洗濯物が置かれ、深い庇《ひさし》の下の日陰では老女が縫い物をしたり、子供たちが遊んだりしている。家々から流される糞《くそ》や小便の臭いが微《かす》かに立ち昇り、水の淀《よど》んだところでは、蚊がうるさくわめきたてている。それでも、涼風が渡る水際は、陸地にいるよりもよほど過ごしやすい。
「ねえ、夏桂《シヤアジヤ》。どうして、ぼくはこんなに覚えが悪いんだろう」
ジョヴァンニーノが、蒙古《もうこ》の言葉で話しかけてきた。二人きりになると、この若者だけは私を漢人風に呼ぶ。他の者はいつでも夏桂《カケイ》だ。私が最初、母に呼ばれていた言い方を名乗ると、旦那たちはそれが元《げん》の帝国のある中華地方一帯を指す自分たちの言葉「カタイ」と似ているから覚えやすいと喜んだものだった。しかし、ジョヴァンニーノは漢人風の読み方で私を呼ぶことで、私との繋《つな》がりを特別なものと見なしたがっているところがあった。
「ここに生まれた人間にとっても難しいんでしょう。あたりまえの話ですよ」
櫓《ろ》を漕《こ》ぎながら、私は答える。ジョヴァンニーノは気が楽になったらしく、狭い船の中で足を伸ばした。父親譲りの細長い顎《あご》以外は、蒙古人といっても通るほど、この若者は母親の血を濃く引いている。顔は扁平《へんぺい》で、髪の毛は黒くてまっすぐだ。顔だけでなく心もまた、蒙古人に近い。しかし、ヴェネツィアに着いて早々、ジョヴァンニーノと兄は、留守居していたポーロ家の家族たちから、蒙古の言葉で話すことを禁じられた。二人がそれを使うと、蒙古《タルタル》人の奴隷みたいだというのだ。タルタル人の奴隷とは、つまり私のことだ。ヴェネツィア人たちは、黒海の向こうから来た人間は皆タルタル人だと思っている。私がどんなに、自分は蒙古人ではなく、中華南部の宋人《そうじん》の血と、それより東に行ったところにある島の血が半分ずつ入っているといってもわかってはくれない。タルタル人奴隷とは、私と一緒にヴェネツィアに来た蒙古人、ピエトロにこそあてはまる言葉だ。ピエトロは、ポーロ家の旦那《だんな》方に気に入られるために、あの半裸の男クリストを崇める宗教に喜んで入信した輩《やから》だ。ジョヴァンニーノはあまり好いてないらしく、お供が必要になると私を選ぶ。ラテン語を学ぶにあたって、バルトロメーオに来てもらうのではなく、教師の家に通うことを望んだのも、家の外で私と蒙古の言葉で話せるからのようだった。
「ぼくはラテン語を勉強して、大学に行きたい。ヴェネツィアから陸に入ったところに、パドヴァとかいう、大きな大学のある町があるんだって。そこで勉強したいんだ」
「学問は大切ですからね」
野菜を積んだ平底船とすれ違うために、私は船の舳先《へさき》を岸のほうに向けた。ぎいいっ、と櫂がきしんだ。平底船を操っていた男は、タルタル人が二人きりで船に乗っていることに驚いた様子で通りすぎていった。
「ぼくもそう思うけど、お父さんも叔父《おじ》さんも、マルコも別の考えなんだ。ラテン語を学び終わったら、商人になって家の手伝いをするものだと決めているみたいだよ。この前、ラテン語ができるようになれば、北のロンドラやフィアンドラの商人たちとも話が通じるからいいと話してたもの」
ジョヴァンニーノは平たい鼻から大きく息を吸いこんだ。
「だけどぼく、兄さんじゃないんだから、商人になんか向かないよ」
私も同感だった。性格も容貌《ようぼう》も父親似の兄ステーファノは、一目でヴェネツィアを気に入った。土地の人々の中に屈託なく飛びこんでいき、友人を作り、一緒になって騒ぎ、娘の尻《しり》を追いかけ、すっかりヴェネツィア人気取りだ。今では、異母兄の若マフィオと一緒に船に乗り、〈|大地の間《メデイテラネオ》〉という海を股《また》にかけて商売に精を出している。一方、ジョヴァンニーノは内気な若者で、兄のように積極的に外に出ていくよりは、学問でもしているほうが似合っている。だが、ポーロ家には、この若者の性分まで思いやる者はいない。父親のニッコロは、長い不在の末にまたひとつになった大所帯の一家をまとめるのに頭がいっぱいだし、叔父のマフィオや、異母兄のマルコは、もともとこの蒙古の血の混じった兄弟には冷淡な態度しか示さない。蒙古人の間で長く暮した旦那方からしてそうなのだから、ポーロ家で留守を守っていた家族たちはさらに冷たい。ステーファノが海に出るようになって以来、ジョヴァンニーノは以前に増して、私に心の内を洩《も》らすようになっていた。
「人の行く末というのは、海に投げこまれた木の葉みたいなものです。風や波の具合によって、どこに流れていくかわからない。誰かがジョヴァンニーノさまに商人になれといったとしても、最後は海の波の気分次第。どうなるかはわかりませんよ」
ジョヴァンニーノは、おたまじゃくしのような形の目で青く澄んだ空を眺めた。
狭い水路が切れて、目の前が開けた。ヴェネツィアの都の中心を蛇のように横たわる大運河《カナル・グランデ》に出たのだ。そこはまさに大河だった。運河沿いには、木造二階建ての家に混じって、白い石で縁取られた煉瓦《れんが》造りの立派な館《やかた》が建っている。瑪瑙色《めのういろ》に沈んだ水面には、樽《たる》や麻袋をいっぱいに積んだ平底船が行き来している。木炭や油、鉛や胡椒《こしよう》、絹、葡萄酒など遠い東や北や南の国々から運ばれてきた品物が、帆船から降ろされ、平底船に積み換えられ、運河沿いに並ぶ商家の倉庫に運びこまれていく。
大運河に沿って港のほうに漕いでいくと、右手に広場が見えてきた。魚や肉や野菜の市場の立つ場所だ。最も混雑する時間は過ぎているというのに、人々が渦のように蠢《うごめ》いていた。背中に重い袋を担いで歩く半裸の男たち。野菜や肉の入った籠《かご》を運んでいく買物に来た女たち。その間を駆けぬける子供や犬。人々の頭上に、にょっきり突きだしているのは、荷物を運ぶ馬の頭だ。
市場を過ぎて、運河の曲がり角にさしかかったところで、前方にリアルト橋が現れた。潮の満ち引きによって流されないよう、水底まで届く太い杭《くい》を何本も差しこんで架けられたものだ。小山ほどの大きさの太鼓橋の両端には出店が並び、人々が押し合いへし合い渡っていく。
行き交う船の間を縫って、大運河の反対側に船を寄せようとした時、かんかんかん、かんかんかん、と鐘の音が鳴り響いた。リアルト橋を渡っていた人々が、服の裾《すそ》を翻して岸のほうに走りだした。橋の真ん中がふたつに割れて、橋板がゆっくりと跳ねあがっていく。その間に、巨大な帆船が割りこんできた。
水面にそそり立つ舳先には、乳房を露《あら》わにした髪の長い人魚の彫刻がついている。薄緑色をした船腹にはびっしりと絡みあう葡萄|蔓《づる》の浮き彫り。前の四角形の帆には十字の印、後ろの三角帆には三日月。船腹にヘばりついた緑の藻や、あちこち破れた帆が、長い航海を物語っている。海賊の襲撃や嵐《あらし》の中、ようやく目的地に辿《たど》りついた船は、静かな水面をざっくりと切りわけながら進んでくる。
私は小舟を運河の片隅に止めて、帆船を見あげた。
堂々と通りゆく帆船の背後に見えるのは、上部が半円形の窓を連ねる家々だ。緑や赤の色大理石が壁の緑や柱、窓枠を彩っている。海のように広がる赤茶色の瓦《かわら》屋根。その間から島のように突きだした教会の鐘楼。船は、ヴェネツィアの街という大海を航行していく。
私は、幻を見ている気持ちになった。
泉州《ザイトウン》を船出して以来、幾千もの太陽が昇り、沈む間、海を渡り砂漠を越え、船に乗り、足を棒にして歩き、昼間の灼熱《しやくねつ》した日射《ひざ》しに炙《あぶ》られ、夜の闇《やみ》から不意に現れる悪霊の影に怯《おび》えながら、町から町を旅してきた。その間に出くわした不思議は数しれない。嵐の海で消えることなく灯《とも》り続ける青白い炎、乾ききった砂漠にかぶさる青空の一点から、水《みず》飛沫《しぶき》をあげて雪崩《なだ》れ落ちていた巨大な滝や、森の葉陰に覗《のぞ》いていた獣に似た女の顔、祈りの声の流れる迷宮の暗がりでうずくまっていた山羊《やぎ》の下半身を持った小男。しかしそれらは、旅の一行の誰かが気がついて騒ぎだしたとたん、煙のように消え失《う》せてしまうのが常だった。だから、この都を見た時も、てっきり幻と信じたのだ。
あれから二度も夏を迎え、こざっぱりした亜麻のお仕着せをあてがわれ、ヴェネツィアの裕福な商家の下僕らしくなりはしたが、その想《おも》いは消えはしない。やはり悪霊に誑《たぶら》かされているのではないかという疑いが、時々芽生える。このまやかしの都がいつか煙の如く消え失せ、私はまたあの太鼓腹の船の上にいるのではないかと思うのだ。垢《あか》じみた羊の皮の上衣をまとい、麻布にくるまり、初冬の朝の寒さに震えていることだろう。いや、それとも目覚めると、泉州の奴隷市場の檻《おり》の中だろうか。顔を上げると、そこには蒙古《もうこ》人の衣装に身を包んだポーロ家の旦那たちが立っていて、冷たい青い瞳《ひとみ》で私を見つめているのではないか。だが、もしかして、生まれ故郷の東の涯《は》ての島で、母の膝枕《ひざまくら》で眠っていた子供の私に立ち戻るかもしれない。歯を黒く染めた母が白檀《びやくだん》の団扇《うちわ》で扇《あお》いでくれている。私たちの前には、椿や藤の木の植えられた庭園が広がっている。木立に埋もれた朱塗りの東屋《あずまや》からは、仲間の商人たちと酒を酌《く》み交わしている父の笑い声が響き、背後に連なる松林の向こうでは青い海が輝いているのだ。
「東に帰りたい」
ジョヴァンニーノの声に、私はもの想いから立ち返った。
「大都《カンバリク》に帰りたいよ。あそこには母さんがいる。妹たちもいる」
ジョヴァンニーノは怒ったように続けて、リアルト橋のほうに顔を向けた。橋板はゆっくりと閉まりつつあった。海へと通じる大運河は、橋でふさがれようとしていた。
「ぼくはいつか絶対に大都に帰るよ」
ジョヴァンニーノの思い詰めたような言葉には答えず、私は小舟の舳先を左に回した。帆船を通すために端に避《よ》けていた他の平底船が再び動きだす前に、大運河を横切っていく。のんびりと水面に浮かんでいた水鳥が、櫂《かい》のきしむ音に気がついて逃げていく。
私には帰る場所はない。
足を踏ん張り、櫂を操りながら私は思った。
東に戻っても、もはや父も母も弟や妹たちも待ってはいない。東の涯てであろうと、西の涯てであろうと、私にとってはどこにいても同じだ。
リアルト橋のたもとに、細い水路が口を開いている。そそり立つ建物に挟まれた水面は泥色にぬめっている。私たちを乗せた小舟は、黒い筋のような水路に滑りこんでいった。
ポーロ家の館は、リアルト橋の裏手にある。煉瓦造りの家々に挟まれた水路を東に進んでいくと、別の運河と交わる右手の角に白い石を築いた土台の上に建てられた館が現れる。北と東が運河に面した三階建ての屋敷で、住まいと商いの場所が一緒になっている商館《フオンダコ》だった。運河に開けた二面とも、一階には半円形をした太い柱廊、二階から上には三つ葉形の飾り窓が連なっている。東側の正面入口は、いかにも裕福な商人の家らしく、四羽の小鳥をあしらったポーロ家の紋章が飾られていて立派だが、私たちの利用する裏口はただの半円形の穴がぽっかりと開いているだけだ。それでも一応、水辺に降りる階段がつけられていて、船着き場となっている。私は小舟を岸に寄せると、船着き場の杭《くい》にもやい綱を括《くく》りつけはじめた。ジョヴァンニーノは岸辺で、私が用をすませるのを待っている。兄も不在の今、家に入るまでの時間をできるだけ引き延ばしているのだ。私が船を繋《つな》ぎ終わってようやくジョヴァンニーノも家に向かって歩きだした。
薄暗い通路の敷石に鈍い足音を響かせて十歩ほど進むと、柱廊に囲まれた広い中庭に出た。中央に、山羊や鷹《たか》の浮き彫りがびっしりとほどこされた鉢形の石の井戸が置かれている。中庭を囲む建物の一階は、ポーロ家の身内で運営する商会の執務室や、商談用の小部屋、倉庫などになっている。商品の発送や荷揚げのない今日のような日は暇なので、運河に面した正面玄関にも、裏の路地へと抜ける陸地の出入口にも人気《ひとけ》はなく、執務室の暗い窓の向こうで、鳥の羽を筆代わりにして帳簿をつけたり、話したりする雇い人たちの気配だけが伝わってきていた。
ポーロ家の人々の住まいは二階から上の部分だ。表と同じ三つ葉形の窓が整然と並ぶ二、三階の壁には、赤子の手のような葉を茂らせる緑の蔦《つた》が絡んでいる。南側の一部だけがぽっかりと四階建ての塔になっていて、頭ひとつ、聳《そび》えさせていた。
中庭の西には二階へ続く外階段、東には直接三階に通じる外階段が架けられているが、私たち下僕は一階の中に設けられている奉公人用の裏階段を使うよう命じられていた。
「|明日な《マルガーシ》」
蒙古の言葉を慈しむように囁《ささや》いて、ジョヴァンニーノは、二階の露台《バルコーネ》へと続く白い石造りの外階段を昇っていった。
檸檬《レモン》やオリーブの植木鉢の並ぶ露台を挟んで、右手西棟の正面玄関に入る扉と、東棟のジョヴァンニーノの居室に直接通じる小さな扉がある。私は、若者が左手の自室に消えるのを待って、中庭に面した木戸を開いて館の中に入った。運河に面した明かり取りの小窓から射してくる弱い光を頼りに、荷車や水桶《みずおけ》や洗濯板などの置かれた小部屋の奥にある粗末な木の階段を昇っていくと、二階の貯蔵庫に出た。豚の脚の格好をしたままの干し肉の塊や、塩漬け肉の樽《たる》、葡萄酒《ぶどうしゆ》樽や油樽などの並ぶひんやりした部屋を抜けたところは台所だ。
煉瓦が剥《む》きだしの壁に鉄の玉杓子《たまじやくし》がずらりと掛けられ、床には水瓶《みずがめ》や葡萄酒の樽などが置かれている。木板の張られた天井からは、大蒜《にんにく》や玉葱《たまねぎ》、乾かした香草類がぶら下がっている。台所の戸口に立った私は、中から押し寄せてくる熱気にたじろいだ。中庭と運河の二方に面して窓があるため、この部屋は明るさには事欠かないが、夏の午後は焼けた鉄板に載せられたも同然となる。それだけでもいい加減暑いのに、運河側の壁を刳《く》り抜いて作った炉で、薪《まき》がちろちろと燃えていたのだ。炉には煤《すす》で黒くなった大鍋《おおなべ》がかかり、肉と香辛料の匂《にお》いをまき散らしていた。
炉の前に置かれた作業台では、料理女のモネッタが汗だくになって玉葱を切っていた。モネッタは私の気配に気がつくと、頬《ほお》の盛りあがったがっしりした顔を上げた。白い被り物《ヴエロ》からはみだした白髪混じりの髪は額にぴたりとはりつき、玉葱のために、目には涙が浮かんでいる。
「おや、夏桂。帰ったのかい」
私は頷《うなず》いて水瓶のところに行き、半分ほどになった瓶の水を柄杓《ひしやく》で掬《すく》って飲んだ。
「すぐにとはいわないけど、ちょっと休んだら、そこに水を汲《く》みたしといておくれよ」
刻んだ玉葱を大鍋に入れながら、モネッタが頼んだ。|はい《シ》、と答えて、野菜や麺麭《パン》の塊の置かれた細長い作業台の前に座る。調理台として使われてない時は、ポーロ家住み込みの見習い少年や召使いたちの食卓となるので、台の周囲には木の長椅子《ながいす》や、足台兼用の粗末な腰掛けが置かれている。私は調理台に散らばっていた空豆を口に放りこんでぽりぽりと噛《か》んだ。昼間の砂漠のような調理場で食べる豆は、木屑《きくず》の味がした。
「地獄がどんなもんか知りたけりゃ、夏の料理番と冬の馬車引きになることだ、っていうけど、ほんとだね。夏に煮こみを作るのは、あたしだって勘弁してもらいたいよ」
私が暑さにうんざりしているのを察して、モネッタは皮肉な口調でいった。
「だけど、マルタさまが今夜は牛髄の肉汁にするといわれたんだよ。旦那《だんな》さま方の精がつくようにとさ。若い者並みに夜のお相手を頼むには、マフィオさまにはちょっと酷だと思うけどね」
マルタは、マフィオの妻だ。黒髪も白くなるほどの長い間、東にいったきりだった夫の留守を守っていた。
「マルタさまもおかわいそうなものさ。女盛りの時には旦那さんはいなさらず、夜のお伽《とぎ》もないままに、家のことに気を揉《も》んでばかりだったんだからね。もうお婆さんになった頃に、旦那さんに帰ってこられても、あっちのほうはとんと役に立たないし」
一人きりで退屈していたのだろう、料理女はぐつぐつと煮える大鍋の中を木の杓子で掻《か》き回しながら話し続ける。
「あたしなんか若い頃、死んだ亭主とさんざ乳くりあったからもういいけど、マルタさまはまだ気持ちの底にもやもやしたものが残ってるんだろさ。ほら、旦那さまたちがお帰りになられてから、マルタさまときたら昼も夜も薔薇水《ばらすい》の香りをぷんぷんさせるようになっただろう。今日だってピエトロを連れて、仕立屋にお出かけになったところだよ。それだけじゃない。つい昨日のことだけどね、あたしのところに来て、こう聞くんだ。ねぇ、モネッタ。おまえ、もしかしてマンドラゴラを手に入れられないかしら」
モネッタは、マルタの声音《こわね》を使うと、前掛けの裾《すそ》で額に浮かんだ汗を拭《ふ》いた。この女も、私にはヴェネツィアの言葉がほとんど理解できないと信じていて、お気に入りのピエトロにもいわない内輪話を時々|洩《も》らす。元《げん》の皇帝、クビライの宮廷に仕えていた時から、ポーロ家の旦那たちにヴェネツィアの言葉を習っていたピエトロは、如才なく女たちに取り入り、来客の接待や、奥方たちのお供といった華やかな仕事を割り振られている。しかし、その言葉の才ゆえに、他人に聞かれたくない話題になると用心されるのだ。
「タルタル人のあんたは知らないだろうけど、マンドラゴラって、人が近づくと縮むし、引き抜くと、叫びだして血を流す草でね。すごく厭《いや》な臭いがあるけど、一口食べただけで、男も女もすごくあれをしたくなるのよ」
モネッタは皺《しわ》の刻まれた口許《くちもと》に、ちらりと淫《みだ》らな笑みを滲《にじ》ませた。
「だからマルタさまも欲しがったのだけど、あたしはとんでもない、聞いたこともないと断ったよ。マンドラゴラなんか、呪《まじな》い女のところにでも行かないと手には入りゃしない。マルタさまがご自分で行くならいいけど、あたしが行って、神父さまにでも見つかったらおしまいだからね」
その薬草を買いにいく姿が教会の僧侶《そうりよ》に見つかったら、なぜまずいのかよくわからなかった。墓地で教会の悪口をいっていたバルトロメーオといい、クリストを崇《あが》めることは、けっこう面倒くさいことがまとわりついてくるようだった。
私は調理台に転がっていた韮葱《にらねぎ》の切れ端を口に放りこんだ。葱のつんとした味が口の中に広がり、部屋の熱気が少し遠退《とおの》いた気がしたが、それも瞬時のことだった。
「だけど、あんただけにいってあげるけど、あのマンドラゴラはほんとうに効くんだよ。あたしが田舎にいた時には……おや、どこに行くのさ、夏桂」
台所から出ていこうとした私に、モネッタが驚いて声をかけた。私が水瓶を指さすと、料理女はがっかりした顔をした。まだ話していたかったのだろうが、たまには自分の言葉を自ら呑《の》みこむことも必要だ。私はそのまま部屋を出て一階に降りると、物置にあった桶を手にして中庭に出ていった。
井戸に載せていた蓋《ふた》を取って、中の釣瓶《つるべ》を引きあげる。この水の上に浮かんだ都では、井戸は地下水ではない。大きな瓶を地下に埋めていて、そこに雨水を貯《た》めているだけだ。だから夏の日照りが続くとすぐに干上がってしまう。
少し濁った釣瓶の水を桶に入れていると、からんからんという音がして、小石が石畳の上を転がってきた。小石のやってきた方向を見ると、中庭の隅の壁からぼさぼさ髪の少年の顔が突きでていた。その背後には、裏の路地に抜ける門がある。昼間は門の戸が開いているので、そこから忍びこんできたのだろう。物乞《ものご》いだろうかと思っていると、「ここ、ポーロ旦那の家かい」と少年が聞いた。私は頷《うなず》いた。少年の褐色の目がほっとしたように細まった。
「ポーロの旦那に、船が着いた、と伝えてくれ」
少年の顔がさっと消えた。呼びとめる間もなく、素足の鳴るぱたぱたという音が路地の奥に遠ざかっていった。
ポーロの旦那といっても、どの旦那だろう。私は眉《まゆ》をひそめて、中庭を囲む石の建物を見あげた。ポーロ家には、旦那と呼ばれる男が何人もいる。二階にはニッコロとマフィオの旦那、三階には、ニッコロの次男の若マフィオと、ニッコロとマフィオの兄にあたる故老マルコの長男若ニッコロの旦那が住んでいる。そして、南の塔の上の部屋に陣取っているのは、マルコの旦那だ。少し考えた末、この春に死んだ老マルコの跡を継いで家長になったニッコロの旦那のところにこの伝言を持っていくことにした。
私は釣瓶を再び井戸に放りこみ、執務室の窓辺に行って中を覗《のぞ》きこんだ。そこは運河に面した湿った部屋で、壁際の棚に帳簿がずらりと並んでいた。棚の前には大きな机があり、帳簿係がうつむいて書きものをしている。そばでは出納係が大きな四角い勘定盤にかがみこんでいくつもの玉を使って計算をしていた。隣では住み込みの見習い少年が二人、玉を握りしめてその手許を一心に見つめている。部屋の別の隅の長椅子には若ニッコロの旦那が座り、通いの雇い人に何か指示をしていたが、ポーロ家の他の旦那たちはいなかった。
私は窓辺から離れると、裏階段から二階に上がった。貯蔵庫から台所に入ると、モネッタはまだ肉汁を掻きまぜている。水汲みを放りだした理由を聞かれるのも面倒だったので、私は素早く台所をかすめて隣の部屋に入った。
隣室は、夏の居間になっている。運河側と中庭側の両方に窓があって風通しがいいためだ。そこは、子供を含めると総勢十二人になるポーロ家の家族が一堂に会して食事できるように広々と作られていた。細長い食卓の横に、唐草模様や獣が彫りこまれた細長い椅子が置かれている。その隣の読書や縫い物をするための小部屋、内輪の客を接待する小部屋と抜けていくと、細長い大広間に出る。
中庭を挟んで、台所とは反対側にあたる西側のこの一角には、大広間に面してニッコロとマフィオ夫婦の部屋があった。
私はぴかぴかに磨かれた大広間の石の床に足を踏みいれた。中庭側には、上部が半円形をした飾り窓が並んでいる。丸い円形の硝子《ガラス》をいくつも嵌《は》めこんで作られている窓を通ってきた午後の日射《ひざ》しが、水泡のように床の上で躍っていた。この広間は、客間や宴《うたげ》の間、また時にはポーロ家の誰かが船で運んできた海の彼方《かなた》の珍しい商品を披露する場にもなる。床のあちこちには唐草模様で縁取られたペルシアの絨毯《じゆうたん》が敷かれ、漆喰塗《しつくいぬ》りの壁には、一角獣と若い女の絵が刺繍《ししゆう》された布が下がり、色鮮やかに彩色された壺《つぼ》型の陶器、白地に藍色《あいいろ》の鳥の模様の描かれた磁器、女の裸体を刻んだ大理石の彫像などが置かれている。玄関に続く通路前に飾られている乾燥した麝香鹿《じやこうじか》の頭と脚は、マルコがはるばる涼州《エルグイウル》から持ち帰ったものだった。
ニッコロとマフィオ夫婦の部屋は、運河に面した側を占めている。ニッコロの旦那は部屋にいるだろうかと思いながら広間を進んでいくと、がたりと音がして、マフィオ夫婦の部屋から小間使いのルチーアが出てきた。痩《や》せてはいるが、胸も尻《しり》も青|林檎《りんご》のように突きだした若い女だ。掃除をしていたらしく、手に羽根箒《はねぼうき》を持っている。
「なんの用」
ルチーアは小鳥に似た丸い瞳《ひとみ》で咎《とが》めるように私を見た。積み荷を運んだり、水を汲んだりという、力仕事がほとんどのタルタル人奴隷が、自分の仕事場である大広間などに来ていることが許せないというふうだった。
「旦那《だんな》さまに言付《ことづ》けをいいつかった」
私は渋々とヴェネツィアの言葉でいった。ルチーアはいかにも私の言葉が聞き取りにくそうに顔を歪《ゆが》めてから、ニッコロの部屋の戸を指さした。
「旦那さま方は、あそこに集まっておいでになるわよ」
そして羽根箒を持ったまま、マフィオ夫婦の部屋の向かい、暖炉のある冬の居間へと消えた。
ニッコロはこの頃、自分の部屋に閉じこもることが多い。マフィオは騒がしい妻のマルタを避けて兄の部屋を訪れては、クビライの宮廷の思い出話に耽《ふけ》っている。ルチーアが旦那さま方といったのは、マフィオが部屋に来ているということだろうと考えながら、私はニッコロの部屋に歩いていった。入口の扉はしっかりと閉まっていた。中からぼそぼそと話し声が聞こえてくる。何か真剣に言い合っているようだ。ニッコロとマフィオだけでなく、マルコのきびきびした声も混じっていた。部屋に入る前には合図しろと命じられていたので、私は拳《こぶし》を作って叩《たた》いた。
「誰だ」
ニッコロの声がした。夏桂です、と名乗ると、蒙古《もうこ》の言葉で、「入れ」といわれた。ジョヴァンニーノとステーファノは蒙古の言葉を使うことを禁じられていたが、ポーロ家の三人の旦那は私やピエトロに対して、蒙古の言葉を使っていた。それがまた、まわりに聞かれたくない用件を命じたりするのに好都合でもあった。
広々としたニッコロの部屋は、運河に面した窓から入る光で明るかった。部屋の中央には水色の布の掛かった立派な天蓋《てんがい》つきの寝台、壁には丸い鏡や、元の国から持ち帰った瑪瑙《めのう》で作った龍の絵、蒙古風の少し反り返った剣などが掛かっている。窓辺には腰掛けの下が物入れになった木の長椅子《ながいす》が置かれていた。年寄りのニッコロとマフィオは長椅子に座り、マルコはその前に立っていた。
「どうした、夏桂」
ぽこんと突きだした腹に両手を置いたニッコロが、蒙古の言葉でにこにこして聞いた。マルコがどんな苦境にあっても冷静さを失わない男なら、父親のニッコロは陽気さを失わない男だ。私にとって、三人の旦那方のうち最も取っつき易い相手だった。
私は頭を深々と下げてお辞儀をした。
「さっき使い走りらしい子供が来て、ポーロ家の旦那さまに伝言を残していきました」
ヴェネツィア語で子供がいった通り、船が着いた、と伝えたとたん、三人の旦那の顔が緊張した。
「着いたか」
マフィオが呟《つぶや》いて長椅子から腰を上げようとしたのを、マルコが止めた。
「三人で行ってもしかたないでしょう。それにこういうことは、目立たないほうがいい。わたし一人で充分ですよ」
ニッコロとマフィオが考えるように目配せしあった。
「首尾は後で報告します」
マルコは手にしていた赤い帽子をかぶると、大股《おおまた》でこちらにやってきた。そして戸口から飛びのこうとした私に「ついてこい」と命じて、部屋から出た。
帰ったと思ったら、また暑い外に出るのかと思ってうんざりしたが、文句のいえる立場ではない。奥方の腰巾着《こしぎんちやく》となって仕立屋に行ったピエトロを恨みながら、私はマルコに従った。
マルコは大広間を突っきって、左に曲がった。そこは蹴鞠《けまり》でもできるほどの広さの玄関になっている。客がすぐに目につく場所には、金の小さな卓が恭しく置かれていた。元《げん》帝国のクビライからの贈り物で、ポーロ家の旦那方の自慢の品だ。
私は慌ててマルコの先に回り、玄関の扉を開いた。マルコは風のように通り過ぎ、階段を中庭のほうに降りていく。扉を閉めると、私も後を追った。
マルコは船ではなく、徒歩で出かけることにしたらしい。さっき使いの少年の消えた路地に続く通路に入っていった。獅子《しし》や果物の絡みあう模様が刻まれた半円形の門をくぐって、人がようやくすれ違えるほどの路地を進んでいくと、聖ジョバンニ・クリソストモ教会の裏に出た。マルコは、私がついてきているか確かめもせずに、左に折れた。膝下《ひざした》まである緑色の上衣《トウニカ》をひらひらさせて大股で歩くマルコの長身に影のようにくっついて、私は二階建ての家々の壁に挟まれた路地をあちこちと曲がっていく。やがて賑《にぎ》やかな通りに出た。狭い道の両側には、穀物商や蜂蜜《はちみつ》屋、塩漬けの豚肉屋、生地屋や仕立屋などが小さな間口を並べている。リアルト橋から波止場まで続く|小間物通り《メルチエリア》だ。もう午睡の時間も終わり、人々も外に出てきている。店の前に置かれた木の台に商品を置いて、店の主《あるじ》が、「キプロス産の葡萄酒《ぶどうしゆ》。甘くてうまいよ、味見をしていかないかね」「ヴィセンティーナの干鱈《バカラ》、夜も朝もおいしいよ」などと声を張りあげている。道具を肩に担いで「壊れた陶器も元通り。陶器直し、陶器直し」と呼ばわっている職人や、硝子《ガラス》の器を籠《かご》に入れて「硝子の杯、硝子の鉢、硝子の皿」と叫ぶ売り子。殺人や盗みの罰を受けたのか、腕や手のない者、目の焼けただれた者たちが、路傍で物乞《ものご》いをしている。人混みを掻《か》きわけて歩くマルコの姿を見失わないように、私はついていく。
小間物通りの横に現れた柱廊の下をくぐると、灰色の小石を鱗形《うろこがた》に敷きつめた大きな広場に出た。呼び込みの声はここまでは届かず、あたりは静かになった。長方形の広場の北側を塞《ふさ》いでいるのは、上部が半円形をした柱廊がずらりと並んだ立派な白い石造りの建物。南側には赤|煉瓦《れんが》の鐘楼と、やはり柱廊に飾られた二階建ての館が連なっている。広場の東側には、丸屋根がいくつも突きだした、きらびやかな聖マルコ寺院が建っている。クリストの言葉を本に記したマルコという、旦那と同じ名を持つ男の死体を、南のアレッサンドリアの都から盗んできて、ここに供えている。この都の者にとっては、それは自慢話らしく、寺院の入口の半円形の柱の間に、金色や赤や緑の小石を張り合わせて作った、盗みの様子の絵が描かれている。
柱廊の下に集まって骰子《さいころ》を振っている男たちに顔をしかめながら、マルコは広場に出ていった。あちこちに話をする人の輪ができている。いかめしい顔で腕組みして話す商人たち。通りすがりの女をからかっている裕福そうな家の若者たち。その間を、乳房の見えるほど胸の大きく開いた服を着て、これみよがしに歩いている娼婦《しようふ》。広場を横切っていたマルコは、立ち話している一人の男に目を止めた。
「おい、ルカ」
腹の下にぶら下げた巾着《きんちやく》をすられないようにしっかりと握って、体を前後に揺らせていた小太りの男がマルコに気がつき、片手を上げて、「|いい日和で《ブオン・デイ》」と挨拶《あいさつ》した。そして、話し相手の二人の男たちに謝って、こちらにやってきた。
「伝言が伝わったようだな」
ルカは、周囲に他の人間がいないのを確かめて囁《ささや》いた。マルコはむっつりした顔で頷《うなず》いた。
「アクレからの船が着いたんだな」
「ああ。ジェノヴァの海賊にも捕まらず、無事、着いた。ダマスコの上等の絹織物をいっぱい積んでな」
二人は用心深い視線を周囲に送りながら小声で話しているが、マルコの後ろに控えていた私の耳に会話は入ってくる。
「で、船の乗客はどうした」
ルカがにたりとしたので、顎《あご》が三重になった。
「ちゃんと調べておいたさ。ここの波止場で全員、降りたからな。ヴェネツィア商人の他に乗ってたのは十人くらいだった。十字軍のなれの果ての騎士二人と、破産して帰ってきた商人の家族、放浪楽師に、黒服に黄色の十字架の印をつけた巡礼二人。船長の話ではこいつらは航海の間中、肉は一切、口にしなかったと……」
「どこに行った」
マルコが鋭く尋ねた。ルカはこすからい目で、相手の腰に下げた巾着に目を遣《や》った。マルコは薄い唇を歪《ゆが》めると、巾着から大銀貨《グロツソ》を一枚出して、握らせた。
「二人は、救護院《オスビツツイオ》に入ったよ」
ルカは、鐘楼の隣にある二階建ての建物を指さした。白い漆喰《しつくい》を塗り、入口の扉の上に目立つように十字の印がつけられた館だ。マルコは救護院に目を走らせて耳打ちした。
「このことは誰にもいうなよ」
さらに口止め料を請求するかのように、大銀貨を掌《てのひら》で転がしたルカに、マルコは続けた。
「回教徒《サラチエーノ》の町になってしまったアクレとの貿易は、教皇命令で禁止されている。その二人の巡礼のことを他の誰かに洩《も》らしたら、ローマ教皇のところにおまえの密貿易の話が聞こえていくことになるぞ」
ルカは銀貨を自分の巾着にしまって、目を細めた。
「幼なじみのおれを脅す気か、マルコ」
「いや、ただ念を押しただけだよ。回教徒との商いはヴェネツィア商人だったら皆やってるから、脅しなんかにはなりゃしないのは、きみもわかっているだろう」
マルコは、ルカの肩を親しみをこめた調子で叩《たた》いた。しかしルカは一抹の不安と疑念の残る表情で見返しただけだった。マルコはそれで目的は達したというように救護院のほうに歩きだした。
救護院とは、貧者や病人、巡礼者たちを泊めるところだ。この都の巡礼者は、ジェルザレンメというクリストの死んだ場所を訪れる者たちがほとんどだ。ヴェネツィアから船に乗って、アクレに行き、そこから陸路で入るのが一番近いと、ピエトロがいかにも自分が行ってきたかのように話していたのを、私は覚えていた。
救護院の柱廊の下では、麻の粗末な上衣を着た者たちが座りこんでいた。髪の毛の茶色の者から黒、金髪の者まで、西方のあちこちからやってきた旅人の吹き溜《だ》まりとなっているのだ。罪を犯して、自分の町や村に居られなくなった者たちだろう、目つきの悪い、腕に焼きごての跡のある男たちも混じっている。近づくと、「お恵みを、旦那《だんな》」「神さまのお慈悲を」といって、汚れた手をいくつも差しだしてきた。それを膝《ひざ》で押しのけて、マルコと私は戸口に入っていった。
足を踏みいれたところは、大きな部屋になっている。汗と湿気《しつけ》た臭いがぷんと鼻につく。正面に、二階へと続く階段、右手に細長い木の食卓が並んでいる。階段や、食卓の前の長椅子《ながいす》には、貧しくて帰る家もないような年寄りや、頬《ほお》のこけた男女が座りこみ、ぼそぼそと話をしていた。食事の時間を待っているのだろうが、厨房《ちゆうぼう》になっているらしい食堂の奥に人気《ひとけ》はない。
入口左手には小部屋があり、その前に置かれた椅子に玄関番の老人が座っていた。マルコは、老人につかつかと近づいていった。
「ここに、黒服に黄色い十字架をつけた巡礼が二人来ただろう」
老人は用心深げに頷いた。マルコは巾着から銀色の玉を出して、老人に与えた。ルカに渡したものよりも小さな銀貨《ビアンコ》だった。
「そいつらは、どこにいるかね」
老人は取り返されたら困るというように、銀貨を握りしめた。
「寝台を貸してやりましたさ、旦那さま。今は寝てるんじゃないですかい」
ひどく聞き取りにくい言葉だった。マルコの肩越しに見ると、老人の前歯はほとんどなかった。マルコは尖《とが》った顎鬚《あごひげ》を指先でひねった。
「そんな格好をした巡礼は他にもいるか」
「いやあ、あいつらだけです」
マルコは二階に続く階段を見遣《みや》り、身を翻して外に出ていった。物乞いを避けて、救護院の横に立つ鐘楼の前まで来ると、マルコは私に蒙古《もうこ》語でいった。
「あの救護院の中に、胸に黄色い十字架をつけた男が二人いる」
ヴェネツィア語でのルカとの会話が、私にはわからなかったと思っているのだ。私は初めて理解したふりをした。
「その二人をここで見張れ。わたしはすぐ戻ってくるが、もし奴《やつ》らが救護院から出てきたら、後をつけるんだ」
私は頷いたが、マルコは少し気がかりそうに念を押した。
「いいか、黄色い十字の布を縫いつけた黒い着物だぞ。淫祠《いんし》邪教を信じていた異端者の印だ。罪の贖《あがな》いのためにジェルザレンメに巡礼に出た奴らなんだ。玄関番の話では、他に同じ格好をした者はいないということだから、間違うはずはない」
「わかりました。旦那さま」
マルコはまだ何かいいたそうだったが、私をその薄茶色の瞳《ひとみ》で一瞥《いちべつ》して背を向けた。広場の雑踏にマルコが消えると、私は鐘楼の角に座りこんだ。そこからでも救護院の入口が見張れるし、聖マルコ寺院の南にあるもうひとつの小さな広場も眺められたからだ。
一階二階ともに、透かし編み模様のような優雅な半円形に彩られたヴェネツィア共和国の総督《ドージエ》の宮殿と、立ち並ぶ露天商の小屋に挟まれた小広場の突きあたりには、大型帆船の停泊している波止場があった。波止場では、日焼けした半裸の男たちが船の荷卸しや荷揚げをしている。荷役をする者にはダルマチアからやってきた男たちが多い。香辛料の入った麻袋、絹織物や木綿を詰めた行李《こうり》。大理石の石柱や彫像、石板などもある。岸辺に下ろされた荷を数えたり、運河沿いの倉庫に運ぶために、平底船に積み換えるように命じている商人たち。入ってきた荷を測り、検査している男たち。この麻袋や樽《たる》といった荷に混じって、みすぼらしい一団が座りこんでいた。戦いで捕虜になったり、親に売られたりして、黒海の北のタナや、コスタンティノポリから連れてこられた奴隷たちだ。肌の白い北方の遊牧民や蒙古人、濃い眉毛《まゆげ》の下で目をぎょろぎょろさせているアラビア人など、子供から私ほどの年齢の者まで数十人いる。女も入っているはずだが、皆、ぼろ布をまとった荷物にしか見えないので、区別はつかなかった。彼らの行方は決まっていた。男も女もこの西方の国々の貴族や金持ちの下僕となるのが普通だ。もっとも、場合によっては、アレッサンドリアの奴隷部隊に入って敵と戦うか、回教徒の国に売られて宮廷奴隷となることもあり、美しい女なら仕える主人の妾《めかけ》も兼ねることも多かった。しかしその末路は皆、似たりよったりで、使いものにならなくなると棄てられる運命だった。
この土地では、クリストを信心しない民は、人としての魂がなく、奴隷にしてもいいということで、回教徒や、彼らのいうところの淫祠邪教を信じているタルタル人や遊牧民が売り買いされる。私の魂のあるなしが、どうしてクリストとかいう男によって決められるのかわからない。私の生きてきた東の国々でも、奴隷は腐るほどいる。奴隷になる者は、生まれた時からそうだったり、戦いに負けたり、貧乏だったりした者たちだ。今、奴隷を使っている人間が、何かのはずみで奴隷になることもある。運がいいか悪いかだけで、魂のあるなしには関わりはない。
たとえ奴隷になっても、厭《いや》なら逃げればいいのだ。たいていは追手《おつて》に殺されるか野垂れ死にだが、運が向いてくれば逃げきれる。だが、逃げきったとしても、その先にはやはり苦しい暮らしが待っている。どこかの土地に落ち着いても、またいつ誰かに襲われて、捕虜になるかもしれない。さらに、明日の食い扶持《ぶち》を心配しないといけない。そんなことを考えると、奴隷を選ぶ者もいる。奴隷なら、どんなに少なくても、旦那の与えてくれる飯がある。雨露をしのげる屋根がある。
ポーロ家の三人は、いい旦那の部類だ。気まぐれに鞭《むち》で叩《たた》くでなし、無理難題をふっかけるわけでもない。ピエトロなどは今の暮らしに満足している。明日から好きなところに行っていいといわれても、見棄てないでくれと、旦那の足に縋《すが》って泣きかねない。
私もピエトロも、泉州からの旅の途中、逃げようと思えば機会はいくらでもあった。なのに逃げなかったのは、命を懸けてまで逃げるよりは今のほうがいいと考えたからだ。それに私は西の涯《は》てを見たかった。ポーロの旦那たちについていけば、案内つきで西の涯てにいけると思ったのだ。
今、その西の涯てにいる。この地を見てしまったのだから、波止場に留まっている帆船のどれかに忍びこんで、出ていってもいいのだ。そう思うが、私の体は動かない。
太陽の日射《ひざ》しは弱まり、夕暮れが近づいてきていた。海に面した小広場には、二本の柱が立っていた。柱の間には賭博台《とばくだい》が置かれて、三個の骰子《さいころ》を使って賭け《ザーラ》をする者や見物人が山を作っていた。淡い茜色《あかねいろ》に染まる広場に、二本の柱の長い影が落ちている。波止場にぴちゃぴちゃと打ち寄せる穏やかな波。海は、晩夏の夕日を受けてきらきらと光っていた。淡い水色の水平線には、外海と、潟《ラグーナ》となっている内海を隔てる細長い砂の島影が浮かんでいる。
この西方の海は、私の渡ってきたどの海とも違っていた。私の知っている海は、荒々しく、予測のつかないものだった。朝、波ひとつなく眠っていても、昼には波を蹴立《けた》てて荒れ狂い、吠《ほ》えたてる。空や風に仕える忠実な召使いであり、船を沈没させることを楽しみにしている主人のために、凪《なぎ》の時でも、ねっとりと揺れる水面下でひと暴れする時期を狙《ねら》っている。片や、この海はうら若い乙女だ。たまに癇癪《かんしやく》を起こしても、たいしたことはない。すぐに機嫌を直して、爽《さわ》やかな風の中でにこにこと笑っている。
静かな海に浮かんだ都での暮らしは、やはりとても穏やかだ。身の危険を覚えることも、食い物の心配もいらない。こざっぱりしたお仕着せを与えられ、蚤《のみ》だらけでも、安心して眠れる寝床もある。だから私は、この都にずるずると居続けている。
ぼろんぼろんと、心の底をひっかくような調べが流れてきた。ぼんやりと顔を向けると、聖マルコ寺院の前で、一人の男が琵琶《びわ》に似た楽器を抱えて、手で弦を爪弾《つまび》いていた。
海の彼方《かなた》より
波に揺られてきた女よ
男はよく通る低い声で歌いだした。私にもわかるヴェネツィアの言葉だった。
その瞳は愛に燃え
その唇はため息に震える
少し濁った調べとはいえ、寂しげな旋律が流れていく。楽師は汚れた赤い帽子を目深にかぶり、房飾りのついたアラビア風の帯を締めて、破れた長靴下を穿《は》いている。いかにも落ちぶれた様子だ。聖マルコ寺院から出てきた男が二、三人、立ち止まり、楽師の足許《あしもと》に小銭を投げてやった。
おいでなさい
わたしの……
楽師の声が途切れた。聖マルコ寺院の横の小径《こみち》から、黒い外套《がいとう》をひきずった男たちが五人、列となって出てきたのだ。頭頂を丸く剃《そ》り、ゆったりとした白い上衣に黒い頭巾《ずきん》つき外套《がいとう》といった出《い》で立ちは、ヴェネツィアのあちこちで、時々、見かけるから知っていた。クリストを崇《あが》める修道士たちだ。いくつかの派があるようだが、この派の連中は教会の前でよく声を張りあげて、クリストのありがたさを説教していたから、目立っていた。
走りこそしてないが、修道士たちは何かに急《せ》かされているように足早に広場を横切っていく。色鮮やかな衣装に身を包んだ人々が集まっている広場の中で、黒い外套をまとった一団は異様に見える。修道士たちは周囲には目もくれず、黒い矢のように、まっすぐに救護院に入っていった。彼らがこんなに集まって、急いでいく様子を見たことはなかった。私は不穏なものを感じて、腰を上げた。救護院のほうに数歩、近づいていって様子を窺《うかが》ったが、入口では相変わらず食い詰めた者たちが集まって、道行く人に手を差しのべているだけだ。
「もう見張りはいい」
すぐ横でマルコの声がした。ぎょっとして振り向くと、マルコがそこに立っていた。
「帰るぞ」
マルコは救護院の二階をちらりと見あげて、背中を向けた。修道士と巡礼とは、何か関わりがあるのだろうかと考えながら、私は後に従った。
おいでなさい
わたしの許に
おいでなさい
わたしの心に
楽師がまた歌いはじめていた。広場は夕暮れ時のしめやかな空気に満ちている。白い石造りの柱廊が、ほんのりと赤く染まっている。夕涼みに出てきた人々が、広場のあちこちで挨拶《あいさつ》をしたり世間話をしたりしている。その向こうに広がる穏やかな海は、淡い桜色と水色の美しい絹織物を敷きつめたようだ。絹の水面は波に揺られて、艶《つや》やかに輝いている。
太陽をまとい
月を踏み
海の彼方よりきた女よ
歌声が波音と雑踏に混ざりあって広がっていく。小間物通りに続く薄暗い柱廊を歩きながら、遥《はる》かな旅をしてきたのは、この私だ、と胸の内で呟《つぶや》いた。
私の人生は、秦《しん》の始皇帝の築いた長城にも似ている。野を越え丘を越え、くねくねと曲がりながら、北の匈奴《きようど》から秦帝国を守っていた一万里もの長さの城壁。聞いたところでは、万里の長城は、土と石で築かれた低い塀のようなもので、遠目には広い大地をふたつに分ける太い石の道にも見えるという。塀の上のその道こそ、私の過ぎし日々の轍《わだち》。塀の上にあるがゆえに、塀によって阻まれることなく、国と国との境を縫うようにしてどこまでも続く。その道を辿《たど》るうちに、こんな西の涯《は》てにまで来てしまった。
しかし、万里の長城にも始まりがあるように、私の道にも始まりはあった。それは遥かなる東の涯て、倭《わ》、と人の呼ぶ群島の南の端の島。執拗《しつよう》で芯《しん》の強い波の打ちつける花旭塔津《はかたつ》という港だった。
花旭塔津には、唐《とう》の頃から倭国との間で商いを営む唐国の商人たちが住みつき、大唐街という一角を形作っていた。私の生まれた頃にはすでに唐は滅びて宋《そう》の時代となっていたが、花旭塔津の浜の松林の中にある大唐街の賑《にぎ》わいは、往時にも増して華やかなものだった。
私の父は、花旭塔|綱首《ごうしゆ》と呼ばれる船主を兼ねた宋国の商人で、同輩の商人たちと同じく、倭人の女を妻にして大唐街で裕福に暮らしていた。その倭人の女が私を生み、そして二人の弟と二人の妹を続けてこの世に送りだした。
母は、父の船の船頭の娘だった。宋の国に発《た》つ船を見送りにいった時、見初められたのだ。船乗りの娘のせいか船が好きで、自分から船荷の検分の仕事を買ってでていた。宋や高麗《こうらい》からの船が到着すると、五人の子供の世話は婢《はしため》に任せて船着き場に赴き、藁荷《わらに》や木箱を開いて品物が無事届いているか確かめる。荷のほとんどは白磁の皿や鉢だったが、それが割れたりひびが入っていたりすると、母は険しい表情で船頭に理由を詰問した。浜辺で遊んでいた時、私はその様子を何度か見たことがあった。長い髪を後ろでひとつに束ね、花柄模様の着物をまとった母が、潮で黒く焼けた男に向かって容赦なく非難を浴びせかけているさまは、子供心にもいきすぎの感じがした。たぶん母は船乗りに憧《あこが》れていたのだ。海を渡り、命を懸けて荷を運ぶ男たちが羨《うらや》ましくて、難癖をつけていたのだ。母のことを思い出すと、そんな気がしないでもない。
母が皿のひびの一筋一筋を自分の眉根《まゆね》の皺《しわ》に移し替えている間、父は仲間の花旭塔綱首たちとの商談に明け暮れていた。酒と女に深く結びついた商談である。松林に囲まれた屋敷の離れに客を招き、白拍子を侍《はべ》らせ、舞を舞わせ寝間の伽《とぎ》をさせ、酒を呑《の》んでは詩吟をしていた。そんな暮らしが後ろめたくなるらしく、時々、父は大唐街の隣にある寺に参詣《さんけい》して、大枚払って僧侶《そうりよ》に経を捧《ささ》げてもらっていた。そして厠《かわや》から出てきたような清々した顔で、また酒と女に彩られた商談に戻っていくのだった。
そうやって時折、機嫌を取っていたにもかかわらず、あの腹を突きだしたぼってり顔の印度《インド》の神は、肝心な時に父を救ってくれはしなかった。
大陸の奥地から力を広げてきた元《げん》帝国が、高麗を足がかりに倭の国に攻めてきた時、私は初めて船に乗り、慶元《けいげん》へと船出していた。金銀や真珠、硫黄、蒔絵《まきえ》や太刀と引き替えに、元の磁器や銅銭、茶や書画を積んで帰郷すると、花旭塔の町の半分が焼け野原となっていた。
元軍が嵐《あらし》に見舞われて、一夜のうちに逃げかえったと聞いて、私は膝《ひざ》を叩《たた》いて笑ったものだった。大人の世界に足を踏みいれたばかりの私にとって、国と国との戦いも、初航海と同じく興奮する出来事でしかなかったのだ。
私は、尻《しり》の暖まる間もないほど、花旭塔と慶元の間を貿易船に乗って行き来した。宋人ばかりでなく、元の商人たちとも取引するために蒙古《もうこ》の言葉を習い、倭のものを元に、元のものを倭に送り続けた。やがて二人の弟も私に加わったが、一人は嵐の海に落ちて行方知れずになってしまい、もう一人は、海賊との戦いで右腕の肘《ひじ》から下を切り落とされて陸に上がった。そして私は背中や太股《ふともも》に切り傷を作っただけで生きのびた。
あの頃の私は若い男が欲しがるものすべてを持っていた。逞《たくま》しい肉体、巾着《きんちやく》いっぱいの金、美しい情婦たち。私は天から与えられる恩恵を、ただ無邪気に受けとめていた。
私の人生の雲行きが怪しくなったのは、南方で細々と生き残っていた宋を滅した元帝国が再び花旭塔津に攻めてきた時だった。蒙古、高麗、漢人から成る四万の軍と、十万の南宋人の軍、合わせて十四万の軍勢が、四千|艘《そう》を超える船に乗って花旭塔湾に現れたさまは、海が茶色の陸地と化したかのようだった。だが、倭国の者は運が強いらしく、今度もまた激しい雨風が吹いてきて、元の軍勢は退散していった。逃げ遅れて捕らえられた元軍の男たちは、花旭塔津に連れてこられた。蒙古人、高麗人、漢人は皆殺しにされたが、かつての宋国の者だけは大唐街の花旭塔綱首たちの嘆願もあって命を助けられ、奴隷とされた。こうして南宋人たちが垢《あか》まみれとなり、ぼろをまとって、荷役や車引きなどをしている姿が町のあちこちで見られるようになった。
そんな同国人の姿を、父は憐《あわ》れんだ。時折起きる善心への憧《あこが》れに過ぎなかったのだろうが、今回に限って父は、寺に行って彼らの幸運を僧侶に祈らせる代わりに、奴隷となった宋人を船に乗せてこっそり帰国させる手だてを選んだ。慈善というものは、酒や女から得る愉《たの》しみと似たものであるらしい。一度、同国人を密航させると、父は止めることができなくなった。二度、三度と危険な橋を渡るうちに、とうとう倭国の役人に見つかってしまった。早速、父も母も、弟も二人の妹までも捕らえられて殺され、家屋敷は打ち壊された。私だけが処刑を逃れ、なじみの女の手引きで逃げだして、花旭塔津を後にしたのだった。
それから私は万里の長城のようなくねくねとした長い道を辿って、この水に浮かぶ都にやってきた。奴隷を助けて殺された男の息子が、今は奴隷の身となっている。皮肉な話だが、晴れの日が続けば、雨が降る。それだけのことだ。
明かり取りの窓の木枠を、ほおずき色の朝焼けが照らしていた。私はそれを半ば夢うつつで眺めていた。
こんな色の朝焼けは、スマトラという島で見た。ポーロ家の旦那《だんな》たちの船が風待ちのために、長い間、留《とど》まった島だ。熱く湿った空気の中に花の香りが漂っている浜辺で目覚めるたび、あたりはほおずき色に染まっていた。海岸の砂も、椰子《やし》の葉も幹も、凪《な》いだ水面も、海に小舟を出して、魚を釣る漁師の夫婦の影も、すべては朝焼けに包まれていた。
ポーロの旦那や船の乗組員たちは、島の者が人肉を喰《く》うと聞いて怖がり、海辺に作った砦《とりで》に引きこもっていたが、私はよく船の炊事係のお供をして村に食料を買いにいった。絹の切れ端や象牙《ぞうげ》のかけらと引き替えに、米や魚を手に入れるのだ。浅黒い肌をした村人たちは気弱げに微笑《ほほえ》むだけで、人肉を食べるようには見えなかった。しかし、薄い皮の下に別の顔を隠しているのが人間だ。穏やかな村人も、何をきっかけにして人肉喰らいに変わるかもしれないから、村にいる間中、私はいつも身構えていた。
ある時、村の漁師が奇妙な魚を釣りあげたといって見せてくれた。赤ん坊ほどの大きさで、頭と首と小さな両手がついていて、頭皮から尻尾《しつぽ》までは黄色っぽい鱗《うろこ》に覆われていた。目は、瞼《まぶた》のない魚の目と同じで丸くぽっかりと開き、潰《つぶ》れた小さな鼻と、銀色の唇を持っている。漁師に銛《もり》で突かれたため、ぎざぎざの歯を苦しげに剥《む》きだして死んでいた。胸から流れていた血は、島の朝焼けと同じほおずき色だった。この奇妙な魚は朝焼けの生まれる場所に棲《す》んでいるのだと、漁師は話していた。
不意に腕がちくりとした。私は汚れた敷布の上に置いた自分の左腕を見つめた。芥子粒《けしつぶ》ほどの大きさの蚤《のみ》が皮膚に喰いついていた。右手を伸ばして蚤をつまむと、爪《つめ》の先で潰した。藁《わら》を重ねただけの貧弱な寝床では無数の蚤がぴょんぴょん飛びはねている。私は藁床に横たわったまま、両手両足を四方に伸ばした。藁屑《くず》が舞いあがり、ばさばさと藁の動く音が響いた。
隣の藁床で寝ていたピエトロが、ううう、と唸《うな》った。
「また朝だ」
ピエトロが蒙古語で呟《つぶや》いた。
「寝たと思ったら、すぐ朝だ。いったい夜はどこにいってしまうんだ」
「おまえが喰ってしまうんだろう」
ピエトロは萎《しな》びた桃のような顔をしかめた。そして自分の裸の腹を眺めて、平手でぺたぺたと叩《たた》いた。
「夜がうまいなら、死ぬまで喰い続けてやるさ」
私は起きあがると、体についた藁屑を払った。広い屋敷だけに屋根裏も広い。奥のほうは光も射《さ》さずに埃《ほこり》だけが積もっている。下へと続く梯子段《はしごだん》のある一角を中心に置かれたポーロ家の家族の木箱や長持の間に、私たちの藁床が作られている。私は寝床の上の梁《はり》にひっかけていたお仕着せを着始めた。太股《ふともも》までの長さの股引《ブラケ》を穿《は》いて、腹に皮帯を巻き、左右一本ずつ、長靴下を両足に突っこみ、先端についた紐《ひも》で皮帯に結びつける。夏場ともなると、足を爪先《つまさき》までくるむ長靴下は暑くてたまらないが、素足を晒《さら》すのは、ポーロ家の下僕としてみっともないのだそうだ。
膝《ひざ》まである筒袖《つつそで》の上衣を頭からかぶって着ていると、ピエトロも渋々、起きだした。蚤だらけの藁の寝床を離れて、屋根裏の暗がりにこそこそと入っていく。まもなく「はあっ、はあっ」と息を詰めるピエトロの声が洩《も》れてきた。そこは私たちの便壺《べんつぼ》が置かれていて、起きてすぐに用を足さないでは、ピエトロの一日は始まらない。
上衣を帯で締め、革靴を履くと、私は梯子段を降りていった。梯子段は、三階の物置に続いている。古くなった家具や絨毯《じゆうたん》、ポーロ家の売れ残りの商品箱などが置かれている中に粗末な寝台がひとつあり、そこに小間使いのルチーアと、まだ子供といってもいいくらいの奴隷の娘パオラが一緒に寝ていた。
梯子のきしむ音で目が覚めたルチーアが、敷布の下から私を睨《にら》みつけた。この娘は、朝晩、屋根裏に上り下りする私を見るたびに犯されるのではないかと思うらしく、怯《おび》えた顔をする。奴隷が自由民の女を襲えば四つ裂きの刑になるこのヴェネツィアで、そんなことをするほど私は馬鹿ではない。ルチーアを無視して、そのまま一階の物置まで階段を駆けおりた。
中庭は朝の白っぽい光に満たされていた。私は船着き場に出て運河に小便してから、物置の桶《おけ》を井戸のところまで運び、水を汲《く》みはじめた。夜明けと共に起きだして、水汲みをして、中庭と船着き場の掃除をする。それが私とピエトロに課せられた朝の仕事だ。釣瓶《つるべ》の桶を三回空けると、手桶はいっぱいになる。それを二階の台所に運んで水瓶《みずがめ》に移し替える。水瓶を満たすには、十回は井戸と台所の間を往復しないといけない。手桶を持って階段を上り下りしているうちに、台所の隅で寝ていた料理女のモネッタも起きてきて、炉の火をおこしはじめた。ルチーアとパオラもまもなく姿を現して、ポーロ家の家族たちの部屋に洗面用の水を張った盥《たらい》を運びはじめた。
私がようやく水汲みを終えた頃、ピエトロが便壺を持って台所に顔を出した。
「|おはようさん《ボンジヨルノ》」
鞴《ふいご》で火に空気を送っていたモネッタに愛想よく声をかけ、流しの横にある穴の木蓋《きぶた》を空けて、便壺の糞《くそ》を投げこんだ。穴は運河の底まで続いていて、そのまま糞は潮に乗って外海へと流されていくのだという。ピエトロが空になった便壺を差しだしたので、私はそれを受け取って、屋根裏に昇っていった。
重労働の水汲みは私の仕事、その後の簡単な中庭や船着き場の掃除はピエトロの仕事、という分担がいつの間にかできてしまっている。
屋根裏に着くと、明かり取りの窓の前に便壺を置いて、上にしゃがんだ。ここから中庭を囲む屋敷が一望できる。夏の暑さで板戸を開けたままにしている窓から、ポーロ家の者たちの様子を眺めながら糞をするのが、私の愉《たの》しみだ。
中庭を隔てて、ちょうど反対側には四角い塔がある。四階にあたる塔の最上階には、マルコが寝起きしている。時々、朝早くから窓辺に立ってヴェネツィアの都を見渡しているが、今朝はその姿はなかった。
塔のある棟の左手、中庭の西側は、二階、三階ともに通り広間の半円形の飾り窓が連なっている。ふたつの階の造りは同じだが、二階では玄関の扉となっている部分は、三階では部屋の窓となっていた。その窓から子供が頭を突きだして、中庭を掃いているピエトロに何か投げつけていた。若ニッコロの長男マルコリーノだ。実際は私をこの西の涯《は》てに連れてきた旦那と同じマルコという名前らしいが、まぎらわしいので小さなマルコという意味でマルコリーノと呼ばれている。栗色の縮れ毛をした元気のいい子で、誰彼となくいたずらをしかけては叱《しか》られていた。今日の最初の生け贄《にえ》となったピエトロは、何が飛んできたのだろうときょろきょろとしている。
マルコリーノが次に陶器の壺を投げつけようとするのを、後ろから母親のイザベッラが押さえつけた。黒髪をうなじのところで結いあげ、白絹の内衣の上に、袖無《そでな》しの緋色《ひいろ》の長い外衣をまとっている。
イザベッラの夫、若ニッコロは、マルコとほぼ同い年の分別盛りの男で、ニッコロやマフィオ、マルコたち三人が元《げん》の宮廷にいた長い間、父の老マルコを助けてポーロ家の商いを切り盛りしていた。父親が死んでから、家長の座はニッコロに移ったが、今も若ニッコロはポーロ家の男たちの中で最も精力的に働いている。そんな夫を支えているだけあって、イザベッラはしっかり者だ。その大きな黒い瞳《ひとみ》でいつも家の中の様子を観察しているようなところがあった。
イザベッラがマルコリーノから壺を取りあげて、窓から消えると、私は視線をぐるりと巡らせた。台所のある東側の棟にある居室は、南の棟とのつなぎ目にある一部屋だけだ。二階はジョヴァンニーノとステーファノ兄弟の部屋、三階は、マルコの異母弟、若マフィオの居室となっている。ジョヴァンニーノの部屋の窓は閉まったままだったが、三階の部屋の窓は開いていて、窓を覆う薄布がはためき、その布の陰に女の姿がちらちらと覗《のぞ》いていた。ニッコロの死んだ二度目の妻との間に生まれた若マフィオは、今はステーファノと一緒にアレッサンドリアという南の都に商いの航海に出ていて、部屋には若い妻のカテリーナが寝起きしていた。
私は首を伸ばして、窓に目を凝らした。ちょうど吹いてきた風に窓布が翻り、赤ん坊を抱いているカテリーナが見えた。金色の髪を肩に垂らせて、起きたばかりらしく袖無しの下着姿のままだ。窓の薄布を通しても、その青白い肌が輝いている。
カテリーナは、家の中でもいるかいないかわからないほど寡黙な女だ。娘時代をやっと脱した年頃のこの若い女にとって、マフィオの妻マルタとイザベッラが仕切っているポーロ家の暮らしは窮屈にちがいない。あまり外出することもなく部屋に閉じこもり、話すとしても、絹糸のように細い声しか出さない。前の秋に生まれた娘のフィヨリダサの泣き声のおかげで、家の者も、ようやくその存在に気がつくほどだ。この都では裕福な家の赤ん坊は乳母の家に里子に遣《や》って育てるのだが、カテリーナは乳母と共に手許《てもと》に置くと言い張った。そして四六時中、娘をひしと抱きしめ、息をするのも憚《はばか》るように暮らしている。本当は赤ん坊を抱くよりも、男を抱くことが必要なのに。しかし夫の若マフィオは商用で留守がちだし、愛人を作るだけの勇気もない。
カテリーナが窓の薄布をずらせて空を見上げた時、屋根裏の小窓から覗いていた私と目が合った。カテリーナは、一瞬、雷に打たれたように動きを止め、それから慌てて薄布の後ろにひっこんだ。
私は藁で尻《しり》を拭《ふ》くと、便壺を持って梯子段《はしごだん》を降りていった。台所で糞を始末してから、便壺を屋根裏に戻した。再び梯子段を降りて三階に着いた時、二階から上がってきたルチーアとぶつかりそうになった。
ルチーアが苛立《いらだ》たしげに唇を突きだした。私が壁際に身を寄せると、麺麭《パン》切れと葡萄酒《ぶどうしゆ》の杯を載せた盆を手にした娘は、木靴の音をせわしげに響かせて女中部屋を抜け、廊下のほうに消えていった。若ニッコロとイザベッラたちの部屋に持っていくのだ。
私たち下僕には、朝起きて何か食べるなどという贅沢《ぜいたく》は許されてないが、ポーロ家の家族はそれぞれの部屋で葡萄酒一杯と麺麭切れをつまむ。簡単なものとはいえ、二階と三階の各部屋に運ばなくてはならないから、召使い総出の仕事となる。二階の台所に顔を出すと、すでに掃き掃除を終えたピエトロも盆を運ぶ手伝いをしていた。戸口に立った私の姿を見るなり、モネッタが一人分の朝食を載せた盆を指さした。
「ジョヴァンニーノさまの分だよ」
ジョヴァンニーノに朝の食べ物を運ぶのは私の役目だ。私は盆を受け取ると、台所の先にある扉に向かった。扉の向こうは、細長い小さな控えの間になっている。やけに大人びた顔の赤ん坊を抱いた女の絵の下に、壁に背をくっつけるようにしてふたつの椅子《いす》が置かれている。ステーファノとジョヴァンニーノの部屋に隣り合わせた客間となっているのだが、兄弟を訪ねてくる者はまずいない。
私は客間を横切って、奥にある戸を叩《たた》いた。返事がしたので中に入ると、ジョヴァンニーノは、膝《ひざ》までの長さの下着を着て寝台に腰を下ろしていた。萎《しな》びた青菜のように肩をすぼめて窓のほうを眺めている。どうしたのか、と声をかけられるのを待っていたようだが、私はわざと何もいわずに部屋の隅の円卓に朝食の盆を置いた。
「母さんの夢を見た」
ジョヴァンニーノはしかたなく自分からいった。私が顔を向けると、若者は二本の脚をぶらぶらとさせながら、蒙古《もうこ》の言葉で囁《ささや》いた。
「母さんは悲しそうだった。これから遠いところに船出するんだといっていた。……母さん、死ぬかもしれない」
かつて私は父の夢を見た。これで頭の痛いこともなくなるといって、笑いながらぴょんぴょんと飛びはねていた。その後、父は母と共に刑場に引きずりだされ、首を刎《は》ねられた。母親が悲しそうな顔で船出するという夢は、死ぬことを意味するとは限らない。西の涯《は》てにいった息子たちのことは忘れて、新しい人生に進もうと決めたのかもしれない。だがジョヴァンニーノには、母親の死の予兆より、母親が自分を忘れることのほうがまだ辛《つら》いことだろう。
「人はいつかは死ぬものです」
ジョヴァンニーノはもどかしげな表情になった。
「そんなことくらい、わかってる」
「だったら、けっこうです」
私は部屋から出ていこうとした。ジョヴァンニーノは寝台から飛びおりて、私の前に立った。
「ぼく、大都《カンバリク》に帰る」
私の腕をつかんで、若者はいった。
「一緒に帰ってくれないか、夏桂」
逃亡奴隷が捕まったら、死刑になる。顎《あご》に毛が生えはじめたばかりの若者の言葉に軽々と乗るわけにはいかなかった。それにジョヴァンニーノがどこまで本気なのかわからない。えてして人は夢を夢見ることが多い。
「ここから逃げたら、おまえも解放されるんだよ」
ジョヴァンニーノは、解放されることが、私にとってさも重大そうにいった。帰りたくても故郷に戻れない若者も、この土地に縛られていることでは、私と同じだというのに。
「簡単にはいかないですよ、ジョヴァンニーノさま。東に戻る道は、私たちが通った時よりもさらに危なくなっているのはご存知でしょう」
ポーロ家の旦那《だんな》方が長年仕えた元帝国のクビライの宮廷を辞して、西に帰るにあたっては数々の困難があったと、私は聞いていた。第一に、皇帝自身、この三人の色目人《しきもくじん》たちを手放すのを厭《いや》がった。自分の周囲に異国の者たちを置いて意見を聞くことが好きだったクビライは、商才に長《た》けたポーロ家の旦那方の意見を珍重したらしい。故郷に帰るに帰れず困っていたところに、ペルシアのイル・ハン国の蒙古人王アルグンが、クビライの宮廷に三人の貴族を使いに寄越して、亡き前妻と同じ血筋の娘を後妻にしたいので送り届けて欲しいと頼んできた。ポーロ家の旦那方は、その姫をペルシアまで送り届ける役目を申し出て、やっと帰る赦《ゆる》しを得たという。
だが、東に来る時に通った砂漠の道は治安が乱れ、強盗が横行していて通ることはできず、泉州《ザイトウン》から船出したのだった。六百人はいたお供の者が、十八人にまで減ってしまったほどの長く辛い船旅の末、ようやくペルシアの港ホルムズに着いたと思ったら、そこから西に向かう陸路は、回教徒の軍が押さえていて危険だといわれ、わざわざ黒海まで北上し、コスタンティノポリからヴェネツィア商人の船に乗せてもらったのだった。
私たちがヴェネツィアに着いてしばらくして、元のクビライが死んだという知らせが入った。栗色の髪もすっかり灰色になってしまうほどの長い期間をクビライの宮廷で過ごしたニッコロとマフィオ兄弟は感慨に浸っていたが、マルコはこれで東との商いの道は危うくなると憂えていた。案の定、それまでも何かと内紛の多かった元帝国内部はさらに乱れているという。陸路にしろ、ペルシアからの海路にしろ、大都に辿《たど》りつくには命が百はないと足らないだろう。
「イル・ハン国の王さまに贈られた金牌《きんぱい》がある」
ジョヴァンニーノは私の腕をつかんだままいった。私は驚いて、若者の顔を見た。それは手首から肘《ひじ》までほどの長さの細長い黄金の板で、獅子《しし》や白隼《しろはやぶさ》の絵と共に、蛇がのたくったようなペルシアの文字が刻まれていた。『大いなるハンの名によって、これを持つ使者はイル・ハン国の中ではどこでもハンその人と同様に崇《あが》められ、仕えられなくてはならない』という意味だと聞いていた。ポーロ家の旦那たちは、それを四枚も貰《もら》ったおかげで、無事に黒海に面する都トレビゾンダまで辿りつけたのだった。
確かにあの金牌があれば、少なくともホルムズまで行けるかもしれない。ホルムズは大きな港で、印度《インド》や元から来る商人たちも大勢いる。帰りの船も見つけやすい。私が心を動かされたのを感じたジョヴァンニーノは続けた。
「それに父さんたちはクビライからもらった金牌だって持っている。あれさえあれば、元の国内のどこでも自由に行けるし、食べ物も馬も与えてもらえる」
ポーロ家の旦那たちが、クビライの金牌まで持っているとは初耳だった。ジョヴァンニーノは、それはポーロ家の一行が大都から泉州まで旅する時に使われたのだと語った。
「イル・ハン国の金牌と、元国の金牌。このふたつが揃《そろ》っていれば、大都に帰るのは夢じゃないんだ」
「でも、それらは旦那さまたちにとっても宝物でしょう。そう簡単にジョヴァンニーノさまに下さりますか」
ジョヴァンニーノの口許《くちもと》にうっすらと笑みが浮かんだ。
「くれないなら、もらうだけだ」
金牌を盗みだすつもりらしかった。しかし、ポーロ家の旦那たちは利口者だ。そんな大切な金牌を、易々と盗まれるところに置いているはずはない。黙っている私の腕を、ジョヴァンニーノは強く揺すった。
「金牌が手に大ったら、一緒に逃げてくれるね、夏桂」
私は返事をしなかった。若者の顔に苛立《いらだ》ちが走った時、部屋の扉が叩かれた。
「|誰だ《キエ》」
ジョヴァンニーノはヴェネツィアの言葉で尋ねた。ピエトロです、という返事があり、扉の間から蒙古人の顔が覗《のぞ》いた。
「すみません、夏桂に用なんです。マルコの旦那さまが、夏桂に船を出せとおっしゃってますんで」
ジョヴァンニーノは、行ってやれ、というふうに、私のほうに顎《あご》をしゃくった。私はお辞儀をして部屋を出た。
「急いだがいいぞ。旦那さまはことさらおまえをご指名になったのだから、遅れてご機嫌を損じないようにな」
客間を通って台所に向かいながら、ピエトロは私をせき立てた。厭味《いやみ》ったらしい口調なのは、外出のお供という華やかな役目が、自分ではなく私に命じられたことが不満なのだ。私もそれは不思議だった。ポーロ家の旦那方も奥方も、お供には如才のないピエトロのほうを好んでいた。私に声がかかるのは、ピエトロが不在の時くらいのものだ。
私は裏口から中庭に出ると、東の運河に面した正面入口の船着き場にいった。マルコの旦那が乗るのは、ジョヴァンニーノの授業の送り迎えに使う粗末な平底船とは違い、緑色に塗られた豪華な小舟《ゴンドラ》だ。小鳥をあしらったポーロ家の紋章が描かれた船体はすっきりと細く、舳先《へさき》は優美に天に向かって尖《とが》り、中には天鵞絨《ビロード》張りの椅子《いす》が置かれていた。二|艘《そう》あるゴンドラのうちの一艘のもやい綱を解いて、櫂《かい》を手にして待っていると、マルコがやってきた。袖《そで》が長く垂れさがった青の上衣に、革底つきの絹の長靴下。襞《ひだ》のたっぷりついた青い帽子をかぶり、いつにも増してお洒落《しやれ》している。
マルコはゴンドラに乗り移ると、椅子に座り、船尾の私に「いつもの教会だ」と告げた。私がきょとんとしていると、こちらを振り向いて、ああ、と呟《つぶや》いた。
「聖餐式《ミサ》についてくるのは、ピエトロだからな」
そして左手の方向を指さしたので、私は運河にゴンドラを押しだした。
聖餐式とは、半裸の男クリストを崇《あが》める儀式で、ポーロ家の者たちはそれに出席するために、時々着飾って出ていくことは知っていた。しかし、その時のお供は同じ信心をしているピエトロに限られていたのだ。なぜ今日に限って私を召したのか、やはりわからなかった。
マルコにいわれるままに最初の角で右に曲がった。爽《さわ》やかな夏の朝だった。運河の周囲に建つ家の窓から、起きたばかりの人々の話し声が微《かす》かに聞こえてくる。瑪瑙色《めのういろ》の水面に、ぎいっぎいっと、櫂のきしむ音が響く。朝早くとはいえ、もう運河には小舟が行き来しはじめていた。しばらくして左に曲がり、運河にかかった太鼓橋の下をくぐると、右手に大きな教会が現れた。
三角屋根のついた細長い棟の両脇《りようわき》に、低い建物がすがりつくようにくっつき、後ろには鐘楼がすっくと建っていた。ジョヴァンニーノがラテン語を教わる時に使う教会とはまったく違う造りだ。あちらは全体にこぢんまりとしているが、こちらはやけに大きく、天に伸びあがるようにして高々と聳《そび》えている。壁の赤|煉瓦《れんが》や入口の白い大理石の柱は新しく、窓や屋根の緑飾りの部分は仕上がってはいない。建てられはじめてからさほど時が過ぎてない教会だった。
教会の隣には石畳を敷き詰めた四角い広場があり、そこに人が集まっていた。教会の壁を背にしたところに説教台が作られていて、そこで一人の男が声を張りあげていた。
「今や福音の時代は過ぎ去り、聖霊の時代となった。反クリストが現れ、我々を苦しめる時代であり、その後にやってくるのは、最後の審判なのだ。最後の審判の日は近い。よく聞くがよい、罪深き者どもよ。春をひさいだ女、夫があるのに他の男に走った女、妻があるのに他の女に走った男、男と寝台を共にした男、人を殺した者、盗みをしでかした者、淫祠《いんし》邪教を崇める者、悔悛《かいしゆん》の告白なしに死んだ者、こういった者たちは、死して地獄《インフエルノ》に堕《お》ち、永遠の業火《ごうか》に焼かれることになるのだ。地獄がどんなに恐ろしいところかわかっているか」
頭頂を丸く剃《そ》った男は、身を乗りだして聴衆を見つめた。私は、その男が白い上衣の上に黒い外套《がいとう》を掛けているのを見て、つい三日前のことを思い出した。東から来た淫祠邪教を信じる男たちがいるという救護院に、列をなして入っていった修道士たちと同じ服装だ。
ここはあの一派の教会らしかった。
