角川文庫
堕落論
[#地から2字上げ]坂口安吾
目 次
日本文化私観
青春論
堕落論
続堕落論
デカダン文学論
|戯《げ》|作《さく》|者《しゃ》文学論
悪妻論
恋愛論
エゴイズム小論
欲望について
大阪の反逆
教祖の文学
不良少年とキリスト
注 釈
日本文化私観
一 「日本的」ということ
僕は日本の古代文化についてほとんど知識を持っていない。ブルノー・タウ|ト《*》が|絶《ぜっ》|讃《さん》する|桂離宮《かつらりきゅう》も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。いわんや、|秦《はた》蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本における最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生まれ、彼の|蔑《さげす》み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代わりには、|猥《みだ》りに酔い|痴《し》れることのみを知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。
けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない。(しかし、ほかの理由で、貧困だという内省には悩まされているのだが――)
タウトはある日、竹田の愛好家というさる日本の富豪の招待を受けた。客は十名余りであった。主人は女中の手をかりず、自分で倉庫と座敷の間を往復し、|一《いっ》|幅《ぷく》ずつの掛け物を持参して床の間へ|吊《つる》し一同に|披《ひ》|露《ろう》して、また、別の掛け物をとりに行く。名画が一同を楽しませることを自分の喜びとしているのである。終わって、座を変え、茶の湯と、礼儀正しい|食膳《しょくぜん》を供したという。こういう生活が「古代文化の伝統を見失わない」ために、内面的に豊富な生活だと言うに至っては、内面なるものの目安があまり安直でめちゃくちゃな話だけれども、しかし、無論、文化の伝統を見失った僕の方が(そのために)豊富であるはずもない。
いつかコクト|オ《*》が、日本へ来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に|汲々《きゅうきゅう》たるありさまを嘆いたのであった。なるほど、フランスという国は不思議な国である。戦争が始まると、まずまっさきに避難したのは、ルーヴル博物館の陳列品と金塊で、パリの保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼らは伝統の遺産を受け継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、また彼ら自身にほかならぬことを全然知らないようである。
伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって、どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。
講談を読むと、我々の祖先ははなはだ|復讐心《ふくしゅうしん》が強く、|乞《こ》|食《じき》となり、草の根を分けて|仇《あだ》を探し|廻《まわ》っている。そのサムライが終わってからまだ七、八十年しか|経《た》たないのに、これはもう、我我にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそ、あらゆる国民の中で、おそらく最も憎悪心の|尠《すくな》い国民の中の一つである。僕がまた学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人|献《こん》|立《だて》が別で、オートミルのようなものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかりもっぱら観察していたが、猛烈な速力で、一度|匙《さじ》をとりあげると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終わるまで下へ置かず、僕が肉を一きれ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのはもっともだと思った。テーブルスピーチが始まった。コット先生が立ち上がった。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの|追《つい》|悼《とう》演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、ちょうどその日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラ|ム《*》を学生に教え、また、みずから好んで|誦《よ》む。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリわかったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は|呆《あっ》|気《け》にとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は|生涯《しょうがい》忘れることができない。先生は、殺してもなおあきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を|睨《にら》んだのだ。
このような眼は日本人にはないのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人にはないのである。「三国志」における憎悪、「チャタレイ夫人の恋人」における憎悪、血に飢え、八ツ裂きにしてもなおあき足りぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ|仇《あだ》|討《う》ちにふさわしくない自分たちであることを、おそらく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかいくせいぜい「食いつきそうな」眼つきぐらいが限界なのである。
伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような|欺《ぎ》|瞞《まん》が隠されている。およそ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行なわれていたことが、昔行なわれていたために、日本本来のものだということは成り立たない。外国において行なわれ、日本には行なわれていなかった習慣が実は日本人にふさわしいこともあり得るのだ。|模《も》|倣《ほう》ではなく、発見だ。ゲーテがシエクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術においてすら、模倣から発見への過程は最もしばしば行なわれる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。
キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。そうして、限られた手法以外に、新たな発明を暗示する別の手法が与えられなかっただけである。日本人の貧弱な|体《たい》|躯《く》が特にキモノを生みだしたのではない。日本人にはキモノのみが美しいわけでもない。外国の|恰《かっ》|幅《ぷく》のよい男たちの和服姿が、我々よりも立派に見えるにきまっている。
小学生のころ、万代橋という|信濃《し な の》|川《がわ》の河口にかかっている木橋がとりこわされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするというので、長い期間、悲しい思いをしたことがあった。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであったのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のような思い出だ。このような悲しみ方は、成人するにつれ、また、その物との交渉が成人につれて深まりながら、かえって薄れる一方であった。そうして、今では、木橋が鉄橋に代わり、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、きわめて当然だと考える。しかし、このような変化は、僕のみではないだろう。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々にたいせつなのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びないかぎり、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
タウトが東京で講演の時、聴衆の八、九割は学生で、あとの一、二割が建築家であったそうだ。東京のあらゆる建築専門家に案内状を発送して、なおそのような結果であった。ヨーロッパでは決してこのようなことはあり得ないそうだ。常に八、九割が建築家で、一、二割が都市の文化に関心を持つ市長とか町長という名誉職の人々であり学生などの割りこむ余地はないはずだ、と言うのである。
僕は建築界のことについては不案内だが、例を文学にとって考えても、たとえばアンドレ・ジッドの講演が東京で行なわれたにしても、小説家の九割ぐらいは聴きに行きはしないだろう。そうして、やはり、聴衆の八、九割は学生で、おまけに学生の三割ぐらいは、女学生かもしれないのだ。僕が仏教科の生徒のころ、フランスだのイギリスの仏教学者の講演会に行ってみると、|坊《ぼう》|主《ず》だらけの日本のくせに、聴衆の全部が学生だった。もっとも坊主の卵なのだろう。
日本の文化人の怠慢なのかもしれないが、西洋の文化人が「社交的」に勤勉なせいでもあるのだろう。社交的に勤勉なのは必ずしも勤勉ではなく、社交的に怠慢なのは必ずしも怠慢ではない。勤勉、怠慢はとにかくとして、日本の文化人はまったく困った|代《しろ》|物《もの》だ。桂離宮も見たことがなく、竹田も玉泉も鉄斎も知らず、茶の湯も知らない。小堀遠州などといえば、建築家だか、造庭家だか、大名だか、茶人だか、もしかすると忍術使いの家元じゃなかったかね、などと言う|奴《やつ》がある。故郷の古い建築を|叩《たた》き|毀《こわ》して、でき|損《そこな》いの洋式バラックをたてて、得々としている。そのくせ、タウトの講演も、アンドレ・ジッドの講演も聴きに行きはしないのである。そうしてネオン・サインの|蔭《かげ》を酔っ払ってよろめきまわり、電髪嬢を|肴《さかな》にしてインチキ・ウイスキーを|呷《あお》っている。|呆《あき》れ果てた奴らである。
日本本来の伝統に認識も持たないばかりか、その欧米の|猿《さる》|真《ま》|似《ね》に至っては|体《たい》をなさず、美の|片《へん》|鱗《りん》をとどめず、全然インチキそのものである。ゲーリー・クーパーは満員客止めの盛況だが、梅若万三郎は数えるほどしか客が来ない。かかる文化人というものは、貧困そのものではないか。
しかしながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ|距《へだた》りがあった。すなわち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失うはずはない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。|彎曲《わんきょく》した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて安物の|椅《い》|子《す》テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て|滑《こっ》|稽《けい》|千《せん》|万《ばん》であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりがないのである。彼らが我々を|憐《あわ》れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、|根《こん》|柢《てい》的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづくかぎりは、彼らの|憫笑《びんしょう》がはなはだ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々はそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧なはずはないのではないか。
僕は先刻白状に及んだとおり、桂離宮も見たことがなく、雪舟も雪村も竹田も大雅堂も玉泉も鉄斎も知らず、狩野派も運慶も知らない。けれども、僕自身の「日本文化私観」を語ってみようと思うのだ。祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかもしれないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ。
二 俗悪について(人間は人間を)
昭和十二年の初冬から翌年の初夏まで、僕は京都に住んでいた。京都へ行ってどうしようという目当てもなく、書きかけの長篇小説と千枚の原稿用紙のほかにはタオルや歯ブラシすら持たないといういでたちで、とにかく|隠《お》|岐《き》和一を訪ね、部屋でも探してもらって、孤独の中で小説を書きあげるつもりであった。まったく、思いだしてみると、孤独ということがただ一筋に、なつかしかったようである。
隠岐は僕に京都で何が見たいかということと、食物では何が好きかということを、最もさりげない世間話の中へ織り込んで尋ねた。僕は東京でザックバランにつきあっていた友情だけしか期待していなかったのに、京都の隠岐は東京の隠岐ではなく、客人をもてなすために最も細心な注意を払う古都のぼんぼんに変わっていた。僕は|祇《ぎ》|園《おん》の|舞《まい》|妓《こ》と|猪《いのしし》だとウッカリ答えてしまったのだが――まったくウッカリ答えたのである。なぜなら、出発の晩、京都行きの送別の意味で尾崎士郎に案内され始めて猪を食ったばかりで、もののハズミでウッカリ言ってしまったけれども、第一、猪の肉というものが手軽に入手できようなどとは考えていないせいでもあった。ところが、その翌日から毎晩毎晩猪に攻められ、おまけに猪の味覚が全然僕の|嗜《し》|好《こう》に当てはまるものではないことが、三日めくらいに決定的にわかったのである。けれども、我慢して食べなければならなかった。そうして、一方舞妓の方は、京都へ着いたその当夜、さっそく|花《はな》|見《み》|小《こう》|路《じ》のお茶屋に案内されて行ったのだが、そのころ、祇園に三十六人だか七人だかの舞妓がいるということだったが、酔眼|朦《もう》|朧《ろう》たる眼前へ二十人ぐらいの舞妓たちが次から次へと現われた時には、いささか天命と|諦《あきら》めて観念の眼を閉じる気持ちになったほどである。
僕は舞妓の半分以上を見たわけだったが、これぐらい馬鹿らしい存在はめったにない。特別の教養を仕込まれているのかと思っていたら、そんなものは|微《み》|塵《じん》もなく、踊りも中途半端だし、ターキーとオリ|エ《*》の話ぐらいしか知らないのだ。それなら、|愛《あい》|玩《がん》用の無邪気な色気があるのかというとコマッチャクレているばかりで、清潔な色気などは全くなかった。もともと、愛玩用につくりあげられた存在にきまっているが、子供を条件にして子供の美徳がないのである。|羞恥《しゅうち》がなければ、子供はゼロだ。子供にして子供にあらざる以上、大小を兼ねた中間的な色っぽさがあるかというと、それもない。|広《カン》|東《トン》に|盲《もう》|妹《まい》という芸者があるということだが、盲妹というのは、顔立ちの|綺《き》|麗《れい》な女子を小さいうちに盲にして特別の教養、踊りや音楽などを仕込むのだそうである。中国人のやることは、あくどいが、徹底している。どうせ愛玩用として人工的につくりあげるつもりなら、これもよかろう。盲にするとは凝った話だ。ちと、あくどいが、不思議な色気が、考えてみても、感じられる。舞妓ははなはだ人工的な加工品に見えながら、人工の妙味がないのである。娘にして娘の羞恥がない以上、自然の妙味もないのである。
僕たちは五、六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりはるかに綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でペチャクチャしゃべっていたり踊っていたりしたのではいっこうに|見《み》|栄《ば》えのしない舞妓たちが、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。なるほど、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。
同じことは、|相撲《す も う》を見るたびに、いつも感じた。呼び出しにつづいて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、|四《し》|股《こ》をふみ、水をつけ、塩を|悠《ゆう》|々《ゆう》とまきちらして、仕切りにかかる。仕切り直して、ややしばらく|睨《にら》み合い、悠々と塩をつかんでくるのである。土俵の上の力士たちは国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士たちに比べれば、あまりに小さく貧弱である。
これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろうか。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。グランドの広さに比べると、選手を草刈人夫に見立ててもいいぐらい貧弱に見え、プレーをしているのではなく、息せききって追いまくられた感じである。いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、さすがに違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。
別に身体のせいではない。力士といえども大男ばかりではないのだ。また、必ずしも、技術のせいでもないだろう。いわば、伝統の貫禄だ。それあるがために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観衆を圧している。しかしながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。|舞《まい》|妓《こ》のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びるほかに仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。
|伏《ふし》|見《み》に部屋を見つけるまで、隠岐の別宅に三週間ぐらい泊まっていたが、隠岐の別宅は|嵯《さ》|峨《が》にあって、京都の空は晴れていても、|愛宕《あ た ご》|山《やま》が雲をよび、このあたりでは毎日雪がちらつくのだった。隠岐の別宅から三十間ぐらいの所に、不思議な神社があった。|車折《くるまざき》神社というのだが、清原のなにがしというたぶん学者らしい人を|祀《まつ》っているくせに、非常に露骨な金|儲《もう》けの神様なのである。社殿の前に|柵《さく》をめぐらした場所があって、この中に円みを帯びた数万の小石が山をなしている。自分のほしい金額と姓名年月日などを小石に書いて、ここへ納め、願をかけるのだそうである。五万円というものもあるし、三〇円ぐらいの悲しいような石もあって、まれには、月給がいくらボーナスがいくら昇給するようにと詳細に数字を書いた石もあった。節分の夜、燃え残った|神火《ト ド ン》の明かりで、この石を手に|執《と》りあげて一つ一つ読んでいたが、旅先の、それも天下に定まる家もなく、一管のペンに一生を|托《たく》してともすれば崩れがちな自信と戦っている身には、気持ちのいい石ではなかった。牧野信|一《*》は奇妙な人で、神社仏閣の前を素通りすることのできない人であった。必ずうやうやしく拝礼し、ジャランジャランと大きな鈴を鳴らす綱がぶらさがっていれば、それを鳴らし、お|賽《さい》|銭《せん》をあげて、しばらく|瞑《めい》|目《もく》最敬礼する。お寺が何宗であろうと変わりはない。非常なはにかみ屋で、人前で目立つような|些少《さしょう》の行為も最もやりたがらぬ人だったのに、これだけは例外で、どうにも、やむを得ないというふうだった。いつか|息《むす》|子《こ》の英雄君をつれて散歩のついで僕の所へ立ち寄って三人で|池《いけ》|上《がみ》|本《ほん》|門《もん》|寺《じ》へ行くと、英雄君をうながして本堂の前へすすみ、お賽銭をあげさせて親子二人うやうやしく拝礼していたが、得体の知れぬ悲願を血につなごうとしているようで、痛々しかった。
節分の火にてらして読んだあの石この石。もとより、そのような感傷や感動が深いものであるはずはなく、また、激しいものであるはずもない。けれども、今もありありと覚えている。そうして、毎日|竹《たけ》|藪《やぶ》に雪の降る日々、嵯峨や|嵐山《あらしやま》の寺々をめぐり、|清《きよ》|滝《たき》の奥や|小《お》|倉《ぐら》|山《やま》の墓地の奥まで当てもなく踏みめぐったが、|天竜寺《てんりゅうじ》も|大《だい》|覚《かく》|寺《じ》も何か空虚な冷たさをむしろ不快に思ったばかりで、いっこうに記憶に残らぬ。
車折神社の真裏に嵐山劇場という名前だけは確かなものだが、ひどくうらぶれた小屋があった。劇場のまわりは畑で、家がポツポツ点在するばかり。劇場前の暮れ方の街道をカラの牛車に酔っ払った百姓がねむり、牛が勝手に歩いて通る。僕が京都へつき、隠岐の別宅を探して自動車の運転手と二人でキョロキョロ歩いていると、電柱に嵐山劇場のビラがブラ下がり、猫遊軒猫八とあって、|贋《にせ》|物《もの》だったら米五十俵進呈する、とある。贋のはずはない。東京の猫八は「江戸や」猫八だからである。
言うまでもなく、猫遊軒猫八を僕はさっそく見物に行った。おもしろかった。猫遊軒猫八は実に腕力の強そうな人相の悪い大男で、物|真《ま》|似《ね》ばかりでなくいっさいの芸を知らないのである。和服の女が突然キモノを|尻《しり》までまくりあげる踊りなどいろいろとあって、いちばんおしまいに猫八が現われる。現われたところは堂々たるもの、立派な|裃《かみしも》をつけ、テーブルには豪華な幕をかけて、|雲月《うんげつ*》の幕にもひけをとらない。そうして、|喧《けん》|嘩《か》したい|奴《やつ》は遠慮なく来てくれという意味らしい不思議な微笑で見物人を見渡しながら、|汝《なんじ》らよく見物に来てくれた、おもしろかったであろう。また、明晩もいっそうたくさんの知り合いを連れて見においで、という意味のことをしゃべって、終わりとなるのである。何がためにテーブルに堂々たる幕をかけ、裃をつけて現われたのか。真にユニックな芸人であった。
旅芸人の群れは大概一日、長くて三日の興行であった。そうして、それらの旅芸人は猫八のように|喧《けん》|嘩《か》の好きなものばかりではなかった。むしろ猫八が例外だった。僕は変わるたびに見物し、はなはだしきは同じ物を二度三度も見にでかけたが、中には福井県の山中の農夫たちが、冬だけ一座を組織して巡業しているのもあり、漫才もやれば芝居も手品もやり、|揃《そろ》いも揃って言語道断に芸が|下《へ》|手《た》で、|座頭《ざがしら》らしい|唯《ゆい》|一《いつ》の老練な中老人がそれをひどく気にしながら、しかし、心底から一座の人々をいたわる様子が痛々しいような一行もあった。十八ぐらいの|綺《き》|麗《れい》な娘が一人いて、それで客をひく以外には手段がない。昼はこの娘にたった一人の付き添いをつけて人家よりも畑の多い道をねり歩き、漫才に芝居に踊りに、むやみに娘を舞台に上げたが、これが、また、芸が未熟でますますもって痛々しい。僕はその翌日も見物にでかけたが、二日めは十五、六名しか観衆がなく、三日めの興行を切り上げて、次の町へ行ってしまった。その深夜、うどんを食いに劇場の裏を通ったら、木戸が開け放されていて、荷物を|大八車《だいはちぐるま》につんでおり、座頭が路上でメザシを焼いていた。
嵐山の|渡月橋《とうげつきょう》を渡ると、茶店がズラリと立ち並び、春が人の出盛りだけれども、遊覧バスがここで|中食《ちゅうじき》をとることになっているので、とにかく冬も細々と営業している。ある晩隠岐と二人で散歩のついで、ここで酒をのもうと思って、一軒一軒|廻《まわ》ったが、どこも|燈《あかり》がなく、人の気配もない。ようやく、最後に、一軒みつけた。冬の夜、まぎれ込んでくる客なぞは|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》ないのだそうだ。四十ぐらいの温和なおかみさんと十九の女中がいて、火がないからというので、家族の居間で一つ火鉢にあたりながら酒をのんだが、女中が曲馬団の踊り子あがりで、突然、嵐山劇場のことをしゃべりはじめた。嵐山劇場は常に客席の便所に小便が|溢《あふ》れ、|臭気芬々《しゅうきふんぷん》たるものがあるのである。我々は用をたすに先立って、被害の最小の位置を選定するに一苦労しなければならない。小便の海を|渉《わた》り歩いて小便壺まで|辿《たど》りつかねばならぬような時もあった。客席の便所があのようでは、楽屋の汚さが思いやられる。どんなに汚いだろうかしら、と、女中は突然口走ったが、そこには激しい実感があった。無邪気な娘であった。曲馬団でいちばんつらかったのは、冬になると、|醤油《しょうゆ》を飲まなければならなかったことだそうだ。醤油を飲むと身体が暖まるのだという。それで、裸体で舞台へ出るには、必ず醤油を飲まされる。これには降参したそうである。
僕は嵯峨では昼はもっぱら小説を書いた。夜になると、大概、嵐山劇場へ通った。京都の街も、神社仏閣も、名所旧蹟も、いっこうに心をそそらなかった。嵐山劇場の小便くさい観覧席で、百名足らずの寒々とした見物人と、くだらぬ|駄《だ》|洒《じゃ》|落《れ》に|欠伸《あ く び》まじりで笑っているのが、それで充分であったのである。
そういう僕に隠岐がいささか手を焼いて、ひとつ、おどかしてやろうという気持ちになったらしい。無理に僕をひっぱりだして(その日も雪が降っていた)汽車に乗り、|保《ほ》|津《づ》|川《がわ》をさかのぼり、|丹《たん》|波《ば》の|亀《かめ》|岡《おか》という所へ行った。昔の|亀《かめ》|山《やま》のことで、|明《あけ》|智《ち》|光《みつ》|秀《ひで》の居城のあった所である。その城跡に、|大本教《おおもときょう》の豪壮な本部があったのだ。不敬罪に問われ、ダイナマイトで爆破された直後であった。僕たちは、それを見物にでかけたのである。
城跡は丘に|壕《ほり》をめぐらし、上から下まで、|空《から》|壕《ぼり》の中も、一面に、爆破した|瓦《かわら》が|累《るい》|々《るい》と崩れ重なっている|茫《ぼう》|々《ぼう》たる|廃《はい》|墟《きょ》で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあったが、ただこのために丹波路はるばる(でもないが)汽車に揺られて来たのだから、|豈《あに》目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて、|王仁三郎《わにさぶろう*》の夢の跡へ踏みこんだ。頂上に立つと、亀岡の町と、丹波の山々にかこまれた小さな平野が一望に見える。雪が激しくなり廃墟の瓦につもりはじめていた。|目《め》|星《ぼ》しいものは爆破の前に没収されて影をとどめず、ただ、頂上の瓦にはなるほど金線の模様のはいった瓦があったり、|酒《さか》|樽《だる》ぐらいの石像の首が石段の上にころがっていたり、王仁三郎に奉仕した三十何人かの|妾《めかけ》たちがいたと思われる中腹のおびただしい小部屋のあたりに、中庭の若干の風景が残り、そこにも、いくつかの石像が|潰《つぶ》れていた。とにかく、こくめいの上にもこくめいに|叩《たた》き潰されている。
再び鉄条網を乗り越えて、壕に沿うて街道を歩き、街のとば口の茶屋へ|這《は》|入《い》って、保津川という清流の名にふさわしからぬ地酒をのんだが、そこへ一人の|馬《うま》|方《かた》が現われ、馬をつないで、これもまた保津川をのみはじめた。馬方は仕事帰りに諸方で|紙《かみ》|屑《くず》を買って帰る途中で紙屑の|儲《もう》けなど酒一本にも当たらんわい、やくたいもないこっちゃ、などとボヤきながら、何本となく平げている。何か僕たちに話しかけたいというふうでいて、それがはなはだ|怖《おそ》ろしくもあるという様子である。そのうちに|酩《めい》|酊《てい》に及んで、話しかけてきたのであったが、|旦《だん》|那《な》方は東京から御出張どすか、と言う。いかにも、そうだ、と答えると、感に堪えて、五、六ぺんぐらいお辞儀しながら|唸《うな》っている。話すうちにわかったのだが、僕たちを特に密命を帯びて出張した刑事だと思ったのである。隠岐は|筒《つつ》|袖《そで》の|外《がい》|套《とう》に鳥打帽子、商家の|放《ほう》|蕩《とう》若旦那といういでたちであるし、僕はドテラの着流しにステッキをふりまわし、雪が降るのに外套も着ていない。異様な二人づれが禁制の地域から鉄条網を乗り越えて|悠《ゆう》|々《ゆう》現われるのを見たものだから、|怖《こわ》い物見たさで、跡をつけて来たのであった。こう言われてみると、なるほど、見張の人まで、僕たちに遠慮していた。僕たちは一時間ぐらい|廃《はい》|墟《きょ》をうろついていたが、見張の人は番所の前を掃いたりしながら、僕たちがそっちを向くと、|慌《あわ》てて振り向いて、見ないふりをしていたのである。僕たちは刑事になりすまして、大本教の潜伏信者の様子などを|訊《たず》ねてみたが、馬方は|泥《でい》|酔《すい》しながらもにわかに顔色|蒼《そう》|然《ぜん》となり、たちまち言葉も|吃《ども》りはじめて、多少は知らないこともないけれども、悪事を働いた覚えのない自分だから、それを|訊《き》くのだけはなにぶんにも勘弁していただきたい、と取調室にいるように三拝九拝していた。
宇治の|黄《おう》|檗《ばく》|山《ざん》|万《まん》|福《ぷく》|寺《じ》は隠元の創建にかかる寺だが、隠元によれば、寺院建築の|要《よう》|諦《てい》は荘厳ということで、信者の俗心を高めるところの形式をととのえていなければならぬと言っていたそうである。また、人は飲食を共にすることによって交わりが深くなるものだから、食事がたいせつであるとも言ったそうだ。なるほど、万福寺の|斎《さい》|堂《どう》(食堂)は堂々たるものであり、その|普《ふ》|茶《ちゃ》料理は天下に名高いものである。もっとも、食事と交際を結びつけてたいせつにするのは中国一般の風習だそうで、隠元に限られた思想ではないかもしれぬ。
建築の工学的なことについては、全然僕は知らないけれども、すくなくとも、寺院建築の特質は、まず、第一に、寺院は住宅ではないという事である。ここには、世俗の生活を暗示するものがないばかりか、つとめてその反対の生活、非世俗的な思想を表現することに注意が集中されている。それゆえ、また、世俗生活をそのまま宗教としても肯定する|真宗《しんしゅう》の寺域がたちまち俗臭紛々とするのも当然である。
しかしながら、真宗の寺(京都の両本願寺)は、古来孤独な思想を暗示してきた寺院建築の様式をそのままかりて、世俗生活を肯定する自家の思想に応用しようとしているから、落き着きがなく、俗悪である。俗悪なるべきものが俗悪であるのはいっこうにさしつかえがないのだが、要は、ユニックな俗悪ぶりが必要だということである。
京都という所は、寺だらけ、名所|旧蹟《きゅうせき》だらけで、二、三町歩くごとに大きな寺域や神域に突き当たる。一週間ぐらい滞在のつもりなら、目的をきめて歩くよりも、ただでたらめに足の向く所へ歩くのがいい。次から次へ|由《ゆい》|緒《しょ》ありげなものが現われ、いくらか心を|惹《ひ》かれたら、名前をきいたり、丁寧に見たりすればいい。狭い街だから、|隅《すみ》から隅まで歩いても、大したことはない。僕は、そういうふうにして、時々、歩いた。|深《ふか》|草《くさ》から|醍《だい》|醐《ご》、|小《お》|野《の》の里、|山《やま》|科《しな》へ通う峠の路も歩いたし、市街ときては、どこを歩いても迷う心配のない街だから、伏見から歩きはじめて、夕方、|北《きた》|野《の》の|天《てん》|神《じん》|様《さま》にぶつかって|慌《あわ》てたことがあった。だが、僕が街へ出る時は、歓楽をもとめるためか、孤独をもとめるためか、どちらかだ。そうして、そのような散歩に寺域はたしかに適当だが、繁華な街で車をウロウロ避けるよりも落き着きがあるという程度であった。
なるほど、寺院は、建築自体として孤独なものを暗示しようとしている。炊事の|匂《にお》いだとか女房子供というものを|聯《れん》|想《そう》させず、日常の心、俗な心とつながりを断とうとする意志がある。しかしながら、そういう観念を、建築の上においてどれほど具象化につとめてみても、観念自体に及ばざることはるかに遠い。
日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり、絵におけるカンバスの限定と同じようなものである。
けれども、|茫《ぼう》|洋《よう》たる大海の孤独さや、|沙《さ》|漠《ばく》の孤独さ、大森林や平原の孤独さについて考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。
|竜安寺《りょうあんじ》の石庭が何を表現しようとしているか。いかなる観念を結びつけようとしているか。タウトは|修《しゅ》|学《がく》|院《いん》|離宮《りきゅう》の書院の黒白の壁紙を|絶《ぜっ》|讃《さん》し、滝の音の表現だと言っているが、こういう苦しい説明までして観賞のツジツマを合わせなければならないというのは、なさけない。けだし、林泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである。仏とは何ぞや、という。答えて、|糞《くそ》カキベラだという。庭に一つの石を置いて、これは糞カキベラでもあるが、また、仏でもある、という。これは仏かもしれないというふうに見てくれればいいけれども、糞カキベラは糞カキベラだと見られたら、おしまいである。実際において、糞カキベラは糞カキベラでしかないという当たり前さには、禅的な約束以上の説得力があるからである。
竜安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていても構わない、石の配置がいかなる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が|涯《はて》ない海の無限なる郷愁や沙漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない。
|芭蕉《ばしょう》は庭をでて、大自然のなかに自家の庭を見、また、つくった。彼の人生が旅を愛したばかりでなく、彼の俳句自体が、庭的なものを出て、大自然に庭をつくった、と言うことができる。その庭には、ただ一本の|椎《しい》の木しかなかったり、ただ夏草のみがもえていたり、岩と、|浸《し》み入る|蝉《せみ》の声しかなかったりする。この庭には、意味をもたせた石だの曲がりくねった松の木などなく、それ自体が直接な風景であるし、同時に、直接な観念なのである。そうして、竜安寺の石庭よりは、よっぽど美しいのだ。と言って、一本の椎の木や、夏草だけで、現実的に、同じ庭をつくることは全くできない相談である。
だから、庭や建築に「永遠なるもの」を作ることはできない相談だという|諦《あきら》めが、昔から、日本には、あった、建築は、やがて火事に焼けるから「永遠ではない」という意味ではない。建築は火に焼けるし人はやがて死ぬから人生水の|泡《あわ》のごときものだというのは「方丈記」の思想で、タウトは「方丈記」を愛したが、実際、タウトという人の思想はその程度のものでしかなかった。しかしながら、芭蕉の庭を現実的には作り得ないという諦め、人工の限度に対する絶望から、家だの庭だの調度だのというものには全然顧慮しないという生活態度は、特に日本の実質的な精神生活者には愛用されたのである。大雅堂は画室を持たなかったし、良寛には寺すらも必要ではなかった。とはいえ、彼らは貧困に甘んじることをもって生活の本領としたのではない。むしろ、彼らは、その精神において、あまりにも欲が深すぎ、|豪《ごう》|奢《しゃ》でありすぎ、貴族的でありすぎたのだ。すなわち、画室や寺が彼らに無意味なのではなく、その絶対のものがあり得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに|如《し》かざるの清潔を選んだのだ。
茶室は簡素をもって本領とする。しかしながら、無きに如かざる精神の所産ではないのである。無きに如かざるの精神にとっては、特に払われたいっさいの注意が、不潔であり|饒舌《じょうぜつ》である。床の間がいかに自然の素朴さを装うにしても、そのために支払われた注意が、すでに無きに如かざるの物である。
無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、|詮《せん》ずれば同じ穴の|貉《むじな》なのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純、高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない。どちらも共に饒舌であり、「精神の貴族」の永遠の観賞には堪えられぬ|普《ふ》|請《しん》なのである。
しかしながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というのものは存在することができない。存在しない芸術などがあるはずはないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽くした|豪《ごう》|奢《しゃ》、俗悪なるものの極点において開花を見ようとすることもまた自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとしてなお俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である|闊《かっ》|達《たつ》自在さがむしろ取り柄だ。
この精神を、僕は、秀吉において見る。いったい、秀吉という人は、芸術について、どの程度の理解や、観賞力があったのだろう? そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差し出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、おのおのの個性を生かしたはずなのに、彼の命じた芸術には、実に一貫した性格があるのである。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にあるかぎりは清濁合わせた|呑《の》むの概がある。城を築けば、途方もない大きな石を持ってくる。三十三間堂の|塀《へい》ときては塀の中の巨人であるし、|智《ちじ》|積《やく》|院《いん》の|屏風《びょうぶ》ときては、あの前にすわった秀吉が花の中の小猿のように見えたであろう。芸術も|糞《くそ》もないようである。一つの最も俗悪なる意志による企業なのだ。けれども、否定することのできない落ち着きがある。安定感があるのである。
いわば、事実において、彼の精神は「天下者」であったと言うことができる。家康も天下を握ったが、彼の精神は天下者ではない。そうして、天下を握った将軍たちは多いけれども天下者の精神を持った人は、秀吉のみであった。金閣寺も銀閣寺も、およそ天下者の精神からは縁の遠い所産である。いわば、金持ちの風流人の道楽であった。
秀吉においては、風流も、道楽もない。彼のなす|一《いっ》|切《さい》|合《がっ》|財《さい》のものがすべて天下一でなければ納まらない狂的な意欲の表われがあるのみ。ためらいの跡がなく、一歩でも、控えてみたという形跡がない。天下の美女をみんなほしがり、くれない時には|千利休《せんのりきゅう》も殺してしまう始末である。あらゆる|駄《だ》|々《だ》をこねることができた。そうして、実際、あらゆる駄々をこねた。そうして、駄々っ子のもつ|不《ふ》|逞《てい》な安定感というものが、天下者のスケールにおいて、彼の残した多くのものに一貫して開花している。ただ、天下者のスケールが、日本的に小さいという|憾《うら》みはある。そうして、あらゆる駄々をこねることができたけれども、しかもすべてを意のままにすることはできなかったという天下者のニヒリズムをうかがうこともできるのである。だいたいにおいて、極点の華麗さには妙な悲しみがつきまとうものだが、秀吉の足跡にもそのようなものがあり、しかも|端《たん》|倪《げい》すべからざるところがある。三十三間堂の|太《たい》|閤《こう》|塀《べい》というものは、今きわめて小部分しか残存していないが、三十三間堂とのシムメトリイなどというものはほとんど念頭にない作品だ。シムメトリイがあるとすれば、いたずらに巨大さと落ち着きを争っているようなもので、元来塀というものはその内側に建築あって始めて成り立つはずであろうが、この塀ばかりは独立自存、三十三間堂が眼中にないのだ。そうして、その独立自存の|逞《たくま》しさと落ち着きとは、三十三間堂の上にあるものである。そうして、その巨大さを不自然に見せないところの独自の曲線には、三十三間堂以上の美しさがある。
僕が亀岡へ行った時、|王《わ》|仁《に》|三《さぶ》|郎《ろう》は現代において秀吉的な駄々っ子精神を、非常に突飛な形式ではあるけれども、とにかく具体化した人ではなかろうかと想像し、夢の跡に多少の期待を持ったのだったが、これはスケールが言語道断に卑小にすぎて、ただ、直接に、俗悪そのものでしかなかった。全然、貧弱、貧困であった。言うまでもなく、豪華きわまって浸みでる哀愁のごときは、|微《み》|塵《じん》といえどもなかったのである。
|酒《さか》|樽《だる》ありせば、帝王も我に於て何かあらんや、と、詠じ、|靴《くつ》となってあの娘の足に踏まれたい、と、歌う。万葉の詩人にも、アナクレオ|ン《*》のともがらにも、中国にも、ペルシャにも、文化のある所、必ず、かかる詩人と、かかる思想があったのである。しかしながら、かかる思想は退屈だ。帝王何かあらんや、どころではなく、生来帝王の天質がなく、帝王になったところで、何一つ立派なことのできる|奴《ど》|輩《はい》ではないのである。
俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままのおのおのの悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術もまたそうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。
京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今もなお、車折神社の石の冷たさは僕の手に残り、伏見|稲荷《い な り》の俗悪きわまる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることができない。見るからに醜悪で、てんで美しくないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに|如《し》かざる」ものではなく、そのあり方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。そうして、竜安寺の石庭で休息したいとは思わないが、嵐山劇場のインチキ・レビューを眺めながら物思いに|耽《ふけ》りたいとは時に思う。人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、あるはずがない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。
僕は「|檜《ひ》|垣《がき》|」《*》を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは思わない。もう我我には直接連絡しないような表現や|唄《うた》い方を、退屈しながら、せめて一粒の砂金を待って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕がつくれば、それでいい。天才|世《ぜ》|阿《あ》|弥《み》は永遠に新ただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新たかどうか疑わしい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、生まれ変わるのが当然だ。
三 家について
僕はもう、この十年来、たいがい一人で住んでいる。東京のあの街や、この街にも一人で住み、京都でも、茨城県の|取《とり》|手《で》という小さな町でも、小田原でも、一人で住んでいた。ところが、家というものは(部屋でもいいが)たった一人で住んでいても、いつも悔いがつきまとう。
しばらく家をあけ、外で酒を飲んだり女に戯れたり、時には、ただ何もない旅先から帰って来たりする。すると、必ず、悔いがある。|叱《しか》る母もいないし、怒る女房も子供もない。隣の人に|挨《あい》|拶《さつ》することすら、いらない生活なのである。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない。
帰る途中、友達の所へ寄る。そこでは、いっこうに、悲しさや、うしろめたさが、ないのである。そうして、平々凡々と四、五人の友達の所をわたり歩き、家へ戻る。すると、やっぱり、悲しさ、うしろめたさが生まれてくる。
「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も、子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、|退却《たいきゃく》したことがなかった。けれども、彼ほどの大天才でも、家を逃げることができないはずだ。そうして、家がある以上は必ず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃げることができないはずだ、と僕は考えているのである。だが、あの天才は、僕とは別の鋼鉄だろうか。いや、別の鋼鉄だからなおさら……と、僕は考えているのだ。そうして、孤独の部屋で|蒼《あお》ざめた鋼鉄人の物思いについて考える。
叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で|誰《だれ》に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。「自由を我等に」という活動写真がある。機械文明への|諷《ふう》|刺《し》であるらしい。毎日毎日日曜日で、社長も職工もなく、毎日釣りだの酒でも飲んで遊んで暮らしていられたら、自由で楽しいだろうというのである。しかし、自由というものは、そんなに簡単なものじゃない。誰に気がねがいらなくとも、人は自由ではあり得ない。第一、毎日毎日、遊ぶことしかなければ、遊びに特殊性がなくなって、楽しくもなんともない。苦があって楽があるのだが、楽ばかりになってしまえば、世界じゅうがただ水だけになったことと同じことで、楽の楽たるゆえんがないだろう。人は必ず死ぬ。死があるために、喜怒哀楽もあるのだろうが、いつまでたっても死なないときまったら、退屈千万な話である。生きていることに、特別の意義がないからである。
「自由を我等に」という活動写真の馬鹿らしさはどうでもいいが、ルネ・クレールはとにかくとして、社会改良家などと言われる人の自由に対する認識が、やっぱりこれと五十歩百歩の思いつきにすぎないことを考えると、文学への信用を深くせずにはいられない。僕は文学万能だ。なぜなら、文学というものは、叱る母がなく、怒る女房がいなくとも、帰ってくると叱られる。そういう所から出発しているからである。だから、文学を信用することができなくなったら、人間を信用することができないという考えでもある。
四 美について
三年前に取手という町に住んでいた。利根川に沿うた小さな町で、トンカツ屋とソバ屋のほかに食堂がなく、僕は毎日トンカツを食い、半年めにはついに全くうんざりしたが、僕はたいがい一か月に二回ずつ東京へでて、酔っ払って帰る習慣であった。もっとも、町にも酒屋はある。しかし、オデン屋というようなものはなく、普通の酒屋で|框《かまち》へ腰かけてコップ酒をのむのである。これを「トンパチ」と言い、「当八」の意だそうである。すなわち一升がコップ八杯にしか当たらぬ。つまり、一合以上なみなみとあり、盛りがいいという意味なのである。村の百姓たちは「トンパチやんべいか」と言う。もちろん僕は愛用したが、一杯十五銭だったり十七銭だったり、日によってその時の仕入れ値段でまちまちだったが、東京から来る友達は顔をしかめて飲んでいる。
この町から上野まで五十六分しかかからぬのだが、利根川、江戸川、荒川という三ツの大きな川を越え、その一つの川岸に|小《こ》|菅《すげ》刑務所があった。汽車はこの大きな近代風の建築物を眺めて走るのである。非常に高いコンクリートの塀がそびえ、獄舎は堂々と翼を張って十字の形にひろがり、十字の中心|交《こう》|叉《さ》点に大工場の煙突よりも高々とデコボコの見張りの塀が突っ立っている。
もちろん、この大建築物には一か所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でもあり得ない構えなのだが、不思議に心を|惹《ひ》かれる|眺《なが》めである。
それは刑務所の観念と結びつき、その威圧的なもので僕の心に迫るのとは様子が違う。むしろ、|懐《なつか》しいような気持ちである。つまり、結局、どこかしら、その美しさで僕の心を惹いているのだ。利根川の風景も、|手《て》|賀《が》|沼《ぬま》も、その刑務所ほど僕の心を惹くことがなかった。
いったい、ほんとに美しいのかしら、と、僕は時々考えた。
これに似た他の経験が、もう一つハッキリ心に残っている。
もう、十数年の昔になる。そのころはまだ学生で、僕は酒も飲まない時だが、友人たちと始めて同人雑誌をだし、酒を飲まないから、勢い、そぞろ歩きをしながら五時間六時間と議論をつづけることになる。そのため、足の向くままに、実に諸方の道を歩いた。深夜になり、深夜でなくともしきりと警官に|訊《じん》|問《もん》されたが、左翼運動のさかんな時代で、徹底的に小うるさく訊問された。だいたい、深夜に数人で歩きながら、酒も飲んでいないというのが、かえって怪しまれる種であった。そういう次第で心を改め大酒飲みになったわけでもないのだが。
銀座から築地へ歩き、渡船に乗り、|佃島《つくだじま》へ渡ることが、よくあった。この渡船は終夜運転だから、帰れなくなる心配はない。佃島は一間ぐらいの暗くて細い道の両側に「佃茂」だの「佃一」だのという家が並び、|佃煮《つくだに》屋かもしれないが、漁村の感じで、渡船を降りると、突然遠い旅に来たような気持ちになる。とても川向こうが銀座だとは思われぬ。こんな旅の感じが好きであったが、ひとつには、|聖《せい》|路《る》|加《か》病院の近所にドライアイスの工場があってそこに雑誌の同人が勤めていたため、この方面へ足の向く機会が多かったのである。
さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕の心を惹くのであった。
工場地帯では変哲もない建物であるかもしれぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上のはるか高い所にも、倉庫からつづいてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにもいっさい美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成り立っている。町家の中でこれを見ると、|魁《かい》|偉《い》であり、異観であったが、しかし、ずぬけて美しいことがわかるのだった。
聖路加病院の堂々たる大建築。それに|較《くら》べればあまり小さく、貧困な構えであったが、それにもかかわらず、この工場の緊密な質量感に較べれば、聖路加病院は子供たちの細工のようなたあいもない物であった。この工場は僕の胸に食い入り、はるか郷愁につづいて行く大らかな美しさがあった。
小菅刑務所とドライアイスの工場。この二つの|関《かん》|聯《れん》について、僕はふと思うことがあったけれども、そのどちらにも、僕の郷愁をゆりうごかす|逞《たくま》しい美感があるという以外には、|強《し》いて考えてみたことがなかった。法隆寺だの平等院の美しさとは全然違う。しかも、法隆寺だの平等院は、古代とか歴史というものを念頭に入れ、一応、何か納得しなければならぬような美しさである。直接心に突き当たり、はらわたに食い込んでくるものではない。どこかしら物足りなさを補わなければ、納得することができないのである。小菅刑務所とドライアイスの工場は、もっと直接突き当たり、補う何物もなく、僕の心をすぐ郷愁へ導いて行く力があった。なぜだろう、ということを、僕は考えずにいたのである。
