[#表紙(表紙.jpg)]
坂東眞砂子
夢の封印
目 次
夢の封印
陽 炎
蓬莱ホテル
夜の魚
陽だまり
月待ち
熟れた休日
[#改ページ]
夢の封印
A Cathy―カティへ
目の前に扉があった。淡い紫色の金属製の扉だ。小さな丸い覗き穴が、一つ目小僧のようについている。扉の横には、『田代』という表札。マンションの廊下の薄暗い照明の下だというのに、ワープロで打った苗字が、やけにくっきりと浮きあがっていた。その字を見たとたん、敏郎の胸に巣くっていた憤りが、さらに激しく沸きたった。
紘子、俺を裏切りやがって。
敏郎にはわかっていた。紘子は、今、この扉の向こうで男と一緒にいるのだ。蒲団の中で裸になって、あの白く柔らかな肉体を敏郎以外の男に絡みつけている。貝の身のような桜色の唇を、男の皮膚に這《は》わせている。敏郎と一緒の時に見せる半分泣きそうな、陶然とした顔を、男の肩に埋めている。
殺してやる。
敏郎は唐突にそう思い、もどかしい手つきでポケットから合鍵を出し、扉の鍵穴に押しこんだ。鍵は魚が餌にひっかかるような感触を指に残して、かちりと回った。敏郎は扉を開いて、中に入った。
玄関は、そのままフローリングのダイニングキッチンに続いている。流しの前の小窓越しに廊下から差し込む光が、赤と白の格子柄の布のかかった四角いテーブルと、向かい合わせになった北欧風の木の椅子をうっすらと浮かびあがらせている。テーブルには、白い霞草《かすみそう》と黄色の水仙が飾られていた。カーテンも赤と白の格子柄でまとめられて、いかにも紘子の趣味らしい家庭的な雰囲気を漂わせている。いつもなら、そこに安らぎを見いだすのだが、今夜は違った。敏郎はフローリングの床に上がりこんだ。どかどかとダイニングキッチンを突っきり、奥の寝室の襖を開いた。畳の上に赤と黄色の花柄の蒲団が敷かれている。その中で、紘子が眠っていた。紘子は一人だった。男はいない。そんなはずはない。絶対、男がいるはずなのだ。どこかに隠れているのか。襖を開いたまま、血走った目で、寝室の薄闇を睨みつけていると、紘子が敏郎の気配を感じて、体を動かした。片肘を枕に押しあてて半身を起こすと、相手が敏郎だと気がついて微笑《ほほえ》んだ。
ものの輪郭がわかるだけの暗がりだというのに、どういうわけかその微笑みは、敏郎にはっきりと見えた。桜色の唇から放たれた甘い笑みの波が、頬から細められた目尻へ、ほつれ毛の垂れ下がるすべすべした額にまで、花が開くように広がっていく。陰りのひとつもない、清純な微笑み。
敏郎はたじろいだ。男と寝ていると思ったのは、間違いだったのか。そんな考えが過《よ》ぎり、敏郎は自分の姿に気がついた。仕事帰りのスーツに、革靴を履いたままだ。黒い紐をきっちりと結んだ革靴が畳を踏みしめていた。自分の行為に驚きつつ顔を上げた時、掛け蒲団からはみ出した紘子の肩が目に飛びこんできた。白い絹のパジャマに包まれた丸い肩は、光沢を帯びて輝いていた。パジャマを着ているにもかかわらず、紘子は素っ裸に思えた。肩胛骨が浮きでた華奢な肩や、ふっくらと盛りあがった乳房がまざまざと脳裏に浮かんだ。
この体が、今に他の男のものになる。今夜、敏郎以外の男と一緒に寝ていなくても、早晩、そのようになる。時間の問題なのだ。紘子は、この柔らかな肉体も、甘い微笑みも、愛情も、自分自身をすべて他の男に委ねてしまうだろう。俺は紘子を失ってしまう。もうすぐ、失ってしまう。怒りと焦燥が全身から噴きあがってくる。敏郎はたまらなくなって叫んだ。
「だめだ、やめろっ」
敏郎はびくんと肩を震わせ、目を覚ました。寝室の壁のコンセントに差した常夜灯のオレンジ色が、滲むように光っている。敏郎は掛け蒲団から両手を出して、息を吐いた。脂汗が額や腋の下を湿らせていた。
「あなた、どうしたの」
隣から、妻の琴美の眠たげな声が聞こえた。
「俺……なんかいったか」
敏郎は、ぎくりとして聞いた。紘子の名なんか口走っていたら、どう言い訳していいかわからない。しかし、琴美は「だめ、とかいってたみたい」と答えた。
敏郎は安堵した。少なくとも、紘子の名は出さなかったようだ。敏郎は、円盤型の照明のついた寝室の天井を見上げた。夢の中で感じていた怒りや焦燥感が、闇の中に退いていく。夢だったのだ。現実に起きることではないのだ。敏郎は自分に言い聞かせた。それでも、暗闇に潜む獣のように、紘子に対する憤怒はまだそこに巣くっている気がした。
「心配事でもあるの」
黙っているので、再び眠ったのだろうと思っていた琴美が聞いた。
「今度、海外と新しい取引をすることになって、そのことで、ちょっと気が重い」
商社の物資営業部課長である敏郎には、心配事の種ならいくらでもあった。敏郎は、その中で最も気がかりなことを持ちだして、妻の質問を逸らした。琴美は小さく笑った。
「夢の中で、取引していたってことね」
「そうかもな」
敏郎はなおざりに返事して、妻に背中を向けた。
「でも、仕事にかまけて、来週の小学校の入学式、すっぽかすことはしないでね。拓人ったら、白苑学園に通ったことで鼻高々なんだから、両親揃って門出を祝ってあげなくちゃ」
わかっている、と敏郎はむっつりと呟《つぶや》いた。拓人は、琴美が三十四歳で生んだ一人っ子だ。三十代半ばでの初産だっただけに期待もひとしおで、幼稚園の時から英才塾に通わせ、ようやく難関の名門私立学校に入学した。敏郎自身は、子供は子供らしく育つほうがいい、公立小学校で充分だと思っていたが、妻と正面きって対立するのも面倒で、放っておいたのだった。
「山形のお義父さんとお義母さんは拓人に、大きな地球儀を買ってくれるというの。なにか、お返ししたほうがいいかしら」
「きみの判断に任せるよ」
敏郎は大仰にあくびをして、ベッドサイドに置かれている時計に目を遣った。
「もう三時だよ。一眠りしないと、明日に差し支える。まだ今週は始まったばかりだし……」
そうね、と琴美は答えた。敏郎は目を閉じた。窓の向こうは、車の音もしない。妻の寝息に耳を澄ましているうちに、敏郎は再び泥のような眠りへと引きずりこまれていった。
紘子は、毎朝六時四十五分にラジオの目覚ましをセットしている。FM局から流れてくるクラシック音楽を十五分ほど夢見心地で聴きながら、七時に蒲団から抜けだす。トイレに行っている間も、顔を洗っている間も、体の中に音楽は流れつづけ、紘子は今日も一日、そのゆったりとした音楽の中で過ごすという幻想を抱いていられる。
もちろん、会社に行ったとたん、さまざまな厄介事に巻きこまれ、それは裏切られるのだが、少なくとも朝の一時、幻想を抱いて過ごすのは悪いことではないと思っている。
しかし、その朝は、ゆったりとしたブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ』で目覚めたにもかかわらず、音楽に浸ることはできなかった。昨夜、見た夢のせいだった。
父が死んだ夢を見たのだった。紘子は喪服を着て、実家のある岐阜に向かう列車に乗っていた。静岡まで来て、それが普通列車だということに気がついた。父が死んだのに、新幹線でも特急でもなく、普通列車に乗って葬式に向かっていることに、おかしいな、と思っているのだった。
フライパンを熱して、トースターに食パンを放りこみ、インスタント・コーヒーを啜《すす》りながら、紘子は父のことを考えていた。父は、すでに二年前に癌で死んでいた。なぜ今更、父の葬式の夢を見たりしたのか、わからなかった。
フライパンに入れたマーガリンがじゅうじゅうと音をたてて溶けはじめた。紘子は冷蔵庫を開いて、ハムを一枚取りだし、さっと焼き、卵を割りいれた。レタスを洗って、胡瓜とトマトを切ってサラダを作る。『ヴァイオリン・ソナタ』は激しいヴァイオリンとピアノの競演を奏でている。
テーブルクロスの上に、ランチョンマットを敷いて、ドレッシングをかけたサラダとトースト、ハムエッグを置いた。玄関の郵便受けに入っていた朝刊を引きぬいてきて、それに目を通しながら、紘子は朝食に取りかかった。南向きのベランダに面した寝室からの光が、奥のダイニングまで入ってくる。春の陽射しが、ぬくぬくと部屋を暖めはじめている。トーストを食べ、サラダをつまんでいるうちに、やがて父の葬式の夢は遠のいていった。
大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めて二十年になる。気がかりなことも、楽しいことも、一人で対処し、一人で味わう習慣がついていた。好きな家具に囲まれ、好きな食べ物を食べ、好きな格好でくつろいでいると、気がかりなことはその行為の中に溶けていき、楽しいことは、体の中で反響して幸福な鈴の音を鳴らし、やがて弱まって消えていく。
朝食を終えると、紘子は寝室に入って、洋服箪笥を開いた。今日は、どの服を着ていこうかと考えて、敏郎のことを想った。敏郎は、紘子にはミモザ色が似合うといっている。敏郎がそういった時、紘子はミモザ色とはどんな色なのかわからなかった。ミモザって花があるだろう、あの色だよ。きれいな黄色で、でもレモン色ともちょっと違うんだ。南仏から来るミモザが花屋の店先に飾られるようになると、ああ、春になったな、と思うんだよ。イギリスの大学に留学経験のある敏郎は、会話の端々にヨーロッパを匂わす。それは紘子をロマンチックな気持ちにさせる。
大学の夏休みを利用して、イギリスの田舎町にホームステイしたことのある紘子は、敏郎の話す流暢な英語に惚れ惚れとし、その会話の醸しだす英国風の匂いにうっとりした。紘子が敏郎の愛人になったのは、そんな憧れの下地があったからだった。
迷った挙げ句、ミモザ色ではないが、それに近い山吹色のスカートに、白いブラウスを選んだ。それにモスグリーンのジャケットを着る。鏡台の前で簡単に化粧をして、八時にはマンションを出ていた。
最寄りの駅から、会社のある品川までは電車で三十分かかる。満員電車の中で、自分の居場所を見つけると、紘子はショルダーバッグから読みかけの洋書を取りだした。サマセット・モームの『月と六ペンス』だ。もっと英語に堪能になりたい。敏郎のように、難しい単語も流暢にこなすようになりたい。紘子は、頭の隅で敏郎の面影を追いつつ、英字に目を走らせはじめた。
会社とは、ひとつの舞台である。敏郎はそう思っている。そこで演じられる物語は、シェークスピアのいう通り、騒音と憤激に満ちていて、意味なぞありはしない。しかし、その事実を知っているということによって、自分は他の奴らとは違っていると考えていた。
敏郎は会社という舞台で、優秀なビジネスマンを演じている。一流の役者である敏郎は、自分の役目を信じている。しかし、時々、ふと嘘臭くなる瞬間がある。
会議の席上で、よく手入れした口髭をいじりつつ、企画を説明している時、デスクに座って、部下の視線を意識しつつ海外からの電話に英語で応対している時、会社の応接室で、取引先の社員を前にして、いかにもくつろいだ態度で話している時。イギリス仕込みの仕草を振りまいている自分を、外から見つめている別の自分を感じる。
おいおい、おまえは、そんな男ではないだろう。別の敏郎が囁く。別の敏郎は、敏郎が英国紳士ではないことをよく知っている。山形の農家に生まれ、幼い時は、足を泥だらけにして両親と一緒に米作りに励んでいた。金のかからない国立大学を目指し、必死で勉強して、政府留学生の試験に合格して、イギリスに渡った。敏郎の人生は、地道な努力と野心によって培われてきた。キングス・ストリートで仕立てたスーツも、口髭も、クイーンズ・イングリッシュすら、付け焼き刃だ。もう一人の敏郎だけが、それを知っていた。
役者とは、舞台の上で、自分の役になりきりうる者だ。自分を冷笑的に眺めはじめると役者は務まらない。そんな時、紘子の存在は、敏郎にとって救いだった。
紘子の憧れと信頼に満ちた眼差しは、敏郎の自信を取り戻させてくれた。育ちの良さを誇る妻や、憧れの視線の下で冷たい観察眼を働かせる他の女性の部下にはないことだった。紘子は、その誠実な思慕によって、敏郎の心の支えになっていた。しかし、敏郎はそんなことを紘子にうち明けたことはない。うち明けると、紘子の自分に対する無垢な憧憬が汚されると信じていた。
敏郎は、目を細めて、課長のデスクに座り、コンピューターに英文資料を打ちこんでいる紘子を眺めた。モスグリーンのジャケットを着て、てきぱきと働く紘子は普段と変わりはない。目元に優しい笑みをたたえつつコンピューターに向かい、同僚とにこやかに会話を交わし、時に口を手で覆って、小さく笑う。紘子が激しい感情を誰かにぶつけることは見たことがない。紘子は窓辺に置かれた鉢植えの小菊の花のようだった。いつも穏やかで、自分に満足し、滲むような優しさを放ちつづけている。あまりに長いこと、同じ場所に置かれているので、どこか色はくすんでいたが、よく見ると、やはり可憐な小菊なのだった。
敏郎が紘子と関係を持つようになって、七年過ぎている。三十一歳だった紘子は、すでに三十八歳になった。結婚なんか興味はないといっていたが、女のことだ。ある時、独身男と出会って、さっさと結婚するかもしれない。あの丸々とした柔らかな肉体を、誠実な心を、愛情を、すべて他の男に委ねてしまうのだ。敏郎は息が詰まりそうになり、ふと、そんなことを考えた自分に驚いた。
これまで、紘子が他の男に移っていくことを生々しく想像したことはなかった。いつか、いい男ができるかもしれないと漠然と思いはしたが、それが現実味を持って迫ってきたことはなかった。
昨夜、紘子が自分を裏切った夢を見たが、それが関係しているのかもしれない。しかし一晩過ぎると、細かなところは忘れてしまった。
敏郎は、夢の中での紘子の相手を探るように、あたりを見回した。同じ課には、七人の社員がいた。二人は女性で、五人は男性だ。男女ともに紘子より年下だ。紘子は主任の立場だが、敏郎の会社では、女子社員は一般的に男子社員よりも出世が遅い。敏郎は、紘子の向かいのデスクの平沢に目を走らせた。妻帯者で、始終、鼻毛を毟《むし》っている。女性にもてないことでは、冗談の種にさえなっている冴えない男だ。こいつではないだろう。平沢の隣にいる小太りの安原。おしゃれをしても子豚のような肉体には似合わず、何より、気障《きざ》な言動で、女子社員たちに煙たがられている。その向かいで、電話をしている安居は、堅物で通っている妻帯者だ。今は席を外している北条は、紘子に気があるらしいが、一度、敏郎がそのことを仄《ほの》めかすと、紘子は、あんな弟みたいな子、と一笑にふしたものだった。やはり不在の金田は紘子とほぼ同年齢の男だ。しかし、仕事ぶりのずさんさで課内の厄介者だ。その尻拭い役をさせられている紘子が金田を好きになるとは考えられなかった。
だが、紘子の相手が、課内の人間とは限らない。本社内には、二百人の男たちがいる。仕事関係で知り合う男も多い。私的な友達ということもある。対象を把握できないことに対する忌々《いまいま》しさがこみあげてきた時、紘子がちらりと視線を上げた。敏郎と目が合って、にこりとした。敏郎は反射的に口髭の下で微笑していた。そして、そんなことをした自分を罵った。紘子を罰してやりたかった。その優しさ、誰にでも放つ甘さ、その存在自体を罰してやりたかった。
頭の中の警戒音のように、卓上の電話が鳴った。敏郎は頭をもたげてきた怒りから抜けだせることにほっとして、受話器を取った。丸坂部長の秘書からだった。
「ピー・アンド・エス社の方がお見えです。部長室にいらしてくださいとのことです」
ピー・アンド・エス社は、ブラジルにある木材資材の企業だ。今度、敏郎の会社と取引する話が持ちあがり、その下準備のために社員が派遣されてくると聞いていた。敏郎はすぐに部長室に赴いた。
クリーム色の衝立《ついたて》で仕切られた部長室には、銀髪に縁なし眼鏡をかけた丸坂と、色の浅黒い男がいた。禿げた頭頂の周囲に残った髪は黒く、背は低く、ずんぐりしている。一見、下町の米屋の親父といったところだ。くっきりした目鼻立ちとはいえ、日本人のように見える。
「こちら、高森さん」
丸坂が日本語でいった。やはり、日本人だろうかと思いながら、敏郎が、物資営業部の加納です、と挨拶すると、高森は大きな口を横に開いて、握手のために手を差しだしてきた。
「お世話になります。私、ピー・アンド・エス社のマーケティング・デパートメントの高森フランチェスコです」
がっしりした肉厚の手には、金色の結婚指輪がはまっている。アクセントは少しおかしいが、流暢な日本語だった。
「高森さんは日系三世だということで、日本語がおできになるんで助かったよ。なんでも、東京で二年ほど暮らしたことがあるそうなんだ」
丸坂がほっとしたように、敏郎にいった。丸坂も英語は堪能だが、やはり日本語のできる相手だと肩の力が抜けるようだった。
「東京で暮らしたといっても、二十年も昔のことです。街もすっかり変わってます」
高森は、部長室の窓から見える品川の近代的なビル群に顔を向けて、大仰に肩を揺すった。
「光陰矢のごとし、というんでしたっけね」
「タイム・フライズ・ライク・アン・アローウ、ですな」
丸坂は調子を合わせて、大きく笑ってみせた。敏郎は、海外の取引先から客人が来ると、その英語力を買われて、夜の接待の場など同席を申しつけられることが多い。しかし日本語が達者な高森には、そんな必要はないかもしれないと考えていると、丸坂が笑い皺を顔に貼りつけたまま、敏郎にいった。
「高森さんは一週間、日本に滞在されるそうだ。会社の事業説明や取引の話は、今日明日中で終えて、少し東京見物をしたいとおっしゃっている。誰か案内をつけてくれるかね」
高森は手を振った。
「案内なんかいいです。一人でオーケーです。週末は大阪のほうに行く用事もありますし」
「いや、二十年ってのは馬鹿になりませんよ。大切な客人を迷子にさせては気の毒だ。お気になさらずに、なあ、加納君」
丸坂は、敏郎に目配せした。敏郎はすかさずいった。
「うちの課の者をつけさせます」
「それなら、頼みます。若い女性だとありがたいです」
ころりと態度を変えた高森に、敏郎が拍子抜けしていると、丸坂が人差し指を立てて、「ああ、そうだ」と声を上げた。
「君の課に、英語の堪能な女性がいたじゃないか。田代さん、だったかな。あの娘《こ》なんか、いいんじゃないか」
「田代、ですか」
一瞬、若くはないですよ、と口を挟みそうになった。その裏には、紘子を高森の目に触れさせたくない心理が働いているのに気がついて、敏郎は言葉を呑みこんだ。男の目から見ても、風采の上がらない高森のような男に、紘子が惹《ひ》かれるわけはなかった。自分と高森を同じ土俵で比べることすら侮辱的だった。
「そうですね。田代に案内させましょう」
敏郎は内心の逡巡をうち消すように、てきぱきと答えると、高森に「ハバァ・ナイス・ステイ」と声をかけた。高森は、猪首を倒して、「ありがとう」と応じた。張り子の虎が、日本語を喋ったみたいで、敏郎はますます高森の野暮ったさに軽蔑を覚えた。
東京都庁の四十五階にある広々とした展望台の窓に、高森が蛙のようにへばりついていた。もう五分もそんなふうに、眼下に広がる都市に見入っている。少し下がったところで、紘子は微笑みを浮かべて立っていた。
敏郎から、高森のお供をいいつかった時、紘子は誇らしさを覚えた。海外の取引先から来た客人の応対は、課長の敏郎止まりで、主任とはいえ平社員の紘子が直接当たることはまずなかった。誰にでもできる観光案内役を申しつけられたとはいえ、まるで敏郎の代理として選ばれたような気分になったのだった。
「人というのは不思議なものです」
高森はようやく窓から身を離して、紘子のほうに首を捻った。その言葉に誘われるように、紘子は高森の立つ窓辺に近づいた。窓の外には、西新宿の高層ビルが乱立し、大小さまざまな積み木を並べたような小さなビル群がその隙間を埋めつくしている。新宿中央公園の緑が、どこまでも広がる灰色の街の中で、緑の水たまりのように足許に落ちていた。
「これだけの建物や道路を、よく作ったもんです。餌を運び、巣を作りつづける蟻みたいじゃないですか。蟻と違うのは、ここはもう巣じゃなくて、なんともわけのわからないものになってしまったというところです。それでも習慣から、人はまだ動きまわっている」
遠くに富士山の影がうっすらと見えた。まるで、その麓まで、都市は延々と続いているようだった。
「ほんとに、人って虫みたいですね。朝、起きて、会社に行って、仕事して、寝て、また起きて……。何をしているのか、わからないまま一生が過ぎていく」
紘子は頭の中で、自分の毎日を思い描いていた。いつも、ちらりと頭を過《よ》ぎりはするが、口には出さない考えだった。
「この街で、意味がありそうなことをしている生き物は、車だけみたいですね。ほら、車だけが、生き生きと動いている」
高森は、高速道路を走る車の列を指さした。ほんとにそれは生き物のようだった。ゆったりと流れる川に乗って泳いでいく魚の群れ。大型トラックに乗用車、ワゴン。さまざまな種類がいる。渋滞する車の間を縫うように進むバイクは、水澄ましのようだ。紘子の脳裏に、今朝、ラジオから流れてきたチャイコフスキーの『くるみ割り人形』が蘇ってきた。オーケストラの調べに乗って、車たちが踊っているように思えてきた。直線道路では群舞を舞い、カーブに来ると、ターンする。色とりどりの衣装をまとった、ずんぐり体型のバレリーナたちが、東京の街を踊りまわっている。紘子がそんな印象を洩らすと、高森は体を揺らせて笑った。
「おもしろい人ですね」
紘子は顔を赤らめた。
高森は、「コーヒーでも飲みませんか」といって、紘子が返事をするや、展望室の中央にある喫茶コーナーへと歩きだした。ドーム状になった高い天井の下に、丸テーブルが灰色の水玉模様のように散っている。カウンターでセルフサービスのコーヒーを二つ注文したので、紘子が慌てて支払おうとすると、「私は古い男なんです。女性に奢ってもらうわけにはいきません」といって、高森は片目をつぶった。二人は、喫茶コーナーの椅子に向かいあって腰を下ろした。コーヒーにたっぷり砂糖を注ぎこんで、スプーンでかき混ぜながら高森は聞いた。
「紘子さん、シングルですか」
紘子は、そうだと答えた。
「だけど、恋人はいるでしょう」
紘子は、敏郎の顔を思い浮かべつつ頷《うなず》いた。
「やっぱりね、あなたみたいな、きれいな女性に恋人がいないはずはない」
あからさまに誉められて、紘子はどぎまぎした。何もいえずにいると、高森は次の質問を放ってきた。
「紘子さんは、どんな人生を送ってきたのですか」
初対面の日本人で、こんな質問をする人はまずいない。紘子は当惑し、とっさに、「普通……だと思います」と答えた。
普通とは、どういうことかと、高森は突っこんできた。紘子は言葉を探した。
「平凡ということでしょうか。大学を卒業して、今の会社に入って、ずっと仕事していて……」
「満足してますか」
紘子は頷いた。自分の人生に満足しているかどうか考えたことなぞなかった。こんなものだと思ってきた。
「今、おいくつですか」
高森は古い男だといったくせして、女性に年齢を尋ねることは平気らしい。紘子は自分が年齢よりも若く見えることを知っていたから、年齢を告げるのをためらった。実際の年をいうと、裸になってしまうような気がした。しかし高森は屈託ない眼差しで、紘子を見つめている。この、頭の禿げた、ずんぐりしたコアラみたいな男相手に、自分を若く見せたいと思ったことが恥ずかしくなった。
「三十八歳です」
高森は、驚いたように大きな目をさらに見開いた。それからコーヒーを啜り、「教えてくれて、ありがとう」といった。
「だけど、日本人の女性の平凡な人生というのは、結婚して、子供を作って……ということだと思いましたが」
「そうでしたね……では、私は平凡ではないのかもしれませんね」
紘子もコーヒーを飲みながら、確かに、自分の人生は平凡というものではないのだと思った。上司の愛人。三十八歳、独身、一人暮らし。
「だけど、私は満足してます」
紘子は自分に言い聞かせるように繰り返した。
「もちろん、満足しているでしょう。仕事があって、独立していて、恋人もいる……」
高森は探るように、紘子の目をまっすぐに見た。惚《ぼ》けた親父めいた顔が変貌し、鋭さが走った。高森は会社から取引の下準備を任されてきた男だということを、紘子は改めて認識した。もちろん、ただの惚けた中年男であるはずはないのだ。高森は、黒パイプの椅子の背もたれが悲鳴を上げそうなほど、肉の盛りあがった背中を押しつけた。
「あなたは今、女性としてのピークだ。きれいだし、魅力的だし、それだけで満足していられる。だけど、四十歳、五十歳となるうちに、だんだんとピークは過ぎていく。その時になっても、やっぱり人生に満足しているでしょうか」
紘子は、自分ではまだ二十代の気分だった。しかし、あと二年で四十歳になる。その事実を、紘子はできるだけ意識の向こうに押し遣ってきた。紘子は、自分の目をふさいでいたベールが高森に取り去られた気持ちになった。そこにいるのは、三十八歳の一人暮らしの女。赤と白のクロスのかかったテーブル、北欧調の椅子、こぎれいに整えられた1LDKのマンションで、一人で朝食を取り、一人で夕食を取る。たまに、敏郎は訪ねてきても、朝まで一緒にいることはない。
突然、紘子は自分の生活を、他人の目で見ていた。四十代の紘子は、やはりそんな生活をしているのだ。赤と白の格子柄のカーテンとクロスのかかった部屋で、一人でテレビを眺めつつ、朝の食事をする。仕事から帰ると、できあいの総菜で、テレビを見ながら夕食を取り、風呂に入って、眠りにつく。休日には、エプロンをかけて、掃除をする。一週間分の洗濯をして、ベランダに干して、乾くと、たたんで箪笥にしまう。時間をかけて料理を作り、やっぱり一人でテレビを見ながら、食事をする。五十歳の紘子も、六十歳の紘子も、同じことを続けている。そして、七十歳になっても、同じことをしているのだろうか。八十歳になっても……?
こうやって、一生が過ぎていくのだろうか。
「私……どうしたら、いいんでしょうか」
思わず紘子は真顔で聞いていた。高森の黒々とした眸《ひとみ》に悲しげな色が宿った。
「それを考えるのが、生きるってことじゃないですか」
目の前に、マンションの扉があった。淡い紫色の金属製の扉だ。小さな丸い覗き穴が、一つ目小僧のようについている。扉の横には、『田代』という表札。その黒いワープロの文字を見た時、敏郎は頭の中をひっかきたくなるもどかしさを覚えた。
何かが敏郎の意識に警鐘を鳴らしていた。しかし、それが何なのか、つかめそうで、つかめなかった。紘子がこのマンションに引っ越してからの四年間、幾度となく訪れた部屋だった。どうして、今夜に限って、そんな気分になるのかわからなかった。
敏郎は、合鍵を使って、中に入った。扉を開くと同時に、甘い煮込みの匂いが漂ってきた。
「いらっしゃい」
台所の流しに立っていた紘子が明るい声を上げた。チューリップの花柄のエプロンをつけて、腕まくりして、菜箸で鍋を掻きまぜていた。
「おでんか、いいな」
敏郎は靴を脱ごうと、玄関口でかがみこんだ。蝶結びになった黒い革靴の紐を目にした時、再び、先ほどと同様のもどかしい気分を味わった。しかし、それを無視して、さっさと紐を解くと、紘子が準備してくれていたスリッパに足を突っこんだ。
ダイニングには、すでに食事の支度ができていた。テーブルには、いつもの赤と白のクロスではなく、ピンクのクロスがかかっている。白いランチョンマットが置かれ、壁際の小さな丸テーブルには、桜の枝が飾られていた。室内には、香ばしいおでんの匂いが漂い、敏郎の胃を刺激した。
「桜餅、買ってきたよ」
敏郎は、書類バッグをリビングの片隅のソファに投げだすと、小さな包みを紘子の顔のそばに差しだした。紘子は菜箸をまな板の上に置くと、手をエプロンで拭いて、おどけたように両手で受けとった。
「いただきます」
そして花が開くような笑みを、敏郎に投げてよこした。敏郎は泣きたいような幸福感に包まれて、いきなり、紘子を抱きしめた。
「敏郎さん、どうしたの」
紘子は敏郎の腕の中で嬉しそうにもがいた。柔らかな紘子の肉体が、敏郎の体に押しつけられ、敏郎は興奮を覚えた。紘子の項《うなじ》に唇をつけ、思いきり、石鹸と若草のような匂いの混じった体臭を吸いこんだ。それからようやく顔を離して、唇にキスをした。
紘子は、照れたように笑いながら、「先にお風呂に入る」と聞いた。
「いや、この匂いを嗅いだら我慢できない。まずは晩酌だ」
敏郎は背広を脱ぐと、椅子に腰を下ろした。紘子はいそいそと小皿におでんを盛りはじめた。
「テーブルクロス、替えたんだね」
敏郎はピンクの真新しいクロスを指でさすった。
「ええ、春だし……」
紘子は小皿を敏郎の前に置くと、練り辛子を添え、冷蔵庫から中華サラダと冷酒を取りだした。それから、エプロンを外した。下には、大きく胸の開いた黒いロングドレスを着ていた。紘子の大きな乳房が、気をそそるように浮きたっている。敏郎は冷酒をグラスに注ぎながら、「今夜は、ばかにおしゃれしてるじゃないか」とからかった。紘子は面映《おもは》ゆそうに席についた。
「春ですから」
「またそんなこといって……」
二人は冷酒で乾杯すると、箸を手にした。
「高森さんの案内、どうだったの」
湯気の立つ大根を頬ばって、敏郎は聞いた。夕方、帰社した紘子から、一応、報告は聞いていたが、本音のところを探ってみたかったのだった。
「おもしろかったですよ。都内観光が仕事なんて、悪いくらい」
「だったらよかった。高森さんも上機嫌で、丸坂部長に、いい東京の土産話ができたといって、大阪に発っていったよ」
その時、敏郎は、紘子がきらきらと光る目で、自分を見つめているのに気がついた。
「どうしたんだ」
敏郎は聞いた。何が、と紘子が瞬きをした。
「なんだかいつもと違う気がしてさ」
紘子は、テーブル越しに手を伸ばして、敏郎の手に重ねた。
「なんでもないの……ただ、私、今の幸せを大事にしたいなって、そう思ってたの」
酒がほんのりと紘子の頬を染めていた。その桜色の唇には、花が咲くような甘い微笑みが広がっていた。敏郎は、紘子の手を自分の手の中に包みこんだ。
「俺もだよ」
敏郎は紘子の手を握りしめた。この柔らかな体、優しい心、信頼と愛情。紘子のすべてが自分のものなのだ。激しく強い充足感が敏郎を襲った。
「痛いわ」
紘子が囁いた。気がつくと、敏郎は紘子の手の甲に爪を立てるほど、しっかりと握りしめていた。
月曜日、紘子は再び高森の案内役を頼まれた。高森の帰国前日だった。最後の打ち合わせが午前中に終わり、高森は丸坂部長に、午後は、浅草で土産物でも買いたいが、どこがいいだろうと尋ねたという。取引が順調に進みそうな気配を喜んでいた丸坂は、再び紘子に案内役を命じてきたのだった。
浅草の仲見世を、高森は田舎から出てきた旅行者のように、きょろきょろと目を動かしながら歩いていた。春の温かな陽射しのふり注ぐ午後だった。平日というのに、花見客らしい人々で仲見世は混んでいた。人々の波にもまれて、高森と肩を並べて歩いていると、紘子は、ふと死んだ父親と一緒に歩いているような錯覚を覚えた。父が死ぬ前、母と一緒に上京してきたことがあった。やはり浅草見物に来た父は、高森のように物珍しげに仲見世を覗《のぞ》いていたものだった。
「奥さんのお土産ですか」
鶴を象《かたど》った鼈甲《べつこう》の簪《かんざし》に見とれている高森に、紘子は尋ねた。高森は、「はい」と答えて、店の陳列台から離れた。
「奥さん、ブラジルの方ですか」
「アフリカ系フランス人なんです。私は、母が日系で、父がブラジル人なんで、子供はアフリカとフランスと、日本とブラジルの血が混じっているんです」
紘子は、その血の複雑さを想像して、目眩《めまい》がした。
「なんだか、世界中の血が入っているみたい」
「そうですよ……日本では、なかなか想像がつかないでしょうが」
高森は、ゆっくりと流れる人の波を眺めて苦笑した。所々、外国人の団体がいるが、圧倒的に黒髪の日本人ばかりだ。ひと目で外国人とわかる者たちは、その黒髪に黒い目の日本人の中に紛れこんだ異分子でしかなかった。
「日本でも、国際結婚、増えてますよ。これから変わるんじゃないですか」
紘子は弁解口調でいった。
「どうしても、そうなっていくでしょう。それでも、やっぱり日本人は、日本人であることに強いこだわりがあるみたいですね。もちろん、どこの国の人間だってあるだろうが、日本人の場合は、何かもっとハードなものがある。うまくいえないけど……一生懸命、クリング……ええっと、なんというのかな」
紘子が、しがみつく、ですか、と聞くと、高森は指をぱちんと鳴らした。
「そう、そう、しがみついているみたいな……。ブラジルに移住してきた祖父母を見ていて、そう思ったんです。五十年近くもブラジルで暮らしていても、とても日本にしがみついていた。日本風の食事をして、日本風のマナーを守って、日本人であることに一生懸命だった。大きな海の中で、沈みそうなボートを二人で必死で漕いでいるみたいだった。そのボートは、ブラジルの中の日本だった。二人とも、ブラジルに日本を持ちこもうとしたんですよ。無理な話なのにね」
「高森さんが、若い時、東京に来たのは、そんなお祖父さんやお祖母さんの影響があったんじゃないんですか」
高森は、「そうですよ」と軽く答えた。
「祖父母があれほどしがみついている日本を見てみたかった。だけど、東京に来ると、祖父母の日本は、どこにもなくなっていた」
「がっかりしました?」
全然、と高森は笑った。
「人生とは実験です。いろんな仮説を立てて、その仮説をうち崩していくプロセスです。最後に残るのが、ツルースというものでしょう。ツルースって、日本語だと何というのかな」
「真理」
「真理ですか、ええ、その真理ですよ。私は、祖父母のしがみつく日本がまだあるという仮説を立てて、それが壊れてしまった。そして、またひとつ真理に近づけたわけです。あっ、これ、知ってる」
高森は不意に足を止めて、店先に出ている玩具を取りあげた。渦巻き模様のついた大きな独楽《こま》だった。
「これ、子供の時、祖父が作ってくれたトーイですよ。木を削ってね。手作りだから、よく回らなかったけど……」
高森は、けん玉やお手玉をひとつひとつ手に取って眺め、最後に息子のためにといって、大きめの独楽を二つ選んだ。
「息子さん、お二人なんですか」
「五歳と七歳です」
「もう日本の子供たちは、独楽を回して遊んだりしなくなりましたけどね」
「ニンテンドーでしょう。私の子も夢中です」
高森は独楽の包みをぶらさげてまた歩きだした。浮世絵を描いたTシャツや暖簾《のれん》、江戸小紋の端切れで作った袋や風鈴などが並ぶ仲見世の店の軒先の間に、浅草寺の門が覗いている。高森は、扇子を飾ってある店の前で立ち止まり、妻にはこれがいいといいだした。店のカウンターで、熱心に扇子を選んでいる高森の後ろ姿を眺めながら、紘子は、この人は自分の人生に満足しているのだろうな、と思った。
仲見世の通りを、ぞろぞろと流れていく人々。手を繋いで歩く若いカップル。騒がしく話しながら、川を流れる藻の塊のようにもつれてはまた進みだす初老の女性グループ。カメラを首からかけて、それぞれ別の方向をきょろきょろしつつ歩く老齢夫婦。子供を叱りつつ、浅草寺を目指す若い母親。この人たちは、自分の人生に満足しているのだろうか。
「お待たせしました」と、高森が出てきた。扇子だけではなく、他のものも買ったらしく、ぷっくりと膨れたビニール袋を手にしていた。
「これで土産物は終わりです。つきあってくれて、ありがとう」
紘子は、とんでもない、と肩をすくめた。二人は浅草寺の門をくぐって、境内に入っていった。盆栽や、甘酒を売る屋台が並んでいる。記念撮影をする中年女三人が、「チーズ」と甲高い声を上げていた。いかにも幸福そうな顔を写真に焼きつけようと、笑みを顔にへばりつかせている。
「今夜は最後の晩だから、東京に住んでいた頃の友達と会うんですよ。どこか、いい和風のレストランは知りませんか」
紘子は少し考えて、高森の泊まっているホテル内にある和風料理の店を告げた。高森は、それはいい、といった。
「なかなか、感じがいいと思っていたんですよ」
「あそこは、おいしいということで、有名なお店ですから……」
「その友人は、教師をしてるんです。うちにも遊びに来たことがあるんです。東京で暮らしていた時、友達がいっぱいできたと思っていたけど、今まで続いたのは、彼だけです。なかなか、おもしろい男です」
高森はちらりと紘子の顔に目を走らせ、「そうだ、紘子さんも一緒にどうですか」と聞いた。紘子は慌てて、とんでもない、お言葉だけでけっこうです、と辞退した。
「いや、東京を案内してもらったお礼に、夕食くらい奢らせてくださいよ。今夜、空いていませんか」
その晩は敏郎が訪ねてくることにもなってなかったし、別に予定はなかった。いつもの通り、会社からの帰り道、駅前商店街の店で買物して、一人で夕食を準備して、一人で食べるだけだった。
「いいでしょう? 紘子さんみたいな女性が一緒だったら、友人も喜びますよ」