「地獄の業火はな、おまえたちの厭《いや》らしい肉慾《にくよく》の炎から生まれたものだ。地獄に堕《お》ちた者の魂は、この炎に炙《あぶ》られて汗を流す。その汗は罪人たちの肉体を貫き、肉を焼きながら外に出ていく。こういった汗が永遠に魂から流され続けられた時の苦痛を想像するがいい。もう一度死にたいと願うほどの苦しみだ。しかし、地獄の王である悪魔はそんなことは許してはくれない。三つの頭に六つの翼を持ったこの怪物は、おまえの肉体をその口で噛《か》み砕き、再び永遠の業火に翳《かざ》すだけなのだ」
集まっている者たちは、怯《おび》えたようにざわついた。膝《ひざ》までの幅広の股引、素足に木靴を履いただけの男、内衣を紐《ひも》で縛り、頭に薄汚れた布をかぶった女。皆、粗末な格好の貧乏人たちだ。普通、教会の説教はラテン語だが、この派の修道士たちは、誰にでもわかる言葉でクリストの教えを伝えるということで知られていた。
マルコは、私に教会前の船着き場にゴンドラを寄せるように命じると、色《いろ》硝子《ガラス》で飾られた丸窓の下にある教会の正面入口に向かった。入口の周囲には、ぼろをまとった乞食《こじき》や放浪者たちが数人うずくまっている。説教の後の施しをあてにしているのだろう、ちらちらと教会のほうに物欲しげな眼差《まなざ》しを送っている。
私は船をもやい綱で留めると、急いでマルコの先に回り、教会の重い木の扉を開いた。マルコは木の扉なぞ最初からそこになかったかのように、入口を通り抜けた。その後から私も教会に入った。
突然、朝まだきの頃に舞い戻った感じがした。天窓から入ってくる明かりは広い内部の隅々まで行き届かず、二列になって連なる石柱の左右の奥は薄闇《うすやみ》が支配している。突きあたりには蝋燭《ろうそく》や石像で飾られた祭壇があり、色硝子の嵌《は》まった背の高い窓が半円形をなして背後を囲んでいた。正面の窓から射《さ》しこんでくる光が祭壇を彩り、半裸の男の掛かった金色の十字架を輝かせている。それはまるで祭壇から朝日が昇ろうとしているかのようにも見えた。
マルコに従って、列柱を抜けて祭壇のほうに歩いていくと、二、三人の若い修道士たちが祭壇を囲む栗色の木の手すりや、床を掃除をしているのが目に入った。皆、白い上衣をはおり、外の説教者と同様、頭頂を丸く剃って、腰には十字架のついた革紐を締めている。マルコは近くの修道士に会釈して告げた。
「ニコラ・ダ・ヴィチェンツァ師にお会いしたいのだが」
修道士はマルコの顔を見知っているようで、一礼しただけで何も聞かずに教会の横にある扉の奥に消えた。まもなく小柄で丸顔の年寄りの修道士がその戸口に現れた。
「ああ、マルコ殿。ちょうどよかった、ご連絡しなくてはと思っていたところでした」
ニコラは両手を広げてマルコに歩み寄った。マルコは帽子の額のところを軽く押しあげて挨拶《あいさつ》をした後、薄茶色の目を見開いて尋ねた。
「わたしに連絡することとはなんですか。もちろん、あの異端の男たちのことですよね」
ニコラは人差し指を上げてマルコを制すると、石柱の後ろに誘った。祭壇を掃除する修道士たちにも声が届かないところまで行って口を開こうとして、私もついてきていることに気がつき、動きを止めた。
「大丈夫です。わたしの下僕で、ヴェネツィアの言葉はあまりよくわかりませんから」
マルコは囁《ささや》いた。それで私は、なぜ今朝のお供にピエトロではなく、自分が選ばれたのか悟った。
ニコラは私から視線を外すと、マルコに向き直った。
「残念ながら、あの二人の巡礼はなにも知りませんでした」
一瞬、言葉を失ってマルコは天を仰いだ。
「言い逃れしているだけではないですか」
ニコラは腰にぶら下げた十字架を握りしめて、悲しげに口を曲げた。
「荷物を探してもなにも出てきませんでした。船の中で肉を食べなかったのは、腹を壊していたからだといいまして、実際、わたしたちが与えた肉は豚のようにがつがつと食べました。二人はプロヴェンツァの者で、異端の罪に問われてあの黄色い十字を胸につけるようにと命じられたが、聖地に巡礼に行ったら赦《ゆる》されるというので旅に出たということでした。どうやら間違いだったようです。同じ船に乗っていた他の者を探してください」
「三日も過ぎているんですよ。船に乗っていた者は、もうヴェネツィアから出ていっているかもしれません。間違いだったのなら、どうしてそのことをもっと早く知らせてくれなかったのですか」
ニコラは困ったように肩をすくめた。
「これでも精一杯やったのです。すぐにうちの救護院に連れてきて、正直にいわなければ、もう一度、異端者として告発してやると脅しもしました。でも、教会の力が弱いヴェネツィアでは、いかにわれわれドメニコ派修道士でも、共和国の承認なしには異端審問めいた真似《まね》はできません。手荒な手段は控えざるをえなくて、確証を得るまで時間をくってしまったのです」
マルコは茶色の顎鬚《あごひげ》を引っ張った。
「最初からやり直しということですか」
「お願いします。船の乗客の身元調べは、わたしたちより、商人であるポーロ家のあなた方が向いているでしょう」
マルコはしばらく黙っていた。私は二人の目障りにならないように、柱の陰に立っていた。このことには、マルコだけでなくニッコロもマフィオも一枚|噛《か》んでいるようだった。彼らが何を探しているのか興味を覚えた。
「ほんとうに、あの船に乗っていた誰かなんですか」
マルコはまだ顎鬚をしごきながら、ゆっくりと聞いた。
「もちろんです。もうずいぶん前から、その話は、今もアクレに残って密《ひそ》かに活動しているわたしたちの伝道師から届いていました」
「あなたたちの伝道師の話、ですか」
マルコは皮肉な口調で繰り返した。
「以前にも、そうおっしゃいましたね。わたしたちが東方に向けて発《た》つ前、アクレからライアスに着いた時、あなたはこういった。わたしたちの伝道師の情報によれば、あれは聖堂騎士団が握っている可能性がある。わたしたちは騎士団に近づいて調べるから、あなた方はヨハンネスを追え、と。そしてあなたとグリエルモ・ディ・トリポリ師は、巡礼団を警護するために聖地《ジエルザレンメ》へ行こうとしていた聖堂騎士団と一緒に引きあげてしまった。わたしたちと一緒にクビライの宮廷に行って、クリストさまの教えを広めるように、教皇さまより命じられていたというのに」
「今は亡きグレゴリウスさまに命じられた第一の任務は、あれを探すことだったのです」
「しかし、あの時、わたしたちの行く手はエジットの太守が大軍を率いてやってきて荒らし回っているところだった。あなた方は臆病風《おくびようかぜ》に吹かれ、東方行きの任務から逃れたくて、伝道師の話を使っただけかもしれない」
ニコラの顔にさっと赤味が差したのを確認すると、マルコは薄い唇を鎌のように曲げてにっこりした。
「もちろん、勇敢なる聖ドメニコさまの伝道師がそんな弱虫であるはずはないでしょうが」
それでニコラは怒るきっかけを失ってしまった。マルコは老いた修道士の両手を親しげに握った。
「承知しました。その話を信じて、船の乗客を探すよう努力してみましょう」
ニコラはマルコの手を握り返した。そして二人は水中ですれ違った魚のようにするりと別れた。
マルコと私は教会から出ていった。太陽は建物の屋根の上に昇り、朝の爽《さわ》やかな空気はむっとするものに変わっていた。説教師はまだ地獄の責め苦の様子を微に入り細に入り聴衆に説明していた。
マルコはゴンドラに腰を落ち着けると、リアルト橋に行くようにと命じた。私は櫂《かい》で船着き場の階段を押して、運河に船を滑りださせた。
リアルト橋へ行くには、来た道筋を戻ることになる。私は櫂を動かして小舟を進めながら、頭の中で先の教会での会話を思い出していた。
あのニコラという修道士と、ポーロの三人の旦那《だんな》たちは昔からの知り合いらしい。そして、皆で何かを探していたのだ。ポーロ家の三人が、ニコラに、追え、といわれたヨハンネスという名前には、覚えがあった。
ヴェネツィアに来る長い旅の途中のことだ。印度、カイルの港に着いた時だった。通詞の水夫を介して、ポーロ家の旦那たちが、地元の男たちにしつこく聞いていたのが、ヨハンネスというクリストの教えを広めている司祭のことだった。
ヨハンネスの治める国が、このマアバルという地方のどこかにある、トマーゾという聖人の墓のある都にあるはずだと旦那方は言い張ったのだが、褐色の腰布をまとった港の男たちは、黒々とした顔をしかめてかぶりを振るだけだ。港の男たちほとんどに聞きまわり、最後に路上に座って物乞《ものご》いをしていた足萎《あしな》えの老人に尋ねた。老人が、檳榔樹《びんろうじゆ》の実をくちゃくちゃと噛みながら、ヨハンネスもトマーゾも知らないが、トゥマーゾルなら知っているといったとたん、旦那方は身を乗りだした。檳榔樹の味に陶酔している老人をせっついて、ようやく聞きだしたところでは、カイルから西に太陽が十回昇る間歩くと、トゥマーゾルという聖地があり、大勢の巡礼が集まっていると答えた。
商売なぞなりそうにもない小さな町だというのに、旦那方は船を港に停泊させ、同行していた蒙古《もうこ》の姫やアラビアの貴族を待たせたまま、そこに出かけたのだった。私は、ピエトロと一緒に旅のお供をいいつかった。髪の毛も燃えだしそうな暑い日射しの下、山賊や獣に襲われるのではないかとびくびくしながら進んでいったものだ。密林の陰で牙《きば》を剥《む》きだす虎や豹《ひよう》、火車のような輪になって追いかけてくる丸太ほどもある大蛇。時には深緑色の肌をした侏儒たちが「キョイキョイ」という奇声を発して矢を射かけてきたりした。その危険な旅の道々、私はポーロの旦那たちから、ヨハンネスとは、トマーゾの墓を守っているクリスト教の司祭なのだと聞いたのだった。
トマーゾとは、旦那たちの崇《あが》めるクリストが生きていた時代の人間だという。その頃、印度のグンダフォルスという王が自分の宮殿を建設するために、クリストのところに遣いを送った。クリストは弟子の一人、大工のトマーゾを選び、トマーゾは印度に行って、見事な宮殿を建てた。しかし、その後、王の不興を買って投獄され、最後には殺されてしまった。
しかし、トマーゾは立派な人だったので、死んでから遺体は光り輝いた。人々はこの奇蹟《きせき》に驚き、遺体を崇め、巡礼するようになった。ポーロの旦那たちは、老人の語ったトゥマーゾルこそ、その聖トマーゾのことにちがいないといっていた。
旦那方はこんな話を私にして、弟子の遺体に不思議を為《な》したクリストの偉大さを示し、ピエトロのように私も入信しろといいたかったようだった。少し心をそそられたのは確かだが、聖トマーゾの墓を訪ねて、そんな気持ちはすっぱり消えてしまった。トゥマーゾルの聖地というのは、白や黄色の布を巻いた、天を突く檳榔の大樹だった。輝く死体が見えるどころか、小舟ほどもある大きな葉が光を遮り、根本には薄闇が漂っている。その木陰に集まって、ひれ伏しているのは回教徒ばかりで、墓を守っているはずのヨハンネスの名はおろか、クリストのことを知ってやってきている者は誰もいなかった。最初は呆然《ぼうぜん》と、やがては怒りだした旦那たちは、すぐさまカイルに戻るといいだした。
踵《きびす》を廻《めぐ》らせた旦那たちに従おうとして、もう一度、檳榔樹を眺めた時、大樹の根本にひれ伏していた回教徒たちの一人がひょいと顔を上げて、こちらを向いた。カイルの港で、旦那たちにトゥマーゾルのことを伝えた老人だった。老人は、檳榔樹の実で真っ赤に染まった口を大きく開けてにたりと笑った。
私はそのことは誰にもいわなかった。いっても信じてはくれないだろう。足萎えの老人が、カイルから十日もかかる土地に、私たちより先に辿《たど》り着いていたなどと。
旦那たちは、聖トマーゾの墓を探しにいった話は二度としなかった。私には、ポーロ家の三人が墓を見るだけのためにわざわざ密林の中にまで入っていったことが不思議でならなかったが、もともとヨハンネス司祭を追っていたのだとすれば説明はつく。だが、そのことと、アクレという港からの船の乗客を探していることと、どういう繋《つな》がりがあるのかはわからなかった。
ポーロ家の横を通って少し行くと、大運河に出た。すぐそばにはリアルト橋の巨大な橋桁《はしげた》が聳《そび》えている。運河には、大小の船がひしめきあっていた。近くの島や、〈|動かぬ大地《テツラ・フエルマ》〉と呼ばれる陸地から野菜や水、肉などを橋のたもとにある市場に売りにきた農民、食料を買いつけにきた者たち、朝捕りの魚を載せた漁師たちの船だ。中には、船首と船尾が優美な形に吊《つ》りあがったゴンドラもちらほらと混ざっている。そちらには豪奢《ごうしや》な上衣をまとった男や、薄布をかぶった金持ちの女たちが乗り、船尾では私のようにお仕着せを着た下僕が櫂《かい》を操っていた。
「葡萄酒河岸《リーヴア・デル・ヴイン》につけてくれ」
市場前の船着き場で、腹をこすり合わせるようにして、係留場所を得ようとやっきになっている平底船の群れを見て、マルコが怒鳴った。私はリアルト橋の下をくぐり抜けて、ゴンドラを橋向こうに回した。そこは主に葡萄酒《ぶどうしゆ》が荷揚げされる広々とした河岸だ。ヴェネツィア共和国の許しを得た船が代金を払って使うようになっているのだが、荷揚げ船が着岸してない時、袖《そで》の下《した》を払えば船を置かせてもらえる。マルコは河岸に帆船が止まってないのを見ると、岸に降りた。河岸に立っていた顔見知りの役人に小銭を与え、ゴンドラの見張りを頼み、私を従えて河岸の正面のトスカナ小径《こみち》に入っていった。
狭い小径の上のほうは住まいになっているが、一階にはトスカナという一帯から来た絹織物商人の工房が並んでいた。店頭には、金糸銀糸で織った豪華な布や、鮮やかな青や黄色の布が置かれ、奥のほうでは職人たちが糸を紡いだり、染めたりして働いている。トスカナ小径から脇《わき》に入ると、金銀細工師《オレフイチ》小径だ。その名の如く、金銀細工や毛織物などの高価な品を扱う店が並んでいる。黒貂《くろてん》や狐、熊などの毛皮をぶら下げた毛皮屋もあるが、店主は暇そうな顔で椅子《いす》に座っていた。マルコは顔見知りの店の主《あるじ》に挨拶《あいさつ》しながら大股《おおまた》で進んでいく。薄暗い路地はまもなく切れて、私たちは人混みのまっただ中に飛びこんだ。
古びた聖ジャコモ教会前の広場に男たちが集まり、四、五人で固まっては立ち話をしていた。ほとんどは青や赤の帽子にゆったりとした上衣を着たヴェネツィア人だが、中には、葱坊主《ねぎぼうず》のように頭に布を巻き付け、足首まで届く長い服を着たアラビア人や、ごわごわした黒い髯《ひげ》を胸まで垂らしたヘブライ人もいる。金色の髪に抜けるような白い肌の背の高い男たちは、フィアンドラやロンドラ、ジェルマニアといった北からの人間だ。ヴェネツィアと回教徒の言葉の混じったような言葉や、ジョヴァンニーノの習っていたラテン語を操っている。皆、海を渡ってこの都に集まってきた商人たちで、ジェノヴァの軍船が何隻もコスタンティノポリに向かったという噂《うわさ》、インギルテッラで羊の病気が広まって羊毛の収穫量が激減したという話などと引き替えに、今度の商船団《ムーダ》はいつヴェネツィアに入ってくるのか、最近、港でだぶついている商品は何か、自国の店で扱っている商品を買う者はいないかなどを探っている。広場の周囲の柱廊の下には、両替商が椅子に座り、前の机の上に金貨や銀貨を積みあげていた。商人同士の話の中でうまく商談が成立した場合、すぐに金の遣り取りができるようになっているのだ。
ここはヴェネツィアの心臓だった。その心臓に流れる血は金だ。血が早く巡れば巡るほど、この都は活気づく。
こんな心臓は、大きな都にはどこにでもある。花旭塔《はかた》から逃げた私が流れついた泉州《ザイトウン》の都もそうだった。泉州は、ヴェネツィアよりも遥《はる》かに大きな港だ。赤や緑に塗られた漢の船、船の真ん中に丸屋根のついた小屋のある回教徒の船。龍の羽のような帆のある小舟。さまざまな形の船が停泊し、薬草や絹、陶磁器や漆器などを売り、真珠や象牙《ぞうげ》、金や鼈甲《べつこう》といった西から来た品物を買いこんでいた。場所は変わっても、商人がやることは同じだ。少しでも懐を肥やそうと、抜けめなく立ちまわる。私もかつてはその一人だった。密貿易品を扱う商人となり、泉州の心臓に喰《く》らいつき、その血を蛭《ひる》のように吸い続けた。
そうして抜けめなく立ちまわったはずなのに、今、私はここにいる。無一文で、家も土地も、家族も何もない。着ているものはお仕着せだし、この体すらいってみれば他人のものだ。
マルコは、広場の中央の水飲み場の足台の上に立ち、集まった商人たちの顔を眺めていたが、やがて目指す相手を見つけたらしく、人をかき分けて歩きだした。そして、柱廊の柱の前で浅黒い肌の商人と話していた太った男の肩を叩《たた》いた。
「やあ、ルカ」
笑みを浮かべて振り向いたのは、先日、アクレからの船が着いたと知らせてきた商人だった。ルカは相手がマルコだとわかると、「|いい日和で《ブオン・デイ》」と挨拶しながら警戒の表情を見せた。マルコが、話があるというように目配せしたので、その顔つきはますます歪《ゆが》んだ。
「大事な話をしているんだ」
ルカは、浅黒い肌の商人に愛想笑いを送っていった。
「すぐすむ」
マルコは、ルカの商談相手をちらりと見て小声でつけ加えた。
「アクレとの取引をこれからも続けたいなら、相談に乗ってくれてもいいんじゃないかね」
ルカは目玉を天に向けた。そして商談相手に少し待ってくれるように頼んで、マルコを連れて柱の陰に回った。
「いったい、なんなんだ」
ルカは今にも怒嶋りだしそうな顔で聞いた。
「もう一度、あの船の乗客のことを聞きたい」
「いっただろう。ヴェネツィア商人以外では、十字軍のなれの果ての騎士二人……」
「どんな騎士だったんだ」
「そんなの知るものか。あの船に乗っていたのは、おれの弟だ」
「おまえの弟はどこにいる」
ルカは下唇を剥《む》いた。
「今朝、ネグロポンテに発《た》った」
マルコの目が苛立《いらだ》ちで細くなったのを、ルカは満足げに見つめた。
「船の船長は……」とマルコが聞きかけた時、ルカが、おや、というように瞬きした。
「聞こえるか」
ルカが尋ねた。マルコは首を傾げたが、私には聞こえた。雑踏の中に、微《かす》かに、ぼろんぼろん、と弦の弾《はじ》ける音がした。ルカはにやりとした。
「あいつに訊《たず》ねればいい」
ルカは調べの流れてくる市場の方向を指さした。
「船に乗っていた放浪楽師だよ。ヴェネツィアに着いて以来、聖マルコからリアルトまで、ああやって毎日、流して歩いている。歌はいつも同じだし、ぼろ楽器ときたら盛りのついた猫みたいな音ときてる。おまえが話を聞いている間は、少なくともあの耳障《みみざわ》りな調べも止むだろうからありがたいこった」
マルコは顎鬚《あごひげ》を撫《な》でると、「ふむ」と唸《うな》った。何か考えているように眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が寄った。
「それじや、もういいな」
マルコが礼をいうと、ルカは仏頂面を消して、商談相手のほうに戻っていった。
ルカが消えるやいなや、マルコは私に「ついてこい」と命じて、早足で市場のほうに向かった。
海の彼方《かなた》より
波に揺られてきた女よ
小径を抜けて、運河沿いの広い通りに設けられた野菜市場に来ると、歌が聞こえてきた。市場の通りには小さな台が並べられ、その上や地面に、韮葱《にらねぎ》、球菜《たまな》、豌豆《えんどう》や萵苣《ちしや》、無花果《いちじく》、葡萄《ぶどう》や柘榴《ざくろ》の実といった野菜や果物を入れた籠《かご》が置かれている。露店を見て歩く人々の流れの向こうに、汚れた赤い丸帽子をかぶった楽師の頭が見えた。
その瞳《ひとみ》は愛に燃え
その唇はため息に震える
歌いながら、楽師はふらふらと進んでいく。マルコは後を追おうとしたが、人ごみに阻まれてなかなか前に進めない。楽師は琵琶《びわ》に似た楽器を奏でながら、野菜市場を抜けて、魚市場のほうに入っていく。魚市場は、ヴェネツィア共和国が管理する獣の屠殺場《とさつば》に続いている。そこが、この運河沿いの広い空間の行き止まりだった。
「わたしは屠殺場に回りこんで待つ。おまえはこのまま、あの楽師についていけ。途中で脇道《わきみち》に逸れたら、後をつけろ。決して見逃すんじゃないぞ」
マルコはそう告げると、野菜市場の横に口を開ける小径《こみち》のひとつに消えていった。
この都は、人がやっと通れるほどの小径が迷路のように入り組んでいる。ここで生まれ育ったマルコは、市場の雑踏を通らないで、屠殺場に行く道を知っているらしかった。
私はいわれた通り、呑気《のんき》に歌いながら進んでいく楽師を追って魚市場に入った。銀色や青や赤の魚、蛸《たこ》や烏賊《いか》、さまざまな形の貝類が台の上に並んでいる。しかし、夏の暑さでそれらは少しずつ異臭を放ちはじめていた。
「獲《と》れたばかりの鯛《たい》だ、鯛だよ」
「蝦《えび》、蝦はどうだい。まだ生きているよ、茹《ゆ》でてもうまい、焼いてもうまい」
早く売りさばこうとして、漁師たちは盛んに声を張りあげている。楽師はその喧噪《けんそう》の中でも、壊れたような楽器を、ぼろんぼろんと奏で続ける。
おいでなさい
わたしの許《もと》に
おいでなさい
わたしの心に
太陽をまとい
月を踏み
波の彼方よりきた女よ
毎日のように聞かされているらしい魚売りたちの間から、いい加減にしてくれ、という文句が飛んでいる。しかし楽師は素知らぬ顔で歩いていく。
ふと私は、粗末な灰色の外套《がいとう》をすっぽりとかぶった二人組が、やはりさっきから楽師をつけていることに気がついた。迷っているように、楽師に接近したり、慌てて離れたりしている。もたもたしているその二人を追いぬく時、そっと覗《のぞ》いたが、頭巾《ずきん》を鼻の上までかぶっているので顔はわからなかった。
魚市場の向こうに、公営屠殺場の入口の柵《さく》が見えてきた。柵越しに、壁のない四角い建物の赤い瓦《かわら》屋根が突きでている。普通の人間は中に入るのは禁じられているので、運河の角に作られたこの屠殺場の前に人気《ひとけ》はなかった。楽師は魚市場の切れるところに来て、ぷつんと楽器を奏でることをやめた。
どうしたのだろうと思って近づいていくと、楽師に一人の男が話しかけていた。一瞬、マルコかと思ったが、ちがった。白い帽子の縁を目深に下ろして、褐色の上衣を着た背の低い男だ。黄色いペルシア風の帯を締めた楽師に顔を近づけて、何か囁《ささや》いている。突然、楽師は激しくかぶりを振ると、身を翻して魚市場の脇の小径に飛びこんだ。白い帽子の男がその後を追う。私も慌てて二人の消えた小径に向かった。小径の入口に達した時、人がやっとすれちがえるほどの狭い通りの半ばの角を、楽師と白い帽子の男がもつれ合うようにして曲がるのが見えた。私は小径を突っ走り、同じ角を折れた。
湿った路地の片隅に、男が背中を丸めてうずくまっていた。楽師かと思って近寄って肩を揺すると、男が頭を上げた。白い帽子をかぶっている。楽師を追いかけていた男だった。男は血のついた短刀を握りしめて、よろよろと立ちあがるや、いきなり斬《き》りつけてきた。私は身をかわすと、相手の肩をわしづかみにして近くの壁にぶちつけた。男の額が割れて、血が滴った。男は呻《うめ》きながら振り向いた。帽子の耳隠しの部分がずれて、頬《ほお》につけられた四角い焼き印が覗いていた。罪を犯した者らしかった。男は殺気走った目で私を睨《にら》みつけると、短刀を握り直した。
「人殺しっ」
女の悲鳴が降ってきた。私たちの頭上の窓から身を乗りだした女が叫んでいた。
男は短刀を懐に隠すと逃げだした。私はほっとして全身の力を抜いた。
「あんた、大丈夫かい」
二階の女が私に聞いてきた。私が顔を上げると、女は相手がタルタル人だったことに驚いたようだった。「あれあれ」と呟《つぶや》いて、窓の中にひっこんでしまった。犯罪者とタルタル人には掛り合いにならないほうが得策だと思ったのだろう。
私は楽師はどこに行ったのだろうと思って、あたりを見回した。短刀を持った男が倒れていたところの先は突きあたりになっていて、別れ道は一本しかなかった。そこを曲がると同じような狭い小径が続いている。小径の先は運河に阻まれて行き止まりだ。船着き場に立って左右の水面を見回しても、舟影も泳いで逃げた様子もない。どこに行ったのだろう。私は不思議に思いながら、来た道を引き返した。
両側には木造二階建ての長屋が並んでいる。二階から出した棹《さお》に突きさした洗濯物が翻ってはいるが、薄暗い小径はしんとしている。市場の雑踏が微かに聞こえ、あたりには小便の臭いが漂っていた。きょろきょろしていると、近くの家の戸に黒ずんだ汚れがついているのに気がついた。血だった。それも人の手形をしている。
私は表面を粗く削っただけの粗末な木戸を引いた。物置代わりの一階と、二階に続く階段が小径から入ってくる光に浮きあがった。その階段の下に、楽師は血塗《ちまみ》れになって倒れていた。先の男に刺されて、ようやくここまで逃げてきたらしい。赤茶色の縮れ毛をした、私と同じくらいの年齢の男だった。私は楽師を抱き起こした。服の胸や腹の部分は血で黒く湿り、手足をびくびくと震わせている。傷ついた体から魂が出ていきたがっていた。男は、私のほうに汗と涙で霞《かす》んだ瞳を向けた。
「|善き《ボナ》……人《ジエンテ》ですか」
おかしなことを聞くと思ったが、私は、そうだ、と答えた。瀕死《ひんし》の男に、少なくとも自分は殺人者ではないと知らせたかったのだ。
楽師は体の下から琵琶に似た楽器を引きずりだして、私に押しつけた。先は犬の頭の彫り物となっていて、弦の爪《つめ》は獣の骨を使い、胴体の穴は花形の透かし模様が入っている凝ったものだったが、楽師の体に潰《つぶ》されて割れていた。楽師はそれを私に渡したことで安心したらしく、ぐったりと体の力を抜いた。
「おいつ」
死んだのかと体を揺すると、楽師は目をうっすらと開けた。
「コ……ンソラメンタム」
楽師は呟いた。
「なんだって」
「コンソラメンタム……コンソラメンタム……」
わけのわからない言葉を繰り返して、楽師は私の腕に縋《すが》りついた。
「お授けください……コンソラ……メンタム……お願い……します……」
楽師の顔は苦痛と絶望に歪《ゆが》んでいた。死んでいこうとしているこの男のために何かしてやりたくなった。コンソラメンタムの意味はわからなかったが、私はいった。
「与えよう」
苦しみに満ちた男の表情が一瞬のうちに溶けて消えた。無精髭《ぶしようひげ》の生えた楽師の口許《くちもと》に安堵《あんど》の微笑《ほほえ》みが広がり、そのまま永遠に凍りついた。
私は男の体を階段に横たえて、楽器を見た。楽師は私に渡したかったらしいが、血塗れの壊れた楽器をもらってもしかたがない。それを男の胸の上に置いてやろうとして、中に何か入っているのに気がついた。
胴体の割れ目の間から、奥に挟まれたものが見えた。手を突っこんで引きだそうとしたが、木を刳《く》り抜いて楽器を作った時、一緒に嵌《は》めこんだらしく、しっかりとくっついている。男の奏でる調べがひどく耳障りだったのはこのせいだったのだ。私は楽器を階段に打ちつけて、まっぷたつにした。
隠されていたのは分厚い木の板だった。掌《てのひら》ほどの大きさで、厚さは指二本分はあり、表には何かの絵が描かれている。板絵の周囲は黄金の薄板で額のように縁取られ、赤や青や緑色の宝石がちりばめられていた。ひっくり返すと、黄金の薄板は絵の背面全体を覆っていた。金目のものにはちがいなかった。私はそれを腹に巻いた革帯の下に押しこんだ。冷たい金の感覚が腹に伝わってきた。私は下腹に力をこめて、外に出た。家の軒に仕切られた細長い青空に太陽がかかっていた。薄暗い小径に、筋のような日射《ひざ》しが射しこんでいる。
楽師の血に汚れた手を突きあたりの運河で洗っていると、「夏桂」と名を呼ばれた。振り返ると、マルコが小径の曲がり角からこちらに歩いてくるところだった。
「いったいどうしたんだ。楽師はどこにいった」
私は服の裾《すそ》で手を拭いて立ちあがり、楽師の倒れている家を指さした。
「殺されました」
マルコは家に飛びこんだ。戸口から覗《のぞ》くと、階段の下に倒れている楽師の体をまさぐり、何か探している。しかし、やがてあきらめて、家の外に出てきた。
「誰が殺したんだ」
「わかりません。頬に焼き印のある男でした。屠殺場の前からここまで楽師を追ってきて、その前の路地で殺したんです」
マルコは「刺客か」と呟くと、死体の転がった家の戸を閉めた。そして、感情を映さない土色の目で私を見つめて聞いた。
「楽師は何も持ってなかったか」
「いいえ」
私は答えた。その時にはもう、素肌に滲《し》みこんでくる金の板の冷たさは感じなくなっていた。
これまでに幾度となく人の死を見てきた。頭を割られ、のたうちまわっていた海賊、鮫《さめ》に喰《く》われて海に沈んでいった仲間、病の末に汚穢《おわい》にまみれて息絶えた友、老衰で眠るように逝った祖母。苦しみ、無念、悲しみ、安らぎ。戦いと病と貧困に覆い尽くされたこの世では、死の腕に身を委《ゆだ》ねる直前の人々の表情は、もう見尽くしたと思っていた。
しかし、あの放浪楽師のように歓喜に満ちた顔を見たのは初めてだった。コンソラメンタムとは何なのか。なぜ、楽師はあのように嬉《うれ》しそうに死んでいったのか。
その夜、蚤《のみ》の跳ねまわる藁床《わらどこ》に横たわり、私は何度も寝返りを打った。隣ではピエトロの鼾《いびき》が響いている。明かり取りの窓から月明かりが射し込んできて、床をぼんやりと白く浮かびあがらせていた。
私は手を伸ばして、藁床の下から楽師が隠し持っていた板絵を引きだした。
昼間は慌てていてよく見る暇もなかったが、板の表面には、頭の後ろに金色の輪をつけ、黒い被り物をした女の姿が絵の具で描かれていた。青色の地に黄金の太陽の刻まれた衣をまとい、月を踏みつけ、真珠でできた十二の星の冠を戴《いただ》いている。女の頭の周囲の金色の丸い輪と、衣服の中の太陽は本物の金の薄板で作られている。その金の薄板は、板絵の緑を四角く取り巻く額にも使われ、その上は色とりどりの宝石で埋められていた。翠玉《すいぎよく》や蛋白石《たんぱくせき》、紅玉、青玉が月明かりを反射して、妖《あや》しく輝いている。装飾は豪勢だが、中身は木のせいで見た目ほどは重くはない。
ポーロ家の三人の旦那《だんな》や、ニコラというドメニコ派の修道士が探していたのも、この板絵らしい。確かに美しくはあるが、東西の国々の美しい品で飾られたクビライの華麗な宮廷で暮らしていたポーロ家の旦那たちが血眼になって探すほどのものとも思えない。
私は板絵をひっくり返した。裏面を覆う金の薄板には、真珠貝を張って作った三弁の白い百合《ゆり》が嵌《は》めこまれていた。
私はまた板絵を表にした。板に描かれた女の姿を眺めているうちに、楽師の歌を思い出した。
太陽をまとい
月を踏み
波の彼方《かなた》よりきた女よ
確か、そんな歌詞が入っていた。あの男は、この板絵のことを語っていたのだ。そして、たぶん、そのために殺された。隠し持っているくせに、そのことを歌ってまわっていたから。どうしてそんなことをしたのだろう。
宝石や真珠に飾られた板絵を指で撫《な》でていると、床板の鳴る音がした。私は素早く板を藁床の下に押しこんだ。ピエトロは相変わらず軒をかいて眠りこけている。誰かが屋根裏に上がってきたのでもなさそうだ。それでも用心してじっと動かずにいると、下のほうから低い声が流れてきているのに気がついた。
「ラトラボン カストラボン ティエル ベラー エ トュウル」
意味はわからないが、女の声だった。女中部屋で何かしているらしい。私は音をたてないように床に降りた。
屋根裏の床には、あちこち節穴が開いている。私とピエトロは時折そこから、若いルチーアが体を拭《ふ》いたり着替えをするさまを覗《のぞ》いていた。女に触れる機会なぞまずない私たちは、その林檎《りんご》のような乳房や、柔らかな白い肌を眺めるだけで、どうしようもないほど興奮した。陰茎をしごきながら穴にかがみこみ、白い血を迸《ほとばし》らせたことはしょっちゅうだった。
近くの節穴に這《は》っていって、私は三階を覗いた。暗い部屋に、ふたつの蝋燭《ろうそく》の光が揺らめいていた。蝋燭を手にしているのは、モネッタとパオラだ。二人とも裸で、油でも塗っているのか、全身てらてらとぬめっている。台所で寝るモネッタがここにいるのも、ルチーアが消えているのも不思議だった。
「ラトラボン カストラボン ティエル ベラー エ トュウル ラトラボン カストラボン ティエル ベラー……」
呪文《じゆもん》のような言葉を繰り返し、二人の女は足音を忍ばせて部屋を円を描いて巡っていた。白髪混じりの髪を背中に垂らしたモネッタの弛《たる》んだ腹の上で大きな乳房が弾けている。パオラは、まだ男も知らない小娘だ。固い乳房は胸に張りつき、尻《しり》も李《すもも》のようにこりこりしていた。いくら女の裸とはいえ、この二人では陰茎は立たない。私は半ば興味を失ったが、覗くことをやめはしなかった。
二人は何度もそうして部屋を巡っていたようで、溶けた蝋の白い滴が床に円形に落ちていた。覗き穴のほうにも、獣脂の蝋の燃える鼻を衝《つ》く臭いが漂ってきた。
やがてモネッタが、はあっと息をついて粗末な寝台に腰を下ろした。それを見て、パオラも隣に座った。
「精霊さまは、願いを聞き届けてくださるかしら」
パオラが声を細めて聞いた。モネッタは蝋燭を床に置いて頷《うなず》いた。
「今夜は三日月だし、五人の精霊さまの名前も間違えてない。大丈夫、きっと聞き届けてくださるよ」
パオラは自分の蝋燭を吹き消し、裸のまま敷布の下にもぐりこんだ。
「でも、こんなことをしてるのが見つかったら、火炙《ひあぶ》りでしょ」
布きれで汗とも油ともつかないものを拭いていたモネッタは「まあね」と暗い声で返事した。
「だけど、この暮らしから抜けだすのに、他にどんな方法があるというんだね、パオラ。神さまがお救いになるのは、助かる見込みのある者だけ≠ウ。あたしたちみたいな者は、助けてくださるおかたに縋《すが》るしかない」
パオラは小さく頷いた。栗色の髪に、少し上向いた鼻をしたこの少女は、黒海の近くのカウカソから売られてきた。親が金欲しさに娘を手放したのだと、モネッタから聞いていた。
「あたし、お金持ちの奥さんになったら、絹の蒲団《ふとん》で寝るんだ」
敷布の中から出した手を祈るようにこすり合わせて、パオラはいった。
「マルタさまみたいに薔薇水《ばらすい》つけて、毎日、おいしいものをいっぱい食べて、タルタル人の奴隷をお供にして買物に行くの」
「あたしは田舎に家を持つよ。小さな家でいいんだ。鶏と牛と羊を飼って、一人で暮らしていけるだけのものがあればいい」
その時、喉《のど》に痰《たん》の詰まったような笑い声がした。パオラが小さな悲鳴をあげて、モネッタにしがみついた。階段がみしみしと鳴って、誰かが部屋に入ってきた。
「魔術なんて、効きやしない」
ルチーアの声だった。モネッタはパオラの縮れた頭の毛を撫《な》でて、むっとしていい返した。
「効くか効かないか、どうしてあんたにわかるんだよ」
「考えてもみなさいよ」
ルチーアが寝台に近づき、私の視界に入ってきた。手に燭台《しよくだい》を持ち、黄ばんだ下着を着ただけの姿で髪を乱して立っている。蝋燭の灯《ひ》に照らされた顔は生気がなかった。
「もし魔術が効くのなら、モネッタ、あんたは田舎からこんなところに出てくることはなかったでしょ。亭主の遺《のこ》した小さな家で今も呑気《のんき》に暮らしていたんじゃないの」
モネッタはルチーアから顔を背けて、床に落ちていた自分の下着を着始めた。ルチーアは寝台|脇《わき》の長持に燭台を置くと、きょとんとしているパオラに皮肉な笑みを送った。
「モネッタはね、ヴェネツィアの北にあるフリウリって田舎に住んでいたのよ。こっそり魔術や呪《まじな》いやらをして、食べ物もらって暮らしていたんだよ。ところがそれが教会の司祭さまの耳に入った。異端審問にかけられると脅されて、慌てて逃げてきたわけ。魔術が効くなら、そんなへまなことにならないように、悪魔に頼めたはずじゃないかしら」
パオラは怪訝《けげん》な顔で隣のモネッタを見た。モネッタは右手でパオラの頬《ほお》を優しく包みこんだ。
「悪魔さまだって、忙しい時があるだろうさ」
ルチーアは鼻先で笑って、下着を脱いだ。枇杷《びわ》の実に似た青白い乳房が現れ、私の股《また》の間が熱くなった。ルチーアは裸になると、パオラの隣に横たわった。
「誰もあたしたちを救ってくれやしないわ。パオラも肝に銘じておくことね」
パオラがモネッタにしがみついた。モネッタはその肩を抱いて、咎《とが》めるようにいった。
「パオラはまだ子供なんだよ。この先、どうなるかわからないじゃないか」
「この娘の行く末は決まっているよ。もう少し大きくなって女になったら、旦那《だんな》さまの部屋に呼ばれるのさ。そして、いいように体をいじられて、ことが終わったら、部屋から追いだされるのよ」
パオラはますます固くモネッタにしがみついた。モネックは、奴隷娘の体越しにルチーアを睨《にら》みつけた。
「あんた、この娘にもう少し優しくなれないものかい」
「お金持ちの奥さんになるなんて、叶《かな》いもしない夢を見せてやるのが優しさとは思わないわ」
モネッタはそれ以上、何もいわず、パオラを寝床に入れると階段のほうに歩いていった。料理女の足音が消えると、ルチーアは燭台の灯を吹き消した。女中部屋を照らすものは、窓の月明かりしかなくなった。小山のような寝台の陰から、啜《すす》り泣きが洩《も》れてきたが、それがパオラかルチーアか、どちらの声なのかはわからなかった。私は節穴から離れて藁床《わらどこ》に戻った。
女はいつも誰かの救いを待っている。
目を閉じて眠ろうとしながら、私は思った。
あの娘たちもそうだった。泉州《ザイトウン》から、ポーロの旦那たちと一緒にペルシアに旅だった二人の姫。一人は、イル・ハン国のアルグン王の後妻になることになっていたコカチン。もう一人は宋《そう》の王の娘、春花《チユンホウ》。元《げん》帝国に宋が滅ぼされてから、人質のような形でクビライの宮廷で育てられていた春花は、遠いペルシアの地で死ぬまで暮らすことになるコカチンの話し相手に選ばれたのだ。イル・ハン国に着いたら、アルグン王が適当な夫に娶《めあわ》すことになっていた。
私たちは四本帆柱の大きな船を十四|艘《そう》連ねて、盛大に海に乗りだした。しかし、そのうちのほとんどは途中の港までいく商船だったし、何艘かは嵐《あらし》に見舞われたり、海賊に襲われたりして座礁してしまい、姫に仕える者も、病や海の過ちで死に、どんどん減ってきた。
そこで宋の言葉の使える私は春花姫の世話をするようにと、ポーロの旦那から貸し与えられたのだった。春花は最初こそ奴隷の私には目もくれなかったが、やがて船旅の無聊《ぶりよう》を慰めるために、今では蒙古《もうこ》人や漢人が卑しめて蛮子《マンツー》と呼ぶ南宋のあった地方の話をしてくれと私に命じるようになった。幼い頃に大都《カンバリク》に連れていかれたため、春花は故郷のことはよく覚えてなかったからだ。
かつての宋の首都、臨安《キンサイ》がいかに美しいか。湖と川に挟まれ、運河が細い道のように張り巡らされ、帆船や平底船が石の橋の下を通って、行き来していること。町のあちこちに建つ石の塔、この世のありとあらゆる品物が手に入る市場のこと。付近の豊かな町や村のこと。樟脳《しようのう》のとれる木のある森のこと。その奥から現れる人肉|喰《く》いの部族のこと。半ば自分の目で見たこと、半ば他人に聞いたことを、私は語った。金と赤と緑に塗られた船室で、春花はコカチンと一緒に天鵞絨《ビロード》張りの長椅子《ながいす》に座り、侍女の団扇《うちわ》で扇《あお》がれながら私の話に聞き入った。
ペルシアになんか行きたくない、臨安に戻って暮らしたい。春花が呟《つぶや》き、コカチンは絹布で額の汗を拭《ぬぐ》って頷《うなず》く。私だってアルグン王みたいな年寄りの妻にはなりたくないの。まるで自分自身の葬式に向かっているみたいな気持ちだわ。しかし、船室の窓の外に広がるのはどこまでも青い海。二人の姫は大海原に捕らわれている。
いっそ、この船が難破してしまえばいい。そしたら私たちは白い蝶《ちよう》となって故郷に戻っていくでしょう。そういって二人は抱きあってさめざめと泣いた。
だが、いざ嵐がきて、船が大きく揺れ、難破しそうになると、コカチンも春花も震えあがった。夏桂、夏桂、ここに来て、私たちと一緒にいてちょうだい。春花は、その細い腕を私に差しだして叫んだものだった。
決して冬の訪れることのない南の海を、船はひたすら陽の沈む方角に向かって進んでいた。そうするうちに、ジョヴァンニーノの背が頭ひとつ分も伸び、出発の頃はまだ少女といってもよかった二人の姫は匂《にお》いたつような娘に成長していった。当然のことだった。泉州を船出して二度目の年が過ぎていた。
私たちが印度《インド》を船出した頃には、船はもう一艘だけとなっていた。船員は三十人を割り、二人の姫のお付きも残ったのは二人だけ、アルグン王の使節として新しい后《きさき》を迎えにきたイル・ハン国の貴族も三人のうち二人までは死んでしまっていた。船に遺《のこ》された者たちに、旦那も姫も奴隷もたいした境はなくなった。
私を連れて逃げてちょうだい。おまえだけが頼りよ。ペルシアに近づくに従って、春花は切羽《せつぱ》詰まったように私に頼むようになった。
私は心を動かされた。春花は美しい娘だった。刀の先で彫ったような目と柘榴《ざくろ》色の唇、白磁の肌を持っていた。ペルシアに着いたなら、姫を攫《さら》って、東に戻る船に乗ろう。命に代えても、春花を臨安に連れていってやろう。私はそう考えるようになっていた。
あれは恋と呼べるものだった。それを認めるには春花は若すぎたし、私は女との経験を積みすぎていたが。
ペルシアの港ホルムズに着いてみると、イル・ハン国のアルグン王はすでに死んでいた。そのため年寄りの王ではなく、その若く逞《たくま》しい息子のガーザーンに嫁ぐことになったと聞かされるや、コカチンは喜んだ。同い年の娘が幸せそうにしているのを見て、春花の気持ちは揺らいだようだった。それに、辛《つら》い船旅の後のイル・ハン国の官廷は桃源郷そのものだった。外は草木も燃えるほどの暑さではあるが、豪奢《ごうしや》な宮殿の中は涼しく、金糸銀糸で織られた絨毯《じゆうたん》や布で飾られている。泉の水が心地よい音をたてて流れ、極楽鳥や鸚鵡《おうむ》が放し飼いにされていた。そして身の回りの世話をしてくれる奴隷を十人も授けられると、春花は私を再びその一人としてしか見なくなった。アルグン王の後を継いだ摂政から、貴族の若い子弟の一人に娶すと告げられて、嬉《うれ》しそうな顔すらした。
春花は自分の不安を取り除いてくれる者が欲しかっただけなのだ。船の中では、適当な者がいなかったから、私に救いを求めた。しかし、船旅の恐怖が過ぎ去り、奴隷よりも頼りになりそうな貴族の子弟が現れると、私はもう必要なかった。
別れの時、二人の姫はポーロの旦那たちと抱きあって悲しんだが、私のほうに目を向けることもなかった。
ヴェネツィアに着いてしばらくして、コカチン姫はガーザーンとの婚礼後、病気に罹《かか》って死んでしまったという知らせが伝えられた。ポーロの旦那方の会話からそのことを知った私は、しばし春花のことを想《おも》った。ペルシアに一人遺された春花は、ますます強く夫に縋りついていることだろう。
女はいつも手近にある一番太い綱に縋りつく。自分で藁を縒《よ》りあわせ綱を作り、そこから這《は》いあがろうとはしない。男の腕に抱えられ、自分の運命を変えることばかり考えている。そうして男の手から男の手へ、自分の運命を託して漂っている。だが、女が縋りつく男もまた、波間を漂う浮き草にすぎないのだ。
夏は蝸牛《かたつむり》のようにゆっくりと着実に暦の上を這っていった。太陽の勢いは日ましに衰え、朝晩、冷えこむようになった。ポーロ家の屋敷の窓の木扉は夜になると閉められ、朝、屋根裏から、開け放された窓の中を覗《のぞ》きこむ私の密《ひそ》やかな愉《たの》しみは奪われた。
夏の終わりは人を憂鬱《ゆううつ》にさせるのか、ニッコロとマフィオの兄弟はますます出不精になって、マルコや若ニッコロに商いの助言を時々与える他は二人で部屋にこもって昔話に耽《ふけ》り、マフィオの妻のマルタは夫に夜伽《よとぎ》を期待するのをあきらめたらしく、薔薇水《ばらすい》をふりかけて仕立屋に足繁く通うのを止めた。そして、義兄の孫のマルコリーノの面倒を見たり、その母親のイザベッラと一緒に噂話《うわさばなし》に時を潰《つぶ》している。そしてカテリーナは相変わらず赤ん坊を抱いて頑《かたく》なに部屋にこもり、ジョヴァンニーノはラテン語の授業に脂汗を流し続けていた。
精力的に動いているのは、マルコと、その従兄弟《いとこ》の若ニッコロだった。二人はリアルト橋の広場に出かけては噂話を集め、一階の執務室で商品の発注や発送の相談をしたり、雇い人のつけた帳簿を調べたり、ネグロポンテとコスタンティノポリにあるポーロ家の商館にいる親戚《しんせき》に手紙を送ったりして、日々を忙しく過ごしていた。しかし、年も同じくらいとはいえ、いざという時に大きな賭《か》けを好むマルコと、地道で着実な商売を望む若ニッコロはことあるごとに衝突していた。双方とも年季の入った商人だけに、派手な喧嘩《けんか》になることはなかったが、執拗《しつよう》な言い合いの声が中庭にまで聞こえてきた。
マルコと若ニッコロの諍《いさか》いは、ポーロ家に流れるぎくしゃくした空気が表に出てきたものともいえた。私にも、元《げん》の国に滞在していたニッコロ、マフィオとマルコの三人と、彼らの留守中、故老マルコを中心に商いを続けてきたポーロ家の者たちの間には相容《あいい》れないものが横たわっているのは感じられた。三人の旦那《だんな》はあまりにも長い間、家を離れすぎていたのだ。身内の者たちは、三人の不在に慣れてしまっていた。突然、見知らぬ男たちが家族だと名乗り出てきたようで、戸惑うばかりだったのだ。
そんな屋敷の空気が、一時的にしろ一変したのは、海を渡る風も涼しさを帯びるようになった頃だった。
「ほぉーい、ほぉーい」
正餐《せいさん》の後かたづけも終わり、私たち奴隷や下女、カテリーナの娘の乳母、ポーロ商会の見習い少年と走り使いの少年たちが台所で野菜汁と麺麭《パン》の遅い食事を摂《と》っていると、中庭から声がした。窓の近くだった私とピエトロが覗くと、旅に出ていたステーファノだった。青地に金色の裾《すそ》模様のついた上衣を着て、頭には布をかぶり金の環《わ》で留めている。回教徒に似た格好が、蒙古《もうこ》人の血の混じる顔に似合っていた。
「ジョヴァンニーノーォ」
ステーファノは、口に手をあてて陽気に弟の名を呼んでいる。
「兄さんっ」
南東の角の部屋の窓からジョヴァンニーノが顔を出した。ステーファノが降りてこいというように手を振り、ジョヴァンニーノの顔はすぐに窓から消えた。正面玄関に続く柱廊から、ステーファノと一緒に旅していた若マフィオが現れた。こちらは、白い帽子に赤紫色の上衣と白の長靴下というヴェネツィア商人らしい出《い》で立ちだ。しかし赤く日焼けした顔は、海暮らしの長さを物語っていた。
「ピエトロ、皆に伝えてくれ。若マフィオとステーファノが、無事アレッサンドリアから帰ったとな」
若マフィオは、窓から見下ろしている私たちに命じた。
「それから、|見習い《ガルツオーネ》たちに荷卸しの手伝いに来いといってくれ」
「はい、旦那さまっ」
ピエトロが威勢良く答えて引っ込んだ。
台所の長い食卓のまわりに座った見習い少年や召使いたちは、慌てて残りの麺麭や野菜汁をかきこんでいた。商品を携えてポーロ家の誰かが船旅から戻ると、俄然《がぜん》、忙しくなる。それがわかっているから、皆ぎりぎりまで粘って、腹にものを詰めこんでいたいのだ。私も野菜汁の鉢を抱えこんだ。しかしすでに食事を終えていたピエトロは容赦なくいった。
「おれはニッコロさまとマフィオさまのところに知らせにいく。ルチーアは若ニッコロさまに、パオラはカテリーナさまの部屋に伝えてくれ。夏桂は、マルコさまの役だ」
「はい、旦那さま」
ルチーアはピエトロに命じられたことが不快なように厭味《いやみ》ったらしく返事した。ピエトロは丸い顔に細かな皺《しわ》を寄せて笑った。
「はあ、旦那さまといわれるのは、やっぱり気持ちのいいもんだな」
モネッタやパオラがくすくすと笑い、ルチーアは露骨に不機嫌な顔になった。
私は空になった鉢を置くと、台所を出た。マルコの住まう南の塔にいくには、裏階段から三階に出て、それから中庭をぐるりと回りこんで通り広間を横切り、控えの間を過ぎて四階に続く階段を昇ることになる。台所から最も遠く、不便な場所だった。
正餐後、ポーロ家の誰もが部屋に入って午睡を貪《むさぼ》っている時間だ。いつも騒いでいるマルコリーノも昼寝しているらしく、三階の通り広間は静かだった。広間の控えの間から薄暗い階段室に入ると、石段が四角い塔の壁に沿ってつけられている。まだ新しいこの家の石段の縁は白紙につけた折り目のように直角になっている。滑りやすいので、私はゆっくりと石段を昇っていった。
「楽師を殺した刺客はまだ見つからないのか」
部屋の入口に達した時、中から声がした。楽師と聞いて、私は足を止めた。リアルト橋の裏手で楽師が死んでいるのを見つけて以来、マルコはそのことは忘れたかのような態度を取っていた。楽師が持っていたものについては、二度と問い質《ただ》すことはなかったし、私を呼び立てて探しもののお供をさせることもなくなっていた。それで私は安心して、未だあの板絵を隠し持っていた。
「まだです。手を回して、〈|夜の紳士《シニヨーリ・デイ・ノツテ》〉には頼んでおいたのですが」
マルコが返事している。〈夜の紳士〉とは、ヴェネツィア共和国の密偵だ。陰謀や毒殺、殺人のことを探り、たまには自らもそれに手を染めることもあると聞いていた。私はそっと足を進めて、樅《もみ》の木の扉に耳をつけた。
「〈夜の紳士〉に頼んだりして、下手にこちらの腹を探られるんじゃないかね」
最初の声の主がいった。どうやらマフィオらしかった。
「大丈夫ですよ。彼らには、楽師を殺した男は、元の皇帝から戴《いただ》いた我家の宝物を奪い取ったのだといってあります。見つけたら早速、わたしのところに教えにくるように頼んでいます」
「その楽師がほんとうに運び人だったら、のことだろうがな」というニッコロの呟《つぶや》きが聞こえた。午睡しているとばかり思っていたニッコロもマフィオも、この塔の上にわざわざ足を運んでいたのだ。
「刺客が送られたこと自体、楽師が〈大鍋《おおなべ》〉を運んできたという証拠じゃないかな、兄さん」
マフィオの応酬に、ニッコロの返事はなかった。代わりにマルコがいった。
「そしてそれは、わたしたち以外であれを探している者がいる証拠でもある」
部屋の中が静かになった。三人それぞれ考えに耽《ふけ》っているようだった。私は潮時だと思い戸を叩《たた》いて中に入った。
マルコの居室は、南北二方が窓になっている。いつもなら明るい日射《ひざ》しがふんだんに入りこんでいるのに、今は窓を分厚い緑の繻子《しゆす》布で覆って薄暗くしていた。部屋の中は、この家のどこも似たりよったりだ。壁際には天蓋《てんがい》つきの寝台、その隣には書き物机。入口近くには、船旅を描いた彫り物のある大きな戸棚と長持が置かれていた。戸棚の前には細長い机と長椅子《ながいす》と肘掛《ひじか》け椅子があり、三人の旦那は、そこに座っていた。
「若マフィオさまとステーファノさまがお帰りです」
私の知らせに、ニッコロは喜び、椅子を尻《しり》で押すようにして立ちあがった。マルコは早速、窓辺に歩いていって、布をかき分けて中庭を見下ろした。長身を曲げて正面玄関のほうを覗《のぞ》いていたが、すぐに薄い唇に微《かす》かな笑みを浮かべ、父と叔父《おじ》を振り返った。
「商品を運びこんでいるところです。荷も無事、着いたらしい」
異母弟二人の安否よりも、商品の無事をまず確かめるところがマルコらしかった。マルコは父と叔父に「先に行ってますから」と言い訳して、部屋を出ていった。
東から戻ってきて以来、めっきりと足腰が衰えたニッコロは、私に腕を差しだした。私はその太った体を支えて、マフィオの後から部屋を出た。
「さっきのマルコの話、どう思うかね」
ニッコロの言葉に、階段を降りかけたマフィオが警戒するように私を見た。額に垂れさがった白髪混じりの栗毛の下で、マルコに似た鋭い視線が光っている。時々、私はマルコの実の親はマフィオではないかと疑ってしまう。血の繋《つな》がりというものは伏流水に似ていて、思わぬところに湧《わ》きでるものだ。
「夏桂には〈大鍋〉といっても、何のことだかわからんよ」
ニッコロは悪戯《いたずら》っけの混じる瞳《ひとみ》で、そうだよなあ、夏桂、と蒙古語で私に聞いた。
「はい、旦那さま」
私は無邪気に答えた。皆が探しているものが〈大鍋〉と呼ばれているとはわかったが、実際、それが何かは想像もつかなかった。楽師の持っていた板絵は、どう考えても鍋と呼ばれるものではないところを見ると、ポーロ家の三人が探しているのは、また別のものかもしれなかった。
マフィオはそれでも慎重にいった。
「あれを探している者は多い。用心するに越したことはない」
「わしはな、マフィオ」
ニッコロは階段に足を踏みだした。
「もしかしたら〈大鍋〉は、この世には存在しないのではないかと思うんだ。わしらは伝説やら噂《うわさ》やらに踊らされているだけではなかろうか」
「教会は、あるといっている」
マフィオは兄の後ろで、きっぱりといった。
「教会がいっているということは、神さまが請け合っていなさるということだろう」
マフィオは、東に行った三人の中では最も信心深い男だった。船が嵐《あらし》に見舞われたり、乗組員の誰かが死んだりすると、肌身離さず持っているクリストの像に跪《ひざまず》いて、ぶつぶつと祈りを捧《ささ》げていた。
自分の足許《あしもと》を見つめて、一段一段、ゆっくりと階段を降りながらニッコロは「うむ」と唸《うな》った。
「世界を巡り、すべてを見た者は、ものを信じなくなる=v
マフィオは太い声で格言らしき言葉を口にすると、階段をたったと降りて、兄を追い越した。
「だが、信じるものをなくした人間には地獄が待っているだけだ」
そして、先に行っていると付け加えて、階段を降りていった。マフィオが階段室から出ていくと、ニッコロは私に聞いた。
「おまえは地獄があると思うか」
私はこの前、マルコについていった教会の前で聞いた説教を思い出した。あの話から察すると、ヴェネツィアの人間のいう地獄とは、花旭塔《はかた》の印度の神を祀《まつ》る寺の僧侶《そうりよ》が語っていた地獄とよく似ていた。子供の時、父のお供をして寺に行った時によく聞かされたのだが、生きている時に悪いことをした人間は、死ぬと地獄に連れていかれ、鬼にやっとこで舌を抜かれたり、煮え立った釜《かま》で茹《ゆ》でられたり、剣の山の上を歩かされたりするのだということだった。
「死んで体のなくなった人間をどうやって苦しませるのかわかりません」
私は、ニッコロの肘《ひじ》を両手で支えながらいった。
「ほう」と、ニッコロはおもしろがるように私のほうを見た。先を促された気がして、私はつけ加えた。
「苦しむのはいつも体です。叩《たた》かれると痛むのは背中の皮だし、向こう脛《ずね》をぶつけて痺《しび》れるのは骨です」
「心が苦しむということもあるんじゃないかね」
私は考えるために黙った。かつん、かつんという足音がひんやりした階段室に響いた。
父母や弟妹が処刑された時は、確かに私の心は苦しんだ。死んだ家族がやってきて、知らないうちに私の心を噛《か》んだからだ。噛まれた傷は五つもあった。どの傷も血を流し、やがて膿《う》みはじめた。なんという苦しみだったことだろう。私の心はずたずたに切られ、火で炙《あぶ》られたように痛み、夜も眠れなかった。しかし、生まれた子のほとんどが、大人になる前に病や事故で死んでしまう世の中だ。肉親の死はどこにでも転がっていた。世の他の者と同じように、その傷もまた体についた傷と同じように時が過ぎるにつれて癒《い》えていった。
「心は、体の中にあるものです。体の一部分なんです。だから死んだら、心も体も土に帰ります。痛みを感じるものは、全部消えてしまうんじゃないでしょうか」
「そしたら、人が死んだ後にはなにが残るというのだね」
いつかニッコロは真面目《まじめ》な表情になっていた。魂だ、と答えようとして、私は自分の頭の中をさらけ出しすぎたのに気がついた。
「灰だけです」
私は答えた。
「ならば、地獄で悪魔どもが苛《いじ》めているのは、人の形をした灰というわけか」
もじゃもじゃと灰色の鬚《ひげ》の生えた顎《あご》を上げて、ニッコロは笑った。
「おまえも世界を見過ぎたようだ」
老人に従って塔を降り、二階の玄関から露台に出ていくと、中庭ではすでに商品の荷卸しが始まっていた。帆船から一旦《いつたん》、平底船に積み換えられた木箱や樽《たる》が、次々に正面入口の船着き場に到着し、人足たちの手によって庭に運びこまれている。
「これは小麦の樽だ。井戸の前に集めてくれよ。おっと、その原綿の箱は、ここに置いてくれ」
ステーファノが回教徒風の頭かぶりを翻して、中身別に木箱や樽を置く場所を指示して回っている。若マフィオはマルコと一緒に商品を改め、数を数え、雇い人に書きつけさせている。確認の終わった商品は、若ニッコロの指示の許に、他の雇い人や見習いや使い走りの少年たちによって中庭に面した倉庫にしまわれていた。
玄関前の露台は、屋敷の東の棟と西の棟を繋《つな》ぐ形で南棟の二階の屋上に設けられている。そこから中庭全体が見晴らせるので、知らせを聞いて出てきたマルタやイザベッラ、カテリーナの三人の女たちがすでに集まり、手すりから身を乗りだすようにして作業を見守っていた。昼寝をしていたのがよくわかる少し乱れた髪のマルタは腕にマルコリーノを抱いている。子供のないマルタは、次の子供を生まなくてはならないイザベッラの代わりに、もっぱらマルコリーノの世話をしている。きっと今も一緒に横になっていたのだろう。イザベッラは、そんなマルタと囁《ささや》くように会話を交わしている。カテリーナはひたすら夫を目で追っていた。白絹の上衣から出した手は興奮のために揉《も》みあわされ、いつも青白い頬《ほお》にも赤味が射《さ》している。
「夏桂、こんなところでぼさっとしてないで、早く荷物運びの手伝いにいったらどう」
ニッコロの後ろに立っていた私を見つけたイザベッラがいった。イザベッラは、下僕が手持ち無沙汰《ぶさた》にしていたら、用を作ってでも働かせることを信条としている。ポーロ家の女たちの中では最も口うるさい部類だった。
「はい、奥さま」
私は早足で階段を降りていった。見ると、ジョヴァンニーノもピエトロも、すでに荷物運びの手伝いに加わっている。ジョヴァンニーノは兄の帰還がいかにも嬉《うれ》しいらしく嬉々《きき》として働いていたが、ピエトロは大儀そうにゆっくりと動き、怠けようとしているのが丸見えだった。私もそれに混じって中庭に積みあげられた商品を、煉瓦《れんが》壁の剥《む》きだしになった薄暗い倉庫の中に運びはじめた。どの箱や樽も長い間船倉に置かれていたもの特有の黴《かび》と潮の混じった匂《にお》いがした。
「原綿十箱、生姜《しようが》二樽、肉桂一樽、胡椒《こしよう》三樽、丁子《ちようじ》一樽、没薬《ミルラ》一樽」
商品の品目と数量を読みあげる雇い人の単調な声が響いている。私はそれを聞きながら、ポーロ商会の雇い人の命じるまま、倉庫の奥の隙間《すきま》に商品を押しこんでいく。やがて買い手が見つかれば、これらの商品はパドヴァやトレヴィーゾといった近くの都や、インギルテッラやフランチア、スパーニヤといったさらに西の国に運ばれていくのだ。
「干し葡萄《ぶどう》三樽、乳香一箱、砂糖五樽……奴隷四頭」
奴隷と聞いて、おや、と思った。ポーロ家の商品に奴隷が混じることはあまりなかった。私はそそくさと荷物を置くと、倉庫から出ていった。
中庭にはすでに人足たちの姿はなく、最後に荷揚げされたらしい手枷《てかせ》をつけられた奴隷が四人、井戸の前に立っていた。腰巻きだけ身につけた黒髪の男と黒い肌の男、残る二人は下着ともつかぬ破れた服を着た女たちだった。皆、裸足のまま、無表情で庭に生えた木のように立っている。四人の前には、若ニッコロやマルコが立ってじろじろと品定めしている。奴隷たちの横で若マフィオがいった。
「実は、こちらから持っていった絹織物を買ったアレッサンドリアの商人が、代金の代わりに寄越したんです。こちらはスパーニヤ人で、子供の時に海賊に攫《さら》われたそうです。このムーア人と二人でエジツトの奴隷部隊から逃げだしたくらいで、若いし、健康です。二人の女は太守の後宮から逃げてきたらしいです。一人はペルシア人で、もう一人はタルタル人。すぐに買い手はつくと思いますよ」
タルタル人と聞いて、露台に立っていたニッコロが身を乗りだした。
「|どこから来たのだ《ハーナース・イルスンベー》」
蒙古《もうこ》の言葉で聞かれて、女は何か答えた。しかし声が小さすぎてニッコロのところまでは届かない。顔をしかめた父親に向かって、ステーファノが告げた。
「沙州《サチユウ》ということです」
いつの間に来ていたのか、私の横でピエトロが囁《ささや》いた。
「沙州の女は美人が多いぞ」
実際その女は垢《あか》でうす汚れてはいたが、小さな頭や華奢《きやしや》な手足からすると美しい感じはした。
ニッコロはゆっくりと階段を降りてくると、奴隷のところに歩いていった。そして、女の頭の先から爪先《つまさき》までじっくりと検分した。女奴隷は木像になったように身じろぎもしない。その様子をポーロ家の家族も、雇い人たちも黙って眺めていた。
「わたしたちが帰ってきたので家族が増えて、人手が足りないとモネッタがこぼしていたな」
ニッコロは誰にともなく大声でいった。
台所の窓から中庭を覗《のぞ》いていたモネッタが慌てて顔を隠し、マルタとイザベッラが困ったように目配せをした。蒙古人の妾《めかけ》に生ませた子供を二人も連れ帰ったニッコロだけに、次にいいだすことは誰もが予見していた。
「この娘は、家の奴隷にぴったりじやないか」
マルタが露台の手すりから身を乗りだしていった。
「タルタル人の奴隷なら、家にはもう二人もいますよ」
マルタは続けて、家にはさらにタルタル人の血の混じった私生児が二人もいるといいたかったことだろう。しかしニッコロは家長で、義兄にあたる。そこまでは口に出さなかった。
「だが、タルタル人の女奴隷はいないぞ」
ニッコロはマルタの意見を一蹴《いつしゆう》して、若マフィオに向き直った。
「この奴隷の売買証書はあるか」
若マフィオは、足許《あしもと》の鋲打《びようう》ちした小さな櫃《ひつ》を開き、中から丸めた紙を出して父親に渡した。こちらで使う羊皮紙とは違って、草で作ったらしい麻色の紙だったが、東の涯《は》てで使われているものともまた違っていた。ニッコロはそれを広げて、書かれていることを読みあげた。
「体に傷なし、関節は正常。歯は二本欠けている、か。しかし子供はないし、孕《はら》んでもいない」
ニッコロは売買証書を手にしたまま、蒙古の女に聞いた。
「|名前はなんだ《ネル・チニ・ゲデグ・ウエー》」
女は小さくかぶりを振った。名前はないといっているようだった。きっといいたくないのだろう。両親からつけられた名前で旦那《だんな》たちに呼ばれると、生まれた時から奴隷だった気持ちになる。自分の本当の名前は、自分自身のために取っておきたいものなのだ。
「そうか」
ニッコロは考えるように中庭の四角い青空を仰いだ。その場にいた者たちは釣られて、やはり空を見上げた。秋の初めの空には、白くて淡い雲が刷毛《はけ》ではいたように描かれていた。
「おまえの名前はマリアだ」
ニッコロは告げた。私のすぐそばにいたジョヴァンニーノが喉《のど》をごくりと鳴らしたのがわかった。ステーファノも、はっとしたようにニッコロを見た。
それはニッコロが大都に居た時に囲っていた蒙古人の妾の名前。ジョヴァンニーノとステーファノの母親につけたヴェネツィア風の名だった。
そのことを知っているマルコも何かいいかけた。しかし、ニッコロはわかっているというように片手を上げた。
「マリアには、わたしの身のまわりの世話をさせる」
それは、この女奴隷を自分の夜伽《よとぎ》にも召すということを暗に宣言していた。中庭に集まっていたポーロ家の面々の表情が翳《かげ》った。マフィオは苦難を忍ぶように片手の拳《こぶし》を胸にあて、若ニッコロは帳簿を持つ雇い人の陰で端整な顔をしかめた。若マフィオとステーファノはこうなった責任を押しつけあうように目配せを交わしている。マルタとイザベッラに至っては顔に怒りの表情すら浮かべていた。しかしマリアと名付けられた蒙古の女は、自分の周囲の波立ちには関心もないというように、団栗色《どんぐりいろ》の瞳《ひとみ》で無表情に宙を見つめているだけだった。
「アレッサンドリアの港には、天を突くほどの大灯台が立っているんですよ。篝火《かがりび》の燃えている頂上に昇ったら、エジット全土が見晴らせるって話です。そんなでっかいものが聳《そび》えているかと思ったら、市場は蟻の巣みたいにごちゃごちゃしているんです。うっかりすると、迷ってしまう。一日に何人もいなくなるそうです。ただの迷子ならいいけど、攫《さら》われて、ニーロ河を溯《さかのぼ》る船に乗せられることもある。聞いたことがあるでしょう、ニーロ河の上流にはやたら大きな三角形の古い墓が幾つも建っているということを。攫われた者は、そこに連れていかれて殺され、木乃伊《ミイラ》にされて、墓に押しこめられるんですよ」
ステーファノは一気にまくし立てると、銀の杯に入った葡萄酒《ぶどうしゆ》をごくりと飲んだ。そして舌で濡《ぬ》れた唇を舐《な》めて、草色の卵のようなつるんとした顔で家族を見回した。
「フランチアのある貴族が、アレッサンドリアから来た木乃伊の腕を一本、高い金で買ったそうです。胸の病によく効くというので、指の先を削って粉にして飲んでいたら、人差し指のところに指輪が嵌《は》まっていた。それはなんと、十字軍でジェルザレンメに行って戦死したと聞いていた息子に贈った指輪だったそうです」
まあ、といってマルタが太った白い指で口を覆い、若ニッコロは社交辞令に長《た》けた男らしくもの慣れた様子で眉《まゆ》をひそめた。隣ではイザベッラが平静な顔で肉をつまんで口に運んでいた。
そこは二階の玄関前の露台だった。広々とした露台の手すりには、場を華やがせるために、物置から出してきた貴族の狩りの様子を描いた織物が掛けられている。赤地に金糸の裾《すそ》模様のついた亜麻の布で覆われた食卓には、料理を盛った皿や葡萄酒の杯、麺麭《パン》の皿などが並んでいた。
若マフィオとステーファノが帰国して三日が過ぎていた。商品の整理も一段落したので、無事帰還を祝って内輪の祝宴を開いたのだった。
夏の暑さはすでに失《う》せ、爽《さわ》やかな風が柿色の瓦《かわら》屋根を越して二階の露台に吹きおろしてくる。祝宴には最適の日だった。白っぽい昼前の太陽が鱗雲《うろこぐも》の浮かぶ空から透明な光をまき散らしている。曲尺《かねじやく》型に置かれた細長い食卓には、蝸牛《かたつむり》の殼のような形の青い頭巾《ずきん》に灰紫色の上衣を着たニッコロを中心に、盛装したポーロ家の面々が集まっていた。盛装とは、できるだけ高価な布を身にまとうことだ。襞《ひだ》のたっぷりある長袖《ながそで》の上衣や丸帽子、女たちの被り物の色に満ちた露台は、仕立屋の店先さながらだった。
「ステーファノは巷《ちまた》の話を集めるのがうまいんです。回教徒の言葉も、向こうにいる間に喋《しやべ》れるようになってね、市場に出かけては、珍しい品物はなにかとか、信頼できる商人は誰かなどの噂《うわさ》を聞きこんできてくれる。いや、とても役に立ってくれましたよ」
若マフィオが微笑《ほほえ》んだので、濃い眉と眉の間がつながり、一本線になった。ステーファノは異母兄に褒《ほ》められ、嬉《うれ》しそうに葡萄酒を飲み干した。後ろで給仕していたピエトロがすぐに、ステーファノの杯に葡萄酒を注ぎ足した。
「商人とはそうでなくてはいかん。どこにいっても、まず街の市場で噂話を集める。ステーファノにはちゃんとヴェネツィア商人の血が流れておる」
ニッコロが満足げにいって、豚肉の切れをつまみ、浸《つ》け汁につけて食べた。私はニッコロの皿が空になったのを見て、給仕台から肉の大皿を運んでいった。今朝からモネッタが汗だくになって焼きあげた子牛肉と豚肉と山鶉《やまうずら》が載っている。それに牛の髄と麺麭|屑《くず》と胡椒《こしよう》で作った浸け汁をつけて食べるのは、このヴェネツィア付近の名物料理だということだった。ニッコロは食卓の掛け布で指を拭《ふ》くと、こんがりと焼けた山鶉を一羽つまんで、自分の皿に移した。隣でその様子を見守っていたマルコが口を開いた。
「いい商人の条件は他にもありますよ、お父さん。賭事《かけごと》、贅沢《ぜいたく》な食べ物、女には手を出さない」
女奴隷のマリアを自分と同じ寝室に寝起きさせていることをあてこすってのことだった。食卓を囲む家族の間に、さっと緊張した空気が流れた。しかしニッコロは山鶉をばりばりと噛《か》みくだいて平然と答えた。
「年寄りは、それより先大きくなれない=Bわしはもう今以上、いい商人になる必要はないんだよ」
そして渋面を作った息子に、はっは、と笑ってみせた。あまりにさばさばしたニッコロの態度に、マルコはマリアのことで責める気力をなくしたようだった。私に合図して、韮葱《にらねぎ》を煮た野菜の皿を持ってこさせて静かに食べはじめた。
「アレッサンドリアはさぞかし暑かったでしょう。小鳥だって、あまり高く飛ぶと、太陽に触って焼け死んでしまうって聞きましたけど」
イザベッラが話題を変えて、ステーファノに話しかけた。
「それはカムシンにぶつかった場合のことじゃないですか。砂漠のほうから吹いてくるその熱風にあたると、小鳥はばたばたと地上に落ちてくる。だからカムシンが吹くと袋を持って外に飛びだして、小鳥を拾ってまわるんですよ。それで一家二、三日分の食料になると、僕たちの使っていた回教徒の人足がいってました。このカムシンという風が、海を渡ってここまでくると、シロッコになって雨や霧を連れてくるんです」
「シロッコが吹くと、高潮になるんじゃないのかしら」
カテリーナが細い声で、隣の夫に尋ねた。若マフィオは麺麭のかけらを口に放りこんだ。
「そういうけどね。なにもシロッコが吹くたびに、ヴェネツィアが高潮になるわけじゃない。満月か新月と重なった時だけだよ」
「高潮なんて厭《いや》だわ」
マルタが流行のたっぷりした袖《そで》を翻して大仰に両手を広げ、白目を剥《む》きだした。
「道も広場も水浸しになって、外に出られなくなりますもの」
「そしたら買物に使う金が減って、ありがたいよ」
マフィオが口を挟み、最近のマルタの香料屋や仕立屋通いを知っている家族の中から笑いが起きた。マルタは頬《ほお》を膨らませたが、夫婦の仲の良さを見せつけるような夫の軽口をむしろ喜んでいる様子だった。
西の棟のステーファノとジョヴァンニーノの寝室に通じる扉が開いて、白い前掛けをつけたモネッタが現れた。台所からの近道になるので、露台での祝宴の時はこの兄弟の寝室が料理を運ぶ通り道となっている。モネッタは、半透明の茶色の塊を載せた皿を持って食卓の縁に立つと誇らしげにいった。
「雉《きじ》肉と鰻《うなぎ》のゼラチン寄せです」
それは、彼女の得意の料理だった。モネッタはこれを作るために、昨日から私に雉の羽を抜かせて仕込みをしていた。
「ほう、モネッタのゼラチン寄せか」
ニッコロが口許《くちもと》を綻《ほころ》ばせ、真っ先に自分の皿に料理を載せさせた。しばらく給仕係の私とピエトロとルチーアは大忙しだった。新しい料理を取るために、誰もが汚れた手を洗いたがったからだ。私たちは銀の水差しと盆を持って、ポーロ家の家族の間を回った。
