坂東眞砂子
13のエロチカ
Contents
I 世界の真ん中
U ル・スーティエン・ゴルジュ・ブル
V ホップ・ステップ
W コルトレーンと魔法の綿菓子
V 放っておいて、握りしめて
Y ヴェネツィア発、ニース行
Z 青いリボンの下に
[ 煙草
\ 五分間
] ピンクガールの冒険
]T暗く、長い長い道
]Uかたつむり
]V私、イタリアヘ行くの
1 世界の真ん中
サチが、そのことを知ったのは、ポウがいなくなった晩だった。
ポウは、昨年の暮れ、母の妹の家から貰われてきた雌猫だ。両掌に乗るくらい小さい頃からかわいがってきた。餌をやるのも、外への出入りの戸を開けてやるのも、サチがほとんど世話してきた。
ポウはサチの添い寝の友となった。夜になると、二階にある自分の部屋にポウを抱いていき、ベッドに入る。枕の底から湧いてくる階下のテレビの音や両親の話し声を聴きながら、ポウの頭を腕に載せ、草や土埃《つちぼこり》の匂いのする猫の脇腹を撫でていると、満ち足りた気分で眠りに落ちることができた。
だけど、春も終わりかけたその晩、風呂に入ってパジャマに着替え、二階の寝室に行こうとして、ポウがいないのに気がついた。台所の隅にある猫用のボウルには、出汁を取った後の魚の煮干しが盛られたままだ。いつもなら外に出かけていても、夕御飯時にはきっと現れるのに、今日はまだ戻ってないのだ。流しで食器を洗っていた母に、ポウを見なかったかと尋ねたが、かぶりを振っただけだった。
サチは小学校の教壇くらいしかない狭い家の庭に出て、「ポウ、ポウ、ポウ」と、梟《ふくろう》のように鳴いた。黄金色の山吹の咲くブロック塀の向こうで、「はぁい」と甲高い声がした。臍《へそ》の後ろをくすぐられたように、サチはびくっと背筋を伸ばした。一瞬の間の後、二、三人の男の笑い声が湧きあがり、足音と共に遠ざかっていった。
からかわれたと知って、サチの心に憤りが湧いた。憤りは悔し涙に変わり、目頭が熱くなった。サチは瞬きして、顎《あご》を反らせた。山吹のほんのりとした甘い匂いが、サチの顎を撫でた。空の一方は、遠くの駅前商店街の建物が投げかける赤や紫、黒ずんだ朱色の光に染まっている。だが、もう一方は山側の暗い闇に沈んでいた。
サチの住む町は、昔は田畑ばかりだったという。しかし十年ほどの前から、田畑の間に建売り住宅やアパート、大型マンションが割り込んでくるようになった。サチの両親がこの小さな建売り一戸建て住宅を買ったのは、その先駆けの時代だった。だからサチにとっては、ここは生まれた場所だ。
「ポウ、ポウ、ポウ」
サチはもう一度、猫の名を呼んだが、また通行人にからかわれるのが厭《いや》で、小さな声になっていた。
つい五歩も進めばぶつかってしまうところに、居間のガラス戸がある。灰色がかった薄手のカーテン越しに、ちらちらしているテレビの青白い画面、その前に座る父、片づけものをしているらしく、父の周囲を蜜蜂のように動きまわる母の影が見えた。サチがいないところで、父も母も平然といつもの暮らしを続けていた。ポウを呼ぶ声が、ふと引っこんだ。いいようのない不安に襲われたのだ。
それはデパートで迷子になって泣きだしてしまったような、先生の質問にとんちんかんな答えをしてしまい、嘲笑《ちようしよう》の中に立たされた時のような、仲よしのミツコが他の女の子と楽しげに話しているのを見たような気分。いってみれば、巨大な皿の端っこから、世界というご馳走《ちそう》を眺めている感覚だった。
サチは庭の横の玄関から、家に走りこんだ。
「さっちゃんたら、うちの中は運動場じゃないのよ」
母の叱責《しつせき》が飛んだ。サチは居間の敷居に立つと、重大事なのだと説明するために口を尖《とが》らせた。
「ポウがいない」
居間では風呂上がりの父がソファの上であぐらをかいて、ニュース番組を見ていた。ソファの前のガラスのテーブルには缶ビールとコップがひとつ置かれている。テーブルの横に座って新聞をたたんでいた母は、「そのうち帰ってくるわよ」とこともなげに答えた。
「車に轢《ひ》かれたのかもしれない。誰かに捕まって、檻《おり》に入れられたのかもしれない。怪我して動けないのかもしれない」
サチは頭に浮かんでくる不吉な予感を矢継ぎ早に繰りだした。言葉にすると、すべてがほんとうに起こったかのように、胸がざわざわしてきた。
「大丈夫よ。明日になったら戻ってくるって。それよりさっさと寝なさい」
母がサチの言葉を遮り、テーブルの上のビールのコップを取って一口|啜《すす》った。それでもサチは、今にもポウが帰ってくるのではないかと、ガラス戸のほうに目を遣《や》った。ポウは家に戻ると、戸に体をぶつけて合図するのが習慣だった。しかし、戸の向こうにも、庭にも、猫の姿はない。
テレビでは、ニュース番組が飛行機事故の現場を映している。画面に目を注ぎながら、父がぼそりといった。
「ポウもさかりがついたんだな」
「さかりって、なに」
サチは聞き返した。母がたたんだ新聞をぽんと音をたてて二つ折りにした。
「子供はもう寝なさい」
「さかりって、なに」
サチは繰り返した。母が咎《とが》めるような視線を父に送った。父はそれを無視して、ビールのコップをつかんで一気に飲んだ。
「さかりってのはな」と、父はビールのコップをガラスのテーブルに置いた。
「雌猫がこんなふうに鳴くことだ」
父は白い泡のついた唇を丸く開いて、ニャーオゥゥゥ、ニャーアオゥゥゥ、と大きな声をだした。赤紫色の舌が唇の間で波のようにうねり、居間の青白い空間を舐《な》めた。
「嘘っ」
サチは叫んだ。
「ポウはそんな鳴き方しない」
「するともさ」
父はまた、ニャアオオオゥ、ニャアオオオオゥと鳴いた。母が、やめてよ、と笑いながら父のむちりと張った太股を揺すった。
サチは父にからかわれたのかどうか判断に迷いながら、居間を出ていった。
二階に上がり、部屋の電気を消してベッドに入った。いつも一緒のポウがいないと、脇腹にぽっかりと穴が空いたようだ。
熊の模様の黄緑色のカーテンに、外の街灯が滲《にじ》んでいる。サチは、父が真似たようなポウの鳴き声が聞こえないかと耳を澄ましたが、窓を通して洩《も》れてくるのは遠くを走る列車の音だけだ。
サチはポウの代わりに枕を抱きしめた。うつぶせになって枕に頬ずりしながら、猫の名を呟いた。枕を強く抱きしめて、腰をベッドに押しつけているうちに、太腿の付け根に刻まれた亀裂《きれつ》の奥、おしっこの出るところあたりから、ミルクが沸きたつ時の小さな泡にも似た興奮が湧きあがってきた。気持ちいいので、サチは太腿を強くこすりあわせてみた。興奮は大きくなり、腰から脚のほうに伝わっていく。傷の痛みのような、ずきんずきんした感覚が下半身に広がっていく。ただ傷と違うのは、広がっていくものは痛みではなく、快感と興奮の入り交じったものだった。サチは、おしっこを我慢する時のように下腹に力を入れてみた。きゅんと下腹全体にいい気持ちが広がったと思うと、太腿の奥でなにかが弾け、霧散した。
サチは小さな息を吐いて、ベッドに仰向《あおむ》けになった。まるで電気がショートした後のようだった。ぱちっと音がして火花が飛び、きれいさっぱり切れてしまった感じ。今やもう快感は体のどこにも残ってなかった。
なにがどうなったのかはわからない。ただ、とても気持ちがよかったのは確かだった。それが、こんな簡単なことで手に入るのだ。
そのことを、サチはこの夜、初めて知ったのだった。
翌朝、サチは母の声で起こされた。「さっちゃん、いい加減に起きなさい。学校に遅刻するでしょ」という声と一緒に、味噌汁と煮物の匂いが階段を昇ってきた。朝の匂いを嗅ぎながら、いつもの習慣で、サチは頭をもたげてベッドの裾にポウを探した。寝る時はサチと一緒に蒲団に入るポウだが、朝になると足許にかたつむりのように丸まっているのが常だった。しかし、ベッドの裾はくしゃくしゃに乱れているだけで、猫の姿はない。それでポウは昨夜から帰らないのだということを思い出した。とはいえサチの記憶はそこ止まりだった。ポウのいない夜、太腿の奥で発見した感覚は、頭の中からすっぽりと抜けおちていた。
サチは階段を降りていくと、台所に顔を出した。両親はすでに食卓について、朝飯を食べていた。サチは目でポウの姿を追ったが、台所のどこにも猫はいなかった。
母がサチに、早く御飯を食べるように催促した。サチは、はぁい、と返事をして、トイレに向かった。トイレに入り、パンツを下ろして便器に座ると、鍵が閉まっているのを確かめる。それでようやく太腿の間からちょろちょろとおしっこが流れだした。
鍵が閉まってないと落ち着かないのは、まだサチが小学校に上がる前の経験に起因していた。その頃、サチはおしっこがすむと、尻を振って尿の滴を飛ばしていた。とても爽快《そうかい》だった。外で遊んでいても、尿意をきたすと、茂みに入って用を足した。男の子の立ち小便と同じ、気楽なものだった。ある日、いつものように中腰になってサチが尻を振っていると、トイレの戸の間からこちらを覗いている母の視線とぶつかった。
さっちゃん、おしっこの後は、きちんと紙で拭くのよ。
母は注意した。
その時、サチは魂をぴしゃりと打たれたような衝撃を受けた。いったいなにがそれほどの衝撃だったかはわからなかった。ただ、おしっこの出るところに、「いけないことをした」感覚が強く残った。おしっこの出るところ、つまり、太腿の間にある亀裂の奥は濡れていてはいけないのだということが、意識の底に刻みつけられた。
それからトイレの戸がきちんと閉まっていることと、おしっこの後に太腿の奥を紙で拭くことが、サチの習慣になった。
サチは濡れた太腿の間の亀裂をトイレツトペーパーで拭いた。昨夜起きたことが意識の奥でぴくりと動いたが、それを捕まえる前に濡れた紙を便器に落としてしまい、トイレの水と一緒に流れてしまった。
トイレから出て、顔を洗い、母の声に追いたてられて、ひじきの煮付けとハムとキャベツの炒め物、それに白飯で食事をしていると、勝手口のほうでかたっと音がした。サチは箸を置くと、流しの横の戸に走り寄った。勝手口を開くと、そこにポウがいた。灰色の縞《しま》の毛は朝露に濡れて、毛先が涙のように光っていた。
サチはポウを抱きあげた。頬ずりしようとすると、もがいて逃れて床に降りた。そして自分の餌場に行って、昨夜の残りをがつがつと食べはじめた。
「心配していたのに……」
サチは恨みったらしく呟いた。
「猫なんて、女と同じさ」
父が横目でポウを見ながらいった。
「どういうこと」
母が錐《きり》を押しつけるような声で聞き返した。父は、会社に遅れる、とわざとらしく話を変えて席を立った。
「いいたいことはわかっているのよ」
母がせかせかと父の後を追った。喧嘩しているようでいて、仲がよさそうな両親の話し声が寝室のほうから聞こえてきた。母は会社に出る父の身支度の手伝いをしているのだとはわかっているが、サチには二人が自分の目から逃れてなにか特別なことをしている気がした。サチは箸を止めて、テレビの画面を眺めた。太った魚屋のおばさんが、ニュース番組のアナウンサーに答えていた。大きく笑うおばさんの口の中に、サチは吸いこまれていきそうになった。
「行ってくるよ」
父の声が玄関から聞こえて、戸の閉まる音がした。同時に母は台所に飛びこんでくると、掃除機のような勢いで食卓の上の食器を片づけはじめた。
「ほら、さっちゃん、いつまで食べているのよ。学校に遅れるわよ」
やはり仕事に出なくてはならない母に急《せ》きたてられ、サチは箸を動かしはじめた。
サチがそのことを思い出したのは、その晩、ポウを連れてベッドに入った時だった。ポウは夕食時に戻っていたが、また出ていこうとしたのを捕まえて、不満顔な猫を無理矢理ベッドに連れてきたのだった。猫を押さえつけるのが精一杯で、部屋の電気を消す暇もなかった。
そこまでしてベッドに入り、「ポウ、ポウ」と囁《ささや》きながら、いつものように猫の頭を腕に載せて脇腹を撫でてやったのに、ポウはもがいて出ていってしまった。寝室の戸の隙間《すきま》をすり抜け、階段を降りていく猫の小さな足音を聞きながら、サチはしかめっ面した。
電気を消しに起きあがる気分にもなれずに、横になっていた。階下では、父と母のぼそぼそという話し声が流れてくる。サチはまた世界の縁に立っている不安感を覚えた。
ポウがいれば、こんな気分にならないですんだ。
「ポウ、ポウ、ポウ」
サチは、まだポウがそこにいるふりをして、くの字になって枕を抱きしめた。そのまま太腿を硬く閉じ、おしっこの出るところあたりに力を入れて、腰をベッドに押しつけた。太腿の間の亀裂の奥からじんとしたものが広がってきた。昨夜と同じだとぼんやり考えながら、サチは太腿を突っぱらせたり、力を抜いたりした。腰の全体にざわざわと気持ちのいい波が広がってきた時、「さっちゃん」と階段の下から母の声がした。サチの動きがぴたりと止まった。
「まだ起きてるの、さっちゃん。来週の両親懇談会のお知らせを見たけどね……」
母が階段を上がってきて、電気のつけっぱなしになっている寝室に顔を覗かせた。
サチは身じろぎもせずにベッドに横になっていた。体にかけた薄手の掛け布団もぴくとも動かないように、息を潜めた。
「いやだ、寝てるの」
母は部屋の電気を消した。とんとんとん、と母が階段を降りていく音が遠ざかっていった。
暗闇の中でサチの脚が動きだした。太腿をこすりあわせ、腰を前後に動かした。太腿の間にある亀裂の奥から、ぞくぞくする感覚がこみあげてくるのを味わいはじめた。
そのことは、サチの夜の就寝儀式となった。
ベッドに入って横向きになり、うつぶせ気味にして、おしっこの出るところあたりに力をこめる。亀裂の奥で、電気がぱちっと火花を発し、跡形もなく消えてしまうまで、太腿をこすり合わせたり、腰を少し動かしたりした。もうポウがいても、いなくても同じことだった。ほんの二、三分の短い時間だったが、サチはその儀式をすまさないと眠れないようになった。
タカシのことが脳裏を過《よ》ぎったのは、そのことを知って、十日ほど経た時だった。タカシは、サチと同い年の幼なじみで、隣の家に住んでいた。二人は通りを隔てたところにある空地でよく一緒に遊んだ。ある日、空地の草の上で、サチがままごと遊びをはじめた。タカシが夫でサチが妻の役だった。サチが欠けた茶碗に土の飯を盛って、タカシに出すと、タカシはそれを放りだした。こんなまずいものは喰えない、とタカシはいった。そして、なんてことするのよっ、といい返すんだよ、とサチに囁いた。それでサチも、タカシが夫婦喧嘩遊びをしていることに気がついて、いわれた通りに叫んだ。
せっかく作ったのに、ひどいわ。なんだ、いっつも同じ飯しか出さないじゃないか。ひどいわ、ひどいわ。うるさいっ、きゃんきゃん、犬みたいにわめくな。
サチよりも、タカシの語彙《ごい》が豊富だった。サチは悔しくなって、タカシの胸を両手で突いた。するとタカシはサチに飛びかかり、草の上に押し倒した。
サチは手足をばたばたと暴れさせながら、なにすんのよ、放してよぅ、と笑いながらわめいた。だまれっ、子供が起きるじゃないか。そういいながら、タカシは、サチの手足を押さえつける。サチは、それを押し返そうとする。しかし、もつれあっているうちに、タカシの体を突きはなしたいのか、しがみつきたいのかわからなくなってきた。するとタカシが、サチのパンツをずりおろした。サチは、ひゃあっ、と叫び声をあげた。タカシは半ズボンの隙間からおちんちんを出して、サチの股の間に入れた。ウインナソーセージのようなおちんちんが太腿の間の亀裂をこすった。腰と腰がぶつかり、サチとタカシはとっくみあいを続けた。そして次の瞬間には、二人は草の上でぐったりと力を抜いていた。
パパとママは喧嘩した後、こうするんだぞ。タカシは、サチの手を取って起こしていった。サチはパンツを上げて、ふぅん、と生返事した。サチの両親が喧嘩をした後はたいてい不機嫌に黙りこむだけだったから、それがほんとうかはわからなかった。
それでも、サチもタカシもこの夫婦喧嘩ごっこが気に入り、その後も何度か遊んだ。いつもサチがパンツをずり下げ、タカシがおちんちんを出し、草の上でもつれあうようにとっくみあいをして、急に二人とも脱力感に襲われて終わった。そして二人はむくりと起きあがり、学校のことや友達のことを話しながら家に戻っていった。
だがタカシが少年サツカーのチームに入ると一緒に遊ぶことはなくなり、いつのまにか空地には家が建ち、去年にはタカシの一家は引っ越していった。父親が失業して、家を売ったということだった。そして、サチの記憶からタカシは遠ざかってしまった。
それがこの秘密の就寝儀式のうちに、サチはタカシのこと、夫婦喧嘩遊びのことを思い出したのだった。タカシとのあの夫婦喧嘩遊びを考えながら太腿をこすり合わせていると、なぜか興奮した。二、三度はそれで、亀裂の奥で電気がぱしっと走ったくらいだ。しかしその興奮も、タカシの丸っこい猿のような顔をはっきりと思い出すに至って色褪《いろあ》せた。やがてタカシの顔は、サチの好きな歌手や俳優の顔とすり変わり、二人は夫婦喧嘩の代わりに、ロマンチックなデートを重ねるようになった。それらの歌手や俳優たちに、きみが好きだ、と囁かれることを考えながら、サチは太腿をこすり合わせ、亀裂の奥に力をこめ、腰を動かし、ぱちっと火花が散るまでの短い間、快感の波を味わった。
とはいえ、そのことは朝になるとけろりと頭から消えていた。家にいても、小学校に行っても、友達と遊んでいても、なにをしていても決して日中、思い出すことはなかった。ただ、夜、ベッドにもぐりこむと、記憶装置が動きだしたように、あれをやろう、と思うのだった。
そのことはサチの日常生活を脅かすことはなかった。小学校五年生の暮らしとはあまりにもかけ離れた行為だったからだ。走ることとも、歩くこととも、話すこととも、遊ぶこととも違っていた。およそサチの行動範囲の中に存在しなかった行為だった。ほんのわずかな関連をタカシとの夫婦喧嘩ごっこに感じるだけで、それもサチの理解の枠を超えていた。
しかしこれを両親や友達に打ち明けるのは憚《はばか》られた。太腿の奥は「いけない場所」という思いから逃れられなかったからだ。
サチにとって、そのことは、この世で初めての新種の行為であり、誰とも分かちあえないものとなった。それゆえに、また、そのことはサチの秘密の宝物となった。
夜毎、取りだしては、愛撫し、味わい、楽しむ、この世でたったひとつの宝物に。
サチが宝物を抱えて、家と小学校の間を行き来している間に、季節は夏に移っていった。ポウの腹が膨れてきたと母が騒ぎはじめ、庭には鉢植えの朝顔の花が咲きだした。
そして待ちに待った夏休みとなった。八月終わりには、半年前から予約していた国民休暇村の宿に一家で行くことになっていた。サチはその日を心待ちにしながら、毎日のように友達のミツコと連れだって小学校のプールに通い、真っ黒に日焼けしていた。
ミツコが風邪気味で、プールに行かないといった日のことだった。サチは一人で水着を持って学校に行った。盆休みに人ったところだし、曇天のせいで、いつもは子供たちがぶつかりあっているプールはがらがらだ。ビーチパラソルの下にいる監視員の大学生も、退屈したように両足を投げだして空を仰いでいる。サチはプールを独り占めした気分で、平泳ぎで二十五メートルを休み休み泳ぎきり、次に背泳ぎを試した。プールの真ん中で沈没し、水を飲んで咳《せ》きこんだ。そしてまた平泳ぎをしながら、つまらないなと思った。ミツコと一緒だと素潜りごっこをしたり、水の中で回転したり、シンクロナイズド・スイミングの真似をして遊べるのに、一人だとただ泳ぐことしかできない。
プールの端に泳ぎついた時、横のほうで退屈したようにばた脚をしている同じクラスのチカを見つけた。チカもいつもの二人の仲間とは一緒ではなかった。サチはチカのところに行こうとして、少し躊躇《ちゆうちよ》した。
チカたち三人組は、クラスの他の女の子たちとは一線を画していた。先生の目を盗んで香水をつけたり、小指の爪だけマニキュアを塗ってみたり、休み時間になると指輪をして他の子に見せびらかしたりもした。話すことも、どこがどうとはいえないけれど、少し大人びていた。サチはチカたちに憧《あこが》れと脅えの両方を感じていた。
サチがぐずぐずしていると、チカが気がついた。チカはサチの周囲に視線を走らせて、「みっちゃんは」と聞いた。
「風邪で、家にいる」
サチは水を掻《か》いて、チカのほうに数歩、近づいていった。
「たかちゃんと、かずみちゃんは」
チカの他の二人の友達のことを尋ねると、チカは突きはなしたように答えた。
「たかちゃんはどっかに行って留守、かずみちゃんはバイオリンのおけいこ」
お互い一人だとわかると、サチはチカの隣でばた脚をはじめた。
「プール、空いてるね」
サチは話しかけた。しかしチカはそれには返事せずに憎々しげにいった。
「かずみちゃん、バイオリンの先生が好きなんだ。夏休み、おけいこの日を増やしたくらいなんだから」
それが、さっきの話の続きだとわかるまで、少し時間がかかった。
「バイオリンの先生って、そんなにかっこいいの」
チカは濡れた鼻柱に皺《しわ》を寄せた。
「音大の学生なんだって。髪の毛を後ろでひとつに縛ってさ、なよなよした男」
「マンガに出てくる、かっこいい男の子みたい」
「まっさかぁ」
チカが水中で脚を強くばたばたさせたので、足許に白い噴水が上がった。それが合図だったかのように、空のどこかで、ごろごろごろ、と腹の虫が鳴るような音がした。
「雷だ」
サチは空を見上げた。濃淡のある灰色の雲がもわもわと動いていた。すぐにその空からぽつぽつと大粒の雨が降りはじめた。プールの表面は、無数の傘をさしたような小さな輪に覆われた。
「雨だ、雨だ」
チカが激しく両脚を動かした。落ちてくる雨粒と、跳ねあがる水滴が宙でぶつかりあい、空と地上の水滴の戦いとなった。サチも一緒になって、隣でばた脚をした。まるで白い孔雀《くじやく》の尻尾のようだ。激しくなる雨の中、水|飛沫《しぶき》の尾を持つ二羽の孔雀が大きくなっていく。
「あたしのほうが大きいよ」
チカが叫んで、さらに強く水面を足の甲で叩いた。サチも負けん気になって脚を動かす。向こう臑《ずね》が痛くなってきても、夢中で水を蹴った。
二つの水飛沫は高く空に噴きあがった。ごろごろごろ、と空が文句をいっている。もう少しで、しかめ面の曇天にまで届きそうだという時、ピイイイーッ、と笛の音が響いた。
「プールから上がってくださぁい。雨のため、プールは閉鎖しまぁす」
監視員の大学生が叫んでいた。それでもチカが無視してばた脚をしているので、サチもやめずに張り合っていると、耳元で、ピッピッピッ、と笛を吹かれた。
「きみたち、いうことを聞いてくれよ。プールはおしまい」
日焼けした若い男の顔が、二人の頭上に突きだされていた。その筋肉の張った背中に強い雨が打ちつけ、飛沫が跳ねあがっている。サチとチカはようやく水から上がった。プールに残っている生徒は、二人だけとなっていた。それに気がつくと、慌てて屋根のあるシャワー室へと走っていった。
「きみたち、いうことを聞いてくれよぉ」
チカが大学生の監視員の口真似をした。それがなぜかとてもおかしくて、サチは笑った。誰もいないシャワー室に、その声がこだました。チカも楽しげに身をくねらせながら、シャワーの栓を開いた。
更衣室に続く通路の両側の壁から、水が噴きだした。水の出口の高さは、ちょうど子供の腰あたりになっている。生徒はそこを通って、腰を洗いながら更衣室に向かう仕組みだ。
サチとチカはその水の噴射の中に足を踏みだした。生暖かな水が尻や太腿にぶつかる。シヤワー室の電気はついてなく、プールサイドに開いた窓が明かり取りになっていたが、激しい雨で外光はほとんど入らず、通路は灰色に沈んでいた。水の廊下の真ん中あたりに来た時、通路の窓に雷光が走り、サチとチカの体が青白く染まった。
「きれい」とチカが自分たちの姿を見ていった。サチが返事をする間もなく、また雷光が閃《ひらめ》いた。胸の膨らんできた少女の体が浮きあがった。
「ねえ」とチカがサチを振り向いた。目は興奮で大きくなっている。チカは自分の黄色の水着に包まれた股を指さした。
「あたしのここ見せてあげるから、あんたのも見せて」
サチは突然のことになんと応じていいかわからず、立ちすくんだ。チカは左右に視線を遣って付け加えた。
「今なら誰も見てないからさ」
チカはサチに返事する間も与えず、肩の紐を下ろすと、つるりと皮を剥《む》くように水着を膝のところまで下ろした。チカの少し膨らんだ乳首、白っぽい下腹、太腿の付け根の縦に割れた亀裂がサチの目に飛びこんできた。チカはそのふっくらとした亀裂のある場所をサチのほうに突きだすようにした。
その仕草は、あたしのを見せたんだから、次はあんたの番よ、といっていた。サチは、興奮と羞恥心《しゆうちしん》とないまぜになった気持ちで、自分の水着を膝まで下ろした。
チカは、サチの太腿の間をじろじろと眺めた。サチも伏し目がちながら、チカの亀裂を観察した。母のそこは黒々とした毛で隠されていてなにがあるのかよくわからなかったし、同い年の女の子のその部分をじっくりと見るのははじめてだった。気後れは、徐々に好奇心に変わっていった。白い綿のような柔らかな感じの肉丘と、その下に刻まれた亀裂。チカのも自分のも同じだと、ぼんやり考えた。同時に、水に濡れ、てらてらと光っているその部分が、本人とは別個のひとつの生き物であるかのようにも思えた。
チカはサチの視線に気がつくと、自分の太腿の付け根の間に人差し指を押しあてた。そして爪の先を、亀裂の中に少し埋めてそっと上下に動かした。
「こうしたら、もっと、よ、ね」
それは、サチに告げているのとも、同意を待っているのとも取れる言い方だった。
サチが返事もできずに突っ立っているので、チカはつまらなくなったようだった。人差し指を引っこめると、水着を胸までずり上げた。そしてじゃぶじゃぶとシャワーの噴水の中を更衣室のほうに歩いていった。
サチは催眠術から醒《さ》めたように、水着を上げた。そしてシャワー室から出ると、栓を止め、更衣室に人った。チカはすでに水着を脱いで、ゴムを入れた筒型タオルで胸から下を隠して服を着ていた。サチも母に縫ってもらったそのタオルで体を隠しながら服を着替えた。プールから上がった時の日頃の習慣通りだ。シャワー室で起きたことは夢のようだった。
プールの玄関口では、雨宿りする子供たちがぽつぽつと立っていた。外の雨足は少し弱まっていた。チカとサチは他の子供たちに混じって、黙って雨が上がるのを待っていた。
サチは時々、チカの横顔を盗み見た。シャワー室での言葉について聞いてみたい気持ちと戦っていた。しかしチカの顔からは、あの時に見せた興奮は消えてしまい、いつもの大人びた、こまっしゃくれた雰囲気が漂っていた。
やがて空が明るくなり、小雨となった。チカは、サチに「バイバイ」と投げつけるようにいって、水着の入った黄色いビニールバッグを頭に載せ、ついと外に飛びだした。水たまりを蹴散らしながら、校庭を横切っていく。サチは一瞬、チカを追いかけていきたいと思ったが、弱気がそれを止めた。チカは鞠《まり》のように跳ねながら、校門の外へと消えていった。
その夜、サチはポウを連れて寝室に入った。ポウは、大きな腹となって以来、夜の出歩きはやめていた。しかし、以前のようにおとなしくサチの腕枕で眠るのは厭がり、最初からベッドの裾《すそ》に丸まった。
電気を消した部屋の中に仰向けに横たわり、サチは人差し指を闇に立てた。
こうしたら、もっと、よ、ね。
チカの言葉が頭に浮かんだ。
サチは人差し指をパンツの中にもぐりこませた。そしてためらいながら太腿の奥の亀裂の間に押しこんだ。指の先が柔らかくて湿った襞に突きあたった。亀裂の間にできた鰓《えら》のように、もにゃもにゃしている。その鰓のところを少し押してみた。太腿をこすり合わせたのと同じだが、もっと強い感覚が湧きあがった。
サチはゆっくりとそこを揺すった。亀裂の底から、ぞくりとした興奮の波が広がった。波はサチの体の真ん中から、全身の隅々へと広がっていき、爪先や頭の先から、空気の中に溶けていく。サチはその波の中心だった。サチの人差し指の達する太腿の奥は、世界の真ん中だった。
あたしの中には、世界の真ん中がある。
サチは突然、そのことに気がつき、なんだかとても楽しくなった。
2 ル・スーティエン・ゴルジュ・ブル
約束の時間は、午後二時だった。ケイコは一時五十五分に、青山通りからかなり引っこんだところにある豪壮なマンションの前に着いた。紅葉した木々に覆われた広い敷地に、五階建ての薄茶色のタイル貼りの四、五棟の建物が居座っている。大きく張りだしたテラスのどこにも蒲団《ふとん》や洗濯物はかかってなく、代わりに桃色のシクラメンや紫のクロッカス、オリヅルランなどの鉢植えが手摺《てす》りを縁取っていた。一枚ガラス張りの大きな窓には、美しいカーテンがかかり、中には外からの視線を意識して、人形や模型飛行機、サーフボードなどで飾りつけた出窓もある。ケイコの住む阿佐ヶ谷|界隈《かいわい》のマンションと比べると、別世界のようだった。
玄関はオートロック形式になっていて、分厚いガラスの扉が侵入者を阻んでいた。ケイコは入口の横にある呼び出しチャイムのところに行くと、ショルダーバッグの中から折りたたんだファックス用紙を取りだして、そこに書かれている部屋番号を押した。マイクの向こうから、「はい」という男の声がした。
ケイコが自分の会社名と名前を告げると、「ああ、待ってましたよ。五階ですから、エレベーターで上がってきてください」と返事があった。
想像していたより、明るく、軽みのある声だった。重々しい声を予想していたケイコには、いい前兆に思えた。
ガラス扉がするすると開き、大理石の敷かれた玄関ホールに、ケイコは足を踏みいれた。がらんとしたホール中央に、百合の花を生けた大きな花瓶があった。甘く濃密な花の匂いに包まれながら、ケイコはかつかつとヒールの音を響かせて、ホールを横切っていった。エレベーターは、花瓶の背後に隠れていた。扉は彼女を待っていたかのように開いている。ケイコは中に入ると、五階のボタンを押した。
ごぉぉぉんと小さな音をたててエレベーターが上昇しはじめると、ケイコは壁に背をもたせかけて、これから会う男について知っていることを頭の中で反復した。
滝島琢彦。四十三歳、作家、フランス文学者。淡々とした筆致で都会の男女の恋愛模様を描き、大勢の女性読者を獲得している。昨年、滝島の小説を原作にした映画『フランス窓の紫陽花《あじさい》』が話題になった。妻は、業界ではそこそこに名の知られたテレビ脚本家。子供はいない。
女性向け月刊誌の編集者のケイコは、次号の恋愛特集ページに滝島琢彦のインタビューを入れることにして、事務所を通して取材を申しこみ、この水曜日の午後二時から三時の間という時間をもらったのだった。
インタビューの前はいつも緊張する。短時間のうちに、初対面の相手から、できるだけおもしろい話を引きださないといけない。そのためには、相手に好印象をもたれることが第一条件だし、かといって間抜けなテレビ番組のゲストのようにただ相槌《あいづち》を打っているだけではだめで、話が記事の方向に合うようにうまく持っていかないとだめだ。ケイコは、ぴかぴかに磨かれたエレベーターの扉で、自分の姿を点検した。
丸首の青い薄手のセーターに、黒のスラックス。青灰色のウールジャケット。髪は耳の下できちんと切りそろえているし、口紅も剥《は》げてはいない。ケイコの自慢の白くて華奢《きやしや》な首が、セーターからすんなりと伸びていた。取材に当たっては、相手にどんなマイナスイメージも与えないように、一分の隙《すき》もない格好をするように神経を遣う。大丈夫、とケイコは自分に言い聞かせた。少なくとも服装には、どこにも落ち度はない。
エレベーターの扉が開いた。五階に出ると、目指すドアはすぐに見つかった。『TAKIJIMA』と彫りこまれた金属製の表札が出ている。チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「やあ、いらっしやい」
そこには、事前資料として目を通した雑誌に出ていた顔があった。丸顔に口髭《くちひげ》を生やして、うっすらと笑っている。しかし、スタンドカラーの白いシャツに、草色の毛糸のベスト、やはり草色のズボンというくだけた格好のせいか、スーツ姿で気取った写真の印象よりも、ずっと親しみやすかった。
インタビュー相手の第一印象は、後まで尾を引くものだ。この相手の懐に入っていけるなと思えば、仕事は半ば成功したようなものだし、最初から壁を感じると、たいていそれはインタビューの中までもつれこみ、いい話は聞けない。ケイコが受けた滝島の印象は良かった。ほっとした気分のまま、挨拶《あいさつ》すると、「場所はすぐにわかりましたか」と滝島はきさくに話しかけて、スリッパを出してくれた。
「ええ、ファックスで送ってくださった地図はとてもわかりやすかったですから」
ケイコも愛想よく応じながら、スリッパに履き替えた。
滝島はケイコを、玄関の右手に続く居間に通した。二十畳はある部屋だった。木の床に、薄茶色の絨毯《じゆうたん》。大きな窓の前に、どっしりした白い革の応接椅子が置かれ、パステルカラーのクッションが積まれている。もう片方の書棚の並ぶ一角には、十二脚の椅子が並ぶ楕円形の大テーブルがあった。壁には、青や赤の色彩を使った抽象画が掛かっていた。
「素敵なお住まいですね」
この家に通された客なら、誰しも口にするだろう言葉をケイコはいった。
「外国入用に設計されたマンションなんですよ。日本の造りと違って、何もかもゆったりしているところが気に入ってね。あ、コーヒーを淹《い》れるけど、それでいいですか」
ケイコが頷《うなず》くや、滝島は奥の台所のあるらしい方向に消えた。広々とした居間に残されたケイコは、どこに座っていいかもわからなかったので、ぽつねんと立ったままあたりを見回した。
家には誰もいないらしく、しいんとしている。台所のほうから、かちゃかちゃと陶器の鳴る音がするだけだ。エアコンディションが効いていて、少し暑いほどだ。ケイコはジャケットを脱いで、手にかけた。
ガラス窓の向こうで、黄色くなった銀杏《いちよう》の枝が風に揺れている。分厚く茂る葉に隠れて、隣の建物は見えない。まるで山の中にいるようだ。木漏れ日がふかふかした絨毯に斑《まだら》模様を描いている。
ケイコは、外観こそおしゃれだが、食卓と食器棚だけで居間はぎっしりの自分のマンションと比べないではいられなかった。この居間だけでも、ケイコの家の倍はあるだろう。東京というと、誰もが狭い空間にきゅうきゅうに詰めこまれている意識があるが、こんな暮らしをしている人もいるのだな、と思った。
「ああ、座っててくれればよかったのに」
滝島の声に、ケイコは振り向いた。湯気の出ているマグカップを両手に持った滝島が居間に入ってきたところだった。滝島は、さっと部屋を眺めて、「取材なら、あっちのテーブルがいいな」といって、書棚の前の大テーブルヘとケイコを案内した。
ケイコはテーブルのほうに歩いていった。大テーブルは、向かいあって座るには距離がありすぎる。どこに座るといいだろうかと考えていると、滝島はさっさとふたつのマグカップを隣合わせになるように置いた。そしてケイコの椅子を引くと、自分はその隣の椅子に座って足を組んだ。ケイコはジャケットを隣の椅子に置き、滝島とはす向かいになるように座った。
「ご挨拶が遅れましたが、こちらが私どもの雑誌と、私の名刺です」
腰を下ろすと、ケイコはバッグから、名刺と見本の雑誌を出して、滝島に差しだした。滝島はおざなりに雑誌の表紙と名刺を眺め、「それで、インタビューのテーマは何でしたっけ」と聞いた。
事務所のほうに事前に企画書を出したのだが、目を通してなかったらしかった。ケイコは、企画書に書いたことを思いだしながら口を開いた。
「うちの雑誌の十二月号で、友達夫婦というテーマで特集を組むことにしています。今、夫婦というより、仲のいい友達同士というようなカップルが増えている、これはなかなかいいものではないだろうか、という主旨の記事を作りたいと考えているんです。共働きが一般的になり、社会における男女の性差が希薄になってきたことを背景に現れてきた、友達同士の同居のように家事労働を気軽に分け合い、余暇も遊び仲間気分で一緒に楽しむ夫婦。それを友達夫婦と名づけて、これは現代の夫婦の一種の理想像ではないかという提案をしたいのです。具体的には、そんな友達夫婦三組ほど、実際に誌面に登場していただいて、彼らの生活ぶりをレポートすることにします。滝島さんには、特集の締めくくりとして、こういった夫婦関係についてのご意見を語っていただければ、ありがたいと思っています」
編集者として働くようになって三年目だ。ケイコは慣れた口調で説明した。滝島は興味深そうに耳を傾けていたが、おもむろに喋りだした。
「あなたのおっしゃる友達夫婦が成立するには、確かに、男女の性差が希薄であることが前提条件でしょうね」
こんなに早々に話に入るとは思わなかったので、ケイコは慌てて取材ノートを開いた。録音用カセットは持ってきてなかった。滝島の意見は、半ページほどを予定していて、さほどの分量ではない。顔写真も必要ないほどだ。テープに録音するまでもないと考えたのだった。
滝島は椅子の背にもたれかけて、組んだ足をぶらぶらさせながら続けた。
「性差意識が希薄になってきたことがもたらしたことには、良い面、悪い面、ふたつの面があるでしょう。良い面は、家庭における男尊女卑的意識が薄れてきたこと、悪い面は性的欲望の減少です。友達夫婦が増えているということと、セックスレスの時代というのと関係があるわけでしょう。誌面に登場する現代の理想的夫婦に、性的関係の頻度は聞いてみましたか」
滝島は「現代の理想的夫婦」という言葉に力をこめると、ボールペンを走らせていたケイコに半ば挑むような、半ばからかうような視線を送ってきた。まるで生徒の能力を試している教師のようだった。ケイコは、滝島が大学の仏文科教授の肩書きも持っていたことを思いだしながら、渋々とかぶりを振った。
「いえ、その点は……」
「セックスと重ねあわさないと、その種の記事はおもしろくはないですよ」
滝島はあっさりといった。
いくら社会的アプローチをしようと、女性向けファッション誌だ。社会学専門誌でもあるまいし、そこまで真面目に取り組むものではない。ケイコは憮然《ぶぜん》としたが、表情は穏やかにいった。
「友達夫婦とセックスとは、どのような関係にあると、滝島さんはお考えなんでしょうか」
滝島は足を解くと、テーブルに片肘を突いて、ケイコをまっすぐに見た。
「男と女は、ある程度の距離が必要なんです。男として女として距離がないと、刺激もないし、性的欲望も生まれない。ところが、友達というのは、その距離がない、刺激がないことを意味する。性的欲望を感じない関係というわけです。つまり友達夫婦は、セックスレスということになる」
組んだ膝にノートを載せてペンを走らせていたケイコは、話の方向に不安を覚えて口を挟んだ。
「でも性的欲望をベースにして、友情が育つということがあるでしょう」
滝島はコーヒーを啜《すす》ると頷いた。
「その場合、友情は、性的欲望を隠すための言い訳となります。これはたいてい結婚前、恋人以前の段階で使われる。つまり、性的欲望をむんむんさせて近づくと、相手に逃げられる恐れがある時、友情という隠れ蓑《みの》を使う。性的欲望を満足させるための方便です。友達という、性的にクリーンな段階を踏んで、相手と親しみ、やがて恋人関係を築きあげるためのね。それが今の社会が求める、理想的パターンだからです。なにしろ、この社会では、男が女にむらむらと来たからといって、飛びかかって抱きしめるわけにはいかないですから」
滝島は、目の端で天井の隅を睨《にら》みつけるようにして笑った。
「しかし、結婚した男女においては、友情を方便に使う必要はないでしょう。性的欲望はすでに満足させられているわけですから、夫婦間に友情が育つ下地があるわけでしょう」
ケイコは話を軌道に乗せようとした。しかし、滝島はあっさりといった。
「夫婦関係における友情も、これまた言い訳ですよ。この場合は、前者とは正反対に働く言い訳です。つまり、性的欲望が衰えた時、お互い興味を失ったと告白する代わりに、自分たちは友達なんだ、といいだすわけです。まあ、友達夫婦とは不能夫婦ということですね」
熱心に聞くふりをしながら、ケイコの腹の底はざわめきはじめた。このままでは、インタビューは失敗だ。失敗どころか、友達夫婦を持ち上げるという特集テーマ自体、笑止千万ということになる。なんとかしなくては、とケイコは思った。
「例外もあるのではないですか。夫婦として、性的に惹《ひ》かれあっていながら、さらに友情関係も感じるという……」
「だったら、友情ではなく、愛情といえばすむ話でしょう。なぜ、自分たちは愛し合っているといわないで、友達みたい、といわなくてはならないか。男女の愛には、性的なものがくっついてくるからですよ。だから、性的欲望が希薄になってしまえば、愛情と呼ぶことに後ろめたさを感じてくる。夫婦が友達という概念を受け入れはじめたら、その真意は、もう相手に欲望は感じなくなったと見たほうがいい。あなたは彼氏がいるの」
突然、自分のほうに話の矛先を向けられて、ケイコの心臓が収縮した。
「彼ですか……」
どぎまぎして聞き返すと、滝島はからかうようにいった。
「そう、あなたの彼。それとも夫かな。まさか、きみくらい魅力的な若い女性に男の一人もいないとは思えないからね」
「同居人です」とケイコはいって、ショウゴの顔を思い浮かべた。仕事関係で知り合い、同棲《どうせい》するようになって一年経つ。
「へえ、彼とは、やっぱり友達カップルみたいな関係かな」
図星だった。友達夫婦の企画も、自分とショウゴの関係から思いついたことだった。「ええ、まあ」と曖昧《あいまい》に答えると、「へえ、どういう点で」と、頬づえを突いたまま滝島が身を乗りだしてきた。ケイコは、一人の作家に自分の私事に注意を向けられて、誇ちしいような、落ち着かないような気分になった。
「彼は……フリーの編集者で、たいてい家で仕事しているんで、外に出ていることが多い私の代わりに、家事一般を引き受けてくれているんです。それで、同じ職種なんで……仕事のことなんかを気楽にお喋りできるし、相談に乗ってもらえる。私が疲れている時は料理して片づけもしてくれて……お互い、一緒にいるとほっとするところなんか……」