高森と話しているのは楽しかった。そのホテル内にある和風料理屋は一度行ってみたい店でもあった。何より、高森は、自分を会社の人間としてではなく、一人の女性として、招待してくれた。ただの案内役ではなく、友人の一人として。それが嬉しかった。
「いいんですか……」
いいに決まっているのに、紘子はおずおずと聞いた。
「もちろんですよ。ホテルのラウンジに七時というのでどうですか。店、予約しておきますから」
紘子は心を弾ませながら頷いた。
書類にサインをして、ペンを脇に置いて、敏郎は息を吐いた。窓の外では、夕陽が赤々と空を染めていた。すでに六時を回っていて、フロアはがらんとしていた。課内には、平沢と北条だけが残って、電話をしたり、資料をめくったりしていた。
慌ただしい一日だった、と思った。午前中、拓人の入学式で半日休暇を取ったためだった。妻と一緒に白苑学園で、校長の訓辞を聞いたりして、退屈な時を過ごした。拓人の誇らしげな顔は敏郎の気持ちを明るくはしたが、やはり心の隅で、時間の浪費をしていると考えるのを止めることはできなかった。午後に出社すると、丸坂部長の秘書から、紘子をまた高森の案内役に頼んだというメッセージが残っていた。それで、敏郎はますます不機嫌になった。自分の不在のせいだとはいえ、頭越しに部長命令が部下のところに行ったことに、不満を覚えた。しかし、それも溜まっていた仕事をこなしていくうちに、薄らいでいった。だから、会社に戻ってきた紘子が、敏郎に役目を終えたことを報告に来た時も、ほとんど何のことか忘れてしまっていたほどだった。
「高森さん、無事にホテルまでお送りしてきました」という紘子の言葉に、一瞬、目を瞬《またた》かせ、それから、顔を和らげた。
「ああ、ご苦労さん」
そして、次の書類に目を通しはじめた。明日までにすませておきたい用件だった。それに敏郎は、今夜は琴美に早く帰宅すると約束していた。拓人の入学祝いをするのだという。書類にうつむこうとした敏郎は、目の隅にまだ紘子の影が落ちていることに気がついた。
顔を上げると、紘子は何かいいたそうにもじもじしている。金ボタンのついた濃紺のスーツを着て、襟元にピンクのスカーフをあしらった紘子は、いかにも若々しく、三十歳前に見える。敏郎は微笑んだ。
「なんだね」
「高森さんですけど……」
紘子は一旦、言葉を切って、少し興奮したように続けた。
「今夜、食事に誘われたんです。案内のお礼にと……」
「高森さんが……」
「はい。昔からの日本のお友達と夕食の約束があるけど、一緒にどうかと……」
敏郎は一瞬、暗い穴に吸いこまれるような気分を覚えた。吸いこまれると同時に、激しい力で吹きだされるような。自分でもわけのわからない力に呑みこまれ、考えるよりも早く、敏郎は椅子から弾かれたように立ちあがり、怒鳴っていた。
「だめだ、やめろっ」
その瞬間、敏郎は強い既視感を覚えた。
だめだ、やめろっ、だめだ、やめろっ、だめだ、やめろっ。自分の声が幾重にもなって、体の中で木霊《こだま》している。その叫びは、遥か遠くの暗い宇宙から届いてくるようだった。その声を発したのは自分ではなく、どこか彼方の宇宙にいる別人であるかのようだった。
呆然としている敏郎の視界に、課内に残っていた平沢と北条が驚いてこちらを見ているのが映った。紘子の顔が花がしおれたようになっている。
「高森さんは……」
敏郎は椅子に腰を下ろして、言葉を探した。会社は舞台だ。俺は一流の役者じゃないか。敏郎は自分に言い聞かせた。
「高森さんは、会社のお客さんだ。私的なところに顔を出すのは、よくないと思うな」
敏郎は穏やかな口調を取り戻していった。紘子の顔は無表情だった。しおれた花は、ドライフラワーとなっていた。
「わかりました」
紘子は硬い声で返事した。
「高森さんには、丁重に謝っておきなさい。私も後から、お詫びを入れておくから」
敏郎は、紘子の目を見つめた。紘子の眸はそれを受け止め、すぐに伏せられた。紘子は「わかりました」と繰り返して、席に戻っていった。
敏郎は手にした書類を再び読みはじめた。
紘子は席に着くと、手帳をめくって、高森の泊まっているホテルの電話番号を調べた。全身を平手で殴られたような気持ちになっていた。受話器を取りあげ、電話番号を押す。書類を見終わった敏郎がサインして、横にまとめて席から立ちあがるのが見えた。
書類バッグを抱えて、敏郎がフロアから出ていくのと、ホテルの交換台が出たのは同時だった。紘子は、高森に繋いでくれるように頼んだ。幸い、高森は部屋にいた。
「ああ、紘子さん。どうしたんですか」
高森は明るい声でいった。紘子は、今夜の約束には行けないことを告げた。
「どうしてですか、さっきはオーケーだったじゃないですか」
「上司に、そんなところにお邪魔しては、いけないといわれまして……」
「上司だって。仕事外のことまで、会社の人が口を出すことはないでしょう」
高森は憤慨していた。
「いえ、ほんとに……お断りさせてください」
「だって、店にはもう予約もしたし、友達にも知らせたら、楽しみにしているといってたんですよ」
「すみません……ほんとに、お誘いいただいて嬉しかったんですけど……」
弱々しい紘子の声に、高森は黙った。そして不承不承、答えた。
「残念です」
紘子はもう一度、謝って、電話を切った。受話器に手を置いたまま、しばらくぼうっとしていた。
仕事外のことまで、会社の人が口を出すことはないでしょう、という高森の言葉は、紘子の胸を突いた。
会社の人、とは敏郎のことだ。七年もつきあってきた。尊敬し、愛してきた。しかし、彼は会社の上司に過ぎなかったのかもしれない。私的な時間にまで押しよせてくる会社の人間に過ぎなかったのかもしれない。敏郎は、恋人ではなく、あくまでも上司だったのではないか。勤務時間だけではなく、私的な時間も肉体も支配する上司。
紘子は、気楽な一人暮らしを選んできたと思っていた。しかし、その気楽さとは、上べだけのものなのだ。一皮剥けば、公私共々、会社にがんじがらめとなっていたのではなかったか。
だめだ、やめろっ。
先の敏郎の禁止の声が、紘子の心に杭のように打ちこまれていた。その杭は、時とともに深く深く沈んでいく。
紘子はゆっくりと電話から手を引いた。机に両肘を突いて、頬を手で包み、人気《ひとけ》のなくなった会社のフロアを眺めた。灰色の事務机が整然と並んでいる。クリーム色のコンピューターが、机から伸びた頭のように連なっている。東京では、車だけが生き物であるように、会社ではコンピューターだけが生き物であるのかもしれない。そして人間は、すでに自分が何をしているかもわからなくなった蟻だ。
「田代さん」
男の声に、紘子は振り向いた。そこに北条が立っていた。少し皺になった背広で、頼りなさげな細めの体を包んでいる。色白の小さな目鼻立ちの、のっぺりした顔に、気遣わしげな表情が浮かんでいた。
「今夜の約束、なくなったんでしょ」
紘子はゆっくりと頷いた。もちろん、敏郎との遣り取りも、電話の会話も聞かれていたのだ。しかし、言い繕う気力も湧かなかった。北条はためらいがちに、「よかったら、僕と食事でもしませんか」と誘った。紘子は、北条の優しさに胸が揺さぶられ、かえってそれを押し遣るようにいった。
「気を遣ってくれなくても、いいわよ」
「高森さんの誘いは受けて、僕はだめなんですか」
冗談めいて、北条が怒ったようにいった。紘子は笑おうとしたが、自分でも泣きそうになったのがわかった。堪えていたものが、溢れ出そうだった。
堪えていたものとは、落胆だった。高森の誘いを断らなくてはならなかった落胆。いや、それ以上に、敏郎に対する落胆。敏郎の正体を発見したことへの失望だった。自分の信じていた人生への失望にまで繋がりそうな気がして、紘子は慌てて、かぶりを振った。それを自分の誘いへの承諾だと受け取って、北条は弾むようにいった。
「この近くで、おいしい店、見つけたんですよ。和洋折衷の店で、開店したばっかりなんだ。『焚』っていうんだけど、知ってるかな」
「知らないわ。どこにあるの」
「駅の近くのちょっとわかりにくい場所なんだ。ここから歩いて十分くらいかな」
店の話をしていると、いつか行くことになってしまった。紘子は机の上を片づけ、バッグを肩にかけると、北条と一緒に外に出た。
すでにあたりは暗くなっていた。会社の前に植えられた桜が、照明を受けて、仄白く咲いていた。桜の花の彼方に、ビルがすっくと夜空に聳《そび》えている。灰色に天高く伸びる会社。自分の人生に君臨するものだ。紘子が立ち止まって見上げていると、北条がいった。
「なんだか造花みたいだな」
それで、紘子はまた桜に視線を戻した。確かに、夜桜は生きている花のようには見えなかった。はかなくて、つかみどころのない、夜の静寂に紡がれる夢の断片に似ていた。
「桜、嫌いなの」と紘子は聞いた。
「花は好きだよ。だけど僕は、匂いがある花のほうがいい」
「私も……」
紘子は呟いた。
桜の花びらが、はらはらと散っていた。樹にまとわりついていた白っぽい夢のかけらがひとつまたひとつとこぼれ落ちてくるようだった。
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陽 炎
幹生が、晴子の人生に現れたのは暑い夏の始まりだった。晴子は、夫の紘一と共同で開いている柳沢設計事務所で図面を引いていた。くたびれたタンクトップに短パン、長い髪を無造作に後ろで掻きあげてヘアピンで留め、ロットリングを握りしめ、薄緑色をした製図板に張りついていた。右手の小指側は図面にこすられうっすらと黒ずみ、人差し指には黒インクが滲みついている。股を大きく開いて、素足の裏を椅子のスチールパイプに張りつかせ、神経を集中して、〇・一の極細ロットリングで、濡縁の板目を引いている最中だった。
目の前には、大小の図面やスケッチがべたべたと張りつけられ、両脇の本棚は、建築図案集や写真集、作品ファイルなどで埋まっている。部屋の真ん中のテーブルを隔てたところにあるもうひとつの製図板には、紘一がかがみこんでいた。紘一もまた晴子と似たりよったりの様相だ。Tシャツにバーミューダパンツ、少し突きだしてきた腹を板の縁に載せて、芋虫のように背中を曲げている。図面を引く時の癖で、左手をシャツの下に突っこんで爪先で脇腹を掻いていた。
ステレオから流れる音量を下げたAFNの英語が、狭い事務所をさやかな調べで満たしている。マンションの五階にある窓は、乱立するビルの屋上や壁面で埋められている。建物の隙間からわずかに覗く青空は、夏の午後の熱気に炙《あぶ》られた空気で揺らいでいた。購入五年目のクーラーはぶるぶると小さな音をたてて身震いしていたが、そこから吐きだされる冷気は温《ぬる》くなったビールのように気抜けしていて、狭いワンルームマンションには、埃っぽく気だるい空気が漂っていた。これが二人の日常のほとんどを占める空間であり、時間であった。
晴子は、紘一の母親の通江と同居している。共働きの晴子のために、通江が家事全般を引き受けてくれている。毎朝、通江の支度してくれた朝御飯を紘一と共に食べ、幼稚園児の娘の世話を通江に頼み、夫婦で自転車で十分のところにあるこの事務所に出勤する。そして朝の九時から五時まで、製図板に張りついて、図面を引くのだ。昼食は、近くのラーメン屋や食堂に行ったり、晴子が事務所の狭い台所で作ったりしてすました。役所に出向いたり、現場を見に行ったり、顧客と打ち合わせをする時以外は、夫婦はこうして同じ空間で同じ時間を共有する。二人の会話が途切れると、あとはAFNのラジオ放送が引き受けてくれた。
紘一は穏やかな性格の男だった。晴子が、井の頭公園に建てられた、壊れたグラスのような熱帯植物館のデザインについて悪口を飛ばしても、レタスの値段の高騰を非難しても、総理大臣の無能を糾弾しても、たいてい、そうだよな、うんうん、あいつらなんもわかってない、まったくだ、などと適当な相槌を打つばかりだ。晴子の線香花火のような気性は、紘一の靄《もや》のような性格に包まれて、適度に破裂し、消えていく。中年にさしかかり肉が少し弛《たる》んできて、額も後退してきてはいるが、建築家らしく身なりを整えると、けっこう魅力的にも見える。結婚記念日には何がしかの贈り物は忘れないし、晴子が友達と夜遊びしても厭な顔ひとつしないで、楽しんでおいで、といってくれる。結婚当初の情熱は薄れたとはいえ、十日に一度はセックスもする。晴子は、紘一との夫婦生活に満足していた。
そう、幹生に会うまでは。
ノックの音に最初に反応したのは、晴子だった。事務所のドアにチャイムはついていない。紘一はドアに近いところにいるのだが、ノックの音と共に腰を浮かして戸口に出るのは、いつも晴子だった。また何かの訪問販売だろうと思いながらドアを開いた晴子の前に、黄色いハイビスカスのアロハシャツに、ジーンズを穿いた男が立っていた。色白の顔に茶色がかった瞳。青い野球帽の下から、緩くパーマをかけた髪がこぼれている。背はさほど高くはないし、髪の毛にはちらちらと白髪が混じっている。しかし、引き締まった体つきや印象は若々しかった。
「あっ、こんにちは。柳沢さんの奥さんかな」
男は弾けるようにいって、大きな口を横に押しひろげてにこりとした。前歯が少し空いていて、悪餓鬼のような印象を与えた。晴子が、ええ、と戸惑った返事をしていると、男は晴子の肩越しに紘一を見つけて、「よおっ、紘一」と声をかけた。紘一は体を捻《ひね》って男を見て、嬉しそうに声を上げた。
「幹生かぁ、よく来たなぁ」
「いやあ、探したよ。番地だけじゃあ、なかなかわからないもんだな」
幹生は、晴子に「おじゃましまぁす」と愛嬌を振りまいて、事務所に入ってきた。通りすがりに、仄かに整髪料の匂いが漂った。晴子は急に自分がノーブラのタンクトップのままであることを意識して慌てた。しかし、今さら、着替えることもできやしない。晴子はドアを閉めると、部屋の壁に背中をこすりつけるようにして立ち、この訪問者を眺めた。
幹生はぐるりと事務所を見回して、「立派にやってんじゃないか」といった。紘一は製図板の前から立ちあがると、壁際の晴子にいった。
「こいつ、高校時代の同級生なんだ」
晴子は頭を下げて、妻の晴子です、といったとたん、幹生が答えた。
「美人の奥さんもらって憎いね、紘一は。よろしくな、晴ちゃん」
その調子のよさに唖然となる一方で、美人の奥さん、という褒め言葉が頭の中に木霊《こだま》して、晴子を埃っぽく気の抜けた事務所の空気にふわりと舞いあがらせた。
いかにも親しそうな口調ではあったが、高校時代の紘一と幹生は、さほど仲のいい友達ではなかったのだと、晴子は、その晩、夕食の席で聞いた。
「なんせ、俺とはグループが違ってたからな」
「不良グループだったのよ」
話を聞いていた通江が口を挟んだ。
「学生服の上着を膝まで長くして、パーマかけて、えらそうに歩いていたもんよ。町でも有名だったわ」
「田舎町の不良さ、今思うと、可愛いもんだよ」
紘一は苦笑した。紘一は福島にある漁師町の生まれだ。大学で東京に出てきて、そのまま設計事務所に就職し、仕事仲間を通じて知り合った晴子と結婚した。二人とも一級建築士の免許を持っていたので、共同で事務所を開いたのだった。結婚して二年目、紘一の父親が死亡し、未亡人となった通江は、夫の保険金と家を売った金を合わせて吉祥寺の郊外に小さな建売住宅を購入し、紘一と晴子と同居をはじめて今に至っている。
晴子は四、五回、紘一の故郷に行ったことがある。駅前から寂れた商店街が海沿いに続く、侘びしい町だった。あの磯の香りのする駅前通りを、学生服の裾をひらひらさせて、肩で風を切って歩く幹生を想像すると、確かに微笑ましかった。
それでも通江は不満げに、不良は不良だよ、と呟いた。子供用の椅子に座って、スプーンでハンバーグを崩して食べていた麻美が、「あっちゃんも不良だよ」といった。あっちゃんとは、麻美と同じ幼稚園の子だ。紘一は麻美の頭に手を置いて、「あっちゃんは、不良じゃないよ。わんぱく坊主」と告げたものだから、通江が息子を睨みつけた。
「おかしなことを吹聴しないでおくれよ。あっちゃんを刺激するようなことをいって、苛められたりしたら困るじゃないか」
「お母さん、心配のしすぎだよ」
通江が何か言い返す前に、晴子が話題を元に戻した。
「幹生さんとそれほど親しくなかったというのに、なぜ、今日、突然、訪ねてくることになったの」
紘一は、実は三日前、ばったり新宿で会ったのだと答えた。都庁に用事があって出かけていった帰り、紀伊國屋書店に行こうとしていたら、駅の地下道で向こうから歩いてくる幹生と出くわしたというのだ。
「びっくりしたよ。高校を出てから、東京に来て、調理師の免状を取って、どこかの飲食店の雇われ店長をしているということは、風の便りで聞いてはいたけど、もう二十年以上も会ってなかったからな。それでも、一目であいつとわかったよ。奴のほうも、すぐに俺だと気がついて、あの調子で、地下道の真ん中で素っ頓狂な声を上げたもんだった。立ち話で、お互いどうしているかってことになったんだ。あいつ、最近、雇われ店長をしていた店を辞めて、今は調布に住む親戚のところに転がりこんでいるといってた。俺が設計事務所をしているというと、だったら、ひとつ相談があるというんで、名刺を渡してきたんだよ」
晴子は、それでようやく、幹生と紘一の会話の脈絡を繋げることができた。幹生は、挨拶もそこそこに、おまえ、飲食店の内装、できるか、と聞いたのだった。紘一が、何軒か手がけたことがあると答えると、幹生は目を輝かせて、そりゃあ、いい、実は、今度、吉祥寺で自分の店を持つことにしたのだが、その内装をしてくれる業者を探していたのだといいだした。
やっぱ、地元の者がいいからよ、おまえがここに住んでるとわかって、ぴったしだと思ったってわけよ。カウンターと、テーブル席が三つ四つある店でよ、大人の雰囲気がある店にしたいんだ。俺は、お客さんと話したり、ちょこちょこ呑んだりしながら、料理を作るのさ。だからといって、居酒屋みたいなもんじゃないぜ。もっとこう、しゃれてて、かっこいいんだよ。ジャズかなんかが流れていて、店の隅には、あのちっともわけのわかんない現代彫刻とやらが置かれているみたいな感じよ。そんなところで、馴染みのお客さんがよ、幹ちゃん、卵焼き作ってえ、なんて小声で頼むんだよ。メニューにはもちろんないさ、俺は、よっしゃ、まかせとけって、卵焼きを作ってやるんだ。似合わないって、そこがいいのさ。かっこつけたところで、茶の間みたいな接待ができるってとこがさ。
幹生は煙草を吸いながら、饒舌に、表情豊かに、自分の店に対する抱負を語りつづけた。事務所の真ん中のテーブルの前に脚を組んで座り、その大きな目を丸く広げたり、眇《すがめ》にしたり、肩をすくめたり、唇を突きだしたりするさまは、晴子と紘一の注意を逸らせなかった。柳沢設計事務所は、幹生の独り芝居の舞台になっていた。
紘一と同い歳の四十二歳とは思えないほど、幹生は若々しく、エネルギーに溢れていた。かっこいいな。それが晴子の受けた印象だった。
「ちょっと調子がよすぎるみたいに見えたけど」
幹生に惹かれたことを隠したい気持ちが、晴子に辛口の感想をいわせた。
「お調子者に見えるけど、いざとなったら怖いんだぜ。高校の時、他の高校の奴らと喧嘩してたけど、木刀持って出かけていって、派手にやらかしてたから。俺は一度、その高校の不良にからまれているところを助けてもらったことがあるんだ。剽軽《ひようきん》にしている裏で、睨みをきかせているみたいだった」
お茶を啜りながら、通江がしたり顔に頷いた。
「あの子の実のお母さん、家から逃げだしてて、お父さんは次々に女をこしらえて家に連れこむような人だったからね。息子が乱暴者になっても不思議じゃないよ」
にこやかに話していた幹生からは想像もつかない姿だった。しかし、あの焦茶色の瞳の輝きの強さを思い出すと、そんな一面もあるのかもしれないと考え直した。あの気軽で楽しい男が木刀を手にして、喧嘩に走る。その想像に、晴子は子宮のあたりがもぞもぞと疼《うず》くのを感じた。
幹生は、不動産屋で集めてきた貸店舗の見取図を手にして、調布から、わざわざ事務所にやってくるようになった。そして紘一と晴子に、一緒に下見に行ってくれと頼むのだった。
店舗が決まれば、内装の仕事を請け負うことになる。二人は喜んで、幹生の頼みに応じた。晴子にとっては、それは変化のない毎日に亀裂の入る時間となった。紘一と幹生と三人で、地図を片手に、吉祥寺の界隈を歩く。幹生は、いつも派手なシャツに青や赤の野球帽をかぶって運動靴を履き、紘一と晴子の真ん中になって、すたすたと歩いていく。物件の近くに来ると、視線が鋭くなった。あたりにある他の飲食店や、通りの形や賑わいを調べているようだった。その大きな瞳が左右に素早く動くさまに、晴子は惹きつけられた。嗅覚を駆使して獲物を探す、野生の獣のような感じがした。それは紘一の物腰にはないものだった。
物件の前では、不動産屋の社員が待っていた。暑さにもかかわらず、きちんとした背広姿でしゃちほこばっている、角田という青年だ。三人を見ると大仰にお辞儀をして、鍵をポケットから出し、貸店舗に案内してくれる。
貸しに出される店舗物件は、どこも荒涼とした空気が漂っていた。たいていは前の店が使っていた椅子やテーブル、厨房器具がそのまま置かれている。そこではかつて大勢の人々が集い、語らっていたのだ。しかし今は打ち棄てられ、孤独が低い声で歌っていた。幹生は埃と湿気の漂う店内を歩きまわり、厨房の設備や、客席との距離などを確かめた。紘一は、建物の配管や建築年度、間取りなどを調べていく。そして晴子は、その貸店舗を幹生の望み通りに改装するには、どのような可能性があるか考えた。そして事務所に戻ると、三人で物件の是非を話し合った。
厨房は使いやすそうだったな、と幹生がいえば、紘一が、水漏れの心配があると答える。晴子が、客席とカウンターの間に仕切りを入れると、なかなかおもしろい空間になるという。幹生が、おもしろい空間という言葉に興味を持って、どんなだ、と聞く。晴子がそのスケッチを描きはじめる。うんうん、そいつは俺の趣味だよ、晴ちゃん、意見が合うね。幹生が明るい声を上げる。紘一が、待てよ、そのアイデア、俺が別のところで使ったやつじゃないか、と口を挟む。だったら紘一とも意見が合うんだ、と幹生が手を叩いてから、晴子に小声でいう。俺たち、ホモダチじゃないから安心してよ。晴子は背中をのけぞらせて笑いだす。そうして時間が過ぎていく。二人は幹生の語る夢に呑みこまれていった。
やっぱ、吉祥寺はいいよな。若々しい活気があるよ。幹生が吉祥寺の地図を眺めながらいう。だけど、若い子はお金がないわよ、と晴子が水を差すと、そんなに高い店にはしないんだ、俺の店には金持ちはいらない。若くてよ、活きがよくってよ、目が輝いている連中が集まる店にしたいんだ。店ってのは、ただ酒や喰いものを出してるだけじゃないんだ。一緒に出してるのは、マスターの心よ、心意気よ。幹生は、平手でぱんと胸を叩いてみせる。俺は、俺の心意気を、お客さんに出したいんだよ。
幹生の瞳に力が宿り、煙草を吸う手許が止まる時、アロハシャツの襟の下に覗く太い鎖骨が目に入る時、その白いけれども、筋肉がぱっしりと張った腕が宙に舞う時、晴子はその肉体に触れることを想像した。
十日ほど過ぎた時、吉祥寺駅から歩いて三分ほどのところにある貸店舗を見に行った。すでに、そんな下見の散歩は五度目か六度目となっていた。顔馴染みとなった不動産屋の社員の角田が、店の前で待っている。
「よおっ、角ちゃん。いつもご苦労さま」
幹生が片手を上げて声をかける。角田は少し興奮した顔で、「昨日出たばっかりの物件なんですよ、正木さん」と答えた。
店舗は、タイル貼りの外装のなかなか清潔な感じのする四階建てビルの二階にあった。ビルの玄関から外階段でそのまま二階に上がることができる。角田が鍵を開けて中に入ると、電気が止められている店内は薄暗かった。深紅のカーテンを通して入ってくる光が、店内を赤く染めている。角田が先に入って、カーテンを引いた。十三坪ほどの店内が、外光に浮きあがった。片面一面、ガラス張りとなっていた。テーブル席が五つ、奥にはカウンターと厨房がついている。幹生は早速、厨房に入って、設備を一瞥した。
「ちゃんとした厨房だな」
「前に入ってたのはレストランなんですよ」
角田が勢いよくいった。幹生はカウンターに両手を突いて、店内を見渡した。
「広さもちょうどくらいだ」
そして紘一を振り向いて、どう思うか、と尋ねた。冷房も切られていて、蒸し暑い室内だ。汗っかきの紘一はハンカチで額を拭きながら、建物はしっかりしているみたいだし、間取りも無駄がないと答えた。
「晴ちゃんは、どう思う」
幹生に聞かれて、晴子は、駅からも近いし、立地条件はいいといった。それから、店内に視線を遣って付け加えた。
「だけど、内装はかなり手を加えたほうがいいと思うけど……」
店には、緑と赤と金色の縞模様の壁紙が張られ、ごてごてした装飾のついたランプシェードが吊りさがっていた。椅子は重厚な赤い天鵞絨《ビロード》張りだ。幹生は、晴子の意図に気がついていった。
「そりゃそうだ、なんつぅか、ここのインテリア、怪しい雰囲気だもんなぁ」
インドネシア料理の店が入っていたのだ、と角田が慌てて答えた。
「けっこうはやっていたんですよ。ランチタイムには待たないといけないくらい」
「だったら、どうして出ていったの」と晴子が尋ねた。
「不法就労の店員をいっぱい使っていたというんで、問題が起きたみたいですよ。コックが強制国外退去になってから、味が落ちてお客さんが離れていったんですよ」
「よく知ってるな」
幹生の言葉に、角田は照れながら答えた。
「エスニック料理が好きで、よく来ていたんです。潰れて残念ですよ」
「へえ、角ちゃん、エスニックが好きなの」
幹生がおもしろがっていった。
「すごく好きですよ。学生の頃はよく東南アジアを旅行してたくらい」
「よっしゃ、俺が店、開いたら作ってやるよ」
幹生は胸を叩いた。
「あっ、嬉しいな、正木さん。俺、ガドガドと羊肉のサテがいいけど」
「おう、ガボガボでもサチでもなんでもこいだ」
角田が「大丈夫かなぁ」と呟いたので、晴子と紘一は笑いだした。幹生がそのくだけた空気の中に、「で、賃料はいくらだ」という言葉を差しこんだ。角田は生真面目な顔に戻って、小脇に抱えていたファイルケースを開いた。
「月十五万円です。礼金二か月、保証金五百万円、造作譲渡金が五百万円。契約期間は三年になっていますね」
晴子はざっと計算して、その金額の大きさに緊張した。幹生は真剣な顔つきで、カウンターから店を眺めた。
深紅のカーテンの間から、午後の日射しが差しこんできていた。タイル貼りの床に、赤い天鵞絨張りの椅子の影が落ちている。乱立するビルの影のような黒い線から、出入り口に向かって続く細長い空間へ、そして埃の溜まったランプシェードのぶら下がる天井へと視線を移していった。幹生の表情からは、いつもの剽軽さは消えていた。紘一も晴子も角田も、そんな幹生を見守っている。打ち棄てられた空間に、神聖ともいえる静寂が広がった。
「借りるよ。手付けはいくらでいい」
幹生の言葉を聞いた時、晴子は、全身が震えるような興奮を覚えた。
その晩、風呂から上がった晴子が濡れた髪を拭きながら寝室に入っていくと、紘一はベッドにうつぶせになって本を読んでいた。網戸越しに、隣家の二階の窓がよく見えた。いつものごとくそこでは受験を控えた隣の息子がイヤホンを耳に押しこんで机に向かっていた。晴子はベッドの端に腰を下ろして、紘一に話しかけた。
「いよいよ幹生さんの話、進みだしたわね」
紘一は本から目を上げて、うーん、と唸った。その声音に晴子はひっかかりを覚えた。
「そうは思わないの」
紘一はごろりと横に転がって、頬杖を突いた。
「あいつ、金、どうするつもりだろう」
「どうするって……お金のあて、あるんじゃないの」
「今、どこにも勤めてないっていってたじゃないか。親戚のところに厄介になっているって」
「でも、お金に困っているようじゃないわ。ずいぶん貯めているんじゃないの」
物件の下見の後、三人で昼食をとることがあると、幹生はいつも気前よく奢った。紘一が出すといっても、まかせとけって、といって譲らなかった。
まあな、と呟いて、紘一は考えるように天井を仰いだ。角田の話を聞いただけでも、開店資金にはかなり必要だとは容易に想像できた。造作譲渡金、保証金だけで一千万かかる。内装改造代やら最初の運転資金などを含むと、二千万近い金が必要だろう。そんなことを考えながら、髪を拭いていると、また紘一が口を開いた。
「あいつ、高校の時から金回り、よかったからな」
「カツアゲでもしていたの」
晴子は幹生が不良で通っていたことを思い出して、冗談めかしていった。紘一は、はっ、と大きく息を吐くようにして笑った。
「あの町にゃ、カツアゲの対象になるくらい小銭を持っている学生はいないよ。気性の荒い漁師町だ、高校生に脅されて、ほいほい金を出す大人もいないしね」
「だったら、どこからお金を取ってたのかしら」
「さあね、やばいことでもしていたか……」
「やばいことって、どんなことよ」
「富岡あたりまで出ていって、なんかしてたかもなぁ」
紘一は目だけ晴子に移して、にやにやした。
「幹生のこと、ずいぶん気にしてるみたいじゃないか」
「そんなことないわ」
晴子はどきりとした。紘一は少し黙ってから、投げだすようにいった。
「おまえ、幹生と寝てみたいんじゃないか」
紘一が聞いた。
「なにいってんのよ」
晴子は鋭い声を出した。
「いいよ、今時、夫婦が貞操を守るなんて、古いもんな。そんなのできないってことで、俺たち一致したじゃないか」
結婚前、二人で話し合ったことがある。結婚してから、別の異性と寝たりしても干渉はしないようにしようと。晴子も紘一も、何人かの恋人たちと別れを繰り返してきていた。二人とも、一生、結婚相手一人としか肉体関係を持たないのは不可能だということで一致したものだった。
案の定、結婚して三年過ぎると、晴子は昔の恋人と再会して、ホテルに行った。二か月ほど五月雨《さみだれ》式に密会を重ねたが、そのうちに夫を裏切っているという気持ちが強くなって、やめてしまった。事務所を運営するために仕事も多くこなさないといけなくなり、さらには子供もできると、晴子の日常は手一杯で、男と知り合う機会もなくなった。晴子は、なんとなく紘一も自分と同様の状態で、他の女に手を出す余裕もないと勝手に思いこんでいた。その思いこみが、先の紘一の言葉で揺らいだのを感じた。
「あなた、誰かと寝てんの」
思いきって、晴子は聞いた。
「まさか」
紘一は言下に否定して、本に向きなおった。
晴子は、短パンとTシャツ姿の男を睨みつけた。否定したとはいえ、一抹の不安が残った。もしかして、紘一は誰かと情事を重ねているのではないか。薄れた夫婦の情熱を、別のところで燃えたたせているのではないか。だとしたら赦せないと思った。しかし今さら、結婚前に話したことは反古《ほご》になっているなどとはいえなかった。晴子はあてつけのように宣言した。
「そうね、幹生さんと寝てみたいもんだわ」
口に出して自分の欲望をいったとたん、それが現実として体内に湧きあがるのを感じ、晴子はたじろいだ。
「だと思ったよ」
紘一は顔を上げることもなくそういうと、本の文章を目で追いはじめた。
幹生の借りた店舗の契約は十日後ということになった。契約を終えるとすぐさま内装工事に入りたいというので、晴子と紘一は早急に設計に取りかかった。柳沢設計事務所は忙しくなった。不動産屋で入手した図面を元に、幹生と三人で内装に関する打ち合わせを続けた。
和洋折衷の料理にするんだったら、所々に、和を取りいれた感じがいいわね。暖簾とか、和紙の照明とか。そうそう、晴ちゃん、俺もそう思ってるんだ。幹生の投げかける微笑みに、晴子は紘一を意識しながら、微笑み返す。心の中で、紘一に聞いている。他の女と寝ているの。紘一の穏やかな顔が、そうだ、といっている。晴子の中で怒りが湧きあがる。紘一が、全体のコンセプトは洋風で、照明は和の雰囲気、間仕切りは障子風のものがいいかもな、と意見を挟む。あっ、なるほどね。幹生が陽気に賛成する。すると晴子が、あの一面ガラス窓の部分も夜は間仕切りと同じ素材のもので閉めたほうが落ち着くんじゃないかしら、という。だめだよ、そこまで障子を使ったら、野暮ったくなる。紘一が言い返す。そうかなぁ。そうだよ、だけど、夜は窓をなんらかの手段で塞ぐ必要はあると思うな。
事務所の中は、緊密な空気に満ちていた。幹生の発散する花火のような活気、晴子の欲望と夫への猜疑と怒り、それに気づかぬ様子で仕事の話を進めていく紘一の粘り強い情熱。それらがひとつになって、これまですかすかしていた事務所は、ぎっしりと粒子で詰まった空間となった。
晴子は毎朝、事務所に行く前に、その日の服装を選ぶようになった。もうくたびれたタンクトップに短パンは着なかった。色落ちしていないブラウス、きれいな色のロングパンツ、体の線が浮きでるようなワンピース姿で家を出る日もあった。髪の毛を丁寧に梳《と》かし、口紅もつけた。晴子の変化を、紘一は戸惑うように眺めていた。晴子はそんな紘一の視線を感じるたびに、心の中で、あなたがいいだしたことだからね、と言い返した。晴子の紘一に対する態度には、ぎくしゃくしたものが混ざりこむようになった。通江がそれを感じて、晴子に「この頃、なんだか苛立ってるね」といったほどだ。晴子は、仕事が詰まっていて、といいわけした。
幹生と寝ることができたら、自分の鬱屈した気分は消える。晴子はそう思っていた。紘一が他の女と寝ている証拠はなかった。しかし、今寝てなくても、過去に寝ただろうし、未来のいつか寝るのは確実に思えた。過去ならばまだ納得できる。しかし、今、寝ているとしたら我慢できない。未来に、寝るのならば、自分が先に幹生と寝てやりたいと思った。
晴子の欲望には、夫への復讐が混ざりこんでいた。そのふたつを満足させるために、晴子は、幹生と寝たいと熱烈に思った。
しかし、それは晴子の一人遊びに過ぎなかった。幹生が訪ねてきても、会話は店の設計に終始した。幹生は私生活のことはほとんど話さなかった。言葉の端々から晴子が拾いあつめた情報は、五年前離婚して、ずっと新宿にある洋風居酒屋の雇われ店長をしていたこと、二か月ほど前、そこを辞めてから、親戚の家業の運送屋を時々手伝っているということくらいのものだった。さらに幹生と親しくなろうにも、常に隣に紘一がいた。紘一の前で、堂々と幹生を誘惑する勇気はなかった。つまるところ、晴子が幹生に欲望を燃やすことと、それを実現させることの間には、アラスカからアフリカに行くくらいの隔たりがあったのだ。
契約日を二日後に控えた土曜日、紘一と晴子は内装設計の仕上げに取りかかっていた。すでに発注する業者も決め、後は細かなところを打ち合わせるだけとなっていた。
その日の午後も幹生は、ふらりと事務所に現れた。日中、事務所のドアの鍵は開いている。幹生は、コンコココン、コンコン、とリズムをつけてノックすると、返事も聞かずにドアを開けて入ってくるようになっていた。
いつものようにノックして、玄関口に現れた幹生は、仕事をしている二人を見て、「よお、がんばってるな」と声をかけた。
「いよいよね、幹生さん」
晴子は、首を捻って幹生に笑いかけた。幹生は手にしていた紙袋をテーブルの上にどさりと置いた。
「ああ、明後日だ。前祝いと思って、こいつを持ってきたんだ」
晴子は製図机から離れて、テーブルに近寄っていった。紘一も回転椅子を回して、後ろのテーブルに向き直った。幹生は「じゃじゃじゃじゃーん」といいながら、紙袋の中からシャンペンを取りだした。
「もう冷えてるんだ。どうだい、これで乾杯だ」
「おいおい、まだ昼間だぜ」
幹生は子供のように唇を突きだした。
「土曜日だろ、仕事は半日だって決まってる」
「契約と同時に工事に入りたいといってるのは、おまえだぜ。まだ最後の詰めが残ってるんだ」
「詰めってなんだ」
「壁紙の決定とか、造作の細かなところとか。もう一度、店を見ないと、最終確認はできないけど……」
「だったら、今から見に行こう。ついでに店の中でシャンペンで前祝いってどうだ」
幹生ははしゃいでいった。晴子が「でも、あの店に行こうっていっても、鍵が……」といいかけると、幹生は「角ちゃんに頼むさ」といって、電話機に手を伸ばした。
「あっ、角ちゃん。悪いけどよ、あの店、もう一遍、見たいんだ。内装工事の下見ってことさ、うん、ありがたい」
幹生は電話を切って、「角ちゃん、今から会社を出るから、十分後には店の前で待ってるってよ」と告げた。
内部を見られるのなら、ついでにいくつか確認したいことがあるから、図面を持っていったほうがいいと紘一がいいだした。しかし資料をまとめるのに、少し時間がかかる。角田を待たせたら悪いので、幹生と晴子は先に行くことにした。
晴子は幹生にいわれて、シャンペンの紙袋に、事務所にあったグラスを四個入れ、二人で外に出た。
設計事務所から、貸店舗の物件まで徒歩十分ほどだ。二人は小さな店の並ぶ裏通りを歩きだした。