ある春先、半島の|尖《せん》|端《たん》の港へ旅行にでかけた。その小さな入江の中に、駆逐艦が休んでいた。それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども、一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水にうかぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず|眺《なが》めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、いっさいない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって、取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形ができ上がっているのである。それは、それ自身に似るほかには、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく|歪《ゆが》められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛び出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものができ上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識してなされたところからは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめたところの独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求をはずれ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たあいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
問題は、|汝《なんじ》の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝みずからの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取り去り、真に適切に表現されているか、どうかということだ。
百メートルを疾走するオウエンスの美しさと二流選手の動きには、必要に応じた完全なる動きの美しさと、応じ切れないギゴチなさの相違がある。僕が中学生のころ、百メートルの選手といえば、|痩《や》せて、軽くて、足が長くて、スマートの身体でなければならぬときまっていた。ふとった重い男はもっぱら|投《とう》|擲《てき》の方へ|廻《まわ》され、フィールドの片隅で砲丸を|担《かつ》いだりハンマーを振り廻していたのである。日本へも来たことのあるパドックだのシムプソンのころまでは、そうだった。メトカルフだのトーランが現われたころから、短距離には重い身体の加速度が最後の条件であると訂正され、スマートな身体は中距離の方へ廻されるようになったのである。いつか、羽田飛行場へでかけて、イ―十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現わしたかと思ううちに右端へ飛び去り、|呆《あき》れ果てた速力であった。かつての日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ−十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリした重量感があり、近代式の百メートル選手の体格の条件に全くよく当てはまっているのである。スマートなところは|微《み》|塵《じん》もなく、あくまで|不《ぶ》|恰《かっ》|好《こう》にでき上がっているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。
見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、ほんとうの物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、|詮《せん》ずるところ、あってもなくても構わない|代《しろ》|物《もの》である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。|武蔵《む さ し》|野《の》の静かな落日はなくなったが、|累《るい》|々《るい》たるバラックの屋根に夕陽が落ち、|埃《ほこり》のために晴れた日も曇り月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が|轟《ごう》|々《ごう》と|駈《か》けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得得としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を|羞《はじ》ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
青春論
一 わが青春
今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過ごしてしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当たらぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うのならば、僕は今もなお青春、おそらく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持ちのいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように|唸《うな》ったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生まれて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当たらぬとは、ひどく悲しい。生まれて七十年、どこにも区切りが見当たらぬ、となっては、これはまた助からぬ気持ちであろう。ひとつ区切りをつけてやろうか。僕は時にこう考える。さて、そこで、しからば「いかにして」ということになるのであるが、ここに至って再び僕は参ってしまう。たぶん誰でも同じことを考えると思うけれども、僕もまた「結婚」というひとつの区切りについてまず考える。僕は結婚ということに決して特別の考えを持ってはおらず、こだわった考え方もしてはおらず、自然に結婚するような事情が起こればいつでも自然に結婚してしまうつもりなのである。けれども、それで僕の一生に区切りができるであろうか。たぶん区切りはできないと思うし、かりに区切りができたとしても、その区切りによって僕の生活が真実立派になるということは決してないと考える。僕は愚かだけれども、その愚かさは結婚に関係のない事情にもとづくものである。結婚して、子供も大きくなって、七十になって、そうして、やっぱり、青春――どこにも一生の区切りがない、これは助からぬ話だと僕は恐れをなしてしまう。
青春再びかえらず、とはひどく|綺《き》|麗《れい》な話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である。第一、うんざりしてしまう。こういう疲れ方は他の疲れとは違って|癒《なお》しようのない袋小路のどんづまりという感じである。世阿弥が佐渡へ流刑のあいだに|創《つく》った謡曲に「|檜《ひ》|垣《がき》」というものがある。細かいことは忘れてしまったけれども荒筋は次のような話である。なんでも檜垣寺というお寺があって(謡曲をよく御存じの方は飛ばして読んでください。どんなデタラメを言うかもしれませんよ)このお寺へ毎朝|閼《あ》|伽《か》の|水《*》をささげにくる老婆がある。いつ来る時も一人であるが、この老婆の持参の水が柔らかさ世の常のものではない。そこで寺の住持があなたはどこの何人であるかと尋ねてみると、老婆は一首の和歌を|誦《しょう》してこの歌がおわかりであろうか、と言う。あいにくこの和歌を僕はもう忘れてしまったが「水はぐむ」とか何とかいう|枕言葉《まくらことば》に始まっていて、住持にはこの枕言葉の意味がわからないのである。この和歌にも相当重要な意味があったはずであるが、しかし、物語の中心そのものではないのだから勘弁していただきたい。そこで住持が不思議に思って、この枕言葉は聞きなれないものであるが、いったいどういう意味があるのですかと尋ねた。すると老婆が答えて言うには、その意味が知りたいとおっしゃるならば何とか河(これも忘れた)のほとりまで御足労願いたい。自分はそこに住んでいるから、そのときお話しいたしましょう、と帰ってしまった。翌日(ではないかも知れぬ。もともと昔の物語は明日も十年後もありゃしない)住持は何とか河のほとりへ老婆を訪ねて行ってみた。と、なるほど、一軒の荒れ果てた|庵《いおり》があるが、住む人の姿はなく、また、人の住むところとも思われぬ|廃《はい》|屋《おく》である。と、姿のない虚空に老婆の恐ろしい声がして、いざ、私の昔を語りましょう、と言い、自分は、昔、都に宮仕えして楽しい青春を送ったもので、昨日の和歌は自分の作、新古今だか何かに載っているものである。自分は年老ゆるとともに、若かったころの|美《び》|貌《ぼう》が醜く変わって行くのに堪えられぬ苦しみを持つようになった。そうして、そのことを気にして悩みふけって死んでしまったが、そのために往生を遂げることができず、いまだに|妄執《もうしゅう》を地上にとどめて迷っている。|和尚《おしょう》様においでを願ったのも、ありがたい|回《え》|向《こう》をいただいて|成仏《じょうぶつ》したいからにほかならぬ、と物語る。そこで和尚は、いかにも回向してあげようが、まず姿を現わしなさい、と命令し、老婆はためらっていたが、しからば醜い姿であさましいがお目にかけましょうと言って妄執の鬼女の姿を現わす。そこで和尚は回向を始めるのであるが、回向のうちに、老婆はありし日の青春の夢を追い、ありし日の姿を追うて|恍《こう》|惚《こつ》と踊り狂い、成仏する、という筋なのである。
北海の孤島へ流|刑《*》の身でこんな美しい物語をつくるとは、世阿弥という人の天才ぶりに降参せざるを得ない。ところで、話はそういうことではないのだが、僕がこの物語を友人に語ったところが(僕はあらゆる友人にこの物語を話した)最も激しい感動を現わした人は|宇《う》|野《の》|千《ち》|代《よ》さんであった。この時以来宇野さんは謡曲のファンになり、しきりに観能にでかけ、僕が文学として読んではいても舞台としてほとんど見たことがないので冷やかされる始末になったが、女の人は誰しも老醜を|怖《おそ》れること男の比にはならないのであろうけれども、宇野さんが物語をきいたときの驚きの深さは僕の頭を離れぬことのひとつである。宇野さんもかなりの年齢になられているから、鬼女の|懊《おう》|悩《のう》が実感として激しかったという意味もあろうけれども、失われた青春にこんなにハッキリしたあるいはこんなに必死な愛情を持ち得るということで、僕はかえって女の人が|羨《うらや》ましいような気がしたのだ。この羨ましさは、毛頭僕の思いあがった気持ちからではないのである。
女の人には秘密が多い。男が何の秘密も意識せずに過ごしている同じ生活の中に、女の人はいろいろの微妙な秘密を見つけだして生活しているものである。特に宇野さんの小説は、私小説はもとより、男の子の話だの、女流選手の話だの、老音楽夫人の話だの、語られていることの大部分はこういう微妙な|綾《あや》の上の話なのである。これらの秘密くさい微妙なそして小さな心のひとつひとつが、正確に掘りだされてきた宝石のような美しさで僕は愛読しているのだが、さればとて、しからば|俺《おれ》もこういうものを書いてやろうか、という性質のものではない。僕の頭を|逆《さか》さにふっても、こういうものは出てこない。なるほど宇野流に語られてみれば、こういう心も僕のうちにあることが否定できぬが、僕の生活がそういうものを軌道にしてはいないのである。だが、僕は今、文学論を述べることが主眼ではない。
このような微妙な心、秘密な|匂《にお》いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいようにたいせつであろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも|眉《まゆ》|毛《げ》でも、僕らにわからぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして|容《よう》|貌《ぼう》の衰えについての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女のあり方にははなはだ大きな|距《へだた》りがあると思われる。宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの|佗《わび》しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があったはずだが、たいせつな一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な|呪《のろ》いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。
このような女の人に比べると、僕の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、かつ、だらしがない。てんでいのちが|籠《こも》っておらぬ。一本の髪の毛は愚かなこと、一本の指一本の腕がなくなっても、その不便についての実感や、外見を怖れる|見《み》|栄《え》についての実感などはあるにしても、失われた「小さないのち」というものに何の感覚も持たぬであろう。
だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その|絢《けん》|爛《らん》たる開花の時と|凋落《ちょうらく》との怖るべき距りについて、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われがたいものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、そのだいじの肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚ましい。女の一生がすべて秘密となってその中に閉じこめられている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだというふうに言えないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵や|湧《わ》き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。もし|理《り》|智《ち》というものを取り去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、ただ亡国だけしかあり得ない。女は貞操を失うとき、その祖国も失ってしまう。かくのごとく、その肉体は絶対で、その青春もまた、絶対なのである。
どうも、しかし、女一般だの男一般というような話になると、たちまち僕の舌は|廻《まわ》らなくなってトンチンカンになってしまうから、このへんで切り上げて、僕はやっぱり僕流に自分一人のことだけしゃべることにしよう。ただ、さっきの話のちょっとした結論だけ書き加えておくと、女の人は自分自身に関するかぎり、生活の一時間一時間を男に比べてはるかに自覚的に生きている。非常にハッキリと自分自身を心棒にした考え方を持っていて、この観点から言うかぎりは、男に比べてはるかに「生活している」と言わなければなるまいと思う。だいたい先刻の「檜垣」の話にしても、|容《よう》|貌《ぼう》の衰えを悩むあまり幽霊になったなどという、光源氏を主人公にしても男では話にならない。光源氏を幽霊にすることは不可能でもないけれども、すくなくとも男の場合は老齢と結びつけるわけには参らぬ。ここに一人の|爺《じい》さんがあって、容貌の衰えたのを悲嘆のあまり、|魂《こん》|魄《ぱく》がこの世にとどまって成仏ができなくなってしまった、というのでは読者に与える効果がよほど違ってくる。むしろ喜劇の畑であろう。女は非常にせまいけれども、強烈な生活をしているのである。
三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ|這《は》|入《い》ってみると畳が敷かれていない感じだ、と言ったそうだ。近ごろの名評だそうで、僕も笑ってしまったけれども、まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに一枚のウスベリも見当たらない。たいせつな一時間一時間をただ何となく迎え入れて送りだしている。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままヌッと|這《は》|入《い》りこまれて、そのままズッと出て行かれても文句の言いようもない。どこにも区切りがないのだ。ここにて|下《げ》|駄《た》をぬぐべしというような制札がまったくどこにもないのである。
七十になっても、なお青春であるかもしれぬ。そのくせ老衰を嘆いて幽霊になるほどの実のある生活もしたことがない。そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、また、特別なものでもない。しからば、青春とは何ぞや? 青春とは、ただ僕を生かす力、もろもろの愚かなしかし僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもがすべて僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。
愚かと言えば常に愚かでありまた愚かであった僕であるゆえ、僕の生き方にただ一つでも人並みの信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと言うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、|所《しょ》|詮《せん》立ち直ることのできない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。牧野信一が|魚《ぎょ》|籃《らん》|坂《ざか》|上《うえ》にいたころ、書斎に一枚の|短《たん》|冊《ざく》が|貼《は》りつけてあって「我事に於て後悔せず」と書いてあった。菊池寛氏の筆であった。その後、きくところによれば、これは元来宮本武蔵の言葉だということであったが、このように堂々と宣言されてみると、宮本武蔵の後悔すべからず、と、僕の後悔すべからずではだいぶ違う。「|葉《は》|隠《がく》れ論|語《*》」によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけてごまかしてしまえ、と|諭《さと》しているそうだけれども、僕はこれほど堂々と自我主義を押し通す気持ちはない。もっと他人というものを考えずにはいられないし、自分の弱点について、常に思いをいたし、嘆かずにもいられぬ。こういう「葉隠れ論語」流の達人をみると、僕はまっさきに|喧《けん》|嘩《か》がしたくなるのである。
いわば、僕が「後悔しない」と言うのは、悪業の結果が野たれ死にをしても地獄へ落ちても後悔しない、とにかく|俺《おれ》の精いっぱいのことをやったのだから、という|諦《あきら》めの意味にほかならぬ。宮本武蔵が|毅《き》|然《ぜん》として「我事に於て後悔せず」という、常に「事」というものをハッキリ認識しているのとは話がよほど違うのだ。もっとも、我事に於て後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにいられなかった宮本武蔵は常にどれくらい後悔した|奴《やつ》やら、この言葉の裏には武蔵の後悔が|呪《のろ》いのように聴えてくる。
僕は自分の愚かさを決して誇ろうとは思わないが、そこに僕の生命が燃焼し、そこに|縋《すが》って僕がこうして生きている以上、愛惜なくして生きられぬ。僕の青春に「失われた美しさ」がなく、「永遠に失われざるための愚かさ」があるのみにしても、僕もまた、僕の青春を語らずにはいられない。すなわち、僕の青春論は同時に|淪《りん》|落《らく》|論《ろん》でもあるという、そのことは読んでいただけばわかるであろう。
二 淪落について
日本人は小役人根性が|旺《おう》|盛《せい》で、官僚的な権力を持たせるとたちまち威張り返ってやりきれぬ。というのは近ごろ八百屋だの魚屋で経験ずみのことで、万人等しく認めるところだけれども、八百屋や魚屋に縁のない僕も、別のところではなはだこれを痛感している。
電車の中へ子供づれの|親《おや》|父《じ》やおふくろが乗り込んでくる。あるいはお婆さんを連れた青年が|這《は》|入《い》ってくる。誰かしら子供やお婆さんに席を譲る。すると間もなく、その隣の席があいた場合に、先刻、子供や婆さんに席を譲ってくれた人がそこに立っているにもかかわらず、自分か、自分の連れをかけさせてしまう。よく見かける出来事であるが、先刻席を譲ってくれた人に腰かけてもらっている親父やおふくろを見たためしがないのである。
つまり子供だのお婆さんだのへの同情に便乗して、自分まで不当に利得を占めるやからで、こういう奴らが役人になると、役人根性を発揮し、権力に便乗してしようのない結果になるのである。
僕ははなはだ悪癖があって、電車の中へ婆さんなどがヨタヨタ乗り込んでくると、席を譲らないといけないような気持ちになってしまうのである。けれども、ウッカリ席を譲ると、たちまち小役人根性の|厭《いや》なところを見せつけられて不愉快になるし、そうかといって譲らないのもあまり良い気持ちではない。要するに、こういう小役人根性の奴らとは関係を持たないに限るから、電車がガラ空きでないかぎり、僕は腰かけないことにしている。少しくらいくたびれても、こういう|厭《いや》な連中と関係を持たない方が幸福である。
去年の正月近いころ、渋谷で省線を降りて、バスに乗った。バスはたいへんな満員で、僕ですら|喘《あえ》ぐような始末であったが、僕の隣に学習院の制服を着用した十歳ぐらいの小学生男子が立っていた。僕の前の席が空いたので、隣の少年にかけたまえとすすめたら、少年はお辞儀をしただけで、かけようとしなかった。また、席があいたが、同じことで少年は満員の人ごみにもまれながら、自分の前の空席に目もくれようともしなかったのである。
僕はこの少年の|躾《しつ》けの良さにことごとく感服した。この少年が信条を守っての|毅《き》|然《ぜん》たる態度はただみごとで、宮本武蔵と並べてもヒケをとらない。学習院の子供たちがみんなこうではあるまいけれども、すくなくとも育ちの良さというものを痛感したのである。
このような躾けの良さは、必ずしも生家の栄誉や富に関係はなかろうけれども、しかしながら、生家の栄誉とか、富に対する誇りとか、顧みて怖れ|怯《おび》ゆるものを持たぬ背景があるとき、凡人といえどもおのずからかかる毅然たる態度を維持することができやすいと僕は思う。
とはいえ、栄誉ある家門を背景にした子供たちが往々生まれながらにしてかかる躾けの良さを身につけているにしても、栄誉ある人々の大人の世界も子供の世界もおしなべて決して常にかくのごときものではない。のみならず、大人の世界における貴族的性格というものは、その|悠《ゆう》|々《ゆう》たる態度とか毅然たる外見のみで、外見と精神に何の脈絡なく、真の貴族的精神というものは、また、おのずから、別個のところにあるのである。躾けよき人々は、ただ他人との一応の接触において礼儀を知っているけれども、実際の利害関係が起こった場合に、自己を犠牲にすることができるか。甘んじて人に席を譲るか。むしろ他人を傷つけてみずからは何の悔いもない|底《てい》の性格をつくりやすいと言い得るであろう。
けだし、大人の世界において、犠牲とか互譲とかいたわりとか、そういうものが礼儀でなしに生活として育っているのは|淪《りん》|落《らく》の世界なのである。淪落の世界においては、人々は他人を傷つけることの罪悪を知り、人の窮迫にあわれみと同情を持ち、口頭ではなく実際の救い方を知っており、また、行なう。また、彼らは人の信頼を裏切らず、常に仁義というものによってみずからの行動を律しようとするのである。
とはいえ、彼らの仁義正しいのは主として彼ら同志の世界においてだけだ。一足彼らの世界をでると、つまり淪落の世界に属さぬ人々に接触すると、彼らは必ずしも仁義を守らぬ。なぜなら淪落の人々はおおむね性格破産者的傾向があるし、またいくらかずつ悪党で、いわば自分自身を守るために、同僚を守ったり、彼らの秩序を守ったりするけれども、外部に対してまで秩序を守る必要を認めないからでもあるし、だいたいが彼らの秩序と一般家庭の秩序とは違っているから、別に他意がなくとも食い違うことができてしまう。
乞食を三日すると忘れられない、と言うけれども、淪落の世界も、もし独立|不《ふ》|覊《き》の魂を殺すことができるなら、これぐらい住みやすく|沈《ちん》|淪《りん》しやすいところもない。いわば、着物もいらず住宅もいらず、野生の食物にも事欠かぬ南の島のようなものだ。だから僕は淪落の世界を激しく|呪《のろ》い、激しく憎む。不覊独立の魂を失ったら、僕などはただ肉体の|屑《くず》にすぎない。だから僕の魂は決してここに住むことを欲しないにもかかわらず、どうして僕の魂は、またこの世界に憩いを感じ、ふるさとを感じるのであろうか。
今年の夏、僕は新潟へ帰って、二十年ぶりぐらいで、|白《はく》|山《さん》|様《さま》の祭礼を見た。昔の|賑《にぎわ》いはなかったが、松下サーカスというのが掛かっていた。僕は曲馬団で空中サーカスと言っているブランコからブランコへ飛び移るのが最も好きだが、松下サーカスは|目《め》|星《ぼ》しい芸人が召集でも受けているのか、座頭のほかには大人がなく、非常に下手で、半分ぐらい飛び移りそこねて墜落してしまう。このあとでシバタサーカスというのを見たが、この方はピエロのほかは一人も墜落しなかった。一見したところ真ん中のブランコがいちばんたいせつのようだけれども、実際は両側のブランコに最も熟練した指導者が必要でこの人が出発の呼吸をはかってやるのである。シバタサーカスは真ん中のブランコが女だけれども、両側のブランコに二人の老練家がついているから、全然狂いがない。松下サーカスは真ん中のブランコに長老が乗っているが、両側が子供ばかりで指導者がないのだ。
落ちる。落ちる。そうして、また、登って行く。彼らが登場した時はただの少年少女であったが、落ちては登り、今度はという決意のために大きな眼をむいて登って行く|気《き》|魄《はく》をみると、涙が流れた。まったく、必死の気魄であった。長老を除くと、その次に老練なのは、ようやく十九か二十ぐらいの少年だったが、この少年は何か|猥《わい》|褻《せつ》な感じがして見たくないような感じだったが、この少年が最後の難芸に失敗して墜落したとき、彼が歯を|喰《く》いしばりカッと眼を見開いて何か夢中の手つきで耳あての|紐《ひも》を締め直しながら再び綱にすがって登りはじめた時は、猥褻の感などはもはやどこにもなかった。|神《こう》|々《ごう》しいぐらい、ただいちずに必死の気魄のみであったのである。その美しさに打たれた。
いつか真杉静枝さんに誘われて帝劇にレビューを見たことがあったが、レビューの女に比べると、あの中へ現われていっしょに踊る男ぐらい馬鹿に見えるものはない。あんまり低脳な馬鹿に見えて同性の手前僕がいささかクサっていると、真杉さんが僕に向いて、どうしてレビューの男たちってあんなに馬鹿に見えるのでしょうかと、|呟《つぶや》いた。男には馬鹿に見えても、女の人にはまた別なふうに見えるのだろうと考えていた僕は、真杉さんの言葉をきいて、女の人にもやっぱりそうなのかと改めて感じ入ったしだいである。
ところが、僕は一度例外を見たのである。
それは京都であった。昭和十二年か十三年。京都の夏は暑いので、僕は毎日十銭握ってニュース映画館へ|這《は》|入《い》り、一日じゅう休憩室で本を読んだりしていた。ニュース映画館はスケート場の付属で、ひどく涼しいのだ。あのころは仕事に自信を失って、何度生きるのをやめにしようと思ったかしれない。|新京極《しんきょうごく》に京都ムーランというレビューがあって、そこへよく身体を運んだ。まったく、ただ身体を運んだだけだ。おもしろくはなかった。僕の見たたった一度の例外というのは、だから、京都ムーランではないのである。
京都ムーランよりももっと|上《かみ》|手《て》な活動小屋へ這入ったら、偶然アトラクションにレビューをやっていた。小さな活動小屋のアトラクションだから、レビューははなはだ貧弱である。女が七、八人に男が一人しかいない。ところが、このたった一人の男が僕の|見《けん》|参《ざん》した今までの例をくつがえして、この男が舞台へでると、女の方が貧弱になってしまうのである。何か木魚みたいなものを|叩《たた》いてアホダラ経みたいなものを|唸《うな》ったりしていたのを思い出すが、堂々たる男の|貫《かん》|禄《ろく》が舞台にみち、男の姿がずぬけて大きく見えたばかりでなく、女たちが男のまわりを安心しきって飛んでいる|蝶《ちょう》のような頼りきった姿に見えて、うれしい眺めであった。まったくレビューの男にあんな頼もしい貫禄を見ようとは予期しないことであった。
こういう印象は日がたつにつれて極端なものになる。男の印象がしだいに立派に大きなものになりすぎて、ほかのレビューの男たちがますます馬鹿に見えて仕方がなくなるのである。あれぐらいの芸人だから浅草へ買われてこないはずはなかろうと思い、もう一度見参したいと思ったが、あいにく名前を覚えていない。会えばわかるはずだから、浅草や新宿でレビューを見るたびに注意したが再会の機会がない。
ところが、この春、浅草の染太郎というウチで淀橋太郎氏と話をした。この染太郎はお好み焼屋だが、花柳地の|半玉《はんぎょく》相手のお好み焼と違って、牛てんだのエビてんなどはあまり焼かず、酒飲み相手にオムレツでもビフテキでも魚でも野菜でも何でも構わず焼いてしまう。近ごろ我我の仲間、「現代文学」の連中は会というとたいがいこのウチでやるようなことになり、我々の大いに愛用するウチだけれども、我々のほかにはレビュー関係の人たちが毎晩飲みにくる所なのである。そういうわけで淀橋太郎氏と時々顔を合わせて話を交わしたりするようになり、ある日、京都ムーランの話がでた。そこで、雲をつかむような話で|所《しょ》|詮《せん》わかるはずがないだろうと思ったけれども、同じころ、活動小屋のアトラクションにでた男の名前がわからないかと|訊《き》いてみた。すると僕が|呆《あき》れ果てたことにはタロちゃんちょっと考えていたが、それはモリシンです、といともアッサリ答えたものである。当時京都の活動小屋へアトラクションに出たのはモリシン以外にない。小屋の場所も人数もそっくり同じだから疑う余地がないと言うのであった。いっしょにいた数人のレビューの人たちがみんなタロちゃんの言を裏書きした。モリシンは|渾《あだ》|名《な》で、芸名はモリカワシン、たぶん森川信と書くのか、そういう人であった。常に流れ去り流れ来たっているようなこの人々の足跡のひとつ、数年前の京都の小さな活動小屋の出来事がこんなにハッキリ指摘されるものだとは、僕もはなはだ|面《めん》|喰《く》らった。
僕は梅若万三郎や菊五郎の舞台よりも、サーカスやレビューを見ることが好きなのだ。それはまた、第一流の料理を味わうよりも、ただ酒を飲むことが好きなのと同じい。しかし、僕は酒の味が好きではない。酔っ払って酒の|臭《くさ》|味《み》がわからなくなるまでは、息を殺して我慢しながら飲み下しているのである。
人は芸術が魔法だというかもしれぬが、僕には少し異論がある。対座したのでは|猥《わい》|褻《せつ》見るに堪えがたくて|擲《なぐ》りたくなるような若者が、サーカスのブランコの上へあがると|神《こう》|々《ごう》しいまでに必死の|気《き》|魄《はく》で人を打ち、全然別人の|奇《き》|蹟《せき》を行なってしまう。これは魔法的な現実であり奇蹟であるが、しかもこの奇蹟は我々の現実や生活が常にこの奇蹟と共にあるきわめて普通の自然であって、決して超現実的なものではない。レビューの舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するが、モリカワシンの堂々たる男の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女たちの遊楽の舞台を見ると、女たちの踊りがどんなに下手でもまた不美人でもいっこうにさしつかえぬ。甘美な遊楽が我々を|愉《たの》しくさせてくれるのである。これも一つの奇蹟だけれども、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、芸術の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、肉体の奇蹟なのである。酒もまた、僕にはひとつの奇蹟である。
僕は|碁《ご》が好きだけれども、金銭を|賭《か》けることは全く好まぬ。むしろ、かかる人々を憎み|蔑《さげす》むのである。だいたい、賭け事というものは運を天にまかして|一《いち》か|八《ばち》かというところに最後の意味があるのである。サイコロとルーレットのようなものが、ほんとうの|賭《か》け事なのだ。碁のような理智的なものは、勝敗それ自身が興味であって、金銭を賭けるべき性質のものではない。運を天にまかして一か八かという虚空から金がころがりこむなら大いに|嬉《うれ》しくもなろうけれども、長時間にわたって理智を傾けつくす碁のようなもので金銭を賭けたのでは、いちばん見たくない人間の悪相をさらけだして汚らしくいどみ合うようなもので、とても|厭《いや》らしくて勝負などはできぬし、勝つ気にもなれぬ。ああいう理智的なもので金銭を賭ける連中は品性最も下劣な悪党だと僕は断定している。
しかしながら、カジノのルーレットのごときもの、いささかの理智もなく、さりとてイカサマもあり得ない。かかるものもまた現実のもつ奇蹟のひとつである。人はあそこに金を賭けているのではなく、ただ落胆か幸福か、絶望か|蘇《そ》|生《せい》か、実際死と生を天運にまかせて賭ける人もいるのだ。あそこではみずからを裁くほかには犠牲者、被害者が誰もいない。理智という|嵐《あらし》が死に、我みずからを裁くに、これぐらい|誂《あつら》え向きの戦場はないのである。
我が青春は|淪《りん》|落《らく》だ、と僕は言った。しかして、淪落とは、右のごときものである。すなわち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは|相《あい》|容《い》れぬ。破滅か、しからずんば――|嗚《あ》|呼《あ》、しかし、破滅以外の何物があり得るか! 何物があり得ても、おそらく満ち足りることがあり得ないのだ。
この春、愛妻家の平野謙が独身者の僕をみつめてニヤニヤ笑いながら、決死隊員というものは独身者に限るそうだね、妻帯者はどうもいかんという話だよ、とおっしゃるのである。これは平野謙の失言だろうと僕は思った。原稿紙に向かえば、こういう気楽な断定の前に、まだいろいろと考えるはずの彼なのである。こうなると、女房というものはまるで特別の魔女みたいなものだ。ひどく都合のいいものである。女一般や恋人はどうなるのか。女房はとにかくとして、有情の男子たるもの、あに女性なくして生き得ようか。
とはいうものの、僕はまた考えた。これはやっぱり平野君の失言ではない。こういう単純怪奇な真理が実際においてあり得るのである。それは女房とか家庭というもの自体にこのような魔力があるのではなく、女房や家庭をめぐって、こんなふうな考え方があり得るという事柄のうちに、この考えが真理でもあるという実際の力が存在しているのである。こういう考え方があり、こういうふうに考えることによって、こういうふうに限定されてしまうのである。真理の一面はたしかにこういうものである。
実際、わが国においては、夫婦者と独身者に非常にハッキリと区別をつけている。それは決して事変このかた生めよ|殖《ふ》やせよのせいではなく、もっと民族的なはなはだ独特な考え方だと僕は思う。独身者は何かまだ一人前ではないというような考え方で、それは実際男と女の存在する人間本来の生活形態から言えばたしかに一人前の形をそなえておらぬかもしれぬけれども、たとえば平野謙のごとき人が、まるで思想とか人生観というものにまで、この両者が全然異質であるかのような説をなす。俗世間のみの考えでなく、平野君ごとき思索家においても、なお、かような説を当然として怪しまぬ風があるのである。
僕はかような考え方を決して頭から否定する気持ちはない。むしろはなはだユニックな国民的性格をもった考え方だと思うのである。
実際、思ってもみなさい。このような民族的な肉体をもった考えというものは真理だとか真理でないと言ったところで始まらぬ。実際、僕の四囲の人々は、みんなそう考え、そう生活しているのである。あるいは、そう生活しつつ、そう考えているのである。彼らは実際そう考えているし、考えているとおりの現実が生まれてきているのだ。これでは、もう、|喧《けん》|嘩《か》にならぬ。僕ですら、もし家庭というものに安眠しうる自分を予想することができるなら、どんなに幸福であろうか。芥川龍之介が「|河童《か っ ぱ》」か何かの中に、隣の奥さんのカツレツが清潔に見える、と言っているのは、僕もはなはだ同感なのである。
しかし、人性の孤独ということについて考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は|癒《いや》されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない。僕は全身全霊をかけて孤独を|呪《のろ》う。全身全霊をかけるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。
魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかもしれぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が|倖《しあわ》せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき|姪《めい》たちと友達になって、僕の小説を読ましてくれとせまがれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を|希《ねが》っているのだ。
数年前、二十歳で死んだ|姪《めい》があった。この娘は八ツのころから結核性関節炎で、冬は割合いいのだが夏が悪いので、暖かくなると東京へ来て、僕の家へ|病臥《びょうが》し、一か月に一度ぐらいずつギブスを取り換えに病院へ行く。ギブスを取り換えるころになると、|膿《うみ》の臭気が家中に漂って、やりきれなかったものである。傷口は下腹部から|股《また》のあたりで、穴が十一ぐらいあいていたそうだ。
八ツの年から病臥したきりで発育が尋常でないから、十九の時でも肉体精神ともに十三、四ぐらいだった。全然感情というものが死んでいる。何を食べても、うまいとも、まずいとも言わぬ。決して腹を立てぬ。決して喜ばぬ。なつかしい人が見舞いに来てもニコリともせず、その別れにサヨナラも言わぬ。いつもただ首を上げてチョッと顔をみるだけで、それが|久闊《きゅうかつ》の|挨《あい》|拶《さつ》であり、別離の辞である。空虚な人間の挨拶などは、しゃべる気がしなくなっているのであった。その代わり、どんなに長い間、なつかしい人たちが遊びにきてくれなくとも、不平らしい様子などはまったく見せない。手のかかる小さな子供があったので、母親はめったに上京できなかったが、その母親がやってきてもニコリともしないし、イラッシャイとも言わぬ。別れる時にサヨナラも言わず、悲しそうでもなく、思いつきの気まぐれすらしゃべる気持ちにはならないらしい。それでも、一度、朝母親が故郷へ立ってしまった夕方になって、食事のとき、もう家へついたかしら、とふと言った。やっぱり、考えているのだと僕は改めて感じたほどだった。毎日、「少女の友」とか「少女|倶《く》|楽《ら》|部《ぶ》」というような雑誌を読んで、さもなければボンヤリ虚空をみつめていた。
それでもまれに、よっぽど身体の調子のいいとき、東宝へ少女歌劇を見に連れて行ってもらった。相棒がなければそんな欲望が起こるはずがなかったのだが、あいにく、そのころ、もう一人の|姪《めい》が泊まっていて、この姪は胸の病気の治ったあと楽な学校生活をしながら、少女歌劇ばかり見て喜んでいた。この姪が少女歌劇の雑誌だの、ブロマイドを見せてアジるから、一方もそういう気持ちになってしまうのは仕方がない。もっとも、見物のあと、やっぱりおもしろいとも言わないし、つまらないとも言わなかった。相変わらず表情も言葉もなかったのである。それでも、胸の病の娘がかがみこんで、ねえ、ちょっとでいいから笑ってごらんなさい。一度でいいから|嬉《うれ》しそうな顔をしなさいったら。こら、くすぐってやろうか、などといたずらをすると、関節炎の娘はうるさそうに首を動かすだけだったが、それでもまれには、いくらか上気して、二人で、話をしていることもあった。それも二言か三言で、あとは押し黙って、もう相手になろうともしないのである。胸の病の娘の方は陽気で|呑《のん》|気《き》千万な娘だったのに、二十一の年、原因のわからぬ自殺をとげてしまった。雪国のふるさとの沼へ身を投げて死んでいた。この自殺の知らせが来たときも、関節炎の娘は全然驚きもせず、また、しゃべりもせず、何を|訊《き》こうともしなかった。
その後、|子《し》|規《き》の「|仰臥《ぎょうが》漫録」を読んだが、子規も姪と同じような病気であったらしい。場所も同じで、やっぱり腹部であった。子規のころにはまだギブスがなかったとみえ、毎日|繃《ほう》|帯《たい》を取り換えている。繃帯を取り換えるとき「号泣又号泣」と書いてある。姪の方もさすがに全身の苦痛を表わす時があったが、泣いたことは一度もなかった。
明治三十五年三月十日の日記に午前十時「|此《この》|日《ひ》始メテ腹部の穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小サキ穴ト思ヒシニガランドナリ心持悪クナリテ泣ク」とある。その日の午後一時には「始終ドコトナク苦シク、泣ク」とも書いてある。子規は大人だから泣かずにいられなかったのだろうが、娘の方は十一もある穴を見たとき、まったく無表情で、もとより泣きはしなかった。食事だけが楽しみで、毎日の日記に食物とその美味、不味ばかり書いている子規。何を食べても無言の娘。この二人の世界では、大人と子供がまったく完全に入れ違いになっているので、僕は「仰臥漫録」を読む手を休めて、なんべん笑ってしまったか知れなかった。(こんなことを書くと、渋川|驍《ぎょう》君のごとく、不謹慎で不愉快きわまるなどというお|叱言《こ ご と》がまた現われそうだが、それでは、いっそ「なつかしい笑いであった」というような惨めな|蛇《だ》|足《そく》をつけたしてやろうか、まったく困った話である)
しかし、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、僕が大いに気負って青春論(または|淪《りん》|落《らく》論)など書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮かんできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、ガックリしているうちに、ふと書いておく気持ちになった。書かずにいられない気持ちになったのである。ただ、それだけ。
僕はしだいに詩の世界にはついて行けなくなってきた。僕の生活も文学も散文ばかりになってしまった。ただ事実のまま書くこと、問題はただの事実のみで、文章上の詩というものが、たえられない。
僕が京都にいたころ、碁会所で知り合った特高の刑事の人で、俳句の好きな人があった。ある晩、|四条《しじょう》の駅でいっしょになって電車の中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は|虚《きょ》|子《し》が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
けれども「仰臥漫録」を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「|五月雨《さみだれ》ヲアツメテ早シ|最《も》|上《がみ》|川《がわ》(芭蕉)|此《この》句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日|迄《まで》古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考ヘテ見ルト『アツメテ』トイフ語ハタクミガアツテ|甚《はなは》ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、いかなる事柄を詩材として提出すべきか、といういちばんたいせつな散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。「白描」の歌人を菱山修三は激しすぎるから|厭《いや》だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに|惹《ひ》かれざるを得ぬ。
僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、これを楽しんだりしたこともあったが、今はもうそういう楽しみが全然なくなってしまった。曲馬団とか、レビューだとか、酒だとか、ルーレットだとか、そういう現実と|奇《き》|蹟《せき》の合一、肉体のある奇蹟の追求だけが生き|甲《が》|斐《い》になってしまったのである。
子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢みる甘さはなかったであろう。しかるに僕は、いっさいの言葉の詩情に心の動かぬ|頑《がん》|固《こ》な不機嫌を知った代わりに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることができない。忘れることができないばかりでなく、生存の信条としているのである。
大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いてるうちに|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当たるとか、そういう死に方しかあり得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化のできない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。
|一生涯《いっしょうがい》めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終わりである。永遠に失われざる青春、七十になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、毒々しくて厭だとも考える。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。
スタンダールは青年のころメチルドという婦人に会い、一度別れたきりたぶん再会しなかったと記憶しているが、これがわが永遠の恋人だと言っている。折りにふれてメチルドを思いだすことによって常に|倖《しあわ》せであったとも言い、この世では許されなくても、神様の前では許されるだろうなどと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なことを言っている。本気かどうかわからないが、平然としてこう甘いことを言い、ヌケヌケとしたところがおもしろい。スタンダールと仲がいいような悪いようなメリメは、これはまた変わった作家で、生涯ほとんどたった一人の女だけを書きつづけた。彼の紙の上以外には決して実在しない女である。コロンバでありカルメンであり、そうして、この女は彼の作品の中でしだいに生育して、ヴィナス像になって、言いよる男を殺したりしている。
だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人のしかし実在しない恋人を持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるよりほかには仕方がなかろう。
一昔前の話だけれども、そのころ僕はある女の人が好きになって、会わない日はせめて手紙ぐらい|貰《もら》わないと、夜がねむれなかった。けれども、その女の人には僕のほかに恋人があって僕よりもそっちの方が好きなのだと僕は信じていたので、僕は打ち明けることができなかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて僕は|淪《りん》|落《らく》の新たな世間に|瞬《またた》きしていたのであった。僕はもう全然生まれ変わっていた。僕はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はもう僕の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから三年目ぐらいに(その間には僕は別の女の人と生活していたこともあった)女の人が突然僕を訪ねてきて、どうしてあのころ好きだと一言言ってくれなかったと|詰《きつ》|問《もん》した。女の人も内心は最も取り乱していたのであろうが、外見はしごく冷静で落ち着いて見えた。僕はすっかり取り乱してしまったのである。忘れていた激情がどこからか|溢《あふ》れてきて、僕はこの女の人と結婚する気持ちになった。それから一か月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたが、淪落の世界に落ちた僕はもう昔の僕ではなく、突然取り乱して激情に|溺《おぼ》れたりしても、ほんとはこの人がそんな激しい対象として僕の心に君臨することはもうできなくなっていたのである。
女の人がこれに気づいて先に|諦《あきら》めてしまったのは非常に賢明であったと僕は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを手紙に書いてよこしたとき、僕も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際にこれで一つの下らないことがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生まれてしまったのだから、仕方がない。さりとて僕にはヌケヌケとスタンダールのメチルド式の言い|種《ぐさ》をたのしむほどの度胸はないし、過去などはみんな一片の雲になって、しかし、スタンダールの墓碑銘の「生き、書き、愛せり」ということが、改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かもしれぬ。生きることのシノニイムだ。もっとも、生きることが愛すことのシノニイムだとも言っていい。
三 宮本武蔵
突然宮本武蔵の剣法が現われてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかもしれないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは|寸《すん》|毫《ごう》といえどもないのである。僕には、僕の性格とともに身についた発想法というものがあって、どうしてもその特別の発想法によらなければ論旨をつくしがたいという定めがある。僕の青春論には、どうしても宮本武蔵が現われなくては納まりがつかないという定めがあるから、そのことは読んで理解していただく以外に方法がない。
戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると|柳生流《やぎゅうりゅう》の|極《ごく》|意《い》だということであるが、真偽のほどは請け合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕がこれから述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意のとおりにほかならなかった。