「年寄り夫婦みたいなものだな」
ケイコは少しむっとした。
「そんなことないですよ、性的欲望はお互い、ちゃんとあります」
滝島は感心したように口をすぼめた。それが、このことを話題にしたケイコの勇気に対しての賞賛とも、友達夫婦の間に性的欲望があるという反論を受けたことへの驚きともとれた。ケイコはこの機を逃さず、取材のほうに話を戻した。
「ですから、友達のような男女関係でも、セックスは成立するんです」
滝島は眉を上げて、首を傾《かし》げた。
「きみのいうセックスが、ただペニスをヴァギナに入れるだけのものならば、もちろんそれは可能だろう」
「どういうことですか」
ケイコは低い声で聞いた。平静に話そうと思うのに、声につんけんした調子が混じるのを止めることはできなかった。しかし滝島は相変わらずのんびりした口調で応じた。
「つまり、友達カップルのセックスとは、友達同士のお喋りみたいなもので、あんまりおもしろいものではないんじゃないか、ということだよ」
その言葉に、ショウゴとの交わりが、ケイコの脳裏に蘇《よみがえ》った。このところ、ベッドに入って、性交に入るまで、まるでスケジュールが決められているように同じ手順を繰り返す。ショウゴがキスをしてきて、ケイコがキスを返せば、承知の印だ。それからショウゴは同じ手順で愛撫をして、やがてペニスをヴァギナに入れてくる。ケイコがほんとうに性交に夢中になるのは、三回に一度くらいだ。ショウゴも似たようなもので、射精までいくのは半分ほど。二回に一度は二人とも途中でだらけてしまって、眠ってしまう。
今までぽんぽんと滝島に応じていたケイコだったが、突然、返す言葉を失ってしまった。
「コレットというフランスの作家、ご存知ですか」
滝島は話を変えた。ケイコが頷くと、滝島はケイコの表情をじっと観察するように、身をかがめて話しだした。
「彼女は、ある時、すごく魅力的な男と知り合った。ピン・ファン的な女の尻を追いかけるタイプの男です。コレットは彼の恋人になりたくてたまらなかったが、その希望がないと悟った後、その男を誘ったものです。気楽で勝手ができて、礼儀を失わない連れとして、長いこと黙っていてもいいような友達として、一緒に旅行しないかと」
取材ノートを取るためにうつむいたケイコの耳に、滝島の息がかかる。ケイコは首から背筋にかけて、こそばゆいようなむずむずする感覚と戦いながら、ボールペンを動かした。
「彼の返事は、僕は女と旅行するのは好きじゃない、というものだった。それから、この返事にコレットが怒るかもしれないと気遣ったらしく、ご丁寧にこうつけ加えたというんだ。あなたが女……? だったらよかったけどね、と」
ケイコはちらりと顔を上げて、滝島を見た。口髭の生えた丸顔は、思った以上に近くにあった。ケイコは慌てて元の通りに顔を伏せた。
「残酷な言葉ですね」
「ああ」と、滝島が苦笑した。温かな吐息が風となって、首筋にぶつかった。ケイコは微《かす》かに身震いした。
「コレットは一生、その男を恨んだと思うよ。女は、友達を恋人の延長線上に置く。コレットは、その男を友達とすることによって、疑似恋人の立場に置こうと思ったのだろう。しかし、男にとっては、友達と恋人は同じ線上にはありえない。女には、性的欲望を感じる女と、感じない女の二種しかない。その男にとってコレットは女ではなかった、性的欲望はまったく感じなかった。男は、恋人にしたい女を友達と呼ぶようなごまかしはしないんだよ」
「じゃあ、友達夫婦というのは、女性特有のごまかした言い方とおっしゃるのですか」
ケイコが尖《とが》った口調で聞いた。
「まあ、そうかっかしないで」
滝島はなだめるように、ケイコの太腿の横に手で触れた。
「男は、女に近づくために友情だという方便を使っても、心の底ではそれは方便だと知っている。女にとって性的欲望は曖昧だが、男にとっては歴然としているからだ。有り体にいえば、ペニスが立つか立たないかだからね」
滝島は指先で糸を引くように手を退かせた。ケイコはほっとしながらも、心のどこかで、男の手が自分の太腿から退いていくのを残念に思った。手は何事もなかったように、ボールペンを動かしている。しかし、「ペニスが立つかどうか」と書きつけた文字を、滝島が見ていることを意識して、ケイコは腹の底が掻《か》きまわされる気分を味わった。
「女性が性的欲望に自覚的になるのは、男性の働きかけに応じた時点だと思う。例えば、男性が女性の肩に手をかけたとする」
滝島はそういいながら、ケイコの肩に手を置いた。
「女性はそれに快感を覚えるかどうかで、自分の中の欲望を自覚する」
滝島の指が肩から首筋へとすうっと昇っていく。ケイコは、これは会話の中の行為を例示しているのだろうと思って、気持ちを取材に集中しようとした。それでも、「女性の快感は、自らの欲望を自覚するかどうか」とノートに書きつけながら、男の指の動きを魅入られたように目の隅で追わずにはいられない。
「だけど、普通、男は欲望を感じた女性にいきなり触ることはできない。代わりに、セックスの代用品としての会話をはじめる」
滝島は話し続けながら、指を耳の後ろに動かした。男の指の腹が、ケイコの耳の後ろをそっとこする。ぞくぞくするような感覚がケイコの下腹から腹に昇ってくる。ケイコのボールペンを動かす手が止まった。
「例えば、僕が、知り合ったばかりの女性の首筋は美しい、撫《な》でてみたいと思ったとする。だけど、現代社会ではそれは許されない。そうする代わりに、僕は彼女の首の美しさ、その細さ、柔らかさを語りはじめることになる」
滝島はケイコの髪の毛を押しやり、すんなりと伸びた白いうなじを指で辿《たど》った。指が首の後ろの骨にぶつかり、そこから波のような波紋が全身に広がっていった。ケイコは微かに首を反らせた。
頭の隅で、インタビューがとんでもない方向にいっているのは自覚していた。しかし、この先にあるものを見てみたいという好奇心を抑えることができなかった。その好奇心はあまりに強く、インタビューの行方《ゆくえ》なぞどうでもいいような気になった。
「もし、僕が、その女性のセーターに浮きあがる乳房のシルエットが美しいと思ったとする。だが、それに触れることはできない。だから代わりに……」
滝島の指がセーターの襟をそっと押し下げた。セーターの下に、幾重ものレースに覆われた水色のブラジャーが覗《のぞ》いた。南の島の透明なラグーンを思わせる色。ケイコが、今日の服装に合わせて選んだものだった。
「ル・スーティエン・ゴルジュ・ブル」
滝島がため息とともに呟《つぶや》いた。
「……代わりに、ブラジャーの色について語るだろう。ル・スーティエン・ゴルジュ・ブル。水色のブラジャー、フランス語でいうと、このうえもなくエロティツクな響きだ。性の甘い海に泳ぎだそうとしている若い女。ル・スーティエン・ゴルジュ・ブル……」
滝島は、囁《ささや》きながら、ケイコのブラジャーの下に人差し指を差しいれ、胸の谷間から首のほうに撫であげた。ちりちりとした感覚が全身に走り、ケイコは椅子の背に体を預けた。股の間が熱く、震えるようだった。ケイコの手から、取材ノートとボールペンが滑り落ちて、厚い絨毯の上に音もなく沈んだ。滝島の指は、ブラジャーに押さえられて、微かに盛りあがった乳房の肉を、流れるような線を描く喉《のど》を、ふっくらと肉のついた顎《あご》から頬を撫でていく。椅子にもたれかけて、両脇にだらりと下げていたケイコの手の先が、滝島のズボンの間に触れた。手の甲に、くにゃりとした柔らかなものが感じられた。
ケイコは指先で、滝島のペニスをズボンの上からそっと押した。滝島のペニスがケイコの指を弾《はじ》き返してくる。ケイコは親指と人差し指でそれをつまんで、今度は少し力を入れた。数度、ペニスを押していると、それが硬くなってくるのが感じられた。
ケイコは大胆になり、ペニスを握りしめると、さらに強く握っては力を緩めた。
滝島はケイコを愛撫するのを止めた。体を起こして、何か奇異な動物を見るように、自分の股の間で動くケイコの手を眺めている。滝島の反応が、ケイコをおもしろがらせた。ケイコは滝島のズボンのジッパーを下ろし、中のペニスを引きずりだした。ペニスはすでに赤く充血しはじめ、硬くなっていた。ケイコは滝島のほうに前かがみになって、右手でペニスを握りしめた。そして、力強くペニスをこすりだした。
滝島は、自分の始めたことが怖くなったように、ケイコから離れようとした。しかし、ケイコはそうはさせなかった。手を筒形にして、滝島のペニスを激しく上下にこすり続ける。
ペニスはケイコの手の中でどんどんと硬く、太くなってくる。青っぽい血管が浮きあがり、ケイコの掌にごつごつした節のような感触を与えた。
滝島は、驚いたように自分の剥《む》きだしのペニスを見つめた。何かいいたげに唇を動かしたが、声にはならなかった。
滝島のペニスは赤紫色に膨れあがってきた。亀頭《きとう》が蝙蝠傘《こうもりがさ》のように丸く広がってきた。ケイコの掌でこするたびに、ペニスがそれに応じて、びくりと動くのがわかる。小気味がいいほどだ。その感触がケイコをますます興奮させた。
時々、交わる前に、ショウゴに誘われて、ペニスを握ったり、こすったりしたことはあった。しかし、それは妙にショウゴの視線を意識した、おずおずとした触れ方だった。あまりにペニスに大胆に触れて、遊んでいる女だと思われたくない、そんな意識が働いていた。しかし、滝島のペニスは、ショウゴのペニスではなかった。見知らぬ男のペニス。ペニスが、恋人の肉体にくっついていないというのは、なんと楽しいことだろう。
ケイコは、生まれて初めて、男のペニスを真剣にこすった。心をこめて、夢中になって、こすった。ペニスはだんだんと反りあがってくる。睾丸《こうがん》の付け根から盛りあがった線が亀頭まで延びている。そこに親指の腹をあてて、先に押しだすように揉《も》んでいく。
滝島は椅子に背をもたせかけ、股を開いて、ぐったりと座っている。その目には、ガラス窓の紅葉が映っている。だが、彼は何も見てはいない。ただ、口を半ば開いて、放心している。ケイコは滝島のそんな表情をちらちらと見上げながら、手を動かし続ける。
壁の抽象画、ふかふかの絨毯、白い革張りのソファ。窓から射しこむ木漏れ日。穏やかな秋の午後。静かな居間に、滝島の小さな呻《うめ》き声が響いている。
そしてケイコは、ペニスをぐいぐいとこすり続ける。全身が荒々しい力に満たされていた。自分のクリトリスを揉んでマスターベーションしているような感じだが、そのクリトリスはペニスだった。ケイコのペニスだった。ケイコのペニスは、今やはちきれんばかりに膨れあがっている。青色の血管が、赤紫色のペニスの肌に刺青のように張りついている。亀頭は羽を伸ばして空に飛んでいきそうなほど横に広がり、端は下に反り返っている。親指に触れるペニスの後ろの線がますます盛りあがってきた。ケイコはそこを先方にしごきだすように揉みつづける。滝島はピンで押された標本の蝶のように、椅子に四肢を投げだして座っている。まもなく腰を前に突きだしたと思うと、あ、ああ、と呻《うめ》きつつ、亀頭から、白濁した精液を迸《ほとばし》らせた。ケイコの掌から生温かな液体が溢《あふ》れ、手の甲に滴った。
滝島は敗者のように、ぐったりと椅子に背を沈めた。ケイコはペニスから手を放し、背筋を伸ばした。そして自分の右手についた粘つく精液を見つめ、左手で青いセーターをめくりあげた。水色のプラジャーに包まれた白い胴体が現れた。滝島が呆然《ぼうぜん》とケイコの動きを見守っている。
ケイコは乳房の下から右手の甲をこすりあげ、腋《わき》の下でその手をくるりと返すと、掌で乳房を包みこむようにして精液を拭《ふ》いた。精液が糸を引いて、レースに絡みついた。胸元から立ち昇る、青臭い、つんとした匂いがケイコの鼻を衝《つ》いた。
滝島の視線は、水色のブラジャーに釘づけになっている。その虚《うつ》ろな瞳に、哀しみとも歓喜ともつかぬものが宿っていた。
ケイコはセーターをひっぱり下ろすと、椅子から立ちあがった。隣の椅子に置いていたジャケットを着込み、取材ノートをバッグにしまった。滝島は黙ってケイコを見つめている。
ケイコはバッグを肩にかけ、頭を下げてお辞儀をした。そして、萎《な》えたペニスを出して座りこんでいる滝島を置き去りにして、豪壮なマンションから出ていった。
3 ホップ・ステップ
父の声が聞こえた時、クニオは自慰の最中だった。薄暗い牛舎の奥でズボンの前を開き、硬くなった男根を握りしめ、右手で激しくこすりあげていた。小窓から入る光を鈍く反射する搾乳機の白いプラスティックの列を睨《にら》みつけ、熱くなった亀頭《きとう》の先が弾《はじ》けそうになるのを感じつつ、歯を喰いしばって手を動かしていた。
そこに「クニオ、ここにいるのか」という父の声に襲いかかられたのだ。牛舎の壁、搾乳機の列、牛囲いの柵などの風景が、写真を焼きつけた時のように目の前で静止したと思うと、亀頭の先から白くねばねばした液体が溢《あふ》れでて、地面に飛びちった。
「おい、クニオ、いるんだろ」
牛舎の入口に、父の姿が浮きあがっている。クニオはほっと息を吐いて、唾を呑みこんだ。
「う、うん、ここだ」
なんとか返事して、手についた精液を近くの壁にこすりつけ、洗い晒《ざら》しのジーンズのチャックを上げた。
「そんな暗いところで何してるんだ」
父が訝《いぶか》るように聞いた。無理もない。牛たちは放牧場に出ていて、秣《まぐさ》と獣の臭いの漂う牛舎はがらんとしている。クニオは「牛囲いが壊れてないか見てたんだ」ととっさに言い訳すると、きゅっきゅっと長靴を鳴らしながら外に出ていった。
「この忙しい日に、牛囲いの心配なぞすることない。それより会場まで牛乳を運んでいくから手伝ってくれ」
野球帽にカーキ色のジャンパー、黒い長靴という出で立ちの父は、クニオの返事も聞かずにトラックのほうに歩きだした。
牛舎に横付けされたトラックの前には、朝搾ったばかりの牛乳を入れた缶が五個並んでいる。クニオが父を手伝って、荷台に牛乳缶を積みあげていると、義姉のフサエが自家製アイスクリームを詰めたクーラーを抱えて家から出てきた。
「タキさんが電話でいってたけど、役場の駐車場はもういっぱいで、老人介護センターの駐車場も開放することにしたんだって。テレピ局も来てて、通りを撮ってるんですって。大盛況みたいよ。午後のコンサートに合わせて観光バスも来る予定なんだって」
フサエは荷台にクーラーを置くと、興奮したように黄色のコットンパンツに包まれた尻を両手でこすった。クニオの父は、ばたんとトラックの荷台の縁を留めた。
「これで村長の首も繋《つな》がったということよ」
『伊名木まきばフェスティバル』は、村起こし事業の一環として始まったものだ。現村長が初当選した時にこの事業を公約したばかりに、二年がかりで実現に漕《こ》ぎつけたといういわくつきだ。次期村長選で現職継続かどうかは、この催し物の成否にかかっているといわれていた。
「ほら、クニオ、行くぞ」
父は運転席のドアを開きながらいった。クニオはトラックの荷台に飛びのった。
「そんなところに乗ってると、警察に止められるわよ」
フサエの言葉を、クニオは煩わしそうに顎《あご》を反らせて無視した。義弟は女を馬鹿にしていると思っているフサエは、それ以上注意はしなかったが、唇を突きだして不満を表した。
トラックは小刻みに揺れながら、牛舎やサイロ、養鶏場などの並ぶ小さな牧場を出発した。二十頭ばかりの乳牛が草をはんでいる放牧地の横を過ぎ、農道に出た。九月の日射しが、なだらかな丘陵地に散らばる林や牧草地、とうもろこし畑などを隅々まで照らしだしている。木の葉や草は夏のつややかな緑色を失いつつあり、空気は透明感を漂わせていた。遠くにぎざぎざと連なる山稜も青みがかって力なさげだ。
クニオは銀色の牛乳缶の間に腰を据えると、晴れた空を仰いだ。目を細めると、一重瞼《ひとえまぶた》のすっきりした面立ちに白い歯が覗《のぞ》き、少年らしさが表面に浮かびあがってきた。
中学校を卒業したクニオが家の牧場を手伝いはじめて三年になる。長兄は農大を卒業すると同級生のフサエと結婚して、家を継いだ。目下、大学で経済学を学んでいる次兄は、商社マンになると宣言している。三男のクニオは勉強よりも働くことを選んだ。高校ぐらいは行ったほうがいいと、父も二人の兄も説得したが、クニオは一刻も早く学校から解放されたかったのだ。結局、父も長兄も農場の人手が増えるのはありがたかったから、クニオの決断を受け容《い》れた。
クニオは自然の中で働くことが好きだった。牛の世話も、飼い葉作りも、牛乳搾りも、鶏の世話もおもしろかった。休みの日はバイクを飛ばして山を走り、川に行って釣りをしたりした。クニオのように親の仕事を継いでいる同輩の仲間もいたから、たまに会って、馬鹿話に興じたり、バイクの飛ばしあいをしたりして時を過ごした。クニオは今の生活に満足していた。足りないものといえば、女だけだった。地元の女の子は、クニオのように無口で泥にまみれて働いている少年には目もくれない。たいてい町の高校に通っているし、恋人を見つけるのは同級生か、それより上の世代だ。
女がいればな。それがクニオと、彼と事情を同じくする仲間たちの口癖だった。クニオの仲間は四人いたが、みなホンモノの女と交わったことはなかった。欲求不満のあまり、中の一人は雌山羊を相手にし、手よりはましだぞと吹聴したものだから、クニオは雌鶏を試そうとしたが、入れるべき穴を探っているうちに糞をひっかけられただけだった。
丘陵地帯を降りたところが、伊名木村の中心だ。役場と郵便局、小学校と中学校を核にして、小さな商店が並んでいる。フサエがいった通り、村の中心部に近づくにつれて車が多くなってきた。ナンバープレートを見ると、近隣の町や村ばかりでなく、県外からも来ているのがわかる。『伊名木まきばフェスティバル』『祝・第一回カントリージャズコンサート』『牧畜と高原野菜の村、伊名木』『ようこそ、高原の別天地、伊名木へ』。今回新調したものから、以前の村起こし事業の使い古しまで、新旧さまざまな幟《のぼり》に歓迎されて、どの車も村の中心を目指している。
父は混雑する道を避けることにしたようで、脇道に逸《そ》れた。レタスやトマト、セロリといった高原野菜が規則正しい畝《うね》に並んでいる。村の第三セクターで地ビール製造を始めて以来、大麦やホップの畑が増えていた。田園の中の道をしばらく走ると、こんもりした丘が近づいてきた。中腹には、赤屋根に煉瓦《れんが》造りの西洋風の建物がある。伊名木村文化館だ。村がこの施設を建てた時、北海道や軽井沢でもあるまいし、伊名木と洋風建築とはどんな関係があるのかとさんざん非難されたものだ。しかし周囲に公園や催し物広場、バーベキュー場などが整備されて、「伊名木自然の里」が完成すると、なんとなくその中心施設としての風格ができあがってきていた。そして、今回のフェスティバルの会場はこの敷地全体を使って行うことになっていた。
トラックは、風船や花飾り、横断幕で飾りつけられた「伊名木自然の里」の門を過ぎた。芝生の広がるなだらかな斜面のあちこちに、村の青年団や婦人会が主催する自家製アイスクリームや焼きトウモロコシ、ワッフルやソーセージの屋台が出ている。トラックは芝生の中につけられた道を通って、バーベキュー場に向かった。そこは「伊名木自然の里」が運営している食堂だが、この日は村の青年団が借りあげて、バーベキューランチを企画していた。デザートは特製アイスクリーム、飲み物は地ビールと搾りたての牛乳だ。そのアイスクリームと牛乳供給の一端を、クニオの一家の経営する牧場がまかせられていた。
父はトラックをバーベキュー場の入口に止めた。テーブルとベンチの並んでいる野外食堂の片隅にはテントが張られていて、細長いカウンターができていた。
「ツルタさん、こっち、こっちにお願いします」
テントから声がかかった。青年団のフミヒコが野菜を山盛りにしたボウルをカウンターに並べながら怒嶋っていた。クニオと父は、トラックの荷台から牛乳缶とアイスクリームを下ろして、テントまで運んでいった。
「大盛況らしいな」
荷物を運び終えると、父はフミヒコにいった。
「バーベキュー定食、けっこう予約も入ってるんですよ。二百人分用意したけど、足りなくなるかもしれない」
フミヒコは嬉しそうに笑った。フミヒコやクニオの長兄リョウスケは祭りの実行委員として地元のテレビやラジオに出たり、ポスターを貼ったりして、この日の成功に賭けていたのだ。フミヒコはテントの様子をじろじろ眺めているクニオに声をかけた。
「クニちゃん、後でこっちに来て、テント手伝ってくれないか。地ビールただで飲ませてあげるからさ」
「俺、ビールは好きじゃないし……」
クニオはもそもそと答えた。テントに立って、大勢の人間を相手にすると思っただけで腰が引けた。
「じゃあ、牛乳飲み放題だ。女の子もいっぱい来るぞ。彼女を見つけるチャンスだぞ」
「牛乳飲み放題なんか、ちっとも嬉しかないや」
女の子も来ると聞いて心が動いたが、それを認めるのは照れくさくて、クニオは気乗りがしないふりをした。
クニオ、クニオ、と父が呼んだ。すでに運転席に戻り、トラックに乗れと手で示している。父もクニオに劣らず、騒がしい空気が嫌いなのだ。クニオがトラックに戻りかけると、フミヒコがぱんと肩を叩いた。
「手伝い、頼んだからな」
クニオは承知の印に片手を上げて、荷台に飛びのった。
昼飯を食べると、クニオは服を着替えた。洗ったばかりのジーンズに、ハワイに行った従妹が土産物だといってくれたTシャツ。背中にパイナップルの絵の人った明るい柄だ。髪を櫛《くし》で梳《と》かしつけ、鏡を見て、やはりまた片手でくしゃくしゃに乱して、自分の部屋を出た。
廊下で、二歳になる娘を抱いたフサエと出会った。フサエはクニオのこざっぱりした服装に目を止めて口許を綻《ほころ》ばせ、「クニちゃん、お出かけ」と聞いた。
「フミヒコさんにテントを手伝うように頼まれたんだよ。すごく忙しくなりそうだってさ」
クニオは言い訳がましく答えると、嫂《あによめ》から逃げるように玄関へと急いだ。
「お祭り会場に行くんだったら、リョウスケに、一度、家に電話するようにいっといて」 クニオの背中に声がかかった。長兄は会場に行ったきり昼食にも帰ってこなかった。フサエはそのことに食事の間中、憤慨していたのだ。クニオは、わかったよ、と応じて、外に飛びだした。
車庫に行くと、父のトラックはなかった。母も婦人会の手伝いにライトバンで出かけている。クニオは車庫の奥に置いてある自分のバイクを出してきて、牛と義姉の残った牧場を後にした。
今度は好奇心から村の中心部を通ってみた。想像した通り、駐車場になっている役場や介護センターの前は車で混雑していた。その車の間を縫って、人々が「伊名木自然の里」のほうに流れていく。村外から来た者たちに若い年代が多いのは、午後に予定している野外コンサートのおかげだった。コンサートは、マニアの中ではかなり人気のあるジャズバンドが出演することになっていた。
クニオはバイクで人々と車の間をすり抜けながら、女たちを横目で検分していった。どの娘も、村の娘より垢抜《あかぬ》けていた。見慣れた地元の商店や新聞集配所や医院の前を、眩《まぶ》しいばかりの町の女が歩いている。今日一日、村は村ではなくなっていた。町の活き活きした空気が、寂れた商店や道路脇の古びた人家の屋根まで浸していた。クニオは新しいTシャツを背中ではためかせて会場に急いだ。
バーベキュー場は大繁盛だった。昼時は過ぎたのに、まだどのテーブルもいっぱいだ。青空にもうもうと立ちあがる煙の間から、地ビールで酔っぱらった人々の陽気な声が沸きたっている。皿に肉や野菜を盛って客に出していたフミヒコは、クニオを見つけると怒嶋った。
「やっと来たか、待ってたぞ」
フミヒコはクニオを自分の横に立たせると、「おまえは飲み物係だ」と命じた。仕事は簡単だった。食券と引き替えに、地ビールや搾りたての牛乳、もしくはジュースかウーロン茶の缶を出せばいいだけだ。「伊名木ビール」と名付けた地ビールは、かなりの人気を博していて、ひっきりなしに食券を手にした客たちが現れる。次から次へとジョッキにビールを注ぐうちに、ホップの匂いに頭がくらくらしてくる。隣では、肉や野菜の皿、ライスや漬物の皿が飛ぶように消えていく。缶ジュースのリングの抜かれる音、漬物を切る音、青年団の男女の交わす他愛ない冗談。牛や鶏を相手にして、自然の風や水音に包まれていたクニオの世界が一転した。一瞬のうちに都会の喧噪《けんそう》に放りこまれたようだった。時間の流れを見失い、クニオはただ動きまわっていた。
「ビール、お願いします」
爽《さわ》やかな声が、クニオの喧噪の中に飛びこんできた。
声に顔を向けると、台の向こうに女が立っていた。軽くパーマをかけた髪を肩まで垂らして、かりん色の半袖のドレスを着ている。クニオより少し年上、二十歳くらいだろうか、涼しげな目つきに、通った鼻筋。微笑みをたたえた口はオレンジ色に塗られている。大人の雰囲気の中に、どこか悪戯《いたずら》っぽさが混ざっていた。女は人差し指で地ビールの食券を台の上に押しだして、にこりと笑った。目が細くなり、笑いがウェーブのかかった髪の先まで広がった。
クニオは女から視線を引き剥《は》がすと、ジョッキを取りあげ、ビールを入れはじめた。気がつくとジョッキの半分は泡になっていた。「すみません」と口の中で呟《つぶや》いて、クニオは新しいジョッキに注ごうとした。
「いいのよ、それ、ちょうだい」
女は泡半分のジョッキを受けとると、クニオに背を向けて立ち去った。女の戻ったテーブルには、村でペンションを経営している一家がいた。そこに泊まっている客なのだろうとクニオは思った。
ごった返していたテーブルはいつかぽつぽつと空席ができていた。一段落ついたようだ。「まもなく野外コンサートがはじまります」というアナウンスが流れてくると、残っていた客たちも次々に席を立ちはじめた。
クニオはカウンターに寄りかかって休みながら、横目でちらちらとかりん色の服の女を窺《うかが》った。女はビールを、テーブルにいるペンションの経営者とその妻のジョッキに分けて、残った分を飲んでいる。三人はビールを飲み干すと、子供たちを促して席を立った。
クニオの視線は、遠ざかっていく女の揺れる髪やかりん色の服に釘づけになっていた。その姿がバーベキュー場から野外コンサートの会場のほうに消えると、もうじっとしていられなくなった。
「俺、ちょっと用があるから」
売り物の地ビールを飲みながら青年団の仲間と話していたフミヒコに告げて、返事も聞かずにテントを出ていくと、クニオは獲物を追う犬のように、女の後を追いはじめた。女はペンションの夫婦と何か話しながら、芝生の上を歩いていく。
野外コンサートの会場には、すでに大勢の人々が集まっていた。仮設ステージでは、司会者がバンドの説明を行っている。缶ビールやアイスクリームを手にした人々が腰を下ろしたステージの周囲の草の上は、ビールの泡のような興奮にざわめいている。誰も司会者の紹介など聞いてはいなかった。
かりん色の服の女は、人の輪の端のほうで止まった。ペンション経営者の夫婦が、そこにいる知り合いと挨拶《あいさつ》を交わしはじめたのだ。クニオはなにげない様子で女のほうに近づいていくと、見物客のふりをしてその背後に立った。ステージなぞに興味はなかった。クニオはじっと女の後ろ姿を眺めていた。胸がどきどきして、体がこちんこちんになっていた。
ジャズバンドが登場し、前のほうでどよめきが湧《わ》いた。バンドはいきなり演奏を始めた。クニオも知っている有名なヒット曲をジャズ風にアレンジしたものだった。ステージの周囲に座っていた人たちが一斉に立ちあがったので、後ろの者たちは演奏を見ようと、ステージの回りに詰めかけた。かりん色の女も人に釣られて前のほうに動いた。クニオも後ろの人が押してきたのをいいことに、女にくっついた。髪の毛から漂うシャンプーの香りが、クニオの鼻をくすぐる。体温が伝わるほど近くに、女の体があった。音楽は調子に乗っている。後ろの人がますます押してくる。クニオはその波に乗じて、かりん色の女にさらに近づいた。女の丸い肩が、しなやかな背中が、球のような尻が、今にもクニオに触れそうだ。トランペツトやピアノの音が澄んだ空気を揺すぶっている。クニオは、そっと自分の腰を女の尻に押しつけた。男根が女の盛りあがった肉に触れた。クニオは叫びだしたいほどの高揚を覚えた。
その時だった。女の腕がすっと動き、後ろに回りこんだ。華奢《きやしや》な手がクニオの柔らかな男根を包みこみ、何かの合図のように軽く二度握って離れていった。
クニオの喉《のど》から心臓が飛びだしそうになった。思いもよらなかった反応だった。クニオは呆然《ぼうぜん》とその場に突っ立っていた。
かりん色の女は何事もなかったかのように、ジャズに合わせて体を揺らせている。ほんとうに何もなかったのだろうか。偶然、女の手が触れただけだろうか。しかし、男根に触れるのと、握るのとでは牛と鶏ほどの差がある。
クニオは意を決して、女の横に並んだ。横目で見ると、かりん色の女がすばやく目配せした。
女は自分に気がついている。男根を握ったのは偶然ではなかったということだ。自分の行動に、女は応じてくれたのだ。彼はかりん色の女を真似て、体を前後させた。音楽なんか聴いてなかった。あるのは女の美しい横顔だけだ。かりん色の女は、ペンションの経営者夫婦と話したり、心地良さそうに体を動かしたりする合間にちらちらと素早い視線をクニオに投げかける。クニオは青く晴れた空に舞いあがり、走りまわりたい気分だった。
演奏が途切れた。司会者の声が休憩を告げ、観客たちはばらばらと散りはじめた。会場のざわつきの中で、女の頭がついとクニオのほうに傾《かし》げられた。
「ホップ畑で……」
囁《ささや》き声が聞こえたと思うと、女の頭がさっと離れた。柔らかな髪の毛がクニオの頬に触れ、退いていった。一瞬、その髪をつかまえたくなったが、かりん色の女はすでにペンションの経営者一家と共に遠ざかっていくところだった。
ホップ畑というのは、「伊名木自然の里」訪問者に対する村の産業紹介という意図で、文化館の裏手に造られたものだ。だが、植え込みの多いヨーロッパ風庭園の奥という場所の悪さに崇《たた》られ、村の外から来た者がホップ畑の存在に気づくことはまずない。かりん色の女はペンションの経営者に教えてもらったのだろうかと思いつつ、クニオは赤煉瓦の文化館の横を通って、庭園に入っていった。
いつもは恋入たちの散策路となっている庭園は閑散としていた。誰もが野外コンサートに行っているのだ。ホップ畑は檜葉《ひば》の垣で囲われていて、入口に木のベンチがある。クニオはおずおずとそこに座った。
かりん色の女は、ほんとうに来るだろうか。だけど来たらどうしたらいいだろう。
人気のない場所を指定したというのは、女は二人きりになりたがっているということだ。ベンチで抱きあってキスをしたらいいのだろうか。しかしクニオは生まれてこの方、キスなんかしたことはない。掌を唇につけて、キスの真似事をしてみたが、これをホンモノの女相手にすると思うと、心臓がでんぐり返った。テレビや映画でよくやってるように、まずは肩を抱いたらいいだろうか。しかし、それからどうすればいいのだ。やはりキスは避けられないじゃないか。あれこれ思いを巡らせているうちに、檜葉の垣根の向こうで人の気配がした。生け垣の切れ目に、かりん色が現れたとたん、クニオはバネ仕掛けの人形のようにベンチから立ちあがった。
女はクニオに近づいてくると、彼の手を取り、小さな声で「ちょっと歩かない」といって手を離した。そして返事も聞かずにさっさとホップ畑に入っていった。クニオは女についていくしかなかった。ホップは、高さ二メートルほどの柵に絡みついている蔓《つる》だ。蔓に覆われた垣根のような柵が何列にも重なっているので、畑というより迷路に似ている。
二人は並んでホップに囲われた緑の小径を進んでいった。蔓のあちこちに、小指の先ほどの黄緑の実がついていた。歩きながら、かりん色の女は、この村は初めてきたということ、ペンションの経営者は自分の叔父だということ、祭りがあると聞いて、親戚を訪ねてきたことなどを話した。クニオは、ただ、ふぅん、とか、へえ、とか相槌《あいづち》を打つだけでいいので、ほっとしていた。日頃は母と義姉の姦《かしま》しい会話にうんざりしているくせに、今は女のお喋りがありがたかった。
やがてホップ畑の突きあたりにきた。檜葉の生け垣とホップの垣に挟まれた細長い部分が陽当たりのいい斜面になっている。両側を広がった檜葉の枝に包みこまれ、誰の目からも隠された居心地のいい一画となっていた。
かりん色の女に促されて、二人はそこに座った。野外コンサートは再開されたらしい。文化館の向こうから、音楽が流れてきた。
「あっちに戻らなくていいの」
クニオが聞くと、女はかぶりを振った。髪の毛からの匂いが顔にぶつかり、クニオの下腹部にまで達した。瞬時に男根が硬くなりはじめた。なんとかしなくてはと自分を叱咤《しつた》激励して、クニオは背後から女の肩を抱くように手を伸ばした。腕が女の肩を包みこんだと思うや、アイスクリームが溶けるように女の体が崩れて、クニオにもたれかかってきた。二人は草の上に横倒しになった。
女がクニオの首に両手を絡めて、自分の体を近づけた。かりん色の薄手のドレス越しに、二つの乳房も腹もその下の太腿の間の膨らみも感じられた。クニオの男根はますます硬くなって、ズボンを突きあげ、女の腹を押した。女がスカートの下に手を差しこんで尺取り虫のように動いた。下着を取っているのだと気がついて、クニオもズボンの前ボタンを外し、下着と一緒に膝までずり下ろした。女はクニオの腰の下に体を仰向《あおむ》きに滑りこませて、大きく脚を開いた。クニオの腰が女の太腿の間に落ちこんだ。彼は硬くなった男根を太腿の間に押しこんだ。女の柔らかな肉のあちこちに亀頭がぶつかり、弾きかえされた。クニオは動転した。いったいどこに男根を入れればいいのだ。犬や牛のそれはわかっているが、女の体は初めてだ。クニオがとまどっていると、女が腰を動かしてもぞもぞしていたと思うと、何かの弾みで、どこか深い場所にするりと男根が滑りこんだ。温かで、柔らかな襞が男根を包みこんだ。気持ちよくて、クニオは、はあーっ、と大きく息を吐いた。自分の手よりも遥《はる》かに心地よい感覚だった。快感に突き動かされ、腰を二、三度動かしたとたん、精液が迸《ほとばし》りでた。
実にあっけない幕切れだった。クニオは、女の太腿の間から自分の濡れた男根を引きぬくと、落胆のあまりぼんやりしてしまった。
「誰でも最初はこんなものよ」
女の手がクニオの肩に置かれた。恥ずかしさにいっぱいの目で振り向くと、かりん色の女は優しい笑みを浮かべていた。クニオはおずおずと笑みを返した。
遠くからコンサートの終了を告げる拍手が響いてきた。女は草の上に落ちていたベージュのパンティを穿《は》いて、スカートの裾《すそ》を払って立ちあがった。
「私、叔父さんちの二号室に泊まってるわ。一階よ。今晩、窓を開けておくから」
そして、クニオに手を差しだした。クニオがその手を頼りに立ちあがろうとすると、女が笑って下腹部を指さした。うつむくと、まだズボンは膝まで下がったままだ。萎《な》えた男根が茜色《あかねいろ》がかってきた日射しの中でしょぼくれていた。
夕食を食べている間、クニオはホップ畑で起きたことばかり考えていた。初めて女と寝たのだ。初めて手の中ではなく、女の中に射精したのだ。しかし、なんという短さだったのだろう。入れたと思ったら、もう終わっていた。
「リョウスケは、どこで打ち上げしてるのかい」
母が豚カツにソースを浸しながら、フサエに聞いた。白飯を娘に食べさせていたフサエは、自然の里のバーベキュー場だと答えた。
「クニオも手伝ったんだろ、打ち上げには呼ばれなかったのか」
父がクニオに話を向けた。クニオは気が進まなかったのだと答えた。バーベキューには惹《ひ》かれたが、うっかり出ていって、酔った長兄をバイクに乗せて帰る役目を押しつけられるのを怖れたのだ。そうなれば、ペンションに行けなくなる。
今夜また、かりん色の女に会うと思うと、クニオの腹の底がざわついた。今度はうまくいくだろうか。また、あんな無様な結果にはなりたくない。
「クニちゃん、豚カツ、冷めちゃうわよ」
フサエがクニオの皿に半分ばかり残っている豚カツに気がついていった。
「珍しく少食だな」と父も目を止めた。クニオは慌てて、バーベキューの匂いが鼻について、と答えると、「厭《いや》だ、妊娠したみたいな言い方」とフサエが笑った。
クニオの額に汗が滲《にじ》んだ。嫂が妊娠したのも、長兄とあれをしたせいだと連想したのだ。クニオは卓袱台《ちやぶだい》越しに、そっとフサエの下腹部に目を走らせた。ワンピースを通して、丸みを帯びた腹と太腿のあわいがはっきりと浮きあがっていた。
クニオは箸を置いて、「俺、キヨシんちに行く約束があるから」と立ちあがった。
「まだご飯、すんでないじゃない」
母が咎《とが》めるようにいった。腹、減ってないんだ、と答えて、クニオは茶の間から出ていった。
夜、バイクを走らせるのは好きだった。空には星が瞬き、なだらかな丘や林の間に、ちらちらと家々の明かりが灯っている。
かりん色の女の叔父のペンションの場所はわかっていた。『白い雲』という名前で、キヨシの家の経営するチーズ工場の近くだ。県道に出て村役場のほうに向かっていると、ペンションの看板が見えてきた。暗くて文字は読めないが、雲の形でそれとわかる。クニオは看板に従って道を逸れると、細い村道をしばらく進み、木立の間に明かりがちらちらと洩《も》れてくるところでバイクを止めた。バイクを道脇に置き去りにして、歩いてペンションに近づいていく。
七年前、脱サラして東京からやってきたペンション経営者は、変わり者だという噂があった。地元の者とはあまりつきあいがなく、クニオも訪れるのは初めてだ。
ペンションは、白樺《しらかば》の木立の中にある。白いペンキ塗りの洋風二階建てだ。宿泊客はけっこういるらしく、門を入ったところの駐車場には車が五台止まっていた。クニオは敷地に入ると、庭の茂みに体を沈ませた。
玄関左手の食堂には皓々《こうこう》と明かりが灯っていた。薄いレースのカーテンを通して、客と経営者が酒を飲んでいる姿が見えた。
建物の形からすると、客室は食堂とは反対側にあるようだ。クニオは玄関右手に身をかがめて進んでいった。庭に面して、洋風の開き戸が三つ並んでいる。両脇のふたつの窓は閉じられ、中は暗かったが、真ん中の窓の戸は両側に開かれ、弱い明かりが灯っている。クニオは真ん中の窓に近づいていった。カーテンの隙間《すきま》から覗くと、シングルベッドにうつぶせになって雑誌をめくっている女がいた。かりん色の女だった。トレーナーにスパッツという服装だ。
クニオはしばらく女の様子を眺めていた。ベッドスタンドの赤味を帯びた照明の中で、女はとてつもなく美しかった。肩にしなだれかかる髪や、波打つような背中から尻にかけての線。交叉《こうさ》させている足首を動かす時、白い素足が宙にひらりと舞って、まるで蝶が飛びたつように見えた。
そこに女がいることに満足すると、クニオは指先で窓ガラスを弾いた。女は顔を上げ、クニオを認めて微笑んだ。クニオは窓枠をよじ登り、部屋に入った。女はクニオが靴を脱いでいる間に窓もカーテンも閉じた。そして、ベッドに腰を下ろすと、ベッドスタンドを消した。部屋は真っ暗になったわけではなかった。廊下からドアの下を通して入ってくる光で、微《かす》かに物の影がわかる。
クニオはベッドに座ると、女に覆いかぶさった。そして、さっき窓から見たものすべてを手で確かめようと、乳房や背中や尻を抱きしめた。女がトレーナーを脱ぎすてた。丸く柔らかな乳房が、クニオの手に触れた。指の間に乳首を挟んで押すと、女は喉の奥から息を吐いた。クニオの男根が熱くなった。クニオは女のスパッツに手をかけた。すぐに女は自分からスパッツを脱ぎはじめた。クニオもシャツとズボンを脱いだ。
服を脱いでいる間に、少し興ざめしたような気分がしたが、裸になって皮膚をくっつけると、すぐにまた興奮が湧きあがってきた。クニオは女の太腿の間に腰を割りいれた。女体への入口を探して、硬くなった男根を闇雲に動かしているクニオに、女は囁いた。
「ゆっくり……ゆっくりして……」
女の指がクニオの男根の先をつかみ、自分の中に引き寄せた。クニオはいわれた通り、少しだけ腰を前に突きだした。亀頭が柔らかな壁の中に浅くめりこんだ。もう一度腰を引いて、今度は少し強めに押しだした。さっきよりまた少し男根の先が女の中に埋もれた。そこから温かく湿った感覚が滲みでてくる。女は暗がりの中から「そうよ、そうよ」と囁きつづける。それは天国への階段を一歩ずつ昇っていっているような、緩慢で恍惚《こうこつ》とした時間だった。時折、一気に男根を突きいれたい衝動に駆られたが、そうすると今のゆっくりした時間の持つすばらしいものを失うような気がして、クニオは焦れつつも、少しずつ男根を挿しこんでいった。
しかし女の濡れた体内に根本まで男根が入ると、もう我慢できなかった。クニオは思いきり、女の中に男根を突き入れた。女は顎を上げて満足げな息を洩らした。クニオは女の体に何度も何度も男根を引いては入れた。女の体は柔らかな袋のようだった。刻々と形を変え、クニオに絡みつき、愛撫し、全身で彼を包みこむ。どのくらいの間だったかわからない。クニオは全身を快感にわしづかみされて、射精した。そして汗にまみれて、女の上に覆いかぶさった。荒い息を吐きながら、クニオは充足感に浸っていた。
ホンモノの女をものにしたのだ。自分から近づき、この手で手に入れたのだ。クニオは心地よい達成感に満たされていた。
女の手がクニオの頬を撫でた。
「最初に見た時から、いいなと思ったのよ」
クニオは女を見下ろした。ベッドの暗がりから、女の声が聞こえてきた。
「あそこにいた男の子で、素敵だなと思えるのは、あんただけだったわ」
「最初って……いつのことだ」
女は、バーベキューを食べていた時だといった。
「だから、わざわざビールを買いにいったんじゃない」
女はくすくす笑った。
彼が女をつかまえたのではなく、女が彼をつかまえたのだ。さっきまでの意気揚々とした気分が萎《しぼ》んでいくのを感じた。拍子抜けしているクニオを女が抱きしめた。
「あんたが好きよ」
