神州纐纈城
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)纐纈《こうけつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神州|纐纈《こうけつ》城
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「金+(鹿/れんが)」、第三水準1-93-42]
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[#改丁]
神州纐纈城
[#改丁]
第一回
一
土屋庄三郎は邸《やしき》を出てブラブラ条坊《まち》を彷徨《さまよ》った。
高坂邸、馬場邸、真田邸の前を通り、鍛冶小路の方へ歩いて行く。時は朧《おぼ》ろの春の夜でもう時刻が遅かったので邸々《やしき》は寂しかったが、「春の夜の艶かしさ、そこはかとなく匂ひこぼれ、人気なけれど賑かに思はれ」で、陰気のところなどは少しも無い。
「花を見るには何方《どっち》がよかろう、伝奏《てんそう》屋敷か山県邸か。」
鍛冶小路の辻まで来ると庄三郎は足を止めたが「いっそ神明の宮社《やしろ》がよかろう。」
斯《こ》う呟くと南へ折れ、曾根の邸の裾を廻わった。
併《しか》し、実際は何処《どこ》へ行こうとも又何処へ行かずとも、花はいくらでも見られるのであった。月に向かって夢見るような大輪の白い木蘭の花は小山田邸の塀越しに咲き下を通る人へ匂をおくり、夜眼にも黄色い連翹の花や雪のように白い梨の花は諸角《もろずみ》邸の築地《ついじ》の周囲を靄のように暈《ぼか》している。桜の花に至っては、信玄公が好まれるだけに、躑躅《つつじ》ケ崎の御館を巡り左右前後に延びている此の甲府の到所《いたるところ》に爛漫と咲いているのであったが、わけても御館の中庭と伝奏屋敷と山県邸と神明の社地とに多かった。
「花を踏んで等しく惜しむ少年の春。灯《ともしび》に反いて共に憐れむ深夜の月。……あゝ夜桜はよいものだ。」
小声で朗詠を吟し乍ら、境内まで来た庄三郎は、静かに社殿の前へ行き、合掌して叩頭《ぬかず》いたが、
「御館の隆盛、身の安泰、武運長久、文運長久。」
こう祈って顔を上げて見ると、社殿の縁先狐格子の前に一人の老人が腰かけていた。朧ろ朧ろの月の光も屋根に遮られて其処迄は届かず、婆娑《ばさ》として暗い其の辺《あたり》を淡紅色に仄かせて何やら老人は持っているらしい。
大方参詣の人でもあろう。――斯う思って気にも止めず、庄三郎は足を返えした。
と、うしろから呼ぶものがある。
「もし、お若いお侍様、どうぞ鳥渡《ちょっと》お待ち下さいまし。」――それは嗄《しゃが》れた声である。
で、庄三郎は振り返った。
山袴を穿き、袖無を着、短い刀を腰に帯び、畳んだ烏帽子を額に載せ、輝くばかりに美しい深紅の布を肩に掛けた、身長《せい》の高い老人が庄三郎の眼前《めのまえ》に立っている。
「老人、何か用事かな?」
庄三郎は訊いて見た。
「布《きぬ》をお買い下さいまし。」
おずおずとして老人は云う。
「おお、お前は布売か。いかさま紅い布《きぬ》を持って居るの。」
「よい布でございます。どうぞお買い下さいまし。」
「よい布か悪い布か、そういうことは俺には解らぬ。」庄三郎は微笑したが「俺は是でも男だからな。」
「お案じなさるには及びませぬ。布は上等でございます。」老人は執念《しっこ》く繰り返えす。
「そうか、それでは左様《そう》いうことにしよう、よろしい布は上等だ。併《しか》し、俺には用は無いよ。」
云いすてて庄三郎は歩き出した。
併し布売の老人は、そのまま断念しようとはせず、行手へ廻わって復《ま》た云うのであった。
「布をお買い下さいまし。」
「見せろ!」
と庄三郎は我折れたように、遂々《とうとう》斯う云って手を出した。
「成程。むうう。美《よ》い色だな。」
渡された布を月影に隙《す》かし熟々《つくづく》と眺めた庄三郎は思わず感嘆したのであった。
「はい美い色でございます。そこが其の布の値打の所で……」さもこそ[#「さもこそ」に傍点]とばかりに老人は云った。
「若い女子《おなご》の喜びそうな色だ。なんと老人そうでは無いかな。」
「はい左様でございます。」
「ここら辺にはお邸も多い。若い女子も沢山居る。お邸方の奥向へ参って若い姫達のお目にかけたら喜んで飛び付いて参ろうぞ。」
「今日も昨日も一昨日《おとつい》も、もう彼是十日余も、お邸方へ参上致し、さまざまご贔屓にあずかりましたが、この布ばかりは買っていただけず、一巻《ひとまき》だけ残りましてございます。」
「誰人《どなた》の嗜好《このみ》にも合わないと見えるな。」
「皆様、恐《こわ》らしいと申されます。」
「なに、恐らしい?」と不思議そうに「はて何が恐いのか?」
「そのお色気でございます。」
「色気と云っても、紅いだけではないか。」
「人間の血で染めたような、燃え立つばかりの紅い色が、恐らしいそうでございます。」
「アッハッハッハッ、馬鹿な事を。さすがは女子、臆病なものだな。」
もう一度|布《きぬ》を差し上げて、月の光に照らして見たが、庄三郎は思わず身顫いをした。
二
と、布売の老人は有るか無しかに嘲笑《あざわら》ったが、
「お侍様、貴郎《あなた》迄が……」
「何!」
と庄三郎は振り返える。
「顫えておいでなされます。」
「痴《たわ》けた事を!」
と一喝したが「これ、この価《あたえ》なんぼうじゃ?」
「太鼓判一枚でございます。」
「それ持ってけ!」
と抛り出した。チリンと鳴る金の音。屈んで拾う布売の姿が恰も大蜘蛛の這ったように、地面に影を描き出したが、颯《さっ》と吹いて来た夜嵐に桜の花がサラサラと散り、その影をさえ埋めようとする。
×
斯ういうことのあったのは永禄元年のことであるが、この夜買った紅巾の祟りで、土屋庄三郎の身の上には幾多の波瀾が重畳した。
併し作者《わたし》は其の事に関して描写の筆を進める前に、土屋庄三郎其の人に就《つ》いて少しく説明しようと思う。
武田家に於て土屋といえば非常に立派な家柄であって、無論甲陽二十四将の一人、代々武功の士を出したが、別けても惣蔵昌恒は忠義無類として知られていた。
後年勝頼が四方に敗れ小山田信茂には裏切られ、天目山で自尽した時、諸将殆ど離散した中に、惣蔵一人己が子を殺し、二心無きを現わした上、最後のお供|仕《つかまつ》った程で、この義烈には敵乍らも徳川家康が感心し、苦心して遺族を尋ね出し常陸土浦九万石に封じた。土屋子爵は其の後胤である。家康も仲々粋の事をする。尤も家康は信玄の為に曾て三方ケ原で破られ乍らも甲州流の兵法には少なからず敬意を払っていたし、清和源氏の名門で甲斐源氏の棟梁たる武田家その物に対しても尊敬の念を持っていて、勝頼の首級《しるし》に対しても、信長のように足蹴にはせず、君、武勇に於かせられては父君にも勝らせ給えど、いまだ年若くおわせしため跡部長坂の小人を愛し武功の老臣を斥け給い、無謀の軍を起こされし果て今日の悲運を見給うは洵《まこと》に無残の限りであると、鳥渡首級桶を戴いてホロリと一|滴《しずく》こぼしたそうで、是を聞いた武田の遺臣共、武骨者だけに感激するのも早く、我も我もと安い月給で徳川家に随身したそうであるが、是を今日の皮肉極わまる歴史家共に云わせると「なあに夫《そ》れも家康という狸爺のお芝居さ。勝頼の首級をいただいた所で別に資本《もとで》がかかるのでは無し、ホロリと一滴こぼしたところで其の為め眼病になりもしない。一滴の涙が大効を奏し数度の戦いに心身を練った武田家の遺臣を傭うことが出来たら、こんな旨い商売は無いよ。」と唯物的に片付けて了《しま》うが、治まれる御世の時代と戦国時代とは人心が異う。そう味もなく片付けては、歴史の花たる戦国武士に対し、ちと失礼ではあるまいか。
それは兎も角土屋家なるものは、武田家に在りては由緒ある名家で、一族の数も多かったが、信玄時代では惣蔵昌恒が、土屋宗家の当主であった。そうして「神州|纐纈《こうけつ》城」なる此の物語の主人公土屋庄三郎昌春は実に惣蔵の甥なのであった。
そうして庄三郎は孤児であった。
庄三郎本年二十歳。十六年前四歳の頃に、父母と別れて了ったのである。と云って父母は死んだのでは無い。行衛《ゆくえ》不明となったのである。
庄三郎の父は庄八郎と云って惣蔵の直ぐの弟であったが、武勇にかけては一族の中でも並ぶものの無い武士であって、有名な海口《うんのぐち》の戦では一番乗をした程である。
天文五年十一月、武田信虎八千を率い信濃海口城を襲ったが城の大将平賀源心善く防いで容易に陥落《お》ちない。十二月となって大雪降り、駈引ほとんど困難となった。さすが猛将の信虎ではあったが、自然の威力には叶うべくも無く見す見す城を後にして一旦軍を帰えすことになったが勿論心中は無念であった。此の時晴信(信玄)十六歳、父に従って軍中に居たが自分の陣中へ帰って来ると腕を組んで考え込んだ。と、其処へ顔を出したのが土屋庄八郎昌猛である。庄八郎此の時十九歳、晴信よりは三つ上であって、お側去らずの寵臣であった。
「殿、何となされましたな?」心配そうに訊いたものである。
「莫迦《ばか》な話だ。退陣だそうな。」晴信は顔を顰めたものだ。
「雪が深うございますからな。」顔を見い見い庄八郎は云う。
「雪が深い? それが何うした! 冬になれば雪も降るよ。降った雪なら積りもしようさ。莫迦な話だ。」と益々不機嫌だ。
「寒さが厳うございますからな。」庄八郎は復た云った。顔を見い見い云うのである。
三
「何を申すか。つまらない事を。」
晴信はギロリと庄八郎を睨む。
「敵とて人間でございます。矢張り寒うございましょうよ。」
此の言葉には意味がある。で、晴信は黙っていた。
「甲州勢退くと見るや、城兵一時に安心し、凍えた身肌を暖めんものと甲《かぶと》を脱ぎ鎧を解き弓矢を捨て刀鎗を鞘にし……」
「わかった!」
と不意に晴信は庄八郎の言葉を遮った。
それから父の前へ出た。
「殿《しんがり》致し度《と》うございます。」斯う晴信は云ったものである。すると信虎はカラカラと笑い、嘲けるように斯う云った。
「この大雪には城兵と雖《いえども》、門をひらいて追っては来まい。追い縋る敵の無いを知って殿《しんがり》を望むは卑怯であろうぞ。」
併し晴信は動じようともせず「殿《しんがり》いたしとうございます」と只繰り返えすばかりであった。
で、許されて陣中へ帰ると、すぐに晴信は庄八郎を呼んだ。ここで密談が行われる。夫れからの事は頼山陽が、作者《わたし》のような悪文で無く非常な名文で書いている。
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以[#二]兵三百[#一]殿。後[#二]大軍[#一]数里。止舎。親警[#二]其兵[#一]曰。勿[#レ]釈[#レ]甲。勿[#レ]卸[#レ]鞍。食[#レ]於[#レ]馬而後食。五更即発。唯吾所[#レ]嚮是視。兵皆窃嗤[#レ]是曰。風雪如[#レ]此。何為警。五更。晴信即発。還向[#二]海口[#一]。与[#二]三百騎[#一]冒[#レ]雪馳。昧爽抵[#レ]城。源心已散[#二]遺其兵[#一]。独与[#二]百人[#一]留守。晴信分[#レ]兵為[#レ]三。自以[#二]一隊[#一]人[#レ]城。二隊揚[#二]幟城外[#一]。応[#レ]之。城兵不[#レ]測[#二]其衆寡[#一]。不[#レ]戦而潰。乃斬[#二]源心[#一]。以[#二]其首[#一]帰献。一軍大驚。云々。
[#ここで字下げ終わり]
是は驚くのが当然である。而して此の計を献じたのも、敵将源心を討取ったのも皆土屋庄八郎であった。
其の後晴信は父を逐い自《みずから》甲斐の大守となったが、晴信をして父を逐わせたのも、庄八郎の献策からであった。
さすが寅歳の産れだけに信虎は豪勇の性格であり、その性格が役立って、甲斐国内の豪族共、即ち都留|郡《ごおり》の小山田氏、東郡《あずまごおり》の栗原氏、河内の穴山、逸見《へみ》の逸見《いつみ》氏、又西|郡《ごおり》の大井氏なぞを権威を以て抑え付け、悉く臣下と為たばかりか、隣国信濃では平賀、諏訪、又小笠原氏、村上氏、木曾氏などとも兵を構えて甲斐武者の威を輝かせたが、永正十七年飯田河原で遠州の大兵を破って以来、すっかり天狗の鼻を高め、暴戻の振舞が多くなり無闇と家来を手討にした。累代の四臣と云われた所の馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊、内藤虎資、四人乍ら手討になり、この他硬骨の士五十人、刀の錆となったのであった。
そこへ起こったのが家督問題で、森厳沈痛の晴信よりも颯爽軽快の次子信繁の方が、信虎の性質に合う所から、それを家督に据えようとした。
驚いたのは老臣共で憤慨したのは晴信である。そうして妙策を献じたのは土屋庄八郎昌猛であった。
「殿、ご心配には及びませぬ。今川をお頼みなさいまし。」
当時今川義元と云えば駿遠参の大管領で匹儔《ひっちゅう》の無い武将であったが、信虎の一女を貰っていたので晴信に執っては姉婿に当たり日頃から二人は仲が宜かった。
「成程、これは好い勘考《かんがえ》だ。」晴信は嬉しそうに頷いたが「大事な智慧を是で二度迄俺はお前に借りて居る。疎《おろそか》には思わぬぞよ。」
庄八郎の手を取って押戴いたということである。信虎は間も無く騙られて、今川家へ幽囚され、甲斐の国は何んの波瀾も無く晴信の物となったのであった。
土屋庄八郎昌猛は是程勝れた人物であったが家庭的には不幸の人で、高坂弾正の娘であり己が妻であるお妙の方を信ずることが出来なかった。お妙の方には恋人があった。娘時代からの恋人で行々《ゆくゆく》は其人の妻となり楽しい家庭を作ろうものと堅く信じていたらしい。其恋人は他ならぬ庄八郎の実の弟の土屋主水|昌季《まさすえ》であった。
主水は兄の庄八郎や又長兄の惣蔵が武勇一図の人間であるのと大いに趣《おもむき》を異にして極わめて文雅の人物であった。容貌も秀麗風姿も典雅、和歌詩文にも長けていて、今日信玄の作として世に知られている和歌の多くは洵《まこと》は主水の作であった。
甲州一の宮浅間神社に詠進したる短冊の和歌「うつし植うる初瀬の花のしらゆふをかけてぞ祈る神のまにまに」も、文字こそ信玄の真蹟であれ歌は主水の作なのである。此の他彼の秀逸としては、
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いはと山緑も深き榊葉《さかきば》をさしてぞ祈る君が代のため
君を祈る賀茂の社のゆふたすきかけて幾代か我も仕へん
うきものを寝覚の床の曙に涙はしあへぬ鳥の声かな
[#ここで字下げ終わり]
四
是等の和歌でも想像されるように、主水は敬虔の心を持った柔和な人物であったので、恋人を兄に横取りされても執拗《しつこ》く怨むような事も無く寧ろ諦めていたのであった。そうして恋人お妙《たえ》の方も、穏しい真面目の女性だったので、既に其の恋が破られてあらぬ[#「あらぬ」に傍点]人の妻になってからは、努めて良人に貞節を尽くし、主水との恋は心の墓場に潔く葬ることにした。併し主水と庄八郎とは血を分けた真実《まこと》の兄弟である。それこそ二人は毎日のように顔を合わせなければならなかった。自然お妙とも顔を合わせる。木石で無い男女だ。血の騒ぐのは当然である。それが庄八郎には不快である。
息苦しい恋の三角関係! それが五年間続いたのであった。そうして庄三郎の四つの時、突然主水の姿が消えた。やや有ってお妙が行衛不明となり続いて庄八郎が身を隠した。爾来今日迄杳として三人の行衛は知れないのである。
孤子《みなしご》となった庄三郎は、同族土屋右衛門が、快く引取って養育したが、父母の無い子は何処か寂しく何処か偏したものであって文にも秀で、武にも勝れ母に似て容姿も美しく天晴れ優美な若武士であったが、所謂る詩人的気稟とでも云おうか、憂鬱であって加之《しかも》快活、真面目であって加之《しかも》滑稽、そうして常時《いつも》瞑想的で現実の事を好まなかった。
庄三郎はよく云った。
「……ね、俺は斯う思うのだ。俺の両親は活きているよ。しかし一緒には住んでいまい。自由に別々に住んでいるだろう。父は父らしい活方《いきかた》でね。母は母らしい活方でさ。そうして主水叔父さんも云う迄も無く活きているのさ。ああ俺には主水叔父さんがどんなに懐しく思われるだろう! 歌人だったというのだからね。併し無論父や母は夫れにも増して恋しいよ。どうぞ一度逢いたいものだ。俺は堅く信じているよ。いずれは屹度《きっと》逢えるものだとね。見るがいい美しいあの雲を! 夕陽に輝いているじゃないか。あの雲の奥にいるのだよ。父と母と叔父とがね。」
×
土屋庄三郎昌春は、翌朝早く眼を醒ますと枕上《まくらがみ》へ眼を遣った。紅巾がちゃんと置いてある。
「うむ、夢では無かったか。」
呟き乍ら起き上がると、紅巾を持って縁へ出た。顔を出したばかりの朝の陽が夢見山の頂から御館の家根を輝かせ、庭の木立の隙を潜り泉水へ落ちる筧《かけい》の水を黄金色に染め上げてカッと縁まで射していたが、そのすがすがしい光の中へ、つと紅巾を差し出すと綴目の糸をブツリと切り、解きほぐしたり裏返えしたり陽に照らして打ち眺めたが、
「はてな。」
と云って首を捻った。
それから更に改めて、打ち返えし打ち返えし眺めたが、
「見えぬ!」
と不思議そうに呟いた。で、じっと考え込む。
その時、サラサラと音を立てて老人《としより》の下僕が主屋《おもや》の方から落花を掃き乍ら近寄って来たが、
「若様、お早うございます。」と掃く手を止めて挨拶した。
「おお甚兵衛か。早起だな。」庄三郎は挨拶を返えし其の儘じっと考え込んだ。
花を踏み踏み幾十羽の小鳥が庭の木立で啼いている。声を涸らした老鶯が白い杏《あんず》の花の間で間延びに経を読んでいる。山国の春の最中《もなか》らしい。
「甚兵衛。」
と不意に庄三郎は呼んだ。「まあ鳥渡《ちょっと》ここへ来い。」
「はい、ご用でございますかな。」
「何んと綺麗な布《きぬ》ではないか。」
云い乍ら紅巾を差し出した。
「や、これはこれは御綺麗御綺麗。眼が覚めるようでござりますなあ。何処でお需《もと》めになりましたな?」
「うん、少しく訳があって、計らず手に入れた紅巾だが、これ甚兵衛よく見てくれ。そこらに文字が書いてないかな?」
「は?」と甚兵衛は訊き返えす。「あの、文字と有仰《おっしゃ》いますと?」
「この布《きぬ》に文字が書いてある筈だ。」
「へへぇ、左様でございますかな。どれ夫れではもう[#「もう」に傍点]一度。」
こう云い乍ら甚兵衛は繰返し布を調べて見たが、文字は愚《おろか》傷さえも無い。
「今年私は六十五。眼も駄目になりましょうよ。何んにも見えませんでございます。」
「ふうん、お前にも見えないかな。」
「はい、そうして若様には?」
「実は俺にも見えないのだ。」
「さてはお嬲りなされましたな。」
「併し昨夜はよく見えた。」
五
「それは本当でございますかな。」
「俺は思わず顫えたものだ。」
「何んと書かれてございましたな。」
「月の光に黒々と、冒頭《はじめ》に『謹製』と書かれてあった。」
「謹製? ははあ、謹製とな?――それから何んとありましたな?」
「『土屋庄八郎昌猛』と、斯う鮮かに書いてあったぞ!」
上衣に裁っても下衣に裁っても十分用に足りるだけの幅も長《たけ》もあったけれど、不思議のことには其の紅巾は蝉の羽根のように薄い所から、掌の中へ握られる程に又小さくもなるのであった。併し何よりも驚く可きは其の美しい色艶で、燃え立つばかりに紅かったが、単に上辺《うわべ》だけの紅さでは無く、底に一抹の黒さを湛えた小気味の悪いような紅さであり、恰度人間の血の色が、日光《ひかり》の加減で碧くも見え又或る時は黄色くも見え又黒くも見えるように、その紅巾も日光の加減で様々《さまざま》の色に見えるのであった。
「うむ、宛然《まるで》玉虫のようだ。」
庄三郎は斯う思い乍ら、その気味の悪い紅巾に次第に愛着を覚えるようになった。
「兎に角一度でも俺の眼に父上の御名の現れた布《きぬ》だ。多少の縁が無いとは云えまい。」
こうも思って紅巾を肌身放さず持つ事にした。
×
軈《やが》て桜が散り山吹が散った。芒の芽が延びて来た。春が倏忽《しゅっこつ》と逝ったのである。五月雨、木下闇、蚊の呻《うなり》、こうして夏が来たのである。
甲斐の盆地の夏景色は、何んともいえず涼々《すが》しく、釜無河原には常夏が咲き夢見山には石楠花《しゃくなげ》が咲き、そうしてお館の木深い庭を蛍が明滅して飛ぶようになった。
或夜、信玄は十数人の家来と、中|曲輪《くるわ》の密房で、一枚の地図を中にして窃《ひそか》に軍議に更けっていた。
第一の寵臣高坂弾正、兵法|知《しり》の山本道鬼、勇武絶倫の馬場、山県、弟信繁、子息義信、伊那の郡代四郎勝頼、土屋惣蔵は云う迄も無く、特別を以て庄三郎も軍議の場所《にわ》に列せられ、尚他に諸角豊後、穴山梅雪、武田逍遥軒、板垣駿河、長坂|釣《ちょう》閑、真田弾正同じく昌幸、円座を作って居流れた様は、堂々として由々しかった。
名に負う永禄元年と云えば、上杉謙信を相手とし、信州更級川中島で三回寄合った合戦の中、二回目を終えた翌年のことで武田家に執っては栄華の絶頂、士気の盛んな時代であった。
「庄三郎。」
と、信玄は、深味のある声で不図《ふと》呼んだ。
「はっ。」と云って手を仕える。
「其方の父を思い出すぞよ。」太い眉を動かしたが「庄八郎は勇士であったぞ。又思料にも富んで居た。思案に余った折々は、俺は何時も思い出すぞよ。」
「有難いお言葉に存じます。」
「其方も父に肖《あやか》らずばなるまい。」
「努めては居りますなれど……」
「不肖の子と云われるなよ。」
「恐れ入ってございます。」
「浮世の事、一切力だ! 力を養わずばなるまいぞ。」
「お言葉有難く存じます。」
「よいよい。」
と云って信玄は、素絹の袖を左右に張ると、トンと軍扇を膝に突いた。
再び軍議に入ったのである。
衆人の前で父の事を斯うあからさまに褒められて、庄三郎は嬉しくもあり又晴がましくも思われたかポッと顔を上気させ、恍惚とした眼使いで地図の面を無心に見た。と、その地図の真中へ、ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリと、上の方から血が滴って来た。驚いて天井を見上げると、檜の板を深紅に染めて生血が四角に染み出している。
「あっ。」と口の中で叫び乍ら再び地図へ眼を遣ると、依然として落ちて来る血の滴《しずく》で、地図は深紅に染まったが、不思議のことに誰一人として夫れに気が付くものが無い。
「む。」と思わず呼吸を呑み、再び天井を見上げた途端、四角に染み出していた板の血がヒラヒラと剥げて落ちて来た。と、宙でクルリと廻わり其の儘空間に浮いたかと思うと静かに左右に揺れ出した。
血で無くて夫れは紅巾であった。
庄三郎は顔色を変え素早く懐中へ手を入れたが有るべき筈の紅巾が無い。
庄三郎は場所柄を忘れ思わずすっく[#「すっく」に傍点]と立ち上がった。一度に座中の視線が向く。はっ[#「はっ」に傍点]と気が付いて坐わろうとすると、恰も庄三郎を誘《いざな》うように空に浮かんだ紅巾が、戸口の方へ舞って行った。
厳重に鎖ざされた戸口の扉が、其の時忽然と内側《なか》から開き、長い廊下が現われた。
その廊下を焔のように又紅の鳥のように飄々と紅巾は舞って行く。
吾を忘れて庄三郎は紅巾の後を追ったのである。
六
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人は城人は石垣人は濠情は味方あだは敵なり
[#ここで字下げ終わり]
是は信玄の歌であるが、どうやら代作ではなさそうである。拙いのが其の証拠だ。
芸術として見る時は目鼻のつかない代物ではあるが、併し信玄の心持はよく此の一首に現わされている。
躑躅ケ崎の信玄の館は文字通り館で城ではなかった。面積東西百五十六間。そうして南北は百六間。一丈ばかりの土手を巡らし一重の湟《ほり》が掘られてある。要害といえば是だけで区内《なか》に三つの曲輪《くるわ》があって、東曲輪、西曲輪、中曲輪と称されていた。
東曲輪の大さは、二十四間に六十間で、三つのうちで最も小さく、中曲輪は信玄の居所、築山泉水毘沙門堂など多少風致を備えていた。西曲輪は姫嬢の住坊《すまい》、人質曲輪とも呼ばれていた。
館を囲繞し稍《やや》南寄りに甲府の条坊《まち》が出来ていた。東西五百三十間南北九百二間というのが即ち条坊の総面積で、諸将の邸宅も此処にあった。城屋町には真田弾正、甘利備前守、山県三郎兵衛、城織部も此処にいた。柳町通りには高坂弾正、穴山梅雪、馬場美濃守、曾根下野守、小山田備中守、諸角豊後守が住んでいた。又増山の通りには内藤修理亮、板垣駿河守、三枝|勘解由《かげゆ》、多田淡路守、典廏《てんきゅう》武田信繁も居た。一条小路には小山田大学、土屋右衛門、蘆田下野守、原加賀守、長坂釣閑、大熊備前守、山本勘助、初鹿《はじが》源五郎、跡部大炊介、今沢石見、小幡尾張守、下条民部、栗原左衛門、保科弾正、一条右衛門。尚館の東北には横田備中守の邸があり又館の北側には武田逍遥軒が控えていた。
曲輪を抜け湟《ほり》を跳び越え、若い一人の侍が、森然《しん》と更けた町々を流星のように駈け抜けた時、折悪く道で邂逅《いきあ》った人は何んなに驚いたか知れなかったであろう。
その侍こそ庄三郎で、飛行する紅巾に誘われ、何処とも知れず走るのであった。
闇の夜にもかかわらず、庄三郎の鼻先から一間余の空間を恰度燃えている焔のように、瓢々と紅巾は飛んで行った。捕らえよう捕らえようと手を延ばして幾度|握《つか》んだか知れなかったが其の都度紅巾は手から遁がれて先へ先へと飛ぶのであった。
併し夫れでも漸くのことで彼は紅巾を引っ掴んだ。
「さあ捕らまえたぞ!」と嬉しそうに、狂人のように笑った途端、グラグラと眼が廻わった。そのまま庄三郎は気を失い、闇の中に倒れたのである。
「もし、お若いお侍様!」
斯ういう呼声が聞えたので庄三郎は眼を開けた。
陽がカンカンと当たっている。青々とした高原が眼路《めじ》の限りひらけている。そうして全身をあらわした藍色をした富士山が、庄三郎の眼前に聳えていた。
「あっ。」と驚いて起き上がった時、
「どうなさいましたお侍様。」と、優しく尋ねる声がした。見ると老人が立っている。
「老人。」と庄三郎は先《ま》ず云った。「此処は一体何んという所だ?」
「富士の裾野でございます。」老人の答えは平凡である。杣夫《そま》と見えて木を背負っている。
「富士の裾野は解っている。其の他には名はないかな?」
「三道の辻と申します。」
「三道の辻? 妙な地名だな。」
「ここに辻がございます。路が三本分れて居ります。」
「いかにも三本路がある。」
「東へ行けば富士のお山、西へ辿れば本栖の湖《みずうみ》、北へ帰れば人界でございます。」
「いや人界とは面白い。それでは他は魔界かな。」
庄三郎は笑い乍ら云った。
「はい、魔界でございますとも。」
老人の言葉は真面目である。
庄三郎が驚いて思わず其の眼を見張った刹那、人馬の音が聞えて来た。次第に此方《こっち》へ近付いて来る。
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第二回
一
パッパッパッパッ……蹄の音。
チャンチャンチャンチャンと金具を響かせ二三十騎の騎馬武者が何うやら此方《こっち》へ来るらしい。俄に老人は周章《あわ》て出した。
「さあ大変だ。隠れなければならない。此方へ此方へ。」
と云い乍ら庄三郎の袖を引き山査子《さんざし》の茂へ引っ張り込んだ。庄三郎は肝を潰し、
「これ何をする。どうするのだ。」
「叱《しっ》。」
と老人は眼で叱り「経帷子がお通りになる。そうだ血染めの経帷子がな。声を立てて見付けられたら私も其方《そなた》も命が無い。黙って黙って。」
と囁くのである。
チャンチャンチャンチャンと互に触れ合う甲冑物具|鐙《あぶみ》の音が其の間も次第に近寄って来た。
遠寄《とおよせ》か夫れとも武者押か? 何者が何処へ行くのであろう?――不審に思い乍ら庄三郎は老人の側へ蹲居《うずくま》り、山査子の藪の隙間からじっと向うをすかして見た。眼路《めじ》の限りは広々とした夏の最中の裾野原で、覗いている庄三郎の鼻先から丸くなだらかに延びている。
野の涯に雲が浮かんでいる。真昼の日光に裏漉されたのか絹のように輝いて見える。野面は寂しく人気無く、落葉松、山榛《やまはんのき》の混合林が諸所に飛び飛びに立っているのが老人の歯が抜けたようだ。毒卯木《どくうつぎ》の花が生白く咲き山葡萄の蔓が縦横に延び、雪崩の跡が断層を作し赤茶けた地肌を現わしているのが、荒涼たる光景を二倍にする。
老人は側で顫えていた。そうして右手を指差した。其方――から騎馬武士は来るらしい。砂煙が濛々と上っている。と、砂煙は竜巻のように虚空に渦を巻き乍らドンドン此方へやって来たが、近付くままによく見れば砂煙ばかりが壁のように一町余も立ち続いているが人の姿は何処にも見えない。
「はてな?」と思う暇も無く蹄の音は駈け抜けようとしたが、途端に砂煙の壁をもれてニュッと馬の顔が現われた。それから馬の尻尾があらわれ鎧の片袖が洩れて見えたが忽然はっきり[#「はっきり」に傍点]一人の武士が砂煙を抜いて半身を見せた。甲を冠り鎧を着、薙刀を小脇に掻込でいる其の風彩には不思議は無いが、鎧の上に羽織っている血紅色の経帷子が日光《ひかり》を受けて燦然と輝き四辺《あたり》に恰《あたか》も虹のような陸離たる光彩を描き出したのは――庄三郎に執っては驚異であった。
それもほんの一瞬間で、武士の姿は砂煙に包まれ、そのまま彼方へ駈け抜けたらしい。砂煙の壁も軈《やが》て消えた。間も無く蹄の音も絶えた。後は森然《しん》と静かである。老鶯が不意に啼き出した。
ホチョカケタカ! ホトトトトと、杜鵑《ほととぎす》も藪地で唄い出した長閑《のどか》な世界となったのである。
富士は玲瓏と澄み返えり彼等の左方に聳えていた。肌は咲き初《そ》めた紫陽花のように、濃い紺青や赤紫や又は瑠璃色や又は樺や、地味地層の異うに連れて所斑らに色も変わり諸所に峨々たる巌も聳え曲がり蜒《くね》った山骨さえ露骨《あらわ》に、遠く離れて望んだと違い醜い所も窺われたが、尚|類無《たぐいな》く美しかった。すんなりとした円錐形が空と境を限った為めクッキリと浮き出た山際の線が張り切れそうな弾力を持って丸々と高く延し上がった態《さま》は、肉附のよい若い娘の臀部の弧形を連想させ、正しく富士は男性ではなくて女性であることを首肯《うなず》かせる。
「白雲もいゆきはばかり」と詠われた峰のあたりに一所白く寒々として眼に見えるのは谿に残った万年雪でもあろう。少し下がった左の肩に昼の月が浮かんでいる。
併し、老人も庄三郎も富士に心を曳かれようとはせず、今は聞えない蹄の音が遠く消え去った其の方角へ眼と耳とを働かせていた。
長い間二人は黙っていた。
と、庄三郎が呟いた。「血紅色の経帷子!」
それから袂へ手を入れて例の紅巾を取り出した。
「同じ色だ! ちっとも違わない!」
「人狩りに行かれたのだ! 人狩りにな!」
呻くような声で老人は云った。
「彼奴等一体何者かな?」
庄三郎は声を掛けた。
「水城《みずき》の人達でございますよ。」
「なに水城? 何処にあるのか?」
「本栖湖の中にございますそうで。」
「成程、そうして人狩りとは?」
「人狩りは人狩りでございますよ……。ああ恐ろしい恐ろしい! うかうか左様《そんな》事云おうものなら夫れこそ此方《こっち》の命があぶない。さあお暇《いとま》だ。ごめんなさいよ。……早く貴郎《あなた》もお逃げなさるがよい。」
老いたる樵夫《きこり》は斯う云い捨てると背負った薪を揺り上げ麓の方へ走り下った。
その様子が周章《あわ》ただしく如何にも恐怖に充ちていたので庄三郎も気味悪くなった。
「兎も角甲府へ帰ることにしよう。」
――で、庄三郎は歩き出した。
二
庄三郎は足を早め裾野をさして下って行った。
上るに苦しく下るには安い。これは山登の常法ではあるが富士は一層其の感が深く、殊に戦国のこの時代には道らしい道などは無かったので、登山の困難は想像にも及ばず僅に不退転の心を抱いて深山幽谷を跋渉する、役《えん》ノ優婆塞《うばそく》の亜流ぐらいが時々参詣するぐらいであったが、それが、一旦下りとなり砂走《すばしり》の中へでも踏み入ろうものなら一刻の間に流砂と共に裾野まで一のし[#「のし」に傍点]にのし[#「のし」に傍点]たものである。――これ須走の語源である。尤《もっとも》夫れは東口駿河の国に向いた方の或る一所に限られたことで、庄三郎が下りつつある北口吉田方面には、そういう所は無いのであった。で、裾野へ下りようとするには一歩ずつ歩かなければならなかった。
庄三郎は足を早め裾野をさして下って行く。
彼の歩いている其の辺は何《ど》うやら富士も五合目らしく、その証拠には木という木が殆ど地面へ獅噛《しがみ》付いている。そうして其の木の種類といえば石楠花、苔桃の類である。山の傾斜《かしぎ》も可成り急で歩くに油断が出来なかった。……ひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]雷鳥が子を連れて灌木から顔を出したりした。
庄三郎は走るように下る。
と眼の下に森林が恰も行手を遮るように長く一筋延びていたが、即ち其処から四合目の森林帯が始まるのであった。
四方カラリと吹き払われ空の蒼さや雲の徂徠《ゆきき》まで自由に見られた。灌木帯と違い、森林《はやし》の中は暗かった。|※[#「木+解」、第三水準1-86-22]《かし》、落葉松、檜などの、斧の味を知らぬ大木が幾万本となく繁り合い光を遮っているからである。
庄三郎の汗に濡れた肌も森林の中へ這入《はい》ると共に一時に清々《すがすが》しく乾いて来た。彼は随分|疲労《つか》れていたので、
「どれ一|休息《やすみ》」と呟き乍ら腐木の株へ腰をかけた。それから四辺を見廻した。青々と茂っている羊歯の間から矢車草の白い花が潮に浮かんだ泡沫《あわ》のように其処にも此処にも見えているのも高原雀が幾百羽となく木間を縫って翔けているのも、鼻を刺す高い木の香も、一所劃然と林が途切れ其処に湛られた池の水が蒼空が落ちて融けたかのように物凄いまでに碧いのも、そうして是と云って姿は見えず又声も聞えない乍ら窃《ひそか》に逼って来る一種の鬼気! こう云ったものが庄三郎には珍らしくも尊くも思われた。
休息《やす》みたいだけ休んだので庄三郎は元気付いた。でドンドン走り下った。
甲府の城下へ着いたのは其の翌日の夕方であったが躑躅《つつじ》ケ崎のお館の白い石垣を眺めた時には流石にホッと安心した。
自家《いえ》と云っても同族の土屋右衛門の邸であったが、そこへ帰って来た庄三郎は、人達から驚異の眼で見られた。
一夜のうちに富士のお山の五合目あたりまで行くということは、此の時代としては有り得べからざることで、驚く方が当然であった。
「恐らく神隠しに会ったのであろう。」「いや天狗に攫《さら》われたのであろう。」――などと人達は云い合ったが、是又云う方が理《もつとも》であった。
弁解《いいわけ》すれば弁解する程益々疑いを増すばかりだと、こう思い付いた庄三郎は、何んと誰から訊かれても、自分の奇異な経験に就いて物語ろうとしなかった。
しばらく館への出仕も止め家にばかり籠もっていた。そうして時々例の紅巾を、窃《こっそ》り取り出して眺めては僅に心を慰めていた。
土用の明けた翌日から常時《いつも》武田家では曝涼《むしぼし》をした。
今年は七月の八日というのが丁度その日に当っていた。
新羅三郎義光以来連綿と続いて来た武田家である。その間|凡《およそ》五百年。珍器も集まろうというものだ。
中曲輪三分の一が曝涼の場所《にわ》にあてられた。
楯無の鎧。日の丸の旗。諏訪神号の旗。孫子の旗。渡唐天神像。不動像(信玄自身を刻んだもの)。朱地に黒く武田菱を三つ染め出した本陣の旗。先祖代々の古文と古書。二尺六寸国長の刀。二尺五寸景光の刀。五寸五分倫光の短刀。三日月正宗。郷義弘。国次の刀。左文字の刀。信虎使用虎の朱印。……信玄軍陣の守本尊刀八毘沙門と勝軍地蔵も宝物の中に加えられていた。手沢の茶椀同じく茶釜。武田家系図。諸祈願文。紺地金泥の法華経と笈《おい》。源義家神馬の|※[#「金+(鹿/れんが)」、第三水準1-93-42]《くつわ》。新田義貞奉納鎧。諏訪法性の冑などは取り分け大切の宝物であった。
十日に渡った曝涼も十八日に芽出度く終え家中一同館の中で信玄から酒肴を賜わった。
三
「遠慮は禁物だ。十分に飲め、そうして大いに酔うがいい。」
こう云い乍ら信玄は自分も朱塗の大盃で葡萄の酒をあおるのである。
此処は館の広間であった。銀燭が華やかに瞬いている。一段高い床間には楯無の鎧が飾ってある。――月数。日数。源太が産衣。八竜。沢潟。薄金。膝丸。そこへ楯無を一領加えて源氏八領と総称し、武門に連なる輩《ともがら》は恰も夫れが神威を持った犯すべからざる宝器かのように、尊ぶことに慣らされていたが、新羅殿以来楯無だけは甲斐の武田が領して来た。
「快川長老どうなされた。一向酒を参らぬの。……給仕の者お注ぎ致せ。」
信玄の言葉に「はっ」と返辞《いら》えて膝を進めたのは庄三郎であった。珍らしく今日は出仕して、真田源五郎、三枝宗二、曾根孫二郎というような日頃仲の宜い同僚と共に座中の斡旋をしていたのである。
「さあさあ山盛に注いでおくれ。散ります散ります。おっと結構。」
いつも気剖《きさく》な快川長老はこんな冗談を云い乍ら注がれた盃をグッと干したが、
「ところで土屋庄三郎殿、面白いことが有ったそうだの。一夜で富士の五合目まで行かれたという噂だが。……」
「はい。参りましてございます。」
「富士は扶桑第一の霊山。併し険しさも日本一だよ。よく登山出来ましたな。神のお誘導《みちび》きがあったからであろう。」
「神のお誘導《みちび》きでございましょうか? 悪魔の誘惑《まどわし》ではございますまいか?」庄三郎は憂鬱に「私をお山へ誘導きましたのは、神でも仏でもございませぬ。紅巾なのでございます。」
「その噂なら聞いて居る。」長老は優しく微笑したが「その紅巾お持ちかな?」
「肌身放さず持って居ります。」
「鳥渡《ちょっと》見せては下さるまいか。」
「いと易いことでございます。」
庄三郎は懐中からスルリと紅巾を引き出した。
乾徳山恵林寺の住職、大通智勝国師快川は、信玄帰依の名僧であって、信玄は就いて禅法を学び又就いて兵法を修めた。彼の有名な孫子の旗へ、|疾如[#レ]風《はやきことかぜのごとく》、|徐如[#レ]林《しづかなることはやしのごとく》、|侵掠如[#レ]火《をかすことひのごとく》、|不[#レ]動如[#レ]山《うごかざることやまごとし》と、大文字を揮毫《ふる》ったのも、信玄の為めに、機山という面白い法号を選んだのも、皆快川長老であった。後年織田の軍勢が甲府城下へ征め込んだ時、|安禅不[#三]必須[#二]山水[#一]《あんぜんかならずしもさんすゐをもちひず》、|滅[#二]却心頭《しんとうをめっきゃすすれば》[#一]|火自涼《ひもおのづからすずし》と、徐ろに偈を唱えながら楼門の上に佇んで焚死して節義を全うし英雄の名を擅《ほしいまま》にした。
所謂、戦国式臨済僧であった。
紅巾を受取り膝の上へ載せじっと[#「じっと」に傍点]見ていた長老は俄に其の眼を顰ませた。首を捻って考え込む。
紅巾が座中に現われた時から、宴に待っていた人々の眼は、期せずして夫れに集まったが、今長老が首を捻ったので彼等も一斉に首を捻った。楯無の鎧を背後《うしろ》にして動かざること山の如く端然と坐わっていた信玄も少からず好奇心を湧かせたと見えて、長老の様子を眺めている。
不意に長老は顔を上げ、
「殿。」
と信玄を呼びかけた。
「殿には学問を好ませられ、多くの書物もご覧のことゆえ、宇治拾遺物語などは疾《とく》に承知でございましょうな?」
「左様……。」
と信玄は審《いぶか》しそうに、
「それが何んとか致したかな?」
「宇治拾遺物語の百六十七節に『慈覚大師纐纈城に入り給ふ事』こういう項目がございます。」
「纐纈城の物語? おお、あれなら覚えて居るよ。」
「恐ろしい物語でございましたな?」
「さよう無残な物語であったな。」
「山間に鉄《くろがね》の城がある。無数の人間が捕えられている。彼等は天井へ釣るされて締木で生血を絞られる。その血で布が染められる。……その城の名は纐纈城《こうけつじょう》。その布の名は纐纈《こうけつ》である。殿! こうでございましたな? ところで此処にある此の紅巾、これこそ纐纈にござります!」
快川長老は斯う云い乍ら、膝の上の紅巾を手に取り上げた、そうして高く頭上へ捧げた。
と、部屋内の灯《ともしび》が、一時に光を失ったかのように、四辺朦朧と小暗くなり、捧げられた深紅の纐纈《こうけつ》ばかりが虹のように燦然と輝いた。
ここで物語は一変する。富士の裾野へ移らなければならない。
四
古来富士山の美に就いては多くの墨客騒人が競って絵に描き詩歌に作ったが、併し誰一人その富士山の物騒な方面を説いたものはない。
戦国時代の富士ときては可成り物騒なものであった。至る所に猛獣毒蛇魑魅魍魎が横行跋扈し、野武士邪教徒剽盗の類が巣を構えて住んでいた。
そうして此の頃の富士山は全然休火山とも云えなかった。時々焔を吹き出した。四時煙を上げていた。
天応元年七月六日。富士山下[#二]雨灰[#一]、灰之所[#レ]及、木葉凋落。
延暦十九年六月六日。富士山巓自焼。
延暦二十一年正月八日。昼夜炬燎、砂礫如[#二]霰者[#一]。
貞観六年五月二十五日。大火山其勢甚熾。
正平七年十一月。神火埋[#二]水海[#一]。
長保元年三月七日。富士山焚。
長元五年十二月十六日。富士山焚。
永保三年二月二十八日。富士山焼燃焉。
永正八年。富士山鎌岩焚。
宝永四年十一月二十三日。富士山東偏炎上、砂灰を吹出し、関東諸国の田園皆埋没す。
以上記した十個の記録が、歴史あって以来富士に関する最も有名の爆発であるが、尚西教史に由る時は、慶長十二年富士焚とあり、又甲信譜に由る時は、享禄以降元亀天正迄富士不断に煙を揚ぐと、斯うはっきり[#「はっきり」に傍点]記されてある。享禄以降天正迄と云えば所謂る戦国の真最中で武田信玄の全盛期である。
富士の裾野、鍵手ケ原のこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森の中に一宇の屋敷が立っていた。
昔はさこそ[#「さこそ」に傍点]と思われる書院造の屋台ではあるが、風雨年月に蝕《むしばま》れ見る影も無く荒れている。
越後国、春日山の城主、上杉謙信の旧家臣、直江|蔵人《くらんど》の隠遁所《かくれが》である。
今、廃園に佇みながら若い男女が話している。蔵人の娘松虫と、松虫に執《と》って従兄にあたる直江主水氏康とである。
「……どんなにお待ちしたでしょう。ようこそおいで下さいました。……けれど直ぐにお厭になってお帰りになるのではありますまいか。そうなりましたら又|妾《わたし》は寂しい身の上になることでしょう。どうぞどうぞ何時迄もご逗留なされて下さいまし。でも此処には面白いものなどは何んにもないのでございます。森と林と山と荒野、ただ夫《そ》れだけでございます。……あのお頭《つむり》が悪いそうで、大変お悪いのでございますか? あのお痛みになりますので? チクチク針で刺されるように? そういうご病人には此裾野は却ってよろしいかも知れませぬ。いつ迄もお居で下さいますよう……まあ妾は貴郎《あなた》様のことを何《ど》んなに昔から思っていたでしょう。そうして妾は貴郎様のことを――どうぞお笑い下さいますな。……もっともっと怖らしいお方に考えていたのでございます。……そう考えるのは無理でしょうか? ちっとも無理ではございませんわ。是迄|貴郎《あなた》様は只の一度も寂しく暮らしている妾達をお訪ね下さらないではございませぬか。ですもの妾《わたし》は貴郎様のことを人情の無い怖らしい、意地の悪いお方に相違ないと思っていたのでございます。――でも斯うしてお目にかかり、しみじみお話しいたしました今は、妾の考えて居りましたことが間違いであったということを鮮明《はっきり》知る事が出来ました。妾は幸福でございますわ。」松虫の声は美しくはあったが、併し物寂しく憐れ気で、この荒涼たる裾野の景色と相応《ふさわ》しいように思われた。
「……伯父様は何処に居られます? お姿が見えないではございませぬか。お目にかかってご挨拶を申し上げたいと存じます。」主水は静かに斯う云った。まだ旅装さえ脱いでいない。
「はい父でございますか。父は先程家を出て林の方へ参りましたが、おっつけ帰ってまいりましょう。しばらくお待ち下さいますよう。……どうぞお上り下さいまし。穢い廃屋《あばらや》ではございますが、庭よりはまし[#「まし」に傍点]でございます。」併し主水は斯う進められても座敷へ上がろうとはしなかった。たとえ相手が従妹でも、娘一人の留守の所へは上がりにくく思ったからであろう。
「それでは父の居ります方へ、妾《わたくし》ご案内致しましょうか?」
「どうぞお願い申します。」「斯うおいでなさりませ。」
松虫は主水の先に立って雑木林へ分け入った。
恰度砂金でも振り蒔いたような夕陽の光が木々の隙から斜に林へ射し込んでいたが、歩いて行く二人の肩や背へ虎斑のような影を付けた。頭の上の木の枝では栗鼠が啼き乍ら遊んでいる。と、行手の草叢から真白いものが飛び出した。他ならぬ野性の兎である。其の時忽然遥か行手から読経の声が聞えて来た。数十人の男女の者が声を合わせて誦しているらしい。
「おお。」と思わず主水は云った。そうして其の儘《まま》立ち止まった。
富士の裾野の林の奥から読経の合唱が聞えるのである! これは驚くのが当然であろう。
併し其の声は軈《やが》て止んだ。後はしん[#「しん」に傍点]と静かである。
「恐れることはございませぬ。不幸な人達なのでございます。……妾の父は其の人達の唯一の友なのでございます。……さあ参ろうではございませぬか。」
五
で、二人は歩き出した。間も無く林の底へ来た。四方は灌木や茨の壁で隙間もなく囲まれている。
「……向うへ行くことは出来ませぬ。此処が境でございます。……間も無く父も参りましょう。ここでお待ち下さいまし。」
云い乍ら松虫は草を敷いて其の儘《まま》其処へ坐り込んだ。主水も側へ坐った。永い夏の日も暮れたと見えて夕陽が名残なく消えて了った。林は闇に包まれた。二人はじっと坐わっている。
其の時眼前の藪地から灯火《ともしび》の光が射して来た。だんだん此方へ近寄って来る。と、一人の老人が藪を分けて現われた。白髪、白衣、跣足、赧顔。……両手で灯火を捧げ乍ら、二人の男女の前を通り反対の側の藪地の中へしずしずとして入って行った。ほんの僅の間を措いて一列に並んだ男女の群が、老人の後を追うようにして老人の隠れた藪地の方へこれも徐々《そろそろ》と歩いて行く。彼等の顔は白布で隙間もなく包まれているのみならず、彼等の手も足も同じように白布で包まれている。
彼等の列は足音も立てず軈《やが》て藪地へ消えて了った。
間も無く彼等の立ち去った方から読経の合唱《こえ》が聞えて来た。
夜は沈々と更けまさり林の中はざわめい[#「ざわめい」に傍点]た。
夜風が梢を渡ったのである。
「何んという不思議な所だろう? 彼等は一体何者だろう?」
思わず主水は呟いた。
「可哀そうな病人でございます。癩病、脱疽、労咳、膈《かく》、到底癒る見込の無い病人達でございます。」これが松虫の返辞であった。
「それにしてもこのような林の中で、加之《しかも》このような闇の夜に何をしているのでございましょう?」
主水は不思議そうに訊くのであった。
「富士のお山のご神体|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》にお縋りして、その灼然《あらたか》のお力で少しでも躰のよくなりますようにと、お百度を踏んで居りますので。……そうして両手に灯火《あかり》を捧げ、先頭に立って歩いて居りました白衣白髪の老人が神の使徒《つかい》でございます。そうして夫《そ》れこそ妾《わたし》の父直江蔵人でございます。」
×
ここに俗に陶器師《すえものし》と呼ばれた奇妙な賊が住んでいた。今日の所謂《いわゆ》る胎内潜――その辺に巣食っていたのであって、名詮《みょうせん》自称表向は陶器を焼いていた。年は三十七八歳、蒼白い顔色、調った目鼻。一見素晴らしい美男子であったが、残忍の点に至っては比べるものが無かったそうである。
今日も陶器師は竈の前の筵の上に坐っていた。久しぶりでお山も晴れ、熱い夏の陽が広い裾野を黄金の色に輝かせている。
陶器師《すえものし》は大きな欠伸《あくび》をした。それから鼻唄をうたい出した。鼻唄と云っても漢詩《からうた》である。
春去夏来新樹辺、緑陰深処此留連、尋常性癖耽[#二]閑談[#一]、不[#レ]愛[#二]黄鶯[#一]聞[#二]杜鵑[#一]
其の時一人の旅人が――武者修行風の若い武士が、麓の方から遣って来た。「竈師許せ。」と行きずり[#「行きずり」に傍点]の礼、鳥渡《ちょっと》挨拶をして通り過ぎようとした。
と、ヌッと鎌首を上げ、陶器師は呼び止めた。
「肋《あばら》、一本、置いてきなせえ!」
「何?」と武士は振り返える。ポンと陶器師は竈の蓋を物も云わずに持ち上げた。途端ににょきり[#「にょきり」に傍点]現われたのは、素焼の陶器であらばこそ蒸し焼きにした人間である。
「肋、一本、置いてきなせえ!」
陶器師《すえものし》は復《また》云った。金を置けという謎である。
「ははあ扨《さて》は貴様だな。」若い武士は驚きもせず、パッと編笠をかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てると、つかつかと竈の方へ近寄った。
「富士の裾野に陶器師と云う賊の居ることは聞いていた。ははあ扨は貴様だな。」
「おおさ俺が陶器師さ。ところでお前さんは何者だね?」
「ご覧の通りの旅侍さ。」「ちっとばかり骨がありそうだね。」
「アッハッハッハッ、そう見えるかな。」
「容易に金は置いてはゆくまい。」「お手の筋だ。さて夫から?」
「手数をかけた其の揚句、竈の中で往生かね。」
「お前がか? それとも此の俺がか?」
「こりゃ面白え、いい度胸だ。……ひとつ宣《なのり》が聞きてえものだ。」
「いと易いことだ。宣《なの》ってやろう。武田の家臣土屋庄三郎だ。」
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第三回
一
「武田の家臣で土屋庄三郎? 成程。」
と云ったが陶器師は別に驚いた様子も無い。
「では俺も改めて宣《なのろ》うか。三合目陶器師とは俺のことだ。肋を一本置いてきねえ。」
――また肋を持って来る。是は勿論符牒である。
「うん、お前が陶器師か。名だけは以前《まえ》から聞いて居るよ。」
庄三郎も驚かない。「肋は愚か指一本爪一片も遣ることはならぬ。」
で、クルリと方向《むき》を変え、裾野を突っ切って歩き出した。待て! と呼ぶかと思った処|何《ど》うしたものか呼びかけもしない。不意に笑声が聞えて来た。「ハハ」でも無ければ「ヒヒ」でも無い。その中間の笑声である。
「南無三、笑った。あの笑いだな。」庄三郎は膝を敷きピタリと大地へ跪座《ひざまず》いた。途端にピューッと何物か頭の上を飛び越したが、遥か前方の立木へ当たりパッと火花を迸しらせた。真赤に焼けた鉄槌である。
「武田の家臣で土屋庄三郎? 待てよ。」
と云うと陶器師は俄《にわか》に何か考え込んだ。
庄三郎は油断をしない。刀の柄へ手を掛け乍ら相手の様子を窺った。――極悪非道の追剥として又素晴らしい手|利《きき》として陶器師の名は聞いていた。昔は由縁ある武士であった。が、ある不可解の動機のために俄然性質が一変し、賊になったのだということや、土子《つちこ》土呂之介《とろのすけ》に剣を学び、天真正伝神道流では万夫不当だということや、利休好みの茶の十徳に同じ色の宗匠頭巾、白の革足袋に福草履、こういう穏しい風彩《みなり》をして、富士の裾野の三合目辺で陶器を焼き乍ら稼ぎをする……などということも聞いていた。わけても恐ろしいは其の笑いで、中間性の陰々たる笑いが一度彼の口から出るや、相手の者は男女を問わず屹度《きっと》やられる[#「やられる」に傍点]ということなども、庄三郎は聞いていた。
或る日のこと、信玄公が「噂に依れば北条内記、三合目陶器師と名を偽り裾野に住むということであるが、洵《まこと》に人物経済上惜みても余りある事ではある。とは云え彼奴は血吸鬼、剣に淫する一種の狂人《きちがい》、扶持することは出来難い。」と嘆息したのを聞いたこともある。
「評判に違わぬ無双の手練《てだれ》、今投げた鉄槌の凄じさは何んと云ったら宜かろうか。……彼奴の笑いの恐ろしさを噂に聞いていたればこそ、危く避けは避けたものの、そうでなかったら此の胴体二つに千切れたことであろう。」
怖毛《おぞけ》を揮う心持! 庄三郎は相手の様子を油断無くとっくり[#「とっくり」に傍点]と窺った。
陶器師は眼をつむり寂然として控えている。零れ陽が一筋黄金色に肩の上に斑点を印し、白い蝶が先刻から其処へ止まって動こうともせず、時々顫わせる薄い羽根から白い粉が仄かに四方へ散る。パチパチと時々音のするのは、竈で刎ねる薪であろう。真珠色をした太い煙が其の口から立ち上る。緑の隧道《トンネル》の遥か彼方に大|斜面《スロープ》が延びていたが即ち富士の山骨であって、大森林、大谿谷、谷川、飛瀑を孕み乍ら空へ空へと延している。その中腹に雲が懸かり、雲を貫いて、八の峰が瑠璃色をなして聳えている。
静かに陶器師は眼を開けた。
「卒爾ながらお尋ね致す。」言葉の様子が違って来た。「武田家の家人で土屋姓、土屋惣蔵昌恒殿の若しやお身内ではござらぬかな?」
「いかにも。」と庄三郎は頷いた。「その惣蔵には甥でござる。」
「ははあ。」と陶器師は夫《そ》れを聞くと一層言葉を改めたが「然らばご貴殿のお父上というは庄八郎殿ではござらぬかな?」
「左様。」と云ったが庄三郎|鳥渡《ちょっと》言葉を云い渋った。
「此奴何を云い出すことか。油断はならぬ。」と思ったからである。
「おお左様でござったか。」陶器師は軽く一揖したが「そうとは存ぜず飛んだ失礼、平に御用捨下されい。実はな、拙者、庄八郎殿には数々ご恩を蒙ったものでござる。ご子息と聞いてお懐しい。失礼ながらご姓名は?」
「土屋庄三郎昌春と申す。」
「まずまず此処へお坐わりなされ。」
斯う云うと敷いていた藺の円座を自分で払って押しやった。
断るも卑怯と思ったので庄三郎は座についた。二人暫く無言である。
附近《あたり》で虫が鳴いている。パチパチパチパチパチパチと、岩燕が群をなして颯と頭上を翔け過ぎた。それさえ所柄物寂しい。
また陶器師は眼を閉じた。じっと思案に更けっている。
庄三郎は其の様子を真正面《まとも》から見遣ったが、
「はてな。」と思わざるを得なかった。悪逆無慈悲の殺人鬼、其の陶器師の面上に何んとも云えない寂しいもの[#「もの」に傍点]――愛する主人を失った喪家の犬のような寂しいものが一抹漂っているからであった。良心の苦痛に耐えられず魂の帰趨を無くした人が、往々現わす悲惨な悩《なやみ》、その悩から絞り出された世にも陰惨たる寂寥の影……もっと平易に説明すれば悪人懺悔の心持が顔に現われているからであった。
二
庄三郎の心持は夫れを見ると和んで来た。親《したしみ》をさえ感じて来た。「悪人と云っても鬼畜ではない。良心を消磨し尽くすことは容易のことでは出来ないと見える。……それに善と云い悪と云っても要するに絶対のものでは無い。所詮は心の波動に過ぎない。人を殺し物を取る。この行為は世を毒する。即ち一つの悪行ではあるが、悪行の次に来るものは神のように尊い懺悔心だ。善悪不二。洵《まこと》に左様だ。」
此の時、陶器師は眼をあけた。
「この物騒な富士の裾野を、お見受けすれば一人旅、どちらへおいでなされるな?」
「さよう、本栖の湖へ……」
「なに本栖の湖へ? ふうむ、そうして何んのご用で?」
「人を尋ねて参るのでござる。」
「人を尋ねて? 成程な。……何人をお尋ねなされるな?」
「父母と叔父を。」と庄三郎は隠そうともせず打ち開けた。
「それはご無用になさるがよい。」
「それは又何故でござるかな?」
「本栖の湖は魔界でござる。」
「それは疾《とく》より承知でござる。」
「恐ろしい水城《みずき》がござるのじゃ。」
「その水城へ参るのでござるよ。」と庄三郎は平然と云った。
「水城へ参る? 殺されにかな?」
「いやいや父と逢う為に。」
「左様なお方は居りませぬ。」
「居るか居らぬか確めに兎も角も参る考えでござる。」
「仮面の城主が居るばかりじゃ。」陶器師は云い切ったが、
「武道の嗜《たしなみ》ござるかな?」
「さよう、些《いささ》か。」
と云った途端、陶器師は立ち上がった、立った時には最《も》う其の手に皓々たる白刃が握られていた。忽然起こる不思議な笑い! はっ[#「はっ」に傍点]と飛び退《しさ》った庄三郎。抜き合わせる間もなかったが、パッチリ柄頭で受け止めた。バラバラと乱れる茶の柄紐。かなぐり捨てもせず抜き合わせた。青眼に付けてじっと[#「じっと」に傍点]なる。
陶器師は大上段。フフフフフフ、と陰性の中音、絶えず笑いを響かせ乍ら、分を盗み寸を奪い、ジリジリと爪先で寄って来る。
飯篠長威斎直家の直門諸岡一羽の直門弟土子土呂之介に学んだ剣。殺気鬱々たる鋒子先《きっさき》、プンと血生臭く匂いそうだ。
併し土屋庄三郎も、塚原卜伝唯一の門弟松岡兵庫之助に学んだ腕前。ジリジリと後へ引き乍らも突いて出ようと隙を狙う。
と、陶器師の眉の辺、ピリピリと痙攣したかと思うと、ゆらり[#「ゆらり」に傍点]体形斜に流れサ――ッと大きく片手の袈裟掛! 逃げも反しも出来なかったか、庄三郎は突いて出た。
僅に位置が変わったばかり、突かれもせず切られもせず、二人はピッタリ構えている。
病葉《わくらば》がサラサラと降って来た。二本の剣の間を潜り、重り合って地へ散り敷く。
「待たれい!」
と陶器師は声を掛けた。構えたままで、後へ退がり、竈の前まで、ツツ――と行く。そこで初めて刀を下げ、パチンと鞘に納めたが、以前の場所へ端座した。その時大きな音を立てて真赤に燃えた太い薪が竈の口から飛び出した。
「あぶないあぶない。」
と呟き乍ら陶器師は火箸を取り上げた。「恐ろしいものは剣ばかりではない。こういう不意打こそ恐るべし。」
薪を摘んで竈へくべ[#「くべ」に傍点]夫れから初めて振り返った。
「天晴の腕前。先は安心。……」軽く意味深く微笑したが、
「拙者と太刀を合わせたもの貴殿以外には一人もござらぬ。大概一太刀でやっつけ[#「やっつけ」に傍点]申した。……まず兎も角此処へおいでなされ。」
庄三郎は此の時まで構えの姿勢を崩さなかったが、相手に殺意が無いと見てとり静かに刀を鞘へ納めた。それから両腕を、トントン打った。凝りが全身に行き渡っている。
云われるままに元の円座へ庄三郎は座を組んだが、やや暫くは物を云わない。
「それ程のお腕前ある以上は何処へ参られても大丈夫でござる。本栖の湖へ参る途中も幾多の艱難にお逢いなさるであろう。しかし夫れとて大丈夫でござる。……それに致してもお父上庄八郎殿の居り場所を本栖湖の水城《みずき》に相違ないと目星をつけられた其の理由を、お話し下さることなりますまいかな?」
こう云った陶器師の声の中には人情的の響があった。好意と危惧とが籠っていた。
しかし庄三郎は黙っていた。云う必要が無いからであろう。とは云え甲府の城下を去り、此処裾野へ来るに就いては来るだけの理由《わけ》があったのである。
二人は黙って顔を見合せている。
涼しい風が吹き込んで来た。竈から焔がヒラヒラとなぐれ[#「なぐれ」に傍点]先刻の蝶が翅を焼かれたか枯草の上を転げ廻わっている。
「さては拙者を迂散と見て、その理由お話し下されぬそうな。やむを得ぬ事。」
と云い乍ら、陶器師《すえものし》は復も眼をとじたが、
「貴殿は父母をお尋ねになり魔界へ踏込み行かれようとなさる。それに反してこの拙者は、求めるものを求めかね、物に狂い心を取り外し、一日と雖も人の血を見ねば活きて居られぬ狂者となり、悶え悶えて居るのでござるよ。……ああ此の腕がムズムズする! |※[#「足へん+宛」、第三水準1-92-36]《もが》き苦しむ人間の声を一声なりと聞き度いものじゃ。フフフフ、フフフフフフ。」
突然太刀を左手《ゆんで》に引付け右足をトンと踏み出したが、「いや貴殿を討つことはならぬ。貴殿の父上庄八郎殿には日頃からご恩を蒙って居る。」
云うと其の儘くったり[#「くったり」に傍点]と坐わり竈の火口をじっと見る。
「何を求めて居られますな?」
庄三郎は静かに訊いた。
「『不義』と『裏切』この二つこそ拙者の求めるものでござるよ。」
「捕えた暁には何うなさるな?」
「一刀両断! 刀の錆じゃ。」
「この浮世には不義も裏切もいくらも[#「いくらも」に傍点]あるのではござらぬかな。」庄三郎は冷かに訊く。
「直接此の身に関係《かかわり》ある不義よ。」
陶器師の言葉も冷かであった。それから静かに手を振った。
「用はござらぬ。お通りなされ。今日も日が暮れる。富士が曇って来た。どれ一|休《やすみ》。」
と云ったかと思うと竈の前へゴロリと寝た。と、その顔に浮かんだのは見るも悲痛の苦悶であり、寂しい寂しい懺悔であった。
庄三郎は呟いた。
「主君の言葉に偽は無い。血吸鬼! 殺人狂!」
庄三郎は立ち上った。それから裾野を横切った。間も無く姿は芒に隠れ、後は森然《しん》と静かである。
夕陽が華やかに野を照らした。富士が瑪瑙色に輝いて来た。物の蔭が紫になり。森や林の落す影が見る間にズンズン延びて行く。
其の時サ――ッと風の音がした。しかし夫れは風では無い。丈なす菅草《すげぐさ》を踏み分けて麓の方から駈け上って来る二騎の騎馬武者の音であった。腹巻の上に引き纏った紅の掛布が斜陽に射られて血のように深紅に輝くのが荒涼たる曠野と相映し一種の鬼気を呼び起こす。