「そうそう、聖マルコの遺体があったという教会を見ましたよ」
皆がゼラチン寄せを麺麭につけて食べはじめた頃、若マフィオの声が響いた。それで私は、アレッサンドリアは、聖マルコ教会に安置されているマルコという男の遺体を盗んできた都だったことを思い出した。
「どんなところだったのかね」
自分の名前に由来する男のことだけに、マルコが興味をそそられたように聞いた。
「アレッサンドリアから少し離れた海岸の崖《がけ》っぷちにあるんですけどね、もう荒れ果てて、崩れた壁しか残ってませんでしたよ。昔はずいぶんと栄えていた教会らしかったですけどね」
「神の家がそれほど荒れているのならば、反クリストはエジットから生まれるのかもしれない」
マフィオが、教会の説教師めいた言葉を呟《つぶや》いた。
「聖マルコの遺体は、どうしてアレッサンドリアなんかにあったのかしら」
マルタが夫のほうに首を捩《ねじ》った。マフィオはわかりきっているといわんばかりに、口の脇《わき》に皺《しわ》を刻んで薄く笑った。
「福音の時代の話だけどな、クリストさまが十字架にかけられてから、信者たちは弾圧されるようになったのは知っているだろう。ローマ帝国のネロ皇帝がクリスト教徒を松明《たいまつ》代わりにどんどん火炙《ひあぶ》りにした頃だ。マルコは、十二使徒の一人のピエトロと一緒にローマに行って、そこで福音の書を書いたんだ。その後、ピエトロに命じられてアレッサンドリアに主の教えを広めに赴いたんだよ」
「ネロ皇帝の頃といえば、クリストさまが十字架につけられてから、わりあい後の話ではないですか、叔父《おじ》さん」
若ニッコロが口を挟んだ。マフィオが、七十年くらい後のことだと答えたので、若ニッコロは細長い人差し指を唇の下に置いて、目を細めた。帳簿の不備や杜撰《ずさん》な荷造りを発見した時、この男はよくこんな表情をする。
「つまり、聖マルコは生きているうちには、クリストさまにお会いしてないということですね」
「いや、マルコはジェルザレンメの裕福な未亡人の息子でね、母親が自分の広い家をクリストさまの集会のために差しだしていたらしい。主が十字架につけられる前の最後の晩餐《ばんさん》も、このマルコの家で開かれたという。だからマルコは小さい時、主の顔や十二使徒の姿を見かけてはいるんだよ」
「それにしては、主の御言葉とか奇蹟《きせき》とかを、自分の目で見てきたみたいに書いていますね」
皮肉っぽい若ニッコロの言葉が終わらないうちに、マルタが再び夫に尋ねた。
「それで、聖マルコはなぜ亡くなったの」
「そりゃあ、きっと殉教したのだろうが……」
そこまでは知らなかったようで、マフィオは顔の横に垂れてきた頭巾《ずきん》の先を後ろに押し戻して曖昧《あいまい》に答えた。すると若マフィオが、「殉教ですよ」と相槌《あいづち》を打った。
「異教徒たちに首に縄をつけられ、アレッサンドリアの中を引きずりまわされたそうですよ。肉はちぎれて地面に飛びちり、道は血で赤く染まったということでしたよ」
「異教徒ときたら」
イザベッラが顔をしかめた。暇があれば部屋の壁にかかった半裸の男の像の前に跪《ひざまず》いて祈っている若ニッコロの妻は、異教徒を毛嫌いしていた。
「ヴェネツィアの商人たちが出かけていって、聖マルコの遺体を奪ってきたのも、当時、異教徒が手当たり次第に教会を壊しまわっていたからでしょう。商人たちは、回教徒を遠ざけるために、彼らの忌み嫌う豚肉の間に遺体を隠して持ちださなくてはならなかったほどだったというじゃないですか」
「その話ですけどね」
それまで話の輪から外れていたステーファノが身を乗りだした。
「修道院まで案内してくれた駱駝《らくだ》引きのいうところでは、ヴェネツィアの商人が運んでいったのは実はただの僧侶《そうりよ》の木乃伊《ミイラ》で、お布施を集めるために聖マルコの遺体だといいふらしていただけだったとか。あの三人の商人は阿呆《あほう》だから、それと信じて運んでいったんだって笑ってましたよ」
この若者の思慮は、いつも舌より半歩遅れてついていく。その点では、舌も思慮も足並みの揃《そろ》っているジョヴァンニーノが兄の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》で突っついたので、やっとステーファノもまずいことをいってしまったのを悟った。いくら信心より商いが大事なヴェネツィア人でも、都をあげて崇《あが》めている聖マルコの遺体が偽物だったと聞いて喜びはしない。
「まあ、易々と聖マルコの遺体を盗まれての悔し紛れなんでしょうけどね」
ステーファノはいいつくろったが、家族の会話は途切れてしまった。イザベッラは、この不信心のタルタル人が、という冷たい視線でステーファノを一瞥《いちべつ》して葡萄酒《ぶどうしゆ》を啜《すす》り、マフィオは仏頂面でゼラチン寄せをつけた麺麭《パン》を口に運んだ。しばらく食卓は、くちゃくちゃとものを噛《か》む音や、服の衣擦《きぬず》れ、杯を置く音しかしなかった。私とピエトロとルチーアはその後ろに控えて、誰かが用事をいいつけるまで彫像のように待っていた。
「聖人の遺体が金になるのは確かだ」
ようやくニッコロが途絶えた話の尻尾《しつぽ》を拾いあげた。
「わしが生まれた年に死んだパドヴァの聖人、アントニオの遺体だって、同じフランチェスコ派でありながら、彼の属していた教会と、息を引き取った修道院との間で、三十年もの間、奪い合いが続いたんだから。それというのも、奇蹟《きせき》を起こすという聖アントニオの遺体があると、お布施が集まるからだよ」
「あれは結局、教皇さまの一言で、遺体は聖アントニオの属していた教会のものになった。でも、そうなるには裏の手を使って盛んに教皇さまに頼んだらしいですね」
若ニッコロは言葉を切って、食卓の男たちに目配せした。
「たくさんの金が流れたのはまちがいない」
皆は誰かに命じられたかのように一斉に頷《うなず》いた。
ポーロ家の男たちの話題は、いつもここに行きつく。金だ。南の国で戦いが終わった。負けた騎士が鎧《よろい》や剣を売りにだすから、買いたたけ。北の国で水不足だ。葡萄酒と食糧を送りだせ。どんな噂《うわさ》も知らせも、すべては金を稼ぐ方向に進んでいく。ヴェネツィアに向かう旅の間もそうだった。三人の旦那《だんな》たちは、船が港に停泊するたびに、その土地の珍しい品物は何か、金や真珠と替えるとどれくらいの量になるかを調べては、時を潰《つぶ》していた。
彼らを見ていると、昔の自分自身を思い出す。私もかつては、倭国《わこく》で採れた真珠一粒で高麗《こうらい》の皿が何枚買えるか、高麗の皿一枚で、どれほどの米が手に入るか。そんな算術ばかりしていた。そして算術通りに懐に入る金が増えると、嬉《うれ》しさのあまり酒や女のために金をばらまいたものだった。
金とは食い物みたいなものだ。懐に入っては、糞《くそ》のようにずるずると流れでていく。糞にならなかった食い物は肉となって腹につき、余った金は蓄えとなって蔵に残る。しかし金は食い物よりたちが悪い。肉は体の一部になるが、金は運命がぽんと手を叩《たた》いただけで、あっという間に消えてしまう。後には何も残らない。正真正銘、一文無しだ。
今の私は金とは無縁だ。奴隷である限り、働いても金をもらえるわけではないし、金を使って何かを買うこともない。偶然、手に入れたあの板絵にしろ、売れば盗んだことがばれて死刑になりかねないから隠しておくしかない。私には、ポーロ家の男たちの話は、鶏が卵を何個産むかというのと大差ないほど遠いことだった。
食卓は今や商いの話題に移っていた。若マフィオとステーファノが黒海方面に商売に行きたいといっているのを、ニッコロとマフィオが、あそこはジェノヴァ商人の力が強くなっているから、荷物を積んでいってくれる船を見つけるのは難しいだろうと渋っていた。それをぼんやりと聞き流していると、マルタに名を呼ばれ、誰も手をつけそうもない皿は片づけるようにと命じられた。私は冷めた炙《あぶ》り肉の大皿と野菜料理の皿を持って、台所に向かった。
ジョヴァンニーノとステーファノの部屋から控えの間を通り抜けると、開いた扉から肉の焼ける香ばしい匂《にお》いが漂ってきた。台所に入ると、モネッタが炉の奥から、こんがり焼けた四角い肉入り焼き菓子を取りだそうとしていた。窓際の流しでは、白い布を頭にかぶったパオラが腕まくりして鍋《なべ》を洗っている。足許《あしもと》にはこれから洗わなくてはならない皿やへらや杓子《しやくし》が溜《た》まっている。台所の真ん中にある細長い作業台で余り物をがつがつ食べているのは、商い見習いの少年二人だ。執務室の中二階で寝起きしている少年たちは、今日のような休みの日は、食事だけ摂《と》りに台所にやってくる。私が冷めた肉の皿を作業台に置くと、粗末な上衣に革の帯留めを締めただけの見習い二人は、物欲しげに皿の上に目を走らせた。
「旦那さま方は、まだゼラチン寄せを食べてらっしゃるかね」
私が入ってきたのに気がついたモネッタが聞いた。もうすぐ食べ終わるみたいだと答えると、料理女は急いで焼き菓子に蜂蜜《はちみつ》を塗りはじめた。
「モネッタ、水がもうないわよ」
パオラが水瓶《みずがめ》の中を覗《のぞ》きこんで口を尖《とが》らせた。
「さっきマリアに頼んだのに、ちっとも持ってきてくれないの」
子供っぽいパオラの顔には苛立《いらだ》ちが浮かんでいる。昨日から忙しく働かされているので、疲れているのだ。大きな瞳《ひとみ》の下には、うっすらと隈《くま》ができていた。
モネッタはしかめ面して、手に蜂蜜のついた刷毛《はけ》を持ったまま台所の出入口のほうに首を伸ばした。そこに人の気配もないことがわかると、私にマリアの様子を見てきてくれと頼んだ。
「ついでに一人だけさぼろうなんて了見はなくすようにいっておくれよ。あの女ときたら、あたしらがなにをいったって、薄ら笑いを浮かべるだけで働かないんだから。あんたのタルタル言葉ならわかるだろうからさ」
台所の隅からパオラが、「ニッコロさまの情婦気取りなのよ」と罵《ののし》った。まだ子供のパオラが情婦気取りなどという言葉を知っていたわけはない。きっとモネッタかルチーアがそういう陰口を叩いていたのだろう。
私は、食物貯蔵庫から裏階段を降りていった。
マリアは中庭の井戸の縁に腰掛けて、二階の露台を眺めていた。足許には水桶《みずおけ》が置かれている。仕事を途中で放りだして休んでいるらしい。手すりに掛けた絨毯《じゆうたん》のおかげで、食卓についたポーロ家の面々からはマリアの姿は見えない。彼女はぼんやりと秋空に広がっていく人々の笑い声や話し声に耳を傾けていた。
私はマリアに声をかけるのをためらった。この蒙古《もうこ》の女は、ポーロ家の下僕の誰とも打ち解けようとはしない。モネッタやルチーアが何をいってもよくわからないふりをし、蒙古語で話しかけたピエトロにも、クビライの后《きさき》みたいな横柄《おうへい》な返事をして怒らせていた。そんなことばかり聞いていたから、私は自分からマリアに話しかけたことは一度もなかった。
中庭にいたのは、マリアだけではなかった。北の棟の一階にある倉庫の扉が開きっ放しになっていて、奥のほうに六つの目が光っていた。アレッサンドリアから運ばれてきた奴隷たちだ。まだ買い手がつかないので、倉庫に足枷《あしかせ》をつけたまま置かれている。いつも日中は荷物運びや雑用に使われているが、今日は祝宴のために仕事はなく、そこに閉じこめられているのだった。
二階から歓声があがった。モネッタの焼き菓子が食卓に現れたらしい。マリアもその気配がわかったのか、匂《にお》いを嗅《か》ごうとするように鼻を天に向けた。
船で運ばれてきたばかりの時は全身薄汚れていたマリアだが、今は洗ってこざっぱりとして、ルチーアやパオラと同じ灰色の粗末な上衣が与えられている。小さな鼻に、栗鼠《りす》に似た丸い瞳《ひとみ》。前髪を合わせて後ろで一本の太い三つ編みにした髪型は、額の突きだした顔によく似合っていた。女の年齢はわかりにくいが、ルチーアよりは年上だろうと私は思った。
「水が来ないんで、皆、文句をいっているよ」
私は蒙古語でいった。マリアは自分の気がつかないうちに私がそこにいたことに怒ったらしく、口を横に引き結んだ。
「言葉がわからないからって、怠けないでくれとさ」
マリアはいきなり腰をあげると、釣瓶《つるべ》を井戸から引きあげはじめた。あまりに乱暴に手桶《ておけ》に汲《く》んだので、釣瓶の三分の一の水はこぼれてしまい、マリアはさらに汲み足さないといけなかった。私は彼女が満たした手桶を持った。
「これは運んでやるよ。物置にもうひとつ手桶があるから、それを使って次の分の水を入れておいてくれ」
マリアは微《かす》かに顎《あご》を引いただけだった。私は手桶を持って台所に上がっていった。そして水瓶の中に水を移して、すぐにいっぱいにするからとパオラに告げ、再び中庭に降りていった。
井戸の前からマリアは消えていた。代わりの手桶すら物置から持ってきていない。首を巡らせると、開いた倉庫の扉の間から、つながれた奴隷たちと話している彼女の姿が目に入った。縄がくねるみたいな回教徒の言葉で、何か話している。内容はわからないが、あまり楽しげな口調ではなかった。愚痴をこぼしあっているのかもしれない。薄暗い倉庫の中は、奴隷たちの吐きだす言葉でますます陰鬱《いんうつ》に塗りこめられていく。
マリアに声をかけようとして、私はやめた。そして黙って井戸の水を手桶に汲みはじめた。
私の中には無数の小鳥が棲《す》んでいる。その鳥はもの想《おも》いに耽《ふけ》るたびに現れて、私の心を遥《はる》か遠くに運んでいく。一時に、四羽も五羽もの鳥が四方八方に飛んでいくので、私の心はちりぢりとなり、目眩《めまい》がしそうになる。
小鳥たちが羽を休めるのは、荒れる東の海の波間だったり、臨安《キンサイ》の運河にかかる石橋の上だったり、花旭塔津《はかたつ》の松林の中だったり、まだ見たこともない美しい花園だったりする。
マリアを見ていると、私の心は小鳥に乗って花旭塔津の倭人《わじん》の小さな家へと飛んでいく。草で葺《ふ》いた屋根の下には、浅黒い肌に、爪《つめ》で引っかいたような目鼻立ちの女が、老いた母と二匹の犬と一緒に住んでいた。大唐街の宿屋で飯炊きをしている女で、綱首《ごうしゆ》の船に雇われた宋人《そうじん》や倭人の船乗り相手のその安宿で、求められるままに夜伽《よとぎ》をして金をもらうこともあった。客の一人の船乗りを夫にしたが、海に出ていったまま帰らなくなった。死んだのか、他の港で女を見つけたのかわからない。お客さん、どこかで私の亭主を見つけたらいってちょうだい、おまえさんの妻は今も花旭塔津でおもしろおかしく暮らしているとね。女は漁師に勧められた酒で酔うと、決まってそんなことをいって、自嘲《じちよう》気味に笑った。その実、女の暮らしは決して、おもしろおかしくはなさそうだった。
酔ってない時の女は無口だった。しかし、一旦《いつたん》、喋《しやべ》りはじめると、何かに攻めたてられるように饒舌《じようぜつ》になった。そして相手が聞き流しているのがわかると、怒ってぴしゃんと口を閉ざしてしまうのだ。女は自分の心を、どうしていいかわからないようだった。時々、相手に鞠《まり》のようにぶつけては、惜しくなって奪い返す。そんなことを繰り返していた。
船乗りの友人を訪ねて宿屋に行くうちに、私はその女と知り合いになった。時々、女を買うようになり、やがて女の家で抱くようになった。宿屋だと、主《あるじ》にいくばくかの金を渡さないといけないが、自分の家でならただですむからだと女はいった。しかし、女が自分の家に連れてくる客は、私だけだった。
私たちが抱きあう時、老いた母親は家の外に出された。交わりの獣めいた匂《にお》いを全身から立ち昇らせて私が表に出ると、犬と一緒に軒下に座りこんでいた母親は重たげな視線で私を見あげたものだった。
私には慶元《けいげん》の港にも、花旭塔津の中にも別の女がいた。それらの女たちは、金を受け取るよりは、惚《ほ》れているという言葉を私に押しつけるほうを好んだ。その言葉は少しなら害にもならないが、あまりにたくさん押しつけられると息苦しくなる。そんな時、私は飯炊き女の家を訪れた。そして金を払って、女を抱いた。私と女の間には、惚れてる、などという言葉は一度だって出なかった。女は、あんたはただの客だよ、お金をくれるだけで御の字だ、といい続けていたし、私は、馴染《なじ》んだ着物のように、お互いの肌がしっくりとくっつき合う感覚が好きなだけだった。
宋人の奴隷を逃がした罪で、両親や弟妹が倭の役人に捕まった時、私はたまたまその女の家にいたので助かった。厳重な牢《ろう》に閉じこめられた家族を救おうなんて無理な話だった。私はずるずると女に匿《かくま》ってもらい、家族が処刑されると、大陸に逃げる段取りをつけてくれと頼んだ。海の向こうにいくんだね、と女は聞いた。もう帰らないんだね、と呟《つぶや》いた。帰ると死刑になる。私は答えた。
翌日、女は家に役人を連れてきた。私を売ったのだった。連れ去られる私に向かって、女は吐きだすようにいった。
私はあんたに惚れてないんだ、と。
マリアは、あの女を思い出させる。決して似ている顔ではないのだが、二人は似ていた。二人とも臆病《おくびよう》なあまり、心を壁の中に閉じこめている。自分の心は柔らかな鶉《うずら》の卵みたいなもので、巣から外に出したら、すぐさま粉々に割れてしまうと信じている。しかし、そんなことはない。人の心は鋼よりも強い。
私の心を見るがいい。これまでの人生で何度も張り裂けたと思ったが、ほら、ちゃんとここに残っている。鋼よりも硬く、絹よりも軽い。小鳥に乗って、どこへでも飛んでいけるほどなのだから。
夏はいつの間にか遠ざかり、霧の白く長い手がヴェネツィアの路地の隅々にまで忍びいるようになっていた。風は冷たくなり、木の葉の緑も色褪《いろあ》せ、何もすることのない昼間は、日当たりのいいポーロ家の二階の小部屋に人々が集まることが習慣となった頃、朝からリアルト橋のほうに出かけていたステーファノが興奮した顔で家に戻ってきた。
「やあやあ、皆さんお揃《そろ》いで」
ステーファノは小部屋の入口に立って、大きな声でいった。後ろには、一緒に出かけていたジョヴァンニーノの顔も覗《のぞ》いている。
貴重な数冊の本や絵皿、燭台《しよくだい》などを載せた戸棚が壁の一面を占める北棟の小部屋には、家族の多くの者が顔を揃えていた。高い背もたれのついた肘掛《ひじか》け椅子《いす》にはニッコロが座り、湯の入った盥《たらい》に関節痛の足を浸けてマリアに揉《も》ませていたし、弟のマフィオはその隣で俗語で書かれたクリストの本を読んでいた。マルダとイザベッラは縞《しま》模様の布をかけた長椅子に並んで座り、お喋りをしながら縫い物や刺繍《ししゆう》に余念がなく、二人の足許《あしもと》では幼いマルコリーノが黄色の絹布で作った藁《わら》の座布団に座り、羊の指の骨を宙に放りなげて遊んでいた。そして私は、ニッコロの関節痛止めにとモネッタの作った湿布を持って、部屋の隅に控えていた。
ステーファノが黒い瞳《ひとみ》に楽しげな色をきらめかせ、舌の先で唇を湿した。
「今日、聖マルコ広場で処刑があるんだって」
どうやら、それがこの若者を興奮させていた理由らしかった。
「うわっ、処刑だって」
前歯の一本欠けた大きな口を開いてすぐさま嬉《うれ》しそうに叫んだのは、マルコリーノだった。ステーファノは、ジョヴァンニーノを従えて小部屋に入ってきた。
「そうとも。悪いことをした男が打ち首になるんだとさ」
「見にいこうよ、ねぇ、おばさん」
マルコリーノが、マルタの膝《ひざ》を揺すった。マルタは意見を求めるように隣のイザベッラを見た。イザベッラは、中庭に面して並ぶ布張りの窓のほうに首を捻《ひね》った。黄色と青に彩られた菱形《ひしがた》模様の木綿布の窓は、空気を入れるために少し隙間《すきま》が開いていて、そこから灰色の空が見えた。「でも、あんまり天気がよくないから……」といいかけたところに、マルコリーノがマルタの膝に身を投げかけた。
「マルタおばちゃん、行きたいよぉ」
如才ない若ニッコロの息子だけあって、マルコリーノは誰を攻略したらいいか心得ている。祖母代わりのマルタは、マルコリーノには甘かった。頬《ほお》の肉を緩めてマルコリーノの頭を撫《な》で、イザベッラにいった。
「雨にはならないでしょうよ。ね、カテリーナも誘って、みんなで出かけたらいいじゃない」
「そうねぇ……」
渋るイザベッラに、お祭り騒ぎの好きなステーファノが、家の中にこもっていてもつまらない、といいたてた。
「うん。たまには一家で出かけるのもいいかもしれんな」
最近、出不精になっているニッコロが珍しく賛成して、盥から足を引き抜いた。
「そうしましょうよ、お父さん。船で行くことにして、マリアをお供にしたら、関節痛だって平気でしょう」
兄が航海から戻って以来、一転して快活になったジョヴァンニーノが口添えした。
「そうだな、行ってみるか、マリア」
ニッコロは床に跪《ひざまず》くマリアに蒙古《もうこ》語で聞いた。マリアは頷《うなず》きはしたが、さほど嬉しそうでもなく、ニッコロの濡《ぬ》れた足を布で拭《ふ》きはじめた。私が松脂《まつやに》の臭いのする湿布を差しだしても、焦茶色の目で無表情にこちらをちらりと見ただけだ。倉庫で寝起きしていたアレッサンドリアから来た奴隷たちは買い手がついて売られていき、話し相手もいなくなった。この頃ようやくピエトロや私に挨拶《あいさつ》くらいするようになったが、無愛想な態度は変わらない。
「ニッコロが出かけるなら、わしも行こうかな」
マフィオが読んでいた本から顔を上げて呟《つぶや》いた。
「ほら、これで決まった。みんなで行くんですよ」
ステーファノが手を叩《たた》いて、陽気に宣言した。結局、一階の商会で働いているマルコと若ニッコロ、若マフィオを除く家族の全員が処刑見物に出かけることに決まった。
ポーロ家の一同は簡単に食事を摂《と》ってから、部屋に戻り、盛装した上に天鵞絨《ビロード》やダマスク織りの頭巾《ずきん》つき外套《がいとう》を着て、船着き場に現れた。船一艘《そう》には乗りきれないので、ニッコロと介添え役のマリア、マフィオ、ステーファノとジョヴァンニーノの組と、マルタとイザベッラとマルコリーノ、それに赤ん坊を乳母に預けて加わることにしたカテリーナの二組に別れることになった。ニッコロたちの乗るゴンドラはピエトロが、奥方たちの船は私が船頭だ。楽しげな笑い声を振りまきながらポーロ家の面々は、二艘のゴンドラに乗りこみ、運河へと乗りだした。
空は、鼠色の波のような雲に覆われている。櫂《かい》を動かすたびに、濁った緑色の水面に皺《しわ》が生まれ、石で作られた運河の縁《へり》まで広がっていく。両脇《りようわき》に並ぶ商館の窓はどこも閉められ、土筆《つくし》に似た煙突からは白い煙が立ち昇っていた。
聖マルコ広場に行くには小運河を通ると近いが、きっとそちらは混雑しているだろうということになり、私たちは大運河に出た。油の荷揚げ場や市場の前の雑踏を通り抜け、リアルト橋をくぐって海のほうに下っていく。炭や薪《まき》の重みに船縁《ふなべり》ぎりぎりまで沈んだ平底船。弓矢を持った、水鳥狩りの男たちの小舟。私たちのように処刑見物に行くらしい人々を乗せた船。運河を行き来する大小の船を見下ろしているのは、上部が半円形の窓の並ぶ立派な石造りの建物だ。船の出入りのしやすいこの大運河沿いは、ヴェネツィアの有力者たちの商館によって占められている。
「この前、教会に行った帰り、フォスカネーリの奥さんにばったり出くわしたの」
マルタが向かいの席に座るイザベッラに話しかけた。
「そしたら、すごく素敵な被り物をしているじゃない。
真珠を散らして、金糸で刺繍した縁飾りがそりやあきれいでね、聞いたら、フィレンツェで修業した職人に作らせたというの。わたしも一枚、頼んでみようと思っているのだけど、あなたもどうかしら」
船から身を乗りだして水面を眺めているマルコリーノに目を配りながら、イザベッラは思案する顔をした。マルタは太った手で、イザベッラの膝を押した。
「その人、ヴェネツィアで仕事を始めたばっかりだから、まだ暇だけど、もうちょっとしたら引く手あまたになって、注文してもすぐには作ってくれなくなるって、フォスカネーりの奥さんがいってたわよ」
「そうねえ……」
マルタは、隣でぼんやりとしていたカテリーナのほうも振り向いた。
「あなたも作ったら。結婚式にお呼ばれした時なんかに便利よ」
カテリーナの魂はどこかに抜けだしていたらしい。眠っていた猫が起きたように頭をびくっと動かした。
「なんでしょうか」
厭《いや》だわ、とマルタがイザベッラに苦笑した。
「また愛《いと》しい旦那《だんな》さまのことでも考えていたんだわ」
緑色の頭巾の下でカテリーナの青白い頬《ほお》が引きつった。
「恋い焦がれてなんかいませんわ」
怒りの混じったその口調を、マルタとイザベッラは意外に思ったらしかった。二人は気心の知れた年老いた姉妹のように目配せを交わした。
「若マフィオとなにかあったの、カテリーナ」
マルタは一家を預かる主婦らしく穏やかに尋ねた。カテリーナは薄い唇を精一杯横に広げ、微笑《ほほえ》みで心を隠した。
「なにもありませんわ」
斜め向かいに座っていたイザベッラの黒い瞳《ひとみ》が鈍い光を放った。
「外の女のこと、気に病んでるんじゃないの」
胸に剣を刺しこまれたように、カテリーナは顔を歪《ゆが》ませた。
「そんなことだと思ったわ」
イザベッラは呟《つぶや》き、マルタは丸い体を椅子の背に沈みこませた。カテリーナは二、三度瞬きをすると、ふっと息を吐いた。
「アレッサンドリアから帰ってからずっと、あの人は三日にあげずにあの女の許《もと》に行っているんです。昨夜《ゆうべ》だって帰ってきませんでした」
若マフィオはおめかしして、よく外に出ていくわりには、私やピエトロにお供を頼まないから、愛人がいるとは知らなかった。私は船尾に立って櫂を操りながら、女たちの会話を聞くともなく聞いていた。
「それに、あの女ったら、赤ん坊まで孕《はら》んでいるそうなんです。あの人もすっかり夫婦気取りで、聖ステーファノ教会裏の女の家に友達を招いたりしているというんですよ。あんまりじゃないですか。今、乳母に預けているパスクワのことはまだ許せるわ。わたしと結婚する前だもの。だからすべて許したし、下女だった母親も男やもめの船大工のところに嫁がせて、昔のことは忘れようと思ったんじゃないですか。なのに、また愛人を作るなんて。しかも今度は街の女だというんですよ」
心の壁は一度破られると脆《もろ》いものだ。カテリーナは目に涙を滲《にじ》ませて、義理の叔母《おば》や従兄弟《いとこ》の妻に向かって、胸に貯《た》めていたものをぶちまけた。
「放っておきなさい」
イザベッラは、マルコリーノの服を引っ張って水辺から引き戻していった。
「結婚の秘蹟《ひせき》を受けた妻は、あなただけでしょう。若い時はあちこち風の吹くままにさまよっても、結局、若マフィオが戻ってくるのは、あなたのところしかないのだから」
「そうよ、わたしの夫を見てごらんなさい。結婚してすぐにカタイに十年近く行ったきり。戻ったと思ったら、またすぐに出ていって、次に戻ってきたのは二十四年も過ぎてからよ。一緒に暮らしたのは、たかだか三年くらいだったけど、あの人が戻ってくる場所はやっぱりわたしの許だったわ」
マルタが穏やかに諭した。
人は遠くの塩より、目先の砂糖菓子に手を伸ばしたがる。マフィオが何年も帰らなかったのは、妻を恋い焦がれる気持ちが薄かったのであり、帰ってきたのは、妻の許ではなく、生まれ故郷のヴェネツィアなのだという事実から目を背けている。だが、真実とは塩なのだ。それなしでは生きていけない。マルタは塩を舐《な》める時を先延ばしにしているだけだ。
砂糖まみれの言葉なぞ欲しくはなかったのだろう、カテリーナは何もいわずにうつむいた。
「わたしの夫も、ルチーアに手を出しているわ」
イザベッラがさらりといった。カテリーナは、はっとしたように斜め向かいの黒髪の女を見つめた。イザベッラは、カテリーナのあっけにとられた顔に微笑んだ。
「男って、雄鶏みたいに女を何羽も引き連れて歩くのが好きなのよ。亡くなったお義父《とう》さまの子供のうち、アントニオとアゲネシアの二人は召使いに生ませた子だし、ニッコロ叔父《おじ》さまを見てごらんなさい。妻がヴェネツィアにいたというのに、タルタル人の女に二人も子供を生ませた。こっちに戻ってきたら、妻が死んでいたことをいいことに、今度はまた女奴隷に手を出している」
「そんなこと罪です。異教徒の女を寝床に引きずりこんだり、妻がいるのに、他の女に手を出すなんて。姦淫《かんいん》の罪を犯せば、恐ろしい地獄に堕《お》ちてしまうというのに」
カテリーナは膝《ひざ》の上で両手を握りしめて、かぶりを振った。その顔は紅潮し、怒りに溢《あふ》れていた。イザベッラは薄ら笑いを浮かべた。
「姦淫の罪なら、司祭さまだって犯しているご時世よ。この前だって、娼婦《しようふ》の宿に通っていることがばれたお坊さまが木の檻《おり》に入れられて、聖マルコ広場にある鐘楼から吊《つ》るされ、笑い者になっていたじゃない」
それは私も覚えていた。春、聖マルコ広場にいくたびに、鐘楼の上から呻《うめ》き声が聞こえていた。鳥籠《とりかご》に似た木の檻の中で、麺麭《パン》と水しか与えられずに痩《や》せこけた男が手を差しだして、出してくれ、と呟いていた。丸く剃《そ》っていた頭頂の髪も髭《ひげ》もだらしなく生え、衣服はぼろぼろとなり、下の地面には、檻から落とした糞《くそ》が散らばっていた。
「赦《ゆる》しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される=v
マルタが、前を行くニッコロたちのゴンドラを眺めていった。
「夫のためにお祈りを捧《ささ》げて、地獄に堕ちないように神さまに赦しを乞《こ》うのが妻の務めというものでしょう」
カテリーナは黙りこんだが、それでも納得がいかないという顔をしていた。
ヴェネツィアの人間は、何かというと、罪だ、罪だ、と騒ぎたてる。だが、罪とは何だろう。蒙古《もうこ》人の掟《おきて》では、水の中に小便をすると死刑だ。しかし、妾《めかけ》は何人でも持てる。ヴェネツィアでは、水中に小便をしても何もいわれない代わりに、妾を作ると罪だという。東でも西でも、仲間を殺したら責められるが、敵を殺したら褒《ほ》めそやされる。罪とは、真珠貝の内側のようなものだ。あてる光によってどんな色にでも見える。そんな幻に似たもののために顔が青ざめるほど悩むのは、私には無駄なことに思えた。
「海だ、海が見えたよ」
マルコリーノが叫んで、前方を指さした。大運河が切れて、私たちは滑らかな海に出ていこうとしていた。左手の岸は、運河の続きの立派な商館や木造の家々が続いているが、右手は沼沢地と変わり、その間に修道院や造船所、塩の倉庫などがぽつぽつと建っている。正面に横たわる、葦《あし》や菜園の続く寂しい島はスピナロンガ島だ。海辺には棄て子院や、鞣《なめ》し革職人の工房、ヴェネツィア本島はだめだが、そこだったら住むことを赦されているヘブライ人の家などが細々と軒を連ねている。スピナロンガ島とヴェネツィアの間を、板を短冊のように繋《つな》いだ筏《いかだ》が、潮に乗って横切っていく。後ろにつけた二つの櫂《かい》を、顎鬚《あごひげ》をぼうぼうに生やして、上半身裸になった男が二人、全身の力をこめて漕《こ》いでいた。筏の後ろには鶏や野菜を入れた籠が置かれ、一人の女が犬を連れて座っていた。それらを売りにきた農家の女のようだった。
「あんな平たい船で、よく沈まないね」
マルコリーノが筏を見て、感心していった。
「あれは筏《ザツテラ》というのよ。海を渡ってきたんじゃないの。ヴェネツィアのずっと北のほうにある山の奥から、川を下ってきたのよ」
イザベッラがマルコリーノを膝に乗せて説明した。筏が右手の集材所に向かって通り過ぎるのを待って、私はまたゴンドラを漕ぎだした。
鼠色の空を映して、海は青灰色に沈んでいた。褐色の帆を張った船や外洋とを隔てる砂州《さす》に似た島が浮かんでいなければ、水平線を探すのは難しい。潮の香りのする冷たい風が、水面に皺《しわ》のような波を立てている。静かな海を荒立てるように、櫂を浸けては水を後ろに押しやる。やがて左手の岸辺に、聖マルコ広場の煉瓦《れんが》造りの四角い鐘楼が見えてきた。その斜め向かいにある総督宮殿前の小広場はすでに人でいっぱいだった。いつもは賭博場《とばくじよう》になっている小広場の二本の石柱の間には処刑台が作られ、周囲は粟粒《あわつぶ》のような人の頭で埋められていた。
ヴェネツィア共和国の海の表玄関にあたるこの聖マルコの小広場の船着き場は、水面から陸まで横に長い階段がついている。海から近づくと、まるでそこに広い舞台ができているようだ。私は、先に到着していたピエトロに倣って、二本の柱の近くにゴンドラをつけた。真っ先にマルコリーノが降りて、ニッコロやマフィオの許《もと》に走っていった。ピエトロの手助けで、イザベッラとマルタ、そしてカテリーナと、全員、岸に足をつけると、ニッコロが私に二|艘《そう》の船を見張っているように命じた。一緒に見物を許されたピエトロは得意げな表情をしていたが、処刑を近くから眺めたいという気持ちもなかったから、私は残念だとも思わなかった。
ポーロ家の一行は年若いステーファノとジョヴァンニーノを先頭にして雑踏の中に入っていった。船着き場に乱杙歯《らんぐいば》のように突きでている杭《くい》に二艘のゴンドラをつないで、私は小石を敷いた陸地に上がった。小広場のほうに向き直ると、ここから処刑台はよく見えることに気がついた。処刑は海を背景に行われるので、人々のほとんどが二本の柱の反対側に集まっているせいだった。
死刑見物に集まった人々は、貧しい者から、ポーロ家のような裕福な者までさまざまだったが、着ている服は違っても、その顔に浮かぶ表情は似通っていた。誰もが熱っぽい眼差《まなざ》しで処刑台に目を注いでいる。しかし、板張りの粗末な台には、まだ罪人は現れていない。剣を腰にぶら下げた死刑執行人らしい男が、暇そうに細長い台の上を行き来していた。
腕組みをして、その様子を眺めながら、私は両親が処刑された時のことを思い出していた。元《げん》帝国に攻められて以来、花旭塔津《はかたつ》の倭人《わじん》は、大唐街に住む宋人《そうじん》商人に憎しみを抱くようになっていた。私の家族が捕らえられた時、父の倭人の友人たちは指一本動かそうともしなかったし、母の親類も知らんぷりを決めこんでいた。助かるすべはないと知ると、父はおとなしく首を斬《き》られたが、母は処刑場で大騒ぎをした。自分は何も知らないのだ、夫が勝手にやったのだと叫んでいた。弟は恨みの言葉を吐きつつ、妹たちはただ泣き叫びながら、次々に首を飛ばされていった。私は群衆の間に隠れて、竹囲いの外からその一部始終を眺めていた。
一人の首が斬られるたびに、私の内臓がひとつずつ潰《つぶ》されていく気がした。このままでは処刑が終わったら、私も死んでいるだろうと思った。だが、家族の遺骸《いがい》が芋袋のように処刑場に転んでも、私は観客の中で生きていた。
家族の首は仲良く五つ並んで、しばらく花旭塔の辻《つじ》に晒《さら》されていた。
私は、その後すぐに飯炊き女に裏切られて捕まった。私の首も辻に晒されるかと覚悟していたが、大枚を払って助けてくれたのは、私を役人の手に引き渡した、まさにその飯炊き女だった。女は私を役人の手に渡したことを悔やんだといった。あんたがどこかに行くのが厭《いや》だったのだといって泣いた。私は白々とした気持ちを抱えたまま、もういいんだ、と呟《つぶや》いた。自分の命がその女の気まぐれに左右されたことにうんざりしていた。
女は、年老いた母を棄てて、私についていくといった。船に乗る金を出すのは女だ、手はずをつけてくれたのもその女だ。私はいいだろうと答えるしかなかった。
私たちは慶元に向かう船に乗った。そして慶元には、私の別の情婦がいた。倭人の女はその情婦のことを知って、泣き喚《わめ》いた。あまりに騒ぐので面倒になって、私はその女を棄てた。女がどうなったかは知らない。体でも売って金を作り、年老いた母のいる花旭塔に戻ったか、言葉もわからぬ異国の港をさまよった末、野垂れ死にしたか。
からぁん、からぁん、からぁん。
鐘楼の鐘が鳴りはじめ、聖マルコ広場のほうから歓声が沸《わ》きおこった。人々の灰色の波が大きく揺らめき、その間から、黒い上衣を着た役人に手綱を曳《ひ》かれた馬が一頭現れた。私のところからは、馬の頭しか見えなかったが、それが処刑台の横で止まってようやく尻尾《しつぽ》に縄で縛りつけられていたものがわかった。それは肘《ひじ》のところから右腕を斬られた罪人だった。左手首を馬の尻尾に括《くく》りつけられ、引きずられるように歩いていた。痛みと疲れで顔は蒼白《そうはく》となり、あちこち破れた股引も内衣も、血と汗と、街の中を引きずられる間に投げつけられた腐った野菜や汚水のためにぐっしょりと濡《ぬ》れている。ものもいえないほど衰弱していた男だったが、馬が止まり、残された左手の縄を解かれ、目の前に聳《そび》える処刑台に気がついたとたん悲鳴をあげはじめた。
残った腕を振り回し、人垣に突進して逃げようとしたが、見物人たちに押し返された。処刑台の下に控えていた死刑執行人の助手二人が男を取り押さえ、処刑台に引きずりあげた。
台の上に跪《ひざまず》かせられた男の前に、頭巾《ずきん》をかぶり外套《がいとう》を引きずった裁判官が現れて、手にしていた書類を聴衆に向かって読みあげた。
「ボローニャ人、カルロ・ペツサーラ。売春宿を営み、姦通《かんつう》のみならず男色をも斡旋《あつせん》していた忌まわしき罪により、ヴェネツィア共和国は、この者に対して打ち首を申し渡す。処刑の後、死骸《しがい》は切り刻んで見せしめとなすことにする」
ヴェネツィアでは、売春と男色は毛嫌いされる。娼婦《しようふ》たちは女も男も都のあちこちに出没していて、共和国の裁判官もその客になったりするのに、この男のように運が悪いと捕まって断罪される。哀れな男は、二人の役人の手下に肩を押さえこまれて、全身、ぶるぶると震わせていた。もう暴れる気力もなく、股《また》の間から小便を洩《も》らしている。
黒い衣を着た僧侶《そうりよ》が現れ、何か言葉をかけた。男はあきらめたように跪いて祈りだした。それが終わると、また涙を流しながら俯《うつぶ》せになり、処刑台の上に置かれた丸太の上に首を横たえた。死刑執行人が剣を抜いて、男に近づいてきた。
「討て、討てーっ」
「復讐《ふくしゆう》だっ」
「悪党め」
見物人の中から罵声《ばせい》があがる。死刑執行人は男の横に立ち、剣を振りあげた。
一瞬、あたりが静かになった。男は啜《すす》り泣きながら、観念して目をしっかりと閉じている。死刑執行人の剣が後ろに少しずらされ、次に思いきり振りおろされた。
剣が首にめりこんだ。血が噴きだしたが、まだ半分くっついている。男は手足を痙攣《けいれん》させている。
「もう一回」
「殺せ、殺せっ」
見物人の叫び声の中、死刑執行人は男の肩に足をかけて剣を引き抜くと、もう一度、打ちおろした。
今度はうまく首が切れた。そのまま鞠《まり》のように処刑台から転がり落ちて、小石を敷いた地面に血が飛びちった。観客は戦いの時のような勝ち鬨《どき》の声をあげて処刑台に走り寄った。布や手に殺された男の血を受けて舐《な》めている者もいる。死刑囚の血はてんかんに効くというので集まってきた病人たちだ。広場中にこだましたその騒ぎに驚いて、岸辺で休んでいた水鳥たちがばたばたと飛びたっていった。
罪人の体は死刑執行人の手によって切り分けられ、肉屋の店先のように腕や胴体や足が処刑台に放りだされた。人々はまだ立ち去らずに、その様子を眺めては話をしている。
微《かす》かに血の臭いを感じて顔を背けた時、十歩ほど先のところに立つ二人組が目に入った。二人とも足首まで包む粗末な灰色の外套を着て、頭巾をすっぽりとかぶっている。身じろぎもせず祈るように頭を垂れているさまは、まるで墓標のようだ。処刑の興奮に包まれた広場で、彼らの周囲だけ静けさが漂っていた。
その二人と以前、どこかで会った気がした。どこでだったろう。彼らをじっと見つめたが、思い出せそうで思い出せない。じれったい気持ちになっているところに、広場の人たちがようやく動きだした。ばらばらになった死骸を見物することにも飽きた人々が、四方八方に散っていく。灰色の影のような二人組が人の流れに巻きこまれていく。その光景が、別の光景と重なった。リアルト橋の市場の雑踏だ。その中に、この二人はいた。ひびわれた音をたてる楽器を奏でる男の後ろに、こわごわとついていたふたつの影。殺された楽師の後を追っていた二人組だ。あの時、私は彼らを追いぬいて、そのままになっていた。
考えてみると、あの二人組はなぜ楽師を追っていたのだろう。マルコたちの追っている〈大鍋《おおなべ》〉とかいうものと関わりがあるのだろうか。その時、まるで私の心の声が聞こえたかのように、二人組のうちの一人がついとこちらを振り向いた。灰色の頭巾の奥に、高麗《こうらい》の白磁色の顔があった。女のような線の細い顎《あご》。薄く高い鼻。灰色がかった緑色の瞳《ひとみ》。ヴェネツィアの運河の色にも似たその目が、私の顔の上で止まり、身を貫いた。背中まで達するほどのその眼差《まなざ》しの強さにたじろぎ、私は思わず視線を逸《そ》らせた。そしてもう一度、相手に顔を向けた時には、再び頭巾の中に顔は隠されていた。
「さあ、帰るぞ」
耳許《みみもと》でニッコロの声がした。見ると、マリアに手を引かれたニッコロを先頭に、ポーロ家の者たちが満足げな表情で引きあげてきたところだった。マルコリーノはピエトロに肩車をさせて、剣で首を斬る真似《まね》をしてはしゃいでいる。死刑になった男の罪について何か話しあっているマフィオとマルタ。ステーファノはまだ興味があるように処刑台のほうをしきりに振り返り、カテリーナすら青ざめた頬《ほお》を紅潮させていた。さほど愉《たの》しんだ様子でもないのは、イザベッラとジョヴァンニーノ、それにいつもと同じく泥粘土で作ったような顔を突っ張らせているマリアくらいのものだった。
私とピエトロはもやい綱を解いて、ポーロ家の家族をゴンドラに乗せた。水面は、帰ろうとする見物人たちの船で混んでいる。船と船の隙間《すきま》に素早くゴンドラを押しこみながら、沖に漕《こ》ぎだした。船の腹が少しこすれただけでも飛んでくる船頭の悪態を無視して、ゴンドラを押しこんでいき、ようやく岸辺から離れた。
錨《いかり》を下ろした帆船があちこちに停まっているところまで来ると、私は櫂《かい》を漕ぐ手を緩めた。蝿のように集まっていた小舟はもう少なくなっている。マルタやイザベッラは混雑もどこ吹く風で、船に揺られながらまた新しい服や明日の昼の献立のことなどを話し合っていた。私は額に浮いた汗を拭《ぬぐ》って、小広場のほうを振り返った。船着き場に、墓標にも似た灰色の人影が見えた。あの二人組がまだこちらを見ているのだ。突き通すような瑪瑙色《めのういろ》の瞳を思い出して、私の背筋に震えが走った。怖かったからではない。このヴェネツィアで、あんなふうに私を見る者はいなかったからだ。ヴェネツィアの者は皆、私をタルタル人の奴隷として眺める。タルタル人の奴隷とは、平たい顔をして、何を命じられても「|はい《シ》、|旦那さま《シニヨーレ》」と答え、犬のように従順で頭の空っぽの人間だ。しかし、あの瞳の持ち主は、私の心を探ろうとした。タルタル人奴隷に心があると知っていた。
そんな見方をする人間は危険だ。いつ私の頭を割って、考えていることを白昼の陽の下に引きずりだすかわからない。そして私があれこれ考えていることは、このヴェネツィアの人間たちの気に入るものではないことはよくわかっている。
私は二人組に背を向けた。そして櫂を握りなおすと、先をいくピエトロの漕ぐゴンドラの後を猛然と追いはじめた。
10
雨がぱたぱたと音をたてて、布張りの窓に降りかかっていた。窓辺の石の床は、布の隙間から滴ってきた水で黒い染みになっている。それを布で拭《ふ》きながら、パオラが小さな唇を尖《とが》らせた。
「昨日から降ってばっかり。イザベッラさまのいう通りに家中の雨漏りを拭いてたら、日が暮れちやうわ」
「まあ、これで中庭の井戸にも水が溜《た》まるんだし、いいじやないのさ」
無数の小さな赤い舌を出して火の燃える炉の前に座り、笊《ざる》に入れた茸《きのこ》の埃《ほこり》を布で拭き取っていたモネッタがのんびりと応じた。料理係としては雨漏りよりは水不足のほうが怖いのだ。
「だけど雨が降りすぎると、一階の床まで水浸しになるのよ。荷物は二階に上げなくちゃならないわ、濡《ぬ》れたものは乾かさなくちゃならないわで、ほんと大変だわ」
パオラは年寄りのように愚痴をこぼすと、濡れた布を流しで絞り、また別の窓の下に行って石の床を拭きはじめた。
「早くお金持ちの奥さんになりたいな。そしたら、こんな仕事をしなくていいんだわ」
パオラは四つん這《ば》いになったまま料理女のほうを眺めた。
「ねえ、モネッタ。魔術はいつになったら効くの」
モネッタは、手にした大きな黄色い茸にふっと息を吐きかけた。
「もうすぐだよ。もうすぐ」
台所には、薪《まき》を炉の横に積みあげていた私の他にはマリアがいた。マリアは、ニッコロの関節痛の痛みに効くという松脂《まつやに》を、乳鉢の中で油と混ぜ合わせていた。何もかもつまらないという顔で黙々と練り棒を回している。モネッタとパオラは、タルタル人には言葉がよくわからないと思っているので、私たちの前でも堂々と禁じられている魔術の話をしていた。
「今度、美人になるお呪《まじな》いを教えてあげるよ、パオラ。金持ちの旦那《だんな》さんの目に止まりやすくなるようにね」
パオラは嬉《うれ》しそうに肩をすぼめた。その時、雨音の彼方《かなた》から、からんからん、という鐘の音が流れてきた。
「あら、もう九時課だわ」
モネッタが呟《つぶや》いて、膝《ひざ》に載せていた茸の笊を作業台に置いた。正餐《せいさん》後、自室に引きあげて休んでいたポーロ家の者がまた起きて動きだす頃合いだった。マルタや若ニッコロは寝起きに焼き菓子と香辛料入り葡萄酒《ぶどうしゆ》を欲しがるので、モネッタも忙しくなるのだ。私も残りの薪を手早く積みあげて立ちあがった。ジョヴァンニーノのラテン語の授業がある日は、この九時課の鐘の音が鳴ると屋敷を出ることになっていた。
私は台所の隣の控えの間を通り抜け、ジョヴァンニーノの部屋の戸を叩《たた》いた。くぐもった声で返事があったので、扉を開いた。
ステーファノがアレッサンドリアから持ち帰った黒檀《こくたん》の櫃《ひつ》や、猫の置物、裸体に腰巻きを巻いただけの人々の像を彫りつけた長持といった調度品のおかげで、部屋は以前よりも豪華な感じになっていた。エジット風の雰囲気の中で、ジョヴァンニーノは窓際の書き物机の前に座り、ぼんやりと頬杖《ほおづえ》を突いていた。
「そろそろバルトロメーオ先生のところに出かける頃合いです」
ジョヴァンニーノは頬杖を突いたまま、ゆっくりと顔をこちらに向けた。布張りの窓から滲《し》みこんでくる光ではその表情まではわからなかったが、緩慢な動きは老人のようだった。兄のステーファノが若マフィオと一緒にコスタンティノポリに出発して以来、この若者の活力は金のなくなった巾着《きんちやく》みたいに萎《しぼ》んでしまった。
私は扉を閉めると、ジョヴァンニーノの前に歩いていって繰り返した。
「ラテン語の授業です。今日は雨なので、先生は家でお待ちですよ」
ジョヴァンニーノは私のほうに首を伸ばして囁《ささや》いた。
「この前の話、考えてくれたか」
おおよその察しはついたが、何のことですか、と空とぼけた。ジョヴァンニーノは苛立《いらだ》ったように目を見開いた。
「大都《カンバリク》に戻ることだよ」
私は胸の内で、糞《くそ》っ、と呟《つぶや》いた。ステーファノが帰ってきて以来、ジョヴァンニーノは故郷に帰りたいとはいわなくなっていたから、てっきりそんな無謀な考えはあきらめたものだと思っていた。しかし兄が出発すると、気持ちが揺らぎはじめたらしい。
「そう簡単にはいきませんよ」
以前いった言葉を繰り返すと、ジョヴァンニーノはかぶりを振った。
「計画を立てたんだ」
さっきまで力のなかった瞳《ひとみ》に輝きが戻ってきていた。ジョヴァンニーノは目を戸口に走らせて、扉が閉まっているのを確かめると続けた。
「金牌《きんぱい》はマルコの部屋の象牙《ぞうげ》の貴重品|函《ばこ》にしまってある。入口|脇《わき》の大きな棚の中だ。それを盗んでコスタンティノポリまで行く。あそこにあるうちの商館に、この冬中、兄さんは若マフィオと一緒に住んでいるというから、僕らもそこに身を寄せるんだ」
ヴェネツィアヘの帰途、ポーロ家の三人の旦那《だんな》が立ち寄ったのが、そのコスタンティノポリの商館だった。それはポーロ家の出店で、若ニッコロの妹婿が切り盛りしていた。
「だけど、どうやってコスタンティノポリまで行くつもりですか」
ジョヴァンニーノのうっすらと鬚《ひげ》の生えた顎《あご》に笑みが浮かんだ。
「商人としての経験を積みたいから、兄さんの許《もと》に少しの間|遣《や》ってくれって、父さんに頼んでみたんだ。渋々だけど、いいだろうといってくれた。今度、船で送ろうと思っていたヴェネツィア産の硝子《ガラス》の器の荷があるから、それについていってみろといわれたんだ」
ヴェネツィア商人たちは、自分たちの船を持っているわけではない。船の持ち主に商品を預けて各地に送り出し、無事帰ってきたら、一航海の儲《もう》けの何割かを船主に払うやり方をしている。商人が乗船して荷についていくこともあれば、荷だけ送ることもある。商会はたいてい家族や一族で経営されていて、若いうちは、若マフィオやステーファノのように商品と共に船に乗りこみ、旅暮らしを続けるのが普通だ。そのため商人の子弟はジョヴァンニーノの年頃から船旅をはじめ、海の旅に慣れるように教育される。商人になるのを渋っていたジョヴァンニーノが船に乗りたいといいだしたので、きっとニッコロは喜んだのだろう。
「夏桂を供として連れていきたいといったら、許してくれたよ」
ジョヴァンニーノは万事抜かりはないといわんばかりだった。しかし私が、ステーファノさまはその企てを知っているのですかと尋ねると、若者の顔は歪《ゆが》んだ。
「兄はもうヴェネツィアの人間になっている。反対するに決まっている。いうつもりはないよ。コスタンティノポリに着いたら、金牌を盗んだという知らせが届く前に、黒海沿岸にあるトレビゾンダ行きの船に乗る。そこからイル・ハン国の金牌を使って、カシュガルまでは行けるだろう。カシュガルの先の砂漠を越えれば、もう故郷だ。クビライさまにもらった金牌を使って、大都まで帰ればいい」
ヴェネツィアに来る旅の途中でトレビゾンダには寄ったが、その先のことはわからなかった。しかし、前から耳にしていたことがある。東の涯《は》てと西の涯ての間には、海のように広い砂漠が横たわり、死者の国と通じている。そのため夜だけでなく昼間でも、そこでは悪霊や死者の霊が飛びまわっていて、不思議な音や偽物の声をたてて旅人を迷わせるのだという。
「その砂漠は、一度迷うと死ぬまで出られない場所だということです。越えるのは難しいんじゃないですか。それにこの前も申し上げた通り、そのあたりでは蒙古《もうこ》人の部族争いがあちこちで起こっていて、旅人には危険極まりないところです」
私の言葉は予期していたらしく、ジョヴァンニーノは余裕たっぷりに椅子《いす》に背をもたせかけて頷《うなず》いた。
「大丈夫。カシュガルからはマリアが案内してくれるから」
「マリアが」
思わず声が大きくなった。ジョヴァンニーノは唇に人差し指をあてたが、私の驚きを愉《たの》しんでいるふうにも見えた。
「マリアが生まれたのは、砂漠の終わるところにある沙州《サチユウ》だ。前は、ペルシア商人の隊商の通詞をして、西と東の間を行き来していたんだと」
そんな女のことも聞いたことがあった。西と東を結ぶ砂漠には、旅人の通詞と情婦を兼ねる女がいる。そうして言葉と体を売って、砂漠を行き来して暮らしているのだと。私が黙っていると、ジョヴァンニーノは眉《まゆ》をひそめていった。
「マリアは砂漠の旅の途中で山賊に襲われたんだ。それで奴隷として売られてしまったんだって。マリアもぼくと同じように故郷に帰りたいといっている」
蒙古人の母親が懐かしくてたまらないジョヴァンニーノの心を捕らえるのは、マリアにとっては小鳥の首を絞めるくらい容易なことだったろう。私は意地悪く尋ねてみた。
「ニッコロさまのお気に入りのマリアを、どうやってコスタンティノポリまで連れていくつもりですか」
「ぼくの長持の中に隠すんだよ」
ジョヴァンニーノはあっさりと答えた。世間知らずの若者一人の頭で、ここまで綿密な企てを立てることは難しい。マリアが入れ知恵したのだろうと思った。
「マリアがいるなら安心というならば、わたしを誘わずに、あの女と二人で逃げたらいかがですか」
ジョヴァンニーノはとたんに気弱な表情になった。椅子から背を伸ばして、私の手を握った。
「二人だけじゃ、だめだよ。夏桂、おまえも一緒に来るんだ」
今、一人前の口を利いたかと思うと、次には子供のようにうろたえる。まだ大人になりきっていない若造と命がけの旅に出るのは御免だった。
「夢物語より、ラテン語の授業です」
私は話を変えた。ジョヴァンニーノは私から手を離して、仏頂面になった。
「行かない」
若者はだだっ子のように顎《あご》を反らせた。
「大都に戻れば、ラテン語なんかやらなくていいんだ。夏桂、先生のところに断りにいってくれ」
私は一礼して部屋から出ていこうとした。ジョヴァンニーノは慌てて「待て」といった。
「休んだら、先生、怒るかな」
私は「いい気持ちはしないでしょうね」と答えた。ジョヴァンニーノは椅子から立ちあがり、腰巻きをした男女の浮き彫りのある長持を開けて、茶色の土器の瓶《かめ》を一本取りだした。
「お詫《わ》びにこれを持ってってくれ。アレッサンドリアから届いた椰子《やし》酒だって」
私は瓶を受け取った。そして、仄《ほの》かに漂う椰子の甘い匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、部屋から出ていった。
「これじやあ、だめだといっているんだよ」
控えの間を横切っていると、モネッタの声が耳に飛びこんできた。私は台所に入った。乳鉢を手にして仁王立ちになった料理女が、マリアを叱《しか》りつけていた。マリアは薄ら笑いを浮かべて、玉葱《たまねぎ》や大蒜《にんにく》のぶら下がる天井のほうに目をさまよわせている。パオラはもう台所にはいなくて、二人の女だけが作業台を挟んで向かい合っていた。
「ああ、夏桂。この馬鹿女にいっておくれよ」
モネッタは私を見つけるなり叫んだ。私は、蕪《かぶ》や白い茴香《ういきよう》の根、林檎《りんご》の転がる作業台に椰子酒の瓶を置いて、炉の前に歩いていった。モネッタは、棚に置かれた壺《つぼ》を指さしてがなりたてた。
「ニッコロ旦那さまの関節痛の薬に使う油は、この壺から取るんだよ。こっちの壺にあるのは古くなった油で、鍋《なべ》や包丁を磨く時のために取ってあるんだからね」
料理女が乳鉢の中の油と松脂の混ぜものを流しに棄てた時、それまでせせら笑うような表情をしていたマリアが怒りの声をあげた。
「古い油なんかで旦那さまの脚を揉《も》んだりしたら、毒気が染みこんで関節痛はますます悪くなるんだよ」
モネッタが乳鉢を作業台にどんと置いて、やり直しを命じた。料理女につかみかかりそうな顔をしたマリアに、私は急いで蒙古語でいった。
「腐った油を使ったんだ。それじゃあ薬にならない。いい油は、こっちの壺に入っているから作り直すんだ」
私は棚の上の壺を取ってきて、乳鉢の隣に並べた。
「この女ったら、そんなこと、ちっとも教えてくれなかったわ」
マリアはモネッタを横目で見て毒づいた。
「なにを文句いっているんだい、マリアは」
脇《わき》に立っていたモネッタが私に聞いた。マリアが油のことは聞いてないといっていると答えたら、また面倒なことになりそうだった。返事をためらっていると、「モネッタ、モネッタ」と呼び声がして、ルチーアが台所に顔を出した。
「マフィオさまも香辛料入りの葡萄酒《ぶどうしゆ》が欲しいって。温めてくれとおっしゃってたわ」
モネッタは大仰にふうっとため息をついてみせて、炉の横に吊《つ》り下げた鍋を取りあげた。そして葡萄酒を取りに食物貯蔵庫に消えた。ルチーアは私とマリアに目を走らせ、その場にいたくないと思ったのか、三階へと上がっていった。
炉で燃える火のためにうっすらと煙の漂う台所には、私とマリアだけが残された。マリアはふくれっ面で作業台に置いた油の壺を傾けて、乳鉢に注いだ。私はその背中に声をかけた。
「脱走奴隷は殺されるか、動けなくなるまで鞭《むち》で叩《たた》かれて、ひどいところに売られるかだぞ」
マリアはゆっくりと私のほうに顔を捻《ひね》った。灰色の被《かぶ》り物の下から、探るような眼差《まなざ》しが放たれた。
「ジョヴァンニーノがいったのね」
私は頷いた。マリアは乳鉢を持ったまま、私に向き直った。腰を作業台に押しつけ、背筋を伸ばして、私を見上げた。背の低い彼女はそれでも私の顎までしかなかった。
「で、話に乗るんでしょ」
すでにこの企ての首謀者のような口ぶりだった。私がかぶりを振ると、マリアは突きでた額に皺《しわ》を寄せた。
「こんなところに死ぬまでいるつもりなの」
私は作業台に置いていた椰子酒の瓶に手を伸ばした。
「おまえたち二人で逃げればいい」
「あの子はあんたが好きなのよ。だから一緒に来てもらいたがっているんじゃないの。それがわからないの」
私は苦笑して、酒瓶を腕に抱えた。
「自分に自信がないから誘っているだけだ」
「あんたこそ逃げるのが怖いんだわ」
マリアは厚い唇の間から息を吐くようにして、弱虫、とつけ加えた。私は大股《おおまた》で台所の出口へと向かった。
「沈没しそうな船では、嵐《あらし》から逃げきれない」
背中でマリアが何か罵《ののし》ったが、蒙古《もうこ》語なのか回教徒の言葉なのかわからなかった。
中庭に出ると、雨は敷石の上にうっすらと溜《た》まるほど降っていた。軒先から滴る水滴が幕のように目の前に下がっている。あたりは憂鬱《ゆううつ》になるほど灰色に閉ざされ、一階の執務室の薄暗い窓の向こうで動く人々の影もどこか寂しげだ。ジョヴァンニーノが休みたくなるのも無理もない天気だった。
私は舌を嶋らすと、酒瓶を抱え、雨の中に出ていった。裏木戸を抜けて、路地に出る。人々は頭巾《ずきん》付きの外套《がいとう》を着て、走るように歩いている。女たちは服の裾《すそ》が泥で汚れないように長い上衣を膝《ひざ》までめくっていた。聖ジョバンニ・クリソストモ教会の前を過ぎて、油の荷揚げ場前の橋を渡り、ペルシア人商館やジェルマニア人の商館の裏を通っていく。頭に布を巻きつけ三角形の顎鬚《あごひげ》を生やしたペルシア人や、色白で図体の大きな北の商人たちが憂鬱そうに商館の窓から外を覗《のぞ》いている。この雨が続けば、荷物も自分たちもヴェネツィアに足止めになるので心配しているのだろう。
いつもは人通りの激しいリアルト橋もひっそりとしていた。橋の上に並ぶ店も半分は閉まっている。つるつるした木の階段を滑らないように昇っていくと、跳ねあげ式になっている橋の真ん中から、雨に煙る大運河が見えた。無数の水滴の輪の重なる瑪瑙色《めのういろ》の水面に、四階建て商館の青味を帯びた影が連なっている。雨避《あまよ》けの覆いをつけて運河を行き来する平底船の船頭たちは、早く目的地に着こうと、しきりに櫂《かい》を動かしていた。
リアルト橋の先の市場の付近も人気《ひとけ》はなかった。野菜市場も魚市場も閉められ、野菜の切れ端や腐った果物の散らばる地面を歩いているのは豚だけだ。修道院で飼われている、聖アントニオの豚と呼ばれる豚たちだ。クリストに身を捧《ささ》げた聖人に守られているという豚だけに、盗む者は誰もいない。ヴェネツィアの都の中を我が物顔に鼻面を地面にくっつけて徘徊《はいかい》している。
目の前をのたのた歩く胡桃《くるみ》のような尻《しり》を蹴《け》りとばすと、豚は悲鳴を上げて聖ジャコモ教会のほうに逃げていった。
この豚は私だ。まもなく殺されて、冬の間の修道士たちの食べ物となる豚も、奴隷として死ぬまでこき使われる運命にある私も、同じ穴の狢《むじな》。同じ家畜。
逃げなくては。
不意に、そう思った。
逃げるなら、今が好い機会だ。ニッコロの赦しがある以上、ジョヴァンニーノのお供として少なくともコスタンティノポリまでは無事に着けるだろう。問題はそれからだ。黒海を抜けた後、マリアに頼って、砂漠を渡ることが気に入らない。しかし、それならコスタンティノポリから二人と別れたらいいことだった。私は何も元の国にまで戻る必要はない。この都から逃げられればいいだけなのだ。ジョヴァンニーノの誘いを冷たくあしらうほどのことではなかった。
ジョヴァンニーノがマリアのことをいいださなければ、渋々ながらも承知していたかもしれない。私はマリアに嫉妬《しつと》していたのだ。自分に頼りきっていると思っていたあの若者が、知らぬ間にマリアと仲良くなっていたから。
嫉妬とは茸《きのこ》みたいなものだ。太陽の光も大地もいらない。心のどこかが腐っていると、知らないうちにそこからにょきにょき生えてくる。男と女の間だけでなく、男と男の間にも、女と女の間にも、場所を選ばず生えてくる。見つけたら、どんな小さくてもむしり取ることだ。放っておくと、ますます大きくなって、傘を広げ、醜悪な形となって心全体を覆ってしまう。この世の至るところで、そんな茸を全身から生やして歩く人々を私は見てきた。
私は心に生えた茸を取って、塵《ちり》の散らばる路上に棄てた。
11
ジョヴァンニーノのラテン語授業のお供にはたいてい船を使ったので、歩いていく道はうろ覚えだった。おかげでバルトロメーオの家に着くまでに二、三度、迷ってしまった。運河の形や、聖ジャコモ・デロリオ教会の鐘楼を頼りに見覚えのある路地に辿《たど》りついた時には、全身ずぶ濡《ぬ》れになっていた。
暗い階段を昇り、バルトロメーオの部屋の戸を叩《たた》くと、「うううん」という唸《うな》るような返事があった。戸を押すと、窓の木扉を閉めているらしく中は暗く、暖炉の火のおかげでやっとものの形がわかる程度だ。床に散らばった衣類と、寝台でもぞもぞと動いている塊の影が目に入った。
「ジョヴァンニーノさまの使いで来ました」
寝台に向かっていったとたん、バルトロメーオらしき影が起きあがった。
「いけない、ラテン語だ。こら、早く出ていけっ、しっしっ」
私にいった言葉ではなさそうだった。すぐにバルトロメーオの影が二つに別れ、「なんだってのさ。あたしは犬じゃないわよ」と女の声が聞こえた。暖炉の炎の明かりに女の裸体が浮かびあがった。乳房の少し垂れた太り気味の女だった。床にかがみこんで散らばった衣類をまさぐりはじめたために、女の秘所の暗がりが目に飛びこんできた。私の腹の下のものが熱く、硬くなった。その温かく湿った場所の感覚が全身に湧《わ》きあがってきて、私は女に飛びかかりたくなった。床に押し倒して、その股《また》のあわいに自分のものを突っこみたい。激しく腰を動かし、吼《ほ》え、汗まみれになり、女の腹の上で果てたい。激しい肉慾《にくよく》に体が震えた。
バルトロメーオと寝ていた女が服を着こみ、靴を持って横をすり抜けていってしまうまで、私は服の下の酒瓶を握りしめ、必死で自分を押さえていた。ポーロ家でルチーアやモネッタの裸体を覗《のぞ》き見ても、襲いかかるほどの慾望なぞ湧いてこない。ルチーアやモネッタより、先の女が魅力的だというわけではなかった。私の体がそんなふうに働かなかったのだ。体が働かなかったのは、心が縛られていたからだ。
奴隷の身でも、心だけは自由にどこまでも飛んでいけると思っていた。だけど、それは間違いだった。あの家で私は家畜になったどころか、金玉まで抜かれていたのだ。このまま奴隷のままで居続ければ、ピエトロのようになってしまう。旦那《だんな》や奥方の顔色を窺《うかが》い、その足許《あしもと》に這《は》いつくばって生きるしかない虫けらに……。
逃げなくては、という想《おも》いが、再び頭の中を駆けめぐった。
「ジョヴァンニーノはどうした」
気がつくと、木扉を開いて部屋を明るくしたバルトロメーオが聞いていた。女の裸に気を取られて、まだ用件を告げてなかったことに思い至った。
「あ、ああ。今日は休ませてくださいということでした」
「なんだ、それを早くいわんか」
素足に内衣をはおっただけのバルトロメーオは、女の出ていった階段のほうを恨めしげに眺めた。私はラテン語教師の股引を跨《また》いで、部屋の中に入っていった。
「お詫《わ》びにこれをお渡しくださいといっていました。アレッサンドリアからの到来品です」
私の衣の下から出てきた酒瓶を見たとたん、バルトロメーオの表情が崩れた。
「酒みたいだな。それはご苦労だった。えらく濡れているじやないか。暖炉の前で乾かせばいい」
ラテン語教師は、自分も暖炉に薪《まき》を二、三本放りこむと、酒瓶を抱えて背もたれのついた木の椅子《いす》に座った。私は言葉に甘えて、少し乾かさせてもらうことにした。股間《こかん》のものが萎《な》えると、寒気が襲ってきたのだ。
バルトロメーオは「そうか、アレッサンドリアからの土産か」と呟《つぶや》いて、酒瓶の栓を抜いた。瓶の口に赤らんだ大きな鼻をつけて匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、背後の丸い食卓に片手を仲ばし、麺麭《パン》や林檎《りんご》を押しのけて素焼きの杯を取った。そして待ちきれないように乳白色の酒を杯に注ぐと、ぐっと一口|呷《あお》った。
「うむ、うまい。乳みたいな色だが、いったいなにでできているのだ」
炉の前にしゃがんで火に両手を翳《かざ》していた私が、椰子《やし》の実の酒だと答えると、バルトロメーオは杯の中をほれぼれと眺めた。
「言葉を求める乳飲み子には、父の愛《いと》しい乳房が乳を与える=v
そして訳がわからない顔をしている私を椅子から見下ろして、教師然とした口調で、アレッサンドリアの神学者クレメンスの文章だと告げた。
「神には男も女もないということだ。千年前、クレメンスもこの椰子酒を飲んで、父の乳などという言い方をしたのかもしれん」
ラテン語教師は股の間に手を突っこんでぼりぼりと掻《か》いた。赤茶けた髯《ひげ》に覆われた顔が微笑《ほほえ》みに緩んだ。
「その頃のアレッサンドリアはおもしろかっただろうな。なにしろ品物も人も、この世のあらゆるところから集まってきていた。エジット人、ペルシア人にグレチア人、ラテン人、黒人、印度《インド》人に、おまえの同胞のタルタル人もいただろう。彼らは自分の国の考え方や神を持ちこんだ。当時はまだヘブライの神もグレチアやローマの神々も、クリストの唱えた新たな神も、みな、同じ船に乗っていた。すべては大鍋《おおなべ》の中でどろどろした塊として混ざりあっていた。だからこそ、クレメンスのような考え方が出てこられたんだ」
大鍋という言葉が、私の頭の隅をひっかいた。ニッコロは自分かちの探しているものを、大鍋と呼んでいた。
「大鍋、ですか」
私は炉の上にかかっているおおぶりの空鍋を指さした。バルトロメーオは、がははと笑うと、股の間から出した手で太股《ふともも》を叩《たた》いて役者のような大声でいった。
「同じ鍋でも、そんな安物じゃない。正真正銘の大鍋だ。グレチア神話で、メデアがアイソン王を入れて煮て生き返らせた大鍋。聖ヨハンネスが入れられ、前より生き生きして出てきた大鍋。死んだ者すら蘇《よみがえ》る、奇蹟《きせき》を起こす鍋。最後には、死したるクリストの血を受けて、聖杯と呼ばれるようになったものだ」
またあの半裸の男が出てきたかと、私はうんざりした。ヴェネツィアでは、何かというと、十字架にぶら下がったこの男に辿《たど》り着く。しかし、今さらこの酒好きのラテン語教師の弁舌を止めるわけにはいかなかった。
「聖杯は、クリストの死後、アリマタヤのヨセフによってインギルテッラに持ちこまれた。彼は、グラストンベリに聖杯を祀《まつ》る聖堂を建てて、聖なる晩餐《ばんさん》の儀式を行うために円卓を備えつけたという。聖堂は一人の王によって治められ、円卓のまわりには聖堂騎士たちが集まり聖杯を守った。こうして時代は過ぎ、聖堂に君臨する聖杯王はアンフォルタス王となった」
渦巻き模様の刻まれた長持の上に毛むくじゃらの脚を載せ、鼻の頭をますます赤くして、バルトロメーオは語り続ける。あたりには椰子の実の甘い香りが漂っている。私は炉のそばで膝《ひざ》を抱えた。衣服から白い湯気が立ち昇っている。話の筋がこみいってきたせいで、瞼《まぶた》が重くなってきた。
「アンフォルタス王の次に聖杯王となったのは、彼の妹の息子パルジファルルだ。パルジファルルの義兄に、黒人の血の混じるフェイレフィースという者がいたが、彼は聖堂でクリスト教徒となり、アンフォルタス王の妹を妻にして東方に戻った。この二人の間に生まれたのがヨハンネスだ。ヨハンネスは長じて司祭となり、クリストの教えを広めたという」
ヨハンネスと聞いて、私は瞼をこすった。それこそマルコとニコラ修道士の間に出てきた名だった。それに、先にバルトロメーオの言葉にあった聖堂騎士という名前も二人の会話に出てきていた気がした。
「聖杯の最後の持ち主は、このヨハンネス司祭だという話がある」
バルトロメーオは空になった杯に椰子酒を注いでつけ加えた。
聖杯の古い名前が大鍋で、それはヨハンネス司祭が持っていた。やっとポーロ家の三人の旦那《だんな》の探していたものがわかった。ヨハンネス司祭の持つ聖杯だったのだ。ニコラ修道士との会話から察すると、きっと、三人がヴェネツィアから東の涯《は》てに出発する時からそれが念頭にあったのだろう。しかし、ヴェネツィアに戻る旅の途中でも探していたのだから、見つかりはしなかったのだ。
「ヨハンネス司祭は、ほんとうにいたのですか」
私は聞かずにはいられなかった。バルトロメーオは、なぜそんなことを聞くのだというふうに、訝《いぶか》しげに私を見たが、それも一瞬のことだった。また椰子酒を呷ると、口の横から滴った白い汁を舌で舐《な》めた。
「一一二七年、今からちょうど百七十年前だ。ローマ教会にヨハンネスという男が現れた。そして自分は印度のマアバル地方で司祭をしている。印度のクリスト教徒は聖トマーゾを崇《あが》め、彼の名の許《もと》にありとあらゆる奇蹟《きせき》が起きていると告げた。一一四五年、教皇エウゲニウス三世の前にシリアのガバラ司教という者が登場して、前年、東方の涯てに住むヨハンネス司祭が軍隊を送り、ペルシアの回教徒を駆逐したと伝えた。ジェルザレンメを異教徒の手から奪回しようと十字軍を送っていた教会の者たちは東方からの援軍の登場に大喜びしたものだ。それから二十年ほど後、今度はコスタンティノポリにいるグレチア人の皇帝や、ジェルマニアにいるローマ人たちの皇帝に向けたと思われるヨハンネス司祭の手紙が現れた。それによると、彼は聖トマーゾの建てた印度の宮殿に住み、領土は豊かに栄えている。そこには一角獣や不死鳥、巨人や一眼人などがいて、ありとあらゆる財宝があると書かれていた。それこそ聖杯の安置されるにふさわしい国じゃないかね。教皇は大喜びで返書をしたためた。印度諸国の王、高徳なる司祭、と呼びかけたものだよ。親書は教皇の侍医に託して送りだされたが、侍医は帰ってはこなかった。ヨハンネスの国で安楽に暮らしているか、途中で盗賊にでも殺されたかだろう」
十字軍やらグレチア人の皇帝やら、私にはわけのわからない言葉をどっさり並べたてた後、バルトロメーオは息を継いだ。