しかしながら「肉を切らして骨を切る」という剣術の極意は、必ずしも武士道とは合致しないところがある。|具《そな》えなき敵に切りかかっては|卑怯《ひきょう》だとか、一々名乗りをあげて戦争するとか、いわゆる武士道的形式に従うと剣術の極意に合わない。「剣術」と「武士道」とは別の物だと言ってしまえば、まさしくそのとおりであって、武士道は必ずしも剣道ではない。主に対する臣というものの機構から生まれてきた倫理的な生き方全般に関するもので、一剣術の極意をもって律することはできがたいゆえんであるが、逆に武士道から剣を律しようとして「剣は身を守るものだ」と言ったり、|村《むら》|正《まさ》の剣は人を切る邪剣で正宗の剣は身を守る正剣だ、などと言うことになると、両者の食い違うところが非常にハッキリしてくるのである。
剣術には「身を守る」という術や方法はないそうだ。敵の切りかかる剣を受け止めて勝つという方法はないというのだ。大人と子供ぐらい腕が違えばとにかく、武芸者同士の立ち合いならちょっとでも先によけい切った方が勝つ。肉を切らして骨を切るというのが、まさしく剣術の極意であって、あえて流派には限らぬ普遍的な真理だという話である。
いったい武士というものは常に腰に大小を差しており、|寸《すん》|毫《ごう》の侮辱にも刀を抜いて争わねばならぬ。また、どういう偶然で人の恨みを買うかもしれず、いつ、いかなるとき|白《はく》|刃《じん》の下をくぐらねばならぬか、測りがたきものである。そうして、いったん白刃を抜き合う以上、相手を倒さねば、必ずこちらが殺されてしまう。死んでしまっては身も|蓋《ふた》もないから、是が非でも勝たねばならぬ理だ。|一《いち》か|八《ばち》かということが常に武士の覚悟の|根《こん》|柢《てい》になければならぬはずで、それに対する万全の|具《そな》えが剣術だと僕は思う。
だが、剣術本来の面目たる「是が非でも相手を倒す」という精神ははなはだ殺伐で、これをただちに処世の信条におかれては安寧をみだす憂いがあるし、平和の時の心構えとしてはふさわしくないところもある。そんなわけで、剣術本来の第一精神があらぬ方へ|韜《とう》|晦《かい》された風があり、武芸者たちも老年に及んで鋭気が衰えれば家庭的な韜晦もしたくなろうし、剣の用法もしだいに形式主義に走って、本来殺伐、あくまで必殺の剣が、何か悟道的な円熟を目的とするかのような変化を見せたのであろうと思われる。けだし剣本来の必殺第一主義ではその荒々しさ激しさに武芸者自身が精神的に抵抗しがたくなって、いい加減で妥協したくなるのが当然だ。
相手をやらなければこちらが命をなくしてしまう。まさに生死の最後の場だから、いつでも死ねるという|肚《はら》がすわっていればこれに越したことはないが、こんな覚悟というものは口で言いやすいけれども達人でなければできるものではない。
僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と|生涯《しょうがい》不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。もっとも夢酔は武芸者などともっともらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生活だから子々孫々のいましめのために自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。
|遊《ゆう》|蕩《とう》|三《ざん》|昧《まい》に一生を送った剣術使いだから夢酔先生ほとんど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかと言うと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷|牢《ろう》へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本はずしてしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。|俺《おれ》もいろいろと悪いことをして座敷牢へ入れられるようになったのだから、まアしばらく|這《は》|入《い》っていてみようという気になったのだ。そうして二年ほど這入っていた。そのとき文字を覚えたのである。
それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字どおり言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃ|駄《だ》|目《め》だぜ、としゃべるように書いてある。
僕は「勝海舟伝」の中へ引用されている「夢酔独言」を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、これはまことに驚くべき文献のひとつである。
この自叙伝の行間に不思議な|妖《よう》|気《き》を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という|確《かっ》|乎《こ》|不《ふ》|抜《ばつ》、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく「勝海舟伝」がどこへ紛失したか見当たらないので残念であるが、実際一ページも引用すればただちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の|無《ぶ》|頼《らい》|三《ざん》|昧《まい》の生活を書き|綴《つづ》ったものだ。
子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の|悠《ゆう》|々《ゆう》たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪なみごとさを構成しているものである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という少数の人が持ち得るだけのきわめてまれな現実である。
常に|白《はく》|刃《じん》の下に身を置くことを心掛けて修業に励む武芸者などは、この心掛けが当然あるべきようでいて、実は決してそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっと深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この|希《け》|有《う》な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終わったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばならぬ。勝海舟という作品を|創《つく》るだけの偉さを持った親父であった。
夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十歳の筆になるという「|五輪書《ごりんのしょ》」と「夢酔独言」の気品の高低を見ればわかる。「五輪書」には道学者的な高さがあり、「夢酔独言」には|戯《げ》|作《さく》|者《しゃ》的な低さがあるが、文章にそなわる個性の精神的深さというものは比すべくもない。「夢酔独言」には最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ個性の深さがあるのである。
しかしながら、晩年の悟りすました武蔵はとにかくとして、青年客気の武蔵はこれまた|希《け》|有《う》な達人であったということについて、僕はしばらく話をしてみたいのである。
晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向かって、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と|訊《たず》ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、|都《と》|甲《こう》|太《た》|兵《へ》|衛《え》という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、またほかに取り柄というものも見当たらぬ平凡な人物である。殿様もはなはだ|呆《あき》れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと|訊《き》いてみると、本人に日ごろの心構えをお訊ねになればわかりましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日ごろの心構えというものを訊ねてみた。
太兵衛はしばらく沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のオメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日ごろの心構えということについてのお|訊《たず》ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、また、生来|臆病者《おくびょうもの》で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起こって命を落とすかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟ができれば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を|怖《おそ》れなくなるようなさまざまなくふうを凝らしたりした。そのおかげで、近ごろはどうやら、いつ殺されてもいいという覚悟だけはできて、夜も安眠できるようになったが、これが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると|傍《そば》にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の|極《ごく》|意《い》でございます、と言ったという話である。
都甲太兵衛はその後重く用いられて江戸詰の家老になったが、このとき不思議な手柄をあらわした。ちょうど藩邸が|普《ふ》|請《しん》中で、建物はできたがまだ庭ができていなかった。ところが殿様が登城してほかの殿様と話のうちに、庭ぐらい一晩でできる、とウッカリ口をすべらして威張ってしまった。苦労を知らない殿様同士だから、人の揚げ足をとったとなるともう放さぬ。それでは今晩一晩で庭を作ってみせてください。ああよろしいとも。キッとですね。ということになって、殿様は|蒼《そう》|白《はく》になって藩邸へ帰ってきた。すぐさま都甲太兵衛を召し寄せて、今晩一晩でぜひとも庭を造ってくれ。よろしゅうございます。太兵衛はハッキリとうけあったものである。一晩数千人の人夫が出入りした。そして翌朝になると、一夜にして|鬱《うっ》|蒼《そう》たる森ができ上がっていたのであった。もっとも、この森は三日ぐらいしか持たない森で、どの木にも根がついていなかったのだ。宮本武蔵の高弟はこういう才能をもっていた。都甲家は今も熊本につづいているという話である。
宮本武蔵に「十智」という書があって、その中に「変」ということを説いているそうだ。つまり、知恵のある者は一から二へ変化する。ところが知恵のないものは、一は常に一だと思い思い込んででいるから、智者が一から二へ変化すると|嘘《うそ》だと言い、約束が違ったと言って怒る。しかしながら場に応じて身を変え心を変えることは兵法のたいせつな極意なのだと述べているそうだ。
宮本武蔵は剣に生き、剣に死んだ男であった。どうしたら人に勝てるか自分よりも修業をつみ、術においてまさっているかもしれぬ相手に、どうしたら勝てるか、そのことばかり考えていた。
武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」という覚悟を、これが剣法の極意でございますと、言っているけれども、しかし、武蔵自身の歩いた道は決してそれではなかったのである。彼はもっと凡夫の弱点のみを多く持った度しがたいほど鋭角の多い男であった。彼には、いつ死んでもいい、という覚悟がどうしても|据《す》わらなかったので、そこに彼の独自な剣法が発案された。つまり彼の剣法は凡人凡夫の剣法だ。覚悟定まらざる凡夫が敵に勝つにはどうすべきか。それが彼の剣法だった。
松平|出《いず》|雲《もの》|守《かみ》は彼自身柳生流の使い手だったから、その家臣には武術の達人が多かったが、武蔵は出雲守の面前で家中随一の使い手と手合わせすることになった。
選ばれた相手は棒使いで、八尺余の八角棒を持って庭に現われて控えていた。武蔵が書院から木刀をぶらさげて降りてくると、相手は書院の降り口にただ控えて武蔵の降りてくるのを待っている。むろん、構えてはいないのである。
武蔵は相手に用意のないのを見ると、まだ階段を降りきらぬうちに、いきなり相手の顔をついた。試合の|挨《あい》|拶《さつ》も交わさぬうちに突いてくるとは無法な話だから、大いに怒って棒を取り直そうとするところを、武蔵は二刀でバタバタと敵の両腕を打ち、次に頭上から打ち下ろして倒してしまった。
武蔵の考えによれば、試合の場にいながら用意を忘れているのがいけないのだと言うのである。何でも構わぬ。敵の|隙《すき》につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用のできるものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、またどんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。
僕は先日、吉田精顕氏の「宮本武蔵の戦法」という文章を読んで、目の覚めるようなおもしろさを覚えた。吉田氏は武徳会の教師で氏自身二刀流の達人だということであるが、武術専門家の筆になった武蔵の試合ぶりというものははなはだ独特で、小説などで表わす以上に、|光《こう》|彩《さい》|陸《りく》|離《り》たる個性を表わしているのである。以下、吉田氏の受け売りをして、すこしばかり武蔵の戦法をお話ししてみたいと思う。ただ、僕流にゆがめてあるのは、これは僕の考えだから仕方がない。
武蔵が吉岡清十郎と試合したのは二十一の秋で、父の|無《む》|二《に》|斎《さい》が吉岡|憲《けん》|法《ぽう》に勝っているので、父の武術にあきたらなかった武蔵は、自分の剣法をためすために、まず父の勝った吉岡に自分も勝たねばならなかった。
武蔵は約束の場所へ時間におくれて出掛けて行った。待ち疲れていた清十郎は武蔵を見るとただちに大刀の|鞘《さや》を払った。ところが武蔵は右手に木刀をぶらさげている。敵が刀を抜くのを見てもいっこうに立ち止まって身構えを直したりせず、今まで歩いてきた同じ速度と同じ構えで木刀をぶらさげたまま近づいてくるのである。試合の気配りがなくただ近づいてくるので清十郎はその不用意に|呆《あき》れながら見ていると、武蔵の速度は意外に早くもう|剣《けん》|尖《さき》のとどく所まで来ていた。猶予すべきではないので、清十郎はいきなり打ちだそうとしたが、一瞬先に武蔵の木刀が上へ突きあげてきた。さては突きだと思って避けようとしたとき、武蔵は突かず、ふりかぶって一撃のもとに打ち下ろして倒してしまった。清十郎は死ななかったが、不具者になった。
清十郎の弟、伝七郎が|復讐《ふくしゅう》の試合を申し込んできた。伝七郎は大力な男で兄以上の使い手だという話なのである。武蔵はまた約束の時間におくれて行った。今度の試合は復讐戦だから真剣勝負だろうと思って武蔵は木刀を持たずに行ったが、行ってみると驚いた。伝七郎は五尺何寸もある木刀を持っていて、遠方に武蔵の姿を見かけるともう身構えているのである。武蔵は瞬間ためらったがすぐ決心して刀を抜かず素手のまま今までどおりの足並みで近づいて行った。伝七郎は油断なく身構えていたが、いつ真剣を抜くだろうかということを考えていたので気がついた時には、五尺の木刀が長すぎるほど武蔵が近づいていたのである。そのとき刀を抜けば武蔵は打たれたかもしれぬが、突然とびかかって、伝七郎の木刀を奪いとった。そうして一撃の下に打ち殺してしまったのである。
吉岡の門弟百余名が、清十郎の一子又七郎という子供をかこんで武蔵に果たし合いを申し込んだ。敵は多勢である。今度は約束の時間よりもはるかに早く出向いて木の陰に隠れていた。そこへ吉岡勢がやってきて、武蔵はまたおくれてくるだろうなどと|噂《うわさ》しているのが聞こえる。武蔵は大小を抜いて両手に持っていきなり飛びだして又七郎の首をはね、切って逃げ、逃げながら切った。敵が全滅したとき、武蔵がふと気がつくと、|袖《そで》に弓の矢が刺さっていたが、傷は一か所も受けていなかった。
|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》というクサリ|鎌《がま》の達人と試合をしたことがある。クサリ鎌というものはだいたいにおいて鎌の刃渡りが一尺三寸ぐらい。柄が一尺二寸ぐらい。この柄からクサリがつづいていてクサリの先に分銅がつけてある。これを使う時には、左手に鎌を持ち、右手でクサリのほぼ中ほどを持ち、右手でクサリの分銅を|廻《かい》|転《てん》させる。講談によると、分銅と鎌とで交互に攻撃してくるように言うけれども、これは不可能で、離れている間は分銅はいつ飛んでくるかわからぬが、鎌の方は接近するまで役に立たない。だから離れている時は、分銅にだけ注意すれば良いのである。また、クサリ鎌の特色の中で忘れてはならぬことはクサリの用法で、これを引っぱると棒になるから、これで大刀を受けたり|摺《す》りはずしたりできるのだそうだ。講談によると、クサリを|太《た》|刀《ち》にまきつけたらもうしめたもので、クサリ鎌使いの方は落ち着いてジリジリ敵を引き寄せるなどと言うけれども、そんな間抜けなクサリ鎌使いはいないそうで、分銅のまきついた瞬間には鎌の方が|斬《き》りこんでいるものだそうだ。
宍戸梅軒は武蔵を見ると分銅を廻転させはじめた。武蔵は五、六十歩離れて右手に大刀をぬいてぶらさげたまましばらく分銅の廻転を見ていたが、右手の大刀を左手に持ち変えた。それから右手に小刀を抜いた。武蔵は左ギッチョではないから(肖像を見るとわかる)本来だったら右手に大刀、左手に小刀のはずだけれどもこの時は逆になっていることを注意していただきたい。さて武蔵は左右両手ともに上段にふりかぶったのである。そうして、右手の小刀を敵の分銅の廻転に合わせて同じ速度で|廻《まわ》しはじめた、こうして廻転の調子を合わせながらジリジリと歩み寄って行った。
梅軒は驚いた。分銅で武蔵の顔面を打つには同じ速度で|廻《かい》|転《てん》している小刀が邪魔になる。邪魔の小刀に分銅をまきつければ、左の大刀が|怖《おそ》ろしい。やむなくジリジリ後退すると武蔵はジリジリ追うてくる。と、クサリが下へ廻った瞬間に、武蔵の小刀が手を離れて梅軒の胸へとんできた。慌てて廻転をみだした時には左手の大刀が延びて梅軒の胸を突きさしていた。梅軒は危うく身をそらしたが次の瞬間には頭上から一刀のもとに|斬《き》り伏せられていたのである。この試合には梅軒の弟子が立ち合っていたが、先生斬らるというので騒ぎかけたとき、武蔵はすでに両刀を持ち直して弟子の中へ斬りこんでいたのであった。
剣法には固定した型というものはない。というのが武蔵の考えであった。相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵はこれを否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても|駄《だ》|目《め》で、あらゆる変化に応じ得る根幹だけがだいじだと言って、その形式主義を非難したのである。
これとほぼ同じ見解の相違が、佐々木小次郎と武蔵の間にも見ることができる。
小次郎は元来富田勢源の高弟で、勢源門下に及ぶ者がなくなり、勢源の弟の次郎左衛門にも勝ったので、大いに自信を得て「|巌流《がんりゅう》」という一派をひらいた男である。元々富田流は剣の|速捷《そくしょう》を尊ぶ流派だから、小次郎もまた速技を愛する剣法だった。彼は橋の下をくぐる|燕《つばめ》を斬って速技を会得したというが、小次郎の見解によれば、要するに燕を斬るには|初《しょ》|太《だ》|刀《ち》をかわして燕が身をひるがえす時、その身をひるがえす速力よりも早い速力で斬ればいいという相対的な速力に関する考えだった。
ところが武蔵によれば、相対的な速力それ自身には限度がある。つまり変化に応じてあらかじめ型をつくることと同じで、|燕《つばめ》の速力に応じる速力を用意しても燕以上の速力のものには用をなさぬ。だから、いちばんたいせつなのは敵の速力に対するこちらの観察力で、いかなる速力にも応じ得る眼をつくることが|肝《かん》|腎《じん》だという考えだった。
小次郎は燕から会得した速剣を「虎切剣」と名づけて諸国を試合して|廻《まわ》り一度も負けたことがなく、|小《こ》|倉《くら》の細川家に迎えられて、剣名大いに高かった。そのころ京都にいた武蔵は小次郎の隆々たる剣名を耳にして、その速剣と試合ってみたいと思ったのだ。速剣それ自身は剣法の本義でないという彼の見解から、当然のことであった。
彼は小倉へ下って細川家へ試合を願い出で、許されて、|船《ふな》|島《しま》で試合を行なうことになった。武蔵は家老の長岡佐渡の家に泊まることになり、翌朝舟で船島へ送られるはずであったが、彼自身の考えがあって、ひそかに|行方《ゆ く え》をくらまし、下関の|廻《かい》|船《せん》|問《どん》|屋《や》小林太郎左衛門の家へ泊まった。
翌日になって、もう小次郎が船島へついたという知らせが来たとき、ようやく彼は寝床から起きた。それから食事をすませ、主人を呼んで|櫓《ろ》をもらい受けて、大工道具を借り受け、木刀を作りはじめた。何べんも渡航を催促する|飛脚《ひきゃく》が来たが、彼は耳をかさずに丹念に木刀をきざんだ。四尺一寸八分の木刀を作ったのである。
元来、小次郎は三尺余寸の「|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》」とよばれた大剣を使い、それがはなはだ有名であった。武蔵も三尺八分の例外的な大刀を帯びてはいたが、物干竿の長さには及ばぬ。のみならず小次郎は速剣で、この長い剣を振り下ろすと同時に返し打つ。この返しが小次郎独特の虎切剣であった。これに応ずるには、虎切剣のとどかぬところから、片手打ちに手を延ばして打つ、これが武蔵の戦法で、特殊な木刀を作ったのもそのためだった。
武蔵は三時間おくれて船島へついた。遠浅だったので武蔵は水中へ降りた。小次郎は待ち疲れて大いにいらだっており、武蔵の降りるのを見ると憤然波打ち際まで走ってきた。
「時間に遅れるとは何事だ。気おくれがしたのか」
小次郎は|怒《ど》|鳴《な》ったが、武蔵は答えない。黙って小次郎の顔を見ている。武蔵の予期のとおり小次郎ますます怒った。大剣を抜き払うと同時に|鞘《さや》を海中に投げすてて構えた。
「小次郎の負けだ」と武蔵は静かに言った。
「なぜ、|俺《おれ》の負けだ」
「勝つつもりなら、鞘を水中へ捨てるはずはなかろう」
この問答は武蔵一生の圧巻だと僕は思う。武蔵はとにかく一個の天才だと僕は思わずにいられない。ただ彼は努力型の天才だ。堂々と独自の剣法を築いてきたが、それはまさに彼の個性があって成り立つ剣法であった。彼の剣法は常に敵に応じる「変」の剣法であるが、この最後の場へ来て、鞘を海中へ投げすてた敵の行為を反射的に利用し得たのは、彼の冷静とか修練というものもあるかもしれぬが、元来がそういう男であったのだ、と僕は思う。特に冷静というのではなく、ドタン場においても|藁《わら》をつかむ男で、その個性を生かして大成したのが彼の剣法であったのだ。|溺《おぼ》れる時にも藁をつかんで生きようとする、トコトンまで足場足場にあるものを手当たりしだい利用して最後の活へこぎつけようとする、これが彼の本来の個性であると同時に、彼の剣法なのである。個性を生かし、個性の上へ築き上げたという点で、彼の剣法はいわば彼の芸術品と同じようなものだ。彼は絵や彫刻が巧みで、絵の道も同じだと言っているが、しごく当然だと僕は思うのである。
僕は船島のこの問答を、武蔵という男の作った非常にきわどいがしかしそれゆえみごとな芸術品だと思っている。
実際試合は危なかった。間一髪のところで勝ったのである。
小次郎は激怒して大刀をふりかぶった。問答に対する答えとしての激怒をこめて振りかぶった刀なのだ。この機会を逃してならぬことを武蔵は心得ていた。なぜなら、小次郎に時間を許せば、彼は手練の剣客だから、振りかぶった剣形の中から冷静をとりもどしてくるからである。
武蔵は急速に近づいて行った。大胆なほど間をつめた。小次郎は|斬《き》り下ろした。だが、小次郎の速剣は初太刀よりもその返しがさらに怖ろしい。もとより武蔵は前進をとめることを忘れてはいない。間一髪のところで|剣《けん》|尖《さき》をそらして、前進中に振り上げた木刀を片手打ちに延ばして打ち下ろした。小次郎は倒れたが同時に、武蔵の|鉢《はち》|巻《まき》が二つに切れて下へ落ちた。
小次郎は倒れたが、まだ生気があった。武蔵が誘って近づくと果たして大刀を横に斬り払ったが、武蔵は用意していたので巧みに退き|袴《はかま》の|裾《すそ》を三寸ほど切られただけであった。しかしその瞬間木刀を打ち下ろして小次郎の胸に一撃を加えていた。小次郎の口と鼻から血が流れて、彼は即死をとげてしまった。
武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の|極《ごく》|意《い》だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著「五輪書」がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆にこれを武器に用いる剣法である。|溺《おぼ》れる者|藁《わら》もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、これを利用して勝つ剣法なのだ。
これがほんとうの剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあるのだから、是が非でも勝つことだ。どうしても勝たねばならぬ。
ところがはなはだ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会に|容《い》れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
武蔵の剣法もまた、いわば一つの|淪《りん》|落《らく》の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、しかし、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。
一か八かであるが、しかも額面どおりではなく、実力をはみだしたところで勝敗を決し、最後の活を得ようとする。伝七郎との試合では相手が大きな木刀を持参したのに驚いた時に、逆にそれを利用して素手で近づくという方法をあみだしている。小次郎との試合では、相手が|鞘《さや》を投げすてるのを逃さなかったし、松平出雲守の御前試合では相手の油断に目をとめると|挨《あい》|拶《さつ》の前に相手を打ち倒してしまった。
武蔵は試合に先立って常に細心の用意をしている。時間をおくらせて、じらしたり、逆をついて|先《さき》|廻《まわ》りしたり、試合に当たって心理的なイニシアチヴをとることを常に忘れることがなく、自分の木刀を自分でけずるというような堅実な心構えも失わないし、クサリ鎌に応じては二刀をふりかぶるという特殊な用意も怠らない。試合に当たって常に綿密な計算を立てていながら、しかし、いよいよ試合にのぞむと、さらに計算をはみだしたところに最後の活をもとめているのだ。このような即興性というものはいかほど深い意味があってもオルソドックスには成り得ぬもので、一つごとに一つの|奇《き》|蹟《せき》を|賭《か》けている。自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭け事をしているのである。その賭け事には万全の用意があり、また、自信があったのかもしれぬが、しかし、賭け事であることには変わりがない。
「小次郎の負けだ」
めざとくも利用して武蔵はそう言ったが、しかし、そこに余裕などがあるものか。武蔵はただ必死であり、必死の|凝《こ》った一念が、溺れる者の激しさで藁の奇蹟を追うているだけの話だ。余裕というもののいっさいない無意識の中の白熱の術策だから、|凄《すさ》まじいほど美しいと僕は言う。万全の計算をつくし、一生の修業を賭けた上で、なお、計算や修業をはみだしてしまう必死の術策だから美しい。彼はどうしても死にたくなかった。是が非でも生きたかった。その執着の一念が悪相の限りを凝らして彼の剣に凝っており、|縋《すが》り得るあらゆる物に縋りついて血路をひらこうとしているだけだ。最後の場にのぞんだ時に、意識せずしてこの術策を|弄《ろう》してしまう武蔵であった。救われがたい未練千万な性格を、逆に武器に駆り立てて利用している武蔵であった。
しかしながら、武蔵には、いわば悪党の|凄《すご》|味《み》というものがないのである。松平出雲の面前で相手の油断を認めると|挨《あい》|拶《さつ》前に打ち倒してしまったりして、|卑怯《ひきょう》と言えば卑怯だが、しかし悪党の凄味ではなく、むしろ、ボンクラな|田舎《い な か》者の一念凝らした馬鹿正直というようなものだ。彼はとにかく馬鹿正直に一念凝らして勝つことばかり|狙《ねら》っていた。|所《しょ》|詮《せん》は一個の剣術使いで、一王国の主たるべき悪党ぶりには縁がなかった。
いつでも死ねる、という|偉丈夫《いじょうぶ》の覚悟が彼にはなかったのだ。その覚悟がなかったために編みだすことのできた独特無比の剣法ではあったけれども、それゆえまた、剣を棄てて他に道をひらくだけの芸がなく、生活の振幅がなかった。都甲太兵衛は家老になって、一夜に庭をつくる放れ業を演じているが、武蔵は二十八で試合をやめて花々しい青春の幕をとじた後でも、一生|碌《ろく》|々《ろく》たる剣術使いで、自分の編みだした剣法が世に容れられぬことを憤るだけのことにすぎない。六十の時「五輪書」を書いたけれども、個性の上に不抜な術を築きあげた天才剣の光輝はすでになく、率直に自己の剣を説くだけの自信と力がなく、いたずらに極意書風のもったいぶった言辞を|弄《ろう》して、地水火風空の物々しい五巻に分けたり、深遠を|衒《てら》って俗に堕し、ボンクラの本性を暴露しているにすぎないのである。
剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶対面で|賭《と》|博《ばく》している淪落の術であり、奇蹟の術であったのだ。武蔵自身がそのことに気づかず、オルソドックスを信じていたのが間違いのもとで、元来世に|容《い》れられざる性格をもっていたのである。
武蔵は二十八の年に試合をやめた。その時まで試合うこと六十余度、一度も負けたことがなかったのだが、この激しさを|一生涯《いっしょうがい》持続することができたら、まさに驚嘆すべき超人と言わざるを得ぬ。けれども、それを要求するのはあまりに|苛《か》|酷《こく》なことであり、血気にはやり名誉に燃える彼とはいえ、その一々の試合の|薄永《はくひょう》を踏むがごとく、細心周到万全を期したが上にも全霊をあげた必死の一念を見れば、僕もまた思うて|慄《りつ》|然《ぜん》たらざるを得ず、同情の涙を禁じ得ないものがある。しかしながら、どうせここまでやりかけたなら、一生涯やり通してくれればよかったに。そのうちに誰かに負けて、殺されてしまっても仕方がない。そうすれば彼も救われたし、それ以外に救われようのない武蔵であったように僕は思う。鋭気衰えて「五輪書」などは下の下である。
まったくもって、剣術というものを、いちばん剣術本来の面目の上に確立していながら、あまりにも剣術の本来の精神を生かしすぎるがゆえにかえって世に容れられず、またみずからはその真相を悟り得ずに不満の一生を終わった武蔵という人は、悲劇的な人でもあるし、戯画的な|滑《こっ》|稽《けい》さを感じさせる人でもある。彼は世の大人たちに負けてしまった。柳生流の大人たちに負け、もっとつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大人になろうとしなければ、負けることはなかったのだ。
武蔵は柳生兵庫のもとに長く滞在していたことがあったという。兵庫は柳生派随一の使い手と言われた人だそうで、兵庫は武蔵を高く評価していたし、武蔵もまた兵庫を高く評価していた。二人は毎日酒をくんだり|碁《ご》を打ったりして談笑し、結局試合をせずに別れてしまった。心法に甲乙なきことをおのおの認め合っていたので試合までには及ばなかったのだという話で、なるほどあり得ることだとうなずけることではあるが、しかし僕は武蔵のためにはなはだこれをとらないものだ。試合をしなければ武蔵の負けだ。試合の中にだけしか武蔵の剣はあり得ず、また、試合をほかに武蔵という男もあり得ない。試合は武蔵にとっては彼の創作の芸術品で、試合がなければ彼自身が存在していないのだ。談笑の中に敵の心法の甲乙なきを見て笑って別れるような一人前らしい生き方を覚えては、もう武蔵という作品は死滅してしまったのだ。
何事も勝負に生き、勝負に徹するということは|辛《つら》いものだ。僕は時々日本|棋《き》|院《いん》の大手合わせを見物するが、手合わせが終わると、必ず今の盤面を並べ直して、この時にこう、あの時にはあの方がというような感想を述べて研究し合うものである。ところが、勝った方は談論風発、感想を述べては石を並べその楽しそうなありさまお話にならないのに、負けた方ときたら石のように沈んでしまって、まさに永遠の恨みを結ぶかのごとく、釈然としないことはなはだしい。僕でも碁を打って負けた時には口惜しいけれども、その道の商売人の恨みきった|形相《ぎょうそう》は質的に比較にならないものがある。いのちを|籠《こ》めた勝負だから当然の話だけれども、負けた人のいつまでも釈然としない顔付きというものは、眺めて決して悪い感じのものではない。中途半端なところがないからである。テレ隠しに笑うような、そんなところが全然ないのだ。
将棋の木村名人は不世出の名人と言われ、生きながらにしてこういう評価を持つことはおよそあらゆる芸界においてきわめてまれなことであるが、全く彼は心身あげて盤上にのたくり|廻《まわ》るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である。碁打ちの方には、この闘志の|片《へん》|鱗《りん》だに比肩すべき人がない。|相撲《す も う》|取《とり》にも全然おらぬ。
けれども、木村名人も、もう何度負けたかしれないのだ。これに比べれば武蔵の道は陰惨だ。負けた時には命がない。佐々木小次郎は一生に一度負けて命を失い、武蔵はともかく負けずに済んで、畳の上で往生を遂げたが、全く命に関係のない碁打ちや将棋指しですら五十ぐらいの齢になると勝負の激しさに堪えられないなどと言いだすのが普通だから、武蔵の剣を一貫させるということはまさに尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、しかしながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。
勝つのが全然|嬉《うれ》しくもなくおもしろくもなく何の張り合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは「五輪書」という平凡な本を読んでみればわかることだ。ただ、だらだらと生きのびて「五輪書」を書き、その本のおかげをもって今日もなおその盛名を伝えているというわけだが、しかし、このような盛名が果たして何物であろうか。
四 再びわが青春
|淪《りん》|落《らく》の青春などと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかしれないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。
そうかと言って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか|讃《さん》|歌《か》というものがあるわけでもないことは先刻白状に及んだとおりで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕には僕なりの一条の|燈《ともし》の目当てぐらいはあるもので、|茫《ぼう》|漠《ばく》たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。
非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのはあんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなく、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答ができなくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかもしれないのだ。
実際、信念というものは、死することによって初めて生きることができるような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これもまたひとつの淪落であり、青春そのものにほかならないと言えるであろう。
けれども、盲目的な信念というものは、それがいかほど激しく生と死を一貫して貫いても、さまで立派だと言えないし、かえって、そのヒステリイ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。
僕は天草四郎という日本における空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とそのみごとな構成について、もう三年越し小説に書こうと努めている。そのために、|切《きり》|支《し》|丹《たん》の文献をかなり読まねばならなかったけれども、熱狂的な信仰をもって次から次へ堂々と死んで行った日本のおびただしい殉教者たちが、しかし、僕は時に無益なヒステリイ的な|饒舌《じょうぜつ》のみを感じ、不快を覚えることがあるのであった。
切支丹は自殺をしてはいけないという|戒《いまし》めがあって、当時こういう戒めははなはだ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引き立てられて武士らしからぬ死を選んだ。また、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この|掟《おきて》によって、切支丹らしい捕われ方をするために、|捕《ほ》|吏《り》に取り囲まれたとき、わざわざ腰の刀を|鞘《さや》ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、|首《くび》|斬《き》りの役人に感謝の|辞《ことば》と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒たちはみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者たちというものは、あたかも刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。無数の彼らの流血は|凄《せい》|惨《さん》眼を|掩《おお》わしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には、時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。
いのちにだって取り引きというものがあるはずだ。いのちの代償が計算はずれの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人々は十銭の|茄《な》|子《す》を値切るのにヒステリイは起こさないのに、いのちの取り引きに限ってヒステリイを起こしてわけもなく破産を急ぐというのは決して立派なことではない。
宮本武蔵は吉岡一門百余名を相手に血闘の朝、|一乗寺下《いちじょうじさが》り|松《まつ》の果たし場へ|先《さき》|廻《まわ》りして急ぐ途中、たまたま|八《はち》|幡《まん》様の前を通りかかって、ふと、必勝を祈願せずにいられない気持ちになり、まさに神前に|額《ぬか》ずこうとして、思いとどまった。自分で勝ち抜かねばならないという勇猛心を駆り起こしたのである。
僕はこの武蔵を非常にいとしいと思うけれども、これはただこれだけの話で、この出来事を彼の一生に結びつけて大きな意味をもたせることには同感しない。武蔵のみではないのだ。いかなる神の前であれ、神の前に立ったとき何人が|晏《あん》|如《じょ》たり得ようか。神域とかお寺の|境《けい》|内《だい》というものは閑静だから、僕は時々そこを選んで散歩に行くが、一片の信仰もない僕だけれども、本殿とか本堂の前というものは、いつによらず心を騒がせられるものである。祈願せずにいられぬような切ない思いを駆り立てられる。さればといってほんとうに額ずくだけのひたむきな思いにもなりきれないけれども、こんなに煮えきらないのは|怪《け》しからぬことだから、今度から思いきって額ずくことにしようと思って、ある日決心して氏神様へでかけて行った。いよいよとなってお辞儀だけは済ましたけれども、同時に突然僕の身体に起こったギゴチのなさにビックリして、やっぱり僕のような|奴《やつ》は、心にどんな切ない祈願の思いが起こっても、それはただ心の|綾《あや》なのだから実際に頭を下げたりしてはいけないのだと|諦《あきら》めた。
自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も|怖《おそ》れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りのできない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお|賽《さい》|銭《せん》をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に|羨《うらや》ましいと思ったけれども、僕はどうしてもいっしょに並んで拝む勇気が起こらず、離れた場所で|鳩《はと》の豆を|蹴《け》とばしたりしていた。
数年前、菱山修三が外国へ出帆する一週間ぐらい前に階段から落ちて|喀《かっ》|血《けつ》し、生存を絶望とされたことがあった。僕も、もう菱山は死ぬものとばかり思っていたのに、一年半ぐらいで|恢《かい》|復《ふく》してしまった。菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟ができさえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を、いっさい断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである、そうして、絶対安静を守るのだそうだ。
その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所合壁みんな肺病患者で、悲しいかな、彼らの大部分の人たちは他のいっさいを|放《ほう》|擲《てき》して治病をもって人生の目的とする覚悟がなく、何かしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることがすぐわかった。菱山よりもはるかに軽症と思われた人たちが、読書に|耽《ふけ》ったり散歩に出歩いたりしているうちにたちまちバタバタ死んで行った。治病をもって人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかった。
死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精いっぱいで、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。
そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイムで、年齢もなければ、また、終わりというものもなさそうである。
僕が小説を書くのも、また、何か自分以上の|奇《き》|蹟《せき》を行なわずにはいられなくなるためで、全くそれ以外にはたいした動機がないのである。人に笑われるかもしれないけれども、実際そのとおりなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の|淪《りん》|落《らく》のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、|唯《ゆい》|一《いつ》の情熱とする以外にほかの生き方を知らなくなってしまったのだ。
これははなはだ自信たっぷりのようでいて、実はこれぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。
だがしかし、持って生まれた力量というものは、いまさら悔いても及ぶはずのものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。
僕の友達に長島|萃《めつむ》という男があって、八年前に発狂して死んでしまったけれども、この男の父親は長島隆二という往昔名高い陰謀政治家であった。この政治家は子供に向かって、まともな仕事をするな、山師になれ、ということを常々説いていたそうで、株屋か小説家になれと言ったそうだ。
この話をそのころ僕の好きだった女の人に話したら、その人はキッと顔をあげて、小説家は山師ですか、と言った。
その当時は僕も閉口して、イエ、小説家は山師の仕事ではありません、と言ったかもしれないが(よく覚えていないのだ)、今になって考えると、さすがに陰謀政治家は|巧《うま》いことを言ったものだ。もっとも彼は山師の意味を僕とは違ったふうに用いているのかもしれないが、僕は全く小説は山師の仕事だと考えている。金が出るか、ニッケルが出るか、ただの山だか、掘り当ててみるまでは見当がつかなくて、とにかく自分の力量以上を|賭《か》けていることが確かなのだから。もっと普通の意味においても小説家はやっぱり山師だと僕は考えている。山師でなければ|賭《と》|博《ばく》|師《し》だ。すくなくとも僕に関するかぎりは。
こういう僕にとっては、|所《しょ》|詮《せん》一生が毒々しい青春であるのはやむを得ぬ。僕はそれにヒケ目を感じることなきにしもあらずという自信のないありさまを白状せずにもいられないが、時には誇りを持つこともあるのだ。そうして「淪落に殉ず」というような一行を墓に刻んで、サヨナラだという魂胆をもっている。
要するに、生きることが全部だというよりほかに仕方がない。
堕落論
半年のうちに世相は変わった。|醜《しこ》の|御《み》|楯《たて》といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って|闇《やみ》|屋《や》となる。ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の月日のうちに夫君の|位《い》|牌《はい》にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。
昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現われてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終わらせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私ときわめて親しかった|姪《めい》の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれてよかったような気がした。一見|清《せい》|楚《そ》な娘であったが、壊れそうな危なさがあり|真《まっ》|逆《さか》|様《さま》に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女たちに使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人たちの悪徳に対する理解力は敏感であって、彼らは女心の変わりやすさを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、これは皮相の見解で、彼らの案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。
武士は|仇《あだ》|討《う》ちのために草の根を分け|乞《こ》|食《じき》となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に|復讐《ふくしゅう》の情熱をもって|仇敵《きゅうてき》の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼らの知っていたのは仇討ちの法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否|肝《かん》|胆《たん》|相《あい》|照《て》らすのは日常茶飯事であり、仇敵なるがゆえにいっそう肝胆相照らし、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我我は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも|権謀術数《けんぼうじゅつすう》の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛について執筆を禁じたごとく、|古《いにしえ》の武人は武士道によってみずからのまた部下たちの弱点を抑える必要があった。
小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き物の意志を示している。政治の場合において、歴史は個をつなぎ合わせたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿において政治もまた巨大な独創を行なっているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、しかしまた、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿において独創をもち、意欲をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波のごとくに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。これもまた歴史の独創、または|嗅覚《きゅうかく》であったであろう。歴史は常に人間を|嗅《か》ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項であるために非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点においては全く人間的なものである。
私は天皇制についても、きわめて日本的な(したがってあるいは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時にみずから陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に|担《かつ》ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの|嗅覚《きゅうかく》によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代わり得るものならば、|孔《こう》|子《し》家でも|釈《しゃ》|迦《か》家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかっただけである。
すくなくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を|嗅《か》ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑ぐりもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によってお家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼らは本能的な実質主義者であり、自分の一生が|愉《たの》しければよかったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、また、みずから威厳を感じる手段でもあったのである。
我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることができないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、ほかの事柄について、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一乗寺下り松の果たし場へ急ぐ途中、|八《はち》|幡《まん》様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、このみずからの性癖に発し、また向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇でまず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。