「オ――イ!」
と一人の武士が呼ぶ。
「北条内記殿! 陶器師殿!」最《も》う一人の武士が続いて呼んだ。
「オ――イ!」と陶器師は答えたが、刀を掴むと飛び起きて、身を飜えして行く。
「今日の獲物、いざお受け取り!」
声と一緒に一人の武士は鞍壺に縛《ゆわ》えた小男を一振り振って投げ出した。
「恭《かたじ》けない!」と飛び交え、腰を捻ると真の居合。抜いた時には斬っていた。左の耳の附根から顎を割り咽喉を裂き脇の肋《あばら》三枚を切り皮を残して真二つ……
「姦夫、覚えたか、天罰覿面!」
それから例の陰性中音、フフフと笑ったものである。
三
武士はひらりと馬から下りた。タラタラと繰り出す数丈の白絹。切口に確《しっか》と押し宛てた。瞬時に染まる血紅色。手繰るに連れて一丈二丈|唐紅《からくれない》の絹が延びる。
「いざ、お次!」と最《も》う一人の武士は、これも結えた鞍壺の女を小脇に※[#「てへん+宛」、第三水準1-84-80]ぎ取り突き落した。女は半ば死んでいた。手足を縮めて動こうともしない。
「姦婦!」
と陶器師は声を掛けた。それからブルッと血顫いをした。ケラケラケラと笑わんず気勢。ポンと蹴返えして乳の下を諸手突きに一刀刺す。ヒ――ッという悲鳴。顫わせる指先。爪の色が見る見る灰色となり、握った指先に毟られたのは一本の桔梗の花であった。
くるりと陶器師は方向《むき》を変えた。竈の方へ帰って行く。血刀を下げ、足元定まらず、ヒョロヒョロヒョロと歩いて行く。蒼白の顔色、動かぬ瞳、唇ばかりが益々赤く、幽霊のような姿である。
竈の前へ膝を突くと其の儘ぐったりと横になった。大小を左の小脇に抱え、堅く眼をとじて動こうともしない。眠ろうとしているのであろう。
と、浮かんで来る懺悔の表情。時々眼をあけて空を睨むのは容易に眠られない為でもあろう。
やがて宵闇が忍び寄って来た。星がキラキラと空で輝き、藪や曠野や林の中から鵜烏《うがらす》の啼く声が聞えて来た。竈の口では青い火が鬼火のように燃えている。
四
此の頃、土屋庄三郎は裾野を分けて歩いていた。
彼が甲府を抜け出して、再び裾野へやって来たのには、次のような事情があるのであった。
それは虫払いの夜であった。
紅巾を見ると快川長老は、
「これは纐纈《こうけつ》だ。」と斯う云った。
「私は若い頃支那へ行った。左様、三度も参ったかな。その頃あの地で纐纈を見た。この紅巾に違い無い。……いや、待てよ、少し違う。」
こう云って長老は改めて打ち返えし打ち返えし眺めたが、
「色も艶も酷似《そっくり》だ。併し何うも織方が違う。」
「は? 織方と有仰《おっしゃ》いますと。」
「この紅巾は日本織だ。決して支那の布では無い。」
すると此の時信玄公が、
「長老長老。」と声を掛けた。「その纐纈《こうけつ》が日本織とすると、どう解釈したら宜かろうな?」
「勝手な空想が許されますなら愚僧にはこのように考えられまする。此の世を怨み憤る者が、何処か深山幽谷に隠れ、唐の故事をそっくり其の儘纐纈城を造り設け、そこで悪行を逞《たくまし》うし、この恐ろしい纐纈を作るのではござりますまいかと。」
「うむ。」と信玄は頷いた。「油売松並荘九郎が兎も角も美濃を平定し斎藤道三と宣る浮世だ。そういう不思議も無いとは云われぬ。」
「長老。」と庄三郎は熱心に「支那にありました纐纈《こうけつ》城の話、詳しくお聞かせ下さいますよう。」
「いやいや私が話す迄も無い。宇治拾遺物語をご覧んなされ。」
それで庄三郎は邸へ帰えると宇治拾遺物語を取り出した。
「慈覚大師纐纈城に入り給ふ事。」
「うむ、是だな。」と頷き乍ら庄三郎は読んで行った。
「昔、慈覚大師仏法を習ひ伝へんとて、唐土へ渡り給ひておはしける程に、会昌年中に、唐の武宗、仏法を亡して、堂塔を毀《こぼ》ち僧尼を捕へて失ひ、或は還俗せしめ給ふ乱に逢ひ給へり。大師をも捕へんとしけるほどに、逃げて或堂の内へ入り給ひぬ。その使、堂へ入りて捜しける間、大師すべき方なくして、仏の中に逃げ入りて不動を念じ給ひける程に、使求めけるに、新しき不動尊仏の御中におはしけり。それ[#「それ」に傍点]怪しがりて抱き下ろして見るに、大師もとの姿になり給ひぬ。使驚きて帝にこの由奏す。帝、仰せられけるは、他国の聖《ひじり》なり、速《すみやか》に追ひ放つべしと仰せければ、放ちつ。大師喜びて他国へ逃げ給ふに、遥なる山を隔てゝ人の家あり築地高く築きめぐらして一の門あり、其処に人立てり。悦をなして、問ひ給ふに、これは一人の長者の家なり、わ僧は何人《たれ》ぞと問ふ。答へていはく、日本国より仏法習ひ伝へんとて渡れる僧なり、しかるにかく浅間敷き乱に逢ひて、暫く隠れてあらんと思ふなりといふに、これはおぼろけに人の来たらぬ所なり、暫く此処におはして、世しづまりて後出て仏法も習ひ給へといへば、大師よろこびをなして内へ人ぬれば、門を鎖しかためて奥の方に入るに、後に立ちて行きて見れば、様々の屋ども造り続けて人多く騒がし。傍《かたわら》に据ゑつ。さて仏法習ひつべき所やあると見歩き給ふに、仏、経、僧侶等すべて見えず。後の方山によりて一の家あり、寄りて聞けば人のうめく声あまたす。怪しくて垣の隙より見給へば、人を縛りて上より釣り下げて、下に壺どもを据ゑて血を垂し入る。あさましくて故を問へども答もせず。大に怪しくて又他所を聞けば、同じく呻く声す。覗きて見れば、色あさましう青びれたる者共の痩せ損じたる数多く臥せり。一人を招き寄せて、これは如何なることぞ、かやうに堪へ難気には如何であるぞと問へば、木の切を持ちて、細き肘《かいな》さし出でゝ書くを見れば、これは纐纈《こうけつ》城なり、これへ来たる人には、まづ物云はぬ薬を喰はせて次に肥ゆる薬を喰はす。さて其後高き所に釣り下げて所々を刺し切りて、血を出して、その血にて纐纈を染めて、売り侍るなり。これを知らずしてかゝる目を見るなり。食物の中に、胡麻のやうに黒みたる物あり、それは物云はぬ薬なり、さる物参らせたらば、食ふ真似をして捨てたまへ、さて人の物申さば、呻きのみ呻き給へ、さて後に、いかにもして逃ぐべき支度をして逃げ給へ、門を堅く鎖しておぼろけにて、逃ぐべきやうなしと、委しく教へければ、ありつる居所に帰り給ひぬ。さる程に人食物を持ちて来たり。教へつるやうに、胡麻のやうなる物中にあり、食ふやうにして、懐中に入れて後に捨てつ。人来たりて物を問へば、呻きて物もの給はず。今は仕了せたりと思ひて、肥ゆべき薬を様々にして食はすれば、同じく喰ふ真似して食はず。人の立ち去りたる隙に、艮《うしとら》の方に向ひて、我山の三宝助け給へと、手を摺りて祈請し給ふに、大なる犬一匹出で来て、大師の御袖を喰ひて引く。やうありと覚えて、引く方に出で給ふに、思ひがけぬ水門のあるより引き出しつ。外に出でぬれば犬は失せぬ。今は斯うと思《おぼ》して、足の向きたる方へ走り給ふ。遥に山を越えて人里あり。人逢ひて、これは何方よりおはする人の斯くは走り給ふぞと問ひければ、かゝる所へ行きたりつるが、逃げて罷るなりとの給ふに、あはれ浅間敷かりけることかな、それは纐纈城なり、彼処《かしこ》に行きぬる人の帰ることなし。おぼろけの仏の御助ならでは出づべきやうなし、あはれ尊くおはしつる人かなとて、拝みて去りぬ。それより愈々《いよいよ》遁げ退きて又都へ入りて忍びておはするに会昌六年に武宗崩し給ひぬ。翌年大中元年、宣宗位に即き給ひて、仏法滅すこと止みぬれば、思の如く仏法習ひ給ひて、十年といふに日本へ帰り給ひて、真言を弘め給ひけりとなん。」
五
読んで了うと庄三郎は深い疑いに落ちて行った。
「纐纈城《こうけつじょう》の来歴故事あらかた是で想像出来る。……自分の持っている紅巾が真に日本出来の纐纈ならそれを製する纐纈城が日本の何処かになければならない。ではそれは何処に有るだろう? 自分は富士の中腹で不思議な騎馬武者の一団を見た。彼等は紅巾を纏っていた。自分の持っている紅巾と少しも違わぬ紅巾を……。自分の持っている紅巾が洵《まこと》に日本出来の纐纈なら、彼等の纏っていた紅巾も矢張り同じ纐纈であると認めることが出来そうだ。世に珍しい纐纈をああも無雑作に着ていた彼等! 或は彼等こそ纐纈城の兵達《つわものだち》ではあるまいか、ところで彼等の本城は本栖湖の水城《みずき》だということである。それでは本栖湖のその水城こそは纐纈城ではあるまいか?……それに自分の持っている此の紅巾へ現々《ありあり》と曾て父上の御名があらわれ、加之《しかも》謹製と頭に大きく、土屋庄八郎昌猛と稍《やや》離れて記されてあったが、おお夫れでは父上には世にも無惨な纐纈城へ捕われて居られるのではあるまいか?」
こう考えて来て庄三郎は居ても立ってもいられなかった。
「行こう行こう本栖湖へ!」
庄三郎は決心した。其の夜ひそかに旅装を調え、誰にも告げず窃《こっそ》りと発足したのであった。
庄三郎は歩いて行く。
いつ道に迷ったものか、行っても行っても本栖湖へは出ない。星の光で道を求め疲労《つか》れた足を引きずり、引きずり先へ先へと歩いて行く。
其の時、遥《はるか》行手にあたって、灯火《ともしび》の光が見えて来た。
「さては人家があると見える。陶器師などというような悪人の住家でなければよいが。」
近付くままによく見れば、こんもりとした森に囲まれ書院造りの屋敷があった。まだ戸を閉めぬ窓を通して火影が闇へ射している。
庄三郎は立ち寄ったが何気なく窓から覗いて見た。
一人の若い侍が美しい娘を前に据えて何やら話しているらしい。庄三郎は安心した。悪人達でないことは二人の男女の人柄でも知れる。
庄三郎は改めて今宵の宿を無心しようと玄関の方へ廻って行った。
その翌朝のことである。
直江主水氏康と娘松虫に送られて、土屋庄三郎昌春は蔵人《くらんど》の屋敷を出発した。土用明けの富士の裾野、鍵手ケ原は朝靄立ち罩め桔梗、女郎花《おみなえし》、吾木香《われもこう》など、しとどに露に濡れている。
「何時迄お見送り願っても容易に名残は尽きませぬ。どうぞお引き取り下さいますよう。」
斯う云って庄三郎が立ち止まったのは一里余りも来た頃であった。
「いよいよお別れでございますかな。」
主水も云って立ち止まった。
「ご無事においでなさりませ。」
松虫も云って立ち止まった。
「昨夜以来のご歓待なんとお礼を申してよいやら。」改めて庄三郎は礼を云う。
「一樹の蔭一河の流、袖振り合うも他生の縁とやら、何んのお礼に及びましょうぞ。」
こう云って松虫は微笑したが、其の微笑《びしょう》は寂しそうであった。荒野に生い立った此の娘は誰をでも懐しく思うのであろう。
「貴殿は武田方拙者は上杉。敵味方と別れてはいても今はお互いに放浪の身の上。同じ屋敷に一夜明かし、様々物語致しましたこと、よい思い出となりましょう。」主水は斯う云って微笑したが矢張り寂しい微笑であった。「拙者は柔弱。武道は未熟。わけても病気の身上でござれば、いつ死ぬやら計られず。今日別れて何時逢うやら心細くも思われまする。……只一夜の語い乍ら文武に勝れたご貴殿が兄のようにも懐しく思われるのでござりまするよ。」
「拙者とても同じ事。」庄三郎もしんみり[#「しんみり」に傍点]と「お二人の厚いお志、永久忘れは致しませぬ。昨日の昼頃陶器師という恐ろしい賊に遭遇《めぐりあ》いあらかた[#「あらかた」に傍点]胸を冷しましたが、打って代って夜になってからは、人の情をいやしみじみ[#「しみじみ」に傍点]と感じましてござりますよ。」
次第に靄が晴れて来た。カラリと裾野が見渡される。
やがて別れの時が来た。
「さらば。」「おさらば。」と声を掛け、庄三郎は麓を指し、二人の者は屋敷の方へ露を分けて帰って行った。
庄三郎は元気よくスタスタ裾野を下へ下る。
六
「あの二人は余りに寂しい。悪い運命に逢わねばよいが。」庄三郎は歩き乍ら、主水と松虫の身の上を思いやらざるを得なかった。
「日本の文学古典には驚くばかり精通し若いに似合わぬ学者ではあるが、武術に至っては農夫にも劣り槍にも太刀にも用がないとは、この乱れた戦国の世には何うにも向かない不具者《かたわもの》。上杉家中で直江と云えば天晴れ名門であるべきに、主水殿のあの有様では只歯痒いと云わなければならない。」
などと思いもするのであった。
陽は次第に高く上り、やがて昼となり午後となった。その時|復《また》も道に迷い、あらぬ方面へ来たことに庄三郎は気が付いた。
「困った事だ。」と呟いて野の上へ思わず突っ立ったが、併し茫然《ぼんや》り立っていた所で別に妙案が浮かびそうも無い、で復、スタスタ歩き出した。鬱々とした森がある。それを突っ切ると杉の小山。その小山の裾を巡り不図《ふと》行手を眺めると野が眼前《めのまえ》で尽きていた。尽きた所に大岩壁。連々として数里に渡りと斯う形容をしたところで、全然誇張とは思われないような、長く長く左右に延び拡がった高い険しい岩壁であった。寧ろ岩壁というよりも城壁とでも云うべきか。風雨年月の洗礼を受け城壁のような岩の壁は暗褐色に色を変え、所々に灌木が生えている。
「自然の城砦とは此の事であろう。」
庄三郎は感にたえ岩壁の方へ寄って行ったが根元に立って眺めれば愈々《いよいよ》高く思われる。
「この内側は野であろうか? それとも岩続きの山であろうか?」
こんなことを思い乍ら暫く佇《たたず》んで見上げていたが、足も大分|疲労《つか》れて来たので、
「どれ一休み。」
と云い乍らトンと岩壁へ背をもたせ[#「もたせ」に傍点]かけた。
途端に岩がグルリと廻わり庄三郎は飜筋斗打《もんどりう》って岩の内側へ投げ込まれた。ハッと驚いて起き上がった時には四方《あたり》は真の闇であった。
「周章《あわ》ててはいけない。」と心で云って庄三郎は胡座《あぐら》をかいた。で、じっと心を静める。
「岩に開き戸があったと見える。うかうか夫れへ障《さわ》ったと見える。で戸が開いて復閉じた拍子に自分は内へ閉じ込められたのだ。……そうすると此処は何処だろう?」
両手を左右へ延ばして見た。冷い岩が指に障わる。
「どうやら自分は岩に作られた洞穴の中に居るらしい。」
兎も角も是だけは見当がついた。
「どれ、戸口を調べて見よう。」庄三郎は立ち上がり両手で岩を探り乍ら戸口と思われる方角へ徐々《そろそろ》と足を運んで行った。間も無く岩へ衝突《つきあ》たったので、手探りで撫で廻わした。押しても見たが動きそうにもない。
「駄目だ。」と云って考え込む。それから復もそろそろと反対の側へ辿って行った。
非常に深い洞穴と見え行っても行っても涯が無い。
「是は洞穴ではないらしい。どうやら是は道らしい。」
こういう考えの浮かんだのは十間余も行った頃であった。庄三郎は元気づいた。十分足許へ気を付け乍らズンズン先へ歩いて行った。斯うして復も十間余。……すると遥の行手から蒼然たる微光が射して来た。
「有難い。さては野へ出るな。」
庄三郎は飛ぶように光の射す方へ走って行った。
次第に光は鮮《あざやか》になる。
斯うして遂々《とうとう》庄三郎は、夕暮の光草に流れる美しい谷間へ出ることが出来た。
余りの嬉しさに庄三郎は物を云うことさえ出来なかった。ただ四辺《あたり》を見廻わした。
桃源、巫山、蓬莱洲、所謂る世界の別天地とはこんなものではあるまいか? こう思われる程四辺の光景は気高く美しい物であった。富士山! そうだ其の富士の峰は眉に逼って指呼の間に浮かぶように懸かっている。なだらかな肩、素直な斜面それが足許まで流れている。
要するに素直な其の斜面が一時岩壁で塞き止められ、その為め岩壁と斜面との間に一筋の谷が形成《かたちづく》られ、その谷の一点に庄三郎が今茫然と佇んでいる。と云うのが目前の光景なのであった。
そうして谷は其の一方では蜒々と連らなる岩壁によって他の裾野と境を為し更に一方は富士によって総《あらゆ》る外界と交通を断ち、全然別個の新世界を此処に開拓しているのであった。
その新世界の谷国は何うやら非常に広いらしい。それは広いというよりも寧ろ長いと云うべきであろうか、兎に角一方は岩壁に添い、而て他方では富士に添って先拡がりに長く長く何処までも続いているらしい。
「眠い。」
と庄三郎は呟いた。空気は甘く花の香は高く、木から草叢、草叢から岩と、飛び乍ら啼いている小鳥の歌にさえ聞く人の心を平和に誘う不思議な魅力がこもっているからだ。
「眠い。」と庄三郎は復云った。そうしてゴロリと草へ寝た。と、遠くから梵鐘がゴーンと一つ響いて来た。
「何処かにお寺があると見える。」
……すると、今度は大勢の男女が、声を合わせて歌うような幽幻な歌声が聞えて来た。
「誰か大勢で歌っている。」庄三郎は眠り乍ら夢の中で呟いた。
「ここは一体何処だろう?」
ゴ――ンと復鐘の音が虚空を渡って聞えて来る。それにつづいて合唱の声が海の潮の騒ぐように、厳《おごそか》に尊げに聞えて来る。
此処《ここ》は一体何処だろう?
富士教団神秘境!
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第四回
一
土屋右衛門はご前へ出ると恐る恐る言上した。
「土屋庄三郎事一昨夜家出致しましてござります。」
「何?」
と信玄は頬をふくらませた。驚いた時の癖である。但し滅多には驚かない。「庄三郎が家出したと? ふうむ、左様か。困った奴だ。」
「困った馬鹿者にござります。」
「理由は何かな? 家出した理由は?」
「それが一向解りませんので。」
「何か不平でもあったのかな?」
「決して決して左様な事は。」
「で、見当は付いているのか?」
「は? 見当と仰せられますと?」
「逃げて行った見当よ。」
「いえ、それが、どうも一向……。」
「一向付いていないのか、お前も少し迂闊過ぎるの。」
「赤面の至にござります。」
右衛門は額の汗を拭いた。信玄は夫れをギロリと見たが、額に皺を寄せて黙り込んだ。
信玄の顔は大きかった。そうして酷く下膨《しもぶくれ》であった、顎などは二重にくくれていた。眉は太く且つ長くピンと尻刎ねに刎《はね》上っていた。眼は所謂る尋常であったが、眼尻に恐ろしく皺があり、眼の上下にも皺があったので、老人染みて見えるのであった。鼻下に太い髯があったが先がベロリと垂れているので何うも大いに景気が悪い。唇は厚くどす[#「どす」に傍点]黒い。髯を取ると彼の顔は大分家康に似て来るのであった。尤も似ているのは顔ばかりで無く、老獪の点もよく似ている。
顔が大きく肥えているように信玄の体も肥えていた。頸などは文字通り猪首である。大黒様のような垂れた耳。剃髪しても頬髯だけは残し、大いに威厳を保っている。胸には濃い胸毛がある。全体の様子が胆汁質で、脂っこくて鈍重である。女に惚れられる玉では無い。諏訪家の姫を孕ませて絵にあるような美男の殿御勝頼様を産ませるような、そんな粋人には見えないのであった。
流石は名家威厳はある。それも鬱々たる威厳であって、こう黙って考えていると陰々として凄い程である。
「右衛門、追手は出したろうな?」
ややあって信玄は斯う訊いた。
「四方八方手を分から、追手を出しましてござります。」
「俺からも直ぐに追手を出そう。」
「は、何卒よろしいように。」
「国の掟だから止むを得ない。」
「は、何卒よろしいように。」
「俺は愚痴を云う人間では無い。」暗然として信玄は云った。
「がそれにしても庄三郎は何故黙って他国したのだろう。この甲州の掟として、無断に国土を離れた者は草を分けても詮索し縛首に処すということは、彼と雖も知っている筈だ。それだのに無断で他国するとは。」
「大馬鹿者にござります。」
「大馬鹿者では済まないから困る。……庄三郎の父の庄八郎には俺は恩を受けて居る。庄三郎は俺に執《と》っては可愛い大事な家来なのだ。他国させるのは如何にも残念、まして捕えて殺すのは情に於て忍びないが、この信玄の作った掟を此の信玄が破ることは出来ない。何んとそうではあるまいかな?」
「御意の通りにございます。」
「もし許して置く時は、他国する者が増すであろう。他国したものは縁《ゆかり》を求めて上杉、北条、織田などへ随身するに違いない。甲州の機密は夫《そ》れ等の口から自然敵方へ洩れなければならない。これは実に恐ろしいことだ。」
「恐ろしいことにござります。」
「そこで俺は涙を揮って庄三郎を捕えることにする。」
「何卒掟通りに遊ばすよう。」
「併し俺は悲しいのだ。」
また信玄は暗然とした。
「甚太郎!」
と信玄は声を掛けた。
「はっ。」
と云って辷り出たのは前髪立の小姓であった。
「其方《そち》追手に向うよう。」
信玄は厳然と命を下した。
「心得ましてござります。」
十四歳の少年武士、高坂弾正の妾腹の息、高坂《こうさか》甚太郎はお受けをした。
「是よりすぐに打ち立つよう。」
「かしこまってござります。」
「去年の五月、端午の節句に、楯無の鎧を盗み取ったような、素晴らしい機智を働かせて庄三郎を召し捕って参れよ。」
「かしこまってござります。」
一礼すると甚太郎は、スル/\と御前を辷り出たのである。
二
其の日夕景、高坂邸から一人の鳥刺《とりさし》が旅立った。
変装した高坂甚太郎である。
それは可愛い鳥刺であった。頭には頭巾を冠っている。頭巾の色は緋無垢である。足には山袴を穿いていたが、それは樺色の鞣革であった。亀甲形の葛の筒袖に萌黄の袖無を纏っている。腰に付けたは獲物袋で夫れに黐筒《もちづつ》が添えてある。二間半の長|黐棹《もちざお》、継ぎ差し自在に出来ていて、予備の棹は背に背負っている。
色白で円顔で、鼻高く唇薄く臙脂《べに》を塗《つ》けたように真紅である。そうして其の眼は切長であった、が気味の悪い三白眼で、絶えず瞳の半分が上瞼に隠されている。
戦国時代の武士としては寧ろ小さかったが、クリクリと肥えていて障《さわ》らば物を刎ね返えしそうである。弾力に富んでいるのであった。
お館の西側をグルリと廻わり跡部大炊の邸へ出、それを北へドンドン行くと突き当たった所に小山田邸、此処が条坊の外れである。
「さて、何方へ行ったものかな。」
甚太郎は暫く考えたが「こんな時には、棹占い、それがいい。」
ポンポンと黐棹を往来《みち》へ立てた。
「おや、東南へ転びやがった。……東南といえば富士の方角、よしよし夫れじゃ富士へ行こう。」
極わめて簡単なものである。長い黐棹を肩に担ぎ、
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いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
ハアほいのホイ
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当時|流行《はや》った鳥刺唄。それを唄って元気よく、鍛冶屋街道を富士へ向けノッソリノッソリ歩き出した。
「へ、それにしても飛んだ身の上を。身を変えての追手役、召し捕る相手は俺の従兄、古い物語にでもありそうだ。それにしても信玄公、内の親玉は皮肉だね。去年の五月、端午の節句、楯無の鎧を盗んだような、あの素晴らしい機智を以て召し捕って参れと云うのだからな。信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど堪えたと見える。……チイチイ何処かで暗いていゃあがる。おや畜生山鳩だな。」
見れば眼前《めのまえ》の大楠木に灰色の山鳩が止まっている。
「へ、こいつはお合憎様だ。棹がちっとばかり届かねえ。よしそれでは投棹とやらかせ。」
狙いも付けずヒューと投げた。繁った枝葉を巧みに縫い棹は恰《あたか》も征矢《そや》のように梢《こずえ》遥《はるか》に伸して行ったが、落ちて来た時には其の先に山鳩を黐で繋ぎ止めていた。
|※[#「てへん+宛」、第三水準1-84-80]《も》ぎ取って首を捻ねる。口からタラタラと血の出るのを手甲にかけてニタリと笑い、
「生物を殺すって好いものさね。ピクピクと動く柔い肌、生臭い血の曖味《あたたかみ》、これじゃ殺生は止められねえ訳さ。」
獲物袋へグイと押し込み、
「……いざ鳥刺が参って候。鳥はいぬかや大鳥は、……信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど驚いたと見える。」
去年と云うから弘治三年、端午の節句の夜であったが、家例に依って楯無を飾り、信玄は酒宴を催した。
その時信玄は楯無しに就いて一場の物語を物語った。
「寛正六年のことである。三代の祖先信昌公には、板垣三郎、下山五郎、この二人を先陣として叛臣跡部景家を夕狩沢にお征《せ》めなされた。この時景家は我家の重宝楯無の鎧を預かって居たが、それを纏い馬に騎り数千騎を率いて走り来る所を信昌公には只一騎樹蔭にかくれて待ちかけ給い、矢頃を計って切って放てば其の矢誤たず胸にあたり、遂に叛将は殪したものの矢疵ありありと鎧に残り、楯無の威霊を損じたため、重代の宝器に矢の立つこと家運の傾く兆ならんと、信昌公には嘆じられたが、よし自《みずから》試んものと、帰陣の後楯無しを着給い、善射の家臣武藤五郎七郎、小山田十郎、三枝式部、三人をして射させた所、その矢悉く刎ね返ったと云う。何んと奇特ではあるまいかな。……つまり楯無は武田家の守護神、武田の当主が持って居ればこそ其の霊験は顕著《あらたか》ではあるが他人は是へ障ることさえならぬ。障ったが最後神罰を受けよう。」
「あらたかな鎧にござります。」家臣一同敬って申した。然るに誰やら笑う者がある。声のする方を屹と見ると、高坂甚太郎が笑っている。で、信玄は不思議そうに、
「これ甚太郎、何が可笑《おか》しい?」「私障りましてござります。……幾度も幾度も手を触れました。併し神罰下りませぬと見え、この通り無事にござります。」「子供の癖に大胆千万、今に神罰が下ろうぞ。」
すると甚太郎はクスクスと笑い、
「もしお許さえ出ましたなら、楯無を盗んでお目にかけます。」
「楯無を盗む? これは面白い。よし許す、盗んで見ろ。」
「かしこまってござります。」
三
で、甚太郎は御前を辷り其の儘姿を消して了《しま》った。
「甚太郎めに何が出来る。」信玄は侍臣を顧てニヤニヤ苦笑を洩らしたが、間も無く彼の心からはそんな約束をしたことも甚太郎のことも忘れられて了った。
ところが武田家の家例として楯無の鎧は其の夜の中に――加之《しかも》深夜丑の刻に信玄親しく附き添って宝蔵へ納めなければならなかった。
で、規定《さだめ》の時刻が来るとやおら[#「やおら」に傍点]信玄は立ち上がった。楯無の鎧は箱に入れられ大切に輿に乗せられた。四人の武士が担うのである。夫れも甲斐撫での武士では無い。日向大和、勝沼入道、今川伊勢、辺見左京、一騎当千というよりも孰《いず》れも堂々たる武将連である。その後から信玄が行き、又その後から信繁、繁信、勝頼、逍遥軒の一族が行く。先駆としては馬場美濃守、輿の左右には小山田、甘利。洵《まこと》に業々しい行列ではあるが、是が長々と廻廊を練り、宝物蔵まで行くのであった。一の曲輪と二の曲輪のその中間に宝蔵があったがそこ迄行くと行列は粛々として立ち止まった。信玄自身鍵を取ってギーと宝蔵を開けたのである。と、行列は動き出したが、今度は信玄が先頭に立って蔵の中へ案内する。安置して了うと行列は静かに蔵から外へ出る。この間少しも喋舌ることは出来ない。咳くことさえ憚るのである。此の時信玄は殿《しんがり》として、最後に宝蔵から出て来たが、再び鍵を手に取って宝蔵の戸を閉じようとした。すると俄に不安になった。
「どうも可笑しい。」と呟いたものである。「誰か蔵の中にいるような気がする。」
で、じっと隙《す》かして見たが灯火の無い宝蔵の内は所謂る烏羽玉の闇であって、物の文色《あやいろ》も解らない。信玄は背後を振り返って見た。規定《さだめ》の人数に欠けた者も無い。「心の迷だ」と口の中で云うと宝蔵の扉をギーと閉じた。それからビーンと錠を下したが其の時幽に蔵の中から只一声ではあったけれど笑声が聞えて来た。――聞えて来たように思われたのである。
信玄は心には掛かったけれど「空耳《あだみみ》」であろうと思い返えし、スタスタと廻廊を引っ返えした。
さて、その翌朝のことであるが、近習の真田源五郎が信玄の前へ端坐《かしこま》った。
「高坂甚太郎の伝言《ことづて》をお聞きに入れ度う存じます。」
「何んだ?」と信玄は審《いぶかし》そうに訊いた。
「昨夜甚太郎私に向かいこのようなことを申しました。――明朝宝蔵を開きますよう。楯無の鎧は甚太郎めが盗み取りましてござりますと……。」
「あっ。」信玄は皆迄聞かず驚きの声を筒抜かせた。この時初めて昨夜の約束を稲妻のように思い出したのである。信玄は足でも焼かれたように茵《しとね》を蹴って飛び上ったが日頃の沈着も忘れたかのように宝蔵の方へ走って行った。
扉を開けるのももどかしく[#「もどかしく」に傍点]宝蔵の中へ踏ん込《ご》んで見ると、外光を受けて仄に明るい蔵の奥所の一|所《ところ》に、楯無を納めた櫃があったが夫れに体を倚せかけ乍ら、手に火の点いた種ケ島を握り、大胆にも筒口を信玄へ向け、小気味の悪い三白眼をさも得意そうに光らせた高坂甚太郎が坐っていた。
「殿!」と甚太郎は声を掛けた。「種ケ島の強薬、鎧櫃にぶっ放しましたら楯無は微尽《みじん》に砕けましょう。殿に向かって打ち出しましたら殿のお生命《いのち》もございますまい。私に力さえ有りましたら楯無は持ち出したでございましょうよ。」
「さりとはさりとは呆れた奴! 何処から這入った? どうして這入った?」
「私から見ますればお館などは、それこそ隙だらけでございますよ。ケ、ケ、ケ、ケ。」
と笑い出したが、それは尋常の笑では無く、即ち変態性慾者か乃至は先天的叛罪人が、時あって洩す残忍の笑で、さすが豪勇の信玄も竦然《しょうぜん》としたということである。
「信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど[#「よっぽど」に傍点]驚いたと見える。」
鍛冶屋街道を富士の方へ、甚太郎はスタスタ歩き乍ら、思い出し笑いをするのであった。
「何が此の世で面白いかと云って、盗人に上《うえ》超すものはねえ。是こそ立派な仕事だからな。他人の物を取るんだからな。いいかえ、いいかえ、他人《ひと》のものなんだ! そいつを自分の物にする! 自他無差別さ。平等不二さ。……小判、大判、太鼓判と来ては、どいつも此奴も、血眼になって儲けよう儲けようとするんだからな。儲けると今度はひし[#「ひし」に傍点]隠しにする。そうして自分だけ好い目を見て他の奴等を馬鹿にしようとする。物持根性って云う奴さ。そいつを横からチョロリと出て、へえ有難うと持って行くんだ。……盗んだ時の気持よさ。盗む迄の面白さ。ああ何んとも云えねえなあ。……第一上品な仕事だあね。頭と手先の仕事だからな。……よし彼奴を盗んでやろう! そこでとっくり[#「とっくり」に傍点]と考える。ああでも無え。斯うでも無え。それじゃ斯う行くか。彼《ああ》行くか。……頭一つで考えるんだからな。何んてマア上品な仕事だろう。」
四
日は最《も》う何時かとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れて道芝には露がしっとりと下りた。
「が、それにしても此の俺が盗みをするということを未だ些少《ちっと》も気が付かないとは、何んと云う間抜けな奴等だろう。……流石に逝去《なくな》ったお袋は、そこへゆくと偉らかったよ。ちゃあァんと目星を付けていたからな。……ホイ、何んだ詰らねえ、そんな事を考えて何んになる。いざ鳥刺が参って候だ。はあホイのホイだ。……今夜は何処へ泊ろうかな?」
甚太郎はスタスタ歩いて行く。
特に信玄から授けられた武田家の割符を持っているので、甲州の地は気随気儘に通ることも出来れば泊ることも出来る。其の夜甚太郎の泊ったのは笛吹川の川畔の下向山《したむきやま》の駅路であったが、翌日は早く発足し滝川街道を古関の方へ例の調子で辿って行った。そうして其の夜は古関で泊まり、翌日未明に宿を出たが是から先は道は無く、釈迦岳の山脈と王岳《おうだけ》連山の山骨とが一時畳まれた深い谿《たに》が、通路《かよいじ》と云えば云えもしようか、緑樹紅葉打ち雑り秋山の眺望《ながめ》は美しかったが旅人に執っては難場である。その難場の谿底路を甚太郎は先へと辿って行く。行くに従って谿底路は次第次第に爪先上りとなり、松や楓が密生し熔岩の層は多くなり、随所に行手を遮るのである。
「ああ最う歩くのが厭になった。」さすがの甚太郎も嘆息して、思わず谿底へ立ち止まったが、いつ迄立ってもいられないので勇を鼓して進んで行くと、軈《やが》て谿は行き尽くし鬱蒼たる森林へ現われた。即ち今日の青木原である。
「先《ま》ず有難い。」と云い乍ら、甚太郎は流れる汗を拭い木の根へ腰を下した時、丈なす萱草を踏みしだき近寄って来る人影がある。
「地獄で仏という奴だな。……道でも尋ねることにしよう。」
喜んで声を掛けようとしたが、何に驚いたか「おや」と云うと、楓の木蔭へ身を隠した。
うち重なった葉蔭から、眼ばかり出して覗いていると次第に人影は近付いて来る。近付くままによく見ると、宗匠頭巾に十徳を着、長目の大小を落し差しにした、茶人かと見れば茶人でもあり武士かと見れば武士でもある三十七八の男であったが、体が悪いのか酒に酔っているのか、踏む足さえ定まらず、古い形容ではあるけれど、彼方《あっち》へ寄ったり此方《こっち》へ寄ったり蹣々跚々《まんまんさんさん》と遣って来た。
「何んて物凄い面だろう。ううむ、全然《まるで》幽霊のようだ。」楓の蔭で甚太郎は斯う思わずも呟いたが、洵に其の男の容貌には一種異様なものがあった。
鼻高く眼長く、唇薄く其色赤く、眉は秀でて一文字に引かれ、まさしく美男には相違無かったが、それは人界《このよ》の「美」では無く黄泉《よみ》の国の幽霊か、仮面を冠った人かのようで、精気もなければ血の気も無い。透き通るような蒼い額からげっそりと削げた頬の辺手頼り無い寂しい陰影《かげ》があって、見る人をして悲しませる。据えた瞳を当所《あてど》も無く茫然と前方《まえ》へ注ぎ乍ら何やら独言を云っている。
「……今日も斬った。三人をな。ハ、ハ、ハ、ハ、三人をな。……斬っても斬っても斬り足りない。俺は一体どうすればいいのだ。斬っても斬っても斬り足りない。……待てよ。」
と云うと立ち止まった。そうして四辺《あたり》を見廻わしたが、じっと楓の木へ眼を付けた。
「ははあ人間が隠れているな。」
こういうと共に血の色がスーと顔へ上って来た。水晶のように蒼白《しろ》かった顔が、今は恰も瑪瑙のように美しい桃色に一変したが、同時に姿勢もチャンと締まり、蹣跚《よろめ》いていた足も屹と据わった。
「出ろ小僧!」と叫んだものである。
「どうも不可《いけね》え。眼付かったらしい。」甚太郎は黐棹を握り締めたが、つと姿を現わした。
「お武家様、今日は。」三白眼でニヤリと笑う。
「うん、鳥刺か。……何処へ行く。」云い乍らジリリと一足進んだ。甚太郎は一足退ったが、
「へい、富士へ参ります。」
「此処は裾野だ。何しに来た。」また一足ジリリと進む。甚太郎も一足退がり、
「鳥を刺しに参りやした。」
「富士のお山には鳥は少い。貴様、鳥刺は新参だな。」
「仰せの通り新参で。……嚇しちゃ不可《いけね》え。恐い顔ですねえ。」
「そんなに恐いか、俺の顔は?」
「活きている人とは見えませんねえ。おっと不可え。寄っちゃ不可え。」
「鳥刺!」と武士は復《また》進み「此処を何処だと思っているな?」
「富士の裾野でございましょうが。」
「本栖湖の岸だ。青木原だ。」
「へへえ左様でございますかな。」
五
「ふん。」と武士は嘲笑《あざわら》ったが「貴様何んにも知らないそうな。貴様噂を聞いていないな。」
「へい、何んにも聞いていません。」
「本栖湖に水城《みずき》がある。」「へえ、左様でございますかな。」
「お前のような若い男を水城の人達は欲しがっている。」「へえ、左様でございますかな。」
「若い男には血が多いからな。」「へえさようでございますとも。」
「絞ったら三升は取れるであろう。」
「へ?」と甚太郎は訊き返えした。
「恐らく色も鮮《あざやか》であろう。」
「へ?」と甚太郎は復《また》訊いた。
「貴様、死ぬのは恐くはないかな?」「死ぬのは真平でございますよ。」
「併し所詮遁がれることは出来ぬ。」
「なあに滅多に死ぬものですかい。」
「いやいや所詮殺されねばならぬ。」
「誰が私を殺すので?」
「水城の人達が殺すだろう。」
「へえ、そうですかい、水城の人達がね。」
「そうでなければ俺が殺す。」
刀の束《つか》へ手を掛けた。
「そうは不可《いかね》え。」
と云い乍ら、甚太郎は背後へ飛び退《しさ》ったが、黐棹をピタリと構えたものである。
「ううむ。」
と武士は眼を見張った。「おお貴様、槍が出来るな。」
「あたりめえよ!」と甚太郎、また其の気味の悪い三白眼を木洩陽《こもれび》にギラギラに輝かせたが「おお、お侍|巫山戯《ふざけ》ちゃいけねえ。只の鳥刺とは鳥刺が違う。こう見えても侍だ。しかも武田の家臣だわえ! 鳥刺に姿を変《やつ》しているのは尋ねる人があるからさ。望みも遂げねえ夫の前に生命《いのち》を取られて堪るものか。……が、それにしても手前の面は随分気味の悪い面だなァ。ナーニ些少《ちっと》も驚くものか。寄るな寄るな寄っちゃ不可《いけね》え! やい、この棹が眼に付かねえか。二間半の黐棹だが俺が構えると槍になる。用心しろよ二つの眼を! 俺は眼ばかり狙うからな。尤も時には足も狙う。だから足も気を付けるがいい。……やいやい抜け抜け! さっさ[#「さっさ」に傍点]と抜け! そうして景気よく斬り込んで来ねえ。太刀の筋目を見届けてやらあ。……おやおや何《ど》うしても抜かねえな。変に人焦しの野郎じゃねえか。……あ、柄から手を放しやがった。」
「武田の家来で人を尋ねる? 一体誰を尋ねるのだ?」気味の悪い武士は静かに聞いた。
「尋ねる相手は俺の従兄だ。」
「心当たりがある。名は何んと云う?」
「名かえ、土屋庄三郎だ。」
「ははあ、そうか、あの男か。」
「それじゃお前さん知っていなさるか?」
甚太郎は眼を丸くした。
「うん知っている。邂逅《いきあ》った事がある。」
「何時?」と甚太郎は一歩進んだ。
「数日前に。或る所で。」
「そうして何方へ行きやした。」
「本栖の湖へ行くと云っていた。」
「有難え!」と甚太郎は、それまで構えていた黐棹を、ひょいと肩へ担いだが、間一髪の際を狙って武士は抜打ちに斬り込んで来た。反わす間も無ければ開らく間も無い。甚太郎はパッと転がった。切先届かず五分残ったのは甚太郎に執っては天祐でもあろうか、引く太刀に連れて飛び上り二の太刀を避けて横へ飛んだ。
熔岩の上へ突立ったのである。
「浮雲《あぶね》え! 馬鹿!」と此の時初めて甚太郎は憎気《にくさげ》に罵ったが、流石に呼吸《いき》は苦しそうである。併し黐棹は握っていた。余裕のあった証拠である。熔岩の背後は絶壁である。前からは武士が追い逼って来る。黐棹を槍に構えたものの進退|谷《きわ》まったと云わなければならない。
武士は白歯を覗かせてニッとばかりに笑ったが左右《さう》無く上っても行かないのは黐棹の先が渦巻き渦巻き両眼の間を、辷乱《うろ》つくからで、心中|窃《ひそか》に驚いている。
「これは学んだ槍では無い。自己流の業には相違無いが、それにしても恐ろしい奴だ。槍先が眼から離れようとはしない……武田の家来には変な奴がいる。土屋といい此奴と云い、不思議に武道の達人ばかりだ。エイ!」
と一つ気合を掛け、パッと槍先を刎ね上げた。それからタッタッと追い上った。
「来やァがれ!」と云うと甚太郎、黐棹をしごい[#「しごい」に傍点]て突き出した。それが右眼へ矢のように飛ぶ。またポンと払い上げる。と、しごい[#「しごい」に傍点]て左眼へ来る。タッタッと後へ引き下がり、武士は構えざるを得なかった。
「おい、お侍、どうする気だよ。何とか早く形を付けてくれ。俺は本栖湖へ行かなけりゃならねえ。」岩の上から甚太郎は焦立たしそうに声を掛けた。
「ゆっくりしろ。」と、笑い乍ら、武士は岩へ腰をかけた。
「背後《うしろ》は絶壁下りることは出来ぬ。但し本栖湖は其の方角にある。前には俺が控えている。さあ何処からでも下りて見ろ。」
「おお本栖湖は絶壁の背後か。うん、よしきた、飛び下りて見せる。」
甚太郎は黐棹を肩へ担ぐと谿の下口へ走って行った。
六
「小僧、そこから飛下りる気か。」武士は驚いて声をかけた。
「下は岩組、飛び下りたが最後、貴様の五体は砕けるぞ。」
「いざ鳥刺が参って候……。」甚太郎は鼻唄をうたい出したが、
「侍、それじゃ復《また》逢おう!」
「あ、浮雲《あぶね》え!」
と叫んだ時には、甚太郎の姿は消えていた。
「無分別な奴だ。」と罵り乍ら、武士は岩の上へ駆け上り谿間を屹《きっ》と見下した。初秋の夕陽が赤々と谿の木々に当っている。突忽とした熔岩は角立った頂を空へ向け、峨々累々と重なり合っている。そうして立ち初《そ》めた灰色の霧が、それらの岩々木々を包んで、次第に此方へ立ち上《のぼ》って来る。
「可愛そうに死んだであろう。」
呟いた途端に谿底から唄歌う声が聞えて来た。
「……鳥はいぬかや大鳥は……」
「や?」と武士は眼を見張った。「彼奴《きゃつ》怪我さえしなかったと見える。」
「……ハァほいのホィ……」
歌声はだんだん遠ざかる。
「むう、まるで猿のような奴だ。」
「いざ鳥刺が参って候……」
もう遠くへ行ったらしい。よく歌声が聞き取れない。
暫時《しばらく》武士は唖然として熔岩の上に立っていたが、ふと気が付いて握っていた刀を腰の鞘へ納めようとした。と刀身に顔が写った。で、じッ[#「じッ」に傍点]と見入ったものである。
「いかさま凄い顔である。」呻くがように武士は云った。「これでは人も恐れる筈だ。むう、我乍ら浅間敷《あさまし》い。」
ピタリと刀を鞘に納めると、憮然として佇《たたず》んだが「人穴へ行こう! 人穴へ行こう! そうして其処で……顔の手入れをしよう。」
岩を下って歩き出す。今迄の精気は跡型も無く、顔の血の気は名残りなく消え、足の運びさえ弛気《たゆげ》である。据わった瞳を当てなしに注ぎ、右へ蹣跚《よろめ》き、左へ蹣跚き、西に向かって歩くのである。
今日の里数を以てすれば、本栖村から人穴村迄は凡《およそ》三里十町もあろうか、村には戸数三十個あまり、富士登山の道もあり夏は相当賑わうらしく、旅舎が二軒立っている。村の入口から左へ折れて、一町あまり歩いて行くと其処に有名な人穴があるが、今では奥行数十間、変哲も無い岩穴であって、富士講開祖角行の墓や浅間神社の小さい祠や石塔などが立っているばかり、何が名所だと云い度くなるが、昔は何うして此の人穴は非常に深かったものと見えて、東鑑《あずまかがみ》にこう書いてある。
「将軍家(源頼家)駿河国富士の狩倉に渡御す。彼の山麓に又大谷あり、之を人穴と名づく、其所を究見《きわめみ》せしめむ為に、仁田四郎忠常主従六人を入れらる。忠常御剣を賜はり、人穴に入る、今日幕下に帰参せずに畢《おわ》んぬ。(中略)巳の刻に、仁田四郎忠常、人穴より出でて帰参す、往還一日一夜を経たり、此洞狭うして踵を廻らす能はず、意のままに進み行かれず、又暗うして、心神を痛ましむ、主従各松明を取る、路次の始中終《しじゅう》、水流れて足を浸し、蝙蝠顔を遮り飛ぶ、幾千万なるを知らず、其先途は大河也、逆浪流を漲らし、渡らむとするに拠を失ふ。唯迷惑の外なし、爰《ここ》に火光、河の向に当って、奇特を見るの間郎従四人忽ち死亡す、而るに忠常彼の霊の訓《おしえ》に依って、恩賜の御剣を件の河に投入れ、命を全うして帰参すという。古老曰く是れ浅間大菩薩の御在所、往昔より以降、敢て其処を見るを得ず、今の次第尤も恐るべきかといふ。」
以上は源家衰頽時代、建仁三年の出来事であるが、戦国時代には人穴は、殆ど夫れと変りが無く、深い穴であったらしい。
所で今日も存在する入り口に近い一条の横穴――富士講中の籠舎《こもりや》の附近に、その頃女の面作師が一人|窃《ひそか》に籠っていた。
打ち見た所二十八九、容姿端麗の美婦であったが、身には純白の行衣を着、仄に灯された獣油の灯火《あかり》で、四季洞内に籠り詰め、カチカチカチカチと鑿を揮い、仮面《めん》を作るに余念無かった。
併し作られるその仮面こそは、尋常一様の仮面では無く、世にも奇怪な物であり、そうして面作師月子という女も、富士の裾野に巣食う所の魑魅魍魎の一人なのであったが、それは順を追って説くとして、さて或る日の事である。面作師月子はいつものように、岩の腰掛へ腰を掛け、鑿の運びに神《しん》を罩《こ》めていた。
と、戸を叩く音がする。
「どなた?」
と月子は声を掛けた。
「俺だ俺だ。声でも解ろう。」
月子は鳥渡《ちょっと》考えたが、
「解りました。」と静かに云うと、戸の側へ行って閂《かんぬき》を取る。
「しばらくであったなあ。」と云い乍ら、蹣跚《よろめ》くように這入って来たのは、他ならぬ強盗陶器師であった。
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第五回
一
「月子殿相変らず美しいの。」
こう言い乍ら陶器師《すえものし》は傍の円座へ腰を卸した。
「何を仰有《おっしゃ》るやら、来る早々。……」月子は笑いもしなかった。自分も円座へ坐ったが相手の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見る。
陶器師はまぶし[#「まぶし」に傍点]そうに「見ては不可《いけ》ない。見ては不可ない。お前に見られると身が縮む。……そう人の顔を見るものでは無い。」
「厭なお顔に成られましたな。……これでは参らずには居られますまい。」
「……で、俺は今日来たのだ。」
「貴郎《あなた》のお顔を見て居りますと、プーンと血の香が致しますよ。」
「日に一人は屹度《きっと》斬ったからな。」陶器師は微笑《ほほえ》んだ。それは血吸鬼《バンパイヤー》の笑である。
「商売はどうだな? 繁昌であろうな?」
「お蔭様で先ず繁昌。」月子の声は冷静である。
「本業の方か? 副業の方か?」
「副業の方でございます。」
「世間には馬鹿が多いと見える。」
「はい、そういう貴郎《あなた》様も。」
「俺か?」と陶器師は顔を曇らせ「俺は余儀無い必要からだ。」
「余儀無い必要からでございますとも。」女面作師は初めて笑い、
「お気の毒でございますな。」
「憐んで貰う必要は無い!」陶器師は不機嫌である。
「まだお逢いになれませんか?」
「見当も付かない! 見当もな!」
「恐らく裾野には居られないのでしょう。」
「いや裾野には屹度《きっと》居る。それだけは見当が付いて居る。」陶器師はキッパリと云った。
「可哀そうな人達でございますこと。……。」
不図《ふと》寂しそうに云ったものである。
「何?」と陶器師は聞き咎めた。「可哀そうだと? 彼奴等がか?」
「貴郎《あなた》のような恐ろしいお方に付け狙われるお二人様が。」
「伴源之丞と園女がか? ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、何が可哀そうだ! 姦夫姦婦めが何が可哀そうだ! 気の毒なは此の俺よ! あったら武士も廃れて了った。」咽ぶがような声である。
「貴郎もお可哀そうでございますよ。」
「憐れんで貰う必要は無い。尤も……。」と云うと膝行《いざ》り寄り、
「尤も憐れんでくれるなら。……」ひょいと月子の手を握った。
「おお憐れんでくれるなら、この心を憐れんでくれ! 燃えている心だ! 焦れている心だ!」
併し月子は微動さえしない。冷たく而《そうし》て静かである。
「妾《わたし》は恋を封じられて居ります。」夫れは凄然たる声であった。
「お放しなさりませ。睨みましょうか。」
「止せ!」と云うと陶器師は捉えていた女の手を放した。
「睨まれるのはまだ早い。俺はもっと正気でいたい。」陶器師《すえものし》はガックリ頸垂《うなだ》れた。
「弱いお方でございますこと。」
「弱い?」とグイと顔を上げ「この陶器師を弱くするのは天下《あめがした》にお前だけだ。」
「弱いお方でございますこと。」
「うん、弱いとも。俺は弱者だ!」またガックリ頸垂《うなだ》れた。肩を細く刻むのである。
と欷歔《すすりなき》の声がした。陶器師が泣いているのだ。……月子は静かに手を延したが鑿《のみ》と槌とを取り上げると、サク、サク、サクと刻りかけの仮面を、巧妙《たくみ》な手練《てなみ》で刻り出した。プンと香る楠の匂、仮面材は年を経た楠木なのである。パラパラと零れる木の屑は彫刻《ほり》台の左右に雪のように散り又蛾のように舞うのもある。
仮面《めん》は能仮面の重荷悪尉で、狭い額、円《つぶら》の眼、扁平の鼻、カッと開いた口、顎に垂らした白い髯、眼下の頬に畳まれた蜒々《うねうね》とした縦横の皺――すべて陰深たる悪人の相で、恋の重荷を負い乍ら其の重量《おもさ》に耐えかねて、死んで女御に祟ったという、山科荘園の幽霊に、象《かたど》り作った仮面《めん》である。
洞窟《いわや》の中は寒かった。氷のような冷いものが犇々《ひしひし》と肌に逼って来る。洞窟の中は薄暗かった。岩を刳り抜いて作られた龕《ずし》から、獣油の灯が仄に射し、石竹色の夢のような光明が、畳数にして二十畳敷程の、洞窟《いわや》の内部《なか》を朦朧と烟らせ、其処に在る程の器具《うつわ》類を――岩壁に懸けられた円鏡や、同じく岩壁に懸け連ねられた三光尉、大飛出、小面、俊寛、|大※[#「やまいだれ+惡」、第三水準1-88-58]見《おおべしみ》、中将、般若、釈迦などの仮面や、隣室へ通う三つの戸口へ是ばかりは華美《はなやか》な物として垂掛けた金襴の垂布等を、幻想の国のお伽噺のように、模糊髣髴と浮き出させている。
トコトコ、トコトコと聞えているのは、岩から流れ落る清水であったが、洞窟の隅に石を畳んで、井戸のように湛えられてある。其処へ映る灯の光などは別して神秘的なものであった。
サク、サク、サクと鑿の音は、欷歔《すすりなき》の声を縫うようにして、其の間も絶えず慎しく小さい音を立てていた。
二
欷歔《すすりなき》の声は高くなったが不意にプッツリ断ち切れた。と、陶器師は顔を上げ、
「月子殿。」と歎願するように「私《わし》の顔を見せて下され。私の顔を見せて下され。」
「容易《いとやす》い事。お見せしましょう。」月子は鑿《のみ》の手を止めたが、膝を起こすと立ち上がった。
「おいで遊ばせ。」
とクルリと背を向け、一つの入口の垂布を、上へ上げると身を斜に、消えるがように這入って行った。やおら陶器師も立ち上がったが、
「恐ろしいことだ。」と呟くと岩壁へ躰を持たせかけた。「……正の自分を見るということは、何んという恐ろしいことだろう。」
内から月子の呼ぶ声がする。
「おいで遊ばせ。……どうなされました?」
「行かずばなるまい。行って見よう。自分の醜い宿命を真正面から見るということも、自分のような呪咀《のろ》われた者には、時あって必要な事かも知れない。そうだ兎もすれば鈍ろうとする復讐の念を強める為にも、又時あって湧き起こる惻隠の情を消す為にも……」
「どうなされました。おいで遊ばせ。」
「今、参る。」
と陶器師は金襴の垂布をつと[#「つと」に傍点]開いた。
眼前《めのまえ》に展開《ひら》かれた洞窟《いわや》の態は別に奇も無く不思議も無い。二人並んでは歩き悪い程の極めて狭い横穴が長々と延びているだけであったが、左右の岩壁に平行して岩棚が二筋作られてあり、方一尺ほどの白木の箱が無数に整然と置かれてあることが不思議と言えば不思議とも言えよう。一つ置かれた燭台の火が石竹色に四方を照らし、佇んでいる二人の影を岩壁の面へ写し出している。その影がゆらゆらと揺るのは風が何処からかまぎれ込むのであろう。……長々と延びた横穴の彼方、闇に鎖ざされた遥《はるか》の奥から恰も大河の流れるような轟々という水の音が、勿論|幽《かすか》ではあるけれど仄に此処まで聞えて来るのは、東鑑《あずまかがみ》に記されてある――仁田四郎が究め損ったという、富士の底根を貫き流れる其の大河の音かも知れない。
「ご覧あそばせ。」
と一つの箱を、月子は棚から取り下した。
「……」無言で受け取った陶器師《すえものし》は、また其処で躊躇《ためら》おうとする。
「どれ灯火《あかり》を掻立てましょう。」
「それには及ばぬ。」
と云った時、ハタハタ、ハタハタと羽音がした。
「蝙蝠共でございます。」
「成程。」
と云うと蓋を取る。
「貴郎《あなた》のお顔でございます。」
「そうだ。昔の俺の顔だ!」
じっ[#「じっ」に傍点]と覗き込んだ箱の中に、一個の仮面《めん》が浮き出している。飛び出した額、扁平の鼻、左右不揃いの釣り上がった眼、衣裳の裾のように脹れ上がり前歯を露出《むきだ》した上下の唇、左半面ベッタリと色変えている紫色の痣、醜く恐し気な人間の顔が箱の底から睨んでいる。
陶器師は見詰めている。食い入るように見詰めている。タラタラと額から汗が落ちる。歯の間から呻声が短く鋭く洩れて出る。
ハタハタ、ハタハタと蝙蝠が二人の周囲《まわり》を飛び廻わる。その羽風に灯火が揺れ、壁上の陰影《かげ》が延び縮みする。そうして大河の音が聞える。
「月子殿。」と陶器師は云った。「何んと恐ろしい顔では無いか。」
「恐ろしいお顔でございます。」
「何んと厭らしい顔ではないか。」
「厭らしいお顔でございます。」
「これでは女房も裏切る筈だ。」
「では当然《もっとも》と覚しめすか。」
「当然と思う。当然と思うぞ。」
「ではお怨みなさいますな。」
「飽迄も怨む。活かしては置かぬ!」
「それでは筋が立ちませぬ。」
「永い間の此の憎念、一朝一夕には消し難い!」
陶器師の声は咽ぶがようである。
月子は恰も教えるように「それでは解脱《げだつ》は得られません。」
「解脱? 解脱? カ、カ、カ、」喉の奥で裂くように笑い、「解脱とは何だ! 解脱とは何だ! 永世輪廻《えいせいりんね》よ! 永世輪廻よ! 活き変わり死に変わり人を殺すのよ!」
「そうした果に何うなさります?」
「そうした果にか? そうした果にか? 矢張り人を殺すのよ。」
「救われないお方。救われないお方。」
「併し俺よりもっともっと[#「もっともっと」に傍点]悪虐な人間が此世に居る!」
「それは誰人《どなた》でございましょう?」
「纐纈城の城主よ!」
「仮面の悪魔! 悪病の持主! あれは人間とは云われません。」
「……俺も最後には彼処《あそこ》へ行こう。そうして毒血を絞られよう。」
「いいえ。」と月子は厳《おごそか》に云った。「富士教団へおいで遊ばせ! 其処でこそ貴郎《あなた》は救われましょう。」
三
併《しか》し陶器師は返辞をしない。顫える手先で箱の蓋をとると夫《そ》れを月子の手へ渡した。そうしてじっと俯向いたが、静かに静かに首を上げると、卒然として云ったものである。「俺は又人を斬りたくなった!」
金襴の垂布を掲げると隣の部屋へ蹣跚《よろめ》いて出た。
「月子殿!」と隣の部屋から呼ぶ。「お神水を下され。顔を直して下され。」
月子は棚の前に立っている。そうして彼女は首垂《うなだ》れている。
「ああ妾《わたし》の造顔術も碌なことには使われない。」
轟々轟々と大河の音が、横穴の奥から聞えて来る。
「あの大河を遡れば富士教団へ行かれるそうな。光明遍照の富士教団へ。」
「月子殿。」と隣室で呼ぶ。「お神水を下され。顔を直して下され。」
「あの男も可哀そうだ。憐んでいい男なのだ。……あれは本当の悪人では無い。まだ本当の悪人とは云えない。」
「顔を直して下され。お神水を下され。どうぞ私を眠らせて下され。」だんだん声が弱々しくなる。
「本当の悪人と云う者は或は此の世には無いのかも知れない。……妾《わたし》は是迄此処に籠って幾十人幾百人、いろいろの人のいろいろの顔を、いろいろの手法《かた》で刻んだけれど、これぞ本当に悪人というそういう顔を見たことが無い。舞楽面にも能面にも無い全然新しい悪人の仮面――そういう仮面を刻みたいのが妾の心願ではあるけれど、この妾の心願は遂げられないのではあるまいか。」
隣室からは欷歔《すすりなき》の声がさも弱々しく聞えて来る。
「纐纈城《こうけつじょう》の城主の顔を、一度でもいいから見たいものだ……」
大河の音と欷歔の声と飛び巡る蝙蝠の羽音とが相錯雑して聞えて来る。
「……この心願、この執着、是はもう業かも知れない。他人《ひと》のことは云われない。妾《わたし》も可哀そうな業人なのだ!」
燭台の灯火が大きく揺れ、壁上の陰影《かげ》が其の瞬間大蜘蛛の形を描き出したのは、月子の貪慾な心願を映し出したとも云われるのである。
日本に於ける造顔術の発端、それは神代だと云われている。
「……是に於て其妹|伊邪奈美命《いざなみのみこと》を相見まくおもほして、黄泉国《よもつのくに》にいでましき。爾《すなわ》ち殿騰戸《あみをかのくみと》より出で迎えます時、伊邪奈岐命語りたまはく、愛しき我|那邇妹命《なぎものみこと》、吾汝と作れりし国未だ作り竟《おわ》らず、故れ還りたまふべしと。伊邪奈美命答へ白したまはく悔しきかも速く来まさずして、吾は黄泉|戸喫《へぐい》を為しぬ。然れども愛しき我|那勢命《なせのみこと》入り来ますことの恐ければ、まつ具《つばらか》に黄泉神《よもつのかみ》と論《あげつら》はん、我をな視たまひそ。かく白して其|殿《あみをか》の内に還り入りますの間、いと久しうして待ちかねたまひつ、故れ左のみゝつら[#「みゝつら」に傍点]に刺させる湯津々間櫛《ゆつつまぐし》の男柱一箇を取り闕《か》きて一火《ひとつひ》を燭し入りますの時、蛆たかれとゝろぎて、頭には大雷《おおいかづち》居り、腹には黒雷居り、陰《みほと》には折雷居り、左手には若雷居り、右手には土雷居り、左足には鳴雷居り、右足には伏雷居り、并せて、八雷神成り居りき。是に於て伊邪奈岐命見畏みて逃げ還ります。下略」
これは神代史の一節であるが、八人の雷神の其の一人、頭の方に宿っていた大雷こそ日本に於ける造顔術の元祖なのであった。即ち腹に宿っていた黒雷は腹一切の神(今日で云う内科医)であり、陰《みほと》に宿っていた折雷は云う迄もなく性殖神であり、左右の手足に宿っていた神は、とりもなおさず手足の神である。
四
死んで腐った伊邪奈美命を、生身《いきみ》の躰へ返えそうというのは可成り困難な仕事ではあるが、八雷神は為し遂げたのであった。わけても顔は躰中での一番大切な場所であるが、大雷は其の死顔を――肉爛れ蛆涌き血涸れた顔を見事な活顔に返えしたのであった。即ち造顔術元祖と云えよう。
大雷の後胤は、出雲氏となって出雲に伝わり、出雲朝廷から天孫に仕え、更に子孫相継いで大和朝廷に歴仕した。そうして中頃朝鮮から渡った造顔術と混合した。
「朝鮮国より、玉六十八枚、金銀装横刀一口、鏡一面、倭文《やまとおり》二端、白眼|鴾毛《ぼうもう》馬一匹、白鵠《しろくぐい》二翼、造顔師一人、御贄《おんにえ》五十|舁《かき》、を献ず。」
とあるのは、此の間の消息を伝えたのである。欽明天皇御宇のことである。
其の後出雲氏は蘇我氏に出入し多くの寵を蒙ったが、蘇我氏亡びて親政となるや冗官を廃する意味に於て忽ち官途を止められた。爾来民間の一勢力として人民に施術をしていたが、時勢移って藤原氏となるや、俄に藤原氏の被官となり優柔不断の殿上人共は好んで顔の手入れをさせた。源平二氏の争った頃には平家に仕えて禄を食んだが、もう此の時代から次第に衰え、宗家出雲氏の家系なども全く乱れて解らなくなった。源氏となって益々衰え只実朝がその好奇《ものずき》から京師の風俗を取り入れた時、一緒に造顔師も呼び迎えたが、その実朝は天折し、造顔師は殆ど途方に迷い、初めて都会を彷徨《さまよ》い出で田舎稼ぎをするようになった。北条氏を経、足利氏となると、義政一人この術を喜び、四散していた造顔師達を京都の土地へ呼び集め、愛妻富子の美しい顔を一層美しく手入れさせたと一条兼良の手記にある。併し間も無く応仁の乱が起こり「なれや知る都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙を」と、飯尾彦右衛門をして嘆かせた程に、京都一円荒れて了っては、暢気そうに京都に止まっては居られず、またもや四方へ彷徨い出で、次いで消息を絶って了った。
こうして戦国となったのである。
富士の人穴の窟の中に、その造顔師が只一人、窃《ひそか》に施術をしていようとは、誰とて意外とする処であろう。
月子は静かに垂幕をかかげ、前部屋へ姿を現わした。
陶器師は頭を介《かか》え、その頭を地に押し付け、肩を刻んで泣いている。剛悪惨暴の男だけに、そうやって泣いている様子には一層憐れなものがあったが、月子はチラリと見たばかりで、向側に懸けられた垂幕を分け、つと[#「つと」に傍点]部屋の中へ這入《はい》って行った。
此処は造顔手術室である。
獣油の燭《ともしび》に点されて仄に見えるは寝台である。寝台の横手の巌棚の上に無数の器物《うつわ》が載せてある。所謂る今日の外科道具で銀色の小刀、同じ色の鋏、象牙の篦《へら》、鹿の鞣革、鵠毛《くぐいげ》の刷毛、鋭い鉄針、真鍮の輪、それと並べて大小の箱が、粉薬水薬を一杯に満たせ、整然として置かれてある。
「おいでなさりませ陶器師様。」優しく月子は声を掛けた。
間も無く陶器師は這入って来よう。そうして手術は行われよう。その手術こそ此の物語でも、最も興味ある場面なのである。併し作者《わたし》は暫くの間物語の筋を横へ逸らせ、青木原で陶器師と別れた高坂甚太郎の身の上に就いて少しく説明しようと思う。
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いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
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莫迦《ばか》に暢気そうな歌声が本栖湖の畔《ほとり》から聞えて来た。