「ポーロの旦那さま方のお供で西に来る旅の途中、印度のマアバルに寄りました」
私はゆっくりといった。バルトロメーオは、突然、喋《しやべ》りはじめた人形を見るような顔をした。
「そこの誰もヨハンネスという男のことは知りませんでした」
バルトロメーオは腹の上で両手を組んだ。この部屋に来て初めて、酔いどれ教師の顔に真面目《まじめ》な表情が浮かんだ。
「ヨハンネス司祭の国が印度にあるということは伝説に過ぎない。エティオピアやカタイにあるという噂《うわさ》もある。ローマ教会に現れた男も、その後、東方から送られてきた手紙もほんとうのことをいっていたかは怪しいものだ。聖杯にしてもあれこれ書物に書かれているが、フランチアやジェルマニアやインギルテッラで出回っている話の断片を拾いあつめたものだから、実はそれが実際にどこにあって、どんな力を持つかはよくわかってないのだ」
ラテン語教師は充血した目をこすった。眠くなったらしかった。
「聖杯とは、大鍋の形をしているのですか」
私はまだ少し湿っている服を炎で炙《あぶ》りながら尋ねた。
「さあな。誰も見た者はおらん。それは元は悪魔ルシフェルの額に嵌《は》まっていたエメラルドの目だったともいうし、ヘブライの学者にいわせると、モーセに与えられた神との契約の書、サファイアでできた板に由来しているともいう」
宝石の板と耳にして、私の心臓は高鳴った。楽師が楽器に隠していた板絵は、やはりポーロ家の三人が探している聖杯かもしれない。
「なにもかも憶測だけだ」
バルトロメーオは突然頭を振って、背中を起こした。驚いて周囲に飛びちった蚤《のみ》が、火明かりに照らしだされた。
「ヨハンネス司祭が墓を守っている聖トマーゾにしても謎《なぞ》の多い人物だ。一説によると、クリストの使徒の一人ではなく、双子の兄弟だったともいう。彼は印度に行く前に『トマーゾによる福音書』を書いたんだが、われわれはもう読むことはできない。そんな教本はいっぱいある。ローマ教会の連中が、異端として禁書にしてしまった福音の書はな。今、正統な福音書として残っているのは、マルコやらルカやらピエトロやら、教会に都合のいいことを書きつらねた輩《やから》の本だけだ。どれもクリストが死んで何十年も後にできたものだ。ほんとうのことが書かれてあるかどうかは、神のみぞ知る、だよ」
喋るうちにバルトロメーオの頭は再び椅子《いす》の背に沈んでいった。この男はもうかなり酔っていた。体も暖まったので、私は帰ろうと思った。腰を上げると、開いた窓の下が吹き込んでくる雨に濡《ぬ》れている。私は木扉を閉めた。暖炉の明かりだけになった部屋の中で、バルトロメーオはまだむにゃむにゃと呟《つぶや》き続けている。
「誰が東を決め、西を決めたのだ。誰が正統を決め、異端を決めたのだ。西もさらに西の国にいけば、東といわれる。正統もやがては異端といわれる」
私は足音を忍ばせて出口に向かった。戸口を閉めようとした時、バルトロメーオの呟きの最後が聞こえた。
「正統も異端も、神も悪魔も、すべて大鍋に放りこめ。……鍋がなにもかもひとつにしてくれる……」
それはまるで墓場の中から死者が語っているように聞こえた。
12
藁《わら》で覆われた寝床の下から、放浪楽師の持っていた板絵を引きずりだした。くすねてきた布きれに包んだ板絵を解く前、私は周囲に目を走らせた。
屋根裏の窓からは、久しぶりに朗らかな太陽の光が射《さ》しこんできている。下の階に続く梯子段《はしごだん》は静まりかえり、昇ってくる人の気配はない。
私はほっとして、寝床に腰を下ろした。
この午後、腕がいいと噂《うわさ》の被《かぶ》り物職人が訪ねてきたので、ポーロ家の女たちは三階の家事室に集まって、被り物や頭飾りの注文をしているところだった。女の召使いたちも何かひとつ注文していいといわれたので、嬉々《きき》として呼ばれていった。仲間とうまくいっていないマリアすら、身を飾りたてることとなると気をそそられるのか、上機嫌でルチーアやモネッタについていった。
ニッコロ、マフィオの兄弟とマルコは、ピエトロをお供にして商人組合の集まりに出かけていき、若ニッコロはジョヴァンニーノと一緒に一階の執務室で働いている。ジョヴァンニーノは、私が一緒に逃げることを承知して以来、家の手伝いに身を入れるようになった。おかげでジョヴァンニーノの話し相手に部屋に呼びつけられることもない。私は、これといった用事もなく屋敷に残されていた。一人きりになれる、こんないい機会はめったになかった。
私は布包みをほどいて、板絵を出した。宝石に飾られた黄金の額の中で、青い衣に太陽を刻みつけた女が輝いている。
「柿が喰《く》いたい」
その女に向かって、まずは小さな願いをしてみた。秋の深まる今頃、花旭塔津《はかたつ》にいた昔はよく柿を食べたものだった。しかしこのヴェネツィアに柿はない。時々、あれを無性に食べたくなる。
私はじっと女を睨《にら》んでいた。絵の中の女は無表情で見返してくる。
何も起こらなかった。
小さすぎる願いはいけないのかもしれない。
「わたしを大きな帆船の船長《ふなおさ》にしてくれ」
そう告げて、私は目を閉じて奇蹟《きせき》を待った。しばらくして目を開いたが、私はやはり蜘蛛《くも》の巣が張った寒々とした屋根裏に居た。
これが大鍋《おおなべ》であれ、聖杯であれ、奇蹟なぞ起こらないのは確かのようだった。黄金を張り宝石をくっつけた、ただの板なのだ。クビライの金牌《きんぱい》なら蒙古《もうこ》人を動かせるが、これは何ひとつ動かせない。売りとばして、黄金と宝石に見合うものを手に入れるしかない。
ポーロ家の三人の旦那《だんな》方は〈夜の紳士〉たちに楽師を殺した男を探させるといって以来、〈大鍋〉探しを続けているようには見えない。興味を失ったのだとしたら、楽師が持っていたものは聖杯ではないと知ったせいかもしれなかった。
私は黄金の板絵を布に再び包んだ。バルトロメーオの言葉に乗って、願い事なぞしてみた自分が忌々《いまいま》しかった。あの男は頭にたくさんのことを詰め込みすぎているのだ。考えすぎる者は、物事をややこしくするだけだ。この前だって、聖杯だの大鍋だのについて結局何もわかってないということを白状するために、さんざんごたくを並べた。枝葉がいっぱいついた雑木を頭の中にいっぱい生やすよりは、立派な木を一本、生やすほうがいいのに。
私はむしゃくしゃした気分で布包みを寝床の下に押しこんだ。そして窓辺に行って、外を覗《のぞ》いた。
ポーロ家の屋根の向こうに、小さな煙突の突きだしたヴェネツィアの家々が続いている。赤茶けた瓦《かわら》屋根を破って、あちこちで天に伸びあがる教会の四角い鐘楼。菫色《すみれいろ》の混じった明るい水色の空を雀の群れが飛んでいく。空の色も建物も、ここは私の生まれ育った場所とはとても違っている。しかし下方に視線を落とせば、運河には荷物を山と積んだ船が行き来し、往来では子供が走りまわり、洗濯物を干す女たちが窓越しにお喋《しやべ》りをしている。人々の営みはどこも同じだ。
誰が東を決め、西を決めたか。
頭に浮かんだのは、バルトロメーオの言葉だった。彼の並べ立てたごたくの中で、これだけが私の中に残っていた。彼は続けてこういった。
西もさらに西の国にいけば、東といわれる。
それは真実だ。ヴェネツィアに着いた時、私はここが西の涯《は》てだと思った。陽が沈む場所だと思った。この地のどこかに、太陽の寝床か、せめて沈んでいく穴でもあるのかと考えていた。しかし、そんなものはなかった。この地の西には、まだフランチアとかスパーニヤとかいう国があり、その先には海が広がっているという。太陽はその海の彼方《かなた》に沈むらしい。ここは西の涯てではなかったのだ。
きっと、この世に西も東もありはしないのだ。西とか東とかいうものは、人が決めたことなのだ。自分こそこの世の真ん中に立っていると信じた者が、日の昇るほうを東、沈むほうを西と命名した。人は境を作ることが好きだから。西と東、金持ちと貧乏人、貴族と奴隷。そうして境を作って区分けして、自分の居場所を確かめる。
しかし私は境の上を歩く者だ。そんな区分けは必要ない。人は私を奴隷だという。確かに肉体は他人の物として縛りつけられているが、魂までは奴隷ではない。私の魂は、貴族でもなければ、市民でもなく、他人に名付けられる何者でもない。
「夏桂、夏桂っ」
ルチーアのきんきんした声が梯子段の下から聞こえた。
「どこにいるの、奥さまがお呼びよ」
私は慌てて「はい」と返事して、窓辺から離れた。そして二、三歩梯子段のほうに行ってから、どきりとした。
早くここから逃げださないと、私の魂は、自分が奴隷だと信じるようになる。そうなった時、私は本当に奴隷となる。ピエトロのようになってしまうのだ。
私は下の貯蔵庫の暗がりに沈む梯子段を降りていった。ルチーアは貯蔵庫の戸口に立ち、いらいらと壁を指で叩《たた》いていた。
「上でさぼっていたんでしょ。奴隷のくせに態度が大きいんだから」
ルチーアの腹はこの頃、せり出してきている。私は若ニッコロの子供を身ごもっているのかもしれないと思っていた。そのせいかルチーアはますます毒のある言葉を吐くようになり、雀蜂さながらの羽音をたてて屋敷の中を飛びまわっている。
ルチーアの言葉はわからなかったふりをして、三階の食事室を抜け、家事室に入っていった。そこには亜麻布を入れた大きな棚があり、本や針箱、布地の入った戸棚や裁断用の台、羊毛の塊の入った籠、糸紡ぎ棒や機織り機などが置かれていた。家で使うための粗末な布を織ったり、簡単な下着を仕立てたりする時、女同士の親密な話をしたい時などに使われる部屋だった。
ポーロ家の奥方たち、マルタとイザベッラとカテリーナは窓際の壁に造りつけた長椅子《ながいす》に座って、円卓に広げた布の見本をたたんでいる職人を眺めていた。焦茶色の上衣に白い木綿帽をかぶった職人は、部屋に入ってきた私に一瞬目を止め、また半透明の薄い布地を袋の中にしまいはじめた。
マルタは私に眠たげな声でいった。
「夏桂、ロドリゴさんの荷物を工房までお運びしてさしあげて」
職人は布をしまい終わると、革袋の口を締めて私に渡した。そして、にこやかにマルタに笑いかけた。
「すみませんね、ご無理いいまして。いつもは弟子を連れてくるんですが、今日は少したてこんでいましてね」
「いいんですよ。どうせ、この奴隷は今、使ってなかったんですから。それでは仮縫いは十日後ということでいいですね」
職人は、けっこうです、と答えた。そして、椅子に置いていた毛織りの外套《がいとう》を手にすると、パオラに案内されて通り広間に続く戸口へと歩きだした。私はぼってりした革袋を抱えて後に従った。
三階の通り広間は、鋼鉄の鎧《よろい》や槍《やり》、剣などがずらりと壁際に並び、燻銀《いぶしぎん》の色を放っていた。それらは商品でもあって、時々買い付けの商人が立ち寄って吟味したりしていた。これは三階に居を構える若ニッコロが好んで扱う品だ。正義と戦いは馬車の両輪、つまり正義のための戦いは起こり続け、この世が終わるまで武器商いは安泰だ、というのが彼の持論だった。
三階から、二階の通り広間へと階段を降りていきながら、ロドリゴはパオラに尋ねた。
「このタルタル人は、どれくらいわたしたちの言葉がわかるのかね」
「うまくは喋《しやべ》れないけど、簡単なことならわかるみたいですよ」
パオラはロドリゴの後ろにつく私を振り返り、「ねえ、夏桂」と声をかけた。私は小さく、はい、と答えた。この職人がそんなことを知りたがるのは不思議な気がした。ヴェネツィアの人間は、タルタル人奴隷にどれくらい言葉がわかるかどうかなぞ気にもしない。聖アントニオの豚が考え事をするのかと訝《いぶか》るようなものだった。
二階の通り広間を抜け、玄関まで職人を案内すると、パオラは小声でいった。
「あの、あたしの|頭飾り《ベンダ》のことですけど」
ロドリゴは飴色《あめいろ》に磨かれた重々しい玄関の戸の前に立って首を傾げた。パオラはもじもじしながら職人を見あげた。
「さっきは青っていいましたけど、黄色にしてくださいませんか。ミモザの花みたいな淡い黄色に……」
ロドリゴのしゃくれた顎《あご》に笑みが広がった。
「わかったよ。ミモザみたいな色の布で作ってあげよう」
パオラはほっとしたように胸に手をあてた。ロドリゴは灰色の外套を羽織ると、私を促して中庭に続く階段を降りていった。
外の空気は少し肌寒かった。外出するとわかっていれば、屋根裏の梁《はり》にひっかけてある外套を取ってきたのにと、私は後悔した。
「工房は、小間物通りの裏手だから」
ロドリゴは行き先を告げると、中庭を通り抜け、裏木戸をくぐった。
乞食《こじき》や物売り、買物客や異国の商人たちのごった返す小間物通りを、私は革袋を胸にしっかりと抱えて歩きだした。どこから掏摸《すり》やかっぱらい、兵士くずれが狙《ねら》っているかわからない。ロドリゴも、私がちゃんとついてくるか時々確かめながら進んでいく。そろそろ寒くなるので毛皮屋や生地屋は客で賑《にぎ》わっていた。手押し車で薪《まき》を運んでいく者、蜂蜜《はちみつ》をかけた焼き林檎《りんご》を箱に入れて売り歩く者。杖《つえ》を持ち、漏斗型の大きな藁の背負い籠《かご》に木炭を入れて運ぶ人夫の群れ。前かがみになって、よたよたと歩く老人。人々の汗と垢《あか》の臭いが、店先の香辛料や焼き豚、葡萄酒《ぶどうしゆ》の匂《にお》いと混じりあっている。
救世主教会の前で、ロドリゴは小間物通りから離れて、樽《たる》や鍋《なべ》、鍛冶《かじ》職人の工房の並ぶ通りに入っていった。開け放した戸を通して、腕まくりをして上衣の裾《すそ》をたくしあげ、薄暗い仕事場で働く職人の姿が見える。鋸《のこぎり》を引く音や、槌《つち》で木や銅を叩《たた》く音に混じって、親方が弟子を叱《しか》る声が響いていた。小間物通りのように石を敷いてないので、このところの雨続きでぬかるみ、地面は所々滑りやすい。足の裏に力をこめて歩きながら、こんなところに仕立て職人の工房を設けるのは珍しいなと思った。
ロドリゴはその通りからさらに狭い小径《こみち》に入った。人がやっとすれ違えるほどの幅の道を二十歩ほど進むと、一軒の家の前で止まった。少し傾いだみすぼらしい木造の家だ。ロドリゴは入口の戸を二回叩いて、少し間を置いて三回叩いた。掛け金の外れる音がして、戸が開かれた。ロドリゴは私の背中を押して家の中に入れると、自分も後に続き、後ろ手で戸を閉めた。
中は暗かった。窓を覆う木扉の隙間《すきま》からかろうじて光が射《さ》しこんできて、石を敷いた床をうっすらと照らしている。二階に続く階段もない一階のこんな部屋は、普通、倉庫か店屋か工房に使われる。だがあたりはがらんとしていて、隅のほうに樽や藁束が重ねられているだけだ。店でも倉庫でも、ましてや工房のようではない。
ロドリゴにどういうことかと聞こうとして、人の気配に気がついた。薄闇《うすやみ》を透かし見ると、部屋の奥に並ぶ樽の上に、二人の人間が腰かけていた。職人はその前に近づいていくと、「祝福を与えたまえ、我らを守りたまえ」といいながら、深々とお辞儀をして、膝《ひざ》を曲げた。すると二人は低い声で「善きことを」と返事した。それを三度繰り返して、ロドリゴはようやく相手に近づき、何事かこそこそと囁《ささや》いた。次に私のところに戻り、「ご苦労だった」といって、布の入った革袋を取りあげた。
「あちらのお方が、おまえに話があるとおっしゃっておられる」
ロドリゴは早口で告げると、戸をわずかに開き蜥蜴《とかげ》のようにするりと外に出ていった。わけのわからないまま、こんなところに置き去りにされてはたまらない。とっさに追いかけようとした私の前に、ぬっと大柄な男が立ちふさがった。戸口の横に隠れていたらしい。赤味がかった髯《ひげ》をぼうぼうに生やした隆とした体躯《たいく》の男は、黙って二人の人影のほうを指さした。話を聞けということらしい。
私はしかたなく部屋の奥の二人と向き合った。ロドリゴが工房まで私に荷物を持たせたのは、ここに連れてくる口実だったようだ。それにしても、この都で私に用のある者がいるとは信じがたかった。
「〈太陽をまとう女〉を持ってますね」
低く滑らかな女の声がした。すぐには何のことかわからずにいると、女はたたみこむようにいった。
「楽師を殺してから、あなたが奪ったものです」
それでやっと、板絵のことだとわかった。
「わたしは楽師を殺してない」
女は、私の返事は無視してまた聞いた。
「〈太陽をまとう女〉を持ってますね」
私は黙っていた。私の肩に背後の男の重たい手が載せられた。
「正直にお答えしろ」
男の太い指が私の喉仏《のどぼとけ》を押した。このまま喉を絞められたら、私の魂は蝶《ちよう》のように体から飛びたってしまうだろう。
「おれを殺したら、お宝の在処《ありか》はわからなくなるぞ」
大男の指の力が萎《な》えた。
「その人から手を放しなさい」
女が制すると、私の首にかかっていた手がさっと引っこめられた。女は外套《がいとう》の裾を引きずって、一歩私のほうに踏みだした。窓の隙間から入っていた光が女の顔に当たった。金色の髪に縁取られた線の細い顔。年寄りとも若いともいえない女だ。イザベッラくらいの年だろうか。鼻の形も唇もこれといって特徴はないが、青白い肌にかちりと嵌《は》まった二つの瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》にぶつかったとたん、私は相手が誰か悟った。
公開処刑のあった日、聖マルコ広場の船着き場で、突き刺すように私を見つめていた人物。どういう方法を使ったかはわからないが、私を探しだしたのだ。
あの時と同じように灰色の粗末な外套で全身をすっぽりと包んだ女は、少し離れたところから、私と向かい合った。
「〈太陽をまとう女〉を返してください。あれはわたしたちのものなのです。死んだ楽師が歌いながら歩いていたのも、あれを手渡すためにわたしたちに合図していたのです」
女は残念そうに、その合図に気がつくのが少し遅すぎたのだとつけ加えた。
ポーロ家の三人、楽師を殺した男を雇った誰か、そしてこの瑪瑙色の瞳の女も、あの板絵を探しているのだ。それだけの価値のあるものだろうか。私が考えていると、女はまた口を開いた。
「ただとはいいません。買い取りましょう」
私の心は動いた。どうせ板絵はジョヴァンニーノと一緒にコスタンティノポリに逃げたら売りとばそうと思っていた。
「いくら出すんだ」
「大銀貨で五リラ出しましょう」
女はすでに返事を用意していたらしく、即座に答えた。モネッタの給金が三百日働いて三リラだと聞いたことがあった。それが住み込みの料理女の安賃金とはいえ、五リラとなると、けっこうな額なのだろう。しかし、あの板絵にはもっと価値があるにちがいないと私は踏んだ。かつての商人としての私が体のどこかでむくむくと頭をもたげてきた。
「十リラだ」
背後の男が「淫売《いんばい》の息子めっ」と罵《ののし》った。私は、瑪瑙色の瞳の女にいった。
「知っているぞ。あれは聖杯とかいうものなんだろう。誰もが探している宝物だ」
女の紫貝色の唇がふわりと横に広がった。
「聖杯ですって」
薄暗い部屋での密談にはそぐわないほどの明るい声で、女は笑った。
「タルタル人の間にも、聖杯の噂《うわさ》は広がっているんですか」
私は馬鹿にされた気がした。
「聖杯の話は、この都で聞いただけだ」
不機嫌に答えると、女は「それはそうでしょうね」と、まだ笑いながら頷《うなず》いた。笑うと目の下にうっすらと皺《しわ》ができて、優しげな表情になった。
「権力や富を得ようと願う者は、みな、必死で聖杯を探し求めています」
女の顔がまた引き締まった。
「でも、〈太陽をまとう女〉は、聖杯のような妖《あや》かしの器ではありません。それは目に見えないけれども、確かなもの。真実を欲する者にはこの世のなににも勝り、欲しない者には屑《くず》同然のものです」
えらく謎《なぞ》めいた言い方だった。私がその意味を考えていると、女はさらりといった。
「十リラ出しましょう」
背後で男が不快を示す唸《うな》り声を洩《も》らし、部屋の隅に座っていたもう一人が腰を浮かせて、「そのお金は……」といいかけた。やはり女の声だった。瑪瑙色の瞳の女は、連れをなだめるために片手を上げた。外套の前が開いて、黒っぽい毛織りの外衣と、白樺《しらかば》の枝のような細い腕が覗《のぞ》いた。
「お金についていいあいたくはありません」
連れはまた樽《たる》に腰を下ろした。瑪瑙色の瞳の女より若い娘だった。背は高く痩《や》せているため、枯れ木に灰色の外套をかぶせているように見えた。この若い娘や大男に一目置かれているらしい、瑪瑙色の瞳の女は私に向き直った。
「十リラを用意するには、少し日にちがかかるでしょう。今度、ロドリゴがあなたの主人の家に仮縫いに行った日に引き替えをしましょう。その時はまたロドリゴに、あなたに荷物を持って送ってもらうように頼ませますから、〈太陽をまとう女〉を持ちだしてください。そしてお金と交換です」
彼らにとっては、私は自分のものでもないものを横取りし、それを返す代わりに、とんでもない額の金を要求している者のはずだ。なのに瑪瑙色の瞳の女の言葉遣いは丁寧だった。この都に来て、そんなふうに丁寧に話されたことはなかった。
「あんたは誰なんだ」
私は一歩、前に出た。女はさっと後ずさりした。
「お帰りなさい。ここであったことは誰にもいってはいけません。いったりしたら、わたしたちにも、あなたにも不運が降りかかることでしょう」
脅しというより、単に事実を述べているにすぎないという口調だった。この捉《とら》えどころのない女の正体を確かめたくて、なおもぐずぐずしていると、肩をぐいとつかまれた。背後に立っていた大柄の男が私を引きずるようにして家の外に押しだした。
煉瓦《れんが》壁に叩きつけるように戸がばたんと閉まり、私はぬかるんだ路地に立っていた。野菜の屑や獣の骨が棄てられた道端を、野良犬が鼻を鳴らして通っていく。小径の先からは銅板を叩く槌音や鋸を引く音が聞こえてくる。夕暮れ時となり、空は深い紫色に変わりつつあった。頭上の窓では女が洗濯物をしまっている。早く帰らないと、こっぴどく叱られるだろう。私はのろのろと元来た道を引き返していった。
樽屋や鍋《なべ》屋の並ぶ通りに出る前に、足が止まった。私の心は、まだあの暗い部屋の中に残っていた。取り戻さないでは、ポーロ家に戻れない。私は息をひとつ吐くと、先の家に引き返した。
緑は朽ち、板も反り返った戸は閉ざされたままだった。戸に耳をつけて窺《うかが》ったが、物音ひとつしない。あの三人はこの暗い部屋で何をしているのだろう。
私はそっと戸を引いてみた。中から留め金がかかっている。もう一度、耳を澄ましたが、やはり何の気配もない。私は道に面した小窓の前に行った。僅《わず》かに開いた木扉の間から、中を覗《のぞ》きこんだ。
部屋には誰もいなかった。奥の戸が開いていて、そこから夕陽が射《さ》しこんできていた。赤味を帯びた光に、剥《む》きだしの煉瓦壁や鼠の骨や藁屑《わらくず》の散らばった床、女二人の座っていた樽が浮かびあがっている。
私は木扉を開いて、窓から家に入った。光に誘われるように奥の戸口に歩いていくと、家の外に出た。目の前には細い運河が横たわっていた。緑色の苔《こけ》に覆われた船着き場の階段に立つと、大運河のほうに溯《さかのぼ》っていく小舟が見えた。灰色の外套《がいとう》に頭巾《ずきん》をかぶった女が二人乗っている。船尾で櫂《かい》を力強く操っているのは、腰までの短い外套を羽織った大男だ。瑪瑙色の運河に降りそそぐ夕陽が、三人の影を滲《にじ》ませ、船の航跡を茜色《あかねいろ》に輝かせていた。
海の彼方《かなた》より
波に揺られてきた女よ
死んだ楽師の歌が、耳の奥で蘇《よみがえ》った。
その瞳《ひとみ》は愛に燃え
その唇はため息に震える
聖マルコ広場で、最初に楽師を見た時も、やはりこんな夕暮れ時だった。ぼろんぼろんと割れたような楽器の音が、妙にもの哀しく響いていたものだった。
おいでなさい
わたしの許《もと》に
おいでなさい
わたしの心に
いつの間に刻みつけられたのか、私の体の中で歌は流れ続ける。
太陽をまとい
月を踏み
海の彼方よりきた女よ
琵琶《びわ》に似た楽器の代わりに、きいっ、きいっ、という櫂の音が水面を流れてくる。太鼓橋の下に消えていく小舟を見送りながら、私の心の中で死んだ楽師の歌は響き続けていた。
13
昔、太陽は十もあった。
そんなに多いので、昼は暑すぎるし、天は眩《まぶ》しすぎる。そこで弓の使い手の※[#「羽+廾」]《げい》という男が九つの太陽を射落としてしまった。それで太陽はひとつになったのだ。
ところで、※[#「羽+廾」]には嫦娥《こうが》という妻がいた。その妻は、女の月経の血で作られた不死の霊薬を守っていた。※[#「羽+廾」]はこれに嫉妬《しつと》して、喧嘩《けんか》になった。それで嫦娥は不死の霊薬をたずさえて月に行き、永遠にそこで暮らすことにした。
嫦娥は、月に行く前、女たちに不死の霊薬を分け与えていった。以来、女たちの体の中にある温かく湿った洞窟《どうくつ》の奥には、不死の秘密が隠されている。そこから流れでる血を吸って、子は大きくなるのだという。
中華に伝わるこの話を教えてくれたのは、慶元《けいげん》の女だった。花旭塔《はかた》と慶元の間を行き来するうちに知り合った織物屋の娘、梅楊《メイヤン》。細く切れ上がった目と、しなやかにくびれた胴とふたつの杏《あんず》のような尻《しり》を持っていた。その尻の中には確かに、不死の霊薬が隠されているようだった。私は梅楊を外に誘いだしては、父親の目を盗んで抱きあい、女の内なる不死の霊薬を味わった。
花旭塔から命からがら逃げてきた時も、すぐに会いにいったのはこの娘の許《もと》だった。私の命を助け、花旭塔から私についてきた別の女との間で一悶着《ひともんちやく》が起こり、私が選んだのもこの女だった。
私は梅楊の父親の世話で慶元の港に小間物屋を出すことになり、彼女を妻に迎えた。
あの頃、おまえは幸せ者だね、とよく人にいわれた。小さいながらも店をひとつ持って、若く美しい妻がいる。商いも順調だったし、傍目《はため》からいうと、そう見えたことだろう。
もちろん私も幸せだと思っていた。梅楊は私に惚《ほ》れていた。四六時中、同じ家にいられて嬉《うれ》しいと何度も口にした。花旭塔と慶元を行き来していた頃は、船が沈むのではないかと不安でたまらなかったともいった。花旭塔で女を漁《あさ》ることも不安だったといいたかったにちがいない。
私も梅楊に惚れていた。仕入れが終わると、足早に家に帰り、店番をしていた妻の顔を見ては心の底から嬉しさがこみあげてくるのを感じた。だが、惚れるとは、お互いの心に枷《かせ》を嵌《は》めることだ。掛布やら筆やら枕《まくら》やら、小さな品物がごたごたと置かれた店の奥に座り、妻と呼ぶ一人の女と一緒に老いていくことだ。私は幸福と同時に息苦しさも味わっていたが、それを口にだすことはなかった。
妻はまもなく男の子を一人生んだ。しかし、歩きもできないうちに病で死なせてしまった。二人目は女の子だったが、歩けるようになってすぐ運河に落ちて溺《おぼ》れ死んだ。
梅揚が嫦娥を拝むようになったのは、それからだった。近所の呪《まじな》い婆《ばば》に聞いてきたといって、寝間の壁に月の中に座る女の姿を描いた赤い紙を張りつけて、朝晩、その前で祈るようになった。
月に棲《す》む女に頼めば、体の中の不死の霊薬の入った洞窟に、子供の種を入れてくれるのだという。店番をして、食事を作り、家をきれいにしている妻はいつも通りだったが、その赤い紙の前に座った時だけ別人となった。何度も頭を下げては礼拝して、子供を授けてくれと呟《つぶや》き続けた。大事なものではなくても、人はそれをなくしたとたん、貪欲《どんよく》になる。もともと、さほど子供を欲しがっているわけではなかったのに、二人続けて死なせてしまってから、梅揚は三人目をどうしても欲しいといいだした。
私たちは子供がなくても充分幸せだった。だが、梅楊は貪欲にさらなる幸せを願った。しかし妻は知らなかったのだ。運命の流れを自分のほうにねじ曲げるためには、代償を支払わないといけないことを。
月に棲む女は、梅揚のしつこさに降参したのか、ついに願いを聞き届けてくれた。妻は三人目の子供を孕《はら》んだ。だが、その子は妻の温かく湿った洞窟に残りたがってさんざん暴れた末、死んで出てきた。そして妻もまた子供をこの世に引きずりだすために力を使い果たした。体の中から不死の霊薬を出しつくし、下半身を血に染めて死んでいった。
私は梅楊の血の海に浸って泣いた。涙が涸《か》れるほど泣きつくすと、心の底に風が通ってきた。それはからりと乾いた風で、心が軽くなった。妻を亡くした代わりに、私を縛っていた頸木《くびき》が取れたせいだった。
梅楊の埋葬が終わると、小間物屋をたたみ、臨安《キンサイ》に向かう船に乗った。以来、私は妻というものを娶《めと》ったことはない。
どさりと音がして、地面に木箱が落ちた。
「なにしてるんだっ」
怒声と共に、手から滑り落としたものを拾おうと、かがみこんでいた私の背中が蹴《け》りとばされた。私は中庭の石畳に蛙のように這《は》いつくばった。顔だけ捻《ひね》って見あげると、袖《そで》の膨らんだ上衣に革帯を巻いた若ニッコロが立っている。顎鬚《あごひげ》をきれいに刈りそろえた旦那《だんな》は、額に癇性《かんしよう》らしい皺《しわ》を寄せて私を睨《にら》みつけていた。
「この箱には硝子《ガラス》が入ってるんだといっただろう。割れたら、大きな損害になるんだぞ」
ポーロ商会の雇い人がやってきて、慌てて釘抜《くぎぬ》きを使って木箱を開き、藁《わら》の中から透明な硝子の水差しを取りだした。青色の縁をした美しい器だった。さらに底のほうを探って、波形の模様の入った杯やら壺《つぼ》やらを出して光に透かして調べた。雇い人が、どれも割れてないようだと告げたが、若ニッコロは仏頂面を崩さずに、私に「後で鞭《むち》をくれてやるからな」といいすてて、荷物の中身を書きつけている雇い人のほうに歩み去った。家族や同僚に対しては礼儀正しい紳士として振る舞う若ニッコロだが、奉公人や下僕には手のひらを返したように冷淡になり、時に自分の癇の虫を晴らすために鞭をふるう。私は起きあがると、雇い人が新たに釘を打ち直した木箱を抱えあげた。
柱廊に囲まれたポーロ家の中庭は、弱々しい晩秋の光に照らされていた。壁を伝う蔦《つた》も茶色に枯れ、夏の間、二階の露台に飾られていた檸檬《レモン》やオリーブの植木鉢の緑も失《う》せ、寒々とした気配が漂っている。鉄で鋲打《びようう》ちされた倉庫の扉の前には木箱や行李《こうり》が何箱も積まれ、雇い人や見習い少年たちが若ニッコロの指示の許《もと》でその中身を改め、釘打ちをしていた。私とピエトロは、それらの商品の箱を正面玄関の船着き場に運びだすために駆りだされていたのだった。
私はヴェネツィア製の硝子の箱を持って、執務室の隣に四角い口を開いた通路に入っていった。壁際に、ゴンドラの櫂《かい》や棹《さお》などの置かれた暗い通路を抜けると、船着き場だ。二|艘《そう》のポーロ家のゴンドラの横に、平底船が一艘停まっていて、ダルマチアから働きに来た小柄で黒髪の男が三人、私とピエトロが運びだす木箱や行李を積みこんでいた。これらの商品は平底船に載せられて聖マルコ広場の前までいき、そこに停泊している大きな帆船の船倉に納められるのだった。
硝子の入った木箱をそっと地面に置いて、中庭のほうに引き返そうとしたら、やはり行李を抱えてやってきたピエトロと鉢合わせした。
「おっとと」
ピエトロはわざと行李を落としそうにしてみせてにたりとした。
「考え事が多すぎると、頭の内側にできものができて病気になるぞ」
さっきぼんやりしていて、木箱を滑り落としたことを皮肉っているのだ。
「考え事がないのも困る。頭の中に苔《こけ》が生えてしまうからな」
ピエトロは渋柿を食べた時のように顔をしかめた。私は中庭に続く通路に入っていった。通路の真ん中あたりに、四角い覗《のぞ》き窓がある。船着き場から上がってきた来客を執務室から監視するための窓だが、ちらりとそちらに目を遣《や》ると、部屋の中には珍しくニッコロとマフィオの顔があった。老兄弟が上の階の居室からわざわざ降りてくるのは、最近ではめったにないことだった。窓から聞こえてくる話し声からすると、来客がいるらしかった。
再び中庭に戻ると、若ニッコロが井戸の前で、ジョヴァンニーノはどこかと通いの雇い人に尋ねているところだった。団子鼻のポーロ家の雇い人は、さっき家に入っていきましたと答えている。
「なんてこった、これはあいつがコスタンティノポリに持っていく荷物だぞ」
苛立《いらだ》った声で呟《つぶや》いた若ニッコロの目が、中庭を横切っていた私の上で止まった。「夏桂」と若ニッコロが叫んだ。
「ジョヴァンニーノを探して、わたしのところに来いといってくれ」
荷役から逃れられるので、私は嬉々《きき》として下僕用の出入り口から物置へと飛びこんだ。物置の木の階段を昇ろうとして、足が止まった。開け放した戸口から中庭を窺《うかが》ったが、こちらを見ている者は誰もいない。私は物置の隅へと歩いていった。洗濯|桶《おけ》や盥《たらい》、木材や斧《おの》、手押し車といった雑多なものの置かれている間を通って壁の前に立つと、頭の少し上のあたりにある煉瓦《れんが》をひとつ抜きだした。煉瓦をくっつけ合わせている泥土がこぼれ落ちて、そこだけ動くようになっているのだ。壁の奥に、褐色の布の包みが見えた。私はほっとして、煉瓦を元のところに押しこんだ。そして素知らぬ顔で階段を昇りはじめた。
瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女と会ってから、私は板絵をそこに移し変えていた。ロドリゴが仮縫いにやってきて、お供を命じられても、ポーロ家の者の目がある。屋根裏まで取りにいけなかったら困ると思ったからだった。もっともコスタンティノポリ出航前にロドリゴがポーロ家にやってくるかどうかはわからなかった。もし間に合わなくても、私はいいと思っていた。そしたらコスタンティノポリに持っていって、売るだけだ。
二階の食糧貯蔵庫から台所に入ろうとして、モネッタの嘲《あざけ》るような声に足を止めた。
「あんた、あたしの魔術なんて効かないっていってただろ、ルチーア」
私はそっと台所を覗いた。作業台でモネッタが、卵や香辛料と一緒に鉢に入れた豚の内臓をすりこぎで潰《つぶ》しているところだった。
「だから悪かったといってるんじゃないの。ねえ、こんなこと神さまには頼めないのよ。お願い、あんたしかいないのよ」
せり出した腹がますます目立つようになったルチーアが青白い顔で料理女に囁《ささや》いていた。
私はわざと足音を響かせて、台所に入っていった。モネッタとルチーアは尻尾《しつぽ》をつかまれた猫のように頭を上げ、警戒心を漂わせた顔で私を見つめた。
身の丈ほどもある大きな炉では、黒い鍋《なべ》が尻《しり》を火で炙《あぶ》られている。中では鶏がまるごと入った煮汁がぐつぐつと音をたてていた。生姜《しようが》や丁子《ちようじ》、大蒜《にんにく》などの混ざった匂《にお》いが、部屋中に漂っている。モネッタはまたどす黒い豚の内臓をすりこぎで挽《ひ》きはじめ、ルチーアは作業台の上の片づけをはじめた。しかし私が台所を抜けて、細長い控えの間に足を踏みいれると、背後でまた囁き声がはじまった。
「ねえ、頼むわ、モネッタ」
「だめだめ。子供を堕《お》ろす薬なんて、作るの大変なのよ」
私は、控えの間の壁にかかった赤ん坊を抱いた女の絵に目を遣った。やけに頭の大きな、かわいげのない赤ん坊だというのに、若い母親はいとおしげに膝《ひざ》に載せていた。
男にとって、子供とは、目の前に突然現れた小さな他人にすぎない。女が、これはあなたの子だと説明しなければ、そこらあたりを走りまわっている他人の子供と何の区別もつかない。少なくとも私にとってはそうだった。だから私の子が死んだ時も、ぽんと現れたものが、また消えた感じがしたものだった。不意に授けられたのだから、不意に奪われてもあきらめはついた。
女にとって子供は自分の体の一部だ。子供が死ぬと、女の肉の一部も死ぬ。だから妻は身も世もなく嘆き悲しんだ。しかし人は手や足をなくしても生きていける。ルチーアのように腹の中の子を殺しても生きていこうとする女もいる。どうして妻は肉の再生を願い、嫦娥に頼ったのだろう。
妻が生きていれば、私はまだあの海に面した慶元《けいげん》の街で、瀬戸物や線香や麻紐《あさひも》といった小間物に囲まれて店を営んでいることだろう。旅といえば、たまに買い付けにでる臨安止まり。土産の簪《かんざし》を携えて家に戻れば、妻はあの杏《あんず》のような尻を振って出迎えてくれる。私は買い付けてきた荷物を解きながら、旅先で枕《まくら》を交わした女のことについてはしっかと胸に秘めておき、盗賊に出あって身ぐるみはがれそうになったことや、臨安《キンサイ》の都の華やかさなどを妻に語ってきかせるのだ。お互いに、爪先《つまさき》ほどの秘密を宝物のように抱えつつ、私たちはそうやって平穏に暮らしているだろう。
だが、すべては、そうであったかもしれない、そうであって欲しかった話だ。真実は、妻は嫦娥に祈り、血の海で死んだということでしかない。それに、妻が生きていたとしても、私はやはり家を棄てたのではないかとも思う。せいせいした気分で海に乗りだし、元《げん》の役人に捕まり、奴隷として売られて、やはりここにいるかもしれない。
人が運命に流されるということはない。いつも人はその運命を選びとっているのだ。
私の心は鳥になり、遥《はる》か東の慶元の過ぎ去った時や味わえなかった未来へと往《い》ってしまっていたので、控えの間を横切り、ジョヴァンニーノの部屋の前に着いた時には、海をひとつ渡ってきたような気がした。戸の前に立って気持ちを整えてから、私は拳《こぶし》を作って戸を叩《たた》いた。自分でも驚くほど大きな音があがった。
「誰だっ」
驚いたようなジョヴァンニーノの声がした。
「夏桂です」
「なんの用だ」
いつもならすぐに私を部屋に入れるのに、今日に限って扉を閉ざしたまま尋ねた。若ニッコロさまがお呼びだと答えると、今、行くという返事だった。昼寝でもしていたのか、戸の向こうから、がさごそと衣擦《きぬず》れの音が聞こえてきた。
私はモネッタとルチーアがまだ小声で言い合っている台所を通り、中庭に戻っていった。若ニッコロに、ジョヴァンニーノに伝言を伝えたと報告して、再びピエトロと一緒に荷物運びに戻った。倉庫の前と船着き場の間を二往復した時、やっとジョヴァンニーノが中庭に面した二階の露台に現れた。自室の露台に通じる戸口から出てきた若者は、軽い足取りで石造りの外階段を降りてきた。青の長靴下に黒の上衣。木綿帽子をきちんと顎《あご》の下で紐《ひも》で結んではいるが、その細い目は宙をさまよい、心はどこかに飛んでいた。
商品の内容と数量を確かめ終わって雇い人と話していた若ニッコロがジョヴァンニーノを認めて、叱《しか》った。
「なにしていたんだ、ジョヴァンニーノ。おまえがコスタンティノポリに運んでいく商品の荷出しだぞ。自分の目で確かめておかないと、向こうに着いた時にわからなくなるぞ」
「すみません、部屋で書き物をしていたので」
ジョヴァンニーノは悪びれた様子もなく答えると、私に微笑《ほほえ》んでみせた。
「ジョヴァンニーノ、いるか」
しゃがれ声がして、執務室の戸口にニッコロとマフィオの兄弟が現れた。背後には、蝸牛《かたつむり》のような赤い帽子をかぶった長身の男が従っていた。ニッコロは、赤い帽子の男に息子だと紹介してから、ジョヴァンニーノに早口でいった。
「こちらはビアッシさん。コスタンティノポリ行きの船の船長さんだ」
ジョヴァンニーノは、はっとした様子で背筋を伸ばし、こちら風にビアツシと手を握りあって挨拶《あいさつ》した。
「利発そうな息子さんですな」
船長は相手がタルタル人の顔をしているので少し戸惑ったみたいだったが、如才なくニッコロにいった。
「商人にさせるつもりですが、なにぶん経験がないもので、よろしく頼みます」
「誰だって最初は初心者ですよ」
赤く日焼けした船長は笑って、ジョヴァンニーノに振り向いた。
「風の具合にもよりますが、今のところ出発は三日後を考えています。あなたは他の三人の商人と同じ船室になります」
ジョヴァンニーノはぎょっとしたように息を止めた。
「身のまわりのものを入れた長持を持っていくんですが、どこに置くんですか」
船室の隅に置けるという船長の返答に、ジョヴァンニーノはますます困った顔になった。そして父親のニッコロに向かって頼んだ。
「夏桂も一緒ですから、ぼく一人の船室はもらえませんか」
「贅沢《ぜいたく》いうんじゃない」
ニッコロは即座に答えた。ジョヴァンニーノは長持に隠すはずのマリアのことを心配しているのだ。
私とピエトロは倉庫前に残された最後の商品を抱えて、船着き場へと歩きだした。人夫に箱を渡したところにビアッシが若ニッコロと一緒にやってきた。
「あれの母親はタルタル人なんです」
若ニッコロが船長に説明していた。
「タルタル人の言葉が話せるので、あちらの商人との商売には向いているでしょうがね」
「だったら黒海のタナあたりに行けば、いい商売になるんじゃないですかね。あそこにはタルタル人商人もけっこう来ますから」
若ニッコロと船長は船着き場に立って、ダルマチア人たちが商品を船に積みこむところを眺めはじめた。私とピエトロも船着き場に積まれた荷物を船上に渡す役目を引き受けた。黙々と働く私たちの横で、二人の旦那《だんな》は話し続けていた。
「確かに、タナには大きな奴隷市場があって、商売にはいいところですな。昔はうちもその近くのソルダイアに支店を持ってたんですけど、ジェノヴァの輩《やから》に何度も船を襲われるという憂き目にあって、結局、閉めてしまったんです」
「今、戦闘用のガレー船を荷物も運べるように改造した商船がぽつぽつと造られるようになったでしょう。あれはいいですよ。船足が早くて、海賊に襲われても逃げきれる。それで商船団を仕立てて海を渡るようになれば、今までよりずっと安全に商品を運べるようになりますよ」
「だったら、また黒海あたりに乗りだすのもいいかもしれないですね。実は、あの子には兄もいましてね、先々、兄弟でどこかに支店を持たせたいとも考えているんです」
ジョヴァンニーノの辿《たど》るべき道は、家族の手によってしっかりと作られつつあった。それはポーロ家の商売にしっかりと絡みついた道だ。ジョヴァンニーノはそれを敏感に感じとって、大都《カンバリク》に逃げたいと思ったのかもしれなかった。
平底船に荷物を積み終わると、船縁《ふなべり》が水に沈みそうになった。しかし船長は平気な顔で船に飛び乗った。
「それじやあ、また」
若ニッコロは手を上げて挨拶した。ダルマチア人たちの漕《こ》ぐ平底船は、ゆっくりと運河を下りはじめた。若ニッコロは船が岸から離れるや、せかせかと引き返していった。私とピエトロもそれについて中庭に戻ると、雇い人や見習い少年たちは倉庫の戸を閉めて、執務室に引きあげていくところだった。ジョヴァンニーノもニッコロとマフィオと一緒に執務室に入っていく。私を鞭《むち》打つのを忘れたらしく、若ニッコロもそれに合流したので、中庭は箒で掃いたように人気《ひとけ》がなくなった。
私たちは汚れた手を洗うために井戸に近づいていった。
「おまえがいなくなると、おれの仕事が増える」
ピエトロが釣瓶《つるべ》を引きあげながら恨めしげにいった。私のコスタンティノポリ行きのことだった。
「すまないな」
私は、ピエトロが石の井戸の縁に載せた釣瓶を取って、指の骨の浮きでた蒙古《もうこ》人の手に水を注いでやった。ピエトロは手に水をすくって汗まみれになった顔を洗い、頭を振って飛沫《しぶき》を周囲に飛ばした。夏の最中に水をかぶった後の犬みたいだった。
「もっと奴隷を増やせばいいんだ。マリアみたいな寝間の役にしか立たない女奴隷を買う金で、働きのいい男の奴隷三人は買えただろうに」
ピエトロは服の裾《すそ》で濡《ぬ》れた顔と手を拭《ふ》いて、ニッコロのいる向かいの執務室のほうをちらりと見た。そして私の耳に囁《ささや》いた。
「ニッコロ旦那は、あんまりマリアをかわいがりすぎて寿命を縮めるよ」
「若い女は若返りの妙薬というぞ」
私は新たに釣瓶から水を汲《く》んで、自分の手と顔を洗った。ピエトロは私のためには釣瓶を傾けて水を注いでくれようとはせずに、井戸の丸い礎石の上に座った。
「それは女による。マリアは腹に黒い蛇を飼っている」
どんな愚かな人間でも、本人が気がつかないうちに賢い言葉を口走ることがある。そんな時は耳を傾けることにしている。そうして私はこれまでたくさんのことを学んできた。
私はピエトロの隣に座って聞いた。
「マリアの黒い蛇とはなんだ」
ピエトロは、目の下のぼったりとした肉の膨らみを指で押さえて揉《も》んだ。
「黒い蛇は、マリアの腹にある温かい穴の奥に棲《す》んでいる。そこに男のものが入ると、噛《か》みついて毒を流すんだ。男は気持ちのいいまっただ中だから噛まれたことなんか気がつかない。その毒は男の血に混じり、心を狂わせていく。それはただの女狂いとは違う。それは……」
「どんなふうなのだ」
ピエトロは唇を丸く突きだし、指の間から私を見た。
「男の命を取ってしまう」
ピエトロは両目を手で塞《ふさ》いで黙った。それ以上、この男から知恵のある言葉は引きだせそうではなかった。
人の声がしたので顔を上げると、執務室からジョヴァンニーノが出てきたところだった。若者は井戸の礎石に座った私を見つけると、部屋についてくるように命じて、外階段を昇りはじめた。私は立ちあがった。そしてピエトロと別れて、ジョヴァンニーノの後に従った。
二階の露台から部屋に入ったジョヴァンニーノは、私に入口の戸を閉めるように告げた。私はいわれた通りにして、部屋を眺めた。
三方に足載せ台のついた寝台から掛布は半分滑り落ち、窓辺の書き物机の上には飲みかけの葡萄酒《ぶどうしゆ》の杯が置かれている。椅子《いす》の背には白い内衣が掛かり、部屋はどこか雑然としていた。
「聞いただろう、三日後に出航だ」
ジョヴァンニーノは寝台に腰を下ろしていった。そして囁くような声で続けた。
「出航前に、マルコの部屋にある金牌《きんぱい》を盗まないといけない」
私は布張りの窓が閉まっていることを確かめると、寝台に近づいていった。
「どうやって盗むつもりですか」
「そのことだけどな……」
ジョヴァンニーノは両手を股《また》の間に挟んで、上半身を前後に揺らせた。
「おまえ、盗んできてくれないか」
私は天井を睨《にら》みつけた。こうなるのではないかと薄々感じていたことではあった。ジョヴァンニーノは面倒なことはすべて私に押しつける気なのだ。
「簡単だよ。出発前、中庭にみんなが集まるだろう」
誰かが旅に出る時、家族も奉公人も下僕も全員中庭に集まって別れの挨拶をするのは、ポーロ家のしきたりだった。若マフィオとステーファノの出航の日も、一家の者が勢揃《せいぞろ》いしたものだった。
「マルコも必ず顔を出す。その間に、おまえがあの塔に昇って貴重品|函《ばこ》を開けて金牌を盗みだすんだ」
「貴重品函には鍵《かぎ》がかかっているでしょう」
私はその役目から逃れる道を探すように、水色の枕《まくら》や皺《しわ》の寄った敷布に視線をさまよわせた。
「鍵は一階の執務室の金庫の中だ。それはぼくが朝早くに盗みだして、おまえに手渡す。おまえはマルコに用事を頼まれたふりをして、塔にいけばいい。奴隷なら、マルコの部屋に出入りしても不思議には思われないからね」
私の目が枕の一点で止まった。
「奴隷のほうが都合がよければ、マリアでもいいんじやないですか」
私は枕に落ちていた黒く長い髪の毛をつまんでいった。この家の中で、こんなに癖のない長い黒髪を持っている女は一人だけだった。
「人目を盗んで誰かの部屋に入るのはお手のものみたいですしね」
ジョヴァンニーノの顔がぱっと赤くなった。
さっきまでマリアはこの部屋にいたのだ。若ニッコロの伝言を運んできた時、ジョヴァンニーノが部屋に私を入れなかったのは、そういう理由だったのだ。
「マリアは隙《すき》を見てぼくの長持に隠れないといけない。そんな余裕はないよ」
ジョヴァンニーノは動揺を隠そうとして、顔を伏せた。
私はマリアの髪の毛を手から振り落とした。髪の毛は大理石の床で黒い蛇の子供のようにとぐろを巻いた。
マリアはうまくニッコロとジョヴァンニーノ親子を操っているようだった。腹に黒い蛇を飼っている女と一緒に危ない橋を渡るのは気が進まなかった。ジョヴァンニーノは私のためらいを察して、上目遣いでこちらを見た。そして一瞬泣きそうに顔を歪《ゆが》め、両手で私の手に縋《すが》りついた。
「お願いだ、夏桂。おまえの助けが必要なんだよ」
その言葉は、媚薬《びやく》のように私をいい気持ちにさせた。若者の弱さから来るものだとわかっていながら、自分が強く逞《たくま》しい人間であると感じることができたからだ。それは奴隷の私が味わえる最高の贅沢《ぜいたく》でもあった。
できれば、この若者の力になってやりたかった。しかし、ジョヴァンニーノの目論見《もくろみ》通りに事が運ぶとも思えない。
「あまり、たやすいことには思えないのですが」
私は用心深く答えた。それでも、私が引き受けるかもしれないと希望が湧《わ》いたらしい。ジョヴァンニーノは私の手を強く握った。
「もし失敗した時には、ぼくが責任を取る。おまえに頼んだことを白状して、咎《とが》はすべて引き受ける」
ジョヴァンニーノが企《たくら》んだのだとわかれば、身内のことだ。ポーロ家の旦那たちも表沙汰《おもてざた》にはするまい。ジョヴァンニーノの言葉に危うさは感じたが、私もまた奴隷の身の上から逃げだしたかった。うまく事が運べば、私はコスタンティノポリまで連れていってもらえる。そこまで行って、この若者とマリアと別れればいいのだ。私は自分にそういい聞かせた。
「わかりました」
ジョヴァンニーノは、ほっとして私から手を滑り落とした。
「それじゃあ、出航前にな……」
ジョヴァンニーノはマルコの部屋のある塔のほうを指さした。私は頷くと、マリアの髪の毛を踏みつけて部屋を出ていった。
14
空がやけにきれいな朱色に染まっていた。巨大な魚が天の底に身をこすりつけ、のたうっているような鱗雲《うろこぐも》が東方を覆っている。その朝も私は中庭の井戸の前で、水汲《みずく》みをしていた。裏口の付近では、ピエトロが箒《ほうき》で敷石を掃いている。布張りの窓の向こうにようやく人影の動きはじめたポーロ家の中庭に、しゃっしゃっという音が静かに響いていた。
水汲みの仕事も、今日で最後だった。帆船に乗って、昼前にはヴェネツィアを出航する。コスタンティノポリに着いたなら、もう誰も私に命令する者はいない。私は好きな時に好きなところに行ける。魂だけではない、この身も鳥のようになれるのだ。喜びで、心が体の外に広がっていく。
ただ、気がかりはふたつあった。ひとつは〈太陽をまとう女〉のことだ。ロドリゴは、昨日も仮縫いにやってこなかった。彼らは私が旅に出ることを知らないのだ。〈太陽をまとう女〉は、コスタンティノポリまで持っていくことになるだろう。とすれば、どこかで素早くあの包みを衣類の下に隠さないといけない。とはいえ、このことに関しては、私はロドリゴの訪問が間に合わないでかえってよかったかもしれないと思い直していた。大銀貨で十リラと交換するといいはしたが、それがどれだけ嵩張《かさば》るかわからない。得体の知れない奴《やつ》らと同船する長旅では、小さな板絵を服の下に隠しているほうが安全だった。
もうひとつの気がかりは、マルコの部屋から金牌を盗みだすことだった。私は釣瓶《つるべ》を引きあげながら、ジョヴァンニーノの部屋の窓を眺めた。窓はまだ閉まったままで、若者が起きているかどうかもわからなかった。朝のうちに鍵《かぎ》を盗みだすといっていたが、人が起きだす前にしないとその機会を失ってしまうのではないかと心配だった。
三度目に釣瓶を逆さにすると、手桶《ておけ》は水でいっぱいになった。私は釣瓶と一緒に考え事を井戸の底に放りなげて、手桶を持ちあげた。下僕用の階段のある物置に向けて二、三歩進んだ時、運河のほうから一陣の風が吹いてきて、ピエトロが掃き集めた木の葉や藁屑《わらくず》を舞いあがらせた。
「糞《くそ》っ、なんて風だ」
ピエトロの悪態が聞こえた。妙に生暖かい風だなと思いながら、私は風の吹いてきた方向に目を遣った。正面玄関の船着き場に抜ける薄暗い通路から、黒い影がするすると流れだした。おや、と思って目を凝らすと、黒い帽子に黒い外套《がいとう》をまとった男だった。まるで風に追い遣られた夜の残滓《ざんし》が、物陰で集まってできた人物のようだ。男は、私とピエトロに目を走らせ、近くにいた私のほうに歩いてきた。
「ポーロ殿のお屋敷だな」
黒々とした顎鬚《あごひげ》を蓄えた男は低い声で問うた。私が頷《うなず》くと、男は充血した瞳《ひとみ》で四方を囲む建物をさっと眺めた。どこに行っても、まず自分のいる場所を確認しないではいられない質《たち》らしい。
「マルコ・ポーロ殿にお会いしたいと伝えてくれ」
私は桶を地面に置いた。ピエトロは知らんぷりで裏木戸の前で再び箒を動かしはじめている。こんな朝早くに客が来たなどと伝えにいって、マルコの不興を買いたくはないのだ。それは私も同様だった。しかし、相手はきちんとした身なりの旦那《だんな》だ。もう少し後に来てくれなどとはいえはしない。
「どちらさまですか」と尋ねると、男はそれには答えず、「楽師のことで話したいことがあるといってくれ」と囁《ささや》いた。
楽師と聞いて、私はこの男の正体がわかった。〈夜の紳士〉だ。以前、マルコが話していた。放浪楽師を殺した犯人を内密に探すよう、彼らに頼んだと。この男を目にした時に連想したことは正しかった。まさに夜の残滓の作りあげた人間、夜陰に紛れて人々の秘密を探るヴェネツィアの密偵だった。
「わたしはここで待っているから」
自分の伝言を私が理解したことを確かめると、〈夜の紳士〉は通路の陰に引き下がった。私は水桶はそのままにして物置に入った。
二階の食糧貯蔵庫を抜け、三階の物置まで、木の階段をきしませて一気に昇っていった。
三階に着くと小食堂と家事室を通り抜けて、鎧《よろい》や剣が鈍い光を放っている通り広間に出た。奥の若ニッコロ夫婦の部屋の扉は閉まったままだ。私は足音を忍ばせて広間の控えの間に入り、塔に続く階段室に抜けた。
「醜い龍め、マルコリーノ公が退治してくれよう」
階段の後ろから甲高い声が聞こえた。そこは、三階の通り広間に面した冬の居間で焚《た》く薪《まき》の置き場となっている。見ると、一本の薪を手にしたマルコリーノが、太り肉《じし》の女の尻《しり》を叩《たた》いて遊んでいた。女は身を捩《よじ》らせて逃げながら、「マルコリーノさま、おやめください」と弱々しく叫んでいる。カテリーナが娘のために田舎から雇ってきた乳母だった。
階段室は、廊下を通じてカテリーナの居室とつながっている。朝の一時を娘と水入らずで過ごしたいカテリーナに部屋から出されて、ぶらぶらしていたところを、早く目覚めて退屈していたマルコリーノに見つかったのだろう。頬《ほお》の赤い、いかにも農家の女らしい乳母は、両腕で頭を守るようにして、階段の後ろにしゃがみこんでいる。それをさらに薪で叩こうとしたマルコリーノが、私に気がついた。
「やあやあ、今度はタルタルの魔物まで出てきたか、勇敢なる騎士がお相手いたすぞ」
逃げるばかりの乳母に飽きていたマルコリーノは階段の下から飛びだしてきて、私に向かって薪を振りあげた。私は男の子の手からひょいと薪を取りあげ、額と額がくっつくほど顔を近づけて、恐ろしげな声をだしてやった。
「東の魔物は勇敢な騎士が大好物だ。今夜、おまえの寝床に行って、体の中のもの全部ひきずりだして喰《く》ってやる」
無口なタルタル人奴隷がヴェネツィアの言葉で喋《しやべ》ったものだから、マルコリーノは肝を潰《つぶ》した。私が薪を階段の下の暗がりに投げ棄てるや、ばたばたと通り広間のほうに走り去った。乳母もびっくりした顔をして、カテリーナの居室に続く廊下に逃げていった。
私は塔の階段を昇りはじめた。今日、ここから出ていくのだという気持ちが、私を大胆にさせていた。勇敢な戦士のように胸を張って、四角い塔の壁をぐるりと巡る階段を昇り、光の降りそそぐ吹き抜けを仰いだ時、最上部の手すりから身を乗りだしているマルコに気がついた。腕組みして見下ろしていたマルコは、私と目が合うとこけた頬に淡い笑みを浮かべた。
「よくやった、夏桂。おまえが止めなかったら、わたしがあのわがまま坊主を叱《しか》っていたところだ」
裸足に内衣を着ただけというマルコの格好は、マルコリーノの声で叩き起こされたことを物語っていた。階段の最後の数段を駆けあがってきた私を、マルコはその薄茶色の瞳でじっと見つめ、ヴェネツィアの言葉でいった。
「それにしても、おまえがあれほどわたしたちの言葉に通じていたとは知らなかったよ」
私は内心、舌打ちした。マルコリーノには低い声で脅したつもりだったが、石の塔の中だから思ったより大きく響いたのだ。
しかし一旦《いつたん》吐かれた言葉は、また口の中には戻せない。私はマルコの言葉の意味がよくわからなかったふりをして曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んだ。そして、さらなる詮索《せんさく》の矢が飛んでくる前に蒙古《もうこ》語で伝えた。
「楽師のことで話したいという方が来ておられます」
案の定、マルコの細長い顔は驚きに突っ張り、私のことは頭から吹っ飛んだ。
「今どこにいるんだ」
中庭の正面玄関に続く通路だと答えると、マルコは慌てて部屋に引き返した。そして扉を閉める直前、私を振り向いて命じた。
「すぐに父の部屋に行って、マフィオ叔父《おじ》さんと一緒に執務室に来るように伝えてくれ」
かしこまりました、と返事する前に、マルコの部屋の戸は閉まっていた。私は白い石段を降りていった。三階の広間の階段から二階に戻り、ペルシアの絨毯《じゆうたん》や陶磁器の置かれた通り広間の端のニッコロの部屋の前に立って、戸を叩いた。返事がないので、もう一度叩くと、やっと「誰だ」と眠たげな声がした。
「夏桂です。マルコさまからのご伝言です」
唸《うな》り声が洩《も》れ、少ししてから「入れ」と許しが出た。私は部屋の重い扉を開いた。
部屋の窓は淡黄色の布で覆われていて、薄暗かった。真ん中を占める天蓋《てんがい》つき寝台も垂れ幕を下ろしているために、中で寝ているニッコロの姿は見えない。しかし青に黄色の菱形《ひしがた》模様の入った垂れ幕の背後で、人がもぞもぞと動く気配がしていた。寝台の足許《あしもと》には、引き出し式の従者用の寝床があったが、そこにいるはずのマリアの姿はなかった。私が背後で扉を閉めると、やっと寝台の垂れ幕が動き、就寝用の白い帽子をかぶったニッコロが顔を出した。
「なんだね、こんな朝早くから」
ニッコロの丸々とした肩の後ろに、マリアの黒い瞳が覗《のぞ》いていた。臆病《おくびよう》なひよこのように、用心深くこちらを窺《うかが》っている。私はマリアの姿を見て見ぬふりをした。
「マフィオさまとご一緒に、至急、執務室にお越しくださるようにということでした」
ニッコロは不機嫌に部屋の薄闇《うすやみ》を睨《にら》みつけた。
「マフィオと一緒にだと。いったい何事だ……」
〈夜の紳士〉の来訪を告げれば、ニッコロに対する返事になるとはわかっていたが、黙っていることにした。余計なことを知っているとは思われたくなかった。
ニッコロは欠伸《あくび》をしながら、渋々と寝台から起きだした。そして全裸のまま床に立ち、マリアに「服を着せてくれ」と命じた。女奴隷は明らかに私の視線を気にしながら、床に置いていた自分の内衣を拾いあげ、もぞもぞと身支度すると寝台から出てきた。
「今日はジョヴァンニーノの出発の日だな、夏桂」
ニッコロは腕をぶらりと垂らしたまま、感慨深げにいった。そうです、と私は答えた。
「わしはあの子の母親に約束したんだ。必ず、立派な商人にしてみせるとね。その第一歩だと思うと嬉《うれ》しい」
マリアが戸棚から股引や長靴下、内衣などを運んできて、ニッコロの前に跪《ひざまず》いた。そして股引を広げると、老人は子供のように片足ずつ中に入れた。
「ほんとうはあの子の母親もヴェネツィアに連れて帰りたかったんだ。だが、あの女は行けないといった。子供と別れることになっても、西の涯《は》てみたいな遠いところには行きたくない。蒙古の占い師もいないところで死んだら、どうやって死体を焼くべき時を選ぶのだ。ちゃんとした日時に焼かれなかった死者は、あの世に逝けずにいつまでもこの世をさまようことになる。そんなのは金輪際|厭《いや》だといった」
ニッコロの丸くふくよかな顔に少し寂しげな表情が浮かんだ。
「あの女は死に場所をカタイだと決めていた。そんな女を無理に連れてきても、またいつかカタイに戻っていくだろう。人は結局、死ぬ時のことを考えて物事を決めるものだ。東方を二十四年間もさまよったわたしやマフィオが、今になってヴェネツィアに戻ってきたみたいにな」
その間もマリアは黙々とニッコロの身支度を進めていた。白髪混じりの陰毛、萎《しな》びた陰茎、突きだした腹に弛《たる》んだ尻などが、マリアの手によって衣類で包まれていく。女奴隷の顔は仮面をつけたように無表情だ。同じ奴隷でも、私やピエトロのような男なら、眠っている間までこき使われはしない。しかし女奴隷には、寝床の中にも押しいってくる旦那がいる。それは覚めることのない悪夢のようなものだ。マリアが、ジョヴァンニーノを誘惑してまで逃げだしたがる気持ちはわかった。
「ジョヴァンニーノはまだ若い。死に場所を考える歳ではない。今のうちに世の中を巡って、経験を積んでいくがいい。夏桂、あの子のことを頼むぞ」
ニッコロは私にいった。「かしこまりました」と答えながら、この老人が息子を少しも理解していないことを哀れに思った。
死に場所を考えるのは、年齢とは関わりのないことだ。それはひとつの決心だ。ニッコロはヴェネツィアで死のうと決め、ジョヴァンニーノの母親は大都《カンバリク》で死のうと決めた。そう決めた者同士の運命は別れるしかない。一度、死に場所を決めた人間は、死の瞬間まで、その方向を目指して生きていくのだから。
ジョヴァンニーノはすでに祖国で死のうと決めている。帰りつくことができなくても、彼の死に場所は元《げん》の国だ。死んでも魂となって帰っていくだろう。
私は死に場所を決めてはいない。そんな人間はきっとどこかの路傍で野垂れ死にし、魂は行き場なく永遠にさまようかもしれない。それでもいいではないか。生きているうちもさまよっている。死んで、どこかに落ち着こうというのが強欲なのだ。
ニッコロが立ち去れというように手を振った。私は一礼して部屋を出た。扉を閉めようとして振り向くと、老人の肩に緋色《ひいろ》の外衣をかけていたマリアが私に目配せした。
私もあなたたちと一緒にコスタンティノポリに行くのよ。黒い瞳《ひとみ》は、強い決意をこめてそう語っていた。
マリアもまた蒙古の砂漠を死に場所に決めているのだろう。私はそっと頷《うなず》くと、扉を閉めた。
15
中庭に戻ると、ピエトロはもう掃除を終えて消えていた。湿った風の吹きすさぶ船着き場に続く通路には、〈夜の紳士〉の姿もない。執務室の窓にちらちらと影が動いているところを察すると、すでにマルコが中に招きいれたようだった。今にニッコロやマフィオも執務室にやってくる。執務室にある鍵《かぎ》を盗むはずのジョヴァンニーノはどうするつもりだろうと二階の部屋を見あげると、少し開かれた窓の間に若者の顔が覗《のぞ》いていた。マルコたちはまだいるか、と問うように執務室を指さしたので、私は頷いた。ジョヴァンニーノは落胆した様子で部屋に引っこんだ。私は運びかけの水桶《みずおけ》を取りあげた。
台所の水瓶《みずがめ》がいっぱいになるまで、五度、中庭との間を往復した。その間にルチーアとパオラとピエトロが、水盥《みずだらい》や糞壺《くそつぼ》、葡萄酒《ぶどうしゆ》や麺麭《パン》の盆を持って屋敷を走りまわり、眠りを貪《むさぼ》っていたポーロ家の中にも活気が生まれてきた。執務室の中二階で寝泊まりしている見習いの少年二人も不意の来客に起こされて、井戸端で顔を洗いだした。
朝が明けていくにつれ、東を覆っていた鱗雲《うろこぐも》は風を受けて大きくなり、どんよりした灰色の幕となって空全体に広がっていった。晴れの旅立ちには似つかわしくない曇天だった。私が部屋に水の入った盥を持っていくと、外の雲に心の中まで覆われたかのように、ジョヴァンニーノは内衣姿のままいらいらと窓の前を行き来していた。
「なにもかも、ぶちこわしだ。お父さんも叔父《おじ》さんも執務室に入ったままだ。金庫から鍵を盗む隙《すき》なんてない」
昨夜は出発前の興奮で眠れなかったのだろう、若者の顔色は青ざめ、目のまわりはうっすらと腫《は》れている。
「家を出るまではまだ機会はあるでしょう。とにかく今は支度をすることです」
私はあやすようにいって、服を着るように勧めた。ジョヴァンニーノは部屋の隅の渦巻き模様の入った長持から、今日のためにとっておいた緑色の絹織りの上衣や、革の靴底つきの長靴下を取りだした。
「コスタンティノポリに持っていく物は準備できているのですか」
水盥を窓際の卓の上に置くと、私は着替えはじめたジョヴァンニーノに聞いた。彼は内衣をまくりあげ、腹に長靴下留めの革帯を巻きつけながら、部屋の隅の小型の長持を顎《あご》で示した。
「そこに用意してある。マリアが隠れるのに充分かどうかみてくれないか」
私は鉄で鋲打《びようう》ちされた長持の蓋《ふた》を開いた。底のほうにジョヴァンニーノの衣類が入っているだけだ。小柄なマリアなら、身を丸めていればなんとか入るだろう。
「大丈夫とは思いますが、問題はニッコロさまが気がつかないうちに、マリアがここに隠れることができるかどうかですね」
ふん、とジョヴァンニーノは鼻先で返事して、赤い長靴下を手に寝台に座った。若者の体を受けて、寝台がきしんだ。
「長持はゴンドラに積んでおく。中庭でぼくが家族と最後の挨拶《あいさつ》をしている間に、マリアがそこに隠れる手はずになっている」
ジョヴァンニーノは長靴下を脚に通しながら答えた。段取りは、マリアと打ち合わせずみらしかった。私はその手順を頭の中で繰り返し、気にかかったことを告げた。
「ニッコロさまが聖マルコの船着き場まで見送るといいだしたら、当然、マリアもお供させるでしょう。その時、マリアがいないと、まずいことになりますよ」
「大丈夫だ。父には、港までの見送りはいらないといってある。帆船の船長との挨拶も、なにもかも一人でやるからって。それより、ぼくは金牌《きんぱい》のことが心配だ……」
長靴下を穿《は》き終わったジョヴァンニーノは、窓のところに歩いていった。布張りの窓の隙間から中庭を見下ろしたとたん、「ああっ」と呻《うめ》き声をあげた。
「雇い人が来てしまった」
若者の横に立って中庭を覗《のぞ》くと、通いの雇い人が執務室に入っていくところだった。入れ違いに〈夜の紳士〉がするりと戸口から抜けでて、船着き場のほうに消えた。少し間を置いて、マルコとマフィオ、マリアに介添えされたニッコロが外に出てきた。四人は井戸の横を通り、玄関に続く階段を昇りはじめた。裏口のほうから会計係の男が現れて、「おはようございます」と挨拶する声が聞こえた。執務室の中では雇い人や見習い少年たちが働きだし、中庭はいつもの朝の活気に包まれはじめていた。
「もうだめだ。あんなに人がいては、金庫から鍵を盗むなんて無理だ」
ジョヴァンニーノは拳《こぶし》で頬《ほお》を叩《たた》くようにして、執務室を睨《にら》みつけた。危険を冒してマルコの部屋から金牌を盗むことができそうもなくなったので、私は半ばほっとした。この企ては性急すぎた。ニッコロの寵愛《ちようあい》するマリアを連れて逃げることも、金牌を盗むことも、本来ならジョヴァンニーノがやらなくてもいいことだった。この若者は奴隷ではない。裕福な商人のれっきとした息子なのだから。
「次の機会まで待ったらいかがですか」
私はおだやかに若者に勧めた。
「一人前の商人になるまで待つのです。そうすれば、コスタンティノポリに行く機会はまたすぐにできるでしょう。この前、若ニッコロさまが、将来はステーファノさまと一緒に黒海のあたりに支店を持たせたいとおっしゃっていましたよ。黒海からなら蒙古《もうこ》は目と鼻の先ではないですか。なにも今慌てて大都《カンバリク》に戻らなくても、ニッコロさまたちがしたように元《げん》の国まで商いの旅に出る機会も巡ってくるかもしれません。そしたらマルコさまから金牌を貸してもらって、堂々とここから出ていけるじゃないですか」
「だめだっ、今すぐじゃないとだめだ」
ジョヴァンニーノはだだっ子のように首を横に振った。そしてニッコロの腕を支えて外階段を昇っていくマリアを見つめた。
「約束したんだ。大都に戻ったら、マリアを妻にすると」
自分が惚《ほ》れた女が、父親の情婦となっていることが我慢できないのだ。頭の中には蜜《みつ》のように甘い未来が広がり、一日でも早くマリアを攫《さら》って逃げていきたいのだろう。こんな若者に何をいっても無駄だった。
「それでは金牌は持たずにコスタンティノポリまで行くのです。向こうでステーファノさまに事情を話して、お金を都合していただきなさい」
「ステーファノは、そんなこと、許してくれない」
ジョヴァンニーノは激しい調子でいうと、ニッコロと肩を擦りあわせて玄関の中に消えるマリアを一瞥《いちべつ》し、乱暴に窓を閉めた。
「金牌を入れている函《はこ》に錠が下りていれば、槌《つち》ででも斧《おの》ででも壊せばいいんだ」
私はそっと口の内側を噛《か》んだ。誰がその錠を壊すかは明白だった。
「そんなことをしたら、金牌を盗んだことがすぐにばれてしまいます。コスタンティノポリ行きの船が出航する前に捕まってしまいますよ」
「誰が盗んだかなんてわかりはしない。知らないといって通せばいい」
ジョヴァンニーノはいい張った。それでも私が乗り気でないことを察すると、窓辺の椅子《いす》に腰を下ろした。
「やってくれないなら、父にいうぞ。おまえが金牌を盗もうとしているところを見つけたとな」
「なにをいうんですっ」
若者は鼻の付け根に粟《あわ》のような汗を浮かべて、私を見上げた。
「どんなに言い訳しても無駄だ。おまえは奴隷で、ぼくは主人だ。誰も奴隷の言い分なんか聞きはしない。おまえは牢《ろう》にぶちこまれ、生きて外には出られないぞ」
ついこの前まで盲目的に慕ってくれていた若者が、今は私を脅していた。黒い蛇の仕業だ。マリアの温かな穴に棲《す》む黒い蛇の毒が、心を狂わせてしまったのだ。
「わかりました」
私は哀《かな》しい気分で答えた。
ジョヴァンニーノは後ろめたそうに私から目を逸《そ》らし、椅子の背にもたれかかった。それでも口調は強気のまま続けた。
「鍵がなくても、最初の予定通りだぞ。中庭で別れの挨拶がはじまったら、塔に昇って、マルコの貴重品函から金牌を盗んでくる。いいな、夏桂」
私は、もう一度「わかりました」と繰り返し、ジョヴァンニーノの部屋から出ていった。
人の心は水のようなものだ。毒を流されれば汚れるし、大きな岩に阻まれれば思わぬ方向に逸れていく。人生にはさまざまなことが起きる。澄んだ水を保ちつつ、まっすぐ海まで流れていくのは無理なのだ。そうはわかっていても、私の心の底には一抹の悲哀が広がっていた。
台所では炉の火がめらめらと燃え、モネッタがパオラと一緒に乳酪《チーズ》や麺麭《パン》を切ったり、油を壺《つぼ》に小分けにしたりしていた。私の入ってきた気配を察して、料理女は顔を上げた。炉から立ち昇る煙のために涙で滲《にじ》んだ目を瞬かせた。
「ああ、夏桂。ジョヴァンニーノさまの持っていく物、そこに用意してるから、船に積んでおくれ」