真夏の午後の容赦ない日射しが照りつけていた。日覆いをかけた八百屋の店頭に、笊《ざる》に入って並んでいるしょぼくれた野菜たち。午後のけだるさと暑さにげんなりした顔で行き来する人々。『丑の日』と墨書された張り紙が、鰻屋の格子窓で暑い日射しに炙られていた。夏中、そこに張られていたので、紙はぱりぱりに反っていた。
「晴ちゃん、暑いだろ」
幹生がいって、自分の赤い野球帽を脱ぐと、晴子の頭にすぽんとかぶせた。ぷん、と帽子の中から、幹生の匂いがした。
「変じゃない」
晴子は照れながら、ぶかぶかの野球帽の庇に手を触れて、かぶり直した。実際、水色のワンピース姿と赤い野球帽とは、おかしな組み合わせだった。
「いいって、いいって。アンバランスなところが、またかっこいいんだ」
幹生は適当なことをいった。ジーンズに運動靴、芥子色のシャツの裾をひらひらさせて歩く幹生の隣で、晴子はくすぐったい気分を覚えた。自分と幹生が、人の目には恋人同士のように映るかもしれないという想像が、晴子を浮かれさせた。
晴子は横目で、幹生の色白だが、筋肉の張った腕を見た。芥子色のシャツから弓のように伸びた喉と喉仏、そして鼻筋の通った横顔に視線を移していった。
幹生が来た時、たまたま紘一が少し外出していて、事務所で他愛ない会話をしたことはあったが、外で二人きりになったのは初めてだった。紘一と晴子が築きあげた事務所の中ではできなかったことが、町に出ると、できるような気がした。
あなたに惹かれているの。単刀直入に、そういってみようか。それとも、今度、どこかに二人きりで遊びに行きたいわ、と暗に仄めかすといいだろうか。恋人はいるの、と尋ねてみようか。しかし、いる、といわれたら、話の持って行き場に困ってしまう。晴子の心の中で、さまざまな言葉が生まれ、消えていった。結局、実際に声に出していえたのは、「お店、どうして吉祥寺にしたの」という、当たり障りのない問いだけだった。
幹生は一瞬、返事に詰まったようだった。
「やっぱ、おもしろい町みたいだからさ」
「それだけで」と晴子はさらに尋ねた。幹生は、ジーンズのポケットに手を突っこんだ。
「それに、こっちに知り合いがいてさ、店を開いたら、客を紹介してくれるともいうしさ……」
「あら、そんな知り合いがいたの」といいながら、晴子は焦りを覚えた。
幹生に自分の欲望を伝えるならば、今がその時だった。しかし、どう切りだせばいいというのだろう。こんな路上で、唐突にホテルに行こう、とはいいだせはしない。決心と逡巡が頭の中でめまぐるしく回転し、背中や腋の下に汗が噴きでてきた。
幹生と寝たいのかい。
からかうような紘一の言葉が頭に響く。
そうよ、寝たいわ。寝たいわ。
晴子は、夫に向かって叫んだ。そして、隣を歩く幹生の左手のほうに、そっと自分の右手を伸ばしていった。手を握っていうのだ。どこかに連れていって、と。
寝たい、と思うことと、寝ることとの大きな距離を、晴子は飛びこえようと決心した。晴子の指が宙に広げられた時、幹生の腰ポケットで携帯電話の音が響いた。幹生の左手がついと動き、ポケットから携帯電話を引きぬいた。
「もしもぉし」と答える幹生の声を、晴子は呆然と聞いていた。
「ああ、おまえか。うん、今、店に行くところだけど。ほら、『北野屋』の先の……」
幹生は電話の相手に親しげに話している。駅周辺の地理に詳しいらしいので、さっき話していた知り合いかもしれないと、晴子は思った。
「なんだって……」
幹生の顔から笑いが消えた。そして晴子に片手で拝むようにして、通りの端に身を寄せた。ぼそぼそと真剣な調子で話しはじめた幹生から少し離れたところで、晴子は自分の右手を裏返し、それをまただらりと下げた。
「……だけど、それはいったい…………うん……まってくれよ……」
何かこみいった事情のようだった。女だな、と晴子は思った。そして、打ちのめされた気分で路地の先にある大通りを眺めた。車の行き交う道路の上に陽炎《かげろう》が立っていた。熱された空気が、ゆらゆらと揺れている。その向こうの通行人たちの姿も少し滲んで見えた。
欲望とは、あの陽炎のようなものだと晴子は思った。熱されて、炙られて、揺れているのに、無色透明のまま形になりはしない。人々はそれにぶつかっても、無関心に通りすぎていくだけだ。
「お待たせっ」
幹生の声がした。振り向くと、幹生がポケットに携帯電話をしまいながら近づいてくるところだった。
「真面目な顔の幹生さん、初めてみたわ」
晴子は野球帽を脱いで幹生の頭にかぶせるといった。
「ひどいなぁ、俺だって真面目になる時もあるんです」
幹生が大仰に真剣な顔をしてみせた。
それから二人は話を交わすことなく、貸店舗のあるビルの前まで行った。すでに到着していて、鍵を弄《もてあそ》んでいた角田は、幹生と晴子と落ち合うと、二階に通じる階段を登りながら、「すみません、会社を出がけに急にお客さんが来て、これから下見に連れて行くことになったんです」といいだした。晴子は困った顔で幹生を見た。しかし角田はすぐに付け加えた。
「いいんですよ、ゆっくりしてくれて。ドアノブのところのボタンを押してくれれば、それで鍵がかかりますから」
角田は貸店舗のドアを開くと、幹生に頭を下げた。
「そしたら正木さん、あさっての契約、朝十時に会社で。よろしく頼みますよ」
そして鍵をポケットに入れると、そそくさと階段を降りていった。
晴子と幹生は店の中に入っていった。深紅のカーテンを通した光が、店の中をぼんやりと照らしだしている。カーテンを開けようと窓辺に近づいていこうとした晴子に、「そのままにしといて」という幹生の声がかかった。幹生はカウンターに紙袋から取りだしたシャンペンとグラスを置いた。
「カーテン閉めてるほうが、店みたいな雰囲気が出るからさ」
幹生はカウンター近くのテーブルの前に腰を下ろした。確かに深紅色がかった薄明かりが赤い天鵞絨張りの椅子や、緑と赤と金色の筋の入った壁紙を浮かびあがらせ、夜の店の風情を出していた。晴子は、幹生の隣に座った。
「ずっと夢だったんだ」
幹生が少しがらがらした声でいった。
「田舎から出てきた時から、いつか自分の店を持ってやるぞって、ずっと思ってた」
「その夢が叶うのね」
晴子は、幹生の大きな瞳に吸いよせられるようにして応じた。
「俺には、ここが店になった時の様子が見える。いろんな客が集まるだろう。学生や社会人、何をやって生きてるかわからないような正体不明の奴ら……」
幹生は、店の薄暗がりに佇む椅子やテーブルを、それにあたかも客が座っているかのように目を細めて眺めた。
「隅のテーブルでは、カップルが手を握りしめて囁いている。女のほうは、カウンターの俺に時々熱い視線を投げてくる。カウンターには、OLが二人座っている。そして、マスター、水割り作ってぇ、と甘い声を上げて、流し目を送ってくる」
「ずいぶん、もてるマスターね」
晴子は皮肉っぽくいった。幹生はそれに応じることはなく、淡々と続けた。
「人は誰だって心にむらむらしたものを抱えている。あの女とやってみたい、あの男と寝たい。だけど、日中はそんなものを隠している」
晴子の胸がざわついた。自分の欲望に、幹生は勘づいていたのだろうか。だから、こんなことをいいだしたのだろうか。晴子はどきどきしながら、幹生の次の言葉を待った。
「それが酒を売る店に来ると、噴きだしてくる。十五年も水商売してると、店に来るお客さんたちの心の中で起きる、いろんなことがわかってくるさ、晴ちゃん」
幹生は晴子の太腿にぽんと手を置いた。晴子はどきりとして、幹生を見た。晴子の欲望が、幹生を染めたかのように、その顔はカーテンを通して入ってくる薄明かりを映し、赤く色づいている。晴子は幹生の手に自分の手を重ねた。
「あの女、なかなかいかすな、一人きりだ、男が欲しいんじゃないか。あのカップルの男の人と、私の横にいる彼氏、交換してみたいわ。マスター、私と寝てくれないかな。カウンターにいると、そんな声が聞こえてくる」
晴子には、貸店舗の薄暗がりに点在するテーブル席に座る客たちの姿が見えた。体をくっつかせて座る恋人同士。女の背中ごしに男の手が伸びて、隣のテーブルの若い女の股間に達している。女のほうの視線は男を通りすぎて、店の隅で呑んでいる三人の若者たちにへばりついている。カウンターで喋る女の舌が蛇のようにのたうち、背後にいる二人の女に囲まれた男の頬を舐めている。トイレに続く暗がりで、立ったまま交わっている男女がいる。男の肩にしがみつく女の指先は、カウンターに一人座る男の背中を撫でている。三組の客が座る大きなテーブルの下では、脚と脚が蚯蚓《みみず》の群れのように複雑に絡みあっている。
晴子の手は幹生の手の甲から股間へと滑っていった。そして幹生の股の間にある膨らみに達した。
幹生は、晴子にいった。
「男と女のむらむらしたものが渦巻く場所。それが酒を売る店だ。俺はその店のマスターさ」
晴子は、幹生のジーンズのジッパーを下げて、指を中に入れた。パンツ越しに人差し指の腹で、男根に触れる。男根が硬くなっていくのがわかる。晴子の太腿の内側が燃えるように熱くなってきた。晴子は幹生のジッパーを大きく開くと、パンツの中に手を差しいれて、硬くなってきた男根を引きずりだした。そして掌に包んで、強くこすった。幹生は脚を大きく開いて、顎を反らせた。男根は徐々に太く、頭を反りかえらせてくる。
晴子は男根を包む手を激しく上下に動かしながら、店にいる他の者たちを見回した。男も女もそれぞれの愛撫を続けながら、晴子と幹生を見つめて微笑んでいる。
カウンターで背中を向けていた男が振り向いた。紘一だった。紘一もどこか悲しげな表情で、微笑んでいた。
紘一が見ているということに、晴子は驚き、そして興奮を覚えた。
紘一は片手を伸ばして、カウンターに置かれていたシャンペンの瓶を取った。それを股の間に挟んで、ぺりぺりと栓の封を破りはじめた。
晴子は幹生の男根を揉みつづけながら、自分のパンティを脱いだ。そして紘一を見つめながら、幹生の男根の上に跨《またが》った。熱くなったとろとろした膣に、男根が滑りこんだ。晴子は幹生の体の上から、首を捻《ひね》って紘一を見た。紘一は、晴子の視線を受けとめながら、ゆっくりとシャンペンの栓を押しあげていく。晴子は腰を深く沈めた。腰から熱い波が噴きあげてきた。紘一との間では、久しくなかった興奮だった。
店の客たちが、晴子と幹生を見つめている。紘一の指先で、シャンペンの栓が少しずつ浮きあがってくる。幹生が腰を突きあげてくる。晴子の全身から欲望の熱気が立ちのぼる。その熱の中に、店の景色は融けていく。幹生の激しい息遣いが聞こえる。晴子の全身が揺すぶられる。体の底から湧きあがってきた熱に包まれて、晴子の意識は遠くなった。
遠くで、ポーン、とシャンペンの抜かれる音がした。
その午後、幹生との間に起きたことはどこまで現実だったか、晴子にはよくわからなかった。
覚えているのは、断片的な記憶だけだ。
幹生と紘一と晴子と三人でシャンペンを呑み干し、空になったら、貸店舗を後にして、飲み屋に繰りだした。飲み屋の片隅で、紘一と幹生が親密に話していたこと、三人で大笑いしたこと、晴子が路上でフラダンサーのように腰を振って踊りながら歩いていたこと。幹生が、「俺の店、俺の店」と喚いていたこと。紘一が、「おい幹生、いい前祝いだったじゃないか」といっていたこと。そんな光景をつぎはぎだらけに覚えていた。
その夜、酔っぱらった晴子は、紘一と一緒に家に戻り、そのまま寝室で激しく交わった。
翌日の日曜日、晴子は一日、寝込んでいた。元気を回復したのは、月曜日の朝のことだった。それでもいつもより少し寝坊し、通江の、あきれ顔を後目《しりめ》に、遅ればせに設計事務所に出ていくと、紘一がコーヒーカップ片手に、電話で話しているところだった。
「ええ、僕のところにも連絡はなくて……さあ……なんとも……」
紘一は電話を切ると、回転椅子をくるりと回して、晴子にいった。
「角田さんからだ。幹生が契約に現れないって」
晴子は「えっ」と聞き返した。
「契約はなしさ」
「だって……あんなに一生懸命だったのに……」
紘一は冷めたコーヒーを啜っていった。
「店を出す金、ある女に出資してもらうことになっていたらしい。それが、うまくいかなくなったって……」
「それ……知ってたの」
「土曜日の夜にね」といって、紘一は頷いた。
飲み屋の片隅で、真剣な顔で話していた幹生と紘一の姿を思い出した。そして、貸店舗に行く途中にかかってきた電話も。
すべては幹生の夢として消えたのだ。晴子は、あの土曜日に起きたことすべてが、さらに遠ざかっていくのを感じた。それに抗うように、晴子は口を開いた。
「あの日、私……」
「見てたよ」
哀愁のこもった紘一の声の響きに、晴子は、はっとした。もしかして、紘一は他の女と情事なぞしていなかったかもしれない。晴子の欲望のもたらした思いこみだったかもしれない。
二人の間に、AFNのボサノバ音楽が流れこんできた。晴子は紘一の横に立って、その肩に手を置いた。紘一が飲みかけのコーヒーカップを手渡した。晴子は紘一の肩に手を置いたまま、もう片方の手でそれを受け取り、半分ほど残っていたコーヒーを啜った。
「まだ、幹生と寝たいかい」
紘一がそっと聞いた。晴子はしばし自分の心の中を探り、やがて「ううん」と答えた。幹生に対する欲望は、すらりと消えてしまっていた。
欲望は陽炎のようなものだ。消えてしまうと、そこに陽炎が立っていたことなぞ、忘れてしまう。
窓の外では、残暑の強い日射しが、ビルや民家の壁や屋根に照りつけはじめていた。今日も暑い一日になりそうだった。そして、また新たな場所に新たな陽炎が立つのだろう。
晴子は紘一の肩をぎゅっと握りしめると、コーヒーカップを脇に置いた。そして、ボサノバのリズムに乗るようにして、製図板のほうに歩きだした。
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蓬莱ホテル
『スーパービュー踊り子43号』と書かれた掲示板の文字が点滅していた。ピィィンポォォン、ピィィンポォォンと、チャイムが鳴り響いている。バッグを背中でぽんぽんと弾けさせ、手にはデパートの紙袋を握りしめて、真由美は上りエスカレーターを駆けあがった。
ホームに足をつけた時には、発車直前の静寂が支配していた。チャイムは止み、白い手袋をした車掌が扉の前で最後の審判の刻《とき》を告げる天使の如く、決然と手を挙げている。ホームに人影はほとんどなく、丸みを帯びた薄青色の特急の周囲には侵しがたい重々しさが漂っている。自動扉が厳かに閉まりはじめていた。
「待ってえぇっ」
運命に異を唱えるかのように真由美は叫びつつ、自動扉の隙間に飛びこんだ。自動扉が真由美の体にぶつかった。真由美は挟まれて、蟹のようにじたばたした。「無理なご乗車はおやめください」というアナウンスが響いたが、恥ずかしいだのとはいってられない。これを逃したら、せっかく朝六時に起きた努力も水の泡となる。自動扉が少し開いた隙に真由美は体を中に押しこんだ。背後で、プシューッと音がして自動扉が閉まった。ガラス窓の向こうでホームが動きだした。
いや、動いているのは列車に乗った真由美のほうだ。しかし真由美には、東京駅のホームが、東京が、朝九時から夕方五時までの会社勤めが、すべて後ずさりしていくように思えた。真由美は、がらんとした列車の連結部に、息を切らせつつ立っていた。
とにかく間に合ったのだ。
真由美は真ん中がひしゃげた革のバッグを背中から降ろして、ぱんぱんと叩いて形を戻し、丁寧にカールさせた前髪を指先で整え、ポケットから乗車券を取りだした。指定席の位置を確かめると、揺れる列車の中を何事もなかったかのように歩きだした。
先に真由美を見つけたのは、香津子だった。長い首をキリンのように伸ばして心配そうに通路のほうを眺めていた香津子は、真由美を目にすると、盛んに手を振りながら向かいに座っていた実歌に話しかけた。実歌も振り向いて、輝くばかりの歯を見せてぱっと笑ったので、まるで白いエプロンが広がったかのようだった。
「心配してたんだから、もうっ。間にあわなかったらどうしようかと思ったわよ」
席の前にやってきた真由美に、香津子が堰を切ったようにいった。真由美は、その膝にデパートの紙袋をどさんと置いた。
「はい、九重堂のお弁当」
「ちゃんと買ってきたのね」
実歌が感心したように、紙袋と真由美を見比べた。
「もちろん、食糧調達係の任務、無事、果たしました」
実歌も香津子も車内販売の弁当でいいといったのだが、あんなまずいものを食べたくはないと主張したのが真由美だった。いいだしっぺの責任を取って、デパート開店早々、地下の食品売り場に駆けこんで弁当を買ってきたために、発車ぎりぎりになってしまった。
真由美はバッグを網棚に置くと、実歌の隣の通路側の指定席に座った。四人座りのボックス席の残りひとつは空いていて、うまくすれば伊豆まで三人で占領できそうだった。香津子が紙袋の中を覗いて、ワインレッドに塗った唇を突きだした。
「すごい、ちゃんとビールにおつまみまで買ってきてある」
「ローゼンブルグのビールなんて、車内販売にないものね」
真由美は紙袋を取りあげて、缶ビールを他の二人に配った。ビールはまだ冷たくて、アルミニウムの表面には真珠のような水滴が噴きだしている。
「ねえ、私たちの温泉旅行に乾杯しようよ」
「せっかちね、真由ちゃん。せめて品川を出るまで待ったらぁ」
実歌が窓ガラスの向こうを流れていく殺風景なビル群に顔を向けて、大きな口を尖らせた。
「いいじゃない。それに私、喉渇いてるのよ」
香津子が「そうよね、休みなんだし」と応じて、缶ビールのプルトップを引っ張った。弾けるような小さな音と共に白い泡が勢いよく噴きだしてきて、香津子の煉瓦色のロングスカートの膝を濡らした。
「わっ、なによ、これ」
香津子が慌てて缶ビールを窓辺に持っていった。実歌がすかさずティッシュを取りだして渡している。
「ごめん、ごめん。走ってきたんで、揺らしちゃった」
真由美は笑いながら自分の缶ビールも開けて、噴きだしてきた泡に唇をつけて啜った。
「蓬莱ホテル・レディース特別割引パック」のパンフレットを見つけてきたのは、香津子だった。
香津子と実歌と真由美は短大の同級生だ。卒業しても、たまに一緒に呑みに行ったり、海外旅行に出かけたりしてきた。香津子はブティックの店員、実歌は自動車学校の事務員、真由美はカタログ販売会社勤務と、職種は違っても、東京で一人暮らしをして社会人として働いていることは同じだ。職場の上司や同僚、仕事の愚痴、おしゃれやダイエットの話、そしてもちろん男問題について、気兼ねなく話す仲だった。
カタログ販売という職業柄、雑誌の情報欄によく目を通している真由美は、蓬莱ホテルのことは知っていた。伊豆に新しくできた観光ホテルで、ヨーロッパ風リゾートホテルと和風温泉旅館の両方の良さを取りいれているという謳い文句が記事になっていた。通常、一人一泊三万円以上はするのが、割引パックだと、女性客三人で一人二万円だという。真由美は香津子に誘われるや、一も二もなく賛成した。実歌は二人が乗り気になったことには、必ずついてくる。すぐさま予約をして、紅葉も始まった十一月初旬の週末、踊り子号に乗ったというわけだった。
列車が横浜を出ると、三人は弁当を開いた。秋の特別行楽弁当と銘打っているだけあって、三つに仕切られた箱の中は、紅葉形をした赤い麩や銀杏、栗などで美しく飾られている。三人は口々に「かわいいっ」とか「きれい」とか、女の子の常套句で誉めそやしつつ、箸を口に運びはじめた。
「ね、車内販売のお弁当なんかより、ずっといいんだから」
真由美は得々としていった。
「真由ちゃんの根性には頭が下がるよ。これがいい、と思ったら、絶対、それじゃないとだめなんだもん」
実歌が食べている口許を手で隠しつついった。
「ほんと、男が見つからないのも無理ない」
香津子の茶々に、真由美はむっとして言い返した。
「ミゾ公なんてんでもいいってんなら、すぐに見つかるわよ」
ミゾ公、つまり溝口は香津子の恋人、というより、下僕みたいな青年だ。引っ越しといえば車で駆けつけ、終電に遅れたというと寝ぼけ眼で迎えに来る。たまに二人で二泊三日ほどの短い海外旅行にも行くが、香津子の言い草を聞くにつけ、ボディガード兼荷物運びみたいな存在としか思えない。真由美と実歌はことあるごとに、溝口のことを香津子の忠犬ミゾ公といってからかっていた。香津子も香津子でそれで気分を害することもなく、自分でも仲間内では、うちのミゾ公が、などと呼んだりしている。
「あら、ミゾ公なんてんでも、いないよりましよ」
香津子は平然と答えて、「実歌ちゃんはどうなったの、不倫相手。そろそろ離婚話でも出てきてないの」と、実歌に話を向けた。実歌は両手を盛大に横に振った。
「やめてよ、離婚なんてしてもらいたくないわ。私は今のままで充分。パンツ洗ったり、食事の支度なんかしたくないもん」
「たまにいいレストランで食事したり、かっこいいホテルに泊まったり、旅行に連れてってくれるだけでいいってことか」
香津子の合いの手に、実歌は目を網棚のほうに逸らせて、軽く頷いた。
「私、結婚なんて向いてないと思うんだ。一生、シングルかもしれないな」
「悟ってるのね」
真由美が実歌に肩をぶつけた。実歌は照れ笑いした。
「私はミゾ公と結婚するかもしれない」
突然、香津子がいいだしたので、真由美と実歌はびっくりした。
「ミゾ公とぉ」
「やだ、どうしちゃったのよ」
二人は口々に声を上げた。香津子は窓に体をよりかからせた。
「あんな奴だったら、いちいち煩《うるさ》くいわないし、楽かなぁと思って……」
「だって、三十まで、まだ四年もあるじゃないの」
香津子は常々、ミゾ公は、三十歳までに本命に巡りあわなかった場合の保険みたいなものだと語っていた。香津子は口を横に結んで顔をしかめた。
「三十まで待ってても、どきっとするような男が現れるって確信がなくなったのよ。男なんて、どいつもこいつも似たり寄ったり。ちょっとつきあうと、やっぱり女は家にいるほうがいいとか、料理や裁縫が上手いに限るとか、考えてるのがわかってくる。その点、ミゾ公って、私のやることなすこと、文句ひとついわないし……」
列車は横浜を過ぎて、どこまでも続く白っぽい市街地の中を走っている。味気ない風景に覆いかぶさる青空まで、どこか色褪せて見える。香津子は窓の外に目を遣って付け加えた。
「どっち向いても、先が見えてるって感じがしてきちゃったんだな」
「そうねえ。結局、いい男なんて、どこにもいないのかもね」
実歌が応じた。
「やあね」と、真由美は大きな声を上げた。
「人生、なにがあるかわかんないって。これからじゃないの、私たち。青年よ、大志を抱けとかいうじゃない」
「ねえねえ、真由美の大志って、いい男見つけることなのぉ」
香津子が笑いだした。
「そればっかじゃないけどさ……」
ふくれっ面をした真由美を、香津子と実歌はおかしげに見つめていた。
蓬莱ホテルは、河津駅から車で二十分かかるところにある。駅の前にはホテルの送迎車が来ていて、三人は同じ列車から降りた初老の夫婦や若い恋人同士、やはり割引宿泊パックに釣られてきたらしい四十代の女性三人連れと一緒に車に乗りこんだ。
伊豆の秋は緩やかにやってきていた。恥じらう女の頬のように、山はうっすらと柿色がかってきている。ホテルへの途上、木立の間に見え隠れする相模灘は、もの寂しげに午下がりの陽を反射していた。
海を見下ろす高台の上に、蓬莱ホテルはある。門から続く棕櫚《しゆろ》の並木の先に聳える、八階建ての白い建物だ。周囲には芝生や木立が配された広々とした庭園が広がっている。真由美たちが案内されたのは、山に面した五階の部屋だった。
「なんだ、海の見える部屋じゃないのね」
案内の仲居が消えると、真由美が真っ先に文句をいった。蓬莱ホテルに予約した時から、真由美の頭の中ではすでに泊まるのは海側の部屋、と決まっていたのだった。
「割引パックなんだから、仕方ないんじゃない」
実歌がおっとりという。香津子は窓を開けて、身を乗りだした。
「紅葉の山もなかなかいいものよ」
真由美は座卓に置かれていたホテルのパンフレットを開いた。パンフレットには、ホテルのさまざまな施設の写真が満載されている。
「ねえ、露天風呂があるんだって。行ってみようか」
真由美は気を取り直して、パンフレットを叩いてみせた。香津子が横に来て、蓬莱饅頭という文字の書かれた菓子の包みを破りながら、パンフレットを覗きこんだ。
「展望大浴場ってのもあるわよ。すごい、大理石張りだって」
実歌は畳に座りこむと、鞄を開いて、そそくさと化粧ポーチを取りだしはじめた。
脱衣場には誰もいなかった。脱いだ衣類の入った籐製の籠が五つほど、棚に置かれているだけだ。
片側の大きなガラス越しに、日本庭園に面した広い浴室が見えた。湯気の向こうに、湯船に浸かる人の影がある。浴室への入口と並んで、直接、外に出られるガラス戸があった。敷石がくねくねと曲がりつつ、築山の間にある露天風呂に続いている。
真由美たちは一列に並んで、衣類を脱ぎだした。お互いの裸体にそれとなく注意を向けつつ、緩慢な動作で服を脱いでいく。乳房の丸み、腹や尻の曲線、股の間の黒い茂み。女の裸体は見慣れたものであるはずなのに、真由美は奇妙な違和感を覚えた。
香津子の乳房は痩せている体の割に大きい。くいっと盛りあがった浅黒い乳房の下の線は、彫像のように美しい。そして細い胴の下に、ぼたんとした尻がくっついている。太腿も足首も、やけに逞しく、細い体を支えるには充分すぎる感じだ。色白で丸々した実歌の乳房は、青林檎のように小さくこりっとしていて、先には桜色の乳首が、ぽつんとついている。尻は平手で叩いた餅みたいだ。真由美は、いつも知っている香津子と実歌ではない、別の女たちをそこに見た気分になった。まるで肉体が、突然、自分たちのことを語りだしたようだった。
もっとも、それは一瞬のことだった。
「先、行くよぅ」と実歌が手拭いをひらひらと振って、露天風呂のほうに歩きだすと、実歌はもういつもの実歌になっていた。香津子が手拭いで前を隠して、「私も」と後に続いた。
裸体の上に見えない衣服をまとったように、実歌も香津子も、真由美の知っている二人に戻っていた。真由美も「待ってぇ」といいつつ、庭に出ていった。
築山に囲まれた露天風呂には誰もいなかった。素肌に秋風が少し肌寒い。石の間から流れ落ちる湯の音が静かに響いている。
「実歌、ちょっと痩せたんじゃない」
湯が熱いといって、風呂の縁に座って、臍から上を出したままでいる実歌に、香津子がいった。実歌は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ちょっとね。今、薬草エキスでダイエットしてんだ」
「高いんじゃない」
顎のところまで湯に浸かった真由美が、天を見上げながら聞いた。鰯雲の浮かんだ空を、天城の山々が縁取っている。
「そんなこといってられないわ。放っとくと、ぶくぶく太っちゃうんだもん」
「だったら、脂肪の吸い出しとかいうの、あるじゃない。そっちが早いわよ」
香津子がからかう調子でいう。
「手術なんて痛いの厭だぁ」
実歌が甘ったれた声を出した。真由美が頭をくいと上げて、実歌を見遣った。
「あら、あんた、目のところ整形したんじゃなかった。あれも手術でしょ」
実歌は膨れっ面になった。整形手術のことをいわれるのは厭なのだ。
短大時代の実歌はぼったりした一重瞼だった。社会人になって、久しぶりに会ってみると、ぱっちりした大きな目になっていて、香津子と真由美はびっくりした。問いつめられて白状したのは、会社に入る前に、整形したということだった。
香津子が湯の中に仰向けになって、風呂の縁の石に頭をもたせかけた。
「整形なんて、あんましやらないほうがいいわよ。特に皺取り手術、あれって、やっぱわかるんだよね。全体の雰囲気と顔の感じが一致しないんだ。店のお客さんで、そんな人いるけど、エジプトの棺桶の絵みたいな感じがするな。ほら、表に人の姿を描いた、ミイラを入れる棺桶のさ」
「歳取ってまで、整形する気はないわよ」
実歌はつんとして答えた。
「あーら、わかるもんですか。歳取ったら、またその気になるんじゃないの」
真由美がいったとたん、実歌は腰を滑らせて、ざぼりと肩まで湯に入った。
「わかんない」
実歌は鯨が潮を噴くように、言葉を吐きだした。なにが、と香津子が聞き返した。
「歳、取った自分って想像できない」
「自動車学校の主っていわれる、オールド・ミス」
真由美が意地悪くいった。
「違うって」
「だってさっき一生、シングルだと思うっていってたじゃない」
実歌は肩を湯から出すと、にっこりとした。
「オールド・ミスとシングルとは違うもん。オールド・ミスってのは結婚できなかった女、シングルってのは結婚を選ばなかった女。それに、私、ずっと自動車学校で事務やってるつもりはないもん。今、ソムリエの通信教育を受けているんだ。一流レストランのソムリエになって、優雅なシングル・ライフを送るってわけ」
「いつから、そんなこと始めたの」
その向上心に、内心感嘆しつつ真由美が尋ねると、今年の春から、と実歌は答えた。
香津子が火照ってきたらしく、風呂から上半身を出すと、秘密めいた口調でいった。
「私さ、今度、店長になるかもしれないんだ」
そして、真由美と実歌の意外そうな顔を見て、満足気に頷いた。
「来年、荻窪に新しい店を出すんだって。そこの店長をやらないかって、一週間前、社長に聞かれたんだ」
「わあ、かっこいい」
「すごいじゃない」
店長になるのは、香津子の夢だった。真由美は、よかったね、と口ではいいつつ、内心、焦りを感じた。先が見えているようなことを口ではいいながら、二人とも着実に自分の人生の目標に向かっていた。真由美は通信教育も受けてないし、昇進の話もない。三人で会った時は、仕事や男の愚痴をこぼし、それで当座の問題は解決した気分ですませてきた。
真由美は湯を両手で掻き混ぜた。湯の塊が全身にぶつかって、さざ波をたてた。
「気持ちよくって、すっかり居眠りしちゃったよ」
築山の向こうで、声が聞こえた。真由美は、他の二人と同時に、そちらに顔を向けた。
浴衣を着た初老の女二人が楽しげに戻ってくるところだった。
「砂風呂って初めてだったけど、なかなかいいもんだねえ」
もう一人の女がいいつつ、脱衣場のほうに通り過ぎていった。そういえばパンフレットに、そんな変わった風呂の名も出ていたと、真由美は思いだした。
「ねえ、砂風呂ってのに行ってみようよ」
真由美は湯から勢いよく立ち上がった。
砂風呂とは、海を見晴らす斜面に砂を敷きつめた場所だった。幼稚園の砂場みたいなものだが、そこはホテルだけあって、周囲には灌木を植え、庭石や縁台を置き、朱色の和傘を飾り、風雅な風情にしつらえてあった。
すでに来ていた四人の客たちは、砂に全身埋まって横たわっている。日除けの赤い小さな傘が頭の上に、心地よさげな影を作っている。
一旦脱衣場に戻って浴衣を着た真由美たちが砂場に近づいていくと、蓬莱ホテルの紋を染め抜いた紺色の作務衣《さむえ》を着たごま塩頭の男が「どうぞ、こちらへ」と、人気のない一角に手招きした。
三人は並んで、ぼさっと砂の上に立った。作務衣の男が、一番端にいた実歌を横にさせると、砂を均《なら》していた他の二人の従業員を呼んだ。一人はころころした中年女で、もう一人は小柄で引き締まった体つきの青年だった。中年女は香津子につき、青年が真由美の世話をすることになった。
「ここに横になってください」
青年が微笑みながら足許を示した。ちょっと言葉の響きがおかしかった。浅黒い肌に、やけに大きな黒い瞳、日本人離れした顔の彫りの深さは、中東あたりから来たのではないかと思われた。
出稼ぎかしらと考えつつ、真由美はいわれた通り、砂の上に仰向けになった。青年は、真由美の脇に跪《ひざまず》くと、木の小さな鋤のようなもので砂をかけはじめた。微かな衝撃と共に、砂が真由美の体に落ちてくる。ざっ、ざっ、と砂の小さな音が響く。つま先から肩まで、砂が全身に積み重ねられていく。砂の重みは、真由美を下に下にと沈めていく。赤い日除けの縁から覗く青空が遠ざかり、全身が地面に沈んでいく。地球の芯に向かって、ずんずん墜ちていくような感覚を味わいながら、真由美は目を閉じた。砂風呂の中で話す人々の声が遠くに聞こえる。ぶぅぅん、とどこかで虫の羽音が鳴っている。
ふと、砂のかかるのが止んだ。
真由美はうっすらと目を開いた。
青年の彫りの深い顔が胸の上にあった。黒く長い睫が、頬に影を落としている。紫色がかった唇が微笑んでいる。ちらりと青年が真由美を見て、口許を緩めた。真由美も微笑みを返した。
青年は鋤を横に置いて、体の上の砂を手で丁寧に延ばしはじめた。真由美は笑みを浮かべたまま、再び目を閉じた。
砂越しに、青年のふたつの掌の動きを感じる。体の縁から、多すぎる砂がさらさらとこぼれる。真由美の肩や胸や腹が波で洗われているようだ。それは、遠いところから微かに達する、優しい愛撫だった。砂の下で、真由美は水のように溶けていこうとしていた。真由美の体が、青年の掌の動きを感じていた。掌が置かれた部分が、もっと、もっと、と叫んでいた。
青年の手が下半身に移っていく。下腹から太腿へ、膝小僧から足の先に。砂を通して、密やかな愛撫が届く。
真由美は小さな息を吐いた。熱い、生温かな吐息が、真由美自身の顔を包みこむ。
真由美は目を開いた。少し頭をもたげると、青年の少し縮れた黒髪が、ゆるやかな曲線を描く胸のふたつの丘の向こうにあった。砂丘で遊ぶ子供のように、無邪気に楽しげに、青年は両手で真由美の足のあたりの砂を撫でている。
その端正な横顔に見とれていると、青年の黒い瞳がすっと横に動いて、真由美の瞳とぶつかった。真由美は意味もなく微笑んだ。青年も大きく微笑んだ。今度は、唇が開き、浅黒い肌に白い歯が浮き立った。真由美の視線はその微笑みにへばりつき、離れられなくなった。
それから照れ臭くなって、慌てて頭を地面に落とした。視界にはまた、日除けの傘と青空しか映らなくなった。
青年の手がまた上半身に戻ってきた。ピアニストが軽く鍵盤で遊ぶように、真由美の体の上を指先で撫であげてくる。真由美の前に、青年の顔が現れた。とてつもなく甘い表情をたたえつつ、青年の手がついと差しだされた。砂のこびりついた青年の指が、頬のほうに伸びてきた。
真由美は口づけを待つかのように、顎を反らせた。青年の指が真由美の首筋に触れ、そこにかかっていた砂を払った。痺れるような感覚に包まれて、真由美は唇を半開きにしたまま、息をついた。
「具合の悪いところ、ありませんか」
青年が尋ねた。真由美は我に返った。
砂をかける作業は終わったようだった。すでに、香津子も実歌も砂にしっかりと埋まっている。二人についていた従業員はいなくなっていた。
「大丈夫です」
真由美は答えた。青年は「よかった」と呟いた。その言葉の響きには、単に従業員が客に応じる以上のものがこめられているように思えた。
ここで働いているの、どこから来たの。真由美の中で、さまざまな質問が渦巻いた。しかし、それを口に出す前に、向こうから声が飛んできた。
「ニロ、こっちにお客さん」
実歌に砂をかけていた男が、新たにやってきた二人連れのほうに歩きながらいったのだった。ニロというらしい青年は、「はい」と答えて腰を上げた。
「ありがと」
真由美が急いでいった。立ち去りかけていたニロが振り返った。青い空に、縮れ毛に縁取られたニロの顔が、コロナに包まれた黒い太陽のように輝いていた。
夕食は食べきれないほどあった。栄螺《さざえ》の壺焼きエスカルゴ風、地魚のカルパッチョ、山菜の揚げ物蓬莱ソースかけ……。和洋折衷の名前の料理が、美しい器に盛られて、次々と出てきた。真由美たちは浴衣のまま、酒を飲み、皿を平らげつづけ、デザートの柿のアイスクリームと麩饅頭が出てきた時には、座椅子にそっくり返っていた。
「ああ、もうだめ」
香津子がぐったりと頭を後ろに倒した。
「温泉、全部|梯子《はしご》したのが効いたみたい」
実歌が息も絶え絶えというように呟いた。
砂風呂の後、岩風呂やら、檜風呂やら、展望大浴場やら、ふらふらになるまで、三人は館内の風呂を巡ったのだった。実歌は首から腕まで、茹で蛸のように赤くなっている。真由美は柿のアイスクリームを、陶器の匙で掬い取って、なんとか口に入れた。柿の甘みがクリームと合わさって、とろりと舌に融けていく。
「幸せって、このことよね」
真由美は立て膝になって、腹を突っぱらせた。
「ほんと、食べてる時と温泉に浸かっている時が一番、幸せ」
実歌が麩饅頭を楊枝で刺して、目を細めた。
「冨谷さんと一緒にいる時は違うの」
香津子が、実歌の相手の名を出してからかった。
「幸せ度七十パーセント」
実歌は答えて、麩饅頭をぱくりと食べ、頬を膨らませて噛みはじめた。
「後の三十パーセントは不幸せなの」と、真由美が尋ねた。
「不幸せっていうんじゃないの。……そうだなぁ……足らないって感じ。百パーセントには足らないんだ」
「わかるよ。私もミゾ公と一緒にいても、幸せ度三十パーセントだもん」
「たったそれだけえ」
実歌が笑った。
「浮き沈みがないからいいの。平均三十パーセントの幸せって、長続きするんじゃないの」
香津子はしたり顔で答えた。
あの時、幸せ度百パーセントだったな、と真由美はふと思った。