見れば、甚太郎が其処にいる。其処と云うのは湖岸なので、水漫々たる湖が眼路|遥《はるか》に開けている。
「ハアほいのホイ……」
穏かな初秋の大気の中へ融け込んで了いそうな声である。唄って了うと甚太郎は、何んの屈託も無さそうにキョロッとした眼をとほん[#「とほん」に傍点]と据えて、まじまじと湖面《うみづら》を眺めたが、
「考えて見りゃ此の湖水、何《ど》うも少し可笑いよ。いつも朦気が立ち罩《こ》めていて向う岸が見えないんだからな。それに何方を眺めたって人っ子一人見えないのに、時々泣声や喚声が何処からともなく聞えて来る。――変に気味の悪い湖水だよ。……此処へ来て今日で三日になる。今日もお天気昨日もお天気、上天気ばかり続くのに、湖水ばかりが晴れないとは何う考えても可笑いよ。あんなに朦気の立つ所を見ると此の辺一帯湿けているのかもしれない。……あれは何んだ? おお鷹か、いい気持ちに飛んで行きおる。」
五
蒼々と晴れた空高く、一羽の鷹が翼を揮い、湖水を越えて翔《かけ》て行く。行手に当って山がある。王ケ岳は千六百尺、麓に精進湖を湛え、東北の空に聳えている。その西には釈迦岳が八坂峠を抱擁しながら峨ケ岳の峰に続いている。駿州境には雨ケ岳同じく竜ケ岳が聳えていたが、大室山、長尾山、天神峠の山々を隔てて富士の霊峯の峙《そばだ》っているのは洵に雄大な景色である。
これら山々の裾野原が四方八方から集まって来て、それが一つに寄合った所に本栖湖が湛えているのであった。
東西一里、南北一里二町、これが本栖湖の大きさである。周廻《まわり》三里五町というのが其の全体の容積である。尤も是は明治大正現代に於ける大きさで、戦国時代には本栖湖はもっともっと大きかった。周廻六里はあった筈である。由来本栖湖は貞観の頃迄は、西湖、精進湖と連なっていて、全然同じ湖水であった。今も三つの湖は底に於て続いている。その証拠には水の量が三つ乍ら同じである。
富士ハ湖地高燥、本栖湖ニ至テ最高ク、湖面不断ニ光ヲ発シ、水|水銀《すいぎん》ヲ湛フガ如シ、と或る旅行記にあるように、本栖湖の水面は朝に夕に微妙な銀色に輝いていた。
併し夫れより不思議なのは、今も甚太郎が怪しんだように、湖水の真中と思われる辺から漠々たる朦気の立ち上っていることで、それも尋常の朦気とは異い無限に長い白布を湖面を横断して引き延ばし、更に夫れを空に向けて高く高く釣り上げたようで、その朦気に遮られて対岸の物象は蔽い隠され、空さえなかば蔽われている。
今、その朦気を押し分けて一隻の帆船が現われた。
それは極めて古風な船で且つ見慣れない形である。帆が無数に釣ってあるが孰《いず》れも横に並んでいる。そうして其の色は血のように赤い。人が三人乗っていたが孰れも赤袍を纏っている。
船が進むに従って、群り飛んでいた水鳥が、ムラムラと船首《へさき》へ群って来て又雪のようにパッと散るのが、物皆な静かな風景の中で唯一つ動くものの姿と云えよう。
岸を離れる二反余の所で、船は静かに帆を卸した。と、一人が船首へ立ち、
「子供子供何をして居る?」甚太郎へ声を掛けた。
「へ、畜生、馬鹿にしてらあ。」
甚太郎は憤慨した。「ひと[#「ひと」に傍点]を子供だって云やあがる。そんな奴とは交際《つきあ》ってやらねえ。」
で甚太郎は返辞をしない。
「子供子供何処へ行くつもりだ? 子供子供、何故返辞をしない?」
「子供子供子供子供、二百遍でも云うがいい。俺は返辞をしねえばかりさ。」
甚太郎はゴロリと寝た。草の上へ腹這いになり、両肘を曲げて顎を支え、支えた顎を前へ突き出し、ふてぶて[#「ふてぶて」に傍点]しく睨むのである。
不思議に思ったか船中では、何かヒソヒソ話し合っていたが代って一人船首へ出ると、
「鳥刺殿、鳥刺殿。」
言葉を改めて呼んだものである。
するとムックリと甚太郎は鎌首を立てて延び上ったが、
「鳥刺は俺だ。何か用かな?」
「アッハハハハ是は現金! いや面白い鳥刺殿だ。……何んと鳥は捕れましたかな?」
「捕ろうと思えばいくらも捕れる。此処等の鳥は馬鹿だからな。」
「で、沢山捕れましたかな?」
「ところで一羽も捕らないのさ。捕った端から逃がしてやったのさ。」
「それでは商売になりますまいが?」
「俺の商売は他にある」
「ははあ、左様でございますかな!」
「人を発見《みつ》けるのが俺の本職だ。」
「誰人《どなた》を発見けて居られますな?」
「俺に執《と》っちゃ従兄にあたる……。」
「矢張り身分は鳥刺殿で?」
「違う!」
と甚太郎は横を向いた。「こう見えても此の俺だって根からの鳥刺じゃねえんだぜ。」
「それは左様でございましょうとも。」
「俺の従兄は侍だ。」
「お侍様でございますかな。」
「年は二十歳、好男子《いいおとこ》だ。」
「それは好男子でございましょうとも。」
「この本栖湖へ来た筈だ。」
「ははあ、本栖湖へ? 此の本栖湖へ?」
「どうだお前達逢わなかったかな?」
三人の船頭は顔を集め何やらヒソヒソ話し出した。しんと[#「しんと」に傍点]四辺《あたり》は静かである。
「ああ好い天気だ。秋に違えねえ。」
眼を細め眉を垂れ、甚太郎は無念無想、ぼんやり湖面を眺めやった。
水に沈み水に浮き、パッと飛び立ち颯《さっ》と下りて来る。白い翼の水禽以外、湖面に蠢めく何物も無い。岸に近く咲いているのは黄色い水藻の花である。湖《うみ》の面は油のように平にトロリと湛えているが、併し玲瓏と澄んではいない。底に無限の神秘を秘め、表面《おもて》に不安の気分を現わし、どんより[#「どんより」に傍点]と拡っているばかりである。
と、船頭が声をかけた。――
「鳥刺殿、鳥刺殿。」
「オーイ。」と甚太郎は顔を上げる。
「ハイ、逢いましてござりますよ。」
「おお逢ったか? そのお侍に?」
「ハイ、逢いましてござります。」
「で、何処で見掛けたな?」
「恰度《ちょうど》其処でございます。その岸の辺でございます。」
「そうして何処へ行ったかな?」
「湖を渡って向う岸へ。」
「それじゃ俺も行かずばなるまい。」
「船にお乗りなさりませ。」
「おお其の船へ乗せてくれるか。」
「お安いご用でございます。」
ギーと船が寄って来る。
甚太郎はムックリ起き上がり、ヒラリと岸から船へ飛んだ。船は大きく一つ揺れたが、そのままツツーと帆を上げると、グルリ船首《へさき》を沖へ向け、辷《すべ》るがように駛《はし》り出した。
見る見るうちに姿小さく、水脈《みお》を一筋残したまま、船も人も朦気の中へ、朦朧として消え込んだ。
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第六回
一
高坂《こうさか》甚太郎を乗せたまま赤い帆の小船は駛《はし》ってゆく。微風が湖上を吹いている。赤い帆が揺れてハタハタと鳴る。甚太郎は愉快そうに歌を唄う。いざ鳥刺が参って候……好きな鳥刺の歌である。三人の水夫《かこ》は黙っている。木像のように物を云わない。只時々微笑する。気味の悪い微笑である。
振り返って見ると富士の山は、広茫たる裾野の空高く、巨人のように立っている。厳かではあるが険しくは無い。それは君子の姿である。じっと甚太郎を見送っている。
「行くな行くな、帰って来い。其方《そっち》には危険が待っているぞ。」こう云ってでもいるようである。微風に揺れる裾野の花は、虹を天から持って来たようだ。船が進むに従って、その虹の色は茫然《ぼんやり》とする。進み進んで赤帆の船が、水蒸気の厚い壁の中へ、全く姿を隠した時には、最《も》う其の草花の虹の色はすっかり薄れて見えなくなった。船の周囲《まわり》を飛び廻わり乍ら、何処迄も従《つ》いて来た水禽も、水蒸気の壁を境として、船を見捨てて翔け去って行った。
船はずんずん駛って行く。厚い水蒸気の壁の中を。……甚太郎の躰はしっとり[#「しっとり」に傍点]と濡れた。水蒸気の為に濡れたのだ。何方を見ても濠々と白い水蒸気が立ち罩《こ》めていて、文字通り咫尺《しせき》を弁じない。同じ船の中の水夫の姿さえ、薄絹《うすもの》の奥にあるようだ。朦朧として見究められぬ水を見ようと覗いて見ても、湖水の蒼い水の代りに、乳色の濛気を見るばかりだ。
その水蒸気の壁の厚さは幾ら有るとも知れなかった。白一色の曠野である。東西知らぬ迷宮である。迂闊に此処へ迷い込んだ船は、遂に帰えることが出来ないだろう。纐纈《こうけつ》城の守備としては真に無比の要害である。此の水蒸気は人工らしい。その証拠には水蒸気は横へも流れず下へも降りず、滝を逆さに懸けたように上へ上へと立ち昇る。
赤い帆の船はひた駛る。
右に曲がり左に曲がり、時にはグルリと後返りをし、駸々《しんしん》として進んで行く。その様子が、眼には見えないが一定の航路が出来ていて、その航路に従って進んで行くように思われる。
と、忽然行手に当って太鼓の音が聞えて来た。ドン、ドン、ドン、ドンと、四つ打ち、暫く間を置いて復《また》四つ打つ。合図の太鼓と思われる。四辺茫漠たる霧の中で、鳴り響く太鼓の洞然たる音は洵《まこと》に神秘的のものであったが、それに答えて赤帆の船から、法螺貝の音の鳴り渡ったのは更に一層神秘的であった。
厚い水蒸気の白壁も、やがて次第に薄れて来た。仄《ほのか》乍らも蒼い水が霧の底から窺われる。船の速力は徐々に緩み、張切った赤帆が弛んで来た。其の時、眼の前の霧の中から灰色の物が見えて来た。纐纈城の石垣である。船は石垣に添い乍ら東の方へ徐行する。すると遥の霧の奥から黄金色の光がおぼめいて[#「おぼめいて」に傍点]来た。近付くままによく見れば、巨大な楕円の形を持った真鍮の水門の扉である。船が扉へ近寄るに連れて扉は左右へ拡がった。ゴーンという軋り音が、一しきり[#「しきり」に傍点]響いて止んだ時には、船は水門を潜っていた。扉の内側は広い水路で、湾と云った方がよさそうである。要害を見せない為めでもあろう、湾の中は闇であった。闇の湾を船は徐行する。行くに従って其の湾は次第に狭くなるらしい。船は暫く徐行する。其の時、二点の火の光が、行手に当って燃え上った。船は其の火へ近寄って行く。湾は益々|狭《せば》まって行く。そして狭まり尽くした所に広い花崗岩《みかげいし》の階段がある。階段の左右に人がいる。手に松火を捧げている。入江の火はピチャピチャと石の階段の最下の段を面白そうに洗っていたが、松火の光に照らされて、その辺一面青苔に依って飾られているのが窺われた。階段は弛い勾配を以て高く上へ懸かっている。
船は階段へ横付けになった。
一人の水夫《かこ》は身を捻ると、船から階段へ飛び移った。二人の水夫も飛び移る。続いて甚太郎も飛び移った。松火を捧げた二人の者が、先頭を切って進んで行く。六人の者の歩く音が壁や天井へ反響する。壁も天井も岩組である。篝火が所々に燃えている。
纐纈城の構内へ斯うして遂々《とうとう》入り込んだのである。永禄元年七月二十日、正午時刻のことである。
二
纐纈《こうけつ》城では捕虜のことを「大事な賓客」と呼んでいた。その大事な賓客達の部屋は、広い而《そし》て無限に長い、掃除の行き届いた廊下の両側に、殆ど無尽蔵に並んでいた。
或る日、それは甚太郎が、纐纈城へ入り込んでから、約十日程経った日の、大変輝かしい午後のことであったが、広い広い纐纈城の隅々隈々に迄鳴り渡るような鋭い女の叫び声が、大廊下の外れから聞えて来た。胆を潰した賓客達は、廊下へ向けて開けられてある――真鍮の格子で鎧われた横方形の窓口へ、螽斯《ばった》のように飛んで行って、声の主を見ようとした。併《しか》し姿は見えなかった。それは廊下が余りに長く、そうして叫んでいる声の主がその外れにいるからである。尤《もっと》も漸時《だんだん》その声は廊下伝いに近寄っては来た。軈《やが》て姿も見えるようになった。一人の尼が轆轤車《ろくろぐるま》に乗せられ、此方へ曳かれて来るのである。年の頃は二十一二、切下髪に墨染の法衣、千切れた金襴の袈裟を掛け、手に水晶の珠数を握り、足には何んにも穿いていない。躰は革紐で十文字に縛られ、銅の柱に繋がれている。紺の小具足に身を固め血紅色の陣羽織を纏い、鞭を握った武士が一人、車の横に付き添っている。轅《ながえ》を曳くのは小者である。車は徐々として進んで来る。
尼は吠えるように叫び出した。雷のような声である。
「……先祖を崇め尊《とうと》ぶのは決して悪いことでは無い。和魂《にぎたま》荒魂を尊《うやま》うのも、決して悪いことでは無い。併し夫れだけでは不満足だ! そんな事よりもっと[#「もっと」に傍点]もっと崇め尊わなければならないものが、此の宇宙には存在する。他でもない夫れは仏陀《ほとけ》だ!……太占《うらない》を以て神意を問い、大嘗斎服の神殿を造り、触穢《けがれ》を忌み清浄を喜ぶ、これは決して悪いことでは無い。併し夫れよりもっと[#「もっと」に傍点]もっと為《し》なければならないことがある。それは仏陀を信ずることだ!」
キリキリ、キリキリと音を立て、轆轤は廻転する。
「ああ、そうか。あの尼さんか。いよいよあの人も殺されると見える。」一つの窓から眼を覗かせ廊下を見ていた若者は、こう云って鳥渡《ちょっと》溜息をした。
「まあ気の毒に半|裸体《はだか》だよ。ボロボロに破れた法衣の下から綺麗な肌が透けているよ。若い身空で可哀そうに。」こう云ったのは女の声で、声の主は涙ぐんだ眼を、もう一つの窓から覗かせている。
「いい気味だ。神罰だ。もっとピシピシ撲られるがいい!」突然|詈《そし》る声がした。若者の部屋と軒を並べた最《も》う一つの部屋の窓の中から、その罵声は聞えるのである。「仏が何んだ、仏教が何んだ。要するに夷狄《いてき》の宗教じゃ無いか。日本には日本の宗教がある。神《かん》ながらの神道じゃ! 我輩の奉ずる古神道じゃ!」、――それは白髯の老人であった。どうやらそれは禰宜《ねぎ》らしい。
「そうともそうとも、その通りだ。彼奴みっしり[#「みっしり」に傍点]撲られるがいい。神道ばかりか孔孟の教をも、あの女は詈っている。」こう合槌を打ったのは其の並びの部屋の主で、これは無髯の老人であった。
威圧するような厳《いかめ》しい声で、また尼は叫び出した。
「……おお神道は宗教ではない。憐むべき清潔法だ。孔孟の教は経済だ。共に人心を導くに足りぬ! 因果経よ、涅槃経よ、仏教こそは讃美《ほむ》べきかな。……恥ず可きは人の世だ。戦国の世の浅間敷《あさまし》さ、一夫多妻、叔姪相婚、父子兄弟相|鬩《せめ》ぎ、骨肉互に啄《ついば》もうとしている。……愚しいは迷信だ! 愚しい迷信は捨てなければならない。あの三|諸《むろ》山の神体は、角ある蛇だと云うではないか。あの常陸の夜叉大神は、男の陽物だというではないか。伯耆美作では大猿を祭り、河内では河伯《かっぱ》を崇めると云う。これらの迷信は捨てなければならない。」
キリキリキリと轆轤車《ろくろぐるま》は、その間も廊下を軋って行く。
あちこちの窓からは無数の眼が、或は嘲り或は憐み或は怒り或は蔑み、格子越しに覗いていたが、窃々《ひそひそ》互に囁き合う。
「可哀そうな尼さんだな。」――「火炙りにされるって云うじゃないか。」――「血を絞られるのは未だいいよ。楽に夢のように死ねるからな。」――「火炙りとは恐ろしい。」
「何故そんな目に遭わされるのだろう?」――「お説教をした罰だとよ。――あの尼さんは自分から好んで此のお城へ来たんだそうだ。仏陀の力で此処の人達を罪から救おうと目論んでな。」
「救って貰う必要はない。俺達は大変幸福なんだからな。」
「そうとも俺達は幸福だよ。生活《くらし》の心配がないからな。」――「立派な部屋、柔い衣裳、旨い旨い充分の食物。……尤も、毎月籤引があってそれに当った人間は、血を絞られなければならないけれど、千人余りの数の中から、たった五十人だけ選ばれるんだからな、容易なことでは当りそうにもない。俺は此の城へ遣って来てから、もう徐々《そろそろ》五年になる。」
「俺は今年で四年になる。」「俺は今年で七年になる。」
「そうかと思うと信念という坊主は、来た其の日に殺されたっけ。」――「あれは後生が悪かったからさ。」――「運の悪い人間なのだよ。」
「娑婆の奴等に云ってやりたいよ。貧乏を下げて浮世にあるより、纐纈城へ遣って来いとな。これほどの贅沢をさせて貰って四年五年活きていられるなら、血を絞られたっていいじゃないかとな。」
「そうともそうとも、その通りだ。」
三
「安逸なる者よ寝床から起きよ。飽食の女よ口を洗え。慈悲に縋れ仏陀《ほとけ》の慈悲に。」
尼は復《また》もや叫び出した。
「又何か呶鳴り出したよ。」――「でも尼としては別嬢だな。象牙のような肌をしている。」――「そうだ随分美しい。」
「纐纈城を逃げ出せよ。羅刹の巣窟を遁がれ出よ。汝悪魔纐纈城主よ!」
ピシッ、と劇しい鞭の音が、その瞬間聞えて来た。血紅色の陣羽織を着た、付添の武士が革の鞭で、尼の背中をくらわせ[#「くらわせ」に傍点]たのである。
キリキリキリキリと車が軋《きし》り、尼は挫《ひる》まず叫びつづける。
「仏陀の教《おしえ》こそ讃美《ほむ》べきかな。それは隠遁の教では無い。勇往邁進建設の教だ。禁慾の教克己の教だ。……妾《わし》は直ぐに殺されよう。妾は直ぐに火炙《ひあぶり》に成ろう。併し妾の云ったことはお前達の耳に残るだろう。どうぞどうぞ残ってくれ。妾はお前達に改めて云う! 禁慾同盟を為るようにとな。お前達はもっと痩せなければならない。お前達は非常に肥えすぎている。血の分量が多過ぎる。お前達はもっと痩せなければならない。美食をするな。沢山食うな。痩せて悪魔の鼻を明かせろ。纐纈城主の鼻を明かせろ。」
薄暗い廊下の空間へ革の鞭が渦を巻いた。と、ピシッと音がした。剥き出された尼の肩の上を革の鞭が撲ったのである。
「撲るがいい。打つがいい。打擲は琢磨だ、そうだ琢磨だ。真理の珠は更に輝こう。肉よ千切れよ、血よ滴《したた》れよ。此の身は猛火に焼け爛れよ。仏陀《ほとけ》の慈悲は止む時は無い。仏陀に縋れ仏陀の慈悲に! そうして禁慾同盟をせよ。そうして飢餓同盟をせよ。克己を以て! 克己を以て! 血の分量を少くせよ!」
革の鞭は幾度も幾度も灰色の空間で渦を巻いた。その都度劇しい音がした。ピシッ、ピシッ、ピシッ、ピシッと。……ギギ、――ギギ、――ギギ、――ギギ――と、轆轤車《ろくろぐるま》は廻転する。
「おお可哀そうに。おお恐ろしい。肩からあんなに血が出ているよ。紫色に脹れ上っているよ――。」一つの窓から女の声で斯う叫ぶのが聞えて来た。「何んてあの人は美しいんでしょう。あんなに打たれ傷付いているのに!」
「何てあの尼は美しいんだろう? ほんとにあの尼は美しい。あんなに鞭で撲られているのに。」――もう一つの窓から若者の声で、こう云っているのが聞えて来た。「血が紐のように流れている。その血の色の綺麗なことは。股と云わず、肩と云わず、胸も腕も顔までもあんなに目茶苦茶に傷付いているのに、どうしてあんなに美しいんだろう?」
「真理を叫んでいるからだ?」――何処からともなく叫んだ者がある。
「本当のことを云っているからだ!」復《また》こう叫ぶ声がした。誰が叫んだのか解らない。とは云え勿論何処かの部屋の賓客の一人には相違ない。
「自分を犠牲にしているからだ!」こう叫ぶ声も聞えて来た。
「穢い尼だ。撲るがいい。」こう反対に叫ぶものもあった。
「撲れ撲れ撲りつけろ!」
「美しい! 美しい! 美しい!」
「穢い女|奴《め》! 穢い女|奴《め》!」
「撲れ! 撲れ! 撲ってやれ!」
「美しい! 美しい! 美しい!」
窓々から迸《ほとば》しる様々の声は、高い天井や床板や、部屋部屋の壁に反響し、凄じい音を形成《かたちづく》ったが、その音の中を貫いて、尼の叫びと車の軋音《きしりね》とは、次第次第に遠退いて行く。廊下を北の方へ遠退いて行く。廊下の外れは丁字形をなし、二筋の廊下が走っていたが、轆轤車は尼を乗せたまま、東の方へ辻を曲った。俄かに叫声は幽《かすか》になったが、併し全然《すっかり》消えはしない。
「……纐纈城を遁れ出よ。……おお、せめて精神的にでも!」
鞭の音が聞えて来る。そうして車の軋音《きしりね》も。
「……物慾の上に超越せよ。……飢餓同盟。……禁慾同盟。慈悲に縋れよ。……仏陀の慈悲に……。」――併し軈《やが》て其の声も遠く離れて聞えなくなり、長い広い廊下には再び寂寥が立ち返って来た。窓々の顔も内へ引っ込み、呟く声さえ聞えなくなった。
四
部屋は大変静かであった。
露台が海へ突き出ている。潮風が部屋の中へ吹込んで来る。深紅の壁掛が裾を顫わせ、香炉から立ち昇る香料《こう》の煙が右に左に揺れ動く。鼻を刺す鋭い匂! 即、香料の匂であったが、部屋一杯に充ち満ちている。悪病の持主纐纈城主が、自分の躰から発散する、嘔吐を催させる悪臭を、防ごうための匂である。
部屋は城主の居間である。
部屋の中央、海に向かって、纐纈城主が腰かけている。纐纈布で作られた鎧|直垂《ひたたれ》は着ているが、鎧は着けてはいなかった。
顔は海の方へ向いている。併し本然の顔では無い。鉛色をした仮面《めん》である。
月が空に懸かっている。蒼褪めた深夜の月である。なかば開けられた露台の扉から、風と一緒に月の光が部屋の中へ射し込んでいる。
部屋には一基の燭台も無い。光と云えば月光ばかりだ。
鉛色をした仮面の奥から、城主の声が聞えて来た。無表情の声である。仮面のように無表情である。無表情の声の冷酷さ! 併し多くは説明しまい。
「後夜の鐘の鳴る頃だな。幸福な人達の熟睡時《うまいどき》だ。……お前どうだな、睡くはないかな!」
誰かに話しかけているらしい。すると直ぐに返辞がした。
「いいえ睡くはございません。ちっとも睡くはございません。不思議なことに今夜は漸時《だんだん》眼が冴えるようでございます。」
声の主は女であった。若い美しい女であった。わざと月光の射さない隅へ、躰を寄せて腰かけていたので、今迄姿が見えなかったのである。
「睡くはない? おおそうか。が、すぐ睡くなるだろう。……だが今夜はお前の様子は、ひどく昂奮してそわついている。まるで情夫でも待っているようだ。いやいや顔を反《そむ》けずともいい。お前の美しい其の顔を何うぞ俺に見せてくれ。……うむ、お前の眼付がいい。姦婦の眼付そっくりだ。うむ、お前の唇《くち》付もいい。姦婦の唇付そっくりだ。」
「どうぞお許し下さいまし。もうもうそのような恐ろしいことは、どうぞ有仰《おっしゃ》らないで下さいまし。聞くのも辛うございます。……妾《わたし》はお許しをいただいて、寝部屋へ帰りとう存じます。」
女はスラリと立ち上った。頸《うなじ》からかけて、肩の辺まで、月の光に照らされた。細《ほっそ》りとした頸の形が、弱々しく美しい。乱れた髪毛が渦を巻き、左の肩へ垂れているのが、微風に嬲られて顫えている。
「帰っては不可《いけ》ない。帰っては不可ない。睡くはないと云ったではないか。……そうだ、そうやって立ち乍ら、俺を見ている眼差などは、うってつけ[#「うってつけ」に傍点]の姦婦型だ。胸が劇しく波打って来たな。足がブルブル顫えて来たな。呼吸《いき》使いも苦しそうだ。お前は俺《わし》が恐ろしいと見える。……待て! 貴様は何処へ行く!?」
「妾《わたし》はごめんを蒙ります。今夜は変でございますもの。貴様などという乱暴な言葉を、平気で聞いては居られません。愛している者へはそういうお言葉は、使わないものでございます。」
「許してくれ。悪かった。乱暴な言葉を使ったのは、いかにも俺の誤りだ。では取り消すことにしよう。怒っては不可《いけ》ない。怒らないがいい。……まあ此処へ座るがいい。そうして面白い話でもしよう。」
女は静かに腰をかけた。
「手をお見せ、お前の手を。……白くて柔くて鞣革のようだ。ああ此の手で幾人の男の逞しい肩を抱いたことか!」
女は全身を顫わせた。そうして何か云おうとした。
「まあ宜《よ》い、まあ宜い、何も云うな。気に障《さわ》ったら許してくれ。俺《わし》は時々変なことを云う。これは常識が無いからだろう。いやいや是は病気だからだ。……お前は俺を何《ど》う思うかな?」
「何う思うと有仰《おっしゃ》いますと?」
「俺《わし》を可愛いと思うかな? それとも憎いと思うかな?」
「申上げる迄もございません。可愛いお方でございます」
「俺が可愛い? ほんとかな? 俺の何処が可愛いな?」嘲けるような声である。
突然城主は手を延ばした。両手を前へ突出した。二本の白木の棒とでも云おうか、腕からかけて指の先まで白布で隙間なく巻き立ててある。悪病のために爛頽《くず》れた皮膚を見せまいための繃帯であろう。
「ああ、此の手も可愛いかな? いつも付けている中将の仮面《めん》、泣きも笑いもしない木の能面、仮面の奥の俺《わし》の顔! この顔も可愛いかな?」
云い云い顔を突き出した。仮面の色は鉛色である。それは白が古びたからで、一抹黄味を帯びている。薄い茫々とした八字眉、眉の下の淋気な皺、少し垂れた魚形の眼、眼の真中に瞳があり、そこに穴が穿《うが》たれている。その穴から覗くのは、炭火のような赤い光で、悪病のために何時も熱ある纐纈城主の双の眼である。少し小鼻が根張ってはいるが尚形のよい真直の鼻、半分《なかば》開いた歯を見せた口、鼻の下の薄い髭、スッと憔《こ》けた寂気《さびしげ》な頬など、中将の仮面《めん》は穏《おだやか》で且《か》つ優雅ではあったけれど、それが却って物凄かった。そうして非常に不自然であった。
「妾《わたし》には何時もご城主様が可愛く思われるのでございます。」――城主の愛妾は顫え顫え夫《そ》れでも漸く斯う云った。
「水泡《みなわ》よ。」と城主は嘲けるように「そうして今夜も可愛いかな?」
「はい、さようでございます。」
「いやいや今夜は憎い筈だ。何んと水泡《みなわ》よ、そうではあるまいかな?」
城主は肩の辺で笑ったものである。
五
「そう有仰れば今夜に限って、貴郎《あなた》様が憎く思われます。いつにない乱暴な言葉で物を有仰るからでございます。」
「そうではあるまい。そんな筈は無い。他の意味で憎い筈だ。ああお前は俺《わし》に執って、黄金よりも珠よりももっともっと可憐《いとし》く思われる時もあれば、斬り殺しても飽き足りない程憎く思われる時もある。今のように空々しく、俺を瞞そうとする時など、俺はお前を殺したくなる。……まあ宜い、何も云うな。弁解などはするものでは無い。また為《し》たところで聞きもしない。……お前は深夜お前の部屋で時々|箏《そう》を、弾くことがあるが、よい習慣とは云われないな。……水泡よ、お前はその箏を、今夜も弾こうとしたのだろうな?」
「はい。……いいえ。……マア城主様!」
「いいえだと? ご城主様だと? いやいやお前はあの男と俺《わし》に隠れて窃《こっそ》りと箏を弾こうとしていた筈だ。ところがこんなに夜更けてから、突然此の部屋へお前を招んだ。で、俺を憎んでいる筈だ。」
「貴郎《あなた》の有仰るあの[#「あの」に傍点]男とは、誰人《どなた》のことでございます?」
「日頃お前と仲のよい、その為め俺には気に食わない、小姓頭の式部のことだ。」
「おお式部様! 衣川式部様!」
「あの男は美しい。姦夫のように美しい。絹のような彼奴《あいつ》の眼は、あらゆる女の着物を通して乳の下ばかりを眺めている。熟れた柘榴の実のような、紅いネバネバした彼奴の口は、淫《みだら》なことばかりを語っている。それが又女には好もしいらしい。」
「いいえいいえ違います。妾は大嫌いでございます。衣川式部! ああ厭だ! 妾は大嫌いでございます。」
「おお、お前は大嫌いか。フ、フ、フ、フ、本当かな? しかし女と云うものは嘘をよく吐きたがるものだ。自分の一番好きな物を一番嫌いだと云いさえする。その癖一番嫌いな物と、ともすれば[#「ともすれば」に傍点]隠れて遊びたがる。……が、嫌いなら嫌いでもいい。やがて自然と解る時が来よう。」
仮面の城主は立ち上った。それからノロノロと歩き出した。さも大儀そうな歩き方である。
「水泡《みなわ》よ、俺《わし》に従いて来い。そうしてお前の部屋へ行こう。」
戸を開けると廊下である。廊下は真直ぐに延びている。何方を見ても人気が無い。篝《かがり》が両側に燃えている。篝の前を通る時丈高く痩せた城主の影が、向う側へ映る。そうして仮面が血のように赤く、焔のようにテラテラする。併し、向うへ通り過ぎると、中将の仮面《めん》は鉛色となり、影法師も姿を消す。
城主の後から水泡が行く。恐怖で躰が自由にならない。今にも前方《まえ》へ仆れそうだ。見開かれた眼は床を見詰め、瞬《まばたき》一つしようともしない。どうやら瞬を忘れたらしい。両手を胸の上で握り合わせ、それを夢中で締めつけている。彼女は口の中で叫んでいる。「ああ妾《わたし》は罰せられる! 以前《まえ》の人達が罰せられたように! 明日の陽の目を見ることは出来まい。二十人目、三十人目、三十七人目に罰せられるのだ! ああそうでは無い百人目かもしれない。いやいや二百人目、三百人目! この男は人間かしら? 血の池地獄の主かもしれない!」
一つの部屋の前へ来た。仮面の城主が戸に障った。と戸が内側へ音も無く開き、華美《はなやか》な女部屋が現われた。
箏が床間に立てかけてある。
「水泡よ、箏を弾くがいい。そうして俺《わし》にも聞かせてくれ。あの[#「あの」に傍点]男の好きなあの歌をな。」
城主は立ったまま命令した。「さあ早く箏を弾け!」
女は黙って顫えている。突然床へ突っ伏した。
「何も顫えることは無い。ただ鳥渡《ちょっと》弾くばかりだ。」――城主は箏を取り下した。女の前へ押し遣ったが「ただ鳥渡弾くばかりだ。さあ早く弾くがいい。」
水泡はソッと顔を上げた。その眼は狂人《きちがい》のように血走っている。
「弾くのでございますね、あの[#「あの」に傍点]歌を。……」
云い乍ら絃に指を触れた。ジーン、と、云う寂しい音がする。
「後夜の鐘の鳴る頃だ。いつもあの[#「あの」に傍点]男の来る頃だ。……さあ弾くがいい。弾き次ぐがいい。」
「此処《ここ》は地獄だ! 神様は居ない。呼んでも叫んでも助かりっこは無い。」
女は口の中で呟いた。寂しい音を次々に立て、箏の曲を弾き澄ます。
「……おお、それは序の曲だな。」仮面の城主は冷かに、「この序の曲を弾く頃には、いつもあの[#「あの」に傍点]男は部屋の外の、花園の辺に来ている筈だ。で、今夜も来ているだろう。……」
箏の調《しらべ》は一変した。嘆くがような音を立てる。
「……この調を弾く頃には、いつもあの男は隣の部屋の、窓の下に立っている筈だ。だから今夜もあの[#「あの」に傍点]男は、窓の下に立っていよう。」
六
調《しらべ》は更に一変し、欷歔《すすりなき》のような音《ね》となった。
「……水泡《みなわ》よ、お前には男の姿が、今まざまざ[#「まざまざ」に傍点]と見えるだろうな。草色の水干に引っ立て烏帽子、細身の太刀を侃き反《そ》らせ、胸の辺に罌粟《けし》の花を、いつも一輪付けている筈だ。そうして、其の花は男の胸から女の髪へ差し換えられる筈だ。そうして其の花は暁天《あけがた》には、二人の交わせた枕の間へ、物憂く凋んで落ちている筈だ。」
箏の調は絶えるがように次第次第に低くなった。
「さあ夫れが最後の調だ。男は此の時窓を越え、あの隣部屋へ入り込んでいる筈だ。そうだ、お前の寝部屋へな!」
此の時、正面の寝部屋から、断末魔の悲鳴が聞えて来た。
水泡は箏の手を止める。
間の襖が向うから開き、一人の大男が現われた。手に大鉈を持っている。刃先から鮮血が滴っている。その血の滴った床の上に一人の男が転がっている。胸を刳《く》られて死んでいるのだ。
「おっ。」と水泡は声を上げた。立ち上がろうとするのではあるが足が云うことを聞かないらしい。膝と両手で這い寄るや、犇《ひし》と死骸を抱き締めた。
「草色の水干を着ている筈だ。」城主は無表情に冷かに、「胸に罌粟の花を差している筈だ。それはお前の恋人だ。」
「式部様! 式部様!」水泡は夢中で呼ばわった。
「お前の弾く音に誘われて、可哀そうな男は遣って来たのだ。手を下したのは万兵衛だ。殺させたのは此の俺《わし》だ。併しお前にも罪がある。お前の罪が一番重い。男を死地へ引き寄せたのだからな。」
水泡は矢庭に飛び上った。城主目掛けて掴みかかる。その手が城主へ触れた途端、城主の冠っている中将の仮面《めん》を片手で素早く持ち上げた。水泡の顔と城主の顔とが、ひた[#「ひた」に傍点]と直接《じか》に向き合ったのである。
忽然悲鳴が鳴り渡った。ヒーッという悲鳴である。水泡の口から出たのである。水泡は両手で眼を蔽うた。併し夫れは遅かった。メズサの顔を見たものは、そのまま即座に死ななければならない。
「万兵衛。」と城主は無表情の声で「二つの死骸を運ぶがいい。地下の工場へ持って行け。此奴《こいつ》等の血で染め上げた布で、俺の上衣《うわぎ》を作ってくれ。」
ボーンと鐘が鳴り出した。即ち後夜の鐘である。
此の夜、城内の一郭では、尼が燔刑《ばんけい》に処せられた。煙に烟せ、焔に焼かれ、命の絶える間際までも、叫びつづけたと云うことである。
「……火で焼くがいい、鞭で撲るがいい、提婆のために憎まれて、頭を割られ鉛を詰められた、蓮華色比丘尼に比べては、此の身の殉教は云うにも足りぬ。伊尸耆利《いしきり》山で法敵に襲われ、石子責めに逢って殺された、日蓮尊者に比べては此の身の殉教は数にも入らぬ。妾《わし》はお前達に礼を云う。妾を撲るお前達の鞭こそ、涅槃に導く他力だとな! 妾はお前達に礼を云う。妾《わし》を燻べた松火の火こそ、真如へ導く導火だとな! おお人々よ慾を捨てよ! 慾こそは輪廻を産む。正観せよ! 正思せよ! 輪廻を断滅脱離せよ! その時こそ救われるであろう。……仏様よ、妾は羅漢として、今こそ勤めを終りました! 是から妾は女として、優しい弱い女性《おんな》として、貴郎《あなた》の懐中へ参ります。ああ最《も》う妾は眼が見えない。妾の両眼は焼け爛れた、でも貴郎のお姿は円満慈悲のお姿は、よく見えるのでござります。」
火の手がドッと燃え上り、全く彼女を包んだ時、彼女《かれ》の叫びは絶えたそうである。そうして其の火が消えた時、真黒に焼けた彼女《かれ》の躰が、黒い夜空を背景にして突立っていたということである。
寂然《しん》と更けた纐纈城《こうけつじょう》、耳を澄ませば地下に当って、物の呻くような音がする。人間の血を無限に貪る、血絞機械の音である。類い稀れなる美しい布――纐纈布を作るため、夜も昼も間断無く機械は廻転されるのである。
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第七回
一
「巫山戯《ふざけ》ちゃ不可《いけね》え、巫山戯ちゃ不可え。」例の三白眼を光らせ乍ら高坂《こうさか》甚太郎は呶鳴るのであった。「それじゃ約束が違うじゃねえか。うん、それじゃ約束が違う! 何うしてくれるんだよ。何うしてくれるんだよ。」
「へえ、約束が違いますかな。併し何うも私としては、何んともご挨拶が出来ませんのでな。」
絹糸のような軟い調子で相手の若者は綾《あや》すのであった。
纐纈城の一室である。
「ああ違うとも、全然《まるきり》違《ちが》うよ。俺は大いに迷惑だ。」
「まあまあご辛抱なさりませ。」
「うんにゃ、出来ねえ、是れ以上はな! おい早く何んとかしてくれ。」
「で、何うすれば宜敷《よろし》いので?」
「俺の従兄に逢わせてくれ。」
「何んというお方でございましたな?」
「土屋庄三郎昌春だ。」
「ははあ土屋様? 庄三郎様で?」
「うん、そうだ。早く逢わせろ。」
「はてね、城内に居りますかしら。」
「居る筈だ。居る筈だとも。そう云って俺を連れて来たんだからな。」
「で、誰が申しましたかな?」
「船頭共だ。三人のな。赤い袍《どてら》を着た船頭共だ。」
「そうして何時頃でございますな。」
「十日|以前《まえ》だ。いや十二日になる。そうだそうだ。十二日以前だ。」
「何処でお逢いになりましたな?」
「よく色々訊くじゃないか。……本栖湖の岸だよ。本栖湖のな。」
「で、本栖湖は何方《どっち》側で?」
「ええ五月蠅《うるせ》え! こん畜生! つべこべ云わずと早く逢わせろ?」
併し若者は相も変らず絹糸のような軟い調子でニヤリニヤリと笑うのである。
「まあまあご辛抱なさりませ。ご辛抱が肝腎でございますよ。殊に当城に於きましてはな。」
「当城も糞もあるものか。へん篦棒《べらぼう》め何が当城だ。当城の奴等はみんな誘拐者《かどわかし》だ!」
甚太郎は毒舌を揮い出した。「何うでも逢わせて呉れねえならこの城から出してくれ。」
「どうも夫れが出来ませんので。」
「ナニ出来ねえ? 何故出来ねえ?」
「貴郎《あなた》此処は纐纈城なので。」
「纐纈城が何うしたんだよ。」
「此処は貴郎纐纈城なので。」
「だからよ、夫れが何うしたって云うんだ。」
「捕えたら決して放しません。」
「ところが俺は出て見せる。」
「それは無謀でございます。」
「屹度《きっと》俺は抜け出して見せる。」
「城の外は湖なので。」
「船があろう。船がある筈だ。」
「船を奪うことは出来ますまい。」
「ところが俺は盗んで見せる。盗みにかけたら天才だからな。」
「よしんば船を盗んだにしても、湖水の防備は破れますまい。」
「ナニ防備? 防備とは何だ?」
「天に沖する濛気でございます。」
「天も沖するもあるものか。変な形容詞を使やァがって。あんな濛気ぐらい突破して見せる。」
「それが貴郎不可能なので。」
「いや可能だ。可能にして見せる。」
「はい是れ迄も幾人と無く可能だ可能だと申されましてな、実行された方もございますが。」
「どうした、みんな成功したろう。」
「ところが貴郎、その反対なので。」
「ふん、其奴等《そいつら》揃いも揃って皆んな馬鹿だったに違いない。」
「お利口な方達でございました。」
「利口なら成功した筈だ。」
「ちと其のお利口過ぎましてな。」
「過ぎたるは尚及ばざるが如しだ。矢っ張り其奴等馬鹿だったのだ。」
「ちと其の勇気が有り過ぎましたので。」
「何んな塩梅に縮尻《しくじ》ったんだい?」
「一人のお方は船を盗み甘《うま》く湖上へ漕ぎ出しました。ところが夫れから八日目に船だけ帰って参りました。吹き戻されたのでございますな。」
「で、主《ぬし》は居なかったのか?」
「いえ居たことは居ましたが、骨と皮ばかりに痩せこけた上、冷え切っていたのでございますよ。」
「ふうん、何うして死んだんだろう?」
「餓死したのでございますかな。」
「餓死《うえじに》とは少し変じゃないか。」
「何んの変なことがございましょう。濛気から外へ出ることが出来ず、八日の間飲まず食わず胡乱《うろ》ついていたのでございますもの。」
「他の奴等は何うしたんだい?」
「似たり寄ったりの運命でしてな。」
「では皆んな餓死か?」
「一人のお方は気死致しました。」
二
「ナニ気死だって? 気死とは何んだ?」甚太郎は鳥渡《ちょっと》眼を顰めた。三白眼が稍《やや》曇り、眉の間へ皺が寄る。
「つまり気絶をしたまま死んで了ったのでございますな。恐らく何か恐ろしいものでもご覧になったのでございましょうよ。」
「で矢っ張り濛気の中でか?」
「幸か不幸かそのお方は船を盗むことが出来ませんでした。で城内を胡乱胡乱《うろうろ》した末地下の部屋へ紛れ込んだそうで。其処で何か恐ろしいものでも、ご覧になったのでございましょうよ。」
「一体地下室には何があるのだ?」
「さあ何がありますかな。」
絹糸のような軟い笑《えみ》を復《また》若者は洩らしたが、
「とんと私は存じませぬので。」
「嘘を云え! そんな筈は無い! 城に住んでいる人間が城の案内を知らないなんて、そんな間違った事はねえ。知っている筈だ。云ったり云ったり。」
「いえ其処は夫れ管轄|異《ちが》いで、知っている筈はございません。つまり私の役目と云えばお客様方の相伴役、とりわけ新入りのお客様方を粗末の無いように扱いますのが私の役目でございます。」
「へえ飛んだ相伴役さ。人|焦《じら》しの相伴野郎。では愈々《いよいよ》云わねえつもりか!」
「おっと不可《いけ》ません不可ません。何うも貴郎《あなた》は乱暴ですねえ。まだほんの子供衆だのに二言目には腕力と出る。その又腕力が強いと来ている。相伴頭穴水小四郎に執《と》り確《たしか》に苦手でございますな。」
「あたりめえだ。云う迄もねえ。只の子供とは小柄が異う。見損なっちゃ不可《いけね》えぜ。……おい夫れはそうとお前の眼には、あれが何んと見えるかな?」
云い乍ら甚太郎は手を上げて部屋の壁を指差した。秘蔵の黐棹《もちざお》が立てかけてある。
「へい、黐棹でございましょうが。」
「只黐棹としか見えないかな。」
「他に見様はありませんな。」
「俺が持つと槍になる。」甚太郎は味噌を上げ出した。「嘘と思うなら見るがいい。」
ツカツカ壁際へ近寄るとヒョイと黐棹をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。部屋の中央へツツ――と出ると、小四郎へ向けてピタリと付け、ヒュッ――、ヒュッ――と素繰《すぐ》りを呉れる。針のように鋭い棹の先は見る見るグルグルと渦を巻いたが、それが小四郎の眼の先で大きくなったり小さくなったり自由自在に延び縮みする。大きく渦を巻く時は、小四郎の胸も大きく膨み、ハッハッハッハッと気が急ぎ立ち、絶壁から深淵を見下した人が其の深淵に誘惑され身の破滅と知り乍ら自分から進んで身を投げるように、穂先の渦巻の只中へ飛び込もうと焦《あせ》られるのであった。
一歩一歩小四郎は、前へ前へと歩いて行く。渦巻は漸時《だんだん》大きくなる。天井に届き壁に届き小四郎の眼からは其の渦巻が部屋一杯の大きさに見え、そうして渦巻の奥に当って一つの顔が浮き出している。口を開き歯を剥き出し、頬を膨らせ小鼻を怒《いか》らせ、気味の悪い三白眼をキラキラ光らせた悪戯児《いたずらっこ》らしい顔で、即ち甚太郎の顔なのである。
軈《やが》て穂先の渦巻は次第次第に縮まって来た。それにつれて小四郎は後へ後へと押し戻される。胸がキューッと締め付けられ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッと喘ぎはするが夫れは畏縮した喘ぎである。
「やい野郎、恐れ入ったか!」
悪戯児《いたずらっこ》らしい甚太郎の顔が俄に此の時険悪となったが、
「鳥だ鳥だ大きな鳥だ! 手前を大きな鳥と見立て、黐棹槍の高坂流、翼《はがい》を突き通して呉れべえかな! それ行くぞよ胸板だぞ! 今度は腹だ土手っ腹だ! アリャアリャアリャアリャ大鳥大鳥!」
喚き乍ら詰め寄せる。小四郎は全身汗に濡れ、額から、タラタラ滴を落し、上吊った眼を凝然と見据え、両手をダラリと両脇へ垂らし、後へ後へと引き下がる。
「どうだ云うか、それとも厭か! 地下室には全体何があるんだ? え、おい、大将、何んとか云いねえ! 云うのが厭なら突き殺すぜ! うん一突に突き殺して見せる。冗談だと思うと間違うぞ。俺等《おいら》決して冗談は云わねえ。殺すと云ったら屹度殺す。だから確《しっか》り性根を据え云うか厭か明瞭《はっきり》云いねえ。……ふん、畜生、云わねえ意《つもり》だな! 金仏のように黙っていやがる! 唖が自慢でもあるめえに。よし手前が其の気なら最《も》う一嚇し嚇してくれる。ヤッ。」
と一声気合を掛けると、手繰り気味に握っていた棹を、颯とばかりに突き出した。
魅せられたように立っていた小四郎の頬へ其の途端|冷《ひやり》と風が当ったが、同時にドンという音がした。
「ケ、ケ、ケ、ケ、野郎何うだ! 金城鉄壁物かはと云う槍の手並をご覧《ろう》じろ! やい背後を振り返って見ねえ!」
三
云われて小四郎振り返って見ると、樫材五寸の厚味を持った厳重を極わめた板壁が、ヘナヘナ竹の黐棹の先にブッツリ貫かれているではないか。
「何んとでござるなご相伴衆、拙者が持てば此の棹、正しく手槍となりましょうがな。ケ、ケ、ケ、ケ、態《ざま》ァ見やがれ! これでも吐《ぬ》かさねえと云うのなら今度こそ手前の土手っ腹だ。田楽刺、八目刺、乃至は菱鉾の刳り刺、お望み次第突き刺して見せる? 何うだ大将、否か応か!」
棹を手許へ引き寄せると、グルリ返して石突《いしづき》の方をトンとばかりに床へ突いた。それから顔をグイと突き出し、三白眼をカッと開け、歯の間から長い舌をペロリと吐いたものである。威嚇《おどし》と嘲笑《ちょうしょう》の表情である。
小四郎はハッハッと大息を吐き、ぐたぐた[#「ぐたぐた」に傍点]と床の上へ膝を突いた。十里の道を歩いた所で斯うは疲労《つか》れまいと思われた。
「申しますとも。申しますとも。」彼は漸く是だけ云った。
「うん云うか。いい心掛けだ。」
「で、何から申しましょう。」
「地下室の秘密だ。他に何がある。」
「さて其の地下室でございますがな。……恐ろしい所でございます。」
「第一、地下室は大きいのか?」
「はい大きゅうございます。」
「一体其処には何があるんだ?」
「はい工場がございます。」
「ナニ工場? 何んな工場だ?」
「それが貴郎《あなた》、大変なので。」
「ふん、嚇したって驚くものか。……何んの工場だか云って見ろ。」
「工場は幾個《いくつ》もございます。」
「では端から云うがいい。」
「まず最初は水車場で。」
「何んだ詰らねえ水車小屋か。」甚太郎は少からず落胆《がっかり》したが、
「夫れが何が大変なのだ!」
「夫れが貴郎仲々以って尋常な水車ではございません。」
「へん、何んだか解るものか。」
「纐纈城中一切のものの原動力なのでございます。」
「誰がそんな事を本当にするものか。」
「信じる信じないは別問題で。只私は有の儘を申し上げたまででございます。」
「城中一切の原動力? 随分大きく出やがったな。……併し何うも俺等には意味が明瞭《はっきり》わからねえ。」
「例の濛気でございますがな、あれをあのように立てているのが其の水車なのでございます。」
「ふうん、それじゃあの濛気は人工で作っているのかい?」
「水車の所業《しわざ》でございます。」
「では水車は大きいのかい?」
「直径《さしわたし》十間はございましょう。」
「直径十間? ふうん成程な。そうさ些少《ちっとばかり》大きいな。勿論水車は一つだろうな?」
「いいえ、二十はございましょう。」
「ナニ、二十? 本当かな?」
「城は方形でございます。その一面に五つずつ仕掛けてあるそうでございます。」
「水車は何うして廻転《まわ》すんだい?」
「湖水の水を落し込みましてな。」
「湖水の水を落し込むって? 一体車は何《ど》の辺にあるんだ?」
「深い深い湖水の底の其の又底だそうでございます。」
「夫れはそうなくてはならない筈だ。」
「水の落ち込む勢で濛気が立つそうでございます。」
「偉い勢で落ち込むんだな。」
「偉い勢で落ち込みますので。」
「その他に地下室には何があるんだい?」
「真暗な工場がございます。」
「其処には何があるんだい?」
「何時も呻いている無数の滑車と何時も噛み合っている無数の歯車と、そうして何時も走り廻わっている数百本の調革と。」
「一体何んだい其の部屋は?」
「真暗な工場でございますよ。……併し時々青い火花が、パッパッパッパッと飛び交うそうで。……闇と呻声と青い火花と! そういう工場なのでございます。……つまり動力を配分する工場で。」
「で、その他には何があるな?」
「機織工場がございます。」
「おおそうか。こいつは気に入った。」
「チンカラチンカラ、チンカラチンカラと、朝も暮も昼も夜も、沢山な若い娘さんたちが機を織っているのでございます。」
「こいつ愈々気に入ったぞ。」甚太郎はニヤリと笑ったが「中には別嬪もいるだろうな?」
「それは貴郎《あなた》、居りますとも。」
「畜生、ひどく気に入っちゃった。……所で何を織ってるんだい。」
「白い平絹でございます。」
四
「まだ其の他にもあるのかい?」
「はい貴郎、ございますとも。」
「云って見な。何んな工場だ?」
「絞染工場がございます。」
「ははあ白絹を染めるんだな。」
「はい左様でございます。」
「綺麗でいいな、染物屋は。」
「綺麗でございますとも、染物屋は。」
「色々の色に染めるんだな?」
「いいえ貴郎、そうではございません。」
「そうで無いって? では何んだ?」
「只一色に染めますので。」
「智慧がねえな、一色《ひといろ》とは。」
「はい智慧はございませんとも。」
「何んな色に染めるんだい。」
「燃え立つような真紅の色に。」
「つまり血のような色にだな。」
「はいはい左様でございます。」
「蘇芳《すおう》か何かで染めるんだな。」
すると小四郎は笑ったが、
「はい左様でございますとも。」
「おや変挺《へんてこ》に笑やぁがったな。」甚太郎は黐棹を取り直した。
「一体何が可笑しいんだ?」
「何も可笑しくはございません。何も笑いは致しません。」
「いいや笑った。確かに笑った。巫山戯《ふざけ》ちゃ不可《いけね》え巫山戯ちゃ不可え。俺を盲目にするつもりか。こうこう俺の此の眼はな二つ乍らちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]見えるんだぜ。節穴だと思うと間違うぞ。さあ吐《ぬか》せ何を笑った?」トンと石突で床を突いたが「夫れともたって吐かさねえなら高坂流の黐棹槍、もう一度使ってお眼にかける迄さ。それも今度は本式だ。汝《うぬ》が土手っ腹へ突っ込んで、風車のようにぶん廻わしてくれる。」
ピタリと中段へ構えたものである。
小四郎は矢庭に飛び上ったが、またベッタリ床へ坐わり、
「はい笑いました。確かに笑いました。……貴郎は苦手でございますよ。槍だけはご勘弁願います。……いや全く眼も宛てられない。……はい確かに笑いました。」
「何が可笑しくて笑ったんだ?」
「……ハイ、その、蘇芳と有仰《おっしゃ》いましたので。」
「蘇芳と云ったが何故可笑しい。」
「染料は蘇芳ではございません。」
「それがそんなに可笑しいのか?」
「何んにもご存知ありませんので。」
「全体何んで染めるんだ?」
「生物《いきもの》の血でございます。」
「ふうん。」と云ったが甚太郎は何が無しにゾッとした。「犬の血かな? 馬の血かな?」
「人間の血でございます。」
「黙れ! 馬鹿! 痴事《たわごと》吐かせ!」
「人間の血でございます。」
「で、何処から持って来るんだ?」
「城中に飼って居りますので。」
「何、人間を飼っている?」
「お客様方でございます。」
「お客様だって? 俺もお客様だ。」
「はい左様でございます。」
「では俺の血も絞るのか?」甚太郎はブルッと身顫いした。
「オイ、俺の血も絞るのかよ!」
「はい孰《いず》れは、そうなりましょう。」
「ふん、俺の血も絞るんだな?」
「そういう運命が参りますればな。」
「手前、正気で云ってるのか?」
「どうぞお許し下さいまし。」
「それでは此処は地獄だな。」
「纐纈城でございます。」
「地獄だ地獄だ! 此処は地獄だ!」
「併し極楽とも申されましょう」
「血ノ池地獄だ! 貴様は獄卒だ!」
「甘い食物、美しい衣裳、苦労の無い日々の生活《くらし》向、此処は極楽でございます。」
「助けてくれ! 助けてくれ!」
「助けることは出来ません。助かった例もございません。」
「助けてくれ! 助けてくれ! 小四郎殿助けて下され!」
甚太郎は突然|跪坐《ひざまず》いた。
「私は獄卒でございます。」悠然と小四郎は立ち上がる。「獄卒に涙はございません。」
「俺は何時頃殺されるんだ?」
「籤に当った其の時に。」
「夫れは何時だ? 何時籤を引く?」
「恰度《ちょうど》今夜でございます。」
「今夜?」
と叫ぶと甚太郎は、喪心したように眼を据えた。
「で、今は何刻だ?」
「籤迄二|刻《とき》ございます。」
「たった二刻。たった二刻。」
「屹度当るとは申されません。」
「いや当る。当りそうな気がする。」
「お祈りなさりませ。神仏をな。」
「当った証拠は? 何が印だ?」
「紙に髑髏《しゃれこうべ》が書いてあります。」
「当らなかった其の時は?」
「何んにも書いてありません。」
五
「白紙を引くと助かるんだな?」
「先へ延びるのでございます。」
「髑髏を引くと殺されるのか。」
「永遠の静さへ参りますので。」
「たった二刻。たった二刻。」
「遁がれることは出来ません。」
「小四郎殿助けて下され!」
「お暇《いと》ませねばなりません。」
「馬鹿!」
と云うと甚太郎は飛燕のように飛び上った。棹を握ると斜に構え小四郎の両足を横へ薙ぐ。
不意を打たれた小四郎がドンと床の上へ仆れるのを石突の方で確り抑え、
「へ、何んなものだ。驚いたか。」
併し小四郎は|※[#「足へん+宛」、第三水準1-92-36]《もが》きもせず、抑えられたままニヤニヤ笑い、
「乱暴なされては困りますな。私を何うしようとなさるので。」
「気の毒だが監禁だ。この部屋から出さないのさ。」
「監禁して、さて夫れから?」
「それから拷問に掛けるのさ。」
「拷問に掛けて、さて夫れから?」
「手前の口から聞き出すのよ。纐纈城の逃道をな。」
「私は決して申しません。」
「では手前は死《くたば》らなければならねえ。」
「それでは私は死にますので?」
「うん、そうだ、俺より先にな。」
「では直ぐにお殺しなさりませ。」
「ゆっくりで宜い。二刻ある。」
「その中《うち》邪魔が這入りましょう。」
「邪魔が這入る? どんな邪魔だ?」
「私は少々|貴郎《あなた》のお部屋に居過ぎたようでございます。」
「それがどうした。だから何うなんだ。」
「私は一体此の部屋へ何んに参ったのでございましょう。」
「知れたことさ、何時《いつも》通り、晩飯を持って来たんだろう。」
「でござりましょう。だから不可ません。」
「ふん、何んとでも云うがいい。」
「この城内の掟として、時間に制限がございます。」
「何んの時間だ? え何んの?」
「お客様方とお話しする時間で。」
「それと是れと何んの関係がある?」
「私は少々貴郎のお部屋に居過ぎたようでございます。」
「だからよ、夫れがどうしたと云うんだ?」
「仲間が探がしに参ります。」
「出鱈目だろう。嘘を云うな。」
「決して嘘は申しません。と云いますのはお客様の中には、恰度貴郎と同じように私共善良な相伴役を、虐待なさる方がございます。城の秘密を聞き出そうとしたり、城外への逃道を云わせようとしたり、その他いろいろの理由から私共を苦めます。それを防ぐ一策として時間の制限がありますので。先ず長くて四分の一刻、これがギリギリでございます。その制限を超《こ》過した時には、何か異状があったものと見て、捜索するのでございます。……と此の様に申している間に仲間が見えるかもしれません。さて此の部屋へ遣って来る、私が可哀そうに捕虜になっている、さあ大変でございます。そうなれば籤も糸瓜《へちま》も無い、貴郎は直ぐに地下へ運ばれ染料とされるのでございます。」
「宜かろう、うん、それも宜かろう。どっちみち殺される身の上なら一層早い方が諦めがいい。それに最《も》う一つ面白いことがある。仲間の奴等が遣って来たら、破れカブレだ黐棹槍で片っ端から退治てくれる。死人の山を築くのさ。地獄の道連を作るのさ。」
「大層元気でございますな。死人の山が築けましょうかな。」
「心配するな、築いて見せる。」
「精々二人でございましょうよ。」
「二人は愚《おろか》二十人三十人、百人来ようと仕止めて見せる。」
「大層な勇気でございますな。併しそういう勇士に対しては、城の方でも夫れ相応の用意があるのでございますよ。」
「五月蠅《うるせ》え奴だ。少し休め!」
石突を小四郎の咽喉へ宛て、じりじりと甚太郎は力を罩《こ》めた。
「あ、苦しい。こいつは耐らぬ。……直き後悔なさいますぜ。……こいつは耐らぬ、あ、苦しい。……それ足音が聞えて来ました。仲間の奴等でございますよ。……締めるわ締めるわ! あ、苦しい。こいつは耐らぬ。……愈々《いよいよ》俺を殺すつもりだな。この小伜め! この餓鬼め!」
部屋は次第に暗くなった。夜が這い込んで来たのである。
ウーンと呻く声がした。小四郎が絶息したのである。併し決して死んだのでは無い。一時呼吸を止められたのである。
六
途端に部屋の戸を叩く者がある。
「おや本当に来やがったな。」
甚太郎は耳を澄ましたが、ピッタリ壁へ躰を寄せ、廊下の気配を窺った。
戸を叩く音は軈《やが》て止んだ。ひとしきり森然《しん》と静かになる。甚太郎は戸口へ近寄って行った。戸口と平行に位置を取り復《また》壁へピッタリ身を寄せた。その眼を屹と戸口へ注ぎ現われる敵を待ち構える。
ギーと云う音がした。二重戸の一つが開いたらしい。と復後は森然《しん》となる。こうして暫く時が経った。其の時甚太郎の眼前で仄《ほのか》に見えていた部屋の戸が徐々徐々《そろそろ》と口を開けた。そうして其処から影のように人間の半身が現われた。と、甚太郎の両の手が、雷光のように前へ延び夫れが素早く引かれた時、「あっ」と云う鋭い悲鳴が聞え、影のように見えていた人の姿が、ヒョロヒョロと部屋の中へ這入《はい》って来たが、そのまま前|傾《のめ》りに転った。
「おい何うした。」
と云う声がして、復《また》一人人影が浮き出した。つと甚太郎の手が延びる。そうして夫れが引かれた時、同じ光景が演ぜられた。人影が部屋の中へ這入って来て、前傾りに床の上へ仆れたのである。
ドーンと戸の閉じる音がした。閂《かんぬき》を下る音もしたが、続いて廊下を走る音がした。後は全く静かとなった。
流石に甚太郎も吻《ほっ》とした。身を屈め手を延ばし二つの死骸へ触って見た。一人は咽喉を貫かれ一人は胸板を突き通されている。
「獄卒を二匹退治た迄さ。何んの疚《やまし》いこともねえ。」
こう冷《ひややか》に呟くと死人の袖で棹を拭いた。棹の先から血が滴り夫れが幽な音を立てる。プンと鼻を刺す生臭い匂。空気は濁り部屋は熱い。
「さて是から何うしたものだ。」甚太郎は急がしく思案した。
「何うしようにも為ようが無い。此処で待つより仕方あるまい。大挙して攻めて来るに相違無い。片端から突き殺してやろう。」
彼はじっと聴耳を立て廊下の様子を窺った。
其の時足音が聞えて来た。併し大勢の足音では無い。三、四人の足音である。
戸の向側で立ち止まった。何やら囁いているらしい。
「ふん、愈々来やがったな。何を愚図愚図しているんだ。」
黐棹槍を引き側《そば》め、闇の中で眼を光らせ、戸の開くのを待ち構えた。
部屋の外は静かである。囁く声も絶えて了った。併し人の居る気配はする。と不意にパチパチという異様な物音が聞えて来た。
「おや何んだろうあの音は?」
鳥渡《ちょっと》甚太郎は度肝を抜かれ思案せざるを得なかった。パチパチ、パチパチと廊下からは尚其の音が聞えて来る。
霧のようなものが何処からとも無く部屋の中へ這入って来た。霧では無くて煙である。それと一緒に甚太郎は次第に胸が苦しくなった。手足が漸時《だんだん》麻痺《しび》れて来る。
「あ、不可《いけね》え毒気だな。」
甚太郎はグタグタと床へ仆れた。「畜生、畜生、卑怯な奴だ。俺を狸か狐のように毒煙攻めにしようとしやがる。あ、眼が廻わる。グラグラする。お母さん! お母さん! お母さん!」
彼の眼前の闇の中で青い焔が飛び交った。だんだん彼は弱って行った。先ず握っていた棹を放し、それから両足を痙攣させた。そうして全く動かなくなった。
其の時部屋の戸が開いて一人の大男が現われた。首斬役の万兵衛である。巨大な斧を提《ひっさ》げている。一渡り部屋の中を見廻わしたが、戸口の方へ顔を向けると、
「旨く行った。……這入って来な。」
声に応じて三人の男が戸口から姿を現わした。
「さあ死骸の片付けだ。仲間が二人にお客様が一人、染料三行李と云う訳さ。」
「大丈夫かな小四郎は?」一人の男が囁いた。
「彼奴は大概活き返るだろう。」
そこで三人は死骸を担ぎ廊下の方へ出て行った。その後から万兵衛が続く。四人の者は黙々と長い廊下を進んで行く。軈て廊下の端へ来た。其処は厳重な板壁である。万兵衛の手が夫れへ触れる。すると其処へポッカリと一つの真黒な口が開いた。中庭へ通う階段が闇の中から見えている。
四人の者は黙々と其の階段を下りて行く。下り切った所で一体した。夫れから中庭を突っ切って湖岸の方へ歩いて行く。星一つ無い闇夜である。行手の闇を仄《おぼめか》して灯火の光が見えて来た。
其処に一つの建物がある。地下室へ通じる大階段の最初の下口《おりくち》を守護するために作り設けられた建物であったが、死骸を担いだ四人の者は粛々と其処へ這入って行った。
大岩を畳んで築かれた幅三間の階段が無間地獄の地の底眼掛け、螺旋形に蜒《うね》っていたが、四人の者は一歩一歩夫れを下へ下へ下《くだ》って行く。行くに従い様々の音が地底《じのそこ》から聞えて来た。滑車の音、歯車の軋《きしり》、飛び違い馳せ違う調革の唸《うなり》。……夫等の音を蔽い包み、何んとも云われない豪壮の音が陰々鬱々と響いて来たが、これぞ恐らく水車へ注ぐ大瀑布の水音でもあろう。
四人の者は黙々と大階段を下りつづける。
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第八回
一
十六年前の昔であった。即ち天正十一年の夏、富士の裾野の峡間《かいはざま》へ、一人の若侍が遣って来た。
美しい容貌、上品な姿、大分|窶《やつ》れてはいたけれど、尚高朗たる面影があって、上流の家庭に生長《おいた》った所の、若殿であったことが想像された。
恋の悶《もだえ》に耐えかねて、死場所を見付けに来たのであった。
恋の相手は嫂《あによめ》であった。
一見不倫の恋のようではあったが、事実は穴勝《あなが》ちそうではなかった。
若待と其の乙女とは、幼少時から恋仲であって、末は夫婦と当人達も思い、世間の人達もそう思っていた。然るに若侍の実兄なる者が、理不尽にも夫れを横取りした。
――此処に悲劇の第一歩がある。
乙女は温良な質だったので、直ぐ運命に服従した。若侍の方も穏和な質で、且つ宗教的であり文学的であり、戦国の武士に有るまじい程の、よい精神の持主だったので、これも運命に服従した。
で、乙女は良人の為めに貞節な妻としての本分を尽くし、又若侍は兄に対し忠実な弟としての義務を尽くし、無事に月日を送ろうとした。併し、是は不自然を極わめた単なる一つの「空想」に過ぎない。
この畸形な三角関係が平和に続けられる筈がない。