日本人のごとく権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な|嗅覚《きゅうかく》において彼らはその必要を感じるよりもみずからの居る現実を疑ぐることがなかったのだ。秀吉は|聚《じゅ》|楽《らく》に行幸を|仰《あお》いでみずから盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児のごとくに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾もあり得るのである。
要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変わりやすいから「節婦は二夫に|見《まみ》えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理において人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、また自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。
まったく美しいものを美しいままで終わらせたいなどと|希《ねが》うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に|堕《お》ちて暗黒の|曠《こう》|野《や》をさまようことを希うべきであるかもしれぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにもかかわらず美しいものを美しいままで終わらせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に|淪《りん》|落《らく》自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかもしれないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私にはわからない。私は二十の美女を好む。
死んでしまえば身も|蓋《ふた》もないというが、果たしてどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは|戦《せん》|歿《ぼつ》した英霊たちだ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍たちがなお生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目わからず、しかしおそらく私自身も、もしも私が六十の将軍であったならやはり生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ|茫《ぼう》|然《ぜん》たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老将軍もまた二十の美女を好んでいるのか。そして戦歿の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味においてであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこからいちずに二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけのわからぬものだ。
私は血を見ることが非常に|嫌《きら》いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振り向いて逃げだしていた。けれでも、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や|焼夷弾《しょういだん》に|戦《おのの》きながら、狂暴な破壊に|劇《はげ》しく|亢《こう》|奮《ふん》していたが、それにもかかわらず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
私は疎開をすすめまたすすんで|田舎《い な か》の住宅を提供しようと申し出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼け跡の|防《ぼう》|空《くう》|壕《ごう》を、最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れたときは東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の|炸《さく》|裂《れつ》するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持ちになっていたのである。私は死ぬかもしれぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。しかし|廃《はい》|墟《きょ》に生き残り、何か抱負を持っていたかと言えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを|賭《か》ける必要があるという奇妙な|呪《じゅ》|文《もん》に|憑《つ》かれていたというだけであった。そのくせ私は|臆病《おくびょう》で、昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのときちょうど上京していた次兄が防空壕の中から|焼夷弾《しょういだん》かと|訊《き》いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。また当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが|据《す》えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも|掩《えん》|壕《ごう》に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名ほどの一団のみであった。まず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落ち着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。
けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。|麹町《こうじまち》のあらゆる大邸宅が|嘘《うそ》のように消え失せて|余《よ》|燼《じん》をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで|濠《ほり》|端《ばた》の緑草の上に|坐《すわ》っている。片側に余燼をあげる|茫《ぼう》|々《ぼう》たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変わるところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている|道《どう》|玄《げん》|坂《ざか》では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、|罹《り》|災《さい》|者《しゃ》たちの|蜿《えん》|蜒《えん》たる流れがまことにただ無心の流れのごとくに死体をすりぬけて行き|交《か》い、路上の鮮血にも気づく者すらおらず、たまさか気づく者があっても、捨てられた|紙《かみ》|屑《くず》を見るほどの関心しか示さない。米人たちは終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者たちの行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五、六、十六、七の娘たちであった。彼女らの笑顔は|爽《さわ》やかだった。焼け跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張り番をして路上に|日向《ひ な た》ぼっこをしていたり、この年ごろの娘たちは未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼け野原に娘たちの笑顔を探すのがたのしみであった。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、|泡《ほう》|沫《まつ》のような|虚《むな》しい幻影にすぎないという気持ちがする。
徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ、また地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に|見《まみ》えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な|跫《あし》|音《おと》、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫のごとき虚しい幻像にすぎないことを見いださずにいられない。
特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は|闇《やみ》|屋《や》となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかもしれない。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に|唯《ゆい》|一《いつ》の不思議である。六十七十の将軍たちが切腹もせず|轡《くつわ》を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ|堕《お》ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾|正《*》という|老《ろう》|獪《かい》|陰《いん》|鬱《うつ》な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を|枕《まくら》に討ち死にしたが、死ぬ直前に毎日の習慣どおり延命の|灸《きゅう》をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
私は|戦《おのの》きながら、しかし、|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近ごろの東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、|暗《くら》|闇《やみ》の深夜を歩き、戸締まりなしで眠っていたのだ。戦争中の日本は|嘘《うそ》のような理想郷で、ただ|虚《むな》しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがないかぎり、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておればよかったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行なわれるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに|闇《やみ》|屋《や》となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は|可《か》|憐《れん》であり|脆弱《ぜいじゃく》であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
続堕落論
敗戦後国民の道義|頽《たい》|廃《はい》せりというのだが、しからば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も|然《しか》らずと思う。
私の生まれ育った新潟市は石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いので万代橋という橋の|袂《たもと》まで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を校長先生の訓辞において幾度となくきかされたものであった。ところが先日郷里の人が来ての話に、この話が今日では新津某という新しい石油成金の逸話に変わり、現になお新潟市民の日常の教訓となり、生活の規範となっていることを知った。
百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我らの日常お手本とすべき生活であるか。この話一つについての問題ではない。問題はかかる話の底をつらぬく精神であり、生活のありかたである。
戦争中私は日本映画社というところで嘱託をしていた。そのとき、やっぱり嘱託の一人にOという新聞|聯《れん》|合《ごう》の理事だか何かをしている威勢のいい男がいて、談論風発、吉川英治と佐藤紅緑が日本で偉い文学者だとか、そういう大先生であるが、会議の席でこういう映画を作ったらよかろうと言って意見をのべた。その映画というのは老いたる農夫のゴツゴツ節くれた手だとかツギハギの着物だとか、父から子へ子から孫へ伝えられる忍苦と耐乏の魂の象徴を|綴《つづ》り合わせ映せという、なぜなら日本文化は農村文化でなければならず、農村文化から都会文化に移ったところに日本の堕落があり、今日の悲劇があるからだ、というのであった。
この話は会議の席では大いに反響をよんだもので、専務(事実上の社長)などは大感服、僕をかえりみて、君あれを脚本にしないかなどと言われて、私は御辞退申し上げるのに苦労したものであるが、この話とてもこの場かぎりの戦時中の一場の悪夢ではないだろう。戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていたのであるが、それは一時の流行の思想であるとともに、日本大衆の精神でもあった。
一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかもしれぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の|執《しつ》|拗《よう》な計算が発達しているだけである。農村は|淳朴《じゅんぼく》だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。
大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する|不《ふ》|撓《とう》不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼ら農民たちの小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起こり、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が亡びて武士が興った。農民たちの税との戦い、その不撓不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、日本の歴史が移り変わっている。人を見たら泥棒と思えというのが王朝の農村精神であり、事実群盗横行し、|地《じ》|頭《とう》はころんだときでも何か|掴《つか》んで起き上がるという達人であるから、他への不信、排他精神というものは農村の魂であった。彼らは常に受け身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。その代わり押しつけられた事柄を彼は独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受け身のずるさが、|孜《し》|々《し》として、日本の歴史を動かしてきたのであった。
日本の農村は今日においてもなお奈良朝の農村である。今日諸方の農村における相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る、彼らは親友隣人を|執《しつ》|拗《よう》に裏切りつづけているではないか。損得という利害の打算が生活の|根《こん》|柢《てい》で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見いだすことができない。他の発見のないところに真実の文化がありうべきはずはない。自我の省察のないところに文化のありうべきはずはない。
農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起こり、文化が起こり、進歩というものが行なわれてくるのである。日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が|謳《おう》|歌《か》せられて、兵器は発達せず、根柢的に作戦の基礎が欠けてしまって、今日の無残きわまる大敗北となっている。あに兵隊のみならんや。日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、|憧《どう》|憬《けい》|讃《さん》|美《び》が過去へむけられ、たまさかに現われいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。
必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと言い、耐乏を美徳と称す。一里二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。すなわち真理によって|復讐《ふくしゅう》せられ、肉体の勤労にたより、耐乏の精神によって今日亡国の悲運をまねいたではないか。
ボタン一つ押し、ハンドルを|廻《まわ》すだけですむことを、一日じゅうエイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。しかも日本全体が、日本の|根《こん》|柢《てい》そのものが、かくのごとく馬鹿げきっているのだ。
いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らがみずから主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志でなく、実は彼らの号令であり、彼らは自分の欲するところを天皇の名において行ない。自分がまずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。
自分みずからを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼らは天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。
それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見たまえ。この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満州の一角で事変の火の手があがったという。華北の一角で火の手が切られたという。はなはだしいかな、総理大臣までその実相を告げ知らされていない。何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくのごとくに天皇をないがしろにし、|根《こん》|柢《てい》的に天皇を|冒《ぼう》|涜《とく》しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンスきわまれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実相なのである。
藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在もなお、代議士諸公は天皇の尊厳を|云《うん》|々《ぬん》し、国民はまた、おおむねそれを支持している。
昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった。
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、|朕《ちん》の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。|嘘《うそ》をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。|竹《たけ》|槍《やり》をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが|厭《いや》でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大|欺《ぎ》|瞞《まん》ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、|厭《いや》|々《いや》ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を|冒《ぼう》|涜《とく》する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには|狎《な》れており、そのみずからの|狡《こう》|猾《かつ》さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の|御《ご》|利《り》|益《やく》を|謳《おう》|歌《か》している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに|憑《つ》かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。
人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御|法《はっ》|度《と》だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、|赤《せき》|裸《ら》|々《ら》な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
日本国民諸君、私は諸君に、日本人および日本自体の堕落を叫ぶ。日本および日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。
天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用するかぎり、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。
天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。まず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ|堕《お》ちよ。復員軍人は|闇《やみ》|屋《や》となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の|綺《き》|麗《れい》ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を|賭《か》け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義|頽《たい》|廃《はい》、混乱せよ、血を流し、毒にまみれよ。まず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の|爪《つめ》を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただみずからに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間どもの|虚《むな》しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人|曠《こう》|野《や》を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人を|や《*》、とはこの道だ。キリストが|淫《いん》|売《ばい》|婦《ふ》にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。
悲しいかな、人間の実相はここにある。しかり、実に悲しいかな、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。
尾崎|咢《がく》|堂《どう》は政治の神様だというのであるが、終戦後、世界|聯《れん》|邦《ぽう》論ということを唱えはじめた。彼によると、原始的な人間は部落と部落で対立していた。明治までの日本には、まだ日本という観念がなく、藩と藩で対立しており、日本人ではなく、藩人であった。そこで非藩人というものが現われ、藩の対立意識を打破することによって、日本人が誕生したのである。現在の日本人は日本国人で、国によって対立しているが、明治における非藩人のごとく、非国民となり、国家意識を破ることによって国際人となることが必要で、非国民とは大いに名誉な言葉であると称している。これが彼の世界聯邦論の根柢で、日本人だの米国人だの中国人だのと区別するのはなお原始的思想の残りに|憑《つ》かれてのことであり、世界人となり、万民国籍の区別など失うのが正しいという論である。一応傾聴すべき論であり、日本人の血などと称して後生大事にまもるべき血などあるはずがない、と放言するあたり、いささか鬼気を感ぜしむる|凄《すご》|味《み》があるのだが、私の記憶に誤りがなければ彼の夫人はイギリス人のはずであり、日本人の女房があり、日本人の娘があると、なかなかこうは言いきれない。
だが、私はあえて咢堂に問う。咢堂いわく、原始人は部落と部落で対立し、少し進んで藩と藩で対立し、国と国とで対立し、|所《しょ》|詮《せん》対立は文化の低いせいだというが、果たして|然《しか》りや。咢堂は人間というだいじなことを忘れているのだ。
対立感情は文化の低いせいだというが、国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
原始人の生活においては、家庭というものは確立しておらず、多夫多妻野合であり、|嫉《しっ》|妬《と》もすくなく、個の対立というものはきわめて|稀《き》|薄《はく》だ。文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、個の対立は激化し、|尖《せん》|鋭《えい》|化《か》する一方なのである。
この人間の対立、この基本的な、最大の|深《しん》|淵《えん》を忘れて対立感情を論じ、世界聯邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのか。家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなどとは馬鹿げきった話であり、しかして、政治というものは、元来こういうものなのである。
共産主義も要するに世界聯邦論の一つであるが、彼らも人間の対立について、人間について、人性について、咢堂と大同小異の不用意を暴露している。けだし、政治は、人間に、また、人性にふれることは不可能なのだ。
政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも|所《しょ》|詮《せん》カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって|復讐《ふくしゅう》される。
私は元来世界聯邦も大いに結構だと思っており、咢堂の説くごとく、まもるに価する日本人の血などありはしないと思っているが、しかしそれによって人間が幸福になりうるか、人間の幸福はそういうところには存在しない。人の真実の生活はさようなところには存在しない。日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。この生活は世界聯邦論だの共産主義などというものがいかように逆立ちしても、どうなし得るものでもない。しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
人間の一生ははかないものだが、また、しかし、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけのわからぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人たちの大半は家をやかれ、|壕《ごう》にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかもしれぬが、しかし、この生活に妙な落ち着きと|訣《けつ》|別《べつ》しがたい愛情を感じだしていた人間も少なくなかったはずで、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少なくなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。|闇《やみ》の女は社会制度の欠陥だと言うが、本人たちの多くは徴用されて機械にからみついていた時よりもおもしろいと思っているかもしれず、女に制服をきせて号令かけて働かせて、その生活が健全だと断定はなしうべきものではない。
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき|冒《ぼう》|涜《とく》ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に|堕《お》ちきれるほど|堅《けん》|牢《ろう》な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。
デカダン文学論
|極《ごく》|意《い》だの免許皆伝などというのは茶とか|活《いけ》|花《ばな》とか忍術とか剣術の話かと思っていたら、|関孝和《せきたかかず*》の算術などで|斎《さい》|戒《かい》|沐《もく》|浴《よく》して血判を|捺《お》し自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっている。もっとも西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、いわく言いがたしとくる。私はタバコが配給になって生まれて始めてキザミを吸ったが、昔の人間だって三服四服はつづけさまに吸ったはずで、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然のはずであるのに、そういう便利な、実質的な進歩発明という算段は浮かばずに、タバコは一服吸ってポンと|叩《たた》くところがよいなどいうフザけた通が生まれ育ち、現実に停止して進化が失われ、その停止をもてあそんでフザけた通や極意や奥義書が生まれて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろというような当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考えられてしまうのである。キセルの|羅《ら》|宇《う》は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称してますます実質を離れて枝葉に走る。フォークをひっくりかえして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考えられて疑われもしない奇妙|奇《き》|天《て》|烈《れつ》な日本であった。実質的な便利な欲求を下品と見る考えは随所にさまざまな形でひそんでいるのである。
この|歪《ゆが》められた|妖《よう》|怪《かい》的な日本的思考法の結び目に当たる伏魔殿が家庭感情という|奴《やつ》で、日本式建築や生活様式に規定された種々雑多な歪みはとにかくとして、平野謙などというよく考える批評家まで、特攻隊は女房があってはできないね。などとフザけたことを|鵜《う》|呑《の》みにして疑ぐることすらないのである。女房と女と、どこが違うのだろう。女房と愛する人とどこに違いがあるというのか、誰か愛する人なき者ありや。鐘の音がボーンと鳴ってその余韻の中に千万無量の思いがこもっていたり、その音に耳をすました二十秒ばかりで浮世の|垢《あか》を流したり、|海《の》|苔《り》の裏だか表だかのどっちか側から一方的にあぶらないと味がどうだとか、フザけたことにかかずらって何百何千語の注釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考のあり方で、近ごろは女房の|眉《まゆ》を落とさせたりオハグロをぬらせることはなくなったが、|刺《いれ》|青《ずみ》とたいして異ならないかかる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑ぐるよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見いだし、疑ぐる者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であった。女房のオハグロはなくなったが、オハグロ的マジナイは女房の全身、全心、魂の奥底にまで|絡《から》みついて生きており、それがまず日本の幽霊の親分で、平野謙のように私などよりも考える時間がよほど多いらしい人ですら、人間の姿をもろもろの幽霊からほんとうに絶縁しようというだいじな根本的な態度を忘れ、多くは枝葉について考える時間が多いのではないかと思う。彼は人の小説を|厭《いや》になるほどたくさん読むが、僕が三行読んで投げ出すものを彼は三千万語の終わりまで無理に読み、無理に幽霊をでっちあげ、そして自分のほんとうの心と真に争う、自分の幽霊と命を|賭《と》しても争う、というだいじなたった一つのことが忘れられているのだ。
日本的家庭感情の奇妙な歪みは、浮世においては人情義理という怪物となり、離俗の世界においてはサビだの幽玄だのモノノアワレなどという神秘の扉の奥に隠れていわく言いがたきものとなる。ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴ったか左が鳴ったかなどと言って、人生の大真理がそんな所に転がっていると思い、大将軍大政治家大富豪ともならん者はそういう悟りをひらかなければならないなどと、こういうフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用しているのである。西洋流の学問をして実証精神の型がわかるとこういう一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ|焼《やき》|刃《ば》で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年とともに反動的な大幽霊とみずから化して、サビだの幽玄だのますます執念を深めてしまう。学問の型を形のごとくに勉強するが、自分自身というものについて真実突きとめて生きなければならないという|唯《ゆい》|一《いつ》のものが欠けているのだ。
毎々平野謙を引き合いにして恐縮だが、先ごろ彼の労作二百余枚の「島崎藤村の『新生』に|就《つい》て」を読んだからで、他の批評家先生は駄文ばかりで、いかさま私が馬鹿げたヒマ人でも駄文を相手にするわけには行かない。
「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思い入れよろしくわが身の罪の深さを思うところが人生の深処にふれているとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたもうな。人生の深処がそんなアンドンの燈の|翳《かげ》みたいなボヤけたところにころがっていて、たまるもんか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、いちばんよくないところだ。むしろ最も|軽《けい》|蔑《べつ》すべきところである。こんなふうに書けば人が感心してくれると思って書いたに相違ないところで、第一、平野君、自分の手をつくづく|眺《なが》めてわが身の罪の深さを考える。具体的事実として、それがいったい、何物です。
自分の罪を考える、それが文学の中でほんとうの意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して表われるところにあるので手をひっくり返して眺めて鬼気迫るなどとはボーンという千万無量の鐘の思いと同じこと、|海《の》|苔《り》をひっくり返して焼いて、味がどうだというような日本の幽霊の一匹にすぎないのである。
島崎藤村は誠実な作家だというけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離というものを見ればわかる。藤村と小説とは|距《へだた》りがあって、彼のわかりにくい文章というものはこの距離をごまかすための|小《こ》|手《て》|先《さき》の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘というものではない。
これと全く同じ意味の空虚な悪戦苦闘をしている人に横光利一があり、彼の文学的|懊《おう》|悩《のう》だの知性だのというものは、距離をごまかす苦悩であり、もしくは距離の空虚が描きだす幻影的自我の苦悩であって、彼には小説と重なり合った自我がなく、したがって真実の自我の血肉のこもった苦悩がない。
このように、作家と作品に距離があるということは、その作家が処世的にいかほど|糞《くそ》マジメで謹厳誠実であっても、根柢的に魂の不誠実を意味している。作家と作品との間に内容的には空白な|夾雑《きょうざつ》物があって、その空白な夾雑物が思考し、作品をあやつり、あまつさえ作家自体、人間すらもあやつっているのだ。平野謙には、この距離がわからぬばかりでなく、この距離自体が思考する最も軽薄なヤリクリ算段が外形的に深刻|真《しん》|摯《し》であるのを、文学の深さだとか、人間の複雑さだとか、藤村文学の貴族性だとか、または悲痛なる弱さだとか、たとえばそのように考えているのである。
藤村は世間的処世においては糞マジメな人であったが、文学的には不誠実な人であった。したがって彼の誠実謹厳な生活自体が不健全、不道徳、|贋《にせ》|物《もの》であったとは私は思う。
彼は世間を|怖《おそ》れていたが、文学を甘くみくびっていた。そして彼は処世的なマジメさによって、真実の文学的|懊《おう》|悩《のう》、人間的懊悩を文章的に処理しようとし、処理し得るものとタカをくくっていた。したがって彼は真実の人間的懊悩を真に悩みまたは突きとめようとはせずに、ただ処世の便法によって処理し、終生みずからの肉体的な論理によって真実を探求する真の自己破壊というものをおよそ影すらも行ないはしなかった。
距離とは、人間と作品の間につまるこの空白をさすのであり、肉体的な論理によって血肉の真実が突きとめられ語られていないことを意味している。こう書けば、こう読み、こう感心するだろうぐらいに、批評家先生などは最も|舐《な》められていたのである。批評家をだますぐらいわけのないことはない。批評家は作家と作品の間の距離などはわからず、当人自身の書くものが距離だらけで、距離をごまかすためのヤリクリが文学のむつかしいところだぐらいに考えており、藤村ほどの不器用な人でも批評家とはケタの違う年期のはいった筆力があるから、批評家をごまかすぐらいはわけがない。問題はいかに生くべきか、であり、しかしていかに真実に生きているか、文章に隠すべからざる距離によって作家は秘密の真相を常に暴露しているのである。
*
藤村も横光利一も|糞《くそ》マジメでおよそ誠実に生き、かりそめにも遊んでいないような生活態度に見受けられる。世間的、また、態度的には遊んでいないが、文学的には全く遊んでいるのである。
文学的に遊んでいる、とは、彼らにとって倫理はみずから行なうことではなく、倫理的にもてあそばれているにすぎないということで、要するに彼らはある型によって思考しており、肉体的な論理によって思考してはいないことを意味している。彼らの論理の主点はそれみずからの合理性ということで、理論自体が自己破壊を行なうことも、盲目的な自己展開を行なうこともあり得ないのである。
かかる論理の定型性というものは、一般世間の道徳とか正しい生活などと称せられるものの基本をなす|贋《にせ》|物《もの》の生命力であって、すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは、例外なしに贋物と信じてさしつかえはない。ほんとうの倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行なわれており、現実に対する反逆が精神の基調をなしているからである。
藤村の「新生」の問題、|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》との関係は問題自体は不健全だが、小説自体は馬鹿馬鹿しく健全だ。この健全とは合理的だということで、自己破壊がなく、肉体的な論理の思考がない代わりに、型の論理が巧みに健康に思考しているという意味なのである。
藤村が真実怖れ悩んでいることは小説には表われていない。それにまた、彼が真実怖れ悩んでいることは決して文学自体の自己探究による悩みではなく、単に世間ということであり、対世間、対名誉、それだけの「健康」なものだった。彼はちょうど、たとえば全軍の先頭に死なざるを得なかった将軍の場合と同じように(この将軍がほんとうは死を怖れていることは敗戦後我々は多すぎる実例を見せられてきた)藤村も勇をふるって己れと姪との関係を新聞に発表した。けれども将軍の遺書が尽忠報国の架空の美文でうめられていると同様に、彼の小説は型の論理で距離の空白をうめているにすぎない。
なにゆえ彼は「新生」を書いたか。新しい生の発見探求のためであるにはあまりにも距離がひどすぎる。彼はそれを意識していなかったかもしれぬ。そして彼は自分では真実「新生」の発見探求を|賭《か》けているつもりであったかもしれないのだが、いかんせん、彼の態度は彼自身をすらあざむいており、彼が最も多く争ったのは文学のための欲求ではなく、彼は名誉と争い、彼みずからをも世間と同時にあざむくために文学を利用したのだと私は思う。私がこれを語っているのではなく、「新生」の文章の距離自体がこれを語っているのである。彼は告白することによって苦悩が軽減し得ると信じ、苦悩を軽減し得る自己救済の文章をくふうした。作中の自己を苦しめる場合でも、自分を助ける手段でしかなかった。彼は真にわが生き方の何物なりやを求めていたのではなく、ただ世間の道徳の型の中で、世間を相手に、ツジツマの合った空論を|弄《ろう》して大小説らしき外見の物を書いてみせただけである。これも彼の文章の距離自体が語っているのである。
彼がどうして姪という肉親の小娘と情欲を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取り澄まし方をしていると、知らない女の人を口説く手掛かりがつかめなくなる。彼が取り澄ませば女の方はよけい取り澄まして応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかもしれぬ|口《く》|説《ぜつ》にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由にまた自然にポーズから情欲へ移行することができやすかったのだと思う。
彼は姪と関係してその処理に苦しむことよりも、ポーズを破って知らない女を口説く方がもっとできにくかったのだ。それほども彼はポーズに|憑《つ》かれており、彼は外形的にいかにも新しい道徳を探しもとめているようでいながら、芸者を芸者とよばないで何だか妙な言い方で呼んでいるというだけの、全く外形的な、内実ではより多くの例の「健全なる」道徳に|呪《じゅ》|縛《ばく》せられて、自我の本性をポーズの奥に突きとめようとする欲求の|片《へん》|鱗《りん》すらも感じてはいない。真実愛する女をなぜ口説くことができないのか、姪と関係を結んで心ならずも身にふりかかった処世的な苦悩に対して死に物ぐるいで処理始末のできる|執《しつ》|拗《よう》な男でいながら、身にふりかかった苦悩には執拗に堪え抵抗し得ても、みずからのほんとうに欲する本心を見定めて苦悩にとびこみ、自己破壊を行なうという健全なる魂、執拗なる自己探求というものはなかったのである。
彼は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかった。文学の本来の道である自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼にとっては堕落であった。私はしかし彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至ったことを非難しているのではない。人おのおのの個性によるいかなる生き方もありうるので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、なぜ藤村がみずからの小さな真実の秘密を自覚せず、その悲劇を書き得ずに、空虚な大小説を書いたかを|咎《とが》めているだけのことである。芥川が彼を評して|老《ろう》|獪《かい》と言ったのは当然で、彼の道徳性、謹厳誠実な生き方は、文学の世界においては|欺《ぎ》|瞞《まん》であるにすぎない。
藤村は人生と四ツに組んでいるとか、最も大きな問題に取り組んでいるとか、欺瞞にみちた魂が何者と四ツに組んでも、それはただ常に|贋《にせ》|物《もの》であるにすぎない。バルザックが大文学でモオパッサンが小文学だという作品の大小論はフザけた話である。藤村は文学を甘く見ていたから、こういう空虚軽薄な形だけの大長篇をオカユをすすって書いていられたので、贋物には楽天性というものはない。常にホンモノよりも深刻でマジメな顔をしているものなのである。いつか銀座裏の酒場に坂口安吾のニセモノが女を口説いて成功して、他日無能なるホンモノが現われたところ、女どもは疑わしげに私を眺めて、あなたがホンモノなのかしら、ニセモノはもっとマジメな深刻な人だったわよ、と言った。
*
私は世のいわゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐える美徳だの、謙譲の美徳などというものはみんな|嫌《きら》いで、美徳ではなく、悪徳だと思っている。
困苦欠乏に耐える日本の兵隊が困苦欠乏に耐え得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、欠乏の美徳という日本精神自体が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたった五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だという。機械によって肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だという。こういうフザけた退化精神が日本の今日のみごとな敗北をまねいたのである。こういう馬鹿げた精神が美徳だなどと疑ぐられもしなかった日本は、どうしても敗け破れ破滅する必要があったのである。
しかり、働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考え得ず、一服吸ってポンと|叩《たた》く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いていた日本の精神はどうしても破滅する必要があったのだ。
美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや|豪《ごう》|奢《しゃ》を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくって大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であって、|毫《ごう》も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するように、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存するゆえに意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存するゆえに意味があるので、人間の倫理の根元はここにあるのだ、と私は思う。
人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言えないような子供の育て方の不健全さというものは言語道断だ。
処女の純潔などというけれども、いっこうに実用的なものではないので、失敗は成功の母と言い、失敗は進歩の階段であるから、処女を失うぐらい必ずしも|咎《とが》むべきではなかろう。純潔を失うなどと言って、ひどい堕落のように思いこませるから罪悪感によって本格的に堕落を|辿《たど》るようになるので、これを進歩の段階と見、より良きものを求めるための尊い捨て石であるような考え方生き方を与える方がほんとうだ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与えるのだ。単なる処女のごとき何物でもないではないか。もっとも無理にすて去る必要はない。要は、魂の純潔が必要なだけである。
失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭というものは、魂を|昏《こん》|酔《すい》させる不健康な寝床で、純潔と不変という意外千万な大看板をかかげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思っている。家庭が|娼婦《しょうふ》の世界によって簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さについて、人間性に根ざした究明がまた文学の変わらざる問題の一つが常にこのことに向かって行なわれる必要があったはずだと私は思う。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあい、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかもしれぬということの中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康なはずなのである。しかしなるべく永遠であろうとすることも同じように健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、また、精神から肉体へ価値の変化や進化が起こる。価値の発見も行なわれる。そして生活自体が発見されているのである。
問題は単に「家庭」ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質において人間が欠けており、生殖生活の巣を営む本能が基礎になっているだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の|陰《いん》|鬱《うつ》さを正義化するために無数のタブーをつくっており、それがまた|思《し》|惟《い》や思想の根元となって、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。けれども、そういう思想が|贋《にせ》|物《もの》にすぎないことは彼ら自身が常に風景を裏切っており、日本三景などというが、私は|天《あま》の|橋《はし》|立《だて》というところへ行ったが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであったし、伊勢大神宮参拝の講中が|狙《ねら》っているのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本において最も|淫《いん》|靡《び》な遊び場である。もっとも日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもただ女の下等な肉体がころがっているにすぎないのである。