砂風呂で、ニロに砂をかけてもらっている時。それは、食べたり、湯に浸かったりするのと同様、ただ満ち足りていた。そうだ、足りていたのだ。満月みたいに、丸くて、欠けたところがない。
「私、温泉に行く」
突然、実歌がよろよろと立ちあがった。
「また入るの」
真由美はあきれていった。
「だって、このまま寝たら太るもん」
実歌は部屋の隅に置いてあった化粧ポーチを拾いあげた。
「待って、私も行く」
香津子も腰を浮かした。
「真由ちゃんはどうするの」
実歌が敷居のところで聞いた。真由美は動くのも億劫な気がして、「部屋にいる」と答えた。二人が出ていくと、真由美は横倒しになった。心地よい酔いが全身を包んでいる。座卓の黒い脚が、神殿の柱のようにすっくと立っている。深緑と金色の糸で綴られた畳の縁は、神殿を貫く通路だ。真由美は小人になって、薄暗くだだっ広い神殿を歩いていく。
そして、ニロに出会うのだ。
真由美は、ほうと息を吐いた。
私、恋をしているのかもしれない、と思った。自分の胸が興奮で高鳴っているのに気がついた。
きっとニロは、母国を離れて、家族を支えるためにやってきたのだ。中東の国から出稼ぎに来る若者たちには、高等教育を受けた良家の子息も多いという。国が貧しくて、政情が不安定だから、未来に期待する者たちは、日本に来るしかないのだ。きっとニロもそんな若者の一人にちがいない。そう考えると、ニロが勤勉に働く、いい家柄の知的な青年に思えてきた。いろんなものに毒されていない、誠実な青年。真由美のまわりにいる、車とビデオにしか興味のない若い男たちとは違う。あの一心に砂をかける仕種は、ニロの誠実さの証とも思えた。
砂越しではなく、直接、真由美を撫でてくれたら、それはもう百パーセントどころか、百五十パーセント、いや二百パーセントの幸福感に達したことだろう。真由美は、砂風呂での静けさ、陶酔感を思い出して、いつか浴衣の上から自分の体を撫でていた。
「失礼します」という声に、真由美は飛びおきた。慌てて浴衣の襟元や裾の乱れを直して、「はい」と応じると、着物姿の仲居が襖を開いた。食卓を片づけ、蒲団を敷いてもいいかと聞いた。もちろん厭といえるはずもない。承知すると、仲居の後からすぐさま男性が二人入ってきて、てきぱきと座椅子や座蒲団を片づけはじめた。部屋の中は慌ただしくなった。真由美は縁側の安楽椅子に座ろうかと思ったが、気を変えて、風呂に入りにいくことにした。
部屋を出て、エレベーターに乗って、一階の風呂場に向かった。風呂には、内にも外の露天風呂にも、先客がいた。湯の流れる音や大声で話す人の声がする。香津子や実歌は、他の風呂に行ったらしく、いなかった。真由美は湯に入る気も失せて、下駄を突っかけて、脱衣場の出口から庭に出た。
露天風呂を囲む板塀の戸を押して外に出ると、日本庭園が広がっている。茂みの中から放たれるぼんやりとした外灯の明かりに、敷石が灰色に浮かんでいる。真由美はからからと下駄を鳴らして歩きだした。石灯籠や東屋の配された小径を少し行けば、あの砂風呂に着く。夜間はもうやっていないとはわかっていたが、真由美はもう一度、あそこに行ってみたかった。
夜風が火照った頬に心地よい。空には星が瞬いていた。なんだか雲の上を歩いているみたいにふわふわした気分だ。
草履の音がして、砂風呂のほうから、人がやってきた。両手に籠を抱えて、作務衣を着ている。籠の中には使用済みのバスタオルらしいものが山積みになっていた。砂風呂の後かたづけをして戻るところのようだった。
真由美の足取りがのろくなった。相手は歩調を変えずに近づいてくる。彫りの深い顔立ちが、路傍の明かりに照らしだされた。ニロだった。真由美はどきんとして立ち止まった。
ニロも、相手が真由美だと気がついたようで、黒々とした瞳を大きく見開かせた。
二人は小径に向かい合う形で立っていた。
真由美の心臓が胸の内側を激しく叩いている。
恋をしているのです。そんな言葉をいいたくて、喉がつかえた。しかし、言葉は出てこずに、真由美はただニロを見つめていた。
ニロも真由美を見返している。薄暗い中でも、ニロの黒い瞳が輝いているのがわかる。真由美は下半身から掻きまぜられているみたいに、胸がざわざわしていた。
ニロが籠を静かに小径の脇に置いた。ひんやりとしたニロの手が、真由美の手を包みこんだ。ニロは何もいわずに、小首を傾げて、茂みの中の東屋のほうを示した。真由美はニロに手を引かれて、杉皮葺きの小さな休憩所に進んでいった。
二方を壁で囲んだ東屋の縁台に、ニロは真由美と並んで座った。小径とは茂みで隔てられていて、林の中にぽつんと建っているみたいだ。外灯の光もここまでは達せず、仄かな星明かりだけがあたりを包んでいる。ニロは体の向きを斜めにして、真由美の右手を掌に包みこんで、顔に近づけた。ニロの唇が、真由美の掌に触れた。
まるで、外国映画のヒロインになった気分だった。ニロの唇は真由美の掌から手首、腕から肩へと這っていく。砂風呂での快感が蘇ってくる。ニロの唇が真由美の首筋へ、そして唇に重ねられた。真由美も熱っぽく、キスを返した。
ニロの指が、真由美の浴衣の合わせ目を広げていく。その下には、何も身につけていなかった。帯が緩められて、前がはだける。ニロが真由美を縁台に押し倒していく。
タンゴの踊りみたいだわ。真由美は頭の隅で思った。男が女の背中を抱き支えながら、女に覆いかぶさっていく、あの場面みたいだ。ニロが片手でもぞもぞと作務衣の下紐を解いている。東屋の庇の向こうに星空が広がっている。
なんてロマンチックだろう、と真由美は思った。
ニロの男根が硬くなっているのが太腿に感じられた。真由美は脚を開いて、ニロを迎えいれた。男根が、真由美の中に入ろうとして、膣の縁にぶつかっている。真由美は、腰を浮かせた。ニロの男根が、ぎしぎしと真由美の中に押しこまれていく。ニロが腰を押しだしたり、引いたりしはじめた。微かにニロの体臭が鼻を衝いた。獣の匂いなんだ、と真由美は受け取ろうとした。真由美はニロの黒い影と、その肩先にある星空を見つめた。
なんてロマンチックなんだろう。真由美はまた思った。
ニロが息を荒げている。真由美は激しく揺すぶられて、地震にでも遭ったみたいだ。
なんてロマンチックだろう。真由美は必死でその考えにしがみつく。しかし、そう思う端から、別の考えが湧いてくる。
この人、なんで、こんなに、はあはあいってんだろう。スポーツクラブで、エアロバイクを漕いでいるみたい。競輪でもしているみたいに、一人で悦にいっている男っているんだよね。
ニロはますます激しく腰を突いてくる。
なんだか、つまんない。早く終わってくれないかな、と考えてから、いけない、と思い直した。これはロマンチックな行為なんだから、つまんないはずはない。それにしても、生理のちょっと前でよかった。妊娠なんかしたら、困ってしまう。だけどエイズっていう可能性もある。この人、まさかエイズなんかに罹ってないよね。コンドームもしてないんだから、伝染することだってありえる。いやいや、誠実で真面目そうな人だから大丈夫。でも、真面目な男が、昼間、ちらっと会っただけの女とセックスするかしら……。
頭の中でさまざまなことを考えては、打ち消しているうちに、ニロが声を押し殺して、体を震わせた。
やっと終わった。もう色々と思いあぐねる必要もなくなって、真由美はほっとしたと同時に、落胆が湧きあがってきた。
これまで繰り返してきた男たちとのセックスと何ら変わることはなかったのだ。
うっとりするのは、肌を触れあわすまでの数秒間だ。いざ行為に入ると、退屈してしまう。そして早く終わってくれないかな、と考えはじめる。
どうしてこんな結果になってしまったのか、砂風呂では、あんなに気持ちよかったのに。今度こそ、ロマンチックなセックスを味わえると思ったのに。どこでどう間違ってしまったのか、さっぱりわからなかった。
ニロは上半身を起こすと、真由美の頬を撫でて聞いた。
「よかった」
真由美は「うん」と答えた。
ニロは立ちあがると、膝までずり落としていた作務衣の下衣を引きあげて、下紐を締めはじめた。真由美も浴衣の前を掻きあわせた。下腹からは、精液の生臭い臭いが漂っていた。帯は腰の下にくちゃくちゃになっていた。帯を締めていると、ニロがいった。
「明日もここにいるの」
「明日は発つの」
ニロが残念そうな顔をした。
「住所、教えてくれる」
明日ね、と答えると、真由美はそそくさと東屋から出ていった。
踊り子号は、伊豆の海岸沿いを東京に向かって走っていた。晴れあがった爽やかな日だった。青空高く、秋の陽が光を降りそそいでいる。きらめく水平線の彼方に、ぽつりと大島の影が浮かんでいた。向かいに座った香津子と実歌が、窓から身を乗りだすようにして写真を撮っている。真由美は窓辺によりかかって、遠ざかる河津の方向を眺めていた。
東京駅を出る時には、東京の生活すべてが後ずさりしていく気分に陥ったものだが、今は蓬莱ホテルでの一夜が後ずさりして消えていく気持ちになっていた。
「どうしたの、真由美。なんだか浮かない顔」
香津子がインスタント・カメラを片手に尋ねた。
「湯あたりかな……」
真由美は無理に微笑んだ。
昨夜、部屋に戻ってからも、ニロとのことは二人には黙っていた。肩すかしで終わったセックスが恥みたいに思えていた。ニロに住所を告げることなく、朝食を終えると、そのままホテルを出てきたのだった。
「ねえ、今度は東北のほうの秘湯ってのに行ってみない」
実歌が尻をどさんと座席に落としていった。
「そうね、いいかもね」
真由美は上の空で返事した。
「おいしいもの食べて、温泉にいっぱい浸かって、百パーセント幸せを味わうんだ」
実歌が、ねっ、と二人に目配せした。
真由美はおざなりに頷いた。
百パーセントの幸せって何だろう。もっと、と思ったら、消えていくものなんだろうか。
窓の外では、真由美の疑問を笑うように、秋の太陽が輝いていた。
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夜の魚
氷点下一万度で凍らせた空気のように、ダイヤモンドが輝いていた。冷たくて鋭くて、芯の部分が白く光っている。輝く光を閉じこめた小さな石は縦に連なり、先のほうで二連となって紐のように結ばれている。
両腕を組んで、肩を少し左に傾け、ダイヤモンドのネックレスの鎮座するガラスケースを覗きこんでいるのは長い髪を背中に垂らした若い女だ。黄色のコートに黒のマフラー。先の少し擦りへった靴を履いて、ショルダーバッグを肩にかけている。
「きれいでしょ」
菜緒は声をかけ、陳列台を挟んで、女の向かい側に立った。女は慌てた様子で顔を上げた。丸顔に愛嬌のある目、大きな口許は照れ笑いをしているように少し開いている。二十七、八歳の会社員。職場ではさほど目立つこともなく、与えられた仕事を真面目にすませて、五時になるとさっさと退社する。衣服や靴に大枚を払っているふうではないから、そこそこの貯金はあるだろう。
菜緒は素早く相手を値踏みすると、ガラスケースの上から、ハリー・ウィンストン社製の高級品を人差し指で叩いた。
「八百万円もするだけあるわよね」
ファッションビルに入っているこの店は、若者の客が多い。菜緒は、わざとくだけた調子で話しかける。年輩の婦人には禁物だが、菜緒より年下の女性客には友達口調のほうが会話に引きこみやすい。案の定、相手はくつろいだ様子で、口を丸めて、「まっ」と驚いた顔を作った。
「私には、一生、縁がなさそう」
菜緒は「私だって」と相槌を打って、女と顔を見合わせて笑った。二人の間に、一瞬、共感めいたものが流れた。今にもちぎれそうに細い感情の繋がりだが、きっかけにはちがいない。
「でも、ダイヤモンドがお好きなら、こういったものはどうかな」
好機を逃さず、菜緒は共感の鎖を手繰りよせる。相手は釣り針を飲みこんだ魚のように、陳列台に寄ってきた。
菜緒が示したのは、小さなダイヤが銀の鎖の先にひとつくっついたペンダントだ。値段は四万七千円。相手は、そうねえ、と呟いた。
「他にも色々デザインはあるのよ」
菜緒はその横に並んだ花や十字架を象《かたど》った中に星屑のようなメレダイヤを埋め込んだペンダントの列を示した。だが女は、少しつまらなそうに、二、三万円台の商品を眺めている。せっかく繋がった細い糸がぷつんと切れそうになるのを感じて、菜緒は、この客はどんなものを欲しがっているのだろうと頭を巡らせた。すると女はついと横に目を走らせ、そちらに体をずらした。彼女の視線が注がれたのは、滴《しずく》形のダイヤモンドのネックレスだ。菜緒も女の前に位置を移した。
「あ、それいいでしょ。ペアシェイプカットの二カラットのダイヤを使ってて、チェーン部分がホワイトゴールドになっているのよ」
女は、ふぅん、と喉を鳴らすようにして、陳列台にかがみこんだ。気をそそられているのがわかる。
「高いんでしょうね」
女は値札を探しながら呟いた。六十万円だと答えると、女はまた口を丸くした。
「ローンでもいいのよ」
菜緒はすかさず続けた。
「ローンで買う人、けっこう多いのよ。貴金属は困った時には売ることもできるから、旅行や食べ物みたいになくなってしまうものじゃないでしょ。貯金感覚で買えるのがいいのよね。それに少し無理しても、やっぱり、ひとつくらい本物を持ってないと、って思うみたいで……」
客は静電気が走ったように少し肩を揺らせた。女の首はマフラーで隠されているが、耳につけているイヤリングは安物だ。宝石や貴金属を買い慣れているようではない。そんな女たちは、「本物」という言葉に弱い。「ひとつくらい本物を持ってないと」といわれると、まるで自分が偽物の人間だと宣告されたみたいに、どきりとする。
「ちょっと、つけてみたら」
相手の動揺につけこんで、陳列台の中から、ペアシェイプカットのダイヤのネックレスを取りだした。女はマフラーを取ると、ためらいながらもネックレスを首につけた。菜緒が鏡を女の前に持っていく。彼女は引きこまれるように鏡を見つめた。首を左右に傾げて気が進まない顔を作ってはみせたが、瞳が思案げに沈んでいる。
「あら、とってもお似合いよ」
女は鎖を指先でいじりながら、「でも、ローンなんて……」と呟いた。
「月々、二、三万円ならなんとかなるんじゃないかな。洋服一着、我慢すればね」
女はそれでも迷っている。菜緒にもその気持ちはよくわかる。普通の事務職なら、月々の給料は二十万円もおぼつかない。そこから家賃、服飾費、食費を残したら、月二、三万円のローンは痛い。
「最初のネックレスも見せてください」
女は六十万円のネックレスを外すと、菜緒に頼んだ。菜緒は四万七千円のネックレスも出してきて、女の前に置いた。女は安いほうのネックレスをつけて、鏡を覗きこんでいる。胸許で輝く光は、ありありと値段の差を示していた。女はためらうように、黒い天鵞絨《ビロード》の上に置かれたペアシェイプカットのダイヤモンドに流し目を送った。
「ダイヤモンドって、征服されざる者っていう意味なんですって。昔の人はこれをお守りとして身につけてたというのね。永遠の絆を守り、悪霊を祓い、持つ人の眠っている力を引きだすことができるということなの」
知っている限りの知識を披露すると、もういうべきことはなくなった。菜緒は口を閉ざした。
店内には『ホワイト・クリスマス』の曲が流れていた。天井からは金の玉や赤いテープ、リボンがぶら下がり、フロア全体、バーゲン商品の売り出し合戦だ。暖かなコートを着込んだ客たちは、パチンコ玉のように店から店へぶつかりながら通路を流れていく。騒がしく、浮き浮きしたフロアの中で、菜緒と、宝石を前に考えこむ女の周囲だけがしんとしている。
灰色の衝立を通路側に置いて、少し奥まった印象を与える『タカ・ファッション・ジュエリー』の店内には、ちらほらと客が佇んでいた。はす向かいの陳列台では、髪の毛を茶色に脱色したやせっぽちの恋人同士が指輪を選んでいる。相手をしているのは和子だ。ころころと太った体を陽気に動かして、奇術師のようにあちこちの棚から幾つもの指輪を取り出して、披露している。女は全身をくねらして男にしなだれかかり、男は面倒くさそうな表情で、指輪の説明を聞いている。店長の香取は主任の斉藤と一緒に、身なりのいい中年夫婦の相手に忙しい。高額商品を買いそうだと期待しているのだろう、上品ぶって相槌を打ちながらも、神経を張りつめて客の反応を見守っている。
菜緒が目の前の女に視線を戻すと、彼女は決心をつけたらしく、「買うわ」といった。どちらを、と聞くと、六十万円のダイヤモンドのほうだった。菜緒は内心、驚いた。一応、勧めてはみたが、高いほうの商品を欲しがるとはさほど思っていなかった。こんな堅実な雰囲気の若い女性客は、熟考した挙げ句、手の届く範囲の商品に落ち着くのが普通だった。
「ローンにしてくださいね」
女は、自分の決意に息を弾ませるようにしてつけ加えた。菜緒は相手の気が変わらないうちにと、ローン手続きの用紙を取りに行った。女が住所や勤務先を書きこんで渡した用紙には、ほぼ菜緒が想像した通りのことが書かれていた。
北川朋世。渋谷にある商事会社勤務。住まいは、世田谷区松ヶ丘三丁目の『メゾン高塚』。これだけの買物を自分の一存だけで決めてしまうからには、独身なのだろう。
手続きを終えて、ダイヤのネックレスを紺色の箱に詰め、包装して、店の紙袋に入れた。女は大事そうにネックレスを受け取った。
「ダイヤモンドが、征服されざる者、という意味だなんて知らなかったわ」
一仕事終えた時のように、朋世はほっとした口調で続けた。
「これを身につけることで、いいことが起きるといいんだけど」
菜緒はにっこりとした。
「来年はいい年になりますよ」
朋世は目玉をぐるりと動かして、そうなりたいものだ、と笑った。二人の間に再び共感の細い糸が繋がった。
「また、いらしてください」
菜緒が声をかけると、朋世は紙袋を振って、雑踏の中に消えていった。
ダイヤモンドは女の涙みたいだと、菜緒は思う。見ている者の気持ちを自分に惹きつけようとして、きらきら光る。はっきりいって、嫌いだ。
貯金感覚で買うなんて虫のいい話。傷がついたら、価値は失せる。いざ換金しようとしても、買いたたかれるのが普通だ。お守りになるとか、悪霊を払うとかいう話は迷信だし、要するに、ただの高い買物。調子のいい言葉を重ねて、女たちにダイヤモンドを売りつけることを、菜緒は愉快に思っている。菜緒の言葉に乗せられて高い買物をする女たちを馬鹿にしているわけじゃない。自分以外にも馬鹿な女は多いとわかって嬉しいだけだ。
『蛍の光』が店内に流れ、客がいなくなると、仕事はおしまいになった。菜緒は制服を脱いで、ジーンズとセーターの格好に戻り、ファッションビルの通用口から外に出た。とたんにネオンの光と呼び込みの声、人々の喧噪が押し寄せてくる。夜の寒さも通りに渦巻く熱気にぶつかり、暗い空の彼方に跳ね返る。菜緒は少しくたびれた白いウールコートのポケットに手を突っ込んで、人々の群れの中に突進していく。
こんな時、菜緒は北極の氷を割って進んでいく砕氷船を想像する。菜緒の生まれた北海道の小さな町では、二月三月になると、稀にオホーツク海のほうから流氷がやってきて、南東のほうにじわじわと漂っていく。その光景を指さして砕氷船のことを教えてくれたのは、兄だった。今では父を手伝って、馬鈴薯を育てている兄。湿原から押し寄せてくる霧。海岸線に続く立ち枯れの木々の枝にひっかかっている深緑色の昆布のような苔。灰色の空の下に茶色の畝《うね》をなす畑で、両親も兄夫婦も辛抱強く働き続けている。
菜緒はずり落ちてきた首のマフラーを締め直した。ここは、あの寂しい町とは大違いだ。いつも人がいて、いつも何かが起きている。噴火したばかりの溶岩流のように、通りの隅々まで熱気がふつふつと湯気を立てている。時々、火傷することはあるが、身の処し方さえわかっていれば、さほど危ないことはない。
ビラ配りが、相手の女の顔を値踏みして紙を渡している。菜緒が通ると、さっと前に出してきた。デートクラブの勧誘だった。〈電話一本で、素敵な恋人と巡り会うチャンスです〉。次の信号待ちで、ビラを屑籠に投げ棄てた。
渋谷の駅に向かう商店街の両側には、制服姿の高校生たちが集まって話している。腰まで落としたズボンに、髪の毛を染めた少年たち。尻がようやく隠れる程度の短いスカートの女の子たち。「……だぜぇ」「……じゃん」という強い語尾だけが黒い集団から外に放たれている。その前を過ぎる時、ふざけていた少女がよろめいて、菜緒にぶつかった。少女はちらと菜緒の姿を横目で捉え、謝りもせずにまた仲間との話に戻っていった。
自分もああだった、と菜緒は思う。大人なんか、湿原の葦みたいにそのへんにわさわさ立っているものだった。葦とは話もできないし、邪魔になるだけだ。何か話してみようという気は湧かなかった。菜緒が特別、不良だったわけでもない。目立つことのない普通の子。だから家の金を持ちだして家出した時は、家族も先生もひどく驚いたらしかった。同級生の里美と一緒に、小樽、札幌、青森、福島、仙台と、好きな歌手のコンサートを追いかけてまわった。懐が空っぽになると家に戻り、また金を盗んで家出して、憧れの歌手を追いかけた。そんなことを繰り返しながら、やっとこさ高校を卒業すると、東京に出てきた。店員やウェイトレスの仕事ならいくらでもあった。半年から一年といった短い期間で気の向くままに職を替えて働き、休みの日は追っかけている歌手の事務所や住まいの周囲をうろついて過ごした。
だが憑き物が落ちたみたいに、ふっと興味がなくなった。何がきっかけだったわけでもない。それとも小さなきっかけの積み重ねだろうか。その歌手が年上の女優とつきあっているという週刊誌の記事、コンサート会場の裏口でちらりと見せた冷たい表情。招待券欲しさに寝たバンドマンの口から語られる彼の悪口。ポスターやビデオを見ても、相手が自分を向く時は永遠にこないと、ようやく気がついたことも理由かもしれない。
とにかくある日、もうやめた、と思った。アパートに張ってあるポスターを剥がし、一緒に撮ってもらったスナップ写真や、サイン入りのTシャツ、ファンクラブの会員証などをひとつの箱にまとめて押入にしまった。そして今度は、テレビの中に住んでいるのではなく、生身の男を追いかけることにした。男たちとデートして、アパートに招き入れ、交わって、泣いたり怒ったりするうちに別れがやってくる。そんなことを繰り返すうちに、今に至ってしまった。
菜緒はもう何も追いかけてはいない。葦ばかりの湿原にひょろりと立つ木のように、一人でぽつんと生きている。
ラッシュ時間は過ぎたというのに、まだ人で混みあう東横線に乗って、学芸大学で降りる。もう八時半。空腹に駆られている。駅前のコンビニエンスストアで簡単なものを買って、駅から十分ほど歩いたところにある四階建ての古びたマンションに帰る。菜緒の部屋は、この灰色の建物の二階にある。築二十三年で、設備は古いが家賃が安いのが取り柄だ。外階段を昇って、四つ並ぶ扉の右からふたつめの鍵を開く。狭い玄関はリノリウム張りの台所に直結していて、奥に六畳と三畳の二間が横に並んでいる。
菜緒は台所を突っ切って、和室へと入っていく。和室を仕切る襖は取り払って絨毯を敷き、ワンルームとして使っている。壁際にスチールパイプのベッドと白木の低い箪笥、部屋の真ん中に炬燵《こたつ》と、通信販売で求めた座椅子を置いている。菜緒は白いコートを脱ぎ、小さな電気ストーブのスイッチをつけると、台所に立った。作るものは簡単だ。冷凍の餃子に、コンビニエンスストアで買ってきたおでんと焼き鳥、作りおきのマカロニサラダ。手早く餃子を焼いて、電子レンジで焼き鳥を温め、炬燵に運ぶ。缶ビールを開けて、テレビをつけて、画面に向かって一人で笑ったり真剣な顔をしたりしながら、緩やかに時が過ぎていく。
同じ追っかけ仲間だった里美は、今は結婚して千葉に住んでいる。訪ねていくと、三歳と一歳の子供の世話に追われる日々をこぼしながらも、「菜緒も早く結婚して子供作りなよ」という。結婚したくも、子供が欲しくもないのだ、と答えたら、一晩中並んで入場券を買ったコンサートがキャンセルになったみたいな顔をして、「寂しくないの」と聞いた。菜緒は、ぜーんぜん、と笑った。
強がりなんかではなかった。歌手の追っかけをしていた頃や、恋人がいた頃、この人がいない世の中なんて生きる価値がないと考えた。ところが彼らが菜緒の前から消えても、世の中のおもしろみが変わったわけではなかった。菜緒の心の寂しさも、暖かさの度合いも変わりはない。寂しさは、寂しいと思いたがる気持ちから生まれてくる。それは黴《かび》みたいなものだ。胞子はいつも空中を飛んでいるけれど、黴が生えるのは、湿って栄養のある場所に決っている。乾いた清潔な場所にははびこらない。寂しさも黴と同じだ。心をいつも消毒してつるんとさせていれば、感じることはない。
菜緒は空になった食器を流しに置いた。それから風呂の支度をする。あちこち赤茶けた錆のついたステンレスの浴槽に湯が流れだした。古いマンションのせいで、風呂場はゆったりと作られている。外廊下側に鉄格子のはまった小窓がついていて、少し開いたままの隙間から湯気が流れだしていく。
湯が溜まると、菜緒は裸になって浴槽に身を横たえた。脚を少し曲げて、目を閉じて、首まで浸《つ》かる。乳房が湯の中から白い丘となって突きだしている。節足動物の胴体のように軽い段をなして連なる腹。その下方の太股のあわいには黒い艶やかな毛が揺れている。その毛の奥に指を差し込んで、快楽という名のボタンを押す。体が波に浮いているような心地よさが広がってくる。菜緒は背中を反らせて、体を湯船に沈ませていく。耳が水中に消え、顔だけが仮面のように湯面に浮かぶ。菜緒は両足を大きく開き、欲望の坩堝《るつぼ》を丁寧に指で掻きまぜ続ける。心地よい熱の波が、無数の波紋を描いて全身に伝わっていく。ぐぶぐぶ、ごぼぼぼ。湯に浸けた耳に、さまざまな音が聞こえてくる。ぼぼぼぼ…ごぼっ……こまるわ……ごおっ……ただいま………どく……っていったじゃないか……うふふふっ……ざああっ。マンションの壁や配水管を震わせる人々の会話や水音が、湯船にたたえられた水を伝って、切れ切れに菜緒の耳に達する。彼女はまるで公衆の面前で自慰をしているような気持ちになる。それがまた刺激的で、菜緒は時々、こうして浴槽で自慰をする。指の動きは次第に激しくなり、体が熱くなってきて、生け簀に入れられた魚のように湯船の中で弾ける。水中のざわめきは響き続ける。
……よりだから……よるのなみ……。
夜の波。
突如としてその言葉だけが、形を伴って菜緒の脳裏に現れた。それは、黒く、つやつやとした美しい波。鈍い色を放って、ゆったりとうねっている。重なり合い、ぶつかり合い、お喋りするように楽しげに、ひたひたと菜緒のところまでやってくる。菜緒はその波に乗って湯船から泳ぎだす。彼女は今や肌色の鱗を光らせるむっちりした魚。風呂場の小窓の隙間から外に出て、古ぼけた灰色のマンションの壁に沿って、ゆらゆらと浮きあがっていく。冷たく凜とした冬の夜気が、魚となった菜緒には心地よい。ビル群の上に出ると、周囲に広がる夜の街はとてもきれいだ。ビルに灯る明かりは、海の底できらめく夜光虫。菜緒は尾鰭《おひれ》を力強く動かして、四角い珊瑚ともいえるビルの間を泳いでいく。
頭上をゆっくりと通り過ぎる赤い点滅灯は飛行機だろう。遥か向こうに東京タワーが見える。魚になったせいか、音は何も聞こえない。ダイヤモンドをちりばめたような沈黙の海を、菜緒は漂っていく。
目の前に背の高いマンションの絶壁が現れた。でこぼこした黄褐色の壁にずらりとベランダと窓が並んでいるさまは、巨大な客船みたいだ。鼻先にある、ブラインドを下ろした窓の向こうで影が動いている。菜緒はブラインドの隙間から部屋を覗く。ベッドの上で下半身を露出させた若い男が横たわっている。勃起させた陰茎を握りしめてさすり、目を細めて宙を見つめている。荒い息を吐きながら、肩を少し震わせている。子供が便意をこらえているようなかわいらしさがあって、菜緒は魚の口をぱくぱく開けて笑う。声は出ないが、風が生まれてベランダの洗濯物ハンガーを揺らした。その音で、自慰をしていた男が顔をベランダに向ける。目尻の少し垂れた優しげな瞳と長い顎をした青年。魚となった菜緒と、男の視線がぶつかり、男は慌てて陰茎から手を離す。
菜緒は鰭を振って挨拶してみせて、ベランダから離れる。夜の波を幾つも幾つも乗りこえて、海のさらに遠くへと泳いでいく。建物にくっついた無数の瞳のような窓が、人々の暮らしの断面を映しだす。深刻そうに額を寄せあって話している夫婦、炬燵に入り一人でテレビを見ている老人、泣きながら眠ってしまった子供、ペットの蛇を腕に絡めて遊んでいる娘、編みかけのマフラーがテーブルに置かれた誰もいない部屋……。煉瓦積みの洋風アパートの上を通りかかった時、屋根についた四角い明かり取りの小窓から男女の交わりが見えた。部屋の電気は消していたが、テレビのちらちらする青白い光が二人の裸体を浮かびあがらせている。自分が以前の恋人たちと交わっていた時も、あんなふうに見えたのだろうかと菜緒は思う。それはテレビや映画で見るものよりも、もっといじましく小動物的だ。男は性急に女の子宮を突き、眉根を寄せた丸顔の女は、時々うっすらと目を開いて、男の様子を確かめている。照れ笑いをしているように少し開いた大きな口を見て、女が誰かわかった。今日の夕方、菜緒の店でダイヤのネックレスを買った客。朋世だった。
朋世の体は、ひらめのように薄っぺらで白かった。しかし腰骨はしっかりしている。男を受けいれるたび、尻がベッドに沈みこみ、朋世は呻き声を洩らす。腹を押すと鳴くセルロイドのキューピー人形だ。
やがて男が背筋をたわませて射精し、女の横に倒れこんだ。男が仰向けになったので、顔が見えた。ビー玉をはめこんだような丸い目、頬肉がぽこりと盛りあがった顔だ。脂っこい顔をしているわりには、筋肉のない、ひ弱な肉体をしていた。
朋世は肋骨の浮きでた男の脇腹に頭をくっつけて、ぼんやりと視線を部屋にさまよわす。やがてその視線が、鏡台の上で止まる。そこには、ダイヤのネックレスを入れた紺色の細長い箱が置かれている。彼女の人差し指が胸許に近づき、ネックレスの形に首の周囲をなぞった。そして朋世はふわりと微笑んだ。
男は首を横に捻《ねじ》り、テレビのほうに視線を注ぐ。体を寄せあい、二人は別々の物思いに浸っている。部屋は時を止めた。せわしなく動いているのは、テレビ画面の中の人物たちだけだ。その部屋もまた深い海の底にある。菜緒は尾鰭を振って、泳ぎだした。
黒い天鵞絨のような夜の波が押し寄せてくる。遥かな虚空から、次から次へと、無数の波が送られてきて町を洗う。波は干渉しあい、ぶつかり合い、菜緒を巻きこみ砕けちる。
小さな声を洩らして、菜緒は体を突っぱらせた。尻が滑って、湯船の中に頭まで沈みこんだ。やがて、彼女は濡れた顔を湯から出した。そこは、湯気のこもった風呂場だ。タイルの目地の黒くなった見慣れた場所。汗をかいたシャンプーやリンスの瓶が何ひとつおもしろいことはないといった風情で、床の隅に突っ立っている。菜緒は、誰が見ているわけでもないのに照れ笑いした。
すべては幻だ。湯船に浸かって、自慰をするうちに恍惚に陥って見た幻想。それとも、あれが幽体離脱とかいうものだろうか。湯船に横たわる肉体から、魂がふわふわと漂いだして、東京の街の上をさまよっていた。そうだったらおもしろいなと思った。
数日間、菜緒は、夜の波に乗って街を泳いだ記憶を楽しんだ。風呂に入るたびに、あの時を真似て自慰をしてみたが、もう魚になることはできなかった。
やがて魚になった記憶は忙しさに押し流されていってしまった。クリスマスが近づくにつれて、街は狂乱の度合いを増していった。磔《はりつけ》になるために生まれてきた大昔の異国の男のために、皆がお祭りの準備をしている。誰もが何かに追いたてられるように、贈り物に夢中になっていた。菜緒は、ハート形のペンダントやメレダイヤで飾られた指輪を一日に二十個も三十個も売った。客は、これまでにも増してカップルが増えた。クリスマスを機に婚約を決めてしまった恋人同士も多くて、その場合、贈り物は婚約指輪となった。先に店を訪れて、婚約者を連れてきたら、この程度の値段のものを出してくれと下交渉する男もいる。どの指輪を気に入るかではなく、自分たちの婚約に適正なる値段を払うことが大事なのだ。女のほうも、愛の値段と指輪の値段を混同して、値札をしきりに気にして選んでいる。
菜緒は、形のない愛を宝石にすり替えて、せっせと客に売りつづけた。彼らがどんな幻想を抱こうが、それは彼らの問題だった。菜緒は、この世に数が少ないだけで希少価値となった石ころを売るだけだ。
クリスマスの三日前、菜緒は休日をもらった。疲れていたのか、起きると十一時だった。腹も減ってきている。冷蔵庫が空だったので、菜緒は顔を洗うと、買物するために外にでていった。
外階段を降りて、マンションを出る。道路との間の狭い空間に柘植《つげ》の植え込みがあって、管理人の妻が茂みの中に投げこまれた空き缶を塵袋《ごみぶくろ》に入れていた。菜緒が挨拶すると、管理人の妻は明るい声で、「今日は休みなの」と聞いてきた。
「今年最後のお休みです」と答えると、管理人の妻は箒を動かす手を止めた。白髪をオレンジ色に染めて、熊の顔がポケットになった子供趣味のエプロンをつけて若作りしているが、顔には染みが浮かび、目の下の肉は弛んでいる。
「お勤めの人はいいわね。今年最後でも何でも休みがあるんだもの。私なんか年がら年中、働きづめ。マンションの掃除がない日は、家の掃除があるし、亭主にゃ毎日、何か作って食べさせないといけないしね」
「大変ですね」
相槌を打つと、管理人の妻は水を掻くように空いた片手を宙で動かした。
「まったく、怠け者の亭主を持つと大変よ」
管理人夫婦はこのマンションの一階に住んでいるのだが、塵の始末をしたり、注意事項を伝言板に張りつけたり、階段や廊下を掃いていたりするのは、決まって妻のほうだ。初老の夫の姿はほとんど見たことがない。妻の活力に、夫は弾きとばされてしまっている感すらある。
管理人の妻はまだ棄てられた空き缶はないかと、植え込みを一瞥した。菜緒が、それじゃ、と呟いて立ち去ろうとした時、マンションの前の道路に駱駝色のコートを着た若い男が現れて、通りすがりに「おはようございます」と声をかけた。
そちらに顔を向けた管理人の妻は、ぱっと明るい表情になった。
「あら、おはようさん」
男は速さを落とすこともなく、たったと歩きながら陽気にいった。
「今、ボーナスキャンペーン中ですよ。うちに預けてくださいよ」
管理人の妻は笑いながら、お金が入ったらね、と答えた。
「よろしくお願いしますよ」
男は、テレビのテロップのようにマンションの前を通り過ぎていった。
菜緒は驚きで呆然として、その駱駝色の後ろ姿を見送った。男は、先日、朋世と寝ていた男そっくりだったのだ。貧弱な肉体は、外套に隠れてわからないが、頬肉の盛りあがりも、ビー玉のような目も同じだった。
「どなたですか」
菜緒は聞いてみた。植え込みから出てきた管理人の妻は、この先の米屋の息子で富岡といい、駅前にある、むつみ信用金庫に勤めているのだと答えた。
「休みの日なんか、よく奥さんと小さな子供連れて商店街を歩いているんだけどね、商売熱心で、客を見かけると、子供も奥さんもそっちのけで、今、ボーナスキャンペーン中です、よろしくっ、なんてやるのよ。ほんと、面食らってしまうわ」
その口調は、若い男に声をかけられることをむしろ嬉しがっているふうだった。
菜緒は管理人の妻に別れを告げて、スーパーに向かった。
魚になって泳ぎだした夜のことは、幻覚だと思っていた。なのに幻覚の中で見た男が現実に存在する。いったいどういうことかわからなかった。
スーパーで買ってきた食料を冷蔵庫にしまい、焼きうどんをつくった。べたべたしたうどんを啜っている間も、富岡という男の顔が頭から去らない。頭の隅に埃が溜まっているような、気持ちの悪さがある。昼食の食器を洗い終わると、菜緒は着古した白のコートを着込んだ。このことをはっきりさせるには、朋世のアパートを訪ねるのが一番だと思った。もし、朋世の家が菜緒の幻覚に出てきたものと同じだったら、魚になって見たことは現実だったといえる。
朋世の住所は記憶に残っていた。番地は忘れたが、確か松ヶ丘三丁目だ。『メゾン高塚』という名前だけは妙にありありと覚えている。東横線で渋谷まで出て井の頭線に乗り、下北沢で小田急線に乗り換えて松ヶ丘で降りた。この街に立つのは初めてだ。線路沿いに、わびしい商店街とマッチ箱を並べたような住宅地が続いている。冬の水色の空が広がる、いい天気だった。菜緒は駅前の地図で周辺の位置関係を確かめると、松ヶ丘三丁目に向かって歩きはじめた。
静かな住宅街やアパートに挟まれた、車もあまり通らない道を行き来するのは、買物袋を下げた女や、バイクに乗った蕎麦屋の出前くらいのものだ。うらうらとした冬の陽に照らされた街をゆっくりと歩いていくうちに、魚になった気分が蘇ってきた。あの時は夜の波に乗っていたが、今は昼の光の波に乗っている。魚の泳ぎを真似て、背筋をくねらせて歩いてみた。白いコートの裾が鰭のように揺らめいた。