恋いすまいと思えば思う程それが二倍の力となって、若侍は嫂を恋いした。嫂の方も同じである。
この息苦しい二人の恋は、すぐに兄に感付かれた。
兄が妻を虐待し、又弟を邪魔にしたことは、当然なことと云わなければならない。
その中、女は児を産んだ。勿論良人の種である。
併し良人から見る時は、どうも其の子が疑わしい。弟の種のように思われる。
是は実に彼に執って、何物にも換え難い苦痛であった。――この苦痛は親としての万人に共通すべき苦痛である。
爾来彼は事毎に妻と弟を苦しめた。子供が次第に成長し、可愛くなれば可愛くなる程、この苦痛は大きくなり、従って二人を苦しめる度合が大きくならざるを得なかった。――これが悲劇の第二歩である。
こうして子供が可愛い盛りの四つの歳になった時、最後の悲劇が遣って来た。兄弟|決闘《たたか》おうとしたのである。
こういう場合の通則として、道徳心の強い方が、大概決まって負けるものである。
兄と闘うより死んだ方がいい。……こう思った若侍はフラリと家を出て了った。
彼は富士山が好きであった。円満玲瓏たる君子の姿! それが富嶽の山容である。犬と雖《いえど》も鳥と雖も、息を引き取ろうとする時には、必ず死場所を探すものである。
甲府から裾野までは遠くは無い。で、若侍は家を出ると、富士の裾野へ彷徨《さまよ》って行った。
偖《さて》、彼は裾野へ来ると、あちこち死場所を探がし廻った。
その時気紛れの夏の雨が、雷鳴と共に降って来た。今死ぬという間際にも、雨に濡れるということは決して嬉しいことでは無い。彼は雨を避けようとして、急いで四辺《あたり》を見廻した。
と、岩根の一所に、人一人漸く這入《はい》れるくらいの、小さい岩穴が開いていた。
で、何んの考えも無く、あわただしく其処へ身を隠したが、これこそ彼の運命をして、別の方面へ転化さすべき、微妙な神の摂理であった。
まことに意外にも其の岩穴は、決して見掛けほどに小さいものでは無く、非常に奥が深かった。
不図《ふと》起こった好奇心からズンズン奥の方へ這入って行った。
行くに従って岩穴は末広がりに次第に拡がり、左右の岩壁も天井も、最《も》う躰へ障《さわ》ろうともしない。そうして実に不思議なことには、何処からか光が射して来ると見えて、仄々《ほのぼの》とした薄明《うすあかり》が蛍火のように蒼白く、窟内一杯に充ちている。
こうして今の時間にして一時間余も歩いた時、突然荒漠たる平原を、彼は眼前に見ることが出来た。
空は高く且《か》つ暗く、星の無い闇夜を想わせる。
四辺は広く際涯を見ず、只蒼々茫々と蒼白い光に照らされている。
この別天地の遥か彼方に銀箔のように輝いているのは湛えられた湖水であろう。
諸所に丘があり、川があり、奇岩怪石が横仆《よこた》わり、苔が一面に生えている。
寂然として人気無く、人家も無ければ鶏犬もいない。――広大無辺の死の国である。
併し冷静に云う時は、一個巨大な洞窟に過ぎない。即ち、富士の底の岩根を数里に渡って刳り抜いた所の、天工自然の洞窟なのである。
二
それにしても広大な此の洞窟を、月夜よりも明るく黄昏よりも鈍く、蒼々と照らしている此の光は、一体何処から来るのであろう? それは何処から来るのでは無い。洞窟内に住んでいる幾億万匹とも計り知られぬ、夜光虫の発する光なのである。
驚きに打たれた若侍は、暫くは茫然と立っていたが、軈《やが》て恰《あたか》も夢遊病者のように「洞窟《ほら》の国」を彷徨い出した。と、巨巌の前へ出た。何気無く見ると鉄の扉《と》が、巌の一所に箝められてある。
手を延ばして触って見た。
永い間の年月に、堅固な錠前も腐蝕《くさ》ったものと見え、手に連れて扉が開いた。扉の向うに龕《ずし》がある。龕の中に人が居る。頭巾を冠り行衣を着、一本歯の鉄下駄を穿き、片手に錫杖を握った所の、夫れは気高い老人であったが、併し活きてはいなかった。他ならぬ人間の木乃伊《ミイラ》であった。
膝の辺に堆《うずたか》く無数の経文が積まれている。
一番上に置かれてある一巻の経文を手に取ると若侍は無意識に開けた。
「壇上有金色孔雀王、其上有白色蓮花」と、開巻第一に記されてあったが、夫れは真言孔雀経であった。
「不思議な人物、何者であろう!」
こう若侍は呟き乍ら、尚龕の中を窺った。
其の時計らず眼についたのは、岩壁に刻まれた文字である。
[#ここから1字下げ]
我ハ是役ノ優婆塞、
肉身此処ニ埋ムト雖、
霊魂宇宙ニ遍在スベシ、
千年ノ後見出サン者、
即チ我教法ノ使徒、
[#ここで字下げ終わり]
文字は鮮か斯う読まれた。
「ああ夫れでは此のお方は役《えん》ノ小角であったのか。文武天皇大宝元年に、漢土《もろこし》へ渡ったと記されてあるが、それでは其の後此の地へ帰えり、此処で入定されたものと見える。」
こう思って来て若侍は、意外の感に打たれたが、それと同時に敬虔の念が、油然と心に湧くのを覚えた。
「千年の後見出さん者、即ち我教法の使徒と、こう此処に刻まれてあるが、既に千年は経っている。そうして見出したは此の俺だ。では自分は予言されたる教法の使徒ではあるまいか?」
更にこのように考えて来て彼は愕然と驚いた。
で彼は叫んだものである。
「死ぬのは止めだ! 使徒になろう!」
恋に破れた若侍が、翻然心を宗教に向け、人間の力の能う限りの難行苦行に身を委ねてから、五年の歳月が飛び去った。
その時、多くの世人から、光明優婆塞《こうみょううばそく》と名を呼ばれた、神彩奕々たる大行者が、富士の裾野から世に下った。
「懺悔」「忍従」「肉身刑罰」三つの教理を提げて、布教の旅に向かったのである。
こうして五年の其の間に、日本全国津々浦々を、光明優婆塞は巡錫《じゅんしゃく》した。そうして五年目の秋が来て、富士の裾野へ立ち帰った時、信徒一千と註された所の富士教団が建設された。
そうして更に六年の月日が、倏忽《しゅっこつ》として過ぎ去った時、土屋庄三郎昌春が、この教団へ紛れ込んだのである。
×
富士教団神秘境は、「洞窟の内」と「洞窟の外」と、この二つに別れていた。「洞窟の内」は神域であり「洞窟の外」は人界である。
人界の中心は「丘」であった。
「丘」は高さ六十間周囲半里と註されていたが、事実は夫れよりも小さかった。「丘」は一名「聖壇」とも呼ばれ、幾棟かの神殿で飾られていた。「聖壇」は元岩山であった。その岩山の頂を非常な努力で平地とし、其処へ神殿を建てたものであって、今も尚周囲は岩畳みであった。自然と人工との合一したもの、それが此の「聖壇」なのである。その「聖壇」の中央に荘麗を極わめた建物があったが、内に安置された本尊は孔雀明王だということである。併し内陣は薄暗く、それに不断に香の煙が立って、あらゆる物象を遮っているので、拝することは出来なかった。只僅に見えるものと云えば、真鍮色の器具調度と、祭壇に敷かれた錦の布と、絶えずあちこち動き廻わっている数人の巫女の姿ぐらいであった。この建物の左手に、一基の石像が立っていた。台石の高さ一丈に余り、その上に立っている像の大いさは四丈を遥かに凌いでいる。役《えん》の行者の御姿である。頭巾を冠り行衣を着、高足駄を穿き錫杖を突き、その足下に前鬼後鬼の二人の山神を跪かせている。然るに多くの信者達は、此の立派な石像を目して「役ノ行者ではあるけれど、同時に光明優婆塞でもある」と、斯う拳《こぞ》って云うのであった。
三
それと云うのも石像の顔が、光明優婆塞と酷似《そっくり》だからである。実際|夫《そ》れを行者と云うには、余りに其の顔は悲しそうであった。役ノ行者は意志の権化、又超人間の象徴として、勇猛降魔の相好《そうごう》を、備えていなければならなかった。しかるに此処にある石像の顔には、そういうものの影さえも無い。有るものと云えば悲哀である。又|傷《いたま》しい懺悔である。多くの信者達は、役ノ行者と光明優婆塞との、その二人の具象化として、この石像を尊んだ。
僧侶達の宿房は、この石像の西南にあった。護摩壇、垢離場《こりば》、懺悔の部屋、小さい無数の礼拝所、数限り無い石祠等、広い境内の到所《いたるところ》に、隙間も無く建てられてある。
この神々しい「聖壇」を囲み、四方八方に延びているのが、信者達の住む市街であった。
家数にして五百軒、甍《いらか》を並べ軒を連ね、規矩整然と立ち並んだ態は、普通の町と異《かわり》が無い。
ただ如何にも平和であった。
争う声、喚く声、そういう声を聞こうとしても、此の町では聞くことが出来ない。
一通の大道が町を貫き「聖壇」の下まで通じていたが、其処を歩いている牛馬の類、犬や鶏さえ穏しやかである。道に添って川が流れ、川岸には夏草が花咲いている。
仏像を売る家、香華を商う店、様々の商店が並んでいたが、けばけば[#「けばけば」に傍点]しい色彩は見られない。
往来には人々が歩いていた。家々には人々が充ち充ちていた。しかも寂然《ひっそり》と静かである。
とは云え此処《ここ》には千余の人が住み且《か》つ活きているのである。恋も結婚も嫉妬も競争も、全然無いとは云われない。只此の町では夫れ等のものが、上品に淑かに行われるのである。
二|刻《とき》毎に梵鐘が「聖壇」の鐘楼から聞えて来た。その時人々は合掌する。
町の外れの野や丘に、沢山の天幕が立っていた。最近此の地へ遣って来て、まだ家の無い人々が、臨時に住んでいる住居である。
その一つの天幕に土屋庄三郎は住んでいた。
父母と叔父とを探がそうとして、甲府を抜け出した庄三郎が、その叔父や父母を忘れたかのように、此処に斯うして生活《くら》していることは、一見矛盾のように思われるけれど、其の実決してそうでは無かった。
彼は矢張り父母や叔父を探がし求めているのであった。
併し彼には此の教団が酷《ひど》く心に適っていた。第一信者達が親切である。第二に教団のあらゆる物が神秘的で面白い。第三に彼には此処の教主の、光明という優婆塞が、他人のように思われない。
彼は教団が好きであった。
で彼は思い乍らも、未だに教団を出ようとはせず、一日一日と日を送った。
併し平和な教団にも、或る恐ろしい敵があって、絶えず教団の人々を、脅かしているということを、庄三郎が知った時、その心は動揺した。
其の日彼は天幕の中で、ぼんやり物思いに耽けっていた。すると俄に町の方から人々の叫び声が聞えて来た。
驚いて天幕から飛び出して見ると、いつもは静かな往来が、右往左往に走り廻わる人で、火事場のように混雑《ごったがえ》している。
「これは不思議だ」と呟き乍ら、庄三郎は小走って行った。町へ行って見て驚いたことには、女子供の姿が見えない。家々の戸が鎖ざされている。そうして屈強な若者ばかりが、手に手に弓矢をひっ握《つか》み、籠手や脛当で身を鎧い、往来を縦横に駆け廻わり乍ら、顔を空の方へ振り向け振り向け、斯う口々に叫んでいる。
「来たぞ来たぞ血吸鬼共が! 仮面の城主の手下共が!」
「女子供に気を付けろ! 早く早く家の中へ隠せ! 来たぞ来たぞ血吸鬼共が! 真鍮の城の眷族共が!」
そうして一整《いっせい》に弓を引き、ヒューッヒューッと矢を飛ばせる。
四
いよいよ驚いた庄三郎は、空の方を眺めて見た。と、真相が始めて解った。
空には富士山が聳えている。その山骨の一所に騎馬武者が無数に蠢いている。そうして其処から矢が飛んで来る。
それは何処かの侵入軍らしい。
彼等は次第に近寄って来た。近寄るままによく見ると、血紅色の陣羽織を、いずれも揃って纏っている。
「おお血染の経帷子だな?」
思わず庄三郎が叫んだ途端、どっと鬨の声が湧き起こった。
市街を目掛けて山上から、侵入軍が下りて来たのである。
遠く離れての矢合せから、白兵戦に変ったのである。喚き声、罵り声、悲鳴、呻吟、剣と剣と触れ合う音、太刀と太刀と切り結ぶ音、ワッワッと云う大叫喊が、瞬時に町を引っ包んだ。
侵入軍の総勢は、二百人余と思われたが、いずれも甲冑に身を固め、駿足の馬に跨がっているので、その勢の猛々しさは、教団の人々の比では無い。それに彼等は何時の場合にも屹度《きっと》二人宛伍を組んでいた。二人で一人を攻めるのである。そうして彼等の戦術は、相手の者を討ち取るよりも、捉らえようとするにあるらしかった。
今、二騎の侵入兵が、その駻馬を躍らせて、颯《さっ》とばかりに飛び込んで来たが、逃げ惑う一人の若い信徒を、両馬の間へ追い詰めると、馬上ながら手を延ばし、あッと云う間に引っ攫《さら》った。信徒は恐怖に麻痺《しび》れ乍ら、尚遁がれようと|※[#「足へん+宛」、第三水準1-92-36]《もが》いたものの、それはほんの一瞬で、見る見る中にグッタリとなった。完全に捕虜《とりこ》とされたのである。
五人、十人、二十人と、見ている間に信徒達は、侵入軍の餌食となった。そうして漸時《だんだん》信徒達は、小路小路へ追い詰められた。
今、二十騎の侵入軍が、その紅巾を波立たせ乍ら、一つの小路へ駆け込んで行った。と、怒号悲鳴が起こり、続いて凄じい剣戟の音が、耳を突裂《つんざ》いて鳴り渡ったが、再び蹄の音がして、先刻《さっき》の二十騎の紅巾の群が、小路の口から現われ出た時には、十人の捕虜《とりこ》を提げていた。
真昼の太陽が燃えている。青嵐が吹き靡いている。富士を始め山々は、教団を巡って穏かに聳え、自然には何んの変化も無い。
それだのに下界では無数の人が、殺し合い奪い合い犇き合っている。雲のように立ち上る砂塵、踏み躪られた川岸の花、死にかかっている馬や牛、此処にある物は何も彼も、一切|無惨《むごたら》しく破壊されてある。
「平和の楽土では無かったのだ。此処も矢張り浮世だったのだ。」
逃げ迷う人波に揉まれ揉まれ何時とも知らず庄三郎は「聖壇」の下まで来て了ったが、心の中で斯う呟いた。
「何時の時代であれ、何んな土地であれ、呼吸《いき》のある人間の住んでいる限りは、戦いというものは避けられないのであろう。……戦い!……流血! それから死だ。そうだ人間は何時死ぬか知れない!」
斯う思って来て庄三郎は、今更ら自分が迂闊であったことに、思い当たらざるを得なかった。
「出よう出よう此処を出よう。自分には目的があった筈だ。父母や叔父を探さなければならない。」
併し出ることは出来なかった。
人波が彼を溺らせる。侵入軍が襲い掛かる。何処かで家が焼けていると見えて、濃い煙が渦巻いて来る。
庄三郎は人波に押され、何時か「聖壇」の上へ来た。既に此処にも数百人の、避難して来た信徒がいる。彼等は口々に叫んでいる。
「孔雀明王! 孔雀明王!」
「助け給え! 助け給え!」
それは凄惨な祈祷であった。こういう場合にも神を信じる、信徒独特の祈であった。
祈の声は一団となり、丘から町の方へ響いて行く。その町では今も尚、人間狩が行われている。
併し、軈《やが》て、陣鉦《じんがね》の音が、富士の山骨から鳴り渡り、それがすっかり止んだ時、人間狩も終りを告げた。
侵入軍が引き上げたのである。
平和が教団へ帰って来た。信徒達は喜々として、破壊された跡を修理した。悪魔の破壊は一時であるが、神の修理は永遠である。斯う互に慰め合い乍ら、各自《めいめい》の奉仕に勤《いそ》しむのであった――教団を出ようと決心した庄三郎の心持が、此の信徒達の態度を見ると、又変らざるを得なかった。
五
夜は森然《しん》と更けていた。星が空に輝いていた。併し月は未だ出ない。
この時、一つの人影が石像の前へ現われた。
それは有髪の僧であった。身に行衣を纏っている。手に珠数を持っている。併し足は跣足《はだし》である。
有髪の僧は石像の前で静かに地上へひれ伏したが、何やら熱心に祈り出した。咽ぶような声である。
この時「聖壇」の麓から一人の若者がやって来た。長い石の階段を、一つ一つ軽く踏み、軈てすっかり登り切ると、石像の方へ寄って行った。
祈っている有髪の僧を見ると、不図《ふと》若者は足を止めた。あまりに熱心な祈り方に、どうやら心を引かれたらしい。
「……私は弱者でござります。憐れな愚者でござります。……どうぞどうぞ此の私を貴郎《あなた》の偉大な霊の力で、強い人間にお変え下さい。利口な人間にお変え下さい。……そうして何《ど》うぞ私の胸から、醜い淫な慾望を、どうぞお取り捨て下さいますよう……未だに私は迷って居ります。未だに私は焦れて居ります。……邪悪《よこしま》な恋! 為す可らざる恋! それに私は迷って居ります。……どうぞお救い下さいまし。」
有髪の僧の祈りの中から、こういう言葉が聞き取れた。
若者はじっと聞き入っている。
夜は暗く、四辺《あたり》は静かに、二人の以外《ほか》には人気も無い。
永い熱心な祈りが終えると、有髪の僧は立ち上がった。その時はじめて彼の側に人の居るのに気が付いたらしい。併し驚いた様子も無く、「ご免下さい。」と挨拶をすると、下り口の方へ歩いて行った。
と、若者が呼び止めた。「どうぞ暫くお待ち下さい。」
「はい、ご用でございますかな。」
「この教団のお方と見て、お願いしたいことがございます。」
「私の力で出来ますことなら、何《な》んなとご用に立ちましょう。」有髪の僧は引き返えした。
「何んでも無いことでございます。ご親切さえございましたら、直ぐにも出来ることでございます。……どうぞ私を此の土地から出して戴きたいのでございます。」
すると僧は押し黙り、若者の様子を見守ったが、
「易いことでございます。直ぐにお立ちになさりませ。」
「併し出ることが出来ません。」
「道はある筈でございます。」
「併し私には出られません。」
「関門には番人は居りません。」
「でも私には出られません。」
「不思議なことでございますな。」僧は小首を傾げたが「それでは一体何者が、貴郎《あなた》を止めて居るのでしょう?」
「はい、教団でございます。何んと申したら宜敷いやら、この教団の持っている神秘崇厳な或る力が、私を捉らえて放しません。」
「成程。」と僧は夫れを聞くと、漸く解ったと云うように「ではお止まりなさりませ。」
「私には目的がございます。遂げねばならぬ目的が。……そうして夫れを遂げるには、此処を出なければなりません。」
「では、お出掛けなさりませ。」
「私を捉らえて放そうとしない、神秘の力を何うしましょう。」
有髪の僧は返辞をしない。
「私には不思議でございます。私には訳が解りません。この神秘、この崇厳、何から来るのでございましょう? 物々しい無数の殿堂、それから来るのでございましょうか? 『洞窟の内』の幻怪な風景、それから来るのでございましょうか。」
併し僧は返辞をしない。
「私は此処《ここ》へ参ろうと思って、参ったものではございません。偶然来たものでございます。思わず道に踏み迷い、紛れ込んだものでございます。」
「縁あればこそ参られたのです。此処でお暮らしなさりませ。」
僧は始めて厳然と云った。
併し若者は後へ引かない。
「此処で暮らすことは出来ません。どうしても出なければなりません。……只、私は出る前に、確かめたいのでございます。」
「何をお確かめになりたいな?」
「はい、神秘の源泉を。」
「神秘の源泉? それは懺悔だ!」
僧は復《また》もや厳然と云った。訓すような声である。
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第九回
一
生物《いきもの》を殺すということは罪の中の罪である。魚や鳥は云うまでも無く草木にも生命《いのち》はある。然るにあらゆる人間は此の世へ産れ出た其の時から、是等の生命を奪っている。先ず着せられる産衣なるものが、もしも夫れが木綿なら、その原料は綿でなければならない。綿は綿の木の花である。花は生命を持っている。で其の生命《いのち》を殺すことに由って木綿なる物は造られる。
もし又産衣が絹布であるなら、絹布の原料は絹糸であり、絹糸の基は蚕《かいこ》である。即ち蚕を殺すことに由って絹糸や絹布は造られる。
嬰児《あかご》が成長して子供となると穀物や魚鳥を常食する。これらの物には生命がある。これらの生命を断たなければ一日と雖も活きることは出来ない。人間が活きるということは、他の物の生命を取ることである。
少年と成って散歩をする。と、その一足一足の下に、幾十という小さい虫、幾百という細《こまか》い草が、その生命を奪われる。踏み躪《にじ》られて殺されるのである。尚彼等は川狩をして沢山の魚の生命を取る。野に遊んでは蛇を殺し山を歩いては蝉を殺す。そうして彼等は大人となる。すると戦いをして人を殺す。又喧嘩をして人を殺す。人間同志殺し合うのである。
産まれた時から死ぬ時迄、無自覚的にしろ自覚的にしろ、兎に角一人の人間が他の生命を奪う数は夥しいものと云わなければならない。
所で生命《いのち》とは何《ど》んなものだろう?
成就に向って流転するもの、是即ち生命である。
そうして生命は「個」を足場とする。一人の人、一匹の獣、一尾の魚、一本の木、一茎の草、一個の虫……これらの物を足場とする。非情の如くに思われる山や川や石や土や日月星辰風雨霜雪と雖も、実は皆生命を持っている。即ち宇宙の森羅万象は一切生命を持っている。更に是を換言すれば宇宙は「生命の本態」であり森羅万象は其の表現《あらわれ》である。「個」の生命は「生命の本態」に通じ「生命の本態」は「個」の生命に通ずる。だから二にして一であり又一にして二であると云える。従って一人の人間が、罪を犯すということは、「個」の生命を穢《けが》すばかりで無く、「生命の本態」を穢すことになる。即ち二重の罪なのである。
仮りに「生命の本態」を「大なる生命」と命名し、「個」の生命を夫れと反対に「小なる生命」と名付ける事とし、偖《さて》「大なる生命」なるものは成就に向って未来永劫流転に流転を重ね乍ら、不断に進歩発達すれば又「小なる生命」なるものも、各自自由に進歩発達し、「小なる生命」に影響を与え、以て成就を促進せしめる。では成就は何時遂げられるか? それは永遠に不可能とも云え又即座に遂げられるとも云える。「小なる生命」が正しく活き一切の罪から遁れられたなら即座に成就は遂げられるのであろう。併し夫れは不可能である。何故と云うに「小なる生命」は不断に罪を犯しているからで、例えば人間は産れ出た時から他の物の生命を奪っている。では人間は永遠に渡って罪から遁れることは出来ないだろうか? そうだ罪からは遁れられない。併し多少でも其の罪を洗い清めることは出来る。……
「他でも無い懺悔です。」
有髪の僧は斯う云って、庄三郎を凝視した。遅い月はまだ昇らず「聖壇」は仄々《ほのぼの》と暗かった。微風が四辺《あたり》を吹いていた。月の出の前の微風である。凋れた花の甘い匂や仏に捧げた香の香が、微風に紛れて匂って来た。何処かで小鳥の声がした。木立の茂りに包まれて今まで円《まどか》に睡っていたのが、俄の人声に驚いて夢を破ったに違い無い。耳を澄ますと何処からとも無く読経の声が聞えて来た。岩の峡《はざま》や木の下や茨や藪の中などで、苦行している人々の熱心籠もった唱名ででもあろう。見れば深夜の闇を破って諸所に火の光りが輝いていた。それは「聖壇」の到る所に安置されてある諸仏達に、捧げ申した灯火で、微風に煽られて延び縮みした。
秋の夜空は黒く冴え、星が無数に蒔かれていた。その夜空をクッキリと割って巨人一人が立っていた。即ち役《えん》ノ優婆塞の像で、顔も姿も解らなかったが、猶崇厳の輪郭だけは、見る人の心を敬慶に導き、且菩提心を起こさせるに足りた。
「聖壇」の麓、眼の下には、教団信徒の家々が黒く固まって立っていた。人声も聞えず灯火も洩れず、睡眠《ねむり》と平和があるばかりであった。「聖壇」と人家、是等の物を、保護するように聳えているのは一万二千尺の富士であったが、今は其の富士も眠っていた。眠って愈々《いよいよ》尊げに見え、夜の帳《とばり》に引き包まれて益々美しい其の姿は「聖壇」から真正面にあった。富士の胎内の神秘境! 恐らく夫れも眠っていよう。
眠れ眠れと云うように、優しい夜風は尚吹いていた。併し小鳥は啼き止んだ。巣籠り眠ったに相違無い。
二
有髪の僧の物語りは庄三郎には驚異であった。「人間は産れ乍ら罪人である」「大なる生命」「小なる生命」実に是等の説明は、彼には全く初耳であった。勿論彼には是等の意味を全部《すつかり》解する事は出来なかった。七分通り不可解であった。併し夫れにもかかわらず彼には僧の物語が真理であるように思われた。深淵限り無い大真理! だから直ぐには解らないのだと、こんなようにさえ思われた。
それに彼には有髪の僧の物語り振りが好もしかった。俗人に対すると大方の僧は、多くは高飛車に物を云う。然るに此の僧はそうでは無かった。謙遜に静かに物を云った。それは教えるという風ではなく、談話《はなし》するという風であった。亢奮もせず語気も強めず、淡々として水のようであった。併し夫れでいて逼って来る力は何んとも云えず強かった。殆ど無駄事は云わなかった。精粋ばかりで物を云った。恰度さまざまの騒音の中から一筋清涼たる笛の音が律呂正しく聞えるようであった。で、黙って聞いていると、物悲しくさえ思われた。
「此の人は常人では無さそうだ。」
庄三郎は聞いている中に、尊敬の念に捉えられた。で、彼は恭々しく訊いた。
「そして懺悔と有仰いますと?」
すると僧は説明した。
「懺悔とは自分の罪を認め、謝罪することでございます。」
「誰に謝るのでございます。」
「例えば自分より大きなものへ。」
「それは誰なのでございます?」
「例えば自分より小さい物へ。」
「それは誰なのでございます?」
「便宜上此処では役ノ優婆塞へ、懺悔することになって居ります。」
「そうして懺悔しましたなら、罪が清まるのでございますか?」
「そうです、兎も角も、多少なりと……。」
それから僧は話し出した。
人間が此の世に活きている限りは、意識的なり無意識的なり、必然に罪を犯さなければならない。これは避け難いことである。但し懺悔をすることに由って意識的の罪だけは免れる。是だけでも幸である。では死んだら何うだろう? 死は決して消滅では無い。それは一時「小なる生命」が「大なる生命」へ帰することである。そうして実に「大なる生命」は成就すべく流転して行く。そうして流転の途次に於て、二度三度否無限に「小なる生命」を産み育てる。死は単なる現象に過ぎない。死は罪を贖うことは出来ない。……
「そこで貴郎《あなた》にお訊ねします。」有髪の僧は庄三郎へ云った。
「人間鳥獣山川草木と、この広大な宇宙の中に、こういう差別のあることを不思議に思われはしませんかな?」
「ハイ、不思議に存じます。」庄三郎は素直に云った。
「生命の活動の多少に由って、そういう差別が出来るのです。」
「活動の多少と有仰いますと?」
「生命が多く活動する物、それが生物でございます。生命が少しく活動する物、それが無生物でございます。そうして人間は生物の中で、特に最も生命の活動が著しい物でございます。従って罪を犯すことも一番多いのでございます。」
有髪の僧の言葉には犯し難い自信が籠もっていた。
「だから人間は何者にも増して、懺悔しなければなりません。茨を背中に背負うことに由って、一本の足で歩くことに由って、日輪を直視することに由って、十歩行っては八歩かえり二十歩歩いては十九歩かえる、斯ういう困難な歩き方に由って、其の他さまざまの苦行に由って、自分の肉身へ刑罰を加え、それに由って懺悔心を起こすことも、人間には必要でございます。……『真鍮の城の眷族共』に迫害されるという事も、斯ういう意味から云う時は、肉身刑罰の一つとして甘受すべきものかもしれません。」
次第に有髪の僧の声は、悲哀の調子を帯びて来た。咽ぶような声とも云え訴えるような声とも云えた。併し其の為め其の人が弱々しい人間とは見えなかった。あらゆる人間の罪悪を自分の一身に引き受けて、皆に代って泣くというような、寧ろ雄々しい人物に見えた。
「一体此の人は誰だろう?」復《また》も庄三郎は心の中で此の疑問を繰り返した。
此の時空の西の涯が橙色に色づいて来た。月が昇ろうとしているのであった。徐々に昇って来る月の光が、役ノ優婆塞の石像の顔を、薄蒼白く照らした時、庄三郎は仰いで見た。
「おや。」
と彼は思わず云った。此の教団の教主たる光明優婆塞《こうみょううばそく》の容貌によく[#「よく」に傍点]似ていると云われている、此の石像の容貌と、有髪の僧の容貌とが怪しい迄に似ていたからであった。
「ああ夫れでは此の人は、光明優婆塞であるまいか。」庄三郎は吃驚《びっくり》して、尚よく自分の前にいる有髪の僧を見ようとした。
三
と、其の人は首を垂れ、階段の方へ歩き出した。肩の辺に月光が射し、長い陰影《かげ》が地に落ちた。有髪の僧は階段を下の方へ下りて行った。世にも寂し気の姿であった。
罪人のような姿であった。
月は教団の町々を薄蒼白く照らしていた。その町々を陰影のように光明優婆塞は彷徨《さまよ》って行った。
消魂《けたたまし》い嬰児の泣声が一軒の家から洩れて来た。と、立ち止まった優婆塞は静かに窓の戸を指で叩いた。
「子供よ子供よ夢を見たか。夜は深い、泣き止んでおくれ。」
呟くように囁いた。すると嬰児は泣き止んだ。
一軒の家から言い争う男女の声が聞えて来た。と復《また》優婆塞は窓を叩いた。
「夫婦の者よ、言い争うな。」
すると直ぐに争いは止んだ。
町を出ると荒野であった。
光明優婆塞は走り出した。
それは走ると云うよりも舞うと云った方が可《よ》いようであった。月の光りに透きとおる白雲のような何物かが藪の上や灌木の上を非常な速さで舞って行くと、こう云った方がよいようであった。併し決して妖術ではあるまい。永い年月繰返された行者としての難行苦行が、彼の躰を軽いものとし、速走の骨法を自得させたのであろう。
富士の裾野の荒い野には露がしとどに降りていた。虫が草間で喞《すだ》いていた。そうして秋草が花咲いていた。草を分け露を散らし、光明優婆塞はひた走った。直江蔵人の館のある鍵手ケ原も走り過ぎた。美貌な女の面作師月子の住んでいる人穴の前も風のように走り過ぎた。
やがて本栖《もとす》の湖岸へ来た。
暁近い深い睡眠《ねむり》に未だ湖水は睡っていた。時々岸の芦の間でバタバタと羽音を立てるのは寝惚けた鶴《ばん》に違いない。風はぼうぼうと吹いていたが湖水の面は波も立たず、その一所に月を浮かべ、紫立って煙っていた。そうして例の濛気の壁が空に高く立ち上っていた。
その濛気の奥にこそ纐纈城《こうけつじょう》はあるのである。
そうして其の城の一室にこそ仮面の城主はいるのである。
「兄上!」
と突然光明優婆塞は、湖水へ向って呼びかけた。「まだ貴郎《あなた》は此の私を憎んでいられるのでございますか。不幸なお方不幸なお方!」
それは不思議な声であった。憎悪《にくしみ》と憐慈《あわれみ》とをこき[#「こき」に傍点]雑せた――怒と悲との声であった。そうして其の声は水を渡り、濛気の壁を貫いて、纐纈城迄届きそうな大きい高い声でもあった。併し返辞は来なかった。木精《こだま》が返ったばかりであった。
「兄上、貴郎《あなた》は卑怯者です。いつも私の留守を目掛けて、掠奪においでなされます。教団には怨みは無い筈です。信徒を憎むは不当です。それだのに貴郎は信徒を殺し教団を破壊なされます。兄上、貴郎は卑怯者です!」
光明優婆塞は叫びつづけた。
「兄上、いやいや仮面の悪鬼! 悪病の持主、纐纈城主! 俺はお前を憎んでやる! お前だけは許すことは出来ない! 呪咀《のろ》われて居れ! 罰せられて居れ!」
次第に其の声は弱って来た。
「併し、併し、おお兄上! ご尤もにも存じます! 私に対する貴郎の憎悪《にくしみ》、あの[#「あの」に傍点]お方に対する貴郎の憤怒《いかり》、ご尤もにも存じます! その上貴郎は天刑病です! それに対する無限の怨恨《うらみ》、それが凝って人の世のあらゆる物を呪咀《じゅそ》なさる! ご尤もにも存じます! 併し夫れは過ぎ去ったことです。もう取り返しがつきません。どうぞお忘れ下さいまし。そうして何《ど》うぞ私達と手を取り合って下さいまし。そうして三人手を取ったまま解脱《げだつ》しようではございませんか。私達はみんな不幸です。私達はみんな弱者です。弱い者は弱い者同志、手を取り合わなければなりません。」
彼の叫びは訴えとなり、軈《やが》て嘆願となり欷歔《すすりなき》となった。
「貴郎《あなた》に云い分があるように私にも云い分はございます。私の恋人を取ったのは貴郎が先でございます。併し是とて云ってかえらぬ昔のことでございます。昔のことを繰返し更に怨みを深めるのは私達の本意では無い筈です。昔犯したさまざまの罪を懺悔で清めるということが私達の勤めでございます。人生を懺悔で統一する! これが急務でございます。……私は貴郎に逢い度いのです。どうぞお逢い下さいまし。ああ併し貴郎は私と逢おうとはなさいません。それで私は此処へ来て、湖岸の草へ跪《ひざまず》き、湖水へ向って呼びかけるのです。貴郎は遠くに居られます。私の声は届きますまい。とはいえ私の心持は通ずる筈でございます。」
四
夜はまだ明けそうにも見えなかった。湖水からは何んの返辞も無い。それは無慈悲に黙っていた。
光明優婆塞は合掌したまま草叢《くさはら》の上へ伏し転んだ。
蒼い尾を曳いて星が飛んだ。
この時サラサラと草を分け、近寄る人の気勢《けはい》がした。
朦朧と月光に暉かされ乍ら一人の男が現れ出た。頭巾を戴き十徳を着た、放心したような男であった。その男は静々と――獲物を狙う悪獣のように、光明優婆塞へ近寄った。
伏し転んでいる白衣の行者を、じっと上から見下ろした時夜目にも凄じく彼の眼の輝いたのが見て取れた。
「斬るかな、それとも突くとしようか。」
刀の柄に手が掛かった。ブルッと彼は身顫いしたが、みるみる精気が全身に充ちた。と刀が鞘走り、その切先から鍔際まで恰《あたか》も氷の棒かのように、月の光に白み渡ったが、
「行者!」
と一声呼び掛けた。起き上がる所を一刀に首を斬ろうとしたのであった。
光明優婆塞は動かなかった。
「起きろ!」
と復《また》も声を掛けた。併し優婆塞は起きなかった。
「エイ。」と三度目の掛声と共に颯《さっ》と切り下した太刀先が優婆塞の肩へ触れようとした時、忽然宙で支えられた。
「不思議だな。俺には斬れない。」
其の時優婆塞は立ち上がった。
斯うして兇暴な殺人鬼と、聖者とは顔を見合せた。静まり極わまった夜の高原、虫が無心に唄っている。二人の間を吹き通るのは、涼しい暁の風である。
と、優婆塞は徐ろに云った。
「お前は誰だ? 何んの用がある?」
「名前ぐらいは聞いていよう、俺は三合目|陶器師《すえものし》だ。」
「かねて噂は聞いて居る。ああお前が陶器師か。」
「お前は誰だ? 名を宣《なの》れ。」
「世間の人は私のことを、光明優婆塞と呼んでいる。」
これを聞くと陶器師は思わず一足後へ引いた。そうしてつくづく相手を見たが、
「そうではあるまい。そんな筈は無い!」
「何故な?」と優婆塞は微笑した。
「ひどく予想と異うからだ。……光明優婆塞とも有ろうものが地に跪坐《ひざまず》いて泣く訳が無い。」
「悲しければ誰でも泣く。」
「光明優婆塞ならもっともっと[#「もっともっと」に傍点]勇士でなければならない筈だ。」
「では私は勇士では無いのか?」
「光明優婆塞ならもっともっと[#「もっともっと」に傍点]風彩雄偉である可き筈だ。」
「そう私は貧しげなのか?」
「お前は喪家の犬のようだ。お前は路傍の乞食のようだ。」
「そうだ、夫れは中《あた》っている。」
「聖者の威厳など何処にもない。」
「何の私が聖者であろう。」
「お前は牢屋の囚人のようだ。」
「そうとも私は罪人だ。」
「大木の蔭の草のようだ。日の目を見ない人間のようだ。」
「事実私はそうなのだ。大きな大きな或る力に何時も私は押し付けられている。」
「是迄逢った人間の中、お前のように憐気《あわれげ》な者は、曾《かつ》て他に一人も無い。」
「私はあらゆる人間の中で、一番憐れな人間なのだ。」
「不思議だ!」
と突然陶器師は、躍り上って絶叫した。
「そんなに憐気なお前だのに、そのお前を斬ることが出来ない!」
「何故だろうな?」と優婆塞は訊いた。
「何故だろう? 解らない! 只俺には斬れないのだ。」
「何故だろうな?」と復《また》訊いた。
陶器師は答えない。
俄然刀を投げ出すと、彼はバッタリ地へ座った。
「今こそ解った! 光明優婆塞様!」
その手は合掌に組まれている。
「立て。」と優婆塞は優しく云った。「大なる生命の存在を、認めることの出来た時、人は限り無く弱くなる。その弱さが極わまった時、其処に本当の強さが来る。私は聖者でも何んでも無い。只弱さの極わまった者だ。……其処でお前に訊くことがある。何故お前は人を殺すな?」
「ハイ。」と陶器師は弱々しく「居たたまれないからでございます。必要からでございます。」
「活きて行く上の必要からと、斯うお前は云うのだな。」
五
「ハイ、左様でございます。心の中に鬼がいて、それが私を唆《そそのか》して、人を殺させるのでございます。」
「もし唆しに応じなかったら?」
「あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に私が殺されます。ハイその心の鬼のために食い殺されるのでございます。自滅するのでございます。」
「併し、たとえ、人を殺しても、お前の心は休まらない筈だ。」
「只、血を見た瞬間だけは……。」
「心の休まることもあろう。併し直ぐに二倍となって、不安がお前を襲う筈だ。」
「で、復《また》人を殺します。」
「すると直ぐ四倍となって、不安がお前を襲う筈だ。」
「で、復《また》餌食《えじき》を猟ります。」
「血は復讐する永世輪廻!」
「で、復餌食を猟ります! で、復餌食を猟ります! で、復餌食を猟ります! で、復餌食を……で、復餌食を……地獄だ地獄だ! 血の池地獄!」
「無間地獄! 浮ぶ期《ご》あるまい!」
「お助け下され! お助け下され!」
「恐ろしいと思うか。恐ろしいと思うか。」
「恐ろしゅうございます! ああ恐ろしい!」
「懺悔だ!」
と優婆塞は憐れむように云った。
「この他には道は無い。」
「懺悔?」
と陶器師は繰返した。それから何時迄も黙っていた。
星は次第に光りを失い。天末が稍《やや》灰白くなった。併し秋の夜はまだ明けない。虫が降るように鳴いている。咲き乱れている野花の香が、野一杯に充ちている。富士は背後《うしろ》に聳えている。本栖湖は前に拡がっている。二つ乍ら黒々と夜の帳に包まれている。
ク、ク、クという笑い声が、急に陶器師の口から洩れた。と彼は立ち上がった。先ず刀を鞘に納めると、嘲けるように云い出した。
「懺悔! 成程な、いい言葉だ。第一ひどく響きがいい。ザンゲ! ふふん、いい発音だ。そうさ、俺も或る時代には、真面目に考えたこともあった。その素晴らしい言葉に就てな。ところで其の結果何を得たか? こいつを思うと可笑《おか》しくなる。その結果|何《な》んにも得なかったのだ。懺悔! 途方もねえ可《よ》い言葉さ。尤《もっと》も中味は空虚《からっぽ》だが。そこが又恐ろしく可い所だ。で、折角大事にして、ちょくちょく小出しに使うがいい。併し俺には用はねえ。そんな物は邪魔っ気だ。……ふふん、是でお前の値打も大方俺には解って来た。何んのお前が聖者なものか。人を説くとは片腹痛い。まして俺のような人間をな! 俺に進めた奴があった。おいでなさいまし富士教団へとな。月子という面作師だ。俺も心を動かしたものさ。其処へ行ったら俺のような者でも解脱往生が出来るかとな。アッハハハ、馬鹿な話だ。懺悔しろとは餓鬼扱いな! これ売僧《まいす》、よく聞くがいい。懺悔は汝の専売では無い。ありとあらゆる悪人は皆|傷《いたま》しい懺悔者なのだ。懺悔し乍ら悪事をする。悪事をし乍ら懺悔をする。懺悔と悪事の不離不即、これが彼等の心持だ。同時に俺の心持だ。懺悔の重さに耐えかねてのたうち[#「のたうち」に傍点]廻っている心持が、汝のような偽善者に易々解って堪まるものか。俺はお前と反対なのだ。心の中に巣食っている此の重苦しい懺悔心を、根こそぎ取り去ろうと願っているのだ。俺は徹底したいのだ。悪に踏み入った此の俺は悪に徹底したいのだ。それを邪魔するのが懺悔心だ。どうやらお前は懺悔に由って徹底しようとしているらしい。折角徹底するがいい。勉強しろよ、実行しろ、そうして決して人を説くな! ああ併し考えて見れば何が悪で何が善だろう? いやいや悪も善も無い。只僅かに定義されるのは、苦痛は悪で快楽は善だ。生活の流れを遮るもの、是が悪で其の反対が善だ。併し夫れとてあやふや[#「あやふや」に傍点]なものだ……では、それでは、何うしたらいいのだ! 何を目安に進んで行こう? 目安なんか有るものか! 行ってくれ行ってくれ光明優婆塞殿! ク、ク、ク、ク、聖者殿! 俺は眠い、寝なければならない。行け! 弱々しい行者殿! 今こそ俺はお前が斬れる! 斬られないうちに逃げるがいい! 行者殿お行きやれさ! アッハハハ、どれ一眠り。」
肘を敷くとゴロリと寝た。
と丈なす萱草が左右から直ぐに蔽いかかった。溜っていた葉末の白露が一度にパラパラと降りかかり白茶けた空の月と星が、上から彼を覗き込んだ。
造顔術師月子の為めに磨きを掛けられた彼の顔は、世にも美しいものであった。併し夫れだけ其の顔は世にも不気味のものでもあった。人工的の「美」なるものが、如何に美しいかということと、如何に醜いかということが、其の顔を見れば頷かれる。
彼は昏々と眠りに入った。
六
光明優婆塞は立ち縮《すく》んでいた。
自分の力の如何に弱いかを、彼は如実に経験した。こういう悪人に対しては、全く無力と云わざるを得ない。彼の顔は悲しそうであった。打ち拉《ひし》がれた犬のように、彼の躰は顫えていた。
時あって提婆は釈迦よりも偉大に見えることがある。時あってユダはキリストよりも偉大に見えることがある。
今がそういう時であった。
眠っている陶器師がどんなに大きく、そうして顫えている光明優婆塞が、どんなに小さく見えることだろう。
やがて優婆塞は歩き出した。
首を垂れ、腕を組み、裾野の草を分け乍ら、彼は何処とも無く歩いて行った。
「不足だ。」
と彼は呟いた。
「俺の思想に間違いは無い。俺の考えは崩れはしない。併し力は不足している。思想が直に力と成って、如何なる者をも折伏《しゃくぶく》する、其処《そこ》まで行かなければ本当とは云えない。」
彼は曠野《あらの》を彷徨《さまよ》って行った。
「俺は教団へは帰るまい。」
悲しそうに呟いた。「俺はもっと苦行しよう。当分決して人を説くまい。」
白衣姿の優婆塞は、さも遅々として歩いて行った。丘を上り、谷を下り、林の中へ分け入った。
此の夜、纐纈城《こうけつじょう》内では、仮面の城主、悪病の持主が、いつもの部屋でいつものように、一人|牀几《しょうぎ》に腰掛けていた。
部屋では香炉が燃えていた。露台の扉も開いていた。これは常時と変りは無い。その開いている扉の隙から月の光りが射し込んでいた。
「誰か俺を呼んでいるようだ。」
ふと彼は呟いた。
併し誰も呼んではいない。人声などは聞えない。
「確《たしか》に俺を呼んでいる。」
そうだ誰も呼んではいない。が、夫れにもかかわらず彼には何か聞えるらしい。
「誰だ!」
と彼は呶鳴るように云った。勿論どこからも返辞が無い。
「そうだ、今夜には限らない。是迄時々湖水の岸から俺を呼ぶような声がする。それを聞くと不思議なことには、俺の心が滅入って来る。何故だろう? 解らない! それに此処と湖水とは可成《かな》り距離が離れている。声の聞える筈が無い。錯覚かな? それに相違無い。……ああ今夜も気が滅入る。誰か俺を呼んでいる。」
其の時、戸を叩く音がした。
「這入《はい》れ。」
と彼は物憂そうに云った。
廊下に向いた部屋の戸が外から音も無くス――と開いて一人の男が現れた。
「うん、お前か、万兵衛か。」
「ハイ、私でございます。」
首斬役の万兵衛は敷居の内側で一礼した。
「何か用か? 早く云え。」
「染料三行李臨時を以て、地下へ卸しましてございます。」
「ふん、何んだ、そんな事か。」
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます。」
「今夜は俺は不機嫌なのだ。――尤《もっと》も何時も不機嫌なのだがとりわけ今夜は気が滅入ってならない。心無い奴だ、馬鹿な奴め、もっと面白い話を持って、部屋の戸を叩くがいい。」
「……は、お許しを受けまして……。」
「いつ俺が許さないと云った。勝手に絞りへ掛けるがいい。」
「かしこまりましてございます。」
万兵衛は部屋を出ようとした。
「待て! 白痴《たわけ》、名簿は何処だ。」
「は、是にございます。」
万兵衛はオズオズ進み出ると、手に持っていた帳面を恭しく差し出した。
「うん、よしよし三人だな。」
「ハイ、左様でございます。」
「……一番部屋係京二郎。二番部屋係咲二郎。何んだ是は、臣下《けらい》共ではないか。」
「殺されましてございます。」
「ふん、誰に殺されたのだ?」
「大事な賓客のお一人に。」
「夫れは一体何者だ?」
「そこに記してございます。」
「ふん、そうか、此奴だな。高坂甚太郎、十四歳。なんだまだ子供では無いか。」
「恐ろしい子供でございます。」
「恐ろしい子供? 身分は何んだ?」
「ハイ、鳥刺でございます。」
「鳥刺風情が恐ろしいのか。」
「槍の名人でございます。」
七
それを聞くと仮面の城主は、勃然怒りの身振いをしたが、
「この城内の賓客へは一切武器を持たせぬが掟だ。其奴に誰が槍を持たせた!」
「いえ、黐棹《もちざお》でございます。」
「ナニ黐棹? それが槍か?」
「ハイ、左様でございます。黐棹槍の高坂流、斯う申して居りまする。」
「夫れで二人を突き殺したのか。」
「二人乍ら咽喉を突かれ殺されましてございます。」
「偖《さて》は素晴らしい手練《てだれ》と見える。」仮面の城主は眼をひそめた。
「で、根からの鳥刺かな。」
「いえ、本来は甲斐の国、武田の家臣だと申しますことで。」
「ははあ成程、侍だな。……ふうん、甲州武田家の家臣……そうして姓は高坂《こうさか》だな?」
城主はじっと考え込んだ。
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます。」
併し城主は返辞をしない。万兵衛は不思議そうに口を噤《つぐ》んだ。
「その立派な武田の家臣が、何故鳥刺になどなったのだろう?」呟くように云ったものである。
「ハイ、人を尋ねる為めだと、このように申して居りましたそうで。」
「ははあ成程、そうであったか。……とまれ武田家で高坂と云えば、尋常《ひととおり》ならぬ家柄だ。そうして俺には由縁のある名だ。……武田の家臣、高坂甚太郎。……武田……高坂……由縁のある名だ。……昔のことを思い出す。……忘れ去られた笛の音が、ゆくりなく聞えて来るように。……蝮に噛まれた古傷が、うずき[#「うずき」に傍点]出したような思いもする。……憎くもあれば懐しくもある。……で、誰を探がしていると云ったな?」
「ハイ、その者の従兄にあたる、土屋庄三郎と申す者を、尋ねるそうにございます。」
「ナニ、土屋庄三郎!? おお確《たしか》にそう云ったのだな?」
城主は牀几から立ち上がった。卓へ突いた両の手が、細かく細かく戦慄した。その手が徐々《そろそろ》と持ち上がり、頭上へ高く上がったかと思うと、眼に見えない恐ろしい物でも、払い退けるように打ち振った。
「悪い名だ! 悪い名を聞いた!」その声は凄く甲高く呪うような声であった。「おお、おお、土屋庄三郎! 我子よ! いやいや彼奴の子だ!」
彼はヨロヨロと歩き出した。
「万兵衛! 確《たしか》に、そう云ったのだな?」
「申されました。ご城主様。」
「土屋庄三郎と、こう云ったのだな?」
「ハイ、ご城主様、そう申されました。」
「土屋庄三郎を探がしているとな?」
「ハイ、その通りでございます。」
「その庄三郎は何処にいる!」
「何んで私が……ご城主様!」
「この城内には居るまいな?」
「居ると思って其の鳥刺は、尋ね参ったそうでございます。」
「では居るのか? 此の城内に?」
「いえ、いえ、お居でではございません。」
「よもや居るまいな? 賓客の内に?」
「ハイ、保証いたします。」
「悪い名だ! 悪い名を聞いた! 懐しい名だ! 懐しい名を聞いた! 土屋庄三郎、庄三郎! あの女の産んだ子だ。そうだ是だけは間違い無い! だが俺の子か彼奴の子か、この秘密さえ確められたら。……憎いは女! 俺の妻だ! 憎いは姦夫! 肉親の弟! おお夫れさえ確められないとは!」
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます。」
「万兵衛!」
と城主はツカツカ進み、
「行って鄭重に介抱せい! その高坂甚太郎を!」
「は、それでは絞りへは?」
「指一本触れさせたが最後、汝|活《い》かしては置くまいぞ。」
「お助けなさるのでございますか?」
「俺に執っては妻と弟の子だ! 昔あった俺の妻のな。」
戸が音も無く閉ざされた。廊下を地下室へ走って行く消魂《けたたま》しい万兵衛の足音が、鳥渡《ちょっと》の間部屋へ響いて来たが、それが次第に遠ざかり、やがてすっかり消えた時には、部屋の中には城主の歩く重々しい足の音ばかりが、寂しい反響を立てていた。
明け近い月の白茶けた光りが、戸の隙から射していた。そうして遥かの湖水の岸から、彼に向って呼びかける声が、尚遠々しく聞えて来た。
「兄上よ、兄上よ。」と。……
「兄上よ、兄上よ。」と。……
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第十回
一
「申し上げます。」
と云い乍ら、近習の犬丸は手をつかえた。
「うん何んだ! 何か用か?」
「は、御来客でございます。」
「ナニ来客? 何者だ?」
「みすぼらしい老人でございます。」
「そんな者には用は無い。追っ払って了《しま》え追っ払って了え。」
「それが仲々帰りませんので。」
「無礼な奴だ。斬って捨てろ。」
「かしこまりましてございます。」
「が、待て待て、どんな風態だ?」
「ハイ、胸に白髯《しらひげ》を垂れ、身に葛の衣裳を着け、自然木《じねんぼく》の杖を突きましたところの、異相の老人にございます。」
「で、姓名は何んと云った?」
「常陸塚原の爺《おやじ》だと、このように申しましてございます。」
「おおそうか、それはそれは、珍らしい人物が参ったものだ。直ぐに通せ。叮嚀にな。」
「では殿には御存じで?」
「京師室町将軍家の館で、一再ならずお目にかかった仁だ。」
「は、何人《なんぴと》でございましょうか?」
「誰でもよい、早く通せ。」
「かしこまりましてございます。」
近習犬丸は座を、辷った。
暫くあって襖が開くと、老人が姿を現わした。
「おお卜伝か、よく参ったな。」
「謙信公には御健勝、恭悦至極に存じます。」
「もっと進め、遠慮はいらぬ。」
「愚老遠慮は大嫌い、ハイハイもっと進みますとも。」
二人は膝を突き合せた。
越後春日山の城中である。主人は不識庵上杉謙信、客は剣聖塚原卜伝、ピッタリ顔を合せて了った。
暫く二人は何んにも云わない。只眼と眼で笑い合っていた。
「爺《おやじ》。」
と謙信は突然云った。
「ハイハイ何でございますな。」
「俺はよい物を手に入れたよ。」
「お前様のことだ名刀ででもあろうよ。小豆長光の名刀かな。」
「いやいや違う、そんなものではない。」
「ははあ、そうか、これは失敗。」卜伝はポンと手を拍ったが、
「今度は解った、外れっこはない。」
「これは面白い、あててみろ。」
「あてたら何をおくんなさる。」
「こいつがこいつが、慾深爺が! 何んでもくれる。望みのものをな。」
「それはそれは有難いことで。」
「が、外れたら何んとするな?」
「左様さ、外れたら、……外れっ放しだ。」
「悪い奴だ。馬鹿な話だ。それでは俺が丸損だ。」
「それで可《よ》いのだ。金持はな。」
「まず兎も角もあてるがいい。」
「首であろう? 首の筈だ。」
「首?」
と謙信は呆気に取られた。
「首であろうがな、信玄の首! アッハハハ夫れとも未だかな。」
流石の謙信もこの皮肉には苦笑せざるを得なかった。
つと謙信は手を延ばした。何やらしっかり握っている。
「首では無い、そんな物では無い。もっともっと小さい物だ。此処にあるのだ。拳の中にな。」
すると卜伝も手を延ばしたが矢張何やら握っている。
「や、それではお前もか!?」
「殿、お前様もお持ちなのか。……それでは来るではなかったに。」
二人同時に拳を開いた。と、二人の掌に黄金色をした丸薬が、寂然として載っていた。
「卜伝、どうして手に入れたな?」
「殿、どうして手に入れられました?」
「馬一頭、太刀二振、それで漸く手に入れたそうな。」
「ははあ、お前様の御家来がな。」
「うん、甘糟備後がな。」
「私は自身手に入れました。」卜伝はグッと眼を据えたが「一刀に斬って捨てましてな!」
「無慈悲な男だ。殺さずともいいに。」
「世の為めでござる。殺した方がよい。」
「さては薬売は悪人だったと見える。」
「悪魔の手下でございます。」
「魔王は誰だ? 知っているかな?」
「申す迄も無い、製薬主!」
「如何にもな。如何にもな。」
「起死回生、神変不思議、効験いやちこの是程の名薬、神の手では作れない。」
「如何にもな。如何にもな。」
「魔王一人、作ることを得ます。」
「俺もそう思う、悪魔の業だ。」
「悪魔の業でございます。」
二
「心あたりは? 心あたりはないか?」
謙信は一膝膝を進めた。
「先《ま》ず第一が、甲州弁……。」
「甲州弁とな? 薬売がか?」
「脱疽《だっそ》の為めに左の腕が、肩から千切れた薬売! 愚老が手に掛けた薬売! 甲州弁にございました。」
「甘糟の逢った薬売は、片足無かったということだ。」
「脱疽でござる。脱疽に相違ない。」
「さては薬売は多人数と見える。」
「日本全国津々浦々へ行き渡って居ることでござろうよ。」
「欲しいものだ、是非欲しい。せめて百粒、せめて千粒……。」
「御同様だ。愚老も欲しい。」
「俺は早速試みて見た。長江美作が気の毒にも、癩を病んで命|旦夕《たんせき》、そこで一粒を投じてやった。ところが何《ど》うだ。ところが何うだ!」
「起死回生でござったかな?」
「うんそうだ、悉《ことごと》く全快。」
「愚老は倅へ試みてござる。次男冬次郎労咳を患い、頼み尠《すくな》く見えましたので、早速一粒を投じましたところ……。」
「ふうむ、矢っ張り快癒したか。」
「宛《さなが》ら薄紙を剥ぐがよう。」
「名薬! 名薬!……欲しいものだ!」
「実は殿には是程の名薬、御存知あるまいと存じてな、それで一粒を献じようと、本日参上したのでござる。」
「礼を云うぞ、厚い好意だ。」
「日本に武将は数多くござれど、愚老の好きは殿一人だ。」
「益々有難い、嬉しく思う。」
「義侠に富んでおわすからな。」
「ナニ義侠? そうでもないが……。」
「一つ村上義清の為め、信玄御坊と数度の合戦、これ義侠ではござらぬかな。」
「なんの、あれは酔興よ。」
「そういう酔興こそ望ましゅうござる。」
「それは兎に角この名薬、手に入れる工夫はあるまいかな?」
すると卜伝は二膝ほどスルスルと前へいざった[#「いざった」に傍点]が、
「殿、文庫をお見せ下され。」
「いと易いこと。何んにするな?」
「御記録拝見致し度うござる。」
「記録を見て何んにする?」
「他に何んの用があろう、この名薬の製造人《つくりぬし》を、記録に由って見付けるのでござる。」
「おお。」
と叫ぶと謙信は中啓をトンと床へ突いた。
「卜伝! 其方《そち》に夫れが解るか?」
「殿。」
と卜伝は声を細めた。「この丸薬の製法こそは、越後流にございますぞ!」
謙信は無言で眼を据えた。
「表に塗ったこの金箔、これこそ佐渡の黄金でござる。」
「ははあ。」謙信は思わず云った。
「やや楕円の形こそは、越後特有の軍用薬型、何んとそうではござらぬかな。」
「…………。」
「即ち殿の御家臣の中に、薬の製造人《つくりぬし》はあるのでござる。」
謙信は黙って見詰めていた。
鳥渡《ちょっと》重苦しい沈黙である。
やがて謙信は探るように云った。
「誰であろうな? 心あたりあるかな?」
「御記録拝見致したなら、大方見当が付くでござろう。」
「うんそうか、では頼む。」
謙信ほどの英雄ではあったが、遂々《とうとう》頼むと云ったものである。
卜伝塚原義勝は、常陸国塚原の産、その実父は土佐守といい塚原城の城主であった。
下総の飯篠長意斎に天真正伝神道流を学び、出藍の誉《ほまれ》をほしいままにしたのは、まだ若冠の頃であった。後諸州を周歴し、佐野天徳寺、結城政勝、祐願寺等に兵を学んだが、更に上泉伊勢守に就いて神蔭流の極意をきわめ、一流を編み出して卜伝流と云った。
門弟一万に越える中、其の最も有名なのは足利将軍義輝公、伊勢国司北畠|具教《とものり》で、後年柳生但馬守が徳川将軍に教授したのと、天下二師範の名の下に並称されたものである。
その列国を往来するや、駒を牽き鷹を臂《へき》し、従者大方一百人、洵《まこと》に堂々たるものであり、其の権式に至っては武将大名と等しかった。
そうかと思うと|※[#「馬+芻」、第四水準2-93-2]従《すうじゅう》を屏《しりぞ》け、単騎独行山谷を跋渉し、魑魅魍魎を平げたというから、その行動は縄墨を以ては、断じて計ることが出来なかったらしい。
性磊落|且《かつ》俊敏、金にも淫せず威武にも屈せず、天下の英雄眼中に無しと、斯う流祖伝に記してあるが、そういう人物であったればこそ、上杉謙信を向うへ廻し、駄法螺を吹くことも出来るのである。
三
或る日卜伝が草庵の中で兵書の閲読に耽っていると、戸外《そと》でこういう声がした。
「五臓丸、五臓丸、売りましょう五臓丸!」
「はてな。」
と卜伝は夫れを聞くと、手に持っていた書を伏せた。
そうして童子を走らせて、その五臓丸を買って来させた。
そこで茶椀へ水を充たせ、そこへ丸薬を投げ込んだ。すると丸薬は動物《いきもの》のように、茶椀の内側を廻り出したが、忽ちポンと踊り上り、高い天井の板を打った。
「おお是は本物だ。」
こう卜伝は呻いたが、スックとばかり立ち上ると、太刀を提げて走り出た。
それとも知らぬ薬売は城下の方へ歩いて行った。
「待て!」と一声呼び止めて置いて一刀の下に斬り斃し、十粒の五臓丸を奪い取った。
これには立派な理由がある。
まだ壮年の頃であったが、飛騨山中で道に迷い、彼は危く餓死しようとした。其の時折よく通り合わせたのは、老いたる一人の猟師であったが、彼を猪小屋へ担ぎ込むと、火打袋から丸薬を取り出し、先ず水の中へ抛り込んだ。と丸薬は生物のように水の面を泳ぎ出したが、軈《やが》て茶色の水に溶けた。
それを飲んだ卜伝は一時に神身爽快を覚えた。
「神妙な霊薬! 何んと云う薬か?」
卜伝は感心して訊いて見た。
「贋の五臓丸でございます。」
「ふうん。何から製したものか?」
「猿の五臓から拵えたもので。」
「贋というのは可笑《おか》しいではないか。」
「これは贋物でございます。」
「では本物の五臓丸は?」
「人間の五臓で製します。」
「ふうん、恐ろしい薬だな。」
「恐ろしい薬でございます。」
「それは何処で製しているかな。」
「へい、南蛮とか申す国で。」
「おおそうか、日本では無いのか?」
「へい、日本では無いそうで。」
「で、どんな効能があるな?」
「へい、万病に利きますそうで。そうしてそいつ[#「そいつ」に傍点]を水へ入れると、ポンと天井へ飛び上がりますそうで。」
――つまり斯ういう経験が、その過去に於てあった所から、そこで此の日「五臓丸」という薬売の呼声を耳にするや、直ぐ一粒を需《もと》めたのであった。然るに夫れが意外にも本物の五臓丸だと知った時の、彼の驚きというものは、形容に絶したものであった。
「では何者か日本でも五臓丸を造るものがあると見える。生きた人間の五臓を刳抜き、製造するという五臓丸! 何物の悪魔の所業《しわざ》であろう?」
それから彼は五臓丸を仔細に渡って研究した。その結果彼の知ったことは、その丸薬の製法が、越後上杉の軍用薬と非常に似ているということであった。
で、彼は思う所あって飄然と春日山へ来たのであった。
四
こういうことがあってから一月程経った或る日のこと、老人と童子の一行が富士の裾野を歩いていた。
「菊丸よ菊丸よ、さあ唄ったり唄ったり。」
「かしこまりました、御隠居様。」
そこで童子は唄い出した。
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花の散るのは風のため
月の曇るは雲のため
サッササッサ
サッササッサ
[#ここで字下げ終わり]
「旨い旨い、仲々旨い。今度は私が唄おうかな。」
「お唄い下され、お唄い下され。」
そこで老人は唄い出した。
[#ここから1字下げ]
どんつくどんつくドッコイショ
どんつくどんつくドッコイショ
ヨンヤヨンヤ
ヨンヤヨンヤ
[#ここで字下げ終わり]
どうも一向面白くない。訳のわからない唄である。
二人はポクポク歩いて行った。
「菊丸よ、菊丸よ。」
また老人はやり出した。
「おん前に、御隠居様。」
童子は心得たものである。狂言の型で返辞をした。
「謎々|為《し》ようじゃまろまいか。」
「掛けさしませ、掛けさしませ。」
「赤くて白くて真黒け、サアサ此奴は何んでござる?」
「ううん、こいつは困ったな。」
菊丸は遂々《とうとう》ベソを掻いた。
それが老人には面白いと見えて、ニヤリニヤリと笑っている。
「解りません、あげました。」
「おやおや此奴は困ったね。ところで私も存じません。」
これで謎々も寂滅となり、二人は黙って歩いて行った。
洵《まこと》に暢気な旅であった。
今日もお山は晴天で、八つの峰が鮮《あざやか》に見え、肌が瑠璃のように輝いていた。そうして裾野には風が渡り、秋草の花がなびいていた。
一体何処へ行くのだろう? この時代の裾野と来ては、猛獣毒蛇魑魅魍魎剽盗殺人鬼の住家だのに。……何方を見ても危険であり何処へ行っても安穏はない。……一人は老耄した老人で、一人は十一二の子供である。……それが暢気そうに歩いて行くとは! 大胆と云えば大胆とも云え、無考えとも云える。……一体二人は何者だろう? 何処から何処へ行くのだろう?