モネッタの足許《あしもと》には、塩魚や塩漬け肉の貯蔵箱や生きた鶏二羽を入れた籠《かご》、鍋《なべ》や杯、薪《まき》の束などが置かれていた。コスタンティノポリまでの旅の間、船中でのジョヴァンニーノの食事は私が作ることになる。そのための食料や煮炊きの道具だった。私は肉や魚の箱と鶏の籠を持って下に降りていった。
船着き場では、帆船までの船頭となるピエトロがゴンドラの中を片づけ、荷物を置ける空間を作っていた。通路から食料を持って現れた私を見て、蒙古人の奴隷は皮肉な笑みを洩《も》らした。
「気の毒にな。また黴《か》びた麺麭と酸っぱい葡萄酒の日々がはじまるんだな」
「船に乗るんだから、しかたないことだ」
私は船上のピエトロに木箱と、羽をばたばたさせて騒いでいる鶏の籠を手渡した。ピエトロはそれをゴンドラの底に置いた。
「おれは二度と船旅なんかしたくない。ジョヴァンニーノさまが、おれにお供を命じなかったのはありがたいこったよ」
「船に乗らないと、どこにも行けないぞ」
ピエトロは無精髭《ぶしようひげ》のぽつぽつと生えた口をすぼませた。
「どこかに行く必要なんて、あるのか」
私はそれには答えずにまた台所に戻っていった。
マルコの部屋に行って金牌《きんぱい》を盗むという役目が私の気持ちを暗くしていた。
うまくいくかどうかわからない。もし失敗したら、本当にジョヴァンニーノは私を助けてくれるだろうか。私をポーロの旦那《だんな》方に泥棒として突きだすなどといいだしたくらいだ。あまりあてにはできそうもなかった。しかし、私にはやめることはできない。
気の重いことは早くすませたいのに、どういうわけか、こんな時ほど物事の進み具合は遅くなる。朝は亀の歩みのようにゆっくりと過ぎていった。
台所と船着き場を往復して、私は荷物を運び続けた。葡萄酒|樽《だる》、麺麭や乳酪、腸詰、玉葱《たまねぎ》や球菜《たまな》などを詰めた籠、薪、包丁や鍋、毛布。長い船旅に入り用な細々したものをゴンドラに積み終えると、ピエトロと一緒にジョヴァンニーノの長持を部屋から中庭に降ろした。鉄の留め金を下ろしただけの長持をゴンドラの真ん中に据えてから中庭に出ると、ようやく見送りの者たちが集まりはじめていた。
灰色の粗毛の上衣姿のマリアを従え、襞《ひだ》のついた緋色《ひいろ》の上衣を着たニッコロ。外套《がいとう》を羽織った寒がりのマルタとぼそぽそと話しているマフィオ。夫婦の後ろでは、マルコリーノが雇い人の一人を相手にふざけている。革帯の銀の留め金をいじりながら会計係の帳面を覗《のぞ》きこんでいるのは若ニッコロだ。イザベッラとカテリーナはまだ現れてなかった。モネッタとパオラ、ぷっくりと膨らんだ腹を抱えたルチーアは、見習い少年や雇い人たちと一緒に端のほうでかしこまっている。鮮やかな青の帽子をかぶったマルコに熱心に話しかけていたジョヴァンニーノが、私に目配せした。
私は、ピエトロがモネッタ相手にお喋《しやべ》りをはじめるのを待って、物置に滑りこんだ。裏階段を三階まで駆けあがり、通り広間を抜けて塔の階段室に行く。白い石段に足をかけて、錠を壊す道具を持ってこなかったことに気がついた。物置に戻ることを考えたが、今朝、マルコリーノが遊んでいた薪置き場に斧があるのではないかと思いついた。階段の裏手に回ると、案の定、うずたかく積まれた薪の山の横に、斧が置かれていた。私はそれを手にして塔に昇っていった。
マルコの部屋の扉を開くと、南北二方の窓覆いは引きあげられ、白々とした光が部屋を満たしていた。ルチーアやパオラはまだ部屋の掃除をしていないらしく、天蓋《てんがい》つき寝台の掛布は乱れたままだ。私は戸口の横に置かれた大きな戸棚の前に立った。人の背丈よりも高い戸棚には、帆船が島々の間を航海していく様子を彫った開き戸がついている。鍵《かぎ》はかかってなかったので簡単に開いた。中の棚には、書物や書き付けの束、帽子や衣類などが置かれていた。ジョヴァンニーノのいっていた象牙《ぞうげ》の貴重品函はすぐわかった。バルトロメーオが使っているラテン語の写本ほどもあり、一番上の棚に載せられていた。私はそれを引きだして、石の床に置いた。菊の花が一面に彫られた美しい函だった。これを壊すのは惜しい気がした。蝶番《ちようつがい》式の上部の蓋《ふた》には鉄の錠穴がある。ひょっとして鍵がかかってないかもしれないと期待して蓋を開けようとしたが、やはり開かなかった。
私は中腰になると、斧を振り下ろした。がじゃっと象牙の潰《つぶ》れる音がして、函の蓋が割れた。乳白色の破片を取り除き、中を探ると、蚯蚓《みみず》ののたくるような横書き文字をびっしりと連ねた紙束の下に、長方形の金牌が五枚あった。クビライの金牌には蒙古の文字、イル・ハン国の王の金牌には獅子《しし》や白隼《しろはやぶさ》などの絵とペルシアの文字が刻されている。どれも肘《ひじ》から下くらいの長さで、五枚合わせると赤ん坊ほどの重さになる。私はそれを腹に巻いた長靴下留めの革帯に挟んだ。おかげで金の腹巻きをした形となり、体を折り曲げることができなくなった。
割れた貴重品函をマルコの寝台の下に押しこむと、私は斧を持って部屋を出た。階段を走りおりて薪置き場に斧を戻し、三階の通り広間のほうに行こうとした時だった。階段室の暗がりから、「夏桂」と名を呼ばれた。見つかったか、と思い、全身の毛穴から汗が噴きだした。
「夏桂、夏桂よね」
女の声だった。私はおそるおそる振り向いた。階段室から廊下に通じる戸口に、前掛けをつけたカテリーナの乳母が立っていた。マルコリーノに苛《いじ》められているところを助けた時も無言のまま逃げていったくらいだ。この女が私に対して話しかけるのは初めてだった。何の用だろうと訝《いぶか》りながら、私は用心深く頷《うなず》いた。乳母はほっとしたように頭の被《かぶ》り物の裾《すそ》で口許《くちもと》を拭《ぬぐ》った。
「よかった。荷物を運んでくれる人を探していたんだ。カテリーナさまのお部屋に来てくれないかね」
私が塔から降りてきて、斧を薪置き場に戻したのを見たかどうかはわからなかったが、それを咎《とが》めてのことではないらしい。私が承知すると、乳母は「こっちだよ」と手招きして、廊下に引き返した。
乳母について歩きながら、私は廊下の少し開いた窓から中庭に目を遣った。井戸の前にニッコロが立って、ジョヴァンニーノを送る言葉を述べているところだった。「わしの息子」とか「立派な商人」とかいう言葉が切れ切れに聞こえた。
廊下の突きあたりは、カテリーナと若マフィオの居室だ。ちょうどジョヴァンニーノの部屋の上にあたっている。部屋の真ん中に置かれた寝台は、天蓋の垂れ幕を四隅の柱に縛りつけてきちんと整えられており、その横には揺りかごが並べられていた。草色の地に花模様を散らした揺りかごの中には、赤ん坊が眠っている。壁には金糸銀糸で刺繍《ししゆう》された壁掛けが下がり、戸棚の上には美しい硝子《ガラス》の器や陶器の壺《つぼ》が並べられていた。幸せな夫婦の寝室を見事に現した部屋だった。カテリーナは葡萄色の上衣に黒の帯を締めて窓辺に立ち、気がかりそうに中庭を見下ろしていた。
「カテリーナさま、夏桂を見つけました」
乳母の言葉に、若い母親は振り向いた。そして私を認めるや、急《せ》いた様子で揺りかごの隣に置いてある小さな櫃《ひつ》を指さした。
「これをジョヴァンニーノの荷物と一緒にゴンドラに載せておくれ。夫に届けてもらうものが入っているのよ」
私は「はい、奥さま」と呟《つぶや》いて、櫃にかがみこんだ。金牌のために背中が曲げられないので、腹の出た妊婦みたいな格好で櫃を持ちあげた。幸い櫃はさほど重くはなかった。
「中に手紙も入れておきましたから、あの人に渡して。絶対に無くさないようにね。頼むわね」
夫への気遣いのあまり、奴隷の私に縋《すが》るような口調で頼んでいることにも気がつかない。若マフィオがまた旅に出て以来、カテリーナの頬《ほお》は少しふっくらとしてきている。若マフィオがこの都にいなければ愛人に嫉妬《しつと》することもないからだ。夫に恋い焦がれていたいなら離れてないといけないとは、皮肉なことだった。
私は櫃を抱えたまま、乳母が開いてくれた隣の間に続く扉をくぐった。そこは赤ん坊の部屋になっているのだが、今は揺りかごはカテリーナの部屋に移されているので、粗末な乳母の寝床が壁際にぽつんと置かれているだけだった。乳母は大きな乳を揺らせて、私の前に飛びでると、部屋を横切り正面《といめん》の戸を開けた。次の間はめったに使われることのない台所となっている。炉の火は消えたままで、作業台の上には何もない。ただ、部屋の隅に置かれた大きな水瓶《みずがめ》だけは、三階の住人の飲み水用にいつも新鮮な水が汲《く》みおかれていた。台所のもうひとつの戸口は、裏階段のある物置兼女中部屋に続いている。乳母の前をすり抜けて人気のない台所に人ろうとすると、小さな声がした。
「ありがとうよ」
乳母は支えている戸の陰から照れくさそうにいった。
「今朝のことだよ。マルコリーノ坊ちゃんの悪戯《いたずら》を止めてくれて……」
私は笑ってかぶりを振った。乳母の赤々とした頬にも笑みが浮かんだ。まだ何かいうべき言葉を探しているようだったが、カテリーナが呼ぶ声に慌てて引っ返していった。
私は炉の火もなくひんやりとした台所を通り、裏階段を降りていった。一階の物置に着いて中庭に出ていこうとした時、大切なことを忘れていたのを思い出した。
〈太陽をまとう女〉だった。私は櫃を床に置いて、物置の壁の煉瓦《れんが》を引き抜いた。そして布にくるんだ黄金の板絵を出したはいいが、困ってしまった。腹の革帯は五枚の金牌を挟んでいるために、もう新たなものを差しこむ余裕はない。着ている服のどこにも隠す場所はなかった。袋ひとつ持ってないし、どうしようかと考えていると、カテリーナの櫃が目に入った。櫃の蓋は、貝殻の形をした留め具がついているが、錠は下りてない。蓋を開けると、カテリーナが刺繍したらしい帯や内衣が入っている。私はその底に〈太陽をまとう女〉を突っこんで、また蓋を閉めた。
これでようやく出発の準備万端だ。ずっと気が張りつめていたので、汗びっしょりになっていた。金牌が滑り落ちないように、もう一度、革帯を締め直し、私は櫃を持って物置から中庭に出ていった。
「コスタンティノポリに行ったら、ぼくは二人の兄を助けて、商売をしっかりと教わってきます。この航海はきっと、いい経験になることでしょう」
井戸の前に立ち、口下手のジョヴァンニーノが顔を真っ赤にして挨拶《あいさつ》をしていた。私が櫃を持って庭に現れると、もの問いたげにちらりとこちらを見た。私は物置の前で頷《うなず》いてみせた。
「お父さん、叔父《おじ》さん、お義兄《にい》さん、家族のみなさん、行ってまいります」
ジョヴァンニーノが言葉を結んだ。ニッコロが前に進んで、息子の肩を抱いた。マフィオやマルコ、若ニッコロも、旅立ちを祝福するために、ジョヴァンニーノを取り囲んだ。蒙古の血の混じった若者に日頃よそよそしく接しているマルタやイザベッラも親しげな表情で挨拶している。赤ん坊を抱いた乳母を従えたカテリーナもいつの間にか顔を揃《そろ》え、義理の弟に何か囁《ささや》いて、私を指で示した。きっと若マフィオに持っていく櫃のことを頼んでいるのだろう。ジョヴァンニーノはにこにこして頷いていた。ピエトロやモネッタといった下僕や雇い人たちは、よくある旅立ちの光景だけに、いかにもお義理の愛想良さを漂わせて、後ろに並んでいた。だが、柱廊に囲まれた中庭のどこを見回してもマリアの姿はなかった。うまく長持に身を隠したようだった。
それを確かめると、私は櫃を持って船着き場に続く通路に入っていった。すぐに船頭役のビエトロが追いついた。ジョヴァンニーノが船着き場に着く前に出発の準備を整えてないといけないからだった。ピエトロがゴンドラのもやい綱を解いている間、私は櫃をマリアの隠れているはずの長持の上に載せた。そして私とピエトロはゴンドラの船尾に並んで立ち、櫂《かい》を持って、ジョヴァンニーノを待った。
まもなく薄茶色の頭巾《ずきん》つき外套《がいとう》をまとった若者が家族に囲まれて通路から出てきた。ヴェネツィアでジョヴァンニーノがこんな華やかな場の中心になることは最初で最後だろう。それがわかっているかのように、若者は日頃の内気さを棄てて、父親や叔父や叔母《おば》、義兄と軽口を交わし、自分の役割を精一杯果たしていた。
ジョヴァンニーノは船着き場の階段を降りると、ゴンドラに飛び乗った。中央に置かれた長持に尻《しり》をつけるようにして立つと、素早く蓋についている鉄の棒を滑らせて、長持が開かないように閉めた。そして緊張した顔で、岸辺に並んだ家族を見回した。
「さようなら、さようなら、みなさん」
ジョヴァンニーノの声が震えた。緋色《ひいろ》の上衣の袖《そで》を鶴のように翻して、ニッコロが両手を広げた。
「出発の時から、そんな心細そうな顔をしてくれるな、息子よ」
マルタがくすっと笑い、若ニッコロは落胆したように口を曲げた。マフィオは「しっかりしろよ」と声をかけ、マルコの刈り整えられた髯《ひげ》の奥から冷笑が広がった。誰も、この若者が二度とヴェネツィアに戻る気はないことを知らないのだ。
自尊心を傷つけられたジョヴァンニーノは、むっとした声で、私たちに「行け」と命じた。私とピエトロは櫂で岸を押した。ゴンドラは優雅に尖《とが》った船首を南に向けて、家の前の小さな運河に滑りだした。
水面は、鼠色の空を映して暗い色に沈んでいる。吹きすさぶ湿った風が、運河に乱脈なさざ波を煽《あお》りたてる。岸辺に突きでた杭《くい》の上に止まる水鳥も居心地悪そうに羽をばたばたとさせている。ジョヴァンニーノはまだ後ろ向きに立ったまま、船着き場に残る家族を眺めていた。三階建ての石造りの屋敷が遠ざかっていく。船着き場の家族たちが手を振っている。若者はすべてが終わったというふうに、顎《あご》を反らせて息を吐いた。
櫂が水に落ちる音が静かに響いていた。私たちは大運河ではなく、聖マルコ広場への近道となる小運河を下っていく。ポーロ家の斜め向かいの瀟洒《しようしや》な館《やかた》の小間使いが窓から敷物の埃《ほこり》を払いながら、この船出を眺めていた。真新しい木橋の下をゴンドラがくぐろうとした時だった。円形に刳《えぐ》られた橋の下から、平底船が一|艘《そう》現れた。
「ポーロの旦那《だんな》さま、ポーロの旦那さまっ」
船を漕《こ》いでいる男の一人が叫んだ。もの想《おも》いに沈んでいたジョヴァンニーノは、はっとして前に顔を向けた。平底船には、黒い髯を生やした小柄な男が二人乗って櫓《ろ》を漕いでいた。そのうちの一人は、この前、コスタンティノポリ行きの帆船に積む荷物を受け取りにきたダルマチア人だった。
「船長の伝言です。シロッコが吹きはじめたので、出発は延期です。数日待って、雨風をやり過ごしてから出るそうです」
櫂を動かす手も止めずに、ダルマチア人は大声で告げた。
船尾に立っていた私からジョヴァンニーノの顔は見えなかった。しかし長持に置いた手が強《こわ》ばり、血管が浮きでたのがわかった。私とピエトロの櫂を動かす手が止まった。岸辺に残っていたポーロ家の面々の間からざわめきが起きた。
「天気がよくなって出航が決まり次第、またお知らせに参ります」
私たちとすれ違った平底船は、船着き場に立つポーロ家の旦那たちにそう言い残し、まだ他の商人に伝言が残っているからと運河を溯《さかのぼ》っていった。
朝早くから身仕舞いをただして見送りに出てきたポーロ家の者たちは拍子抜けしていた。皆、言葉もなく、しばしあたりは静まりかえった。
「息子よ、出直しだ。戻ってこい」
その場の空気を救うように陽気な声をあげたのはニッコロだった。私とピエトロは櫂を持ったままゴンドラの反対側に移って、方向を変えようとした。
「だめだっ」
青ざめた顔でジョヴァンニーノが叫んだ。しかし、ピエトロのきょとんとした表情とぶつかると、目を閉じてため息をついた。
「ああ、行ってくれ。帰るんだ……」
私たちは今来た方向に戻りはじめた。ジョヴァンニーノは近づいてくるポーロ家の正面玄関を呆然《ぼうぜん》と見つめている。壁に取りつけた、小鳥の紋章が大きくなってくる。かつん、とゴンドラの舳先《へさき》が岸辺にぶつかった。ピエトロが陸に飛び移り、もやい綱を結びつけた。
ニッコロが手を叩《たた》いて、息子にいった。
「なに、がっかりした顔をしているんだね。数日、延びただけだ。コスタンティノポリは逃げやせん」
ジョヴァンニーノはのろのろと船から上がった。今までの緊張がぷつりと切れ、頭の中が空っぽになっているのだ。それは私も同様だった。朝からの努力が水の泡となったのだ。これからのことを考えるのも厭《いや》だった。
マルコの指示で、ゴンドラに載せていた荷物が雇い人や見習い少年たちによって運びだされはじめた。カテリーナの櫃《ひつ》、籠に入れた鶏、葡萄酒《ぶどうしゆ》の樽《たる》、鍋《なべ》、薪束《まきたば》……。気がついた時には、雇い人二人がマリアが隠れている長持をゴンドラから陸にどさんと投げだしたところだった。船着き場にぼんやりと突っ立っていたジョヴァンニーノが水を浴びたみたいな顔をして、長持に近づこうとした。しかし、その前に長持に走り寄ったのはマルコリーノだった。
「ここに変なものがあるよ」
マルコリーノは、鉄で鋲打ちされた長持の蓋からはみ出している一筋の黒いものを、ぶつっとちぎり取った。
「ほら、人の髪の毛だ」
悪戯っ子は嬉々《きき》として五、六本ほどの長い黒髪の束を差しだした。
その場の空気が一瞬、凍りついた。若ニッコロが息子を押しのけて長持の前に立った。ジョヴァンニーノが唇を震わせたが、声が出ない。
若ニッコロが錠前代わりの鉄の棒を横に滑らせて、蓋《ふた》を持ちあげた。そして中に手を入れると、黒いものをつかみあげた。髪の毛を鷲掴《わしづか》みにされて、マリアは長持から引きずりだされた。痛さのあまりに身を捩《よじ》らせ、首根っこをつかまれた子猫のように暴れている。
「マリア……おまえは……」
ニッコロはマリアの前に歩いていくと、足で女奴隷の腹を蹴《け》った。マリアは悲鳴をあげて地面に膝《ひざ》を突いた。
「わしから逃げようとしたのかっ、ええっ、あんなに大事にしてやっていたのに」
ニッコロは怒りのあまり、マリアをさらに蹴った。マリアは粉袋のように地面に倒れた。日頃の陽気で柔和なニッコロとは別人のようだった。マルタやイザベッラは怯《おび》えたように男たちの背後に顔を隠し、カテリーナが乳母を従えて中庭のほうに逃げていった。しかしモネッタやパオラやルチーアは好奇心と怯えの混ざりあった表情でニッコロとマリアを見つめている。
「お父さん、やめてくださいっ」
ジョヴァンニーノがマリアの前に飛びだした。ニッコロは険しい顔で息子を見つめた。
「おまえ……ひょっとして、おまえが……」
マリアがついと顔を上げた。その黒い瞳《ひとみ》がヴェネツィア語の会話を探ろうとするように素早く動いた。
「夏桂が悪いんです」
マリアが蒙古《もうこ》の言葉で叫んだ。その意味が通じたマルコとマフィオは、ぱっと私に目を向けた。マリアは地面から上半身を起こして、私に指を突きつけた。
「夏桂があたしを唆したんです。一緒にコスタンティノポリに逃げようって。そのためにマルコさまの部屋から金牌《きんぱい》を盗んだんです。それさえあれば無事に蒙古に戻れるからって」
私はかぶりを振って、ジョヴァンニーノを見た。真実はこの若者が知っているはずだった。ジョヴァンニーノはたじろいだ様子で、私とマリアを見比べた。陸に揚げられた魚のように口をぱくぱくと開いて息をすると、ヴェネツィアの言葉でいった。
「夏桂を捕まえてください。ほんとうに金牌を盗んだなら、今も持っているでしょう」
私は運河に向かって走りだした。どうするつもりだったか自分でもわからない。たぶん逃げようとしたのだろう。しかし、そこにはピエトロが櫂を手にして立ちはだかっていた。ぶん、と木が風を切る音がしたと思うと、向こう脛《ずね》が割れたかと思うほどの痛みに襲われ、私は地面に叩きつけられた。うつぶせになった私の上に雇い人たちが飛びかかり、手足を押さえつけた。
「金牌があるぞっ」
腹を押さえつけていた雇い人の声があがった。上衣がまくり上げられ、革帯に挟まれた金牌が剥《む》きだしになった。私を取り押さえた人々がどよめいた。
「泥棒め」
腹の間から金牌が抜きだされると同時に、冷ややかなマルコの声がした。
「泥棒、泥棒、泥棒」
マルコリーノが小鬼のような声で囃《はや》したてている。
私は顎《あご》を反らせた。上目遣いにジョヴァンニーノやマリアの顔を探したが見えなかった。軽蔑《けいべつ》と怒りを露《あら》わにしたマルコや若ニッコロの頭上に、泥をかき混ぜたような暗い空が広がっていた。私の不運を嘲笑《あざわら》うのか、曇天の彼方《かなた》で雷が鳴り、ぽつぽつと冷たい雨が降りはじめた。
16
暗闇《くらやみ》から雨音が絶え間なく湧《わ》きでている。体を硬い木の寝台に横たえた私は、背中の痛みに呻《うめ》いた。牢番《ろうばん》は、寝台の端に据えつけられた頑丈な木の枷《かせ》に私の両足を嵌《は》めこんで出ていった。角材を二本横に寝かせ、真ん中に足首を挟む穴を作っただけの簡単な枷だが、両端はしっかりと鉄の留め具で押さえられている。斧《おの》ででも割らない限り逃げられそうにもない。私は二、三度木枷をがたがたと動かし、すぐにあきらめて手を放し、横になったのだった。実際、この格好では上半身起こすか、横になるかしかできなかった。
隠していた金牌を見つけられた後、私はポーロ家の倉庫に連れこまれて、若ニッコロやマルコからさんざん鞭《むち》で打たれた。奴隷の体を傷つけると役立たずになる。これだけ痛い目に遭わせたのだからそろそろ許してやろうといいだしたのは、若ニッコロだった。しかしマルコとニッコロが許さなかった。ニッコロは、私がマリアを奪おうとしたと怨《うら》んでいたし、マルコは大事な象牙《ぞうげ》の貴重品函《ばこ》を壊されたことで怒りに燃えていた。自分の思惑《おもわく》通りに物事が進まないと苛《いら》つくマルコの気持ちはわかったが、いつも陽気なニッコロの激しようには驚いた。泉州からともに旅してきた三人の旦那《だんな》の中で、下僕の過ちを真っ先に「いいさ、いいさ」といってくれるのはニッコロだったからだ。よほどあの蒙古人の女奴隷に執着しているのだ。
奴隷だからそのまま殺されてもしかたのない立場でもあったが、法律を重んじる若ニッコロの意見が通って、私は、窃盗の罪でヴェネツィア共和国に訴えられることになった。雨の中を聖マルコ広場にある総督宮殿に連れてこられ、役人の手に委《ゆだ》ねられた。告訴人はニッコロで、マルコが代理人だ。私は訴えに基づき、裁判を受けることになる。拘留刑にしろ実刑にしろ、処罰が決まると、ポーロ家は奴隷一人失うことになる。その損害にもかかわらず告訴を決めたのは、ニッコロとマルコの怒りの大きさを物語っていた。
私は鞭打たれても、首謀者はジョヴァンニーノだとはいわなかった。あの若者が否定しているのだから、奴隷の私の言い分なぞ蛙の嶋き声にも等しい。しかもマリアもジョヴァンニーノに与《くみ》している。私には蚤《のみ》の目玉ほどの希望もなかった。
手を縛られ、中庭から裏の船着き場に引きたてられていった時、ふと顔を上げると、部屋の窓から覗《のぞ》いていたジョヴァンニーノの顔にぶつかった。若者は私と目が合いそうになって、慌てて窓を閉めた。あの若者とて後味の悪い思いをしているはずだった。まだ若いだけに、その後味の悪さは心の底にこびりつき、洗い落とすのには長い時がかかるだろう。
ジョヴァンニーノの企《くわだ》てに危ういところがあるのはわかっていた。なのに、まんまと乗ってしまった自分の愚かさが情けない。最初から気が進まなかった話だったのだ。気が進まないということは、私の中のもう一人の私が反対しているのだ。そして、もう一人の私という奴《やつ》は、表に出ている私よりも賢い。そいつの警告に耳を傾けなかったから、こういうはめに陥ったのだ。
牢の中は真っ暗だが、鉄格子の嵌まった小窓から、雨水とともに微《かす》かな外光が入ってくる。まだ夕方くらいだろうか。ここでは外の時の歩みはわからない。ざざざ、ざざざ、と木の騒ぐような音をたてて外の路面から流れこんでくる水音に混じり、「助けてくれ」とか「出しておくれよぅ」という他の囚人たちの哀れっぽい声が流れてくる。牢の石の床はすでに浸水していた。藁《わら》は敷かれてなくても、床面から高いところにある寝台に繋《つな》がれていることはありがたかった。
桜色の大理石で作られた優雅な総督宮殿の地下に、〈井戸《ポツチ》〉と呼ばれるヴェネツィア共和国の囚人を入れる牢獄があることは前々から聞いていた。しかし、まさか自分が放りこまれることになろうとは思いもよらなかった。この牢獄の上では、共和国の総督が絹の衣類を身にまとい、大勢の下僕や奴隷にかしずかれて、豪奢《ごうしや》な暮らしをしている。異国からの大使やヴェネツィアの評議会員たちが大広間や柱廊に集い、厳《いか》めしい顔で会議をしたり、意見を交わしたりしている。だが、その足の下にいる者たちは、不安と苦しみに苛《さいな》まれながら、汗と黴《かび》と糞尿《ふんによう》の臭いの漂うじめじめした牢獄に繋《つな》がれている。この世で最も惨めな場所は、最も美しい場所の中にあるのだ。
臨安《キンサイ》の都で、私はそれを知った。湖と河に囲まれた美しい運河の都、臨安。どこまでも連なる木の家々、その間から突きだした石造りの塔。都には大勢の金持ちが住み、金色に仕立てられた船に乗って運河をゆっくりと行き来していた。都の南にある湖の辺《ほとり》には、そんな裕福な人々の館《やかた》があり、天気のいい日にはそこで日がな一日、食事をしたり、船遊びをして暮らしていた。
ヴェネツィアに来る船の上で、マルコが臨安の都を褒《ほ》めたたえているのを聞いたことがある。あんなに豊かで美しい都はない、貧しい人の一人としていないと。だが、そんなことはない。豪奢に暮らす者がいるところには、必ず惨めな暮らしをしている者がいる。それは天秤《てんびん》の棹《さお》のようなものだ。豪奢な暮らしをする一人のために、百人の者が惨めな暮らしを送らなくてはならない。
慶元《けいげん》で妻を亡くして臨安に出ていった私は、大きな商いに手を出して、たちまちのうちに失敗した。私は生きる術《すべ》を失い、荷役として働くことになった。毎日、重い荷物を驢馬《ろば》のように黙々と船から倉庫へ、倉庫から船へと運びながら、私は横目で金持ちたちを眺めていた。絹の衣服を着て、太鼓腹を突きだして、妾《めかけ》を侍《はべ》らせて、船に乗って往《ゆ》く大尽《だいじん》たち。いつか私もああなってやると心に決めた。滴り落ちる汗を吸って、私の決意は熟していった。だから、ある時、私が蛮子《マンツー》と蒙古の言葉が話せると聞いた倭人《わじん》の男が、通詞をしてみないかと誘いかけてきた時、私はすぐに話に乗った。それが密貿易であっても気にならなかった。私は天秤棹の向こう側に移りたかった。それだけだった。
密貿易は金になった。私は男の船に乗って倭の島までいき、絹織物や麝香《じやこう》や白檀《びやくだん》や薬を売りつける手伝いをして大尽となった。臨安の都に家を持ち、妾を二、三人作り、美食に明け暮れた。いつか私は死んだ父と同じような暮らしを送っていた。違うのは、私には妻や子がいないだけだった。しかし、私は欲しいとは思わなかった。妾を作り、美食に耽《ふけ》るかたわらで、父が時々寺に行って神に祈りたくなったのは、家族がいたからだ。女を侍らせ、遊興に身を任せている夫に対する、母の恨みがましい視線があったからだと思う。私はそんなものに心を引っ張られたくはなかった。
同胞を助けただけで首を斬《き》られた両親や弟妹たちを見たからこそ、私はただ生きていることを愉《たの》しみたかった。後ろめたさも、辛《つら》さも感じないで、ただ愉しみたかった。ひょっとしたら、次に襲ってくる厄難を予感していたのかもしれない。大尽暮らしはまもなく終わりを告げた。泉州《ザイトウン》沖で港の役人に捕まり、私は奴隷となり、天秤棹の片方にまたもや戻ってしまった。これが私の人生だ。天秤棹のふたつの側を行ったり来たり。境の上を行ったり来たり。
背中の傷を守って横向きになったまま、私は隣の石の壁に頭をぶつけて、ため息をついた。
「ここに入った奴《やつ》は……腹立ちにまかせて……みな、そうする」
突然、暗がりから声が聞こえた。私は驚いて首をもたげた。暗い牢の隅で、がさりと人の動く気配がした。この牢にいるのは私だけかと思っていたら、そうではないらしい。
「おれも……強くぶつけすぎて……血を出してしまった」
暗闇の奥から男はいった。いかにも苦しそうな息づかいだった。
「それで、怪我《けが》でもしたのか」
男が苦しげなのは、頭から血を流しているせいかと思って、私は聞いた。しかし相手はそれには答えず、「あんた、ヴェネツィアの者じゃないな」と問い返してきた。向こうにも、私の姿は見えないらしい。余所《よそ》から来た奴隷だと答えてやったら、男は「ほう」と呟《つぶや》いた。男は体の位置を変えたのか、寝台の床を擦るような物音がした。
「あんた……なにしたんだ」
今度の声は少し遠ざかっていた。私が奴隷の犯罪者だと知って、警戒したのかもしれなかった。
盗みだと答えると、男は「絞首刑だな」といった。よけいなお世話だと思った。窃盗の罪で捕まれば、自由民なら軽くて腕の切断と灼印《やきいん》、重くて斬首《ざんしゆ》刑、奴隷なら絞首刑ということは、私だって知っている。
「あんたこそ、なにをやったんだ」
私が聞くと、男は「人殺しよ」と威張るように答えた。
「人殺しなら、やっぱり絞首刑じゃないか。よくて首斬《くびき》りだろ」
私は仕返しにいってやった。男は、はっ、と喉《のど》の奥で笑い、傷が痛んだのか、小さく呻《うめ》いた。
「お……おれは大丈夫だ。ある……お方に命じられてやったことだ。その方が……救いだしてくださる」
男は、自分には希望があることを誰かにいいたくてたまらなかったのだろう。喋《しやべ》るのも辛そうなくせに、ぶつぶつと続けた。
「なにしろドメニコ派の……司祭さまだ。おれは……ただの人殺しじゃない。か……神さまの……ご用で人を殺したんだ。……罪に問われることはない」
「生け贄《にえ》ということか」
倭の国でも、橋や城を建てる時、神への捧《ささ》げものとして人柱を立てることはあった。すると男はひどく怒った様子で、そんな野蛮なものではないといった。
「みなのために……殺したんだ。みなにとって善いことのために……殺したんだ」
その「みな」というのに、タルタル人はどうせ入ってないのだろうと思いながら、私は意地悪く聞いた。
「だったら、なんで捕まったんだ」
男は言葉に詰まった。その合間を狙《ねら》っていたかのように、ざあああっと雨足が激しくなった。泥の匂《にお》いの混じった湿った風が、小窓のほうから吹いてきた。牢の暗闇からまた男の声が聞こえた。
「〈夜の紳士〉さ。あの……共和国の犬は、おれがいくらニコラさまの命令で……やったといっても……信じちゃくれなかった」
この男が話しているのは、ドメニコ派の司祭でニコラという男らしい。マルコと一緒に聖杯を探していた老人も、ニコラとかいっていた。やはりドメニコ派の坊主だった。私は用心深く探りを入れた。
「神さまのご用で、あんたに殺された奴は、よほど悪いことをしたんだろうな」
「さあ……どんなことをしたか……おれは知らん。ただの放浪楽師だった。なにか大事なものを……持っていたはずだった。だが奴の懐を探ってもなにもなかったんだ。そうしているうちに死んだと思った奴が……おれの腹を蹴って……逃げだした……。追いかけようとしたのに、タルタル人の男が邪魔しやがった。あの黄色い猿めが」
そう罵《ののし》って、男はまた呻いた。
「おかげでニコラ師は報酬もくれずに、おれをお払い箱だ。居酒屋で……それを愚痴っていたら、〈夜の紳士〉に捕まっちまった。だが〈夜の紳士〉は……ポーロとかいう旦那《だんな》のところから、金の卓やらを盗んだだろうといって……おれを拷問にかける……なんてこった……」
男が唾《つば》を吐く音がした。苦しそうなのは、拷問にかけられたせいだったのだ。
話を聞いているうちに、楽師殺しの背景がわかってきた。ニコラは、この男に楽師を殺して〈聖杯〉を奪うように頼んだのだ。楽師が持っていることは、アクレから来た異端の二人組の口から知ったのかもしれない。そこまでわかると、もうポーロの旦那方の助けはいらない。ニコラが、ポーロ家の三人の協力を求めたのは、商人の立場を利用して、アクレからの船がいつ着いて、そこに誰が乗っているかを少しでも早く教えてもらうためだろう。だが、宝の分け前は、分ける者が少なければ少ないほどいい。ニコラは刺客を雇い、ポーロ家の三人を出し抜こうとしたのだ。
しかしマルコは、元《げん》のクビライからもらった金の卓が盗まれたとして、〈夜の紳士〉たちに刺客の行方を追うように頼んだ。今朝、〈夜の紳士〉がポーロ家を訪れたのは、この男を捕まえたと知らせるためだったのだろう。
「だが……役人は約束してくれた。今に……ニコラ師を呼んでくれると……そしたらおれの言葉が正しいことが……わかる。おれは放免される。おれは放免される」
男は自分に言い聞かすように繰り返した。
ポーロ家の三人は、捕まった刺客が〈聖杯〉を持ってなかったと知ってさぞかしがっかりしたことだろう。私を牢獄に放りこんだ旦那方が悔しがっているさまを想像すると、少しは溜飲《りゆういん》が下がった。しかも、あの〈太陽をまとう女〉の在処《ありか》は、私しか知らない。カテリーナか、コスタンティノポリの若マフィオかが櫃《ひつ》の底から板絵を見つけだしたとしても、それが彼らの求めている〈聖杯〉だとは想像だにすまい。目と鼻の先に探しているものがあるのにわからないのだ。そう思うとおかしかった。
私は暗い牢《ろう》の片隅に目を遣った。刺客は今や話し疲れて、はあはあと荒い息を吐いている。二人を包む闇《やみ》のおかげで、楽師を追う邪魔をしたタルタル人が私であるとは気がつかない。ましてや楽師が持っていたものを私が取ったということも知らない。
秘密とはそんなものだ。目の前に転がっているのに、気がつかない。秘密を見つけるには、闇の中でも見える目が入り用だ。だが、そんな目は、私も持ち合わせていない。持っていたなら、こんな牢獄に放りこまれることもなかった。我と我が身の愚かさが情けない。
私の考えは出口を失い、また元のところに戻ってきてしまった。これ以上考えることは無意味だった。私は腕枕《うでまくら》をして目を閉じた。水に浸った石の床から冷たさが這《は》いあがってくる。背中の鞭《むち》の傷がずきずきと痛む。「助けてくれえ」「おれは無実だよぉ」。他の牢の囚人の声が弱々しく響いてくる。暗闇から雨音が絶え間なく湧《わ》きでている……。
17
「タルタル人奴隷朱夏桂、ニッコロ・ポーロ氏所有の女奴隷の誘拐及び、同家所有の金牌《きんぱい》五枚を盗んだ罪により絞首刑を申し渡す」
耳まで隠す白い木綿帽をかぶり、緋色《ひいろ》の上衣をまとった大法官が判決を告げた。後ろ手に鎖で縛られ、裁判官の前に立っていた私は、腹が足の裏まで沈んでいった気分になった。覚悟はしていたが、絞首刑という響きは心を凍りつかせた。
「刑の執行は、雨が上がり次第、聖マルコ広場にて行うものとする」
鷲鼻《わしばな》の大法官は窓のほうを憎らしげに見てつけ加えた。昨日来の雨はまだ降り続けていた。止むどころか激しさを増してきて、丸い色《いろ》硝子《ガラス》を張り合わせた窓をがたがたと揺らしている。窓枠からは水が洩《も》れてきて、下の木の床に水たまりを作っていた。
それでも、総督宮殿の二階にあるこの法廷は、私の出てきた〈井戸〉と比べたら、極楽だった。今や地下牢は湖となっていた。牢番が窓を木で塞《ふさ》いだが、その隙間《すきま》や一階から流れこむ雨に、床はすでに腰まで水に浸っている。寝台も当然水の底で両足を木枷《きかせ》に縛りつけられた囚人は全員座ったままの姿勢を強いられ、胸から下はずぶ濡《ぬ》れだ。私は寒さに震えながら、裸足をこすり合わせていた。
ヴェネツィア共和国の法廷は、ポーロ家の通り広間の倍ほどの広さだった。正面の壁にはヴェネツィアの紋章である、本に前脚を置いた翼のある獅子《しし》の旗が掛かっている。その前は壇になっていて、共和国の長老の座る背もたれ式の立派な椅子《いす》が並んでいた。五つある椅子のうち二つまでは空席だが、私のような奴隷の判決には人数が足らなくてもかまわないのだろう。罪状が読みあげられた後、よく手入れされた髯《ひげ》を蓄え、黒い上衣をまとった共和国の長老たちと大法官はぼそぼそと簡単な会話を交わし、あっという間に判決が下ってしまった。裁判官の席の下では二人の書記が机にかがみこみ、判決を文章に記していた。
裁判官席の両脇《りようわき》には、銀色に輝く鎧兜《よろいかぶと》に楯《たて》、長槍《ながやり》を手にした警護の者たちが厳《いか》めしく並んでいる。判決に怒って暴れても、これではすぐに取り押さえられることだろう。
ポーロ家で与えられたお仕着せをまだ着たままの私は、絶望的な気持ちで告訴人席にいるマルコを眺めた。深緑色の地に蔓《つる》模様のついた上衣を着て革の帯を結び、渋い黄色の頭巾《ずきん》をかぶったマルコは、私を告訴した共和国の役人と親しげに話していた。雨がどうだとか、高潮とかいっている。死刑の判決を受けた奴隷のことなぞ、すっかり頭から滑り落ちているのだろうかと思った時、薄茶色の瞳《ひとみ》がさっと私のほうに滑った。
言いたいことが喉《のど》までこみあげてきて、体が熱くなった。金牌を盗もうとしたのは、私の考えではないこと。象牙《ぞうげ》の貴重品|函《ばこ》を壊したくはなかったこと。マリアとは何のつながりもないこと。しかし、私はそれらの言葉を呑《の》みこんだ。マルコの視線は、あまりにも冷ややかだった。貴重品函を壊したことへの怒りはもはや過ぎ去っていた。この男にとって、今の私は棄て去った埃《ほこり》だった。買い求めはしたが、傷物だとわかって塵箱《ごみばこ》に投げこんだ商品。興味の生ずるはずもないものだった。
「おい、終わったぞ」
囚人係の男に背中をこづかれ、私は法廷の横にある罪人用の出入口に向かった。立派な調度品の置かれた法廷の横にぽっかりと開いたその口は、この世の美しい場所と惨めな場所を隔てる戸口でもあった。ここに入ると、もう出てこられるのは絞首刑の日までないのだ。そう思ったとたん、体の内に激しい怒りが湧いてきて、私は戸口の境で振り返った。
「マルコ、マルコ・ポーロ」
大声で呼ばわると、マルコはぎょっとして、こちらに目を向けた。
「おれをこの都に連れてきたのは、おまえだ。そして今、おれを殺すのも、おまえだ。おまえにとって、おれは牛や豚なのか。要《い》らなくなったら殺して喰《く》ってしまうものなのか」
蒙古《もうこ》語でいったから、まわりの者たちは煩《うる》さそうに眉《まゆ》をしかめただけだった。だが、マルコには通じた。私の元の旦那《だんな》は拳《こぶし》を振りあげてヴェネツィアの言葉で叫んだ。
「連れていけ、その奴隷を連れていけっ」
マルコの冷静さを少しでも崩すことができたことに、私は僅《わず》かな満足を覚えた。もっとも、その代償に乱暴に突き飛ばされた私は、背中の鞭《むち》の傷の痛みに呻《うめ》くことになった。
狭い戸口を抜けると、煉瓦《れんが》壁の剥《む》きだした薄暗い階段室に出る。ちょうど、他の牢獄から引きだされてきた女の罪人が昇ってきたところだった。栗色の髪の毛を振り乱し、胸の大きく開いた上衣をつけた女は、「あたしはなにもしてないんですよ。異教徒の客なんて取ってませんよ。信じてくださいよ」と自分を引きたてていく役人に哀れっぽく訴えながら、法廷へと押しだされていった。
褐色の上衣を、短刀をぶら下げた革帯で締めた囚人係に促されて、私は階段を降りはじめた。途中、壁に穴を開けただけの明かり取りの小窓がついている。そこから雨に濡れたヴェネツィアの都が見えた。暗い牢獄に閉じこめられている身にとっては、雨に降りこめられてはいても、外の景色を目にするのは嬉《うれ》しい。私は小窓にさしかかると外を眺めた。階段は聖マルコ広場の反対側にあたり、運河に沿ってひしめき合う家々の屋根が見える。大雨のためにすでに街中でも浸水がはじまっていた。荷を運んだり、所用で出かけざるをえない人々は足首まで水に浸かって歩いている。家並みの向こうは、葦《あし》や灌木《かんぼく》の生えた湿地だ。湿地の一角に大きな造船所がある。ヴェネツィアの船の注文のほとんどを請け負うだけに、水路の引かれた巨大な敷地に船の倉庫や木材置き場が設けられ、建造中や完成した船などが所狭しと並んでいた。造船場の先には、聖ピエトロ寺院のある島が見えたが、水《みず》飛沫《しぶき》を上げて打ちつける激しい波に今にも沈みそうになっていた。内海がこれほどまでに荒れるのは珍しい。空は黒い汁を流したような雨雲が渦巻いている。
「シロッコに高潮が重なって、町中、ひどい水浸しだ」
私の後ろについた藪睨《やぶにら》みの囚人係がいった。
「もしかしたら、おまえが縛り首になる前に、ヴェネツィアが沈むかもしれないぜ」
囚人係は低い声で笑った。
一階に着くと、地下牢に続く階段は小川のようになっている。このままでは絞首刑になる前に、牢内で溺死《できし》してしまうだろう。皮肉な想《おも》いで階段を降りようとした時、小役人が私の腕をつないだ鎖を引いて止めた。振り向くと、囚人係は素早くあたりを見回し、私を階段室の横の小部屋に押しこんで戸を閉めた。
そこは警備の兵士の詰め所らしかった。天井は頭が擦れそうなほど低く、縦に切ったような小窓がついているだけで、調度品はひとつもない。戦時でもない今は使われてないらしく兵士はいなかったが、代わりに灰色の頭巾つき外套《がいとう》を着た人物が佇《たたず》んでいた。外套が濡れないように、たくしあげた裾《すそ》から青白い女の足首が覗いている。頭巾からはみ出ている金髪で、誰だかわかった。
「馬鹿なことをしたようですね」
瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は囁《ささや》くようにいった。
「いわれなくても、わかっている」
私は一歩進んで女に近づいた。狭い部屋の中、雨水や泥の臭いに混じって、女の肉の放つ柔らかな匂《にお》いがした。
「お金の用意ができて、ロドリゴが仮縫いにいったのは、あなたがここに連れてこられた後でした。〈太陽をまとう女〉はどうなったのです」
瑪瑙色の瞳の女は単刀直入に聞いてきた。私は口の端を曲げた。
「おれは絞首刑だ。あの世にいく前に口を割るとでも思ったのか」
この返答は覚悟していたようだった。女は紫がかった薄い上唇を少し反らせた。
「あなたが、あれの在処《ありか》を教えてくれるなら、助けてあげます」
女の言葉がどれほどあてになるかわからなかった。しかし絶望の底にいる時は、どんな救いの手でも信じたくなるものだ。
「助けてくれたら、教えてやる。……もちろん、あの十リラももらうぞ」
命を助けてもらううえに、以前の約束まで守らせるとはこすからい取引だとは思ったが、私はつけ加えた。
「わかってます」
女はあっさりと答えた。その口調には、私の強欲に対する嫌悪はなかった。こんなに執着のない人間は見たことがない。この女に執着というものがあるとすれば、それは〈太陽をまとう女〉に対してだけではないだろうか。
「ほんとうに助けてくれるんだろうな。処刑は、雨が上がり次第ということになっている。あまり日にちはないぞ。約束だぞ」
「約束はできません」
女の言葉に、私はかっとなった。
「どういうことだ。死ぬことになっている者を前にして、からかっているのか」
「すべては神の御心におまかせするしかないのです」
頭がおかしいのではないか。こんな女が助けてくれると信じるのはまちがっていると思った。しかし、私を馬鹿にするためだけに、危険を冒してまで総督宮殿に忍びこむことも納得できなかった。
「期待しないで、助けを待ってるさ」
棄て台詞《ぜりふ》のようにそういった時、腹がぐうっと鳴った。牢獄では囚人の食事は自分で賄うことになっている。牢番に頼んで食べ物を買ってもらう金も、差し入れてくれる家族もない奴隷は、飢死か処刑か先に来たほうの餌食《えじき》となる。昨日から何も口にしていない私の腹の鳴る音を聞いて、白紙のように無表情だった女の顔が憐憫《れんびん》の情に覆われた。
「後でなにか食べるものを届けましょう」
この女には怒りとか恨みとかいうものはないのだろうか。喉《のど》から手が出るほど欲しがっているものを隠している私を嫌悪するどころか、憐《あわ》れんでいる。不思議な女だと思った。私の知っているどんな女ともちがう。心の表れ方がまるっきりちがう。
礼をいうのも忘れて、女の瑪瑙色の瞳を見つめていると、ぷしっ、と息を吐く音がした。階段室に続く戸の間から、先の囚人係が顎《あご》をしゃくって出ろと合図していた。女は頭巾を鼻のところまで引きずり下ろした。私は階段室に滑りでた。そして囚人係に押されるままに、牢獄に向かう石段を降りはじめた。
「あの女は誰なんだ」
私は肩越しに聞いた。
「知らん」
藪睨みの囚人係は、鼻の頭を見ているような瞳をきょときょとと動かした。
「金をもらったのか」
そういったとたん、囚人係は私の首の後ろにぴたりとくっつくようにして囁いた。
「さっきのことは忘れろ。もう一度、なにかいうと、無事に牢に戻れないぞ」
囚人係が腰に差している短刀のことが頭を過《よ》ぎった。ここで私を一突きにしても、罪人が逃げようとしたといえぱすむ話だった。わかった、と答えると、男はふっと私から離れた。
牢獄《ろうごく》に降りていくに連れて、石段の幅は狭く、急になってくる。流れる水に足が滑りそうだ。半階ほど降りたところに、頑丈な木の扉で閉ざされた部屋があった。その前を通りかかった時、中から男の声が聞こえた。
「ニコラ師はおまえのことなぞ知らないといっている」
ニコラという名前に、私の歩みが遅くなった。
「嘘《うそ》だ……。ニコラ師は……知っている。お、おれに殺しを頼んだのだ。頼む……司祭を呼んでく……れ」
楽師を殺した男の声がした。昨日よりもさらに衰弱しているようだった。私が牢から引きだされた時には、まだ中にいたから、その後に連れだされた様子だった。
「おまえが隠したものを白状しない限りは、駄目だ」
先の男がいった。ポーロ家に肪ねてきた〈夜の紳士〉の声に似ている気もしたが定かではなかった。
「知らん、知ら……やめてくれ……やめて……」
男の哀願は苦痛の悲鳴に変わった。生きたまま皮膚が剥《は》がされていくような声だった。私は逃げるようにして扉から離れた。そして囚人係に尻《しり》を押されるようにして、雨水の流れこむ〈井戸〉へ、総督宮殿の地下の闇《やみ》へと連れ戻されていった。
18
父は倭《わ》の役人に捕らえられた時、拷問を受けたという。宋人《そうじん》の捕虜を逃がすために、共謀した者はいないかと聞かれたのだ。役人がやっとこで指を一本|潰《つぶ》しただけで、父は簡単に口を割った。もともと根性のある男ではなかったのだ。
洩《も》らした名前は幸い、皆、たまたま花旭塔津《はかたつ》を離れている船頭三人だった。共謀者といっても、父に頼まれて捕虜を船に乗せたにすぎない。その者たちは父の処刑の話を聞いて、二度と花旭塔津には戻らなかった。
仲間の名を白状しても、それで命を助けられることもなく、父は首を斬《き》られた。
私は暗闇《くらやみ》で目を開いた。牢の奥では楽師を殺した男がぐったりと横たわっている。「やめてくれ……ほんとうなんだ……」と時折、譫言《うわごと》のように呟《つぶや》いている。
私の判決が下ってから二日が過ぎた。幸い雨は降り続いてくれたのだ。ヴェネツィアが沈むとまではいかないが、かなりの浸水になっているらしい。私たち〈井戸〉の囚人も、ついに首まで水が達するに及んで、そっくりそのまま別の牢に移された。官殿の屋根裏にある狭く汚い牢獄だったが、水に悩まされないだけましだった。
しかし、同室の男に対する尋問は、牢獄が変わっても続いていた。男は呼び出されるたびに怯《おび》えて大暴れするが、たいがい気を失ったまま運ばれてきて、我に返ると、私にその様子を語る。水をたらふく飲まされたとか、縛られて胴体を捻《ねじ》られたのだとかいって、「まったく、酷《ひど》いめに遭った」と呟く。その口調は、痛みが今も続いてないことを不思議がっているようでもあった。
どんな痛みもやがては終わる時がくる。痛みが引くか、死ぬかして。
私は外に耳を澄ました。真夜中だった。助けを求めていた囚人たちも寝静まり、鼠の這《は》う音すら聞こえてこない。総督宮殿に連れてこられて、こんなに静かな夜は初めてだ。
雨が止んだせいだった。
瑪瑙色の瞳の女は食べ物を差し入れてはくれたが、助けには来てくれなかった。私はまもなく縛り首になる。聖マルコ広場の二本の石柱の間に、瓢箪《ひようたん》のようにぶら下がることだろう。
カテリーナは、夫が他の女の許《もと》に走ることを罪だと詰《なじ》っていた。聖マルコ広場の処刑台で首を斬られた男は、売春を斡旋《あつせん》しただけで、死刑をいい渡された。そして私もまた、金の板を盗んで死ぬことになる。
人は、自分の手は汚れていないと信じて、罪を犯した者を罰せよと叫び続ける。しかし、売春の斡旋が罪というのか、盗みが死に値するというのか。納得できない。
私は仰向けになったまま、目を閉じて、また開いた。目を閉じても、開いても暗闇があるだけだ。死ぬことと、生きることの差はこのようなものだろうか。目を開いて、目を閉じて、また開いたら、私は死んでいる。
父も首を斬られる前、こんなことを感じたのだろうか。死とはどんなものかと想像して、恐怖を覚えたり、たいしたことはないと自分を慰めたりしただろうか。
団栗《どんぐり》のような大きな目にぼってりした頬《ほお》、笑うことの好きだった父は、処刑前夜、何を考えたのだろう。母はどうだっただろう。夫のしでかしたことで死を宣告された母は。そしてまだ若かった弟や妹たちは。長い夜を震えて過ごしただろうか。
私の心を父や母や妹や弟が噛《か》んでいる。思い出さないようにしてきたのに、この牢獄で、皆は新たな命を得たかのように蘇《よみがえ》り、ばりばりと私の内部を噛んでいる。いったい、どういうことだろう。
私は横たわったまま、暗闇を眺めた。闇の中から、父や母や弟や妹の顔が浮かんできた。私が見た処刑の情景さながらに、それぞれが断末魔の表情を浮かべていた。
その時、私は、なぜ自分がここにいるのかわかった。なぜ死を待つ牢獄につながれることになったのか、なぜ危ないと知っていながら、ジョヴァンニーノの誘いに乗ってしまったか。
処刑された家族に対する後ろめたさだ。皆を助けようともせず、私一人、生き延びたことが恥ずかしかったのだ。後ろめたさは気がつかないうちに心を操り、自らを罰しようとする。花旭塔で家族が処刑されて以来、私は償いのため、家族の辿《たど》った運命をもう一度我が身に味わわせようとしていた。だから、遥《はる》か西の涯《は》てのこの牢獄にまで、自分を引きずってきたのだ。
人は他人によって裁かれるのではない。自分によって裁かれる。自らを本当の意味で裁き、罰することができる者は、自分自身だけだ。しかし、その裁判官の判断がまちがっていたら、誤った形で裁かれることになる。
頭をもたげて、目を力一杯見開いた。漆黒の闇だと思っていたが、よく見ると、廊下に続く小窓がほんの少し明るい。私は生きている、と思った。こんな暗く湿った牢獄では終わりたくない。ここは私の死に場所ではない。
私は半身を起こした。足に喰いこむ木の枷《かせ》を動かしてみた。押しても引いても、びくともしない。逃げなくては。足をちぎってでも逃げなくては。そんな気持ちで体が爆発しそうになった時、足音がした。
廊下からぱたぱたとひそやかな音が響いてくる。最初は蛍の尻《しり》のようだった蝋燭《ろうそく》の灯が、左右に揺れながら大きくなり、私の牢の前で止まった。
木の扉が開いて、あの藪睨《やぶにら》みの囚人係が現れた。囚人係は拳《こぶし》を口にあてて、黙っていろと合図すると、鉄の鍵《かぎ》を出して私の足枷の留め金を外した。私が戸口から出ようとした時、牢の奥から寝ぼけた声がした。
「おい……どうした……」
振り向いた私は、囚人係の蝋燭の灯のことを忘れていた。暗闇で息を呑《の》んだ気配がした。私が廊下に滑りだした時、背後で男のうろたえた声がした。
「おまえ……あのタルタル人だな……楽師を追う邪魔をした……」
囚人係はふっと蝋燭を吹き消した。私の牢の場所を探り、足枷を外すためだけに光が入り用だったのだ。蝋燭は消えても、小窓から射《さ》しこんでくる星明かりで、方向はわかった。私は囚人係について、ちらちらと光の揺れる牢番の詰め所のほうに歩きだした。二日の間、足伽をつけられていたせいで、最初、膝《ひざ》が頼りなく震えたが、その感覚もやがて薄れた。雨上がりの冷たい空気が窓から廊下に流れてきている。囚人たちの寝言や鼾《いびき》の聞こえる牢の前を足音を忍ばせて進んでいく。牢番の詰め所の前に来ると、先に立っていた囚人係は、部屋の中を覗《のぞ》きこんでから、私に来るように手招きした。二人の牢番が燠火《おきび》となった炉の前に座りこんで眠っていた。二人の間には骰子《さいころ》が転がり、横には酒樽《さかだる》が置かれていた。私たちは弱々しい赤光に照らされた男たちの背後を通り、階段室に飛びこんだ。小窓から入る明かりを頼りに、暗い階段を無言のまま降りていく。
法廷のある二階を過ぎると、窓はなくなった。だが、牢獄を移された時にこの階段を使ったから勝手はわかっていた。階段を降りきったところは、総督宮殿の罪人用の出入口だ。馬一頭通れるほどの狭い通路が宮殿の中庭と裏手を結んでいる。処刑の決まった罪人は、そこから中庭に出されて聖マルコ広場に引き立てられていき、灼印《やきいん》や手足切断、禁固刑などの後に釈放される囚人は反対側の運河側の出口に連れられていく。その話を語った楽師を殺した男は、おまえは中庭側、おれは運河側だ、といって笑ったものだった。
囚人係は階段を半分近く降りたところで足を止めた。そして下の闇に向かって、ぷしっ、と息を吐いて合図した。ほどなく、すぐ近くで、ざざざと水音がした。運河はもっと先のはずだと不思議に思っていると、石段に何かごつんと硬いものが当たり、「連れてきてくれましたか」と、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女の声がした。囚人係は、「ああ」と答えて、私を前に押しだした。階段を二、三段降りたとたん、足が冷たい水に突っこんだ。私は驚いて、飛びさがった。
目を凝らすと、階段のすぐ下まで黒くねっとりした水に覆われている。浸水はこんなところまで達していたのだ。階段を降りきったところから外の通路に続く出入口も半ばまで水沈し、半円形の梁《はり》の部分だけが突きでていた。そこから射してくる僅《わず》かばかりの光に、階段の前に浮かぶ船影が見えた。船には、大柄の男と頭巾《ずきん》をかぶった小柄なふたつの影がある。瑪瑙色の瞳の女同様、ロドリゴに連れられていった隠れ家で会った顔ぶれだろうと思った。
「早く、こっちに」
瑪瑙色の瞳の女が囁《ささや》いた。私は船に飛び移った。船が左右に揺れて波が立ち、女二人は船縁《ふなべり》にしがみついた。私は櫂《かい》を持って船尾に立つ大男の足許《あしもと》に腰を据えた。
「礼だ」
大男が小さな袋を囚人係に投げた。藪睨みの男が受け取ったはずみに、じゃりっと貨幣の軋《きし》む音がした。囚人係はそれを腹の下に隠すと、鼠のように階段の上へ消えた。大男が櫂を動かして、船を階段から離した。半円形の梁の下を通って、平底船は狭い通路に出た。中庭と運河の間は今や一本の小川になっていた。通路の両端にあったはずの扉もすべて水に沈んでいる。門衛も居場所がないので引きあげている。大男は櫂を水上に上げないように静かに船を漕《こ》ぎ、運河のほうに向かっていく。まもなく私たちを乗せた平底船は、総督宮殿の裏の運河に滑りでていった。
両側に聳《そび》える建物の影に挟まれて、頭上に無数の星が輝いていた。海からの潮風が吹きわたっていく。雨も上がり、空は蒼々《あおあお》と澄みきっている。どこかで月が輝いているらしく、石造りの建物も船着き場につながれたゴンドラや杭《くい》も青白い光に照らされているが、岸辺に連なる家の軒に阻まれて見えなかった。人々は寝静まり、あたりには溢《あふ》れた水が家の壁を洗うちゃぷちゃぷという音だけが響いている。私は糞尿《ふんによう》の臭いの混じっていない新鮮な空気を胸に吸いこみ、己《おの》が幸運を噛みしめた。
「約束は果たしました」
大男の漕ぐ船に乗って総督宮殿から少し離れるや、瑪瑙色の瞳の女はいった。
「今度は、あなたが約束を守る番です」
私は平底船の底で尻《しり》を動かして、あぐらをかいた。
「〈太陽をまとう女〉は、まだポーロ家にある。カテリーナという奥方の持っている櫃《ひつ》の中だ」
瑪瑙色の瞳の女と、もう一人の女は思案するように顔を見合わせた。
「どんな櫃なんですか」
瑪瑙色の瞳の女が聞いた。私は手でだいたいの大きさを示した。
「貝殻の形の留め金のついた普通の櫃だ。取りにいくなら早いうちがいい。その櫃はコスタンティノポリ行きだ。雨が上がったら出発だといっていたから」
二人の女は頭巾に包まれた頭をくっつけ合わせて、何かぼそぼそと話しだした。大男はどこに向かっていいかわからないようで、櫂を漕ぐ手を止めた。平底船は狭い路地に漂っていた。水面には路上にあった野菜|屑《くず》や布きれ、糞がぷかぷかと浮かんでいる。どの家も、一階の戸の半分まで水に浸かり、二階の露台にようやく這《は》いあがった子猫が、親を求めて、にゃあにゃあ鳴いていた。ぼんやりと猫を眺めていると、瑪瑙色の瞳の女の声がした。
「これから、あなたをポーロ家まで連れていきます。カテリーナという人の部屋から、〈太陽をまとう女〉を取り戻してきてください」
「おれにまた盗みをしろというのか」
私は嫌悪をこめていった。あの胸がどきどきする気持ちをもう一度味わいたくはなかった。蒼い光の中で、瑪瑙色の瞳の女が微笑《ほほえ》んだ。
「盗みではありません。取り戻すのです。あれはもともとわたしたちのものでした。カテリーナという人の櫃に隠したのは、あなたでしょう。そして、あなたは〈太陽をまとう女〉と、これとを引き替えにするといいましたね」
女は身をかがめて、足許に置いていた子豚ほどの革袋の口を開いた。そこには鈍い色に光る大銀貨がぎっしりと詰まっていた。
この女は、本当に私にあの銀貨をくれるつもりなのだ。脱獄できたことで頭がいっぱいで先のことを何も考えてなかった私は、突然、この世に引き戻された。もちろん、こうなった以上、ヴェネツィアにはいられない。どこかに逃げないといけないが、そのために金は入り用だ。
「わかった。取りにいこう」
私には他に選ぶ道はなさそうだった。
瑪瑙色の瞳の女は、大男にポーロ家に行くようにと命じた。大男はまた櫂を漕ぎだした。
ヴェネツィアは完全に水に浮かんでいた。どんな狭い路地も水路と化し、家々は水上で孤立していた。普段は路傍で寝ている乞食《こじき》や放浪者、兵士崩れたちは、他人の家の露台や壊れかけた船の上で身を寄せあい、真夜中に船を漕いでいく私たちをぎらぎらとした目で見つめている。この船に大枚の銀貨が載せられていると知ったら、腹を空かせた狼のように飛びかかってくるだろう。大男は用心深く周囲のものと距離を取りながら船を進めていく。今夜だけは、都のどこにでも船で入っていけた。うっかりすると、水に沈んだ井戸や、運河の橋の手すりに船底をこすってしまうが、大男はそんな邪魔ものを器用に擦り抜けていた。
「船を操るのが上手だな」
私は背後で櫂を動かしている大男にいった。頭巾つきの短い外套《がいとう》をはおった男はにこりともせずに、「筏乗《いかだの》りだから」と答えた。
筏という言葉で、私はイザベッラが話していたことを思い出した。
「こっちの筏乗りは、ヴェネツィアの北のほうの山奥から川を下ってくるんだって」
「そうだ」と答えて、筏乗りは赤味がかった鬚《ひげ》がぼうぼうと生えた顎《あご》で前方をしゃくってみせた。
「ずうっとずうっと北だ。冬でも雪が融《と》けることのない山の麓《ふもと》から木を流してくる」
筏乗りは頭を下げて、軒下から吊《つ》りさげられた葡萄酒樽《ぶどうしゆだる》を象《かたど》った看板を避けた。居酒屋の前を過ぎると、男はまた逞《たくま》しい腕で櫂を漕ぎながら聞いた。
「カタイにも筏乗りはいるのか」
私は臨安《キンサイ》や泉州《ザイトウン》の港を瞼《まぶた》に浮かべて頷《うなず》いた。港の貯木場には、やはり丸太を連ねた筏が浮かんでいたものだ。
「船を造るのに、木は入り用だ」
「おれたちの運ぶ木は船だけじゃない、都も造る」
筏乗りは誇らしげにいった。
「ヴェネツィアでは、泥土の底まで届くほど長い木の杭《くい》を埋め込んで、地固めしてから家を建てる。おれたちの運ぶ木は都を支える杭になり橋になり、建物の柱になり、天井になり壁になる」
私は水上に舞い降りたような家々を眺めた。この都は海の泡からできたわけではないのだ。鳥が巣を作る時のように、あちこちから集めてきた木や石を使って都を造り、海の上に浮かべたのだ。
この都は海に浮かんだ幻ではない。もちろん、そんなことはわかっていた。わかっていたが、私はいつも幻のような気持ちで眺めていた。
たぶん、自分がこの都にいることを認めたくはなかったのだ。まだ花旭塔《はかた》のどこか、安らかな母の膝《ひざ》の上でまどろんででもいたかったからだろう。
しかし私はここにいる。西の涯《は》ての水の上に造られた都にいる。人が心の底から何かを納得するには、時が要《い》る。自分がこの世に生きてきたことを納得するために、人は一生を費やさなければならないほどに。
19
ふたつの運河のぶつかる角にあるポーロの屋敷は、雨で埃《ほこり》を洗い流して、水浴した女のようにくつろいでいた。上部が半円形をした続き窓の白い石の枠が、月光に照らされて青白く光っている。筏乗りに頼んで、船でぐるりと周囲を回ってもらったが、どの窓もしっかりと閉められて、運河側からは忍びこめそうにはなかった。
「しかたない、中庭に入ってくれ」
筏乗りは喉《のど》の奥で唸《うな》るように返事すると、正面の船着き場に船の舳先《へさき》を向けた。小鳥が四羽並んだ紋章の下から中庭に続く洞窟《どうくつ》にも似た通路に入る。筏乗りは天井に頭がぶつからないように、船尾に座って漕《こ》ぎだした。通路の横にはポーロ家の二|艘《そう》のゴンドラが雨を避けてしまわれている。私たちの平底船が通りすぎる時、波を受けたゴンドラ同士の腹がぶつかって、こつんこつんと大きく響いた。壁を隔てた執務室の中二階に寝起きしている見習い少年が目を覚まさないかとひやりとしたが、誰かが起きだした気配はなかった。
柱廊に囲まれた中庭は、四角い池となっていた。井戸は水に隠れ、二階の正面玄関に続く外階段も半ばまで浸かっている。筏乗りに、船を北側の柱廊の下に寄せてもらうと、私は上部だけ出ている物置の戸を引いた。内側に棒を差し渡してあるらしく、動きはしなかった。ピエトロは時々ここの戸締まりを忘れるのだが、大雨なので用心したようだった。
私は柱廊の下から首を出して、中庭に面した窓を眺めた。どの窓も運河側と同じく木扉までしっかりと閉められている。二階の戸締まりは、ポーロ家の旦那《だんな》の誰かがいつも気をつけている。正面玄関の扉は見なくても内側から横木が差し渡されているのはわかっている。三階に続く外階段の出入口も同様だ。どうしようかと思案していると、左手上にある二階の台所の窓が少し開いていることに気がついた。煙出しのために、モネッタがいつもそこだけは開けて寝るのだ。普段なら中庭から二階の窓まで登ることは難しいが、今は一階の半ばまで水に浸かっている。船に立って両手を伸ばせば、窓の下縁に手が届きそうだった。
「あそこから入ることにする」
私は台所の窓を指で示した。筏乗りが平底船を台所の窓の下につけてくれたので、立ちあがって背伸びしたが、背が足りずに指は窓の下枠の下をあがくだけだ。筏乗りが私の服の裾《すそ》を引っ張り、自分に乗るようにという身振りをして、船底に四つん這《ば》いになった。私は大男の背に両足を載せた。今度は窓の下枠に手が届いた。両開きになっている木扉は、片側だけ開いていた。開いている側の布張りの窓を、私はそっと押した。
中で小さな明かりが動いているが、炉の燠火《おきび》だろうと思った。台所で寝ているはずのモネッタに用心しながら、首を内側に突っこんだ。
うっすらと闇《やみ》と煙の広がる台所から、鼬《いたち》の屁《へ》のような奇妙な臭いが流れてきた。私は顔をしかめて、中を窺《うかが》った。
炉でちろちろと燃える火が、梁《はり》にぶら下がった玉葱《たまねぎ》や大蒜《にんにく》の房の影を煤《すす》けた天井で踊らせていた。作業台の上には球菜《たまな》や茴香《ういきよう》や林檎《りんご》が転がっている。その横の壁際がモネッタの寝床だが、今は空だった。一旦《いつたん》、寝て、また起きだしたらしく、藁《わら》の寝床の上で擦りきれた敷布がくしゃくしゃになっていた。どこにいったのだろうと訝《いぶか》っていると、炉端で声がした。
「ほんとうに効くんでしょうね」
人の背丈ほどもある大きな炉の下方から聞こえた。作業台の脚の間を透かして見ると、炉の前の床に三人の女が座っている。モネッタとルチーアとパオラだ。皆、袖《そで》無しの亜麻製の下着を身につけたまま、真ん中に置かれた茶碗を眺めている。
「刺草《いらくさ》、鳥兜《とりかぶと》の汁、鶏の肝、蝙蝠《こうもり》の血、毒人参《どくにんじん》。必要なものは全部入れて煮込んだ。後は満月の真夜中に飲むことが肝心なんだよ。月の力を借りて子供の種が流れでてくるようにね」
肩に垂らした髪を掻《か》きあげて、料理女が答えた。
ルチーアはついに腹の子を堕《お》ろす魔術を行うように、モネッタを説き伏せたのだ。そして、よりによって今夜、実行することになったらしい。これでは台所から忍びこめない。女たちが魔術を終えるのを待つしかなさそうだ。私は窓枠にしがみついたまま後ろを振り返った。瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女がもの問いたげに私を見ている。私は待ってろ、と身振りで伝えて、また台所に向き直った。
「魔法の薬を作ってくれといったのは、あんただよ」
樽《たる》ほどになった腹に手を置いてためらっているルチーアに、料理女はいっていた。
「飲まないならそれでもいいさ。子供を生んで、棄て子院に放りだすか、自分で里親を見つけるんだね」
ルチーアは小鳥が水浴びするようにぶるっと頭を振った。そして薬の入った茶碗を両手で持ちあげると、一気に呷《あお》り、空になった茶碗を床に置いた。パオラが、ルチーアの顔を窺っている。小間使いはしばし腹を抱えて座っていたが、草が萎《しな》びるように徐々に腹を曲げて床に突っ伏した。
「お腹が痛いよ……」
ルチーアが呻いた。
「鉄の爪《つめ》でひっかかれてるみたいに痛い」
「精霊さまが、お腹から子供を引き剥《は》がしているんだよ。さあ、もう休んだがいい」
ルチーアが、動けない、と呟《つぶや》いた。パオラとモネッタは小間使いを両脇《りようわき》から抱えて三階に続く貯蔵庫のほうに消えた。
台所には誰もいなくなった。ぱちぱちと小さな音をたてて、火が燃えているだけだ。この隙《すき》に私は窓によじ登った。床に足がついてから窓のほうに向き直る。筏乗りが櫂《かい》を操って、船を柱廊の下に寄せるのが見えた。筏乗りにしろ、女たちにしろ、身をひそめて動くことに慣れているようだった。
いったい何者なのだろう。再び疑問が頭をもたげてきたが、今はそれにつきあっている暇はなかった。私は窓を元通り少し開いただけにしてから、油や塩の壺《つぼ》の並ぶ棚の上にあった燭台《しよくだい》の蝋燭《ろうそく》に火をつけた。獣脂の蝋燭から、油じみた臭いが漂う。私はそれを持って、ルチーアたちの後を追うように隣の貯蔵庫に入っていった。
三階のカテリーナの部屋に行く道はふたつあった。ひとつはこの貯蔵庫から続く裏階段を使う方法。もうひとつは、中庭を半周して通り広間に行き、そこの階段を使うやり方だ。裏階段を使うと、パオラとルチーアの寝床のある三階の物置と乳母の部屋を通るはめになる。通り広間を使うと遠回りになるうえに、二階と三階の広間に面した部屋に寝ているポーロ家の旦那《だんな》方や奥方に勘づかれる恐れがある。
どちらの道も危ういことでは似たようなものだが、三階の物置は今、三人の女が上がっていったばかりだ。私は裏階段を使うことはあきらめ、貯蔵庫から夏の居間に入っていった。居間から読書室、控えの間を抜けて、二階の通り広間に出る。中庭に面した飾り窓は内側から木扉が閉められていて真っ暗だ。広間の奥のニッコロの部屋も、その手前のマフィオ夫婦の部屋も、起きている気配はない。私は燭台で足許《あしもと》を照らしながら、足音を忍ばせて、階段のほうに歩いていった。階段の上がり口の手すりの、獅子《しし》の頭飾りの彫り物が、硝子《ガラス》の嵌《は》まったふたつの目がこちらを睨《にら》みつけている。私は足早に階段を昇っていった。
夜の三階の通り広間は薄気味悪い。壁際に並ぶ甲冑《かつちゆう》がいかにも人が立っているように見えるせいだ。甲冑の脇に置かれた長槍《ながやり》や剣の刃が、燭台の灯を受けて冷たい光を放った。若ニッコロ夫婦やマルコリーノがぐっすり眠っていてくれることを祈りながら、マルコの部屋のある塔の下の階段室に入った。そこから先はカテリーナの部屋まで狭い廊下が続いている。
私は階段下の薪《まき》置き場の前で、少し休んだ。中庭に沿って一巡りしただけなのに、汗をいっぱいかいていた。しかし、〈太陽をまとう女〉はもう目と鼻の先だ。私は汗で滑りそうな鉄の燭台を持ち直して鼠穴のような廊下を進んでいき、カテリーナの部屋の戸口に突きあたった。
戸を僅《わず》かに開いて、闇《やみ》の中を窺う。耳を澄ましたが、物音ひとつしない。カテリーナはぐっすりと眠っているようだ。燭台を戸口に近づけてみた。蝋燭の光に、四隅の垂れ幕をすべて落とした寝台が浮かびあがった。私は大胆になって、燭台を部屋に差しいれて照らした。寝台の横の揺りかごに赤子の姿はない。カテリーナは赤ん坊を抱いて、垂れ幕の中で寝ているのだ。寝台を覆う厚手の幕は燭台の光も足音も阻んでくれる。カテリーナや赤ん坊を起こさないですみそうだった。
私は燭台を持って部屋に入っていった。若マフィオに届けるはずの櫃《ひつ》は、硝子の器や壺《つぼ》を飾った戸棚の横に置かれていた。燭台を床に置いて、貝殻の形をした留め具を外して蓋《ふた》を開ける。カテリーナは新たに夫に贈る寝室用の帽子をひとつ荷物に加えていたが、底のほうは触れなかったらしく、〈太陽をまとう女〉はまだそこにあった。私は板絵の包みを引きだして上衣をめくり、腹帯に挟んだ。そしてまた櫃の蓋を閉め、足音を忍ばせて廊下に戻った。
何事もなくカテリーナの部屋から抜けだせて、私は安堵《あんど》した。再び廊下を引き返し、三階の通り広間の階段から二階に降りていった。獅子の頭飾りのついた昇り口に着いて、おやと思った。
よく磨かれた広間の石の床に、丸い泡のような半透明の硝子の影が落ちて蒼《あお》く光っていた。飾り窓から皓々《こうこう》と射《さ》しこむ月明かりが麝香鹿《じやこうじか》の頭や、青と黄色の縞《しま》模様の鉢、戦いの場を描いた素焼きの大皿などを照らしている。さっきここを通った時は、月光など射してなかった。誰か木扉を開いたのだ。
私は慌てて蝋燭の火を吹き消し、こわごわと中庭に面した窓のほうを見た。
半円形の上部を持った硝子窓の前に、女が立っていた。艶《つや》やかな黒髪を腰まで垂らし、膝《ひざ》までの長さの白い下着を身につけている。月光を背にして、華奢《きやしや》な肩や腰の線がほんのりと青く光っていた。