灰色のコンクリートの塀は海底の岩。塀から覗く木々は、岩にしがみついた海草だ。この陽光に包まれた海の底を、人の形をした魚が泳ぎ、車の形をした貝が這《は》っている。
狭い敷地いっぱいに肩肘張って建てられた家々の前を過ぎていくと、茶色のアパートがあった。通りすぎて十歩ほど行ってから、菜緒は振り返った。煉瓦色のビニールタイル貼りの壁。屋根から突きだした三角形の明かり取りの窓。幻覚の中では、アパートの壁は本物の煉瓦だったし、明かり取りの窓は四角形でもっと大きかった。目の前のアパートとは微妙に違っていたが共通しているものがある。大人になった幼なじみの顔に、昔の面影を認めた時のような感じだ。
菜緒はアパートの前に引き返した。建物の中央が階段になっていて、昇り口に郵便受けが並んでいる。郵便受けの列の横にアパートの名前が出ていた。『メゾン高塚』。やはり朋世のアパートだった。
二〇四号室の郵便受けに、北川という朋世の苗字が出ていた。菜緒は階段を昇っていくと、朋世の部屋の前に立った。北川の表札の出た扉は、二階の廊下の端にあった。魚になって見下ろした部屋と同じ位置であることを確かめると、また階段を降りて、朋世の部屋を外から眺めた。ベランダに面した窓には、淡紫色のカーテンがかかっている。外の手摺りにかけられた植木ポットに並ぶ、枯れたゼラニウムの鉢。レースのカーテンのかかった小さな出窓には雑誌やタオルが乱雑に重ねられていた。
雑誌のグラビアに出てくるように可愛らしく部屋を飾りたてようとしたのだが、いつかそれも投げやりになり、家は静かに埃にまみれていた。菜緒は、一人暮らしをはじめ、そして少しずつ疲れていった朋世という女を想像した。
月曜日から金曜日の夕方五時まで働き、アパートに戻って食事を作って食べる。風呂に入って、少しだけビールを飲んで眠る。そしてたまに友達や仲間と飲みにいき、週に一回か二回は、あの富岡という結婚している男が訪ねてくる。二人は抱き合い、交わり、そしてまたそれぞれの生活に戻っていく。
朋世の暮らしは容易に想い描くことができる。職種や恋人の存在は違っても、それは菜緒自身の暮らしとよく似ているだろうから。
皆、同じ。この東京の一人暮らしの女たちは、双子のように似た暮らしをしているのだ。魚となって覗き見た部屋の光景を思い出しながら、菜緒は思った。
道路に立って朋世の部屋を仰いでいるうちに、輝くような陽射しは色褪せていった。冬の日は短い。天空に輝いていた太陽は西に傾きつつある。菜緒は肩に寒気を覚えると、我に返って煉瓦色のアパートから立ち去った。
クリスマスイブも、クリスマス当日も、菜緒は寄せては引いていく大勢の客の相手に忙殺されて過ごした。ジングルベルの曲が繰り返し流されるビルの中で、陳列台の後ろに立って、お祭り気分に浮かれる人々を眺めているだけで疲れた。夜、アパートに帰ると、ばたばたと食事をして風呂に入って眠るだけ。だが、そんな生活に不満は覚えなかった。
恋人がいたら違っていただろう。他の店員のように、クリスマスに恋人と過ごせないとこぼして、腕を組んで店の前を通りすぎる恋人たちに恨めしげな視線を送ったことだろう。しかし、今の菜緒は恋人が欲しいとも思わなかった。
最後の恋人と交わるたびに、おさまりの悪さを感じた時期があった。肉体は高ぶり、爆発しそうになるほどの絶頂感を感じるのに、心の底から気持ちが騒がない。つきあいはじめた時はこうではなかった、交わるたびに心も肉体も情欲に沸騰したのに、どうしたのだろう、と思っていると、相手が他に好きな女ができたといいだした。菜緒は悲しくて泣いたが、強く引き留めることはしなかった。別れる時、男はいった。
おまえ、俺のこと、あんまり好きじゃなかっただろう。
菜緒は、そんなことない、好きだったよ、と答えた。真実の答えだったと思う。確かに、彼のことを好きだったのだ。最初の頃の湧きあがるような感情の高揚はなくなっていたが、それが好きではなくなった、もっといえば、嫌いになったということに直結してはいなかった。
つまるところ、つきあいが長引くうちに、幾重にも絡みあっていた二人の結び目がほどけてしまい、ほんのちょっとの引っかかりでくっついているだけになってしまっていたのだと、後になって思った。それに気がつかなかったから、おさまりの悪さを覚えたのだ。
だけど結び目は結び目だ。好き、という感情が土台になっていた。細い結び目でも、繋がっていれば、その男と一生でもつきあっていられただろう。
しかし男は、別の女ともっと強い結び目を作って別れていった。その二人の結び目もいつかは解けていき、小さな結び目しか残らなくなるのではないか、そしたら、男はまた別の女と結びつくのだろうか。感情の糸を結んでは解くことの繰り返しを想像して、菜緒は虚しさを覚えた。以来、恋人が欲しいと考えなくなった。
大晦日も近づいた夜、店の忘年会があった。渋谷のパブで終電近くまで飲み、菜緒はよろめく足取りで部屋に辿《たど》りついた。そのまま、ぐったりと寝てしまいたかったが、翌日も仕事があるから、風呂に入ったほうがいいと思った。湯船に熱い湯を溜めて、菜緒は首まで浸かった。
汗と一緒に酒の酔いが出ていく。ぼんやりと湯気を見つめているうちに、指が痒いところを掻くように太腿の間に伸びていった。
快楽のボタンをまさぐりつつ耳を湯の中に浸けると、静かに流れる水の音、人の足音、戸の閉まる音などが微かに響いている。
ごぉんごぉん……ぼごごごっ……ぐうううっ……ごぼごぼ……ぼこっ……いったでしょ……よるのなみ。
あ、まただ、夜の波。そう思った瞬間、天鵞絨のような漆黒の波が立ちあがり、菜緒を浚《さら》っていった。波は湯船を舐めとって、彼女の体をマンションの外に押しだした。菜緒は再び魚となって、夜の海を泳ぎだす。
家々の明かりがきらめく夜の海が広がっている。菜緒は波に乗って漂っていく。気がつくと、夜の海には他の魚も泳いでいる。眠っている赤ん坊の顔をした魚、微笑む老婆の魚、誰もが少しぼんやりした表情で波に乗って漂っている。
長い顎に優しげな目をした顔の魚とすれ違った。この前、ベッドに横たわり、自慰をしていた青年だとわかった。親しみを覚えて、すれ違いざま、鰭を振って挨拶すると、相手は驚いたふうに口をぱくりと開いた。青年の唇から透明な泡が浮いていった。
光|瞬《またた》く街の上空を菜緒はふわふわと泳いでいく。やがて見覚えのある煉瓦造りのアパートの上にやってきた。明かり取りの窓から中を覗くと、朋世が全裸でベッドに腰かけていた。葡萄色の乳首をつけたふたつの乳房の間に光るのは、滴形のダイヤモンドだ。朋世は指先でネックレスを撫でている。朋世の太腿は大きく開かれ、富岡が前に跪き、女の股間を舐めている。
朋世は富岡の行為に無関心にダイヤモンドを指で触りながら宙を眺めているふうだが、次第に、その表情は崩れていく。唇を震わせて、瞼を半ば閉じて、背中を反らせる。頭がベッドの上に倒れていく。朋世は富岡の舌の動きから逃れるように腰を捩《ねじ》り、爪先を強ばらせ、全身を踊らせる。平たい肉体がベッドの上で蠢《うごめ》き、背筋が反り返り、口が大きく開かれた。朋世はダイヤモンドを握りしめ、歌うような声をあげている。声は聞こえないが、菜緒を包む夜の波が大きくうねった。朋世の全身が突っぱったのが見えたとたん、その波が砕けちり、菜緒は虚空に投げだされた。渦に巻かれてきりきりと回り、ぱしゃんと水中に放りだされた。濡れた顔を水面に出すと、湯気のたちこめる浴槽の中に、菜緒は長々と横たわっているのだった。
正月三が日は店も休みとなった。菜緒は、郷里にも帰らずに東京で静かな新年を迎えた。
北海道の両親に電話をすると、なぜ帰省しないのだと不満げにいわれた。その言葉の裏に、寂しいよ、という想いがぴたりとはりついている。
仕事が忙しくて、帰る暇がなかったのだと、菜緒はいいわけする。そんなこと嘘だ。帰ると決めれば、二、三日くらいの日は取れた。
たぶん自分は両親の寂しさに出会いたくないのだ、と菜緒は思う。兄夫婦や孫たちと同居して賑やかに暮らしているのに、まだ、娘の菜緒の顔を見ないから寂しいと呟いている。訪ねていけば、彼らの寂しさという感情をこすりつけられ、おまえも一緒に感じろ、と要求される。それが厭だった。
菜緒は近くの神社に初詣に出かけただけで、元日は家でごろごろして過ごした。炬燵に入って蜜柑の皮を剥きながら、ふと頭に浮かんだのは、朋世のことだった。
彼女は実家に帰っているだろうか。それとも自分のようにアパートの部屋にいるだろうか。妻子と正月を過ごしているはずの愛人のことを考え、嫉妬の炎に心を炙《あぶ》られているのではないだろうか。
朋世も菜緒と同じく一人で正月を過ごしている気がした。そう考えると、訪ねていってみたくなる。あなたの気持ち、よくわかるわよ、といってあげたい。富岡と交わった後の空虚感、恋人との結び目が解けていく感覚。そんなものを話し合ってみたいと思う。そして、友達になれるかもしれない。心のどこかで相通じるものがあるから、自分は魚となって、朋世のアパートに漂っていったのだと菜緒は解釈していた。
正月二日は、千葉に住む里美の家を訪ねていった。二人の子供はひとまわり大きくなり、それに合わせて里美も少し太っていた。料理好きの夫がほとんど作ったという、おせち料理をつまみながら、里美は菜緒と近況を報告しあった。半年ばかりの間の出来事をそれぞれ話し尽くすと、里美はいつものように、早く結婚しなさいよと勧め、菜緒も、その気はないのと答えた。私みたいな女って、今の時代けっこういるんだから。菜緒がそうつけ加えたことが、いつもとは違っていた。
里美の家に一泊して、三日の昼過ぎ、帰ってきた。横浜行きの列車が学芸大学駅のホームに滑りこんだ時、菜緒の立つドアの前に寄ってきた男に気がついた。優しげな目許に長い顎。どこか麒麟に似た表情。水色のダウンジャケットのポケットに手を突っこみ、下唇を前歯で噛んでいた。魚になって泳いでいた時、二度も出会った男だった。
あの男もまた、この街で生きているのだ。不思議な気持ちと、そんなこと、とうからわかっていたような気持ちが同時に湧きあがった。
電車が止まり、ドアが開いて、菜緒はホームに立つ男と向かい合った。相手は眉根を寄せた。見知らぬ女に見つめられて戸惑っているようにも、菜緒をどこかで見たことはあるが、どこだったか思い出せないというふうにも取れた。
「こんにちは」
電車から降りながら、菜緒は挨拶した。男は目を見開き、驚いた顔をした。プラットホームに立った菜緒はくるりと振り返り、鰭を動かすように腰の横で手をひらひらと振った。男の前でドアが閉まり、電車は動きだした。
菜緒は改札口のほうに歩きだした。魚になった時の仕草を男が理解したかどうかわからなかった。だけど、心の底で泡が弾けるような楽しい気持ちになっていた。
雑踏の中に朋世が現れた。長かった髪を短くして、耳に金の小さなピアスをしている。黒いタートルネックのセーターの胸で光っているペアシェイプカットのダイヤのネックレスがなければ、それが朋世だと、菜緒にもすぐにはわからなかっただろう。
ネックレスをひけらかすように淡黄色のコートの前を開いている朋世は、自信に満ちたしっかりした足取りでこちらにやってくる。隣にいるのは三十代半ばの落ち着いた感じの大柄の男だ。紺色のコートの上から出っぱり気味の腹がわかるが、艶のいい顔には若々しさがあった。二人は肩をぶつけ合わせるようにして、まっすぐに菜緒の立つ陳列台の前に進んできた。
「こんにちは」
朋世は明るい声で挨拶した。菜緒は驚きを隠して、「それ、とってもお似合いよ」と、ネックレスを目で示した。朋世は大きな口の周辺に笑みを広がらせ、隣の男を見上げた。
「今日はピアスを探しているの」
菜緒はピアスの陳列台のほうに移動した。男が朋世の腰のあたりに手をまわして、そちらに誘う。どうやら恋人らしい。恋人は富岡ではなかったのか。菜緒は混乱した頭の中で考えた。
朋世は、陳列台の上からさあっとピアスの列を眺めた。そして、きれいに手入れした人差し指で、「それ、見せてください」と示した。小さなダイヤモンドのピアスだった。
菜緒が商品を出すと、朋世は自分の金のピアスを外してつけ替えた。この前来た時は、安物のイヤリングをつけていた。一か月の間に耳に穴を開けたのだ。朋世はダイヤを耳たぶに光らせて、鏡を見つめた。胸許のネックレスとお揃いに見える。
「どうかしら」
朋世は隣の男に聞いた。男は、いいよ、というふうに頷く。
「やっぱり、ダイヤモンドっていいわね。征服されざる者って意味で、悪霊祓いにも、お守りにもなるんですって」
朋世は男に説明して、ね、と菜緒を見た。菜緒は、そんなことを朋世が憶えていたことに驚きながら頷いた。朋世は、ダイヤのピアスを外すと、これにする、と告げた。男は四万五千円という値札を見て、「散財だな」と呟き、朋世は「約束でしょ」と大きな口を尖らせた。二人の間の仲の良い空気が伝わってきた。
男がクレジットカードで支払うと、朋世は、嬉しそうにピアスの箱を受け取った。
「毎度、ありがとうございます」
菜緒が頭を下げた。朋世はこの前のように紙袋を振って挨拶を返し、男と腕を組んで雑踏に呑まれていった。
すべて妄想だったのだ。朋世は富岡の愛人ではなかったのだし、彼女は恋人との繋がりに空虚感を覚えながら生きている女ではなかった。自分と朋世との間には、共通するものなぞなかった。
菜緒は、幻覚の中での出来事を真面目に受け取っていた自分が愚かだったと思った。思いこみで人間関係を構築していただけだった。それでも、朋世のアパートも、富岡も、麒麟顔の男も、現実に存在したのはどういうことなのか。もう一度すべてのことを確かめたくて、菜緒は風呂に入るたびに湯に耳まで頭を沈ませ、マンションの壁や配水管から伝わる声に耳を傾けた。しかし、あの魔法の呪文のような「夜の波」という言葉は、なかなか聞こえてはこなかった。
朋世が店に現れて十日ほど過ぎた頃、菜緒は昔の職場で知り合った友人二人と飲みに行った。ついつい長居して、終電を逃してしまい、渋谷からタクシーで帰った。マンションの前で降り、玄関のほうに向かおうとした時、柘植の植え込みの前から「おい」という声が聞こえ、菜緒はぎくりとした。
マンションの玄関についた終夜灯と、道路から射す街灯の明かりに照らされて、植え込みが黒々と浮きあがっている。こわごわとそちらを窺うと、茂みの前に男の長い後ろ姿があった。
「おい、大丈夫か」
長身の男が声をかけると、植え込みの奥から、「ううっ」と、くぐもった返事があった。どうやら菜緒に声をかけたのではないらしい。こんな深夜にそこで何をしているのかわからなかった。怪しい人物と関わりあいにならないほうがいいと踏んで、菜緒はマンションに入ろうと思った。
「いい加減出てこいよ、富岡」
富岡という名前に、菜緒は足を止めた。信用金庫に勤めているあの富岡だろうかと考えていると、植え込みの中から黒いものがひゅっと飛んできて、菜緒の頭に覆いかぶさった。菜緒は悲鳴をあげて、頭にくっついたものをつかんだ。
「うわっ、すみません」
富岡に声をかけていた男が走ってきた。
「大丈夫ですか、あいつ、何、投げたんですか」
菜緒は手にしたものを広げた。それは男物のズボンだった。男は、ああ、と息を吐いた。
「また、はじめちゃったよ」
菜緒は、何のことですか、と聞いた。
「あいつ、酔うと、ストリップをはじめる癖があるんですよ」
はあ、とあきれて、菜緒はズボンを男に差しだした。それを受け取るために、男が一歩近づいた。玄関前の終夜灯の明かりに、顎の長い男の顔が照らしだされた。菜緒は、あっ、と小さな声を上げそうになるのを、ようやく呑みこんだ。魚になった時に何度も見かけた麒麟顔の男だったのだ。男も闇を透かすように菜緒の顔を見つめ、記憶の底を探るような、もどかしげな表情をした。
二人が言葉を失っていると、また植え込みから何かが飛んできて、すぐ近くの路上にばさりと落ちた。麒麟男は走っていって、それを拾いあげた。柄の入ったパンツだった。男はうんざりした調子でいった。
「おい、富岡。もういいから、そこから出てこい」
ろれつの回らない声で、厭だぁ、と返事があり、啜り泣きが続いた。「畜生、あの女、あの女……」という言葉が切れ切れに聞こえた。菜緒は麒麟男と顔を見合わせた。男は気まずそうに肩をすくめた。
「ふられたみたいなんですよ」
菜緒の頭に朋世の顔が浮かんだ。朋世は、やはり富岡とつきあっていたのではないか。そして最近になって、別の男に心を移した……。
「富岡さんって、むつみ信用金庫の富岡さんじゃない」
菜緒は我慢できずに聞いた。麒麟男は慌てたようだった。
「知ってるの、富岡のこと」
「うちの管理人の奥さんが知り合いなの。結婚していると聞いたけど、ふられたって……」
麒麟男は口許に手をあてて、「うっかりしたこと、いっちゃったなぁ」と、顎を天に反らせた。
「富岡さんの恋人って……髪の長い、丸顔の人じゃないですか」
その人は北川朋世といい、渋谷の会社に勤めていて、家は松ヶ丘にあるのではないか。そんな質問が次々と口をついて出そうになった。しかし、その前に麒麟男は彼女の次の言葉を遮った。
「さあ……俺、見たことないから……」
相手は、そんなことを訊いた菜緒を訝《いぶか》しげにちらちら見ている。菜緒は彼に警戒心を与えたことに気がつき、すぐに、「富岡さんとお友達なんですか」と話題を変えた。麒麟男は、同僚なのだと答えた。同じ、むつみ信用金庫に勤めているらしい。同僚の秘密をばらしてしまったことを後悔している様子なので、菜緒は、このことは黙っておくと約束した。
柘植の植え込みからは、もう啜り泣きは聞こえなくなっていた。麒麟男は、富岡の服を持ったまま、植え込みに入っていった。
「なんだ、真っ裸じゃないか」
あきれたような麒麟男の声がした。がさごそと植え込みが揺れているのは、富岡に服を着せようと苦労しているらしい。麒麟男も人がいいのだなと菜緒は思った。
「それじゃあ、私、これで」
菜緒は声をかけた。植え込みの中から、麒麟男の頭がぴょんと飛びだした。
「ご迷惑をおかけしました」
菜緒は、いいのよ、とかぶりを振って、マンションに入った。
暗い外階段を昇っていきながら、菜緒は不思議な気分に包まれていた。麒麟男は、富岡の同僚だった。そして、富岡は女に振られた。実は朋世は富岡の愛人ではなく、愛人の友人かも、仕事先の知り合いかもしれない。そんなことはもうどうでもよかった。いずれにしろ、菜緒が魚になって見かけた人々は、皆、細い糸で繋がっている。肉に喰いこみ、痛くなって、ついには逃げたくなるような太い糸ではない。そこにあることも気づかないほど細くて軽い糸。レースのように細い蜘蛛の糸に似た繋がり。
菜緒は部屋に戻ると、ベランダに面した窓から外を眺めた。麒麟男は富岡を連れて帰ったらしく、柘植の茂みの前にはもう誰の姿もない。道路とマンションの玄関の間には、静かな夜の波が揺れているだけだ。菜緒は窓のカーテンを閉じて服を着替えはじめた。
翌朝、仕事に行くためにマンションの階段を降りていくと、管理人の妻が植え込みの前に立って、ホースで水を流していた。凍るような空気の中で、水が白い湯気を立ちのぼらせている。
「おはようございます」と挨拶して、菜緒は、何をしているのかと聞いてみた。
「夕べ、植え込みの中で吐いた酔っぱらいがいるんですよ」
管理人の妻は仏頂面で答えた。その酔っぱらいとは、お気に入りの富岡だったと知ったら、どんな顔をするだろうと、菜緒はおかしくなった。
「朝から他人の反吐《へど》を洗うなんて、厭になっちまいますよ。いい加減、管理人なんて雑用が多いのに……」と、くだくだ愚痴をいいかけたところに、おおい、と男の呼び声がした。
マンションの一階の端の部屋から、トレーナー姿の猫背の男が顔を突きだしていた。
「俺の眼鏡、どこにあるんだ」
管理人だった。妻はホースを握りしめていらいらと怒鳴り返した。
「冷蔵庫の上か、テレビ台の中の棚でしょうよ。いつも置いてるところですよ」
管理人は、いくら探しても、そこにないのだ、と答えた。管理人の妻は植え込みから出てきて、ホースを繋いだ水道の蛇口を閉めた。
「眼鏡の置き場所くらい、自分で覚えといてもらいたいものだわ……」
妻は熊の顔のポケットのついたエプロンで手を拭き、家のほうに向かった。
「ほんと、最近、物忘れがひどいんだから」
菜緒にとも夫にともいえない口振りで呟いた妻に、管理人は媚びるように、「寄る年波には勝てんよ」といった。
「まったく何かっていうと、寄る年波、寄る年波って言い訳して。そういえば片がついたと思ってるんでしょうが、年波を浴びてるのは、あんただけじゃないんですからね」
ばたんと大きな音がして、管理人の部屋の戸が閉まった。まだ震えているようなスチール製の扉を、菜緒はじっと見つめていた。
寄る年波……よるとしなみ……よるのなみ……夜の波。
頭の中で、声が連なっていく。
浴槽に浸かって聞いた言葉は、管理人の声。「夜の波」ではなく、「寄る年波」だったのだ。
菜緒の脳裏で、天鵞絨のような夜の波が立ちあがった。それは艶やかな黒曜石の壁となって膨れあがり、天上の極みで砕け散った。無数の飛沫が宙に投げだされ、きらきらと光りながら地面に落ちていき、白い湯気の立つ地面に融けていった。菜緒は、透明な波が洗うアスファルトの大地に立っていた。
魔法の呪文は解けてしまった。もう二度と、夜の波に浚われることはないだろうと思った。
菜緒は白いコートのポケットに両手を突っこんで、道路に出ていった。通勤のために駅に向かう人々が小走りに歩いている。誰もが少し頭を前方に傾け、背中を押されるようにして進んでいく。朝の波に乗って泳いでいく魚の群れだ。菜緒もその群れに加わり、足を早める。
人の形をした魚たちは、顎を上下させて頷きあい、コートの鰭をすりあわせ、また離れていく。そうやって本人たちにはわからないうちに、波の間で出会い、すれ違い、また出会いを繰り返している。菜緒は口を丸くして、ほっほっと息を吐いた。白い息が泡のように宙に昇って消えていった。
駅前の交差点の手前に、四階建てのビルがある。人の手をデザインした、むつみ信用金庫の看板がかかっている。その建物の前にさしかかった時、向こうから歩いてくる男に気がついた。
麒麟男だった。はじめて見るネクタイにスーツ姿だ。玉虫色のコートを着て、ふわふわした足取りで職場に向かってくる。菜緒を認めると、垂れ気味の目を細めた。優しげな表情が顔いっぱいに広がる。菜緒はポケットから手を出して、顔の横で振った。麒麟男は長い顎を少し反らせて頷いた。白い歯が覗いて、笑みがこぼれた。
菜緒はコートの裾を鰭のように揺らせながら、麒麟男のほうに近づいていく。二匹の魚はお互いを繋ぐ透明な細い糸を手繰りよせつつ、ゆっくりと泳ぎ寄り、輝く朝の波の間《はざま》で、おずおずとした好奇心と好意に満ちた顔を突きあわせる。
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陽だまり
朝、目覚めた時のぼんやりした感覚が好きだ。枕に頭を埋めて、夢ともうつつともつかない世界に漂っていると、このまま永遠に寝床に留まっていたいと思う。身支度を整えて仕事に出かけることも、誰かとつまらない冗談を交わしながら喫茶店で打ち合わせすることも、付き合いのために食事を共にすることもなく、ただ一日中、暖かで心地好い蒲団の中にもぐりこんでいたい。そんな甘い誘惑を心の隅に押し遣って、起きようと決心するまでに時間がかかる。
その日も、彰《あきら》は朦朧とした意識のままベッドの中で幸福な気分を味わっていた。
隣では、奈美子が彼の肩に頬をすり寄せている。昨夜、眠りに就く時にはいなかった彼女の乱れた髪からは微かに煙草の匂いが漂い、夢を見ているのか、紫貝のような瞼《まぶた》がぴくぴくと動いていた。
水色のカーテンの間から射してくる朝日に、羽根蒲団の山脈が浮きあがっている。セミダブルのベッドと壁の僅かな隙間にやっと押しこまれた白木の洋服箪笥と小さな机。本や原稿の間に埋もれたワープロ。机の前に置かれた無骨なT字形のスペイン製の木椅子には、奈美子のトレーナーとズボンが掛かっている。深夜帰宅して、服を脱ぎ散らかしてそのままベッドに飛びこんだのだ。いつものことだった。
奈美子の生暖かな寝息が首筋に吹きかかる。少し股間がむずむずしたが、彼女の鉛色の寝顔を眺めると、交わる気持ちも萎えていった。このところ、そんな毎日が続いている。奈美子も仕事に疲れ果てているから、欲求不満にもならないようだ。まるで結婚して十年も過ぎた夫婦みたいだ。
重たい瞼の間を左右に滑っていた視線が壁に掛かった時計の上で止まった。七時四十五分。彰は大きく息を吐くと、渋々躰を起こした。素足を絨毯に沈みこませて、部屋の隅に置いてある長方形のビニール製の衣装ケースの前に立つ。木の調度品で整えられた部屋の中で、茶色の地に英語の文字模様がプリントされている安っぽい家具は場違いな自分を恥じるように寝室の戸の陰に隠れている。彼は衣装ケースのチャックを開けて、底に無造作に積み重ねられた衣類の山から白いトレーニングウェアを拾いあげると、寝室の戸を開いて出ていこうとした。
「もう起きるの」
背中に掠《かす》れ声がかかった。寝ていると思った奈美子が、薄目を開いて彼を見ていた。眠気は人を無防備にさせる。しょぼしょぼと目をしばたかせている彼女は、生まれたばかりの子猫のように心細げだ。
「ジョギングしてくる」
奈美子は首をもたげて、彼を見つめた。
「雪が降るかもね」
そして、また枕に頭を沈めると、掛け蒲団を顔の上に引っぱりあげた。
彰は静かに寝室の戸を閉めた。
カーテンが閉ざされたままの薄暗い居間を通り、便所に入る。長々と小便を放つ彰を、壁に貼られた大きなポスターの中の女が微笑みながら見つめている。薄手の白いガウンを羽織り、テーブルに肘を突いて座ったショートカットの娘だ。ガウンの間に覗《のぞ》く桜色の乳房の前には、水の入ったコップが置かれている。娘の左手は細長く透明なコップにかかり、右手は画面の前のほうに差しだされている。掌では、小さな楕円形の薬が卵のような光沢を放っていた。
──あなたの一日を変える、魔法の一粒。
ポスターの中央には、そんな言葉が記されていた。
彰が撮影した生理痛薬の広告写真だった。コピーを書いたのは奈美子。奈美子は三年前の二人の出会いを作った仕事を、記念品のようにここに貼っている。毎日、便器に座って壁を眺め、過去に想いを馳せているのだろうか。
紙はすでに古くなり、四隅を留めたセロテープもうっすらと茶色に変色している。いい加減、別のポスターかカレンダーに替えたらいいと思うのだが、口には出さない。もともとインテリアなぞに頓着するたちではないし、何といってもここは奈美子のマンションなのだ。同棲生活も二年が過ぎ、家賃の半分を負担していても、彰にはやはりここは奈美子の空間だという気がしている。
彼は、卵の排泄のために、化学物質でできた卵を呑めと誘う娘と別れを告げて、便所を出た。
顔を洗い、トレーニングウェアに着替えるのに、時間はかからない。煙草をポケットに投げこむと、玄関に立った。居間の向こうの寝室のほうはひっそりとしている。奈美子はまた眠りに落ちたのだろう。
彰は音をたてないように錠をはずすと、マンションの廊下に滑りでた。
朝はまだ生まれて間もない。太陽はビルの屋上の角に引っかかったところだし、通りに面した商店は灰色のシャッターを下ろしたままだ。彰は車の行き交う大通りに沿った歩道を走りだした。
ダックスフントの散歩と変わらないスピードだ。腹や尻で弛《たる》んでいる肉が小刻みに震えているのがわかる。五分もすると汗が噴きだしてきて、彼は走るのをやめた。
並木道の下、地下鉄の駅に向かう人々と擦れ違う。誰もが鼻に止まった蚊を睨みつけているような、神経質な顔をしている。すでに頭の中で、忙しい一日を迎えるための準備をはじめているのだ。書類鞄やハンドバッグを手にして小走りに駅に急ぐ会社員たちこそ、ジョギングをしているみたいだ。仕事場がゴールのマラソン競走参加者たちの流れに逆らって、彰はのんびりと歩いていく。
交差点に来て、彼は道を右に折れた。ゆるやかなカーブを描いて坂道が続いている。歩道と車道の間には、皐月《さつき》の植え込みが作られていて、緋色の花がちらほらと咲いていた。彰は坂道を歩きはじめて、すぐにそこが日陰になっていることに気がついた。向こう側は陽が射していて、皐月もずっと鮮やかに咲いている。彼は皐月の茂みを跨ぐと、道路を渡り、陽のあたる側を登っていった。
子供の頃、小学校に通う道、陽あたりのいい側を選んで歩いた。友人はそんなことにあまり頓着しなかったが、彰はこだわった。なぜかわからない。明るい場所が好きなのだ。それは今も同じだ。列車に座るなら、南に面した窓側。夏の盛りでも日向のベンチに座り、平気で本をめくるので、奈美子にあきれられている。
彼はトレーニングウェアのポケットに手を突っこんで、灰色の石を敷いた歩道をゆっくりと上がっていく。敷石が坂の上で太陽を反射して、白く輝く道のように見える。丸々とした影が足にくっついている。太陽に背後から抱きしめられているようで、幸福な気分になる。
坂道の両側には、住宅やアパートが並んでいた。家の塀の上で、躰を丸めている太った縞猫。男物のパジャマとジーンズが掛かったアパートの軒下。開いた窓にはためく白いレースのカーテン。ぽかぽかと暖かな道を歩きながら目を細めると、空中の小さな埃が雪のようにきらきらと光る。日向で見るものはすべて、幸福そうに輝いている。
それに比べて、通りを隔てた日陰の側は、なんと陰気に見えることだろう。道沿いの家の窓辺には洗濯物が下がり、軒下には植木が並べられている。陽のあたる側とさして変わらない光景なのに、日陰にあるというだけですべては暗く沈んでいる。洗濯物は灰色にくすみ、家の前に投げだされた空き瓶や塵袋が、荒れた感じを漂わせている。
坂道を登りきると、道は平坦に戻った。やはり陽のあたる側を歩き続けて、彰は二本目の路地を左に曲がった。すぐに白いペンキ塗りの二階建てアパートの前に出た。安普請だが、出窓つきのしゃれた造りだ。彰は外階段を昇って、二階の廊下に立った。洗濯機の並ぶ通路を通り、一番端の部屋の前まで行って、白い扉を叩く。
トン・トト・トントン・トン・トン。
リズムをつけてノックしたとたん、戸が勢いよく開いて、香水の匂いが彼を包んだ。白い手が彼の腕をつかみ、部屋の中に引きずりこんだ。無様につんのめり、ハイヒールが並んだ狭い玄関に倒れそうになった彰に、柔らかな躰がぶつかってきた。
「遅かったのね。八時といったのに」
頬を膨らませた佳世が、彼を見上げていた。丸顔の周囲で渦巻く茶色っぽい髪。鷲鼻気味の高い鼻に薄い唇。一昔前の映画女優のような派手な顔つきだ。
「ごめん、ごめん。ちょっと寝坊しちゃってさ」
彰は運動靴を脱ぎながら、佳世の肩を軽く押した。
「ほんとに寝てただけなの」
佳世は疑わしそうに聞く。奈美子と抱き合っていたのではないかと勘繰っているのがわかる。否定しても事を紛糾させるだけなので、彰は無視することにした。
「おっ、うまそうじゃないか」
彼はずかずかとワンルームの部屋に上がりこむと、窓際に近づいていった。そこには、ピンクのクロスをかけた四角い小さなテーブルと椅子が二つ、用意されていた。テーブルの上には、トーストとオムレツ。瑞々《みずみず》しい緑色のサラダも載っている。
「佳世が作ったのか」
彰は椅子に太い尻を落として尋ねた。佳世は頷《うなず》いて、薄手のワンピースに浮きたつ腰をくねらせながら彼の前に座ると、恨みがましくオムレツの皿を指さした。
「でも、彰さんが遅いもんだから、冷めちゃったわ」
「そんなことないさ」
彰は花柄の紙ナプキンの上に置かれたフォークをつかみ、オムレツに突きさした。黄色い卵の皮が破けて、マッシュルームが湯気を立てて流れ出た。彼はそれを口に放りこんで、陽気にいった。
「うまいよ、うまいっ」
佳世の表情がやっと綻《ほころ》んだ。そして甲斐甲斐しく、彰のためにトーストにマーガリンを塗ったり、紅茶を注いだりしはじめた。
「私ね、こう見えても、けっこうお料理やお洗濯なんか好きなの。休みの日は、一日中家に居て、ちまちまと家事をしていたりするのよ」
彰は頷きながら黙々と食べている。
部屋の中には、微かにクラシック音楽が流れていた。板張りの部屋を占めるのは、小さな衣装箪笥と花柄の掛け蒲団に覆われたシングルベッド。ベッドには、ハートやキャンデーの形をしたクッションが並び、箪笥の上には陶器のミニチュアの豚やペンギンたちの人形が飾られている。部屋の隅々まで掃除が行き届き、小物ひとつまで佳世がああでもないこうでもないと頭をひねって置かれた跡が刻まれている。
「だけどね、私がそうなんだといっても、誰も信じないのよ。誰も、といっても、松っちゃんとか、麻美とかのことだけどね。あの人たち、私が踊ってるとこしか知らないからね。昼間はピアノの先生だってことも、やっぱり信じてないみたい」
佳世はくすくす笑いながら、サラダの葉をするりと口に入れた。
「ストリッパーだとでもいったほうがいいんじゃない」
彰が口を挟むと、佳世はテーブルの下で彼の足を蹴った。
「ひどいわねえ」
彼はにやにやしながら、トーストにかぶりついた。
彰が佳世と知り合ったのは、六本木のディスコだった。雑誌の取材で、ディスコに集まる女の子たちの写真を撮影することになり、カメラマンとして彰が雇われた。編集者が闇雲にめぼしい女の子に声をかけて、撮影を承知してくれたのが佳世だった。
下着を着ているのと変わりない恰好で、週末ごとにディスコで踊っている佳世だが、話してみると、けっこう堅い家庭で育っていた。父親は小さいながらも会社の社長で、彼女は音大を出てから、実家でピアノの教師をしているということだった。最近、独立したくなって、実家の近くにアパートを借りたといっていたことは覚えていたが、その彼女と偶然、家の近くで再会して驚いた。奈美子のマンションと彼女の実家とは同じ町内にあったのだった。その場でデートに誘い、酔った勢いでホテルに泊まったのが縁だった。自分から声をかけたとはいえ、あまりに幸運な成り行きに、彰は戸惑いすら感じたものだった。どうせ一夜のことだろうと思っていたが、意外にも佳世はまた彼を誘った。十歳年上の彼に、どこか安心感を抱いたようでもあった。そして付き合いをはじめて、もう三か月ほどになる。
三十三歳の世間馴れした奈美子と違って、佳世とのデートは新鮮味がある。若いというのがいい。それに、奈美子の性格には見られない甲斐甲斐しさも、腹の底をくすぐられるような快感があった。今日のこともそうだった。彼が、奈美子は宵っぱりなので、朝食を作らないと漏らしたとたん、佳世が作ってあげるといいだしたのだった。
「ああ、腹いっぱいだ」
彰はついにフォークを皿に置いた。オムレツもサラダもトーストもすっかり平らげていた。彼は座り心地の悪い椅子から立ちあがると、手を伸ばせば届くところにあるベッドに位置を変えた。ごろりと横になったところに、佳世が抱きついてきた。
「幸せ?」
うん、と答えると、佳世はぽこんと突きだした彰の腹を撫ぜた。
「だったら、明日も作ってあげる」
唸るような声をだすと、彼女は承知の印と受け取ったらしく、彼の耳元で笑いながらいった。
「明日は和風にしてみるわね」
和風だろうが洋風だろうが、彰はどちらでもよかった。それより彼女の柔らかな息が耳にかかって、躰がうずうずしてきた。彼は玩具をもらった幼児のように嬉々として、佳世の盛りあがった乳房に手を伸ばしていった。
「宮川さん、店内もおさえといてね」
智子のきびきびした声が飛んできた。棚に置かれたトルコ石の首飾りの写真を撮っていた彰は、はいはい、と返事をして、最後の一枚のシャッターを切ると、カメラを持って、猫の形のマグカップや銀製のティースプーン、陶製の花をあしらった傘立てなどがぎっしりと並ぶ狭い店の隅に立った。
智子はレジのところで、白いフリルが何層にもなって垂れさがったドレス姿の店の女主人に取材している。手にメモ帳とボールペンを持って、大きなイヤリングをショートカットの耳の下で揺らせながら、感心したように店内を見回している。
「ほんと素敵なものばっかり。普通のお店じゃ、こんなものはなかなか見つけられませんよねえ。やっぱり、オーナーの御趣味が光ってますね」
歯の浮くお世辞に、白髪混じりのカーリーヘアにリボンをつけた中年の女は口許を綻ばせた。吉祥寺のしゃれた店という女性雑誌の特集記事の仕事だった。
レンズを覗くと、店中央の商品ケースに置かれたアールヌーボー調ランプスタンドが大きく写りすぎて邪魔だ。彰は太った躰をのそのそと動かして、ランプをどけようとした。それを見つけた智子が素早く口を挟んだ。
「あら、駄目よ。そのスタンドを写してよ。とってもいいんだから」
「あっ、そう」
小姑のような言葉にも、彰は素直にランプを元に戻して、カメラを構えた。やはり円形のランプシェードが大きすぎてバランスが悪い。しかし、編集者の意見なのだから仕方がない。それに、ランプスタンドが一個入ろうが入るまいが、所詮は店の紹介記事だ。店内写真なんか、切手くらいの大きさにしかならない。めくじら立てていいたてるほどのことではない。
彰はカメラのシャッターを押した。