その中だんだん秋の日が山の方へ落ちかかった。寝所《ねぐら》へ帰る鳥の群が、赤い夕陽をしのぎ乍ら、麓の方へ翔けて行った。
つるべ落しと云われる程暮れるに早い此の頃の日は、見る見る裾野を夜に導き、朦朧と四辺《あたり》を闇にした。
「御隠居様、御隠居様、夜になりましてございます。」
菊丸は不安そうに云い出した。
「さようさよう夜になったな。」
「どこぞへ宿《と》まらずばなりますまい。」
「さようさよう宿まらずばなるまい。」
併し宿まると云ったところで、人家もなければ野宮《のみや》もない。
で二人は歩かなければならない。
すると、此の時一点の火光が遥か行手から洩れて来た。
「あれ、御隠居様、火が見えます。」
菊丸は声を筒抜かせた。
「オット待ったりオット待ったり。」
老人は小声で制して置いて、じっと其の火を眺めやった。
火は一点に止どまって、動きもせねば揺れもしない。
「まず有難い、家があるそうな。」
「御隠居様参りましょう。宿を乞おうじゃございませんか。」菊丸少年はせがみ出した。
「併し。」と老人は不安そうに「あぶないあぶない用心せねばならぬ。」
「なんの用心でございますな?」菊丸は少し不平そうに云った。
「まず聞くが可い、古歌がある。『日は暮れて野には伏すとも宿かるな安達ケ原の一つ家のうち』……迂闊《うっか》り宿を乞うた家が、鬼の住家《すみか》なら大変だからな。」
「でも此処《ここ》は富士の裾野で、安達ケ原ではございません。」
「うん、そういえば夫れもそうだな。」
「宿を乞おうではございませんか。」
「おお宜《よ》かろう、参るとしよう。」
そこで二人は足を早め、灯の見える方へ歩いて行った。
行き着いて見れば、木立に囲まれて、一宇の館が立っていた。夜目にも凄じく荒れてはいたが、構えは堂々たる書院造、何《ど》うやら由縁もありげである。
玄関にかかった老人は、「お頼み申す、お頼み申す。」
二声ばかり呼んで見た。
併し何処からも返辞が無い。
老人は小首を傾《かし》げたが、更にもう一度案内を乞うた。
すると遥かの奥の方から「オー」と返辞《いら》える声がしたが、それから小刻みの足音がして、やがて一人の小男が手燭を捧げて現われた。小気味の悪い傴僂《せむし》男である。
「案内を乞うたはお手前達か?」
傴僂男は横柄に訊いた。
「ハイ、さようでございます。」
老人は恭しく辞儀をした。
「で、何んぞ用事かな?」
「行暮れました旅の者、近頃|不躾《ぶしつけ》のお願い乍ら、一夜の宿を御無心|為度《した》く……。」
「ははあ、それで参られたか。だが此処は宿屋ではない。」
「ハイハイさようでございますとも。」
「鍵手ケ原の療養園だ。」
「ははあ、さようでございますか。」
「即ち直江蔵人様の、御経営なさる病人の宿だ。」
「ははあ、さようでございますか。」
「病人なれば宿《と》めて進せる。健康体ならお断わりだ。」
すると老人は其の眼の中へ一道の光を宿したが、俄《にわか》に弱々しく声を顫わせ、
「それはそれは何より幸、私ことは世にも憐れな脱疽《だっそ》病者でございます。」
「なに脱疽? おおそうか。では宜敷《よろし》い通らっしゃい。」
ス――と手燭を手許へ引くと、頤《おとがい》で二人をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]ものである。
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第十一回
一
葛の衣裳を身に纏い、自然木《じねんぼく》の杖をつき、長い白髯を胸へ垂れた、飄逸洒落な老人と、その侍童の菊丸とが、富士山麓鍵手ケ原の、直江蔵人の古館へ、一夜のやどりを乞うた晩、同じ館の奥まった部屋で、奇怪な事件が行われていた。
その部屋は二つにわかれていた。
まず前房から説明すると、床が滑石《なめいし》で張り詰められてあり、その天井が非常に高いのが何より目立つ特色で、後房に通ずる戸口には黒色の垂布がかけられてあり、中庭に通ずる戸口には厳重な扉が設けられてあった。部屋の四方は板壁で、純白の色に塗られていたが、その一方の板壁に、幾段かの棚が設けられてあり、無数の壺が置かれてあるのも此の部屋の特色と云わなければならない。いずれも薬品を入れた壺で、壺の表には難解の文字が、紙に書かれて添付されてあった。
その薬棚のやや前方、滑石の床の一所に、石で造られた長方形の、寝台のようなものが置かれてあったが、これぞ今日の言葉でいえば、気味の悪い外科用の解剖台なので、既に白布が取りのけられてあるのは、間もなく犠牲者が運ばれるのであろう。キラキラ輝くメスや鋏や、小形の鋸や金属製の槌や、大小数本のピンセットや、白布を入れた銀の手箱などが、その傍《かたわら》の卓の上に、整然として置かれてあるのも、光景をいよいよ陰惨にする。
後房と向かい合った部屋の隅に、鉄製らしい漆黒の、巨大な火炉が作り付られてあったが、魔物の口とでも形容したい、カッとひらいた火口の奥で、真紅の焔がえんえんと燃え、その上に懸けられた筒型の釜を、メラメラ嘗めている有様は、決して快いながめではなく、その釜の中の熱湯が、シンシンシンシン音を立てているのが、この部屋の唯一の音であった。
この部屋全体を照らすための、一個大型の龕灯《がんどう》が、天井から鎖で釣り下げられてあったが、その光は白味を帯び、晄々という形容詞があてはまる所から考えると、魚油灯でなく獣油灯でなく、化学的のものと思われたが、確な所はわからなかった。
今、部屋には人影がなく、寂しいまでにひっそり[#「ひっそり」に傍点]としていた。と、其の時、中庭に当たって、人の歩く気勢《けはい》がした。
其の時、黒い垂布をかかげ、後房から姿を現わしたのは、一人の威厳のある老人であったが、しずかに戸口へ歩み寄ると、閂《かんぬき》を取り扉をあけた。
あけられた戸口から這入って来たのは、担架を担った男達で、解剖台の側迄行くと、つつましくそれ[#「それ」に傍点]を床へ下した。と、老人が合図をした。頷いた四人の男達は、先ず掛けられた白布を刎ね、その下に寝ていた人間をゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に台へ舁《かつ》ぎ載せたが、それから恭しく一礼すると、再びあけられた戸口からたるように出て行った。後は森然《しん》と静かであった。釜で煮え立つ湯の音ばかりが、只シンシンと聞えている。
解剖台に寝ているのは、正しく活きている人間ではあったが、手も無ければ足もない、ズンド切にした丸太のような、胴ばかりの生物で、その一端が細まりくびれ[#「くびれ」に傍点]、そこに一個の隆起物があったが、云う迄もなく頭部であった。今、一方の左の眼が、その眼瞼《まぶた》を重々しく開けたが、生命《いのち》の灯火の消えようとしている、どんより[#「どんより」に傍点]としたその白眼が、まず右手へそろそろ[#「そろそろ」に傍点]と動き、更に左手へ遅々と動いたが、そこで突然閉ざされた。しかし再び其の眼瞼が、ブルブルと烈しく痙攣するや、ポッカリ白眼が復《また》あいたが、今度は夫れが上を向き、軈《やが》て下の方へ移って行った。部屋を見廻しているのであろう。その皮膚の色は銅色を呈し、あちこちから膿が流れていた。顱《ろ》頂部にある一掴みの髪が、紙のように白く変色しているのも、悪病のさせた業であろう。
嘔吐を催させる悪臭が、いつか部屋を立ち罩《こ》めていたが、脱疽特有の悪臭であった。
解剖台の横に立ち、患者の様子を見下していたのは、手術衣を纏った老人であったが、一本のメスを取り上げると、トントンと卓の縁を打った。と、それを合図にして、後房の垂布を左右へひらき、一人の若々しい青年と、一人の乙女とが這入って来たが、つと[#「つと」に傍点]乙女は卓の側へ行き、青年は棚から銀盆を卸し、火炉の前へ佇んだ。
惨忍といえば惨忍ともいえ、奇怪といえば奇怪ともいえる、人体解剖の行われたのは、実に、其の次の瞬間からで、
「眠剤を!」
と老人は厳かに云った。
「……。」無言で卓の上の香箱を、つと[#「つと」に傍点]取り上げた美しい乙女は、それを老人の手へ渡した。香箱を受け取った老人は、やおら箱の蓋を取り去ったが、それを患者の鼻へあてると、しばらく様子を窺った。
二
「よし。」というと、蓋を冠せ、卓の方へ押し遣った。
軈《やが》て「メスを。」と老人は云った。と、磨ぎ澄まされた大メスが、乙女の手で渡された。その刃先がプッツリと喉仏の下へ刺された途端、犠牲者の全身を貫いて、波のような痙攣が伝わったが、次の瞬間にはいとも[#「いとも」に傍点]穏かな、絶対の平和が帰って来た。
血が一筋吹き上り、五寸あまりも宙に躍ったのはその痙攣と同時であったが、しかし夫れも一刹那で、乙女の振り撒いた茶褐色の粉が、流れる血汐を凝《こご》らせた。
露出された死者の喉から胸、胸から腹まで一文字に、大メスの刃が引かれたのは、手術が二段目へ這入った証拠で、切られた切口から熱い血が左右の脇腹へ滴《した》たり落ちたが、すぐに血止で凝らされた。
「鋸を!」
と老人は云った。と、乙女の手が卓の上から、夫れを老人へ手渡した。肋を切り取る無気味の音が、ひとしきり部屋の中へ響いたが、やがて左右十本の肋骨《ほね》が、血にまみれ乍ら、抜き取られた。其の時、老人は左右の手を、物でも掬うように円く曲げ、ドップリと胸腔へ差し込んだが、肘の付根から爪の先まで、唐紅《からくれない》に血に染めて、それを再び引き出した時には、軟いドロドロした変な物を、掌一杯に捧げて持っていた。
「肺の臓。」と冷静に云った。それから青年へ眼を遣ったが、「銀盆を!」と命ずるように云った。
つと[#「つと」に傍点]進んだ青年は、銀盆に肺臓を受け取ると、そのままゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と旋廻し、爪先で歩いて火炉まで行ったが、筒形の釜の真上の辺で、そろそろと盆を傾むけた。
シンシンという湯鳴の音が、ひときわ音を高めたのは、獲物を一つ呑んだからである。
血の最後の滴りが、盆から釜の中へ落ちるのを見て、青年は盆を手許へ引いた。それからグルリと振り返った。と、その眼の前に老人が、二つ目の獲物を掌《てのひら》に捧げ、冷静に青年を待っていた。
「銀盆を! 心の臓!」こう老人は云ったものである。
二度高く釜鳴りがし、二度銀盆を胸に抱え、青年が方向を変えた時、三つ目の獲物を掌にのせて、老人が同じように立っていた。
「銀盆を! 肝の臓!」
ふたたび老人は冷かに云った。
で、その肝臓も銀の盆から、釜の中へ落された。
三度青年が振り返った時、老人は腎臓を掌に載せ、銀の盆を待っていた。四度青年が振り返って見ると、最後の脾臓を捧げながら、矢張り銀盆を待っていた。
こうして悉く人間の五臓が、筒型の釜へ入れられた時、手術は全く終りを告げた。
部屋の中は蒸し熱く、膿の匂いと血の匂いと薬の匂いとで充たされていた。龕灯《がんどう》の光は益々白く、部屋の隅々隈々《すみずみくまぐま》まで、昼のように明るかった。手術の始まった其の時から、それの終った此の今まで、三人の執った行動は、恐ろしいほど冷静で、恰度《ちょうど》為慣《しな》れた組織立った仕事を、法則通りにやる人の、無感激さえ感じられた。
とはいえ、それらの冷静の中には、殺人鬼の持つ惨酷味などは、一点と雖《いえど》も含まれてはいず、寧ろ其処には科学者だけが持つ、学究的冷酷というようなものが、多分に含まれているのであった。
部屋の片隅に設けられてある、大形の湯槽の栓を抜き、そこから迸《ほとばし》り出た温湯《ぬるまゆ》で、次々に手を洗った三人は、無雑作に犠牲者へ白布を掛けると、何んの変事もなかったように、黒い垂布を押し分けて、揃って後房へ這入《はい》って行った。
黒の垂布を一つ隔てた、此処、後房の有様は、陰惨たる前房とは似ても似つかぬ、愉快な華美《はなやか》なものであった。但し天井の高いのと、床が滑石で張られてあるのとは、前房と変りが無かったが、不気味な火炉も解剖台も、鋭利な器具を立て並べた、小さな卓も置いてはない。
まず中央に紫檀細工の丸型のテーブルが据えてあり、それを取り巻いて二脚の牀几《しょうぎ》と、深張りの一脚の肘掛椅子と、そうして是も深張りの長い寝椅子とが置いてあったが、肘掛椅子と寝椅子とに、打ちかけられた豹の皮は、日本産とは思われなかった。
肘掛椅子に腰掛けているのは、解剖のメスを揮った所の、例の威厳のある老人であったが、他ならぬ直江蔵人で、その彼の背後にあたり、それこそ天井に届きそうな、巨大などっしり[#「どっしり」に傍点]とした書棚があったが、積み重ねられた書籍の多くは、見慣れない南蛮の書であった。
その老人とテーブルを隔て、寝椅子に並んで腰掛けているのは、例の青年と乙女とであったが、その青年こそ他ならぬ直江主水氏康で、そうして乙女は松虫であった。
仕事の後の快い疲労《つかれ》で、いくらか三人はだる[#「だる」に傍点]そうに見えたが、しかし愉快そうに話し合っていた。
さまざまの部屋の装飾《かざり》のうち、壁にかけてある織物が、とりわけ珍らしく立派であった。夫れには堂塔人物などが、極めて古風に異国的に、色糸を以て刺繍されてあった。
埃及《えじぷと》模様の壁掛なのである。
馥郁とした芳香が、部屋をふっくり[#「ふっくり」に傍点]と包んでいるのも、花瓶に生けられた花のためではなく、何か化学的の香料が、何処かに置かれてあるからであろう。天井から釣るされた龕灯の灯も、眼を射るような白色ではなく、軟い眠を催《さそ》うような、菫のような色であった。
戸外《そと》は寂しい秋の夜で、どうやら嵐さえ出たらしいのに、此の部屋の内は暖く、今にも音楽でも鳴り出しそうであった。
「信玄公より謙信公が偉い? ほほう、それはどうしてだな?」
こう云ったのは蔵人で、赫ら顔で長身肥大、雪のように純白な手術衣を纏い、半白の長髪を肩へ垂れた、その風彩は神々しかったが、日本的とは云われなかった。
「私にはわからぬ何うしてだな?」彼はもう一度くりかえした。
「信玄公は戦好き、無名のたたかいをなされます。それに反して謙信公は、終始一貫任侠を旨とし、意義のある戦争をなされます。」
こう答えたのは主水であった。今年の晩春越後の国から、この館へ来た頃から見ると、肉も付き血色もよく、健康そうになっていた。おそらく此の土地の風物が、彼の心身に適ったのであろう。悲観的であった精神まで、楽観的になったらしく、言葉にも動作にも活気があった。
「成程。」と蔵人はそれを聞くと、穏かな微笑を浮かべたが「しかし私から云う時は、謙信公も信玄公も、いずれもひとしなみの野蛮人だがな。」
三
「まあお父様。」
と驚いたように、横から声を筒抜かせたのは、美しい乙女の松虫で、「謙信様はわたし共にとって、恩ある故主様ではございませんか。ほかに云いようもありましょうに、野蛮人などと仰せられて……。」
「いやいやそういう意味ではない。」蔵人《くらんど》は鳥渡《ちょっと》手を振ったが、
「なにも私は軽蔑をして、そういう言葉を使ったのではないよ。私の持論から割り出すと、今川であれ北条であれ、浅井であれ朝倉であれ、世の所謂武人なるものは、一切合切野蛮人なのさ。」
「それは又なぜでございますな?」今度は主水が怪訝そうに訊いた。
「なぜというのかな、ほかでもないよ、いき[#「いき」に傍点]物の世界の法則から見て、横道へそれ[#「それ」に傍点]ているからさ、……由来、人間というものは、人間同志争ってはならぬ。と、斯ういうのが法則なのでな。」
「変な法則でございますことね。」松虫が笑い乍ら突っ込んだ。
「では人間はどんなものと、争《いさか》いするのでございましょう?」
「そうさな。」と蔵人は真面目顔をしたが「たとえば洪水とか、雷さんとか、火事とか地震とか悪い獣とか、まずザットこんなようなものと、喧嘩をしなければならないのさ。……おお、そうそうもう一つある。大事なものを忘れていた。ほかでもない病気だよ。」
すると二人の若い男女は、声を揃えて笑い出したが、やがて松虫がからかう[#「からかう」に傍点]ように、
「それはお父様が薬師《くすし》なので、それでそんなことを有仰るのでしょう。」
「それはそうだよ、いう迄もなくな。」依然として蔵人は機嫌よく「だが私は若い頃には、決して今のように薬師ではなかった。」
「ええええそれは承知して居ります。」こう受け答えたのは直江主水で「叔父様の御武勇は春日山では、今も評判でございますよ。」
「たしか、あれは、二十歳の頃だった。」永く忘れていた昔の夢を、思い出そうとでもするように、蔵人は暫く黙想したが「家中こぞって田楽の平《たいら》へ、兎を狩に行ったことがあった。勿論、殿のお供をしてな。……すると大きな熊が出た。いやその大きさというものは、私の体の二倍以上、三倍もあろうかと思われたが、不意の狩倉に周章《あわ》てたのであろう。旗本目掛けて駆けて来るではないか。素破《すわ》や獲物ござんなれと、八方から矢襖をつくったが、どうだろう一本も矢が立たない。ポンポンポンポン刎ね返すのだ。すると殿が仰せられた――蔵人よ、あれを仕止めろとな。……で、私は走り出たが、さあ思案に余って了った。なにしろ征矢《そや》が立たないのだからな。そこで私は決心し、鎧通を引き抜くとグイと逆手に取り直したものだ。月の輪! 月の輪! そこを突こうとな。」
云い云い蔵人はテーブルの上の、硯箱から毛筆を取り、ムズと逆に握ったが、さすがに勇ましい素振りであった。
「おお浮雲《あぶ》のうございますこと。」松虫は胸を躍らせたが「それから何んとなされましたな?」
「うん、苦もなく退治たよ。のしかかって[#「のしかかって」に傍点]来る一刹那を飛び違って只一刀、胸から背《そびら》まで刺し貫いてな。」
「お勇《いさまし》いことでございましたな。」感に堪えたように主水は云った。
「が、後が可くなかった。」
こう云うと蔵人は憮然として、長髪の端をまさぐった[#「まさぐった」に傍点]。
四
「と云うのは他でもない。」やがて蔵人は云いつづけた。「顔を見たのだ、熊の顔をな! すると私はゾッとした。なんと熊は笑っているではないか! そうだ、熊は笑っていたのだ。」
見る見る蔵人の眼の中へ、憂愁の色が漂ったが、
「猛獣などとは思われないほど、本来熊の顔は可愛らしいものだ。併し熊は死んでいるのだ。罪もないのに殺されたのだ。それだのに其の顔が笑っているのだ。あっ[#「あっ」に傍点]と思った一瞬間、これ迄戦場で首を刎ねた、幾十とも知れぬ敵の首が、ズラリと眼の前に現われたではないか! そうして皆な笑っているのだ!」
こう云うと蔵人は眼をとじた。
と、主水も松虫も、俄に鬼気に襲われたかのように、互に顔を見合せたが、云い合せたように吐息をした。
華やかに見えていた部屋の中を、一筋黒い何物かが掠めて通ったように思われた。そうして其処へだけ大きな穴が、ポッカリ開いたように思われた。
と、蔵人は云いつづけた。
「その時以来、武功というものが、値打のないものに思われて来てな。そうして私はこう思うようになった。戦争以来、武功の他に、何かもっと値打のあるものが、此の世になければならないとな。……」
「ああ、夫れでお父様は、薬師《くすし》になられたのでございますね。」こう云ったのは松虫であった。
「まずそうだ。が併し、それ迄になるには尚いろいろ、苦しみもしたし悲しみもした。……だが今はまず平和だ。そうして順境と云ってもいい。……只お前達二人の者が、私の後を継いでくれたらな。」
此の時コツコツと主屋に通ずる板扉を打つ音が聞えて来た。
「お這入《はい》り。」
と静かに蔵人は云った。
と、直ぐ扉がひらかれて、つつましく姿を現わしたのは、醜い傴僂《せむし》の小男であった。
「小源太か、何か用かな?」
「新入の患者がございますので。」
「ほほう、こんな深夜にな。」蔵人は其の眼をひそませたが、
「で、どんな人物かな?」
「はい、一人は老人で、もう一人は侍童らしゅうございました。」
「なんという名か、訊いたであろうな?」
「はい、常陸の爺《おやじ》だと、只このように申されました。」
「常陸の爺? で、病名は?」
「脱疽だそうでございます。」
「脱疽、成程、それならよい。」
「まず不取敢《とりあえず》二号病舎へ、差し置きましてございます。」
傴僂の小源太は立ち去ろうとした。
「どれ、それでは見舞うとしよう。小源太、提灯を点けてくれ。」
「かしこまりましてございます。」
やがて二人は中庭へ下り、門を潜って戸外へ出た。夜は暗く嵐は烈しく、真向から二人へ吹きつけて来た。
半町あまり歩いて行くと、低い小丘へぶつかった。小丘を上り、小丘を下りると、周囲を林に取り巻かれた広い空地が横仆《よこた》わっていたが、そこに数にして二十軒あまりの、板壁造作の小家があった。
鍵手ケ原の療養園である。
小源太の持った提灯の火が、その一つの小家の前で、鳥渡の間ためらった[#「ためらった」に傍点]のは、錠前をまさぐって[#「まさぐって」に傍点]いたからで、陰気なギーという音と共に、やがて表戸がひらかれた。
一筋細い廊下があって、その正面とその左右に、都合五つの小部屋があったが、これは患者の居間なのであった。
まず小源太が先に立ち、その後から蔵人が続き、正面の小部屋に這入った時には、常陸の爺と宣《なの》るところの、葛の衣裳を着た老人も、その侍童の菊丸も、まだ寝ずに起きていた。
「園主様のお見舞でござる。」
小源太が物々しく声をかけた。
途端に顔を上げた常陸の爺《おやじ》は、蔵人の顔をじっと見たが、
「思った通りだ! お前さんだったか。」
「おお、これは!」と夫れと同時に、蔵人は驚きの声を上げた。
「塚原小太郎義勝殿か!」
「俺だよ、卜伝だよ、驚いたかな。」
「うん。」と云ったが、俄に笑い「これは誰でも驚くよ。なんと思って出て来たな?」
「さればさ。」と卜伝は睨むようにしたが「お前の首を貰いに来たよ。」
「こんな首をか。なんにするな。」
「悪逆無道の痴者《しれもの》として、三条河原へ晒すのよ。」
「おおそうか、面白いな。」
「蔵人《くらんど》!」
と卜伝は叱咤した。
「冗談ではないぞ! 笑い事ではないのだ! 何時から貴様は悪鬼になったな。」
前半《まえはん》に手挿《たばさ》んだ小刀へピタリと手をかけたものである。
五
併し蔵人は水のように、冷然として立っていた。と、傍《かたわら》の牀几を引き寄せ、それへ悠然と腰かけたが、
「まずお前も腰をかけろ。話は出来る。それからでもな。」
「ならぬ!」と卜伝はにべもなく「活ける人間の五臓を取って、薬を製するとは天魔羅刹、南蛮人なら知らぬこと、本朝では汝《おのれ》一人! 云い訳聞こう、あらば云え!」
「ははあ、それで遣って来たのか。ご苦労であったな。だが卜伝!」
蔵人は相手を憐れむように、
「俺を咎める夫《そ》の前に、自分自身を何故咎めぬ! いやいや決してお前ばかりではない、上杉公、武田公、毛利、島津、竜造寺、そういう奴|原《ばら》を何故咎めぬ! 其奴等こそ真の殺人鬼だ!」
「詭弁だ!」と卜伝は刎ね返した。「それら諸侯は乱世の華、又戦は自衛の道、私利私慾とは自ら異《ちが》う! 何を云うか、人非人|奴《め》!」
「卜伝。」と益々憐れむように「剣を執らせたら蓋世の雄、向うに敵無いお前だが、事理には案外暗いと見えるな。一将功成り万骨枯る、この世相が解らないか。……戦は自衛? 成程な。併し今日の戦は既に其の域を通り抜けて居る。今日の戦は侵略だ。今日の戦は貪慾だ。いやいや今日の戦は殆ど興味に堕している。圧制の快感、蹂躪の快感、戦の為の戦だ! さて戦が勝利となる。獅子の分け前を受けるものは、獅子と夫《そ》れらの眷族ばかりだ。人民はあずからない。さて戦が負けとなる。すると彼等は討死する。不幸のようではあるけれど、その華々しい戦没の様が、詩となり歌となって詠われる。或る者は神にさえ祀られる。だが人民は苛斂誅求、新しい主人の鞭《しもと》の下に、営々刻苦しなければならない。……諸侯は乱世の華だという! そうであろう、そうであろう。但し其の花は血に咲いた花だ! 民の膏血に咲いた花だ! なんと卜伝、そうではあるまいかな。」
蔵人は尚も云いつづけた。
「さて、今度は俺の仕事だ。一殺多生! 一殺多生! 多くは云わぬが是が目的だ!」
「成程。」
と卜伝は小刀から、やおら右手を放したが、
「一殺といえども殺は殺、なぜ其の惨虐を敢てするな?」
「では俺からお前へ訊こう。腰間に秋水を何故横たえるな?」
「即ち悪魔降下の為よ。」
「その悪魔は何処にいるな?」
「内に察しては自己心内! 外に探っては一切万物!」
「悪魔降下の手段はな?」
「或る時は殺人剣、又或る時は活人剣!」
「いやはや随分忙しそうだな。結局は何が目的なのだ?」
「剣禅一致、悟道だ悟道だ!」
「が、お前は結局は死ぬ。」
「一切衆生は皆死ぬよ。」
「死はあんまり有難くない。」
「が、覚者にはそうでもない。」
「ナーニ、矢っ張り活きていたいのさ。」
「何をお前は云おうとするのだ。」
「お前は死をどう思うな?」
「死か? 死はな、転生だ。」
「莫迦《ばか》を云え、生き変わるものか。一旦死んだら、それっきりよ。」
「蔵人!」
と卜伝は疑わしそうに、「ははあ、又復《またまた》詭弁だな。」
「卜伝!」
と蔵人は立ち上がった。「正直に云え、死にたくあるまい。」
「うむ。」と卜伝はやむなく云った。
「うむ[#「うむ」に傍点]と云ったな。よく云った。誰でも死にたくはない筈だ。これは生物の本能なのだからな。死にたく無いの一念が、宗教を産み剣道を産み、そうして医学を産んだのだからな。ところで宗教は消極的、武道に至っては要するに兇器。只僅に医学があって人間の生命を救おうとしている。生命の本態は物質だ。……そうして物質を救うものは、矢張り同じに物質でなければならぬ。薬だよ! 五臓丸だよ!」
蔵人は悠然と部屋を出た。
「まずゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と考えるがいい。まずゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と眠るがいい。」
蔵人は屋敷へ引っ返して行った。
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第十二回
一
由来宗教というものは、それ自体偉大なものである。
それは一面哲学であり、又救世の道具だからである。
おそらくあらゆる宗教は、その創立の始めに於ては、簡素であったに相違ない。
教祖の全人格の放射なるものが、とりも直さず宗教なのである。
あらゆる新思想がそうであるように、あらゆる宗教は創始時代に於ては、その時代に反逆する。
だから迫害されるのである。
法律は死物である。司法官の優秀なる運用があって、はじめて活溌なる生命を持つ。
宗教といえどもそうである。僧侶の勝れた布教があって、陸離たる光彩を放つものである。
富士教団といえどもそうであった。光明優婆塞《こうみょううばそく》の全人格が、その宗教を形成したのである。そうして彼の徹底的布教が、更にそれ[#「それ」に傍点]を偉大にしたのである。
光明優婆塞を除外しては、富士教団は存立しない。
もしも彼がなくなった[#「なくなった」に傍点]なら、富士教団も無くならなければならない。
宗教は偶像を要求する。それは人間の弱点である。適確に物を掴まなければ、大方の人は安心しない。
仏像、聖画、讃美歌、祈祷、ことごとく或る意味の偶像なのである。
そうして殆ど例外無しに、教祖その人は偶像なのである。
教祖に対する信者の情緒は、殆ど恋愛と云ってもよい。
そうして恋愛は性慾なのである。
だから非常に力強い。
だから平気で殉教する。
殉教は彼等には快楽なのである。
光明優婆塞は恋人であった。
その恋人がいなくなった。
信徒達は恋人を失った。
教団は偶像を紛失した。
動揺せざるを得ないではないか。
あっちでも此方《こっち》でも噂された。
「今日で一月お姿が見えない。」
「こんなことは是迄にはなかった。」
「二日か三日、せいぜい五日、お姿の見えないことはあった。……だが、こんなことははじめてだ。」
「一体どこへ行かれたのであろう? 私達を見棄てたのではあるまいか。」
「どうしたら可《よ》いのだ。こまったことだ。」
「俺は恐ろしくてたまらない。今に屹度《きっと》悪いことがあろう。」
「何かをお怒りになられたのだ。私達の何者かを。」
「ああ、どうぞお早くお帰り下され。」
「探さなければならない。探さなければならない。」
「だが、どうしてさがすのだ? あて[#「あて」に傍点]が無い。想像もつかぬ。」
「もしやどこかで優婆塞様は、おなくなり[#「おなくなり」に傍点]になったのではあるまいか。」
「聖者だ、聖者だ、そんなことはない。」
「だが、生身のお体だ。」
「併し、奇蹟がお出来になる。」
「登天されたのではあるまいか。下界を去られて、天上界へ……。」
「私は信仰を失いそうだ。」
「私は教団を出ようかしら。」
「苦行するのが厭になった。香を焚くのも厭になった。」
「謀反が起こるに相違ない。」
「誰だ誰だ、裏切者は。」
「私はなんだか死んで了いそうだ。」
「私の前身は暗黒《まっくら》だった。此処へ来て漸く光りをみつけた。だがその光りは消えようとしている。そうしたら二倍の闇となろう。」
「この頃は梵鐘もはかばかしく[#「はかばかしく」に傍点]鳴らない。」
「祈祷の声も聞かれなくなった。」
「撲り合い、掴み合い、喧嘩口論。……昔の面影はなくなった。」
「役《えん》ノ行者様よ、役ノ行者様よ、優婆塞様をお守り下され。」
家の中でも、天幕の中でも、又往来でも「聖壇」でも、信者たちはヒソヒソと噂し合った。
折柄季節は冬であった。
富士のお山も「聖壇」も、その「聖壇」の建物も、そうして巨大な行者の像も、雪の白無垢に包まれた。教団の家々の軒端からは、氷柱が長く垂れ下り、町を流れている小川へは氷が厚く張り詰めた。
冬は静思の季節である。
教団に執《と》っては反対であった。
疑惑、不安、不信、動揺、そうして議論の季節であった。
二
教団の周囲《まわり》の荒野では、餌に磯えた獣たちが吠えていた。
狼たちは群をなし、熊は妻と子供とを連れ、猪はいつも一人ぼっちで、餌食はあるまいかと探し廻っていた。
勇敢な熊が或る夕方、教団の中へ忍び込んだ。そうして一頭の馬を盗んだ。
つづいて猪が忍び込み、納屋の野菜を掠奪した。
と、狼が隊をつくり、突然「聖壇」の裏手へ現われ、鶏と犬とを食い殺した。
しかも教団の人々は、それに備えようともしなかった。彼等は議論し、やっつけ[#「やっつけ」に傍点]合い、呪いの言葉を浴びせ合った。
一軒の家では老いた夫婦が、互に口穢く詈っていた。と女房の鋭い爪が、良人の右の眼を刳り抜いた。
すると又一軒の若夫婦の家では、荒淫に耽っている間に、一粒種の二つになる子が、川へ落ちて死んで了った。
折柄東の関門をくぐり、新たに入団した一家族があったが、乱脈している教団を見ると、愛想をつかして引っ返して行った。
驚く可きことが勃発した。
富士教団始まって以来の、最初の窃盗が行われた。
つづいて殺人《ひとごろし》が行われた。
と復《また》放火《ひつけ》が行われた。
神聖なるものが汚辱に返ると、俗界以上に穢《けがら》わしくなる。まさに夫れが富士教団へやって来ようとしているのであった。
人々は人々を疑った。そうして信仰を疑った。そうして利慾に覚醒《めざ》めて来た。
こうして復も一月経った。
光明優婆塞は帰って来なかった。
「いよいよあの人は見棄てたのだ。この不幸な私達を。」
「悪党よ、呪われて居れ!……ああ俺は一文無しだ。俺はみんな[#「みんな」に傍点]献金して了った。どこへ行こうにも行かれない。」
「あいつのお蔭で貧乏になった。こんな所へ来なければよかった。」
やがて光明優婆塞に対し、憎悪の声をさえ洩らすようになった。
日が昇り日が暮れた。
そうして早春が訪れて来た。
滝壺のあたりに水仙が咲いた。藪では柑子《こうじ》が珠をつづった。沼の氷が日に日に解け、芹《せり》がはっはっ[#「はっはっ」に傍点]と芽を吹いた。
雁や鴨が騒ぎ出した。
或る日やわらかい風が吹いた。おお夫れは春風であった。忽然、鶯の声がした。見れば南向きの丘の麓に、白梅が蕾を破っていた。
鹿が荒野で啼き出した。
と、河原の崖の周囲を、無数の岩燕が飛び翔っていた。
優婆塞は帰って来なかった。
信徒たちは殺気立った。
「破壊だ破壊だ!」
と叫ぶものがあった。
いくつかの仏像が破壊された。
雲雀《ひばり》が空で啼き出した。
雪が徐々に消えて行った。そうして霞が立ち初《そ》めた。
富士のお山は笑い出した。だが未だ白無垢は脱がなかった。
矢張り光明優婆塞《こうみょううばそく》は、教団へ帰っては来なかった。
一体どこへ行ったのだろう? どうして帰って来ないのだろう?――それは誰にもわからなかった。とまれ彼はあの時以来――三合目|陶器師《すえものし》と邂逅《いきあ》って以来、どこかへ姿を隠したのであった。
三
土屋庄三郎昌春と雖《いえど》も動揺せざるを得なかった。
彼は一冬を天幕で暮らした。貴族の御曹司たる彼としては、まさに破格の生活であった。難行苦行の生活であった。食物にも不足した。着る物にも不足した。吹雪は用捨なく吹き込んで来た。しかも十分の燃料さえ無い。
だが彼には苦痛ではなかった。
それは法悦に燃えていたからであった。
教主光明優婆塞とは、役ノ行者の石像の下で只一度しか逢わないのではあったが、それだけで彼には十分であった。
彼はすっかり推服した。
彼は一目惚れしたのであった。
涅槃《ねはん》の釈迦に一目会い、その全人格に霊覚され、「朝《あした》に道を聴き、夕《ゆうべ》に死すとも可なり。」と叫んで、即座に縊《くび》れて死んだという、或る婆羅門の心持が、庄三郎にもあったのであった。僅の時間の会見ながら、庄三郎に執っては光明優婆塞は、或る意味では「雷霆《らいてい》」であり又或る意味では「太陽」であった。
それだのに今や教団は、教主優婆塞失踪のために、大混乱に墜落《おちい》った。
そうして現在の教団は、平和の別天地ではなくなった。譎詐《きっさ》奸曲の横行する俗の俗たる穢土《えど》となった。
「不思議ではない、当然なことだ。」
彼は思わざるを得なかった。
「人間としての優婆塞が、いかに偉らかったかということは、この一事だけでも想像出来る。彼等に執っては教理などは、実はどうでも可かったのだ。光明優婆塞その人ばかりを、愛しもし信じてもいたのだ。『仮面の城主』の眷族どもが、教団破壊を企てた時にも、光明優婆塞が居たればこそ、すぐに建設に取りかかったのだ。……然るに今は優婆塞はいない。彼等は牧者を失った。彼等はさまよえる羊となった。四散するのは当然である。」
で、彼は自分へ云った。
「さて庄三郎よ、お前はどうする? 俺か、俺は出立しよう。本来の目的へ帰ることにしよう。父母と叔父とを尋ねることにしよう。俺は実際は可い意味に於て、光明優婆塞に魅せられていたのだ。露骨に云えば誑《たぶら》かされていたのだ。だが今は正気となった。憑物は離れて了った。ああ夫れにしても纐纈布《こうけつぬの》は、なんと俺には宿命であったろう。」
で、或る日庄三郎は、仕舞い込んで置いた紅巾を、物の間から取り出して、膝の上へ拡げて見た。
天幕の隙間から春の陽が、黄金の征矢《そや》を投げかけた。紅巾は燦然と輝いた。底に一抹の黒味を湛え、表面は紅玉のように光っていた。眼の眩むような赤色であり、それが角度の相違に由って、青くも見え紫にも見えた。
いま更ながら庄三郎は感嘆せざるを得なかった。
彼は恍惚と見入っていた。これが彼の悪運であった。
一人の僧が通りかかり、何気なく庄三郎の天幕を覗いた。彼の顔色は颯《さっ》と変った。
彼は其の儘「聖壇」の方へ、大急ぎで帰って行った。
忽ち世にも恐ろしい噂が、耳から耳へと囁かれた。
「仮面の城主の手下|奴《め》が、忍び込んでいるということだ。」
「纐纈布を持っているそうだ。」
「真鍮の城の眷族奴が!」
「ああ夫れだから優婆塞様は、帰っておいでにならないのだ。」
「これで真相がはじめて解った。」
「纐纈布! 纐纈布!」
囁きは漸時《だんだん》大きくなった。嘲りとなり恐怖となり、罵詈《ばり》となり憤怒となった。
教団中が湧き上った。人々は兇器を手に持った。そうして庄三郎の天幕の方へ、喚きながら走って行った。
信徒ではなくて暴徒であった。それこそ血に饑えた暴徒であった。
しかし庄三郎は知らなかった。何がそんなに信徒たちを、驚かせ怒らせたか知らなかった。
彼は天幕から引き出された。
「『聖壇』へ! 『聖壇』へ!」
モッブたちは絶叫した。
庄三郎は宙に釣るされ、「聖壇」の上へ運ばれた。
役ノ行者の大石像は、悲哀を含んで立っていた。その下へ庄三郎は据えられた。
「殺せ!」
と誰かが呶号した。
「嬲殺《なぶりごろし》だ!」と直ぐ応じた。
「磔刑《はりつけ》だ! 磔刑だ!」
「火炙りにしろ! 火炙りにしろ!」
群衆は口々に叫び出した。
人生で最も惨酷なものは、群衆の持つ心理であろう。それには一切反省がない。亢奮! 亢奮! 亢奮! である。それは責任を感じない。また咎められる心配もない。衆口金を鎔《とろ》かすというが、群衆心理がそれであった。仏蘭西王もそのために殺され、近代の政治家もそのために仆れた。
そうして今や庄三郎も、矢張りそのために殺されようとしている。
しかし信徒たちの心持にも、同情すべきものがあった。彼等に執っては纐纈城主と、その手下どもは敵であった。肉を食い血を啜っても、飽き足りない所の仇敵であった。是迄如何に彼等の同胞が、彼等のため掠奪され、彼等のために血を絞られ、彼等のために染料にされ、纐纈布の犠牲となったか! そうして如何に彼等のために、尊い教団を破壊されたか!
信徒たちに執っては纐纈布は、死の象徴という可きであった。
それを庄三郎は持っているのである。敵の廻し者と信じたのも、決して無理とは云われない。
その上彼等は去冬以来、殆ど常識を失っていた。そうして殺伐になっていた。教団全部が発狂していた。
もし光明優婆塞が依然として君臨していたならば、こう迄狂暴にはならなかったであろう。
悪運というものは一緒に来る! 土屋庄三郎は悪い時に悪い物を見たものである。
四
「これは一体どうした事だ!」
庄三郎の心持は、此の一語に尽きていた。何が何んだか解らなかった。只身に逼る危険を感じた。だが其の中に解って来た。解ると同時に彼の心は恐怖を感ぜざるを得なかった。
弁解しようと決心した。
彼は石像の台石の上へ、球のように飛び上った。
「違う!」
と彼は先ず叫んだ。「纐纈城主の部下ではない! 俺は是でも武田家の家臣だ! 土屋庄三郎昌春だ!」
不幸にも弁解は聞かれなかった。
聞かれないのが当然であった。
呪詛と嘲笑と呶号との間に、彼の声は葬られた。
そうして台石から引きずり下された。
「掟通りに、掟通りに!」
群集は遂々《とうとう》こう叫んだ。庄三郎の運命は決定された。掟通りに処刑されなければならない。
うらうらと空は晴れていた。そこでは雲雀が啼いていた。そうして片雲が帆走っていた。絹糸のような水蒸気に漉され、油のように質の細かな、午後三時頃の陽の光りは、家根や往来を照らしていた。
そうして子供たちははしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]廻り、犬や、猫や、鶏は、各自《めいめい》の声で唄っていた。
家々の窓や門口では、年を取った人達が、不安そうに話し合っていた。
そうして若い数百の男女は、往来を波のように一杯に埋め、処刑をさせる若侍の、やって来るのを待ちかまえた。
やがて一隊の人の群が「聖壇」の方からやって来た。
手を縛られた庄三郎が、往来の真中を歩いていた。その前を行くのは僧の群であった。その左右を固めたのは、武器を提げた信徒たちであった。抜身の槍・抜身の薙刀《なぎなた》、そうして幾丁かの鉄砲が、キラキラ日光に反射した。
庄三郎は諦めていた。それは悲惨な心境であった。
弁解することが出来ながら、弁解することを許されない!