女の乳房が柔らかな腹が、太腿の間が、クニオにぴたりと吸いついていた。その温かさに包まれていると、クニオは、まあ、いいや、という気持ちになった。どちらが先に目をつけようとどうということはない。この女は初めての俺の女だ。俺の手にした初めての女の体だ。そう思うだけで嬉しくて、満ち足りた気分がこみあげてきた。
4 コルトレーンと魔法の綿菓子
カナの微笑みは綿菓子を思わせた。ただの綿菓子ではない。魔法の綿菓子だ。甘く柔らかで、地平線の果てまでも広がっていく。カナはそんな魔法の綿菓子の微笑みを携えて、ローマにやってきた。大学でイタリア美術史を学んだカナは、研究を続けるために留学したのだ。そして一年も経たないうちに大学教授と恋愛して結婚した。ティベレ河を見下ろす丘にある大きなアパルトメントに住み、夫と一緒に大学に通うようになった。
魔法の綿菓子の微笑みを持った女には、イタリアは天国だ。情熱的なラテン系の男たちは、カナの微笑みを前にすれば、どんな扉も開けてくれる。イタリアの熱を受けて、カナの微笑みは入道雲のようにますます力強く、天高く広がり、彼女の全存在を包みこむようになった。
私が会ったのは、そんな時のカナだった。
当時、私はイタリアによくいる日本人留学生崩れの一人だった。学生ビザ目当てで大学に籍を置き、通訳や観光ガイドの仕事をしながら、なんとなく暮らしていた。すでにイタリア生活は五年になろうとしており、今さら日本に戻る気力はなく、かといってイタリアで労働ビザを取れるほどの仕事口もないという、糸の切れた凧《たこ》のような状態だった。
そんな私に、カナの出現は衝撃を与えた。その衝撃とは、私がイタリアで押し殺そうとしていた日本の女というものだったかもしれない。
私がカナに出会ったのは、大学の図書館前のバールだった。通訳の仕事の関係で、少し調べものがあって図書館に出かけていった私は、用事がすんだ後、エスプレッソを飲みに店に入った。そのバールはいつも学生たちで混雑していて、私もよく利用していた。カウンターでエスプレッソを飲んでいると、「チカ」と名を呼ぶ声が聞こえた。見ると、奥のテーブル席でフラヴィオが手を挙げていた。フラヴィオは六人ほどの男女の学生の輪の中にいた。私はエスプレッソを空にして、近づいていった。
狭い店に乱雑に置かれた椅子の間を擦り抜けていくと、学生の中に二十代半ばくらいの東洋人女性が混じっていることに気がついた。春めいた白いモヘアの半袖セーターに、肩までかかった黒髪が映えている。色白の滑らかな肌に、三日月をふたつ並べたような目。唇の両端はいつでも笑えるように少し上がっている。テーブルに両肘を出して、小さなコーヒーカップをいじりながら、穏やかに周囲の空気に溶けこんでいる。適度に自分を抑制したようなその雰囲気から、すぐに日本人だとわかった。
それがカナだった。カナは私を認めると、魔法の綿菓子の微笑みを顔いっぱいに浮かべてみせた。私も反射的に微笑んだが、カナの微笑みにはかなわないことを瞬時に悟っていた。私の微笑みは、友好関係を結ぼうとする下心から出ていた。しかし彼女の微笑みは、それ以上のものだった。下心よりもっと深いところから生まれでてきた表情。それが故に、人の心をとろけさせ、警戒心を失わせる。この微笑みを前にすれば、女も男も抗する気持ちが萎《な》えてしまう。だからこそ、それは女としての強力な武器ともなる。
もちろん、こんなことは後でカナをよく知るようになってから理解したことだ。しかし私はその時、負けた、と思った。だからフラヴィオが、同じ日本人だよと騒ぎたてて、カナを紹介してくれたが、二、三言、日本語であたり障りのない挨拶《あいさつ》を交わしただけで、私はバールを出ていった。
それでも私はカナと友達になった。偶然、日本大使館の窓口や、大学の近くの道で出会ったりすることが重なり、やがてバールでお茶を飲みながら話すようになった。
カナは、教養があって優しいイタリア人の夫マウロのこと、その愉快な両親と家族、夫婦で予定しているギリシャ旅行のこと、学生仲間との陽気な交流などを、いかにも嬉しそうに語った。カナはローマでの生活を満喫していた。異国での孤独感は、夫や友達との交流により、幾重にも守られていた。私はそれが不満だった。カナの何の曇りもないような人生に疑いを差し挟みたくなった。私はカナに、こう尋ねたことがある。
「でも、大学まで夫と一緒に通うなんて、窮屈じゃない。いつも監視されてるみたいで。教室で男の学生と仲良くしてたりして、嫉妬《しつと》されないの」
カナは、とんでもない、というようにかぶりを振った。
「マウロはむしろ、男でも女でもどんどん友達を作りなさいといってくれるのよ。刺激になっていいからって」
「まさか一緒に寝てもいいとまではいってくれるわけじゃないでしょ」
私の言葉に、今度こそカナは異星人と話しているような表情をした。
「大学の男友達と寝ることなんて、考えたことないわ」
「ほんと、若くて、かっこいい男の子、いっぱいいるじゃない。むらむらときたりしない」
私は意地悪く突っこんだ。私自身、慢性の欲求不満に煩わされていた。恋人ができても、長続きしない。二、三ヶ月でたいてい駄目になってしまう。お互いの嫉妬や生活リズムの差、いろんなことが口喧嘩《くちげんか》の種となり、別れてしまう。よく考えれば、私の中にある常にどこか満たされない感覚に通じているのだが、何に起因するのかわからないから、出会いと別れの繰り返しだ。そして別れると、次の恋人が見つかるまでの何日か、もしくは数ヶ月かの間、欲求不満が溜《た》まってくる。そうなると男なら誰彼かまわず寝てみたくなる。イタリアだけあって、町のあちこちで声をかけてくる男には困らない。しかし私は軽い女に見られたくないと、無視していた。その癖、そんな男たちと寝ることを夢想して、夜になると自慰に耽《ふけ》った。
こんな私自身の悩みから出てきた質問だから、カナは簡単に否定するだろうと思った。しかし、カナのいつも微笑んでいる唇が一瞬、動きを止めた。ほんのわずかの逡巡《しゆんじゆん》の後、カナはまたいつもの笑みを取り戻し、「まさか」とかぶりを振った。しかし、私はその微《かす》かな戸惑いに嘘を嗅《か》ぎとった。
結婚してから、浮気をしたことはないのか。私はカナに重ねて聞いてみたかった。しかし、人妻というのに、無垢《むく》な処女のような印象を与えるカナにそんなことを聞くのはためらわれた。実際、カナと、セックスとは対極にあるようだった。それでいて、カナはいつも自分のかもしだす魔法の綿菓子の微笑みと交わっていた。
イタリア人の学生仲間に囲まれているカナを何度か見かけたことがある。そんな時、彼女の頭上あたりに魔法の綿菓子の笑いがふわふわと漂い、パールピンクを放っていた。それはカナが自分の放つ微笑みと交わって生まれる色だった。その魔法の綿菓子に、その美しい色に、男たちは魅了され、カナを天使の如く崇《あが》めたてまつっていた。私にはできない芸当だった。空に浮かぶには、私は人生に対して猜疑《さいぎ》的でありすぎた。
しかし、カナが自分にないものを持っていたからこそ、彼女に惹《ひ》かれたのだろう。私は自分の小さなアパルトメントにカナを呼んで、昼食を一緒にとったり、彼女とマウロの家に招かれたりするまでに親しくなった。マウロが学術会議などで出張したりすると、二人だけで外で食事をするようにもなった。よく行ったのは、ナヴォーナ広場の近くにあるワインバーだ。私が通訳の仕事で知り合ったデザイナーが共同経営者となっている店で、仕事の後、客と一緒に連れていってもらったのが縁で通うようになったところだ。煉瓦《れんが》壁にアーチ形の柱が連なり、地下室の雰囲気を漂わせている。棚に行儀良く並んだ年代物ワイン。店のあちこちに置かれた近代彫刻。店の半分は食事もできるようになっている。カウンター席と向かい合う壁一面とその両側の壁の半分ほどまで、作りつけの腰掛けが巡らされ、前にテーブルが並んでいた。客はデザイナーの知己を反映して、美術関係、ジャーナリスト、弁護士や教授などが多かった。カナはその店でも歓迎された。カナと一緒だと、あちらの紳士《シニヨーレ》から、といって、ワインやリキュールが運ばれてくることもしばしばだった。そんな好意を示してくれても、彼らはあくまでも紳士的にそれ以上近づいてくることはなかったから、私たちは飲物を奢《おご》ってくれた相手を離れたところから検分して、あの男かっこいいわね、あの年寄りはちょっと遠慮したいわ、などと他愛ない品定めに興じていた。やがてデザイナーとの共同経営者である店の主や、常連たちと挨拶程度の会話を交わす機会も重なり、その店は私とカナにとって居心地のいい空間となっていた。
「友達が訪ねてくるのよ」
カナが興奮したようにこういったのも、そのワインバーでのことだった。玩具会社の商品開発部で働いている大学時代の友人で、一緒に美術館の監視員のアルバイトをしたり、イタリアに語学滞在したり、常に二人くっついて行動していた間柄という。カナはその友達とどんなに仲がいいか、彼女がどんなに楽しくて優しい人柄かといったことを熱っぽく語り、「彼女が遊びに来たら、三人でお食事会でもしましょうよ」とつけ加えた。
ええ、そうね。私は応じたが、数日後には忘れていた。
「お食事会、今週の週末はどうかしら」
カナから電話がかかったのは、秋になってからだった。夏休みの間、観光ガイドとして忙しく働き、やっと取った休暇でアマルフィ海岸の小さな避暑地で一週間過ごして帰ってきたところだった。恋人もない一人旅だ。終わりない自慰行為のような穏やかさの反面、虚《むな》しさも味わいつつ、ローマに戻って数日過ぎていた。食事会ととっさにいわれても、私は何のことかわからなかった。
「ヤスミが来たのよ、ほら、この前いっていた大学時代の友達」
それでようやく私は、夏前のカナとの会話を思い出した。夏休みの間、カナとは電話で少し話をした程度だったから、久々に会うことに異存はなかった。マウロはどうするのかと聞くと、日本人女は一人で手一杯なのに、三人もまとめては面倒は見きれないから遠慮するんだって、とカナは笑っていった。私はほっとした。カナはマウロの前だとつまらない女になる。それが半年ほどのつきあいから、感じ取っていたことだった。私は卓上のスケジュール表を眺め、金曜日の八時に約束した。
金曜日、青白い照明に浮かびあがるナヴォーナ広場を横切って、私はワインバーに急いでいた。アクセサリーの買い付けに来た日本人バイヤーを案内する仕事が入り、商談が長引いたために、私が広場に着いたのは八時半近くになっていた。アパルトメントに戻ってシャワーを浴びて着替える暇はなかった。仕事の空気が全身にまとわりついていることが、私を不快にしていた。
頭上には、教会のドームや荘厳なバロック様式の建物に細長く切りとられた菫色《すみれいろ》の空が広がっている。中央にすっくと立つオベリスクと、その周囲に湧《わ》きでている噴水。噴水の回りにはイタリア人の若者が集まってギターを弾いている。アルバニアやユーゴスラビアなどから来たらしい男たちが固まってそれに聴きいり、路面に商品を並べてバッグや時計を売るアラブ人が通行人に呼びかけている。広場から脇道に入って、二、三分歩き、ワインバーに着いた。入口の重い木の扉を開いて階段を数段降りると、天井の高いこぢんまりした店内が見えた。客が入りはじめたところだった。階段の半ばに立って眺めると、カウンター正面のテーブル席でカンパリソーダを飲みながら話している二人の日本人女性の姿があった。一人はもちろんカナだった。パール色の絹のシャツブラウスにペパーミントグリーンの巻きスカート。髪の毛をアップにしている。友達のヤスミというのは、杏色《あんずいろ》のワンピースを着たショートカットの女性だ。二人は壁を背にした腰掛けに並んで座り、肩を寄せあい、手をひらひら動かしたり、頭を縦や横に振ったり、唇を尖《とが》らせたり横に広げたりしながら話していた。
私は二人から発散される無防備な空気に惹きつけられた。ここはローマだ。暗い通りに出ると、ハンドバッグをひったくられるかもしれない、行きつけのレストランとはいえ、不用心にバッグを隣の椅子に置いていたら盗まれるかもしれない。イタリアでは四六時中、周囲に神経を尖らせてなくてはならない。しかし、この二人にはそんな緊張感はない。生ぬるい湯の中にすべてがひとつに溶けあうような日本独特の空気が漂っていた。イタリア暮らしに馴《な》れた私とカナとが一緒にいたのでは、決して生まれない空気だった。
私が立っていると、店の主が見つけて、日本の友達はあそこにいますよ、と声をかけてきた。それでカナが私に気がついて、顔の横で小さく手を振った。私は二人のテーブルに近づいていった。
「チカさんですね。カナからお噂は聞いてます」
ヤスミは、はきはきした口調でいった。まるで新たな得意客を紹介された営業員のような言い方だ。明るく聡明《そうめい》なビジネスウーマンの顔が覗《のぞ》いていた。丸顔に大きな瞳を持つこの女は、カナのような曖昧《あいまい》さや甘さは持ちあわせてはいない。しかし、そのおかげで会話の糸口は簡単に見つかった。私もヤスミに同調して、噂はよく聞いていたと答え、それから遅れたことを詫《わ》びた。
私たちはすぐに料理を注文した。前菜と、パスタやリゾット、それにカナは魚、私とヤスミは肉料理を注文した。それから赤ワインと発泡性の水を頼み、私はヤスミに、ローマのどこを見てまわったのかと、日本から来た者には誰にでも質問することを聞いた。ヤスミはやはり、そんな時に誰もが答えるように、スペイン階段やフォロ・ロマーノやパンテオンの名を挙げていった。
「コロッセオの入口のところで、物売りの男につきまとわれたんですよ。カナがいてくれなかったら、どうなったかわからない」
「あんな時はきっぱり断らないといけないのに、ヤスミったら、おろおろして、あっちいって、なんて日本語で叫んでいるんだもの」
「なによ、カナが断ったって、たいして効果なかったから、二人してばたばた逃げたんじゃないの。まったく迫力ないんだから」
「あら、ひどい。助けてあげたのにそんなこといって」とカナが、ヤスミの背中を叩《たた》いた。ヤスミは体を捻《ひね》って逃げながらいい返した。
「カナに助けられるようになったんじゃあ、私もお終《しま》いだわ。ほら、チイコんちの軽井沢の山荘に行った時、カナったら窓に当たる木の枝を泥棒と間違えて大騒ぎしたじゃない。みんなにさんざん臆病者っていわれて……」
「ひどぉい」
カナが甘ったるい声を上げて、二人は山が崩れるようにひとつになって笑った。その胸の揺れから、カナはブラウスの下にはブラジャーをつけてないことに気がついた。いつも学生らしい格好で歩いているカナにしては大胆だった。シニョンに結って、絹のブラウスを着て、カナは今夜は女らしく装うことに執心している。ヤスミのせいだろうかと、私はちらりと思った。日本から来た友達に、女としての競争心を燃やしたのだろうか。それとも、心を許せる女友達がそばにいることで、安心して大胆な装いを試してみたのだろうか。
私たちはワインを飲み、前菜をつつき、ヤスミから日本の最新情報を、カナから夏休みにマウロと訪ねたギリシャ旅行のことを聞いた。
パスタを食べ終わった頃には、レストランはいっぱいになっていた。気がつくと、ひとつ置いて向こうのテーブルに、私をこの店に紹介してくれたデザイナーのアルベルトが他の四人の男女と一緒に座っている。白髪をぴたりと後ろに撫《な》でつけ、丸眼鏡をかけたアルベルトが、私にウインクした。その横に座っているのは、まっすぐな金髪を耳のすぐ下で刈った、初老の女性だ。大きく胸の開いたシャツに男っぽいジャケットを着ている。彼女の隣には、肉付きのいい頬をした丸刈りの男、その向かいには、南イタリア人風の丸顔に、ずんぐりした鼻、愛嬌《あいきよう》のある表情をした女が縮れた黒髪を肩の上に波打つベールのように広げている。最後の一人は、以前、私たちの席にリキュールを届けてくれたことのある医者のルチアーノだった。三十歳そこそこのぱりっとスーツを着こなした男だ。しっかりした頬骨、少し釣りあがった目尻、短く切った髪が精悍《せいかん》な印象を与える。ルチアーノは私たちを見てにっこりしたが、その視線のほとんどはカナに向けられているのがわかった。カナは気づいているのだろうかと窺《うかが》うと、カナは魔法の綿菓子の微笑みをそちらに向けてルチアーノを見返している。いつまで見ているつもり、と聞きたくなった時、ヤスミが「それで、マウロとギリシャから船でベニスに戻ったんでしょ」といいだしたので、カナは驚いた小鳥のように私たちの席に顔を戻した。
メインの料理が来た。カナは鯛《たい》のクリームソース添え、私は子羊の香草焼き、ヤスミはローマ名物サルティン・ボッカだった。私たちは赤ワインをちびちび飲みながら話を続けた。カナは酒に弱いので、赤ワインはほとんど私とヤスミのためだった。
ヤスミが会社の男性上司に対する怒り悪口をぶちまけ、カナが夫との幸せな生活を語り、私はイタリアでの仕事の効率の悪さ、通訳業の愚痴をこぼした。私たちは順繰りに自分のことを語り、他人が話しだすと相槌《あいづち》を打ち、再びお鉢が回ってくると、またもや自分を語ることに戻っていった。こうして独白に終始する女の会話を、私たちは楽しんでいた。
不意に、テーブルに影が射した。銀の盆に、苺色《いちごいろ》のシャンパンの入ったフルートグラス三脚と洋梨ケーキの皿を載せたウエイターが立っていた。
「日本人の女性方にと、あちらの方々から……」と、アルベルトの席を目で示した。私たちの席を隔てるテーブルにいた客は帰っていたので、アルベルトたちの様子はよく見えた。彼らが集まったのは、何かの祝い事のようだった。皿の上に洋梨ケーキが取り分けられ、シャンパンのボトルが置かれている。私たちが戸惑っているのを見て、アルベルトが、隣の金髪の女性は画家で何か賞をもらったことを告げた。ヤスミが、どうすればいいか問うようにカナを見た。カナはシャンパングラスを手にして、アルベルトたちのテーブルのほうに身をかがめるようにして「|おめでとう《コンプリメンテイ》」と微笑んだ。あの魔法の綿菓子の微笑みが、アルベルトのテーブルまで達し、その場にいたイタリア人たちは心地よい表情になった。二つのテーブルで一緒にグラスを掲げ、私たちはシャンパンを啜《すす》った。
それから、またそれぞれの会話に戻っていった。少しだらけていた私たちに、シャンパンとケーキが活力を与えてくれた。ヤスミが日本で見たイタリア映画のことを話しだした。私とカナも、その映画は知っていたので、映像のこと、配役のこと、同じ監督の別の映画のことなどを話しだした。話題は映画から、テレビヘ、そして俳優のゴシップヘと移っていった。そうしている間に、周囲のテーブルの客は一組、二組と消えていった。厨房《ちゆうぼう》はお終いだという知らせがきて、やがて私服に着替えたコックが外に出ていくのが見えた。
私たちはそろそろ去る時間が来ていることに気がついて、勘定を頼んだ。釣り銭を持ってやってきた店主を見ると、革製のジャンパーを羽織り、すでに帰り支度を整えていた。
「ごめんなさい、もう閉店なのね」
私がいうと、口髭《くちひげ》を生やした主は人差し指を立てて唇の前で横に振った。
「ゆっくりしていってください。いつもならもっと遅くまで開けているんですけど、今日はちょっと用があって先に帰るんです。でも、アルベルトが鍵を持っていますから、お気になさらずに」
店主が顎《あご》で示したので、アルベルトは事情を察したのだろう。胸を叩いていった。
「もっと楽しんでいってください」
アルベルトの回りの四人も首を捻って、私たちのほうを見て、誘うように頷《うなず》いた。アルベルトは店主に申しつけて私たちのグラスにさらにシャンパンを注ぎたさせた。そして店主は消え、私たちはまた会話に戻っていった。
ジャズに気がついたのは、いつのことだったろう。サルディニアの海の碧《あお》さを話していた私がふと口を噤《つぐ》んだ時、カウンター前の少し開けた空間で、体を寄せあって踊っている男女の姿が目に入った。その二人のゆったりした動きを見なければ、音楽に気づかなかったかもしれない。耳を澄ますと、低いサクソフォンの音が聴こえた。コルトレーンだった。二杯のシャンパンで桜色に上気した頬に水のコップをあてているカナや、夢に酔っているように、左肘を突いて仄暗《ほのぐら》い天井をぼんやりと見上げているヤスミがコルトレーンに気づいているかどうか、わからなかった。それは西洋人が、天使が舞いおりた、という一瞬だった。カナは喋り疲れて心はここにないようだったし、ヤスミもビジネスウーマンの仮面を脱ぎ棄てて、ただイタリアの空気の中で放心していた。
私はシャンパングラスを傾けて、店内を見回した。店に残っているのは、アルベルトの仲間と、私たちだけになっていた。アルベルトの席にいるのは、彼と金髪の女性と医者のルチアーノの三人となり、丸刈りの男と黒い縮れ毛の女が踊っているのだった。私の視線に釣られて、カナもヤスミも踊る男女のほうに顔を向けた。その時、ルチアーノがふわりと立ちあがって、こちらにやってきた。そして、カナの肩を包むように手を置いて、「踊りませんか」と誘った。カナは、ヤスミと私を困ったように見た。戸惑いと、興奮がその顔に浮かんでいた。
「行けば」
ヤスミはおもしろがっていった。私も促すように手を振った。カナはルチアーノに連れられて、カウンターのほうに歩きさった。ヤスミは壁に背をもたせかけて、それを見送っている。まるで結婚式で花嫁を見守る母親のようだと、私はふと思った。ヤスミから目を逸《そ》らした時、アルベルトが、こっちに来い、というように指で自分のテーブルを示した。私はヤスミに断って、アルベルトの席に行った。
私は勧められるまま、縮れ毛の女の座っていた席に腰を下ろした。アルベルトはグラッパのボトルをテーブルに置いて、ちびちびと飲んでいた。テーブルには、踊っている二人のためらしい空のリキュールグラスが置かれている。そのひとつに透明なグラッパを注ぎ、アルベルトは私に差しだした。
「コルトレーンに」
アルベルトはいった。私は彼と、筒型の小さなリキュールグラスを合わせた。コルトレーンの曲をかけたのは、アルベルトだろうかと思いながら、私はグラッパを啜った。蒸留酒の強い味が喉《のど》を灼《や》いた。
カナとルチアーノは私たちのすぐ近くにいた。踊っているというよりは、立ち話しているというほうが当たっている。ルチアーノは絹のブラウスに浮きたつ細い背骨に指先をあてて体をゆっくりと揺らせながら、カナの耳に唇をつけるようにして囁《ささや》いていた。
最初にあなたを見た時……心が……肩をすくめ……美しかった……。
切れ切れの言葉が私のところまで届く。カナは首を少し傾《かし》げ、男の言葉に聴きいっている。まるで男の手であやされている、幸せな赤子のようだ。
「|人生は機能する音楽である《ラ・ヴイタ・エ・ムージカ・イン・アツト》」
アルベルトの声に、私は顔を向けた。黄色の細い革のネクタイをしたこのデザイナーは、無精髭の生えた頬に皺《しわ》を刻みつけ、うっすらと笑って続けた。
「|その構成要素には意味はわからない《レスタ・インコンプレンシビレ・ペル・イ・スオイ・コンポネンテイ》」
私は眉をひそめてアルベルトに意味を問おうとした。しかしアルベルトは、聴くように、
というふうに右の人差し指を宙に立てた。左手は波のようにテーブルクロスの上で動いている。アルベルトの横に座る金髪の女の萎《しな》びた指が、動く彼の手の甲をゆっくりと撫でていた。私は店内に視線を巡らせた。
薄灰色の大理石の床に、ばらばらと散らばる木の椅子。テーブルの上で小首を傾げる薔薇《ばら》の花。黒い無言の観客のように棚に並ぶワインの列。そそり立つ煉瓦壁が天井の高みで闇に呑まれている。たった今まで栄えていた文明が瞬時に消えた、そんな廃墟《はいきよ》を思わせる空間に、コルトレーンと男の囁きが流れている。
遠い日に見た……秋のナポリ……ため息がこぼれ……貴女を……。
ルチアーノは囁きつづけながらカナの肩を左手で抱きすくめ、右手でブラウスの一番上のボタンを外している。絹の襟が花びらのように開いて乳房の上に垂れさがった。男はその襟の間に唇をつけた。カナは首を反らせて、蕩然《とうぜん》と微笑んだ。
真珠貝のよう……貴女の輝きが……こぼれ落ちて……。
男はカナの胸骨の上で詩のような言葉を紡ぎだし、二番目のブラウスのボタンに指をかける。ブラウスがしなだれ落ちて、乳首が覗く。パールピンクのカナの微笑み色の乳首。男はその乳首の周囲に唇を這《は》わせる。魔法の綿菓子の微笑みがカナの唇から顔、そして全身に広がっていく。コルトレーンの調べが、魔法の綿菓子を甘く柔らかく、どこまでも膨らませていく。
日曜日……ブリオッシュの香ばしさ……カフェの苦み……貴女の唇……百合の花……。
カナの体がゆっくりとのけ反った。男の手がその背を支えるように動き、カナをすぐ近くの壁際の腰掛けに誘う。男はカナの上に覆いかぶさりながら、ブラウスの三番目のボタンを外す。絹のブラウスはふたつに大きく割れ、カナの乳房や滑らかな腹が露《あらわ》になる。男は乳房から、美しい曲線を描く腹へと接吻《せつぷん》を移していく。
立ち止まる……昨日……白貂《しろてん》の毛皮……私の神秘……憧《あこが》れて……。
カナは長椅子に横たわり、目を半ば閉じて男の言葉にたゆたっている。ペパーミント色の巻きスカートのスリットが割れて、太腿が覗く。
アルベルトもその横の金髪の女も、カナとルチアーノをうっとりと眺めている。踊っていた丸刈りの男と縮れ毛の女も抱き合った姿のまま立ち止まり、二人を見つめている。皆、カナの魔法の綿菓子の微笑みに包まれてしまっていた。カナはその微笑みを無数の波のように放ちながら、男の腕の中でとろけていく。ルチアーノはカナの腹に顔を半ば埋め、太腿を撫ではじめた。
睡蓮の花……薔薇水……ティボリの噴水……手を繋《つな》いで……ふたり……。
ルチアーノの右手がカナのスカートの下に延びていく。左手は乳房から腹を優しく撫でつづけている。カナは顔を巡らせ、うっすらと開いた三日月型の目を周囲にさまよわせた。アルベルト、金髪の女、私、ヤスミ、丸刈りの男と縮れ毛の女。回りに点在する私たちを焦点のぼやけた視線で眺め、さらに誰かを探すようにカナは顎を動かした。しかしその誰かを見つけたのかどうかはわからない。カナの動きは再びヤスミのところに来て止まった。
ヤスミは、カナの差し向かいにあたる腰掛けに座っていた。杏色のワンピースの太腿の間に両手を突っこむようにして組み合わせ、放心した表情でカナを見つめていた。丸い瞳は月夜の水盤のようにきらめいている。私たちが見ている間に、その水盤が溢《あふ》れて、一筋の涙が頬に滑りおちた。涙は頬から唇の端に達し、それがきっかけとなったのか、ヤスミの唇がわずかに動き、泣いているような笑っているような表情を作りだした。長椅子に横たわり、陶然と友を見ていたカナの顔にもヤスミの表情とそっくりなものが浮かんだ。
貴女を……望み……震え……これほどの欲望は……もう……。
男は言葉を重ねつつカナの下着を外し、自分のズボンの前を開き、女の太腿の間に腰を差しいれた。カナの体が、硬くなった男根を呑みこんだ。
コルトレーンが流れている。
男は両手でカナの肩を抱きながら、腰を強く引き、男根を差しいれ続ける。カナは腰掛けの上で弓のように顎を反らせ、口を丸く開き、男の情熱を受けとめる。シニョンの髷《まげ》は解け、黒髪が川の流れのように崩れおちた。ハイヒールが脱げて大理石の床に転がった。カナの指先が震え、絹のブラウスの下の腹が反り返った。ヤスミの瞳の水盤に湛《たた》えられた水のように、カナの全身から歓喜がこぼれていく。溢《あふ》れる歓喜が、涙が、愛液が、情熱の迸《ほとばし》りが、その場にいる私たちに伝わっていく。
ふと見ると、ヤスミが肩で息をしていた。股は少し開かれ、右手が杏色のスカートの下に差しこまれていた。スカートの前が蝸牛《かたつむり》が這うように揺れている。ヤスミは自分のクリトリスを撫でているのだった。その丸い瞳は友の肢体を前に見開かれ、ヤスミの表情は、カナの歓びに呼応して、花のように大きく開いていく。
杏色のスカートの下でゆっくりと動く指、力強い男の腰の動き、女のどこまでも広がりゆく歓喜、体を寄せ合って佇《たたず》む男女、男の手の甲を撫でる女の指、テーブルに音楽を伝える男の指、そして私は、自分の太腿の奥でもひとつのリズムが生まれはじめたのを感じていた。
5 放っておいて、握りしめて
『ペニスは女性だと思ってください。優しくしてあげれば歓びます。あなた自身がされたいように、撫《な》でさすってあげてください。握りしめ、すぼめた掌に力を入れたり緩めたり、たまには睾丸《こうがん》のところまで指を伸ばしてあげましょう。男性もまた自分でマスターベーションをするよりも、女性の手で愛撫されるほうがよほどいいものです。』
スプリングが緩んできたベッドに寝転がって、女性雑誌のセックス特集記事を読みながら、ミチカは顔をしかめた。男のペニスとは、ほんとうにそんなものだろうか。だとしたら、あの時に試してみるのだった。ミチカはビニール袋からつまみだしたポテトチップスを、微《かす》かな後悔と共に、前歯でぱりっと噛み砕いた。
今年の夏休み、高校のテニス部の合宿のために訪れた大里高原で、ミチカは初体験をした。相手は、やはり高原に合宿に来ていた他の高校のテニス部の子だ。合同練習や対校試合をしているうちに親しくなり、自由時間に一緒に散歩をするようになった。ミチカよりひとつ年上の男の子だった。そして最後の晩のキャンプ・ファイヤーの時、二人は仲間の輪からこっそり抜けだして、宿舎の裏手で交わった、と思う。確信に欠けるのは、あたりは暗かった上にミチカの頭はぼうっとしていて、よくわからないうちに事が終わったせいだった。股の間に何かが入ってきて、もぞもぞ前後に動いているのは感じたが、いったいそれが膣《ちつ》の中のことなのか、太腿の間でのことなのか、よくわからない。でも、まあ、悪い気持ちじゃないな、と考えているうちに、相手の子は突然、動きを止め、股の間にあったものはどこかに消えてしまった。これが処女喪失というものかしらと思ったが、ミチカの中で初体験の証拠として定かに残ったのは、太腿の内側についたべとべとした精液だけだった。
おかげで、合宿から戻って一ヶ月間、赤ちゃんができたらどうしようかと不安な日々を味わった。しかし、いざ生理が来てしまうと、すべては夏の夜の夢の如く非現実なものとなり、秋に入ると、自分はほんとうにあれをしたのだろうかと疑いだす始末だった。
結局、あたしはまだ処女かもしれない。そんなことを考えながら、ミチカはまた雑誌に目を落とした。
『ペニスは時々、強く握りしめられ、激しく振られることも求めます。恋人同士が喧嘩《けんか》した時、女性が男性に、放っておいて、抱きしめて、と叫びたくなるような矛盾した衝動、そんなものだと思えばいいのです。』
ふうん、とミチカは喉《のど》から声を洩《も》らした。わかったような、わからないような文章だった。ミチカはポテトチップスをひとつかみ取りだすと、口いっぱいに頬張り、ばりばりばりと齧《かじ》った。
ミチカが妹と共有している部屋は、午後の日射しでぬくぬくと暖まっている。窓際には、机がふたつ。窓を挟んだ壁際には、それぞれのベッドが置かれていた。金魚柄のカバーのかかった妹のベッドの上には、セーターが脱ぎ散らかされている。土曜日の午後、妹はピアノの練習に行っている。ミチカがこの部屋を自分のものとして使える貴重な時間だった。
ミチカはもぐもぐとポテトチップスを食べながら、仰向《あおむ》けになった。窓から射しこむ夕日が絨毯《じゆうたん》を這《は》い、ベッドの裾《すそ》に達している。ミチカはその細長い光の筋を横目で眺め、スカートの下に手をつっこんだ。パンティの上から、太腿の付け根にある割れ目を指でなぞってみる。
キャンプ・ファイヤーの夜、ほんとうにここにペニスが入ったのだろうか。
従妹の子供のおちんちんや、父親のペニスは見たことはあるが、そのたらんと股の間でしなだれたものがどのようにして自分の中に入るのか、はっきりとはわからなかった。友達の部屋でこっそり見せてもらった厭らしいマンガやビデオでは、ペニスはいざとなると硬くなるものだというが、ミチカにとってそれは雲をつかむように曖昧《あいまい》な話でしかなかった。
「ミチカーっ」
部屋の外で母の声が聞こえた。ミチカはさっとスカートの下から手を引き抜いた。同時にドアが開いて、ショートカットにした母の細長い顔が覗《のぞ》いた。
「またベッドの上でものを食べて」
母はベッドの下の絨毯に目を遣《や》って、しかめっ面をした。
「ちゃんと後で掃除するって」
ミチカは雑誌を閉じて、うんざりした口調でいった。ミチカの母は、買物に出かけたり、コミュニティスクールでフラワーアレンジメントを習ったり、友達とファミリーレストランでお喋りしたりする時以外は、いつも家にいる。最近、ミチカは部屋にいても、常に母に監視されている気がする。中学生の時まではそんなことはなかったが、高校生になるとなんとなく母の視線がうっとうしい。
「後というのが、一週間後なんてのじゃなければいいけどね」
母は皮肉で応じてから、ドアのノブに手をかけたまま続けた。
「ショウちゃんが来てるわよ」
ショウタロウの名を聞いたとたん、ミチカはベッドから飛びおきた。ショウタロウは、ミチカの遠縁にあたる。高校は別だが、同い年で、同じ町に住んでいる。子供の時から知っていて、今も時々スクーターに乗ってミチカに会いに来る。ミチカの友達がショウタロウの高校の男の子を好きだったり、ショウタロウの高校の子がミチカの高校の子とつきあっていたりしているので、二人で話しているうちにさまざまな裏話が出てきて、けっこう楽しい。それはミチカが学校の友達に流す噂話の情報源ともなっていた。
ショウタロウが来ると、家の門のところで立ち話するのが習慣だったから、ミチカは椅子の背にかけていたジャージーのジャケットを取りあげた。それに気がついた母がいった。
「外は寒いわよ、お部屋に上がってもらったら」
「ううん、いい」
ミチカはかぶりを振った。部屋の中だと気楽に話ができないのだ。なにしろ母も知っている同級生の子が妊娠して堕《おろ》したとか、うまいカンニングの方法といった話題が出てくるのだから。母は、ミチカとショウタロウは小学生の時のままの内容をお喋りしていると思っている。
ミチカはジャケットを羽織ると、母の前を通って外に出ていった。
ショウタロウは、家の門を入ったところにスクーターを止めて、座席に乗ったまま待っていた。小柄な体を紺色のジャンパーで包み、細い脚を座席から突っ張りだしている。
「レコード屋に行ったついでに近くを通ったんで、寄ってみたよ」
ショウタロウは色白の顔に、少し照れたような笑みを浮かべていった。ミチカの家に立ち寄るたびに、ショウタロウはさまざまな言い訳をする。
駅前のゲーセンで遊んだ後だとか、友達の家に行ったついでだとか、スクーターを乗りまわしていたら近くにいたとか。言い訳なんかしなくていいのに、とミチカは思う。ショウタロウが自分を好きなのだとわかっていた。
中学生の時は仄《ほの》かな自覚だったが、高校生になった今では、かなり確信を持ってそう感じるようになっていた。
ミチカはというと、たぶん好きかもしれないと思う。でも、よく考えると、わからなくなる。
夏休みの合宿で知り合った男の子は、とても好きだと思った。大里高原から戻ると、友達に「あたし、恋をしたんだ」と吹聴してまわったものだった。親友のヨシミとタカコとキミコには、初体験までしたことを打ち明けた。男の子の町は、ミチカの町とは電車で三時間かかるほど離れていたので、夏休みの間中、毎日のように電話で話した。しかし、二学期が始まると、電話がかかることも、かけることも間遠くなって、あまり好きではなくなったことに気がついた。考えてみると、最初から、彼のことが好きだったかもわからなくなった。そんな経過があるものだから、ミチカは、好き、という感情に慎重になっている。
「レコード屋で何か買ったの」
ミチカはショウタロウに近づいていった。ショウタロウは「ううん」と答えて、スクーターから降りた。
「今月、小遣いに乏しいからさ」
門を入ったところに、金木犀《きんもくせい》の茂みがある。コンクリートの塀沿いの少し奥まったところに植えられていて、その木陰で話すと、門の外からも家の中からも二人の姿は隠れる。ミチカとショウタロウは、どちらからともなくいつものその場所に歩いていった。
金木犀はちょうど花時だった。茂みからは、ぷんと甘ったるい香りが漂ってきた。
「ショウちゃんちの高校の期末試験、いつあるの」
ミチカは金木犀の枝を折って、花に顔を近づけて聞いた。ショウタロウが自分の動きを見ているのがわかった。
「来週からだよ」とショウタロウが答えて、背後の塀に背をもたせかけた。ミチカは、「じゃあ、うちと同じだ」といいながら、金木犀の花で自分の鼻先をくすぐりながら、ショウタロウの下半身を観察した。はだけたジャンパーの間から、ズボン前部の皺《しわ》が見える。どう見ても、それは膨らんでいるようではない。あそこにペニスがあるのだと、ミチカは頭の隅で思った。
ミチカの家は裏通りにあって、時折、低いエンジンの音をたてて車が走り過ぎる程度で、塀の向こうは静かだ。夕陽の残光があたりを柿色に染めはじめていた。
「僕の高校で、大がかりな万引きグループが捕まってさ」
ショウタロウは両手を尻に回すと、体を前後に少し揺らせながら口を開いた。
「開校以来のスキャンダルだって、校長やPTAが大慌てさ」
ミチカは金木犀の花を地面に棄てると、「その話、聞いた」と叫んだ。
「うちの高校の子も仲間に入っていたっていうことだったけど」
ミチカはショウタロウのほうに一歩、近づいた。ショウタロウは塀に背中をぴたりとくっつけて頷《うなず》いた。
「他の高校の奴もいるけど、中心グループは僕の学校の生徒たちだってさ。なんてったって名門校って看板に泥がついたんだもんな、授業そっちのけで校長の訓辞だの生徒集会だのクラス討論会だのに召集されてさ、こっちはいい迷惑だよ」
ショウタロウは、皮肉っぽく笑った。鼻筋が通っていて、二重瞼《ふたえまぶた》の目は少しひっこんでいて、なかなかハンサムだ。背丈がないのが欠点だが、見栄えは決して悪くはない。県下でベストスリーに数えられる名門校に入るくらい頭もいい。それでも、ショウタロウが女の子にもてる話を聞かないのは、地味なせいだとミチカは思う。暗い顔をして、陰気な話をするわけではないのだが、柔らかみのない、つんつんした喋り方で、時々きついことをいったりする。女の子は、もっと人当たりがよくて、話していて楽しい男の子に惹《ひ》かれるのだ。
それでもミチカは、ショウタロウと話すのは嫌いではなかった。
「捕まった子たち、どうなったの」
ミチカは、まだそっとショウタロウのズボンの前を観察しながら聞いた。
「リーダーは退学、下っ端は停学処分になった。運が悪かったともいえるな、学校には他にもっとすごいことをしてる奴らもいるのにさ」
「すごいことって何」
「恐喝とか、援助交際の元締めとかさ」
「援助交際の元締めなんてやってる子、ショウちゃんの高校にいるの」
ミチカは、この話題のせいなのか、ショウタロウの隠されたペニスのせいなのか自分でもわからないまま、うわずった声で聞いた。ショウタロウは得意になって、ミチカのほうに身をかがめ、「いるともさ、女の子の援助交際だけじゃないんだぜ、ホモの相手になっている男子生徒のグループもあって、その元締めもいるんだって噂だよ」と囁《ささや》いた。
ミチカが、まさか、と叫んだ。キスできるほどに、二人の顔と顔は近づいていた。ショウタロウの色白の頬が夕焼け色に染まっている。
「ほんとだって。けっこういい小遣い稼ぎになるって聞いたよ」
「ホモって、あれをお尻に人れるんでしょ」
あれ、と口に出した時、ミチカはショウタロウの股間《こかん》に視線を遣らないでいるのに苦労した。ショウタロウはどきりとしたように目を見開き、それから平気なふりを装って、そうだよ、と答えた。
「痛くないのかしら」
「そりゃあ最初は痛いだろうさ。だけど馴《な》れたら、そんなことないんじゃないかな」
「ショウちゃん、やってみたら」
ショウタロウは思いきり唇を歪《ゆが》めた。
「なんで僕がやんなきゃいけないんだよ」
「さっき小遣いがないっていってたじゃない、CDたっぷり買えるわよ」
「いくら小遣いのためだって、ホモの相手はごめんだよ」
「だったら、誰の相手だったらいいっての」
ショウタロウの目が、さっと自分の胸元に走ったのをミチカは見逃さなかった。
やっぱりショウちゃんはあたしのことが好きなんだ。ミチカは自信を覚えた。
「やってみたらいいのに」
ミチカは意地悪な口調でいった。
「何をさ」
ショウタロウがふてくされたように聞き返す。「ホモの相手」とミチカが答えると、ショウタロウはますます不快な顔をした。
「ショウちゃん、顔はいいんだからさ」
ミチカは、ついと手を伸ばすとショウタロウの白く硬質な頬に触れた。ショウタロウがびくっとしたように目を瞬かせ、顎《あご》を反らせた。顎の先にうっすら髭《ひげ》が生えていた。ミチカはその顎を掠《かす》めるように指を下ろし、ショウタロウのジャンパーの間に覗く胸から腹にさあっと滑らせていった。指がズボンの前に達すると、ペニスのあるあたりに手を置いた。柔らかな膨らみが掌を弾《はじ》き返した。
ショウタロウはクモの巣にひっかかった小さな虫のようにじっとしている。ミチカはズボンの上から、ペニスのある膨らみを握りしめた。
「なに……」といいかけて、ショウタロウの声が掠れた。ミチカが優しくペニスを撫でたせいだった。
――ペニスは女性だと思ってください。優しくしてあげれば歓びます。
ついさっき雑誌で読んだ文句が、ミチカの頭の中に蘇《よみがえ》った。
――あなた自身がされたいように、撫でさすってあげてください。
掌に気持ちを集中させて、手探りするようにそおっと握って、また緩めてみる。二、三回繰り返すと、ショウタロウのペニスが少しこりっとしてきた。
ほんとうなんだ、とミチカは思った。自分がされたいように撫でてあげれば、ペニスは応えてくれる。ミチカは好奇心に駆られて、ペニスを握ったり、さすったりしはじめた。