「牢獄《ろうごく》から逃げだしたのね」
マリアが蒙古《もうこ》の言葉でいった。私は通り広間に連なる部屋の扉に目を走らせた。マフィオ夫婦もニッコロの部屋の戸も閉ざされたままだ。マリアは一人で夜中にふらついていたのだろうか。私が黙っていると、女奴隷はまた聞いた。
「なにしに戻ってきたの」
「忘れたものを取りに」と、私は答えた。この声でニッコロやマフィオ夫婦が目覚めるのではないかと冷や冷やしていた。
「この都から逃げだすのね」
突きでた額の下でマリアの大きな瞳《ひとみ》は黒い穴のようだった。私は、女の腹に巣くうという黒い蛇のことを思い出した。腹だけではなく、この瞳の中にも小さな蛇が棲《す》んでいるようだった。私は何もいわずに玄関のほうに行こうとした。
「あたしも連れていって」
マリアが私を追いかけようとして、よろめき、床に倒れた。歩きはじめたばかりの子供のように拙《つたな》い動きだった。私はどこか不自然なものを感じて、足を止めた。沙州《サチユウ》から来た女は両手を突いて上半身を起こすと、窓枠に槌《すが》って立ちあがった。右足の足首から下をぐるぐると包帯が巻かれている。踵《かかと》のあたりに滲《にじ》んだ血で、布は黒く汚れていた。
「この前のことで罰せられたのは、あんただけじゃない」
マリアは右の太腿《ふともも》に手をあてて、静かにいった。
「ニッコロさまは、あたしが二度と逃げないように、この足の腱《けん》を切らせたの。いつも瀉血《しやけつ》してもらっている床屋にわざわざ金を払ってね」
それは鳥の羽を折って飛ばないようにするのと同じことだった。私は女の足から目を背けた。マリアは右足を引きずりながら、私のほうに歩いてきた。
「夏桂、お願い、あたしも一緒に連れていって」
私はマリアから後ずさりした。
「その足では無理だ。逃げきれない」
マリアは左右にかぶりを振った。黒髪が顔を打ち、蛇の尾のように揺れた。
「お願いよ、こんなところで終わりたくない……」
声が詰まり、目に涙が光った。
女の涙というものは、うんざりするほど見てきた。憐《あわ》れみを惹《ひ》くためだけのろくでもないものだとも知っている。わかっていたが、私は心を動かされた。きっとこの女の目に棲む黒い小蛇が私に毒を吐きかけたのだろう。
私は燭台を床に置くと、マリアに手を差しのべた。「わかった」といおうとした時だった。背後でがたりと戸の開く音がした。振り返ると、ずんぐりした黒い影がこちらに向かってくるところだった。月光のあたるところに出てきて、ニッコロだとわかった。頭に白い就寝用の帽子をかぶってはいるが、他は素っ裸だ。乳首の下の肉は緩み、腹はぼってりと突きだしている股間《こかん》の灰色の毛の間から縮んだ睾丸《こうがん》と陰茎が垂れていた。いつも立派な服装で威厳を放っているだけに、裸になった姿は、毛を抜かれた鶏みたいに滑稽《こつけい》なものがあった。しかし笑ってはいられなかった。ニッコロの右手に握られている蒙古風の剣が目に入ったのだ。ニッコロの部屋に掛かっていたもので、腕の長さほどもあり、刃は弓のように少し反っていた。
「泥棒め。マリアを盗みに来たのかっ」
ニッコロは関節痛の痛みも忘れたかのように、つかつかと近づいてきた。私はマリアに伸ばしていた手を引っこめた。
「弱虫」
マリアが罵《ののし》ったが、黒い蛇を抱えた女のために、命を棄てるつもりはなかった。私は玄関の間に走った。
元《げん》のクビライにもらったという金の卓が飾られた玄関には、栗の木の頑丈な開き戸がある。戸は太い横木で留められていた。その横木を外していると、耳許《みみもと》で、ぶん、と風を切る音がした。とっさに私は身を伏せた。ニッコロの振るった剣が頭上を掠《かす》め、無様に横木に突きささった。老人は剣を抜こうと、慌てて剣の柄《つか》に両手をかけた。私はニッコロを突きとばして、剣を奪った。蒙古の剣は私がかつて倭《わ》と元の間を貿易船に乗って行き来していた頃を思い出させた。あの頃は海賊に襲われるたびに、武器を手にして、甲板に出ていったものだった。
私は剣を握りしめて、裸で尻餅《しりもち》を突いた老人の前に立った。私の顔に何を見たのだろう、ニッコロの顔に怯《おび》えが走った。私はかつての主人の弛《たる》んだ腹に剣の先をあてて、「静かにしていろ」と囁《ささや》いた。ニッコロは顔をどす黒いほどに上気させ、後ろに下がった。
私は横木を外して扉を押した。冷たい夜気が流れこんできた。そのまま外に出ていこうとしたとたん、ニッコロが飛びかかってきた。その太った腹が、鞭《むち》打たれた後の背中の傷にぶつかり、焼けつくような痛みが走った。
「マフィオ、マフィオ、若ニッコロ、誰か出てきてくれっ」
ニッコロは後ろから私の首を両手で絞めて、大声で喚《わめ》いた。老人の重みで、私は仰《の》け反り、玄関にひっくり返りそうになった。
どうしてニッコロがあのような暴挙に出たのかわからない。おとなしくしていれば、無事だったはずだ。自分の奴隷だった男に辱めを受けたと思ったのか、マリアの前でいい格好をしたかったのか。とにかく老人は無謀にも素手で私に飛びついてきた。私も無我夢中だった。ニッコロの腹にこすられて、背中の傷は塩を擦りこまれたように痛んだ。その上、首はぐいぐいと締められてくる。苦しさから逃れようと、剣を逆さにして後ろに突きだした。
布袋を突きさしたような感覚があった。息を詰まらせた声とともに、私の首を締めていたふたつの手が離れた。上衣を通して、背中が生暖かな血で濡れてくるのがわかった。私は剣をニッコロの体から引き抜き、外に飛びだした。通り広間から、マルタかマリアかわからない女の悲鳴が追いかけてきた。
玄関から出たところは、広々とした露台になっている。外階段が四角い池となった中庭に没している。私は階段を走り降りながら怒鳴った。
「こっちだ、船をつけてくれ」
向かいの柱廊の下から平底船が滑りでてきた。私は水際に立って、船が近づいてくるのをいらいらと待っていた。騒ぎを聞きつけてマフィオや若ニッコロが起きだしたのだろう、通り広間のほうから人の叫び声や足音が響いてくる。
「〈太陽をまとう女〉は手に入れましたか」
船の舳先《へさき》から身を乗りだして、瑪瑙色《めのういろ》の瞳《ひとみ》の女は聞いた。私は「ああ」と答えて血のついた剣を手にしたまま、船に飛び乗った。
中庭からの出口は三箇所あった。正面と裏手の船着き場。そして、裏木戸から路地に抜ける道だ。船の浮かんでいる場所からは、裏木戸を通る道が最も近かった。
私は露台の下の柱廊を指さした。
「その奥に路地に抜ける裏口がある」
筏乗《いかだの》りは頷《うなず》いて、力強く櫂《かい》を漕《こ》ぎだした。平底船が露台の陰に入ろうとした時、頭上から「夏桂めっ」という怒声が降ってきた。仰ぎ見ると、憎しみに満ちた若ニッコロの顔があった。掛布を体に巻きつけ、ひょろりとした腕の先には、銀色の長槍《ながやり》が握られている。三階の通り広間に掛かっていた武器のひとつだなとぼんやりと思った瞬間、その槍が投げつけられた。
若ニッコロは、相手が動いている船に乗っていることを忘れていた。槍が宙を切ったと同時に、筏乗りがぐいっと櫂を漕いだ。そして槍が突きささったのは私ではなく、船尾に立っていた筏乗りだった。筏乗りは両膝《りようひざ》を突いて崩れ落ちた。
「糞《くそ》っ」
若ニッコロは露台の手すりを拳《こぶし》で叩《たた》いた。
私は筏乗りの背中から槍を抜いて船の中に投げ棄てた。血が泉のように噴きでている。瑪瑙色の瞳の女と連れの女が、苦しむ大男を船底に横たえている脇《わき》で、私は血のついた櫂をつかんで筏乗りの代わりに船尾に立つと、船を暗い柱廊の中に進めた。
「夏桂、このままではすまされんぞ。絶対、おまえを捕まえて、死刑台に送ってやるからなっ」
外階段を水際まで降りてきて若ニッコロが叫んだが、野菜|屑《くず》や糞《くそ》の浮かぶ黒々とした水に飛びこんでまで追いかけてこようとはしなかった。私は水《みず》飛沫《しぶき》をはね飛ばして櫂を漕ぎ、裏口に向かった。水に没した裏木戸の上を過ぎて、船は路地に入っていく。聖ジョバンニ・クリソストモ教会の横を過ぎると小間物通りだ。いつもは人々で賑《にぎ》わうこの通りも浸水して、運河となっていた。
私は櫂を漕ぐ手を止めた。女二人は筏乗りの上衣を剥《は》ぎ、傷口に布をあてている。しかし布は次から次へと赤く染まっていく。
「海へ……海……海に出る……」
筏乗りが譫言《うわごと》のように呟《つぶや》いた。
「海のほうに行ってください」
瑪瑙色の瞳の女が私にいった。
「今は満潮だ。海に出るのは大変だぞ」
私は海の方向からひたひたと押し寄せてくる水を櫂で示していった。だが筏乗りはうつぶせになったまま、かぶりを振った。
「海に出たら……いつも使う潮の流れがある。それに……乗って……河を溯《さかのぼ》る……」
海の潮の流れといっても、どうやって見つけるのだと聞こうとした私を、瑪瑙色の瞳の女が遮った。
「海に出てください。私も手伝います」
そして船底にあったもう一本の櫂を拾うと、私の横に立って漕ぎはじめた。上手《うま》い漕ぎ方ではなかったが、助けにはなった。
私たちは小間物通りを潮の流れに逆らって海のほうに漕いでいった。通り沿いの店屋の戸はあちこち壊されていた。大雨で持ちだせずにいる荷物を狙《ねら》って、夜盗が出没しているのだ。松明《たいまつ》を燃やして露台に立ち、店の見張りをしている男たちの姿もある。左右に曲がる通りを船で進んでいくと、真っ暗な脇道から襲う隙《すき》を窺《うかが》っている者の視線を感じる。幸い頭巾《ずきん》をすっぽりとかぶった女二人は遠目には男にも見える。相手が男三人となると、夜盗たちも警戒してすぐには襲ってこない。私と瑪瑙色の瞳の女は精一杯、早く船を漕いだ。通りの真ん中に接骨木《にわとこ》の生えている聖ズリアン教会の前に着いた時には、女の息は疲れのために荒くなってきた。
「わたし、交替します」
筏乗りの手当てをしていた連れの女が、瑪瑙色の瞳の女にいった。瑪瑙色の瞳の女は、かぶりを振った。
「力だったら、あなたより、わたしのほうがあるわよ」
実際、連れの女は、瑪瑙色の瞳の女よりもひ弱な感じだった。月光の下でその頬《ほお》は死人のように蒼《あお》ざめ、目の下は青い血の筋が浮きでている。深手を負った筏乗りにかがみこむ姿は、手当てをしているというより、男を連れに来た死の遣いといったほうが当たっていた。
小間物通りの横に現れた柱廊をくぐると、聖マルコ広場に出た。長方形の大きな広場は今や湖と化している。葱坊主《ねぎぼうず》のような塔を頂いた聖マルコ寺院も広場を整然と取り囲む柱廊も、星空にすっくと伸びる四角い鐘楼もすべて基石は水に沈み、その影を水鏡に逆さに映していた。空には満月が皓々《こうこう》と輝き、聖マルコ寺院正面の黄金の断片を集めて作った絵や、その上に飾られた四頭の青銅製の馬を照らしている。広場の救護院の前に小舟が幾艘《いくそう》も浮かんでいた。浸水に遭って助けを求めてきたのに、中に入れてもらえなかったらしく、どの船も人や家財道具で沈みそうになっていた。疲れ果て、折り重なるようにして人々が眠る小舟を、海から押し寄せるさざ波が揺らしていた。
私たちの船は鐘楼の角を曲がり、総督宮殿と、粗末な小さな家々が並ぶ一角に挟まれた小広場に出ていった。私が首を吊《つ》られることになっていた二本の柱の間を抜けると、ねっとりと青白色に輝く海が広がっていた。
雨のために出航を見合わせていた大型船はどれも帆を巻きあげて、岸壁近くに停泊している。その間を抜け、波に逆らいながらゆっくりと海へと出ていく。
「あの杭《くい》の……ところに……」
気を失っていたと思っていた筏乗りの声がした。背中を蒼い頬の女に支えられ、筏乗りはいつの間にか上半身を起こしていた。男は腕を弱々しく持ちあげ、左手のほうを示していた。そこには海底に打ちこまれた丸太杭の黒い頭だけが覗《のぞ》いていて、寄せくる波に洗われていた。高潮と洪水の重なった今夜のような海では、よく知っている者でないと見つけられないものだった。
私と瑪瑙色の瞳の女はいわれた通り、平底船を杭のところに近づけた。筏乗りの指図のままにさらに三、四本の杭を越していくと、目の前に杭で示された海の道が開けた。弱い月明かりに、黒い杭の頭が、北西の方向に連なっているのがかろうじてわかった。
「そこに……潮の流れが……トレヴィーゾに向かう……潮の……」
男の上半身が背後にふらりと倒れた。蒼い頬の女が慌てて筏乗りを船底に横たえた。私たちは杭に沿って流れる潮に船を乗せた。平底船はもう櫂で漕がなくても、陸のほうに流されはじめた。
私と瑪瑙色の瞳の女は櫂を置いて、船底に座りこんだ。お互い汗びっしょりになっていた。私は上衣の裾《すそ》で額の汗を拭《ぬぐ》ったが、瑪瑙色の瞳の女は外套《がいとう》を脱ごうともしなかった。
波の静かな海を平底船はゆっくりと進んでいく。月光に照らされたヴェネツィアの都が遠ざかっていく。聖マルコ寺院の葱坊主の形をした伽藍《がらん》や、四角い鐘楼、屋根を寄せあう家々が蒼く輝く波の向こうに小さくなっていく。
南から吹いてくる冷たい風で、汗はやがて引いていった。まくっていた上衣の袖《そで》を下ろしていて、腹に留めてあった硬いものに気がついた。服の下から四角い包みを抜きだして、私は瑪瑙色の瞳の女に差しだした。
瑪瑙色の瞳の女は、私の顔を覗きこんでからそれを受け取り、膝《ひざ》の上に置いた。隣に座った蒼い頬の女が喰《く》いいるように見つめている。筏乗りですら苦しげな息を吐きながら、四角い包みに熱っぽい眼差《まなざ》しを注いでいた。瑪瑙色の瞳の女は薄汚れた布の包みを開き、板絵を取りだした。
瑪瑙色の瞳の女は、包みの中のものを見たとたんに驚いた顔をした。太陽をまとい、月を踏む女の描かれた板絵を物珍しそうに指で撫《な》でた。〈太陽をまとう女〉という名前はわかっていても、それが何なのか、この女自身、今の今まで知らなかったようだ。隣から蒼い頬の女も顔を突きだして、板絵をしげしげと眺めている。
「それは、いったいなんなのでしょうか」
瑪瑙色《めのういろ》の瞳の女はかぶりを振った。
「ビザンチンのほうの板絵《イコナ》のようですが……。〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉に帰ったら、司教さまが説明してくださるでしょう。とにかく、これがなんであれ、望みのものが手に入ったのですから、司教さまはさぞかしお喜びになることでしょう」
「わたしたち、無事、務めを果たせたのですね」
蒼い頬の女の瞳が大きく開き、白い歯がこぼれた。初めて見た、若い娘らしい表情だった。瑪瑙色の瞳の女は頷《うなず》いて、板絵を持って、血を流し続けている筏乗《いかだの》りにかがみこんだ。
「〈太陽をまとう女〉です。あなたのおかげで取り返しました」
赤毛の筏乗りの唇は引きつった。微笑《ほほえ》みたかったのに、うまくいかなかったようだった。
「これで……安らかに天の国に逝けます……」
瑪瑙色の瞳の女は、ため息を洩《も》らすように「ええ」と呟《つぶや》き、蒼い頬の女はうつむいた。
「コンソラメンタムを……」
筏乗りは掠《かす》れ声で告げた。
「おれに……コンソラメンタムを……お授けください。……手遅れに……ならないうちに……早く」
刺客に殺された楽師が死ぬ前、私に縋《すが》るようにしていった言葉だった。この筏乗りも、自分の死が近いのを悟って、同じことを頼んでいるのだ。
「コンソラメンタムとはなんなのだ」
私は女たちに聞いた。しかし、瑪瑙色の瞳の女が鋭い目で私を見つめただけで、返事はしなかった。
ここから先には入ってくるな。瑪瑙色の瞳の女はそう告げていた。
私は口を閉ざし、船尾に引きこもった。
瑪瑙色の瞳の女が自分の袋の中から小さな四角い書物を取りだした。そして二人の女は、頭巾を脱いで横たわる筏乗りの頭の上に並んで座った。男は傷が痛むだろうに、背中を下にして仰向けになった。瑪瑙色の瞳の女が筏乗りの額に書物を置いた。
「初めに言《ことば》があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」
瑪瑙色の瞳の女の声に、蒼い頬の女も加わった。何かの歌でも暗唱しているようだった。
「ただ虚無は神には因らずに造られた」
満月はすでに西に傾きかけ、夜は明けようとしていた。東の海と空の間に一筋の赤い線が生まれている。私は膝を抱えて船尾に座り、瀕死《ひんし》の男と二人の女を眺めた。三人にとって、私はそこにいないも同然だった。女たちは唱和を続け、男は目を閉じて聴きいっている。
色褪《いろあ》せた満月が沈んでいく西方に、黒々とした陸地が広がっていた。葦《あし》や灌木《かんぼく》の続く茫漠《ぼうばく》とした湿原だ。海から注ぐ幾筋もの流れが、ヴェネツィア人が〈動かぬ大地〉と呼ぶ陸のほうに蛇行しながら入りこんでいる。満潮は終わろうとしており、潮の流れは遅くなった。黒々と横たわる西の地に向かって、平底船はゆっくりと流されていく。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇《くらやみ》の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった……」
言葉の意味はよくわからなかったが、女たちの声は耳に心地よかった。私は船尾で仰向けになり、星も消えかかった蒼《あお》ざめた空を眺めた。東の空はもう白々とした光に包まれていた。あちこちでぱしゃっぱしゃっと音がして、水面で魚が跳ねている。葦の茂みから小鳥の群れが飛びたっていく。晩秋の朝の冷気がひたひたと押しよせてくる。
これからどうしようという思惑《おもわく》も浮かばなかった。永い夜の終わり、考えることも、何かを決断することも面倒だった。私は、女たちの呪文《じゆもん》のような言葉を聴きながら、どことも知れぬ西の涯《は》てのさらなる涯てに流されていった。
[#改ページ]
第二章
[#地付き]この世を知った者は屍《しかばね》を見出した。
[#地付き]そして屍を見出した者に、
[#地付き]この世はふさわしくない。
[#地付き]『トマーゾによる福音書』
青空の片隅がきらりと光った。大鎌で畑の枯れ草を薙《な》ぎ払っていた老人は、白い髯《ひげ》を生やした顎《あご》を上げ、あたりを見回した。空を覆っていた鉛色の雲が切れて、太陽が覗《のぞ》いていた。暖かな太陽は、老人の頭上に聳《そび》える岩山に光を投げかけ、薄板のように重なりあう絶壁を薔薇色《ばらいろ》に輝かせていた。
老人は大鎌の柄で身を支え、染みの浮いた頬《ほお》を緩めて微笑《ほほえ》んだ。黒い頭巾《ずきん》の下で、皺《しわ》の間に埋まった細いふたつの目が瞬き、歯の抜けた口から白い息が洩《も》れた。
太陽が顔を覗かせたおかげで、あたりは急に明るく、晴れやかになった。天に吸いこまれていくように切り立った岩山の頂を、羽を大きく広げて旋回する鷲《わし》。僅《わず》かばかりの平らな部分に残った雪が、白く輝く筋となって薔薇色の崖《がけ》を彩っている。そそり立つ岩山の足許《あしもと》を埋めるのは、杉や樅《もみ》の木々だ。自然の繊細な手で模様をつけられた深緑の敷物は、なだらかな波を打って、老人の耕す畑まで迫ってきていた。
森を切り拓いて作った畑の土は、長い冬の間に硬く干からびていた。老人は、種蒔《たねま》きのため土を掘り返す前に、畑の緑に残された冬枯れの雑草を刈っていたところだった。彼はまた大鎌を持ち直すと、のったりした動作で最後の枯れ草を刈り取った。午後中働き通しだったので、腕が痛んでいる。老人は畑の向こうの家に引き返しはじめた。家といっても、褐色の泥を塗った石積みの壁の上に草葺《くさぶ》き屋根をさしかけた粗末な小屋だ。家の前の囲いの中では、三頭の豚が群れていた。そのうちの一頭は腹が大きく、仔《こ》を孕《はら》んでいた。囲いの横の木の幹には、山羊《やぎ》が二頭、繋《つな》がれている。
老人が家の前に引いてきた山の湧《わ》き水で手や顔を洗っていると、背後で草の踏みしだかれる音がした。老人は素早く大鎌に手をかけて振り返った。頭を覆っていた頭巾を脱いで、音の出所を確かめるようにきょろきょろしていると、下の谷間の村に通じる森の小径《こみち》に驢馬《ろば》に乗った人影が現れた。
頭巾つきの灰色の外套《がいとう》を羽織っているので顔は見えないが、骨ばった体躯《たいく》からすると、男のようだった。老人は、大鎌を手にしたまま、仁王立ちになって見知らぬ来客が近づいてくるのを眺めていた。
「|いい日和で《ブオン・デイ》」
男は愛想よい声で挨拶《あいさつ》して、驢馬から降りた。老人は、挨拶も返さずにじっとしている。こんな山の上までやってくる者はまずいない。この男が何の用で来たのか、考えを巡らせていた。
「いやはや大変なところだ。下の村で熊が出るから気をつけるようにいわれたのだが、神さまのおかげでなんとか無事、辿《たど》りついた」
気さくに話しかけながら、男は驢馬の背に乗せていた袋を取ると、老人に近づいてきた。薄い眉《まゆ》には白髪が混じり、萎《しな》びた林檎《りんご》のような細かな皺がふくよかな顔全体を覆っている。老人よりは若いとはいえ、一人で旅するには歳を取りすぎている年齢だった。
「ここには昔、村があったというが、そんなふうには見えないな」
老人はまだ警戒しながらも頷《うなず》いた。そして、震える指先で畑の周囲を指さして、そのあたりに四、五十軒の家が並んでいたが、今や崩れてしまい、森に戻ってしまったと説明した。人と話すのは久しぶりだったので、舌が歯茎に絡みつくようだった。男は老人の言葉を聞いて、木々の間にその家々を見ようとするように目を細めてみせた。
「時の手は残酷なものだ」
そして、薄青色の瞳《ひとみ》で薔薇色に染まる岩山を見上げた。
「城もあったということだが……」
老人の顔が少し強《こわ》ばった。そして素っ気ない声で、岩山のすぐ下にあったが、もともと古城だったのでもう壁も落ちて、何も残ってないと答えた。
男は、ふむ、と喉《のど》を鳴らすようにいって、周囲をじっくりと見回した。老人は大鎌に手をかけたまま、横目でその様子を窺《うかが》っていた。やがて男は手にしていた袋を振った。
「朝から駿馬の背に揺られどおしだったので、腹も減った。わたしはまだ食事もしていない。一緒にどうかな、ご老人。葡萄酒《ぶどうしゆ》と麺麭《パン》、それに乳酪《フオルマージユ》もある」
葡萄酒や麺麭と聞いて、老人は、ほう、と口を開いた。粉を挽《ひ》いたり、竈《かまど》で焼いたりと、手間のかかる麺麭は、老人の小屋では作れない。下の村との行き来の途絶えていた冬の間、麺麭も葡萄酒も口にしてはいなかった。
男は、老人が気をそそられたのを見て、小屋の近くの日溜《ひだ》まりに腰を下ろした。そして老人に葡萄酒を入れる器がないかと問うた。老人は小屋に入って、端のあちこち欠けた素焼きの杯を持って出てきた。そして、日溜まりに座った男が外套の前を広げ、頭巾を脱いだのを見て、足を止めた。
その白髪頭の頂は丸く剃《そ》られ、灰色の外套の裾《すそ》からは白い修道士服と、十字架のついた革紐《かわひも》の先が覗いていた。聖職者だと気がついて、老人の喉仏が波打った。しかし、すぐに何事もなかったかのように修道士に近づいていき、杯を渡した。
修道士は老人に背を向けるようにして二個の素焼きの器に葡萄酒を注ぎ、丸い麺麭をふたつに割って差しだした。老人は、ゆっくりと葡萄酒と麺麭を受け取った。修道士は口の中でぶつぶつと祈りを唱えてから、麺麭を食べはじめた。
「静かないいところだ」
小鳥の囀《さえず》りに、修道士は微笑んだ。
「ここにいると、わからんだろうが、下の世界はまったく混沌《こんとん》としている。冬は昔よりずっと寒く、長くなり、飢饉《ききん》は渡り鳥のように各地を巡って民を苦しめている。フランチアとインギルテッラの争いはどんどん険悪になってきているし、世の中は暗い方向に進むばかりだ。それに、先頃聞いた話によると、東方では洪水や飢饉が起きて、恐ろしい伝染病が流行《はや》っているそうだ。罹《かか》ると、血と膿《うみ》の流れでる腫《は》れ物に覆われ、全身、悪臭を放ちながら死んでいくのだそうだ。皮膚に黒い斑点《はんてん》ができるので黒死病というらしい。異教徒の地に神の裁きが下ったのだ」
訝《いぶか》るような表情で聞いている老人に、修道士はくいと萎びた丸顔を向けた。
「あんたの故郷のことだよ、夏桂《カケイ》」
突然、以前に使っていた名を呼ばれ、老人はぎょっとした。信じられないほど長い間、そのように呼ばれたことはなかったのだ。いったいなぜこの男が自分の真実の名を知っているのか。この男は誰なのか。夏桂は、その答えを探ろうと、相手の顔をまじまじと見た。
修道士は、夏桂を驚かしたことに満足したかのように、にっこりとした。
「心配するな。わたしはあんたを裁きに来たわけではない。わたしはポーロ家と少し縁のある修道士でな、彼らの遣いとして来ただけだから」
ポーロ家と聞いて、夏桂は畑の後ろに広がる森に視線を走らせた。相手は足の速い若者ではない。森に逃げこめば、追いかけてくることはできないだろうと頭の隅で考えて、もう少し様子を見ることに決めた。修道士が何の用で来たのかに興味もあった。夏桂は水飲み場に置いた大鎌を目の隅で確かめながら、修道士が次にいう言葉を待った。
修道士は、短刀で乳酪を切って夏桂に勧めてから話を続けた。
「ヴェネツィアとジェノヴァの海戦で、マルコ・ポーロ殿が敵の艦隊に捕まって、牢獄《ろうごく》に入れられたことはご存知かな」
夏桂はかぶりを振った。修道士は乳酪のかけらを口に放りこんだ。
「あんたが逃亡した次の年のことだ。その牢獄で知りあった男が、マルコ殿の東方の旅の話を聞いてフランチアの言葉で本を著した。ヴェネツィアとジェノヴァの間で和解が成立して牢獄から解放されてマルコ殿は家に戻ったが、まもなく本はなかなかの評判を呼んでね、あちこちの国の言葉に訳され、東方の驚異を識《し》る大旅行家としてマルコ殿は一躍有名になった」
修道士がマルコをすでに故人として語っていることに気がついた夏桂は、「幸せな晩年だったわけだ」と呟《つぶや》いた。修道士は唇を突きだして、頭を軽く左右に揺すった。
「どうだろうな。結婚して三人の娘さんをもうけ、商売を手広く行って、懐具合はまあまあだったようだが、金がらみのことで、身内や友人とあれこれ訴訟|沙汰《ざた》を起こしていた。……穏やかな心境で余生を送ったとはいいかねるな」
乳酪のかけらを飲みこんだ夏桂は、口許《くちもと》に皺《しわ》を寄せて、ぼそりと聞いた。
「ジョヴァンニーノやステーファノはどうなったかね」
「あのタルタル人の血の混ざったニッコロ殿の息子たちかな……」
修道士は両手で顔をこすり、思い出すように半眼閉じた。
「ステーファノ殿は六年ほど前に亡くなった。四人のお子さんも立派に成人した後だったから、まあ幸せだったといえるだろう。だが、ジョヴァンニーノ殿は気の毒に、三十代半ばで海で遭難して死んでしまった。確か、タナからの帰り、クレタ島沖で沈没したと聞いた。まだ独身だったらしい」
夏桂は歯のほとんど抜けた口から息を吐いて、若くして死んだのだなと呟いた。
「三十代半ばで亡くなったといえば、若マフィオ殿もそうだ。コスタンティノポリで客死したという。その未亡人もつい先頃亡くなったと聞いたが……死はみなに平等に訪れる」
修道士は、胸の前で十字を切った。
「マルコ殿は十年ほど前に亡くなった。わたしの寄寓《きぐう》する修道院に寄付を下さり、ニッコロ殿やマフィオ殿同様、ヴェネツィアの聖ロレンツォ教会に埋葬された」
西へと傾きつつあった太陽が、再び雲の後ろに隠れた。夏桂と修道士の座る草の上にひんやりとした空気が舞いおりた。修道士は、葡萄酒を一口飲んでいった。
「去年の夏、マルコ殿がわたしを訪ねてきた」
マルコはもう死んでいるのではないかと思った夏桂が眉をひそめたのを見て、修道士はかぶりを振った。
「大旅行家のマルコ殿ではない。若ニッコロ殿の息子、子供の時はマルコリーノと呼ばれていたマルコ殿だ。あの方は今やヴェネツィア評議会の一員で、政治家として名を馳《は》せておられる」
夏桂は白い顎鬚《あごひげ》をしごいて「あの子が……」と声を洩《も》らした。修道士は「そうだ」と答えて、膝《ひざ》にこぼれ落ちた麺麭|屑《くず》を地面にまき散らした。すぐに小鳥が来てついばみはじめた。
「家を少し改造することにして、荷物を整理していたら、こんなものが出てきたといって、わたしに見せてくれた」
修道士はかたわらに置いていた袋の中から、四角い革の紙挟みを取りだした。そして夏桂の顔をじっと見つめた。
「四十年前、あんたは、ヴェネツィアのポーロ家から逃げだした。それを追いかけた故マルコ殿が、父親や叔父《おじ》と遣りとりした書簡だ。わたしを訪ねてきたマルコ殿はここに書かれていることの説明を求めてきた。ざっと目を通したが、わたしにはすべてを説明することはできなかった。マルコ殿はなにかわかったら教えてくれといって、わたしにこれを預けていった」
修道士は紙挟みから、長方形にたたんだ便箋《びんせん》を何通か取りだした。そして膝の上に茶色になった便箋を広げて、目を細めて宛名《あてな》を読み、一通一通、順番に並べはじめた。
「この冬のことだ。ヴェネツィアに来た巡礼の口から、アルピの山奥に隠者がいるという噂《うわさ》を耳にした。その目は細く鼻梁《びりよう》は平らで、変わった風貌《ふうぼう》をしている。激しい修行と老齢のためにそのような異貌になったとか、その男はタルタル人なのだとかいわれているが、実際のところはわからないということだった。わたしはその隠者に会ってみたくなった」
夏桂は血管の浮きだした手で、日焼けした自分の顔の造作を探るように触れた。そして、自分の横に置いた葡萄酒を啜《すす》った。修道士はその様子を眺めて、うっすらと笑った。
「やはり、その隠者は、ポーロ家から逃げだした奴隷だった」
夏桂は口を歪《ゆが》めた。
「それがどうしたというのだ。マルコ・ポーロも、ニッコロもマフィオも死んだのだろう。わしを買った者はもういない」
「いっただろう、あんたを捕まえに来たんじゃない。わたしが来たのは」と、修道士は、夏桂の顔の前で紙挟みを振った。
「この書簡の続きを聞くためだ」
夏桂は、その縁もぼろぼろになった手紙の束から顔を背けた。
「わしは文字は読めない。続きもなにもわかるはずはない」
「心配はいらぬ。わたしが読んでやる」
修道士は膝の上に手紙の束を置いた。夏桂は逃げ場を探すように、周囲を見回した。このまま修道士を置いて、小屋に入るなり、森に隠れるなりしてもよかった。しかし、ここは夏桂の居場所だった。自分から先に逃げだすのは癪《しやく》に障った。
潜っていた魚がまた水面に浮かんできたように、雲に隠れていた太陽が西の空に顔を覗《のぞ》かせた。弱々しい寂しげな光が、緑の森や薔薇色《ばらいろ》の岩山を照らしだした。夏桂はまだ半分ほど残った葡萄酒の杯を持つと、身をずらせて、新たに陽のあたりはじめた場所に移った。いつでも森の中に逃げこめるだけ修道士と距離を置いて、少し安心した。
修道士はちらと面を上げて、夏桂がそこにいるのを確かめてから、封印の蝋《ろう》もぼろぼろになった手紙を開いた。
親愛なる父、ニッコロ・ポーロヘ
ヴェネツィア、聖ジョバンニ・クリソストモ区、ポーロ家宛
†一二九七年十一月二十六日
愛する父上に、心よりのご挨拶《あいさつ》を送ります。
お怪我《けが》の具合は如何《いかが》ですか。苦しみに満ちた深い眠りの淵《ふち》から、すでに目覚めておられることを願っています。今朝まだ暗いうちでしたが、家を出る時にもお部屋に様子を見にいったのですが、父上は相変わらず寝台に横たわり、額に汗をびっしりと浮かべて目を閉じておいででした。付き添っていたマリアの話では、たまにヴェネツィア語とも蒙古《タルタル》語ともつかぬ譫言《うわごと》を呟いておられるとか医者が焚《た》きしめるようにと指示した薬草の匂《にお》いが、中華《カタイ》の夢でも見せているのでしょうか。私は父上の手を握りしめただけで出発するしかありませんでした。
今、〈|動かぬ大地《テツラ・フエルマ》〉を流れるシーレ川の岸辺にいます。すぐ前には、ヴェネツィアから私を乗せてきた帆をたたんだ川船が止まり、甲板で四人の船の漕《こ》ぎ手たちが休んでいます。日溜《ひだ》まりの乾いた草の上に座って喋《しやべ》っているのは、ヴェネツィアで仕入れた東方の香辛料や絹織物、塩漬け魚や木工品などをトレヴィーゾまで運んでいく商人、親戚《しんせき》の家から帰るところだという老女とその甥《おい》、鋳掛《いかけ》屋といった船の乗客たちです。ニコラ師の代理で、私と同行している修道士ヴィットリオは人の輪から離れたところで跪《ひざまず》いて祈りを捧《ささ》げています。昼の食事を摂《と》った後なのです。
私は皆から少し離れた柳の木陰に腰を下ろして、この手紙を書いています。茶色に枯れた葦《あし》の茂みの間で、シーレ川が銀色に光っています。雨の日のヴェネツィアの貴婦人のように長い脚を優雅に持ちあげて用心深く歩く鴫《しぎ》。鼻先だけ水から出して泳ぐ海狸《うみだぬき》の親子。岸辺の周囲に広がる黒々とした灌木《かんぼく》の草原。爽《さわ》やかな晩秋の空気を吸いながらこんなところに腰を下ろしていると、大カァン、クビライに命じられて元《げん》の帝国を旅して巡った日々が懐かしくなります。太くて短い樽《たる》に似た大蛇が這《は》いまわる雲南《カラジヤン》や、黄金の板で歯のすべてを覆った蛮族の住む金歯《ザルダンダン》、世にも珍しい金と銀の塔が霜柱のように地中から生えている緬《ミエン》。それら、帝国の西部地方を訪れるため、獅子《しし》や山猫、麝香鹿《じやこうじか》と、象や犀《さい》などが棲《す》む大森林や草原で野営しながら進んでいったことでした。旅の寝床は硬く、いつ獣や蛮族に襲われるかもしれないという怖れが道連れでしたが、目の前に次々と現れる土地は、どんな聖史劇や奇蹟《きせき》劇よりも興奮させられるものでした。
しかし、それをヴェネツィアの人々に話しても無駄なことです。彼らにとって、自分の目で見て手で触れてみたもの以外は、すべて架空の世界の出来事。いかに真実めいて語られようとも、お伽話《とぎばなし》としか受けとりません。東方の国々は、神話伝説の中の国と同じものなのです。
東方で見聞したことが真実だと知っているのは、実際に足を運んだ者だけ。私にとって、父上やマフィオ叔父《おじ》は元の帝国での思い出を分かちあえるかけがえのない人なのです。その大事な父を、夏桂は殺そうとした。あの奴隷のことを思うたび、憤りのあまり胸が苦しくなります。
カタイに行く時、元の軍隊にさんざん荒らされた後のペルシアの平原を旅しましたね。タルタル人を父としてインド人を母とするカラナオス人という盗賊が暴れまわっているので有名なところでした。彼らは呪術《じゆじゆつ》を使って、昼間でも暗闇《くらやみ》を作りだし、それに乗じてペルシア人を捕まえていました。私たちもその暗闇に閉じこめられ、盗賊たちに襲われて命からがら逃げだしたでしょう。逃げ遅れた者たちは全員、殺されたり、奴隷として売られたものでした。蛮子《マンジ》人の父と倭人《ジパング》の母の間に生まれたという夏桂もまた、あのカラナオス人のような邪悪な心を持っているにちがいありません。
あの晩、どうして私はもっと早く起きださなかったのでしょうか。階下で怪しい物音がするのを夢うつつで聞いていたのに、身を起こしたのは助けを呼ぶ父上の声を聞いてからでした。慌てて塔から降りていった時には、父上は玄関に倒れており、夏桂を乗せた船はすでにヴェネツィアの迷路の中に消えた後でした。腹から血を流して呻《うめ》いておられる父上を寝台に寝かせ、モネッタやパオラに命じて傷の介抱をさせている間、私は心の中で誓っていました。父上を刺した者をこのまま逃がしはしないと。
私が今朝、家を後にしたのも、夏桂を追うためにほかなりません。
なぜ私がヴィットリオ修道士と一緒に旅に出ることになったのか。父上の容態が持ち直しましたらマフィオ叔父から話があるとは思いますが、私からもご説明しておこうと思い、この手紙を書くことにしました。
話は、父上が傷を負われた日の翌日に溯《さかのぼ》ります。若ニッコロが呼びにいったアラビア人の医者がやっと到着し、屋敷の中の騒ぎも一息ついた頃です。街じゅう浸水しているというのに、ゴンドラに乗って、早朝から思わぬ人が訪れました。
ドメニコ派司祭のニコラ・ダ・ヴィチェンツァ師でした。小柄な師の背後に、長身のうら若いヴィットリオ修道士が従っています。私に内密に話があるといってきたのですが、ニコラ師の話とくれば、〈大鍋《おおなべ》〉のことに決まっています。父上は医者に手当てを受けていましたし、さしあたって、私もマフィオ叔父もできることは何もありませんでした。私たちは、ニコラ師とヴィットリオを塔の部屋へと案内しました。
ニコラ師は椅子《いす》に腰を落ち着けてから、家の中が騒がしいようだが、と聞いてきました。父上が刺されたことを申し上げたのですが、大変驚き、詳しく話してくれと頼まれました。家のタルタル人奴隷が女奴隷と一緒に逃げようとして金牌《きんぱい》を盗んだこと、絞首刑が申し渡されたのに、どういう手を使ったのか脱獄して屋敷に忍びこみ、女奴隷を連れ去ろうとしたが、見つかって父上を刺して、仲間らしい男たちと船に乗って逃げていったことを説明しますと、ニコラ師は、一部始終を見ていた女奴隷の話を聞きたいといいだしました。そういえば父上の怪我で動転して、私たちもまだマリアに詳しい事情を聞いていませんでした。それでマリアを塔の部屋に呼んだのです。
マリアの話は不可解でした。「あの男は、あたしを連れに来たんじゃないんです」と怒った顔でいうのです。愛人が自分を置き去りにしたことを怨《うら》んでいるようでもありました。――こんなことを書いてすみません。しかし父上には、あの女奴隷に対するご執心を忘れていただきたいのです。あの沙州《サチユウ》の女は、ステーファノとジョヴァンニーノの母親とはまったく似ていません。カタイの女に見られる謙虚さ淑《しと》やかさ慎み深さは皆無です。彼女たちの最上の美徳たる貞淑さもないとあっては、これ以上マリアをお手許《てもと》に置いておく気持ちがわかりません。
「あの男、忘れたものを取りに来たといってました」というマリアの言葉をヴェネツィア語で通訳すると、ニコラ師は「やはりな」と呟《つぶや》いて、椅子に背を沈みこませました。それから、夏桂を助けた仲間とはどんな様子の者たちだったかと尋ねました。マリアの答えは、二人は似たような灰色の外套《がいとう》と頭巾《ずきん》をかぶっており、残る一人は短い外套をまとった大男で、船を漕《こ》いでいたということでした。それは私たちが若ニッコロから聞いていたこととも一致しました。
腱《けん》を切られた足を引きずってマリアが部屋から退くと、ニコラ師はしばらく目を閉じて考えていたのですが、やがてこんなことをいいだしました。
夏桂こそ、かの〈大鍋〉を手に入れた者であり、異端カタリ派の連中と手を組んで、ヴェネツィアから持ちだしたのだと。
私もマフィオ叔父も戸惑いました。まるで、花が咲いたのは蝙蝠《こうもり》が空を飛んだからだなどというカタイの博士《バクシ》みたいな言葉ではないですか。私たちの怪訝《けげん》な表情を見たニコラ師は、言葉を続けました。夏桂は、殺された放浪楽師を最初に発見した人間で、その時、楽師の持っていた〈大鍋〉を奪って、この屋敷に隠し、投獄されるとカタリ派の助けを借りて逃げだしたのだと。
「カタリ派の連中は、総督宮殿の牢番《ろうばん》を買収して奴隷を逃がしたのです」
夏桂が脱獄してからさほど時が経っていないのに、どうしてニコラ師が牢獄の中のことまで知っているのか、私は不思議に思いました。それに、なぜカタリ派なのか。異端と呼ばれる者たちには、リオーネの貧者たちもいれば謙遜者団《ウミリアーテイ》もいます。二年前にヴェネツィアに来たばかりのタルタル人の奴隷の夏桂が、なぜそのカタリ派と結びつくのか。
このことを問い質《ただ》しますと、ニコラ師は血色のいい頬《ほお》に皺《しわ》を寄せて、「今、それを話している時間はない」とおっしゃるのです。
「ただ、これだけはいっておこう。カタリ派の連中は、自ら〈善き人〉と呼ぶ伝道者と、彼らを守り助ける帰依《きえ》者に分かれている。伝道者は常に二人組で帰依者の家を訪ね歩き、異端の教えを広めている。タルタル人の女奴隷の見た頭巾をかぶった二人はその伝道者にちがいない。〈大鍋〉が異端の手に渡ったとは大変なことだ。一刻も早く彼らを捕らえるのだ」
ニコラ師は焦っていました。
確かにそうして話している間も、夏桂とカタリ派の連中は遠くに逃げていきます。私とマフィオ叔父は早速、夏桂たちの行方を探すことにしました。
リアルト橋や聖マルコ広場で聞きまわっていると、シーレ川でそれらしき平底船とすれ違ったというトレヴィーゾ商人に会うことができました。川船に乗ってヴェネツィアに下ってきた商人は、タルタル人が船を漕いで川を溯《さかのぼ》っていたので珍しく思ったということでした。船には、頭巾つき外套に身をくるんだ者が二人乗っていたとも教えてくれました。父上が襲われた夜に船を漕いでいたという大男がいなかったのは、若ニッコロの槍《やり》で怪我《けが》をして下船したせいかもしれません。とにかく彼らはトレヴィーゾに向かっているようでした。それをニコラ師に知らせると、師はヴィットリオを探索に遣わすといいだしました。それでマフィオ叔父と相談した結果、私も追いかけることにしたのです。
父上が襲われて、すでに三日過ぎています。夏桂たちがまだトレヴィーゾに留まっていることを祈るしかありません。
夏桂とカタリ派の繋《つな》がりについて、船中でヴィットリオに聞いたのですが、自分は詳しいことは何も知らない、といわれました。怪しいものです。ニコラ師は腹の中で何を考えているかわからないところがあります。
川船の上で休んでいた漕ぎ手たちが起きだしました。頭巾つきの短い外套をはおった船頭が、陽に焼けて赤くなった男たちの真ん中に立って何か命じています。日溜《ひだ》まりにいた乗客も葡萄酒《ぶどうしゆ》を入れた瓶《かめ》や麺麭《パン》や乳酪の残りの入った袋などを片づけはじめました。そろそろ出発のようです。
昼下がりの生温かな風が葦《あし》の原を波打たせています。川沿いの林の間から、近隣の村の教会の鐘楼や地主の城の塔が突きでています。その間を縫って流れるシーレ川は、白銀に輝きながら遥《はる》か彼方《かなた》に影のように連なる山々の麓《ふもと》に向かって延びています。これからこの河を溯っていくのです。
旅に出るのは二年ぶりでしょうか。旅の前には心が騒ぎます。考えてみれば、父上が私を伴って二度目のカタイに出かけたのは、今の私の年頃だったのですね。息子は父親の通った轍《わだち》を踏んで生きていくものです。しかし、私は今度は父上の行ったのとは反対の方角、西へと向かっています。行く手に何が待ちかまえているかはわかりません。すべては神の御心にゆだねるしかないのでしょう。
トレヴィーゾではヴィットリオはドメニコ派の修道院に、私はアングルッチ家の客として迎えてもらえるはずです。ご存知でしょう、マルタ叔母《おば》さんの従姉《いとこ》の家です。先方に着いたら、誰かヴェネツィアに行く人を探して、この手紙を託します。父上のご容態が一刻も早く良くなりますよう祈っております。
[#地付き]あなたの息子マルコ。シーレ川河畔にて
愛する甥《おい》マルコヘ
トレヴィーゾ、アングルッチ家気付
†神の御名において
一二九七年十一月三十日
賢明なる甥よ、おまえの父ニッコロはなんとか快方に向かっている。|神に感謝を《グラツツイエ・ア・デイオ》。目を覚ましたと思ったら、また眠りこけるということの繰り返しで、まだ起きあがることもできないが、昨日、おまえの手紙を読み聞かせてやったら、目を細めて喜んでいた。――マリアの件《くだり》は耳が痛そうにしていたがな。おまえの気持ちもわかるが、養生中の父親にいうべきことではないと思うよ。
トレヴィーゾで何か手がかりはつかんだだろうか。次の連絡が来ないところを見ると、まだその町で夏桂たちの行方を追っているのだろう。六年前までトレヴィーゾとヴェネツィアはイストリアの正統性を巡って争っていた。ヴェネツィア人に対する反感が残っていなければいいのだが。
若ニッコロや家の者たちには、マルコは巡礼の旅に出たといってある。司教さまがおいでになるトレヴィーゾで悔悟をしたかったのだと説明したら、それほど不思議には思われなかった。マルコリーノが、鞭《むち》打ち苦行者みたいに自分を鞭打ちながら巡礼していったかと聞いて、皆の笑いを誘っていた。家の中で屈託のないのはマルコリーノくらいのものだ。
ニッコロが夏桂に襲われた夜以来、ここには澱《おり》のようなものが溜《た》まっている。夏桂もいなくなり、イザベッラは下僕の手が足りないとこぼしているし、カテリーナは誰かが自分の持ち物に触った、乳母ではないかといってぴりぴりしている。ニッコロの一件でジョヴァンニーノのコスタンティノポリ行きは延期となった。予定していた船にヴェネツィア硝子《ガラス》の積荷だけ運んでもらったのだが、拗《す》ねているのか、おまえの異母弟は部屋にこもってばかりだ。召使いたちの様子も陰鬱《いんうつ》なものだ。ルチーアは女の病とかで臥《ふ》せってしまったし、ニッコロの看病をいいつかっているマリアは笑顔ひとつ浮かべることなく亡霊のように寝台の下に張りついている。そしてモネッタとパオラは何かに怯《おび》えているのか、やけにおどおどしている。
そんな空気に無頓着《むとんちやく》なのは、毎日執務室にこもっている若ニッコロと、妻のマルタだ。若ニッコロは、おまえの留守を守ってちゃんと仕事をしているのだから家内の変化に気がつかないのはわかるが、妻は鈍感なだけだ。さっきも私が冬の居間の炉端で福音書を読んでいると、腕のいい職人に仕立ててもらった被り物《ヴエロ》をどこにしていこうかと、イザベッラ相手に浮き浮きと話していた。いい歳をして身を飾ることばかり考えている妻に、私は腹立たしさを覚えた。
マルコよ、正直にいうが、私の結婚は失敗だった。うまくいくはずはないのだ。私たちに夫婦生活というのはほとんどなかったのだから。二十五歳でマルタと一緒になって以来、私は今の若マフィオのように旅に出てばかりいた。結婚三年後には兄のニッコロと共にカタイに行き、九年間も家を留守にしてしまった。
今と違ってカタイに行く道はそれほど危なくはなかったから、向こうにいて直接手に入れた商品をヴェネツィア宛《あて》に送りだすほうが、タルタル人商人を介して買い付けるよりよほど儲《もう》けがあったのだ。元《げん》の宮廷で、兄と私は、大《だい》カァンに気に入られようと西方の話を色々と披露した。もともと余力さえあれば西方諸国を征服したいと考えていた大カァンだ。話を聞いて、西方諸国で最も力を持つ者は教皇さまだと気がついたのだろう、私たちに使節になってくれといいだした。クリスト教の教理に精通した者を百人、元の国に派遣してくれと教皇さまに頼みたいのだという。教皇さまヘの機嫌取りも入った依頼だとは思ったが、私はそれでタルタル人の間にクリストさまの教えを広めることができるならいいことだと考えていた。
こうして兄と私は、タルタル人の王の遣いとなってヴェネツィアに戻ってきた。大カァンの使節だったから、家には二年ほどいて、また東方にとんぼ返りだ。
おまえも一緒だった二度目のカタイ滞在は、二十四年に及んだ。結婚してから私が再びヴェネツィアに戻るまでの四十年近い間、マルタと一緒に暮らしたのは五年にも満たない。これでは夫婦の情愛なぞ生まれるはずはないではないか。
二年前、私たちがヴェネツィアから帰りついた時のことは忘れることができない。おまえも覚えているだろう、聖マルコ広場前の船着き場に着いた私たちは平底船を雇って、その頃、一家が住んでいた聖セヴァッロ教会の近くの家へと急いだね。家の前に船をつけて、興奮しながら玄関の戸を叩《たた》いたものだ。
取り次ぎに出てきた召使いに、私たちがこの家の者だと告げると、うさん臭そうな顔をして引っ込んだ。まもなく衣擦《きぬず》れの音をたてて戸口に現れたのは、締まりなく太った老女だった。
二年も三年もかけて時折カタイに届いていた便りによると、長兄の老マルコの妻も、兄ニッコロの二番目の妻も死んでいた。この家に我が物顔に住んでいる女は私の妻以外いないはずだった。しかしこれがマルタだろうか。
私は白い大蛸《おおだこ》のようにぶよぶよした老女を見つめた。記憶の中のマルタは艶《つや》やかな薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》に、にこやかな笑みを浮かべていた。しかし、地割れのような細かな皺《しわ》に覆われた女の頬には笑みのひとかけらもなく、ただ警戒心のみが現れていた。覚えているかマルコ、彼女は擦りきれたタルタル人の服に身を包んだ私たちに嫌悪の混ざった視線を送り、こういったんだ。
「カタイからの手紙を持ってきてくれたのかい。お礼は渡すから、こんなところにいないで、裏口に回っておくれ」
二十四年間も離れて暮らしていた夫婦は、他人と同じだ。私が夫のマフィオだと告げても、マルタは信じられないといった顔つきでその場に突っ立っていた。当時まだ生きていた長兄の老マルコが出てきて、弟だと認めてくれなければ、門前払いを喰《く》わされていたところだ。
後になってマルタはこの一件を笑い話にして、親戚《しんせき》や友人たちに触れまわった。昔通りの人の良さそうな笑みを頬に浮かべて、厭《いや》だね、あんな格好していたから、ちっともわからなかった、と滑稽《こつけい》な失敗談として披露した。私もその場に居合わせると、皆に調子を合わせて、「いやはや、家を長く留守にするものではないな」とぼやいてみせたりしているが、実をいうと、これは笑い話なんかではない。
時々、マルタのよそよそしい視線を感じる。この男はほんとうに自分が結婚した相手なのだろうか。私のほうを盗み見ながら、そう訝《いぶか》っているのがわかる。頭ではわかっているのに、私が夫であることが信じられないのだ。マルタが傍目《はため》にも見苦しいほどに、私と仲睦《なかむつ》まじそうに振る舞うのは、その罪悪感からだ。そして私はというと、妻の心に気がつかないふりをして、彼女の夫婦ごっこにつきあっている。
あれほど熱望していた故郷に戻ったのに、私は我が身をどこに置いていいかわからず、宙ぶらりんの気分だ。兄には、若マフィオもいるし、ステーファノやジョヴァンニーノもいる。第一、おまえがいる。四人の息子の父親であり、ポーロ家の家長でもある。否応《いやおう》なく、この土地と深い絆《きずな》を結んでいる。しかし子供もなく、妻にも心を開くことのできない私は、帰ってきたはいいが、自分がヴェネツィアと繋《つな》がっているという気持ちになれないのだ。
長い東方での滞在は、私の人生を大きく変えてしまった。人はあまりに遠くまで行ってしまうと、もうもとの場所には戻れなくなる。その身はもとの鞘《さや》に納まっても、心は無理なのだ。特に夫婦の心は粘土のように離したり、くっつけたりはできない。
だが、神が結びあわせてくださったものを、人は離してはならない。離縁することは許されない。すべてをあるがまま、受け入れるしかないのだろう。
家の様子を報せようとしたのに、話がおかしな方向に行ってしまった。今回の兄の怪我《けが》は、私にさまざまなことを考えさせてしまうのだ。
しかし本題に移ろう。夏桂の件についてだ。おまえが親しくしていた〈|夜の紳士《シニヨーリ・デイ・ノツテ》〉が昨日、訪ねてきて、ふたつばかり新しいことを教えてくれた。ひとつは総督宮殿で夏桂の逃亡に荷担した牢番《ろうばん》が出奔したことだ。おまえが〈夜の紳士〉に夏桂の脱獄に関する調査を頼んだと聞きこんで、怯《おび》えて姿をくらましたらしい。
もうひとつは、放浪楽師を殺した男が監房で死んだという知らせだ。その殺人犯は、夏桂の逃亡した翌日の朝早く重大な話があるといって、総督宮殿に、ある人物を呼び出したそうだ。その人物と会見して半日後、男は死んだ。牢獄の壁を爪《つめ》が剥《は》がれるほどかきむしり、苦しみに全身を捩《よじ》らせていたくせに、死体の顔には死神のような冷たい笑みが浮かんでいたらしい。尋常な死に方ではない。
殺人犯が入っていたのは、夏桂と同じ監房だ。そして殺人犯が会見した人物とは、なんとニコラ師だ。夏桂が逃亡した翌朝、ニコラ師は殺人犯と会ったその足で、私たちの家を訪ねてきたことになる。
おまえのいう通りだ。あのドメニコ派の司祭は信用できない。私たちに話す以上のことを知っていると思う。ヴィットリオ修道士と行動を共にするのなら、そのことを肝に銘じておくことだ。
また、カタリ派と夏桂の繋がりは、私にもさっぱりわからない。カタリ派といえば、私が生まれてすぐの頃、ヴェローナで六十人ばかりが火刑になったというし、私が十二、三歳の時には、ドメニコ派の説教師たちが両手を振りあげ、南フランチアで神の御業《みわざ》が顕《あらわ》れた、カタリ派のローマが陥落したと叫んでいた。私がカタイに居る間にも、またもヴェローナで二百人のカタリ派が焼かれたとも聞いている。しかし、その後もパドヴァやヴィチェンツァでぽつぽつとカタリ派が発見され、火炙《ひあぶ》りになっているのを見ると、あの神を畏《おそ》れぬ輩《やから》たちは、今も私たちのすぐそばで禍々《まがまが》しい教えを広めているようだ。
ほんとうに夏桂がカタリ派と関係があるのなら、気をつけるのだ、マルコ。おまえは悪魔の手先を追っているのだから。異邦人と同じように歩んではならない。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗く、内にある無知とその頑《かたく》なさのために、神の命から遠く離れている。彼らの邪《よこしま》な考えに惑わされてはいけない。
ニッコロから、おまえによろしくとのこと。また、マルタと私からアングルツチ家の皆さんに挨拶《あいさつ》を送ると伝えてくれ。
今日は聖アンドレアの祝日だ。次の日曜日から待降節に入り、新しい年がはじまる。来るべき年も、神さまが我らをお守りくださるように。
[#地付き]叔父《おじ》マフィオ。ヴェネツィアにて
親愛なる父、ニッコロ・ポーロヘ
ヴェネツィア、聖ジョバンニ・クリソストモ区、ポーロ家宛
†一二九七年十二月三日
敬愛する父上に挨拶を送ります。
少し回復されたよし、マフィオ叔父の手紙で知りました。心から安堵《あんど》しました。
トレヴィーゾは、運河と、十六の門のある城壁に囲まれた都市です。北方から流れてくるボツテニーガ川と、ピアーヴェ河の支流のセーラ川、それにシーレ川の合流地点に造られているため、大小の川が櫛《くし》の歯のようになって城壁の中を巡っています。市民の家や広場の前には船着き場が設けられ、緑の藻のたなびく川に小舟が行き交っているさまは少しばかりヴェネツィアを彷彿《ほうふつ》とさせます。
海からシーレ川を溯《さかのぼ》ってくる船や人を見下ろす格好で南の小さな丘に聳《そび》えているのは領主の城、都市の真ん中で威風を誇っているのは大聖堂と司教館です。鐘楼は工事中でまだ上部は出来あがっていませんが、その前の洗礼堂は浮き彫りの施された扉がついた立派なものです。大聖堂から柱廊に囲まれた通りを少し東に行くと、紳士《シニヨーリ》広場に着きます。広場に面して、大評議会の開かれる三百人館や判事館、行政官館が並び、市の名士たちがその前の柱廊で立ち話している姿が見られます。
ここはヴィチェンツァやヴェローナ、パドヴァといった都との交易があり、また北の山岳地帯から来る商品と、ヴェネツィアを通じて海の彼方《かなた》から来る商品が入り交じるところです。店屋を覗《のぞ》くと、ありとあらゆるものが少しずつあります。インギルテッラの羊毛、カタローニャの子牛や羊の皮、ヴァレンチャの米や巴旦杏《アマンドラ》、マルシリアの蜂蜜《はちみつ》、プロヴェンツァの大麻の糸。ヴェネツィアの店先と代わり映えはしません。強いて特徴を挙げれば、山岳地方から来る鉄や木炭、熊や狐の毛皮などが豊富で安いようです。ただ、毛皮に関しては、やはり北方から来るもののほうが品質が良く、こちらのものは高値では売れないでしょう。
商用で来たのではないのに、またもや旅先で特産品の種類や値段を調べる癖が出てしまいました。これも父上のせいですよ。「よき商人とは、どこに行っても手と足と目を働かせるものだ。足と目は市場を歩きまわって土地の特産品を調べるため。手はそれを忘れないように書きつけるため」といい聞かされて育ちましたからね。元の帝国を旅した時も行く先々で土地の様子や特産品を書きつけたので、けっこうな厚さの覚書ができてしまいました。ヴェネツィアに持ち帰って部屋に置いたままですが、そのうち何かの役に立つかもしれません。
最近、思います。人の成したことにおいて、書かれたこと以外に長く残るものがあるだろうかと。
ペルシア北部の平原にぽつんと立っていた〈孤独の樹〉のことを覚えていますか。樹皮の片側は緑で、もう片側は白く染まった、美しい大樹でした。幾千もの手を大空に広げて、誰かに呼びかけているように見えました。そこは、一千年前、アレツサンドロ大王とダリウス王が壮絶な一戦を交えた平原でした。槍《やり》や矢を作るために森の木は伐《き》り倒され、たくさんの兵士が死にました。その血を吸った土は満足のあまり木を生やすことを忘れ、たった一本残された〈孤独の樹〉だけが今もぽつんと立っているのだ、ということでしたね。実際、七日の行程もの間、他の木は見かけませんでした。ペルシア人の案内者の話を聞かずに茫漠《ぼうばく》とした草原を眺めただけでは、そんな歴史は知りようもなかったでしょう。平陽府《ピアンフ》の近くにある城砦《じようさい》は、あのヨハンネス司祭ですら手を出せないほどの堅固さを誇り、その内部にある大宮殿の大広間には、歴代の金《きん》の皇帝たちの肖像画が金色に彩色されて並んでいたといいます。真夜中になると、初代アクダから始まって、絵に描かれた歴代の皇帝が、お互いの所行について罵詈雑言《ばりぞうごん》を投げつけあって喧嘩《けんか》をはじめるので、ついに時の皇帝は大広間を閉めきってしまったとか。しかし今では大宮殿は土くれと化してしまい、残るのはほとんど崩れた城壁のみです。
時が過ぎれば、何もかも消えてしまうのが世の常なのです。どんな偉業もそれを成した人が死ねば忘れられます。どんな建造物も時が過ぎれば地上から消えてしまいます。しかし書かれたものは、原本が失われても、人の手で写されることによって長い命を保ちます。そしてそれは誰かがなにかを成したことの証拠となります。人の歩みは書きとめられるべきなのです。でなければ、すべての歴史は塵芥《ちりあくた》の如く消えてしまうことでしょう。
噂話《うわさばなし》も、男と女の睦言《むつごと》も、商人同士の約束も、およそ人の口から発せられたものは、書きとめられない限り、あっという間に宙に消えてしまいます。だからこそ人々は簡単にでまかせを言い募るのです。
人の話がいかにあてにならないか、私はトレヴィーゾでつくづく思い知らされました。
この都市に着いた翌日から、私とヴィットリオは、夏桂とその一味を探しはじめました。人目につく東方の奴隷のこと、簡単に足取りを辿《たど》れると思ったのですが、甘い見通しでした。夏桂を見た人がいなかったわけではありません。あまりに大勢の人がタルタル人を見たといいだしたためです。
「その男なら、魚市場をうろついていたよ」といわれてボツテニーガ川に浮かぶ小島全体が魚市場になっているところにいくと、漁師に荷役に雇われたグレチアの男のことだったり、「タルタル人の怪しい巡礼が聖ボーナ門の近くの旅籠《はたご》屋に入った」との話を信じて、門付近の旅籠屋をあたれば、それは罪を犯して鼻を削《そ》がれ、悔悟の旅に出た男だったりするのです。川船で櫂《かい》を漕《こ》いでいたという者、聖フランチェスコ教会の裏で亡霊のように佇《たたず》んでいたという者――実際のところ、亡霊だったかもしれません――乞食《こじき》の群れに混ざっていたという者。目撃談が多すぎて、どれがほんとうかわかりません。私とヴィットリオは噂に引きまわされ、トレヴィーゾの広場という広場、路地という路地を探し歩きました。さすがにうんざりして、ヴェネツィアに戻りたくなったものですが、父上の苦しみを思い出すと弱音を吐いてもいられません。今日も早くから探索するために、大聖堂の前でヴィットリオと待ちあわせをしていました。
聖ニコロ修道院に泊まっているヴィットリオはまだ来てなかったので、私は大聖堂の丸い薔薇窓《ばらまど》の下の柱廊に入り、ぼんやりと立っていました。聖堂前の広場は、驢馬《ろば》や馬に荷を乗せて野菜や乳酪《フオルマージユ》、薪《まき》などを売りに来た百姓、籠《かご》を抱えて買物にいく下女、背中に山のような荷物を担いだ行商人などが行き交っています。その中に馬に乗った騎士の姿がありました。旅の途中らしく汚れた甲冑《かつちゆう》を着て、一人の従者を従えています。その従者の持っている槍《やり》に見覚えがあったので、私は大聖堂前の階段を駆け降りて、騎士を追いかけました。旅の騎士というと、たいてい食い詰め貴族の次男や三男で、騎馬試合の懸賞金や戦争での略奪品を目当てに放浪している乱暴者が多いので、うっかり関わりあいにならないほうがいいのですが、その時は用心も忘れてしまうほど夢中でした。従者の持っている槍がすばらしいので見せてくれと頼むと、騎士は喜びました。戦士というものは自分の武器が褒《ほ》められると、女が衣装を褒められた時のように有頂天になるものです。快く従者に命じて、私に槍を渡してくれました。
確かにそれはヴェネツィアの家の通り広間に飾っていた槍でした。夏桂が逃亡する時、従兄《いとこ》の若ニッコロが投げつけたものです。
紳士広場の近くの店で買ったのだという騎士から詳しい場所を教えてもらっているうちに、ヴィットリオが到着したので、私は彼と共に早速その店に赴きました。店は難なく見つかりました。小さいながら、鎧《よろい》甲冑から剣、宝石|函《ばこ》や銀の皿や杯といった贅沢《ぜいたく》な品を置いているところです。窓辺で銀器を磨いていた見習いの少年に主を呼ぶように頼むと、奥から痩《や》せて長身の男が出てきました。私が騎士に売った槍の出所を尋ねると、干からびた豆莢《まめさや》のような男の顔に不快感が浮かびました。
「取引先のことは商売上の秘密ですので、お答えしかねます」
もっともな返事です。私だって、突然現れた見知らぬ男にそんなことは答えますまい。すると、腰帯にぶら下げた十字架を指先でいじっていたヴィットリオが口を挟みました。
「神の名にかけて、大事なことなのです。お教えくださいませんか」
ニコラ師が選んだだけあって、若いにもかかわらず、この金髪にふっくらとした薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》の修道士は自分の出番を心得ています。店主は僧服姿のヴィットリオに不安げな視線を走らせました。神さまの機嫌を損じると、地獄に堕《お》とされかねないのですから、少々考えたようです。店主は知り合いの職人の親方が持ちこんできたのだと答えました。
「たまたま手に入れたものだということでした。誓っていいますが、わたしはそれ以上のことは知りませんよ」
しかし躍起になった言い方は、槍《やり》にまつわるうさん臭げな空気を感じ取っていたことを示していました。私たちは、アントニオという親方の家を聞きだして店を出ました。
織物業を営んでいるアントニオの家は、聖トマーゾ門の近くにありました。布地関係の職人の工房の多い地区で、狭い通りに肩を並べて建つ小さな二階屋のほとんどの戸口から、水を流す音や、染料を煮る匂《にお》い、ぱたんぱたんと機《はた》を織る音が響いてきていました。
通りの日溜《ひだ》まりに糸繰り車を出して、お喋《しやべ》りをしながら木綿糸を紡いでいた女たちにアントニオの家を聞くと、二、三軒先にある家を教えてくれました。そこに行くと、明かり取りのために開け放した戸口から職人の工房が見えました。アントニオは亜麻布《あまぬの》職人の親方らしく、入口正面の戸棚に製品となった布が積まれています。壁際には原料の亜麻を入れた麻袋や道具入れらしい長持、部屋の中央には手織機が三台。手織機で布を織っているのは二人の若者、その前の細長い作業台の周囲には十二歳ほどの少年と、それより少し年上らしい娘、四十がらみの女が座っていて、亜麻糸を梳《す》いたり、棒の先に巻き取り撚《よ》りあわせたりしていました。年寄りの女は少年と若い娘の母親らしく、よく似た顔でした。
私が戸口から挨拶《あいさつ》をして、アントニオはいるかと尋ねたところ、腕の長さほどもある巻き棒を手にした年寄り女が、夫は留守だと答えました。旅に出ていて、戻るのは数日後だというのです。しかたなくアントニオの妻に事情を聞くことにして、紳士広場にある店に売った槍はどこで手に入れたのだと尋ねたとたん、彼女の顔が険しくなりました。「あの槍は拾ったんですよ」とぶっきらぼうに応じたので、どこで拾ったのだと問うと、城壁の外だという曖昧《あいまい》な返事です。
「具体的にどこで拾ったのか教えてくださいませんか」
ヴィットリオが澄んだ声でそういって、私の横をすり抜け、職人の家の中に一歩入りました。黒い外套《がいとう》を着たドメニコ派の若い修道士の姿に、工房にいた者全員、たじろぎました。彼は薄暗い工房に舞いおりた天使のようでした。少女とも少年ともつかぬ美しい顔、金色に輝く細い巻き毛、汚れを知らぬふうの水色の瞳《ひとみ》。自分の登場が相手をどぎまぎさせることを、この修道士はちゃんとわかっているのだと、私は思いました。
親方の妻は糸巻き棒を握りしめたまま、宙を睨《にら》みました。若い職人もアントニオの息子も素知らぬ顔で手を動かし続けていますが、息を詰めているのがわかります。うら若い娘は、ヴィットリオのほうをちらちらと横目で見ています。この修道士の容貌《ようぼう》なら、どんな娘を口説くのも苦労はしないでしょう。
「シーレ川の辺りですよ。河原の茂みにあったんです」
親方の妻は突然早口でいって、白い被り物《ヴエロ》の端で頬を拭《ふ》きました。そしてまた亜麻糸を棒に巻きつけはじめました。
「わたしはなにも知らないんです。それ以上のことはわかりません」
鋼の板のような女でした。もう何もいうことはないというように、私たちを無視しています。ヴィットリオが顎《あご》を上げて外に出るように促したので、私は工房を出ました。
職人通りを過ぎて、長方形の屋根つき洗濯場のある広場まで来ると、ヴィットリオが私に囁《ささや》きました。
「あの家は異端に染まっています」
私は足を止めて、どうしてそんなことがわかるのかと聞き返しました。
「親方の妻の態度を見たでしょう。神の僕《しもべ》であるわたしたち聖職者を軽んじる輩《やから》は異端に決まっています」
ヴィットリオは、川の水を引きこんだところにある洗濯場で衣類を洗っている女たちに聞こえないように、私を広場の隅に連れていって説明しました。
「三十年ほど前まで、トレヴィーゾ一帯はダ・ロマーノ家のエツツェリーノ三世が牛耳っていました。異端を保護したばかりか、彼自身も異端として告発された人物ですから、その統治時代、ずいぶんカタリ派がはびこったんですよ。エツツェリーノ三世が死んで、ダ・カミーノ家の時代になってからも、ここの政治はがたがたしていましたから、教会側も異端討伐を徹底することはできず、まだ帰依《きえ》者はこのあたりにいっぱいいるんです」
続けてヴィットリオは、聖ニコロ修道院の修道院長に訴えて、あの職人夫婦を異端審問にかけて槍の出所を聞きだすことはできるといいだしたのですが、それでは時がかかりすぎます。「商人のやり方をしましょう」と告げて、私はヴィットリオに、しばらくここで待つことを提案しました。ドメニコ派の修道士は不可解な表情ながら、承知しました。
晴れてはいても、やはり初冬です。太陽の日射《ひざ》しは弱く、小さな広場は寒々としていました。大声で近所の噂話《うわさばなし》を喋りながら、洗濯場に作りつけの石板の上で敷布や衣服を洗っていた女たちが洗い物を入れた桶《おけ》を抱え、手を赤くかじかませて引き揚げていくと、やがて六時課の教会の鐘が鳴りはじめました。がらんとしていた広場に人々が湧《わ》きでてきました。職人通りで働いていた雇い人たちが食事を摂《と》るために家に帰っていくのです。その中に、アントニオの工房で亜麻布を織っていた若い職人の一人を見つけて、私は呼びとめました。
白い木綿帽に短い外套《がいとう》をはおった職人は、私とヴィットリオの姿に警戒の色を浮かべました。耳が鼠のように突きだした、まだ二十歳《はたち》前の若者です。私は巾着《きんちやく》から大銀貨《グロツソ》を二枚取りだして、若者の手に一枚握らせました。
「ほんとうのことが知りたい」
こういって私は、二枚目の大銀貨を自分の掌《てのひら》に載せて転がしました。若者の目がそれを追っているのがわかりました。
神の力は死後に威力を顕しますが、金の力はこの世で効力を発揮します。この若者もやはり心を動かされたようでした。
「でも……おれのいうことのせいで、親方が捕まったりしませんか。そうなったら、おれ、仕事場を失うことになります」
若者は不安げに尋ねました。
「安心しなさい。このことは教会には内密の話としておきましょう」
ヴィットリオ修道士が職人の背中に手をあてて囁いたので、若者はほっとしたらしく、上唇を舌で湿しました。そして、あの槍《やり》は、七日ほど前、親方を訪ねてきた三人組が持っていたのだと思うといいました。その三人が家に寝泊まりするようになってすぐ、親方が槍を持って外に出ていったのを見かけたということでした。私が三人の顔を見たかと聞きますと、若者はかぶりを振りました。
「その三人は隠れるみたいにひっそりしてましたし、おれが二階に行くことはまずないですから……でも、中の二人は女でした。階段のところで話しあっている声を聞いたんです。低い声と、か細い声でしたが、両方とも女のものでした。もう一人は奇妙な男でした。痩《や》せて、蚊みたいに手足がひょろりとしている奴です。でも、力はけっこうあるみたいだった。顔をいつも布で隠してたんで、疥癬《かいせん》でも患ってるんじゃないかと思って厭《いや》な気がしたもんです」
私は心の中で喝采《かつさい》しました。やっと手がかりを見つけたのです。職人は二人の女のうち一人は具合が悪そうだったこと、その養生も兼ねて親方の家に長く滞在していたらしいこと、元気なほうの女が町を歩きまわっている間、もう一人の女は、顔を隠した男と一緒にずっと二階にいたことを話しました。
「でも一昨日、工房に行くと、親方もその三人もいなくなってました。奥さんは、親方はフェルトレまで商用で行ったのだと話してましたが、おれにはあの三人を送っていったのだとぴんときました。これまでにもちょくちょく二人組の人たちが泊まっていて、親方が送っていったことがあったんです」
その三人はどんな荷物を持っていたかとヴィットリオが尋ねたが、若者は、客人の出入りするところを見たわけではないから知らないと答えました。それ以上、聞くことはなさそうだったので、私は若者の手に二枚目の大銀貨を落としました。掌で鳴った銀貨の音で、記憶が揺すぶられたように、若者は、ああ、と呟《つぶや》きました。
「そういえば、シルビア……親方の娘だけど、おれが聞いているのに気がつかないで、母親にこぼしてたっけ。〈善き人〉たちは麺麭《パン》と水しか食べないのに、もう一人は犬みたいにがつがつなんでも食べるって」
ヴィットリオは、わかっている、というふうに顎《あご》を反らせたまま頷《うなず》きました。