だが大方の社会なるものは、そういうものであるかもしれない。
相手は眼に余る大勢であった。刀を揮って抵抗したところで、敵すべくとも思われなかった。
それに大小も奪われて了った。
木に昇っていた少年が、突然小石を投げ付けた。と、二三人が真似をした。みるみる小石が降って来た。その一つが中《あた》ったのであろう、庄三郎の片頬から、血がタラタラと流れ出た。
真鍮の城の眷族に、良人《おっと》を奪われた其の為めに、発狂をした女があったが、それが突然走り寄ると、手に持っていた鋏の先で、庄三郎の腕を突いた。と、そこから血が吹き出した。すぐ二三人が真似をした。着ている衣裳が破られた。腕や脛から血が流れた。
庄三郎の頭の中を、いろいろの幻影が通り過ぎた。
甲府の館。……信玄公の姿。……友人の真田源五郎。……爛漫と咲いている夜の桜。……年寄りの紅巾売。……そうして光明優婆塞の顔。……
「父上にも母上にももう逢うことは出来ないだろう。……死! 処刑! 教団の掟! こんな所へ来なければよかった。……俺は直ぐに殺されるのだ。……痛い! 小刀で突いたそうな。……一体どこへ連れてくのだ! 悪党どもが! 悪者どもが!」
一隊はやがて辻を曲った。それから丁字路を左へ折れた。そうしてノロノロと進んで行った。
行っても行っても群集であった。群集の顔は口ばかりであった。呪詛の声ばかりがぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た。
又も一隊は辻を曲った。
あらゆる町々を歩くのであった。
彼は晒し物にされるのであった。そうして其の上句《あげく》に殺されるのであった。
次第に庄三郎は疲労《つか》れて来た。益々歩みがのろく[#「のろく」に傍点]なった。首を上げることが出来なくなった。心がだんだん恍惚となった。もう何んにも見えなくなった。幻影さえも消えて了った。だが声ばかりは聞えて来た。
「良人を返せ!」
「子供を返せ!」
「呪われておれ! 呪われておれ!」
一筋泣声が響いて来た。つづいて笑う声が聞えて来た。
歩かなければならなかった。見世物にならなければならなかった。
「お父様!」と突然庄三郎は云った。「おお、お母様! お母様! どこにおいででございます! どこにおいででございます! 私はこんなに探して居ります! 私はこんなに探して居ります!」
五
歩かなければならなかった。
往来からは塵埃《ほこり》が立った。雲のように天に立ち昇った。
彼は死に度《た》く無くなった。その癖肉体も精神も、殆ど死にかかっているのであった。だから死に度く無くなったのであろう。
「これは不当だ! 不当すぎる! 誤解の下に殺されるなんて!」
弁解しようと決心した。血だらけの体を引き延ばし、群集へ向って手を振った。
「聞いてくれ聞いてくれ静かに聞け! 俺は土屋庄三郎だ! 去年の春だ、桜の夜だ、甲府の神社《やしろ》へ参詣《おまいり》に行った。その時年寄りの布売りがいた。それが俺に売り付けたのだ、纐纈布《こうけつぬの》を、紅巾を! それには父の名が書いてあった。幼年で別れた父の名が。そこで俺は脱走した。甲府の館を、武田家を! そうだ父を見付けようために。……そうして此処へ迷い込んだのだ。この清浄な教団国へ! これが俺の一切だ! 紅巾を持っているのは其の為だ! 俺には何んの罪もない。纐纈城とは無関係だ、俺は敬虔な一信徒だ。この教団から出してくれ! 俺は父母を探しに行きたい! そうして叔父を探しに行き度い! ああ死ぬのは恐ろしい。俺は厭だ俺は厭だ! お前達は間違っている。恐らく直ぐに後悔しよう。俺を放せ、自由にしろ!……咽喉が乾く水をくれ! あッあッあッ、また斬ったな!」
ドッと哄笑が湧き起こり、彼の声を葬った。
歩かなければならなかった。
忽然眼の前が暗くなった。おお夜が来たらしい。いやいや太陽は輝いていた。夕陽が御山を染めていた。
彼の視力は弱って来た。
もう歩くことが出来なかった。と急に肩の辺へ、恐ろしい痛みが感じられた。で、彼は小走った。彼は鞭で撲られたのであった。
無感覚になろうとした。ともすると仆れそうになった。行っても行っても人の顔であった。みんな其の顔は笑っていた。
やがて関門の前へ出た。
富士胎内神秘境へ、一筋通っている横穴の口で、楕円を為した銅の扉が、数人の門番に守られていた。
ギ――と扉がひらかれた。と、三列の篝火が、真直ぐに何処までも続いていた。
群集は従《つ》いて来なかった。
詈《ののし》り騒ぐ声ばかりが、背後《うしろ》の方から聞えて来た。
庄三郎は歩いて行った。
僧侶の群と武装した信徒が、五十人あまり従った。
黙々として歩いて行った。
道は狭く低かった。そうして左右の岩壁にはさまざまの彫刻が施されてあった。
道は次第に広くなった。そうして天井も高くなった。だが容易に尽きなかった。十里もあるように思われた。
よろめき、つまずき、また仆れ、庄三郎は歩いて行った。彼の全身は血に濡れていた。それが篝火に反射した。
どんなに苦しんで歩いたことか! その上句《あげく》彼を迎えるものは、掟であり死であった。しかも無辜のために殺されるのであった。
彼は遂々《とうとう》歩き通した。
胎内最初の関門が、彼をワングリ呑むことになった。その関門には衛士がいた。
「何者?」
と一人の衛士が訊いた。
「罪人。」
と一人の僧が云った。
そこで関門が内側へひらいた。
富士胎内神秘境は、こうして一隊を迎えることになった。光明優婆塞が俗人の頃、はじめて発見した胎内とは、今は似ても似つかなかった。その頃の胎内は洞然とした、洞《ほら》の国に過ぎなかった。今は無数の建物が、隙間もなく立っていた。
やがて一隊は寿相門を通り、岩石造りの楼門へ出た。四涜の塔と呼ばれていた。そこには四人の悪神の像が、呪縛されて置かれてあった。それを通ると鐘楼であった。梵鐘は青く緑青《ろくしょう》を吹き、高く空に懸かっていた。五岳の塔と六府の塔を、左の方に睨み乍ら、九曜殿の方へ進んで行った。黒木造の宮殿で、教団に属する財宝は、そこに一切貯えられてあった。
弓形の門を通り過ぎた。右へ行けば籠《こもり》堂で、岩壁を刳り抜いて造られてあった。左へ行けば苦行堂で、これも岩壁で造られていた。中庭へ出、坂を上った。その頂上に塔があった。朱塗りの美しい三重の塔で、経文が納められてあるのであった。
坂を向うへ下って行った。
この時突然庄三郎は千切れるような悲鳴を上げ、握った拳を頭上で振った。そうして俯向《うつぶ》せに地に仆れた。そうして遂々《とうとう》動かなくなった。
六
夜光虫の光で胎内の国は、紫陽花《あじさい》色に煙っていた。あらゆる人工天工が、蔭影《かげ》の無い微光に照らされていた。
四辺《あたり》は寂然《しん》と静かであった。
空は暗く高かった。その空の涯の極まる所は、富士の内側の岩組であった。だから其処には日月もなく、また辰星もないのであった。
夜光虫の光の届かない隈は、只暗々たる闇なのであった。
庄三郎は死んだのではない。――死んだのなら何んと安らかであろう。――だが彼は生きていた。ただ正気を失ったばかりだ。
三人の信徒が担ぐことになった。
一人が頭、一人が胴、もう一人が足を担ぐことになった。
僧侶の群が先頭に立ち、気絶した庄三郎が其の後から続き、その左右と背後から、武装した信徒が従った。
一隊は一言も物を云わない。足音ばかりが反響した。
一筋川が流れていた。短い石橋がかかっていた。その石橋を渡って行った。
長い廻廊が現われた。白木の懺悔堂が現われた。それを過ぎると河原であった。
天工自然の大巨巌が、燐火の海に浮き出ていた。それには少しの飾りも無かった。これ迄のすべての建物の中で、これが一番神々しかった。
富士教団の守護神たる、役《えん》ノ行者の荘厳の木乃伊《ミイラ》が、昔ながらの形を保ち、そこに籠っているのであった。
一隊はその前を通り過ぎた。
と、遥《はるか》の薄明の中に、銀のような一筋の光が見えた。
即ち一湾の湖水であった。
一隊はそっちへ進んで行った。
やがて湖水の岸へ来た。水は箔のように光っていた。夜光虫の燐の火が、燃え立つばかりに輝いていた。水は微動さえしなかった。それが広茫と湛えられていた。
岸は岩で畳まれていた。それが緩いカーヴをなして、左右へ遠く延びていた。
古風な独木船《まるきぶね》が舫《もや》っていた。しずかに上下へ揺れているのは、多少|漣《さざなみ》が立つのであろう。
一隊ははじめて立ち止まった。それから掟が行われた。
庄三郎は信徒の手で独木船へ移された。
彼は死の湖水へ棄てられたのであった。二三人が船を押しやった。と、船は痙攣しながら、沖の方へ辷って行った。
湖水は動いているのであった。極めて緩慢ではあったけれど、沖の方へ、沖の方へと、渦を巻き乍ら動いていた。
で、船は渦なりに[#「なりに」に傍点]、沖の方へ引かれて行った。
船は湖心まで引かれて行った。
そこで暫く静まった。それから徐々に流れ出した。
船は東南へ流れ出した。
湖水は大河に続いていた。仁田四郎忠常が、究めることが出来なかったという、人穴の奥の大河こそは、湖水に源を発しているのであった。船の中の庄三郎は、まだ気絶から醒めなかった。血にまみれた顔を上へ向け、木像のように動かなかった。
船は湖水から大河へ出た。河はゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に流れていた。
どこ迄流れて行くのだろう? 他の大河へ合するのであろうか? それとも海へ入るのであろうか? それとも地軸へ落ち込むのであろうか?
富士の岩根を貫き流れる、名の無い大河は名の無いように、どこへ向って流れるものか、今日も尚解らないのであった。
それは末無しの河なのであった。恐らく屹度《きっと》地表の外へ、突然消えて了うのであろう。
船は顫えながら流れて行った。
もう夜光虫はいなかった。水路は文字通り闇であった。
水音が次第に高くなった。
救いの道は絶えて了った。
船は急速に流れ出した。
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第十三回
一
船は駸々《しんしん》と流れて行った。
船の中では庄三郎が、まだ気絶から蘇生《さめ》なかった。
水路は文字通り闇であった。水の音ばかりが響いていた。
富士胎内のことであった。水路の上や水路の左右は、恐らく岩か土なのであろう。
そうして恐らく草木などは、一本も生えてはいないだろう。そうして勿論水路には一匹の魚さえ住んではいまい。水草も無いに相違ない。生命ある物は一つもあるまい。 水! それは流れていた! では水だけが生きていると云える。死の胎内を一道の大河が生きて駿々と流れているのだ。しかも其の水の行衛と云えば、知っているものは無いのであった。流れ流れて消えるのかも知れない。大地の底へ落ち込むのかも知れない。
船は暫く速く流れた。
その中《うち》水勢が和《なご》んだと見え、次第に船は速力を弛め、間もなく穏かに流れるようになった。
その頃から四辺《あたり》が明るくなった。
最初|遥《はるか》の行手にあたり、蛍火のような微光が見え、船が進むに従って、その微光が色濃くなった。月夜よりは稍《やや》暗く、暁の色よりは艶が無く、蒼褪めた他界的の光であったが、他ならぬ夜光虫の光であった。幾億万とも数えられない発光体の微細動物は、両岸の岩にも水の中にも、高い高い天井にも、べったり[#「べったり」に傍点]喰い付いているのであった。岩そのものが発光体であり、水そのものが発光体かのように、朦朧と光って見えるのは、当然のことと云わなければならない。
と、船は光の中へ這入《はい》った。
蒼褪めた顔、落ち窪んだ眼、血にまみれた腕や足、船底に仰臥した庄三郎の姿は、呼吸《いき》のある人間とは見えなかった。このまま彼は死ぬのかも知れない。父母とも叔父とも逢うことが出来ず、闇から闇へ葬られるのかもしれない。
光の中を徐行した。
光は何処までも続いていた。すると、水路はカーヴをなして、左の方へ緩く曲った。矢張り水勢は穏かであった。殆ど瀬の音さえ聞えない。漣《さざなみ》一つ立たないらしい。ただ一筋の長い水脈《みお》が船の船尾《とも》から曳かれていた。夜光虫の光に照らされて、それが一際鮮かに光り、駛る白蛇|宛然《さながら》であった。
水路が次第に拡がった。
一つの小さい入江へ出た。それは一方の断崖が、水勢の為めに穿たれたもので、周囲半町もあるだろうか、真中に岩の小島があった。
船は入江の岸に添い、島をゆるやかに巡り出した。灰色の漣が島の根方を、音を立てずに洗っていた。入江の水は平らかで、油を流したように穏かであった。
もし庄三郎が気絶から覚めて、その島を仔細に眺めたなら、屹度《きっと》驚いたに相違無い。
島を取り巻いている岩壁に、仏像が刻まれているからである。
鉄鉢を両手で捧げた者、猛虎を足に踏まえた者、香炉に向かって坐っている者、合掌し結跏《けっか》し趺坐《ふざ》している者、そうして雲竜に駕している者……千態万状の羅漢の像が、昨日今日鑿で彫ったかのように、鮮かに岩へ彫り付けられていた。
それは夜光虫が動くからでもあろう、入江一杯に充たされている、蒼い光は暫《しばらく》も待たず、恰度《ちょうど》まばたきでもするように、チラチラチラチラ動いていたが、その光の動きに連れて、千体仏の表情が明るく暗く変化した。今、一つの羅漢の眼が、夢見るように閉ざされた。と、同時に法衣の襞が、一筋白く浮き出した。併し次の瞬間には、閉ざされた眼が仄《ほのか》に開き、その代り法衣の襞が消えた。併し其の次の瞬間には、香炉から立っている煙の筋が、匂わしく軟かく浮き出した。
船はゆるやかに巡って行った。
船の進むに従って、千体仏の数々は、それを見送り見迎えた。
仏が刻まれている限りは、刻んだ人がなければならない。では無人のこんな境地にも、住んでいた人があったのだろうか? 誰が住んでいたのだろう?
数百年のその昔、役《えん》ノ行者が此処に住み、日夜不断に鑿を揮い、岩へ仏を刻んだのであった。
人の知らない暗黒世界で、人に知られず努力した跡が、千体仏となって残ったのであった。
それは信仰の所産であった。
同時に意志の所産でもあった。
自己完成と衆生済度との、渾然融和した象徴でもあった。
とまれ其処《そこ》に厳然と千体仏は刻まれていた。そうして其処は無人境であった。人の訪わない地の底であった。今、小船が流れ寄った。船の底には人がいた。しかし理性ある人間では無い。船は間も無く流れ去るだろう。そうしたら二度とは帰って来まい。ふたたび訪う人もないだろう。
偉大な聖者の苦心の跡は、こうして永久人に知られず、埋没されて了うだろう。
二
一巡湾を廻った後、船は漸く水路へ出た。
依然|水流《ながれ》はゆるやかであった。微光を分け水に引かれ、船はゆるゆると流れて行った。両岸は朧ろに見渡された。岸が直に断崖《がけ》となり、断崖が直ぐに天井となり、天井は次第に低くなった。そこから滴《しずく》がしたたって来た。水路は幾度か迂廻した。水路が見る見る逼り合い、水の面《おもて》が膨れ上り、断崖が左右から寄せて来た所に、一条の瀑布《たき》が落ちていた。
右手の断崖の高い所から、ちょうど水路の真中辺へ、その滝は落ちているのであった。滝の幅は五間もあろうか、轟々という高い音は、空洞一杯に反響した。滝には縞が出来ていた。夜光虫の放つ光線が、水勢へ陰影《かげ》をつけるからであった。泡沫《しぶき》が水路を煙らせた。それが微光に色付けられ、鈍い真珠の宝玉《たま》を綴った。滝壺は湯のように煮え立っていた。四辺が明るんで見えるのは、滝が微光に反射するからであろう。
船が滝壺に墜落《おちこ》もうとした。一つ大きく傾いた。その余勢で先へ進んだ。そうして船は助かった。
泡沫《しぶき》が船底に仆れている庄三郎の体へ降りかかった。庄三郎の全身は、泡沫の為めに濡れしおたれ、顔から滴が流れ落ちた。
渦巻く波の圏内から、船が遠く遁がれた時、滝の音は遠退いた。
やや水勢は速まった。
船は前後に躍り乍ら、先へ先へと進んで行った。
滝の音が全く消え、水の流れが和んだ時、ふたたび静寂が返って来た。
蒼い光を押し分け乍ら、船はその旅をつづけて行った。
こうして水路は徐々に広まり、やがて水路は大河となった。そうして瀬の音が聞えるようになった。河幅が広まるに従って、河底が浅くなったらしい。
泡沫《しぶき》を冠っても庄三郎は、理性を恢復しなかった。死の道を辿っていた。その顔色は愈々《いよいよ》蒼褪め、唇には殆ど血の気がなかった。一粒の滴が左の眼の、眼尻の下に止まっていたが、それが涙を想わせた。
古風な形の独木船《まるきぶね》は、こうして徐々に流れて行った。
と、一点の灯火が、右手の岸から見えて来た。人工の灯火だということは、火の色の赤いので察せられた。空色の面紗でも張り廻したように、蒼々と拡がっている夜光虫の光へ、一所クッキリと斑点《しみ》を附け、桃色の灯火が燃えているのであった。
その灯火を中心に、一間四方の空間が、淡紅色に隈取られていた。そうして其の光に照らされ乍ら、一人の若い美しい女が、河岸へ膝を突いていた。
何かを洗っているらしい。
背後《うしろ》は険《こごし》い絶壁で、その下部に穴があった。人穴へ通う口らしい。そうして女は月子らしい。
白い露出した長い腕を、肘の附根まで水へ浸し、彼女は何かを洗っていた。
一つ洗っては傍へ置き、一つ洗っては傍へ置いた。
十数個の能面を次々に洗っているのであった。
船はゆるゆると流れ下った。
もし彼女が眼を上げたなら、船を見ることが出来たろう。そうしたら彼女は庄三郎を、船から陸へ救い上げたかも知れない。しかし彼女は一心に手許ばかり見入っていた。そうして仕事にいそしんでいた。
で、機会は失われた。
船は河下へ流れて行った。
夜であろうか昼であろうか? もう幾時《いくとき》過ぎたろう?
庄三郎は気絶していた。時もなければ場所もなかった。夜も無ければ昼もなかった。
流れ流れ流れるばかりであった。
河水が俄に量を増した。
枝川が一筋注がれていた。
そこを過ぎると淵であった。そうしてその頃から次第次第に、蒼い微光が薄れて来た。
間もなく暗黒が襲って来た。
暗黒の中を暗黒の船が、生死未詳の若者を載せて、何処とも知れず流れるのであった。
何《ど》の辺を流れているのだろう? 駿河国の方面だろうか? それとも甲州の側だろうか? 何方へ流れているのだろう? 東へだろうか西へだろうか?
もし時刻が真昼なら、春の日光が裾野を照らし小鳥が歌い、花が笑い、笠を傾けた旅人が、楽しそうに歩いているだろう。
そうして甲府の城下では、あの豪快な信玄公が、観桜の宴《うたげ》をひらいているかも知れない。
だが此処には生活は無かった。
寒さと闇と死と恐れとが、――それも誰にも知られずに、執念《しゅうね》く巣喰っているばかりであった。
三
船は只管《ひたすら》流れて行った。
それは死への航海であった。
その時雷のような大音響が、行手の闇から響いて来た。
音のようすで其の辺に巨大な穴でも開いていて、そうして大河が驀地《まっしぐら》に夫れへ落ち込んでいるようであった。
船は動揺し突き進んだ。
事実其処に大穴があるなら、もう船も庄三郎も、助かることは不可能であった。
大音響は近づいて来た。
と、闇の中にシラジラと、砕ける波の穂頭が、物怪《もののけ》のように見えて来た。大穴の周囲《まわり》に岩があって、それへ水がぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]らしい。
船は背後へ押し返され、グルグルと二三度ぶん[#「ぶん」に傍点]廻った。そうして次の瞬間には、矢のように速く走り出した。
と、突然横へ反れた。
そうして、何という奇怪なことだろう、穏かに船は漂った。
それから静かに流れ出した。
大穴の手前数間の所に、横穴が開いていたのであった。押し寄せる水と押し返す波とが、小さな独木船《まるきぶね》を挟撃《はさみう》ち、大穴へ引き入れる其の代りに、横穴へ船を押し遣ったのであった。
夜光虫が巣食っているからであろう、横穴はカッと明るかった。それも普通《ひととおり》の明るさではなく、真昼のような明るさであった。
横穴は可成り狭かった。庄三郎が眼を覚まし、左右へ両手を拡げたなら、指先が届くであろうほど、幅の狭い穴であった。
そういう狭い横穴へ、ベッタリ夜光虫がくっ付いているので、それでそんなにも[#「そんなにも」に傍点]明るいのであった。
天井は非常に高かった。そうして水は深かった。で、空気は清らかであった。それは横穴には相違なかったが、矢張りそれは水路であった。と云うより寧ろ隧道なのであった。
船は水路を、辷って行った。
水路は折柄花盛りであった。そこでは「祭礼《おまつり》」が催されていた。
ゆるゆる流れている船の左右、狭い高い岩壁に、高山植物や富士植物が、爛漫と花咲いているのであった。一|所《ところ》岩が飛び出していた。一面に苔が生えていた。そこに恰《あたか》も雪のように、純白の花を開いているのは、富士植物の踊子卯木で、卯木《うつぎ》の花は散っていた。微風がソヨソヨと戦《そよ》ぐからであろう。富士|薊《あざみ》の紫の花が、花冠を低く水へ垂れ、姿鏡を写していた。燃え立つような草牡丹は、柳|蒲公英《たんぽぽ》の黄金色の花と、肩を並べて咲いていた。そうして小さい一匹の羽虫が、雌蕊《しずい》を分けて飛び出した。と、花粉が空へ舞い、砂金のように四散した。
細い触角を顫わせ乍ら、しばらく羽虫は宙を舞ったが、恰度小船を導くように、水路を先の方へ飛んで行った。その水路が曲った所に、石楠花《しゃくなげ》の花が咲いていた。小狸蘭の薄紫の花、車百合の斑点のある花、蟹蝙蝠草の桃色の花、そうして栂桜《つがざくら》の淡紅色の花は、羊歯や岩蘭と雑り合い、虹のように花咲いていた。
水中には魚の家族達が、鬼ごっこをして遊んでいた。今、一つの背の赤い魚が、群を離れてつと[#「つと」に傍点]進んだ。途端に水藻の花が揺れた。と、その蔭から顔を覗かせたのは、母指《おやゆび》ほどの山椒魚であった。
清らかな空気には花の香が、咽せ返るほどに籠っていた。
お伽噺の空想の国! 船は、辷って行くのであった。
もし神が居ますなら、こういう所に居るべきであった。
川底から突起した岩のために、時々船は止められた。岩壁から差し出した花木のために、屡々《しばしば》船は支えられた。
だが、矢っ張り進むのであった。
水路は右へ曲り左へ廻った。その都度新しい風景が、船を迎えて展開した。左右の岩壁の或る所は、朱塗りのように赤かった。岩の亀裂が紋様を織り、悪鬼、菩薩、少年の姿をあらわしているような場所もあった。
だが庄三郎は眼覚めなかった。見ることも聞くことも出来なかった。只船底に仰臥して、船が進めば進むに委せ、船が停まれば停まるに委せ、生死の間に眠っていた。
船が復《また》もや迂廻した。
その時、遥の前方から、意外な光が射して来た。新酒のような光であった。間違いなく朝陽の光であった。
朝陽が射し込んで来たのであった。ではその辺に外界《そと》へ通う、洞穴の口でもあるのだろうか?
船は其方へ進んで行った。
水の流れが急になり、小さくはあったがハッキリと、洞《ほら》の口が見えて来た。
四
それは或る日の朝であった。
纐纈城《こうけつじょう》の水門が、鈍い音と共に開かれた。
と、一隻の帆船が波を蹴立てて走り出た。
愉快そうな歌声が響き渡った。
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いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
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頭巾、袖無、裁着《たつつけ》、黐棹《もちざお》、甚太郎が船に乗っていた。いずれも衣裳は新調で、黐棹ばかりが元のままであった。
過ぐる秋の或る日のこと、彼を載っけて纐纈城へ運んだ、それと同じ赤帆の船が、纐纈城から湖水の岸へ、彼を運んで行くのであった。
甚太郎はクリクリと肥えていた。血色も好ければ艶もあった。そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]元気であった。
「おお、おお船頭どんなものだい。」船の中間《なかま》に頑張り乍ら、彼は毒舌を揮い出した。「とっ[#「とっ」に傍点]捕えたら放しっこのねえ、纐纈城ともあるものが、俺を逃がすとはどうしたものだ。……うんにゃ、違う、逃げるんじゃアねえ。へん、この俺が何んで逃げる。大威張りに送られて帰るのよ。……だがな、本当に纐纈城は、俺に執っちゃ可いとこ[#「とこ」に傍点]だった。ふんだんに可い着物を着せてくれて、ふんだんに旨い物を食わせてくれて、気儘に遊ばせてくれたんだからな。……ええオイ本当にあんな所が、この世の極楽って云うんだろうぜ。トントン云う目が出るんだからな。……だがな、俺には一つだけ、気がかりの事があるんだぜ。と云うなあ他でもねえ。城の大将に逢えなかったことさ。……全く今でも残念だあな。歓迎してくれた大将に、逢わず仕舞いで帰るんだからな。噂によると大将は、仮面《めん》を冠っているそうだが、不自由なことをしたものさ。……うん、そう云えば仮面の大将を、俺等《おいら》チラリと見たことがあった。……それはそうと、あッ、畜生! 相変らず濛気が立ってやがるなあ!」
人工の濛気は湖上から、一匹の白布を掲げたように、空を蔽って立っていた。ドンドンドンドン! ドンドンドンドン! 濛気の奥、湖水の底から、何んとも云えない不気味の音が、こう間断無く響いて来たが、血絞機械の音であった。
船は驀地《まっしぐら》に駛《はし》って行った。
しかし咫尺《しせき》も弁じなかった。濛気の中を行くからであった。と、行手の一所《ひとところ》から太鼓の音が鳴り渡った。それに答えて船中から法螺貝の音が響き渡った。いずれも合図の音であった。
振り返って見ても纐纈城は、何処にあるとも解らなかった。前路を見ても足下を見ても、遮る物の影も無かった。綿と云おうか練絹と云おうか、上へ上へと立ち上る、白いもの[#「もの」に傍点]ばかりが眼に触れた。
進むかと思えば後へ退き、左へ行くかと思えば右へ反れ、船の進路は定まらなかった。
要害を知らせない為であった。
船夫《かこ》の姿さえ解らなかった。
それにも拘らず甚太郎は、その船夫へ話しかけた。
「……思い出しても気味が悪い。……庭を歩いていた時だ、ヒョイと上の方を見上げると、そのエテもの[#「もの」に傍点]が居たじゃねえか。赤い陣羽織に、灰色の仮面! 望楼の上から此の俺を、じっと見下ろしていたものさ。おやと思って見直すと、もう何処にも居なかったっけ。……なんだか酷く寂しそうだった。そうして酷く憐れっぽかった。心配があったに違えねえ。気の毒な人に違えねえ。寂しい寂しい人なんだろう。……うんそれから、こんな事が有った。こいつあノベツにあったことだ! 或る晩廊下をブラツイていると、何奴か俺を背後《うしろ》から、確に見詰めているじゃねえか。なんだか変にゾッとして、不意に背後を振り返って見ると、篦棒《べらぼう》め誰も居ないってものさ。が、確に居た筈だ。あの人がいたに相違ねえ。うん、そうだ、仮面の大将がな。……俺等が自分の部屋にいると、何奴か窓から覗いたっけ。で、じっと眼を据えると、ふん、こいつも篦棒だ、誰も覗いちゃいねえじゃねえか。だが確に覗いていた筈だ。矢っ張りあの人に違えねえ。……歩いていても坐っていても、眠っていても起きていても、いつも屹度あの大将が、俺を見守っているような、変な気持がしたものさ。……だが最《も》う夫れともおさらばだ[#「おさらばだ」に傍点]。」
船はグングン走って行った。
体がビッショリ湿って来た。厚い濛気の仕業であった。
濛気が薄れ、水の色が見え、軈て正面の空高く富士の全身が現われた。
「ワ――ッ、富士だあ! お富士さんだあ!」
甚太郎は船の中で飛び上った。
「お早う、お富士さん! いい天気ですね! 久しぶりの対面だあ。濛気の野郎に遮られて、城の中じゃ見られなかったんだからな。……帰って来ましたよお富士さん! そうだ、去年の秋だった、俺等《おいら》が城へ行こうとした時、悲しそうな顔をして見送ったが、お気の毒様、帰って来ましたよ。」
五
甚太郎ははしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]まくし立てた。
「だがね、お富士さん、実の所、俺等は失望しているんだよ。庄三郎さんは居ないんだとよ。うん、そうとも、城の中にはね。そこで仕方なく出て来たのさ。そこで又復ご探索だ。お前さんの胴腹《どうっぱら》を中心に、あっちへ行ったり此方へ行ったり、裾野中探して歩かなけりゃあならねえ。……素敵だ! 相変らずだ! 綺麗なことだ! 春だ! 畜生! 綿帽子だ! 雪の綿帽子を着てますね。いつもお前さんは花嫁だ! だから裾野は花盛だ。それ裾模様って云う奴よ。……おおおお其処で聞くことがある。何処かお前さんの腰の辺に、何んとか云ったっけ富士教団か、そうだそうだ富士教団だ、そいつが有るって云うことだが、一体|何《ど》の辺にありますかね!? 教えてくんな、お願いだ! 城の奴等が教えてくれた、富士の裾野をブラツク者は富士教団か纐纈城か、どっちか一つへ入り込むってね。だから従兄弟の庄三郎さんは、富士教団神秘境へ迷い込んだに違えねえ。主命とあれば仕方もねえ。富士教団へ忍び込み、庄三郎さんを探さなけりゃならねえ。人を尋ねて程遠く、海山越えて行くぞえな。小唄の文句にもちゃあんと有らあ。そこでちょっくらご相談、何処を何う行ったら可かろうかね?」
併し富士は寂然と眉を圧して立っていた。
弾力を持った山肌は、すがすがしい朝陽を真向に浴び、紫陽花色に輝いていた。降り積もった雪もなかば[#「なかば」に傍点]解け、中腹以下は裸体であった。
樹海の緑は去年のままで、黒く鉄のように錆びていたが、間もなく新鮮な今年の葉が、新緑を漲らせるに違いない。ところどころに紅霞があった。桃でなければ山桜であろう。
今、一団の山鳩が、竜巻のように舞い上った。と、パッと八方へ散った。が、再び一つに集まり、灰色の翼で日光を切り、湖水の岸まで翔けて来た。と、俄に方向《むき》を変え、樹海の方へ引き返して行った。どうやら何かに驚いたらしい。果たして松の梢から一羽の鷹が舞い上った。そうして鳩の群を追っかけて行った。
湖面は一所《ひとところ》銀のように光り、一所風に波立っていた。永い永い冬眠から、呼び覚まされた湖水の水は、併しまだ何んとなく寝呆けていた。眠気にドンヨリと膨らんでいた。
そうして色も冴えなかった。只、元気なのは水鳥で、喧《かしま》しくカッカッと啼き立て乍ら、水掻で水を刎ね飛ばしていた。
そうして今や赤帆の船が、辷るように駛って行くのであった。
船首《へさき》と船尾《とも》とに船夫がいた。纐纈布の袍《どてら》を着た、若い逞しい船夫であったが、去年の初秋甚太郎を、纐纈城へ攫《さら》って行った、その船夫の中の二人であった。
「可い気持だ! 風が吹く! 暖い風だ! 春風だ!」
甚太郎は尚もはしゃぐのであった。
「船頭、頼む、廻わしてくれ! グルリと船を廻わしてくれ! 一巡湖水を廻わるのよ。帆綱を握れ! 方向《むき》を変えろ!」
そこで船は岸に添い、輪なり[#「なり」に傍点]に先へ駛って行った。
「やあ兎だ! 刎ねてらあ!」
甚太郎は嬉しそうに手を拍った。岸の枯草の間から、栗色の兎が飛び出して、灌木の茂へ這入ったからであった。
栗の木では栗鼠《りす》が鳴いていた。腐木《くちき》の洞では山猫が、何かに向って唸っていた。
「おっ、変な船が流れて来らあ。」
こう叫んで指差した。
古び穢れた独木船《まるきぶね》が、水に引かれて濛気の方へ、ノロノロとたゆ気に流れていた。
赤帆の船と独木船とは、次第次第に接近した。そうして素早く擦れ違おうとした。
独木船の船底に、若い侍が仆れていた。蒼褪めた顔、落ち窪んだ眼、血にまみれた腕や足、呼吸《いき》のある人間とは見えなかった。
「おお可哀そうに、死んでるよ。」
甚太郎は呟いた。併し其の時は赤帆の船は、数間の先を駛っていた。
距離が漸時《だんだん》遠ざかった。そうして間も無く独木船は、濛気に蔽われて見えなくなった。
微風。日光。野花。水鳥。山上湖の春は穏かであった。そうして何事も無かったのであった。
恐らく独木船は水に引かれ、纐纈城の水門へ、横附けされるに相違ない。そうしたら水門は開くだろう。そうしたら別個の運命が、自ら開拓されるだろう。
赤帆の船は岸へ着いた。高坂《こうさか》甚太郎は上陸した。春の朝《あした》の露を踏み、新しい旅へ発足した。
樹海の方から聞えて来たのは、例の鳥刺の歌であった。
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いざ鳥刺が参って候
………………………
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だが其の声も軈て消えた。
漸く朝日は昼の日と変り、草木の露が消えはじめた。
そうして本栖湖は水鳥以外、動くもののない静けさとなった。
六
「俺は昔を思い出した。俺は甲府へ行って見たくなった。」
仮面の城主は呟いた。
夜はまだ宵ではあったけれど、纐纈城内は静まり返り、物音一つ聞えない。賓客達も寝たらしい。
ただ一基の灯火が、部屋の中に灯《とも》っていた。
窓から舞い込んだ白い蛾が、灯火の射さない暗い床へ、クッキリと斑点を印《つ》けていた。と、それがひらひらと舞い、宙で突然静止した。それは不思議でも何んでも無かった。そこに黒い卓があったからであった。
卓の向う側に城主がいた。牀几に腰をかけていた。鉛色の仮面の横顔と、纐纈布《こうけつぬの》で作られた、深紅の陣羽織の肩の上で、テラテラ灯火に光っているのが、畸形な彫刻でも見るようであった。
神聖とは類例無い謂いであった。彼の持っている悪病は、此の世に類例の無いものであった。で、神聖な病気であった。神が常時《いつ》も孤独のように、彼も常時も孤独であった。
孤独の彼を喜ばせたのは、高坂甚太郎の来訪で、彼は其の為忘れていた血縁の親しみを感じることが出来た。で、彼は甚太郎へ、城の掟を破って迄、自由自在の生活《くらし》をさせた。そうして常時《いつも》物蔭から、その行動を窺った。
甚太郎の奔放な行動から、彼は彼の少年時代の、奔放な生活を思い出した。甚太郎の唄う歌声から、彼は彼の少年時代の頃、よく唄った流行唄《はやりうた》を思い出した。
憎人主義者の彼の心へも、いつとも知れず人情の味が、こっそり忍び込んで来るようになった。
で彼は其の日頃、幸福でさえあったのである。
だが其の甚太郎は立ち去った。今日の払暁に立ち去った。で再び荒涼たる孤独が、城主の心へ甦って来た。近くに愛す可き何物も無い。恐らく近い将来に於ても、彼を慰める如何なるものも、訪問しては来ないだろう。孤独。寂寥。孤独。寂寥。永遠に続くに相違無い。
なまじ慰《なぐさめ》を見付けたのが、今の彼には苦痛であった。
「俺は昔を思い出した。俺は甲府へ行って見たくなった。」
――衷心からの憧憬《あこがれ》であった。
従来《これまで》の彼ならこんな[#「こんな」に傍点]事は、夢にも思わなかったに相違無い。神聖なる悪病の持主の彼、たとえ何処へ行こうとも、歓迎などはされないだろう。故郷とは惨酷の別名であった。世間的成功をした者だけが、その故郷で容れられた。彼は、城主は、成功者では無い。故郷の甲府へ行った所で、何んの慰めを見付けることが出来よう。
併し彼は餓えていた。充《み》たさる可《べ》く願っていた。食を選ばない彼であった。
彼がゆらり[#「ゆらり」に傍点]と立ち上った時、部屋の戸をコツコツと打つ音がした。
「這入《はい》れ。」と彼は放心したように云った。
這入って来たのは万兵衛であった。
「賓客が参りましてございます。」
「そうか。」と放心を続け乍ら「珍らしくもないな。何者だ?」
「珍らしい賓客でございます。富士教団特有の、独木船《まるきぶね》に乗って参りました。……若い侍でございます。気絶を致して居りました。が、介抱致しました所、蘇生致しましてございます。」
万兵衛は恭しく一礼した。
「よろしい。」と城主は冷淡に「掟通りに、……賓客部屋へ。さて、万兵衛、船の用意!」
「どちらへお出掛けでございます!」
「船の用意だ! 水門をあけろ!」
仮面の城主は繰り返した。
二《ふたつ》の影が前後して、長い廊下を伝って行った。
その人影が消えた時、水門のひらく音がした。続いて帆鳴りの音がした。
この夜月は出なかった。空も湖心も星ばかりであった。
と、太鼓の音がした。答えて法螺貝の高音がした。
それも途絶えた闇の湖を、駛る駛る船の帆が、夜の墨色に消されもせず、燃え立つばかりに赤いのは、纐纈布であるからであった。
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第十四回
一
仮面の城主は陸へ上り、船は後へ引っ返して行った。
富士の裾野は闇であった。星ばかりが空へ穴を穿けていた。その暗澹たる漆色の夜を、二つの焔が遠ざかって行った。一つは陸を行く仮面の城主の、身に纏っている袍《ほう》であり、一つは帆船の帆であった。
纐纈布で製《つく》られた、帆と砲とは闇の中を、焔のように輝きながら、水と陸とに別れたのである。
故郷の土地を恋しがり、故郷の人を懐しがり、甲府を差して行くのであった。
だが、果して故郷の人々は、彼を歓迎するだろうか? 彼は奔馬性《ほんばせい》癩患《らいかん》であった。「神聖な病気」の持主であった。
神聖とは「二つ無い」謂であった。それは「無類」ということであった。神が「唯一」でなかったなら、決して夫れは「神聖」では無い。神は「唯一」であり「一切」であり「宇宙」であるの故を以て、はじめて「神聖」と云われるのである。
仮面の城主の癩患《らいかん》は、世界唯一のものであった。最後に残ったその[#「その」に傍点]物であった。癩患は此の世に多かろう。しかし城主の癩患は、その悪性の点に於て、他に類例が無いのであった。
仮面の城主は歩いて行った。
去年の草に溜っていた、夜露がパラパラと降りかかった。彼の両足は白い布で、隙間無くキリキリと巻き立てられていた。で寒くは無い筈であった。
袍の光に照らされて、一間四方の空間が、彼を中心にして光っていた。ポッと明るい円光の中を、深紅の袍が焔のように燃え、前へ前へと行くのであった。
彼の歩みは「歩み」というより、寧ろ彷徨《さまよい》というべきであった。否寧ろ蹣跚《よろめき》というべきであった。
彼は左右へ蹣跚きながら、前へ前へと進むのであった。
彼の着けている少将の仮面《めん》は、深紅の袍に照らされて、同じ色に輝いていた。額の辺《あたり》がテラテラと映《うつろ》い、今にも其処から血の滴を、ポタポタ足下へ落しそうに見えた。しかし其の顔は無表情であった。ただ丈高い草の葉や、横へ突き出された木立の枝が、彼の行手を遮る時、或は可笑気《おかしげ》な或は悲気な、幾筋かの蔭影《かげ》が付くばかりであった。
彷徨《さまよ》い蹣跚《よろめ》き歩くにも似ず、彼の歩き方は速かった。それは遥の行手から、故郷の声が呼ぶからであった。彼は征矢《そや》のように走ることさえあった。それは其の時故郷の声が、ひときわ高く聞えて来るからであった。併し直ぐに歩みを弛め、さも苦しそうに喘声《あえぎこえ》をあげた。
草を踏み分ける足の音と、時々洩らす喘声とが、次第に更けて来る夜の裾野の、たった一つの音であった。
一匹の布が焔のように輝き、その頂上の縊れ目に、斜に付いた太い眉と、魚の形の長い眼と、削ったような高い鼻と、なかば開いた唇とを持った、能面が載っているということは――加之《しかも》暗夜の荒野《あれの》の中を、動いているということは、何んと云ったら可いだろう?
仮面の城主は歩いて行った。
荒野が尽きて深林となり、その深林へ分け入った時、ひとしきり彼の姿が消えた。しかし間も無く一団の焔が、木と木の間を縫って行った。
白樺が彼を迎えた時、粉を吹いたような木の幹が、彼の袍に反射して、しばらく桃色に色附いた。併し彼が立ち去ると同時に、再び闇に埋もれた。胡頽子《ぐみ》の灌木が行手を遮り、それを彼が迂廻《まわ》った時、巣籠っていた山鳩が、光に驚いて眼を覚ました。そうして長い間啼き止まなかった。
一所に熔岩の層があった。その裾を清水が流れていた。その縁を彼が行き過ぎた時、一瞬間水が火となった。
暖かい人情に憧憬《あこが》れながら、産れ故郷の甲府を差して、仮面の城主は歩いて行った。
林が途切れて禿山となった。
その禿山を向うへ越した。
そこに谿が横|仆《た》わっていた。そうして谿底へ下りた時、彼は最初の休憩《やすみ》を執った。
夜は容易に明けようとはしない。
彼は歩かなければならなかった。
また一団の燃える焔が、谿の斜面を這って行った。
甲府よ甲府よ懐しい甲府よ!
で、彼は上り切った。
狼が一匹眠っていた。彼は饑えてはいなかった。今は既に冬では無かった。彼の獲物は到る所にあった。地に仆れた朽木の洞に、満腹の体を長々と延ばし快さそうに眠っていた。
彼の眼を覚ますものがあった。それは熱の無い火光であった。彼は猛然と洞を出た。しかし直ぐに背を縮め、尾を両脚の間へ入れ、耳を背後《うしろ》へ思うさま引いた。何故吠えないのだ狼よ!
産れて初めての恐ろしいものが、その前を走るように通るからであった。
二
精進湖の岸まで来た時にも、まだ春の夜は明けなかった。岸辺を北の方へ歩いて行った。藤丸の渓流を渡る時、彼は苦心して裾を捲った。掲げられた裾の其の下から、太い純白の布を巻いた脚が、ヌッと二本現われたのは、何んという不気味の光景だったろう。その脚を不器用に曲げながら、石伝いに越えなければならなかった。
無生《むしょう》野というのは落葉松《からまつ》の林で、そこには毒蛇が住んでいた。彼は何物をも恐れなかった。林の中へ這入って行った。と、シュッシュッと音を立て、枯草の中から無数の蛇が、鎌首を上げて走り出して来た。しかし勿論一匹といえども、飛びかかって来ようとはしなかった。いずれも波のように背を持ち上げ、同じ所でのたくっ[#「のたくっ」に傍点]ていた。意外の時に意外の物を――煌々と輝く深紅の光を、意外に見たということが、鈍感の彼等をも驚かせたのであろう。
音久和の古池の縁を過ぎ、乳守の古代古戦場をも、走るようにして越えて行った。
芦川の流は速かった。そうして其処まで遣って来た時、東の山の端が色付いた。
「夜が明ける。」
と呟いた。
併し彼は進んで行った。
一千二百二十尺の、王岳《おうだけ》山の頂が、次第に水色を呈して来た。しかし山肌はまだ暗く、山全体は眼醒めなかった。王岳と向い合った釈迦岳は、しかし半分醒めかけていた。
と、嵐が吹き出した。暁に吹く嵐であった。忽ち木々がざわめき出し、そうして雑草が靡き出した。
新葉を芽《めぐ》まない雑木林は、その枝を空へ帚木《ははきぎ》のように延ばし、それを左右に打ち振った。また常盤木《ときわぎ》の群木立は、去年のままの暗い緑を、さも物憂そうに顫わせた。
今、一陣の|※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第四水準2-92-41]風《ひょうふう》が、王岳の、頂《いただき》から吹き下して来た。山の麓の落葉松林が、まず真先に動揺した。それに続いた杉の林が、間もなくヒューヒューと呻声を上げた。と、枯草の丘があった。嵐は夫れへもぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。そうして枯草を薙ぎ仆した。だが嵐は勢を弱めず、先へ先へと突進した。|※[#「木+無」、第三水準1-86-12]《ぶな》、榛木《はんのき》、赤松、黒松。――嵐の進路にある程のものは、洗礼を免れることは出来なかった。谷から岩を転ばした。野兎の群を狩り出した。
そうして仮面の城主の袍を、その体の中心にして、左右前後に渦巻かせた。
今や※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第四水準2-92-41]風が城主を襲った。
いままでは煌々と静かに輝いた、一道の光に過ぎなかった。しかし今はそうではなかった。今は燃え狂う業火であった。全くそれは活不動であった。前へ前へと進んで行った。動かないものが一つだけあった。他でもない仮面であった。
やがて嵐は彼を見棄て、釈迦岳の方へ走って行った。忽ち彼の左手にあたり、同じ動揺が湧き起った。木立から林、林から森、森から平原、平原から丘。そうして山骨へぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。岩の狭間に眠っていた、若い野猪が眼をさまし、木精《こだま》を起こして吠えたのが、嵐の最後の名残であった。
死んだように四辺《あたり》は静かになった。
動くものとては一つもなかった。
ただ一人城主ばかりが、先へ先へと進んで行った。
その頃から星が消え出した。
一番小さな屑星が、真先に光を失った。つづいて二つ、つづいて三つ、そうして順次に消えて行った。
東の空の水色が、次第にその色を変えて来たのも、恰度この頃からのことであった。
夜の明けるにも順序があった。
まず暗い水色が、次第次第に透明になり、軈《やが》て薄い樺色となった。そうして徐々に孛藍色《はいらんしょく》となり、おもむろに変って卵黄色となった。そこへ紅が点じられた。恰度花弁でも開くように、その紅色は拡がった。
山々の肌が襞《ひだ》を現わし、窪んだ所は尚暗く、突き出た所は色着いて見えた。
この前後から雀達が、木々の梢で啼き出した。
色と音との合奏が、いまや裾野を占めようとしていた。
空の大半が紅潮を呈し、その紅の極わまった頃、一筋の金箭が王岳の峰から、空へ燦然と射出された。つづいて無数の黄金の箭が、空を縦横に馳せ違った。
仮面の城主の纐纈の袍は、その光を全然《すっかり》収めた。平凡な紅色の衣裳となった。
三
一本の樫《かし》の木が立っていた。
それは非常に高かった。その梢の一本の枝へ、陽の光が、射したと思った時、王岳《おうだけ》の頂へ今日の太陽が、はじめて額を現わした。
裾野は露に濡れていた。
その露が一時に輝いた。
しかし裾野は次の瞬間には、靄に鎖されて見えなくなった。
仮面の城主は其の靄の中を、下へ下へと下って行った。
古関、飯田、梯《はしご》、新屋、点々と小さな部落があった。彼は部落を故意《わざ》と避け、先へ先へと進んで行った。
次第に靄が上って来た。
彼の足は疲労《つか》れて来た。
人に見られるのも厭であった。
やがて滝戸山の斜面へ来た。
巨大な一座の枝垂桜が、根元までベッタリ花をつけていた。
その蔭で彼は眠ることにした。
鉛色の少将の能面を、桜の花越しに空へ向け、後脳へ枯草を積み重ね、両足を延ばし、両手を重ね、地の上へ仰向けに寝た。
果して彼は眠られるだろうか?
彼と雖も人間であった。睡眠《ねむり》は執らなければならないだろう。しかし眠は円《まどか》ではあるまい。だが彼は疲労れていた。間もなく眠りに入ったらしい。
それは奇怪な絵であった。――神代桜の枝垂れた枝々には、盛り切れない程花が着いていた。そうしてその花は老いていた。で絶えず繽紛と散った。仮面の上へ落ちるのもあり、袍の上へ落ちるのもあり、手足の上へ落ちるのもあり、落花は彼を埋めようとした。
春昼の陽は暖かかった。花を蒸し人を蒸し、大地を蒸し草を蒸した。その大地からは陽炎《かげろう》が立ち、空の方へと上って行った。
花を洩れ枝を洩れ、新酒の色をした日光《ひのひかり》は、仮面の城主の仮面の上へも、その体へも斑点をつけた。
彼は眠に落ちていた。しかし仮面《めん》は眠っていない。表情の無い魚形の眼は、表情の無いままに見開かれていた。表情の無い其の唇《くち》は、表情の無いままに開いていた。
四辺は明るくて華やかで、万物が生々と呼吸《いきづ》いていた。
蕗の薹《とう》は土を破り、紫の菫は匂を発し、蒲公英《たんぽぽ》の花は手を開き、桜草は蜂を呼んでいた。
あらゆる種類の春の花を、受胎に誘う微風《そよかぜ》は、花から花へ渡っていた。
と、雉の声がした。
すると、山鳩の声がした。
と、雲雀《ひばり》の声がした。――空の大海を流れ乍ら、漂泊の歌を高らかにうたい、容易に啼きやまない雲雀の唄だ!
城主の眠は醒めなかった。
万物は成長《のび》よう成長《のび》ようとしていた。一人城主の肉体ばかりは、破壊に向って進んでいた。
恐る可きことが行われた。
一羽の雀が地に飛び下り、餌はあるまいかと見廻した。と城主を発見した。そこで彼は無邪気に飛び、ピョンと城主の手に止まった。布は手の甲まで巻かれていた。出ているものは指ばかりであった。しかし、それは指だろうか? 兎に角それは三本しかなかった。爪も無ければ肉も無かった。あるものはあざれ[#「あざれ」に傍点]た骨ばかりであった。加之《しかも》鉤のように曲っていた。そうしてドロドロした不気味な液が、骨の先から滲み出ていた。
それは「神聖な液」であった。膿などとは云われない。
それへ雀が障った時、恐る可き事が行われた。
痙攣! 羽搏き! 全身麻痺! 雀は鞠のように固まった。
そうしてコロリと地へ落ちた。死骸となって落ちたのである。
間断《たえま》なく花は散っていた。
光と音楽との洪水が、天と地とを溺らせていた。
城主の眠は醒めなかった。
傍の|※[#「木+無」、第三水準1-86-12]木《ぶなのき》の茂から、喧《かしまし》い喋舌り声が聞えて来た。やがて姿を現わしたのを見れば、十数匹の甲州猿であった。
彼等は隠《かくれ》ん坊をやっていた。枝から枝を渡り乍ら、大はしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]にはしゃいでいた。
とりわけ大きな雄猿が、仮面の城主を発見した。
四
そこで彼は侶《とも》を呼んだ。
いつも見慣れている人間とは、城主の様子が違っているので、最初彼等は不思議そうに、グルリを囲繞《とりまい》て眺めていた。
その中に例の大猿が、忍び足をして這い寄った。そうして袍の袖を引いた。が、城主は動かなかった。図に乗った猿は一層近付き、鉤《かぎ》のような指を引っ張った。矢張り城主は動かなかった。一整《いっせい》に猿達は喝采した。彼等はすっかり可い気持になり、次々に大猿の真似をした。
矢張り城主は動かなかった。
あまり相手が穏《おとな》しいため、彼等は次第につまらなくなった[#「つまらなくなった」に傍点]。そこで彼等は城主を見棄て、また以前《まえ》の隠ん坊をやり出した。
十分あまりも経っただろうか、枝垂桜に上っていた、例の大猿が悲鳴を上げた。そうして枝から転がり落ちた。
痙攣! 萎縮! そうして強直《ごうちょく》!……大猿は一瞬にして死骸となった。つづいて幾匹かの甲州猿が、同じ径路を執って死んで行った。
世界唯一の奔馬性癩患は、触れるものの命を奪うのであった。
城主の眠はさめなかった。
自然の美しさには変り無かった。遥の山の中腹を、大鹿の列が走って行った。
百鳥が声を納める頃となった。永い春の日も暮れ逼《せま》って来た。
纐纈布の赤袍が、ふたたび焔のように輝く時刻になった。
一つ一つ星が生れて来た。
その時城主は眼をさました。そうしてやおら[#「やおら」に傍点]立上った。
それは一本の火柱が、ノビノビと上へ延びたようであった。その頂《いただき》に顔があった。
「甲府へ。」
と彼は呻くように云った。
火柱はのろのろと動き出した。それが次第に速くなった。
なつかしい故郷の呼声がした。急がなければならない。急がなければならない!
鍛冶屋街道に添い乍ら、城主は飛ぶように走って行った。左右口《うばぐち》、心経寺、中岡、滝川、禄岱、寺尾、白井河原、点々と部落が立っていた。彼は勿論避けて通った。しかし恐らく部落の人達は、彼の姿を見ただろう。
「おや、光物が通って行く!」「おや、火柱が走って行く!」
「悪い事があるに違い無い!」「神様よ、お守り下さい!」
彼等の或る者は祈ったかも知れない。
「甲府へ!」
と城主は呻くように云った。
そうしてひたむき[#「ひたむき」に傍点]に走って行った。
甲府の人よ、気を付けるがいい! 「神聖な病気」が入り込もうとしている。いそいで門を鎖さなければならない。いそいで窓を閉めなければならない。そうして一人も戸外《そと》へ出るな! 見ないが可い! 障らないが可い! 注意しろ! 人種《ひとだね》を!