あたりには夕闇が舞い降りてきはじめていた。ミチカとショウタロウの姿は、金木犀の茂みの陰に溶けこんでしまっていた。ミチカは、上目遣いにショウタロウの顔を見た。瞼を半ば閉じて喘《あえ》ぐように息をしている。ショウタロウは、とてもいい気分でいるのだ、とミチカは思った。これもすべて、自分の手の動きのせいなのだ。そう考えると、ミチカは有頂天になった。ズボンの上から揉《も》んでいるのがまどろっこしくなり、ミチカはショウタロウの前ジッパーを下ろして、パンツの割れ目に手を突っこみ、中のペニスを引きずりだした。
ペニスは牛蒡天《ごぼうてん》ほどの硬さと太さになっていた。右手で握りしめると、人差し指と親指で作った輪の中から、亀頭《きとう》が突きだした。
――ペニスは時々、強く握りしめられ、激しく振られることも求めます。
雑誌に出ていた言葉に従い、ミチカはペニスを強く握りしめて、ぐいぐいと前後に滑らせた。ショウタロウは塀に後頭部をもたせかけて、ミチカの肩に両手を置いた。はあ、はあ、という荒い息遣いが聞こえた。
その声を聞き、掌のペニスが次第に硬く、太くなってくるのを感じているうちに、ミチカの下腹のあたりがじっとしてられないほどむずむずしてきた。ミチカはスカートの下に左手を突っこんで、穿《は》いていたパンティを太腿のところまで引きずりおろした。そしてスカートの前を上げて、ショウタロウのペニスの先を、黒く縮れた陰毛の生えた自分の割れ目の上に持ってきた。
ペニスの先にぶつかったものが何か悟って、ショウタロウは腰を引き、そして突きだした。ミチカの掌で、ペニスがこすれた。ミチカは右手でペニスを握ったまま、左手を相手の腰に回し、腹と腹をぺたりとくっつけてショウタロウを塀のほうに押した。ショウタロウの背中が塀にぶつかった。そのままずるずると背をコンクリートにこすりつけてショウタロウは地面に尻餅《しりもち》をついた。ペニスを握りしめたままのミチカも地面にしゃがみこみ、そのまま二人はもつれ合うように横倒しになった。
ミチカは、それでもショウタロウのペニスを揉みつづけている。ショウタロウはミチカの背中に両手を回して、はっはっ、と息をしながら腰を前に突きだした。ミチカの手の中のペニスはぱんぱんに膨らみ、太く、硬くなっていた。
ミチカは太腿にひっかかっていたパンティを足の踵《かかと》と爪先を使って脱ぎ棄てた。そしてショウタロウのペニスの下に、自分の腰を押しこんだ。ショウタロウがごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。ミチカは股を開くと、握りしめたペニスの先を自分の膣の前に持ってきた。
「そっとよ」と、ミチカは囁いた。夏休みの時の経験は、あっという間に終わってしまった。わかったのは、太腿の間で何かが起きたことだけだった。今度は、あの二の舞は踏みたくはない。自分に何が起きるのか、ちゃんと知りたいと思った。
ショウタロウがおずおずとペニスを押しだしてきた。亀頭がミチカの膣の入口にぶつかった。ずんとした鈍い波が、ミチカの腰のまわりに伝わった。
「ゆっくり押して」
ショウタロウは、理科の実験をしているように、慎重に腰をミチカに押しつけてきた。亀頭が小指の先ほど、膣の中に入った。自分の中にペニスが入りこんでくると、ミチカの膣から下腹にかけて、痺《しび》れるような感覚が広がった。
ミチカは手の中のペニスをさらに揉んだ。ペニスがまた少し中に入ってきた。ペニスと膣とが触れあったところから何かが滲《にじ》みでてきて、ミチカを熱く染めていく。ショウタロウが半分ほどペニスを奥に進めた。それから、いきなり奥まで押しきった。ミチカは腰を少し浮かせて、ずんとした波が下腹部から頭まで達するのを感じた。
地面に仰向けになって見上げると、金木犀の茂みの向こうに、群青色に変わった空が覗いている。夕暮れの冷気に乗って、金木犀の香りが流れてきた。ミチカはその香りに包まれ微笑みながら、指先で、ペニスの位置を確かめた。確かにそれはミチカの膣にしっかりと入っていた。
嘘ではない。ペニスは、ほんとうに自分の中に入るのだ。ミチカは、今年の夏、大里高原で日の出を見た時にも似た、胸のじいんとくるような感激を覚えた。朝が明けてくるに従って、浮かびあがってきた霧に包まれた野原、小鳥の囀《さえず》り。無数の矢のように斜めに射してきた爽《さわ》やかな太陽の光。それを目にした時と同様の神々しさを感じた。
ショウタロウがゆっくりとペニスを引き抜きだした。ミチカは人差し指と親指で輪を作り、膣の中から出てきたペニスをつまんだ。ペニスは、じっとりと濡《ぬ》れている。指の輪でペニスをしごいてみると、ショウタロウは息を呑み、次に、大きく息を吐きながら、再びペニスをミチカの中に入れた。
これ以上、先には進めないところに来ると、自分の行為を後悔するかのように、ショウタロウはまたペニスを引きあげはじめる。膣の中から出てきた生温かく、べとべとに濡れたペニスを、ミチカの手が包みこむ。ミチカは両手でペニスをつかんだ。左手で亀頭を撫でながら、右手にペニスの濡れた液を絡めとり、そのねとつく指を使って、ペニスの裏側を撫であげ、さらにこりこりしたふたつの睾丸の後ろへ伸ばしていく。そうして、ペニスをこすり、睾丸を揉みつづける。
ショウタロウが我慢できないという風に腰を突きだした。ミチカは、ペニスを膣いっぱいに感じて、恍惚《こうこつ》となった。
これがペニスなのだ。ミチカは興奮の中で確認した。これが、今、自分の内で動いているのだ。
ショウタロウがまたペニスを引き抜きはじめる。ミチカが膣から出てきたペニスを両手で愛撫しはじめる。ペニスはその愛撫に震え、抵抗しきれなくなり、再びミチカの温かく濡れた膣の中に戻ってくる。
――放っておいて、握りしめて。
ミチカには、ペニスの声が聞こえた。
興奮で熱く硬くなったペニスは、恋人と喧嘩してヒステリックになった女の子のように、相矛盾することを喚《わめ》きながら、ミチカの膣の中と、外とを行き来している。
ミチカは度量の大きな恋人だ。女の子のようなペニスを優しく撫でてあげる。きつく握りしめ、睾丸のところまで指先で愛撫し、時に力づけるように横からぽんぽんと叩《たた》いてあげる。
――放っておいて、握りしめて。
ペニスは歓喜の中で叫びつづける。ペニスの叫びの中で、ミチカの感情は持ちあげられていく。ゆっくりと膣を突くペニスの鈍い衝撃が、ミチカを空に浮きあがるような気分にさせる。ペニスは熱気球に連なる紐。ミチカは、ペニスを握りしめて、広い宇宙に飛びでていく。
塀の外を歩く人の声も車の音も、家の中で夕食の支度をする音も、遥《はる》かなところに遠ざかっていった。金木犀の茂みの向こうに広がる群青色の空に、ペニスの声はこだまする。その声はもはや言葉にはならない。咆吼《ほうこう》にも似た歓びの叫び。
―放っておいて、握りしめて。
五回ほど、ショウタロウのペニスがミチカの膣の中に入り、出ていった。短い時間のはずなのに、永遠ともいえる時が過ぎた。
「ミチカーっ、ミチカーっ」
群青色の空の彼方《かなた》から、宇宙を隔てて、声が聞こえた。母の声だった。ショウタロウが凍りつき、腰の動きが止まった。
「いつまで話してるの、そろそろ家に入る時間よ」
金木犀の茂みの向こう、明かりの灯った玄関のほうで母が呼んでいた。ミ−チカは地面に仰向けになったまま、とっさに身を引こうと半分膣から抜きだしたショウタロウのペニスを握りしめ、いつもと変わりのない声で返事した。
「はぁい、今、いくわぁ」
そのとたん、掌の中のペニスがびくんと動いた。ショウタロウが強い力で、腰を突きだした。耳元で、呻《うめ》き声がして、ショウタロウが射精したのがわかった。
「早くしなさいよ」
母の声がして、ぱたんと玄関のドアが閉まる音がした。
ショウタロウはミチカの上にかぶさったまま、ぐったりしている。ミチカは、晴れ晴れとした気分で、星の瞬きはじめた空を眺めた。太腿の間から立ちのぼる精液の匂いが、金木犀の香りと混ざりあって、ミチカの鼻をくすぐった。
6 ヴェネツィア発、ニース行
「今、ヴェネツィアよ。そう、サンタルチア駅」
公衆電話にへばりつくようにして、私はいった。周囲では、荷物を抱えた旅行客がせかせかと歩いている。構内アナウンスが、鵞鳥《がちよう》のように喚《わめ》いている。サンタルチア駅の喧噪《けんそう》の中で、私はローマのアパルトメントの留守番役、タニアに向かって声を張りあげた。
「ちょっと、日本からのファックスが届いてないか聞きたかったの」
電話の向こうで、タニアが、待って、といっている。別室にあるファックス機械を見に行ったのだ。私は一万リラのテレホンカードの数字が刻々と減っていく様子を睨《にら》みつけて、いらいらと編みあげ靴を履いた足を組み直した。ヴェネツィアからローマまでの長距離電話だ。テレホンカードの数値はあっという間に減っていく。やっとタニアが戻ってきて、「なんにもないわ」と答えた。
「だったら、いいの。じゃあ、一週間したら帰るから」
「|狼の口《ボツカ・イル・ルーポ》」とタニアがいった。私は、即座に「|狼なんて平気《クレービ・イル・ルーポ》」と応じた。がんばって、というイタリアの慣用句だ。
タニアに、がんばって、といわれて、私はすぐに、ニースでの用件を思い浮かべた。
日本人観光客をニースからイタリアに連れてくる、ツアーコンダクターとしての仕事だ。長崎のどこかの町の商工会議所の委員たちで、表向きは商工業視察ということになっている。ニース観光の後、ヴェネツィアン・グラスの製造現場を視察、その後、トスカナからローマヘとバスで巡る予定を組んでいた。私がヴェネツィアに来たのも、その下準備のためだった。
「まあ、いつもの仕事よ」と私が付け加えると、タニアは笑いながらいった。
「そのことじゃないわよ、柵《さく》の花を見つけること」
「厭《いや》だ、またあの話」
「決まってるじゃない」というタニアに、
「やめてったら」と返事して、受話器を置いた。私は苦笑しながら電話の口から吐きだされてきたテレホンカードを手帳に戻し、こそ泥に用心して足の間に挟んでいたボストンバッグを肩にかけた。
――国際特急列車《インテルシテイ》五七三号、ヴェネツィア発ニース行き、九番線乗り場から発車します。
マイクロホンがいかれて、声が割れているアナウンスが、やっと聞き取れた。私はホームの入口にある列車の発車掲示板を見上げた。国際特急を示す赤い「IC」の文字の横に、十一時二十八分という発車時刻が出ている。珍しく、遅れはないと思って、ここが始発だったことを思い出した。私は自動改札機で切符に乗車印を押すと、九番ホームに急いだ。
金属製の長虫に似た国際特急は、見送り人たちがそこここに集うホームに寄り添っていた。窓越しに別れの挨拶《あいさつ》をする人々の横を通りすぎて、私は指定券に示されている号車に乗りこんだ。平日の昼間だけに、車内は空いている。どこのコンパートメントもほとんど人は座っていず、私の指定席のあるコンパートメントにも誰も先客はいなかった。カシミアのコートを脱いで、ボストンバッグを網棚に置いているうちに、列車は、ごとん、と小さく身震いして、駅を滑りでていった。
アドリア海の内海に浮かんだヴェネツィア島から本土までの間には、長い橋が架かっている。私は窓辺に座って、橋の両側に広がる穏やかな海を眺めた。曇天の下に広がる晩秋の海は、灰青色に沈んでいた。水面に突きだした船の通り道を示す杭《くい》に、ぽつぽつと白いカモメが留まっている。その向こうには、海に浮かぶヴェネツィアの古ぼけた建物が並んでいる。どの家も人を拒絶するように、冷たい表情で肩を寄せあっている。寒々とした風景に活気を与えるのは、巨大な水澄ましのように島の周辺を巡っているモーターボートくらいのものだ。
私は座席にもたれかかると、先ほどのタニアとの会話を思い出した。「|がんばって《ボツカ・イル・ルーポ》」という声が、私をからかうように頭の隅にこびりついていた。
それは、ローマを出る前、私のアパルトメントの居間で交わした話に起因していた。両親と同居しているタニアは、一人住まいの私が仕事で留守にするたびに、留守番役を引き受けてくれる。泥棒の多いイタリアでは長らく不在にすると空巣に狙われる危険があるので、私にとってはありがたい存在だ。タニアもまた、たまに一人暮しの自由さを味わえるので、大歓迎だといってくれていた。今回も私が十日間、仕事のために留守にするというので、タニアに留守番を頼んだところ、前夜、ささやかな送別会を開いてくれた。生ハムと、総菜屋で買ってきた鶏の丸焼き、サラダという夕食の後、スプマンテを開け、木苺《きいちご》のタルトを食べた。
コンピューターの置かれた、仕事場兼用の居間で、ふかふかしたソファに並んで座り、タニアと二人でくつろいでいると、仕事の愚痴や共通の友人の噂話などの後、話題は決まって男のことに行き着く。
「まったく、ろくな男がいないわね」と、タニアが煙草の煙を吐きだして、いつものようにぼやいた。
「ちょっとでもましな男は、もう他の女が手をつけてるしね」
私はスプマンテのグラスを手にして、さらりといった。タニアは口紅の剥《は》げた唇を歪《ゆが》めて私を睨みつけ、無言の抗議をした。
彼女は女性ばかりで運営している小さな旅行会社に勤めている。その仕事の関係で知り合った既婚の男と、ここ十ヶ月ばかり愛人関係を結んでいる。しかし、その関係はお世辞にも幸せそうなものとはいえず、常に嫉妬《しつと》と口喧嘩の波に揉《も》まれていた。二日前にも、男が妻の誕生日のことをセックスの後で口走ったことが原因で派手な喧嘩をやらかして、十二回目の絶交状態に入ったところだった。
「誰もいないよりはましってくらいね」
タニアは金の太い指輪の嵌《はま》った指で煙草の灰を落として、ちくりと私を刺し返した。
半年前に婚約寸前までいったアンドレアと別れて以来、私には恋人はいない。どの男も、アンドレアの変型にしか思えず、どうせ同じことの繰り返しだと思ってしまう。それで、男性と知り合う機会はあっても、恋人関係にも、肉体関係にすらも発展しないでいる。
「おかしな男と関わりになって、こっちがめちゃくちゃにされるよりは、誰もいないのがいいってことよ」
私は木苺のタルトのかけらを口に放りこんだ。タニアは同情の混ざった表情を浮かべた。
「でも、男と寝るのは楽しいことよ」
まあね、と私は肩をすくめた。もちろん、そんなことはわかっている。
女が男はこりごりだと思った時、男と恋愛関係を持たないでいることはできる。しかし、湧《わ》きあがってくる性欲はどうしようもない。男に愛情を持たないで、肉体関係だけを結ぶことをすればいいはずだが、どうも私は、肉と愛を切り離して考えるのは上手ではない。遊びのつもりで寝ても、同じ男と肉体関係を繰り返すことで、相手に愛情を求めはじめる。すると肉体だけのすっきりした関係だったはずが、いつか愛憎のまっただ中にはまりこんでしまうというわけだ。
男が女を買うように、女が一夜だけの男を買えば問題はないかもしれないが、この世界はまだ、女が金銭で性欲を解決しやすい仕組みにはなっていない。
「男がペニスだけだったらいいのにね。ペニスの先に男がくっついているから問題なのよ」
私はしみじみといった。
「それって、いいわね」
タニアは大きく口を開いて笑い、煙草にむせこみ、スプマンテを喉《のど》に流しこんで、目に涙を滲《にじ》ませて続けた。
「男抜きのペニス、私もひとつ欲しいわ」
私は、バカンスで日焼けしたタニアの顔を見つめて、「でしょ」と頷《うなず》いた。
「時々、思うんだ。小学校の校庭みたいな、金網を張った柵があって、私はそこで遊んでいるの。そしてふと気がついたら、金網の間からペニスがいっぱい突きだしているのよ。柵の向こうの男は見えなくて、ただペニスが金網の間から、花みたいにいくつも咲いているの。それで私はスカートをめくりあげて、よりどりみどりのペニスを使って、セックスする。そんなことができたら、どんなに楽しいかしらってね」
タニアは膝を叩《たた》いて、背中をソファに埋めて叫んだ。
「素敵だわ、柵に咲いたペニスの花ね」
「でしょ、そんな柵があったら、私、ずっとそこにへばりついている」
私たちは同時に笑った。
「私たち、柵のペニスの花を見つけなくちゃ」とタニアがいい、私は「そうよ、女の幸せはそこにあるのよ」と断言した。
私もタニアも少し酔っぱらっていた。それから夜が更けるまで、どんなペニスの花がいいか、その形や大きさについて、夢中になって話したものだった。
翌朝、私はタニアがまだ寝ている間に、アパルトメントを出て、ローマからヴェネツィアに飛んだ。
窓の外から海の景色は消え、国際特急は内陸部に入っていた。ひょろりとした木々がぽつぽつと生えた平坦《へいたん》な田園地帯が広がっている。空はますますどんよりと低く垂れこんできて、遠くの山は霞《かす》み、掘り返された茶色の土がこの世にはもう誰もいないかのような風情を漂わせている。
空腹を覚えて腕時計を見ると、十二時半を回っていた。ヴェネツィアではばたばたしていて、昼食の用意をする暇はなかった。列車がニースに着くのは、夜の七時半だ。それまではちゃんとした食事にありつけない。前のほうに食堂車があったはずだが、ボストンバッグを置いて、コンパートメントを長く離れるのは危険だ。しかし、車内販売はいつ来るかわからない。手早く食堂車でサンドイッチでも買ってこようと決めて、私はバッグを手にして通路に出た。
がたごとと横揺れする通路を歩いていると、車両の前のほうで、一人の男が窓に寄りかかって煙草を吸っていた。くたびれた鶯色《うぐいすいろ》のセーターを着て、鷲鼻《わしばな》、無精髭《ぶしようひげ》の少し伸びた頬、波打つ茶色の短い髪をしている。四十歳近くの陽に焼けた男だった。窓を半ば開いて、枠に肘を乗せ、体を前かがみにしているおかげで、男の腰が通路半ばに突きだされ、私の行く手を阻んでいた。
「|すみません《ペルメツソ》」と声をかけると、男がこちらを振り向いた。
濃くて太い眉の下の茶色の瞳が私を認め、目の下に皺《しわ》を寄らせた。それが微笑みなのか、厭《いと》わしさの表情なのかわからなかったが、その視線に雄の匂いを感じた。男は黙って背筋を伸ばして、窓辺に寄った。
私が男の横を通りすぎる時、列車が大きく横に揺れて、私の腰骨が男の下腹の脇にぶつかった。クリーム色のロングスカート越しに、男の肉体の感触が伝わってきた。とっさに男の手が差し出されて、私の腰を支えた。太いベルトのように、男の大きな掌が私の胴のくびれをつかみ、そっと押しかえした。
私は一瞬、大きな波に捕らえられ、ぐいと持ちあげられた感覚を味わった。しかしすぐに我に返ると、私は床を踏みしめて立った。
「|ありがとう《グラツツエ》」というと、男は、なんでもない、というように僅《わず》かに顎《あご》を振った。
私は男の横の隙間《すきま》を飛びこえるように通りすぎて、食堂車に向かった。
見るからに不味そうなぱさぱさのサンドイッチと水のボトルを買って、元の車両に引き返してくると、男はまだそこに居た。もう煙草を吸い終わって、ぼんやりと窓の外を見ている。私は、男に会釈して、今度は均衡を崩さないように用心して通りすぎた。すれ違う時、男の視線が、私にへばりつくのを感じた。クリーム色のスカートに浮かびあがる自分のふたつの尻、膝からブーツに向かって伸びる脚、白い薄手のセーターに露《あらわ》になった乳房を意識した。
男の注視から逃れるために、横のコンパートメントを見ると、そこにはくしゃくしゃになった新聞紙と、焦茶色のマフラーが放りだされていた。網棚には、茶色の使い古された革のバッグが置かれている。この男のもののようだ。
私は男から顔を背けて、その場を離れた。遠ざかりながらも、私は自分に注がれる男の目を感じていた。
自分のコンパートメントに入る前、私は我慢しきれなくなって、後ろを振り向いた。男はもう私を見てはいなかった。再び、窓の外に顔を向け、新たな煙草をふかしていた。
列車がミラノに近づくに従って、窓の外は霧に覆われてきた。乳白色の深い霧にすべての景色は塗りつぶされ、時折、霧の薄いところに、うっすらした灰色の影が現れて、ようやく、山の中にいるのか、平野にいるのかわかる。しかし、そこには北イタリアであることを示すこれといった形はなく、ここがスコットランドのはずれでも、北海道の平原でも、シベリアの一角であってもおかしくはない。がたんがたんという、列車の規則的な音を聴き、どこともしれない乳白色の世界を眺めながら、私はサラミ入りのサンドイッチを食べ、水を飲んだ。そして通路に佇《たたず》む男のことを想像した。
コンパートメントに置かれていた持ち物からは、会社員とか公務員とかいう雰囲気はしなかった。ミラノかブレーシャあたりで働く職人か工員ではないか、と私は思った。
妻子はいるのだろうか。あの年齢なら、いてもおかしくはない。イタリアでよく見かける煉瓦色《れんがいろ》に塗られた集団住宅に住み、どこかの工場で、油にまみれて働く男。金属的な音が響く仕事場で、仲間と冗談口を叩きながら働いて、ひと段落つくと、煙草を吸う。少し伸びた無精髭に埋もれた唇から、煙草の煙が吐きだされる。そして、男は、あの微笑みとも厭わしさともつかない表情を浮かべる。
男のがっちりした掌の記憶は、私の内に灼《や》きついていた。ウエストに喰いこみ、内臓にまで達しそうな強い手の力。その感触は強烈で、まだ自分の腰に男の手が置かれている心地がする。
霧の中に駅が現れては消えていく。国際特急はポー平原の小さな町々を通過していく。空腹が満たされた私は座席に頭をもたせかけ、半ばうつらうつらはじめた。
朧気《おぼろげ》な意識の中、乳白色の彼方《かなた》に、弧を描く長いホームが近づいてきた。列車は次第に速度を落としていく。ホームに立つ人々が幽霊のように近づいてくる。列車は、無表情に佇む人々の中に入っていく。その人の群れの中に、私は半年前に別れたアンドレアを見つけた。くるくるに巻いた金髪も、大きな青い瞳も、ほっそりした頬も、かつての彼のままだ。
アンドレアは、そこに私がいるのが当然のような顔をしている。列車が音もなく止まった。人々が列車に乗り込んできた。
私は運命の到来を待つ者のように、アンドレアが現れるのを待った。私にはわかっている。アンドレアは、私に会うためにホームに立っていたのだ。
コンパートメントの入口に、彼が現れた。ジーンズに綿の半袖シャツという、いつもの格好だ。アンドレアは、かつて、私に会った時、よくそうしたように、キスを送る形に唇を丸めて、「チャオ」といった。
列車はまた乳白色の霧の中に走りだしている。窓の外はもう何も見えない。霧のカーテンで閉ざされたようだ。アンドレアはコンパートメントの戸を閉めると、シャツとジーンズを脱ぎすて、私に覆いかぶさってきた。
アンドレアは私の頬に唇をつけ、両手で優しく愛撫をしはじめる。股の奥がじっとりと濡《ぬ》れてくる。私はアンドレアを迎えいれようと、脚を大きく開く。しかしアンドレアは私をからかうように、ただ身をかがめて愛撫するだけだ。
私はアンドレアをつかもうとする。しかし、手は空をつかむだけだ。彼はそこにいるのに、私の手には何も触れない。いったい、どうしたというのだろう。愛撫は感じるのに、男の肉体は感じない。
私は焦りつつ、アンドレアの下腹に手を伸ばす。そして、そこにあるはずのペニスがないことに気がついた。
頭が、がくりと背もたれから落ちた。私は瞬きして、顔を上げた。
列車は、険しい山の中を走っていた。ごつごつした岩が、色褪《いろあ》せた緑色の木々の間に覗《のぞ》いている。霧はいつか晴れあがり、あたりには陽光さえ満ちている。
私は目をこすった。夢を見ていたのだ。
腕時計を見ると、三時を回っている。時間からすると、もうミラノをとうに通りすぎたらしい。
私は、座席に置いてあった水のボトルを開いて飲んだ。
窓の外は、まったく別の世界だった。なだらかな田園風景は消え、遥《はる》か頭上に山の稜線が見える。ヴェネツィアからずいぶん遠くに来たのだなと、まだぼんやりした頭の中で思った。
私はトイレに行きたくなって、通路に出た。相変わらず、通路はがらんとしていた。通路に沿って連なるコンパートメントは、どこもがら空きだ。こんな平日、ニースまで行く者はあまりいないのだ。
私はトイレのある車両の前のほうに歩きだした。
煙草を吸っていた男のいたコンパートメントのカーテンは閉められていた。男がミラノで降りたか、まだそこにいるのかはわからなかった。
私は、この列車に自分一人だけ取り残されたような心細さを味わった。
トイレは、小便とも水ともわからないもので濡れていた。靴の踵《かかと》の高さに感謝しつつ、便器に尻を乗せた。
尿を放ちながら、私は、アンドレアのことを考えた。あんな夢を見たのは、自分がまだアンドレアに未練を抱いているせいだろうかと訝《いぶか》った。
アンドレアとの関係は、私が彼の性格を認めてしまえば、壊さないでもすんだものだったと、今も思っているためかもしれない。
私をアンドレアから離れさせたものは、彼のあてにならない言動のためだった。
例えば、金曜日に一緒にレストランで夕食を取る約束をしたとする。家に迎えに来るというので、おめかしして待っていると、電話がかかる。仕事場の同僚がとても悩んでいて、話を聞いてもらいたがっている、夕食の後でそちらに行くから、といいだす。また、ある時には、週末に遊びに行く約束をしていたのに、金曜日になって、親戚が久しぶりに訪ねてくるので、日曜日には家にいないといけない、週末の旅行は延期だといいだす。
いつも、もっともらしい理由はあった。最初は、そうね、そうね、と私は彼の言い分に同調した。しかし、それが度重なると、気がついた。結局は、私を取るか、他の誰かを取るかの選択なのだ。そしてアンドレアは、しばしば他の誰かを取った。
自分は彼のただの親しい友人の一人であるだけなのかもしれないと、私は疑うようになった。私は肉体関係がある友人に過ぎないのだ。彼にとって友人間の優先順位というものはなく、その時、一番、気分的によろめいた者に優先権を与えているだけなのだ。
私がそういうと、もちろん彼は即座に否定した。きみは僕の大事な恋人なんだといった。だけど、私には彼の言葉を信じることはできなかった。彼にとっては、身近な人間誰もが一番大切な人なのだ。
博愛主義者といえば聞こえはいいが、彼は目の前にいる者すべてに磁石のように手を差しのべてしまう。いつも私を真っ先に考えて、と私はいいたかった。しかし彼にはそれはできない相談だった。
私たちは結婚を考えていた。しかし、こういう男と一生を共にするという考えにぶつかった時、私は拒絶した。その拒絶は、二人の関係の終焉《しゆうえん》を意味した。
アンドレアと私の間にあったものが、友情だったか、愛だったか、今では私にはわからない。確かなのは、肉体関係はあったということだけだ。
股の間を紙で拭《ふ》いた時、パンティを見ると、しっとりと濡れていた。私はパンティも紙で拭き、トイレの水を流すと、外に出た。
コンパートメントの連なる通路に戻ると、あの男がまた窓辺に寄り添って煙草を吸っていた。ミラノでは降りなかったらしい。男は私に気がつかないで、窓の外を眺めている。
通路側の窓は、山の開けた側にあった。確かにコンパートメントの中よりは、見晴らしがよかった。
私はこつこつと足音をたてて、通路を歩いていった。その音に男が首を捻《ひね》り、私を認めると、頬を緩めて微笑んだ。正真正銘の笑みだった。私も微笑みを返した。
私は、がたがた揺れる列車の中を、起きあがりこぼしのように左右に体を傾けながら、自分のコンパートメントまで戻っていった。しかしコンパートメントには入らず、男を真似て、通路側の窓を少し開いて身を寄り添わせた。
谷へと通じる斜面に、小さな町が点在している。どの町にも、中心に教会の塔が誇らしげに聳《そび》えたっている。周囲にひしめく石造りの家々。町と周辺の集落を結ぶ道には、車がぽつぽつと走っている。窓から吹きつけてくる風は、晩秋のものとはいえ、どこか柔らかだった。
髪をなびかせて窓の外を眺めていると、目の隅で、通路の先にいた男が動くのが見えた。男はゆっくりとこちらに近づいてくる。トイレにでも行くのだろうか、それにしては、男の居た場所からは、前の連結部分にあるトイレが近いのにと思った。しかし、私は男が近づいてくるのを無視した。その男に気を取られていることを悟られたくはなかった。
私は顔を窓の外に突きだすようにした。行く手にトンネルが見えた。山肌に穿《うが》たれた黒い穴に、列車の先が呑みこまれていく。
私のいる車両もどんどんとトンネルに吸いこまれていく。不意に周囲は真っ暗になり、ごおおおっという轟音《ごうおん》に包まれた。窓から流れこんでくる風が、土の臭いを帯びた湿気たものに変わった。
その時、私の胴に大きな手を感じた。ふたつの手が、私の胴のくびれをつかんでいた。
背中に煙草の臭いを感じた。あの男だ。とっさに私は悟った。
男の手は、胴から腰へと降りてくる。圧倒的に力強い手だ。私はその手に捏《こ》ねまわされる粘土となった。
目の前にあるのは、暗闇だ。私はその土の臭いのする闇を見つめている。私は、両手で窓枠をつかんで、何事も起きてないふりをした。叫びだしたり、身動きしたりすると、男の手が消えてしまうと思った。
男は、私の横腹から腰を揉むように撫《な》でていく。私はその動きを十二分に意識しながら、ただ列車の轟音に聴きいっている。闇の中の大きなうねりに身をゆだね、私は窓枠にしがみついている。やがてスカートの後ろをめくりあげた。私のストツキングとパンティの緑がつままれ、引きずり下ろされた。
ペニスが尻にぶつかった。入口を探すように、尻の下側に硬くなったペニスの先がぶつかる。私はそっと尻を男のほうに突きだした。ペニスが尻の間に差しこまれる。そして、それが、ずんと私の中に入ってきた。私の内奥に、ペニスを感じた。私は尻をさらに突きだして、窓に身をかがめた。
ぱっと目の前が明るくなって、列車がトンネルから飛びだした。緑の葉の匂いの混じった風が顔にぶつかってきた。
オリーブの木々の植わった山の斜面が広がっている。明るい日差しを受けて、その濃い緑色の小さな葉の一枚一枚が私に無数の目配せを送っている。私は、自分の中のペニスを感じながら、オリーブの木々に微笑んだ。
ペニスは私の奥にまで達して、また引き抜かれた。私の膣の内部は融けそうなほど熱くなっている。ペニスが再び、ずんと私の中に押してくる。私は緩やかに息を吐き、窓の外を陶然と眺める。
列車は、明るい緑色に包まれた丘陵地帯を走っている。踏切の遮断機の前で止まった車の中で笑っている男と女が見える。その後ろでは、自転車に乗った老人が、列車の通りすぎるのをあくびをしながら待っている。
ペニスが私の中に入り、また出ていく。その動きはますます激しくなってくる。
私は体が崩れないように、窓枠をさらにつよく握りしめる。背中に震えが走る。耳許で男の荒い息づかいが聞こえる。
ペニスが私の内奥を突き、その反動でまた退く。息をつくかつかないうちに、再び私の中に戻ってくる。膣から流れだす熱い液体が太腿の内側を垂れていくのを感じる。
線路脇の家で、女が洗濯物を取りこんでいる。子供が、列車に手を振っている。丘を横切る田舎道をトラクターが走っている。その丘の先には、薄水色の海が光っている。
ペニスは、私の中で暴れている。乳首が窓枠にぶつかってこすれる。男の息づかいが、耳の後ろにぶつかってくる。私は大きく揺さぶられ、ともすると足許に崩れ落ちそうだ。しかし、男のふたつの手が私の腰をしっかりと支えている。
列車が進むにつれて、丘が両側に退いていく。その向こうの海がどんどんと近づいてくる。弧を描く水平線が見えてくる。
海だ。もうすぐ海だ。
ペニスが突然、動きを止めて、私の中で痙攣《けいれん》した。私は顎をのけぞらせ、魚のように喘《あえ》いだ。
すべての音が遠ざかり、私の目から景色が消えた。
男の手がゆっくりと腰から離れていった。私のスカートがおろされるのを感じた。
がたんごとん、がたんごとん。列車の音が再び、耳に響いている。
男がどこかに遠ざかっていく。しかし私は男を振り返りはしない。ただ、窓の外の景色を眺めつづける。
そこには、海が広がっていた。水色の穏やかな、リグーレ海。太陽はすでに西に傾きかかり、水平線は淡いピンク色に染まっている。窓を乗りこえて流れこんでくる風に、波の香りが混ざっている。太腿を伝って垂れていく男の精液を感じながら、私は潮風を体いっぱいに吸いこんだ。
7 青いリボンの下に
夏は水兵《セーラー》服と決まっていた。いったい誰が海軍の下っ端奴隷の制服を、少女たちに着せようという了見を起こしたのかわからない。とにかく五十年も前から、それがタマミの通っている中学校の夏服だった。
学校に制服を着ていくことは、パラリンピックに参加するようなものだ。おしゃれに目覚めはじめた少女たちはどんなハンディにもめげずに、競争ラインの先にある何かに向かって突進する。誰もその未来がどんな形をしているかわからない。ただ、先には何かあるのではないか。そんな気持ちが少女たちを走らせる。
タマミも走っていた。四角い襟のついた白い上着に紺のスカートという、おもしろくもない服に精一杯の魔法を施すため、毎日、貴重な朝の三十分をこの競争に捧《ささ》げている。
その朝も、白い半袖上着に染みや皺《しわ》がないか点検し、スカートの前後についた四本のボックスプリーツと、セーラー服に結ぶ青いリボンにアイロンをかけることから始まった。
台所からは、朝食の皿の鳴る音や、通学の支度をする兄や弟の声が聞こえてくる。それをクラシック音楽のように聴きながしながら、タマミは丁寧にアイロンをかけていく。
ボックスプリーツをぴりっと線が浮きたつように押して、青いリボンの皺を延ばす。毎日、洗うわけにはいかないが、リボンの端がぴんと立つことが大切なのだ。
タマミは、頬にかかる髪の毛を掻《か》きあげ掻きあげ、アイロンをかける。アイロンの蒸気で、額に汗が滲《にじ》んでくる。
アイロンをかけ終わると、廊下に出て、顔を洗った。乳液をつけて、洗面台の鏡で自分の顔を確かめてみる。毎朝、ほんの少し、にきびが減り、ほんの少し鼻が高くなり、ほんの少し唇が薄くなり、ほんの少しきれいになっていることを期待しながら。事実、鏡に映る自分の顔は、毎朝、ほんの少し違っているようだが、どこがどう違うのか、タマミにはわからない。
それから部屋に戻って、レモン色の空に一千匹の白兎が飛び跳ねているパジャマを脱いで、部屋の鏡にパンティだけの裸身を映してみた。栗《くり》南瓜《かぼちや》形に丸く膨らんだふたつの乳房、腹から股にかけてのとろけかけたカスタードクリームのような線。脚の上にでんと居座った肉厚の尻。同級生の中でも、タマミは早熟なほうだった。乳房も尻もすでにしっかりと前後に張りだしている。それらをセクシーというのか不格好というのか自分でも決めかねて、タマミは鏡の前で風見鶏となって体をくるくると動かしてみる。兄の部屋に転がっているポルノ雑誌に出ているモデルのようにも見えるし、子豚のようにも見える。希望と失望の間を三往復ほどすると、タマミは自分の肉体を鏡から解放して、箪笥《たんす》の中からブラジャーを取りだした。
ブラジャーは五枚あった。三枚は白で、一枚は水玉入りの淡いピンクのソフトブラジャー、もう一枚は水色のレースで覆われている。白の三枚のブラジャーも、三姉妹のようにそれぞれ違っている。紐までフリルに覆われたロマンチックな型、胸の谷間の小さなリボンに白いビーズ玉をくっつけた子供っぽいもの、乳房を覆う縁の部分に黄色のステッチ模様を刺繍《ししゆう》したフロントホック型。ふたつ折りにされて、箪笥に収まったブラジャーを見下ろして、その朝もタマミはどれをつけていこうかと迷った。
今日は水曜日。体育の授業がある。それは更衣室で着替える時、同級生の目に曝《さら》されることを意味した。この前の体育の日はピンクのブラジャーをつけていた。ピンクでなければ、水色だ。タマミは水色のレースのブラジャーに指を伸ばしたが、手にしたのはフリルに覆われた白いブラジャーだった。
ブラジャーを胸にあてて栗南瓜形の乳房を窒息させ、後ろのホックを留めた。そしてキャミソールを着て、スカートを穿《は》く。スカートの丈は校則では膝上七センチまでとなっている。同級生の中にはウエストに細工をして、学校の外ではパンティが覗くほどのところまでたくし上げるようにしている少女もいるが、タマミはそこまで自分の太腿に自信はない。せいぜい校則より一センチ短い膝上八センチにするのが、勇気の限界だった。一センチの校則違反は誰もがやっていることだし、それくらいは大目に見るというのが教師との間の暗黙の了解になっていたが、一方で違反は違反だ。教師の機嫌が悪いと叱責《しつせき》される運命にある。そんな事態に見舞われる日は不運だと、タマミはスカート丈違反を自分なりの占いの手段にしていた。
腹の肉に喰いこむほどきついスカートのウエストを留めると、白い上着を取りあげた。紺色の二重線の入った背後の四角い襟に皺ひとつないことを確かめてから、腕を通した。胸のボタンを填《は》めると、胸の膨らみのせいで前裾《まえすそ》が少し上がる。両手を上げると腹が三センチばかり露《あらわ》になる。白いソックスを穿き、最後に青いリボンを手にした。きちんと三角形に折り畳み、セーラー服の四角い襟の下に通す。ずんぐりして不格好だと思っている乳房が少しでも隠れるようにという密《ひそ》かな願いから、首の青いリボンを横に張り、カイゼル髯《ひげ》のように横に張ったリボンの先を乳首の上にふわりとかけると、制服への抵抗運動は終了した。
最後に髪を梳《と》かして、リップクリームを塗る。鏡にかがみこみながら、横目で机の上のミニーマウスの目覚まし時計を見ると、もう八時五分前になっている。タマミはろくに確かめもせずに教科書を通学鞄に投げこみ、洗ってある体操服を室内用体操靴と一緒にナップザックに入れると、廊下を踏み鳴らして台所に向かった。
「怪獣デブミーの来襲だぁ」と叫んだのは、ちょうど台所から出てきた弟のカズノリだ。小学四年の弟には、姉の乳房や尻の発達は、太ったことにしか映らない。タマミは弟に怪獣デブミーと呼ばれるたびに、その小さな絶壁頭を平手で叩くことにしているが、叩くたびに、デブという言葉が肉となって体にくっつき、心の鏡に映る自分の姿はますますデブになっていく。誰もいなくなった食卓に残っていたバターロールは肥満への応援歌としか思えず、オレンジジュースを飲んで、白濁したフレンチドレッシングをかけたレタスと胡瓜《きゆうり》を二、三口頬ばっただけで、タマミは席を立った。
「タマミ、朝ご飯、ちゃんと食べないと、力が出ないわよ」
髪をゴムでひとつに留めて、台所の流しの前で、すでに出かけた父や兄の使った食器を洗っていた母がいった。
「食べ物ってのはね、私の場合、力になるより、肉になるのよ」
母は頬の落ちた顔に洗剤の泡を飛びちらせ、苦笑した。
「太ることなんか気にしなくていいじゃない。私も、あんたくらいの年頃の時はやっぱり子豚ちゃんみたいだったけど、今じゃ痩せるのが怖いくらいよ」
「子豚ちゃんなんて、いわないでよ」
タマミは半ば冗談ぽく、半ばヒステリックに叫んで、食卓から立ちあがった。そして、廊下に放りだしていた通学鞄を拾いあげ、いってきます、と声をかけて、玄関から飛びだした。
七月の太陽の光に撫でられた猫のように顎《あご》を反らして、腕時計を見た。八時二十三分。始業時間まで後七分。タマミは学校に向かって走りだした。
学校までは、歩いて七分、走って四分の距離だ。中学校に入学して、家と学校が目と鼻の先であることを知った時、タマミは、はちきれんばかりの幸福感を覚えた。もしかしたら、その幸福感を永遠に再体験したいのかもしれない。タマミは毎朝のように遅刻ぎりぎりに家を出る。事実、遅刻しそうになって、はらはらしながら学校に向かって走る時、タマミは荒々しいまでの力を感じる。
家から中学校まで、道路沿いに、白いガードレールのついた歩道が延びている。歩道と道路を隔てる山茶花《さざんか》の植え込み。無表情にまっすぐ前を見つめて足早に歩く会社員や学生たち。歩道沿いの商店はシャッターを上げたばかりで、店員たちが商品を点検したり並べたりしている。慌ただしい朝の町を、タマミは疾走する。セーラー服の四角い襟がスーパーウーマンのマントのようにひらひらと翻り、スカートのプリーツが波となって揺れ、青いリボンの端が乳房の動きと共に上下する。髪の毛も襟もスカートも乳房も尻も、タマミの全身が揺すぶられる。まるで完全な球になって、ころころと転がっているようだ。もしタマミが中学生でなければ、もしタマミがほんとうに球形をしていたなら、鞄を放りだして、どこまでも転がっていくことだろう。
だが、活力に満ちたタマミの疾走には、いつもゴールが待っている。息も切れ、脇腹が痛くなってきた五分後、白いガードレールの先に、灰色の校門が見えてくる。そこからチャイムの最初の音が鳴りだしている。紺色のズボンに白の半袖シャツの男子生徒、セーラー服の女子生徒たちがばたばたと門の中に吸いこまれていく。学校の用務員が鉄柵を閉めようと待ちかまえている。閉められてはおしまいだ。タマミもラストスパートをかけ、校門の中へと飛びこんでいった。
体操服を忘れたことに気がついたのは、三時限目の終わりだった。数学の担当教師が「それでは、宿題を出しておこう」といって、教室中に不満の波を掻きたてた時だった。自分の部屋で体操服をナップザックに詰めこんだのはよく覚えていた。しかし、家を出た時、ナップザックは持ってなかった。
母親に電話して持ってくるように頼もうかと思ったが、昼間はパートに出ていないことに気がついた。
かといって、体育を休みたくはなかった。生理のせいだと勘ぐられるのは、癪《しやく》に障る。休み時間は十分。走って戻れば、ぎりぎりで家に戻って取ってこれる。しかし、勝手に学校を抜けだすのは禁じられている。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴りはじめると同時に、タマミは職員室に突進した。幸い、陽に焼けた肌でクロコゲというあだ名のついた体育教師はまだ職員室にいた。
「先生、体操服を忘れたんで、家に取りに戻る許可をください」
白いポロシャツにきっちりとブラジャーの形を浮きたたせ、紫色のトレーニングズボンを穿いたクロコゲは眉をしかめた。
「休み時間は十分しかないのよ」
「家は近くなんです。十分で往復できます」
タマミは腕時計を横目で見て、すでに一分過ぎているのを恨めしく思いながら早口でいった。
「体育、休みたくないんです」
その言葉は、クロコゲの心証を良くしたらしかった。クロコゲは大きな声をだした。