仕事場での彰は編集者に従順だ。彼は使いやすいといって、特に女性編集者たちに受けがいい。そんな自分のことを、調子のいい奴だと忌々しく見ている硬派のカメラマンもいるのは知っているが、彰はそれでいいと思っていた。
好きな写真を撮ることで食っていけるだけでいいのだ。普通、彼くらいの年齢になると、店内撮影程度の仕事を引き受けるのは沽券に関わるといって、断るカメラマンも多い。しかし彰にとっては、一カット何十万ももらえる広告の仕事も、一カット何千円にもならない雑誌の小さな記事の仕事も、大差はない。仕事が入った時、時間が空いていたら、引き受けることにしている。
仕事に欲がないといったらそれまでだが、彰は無理をすることが嫌いだった。好きなことをしているだけでいいではないか。人生、それ以上のことを望むから、仕事で喧嘩になったり、他人に嫉妬したりする。彰はぼんやりとだが、そんな考えを持っている。もっとも、こんなことは誰にもいわない。奈美子なぞにいった日には、そんなふうだから、いつまでたっても細切れ仕事しか回ってこないのだ、などと説教されるに決まっている。
店内写真を撮り終えると、智子が外観も撮ってくれといいだす前にカメラバッグを抱えて外に出て、『魔女館』と書かれた店の看板入りの写真をカメラに収めた。智子はまだ店の主人と話をしている。彼は狭い店内に戻るのも厭になって、カメラを手にしたまま、歩道に立っていた。
午後の街は、井の頭公園からの帰りの行楽客たちがそぞろ歩いている。五月の爽やかな風が表通りから引っ込んだところにある住宅街を過ぎていく。
向こうから、一人の娘がやってきた。黄色いスーツに白いヒールの靴。茶色がかった髪を背中に揺らせて、気がかりそうに腕時計を見ている。約束に遅れているのだろうか。うつむき加減の鼻と頬の線が美しかった。彰はとっさにカメラを構えて、娘の顔に焦点を合わせた。彼女はこちらに気がつかない。ズームを上げると、レンズの中で顔が大きくなる。不意に娘が顔を上げた。寄せられた眉根、心持ち開いた唇。憂いの漂う表情が、ファインダーに収まった。
カメラを下ろすと、娘は彰を睨んでいた。盗み撮りされたことに気がついたらしい。しかし彰がにっと笑いかけると、彼女は毒気を抜かれた顔をして、つんと横を擦り抜けていった。彰はその黄色い姿が角を曲がって消えてしまうまで見送っていた。
「おまたせっ」
店から出てきた智子が、彰の背中を平手で叩いた。彼は、ああ、といって、カメラをしまうと、重い機材バッグを肩にかけた。
「まったく、すごい趣味ね。あの歳して、白雪姫みたいな恰好してさ」
さっきまで薹《とう》の立った白雪姫相手におべんちゃらをいっていたことはけろりと忘れたように、店から少し離れるや、智子は女主人の悪口をいいはじめた。
「それでもって、お客さまは皆様、趣味のよろしい方ばかりですので、こちらも張り合いがございますの、ってね。いくらイギリス製だからって、中古の硝子のブローチに一万円もよく払うわよ」
「あれ、そんな値段なの」
「そうよ。アンティックって高いのよ」
「じゃあ、これなんか高いな」
彰は機材バッグにつけていた傷だらけのアルミ製のバッジを指さした。黄色の地にエッフェル塔の絵がついている。
「パリで買ったんだぜ。俺の中古」
「誰がそんなもの買うもんですか」
智子は吐きだすようにいった。
「千円で売ってやるぜ」
「そのへんで露店でも開けば。売れたら、逆立ちして歩いてやるわ」
智子とはもう何度も一緒に仕事をしているから、気安い仲だ。今日の仕事はこれで終わりだったので、二人は軽口を叩きながら駅のほうに歩いていった。
大通りに出ると、並木道が続いていた。横を車やバスが通り過ぎる。道路沿いの焼き鳥屋ですでに酒を飲んでいる男たちもいれば、小物屋の前でたむろしている女学生たちもいる。突然、思い出したように、智子が彰の腕をつかんだ。
「そうだ、聞いたわよ、宮川さん」
彰はきょとんとして、何だ、と尋ねた。智子は大きな瞳に好奇心をきらきらさせて、彰の顔を見つめた。
「この前、若い女の子と六本木を手を繋いで歩いてたんですってね。同じ編集部の木元さんが見たっていってたわ」
佳世のことだろう。照れ笑いを浮かべる彰に、智子は意地悪くいった。
「また、浮気してんのね。奈美子さんにいいつけるわよ」
智子は何度か仕事のことで家に電話をかけてきているから、奈美子のことは、どんな仕事をしているかまで知っている。三人で一緒に酒を呑んだこともあった。彰は狼狽した。
「ひどいな。そんなことしないだろ」
「さあねえ。同じ女として、許せないからなあ……」
智子はにやにやしている。彰は半ば冗談、半ば本気で智子を拝んだ。
「黙っといてくれよ。なっ、今度、夕飯でも奢るからさ」
「高いところよ」
「わかったよ、わかったよ」
今回の撮影料は吹っとぶなと思いながら、彰は渋々頷いた。智子はショルダーバッグを肩に掛け直すと、腕組みをして彰をじろじろと眺めた。
「それにしても不思議よね。宮川さんの前に、どうしてそんなに次から次へと女の子が現れるのかしら。美形でもないし、痩せてスマートというわけでもない。男を感じさせるタイプでもないしね」
酷《ひど》いな、と彰は呟いたが、智子は容赦なく続けた。
「きっと、そうね。男らしさがないから、女は気を許すんだわ。男らしくないってことは、一般的にいうと、話しやすくて、優しいってことなのよ。おかまが女の子にもてるのと同じ心理なんだわ。都会の女は優しさに飢えているのよ。そこに宮川さんがつけこんでるってわけね」
分析を続ける智子は、奈美子を思い出させた。二人はどこか似ていた。会話のテンポが速くて頭の回転もいい。それは彰が出入りする広告や女性雑誌業界の女たちも同じだった。皆、気が強くて頭がよくて、寂しがり屋だ。そして少し付き合うと、男に対する不信感でいっぱいなのに気づかされる。
もちろん、我が身の浮気性を振り返ると、不信感を抱かれても無理はないと思う。だが、その自分に対して、彼女たちが好意を示してくれるのがどうしてか、彼には謎だった。智子のいう通り、彼が優しく、男らしさを押しださないから、女たちが気を許して話し相手になるのはわかる気がする。しかし、そればかりか、彼がホテルに行こうと誘ったら、おとなしくついてくる女がけっこういるのはどういうことだろうか。奈美子もそうだった。最初は、彰の優柔不断なところや女癖の悪さを誹謗してばかりだったのに、意外にあっさり彼に身を委ねた。そして寝た後でいったものだ。やっぱり、あなたって女癖が悪いのね。自分の男に対する不信感が、それによってまた確証を得たというように。
同棲をはじめて以来、彼の浮気が発覚するたびに、いつも同じことをいう。あなたの女癖の悪さは直らないのね。そうして、彼の悪癖リストに新たな証拠物件を書き加えている。時々、彰は思う。自分が浮気をしなくなったら、奈美子はその暗い愉しみをなくして、かえってつまらなくなるのではないかと。
奈美子や智子のような女は、男の裏切りを数えあげることに自虐的な愉しみを覚えるのかもしれない。今、横で彰を貶《けな》している智子の顔ときたら、蝉の羽根をちぎって遊ぶ子供のように、嬉々としている。目を光らせて、彼女なりの論理で鋭い言葉を発し続ける智子は魅力的ですらある。女は、復讐や嫉妬が混じりこんだ時、別人のような表情に変貌する。その顔をカメラに収めようとして、さらなる怒りを買ってしまった過去を思いだして、彰は一人苦笑した。
「厭だ、何、笑ってんのよ」
智子がかりかりといった。彰は慌てて笑いをひっこめた。彼女はあきれたように首を振った。
「まったく、非難しても張り合いがないわね。いいわ、もうこれで終わり」
もう苛立った調子は消えていた。
二人は鉄道の高架線の下に立っていた。駅の改札口から、大勢の人が流れだしている。井の頭線に乗って帰る彰と、中央線に乗る智子は、駅の前で別れた。雑踏に智子の小柄な躰が消える前、彼女がくるりと振り返っていった。
「口止め料代わりの夕食、忘れないでよ」
彰は、わかった、という印に片手を上げてみせた。
土曜日とはいえ、百貨店の家具売り場は静かだった。化粧品やアクセサリーの化けの皮を種々雑多取り揃えた一階の人込みをくぐり抜けてきただけに、彰はものいわぬ家具の中に入りこんで、ほっとした。エスカレーターを上がったところにでんと置かれた革張りの長椅子に座りこんでみたい誘惑にかられたが、奈美子が先に促した。
「ほら、こっちよこっち」
彼の手を引いて、売り場の奥のほうに連れていく。
「いったい何なんだよ」
彰はぼやきながら、奈美子の後をついていった。
このところ残業続きで取り組んでいた仕事が一区切りついて、久々に落ち着ける時間を見つけるや、奈美子は彼に買い物に行こうといいだした。日頃、物を買うことに興味を示さない彼女にしては珍しいことだった。幸い、彰も仕事はなかったし、いわれるままについてきたのだった。
食卓セットや応接家具などの売り場を過ぎると、箪笥類が倉庫のように並んでいる区画に着いた。奈美子は立派な白い洋服箪笥の前に立って、彼を振り向いた。
「ほら、これ、どうかしら」
彰は訳がわからず、彼女の顔を見返した。艶を失った肌に黒味を帯びた唇。化粧気のない奈美子は古ぼけた押絵の人形を思わせた。顔立ちは整っているのだが、もともと色黒なうえに、連日の仕事の疲れが残っているせいか、全体がくすんで見えた。それでもどこか浮き浮きした調子で、箪笥の滑らかな化粧板を撫ぜていった。
「寝室に置くの。彰君の箪笥よ」
「俺の箪笥ならあるじゃないか」
奈美子は鼻の横に皺を寄せた。
「あのおんぼろ衣装ケース、もう寿命じゃないの。ファスナーは壊れかけてるし、ビニールだってもうくたくたで破れてるでしょ。買い替える時期よ」
確かに、あの衣装ケースはもう十年近く使っている。いつ棄てても惜しくはない代物だ。だが、やはり彰には、なぜ奈美子が突然そんなことをいいだしたのかわからない。
「買い替えるにしたって、これ、大きすぎるぜ。寝室には入らないだろ」
幅一間はありそうな箪笥を両手で測る仕種をして、彰は時間稼ぎに反論した。
「私の白木の衣装箪笥を、もうひとつの部屋に置いて、二人でこれを使ったらいいのよ。私もちゃんとした洋服箪笥が欲しかったところだし」
奈美子と自分の服をひとつの洋服箪笥に入れる。その考えに、彰は漠然と落ち着かないものを感じた。彼が返事を渋っていると、彼女は箪笥の扉を開いた。
「ほら、これだったら二人分は充分入るわ。見てよ、素敵じゃないの」
扉の内側は鏡張りになっていて、二人の姿が映しだされた。大柄で太り気味の躰に青いトレーナーを羽織った彰と、だぼりとしたサマーセーターにジーンズ、長い髪を後ろで無造作にまとめた奈美子。まるでくたびれた夫婦みたいだ。彼の胸の底がざわめいた。
彰はかつて結婚したことがあった。しかし彼の浮気が原因で二年で離婚してしまった。ふと、奈美子が前の妻の姿と重なり、自分がまだ離婚しないで、その妻と十年間も連れ添ってきた気分になって、ぞっとした。
「作りもしっかりしているし、一生物よ、これ」
奈美子はしきりと白い扉を開け閉めする。光の加減だろう、扉が動くたびに鏡に映る彰の姿が薄れて見えた。疲れた様子の奈美子の隣から退こうとしているかのように、彰の太った躰が背後の店内風景に半分消えかかっている。
彼の内部の何かが、結婚式の新郎新婦よろしく並んでいる二人の姿に反発しているのだ。だから、こんな目の錯覚を起こすのだ。彰は人の心理作用を不思議に思いながら、鏡の中をじっと見つめた。箪笥の内部を調べている奈美子の真剣な顔と、その背後にぼやけて映る彰の丸くとぼけた顔。もう二人は夫婦のようではなかった。同じ鏡に、偶然、重なって映っただけの男と女。しかも男はこの世のものではない、幽霊のようでもある。
ぱたん。奈美子が衣装箪笥の扉を閉めて、彰の奇妙な世界は消えた。
「今ならセールで二割引きなんですって。二十三万円のが十八万四千円よ。この前、仕事で渋谷に来た時、たまたま見つけてその気になったのよ。私、半額出すからさ、この際、思いきって買おうよ」
奈美子が再び説得にかかった。
「そうだなあ……」
彰は渋ったが、内心の漠然とした居心地の悪さを除いては、これといって反対する理由もない。
「ちゃんとした衣装箪笥のひとつくらいもってないと、かっこ悪いでしょ」
誰に見せるものでもないのに、奈美子はそんなことをいった。考えとくよ、と答えると、彼女は苛々した口調でたたみかけた。
「もう、はっきりしないんだから。考えてる間にセールは終わってしまうわよ」
彰は面倒になって、好きにすればいい、と呟いた。奈美子は一瞬、不機嫌な顔をしたが、すぐにその表情を消してにこりとした。
「じゃあ、好きにするわ」
しかし、すぐに買おうとするでもなく、彼女は彰の手を取ってぶらぶらと歩きだした。
家具売り場の中は、理想の家庭が細切れとなって再現されている。最新式の設備を揃えたシステムキッチン。ハリウッド映画にでも出てきそうな巨大なダブルベッド。有閑夫人が一日中でもその前で時間を潰せそうな楕円形の鏡のついたルイ王朝風の化粧台。付属品がくっついた、過保護の砂糖まみれの勉強机。豪華な応接家具に、大家族向きのがっしりした食卓五点セット。
腕を組んだ若い恋人同士や幼い子供を連れた夫婦連れが、その間を目を輝かせて右往左往している。彼らの頭の中には、それらの道具立ての中で育まれるはずの生活が、甘い夢のように描かれているのだ。
結婚したら、子供が生まれたら、あと十年もすれば、この理想の家具セットにぴったりの幸福な生活が実現すると信じている。
どうして人は未来に期待をかけるのだろうか。現在の問題をすべて小包にして未来に送りつけると、薔薇の花束にでも変化するとでもいうかのようだ。小包の中のがらくたは、未来永劫がらくたでしかないのに。
奈美子が、重厚な木製の机の前で立ち止まった。
「あら、いいわね。こんな机」
彼女は机の前に置かれた会社の重役向きの椅子に座って、ふんぞり返った。
「書斎にこんな机を置いて、仕事をするのよ。いいコピーがどんどん浮かびそうだわ」
「家には入らないよ」
「マンションを移ればいいんだわ」
ところてんのようにつるりと奈美子の口から滑り出た言葉に、彰はぎょっとした。
「移るって」
奈美子は隈のできた目で彰を見上げた。
「もっと大きいマンションに移ったらどうかしら。今の家、二人には狭いわ」
「そうかなあ」
「そうよ。あと一部屋は欲しいわよね。一部屋は彰君の仕事部屋、もうひとつは私の書斎。そして寝室と」
彰は意外な気がした。奈美子が書斎を欲しがっているとは知らなかったのだ。
もともと同棲をはじめたきっかけは、離婚して住みはじめた1DKのアパートが手狭になり、彰が機材や写真を置く部屋を欲しがったことだった。奈美子は、自分の家の一部屋が物置同然になっているから使えばいいといいだした。冗談で、だったら事務所代を払うよ、といっているうちに、生活道具一式抱えて、奈美子のマンションに移ることになったのだった。
「俺の仕事部屋、いつでも譲るぜ。他のところに事務所を構えてもいいんだし」
「あら、そんなことしたら、お金の無駄遣いよ」
奈美子は椅子から立ちあがると、先に立って歩きながら続けた。
「いいの、別にすぐに書斎が欲しいわけじゃないから。今のところ、仕事は会社でしかしてないしね」
そういいながらも、奈美子は周囲の本棚や机に目を走らせている。
彼女が心の中で、二人の未来を構築しはじめているのを感じて、再び彰の胸に居心地の悪さが湧きあがってきた。
奈美子は未来なんか考えない女だった。仕事に夢中で、彰との同棲もただ成り行きのままにはじめたようなところがあった。結婚をいいだしたこともないし、第一、あんたみたいな浮気性の男と結婚なんかする気はないわ、と公言していた。
しかし、どういう心境の変化だろう。彼女は少し変わった気がする。
彼は隣の女をそっと観察した。最近、奈美子は忙しかったから、こうして昼間に連れだって外に出ることはなかった。久しぶりにゆっくりと店内の明るい空間で眺める彼女は少しやつれたようだった。髪の毛は艶がないし、サマーセーターの下で鎖骨が浮きあがっている。
「何か食べてこうか」
思わず、彰はいった。
「食べるって」
奈美子は驚いた顔をした。
「家でお昼、食べたじゃないの」
「ほら、甘いものでもさ。この中にパーラーでもあるだろ」
彼女は笑って、彰の突きだした腹をぽんと叩いた。
「あなたってほんとに甘いもの好きなんだから。だから、こんなに太るのよ」
「俺のことじゃない」
彰は苦笑しながら奈美子の薄い肩を両手でつかんで揺すった。
「おまえだよ。ちょっと痩せすぎだぞ」
へえ、と小さくいって、奈美子は自分の躰を見下ろした。サマーセーターの裾をつまんで、ばたばたと煽った。
「ほんとね。また痩せたみたい。まるで私の肉、みんな彰君が取っていくみたい」
「食人鬼みたいなこといわないでくれよ。これでも最近、躰が軽くなった気がしてんだからさ」
「まさか」
奈美子は彼の躰をじろじろ見た。
「気のせいよ」
「だろうな」
彰は渋々認めた。躰が軽くなった気がしているのは確かだが、ズボンが緩くなったわけでもなく、頬も以前の通りにぽちゃぽちゃしている。早起きが気持ちを爽やかにしているだけなのだろう。
奈美子は横目で彼の腹を眺めながら、またいった。
「それにしても不思議よね。せっせとジョギングしてるわりに、彰君たらちっとも痩せないんだから」
彰はぎくりとした。ジョギングと偽っての佳世との朝食デートは、週に二、三回の割合で続いていた。
「仕方ないだろ。一度、ついた脂肪はなかなか落ちないんだ」
慌てて言い訳すると、奈美子は意地悪くいった。
「中年太りの男って魅力ないわよ」
「痩せた女も同じだよ」
憎まれ口を叩いたとたん、思いきり脇腹を抓《つね》られて、彰は呻き声をあげた。
籐の籠の中に、湯気をあげているパンが山と積まれていた。うっすらと赤や緑の色が混じっている小型パンだ。
「パン焼き器、買ったのよ。ほら、これが人参入りで、こっちが菠薐草《ほうれんそう》入り。躰にいいんだから、いっぱい食べてね」
佳世がにこにこしていう。
彰は小さな木椅子に腰をおろして、平和そのもののこの光景を眺めていた。
いつものように、佳世の部屋は整然としていた。ベッドの上のクッションは聞き分けのいい子供のように中央にきちんと並んでいるし、壁に掛けられたハンガーには、クリーニング屋から帰ってきた衣類が肩をぴんと張って下がっている。テーブルの上には、白いフリージアが一輪。そして佳世本人も、染みひとつない大きめのシャツを着て、素足を出して彼の前にちょこんと座っている。気軽な服装を演出しているが、首の後ろがきちんと立った襟や、同じ長さになるように両肘のところで折り返された袖は、彼女が鏡の前で注意深く自分の恰好を点検した後であることを物語っていた。ここは眠りの森だと彰は思う。いつ来ても同じ状態、同じ空気で保たれている。それがまた居心地がいい。
彰は暖かな草色のパンを手に取ると、歯で噛みきった。柔らかな生地が綿菓子のようにちぎれる。佳世はその様子を満足そうに眺めながら、コーヒーを啜る。
「来月は、生徒さんたちのピアノの発表会なんでけっこう忙しいんだ」
返事が必要な会話でもない。彰はサラダをフォークで突っつきながら頷いた。
「小学生たちはまだちゃんと家で練習してくれるからいいけど、高校生の生徒がね。怠け者で困るのよ。時間がないっていいながら、しっかり渋谷なんかで毎日遊んでいるんだもの。たまんないわ」
「先生のほうだって、六本木のディスコで遊びまわってるくせして」
茶々をいれると、佳世の瞳がきらりと光った。反論してくるかと思ったら、意外に素直に「そうね」と頷いた。
「そろそろ考えなくちゃね」
佳世はシャツの裾から覗く細い膝小僧をさすりながら、真面目な口調で続けた。
「親にも説教されたのよ。いつまで遊び暮らしてるつもりだ、もう援助してやらないぞってね。パパの会社にでも就職させてもらおうかしら」
それもいいんじゃないか、と彰は答えて、またパンに手を伸ばした。
「佳世ちゃんは恵まれてるんだからさ。就職難のこの御時世、ひょいとお父さんの会社に入れるなんてありがたいことだ。そうしてみたら」
膝を撫ぜていた彼女の手の動きが止まった。自分の言葉が気に障ったのだろうか。彰はちらりと思ったが、次の瞬間、佳世がぱっと顔を上げた。口許には笑みが浮かんでいた。
「それもいいかもね。でも、私が勤めはじめたら、もう彰さんのために朝御飯、作ってあげられないわよ」
「だったら俺が作ってやるさ」
彰は陽気にいった。
「コンビニで弁当買ってきてさ、お茶くらいいれてやるよ」
「駄目駄目。そんな朝御飯は厭よ。健康に悪いわ。ちゃんと作ってくれなきゃ」
「じゃあ、佳世ちゃんに料理、教わらなきゃな」
「彰さんって料理できるの」
「目玉焼きくらいなら」
「毎朝、目玉焼きなんて御免だわ」
笑い混じりにいってから、彼女は急に何もかもにうんざりしたように自分の膝をぱんと叩いた。
「莫迦《ばか》みたい。毎朝、彰さんが私に朝御飯、作ってくれるはずないわよね。あの人と暮らしてんだから」
毒矢を二、三本、吹きつけられた気がした。しかし佳世にとっては皮肉以上のものはなかったらしい。冷えたコーヒーをぐいと飲むと、椅子から立ちあがり、子供のように彰の膝に乗ってきた。
「ほんと、厭らしい小父さんだわ」
彼のぽっちゃりした頬を両手でつまんで引っぱった。
「痛っ、こいつ、やったな」
彰は半分にちぎったパンを皿の上に置いて、彼女の躰を床に押し倒した。そのまま成り行きで二人は交わった。
激しく、短い抱擁が終わると、もう九時半を過ぎていた。そそくさと服を着て玄関に出ていく彼を、佳世は裸のままベッドから見送った。戸を閉めようとして振り向くと、乱れた掛け蒲団の上から、佳世が白い手をひらひらと振った。
「またね」
佳世の顔は少し悲しそうに見えた。
「いつまで寝てるつもりだよ。もう朝なんだから、起きろよ」
「誰のせいだと思ってんのよ」
声とともに枕が飛んできた。彰は笑いながら、部屋の外に飛びだした。
外は少し陰っていた。薄曇りの空から、白っぽい光が射している。彰はトレーニングウェアのポケットに手を突っこんで、奈美子のマンションへと向かいだした。
今日は午後からスタジオで文房具カタログ用の商品撮影がある程度で、のんびりできる日だ。夕方、友達のカメラマンのところにでも訪ねていってみようか、それとも久々に映画にでも行こうか。ぼんやりとそんな予定を頭の中で立てながら、いつもの坂道にさしかかった。陽のあたる側の路上で犬が丸まっている。汚れて薄茶色に変わった白い毛に、くたびれた首輪をつけている。迷子の犬にも見えないから、鎖を外されて散歩しているのだろうか。
彼が近づいていっても、犬は前足の上に顎を乗せて目を閉じている。よくよく警戒心のない犬だ。陽だまりの居眠りを満喫している。彼は犬に笑いかけて、横を通り過ぎた。犬は彼なぞ通らなかったように、ただ眠り続けていた。彰は自分が風に変わった気がして、妙に楽しくなった。
坂道を下りきると、並木道を申し訳程度にジョギングしながらマンションに戻った。エレベーターで五階まで上がり、鍵を開けて家に入ると、味噌汁の匂いがした。おや、と思いながら靴を脱いでいると、居間兼台所のほうから、「おかえり」という奈美子の声が聞こえた。いつもは昼まで寝ている彼女が、もう起きているらしい。
「今朝は早いんだな」といいながら居間に入ったとたん、驚いた。
夏も食卓として使っている炬燵の上に、茶碗や焼き魚の載った皿が並んでいた。横に置かれた炊飯器からは白い湯気が立ち、保温のランプが光っている。
台所から味噌汁の椀を運んできた奈美子が、部屋の入口に突っ立っている彰に声をかけた。
「ほら、早く座って。朝御飯にしましょう」
佳世のアパートで八個も食べたパンが喉にせり上がってきた気がした。
「どういう風の吹きまわしだ」
彰は奈美子に尋ねた。ひょっとしたら、自分と佳世の朝の逢引のことを嗅ぎつけて、わざと意地悪をしているのではないかと思ったのだ。しかし、彼女は屈託のない顔で御飯をよそいながらいった。
「私、ちゃんと朝御飯を食べることにしたの。あなたに痩せすぎだといわれたことでもあるしね。健康は規則正しい生活から、っていうでしょ」
奈美子は横の座蒲団を叩いた。
「ほら、早く席に着いてってば。あなたもジョギングの後でお腹ぺこぺこでしょ」
空腹どころか、隙間がないほど胃は張りきっていたが、食べたくないとはいえなかった。彰はしぶしぶ座蒲団に座った。神様が悪戯《いたずら》っ気を起こして、彼をこんな羽目に陥れたのではないかと思った。
「いっぱい食べてね」
奈美子が、白い御飯が山盛りになった茶碗を彼の前に置いた。ビデオを逆さに回して、もう一度、同じ光景を眺めている気がした。相手の女と食卓の食べ物は違っているが、似たような光景。似たような会話。
彼は箸を取ると、げっぷをこらえてのろのろと味噌汁の椀に手を伸ばしていった。
「御馳走さま」
レストランを出ると、智子がいった。彰は財布をズボンのポケットに突っこみながら、苦笑した。
「高い口止め料になってしまったよ」
「身から出た錆」
智子が路上にヒールの音を響かせて歩きだした。
「これから、どっかで飲んでいくか」
彼女を追いかけて、彰は聞いた。智子は短い髪を横に振った。
「駄目よ。締切を抱えてるの。これから帰って、ちょっと原稿を書かなきゃ。タクシー拾って帰るわ」
夜の六本木は人で溢れていた。酔っぱらって路傍に座りこむ若い男や、それを介抱する仲間たち。手を繋いで歩く恋人同士。突きだした腹を仕立てのいい背広で包み、高級料理屋に消える男の一団。彰と智子は、タクシーをつかまえやすい大通りのほうに歩いていく。
頭上のビルの壁に、ディスコのネオンが輝いていた。騒がしい音楽が漏れてくる入口の前にたむろする娘の群れを見て、彰は佳世を思い出した。耳に何個ものピアスをつけたり、髪を金髪に染めたり、見事な躰の線がくっきりと浮きでる服を着たこの娘たちの一人を恋人にしていることが嬉しくなった。彼女たちは未来を考えることなく、現在だけを生きている存在だ。自分と同類なのだ。
もっとも佳世が、彰のことをそう見ているとは思えなかった。むしろ、異種の人間だと考えているからこそ付き合っているのだろう。その物珍しさが消えると、離れていくのかもしれない。近づいては離れていった、これまでの女のように……。
「で、宮川さんの今度の浮気相手は、どんな娘なの」
大通りに出て少しあたりが静かになった時、智子が不意に聞いてきた。
「秘密、秘密」
首を横に振る彰の背中を、彼女はどんと叩いた。
「にやけちゃって。若い娘なんでしょ」
まあね、と答えると、智子は彼を横目で睨んだ。
「ほんと、若い娘を誑《たぶら》かして。その娘も奈美子さんも、宮川さんの犠牲者ね」
「俺が鬼みたいにいうなよ」
「似たようなものよ」
智子は車が風を切って通り過ぎる通り沿いに立ち、タクシーの空車を目で探しながらいった。
「だから男を信用する女は莫迦を見るの。決まってんだから」
車のライトに照らされた彼女の横顔は、闇の向こうの何かに怒っているようだった。過去に、男に酷い目に遭わされた経験でもあるのだろうかと彰は思った。
男を呪詛する時の女は共通している。目の前に憎む相手がいても、直接にぶつかってはこない。別れた妻も奈美子も、彼に対して悪意を吐きだす時、暗闇の向こうにあるものを睨みつけていた。彼に何をいっても無駄とわかっているから、彼ではなく、彼という存在を創った神のようなものに対して怒っているのかもしれなかった。
赤のランプを光らせて、空車が一台、近づいてきた。
「あっ、来た、来た」
智子が大きく手を振った。しかし、タクシーは速度も落とさず、彼女の前を通り過ぎていった。
「乗車拒否だわ」
智子が怒って叫んだ。
「女だからって莫迦にして。タクシー会社に訴えてやるから」
知的に秀でた額が薄闇の中で美しい線を描いている。小柄だが、バランスの取れた躰だ。裸になったら、大人の女の器官の揃ったミニチュア人形のようにエロティックだろう。その情景が頭に浮かび、彰は思わず誘った。
「帰るのやめて、ホテルに行こうよ」
智子がこちらを振り返り、露骨に厭な顔をしてみせた。
「信じられないわ」
軽蔑のこもった言葉が返ってきた。彰は照れ笑いをした。
智子は、また空車を見つけると、手を振った。今度はすぐに止まってくれた。
車に乗る前、彼女は後部座席の中からもう一度、いった。
「ほんと、宮川さんって、どうしようもない男ね」
タクシーの扉が閉まり、夜の中に走りだした。彰はポケットに手を突っこむと、安酒場を探して歩きだした。
寝室の扉を開けて、部屋から出ようとした時、背中に視線を感じた。振り向くと、ベッドの中から奈美子がじっと彼を見ていた。カーテンを閉めた薄闇の中に光る二つの目が熱気を放っているようだった。昨夜、彼女は遅く帰宅したので、疲れているのだろうと思い、かわいそうになった。
「起こしちゃったかな。ごめん」
彰が声をかけると、奈美子は呟くようにいった。
「昨日、会社に智子さんが電話をくれたわ」
思いもかけないことに、彰はどきりとした。厭な予感がした。智子と食事をしたのはつい三日前のことだ。
「色々忠告してくれたのよ」
奈美子のがらがら声が、彼の不安感をいや増した。
「別れたほうがいいっていわれたわ。仕事仲間にまで手を出そうとする男なんて最低だって……」
智子の奴、ホテルに誘ったことを告げ口したのだ。
腹立たしくなったが、彰はさほどたじろぎはしなかった。これまでにも、彼の浮気が露呈したことはあったし、そのたびに奈美子はヒステリーを起こしたが、結局、元の鞘に収まってきた。
「冗談だよ、冗談」
「そうよ、あなたにとってはいつも冗談」
奈美子は微かに笑った。彰は、おや、と思った。いつもとは調子が違っていた。彼の浮気を詰《なじ》りも怒りもしない。
彼女は抑揚のない一本調子で続けた。
「あなたの冗談は、女に手を出す時の罠なのよね。冗談のふりしてたら、断られても傷つかないし。でもその奥には、ちゃんと下心が隠されてる。もちろん、そんなこと、わかってるわ」
こう冷静にいわれると、却って気持ちが悪い。奈美子は胸にまだ一物を抱えているようだった。智子は、佳世のことまでばらしたのではないだろうか。不安になって、彼は尋ねた。
「智子の奴、それだけいうために、わざわざ会社まで電話してきたのか」
安心したことに、奈美子は頷いた。
「お節介だと思ったけど、宮川さんがどんな男か忠告しておいたほうがいいと考えたからって。ほんとお節介よね、あの人。あんたがそんな男だってのは、いわれないでも、よくわかってるのにさ。なのに、あの電話のお陰で昨日は仕事がはかどらずに朝方までかかってしまったわ……」
奈美子はベッドの中で躰の位置を変えると、額に手をあてた。彰は次の言葉を待ったが、彼女は考えるように天井を見つめている。
「あいつ、生真面目だからさ。放っておけばいいさ」
なだめるように声をかけて、そろそろと寝室から出ようとした彰に、奈美子の声が飛びかかってきた。
「私たち、そろそろ結婚のこと、考えてもいいんじゃないの」
彰は一瞬言葉に詰まった。
「どういう風の吹きまわしだよ。俺と結婚したら不幸になるだけだっていってたのは、奈美子じゃないか」
「ああ、あれは冗談」
彼女はさらりといってのけて、にやりとした。しかしすぐに顔の表情を消して、熱を帯びた視線で彰を睨みつけた。
「あなた、私のこと、いったい何だと思っているの」
「何だって……」
共同生活者。恋人。言葉だけが頭を駆け巡る。しかし、どの回答も、今の奈美子の神経を逆撫でするだけだと思った。
彼は崖っぷちに立たされた気分で、廊下に一歩踏みだした。
「そのことは、また後で話そうよ」
臭いものに蓋をするように寝室の扉を閉めると、彼は洗面所に入った。幸い奈美子も、ベッドから起きだしてまで彼を詰問するつもりはないようだ。寝室のほうの動きに神経を尖らせながら手早く顔を洗い、トレーニングウェアに着替える。
便所に入ると、壁のポスターが目に入った。生理痛薬を持って、テーブルに座る女だ。
──あなたの一日を変える、魔法の一粒。
色褪せたポスターの文字が浮きあがっている。写真の中の女は、さあ呑みなさいというように、光沢を放つ楕円形の薬を載せた右手を前に差しだしている。指先でそれをつまみ、目に見えない薬をごくりと呑みこむと、彰は皮肉な笑みを漏らした。
これが本当に、ろくでもない様相を呈して始まった一日を変えてくれる魔法の薬なら、どんなにいいだろうか。
水洗の水を流しながら、もう一度三年前のポスターに目を戻した。自分たちの仲が終わったら、奈美子はこれを剥がして棄てるだろうと思った。写真も人間関係も似たようなものだ。画面が茶色に変わっていくように、人の関係も時と共に変わっていくのだ。
「ジョギングしてくるからな」
沈黙する寝室の扉に廊下から声をかけて外に出ると、やっと肩から力が抜けた。
彼は浮かぬ顔でマンションを後にし、佳世のアパートを目指して並木道を歩きだした。
まっすぐに前を見つめて、地下鉄の駅へと向かう会社員たちと擦れ違う。ただ、前に進むことだけを気にしている人間たちだ。ひとつのことを卒業して、また次の段階に入ることだけを追い求め、いつも急ぎ足で歩いている。奈美子もまた彼と一緒に卒業して、結婚という新しい学校に入学することを期待している。どうして人は同じ場所に居続けることができないのだろう。
坂道にさしかかると、彰はいつもの通り、陽のあたる側に渡って登っていった。朝の太陽の光に路上の小石まで長い影を引いている。歩道に沿って植えられた皐月は今や花盛りだ。運動靴の裏を押し返す地面がとても柔らかく感じられた。坂道が、彼を優しい手で包んでくれる。
奈美子のところには戻らずに、このまま佳世のところに転がりこんでやろうか。ふと、そんな気持ちになった。あっちの女の許から、こっちの女の許へ、サッカーボールのように、グラウンドを転がりまわって人生を過ごすのだ。選手が交替しても、ボールはいつまでもグラウンドにいられる。楽しいことにちがいない。
奈美子は好きだが、彼女が前に進みたいなら仕方ない。自分は別の相手を探すまでだ。これまでそうしていたように、これからも同じことを続けよう。そうやって、同じ場所に居続けるのだ。サッカーボールのように、グラウンドで転がり続けるのだ。
坂道を登りきって、路地を入る。古ぼけた住宅の中に混じって、佳世の白いアパートが可憐な姿を現した。彼は軽い足取りで外階段を上がっていくと、彼女の部屋の戸を叩いた。
彼女が玄関の鍵を開けている音がする。彰は戸口の横にへばりついた。扉が開いて、ネグリジェ姿の佳世が顔をだしたところに、わっ、と叫んで目の前に飛びだした。
大声をあげて戸口に縋《すが》りついた佳世を笑っていると、彼女はあきれて呟いた。
「もう、子供みたいなことして……」
彰は笑いながら、アパートの中に入った。背後で佳世が鍵をかける音がした。
部屋は少し乱雑になっていた。ベッドの上に、明るい色の洋服が二、三枚投げ置かれている。それでも窓辺のテーブルには、小型パンの籠が置かれ、横では紅茶ポットが白い陶器の肌を輝かせていた。彼は食卓につくと、二つのカップに紅茶を注いだ。そして、前に腰をおろした佳世に話しかけた。
「ここに来る途中にある坂道に皐月があるだろう。あれ、今、すごくきれいだよ」
佳世がパンをちぎりながら、そう、と答える。
「そうだ、今度、植物園に行こうか。調布の神代植物公園あたりどうだ。帰りに深大寺を見て、蕎麦を食べるんだ。たまには、そんな渋いデートもいいぜ」
「私、お見合いをするわ」
佳世が口を挟んだ。彰は不意を打たれて、まじまじと彼女を見つめた。
佳世は二つに割れたパンを握ったまま続けた。
「パパの会社の人でね。写真を見せてもらったけど、真面目で誠実そうな人」
そういってから、じっと彰の反応を探っている。彼が止めるのを待っているのだ。しかし、しかしここで、見合いなんかよせ、などといったら、自分がその責任を取らないといけなくなるのはわかりきっている。
と、佳世の顔が大きく弾けた。
「嘘よ。いってみただけ」
彰の内部の緊張が一気に解けていった。
「なんだ、いい話だと思ったのにさ」
佳世は唇の端を歪めて「あら、そう」と答えると、パンを皿の上に投げだして椅子から立ちあがった。
「でも、パパの別の話は引き受けたわ」
別の話とは何かと聞くと、就職だという返事だった。
「パパのお友達の会社に雇ってもらえそうなの。受付嬢の仕事よ」
佳世はベッドに置いた服を取りあげると、鏡の前で顔にあてながら冷たくいった。
「今日は、十時から面接があるの」
暗に、もう出ていってくれ、と告げていた。彰は紅茶を啜ると、パンには手をつけないままに腰をあげた。佳世はわざと彼を無視するように服を選んでいる。
彰は遊び仲間から弾きだされた気分で玄関に立った。靴を履いて、もう一度、部屋を振り向くと、鏡台の前に強張った佳世の背中があった。
「面接、うまくいくといいね」
返事はなかった。彰は玄関の戸を閉めて、外に出ていった。外階段を降りて路地に立ち、佳世の部屋の出窓を見上げた。
花柄のカーテンに縁取られた硝子の向こうは暗かった。
眠りの森のお姫さまも、ついに目覚めて、城から出ていくというわけか。