夏目漱石という人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、こういう家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はただ一つ、その本来の不合理を疑ぐることを忘れていた。つまり彼は人間を忘れていたのである。かゆい所に手がとどくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思うばかり、家庭の封建的習性というもののあらゆる枝葉末節のつながりへ、万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にもあるはずの肉体などは一顧も与えられておらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に付されているのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかった。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二、三十年後になって自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼のたいがいの小説の人物は家庭的習性というものにギリギリのところまで追いつめられているけれども、離婚しようという実質的な生活の生長について考えを起こした者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化という遊戯にふけっているだけで、真実の人間、自我の探求というものは行なわれていない。自殺などというものは悔恨の手段としてはナンセンスで、|三《さん》|文《もん》の値打ちもないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみはずれる方がはるかに誠実なものであるのに、彼は自殺という不誠実なものを誠意あるものと思い、離婚という誠意ある行為を不誠実と思い、このナンセンスな錯覚を全然疑ぐることがなかった。そして悩んで禅の門を|叩《たた》く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと|諦《あきら》める。物それ自体の実質について、ギリギリのところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そっちに悟りがないというので、物それ自体の方も諦めるのである。こういう馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考えて疑ぐることがないのである。日本一般の生活態度が元来こういうフザけたもので、漱石はただその中で|衒《げん》|学《がく》的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを|掻《か》いてみただけで、自我の誠実な追求はなかった。
もとより人間は思いどおりに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物はわが手に入らず、手の中の玉は逃げ出し、希望の多くは|仇《あだ》|夢《ゆめ》で、人間の現実は努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくずれるけれども、諦めや|慟《どう》|哭《こく》は、くずれ行く夢自体の事実の上にあり得るので、|思《し》|惟《い》として独立に存するものではない。人間はまず何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考えるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考えて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であっても、それを意とするには及ばない。
私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方をもとめ、自我みずからを|欺《あざむ》くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の|贋《にせ》道徳で、そこから誠実なる堕落を|怖《おそ》れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だというだけである。人間はもろもろの欲望とともに正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開については全く予測することができない。
日本文学は風景の美にあこがれる。しかし、人間にとって、人間ほど美しいものがあるはずはなく、人間にとっては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の|絢《あや》は、一般的な解説によって理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行なわれる永遠に独自なる世界である。これを個性といい、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。
私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は|堕《お》ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
|戯《げ》|作《さく》|者《しゃ》文学論
この日記を発表するについては、迷った。書く意味はあったが、発表する意味があるかどうか、疑った。
この日記を書いた理由は日記の中に語ってあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういうふうにつくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今まで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持ちにならない。
私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識していたこともある。平野君は必ず「女体」について何かを書き、作者の意図が何者であるかというようなことを論ずるだろうと考えた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違っているというようなことは、しかし、どうでもいいことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知っているかどうか、それすらが大いに疑問なのである。
だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑ったのだが、しかし、考えてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。
そして私がこの日録を発表するのは、批評家の|忖《そん》|度《たく》する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。
平野君からの注文は「|戯《げ》|作《さく》者文学論」というので、私は常にみずから戯作者をもって任じているので、私にとって小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかったのではないかと思う。
私がみずから戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかもしれない。しかし、そう、たいして違わない。私はただの戯作者でもかまわない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が|賭《か》けられているだけのことで、そういう賭けの上で、私は戯作しているだけなのだ。
生存を賭ける、ということも、別段、たいしたことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。
それで私は、私の小説がどんなふうにしてでき上がるか、事実をお目にかける方が簡単だと思った。ところが、私は、とても|厭《いや》だったのは、この「女体」四十二枚に二十日もかかって、厭に馬鹿馬鹿しく苦吟しているということだった。それはこの「女体」が長篇小説の書きだしなので、この長篇小説は「恋を探して」という題にしようと思っており、まだ書きあげてはいないのだが長篇の書きだしというものには、一応、全部の見透しや計算のようなものが多少は必要なのである。伏線のようなものが必要なのである。
そんなものの全然必要でないもの、ただ、書くことによって発展して行く場合が多く、私は元来そういう主義で、そういう作品が主なのだけれども、この「女体」だけはちょっと違って、私は作品の構成にちょっとばかり|捉《とら》われたり頭を悩ましたりした。私はどうもこの日録が、妙に物々しく、苦吟、|懊《おう》|悩《のう》しているようなのが、厭なので、私は元来、そんな人間ではない。私はこの小説以外は一日に三十枚、時には四十枚も書くのが普通の例で、もっとも考えている時間の方が、書くよりも長い。もっとも、書き出すと、考えていたこととまるで違ったものに自然になってしまうのが普通なのである。
それで、どうも発表するのが厭な気がしたのだけれども、それに私は、この日記に、必ずしもほんとうのことを語っているとは考えていない。日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。
小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だからまた、作品でもあるかもしれぬということを、一言お断わりいたしておきます。
七月八日(雨)
佐々木|基《き》|一《いち》君より来信、「白痴」についての感想を語ってくれたもの、私が日記をつけてみようと思ったのは、この佐々木君の手紙のせいだ。佐々木君は「白痴」で作者の意図したことを想像しているのだが、実のところは、作者たる私に「白痴」の意図が何であったかわかっていない。書いてしまうと、作品の意図など忘れてしまう。
私はこれから、ある長篇の書きだしを書こうとしている。私がこの小説を考えたのは、この春のことだ。私はこの春、漱石の長篇をひととおり読んだ。ちょうど、同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。|痒《かゆ》いところへ手がとどくとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく|思《し》|惟《い》が行きとどいているのだが、肉体というものだけがないのである。そして、人間を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれでうやむやにしている、漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思いこんでいるのだ。
私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なる憤りをもった。しかし、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿において歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。たまたま、文芸春秋九月号の小説に、この書きだしを載せてみようと考えていたのである。
私はそれで、この小説を書く私が、日ごと日ごとに何事を意図し、どんなふうに考えたり書いたりするか、日録をつけてみようと思ったのだ。書き終わると、私はいつも意図などは忘れてしまう。つまりハッキリした作品全体の意図などは私は持っていないのだ。
午後、尾崎士郎氏より速達、東京新聞の時評の感想。雨のはれまにタバコを買いに駅前へ。歴史の本、読む。
七月九日(曇)
新生社の福島氏来訪。小説三十枚、ひきうける。文芸時評は、ことわる。若園清太郎君来訪、ウイスキー持参す、仕事ができなくなってしまった。タバコを買いに外出。
七月十日(晴)
うちの寒暖計、三十一度。ホープから随想十枚。すでに書いたのがあるから承諾。
三枚書いた。思うように筆がのびないからやめる。私は今、頭に描いていることは、谷村夫妻が現在夫婦である以外に精神につながりが感じられなくなっていること、二人はそれに気づいている。世間的に言えば二人は円満以上にいたわり合っている夫婦だ。そこから、この小説を始めることがわかっているだけだ。岡本という人物は、谷村夫妻の心象世界を説くための便宜なので、今はそれ以上のことを考えていない。
今日はだめだ。あした、また、やり直しだ。私は筋も結末もわからず、|喧《けん》|嘩《か》するのだが、いつまでも仲がいいのか、浮気をするのか、恋をするのか、全然先のことは考えていない。作中人物がほんとうに紙の上に生まれて、自然に生活して行くはずなのだが、今日はまだ、ほんとうに生きた人間が生まれてはくれないから、やめたのだ。
駅の方に火事があって威勢よく燃えているので見物に行った。火事の見物も退屈であった。火事の隣にアメリカの兵隊がローラーで地ならししている。隣の火事に目もくれず、進んだり、戻ったり、地ならししている。二、三十分|眺《なが》めていたが、火事の方をふりむきもしないのである。この方が珍しかった。アメリカだって|弥《や》|次《じ》|馬《うま》のいないはずはないだろう。もっとも日本人でも、火事などちょっと振り向くだけで、電車に乗りこみ帰宅を急ぐ人も多い、私が性来の弥次馬なのである。歴史の本、読む。
七月十一日(晴)
猛暑、うちの寒暖計は三十四度。湿気が多くて、たえがたい。
四枚書いて、また、やめる。午後、また、始めから、やり直し。六枚、書いたが、また、やめる。また、やり直しだ。谷村と、素子が、いくらか、ハッキリしてきた。始め、私は谷村をあたりまえの精神肉体ともに平々凡々たる人物にするつもりだったのに、どうもだめだ。今日は、すこし、病身の男になった。そして私は伊沢君と|葛《くず》|巻《まき》君のアイノコみたいな一人の男を考えてしまっているのだ。素子の方は始めからハッキリしている。岡本も、ハッキリしている。
若園清太郎君、夕方、内山書店N君を伴い来たる。ウイスキー持参。N君は戦闘機隊員、終戦で満州から飛行機で逃げてきた由。猛暑たえがたし。畳の上へ、ねむる。
七月十二日(晴)
安田屋のオカミサン、母の仏前へ花をもってきてくれる。三時に|俄雨《にわかあめ》があり、いくらか、涼しくなった。
五枚書いて、また、やめる。谷村が、どうも、|駄《だ》|目《め》なのだ。谷村の顔もからだも心も、ほんとうの肉づきというものが足りない。私の頭の中に、まだ、ほんとうに育っていないのだろう。歴史の本、読む。道鏡の年表をつくりかけたが、めんどうくさくなって、やめる。
七月十三日(晴)
ようやく筆が|滑《すべ》りだしたが、谷村はハッキリ病弱の男になってしまった。健康な男では、どうしても、だめだ。私は平々凡々たる男の精神の弱さを書きたいのだが、肉体の弱さと結びついてくれないと、表現できない。私の筆力の不足のため。私の観念に血肉の不足があり、健康な谷村に弱い心を宿らせる手腕がないのだろう。私は谷村を病弱にするのが私の手腕の不足のようで、変にこだわっていたのだが、ハッキリ|兜《かぶと》をぬいだら、気が楽になったのだ。十三枚書いた。
どうも、これと言って、とりたてて書いておかねばならぬような意図は何もないようだ。今日書いた十三枚についても、これはこれだけという気持ちであるが、谷村が岡本をやりこめる、その谷村に素子が|反《はん》|撥《ぱつ》する、私はそこから出発しようとしただけで、素子の反撥の真意が|奈《な》|辺《へん》にあるか、私は漠然予想をもっていたが、書きだすと、書くことによって、新たに考えられ、つくられて行くだけで、まったく何の目算もない。素子の肉体のもろさが私はひどく気がかりだ。まさかに岡本に乗ぜられもてあそばれることはないだろうと思うだけだ。こんなふうに考えているのは、よくないことかもしれぬ。私はなるべく岡本を手がかりのための手段だけで、主要なものにしたくない。この男にのさばられては、やりきれないような気がするのだが、私はしかし、そういう気持ちがあってはいけないと思っており、もっとも、書いている最中はそういう気持ちは浮かばない。
七月十四日(晴)
猛暑。尾崎一雄君より速達、東京新聞の時評を送ってくれ、という。速達で返事を送る。今日は一日六回|水《みず》|風《ぶ》|呂《ろ》につかった。関節の力がぬけたような感じがしている。
親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人がきた。北支から引き揚げてきた人だ。全然|素《しろ》|人《うと》で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、|怖《おそ》れを知らない。自分を知らない。
夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、わが身のことに思い至って、まことに、|暗《あん》|澹《たん》とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したか、ときくと、まだ感心したものはないという。モリエールや、ボオマルシェや、マルセル・アシャアルを読んだかときくと読んだことがないという。名前すら知らない。むちゃなんだ。いつまでたっても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私は全く疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それはわが身の愚かさ、なんだが常に身のほどをかえりみぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった。
私は素子の性格を解剖するところへきた。しかし、解剖すべからず、具体的な事実によって、しかもその事実が解説のためのものではなく、事件(事実)の展開自体である形においてなすべしという考えになる。素子が岡本にすてられた女をいかに取り扱い、何を感じ、何を考えたか、これは重大でありすぎる。私はずいぶん考えた。あれこれと考えた、しかし、私が考えているばかりで、素子が感じたり、考えたりしているような気持ちにならない。私はここのところで、つかえてしまって、今日は一枚半書いただけだ。ここをつきぬけると、ひろびろした海へ出て行かれるような気がするだけで、何も先の目安がない。作品の意図らしい信念とか何かそういう立派らしいものが何もない。涼しくなってくれ。暑い暑い暑い。
この素子に私は、はっきり言ってしまおう、矢田|津《つ》|世《や》|子《こ*》を考えていたのだ。この人と私は恋いこがれ、愛し合っていたが、とうとう、結婚もせず、肉体の関係もなく、恋いこがれながら、逃げあったり、離れることを急いだり、まあ、いいや。だから、私は矢田津世子の肉体などは知らない。だから、私は、私の知らない矢田津世子を創作しようと考えているのだ。私の知らない矢田津世子、それは私の知らない私自身と同様にたいせつなのだと思うだけ。私自身の発見と全く同じことだ。私はしかし、ひどく不安になっている。どうも荷が重すぎた。私は素子が恋をするような気がするのだが、それを書けるかどうか、私は谷村の方を主人公にして、それですませたい。私は素子がバカな男と恋をするような気がして、どうにも、いやだ。こんなことが気にかかるというのは、いけないことだと考えている。
七月十五日(晴)
連日寒暖計は三十八度をさしている。例のごとく、水風呂にもぐってはでてきて机に向かうが、頭がはっきりしない。新日本社の入江元彦という詩人と自称する二十四、五の青年がきてサロンという雑誌に三十枚の小説を書けという。書くのは|厭《いや》だと言うのだが、これがまた、珍無類の人物で、育ちが良いのかもしれん、大井広介に似て、より純粋で、珍妙で、底ぬけで、目下稲垣|足《たる》|穂《ほ》にころがりこまれて、同じ屋根の下にいるそうだが、彼は何一つ持たんです、と言う。大いにガッカリした顔である。フンドシのほかは何も持たんです。という。彼は戸籍も持たんです、という。稲垣足穂に寝台をとられ、お前は下へねろ、というので、石の上へねたそうだ。しきりに身体をかいているが、|虱《しらみ》でもいるのだろう。稲垣足穂に寝台をとりあげられるようでは、虱も仕方がなかろうと、おかしくて仕方がない。一人であれこれしゃべることしゃべること詩を論じ文学を論じ二時間ほどしゃべりつづけ、あんまりおかしな奴なので私は全くおもしろくなって原稿を承諾した。いずれ新日本社へ遊びに行き、いっしょに菊岡|久《く》|利《り》の銀座の店をひやかす約束をする。そのとき岡本|潤《じゅん》に会えるようにしておいてくれと頼む。岡本潤からは三年ほど前一度会いたいという手紙を貰ったので、そのうち飲みに誘いに行くからと返事をしたまま、いまだに約束を果たさない。当時はちょうど飲む店がなくなったからなのである。半田|義《よし》|之《ゆき》が共産党になって、この青年の顔を見るたびに、お前も共産党になれ、と言って、|吃《ども》って、|唾《つば》を飛ばしながら勧誘大いにつとめる由だが、共産党は驚かんですが、唾が顔にかかって汚なくて困るです、と言う。まったく、大笑いした。
昨日、私は、素子は矢田津世子だと言った。これは言い過ぎのようだ。やっぱり素子は素子なのだ。手を休めるとき、あの人を思いだす、とても苦しい。素子はあんまり女体のもろさ弱さみにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いた。あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらったとき、まだ、お母さんが生きていられるのがわかったけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、という一句が、私はまったく、やるせなくて、参った。お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考えるとき、いつも私を考えているに相違ない。私はもちろん、葬式にも、おくやみにも、墓参にも、行かなかった。今から十年前、私が三十一のとき、ともかく私たちは、たった一度、|接《せっ》|吻《ぷん》ということをした。あなたは死んだ人と同様であった。私も、あなたを抱きしめる力など全くなかった。ただ、遠くから、死んだような|頬《ほお》を当てあったようなものだ。毎日毎日、会わない時間、別れたあとが、|悶《もだ》えて死にそうな苦しさだったのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから五年目だったのだ。その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。私はあなたの肉体を考えるのが|怖《おそ》ろしい、あなたに肉体がなければよいと思われて仕方がない。私の肉体も忘れてほしい。そして、もう、私はあなたに二度と会いたくない。誰とでも結婚してください。私はあなたに疲れた。私は私の中で別のあなたを育てるから。返事もくださるな、さよなら、そのさよならは、ほんとにアデューという意味だった。そして私はそれからあなたに会ったことがない。それからの数年、私は|思《し》|惟《い》の中で、あなたの肉体はほかのどの女の肉体よりも、きたなく汚され、私はあなたの肉体を世界一|冒《ぼう》|涜《とく》し、憎み、私の「|吹雪《ふ ぶ き》物語」はまるであなたの肉体を汚し苦しめ|歪《ゆが》めさいなむ|畸《き》|形《けい》|児《じ》の小説、まったく実になさけない汚い魂の畸形児の小説だった。あなたは、もしあれを読んだら、どんなに、怒り、憎んだことか、私は愚かですよ、何もわからない、何をしているのだか、今も昔も、まるで、もう、しかし、それは、仕方がない。私はあなたが死んだとき、私はやるせなかったが、|爽《さわ》やかだった。あなたの肉体が地上にないのだと考えて、青空のような、澄んだ思いも、ありました。
私は今もまた、あなたの肉体を、苦しめ、汚し、痛めているのだ。私はあなたの肉体を汚そうと意図しているのではなく、いつも、あなたの肉体や肉欲を、何物よりも清らかなものに書くことができますように、ほんとうにそう神様に祈っていますが、書きはじめると、どうしても、汚くしてしまう。私は昔から悪人を書きたくないのです。善いもの、美しいもの、善良な魂を書きたいのだが、書きだすと、とんでもなく汚い悪い人間、醜悪な魂に、自然にそうなってしまう。自然にどうしても、そっちの方へどんどん行ってしまう。
私は筆を休めるたび、あなたを思いだすと、とても苦しい。素子の肉体は、どうしても、汚ない肉欲の肉体になってしまう。素子は女体の汚さ、もろさ、弱さ、みにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いて、筆を投げだしたとき、私はあなたの顔をせつなく思いつづけていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。
素子は矢田津世子ではいけない。素子は素子でなければいけない。素子は素子だ。どうしても、私は、それを、信じなければならない。私は四枚書いた。筆を投げだしてしまう時間の方が多いのだ。
七月十六日(晴)
酷熱。うちの水銀は三十五度だ。中央公論の|海《え》|老《び》|原《はら》氏から速達。火の会の雑誌に小説かエッセーを書いて、という。これはどうしても承諾してやりたい。ずいぶん無理だと思ったけれども、必ず、書こうと決意する。海老原氏は昔から私の仕事を愛してくれた人なので、私はそういう人のために、仕事をすることを喜びとしているのである。売れそうもない雑誌だと、なおさら、書いてやりたい。
谷村夫妻はたぶんおのおのの恋をすることになるだろう、と私は考えていた。谷村の方は、もう、肉体のない、魂だけの、燃えただれ死んでしまっていいような、恋をしたいのだ、と告白している。そこで、その恋の相手に、とりあえず、私は信子という名前を出しておいた。けれども、とりあえず、そういう名前だけ出しておいたが、どんな女だか、全然まだ考えていない。谷村自身が、信子がどんな女なのだか、やがてその性格を自然に選ぶだろう。まだ私には、それを考えるひまもなく、必要もないのだから。その恋愛が、この小説のテーマになるのだろうか? そんなことは全然意図していなかったのだ。
どうも、素子の方は、だんだん恋ができそうもなくなって行く。だんだん堅くなり、せまく、ヤドカリみたいに殻の中へひっこんで行くので、どうにも意外だ。私は谷村の恋よりも、素子の方が、何かケタのはずれた恋をやりだしそうな予感、あるいは予期がないではなかったが、どうも、私は、このへんで、二、三日、書くのをやめて、ボンヤリ、時間を浪費してみる方がいいのではないかと思う。私は二十八枚目まで書いた。思考の振幅が窮屈になりかけたときは、時間でも金でも、ただ、浪費するのがいいという、これは私が習慣から得た信条で、それに限るようだ。
午後二時ごろ暑いさかり、雑談会の立野智子氏来訪。これには、ちょっと、こまった。この人は、この日記をつけはじめた前日、すなわち七月六日に、速達をよこして、インチキ文学ボクメツ論をやれ、という。先方が女なのだから、インチキ文学というのと、ボクメツというのが、なんとも、時世的に勇ましく、私は笑いがとまらなかった。女の方が勇壮カッパツ、|凄《すご》すぎるよ。私はジャーナリズムの|厭《いや》らしさにウンザリして、拒絶の代わりに、勇敢無敵婦人ジャーナリストをひやかす一文を草して、そくざに送ったのだ。
おとなしそうな娘さんなのだ。けれども、時々チクチク皮肉めき、なにか、素直ということが悪さを意味するとでも思っている様子で、どうも苦しい。痛々しい。インチキ文学ボクメツどころか、坂口安吾などというのが、ほんとうはインチキそのものなので、私が偉そうに先輩諸先生をヤッツケほうだいにヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということを御存知ない。誰しも御自身のインチキ性を重々知ることがどんなにたいせつか、この人に語りたかったが、素直に受けてくれず、皮肉られそうだったから、言わなかった。ほんとうは素直な人なのだが、ひねくれることを美徳と思っているような、身構えということが立派だと思っているようだ。善良な弱い気質をゆがめて、わざわざ武装しているような気がする。この暑いのに、何かムリヤリ精いっぱい、ムリヤリ思いつめているようで、痛々しい思いがした。ひどく同情してしまって、すぐ原稿引き受けた。
夜、九時ごろ、涼しくなってから、さっそく雑談の原稿を書いた。|中《なか》|戸《ど》|川《がわ》とみゑさんのこと。一度書きたいとこの数年考えていたのだが、こんなふうにカンタンに書くつもりはなかったので、いずれ「春日」を読んで、ゆっくりと考えていたのだが、手もとに「春日」がなく、むしろない方が都合がいいさ、「春日」など改めて読んで変に物々しく本格的にやるとかえって書けそうもない。めんどうな気がして、三時間ぐらいで、あっさり書いてしまった。
七月十七日(晴)
酷熱、また、酷熱。小学館から速達、小説五十枚、とても書けない、ことわる。
道鏡の年表をつくろうとしたら、エミの|押《おし》|勝《かつ》になり、|諸《もろ》|兄《え》になり、|不《ふ》|比《ひ》|等《と》になり、|鎌《かま》|足《たり》になり、だんだん昔へさかのぼりすぎて、どうも、私は、何をやっても、過ぎたるは及ばず、という自然の結果になってしまう。久米邦武の奈良朝史をノートをとりながら、読む。深夜になお酷熱。水風呂にはいり、ようやく|睡《ねむ》ることができた。
七月十八日(曇、午後二時ごろより晴)
曇っているうちは|凌《しの》ぎよかった。日がてりだすと、この二階はムシ風呂だ。私は早朝から、この長篇は、今年じゅうに必ず書けるという妙な自信がわいているのだ。まったく妙な自信だ。全然、筋もプランも目当てのつかない空々漠々、何を目安に自信があるのだい。けれども全く自信満々、ふざけた話だ。一昨日、雑談の原稿書き、それから、この小説を忘れたような顔しているのが、よかったようだ。妙に、晴れ晴れとした気持ちになりつつある。力があふれてくるのがわかるような気持ちだ。こういう時は何という|愉《たの》しさだろう。だが、一年に何日、こんな日があるかと思うと、なさけない。
私はわざと筆をとらない。ふくらみつつある力をはかって、ねころんで本を読んでいる、なんとも壮大で、自分がたのもしい。架空の影の|虚《むな》しい自信と力なのだが、それを承知で、だまされ、たわいもない話だが、それでほんとうに、いい気なのだから笑わせる。
七月十九日(晴)
私は病気になった。|下《げ》|痢《り》と腹痛、たぶん水風呂のたたりだろう。夏の悪熱は、私からあらゆる力をはぎ、ものうさと、とがった感情だけを残す。私はうつうつしつつ原子バクダンのバクハツばかり考えている。私自身がバクハツされたいのか、人をバクハツしたいのか、わからない。ただ、すべてがとがり、痛み、平和なことが考えられないのだ。熱のため、外気の暑さがわからない。
七月二十日(晴)
猛烈に暑い。夜になっても、暑い。どうやら熱が下がったので、暑さがわかってきた。もう原子バクダンは考えないが、仕事のことも考えられない。本も読む気にならない。
七月二十一日(晴)
猛烈に暑い。中央公論、小滝氏来訪。今度だす短篇集の話。もし長篇に没頭するなら、生活のことも考えるから、と言ってくれる。これは非常に|嬉《うれ》しく、心強く承ったが、私は今、二つの場合を考えている。私は今、書きたいことがいくらでもあるような気がしているので、いったい何をどう書くのか、書けるだけ書き、限度のくるまで、書いてみるか。さもなければ、短篇など書きたいような気持ちでも書かず、長篇だけ、一つずつ、没頭してみようか。この二つ。私はともかく、一応前者をとることにしようと思った。はっきり、心をきめた。
原稿に向かう。岡本の金談のこと、岡本の|媚《び》|態《たい》のこと。どうして、こんなふうになるのだろう。とても苦しい。岡本の媚態も汚らしく不潔で、なんとも厭だけれども、こんなに汚され、いためつけられ、もてあそばれている素子の肉体が、肉体のもろさが、あんまりだ。どうしてこんなになるのだろうか。まるで、なんだか、ただ、もう、いちずに、憎しみをこめて、|復讐《ふくしゅう》しているような意地の悪さではないか。どうして、こうなるのだ。そんな意図は|微《み》|塵《じん》もないのに、どうしても、こうなる。筆を投げずにいられなくなる。一句書いては、ひっくりかえって目をつぶり、三十分もたって、また、一句書くというぐあい。どうにも、書きたくない気持ちがする。たった一枚半。
七月二十二日(晴)
猛暑。暁鐘の沖塩徹也君来訪。会ったのは始めてだが、私の親しい友人たちの同人雑誌にいた人で、名前はよく知っている人。中国で八年も兵隊生活をさせられたという運の悪い人で、その生活を二時間ばかり語って帰る。九月いっぱいだったら短篇書く約束する。
私はどうも、書くのが苦しい。私は岡本の|卑《いや》しさが厭なのだが、谷村は、その岡本をともかく芸術家のおもしろさがあるじゃないかという。谷村の考えは、なんだか、危なっかしい。私は今日、藤子のことを書いたとき、谷村は魂の恋などと妙なことを言っているのだけれど、結局、藤子と、その魂の恋とやらをやり、馬脚を現わすのではないか、そういう不安がしつづけている。それだったら、ずいぶん、なさけないことだ。悲しいことだ。みすぼらしいことだ。私は素子が誰かと恋をして、谷村の変にとりすました気どった悟った一人よがりみたいなものを、メチャクチャに破裂させ、逆上混乱させてくれればよいと思うのだが、素子はだんだん恋ができそうもなくなるばかりだ。もっとも、素子が恋をして、谷村の足場がくずれて、そんなむずかしい関係をまともに発展させる手腕にめぐまれているかどうか、それが、また、不安なのだ。今から、こんなに苦しくて、この先、どうなのだろうと、私は私の才能について、まったく切ないのだ。
七月二十三日(晴)
猛暑。読書新聞の島|瑠《る》|璃《り》|子《こ》氏来訪。|荷《か》|風《ふう》の問はず語りの書評。私は書けないから、佐々木基一君をわずらわすよう、すすめる。佐々木君は荷風については私と似たような見解を持っていることを先日の手紙で知ったからだ。
新潟の兄、上京。かすかに、雨あり。いささかも涼しくならず、かえって、むしあつい。
素子は岡本の|媚《び》|態《たい》を「みじめ」だという。そして、その媚態が話しかけているのは自分の肉体に対してであることを「今」は気がつかない、と谷村は考える。そして、今は気がつかないということに、なお多くの秘密があるように思った、というのだが、素子が果たして気がついていないか、谷村はそう思ったにしても、果たしてそうか、どうか。私はどうも、ここで、素子の肉体に同情しすぎたようだ。私は堪えられなかったのだが、素子は気づかぬはずはない。谷村が、今は気がついていないと解釈するのは変だ。谷村は気づいていると解釈するのがほんとうじゃないかと何度も思ったのだが、私はどうも、私が素子の肉体について、そうあってほしいと思うセンチメンタルな希望を、谷村におしつけたような気がする。私はそう考えて、いやだったが、しかしそうとも断言ができない。ほんとうに素子は今は気がつかないかもしれないのだと、なんとなく言い張りたい気持ちがあるので、まア、いいや、こうやっておけ、あとは野となれ山となれ、こんな小説、どうでもいいや、と筆を投げだしてしまったのだ。
七月二十四日(晴)
同居の大野一家族、一夏の予定で故郷へ。次女の婚礼の仕度だ。酷熱。|無《む》|慙《ざん》な暑さだ。
一日ボンヤリしている。どうも書けない。考えることもない。何やかや、ふと、小説のこと考えるようだが、とりとめのない影だけで、実のあることは考えていない。実にどうも、空漠たるものだ。
夜になって、兄、若園清太郎とともに帰ってくる。若園君、炉辺夜話集、さがして持ってきてくれる。中央公論からだす短篇集のためのもの。若園君泊まる。私は一夜ねむり得ず、若園君またつかれざるもののごとし。深夜に至るもまったく暑熱が衰えざるためである。
七月二十五日(晴のち曇)
頭が痛む。読書新聞より、どうしても問はず語り書評を、という重ねての依頼で、本を送ったという。勝手に本を送ったなんてむちゃな話だ。夕方から涼しくなる。長野の兄社用で上京、夜ますます涼しい。久々の涼気。今日はたった一度しか水風呂へはいらなくて済んだ。食事の用意に困却。奇怪な御飯ができあがる。今日は仕事はしなかった。
七月二十六日(晴)
さして暑くない。文芸春秋の大倉氏来訪、原稿はまだできないが、あと四、五枚だから、おそくとも二十九日には私の方からおとどけすると答える。しごくマジメな青年。こんなふうなジャーナリストは今までは日本になかったタイプのようだが、近ごろの若い人には往々こういうマジメきわまる人を見かける。自我を中心に、いかに生くべきか、ということを考えている。特攻隊の死に対しての覚悟の高さを疑ぐると言っていた。自分自身の戦争生活の死との格闘からの結論なのである。考え自体でなく、考える態度のマジメさが、私にははなはだしく快かった。芥川ヒロシ氏の友人の由で、明日、芥川家を訪ねると言うから、その節は葛巻義敏にくれぐれもよろしく、とたのむ。
若園君、真珠をもってきてくれる。この本は私の発禁になった本。私は自分の本を一冊も持たない。黒谷村がまだ手にはいらぬ。あの中から「風博士」一つだけ、今度の短篇集へ入れたい。それの入手を若園君にたのむ。安田屋のタカシ青年遊びにくる。近所の|罹《り》|災《さい》者で、戦争中は私の家に住み、この家を火からまもってくれた。私の家の前後左右の隣へおのおの五十キロの|焼夷弾《しょういだん》が落ちたのをバクハツ直後の猛火の中へ水をかぶってとびこんで前後左右に火を|叩《たた》きつけ、まったく|物《もの》|凄《すご》い。左官屋のお弟子だが、職人の良心と研究心が|旺《おう》|盛《せい》で、実に好もしい青年だ。もっとも、おかげで、どうも、今日は仕事がしたかったのだが、できなくなった。十時ごろ、もう、ねる。よく、ねむった。涼しいからだ。
七月二十七日(晴)
どうも、今日は、思いがけないことになった。|仁《に》|科《しな》という青年が登場してしまったのだ。私は始めから素子のために一人の青年が必要だと考えていた。素子がだんだん恋をしそうもなくなったので、どうもいけない、岡本のほかに、若い青年を一人、と考えており、どうも私は、素子の肉体が岡本などにもてあそばれるのが堪えられず、なおさら、青年を、と考えていたのだが、私が昨日まで考えていたのは、もっとマジメな相当|悧《り》|巧《こう》な青年のつもりであったのに、まったく、あべこべになってしまった。
原稿紙に向かうと、まるで気持ちが違ってしまうので、私が私の好みや感傷から割りだして予定していたことなど、とるにも足らぬことになり、書いてみると、すぐ、つまらなさがわかり鼻につく。
どうして、青年が仁科でなければならなかったか、どうにも、私は不愉快だ。しかし、この青年でなければならなくなったので、仕方がない。どうしても、素子の肉体がもてあそばれる宿命から、私は逃げられないのだろうか。私はこの青年と素子に恋などさせたくない。もし恋をするなら、別のも一人の相当ましな人物を登場させたい。その私の感傷が、果たして許され遂げられるであろうか。そういう私の希望のせいか、素子は、やっぱり、恋のために、動きそうもない。仁科を相手にうごきそうもない。そういう私の希望的態度がいけないと思われたので、私は今日じゅうに書き終わる充分な時間があったが、中止して、歴史の本を読むことにした。今日もさして暑くない。春陽堂の高木青年来訪、小説ひきうける。
七月二十八日(晴)
ひどく合理的で、始めから、何かハッキリ割り当てられた筋書のように首尾一貫したものができた。谷村は仁科によって|蛙《かえる》の正体などというものを発見した。むろん私は蛙の正体が見破られることを予想はしていたが、こんなふうに、いやにハッキリと、割り切ったように見破られるとは思わなかったので、私はもっと、漠然たる不明確な姿で、ぼんやりした姿のまま描いて|素《そ》|知《し》らぬ顔でいたい気持ちでいたのだ。ボンヤリどころか、いやに明確で、まるで、小説を書きだした時から仁科を予定していたように、いやにハッキリしめくくりがついてしまったのは、どうも変だ。どうも話が|巧《うま》くできすぎているので、約束が違うという気がする。約束といっても、別に心当たりはないが、|強《し》いて言えば、ボンヤリということだ。この明確さは、どこか不自然のような気がするのだが、仕方がない。
谷村は蛙の正体を見ぬいて、素子がひそかに仁科を愛しているにしても、そういう夢は仕方がないと考える。夢のない人間はあり得ず、夢すらも持ち得ぬ人を愛し得るはずもないと考える。
谷村のこういう考え方が、私はどうも不満なのだ。素子に恋をさせ、この気どりをコッパ|微《み》|塵《じん》にしてやりたい。それでもまだ、こんなふうに気取っていられるなら、そのときこそ大いによかろう。そう思う。そのくせ、素子はやっぱり恋をしそうもない。いや、素子がしそうもないのじゃなしに、谷村がそれを巧妙にくいとめているように思われるのだ。素子のひそかな夢を肯定して、夢は仕方がないものだと谷村が思うのは、私の希望がそこに反映しているので、つまり単なるひそかな、夢だけで終わらせたいという、それは谷村自身よりも作者の作意であるような気もした。
それで、私は、谷村に素子を憎ませ、その恋心を|嫉《しっ》|妬《と》させ、衝突させようかと、大いに考えたのだが、どうしても、そうすることができない。やる気にならない。その方がかえって不自然だ。このままの方が自然なので、もう、いい加減、これで終わりにした方がいいと考えられた。いつもだと、もう勝手にするがいいや、どうにとなれ、と筆を投げるのだが、今日はなおあれこれ迷い、迷うと言っても突きつめた思いではなく漫然たる思いなのだが、結局、これでいいことに決心するには、三時間ぐらい、漫然と迷っていた。
私はもう、素子をこれ以上登場させたくない。仁科とくだらぬ恋をして、ただ肉体の最後の泥沼へ落ちるように思われたり、ともかく、どうも、素子を書くかぎり、その肉体を汚すこと、もてあそぶこと、まるで私はその清純に悪意をこめているとしか、|復讐《ふくしゅう》しているとしか思われない。
この続篇は谷村に恋をさせるつもりなのだが、素子がそれをどう受けとめるか、私は素子に谷村の恋を知らせたくないような気持ちなのだ。素子がヤキモチをやいて肉体的に|焦燥《しょうそう》しだすのが堪えられない気持ちだから。ともかく、まア、ここまで書いたことについては、私は多く苦痛であったが、多少は満足もしている。ともかく精いっぱいなのだろう。これで駄目なら、私自身が、まだ、駄目なので、出来、不出来のたまたま不出来の方だったという気休めは通用しない。
思索から小説依頼。とても書けない、ことわる。読書新聞から「問はず語り」がとどいたので、読んだ。軽すぎる。重い魂が軽いのじゃない。軽いものが、軽いのだ。
七月二十九日(午後より雨)
文芸春秋へ行き|鷲《わし》|尾《お》洋三氏に原稿渡す。ともかく、精いっぱいのものです。とだけ言った。まったく、目下はそれが全部の感想なのだ。中央公論社へ行き、小滝氏に原稿をとどける。まだ「風博士」だけが足りない。
たったそれだけ路上を歩いただけで、会った人、東京新聞寺田、改造西田、新聞報柴野。若園君とその友人某君と酒をのむ。久々の酒、嬉しかった。大いに駄ボラを吹く。酔っ払うと、急に、大いに「女体」に自信満々たるように|亢《こう》|奮《ふん》しだしたから、むちゃで、私は酒を飲まないうちは、ともかく精いっぱいの仕事だった、と、むしろやや悲痛にちかい感慨で、暗く考えていたのであった。酒はむちゃだ。不当に気が強くなる。ずいぶん「女体」を威張って、二人のききてを悩ましたようだ。若園君、私の家へ泊まる。むりに引っぱってきたのだ。三、四日分のパンを焼いてもらう魂胆なのだ。一人になったら、実に落ち付いて気持ちがいいが、食事だけ困るのだ。
悪妻論
悪妻には一般的な型はない。女房と亭主の個性の相対的なものであるから、わが平野謙のごとく(彼は僕らの仲間では大愛妻家という定説だ)先日両手をホウタイでまき、日本が木綿不足で困っているなどとは想像もできない物々しいホウタイだ。肉がえぐられる|深《ふか》|傷《で》だという|無《む》|慙《ざん》な話であるけれども、彼の方が女房の横ッ面をヒッパたいたことすらもないという沈着なる性格、深遠なる心境、まさしく|愛猫家《あいびょうか》や愛妻家の心境というものは凡俗には理解のできないものだ。
思うに多情|淫《いん》|奔《ぼん》な細君は言うまでもなく亭主を困らせる。困らせられるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている亭主の方が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、おおむね別れた人にミレンを残しているものだ。
ミレンを残すぐらいなら別れなければよかろうものを、つまり、彼、彼女らは悪妻とか悪亭主という世の一般の通念や型をまもって、個性的な省察を忘れたのだ。悪妻に一般的な型などあるべきものではなく、否、男女関係のすべてにおいて型はない。個性と個性の相対的な加減乗除があるだけだ。わが平野謙のごとく、戦争をその残酷なる流血のゆえに|呪《のろ》い憎んでいても、その女房を戦争犯罪人などとは言わず惜しみなくホウタイをまいて満足しているから、さすがに文学者、沈着深遠、深く物の実体を究め、かりそめにも世の型のごときもので省察をにぶらせることがない。偉大! かくあるべし。
しかし、日本の亭主は不幸であった。なぜなら、日本の女は愛妻となる教育を受けないから。彼女らは、|姑《しゅうとめ》に仕え、子を育て、主として、男の親に孝に、わが子に忠に、亭主そのものへの愛情についてはハレモノにさわるように遠慮深く教育訓練されている。日本の女を女房に、パリジャンヌを|妾《めかけ》に、という世界的な説がある由、しかし、悲しい日本の女よ、彼女らは世界一の女房であっても、まさしく男がパリジャンヌを必要とする女房だ。日本人の|蓄妾癖《ちくしょうへき》は野蛮人の証拠だなどとはマッカな偽り、日本の女房の型、女大学の猛訓練は要するに亭主をして女房に満足させず、妾をつくらずにはいられなくなる性格を与えるためにシシと勉強しているようなものだ。
武家政治このかた、日本には恋愛というものが封じられ、恋愛は不義で、若気のアヤマチなどといって、恋愛の心情に対する省察も、若気のアヤマチ以上に深入りして個別的に考えられたこともない。恋愛に対する訓練がミジンもないから、お手々をつないで街を歩くこともできず、それでいきなり夫婦、|同《どう》|衾《きん》とくるから、男女関係は同衾だけで、まるでもう動物の訓練を受けているようなもの、日本の女房は、わびしい。暗い。悲しい。
女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、さような良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻なりと断ずる。
洗濯したり、掃除をしたり、着物をぬったり、飯を炊いたり、労働こそ神聖なりとアッパレ丈夫の心掛け。けれども、遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまってる。多情|淫《いん》|奔《ぽん》ではいささか迷惑するけれども、迷惑、不安、|懊《おう》|悩《のう》、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいい。
人はなんでも平和を愛せばいいと思うなら大間違い、平和、平静、平安、私はしかし、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、そういうものの方が私は好きだ。
私は逆説を|弄《ろう》しているわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみというものは|厭《えん》|悪《お》、|厭《おん》|離《り》すべきものときめこんで疑ぐることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。
恋愛というと、得恋メデタシメデタシと考えて、なんでもそうでなければならないものだときめているが、失恋などというものも大いに趣味のあるもので、第一、得恋メデタシメデタシよりも、よっぽど退屈しない。ほんとだ。
先日、本の広告を見ていたら、詩人の恋文を、二人が恋しながら、肉体関係のなかったゆえに神聖な恋だと書かれていた。おかしな神聖があるものだ。精神の恋が清らかだなどとはインチキで、ゼスス様もおっしゃるとおり行きすぎの人妻に目をくれても|姦《かん》|淫《いん》に変わりはない。人間はみんな姦淫を犯しており、みんなインヘルノへ落ちるものにきまっている。地獄の発見というものも、これまたひとつの近代の発見、地獄の火を花さかしめよ、地獄において人生を生きよ、ここにおいて必要なものは、本能よりも知性だ。いわゆる良妻というものは、知性なき存在で、知性あるところ、女は必ず悪妻となる。知性はいわば人間への省察であるが、かかる省察のあるところ、思いやり、いたわりも大きくまた深くなるかもしれぬが、同時に衝突の深度が人間性の底において行なわれ、ぬきさしならぬものとなる。
人間性の省察は、夫婦の関係においては、いわば鬼の目のごときもので、夫婦はいわば、弱点、欠点を知りあい、むしろ欠点において関係や対立を深めるようなものである。その対立はぬきさしならぬものとなり、憎しみは深まり、安き心もない。知性あるところ夫婦のつながりは、むしろ苦痛が多く、平和は少ないものである。しかし、かかる苦痛こそ、まことの人生なのである。苦痛をさけるべきではなく、むしろ、苦痛のより大いなる、より鋭くより深いものを求める方が正しい。夫婦は愛し合うとともに憎み合うのが当然であり、かかる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合うがよく、鋭く対立するがよい。
いわゆる良妻のごとく、知性なく、眠れる魂の、良犬のごとくに訓練されたドレイのような従順な女が、真実の意味において良妻であるはずはない。そしてかかる良妻の付属品たる平和な家庭が、尊まるべきものでないのは言うまでもない。男女の関係に平和はない。人間関係には平和は少ない。平和をもとめるなら孤独をもとめるに限る。そして|坊《ぼう》|主《ず》になるがよい。出家|遁《とん》|世《せい》という|奴《やつ》は平安への|唯《ゆい》|一《いつ》の道だ。
だいたい恋愛などというものは、偶然なもので、たまたま知り合ったがために恋し合うにすぎず、知らなければそれまで、また、あらゆる人間を知っての上での選択ではなく、少数の周囲の人からの選択であるから、絶対などというものとは違う。その心情の基盤はきわめて薄弱なものだ。年月がすぎれば退屈もするし、欠点がわかれば、いやにもなり、ほかに心を|惹《ひ》かれる人があれば、顔を見るのもイヤになる。それを押しての夫妻であり、|矛盾《むじゅん》をはらんでの人間関係であるから、平安よりも、苦痛が多く、愛情よりも憎しみや|呪《のろ》いが多くなり、関係の深まるにつれて、むしろ、対立がはげしくなり、ぬきさしならぬものとなるのが当然である。
夫婦は、苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め、いたわるよりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なのだから。
ゼスス様は|姦《かん》|淫《いん》するなかれとおっしゃるけれど、それは無理ですよ、神様。人の心は姦淫を犯すのが当然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を|翔《か》けるわけにも行かず、地上において巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまえだ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから、良妻などというものは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
しかし、しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情|淫《いん》|奔《ぽん》、ただ動物の本能だけの悪妻は始末におえない。しかし、それですら、その多情淫奔の性によって魅力でもありうるので、そしてそのゆえにミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻というものには、一般的な型はない。もしも魅力によって人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を|惹《ひ》くうちは、良妻なのだろう。
魅力のない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである。男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題のほかだ。
|才《さい》|媛《えん》というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察についてはゼロなのだ。つまり学問はあるかもしれぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。
苦しめ、そして苦しむのだ。それが人間の当然の生活なのだから。しかし、流血の惨は、どうかな? 平野君! ああ、戦争は野蛮だ! 戦争犯罪人を検索しようよ。平野君!