「だったら、ぐずぐずしてないで、家まで駆け足っ」
いわれるまでもなく、タマミは走りだした。学校の玄関で靴を履いて、校庭に飛びだす。校門の鉄柵は閉められているが、横の小さな通用口は開いている。通用口の前にいる用務員のところに行って、先生の許可を得たことを伝えて、校門を出た。
一度、学校に入ったなら、夕方まで門から出ることは許されない。なのに、今日は学校の外に出ていける。授業をさぼって映画やゲームセンターに行く生徒たちの仲間入りをしたみたいで、後ろめたさと興奮を覚えた。
太陽は頭上高くで、白っぽい光を放っていた。歩道のガードレールも、植え込みの山茶花も、朝とは違って、少しだらけて見える。
路上には、制服を着た生徒は見えなかった。店先で若い男の店員と話しながら、甲高い声で笑っている主婦。物憂げに煙草をふかしながら、スーパーの前に立っている中年男。胸の大きく開いたサマードレスにサングラスをかけた女が、髪を染めた男の腕にぶらさがって歩いている。子供をベビーカーに乗せた若い母親が二人、顔を醜いまでに歪《ゆが》めて、愚痴をぶつけあっている。道路に面したマンションのベランダでは、今、起きたばかりといった顔の男が洗濯物を干している。通りすがりの大人たちには見覚えのある顔がいくつもあったが、今は知らない人に見えた。
そこは大人の世界だった。七歳から十五歳までの少年少女たちが、学校という箱に入れられている間に繰り広げられる世界。その世界をタマミはセーラー服の四角い襟を翻して走っていく。タマミに気がついた数人の大人が、咎めるような目つきをした。学校を抜けだした不良少女だと思ったのだろう。
不良少女と見られたことに、タマミはわくわくした。いつもは胸の奥にしまいこんでいる引き出しが開いて、パンツが見えるくらいにスカートを短くして、学校をさぼって、好きなことをする少女への憧《あこが》れが湧《わ》きでてきた。
薬局の角を曲がると、家はすぐそこだ。「目玉商品」「出血サービス」という張り紙がべたべた貼ってある店の前にさしかかった時、家に続く角から、突然、母が現れた。それが母だと意識に上るよりも早く、タマミはとっさに薬屋の店頭に体を向け、商品を見ているふりをした。なぜ、そんなことをしたのか、気がついたのは、少し後だった。
母は別人のようだった。髪の毛を解いてきれいに梳かしつけ、きちんと化粧をして、白に銀の縞《しま》模様の入ったシースルーブラウスに空色のスカートを穿いている。耳には大きなイヤリング、首には硝子玉のネックレスまで光っている。
もう十一時を過ぎているはずだ。母は駅前の洋品店に平日の十時から四時まで、売り子として勤めている。今日は遅くなったのだろうかと思った。
タマミはトイレットペーパーの山の前で、そっと首を捻《ひね》って、母を見た。母は薬局とは反対側の角を曲がろうとして、左手を薄い胸に置いた。小指がそこに乳房があるのを確かめるように、ブラジャーに包まれた丸い盛りあがりに触れ、乳首を、一度、二度、とこすった。タマミがそれを目にしたと同時に、母は向きを変えて、バス停のほうに遠ざかっていった。
タマミはゆっくりと店頭から離れた。そして走るのを忘れて角を曲がり、突きあたりの家に入っていった。
玄関の戸を鍵で開けて、家に人った。家の中はしんとしている。廊下には、微《かす》かに香水の匂いが漂っていた。玄関の上がり框《かまち》に放りだしてあったナップザックをつかむと、タマミは腕時計を見た。四時限目の始まるまで、後二分しかない。タマミは子供のように悲鳴を上げて、玄関の戸を閉め、再び走りだした。
学校へと引き返しはじめたとたん、タマミの足取りは重くなった。薬屋の角を曲がった時にはすでに息が切れていた。それでも、のろのろと走りつづけるうちに、たまらなく不快になってきた。
汗はキャミソールに張りつき、スカートは太腿にまとわりつく。胸の前の青いリボンは力なくだらりと下がり、背中の四角い襟はもうスーパーウーマンのマントというより、負け犬の尻尾のようだ。
タマミはやがて歩きだした。クロコゲには体操服を取りに帰るといってある。授業に少しくらい遅刻しても、その理由は告げてある。まあいいだろうという、怠惰な気分が湧いてきた。
とはいえ、少しは後ろめたい。良心をごまかすために、時々、小走りになりながら、タマミは学校へと戻っていく。
通りでは、ベビーカーの若い母親たちはまだ立ち話をしていたが、マンションのベランダから男は消えていて、派手なトランクスが物干し竿にぶら下がっていた。スーパーの前にはトラックが止まり、筋肉質の男が段ボール箱を下ろしている。営業マンらしい男が書類鞄を小脇に抱えて、せかせかと道路沿いの雑居ビルに入っていく。さっきまで人に満ちていた通りは、今はやけにがらがらしていた。昼の強い日射しが、道も建物も、すべてを砂漠のように白っぽく照らしている。
風景は、大人の世界であることを止めていた。学校の登下校の時のような退屈さだ。タマミには何が起こったかわからなかった。タマミは体操服の入ったナップザックの紐をもって、ぶらぶらと揺すりはじめた。
「お嬢ちゃん、どこに行くんだい」
横から男の声が聞こえた。顔を向けると、歩道のガードレールの向こうに、白い車がいた。車の窓が開いて、男が顔を出している。坊ちゃんのような丸顔に、濃い髯剃り跡。少しぼってりした頬には曖昧《あいまい》な笑みが浮かんでいる。緑色にオレンジの線が稲妻形に入った派手なシャツを着ている。二十代後半か三十歳そこそこのおじさんだ。
タマミの心も体も、見知らぬ男から声をかけられた衝撃できゅっと引き締まった。
「ねぇ、こんな暑い中、どこに行くのさ」
男は徐行運転しながら、また聞いた。運転席が左にある外車だった。山茶花の植え込みの向こうを男の顔が横に滑っていく。
「学校に戻るところ」
タマミはようやく答えた。
「学校だって」
男は少し馬鹿にしたようにいってから、すぐに「乗れよ、送っていってあげるよ、車だったらすぐだ」と親切そうに誘った。
通りの先に、中学校の建物の屋上が見えていた。校門はあと二百メートルほど先だ。確かに男の車に乗せてもらえば、あっという間に校門の前に着くだろうという考えが浮かんだ。
そう思ったとたん、暑さはとてつもなく我慢ならない気がしてきた。ほんの一、二分、車に乗せてもらうだけだ。どうせ体育の授業に入ったら、また走ったり跳んだりすることになる。今、少し休んでおいたほうがいいのではないか。タマミの頭の中でくるくるとそんな考えが舞った。
だけど先生や両親は、知らない男の人についていってはいけないと、常日頃から注意していた。知らない男の誘いに乗ってはいけないのだ。この男の車に乗ってはいけない。そう思う一方、タマミはこの男の車に乗ってみたくてたまらなくなっていた。いけないという気持ちと、いきたいという気持ちが同時に起こり、タマミの心臓が大きく鳴り、汗がどっと噴きでてきた。タマミは喉《のど》を鳴らして、欲望という名の唾の塊を呑みこんだ。
その音が聞こえたかのように、男が優しい声でいった。
「学校なんてつまらないだろ。俺が、いいところに連れてってやるよ。映画館でも、海でも、うまいもの屋でも」
その声があまりに甘すぎたから、あまりに優しすぎたから、警戒心が弾きでてきた。タマミは驚いたウサギのように走りだした。それで男から逃れられると思っていた。相手が車に乗っているとは、考えなかった。
「こんな日中、走ると疲れるだろ。乗りなよ」
男は車でタマミを追ってくる。山茶花の茂みの向こうから、執拗《しつよう》に誘いつづける。
タマミは走りながら、横目で男を窺《うかが》った。その大きな目の奥から、ねっとりした力が放たれていた。走るたびに揺れる乳房が、尻が、全身の肉が、その視線に曝されていることに、タマミはぼんやりと気がついていた。それは、気が遠くなりそうなほど気持ちのいいことだった。タマミは、男の視線によって、体の底から揺すぶられていた。
校門が見えてきた。四時限目はすでに始まったらしく、学校はひっそりしている。閉められた鉄柵の向こうには、誰もいない。草一本生えてない乾いた校庭が広がっているだけだ。鉄柵の向こうは死の国だ。そこでは何も起こらない。
タマミは鉄柵の前で立ち止まった。自分では息を整えるためだと思ったけれど、ほんとうは違っていた。大人の世界にもう一度、顔を向けるためだった。
男の車が道路から左折して、校門の前に立つタマミの横に止まった。ばたんと音がして、助手席のドアが開いた。
「ほら」
車の中から男の囁《ささや》きが聞こえた。
タマミの目の前に、白い車の助手席があった。それは白いペガサスのように、タマミをどこかに運んでいってくれるのだ。毎朝、学校への道を走る時、心の中で探しているゴールに。辿《たど》りつけそうで着けないどこかに。タマミが球となって転がっていくべき場所に。
タマミは、助手席に近づいた。車に乗ろうとかがんだ時、制服の青いリボンが見えた。その下に紺色のプリーツスカートがある。制服が目に入ったとたん、タマミの心が収縮した。タマミは動きを止め、ナップザックの紐を握りしめた。
「どうしたんだよ、怖がることないさ」
運転席から助手席のほうに身を乗りだすようにして、男がいった。その目がタマミの全身を舐《な》めていた。タマミの青いリボンの下の膨らんだふたつの丘に。はちきれんばかりに盛りあがった乳房に。タマミの全身が熱くなった。タマミは喘《あえ》ぐように口を開き、唇の間から赤い舌を突きだした。
「やーだよ」
踵《きびす》を返して、通用口から校門の中に飛びこんだ。
「この小便たれのガキゃあっ」
男の怒声が背中で聞こえ、背後で車の走り去る音がした。タマミは後ろも振り返らずに、校庭を横切り、体育館のほうに走っていった。
体育館で下駄箱に靴を入れる時から、すでに「いちっ、にっ、さん、し」という柔軟体操のかけ声が聞こえていた。
中に入ると、案の定、クロコゲが整列した女子生徒の前で体操している。みな、胸に校章の入った半袖体操服に、赤い短パン姿だ。隣接する武道場からは、男子生徒が準備運動の駆け足をしているらしい、どたどたという音が響いていた。
タマミは、クロコゲヘの言い訳代わりにこれ見よがしに体操服の入ったナップザックを胸の前で抱え、体操中の同級生の横を通り、更衣室へと走っていった。
灰色のロッカーの並んだ更衣室に人気はなかった。窓の磨《す》りガラスから入ってくる白っぽい外光に照らされて、室内は静かな湖底のようだ。空いているロツカーの戸を開いて、ナップザックを押しこむと、タマミは息を吐いて、体の力を抜いた。家への行き帰り、緊張と興奮の間をジェットコースターのように行き来したせいで、まだ胸がどきどきして、全身が火照っていた。
「にぃ、にっ、さん、し、さん、にぃ、さん、し」
少女たちのかけ声が流れてくる。ぐずぐずしていたら柔軟体操が終わって、クロコゲは出欠を取りはじめるだろう。タマミは気を取り直し、ナップザックの中から体操服を取りだしてロツカーの中に置いた。制服の青いリボンを解いて、ロツカーの戸の裏側にかける。スカートのホックを外し、プリーツが皺にならないようにたたんでいると、更衣室の戸が開いて、ヨシエが入ってきた。お喋り好きの騒がしい同級生だ。タマミを見つけて、ヨシエは叫んだ。
「うれしい、仲間がいたわ」
ヨシエはタマミの隣のロッカーを開くと、サイダーの栓を抜いたようにまくしたてた。「ひどいったらないの。お腹が痛くて保健室に行ったら、あのカモ婆ぁ、あなたの腹痛は神経性です、体育の授業を受けたほうが治ります、だって。どんなに痛いんだって、いっても、聞いてくれやしないの」
保健の教師でなくても、ヨシエの腹痛はいかにも仮病臭く感じられる。タマミは、ふぅん、とおざなりに返事して、セーラー服のボタンを外し、半袖の上着を脱いだ。
「でね、カモ婆ったら、体育の授業に出ないんだったら、クロコゲのところまで引きずっていくとまでいうのよ。体育の授業中に、私、倒れても知らないから」
相変わらず不満をぶちまけながら、ヨシエは青いリボンを引きむしるようにして解き、上着を脱いだ。下にはキャミソールもスリップもつけてなく、ピンクのブラジャーだけだった。
更衣室の戸の向こうで、「それでは出欠を取りまぁす」というクロコゲの声が響いた。タマミは慌てて、汗で肌に張りついていたキャミソールの端を両手でつかんで、頭のほうにひっぱり上げた。
「きっとカモ婆、更年期障害ってやつよ、うちのママもそれで、毎日、きりきりしてんの」
ヨシエの饒舌《じようぜつ》を聞き流しながら、胸を反らせてキャミソールを脱いだ。そのはずみに、白いブラジャーに包まれたタマミの乳首が、ヨシエの乳房にぶつかった。タマミの乳首から股の間に熱いものが走ったと同時に、ヨシエのお喋りがぴたりと止まった。
キャミソールを握りしめたままのタマミと、スカートのホックを外していたヨシエは石のように立ちすくんだ。
体育館からは、「アサダさん」「はい」「イシヤマさん」「はぁい」という出欠を取る声がはじまっている。体操服を着なくてはと思うのだが、あまりにさっきの感覚が大きかったので、動く気持ちになれない。でも、このままどうしていいかもわからない。二人の視線がおずおずと出会い、ぱっと反らされた。そして二人は再び糊付《のりづ》けされたように動けなくなった。まるで二人とも、白っぽい光に満ちた無彩色の更衣室の一部と化してしまったようだ。だが、それは外見だけだった。少女の体の中では大きなうねりが起きていた。足の裏から頭の先まで、熱い波が駆けめぐっていた。
「ウエダさん……キシダさん……サイトウさん、サイトウさぁん……」
波のうねりの彼方《かなた》、どこかずっと遠くで、出欠を取るクロコゲの声が流れている。
タマミの乳房から、火花のようなものがまた走った。視線を落とすと、ヨシエの親指がブラジャー越しにタマミの乳首に触れていた。白いブラジャーの上から、指で餅《もち》を押すように、乳首を押しあげている。ふたたび先ほどの心地よい衝撃が全身を駆けめぐり、頭がぼわっとした。タマミはヨシエを上目遣いに見た。ヨシエは目を半分閉じて、ピンクのブラジャーに象《かたど》られた乳房を突きだすようにしている。タマミの乳房より小さくて、半分に切った桃のようだ。タマミは掌でヨシエの乳房を覆った。ブラジャーのレースの部分を通して、手の内にこりこりした乳首が感じられた。二人の少女の体が少し近づいた。太腿と太腿が触れあった。
じいんとした波が、太腿の奥から下腹に突きぬけた。身じろぎした瞬間、二人の太腿の間のこんもりした膨らみがこすれあい、タマミの腹の底がねじれそうになった。
どんどんどん。
更衣室の戸が乱暴に叩かれた。
タマミとヨシエは、びくっとして体を直立させた。
「遅刻組のお二人さんっ、早く出てきなさぁいっ」
更衣室の外で、クロコゲが怒鳴っていた。
タマミは慌てて体操服を着はじめた。ヨシエも短パンをロッカーから引きずりだしている。二人は体操服を着終えると、逃げるように更衣室から走りさっていった。
体育の後も、昼休みも午後の休み時間も、タマミはヨシエとは一言も言葉を交わさなかった。学校が終わると、ヨシエはいつもの仲間と一緒に帰っていった。タマミも仲良しの友達と帰りにアイスクリームを買って食べて、家に戻った。
玄関の鍵はまだ閉まったままだった。母はまだ帰宅していないらしい。家の中に入ると、廊下にカズノリのランドセルが放りだされていた。弟は小学校から一度戻ってきたが、また出かけたようだった。
家の中はしんとしていた。タマミは自分の部屋に入ると、学生鞄と体操服の入ったナップザックをベッドの上に投げだした。
部屋はむっとして暑かった。窓を開き、風を入れて、カーテンだけ閉めた。そして青いリボンを解いて、セーラー服のボタンを外した。制服を椅子の背にかけて、ブラジャーとパンティだけになると、タマミは鏡の前に立った。
前と後ろに勢いよく突きだした乳房と尻、とろけかかったカスタードクリームのような腹。もしかしたら自分は子豚ではないかもしれない。白い車に乗った男の視線を思い出して、タマミは鼻の頭にしわを寄せた。
白いブラジャーの上に親指を置いて、そっと押してみる。鈍く痺《しび》れたような感覚が乳首のあたりに広がった。少し力を入れて触れると、さっきより強い感覚が乳首から太腿の奥に伝わった。
タマミはブラジャーを外して、学習机の前の椅子に腰を下ろした。股を少し開いて、右手の指で右の乳首を揉《も》む。黒い縮れ毛の生えてきた太腿の奥がむずむずと熱くなる。さらに乳首を揉みつづけると、タマミの太腿の奥が熱気球のように膨らんできた。それはどんどんと大きくなり、タマミの全身を包んでいく。やがてタマミは球となり、転がりはじめた。でこぼこした、登り坂や下り坂、曲がり角のある、複雑でまっすぐな道を。道のゴールがどこか、十四歳のタマミにはわからない。それでも行く手にあるのは、何かとてつもなくわくわくするもの、眩《まぶ》しいほどに輝くもの。そんな予感に包まれて、タマミは少しずつ太腿を開いていった。
8 煙 草
男は、娘の体からゆっくりと男根を引きぬいた。先のくしゃくしゃになったコンドームに包まれた男根は、精を出しきり、水を含みすぎた麩《ふ》のように萎《な》えている。娘は静かに息をつきながら、ベッドに横たわっている。白いシーツに広がる黒髪に、十代の若々しい顔が浮かびあがっている。眼を半ば閉じ、あどけなさの残る口許を緩め、まださきほどの陶酔の波間をたゆたっている。
男はそのすべすべした頬を掌で撫《な》でると、半身起こして、ベッドの縁に座った。精液でべとつくコンドームを男根から外し、ベッド脇に置かれていたティッシュペーパーでくるんでゴミ箱に投げこんだ。そしてまた娘を振り向いた。皺《しわ》になった白いシーツの上で、娘は全身を広げている。腋《わき》の下から弓のような曲線を描く乳房、脂肪の乗った淡いクリーム色の腹、太腿の間で絡みあっているまばらな陰毛。ホテルの薄手のカーテンから射してくる光の中で、その肉体は柔らかな輝きを放っている。
男は、足許に脱ぎすてていたジャケットの胸ポケットから煙草の箱を引きだした。一本抜いて、ライターをカチッと鳴らす。火をつけ、煙を吸いこむか吸いこまないうちに、声がした。
「あたしにもちょうだい」
娘の眼が開かれ、小さな五本の指を広げた手が男のほうに差しだされていた。男は娘の指の間に自分の吸おうとしていた煙草を差しこみ、また箱から新しく一本取りだした。娘はベッドに横になったまま、頬をすぼめ、いかにもおいしそうに煙を吸いこみ、丸めた唇から長々と吐きだした。白い煙がホテルの四角いのっぺりとした部屋の壁や天井にぶつかり、天使の巻き毛のように渦巻いた。娘は目を細め、煙の行方《ゆくえ》を見守っている。
娘の名は、ユカリといった。偽名だろうと男は思っている。町を歩いていて、ふと目と目が合った娘だった。乳房の浮きあがる挑発的なシャツに腰回りがぴたりとしたパンツ、踵《かかと》の高い靴を履いて大人っぽく装っていたが、顔つきはどう見ても十四、五歳だった。しかし体はもう成熟した女の匂いを放っていた。男が自分の肉体に視線を走らせたことに気がつくと、ユカリは花が開いたように笑った。その笑みは、自分の魅力に充分自覚的であり、さらにそれを武器にできることも知っている、大人の女のものであった。
男は、自分が何をしているか気づくよりも先に、顎《あご》をしゃくり、一緒に来ないか、という合図を送っていた。
ユカリは遊園地に誘われた子供のように嬉々としてついてきた。誘ったはいいが、それからどうしていいかわからず迷いながら歩いていると、ユカリは屈託なくいった。ホテルなら、ミケラがいいな。それはこの界隈《かいわい》に数年前にできた近代的ホテルの通称だった。そのホテルの部屋に入ると、ユカリは、二万円よ、といいながら、バッグからコンドームを取りだし、遊び仲間とチューインガムを分け合うような仕草で男に渡したのだった。
今、ユカリは黙って、愛《いと》おしそうに煙草を吸っている。それは男根を撫でた時の手の動きを思い出させた。同時に、交わった時の激しさ、膣《ちつ》の温もり、燃えるほどの熱心さも蘇った。金のために交わっている商売女とは違っていた。交わるために、金を口実にしたという印象を受けた。
男は自分の煙草に火をつけると、またベッドに戻り、枕に背をあて、足を投げだして座った。そして仰向《あおむ》けになったユカリの額を撫でて聞いた。
「男と寝るの、好きなのかい」
ユカリは、ぷーっと煙を吐きだして、うん、とっても、と弾む声で返事した。
「なんで、そんなに好きなんだ」
ユカリは馬鹿にしたように、男を横目で見上げた。
「好きなもんに理由なんかないでしょ」
それはそうだ、と男は苦笑した。
「だけど、なんにでもきっかけってもんがあるだろ。きみの場合は、どんなことがきっかけだったんだろうと思ってさ」
男は言葉を続けた。ユカリはベッドに寝転がったまま、煙の這《は》いまわるホテルの天井を見つめている。男は自分の煙草を吸った。男の煙が天井の煙と合流し、渦の描く模様はさらに濃厚に複雑になった。彼女は自分の問いに答えたくないのだろう。男が頭の隅で考えはじめた時、ユカリが紫煙と一緒に、言葉を吐きだしはじめた。
離れを建てようといいだしたのは、お父さんだった。家の敷地の端っこに、小さな部屋と台所とトイレのある家を建てる。そこに、今は別の町で一人暮らしをしているお祖母ちゃんを呼び寄せて、暮らしてもらう。これがお父さんの意見だった。
お母さんは、あんまり賛成したふうじゃなかった。お祖母ちゃんと一緒に暮らすのが、うっとうしいんだとあたしにはわかっていた。
うちは両親とあたしと弟の四人家族。二階建てとはいっても、両親は寝室、あたしと弟はそれぞれ自分の部屋を持っていたから、空いている部屋なんかない。こんな狭い家で、お祖母さんに同居していただくなんてできないわ、というのが、お母さんの口癖だった。だけど、お父さんが離れを建てるといいだして、もう反対できなくなったってわけ。
あたしは、おもしろいなぁ、と思った。お祖母ちゃんは頭の中にあることをドッジボールみたいにぽんぽん投げつける威勢のいい人で、あたしは好きだった。それに庭に新しい家が建つのはわくわくすることだった。
お父さんとお母さんは夏の間|揉《も》めていたけど、結局、離れを建てることにした。お父さんが仕事を頼んだのは、トキさんだった。家の近くに住んでいる大工さんで、あたしも学校の行き帰り、道で出会うと挨拶《あいさつ》したりする人だった。
トキさんは、そうだな、おじさんよりちょっと若いくらいの年の人。お父さんも大工さんで、そのお父さんが死んで、跡を継いだんだって。材木置き場や作業小屋のくっついた、古ぼけた和風の家に、お母さんと奥さん、まだ赤ん坊の子供と一緒に住んでいた。顔にいっぱいにきびの跡があって、目も鼻も小さくて、口だけがとても大きかった。背は高いほう、腰のあたりが大きく膨らんで膝から下がすぼまったズボンを穿《は》いて、首にタオルをかけて歩いている姿はかっこよかった。秋になって離れの仕事にとりかかると、トキさんは毎朝、小型トラックに大工道具を積んで、家にやってきた。
トキさんが来るようになると、お母さんは急に離れを建てることに関心を持ったみたいだった。お盆にお茶菓子を載せて、トキさんのところにおやつを持っていっては、あれこれ質問していた。そんな時は、決して肘のところが薄くなったシャツなんか着なかったし、口紅までつけて、いそいそしていた。だけどトキさんは愛想が悪かったらしくて、「大工さんって、みんな、ああなのかしら、話しかけてもぶすっとして……」と、お母さん、後でお父さんにこぼしていた。
それで、お盆を運ぶのは、あたしになった。あたしはその役目が気に入った。
学校から戻ると、お菓子とお茶を載せたお盆を持って、庭を通って、離れまで運ぶ。レストランのウェイトレスみたいに背筋をぴんと立てて、お茶がこぼれないように、お盆をしっかりと持って歩く。あたしは、大人になった気分だった。つんと前に向かって突きだしはじめた乳首が、お盆の縁にぶつかる。それがなんだか誇らしかった。
離れは、庭の西角に建てられていた。家とは、小さな竹藪《たけやぶ》で隔てられているし、隣にある門との間には椿《つばき》の茂みがあって、そこはまわりからは隠れた感じの場所だった。
お盆を持っていくと、トキさんは、いつも仕事をしていた。できていたのは、四方の柱と屋根だけ。トキさんは、そのお芝居の舞台のような家の中で壁板を張ったり、床板の支えになる木を渡したりしていた。あたしはお茶を持って、トキさんが気がつくまで、じっと立っていた。トキさんは口に釘をくわえて金槌《かなづち》を叩《たた》いていたり、電動|鋸《のこぎり》を挽《ひ》いていたりした。たまに脚立の高いところで仕事をしていると、あたしはサーカスを見ているみたいにわくわくした。
トキさんはあたしの気配に気がつくと、手を止めて、にこっと笑った。それから建築中の家の床縁に座って、お茶を飲み、煙草を吸った。お父さんは吸わなかったから、あたしには煙草がもの珍しかった。白くて細い先がぼうっと赤く燃えることも、息を吸って、しばらくしてから口や鼻から白い煙が出てくることも、魔術みたいに思えた。煙草をじっと見つめていると、トキさんはよくあたしの顔にぷーっと煙を吐きつけた。あたしは悲鳴を上げて手をばたばたさせる。そうしながら、髪の毛や顔にまとわりついた煙の匂いを嗅《か》いだ。それは紙を焼く時の焦げ臭い匂いとも、台所でお母さんが魚や茄子《なす》を焼く時の香ばしい匂いとも違っていた。もっと強くて、しつこい感じ。他の匂いなら、すぐに消えてしまうけれど、煙草の匂いはいつまでもあたしの髪の毛や服にくっついていた。
あたしはお盆を下げるため、トキさんが煙草を吸い、お茶を飲み終わるまで待っていた。たいていトキさんは、あたしにお菓子を分けてくれた。ビスケットやクッキーならもらったけど、煎餅《せんべい》だったら断った。
トキさんは、いつも満足そうに家を眺めながら煙草を吸った。あたしはトキさんの視線を追って家の柱や屋根、窓枠や床などを眺めた。一服すると、たまにトキさんは硬くこりこりした腕や肩、太腿や足の筋肉に触らせてくれた。思いっきり叩いていいよ、といわれて、拳で叩いたりしたけど、トキさんの筋肉はあたしの拳を元気よく弾《はじ》きかえしただけだった。指相撲をすることもあった。トキさんは親指一本、あたしは両手を使ってもいいことになっていた。あたしは、爪の間の黒ずんだ太い親指に両手でしがみつき、トキさんを負かそうとしたけど駄目だった。あたしが全身を捩《ねじ》らせて親指を押したり引いたりしていると、煙草の匂いの染みついたトキさんの太腿や腹や腕に体がぶつかった。ぶつかるたびに、あたしはますます夢中になった。トキさんは笑いながら、「弱いなぁ」とからかう。あたしは「弱くないったら」と叫びながら、トキさんの指にむしゃぶりついていった。
やがてトキさんは「さあ、仕事だ」と呟《つぶや》いて腰を上げる。それが合図だった。あたしはお盆に空の湯飲みを載せて、家に戻っていく。台所に着くと、竹藪の向こうからは、金槌や鋸の音が聞こえはじめた。
遠足も運動会も過ぎ、家も半分くらいできた頃のある日、学校から戻ると、お母さんはいなかった。台所のテーブルに、お茶とお饅頭《まんじゆう》の用意がしてあって、「トキさんに持っていってあげてね」とメモが残されていた。弟も学校から帰ってまた出ていったらしく、ランドセルが居間に放りだされている。
お盆を運んでいくと、床板を張っていたトキさんは、「奥さん、夕方には戻るってよ」といった。お母さんは、トキさんに、留守の間、家に気をつけているように頼んでいったという。トキさんは仕事を止めると、張ったばかりの床板に腰をおろして、ズボンのポケットから煙草の箱を取りだした。あたしはその横にお盆を置いた。
「ちぇっ」という舌打ちが聞こえた。トキさんは煙草の箱を握りつぶして、地面の上の塵《ちり》をまとめてあるところに投げ棄てた。煙草が切れていたらしかった。トキさんは渋い顔をして、お茶を飲んだ。あたしはトキさんが煙草を吸うのが見られなくてつまらなかった。だから、「煙草、買ってきてくれないかな」といわれた時には、すぐさま「いいよ」と返事していた。
あたしはトキさんの五百円玉を握りしめて、門から飛びだした。
近くのコンビニエンスストアまでの間、どきどきしっ放しだった。だって、ただのお遣いじゃなかった。煙草を買うのだ。煙草を買うなんて、生まれて初めてだった。
煙草の自動販売機の前に立つと、何度も確かめて、トキさんがいつも吸っている箱の下のボタンを押した。かたっと音がして、煙草が落ちてきた。取りだし口に手を突っこんで、煙草の箱を引きだした時には、学芸会で自分の役をうまく演じられた時みたいに誇らしかった。お釣りも忘れずに取って、煙草の箱をワンピースのポケツトに滑りこませた。家に帰る間中、煙草の角があたしの太腿にぶつかって、そのたびに、あたしは煙草を持っているんだ、と思いつづけていた。
離れで、トキさんはお茶を飲んでお饅頭を食べていた。煙草を指に挟んでいないと、間が抜けて見えた。あたしが煙草の箱を渡すと、トキさんは早速、ビニールの封を破って一本取りだした。大きな口の端に挟んで、ライターで火をつける。トキさんが小鼻を広げて煙を吸いこむのを、あたしは前に立ってじっと見ていた。
「吸ってみるか」
トキさんが、白い煙を立ちのぼらせている煙草を、ついとあたしの前に差しだして聞いた。あたしは慌てて、いい、といいかけて、お母さんはいないことを思い出した。あたしはこくりとした。トキさんは、あたしに煙草を渡した。あたしはトキさんがしていたように、人差し指と中指の間に煙草を挟んで、唇に近づけた。
「試しに、ほんの少し吸いこんでみろよ」
トキさんが力づけるように、あたしの背骨の下に手を置いた。あたしはちょっぴり煙草の煙を吸った。口の中に煙を入れて、吐きだす。舌をぺたぺた鳴らすと、苦いような煙ったいような味がした。
「喉《のど》の奥まで、ゆっくり吸いこむんだ」
あたしはもう少し強く息を吸いこんだ。喉に煙が流れこんできて、胸が塞《ふさ》がった。急いで息を吐きだした。口から白い煙が出てきて、頭の中がぼわっと痺《しび》れたようになった時、ワンピースの背中のジッパーが動くのを感じた。ジッパーは背筋に沿って、するすると下がっていき、あたしのお尻の上で止まった。あれ、と思った時、トキさんの声がした。
「もう一回。今度は、喉の奥に少し溜《た》めておいたらいいよ」
あたしはいわれた通りに、また煙草を吸った。一息分の煙を胸のところに溜めていると、トキさんの指がジッパーの間を抜けて服の下に入ってきて、パンツのゴムに触れるのがわかった。あたしは息が苦しくなって、煙を吐きだしていった。まるで体の中にあった白い糸が引き抜かれていくような感じだった。同時に、背中のパンツのゴムの下をトキさんの指がすうっと撫でた。喉から出ていく煙の引き抜かれていく快感と、パンツのゴムの下の肌を撫でられてぞくっとした快感が同時に噴きあがり、どっちに気持ちを向けていいかわからず、あたしはくらくらしてしまった。クリームパフェを食べながら、溜まっていたうんちをしている、といったら近いかもしれない。あそこがきゅうっとすぼまったみたいになって、あたしは喘《あえ》いだ。煙草の煙を喉から吐きだしきった時には、ワンピースのジッパーは引きあげられていた。
あたしはぼうっとしてトキさんの横に立っていた。トキさんは、あたしの指から煙草を取りあげると、自分の口に挟み、深々と吸った。そして秋晴れの空に、煙草の煙を力強く吹きあげてからいった。
「このことは内緒だよ」
あたしは煙草を吸うようになった。お茶を運んでいくと、必ず、トキさんの吸っていた煙草を口に差しこんでもらい、煙を二、三回吸いこむようになった。トキさんは、煙草を吸っている私のワンピースやスカートのジッパーを下げる。そして、パンツのゴムの下に指を滑りこませ、お尻のあたりをそっと撫でる。煙と撫でられることにくらくらすると、私はトキさんに煙草を戻す。そして、トキさんはお茶を飲み、お菓子を食べる。
やがてあたしは、トキさんの膝に座って、煙草を吸うようになった。トキさんの指が、あたしのパンツのゴムの下に入ってくるのを感じながら、煙草を吸った。あたしのお尻は、トキさんの股の間に置かれていた。トキさんの指がゆっくりと脇腹からお尻を撫でる。あたしは煙草を吸いつづける。そして、お尻の下にある、トキさんの股の間のものが、じわじわとしこりのように硬くなっていくのがわかった。
竹藪や椿《つばき》の茂みの向こうで、人の気配がすると、あたしはトキさんの口に煙草を押しこんだ。そしてトキさんの指が、あたしのスカートの下からするりと引っ込んだ。
「あらまあ、この子ったら、すっかりトキさんになついちゃって」
トキさんの膝に乗っているあたしを見て、お母さんは嘆くみたいにいった。一度、弟が夕食の前、「姉ちゃん、煙草臭い」と顔をしかめたことがあった。お母さんは、それから少しあたしのことを心配しはじめて、「あんまりトキさんにべたべたしちゃだめよ」と、いうようになった。どうして、と聞くと、「お仕事の邪魔になるでしょ」という返事だった。そんな会話を漏れ聞いたお父さんは、「こりゃ、トキさんに父親の座を盗られちゃうかな」と笑っていた。
離れは、冬前に完成した。草色の壁に、南向きの大きな窓、縁側もあった。引っ越してきたお祖母ちゃんは、いい家ねぇ、と大喜びしていた。お祖母ちゃんが来て、しばらく家のみんなは浮ついた感じだった。お母さんは、お祖母ちゃんに気を遣って、ぴりぴりしていたし、お父さんはその間で、耳をぴんと立てて飼い主を観察する犬のように、二人の様子に気を配っていた。弟は、新しいペツトを見つけたみたいに、お祖母ちゃんにまとわりついていた。だから、あたしが学校から戻ってから、トキさんの仕事場に遊びに行くようになっても、誰も注意を払わなかった。
その仕事場は、トキさんの家の敷地の中にあるけれど、入口は別になっていた。仕事場の半分は仕事用の小型トラックを入れる車庫で、通りに面しているシャッターはたいてい閉まっている。でも、隣の小さな戸はいつも開いていたから、あたしはその戸を押しあけて中に入っていった。小型トラックの隣を擦り抜けて奥に進むと、材木や針金、ベニヤ板などの建材に囲まれた空間がある。建材に隠れるようにして、家の庭に出る引き戸、その向かいの壁の棚には大工道具がずらりと並んでいる。下のほうに古くて汚れたソファがあり、ちょっと休めるようになっていた。通りに面した入口と反対側の壁には窓があるけれど、磨《す》りガラスが入っていて、仕事場全体に光は届かなかった。
あたしが入っていくと、仕事場の窓辺でトキさんは、材木を切ったり、鉋《かんな》をかけたり、電動鋸の手入れをしたりしていた。あたしの家の離れの仕事が終わると、トキさんは新しい仕事にとりかかっていた。でも、たいてい夕方には家に戻っていたのだ。
「トキさん」と声をかけると、トキさんは目の下に小さな皺を寄せて、微笑んだ。そして仕事の手を止め、通りに面した入口と、もうひとつの自宅の庭への出入口に鍵をかける。それからソファのところに行って、煙草の箱を手にする。あたしはトキさんの広げた股の間に座って、膝に両手をかけて待っている。
そう、あたしは待っていた。煙草に火をつけられるのを。トキさんがあたしのパンツの下に指を差し入れるのを。あたしは右手の指の間に煙草を挟み、左手でトキさんの股の間の膨らみを撫でる。唾でぬるぬるしてきた煙草を吸っていると、煙草の煙に巻かれて、頭が痺れたようになってくる。あたしの太腿の奥が生き物みたいにどくんどくんと脈打ちはじめる。トキさんの股の間のものが次第に硬くなり、頭をもたげてくる。それがうっとうしいくらいお尻にぶつかりはじめると、あたしはトキさんの膝から降りて、横に座る。トキさんは目配せして、ズボンのジッパーを下ろし、中をまさぐって焦茶色のこりっと硬いものを引きずりだす。あたしは煙草を左手に持ち替えて、右手でそれに触わる。じわりと熱くて、なんだか力いっぱいだ。トキさんが、あたしの手を自分の大きな掌でくるんで、ぎゅっぎゅっと握りしめる仕草をする。あたしは、その通りに、トキさんの股の間のものを握り、こすりあげる。トキさんはソファに身を沈めて、あたしの手を見つめている。大の男が、あたしの手の動きのせいで、そんなにぐったりするのがおもしろくてたまらない。あたしは夢中になって、トキさんの股の間のものを強くさすりつづける。トキさんのものはどんどんと頭をもたげ、焦茶色から赤茶色、さらには紫色に変わってくる。その先の、鶏レバーのようにふたつに割れた部分が大きくなり、横に広がり、やがて割れ目の真ん中の小さな穴から、白い汁がたらたらと流れだす。トキさんはソファにぐったりとなり、あたしは白い汁の放つ強い匂いを嗅ぎながら、短くなった煙草に口をつけて、息を吸い込む。
そんなことが冬の間、続いた。それは、あたしとトキさんの内緒の時間だった。学校から戻って、しばらくすると、あたしはトキさんの仕事場に行き、ソファに座る。トキさんがあたしを膝に乗せて、唇に煙草を挟んでくれる。あたしは煙草を吸いながら、トキさんのズボンのジッパーを下げ、その間のものを引きずりだし、強くこする。やがて白い汁が溢《あふ》れでると、トキさんは、あたしの口に二本目の煙草を差しこみ、自分でも煙草を吸う。隣に座っているあたしのスカートの下に空いた手を差しいれてきて、太腿の間を指でそっとこすられると、足が震えた。あたしは煙草を吸いつづける。煙を吐きだす時、気持ちのいい波が、太腿の間から、唇まで走る。あたしは、唾で濡《ぬ》れた煙草の吸い口を、吸ってはまた離す。快感が全身を包み、頭がぼうっとしてくる。
夜、ベッドに横になると、あたしはトキさんがしてくれたように太腿の間を撫でてみた。トキさんの仕事場で感じたものに近い気持ちになりはしたが、何かが足りなかった。そんな時、煙草が欲しいと思った。トキさんの指が欲しいと思った。
春になると、お母さんがブラジャーをしなさいといいだした。あたしの乳房はお酒のお猪口《ちよこ》を伏せたくらいに膨らんでいた。あたしは白いレースのついたブラジャーを買ってもらい、学校にしていくようになった。でも、トキさんのところに行く時には、ブラジャーは外していた。
桜の花咲く頃、あたしは、煙草の焦げ跡のあっちこっちについた毛布をかぶり、トキさんと一緒にソファに横になるようになった。トキさんはあたしのブラウスのボタンを外し、下着をずらせ、煙草を吸うように、あたしの乳首を吸うようになった。そして片手で太腿の間を撫でながら、乳首から胸の間、肩から首筋へと唇を這わせていった。あたしの全身が煙草の吸い口になったみたいな気分だった。あたしはトキさんのズボンのジッパーを下ろして、硬くて熱いものを握りしめる。太い煙草のように、親指と人差し指の間に挟んで、指を締めたり緩めたりした。あたしはトキさんの煙草で、トキさんはあたしの煙草となった。あたしたちは、お互いの煙草を撫で、つまみ、吸った。太腿の奥が熱くなり、熱いものがたらりと流れでてくるのがわかった。
夜になって、一人でベッドに寝ていると、あたしは太腿の間の穴に自分の指を入れてみた。熱くてぬめりとした感じが、指を包んだ。指の先を少し動かすと、いい気持ちになった。だけど、なんだかもの足らなかった。やっぱりトキさんと一緒のほうがいいと思った。
春が過ぎて、梅雨の季節になった。びしょびしょの傘を手に仕事場に入ると、トキさんは、鉋がけをしていた。トキさんは、ちょっと待ってな、というように私に合図して、仕事を続けた。あたしはソファに座ると、トキさんを待った。トキさんは上半身裸になっていた。筋肉の盛りあがった背中が、細長い材木の端から端に伸びて縮む。仕事場のトタン屋根を叩く雨音の中に、しゃっしゃっ、しゃっしゃっ、という、産毛を逆撫でするような音が響いている。
あたしはソファに放りだされていた煙草の箱に手を伸ばした。そして、中から一本、抜きだした。口に煙草をくわえて、ライターで火をつけた。トキさんは鉋がけに一生懸命で、気がつかなかった。
あたしは煙草を深く吸いこんだ。白い煙が、じわじわと仕事場に広がっていく。鉋の音が止んだ。トキさんがあたしを不思議そうに見ていた。
それであたしは気がついた。自分から、トキさんの煙草の箱に手を伸ばし、ライターで火をつけたのは初めてだったことに。
トキさんは鉋を置くと、仕事場のふたつの入口の鍵を閉め、たなびく煙草の煙の中を泳ぐようにして近づいてきた。あたしは煙草を吸いながら、そんなトキさんを見つめていた。
トキさんはあたしの唇から煙草を取って、地面にあった灰皿代わりの空き缶に入れた。そして、ズボンを脱いだ。薄明かりの中に、トキさんの黒光りする体が浮かんでいる。股の間の黒い毛の間から、少し息づいてきた男のものが頭を覗《のぞ》かせていた。トキさんは隣に座ると、あたしの額から唇、首筋、乳房を吸っていった。トキさんの裸の肌が、ぴたりと私にくっついた。男の汗と、煙草の匂いがした。あたしは煙草を失った手を、トキさんの硬くて熱いものに持っていった。そして親指と人差し指でそれをつまんだ。トキさんが、あたしをソファに横倒しにして服を脱がしていった。ブラウスを外し、スカートとパンツを一緒に足から抜いた。それからあたしの太腿の間を撫ではじめた。あたしは指で作った輪で男のものをこすりつづける。トキさんのそれが大きくなっていく。あたしの股の奥が熱くなってくる。
トキさんの足が、あたしの股の間に割って入ってきた。広がったあたしの太腿の間に、トキさんのがっしりした腰が押しつけられた。男のあれの先が、あたしのあそこを突いた。その動きは波となって、あたしの全身に伝わった。あたしは腰を浮かした。ペニスがさらに深く入ってくる。あたしはトキさんにしがみついた。トキさんはゆっくりと硬いものを押しこんでくる。あたしのあそこはそのたびに、もっと、と叫んでいる。トキさんは自分のものをすっぽりとあたしの中に入れた。それから、引き抜いて、また入れた。ぬるぬるとしたものが、出ては入ってくる感触に、あたしのあそこは熱で融けてしまったみたいだ。全身が揺さぶられて、震えていた。仕事場の薄闇も、外から入ってくる光も、トキさんの息づかいも、何もかもがひとつに融けて、あたしはなにがなんだかわからなくなった。
トキさんが急に動きを止めた。瞼《まぶた》の後ろで星が瞬き、あたしは糸が切れたマリオネツトみたいになって弾けていった。
「それで」と、男は聞いた。ユカリは突然、興味を失ったように、口を噤《つぐ》んでしまったのだ。
「それでって」