路地から出て、坂道を下りはじめる。ビルのひしめく中に、奈美子のマンションが頭を覗かせている。彼の足が止まった。
首を巡らせて、来た方向を振り返った。この道を戻れば、佳世のアパートがある。どちらの家も、今までのような居心地のよさはなくなってしまった。
彰は疲れを覚えて、皐月の植え込みに沿って続く白いガードレールに腰をおろした。
ポケットを探ると、くしゃくしゃになった煙草の箱が出てきた。一本、抜いて、ライターで火をつける。白い煙がよじれて、爽やかな五月の空気の中に消えていく。太陽の光が彼の肩に優しく舞いおりてくる。
なんと居心地がいいのだろう。この陽の射す場所で、ずっと座っていたい。
白っぽく照り返す舗道に落ちる影は、太陽が上がったせいか短くなっていた。まるで坂道が黒い影を呑みこんだみたいだ。そのぶんだけ、ここはまた明るくなっている。緋色の皐月の花から立ち昇る甘い香りに包まれていると、街の喧騒が遠のいていく。
彼は短くなった煙草を足許の植え込みの土に棄てた。それでもまだ動く気もせずに座り続けた。
目の前を通り過ぎる人たちは、誰もガードレールに座る彰に目もくれない。皆、忙しいのだ。まるで彼らが別の世界に存在しているように思えた。
実際、そうかもしれない。彰と彼らの住む世界は違うのだ。彼らが流れる世界に生きているとしたなら、彰は不動の世界に属していた。流れ、変化し続ける場所で生きていこうとしたことが間違いなのかもしれない。
向こうから、佳世がやってきた。ピンクのスーツを着て、長い髪をすっきりと後ろで三つ編みにしている。いかにも面接に行く恰好をしている。声をかけようとしたが、ずっと先を見つめているような緊張した表情に気がついて、上げかけた手を降ろした。佳世もすぐ横のガードレールに座る彼に目もくれずに、彼の前を過ぎていった。
無視されたのか、単に気がつかなかったのか、わからなかった。ただ、彼女が手の届かない遠くに行ってしまったことを感じた。ほんの少し前までは、同じテーブルで食事をするほど身近だった人間が、何かの弾みで遥か遠くに退いてしまう。
逆にいうと、その程度の薄い関わり合いしか築いていなかったということだ。
誰かと深く関わり合うなんて、そうそうできることではない。大騒ぎした挙げ句に別れた妻だって、すでに再婚して幸せそうにしているし、奈美子も彼と別れたら、また次の相手を見つけるだろう。佳世に至っては、すでに彼のことを頭から追いだしかけている。
たったっと足音がして、この前見かけた薄汚れた犬がやってきた。植え込みの間を抜けて彼の足許にやってくると、小便をはじめた。透明な尿が彼のズボンの裾にかかる。慌てて足を動かそうとして驚いた。
尿は彰の躰を突き抜けて、ガードレールにかかっていた。灰色の路上を見下ろすと、どこにも自分の影は落ちていなかった。
犬は小便を終えると、散歩の続きをはじめた。彰はその場に座ったまま、茫然と犬の後ろ姿を見送っていたが、やがて地面に置いた足に視線を移した。少し汚れた運動靴を履いた足が皐月の間に埋まっている。しかし、じっと見つめているうちに透き通っていき、やがて霧のように消えた。次に手を顔の前に掲げたが、そこには何も見えなかった。
俺は陽だまりに融けてしまったのだ。
そんな考えが浮かんで消えた。
太陽はさんさんと輝いている。躰がぽかぽかしてくる。彰はいつか微笑んでいた。まだ顔が存在しているかどうかわからなかったが、気にはならなかった。心も躰も軽くなって、ただ楽しさだけが残っていた。そして彼の微笑みは光と混ざりあい、静かな波のように坂道に広がっていった。
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月待ち
「人間って、惚《ぼ》けても性欲は忘れないのね」
カオルの言葉に、美弥は枝豆を剥いていた手を止めた。ショートカットから覗く左の耳にピアスをふたつつけ、すんなりした浅黒い肉体をタンクトップとショートパンツに包んだカオルは、その場にいる二人に向かって、意味深な笑みを投げつけた。
「どういうことかね」
謙一郎が口ひげの先にビールの泡をつけたまま聞き返した。彼の所有する賃貸マンションのテラスだった。埋め立て地にあって、夜になると、東京湾を縁取るビルの明かりが見晴らせる。謙一郎は、四坪ほどのテラスのついた最上階のペントハウスに住んでいる。カオルと美弥は、階下のワンルームの住人だった。
合いの手を待っていたカオルは、勢いよく喋りだした。
「私がお世話している患者さんなのよ。体はなんとか動くけど、すっかり惚けてて、家族の顔も、私の顔も区別なんかつかないのよ。ほら、坂本のお爺ちゃん、美弥も知ってるでしょ」
美弥は、カオルと同じ介護サービス会社に勤めている。二人はかつて同じ病院で働く看護婦仲間だった。美弥のほうが先に病院を辞めて、介護サービス会社で看護婦として働きはじめた。その後、カオルも美弥の会社に加わったのだ。先に入社したために、会社では、美弥はカオルの上司にあたる。坂本喜助の担当として、カオルを派遣したのは美弥だった。
「ああ、坂本さんね。脳性血管障害で痴呆症になった人」
美弥は、介護ヘルパー料金の見積もりに坂本家を訪れた時のことを思い出した。子供たちが家を出て、残った夫婦が共働きをしている家庭だ。喜助は他人の手を借りれば、体は動かせるが、痴呆症のために放っておくことはできない。昼間、喜助を見る者がいないので、介護ヘルパーを頼んだのだった。月曜日から金曜日までの日中の身のまわりの介護が主体だが、木曜日の午後の三時間に、看護婦による血圧測定や健康診断、そしてシャワー浴とマッサージ治療をスケジュールに組み込むことで話がついた。
「痴呆症ってのは、人生に対する期待をなくした時に始まるもんだ。こんな日本の状態じゃ、痴呆症老人が増えるのは、あたりまえだ。今にこの国は、日本痴呆列島になってしまうぞ」
謙一郎はもう五十歳を越しているはずなのに、その口から洩れる意見は、社会に対して攻撃的だ。賃貸マンションの所有者として、ふんぞり返って暮らしていてもおかしくはないのだが、美弥やカオルと話が合うのも、そんな彼の若々しい感性のおかげだった。
美弥は謙一郎と、阪神大震災の時のボランティア活動で知り合った。若い大学生や会社員が中心のボランティア員の中で、銀髪に近い長髪をふり乱し、ずんぐりした体をTシャツとジーンズで包んで、被災者の生活援助をしたり、炊き出しを手伝う謙一郎の姿は目立っていた。ボランティア活動中、謙一郎は、ただの物好きだよ、といって、何をしているのか告げなかったが、美弥は救援作業を通してよく話すようになり、最後にはすっかりなついてしまった。
謙一郎も美弥を気に入ったようで、東京に戻っても、時々、電話をくれたりしていた。そんな電話の会話の中で、病院勤めを辞めた美弥が、勤務先に近い家を探していると聞くと、謙一郎は、ちょうどその近くにあった自分のマンションに来るように誘ってくれたのだった。
同じマンションに住みはじめてから、美弥は謙一郎が一人暮らしなのを知った。家にはお手伝いさんが通ってきて、身の回りの世話をしている。金のある暇人というところで、日中よく出かけているが、何をしているのかは、いまひとつよくわからなかった。
この春から、カオルも勤め先を変えて、美弥と同じマンションに越してきた。以来、時々、週末の宵のひとときを、謙一郎の住むペントハウスのテラスで過ごすようになった。称して、月待ち会。
江戸時代には二十六夜待ちといって、深夜の月の出を待ちながら、庶民は食べたり呑んだりして時を過ごしたんだよ。街の明かりを眺めながら月の出を待つのも、おつなもんじゃないか、と謙一郎がいいだしたのだ。若い娘さん二人に囲まれるのも、両手に花ということで、いい老化防止になるしな、と謙一郎は付け加えたものだった。
美弥もカオルも、不思議と謙一郎には、中年親父めいた厭らしさを感じることはなかったから、むしろ喜んでその誘いに応じた。こうして月待ち会は、食べ物や飲み物を持ちよって、テラスに集まり、雑談に花を咲かせる気楽な会となった。
「で、坂本のお爺ちゃんと性欲と何か関係があるの」
カオルを坂本喜助の担当にした成り行き上、急に仕事意識が戻ってきて、美弥は生真面目な口調で尋ねた。カオルは、美弥に向かって、含みごとのあるような顔で頷いた。その兎に似た丸い瞳の底には、悪戯っ子めいた光が宿っていた。
病院に勤めていた頃から、カオルは問題児だった。仕事はきちんとするが、ピアスをしたり、手首に入れ墨をしたり、とんでもない超ミニのスカートで通勤してきたりして、同僚や医師たちの眉をひそめさせた。病院にやってくる若いインターン医師は、全員、カオルの色香の犠牲になっているという噂がまことしやかに囁かれていた。美弥は、そんなカオルをおもしろがって眺めていた数少ない同僚の一人だった。警察官の娘として厳格な家庭で育ち、人生に対する堅実さが染みついた美弥にとって、カオルは自分の内に巣くう密やかな希望を代わりに叶えてくれる存在でもあった。
美弥は、カオルのように自分の肢体に自信はない。中肉中背とはいえ、肩幅は広すぎ、足は太すぎるように感じていた。目鼻立ちも地味で、華やかなものはない。カオルのようにピアスをつける冒険心も、挑発的な衣類を着てみる勇気もない。同じ歳のカオルは、美弥にとって、この世に生まれることのなかった別の自分だった。病院の人間関係の小うるささを嘆いていたカオルに、自分の勤める介護派遣会社に移ってこないかと誘ったのも、むしろ美弥のほうからだった。
「坂本のお爺ちゃんを介護してるとね、やたら、私の手や足に触ってくるのよ。それも、介護される老人が縋ってくるみたいな触り方じゃないの」
カオルは、喜助の手の動きを再現して、自分のショートパンツから剥きだした太腿に手を滑らせた。マニキュアをした指がつつっと滑らかな浅黒い肌を動き、カオルは自分で自分の与えた快感に酔っているように、微笑んだ。
「そんな格好して介護してるんだったら、痴呆症の爺さんでも、気がしゃんとなるさ」
謙一郎がカオルの姿を眺めて、一人頷いた。美弥はぎょっとしていった。
「カオル、あなた、まさか、派遣会社の制服を着ないで行ってんじゃないでしょうね」
介護派遣会社には、胸のところに会社のマークのついた膝までのスモックの制服がある。介護ヘルパーは、私服の上にそれを着て、介護にあたることに決められていた。カオルは慌ててかぶりを振った。
「もちろん、そんなことしてないわよ。ちゃんと制服、着てますって」
それでも、会社での朝晩のミーティングに出てくるカオルの服装は、やけに体の線が浮き立つようなぴっちりしたジーンズやTシャツ姿が多かった。紐で留めることになっているスモックの後ろから、カオルのまるまるとした尻が覗くのは確かだった。美弥は、カオルに疑り深い視線を投げつけた。
「まあ、手や足を触るくらいだったら、爺さんに対するサービスの一環として、目をつぶってやってもいいじゃないか。どうせ高い介護料を取ってんだし」
謙一郎は椅子に背中を沈めて、にやにやした。風呂上がりのステテコ姿で、すっかりくつろいでいる。テラスに面したリビングの明かりが戸外にまで達し、アウトドア用の白いテーブルを囲む三人の姿を、弱々しく浮かびあがらせていた。
「介護サービスが暴利を貪っているみたいな言い方はしないでくださいよ」
美弥は謙一郎に釘を刺したが、謙一郎が応じる前にカオルがあっさりと返答していた。
「もちろん、触られるくらいなら、別にいいわよ。痴呆症のお爺ちゃんをセクハラだって追及するわけにはいかないしね。だけど、それだけじゃないのよ。問題は、シャワー浴の時なの……」
カオルは、噺家《はなしか》が間合いを取るように、言葉を止めた。美弥は厭な予感と、なんともいえない興奮を感じつつ、カオルを眺めた。
初夏の宵の涼風に乗って、下方から微かに車のクラクションやエンジンの音が聞こえてくる。東京湾に面した埋め立て地には、一面にビルの明かりが瞬いていた。粘つく墨色の海の中、暗闇に潜む猫の目にも似た航行ライトが輝いている。上弦の月がすでに空の高いところにかかっていたが、都市の明かりに弾きだされた苛められっ子のように、灰色の雲に半ば隠れていた。その仄かな月明かりの中に佇むカオルの影から、楽しげな声が流れてきた。
「私が坂本のお爺ちゃんを裸にして、体を洗いはじめるとね、あそこが大きくなってくるのよ。八十二歳とは思えないくらい、元気でぴんぴんしてるの」
美弥の脳裏に、しっかりと反りかえった男根が浮かんだ。美弥は恥ずかしくなって、片手で顔を覆った。美弥だって、すでに三十一歳だ。看護婦という職業柄、男の裸体は見慣れている。処女というわけでもないし、勃起した男根を目にしたことは何度もある。それでも、くたびれたぬいぐるみのように力なく座っている坂本喜助が、男根だけ屹立させている光景を想像し、生々しさと羞恥を覚えた。
カオルは、そんな美弥の心理を煽りたてるように熱意をこめて語りつづける。
「それがまた毎回なのよ。まるで、ボタンのスイッチを押したみたいにね、私が体に触りはじめたとたん、あそこがむくむく頭をもたげてくるの。もう、感動しちゃうくらいよ」
「ひょっとして、カオルちゃん、裸になって洗ってるんじゃないか」と、謙一郎が茶々を入れた。
「とんでもない。ちゃんと水着に着替えてますって」
「超ビキニの水着ってんじゃないか」
カオルは口を結んで、目玉だけ空に向けた。
介護サービス会社では、入浴やシャワー浴用に、専用のビニール製スモックの制服を作っている。それでも、患者の体を洗っているうちに衣類まで濡れてしまうことが多いから、スモックの下に水着を着て介護サービスに当たってもいいことになっていた。しかし、水着にまで着替える介護ヘルパーはほとんどいないし、着替えてもせいぜいがおとなしいワンピース型に決まっている、と美弥は思いこんでいた。しかしカオルの性格を考えると、美弥は不安になった。
「カオル、あなたまさか……」
カオルは、首を左右に振り子のように傾けた。
「私の持ってる水着っていったら、ビキニしかないもん」
「そりゃあ勃起もするだろうさ」
謙一郎は突きだした腹を揺すらせて、大きな声で笑った。先週、カオルは美弥と一緒に逗子の海岸に海水浴に行った時のことを思い出した。カオルは、紐に小さな布きれをつけただけのような挑発的な赤いビキニで肉体を晒《さら》して、男たちの視線を集めていた。あんなビキニの上にスモックをつけて、喜助の体を洗っているのだ。
「それで、当然、爺さんのあそこも丁寧に洗ってやるんだろ」
「仕事だもの」と、カオルは平然と答えた。
美弥は坂本家に下見に行った時、浴室も見ていた。広々とした浴室だった。窓辺にゆったりとした湯船があり、黄緑色のタイルが貼られた洗い場も広かった。子供のようにカオルに手を引かれて、裸の喜助が浴室の腰掛けに座る。その横にビキニ姿でかがみこんで、カオルは老人の裸体を洗っているのだ。カオルは、唖然としている美弥に気がついて、おもしろがるように続けた。
「起《た》ってるあれを持って、石鹸で丁寧に泡立てて、両手でこすってあげるの。そしたら、お爺ちゃんのあそこが、ますます薄紫色に変わってきて、反り返ってくるの。だんだん息が荒くなってきて、びくんびくんと震えてくるのよ」
大柄な骨に皺くちゃの皮膚をかぶせたような喜助の肉体。その力の抜けた体の中で、男根だけが屹立している。赤いビキニ姿のカオルがその男根を手で撫でている。その光景が頭に浮かんだとたん、美弥は思わず「カオルッ」と叫んでいた。
カオルは、顎をのけぞらせて笑いだした。
「やだ、美弥ったら、お堅いんだから」
謙一郎は瓶を傾けて、美弥のコップにビールを注いだ。
「もうちょっと呑みなさいよ。ほら、気を楽にして」
「介護の仕事は、おふざけじゃないのよ。痴呆症のお年寄りを玩具にして笑いとばして、恥ずかしくないの」
美弥はきっとして、カオルに言い返した。
「まあまあ、気を鎮めて。お客さんの下の世話までしてるなんて、立派なもんじゃないか」
自分のコップにもビールをつぎ足しつつ、したり顔でいう謙一郎の隣で、カオルも調子に乗っていいたてた。
「そうよ、坂本のお爺ちゃんだって喜んでるんだから。立派に介護サービスの一環になってるわよ」
「話せもしないのに、わかるもんですか」
「あら、わかるわよ。洗ってるうちに、お爺ちゃん、ああ、とか、うう、とか呻きはじめるんだもの」
「あんたには、モラルってのがないの」
美弥は抑えきれなくなって声を大きくした。カオルは、モラルという言葉がわからないという風に、怪訝な顔をした。
「不倫や少女売春がはびこっているこの世の中で、まだモラルなんていっているから、恋人も逃げてっちゃうんだよ、美弥ちゃん」
謙一郎の言葉に、美弥は顔を強ばらせた。男とつきあいはじめても、半年もしないうちに逃げられてしまうことの繰り返しだ。痛いところを突かれて、美弥はいきりたった。
「私のプライベートと、仕事とは関係ないでしょ」
美弥の剣幕に、謙一郎とカオルはばつの悪そうな視線を交わした。
「あっ、お月さまが出てきた」
カオルが素っ頓狂な声を上げた。上弦の月が雲の間から顔を覗かせて、テラスに淡い光を投げかけてきた。海の周囲に茫洋と広がる街が青白い月光に照らされている。
「私の知り合いでね、おもしろい子がいるんだよ。今は大検を受けるために頑張ってんだが、高校中退した理由ってのが、密航して、台湾まで行っちゃったからだっていうんだ」
謙一郎が話題を変えた。
「台湾に行って、なにしてたの」
カオルが話に乗ってきた。
「蛇を捕まえる訓練をしてたんだ。ほら、あっちは屋台なんかで蛇を食べたりするだろう」
謙一郎とカオルの遣り取りを聞きながら、美弥はむっつりとビールを喉に流しこんだ。
美弥は、カオルと坂本喜助の問題を放っておくことはできなかった。翌週月曜日、早速、ローテーションを調整して、坂本喜助の担当を他の看護婦に変更し、カオルは足を骨折して寝たきりとなった七十四歳の老女の健康診断に遣ることにした。それで、ようやく、人類の尊厳を護りおおせた気持ちになって、落ち着くことができた。
カオルから、美弥の携帯に電話がかかってきたのは、木曜日の朝のことだった。自分の車に乗って、担当の家に向かって走っているところだった。
「ひどいんじゃないの、美弥」
電話機を耳にあてると、カオルの甲高い声が響いてきた。
「坂本さんの担当から私を外したりして。なんか恨みでもあるっての」
歩きながら電話をかけているのだろう、受話器の向こうから、車の音や盲人用信号のポーンポーンという音が聞こえてくる。美弥はカオルのいきり立った顔を思い浮かべつつ、姉のような口調でなだめた。
「当然じゃない。お客さんのあそこを弄《もてあそ》ぶようなことは、道義上、許せないわ」
「なにが道義よ。あんた、私に嫉妬したんじゃないの」
思ってもいなかった、嫉妬という言葉に、美弥は面食らった。
「なぜ、私が嫉妬するのよ。頭、おかしいんじゃない」
「私が楽しんで、坂本のお爺ちゃんを介護してたからよ」
「あんたの楽しみは、私の楽しみとは違うのよ」
美弥は携帯の電源を切ると、助手席に投げだした。カオルとの遣り取りは、美弥に不快感を与えた。
看護婦が患者の性器を弄んでいることが、何かの弾みで家族に知られたりしたら、どうなるか、カオルは考えたこともないのだ。まったく、どうして、あんなとんちんかんな奴を、仕事仲間として誘ったのか。美弥は、カオルを同じ職場に引き入れたことを後悔しはじめていた。
カオルの所行をおもしろがっていられた間はよかったが、それが職業意識に抵触するところに来ると、笑ってはすまされなかった。自分の定める倫理観に外れることは、赦すことができない。
担当の家に着くまで、美弥のむかつきは消えなかった。木曜日の午前中の訪問先は、江東区の高層マンションだ。エレベーターを十四階で降り、「堺」という表札の下のチャイムを押そうとして、ドアが少し開いているのに気がついた。ドアの間にローヒールの靴が挟まっている。
ドアを少し引いて、「ごめんください」と声をかけると、奥からばたばたと堺由起子が現れた。髪を荒っぽく梳《と》かしつけて、ツーピースを着て、出かける支度をしている。
「ああ、秋山さん、待ってたわよ」
由起子は旅行代理店に勤めている四十代半ばの独身女性だ。由起子が支店長代理となり、仕事が波に乗ってきた時に、同居している母が寝たきりとなってしまった。介護保険の助けでなんとか平日は介護ヘルパーに頼って仕事を続けているが、傍目にも気の毒なほど、いつ会っても、ばたばたと時間に追われている。今朝も睡眠不足気味の腫れぼったい目をして、ジャグジーの泡のように言葉を噴きだした。
「ごめんなさい、お昼の支度、できなかったの。午後のヘルパーさんに、冷蔵庫の中の何でも、母に食べさせてといってください。それと、洗濯物、干しきってないけど、気にしないでください……」
「いいから、行ってらっしゃい」
美弥は由起子の背中を押した。由起子は、ふと我に返って苦笑した。そして、玄関のドアに挟まっていたローヒールの靴を引きぬいて、足にあてがいながらいった。
「やあね、毎日、毎日、慌てふためいて、人生、暮れてくなんて」
「まだ暮れてないじゃないですか」
美弥は励ました。由起子は、ハンドバッグを肩にかけて、美弥を見つめた。
「あなたくらいの年齢の時は、私だってそう思ってた。だけど、慌てる者はもらいが少ないっていうのは、ほんとうだと思うわ。仕事を追っかけて、どたばたしてるうちに、結局、手の中にはなんにも残ってないことに気がつくのよ」
靴を履き終えると、由起子はドアノブに手をかけた。
「あなたも気をつけてね」
ドアが閉まり、エレベーターに駆けていく由起子の足音が遠ざかっていった。
美弥は、医療道具の入った鞄を手にして、由起子の母の福美の寝室に行った。福美は蒲団に横になり、目を閉じていた。しかし、眠っているのではないようで、瞼はびくびくと動いていた。
「お婆ちゃん、こんにちは」
声をかけると、福美はうっすらと半眼を開いた。薄くなった頭髪を透かして地肌が覗いている。頬はこけ、色白の皮膚は弛んで、空気の抜けた白い風船が落ちているようだ。福美が寝たきりになったのは、老衰からというのが医師の診断だった。実際、全体的に弱っているが、どこか患っているということではない。娘が仕事に出ていった後、高層マンションの一室にこもって過ごす余生に嫌気がさしたのではないかと、美弥は漠然と感じていた。
「今日は具合はどうかしら。床ずれの様子を見ましょうね」
無表情の福美に声をかけながら、美弥は医療道具の入った鞄を畳の上に置き、洗面所に行って、ぬるま湯を洗面器に満たした。そして、物入れからタオルを出して、湯に浸して、寝室に戻った。
福美はとろんとした眼差しで、じっと美弥の行動を追っている。しかし、話しかけても返事が戻ってくることはないのはわかっていた。こうして喋ることを拒絶し、動くことを拒否し、死んでいこうとしているのだ。
「お婆ちゃん、ちょっと下をめくらせてもらいますよ」
美弥は、掛け蒲団を剥がして、福美の寝間着の前を開いた。白地に紺色の千鳥格子の柄の寝間着がはだけて、老人用紙おむつをつけた痩せた下半身が現れた。子供を産み、育て、ひとつの生を生きてきた女が、このような姿になってしまったことに、美弥は無惨さを覚える。しかし、その無惨さに心を集中させると、泣きたいような虚しいような気分になってくるので、いつも無感覚でいるように自分を慣らしていた。今も同様に、美弥は淡々とした職業的な手つきで、紙おむつを外してくるくると丸めて背後に置いた。
それから、タオルを絞って、臍の下から太腿の付け根、陰毛もまばらになった性器を拭きはじめた。太腿を開いて、優しくこすっていく。
いつかは自分もこうなっていくのだ。萎《しな》びた性器をくっつけて、人生が終わるのを傍観するのだ。美弥は、福美の弛んだ大陰唇の膨らみの内側にタオルを押しあてて思った。
ここに入る男根をえり好みし、入ってきた男根を放すまいと、すったもんだしても、結局は、男根は他の女の性器の中に滑りこむ。それでまた大騒ぎする。美弥に恋人ができても長続きしないのは、突き詰めればそのせいだった。その諸悪の根元が、この、しょせんは萎びたあけびのようになってしまう、太腿の間にくっついたものなのだ。
なんだか、あほらしい。
ふと、老女が微笑んでいるのに気がついた。自分の考えを見透かされたようで、美弥は、どきりとした。それから、まさか、そんなことはないと思い直した。ただ一人楽しい夢でも見ているのだろうと、タオルで大陰唇の内側を押した。福美がふっと息を吐いた。
人間って、惚けても性欲は忘れないのね。
先日のカオルの言葉が蘇った。
美弥は、一瞬、手を止め、それから、さらにそっと大陰唇を揺すってみた。福美の半ば閉じられた瞼が痙攣した。薄い胸がせわしく上下していた。
美弥は、死にゆく者を蘇生させようとするかのように、福美の大陰唇の中に指を差しいれて、陰核をくすぐってみた。福美は僅かに顎を突きだした。
あけびは萎びはしても、死んではいないのだ。まだ脈々と息づいているのだ。そう思ったとたん、自分のしていることが怖くなって、手を引いた。
夜気に秋の湿っぽさが漂っていた。月待ち会は、盆休みや旅行などで、三人それぞれの都合が合わずにしばらく引き延ばされ、やっと集まりが実現したときは、すでに九月も半ばを過ぎていた。
「八月もあっという間に過ぎてしまったな」
ワイングラスを鳴らして乾杯した後で、謙一郎が呟いた。白いテーブルには、謙一郎がヨーロッパ旅行から買ってきたという上等のワインが置かれていた。チーズと、烏賊《いか》の薫製、簡単なサラダとパンがおつまみだ。三人は、テーブルの上に立てた蝋燭の揺らめく明かりを囲んで座っていた。幸い風はなく、蝋燭はときおりふらりと揺れるだけで、灯火を保っている。せっかくの秋の月見だから雰囲気を出そうと、謙一郎がいいだして、屋内の明かりは消していた。朱色の光に、ぼんやりと照らされたテーブルの周囲は、闇にぽつんと浮かんだ円盤のような雰囲気をかもしだしていた。
「夏っていうのは、人の出入りが激しいものね」
美弥は、盆休みの帰省や、友達との韓国旅行などを思い返していた。
「そして、秋風と一緒に何もかも消えてしまうってわけよ」
カオルが珍しくしけた調子で、美弥の言葉の後に付け加えた。謙一郎が、カオルの膝を叩いた。
「男だろ」
カオルは謙一郎に舌を突きだした。
「決まってるじゃない。一夏の情熱よ。夏と一緒に消えちゃった」
夏の間にカオルに新しい恋人ができたことは、その言動の端々から、美弥は悟っていた。それまでつきあっていた男は話題にも上らなくなり、君ちゃん、とかいう会社員と海や山に行って楽しんでいた。
「今度はなにが原因なんだい」
謙一郎が聞いた。カオルはチーズのかけらを口に放りこんで、「わかんない」と答えた。
「会って、どっかに行って、セックスして。毎回、同じことの繰り返し。お互い、だんだんと、つまらなくなっちゃうのよ」
「それで新しい男を見つける。だけど、やっぱりつまらなくなる……」
謙一郎が後を引き取った。
「まあね」とカオルはふてくされたようにいった。
「結局、誰もカオルちゃんに、本気の情熱を捧げてくれないってわけだ」
カオルは恨めしそうな視線を謙一郎にぶつけたが、何もいわなかった。美弥は、それまで澱んでいた水が、突然、澄みわたり、水底まで見通せたような気持ちがした。なぜカオルが次から次へと男を替えるのか、いまひとつよくわからなかった。しかし、それだったのだ。カオルは、誰とも出会いはしなかったのだ。それは、つきあう数少ない男に、気がつくと逃げられている美弥と正反対に見えて、根は同じものだったのだ。カオルも美弥も、自分たちに対して本気で情熱を傾けてくれる男に出会ってはいなかったのだ。
「まだそんな人が現れてないだけよね。これから会う希望があるじゃない」
美弥は自分を励ます意味もこめて、カオルにいった。しかし、カオルは浮かない表情だった。
「なんだか、私、このまま男を漁《あさ》って、歳とっていくんじゃないかって、思っちゃうわ。だって、ろくな男いないんだもの。考えてみると、私に対して、一本気な情熱を傾けてくれたのは、坂本のお爺ちゃんくらいだったんじゃないかと思うわ」
「坂本さん」と、美弥は驚いて聞き返した。カオルはローテーションを変更されたとわかった時に癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させただけで、以来、文句をいうことはなかったので、坂本喜助の件は、すでに過去のこととみなしていた。
「あれほどの情熱を持って、私に律儀に、盛大に欲情してくれた男なんか、他にいなかったと思うわ」
「ほんとに惜しいことをしたもんだ。八十年、使いこんできたんだから、百戦錬磨の魔羅だ。まったく、もったいなかった」
マンションでの立ち話で、美弥がカオルのローテーションを変えたことを知っている謙一郎は、冗談めいた口調でいった。カオルは、百戦錬磨の魔羅という表現に、身を乗りだした。
「ほんとに、そうだったのよ。あの力いっぱいの張り具合といい、ずんずんと大きくなっていく時の精力といい、見事なものだったわ。あんなおちんちん、見たことなかった。それを美弥ったら……」
再びカオルが苦情をいいたてそうだったので、美弥は急いで遮った。
「そんなこといって、八十二歳の痴呆症のお爺ちゃん相手に、どうすることもできなかったでしょうに」
カオルは一瞬、怯み、腕組みをすると、勢いよくプラスティックの椅子にどんと背中をぶつけた。
「そうともいえないぞ」
謙一郎が言葉を挟んだ。
「カオルちゃん、いろんなことができたはずだぞ。その爺さんのおちんちんでな」
カオルが興味を覚えたように、謙一郎のほうに身を乗りだした。美弥は疑り深い表情で、謙一郎を睨んでいる。謙一郎は、カオルと美弥の顔を交互に見て、微笑んだ。
「例えば、爺さんをシャワーで洗ってやっている時だ。爺さんのおちんちんが、だんだんと頭をもたげてくる。水に濡れて、くっとそそり立っている。カオルちゃんはそれを見ると、ビキニのパンティを脱いでいくんだ」
ちらちらと揺らぐ蝋燭の朱色の光の中で、謙一郎は指輪のはまった指をそうっと動かして、パンティの縁をつまむふりをした。
「そして、反り返って、行き場を求めて喘いでいる爺さんのおちんちんの上に、カオルちゃんはゆっくりと腰を沈めていく……」
謙一郎は、両手を暗闇に掲げて、そこにいる女の尻をつかむような仕草をして、両手を下に落としていった。カオルは、魅入られたように、その手の動きを見つめている。美弥は、謙一郎の手の中に、カオルの裸体が象《かたど》られた気になった。浅黒い肌に覆われた砂丘のような腹、その下にある漆黒の陰毛。張りきった太腿。若々しい女の下半身が、天に向かってそそり立つ男根に向かって沈んでいく。
「カオルちゃんのおまんこは、おちんちんを呑みこんでいく。最初は、ほんの先っちょだけ。おちんちんの先が、とん、とおまんこの入口に触れて、カオルちゃんはくらりとする……」
謙一郎の手は静かに宙を滑り、膝に置かれた。しかし、さきほど謙一郎の手が造形した女体は、まだ秋の闇の中に浮かんでいる。女の腰がゆっくりと沈み、上に持ちあがり、また沈んでいく。その太腿の間に男根が埋まり、また外に出ていく。外に出てくるたびに、男根はますます太く、震えるほどに力が漲《みなぎ》ってくる。
「カオルちゃんは、さらに深く腰を沈めるんだ。半分くらい、おちんちんが呑みこまれると、おまんこからはとろとろとクリームが流れ落ちてくる。その透明な液体は、おちんちんを伝わって滴りおちていく」
謙一郎の低い声が、蝋燭の光にまとわりつくように続く。その声の流れる先には、街の灯に縁取られた黒々とした海がねっとりと輝いている。波うつ水面が、ゆるやかに蠕動《ぜんどう》する肉の襞のように震えている。さまざまなイメージが闇の中から迸《ほとばし》りでてきて、美弥は、やめて、といいたくなった。しかし、その言葉は舌に絡みついて出てこない。
「やがて、カオルちゃんのお尻が、おちんちんの根元まで沈む。おちんちんは、カオルちゃんの中にすっぽりと呑みこまれる。カオルちゃんは、爺さんに跨って、さらに尻を上下に揺らしはじめる」
謙一郎はまた両手を持ちあげて、虚空で上下に動かしはじめた。その掌の間に、女体が浮かびあがる。屹立する男根に跨る女。女の浅黒い背中には、びっしりと汗が滲んでいる。女は次第に激しく体を揺すりはじめる。黒髪がしない、汗がたらたらと背中に垂れていく。女体の下で見え隠れする男根は、女の液に濡れて、ねとねとしている。
「そうして、カオルちゃんは時を忘れる。おちんちんが中にあるのかどうかもわからない。ただ、とっても気持ちがよくて、頭がぼんやりとしてくる。そして、ぶるるるっ」
謙一郎が両手を震わせて、ぱたりと膝に落とした。暗闇の中の女が背筋を波打たせて、頭を垂れた。全身を微かに震わせ、闇の中に崩れていく。
「絶頂に達しただろうさ」
美弥もカオルも、しばし言葉を失っていた。
「私……そうするんだった……」
カオルは、謙一郎が手を動かしていた空間を眺めながら、ぼんやりと呟いた。カオルもまたそこに、自分の肉体を見ていたかのようだった。現実には起こりえなかった幻の肉体、幻の性交。カオルの口調には、悔しさがこめられていた。
「だろう、惜しいことしたな」
謙一郎は微笑んで、ワイングラスを手にした。
突然、あたりが青白い光で満たされた。
歪《いびつ》な満月が、東に連なる都市の建物群の上に頭を覗かせていた。雲ひとつない夜空いっぱいに、月光を放っている。蒼ざめた光は、茫洋と広がる東京のビルをくまなく照らしだした。
「十三夜かな」
謙一郎は月を仰ぐと、能面の翁のような屈託ない表情になって、赤ワインを飲んだ。夜にたゆたう海が、月光を受けて鈍色《にびいろ》に輝きはじめていた。
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熟れた休日
季節はずれの葦簀《よしず》の向こうに、海が光っていた。潮風にぼろぼろになった柱の張り紙の『かき氷各種アリマス』の文字は、日射しに晒されて薄れている。そこは海辺に面したうらぶれた食堂だった。砂の上に、安手のテーブルとパイプ椅子が置かれ、奥の調理場と食堂を隔てる木のカウンターがある。カウンターの前には、洗い晒した前掛けをつけた痩せた老女がいる。白髪頭を断髪にして、四角ばった顔に微笑みを浮かべていった。
「今にメバルが来ますよ」
メバルと聞いたとたん、あゆみの脳裏に、棘《とげ》いっぱいの背鰭のついた赤い魚が浮かんだ。あゆみは傍らの遼太に振り向いた。
「おいしそうね」
遼太は何もいわなかったが、同じことを考えているのがわかった。海辺では、こんな質素な店が、思いがけずおいしいものを出してくれることがある。二人は老女に、後で戻ってくるからといって、店を出た。
目の前に、穏やかな海が広がっていた。水面は真昼の太陽を反射して銀色に見える。店の老女の皺のように繊細な波が、砂浜に打ち寄せている。あゆみと遼太は灰色の砂に二筋の足跡をつけて、浜を歩きだした。
海辺には人気はなく、道路に続く陸地で何か工事をしているのか、働く人の姿があった。突然、遼太が砂を蹴りたてて走りだした。あゆみもその後を追いかけた。遼太は広い肩を左右に揺すって、ものすごい速さで走っていく。しかし、あゆみもまたその横を楽々と走っている。風が耳を切って通りすぎていく。気がつくと、あゆみは遼太の肩に乗っている。遼太は、あゆみを背負って、歓声をあげつつ、砂浜を疾走する。穏やかで眩しい海が二人を包みこんでいた。
休日というのが、ほんとうに休むだけの日となってしまったのはいつからだろう。あゆみは電車の窓を通りすぎる街の灯を眺めながら考えた。夕暮れのぼんやりした風景の中に、家々やビルの明かりが光の筋をなして流れていく。吊革につかまったあゆみの周囲には、彼女同様、疲労の色を浮かべた会社員たちが肩と肩をくっつき合わせて乗っている。月曜から金曜まで、太陽の出ている時は会社で体力と意欲を消耗させ、家に戻ると、翌日の精力を蓄えるために寝るだけで精一杯だ。それでも解消しきれない疲労の回復は、週末にしわ寄せがくる。妻であればさらに、掃除や、溜まった洗濯物の始末に費やされる。休日が楽しみのためにあった日々は遠ざかってしまった。
紺色の混じった窓の外の闇に、電車の中のあゆみの顔が映っている。ショートカットに少しこけた頬。二十代には丸々としていた顔はいつか肉が落ち、肌の艶は失われてきている。緑色のスーツに包まれた肉体は、中年太りは免れてはいても、どこか締まりなく思えるのは、鏡に映る張りの失われてきた乳房や尻の形を知っているからだ。
四十四歳か。あゆみは心の中で呟いた。心はまだ二十代や三十代の時とさほど変わっているようには思えないのに、四十を越えてから、他人の目で自分を見ることが多くなってしまった。他人の目とは、更年期に近くなった「おばさん」だ。まだ若いと信じているあゆみと、もう人生の終わりかけた「おばさん」だと諦観している他人が、自分の中に同居する。それが、とてもおさまりが悪い。