「間違いなく、その二人は異端カタリ派です。〈善き人〉と称する輩《やから》は、週に二、三日は麺麭と水だけで潔斎をする。その親方のところは早く出たほうがいいでしょう。わたしの目は逃れても、遅かれ早かれ異端審問の手が仲びてきます。その時は、奴らの下で働いていたあなたにも異端の嫌疑がかかるでしょうから」
若者は怯えた顔をして、早足で立ち去りました。
私はヴィットリオと一緒にもと来た道を引き返しはじめました。道々、〈善き人〉といわれる人々は、女でもなれるのかと問いました。すると、ヴィットリオは美しい顔に嫌悪の表情を浮かべました。
「そうなのです。カタリ派の教義が歪《ゆが》んでいるのはそのせいですよ。〈善き人〉というのは、完徳者ともいわれ、布教する者、教会でいうなら司祭にあたる者です。強い心の必要とされる役目です。それを女などという精神的に弱い者に赦《ゆる》しているとは、あきれるべきことです。女というのは、結婚して夫に従うことが最もいいのです。なのに、カタリ派の女は夫や子供を棄てて、布教に走っているのですからね」
私は、その完徳者の女たちも、男と同じように、週に二、三日、若い職人がいっていたような潔斎をしているのだろうかと尋ねました。
「聞くところによると、そうですよ。潔斎の日以外でも、樹と水に生ずるものしか食べないといわれてます。男女の肉の関わりも持たないし、異性に触れることもないそうです。彼らは、この世というもの、この世にあるものを徹底的に嫌っています。だから子供を生むことは、この世で苦しむ霊魂をさらに送りだすことになるがゆえに、とんでもない悪行だと考えているのです」
私は驚きました。おいしいものも食べずに、男女の交わりもなく、この世に生を受けたことを毛嫌いする。そうだとしたら、生きている価値なぞないのではないかといいますと、ヴィットリオは、狭い路地を走りまわる子供や野良犬の姿を眺めて頷きました。
「彼らにとって、この世における価値とは救慰礼《コンソラメンタム》を受けることにのみ存在するのでしょう」
「救慰礼、ですと」
私は聞き返しました。
「彼らのでっちあげた儀式ですよ」と、ヴィットリオは吐きだすようにいいました。
「それを行えば、すべての罪が赦されるというのです。救慰礼を受けた後、食べることも飲むこともやめて、自らを死に至らしめる者もあるそうです。再び罪を犯さずに、天国に逝くための耐忍《エンドウーラ》という方法だということですが、精神が歪んでいるのです。なにしろ、罪を犯すと、死んでから再びこの厭《いと》わしい世に生まれ変わるというのですから」
「魂の転生ですか。カタイにもそのような考え方があります」
私は口を挟みました。人が死ぬと、霊魂は、生前|為《な》したことの善悪によって、高貴な身分の肉体にも卑しい身分の肉体にも、時には犬猫の体内にも入るということ。そうやって霊魂は永遠に肉体から肉体へと移っていくと東方の人間は信じていることを教えますと、「戯言《たわごと》です」とヴィットリオは言下に断罪しました。
「霊魂は、天国に入るか、地獄に堕《お》ちるか、天国に逝く前に罪を償うために煉獄《れんごく》に行くかしかありません」
そして、私に鋭い視線を送って聞きました。
「マルコ殿、あなたもまさかそんな忌まわしいカタイの考えに毒されているのではないでしょうね」
とんでもない、と私は否定しました。そして、それ以上、この問題について話すことはしませんでした。
時々、私は聖職者たちの言葉に不思議を覚えます。どうして彼らはこれほどの確信を持って、死後を語ることができるのでしょう。
父上、私たちは東方で、こちらの人間にはとうてい信じることもできないようなことを、いくつも目にしましたよね。
土の中から掘り出した時は黒いのに、炎に包まれると一晩中赤く燃えている火の石のこと。死体から取った生の肝臓を細かく刻んで食べる雲南の者たち。空を飛ぶ船に乗ってカタイの山々を旅している一族。百の目を持つ犬を従え、黄河の上流に住む老婆。ニコラ師とてヴィットリオ修道士とて、今まで決して見たことのない事柄です。他の聖職者だって同様でしょう。いかに神さまの僕《しもべ》であろうと、彼らは、この世のことだって隅々まで見知っているわけではないのです。なのに、なぜ、天国や地獄のことには精通していられるのでしょう。
カタリ派の唱える魂の転生に関して、私はインドのチェイロン島で聞いた話を思い出しました。昔、そこに釈迦牟尼《サガモニ》という聖者がいて、彼は何度も人や牛や馬に生まれ変わり、八十四回目に死んだ時に神になったと、島の人々は信じていました。そしてこのサガモニの像こそ、東方にあまねく広がった偶像崇拝教の偶像の最初なのです。千の手を持つ偶像を崇拝するジパング人の血を引く夏桂が、カタリ派と繋《つな》がっているとしだら、偶像崇拝教の始祖であるサガモニの人生と、カタリ派の考え方が似ているからでしょうか。
それにしても東方から遠く離れたこの地で、なぜカタリ派が霊魂の転生などといいだしたのでしょうか。こういう禍々《まがまが》しい考え方は、悪魔の力を借りて、東方から風のようにやってきたものなのかもしれません。
私たちは一刻も早く出発することにしました。夏桂たちが徒歩だとしたら、ピアーヴェ河上流の都市フェルトレに着くまでには数日を要するでしょう。一昨日出発したという彼らに追いつくため、ヴィットリオが馬を用意するというので、私は今、アングルッチ家で待っているところです。この頃は日暮れが早くなっているので、陽の高いうちに出たいものです。夜になる前にセーラ川を溯《さかのぼ》って、ピアーヴェ河まで出られればいいのですが。そこからは平地は終わり、モンテッロの森の中に入ります。明日からは厳しい旅となるでしょうが、東方への往復と比べたら、ものの数ではありますまい。
フェルトレでは、絹織物商人カルロ・パウレッツィの家に立ち寄ってみようと思っています。何かご連絡がありましたら、パウレッツィ家のヴェネツィア支店に頼めば、商業書簡と一緒にそちらに届けてくれるはずです。
父上の一日も早いご回復を祈っております。マフィオ叔父《おじ》や家族の皆さんによろしくお伝えください。
[#地付き]あなたの息子マルコ。トレヴィーゾ、アングルッチ家にて
親愛なる息子マルコ・ポーロヘ
フェルトレ、パウレッツィ家気付
心配をかけたが、昨日あたりから寝台の上で体を起こすことができるようになった。それで、やっと羽ペンも手に取れる次第だ。まあこんなことでもないと、あらためておまえに手紙なぞ書きはしないだろうから、長い目で見れば、私の負傷も神のご配慮ということかもしれない。
病床で手紙を読むのは疲れるもので、この前の手紙も、最初の手紙同様、マフィオに読んでもらったが、弟はおまえが聖職者たちを批判しているといって、渋い顔をしていた。神さまに近いところにいる聖職者たちがこの世の事物に疎くて、天国のことに通暁しているのは当然だと憤慨していた。
世の中の分別もろくにつかない年齢でヴェネツィアを離れ、偶像崇拝者たちの国に長いこと暮らしたせいだ、息子にそんな人生を与えた父親にも責があると、私まで非難しはじめる始末だから、たまったものではない。
しかし、お布施に応じて、司祭は歌う=B聖職者の言葉はすべて真実とは限らないと、実は私も思っている。
私とマフィオがおまえを連れて二度目の東方の旅に出る前、今は亡き教皇グレゴリウス十世と謁見した。その場におまえはいなかったが、話の内容は知っているな。クリスト教の教理に精通した者を百人、元国《げんこく》に送ってくれという内容の大《だい》カァンの親書を渡した私たちに、当時、教皇に選ばれたばかりだったグレゴリウス十世は、その余裕はないが、このドメニコ派司祭二人を派遣しようと、ニコラ・ダ・ヴィチェンツァ師とグリエルモ・ディ・トリポリ師を紹介された。そして内密にこうおっしゃったのだ。
百年ほど前、東方のどこかにクリスト教王国があった。その王であり、司祭であった者はヨハンネスといい、十字架にかかった救世主の血を受けた聖杯の持ち主であった。今、その者の消息は絶たれ、聖杯はどこにいったのかわからない。この二人のドメニコ派司祭と協力して、ヨハンネス司祭の治めていた国を探しだし、失われた聖杯を教会に持ち帰って欲しい。偉大なる力を持つという聖杯があれば、異教徒のものとなった聖地ジェルザレンメ奪回も夢ではないと。
教皇の頼みを聞いて、私もマフィオも胸がいっぱいになった。一介の商人である私たちが、クリスト教世界の救い主となれるのだ。屋根に登った雄鶏《おんどり》みたいに誇らしかったものだ。
おまえは前の手紙で、人が成したことで永く残るものは書かれたものだといっていたな。いいや、息子よ。文字もまた人の手で造られたものである以上、いつか滅びていく。人が成したことが永遠に残るとしたら、それは聖なるものと繋《つな》がることによってのみ可能なのだ。そして救世主の血で満たされたという聖杯こそ、申し分なく聖なるものだった。
私とマフィオは、あのドメニコ派の司祭二人が屁理屈《へりくつ》を垂らしながら逃げていった後も、聖杯探しをあきらめはしなかった。おまえが元の国のあちこちを旅しては土産話を披露し、大カァンのご機嫌を取っている間、私と弟はヨハンネス司祭の消息を探った。甘州《カンチユー》には一年間滞在して、司祭の王国の噂《うわさ》を集め、大カァンの夏《か》の都、上都に着いてからは、チンギスカンと戦って、ヨハンネス司祭が最期を遂げたという天徳《テンドウク》の野まで赴き、司祭の子孫であるゲオルギス王の話を聞きもした。しかし、わずか七十年ほど前の話なのに、王は自分の先祖がヨハンネス司祭と呼ばれていたかどうかすら知らない始末だった。司祭が莫大《ばくだい》な財宝を埋めたという噂のある龍風《ルンフエング》にも行き、司祭に囚《とら》われていた金《きん》の皇帝の城があったという界仲《カイチユ》を訪れたりもした。しかし何も見つからない。確かに噂はいろいろ耳に入ってきた。チンギスカンとの戦いで逃げのびて海の向こうの遠い国に旅だった、今も子孫は深い雲南の山中で生きている、黄河の生ずるところにヨハンネス司祭らしい王の治める美しい国がある……。だが、噂の土地を訪れ、そこの人の話を聞き、詳しいことを探ろうとすれば、最後にはいつもヨハンネス司祭の姿は曖昧《あいまい》となり、探索の糸は途切れてしまう。
それは砂漠の蜃気楼《しんきろう》のようなものだった。遠くから見ると、確かにそこにあるのに、近づけば消えてしまう。マフィオは聖杯はどこかにあるはずだと最後まで言い張っていたが、ヴェネツィアヘの帰途、インドでヨハンネス司祭が守っていたという聖トマーゾの墓がただの異教徒の拝む大樹だったのを見て、私はついにあれは大いなる冗談だったのだと思った。
ヨハンネス司祭の国なぞ、最初からありはしないのだ。ヨハンネス司祭がいないなら、聖杯も存在しない。まったく、〈大鍋《おおなべ》〉などという隠語でこそこそ話し、その行方を真面目《まじめ》に探したりして愚かだった。私たちは、東方という名の蜃気楼に惑わされていただけなのだ。東方は不思議な場所だ、巨人や一眼人も大足男も、双頭の鹿だっている。そんな土地では、どんなことも起こり得る、ヨハンネス司祭の国もあるだろうし、聖杯だってあるだろう。私たちはそんなお伽話《とぎばなし》に乗せられて、ありもしない宝物をカタイの地で二十年以上も探していたというわけだ。
ヴェネツィアに戻ると、グレゴリウス十世は死去した後だった。後任のボニファテイウス八世に愚痴をいっても仕方ないし、もう教会のことで引きまわされるのはたくさんだったから、大カァンから託された教皇や諸国の王への親書を届けることもせずにいた。そこに、またもやニコラ師が連絡を取ってきたのだ。彼は何が根拠かも示さないまま、聖杯は東方ではなく、すでにこちらに戻ってきているのがわかったから、それを手に入れるために協力してくれと頼んできた。マフィオもおまえも乗り気になったが、私はやはり話半分にしか聞こえない。
もう私には、聖杯探しなぞ興味はない。無駄な時間を潰《つぶ》したとしか思えない。私たちのような一介の商人が、聖なるものに繋がって、世に何かを残そうと思ったことが間違いだったのだ。それより、女を愛して、子をもうけ、家を成すことを追求するほうが、どんなに意味あることだったか。
最近、つくづくと思うよ、マルコ。私はカタイに残るべきだったとな。私が留守にしている間に、ヴェネツィアで結婚した二人の妻は次々に死んでいった。ほとんど一緒に暮らしたことのない妻たちだった。しかし、大都《カンバリク》に残してきたマリアとは十四年にも亘《わた》って共に暮らした。教会の結婚の秘蹟《ひせき》を受けなかったから、正式な妻とはならなかったが、私にとっての妻はあの女以外になかった。言葉はうまく通じなくても、沈黙のままに情愛を示してくれたマリア。あの女の心を映す細い目を、薄い唇を、葦《あし》のように柔らかな手足を、私はどんなに愛《いと》おしんだことだろう。
マフィオやおまえにはわかるまい。大カァンが下された側女《そばめ》たちを、おまえたちは夜伽《よとぎ》用の肉としか見なさなかった。賢いやり方だったとは思う。側女が子を孕《はら》むと、すぐに次の女と取り替えて、情の移ることを避けていた。だが、私はそうはできなかった。子を孕んでもマリアを手許《てもと》に置き、子供が生まれれば、共に暮らした。
私の人生はカタイにあったのだ。あの偶像崇拝者たちの国。金色や朱色に彩られた寺院や宮殿。響きわたる銅鑼《どら》の音。通りや家の中に漂う香の薫《かお》り。〈|黄金の百合《チン・リーン》〉と呼ばれた鶏卵ほどの小さな脚で、儚《はかな》げに歩く女たち。仔犬のように戯れる、細い目に低い鼻をした子供たち。口数は少ないが、勇敢さでは騎士にも劣らぬ元の武将たち。虫たちの鳴き声にも似たカタイの言葉。あの土地の思い出は今も鮮やかに胸に刻みつけられている。
だが、灰色に曇ったヴェネツィアの冬空を眺めながら寝台に横になっていると、私が旅してきた世界は、ほんとうに存在したのだろうかと疑いたくなる。確かに私たちは東方で、こちらの人間には信じられないような物事を見聞きしてきた。しかしヴェネツィアに戻ってくると、それらが現実ではなかったように思えてくる。それだけ土地の持つ力は強いのだ。特に故郷の力は強い。生まれ育った土地に戻ると、それまでの旅先での出来事はすべて幻のように思えてくる。
こうなることを私はたぶん予感していたのだ。だから、まだ幼かったステーファノとジョヴァンニーノを生死を懸《か》けた旅に連れだした。私がマリアと過ごした時が、夢ではなかったという証拠に。
女奴隷マリアを買い取ったのも同じ理由からだ。遥《はる》か彼方《かなた》に消えてしまいそうなあの土地が、現実に存在したのだという実感が欲しかった。私のマリアヘの執着は、家の者が考えているような肉慾《にくよく》に惑わされてのことではない。あの奴隷の中に流れるタルタル人女の血が懐かしかったのだ。
夏桂がマリアを連れて逃げようとしたと知って、私は我を忘れるほどの怒りを覚えた。あの男が、私の思い出をしまった最後の砦《とりで》までも壊そうとしたからだ。牢獄《ろうごく》を逃げだしてきた夏桂が家に乱入してきた時も、私はかっとした。またマリアを奪いに来たと信じたからだ。
しかし、あの男は私に見つかると、さっさとマリアを棄てて逃げようとした。安堵《あんど》してもよかったのに、マリアを連れていかない、そのことに対して私は憤り、剣を手にした夏桂に飛びかかっていった。馬鹿げていたな。七十も目の前にして、分別を忘れていた。これもマリアに対する不憫《ふびん》ゆえ、といいたいところだが、実はそうともいえない。あの時の私の気持ちには、さまざまなものが渦巻いていた。もしかしたら、私もまた夏桂に東方に連れ帰ってもらいたかったのかもしれない。東方に焦がれる私とマリアの心は、あの時点でひとつとなっていたのではなかったかと思いもする。
今、マリアは寝台の脚許《あしもと》に座り、私の包帯を取り替える準備をしている。暗い顔をして、うつむいたまま黙々と、医者の作った薬を布に塗りつけている。家の中は静かだ。最近では私を気遣って、通り広間を挟んだところにある冬の居間に家族が集まることは少なくなった。騒がしいマルコリーノは三階の居間にいるように申しつけられている。だが家の静けさは、そのためばかりではない。おまえはいないし、ルチーアは病が回復せずに里に返された。帰る前に挨拶《あいさつ》に来たが、立っているのもやっとというくらい青ざめて衰弱していた。マルタの話では、女の病のため、血が止まらないのだという。若ニッコロは、新しい下女と奴隷を探している。
春になって、陽気なステーファノと若マフィオが戻ったら、屋敷もまた活気づくだろう。ジョヴァンニーノは相変わらずコスタンティノポリを訪ねたがっている。今朝もこの部屋に来て、いつ兄の許にいけるのか聞いてきた。冬場はコスタンティノポリ行きの船が出ないから無理だと繰り返すと、落胆していた。
商人になることに気乗り薄だったあの子が、どうして突然、コスタンティノポリで経験を積みたいといいだしたのか解《げ》せない。しかし、どんな理由であれ、その気になってくれたのは嬉《うれ》しいことだ。
この二年間、ジョヴァンニーノがヴェネツィアに馴染《なじ》めない様子なのが気にかかっていた。兄のステーファノはこの土地が合っていたが、ジョヴァンニーノは、まだカタイに引きずられている。しかしあの子はまだ若い。やがてヴェネツィアという土地が生まれ故郷の記憶を押し流していくだろう。二度とカタイの土を踏まなければ、ここを第二の故郷にできる。長く離れていれば、故郷もまた幻のように思えてくるものだから。
元の国にいた時は、私とマフィオは商用や、聖杯探しで出入りが多かったし、おまえも大カァンに命じられて視察に行ったり、揚州《ヤンチユウ》に三年間も役人として派遣されたりして忙しかったから、たまに上都や大都《カンバリク》で顔を合わせると、私たちは夢中になってヴェネツィアのことを話したな。枯れ葉色の濃いカタイの茶を飲みながら、復活祭やクリスト昇天祭、降誕祭の華やかな儀式を思い出し、鰻《うなぎ》の煮こみや干鱈《ほしだら》料理の味を懐かしみ、聖マルコ教会のきらびやかさ、小路の暗さ、広場の活気をヴェネツィアの言葉で再現しようとした。そうやって絶えず話題にしていなければ、私たちの故郷が現実に存在しているということが疑わしくなるからだった。
これから何十年も何百年も先、隣の町に行く気軽さで、人々が西と東の間を行き来するようになる日が来るかもしれない。そうなれば、遥かな土地に対する無知も幻想も消え、私たちが東方で見たこと聞いたことを嘘《うそ》八百だと陰口を叩《たた》く人間もいなくなるだろう。
だが息子よ、それでも人が心底信じることができるものは、目の前にある現実だけだ。過去となった旅は、やはり記憶の中で非現実の覆いをかけられ、幻の世界へと退いていく。
人が同時にいくつもの場所にいることができれば、そんなことは起こらないだろう。しかし、それができるのは神さまだけだ。この世をこの世として把握できるのは、神さま以外にはいない。私たちが旅をして見聞を広めるのは、神の視点に立とうとする行為かもしれない。しかし一個の肉体しか持たぬ私たちには、それは僭越《せんえつ》な行為なのだ。
私はもっと早い時期に旅を止めるべきだった。ひとつところに落ち着き、人生をつかむべきだった。
私は今のおまえと同じ四十二歳で二度目のカタイの旅に出て、自分の人生を旅先に置き去りにして、故郷に戻ってきた。もはや老人となり、新たな人生をはじめる力は残っていない。おまえは私の轍《てつ》を踏んではいけない。もう旅には出るな。妻を見つけて、結婚しろ。子供をもうけて、根づくことだ。この地に、ヴェネツィアに。そうしなければ、いつまでも異邦人としてこの世をさまようことになってしまう。
おまえに神の善き導きのあらんことを。
[#地付き]一二九七年十二月十日
[#地付き]ニッコロ
親愛なる父ニッコロ・ポーロヘ
ヴェネツィア、聖ジョバンニ・クリソストモ区、ポーロ家宛
†一二九七年十二月十四日
愛する父上に気遣いをこめた挨拶を送ります。
今、フェルトレからピアーヴェ河沿いに溯《さかのぼ》ったところにある修道院にいます。昨日ここに辿《たど》りつき、客院に泊めてもらったのです。
巡礼用の大部屋ではなく、一人用の寝台や書き物机の揃《そろ》った客室ですが、室内は寒く、毛皮の外套《がいとう》を着ていないと凍えるほどです。昨夜、遅く到着したので、ここがどんなところかさっぱりわからなかったのですが、朝、窓を開いてみて、ピアーヴェ河を見下ろすなだらかな斜面の上に建てられていることに気がつきました。正面には、天空に打ちつける波のような北方山脈の尾根。枯れ葉色に霞《かす》む森林地帯を縫って、その山の彼方からゆったりと流れてくる大河。なかなか印象的な景観です。
部屋は二階にあるので、窓から首を出せば、読書用廊下の細長い屋根越しに柱廊に囲まれた四角い中庭《キオストロ》も覗《のぞ》けます。俗人には禁域となっている一角なので、こんな時でなければ、見物する機会はないものです。薬草や香草の生えた庭や、回廊の下で瞑想《めいそう》に耽《ふけ》る修道士たちを眺めていると、鐘楼から三時課の鐘が鳴りはじめ、奥の僧房から修道士たちが中庭に出てきて、隣の赤茶けた煉瓦《れんが》造りの聖堂に入っていくのが見えました。厳かな祈りの声が聖堂から中庭に流れだすと、私は窓を閉め、この手紙に取りかかった次第です。
ヴィットリオが出発できるのは、朝の祈りが終わり、修道院長に挨拶してからでしょうから、しばらくはゆっくりできます。ここ数日の疲労が溜《た》まっているので、午前中、休めるのはありがたいことです。
トレヴィーゾを発《た》ってから、街道の村々で夏桂たち一行の足取りを確かめながら進んだので、フェルトレに着くまでに二日もかかってしまいました。しかし、途中の村ヴィドールで、頭巾《ずきん》をかぶった四人の旅の者を見たという農夫に出会いました。四人のうちの一人が辛《つら》そうに歩いていたので、森の入口で薪《まき》を束ねていた農夫の目に止まったのだといいます。
「夕方の影みたいに痩《や》せっぽちで、へんちくりんな形に反り返った剣を背中に括《くく》りつけた男が助けようとすると、怖がって飛びさがるんだ。道端に座って休みはじめた時、頭巾を取ったからわかったんだけど、それは女だったよ。一行にはもう一人女がいたけど、やっぱり残る二人の男を避けているみたいに、座る時も少し離れていたな。男たちは、葡萄酒《ぶどうしゆ》やら乳酪《フオルマージユ》やらふんだんに食べてるのに、女二人は麺麭《パン》と水だけの慎ましい食事さ。麺麭を食べる前になにやらお祈りしていたけど、神さまにお願いするより、もっと食べたほうが身のためになりそうだった」
農夫はそう告げてから、ヴィットリオが聖職者なのを思い出して、もちろん神さまのお力を疑うものではないが、などともぞもぞ言い訳しているのが苦笑を誘いました。
私たちは、二日前から冬用の薪を運んでいるという農夫と別れると、夏桂たち一行が通った道を馬で急ぎました。徒歩の彼らと私たちは、ほぼ同じ頃にフェルトレに着いたことと思います。ただ、そこでまた運に見放されてしまいました。
フェルトレは、ピアーヴェ渓谷の近くにあり、小高い丘の上に建てられています。トレヴィーゾより遥《はる》かに小さな都市ですので、一行の足取りをつかむのはさほど難しくないはずだったのに、どうやら夏桂たちは市内には入らずにいたらしく、行方がわかったのは二日も過ぎてからでした。
それも商人カルロ・パウレッツィと一緒に市門近くの居酒屋に赴いたおかげです。昨日、カルロの家に届いた父上からの手紙を、私の泊まっていた旅籠《はたご》に回してくれたので、何か礼をしたいと申し出たら、居酒屋で酒でも振る舞ってくれといわれたのです。
そこで夏桂を追う手がかりをつかめたのですから文句はいえませんが、いやはやひどいところでした。葡萄酒は酸《す》っぱいし、炉端の煙がこもって目や頭が痛くなるほどだし、娼婦《しようふ》とも客ともつかない女たちが男といちゃついて騒いでいるし、マフィオ叔父《おじ》が見たら、悪魔の巣窟《そうくつ》だといいかねないところです。
私たちが葡萄酒を傾けながらヴェネツィアの共通の友人たちの噂話《うわさばなし》をしていると、「なんだい、あんたなんか怖くもないさ。あたしには守り神さまがいるんだからね。あんたなんか震えあがるよ、なんてったって目が糸みたいで鼻が潰れたすごい顔してんだから」という声が耳に飛びこんできました。
私は、はっとしてその声の主を見ました。酒を飲む男の横に座って、相手をしている女たちの一人です。目が大きくて顎《あご》の小さな、器量良しとはいいかねる容貌《ようぼう》でした。私は新たな葡萄酒を女のために注文して、自分たちの席に来て、その守り神さまとやらについて話を聞かせてくれと頼みました。女は、連れの鈍感そうな男へのあてつけもあったのでしょう、あたりの椅子《いす》を倒さんばかりのふらふらした足取りではありましたが、喜んで私たちの席に移ってきました。
酔っぱらった女の口は壊れた水門みたいでした。つい三日前に出会ったという、おかしげな男について、ぺらぺら喋《しやべ》ってくれました。
その日の夕暮れ時、女が道に立っていると、顔見知りの筏乗《いかだの》りに出会ったというのです。
筏乗りの仕事は父上もご存知でしょう。自分の家の近くの貯木場から次の貯木場のあるところまで筏を流してきて、材木商に給金をもらって自分の村に戻っていきます。そこから先はまた別の筏乗りが材木を引き受けて、順繰りに材木はヴェネツィアやパドヴァといった大きな都まで運ばれていく段取りになっています。
女の知り合いの筏乗りは、ピアーヴェ河上流の村から来る男で、一仕事終えて帰途につく前にいつもフェルトレに寄って、塩や砂糖、香辛料といった山村では手に入れにくいものを買い、ついでに一晩、遊んでいくのを常としているといいます。女に声をかけた夕、その筏乗りは三人の仲間と一緒でした。そして連れの一人、頭巾《ずきん》を鼻の下まで引きおろした男が奢《おご》ってくれるから、居酒屋にいこうと誘ったと申しました。
ただ酒を飲めるのなら、願ったり叶《かな》ったりです。女は筏乗りたちについて居酒屋に行って、さんざっぱら葡萄酒を飲んで騒いだようです。巾着《きんちやく》係の気前のいい男は、店の中でも頭巾つき外套《がいとう》を脱がず、おかしげな訛《なまり》のある言葉で、筏乗りたちに、ヴェネツィア以外の港はどこがあるのか、この山の向こうにはどんな国があるのか、そこは海と繋《つな》がっているのかとか聞いていたということです。田舎者の筏乗りがうまく返答できたかどうかはわかりません。女の話では、翌日には男は筏乗りたちと一緒に旅立つ様子だったそうです。その晩の奢りは、道案内の礼の意味もあったのでしょう。かなりの酒代がかかったらしいのですが、男は平気な顔で払い、居酒屋を出たそうです。
もう真夜中で市門はとうに閉まっていました。その晩、男は筏乗りたちと一緒に材木置き場に泊まったはずだと女は申しました。しかし居酒屋を出てから自分は別れたから、確かなことは知らないといいます。
だが、勘が働いたというのでしょうか。女の後ろめたそうな顔を見据えながら、私は告げました。おまえたちが何をしたかは興味はない、しかし、その男の様子を逐一、教えてくれと。すると女は、あたしはその男とすぐ別れたんだ、何も知らない、と叫びました。
私はいつもの手を使うことにしました。女の前で大銀貨をちらつかせたのです。女は一気に酔いが醒《さ》めたようでした。きゅっと葡萄酒を呷《あお》ると、胸にこぼれた酒を手で拭《ふ》いて、その男がどうかしたのかと聞きました。泥棒をして、人を傷つけて逃げた奴隷なのだと教えてやると、女は太い目を魚のように剥《む》きだしました。「それじゃ、あのお金……」といいかけて口を噤《つぐ》みました。
それから黙って葡萄酒を啜《すす》っているので、私は卓上に大銀貨を置いて指先で動かしながら、何か他にその男が喋ったことはないかと聞きました。女はしばし思案して、やがてかぶりを振りました。
「悪いけど、旦那《だんな》さん。ほんとにそれ以上は知らないんですよ」
たまには大銀貨の威力をもってしても、どうにもならないことはあるようです。私は店の主に勘定を払い、まだ飲んでいるというカルロを置いて出ていったのです。
今朝早く、私とヴィットリオは出発しました。夏桂が、自分の村に帰る筏乗りと行動を共にしているなら、ピアーヴェ河に沿っていったのは間違いありません。道々、彼らのことを尋ねながら行けば、手がかりは見つかるだろうと踏んだのです。
父上はピアーヴェ河に沿って、山岳地帯に溯っていったことはありますか。中州をいくつも抱きこんで悠々と流れるピアーヴェ河。河畔に点在する小さな村や、穫《と》り入れが終わり土だけとなった茶色の畑。時折、川面を滑っていく黒い影は、前後に二本ずつ櫂《かい》をつけた筏です。六、七人の男たちに操られて、ヴェネツィアの浮かぶ海まで下っていきます。正面の空の高みに連なる北方の山々の尖《とが》った尾根。山の頂に積もった雪や、川の水面を包んできらめく太陽の光。冷たく清らかな高地の空気で胸をいっぱいにして、川沿いの街道を馬で進んでいくのは、気持ちのいいものです。
しかし道はいつも明るい川沿いを通っているわけではありません。蛇行する川から逸《そ》れて、森の中へと入っていくと、心地よいなどとはいっていられません。木々が空を覆い、鹿や兎の跳ねでてくる薄暗い道は、山賊や追い剥《は》ぎの格好の仕事場です。森のどこかから人の気配が聞こえてくるたびに、私とヴィットリオは身構えます。やって来たのが、いかにも罪を犯して逃げているような人相の悪い奴《やつ》らだとさっさと通り過ぎますが、手押し車に子供や家財道具を載せて旅している乞食《こじき》の家族や、つばの広い帽子をかぶって杖《つえ》をついた巡礼者の一団、馬に乗った商人だったりすれば、私たちは呼び止めて、筏乗りと曲がった刀を背中に差した男、それに女二人の一行を見なかったかと訊《たず》ねました。中に数組、そんな一行を見たという者たちがいましたから、推量は当たっていたようです。私たちは意気|軒昂《けんこう》に道を進んでいきました。
ヴィットリオから、この調子ならその晩はメルの村の先にあるズラッファルガ修道院に泊まることになるだろうと聞いていましたから、メルの村を過ぎた時には、日暮れ前には宿に辿りつけるだろうと安心していました。ところが気を抜くと、とんでもないことになるもので、ヴェネツィアの話をしながらのんびり進むうちに、道はどんどん細くなり獣道となって消えてしまいました。どこかで迷ったのです。慌てて引き返したのですが、正しい道を見つける前に太陽は落ちてしまい、あたりはすっかり暗くなってしまいました。
日中ですら恐ろしかった森の中です。夜ともなると、ますます物騒です。私たちは星明かりを頼りに修道院への道を探しはじめました。道といっても、草の上に人や馬車の轍《わだち》の跡があるのでやっとそれとわかるものです。そこから修道院の道を探すのは並大抵のことではありません。
闇《やみ》に閉ざされた四方の茂みから、かさこそと物音がしています。土竜《もぐら》や狐ならいいのですが、狼や熊だったりしたらと思うと、腹の底がひやりとします。やがて月が出てくると、森は昼間とはまるっきり違った顔を向けてきます。枝の影を落として枯れ葉の上に広がる青白い月光の斑《まだら》模様。風に揺れる木々のざわめき。近づいては遠ざかっていく川のせせらぎ。遠くで聞こえる梟《ふくろう》の声。私は、東方の森林を進んでいる錯覚を覚えました。闇の中から突如とした現れてくるのは狼や熊ではなく、黄色い縞《しま》に覆われた虎や、吸盤のような鼻を持った象ではないでしょうか。揺れる木々の葉は楡《にれ》や杉ではなくて、竹や椰子《やし》の葉ではないでしょうか。
時々、私の中で東方と西方を隔てる壁が曖昧《あいまい》になります。朝目覚めたばかりやヴェネツィアの海を眺めている時、こんな夜の闇を見つめている時、私はどこにいるのだろうと思います。首を巡らせば、私は東方に戻っているのではないか。あの扁平《へんぺい》な顔に細い目をした民が家の窓や物陰から、怯《おび》えと好奇心の入り交じった目をして、異国から来た私の顔を見つめているのではないか。そんな気がしてならないのです。
フェルトレに下さった手紙の中で、父上はこうお書きになっていましたね。この地にいると、東方は夢のように思えてくると。私は父上とは違います。私の中の東方は今も圧倒的な存在感を持って生きています。考えてもみてください。十六歳で旅だって以来、私は人生の半分以上を彼の地で過ごしてきたのです。むしろ東方こそ現実の地で、ヴェネツィアは私の生まれる前の夢の世界。その夢がほんとうに存在すると確かめるために、こちらに戻ってきたというほうが当たっているかもしれません。
しかし、東方を心に抱き続けているがゆえに、私は大きな代償を支払うことになってしまいました。
ヴェネツィアに戻ってきたばかりの時、私たちは親戚《しんせき》や知人に問われるまま、土産話を披露しましたね。カタイの北には、天と地の果てまでも続く長い城壁があること。龍が天を駆けめぐり、雷を起こし雨を降らせるカタイの中心には、一日歩き続けてやっと周囲を巡ることのできる巨大な都、大都《カンバリク》があること。十二個の門はそれぞれ一千人の兵士によって守られ、四角く区分けされた街路の走る都の南には、この世で最も大きな大《だい》カァンの宮殿が聳《そび》えていること。そこにあるのは、一度に六千人の客が集い、大カァンの誕生日には一万二千人の貴族たちが金糸で綴《つづ》り宝石で飾りたてた晴れ着に身を包み、盛大な宴《うたげ》が催される大広間。一年のはじまりには、大カァンも臣下も幸運の色である白を身にまとい、宮中は全国からの、金、銀、宝石、真珠に織物、十万頭以上の白馬などの貢ぎ物で溢《あふ》れかえること。そして大カァンは臣下の貴族たちに金の帯と銀の靴を贈り、美しい刺繍《ししゆう》を施された鞍《くら》をつけた五千頭の象を行進させて祝うこと。目を丸くして「信じられない」「なんてことだ」と呟《つぶや》いているヴェネツィアの人々の前で、私は有頂天になって話し続けました。しかし、ふと気がつきました。感心して、耳を傾けている彼らが、決してそれを心から信じているわけではないことを。
彼らにとって、東方の話はお伽話《とぎばなし》にすぎないのです。熱心に語れば語るほど、人々は私を半ば気の狂った男を見るような目つきで眺めるようになりました。さらには、話に出てくる途方もなく大きな数字に仰天して、陰で私たちを〈百万殿《イル・ミリオーネ》〉と揶楡《やゆ》していることを知って、私は口に錠を下ろしました。
ニコラ師から話を持ちかけられて、聖杯探求に力を貸す気持ちになったのは、そこに起因しています。東方にいた時は、あの謎《なぞ》に包まれた杯の行方を探していたのは、もっぱら父上や叔父上《おじうえ》でした。私は、今の父上のように話半分に聞いていました。父上のおっしゃる通り、あれは東方への憧憬《どうけい》が生みだした幻想でしょう。
聖杯といわれるものが、ほんとうにクリストの血を受けたのか、世にいわれるように、奇蹟《きせき》を行い、死者を蘇《よみがえ》らせ、それを持つ者に永遠の栄光を与える力があるかどうか、私には興味はありません。ただ、本物であれ偽物であれ、聖杯と呼ばれるものが存在するのならば、それでいいのです。父上を刺した夏桂が持って逃げたものを教会が聖杯と認めるならば、なんとしてでも手に入れてみせましょう。聖マルコの遺体と呼ばれるものをアレッサンドリアから持ち帰った三人の商人たちのように、ヴェネツィアに聖杯と呼ばれるものをもたらせば、私たちの名は永遠に人々の記憶に刻みこまれることでしょう。そうして私は、私たちを半ば気のふれた老いぼれとして遇するヴェネツィアの人々を見返してやりたいのです。
子供じみた願いだとお思いですか。でも私は、父上やマフィオ叔父のように、自分の陥った状況を甘んじて受けいれる寛容さは持ちあわせてないのです。元《げん》の宮廷に仕えている間に、あの傲慢《ごうまん》な大カァンや、彼を取り巻く猛々《たけだけ》しい蒙古《タルタル》人たちの気質に染まったのかもしれません。
森の中で道に迷った話をしていたら、私のペンまで迷ってしまいました。話を本筋に戻しましょう。
私とヴィットリオは長い間、森の中をさまよいました。私は毛皮の外套《がいとう》を着ていたとはいえ、大気は肌を刺すほど冷たくなり、空腹で疲れ果て、もう野宿でもするしかないと思いはじめた時でした。馬が両耳を立てて足踏みをはじめました。首筋を叩《たた》いても、腹を蹴《け》っても、前に進もうとしません。私の馬だけでなく、ヴィットリオの乗った馬も同様です。後ずさりしたがる馬をなだめていると、斜面になっている暗い道の上のほうから犬の吠《ほ》える声が聞こえてきました。ただの鳴き声ではなく、狂ったようにきゃんきゃんと吠えたてています。馬でなくても、心の壁を爪《つめ》で引っかかれるみたいな癇《かん》に障る声です。声が近づくにつれ、馬たちはますます苛立《いらだ》ち、後ろ足で立ちあがりそうになりました。私とヴィットリオが必死で押さえつけていると、木立の間に黒い人影が現れました。足許《あしもと》には、小さな黒犬がまとわりつき、あの耳障りな声で吠えています。
木の枝の間をかいくぐって射《さ》してくる月明かりが、その人物の黒い外套や背中まで垂らした長い髪を浮きあがらせていました。その格好は女のようでしたが、いったい、こんな時間に一人で森の中を歩くとはどういうことでしょうか。女は私たちが目に入っているはずなのに、まるで気がつかないふりをしてこちらの道に降りてくると、私たちとすれ違おうとしました。
「すみません」
たまりかねて、ヴィットリオが声をかけました。女はこちらにゆっくりと顔を向けました。白髪混じりの髪の間に、老婆の顔がありました。目の下も口のまわりも、深い皺《しわ》が刻まれて、どこか蝦蔓蛙《がまがえる》に似た顔でした。
「ズラツファルガ修道院はどこですか」
ヴィットリオが、犬の吠え声に負けないように大声で尋ねました。
老婆は、破けた外套の間から枯れ木のような手を出しました。そして人差し指を立てて、自分の今出てきた木立の間を示しました。すべて無言のまま、手を外套の中にしまうと、再び歩きだしました。口から涎《よだれ》を垂らした黒い犬が、相変わらず吠えながら後に続きました。
私たちはしばらく老婆と仔犬を見送っていました。道の先の暗闇《くらやみ》にその姿が溶けるや、犬の狂ったような吠え声はぷつんと途切れてしまいました。まるで山道の途中に別の部屋でもあって、老婆と仔犬はそこに入って扉を閉ざしたみたいでした。
あたりはまた静かになりました。馬はおとなしくなり、蒼《あお》い月明かりが満ちた森の中で聞こえるのは、木々の揺れる音だけです。
「修道院で、施しでも受けてきた乞食女でしょう」
ヴィットリオが自分に言い聞かせるように呟《つぶや》きました。いくら乞食女でも、こんな夜中に山中を一人でさまよいはすまいとは思いましたが、私は「そうですね」と応じました。
老婆の出てきた木立の間に近づいていくと、微《かす》かに小径《こみち》の形跡がありました。私たちの通っていた道から外れて、山の斜面を登っていっています。老婆の示した方向が正しいかどうかわかりませんでしたが、疲れ果てていた私たちは最後の希望に縋《すが》る想《おも》いで、その小径に入っていきました。
急な斜面を登ると、道はやがて平坦《へいたん》になりました。山の端を馬に乗って進んでいくと、夜空に聳《そび》える四角い鐘楼の影が見えました。聖堂の屋根の十字架も木々の間に見え隠れしています。修道院です。老婆の示してくれた方向は正しかったのです。
私たちは安堵《あんど》して、馬を近づけていきました。やがて木立は切れて畑に出ました。耕された畝《うね》が筋となっています。作男の住まいらしい小屋の向こうには、墓地らしい墓標がぼんやりと見えました。どうやら正面入口ではなく、裏手に出てしまったようでした。
私たちは馬から降りると、手綱を曳《ひ》いて修道院に近づいていきました。聖堂もそれを囲む建物もすべて真っ暗です。すべての戸を閉めきっているので、誰かが明かりをつけていてもわかりはしません。
正面入口に回りこもうかと思った時、修道院を囲む畑の中の小屋のひとつから光が洩《も》れてきているのに気がつきました。私とヴィットリオは、馬を近くの杭《くい》に繋《つな》いで、そちらに向かいました。
家畜小屋に隣接した小屋でした。入口の木の扉が開きっぱなしになっていて、中の光が地面に落ちています。それは焚《た》き火の明かりのようで、炎の動きに合わせて地面の影が踊っていました。近づいていくにつれて、奇妙な臭いが漂ってきました。微かに甘く、癖のある臭いです。
「なんでしょうか、これは」
ヴィットリオが眉間《みけん》に小さな皺を寄せて聞きました。「さあね」といいはしましたが、私には覚えのある臭いでした。
かつて上都に滞在していた時、大カァンの夏の宮殿の上に雲がかかったり、嵐《あらし》が通ったりしないように、南から来た呪《まじな》い師が始終、妖《あや》しげな魔法を施していましたね。その魔法はよく効いたものですが、彼らの全身から悪魔の力を借りている者特有の禍々《まがまが》しい空気が発散されていたものです。派手な色の布をまとい、人の骨や石の首飾りや腕輪で全身を飾りたて、顔も洗わず、礼儀も知らない輩《やから》でした。最もおぞましかったのは、魔力を体内に蓄えるためだといって、死刑になった者の死骸《しがい》を引き取って食べていた点です。彼らの住んでいた家の近くを通ると、死骸を煮炊きしている臭いが流れてきました。修道院の小屋から漂ってくる臭いは、それを思い出させたのでした。
だが、まさか修道士たちが死体を喰《く》うはずはないだろうと思いながら、私とヴィットリオは小屋の戸口に立ちました。
そこは家畜を殺して皮を剥《は》いだり、血を取ったり下茹《したゆ》でしたりする小屋でした。天井からは死骸をぶら下げる鉤《かぎ》が下がり、壁には大きな鉈《なた》や斧《おの》、大小の樽《たる》が置かれ、家畜を繋ぐ杭が設けられています。真ん中には炉があって火が燃えていました。炉にかかっているのは、天井から吊《つ》り下げられた大鍋《おおなべ》です。ぐつぐつと何か煮える音がしていました。大鍋の周囲にいるのは、薄茶色の修道服を着た男たちと、普通の格好をした下男たちです。全部で六、七人いて、鍋を棒で掻《か》きまぜたり、炉に薪《まき》を投げこんだりしていました。
小屋の中は大鍋から立ち昇る湯気と異様な臭いで、胸が悪くなりそうでした。私もヴィットリオもその奇妙な光景に戸惑い、声をかけるのも忘れて戸口に立っていました。
「そろそろ肉が剥《は》がれてきたぞ」
大鍋を掻きまぜていた修道士がいいました。別の一人が「どれどれ」と、先が三つに分かれた能手で、大鍋の中のものを持ちあげました。湯気の中から現れたのは、肉の半ば落ちた人の脚の骨でした。能手から脚が落ちた拍子に、髪の毛の絡みついた頭蓋骨《ずがいこつ》がぷかりと浮かんでまた湯の中に沈んだのが見えました。
私は驚きでその場に釘《くぎ》づけになり、ヴィットリオは喉《のど》から角笛のような音を洩《も》らしました。人の気配に、大鍋のまわりにいた男たちが一斉にこちらを振り向きました。
その時の恐ろしさをどう説明すればいいでしょう。盛りあがった頬《ほお》の肉、鎌の形に細められた目、汗でぎとぎと光る額。燃える炎に照らされ、死体を茹《ゆ》でている男たちの顔は悪魔のように見えました。私とヴィットリオは我先に逃げだしました。
「待ちなさい、兄弟」
ヴィットリオの修道服に気がついてのことでしょう、小屋の中から声があがりました。兄弟と呼ばれたことが、ヴィットリオの臆病心《おくびようしん》を抑えたようでした。彼は畑の真ん中で立ち止まって叫びました。
「黙れ、悪魔、人肉|喰《ぐら》いめっ。おまえらに兄弟呼ばわりされることはない」
小屋の中からざわめきが起こりました。私とヴィットリオは小屋から逃げたはいいけれど、山中で唯一の宿所である修道院から離れることもできずにいると、小屋の戸口に一人の修道士が現れて両手を広げていいました。
「なにか誤解されたのでしょう。わたしたちは、あなたと同じ神の僕《しもべ》です」
「だったら、そこでしていることは何だ」
ヴィットリオが腰の十字架を握りしめて反論しました。修道士は少しためらってから、昨日、この修道院で死んだ高名な僧侶《そうりよ》の遺体の骨を取っていたところなのだと告げました。
それでようやく事の次第を悟りました。
聖人の遺骨は、宝物と同じです。それが安置された教会に巡礼は来るし、お布施は集まります。しかし修道士が皆、聖人になれるわけではありません。死後、遺骸《いがい》が腐らないということが聖人である証拠になるのですが、それを待っているのも時間がかかるし、もし腐ったら一巻の終わりです。それで聖人に値しそうな僧侶が死ぬや、さっさと骨だけ取りだして聖遺物|函《ばこ》に納めて飾り、その人物の成した奇蹟《きせき》談を触れまわるのです。
もちろん修道士はそんなふうには説明しませんでしたが、真夜中にこっそり遺体を茹でていた真相はこんなところでしょう。
私たちは事の次第を納得すると、旅の途中で、一晩泊めてもらいたい旨を申し出ました。ヴィットリオは、ヴェネツィアのドメニコ派修道院の院長の紹介状を携えていたので、私たちは快く迎え入れられました。寝る前に簡単な夕食を出してくれるというので、台所に行きました。
そこは中庭に面して作られた修道士用の台所ではなく、巡礼者や作男たちに出すものを作る台所小屋でした。炉端に寝ていた料理番が、修道士に命じられて渋々起きだして、鍋に残っていた肉汁を温めて出してくれました。先ほど大鍋に浮かんでいた遺体を見ていたので、肉汁を飲みこむには少し勇気が要りましたが。
「旦那《だんな》さま方、どちらから来られたのですか」
手持ち無沙汰《ぶさた》に私たちが食べるのを眺めていた料理番が尋ねました。ヴェネツィアから来たのだと答えると、まばらになった髪の毛のあちこちに寝床の藁屑《わらくず》をくっつけた男は、口を半ば開けて微笑《ほほえ》みました。
「ヴェネツィアか。海の上に浮かんでいる都なんですとな。一度、行ってみたいもんです」
憧憬《どうけい》というものは、人を美しくさせるものです。料理番の愚鈍な表情の中に、少年のような清らかさが覗《のぞ》きました。しかし、ヴィットリオが、それは外見だけで、実際住んでみると、悪臭はするわ、湿気は多いは、さほどいいところではないと答えたので、料理番の顔に浮かんでいた清らかな輝きは消えてしまいました。炉端の石に座っていた彼は、黒ずんだ外衣の上から膝《ひざ》を撫《な》でまわして、「そりゃあそうでしょうな」と相槌《あいづち》を打ちました。
「どんな土地でも、善いところと悪いところがあるもんです。ここだって、静かで空気もいいが、人里離れているから、不便なのが困りもんです」
まったくだ、事実、今夜道に迷って危うく野宿となるところだったとヴィットリオが応じると、料理番は驚いたようにかぶりを振りました。
「野宿なんてとんでもない。ベアトリスクにでも会ったらどうするんですか」
ベアトリスクとは誰だと私が尋ねると、料理番はいいました。
「夜になると森の中を徘徊《はいかい》する黒い服の女のことですよ。狂ったみたいに吠《ほ》える仔犬を連れて、歩いているということです。悪魔の化身のその女は禍《わざわい》を運ぶといわれ、そいつの仔犬の吠える声が聞こえるや、皆、戸を閉めて朝まで家に引きこもるほど、ここらあたりの者は怖がってますよ」
私とヴィットリオはお互いの頭の中を探るように、目と目を見合わせました。
おもしろいと思いませんか。悪魔の化身といわれる女が私たちを助け、神の僕といわれる人々が大鍋で死体を茹でる。
後で考えてみると、昨日は聖ルチーアの日。一年で最も夜の長い日でした。
ヴィットリオが、そろそろ出発だと告げにきました。ベルーノでまた便りを出します。手紙を下さるなら、ベルーノの聖ピエトロ修道院のヴィットリオ修道士気付にしてください。私の宿はまだ決めてませんし、夏桂を探して、どのくらいあちらに滞在するのかわかりませんので。
悪霊とも善霊ともつかぬものたちの跋扈《ばつこ》するこの世です。私の旅の無事を祈っていてください。
[#地付き]あなたの息子マルコ。ズラッファルガ修道院にて
マルコ・ポーロ殿
ベルーノ、聖ピエトロ修道院気付
†神の御名において、アーメン
善き兄弟マルコ・ポーロ殿。
貴殿の探索の模様は、ヴィットリオ修道士の便りから伺っております。慣れぬ土地で流言飛語に惑わされたり、手がかりを見失ったり、ご苦労なされているよし、ヴェネツィアにいて何のお力添えもできないことに我ながら苛立《いらだ》つばかりです。本来ならヴィットリオ修道士ではなく、私、ニコラ自らご同行すべきだったのですが、冬場の騎乗の旅に出るには、あまりにも老いてしまいました。遠い水の都より幸運をお祈りすることしかできぬこの身をお赦《ゆる》しください。
ヴェネツィアを発《た》つ時、貴殿は聖杯とカタリ派の関連について訝《いぶか》っておられましたね。あの祈は探索を急《せ》いておりましたので、充分なご説明もできませんでした。そこで遅ればせながら、この手紙を出す次第です。これは私の信頼する教会の人物に預けますので、あの時、おおっぴらに話せなかったこともお教えできるでしょう。
とはいえ、さて、どこから話しはじめたらいいか困ってしまいます。聖杯に関する伝説はさまざまな形で流布していて、どれが真実なのかよくわかっていないありさまです。だからこそ二十六年前、今は亡きグレゴリウス十世は聖杯は東方にあると信じて、私たちを元帝国に派遣しようとしたのです。しかし、私とグリエルモ師はライアスまで行って、突然、引き返してしまった。それを貴殿は我々の臆病心から出た行動ではなかったかと疑われておられる。いいえ、違うのです。
あの時、ちょうど聖堂騎士団の船団が、聖地《ジエルザレンメ》に向かうためにライアスに停泊中でしたね。今だから申し上げますが、実は、その船の乗組員に、私たちドメニコ派の密偵がもぐりこんでいたのです。そして、その者が私たちに聖杯とカタリ派に関する奇妙な話を伝えたのでした。
貴殿はカタリ派について、いかほどご存知でしょうか。
彼らの異端思想の源は、クリスト生誕後三百年頃、ペルシアに生まれたマニなる者に溯《さかのぼ》ります。このマニなる者、「神が存在するのならば、この世の悪はどこから来たのか、神がいないとすれば、善はどこから来たのか」と疑問を抱き、世界には全き善である神と、全き悪である神、二柱《ふたはしら》の神があると主張したのです。唯一無比たる神の存在に疑いを差し挟んだこの異端者は、当然のことながら生きながらにして皮を剥《は》がれ、死に至らしめられました。しかしマニの残した禍々《まがまが》しい思想は、悪魔の翼を借りてペルシアから世界に飛び立ち、バルカーニ半島一帯に広がり、コスタンティノポリにも波及したのです。
コスタンティノポリは異国の者たちの集まる都です。二百年ほど前、聖地を異教徒の手から奪回するためにこの地を訪れた第一回十字軍に加わっていたフランチア人の中から、異端に帰依《きえ》する者が出てきました。その者どもが故国に帰り、北フランチアで大いに増え、さらには南のプロヴェンツァから、その東のロンバルディア、つまりミラノ伯領であるコンコレッツォまで、流行病《はやりやまい》の如く広がることとなったのです。今では、トレヴィーゾ地方、トスカナ地方までも密《ひそ》かに異端の布教が行われている模様です。
ペルシアから世界に伝播《でんぱ》していくにつれて、マニの腐った麺麭種《パンだね》は、異端に心|惹《ひ》かれた者たちの頭の中でさらに膨れあがり、途方もない形を取るようになりました。
つまり、善神とは、福音書に出てくる神であり、悪神とは、ジェルザレンメの民が伝えてきた古《いにしえ》の聖書に出てくる神である。その悪神が造った汚れたこの世に、神の子が現身《うつしみ》のまま降誕したはずはない。あれは天使が幻の肉体をまとっていただけだったから、通常の人間が為《な》したようなことは現実には起こらなかった。ただ、そう見えたにすぎないのだ。クリストはこの世において、ものを食べたこともなく、飲んだこともなく、十字架の上で苦しむことも死んだことも、肉体の復活もなかった、というものです。さらには、悪神の造ったものであるがゆえに、この世に存在する物質はすべて悪であり、婚姻《マトリモニウム》は売淫《メレトリキウム》、婚姻の結果である出産も悪、死は救いであり、死んだ魂は汚れてなければ善神のいる天の国に入れるし、汚れていれば、またこの世に舞い戻って別の肉体に入る。死後、地獄もなければ煉獄《れんごく》もなく、〈淫乱《いんらん》と荒廃の母バビロン〉であるローマ教会は悪神を崇拝しているがゆえに、その行うところの七つの秘蹟《ひせき》も認めない……等々、彼らの説いていることを書きつらねているだけで、ペン先が呪《のろ》いと苦味で満ちていく戦《おのの》きを覚えます。
しかし、何にもまして罪深いのは、厳しい戒律を守って暮らしていると称する〈善き人〉から、救慰礼《コンソラメンタム》という典礼を授けられると、その者の霊魂はあらゆる汚れから清められ、苦しみから逃れて、無事に天の国に入れるという主張です。
そして、ここが彼らの悪賢いところなのですが、普通、救慰礼を受ければ、その後、二度と罪を犯さないように、厳しい戒律を守って生活をしないといけないのですが、それができそうもないなら、さらなる罪を犯す危険性の少ない臨終の席で受けてもいいということにしたのです。誘惑に弱い俗人にとって、これほど都合のいい教えはありません。この世でいかなる悪行を重ねようと、死ぬ間際に救慰礼を受ければ、すべての罪は赦されるというのですから。まさに彼らの喉《のど》は開いた墓。彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮《まむし》の毒があるのです。奴《やつ》らが、悪魔の遣いである猫、ラテン語のカトゥスからカタリと呼ばれるようになったという説も頷《うなず》ける話です。
こうしてカタリ派は、約百年前にフランチアの南部で急速に勢力を強めました。十分の一税を教会に納めることを厭《いや》がっていた貴族や騎士たちは、カタリ派に肩入れすれば教会の力が弱くなると考えて次々に帰依していき、中には救慰礼を受けて〈善き人〉、つまり完徳者になる者も出てきました。そして、特にリングワドッカ地方は、カタリ派の領土ともいう様相を帯びてきたのです。
神への畏《おそ》れを失った者たちを正しい信仰の道に導くことこそ自分に与えられた使命だと悟り、リングワドッカの地に赴き、カタリ派に戦いを挑んだのが、我がドメニコ修道会創立者ドメニコ師でした。師は、他の三人の説教師と共に、カタリ派の完徳者と同様に財を棄て、潔斎で身を清める生活を続けながら、リングワドッカの人々に誤った考えを改めるように説いてまわったのです。師は、カタリ派の説教師たちと公開討論会を行い、次々に論駁《ろんばく》していきました。一二〇七年、モンレアーレで行われた会合では討論は二週間に及び、最後には聴衆の中で百五十人のカタリ派帰依者が、教会の信仰を取り戻したといいます。
しかし、その翌年、カタリ派に肩入れするリングワドッカ最大の領主ライモンド六世の部下が、教皇特使を暗殺するという事件が起きました。これ以上、異端に温情をかけてはおられず、教皇イノケンティウス三世は十字軍を召集したのです。
この十字軍は、それまでのように聖地ジェルザレンメに赴くのではなかったので応じやすかったのか、フランチア各地から三十万もの軍隊が集まりました。十字軍は、異端に染まった南フランチアの各地で雄々しく戦いましたが、カタリ派の連中も傭兵《ようへい》を雇い、女子供まで駆りだして激しく抵抗しました。それでも神のお力添えにより、十字軍は着実にカタリ派の完徳者どもを火刑台に送り続け、二十年かけて〈カタリ派のローマ〉トローザを攻略したのでした。これでリングワドツカ地方は、再び教会の手に戻ったかのように見えたのですが、異端というものは悪魔の手先だけあって、尻尾《しつぽ》を切られても、蜥蜴《とかげ》のようにまた生えてきます。逃げのびたカタリ派は、密かに布教を続けていたのです。その中心となったのが、モンセギュールという絶壁に囲まれた山城でした。トローザを手放したカタリ派の輩《やから》が、次なるローマと定めたのが、この山間の要塞《ようさい》だったのです。
カタリ派残党の間でモンセギュールが聖地の如く崇《あが》められるようになると、教会は二度目の十字軍を送ることを決めました。一回目ほどではないにしろ、小さな山城ひとつ攻落させるには充分な数の軍隊が集まりました。モンセギュールに立てこもったカタリ派の残党は一年近く保《も》ちこたえましたが、ついに、一二四四年三月、城を明け渡しました。そして二百名以上の完徳者たちが火炙《ひあぶ》りになり、異端の嵐《あらし》は一応の終着を迎えたのでした。
長い前置きになりましたが、実は話はここから始まります。
モンセギュールの城を明け渡した後、カタリ派に雇われて戦っていた傭兵の生き残りや、棄教《ききよう》を条件に命を助けられた元帰依者たちの供述が取られました。その中に聞き棄てならない話が混ざっていました。開城前、何人かの完徳者たちがこっそり城を抜けだして、重要な宝を運びだしたというのです。
その宝とは何だったのか、知っている供述者はいませんでした。カタリ派の貯《たくわ》えていた財貨だったとも、彼らが心の拠《よ》り所にしていた『ヨハンネスによる福音書』だったとも、始祖マニの著作だったともいわれています。
しかし、その宝こそ聖杯だったというのが、二十六年前、ライアスで落ちあった密偵の洩《も》らしたことだったのです。聖堂騎士団に潜りこんでいた密偵の言葉は、満更|嘘《うそ》とも思えませんでした。そもそも我々ドメニコ派がなぜ密偵に聖堂騎士団を探らせていたかというと、以前より彼らが面妖《めんよう》なる両性具有の神を崇拝しているという噂《うわさ》が流れていたせいです。そして、その者が探りだしたことは、我々の懸念を裏打ちしてあまりあるものでした。聖堂騎士団はバフォメットという名の悪魔を崇拝していて、その悪魔に捧《ささ》げるために聖杯を追っているというのです。詳しいことはわかっていませんが、悪魔を信じる者同士、もともと聖堂騎士団とカタリ派の間には、何らかの親近感が流れていたようです。カタリ派の騎士が聖堂騎士団に入団したり、カタリ派が十字軍に攻められた時、聖堂騎士団は表向きは中立の立場に立っていたが陰で異端者たちに隠れ場所を提供していたのは事実です。そうするうちに、カタリ派の連中が聖杯を自分たちの宝としているという噂を耳にしたのでしょう。聖堂騎士団はカタリ派から聖杯を手に入れようとしましたが、モンセギュール落城以来、追求は後手に回ってばかりだということでした。
途方もない話と思われるかもしれませんが、ありえないことではないのです。
ご承知の通り、聖杯とは、アリマタヤのヨセフが十字架に磔《はりつけ》になったクリストから滴る血を受けたといわれるものです。この男がインギルテツラに渡り、聖杯を守る城を建てたという話があります。しかし、スパーニヤの回教徒の伝説では、その城はピレネイ山中にあったともいわれているのです。モンセギュールは、ピレネイ山脈のフランチア側にあります。ですから聖杯が、リングワドッカ地方で発見される可能性はあるのです。
聖堂騎士団に潜りこんだ密偵は、モンセギュールから持ちだされた聖杯の行方も探っていました。それは完徳者の手によって、船でシチリアヘ、さらにコスタンティノポリに渡ったということでした。どれもカタリ派の完徳者たちが布教を続け、帰依者も大勢いる土地です。そして密偵は、アクレ奥地のとある静かな修道院に運ばれたという噂を耳にしたばかりだということでした。
私とグリエルモ師は、あなた方と一緒にカタイに行くか、聖杯を追うかの決断を迫られました。そして後者を取ることにしたのです。私たちは司教の立場を利用して、聖地に向かう聖堂騎士団の船に同乗させてもらい、アクレに引き返しました。そして聖杯を追ったのですが、徒労に終わりました。
やがてグリエルモ師は『サラセン国家論』を著したりして聖杯探求から退き、私はボローニャの修道院にまいりました。しかし聖杯のことをあきらめたわけではありません。静けさに包まれた修道院の僧房から、彼らの動向を密かに探り続けてきました。そして、異端審問官からカタリ派についての話を聞いたり、かつて彼らの一味だった者の書いた本を読んだりしているうちに、ある興味深い事実に気がつきました。
そのことを説明するには、まずカタリ派の教会について知っておいていただくほうがいいでしょう。カタリの者たちの教会とは、何らかの建物のことではありません。完徳者が説教する場所が教会であり、その意味では教会は完徳者と共に常に移動しているのです。完徳者はだいたい自分の顔見知りの間を巡って説教しているので、彼らのいう教会とは、その完徳者の説教してまわる土地に存在する教団の如きものと考えることができます。こうして完徳者の多い地方ごとに、ロンバルディア教団、トスカナ教団、ヴィチェンツァ教団などが形成され、それぞれの教団は、カタリ派司教によって率いられています。司教の下にいるのが、|大  子《フイリオ・マツジヨーレ》と|小  子《フイリオ・ミノーレ》です。大子は司教の第一後継者、小子が第二後継者です。これらの教団はそれぞれ独立していて、お互い、緩やかに横の繋《つな》がりを保っているだけだと思われていたのですが、実は、おのおのの教団を統《す》べるさらに上の司教座があるらしいのです。そこは〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉と呼ばれ、ずいぶん前からロンバルディアやトスカナ、ヴィチェンツァやトレヴィーゾ付近のカタリ派は、教理上での問題や分裂|沙汰《ざた》が起きると、〈山の彼方〉にいる司教に指示を仰いでいることがわかってきました。
ここ数年間、私は〈山の彼方〉がどこにあるのか探してきました。それはカタリ派の教会のように司教と共に移動するものなのか、特定の場所があるのか定かではありません。ただ二百年前、コスタンティノポリから北フランチアにカタリの教えをもたらした者たちに由来するらしいこと、また、それは、ロンバルディアやトレヴィーゾの北に聳《そび》える険しい山地のどこかに位置するらしいことは確かなようです。
一二九一年、アクレが異教徒の手に落ちました。こうなると、カタリ派の者どもは必ずや聖杯を安全な場所に移し替えるだろうと、私はあちこちに密偵を放っておりました。すると、この春、アクレに隠されていた聖杯が秘密の場所から取りだされ、ヴェネツィアに向かったという知らせがもたらされたのです。
私にはぴんときました。〈山の彼方〉の司教は、自分の手許《てもと》に聖杯を運んでおこうと考えたのです。最近、聖堂騎士団はあまりに権勢を揮《ふる》いすぎたために、諸国の王たちに疎まれているという噂です。カタリ派が、聖堂騎士団の目論見《もくろみ》に勘づいているならば尚更《なおさら》、聖杯を移す絶好の機会でしょう。
私はボローニャからヴェネツィアの修道院に移り、アクレからの聖杯の到着を待っていました。しかし、貴殿のタルタル人奴隷のために思い通りには事は進みませんでした。聖杯は、今、〈山の彼方〉へと向かっています。しかし〈山の彼方〉こそ、悪霊どもの棲家《すみか》、あらゆる汚れた霊の巣窟《そうくつ》、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟。そこに聖杯をもたらせば、悪魔に力を貸し与えることになりましょう。
これで貴殿とヴィットリオ修道士の探索がいかに大事な任務であるか、おわかりになったと思います。聖杯をカタリ派の手に委ねたままにしておいてはいけません。あれは本来、教会の財宝であるべきもの。正統なる持ち主の手に返すべきなのです。
貴殿が、我らドメニコ派の教会に聖杯をもたらしてくださるならば、天の国の扉は、必ずや御身の前に大きく開かれることでしょう。それこそ人に与えられる、神からの最大の恩寵《おんちよう》でありますまいか。
主の恵みがあなたと共にありますように。
[#地付き]ニコラ・ダ・ヴィチェンツァ。ヴェネツィアにて
[#地付き]神の生誕より数えて第一二九七年十二月十四日
親愛なる父、ニッコロ・ポーロヘ
ヴェネツィア、聖ジョバンニ・クリソストモ区、ポーロ家宛
†一二九七年十二月十八日
敬愛する父上に心からの挨拶《あいさつ》を送ります。
ズラッファルガ修道院から出した先便は無事、お手許に着いたでしょうか。教会間の連絡書簡と一緒に届けてくださるという話でしたが、ヴェネツィアから離れるにつれて手紙も日数がかかるようになり、父上のご回復の具合が気がかりな私は、歯がゆい思いをしています。
夏桂と聖杯の探索については、まだ朗報はありません。前回の手紙を書いて修道院を出立した後、目と鼻の先のところまで彼らに追いついたのに、幸運は私たちの側にはなく、取り逃がしてしまいました。
思い出すだに悔しいのですが、まずはその一件からお伝えしましょう。私とヴィットリオがベルーノに続く山道に入った時のことです。すでに昼近くとなり、頭上の太陽の日射《ひざ》しは木々の間を縫って、じめじめした冬の道にまっすぐ落ちていました。坂道のために足の鈍りがちな馬の腹を蹴《け》って進んでいると、前方の木立から、がさがさがさと葉の揺れる音が聞こえたのです。山賊か追い剥《は》ぎかもしれないと、私は毛皮の外套《がいとう》の下で短刀を握りしめ、馬を止めました。隣のヴィットリオも緊張した表情で私を振り向きました。茂みの葉は、がさがさと揺れ続けています。山賊や追い剥ぎなら、獲物を前にしたなら静かに潜んでいるだろうと思い直し、私はゆっくりと馬を進めました。
かっかっ、と蹄《ひづめ》の音が鳴ったとたん、茂みの中から黒い光のようなものが四方に飛び散りました。烏たちでした。馬の足音に驚いたのでしょうが、逃げていったわけでもなく、近くの木の枝に止まり、私たちに早く行けといわんばかりに姦《かしま》しく鳴きたてています。不審に思って、烏の集まっていた茂みに馬を近づけたところ、灰色の外套を着た者が仰向けになって倒れているではありませんか。私たちは馬から降りて、その者にかがみこみました。
それは背の高い、茶色の髪をした若い女の死体でした。死んだばかりらしく、皮膚には張りがあり、腐臭も漂ってはいません。ただ、烏に突っつかれたために腕や頬《ほお》の皮膚は破れ、目玉は刳《く》り抜かれています。二つの黒い穴となった眼窩《がんか》と、口許に浮かんだ微笑《ほほえ》みが、とてもちぐはぐな印象を与えていました。
「カタリ派の完徳者の女も、灰色の外套を着ていたという話でしたね」
ヴィットリオが考えるようにいうと、いきなり女の外套の前をはだけ、胴体に巻いていた帯を解き、褐色の上衣も肌着もめくり上げました。女の青白い肌や乳房が剥《む》きだしになり、私は目の遣り場に困りましたが、ヴィットリオは満足げに頷《うなず》きました。
「やはり、カタリ派です」
女の乳房の下あたりに一本の紐《ひも》が結ばれていました。ヴィットリオは、それはカタリ派の者が救慰礼《コンソラメンタム》を受けた時に渡されるもので、以来、完徳者は肌身に結びつけておくことを常としているのだと説明しました。
「この女は、聖杯を持って逃げている完徳者の一人だと思います。トレヴィーゾの若い職人も、フェルトレの手前で出会った農夫も、女二人のうち一人は具合が悪そうにしていたといっていましたから、もともとなにかの病気を患っていたのでしょう」
そして医者のような仕草で女の爪《つめ》を調べたり、腹を押したりしてから、「内臓が弱っていたようです。悪い血が体の中を巡って、だんだんと弱らせていたのですね」と結論づけました。体のことに詳しいのですねと褒《ほ》めると、修道院では薬草係をしているのだということでした。ヴィットリオは、汚物に蓋《ふた》をするように、死んだ女の裸体を外套で包むと立ちあがりました。
「それにしても、もう一人のカタリ派の女は、仲間の遺体をこうして路傍に置き去りにするのにためらいはなかったのでしょうか」
胸に浮かんだ疑問を口にしますと、ヴィットリオは苦笑しました。
「そこが異端の異端たるところなのです。彼らにとって肉体は、霊魂の閉じこめられた忌まわしい牢獄《ろうごく》に過ぎません。死して霊魂が飛び去った肉体は、単なる抜け殼。古くなった衣類と同じものなのです」
肉体も物質と見なすことにおいて、カタリ派とは商人に似た考え方をする連中のようです。ただし、彼らはそれに価値を置かないのに、私たち商人はそれを金銭で取引するところが違います。
私たちはあたりを調べましたが、他に夏桂たちの残した印は見あたりませんでした。それでも、彼らはこの街道沿いをベルーノに向かっているのは確かなようです。早速、私たちは馬に乗って後を追いました。相手が徒歩だとしたら、追いつけるはずでした。しかし途中で街道筋から逸《そ》れてしまったのか、ベルーノに着くまでそれらしい一行に出会うことはできませんでした。
ベルーノは、ピアーヴェ河とアルド川の合流地点に突堤のように突きだした丘陵の上にあります。背後には垂直に切りたった山塊が迫り、朝晩、凍《い》てつくほどの寒さに包まれる都市です。大聖堂を中心にして、市の塔や教会の鐘楼が釘《くぎ》のように頭を覗《のぞ》かせていますが、建物には洗練された美しさはなく、どれも山小屋に毛の生えたような代物です。市をまっすぐに貫く中央《メツザテツラ》通りには、市場の立つ広場があります。近隣の山奥の村から出てきた者たちが毛皮や桶《おけ》、雉《きじ》や兎といった猟の獲物を売り、塩や小麦、木綿などを買いこんでいます。昨日、あまりに寒いので、襟巻きにする安い兎の毛皮でも買おうとして、往生しました。ベルーノ人はまだいいのですが、山奥の者の訛《なまり》は強くて、ゆっくりと二、三度、同じことを繰り返してやっと話が通じたほどです。このベルーノから先は未開の地。東方の奥地と大差はありません。
私とヴィットリオは、この田舎の都市で夏桂とカタリ派の女を探して歩きました。手がかりは、フェルトレから二人の案内に立った筏乗《いかだの》りたちです。そこまでつかんでいるのだから、たいした苦労もなく足取りを辿《たど》れるのではないかと思っていたのですが、そう簡単ではありませんでした。
この都市は、北方に広がる険しい山岳地帯の各地から川を伝って送られてきた材木の集木場で、筏乗りは河原の砂利ほども大勢いたのです。しかも彼らは、タルタル人兵士顔負けの荒くれ者で、難行苦行の生活を送る道教の僧侶《そうりよ》の如く、よそ者と口を利きたがりません。なにしろ筏乗りというのは、危険な生業です。急流で難破して死ぬことが多く、船乗りのように、一仕事のたびに命を懸けることとなります。危険を分かちあうせいか仲間意識が強く、私たちのような外の者が最近フェルトレまで行った筏乗りのことを知りたいといったとたん、警戒の表情を見せます。大銀貨をちらつかせても、手は伸ばそうとするのですが、舌を動かそうとはしないのです。そんな相手から何らかの話を引きだそうというのは、牡蠣《かき》の口を開かせるより難しいことです。
それでも私とヴィットリオは、毎日、筏乗りたちの溜《た》まり場に顔を出して、夏桂たちのことを聞きまわりました。
ベルーノの丘の下のピアーヴェ河とアルド川の合流点には広い砂州があり、筏の発着場所となっています。木炭や石材、鉄などを積んだ筏が下流に向けて出発する朝と、上流から到着する夕刻、河原では筏乗りたちが焚《た》き火のまわりで休んだり、お喋《しやべ》りしてます。朝ごとに私たちはベルーノの城壁を出て、砂州に降りて筏乗りの話を探り、彼らが下流に出発し終った昼頃には、河原の北に回りこんでアルド川の河口に向かいます。流れが穏やかなその岸辺に並ぶ貯木場や製材所に顔を出して、材木商やそこの職人たちに怪しいタルタル人と旅の女を見なかったかと尋ねるのです。夕方は再び砂州に戻って、上流から着いた筏乗りを捕まえて話を聞くということの繰り返しでした。