恋愛論
恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものだから。
誰しも恋というものに突きあたる。あるいは突きあたらずに結婚する人もあるかもしれない。やがてしかし|良人《お っ と》は妻を愛す。あるいは生まれた子供を愛す。家庭そのものを愛す。金を愛す。着物を愛す。
私はフザけているのではない。
日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。外国では(私の知るヨーロッパの二、三の国では)愛も恋も同じで、人を愛すという同じ言語で愛すという。日本では、人を愛し、人を恋しもするが、通例物を恋すとはいわない。まれに、そういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、狂的な力がこめられているような感じである。
もっとも、恋す、という語には、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスもあり、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じもある。だから恋すという語には、もとめるはげしさ、狂的な祈願がこめられているような趣きでもある。私は辞書をしらべたわけではないのだが、しかし、恋と愛の二語に歴史的な、区別され限定された意味、ニュアンスが明確に規定されているようには思われぬ。
昔、|切《きり》|支《し》|丹《たん》が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、みな一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家の|御《ご》|法《はっ》|度《と》で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものにきめられていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども、愛は不義につらなるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、たいせつという言葉だ。すなわち「|神《デウス》のごたいせつ」「キリシトのごたいせつ」と称し、余は|汝《なんじ》を愛す、というのを余は汝をたいせつに思うと訳したのである。
実際、今日われわれの日常の慣用においても、愛とか恋は何となく板につかない言葉の一つで、僕はあなたを愛します。などというと、舞台の上でウワの空にしゃべっているような、われわれの生活の地盤に密着しない空々しさが感じられる。愛す、というのは何となくキザだ。そこで、僕はあなたがすきだ、という、この方がホンモノらしい重量があるような気がするから、要するに英語のラヴと同じ結果になるようだが、しかし、日本語のすきだ、だけでは力不足の感があり、チョコレートなみにしかすきでないような物たりなさがあるから、しかたなしに、とてもすきなんだ、と力むことになる。
日本の言葉は明治以来、外来文化に合わせて間に合わせた言葉が多いせいか、言葉の意味と、それがわれわれの日常に慣用される言葉のイノチがまちまちであったり、同義語が多様でそのおのおのに|靄《もや》がかかっているような境界線の不明確な言葉が多い。これを称して言葉の国というべきか、われわれの文化がそこから|御《ご》|利《り》|益《やく》を受けているか、私は大いに疑っている。
|惚《ほ》れたというと下品になる。愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、あるいは実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、しかし、私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにはきわめて自在|豊饒《ほうじょう》な心情的|沃《よく》|野《や》を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持ちになっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきはふ国に、文化の借り|衣裳《いしょう》をしているようなものなのだ。
人は恋愛というものに、特別雰囲気を空想しすぎているようだ。しかし、恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。すきだ、という心情に無数の差があるかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との分があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである。
恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている。恋は幻だということを。
年齢には年齢の花や果実があるのだから、恋は幻にすぎないという事実については、若い人は、ただ、承った、ききおく、という程度でよろしいのだと私は思う。
ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。
教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
恋愛は後者に属するもので、|所《しょ》|詮《せん》幻であり、永遠の恋などは|嘘《うそ》の|骨頂《こっちょう》だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。
私はいったいに万葉集、古今集の恋歌などを、真情が素朴純粋に吐露されているというので、高度の文学のようにいう人々、そういう素朴な思想が嫌いである。
極端にいえば、あのような恋歌は、動物の本能の叫び、犬や猫がその愛情によって|吠《ほ》え鳴くことと同断で、それが言葉によって表現されているだけのことではないか。
恋をすれば、夜もねむれなくなる。別れたあとは死ぬほど苦しい。手紙を書かずにはいられない。その手紙がどんなにうまく書かれたにしても、猫の鳴き声と所詮は同じことなので、以上の恋愛の相は万代|不《ふ》|易《えき》の真実であるが、真実すぎるから特にいうべき必要はないので、恋をすれば誰でもそうなる。きまりきったことだから、勝手にそうするがいいだけの話だ。
初恋だけがそうなのではなく、何度目の恋でも、恋は常にそういうもので、得恋は失恋と同じこと、眠れなかったり、死ぬほど切なく不安であったりするものだ。そんなことは純情でもなんでもない、一、二年のうちには、また、別の人にそうなるのだから。
私たちが、恋愛について、考えたり小説を書いたりする意味は、こういう原始的な(不変な)心情のあたりまえの姿をつきとめようなどということではない。
人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題がはじまるのである。
A君とB子が恋をした。二人はおのおのねむられぬ。別れたあとでは死ぬほど苦しい。手紙を書く、泣きぬれる。そこまでは、二人の親もそのまた先祖も、孫も子孫も変わりがないから、文句はいらぬ。しかし、これほど恋しあう御両人も二、三年後には御多分にもれず、つかみあいの|喧《けん》|嘩《か》もやるし、別の面影を胸に宿したりするのである。何かよい方法はないものかと考える。
しかし、たいがいそこまでは考えない。そしてA君とB子は結婚する。はたして、例外なく|倦《けん》|怠《たい》し、|仇心《あだごころ》も起きてくる。そこで、どうすべきかと考える。
その解答を私にだせといっても、無理だ。私は知らない。私自身が、私自身だけの解答を探しつづけているにすぎないのだから。
私は妻ある男が、|良人《お っ と》ある女が、恋をしてはいけないなどとは考えていない。
人は捨てられた一方に同情して、捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならないので、なべて失恋と得恋は苦痛において同価のものだと私は考えている。
私はいったいに同情はすきでない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。
私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。
しかしながら、いかなる真理も決して万人のものではないのである。人はおのおの個性が異なり、その環境、その周囲との関係が常に独自なものだから。
私たちの小説が、ギリシャの昔から|性懲《しょうこ》りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則があって恋愛を割りきることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。
しかし、恋愛には規則はないとはいうものの、実は、ある種の規則がある。それは常識というものだ。または、因習というものである。この規則によって心のみたされず、その偽りに服しきれない魂が、いわば小説を生む魂でもあるのだから、小説の精神は常に現世に反逆的なものであり、よりよきなにかを探しているものなのである。しかし、それは作家の側からのいい分であり、常識の側からいえば、文学は常に良俗に反するものだ、ということになる。
恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生のおそらく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に|賭《か》けて断じうるはずもないのである。
ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せいいっぱいに生きること、それをもってみずからだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。
問題は、ただ一つ、みずからの真実とは何か、という基本的なことだけだろう。
それについても、また、私は確信をもっていいうる言葉をもたない。ただ、常識、いわゆる|醇風《じゅんぷう》良俗なるものは真理でもなく正義でもないということで、醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを|怖《おそ》るべきだ、ということだけはいい得るだろう。
しかし、人生は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、ほしいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口をひろげて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。
人の魂は、何物によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に永遠などとはもとより|嘘《うそ》にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イマージュをもてあそぶ言葉の|綾《あや》だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。
人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は|不《ふ》|遜《そん》であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩のイノチがありうる。
プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互いに他を裏切ることが宿命で、われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに|馴《な》れているが、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。
人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさがわかるほかには偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。|所《しょ》|詮《せん》人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、とかいうが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また明記しなければならない。
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。
エゴイズム小論
住友邦子|誘《ゆう》|拐《かい》事件は各方面に反響をよんだが、童話作家T氏は社会一般の道義の|頽《たい》|廃《はい》がこの種の悪の温床であるといい、子供たちが集団疎開によって人ずれがしたのも一因だという。朝日の投書欄では、父親の吉右衛門氏が信州の温泉に遊んでおって、|俺《おれ》が帰ったところで娘が戻るわけでもないとうそぶいて帰京しなかったことなど、それ自体がこの事件の真相を語っており、住友邦子は住友家の娘であるよりも誘拐犯人の妹に生まれた方が幸福であったのだと言っている。これらはいずれも誘拐という表面の事件を|鵜《う》|呑《の》みにしただけの批判で、この事件の真の性格を理解していないようだ。すべて社会に生起する雑多な事象が常にこの種の安易低俗な批判によって意味づけられ、人性や人の子たるものの宿命の|根《こん》|柢《てい》から考察せられることが欠けているのは、敗戦自体の悲劇よりもさらに深刻な悲劇であると私は思う。道義の頽廃などと|極《き》まり文句で片づけるのは文学者の場合は特に罪悪的な安易さであろう。
この事件の犯人は彼の誘拐したあらゆる少女に愛されているのである。一様に「やさしいお兄さん」であるという。そしてなぜ愛されているかというと、この犯人は元来金がほしかったわけではないので、純一に少女を愛しいたわっており、そのために己れを犠牲にしている。自分は食べずに少女には食べさせてやり、野宿の夜は少女のために終夜|蚊《か》を追っているのである。ここにこの事件の特異な性格が存しておるので、犯行それ自体は利己的なものであっても、少女に対する犯人の立場は自己犠牲をもって一貫され、少女の喜びと満足が彼自身の喜びと満足であったと思われる。彼は半年いっしょに暮らした潔子には、家へ帰りたければ帰してあげると言っていたというが、すでに少女の帰りたがらないことを見越しての自信からとはいえ、本心からのいたわりもあったに相違ない。彼は強制していない。潔子は御飯をたいてお握りをつくってくれたが、邦子は|炊《すい》|事《じ》を知らなかった。そういう相違に対しても、自分の便利のために邦子と潔子と同じ働きを強要することはせず、少女の個性に即して自分の方を順応させ、自己を犠牲にして意とせぬだけの本来の性格をもっているのである。
こういう犯人にかかっては、潔子や邦子の頭の悪さ、とか、世間知らず、ということによる説明は意味をなさない。あらゆる少女が誘拐せられてむしろ充たされ、犯人を慕いなつかしむに相違ない。
家庭は親の愛情と犠牲によって構成された団結のようだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が|妄《もう》|想《そう》的に確信しているだけ、かえって子供に服従と犠牲を要求することが多いのである。一般の母親は子供の個性すら尊重せず、A子の長所をもってB子をいましめているもので、盲目的に子への献身や愛情を確信しているだけ始末の悪い独裁者であると知るべきである。
何事によらず、真実エゴイストでないということは、究極における勝利であるにしても、この現世には容れられない。彼らの自己犠牲は現世の快楽を否定しているものではあるが、その意味においてはみずから充たされており、現世の苦痛は必ずしも、彼らの苦痛ではない。しかし彼らは世の秩序から迫害される。キリストがそうであった。釈迦もそうだ。彼らの道は|荊棘《けいきょく》と痛苦にみたされているが、究極において彼らは「勝つ性格」にある。ゴッホもゴーガンも芭蕉もそうだ。芸術のために彼らの現世に課せられたものは献身と犠牲であった。
すべて偉大なる天才たち、勝利者たちはエゴイストではなかった、ということができる。
しかし我々凡夫の道、一般世間人の道はあべこべで、社会秩序や共同生活の理念はエゴイストでないことや自己犠牲のごときものを根幹としておらず、他に害を与えぬ範囲において自己の欲望の満足、現世の悦楽をみたすことを基本としているものなのである。キリスト教徒はキリストの苦痛をみずから行なうことではなく、キリストの犠牲において彼らの現世の幸いが約束せられているのだ。我々はキリストが最高の人格であることを知っている。とはいえ、我々すべてがキリストのごとき人格であらねばならず、我々の日常生活にキリストのごとき自己犠牲が要求せられたなら、我々は悲鳴をあげるのみならず、反抗し、革命を起こすにきまっている。最高の人格やモラルは我々の秩序にとっては異常であり、その意味において罪悪と異なるところはない。我々の秩序はエゴイズムを基本につくられているものであり、我々はエゴイストだ。
私は十数年前に一人の女を知っていた。人妻であったが千人の男を知りたいという考えをもっており、大学生などと泊まり歩いていた女で、そのうちに離縁され|花柳病《かりゅうびょう》になって行き場に窮して私たちのアパートの一室へ転がりこんできたので、自分の欲望のため以外には人のことなど考えることのない女であるから、男にも女にも友達がなく、行き場がなかったのである。私たちのアパートというのは東京ではなく、ある地方の都市で、私はくされ縁の女とそんなところへ落ちのびてきて人は(私は)なんのために生きるのであろうかと考えて、その|虚《むな》しさと切なさに|苦《く》|悶《もん》していた。私は毎日図書館へ行って、仕方なしに本を読んでいた。自分が信頼されず、何か書物の中に私自身の考えごとが書かれていないかと、しかし、私は本をひらいてボンヤリするだけで本も読む力がなかったのだ。ころがりこんできた女は花柳病の医者へ通っていたが、その医者を口説いて失敗したそうで、ダンスホールへ毎日男をさがしに行き、毎日あぶれて帰ってきて、ひとりの寝床へもぐりこむ。その冷たい寝床へもぐりこむ姿がまるで老婆のようで色気というものが|微《み》|塵《じん》もないので、私は暗然たる思いになったものだ。
私はそのとき思った。男女の肉体の場ですら、この女のように自分の快楽を追うだけということは駄目なのだ、と。マノン・レスコ|オ《*》とか、リエゾン・ダンジュルーズの侯爵夫|人《*》のごとき天性の|娼婦《しょうふ》は、美のため男を|惑《まど》わすためにあらゆる技術を用い、男に与える陶酔の代償として当然の報酬をもとめているだけの天性の技術者であり、そのため己れを犠牲にし、絶食はおろか、己れの肉欲の快楽すらも犠牲にしているものなのである。かかる肉欲の場においても、娼婦型の偉大なる者はエゴイストではないのである。エゴイストは必ず負ける。家庭がかかる天性の娼婦に敗れ去るのはいかんとも仕方がない。
芸術の世界もまたそうだ、エゴイストであってはいけない――私はそのころから、エゴイストということに今もなお|憑《つ》かれているのだが、今もなお私には皆目わからないのである。私は無償の行為ということを思いつづけてきたばかりで、今もなお私に何もわからないのは無理はない、思う世界ではない、行なう世界なのだからだ。
人は道義|頽《たい》|廃《はい》という。だが、彼らの良しとする秩序とはいったい何物であるのか。行きくれた旅人を泊めてもなしてやったから美談だという。この旅人が|小平《こだいら》のような男で、親切に泊めたばかりに締め殺されたらどうするつもりなのだ。フランスの童話にあるではないか。赤|頭《ず》|巾《きん》という|可《か》|愛《わ》いい親切な少女は森のお婆さんを見舞いに行って、お婆さんに化けていた|狼《おおかみ》に食べられてしまう話が。だから親切にするなというのではなく、親切にするなら小平や狼に殺される覚悟でやれ、ということだ。親切にしてやったのに裏切られたからもう親切はやらぬという。そんな親切は始めからやらぬことだ。親切には裏切りも報酬もない。小平や狼の存在が予定せられ、親切のおかげで殺されても仕方がないという自覚の上に成り立っている絶対の世界なのである。
いったん裏切られれば崩れてしまうような親切を美談だといい、道義頽廃嘆くべしという、それ自体浅はかなるエゴイズムではないか。|闇《やみ》の女は自由と|放《ほう》|恣《し》をはきちがえている困った|代《しろ》|物《もの》だというのだが、家庭を|呪《のろ》い自由をもとめて飛び出すのは闇の女には限らない。出家|遁《とん》|世《せい》も同じことではないか。闇の女になるには坊主になるよりもっと苦しい一線を飛び越す必要がある。出家遁世はほめてくれる人はあるが、闇の女は世の指弾を受けるばかりである。諸君は罪を知っているか。罪とは何ぞや。貞操を失う女は魂の純潔も失う、と。しかり。家庭に安住する貞淑にして損得の鬼のごとき悪逆善良なる奥方を見よ。魂の純潔などはない。魂の問題がないのである。
ラスコリニコ|フ《*》は|淫《いん》|売《ばい》|婦《ふ》にひざまずく、彼女は汚辱にまみれているがその魂は一滴の|淫《いん》|蕩《とう》の血にも汚されていない、と。そして偉大なる罪にひざまずくのである、と。私はそんな甘ったるいことは考えていない。私の知るソーニャやマリヤはみんな淫蕩の血にまみれ、そして|嬉《き》|々《き》としているのである。私のソーニャは踏みつけられたり虐げられたりはしておらず、ノラのごとくにとびだして、しかし汚辱に向かってみずからとびこんできたのである。まさしく自由と|放《ほう》|恣《し》とはきちがえているのである。
だがこの世には真実自由なるものも、真実放恣なるものも存在してはいない。自由というものがいかに痛苦にみたされたものであるかは、我々芸術にたずさわるものが身にしみて知っている。芸術の世界においてはあらゆる自由が許されておるので、否、可能なあらゆる新しきもの、いまだ知り得ざるものを見出し|創《つく》りだすことをその身上としているのである。才能には何の束縛もない。だがみずからの才能において自由であり得た芸術家などは存在せず、真実自由を許され、自由を強要されたとき(芸術は自由を強要する)人は自由を見いだす代わりに束縛と限定を見いだすのである。
私が戦争中嘱託をしていた某映画会社では、演出家たちは組合制度だか順番制度だかそんなふうなものをつくって、各自の才能の貧困をそれによって救済するような組織をつくっていたようであるが、順番制度というような才能の分配が行なわれるようになれば、なるほど楽であろう。秩序とは万事かくのごときものであり、才能の自由競争は組合違反とくる。芸術の世界においてはかかる秩序の馬鹿らしさがわかるけれども、一般社会においてはそれがわからぬのである。
放恣とてもそうである。人を裏切る者はみずからもまた裏切られる。権謀術数、可能なあらゆる悪策鬼略にみずから傷つき、裏切るゆえに裏切られ、戦国時代の豪傑どもも保護の上で束縛され安眠したいと思うようになる。どんな卑劣な手段を用いても勝てばよいという宮本武蔵の剣法が衰え、形式主義の柳生流が|謳《おう》|歌《か》せられるに至るのも、豪傑どもが剣道本来の激しさに堪え得なくなるのである。かくて|虚《きょ》|妄《もう》の正義は誕生する。
ゼネストが他に迷惑を与えることによって反感を買う。しかし要求の当然な権利は認めないわけには行かない。エゴイズムはエゴイズムによって反逆され|復讐《ふくしゅう》されるのである。道義の|頽《たい》|廃《はい》を嘆くことのエゴイズムも同じこと、いかに嘆いてみたところで|夫《ふう》|子《し》みずからの道義なるもののエゴイズムをさとらなければ笑い話にすぎないだろう。闇の女も出家|遁《とん》|世《せい》も単にエゴイストにすぎないが、要するにエゴイズムはエゴイズムによって反逆される。仕方のないことではないか。家庭や秩序の永遠なる平和などというものはありうるものではない。
芸術はいかなる時にも永遠なるもの、絶対なるもの、真善美のために戦われてきた魂の足跡であるが、決してかかる秩序の軽率な味方ではなかった。
日本の復興には道義、秩序の|恢《かい》|復《ふく》が急務だという。だが本来エゴイズムの道義にはよけいな|理《り》|窟《くつ》はいらないので、電車の数が多くなれば誰も押し合うはずはなく、物が|出《で》|廻《まわ》れば|闇《やみ》|屋《や》はなくなる。物質の復興が急務である。もしそれ電車の中で老幼婦女子に席をゆずるごときことが道義の復興であるというなら、電車の座席をゆずり得ても、人生の座席をゆずり得ぬ自分を省みること。下らぬ親切はよけいなことだ。人に親切にするなら小平や|狼《おおかみ》に殺されるのを自覚の上で親切をつくすこと。私は電車の座席をゆずって善人ぶり、道義の頽廃を嘆く人よりも、誘拐犯人の樋口の方をはるかに愛す。俺が帰京したところで娘は戻らぬという吉右衛門氏の方が重々もっとも千万なので、まさにお説のとおりであり、道義頽廃などと嘆くよりもまず汝らの心について省みよ。人のオセッカイは後にして、自分のことを考えることだ。
欲望について
[#ここから5字下げ]
――プレヴォとラクロ――
[#ここで字下げ終わり]
私は昔から家庭というものに疑いをいだいていた。愛する人と家庭をつくりたいのも人の本能であるかもしれぬが、この家庭を|否《いや》|応《おう》なく、|陰《いん》|鬱《うつ》に、死に至るまで守らねばならぬか、どうか。なぜ、それが美徳であるのか。勤倹の精神とか困苦耐乏の精神とか、そういう美徳と同じように、実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかという気が、私にはしてならなかった。
多くの人々の家庭はたのしい|棲《すみ》|家《か》よりも、私にはむしろ|牢《ろう》|獄《ごく》という感じがする。そしてなぜ耐乏が美徳であるかと同じように、この陰鬱な家庭についても、人々は、それが美徳であり、その陰鬱さに堪え、むしろ暗さの中に楽しみを見いだすことが人生の大事であるというふうに|馴《な》らされてきた。ただ「馴らされてきた」のだとしか思うことができなかった。
私はマノン・レスコオのような|娼婦《しょうふ》が好きだ。天性の娼婦が好きだ。彼女には家庭とか貞操という観念がない。それを守ることが美徳であり、それを破ることが罪悪だという観念がないのである。マノンの欲するのは|豪《ごう》|奢《しゃ》な陽気な日ごと日ごとで、陰鬱な生活に堪えられないだけなのである。
彼女にとって、|媚《び》|態《たい》は徳性であり、彼女の勤労ですらあった。そこから当然の所得をする。陽気な楽しい日ごと日ごとの活計のための。
たぶん太古は人間たちはそんなふうに日ごと日ごとを陽気に暮らしていたのかもしれない。どうも秩序がなくては共同生活に困るというので、社会生活というものが起こってきて、今度は秩序のために多くのことを犠牲にし、善悪美醜幸不幸、なにがその本体やらコントンとして分かちがたい物質精神|相《あい》|食《は》み相重なりわけのわからぬものができ上がったのだろうと思う。人生とは何か、いわく不可解。私の考えでは、不可決というのだ。私は決して家庭が悪いと断言しない。断言できないのだ。この人生に解決があろうとは思わないのだから。
要するに人間には社会生活の秩序が必要であるが、秩序が必ず犠牲をともなうもので、この両方を|秤《はかり》にかけて公平に割りだすような算式が発見されるはずはない。要するに今あるよりも「よりよいもの」を探すことができるだけだ。絶対だの永遠の幸福などというものがあるはずはない。
私は勤倹精神だの困苦欠乏に耐える精神などというものが嫌いである。働くのは遊ぶためだと考えており、より美しいもの便利なもの楽しいものを求めるのは人間の自然であり、それを|拒《こば》み|阻《はば》むべき理由はないと信じている。もっとも私は、遊ぶことも、近ごろはひどく退屈だ。私の心をほんとう慰めてくれる遊びなど、私はこの現実に知らず、また、見いだしていない。
マノン・レスコオの作者プレヴォは本職はカトリックの坊さんであるが、神、絶対について考え、人間の幸福について考える一人の|僧《そう》|侶《りょ》が天性の|娼婦《しょうふ》を描き、その悪徳を地上の至高の美果のごとくに描きだしたということは、あるいは大いに自然のことであろうと思う。そしてマノンの天性はまた女一般の隠された天性でもあるが、天国の幸福を考える前に人間が地上の幸福を追求するのも自然で、しかし、人間はほとんど生まれながらにして天国のために地上を犠牲にしているのだが、かかる訓練と習慣と秩序に対して、僧侶自身が反逆し疑うことは思想の正規の発展の段階であり、|毫《ごう》も不自然ではないのである。疑ぐらず反逆しないのが不思議なのだ。
人間の動物性は社会秩序という網によってすくいあげることが不可能で、どうしても網の目からこぼれてしまう。そして我々はそういう動物性を秩序の網にすくいあげることができないので悪徳であるというのであるが、しかしその社会生活の幅、文化というものが発展進歩してきたのは、秩序によるよりもその悪徳のせいによることが多いのである。
日本軍部がヨーロッパ文明をさして堕落と称したのも、いわれのないことではない。もし人間が人間の社会性に主点を置き、秩序によって人間を完全に縛りつけようとするなら、それはいわゆる武士道のごときものとなり、人の個性は失われ、個性に代わるに制服、たとえば武士という一つの型の制服の中の、いわば人間以外の生物になってしまう。または小笠原流という礼儀の中の武士の娘であり妻であって、女でも人間でもないのである。そして人間の欲望は禁じられ、困苦欠乏に耐えることが美徳となり、自我でなしに、他に対する忠誠が強要せられる。これは|蟻《あり》の生活だ。けだし戦時中ある軍人は蟻の生活を模範とし、そのごとく働けと言った。
もし人間が自我について考えるなら、自我の欲望と社会の規約束縛の摩擦や|矛盾《むじゅん》について、考えるという生活がまず第一にそこから始まるのは自然ではないか。日本人とても例外ではない。すべての人々が考えるのだ。けれども一般に人々はこう考える。古い習慣や道徳を疑ぐることは自分の方が間違っているのだ、と。そして古い習慣や道徳に、自我の欲望を屈服させ同化させることを「大人らしい」やり方と考え、そういう|諦《あきら》めの中の静かさが、ほんとうの人間の最後の慰めであり、真善美を兼ねそなえたものだというふうに考えるのだ。
私は不幸にして、そういう考え方のできない生まれつきであった。私は結婚もしないうちから、家庭だの女房の暗さに絶望し、娼婦(マノンのような)の魅力を考え、なぜそれが悪徳なのか疑ぐらねばならないようなたちだった。その考えはいわゆる老成することなしに、ますます馬鹿げたふうに秩序をはみだす方へ傾いて行くばかりであった。だが、私にはわからない。今もって何もわからないのだ。
プレヴォによって発見されたこの近代型の|娼婦《しょうふ》はその後今日に至るまで多くの作家の作品の中に生育発展し、ユロ男|爵《*》のごとくそれに向かって特攻隊的自爆を遂げる勇士も現われ、その反動の淑徳もまたおのずから新たに考察せられてきた。もっともドストエフスキーのごとく、およそあらゆる背徳について|饒舌《じょうぜつ》すぎる観念を|弄《ろう》しながら「気質的」にかかる娼婦に多くふれ得ない作家もあり、彼の娼婦はおおむね日本一般の常識のごとく、貧ゆえに身を売らねばならなかった汚濁に沈む悲惨な運命の子であり、しいたげられ踏みつけられた人々なのだ。まれに|賭《と》|博《ばく》者の中の女大学生やブランシュ嬢のごときものも現われても、その天性の娼婦的性格に対して、人間そのものの本質からの誠意ある考察を払っていない。彼は気質的にかかる女の性向と離れており、それゆえに彼の観念には多くの甘さのあるゆえんでもある。もっとも当時のロシヤは現在の日本のごとく貧乏な世界の|片《かた》|田舎《い な か》で、たとえば文化の庶子であるかかる天性の大娼婦が現われていなかったのも事実であろう。しかし、観念は、そういう現実によって限定されるものでもない。
日本では美しいものは風景で、庭などに愛情を傾けるのであるが、人間のノルマルの欲求が|歪《ゆが》められ、人間的であるよりも|諦《てい》|観《かん》自体がすでに第二の本性と化した日本人が、人間自体の美よりも風景に愛情を|托《たく》したのは当然であったに相違ない。しかし、人間にとって、人間以上に美しいものがあるはずはない。
マノンはその情夫の青年を熱烈に愛しているのであるが、他の男を|媚《び》|態《たい》によって迷わし貞操を売ることを、貞操への裏切りであるというふうな考え方が本来欠けているのである。|豪《ごう》|奢《しゃ》な楽しい生活のためには媚態が最高の商品で、その商品としての媚態に対して、最高の商人的な徳義と良心を持っている。その良心は優秀なる媚態ということで、貞操などとは無関係だ。貞操などというものは単に精神上に存在するのみであって、物質としては一顧の価値もない。根柢的な物質主義を基盤として成り立っている娼婦の思考は、無貞操ということに罪悪感は持ち得ず、男を無上に喜ばせるということに対して当然にして、|莫《ばく》|大《だい》な報酬を要求しているだけのことだ。マノン・レスコオの場合においては、その薄命の最後に至るまで変わらざる愛人があったが、これはプレヴォ僧正のせめてもの常識的な道徳に対する|賄《わい》|賂《ろ》であり、世の実相はおおむねこのごときものではないだろう。マノンの不貞節は一人の愛人に対する変わらざる真実の情熱によって徳義化しうる性質のものではない。もしそれが道義化し得るなら、それ自体の本質によってであるほかに道はない。
ショデロ・ド・ラクロの「リエゾン・ダンジュルーズ」(危険な関係、と訳すべきか)はかかる天性の娼婦に高い身分(侯爵)と高い教育を与え、マノンにおいて盲目的であったことが、最も意識的に、すなわち愛の遊戯を明確なる人生の目的とした男女の場合を描きだしたものである。侯爵夫人によれば愛の遊戯の満足は肉欲の充足自体ではなく、そこに至る道程の長い悩殺と技巧と知識の中にあるので、そのためにあらゆる観察と研究が行なわれているのである。この小説は昭和初年に|猥《わい》|本《ほん》の限定出版物の中に訳されたことがあるのだが、愛欲に対する追求が誠実であるほど猥本の領域に近づくことは当然で、日本においては今日まで訳されて一般に流布する見込みの立たなかった作品だ。私はあらゆる本を手放したときにもこの原本だけはだいじに所蔵していたのであるが、小田原の|洪《こう》|水《ずい》で太平洋へ流してしまった。
かかる人性への追求は永遠に「家庭」と|相《あい》|容《い》れないものであり、その限りにおいて不道徳なものであるが、果たして「家庭」とは何物であるのか。家庭のために人はかかる遊びへの欲望を|抛《ほう》|棄《き》すべきものであるか。思うに我々の陰鬱なる家庭は決してしかくあくまで守らねばならぬ値打ちを持つものではないだろう。我々の家庭は外形内容ともになお多くの|変《へん》|貌《ぼう》変質すべき欠陥があり、家庭の平穏に反することが、ただちに不道徳を意味することはあり得ない。
通用の道徳は必ずしも美徳ではない。通用に反する不徳は必ずしも不徳ではなく、かかる通用の徳義に比して、人性の真実というものにはいかなる刃物をもってしても殺し得ぬ永遠のいのちがこもっていることを悟らざるを得ないものだ。
欲望は秩序のために犠牲にせざるを得ないものではあるけれども、欲望を欲することは悪徳ではなく、我々の秩序が欲望の満足に近づくことは決して堕落ではない。むしろ秩序が欲望の充足に近づくところに文化の、また生活の真実の生育があるのであり、人間性の追求という文学の目的も、かかる生活の生育のための内省の手段として、その意味があるのだろうと思う。
人は肉欲、欲情の露骨な暴露を|厭《いと》う。しかしながら、それが真実人によって愛せられるものであるなら、厭うべき理由はない。
我々はまず遊ぶということが不健全なことでもなく、不まじめなことでもないということを身をもって考えてみる必要がある。私自身について言えば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。しかし、他の何物かが人生の目的であるということを断言するなんらの確信をもっていない。もとより遊ぶということは退屈のシノニイムであり、遊びによって人は真実幸福であり得るよしもないのである。しかしながら「遊びたい」ということが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないというだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充たすものではなく、多くは裏切るものであり、マノンも侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかった。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだろう。その意味においては人は苦悩をもとめる動物であるかもしれない。
大阪の反逆
[#ここから5字下げ]
――|織《お》|田《だ》|作《さく》|之《の》|助《すけ》の死――
[#ここで字下げ終わり]
将棋の升田七段が木村名人に三連勝以来、大阪の反逆というようなことが、時々新聞雑誌に現われはじめた。将棋のことは門外漢だが、升田七段の攻撃速度は迅速意外で、従来の定跡が手おくれになってしまう(時事新報)のだそうで、新手の対策を生みださぬかぎり、この攻撃速度に抗することができないだろう、という。新たなるものに対するジャーナリズムの過大評価は見なれていることだから、私は必ずしもこの評判を|鵜《う》のみにはしないが、伝統の否定、将棋の場合では定跡の否定、升田七段その人を別に、漠然たる時代的な|翹望《ぎょうぼう》が動きだしているような気がする。
織田作之助の二流文学論や可能性の文学などにも、彼の本質的な文学理論と同時に、この時代的な翹望との関聯が理論を支える一つの情熱となっているように思われる。
織田は坂田八段の「銀が泣いてる」について述べているが、私は最初の一手に|端《はし》|歩《ふ》をついたという|衒《げん》|気《き》の方がおもしろい。第一局に負けて、第二局で、また|懲《こ》りもせず、端歩をついたという馬鹿な意地がおもしろい。
私はいつか木村名人が双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると最後まで押されて負けてしまう。名人だなどと言っても序盤で立ちおくれてはそれまでで、立ち上がりに位を制することが技術の一つでもあり名人たるの力量でもあるのだから、双葉のごとく、敵の声で立ち上がり、敵に立ち上がりの優位を与えるのが横綱たるの貫禄だという考え方はどうかと思う、ということを述べていた。
序盤の優位ということがわからぬ坂田八段ではなかろうけれども、第一手に端歩を突いたということは、自信の表われにしても軽率であったに相違ない。私は木村名人の心構えの方が、当然であり、近代的であり、実質的に優位に立つ思想だと思うから、坂田八段は負けるべき人であったと確信する。坂田八段の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けているのだ。それゆえ、事実において、その内容(力量)も貧困であったと私は思う。第一手に端歩をつくなどというのは馬鹿げたことだ。
伝統の否定というものは、実際の内容の優位によって成り立つものだから、コケオドシだけでは意味をなさない。
しかし、そのこととは別に私がおもしろいと思うのは、八段ともあろう達人が、端歩をついたということの|衒《げん》|気《き》である。
フランスの文学者など、ずいぶん衒気が|横《おう》|溢《いつ》しており、見世物みたいな服装で社交界に乗りこむバルザック先生、屋根裏のボードレエル先生でも、シャツだけは毎日|垢《あか》のつかない純白なものを着るのをひけらかしていたというが、これも一つの衒気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであったのだろう。
藤田|嗣《つぐ》|治《じ》はオカッパ頭でまず人目を|惹《ひ》くことによってパリ人士の注目をあつめる方策を用いたというが、その魂胆によって芸術が毒されるものでないかぎりは、かかる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の|現《うつ》|身《しみ》などはタカの知れたものだ。深刻ぶろうと、茶化そうと、芸術家は芸術自体だけが問題ではないか、誰だって、無名よりは有名がよかろう。金のないより、ある方がよい。もっとも、有名になり、金を握ってみて、その馬鹿らしさにウンザリしたというなら、それも結構だけれども、みずから落伍者で甘んじる、ただ仕事だけ残せばいいという、その孤独な生活によって仕事自体が純粋高尚であり得るという性質のものではない。
現世的に俗悪であっても、仕事が不純でなく、|傑《すぐ》れたものであれば、それでよろしいので、日本の従来の考え方のごとく、シカメッ面をして、苦吟して、そうしなければ傑作が生まれないような考え方の方がバカげているのだ。清貧に甘んじるとか、困苦欠乏にたえ、オカユをすすって精進するとか、それが傑作を生む条件だったり、作家と作品を神聖にするものだという、浅はかな迷信であり、通俗的な信仰でありすぎる。
こういう日本的迷信に対して反逆し得る文化的地盤は、たしかに大阪の市民性に最も豊富にあるようだ。
京都で火の会の講演があったとき、織田は客席の燈を消させ、壇上の自分にだけスポットライトを当てさせ、|蒼《そう》|白《はく》な顔に長髪を額にたらして光の中を歩き|廻《まわ》りながら、二流文学論を一席やったという。
こういう織田の衒気を笑う人は、芸術についてほんとうの心構えのない人だろう。笑われる織田はいっこうに軽薄ではなく、笑う人の方が軽薄なので、深刻ヅラをしなければ、自分を支える自信のもてない|贋《にせ》芸術の重みによたよたしているだけだ。
先ごろ、織田と太宰と平野謙と私との座談会があったとき、織田が二時間遅刻したので、太宰と私は酒をのんで座談会の始まる前に|泥《でい》|酔《すい》するという奇妙な座談会であったが、速記が最後に私のところへ送られてきたので、読んでみると、織田の手の入れ方が変わっている。
だいたい座談会の速記に手を入れるのは、自分の言葉の言い足りなかったところ、意味の|不明瞭《ふめいりょう》なところを補足|修繕《しゅうぜん》するのが目的なのだが、織田はそのほかに、全然言わなかった無駄な言葉を書き加えているのである。
それを書き加えることによって、自分が|悧《り》|巧《こう》に見えるどころか、バカに見えるところがある。ほかの人が引き立って、自分がバカに見える。かと思うと、ほかの人がバカに見えて自分が引き立つようなところもあるけれども、それが織田の目的ではないので、織田の|狙《ねら》いは、純一に、読者をおもしろがらせる、というところにあるのである。だから、この書き加えは、文学の本質的な理論にふれたものではなく、ただ世俗的なおもしろさ、興味、読者が笑うようなことばかり、そういう効果を考えているのである。
理論は理論でちゃんと言っているのだから、その合いの手に、時々読者を笑わせたところで、それによって理論自体が軽薄になるべきものではないのだから、ちょっと一行加筆して読者をよろこばせることができるなら、加筆して悪かろうはずはない。
織田のこの徹底した|戯《げ》|作《さく》根性は見上げたものだ。永井荷風先生など、みずから戯作者を号しているが、およそかかる戯作者の真骨頂たる根性はその魂にそなわってはおらぬ。|ぼく[#「ぼく」は「さんずい」+「墨」Unicode="#6ff9"]《ぼく》|東《とう》|綺《き》|譚《だん》における、他の低さ、俗を笑い、みずからを高しとする、それが荷風の精神であり、彼は戯作者を|衒《てら》い、戯作者を|冒《ぼう》|涜《とく》する俗人であり、すなわちみずから高しとするところに文学の境地はあり得ない。なぜなら、文学は、自分を通して、全人間のものであり、全人間の苦悩なのだから。
江戸の精神、江戸趣味と称する通人の魂の型はおおむね荷風の流儀で、俗を笑い、古きを尊び|懐《なつか》しんで新しきものを軽薄とし、自分のみを高しとする。新しきものを憎むのはただその古きに似ざるがためであって、物の実質的な内容について理解すべく努力し、より高き真実をもとめる|根《こん》|柢《てい》の生き方、あこがれが欠けている。これの卑小を省みる根柢的な謙虚さが欠けているのだ。わが環境を盲信的に正義と断ずる偏執的な片意地を、その狂信的な|頑《がん》|迷《めい》|固《こ》|牢《ろう》さのゆえに純粋と見、高貴、非俗なるものとみずから潜思しているだけのこと、わが身のほどに思い至らず、みずから高しとするだけ悪臭|芬《ふん》|々《ぷん》たる俗物と申さねばならぬ。
大阪の市民性にはかかる江戸的通念に対して本質的にあべこべの気質的地盤がある。たとえば、江戸趣味においては軽蔑せられる成金趣味が大阪においてはそれが人の子の当然なる発露として|謳《おう》|歌《か》せられるたぐいであって、人間の気質の俗悪の面がはなはだ素直に許容せられている。
織田が革のジャンパーを着て、額に毛をたらして、人前で腕をまくりあげてヒロポンの注射をする、客席の燈を消して一人スポットライトの中で二流文学を論ずる、これを称して人々はハッタリと称するけれども、こういうことをハッタリの一語で片づけて小さなカラの中にみずから正義深刻めかそうとする日本的生活のあり方、その卑小さが私はむしろ|侘《わ》びしく、哀れ悲しむべき俗物的潔癖性であると思うが|如何《い か ん》。
むしろかかる生活上の精力的な、発散的な型によって、芸術自体においては逆に沈潜的な結晶を深めうる可能性すらあるではないか。生活力の幅の広さ、発散の大きさ、それはまた文学自体のスケールをひろげる基本的なものではないか。
文学は、よりよく生きるためのものであるという。いかに生くべきかであるという。しかし、それは文学に限ったことではなく、哲学も宗教もそうであり、否、すべて人間誰しもが、おのおのいかに生くべきか、よりよき生き方をもとめてやまぬものであるゆえ、その人間のものである文学もまた、そうであるにすぎないだけの話である。しかし文学は、ただ単純に思想ではなく、読み物、物語であり、同時に娯楽の性質を帯び、そこに哲学や宗教との根柢的な差異がある。
思うに文学の魅力は、思想家がその思想を伝えるために物語の形式をかりてくるのでなしに、物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技に属するものであろう。
小説におもしろさは不可欠の要件だ。それが小説の|狙《ねら》いでなく目的ではないけれども、それなくして小説はまたあり得ぬもので、文学には、本質的な戯作性が必要不可欠なものであると私は信じている。
我々文士は諸君にお説教をしているのではない。解説をしているのでもない。ただ人間の苦悩を語っているだけだ。思想としてでなしに、物語として、節おもしろく、読者の理智のみではなく、情意も感傷も、読者の人間たる容積の機能に訴える形式と技術とによって。文士は常に、人間探求の思想家たる面と、物語の技術によって訴える戯作者の面と、二つのものが並行して存立するもの、二つの調和がおのずから行なわれ、常に二つの不可分の活動により思想を戯作の形において正しく表現しうることしか知らないところの、つまりは根柢的な戯作者たることを必要とする。なぜなら、いかに生くべきかということは、万人の当然なる態度であるにすぎないから。
しかし単なる読み物のおもしろさのみでは文学ではあり得ないのも当然だ。人性に対する省察の深さ、思想の深さ、それは文学の決定的な本質であるが、それと戯作者たることと、|牴触《ていしょく》すべき性質のものではないという文学の真実の相を直視しなければならぬ。我々の周囲には思想のない読物が多すぎる。読物は文学ではない。ところが、日本では、読物が文学として通用しているのだから、私が戯作者というのを、単なる読物作家と混同したり、時にはそれよりももっと俗な魂を指しているのかと疑ぐられたりするような始末である。
文学者が戯作者でなければならぬという、その戯作者に特別な意味があるのは、小説家の内部に思想家と戯作者と同時に存して表裏一体をなしているからで、日本文学が下らないのは、この戯作者の自覚が欠けているからだ。戯作者であることが、文学の尊厳を|冒《ぼう》|涜《とく》するものであるがごとくに考える。実は、あべこべだ。彼らの思想性が|稀《き》|薄《はく》であり、真実血肉の思想を自覚していないから、戯作者の自覚もあり得ない。戯作者という低さの自覚によって、思想性まで低められ卑しめられ|辱《はずかし》められるがごとくに考えるのであろう。
そして志賀直哉の文学態度などが|真《しん》|摯《し》、高貴なものと考えられて疑ぐることまで忘れられてしまうのだが、あそこには戯作性が欠けているという、つまりロマン的性格の欠如、表向きそう見えることが、実は志賀文学の思想性に本質的な限定が加えられ|歪《ゆが》められていることでもあるのを見落としてはならぬ。
志賀直哉の態度がマジメであるという。悩んでいるという。かりそめにも思想を遊んでいないという。しかし、そういう態度は思想自体の深度俗否とかかわりはない。態度がマジメだって、いくら当人が悩んでみたって、下らない思想は下らない。ところが志賀文学では、態度がマジメであることが、思想の正しさの裏打ちで、悩むことが生き方の正しさの裏打ちで、だからこの思想、この小説はホンモノだという。文学の思想性を|骨《こっ》|董《とう》品の鑑定のようなホンモノ、ニセモノに限定してしまった。おまけに、なぜホンモノであるかといえば、飛躍がなく、戯作性がなく、文章自体が遊ばれていないこと、作者がその心を率直に(実は率直らしくなのだが)述べていること、それだけの素朴な原理だ。
作者が悩んでいるから、思想がまた文学が真実だ。態度がマジメだから、また、率直に真実をのべているから、思想がまた文学が真実だという。これは不当なまた乱暴な、限定ではないか。素朴きわまる限定だ。