組んだ手に頭を載せて横たわっていたユカリは、ふっくらした顔を男に向けて、問い返した。
「トキさんとはどうなったんだ」
自分と年齢が近いといわれただけに、男はその大工に興味を覚えていた。ユカリは頬にへばりついていた髪の毛をつまむと、シーツの上に投げすてた。
「中学になるまで、よくトキさんとあれをしたわ。だけど、とうとう奥さんが怪しむようになって、うちのお母さんに告げ口をしたもんだから、仕事場に行くのを止められちゃった」
ユカリはひょいと起きあがると、悪戯《いたずら》が見つかった子供のように舌を出し、肩をすくめた。ベッドに半身起こして座っていた男は、ユカリが自分を跨《また》いで絨毯《じゆうたん》の上に降りるのを見守った。
「悲しくはなかったか」
男は二人の間に、恋愛のようなものを感じていたのだが、その幻想はあっけなく突き崩された。ユカリはおかっぱ髪を波打たせて、かぶりを振った。
「だって、トキさんとじゃなくったって、あれはできるでしょ」
ユカリは男に、にこっと笑いかけた。男は狼狽《うろた》えて、視線を逸《そ》らした。
ユカリは裸のまま、踊るようにバスルームに向かった。小ぶりとはいえ、張りのある乳房と尻が、男の眼前をからかうように揺れながら横ぎっていく。ユカリはバスルームのドアを開け、中に片足を入れて、ふと振り向いた。
「だけど、今でも時々トキさんのところにこっそり行くんだ。そして煙草を吸って、あれをするの」
ユカリは、ふふふ、と楽しげに笑うと、バスルームのドアをばたんと閉めた。中から、便器に小便の落ちる、ぽしゃぽしゃという音が聞こえてきた。
男は、ベッドサイドに置いていた煙草の箱に手を伸ばした。そして新たな一本を引き抜くと、ライターで火をつけた。
9 五分間
「シルヴィアが会社を移ったんだ」と、マリオはいった。
私のアパルトメントの近くのピッツェリアでのことだ。蝋燭《ろうそく》を灯した外のテーブルで、私たちは向かい合ってピッツァを食べていた。私は、ふぅん、と相槌《あいづち》を打って、アンチョビとオリーブのちりばめられたピッツァの切れを胃に落としこんだ。
イタリア人が会社を替わることは珍しくはない。ただの近況報告として受け取っただけだった。そっちの会社の条件がよかったんでしょうね、と当たり障りなく応じると、マリオは、そうだ、今度は部下が三人つくらしいと答えてから、あたかも何でもないというふうにさらりと付け加えた。
「その会社、ミラノにあるんだよ。それで僕に一緒に来ないかといっている」
次のピッツァを切り分けていた私の手が止まった。
「あなた、行くつもりなの」
マリオは鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、考えているところだ、と呟《つぶや》いた。
シルヴィアは、マリオの恋人だ。大手会社の営業コンサルタントをしていて、ヨーロッパ支店を飛びまわっている。一月の間でローマにいるのは半分ほどで、マリオは、自分はいつもほったらかしだとぼやいていた。
「ミラノで仕事を探すのは大変でしょうね」
私はいった。イタリアでは、大学を卒業した者でも、就職難だ。大都市のミラノで、簡単に仕事が見つかるはずはなかった。マリオは、わかっているというように頷《うなず》いて、赤ワインを啜《すす》った。
「だけど、別々の町で暮らしはじめると、お互い会える時間は、ほんとに限られてくる」
「運命の分かれ目ってとこね」
冗談めかしていうと、マリオは真顔で「そうだ」と答えた。
私がマリオと知り合ったのは、コンピューター専門店だ。コンピューターを買ったばかりの私は、インターネットのプロバイダー元でもあるその店と契約したはいいのだが、接続の仕方や使い方がよくわからない。日本語で聞いてもちんぷんかんぷんの専門用語混じりの説明をイタリア語で受けるには電話ではらちがあかず、自分のラップトップ型のコンピューターを持って、直接足を運ぶことにした。幸い、店は私のアパルトメントから歩いて五分ほどのところにあった。その店で、コンピューター・トラブルの顧客サービスに当たっていたのが、マリオだったのだ。
最初からマリオは親切だった。日本語版のウィンドウズの仕組みをおもしろがり、問題が解決しても、イタリア語版のソフトとの差を熱心に説明してくれたりした。わからないことがあったら、いつでも顔を出してくれ、という彼の言葉に甘えて、以来、私は何か問題が起こると、すぐさまマリオの許に相談に出かけるようになった。
狭い界隈《かいわい》だけに、朝や昼時のバールや通りでばったり出くわすことも多く、立ち話をするようになり、たまにはこうしてピッツェリアで一緒に食事するまでとなっていた。マリオは日本に興味があって、さまざまな質問を投げかけてきて、私をおもしろがらせた。木造建築の多い日本の地震の被害は、石造りの町のイタリアの被害とどう違うのか、銭湯は、イタリアのローマ時代の公衆浴場と同様のものではないのか、日本人は家の中で靴を脱ぐというけどほんとうなのか。マリオは好奇心|旺盛《おうせい》だった。イタリア人の誰もが基本的に持っている陽気さでもって話を空中に飛ばしてしまうことはせず、私の返事に心から興味を示した。育ちのいい青年で礼儀正しく、いつも相手の気持ちを思いやる繊細さを持っていた。
私は、マリオに惹《ひ》かれていた。恋している、というよりは、欲望を覚えていた。彼のしっかりと引き締まった腰、そこから伸びる長い足、均整の取れた肉体を眺めていると、何かぞくぞくするものを感じるのだった。しかし、彼は女慣れしてないようだったし、さらにシルヴィアの存在を知ってから、その欲望は心の片隅に押しやって、私はいい女友達を演じていた。
「シルヴィアは、あなたがミラノに行かないといっても、やっぱり会社を移るつもりかしら」
私は、黒髪に黒い瞳、彫りの深い顔立ちに、小娘のようなひたむきさを漂わせたマリオの恋人を思い浮かべながら聞いた。
「彼女は決心を変えないよ」
マリオは少し残念そうにいった。
「シルヴィアにとって、仕事は人生の目的だからさ」
彼の言葉は間違っている、と私は思った。
彼女とは、マリオと一緒に数度、会ったことがある。
あなたのことは、マリオからよく聞いていたのよ。シルヴィアは、開口一番、こういって、私を抱擁し、頬に挨拶《あいさつ》のキスをしてきた。それは、彼女とマリオとの親しい間柄を示すために使われた言葉だった。二人の間の話題に上るというのは、私がシルヴィアの立場を脅かすことのない安全な存在だということを示していた。
それにも拘わらず、シルヴィアは、マリオの恋人という自分の立場に自信を持っているようではなかった。彼女は痛々しいほどの努力で、私をマリオと自分との会話に引き込もうとし、私の機嫌を取ろうとしていた。私たちは敵ではないの、ね、私はいい娘《こ》でしょ、だからマリオを奪わないで。シルヴィアは無言の内に、必死でそう語りかけていた。
シルヴィアはいつも泣いている女だった。どんなに楽しげな話題をふりまき、どんなに目を細めて笑っていても、心の底は悲しみに溢《あふ》れている。それはまるで、いつかマリオが自分から離れていってしまうことを予期して、今から悲しんでいるようにも見えた。
マリオとの未来に確信の持てないシルヴィアにとって、仕事は唯一|縋《すが》ることのできるものだ。彼女の人生の目的は、仕事ではない。それはマリオに人生を託したいけれどできない彼女の心の裏返しなのだ。
だけど、私は、そんなことをマリオに告げる気持ちはなかった。それはシルヴィアの心に秘められた彼女だけの葛藤《かつとう》。私には関係のないことだった。
石畳の路上に張りだしたピッツェリアのテラスからは、夜の通りを散歩する人々が見える。三月に入ったばかりで夜気はまだ冷たいが、厚手のジャケットを着込んで座っているぶんには、寒さは感じなかった。
隣の大テーブルに、七、八人の男女の学生たちがどやどやとやってきて座った。メニューを声高に読みあげて、その味について、勝手な意見をいっている。私は、彼らの騒ぎに消されないように声を強めた。
「それじゃ、あなたがシルヴィアか仕事かを選ばないといけないのね」
マリオは情けなさそうな顔をした。
「だけど、僕は……」
突然、きゃああ、という若い娘の嬌声《きようせい》が起きた。娘が、メニューを手にしていた若者の許から笑いながら逃げだして、向かいのテーブルの長椅子に座っていた仲間の間にもぐりこんだ。
話を中断されたマリオは、私に苦笑を送ってよこした。私も目で相槌を打ちながら、以前、まだマリオと知り合ったばかりの頃に招かれた、彼の誕生パーティのことを思い出していた。
パーティは、ローマ大学の近くにあるバールで開かれた。簡単な食事もできるそのバールは、大学時代からの行きつけだったらしく、特別に誕生日メニューを作ってくれたという。場所にふさわしく、集まった者も、彼の大学時代の友人が主だった。遅れてきた者たちを含めると、十三、四人ほどだ。半分は女性だった。その場にシルヴィアはいなかった。めいっぱいにおしゃれをしてきた女たちは、みな、マリオに心を惹かれているように私の目に映った。
ワインを飲み、簡単な食事をした後で、スプマンテとケーキが出てくる頃になると、座席は入り乱れはじめた。私は隣に座った男と、日本文化についての退屈な話をしていたが、ふと気がつくと、正面の二人の女の間にマリオが座ろうとしている。長椅子はいっぱいで、彼の腰を下ろす場所はないのに、その場の誰一人、困った顔はしない。
ほら、ダニエッラ、僕の膝に乗れよ。マリオはそういって、ダニエッラを立たせて、彼女のいた席に座りこんだ。金髪にふっくらした頬、幼い感じの残る顔に、丸く張りきった乳房と尻を黒のワンピースに包んだダニエッラは、嬉しそうにマリオの膝に座った。マリオは彼女の胴に片手を回して、左隣の男友達と話しはじめた。やがて、右隣にいた別の娘がダニエッラと交替するといいだして、今度は彼女がマリオの膝に乗った。マリオは、そんな女たちの交替を意に介した風もなく、お喋りに夢中になっている。まるで膝の上の女は、猫かクッションであるかのようだった。
イタリアでは、友達同士の男の子が女の子を膝の上に乗せて、仲良さそうに話している光景はよく見かける。イタリア風物詩のように私は常々眺めていたのだが、目の前でマリオが同じ行為をしているのを見て、衝撃を覚えた。それはマリオが三十歳近い男性ということもあったし、私の抱いていた、女慣れしていない、という彼への先入観と違っていたせいもあった。
学生時代からの仲良しの続きであったかもしれない。しかし、彼は大学を離れて久しいはずだ。なのにマリオは成熟した女の体を膝に乗せて、何も感じないかのように、屈託なく話を続けている。私はその姿を真正面に見せつけられて、嫉妬《しつと》を覚えた。私もまたマリオの膝に乗ってみたいと思った。しかし、私には、マリオの膝に乗って、その股間《こかん》にあるペニスの存在を無視することはできそうもなかった。彼への欲望のためにきっと身を硬くして、そのぎこちなさ故に、その場の誰もが気まずくなるだろう。
その点、マリオの膝に交替で乗った二人の女たちは見事に彼のペニスの存在を無視して、子供のようにはしゃいでいた。イタリアの女たちは、このようにして狡《ずる》賢く男に近づいていくのだな、と私は心の片隅で思った。彼女たちは、自らの欲望を友情の庇《ひさし》の下に隠して、肉体を接近させているのだ。
だが、マリオはどうだろう。どこまで女の欲望に敏感でいるのだろうか。女の尻を太腿に感じて、何も感じていないのだろうか。
マリオの誕生パーティは、私を居心地悪くさせた。お開きになった時、私は心底、ほっとした。そして自分の家まで、当惑と、屈託なく男に近づいていくイタリアの女たちへの嫉妬を抱えて帰っていったものだった。
マリオの心理を理解したのは、シルヴィアをいくらか知るようになってからだ。シルヴィアは、常に心の底で泣きつづけることによって、マリオを縛っていた。マリオが他の女に欲望を覚えることは許されていない。シルヴィアは口に出しては、禁止はしてないだろう。しかし彼女は絶え間なく発散する惨めさと悲しみによって、マリオのペニスをしっかりと手中に握りしめていた。
「だけど僕は、今の職場がとても気に入っているんだ。ミラノで、同じような居心地のいいところが見つかるとも思えない」
注文を終えた学生たちのテーブルが少し静かになると、マリオは先の言葉を続けた。
「難しいわよね」
私は、半ば冷めてきたピッツァの切れを口に放りこんだ。ピッツァは熱々を急いで食べるのがふさわしい。チーズは固くなり、おいしさは半減していた。
「シルヴィアが会社を移るのはいつなの」
「来月からだって。来週、家を探しにミラノに行くことになっている。それまでに決心をつけてくれといっている。もし僕もミラノに移るんなら、二人で一緒に住むのがいいから、大きなアパルトメントを借りる必要があるって……」
「あなたがミラノに行くことに対して、アナベッラはなんといっているの」
母親の名を口にしたとたん、マリオは辛《つら》そうな顔になった。
マリオは、今、両親と一緒に住んでいる。私も呼ばれていったことがあるが、家はバティカンの近くの閑静な住宅地にあった。生粋ローマ人の母親アナベッラは、情熱的な茶色の瞳を持ち、茶色の巻き毛を結いあげた美しい人だった。弁護士をしている父親は、アナベッラに召使いのようにかしずいている、存在の薄い男だ。アナベッラの注意はすべて一人息子のマリオに向けられていた。彼女のマリオを気遣う仕草、見守る眼差し、それらすべてに母子の強い結びつきが現れていた。きっとアナベッラは、マリオの子供の時から、私の小さな恋人さん、と囁《ささや》き、だっこし、頬ずりして育てあげたに違いない。そして今やマリオは母親の恋人になっていた。
私を見た時、アナベツラは、あなたのことは、マリオからしょっちゅう聞かされていましたよ、とシルヴィアと同じことをいった。そして、マリオはあなたのことがとっても好きみたい、と小声で付け加えた。
確かにマリオは、私のことを好きかもしれない。しかし、誕生パーティで膝に座った女の子たちに手を出すことができなかったと同様、マリオのペニスは、シルヴィアに握られている。アナベッラが、私に対するマリオの好意を告げて、恋心を挑発するようなことをいったのは、息子のペニスを私を通してシルヴィアから取り戻したいと思ったせいかもしれなかった。
「母《マンマ》は、急いで事を決めることはないといっているんだ。とりあえずシルヴィアだけミラノに行って、僕がほんとうに追いかけていきたいなら、じっくり仕事先を見つけたらいいって」
もちろんアナベッラは、マリオを手放したくはないだろう。何としてでも、息子のミラノ行きを留まらせたいだろう。その母親の心理を別にしても、アナベッラの意見は理に叶《かな》っていると思えた。そのことをいうと、マリオは、ああ、と返事した。
「だけど、アパルトメントのこともあって、シルヴィアは焦っているみたいでさ」
シルヴィアは、マリオを母親から切り離したいのだ。最大の恋敵が、アナベッラであることを知っているからだ。
かつて、マリオとシルヴィアがバカンスで行った、モーレシャス島での写真を見せてもらったことがある。水着姿でサングラスをかけて笑っていた女の姿に、私は、あら、マリオのお母さんも一緒だったの、と聞いた。マリオが慌てて、それ、シルヴィアだよ、といい、彼女は私を睨《にら》んで、ありがとう、チカ、と皮肉っぽく応じたものだった。
私は、写真がぼけていたから、つい見誤ってしまったと弁解したが、内心、やはり、その女の姿はアナベッラを彷彿《ほうふつ》とさせると思わずにはいられなかった。二人の顔が似ているわけではないのだが、シルヴィアの目をサングラスで隠すと、その頬骨の線や口許のあたりにアナベッラの面影があった。
その時、私は、マリオは、シルヴィアの中に母親を求めたのだと悟ったのだった。
シルヴィアが泣きつづけているのは、マリオの心から母親を拭《ぬぐ》いさることができないためだった。恋敵が母親であるほど、たちの悪いものはない。息子は永遠に母親を追い求める。どんなにシルヴィアががんばっても、マリオを独占することはできないのだ。
マリオのピッツァの皿は空になっていた。私は冷たくなったピッツァを残して、紙のナプキンを横に置いた。
隣の学生たちのテーブルにはピッツァが運ばれ、また会話に活気が生まれていた。娘たちは若者の頭を叩《たた》いたり、声を合わせたりしてふざけ、若者は娘の肩に手を回したりして、大きな声で話している。話題は、明後日の「|女の祭り《ラ・フエスタ・デイ・ドンナ》」のことだった。三月八日のこの日、イタリアでは、男性が好きな女性にミモザの花を贈ることになっている。その日になると、黄色いミモザの小枝を誇らしげに手にして歩く女たちで通りは溢れる。娘たちは、私にはもちろんくれるんでしょうね、といって、若者たちを困らせていた。
「あなたは明後日、ミモザをどっちに贈るの、シルヴィア、それともアナベッラ」
私は、一緒に隣の会話に耳を傾けていたマリオをからかった。マリオは、シルヴィアはその日はミラノに発つからさ、と私の質問をすりぬけた。
「だけど、母にも贈れないよ。母は、ほら、膠原《こうげん》病で、ミモザの花にはアレルギーを起こすんだ」
そういえば、アナベッラは元気そうに見えるにも拘わらず、原因不明のその病気に悩まされていると聞いていた。
「じやあ、シルヴィアを嫉妬させないですむわね」
マリオは、私の言葉の真意を受け止めることなく、ただの冗談だと思って笑った。
ウエイターが皿を取りにきて、デザートはどうかと尋ねた。私たちはそれを断って、店を出た。
アパルトメントまで、マリオは歩いて送ってくれた。その後、店の駐車場に置いてある彼の車に乗って、帰るつもりだということだった。しかし私は、玄関灯に照らされたマリオの顔が憂いに沈んでいるのを見て、部屋でカフェでも飲んでいかないかと誘った。いつものマリオならば、女の一人暮らしのアパルトメントに入るごとを躊躇《ちゆうちよ》しただろうが、今日はすぐ家に戻る気分にはならなかったようだった。マリオは、そうだな、ちょっとだけ休ませてもらうよ、と答えた。
四階にある私のアパルトメントは、食堂と居間に寝室がひとつの狭さだ。居間には、大きなソファと安楽椅子がひとつ。部屋の隅の書き物机には、コンピューターが置かれている。机の上は、観光ガイドの仕事の日程表や、片手間に引き受ける簡単な翻訳の原稿などが乱雑に置かれているが、天井の電気を消して、花柄のランプシェードのついた大きなスタンドだけに光を灯すと、なんとか居間の乱雑な印象は消すことができる。
「靴を脱いで、楽にしてね」
玄関口で、私はいって、自分のブーツを脱いでストッキングだけになった。部屋は床暖房で温かい。かねてから日本式の屋内で靴を脱ぐ習慣が気に入っているマリオは、私に習ってソックスだけになった。
私は居間のスタンドの明かりを灯し、台所に入ろうとして、ソファに腰を下ろしたマリオに聞いた。
「カフェにする、それとも食後酒にする。洋梨のグラッパがあるけど」
マリオはソファに身を埋めると、両手で顔をさすって、グラッパ、と答えた。あまり酒に強くはないマリオが食後酒を求めるとは珍しかった。
私は台所からリキュールグラスをふたつ持ってきて、洋梨のグラッパの瓶をソファのサイドテーブルに置き、マリオと並んでソファに腰を下ろした。
「シルヴィアは来週には、ミラノに家を探しに行くっていってたわね」
グラスにグラッパを注いで手渡しながら、私は話を蒸し返した。マリオもまた自分を悩ましている問題から気持ちを離すことはできないらしく、話に応じてきた。
「そうなんだ。今月にはローマから引っ越すというんだ」
「シルヴィアには、とりあえずミラノで狭いアパルトメントを借りてもらって、あなたの仕事が見つかってから、大きな家を借り替えるように勧めてみたら」
「いってみたよ」
マリオはグラッパを少し飲んで、小さなグラスを見つめた。
「シルヴィアは、そんなことにしたら二人は別れることになるっていうんだ」
別れることを持ち出して、マリオを脅かすことも辞さないのならば、これはシルヴィアの最後の賭《か》けだ。マリオが、母親を取るか、自分を取るか、試しているのだ。瞳の底にいつも涙を湛《たた》えているシルヴィアの顔がまた私の頭に浮かんだ。
「そうなると思うわ」
私が答えたとたん、マリオの手が揺れて、グラッパがこぼれた。透明な液体が、クリーム色のジーンズに包まれたマリオの太腿を濡《ぬ》らした。私は立ちあがって、台所からキッチンタオルを取ってきた。マリオは、ごめん、と呟《つぶや》きながら、ズボンを拭《ふ》いた。私の視線が、太腿の間に、瞬時、止まった。銀色の歯を剥《む》きだして、シャコ貝の口のように閉じたジッパーの下は仄《ほの》かに膨らんでいた。
私はグラッパの瓶を取った。そして、マリオと腰が触れあうところまで身を寄せて、ほとんどこぼれてしまったグラスに酒を注ぎ足した。
「どうして、別れることになると思うんだ」
マリオはグラッパを啜り、平静な表情で聞き返したが、動揺しているのは、少し強《こわ》ばった声の響きでわかった。私はグラッパの瓶をテーブルに戻し、自分のグラスを傾けた。
「だって、シルヴィアはミラノで新しい暮らしに入るのよ。新しい刺激、新しい出会いがあるでしょう」
マリオは「わかってる」と呟いた。その苦しそうな声に、私は思わず、マリオの太腿に手をかけていた。
「シルヴィアが大事だったら、ミラノに一緒に行くことね」
私は慰めるように、マリオのがっちりと伸びた腿を撫《な》でた。そして、掌に返ってきた温かな肉感に自分でも驚いて、手を離した。マリオはそんな私の手の動きには気がつかなかったかのように、またグラッパを飲んだ。酒の強くない彼はすでに頬が赤くなっていた。
「だけど、病弱な母を置いて、ミラノに行くことはできないよ」
マリオはため息と共にいった。アナベッラの膠原病は不意に症状が現れる。その症状は、関節炎だったり、アレルギーだったり、さまざまだそうだ。まるで病気のデパートみたいだとマリオは冗談でいっていた。
マリオは空になったグラスを足許に置くと、ソファの背もたれに両手を広げ、頭を後ろにもたせかけた。淡いスタンドの光に、彼の通った鼻筋や、少し弱々しい顎《あご》の線が浮かびあがっている。マリオの長い腕は、私の肩の背後まで伸びていた。私は、そっと自分も頭をソファにもたせかけた。髪の毛がマリオの腕に触れた。マリオの手が、私の肩に置かれた。
「ごめんよ、チカ。こんな、つまんない悩み事を話したりして」
マリオはぼんやりとした口調でいった。
「謝ることはないわよ。あなたの悩み、わかるわ」
私は再び彼の太腿に手を置いた。今度は手を離すことはしないで、そのまま指先でそっと撫ではじめた。
部屋の中は静かだった。下ろした鎧戸《よろいど》の向こうから、微《かす》かにスクーターの通る音が聞こえてくる。
「八方|塞《ふさ》がり、ね」
日本語で私は囁いた。マリオは私の肩を掌で包みこんで、「どういうこと」と尋ねた。
「古代中国の占い術から来ていて、東西南北と北東、北西、南東、南西、すべての方角が全部、塞がっているってことよ」
マリオは口許に笑みを浮かべて、まったくだ、と答えた。
「九つ目の方角ってのはないのかな、チカ。あったら、僕に教えてもらいたいよ」
私はマリオの太腿に置いた自分の手に視線を落として、「いいわよ」と答えた。そして顔を上げると、マリオの目をまっすぐに見つめて、にこりとした。
「ただし、条件があるわ」
「なんだい」
「五分間、絶対、動かないって約束して」
マリオは怪訝《けげん》な顔をした。
「どういうことだい」
「いいから約束して。五分間だけ、目を閉じて、じっとしているって」
私の申し出を、マリオはおもしろがったようだった。
「わかったよ、約束するよ」と、子供をあやすように呟いて、目を閉じた。茶色の縮れ毛が色白の顔を包んでいる。甘い夢を見ているように、口許を緩めていた。
「五分間よ」
私はマリオの耳元で囁いて、太腿に置いていた手を、ズボンの前のジッパーのところに持っていった。そして股間の膨らみを撫ではじめた。マリオは驚いて、体を動かそうとしたが、私が「約束よ」というと、またおとなしくなった。
私の手の中で、マリオのズボンの中のものは少しずつ硬くなってきた。私はズボンの前のボタンを外し、ジッパーを下ろして、パンツの横からペニスを引きだした。マリオはどう思ったのかは知らないが、何もいわなかった。ペニスはすでに筒の形を取りはじめている。
私は右手でペニスを握りしめて、上下に動かしはじめた。下から上、上から下に、力強く揉《も》みあげ、揉みさげる。ペニスの腹に青白い血管が浮きたってきた。私の掌を、温かなペニスが押しかえしてくる。ペニスは私の動きに応えていた。
マリオは目を閉じて、ソファに頭を深く沈めている。瞼《まぶた》がぴくぴくと動き、口は何かいいたがっているように僅《わず》かに開いている。
ペニスは、部屋の薄明かりの中で屹立《きつりつ》していた。弧を描いてそそり立ち、亀頭《きとう》が横に張りだした。
シルヴィアに、アナベッラに奪われていたペニスが、ここに現れていた。頭をもたげて、天を突き通している。ペニスは誰のものでもない。それは、今、ここに存るものなのだ。
私は赤く充血してきたペニスをこすり続ける。ペニスの興奮は、私の興奮だ。私の太腿の奥で、熱い鼓動が生まれてきた。私の乳首が立ってきて、ブラジャーの内側をこすりあげる。
私は右手でペニスを握りしめたまま、スカートの下に左手を差し込み、ストッキングとパンツを脱ぎすてた。そして、マリオの膝に前向きに跨《またが》った。
マリオが驚いて目を開いた。私は、マリオをソファに押したおしながら繰り返した。
「五分間よ」
マリオは力が萎《な》えたように、私に押されるままにソファに横たわった。私は彼の腰の上に座り、屹立したペニスを膣《ちつ》の入口にあてた。そして、ゆっくりと腰を沈めていった。
亀頭が私の中に滑りこんだ。子宮の中に、緩やかな衝撃が広がった。私はマリオの胸に両手を突いて身を伏せると、腰を少し持ちあげて、次にはさっきよりもさらに深く腰を沈めた。マリオが小さな声で呻《うめ》いた。ペニスは、私の中に深く進入してきた。私は、また腰を浮かせ、今度こそ深々とマリオの腰に座りこんだ。そして、ゆっくりと腰を前後左右に揺すらせはじめた。
マリオはペニスに魂を盗られたように、そこにただ横たわっているだけだ。私は自分のセーターを持ちあげ、ブラジャーをずらせると、裸の乳房を露《あらわ》にした。そしてマリオのシャツをたくしあげて、彼の裸の胸に乳首をこすりつけた。
私の子宮はペニスにかき混ぜられ、透明な液体を泉のように垂れながしていた。私の乳首はふたつの小さな唇のように、マリオの裸の胸を吸っている。
私は乳首と子宮でマリオを愛撫しつづける。マリオは自分のペニスによって磔《はりつけ》になっていた。しかし彼が耐えているのは苦痛ではない。歓びだ。その歓びが絶頂になった時、マリオは腰を突きあげて、射精した。私の子宮は、獲物をしとめた野獣のように、歓喜の叫びを上げた。
朝のカフェを飲みに、近所のバールに行こうと、アパルトメントの一階の玄関から外に出ると、ミモザの花が目の前に現れた。早春の陽光の中で、鮮やかな黄色の花がいくつも揺れている。
花の小枝を持っていたのは、マリオだった。朝日の中で、照れたような笑みを浮かべている。店に出勤前なのだろう、片手に革製の書類鞄を抱えていた。
「ローマに残ることにしたよ」
マリオは吹っきれた顔でいった。
「あら、そう」と私は答えた。
マリオは、私にミモザを差しだした。
「今度は僕に、きみの五分間をくれよ」
私はマリオの引き締まった腰、張りきった太腿を見下ろした。不思議なことに、もう何も感じなかった。欲望は過ぎ去っていた。
私はミモザの花を受け取ると笑った。
「私の五分間は、私だけのものよ」
私はバールに向かって歩きだしながら、鮮やかな黄色いミモザの小枝を船出の時のように大きく振った。
「チャオ、マリオ」
途方に暮れた仔犬のような表情のマリオが、私の背後で小さくなっていった。
10 ピンクガールの冒険
大学に入った最初の夏休み、ショウコはピンクのドレスを買った。ショッキングピンクのサマーニットドレス。袖無しで、胸許は大きく開いていて、丈は尻がぎりぎりに隠れる程度。店の試着室で、そのドレスを着て、自分の姿を鏡に映すと、ショウコはマリリン・モンローになったみたいに思った。
「似合ってるよ」
店員の娘は友達口調で頷《うなず》いた。ショートカットを金色に染め、ピアスを三個つけて、黒いタンクトップとぴったりしたジーンズを穿《は》いた娘だ。シャツもジーンズも、その痩せっぽちの体に皮膚のように張りついて、かっこよかった。
ショウコは鏡の前で自分の腹の部分を撫でて、うーん、と喉《のど》の奥から声を出した。
「私、太めだから自信ないなぁ……」
「大丈夫、お客さんくらいのボリュームがないと、そのドレスは着こなせないって」
店員の娘の言葉の端っこから、跳ねた金色の髪の毛の先ぶん覗《のぞ》いていた羨望《せんぼう》が、ショウコに決心させた。バーゲンでも一万三千円したけれど、小遣いをはたいて買ってしまった。
家に帰って試着して、ショウコは鏡の前でいろんなポーズを取ってみた。小首を傾《かし》げて、肩を持ちあげてみたり、唇を突きだして、両足を踏んばってみたり。雑誌のモデルが取っているような格好をして、そんな自分に満足した。大人の女になったようで、嬉しかった。これを着て現れたら、友達は驚くことだろう。これまでのショウコといったらパンツ姿がほとんどで、男っぽい格好ばかりしていた。そんなショウコのイメージをがらりと変えてくれるドレスだ。どうでもいいような外出時には着たくはない。
夏休みの間中、ショウコはずっと新しいドレスを着る機会を探していた。社交界にデビューするヨーロッパの上流階級の令嬢さながら、ダンスパーティヘの招待を待っていた。
待ちに待った招待状が届いたのは、八月半ばだった。扇風機にあたりながら、部屋のベッドの上で寝ころんで雑誌を読んでいると、電話が鳴った。
午後の家には誰もいなかった。ショウコは雑誌を放りだすと、玄関口に出ていって、電話を取った。かけてきたのは、高校時代の同級生のカズミだった。
「ショウコ、ショウコね、この頃、何してる」
カズミは高校の時からの癖で、せっつくような甲高い声で聞いた。ぶらぶらしてる、とショウコは答えた。友達四人と二泊三日で海に旅行に行き、大学の映画鑑賞クラブの会合に三度出て、それで夏休みは半分過ぎたところだった。
美容師専門学校に進学したカズミは、夏休みといってもアルバイトで忙しいのだと自分の近況を語ってから、「今晩、空いてない」と聞いてきた。アルバイト先の喫茶店でばったり出くわした高校時代の友達のモッちんと飲みに行く約束をしたという。高校卒業以来、同級生と顔を合わせてないから、これを機会にできるだけ大勢で楽しもうという話になった。それでショウコにも声をかけたのだといった。
「でも、今日なんて急じゃない」
ショウコは壁の時計を見上げていった。すでに四時近くなっている。
「いいでしょ。思い立ったが吉日とかっていうじゃない」
いったい、いつ思い立ったのよ、とショウコは心の中で毒づいた。ショウコのことなぞ最初から勘定に入ってなかったのだ。でも、人数が少なすぎると考えはじめたか、引き立て役として急にショウコも呼んでみる気になったかだろう。カズミにはそんな計算高いところがあった。
「どうせ暇してんでしょ。おいでよ、みんなでわっと騒ごうよ」
カズミはショウコが来るものと決めこんでいる。
ショウコは、夕方から出ていくのは億劫《おつくう》だなと思いながらも、「モッちんの他に誰が来るの」と聞いた。
「スズカにアケミ、モッちんはアキ坊とヤスオ君、それとコウスケ君を連れてくるって」
コウスケの名を聞いて、ショウコはどきりとした。コウスケは、ショウコが密《ひそ》かに憧《あこが》れていた男の子だった。しかし、高校時代は、一年下の女の子とつきあっていたから、ショウコには近づく機会もなかった。卒業してコウスケは県外の大学に進学し、二人は別れたという噂だけは聞いていた。
「うん、行くよ、行く」
ショウコは張りきって答えた。
「だったら、上岡台駅の鳩の彫刻の前で六時半よ」
オーケー、と返事して、ショウコは電話を切った。
ショウコの住む滝之口の駅から、上岡台まで電車で五十分ほどかかる。駅までバスに乗らないといけないことを考えても、まだ時間はたっぷりあった。
ショッキングピンクのドレスを着て、おめかしする時間のことだ。あのドレスは、まさにこんな時のために取っておいたようなものだった。
ショウコは浮きたった気分で風呂場に直行した。着ているものを脱いで、シャワーを浴びて、髪を洗う。バスタオルを体に巻きつけ、部屋に戻ると、扇風機にあたりながらマニキュアをした。マニキュアは何度かしたことがあったが、まだ慣れているとはいいがたい。それでも及第点をつけられるくらいに塗りあがった。
マニキュアが乾くのを待って、髪をドライヤーで乾かし、ニットが透けてもいいようにベージュのブラジャーとパンティを身につけた。スリップを着ようかと思ったが、暑いし、ミニスカートの下から裾《すそ》がはみだしそうなのでやめた。
ショウコは洋服|箪笥《だんす》からドレスを取りだすと、頭からすっぽりとかぶった。それから化粧開始だ。大学に入って、時々、化粧をするようになっていたが、これまたマニキュアと同様、はなはだ不器用だ。それでもアイラインとアイシャドーを引き、パールピンクの口紅をつけた。肩の少し上まで伸びた髪の毛は垂らしっぱなしにして、首には先日、友達と海に旅行に行った時に買っておいた貝殻のチョーカーをつけた。鏡の前に立つと、別のショウコがいた。
ピンクの口紅とピンクのドレス、ピンクのマニキュア。肩にかかる髪の毛は、とても女っぽい。マリリン・モンローみたいだ。髪を片方の耳にかけて、鏡の中の自分に笑いかけて、急に気恥ずかしくなった。
もしかしたら、カズミたちは自分の格好を見て笑うかもしれない。気でも狂ったの、といいだすかもしれない。そう思うと、なんだかマリリン・モンローではなく、それを真似た道化師なのかもしれないという気持ちになった。
やはり、いつもの飾り気のないジーンズ姿で出ていこうか。だったら、誰も笑いはしないだろう。そんな弱気が芽生えかけた時、ベッドの上に置いた目覚まし時計が目に入った。もう五時になっていた。
滝之口の駅までバスで十分はかかる。今さら別の服を選んでいる時間はなかった。
ショウコは白い小さなポシェットに財布とハンカチと化粧道具を押しこむと、弱気が頭をもたげて彼女の肩をつかむ前に、家を飛びだした。
滝之口駅までのバスの中で、ショウコは運転手の後ろに立った。運転席のバックミラーに映る自分の姿を何度となく確かめた。
横に長い鏡の中には、バスの内部が歪《ゆが》んで映っている。その端っこに、明るいピンクのドレスの女がいる。大学の授業に通う学生のショウコではない。胸が大きく開いたミニドレスを着た、いっぱしの女、大人の女。
今の自分をヤスオが見たら、何というだろう。ショウコは、高校時代唯一のボーイフレンドを思い出していた。
ヤスオは別の高校の生徒だった。友達のケイコの紹介で会って、つきあいはじめたのだ。ポケベルでメッセージを遣《や》り取りしたり、一緒に映画に行ったり、遊園地に行ったり、デートらしきものも何回かした。だけど、お互い友達と一緒の時はいいが、二人きりになると退屈してしまった。それぞれの学校の話、テレビの番組の話、家族の話、そんなことをいいあうと、もう話すことはなくなった。
黙って手をつないで歩いて、暗闇でキスをした。それだけのことだ。一度、映画を見ての帰り、暗くなった公園のベンチで、ヤスオはショウコの体に触ってきた。歯と歯がかちあうようなぎこちないキスをした後、ヤスオの手がショウコのスカートごしに太腿を触ってきた。やだ、どうするつもりだろうとショウコがうろたえている間に、ヤスオはその手でショウコの太腿をごしごしとこすった。まるで大根の泥を落としているような手つきだった。ショウコは思わずヤスオを突きとばしてしまった。体を不安定に横に捻《ひね》っていたヤスオはベンチから転げおち、ちぇっ、と小さく舌打ちして立ちあがった。
やだ、ヤスオ君、変なことして。そうとでもいって笑いとばしていたら、その後の気まずさは救えたかもしれない。しかし、むっつりと黙りこんでいるヤスオにショウコがいったのは、帰る、という一言だけだった。二人はぎこちない声で、バイバイといって別れた。ヤスオはそれからポケベルにメツセージを入れることもなくなり、ショウコは傷ついたが、あのデートの続きをしなくてもよくなって、心のどこかでほっとした。
ショウコは今も時々思う。あの公園の暗がりで、ヤスオに触られるままになっていたら、きっとあれを体験をしていただろう。それをしなくて損したような、安堵《あんど》したような、複雑な気持ちだ。
高校時代、クラスの何人かの女の子はボーイフレンドとあれを経験したといっていた。カズミもその一人だ。あれってね、初めはとっても痛いのよ。何回かするうちに、慣れてくるんだけどね。カズミは、仲の良い女友達数人に威張るようにいっていた。同じクラスのヨウコは妊娠して中絶したとも聞いた。ヨウコは休学して、卒業式には出てこなかった。テレクラで売春しているという噂のある子も数入、同じ学年にはいた。テレビや映画で、男女が裸になって体を重ねていることが、あれを意味するのだとも知っている。女性の膣《ちつ》に、男性のペニスを入れることを性交というと保健で習った。だけど、それが実際、どんなものか、ショウコは想像するだけだ。
だいたい、男のペニスなんてよく見たこともない。風呂場の父親のものをたまたま覗いたことはあるが、それが自分の中に入ってくるなんて、そんなことありうるのだろうかと不思議に思う。
ショウコはバックミラーの中の自分をまた見上げた。胸許から乳房が出すぎているような気がして、ドレスの襟を少しひっぱり上げた。ところがそのためにパンティが覗きそうになってしまい、慌てて裾をひっぱり下ろした。そんなことをしていると、バスの運転手の視線がこちらに注がれていることに気がついた。
運転手は小太りの中年のおじさんだ。白いシャツがはちきれそうになっている。ショウコが視線を向けると、ぱっと目を逸《そ》らせた。ショウコは、おじさん運転手が自分を見ていたのは、この格好のせいだろうか、それとも、服の裾を上げたり下ろしたりする姿が滑稽《こつけい》だったのだろうかと考えた。
しかし、運転手はもう二度とショウコと鏡越しに視線を合わせることはなかったので、確かめようもなかった。
バスが駅のロータリーに着いた時、高架線のホームに列車が近づいてくるのが見えた。ショウコは慌ててバスから降りた。上岡台行きの電車は十五分に一本しかない。これを逃したら、ホームで待つことになる。
ショウコは駅の改札口に走っていった。
「下り電車がまいります、足許にお気をつけください」
ホームから、機械的な女性のアナウンスが聞こえてくる。切符を買っていたら、乗り遅れる。ショウコは白いポシェットの中から通学定期を取りだした。上岡台とは反対方向の大川戸学園前までの定期だが、出口で精算すればいい。ショウコは定期を駅員に見せて、改札口を通り抜け、ホームに続く階段を走りあがった。
背後で自動扉が閉まり、電車が動きだした。ショウコは乱れた息を整えながら、扉の窓ガラスに自分の姿を映してみた。案の定、髪はばさぼさ、首のチョーカーは捩《よじ》れ、ドレスの首許は傾いていた。流れ去る町並みを背景に、ガラスを鏡代わりにして身ずまいを正すと、ショウコは空いている席を探した。
電車の横座りの席はほぼいっぱいだった。立っている人も四、五人いる。ショウコは頭の禿《は》げあがった初老の男と、背広姿の若いサラリーマンの間に空席を見つけた。漫画雑誌を読みふけっているサラリーマンは少し疲れた顔をしていたが、鼻筋は通り、口許が引き締まり、なかなか美形だった。ショウコはそのサラリーマンに惹《ひ》きつけられた格好で、隣に腰を据えた。
尻を座席の奥まで押しこんでから、ポシェットを膝の上に置き、隣の男が自分を見てくれないかと期待しつつ、気取って膝を組んでみた。しかしサラリーマンは夢中になって漫画を読みふけっている。
ショウコは背中を座席にもたせかけると、向かいの窓の景色を眺めた。
マリリン・モンローのようだと思ったのは自分の思いこみなのだ。ショウコは自虐的な気分になって思った。ほんとうは、ただのもっさり娘が似合わない服を着ているだけなのかもしれない。カズミたちは陰で、くすくす笑うだろう。ショウコったら、どうしちゃったのかしら、ねぇ。カズミの甲高い声が聞こえる気がした。
ショウコは荒海を航海する小さな船のようだった。天まで達するほどの自意識の波に突きあげられたと思うと、次の瞬間には海を抉《えぐ》るような自信喪失の波の底に突きおとされ、左右に揺すぶられながら進んでいた。
がたがたん、ごとがたごと。波音ならぬ電車の音がショウコの周囲で湧《わ》きあがっている。ショウコの靴の先がサラリーマンのズボンの裾に触れて、かすったような土汚れがついた。ショウコは隣の男の顔を盗み見た。男は漫画本に顔を突っこんだまま、片手でズボンの裾を払った。
誰も自分を見てはくれないのだ。ショウコはますますがっかりして目を閉じて寝たふりをした。
何か楽しいことを考えなくてはやってられない。それでこれから会うはずのコウスケのことを思い浮かべた。
コウスケはどんな風になっているのだろう。県外の大学の工学部に進学して、そこで一人暮らしをしていると聞いていた。一人暮らしと考えただけで、一人前の大人になったような感じだ。
新しい恋人はできただろうか。できてなければいいのに。高校を卒業してまだ半年も過ぎてない。そう簡単にはできないだろう。ショウコだって、せっせとあちこちのサークルに顔を出したり、コンパに出ていったりして努力しているにもかかわらず、恋人なんか見つからなかったのだ。もっとも自分と、コウスケとを同列に置くのはおかしいけど。
目を閉じたまま、そんなことをごちゃごちゃ考えていたショウコの首筋に、人の温かな息がかかった。ショウコの産毛が逆立ち、背中にぞくっとした感覚が走った。息は左手のほう、若いサラリーマンのいる方からかかってきた。