今日も冷たい風の吹きすさぶ砂州をうろついてますと、筏が一台、するすると上流から下ってきました。前後に長い櫂《かい》を手にした男が二人ずつ乗り、真ん中には藁《わら》でくるんだ木炭を積んでいます。包みの間には、大きな袋を抱えた女が一人座っていました。筏乗りたちは一様に顎鬚《あごひげ》を蓄え、頭には頭巾《ずきん》をかぶり、この寒いのに裸足《はだし》の者もいます。
筏を河原に引きずりあげている彼らの許《もと》に、焚き火にあたっていた材木商の雇い人が近づいていって、筏に組んだ材木を数えはじめました。それに船頭が付き添い、残りの者は木炭の荷卸しにかかりました。一日がかりで山奥から下ってくるのですから、手ぶらで来るわけではありません。ベルーノで木炭を売って、塩や香辛料や生地を買いこんで村に帰っていくのです。
私とヴィットリオは、河原に腰を下ろして靴を履いている筏乗りに近づいていきました。タルタル人を連れた筏乗りの噂《うわさ》を聞いたことはないか、と尋ねますと、男は目玉だけぐるりと動かして、私を見上げました。そして修道服を着たヴィットリオに視線を移し、「知りませんね、旦那《だんな》さま」とぶっきらぼうに答えました。数日来、これと同様の応対を受けていたので、私もそこで引きさがりはしませんでした。
「おまえの村の者は、フェルトレまで筏を流していくことはあるのか」
「時と場合によりけりですよ。行く者もあるし、行かない者もある」
他の筏乗りから何度も聞いた返事でしたから、強い訛の混ざったその言葉も、すぐに理解できました。私は砂で城を築いている気分になりました。筏乗りは靴を履き終わると、私とヴィットリオに、お役に立てないというふうに首を横に振って、木炭を降ろしている仲間のほうに歩いていきました。私とヴィットリオががっかりした顔を見合わせていると、一緒に筏に乗ってきた女が荷物を抱えて、船頭に、奥さんによろしく、パオロ、と声をかけました。パオロといわれた船頭は、手を上げました。頭に黒い布をかぶった女は、ベルーノの城門に続く道を上がりながらまた訛の強い言葉でいいました。
おかしげな客人と上流にいくなら気をつけることだ、というふうに聞こえました。すると、私たちがさっきまで質問した筏乗りが、用心しろ、というふうに船頭に目配せを送りました。船頭は女の挨拶《あいさつ》には答えずに仲間の中に入っていきました。
どこか奇妙な感じが残りました。ヴィットリオも同じように思ったらしく、荷物を担いで坂道を上がっていく女をつけようといいだしました。
板屋根の貧しい家が木立の中に見え隠れしている坂道の途中で、私たちは女に追いつきました。さっき船頭にいったことの詳しい話を聞きたいと申しますと、筏乗りと同じく女も警戒心を露《あら》わにしましたが、大銀貨を目にすると、簡単に喋りだしました。
女はピアーヴェ河上流のペラガローネという村に住んでいて、ベルーノの親類を訪ねて来たというのです。ペラガローネは、ピアーヴェ河やマエ急流の上流から流されてくる丸太の集木地で、そこで筏を組んでベルーノまで運んでくる筏乗りたちの村でもあります。今朝、筏に乗せてもらうために川岸に行った女は、見送りに来たパオロの妻と会って、立ち話をしたそうです。妻は、家に二日前から泊まっている旅の者がいて、そのうちの一人はいつも顔を隠しているので気味が悪いとこぼしていたのだと、ペラガローネから来た女は話しました。
なんでもパオロの家には空いている納屋《なや》があり、時々、安い金でそこに旅人を泊めてやっているということです。私とさほど歳の違ってはいなさそうな女は、そう説明しながら、黒い被り物の下から木立の間に覗《のぞ》く砂州に視線を走らせました。同じ村の者の噂話をすることに少し気が咎《とが》めているようでした。しかし、ヴィットリオが、その旅の者たちは村で何をしているのだと聞きますと、後ろめたい表情は消えて、女は栗色の目を輝かせました。
「あたしもパオロの奥さんに同じことを聞いたんですよ。そしたら二人はもっと上流に行きたがっているということなんですよ。それでパオロがこの旅から戻ったら、二人を案内する約束をしたらしいんです。筏の上でパオロからこのことを聞きだそうとしたけど、なにも喋ってはくれませんでしたけどね。でも、その旅の者がよほど礼をはずむといったにちがいないですよ。さもなきや、この時期、誰がマエ急流を溯《さかのぼ》ろうなんて思うものですか」
どうしてこの時期、誰も上流に行きたがらないのかと私は尋ねました。すると、鼻の下にうっすらと産毛《うぶげ》の生えた女は当然だという顔をしました。つまり、普通、川沿いには岩や浅瀬に乗りあげて滞った木を棹《さお》で押し流す役目の丸太流したちが行き来しているから心強いが、冬場は丸太流しは休みとなり、川沿いに人気《ひとけ》はまったくなくなるそうです。熊や狼が出没する山道を通りたがる者はなく、さらに雪でも降ると、上流の村との交流は途絶えるということでした。
「マエ急流の上流には、なんという村があるのですか」とヴィットリオが聞きますと、女は苦笑いしました。
「ソッフランコとかフォルノとかフジーネとか……。いっぱいありすぎて、わかりませんよ。急流のまた支流にも村はあるし、谷間だけでなくて、山の上にだってあるし……この先の山はそりゃあ奥深いんですよ。みんな、いってますよ、ピアーヴェ河の生まれるところには、薔薇色《ばらいろ》に輝く不思議な形をした山々が聳《そび》えていて、空飛ぶ龍や吸血鬼《ヴァンビラ》や半狼半熊《ロオフ》といった化け物が棲《す》んでいるって……」
女は被り物をずらして、頭上を仰ぎました。葉を落とした木の枝の向こう、ピアーヴェ河の上流の遥《はる》か空の高みに、雪をかぶった白い尾根が煙のようにうっすらと浮かびあがっていました。夕靄《ゆうもや》に包まれ、信じられないほど高いところに、尾根だけぽっかり浮かんでいるその山々は、神さまや天使たちの住む天の国であるかのようでした。
誰かに命じられたわけでもないのに、私もヴィットリオもその光景に視線を釘《くぎ》づけにされ、会話の間の沈黙の裂け目に落ちこんでしまいました。やがて女が身じろぎして、歩きだしたそうな様子を見せたので、私は大銀貨を与えました。女はそれを当然のように受けとって、城門のほうに遠ざかっていきました。
私とヴィットリオは、ペラガローネという村に向けて、明朝、暗いうちに発《た》つつもりです。怪しい旅人とは、きっと夏桂たちでしょう。筏乗りのパオロの先回りをすれば、明日こそ夏桂と聖杯を手に入れることができるはずです。
明日の道案内を下男の誰かに頼むために、ヴィットリオの寄寓《きぐう》する聖ピエトロ修道院に行くと、ニコラ師から私|宛《あて》に手紙が着いていました。ヴェネツィアに帰ったら、お見せしましょう。その手紙に書かれていた説明で、カタリ派と聖杯のおおよその関わりあいはわかりましたが、なぜそのカタリ派と夏桂が結びついたのかは、やはり謎《なぞ》のままです。
だいたい夏桂がカタリ派の完徳者にくっついてここまで来た理由からして、私には想像もつきません。懐も温かなようですし、逃げるのなら、自分の故郷のある東に戻ろうとするのが自然ではないでしょうか。なのに、どういう具合か、夏桂は東の海とは反対の西の山の奥へ奥へと分け入っていっています。
東の人間の心をつかもうとするのは、水をつかもうとするに似たものです。私は長いこと東方にいましたが、彼らの心の中に踏みこもうとするたびに、柔らかな絹織物に巻きこまれ、方向を見失った気持ちになったものでした。
クリスト教の素晴らしさを誉《ほ》めたたえるくせに、呪《まじな》い師や博士たちの意見によって国政を決めている大《だい》カァン。顔を合わせればにこやかな笑みを送ってくれるのに、盗み見ると、ぞっとするほど冷たい視線で私たちを眺めている廷臣たち。家の品を盗んだことが見つかれば、その場限りの言い逃れを並べたてるだけで、罪の意識に駆られることのない下僕。心の中で考えていることを直截《ちよくせつ》に喋《しやべ》ることは、裸で通りを歩くことと同じだと見なして、始終回りくどい比喩《ひゆ》で語る人々。その比喩の真意を探るうちに、言葉の泥沼に足を取られ、どこに本当の心があるのか、わからなくなってしまうのです。
父上は、私が大カァンから下された女たちに心をかけないようにしていたとおっしゃいましたね。それは事実です。タルタル人であれカタイ人であれ、東方の女たちに自分の心を預ける勇気は、私にはありませんでした。無数の偶像を崇《あが》め、何を考えているかわからない異教徒の女に果たして心を許せるものでしょうか。
もっとも、長いカタイ暮らしの間、私にも愛した女はいました。揚州《ヤンチユウ》に居た三年間のことです。父上には黙っていましたが、私は蛮子《マンジ》の女を囲い、子供も生ませました。その女の笑い顔を見ると幸せを感じ、その女がそばにいると安らぎを覚えました。
神さまのおっしゃる通り汝《なんじ》の敵を愛せるならば、異教徒とて愛せます。私はその女を愛していました。しかし、その女が偶像や先祖に向かって拝む時、うまいうまいといって犬の肉を喰《く》らう時、私には理解できない蛮子《マンジ》の言葉で隣人と楽しげに話している時、心が女から遠ざかっていくのを感じたものです。人は、馬でも猫でも隣の家の子供でも愛せるでしょう。でも、愛することと、一生、共に暮らすこととはちがいます。
大カァンの命令で揚州を離れることになった時、私はその女を連れてはいきませんでした。子供は養子に出し、女は暮らしには不自由しない商人の息子に相応の持参金をつけて嫁がせました。女は別れを悲しみましたが、私は後悔はしていません。女にとっても自分にとっても最善のことをしたのだと信じています。
大都《カンバリク》の大カァンの宮廷には、色々な西方の人間がいましたね。フランチアから来た金銀細工師、ヘブライ人の商人、ペルシア人の楽師、グレチア人の力士などが大カァンに媚《こ》びへつらって伺候していました。気まぐれな運命によって東の涯《は》てに押し流されてきて、大カァンの機嫌を取って生きている者たちです。皆、カタイの女を妻や妾《めかけ》にして子供を作り、いかにも自分はこの地に根づいた人間だぞといわんばかりにしていましたが、その実、常に、大海をさまよう木ぎれのような不安感を漂わせていました。色目人《しきもくじん》と呼ばれ、宮廷顧問としてカタイ人よりも高い位置にいましたが、大カァンが失墜すればどうなるかわからない危なげな身の上だったからです。つまるところ、どんなに東方に長く居ようと、そこが異国であることに変わりないのです。
クリスト教徒の国にいる限り、私たちは神の倫理に守られていると確信できます。クリストの御名において、ひとつの価値観に結びつけられています。しかし一歩外に出れば、世界のほとんどは異教徒であることに気がつきます。むしろクリスト教徒こそ少数派なのです。クリスト教諸国は、異教徒の海に浮かんだ椀《わん》の中の世界なのです。
父上は手紙で、カタイに踏みとどまるべきだったとおっしゃいました。しかし残ってどうなったと思いますか。望郷の念に苛《さいな》まれつつ、彼の地で一生を終えることになったのですよ。死ねば、あの偶像崇拝者たちのように火葬にされてしまうのです。クリスト教徒として、そんなことに耐えられたでしょうか。
人が何を信じるかは、誰を愛するかよりも大きなことなのです。
だからこそ、私には夏桂の行動が不可解でなりません。あの奴隷は、私たちが勧めても洗礼を受けようとしなかったほどの頑固な偶像崇拝者です。それがカタリ派の者たちと行動を共にしている。カタリ派と偶像崇拝者ほど、ちぐはぐな組み合わせはありません。片や、この世のものすべてを悪神の創造物と見なす者、片や木やら川やら屋敷やら目に入るものすべて神が宿っているとして祈る輩《やから》なのですから。それとも、カタリ派と東方の偶像崇拝者の間には、ニコラ師すら知らないような繋《つな》がりがあるとでもいうのでしょうか。
ああ、しかし、このことについて頭を悩ますのはもうやめましょう。邪神を崇《あが》める者どもの心の内を探ろうとすることは、魂を汚す因となりましょう。
夜も更けるにつれ、階下から聞こえる騒ぎが大きくなってきました。葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲んで酔っぱらっている旅籠《はたご》の客たちです。毎晩、ああして酒で体を暖めて、大部屋の二、三人一緒の寝床で固まって眠りにつくのです。少し宿賃がかさみますが、この二階の個室を借りてよかったと思います。彼らに蚤《のみ》や疥癬《かいせん》やらをうつされたらたまりませんから。
まもなく降誕祭ですね。家が柊《ひいらぎ》と青い葉で飾られる前には、ヴェネツィアに帰りつきたいものです。早く父上の元気なお顔を見たいと思っています。
今のところは他にお伝えすることはありません。マフィオ叔父《おじ》、他の家族の皆にもよろしくお伝えください。
[#地付き]あなたの息子マルコ・ポーロより。ベルーノ、『暁の鶏』亭にて
愛する甥《おい》マルコ・ポーロヘ
ベルーノ、聖ピエトロ修道院気付
†神の御名において
誠実な私の甥マルコよ。
胸が潰《つぶ》れそうなほどの悲しみに暮れつつ、この手紙を書かなくてはならない。恐ろしく辛《つら》い知らせだ。私の最愛の兄であり、おまえの父であるニッコロが死んだ。
怪我《けが》のせいとも、どうしようもない悲劇に見舞われたのだともいえる。何と説明すればいいかわからない。ただ、すべての禍《わざわい》の源が、あの沙州《サチユウ》の女、奴隷マリアにあることは疑うべくもない。
兄の死の発端となる事件が起きたのは、四日前だった。医者にいわれた通り包帯をこまめに替え、部屋に香料を焚《た》きしめ、毎日、薬の砂糖を飲み続けたせいか、その頃にはもうニッコロは壁に縋《すが》りながらも家を歩きまわることができるようになっていた。陰鬱《いんうつ》に沈んでいた家の空気もおかげで少し救われ、午後になると家族は再び二階の冬の居間に集まっては、他愛もないことを話して過ごす習慣を取り戻していた。
その午後も、炉で燃える薪《まき》の煙がうっすらと立ちこめる居間には、私とマルタ、カテリーナとイザベッラが座っていた。騒がしいマルコリーノは、乳母がカテリーナの娘と一緒に遊び相手を務めていたので、私たちは珍しく平穏な午後を味わっていた。マルタとイザベッラは降誕祭のご馳走《ちそう》について楽しげに話しており、日頃はおとなしいカテリーナすら、前日にコスタンティノポリから夫の手紙が届いたせいで、少しはしゃいだ様子でその会話に加わっていた。私はといえば、いつもの通り、祈祷書《きとうしよ》を読んでいた。
ちょうど妻が「小鳥を生きたままパイ皮に包んで、竈《かまど》で焼く料理があるのよ」と得意げに知識を披露しはじめた時だった。残酷な料理だわ、と眉《まゆ》をひそめるイザベッラに、マルタが、いや、小鳥は死なずに食卓でパイ皮を切った時に飛びでていくのだと説明していると、「それで、その小鳥を捕まえたら、中の肉はうまい具合に焼けているだろうよ」と声がして、戸口にニッコロが現れた。内衣《ゴンネツラ》に帯も締めず、毛皮で裏打ちした長い上衣《グアルナツカ》をはおっただけの姿だった。扉に縋らないではよろけてしまいそうな姿は痛々しかったが、血色もよくなった顔には以前の陽気さを取り戻していた。
慌ててニッコロのために温かい炉端に席を作ろうとした私たちに、兄は手を振って、マリアを探しているのだと告げた。そして女奴隷が居間にいないことがわかると、通り広間に出ていこうとした。「お供しましょう」といって、私は祈祷書を置いて立ちあがった。女たちのお喋りを聞いていることにも、少し飽きてきたところだったのだ。
私は兄の腕を支えて通り広間を歩きだした。ニッコロのゆっくりした足取りに合わせて、麝香鹿《じやこうじか》の頭と脚、藍《あい》と白の染め付けの磁器、インドで買った現地人の腰巻きの美しい布、そそり立つ犀《さい》の角など東方から持ち帰った品々を飾った壁の前を左右に体を揺らせながら過ぎていると、ニッコロが自分の腕にかかった私の手を優しく叩《たた》いていった。
「わしたちは、こうしていつもお互いを支えあってきたな」
とっさのことに何をいわんとしているのかわからず、私は兄の顔を振り返った。ニッコロは、掌《てのひら》を天井に向けて宙を掻《か》くように振りまわした。
「東方に行っている間のことだ」
そのとたん、兄の言葉が頭の中で孵化《ふか》して形を成した。そうだった。二度の旅に亘《わた》る東方での三十年余りの間、故郷が懐かしくてたまらなくなったり、先々の不安に駆られた時、大カァンが無理難題をいいだしたり、西に送った隊商が盗賊に遭って全滅したと聞いたりした時、私たち兄弟は手を取りあい、力づけあい、共に悲しみや苦しみに耐えてきた。
「今も支えあってますよ」
私は、皮膚の弛《たる》んだ兄の腕を支える手に力をこめた。その時、哀《かな》しいような泣きたいような気持ちに襲われたのはどうしてだろうか。弱々しい冬の陽がアーチ型の飾り窓から降り注いできていた。天井の高い通り広間は、なぜかローマ時代の廃墟《はいきよ》のように見えた。私たちは老人となった今もお互いを支えあい、大海を航行していくおんぼろ船さながら、よろよろと通り広間を進んでいた。
「こうしていると、今もまだ東方を旅をしているみたいな気分になる」
ニッコロは広間に飾られた東方の品々を眺めて呟《つぶや》いた。
丸《まる》硝子《ガラス》通して入ってくる冬の光が泡のような影を落とす木の床。白い漆喰《しつくい》の塗られた壁。裏の路地まで、まっすぐに貫かれた細長い広間。三階の広間へと続く階段の大理石の手すり。いかにもヴェネツィア的な家に、東方の旅の土産が置かれている。日頃は何の気なしに見ている光景が、兄の言葉によって魔術の如くに姿を変えた。陶磁器の白い肌の奥から、麝香鹿の乾いた瞳《ひとみ》の底から、インドの布の織り模様の間から東方が近づいてきて、私に眩暈《めまい》を起こさせた。
それは不思議な感覚だった。ヴェネツィアの家の通り広間に立っていると同時に、陶磁器や麝香鹿の頭やインドの織物から発散される東方を、私は兄と手と手を携えて巡っていた。過去の旅の記憶が流れるように体内を過ぎていき、私は思わず兄の腕をきつく握りしめた。ニッコロと私は視線を絡みあわせた。何もいわないでも、同じ気持ちに捕らわれていることがわかった。
「昔、西に攻めてきたチンギスカンの軍隊はさんざんグルジアやアルメニアを荒らしまわった」
兄は夢みるような口調でいった。
「この時からタルタル人は、クリスト教国の者たちから怖れられるようになったのだが、幸いチンギスカンが死んでしまって、攻略途中でタルタル人の軍勢は退却していった。その時、本隊からはぐれた一隊があって、この地に取り残され、百年を過ぎた今もアルピやジェルマニアの深い森の中をさまよっているという」
私もその噂を聞いたことはあった。
「森の中で甲冑《かつちゆう》の音を聞いてあたりを見回すと、青ざめたタルタル人の騎馬部隊が木々の間を行軍しているという話ですね。しかし、地面には蹄《ひづめ》の跡もなく、軍隊はどこかに煙のように消えてしまうという……」
「タルタルの民は旅が好きなのだ。死んでからも旅をしている」
兄は私に微笑《ほほえ》んだ。
「また、旅に出たいものだな」
私は大仰に顔をしかめてみせた。
「われわれはもう歳です。旅暮らしからは引退したんですよ、兄さん」
なぜ私はあんなことをいってしまったのだろう。にべもない私の言葉に、兄の悪戯《いたずら》っ子っぽい表情は失せ、年老いたものに戻っていった。ニッコロは肩をすくめてため息をついた。
「年寄りとは、死ぬだけの者のことだ=v
後で何度か思ったものだ。あの一言が兄の運命を決めたのではないだろうかと。そして、兄にこの言葉をいわせたのは、私なのだ。理不尽なことだとはわかっていても、自責の念から逃れられない。
だが、今は話を続けよう。
客室や読書室を通り、寒々とした夏の居間を過ぎ、私たちは中庭を回りこんでいった。中庭で洗濯しているモネッタとパオラの話し声が布張りの窓の向こうから聞こえてきていた。正餐《せいさん》の時、若ニッコロがピエトロを連れてリアルト橋に行くといっていたから、マリアは口煩《うるさ》い仲間のいない台所でさぼっているのではないかと私は考えていた。しかし台所に顔を出しても、女奴隷の姿はなかった。炉には大きな鍋《なべ》がかかり、煤《すす》で黒ずんだ底に炎がまとわりついていた。いつも誰かがいて活気のある台所がそんなに静かなのは、私を少し落ち着かない気分にさせた。マリアは三階のどこかにいるのかもしれないので、自分が探してくる、兄さんは部屋に戻っていてくれと私がいうと、ニッコロは台所の向こうの扉を指さした。
「せっかくここまで来たのだ。ジョヴァンニーノの部屋を通って、露台《バルコーネ》から玄関に入ろう。ポーロ家一周の旅というわけだ」
最近、ジョヴァンニーノは正餐が終わると、そそくさと部屋に入ることが多かった。ニッコロは息子の顔が見たくなったのだろう。しかし、その親らしい気持ちが、とんでもない悲劇を招く結果となってしまった。
控えの間を過ぎ、ジョヴァンニーノの部屋の前に来た時だった。戸の向こうから、女の声が聞こえた。甘く囁《ささや》くようなタルタルの言葉。それに続いたのは、若者の笑い声だった。
ニッコロは瞬時にしてすべてを悟ったはずだ。支えていた私の手を押しのけて、乱暴に扉を開いた。
薄暗い部屋の寝台に、裸の男女が絡みあっていた。その姿態はあまりに淫《みだ》らで、書くこともためらわれる。手と足がどこにあるのかわからず、八本の触手を持った怪物が寝台で蠢《うごめ》いているようにも見えた。扉の開く音に、二つの顔が同時にこちらを向いた。マリアとジョヴァンニーノの顔に残っていた笑いは、そのまま雪のように融《と》けていき、怪物は二つの肉体に離れていった。
ニッコロは大股《おおまた》で部屋に入ると、マリアを息子の体から引き剥《は》がした。そして女奴隷の頬《ほお》を拳《こぶし》で殴りつけ、足蹴《あしげ》にした。マリアが悲鳴をあげ、ジョヴァンニーノが父親と女の間に割って入った。ニッコロはジョヴァンニーノの頬も拳固《げんこ》で殴った。
「なんてことだ、おまえたちはわしを裏切って、こんなことを、こんなことを……」
かつて兄がこれほど怒りを剥《む》きだしにした姿を見たことはなかった。
その時、マリアが悲鳴をあげた。またニッコロに殴られたかと思ったら、そうではなかった。床を指さして、「血が、血が」と叫んでいる。見ると、兄の足許《あしもと》に血が滴っていた。包帯を巻いていたはずの内衣《ゴンネツラ》の腹の部分が赤い鮮血で染まっている。無理な動きのために、傷口がまた開いたのだ。私は兄に駆け寄り、奴隷を蹴るのを止めさせようとした。
「裏切り者、裏切り者……糞《くそ》っ、なんてことだ……」
ニッコロは傷から流れる血にも気がつかないでマリアとジョヴァンニーノに向かって泣き叫びながら、床に崩れ落ちていった。
兄を寝室に運び、包帯を取り替え、落ち着かせると、もう夜になっていた。私はジョヴァンニーノの部屋にいって、仔細《しさい》を質《ただ》した。マリアとの密通が発覚して打ちのめされていたジョヴァンニーノは、寝台に腰をかけて、ぼそぼそと成り行きを説明しはじめた。あきれたあまり、叱《しか》る気力も失せるような打ち明け話だったよ。
金牌《きんぱい》を盗むように夏桂に指示したのも、コスタンティノポリ行きの船の積荷にマリアを忍びこませたのも、ジョヴァンニーノだというのだ。三人は一緒にコスタンティノポリに行き、カタイに戻り、ジョヴァンニーノはマリアと結婚するつもりだったらしい。あの女奴隷は、父子を手玉に取っていたのだ。金牌盗難の罪を夏桂だけにかぶせたことが後ろめたいらしく、そのことを白状しながら泣く若者に、奴隷ごときのことで思い悩むのはやめろ、といってやった。マリアと結婚するなぞ許されないし、夏桂に関しては、あの男が金牌を盗んだことは確かなのだから罪の意識を覚える必要はない。そう諭すと、ジョヴァンニーノはうなだれていた。
私はマリアを奴隷商に売り払うことに決めた。足の腱《けん》が切られているとはいえ、タルタル人の女奴隷はもてはやされる。安値覚悟ならすぐに買い手もつくだろう。そしてジョヴァンニーノには、一人前の商人になった暁にはポーロ家の派遣員としてカタイに帰してやるから、今度のような真似《まね》は二度とするなと言い聞かせた。ジョヴァンニーノが頷《うなず》いたので、それで一件は落着したと思って、私は部屋に引きあげていった。しかし、それはとんでもない甘い見通しだったのだ。
夜明け前、私とマルタは人の悲鳴で目が覚めた。真っ先に頭に浮かんだのは、牢獄《ろうごく》から逃げだした夏桂がこの家に忍びこんだ夜のことだった。あの夜も同じような物音で目が覚めたのだ。私は不吉な予感を覚えて、寝台から飛び起きた。外衣を引っつかんで通り広間に出ると、白みかけた外光のおかげで正面玄関の戸が開いているのがわかった。骨まで凍りそうな冷たい空気の中に、私は走りでていった。
真っ先に目に飛びこんできたのは、中庭の外階段の下で仰向けに倒れているニッコロの姿だった。服を着る暇はなかったのか、敷布を体に巻きつけただけだった。頭の後ろから流れだした黒々とした血が石畳を汚している。ジョヴァンニーノはおろおろとニッコロにかがみこみ、「父さん、父さん」と叫びながら揺すっていた。白い被り物をしたマリアが裏木戸を抜けて逃げていくのが見えたが、かまっている余裕はなかった。私は階段を駆けおりて、兄を抱き起こした。しかし、ニッコロはすでに息絶えていた。
これが起きたこと、すべてだ。後でジョヴァンニーノから聞いた話によると、その晩、あの愚かな若者は性懲《しようこ》りもなく、マリアと一緒に逃げようとしたという。それを聞きつけたニッコロが追いかけてきたが、身にまとった敷布の裾《すそ》に自分から蹴つまずき、外階段から中庭に転げ落ちて死んだのだ。
ジョヴァンニーノが真実を述べているかはわからないと、マルタはいっている。マリアかジョヴァンニーノが露台からニッコロを突き落としたかもしれないと、イザベッラとこそこそ話していた。四方に手を回して捜索中のマリアが捕まれば何か白状するかもしれないが、夏桂一人に金牌を盗んだ罪を着せるために平気で嘘《うそ》をついたような女だ、本当のことをいうかどうかは疑わしい。ジョヴァンニーノは食事もしないで部屋にこもっている。私たちにわかることは、ニッコロはあの夜、階段から転げ落ち、頭を打って死んだということだけだ。
考えてみれば、それは一年で最も長い夜のことだった。そう、聖ルチーアの夜だ。おまえがズラッファルガ修道院に行く途中で道に迷い、森の中で禍《わざわい》を運ぶという老女に出会った夜。その女はおまえを助けた代わりに、遠く離れたこのヴェネツィアに禍を送りつけたのかもしれない。
この世の禍福は、うわべだけではわからない。ベアトリスクという悪魔の遣い女《め》は、マリアに姿を変えて、この屋敷にもぐりこみ、悲劇を手繰り寄せたのかもしれない。ニッコロの死後に届いた、おまえの手紙を読んで、ふとそんなことを考えた。
私は今、寝台に横たえた兄の遺体の隣でこれを書いている。遺体は聖ロレンツォ教会に埋葬することになった。若ニッコロは明日の葬式の手配のためにヴェネツィアを奔走している。この手紙はニコラ師に頼んで、ベルーノの教会|宛《あて》の文書と一緒に送ってもらうつもりだが、それでも数日はかかるだろうから、おまえがこの悲しい知らせを受け取るのは、葬式の後になるだろう。
コスタンティノポリにいる若マフィオとステーファノも葬式には出席できない。この手紙を終えたら、次に彼らに便りを書かねばならない。父親の死を息子たちに知らせるのは、辛《つら》い役目だ。
ニッコロが終油も受けられないままに死んでしまったのは、悲しいことだ。異教徒の女に血迷ってしまった者への神の裁きだったのだろうか。兄はタルタル人を愛したが故に、タルタル人の血によって殺されてしまった。人は自分の蒔《ま》いたものを、また刈り取るしかない。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る。兄はタルタルの女の肉に、滅びの種を蒔いてしまった。
ニッコロの魂は、きっと煉獄《れんごく》でさまよっていることだろう。我らにできることは、兄の魂が神さまのお慈悲で天国に逝けるように祈るしかない。
[#地付き]一二九七年十二月十七日十九時 至急
[#地付き]おまえの叔父《おじ》マフィオ・ポーロ。ヴェネツィアにて
叔父マフィオ・ポーロヘ
ヴェネツィア、聖ジョバンニ・クリソストモ区、ポーロ家宛
†一二九七年十二月二十五日
こよなく敬愛する叔父上、お手紙を拝見して、足が地面に沈みこんでいくような驚きと悲嘆に襲われました。父が死んだなど、何かの冗談ではないかと、何度も口に出して呟《つぶや》いてみたほどです。ヴェネツィアにいるなら、この目で確かめられるのですが、遠いベルーノにいる身では、ただもうその知らせが間違いであって欲しいと願う他ありません。
呆然《ぼうぜん》と手紙を見つめていると、母が死んだ時のことを思い出しました。遺骸《いがい》が家から出て教会に着くまでの間、肉親は泣き叫びながら付き従うしきたりとなっているのに、夫である父は東方の旅に出て不在でした。フローラ伯母《おば》さんやマルタ叔母《おば》さんが喉《のど》も潰《つぶ》れそうに泣いてくれましたが、それを聞いていると、ひょっとしたら父もすでに死んでしまっていて、残されたのは私一人なのではないかと思ったのでした。まだ十歳を過ぎたばかりの頃のその心細さは強く胸に焼きついています。
母の死後も、元《げん》の大《だい》カァンの宮廷にいた父や叔父さんからの便りは続いていました。しかし、一、二年かけて届く東方からの手紙は、まるで死者の国から来たように感じたものでした。
何年か経ったある日、コスタンティノポリから船が着いて、くたびれた格好の二人の男が家の玄関に現れました。家長だったマルコ伯父が涙を流しながら抱擁するこの二人はいったい誰だろうと、私は怪訝《けげん》に思いながら眺めていたのですが、後でそのうちの一人が父だと知らされて驚きました。心の中ではとうに父は死んでいたのですから。
私にとって、父は一度死んだ後、東の彼方《かなた》から現れた人でした。ですから、今度こそ父が死んだといわれても、まだ生きているのではないかという一抹の希望を抱かずにはいられないのです。
叔父上からの手紙を受けとったのは昨夜でした。ペラガローネの村から、ベルーノの聖ピエトロ修道院にヴィットリオを送ってきた時です。すでに遅かったので、昨夜は修道院の客室に泊めてもらったのですが、蝋燭《ろうそく》の明かりで手紙を開いて愕然《がくぜん》としました。私は父親の死も知らず、夏桂や聖杯を追ってアルビの深い山中をさまよっていたのです。
昨夜は一睡もできませんでした。さまざまな思い出が頭を去来し、私は虚《うつ》けたようになっていました。今朝方、気を取りなおして、この手紙を書きはじめた次第です。今日じゅうにヴェネツィアに向けて発《た》つつもりですから、この手紙を携えて帰宅することになるでしょう。それでも、何かしていないと気が滅入《めい》ってたまらないのです。
いずれにしろお伝えしなくてはならないので、ペラガローネの村で私とヴィットリオがしたことを書きましょう。今となっては夏桂を捕まえることも聖杯を手に入れることも、さほどの大事には思えなくなってしまったのですが……。
私とヴィットリオがペラガローネの村に着いたのは十九日の昼過ぎでした。そこまで来ると、黄河のようにゆったりと流れていたビアーヴェ河も両側の険しい山肌に挟まれて、狭まってきます。ペラガローネは、マエ急流とピアーヴェ河の合流地点にあり、河辺の斜面に木羽葺《こばぶ》きの粗末な家がぽつぽつと建っている小さな村です。家は、土台こそ石造りですが、納屋らしい二階は木造。村の真ん中にある小さな教会の鐘楼も木で作られているのは、この地の貧しさと木材の豊富さを物語っていました。農家の庭先で冬に供えて薪《まき》を割っていた少年に聞くと、筏乗《いかだの》りのパオロの家はすぐわかりました。粉挽《こなひ》きの水車小屋に降りていく道にある、他よりは少し大きな家でした。そこを訪ねると、入口の階段の日溜《ひだ》まりで、パオロの妻が夫の母親らしい女の髪の毛の虱《しらみ》を取っていました。ヴィットリオが得意の美しい笑みを浮かべて挨拶《あいさつ》すると、二人は愛想よく迎えてくれましたが、私が、奇妙な旅人が、ここに泊まっていないかと聞いたとたん、パオロの妻の顔が曇りました。母親も不安げな様子で、嫁のほうを窺《うかが》っています。
「あなた方とは関わりのないことです。彼らに少し聞きたいことがあるだけなのです。二人はどこにいるのでしょう」
ヴィットリオが二人を安心させるように柔らかな声で尋ねました。天使のようなこの修道士の頼みを無下に断ることは難しいらしく、パオロの妻は母親と目配せを交わしてから肩をすぼめました。
「その二人なら、今朝、出ていきましたよ」
語尾が口の中でもつれてしまうようなこの地方の訛《なまり》混じりの言葉に頭の痛い思いをしながら、要点を聞き取っていきますと、パオロの帰りが遅いのに業を煮やした二人は、製材所の誰かに案内してもらうことに話を決めて、すでに出発したという話です。
「行ってくれて、ほっとしましたよ。知り合いの筏乗りの紹介で泊めてやったんだけど、そうでもなければ、あんな変な二人は泊めやしなかったでしょうよ」
パオロの妻は、ヴィットリオに言い訳するようにいいました。どこが変なのかと問い質《ただ》しますと、一人は女で、もう一人は顔を隠した男で、二人ともどこともいえないけど奇妙な雰囲気を漂わせ、始終、何か言い争っていたということでした。
「女のほうが一刻も早く山に戻りたがってるのに、男はあまり気が進まないようでした。それでも女が押し切って出発したのです。まったく、もうちょっと待ってたら、なにも製材所の小僧なんかに頼まないでも、うちの亭主が戻ってきて案内したのに」
パオロの妻は、二人がいなくなってせいせいしたといいながらも、道案内の報酬が入らなくなったことを残念に思っているようでした。
私たちは、製材所の場所を聞きだして、そちらに向かいました。畑の中の小道を河原まで降りていき、ピアーヴェ河に沿って溯《さかのぼ》っていくと、マエ急流との合流点付近の河原で数名の男たちが四角く製材された木を、草の蔓《つる》を使って筏に組んでいました。前後二本ずつ舵《かじ》のついた大きな筏が三台です。声高に喋《しやべ》りながら働いていたのですが、私とヴィットリオの姿に気づくやぴたりと黙りました。
「|いい日和で《ブオン・デイ》」というヴィットリオの挨拶に、渋々という様子で頷《うなず》き返しましたが、目は笑っていても、用心深い様子は抜けません。
「製材所はどこですか」
修道士が聞きますと、黒い髯《ひげ》を蓄えた男が黙って少し先を指さしました。そこにはピアーヴェ河の中州を利用して、流れを跨《また》ぐように小屋がさしかけられていました。小屋の下には水車が作られていて、水|飛沫《しぶき》を上げて回っています。小屋の周囲には丸太が積まれ、男たちが働いていました。
私たちは礼をいって、製材所に近づいていきました。壁もない吹き抜けの小屋は、中で働く男たちの姿がよく見えます。水車の力で上下する鋸《のこぎり》に男二人がかりで丸太を押しこみ、頭の痛くなるような音を響かせて、木を伐《き》っていました。
私たちは小屋に入っていきました。ヴィットリオが二、三度、大声で挨拶して、ようやく汗びっしょりになった男二人がこちらに気がつきました。親子のようで、二人共よく似た頬《ほお》の盛りあがった顔をしています。丸太を鋸に押しこむのをやめたので、小屋の中は、水車の回る、がったんごっとんという音しかしなくなりました。
伐った材木を外に出している役目の若い男二人も、私たちに気がついて手を止めました。兄弟らしく、やはり白髪混じりの父親とどこか似ている顔でした。父親と三人の息子たちは、私とヴィットリオをうさん臭そうに見つめています。まったく山の人間たちは警戒心が強く、私が、パオロの家に泊まっていた旅人はどこに行ったのかと聞いても、質問が聞こえなかったかのように突っ立っているだけです。
「神さまのための大事な用があるのです。教えてください」
ヴィットリオが恭しい口調でいいました。頑固な田舎者にも、神さまの名前は効き目があったようで、父親が腕で額の汗を拭《ぬぐ》って、その旅人たちは自分の孫息子に案内させて、マエ急流を溯っていったと答えました。ただ、どこの村を目指したのかは、孫息子が勝手に交渉して出ていったのだから知らないということでした。
この村から先しばらくは急な渓谷沿いの一本道なので、その先の盆地に出てしまう前なら追跡は可能だと聞き出すや、私たちは、旅人を追いたいので、製材所で働いている誰かに案内してもらえないかと頼みました。すんなりとはいきませんでしたが、大銀貨五枚とヴィットリオの神さまの用事だという言葉の威力で、なんとかフランチェスコという若者を雇うことができました。まったく、この世で、お金と神さまが力を合わせると、怖いものなしですね。教会が金を集めることに一生懸命になるのもわからないではありません。
私たちはすぐさま数日分の食糧と野宿に供えて毛布を調達して、村を発ちました。馬も通れない道というので徒歩です。マエ急流に沿ってしばらく溯っていくと、まもなく両側の崖《がけ》は垂直になってきました。崖の岩面を削って作った狭い道は、雨でも降ればすぐに岩が崩れてきそうな危なっかしさです。冬枯れした木々の間に覗《のぞ》く、碧色《みどりいろ》の川。灰色の岩の露出した山肌のあちこちには白い糸のような滝が流れ、板を立てたような崖に挟まれた渓流の向こうには、東方の異教徒たちの崇《あが》める偶像にも似た奇妙な形の山々が聳《そび》えています。最後の審判の日まで融けない雪が残っているという吐蕃《ツ・ボツト》の山奥を思わせる風景です。
この深い山のどこかにカタリ派の〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉があるという話も不思議ではありません。こんなところに隠れ住んだら、いかにローマ教会といえども、見つけだすのは難しいでしょう。それこそ敷布の皺《しわ》の間から、一匹の蚤《のみ》を探しだすようなものです。そんなことを考えていると、私の前を進んでいたヴィットリオが、先頭のフランチェスコに、この山のどこかで、異端の者たちが集まっている村の話を聞いたことはないかと尋ねました。歩きながら、私と同じことが頭に浮かんだようでした。
毛布の入った袋を担いだフランチェスコは、山賊や追い剥《は》ぎの村なら聞いたことがあると、女のような甲高い声で物騒な返事をしました。私たちがぎょっとしていると、製材所の若者は大丈夫というふうに手を横に振って、ぶっきらぼうにいいました。
「あいつらが出るのは、もっと人の通りが多い時期だ。今は冬場なので、この道を通る者はまずないことを知っているので、わざわざ待ち伏せなんかしない」
「冬場は、この先の村との商いはないのかね」
私は声を張りあげて、先頭のフランチェスコに聞きました。若者の返事は、あと数日もしたら、雪や寒さでこの道も凍ってしまい、危なくて、誰も通らなくなるだろうということでした。それでカタリ派の女が急いで旅立ちたがっていた理由がわかりました。
「冬になると、このあたりの山はどこもかしこも魔物や精霊のものになる」
フランチェスコは、少し開けたところに出て、一休みしている時にいいました。
「おれのお祖父《じい》さんの話だけど、この山のどこかに、腰くらいの高さしかない杉やら樅《もみ》やらが生えている森があるんだと。それらは小さいけれど、ほんとうはものすごい年寄りの木で、夜になると、月明かりの中で踊るんだそうです。そこに妖精《エルフイ》や小人《ニヨーモ》、半狼半熊《ロオフ》、|人喰い鬼《バタン》やら吸血鬼《ヴアンビラ》なんかが集まって朝まで騒ぐんだって」
ヴィットリオは胸の前で十字を切って、何か祈りの言葉を呟《つぶや》きました。
冬の陽の落ちるのは早いものです。マエ急流沿いに歩いているうちに、太陽は西に転がり落ちていき、山の縁に隠れるや、あたりは灰色の幕をかけたように暗くなってしまいました。でこぼこした崖は化け物の顔に見え、岩にへばりついている松や杉はぼろをまとった巨人たちの群像のようです。悪魔の遣いの梟《ふくろう》が鳴きはじめると、自然、早足になります。しかし、どんなに急いでも、夏桂たちの一行に追いつく気配はありません。
夜空に星が瞬きはじめた頃、小道は谷へ下っていき、流れを跨《また》ぐ格好で設けられている水門が見えてきました。木組みの荒い格子が急流の中に嵌《は》まっています。水門の前の深い瀬には、釘《くぎ》のように頭を水面から突きだした丸太がぷかぷかと浮かんでいました。水の流れを邪魔せずに、上流から流れてくる丸太を堰《せ》き止めている門です。その門の横にある粗末な平屋を指さして、フランチェスコが、丸太流しの小屋だといいました。格子門は川のあちこちに設けられていて、門を開け閉めすることで下流に流す丸太の量を調節しているのです。伐採の季節には下流の村にどっと丸太が流されてくるため、そうでもしないと収拾がつかなくなるのです。丸太には持ち主である材木商の印がつけられているので、丸太流したちは、材木商と契約した製材所まで確実に送り流すことができます。なかなか賢いやり方だと感心しました。
川も凍る冬場は、丸太流しの仕事も休みです。小屋は空いているだろうから、今夜はそこで休もうということになりました。ところが、今にも屋根も潰《つぶ》れそうな水門の横の小屋に歩いていくと、ぷんと煙の匂《にお》いが漂ってくるではないですか。「先客がいる。ルイジかもしれない」と、フランチェスコは囁《ささや》きました。ルイジというのは、彼の甥《おい》で、今朝、旅人の案内に立った少年です。
私たちは足音を忍ばせて小屋に近づいていきました。煙突もない木羽葺《こばぶ》きの屋根の隙間《すきま》から、うっすらと煙が洩《も》れていました。窓もない家ですから、中を覗《のぞ》くわけにはいきません。一旦《いつたん》小屋から離れると、フランチェスコに、二人は異端者であることを告げ、彼らを捕まえるのを手伝ってくれるように頼みました。ヴィットリオが、手伝わなければ、異端者の手引きをしたルイジにも罪が及ぶといったので、フランチェスコは引き受けざるえませんでした。
私は護身用の剣を持っていましたし、フランチェスコも山刀を携えていました。私たちは手はずを決めて、小屋に踏みこみました。
案の定、中にいたのは、カタリ派の女と夏桂でした。小屋の中央で燃える焚《た》き火の赤々とした光に、カタイの血を引く顔が浮かびあがっているのを見るや、私とフランチェスコは夏桂の前後から刃物を突きつけました。ヴィットリオは、カタリ派の女を羽交い締めにしました。案内の少年は襲ってきた三人の一人が叔父《おじ》だと気がつくと、なにがなんだかわからないままに、小屋の隅でおとなしくしていました。
小屋にあった蔓紐《つるひも》で夏桂と女を縛りあげると、私たちは彼らの焚いていた火のまわりに座りました。夏桂とカタリ派の女は縛られたまま、じっとしています。お互い同士でも、私たちに対しても何かいうでもなく、むっつりと闇《やみ》を睨《にら》んでいました。
「父を刺して、無事逃げられるとでも思っていたのか。今度こそ、おまえも縛り首だぞ」
私は夏桂にいってやりました。すると夏桂はしゃあしゃあと、父は勝手に剣に向かって突きかかってきただけで、自分は何も悪いことはしていないと言い逃れするのです。私の象牙《ぞうげ》の貴重品|函《ばこ》を壊して、金牌を盗もうとしたではないかと詰《なじ》ると、ジョヴァンニーノに命じられたのだと答えました。この時には私はそれが事実だとは知りませんでしたから、弟に罪をなすりつけていると思って、足蹴《あしげ》にしてやりました。
「あんただって、同じことをしたはずだ」
縛られたまま地面に転がり、夏桂は喚《わめ》きました。
「あんただってカタイから出る時、必死だったじゃないか。海賊に襲われても、逆風で足止めされても、西を目指した。ヴェネツィアに戻るためだったら、なんでもしただろう。人ぐらい傷つけただろう、殺したこともあっただろう」
その時、私の脳裏に子供を抱えて泣いている女の姿が浮かびました。揚州《ヤンチユウ》で棄てた女です。私が大都《カンバリク》に帰る日、家の門の前に来て、連れていってくれと泣きました。持参金もつけ、新しい嫁入り先も用意してやったのに、これ以上、何が欲しいというのか。不機嫌になった私は、女を下僕に追い払わせました。泣きながら立ち去った女の恨みがましい目つきときたら、まるで私が彼女に悪いことをしたみたいでした。
私はあの女を傷つけたのだろうか。そう思って、私はたじろぎました。夏桂が、逃げるために父を剣で傷つけたと同様、私は故郷に戻るために、あの女の心を刺したというのでしょうか。
「いったいなにを話しているのですか、マルコ殿」
その時、ヴィットリオの声が聞こえました。いつかタルタルの言葉で話していたのです。
足を踏んばって立ったまま、私は夏桂を見下ろしました。無精髭《ぶしようひげ》を生やし、縛られて地面に転がっている薄汚い奴隷。偶像崇拝の異教徒の輩《やから》。この奴隷と私が同じことをしでかすはずはないのです。この男の為《な》したことは、父を実際に傷つけ瀕死《ひんし》の重傷を負わせ、私の為したことは、長い目で見れば女の幸福に繋《つな》がることでした。同じ言葉で話すと、つい相手と同じところに立っていると思ってしまいます。しかし、それは誤りです。神の側に立つ者と、神とは反対の岸辺に立つ者が、同じ罪を犯すはずはないではないですか。
「いや、たいしたことではない」
私はヴィットリオに答えました。修道士は、寒そうに手をこすり合わせながら夏桂と女を見下ろし、今夜はここに泊まることになるが、もっと薪《まき》が必要だといいだしました。
確かに、夏桂たちの集めていた木の枝は少なく、真夜中には無くなってしまうでしょう。私たちは、フランチェスコと甥の少年に、外からもっと薪を集めてくるように命じました。二人が小屋から出ていくと、ヴィットリオは女にかがみこみました。縛られた時に頭巾《ずきん》が外れ、金髪が肩まで広がっていました。青白い顔に嵌《は》められた碧玉《へきぎよく》のようなふたつの瞳《ひとみ》が怒りに燃えています。アルピの向こう、ジェルマニアあたりの血が混じっている顔です。
おまえはカタリ派の完徳者だろうと、ヴィットリオが聞くと、女は「わたしは善きクリスト教徒です」と答えました。巧妙な言い方でした。カタリ派だと認めれば、火炙《ひあぶ》りになるのはわかっているのです。
「死んだ仲間を平気で路傍に棄てていく者は、カタリしかいない」
ヴィットリオは女の脇《わき》に置かれていた布袋を拾いあげ、中のものを地面にばらまきました。素焼きの杯、櫛《くし》、巾着《きんちやく》、手拭《てふ》きの布といったものの中に、四角い包みがありました。それを開くと、女の姿が描かれた板絵《イコナ》が現れました。周囲に金と宝石の飾られた立派なものです。これは何かと修道士は問い質《ただ》しました。女が、ただの飾りだと応じましたが、ヴィットリオは納得しません。
「カタリ派は現世の富には無関心のはずだ。これが聖杯なのか」
女は冷笑を浮かべました。
「あなたたちは、まだそんなものに惑わされているのですか。クリストの降誕も死も幻です。幻である者の血を受けた杯なぞ、いったいなんの価値があるのですか」
「それでは、おまえたちの考えでいうなら、これはなんなのだ」
「それは目に見えないけれども、確かなもの。真実を欲する者には、この世のなににも勝《まさ》り、欲しない者には屑《くず》同然のもの」
女は暗唱するようにいいました。
「そんな曖昧《あいまい》な言い方で、わたしを煙に巻こうとでもいうのか」
女は答えませんでした。ヴィットリオは、それ以上は問いつめずに板絵を自分の持ち物を入れた袋の中に入れました。
しかし、私には納得しかねました。その板絵が、長年、私たちが探してきた聖杯なのでしょうか。杯の形もしてないし、奇蹟《きせき》を起こすようにも見えません。第一、奇蹟を起こすものなら、カタリ派の女は、その力で追っ手から逃げおおせたのではないでしょうか。それとも、聖杯はクリスト教徒のためにしか力を発揮しないのでしょうか。だとしたら、なぜ夏桂やカタリ派の女に、今の今まで禍《わざわい》が降りかからなかったのでしょうか。
「それはほんとうに聖杯なのですか」
私は疑問を口に出さずにはいられませんでした。
「カタリ派の完徳者が持って逃げていた宝物なのですから、そうでしょう。だいたい、聖杯と呼ばれるものの実体は誰にもわかっていないのです。黄金と宝石のちりばめられた板絵であっても不思議はありません。かつては黄金の杯だったのが、後の時代に板絵に造り替えられたのでしょう」
ヴィットリオは、犬でも考えつきそうな推理を披露しました。彼にとっては、聖杯は何だろうといいのです。私の指輪でも、黄金の十字架でも、うまく理由をこじつけられれば、それでいいのです。
それは聖杯について、私が考えていたことでした。この私がそういうのならわかります。東方にいた二十年以上、私たちはこの聖杯を探してきました。苦労をして密林に分け入ったり、河を溯《さかのぼ》ったりしたものです。その苦労の挙げ句に、聖杯が何であろうと、教会が認めるのなら、それでいいと思うようになったのです。しかし、その教会の側もまた私と同じ考えだったとは、馬鹿にされた気持ちでした。聖杯がこんなにお手軽に「発見」できるものだったなら、とうの昔に元《げん》の宮廷にあった染め付けの壺《つぼ》でも持ってきて聖杯と名づけて、教会に寄付すればよかったのです。
ヴィットリオに私の不満には気がつかず、次に夏桂の持っていた袋を逆さにしました。中にはほとんど何も入ってなかったのですが、どさりと重い袋が地面に落ちました。修道士は中を覗いて、ほう、と青い目をきらめかせました。
「あなたの奴隷は意外と金持ちらしい」
私はヴィットリオの手から袋を受け取りました。中には大銀貨がぎっしり詰まっているではないですか。
「どこで盗んだのだ」
私は夏桂に聞きました。
「盗んだのではない。もらったのだ」
夏桂が抗弁しました。隣でカタリ派の女が、自分があげたのだと言葉を添えました。しかしヴィットリオの耳には聞こえなかったようです。
「奴隷は金銭を所有してはならない。それは、マルコ殿、奴隷の主人たるあなたのものです」といって、微笑《ほほえ》みました。
「聖杯はわたしどものもの、その財貨はあなた方のもの。いかがでしょう」
カタリ派の女が、「泥棒、それはわたしたちのものです」と叫びました。夏桂は冷ややかな目つきで私たちを見ています。私は落ち着かない気分になりました。確かに相手は異端者と逃亡奴隷です。しかし、彼らの持っていたものを、堂々と自分のものにするのは、少々後ろめたさがありました。
ヴィットリオもそれを感じたのでしょう。私を小屋の薄暗い隅に連れていって、腰に下げていた巾着《きんちやく》の中から小さな袋を出すと、私の手に押しつけて囁《ささや》きました。
「聖杯も手に入れたし、問題は解決しました。カタリ派の女や罪を犯した奴隷をわざわざヴェネツィアまで連れ帰るまでもないでしょう。どうせ彼らは火炙りか絞首刑です。それなら、これを飲ませて先に始末してしまいましょう」
これは何かと問いますと、ヴィットリオは私のほうに金色の巻き毛を近づけました。
「サルドニアという毒草です。これを飲んだ者はあっという間に命を失います。死神のような冷たい笑みを浮かべてね」
死神のような冷たい笑み、という言葉が、私の頭にひっかかりました。そんな死に方をした男の話を、最近聞いたことを思い出したのです。
「父が刺された日の朝、ニコラ師とあなたはわたしたちの家に来ましたね」
私は考えながらいいました。
「後で、叔父からの手紙で知ったのですが、その前にあなた方は、総督宮殿の牢獄《ろうごく》に立ち寄り、楽師を殺した男に会ったらしいですね。あなた方と別れた後、楽師を殺した男もまた、冷たい笑みを顔に残して死んでいったと聞きましたが……」
「悪人とは、冷たい笑みを浮かべたまま死んでいくものなのでしょう」
ヴィットリオはけろりとして答えました。
「わたしたちのためにも、この二人を殺しておくほうがいいのです。聖杯を教会が奪ったなどといわれたら困りますからね。それに、この奴隷は異教徒だし、父上を傷つけたのでしょう。あなたには殺す理由があります」
私はまだためらっていました。逃亡奴隷の夏桂はまだしも、カタリ派の女は私とは何の関係もありません。
「でも、あのカタリ派の女は〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉を知っているかもしれないのですよ。なぜ殺す必要があるのですか」
「カタリ派の完徳者は、死を怖れません。どんなことをしたって〈山の彼方〉の場所をいうものですか。それより帰依《きえ》者たちの口を割らせるほうが簡単でしょう」
トレヴィーゾの職人の親方、夏桂たちをベルーノまで案内した筏乗《いかだの》り。異端の手引きをした者たちを、後で徹底的に問いつめるつもりなのでしょう。あまり彼らの肩を持っていると、異端に好意を持つ者として、私まで危ない立場になりかねないと思いましたので、それ以上は何もいいませんでした。
「これをわたしたちの持ってきた葡萄酒《ぶどうしゆ》に混ぜて、二人に飲ませるのです。すぐにかたがつきます」
ヴィットリオはそう告げると、薪《まき》を集める手伝いをするといって小屋から出ていきました。さすがに聖職者の身で人殺しの場には居合わせたくはなかったのです。
私は、夏桂とカタリ派の女と小屋に残されました。がらんとした小屋の真ん中、石で囲んだ簡単な炉の中で火が燃えています。私は地面に転がっていた、カタリ派の女の杯を拾いあげました。私たちの持ってきた荷物は、小屋の入口に置いています。葡萄酒を入れた革袋もそこにありました。私は焚《た》き火に背を向けて、こっそりと杯に袋の中の粉を入れると、葡萄酒を注ぎました。
「マルコの旦那《だんな》」
地面にあぐらをかいて座っていた夏桂が、タルタルの言葉で私の背中に声をかけました。
「楽師を殺した刺客を雇ったのは、ニコラとかいう坊主だ。おれは牢獄でそのことを聞いた。ニコラは、聖杯をあんたたちに探させるだけ探させて、見つかったものはこっそり自分の懐に入れようと考えたんだ」
私は葡萄酒を入れた毒杯を手にして、夏桂を振り向きました。揺らめく炎の光で、奴隷は頷《うなず》きました。細い目が狡知《こうち》に長《た》けた者のようにきらめきました。
「あんたは利用されているだけだ」
ニコラ師が、なぜ、あんなに早く夏桂の逃亡を知ったか。なぜヴィットリオが刺客を暗殺しなくてはならなかったか。夏桂のいうことがほんとうなら、すべて説明はつきます。
ニコラ師は、教会に聖杯をもたらす功労者は一人で充分だと思ったのでしょう。おおかた死して聖人にでも祀《まつ》りあげられたいと願ったのでしょう。
しょせん聖杯とは道具です。教会の名を高めるため、ニコラ師や私たちの名を永遠にするための手段です。わかっていたことではありましたが、聖職者がヴェネツィア商人より駆け引きがうまいとはどういうことでしょうか。
私の中で渦巻いていたもやもやした疑問や不満が、大きくなるのを感じました。私は葡萄酒の入った毒杯に目を落とし、それから焚き火の前で縛られたまま、背中を丸めて座る夏桂に視線を移しました。
泉州《ザイトウン》からの二年に及ぶ旅の間に、六百人もの乗組員が十八人にまで減っていきました。残された者たちは、毎晩船の甲板や砂浜で焚き火を囲んで座り、夜を共に過ごすことになりました。食事の後、夜の無聊《ぶりよう》を慰めるために、故国や旅先で出会った話など代わる代わる披露したものでした。
夏桂も求められると、金と真珠に彩られた彼の生国、ジパングのことを話しました。屋根も床も純金で造られた国王の宮殿のこと、真珠が採れすぎて、死者の口にまで含ませて埋葬すること、住民は千本の手のある偶像を崇拝していること。他国人の捕虜が身代金を払えなければ、友人や親戚《しんせき》を招待して料理して食べてしまうといった恐ろしい習慣のことまでも。奴隷も自由民の水夫も、雇い主も、それぞれの語る話に感嘆と好奇を持って耳を傾けたことでした。ヴェネツィアに無事辿《たど》りつくというひとつの目的のために集まった者同士、その時の私たちには奴隷も主人も境はありませんでした。異教徒だという意識もありませんでした。
丸太流しの小屋の中で、突然、その旅の日々が私の胸に蘇《よみがえ》りました。この男は、私の仲間だった時があったのだと思いました。
私は夏桂に、毒杯を差しだすことはできませんでした。
薪を抱えて戻ってきたヴィットリオが、夏桂とカタリ派の女が消えているのを見た時の驚きと怒りといったらありませんでした。私は、夏桂が毒杯を飲んだ後、突然暴れだし、縄を引きちぎり、聖杯も金も持って逃げていったと説明しました。
ヴィットリオが聖職者でなかったら、その場で私を八つ裂きにしていたでしょう。サルドニアがそのような凶暴性を発揮させる毒とは知らなかったと厭味《いやみ》をいっていましたから、私が逃がしたことを察していたかもしれません。それでも未練たらしく、毒を飲んだのなら、遠くまでは逃げられまい、死体はこの近くにあるはずだと、二、三日、小屋に留まって、フランチェスコと甥《おい》を使って捜索させました。しかし三日目、本格的に雪が降りだし、渓谷沿いの道を通れなくしてしまう恐れが出てきたので、渋々帰途につきました。
ペラガローネの村に着いた時には、アルビの山々はすっかり厚い雪雲に覆われていました。マエ急流沿いの道は、もう春までは通れません。ペラガローネの先のカドーレ地方は、アクイレイア総大司教管区になっているので、ヴィットリオは雪が融け次第、総大司教に頼んで、〈山の彼方〉を探す協力を仰ぐと息巻いていますが、この雪で夏桂たちの足跡は消えてしまっています。奥深いアルピの山中から、彼とカタリ派の女を見つけだすのは、大海に落ちた葡萄酒の滴を探すようなものでしょう。
つまるところ、叔父上《おじうえ》、私たちは聖杯を手に入れることはできませんでした。当然だったとも思います。聖杯とは、人が決して手に入れることのできないものなのでしょう。私たちの鼻面をつかんで旅へと駆りたてる、見果てぬ夢の一片にすぎないのです。
ペラガローネの村に戻る途中、不思議なものを目にしました。降りしきる雪の中、小用を足すために木立に寄り道していた時です。気がつくと、私は皆から遅れていました。慌てて追いかけたのですが、前の三人は曲がり角の向こうに消え、切り立った渓谷沿いの路上で一人取り残された感じになりました。
びゅうびゅうと荒い息を吐いて、風が谷を駆けていきます。雪が白い花びらのように舞っています。枝ばかりとなった灰色の木々がじっと私を見下ろしています。
私は足を止めました。それは肌に馴染《なじ》んだ感覚でした。自分が、この場所に属してないという感じ。そこでは人は通り過ぎていくだけの精霊、根を生やしている住人は、木々や水や風でした。トュルキアとカタイの間に横たわる広大なロブ砂漠で、吐蕃《ツ・ボツド》の山地で、蛮子《マンジ》の密林で、人家もなく道もない、人の手が触れることもできない、自然だけの支配する土地で、何度も似たような感覚を覚えたことでした。
私はあたりを見回しました。谷に向かって落ちていく灰色の波のような岩肌。吹きあげてくる粉雪。霧に霞《かす》む谷底から聞こえる水音に耳を傾けながら、渓谷の向こう側に視線を投げかけた時、そこを横切っていく一群の人々が目に入りました。赤糸で綴《つづ》りあわせた鎧《よろい》を着て、頭に飾りのついた兜《かぶと》をかぶった男たちが馬に乗っています。丸い楯《たて》や長槍《ながやり》、鎧の下から覗く芥子色《からしいろ》や藍色《あいいろ》の衣の裾《すそ》。見覚えのある装備は、他でもないタルタル人の軍隊のものです。騎馬に乗った兵士たちは、ゆっくりと、枯れ葉の敷きつめられた急な斜面を進んでいきます。足許《あしもと》には数頭の黒い犬が従い、疲れたように足を引きずる徒歩《かち》の兵士もいます。甲冑《かつちゆう》の鳴る音も馬のいななきも、枯れ葉を踏む音もありません。降りしきる粉雪の中を葬列のように静かに進んでいきます。
その行列の中に、父の姿がありました。隣を行くタルタル人の男と話していたのが、ちらりとこちらに顔を捩《よじ》りました。渓流を隔てているというのに、父の表情はよくわかりました。生き生きして、とても楽しそうでした。父は私に笑ってみせると、またタルタル兵との話に戻っていきました。タルタル人の行列は、編み模様のように絡みあう灰色の木々の間に消えていきます。それを見送りながら、私は、今もアルピやジェルマニアの山奥をさまよっているというチンギスカンの軍隊の噂《うわさ》を思い出していました。東方に帰る途中、仲間とはぐれて、永遠に帰り道を探し続けているタルタル人の軍隊。しかし、なぜ、彼らの中に父が混じっていたのかわかりませんでした。その時は父の死も知らず、ヴェネツィアで臥《ふ》せっていると信じていたのですから。
それでも、私はこの時、心のどこかで父の死を悟ったのだと思います。ベルーノに帰りついて叔父上の手紙を読んで、まっさきに頭に浮かんだのは、やはり、という言葉でした。
手紙には、父が外階段から中庭に転げ落ちたと書いてありましたね。そしてジョヴァンニーノは、父が、逃げようとした自分たちを追いかけてきたといっているということでした。私は、父はジョヴァンニーノと一緒に東方に帰りたかったのではないかと思います。父はカタイに戻りたかったのです。彼の地で、妻のマリアと一緒に、人生をまっとうしたかったのではないでしょうか。
深夜の鐘が鳴りはじめました。降誕祭の鐘です。主の御生誕が祝われているこの夜、父は異教徒の軍隊と共にアルピの山中をさまよっているのでしょう。しかし、それでもって、父は不幸だと決めつけることはできません。永遠に地上をさまよい続けることは、深い罪業ではなく、父にとっては永遠の喜びなのかもしれないのですから。
[#地付き]ベルーノ、聖ピエトロ修道院にて。あなたの甥《おい》マルコ・ポーロ
すでにあたりは薄暗くなり、茜色《あかねいろ》の空に突き刺した剣のように伸びる山影の縁に一番星がひっかかっていた。寒々とした空気が、畑の前に座る二人の男を包んでいた。
修道士は、マルコの最後の手紙の部分をさもおぞましそうに早口で読みあげると、膝《ひざ》の上に置いた。
「この手紙は出されなかったもののようで、封印の蝋《ろう》が押されていない」
修道士は、茶色になった手紙の束をひとつにまとめながらいった。夏桂は、もたれていた木の幹にすがりついてのろのろと腰を上げた。
「そんな手紙は、取っておくこともなかったのだ。嘘《うそ》の臭いがぷんぷんする」
修道士は戸惑ったように、薄闇《うすやみ》を透かして東方の老人を見た。木の前に半かがみになって立った夏桂は、白い髭《ひげ》を揺らしてかぶりを振った。
「書かれたものなぞ、信用するではない。それは翼を持ち、やがて真実の仮面を持って広がっていく。あんたはマルコが本を書いたといっていたが、きっと腹の捩れそうなおかしげなことがいっぱい書かれていることだろう」
「いったい、この手紙のどこが嘘なのだ」
修道士は苛《いら》ついた声をあげた。夏桂は節だらけの手で頬《ほお》を撫《な》でた。
「いろいろあるが……とにかく、丸太流しの小屋では、マルコはわしを逃がしたわけではない。それどころか、マルコは、わしに毒杯を葡萄酒《ぶどうしゆ》だといって勧めた。今夜は寒くなりそうだから、体を暖めておけ、とな。突然、そんな優しげなことをいわれて、誰が信じるものか。わしは飲むのを拒んで暴れだした。そしたらうまいことに手を縛っていた紐《ひも》がちぎれてくれた。わしは蒙古刀に飛びついて、マルコに突きつけ、カタリ派の女と一緒に逃げたというわけだ。マルコは自分が奴隷の前で手も足も出なかったと白状したくなかったから、マフィオヘの手紙にそんなことを書いたのだ。人は語りたいことしか語らないし、見たいものしか見ない。雪の中で、父親の亡霊を見たという話も怪しいものだ。ニッコロは死んで幸せだったと信じたかっただけかもしれない」
修道士は外套《がいとう》の前を掻《か》きあわせて立ちあがると、夜気にしっとりとしてきた草を踏んで、夏桂のほうに近づいていった。
「だが、聖杯がおまえと共に消えてしまったのは事実だ。あれはどこにあるのだ」
夏桂は大きな声をあげて笑った。
「あんたたちは、まだあれを大《おお》真面目《まじめ》に探しているのか」
そして、長身の修道士をからかうような表情で見上げた。
「マルコの最後の手紙にあったな。聖杯とは、人が決して手に入れることのできないもの、と。あの手紙の中に紛れこんでいた真実の言葉だ。この世のものはすべて嘘と真実でできている。嘘の中に真実は混ざりこみ、真実の中に嘘は混ざりこむ。聖杯が、あんたたちが求めるような聖なる物なら、完璧《かんぺき》なる真実でできてないといけないだろう。すべてが真実であるものなぞ、この世のものではない。つまり、聖杯なぞ、この世にはありえないということだ」
「タルタル人らしい、おかしげな論理だ」
修道士は鼻先で嘲《あざけ》るようにいった。
「わかっているのだ、夏桂。ここには昔、村があった。しかし、村が異端に染まっているという噂が流れた時には、もぬけの殼になっていた。実は、この地こそ、カタリ派の巣窟《そうくつ》、〈|山の彼方《ウルトラ・モンテス》〉だったのだろう」
夏桂は何もいわなかった。修道士は、藍色《あいいろ》の外に黒々とした影を落とす頭上の崩れた城壁や木立の中の家々の壁を眺めた。
「長い間、ここは無人の廃墟《はいきよ》となっていた。ところが十年ほど前、おまえが棲《す》みはじめた。実は舞い戻ってきたんだろう。タルタル人の隠遁《いんとん》者の噂を耳にしてから、調べたんだよ、夏桂。ずっと昔、あの上の城に狐の毛皮を着た魔法使いが棲んでいたと聞いた。狐のようにつり上がった目をした怪しい男、つまりタルタル人がいたということじゃないか。おまえが舞い戻ったのは、ここに聖杯が隠されていたせいだ、そうだろう、夏桂」
修道士は、老人がちらりとみすぼらしい小屋に目を遣ったことに気がついて、薄青色の目を細めた。
「聖杯は、あの小屋にあるのか」
夏桂が答えずにいると、修道士は相手の痩《や》せた肩に手を置いた。
「正直に教えたほうが身のためだぞ、夏桂。おまえの命は、わたしの手の内に握られているからな」
夏桂は蝿でもとまったように肩を揺すって、修道士の手を払った。しかし修道士は気分を害した様子もなく、楽しげに続けた。
「おまえの飲んだ葡萄酒には毒が入っていた。マルコの手紙にも出てきたサルドニアだ。おまえはそれを飲んだ。まもなく冷たい笑みを顔に浮かべて死んでいくだろう。だが、おまえが聖杯の在処《ありか》を教えてくれるなら、毒消しをやろう」
修道士は外套の中に手を突っこんで腰帯に括《くく》りつけていた小さな布袋を引きずりだし、夏桂の顔の前で振った。
「ほら、これがサルドニアの毒消しの薬だ」
夏桂はそれを厭《いと》わしげに見てかぶりを振った。
「あんたのいうことなぞ信じないぞ、ヴィットリオ」
修道士は驚いて布袋を振るのをやめた。
「あんたが危ない人間だとは最初からわかっていた」
夏桂は足許《あしもと》に置かれていた杯を蹴《け》った。すでに空になっていた杯は乾いた音をたてて転がり、木の根にぶつかって止まった。
「なにしろ最初から『|いい日和で《ブオン・デイ》』と挨拶《あいさつ》してくれたからな。このあたりの人間は、そんな言い方はしない。その言い方をするのは、ヴェネツィアの者だけだ。ヴェネツィアから来た教会の者を見かけたら、孫子の代まで信用してはならん。それがわしの信条だ。おかげで、この歳まで生き延びてこれた。あんたが手紙を読んでいる間に、だんだんとわかってきたよ。文中で、ヴィットリオという名前が出るたびに、少し誇らしげに声が大きくなったからな。もっとも、そうでなければ、とうていあんただとは気がつかなかっただろう。時の手は残酷なものだ。あんたの美しかった顔は、今じや見る影はない」
ヴィットリオは不愉快な顔つきになった。
「わたしが誰であろうがどうでもいいことだ。おまえが考えなくてはならないのは、この毒消しを飲まなければ、まもなく死ぬということだ。生きていたければ、聖杯の在処をいうんだ」
「怪しい者からの差し入れに、わしは注意している」
夏桂はヴィットリオの言葉を無視して、修道士の座っていたところに置き去りにされていた杯を指さした。
「あんたが葡萄酒を注いだ杯を、わしは飲まなかった。あんたが手紙の順番を揃《そろ》えている間に、すり替えておいたんだ。わしの葡萄酒を飲んだのは、あんただよ」
ヴィットリオの顔が動きを止めた。夏桂は、修道士の萎《しな》びた顔に向かって頷《うなず》いた。
「ほんとうさ」
ヴィットリオの顔が凍りつき、やがてじわじわと歪《ゆが》んでいった。細かな皺《しわ》の寄った丸顔に、泣いているとも笑っているともわからない表情が浮かんだ。
「まさか……そんなはずはない……。おまえが杯を入れ替えたなら、わたしが気がついたはずだ」
修道士は布袋を持った手で腹をこわごわと撫《な》でながら呟《つぶや》いた。
「毒消しとやらがあるなら、早いところ飲んだほうがいいんじやないか」
ヴィットリオは喘《あえ》ぐような息をした。今や顔は鳥兜《とりかぶと》の花のように青ざめている。
「毒消しがあるなんて嘘なんだろう。あんたは、わしにサルドニアを飲ませて、ありもしない毒消しを餌《えさ》に聖杯の在処を聞き出すつもりだった。どっちにしろ、わしを殺すつもりだったんだろうが」
ヴィットリオの手から布袋が滑りおちた。夏桂は豚の囲いにゆっくりと歩きだした。三頭の豚が飼い主を認めて、鼻を鳴らしだした。
「嘘だ……」
がらがらした声でヴィットリオがいった。
「嘘だ。わたしを怯《おび》えさせようとして、そんなことをいっているんだろう、そうだろう、嘘なんだろう、夏桂っ、嘘だといえっ」
修道士は足を踏み鳴らし、大声をだした。
「嘘の中に真実が混ざり、真実の中に嘘が混ざっている」
夏桂は歌うようにいうと、豚の囲いを開き、小屋に追いたてていった。
小屋の中に三頭の豚を入れていると、背後で悲鳴があがった。夏桂が振り向くと、森の中に走っていく修道士の後ろ姿が目に入った。手紙の束も驢馬《ろば》も荷物もすべてそこに放りだしている。修道士の姿は深い森の暗闇《くらやみ》に消えていった。
夏桂は小屋の戸を閉めて、さっきまで修道士の座っていたところに戻った。放りだされた手紙の束を集め、荷物を持って、近くの木に結びつけられていた修道士の駿馬の紐《ひも》を解《ほど》いた。
もう日はすっかり暮れていた。茜色の夕焼けは消え、白い星をまき散らした藍の夜空が広がっている。森からは木々のざわめきが湧《わ》きあがり、冷たい風が吹いていた。
夏桂は、駿馬と山羊《やぎ》を引いて小屋に連れていくと、豚たちの近くの低い梁《はり》に繋《つな》いだ。入口の鍵《かぎ》をしっかりとかけ、炉端の灰をかきまぜて、火をおこした。ちろちろと赤い火が燃えはじめると、壁際の寝台に腰を下ろした。枯れ草を敷いた上に粗布をかけただけの寝台だった。
痩《や》せた両手を火に翳《かざ》して暖を取りながら、夏桂は、夜が近づいてくる密《ひそ》やかな足音に耳を澄ましていた。
角川文庫『旅涯ての地(上)』平成13年6月25日初版発行