休日が疲労回復のためだけの日になってしまったのは「おばさん」の主張なのだ。あゆみ自身は、そんなことしたくないのに、いつか、「おばさん」の主張が通るようになってしまった。やっぱり「おばさん」は押しが強い。そんなことを思って、あゆみは苦笑した。
電車がスピードを落としはじめた。人々がドアのほうに動きだした。あゆみも網棚からデパートの紙袋を降ろすと、体の方向を変えて、降りる意志を周囲に示す。誰もが無言のうちに行動する。疲労のあまり口を利く元気もないかのようだ。
どこかに行きたいな。あゆみは唐突に、強く、思った。どこに行きたいかはわからなかった。ここではない、どこか。
電車が停まった。プシーッと音がして、ドアが開く。プラットホームに押しだされていく人の流れとともに、あゆみも出口へと向かう。ドアのすぐ脇の椅子に、若い娘が腰かけていた。膝にバッグを載せて、口を少し開き、顔を仰向けにして目を閉じている。誰かのキスを待っているみたいだ。黄色いぴったりとしたポロシャツから大きな乳房が弾頭のように突きだしている。あゆみのすぐ前の男がじろじろとそれを見ていた。青白い頬に、細い目の光る二十代半ばの男。男は電車からの降り際、ついと手を伸ばして、娘の乳房を握りしめた。娘が飛びおきて、悲鳴を上げた。男はホームに降りて、人込みの中に駆けこんでいった。
「痴漢よ、痴漢」と悔しげに呟く娘の横を、あゆみは後ろの人に押されて電車から降りていった。発車のベルが鳴っている。待ちかまえていた人々が、電車の乗降口に詰めかける。改札口に向かう人々の群れ。走りだす電車。帰宅時の混雑の中に、痴漢騒ぎは霧散していく。
あゆみは改札口を通って、ネオンの輝く駅前商店街に入っていった。痴漢に遭った娘に対する同情は湧かなかった。あれだけ乳房を露骨に見せつけていたのだから当然だ。心のどこかで、あの娘は、男に乳房をわしづかみにされることを望んでいたのだ。
若い時の性欲は、腹を空かせた狼に似ている。獲物を探してぎらぎらしていて、いざ獲物が手の内に入ると、貪欲に貪るだけで、味わうことを忘れている。四十四歳になったあゆみには、そんな若者の性欲が子供の鬼ごっこみたいに見える。
それともこれは「おばさん」になったからだろうか。性の渇望を覚えなくなって、負け犬の遠吠えのようなことを考えているのだろうか。考えを巡らせるうちに、少し自信を失った。閉めかけていた八百屋で大根と小松菜を買い、あゆみは急ぎ足で家に向かった。
あゆみの住むマンションは、駅から歩いて七、八分のところにある。八階建ての六階にある3LDKだ。玄関のチャイムを押すと、「はあい」と娘の逸美の声がした。「私よ」と返事すると、すぐにチェーンの外れる音がして、十七歳になる娘のにきびのぽつぽつと噴きだした顔が現れた。家の中からは騒がしいテレビの音が聞こえている。
「もう少しボリューム下げたらどう」といいながら、あゆみは家に入った。逸美はふくれっ面になった。
「私じゃないよ、孝彦くん」
あゆみはちょっと驚いた。
「珍しいわね。孝彦くん、もう帰ってるの」
「デート、すっぽかされたんだって」
あゆみと逸美は笑いを含んだ視線を交わした。
孝彦は大学生で、目下、恋人募集中だ。気のいい陽気な若者だが、どうも女の子に縁がない。何事も冗談ぽくしてしまうので、真剣味が伝わらないらしく、友達でいましょう、といわれてばかりいる。
あゆみは廊下を歩いて、居間続きの台所に入っていった。孝彦はテレビの前のソファに座って、缶ビールを呑んでいた。
「ただいま」と声をかけると、顔だけあゆみのほうに向けて、「また、ふられちゃったよ」とぼやいた。
「聞いたわ、デート、すっぽかされたんですって」
「一時間、待ったんだよ。携帯は留守電になってるし、ひどい女だよ」
「だったらデートの約束なんかしなけりゃいいのにね」
あゆみはデパートの紙袋から、秋刀魚の包みを取りだしていった。御飯は、逸美が気を利かせて炊いてくれている。夕食にはこれを焼いて、小松菜を炒めるだけでいい。そんなことを頭の中で考えつつ、デパートで買ってきた他の食品を冷蔵庫にしまっていく。
「孝彦くん、私の友達、紹介したげようか」
逸美が孝彦の隣に座っていった。
「へん、ガキは願いさげだ」
「あら、この前、えっちゃんを見て、可愛い子だっていってたの、誰だったっけ」
「黙れっ」
孝彦が逸美の頭をこつんと叩いている。あゆみは微笑みながら寝室に入り、仕事用のスーツを脱ぎはじめた。
孝彦は、すでに社会人となって一人暮らしをしている和彦とともに、夫の遼太の連れ子だ。逸美は、あゆみの連れ子である。あゆみと遼太が再婚したのは、二年前のことだった。最初は、それぞれの連れ子たちとうまくやっていけるか気を揉んだものだったが、さまざまな小さな諍《いさか》いを経て、今はけっこう落ち着いている。
あゆみは現在の状態に満足している。休日が、ただ疲れを取るだけに費やされるようになってしまったとはいえ、それがどうだというのだろう。
着心地のいいワンピースを着ると、あゆみは台所に入っていった。テレビのボリュームは下げられていた。孝彦と逸美はソファに並んで、お笑い番組を眺めている。あゆみは秋刀魚を四尾ガスレンジの中に入れた。小松菜を洗っていると、電話が鳴った。
「俺、出る」と孝彦がソファから飛びあがって、居間と台所を挟むカウンターに置かれた電話に走った。
「もしもし」とせっつくように返事している。デートにふられた相手をまだ待っているのだ。しかし、あてが外れたらしく、つまらなそうに受話器をあゆみに差しだした。
「親父からだよ」
あゆみは濡れた手をタオルで拭いて、受話器を取った。
「あゆみか、俺だ」
遼太の背後から、ざわざわとした話し声が洩れてくる。店の中のようだ。
「悪いけど、夕食には間に合いそうもないや。打ち合わせが長引いて、編集者と一緒に飯食うことになったんだ」
遼太はフリーのカメラマンだ。よくあることだった。「わかったわ」と、あゆみは秋刀魚を四尾入れたばかりのガスレンジに、ちらりと恨みがましい視線を送った。
「そう遅くならないうちに帰るよ」
脇から、「安西くん、聞いてよ。菅ちゃんたら、なんていったと思う」という、女性のはしゃいだ声が聞こえた。「いっちゃ駄目だって、先輩」と若い女性が抗弁している。受話器を通して、その場の華やいだ雰囲気が伝わってきた。
「それじゃな」と遼太はそそくさと携帯電話を切った。受話器を置いて、あゆみは居間を眺めた。おとなしくテレビを見ている二人の子供。壁にかかった遼太の写真。引かれたカーテン。ラックの横に積まれた雑誌や新聞。遼太がずいぶんと遠いところにいる感じがした。
女性の編集者たちに囲まれて、楽しい時を過ごしている遼太。遼太の仕事先は、女性向けファッション雑誌がほとんどだ。一緒に仕事する相手は、流行のファッションに身を包んだ女性たち。「おばさん」ではない、華やいだ女たち。あゆみは、内臓が下に引っ張られるような不快感を覚えた。
その時、また電話が鳴った。遼太が何か言い忘れたのだろうか。あゆみは胸の高鳴りを覚えつつ、受話器を取った。
「もしもし」と、すっかり相手が遼太の気分で返事をすると、「遼太さん、いますか」という女の声がした。遼太さん、という馴れ馴れしい言い方に、あゆみの心臓がどくんと打った。
「まだ戻ってませんが」と答えたとたん、電話はぷつんと切れた。無言の厭がらせのメッセージのようにツーツーツーという音が受話器から流れてきた。
プリンターがぺろりと白い舌を出して、紙を吐きだした。あゆみは紙を取りあげて、印刷の具合を確かめた。
『原始への回帰の旅・オーストラリア、タスマニア十日間・企画書』という見出しが、くっきりと出ている。旅程、食事回数、最少催行人員、ツアー価格表など、必要な事項に漏れはないか確かめて、あゆみは事務所の中を見回して、社長の酒井の姿を探した。
南新宿の雑居ビルの三階にある事務所の中では、五人のスタッフが電話にかかりっきりになっている。どの机にも旅行パンフレットや、企画書や資料のファイルが山積みとなっている。酒井もまた片手でメモを取りつつ、電話中だった。太った体を辛子色のスーツに包み、琥珀《こはく》のネックレスをしている。いつもと変わらず、その顔の表情は精力的だ。
あゆみの勤める旅行会社『サウス・ツアー』は、おもに南半球各地の格安ツアーを企画して、そこそこの人気を誇っている。旅行会社といっても、航空券やホテル、現地ガイドやツアー・コーディネーターの手配などが中心で、実際に旅に出ていくことはまずない。デスクの上で旅を企画して売りつけたり、団体の依頼に応じてツアーを組んだりするのが仕事だ。
若いスタッフのほとんどは、旅行好きからこの会社に入ったが、あゆみはかつて酒井と同じ大手旅行代理店で働いていたことから、その手配能力を買われ、酒井の独立と同時に誘われて転職した。新会社でのあゆみの地位は、酒井に次ぐ重役だ。それでも、夫との離婚がなかったら、安定した大手旅行会社を退職することはなかっただろう。
あゆみの前夫は、会社の同僚だった。前夫が部下の女性とつきあいだして、最終的に離婚となった。離婚後、元夫と、その恋人と同じ会社にいるのは、傷口をいつも塩で洗われているような気分だった。そんな事情を察して、五年前、酒井が声をかけてきたのだった。
あなたね、いつまでも腐った古巣に腰を据えている必要はないわよ。場所を変えて、心機一転、再出発してみない。酒井は、背中をどやしつけんばかりにして、あゆみにいったものだった。仕事一筋で独身を通し、五十歳を前に独立しようとしている酒井の言葉は、あゆみの鬱屈に踏ん切りをつけてくれた。
実際、転職は、運命の分かれ目となった。新会社で旅行パンフレット作成のために、遼太の手持ちの写真を借用することになったのがきっかけで、再婚に繋がった。
酒井に企画書を見せるのは後にしようと、プリントした紙をファイルに挟んでいると、「神代さん、後山さんがいらっしゃいましたよ」という声がした。
会社の入口近くにいる須藤が、電話の口を手で押さえて、あゆみに目顔で合図していた。そのデスクの横に、後山の姿があった。浅黒い顔に痩せた体をジーンズで包んで、片手を上げている。
「ああ、待ってたわ」
あゆみは片隅の黒い応接セットを示しながらいった。机の間を通り抜け、二人はそこで会った。後山はフリーのツアー・コンダクターだ。昨日、帰国したニュージーランド・ツアーの結果報告に来たのだった。
「どうでした、今回は」
あゆみは人工皮革のソファに腰を下ろしながら聞いた。後山は資料類を入れたファイルを座卓に置き、あゆみと同時にどさりと威勢良い音をたてて座った。
「教師の団体なんて、厄介なもんですね。みんなが先生なんだもの。誰もが指揮を執りたがって、収拾がつかない。アンケートには添乗員の悪口いっぱい載ってるでしょうが、それが主な理由です」
後山はあっけらかんといって、ソファに背を沈めた。二十代後半の後山はオーストラリアに留学していただけあって英語が堪能で、気楽な性格だ。誰にでも好かれる長所を持っている。口煩そうな教師団体の視察ツアーでも、なんとかやってくれると期待していたのだが、そうでもなかったようだ。
「教師団体の満足するツアー・コンダクターというのは存在しないのかもね」
あゆみは自分に言い聞かせるように答えた。
「ほんとにそうですよ。特に中年の女教師ときたら、若い男はみんな生徒に見えるらしい。後山くん、扱いで、シングルルームを頼んだのに、ツインとはどういうことですか、とか、部屋のお湯が出ないのは、ホテルとして失格ではないですか、なんて、詰問口調で迫ってくるんですから」
後山が、眼鏡をかけた女性が睨みつける仕草をしたので、あゆみは苦笑した。それから彼をなだめるように、「この前、あなたが提案してくれたタスマニアの旅の企画書を書いたところよ」と話題を変えた。
「企画が通ったら、ぜひ僕をそのツアーのコンダクターに指名してくださいよ」
後山は日焼けした顔に、目を輝かせた。
「タスマニアには、タスマニアン・デビルって、黒くて丸々した動物がいるんですよ。悪魔といわれるのが気の毒なくらい可愛い奴なんだ」
熱っぽく語りだした後山を、あゆみは眩しい気分で見つめた。自分があと二十歳若かったら、後山を好きになっていたかもしれないと思う。もしかしたら、視察ツアーの中年の女教師たちも、実はこの青年に惹かれたからこそ、ことさら重箱の隅を突っつくようなことをいったのかもしれない。
「タスマニアだけだと弱いから、オーストラリア内陸部の旅をくっつけて、アボリジニーの故郷とタスマニアを訪ねて原始への回帰ってことにしたのよ」
後山はますます興奮した表情になって、身を乗りだしてきた。
「それ、いいですね。アボリジニーの文化って、いいですよ。彼らの伝承にドリーム・タイムって言葉があるの、知ってますか。この世のことは、みんな夢で、ほんとうのことは夢の中で起きているってことなんですけどね。なかなか意味深長な考え方だと思いませんか」
あゆみは首を傾げた。
「さあ……私は夢なんて見ないから」
後山は、スタートのやり直しを命じられた百メートル走者みたいな顔をした。
「だって、家に帰ったらバタンキューで寝てしまって、それでおしまいだもの」
「僕はいっぱい見ますよ」
後山は躍起になっていった。
「後山くんも、結婚したら、そんなこといってられなくなるから。妻子を養うために、仕事に邁進《まいしん》しなくちゃなんなくなるわよ」
「だから結婚しないんですよ。家と仕事場の往復で歳を取っていくなんてぞっとしますよ」
あゆみはぎくりとした。それはまさに、あゆみが怖れつつも、どっぷり中に浸っている生活だった。しかし後山は自分の言動が、あゆみにどんな影響を与えたか気がつきもせずに続けた。
「僕は先々タスマニアに移住して、牧場を持つのが夢なんですよ。カンガルーやタスマニアン・デビルやウォンバットに囲まれて暮らすんです。そしたらドリーム・タイムと、現実が一致する。アボリジニーは、ドリーム・タイムって言葉を通して、人生はそうあるべきだといいたかったんじゃないかな」
「まあ、牧場を買うにはお金が必要だわね」
後山は痛いところを突かれて、口を噤《つぐ》んだ。あゆみは後山の甘い夢を叩き潰したことへの小気味よさと同時に、意地悪く反応した自分に嫌悪感を覚えた。
「無駄話はやめて、今度のツアーの報告を聞きましょう」
あゆみは仕事の話に入っていくことで、自分の中に芽生えた不快感を置き去りにした。
満員電車に揺られてくたくたになって帰宅すると、マンションの郵便受けに遼太宛の絵葉書が来ていた。ココナッツ椰子が青い海の前に傾くように茂っている写真がついている。あゆみは、ダイレクトメールや電気代の請求書などと一緒に葉書を手にして、エレベーターに乗った。ドアが閉まり、ゴオオッという音をたてて、エレベーターが動きはじめると、手持ち無沙汰のまま、絵葉書に目を落とした。
「写真、送ってくださって、ありがとうございました。今回はフィジーに来ています。ここはバリとはちがって、ジメジメしてなくて、いいですよ。またお会いしたいですね」
差出人の名前は、樋口麻菜。住所は、川崎市だった。遼太は、三か月ほど前に海外出張でバリ島に行った。きっとその時に知り合って、写真でも撮ってやったのだろう。
家のチャイムを鳴らしても、返事はなかった。手持ちの鍵でドアを開いて中に入ると、まだ誰も帰っていなかった。今日は金曜日で、逸美はピアノの稽古のある日だったことを思い出した。
あゆみは台所と居間の間にあるカウンターに郵便物の束を置いた。また絵葉書のココナッツ椰子と海の写真が目に入った。
男は四十を過ぎてもまだまだ若い娘を惹きつけることができる。だけど四十を過ぎた女が、若い男に恋愛感情を抱かれることはまずない。不公平だ、という言葉が、頭の中にぽかんと浮かび、瞬く間に無数の爪を持った怪物となって心の壁をひっかいた。ルルルルル。ひっかき傷が叫び、電話が鳴った。あゆみは傷口から噴きだした血を止めようとするかのように、急いで受話器に手を伸ばした。
「遼太さん、いますか」
女の声だ。あゆみにはすぐ、それが昨夜の電話の女だとわかった。
「まだ戻ってません」というや、電話はぷつんと切れた。ツーツーツーという音を聞きたくなくて、あゆみは乱暴に受話器を置いた。しばし不愉快な気分に見舞われていたが、気を取りなおして服を着替え、夕食の支度に取りかかった。週末だけに、孝彦は友達と遅くまで遊んでくるだろう。遼太は早く帰るといっていたが、あてにはならない。今夜は家族全員ばらばらに帰宅しそうなので、いつでも温められるように八宝菜を作るつもりだった。冷蔵庫から取りだした野菜を切っているところに、玄関のチャイムが鳴った。出ていくと、遼太だった。カメラバッグを肩に下げ、三脚を手にして、体を斜めにしてドアから入ってきた。
「道が混んでてまいったよ。事務所に寄るのも面倒でそのまま帰ってきた」
遼太はいかにも疲れたようにいった。
「さっき、あなたに女の人から電話があったわよ。遼太さん、いますか、って。いないというと、そのまま切っちゃった。昨日もこれくらいの時間にやっぱり電話があったのよ」
靴を脱いでいる遼太に、あゆみは電話から受けた不快感をぶつけた。遼太はカメラバッグと三脚を手にしたまま、「いよいよ俺にもストーカーがついたか」と受け流し、居間のほうに歩いていった。あゆみは一瞬面くらい、遼太にストーカーという組み合わせに噴きだした。
遼太は寸胴《ずんどう》の大男だ。無造作に掻き立てた髪の毛に、血色のいい丸顔。目の大きな、愛嬌のある顔をしている。そういえば、今日、後山が帰ってから資料で見つけたタスマニアン・デビルに似ている。ストーカーの陰湿なイメージとはぴったりこない。
あゆみは遼太に続いて、居間に入っていった。遼太はカウンターに置かれた絵葉書を手に取って眺めていた。
「バリ島で会った娘なの」と、あゆみは背後から聞いた。
「ああ、女の子二人連れでさ。雑誌の写真のモデルになってもらったんだ。会社の休みで来たとかいってたけど、今度はフィジーかい。まったく真面目に働いてんのかどうか」
遼太は忌々《いまいま》しそうに絵葉書を置いた。その仕草に、あゆみの心のつかえが消えた。気持ちが軽くなったとたん、絵葉書を寄越した娘と遼太の間に何かあったのではないかと疑っていた自分を意識した。
土曜日の朝は、たいてい十時まで寝ている。あゆみにとっては至福の時間だ。遼太や子供たちが勝手に朝食を作って食べる物音や、昨日、事務所に帰りそびれたので、ちょっと行ってくる、という遼太の声を遠くで聞きつつ、あゆみはベッドの中でまどろんだ。
目覚めると、家の中はしいんとしていた。あゆみはパジャマのまま、台所に入っていった。流しの洗い桶には、皿やコーヒーカップが浸かっている。コーヒーメーカーは空になっていたので、新しく自分のためにコーヒーを作り直した。
居間のソファの横に、新聞が乱雑に重ねられている。秋めいた陽射しの降り注ぐ窓辺の絨毯の上に座り、カシャカシャと音をたてて、新聞をめくる。淹《い》れたばかりのコーヒーの香りが、ふんわりと漂っている。
土曜日の朝から、次の土曜日の朝までの一週間は、まるで一年のように長く感じられる。仕事一色の月曜日から金曜日までは、土曜日の朝のくつろぎのためだけにある。休むという至福のためだけにある。
あゆみは熱いコーヒーを啜り、休むためだけの休日というのも、いいではないかと思った。
『海外旅行ブームはイタリアから韓国へ』という新聞記事を読んでいると、電話が鳴った。あゆみはコーヒーカップを手にしたまま、立ち上がった。買物目当ての旅行客は、『サウス・ツアー』には来ないな、と考えながら、受話器を取って、「安西です」と、遼太の姓で応じた。
「遼太さんはいますか」
また、あの女の声がした。あゆみはコーヒーカップをぎゅっと握りしめた。
「出かけてますが、どちらさまでしょうか」
今度は、相手はすぐに電話を切りはしなかった。一呼吸置いて、返事があった。
「あゆみさんですね。私、遼太さんの元の家内の多美子です」
突然、部屋に射し込む柔らかな光も、コーヒーの香りも、温かな居間の空気も、遠ざかっていった。
多美子は四年前、遼太と子供たちを置いて、別の男の許に走ったと聞いていた。以来、捺印した離婚届が届いたまま、音信不通となっているということだった。遼太とつきあいはじめた時から、多美子はすでにいなかった。家を出る少し前に撮ったという写真を、ちらりと見たことがあるだけだ。おかっぱ頭にして、お嬢さん然として、ころころ笑っている女だった。四十を過ぎたばかりのはずだが、三十代初めといっても通りそうな若々しさだった。遼太は、多美子はすでに自分の人生から消えてしまったといっていた。だからあゆみにとって、多美子は死んだも同然の女だ。死んだはずの女が、電話の向こうにいるのだった。
「夫は出かけていますが、いったい何のご用でしょうか」
あゆみは意識して「夫」という言葉を使い、切り口上でいった。
「遼太さんと会って、話がしたいんです」
多美子の声は鉱物的で硬かった。
「だったら、直接夫にいってください」
「だって、いつ電話してもいないじゃないですか。逃げているんじゃありませんか」
「ほんとうに、今、留守なんです」
だったら、いつ居るのだ、と聞かれたら、どう答えようと考えつつ、あゆみはいった。遼太が確実に捕まる時間を教えたくはなかった。しかし多美子は、「それなら、あゆみさんとお会いしたい」といいだした。
「私に会って、どうするんです」
あゆみは意外に思って聞き返した。
「お話ししたいことがあるんです。私、すぐ近くまで来ています。出てきてくださいませんか」
もちろん、面識もない多美子と会う必要はなかった。しかし、多美子の押しつけがましい口調が癪に障った。土曜日の朝の静かな一時を邪魔されたことに対する怒りもあった。ここ最近の遼太を取り巻く女たちに対する嫉妬が、多美子という対象を得て、むらむらと立ち上がってきた。
「わかりました」
あゆみは答えていた。二十分後に駅前の静かな喫茶店で会う約束をして電話を切ってから、すぐに遼太の携帯にかけた。遼太は、事務所に着いたところだった。
「多美子さんからの電話があったのよ」
電話の向こうで、遼太は「多美子だって」と叫んで、沈黙した。
「あなたと連絡がつかないから、私と会いたいといってきたわ」
「会うことはない」
遼太は低い、怒りを含んだ声でいった。遼太の不機嫌な声の裏に、何か隠しているとあゆみは勘ぐった。ますます多美子に会って、何の用なのか聞かないではいられない気分になってきた。
「もう約束しちゃった。これから駅前の『サロ』で会うの」
「やめろよ」というのを、「事務所から戻って家にいなかったら、店に来て」と答えて、あゆみは電話を切った。
半分残ったアイスコーヒーのグラスを前に、喫茶店の椅子に座っている女は、写真で見た多美子と同じ女には見えなかった。公園でぼんやりとベンチに座っている老女のように、内部の張りを失い、萎びていた。
黒い丸首のニットシャツの上に、ざっくりとした灰色のカーディガンを着て、白髪の目立つ髪を断髪にしている。写真に写っていた、ふくよかだった頬はこけ、顎の四角ばった線が浮きたっていた。
「お話って、なんですか」
席について紅茶を注文すると、あゆみはすぐに切りだした。多美子は両手を膝の上で絡みあわせて、買い求めた品に瑕《きず》はないか調べるように、じろじろとあゆみを見つめた。
あゆみは、よく似合うといわれる緑色のニットのワンピースを着てきたことに感謝した。髪もきちんと梳《と》かして、薄く口紅もつけてきた。
多美子は、あゆみの目を見つめていった。
「夫を返してください」
あゆみは心底、驚いた。
「返してって……遼太さんとあなたは離婚したんでしょう」
「あれは間違いでした」
多美子は動じることなく答えた。
「わかったんです。私にとって夫と呼べる人は遼太さんしかいません」
「それって、ずいぶん勝手じゃないですか。あなたは、遼太さんも子供さんも棄てて、家を出ていったと聞きましたけど。何を今さら……」
ウェイトレスがあゆみの前に紅茶を置いた。あゆみは言葉を切って、気持ちを落ちつけようとした。その隙に、多美子の言葉が押しいってきた。
「私と遼太は大学の時に知り合ってから、二十二年間、一緒に暮らしました。子供も二人います。二人で築きあげてきた長い歴史があるんです。私の人生にとってかけがえのないものだったと、ようやく気がついたんです」
多美子が、遼太、と呼び捨てにすることに、あゆみは痛みを覚えた。それこそ学生時代からの長い歴史を物語っていた。
「だけど、遼太さんの気持ち次第でしょう。私にいわれても、困ります」
あゆみはふと弱気になっていた。考えてみれば、自分と前の夫もまた十二年間一緒に暮らした。二人の歴史には、取り戻したいと思うほどの執着はない。多美子が今になって、夫と復縁したいといいだすのには、それだけの愛情に満ちた生活があったのではないか。そう考えると、嫉妬が頭をもたげてくるのを感じた。
「遼太は、あなたがいるから、答えを避けているんです」
答えを避けている、という言い方に、あゆみの心は大きく揺すぶられた。
「どういうことですか。あなたは、すでに遼太さんにこのことを持ちかけたんですか」
多美子は頷いた。
「すでに再婚したんだ、今さらいわれても困るといわれました」
遼太は密かに多美子と会っていたのだ。携帯電話で、「会うな」と激しくいった遼太の声の意味を理解した。
あゆみは紅茶にミルクを注いだ。ピッチャーをうまく傾けることができずに、受け皿にぽたぽたと白い滴がこぼれた。
その時、多美子の瞳があゆみの頭上に向けられ、ぱっと輝いた。あゆみは振り返った。そこに遼太が立っていた。着古した黄色のジャンパーにジーンズを穿いて、走ってきたみたいに、息を切らせている。いつもの余裕はなく、怒ったような形相をしている。
タスマニアン・デビルが、本物の悪魔になった。多美子と会っていたことがばれたので、慌てているのだ。あゆみは意地悪く思った。隣の椅子にどかりと腰を下ろした遼太が口を開くより先に、あゆみはいった。
「多美子さんは、あなたとよりを戻したいそうよ」
どうにでもなれ、という気分だった。自分に隠れて多美子に会って、復縁を考えていたなら、それでもいい。そんな卑怯な男はこっちから願い下げだ。あゆみの心に暗く激しい炎が燃えたっていた。
遼太は、あゆみから多美子に視線を移した。
「いっただろう。僕にその気はない」
多美子は訝《いぶか》しげな顔をした。
「だって、あなた……私のことが気にかかっていたといったじゃない。力になってくれるといったじゃない……」
「そりゃあ僕たちは長い間、夫婦だった。途方に暮れているのを見て、棄てておくことはできないじゃないか。だけど僕たちは終わったんだ。わかっているだろう」
「わからないわ」
多美子は憎々しげに呟いた。
「私たちの二十二年間は何だったの。そんなに簡単に終わってしまうものなの」
「終わらせたのは、きみのほうだ」
「あなたがそうさせたのよ。出張で外にばかりいて、私は放っておかれた。家の中で、二人の子供の面倒を見ているだけ。私は寂しかったのよ。振り向いてくれる人があれば、誰でもよかったのよ」
多美子の言葉に、あゆみは打たれた。
もし、自分が多美子だったら、どうしただろう。学生時代から、同じ年月を重ねてきたとしたら。歳を経ても恋愛の場に留まりつづける男を横目に、女は引退していくしかない。十年、二十年、女として歳を重ねていくことを実感しつつ、夫はいつまでも若い女性に囲まれているのを見たら、自分は多美子と同じことをしたかもしれない。最近のあゆみ自身、遼太が若い女と恋に落ちるかもしれないと密かに怖れていたのではなかったか。元の夫が、年若い部下に心を移したと知った時に感じた焦燥と哀しみが蘇ってきた。多美子は、遼太がするかもしれないと怖れたことを、先に実行したのだ。
「私に近づいてきた男は、つまらない人だったわ。一緒に暮らしはじめて、わかったのよ。私だって本気じゃなかったんだって。私には、やっぱり、あなたが一番大切な人だったのよ」
店の中にいることも忘れて、声を大きくして喋りつづける多美子の前で、遼太はジャンパーのポケットから、手帖と携帯電話を取りだした。アドレスをめくり、そこに出ている電話番号を押す。すぐに相手が出たようだ。
「城崎さんですか」と遼太がいったとたん、多美子の声が止まった。
「安西です。多美子さんが、今、こちらに来ているんですが。……わかりました。送っていきましょう」
遼太は携帯の電源を切って、手帖と一緒にポケットに戻した。そして、あゆみに勘定を払うように頼んだ。
あゆみがレジで代金を払っている間に、遼太が多美子を連れて、出口で待っていた。喫茶店の外に出ると、多美子は遼太に安堵したような笑みを送った。
「送っていってくれるのね、遼太」
「ああ、あゆみも一緒だ」
遼太はぶっきらぼうに答えて、あゆみに「いいだろう」と聞いた。あゆみは、多美子と一刻も早く別れたかったが、遼太と二人きりにしておくのも不安で承知した。
遼太は事務所から直接喫茶店にやってきたらしく、車を店のすぐそばに止めていた。多美子を後部座席に座らせると、遼太は四輪駆動を発車させた。車が走りだしたとたん、多美子は後ろの座席から、遼太に向かって喋りだした。
二人で過ごした練馬の借家のこと。貧乏カメラマン時代、どんなに金に苦労したか。和彦が生まれて、三人で神社にお宮参りに行ったこと。多美子は二十二年間の夫婦の歴史を語りつづけることで、遼太を取り戻そうとしているかのようだった。
しかし、車が高速道路に乗って、新宿方面に向かって走りだすと、多美子の熱弁は次第に途絶えていき、やがて啜り泣きへと変化していった。
「後悔しているのよ、遼太。気の迷いだったのよ。魔が差したのよ。やり直すことはできないの、ねえ、遼太」
多美子には、もうあゆみは存在しなかった。車の中には、運転席で自分に背を向ける元の夫しかいなかった。
あゆみはバックミラーに映る多美子の歪んだ顔に目を走らせた。四角ばった線の浮きでた顎に白髪の目立つ頭。苦い気持ちが、あゆみの心に広がってきた。
多美子のいう通りだ。二十二年間が、多美子の一時の気まぐれで、そんなに簡単に解消されるなら、自分と遼太が築きはじめた結婚生活もまた簡単に崩れていくものではないだろうか。その脆《もろ》さは、あゆみだって前の夫と経験している。再婚前、あゆみと遼太は幾度となく、今度こそは確かな関係を築きあげたいと話しあった。それでお互い一致していた。しかし、多美子を前にすると、あの時の会話すら薄っぺらなものに思えてくる。
車は高速を降りて、中野のごちゃごちゃした町並みの中に入っていった。木造住宅の並ぶ細い道を、四輪駆動は迷うことなく走っていく。遼太は、この道をよく知っているようだ。送り先は、多美子の実家なのだろうと思った。やがて車は、「城崎」という表札のかかった家の前に止まった。灰色のコンクリート塀の上に植木がもっさりと突きだしている。車の音を聞きつけて、昭和初期に建てられたらしい和洋折衷の古ぼけた家の中から、一人の男が出てきた。眼鏡をかけて、灰色の髪の毛を七三にきちんと分け、眉毛のふさふさした初老の男だ。
「すみませんねぇ」と頭を下げて、後部座席のドアを開いて、多美子になだめるように声をかけた。
「何もいわずに出ていったから、心配していたんだよ」
多美子は涙で腫れぼったくなった顔を隠すようにして、車から降りた。遼太が運転席から出ていくと、城崎と門に入ったところでぼそぼそと話をした。城崎がまた頭を下げ、多美子を連れて家の中に入っていった。
遼太は再び車に乗りこんできて、あゆみにいった。
「彼が多美子の再婚相手だ」
あゆみは、えっ、と声を上げた。遼太は、車のエンジンをかけて、発車させた。
「多美子の通っていたカルチャーセンターの文学かなんかの講師だったんだ。教養があって包容力のある人だって、家を出た時はすっかり熱を上げていたもんだ。城崎さんが息子たちを引き取るといっても、二人で水入らずで暮らしたいからといって、断るくらいにね」
あゆみはしばし言葉を失っていた。では多美子は再婚相手と暮らしつつ、遼太との復縁を願っているというのだろうか。
「一か月前、多美子から電話があった。困っているんで、話したいというんで会ったんだ。城崎さんと別れて、元の鞘におさまりたいということだった。城崎さんも、そうしたいなら、そうすればいいといっているという。僕はあきれて放っておいたんだ」
「城崎さんとうまくいってないのね」
あゆみはようやくいった。
「うまくいってる、とか、いってない、とかは関係ないんだ。多美子にとっては、どんな男でも不満なんだと思う。僕と結婚していた頃、自分の人生はこんなんじゃない、とこぼしていた。二十二年間、ずっとそう思いつづけて、ついに僕を棄てて家を出た時、これこそが自分の人生だと信じたんだろう。だけど、やっぱり違っていた。でも、もう別の男と始める気力も若さもない。そこで、やっぱり、前の男との暮らしこそ自分の人生だと思い出した。多美子は何を得ても、満足できないんだよ」
「あなたは……多美子さんとの生活に満足していたの」
あゆみは恐る恐る聞いた。遼太は大通りに出て、まっすぐ前を見つつしばらく黙っていた。
「満足していた……というより、不満もひっくるめて、満足していると捉えていた。たぶん多美子のいう通り、僕は彼女をほったらかしにしていたのかもしれない。だけど僕は、男女関係って、果物みたいに成熟していくものだと思っていた。未熟な果物をもいで、まずいなんていうのはおかしいよ。だけど多美子は、まずいといって投げ棄てて、また青い果物をもいで、やっぱりまずいと文句をいっている」
信号が赤になり、車の流れが止まった。中野駅の前だった。太陽は頭上高くに輝いている。明るい日射しが、中野サンプラザの白いビルと紅葉しかけた植え込みの木々に降りそそいでいる。
突然、遼太があゆみの顔を見た。
「これからどこかに行かないか」
あゆみは車についたデジタル時計に目を遣った。もう十二時近くだった。
「そうね、どこかのレストランでお昼でも食べましょうか」
「違うって、どこか、だよ。海でも山でも、景色のいいところに行って、宿を見つけて泊まろう。土曜日だろ」
「これから」と、あゆみは驚いて聞き返した。
「これからだ。子供たちは自分で飯くらい作って食べるさ」
遼太は陽気な声でいった。あゆみは、お気に入りの緑のニットのワンピースを着て、ちょっぴり化粧をした自分を意識した。着替えも何も持たずに、このまま遼太の車で、どこかに行く。海でも、山でも、景色のいいところに。
「いいわね」
あゆみも浮き浮きした気分で答えた。
「それじゃ、出発」
信号が青になると同時に、遼太は車のアクセルを踏みこんだ。
ガラス窓の向こうに海が光っていた。朝日が波頭にぶつかり、銀色を放っている。あゆみは裸のまま窓を開いて、微かな潮風に身を晒した。浜辺を見下ろす崖の上にある旅館の一室だ。あゆみと遼太は房総半島に来ていた。窓から少し身を乗りだすと、下方に砂浜が見える。穏やかな波が老女の皺のように幾重にもなって打ち寄せている。
「あゆみ」と、背後で声がした。寝ているとばかり思っていた遼太が蒲団を持ちあげて、中に入るように誘っている。あゆみは窓を開け放したままにして、再び温かな蒲団に潜りこんだ。遼太の体に身を寄せると、男根が屹立しているのに気がついた。あゆみは男根を撫ではじめた。男根は掌にぴたりと吸いつくように湿っている。叩いたり、さすったりしていると、ますます血の色を帯びてきた。あゆみは遼太に太腿を絡みつけた。全身が熱くなってきている。遼太の男根の感触に、あゆみもまた興奮してきていた。
遼太が、あゆみの脇腹を撫でさする。首許に唇を這《は》わせる。遼太の男根は静かな波のように、あゆみの中に入ってくる。
知り合ってから、幾度となく体を重ねあわせてきた。交わるごとに、その味わいはより深く、より濃密になっていく。こうして、私たちの関係は熟《う》れていくのだ。成熟した果実にしかない味を醸しだしていくのだ。その味わいは、遼太と交わりを重ねるごとに大きくなっていくだろう。
二人はお互いの肉体を、粘土のようにくっつける。遼太の太腿とあゆみの太腿が絡みあい、唇が重なりあい、ふたつの乳房が遼太の分厚い胸にひしゃげていく。あゆみの全身は快感の波にもまれている。
微かに波の音が響いている。それは、あゆみと遼太の肉体が波と化して、ぶつかり合う音。ふたつの波が交わり、ひとつになって、さらに大きな波へと変わっていく。無数の波が、柔らかな陽射しを浴びて、きらきらと輝いている。
あゆみと遼太は共に、波の打ち寄せる浜辺を走っていた。時も消え、空間も消え、ただ秋の穏やかな海の輝きだけが広がっている。それは、あゆみがまだ見たこともなく、それでいて、どこかで見た光景。過去にも現在にもない時の中を、あゆみと遼太はひとつになって疾走しつづけている。
初 出
「夢の封印」オール讀物 平成十三年六月号
「陽炎」オール讀物 平成十二年八月号
「蓬莱ホテル」オール讀物 平成十四年二月号
「夜の魚」オール讀物 平成十年二月号
「陽だまり」別册文藝春秋 二百十四号(平成八年新春号)
「月待ち」オール讀物 平成十三年四月号
「熟れた休日」オール讀物 平成十三年十月号
単行本 平成十四年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年五月十日刊