俺が、こう思った、こう生活した、偽りのない実感にみちた生活だ、という。そういう真実性は思想の深さとは何の関係もない。いくら深刻に悩んだところで、下らぬ悩みは下らないもので、それが文学の思想の深さを意味するはずはなく、むしろ逆に、文学の思想性というものをそういう限定によって断ちきって疑ぐることを知らないところに、思想性の本質的な欠如、この作者の生き方のまた文学の根本的な|欺《ぎ》|瞞《まん》がある。浅さがある。
志賀直哉は、本質的に戯作者を自覚することのできない作者で、戯作者の自覚と並行しうる強力な思想性をもたないのだ。こういう俗悪、無思想な、芸のない退屈千万な読物が純文学のほんとうの物だと思われ、文学の神様などと言われ、なるほどこれだったら、一応文章の修練だけで、マネができる。ほんとの生活をありのまま書けば文学だという、たかが小手先の複写だから、実に日本文学はただ大人の作文となり、なさけない退化、堕落をしてしまった。
ただ生活を書くという、この素朴、無思想の真実、文章上の|骨《こっ》|董《とう》的なホンモノ性、これは作文の世界であって、文学とは根本的に違う。つまり日本文学には文学ならざる読物の流行と同時に、さらにそれよりもはなはだしく、読物ですらもない作文が文学のごとくに流行横行しているのである。戯作性の欠如が同時に思想性の欠如であった。のみならず、その欠点をさとらずに、逆に戯作性を否定し、作者の深刻めかした|苦《く》|悶《もん》の露出が誠実なるもの、モラルだという。かくして、みじめ千万な深刻づらをひけらかしたり、さりげなくとりすました私小説のハンランとなって、作家精神は|無《む》|慙《ざん》に去勢されてしまったのだ。
織田が可能性の文学という。別に目新しい論議ではない。実はあまりにも初歩的な、当然きわまることなので、文学は現実の複写ではないという、紙の上の実在にすぎないのだから、その意味では|嘘《うそ》の人生だけれども、かかる嘘、可能性の中に文学本来の生命がある、という。文学は人性を探すもの、よりよき人生をもとめるものなのだから、可能性の中に文学上の人生が展開して行くのは当然なことで、単なる過去の複写のごときは作文であるにすぎず、文学は常に未来のためのものであり、未来に向けて定着せられた作家の目、生き方の構えが、過去にレンズを合わせたときに、始めて過去が文学的に再生せられる意味をもつにすぎない。
大阪の性格は気質的に商人で、文学的には戯作者の型がおのずから育つべきところであるから、日本文学の誠実ぶった|贋《にせ》|物《もの》の道徳性、無思想性に、大阪の地盤から戯作者的な反逆が行なわれることは当然であったろう。
しかし、大阪的な反逆というのは、まことにもっともなようで、しかし、実際は意味をなさない。ともかく大阪というところは、東京と対立しうる|唯《ゆい》|一《いつ》の大都市で、同時に何百年来の独自な文化をもっている。おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか|粋《いき》というものが正統であるとすれば、大阪は新型好みのオッチョコチョイのごとくだけれども、実質的な内容をつかんでおるので、東京の芸術が職人|気質《か た ぎ》名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としている。かくのごとくに両都市が気質的にも対立しているのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名において行なわれることも、一応理窟はある。
しかしながら、大阪は、たかが一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与えうる一部の長所があるにしても、それはただその点についてだけで、全部がそうであるわけでもなく、絶対のものではない。反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤からなさるべきものであって、一大阪の地盤によってなさるべきものではない。
織田の可能性の文学は、ただ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の具としているまでのごとくであるけれども、しかし、織田の論理の支柱となっている感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にそういう対立の感情的な低さがある。
それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉において歴然たるものがあって、ここで彼は大阪の言葉を可能性においてでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じているから。
芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だという。これは鉄則ではないか。彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスをみずからの作品においてみずから作った大阪弁において主張せず、実在する大阪弁に見いだし主張しているのは|矛盾《むじゅん》である。
文学は紙上以外に実体をもとめる必要はないものだ。谷崎が藤沢|が《*》おのおのの大阪弁をつくってよろしいので、それが他の何物かに似ていないということは、どうでもいい。
織田は志賀直哉の「お殺し」という言葉が変だというが、お殺しが変ではなく、使い方がヘタなのだろう。お殺しなど、|愛嬌《あいきょう》があっておもしろく、私は変だと思わないし、だいたい作中人物の言葉などというものは、言葉自体にイノチがあるのではなく、それがそれを使用する人物の性格美と結びついて動きだす人間像の一つの歯車として、イノチも|綾《あや》も美も色気もこもっている。独立した言葉だけの美などというのは、実は作文の領域で、文学とは関係のないことなのである。
織田が二流文学というときには、一流文学のノスタルジヤがある。二流などと言ってはいかぬ。一流か無流か、一流も五流も、ある必要はない。
そして織田は、日本の在来文学の|歪《ゆが》められた真実性というものを否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対する大阪の地盤から、そういう地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱として論理を展開してしまった。
私は先に坂田八段の|端《はし》|歩《ふ》のことを言った。これはいかにも大阪的だ。しかし、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少なくとも、この場合は、大阪の悪さなのである。なぜなら、木村名人の序盤に位負けしては勝負に負ける。序盤に位勝ちすること自体が力量の優位なのだから、というオルソドックスの前では当然敗北すべき素朴なハッタリにすぎないのだから。木村名人のこの心構えは、東京の地盤とは関係がない。これは万国万民に遍在するただ真理の地盤に生まれたものだ。
私はいわゆるハッタリと称するものを愛している。織田が|暗《くら》|闇《やみ》の壇上でスポットライトに浮きあがって一席弁じたり、座談会の速記にただ人をおもしろがらせる文句を書きこんだり、そういう魂胆を愛している。だがそれは、あくまで文学本来の生命を、それによって広く深く高める意味においてであり、そのための発散の効果によってのことであって、文学本来のイノチをそれによってむしろ限定し低くするなら意味がない。坂田八段の端歩は、まさしくハッタリによって芸術自体を限定し低めてしまったバカバカしい例であり、大阪の長所はここにおいて逆転し、最大の悪さとなっている。それは大阪というものの文化的自覚が、真理の場において自立したものではなく、東京との対立において自立自覚せられているからで、そこに大阪の自覚のぬけがたい二流性が存している。かかる対立によって自立せられるものは、対立の対象が一流であれ何流であれ、本人自体は亜流の低さから、まぬがれることはできない。
今日ジャーナリズムが大阪の反逆などというのは馬鹿げている。反逆は大阪の性格、大阪の伝統のごときものによって、なさるべきものではない。文学は文学本来の立場によってのみ反逆せられねばならぬ。
織田は悲しい男であった。彼はあまりにも、ふるさと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定されてしまった。彼は坂田八段の端歩を再現しているのである。
だが我々に織田から学ぶべき大きなものが残されている。それは彼の戯作者根性ということだ。読者をおもしろがらせようというこの徹底した根性は、日本文学にこれほど重大な暗示であったものは近ごろ例がないのだが、壇上のスポットライトの織田作は神聖なる俗物ばらから|嘲笑《ちょうしょう》せられるばかりであった。
まさしく日本文学にとっては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要なのだ。文学本来の本質たる厳たる思想性の自覚と同時に、徹底的にオッチョコチョイな戯作者根性が必要なのだ。かかる戯作者根性が日本文学に許容せられなかった最大の理由が、思想性の|稀《き》|薄《はく》自体にあり、思想に対する自覚自信の欠如、すなわちその無思想によって、戯作者の許容を拒否せざるを得なかった。|鼻《はな》|唄《うた》をうたいながら文学を書いてはいけなく、シカメッ面をしてシカメッ面をしか書くことができなかったのである。
我々が日常諸方の人々から同じことをやられてウンザリするのは、「私の身の上話は小説になりませんか」「私の身の上話をきいてください」ということだ。そういう身の上話はしかし陳腐で、ありふれていて、ききばえのある話などは、まず、ないものだ。しかし、それを笑うわけには行かぬ。我々が知らねばならぬことは、身の上話のつまらなさではなく、身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、あらゆる人が、その人なりに生きているおのおのの切なさと、その切なさが我々の読者となったとき、我々の小説の中に彼らがそのおのおのの影を追うことの素朴なつながりについてである。純文学の純の字はそういう素朴な魂を拒否せよという意味ではない。ただ、いかに生くべきか、思想というものが存している、その意味であり、それに並存して、なるべく多くの魂につながりたいという戯作者がある。あらゆる人間のおのおののいのちに対する敬愛と尊重といたわりは戯作者根性の根柢であり、小説のおもしろさを|狙《ねら》うこと自体、作者の大いなる人間愛、思想の深さを意味するものであることを知らねばならぬ。
孤高の文学という。しかし、真実の孤高の文学ほど万人を愛し万人の愛を求め愛に飢えているものはないのだ。スタンダールは、余の小説は五十年後に理解せられるであろうと、たしかに彼はそう書いている。しかし、それだけが彼の心ではない。彼はただちょっと|口《く》|惜《や》しまぎれに、シャレてみただけだ。五十年後の万人に理解せられるであろう、と。五十年後でなくたって、構わないにきまっているのだ。
日本文学は貧困すぎる。小説家はロマンを書くことを考えるべきものだ。多くの人物、その関係、その関係をひろげて行く複雑な筋、そういう大きな構成の中におのずと自己を見いだし、思想の全部を語るべきものだ。
小説は、たかが商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、また、小説は商品ではないと言いきることもできるのである。
教祖の文学
[#ここから5字下げ]
――小林秀雄論――
[#ここで字下げ終わり]
去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議に命を助かったという話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンといっしょに墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ。それは私が小林という人物を煮ても焼いても食えないような骨っぽい、そしてチミツな人物と心得、あの男だけは自動車にハネ飛ばされたり川へ落っこったりするようなことがないだろうと思いこんでいたからで、それはまた、私という人間が自動車にハネ飛ばされたり川へ落っこったりしすぎるからのアコガレ的な盲信でもあった。思えばしかしこう盲信したのは私のはなはだしい軽率で、私自身の過去の事実において、最もかく信ずべからざる根拠が与えられていたのである。
十六、七年前のこと、越後の|親《しん》|戚《せき》に仏事があり、私はモーニングを着て東京の家をでた。上野駅で偶然小林秀雄といっしょになったが、彼は新潟高校へ講演に行くところで、二人は上越線の食堂車にのりこみ、私の下車する|越《えち》|後《ご》|川《かわ》|口《ぐち》という小駅まで酒をのみつづけた。私のように胃の弱い者には食堂車ぐらい快適な酒はないので、常に身体がゆれているから消化して胃にもたれることがなく、気持ちよく酔うことができる。私も酔ったが、小林も酔った。小林は|仏頂面《ぶっちょうづら》に似合わず本心は心のやさしい親切な男だから、私が下車する駅へくると、ああ|俺《おれ》が持ってやるよと言って、私の荷物をぶらさげて先に立って歩いた。そこで私は小林がドッコイショと踏段へおいた荷物を、ヤ、ありがとう、とぶらさげて下りて別れたのである。山間の小駅はさすがに人間の乗ったり降りたりしないところだと思って私は感心したが、第一、駅員もいやしない。人ッ子一人いない。これはまた徹底的にカンサンな駅があるもので、人間が乗ったり降りたりしないものだから、ホームの幅が何尺もありゃしない。背中にすぐ貨物列車がある。そのうちに小林の乗った汽車が通りすぎてしまうと、汽車のなくなった向こう側に、私よりも一段高いホンモノのプラットホームが現われた。人間だってたくさんウロウロしていらあ。あのときは|呆《あき》れた。私がプラットホームの反対側へ降りたわけではないので、小林秀雄が私を下ろしたのである。
だから私はもう十六、七年前のあのときから、小林秀雄が水道橋から墜落しかねない人物だということを信じてもよい根拠が与えられていたのであったが、私が全然あべこべなことを思いこんでいたのは、私がはなはだ軽率な読書家で、小林の文章にだまされて心眼を狂わせていたからにほかならない。
思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ。私は小林と|碁《ご》を打ったことがあるが、彼は五目置いて(ほんとはもっと置く必要があるのだが、五ツ以上は|恰《かっ》|好《こう》が悪いやと言って置かないのである)けっして|喧《けん》|嘩《か》ということをやらぬ。置き碁の定石のお手本どおりのやりかたで、地どり専門、|横《よこ》|槍《やり》を通すような打ち方はまったくやらぬ。こっちの方がムリヤリいじめに行くのが気の毒なほど公式的そのものの碁を打つ。碁というものは文章以上に性格をいつわることができないもので、文学の小林は独断先生のごとくだけれども、ほんとうは公式的な正統派なんだと私はその時から思っていた。しかし彼の文章の|字《じ》|面《づら》からくる迫真力というものは、やっぱり私の心眼を狂わせる力があって、それは要するに、彼の文章を彼自身がそう思いこんでいるということ。そして当人が思いこむということがその文学をして実在せしめる根柢的な力だということを彼が信条とし、信条どおりに会得したせいではないかと私は思う。
彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、今読み返してみると、ずいぶんいい加減だと思われるものが多い。しかし、あのころはあれで役割を果たしていた。彼が幼稚であったよりも、我々が、日本が、幼稚であったので、日本は小林の方法を学んで小林といっしょに育って、近ごろではあべこべに先生の欠点が鼻につくようになったけれども、実は小林の欠点がわかるようになったのも小林の方法を学んだせいだということを、彼の果たした文学上の偉大な役割を忘れてはならない。
「それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は|殆《ほとん》どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無理な諸観念の|跳梁《ちょうりょう》しないさういふ時代に、|世《ぜ》|阿《あ》|弥《み》が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、|其《そ》|処《こ》に何の疑はしいものがない事を確めた。『物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし』美しい『花』がある。『花』の美しさといふ様なものはない。彼の『花』の観念の|曖《あい》|昧《まい》さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない」(|当《たい》|麻《ま》)
彼が世阿弥の方法だと言っているところがそっくり彼の方法なのであり、彼が世阿弥について思いこんでいる態度がつまり彼が自分の文学について読者に要求している態度でもある。
僕がそれを信じているから、とくる。世阿弥の美についての考えに疑わしいものがないから、観念の|曖《あい》|昧《まい》自体が実在なんだ、という。美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。
私はしかしこういう気の利いたような言い方は好きでない。ほんとうは言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少なきも|亦《また》人なり」という文章の解釈をだされて|癪《しゃく》にさわったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、ほんとうの人物は少ない、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういうふうに明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少ない、なんて、|駄《だ》|洒《じゃ》|落《れ》にすぎない表現法は|抹《まっ》|殺《さつ》するように心掛けることがたいせつだ。
美しい「花」がある。花の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少ないとは違って、これはこれで意味に即しているのだけれども、しかし小林に曖昧さをもてあそぶ性癖があり、気のきいた表現にみずから思いこんで取り澄ましている態度が根柢にある。彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それについて疑わしいものがないということで支えてきた|這《しゃ》|般《はん》の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
あげくの果てに、小林はちかごろ奥義をきわめてしまったから、人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまうともう剣などは握らなくなり、道のまんなかに荒れ馬がつながれていると別の道を|廻《まわ》って君子危うきに近よらず、これが武芸の奥義だという、悟道に達して、何々教の教祖のごときものとなる。小林秀雄も教祖になった。
しかし剣術は本来ブンナグル練磨であり、相手にブンナグラレル先に相手をブンナグル術で、悟りをひらく道具ではなかった。けれども小林秀雄のところへ剣術を習いに行くと、剣術など勉強せずに、危うきに近よらぬくふうをしろ、それが剣術だと教えてくれる。これが小林流という文学だ。
「生きてゐる人間なんて仕方のない|代《しろ》|物《もの》だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、|解《わか》つた|例《ため》しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。|其《そ》|処《こ》に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)とくる。
だから、歴史には死人だけしか現われてこない。だから|退《の》ッ|引《ぴ》きならぬ人間の相しか現われぬし、動じない美しい形しか現われない、とおっしゃる。生きている人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当たるばかりだとおっしゃるのである。だから小林のところへ文学を習いに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきわめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもった深遠な一句を与えてくれるというわけだ。
生きている人間などは何をやりだすやらわかったためしがなく鑑賞にも観察にも堪えないという小林は、だから死人の国、歴史というものを信用し、「歴史の必然」などということをおっしゃる。「歴史の必然」か。なるほど、歴史は必然であるか。
西行がなぜ出家したか、などいうことをいくら突きとめようたって、|謎《なぞ》は謎、そんなところから何も出てきやしない、|実《さね》|朝《とも》がなぜ船をつくったか、そんなことはどうでもいい、右大臣であったことも、将軍であったことも、問題ではない、ただ詩人だけを見ればいいのだとおっしゃる。
だから坂口安吾という|三《さん》|文《もん》文士が女に|惚《ほ》れたり飲んだくれたり時には坊主になろうとしたり五年間思いつめて|接《せっ》|吻《ぷん》したら|慌《あわ》ててしまって絶交状をしたためて失恋したり、近ごろはまたデカダンなどとますますもって何をやらかすかわかりゃしない。もとより鑑賞に堪えん。第一|奴《やつ》めが何をやりおったにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。こうおっしゃるにきまっている。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めばわかる。教祖にかかっては三文文士の実相のごとき手玉にとってチョイト投げすてられ、惨また惨たるものだ。
ところが三文文士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、もっぱらその方に心掛けがこもっていて、死後の名声のごとき、てんで問題にしていない。教祖の師匠筋に当たっている、アンリベイル先|生《*》の余の文学は五十年後に理解せられるであろう、とんでもない、私は死後に愛読されたってそれは実にただタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終わる。私とともにわが文学も終わる。なぜなら私が終わるのですから。私はそれだけなんだ。
生きてる|奴《やつ》は何をやりだすかわからんとおっしゃる。まったくわからないのだ。現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だって生きてる時はそうだったのだ。人間に必然がないごとく、歴史の必然などというものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。ただ歴史はすでに終わっており、歴史の中の人間はもはや何事を行なうこともできないだけで、しかし彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫っていたのは、彼らが人間であったかぎり、まちがいはない。
歴史には死人だけしか現われてこない、だから|退《の》ッ|引《ぴ》きならぬギリギリの人間の相を示し、不動の美しさをあらわす、などとは|大《おお》|嘘《うそ》だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。もしまた生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかったまでのこと、生死二者変わりのあろうはずはない。
つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ。教祖がちかごろ|骨《こっ》|董《とう》を愛すというのは無理がないので、すでに私がその碁において看破したごとく彼は天性の公式主義者であり、定石主義者であり、保守家であり、常識家であって、死人はともかく死んでおり、もう足をすべらして墜落することがないから安心だが、生きた奴とくると、何をしでかすかわからず、教祖のごとく何をしでかす魂胆がなくとも、足をすべらして、プラットホームから落っこちる、どこに伏兵がひそんでいるかわからない。実にどうも生きるということはヤッカイだ。
だから教祖の流儀には型、つまり公式とか約束というものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生きてる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、こういう奴は鑑賞に堪えん。歴史の必然などという|妖《よう》|怪《かい》じみた調味料をあみだして、料理の腕をふるう。生きてる奴の料理はいやだ、あんなものは煮ても焼いてもダメ、鑑賞に堪えん、調味料がきかない。
あんまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないような味だけれども、しかし料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。
生きてる人間というものは(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りゃしない、人間はせつないものだ、しかし、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し|縋《すが》りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑ぐりもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、|遁《とん》|走《そう》、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、もろもろの思想というものがそこから生まれて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにあらゆる|矛盾《むじゅん》があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。
人間は何をやりだすかわからんから、文学があるのじゃないか。歴史の必然などという、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪えたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。
だから小林はその魂の根本において、文学とは完全に縁が切れている。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である。
西行も実朝も地獄を見た。陰惨な罪業深い地獄、物悲しい優しい美しい地獄。そして西行の一生は「いかにすべき我心」また、孤独という得体の知れぬものについての言葉なき苦吟をやめたことがなかったし、実朝は殺されたがしかし実朝の心はこれを自殺と見たかもしれぬ、と言う。まさしく、そのとおりだ。邪教もまた、真理を説くか。|璽《じ》|光《こう》|様《さま》が|天照大神《あまてらすおおみかみ》の生まれ変わりのごとくに。
「西行はなぜ出家したか、その原因に|就《つい》て西行研究家は多忙なのであるが、僕には興味がないことだ。|凡《おおよ》そ詩人を解するには、その努めて現はさうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとして隠さうとしたところを|詮《せん》|索《さく》したとて、何が得られるものでもない」(西行)
そして近代文学という|奴《やつ》は仮面を脱げ、素面を見せよ、そんなことばかり|喚《わめ》いて駈けだして、|女《め》|々《め》しい毒念が方図もなくひろがって、罰が当たってしまったんだ、とおっしゃる。
しかり、詩人を解すには、詩を読むだけでたくさんだ。こんなこともした、こんな一面もあった、と詮索して同類発見を喜んだところで詩人を解したわけでもなく、まさしく詩を読むことだけが詩人を解す方法なのだ。小林は詩を解す、という。しかり、鑑賞はそれだけでよい。鑑賞家というものは。
しかし、ここに作家というものがある。彼の読書は学ぶのだ。学ぶとは争うことだ。そして、作家にとっては、作品は書くのみのものではなく、作品とはまた、生きることだ。小林が西行や実朝の詩を読んでいるのも彼らの生きた|翳《かげ》であり、彼らが生きることによって見つめねばならなかった地獄を、小林もまた読みとることによって感動しているのだ。
仮面を脱げ、素面を見せよ、ということはそれを作品の上において行なったから罰が当たっただけで、小説という作品の場合においては、作家は思想家であると同時に戯作者でなければならぬ。仮面を脱いで素面を見せることは小説ではない。これを小説だと思えば罰が当たるのは|是《ぜ》|非《ひ》もない。しかし作家の私生活において、作家は仮面をぬぎ、とことんまで裸の自分を見つめる生活を知らなければ、その作家の思想や戯作性などタカが知れたもので、鑑賞に堪えうる代物ではないにきまっている。
小説は(芸術は)自我の発見だという。自我の創造だという。作家が自分というものを知ってしまえば、作品はそれによって限定され、定められた通路しか通れなくなる。しかしほんとうの小説というものは、それを書き終わるときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ、と、これは文学技師アンドレ・ジッド氏の御意見だ。ちなみにジッド氏は文学に|通暁《つうぎょう》し、あらゆる技法を心得、縦横に知識を用い、術をつくし、ある時は型を破って、小説をつくる技師であるが、ほんとうの小説家だとは思っていない。ジッド氏が自身の小説において、自我を創造、発見したか、私は疑問に思っている。
わが教祖、小林氏も芸術は自我の創造発見だと言うのである。紙に向かった時には何もない。書くことによって、創造され、見いだされて行くものだ、と言うのだ。私も大いに賛成である。
しかし、紙に向かって何もないということは自分について何も知らないということではない。ある限度までは知っている。自分というものをある限度まで|知《ち》|悉《しっ》しない人間が、小説を書けるはずのものではない。一応自分というもの、また、人間というものに通じていなくて、小説の書けるわけはないのだ。なお、そのうえに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら作家というものは、今ある限度、限定に対して堪え得ないということが、作家活動の原動力でもあるからだ。
モオツァルトの作品はほとんどすべて世間の愚劣な偶然なあるいは不正な要求に応じてあわただしい心労のうちになったもので、あらかじめ目的を定め計画を案じて作品に熟慮専念するような時間はなかったが、モオツァルトは不平もこぼさず、不正な要求に応じて大芸術を残した。天才は外的偶然を内的必然と観ずる能力がそなわっているものだ、と言う。それはモオツァルトには限らない。チエホフの戯曲も不正な要求に応じて数日にして作られ、近松の戯曲もそうだ。ドストエフスキーも借金に追われて馬車馬のごとく書きまくり、読者の|嗜《し》|好《こう》に応じてスタヴロオギ|ン《*》の歩き道まで変えて行くという己れを捨てた|凝《こ》り方だ。いかにも外的偶然を内的必然と化す能力が天才の作品を生かすものだ。
しかしながら、作品について目的を定め計画を案じ熟慮専念する時間がなくとも、少なくとも小説作者の場合においては、一応人間に通じていることは絶対の条件であり、人間通の裏づけは自我の省察で保たれるもの、そして常に一つの作品を書き終わったところから、新たに出発するものだ。一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己反逆を起こす。ふみとどまった時には作家活動は終わりであり、制作の途中においても作家をして没頭せしめる力は限界をふみこし発見にみずから驚くことの新鮮なたのしさによる。
生きた人間を自分の文学から締め出してしまった小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家|遁《とん》|世《せい》だ。私が彼を教祖というのは思いつきの言葉ではない。
彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然という自分勝手な角度によって。彼はもう文学や詩人と争い、格闘することがないのである。争うとか格闘するということは、自分を偶然の方へ|賭《か》けることだから、彼はもう偶然などは|俺《おれ》にはいらないという悟りをひらいているのだ。詩人のつとめて隠そうとし忘れようとしたものを|暴《あば》くのは鑑賞のためや詩人を解するためではなく、自分の仮面をはがそうとする同じ働きが他へ向けられただけのことで、普遍的な真理というものを暴くんじゃない。仮面を脱ぐということも真理を暴くというのじゃなくて、ただそうせずにいられぬからだというような罰の当たった苦悩格闘、そんなものはもう小林には用はない。
常に物が見えている。人間が見えている。見えすぎている。どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。そして、見て、書いただけだ。それが|徒《つれ》|然《づれ》|草《ぐさ》という空前絶後の批評家の作品なのだと小林は言う。これはつまり小林流の奥義であり、批評とは見える眼だ、そして小林には人間が見えすぎており、どんな思想も意見も、見える目をくもらせず彼を動かすことはできない。彼は見えすぎる目で見て、鑑定したままを書くだけだ。
私はしかし小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。三流品だ。私はちっともおもしろくない。私も一つ見本をだそう。これはただ素朴きわまる詩にすぎないが、私はしかし西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。宮沢賢治の「眼にて言ふ」という遺稿だ。
[#ここから2字下げ]
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つゞけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみぢの|嫩《わか》|芽《め》と毛のやうな花に
秋草のやうな波を立て
あんなに青空から
もりあがって湧くやうに
きれいな風がくるですな
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです
[#ここで字下げ終わり]
半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当たりの話だけれども、徒然草の作者が見えすぎる不動の目で書いたという物の実相と、この罰当たりが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違うのだ。
思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。そんな目は|節《ふし》|穴《あな》みたいなもので物の死相しか見ていやしない。つまり小林の必然という|化《ば》け|物《もの》だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たという月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいうそんな月がいったいそんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文章だなんて、バカも休み休み言いたまえ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当たっているのだとは|阿《あ》|呆《ほ》らしい。
ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた|奴《やつ》、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ。思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青ぞらやすきとおった風などは見ることができないのである。
生きている奴は何をしでかすかわからない、何もわからず、何も見えない、手探りでうろつき|廻《まわ》り、悲願をこめギリギリのところを|這《は》いまわっている罰当たりには、物の必然などはいっこうに見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それがまた万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、偶然なるものに自分を|賭《か》けて手探りにうろつき廻る罰当たりだけが、その賭けによって見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。
美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない、などというモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが|退《の》ッ|引《ぴ》きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは|大《おお》|嘘《うそ》の|骨頂《こっちょう》で、何をしでかすかわからない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬギリギリの相を示す。それが作品活動として行なわれる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。
文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行なうということでなくともよいかもしれぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい。しかし作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとって行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
小説は十九世紀で終わったという、ここにおいて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変わる、無限に変わる。日本の今日のごときはカイビャク以来の大変わりだ。別に大変わりをしなくとも、時代は常に変わるもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間というものがおり、そして人間というものは小林のごとくに奥義に達して悟りをひらいてはおらぬもので、専一に生きることに浮き身をやつしているものだ。そして生きる人間はおのずから小説を生み、また、読むはずで、言論の自由があるかぎり、万古末代終わりはない。小説は十九世紀で終わりになったゾヨ、これは|璽《じ》|光《こう》|様《さま》の文学的センタクというものだ。
人生とはめいめいがめいめいの手でつくるものだ。人間はこういうものだと|諦《あきら》めて、奥義にとじこもり悟りをひらくのは無難だが、そうはできない人間がある。「万事たのむべからず」こう見込んで出家|遁《とん》|世《せい》、よく見える目で徒然草を書くというのは落第生のやることで、人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえというようなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず|仇心《あだごころ》が|湧《わ》き起こり、去年の恋は今年は色がさめるものだとわかっていても、だから恋をするなとは言えないものだ。それをしなければ生きている意味がないようなもので、生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。
人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。歴史というお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ。
小林にはもう人生をこしらえる情熱などというものはない。万事たのむべからず、そこで彼はよく見える目で物を人間をながめ、もっぱら死相を見つめてそこから必然というものを探す。彼は|骨《こっ》|董《とう》の鑑定人だ。
花鳥風月を友とし、骨董をなでまわして|充《み》ち足りる人には、人間の|業《ごう》と争う文学は無縁のものだ。小林は人間孤独の相と言い、地獄を見る、と言う。
[#ここから2字下げ]
あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき(西行)
花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける(西行)
風になびく富士の煙の空にきえて|行方《ゆ く え》も知らぬ我が思ひかな(西行)
ほのほのみ虚空にみてる|阿《あ》|鼻《び》地獄行方もなしといふもはかなし(実朝)
吹く風の涼しくもあるかおのづから山の|蝉《せみ》鳴きて秋は来にけり(実朝)
[#ここで字下げ終わり]
秀歌である。たしかに人間孤独の相を見つめつづけて生きた人の作品に相違なく、また、純潔な魂の見た風景であったに相違ない。
しかし孤独を観ずるなどということが、いったい人生にとって何物であるのか。
芸術は長し、人生は短しと言う。なるほど人間は死ぬ。しかし作品は残る。この時間の長短はしかし人生と芸術との価値をはかる物差しとはならないものだ。作家にとってたいせつなのは言うまでもなく自分の一生であり人生であって、作品ではなかった。芸術などは作家の人生においてはたかが商品にすぎず、または遊びにすぎないもので、そこに作者の多くの時間がかけられ、心労苦吟が賭けられ、時には作者の肉をけずり命を奪うものであっても、作者がそこに没入し得る力となっているものはそれが作者の人生のオモチャであり、他の何物よりも心を充たす遊びであったというほかに何者があるのか。そしてまた、それは「不正なる」取引によりただ金を得るための具でもあり、女に|惚《ほ》れたり浮気をしたりするためのモトデをかせぐ商品であった。
余の作品は五十年後に理解せられるであろう。私はそんな言葉を全然信用していやしない。カリにアンリベイル先生はたしかにそう思いこんでいたにしたところで、芸術は長し人生は短し、そんなマジナイみたいな文句を|鵜《う》|呑《の》みにし|真《ま》にうけているだけで、実生活では全然それを信じていないのが人の心というものである。死んでしまえば人生は終わりなのだ。自分が死んでも自分の子供は生きているし、いつの時代にも常に人間は生きている。しかしそんな人間と、自分という人間は別なものだ。自分という人間は、全くたった一人しかいない。そして死んでしまえばなくなってしまう。はっきり、それだけの人間なんだ。
だから芸術は長しだなんて、自分の人生よりも長いものだって、自分の人生から先の時間はこれはハッキリもう自分とは無縁だ。ほかの人間も無縁だ。
だから自分というものは、常にたった一つ別な人間で、めいめいの人がそうであり、歴史の必然だの人間の必然だのそんな変テコな物差しではかったり料理のできる人間ではない。人間一般は永遠に存し、そこに永遠という観念はありうるけれども、自分という人間には永遠なんて観念はミジンといえどもあり得ない。だから自分という人間は孤独きわまる悲しい生物であり、はかない生物であり、死んでしまえば、なくなる。自分という人間にとっては、生きること、人生が全部で、彼の作品、芸術のごときは、ただ手沢品中の最も彼の愛した遺品というほかの何物でもない。
人間孤独の相などとは、きまりきったこと、当たりまえすぎること、そんなものは|屁《へ》でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。そうにきまりきっているのだから。仮面をぬぎ裸になった近代が毒に当てられて罰が当たっているのではなく、人間孤独の相などというものをほじくりだして深刻めかしている小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当たっているのだ。
自分という人間は他にかけがえのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いっぱい、よりよく、くふうをこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものの肖像によって間に合わせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、よりよく生きるほかに、何物もありゃしない。
文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にただ自分が生きるということだけだ。
よく見える目、そしてよく人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。
人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。自分一人だけがそうなんだから。めいめいがそういう自分を背負っているのだから。これはもう、人間同志の関係に幸福などありゃしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、よく生きなければならぬ。
小説なんて、たかが商品であるし、オモチャでもあるし、そして、また、夢を書くことなんだ。第二の人生というようなものだ。あるものを書くのじゃなくて、ないもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駈けだし、そして|跳《と》びあがる。だから墜落するし、|尻《しり》もちもつくのだ。
美というものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支えとなるもので、よく見える目というものによって見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。不幸なものだ。人間がそういうものなのだから。
小林はもう悲しい人間でも不幸な人間でもない。彼が見ているのは、たかが人間の孤独の相にすぎないので、生きる人間の苦悩というものとは、もう無縁だ。そして満足している。|骨《こっ》|董《とう》を愛しながら。鑑定しながら。そして奥義をひらいて達観し、よく見えすぎる目で人間どもを眺めている。思想にも意見にも動きゃしない。だからもう生きている人間どものように、何かわけのわからぬことをしでかすようなことはないのだ。そのくせ彼は水道橋のプラットホームから落っこったが、彼の見えすぎる目、孤独な魂は何と見たか。なにつまらねえ、たとえ死んだって、オレ自身の心は自殺と見たっていいじゃないか。なんでもねえや。
自殺なんて、なんだろう。そんなものこそ、|理《り》|窟《くつ》も何もいりゃしない。風みたいな無意味なものだ。
女のふくらはぎを見て雲の上から落っこったという久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何という相違だろう。これはただもう物体の落下にすぎん。
小林秀雄という落下する物体は、その孤独という詩魂によって、落下を自殺と見、虚無という詩を歌いだすことができるかもしれぬ。
しかしまことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。ほんとうの美、ほんとうの悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。
落下する小林は地獄を見たかもしれぬ。しかし落下する久米の仙人はただ花を見ただけだ。その花はそのまま地獄の火かもしれぬ。そして小林の見た地獄は紙に書かれた|餠《もち》のような地獄であった。彼はもう何をしでかすかわからない人間という奴ではなくて教祖なのだから。人間だけが地獄を見る。しかし地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。
不良少年とキリスト
もう十日、歯がいたい。|右《みぎ》|頬《ほお》に氷をのせ、ズルフォン剤をのんで、ねている。ねていたくないのだが、氷をのせると、ねる以外に仕方がない。ねて本を読む。太宰の本をあらかた読みかえした。
ズルフォン剤を三箱カラにしたが、痛みがとまらない。是非なく、医者へ行った。いっこうにハカバカしく行かない。
「ハア、たいへん、よろしい。私の申し上げることも、ズルフォン剤をのんで、|氷嚢《ひょうのう》をあてる、それだけです。それが何より、よろしい」
こっちは、それだけでは、よろしくないのである。
「今に、治るだろうと思います」
この若い医者は、|完《かん》|璧《ぺき》な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います、か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。
原子バクダンで百万人一瞬にたたきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。
女房がズルフォン剤のガラスビンを縦に立てようとして、ガチャリと倒す。音響が、とびあがるほど、ひびくのである。