信玄の威力を以てしても、恐らく是ばかりは防ぐことは出来まい。馬場、山県、真田、高坂、これらの人々の智謀を以てしても、こればかりは何うにも出来ないだろう。御親類衆、御譜代家老、先方衆、大将衆、御曹司様、奉行衆、どんなに勇気があった所で、悪病を防ぐことは出来ないだろう。
上杉、北条、今川、織田、是等敵方の勇士より、仮面の城主を恐れなければならない。
仮面の城主は走って行った。
浜、落合、小湊も過ぎた。笛吹川も遂に越した。山城、下鍛冶屋、小瀬、下河原、住吉、小河原、畔《くろ》まで来た。
と、遥の前方に、甲府の城下の灯火が見えた。
「故郷!」
と城主は憧憬《あこが》れるように云った。
「故郷!」
と彼は最う一度云った。
×
文禄二年春以降、大いに甲府に癘風《れいふう》起こる。只、風土記には斯う記されてある。
しかし何ういう径路を執り、どういう有様に流行したかは、知る人極わめて尠いだろう。
×
花嫁の行列が通っていた。甲府城下の夜であった。提灯の火が輝いた。沢山の人達が花嫁を囲み、さざめき乍ら歩いていた。
行列は辻を曲ろうとした。と、忽然火柱が立った。火柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に顔があった。人達は八方へパラパラと散った。残ったのは花嫁ばかりであった。顫え乍ら花嫁は立っていた。
その時、火柱の主が云った。
「故郷の人。……祝福あれ!」
そうして花嫁へ手を触れた。それは愛撫の手であった。
そこで花嫁は恐る恐る云った。
「神様、ありがとう存じます。」
火柱の主は辻を曲がり、深紅の光は見る見る消えた。
ふたたび行列は進むことになった。
と、花嫁が呻くように云った。
「体を虫が這うようだ。」それから更に花嫁は云った。「ああ体中が燃えるように熱い。……ああ、両肘が痒くなった。……ああ膝頭が痒くなった。……皆様、どうしたのでございましょう。……眉の上が痒くなりました。……むくんだ[#「むくんだ」に傍点]ようでございましょう。……おお眼が変になりました。……体から何か垂れるようです。……おおおおどうしたのでございましょう!……小指と薬指とが曲って了いました。……延ばそうとしても延びません。……痛い痛い体中が! おおおお足が動かなくなった。……体がだるくてなりません。……足が引き釣ってなりません。……指が! 指が! 十本の指が! 鉤のように曲って了いました。……眼をつむる[#「つむる」に傍点]ことが出来なくなった。……ああ厭なものがヌラヌラする。……。」
だが人々は祝し合った。
「神様がお祝いなされたのだ。」
「芽出度い婚礼だ。芽出度い婚礼だ。」
「お顔を見たか? 神々しかったことは!」
「お体から御光が射していた。」
しかし花嫁は呻きつづけた。二町あまりも行った時、急に前のめり[#「のめり」に傍点]に昏倒した。
忽ち混乱が湧き起った。一人の老人が花嫁を抱いた。無数の提灯が差し付けられた。
その時、花嫁の綿帽子が取られた。
そこには花嫁の顔はなく、見も知らない所の妖怪の顔が、婚礼の晴着の襟を抜き、ヌッと提灯の火に晒らされていた。
その顔色は鉛色であった。無数の紫の斑点が、痣のように付いていた。額はテカテカ銅のように光り、眉毛と睫毛とが抜け落ちていた。勿論|頭髪《かみのけ》も脱落し、前額は奥まで禿げ上っていた。眼! そうだ! 眼を見るがいい眼ばかりはカッと見開いていた。永久閉じられない眼であった。下瞼《したまぶた》がムクレ返り、毛細血管がふくれ[#「ふくれ」に傍点]上り、恰も赤い絹糸のようであった。だが視力は持っていた。しかし瞳は開いていた。そうして白眼は血で充たされ、炭火のように熾《おこ》っていた。口は斜に釣り上り、夜具の裾のようにふくれ[#「ふくれ」に傍点]上っていた。そうして其の色は鉛色であった。ダラダラ涎が流れ落ちた。耳の附根から頸へかけ、水腫がギッシリ出来ていた。膿ではない「神聖な液」だ! それが水腫から流れ出していた。
十本の指が鉤のように曲がり、十個の爪は跡さえ無かった。みんな抜け落ちたのである。手にも足にも水腫があった。
見る見る中に眉が脹れた。そうして獅子顔を現し出した。ポロリと小指が一本取れた。
だが彼女は死んだのでは無かった。意識は非常に明晰なのであった。しかし全身は麻痺していた。
彼女は「ヒーッ」と悲鳴を上げた。神経痛が襲ったからである。
三年五年乃至十年、更に長きは二三十年の間に、徐々として行われる腐肉作用が、一瞬の間に行われたのであった。奔馬性癩患の性質であった。
彼女は最早花嫁では無かった。恋婿を棄てなければならなかった。家を棄てなければならなかった。乞食《ものごい》にならなければならなかった。
彼女を抱いていた老人は、悲鳴を上げて手を離した。
提灯の火がバラバラと散った。
婚礼の行列は四散した。
呼び合う声ばかりが入り乱れた。
第二の犠牲者は老人であった。彼は花嫁を抱いたばかりに「神聖な病」に取りつかれた。
眉毛が抜け睫毛が抜け、紫斑と水腫と結節とが、彼の姿を醜いものにした。
三番目の犠牲にあげられたのは、不幸な老人の妻であった。良人の介抱をしたばかりに、同じ運命に墜落《おちい》った。
その時間の夜を明るく照らし、一団の提灯が走って来た。変を聞き知った花婿が、家族と一緒に走って来たのである。
花婿は礼装で身を飾っていたが、地に仆れている花嫁を抱いた。が、あまりの恐ろしさに、抱いた花嫁を投げ出した。
見る見る彼の男らしい姿は、恐ろしい姿に変って行った。そうして花嫁と折り重なり、癩人として横仆《よこたわ》った。
障《さわ》っては不可《いけ》ない病気なのであった。それは「さわるな」の病気であった。
花嫁とそうして花婿との親は、めいめい子供達を介抱した。
で、親達も「さわるな」に障った。
こうして孰《いず》れも同じ運命となった。
五
それは恐怖の夜であった。曾て一度も外寇を受けない、信玄治下の甲府城下は、思いも由らない悪病のために、苛《さいな》まれなければならなかった。
たった一晩のその中に、幾十人|人《ひと》が仆れたろう。
迂闊に歩いていた旅人は、旅人に縋られて介抱した。で自分も病人になった。
病人が病人を拵《こしら》えて行った。
呻吟の声、詛《のろ》いの声、詈《ののし》る声、悲しむ声――四方の辻で聞えていた。
夜はもう可成り深かった。そうして今夜も月が無かった。星の数さえまばらであった。
信玄公の御館ばかりは、寂然と静まり返っていた。
夢見山は東南に聳え、躑躅《つつじ》ケ崎は東北にあった。
山々は黒く落着いていた。
だが町々は発狂していた。
それは「赤の恐怖」であった。
群衆の逃げる音がした。それが家々へ反響した。何かに驚いて逃げるのであった。
と、復《また》集まる足音がした。大勢|一所《ひとところ》に塊まらなければ、恐ろしくて恐ろしくてならないのであった。
「何処へ行った?」
「何処に居る?」
「何んだ何んだ! 何があったのだ!」
雨戸がバタバタと開けられた。窓がガラガラと開けられた。
反対に雨戸の閉じる音がした。閂《かんぬき》を下ろす音もした。
雲を洩れた大きな星が、御濠へ影をうつしていた。
一人の武士が鍛冶小路を、御館の方へ走って行った。
と、曾根屋敷の土塀の蔭から、一人の武士が走り出た。
「待て!」
「何を!」
「待て!」
「黙れ!」
突然刀が抜き合わされた。
間もなく「あっ。」という声がした。一人の武士が切り斃され、一人の武士が見下ろしている。
「枡形東馬だ。俺の親友だ。……何んのために俺は殺したんだ。……何んだか知らない。恐ろしかったからだ。……俺は生きてはいられない。……腹を切ろう腹を切ろう。」
大地へ坐って腹を切った。
赤の恐怖の所業であった。
一軒の家では掴み合っていた。一軒の家では泣き喚いていた。
何かが、そうだ、恐ろしい何かが、潜入したに相違無い。
だが軈て夜があけた。
憐れな行列が通って行った。
花嫁姿の若い女が、顔へ四角の白布を下げ、よろめき乍ら先に立っていた。つづいて若い男が行った。花婿姿に派手やかであったが、矢張り白布で顔を隠していた。後に続いて数十人の人が、一様に顔を白布で隠し、或は這い、或はいざり[#「いざり」に傍点]、又はノロノロと歩いて行った。
指のもげた者、片足欠けた者、腕の取れた者、耳の腐った者――一夜で出来た癩人であった。
家を見捨て、故郷を出で、どことも知らず彷徨《さまよ》うのであった。
と、鉦がチーンと鳴った。胸にかけた鉦であった。
それが家々に反響した。
どんよりと空は曇っていた。
と、復鉦がチーンと鳴った。
城下外れの街道を、ノロノロと行列は辿って行った。
犬が吠え、鶏が啼き、田家からは炊煙が立っていた。畑には菜の花が盛りこぼれていた。
行列の唄う御詠歌が、次第次第に遠ざかって行った。帰るあての無い旅であった。
御詠歌の声は遠ざかって行った。
不安の一日が暮れた時、恐怖の夜が襲って来た。
夜の城下は陰森と寂れ、人っ子一人通ろうともしない。
深夜三更の鐘が鳴った。
その時、御廏の土塀の角へ、薄赤い光が茫っと射した。
次第に光は赤味を加え、やがて焔々たる火柱となった。土屋右衛門の屋敷の方へ、土塀に添い乍ら進んで行く。
依然無表情の少将の仮面《めん》が、火柱の上に載っかっていた。
信玄の居城、甲斐の城下を、祝福しよう其の為めに、仮面の城主が現われたのであった。
「なつかしい故郷! 恋しい甲府! 俺の祝福を受けてくれ!」
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第十五回
一
「そんなに甲府はひどい[#「ひどい」に傍点]のか。俺に執《と》っちゃあ初耳だ。」
こう云ったのは陶器師《すえものし》であった。
ここは富士の三合目であった。
火が竈で燃えていた。それが飴のように粘って見えた。
今日はお山は曇っていた。空気も変に湿っていた。で小鳥達も悄気《しょげ》返り、葉蔭に隠れて歌わなかった。
「お話にも何んにもなりゃあしない。|餓※[#「くさかんむり/孚」、第三水準1-90-90]《がひょう》巷に満つるというのは、応仁時代の京師だが、今の甲府は癩患者で、それこそ身動きも出来ない程だ。」
春とは云っても寒かった。竈の火口へ手を翳しながら、草賊の長《おさ》毛利薪兵衛は、物臭さそうに斯う云った。
「火柱が立つっていうのだな。」陶器師は好奇的に訊いた。
「そうだ、毎晩立つそうだ。」
「そいつが悪病の主なのだな。」
「うん、そうらしいということだ。」
「お前見たのか、火柱を?」
「幸か不幸か見なかった。……目星い仕事はあるまいかと、甲府の城下へ行ったのだが、今から恰度《ちょうど》十日|以前《まえ》、仕事どころか然《そ》ういう騒ぎだ。這々《ほうほう》の態で逃げ帰ったやつさ。」
薪兵衛は此処《ここ》で苦笑した。
「莫迦な奴だ。意気地無しめ。」陶器師は冷笑した。「そういう騒ぎだ、ドサクサ紛れに、信玄の首でも掻けばよかった。」
「え、何んだって、信玄の首? 冗談じゃねえ、何を云うんだ。そんな放業《はなれわざ》が出来るものか。それにそんな怨もねえ。」
「怨はなくとも手柄になる。日本第一の豪の者、世間から折紙を附けられる。故主へ帰ればお取立、一万二万の知行になる。」
「駄目だ駄目だ。」と薪兵衛は、不器用に左右の手を振った。
「第一俺は帰参して、知行を貰おうとは思わない。今の身分で結構だ。」
「ふん。」と陶器師は鼻を鳴らした。「十人の泥棒の頭でか。」
「だがお前よりは偉い筈だ。」
「成程、俺には手下はない。」
「一人ぼっちとは気の毒なものさ。」
「俺には俺の考えがある。」
「聞きたいものだ。どんな考えかな。」
「俺には自信があるからよ。それから俺は人間が嫌いだ。」
「人間が嫌い? これは面白い。ではサッサと死ぬがよかろう。」
すると陶器師は笑いもせず、
「そうだ、俺は人間が嫌いだ。だから俺は養生して、うんと長生をするつもりだ。」
薪兵衛には意味が解らなかった。黙って竈の火を見詰めた。
と、陶器師は何気無く云った。
「ひどく斬り好いな、お前の首は。」
薪兵衛は思わず身顫いした。
「何を云うのだ。気味の悪い奴だ。」……あわてて首を引っ込ませた。
「死その物は恐ろしくない。」自分で自分へ云うように、穏かな口調で陶器師は云った。
「死の連想が恐ろしいのだ。……そうして本当に恐ろしいのは、生きているということだ。……死の連想に脅されながら何時迄も人間は生きたがる。……それは恐ろしさを味わいたいからだ。……人生《このよ》に恐怖が無かったら、どんなに退屈なものだろう。……臆病者は自殺する。死の連想に喰われたのだ。……それは然うと降らねばよいが。」
チラリと陶器師は空を見た。
空は一様に灰色であった。
今は真昼に相違無かった。
だが太陽は見えなかった。
一|所《ところ》黒雲が塊《かた》まっていた。縁《へり》が一筋白かった。そこに太陽がいるのかもしれない。
薪《たきぎ》を一本手に取ると、陶器師は火口へ押し込んだ。パッと火の子が四散した。その一つが飛んで来て、陶器師の左の頬を焼いた。
「信玄も困っているだろう。いかに戦は強くとも、悪い病気には勝てまいからな。」
「そうだ。」と薪兵衛は頷いた。「周章《あわ》てているということだ。」
「不[#レ]動如[#レ]山、この旗標も無効かな。」
「それに上杉が兵を出して、国境へ逼《せま》ったということだ。」
「そうか、いよいよ面白いな。」
「北条殿も兵を出し、矢張り国境へ逼ったそうだ。」
「ううむ、然うか、北条殿もな。」陶器師は妙に息苦しそうに、
「殿には益々元気らしいな。……お互浪人して久しいものだ。」
「だがあの頃は窮屈だった。……懐しいとは思わない。……今の身分が一番いい。……お前はどうだな思い出すかな?」
薪兵衛の口調は揶揄的であった。
「俺か。」と陶器師は物憂そうに「思い出すまいとしているのさ。」
二
「アッハハハ然うだろうて。」薪兵衛は益々揶揄的になった。
「或る人に執っては思い出は、ひどく楽しいということだ。お前には然うでもないらしいな。だが是は何うしたことだ。北条家の北条内記といえば、立派な家柄の武士ではないか。侍大将の筆頭で、加之《しかも》主君とは縁辺だ。非常な勇士で武道の達人、殿のお覚え芽出度かった筈だ。可いことずくめのお前だった筈だ。昔思えば懐しい。斯ういかなければならない筈だ。それだのに思い出は苦しいという。解《げ》せぬぞ解せぬぞ少し解せねえ。アッハハハ解せねえなあ。……とは云え熟々《つらつら》考えてみるに、無理もねえ節があるかもしれねえ。おお有る有る一つある。こいつを思うと辛かろうよ。浪人をした原因だからな。武道の恥ならまだ可いが、密夫されたとあってみれば、これ以上の恥はねえからなあ。が、そいつも仕方がねえ。そうだそいつも仕方がねえが、ここに一番困ったことには、家中一般の同情が、密夫密婦に蒐《あつ》まって密夫されたお前に集まらなかったことだ。『北条内記の面相なら、連れ添う女房でも厭になろう。』『その女房の園女と来ては、家中一等の美人だからな。』『旨くやったは伴源之丞、あの園女を手中に入れ、他国するとは果報者だ。』『その又伴源之丞と来ては、家中一番の美男だからな。似合いの夫婦というやつさ。』などと蔭口を利いたものさ。流石のお前も参ったらしい。そこで北条家を浪人し、気の利かねえ女敵討《めがたきうち》、成程思い出は辛かろうな。」
毛利薪兵衛は面白そうに、後から後からと毒|吐《づ》いた。
「さて、所で、此処に一つ、お前に聞かせてえ、ことがある。他でもねえ居場所だ。密夫密婦の居場所だ。チラリと俺は聞き込んだ。どうだどうだ聞きたかろう。甲府の城下で聞いたのさ。宜かったら聞かせてやってもいい。が、只じゃあ勿体《もつてえ》ねえ。いくらかよこせえ、いくらか。」
陶器師《すえものし》は返事をしなかった。ゆるゆると彼は寝そべった[#「寝そべった」に傍点]。右手を敷いて枕とし、左手を脇腹へ自然に置き、唇を閉じ眼を瞑《ふさ》ぎ、寂然として聞いていた。
「おい何うした、陶器師殿、痩我慢なら止めるがいい。権式張るなら置いてくれ。成程昔の俺等なら、位置の高下もあったろう。俺は僅に蔵奉行、お前は素晴しい大身だ。併し今じゃあ同じよ。富士の裾野に巣食っている、魑魅魍魎の仲間だあね。なんの差別があるものか。うん、これだけでも可い気持だ。そうともそうとも俺にはな。なんの昔が恋しいものか。……おおおお何するえ陶器師、出すか厭か、聞き度くねえか。」
嵩《かさ》にかかって云い募った。
恐ろしく薪兵衛は愉快そうであった。
同じ家中に居た頃は、身分の相違で圧迫され、同じ剽盗になってからも、伎倆《うで》の違いで威圧された、その鬱憤を晴らすのが、何んとも云えず楽しいらしい。云い募り云い募りしながらも、絶えず彼はヘラヘラ笑った。
だが陶器師は動じなかった。右手を敷いて枕とし、左手を自然に脇腹へ置き、眼を瞑《と》じ唇を閉じていた。しかし顔色は蒼かった。益々蒼くなって行った。そうして左手の爪先が、幽《かすか》に幽に痙攣した。
「薪兵衛。」と陶器師は不意に云った。それは落ち着いた声であった。氷のように冷たかった。だが一脈凄気があった。
「お前の為だ、喋舌《しゃべ》るのは止めろ。」
「何を?」と薪兵衛は憎さ気に云った。「まだお前は威張る気か。」
「古傷をつつくと破れるぞ。」
「おおさ、お前の古傷がな。」
「不可ない不可ない疼き出して来た。」
「気の毒なものさ。可哀そうなものさ。」
「血は復讐する。気を付けろよ。」
「それが何うした。なんのことだ。」
「古傷をつつくと破れるぞ。」
「と、生血《なまち》が流れ出る。」
「血は復讐する、気を付けろよ。」左手を腹まで下ろして行った。
だが薪兵衛は気が付かなかった。
「三合目殿、さてさて出し惜みをする奴だな。よしよし夫れでは只で話す。……甲府で聞いた物語、夢のような話だが、根のねえことでもなさそうだ。甲斐と信濃の国境、富士見高原のどん[#「どん」に傍点]詰り、八ケ嶽の渓谷《たにあい》に、極楽浄土があるそうだ。僧院があるということだ。密夫密婦の隠場所、院主は尼僧だということだ。だが有髪だということだ。一旦其処へ飛び込んだら、どんな悪業の人間でも、匿ってくれるということだ。恐らく其処にいるだろうよ、お前の目差す二人もな。尼僧と聞いては色気がねえ。有髪とあっては然《そ》うでもねえ。兎まれ結構な極楽さ。別れ別れて住むじゃあ無し、好いた二人の共住みだ。そうして懺悔の生活だ。こういう懺悔は悪かあねえ。」
三
陶器師は矢張り動じなかった。
しかし左手は徐々に動いた。一寸二寸と動いて行った。いつか腹から辷り落ちた。土を指先で探りながら、足の方へと動いて行った。
薪兵衛はそれでも気が附かなかった。
些《いささか》彼は張合が抜けた。
あんまり相手が冷静なので、的を外した思いがした。で彼は焦心《あせ》って来た。もっともっとえぐい[#「えぐい」に傍点]事を云って、反応を見度いと思い出した。
「いいないいな好い商売だ。密夫商売気に入ったな。そこで俺等も探すとしよう。間抜けた亭主は無かろうかな。お前のような亭主がよ。」
「薪兵衛。」
と其の時陶器師が云った。押し付けたような声であった。
「なんだなんだ、何か用か。」
薪兵衛は唇を舌で嘗めた。
「俺は寝返りを打とうと思う。」
「え、寝返り? 何んのことだ?」これには薪兵衛も吃驚《びっくり》した。
「薪兵衛、だから其処を退け。」
「何を!」と薪兵衛は威猛高になった。「増長するな、昔とは違う。」
「俺は光明優婆塞に逢った。」こういう間にも陶器師の手は、足の方へ足の方へと動いて行った。其方に太刀が置いてあった。其方へ動いて行くのであった。
「富士教団の教主にか。」
「そうだ。」と陶器師は冷静に、
「俺は其奴をとっちめて[#「とっちめて」に傍点]やった。」
「俺とは関係のねえことだ。」
「が、此の俺もとっちめ[#「とっちめ」に傍点]られた。爾来殺人が出来なくなった。自然釜|奴《め》も空腹よ。」
「夫れが何うした。どういう意味だ。」
こう云い乍らも気味悪そうに、竈にかけてある巨大な釜へ、薪兵衛はジロリと眼を遣った。
「そこへお前が遣って来て、俺の古傷を発《あば》いてくれた。」
「気の毒だな。苦しいだろう。」
「で、寝返りを打とうと思う。」
陶器師の手は動いて行った。刀の柄から二寸の此方《こなた》、そこまで行くと動かなかった。
「おい。」と陶器師は復《また》云った。矢張り冷静の声であった。
「俺の眼を見ろ、開いてはいまい。」
まさしく其の眼は瞑《と》じていた。
ゴロリと陶器師は寝返りを打った。
刀がスルリと引き抜かれ、腰から逆に上の方へ、しかも左手で輪が描かれた。曇天で陽の光が射さなかった。で、ピカリとも光らなかった。
突然「わっ。」と悲鳴が起った。
陶器師《すえものし》は立ち上った。
小鳥が俄に啼き出した。
別に風が吹いたのではない。
蒲公英《たんぽぽ》の花が咲いていた。
それが真赤に色彩られた。
血に浸されているのであった。
一つの死骸が転がっていた。洵《まこと》に剽軽《ひょうきん》な形であった。足が二本浮いていた。空に向かって浮いていた。それがピクピク動いていた。二本の腕が延ばされていた。指先が虚空を掴んでいた。それは首のない死骸であった。
切口から血汐が流れていた。さも愉快そうに吹き出していた。首は一間の彼方にあった。竈の横に転がっていた。口が枯草を銜《くわ》えていた。
無心に陶器師は立っていた。何んの変ったこともなかった。
「だが。」と彼は嬉しそうに云い、右手を後脳へ持っていった。
「好い気持だ、この辺が。詰まっていた物が取れたようだ。」
死骸の側へ寄って行き、死骸の袖で刀を拭い、バッチリ鞘へ納めて了った。それから死骸の両足を掴み、釜の側まで引き擦って行った。片手で釜の蓋を取った。と湯気が立ち上った。ザンブリ死骸を投げ込んだ。つづいて首を投げ込んだ。それから釜の蓋をした。
「さて。」と彼は考え込んだ。「何方へ行ったら可かろうな?……先ず兎も角も甲府へ行こう。それから八ケ嶽へ行くとしよう。……存分人が斬れそうだぞ。」
彼はスタスタ山を下った。
四
恰度《ちょうど》同じ日の事であった。
鍛冶屋街道を甲府の方へ、二人の老人が辿っていた。
同じような年恰好、同じように道服を着、そうして二人ながら長髪であった。
一人は小太刀、一人は木刀、いずれも腰に手挿《たばさ》んでいた。木刀を手挿んだ一人の方が、肩に薬箱を担いでいた。一見お供と見えるけれど、話の様子では友人らしい。
木刀の主が塚原卜伝、もう一人の方が直江|蔵人《くらんど》、大声で愉快そうに話して行く。
「気の毒だな、俺が持とう。」蔵人は薬箱へ眼を遣った。
「それには及ばぬ俺が持つ。」卜伝は薬箱を揺り上げた。
街道の左右の耕地では、カッと菜の花が咲いていた。曇天だけに色が冴え、眼眩むばかりに明るかった。
二人は甲府へ行くのであった。
富士の裾野鍵手ケ原、直江蔵人の療養園へ、この数日来癩患者が、十人二十人と詰めかけて来た。蔵人はすっかり驚いて了った。そこで彼は彼等に訊いた。そうして甲府の乱脈を知った。悪病の主? 火柱の怪! 彼は夫れ等を知ることが出来た。
「ははあ奔馬性癩患だな。」
早くも彼は直覚した。
「しかし奔馬性癩患は、根絶やしになっている筈だ。」――そこで彼は癩に関する、色々の文献を調べて見た。
泰西では古く聖書にあった。「癩病《やめるもの》は浄められん。」こう基督《キリスト》は云っている。東洋にも古くから有ったらしい。既に論語にも現われている。「伯牛疾あり子之を問う、斯人にして斯疾あり」と。日本では神代の太古から、早く既にあったらしい。中臣《なかとみ》の祓《はらい》に現われている。「国津罪とは生の膚断ち、死の膚断ち、白人《しろうと》古久美」と記されてある。白人《しろうと》というのは白癩であり、古久美というのは黒癩であった。
「亜刺比亜《アラビア》の沙漠に悪疫あり、奔馬して一瞬に人体を壊る。マホメットの時終滅す。」
風論篇に記されてあった。
「その恐ろしい奔馬性癩患、根絶やしになった筈の悪疫が、どうして今頃現われたのだろう?」
蔵人には不思議でならなかった。
そこで彼は甲府へ行き、兎も角も様子を見ることにした。
この頃塚原卜伝は、蔵人のために説服され、忠実な蔵人の相談《はなし》相手として、療養園にとどまっていた。二人は連れ立って行くことにした。
で、今歩いているのであった。
雨になりそうな空模様であった。
「蔵人。」と卜伝は話しかけた。「薬は無いのか、癩を癒す薬は。」
「さあ。」と蔵人は渋面を作り「特効薬は目付からない。大黄、|※[#「白+十」、第三水準1-88-64]莢《さいかち》、白牽子《はくけんし》、鬱金、黄蓮、呉茱《ごす》の六種、細抹にして早旦に飲む。今のところではこんなものだ。だが其の中《うち》目付かるだろう。いや此の俺が目付けてみせる。……それから金銀円方として、金粉、銀粉、鹿頭、白花蛇、烏蛇、樟脳、虎胆の七種を、丸薬として服ませもするが、これとて対症的療法に過ぎない。東洋では鍼術を行うが、これは殆ど無効らしい。純粋薬物療法として、枹木子、天雄、烏頭、附子、狼毒、石灰を用いるが、これは一層|験《ききめ》が無い。」
「癩の種類は多いのか?」
「いや大して沢山は無い。斑紋癩に天疱瘡、断節癩に麻痺癩がある。丘疹癩に眼球癆、獅子癩に潰瘍癩、だが大方は混合する。」
「案外長命だというではないか。」
「病勢が遅々として進むからだ。だが奔馬性癩患は、二十年三十年の道程を、恰《あたか》も奔馬の勢《いきおい》を以て、一瞬の間に経過する。だから非常に恐ろしいのだ。」
益々空は曇って来た。
二人は少しずつ足を早めた。
「だが結局は死ぬのだな。」
「あらゆる病人が死ぬようにな。あらゆる人間が死ぬようにな。」蔵人は一向平気で云った。「脳や内臓を犯された時、癩患者はコロリと死ぬ。しかし俺から云わせると、あらゆる病気は甲乙無しに、同じように恐ろしいものだ。ただ癩患は醜くなる。そこで人が酷く嫌う。で、癩患を恐れるのだ。固い信念さえ持っていたら、癩になった所で恐ろしくはない。」
日が次第に暮れて来た。
降りそうで仲々降らなかった。
甲府はまだまだ遠かった。
住吉宿まで来た頃には、日がトップリと暮れて了った。月も星も無い闇夜であった。
と、卜伝が耳を傾《かし》げた。
「はてな?」と彼は口の中で云った。「蔵人《くらんど》、お前先へ行け。」
「何故だ?」と蔵人は訊き返した。
「並んで歩いては険難《けんのん》だ。何んでもよい、先に立て。」
で、蔵人は先に立った。
「よいか、蔵人、云っておくが、背後《うしろ》を見ては不可ないぞ。」
「よし。」と蔵人は忍び音で云った。
卜伝は木刀へ手を掛けた。が、何事も起らなかった。二人は足早に進んで行った。
スルリと卜伝は木刀を抜いた。所謂春の夜の花明り、闇とは云っても仄明るかった。薄《うっす》り一筋木刀が闇の中へ浮いて見えた。卜伝は切先へ眼を付けた。と、気合が充ちたのか、
「カ――ッ。」
と一声声を掛けた。
五
声は二町も響いたろう。木精《こだま》を返すばかりであった。
「最《も》う可《よ》かろう。」と卜伝は云った。それから木刀を腰へ差し、薬箱をユサリと揺り上げた。
「一体何んだ?」と蔵人は訊いた。
「さあ、それが解らない。兎《と》まれ凄じい殺気だった。俺も鳥渡《ちょっと》恐ろしかった。」
「誰か俺達を狙ったのか?」
「そうだ、それだけは疑いない。」
「そんなに業《わざ》の出来る奴か。」
「業も業だが。」と卜伝は、鳥渡その声を顫わせた。「凄かったのは其の心だ。……いや実際世間には、恐ろしい奴が居るものだ。お前一人なら切られたろう。俺が居たから助かったのだ。」
「あの掛声は極意かな?」
「極意というようなものではない。剣の極意なんてつまらない[#「つまらない」に傍点]ものだ。只カーッと叫んだまでだ。敵の心を反らせたに過ぎない。禅の一喝と思えば可い。」
「ははあ剣禅一致だな。」
「うむ先ずそういった所だろう。だが本当はそう云っては不可ない。剣も禅も何も無い。只カ――ッと掛けた迄さ。」
「面白いな、気に入った。」
二人はズンズン歩いて行った。
畔宿を通り南池を過ぎ、二人は漸く甲府へ這入った。
鍛冶屋街道住吉の外れ、往来に茫然《ぼんやり》立っているのは、他ならぬ三合目陶器師であった。
彼はホ――ッと溜息をした。
「浮世は広い。偉い奴がいる。カ――ッと掛けられたあの気合、雷に打たれたようだった。彼奴一体何者だろう? 一見ヨボヨボの爺だったのに。……ああ未だ耳に残っている。」
抜身をソロソロと鞘へ納めた。
「光明優婆塞と今の爺、斬れなかったのは二人だけだ。」
彼はノロノロと歩き出した。
「彼奴等も甲府へ行ったらしい。……甲府へ行くのが恐ろしくなった。……だが素敵な楽しみだとも云える。巡り合って只|一討《ひとうち》、どうがな斬って捨てたいものだ。さぞ腕が上るだろう。さぞ度胸が坐るだろう。」
彼はガタガタ顫え出した。血を予想した武者顫いであった。
で、一散に走り出した。
甲府城下へ入り込んだ。
×
この夜信玄の館では、大評定が行われていた。
広間正面へ並んだのは、武田典廏、武田逍遥軒、武田勝頼、一条右衛門、武田兵庫、穴山梅雪、以下十一人の親類衆で、馬場美濃守、内藤修理亮、山県三郎兵衛、高坂弾正、小山田弥三郎、甘利三衛尉、栗原左兵衛、今福浄閑、土屋右衛門尉、秋山伯耆守、原隼人佐、小山田備中守、跡部大炊介、小宮山丹後、即ち御譜代家老衆は、その左側に控えていた。真田源太左衛門、真田兵部、即ち信濃|先方衆《さきてしゅう》や、小幡上総守、松本兵部、即ち西上野先方衆や、朝比奈駿河守、岡部丹波守、即ち駿河先方衆や、間宮武兵衛、伊丹大隅守、海賊係の人々は、その右側に控えていた。江間常陸守、入沢五右衛門、即ち飛騨先方衆や、椎名四方介、同姓甚左衛門、即ち越中先方衆や、永井豊後守、小幡三河守、即ち武蔵先方衆は、それと向かい合って坐っていた。横田十郎兵衛、原与左衛門、市川梅印、城伊闇、多田治部右衛門、遠山右馬介、今井九兵衛、江間右馬丞、関甚五兵衛、小幡又兵衛、大熊備前守、三枝新三郎、長坂釣閑、曾根内匠、曾根喜兵衛、三枝勘解由左衛門、即ち足軽大将は、稍《やや》離れて坐っていた。近藤三河守、桜井安芸守、即ち城内公事奉行や、青沼助兵衛、市川宮内助、即ち城内勘定奉行や、坂本武兵衛、塚原六右衛門、即ち城内御目付や、萩原豊前守、久保田助之丞、即ち城内横目衆は、一段下がって坐っていた。
御曹司様衆と称された、貴族の若殿の一団も、前髪姿で控えていた。
此の他槍奉行、旗奉行、御蔵奉行、御料人様衆、御小姓衆、御しょう堂様衆、御同朋衆、御使者番、御右筆衆、御伽衆、御茶堂衆に至るまで、その数凡そ五百人、座を圧して居流れていた。尚三十人の蜈蚣《むかで》衆――即ち忍術《しのび》の名人達が、隣部屋に詰めていた。
六
わざわざ領国から夜を日に継ぎ、馳せ参じた者もあった。
信玄は脇息に倚りかかりながら、上段の間に坐っていた。傍に快川長老がいた。白須法印、日向法眼、二人の奥医師が引き添っていた。
紙燭は煌々と部屋を照らし、真昼のように明るかった。
一座は寂然と声も無かった。
思案に余っているのであった。
上は信玄から下は茶堂、身分の高下を取り去って、一堂に集めて計ってみても、悪疫蔓延を取り締まる可き、何等の名案も浮かばないのであった。
で、寂然と声も無かった。
この時ドッと鬨声《ときのこえ》、裏門の方から聞えて来た。剣戟の触れ合う音もした。
「また押し寄せて来たそうな。」
渋面を作って信玄が云った。
「そんな様子でございますな。」
快川長老が斯《こ》う云った。「考えて見れば憐れなもので。」
「さりとて城門を開けることはならぬ。」
「左様、あけた所で無意味でござる。」
館の大門は四つ共、数日前に鎖ざされた。
癩患者の潜入を恐れたからで、又やむを得ない政策であった。しかし城下の人々は、それを無慈悲だと憤った。そうして大挙して押し寄せて来た。
ふたたびドッと鬨声が上った。表門へ寄せて来たらしい。
「これ。」と信玄は不安そうに「どうせ評定は永くなる。固めの方が肝腎だ。持場持場へ帰るがいい。」足軽大将の居並んだ方へ、括れた二重顎を刳くって見せた。
足軽大将は十六人の中八人がやおら[#「やおら」に傍点]立ち上がった。
横田十郎兵衛は表門へ、大熊備前守は裏門へ、三枝勘解由左衛門は西門へ、曾根十郎兵衛は東門へ、市川梅印は中|曲輪《くるわ》へ、原与左衛門は東曲輪へ、長坂釣閑は西曲輪へ、各自の持場へ帰って行った。
後は復もや森然《しん》となった。
何処からか風が吹き込むと見え、一斉に紙燭の灯が流れた。信玄の大きな影法師が、床の間の壁でユラユラと揺れた。
戸外《そと》を春風が渡るのだろう。
俄に信玄が驚いたように云った。
「道鬼が見えぬ、道鬼は何うした?」
「は、山本道鬼殿は、お屋敷においででございます。」
小姓の真田源五郎が云った。
「これは呆れた、どうしたと云うのだ。これ程の大事な評定に、道鬼が不参しようとは。源五郎迎えに行って来い。」
「いや。」と云ったのは譜代の筆頭、馬場美濃守信勝であった。
「道鬼殿は参りますまい。」
「何故だ!?」と信玄は眼を見張った。
「いつも同じような無駄評定、参った所で仕方がない。道鬼殿はかよう申されました。」
「なに、無駄評定だと? 不届千万!」信玄の眉はキリキリと上った。常時《ふだん》は垂れている八字眉が、俄に尾端を上げたのであった。
「実は私も道鬼殿の、そのお言葉には賛成なので。」美濃守は平然と云い切った。
「ふうむ、お前も賛成か。無駄評定と思うのか。」信玄は厭な顔をした。
「先ず左様でございます。奔馬性癩患は不可抗力、患者を捉えて隔離する以外、他に手段はございません。それより国境に押し逼《せま》った上杉、北条の軍勢を打ち破らなければなりますまい。道鬼山本勘助殿も、さよう申されて居りました。」
「何んの。」と信玄は嘲笑うように「謙信は兎も角氏康なんど、一蹴するに手間暇いらぬ。道鬼を呼べ! 道鬼を呼べ!」
「それに道鬼殿は一心籠めて、戦車考案中でございます。」
「うん、それも知っている。が、急場の役には立たぬ。源五郎行って呼んで来い!」
「は。」と源五郎は小走って行った。
その時大きな笑声がした。
信玄は吃驚して其方を見た。快川長老が笑っていた。
「殿」と長老は揶揄するように「徐如[#レ]林、どうやらそろそろ[#「そろそろ」に傍点]この文句が、役に立たなくなりましたな。」
「なぜな?」と信玄は怪訝そうに訊いた。
長老はいよいよ揶揄的に、
「殿の様子を見ていると、火の子が懐中《ふところ》へ這入《はい》ったようでござる。クルクルクルクル廻って居られる。」
信玄は不機嫌な顔をした。だが些少《いささか》テレたようであった。
「それほどの大事だ、周章《あわ》てるが普通だ。」
「周章てて何んになりますな。」
長老は益々揶揄的になった。
七
信玄は頬をふくらませた。脂肪太りの垂頬が、河豚《ふぐ》のようにプッと脹らんだ。
突然彼は吠えるように云った。
「憎い奴だ! 火柱奴! 鉄砲足軽百人を出し、撃って取ろうとした所、狙うことさえ出来ないそうだ。変幻出没するそうだ。おっ! 出没で思い出した。蜈蚣《むかで》衆を呼べ、蜈蚣衆を!」
隣室に詰めていた蜈蚣衆、その頭領の琢磨小次郎が、黒小袖に黒頭巾、黒の鼻緒の草鞋を穿き、黒の伊賀袴に黒手甲、眼だけ頭巾の隙から出し、膝行して末座へ平伏した。
当時忍術衆の心掛けとして、同じ家中の侍へも、生地の姿は見せなかった。生地の姿を知っているものは、同じ仲間の忍術衆だけで、主君と雖も知らなかった。只|細作《かんじゃ》として敵国へ向う、その時ばかり御前へ出て、盃を貰うことになっていた。
それほど用心しないことには、細作として技倆《うで》を揮うことが、出来なかったに相違ない。
琢磨小次郎は琢磨流の始祖、容貌年齢は解らなかったが、身体は小さく敏捷であった。
「小次郎。」と信玄は声を掛けた。「其方達一度に繰り出して、悪病の主を引っ捉えろ。」
無言で恭しく一礼した。それから小次郎は女のような――勿論拵えた声であるが、優しい声で言上した。
「忍術《しのび》の秘訣は第一が小人数、で、私と最う一人、茣座右門と罷り越し、引っ捉えますでございます。」
「おお然うか、それは勝手だ。」
辷るように小次郎は退出した。
復もや後は森然《しん》となった。
鬨声《ときのこえ》が起って直ぐ消えた。
門を叩く音がした。
それを叱咤する声がした。
「可い所へ気が付いた。小次郎奴旨く捉えるかもしれない。」信玄は四辺《あたり》を見廻したが、
「法印法印、白須法印。」
六十を過ごした奥医師の、白須法印は手を仕えた。
「座中を見廻せ、この座中を。どうだ癩患者は居るまいな。」
法印は勿怪《もつけ》な顔をした。それでも座中を見廻した。
「はい、居りませんでございます。」
「俺の顔を見ろ、俺の顔を。どうだ癩患ではあるまいな。」信玄は顔を突き出した。
「はい、大丈夫でございます。」法印は軟かく苦笑した。
矢張り信玄は不安らしかった。
「法印法印。」と復呼んだ。「症候は何んだ、最初の症候は?」
「はい。」と云ったが法印は、いよいよ軟かく苦笑した。「先ず蟻走と申しまして、顔や手足を蟻が這うような、厭な気持が致します。」
「待て待て。成程、蟻走感、そういえば鳥渡《ちょっと》痒くなったぞ。」
快川長老が哄笑した。
「ええと夫れから眉毛睫毛が、少しずつ脱けて参ります。」
「どれどれ。」と信玄は眉を引っ張った。「いや大丈夫だ、脱けはしない。」
快川長老が哄笑した。
「ええと夫れから額や頬に、境界不明の紅潮を呈し……。」
「で、俺は何うだろう?」
「殿は満面朱色を呈し、よいご血色でございます。……それから次第に顔が崩れ……。」
「もう可い可い。気味が悪い。」信玄が周章《あわ》てて手を振った。
快川長老が哄笑した。
そこへ源五郎が戻って来た。
「戦車の模型出来上り、殿の御覧に供したければ、此方へおいで下さるようにと、道鬼様かよう申されました。」
「や、本当か?」
と信玄は云った。それからゲラゲラ笑い出した。
「道鬼|奴《め》、偉いことを仕出来《しでか》したな。彼奴の計画の戦車さえ、思う通りに出来上ったら、天下に恐ろしいものはない。謙信ごとき木葉微塵だ。どれどれ夫れでは行って見よう。」
ヒョイと立つと走って行った。
快川長老が五度笑った。
「いや今夜は面白かった。今夜ほど殿の天真が、流露したことはないからな。まるで子供だ、駄々っ児だ。それが可いのだ。結構結構。……先刻までは癩患が玩具《おもちゃ》だった。今では夫れが戦車になった。何か玩具が無いことには、殿には何うにも退屈らしい。」
×
だがこの夜城下では、凄じい格闘が行われていた。
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第十六回
一
「……ね、妾《わたし》は思うのよ、お助けが来る、お助けが来るとね。」女の声が斯う云った。何処にいるとも分らなかった。若い女の声であった。夜の闇が彼女を包んでいた。
「来やあしないよ、来るものか。」
これは老人の声であった。何処に居るとも解らなかった。女の側にいるのかもしれない。少し離れているらしい。夜の闇が彼を包んでいた。
「来ない筈はないわ、来ますとも。」女の声は繰返した。
「おや、大きな星が出たよ。」
これは子供の声であった。子供の姿も解らなかった。だが抱かれてはいるらしい。
その母の膝の上に。
「ああ駄目だ、消えて了《しま》った。」
「ね、妾は思うのよ、お助けが来る、お助けが来るとね。」女の声は云いつづけた。「来ない筈は無いじゃあありませんか、こんなにこんなに苦しんでいるのに。」
「黙っておいで。」
と別の声が云った。若い男の声らしかった。
「もう沢山だ! もう沢山だ! もうそんな事は思わないがいい。」
若者の声は絶望的であった。若者の姿も解らなかった。女と向かい合っているらしい。どうやら女の良人《おっと》らしい。
月も星も無い闇の空が、その人達を蔽うていた。遥か彼方の伝奏屋敷の方から、ワーッ、ワーッという鬨《とき》の声が起こった。だんだん此方へ来るらしかった。が、急に北へ逸れた。大熊備前の屋敷の角を、右の方へ曲ったらしい。
寂然《しん》と後は静かになった。
戸を叩く音が聞えて来た。
トン、トン、トン。……
トン、トン、トン。……
栗原兵庫の屋敷らしかった。
ザワザワと風の渡る音がした。
「寒いよう。」
と子供が云った。「お母様! お母様! 寒いよう。」
「ね、妾は思うのよ、お助けが来る、お助けが来るとね。ああ妾には眼に見える。紫の法衣《ころも》をお召しになり、金襴の袈裟をお懸けになり、片手に珠数、片手に水盤、お若いお美しい神々しいお方が、刺繍《ぬいとり》をした履《くつ》を穿き、何処か遠くのお山から、城下へおいでになるお姿がね。そうして水盤をお傾《かし》げになる。するとご神水がタラタラと落ちる。それが貴郎《あなた》の手へかかる。ええ然うよ貴郎の手へね。すると脱《も》げた七本の指が、すぐに自然に生えて来る。また水盤をお傾げになる。するとご神水がタラタラと落ちる。お父様の頭へかかるのよ。ええ今度はお父様のね。すると瞽《めし》いたお父様のお眼が、急にポッとお開きになる。何んな物でも見る事が出来る。と復《また》水盤をお傾げになる。するとご神水がタラタラと落ちる。今度は坊やの足へかかる。股から落ちた坊やの足が、すぐに自然に生えて来る。そうしてピョンピョン飛ぶことが出来る。また水盤をお傾げになる。するとご神水がタラタラと落ちる。今度は妾の胸へかかる。おお冷い、身に沁《しみ》るようだ! 急に心が清々しくなる。破壊《くず》れた妾の二つの乳房が、すぐに癒ってまん丸くなる。ドクドク沢山お乳が出る。坊や、お乳を上げましょうね! さあお飲み、うんと[#「うんと」に傍点]お上り。……誰も彼も皆んな癒って了う。妾達四人は幸福《しあわせ》になる。近所のお方とお交際《つきあい》をする。親切に妾達を扱って下さる。楽しいことばかりが起こって来る。すっかり以前《まえ》の生活《くらし》になる。……おお何んて可いんでしょう! みんなそのお方のお蔭なのよ。山からおいでになったお方のね。信じましょうよ、ねえ貴郎《あなた》! いらっしゃるとも、いらっしゃるわ。いらっしゃらなくて何うしましょう。こんなにこんなに苦しんでいるのに。」
誰も返辞をしなかった。闇が四人を包んでいた。
と、若者の声がした。
「気の毒なお前、思わないが可いよ。俺は何んにも信じない。この浮世には救いは無い。ましてそんな[#「そんな」に傍点]奇蹟はね。」
若者の声は湿って来た。咽び泣く声が不図《ふと》洩れた。
「俺は、俺は、こう思うのだ。成るなら皆んなが成るがいい。うん然うとも病気にな。怨みっこ[#「みっこ」に傍点]無しに誰も彼もな。」
俄に憤りの声となった。
「何故城門を閉じたんだ! 何故彼奴等だけ健康《たっしゃ》なのだ!」
また咽ぶような欷歔《すすりなき》となった。
その泣声は長く続いた。
一本の細い蒼白い棒が、天鵞絨《びろうど》を張ったような夜の闇を、一筋何処迄も延びて行くように、その泣声は延びて行った。
「寒いよう。」
と子供が云った。
桜の花の季節であった。しかし甲府は寒かった。四方山に囲まれていた。所謂甲府の盆地であった。山々には雪が残っていた。夏暑く冬寒かった。三更を過ごした深夜であった。地面から湿気が立ち上っていた。
と、足音が近付いて来た。
欷歔《すすりなき》の声が急に止んだ。
「おい誰だ? 其処《そこ》へ来たのは?」
すると足音が直ぐ止った。
「そういうお前は何者だ?」
足音の主が訊き返した。
「病人だよ、病人だよ。」
「ああ然うか、俺も病人だ。」
で、足音は近付いて来た。
二
「仲間にしてくれ、俺は寂しい。」
新来の病人は蹲《うずくま》ったらしい。
「ああ可いとも、一緒にいよう。」
これで話は絶えて了った。
誰の姿も解らなかった。
溜息ばかりが闇に散った。
突然女の悲鳴がした。長坂屋敷の方角からであった。若い女が犯されたらしい。
だがそれも一声で止んだ。
と、鉄砲の音がした。神明の社の方角からであった。お館から繰出された鉄砲足軽が、ぶっ放した鉄砲の音なのだろう。鉄砲の音は反響した。家、四辻、石垣、山、そういう物に反響した。その木精《こだま》が止んだ時、静けさが一層静けくなり、暗さが一層暗くなった。
五人の者は塊まっていた。臭気が四辺へ広がった。臭気の持主の五人には、それが不快とも感じないらしい。
甲府城下そのものが、臭気と徽菌との巣窟なのであった。
その時復も子供が云った。
「お母様、お母様、寒いよう。」
絶え入るような声であった。
と、新来の病人が云った。
「どれ、焚火でも焚こうではないか。」
人の立ち上がる気勢《けはい》がした。その辺を探る音がした。
「おや、此処《ここ》に土塀がある。……おや此処に門がある。……一体誰の屋敷だろう?」
若者の答える声がした。
「一条様のお屋敷だよ。」
「ああ然うか、右衛門様のな。」
板切をひっ[#「ひっ」に傍点]放す音がした。
「おい、お若いの、手伝ってくれ。」
「何をするのだ? え、何を?」
「うん、焚物を目付けたのだ。」
「枯木でもあるのか? 枯木でも?」
「土塀の屋根だ。構うものか。」
「うん然うとも、構うものか。」
若者の立ち上る気勢がした。
屋根をひっぺがす[#「ひっぺがす」に傍点]音がした。屋根板を投げる音がした。しばらく夫れが継続した。
「もう可かろう。」「うんよかろう。」
二人の蹲る気勢がした。屋根板を掻き集める音がした。
「だが。」と若者の声がした。「俺は燧《ひうち》石を持っていないよ。」
「いや、俺が持っている。」
新来の病人の声であった。
カチカチと火を切る音がした。火の粉がパッパッ闇に散った。
と、ボーッと燃え付いた。
一所《ひとところ》闇が千切られた。そこへ楔形の穴が穿いた。焔が楔形に燃え上ったのであった。五人の者は火を囲んだ。風に消されまいと取り囲んだ。闇に燃え出した火の色は、天鵞絨《びろうど》の上へ芍薬の蕾を、ポッツリ一輪置いたようであった。パチパチと音を立てるのは、屋根板の燃える音であった。焔の舌が三つに分かれ、ヒラヒラ空の方へ立ち上る態は、芍薬の蕾が花弁を開き、その尖端を顫わせるようであった。焔が延びるに従って、闇の領分が押し退けられた。しかし直ぐに其の闇は、四方八方から逼って来て、焔の領分を押し縮めた。
焚火の上へ翳されたのは、五人の九本の腕であった。その一本には指が無かった。指の有る可き掌の端が、杓子のように円くなっていた。手首の辺から下へ曲り、あの陶器《すえもの》の招猫の、あの手首そっくりであった。銅色の皮膚へ脂肪《あぶら》が滲み、それが焔に照らされて、露でも垂れそうにテラテラした。太い静脈が手の甲を、蚯蚓《みみず》のように這っていた。その腕と並んでいる最う一本の腕の、掌の端から生えているのは、爪の無い三本の指であった。中指と食指と薬指とで、三本ながら膨れ上り、鼈《べっこう》のように透き通っていた。で、関節は見分けられなかった。ズンベラ棒に円いのであった。夫れは若者の腕であった。
杓子のような腕と並んで、枯木のようなものが突き出ていた。だが、それも腕であった。肘の辺から指先まで、ベッタリ瘡蓋《かさぶた》が飛び散っていた。枯木を蔽うている苔のようであった。中指の附根の瘡蓋《かさぶた》の上に、モジャモジャと一房の毛があった。黄金色に変色して顫えている様子が、苔の花を聯想させた。
それは新来者の右の腕で、左の腕は見えなかった。だがその右腕と並行し、左の腕の有るべき位置に、着物の袖ばかりがブヨブヨと、火気に煽られて戦《そよ》いでいるのは、一体どうしたというのだろう? 袖口の中は暗かった。どうして左腕を出さないのだろう? 誰かが袖口を覗いたなら、二の腕の関節の附根の辺に、腕を脱《も》ぎ取られた裸人形の、あの切口を想わせるような、白布で捲かれた短い腕が、その先をヒョロヒョロ動かしているのを発見したに相違無い。つまり彼の左の腕は、第二関節から脱《も》げているのであった。
三
新来の病人の手の無い袖の、左側に並んで突き出されているのは、普通の人間の腕から見て、二倍も太い腕であった。肘から指までがギッシリと、大小の瘤《こぶ》で埋まっていた。それは寧ろ腕というより、脛といった方が可いようであった。これは老人の腕であった。結節の為めに膨れ上がり、大きさが二倍になったのであった。脛のような腕は上下に揺れた。夫れが下へ下った時、焔の舌が夫れを嘗めた。神経の麻痺した其の腕は、何んの痛痒も感じないと見え、引っ込まそうとはしなかった。
老人の腕の直ぐ側に、小さい子供の手があった。これだけは人間の手であった。その手は時々悪戯をした。老人の手をつっ[#「つっ」に傍点]突いたり、燃え上がる焔を煽いだりした。だが一本の母指《おやゆび》の附根に、黄色い腫物が出来ていた。間も無く其処から母指がポロリと脱《も》げるに相違ない。
子供を抱いている母親の両手は、布で隙間無く巻かれていた。
火は元気よく燃えていた。
しかし高くは燃え上らなかった。そして燃え上っては困るのでもあった。火柱の主と誤られ、鉄砲を打たれる恐れがあった。二尺ぐらいしか燃え上らなかった。
火を囲繞した五人の男女は、火の光を他へ洩らすまいとした。ピッタリ体を寄せ合った。彼等の火に向いた半面だけが、明るく華やかに照らされていた。焚火を囲繞《とりま》き円を描き、ピッタリ塊まっている彼等の姿は、黒土で作った炉のように見えた。人間炉の真中で、火が赤々と燃えているのであった。
どんなに火光《ひのひかり》を洩らすまいとしても、絶対には防ぐことは出来なかった。しらじらと四辺《あたり》が明るんで見えた。
彼等の一団と稍離れて、巨大な門が立っていた。その礎《いしずえ》の花崗岩《みかげいし》と、その扉の下半分とが、茫と薄赤く描き出されていた。どうした加減か一つの鋲が、鋭くキラキラと輝いていた。
門の左右は土塀であった。土塀は白く塗られていた。それが火光に浮き出していた。巨大な爬虫類では無いだろうか? 二抱え程もある老松が、土塀の前に背を延ばしていた。ワングリと盛り上った幹の一所へ、焚火の光が届いていた。今にもウネウネ動き出しそうであった。
五人は五人ながら黙っていた。
遠くで破壊の音がした。槌《かけや》で家でも破壊《こわ》すのだろう。
と、近付いて来る足音がした。
ギョッとして人達は其方を見た。老人だけが見なかった。それは彼が瞽目《めくら》だったからであった。顔に焚火があたって[#「あたって」に傍点]いた。両眼の瞼がむくれ[#「むくれ」に傍点]返り、真紅な肉裏を見せていた。眼球が一面に白かった。瞳が融《とろ》けて無くなっていた。磁器のようにピカピカ光っていた。
闇の中から人の声がした。
「火があるようだ。あたらせてくれ。」
光の圏内へ這入って来た。それは犬のような動物であった。が矢張り人間ではあった。四這《よつんばい》に這っているのであった。膝頭に草鞋が繋《しば》りつけてあった。両手に草履が繋り付けてあった。膝と手とで歩いていた。彼はヒョイと顔を上げた。その顔を火光がカッと射た。顔中真白の歯ばかりであった。上下の唇が欠けていた。
火の側にいた若者が云った。
「お仲間だね、さあおあたり[#「おあたり」に傍点]。」
その若者の顔と云えば、宛然《さながら》獅子の仮面《めん》のようであった。額がグッと突き出ていた。それに蔽われて両眼の辺が、暗い蔭影《かげ》を作っていた。若者は妻の方へ身を寄せた。で其処へ空席が出来た。
「有難う、有難う。」
四這の男はいざり[#「いざり」に傍点]寄った。有難うとは云ったものの、声は言葉を為していなかった。上下の唇が無いからであった。
こうして一人仲間が増えた。
が、みんな黙っていた。
パチパチと火の粉が四散した。その一つが飛んで行って、女のはだけ[#「はだけ」に傍点]た懐中《ふところ》へ這入《はい》った。
女の胸には乳房が無かった。乳房の有る可き位置の辺に、椀ほどの穴が穿《あ》いていた。剥げた朱塗の椀のように、諸所に赤い斑点があった。
焚火の勢が弱くなった。片腕の男がその腕を延ばし、側に積んであった屋根板を、苦心して掴んで火へくべた[#「くべた」に傍点]。
パッと焔が高く上った。ひとしきり皆んなが輝いた。
女の膝に子供がいた。母の胸へ後脳をあて、眼を閉じて眠に入りかけていた。五歳ばかりの子供であった。濃い睫毛が隈をつくり、下瞼へ墨でも塗ったようであった。左の頬に腫物があった。腫物の頭は膿を持っていた。火に照らされて果物のように見えた。
母親が子守唄をうたい出した。小さい声ではあったけれど四辺がひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かなので、遠く迄響いて行くようであった。昔は美人であったろう、いや今でも彼女の顔は、片耳欠け落ちているばかりで、その美しさを保っていた。特に其の眼が美しかった。信仰を持った人の眼であった。奇蹟を待つ人の眼であった。
彼女は子守唄をうたいながら闇の空を眺めていた。
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おいでなさりませ神様よ
どうぞご神水を下さりませ
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是が彼女の子守唄であった。
四
みんなの様子は親しそうであった。虐げられた人間が、虐げられた人間同志、憐れみ合い助け合うように、みんなは仲宜く塊まっていた。
と復《また》闇の中から足音がした。
菰《こも》を冠った人間が、杖を突き乍ら現われた。
「火があるね、あたらせておくれ。」
嗄《しゃが》れた声でこう云った。
で人達は空席を設けた。
その男は其処へ割り込んだ。その頭には毛が無かった。銅のようにテカテカ光っていた。
と復《また》闇の中で足音がした。一人の出家が現われた。千切れた法衣《ころも》を纏っていた。顔の真中に穴があった。深い三角の穴であった。鼻が融けて無くなっていた。
こうして次第に癩人達が、焚火の周囲《まわり》へ集まった。
十四五人の人数となった。彼等はポツポツ話し出した。
「まだ今夜は出ないそうな。」
頭巾を冠った癩人が云った。
「山県屋敷の方へ出たそうな。」
十八九の癖に頭髪《かみのけ》の白い、片眼の癩人がこう云った。
「道鬼様、道鬼様、道鬼山本勘助様、ああいう偉いお方にも、どうすることも出来ないのかな。」
誰とも知れずこう云った。
「工場の仕事で夢中だそうな。」
誰とも知れず斯う云った。
「新兵器のご製造か。……が、そいつが出来上った頃には、甲府に人種《ひとだね》が無くなるだろう。」
笠を冠った癩人が云った。その癩人は肥えていた。四斗樽のように膨れ上っていた。
「健康《まめ》ならどんなに可いだろう。……地獄の工場へでも行ってやる。」
山伏姿の癩人が云った。指が鉤のように曲がっていた。
「働いても働いても食えなかった。昔はね、昔はね。ああ今は働くことさえ出来ない。」
蔭の方で誰かが云った。
「可愛がっていた女も癩になったよ。ヒ、ヒ、ヒ、……ヒ、ヒ、ヒ。」
笑う声が聞えて来た。
誰も何んとも云わなかった。
闇は益々濃くなった。寒さは愈々《いよいよ》強くなった。
と、突然|鬨声《ときのこえ》が起こった。お館の方へ行くらしかった。門を叩く音がした。烈しい叱咤の声がした。バタバタと逃げ去る足音がした。
次第次第に静まった。また静寂《しずけさ》が返って来た。
しかし普通の静寂では無かった。底に無限の恐怖を湛えた、それは一時的の静寂であった。
焚火は漸時《だんだん》消えて来た。
と、一人が立ち上った。土塀の側へ歩いて行った。屋根板をむしる[#「むしる」に傍点]音がした。二三人が立ち上った。土塀の側へ歩いて行った。そうして仕事を手伝った。で、円陣に空が出来た。そこから火光が土塀の方へ射した。
やがて人達が帰って来た。円陣の空が塞がった。屋根板が山のように積み重ねられた。幾本かの手が夫れを掴んだ。火の中へくべら[#「くべら」に傍点]れた。パッと焔が立ち上った。数十本の手が翳ざされた。どうして人間の手と云えよう! 穢い枯木や杓子であった。
シクシク泣く声が聞えて来た。
誰も其方《そっち》を見るものが無かった。
「左様なら。」
と云う声がした。
「妾は行きます、左様なら。」
一人の癩人が立ち上った。襦袢一枚の老婆であった。一本一本肋骨が数えられる程痩せていた。白髪が顔へかかっていた。で顔は解らなかった。
光の圏内から抜け出した。
みんな何んとも云わなかった。
こうして暫く時が経った。
一人の癩人が振り返った。老婆が行った方を隙《す》かして見た。と、彼は呟くように云った。
「……あそこに桜が咲いている。……太い枝が突き出ている。……白い物が散っている。……何か枝へブラ下っている。……婆さんが首を吊ったらしい。」
誰も何んとも云わなかった。身動き一つしなかった。
勿論驚きもしなかった。珍しいことでも無いからであった。そうして軈《やが》ては誰も彼も、そうならなければならないからであった。
五
夜は容易に明けそうにも無かった。
遠くで幾度か鶏《にわとり》が啼いた。夜啼鶏の啼音であった。夜の深さを思わせた。
焚火が復も消えそうになった。みんなじっと[#「じっと」に傍点]考え込んでいた。それに気の附く者が無かった。
と、此の時松の木の背後へ、朦朧と人影が現われた。いずれ癩人に相違あるまい。焚火を慕って来たのだろう。何《ど》うして声を掛けないのだろう? 親しそうに近寄って来ないのだろう? 何故足音を立てないのだろう? 何故盗むように歩くのだろう?
焚火は今や消えようとした。
その人影は近寄って来た。
誰も夫れに気が付かなかった。
人影は彼等の背後に立った。その前に子を抱いた女がいた。乳房の脱げた女であった。その人影は女の頸を、じっと上から見下ろした。と、斜に身が捻られた。と、右手が動いたようであった。何やらピカリと光ったようであった。
声一つ立てなかった。だが何か重い物が、屋根板の上へ落ちて来た。と、屋根板の山が崩れ、焚火の中へなだれ込んだ。焚火がパッと燃え上った。人々は始めて気が附いた。
焚火の横に女の首が、仰向けになって転がっていた。その切口から一匹の紅巾《もみ》が、ズルズルズルズル引き出されていた。上下の歯がガチガチ鳴った。つづいてドンという音がした。首の無い女の死骸が、子供を両手に抱えたまま、背後向きに転がったのであった。
人々は茫然と眺めていた。子供が大声で泣き出した。
もう一つの首が地へ落ちた。鼻の無い出家の首であった。首は焚火の反対側へ落ちた。瞼を二三度痙攣させた。そうして切口から一匹の紅巾が――紅巾のような真紅の血が、後から後からと流れ出した。と、首の無い胴体が、前のめり[#「のめり」に傍点]に転がった。
一斉に人達は立ち上った。そうしてバラバラと逃げ出した。
一人の癩人は這って逃げた。両足の脱げた癩人であった。一人の癩人は一本足で逃げた。片足欠けている癩人であった。
焚火が景気よく燃え上った。
二つの首と二つの胴と、踏み潰された子供ばかりが、焚火の光に照らされていた。
そうして一人の美男子が、しょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]として佇んでいた。
宗匠頭巾を冠っていた。利休茶の十徳を纏っていた。そうして右手にドンヨリと光る、抜身をダラリと下げていた。
玲瓏と美しく磨きのかかった、しかし一向表情の無い、恰度《ちょうど》精巧な仮面のような顔が、頭巾の下に描き出されていた。
彼は少しも動かなかった。聞き澄ましてでもいるようであった。
しかし漸時《だんだん》蒼白い顔へ、鮮《あざやか》な血の気が射して来た。急に唇が綻びた。彼は将《まさ》しく微笑したのであった。
「姦婦!」
と突然呻くように云った。
「姦婦!」
と復《また》も呻くように云った。
どういう意味だか解らなかった。
とは云え是は陶器師《すえものし》の、人を斬った時の慣用語であった。
おお魔王、血吸鬼、しかし何んと瀟洒とした、しかし何んと雅味を持った、茶人のような血吸鬼であろう!
甲府よ、お前は呪われて居る! 悪病の主が入り込んだ。そうして黴菌を振り蒔いた。恐らく人種《ひとだね》は尽きるだろう。
のみならず血吸鬼が入り込んだ。切って切って切り捲くるだろう。
不図《ふと》陶器師は耳を傾げた。闇の方を窺った。シトシトと足音が聞えて来た。獲物が近付いて来たらしい。
陶器師は退歩《あとじさ》りをした。老松の蔭へ身を隠した。主の無い焚火は燃えつづけた。飴のように長く延び、時々其の先が千切れて飛んだ。トロトロトロトロと燃えつづけた。
闇から二人の老人が産れた。吐き出されたように現われた。
「おや此処にも癩人がいる。」
一人の老人が斯う云った。長髪が肩で波打っていた。寛やかな道服を纏っていた。それは直江蔵人であった。
「や、こいつは切られている。」
もう一人の老人が斯う云った。それは塚原卜伝であった。薬箱を担いでいた。
「如何にもな、切られている。」
蔵人は立ち止って眼をひそめた。
卜伝は薬箱を担いだまま、死骸の側へ膝を突いた。
「これはこれは、驚いたなあ。」
卜伝はひどく[#「ひどく」に傍点]感心した。「素晴らしい手利《てきき》が切ったと見える。」
六
「そんなに立派な切口なのか?」
蔵人は立ったまま声を掛けた。
「左様、迚《とて》も素晴らしいものだ。」卜伝は何やら考え込んだ。
「はて、何者の所業かな?」
蔵人は焚火へ手をかざした。
「まあさ卜伝、一あたり[#「あたり」に傍点]おあたり。」
「うん。」と卜伝は云ったまま、尚も思案に耽っていた。「人間放れがしている。」
「さて其の人間放れだが、火柱の主に逢いたいものだ。」蔵人は独言を云い出した。「百人の患者を調べるより、大本の一人を調べた方が、ずっと効能があるのだからな。……卜伝、あたったり[#「あたったり」に傍点]あたったり、素敵な焚火だ。暖い暖い。」
卜伝は返辞をしなかった。
「いや、何うも俺も驚いた。」蔵人は独言を云い出した。「ひどい[#「ひどい」に傍点]有様だとは聞いていたが、こう迄ひどい[#「ひどい」に傍点]とは思わなかった。これじゃあ全然癩地獄だ。行き逢う人間行き逢う人間、満足な者とては無いのだからな。障《さわ》ったが最後体が破壊《くず》れる。『さわるなの病気』と云うのだからな。何うにも是じゃあ手が付けられない。薬師如来でも匙を投げよう。まして況《いわん》や我輩に於ては、袖手傍観するばかりだ。だが火柱の主に逢い、其奴をとっくり[#「とっくり」に傍点]と調べたら、旨い発明が出来るかも知れない。意地の悪いものさ今夜に限って、霊験|著《いやちこ》な火柱大明神、ご出現遊ばさぬということだからな。何処に隠れていることやら?……おいおい卜伝、もう可かろう。そろそろ御輿を上げようでは無いか。」
卜伝は返辞をしなかった。
蔵人は皮肉な微笑をした。足で焚火を踏み消した。
「アッハハハ是でいい。火が無ければ見ることは出来ぬ。そこで御輿をヨイと上げの、ご出立という所さ。」
卜伝の囁く声がした。
「蔵人蔵人、動いては不可《いけ》ない。」
押し付けたような声であった。
ギョッとして蔵人は棒立ちになった。それから探るように訊き返した。
「え、卜伝、どうしたのだ?」
「うん、出たのだ、例の奴が。鍛冶屋街道の一件物が。」
「ううむ。」と蔵人は呻声を上げた。
文目《あやめ》も知れぬ闇であった。人影などは見えなかった。
と、卜伝の声がした。
「後へ退れ、一間後へ。後退りに歩け、背を向けるな。」
そこで蔵人は後へ退った。
卜伝は闇の中に立っていた。片手で薬箱を肩に担ぎ、片手で木刀を青眼に構えた。眼を据えて暗中を睨んだ。
心眼に昼夜|無矣《なし》!
黒々と相手の姿が見えた。老松を背にして立っていた。抜身を下段に付けていた。
仄々《ほのぼの》と一道の白気が立った。刀身から上る殺気であろう。プンと腥《なまぐさ》い匂いがした。
と、人影が右へ揺れた。どうやら右手へ廻わり込むらしい。卜伝も右手へ緩かに廻わった。間は二間離れていた。闇ばかりが立ち罩《こ》めていた。
シ――ンと四辺《あたり》は静であった。
其の時であった。遥の彼方、小幡屋敷の辻にあたって、一本の火柱が燃え上った。
「出たあ――ッ。」
と蔵人が声を上げた。
火柱が暫く躊躇《ためら》っていた。だが、ユラユラと左右へ揺れた。東に向かって歩き出した。武田|左典廏《さてんきゅう》の屋敷の方へ、辻を曲って行くらしかった。
蔵人には我慢が出来なかった。もう危険などは眼中に無かった。闇を突っ切って走り出した。
「浮雲《あぶな》い!」
と卜伝が一喝した。
暗中の人影が蔵人に向かって、只大鷲の羽搏くように、颯《さっ》と飛び掛かって行ったからであった。
物の破壊《こわ》れる音がした。誰かが何かを投げたらしい。地に落ちて破壊れたらしい。
だが悲鳴は起らなかった。
しかし火柱は倏忽《しゅっこつ》と消えた。辻を東へ曲ったらしい。
闇! 寂寥! 鬱々たる殺気!
峠を越して行く旅人でもあろう、夢見山の腹を松火の火が、点々と闇を縫っていた。
旅人よ、行き給え。
早く地獄を遁れ給え。
併し其方にも焦熱地獄が、待っていないとは何うして云えよう。
木間《このま》に隠れ、木間を出で、松火の火は蠢いて行った。
火柱が出現したからでもあろう、甲府城下の彼方此方《あちこち》から、叫喚の声が湧き起こった。
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第十七回
一
人穴の中は暗かった。
×
一枚の筵《むしろ》が敷いてあった。藺《い》で編んだ新しい筵であった。
端麗な女が坐っていた。身に行衣を纏っていた。
鑿《のみ》で能面《おもて》を彫《きざ》んでいた。刃先がキラキラと火に光った。
と、部屋の戸を叩くものがあった。
女は静かに立ち上った。束髪が地に垂れた。
閂を外して戸をあけた。外光が真珠色に流れ込んだ。
可愛いらしい子供が立っていた。
「まあ。」と女は驚いたように云った。
「おや。」と子供も驚いたように云った。赤い頭巾に赤い袖無、伊賀袴を穿き、黐棹《もちざお》を持った、それは十三四の鳥刺であった。
他ならぬ高坂甚太郎であった。
そうして女は月子であった。
「姉さん今日は。」
と甚太郎は云った。「休ませて頂戴、疲労《つか》れて了った。」如何にも疲労れたらしい声であった。
「お這入《はい》りなさい。さあ坊や。」
で、甚太郎は中へ這入った。
「坊は何処からいらしったの?」又月子は筵へ坐った。
「俺等《おいら》道に迷ったんだ。」甚太郎は岩へ腰かけた。
「それはそれは、可哀そうに。」
だが月子には不思議であった。魑魅魍魎猛獣毒蛇、剽盗の巣食っている富士の裾野を、どうしてこんなちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な子が、無事に旅して来られたのだろう?