男の息が再びショウコの首筋に吹きかかった。再び、ショウコの産毛が逆立ち、腋の下をくすぐられた時のように背中がうずうずした。男の息は規則的に吹きかかる。やめて、といいたいけれど、気持ちよくて、もっと、といってみたくもある。目を開けると、これが止まってしまいそうで、動くこともできない。ショウコは寝たふりを続けた。いくつかの駅を過ぎ、やがて隣で人の動く気配がした。ショウコはようやく目を開いた。
隣の席を立ったのは、あのサラリーマンではなかった。端のすり切れた大きなバッグを膝に抱えたおばさんだった。いつあの若い男が電車を降りたのかわからなかった。ショウコの首筋にかかっていた息が、あの男のものか、このおばさんのものかもわからなかった。
「次は上岡台、上岡台です」
車内放送が響いた。ショウコは夢を見ていたような気分で立ちあがった。
上岡台の駅はたいして大きくはないが、私鉄線への乗り継ぎ駅となっているために、駅前繁華街はけっこう賑《にぎ》わっている。いつもは、夕方になると混みあう駅の構内だが、ショウコが降り立った日は、閑散としていた。八月半ば、夏休み休業している店が多いせいだった。
ホームから改札口に向かっていたショウコは、切符を買ってないことを思い出した。切符精算の窓口には人が二、三人並んでいる。そちらに行きかけて、ふと躊躇《ちゆうちよ》した。
滝之口から上岡台まで、千円近い運賃だ。今日みなと呑むなら、数千円は飛ぶ。どうせ帰りの電車代も払わないといけない。ここで、片道運賃を浮かせられたらありがたい。頭の中に、こんな考えが過《よ》ぎったのだ。
ショウコは足取りを緩めることなく改札口に近づいていった。同じ電車で降りた乗客の最後の波が改札口にぶつかったところだ。自動改札機を通る手間を省いて、駅員のいる改札口を通っている客も多い。
上岡台から大学まで通学している学生はたくさんいる。ショウコが定期で改札口を通っても、おかしくは思われないだろう。
いつもと違うピンクのドレスを着ているせいで、ショウコは大胆になっていた。ポシェットから通学定期を取りだして、顎《あご》をつんと反らせて、駅員のいる改札口を通りすぎた。「ちょっと、きみ」
声がかかったのは、改札口を出かかった時だった。ショウコは反射的に立ち止まった。制帽をかぶり、白の半袖シャツを着た駅員が、定期をもう一度見せて、といった。
ショウコはこのまま走って逃げようかと思った。しかし、このドレスを着て、そんな無様な真似はしたくないというためらいが、一瞬の機会を奪ってしまった。
先に何が待ちうけているか考えるより先に、ショウコは手にしていた定期を駅員のほうに差しだした。
「これは滝之口までの定期じゃないか」
駅員はいった。
「あ、そうでしたっけ」
ショウコはしらばっくれた。駅員はショウコを睨《にら》みつけた。
「ちょっと、こっちに来なさい」
ショウコの全身から血が引いて、膝が震えた。駅員は、昇降客の流れが途絶えるまでショウコを脇に立たせていた。通学定期は駅員の手に握られている。ショウコは逃げるわけにはいかなかった。改札口の付近に人気がなくなると、駅員は改札口の戸を閉め、ショウコを連れて駅員室に入っていった。
駅員室は、四つの机がふたつの場所に固められて置かれている。片側に切符売り場の窓口があり、そこに駅員一人が座っていた。室内の真ん中付近の事務用椅子には痩せて背骨の浮きたった老女が腰を下ろし、二人の駅員におろおろした様子で、気がついたら、お金も荷物もなくなっていたんです、こんな年寄りから盗むなんてとんでもない世の中だ、あのお金は銀行から下ろしてきたばかりの大金だったのだ、そんなことをくどくどと語っていた。駅員は、老女の調書を取ったり、なぐさめたりしている。机に座っている一人の駅員は、電話の応対で一生懸命だ。
ショウコを捕まえた駅員は、ざわついた駅員室を口をすぼめて見回すと、隅のほうに歩いていった。そこは四角いくぼみのような空間で、磨《す》りガラスの衝立《ついたて》と小さなドアで駅員室と仕切られている。衝立の前にはスチール製ロッカーが並べられているので、独立した小部屋のようだ。中には、すり切れた応接ソファとテーブル。テーブルの上には、新聞紙や週刊誌が積みあげられている。部屋の隅に、使わなくなったスチール製の机があり、古ぼけたテレビが一台置かれていた。正規の応接室というより、駅員たちの休息場となっているようだった。駅員は部屋の戸を閉めると、テレビを置いた事務机に腰をもたせかけて、ショウコと向き合った。
それでようやくショウコは初めて、駅員と正面きって向き合うことになった。土気色の肌をした、三十代半ばの駅員だった。きちんと剃った頬にはあばたの跡があり、がっしりした肩と腰をしていた。融通のきかなそうな、いかつい顔をしている。ショウコは、教師の前に立った時のように緊張した。駅員はショウコの定期に目を落とした。
「滝之口から大川戸学園まで。通学定期か」
駅員は定期をひっくり返していった。
「大学生だね」
ショウコは頷いた。
「もう分別もつく頃だろうに、こんなことするなんて恥ずかしくないかね」
「駅に着いたら、電車が来たんで、切符を買う暇がなかったんです」
ショウコはポシェットを肩にかけて立ったまま弁解した。
「だったら精算窓口に行かないで、なぜ改札口をこの定期で通ろうとしたんだね」
ショウコには答えられるはずはなかった。彼女の行動を見れば、そのわけは太陽の下のにきびほど明らかだった。
「すみません」
運賃の差額を払えばいいだけなのだからと自分にいい聞かせながら、しおらしく顔を伏せた。ついでにちらりと腕時計を見ると、六時二十五分だった。カズミたちは駅前で待っているのだろうか。コウスケにこんなところを見つかったら、なんとかっこうわるいのだろうと思った。
「定期券の無賃乗車は、定期券の発行した日から、犯罪が発覚した日までの運賃の三倍の罰金となる。この定期は七月初めの発行だから、四十日間としても、滝之口から上岡台まで八百五十円、その三倍だからいくらかな。十万円近い額となるのは確かだ」
ショウコは口を大きく開いて、顔を上げた。
「十万円、ですか」
「規定ではね」
駅員が意地悪い顔つきで自分を見ていると思った。ショウコの頭の中でさまざまな考えが駆けめぐった。
十万円などという大金は払おうにも、持ち合わせてない。どうしても払うには、両親に頼まないといけない。無賃乗車を両親に告白しなくてはならないと考えただけで、心臓がひっくり返った。ショウコはおろおろと、駅員のほうに近づいた。
「十万円なんて払えません、もう二度としませんから、見逃してください」
必死になったあまり、駅員にぶつかるほど近づいたことに気がつかなかった。駅員が、ショウコのピンクのドレスの大きく開いた胸の間を見下ろしたことも、それで少し眉根を寄せたことにも気がつかなかった。
「お願いです、見逃してください」
ショウコは泣かんばかりに駅員の顔を見上げた。パールピンクの唇は震え、目には涙が滲《にじ》みそうになっていた。みっともないとか、かっこうわるいとかいう気持ちは吹きとんでいた。
「お願いします」
喉が強ばって、声が震えた。ショウコの膨らんだ乳房の先が駅員の胸に触れた。
その時、駅員のいかつい口許が崩れた。そして優しい笑いを浮かべたと思うと、腕を横に大きく広げて、ショウコを抱きしめた。ショウコは、あっ、と息を呑んだ。
身動きできなかった。頭の中で大きな波が砕けちって小さな泡ばかりになったかのように、すべてが真っ白になった。
駅員の体が、ショウコの乳房を腹を押している。その暖かみが伝わってくる。ショウコの体は水になり、融けてしまい、足許にずるずると落ちていきそうだった。駅員が抱いてなければ、その場に崩れおちていただろう。
小部屋の外からは、次の電車の発車案内が流れている。電話の鳴る音、電車の過ぎる音。老女の泣き声、それを慰める男の声。それらの音が遠い世界のさざ波のように聞こえてくる。
ショウコの頭は驚きで混乱していたが、体は陶酔感に浸っていた。思考は停止し、ただ体を駅員に預けていた。駅員がほんの少し強く下半身を押しつけた。ショウコのだらりと落とした右手の甲に、柔らかなものが触れた。柔らかで、少し膨らんだ感じのするもの。太腿でも腹でもないもの。男の体にだけしかないもの。
駅員がそっと、ショウコのほうに腰を突きだした。それの先がショウコの手の甲を横に滑り、ピンクのスカートにぶつかった。ピンクのスカートがへこみ、さらにその奥にある太腿の間に達した。
ショウコの足の底から、頭の上まで衝撃が走った。周りの音が遠のき、頭の後ろがぼうっとした。駅員が吐息を洩《も》らして、ショウコの背中から尻にその大きな手をずらせた。
その瞬間、ショウコの全身に怯《おび》えが駆けめぐった。
ショウコは体を捻ると、駅員の手からすり抜けた。ばさっと音がして、ポシェットが床に落ちた。それがショウコを我に返らせた。ショウコはポシェットを床から拾いあげ、まだ手を宙に上げたままの駅員の手から定期券を奪いとると、応接室から走りでた。駅員は追いかけてはこなかった。駅員室を通って改札口に出た。改札口には別の駅員がいたが、ショウコはそちらを見ることもなく飛びでていった。
「おい、きみ」
改札口の駅員の声が背中にかかった。しかしショウコは立ち止まらなかった。鷹から逃げる兎のように、人の往来する駅のホールを通りぬけて、外に出ていった。
外は薄暗く、駅前のビルにネオンがまたたきはじめていた。ロータリーにバスやタクシーが止まっている。帰途につく人タの流れが、駅前で渦巻いている。その人々の流れの中に紛れこむと、やっとショウコは立ち止まった。
胸がどきどきしていた。先ほど起きたことは、ほんとうだろうか。ショウコはせかせかと歩き去る人々を眺めて思った。
しかし、まだ駅員の体が乳房や腹にへばりついている。不快な感覚ではなかった。しかし、そのことを考えると、腹の底に火の玉が燃えているような落ちつかなさを覚えた。
ショウコはせかせかとポシェットの蓋《ふた》を開けて、中に定期券をしまった。ポシェットを閉めて、肩にかけた時、紐を握る自分の右手が目に入った。そこにはあの柔らかで盛りあがったものの感触がまだ息づいていた。男の股の間にある、あの底知れぬもの。ショウコは右手の甲を左手で撫でた。
この手はあれに触ったのだ。
ショウコは右手がすでに自分のものではなくなったように、まじまじと眺めた。
「ショウコ、ショウコーッ」
甲高い声が聞こえた。手を降ろして、きょろきょろすると、駅前の鳩の彫刻の前で、カズミが手を振っていた。そばには、高校の同級生たちが六人、集まっている。みんな、卒業以来、どこか違って見える。ショウコを見ているかつての同級生の中に、コウスケの顔もあった。
コウスケだ、と思ったとたん、ショウコはショッキングピンクのドレスの裾を引き延ばして皺《しわ》を取った。そして肩にかけたポシェットの紐を右手で握りしめると、少し気取った足取りでみんなのほうに歩きだした。
11 暗く、長い長い道
フロントガラスの向こうには、金属の海が広がっていた。銀色や青や白に輝く波の間に、赤や緑、黄色の波頭が立っている。車の海は、赤信号の下でせき止められ、アスファルトの上でエンジンの波音をたてている。カツイチは、ハンドルを指先で苛々《いらいら》と叩《たた》いた。
――日本列島、本日は五月並の陽気だということで、各地で桜の花が一気に開きはじめました。
カーラジオから、男性アナウンサーの和やかな声が流れてきている。
実際、ワゴン車の中は、ガラスを通して差しこんでくる日射しで、ぼかぽかした春の陽気がこもっていた。カツイチは窓を少し開いたが、すぐに流れこんできた排気ガスに顔をしかめた。
車の列と、道路にでこぼこと並ぶコンクリートの建物の間には、桜の花の片鱗《へんりん》すらない。カツイチはあくびを噛《か》み殺し、窓の外をつまらなそうに眺めた。隣の外車の運転席に、若い女が座っている。半袖から剥《む》きだした白い肘を窓枠に突きだして、携帯電話を耳にあてている。窓越しに手を伸ばせば、その尖《とが》った肘に触れることができそうだ。
女は携帯電話に向かって楽しげに話しながら、フロントミラーに映る自分の顔を点検している。白粉を塗った肌に、アイラインとピンクの口紅が際だっている。その唇は、桜の花を思わせた。カツイチは横目で、花びらがひらひらと動き、時に軽快な笑い声をたてるのを見つめていた。
女はフロントミラーの中で動く自分の表情に満足げに微笑んでいる。カツイチの視線は、その桜の口許から、光を照り返すほど滑らかな顎《あご》、金の鎖の絡まる首、そして黄緑色の丸首セーターの中に呑みこまれる鎖骨へと移っていった。携帯電話を持つ二の腕の間に、セーターに包まれた胸の膨らみがちらちらと覗《のぞ》いている。
カツイチはその腕の間に手を差しこみ、胸の膨らみまで指を伸ばしてみたい衝動に駆られた。窓から少し身を乗りだせば、可能だった。
「やだぁ、そんなこといわないで」
女が大きな声を上げて、けたたましく笑った。喉《のど》が反りかえり、胸が前に突きだされ、肩胛骨《けんこうこつ》が座席の背に押しつけられた。それは男根を受けいれようとする女の肢体を連想させた。
電話の向こうの相手にそんなに欲情するくらいなら、俺を見ろよ。
カツイチは心の中で呟《つぶや》いた。まるで、その声が聞こえたかのように、女の瞳がこちらに動き、カツイチの視線とぶつかった。女は、カツイチの土色の配送員の制服と『マルセヤ』という文字が車体に描かれたワゴン車を見遣《みや》って、ついと横を向いた。そして、またフロントミラーの自分の顔を相手に、ぼそぼそと話しはじめた。
淫売め。カツイチは小さく毒づいた。
信号が青になった。カツイチはアクセルを踏みこみ、女より先に飛びだした。そして前の車の尻にぶつかるほどの勢いで、ワゴン車を走らせだした。女の外車はすぐに背後の車の波に呑まれて消えていった。
『辰井町』という標識のある交差点で右折する。幹線道路から外れると、混雑は消えた。カツイチは助手席に置いていた伝票挟みに目を落とした。住所の欄には、「辰井町五丁目六番地七十七」と書かれている。電柱に張りつけられた番地の表示を確かめながら、カツイチは徐行運転をはじめた。
手入れの行き届いた一戸建て住宅が行儀よく並んでいる住宅地だった。どの家もどの道も同じように見えて、うっかりすると、迷ってしまいそうだ。カツイチは神経を尖らせながら、番地を確かめていく。道に迷って、無駄にする時間はありはしない。今日中に配送しなくてはならない家は、まだ五軒あるのだ。
幹線道路は年中無季節でも、ここには確実に春が来ていた。庭の植木の花はあちこちで満開となり、パンジーやチューリップの鉢植えが家の窓辺を鮮やかな色で飾りたてている。天気のいい午後だけあって、家の前の路上で車を洗っている若者や、剪定鋏《せんていばさみ》を手にして庭いじりしている主婦の姿が見える。平日だというのに、あんなにのんびりした時間を過ごしている奴らがいることに、カツイチは怒りを覚えた。
向こうから、老人が杖を突いて歩いてきた。皺《しわ》だらけの顔に穏やかな表情を浮かべて、道路沿いに咲く花を眺めている。周囲に気を取られて、カツイチの車が近づいてくることがわからない。
カツイチはクラクションを押した。ブーツ、と大きな音が響き、老人は驚きのあまり足許をふらつかせ、塀に倒れかかった。
カツイチは窓から顔を出すと、「危ないですよ、お爺さん」と言葉だけは丁寧にいって、通り過ぎていった。カツイチの行為が親切心から出たものか、運転者の横暴から出たものか、つかみかねている老人の戸感いと怒りの混ざった顔がバックミラーに映った。カツイチは音をたてずに口笛を吹いて、また電柱や表札の住所を探して、きょろきょろしはじめた。
探しあてた家は、鶯色《うぐいすいろ》のペンキ塗りの洋風一戸建てだった。白いフェンスの向こうに、芝生のあるこぢんまりした庭がある。家の前に車を止めて表札と『カワムラ』という伝票の名前を照合すると、門についたチャイムを押した。四度ほど押して、やっと「どちらさまですか」という女の声がした。
「まいどありがとうございます。『マルセヤ』です。お買物をお届けに参りました」
社員教育で教わった通り、カツイチは、はきはきした声で答えた。
「あ、ああ、ご苦労さま。勝手口に回ってくださるかしら」
カツイチはワゴン車の後ろのドアを開いて、「カワムラ様」という札のついた紙袋をふたつ引きだした。それを両手にぶら下げて、門の中に入っていった。
玄関に通じる道とは別に、細い道が家の横手に延びている。その道の先、植え込みの間に、台所らしい小窓のついた家の壁と勝手口があった。カツイチが荷物を持って近づいていくと、勝手口が外に開いて、女が顔を覗かせた。
頭の上で髪をひとつにまとめ、ざっくりした白い木綿のシャツ、幅広の薄手の黄色のズボンを穿《は》いている。髪からは後れ毛が幾筋も垂れ下がり、シャツのボタンは胸の谷間が覗くほど下にかけられている。しかも、そのシャツは薄くて、突きだしたふたつの乳首が小さな影を作っていた。
「こっちに置いてくださるかしら」
女は口早にいって、自分の足許を指さした。カツイチはいわれた通り、勝手口の床に紙袋を置いた。かがんだ拍子に、女の足が目に入った。素足だった。桜色の爪が白い足の先に填《は》めこまれている。
紙袋が倒れないようにしているふりをして、カツイチは爪先からズボンに包まれた脚、そしてその脚の合わさる場所を観察した。脚の合わさる場所は、木綿のシャツに隠されて見えなかった。
カツイチは背筋を伸ばし、小脇に挟んでいた伝票挟みを差しだした。
「こちらにサイン、いただけますか」
女は伝票挟みを受け取った。サインのためにうつむいた時、シャツの襟の合わせ目の暗がりに乳房の膨らみが覗いた。ほつれ髪の絡まるうなじ、押せば弾《はじ》き返してくるような柔らかな肌。かがみこんだ女の全身から立ち昇る、ぷんと甘く生臭い匂い。その襟合わせ目に手を突っこんで、乳房をつかみとりたい衝動を、カツイチは抑えた。
「これでいいかしら」
女がサインした伝票挟みを返してきた。
カツイチは、にっこり笑ってそれを受け取ると、頭を下げた。
「またよろしくお願いします」
女は「ええ、またね」と答えて、微笑み返した。カツイチの心は沸きたった。
乳首を晒《さら》すのは、男への誘いかけだ。この女は、見知らぬ男に抱かれるのを求めていると、カツイチは想像した。
店にはよくいらっしゃるのですか。いいお天気ですね。お庭の手入れが行き届いていますね。
会話のきっかけとなる言葉が、カツイチの頭に駆けめぐった。しかし、カツイチが適当な言葉を選びだすよりも早く、女は「じゃあ」といって、唐突に勝手口の戸を閉めた。
カツイチはその戸に手をかけて、まってください、といいたかった。
その時、台所の窓越しに「誰だい」という男の声がした。
「スーパーの配達よ」
女が奥に歩いていきながら答えている。
「へえ、スーパーが配達なんかするの」
「五千円以上買うと、配達してくれるのよ。ありがたいわ」
「俺、てっきり亭主が帰ってきたかと思って焦ったよ」
馬鹿ね、という、女の含み笑いがした。
カツイチは大股で庭を通り、ワゴン車に戻っていった。顔は、麻雀《マージヤン》で大負けした時のように歪《ゆが》んでいる。車のドアを乱暴に閉めて、エンジンをかけて走らせだした。
幹線道路に戻ると、渋滞はひどくなっていた。カツイチは伝票挟みを見て、次の住所を確かめた。しばらくこの道路に沿って進まなくてはならないことを確認すると、伝票挟みを助手席に投げだした。そしてハンドルに顎を乗せて、はっ、と息を吐いた。
車と共に停止した時の中で、誰もが退屈した顔をしている。だけど、きっと皆、この尻から石になりそうな時間をやり過ごせば、いいことが待っているのだ、とカツイチは思った。
いいこと、とは女とやることだ。女の温かなあそこに息子を突きいれて、突きいれて、果てること。
しかし、その相手となる女は、カツイチにはいなかった。一日中、買物客の女たちと顔を突きあわせているくせに、カツイチに目をくれる者は誰もいない。暇を弄《もてあそ》ぶ主婦たちとねんごろになった配達仲間の話は耳に入っても、カツイチにそんな幸運は巡ってはこない。
同じ店で働くレジの娘たちは、配達員なぞ相手にしては格が落ちるとでも思うらしく、熱い視線を送るのは、主任や宣伝や営業の男たちばかりだ。入社したばかりの田舎臭い娘とつきあったこともあったが、やがて彼女も仕事に慣れてくると、もっといい男が見つかったといって離れていった。カツイチが女を手に入れるには、大枚はたいて淫売を買うしかない。だが、男根をタンポンぐらいにしかみなさない淫売と寝ても、おもしろくはない。
車の列が前に進みだした。カツイチはアクセルを踏む。しかし十メートルも走ると、また止まってしまった。
糞、糞、糞っ。カーラジオから流れてくるラップに合わせて口ずさむ。そうしてカツイチは再び、苛だちの泡の弾ける金属製の海に呑みこまれていった。
配達を終えて戻ると、もう閉店時間になっていた。店の車庫にワゴン車を戻し、受け取りを経理に渡して、ようやく土色の配達員の制服を脱ぐことができた。革ジャンとジーンズに戻って、店の通用口から外に出た。
カツイチはジャンパーに両手を突っこんで、ネオンの輝く通りを駅に向かって歩きだした。
駅前は、待ち合わせの男女で賑《にぎ》わっていた。皆、これから始まる夜への期待に、浮かれた顔をしている。どこかの居酒屋で一杯ひっかけていこうかという考えが頭を過《よ》ぎったが、一人で呑んでいるとまた忌々しさが募りそうで、おとなしく帰宅することにした。
カツイチの住むアパートは、その私鉄の駅から五つ目にある。去年まで、店の借りあげている一軒家の寮で他の独身店員たちと同居していたが、今年に入ってから独り暮らしを始めた。
寮にいたほうが金もかからないし、賄い付きなので楽だった。それでも出たのは、同僚とのつきあいが面倒だったせいだ。
話すことといったら、会社の愚痴と女のことしかない。カツイチもその話題が嫌いなわけではない。しかし彼が口を開くと、同僚たちは居心地悪そうに黙りこんでしまう。上司を罵《ののし》り、買物客の悪口をいうという、同じ話題を喋っているのに、カツイチが罵ると、度肝を抜かれた顔をした。
おまえな、ちょっときついんだよ。
同じ配達員のミツルに注意されて初めて、カツイチは、同僚たちと自分との差を知った。
彼らは当たり障りのない言葉に変えて、愚痴や悪口をいう。誰かに告げ口されてもいいように、逃げ道を作った喋り方をする。しかしカツイチは思ったことを口にした。
ムトウの奴、ぶっ殺してやりたいよな。あのヒステリー婆ぁ、一発やってやったら、おとなしくなるってもんだよ。カツイチが言葉を吐きだすや、仲間たちは、自分はそんなこと、耳糞くらいも考えたことがない、という表情をした。
偽善者め。カツイチは思った。おまえたちだって、心の底では同じように考えているだろうによ。そしてカツイチは、会社に寮を出たいと申しでた。
通勤客で混みあう電車に乗りこむと、カツイチはドアに身を寄せて、売店で買ったスポーツ新聞を開いた。有名タレントの離婚発表、政治家の醜聞などの記事の見出しにさっと目を通し、新聞の官能読み物に移った。身悶《みもだ》える女が、やめて、やめて、と口走っている下りを二度読み直し、その女のことを考えながら顔を上げた。そしてカツイチは、自分のまわりにいる女の乗客を品定めしていった。
吊革にぶら下がり、甲高い早口で喋っている二人の女。似たような髪型、ハイヒールに、体の線の浮きでたミニスカートのスーツ、ブランド物のバッグを肩にかけて、興奮して話している。その斜め前の座席には、膝を開いて、長い髪を胸まで垂らして居眠りしている女。男の肩に両手をかけて、腰を押しつけるようにして甘えている学生風の娘。乳房の形がくっきり見える短いTシャツに、尻の線を露《あらわ》にした幅広パンツを穿いている。女たちは無心のふりをして、どうだ、この肉体が欲しいだろう、と周囲の男たちを挑発しているのだ。
つい先日、カツイチはこの帰宅途上の電車で、痴漢の現場を目撃した。胸許の大きく開いたドレスを着て、吊革にぶら下がり、うつらうつらしている女がいた。その少し後ろにいたカツイチは、女の横に立っていた会社員風の男の手が、丸く膨れあがった尻に延びていくのを眺めていた。指は、最初は尻の線に沿って触れるか触れないかの様子でそっと撫《な》でていた。女は命綱のように吊革につかまって、やはりうとうとしている。男の指が大胆になって、尻の間に滑りこんだとたん、きゃーっ、という悲鳴が車内に轟《とどろ》いた。そして女が、会社員風の男を指さして叫んでいた。痴漢よ、痴漢、誰か、駅員さんを呼んで。その男は車掌に捕まり、次の駅で降ろされた。灰色の背広に包まれた男のうなだれた背中を、挑発的なドレスを着た女は軽蔑《けいべつ》の眼差しで見送ったものだった。
カツイチはその女に怒りを覚えた。男の気をそそらせるよう餌《えさ》をぶらさげておきながら、いざ男が手を出すと、ついとその餌を引っこめる。そして、その美味い匂いのする肉体は、安楽な将来をもたらしてくれる男のためにだけ取っておくのだ。そんな女たちは淫売と変わることはない。ただ、淫売の相場は決まっているが、奴らは自分の肉体をとんでもない値打ちにまで引きあげて遊んでいる。
カツイチは、憎々しげな視線を車内の女たちに送り、再び新聞を顔の前に持ってきた。しかし、また記事に目を通しはじめる前に、向かいのドアによりかかって、ファイルに目を通している娘に気がついた。薄茶色のジャケットに、膝が隠れる程度の長さのスカート。丸々した体が、そのもったりした服装でますます膨らんで見える。首筋で切り揃えられた髪の毛はあちこちほつれ、ジャケットの襟には少し皺が寄っている。娘は生真面目な表情でプラスティックのファイルブックにまとめられた何かのコピーをめくっていた。小さな唇をもぞもぞ動かせて、ファイルの中の文章を暗唱している。仕事のマニュアルでも暗記している新入社員といったところだ。肩から提げた大きめの四角いバッグや、靴の先にリボンのついたローヒールの靴は、二十代半ばのその娘を、生理の止まった中年女のようにくすませていた。
ださい娘だ、とカツイチは思った。
餌をぶらさげる女は鼻持ちならないが、ぶらさげる餌もない女はつまらない。カツイチは新聞を顔の前にかざして、スポーツ欄を読みはじめた。
娘に気づいたのは、電車から降りて、駅前商店街を歩きだした時だった。先のださい娘が大きめのバッグを背中で揺らせて、つい先を歩いていた。帰り路と同じ方角だったので、自然、カツイチはその娘の後ろをついていくこととなった。
カツイチは退屈しのぎに、その娘を観察した。
娘は両側の商店に目を走らせながら、糸の切れた凧《たこ》のように歩いている。輸入雑貨の店や、高級ブティック、小粋なカフェバー。娘の足がのろくなる場所は、どこも娘には似合わない店の前だった。娘はそれらの店に心残りな視線を送りながらも、決して足を止めることなく歩きつづける。
こいつには、恋人なんていそうもないな。カツイチは思った。
自分の欲しいものの前で立ち止まる勇気もない。きっと気に入った男がいても、物欲しげな気持ちを隠して、歩きつづけるだけだろう。
娘がようやく立ち止まったのは、遅くまで開いている八百屋の前だった。店の前に立って、安売りの林檎《りんご》を買い、ついでに玉葱《たまねぎ》と白菜を追加した。カツイチは隣のビデオ屋の前で、そんな娘を観察した。
店の明かりに浮きあがる顔は、けっこうかわいらしかった。膨らんだ頬に小さな唇、桜桃のように丸い瞳。気弱な声で、値段を聞いている。
こんな人慣れしていない娘だって、あと一年もしないうちに社会に揉《も》まれ、会社に慣れ、がらりと変わってしまうだろう。カツイチは、店に毎年入社してくる娘たちの顔を思い浮かべた。ここまで鈍くさい雰囲気の娘は少ないとはいえ、入ってきたばかりの時は、借りてきた猫のように萎縮《いしゆく》していた娘たちは瞬く間に変化していった。そしてやがて結婚相手を見つけ、退社をいいだすのだ。
娘は八百屋のビニール袋を提げて、また歩きだすと、商店街が切れるところにある酒屋の角を曲がった。カツイチのアパートはさらに通りをまっすぐにいったところだ。カツイチは酒屋の角に立って、娘の後ろ姿が夜道に小さくなっていくのを眺めた。
街灯に弱々しく照らされて、娘の尻がゴム鞠《まり》のように動いている。丸くすぼまった肩、スカートから覗くむっちりした脚。カツイチに見られているとは少しも気がつかず、夢遊病に罹《かか》った眠り姫さながら、春の宵をふわふわと歩いている。
まるでひったくりでもしてください、といわんばかりだった。後ろから駆けていき、肩に掛かっているバッグを奪いとって逃げても、娘はただ呆然《ぼうぜん》としているだけだろう。
そのあまりの無防備さが、カツイチの気をそそった。彼は自分が何を考えているか理解するよりも前に、酒屋の角を曲がっていた。
商店街から外れると、道は急に寂しくなった。両側に、木造アパートや民家が連なっている。たいていの家の窓には明かりが灯っているが、その光は路上までは届かない。忘れた頃に現れる侘《わび》しい街灯のおかげで、なんとか行く手が見える程度だ。
しかし、そんな寂しい夜道も、娘は慣れているようで、歩調を速めることなく進んでいく。カツイチは十メートルほど離れて、つけていった。
こつこつこつ。静かな住宅街に、娘の足音が響く。カツイチの運動靴は微《かす》かな音しかたてない。カツイチは獲物を追っている猟犬になった気持ちを味わった。獲物は自分が追われているとも知らずに、暢気《のんき》に春の宵の散歩を楽しんでいる。そこに猟犬が襲いかかり、肉を引き裂く。そして――。
カツイチは一呼吸置いて、自分の心の底に巣くっていた願望を拾いだした。
そして、猟犬はその熱くたぎった男根を獲物に突きたてるのだ。
兎のような娘は、強姦されても、悲鳴を上げることもできないで脅えているだけだろう。ただ涙を流しながら、ひたすら陵辱が終わるのを待つだけだ。
その想像は、カツイチの血を沸かせ、男根を奮いたたせた。カツイチはジーンズの上から、雁首《がんくび》をもたげはじめた逸物《いちもつ》を触った。
あの娘に、こいつを味わわせてやるのだ。世の中というのがどんなものか、身をもって教えてやる。
カツイチはあたりを窺《うかが》った。暗い一本道が続いている。広い庭のある家がぽつぽつと並んでいる。街灯はますますまばらになってきている。先に、小さな公園が見えた。こんな住宅地の公園に夜来る者はまずいない。娘は公園の前にさしかかっている。今だ。カツイチは地面を蹴《け》って走りだした。春の夜気がカツイチの顔にぶつかる。生温かな空気はカツイチの肺に流れこみ、血液を全身に駆けめぐらせる。手足の先まで荒々しい力が漲《みなぎ》り、はちきれそうだ。
あと五メートルほどのところに来た時、娘が振り返った。暗がりに突如として現れた男の姿に、娘は硬直した。恐怖にとらわれ、動けなくなった餌食《えじき》。カツイチは娘に飛びかかった。右手で口を塞《ふさ》ぎ、左手で肩をつかんで地面に押しつけた。ビニール袋が地面に吹っとび、娘は鈍い音をたてて仰向《あおむ》けに倒れた。その体に、カツイチは乗りかかった。
娘はカツイチの体を押し返そうとした。しかし、肩にかけたバッグの紐が右腕に絡まって届かない。左手でカツイチの顔をひっかこうとしたが、カツイチは、口を塞いでいるほうの腕の肘で、娘の腕を抑えつけた。時を移さず、左手で娘の太腿をつかんで横に押し開く。娘が脚をばたばたさせたので、簡単に腰を女の股の間に割りこませることができた。
カツイチはジーンズのジッパーを下ろして、硬くなった男根を出した。成り行きを悟った娘がますます暴れだした。カツイチは娘のスカートの下に手をつっこむと、パンツとパンティストッキングをまとめて引きずりおろした。びりりと音がして、パンツが破れた。背中を反らせて逃れようとする娘の尻を抱えあげ、男根を突きいれた。
最初の一突きは狙《ねら》いが外れて、弾きかえされた。しかし男根の先をやみくもに突いているうちに、するりと生温かな穴に滑りこんだ。
熱い穴の中に、男根の先が呑みこまれた。衝撃に娘は一瞬、息を止めた。カツイチはその隙《すき》に、娘の膣《ちつ》の奥深くに男根を押しいれた。娘はカツイチから逃れようと地面の上でのたうった。しかしカツイチの男根は、楔《くさび》のように膣に打ちこまれている。
磔《はりつけ》だ。カツイチは、キリストの絵を思い出して、笑いだしたくなった。俺は女を磔の刑にしているのだ。
暴れる娘に下半身を押しつけ、腰と腰を合わせた。娘が断末魔の蛇のようにもがいている。
カツイチは娘の口を押さえたまま、男根を少し引きぬいた。娘が安堵《あんど》したように腰の力を抜く。これですんだわけじゃないぞ。カツイチは残忍な悦びを覚えながら、また力をこめて、娘の中に腰を突きいれた。娘がまたもがいたが、抵抗は弱まっている。
あきらめつつある娘の反応に、カツイチの男根はさらに猛《たけ》りくるった。娘の内部は柔らかく、どろりとしている。再び男根を抜き、ずんと突く。カツイチの男根はクリームのような温かさに包まれた。思わず、快感の呻《うめ》きが漏れた。娘は観念したのか、ぐったりとしている。
陵辱に身を任せるしかない女。か弱い獲物。もう運命に抗《あらが》う気力もない。
カツイチは娘の口から手を放すと、両手で腰をつかんで、ぐいぐいと男根を突きいれた。娘の上半身が壊れた人形のように揺れている。
これだ、これだ。カツイチは心の中で叫んだ。こいつを俺は求めていたのだ。
どろりとした液体が睾丸《こうがん》を濡《ぬ》らすのがわかった。娘の膣から流れだしてきた液体だった。
何か変だ。
頭の隅で、そんな考えがひらめいた。カツイチは腰の動きを止めて、組み敷いた娘を見下ろした。
娘は全身を開ききり、カツイチの男根を受けいれていた。その口からは助けを求める悲鳴なぞ聞こえてはこない。それどころか、乳房の盛りあがった胸は大きく上下し、熱い息づかいが漏れている。
娘は、カツイチの男根を歓んでいた。膣から熱い液をしとどに垂らせて、陶酔に身を任せていた。
その状況の異常さにぎくりとして、カツイチは男根を引き抜こうとした。娘は男根から離れまいとするように腰を浮かせ、手足をカツイチに絡みつかせた。
もっと、もっと。
娘の体が叫んでいた。その肉体は乾いた大地のように、男根を求めていた。
こんな馬鹿な、とカツイチは思った。娘は抗うべきなのだ。悲鳴を上げて、逃げようともがくべきなのだ。なのに、なんだ、この娘は。カツイチよりも、もっと燃えていた。
カツイチは、娘から身を放そうとした。しかし娘はカツイチに抱きついてくる。小判鮫《こばんざめ》のように、腰をぴたりとカツイチの腰に押しつけてくる。
「やめろっ」
カツイチは両手で娘を突きとばした。娘の体が道路に叩きつけられた。カツイチはズボンを引きずりあげて立ちあがった。娘はスカートを腹のあたりにまくれあがらせ、身動きもせずに仰向けに倒れている。
遠くの街灯の光に、ねとねとと濡れた娘の太腿が浮かびあがっている。カツイチの全身に怒りがこみあげてきた。
「淫売めっ、糞っ、淫売めっ」
喚《わめ》きながら、カツイチは娘を蹴った。娘が、ひいーっ、と老婆のような悲鳴を上げた。それがまた忌々しくて、また足蹴にした。娘はさらに大声で悲鳴を上げた。
公園の中から、「なんだ」という声が返ってきた。はっとして振り向くと、誰もいないと思っていた公園の木立の中から、三、四人の人影が現れた。
「どうしたんだっ」
男がこちらに向かって叫んでいる。
「人が倒れてるわ」と、女の声がした。人影が動きはじめた。
地面に倒れた娘は、めそめそと泣いている。
「馬鹿野郎っ」
カツイチはもう一度娘を蹴りとばして逃げだした。
その場を離れるや、公園から出てきた人々が娘に駆け寄っていった。
「強姦よ、あの男だわっ、捕まえてっ」
背後で、非難のこもった声が上がった。公園にいた女の一人だ。すぐさま複数の足音がカツイチを追ってきはじめた。
「待てーっ」
「警察に突きだしてやる」
追っ手の声に、道の両脇の家々の玄関の明かりがつきはじめた。人の騒ぐ声が聞こえる。異常を感じとった飼い犬が吠《ほ》えはじめた。
カツイチは街灯のない脇道に飛びこんだ。春の夜気の中に、暗い道がまっすぐに延びている。子宮に続く道にも似た、生温かな、暗く長い道。その道がどこに達しているのか、彼にはわからない。しかし立ち止まるわけにはいかない。今や、カツイチが追われる獲物だった。いくつもの足音が近づいてくる。人の声が波となって追いかけてくる。
畜生、畜生、畜生。
罵声《ばせい》を繰り返しながら、カツイチは暗く、長い長い道を走るしかなかった。
12 かたつむり
ガラス窓の向こうでは、春の雨が降っていた。その日の午後は、生徒会の会議室で、風紀委員会があった。トシミは風紀委員長だったから、真っ先に教室に入って、黒板をきれいにした。『定期風紀委員会』と表題を白いチョークで書いていると、「あら、いつも感心ね」という声がした。
風紀担当の笹塚先生だった。数学が専門の、四十過ぎの教師だ。ずんぐりと大柄で、いつもくすんだ色の服を着ている。そのきびきびした物言いと、厳しい抜き打ちテストで、生徒たちから煙たがられている。独身だということと結びつけて、「枯れ笹」と陰口を叩《たた》く生徒もいた。
トシミもこの先生は苦手だった。瞼《まぶた》の少し垂れた目の下から、眼鏡越しに睨《にら》まれると、何もなくても悪いことをした気分になる。
「はい、まあ……」と曖昧《あいまい》な返事をして、トシミはチョークを手にしたまま、もじもじした。
笹塚先生は黒板の横の椅子に座ると、腕を組んでトシミを見た。
トシミは、自分の服装にどこか問題があるのではないかと一瞬、ひやりとした。スカート丈はまず校則通り、肩まで垂れる長さの髪の毛はきちんと結んでいるし、制服の灰色のブレザーのボタンもちゃんとはまっている。大丈夫、とトシミは自分に言い聞かせた。
「風紀委員長って、やりづらいでしょ」
笹塚先生はいった。トシミは、やりづらい、という意味がわからずに、口を半ば開いて、先生を見返した。先生は、それに気がついて言い足した。
「他の生徒の行動にいちゃもんをつけるんだもの、あまり好かれる役柄じゃないでしょ」
「ええ、でも……必要なことだと思います」
我ながら、いい子ぶってるな、と感じながら、トシミは答えた。確かに、いちいち遅刻回数や服装の点検をすることで、うるさい奴だ、と思われているのはわかっていた。だけど、それで友情が壊れるほど仲のいい友達もいなかったし、まあ、選ばれてしまったのだから仕方ない、一学期間の辛抱だと割りきっていた。
笹塚先生は、トシミをカンニングを見張る時のような目つきで眺め、それから急に優しい声でいった。
「そうね、それに、ここの学校はまだ風紀は乱れてないほうだからいいわよね」
そして、先生はトシミから視線を離して、窓の外に目を遣《や》った。珍しく、けだるげな感じだった。一日の授業が終わって、疲れているようだった。
会議室は校舎の二階にある。窓からは、トシミの村を囲む緑の山々が見晴らせた。繁華街のある町まで、バスで四十分かかる田舎だ。町の中学校には、ゲームセンターに入り浸ったり、恐喝や売春をしたりする生徒がいるというが、トシミの学校では風紀問題といっても、髪の毛を染めたり、トイレで煙草を吸ったりする程度のことだった。
トシミはまた黒板に向き直り、チョークで、『今日の議題』と書きつけはじめた。
いつもなら、放課後の運動場からは、野球やサツカーに興じる生徒たちの声が聞こえてくるが、今日は雨のために外で練習をする者はなく、静かだった。会議を始めるはずの三時半というのに、会議室には、トシミと笹塚先生の他にはまだ誰も現れていない。校庭に植えられた木々に落ちる雨音と、カツカツというチョークの音が部屋に響くだけだ。会議題目を書きおえて、チョークの粉を払いながら会議室に向き直ると、笹塚先生はまだうわのそらで窓の外を眺めながら、膝の上に置いた左の手首の内側の皮膚をつまんでいた。親指と人差し指で、白くて柔らかな皮膚を挟んで、伸ばしては離している。トシミは、その皮膚があまりによく伸びるのに、目を瞠《みは》った。ゴムのようにびゅうんと伸びて、先生が指を離すと、また手首に戻ってくる。
無意識で、そんなことをしているようだった。トシミはそっと自分の手首の内側の肉をつまんで、ひっぱってみた。一センチほど伸びるだけだ。笹塚先生の皮膚は、優に三センチは伸びている。なんだか、人間ではないようだ。
トシミは、笹塚先生の手首から、濃緑色のウール・ジャケットを突きあげる胸の線、ブラウスから伸びる肉づきのいい白い首、その上に続く、ふっくらした横顔をまじまじと見つめた。先生の体の輪郭は、窓の外の雨景色に包まれて、ぼんやりと滲《にじ》んでいた。
薄暗い会議室の中で、笹塚先生は別人に見えた。いつもと同じ顔、同じ格好だけど、その服の中にあった笹塚先生の肉体が形を失い、アメーバのようなものに変化した。それは、笹塚先生の服の中からはみだして、雨の垂れる窓辺へと伸びていき、窓の外の緑色の風景の中に融けこんでいく。
笹塚先生は、生徒たちが考えているような生き物ではないかもしれない。トシミは頭の隅のほうで、そんなことを思った。
突然、どたどたどたと廊下で足音がして、
「厭《いや》だなぁ、雨だよ、雨」という元気な声が会議室の戸口に上がった。一年の風紀委員の男子生徒二人が一緒に入ってきたところだった。笹塚先生は、手首の皮膚をひっぱるのをやめて、非難のこもった視線を二人に投げつけた。
「廊下を走ってはいけません。風紀委員が、真っ先に規則を破ってどうするの」
いつもの硬質な声が口から飛びだしたとたん、笹塚先生は元に戻った。服の中には白くぶよぶよしたアメーバではなく、四十過ぎの独身の数学教師がいるだけだった。
トシミは催眠術から抜けだしたように、瞬きした。二人の男子生徒に続いて、残りの風紀委員たちも会議室にやってきつつある。トシミは廊下に首を出すと、おしゃべりしながら近づいてくる風紀委員たちに叫んだ。
「遅刻よ、遅刻。時間はちゃんと守ってください」
廊下の後輩の女子生徒たちが、「すみませーん」と甘えた声を上げて、少しだけ足を早めた。
風紀委員会が終わったのは、四時三十分だった。笹塚先生は職員室に戻り、トシミは書記役の風紀委員ミツコと一緒に黒板を拭《ふ》き、電気を消して、最後に会議室を出た。
「知ってる、うちの組の森田アツコ、休学してたでしょ。あれ、ほんとはP.P.S.のコンサートを見に名古屋に行ったんだって」
ミツコは階段を降りながら小声でいった。
「へえ」とトシミはいった。