「コラ、バカ者!」
「このガラスビンは立てることができるのよ」
先方は、曲芸をたのしんでいるのである。
「オマエサンは、バカだから、キライだよ」
女房の血相が変わる。怒り、骨髄に徹したのである。こっちは痛み骨髄に徹している。
グサリと短刀を頬へつきさす。エイとえぐる。気持ち、よきにあらずや。ノドにグリグリができている。そこが、うずく。耳が痛い。頭のシンも、電気のようにヒリヒリする。
クビをくくれ。悪魔を亡ぼせ。退治せよ。すすめ。まけるな。戦え。
かの三文文士は、歯痛によって、ついに、クビをくくって死せり、決死の血相、ものすごし。闘志充分なりき。偉大。
ほめて、くれねえだろうな。誰も。
歯が痛い、などということは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。しからば、歯痛ボートク。いいじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。
たった一人、銀座出版の升金編輯局長という珍妙な人物が、同情をよせてくれた。
「ウム、安吾さんよ。まさしく、歯は痛いもんじゃよ。歯の病気と生殖器の病気は、同類項の|陰《いん》|鬱《うつ》じゃ」
うまいことを言う。まったく、陰にこもっている。してみれば、借金も同類項だろう。借金は陰鬱なる病気なり。不治の病なり。これを退治せんとするも、人力の及ぶべからず。ああ、悲し、悲し。
歯痛をこらえて、ニッコリ笑う。ちっとも、偉くねえや。このバカヤロー。
ああ、歯痛に泣く。|蹴《け》とばすぞ。このバカ者。
歯は、何本あるか。これが、問題なんだ。人によって、歯の数が違うものだと思っていたら、そうじゃ、ないんだってね。変なところまで、似せやがるよ。そうまで、しなくったって、いいじゃないか。だからオレは、神様が、きらいなんだ。なんだって、歯の数まで、同じにしやがるんだろう。気違いめ。まったくさ。そういうキチョウメンなヤリカタは、気違いのものなんだ。もっと、素直に、なりやがれ。
歯痛をこらえて、ニッコリ、笑う。ニッコリ笑って、人を|斬《き》る。黙ってすわれば、ピタリと、治る。オタスケじいさんだ。なるほど、信者が集まるはずだ。
余は、歯痛によって、十日間、カンシャクを起こせり。女房は親切なりき。|枕《ちん》|頭《とう》に|侍《はべ》り、カナダライに氷をいれ、タオルをしぼり、五分間おきに余のホッペタにのせかえてくれたり。怒り骨髄に徹すれど、色にも見せず、貞淑、女大学なりき。
十日目。
「治った?」
「ウム。いくらか、治った」
女という動物が、何を考えているか、これは|悧《り》|巧《こう》な人間には、わからんよ。女房、とたんに血相変わり、
「十日間、私を、いじめたな」
余はブンナグラレ、|蹴《け》とばされたり。
ああ、余の死するや、女房とたんに血相変わり、|一生涯《いっしょうがい》、私を、いじめたな、と余のナキガラをナグリ、クビをしめるべし。とたんに、余、生きかえれば、おもしろし。
檀一雄、来たる。ふところより高価なるタバコをとりだし、貧乏するとゼイタクになる、タンマリお金があると、二十円の手巻きを買う、と|呟《つぶや》きつつ、余に一個くれたり。
「太宰が死にましたね。死んだから、葬式に行かなかった」
死なない葬式が、あるもんか。
檀は太宰といっしょに共産党の細胞とやらいう生物活動をしたことがあるのだ。そのとき太宰は、生物の親分格で、檀一雄の話によると一団中で最もマジメな党員だったそうである。
「とびこんだ場所が自分のウチの近所だから、今度はほんとに死んだと思った」
檀仙人は神示をたれて、また、いわく、
「またイタズラしましたね。なにかしらイタズラするです。死んだ日が十三日、グッドバイが十三回目、なんとか、なんとかが、十三……」
檀仙人は十三をズラリと並べた。てんで気がついていなかったから、私は|呆《あっ》|気《け》にとられた。仙人の眼力である。
太宰の死は、誰より早く、私が知った。まだ新聞へでないうちに、新潮の記者が知らせに来たのである。それをきくと、私はただちに置き手紙を残して行くえをくらました。新聞、雑誌が太宰のことで襲撃すると直覚に及んだからで、太宰のことは当分語りたくないから、と来訪の記者諸氏に|宛《あ》て、書き残して、家をでたのである、これがマチガイの元であった。
新聞記者は私の置き手紙の日付が新聞記事よりも早いので、怪しんだのだ。太宰の自殺が狂言で、私が二人をかくまっていると思ったのである。
私も、はじめ、生きているのじゃないか、と思った。しかし、川っぷちに、ズリ落ちた跡がハッキリしていたときいたので、それではほんとうに死んだと思った。ズリ落ちた跡までイタズラはできない。新聞記者は|拙《せっ》|者《しゃ》に弟子入りして探偵小説を勉強しろ。
新聞記者のカンチガイがほんとうであったら、大いに、よかった。一年間ぐらい太宰を隠しておいて、ヒョイと生きかえらせたら、新聞記者や世の良識ある人々はカンカンと怒るかもしれないが、たまにはそんなことがあっても、いいではないか。ほんとうの自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと|傑《すぐ》れたものになったろうと私は思っている。
ブランデン氏は、日本の文学者どもと違って眼識ある人である。太宰の死にふれて(時事新報)文学者がメランコリイだけで死ぬのは例が少ない、たいがい虚弱から追いつめられるもので、太宰の場合も肺病が一因ではないか、という説であった。
芥川も、そうだ。支那で感染した梅毒が、貴族趣味のこの人をふるえあがらせたことが思いやられる。
芥川や、太宰の苦悩に、もはや梅毒や肺病からの圧迫が慢性となって、無自覚になっていたとしても、自殺へのコースをひらいた圧力の大きなものが、彼らの虚弱であったことはほんとうだと私は思う。
太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。
晩年のものでは、――どうも、いけない。彼は「晩年」という小説を書いてるもんで、こんぐらかって、いけないよ。その死に近きころの作品においては(舌がまわらんネ)「斜陽」が最もすぐれている。しかし十年前の「魚服記」(これぞ晩年の中にあり)は、すばらしいじゃないか。これぞ、M・Cの作品です。「斜陽」も、ほぼ、M・Cだけれども、どうしてもM・Cになりきれなかったんだね。「父」だの「桜桃」だの、苦しいよ。あれを人に見せちゃア、いけないんだ。あれはフツカヨイの中にだけあり、フツカヨイの中で処理してしまわなければいけない性質のものだ。
フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追懐の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。
死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない。舞台にあがったM・Cにフツカヨイは許されないのだよ。覚醒剤をのみすぎ、心臓がバクハツしても、舞台の上のフツカヨイはくいとめなければいけない。
芥川は、ともかく、舞台の上で死んだ。死ぬ時も、ちょッと、役者だった。太宰は、十三の数をひねくったり、人間失格、グッドバイと時間をかけて筋をたて、筋書きどおりにやりながら、結局、舞台の上ではなく、フツカヨイ的に死んでしまった。
フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。小林秀雄が、そうである。太宰は小林の常識性を笑っていたが、それはマチガイである。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書けるはずがない。
今年の一月何日だか、織田作之助の一周忌に酒をのんだとき、織田夫人が二時間ほど、おくれて来た。その時までに一座は大いに酔っ払っていたが、誰か織田の何人かの隠していた女の話をはじめたので、
「そういう話は今のうちにやってしまえ。織田夫人がきたら、やるんじゃないよ」
と私が言うと、
「そうだ、そうだ、ほんとうだ」
と、|間《かん》|髪《はつ》を入れず、大声でアイヅチを打ったのが太宰であった。先輩を訪問するには|袴《はかま》をはき、太宰は、そういう男である。健全にして、整然たる、ほんとうの人間であった。
しかし、M・Cになれず、どうしてもフツカヨイ的になりがちであった。
人間、生きながらえば恥多し。しかし、文学のM・Cには、人間の恥はあるが、フツカヨイの恥はない。
「斜陽」には、変な敬語が多すぎる。お弁当をお座敷にひろげて御持参のウイスキーをお飲みになり、といったグアイに、そうかと思うと、和田叔父が汽車にのると上キゲンに|謡《うたい》をうなる、というように、いかにも貴族の月並みな紋切り型で、作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気なはずなのに、実に、フツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。
まったく、こんな赤面は無意味で、文学にとって、とるにも足らぬことだ。
ところが、志賀直哉という人物が、これを採りあげて、やッつける。つまり、志賀直哉なる人物が、いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかなのであるが、ところが、これがまた、フツカヨイ的には最も急所をついたもので、太宰を赤面混乱させ、逆上させたに相違ない。
もともと太宰は調子にのると、フツカヨイ的にすべってしまう男で、彼自身が、志賀直哉の「お殺し」という敬語が、体をなさんと言って、やッつける。
いったいに、こういうところには、太宰のいちばんかくしたい秘密があった、と私は思う。
そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中でみずから名門の子弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そう言ったが、なぜ、名門がおかしいのか、つまり太宰が、それにコダワッているのだ。名門のおかしさが、すぐ響くのだ。志賀直哉のお殺しも、それが彼にひびく意味があったのだろう。
フロイドに「|誤謬《ごびゅう》の訂正」ということがある。我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとするものだ。
フツカヨイ的な衰弱的な心理には、特にこれがひどくなり、赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起こるものである。
太宰は、これを、文学の上でやった。
思うに太宰は、その若い時から、家出をして女の世話になった時などに、良家の子弟、時には、華族の子弟ぐらいのところを、気取っていたこともあったのだろう。その手で、飲み屋をだまして、借金を重ねたことも、あったかもしれぬ。
フツカヨイ的に衰弱した心には、遠い一生のそれらの恥の数々が赤面逆上的に彼を苦しめていたに相違ない。そして彼は、その小説で、誤謬の訂正をやらかした。フロイドの誤謬の訂正とは、誤謬を素直に訂正することではなくて、もう一度、類似の誤謬を犯すことによって、訂正のツジツマを合わせようとするのである。
けだし、率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力を、太宰はやらなかった。
彼は、やりたかったのだ。そのアコガレや、良識は、彼の言動にあふれていた。しかし、やれなかった。そこには、たしかに、虚弱の影響もある。しかし、虚弱に責めを負わせるのは正理ではない。たしかに、彼が、安易であったせいである。
M・Cになるのは、フツカヨイを殺してかかる努力がいるが、フツカヨイの嘆きに|溺《おぼ》れてしまうには、努力が少なくてすむのだ。しかし、なぜ、安易であったか、やっぱり、虚弱に帰するべきであるかもしれぬ。
むかし、太宰がニヤリと笑って田中|英《ひで》|光《みつ》に教訓をたれた。ファン・レターには、うるさがらずに、返事をかけよ、オトクイサマだからな。文学者も商人だよ。田中英光はこの教訓にしたがって、せっせと返事を書くそうだが、太宰がせッせと返事を書いたか、あんまり書きもしなかろう。
しかし、ともかく、太宰が相当ファンにサービスしていることは事実で、去年私のところへ金沢だかどこかの本屋のオヤジが、|画帖《がちょう》(だか、どうだか、中をあけてみなかったが、相当厚みのあるものであった)を送ってよこして、一筆かいてくれという。包みをあけずに、ほッたらかしておいたら、時々サイソクがきて、そのうち、あれは非常に高価な紙をムリして買ったもので、もう何々さん、何々さん、何々さん、太宰さんも書いてくれた、余は汝坂口先生の人格を信用している、というような変なことが書いてあった。虫の居どころの悪い時で、私も腹を立て、変なインネンをつけるな、バカ者め、と、包みをそっくり送り返したら、このキチガイめ、と怒った返事がきたことがあった。その時のハガキによると、太宰は絵をかいて、それに書を加えてやったようである。相当のサービスと申すべきであろう。これも、彼の虚弱から来ていることだろうと私は思っている。
いったいに、女優男優はとにかく、文学者とファン、ということは、日本にも、外国にも、あんまり話題にならない。だいたい、現世的な俳優という仕事と違って、文学は歴史性のある仕事であるから、文学者の関心は、現世的なものとは交わりが浅くなるのが当然で、ヴァレリイはじめ崇拝者にとりまかれていたというマラルメにしても、木曜会の漱石にしても、ファンというより門弟で、一応才能の資格が前提されたツナガリであったろう。
太宰の場合は、そうではなく、映画ファンと同じようで、こういうところは、芥川にも似たところがある。私はこれを彼らの肉体の虚弱からきたものと見るのである。
彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはないはずであるのに、つまり、彼らは、舞台の上のM・Cになりきる|強靱《きょうじん》さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと思う。
結局は、それが、彼らを、死に追いやった。彼らが現世を突ッぱねていれば、彼らは、自殺はしなかった。自殺したかも、しれぬ。しかし、ともかく、もっと強靱なM・Cとなり、さらに|傑《すぐ》れた作品を書いたであろう。
芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性はほとんどない。
虚無というものは、思想ではないのである、人間そのものに付属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。
人間性(虚無は人間性の付属品だ)は永遠不変なものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、また、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。
思想とは、個人が、ともかく、自分の一生をたいせつに、よりよく生きようとして、くふうをこらし、必死にあみだした答えであるが、それだから、また、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。
太宰は悟りすまして、そう言いきることもできなかった。そのくせ、よりよく生きるくふうをほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、なお、できなかった。しかし、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていたはずだ。
太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどというものにはわからない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。
太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを|咒《のろ》っていたはずだ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいい、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死にくふうして、よい人間になりたかったはずだ。
それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。
「人間失格」「グッドバイ」「十三」なんて、いやらしい、ゲッ。他人がそれをやれば、太宰は必ず、そう言うはずではないか。
太宰が死にそこなって、生きかえったら、いずれはフツカヨイ的に赤面逆上、大混乱、|苦《く》|悶《もん》のアゲク、「人間失格」「グッドバイ」自殺、イヤらしい、ゲッ、そういうものを書いたにきまっている。
太宰は、時々、ホンモノのM・Cになり、光りかがやくような作品をかいている。
「魚服記」、「斜陽」、その他、昔のものにも、いくつとなくあるが、近年のものでも、「男女同権」とか、「親友交歓」のような軽いものでも、立派なものだ。堂々、見あげたM・Cであり、歴史の中のM・Cぶりである。
けれども、それが持続ができず、どうしてもフツカヨイのM・Cになってしまう。そこから持ち直して、ホンモノのM・Cに、もどる。また、フツカヨイのM・Cにもどる。それを繰りかえしていたようだ。
しかし、そのたびに、語り方が|巧《うま》くなり、よい語り手になっている。文学の内容は変わっていない。それは彼が人間通の文学で、人間性の原本的な問題のみ取り扱っているから、思想的な生成変化が見られないのである。
今度も、自殺をせず、立ち直って、歴史の中のM・Cになりかえったなら、彼はさらに巧みな語り手となって、美しい物語をサービスしたはずであった。
だいたいに、フツカヨイ的自虐作用は、わかりやすいものだから、深刻ずきな青年のカッサイを博すのは当然であるが、太宰ほどの高い孤独な魂が、フツカヨイのM・Cにひきずられがちであったのは、虚弱の致すところ、また、ひとつ、酒の致すところであったと私は思う。
ブランデン氏は虚弱を見破ったが、私は、もう一つ、酒、このきわめて通俗な魔物をつけ加える。
太宰の晩年はフツカヨイ的であったが、また、実際に、フツカヨイという通俗きわまるものが、彼の高い孤独な魂をむしばんでいたのだろうと思う。
酒はほとんど中毒を起こさない。先日、さる精神病医の話によると、特に日本には真性アル中というものはほとんどない由である。
けれども、酒を麻薬にあらず、料理の一種と思ったら、大マチガイですよ。
酒は、うまいもんじゃないです。僕はどんなウイスキーでもコニャックでも、イキを殺して、ようやく|呑《の》み下しているのだ。酔っ払うために、のんでいるです。酔うと、ねむれます。これも効用のひとつ。
しかし、酒をのむと、否、酔っ払うと、忘れます。いや、別の人間に誕生します。もしも、自分というものが、忘れる必要がなかったら、何も、こんなものを、私はのみたくない。
自分を忘れたい、ウソつけ。忘れたきゃ、年じゅう、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。|屁《へ》|理《り》|窟《くつ》を言ってはならぬ。
私は生きているのだぜ。さっきも言うとおり、人生五十年、タカが知れてらア、そう言うのが、あんまりやさしいから、そう言いたくないと言ってるじゃないか。幼稚でも、青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年じゅう酔い通すぐらいなら、死んでらい。
一時的に自分を忘れられるということは、これは魅力あることですよ。たしかに、これは、現実的に偉大なる魔術です。むかしは、金五十銭、ギザギザ一枚にぎると、新橋の駅前で、コップ酒五杯のんで、魔術がつかえた。ちかごろは、魔法をつかうのは、容易なことじゃ、ないですよ。太宰は、魔法つかいに失格せずに、人間に失格したです。と、思いこみ遊ばしたです。
もとより、太宰は、人間に失格しては、いない。フツカヨイに赤面逆上するだけでも、赤面逆上しないヤツバラよりも、どれくらい、マットウに、人間的であったかしれぬ。
小説が書けなくなったわけでもない。ちょッと、一時的に、M・Cになりきる力が衰えただけのことだ。
太宰は、たしかに、ある種の人々にとっては、つきあいにくい人間であったろう。
たとえば、太宰は私に向かって、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いいかね、と言うから、いいじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいいさ。アア、そうだ、そうだ、とよろこぶ。
そのあとで、人に向かって、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸をたたかんばかりに、いいじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などとおもしろおかしく言いかねない男なのである。
多くの旧友は、太宰のこの式の手に、太宰をイヤがって離れたりしたが、むろんこの手で友人たちは傷つけられたに相違ないが、実際は、太宰自身が、わが手によって、内々さらに傷つき、赤面逆上したはずである。
もとより、これらは、彼自身がその作中にも言っているとおり、現に眼前の人へのサービスに、ふと、言ってしまうだけのことだ。それぐらいのことは、同様に作家たる友人連、知らないはずはないが、そうと知っても不快と思う人々は彼から離れたわけだろう。
しかし、太宰の内々の赤面逆上、自卑、その苦痛は、ひどかったはずだ。その点、彼は信頼に足る誠実漢であり、健全な、人間であったのだ。
だから、太宰は、座談では、ふと、このサービスをやらかして、内々赤面逆上に及ぶわけだが、それを文章に書いてはおらぬ。ところが、太宰の弟子の田中英光となると、座談も文学も区別なしに、これをやらかしており、そのあとで、内々どころか、大ッピラに、赤面混乱逆上などと書きとばして、それで当人救われた気持ちだから、助からない。
太宰は、そうではなかった。もっと、ほんとうに、つつましく、|敬《けい》|虔《けん》で、誠実であったのである。それだけ、内々の赤面逆上は、ひどかったはずだ。
そういう自卑に人一倍苦しむ太宰に、酒の魔法は必需品であったのが当然だ。しかし、酒の魔術には、フツカヨイという|香《かんば》しからぬ付属品があるから、こまる。火に油だ。
料理用の酒には、フツカヨイはないのであるが、魔術用の酒には、これがある。精神の衰弱期に、魔術を用いると、|淫《いん》しがちであり、ええ、ままよ、死んでもいいやと思いがちで、最も強烈な自覚症状としては、もう仕事もできなくなった、文学もイヤになった、これが、自分の本音のように思われる。実際は、フツカヨイの幻想で、そして、病的な幻想以外に、もう仕事ができない、という絶体絶命の場は、実在致してはおらぬ。
太宰のような人間通、いろいろ知りぬいた人間でも、こんな俗なことを思いあやまる。ムリはないよ。酒は、魔術なのだから。俗でも、浅薄でも、敵が魔術だから、知っていても、|人《じん》|智《ち》は及ばぬ。ローレライです。
太宰は、悲し。ローレライに、してやられました。
情死だなんて、大ウソだよ。魔術使いは、酒の中で、女にほれるばかり。酒の中にいるのは、当人でなくて、別の人間だよ。別の人間が|惚《ほ》れたって、当人は、知らないよ。
第一、ほんとに惚れて、死ぬなんて、ナンセンスさ。惚れたら、生きることです。
太宰の遺書は、体をなしていない。メチャメチャに酔っ払っていたようだ。十三日に死ぬことは、あるいは、内々考えていたかもしれぬ。ともかく、「人間失格」、「グッドバイ」、それで自殺、まア、それとなく筋は立てておいたのだろう。内々筋は立ててあっても、必ず死なねばならぬはずでもない。必ず死なねばならぬ。そのような絶体絶命の思想とか、絶体絶命の場というものが、実在するものではないのである。
彼のフツカヨイ的衰弱が、内々の筋を、しだいにノッピキならないものにしたのだろう。
しかし、スタコラ・サッちゃんが、イヤだと言えば、実現はするはずがない。太宰がメチャメチャに酔って、言いだして、サッちゃんが、それを決定的にしたのであろう。
サッちゃんも、大酒飲みの由であるが、その遺書は、尊敬する先生のお伴をさせていただくのは身にあまる幸福です、というような整ったもので、いっこうに酔った跡はない。しかし、太宰の遺書は、書体も文章も体をなしておらず、途方もない御|酩《めい》|酊《てい》に相違なく、これが自殺でなければ、アレ、ゆうべは、あんなことをやったか、と、フツカヨイの赤面逆上があるところだが、自殺とあっては、翌朝、目がさめないから、ダメである。
太宰の遺書は、体をなしていなすぎる。太宰の死にちかいころの文章が、フツカヨイ的であっても、ともかく、現世を相手のM・Cであったことは、たしかだ。もっとも、「如是我聞」の最終回(四回目か)は、ひどい。ここにも、M・Cは、ほとんどいない。あるものは、グチである。こういうものを書くことによって、彼の内々の赤面逆上はますますひどくなり、彼の精神は消耗して、ひとり、生きぐるしく、切なかったであろうと思う。しかし、彼がM・Cでなくなるほど、身近の者からカッサイが起こり、その愚かさを知りながら、ウンザリしつつ、カッサイの人々をめあてに、それに合わせて行ったらしい。その点では、彼は最後まで、M・Cではあった。彼をとりまく最もせまいサークルを相手に。
彼の遺書には、そのせまいサークル相手のM・Cすらもない。
子供が凡人でもカンベンしてやってくれ、という。奥さんには、あなたがキライで死ぬんじゃありません、とある、井伏さんは悪人です、とある。
そこにあるものは、泥酔の騒々しさばかりで、まったく、M・Cは、おらぬ。
だが、子供が凡人でも、カンベンしてやってくれ、とは、切ない。凡人でない子供が、彼はどんなにほしかったろうか。凡人でも、わが子が、哀れなのだ。それで、いいではないか。太宰は、そういう、あたりまえの人間だ、彼の小説は、彼がまッとうな人間、小さな善良な健全な整った人間であることを承知して、読まねばならないものである。
しかし、子供をただ|憐《あわ》れんでくれ、とは言わずに、特に凡人だから、と言っているところに、太宰の一生をつらぬく切なさの|鍵《かぎ》もあったろう。つまり、彼は、非凡に|憑《つ》かれた類の少ない|見《み》|栄《え》|坊《ぼう》でもあった。その見栄坊自体、通俗で常識的なものであるが、志賀直哉に対する「如是我聞」のグチの中でも、このことはバクロしている。
宮様が、身につまされて愛読した、それだけでいいではないか、と太宰は志賀直哉にくッてかかっているのであるが、日ごろのM・Cのすぐれた技術を忘れると、彼は通俗そのものである。それでいいのだ。通俗で、常識的でなくて、どうして小説が書けようぞ。太宰が終生、ついに、この一事に気づかず、妙なカッサイに合わせてフツカヨイの自虐作用をやっていたのが、その大成をはばんだのである。
くりかえして言う。通俗、常識そのものでなければ、すぐれた文学は書けるはずがないのだ。太宰は通俗、常識のまッとうな典型的人間でありながら、ついに、その自覚をもつことができなかった。
人間をわりきろうなんて、ムリだ。特別、ひどいのは、子供というヤツだ。ヒョッコリ、生まれてきやがる。
不思議に、私には、子供がない。ヒョッコリ生まれかけたことが、二度あったが、死んで生まれたり、生まれて、とたんに死んだりした。おかげで、私は、いまだに、助かっているのである。
全然無意識のうちに、変テコリンに腹がふくらんだりして、にわかに、その気になったり、親みたいな心になって、そんなふうにして、人間が生まれ、育つのだから、バカらしい。
人間は、決して、親の子ではない。キリストと同じように、みんな牛小屋か便所の中かなんかに生まれているのである。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな|奴《やつ》が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな|憐《あわ》れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。
太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。
生まれが、どうだ、と、つまらんことばかり、言ってやがる。強迫観念である。そのアゲク、奴は、ほんとうに、華族の子供、天皇の子供かなんかであればいい、と内々思って。そういうクダラン夢想が、奴の内々の人生であった。
太宰の親とか兄とか、先輩、長者というと、もう頭が上がらんのである。だから、それをヤッツケなければならぬ。口惜しいのである。しかし、ふるいついて泣きたいぐらい、愛情をもっているのである。こういうところは、不良少年の典型的な心理であった。
彼は、四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男であった。
不良少年は負けたくないのである。なんとかして、偉く見せたい。クビをくくって、死んでも、偉く見せたい。宮様か天皇の子供でありたいように、死んでも、偉く見せたい。四十になっても、太宰の内々の心理は、それだけの不良少年の心理で、そのアサハカなことをほんとうにやりやがったから、むちゃくちゃな奴だ。
文学者の死、そんなもんじゃない。四十になっても、不良少年だった妙テコリンのできそこないが、|千《ち》|々《ぢ》に乱れて、とうとう、やりやがったのである。
まったく、笑わせる奴だ。先輩を訪れる。先輩と称し、ハオリ|袴《はかま》で、やってきやがる。不良少年の仁義である。礼儀正しい。そして、天皇の子供みたいに、日本一、礼儀正しいツモリでいやがる。
芥川は太宰よりも、もっと大人のような、利巧のような顔をして、そして、秀才で、おとなしくて、ウブらしかったが、実際は、同じ不良少年であった。二重人格で、もう一つの人格は、ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、小娘を脅迫、口説いていたのである。
文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。
ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。|冥《めい》|想《そう》ときやがる。
何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかかっているだけじゃないか。
芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。
不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。|理《り》|窟《くつ》でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。
ドストエフスキーとなると、不良少年でもガキ大将の|腕《うで》ッ|節《ぷし》があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも|阿《あ》|呆《ほ》らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、だいじである、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。ほんとうは、わかるとか、わからんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。いつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。
大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う。
注 釈
日本文化私観
*ブルノー・タウト Bruno Taut 一八八〇年―一九三八年。ドイツの建築家。生地ケーニヒスベルクの高等建築専門学校に学び、シュトゥットガルトの工業大学で、フィッシャーの助手、ついでホフマンとともにベルリンに建築事務所を設けた。主として集合住宅の建築に従事し、のちシャルロッテンブルグ工業大学教授、モスクワに招かれて大建築の設計に従事した。辞してベルリンに帰り、ナチ政権の確立とともに亡命し、シベリアをへて来日、仙台および高崎で工芸品の製作を指導した。滞日中、『日本文化私観』など、日本に関して数著を著わし、よくその本質を明らかにした。
*コクトオ Jean Cocteau 一八八九年―一九六三年。フランスの詩人。ブルジョアの家庭に育ち、幼少のころからパリの上流社会に顔出しをし、学業には不熱心で劇場や音楽会、サロンなどに出入りし、多くの文人と知りあってから詩を書き始めた。かくて二十歳の時に処女詩集『アラジンのランプ』で、典雅な空想的な詩人としてはなやかなデビュをして以来、かれは詩人として、劇作家として、小説家として、エッセイストとして、画家として、演出家として、発明と創意に富んだ才能を示し続けた。かれが愛していた年少の作家ラディゲが|急逝《きゅうせい》したあと、その悲哀をまぎらわすために|阿《ア》|片《ヘン》を常用し、その解毒治療後に書いたのが、「恐るべき子供たち」である。一時カトリシズムへ|帰《き》|依《え》したのも、秩序と神秘への|憧《どう》|憬《けい》の現われだが、かれはまたギリシア神話の典雅な悲劇性を愛する。すなわち神話から主題を借りたものに、戯曲「オルフェ」「地獄の機械」、映画「オルフェ」があり、また中世の物語に材を借りた戯曲も数編ある。
*ボルテールのエピグラム ボルテール Voltaire はフランスの作家・思想家。摂政時代のサロンに出入りし、|煥《かん》|発《ぱつ》な才気によって社交界の|寵児《ちょうじ》になり、一躍文名をはせたが、持ち前の|不《ふ》|遜《そん》と風刺癖が災いして、前後二回バスチーユに投獄された。年三十三にして渡英して当代の名士と交わり、帰来、フランス上流社会の知的指導者となり、王侯の|師《し》|傅《ふ》となった。かれはロックとニュートンとを応用|敷《ふ》|衍《えん》し、その学説は深遠ではないけれども、該博でかつ|機《き》|智《ち》に富み、歴史に論文に戯曲にまたは書簡に、よく常識に訴えて時代の迷信を排斥した。エンサイクロペディア|編《へん》|纂《さん》の事業が起こると、かれはこれを激励して、「|破《エ》|壊《ク》|せ《ラ》|よ《ー》|、《ゼ》|醜悪なものを《ランファーム》」と書き、|爾《じ》|後《ご》この語を標語とした。
*ターキーとオリエ ターキーは水の江滝子、オリエはオリエ津阪。いずれも松竹少女歌劇団のスターで、「男装の|麗《れい》|人《じん》」とよばれた男役である。松竹少女歌劇団は松竹株式会社が経営するレビュー劇団で、国際劇場を本拠とし、養成機関として松竹音楽舞踊学校を付設していたが、昭和十七年、水の江滝子が退団してからは人気も下火になり、第二次世界大戦中は慰問公演を続けるにとどまった。
*牧野信一 明治二十九年―昭和十一年(一八九六―一九三六)。小説家。坂口安吾の師。神奈川県小田原町に生まれる。父久雄、二十五歳、母エイ、二十四歳の時の長男である。大正三年、小田原中学校を出ると、早稲田大学高等予科へ入学して英文科を選んだが、文学的野心などなかった。卒業後は時事新報社に勤め、雑誌『少年』の記者になって、そこで佐佐木|茂《も》|索《さく》を知り、また浅原六朗、下村千秋らと同人雑誌『十三人』を創刊。大正十年、さらに中戸川吉二を知り、鈴木セツと交際ののち結婚、このころからほんとうに文学をやろうと決心する。昭和五年、小林秀雄がその文学を再認識する論文を『文芸春秋』に書いたのが、かれの文学的カムバックのきっかけをなしたということができよう。かれの知的幻想趣味は、小田原での徹底したエピキュリアン生活と二重写しになって、独自なボヘミヤニズムを生み、「村のストア派」「|吊《つり》|籠《かご》と月光と」「ゼーロン」「バラルダ物語」などの傑作を遺した。五年、安吾を含む後輩たちを率いて、春陽堂から『文科』という季刊誌を出していたが、その反動のように暴飲からの不健康、生活苦、神経衰弱が続き、郷里小田原の家の納屋で|縊《い》|死《し》した。
*雲月 天中軒雲月。女浪曲師で、その美声をもって一世を|風《ふう》|靡《び》した。
*王仁三郎 出口王仁三郎。明治四年―昭和二十三年(一八七一―一九四八)。|大《おお》|本《もと》教の教祖。現代の新興宗教の草分けといわれ、怪物と称された。京都府亀岡在の|曾《そ》|我《か》|部《べ》村の貧農、上田吉松の長男で、喜三郎といい、神童の称があった。代用教員、牧夫をはじめ多くの職業をへて、|稲荷《い な り》教会の長沢|雄《お》|楯《たて》から鎮魂帰神の法を授けられて、その行者となった。郷里に近い|綾《あや》|部《べ》の出口ナオに接近して、その娘すみと結婚、養子となり、のち王仁三郎と改名した。やがて第一次世界大戦の激動期に放胆奇抜な教団組織者として企業家的な手腕をふるい、大正六年みずから大本の教主となって「救世主」と称した。大正十年の第一次弾圧後は、右翼的な大アジア主義の傾向を強め、|内《ない》|蒙《もう》|古《こ》に潜入するなど活躍したが、昭和十年の第二次弾圧により、不敬罪と治安維持法違反で投獄され、保釈出獄中に終戦を迎えて無罪となった。戦後は愛善苑を起こして復興をはかったが、第一線には立たずに病死した。
*アナクレオン Anakreon 紀元前六世紀の後半、ギリシアの有名な|抒情《じょじょう》詩人。イオニアの一都市テオスに生まれたが、故郷がペルシア人のために攻撃されたときそこを去り、サモス島のポリクラテス王の華美な宮廷に出仕した。王の死後はアテナイに赴き、|僭《せん》|主《しゅ》ヒパルコスの|寵《ちょう》を|蒙《こうむ》り、ヒパルコスが紀元前五一四年に殺されると、テスサリアのアレウアダイ王家に仕え、八十五歳の高齢で故郷テオス、またはトライケのアプデーラで死んだ。かれのイオニア人的な性質は、かれをして華美な生活に適せしめ、美女、美少年はその好むところであり、恋、酒、音楽、青春がかれの詩の対象であって、生を楽しむ軽快な歓楽の歌がその詩の本質であった。宮廷風の|滑《なめら》かさを持ち、|機《き》|智《ち》に富んだ社交人であり、なんらの野心なく世を悦楽のうちに送った詩人であるかれが、|流暢《りゅうちょう》な詩句、巧妙な韻律の変化をもって装ったその真の作品は、純な詩体を持ち、明快な雅趣と風刺的な|諧謔《かいぎゃく》とを示している。
*「檜垣」謡曲の一つで、世阿弥の作詞、作曲による。夢幻能で老女物、大小|鼓《つづみ》の舞物で、三番目物である。『後撰集』や『大和物語』にある檜垣の老女の「年経ればわが黒髪も白川のみつはぐむまで老いにけるかな」の歌と、小町伝説にみられるような、美女老後の零落とを素材としている。いまその主題を要約すれば、つぎのとおりである。すなわち美しかった舞姫のいたましい末路を描いている。単に老醜をはかなむのではなく、世の男どもをひきつけていたその美しさゆえ、みずから誇ったその舞歌の生活ゆえ、死後は|業《ごう》|火《か》の|焔《ほのお》に燃えたつ|釣《つる》|瓶《べ》を、永遠に|手《た》|繰《ぐ》りつづけねばならないというので、老女物でしかも|痩女物《やせおんなもの》といった能である。坂口安吾が『青春論』で述べている「荒筋」には間違いが少なくない。
青春論
*閼伽の水 |梵《ぼん》|語《ご》で水のことを「閼伽」というところから、仏に|手《た》|向《む》ける水のことをいう。
*北海の孤島へ流刑 世阿弥は|観《かん》|阿《あ》|弥《み》の|嫡男《ちゃくなん》で、応安元年(一三六八)世阿弥七歳の時、将軍義満が父の芸を観て以来、深く義満に愛せられ、諸大名も争ってかれに物を贈り、これによって将軍の意を迎えようとする勢いであった。しかし世阿弥がその天分を自由に発揮しえたのは、義満、義持在世の間のことで、|永享《えいきょう》元年(一四二九)|義《よし》|教《のり》が将軍になるとともに、かれのそれまでの隆盛はたちまちに転倒してしまった。この年五月三日、世阿弥とその子十郎|元《もと》|雅《まさ》が、その|甥《おい》|音《おん》|阿《あ》|弥《み》|元《もと》|重《しげ》と立合|申《さる》|楽《がく》を演じたのち、十日には世阿弥父子は|仙《せん》|洞《とう》御所の|勘《かん》|気《き》を蒙り、これより音阿弥がかれに代わって声望を|専《もっぱ》らにすることとなった。永享四年八月、子息元雅が伊勢で没して悲嘆にくれているのに反して、翌五年音阿弥は大夫職を継いで、|賀《か》|茂《もの》|河《か》|原《わら》で盛大な|勧《かん》|進《じん》|能《のう》を挙行した。かくて世阿弥自身は永享六年五月、七十一歳の老齢をもって佐渡に配流されるにいたった。その後の消息は|詳《つまびら》かにしないが、やがて|帰《き》|洛《らく》を許され、余生を|女《じょ》|婿《せい》の|金《こん》|春《ぱる》|禅《ぜん》|竹《ちく》のもとで送ったらしい。
*「葉隠れ論語」山本|常《つね》|朝《とも》の著。元禄十三年(一七〇〇)、四十二歳のとき、かれは佐賀藩二代目の藩主、鍋島光茂の死に殉じようとして、光茂自身の殉死禁止令のため死を|阻《はば》まれた。やむなくかれは|剃《てい》|髪《はつ》出家し、人里離れた佐賀の黒土原というところに|草《そう》|庵《あん》を結んで、|隠《いん》|遁《とん》生活にはいった。それから十年をへた宝永七年の春、若い佐賀藩士の田代|陳《つら》|基《もと》という人が、その草庵を訪ねて常朝の語るところを筆記し、七年の歳月をかけて十一巻に編纂したものを、『葉隠論語』と呼んだ。その書がすなわち今日|謂《い》うところの『葉隠』にほかならないが、常朝はこれを世に残して|享保《きょうほう》四年(一七一九)、六十一歳のとき、心ならずも畳のうえで死んだ。常朝自身は死ぬ前になって、その筆記を火中に投じて焼けと命じたが、田代はその命令にそむいて秘かに保存し、それがいつとはなしに佐賀藩士の間に筆写されて伝わり、やがて『鍋島論語』などと呼ばれて、世に行なわれるようになった。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉で、『葉隠』は有名であるが、この書がもっとも|喧《けん》|伝《でん》されたのは、戦争の終わりごろのことであった。
堕落論
*松永弾正 松永|久《ひさ》|秀《ひで》のこと。永正七年―天正五年(一五一〇―一五七七)。はじめ三好|長《なが》|慶《よし》の部将であったが、主君の没後三好三人衆(三好|長《なが》|逸《とし》・三好|政《まさ》|康《やす》・岩成|友《とも》|通《みち》)と結んで、永禄八年五月十九日、将軍足利|義《よし》|輝《てる》を|弑《しい》した。しかしその直後三人衆との間に分裂を生じ、久秀は三好|義《よし》|継《つぐ》を助けてこれを東大寺に攻め、大仏殿を焼くという横暴ぶりを示した。しかし義輝の弟|義《よし》|昭《あき》は近江の和田|惟《これ》|政《まさ》の館に赴いて幕府の再興を宣言し、諸国の大名に御内書を出して協力を求めた。永禄十一年(一五六八)四月、これを受けとった信長は、義昭を迎えて入京の大義名分を|獲《か》ちとり、九月七日、大軍を発して|近江《お う み》を平定し、二十六日には三人衆を退けて京都の地を踏んだ。すでに早く久秀は信長に人質を送って降伏し、この後|大和《や ま と》の諸城を降すために大いに活躍したから、論功行賞として|大《やま》|和《との》|国《くに》と|多《た》|聞《もん》山城とを与えられた。ところが和田惟政の戦死にさいしての久秀の出陣を、信長が抑えたところから反意を固め、義昭と盟約して信長にそむいたが屈服し、多聞山城をさし出した。のち天正五年、久秀・久通父子は突然信長に|謀《む》|叛《ほん》を起こし、大和|信《し》|貴《ぎ》|山《さん》城に|拠《よ》ったが、十月十日、信長の軍に攻められて自殺した。
続堕落論
*善人なおもて往生をとぐ いはんや悪人をや『|歎異抄《たんにしょう》』のなかの言葉。「悪人正機説」として有名で、その第三章にある。自力によって善行を積めば往生するという通説に対する逆説で、悪人のほうが人間的な危機感に襲われやすいから、それだけ仏法に触れる機縁に恵まれているという意味。『歎異抄』の意図は、|親《しん》|鸞《らん》の没後信徒間に種々の異議が起こったので、著者が親鸞から直接聞いたところに基づいて、それを正そうとするにあった。著者については親鸞の弟子、|唯《ゆい》|円《えん》説が最有力である。
デカダン文学論
*関孝和 江戸時代の数学者。生年は不明であるが、寛永十四年(一六三七)から寛永十九年の間、没年は宝永五年(一七〇八)である。生地も不明だが、内山水明の第二子で関家を|嗣《つ》ぎ、|甲《か》|斐《い》の徳川|綱《つな》|重《しげ》および|綱《つな》|豊《とよ》に仕えた。孝和の業績の最大のものは、筆算による代数の創始で、これを適用した最初の著書は、延宝二年(一六七四)の「発微算法」である。その他おもな業績は、方程式論の研究、行列式の発明、正多角形の理論(角術)、円周・円弧の長さの研究(円理)などである。
戯作者文学論
*矢田津世子 明治四十年―昭和十九年(一九〇七―一九四四)。小説家。秋田県南秋田郡五城目町生。私立|麹町《こうじまち》高女卒業。『日暦』『人民文庫』の同人となり、「|神楽《か ぐ ら》|坂《ざか》」が『人民文庫』創刊号に載って出世作となった。代表作に「|茶《ちゃ》|粥《がゆ》の記」「家庭教師」などがあり、『文学界』『改造』などに作品を発表。『中央公論』から原稿の依頼があったときには、もう肺患がつのって執筆不可能となり、三十八歳で死んだ。かの女は凝り屋で、繊細な感情と技巧を持ち、文芸復興のかけ声の高かった時勢に、|市《し》|井《せい》を描いて客観的な作風を志した。戦争中『婦人|倶《く》|楽《ら》|部《ぶ》』の特派員として、大陸にも出かけている。坂口安吾は片思いでかの女に恋し、|悶《もん》|々《もん》とした一時期を持っている。
エゴイズム小論
*マノン・レスコオ フランスの作家、アベ・プレボーの小説。死よりも強い恋を感動的に語ったこの作品くらい、世人に歓迎された書物は、一八三〇年以前には一冊もないといわれている。作者はイエズス会の教育を受け、同会の聖職者となったが、『ある貴人の回想』第一巻を発表後、僧院からの脱走と|筆《ひっ》|禍《か》事件で、再三オランダやイギリスに逃亡、|波《は》|瀾《らん》に満ちた生涯を送った。『回想』の七巻にあたるのが「マノン・レスコー」で、宿命的な激しい情熱を描いた不朽の恋愛小説である。これにはかれのどの小説にも見られる一つの主題が、|夾雑《きょうざつ》物なく提示されている。それは人間が理性以上に、情念によって動かされるものだという思想である。
*リエゾン・ダンジュルーズの侯爵夫人 「リエゾン・ダンジュルーズ」は「危険な関係」と訳されているが、ラクロが書いた書簡体の小説である。ヴァルモン子爵は処女セシル、人妻トゥルヴェルをつぎつぎに誘惑、その戦略はほとんど名将のそれに比すべき巧妙さを発揮するが、子爵のかつての愛人メルトゥイユ侯爵夫人は、子爵をも自在にあやつる悪魔的女性。この二人、および二人の犠牲者たちの書く手紙を通して、冷徹な心理の世界が展開する。十八世紀貴族階級の|頽《たい》|廃《はい》や浮薄な生活が、ここには明確に刻まれている。
*ラスコリニコフ ドストイェフスキーの『罪と罰』に出てくる主人公。かれはナポレオン的な選ばれた強者は、人類の幸福のため社会の道徳律を踏みこえる権利をもつという理論に立って、「しらみ」のような金貸しの老婆を殺すが、しかしこの行為のもたらす良心の|呵責《かしゃく》はあまりに大きく、かれは罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならない。たまたま|娼婦《しょうふ》ソーニャを知って、苦しみと自己犠牲に徹しようとするその生き方に打たれ、また情欲を絶対化する背徳漢スビドリガイロフに、自己の理論の醜悪な投影を見て、かれは自首を決意し、シベリアに送られる。
欲望について
*ユロ男爵 バルザックの「従兄ポンス」に出てくる人物。主人公ポンスは富裕な従妹の一家から不当に虐待され、最後に唯一の財産たる美術収集品を横領される。死の床のポンスから、その|愛《あい》|玩《がん》の美術品を奪う|親《しん》|戚《せき》一味の|風《ふう》|貌《ぼう》や行動は、|豺《さい》|狼《ろう》の群れさながらに描かれている。
大阪の反逆
*谷崎が藤沢が 谷崎は大正十二年から昭和二十九年まで、長期にわたって関西に在住し、「|卍《まんじ》」から「|細雪《ささめゆき》」にいたる諸作で大阪弁を駆使した。藤沢は大阪生まれの作家で、「大阪の話」などにやはり大阪弁を採用して成功している。
教祖の文学
*アンリベイル先生 スタンダールの本名。かれは在世中ほとんど完全に、同時代人からは無視されていた。五十年後、あるいは百年後に認められることを信じて疑わなかったとしても、かれが受けた誤解ほどはなはだしいものはない。かれの最初の小説「アルマンス」は問題にされず、今日では代表作とされている「赤と黒」はだれからも理解されず、わずかに「パルムの僧院」のみが、バルザックの称讃をえたにとどまる。
*スタヴロオギン ドストイェフスキーの『|悪霊《あくりょう》』に出てくる主人公。聖書に、悪霊に|憑《つ》かれた豚の群れが、湖に飛びこんで|溺《おぼ》れ死ぬという記述がある。この作品は無神論革命思想をその『悪霊』に見たて、それに憑かれた人たちの破滅を描こうとしたもので、実在のアナーキスト、革命家ネチャーエフが転向者を惨殺したリンチ事件に取材している。作者はこの小説で、醜怪な悪徳にかえって感覚的喜びをおぼえ、ついにはそうした虚無のなかにしか生きられぬ自己の生命を絶つ、悪魔的な超人スタヴロオギンの形象を創造した。またその弟子キリーロフには、自殺によって神を殺し、神からの自由をえようとする「人神」思想を実践させた。
[#地から2字上げ](三枝康高編)
|堕《だ》|落《らく》|論《ろん》
|坂《さか》|口《ぐち》|安《あん》|吾《ご》
平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Ango SAKAGUCHI 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『堕落論』平成12年5月25日改訂75版刊行