P.P.S.は、髪の毛を染めた、混血のような男の子ばかりのグループだ。誰にもいってないが、トシミもファンだった。
「それで名古屋の警察に補導されて、連れもどされたんだって。今日、休み時間に、P.P.S.と握手したって得意そうに話してた。警察に捕まった不良のくせして、そんなこと自慢してんだから」
非難めいた口調とは裏腹に、ミツコは羨《うらや》ましそうにいった。
森田アツコは校則違反の常習犯だった。風紀委員のミツコは、彼女の違反を見つけるたびに、口論するはめになり、委員会でしょっちゅう名指しして不満を述べたてるので、笹塚先生に、個人的な中傷はやめなさい、と注意されるほどだった。
「握手したってのは、コンサート、見たのかしら」
放課後のがらんとした階段を降りると、トシミは聞いた。ミツコは、見たんだって、と腹立たしげにいった。そして、トシミもミツコも黙ってしまった。
玄関では、がたんがたんという物音がしていた。会議の前、廊下を走っていた二人の風紀委員の男子生徒が、一年生の靴箱の間で、ボクシングの真似事をしている。
「校内で騒いじゃだめでしょ」
トシミが注意すると、二人はぎょっとしたように振り向いた。
「やばいっ、枯れ笹ジュニアだ」と、頬にぷつぷつとニキビのできた生徒が叫び、「なんですって」と声を荒立てたトシミに背を向けて、もう一人と連れだって外に走りでていった。
トシミはむっつりと三年生の靴箱に行った。ミツコはもう雨靴を履いて、傘を手にしていた。「枯れ笹ジュニア」という先の声を聞いたのは確かだろう、にやにや笑いを口許に浮かべている。
「失礼よね」とトシミは呟《つぶや》いた。ミツコは「ほんと」と相槌《あいづち》を打ったが、真情がこもっているようではなかった。
トシミは上履きを靴箱に入れると、長靴を履いて、傘を手にした。
風紀委員長をしているせいで、笹塚先生のようにうっとうしがられているのは知っていたが、まさか「枯れ笹ジュニア」というあだ名がついているとは知らなかった。トシミの胸の底でもやもやした怒りが湧《わ》いてきた。
トシミはミツコと並んで玄関を出ると、校門へと向かった。ミツコは、中学校の近くに住んでいる。トシミの家は、学校の後ろの小さな峠をひとつ越えたところの村にある。いつもは自転車で通学しているのだが、今日は雨だったので、バスを使っていた。
ミツコは校門を出ると、「それじゃあ、バイバイ」といって、家のほうに去っていった。トシミは中学校前のバス停に歩いていった。四時四十分のバスは出たばかりで、停留所には誰もいなかった。次のバスは五時十五分だ。腕時計を見ると、まだ三十分はあった。
バスが来るまで、本屋や文房具店に寄ったりして時間を潰《つぶ》すことはできる。生徒や風紀委員の目を盗んで、喫茶店で時間を漬す生徒も多い。トシミは、煙草を吸ったりしている生徒もいるというその喫茶店に寄ってみたい誘惑を時々感じる。しかし、一人で入っていく勇気はないし、風紀委員という役目が鉄の鎖のようにトシミの心を縛っていた。
トシミはバス停で少し立っていたが、雨は止みそうもなく、寒くなってきた。体を温めるためにも、歩いて帰ろうと決心した。家まで、徒歩で四十分ほどだ。次のバスに乗っても歩いても、帰宅時間には大差はなかった。それに雨の日、徒歩で帰ることは多かったから、たいして苦にはならなかった。
トシミは峠へと続く坂道を登りだした。山の斜面から流れてくる水が、アスファルトの道路を透明な幕のように覆い、下方に流れていく。まばらに建っていた道路脇の民家の影も途切れると、道はすっぽりと新緑の木立に包まれた。木の葉を叩く、ぽつぽつという雨音が周囲に湧きあがる。水|飛沫《しぶき》を蹴散《けち》らして、車やトラックが時折やってくるが、通りすぎると、また元の山の静けさが押し寄せてくる。
トシミは肩に傘の柄を乗せて、背筋を伸ばした。大きく膨らんだふたつの乳房が目立つのが恥ずかしくて、いつも猫背になっている。おかげで年寄りになってしまった気分に陥ったりもする。トシミが、人通りのほとんどない峠を一人で帰ることが苦にならないのは、こうして誰の目を意識することなく胸をはって歩けるからもあった。
二つの山型に張り出した自分の乳房を眺めながら、トシミは森田アツコのことを考えた。コンサートを聴きに名古屋に行くとは、なんと勇気があるのだろう。一人で行ったのだろうか。高校生とつきあっているという噂もあったから、誰かと一緒だったかもしれない。できれば、トシミもそんなことをしてみたかった。家を出て、P.P.S.のコンサートに行く。髪の毛を茶色に染めて、ピアスをつけてみる。口紅を塗って、喫茶店でコーヒーを飲んでみる。煙草だって吸ってみたかった。
それはトシミの心の底に、そっとしまっている願望だ。両親も、同級生の誰も、トシミがそんな気持ちを抱いているとは知らない。
トシミは、小学校の時から「いい子」だった。勉強もよくできたし、先生のいいつけもよく守った。中学校に入る時には、すっかり優等生としてのトシミ像が、家の中でも、同級生の間にもできあがっていた。今さら、その優等生像を壊すことはできなかった。
「枯れ笹ジュニア、か」
トシミはため息をついた。
道ばたの岩に、一匹のかたつむりがへばりついていた。二本の触覚を突きだして、エメラルド色の苔《こけ》の生えた濡《ぬ》れた岩の上で、のったりと動いていた。トシミは立ち止まって、近くに落ちていた木の葉の先で、かたつむりの頭に触れてみた。かたつむりは慌てて殼の中に引きこもり、動かなくなった。トシミはかたつむりの殼を指で突いた。かたつむりは、あっけなく岩から離れて、岩の上を転がって、草の中に落ちていった。
あたしは、このかたつむりみたいなものだ。傘の柄を肩に掛けて、再び歩きだしながら、トシミは思った。「優等生」という、硬い殼をかぶった、かたつむり。その中にあるのは、やりたいこともできないで、うじうじしているトシミ。
トシミは傘の柄をくるくると回した。傘が風車のように廻り、水飛沫が円を描いて飛びちった。
トシミは、自分が優等生でも、風紀委員長らしくもないことを知っていた。高校生の兄が読んでいる厭らしい漫画を、時々、こっそり開いてみることもある。中では、裸の男が女を倒して、蟹《かに》のように這《は》いつくばっていたり、大きく太腿を開いた女の姿が描かれていたり、やけに太いおちんちんを天に向けた男の裸体があったりした。おちんちんを、女の中に入れるのが性交だとわかっていたが、漫画の絵はいつも女の太腿の間の部分が切れていたり、影になっていたりして、何がどうなっているのか、ちっともわからなかった。
トシミはしばしば蒲団《ふとん》の中で、パンツの中に指を入れて、股の間にある小さな突起を撫《な》でてみる。そして突起が硬くなってくるのを感じながら、漫画の中の光景を思い浮かべるのだ。おちんちんが、どのように女の中に入っていくのかはわからなかったが、漫画の絵を見る限り、それはとても気持ちのいいことらしかった。
漫画の絵を思い出しながら、突起を撫でていると、腰の中に別の生き物が棲《す》みついたように、そこから、もぞもぞした感覚が生まれてくる。その感覚があまりに強くなると、腰の部分だけが体から離れて勝手に動きだして、そこらじゅう吼《ほ》え、走りまわりだすのではないかと思うほどだ。やがて突起がこりこりと硬くなって、全身が突っ張り、それからどっと力が抜けると、トシミは自分の指を出して、鼻先にあててみる。それは、しっとりと濡れて、微《かす》かにヨーグルトの匂いがした。
匂いを嗅《か》いでから、急にいけないことをした気分になって、慌てて指をパジャマになすりつけ、目を閉じて眠りに入るのだ。しかし、数日もすると、またそれをしてみないではいられない。
自分こそ不良だ。トシミはそう思っている。だからトシミは、厳しく不良を取り締まる。取り締まっているのは、トシミ自身の中の不良でもあった。
峠にさしかかる頃には、雨足は強くなっていた。遠くの山は濃い霧に霞《かす》み、激しい雨が景色を白に変えた。丸い傘の周囲には、雨滴が分厚い幕のように降りている。トシミは急ぎ足になった。路上を流れる水は川のようだ。長靴の中にまで雨が入ってきて、制服のブレザーも通学鞄もずぶぬれになっていた。
峠道を走る車はほとんどなくなり、あたりは暗くなってきた。トシミは心細くなった。
やっぱりバスで帰るのだった。学校の玄関ででも、雨宿りして待っていたほうが利口だった。
そんなことを思っていると、背後で、ばしゃばしゃ、という水飛沫の音がした。振り返ると、小さなオレンジ色のライトをつけた車が近づいてくる。トシミは路傍に寄った。
白の小型トラックだった。車体全体で雨粒を弾《はじ》きながら、ゆっくりと近づいてくる。ワイパーの向こうに人影が見えたが、顔はわからない。車が通りすぎた時、荷台に縄で括《くく》りつけた植木と『田所造園』という、車の横に記された文字が見えた。
村には造園農家が何軒もある。きっとその農家のどれかの車だろう。とすれば村に戻るのだ。あれに乗せてもらえたらな。遠ざかるトラックを眺めながら、トシミの頭にそんな考えが浮かんだ時、まるで願いが聞こえたかのように、トラックが止まった。トラックがバックしてきて、助手席の窓が開き、頭に手拭《てぬぐ》いを巻いた若い男が顔を出した。
「乗っていくかい」
望んだこととはいえ、トシミは迷った。知らない人の車に乗せてもらってはいけないといわれている。しかし、雨はあまりに激しく、道はまだ半ばだった。それに、造園農家のトラックだという気持ちが、トシミに決心させた。
「はい」と、トシミが答えると、男は助手席のドアを開いた。トシミは傘をたたんで、中に入った。傘の先から滴が小便のように垂れ、トラックの床に水たまりを作った。
「ひと泳ぎしてきたみたいだな」
男は目を糸のように細めて、トシミに微笑んだ。二十代半ばくらいだろうか。浅黒く陽に焼けていて、頬はひげ剃《そ》り後でざらざらしている。
トシミの全身は、ぐっしょりと濡れそぼっていた。慌ててブレザーを脱いで、ポケットに入れていたハンカチを出したが、それもまた水浸しの紙のようになっていた。雨水はブレザーを通して、下の白いシャツまで達していた。薄手の綿シャツはぴたりと肌に張りつき、ブラジャーの線を浮きあがらせている。男の前で、裸にでもなったような羞恥《しゆうち》を覚えて、トシミの心臓がどきどきした。学生鞄の中にティッシュペーパーがあったはずだと、床に置いていた鞄にかがみこもうとした時、男が声をかけた。
「待って」
男はエンジンを止めると、運転席の座席の後ろに片手を突っこんでまさぐり、大きめのタオルを引きずりだした。洗ったばかりとはいいがたかったが、汚れてもいなかった。そして、トシミの顔に近づけて、雨滴でてらてらしている頬を拭いた。タオルは微かに日向《ひなた》の匂いがした。男はタオルを頬から顎に優しく押しつけてきた。
お姫さまになった気分だった。見知らぬ男が、召使いのように自分の顔を拭いてくれている。その想像に、トシミはうっとりした。
トシミは座席に頭をもたせかけて、顎《あご》を少し上げた。雨の中を不安に駆られながら急ぎ足で歩いていた時の緊張が突然消え失《う》せ、体の力が抜けていった。車の中は温かで、乾いていた。タオルが、額から目の上に押しあてられる。トシミは目を閉じた。
雨音が続いている。トラックの座席の天井から、フロントガラスから、あらゆる方向から、水の音が響いてくる。
タオルが首にあてられた。トシミはさらに顎を反らせた。男の指が、シャツの首許のボタンを外すのがわかった。襟が広がり、首許が大きく開かれた。タオルが濡れた肌を拭いていく。トシミの乳房の膨らみの上にタオルが押しあてられる。かがんだ男の息が、トシミの首にかかる。太腿の間の突起を揉《も》みはじめる時にも似た、疼《うず》くような興奮が湧きあがった。
トシミは目を閉じつづけていた。目を開いたら、夢のように、これは消えてしまうだろうと思った。
それは蒲団の中で、太腿の奥に指を突っこむ時と同じだった。起きているのでもなく、眠っているのでもない、どこにも属さない時間。トシミが、かたつむりの殻をかぶらないでいられる時間。その時こそ硬い殻を抜けだして、ねっとりしたアメーバのような体だけになれるのだ。
タオルを持つ男の人差し指の先がブラジャーの下に少しだけ押しいってきた。それは、タオルで拭いてくれている動作のひとつのように思えて、トシミは気がつかないふりをした。指は、もう少し奥に入ってきた。指の背が乳房の丸く膨らんだ部分をこすっていく。柔らかなトシミの乳房の皮膚が、男のざらざらした指の皮膚を愛撫する。人差し指はやがてトシミの乳首に達した。つるりとした爪の背が、つんと立った乳首を弾いた。
トシミは、腰が体から離れて動きだし、吼《ほ》えながら、あたりを狂ったように走りまわりだすような、あの、蒲団の中の感覚に襲われて、思わず腰を浮かした。腰を動かしたとたん、太腿の奥から頭の後ろに向かって、花びらが開くような波が広がった。頭全体が痺《しび》れて、トシミは意識が遠ざかっていく気がした。
男のもうひとつの手が、トシミのボタンをさらにひとつ、またひとつと外していく。胸を冷やしていた濡れたシャツが、蜜柑《みかん》の薄皮のように剥かれると、トシミは白いブラジャーを生温かなトラックの中の空気に晒《さら》していた。
タオルが、濡れて冷えた腹にあてられた。
ああ、まだこの人は、お姫さまに仕える召使いのように、拭いてくれているんだ。
トシミはぼんやりと考えた。
男はタオルをトシミの腹や脇に押しあてながら、もう片方の指先で、そうっとトシミの脇腹を撫でた。全身に、また花が開くのにも似た快感の波が広がった。トシミの膝がわずかに開いた。濡れたプリーツ・スカートが、太腿をくっきりと浮かびあがらせた。プリーツはまるで流れる水の彫刻のように、トシミの下半身を覆っている。
男の手がスカートをめくった。不快に太腿に貼りついていた布が取り除かれ、タオルが濡れた太腿を拭きはじめた。男の片方の手は、トシミのブラジャーの上から、乳房を撫でつづけている。足を拭く男の手の指が、トシミの太腿の内側を愛撫する。
トシミは座席に身を埋め、雨の音を聴いていた。雨音は優しくなっていた。どこか遠くから響いてくる波の音にも似ていた。
閉じた瞼の裏に、トシミは白い波のうねりを見ていた。
かたつむりが硬い殻の中で見るのは、こんな波の夢かもしれない。頭の片隅で、トシミは思った。
男の指は、太腿の奥へと人ってきて、パンツの上から、股の間のこんもりした部分を撫でた。そして、人差し指で股の割れ目の突起のある部分を押した。トシミの背中がのけぞり、さらに腰が前に押しだされた。指はゆっくりと突起のある部分をこすり続ける。もう片方の手が、トシミの乳首をつまんでは放す。
トシミの唇から吐息が洩《も》れた。体の中で、さまざまな波が湧いてはぶつかり、飛びちっていく。波は、ざざざざざという雨音となって、車の中に満ちている。トシミの背中がのけぞり、腰がさらに前に突きだされる。そして、雷光が走ったように、全身が突っぱった。
トシミはぐったりと座席に身を沈めていた。男の手が乳房から退いていった。前ボタンがゆっくりとかけられている。タオルは、膝から脹《ふく》ら脛《はぎ》に移っていた。濡れたスカートの裾《すそ》が下ろされた。そしてタオルも男の手も、トシミの体から消えていった。
ブルンブルン、ブルルル。エンジンのかかる音が響いて、トラックが動きだした。
しばらくして、トシミは目を開いた。フロントガラスの向こうに新緑が広がっている。トラックは峠を越えて、トシミの村に続く下り道を走っている。
雨は小降りになっていた。白い靄《もや》を通して、下方に広がる田圃《たんぼ》や民家が現れはじめた。
トシミは、おずおずと運転席の男を見た。男は前をまっすぐに見つめながら、ハンドルを回している。
あれは夢だったかもしれない。トシミは思った。
かたつむりの殻の中で見た夢。
その時、男の脇に置かれたタオルに気がついた。タオルはしっとりと濡れていた。
もちろん、夢ではなかったのだ。トシミは悟り、それと同時に胸がどきどきした。この人が、自分の体に触ったのだ。
「家はどこだい」
男が、トシミのほうを見ないで聞いた。
「郵便局の近くです」
トシミは答えた。それは正しいとはいえなかった。トシミの家は、郵便局からまだ十分ほど歩いたところだった。男は頷《うなず》いて、アクセルを踏んだ。
村に降りるまでの四、五分の間、男は何もいわなかった。トシミはそれがありがたかった。激しい雨の中で起きたことは夢だったと考えているほうが気が楽だった。
村に着いた時には、雨は止んでいた。すでにあたりには夕靄が降りてこようとしている。シャッターの閉まった郵便局の前で、トラックは止まった。トシミは濡れたブレザーと通学鞄と傘を手にして、トラックから降りた。
男は、その時、車を走らせだして以来、はじめて、トシミをまっすぐに見た。そして糸のような目になって微笑んだ。
「またな」
またな。また、とは何だろう。次には、何が訪れるのだろう。
トシミの頭は混乱した。当惑と、そして胸の高鳴りを覚え、自分でも驚いたことに、「うん」と喉《のど》の奥で返事して、頷いていた。
ブルンブルン、ブルルル。男がトラックのエンジンをかけた。そして、トシミに片手を上げると、走り去っていった。
トシミは濡れたブレザーを小脇に抱え、傘と通学鞄を手にして家に戻りはじめた。一日最後の残光が、雨雲の切れ間から射してきていた。濡れた民家の屋根や生け垣が、静かに輝いている。水たまりのできたアスファルトの道を、赤いバスが走ってきた。窓に中学生の顔が並んでいる。トシミは立ち止まり、バスに乗っている中学生たちを、高みから見下ろすような気分で眺めた。そしてバスが行ってしまうと、傘の柄を元気よく振りながら、また歩きだした。
13 私、イタリアヘ行くの
――The static mass of untangled fears inside of Japanese beings creates what they call destiny and it really looks like a Greek tragic mask.
チェックイン・カウンターの横に、スーツケースとボストンバッグを置いた時、どすんという重い音がして、チカはこれで終わりだと思った。日本での暮らしの終止符が、この荷物と共に打たれたのだ。
カウンターの横の重量計は、かっちり四十キロを示している。板橋にある友達のアパートを出る前に何度も量りなおした通り、一グラムだってオーバーしていない。
「窓側のお席にしますか、通路側にいたしますか」
カウンターの女性が聞いた。チカは窓側を指定した。女性はコンピューターを操作して、搭乗券を用意してから、搭乗時間とゲート番号を告げ、パスポートと一緒に戻してきた。
「ビジネスクラスのお客様には、特別待合室をご用意してございますので、どうぞご利用ください」
女性はそういって、待合室の場所を教えると、「お気をつけていってらっしゃいませ」と愛想よく送りだしてくれた。
チカは機内に持ち込むバッグを手にして、航空会社のカウンターの並ぶ一角を出ていった。
成田空港出発階は、これから旅に出る人々の明るい興奮で満ちている。背中に小さなリュックを背負って、飛行機の発着の見える窓辺の椅子に腰を下ろして日程表を眺めている初老夫婦、添乗員の説明を聞いている学生のグループ、楽しげに売店に走っていく娘の二人組。かつてはチカもあんな風に海外旅行を前にして浮き浮きと空港内を走りまわっていたものだ。それはいつも一週間か二週間期限の終わりのある旅だった。しかし、今度は違う。期限なしの、終わりのない旅。チカは胸の高鳴りを覚えながら、出発時刻表示板を見上げた。
ローマ行きアリタリア航空103便。定刻通り、十四時十五分発。搭乗時間まで一時間半あった。ローマの友人に持っていく土産物はすでに買っていたし、リムジンバスの中でサンドイッチを食べていたので、空腹でもなかった。売店やレストランのある階をふらつくのはやめて、チェックイン・カウンターの女性のいっていた特別待合室で本でも読んでいようと思った。
ビジネスクラスに乗るのは初めてだったから、特別待合室がどんなふうになっているのか興味もあった。
出国検査をすませると、チカは搭乗口のある方向に歩きだした。それぞれの出発ゲートに向かう人々の流れに混じって、広々とした通路を進んでいく。この一歩一歩が、イタリアでの新しい生活に通じている。チカは学校に入る新入生のように、胸を張って、背筋を伸ばして、ローヒールの黒靴を鳴らして歩いていった。
初めてのビジネスクラスの旅のために、新調したドレスを着ている。胸から腰にかけての線がくっきりと浮きでる緋色のワンピースだ。白い貝殻の小さなボタンが首から臍《へそ》まで一列に並んでいる。ゆったりしたスカートの裾《すそ》が、チカが脚を踏みだすたびに、赤い波のように揺れる。長い髪の毛をシニョンに結って、腕に黒のバックスキンのバッグを掛けたその格好だったら、ばっちり良家の令嬢に見えるわよ。昨夜、泊めてもらった大学時代の友達は請け合ったものだった。
エコノミークラスに乗る時には、仕事での出張であっても、服装なんて気にも止めなかった。機内での居心地の良さが一番だと考えて、ゆったりしたパンツにトレーナー姿だった。しかし今回は違う。何もかも新たに始める出発の旅だから。
特別待合室の扉は、通路に面して目立たないように潜んでいた。二枚の灰色の扉には丸い磨《す》りガラスが入っている。入口脇には、日本語と英語でエグゼクティブ・ラウンジと書かれた看板が置かれ、ベンジャミンの植木鉢が足許を飾っていた。
これまで何度も成田空港を利用したが、こんな扉があることに気がついたことはなかった。出国検査の出口から、搭乗ゲートまで一直線に進んでいって、途中に何があるか気に止めたこともなかった。いくつもの扉があることはぼんやりと目にしていたが、自分には関係のない場所だと、注意を払うこともなかったのだ。
だからチカにとって、その特別待合室の入口は、突然、通路脇に現れた魔法の扉のようにも思えた。チカはどきどきしながら、その前に立った。
まるで、宝物を隠した洞窟《どうくつ》を見つけた時のアリ・ババだった。興奮の中で、開け、ゴマ、という魔法の呪文《じゆもん》がうまく効くかどうか不安を覚えている。チカも自分の前で扉が本当に開くかどうか訝《いぶか》りながら、一歩、踏みだした。
自動扉がすうっと両側に開き、水色の絨毯《じゆうたん》の敷かれたエントランスが現れた。前には磨りガラスの入った衝立《ついたて》があり、猫脚のテーブルの上に、ピンクの蘭の花が活けられていた。中に入ると、右のほうから「いらっしゃいませ」という声がした。エントランス横のカウンターに、スーツを着た女性が座っていて、赤い唇を三日月形に曲げて微笑んでいる。
「搭乗券を拝見させてください」
チカが搭乗券を見せると、女性は何か書きこんで、どうぞ、ごゆっくりといった。チカは試験に合格したような気分で、衝立の横を通ってラウンジに入っていった。
そこは、ちょっとしたパーティ会場を思わせた。横長の広い空間には、ベージュ色のゆったりした肘掛け椅子や長椅子、小さなテーブルや、電気スタンド、観葉植物が置かれている。片隅にはバーカウンターがあり、コーヒー、紅茶はもとより、ジュースやウイスキー、ブランデーなど酒類も揃っている。人々はコーヒーや酒を啜《すす》りながら談笑したり、黙って窓の外を見ていたりしていた。ラウンジには、上品なざわめきが微《かす》かな波音のように漂っていた。
チカはもの慣れた風情を気取りながら、ラウンジの中を歩きまわった。窓とは反対側に、衝立で仕切られた通路があり、扉が並んでいた。洗面室やシャワー室、電話室、ビジネスルームなどの表示がある。ピジネスルームとは何だろうと、少しドアを開いて覗《のぞ》いてみた。片側にファックス機械の置かれた長いテーブルがあり、その両側に黒い革張りの椅子が二脚ずつあったが、中には誰もいなかった。
さすがに、ビジネスクラスやファーストクラスの乗客のための待合室だと感心しながら、チカはバーカウンターに近づいていった。そして冷蔵庫に冷やされていた缶ビールとグラスを手にして、空いた席を探しはじめた。
旅慣れた風情のビジネスマンが、膝に載せたアタッシュケースをテーブル代わりにして雑誌を読んでいる。太い金のチェーンネックレスをつけたいかにもお金持ち風の婦人、書類ファイルをめくっているビジネスウーマン。黒いバイオリンケースを脇に置いて、楽譜を眺めている音楽家。なんだか別世界に来たみたいだった。この静かなラウンジの壁ひとつ向こうに、旅行客がざわざわと行き来する通路があるとは信じられない。
チカは窓際のこぢんまりした一角に、空いた長椅子を見つけてそこに座った。窓辺のサイドテーブルにグラスを置いて、ビールを注ぐ。グラスを持ちあげて、背中を柔らかなクッションに埋め、ラウンジを見渡した。黄金色のビールの向こうに、安楽椅子に座った人人の影が丸い球のように重なっている。チカは心の中で、さよなら日本、と呟《つぶや》いて、グラスに唇をつけた。
三年勤めた会社を辞めて、イタリアに行くと宣言した時、チカの友達や同僚は大騒ぎした。とうていそんな冒険をするようには見えなかったというのだ。だって、私、しょっちゅうイタリアに行っていたじゃない。チカが言い返すと、そりゃあ、そうだけど……まさか、そこまで入れ込んでるなんて、ねぇ、と頷《うなず》きあったものだ。
チカは外語大でイタリア語を学んだ。学生時代から夏休みを利用して、イタリアに語学留学して勉強し、卒業すると服飾関係の会社に就職した。そして語学の才を生かして、渉外担当となり、年に二度はイタリアと日本とを往復してきた。
仕事で時々海外には行けるし、女性が能力を発揮できる職場だ。いったい、その職を棄てて、何で今更、イタリアに行くのか。友達も同僚もそういって理解に苦しむといった顔をした。
だけど、チカは自分が何を求めているかわかっていた。人生だった。いくら海外とのつきあいで意識が進んでいるといっても、勤めている会社はやはり日本社会だった。上司の顔色を窺《うかが》い、社内ではいっていいことと、いけないことが、きっちり分かれている。それを無視したら、世間を知らないと叱責《しつせき》される。商談相手とくだけた冗談を言い交わし、笑いあい、しかしいざ仕事の話になると辛辣《しんらつ》な意見を交わすイタリア人たちと接しているうちに、チカは、日本の外に飛びだしてみたくなったのだ。
彼女は二十五歳だった。まだ何か新たなことを始められる年齢だ。だから、会社を辞めて、冒険をしてみることにしたのだ。
イタリアで職場が見つかっているわけではないが、仕事で知り合ったイタリア人の友人は何人かいるし、力添えになってあげようといってくれてもいる。チカは、とりあえずはローマ大学に留学することにして、学生ビザを取った。入学許可の通知が来るや、旅行代理店に行って、ビジネスクラスの片道切符を買った。かなりの出費だったが、それは自分自身への出発祝いだった。
チカはグラスに半分残ったビールを脇のテーブルに置くと、バッグの中からファッション雑誌を取りだした。それを膝《ひざ》の上に置いて表紙をめくった時、どこかからイタリア語が流れてきた。
「ああ、京都にも行ったよ、おみやげも買った。ロベルトにもさ」
向かいの安楽椅子に座っている男が携帯電話で話しているところだった。柔らかな栗色の髪、通った鼻筋、優しげな目をした三十代半ばの男だ。革張りの小型トランクと、着替えのスーツの入っているらしい衣装バッグを足許に置いている。濃い緑色のスーツに黄色の細いストライプのネクタイがよく似合っていた。イタリアから来たビジネスマンらしい。チカが前に座ったことに気がついて、声を落とした。
「今度また……一緒に……。ロベルトも大きくなった……もっと……」
それでも男の話すイタリア語の単語がチカの耳にとぎれとぎれに届いてきた。妻に国際電話をかけているのだ。やがて少し大きな声で、「じやあ、これから帰るから、|愛しい人《カーラ・ミア》」と告げて、男は口づけの音を受話器に送りこみ、鉛色の携帯電話を背広の胸ポケットに滑りこませた。それから男は一仕事終わったように吐息をついて、前のテーブルに置いていた英字新聞を取りあげて読みだした。その左手にはまった金の結婚指輪に目を走らせると、チカは腰を前にずらせて、ソファにますます背中を埋めた。そして安楽椅子の肘掛《ひじか》けに左肘を載せて頬杖《ほおづえ》を突き、雑誌を読むふりをして、上目遣いに男を眺めた。
落ち着いた物腰の魅力的な男だった。
チカの勤めていた会社には、ファッション・デザイナーや写真家、広告代理店の社員などが頻繁《ひんぱん》に出入りしていた。目の前の男のように魅力ある男もけっこういた。話してもおもしろいし、仕事もできる男だ。チカはそんな男たちに憧《あこが》れ、恋人になることを夢みた。しかし彼らは結婚しているか、同性愛者かだった。独身の場合はプレイボーイで通っていて、すでに同僚かつきあいのある会社の誰かと関係していて、醜聞にまみれていた。チカは、仕事関係で知り合った独身男性の何人かとつきあったが、話が結婚に繋《つな》がってくると、それほどの気持ちはなくて逃げだした。目の前の男が新聞をめくるのを眺めながら、こんな男が身近にいたならよかったのに、とチカは少し残念に思った。
イタリア人の男が新聞から顔を上げて、テーブルに置いていたコーヒーを手にした。それを啜《すす》った時、ちらりとチカに目を上げた。男を見つめていたチカはどきりとした。男は目許を緩めた。知らない相手と視線が合うと、日本人なら無視して目を逸《そ》らせるが、欧米人は微笑む。常に人との繋がりを遮断する日本社会と、人との繋がりを求める欧米社会の差ではないかと、チカは考えている。
イタリア人の男は頬に皺《しわ》を刻ませるほど大きくて、ゆったりした微笑みをチカに送った。チカも反射的に微笑み返していた。それから男はコーヒーカップをテーブルに戻し、また新聞を読みはじめた。
微笑みを交わしたことで、浮き浮きしたものが湧きあがってきた。チカはその明るく弾ける気持ちを胸の内に温めつつ、雑誌の写真をぱらぱらとめくった。
これからイタリアに行くのだ。愛と情熱の国。きっと何かが待っているはずだ。
チカは雑誌から顔を上げ、頬杖を突いたまま空中に視線をさまよわせた。イタリアに出張した時、気をそそられる男と出会ったことはあった。しかしセックスに至っても、次の出張までお互いの熱が保つことはなかった。だが、実際に暮らすことになると、事情は変わってくる。これからの生活を想像して、チカは体の芯が燃えるような興奮を覚えた。
ふと人の視線を感じた。向かいの男がチカに目を走らせ、また新聞に戻したのを意識の隅に捉えた。
見られている。
そんな思いが頭を貫き、チカの腹のあたりがきゅんとすぼまった。
男の横の席は空いている。その背後に座っているのは、頭の薄くなった男二人だが、チカのほうを振り向く気配はない。チカの座っている長椅子は、植木鉢のカポックの葉に隠されて、通路からの視線は阻《はば》まれている。
グラスに残ったビールを飲むふりをして、そっと観察すると、男の目がまたちらりとチカに注がれ、すぐに逸らされたのがわかった。
チカはグラスを左手に持ったまま、頭を傾けて、息苦しいというように、ドレスの首許の三つ目の白い貝殻のボタンを外した。襟がはらりと両側に開いて、鎖骨の浮きだした肌が覗《のぞ》いたことを意識すると、ぞくぞくした。
あたりには、ざわざわと人の話し声が流れている。のんびりと本を読んだり、お喋《しやべ》りをしたり、うたた寝をしたりしている周囲の乗客たちを眺めながら、チカは何気ない様子を気取って、右手を動かして、左の耳たぶを人差し指と親指で揉《も》んだ。そうして手の甲に顔を隠して、また男を見た。顔を伏せて、英字新聞を読んでいる男の瞼《まぶた》がちりちりと動いていた。チカはゆっくりと右手を下ろしていった。腕がドレスの胸元をかすめ、なんとか立っていた襟がゆらりと崩れた。めくれた襟の奥に、淡いオレンジ色のブラジャーの縁が覗いた。
ラウンジで裸になったような感覚を覚えて、チカはくらりとした。チカは半ば目を閉じて、イタリア人の男のほうをついと見た。
男の茶色の目が、チカの目とぶつかり、火の玉が衝突しあった。男の瞳の中には、チカに対する欲望が燃えていた。
呼吸が乱れ、チカは雑誌に目を落とした。体のあちこちで、小さなドラムや笛やカスタネットの音が同時に鳴っている。その落ち着かない、胸騒ぎの中で、チカは突然、ひとつの光景を見た。
太腿《ふともも》の間で滑らかに光っているパンティの白。どこで見たのだろう、アメリカの映画の一シーンだったかもしれない。女がパンティをちらりと覗かせる場面。
チカの息遣いが浅くなった。とんとんとんと、誰かが背中を指で浅く叩きつづけているようだ。
チカはソファに背中を埋め、わずかに太腿を開いた。頭の中に、鈍く輝くパンティの白が灼《や》きついている。顔を上げなくても、イタリア人の男の視線が自分に注がれているとわかっている。チカはゆっくりと指を自分のドレスの裾へとおろしていった。雑誌の下に左手を伸ばし、緋色《ひいろ》のスカートの裾を少しずりあげた。太腿がエアコンディションの効いた空気に触れて、すうっとした。チカは目の前の男にしか見えないように、雑誌の下で、スカートの裾をますます押しあげていく。太腿の内側が露わになっていく。チカはまた少し太腿を開いた。その奥にある白いパンティが見えるように。
私のパンティを、あの男が見ている。
そんな想いがチカの頭を過ぎったとたん、太腿の奥から腹に、そして胸から首にかけて、ぱあっと痺《しび》れるような波が広がっていった。
チカは、頭をソファにぐったりと預けた。蝉れるほどの波の感覚に呆然《ぼうぜん》としていた時、頭上で、イタリア語が聞こえた。
「|失礼ですが《ミ・スクージ》、|お嬢さん《シニヨリーナ》」
ぼんやりと顔を上げたチカの瞳に、イタリア人の男の姿が映った。茶色の目を細めて、大きな口を横に広げて微笑みつつ、目の前に立っている。
自分がしどけなくソファに仰向けになっていたことに気がついて、チカは慌てて背筋を伸ばすと、スカートの裾を直し、そそくさと白い貝殻のボタンをはめはじめた。首許まで閉めようと、小さなボタン穴と格闘しているチカの前で、イタリア人の男が早口で何かいった。
チカは、ぽかんと男を見上げた。
イタリア人の男は喋りながら、ラウンジを見回しては陽気に手を動かしている。このラウンジのどこかに小さな図書室か何かがある、そこに行ってみようとか、どこにあるのか知らないかとか、そんなことをいっているらしい。図書室とは、本棚のことだろうか。飛行機を待っている乗客のために、そんなものがあってもおかしくはない、などと動転した頭の中で考えていると、男はチカに背を向けて、通路のほうを指さしていった。
「|あっちです《エ・ラ》」
イタリア語が耳に入ったとたん、言葉はチカの中で四方八方に散っていき、体の隅々で、エ・ラララララララ、とこだました。チカは思わずソファから立ちあがっていた。男の曲げた右腕がすっと目の前に伸びてきた。
「|さあ、お嬢さん《エツコ・シニヨリーナ》」
その腕に吸いよせられ、チカは自分の手を載せた。男はチカの手を優しく左手の掌で包みこみ、滑るように歩きだした。
――香港行き日本航空255便、まもなく搭乗のご案内がはじまります。
ラウンジにアナウンスが流れている。人々が荷物を持って動いている。ラウンジに入ってくる人、出ていく人たちが通りすぎる。しかし、チカと男の間はやけに静かだ。二人は穏やかな川に浮かべた小舟のように、するすると人の流れの中を進んでいく。
男は、チカをラウンジの横の衝立《ついたて》の陰に連れていった。衝立の後ろには、絨毯《じゆうたん》の敷かれた通路が延びている。通路の横に、洗面室に通じる狭いエントランスがある。男はその薄暗い空間に、チカを連れていった。アーチ型になった男性用と女性用の洗面室の入口どちらもドアはなく、きれいに磨かれた洗面台と鏡が並んでいるのが見渡せた。どちらの洗面室にも人の気配はなかった。イタリア人の男は、チカを女性用の洗面室に誘った。
洗面室の右手には、トイレのドアが並んでいる。洗面室に入って向かいの突き当たりの壁には、トイレのドアとは少し違う形の扉があった。男はためらうことなく、その扉を開いた。
中は二畳ほどの小部屋になっていた。ピンクの絨毯が敷かれ、片隅に紫陽花色《あじさいいろ》の長椅子、二方はカウンターが巡らされている。天井の小さなスポットライトから、柔らかな茜色《あかねいろ》の光が降りそそいでいる。旅行者の着替え用の小部屋らしかった。
男はチカと小部屋に入ると、後ろ手でドアを閉めた。どこか遠くで、鍵のかかるカチリという小さな音が聞こえた。
イタリア人の男はチカに向きなおると、両手で彼女を強く抱きしめた。そして首筋に唇を押しつけながら、チカの肩から背中、腕や腹をそのがっしりした掌で揉みしだいた。チカは川辺の萱《かや》の葉となった。男の掌、男の腕、男の腹、男の唇は、チカを愛撫する風となった。その熱い風が、チカの頭の隅にこびりついていたさまざまな意識をはらはらと吹きとばしていく。チカの体から力が抜けていった。男の手が、胸許の白い貝殻のボタンにかかった。茶色い産毛に覆われた太い指が、ボタンをひとつずつ外していく。
これだ、これを待っていたのだ、とチカはぼんやりと思った。この貝殻のボタンを外してくれる逞《たくま》しい男の手を。その手は今、臍《へそ》まで達する胸の前のボタンを次々に外していた。いつの間にか腕は袖を抜け、肩から服が滑りおちた。ドレスは開ききったチューリップのように、左右に大きく割られた。緋色の花びらの中に、チカの白い上半身が剥きだしになり、乳房を包む淡いオレンジ色のブラジャーが現れた。そのことに気がついて、チカは喘《あえ》いだ。その喘ぐ口を自分の口で覆い、男はチカを長椅子に横にならせた。男の腕が腋《わき》の下から背中に回される。ブラジャーが体に巻きついていたスカーフのように、するすると胸から離れていく。チカの目の隅で、緋色のドレスの裾が翻る。腰が少し浮いた感じがして、太腿の間に、逞しく暖かなものが滑りこんできた。
男の腰が、チカの腰にぶつかった。下半身が大きく揺すぶられ、チカの体は波に浚《さら》われた。腰から頭のてっぺんまで、さらにその先にまで広がっていく波だ。波はチカを仰向けにひっくり返し、どこか遠くへ遠くへと連れさっていく。頭がぼんやりして、チカは気絶する、と思ったが、その微かな意識もまた、男の作りだす大きな波によってどこかに押しやられ、散り散りとなる。
イタリア人の男は何か呟《つぶや》きながら、チカの体を揉みしだき、その男根を引きぬいては、差しこんでくる。チカは何かにしがみつきたいような、どこかに飛びだしていきたいような、体が弾けとんでしまうような、体が消えていくような気持ちに翻弄《ほんろう》された。
目の前に、明るくきらきら輝く世界が広がっている。生まれて初めての経験だった。あまりのすばらしさに泣きたくなった。
チカは、自分の体がどこにあるのか、もうわからなかった。体の奥底から、力強い怒濤《どとう》が湧きあがってくる。その怒濤はあっという間に、チカを呑《の》みこみ、チカは小さな呻《うめ》き声を洩らして背中をのけぞらせた。
男が低く叫びながら、腰を押しつけてきて、射精したのがわかった。
頬に唇が押しあてられ、小さな口づけの音を聞いた。チカはぼんやりした視線を宙に向けた。濃い緑色の服に包まれた男の背中が、ドアの向こうに消えるところだった。そして、ぱたん、とドアの閉まる音がした。
チカはしばらく長椅子に仰向けになったまま、じっとしていた。それから、ゆっくりと上半身を起こした。
ローヒールの靴は床に脱ぎちらされ、白いパンティとブラジャーがソファの上に置かれている。上半身はすっかり裸のままだ。緋色のドレスが腰のあたりにまとわりついていた。
チカはゆるゆるとブラジャーを胸にあて、ドレスのボタンを填《は》めていった。パンティを穿《は》き、靴に足を突っこんだ。
着替え用の小部屋から出ていくと、洗面台の前で、初老の女性が歯を磨いていた。チカを見ると、歯ブラシを口に入れたまま、軽く会釈した。チカはその女の隣に立って、鏡の中の自分を見た。
シニョンに結っていた髷《まげ》は崩れ、髪の毛は肩にかかっていた。ドレスは少し皺になっているが、そんなに目立つほどではなかった。それに、目立ったとしても、チカは構わないと思った。
洗面室から出ていくと、ラウンジにアナウンスが流れていた。
――アリタリア航空103便、お乗りの方は搭乗口へお急ぎください。
チカはぼんやりとした足取りで、ラウンジの長椅子に戻っていった。向かいの安楽椅子に座っていたイタリア人の男の姿はもうなかった。男の飲んでいたコーヒーカップが、ぽつんとテーブルに残っているだけだった。
カップの縁に垂れた黒い一筋のコーヒーの跡を見ながら、チカはあのイタリア人の男の名前を聞いておかなかったことに気がついた。名前どころか、どこに住んでいるか、どんな仕事をしているのかも知らない。
チカはしばし、その安楽椅子を眺めていたが、やがて溜息をついて、自分の座っていた長椅子を振り返った。
そのとたん、チカの全身がかっと熱くなった。
長椅子の上に、黒いハンドバッグが置きざりにされていたのだ。チカは呆然とした。
バッグのことなど、ころりと頭から消えていたのだ。慌ててバッグを拾いあげて、中を確かめた。幸い、搭乗券も財布もパスポートもすべて揃《そろ》っていた。
チカは胸の動悸を押さえながら、出口へと歩いていった。
「お気をつけていってらっしやいませ」
特別待合室の受付の女性が頭を下げた。チカはバッグを握りしめて、ラウンジの扉に立った。入った時と同様、扉は左右に音もなく開いた。
扉の向こうに、旅行客が忙しげに往来する通路があった。チカはその雑踏を、新しいものを見るように眺めた。海外に向かう日本人、日本から出ていこうとする外国人。さまざまな国籍のさまざまな人々。それぞれの搭乗口から、それぞれの旅に出ていくのだ。
そうだ、私も出ていくのだ。イタリアに行くのだ。
チカは心の中で呟いた。
――アリタリア航空103便、最後のご搭乗案内です。
無感情な女性の声のアナウンスが響いている。
チカは頭を振って、頬にかかったほつれ髪を背中に押しやった。そして旅行客の流れに乗って、イタリアに飛びたっていった。
角川単行本『13のエロチカ』平成12年8月31日初版刊行
平成12年10月5日再版刊行