だが甚太郎にも不思議であった。魑魅魍魎猛獣毒蛇、剽盗の巣食っている富士の裾野に、どうしてこんな若い女が、無事に住んでいられるのだろう。
甚太郎の来訪は月子に執っては、弟に逢った程の喜びであった。
月子に逢ったということは甚太郎に執っても喜びであった。
姉に逢った程の喜びであった。
で、二人は仲宜くなった。
「鳥は捕れて? え、坊や?」
「捕ろうと思えばいくらでも捕れる。だが俺等は捕らねえのさ。」
「おや何うしてなの? 捕ればよいに。」
「捕る物が他にあるからさ。」
此処で甚太郎はニヤリと笑った。三白眼は気味悪かったが、両頬に靨《えくぼ》が出来たので、その気味悪さは埋め合わされた。
「この子は鳥渡《ちょっと》変りものだよ。」月子には可笑しく思われた。
昔ながらの洞窟《ほらあな》であった。
三方四方岩壁であった。その岩壁は鉄色であった。
岩壁には無数に皺があった。その一所に龕《がん》があった。刳り抜いて作った龕であった。
そうして其の龕の奥の方で、獣油の灯明が灯っていた。火盞《ほざら》の真鍮は錆びていた。
岩から一筋水が落ちていた。それを湛えた石槽《いしぶろ》があった。石槽には苔《こけ》が生えていた。
錦の帳《とばり》がかかげてあった。その向うに部屋があった。即ち造顔手術部屋であった。
二つの部屋の天井は、どっちも大変低かった。
それが人心を憂鬱にした。
だが空気は乾いていた。で、ひどく[#「ひどく」に傍点]暮らし可かった。
洞窟《いわや》の生活には昼夜が無かった。そうして四季の推移さえ無かった。いつも薄暗く涼しかった。仕事に疲労れると月子は寝た。寝る前に屹度《きっと》水を浴びた。石槽の水を浴びるのであった。
その夜も彼女は水を浴びた。
まずクルクルと行衣を脱いだ。
一糸を纏わぬ彼女の裸体は、鴻《くくい》のように白かった。灯明の火が陰影《かげ》を付けた。紫立った陰影であった。彼女は一つの姿勢を執った。片膝を立て背を曲げた。立てた膝頭へ肘を突き、掌《てのひら》の上へ顎を乗せた。それを灯明が正方《まえ》から照らした。肘の外側が仄々《ほのぼの》と光った。薄瑪瑙色の光であった。立てた膝頭から脛にかけ[#「かけ」に傍点]、足の甲まで仄々と光った。薄瑪瑙色の光であった。だが爪と足指とへは、灯明の火は届かなかった。で朦々と煙っていた。右足は地の上へ敷かれていた。股の附根の奥の方から、円く曲げられた膝頭まで、何んと張り切った健康《じょうぶ》そうな肉が、ムックリ盛り上っていることだろう。そこへ小柄《こづか》を落としたなら、ピンと刎ね返るに相違無い。股の内側は暗かった。だが膝頭は明かるかった。立てた片膝と立てた肘とで、彼女の胸は陰影《かげ》をなしていた。灯明の火を遮るからであった。だが左の乳房だけが、うず[#「うず」に傍点]高く盛り上って見えていた。男を知らない乳房であった。椀を伏せたように丸かった。その下側には陰影があった。その為一層ふくよか[#「ふくよか」に傍点]に見えた。嬰児の口のような桃色の乳首! 嬲られた事の無い乳首であった。腹部《はら》は立膝に隠されていた。光も其処へは届かなかった。ダラリと垂れた左の腕には、光と陰影との斑《ふ》が付いていた。太くはあったが逞しくは無かった。グンニャリと力が抜けていた。だが其の腕が力を罩め、異性の胴を巻いたなら、窒息させずには置かないだろう。両肩が光を浴びていた。厚い丸い肩であった。肩甲骨の存在など、考えることさえ出来ないような、肉ばかりで出来たような肩であった。
二
彼女の顔は上向いていた。その両眼は瞑《とざ》されていた。彼女は祈っているのであった。眼の縁《ふち》を陰影が隈取っていた。陰影を一層濃くしているのは、眼瞼《まぶた》から食み出した睫毛であった。唇が半分開いていた。上下の歯の間から、闇の口腔が覗いていた。陰影の加減で唇の色が、薄墨色を為していた。何かキラキラと光るものがあった。上の一本の糸切歯であった。
鉄色の岩壁を背景にして、彼女の裸体は浮き出していた。
突然彼女は立ち上った。
俄に姿勢がバラバラになった。
光と陰影《かげ》とが崩れて了った。
彼女は真直に火に向かった。
何処も彼処《かしこ》もまる[#「まる」に傍点]見えであった。
恰度《ちょうど》蛙の腹のように、下腹が丸く張り出していた。巨大な臀部は俄に括れ、S形の腰を呈していた。ピッチリ合わされた股と股、肉が互に押し合っていた。
彼女は両足を左右へ開いた。其の隙間から覗いたのは、背景の鉄色の岩壁であった。彼女は両腕を差し出した。無限に長い腕のように見えた。と、彼女は前折《まえかがみ》になった。腹が弛んで皺が出来た。芋虫のようにウネウネした、二筋の太い皺であった。両腕の先に水槽《みずぶろ》があった。その側に小桶があった。両手を小桶の縁へかけた。宙にスーッと持ち上げた。ドボンという水音がした。小桶を水の中へ漬けたのであった。
小桶をそろそろと持ち上げた。タラタラと滴《しずく》が滴《したた》った。スーッと肩まで持ち上げた。全体格が弓のように撓《しな》った。思うさま胸が突き出された。ワングリと両乳房が膨れ上った。全身の力が腰に集まった。
と、小桶を覆えした。左の肩から胸へかけ、真直《まっすぐ》に水が流れ落ちた。
彼女は水を浴びたのであった。
肩の弾力に刎ね上げられ、煙のような泡沫《しぶき》が上った。彼女の裸体は簾《すだれ》を懸けた。それは硝子の簾であった。一時に裸体は艶を持った。灯明の灯が吸い寄せられた。テラテラと全身が閃めいた。指の先から水が垂れた。乳首の先から水が垂れた。それは恰も蝋涙のようであった。太股を素走る水の縞! 両足の母指が上を向いた。寒さに耐えている証拠であった。
水は地へ落ちて音を立てた。
面が一斉に眼を開けた。邯鄲男、痩男、泥眼、不動、弱法師《よろぼうし》、岩壁に懸けられて夢見ていた、二百の面が彼女を見た。
見られて恥しい姿では無かった。
晄々たる発光体! それが彼女の姿であった。
部屋の暗さに愈《いよよ》白く、彼女の五体は背延びをした。
と、復《また》彼女は身をかがめた。
小桶に水を一杯充たせた。
ザ――ッと水の音がした。
またも彼女の裸体へは、右の肩から簾が懸かった。
二百の面は眼を見張った。溜息の声が聞えて来た。二百の面の溜息であった。
四散する泡沫《しぶき》が灯《ひ》火に光った。勿論ほん[#「ほん」に傍点]の一瞬間であった。すぐ煙のように消えて了った。
彼女は白布で体を拭いた。ポッと紅味が潮《さ》して来た。瑪瑙の仙女像が出来上った。その仙女像は半透明であった。
洵《まこと》に仙女の水浴であった。邪心の起こる可き光景では無かった。
「坊やおいで。」
と彼女は云った。
それから錦の帳《とばり》を開いた。二人は隣部屋へ這入って行った。
手術部屋ではあったけれど、同時に彼女の寝室でもあった。
×
二人は一緒に十日暮らした。
寝る時二人は一緒に寝た。姉弟として寝るのであった。
訪問客は少なかった。裾野に春が訪れて以来、めっきり物騒になったからで、裾野を横切り月子を訪ね、顔を直して貰うことは、容易な業ではないからであった。
却って月子には幸《さいわい》であった。
彼女は懸命に面《おもて》を彫んだ。
出来上った面は壁へ懸けた。
五十面、百面、百五十面、二百面近くの面が出来た。
長い長い昔から、今日迄かかって彫んだものであった。
気に入ったものは一つもなかった。
どれもこれも駄目であった。
満足することは出来なかった。
「聖徳太子様、淡海公、弘法大師様の作られたような『神作』のようなものは出来ないものかしら? 日光、弥勒夜叉、福原文蔵、石川竜右衛門、赤鶴重政、日氷《ひみ》忠宗、越智吉舟、小牛清光、徳若忠政、こういう人達の作られたような、『十作』のようなものは出来ないものかしら?」
彼女は時々絶望的になった。
だが絶望はしなかった。
絶望することは出来なかった。
絶望することが出来たなら、どんなに彼女は嬉しかったろう。
宿命には何うしても歯向えなかった。
彼女は「絶望」を禁じられていた。
彫《え》まなければならなかった。
今日も明日も明後日も! 「極重悪人の新面《にいおもて》」を、彫み上げる迄は永遠に、彫まなければならないのであった。
だが彼女は何者であろう?
どういう身分の女だろう?
何故宿命を背負ってるのだろう?
誰も知ることは出来なかった。
そうして彼女も語らなかった。
三
甚太郎には珍らしかった。
で、能面の前に立ち、永い間眺めたりした。
遂々《とうとう》或る日月子へ訊いた。
「姉さん、姉さん、この面《おもて》は?」一つの面を指さした。
「ああ夫れはね、鼻瘤|悪尉《あくじょう》。」
「鼻瘤悪尉? 厭な名だなあ。」甚太郎は愉快そうに笑い出した。
「玉の井や大社を舞う時にね、着けなければならない面なのよ。」
「姉さん、姉さん、この面は?」
「ああ夫れはね、茗荷悪尉。」
「変挺《へんてこ》な名だなあ、茗荷悪尉だなんて。」甚太郎は復も哄笑した。
「張良や寝覚を舞う時にね、着けなければならない面なのよ。」
「これは何んだろう、この面は?」
「ああ夫れはね、大悪尉。」
「おやおや矢っ張り悪尉か。」
「氷室《ひむろ》を舞う時に着ける面。」
「姉さん、姉さん、これはナーニ、この厭らしい女の面は?」
「鉄輪《かなわ》や橋姫に使う面よ。生成《なまなり》っていうの生成ってね。」月子の説明は真面目であった。
「おや此処に般若があらあ。」
「葵の上、道成寺、そういうものに使うのです。」
「姉さん、姉さん、この面《おもて》は?」
「放生川の石王兵衛。」
「どいつもこいつも変な名だなあ。これはナーニ、この面は?」
「黒塚に使う近江女。」
「そうして是は、この面は?」
「ああ夫れはね、熊坂の面。」
「ああ熊坂か、知ってらい。」
甚太郎は胸に落ちたらしい。
「狐の面があるね、狐の面が。」
「小鍛冶に使う野干の面。」
「こいつは鷹だ。鷹の面だ。」
「鵺《ぬえ》を舞う時に着けるんですの。」
「ワ――イ天狗の面があらあ。」
「ええ、大|※[#「やまいだれ+惡」、第三水準1-88-58]見《べしみ》と小|※[#「やまいだれ+惡」、第三水準1-88-58]見《べしみ》とがね。」
「どう考えても変挺な名だ。おっと此奴ア何んだろう。」
「一角仙人の面ですの。」
「随分沢山あるんだなあ。一休みんなで幾個《いくつ》あるの?」
月子は返辞をしなかった。
ただ優しく微笑した。
「みんな姉さんが作ったの?」
「ええ然《そ》うなのよ、長い間にね。」
「みんな上手に彫れてるんだね。」
「いいえ、みんな駄物ばかりよ。」
月子の声は寂しそうであった。
「そんな事あないよ。傑作だよ。」
甚太郎は忽ち批評家になった。
「坊やに善悪《よしあし》が解るかしら?」
「皮肉だなあ、姉さんは。」
甚太郎は俄に悄気《しょげ》てしまった。
月子には夫れが可愛らしく見えた。
軈て甚太郎は不思議そうに訊いた。
「だが一体姉さんは、どんな面が作りたいの?」
「極重悪人の新面をね。」
「極重悪人とは何んなもの?」
「一番悪い人間のことよ。」
「一番悪い人間とは?」
月子は返事が出来なかった。
すると甚太郎がこんなことを云った。
「悪人なんていう者も、善人なんていう者も、此の世に一人だって有りゃあしないよ。悪い事をした時が悪人で、善い事をした時が善人さ。」
「では悪事とは何んな事?」
「泥棒したいと思った時、泥棒しなけりゃあ悪事だよ。泥棒したいと思った時、泥棒すれば善事だよ。」
大変簡単な解釈であった。
だが恐ろしい言葉であった。
そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]迷語的であった。
月子は何んとなくゾッとした。
考えなければいられなかった。
「そういう解釈もあるものかしら?……妾《わたし》の考えは反対だった。自分の心を抑えることが、善いことのように思っていた。……それだのにこの子はあんなことを云う。」
だが未だこれは何うでもよかった。
彼女に執《と》って恐かったのは、定まった悪人というものが、此の世に無いということであった。
四
裾野の春は酣《たけなわ》であった。
或る日甚太郎は黐棹を担ぎ、春の裾野を歩いて行った。
一所に櫟《くぬぎ》の林があった。新芽を吹いたばかりであった。そこで鶫《つぐみ》が啼いていた。
一所に小さい沼があった。そこでは鴨が泳いでいた。渡り損なった鴨であった。鴨はひどく痩せていた。
一所に野茨の叢《くさむら》があった。五月が来たら花が咲こう。今は芽さえ出ていなかった。只穢ならしく塊っていた。
草の芽が顔を出していた。
甚太郎は宛無しに歩いて行った。
行手に茅萱《ちがや》の斜面があった。
数頭の馬が草を食んでいた。骨と皮ばかりの痩馬であった。何処かの戦場から逃げて来て、ひとり[#「ひとり」に傍点]で生活《い》きている馬らしかった。
「ワーイ。」と甚太郎は声を上げた。馬は横眼で彼を見た。それから一散に逃げて行った。
甚太郎の声は木精《こだま》を起こした。「ワーイ。」と声が返って来た。
甚太郎は茅萱の斜面を越した。と、灌木の野があった。一所に焚火の跡があった。錆びた刀が落ちていた。
尚彼は歩いて行った。
行手に狼井《おとしあな》の跡があった。穴の中は暗かった。底に白い物がちらばって[#「ちらばって」に傍点]いた。それは人間の白骨であった。
尚甚太郎は歩いて行った。
南向きの丘があった。
花毛氈が敷き詰められていた。蓮華草と蒲公英《たんぽぽ》との毛氈であった。
甚太郎はゴロリと寝た。
空は海のように拡がっていた。水蒸気を含んでいるからであろう、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]として低く見えた。諸所に斑点《しみ》があった。斑点はゆるゆると動いて行った。絹糸のような片雲であった。眼界を掠めて飛ぶものがあった。雀でなければ烏であった。
日光が彼を酒浸しにした。
ブ――ンと耳元で唸るものがあった。労働蜂《はたらきばち》の羽音であった。
五匹、十匹と飛んで来た。その一匹が黐棹へ止まった。と、黐が食っ付いた。蜂は翅を顫わせた。そうして飛び立とう飛び立とうとした。飛び立つことは出来なかった。小さな体が黐にまみれた[#「まみれた」に傍点]。翅を鳴らすことさえ出来なくなった。触覚だけを顫わせた。その触覚も動かなくなった。一つの黒い塊《かたまり》となった。何んでも無かった。小さい「死」だ。
「さて是から何うしたものだ。」
甚太郎は考え出した。
「お月姉さんは可い人だ。だが何うにもしようが無い。夫婦になれるものじゃあ無し。」
こんな悪いことを考え出した。
「あれは仙女だ。人間じゃあねえ。綺麗だけれど冷っこいや。まるで血の気なんかありゃあしねえ。……だがマアそんな事あ何うでもいい。うん、そんな事あ何うでもいいが、可くねえ事が一つある。他でもねえ俺の役目だ。」
役目のことを考え出した。
「有難くねえ役目だよ。現在の従兄をとっ[#「とっ」に傍点]捉《つかま》えて、しょびい[#「しょびい」に傍点]て帰ろうって云うんだからな。俺等は褒美を貰うだろうさ、だが其の代り庄三郎さんは、掟通り首を切られなけりゃあならねえ。どうも此奴が可くねえなあ。」
彼は此処で渋面を作った。三白眼が打《う》ち顰んだ。
変に甘ったるい匂がした。微風が花野を渡ったのであった。草花のこぼす匂であった。
「と云って一旦引き受けたからは、目付かりませんでございます。などと云っては帰れねえ。考えて見りゃあ降参だよ。」
ひどく心持が憂鬱になった。
「信玄公の坊主頭、飛んでもねえ事云い付けやがった。」
呪い度《た》いような気持がした。
「然ういう俺等も利口じゃあねえ。へいへい宜敷うございます。二つ返辞で引受けたんだからなあ。」
今度は自分を呪い出した。
「この儘何処かへ行って了えてえ。フラフラフラッと何処かの国へ。」
漂泊の情が起こって来た。
「何が甲府なんか面白いものか。気に食わねえ奴ばかり揃っている。ああ何処かへ行きてえなあ。」
彼は行場所を考え出した。
少年に有り勝の空想が、次から次と美の国を産んだ。草双紙で見た竜宮が見えた。荘子で読んだ胡蝶の国が見えた。快川長老の説教で聞いた、極楽浄土が見えて来た。
美しい国ばかりが見えて来た。お菓子の山や蜜の川や、玩具《おもちゃ》の森が見えて来た。
何処へ行っても可《よ》さそうであった。そうして屹度《きっと》何処へ行っても、歓迎されそうに思われた。
「山を越して行きてえなあ。」
憧憬《あこが》れるように呟いた。山を越したら可い国があろう! 山国に育った少年の、大方起こす空想であった。
五
二人の若者が上って来た。
「おい、この辺で休もうじゃあないか。」
浅黄の頭巾の若者が云った。肩から釣るした人形箱が、胸の上でガタンと揺れた。
「うん、そうして待ち合わそうぜ。」
同じ色の頭巾に人形箱、少し若い方が直ぐ応じた。
諸国を巡る傀儡師であった。
「甲府にゃあ全く驚いたなあ。」
芒《すすき》を折り乍ら年上の方が云った。「あぶなく癩患になる所よ。」
「命からがらって云う奴さな。」年下の方は汗を拭いた。「逃げられたのが不思議な位いだ。」
「可哀そうなのは藤六さ。とうとう一生を棒に振りゃあがった。」
「よせば可いのに親切気を出して、病人の介抱なんかしたからよ。」
「此処迄来りゃあ大丈夫だ。」年上の傀儡師は芒を投げた。
「俺等の役目も大体《たいてい》じゃあねえ。」
「然うさ。」と若い方は溜息をした。「細作《さいさく》係という奴は、実際あぶねえ役目だからなあ。」
二人は鳥渡黙り込んだ。
投げ出した二人の足先から、ユラユラと陽炎《かげろう》が立ち上った。
傍の藪から鶯《うぐいす》が鳴いた。声は老けてはいなかった。
「俺は確に煤煙《けむり》を見たよ。」
ふと[#「ふと」に傍点]年長の傀儡師が云った。
「噂はまんざらでもなさそうだ。」
「俺は松火《たいまつ》の光を見たよ。」若い方が忍び音で云った。「確に夢見山の中腹でな。……そうさ、噂は本当らしい。」
「俺も見たよ、松火の火をな。」年長の傀儡師は頷いた。「諸方の国境で誘拐した、工人共を警護して、兵器廠へ送る連中の松火の火だと睨んだがな。」
「油断も隙も出来ないなあ、あの信玄の不道人奴。」
「チラリと城下で聞いたんだが。」年長の傀儡師は不安そうに、「戦車の模型が出来たそうだ。」
「ふうん、そいつあ大変だなあ。」
「何しろ勘助が付いているからなあ。」
「信玄よりは恐ろしいよ。」
「素晴らしい新武器だということだ。」
「城下があんなでなかったら、俺は夢見山へ分け上り、信玄経営の兵器廠を、すっかり調べて来たんだがなあ。」年下の傀儡師は残念そうに云った。
「夢見山へは上らせないそうだ。」
「わざと誘拐されるのよ。」
「一旦|這入《はい》ったら出られめえ。」
「いずれ厳重には相違あるまいがな。」
二人は此処《ここ》で沈黙した。
すぐ眼の前の藪の中から、子を連れた雉が現われた。
二人を見ると引っ込んだ。
と、年長の傀儡師が云った。
「だがな、こいつは内密だが、殿にもご用意はあるのだそうだ。」
「へえ、そうかなあ、初耳だが。」
「宇佐美の殿様の新案で、素晴らしい仏狼機《いしびや》を造っているそうだ。」
「誰に聞いたなえ、梶井?」若い傀儡師は眼を丸くした。
「遅れ馳せに来た松浦からな。」
「どんな兵器かな? 教えてくれ。」
「何を云うのだえ、石堂、そんなことが俺に解るものか。」
「何処《どこ》で造っているのだろう?」
「春日山の城中だそうだ。」
数人の人影が現われた。
その中には女もいた。
虚無僧、放下、修験者、瞽者《ごぜ》、その風俗は色々であった。
つづいて幾人か現われた。人の数が十五六人になった。その中女が五人いた。
二人の傀儡師は立ち上った。
「これから裾野は物騒だ。離れちゃあ不可《いけね》え、揃って行こう。」
梶井というのが注意した。
「さあ引き上げだ、急げ急げ。」
越後上杉家の細作は、こうして一団に塊まって、裾野の東へ横切って行った。
四辺が俄に静かになった。啼き止めた鶯が啼き継いだ。
この時ムックリ起き上がったのは、隠れて聞いていた甚太郎であった。
三白眼を輝かせた。黐棹を素早く抱《か》い込んだ。
「越後へ行こう、越後へ行こう。」
一隊の後を追っかけた。
裾野には人影が無くなった。
一匹の|※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第四水準2-94-68]鼠《むささび》が走って来た。栗色の鼬《いたち》が飛び出した。二匹は劇しく格闘した。鼬は頸を噛み切られた。赤黒い血が流れ出た。それが春陽に蒼光った。
※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第四水準2-94-68]鼠は餌物を貪り食った。ピンと上げた太い尻尾が、銀鼠色に輝いた。骨を噛み砕く音がした。
六
月子は面を彫んでいた。
甚太郎は帰って来なかった。
サクサク、サクサクと、鑿《のみ》が鳴った。木屑が蛾のように四辺《あたり》へ散った。
「坊やは帰って来ないそうな。」
手を止めて呟いた。寂しそうに眉を顰めた。
「迷児になったんじゃああるまいか?」
これが彼女には心配であった。
また面《おもて》を彫み出した。
「駄々っ児だけれど、可愛いい児だよ。駄々っ児だから可愛いいのかも知れない。」
微笑したいような気持がした。
「だが。」と彼女は考え出した。「いつぞや[#「いつぞや」に傍点]あの子の云ったように、定まった悪人というようなものは、ほんとに此の世に無いのかしら? もし本当に無いのなら、妾《わたし》は何《ど》うしたら可いだろう?」
この事を考えると不安であった。
「造顔術を施すのは、決して妾の希望《のぞみ》では無い。術を施している中《うち》に、極重悪人の顔を持った、男か女かに会い度いのが、妾の本当の希望《のぞみ》なのだが、悪人が此の世に無いとすれば、そういう顔の持主とは、永久会うことは出来ないかも知れない。」
鑿の鈍るような気持がした。
清水の滴る音がした。
滴水の音と鑿の音、それ以外には音は無かった。いや時々彼女の洩らす、溜息の声が聞き取られた。
今は戸外は昼かも知れない。洞窟《ほらあな》の中は夜であった。戸外に日光が溢れていよう、洞窟の中は薄暗かった。草の芽、木の芽、昆虫の卵、戸外では発育していよう、洞窟の中の生物といえば、年齢未詳の月子ばかりであった。
鑿の運びが果取《はかど》らなかった。
「考えては不可《いけ》ない、考えては不可ない。」
彼女は自分で自分へ云った。
考えられてならなかった。
「刹那刹那の心の動きで、悪人ともなれば善人ともなる。これは何うにも動かせない。」
自分の心を考えて見た。
「妾《わたし》の心にしてからが、そうで無いとは云われない。一刻の間も半刻の間も、同じ状態でいたことは無い。いつも動き移っている。」
鑿が全く動かなくなった。
「考えては不可《いけ》ない、考えては不可ない。」
で、彼女は彫み出した。
だが、矢っ張り考えられた。
「極重悪人というような言葉は、内容の無い形容詞で、そんな人間は此の世に無く、自然そんな人相の、持主なども無いのかもしれない。では今日迄待っていたのは、つまらない[#「つまらない」に傍点]事と云わなければならない。極重悪人の人相が無ければ、極重悪人の新面《にいおもて》を作り出すことは出来そうもない。それを作ることが出来なければ、妾は人の世へは出て行けない。」
また鑿の手が止まって了った。
眼を垂れて考え込んだ。
過去は暗く無慈悲であった。無意味な禁慾の生活であった。楽しい思い出は一つもなかった。鑿一本一心不乱、無性、精進の生活であった。
そうして将来には光明は無かった。
何うしたら可いだろう? 何うしたら?
「不可ない、不可ない、斯ういう考え方は。」
彼女は心を取り直した。
「彫むことにしよう、是迄通り。何かを掴むに相違ない。」
彼女は鑿を揮い出した。
と、其の時、コツコツと、入口の戸を叩く者があった。
「坊やが帰って来たそうな。」
彼女は立ち上って閂《かんぬき》を外した。
二人の男女が立っていた。
一人は若い武士であった。一人は武士の妻らしかった。
「何んのご用?」と月子は訊いた。
「顔をお直し下さいますよう。」
若侍は小声で云った。恐れているような声であった。ひどく其の声は嗄《しゃが》れていた。
「まずお這入《はい》りなさいませ。」
月子は横へ身を開いた。そうして油断無く二人を見た。
二人は辷るように這入って来た。悪い物にでも追われているように、入口の方を隙かして見た。ありありと恐怖の表情があった。月子は入口の戸を閉ざした。
それから二人を観察した。苦労な旅の結果でもあろう、二人の姿は窶《やつ》れていた。併し夫れにも関らず、武士も妻も美しかった。淫《みだら》と云い度い程美しかった。鳥渡《ちょっと》の間三人は黙っていた。
「失礼ながらお名前は?」威厳を以て月子は訊いた。
「私は伴源之丞。」
「妾は園女と申します。」
忍ぶように名を宣《なの》った。
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第十八回
一
万像《ものみな》は育つといへど
ここのみは育つものなし
春の来て明るしといへど
ここのみは黄泉《よみ》なる姿
岩窪に水を湛へて
龕《づし》の灯のともしく映る
人の住む岩窟《いはや》ならぬに
鑿の音しかも聞ゆれ
野の小鳥訪ひしことなし
野の獣《けもの》訪ひしことなし
面造る女《をみな》ぞ一人
籠らうよ謹みにつつ
「伴源之丞様と園女様? ああ左様でございますか。」
月子は幽《かすか》に頷いた。「失礼乍らお産れば?」
「はい。」と源之丞は躊躇したが「小田原の産でございます。」
「で造顔する目的は?」
「はい。」と復《また》も躊躇したが「実は久しい以前《むかし》から、敵を持つ身でございます。恐ろしい敵でございます。腑甲斐ないようではございますが、遭って刀を交えたが最後、私に勝目はございません。必ず討たれて了いましょう。恐ろしい敵でございます。で、是非とも人相を変え、たとえ敵に這いましても、それと敵に感付かれないように、致したいものと存じまして。」
「成程。」と月子は微笑した。「浮世は様々でございますね。承わればお気の毒、笑止などとは申しますまい。……が以前《むかし》妾の許へ、造顔に参りましたお侍様は、怨ある敵を討とうとしても、昔ながらの容貌では、邂逅《めぐりあ》っても逃げられるだろう、そこで手術をするようにと、このように申して居りました。……さて造顔致しますにしても、拠り所が無ければ致しかねます。沢山|面《おもて》がございます。どれなりとお選びなさいませ。」
岩壁に懸けられた能の面を、月子は振り返って指さした。
「いえ。」と源之丞は首を振った。「私には望みがございます。恐怖の顔をお造り下さい。」
「そうして妾へは悲哀《かなしみ》の顔を。」つづいて園女が斯う云った。
月子は鳥渡《ちょっと》眼を瞶《つむ》り、改めて二人の様子を見た。「大変悲劇的の人らしい。」心の中で呟いた。「ほんとに人間というものは、誰彼となく何かしら、悩《なやみ》を持っているものと見える。」
で彼女は頷いた。「恐怖の顔と悲哀の顔、よろしゅうございます造りましょう。どちらからお先に致しましょう?」
「はい、どうぞ、妾《わたくし》から。」園女は一足進み出た。
「では此方へ。」
と月子は云った。それから錦の帳《とばり》を開けた。
「園!」
と源之丞は呼び止めた。「もう一度顔を見せてくれ。一旦手術をしたからには、二度と見ることは出来ないだろう。お前の顔の見納めだ。」
「そうして妾に執りましても。」
二人はじっと向かい合った。龕《がん》の灯がチラチラと瞬いた。二人の半面が照らされた。
「心の悲哀《かなしみ》が顔へ出て、今でもお前は悲しそうだ。一層悲しくなるが可い。だがお前は美しい。美しい顔へ悲哀が纏い、二重の美しさとなっている。それが私には煩悩の種だ。」
「妾《わたくし》も然うなのでございます。」園女の声は咽ぶようであった。
「貴方《あなた》のお顔を見ていますと、妾には悩みが湧いて来ます。お心に有る悔恨が、お顔へ現われて居るからでしょう。貴郎はお美しゅうございます。悔恨がお顔に刻まれていて、愈《いよよ》美しく思われます。」
「此方へお出でなさいませ。」隣室から月子の呼ぶ声がした。
「はい。」と園女は帳《とばり》をかかげた。そうして隣室へ這入って行った。
源之丞は岩壁へ背をもたせ[#「もたせ」に傍点]た。
「ああ永い間苦しんだなあ。」彼は瞑目して考えた。「しかも苦しみは続くのだ。彼奴が死ぬか、俺達が死ぬか、一方の死なない其の間は、いつ迄も苦しみは続くのだ。ああ永い間苦しんだなあ。」
清水の滴たる音がした。油の煮える音がした。龕の油が煮えるのであろう。
隣室から月子の声がした。
「寝台へお伏りなさいまし。お顔を上へ……真直に。」
園女の声は聞えなかった。寝台の軋る音がした。
源之丞は茫然《ぼんやり》と眼をあけた。そうして部屋の中を見廻わした。
「こういう所にも住む人がある。静寂《しずけさ》、暗黒《くらさ》、非人情! だが是も可いかもしれない。恐らく悩みは無いだろう。」うっとり[#「うっとり」に傍点]と仮面《おもて》へ眼を遣った。「まるで生首でも並んでいるようだ。」
隣室から月子の声がした。
「心がお顔に現われます。悲しいお顔を造ろうとなら、努めて悲しいお心持を、お持ちにならなければなりません。……妾《わたし》がお話し致しましょう。悲しい悲しい物語を。……」
此処で月子の声が絶えた。
源之丞は両手の指を見た。龕の灯が幽《かすか》に爪を照らした。
「爪に筋が這入っている。恐怖に衰えた人間の、不健康の証拠が此処にある。」手を裏返えして甲を見た。「艶の無い手だ、膏気《あぶらけ》の無い手だ、青い筋ばかりが這っている。」
錦の帳《とばり》が波立った。そこへ当たっていた龕の灯が、襞の処だけを暗くした。
と月子の声がした。
「昔々近江の国、琵琶湖の岸の朝妻に、白拍子が住んで居りました。『おぼつかな伊吹おろしの風さきに朝妻船のあいやしぬらん。』可哀そうな歌を詠みました。それをお公卿様へ送くりました。一度逢って二度とは来ない、薄情な薄情なお公卿様へ。」
二
源之丞は隣室へ耳を澄ました。「朝妻船の物語か。うむ、悲恋の物語だな。全く恋にも色々ある。逢えぬ恋、逢った恋、別れた恋、見ざる恋。そうして俺達二人の恋は、脅されている恐ろしい恋だ。」
月子の声が聞えて来た。
「悲しいことにはお公卿様からは、何んの返辞もございませんでした。それで白拍子は小舟に乗り、琵琶の湖へ乗り出しました。春の夕暮でございました。満月が空へかかりました。面紗を冠った満月が。微風、水鳥、花咲いた水藻、湖水は平《たいら》かでございました。烏帽子、水干、丹塗の扇、可哀そうな失恋した白拍子は、揺られ揺られて行きました。風よ吹けよ、浪よ立てよ、舟もろ共に水底へ、妾の体を葬れよ。……で白拍子は泣きました。流した涙が壺の中へ、一杯に溜ったと申します。」
「恐怖の恋だ、俺達の恋は、泣こうとしても泣けない恋だ。語っても同情されないだろう。」源之丞は頸垂《うなだ》れた。「もう幾年になるだろう? 百年も以前《まえ》の出来事のようだ。そうかと思うとつい最近、二三日以前の出来事のようだ。……晩春初夏、藤の花の盛、それは四月の或る日だった。鎧橋通の屋敷を出て、海岸の方へ歩いて行った。」
月子の声が聞えて来た。
「舟は唐崎へ着きました。誰か植えたる一つ松! 唐崎の松はびょう[#「びょう」に傍点]びょうと、夜風に鳴って居りました。が白拍子は船から出て、上陸しようとはしませんでした。山を越え、河を渡り、どうして京都《みやこ》へ行かれましょう。一杯になった壺の涙を、湖水の中へ捨てました。と琵琶湖の水量が、一時に増したと申します。で小舟はユラユラと、沖へ出かけて行きました。」
「浜には沢山人がいた。干潟に貝が散っていた。そこで逢った一人の女! その時見た女の眼!」源之丞は蹲まった。「……妾は空虚でございます! 妾は満たされて居りません! 何うぞ妾を満たして下さい! こう云っているような眼であった。……愛に饑えている眼であった。待ち設けている眼であった。……その眼が俺を見詰めていた!……醜貌と武道とで名の高い、北条内記の妻女の眼!……瞬間に俺は退治られた。……間もなく結ばれた悪因縁! それから逃亡! それから流浪!」
月子の声が聞えて来た。
「小舟は漂って行きました。水鳥の群の中を分け、一筋白い水脈《みお》を曳き。……そこで白拍子は詠いました。『鳥をわけて朝妻船も過ぎぬれば同じ水脈にぞまた帰りぬる』こうして堅田《かただ》へ着きました。壺に涙が溜まりました。で復《また》湖水へ覆《あ》けました。水量が増したと申します。」
源之丞はじっと動かなかった。立てた膝頭へ額を宛て、背を丸くして固まった。「それから逃亡、それから流浪……。逃げて逃げて逃げ廻った。俺は柔弱、しかも無学、取柄といえば美貌ばかり、仕官することは出来なかった。だが其の中路金が尽きた。仕官しなければならなかった。戦国の慣い何処へ行っても矢叫びの声武者押の音、有能の士は抱えられた。だが俺だけは駄目だった。弓を引くことも馬に乗ることも、太刀を抜くことも兵法も、何一つ手掛けていなかったからだ。饑死しなければならなかった。だが死ぬのは厭だった。そこで俺は考えた。俺は俺の取柄を以て、妻は妻の取柄を以て、禄を得て命を繋ごうと。……妻は諸大名の妾となり、俺は諸大名の奥方や、側室《そばめ》に体を委せることにした。そうして是は成功した。駿河へ行って今川家を訪ね、俺は奥方の寵を受け、園は義元の寵を受けた。だが三月目に逃げ出した。お手許金を奪い取り、二人こっそり手に手を取り。……江州へ入っては佐々木家へ仕え、京へ這入っては三好家へ仕え、播磨へ行っては別所家へ仕え、出雲へ行っては尼子家へ仕え、備前へ行っては浮田家へ仕え、安芸へ行っては毛利家へ仕えた。いずれも二月か三月であった。逃げる時は何時も盗みをした。体を穢すに従って、妻は益々美しくなり、そうして俺も美しくなった。二人は何うしても離れられなかった。ああ悪の美の牽引力!……四国へ這入っては長曾我部へ仕え、九州へ渡っては大友家へ仕え、肥前へ行っては竜造寺家へ仕え、薩摩へ入っては島津家に仕えた。……その中故郷が懐しくなり、窃《こっそ》り二人で帰って行った。そうして其処で俺達は聞いた、北条内記が国を遁れ、女敵討《めがたきうち》に出立したと!」
月子の声が聞えて来た。
「何時迄も何時迄も、小舟は漂って行きました。『見し夢の朝妻船や立ちかへる涙ばかりを袖にのこして』こう白拍子は詠いました。涙が壺に充ちました。また覆《あ》けなければなりませんでした。」
三
「ほんとの恐怖の逃亡が、はじめられたのは夫れからだ。東北の方へ遁がれることにした。相変らずの色奉公、妻は妾、俺は男妾、乱倫無慙の生活が、次から次と行われた。越後へ行っては上杉家へ仕え、会津へ行っては蘆名家へ仕え、奥州へ行っては伊達家へ仕え、盛岡へ行っては南部家へ仕え、常陸へ行っては佐竹家へ仕え、結城へ行っては結城家へ仕え、安房へ行っては里見家へ仕えた。いつも不安でならなかった。北条内記の恐ろしい顔が、絶えず眼の先へチラツイていた。一層|宣《なの》り出て討たれようか、その方が何んなに気安いかしれない。醜い浮世、窒息的生活、死んだ方が可い死んだ方が可い! 幾度こんなように思ったろう。併し俺は考えた。逃げろ逃げろ逃げ切って了え! それが勝利というものだ。弱いなりに徹底しろ、それが勝利というものだ。そうして俺は考えたものだ。俺は此の世に未練は無い。死のうと思えば何時でも死ねる。そうして園女も然うらしい。一緒に死んでくれるだろう。二人に執っては死は楽だ。決して決して苦痛では無い。だから死ぬのは止めようではないか。活きていて苦痛を味おうではないか。そうして恐ろしい恋敵を、飽まで焦心《じら》してやろうでは無いか。信濃国八ケ嶽、立科山との谿合に、尼僧寺院があると聞き、訪ねて行ったのも其の為だ。隠れ終《お》わそう為だった。」
月子の声が聞えて来た。
「舟は石山に着きました。しかし上陸はしませんでした。死を覚悟した白拍子には、陸は恋しくはありませんでした。一杯になった壺の涙を、また湖水へ捨てました。何んと悲しいではございませんか。三杯の涙! 壺三杯! 浮草の身の白拍子、それが一人の男を恋し、流した涙でございます。で復《また》舟は波に漂い、沖の方へと出て行きました。『このねぬる朝妻船のあさからぬ契を誰にまた交はすらむ。』いえいえ白拍子は二度とふたたび[#「ふたたび」に傍点]枕を交わそうとはしませんでした。湖心一点舟一葉、饑えてかつえ[#「かつえ」に傍点]て死ぬつもりでした。」
源之丞は矢張り蹲まっていた。悪の灯が仄々と背を照らした。トコトコトコトコと滴たる音。岩槽《いわぶろ》へ落ちる水であった。
「僧院の生活《くらし》も不安であった。そうして俺達には相応《そぐ》わなかった。その時造顔師の噂を聞いた。どんなに俺は喜んだか! で、山伝いに行くことにした。そうして今や此処へ来た。顔形さえ変えたなら、未来永劫北条内記奴、見付けることは出来ないだろう。」
源之丞はフッと顔を上げた。皮肉の嘲笑が浮かんでいた。
と、月子の声がした。
「おおおお漸く貴女《あなた》のお顔へ、悲しみの色が浮かびました。さて、夫れでは先ず仮面《おもて》を……。」
何か物でも取り上げたらしい。軟い石膏でも練るような、篦《へら》の音が聞えて来た。
と、月子の声がした。
「さあ出来ました。生身《いきみ》の仮面。」
後は暫時《しばらく》寂然《しん》となった。
と復《また》月子の声がした。「よいお髪《ぐし》でございますこと。これから変えなければなりますまい。悲哀《かなしみ》の人の頭髪《かみのけ》は、このように黒く、このように長く、このように沢山ありましては、不自然と云わなければなりません。一朝の悲哀に頭髪は、白くなるものでございます。」
また何かを取り上げたらしい。金属製の器物《うつわもの》が、棚にあたるような音がした。
と、月子の声がした。
「甘扁桃油、苦扁桃油、接骨木花水、沈降硫黄、そうして闇夜に絞り取った、売春婦《いろをうるおんな》の肝臓の血、それを合わせた冷罨剤、これを塗ることに致しましょう。……おうおう白くなりました。卯の花のように真白に。」
頭髪を梳《くしけ》ずる音がした。シュッシュッという幽な音! が、それも直ぐ止んだ。
と復月子の声がした。
「可愛らしい額でございますこと。秀でた天停、調った生際《はえぎわ》、これも変えなければ不可ますまい。三横文の皺をつくり、落涙の相と致しましょう。」
物を鞣《なめ》すような音がした。と復月子の声がした。
「情のある眼付でございますこと。傾城眼《けいせいがん》と申します。これも変えなければ不可ますまい。眼尻に皺を刻みましょう。眼瞼《まぶた》へ黒子《ほくろ》を作りましょう。涙を誘う泣黒子。」
何かを取り上げる音がした。
少しの間静かであった。
トコトコトコトコ、トコトコトコトコ……岩壁から滴る水の音。いっそう岩窟《いわや》はひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。
四
「人相さえ変えたら大丈夫だ。少しも恐れることはない。」依然源之丞は蹲《うずく》まっていた。「わざと[#「わざと」に傍点]求めて邂逅《いきあ》ってやろう。そうだ北条内記奴に。そうして彼奴《きゃつ》の眼の前で、思うさま大声で笑ってやろう。ゲラゲラゲラと崩れるように。」
復も月子の声がした。
「素直な鼻つき[#「つき」に傍点]でございますこと。円満鼻と申します。これも変えなければ不可ますまい。親に別れ良人に別れ、生涯住所定まらず、轗軻《かんか》不遇に世を送る、鷹嘴鼻《ようしび》に変えることに致しましょう。」
源之丞は隣室へ耳を澄ました。
「うん、それがいい、うんと変相するがいい。昔の面影の無いように。園女が園女だと知れないように。」
ひとしきり寂然《しん》と静かであった。龕《がん》の灯がユラユラと揺めいた。何処からか微風が這入ったと見える。面が一斉に瞬いた。が併し直ぐ止んだ。龕の灯が静止したからであろう。
トコトコトコトコと水の音!
「深い人中でございますこと。」月子の声が聞えて来た。「上狭く下広く、理想的の形でございますこと。これも変えなければなりますまい。薄く短く致しましょう。そうして斑紋を着けましょう。帯運の相! 薄命の相!」
パタパタと叩くような音がした。鋏で刻むような音がした。
「探せ探せ北条内記!」源之丞は呟いた。「日本国中を探すがいい。が、永久目付かるまい。」
復月子の声がした。
「愛らしい唇付でございますこと。薄くて紅くて小さくて、花弁《はなびら》のようでございますこと。これも変えなければなりますまい。覆舟口に致しましょう。神枯れて気濁り、家破れて一族四散、寄辺ない悪運の唇に。」
源之丞は何時迄も蹲まっていた。
彫りかけた楠木の面材が、荒菰《あらごも》の上に置いてあった。木屑が四辺《あたり》に散っていた。
と復月子の声がした。
「歯並も変えなければなりますまい。調った歯並でございますこと。当門二歯と申します。参差歯にすることに致しましょう。」
コツコツと叩く音がした。金鎚で前歯を砕くらしい。
「耳の形のふくよかなことは。これは水耳と申します。木耳にしなければなりますまい。六親を失い財|帛《はく》不足孤苦無援の木耳にね。」
ジョキジョキ不気味の音がした。肉を削いでいるらしい。
と復月子の声がした。
「さて次は奴僕宮、――頤《おとがい》を変えなければなりません。よい頤でございますこと。方潤豊満でございますこと。……これを楔形に致しましょう。そうして乱文斜文をつくり、暗濁昏瞑に致しましょう。……四壁全く定まらず、眷族惨害の兇相に。」
象牙の篦ででも擦るような、滑らかな音が聞えて来た。
しばらく岩窟《いわや》は静かであった。時々帳の揺ぐのは、月子が隣室で歩くからであろう。
源之丞は何時迄も動かなかった。肩と背へ龕の光を浴び、岩壁の裾へ蹲まっていた。
復も月子の声がした。
「声音も変えなければ不可ますまい。……木声は高く清らかく、火声は焦れて潤い無く、土声は重く且つ沈み、金声は響鐘の如く、水声は円く滞《とどこおり》無く、これを五音と申します。……声あれども響無きは、吉もなければ凶も無く、声丹田より出る時は、上相声と申します。又舌端から出る時は、下賤破敗と申します。……最も不吉は羅綱声! では此の声に致しましょう。……薬をお飲みなさいまし。」
器物へ水薬でも注ぐらしい、トコトコという音がした。
「怯とは一体何んだろう? 勇とは一体何んだろう?」
源之丞は呟いた。「怯勇無差別では無いだろうか? 勇を揮って功を現わし、高禄を得て世を渡る。成程男子の本懐だろう。だが臆病に逃げ廻わり、短い一生を好きな女と、日蔭の花として暮らすのも、人間らしくて可いではないか。……勇を現わすということは、表面《おもて》立って生活《くら》す手段に過ぎない。だが余り表面立つと、その生活し方が窮屈になる。それは偶像にされるからだ。」
月子の声が聞えて来た。
「これで全然《すっかり》出来ました。昔の面影はございません。誰に逢っても大丈夫です。感付くものはありますまい。……おおおお何んと悲しそうな、貧しいお顔になったことか。孤貧の涙相でございます。」
カタンと何か取り上げたらしい。
「鏡をご覧なさいまし。」
五
「俺は疑無く臆病者だ。いつも恐怖に襲われている。」源之丞はフラフラと立上った。しかし岩壁からは離れなかった。
「だが権利は持っている。此の世に活きる権利はな。そうしてあからさま[#「あからさま」に傍点]に云う時は、肩身を狭め、日の目を恐れ、土鼠《もぐら》のように活きることに、俺は興味さえ持っている。……活きて行く道は幾通りもある。白昼雑踏の大道を、大手を振って行く道もあれば、暗夜に露路をコソコソと、蠢いて行くような道もある。どっちがいいとも云われない。……暗夜に露路を歩く者は、家の雨戸の隙間から、一筋洩れる灯《ひ》火の光、そういう僅な光明《ひかり》にさえ、うんと[#「うんと」に傍点]喜悦《よろこび》を感ずるものだ。……糜爛した神経、磨ぎ澄まされた感覚、頽廃した情緒、衰え切った意志、――所謂浮世のすたれ[#「すたれ」に傍点]者! そういう者には然ういう者だけの、享楽の世界があろうというものだ。」
其の時園女の泣声が、隣室から弱々しく聞えて来た。訴えるような泣声であった。つづいて月子の声がした。
「お泣きなさいまし園女様、悲しいお顔が涙のために、二倍悲しくなりましょう。……お驚きになったのでございましょうね。それで泣かれるのでございましょうね。……鏡に映った貴女《あなた》のお顔! 何処に一点美しかった昔の面影がございましょう? 昔のお顔は満開の海棠《かいどう》、今のお顔は腐った山梔《くちなし》、似た所とてはございません。……その代り安全でございます。もう誰人に会われようとも、目付かる気遣いはございません。昔の貴女が消えて無くなり、新しい貴女《あなた》が忽然と、お産れなされたのでございます……。だが其の代り命ある限り、人に恋いされはしますまい。そのお顔が其の顔である中はね。……」
園女の泣声は尚続いた。岩窟の壁へ懸けられた、非情の能面《おもて》さえ耳を澄まし、聴き入るような声であった。寂しい絶望した声であった。
「ああ園が泣いている。」源之丞はじっと[#「じっと」に傍点]耳を澄ました。「造顔手術が終えたそうな。変面異相、穢くなったろう。……可いではないか、穢くなっても。浮世には二つ可い事は無い。……さあ今度は俺の番だ。」
月子の声が聞えて来た。
「少しお眠りなさいまし。眠り乍らお泣きなさいまし。涙が磨きをかけましょう。……お飲みなさいまし、眠剤をね。……お顔へ覆面《おおい》を掛けましょう。」
後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かであった。
だんだん泣声が幽になり、軈て寝息が聞えて来た。
「源之丞様。」と呼ぶ声がした。「こちらへおいでなさいませ。」
で源之丞は帳《とばり》を掲げ、辷るように隣室へ這入って行った。
と帳が蜒《うね》をつくり、龕《がん》の灯が其処だけ暗くなった。
と、月子の声がした。
「寝台へお伏りなさいまし。貴郎《あなた》の奥様と並んでね。……お顔を上へ……真直に……。」
寝台の軋る音がした。
と復月子の声がした。
「心がお顔に現われます。恐怖のお顔を造ろうとなら、努めて恐怖のお心持を、お持ちにならなければ不可ません。……妾《わたし》がお話し致しましょう。恐ろしい恐ろしい物語を。……」
此処で暫時《しばらく》声が絶えた。
物語を考えているらしい。
何んな話をするのだろう?
恐怖に追われ駈けられている、伴源之丞のような人間を、更に一層の恐怖の淵へ、落とし入れるような物語が、一体此の世にあるだろうか?
と、月子の声がした。
「富士の裾野の三合目に、一人の剽盗がございます。字名を陶器師《すえものし》と申します。大きな陶器の竈を作り、毎日陶器を造って居ります。いえいえ陶器ではございません。裾野を通る旅人を竈へ入れて蒸すのです。……殺人が好きでございます。一つの口癖がございます。男を殺すと『姦夫。』と叫び、女を殺すと『姦婦。』と叫ぶ。これが口癖でございます。……本名は何んと申すやら、妾《わたし》は一向存じません。元の身分が何んだやら、それも妾は存じません。……だが其の人の目的は、女敵討だと申します。」
源之丞の呻く声がした。
「おおおお何うやら貴郎《あなた》のお心へ、恐怖《おそれ》が湧いたようでございますね。お顔の上へ現われました。それをお持ち続けなさいまし。……さて夫れでは先ず仮面を。」
軟い石膏でも練るような、篦の音が聞えて来た。
「さあ出来ました、生身の仮面《おもて》。……もしもご覧になりたければ、いつでもおいでなさいませ。」
六
後は暫時《しばらく》静かであった。
と復月子の声がした。
「富士の裾野の三合目へは、決して行ってはなりません。巣食って居るのでございます。その殺人鬼の陶器師が。……だが一方から云う時は、可哀そうな男でございます。不貞の妻の身状から、あたら武士道を捨てて了い、活き乍らの地獄入り、鬼になったのでございますもの。……利休茶の十徳宗匠頭巾、瀟洒とした好男子、それにご用心なさいませ。それが陶器師でございます。……非常な腕利、只一刀に、項《うなじ》を斬るそうでございます。……直刃《すぐは》に迷心乱雑、新藤五郎国重の刀それで斬るそうでございます。……時々左の片手斬、それで一度の間違いも無く、首刎ねるそうでございます。……師匠は土子《つちこ》土呂之介《とろのすけ》、このように申して居りました。」
源之丞の呻く声がした。呼吸《いき》の詰まるような声であった。
と月子の声がした。
「斬っても血|粘《のり》が刃に着かず、鉾矢先《きっさき》からタラタラと、滴るそうでございます。ダラリと刀を下げたまま、唇を僅に綻ばせ、美しい前歯を白々と見せ、嬉しそうに笑うそうでございます。……そうして夫れから姦夫姦婦!」
「顔をお直し下さいまし!」源之丞の嗄声!
「頭髪《かみのけ》から変えることに致しましょう。よい頭髪《おぐし》でございますこと。」
どうやら壺でも取り上げたらしい。コトンという音がした。
と月子の声がした。
「男の頭髪《おぐし》と女の頭髪《おぐし》、色を変えるに致しましても、些か薬剤が違います。……鳶尾根末《かびねまつ》、亜鉛華、麝香草、羊脂、魚膠《ぎょこう》、雷丸油《らいがんゆ》、疱瘡で死んだ嬰児《みずこ》の脳漿、それを練り合わせた塗抹剤……お着けすることに致しましょう。」
髪を梳る音がした。
深い溜息が聞えて来た。源之丞の洩らす溜息らしい。
と、月子の声がした。
「次は三停でございます。……額が天停、鼻が人停、それから頤《おとがい》を地停という。……これを変えることに致しましょう。」
皮膚を鞣す音、肉を削ぐ音、骨を削る音が聞えて来た。金属製の器類の、触れ合う音が聞えて来た。歩き廻わるらしい足の音、荒い呼吸の音も聞えて来た。
錦の帳を一枚隔て、行われている造顔術!
と復月子の声がした。
「次は五官でございます。……眉が保寿官、眼が監察官、鼻梁が審弁官、口が出納官、そうして耳が採聴官。……これを変えることに致しましょう。」
何か刃物でも落としたらしい。ジーンという音が響き渡った。
ひっそりと時間《とき》が経って行く。
岩壁に懸けられた面達は、眼を開いたり眼を閉じたり、口を開いたり口を閉じたり、龕の焔の揺れるに連れて、その表情を変えていた。
岩壁から落ちている滝の水、一筋の銀の棒のようであった。石槽《いしぶろ》には水が溢れていた。パッパッと時々|泡沫《しぶき》が飛んだ。
と、月子の声がした。
「さあ、これで出来ました。……お声も変えなければなりますまい。……これをお飲みなさいまし。」
水薬を注ぐらしい音がした。
と復月子の声がした。
「鏡をご覧なさいまし。」
しばらく物音が聞えなかった。
と枯葉の擦れ合うような、老人の声が聞えて来た。
「誰だ、誰だ、この男は!?」
「伴源之丞様でございます。」
「うッ、うッ、うッ、俺の顔か!」
「貴郎《あなた》のお顔でございます。」
「百歳以上の老人の顔!」
「恐怖のお顔でございます。」
「満面の皺! 白い頭髪《かみのけ》!」
「能の面《おもて》の重荷悪尉。……」
「飛び出した頬骨! 刳《えぐ》られた|顳※[#「需+頁」、第三水準1-94-6]《こめかみ》!」
「すっかり変って了いました。」
「ひしゃげた鼻! 膨れ上った唇!」
「永劫恋は封じられました。」
「食い反らせた乱杭歯!」
「しかも三本欠けて居ります。」
「ドンヨリと黄色く濁った眼!」
「おうおう膿が垂れそうだ。」
「左の耳髱《みみたぼ》が千切れている!」
「はい、狼に噛まれたように。」
「蜘蛛のような額の痣!」
「人の厭がる竪剣文。」
ゲラゲラ笑う声がした。
「北条内記奴! 目付けて見やがれ!」
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第十九回
一
富士の裾野、人穴の奥、造顔術師月子の部屋、そこの扉の開く音が、ギ――と幽《かすか》に聞えたのは、その翌日の払暁であった。
「左様ならば月子様。」
「源之丞様、園女様、ご無事においでなさいませ。」
別離の挨拶の声がした。後は暫時静かであった。と復《また》ギ――と音がした。月子が部屋の扉を閉じたらしい。
お喋舌《しゃべ》りの小鳥も啼き出さず、東の空も水色を産まず、裾野は暗く物寂しく、風ばかりが灌木を渡ると見え、嘯《うそぶ》くような声がした。
岩山の裾に黒々と斑点のような物の見えるのは、大方人穴の入口であろう。と、其処から吐き出されたように、二つの人影が現われた。
伴源之丞と園女であろう。しかし四辺《あたり》が暗いので、はっきり姿は解らなかった。
どうやら躊躇《ためら》っているらしく、人穴の口を背後《うしろ》にして、二人の人影は佇んでいた。
と、男の声がした。
「何んだか人里が恋しくなった。……もう恐ろしいものは無い。……誰に見られても感付かれはしまい。……今迄は恐れて逃げ廻わっていた。これからは進んで近付いてやろう。……。」
だが源之丞の声だろうか? 百歳以上の老人の、嗄《しゃが》れ果てた声だのに。
「甲府へ参ろうではございませんか。賑かな武田家のお城下へ。……妾も何んだか人里が恋しくなってまいりました。」園女が云ったに相違ない。しかし其の声は百歳以上の、老婆の声としか思われない。
二つの人影は動き出した。二人の歩く足に連れ、サラサラと音を立てるのは、枯草が左右へ分れるからであろう。
二人の姿が消えた頃から、裾野の朝は明け初めた。
その日の真昼のことである。
鍛冶屋街道を片輪者が、二人逆立って歩いていた。
一人は男、一人は女、男は若々しい武士姿、女も若々しい女房姿、しかし二人乍ら首から上は白髪と皺とに埋められた、醜い尉と姥とであった。
能の仮面《おもて》の重荷悪尉、そっくり老人の顔であった。蟇の形をした大きな痣、それが額にあるために、一層その顔は凄く見えた。
能の仮面《おもて》の泣老女、そっくり老婆の顔であった。左の下眼瞼に小指程の、大きな泣|黒子《ぼくろ》が附いているので、一層その顔は悲しそうに見えた。
心経寺の宿へかかった頃、行手から鉦の音が聞えて来た。つづいてご詠歌の声がした。と一群の行列が、辻を廻って現われた。眼の所へだけ穴を穿けた、木綿の白布を顔へ垂れた、それは癩人の行列であった。
二人の片輪者と癩人とが、往来の上で邂逅《いきあ》った時、癩人の方で道を避けた。そんなにも二人の片輪者は、恐ろしく気味悪く見えたのであった。
鍛冶屋街道は飛び飛びに、幾個《いくつ》かの宿場や村を繋ぎ、ウネウネと甲府迄続いていた。もう菜の花は散っていたが、街道の左右の耕地では、麦の葉が微風に戦《そよ》いでいた。耕地が尽きると丘になり、丘を巡ると林になり、林を抜けると森になり、更に幾個かの峠となり、河を渡らなければならなかった。
そこを二人は歩いて行った。
白井河原へ這入《はい》った頃には、永いものの例《たとえ》にされている、春の日も暮れて夜となり、下鍛冶屋宿、上鍛冶屋宿、住吉、畔、高台寺、甲府の城下へ這入った頃には、一番鶏の啼く程の、深い夜となっていた。
×
依然甲府は火柱の主と、癩人と血吸鬼との巣窟であった。
闇の夜空へ聳えているのは馬場美濃守の大屋敷で、ポッツリ一つ大きな星が、低く屋根棟に懸かっていた。
その屋根棟に腹這いながら、誰か人間がいるらしい。
と、其処から声がした。
「おい右門、大丈夫かな?」
しかし何処からも返事が無い。
しばらく寂然《しん》と静かであった。
稍《やや》あって返事が聞えて来た。
「うん、俺の方は大丈夫だ。……お前は何《ど》うだ? え、小次郎?」
美濃守の屋敷と向かい合い、内藤修理亮の屋敷があった。その屋根棟の一所から、返辞の声は聞えて来た。矢張り其処にも何者か、一人腹這っているらしい。が、姿は解らない。闇が包んでいるからであった。
復《また》もや後は寂然となった。
空へ大きな弧を描き、星が一つ蒼々と流れ、ザーッと風が吹き通った。
ドンドンドン! ドンドンドン!
槌《かけや》で門を破壊《こわ》す音。
「ワ――ッ」という鬨《とき》の声。
バタバタと逃げる足の音。
と、「ヒ――ッ」という女の悲鳴。
「ワッ」と叫んで仆れる音。誰か斬られてもしたらしい。
躑躅《つつじ》ケ崎の信玄の館が、真北にあたって聳えていた。その方角から一瞬間、消魂《けたたま》しい物音の聞えたのは、癩人が寄せて行ったからであろう。
が、それも直ぐ止んで、復もや後は寂然となった。
と、馬場屋敷の屋根棟から、ふたたび声が聞えて来た。
「遅いではないか。どうしたんだろう?」
「うん。」と答える声がした。「流石の火柱も疲労《つか》れたかな。」
「そんなことはあるまい。今に出よう。」
「今夜こそ何うともして捕えたいものだ。」
ここで話が断ち切られた。
一体二人は何者だろう? 蜈蚣《むかで》衆の忍術家、一人は琢磨小次郎であり、一人は茣座右門らしい。
二
闇とは云っても星空であった。その薄明を背景にして、不意に内藤家の屋根棟へ、黒々と人の姿が立った。城下の様子を眺めようと、琢磨小次郎が立ち上ったらしい。
屋根から見下した甲府の城下の、所々に桃色の火気が、闇を貫いて立っているのは、癩人が焚火をしているからであろう。そこから騒音の聞えるのは、彼等の囁《さきゃき》に相違ない。
内藤屋敷と並び合い、板垣駿河守の屋敷があった。その隣が勘解由小路、小路を隔てて神明の社、その社の広庭にも、焚火が赤々と燃えていた。立ったり座ったり這い廻わったり、陰影のような人影が、火光に照らされて見えるのは、癩人が其処にも居るからであろう。暫く眺めていた小次郎は、やがて西の方を振り返えって見た。眼の前に大館《おおやかた》が立っていた。即ち三枝《さえぐさ》勘解由の屋敷で、グルリと取り廻わしたは高い土塀、その土塀の東南の角へ、ボッと火光が射したかと思うと、ユラユラと一本の火柱が、土塀に添って北の方へ、蠢めくように歩いて来た。
「右門! 現われたぞ! 火柱が!」
叫ぶと一緒に小次郎は、ピッタリ屋根棟に腹這いになった。
「うむ。……可し来た! 合点だ!」
馬場屋敷の家棟から、すぐに右門の声がした。後は呼吸の音さえしない。
火柱はダンダン近寄って来た。
動くに連れて土塀の面が、光を映してボッと明るみ、通り過ぎるに従って、ふたたび闇に埋もれた。三枝屋敷を通り過ぎると、火柱は暫時《しばらく》立ち止まった。南北に通ずる小路があり、何方へ行こうかと迷っているらしい。が、どっちへも曲らずに同じ道を真直に、内藤屋敷の方角へ、やがてソロソロと歩いて来た。
その南側は内藤家の土塀、その北側は低い堤、堤の上の松並木、火柱が過ぎるに従って、一つ一つ次々に、松の老幹が輝いた。
内藤屋敷の土塀が尽きると、南北に通っている柳町通で、その四辻で火柱は、復しばらく彳《たたず》んだ。
風が四辻から吹いて来た。
火柱の主――仮面の城主! 城主の着ている纐纈の袍《ほう》の、袖や裳裾が風に煽られ、グルグルグルグル渦巻く様は、火柱が四方八方へ、恰《あたか》も焔を飜えすようであった。裾からニョッキリ食み出しているのは、白布を巻いた二本の足で、袖からダラリと垂れ下っているのは、白布を巻いた双の腕、火焔の中に蝋燭が四方浮き上がっているようであった。
と、火柱は動き出した。
内藤屋敷と馬場屋敷、二つの屋敷の真中を、南の方へ蠢めいて来る。
三
二軒の屋敷の大門が朦朧と火光に映じた時、内藤屋敷の屋根棟から、気合に充ちた「阿《あ》」という声が、石でも投げたように迸《ほとばし》った。同時に一条の捕縄が、空を切って投げ下ろされた。それと殆ど間髪を入れず、馬場屋敷の屋根棟から「吽《うん》」という気合の声がした。と、暗中に抛物線を描き、一筋の捕縄が投げられた。
先ず火柱は右に揺れ、それから左手へ蹣跚《よろめ》いた。と、俄に立ち止まった。
一筋の長い捕縄が、火柱《ひばしら》の主の首の辺から、ピンと斜に張り切って、内藤屋敷の屋根棟へまで、一直線に延びていた。と、最う一本の捕縄が、火柱の主の胴体から、馬場屋敷の屋根棟へまで、ピンと一直線に延びていた。
火柱の主は二条の捕縄で、ガンジ搦みにされたのである。
上には垂れ下った闇の空、左右には立ち並んだ武家屋敷、その真中でぼうぼう[#「ぼうぼう」に傍点]と、燃え上っている火の柱、その頂に無表情に、静止している能の面! ……何んと形容すべきだろう?
その時黒々と人の姿が内藤屋敷と馬場屋敷の、屋根棟の上に延び上った。琢磨小次郎と茣座右門、二人の姿に相違無い。と俄に二つの姿が、恰も呼吸を合わせたように、火柱に向って及び腰になった。だが、その次の瞬間には、グイと背後《うしろ》へ反り返った。どうやら捕縄を絞ったらしい。
意外な出来事の起ったのは、実に其の次の瞬間であった。
白布を巻いた右の手を、火柱の主はソロソロと、上の方へ上の方へと上げて行った。と、仮面の頤へかかった。
仮面の取れた城主の顔が、内藤屋敷へ向けられた途端、「うん!」という息詰まる声がした。同時に小次郎の姿が消え、物の仆れる音がした、つづいて屋根の斜面を転がり、黒装束の人間が、ドッと往来へ落ちて来た。
仮面を抜いだ城主の顔が、馬場屋敷へ向けられた時にも、同じことが行われた。息詰まる声、仆れる音、黒装束の人間が、屋根から往来へ落ちて来た。
メズサの顔を見た者は、死の深淵へ落ちなければならない。蜈蚣衆の忍術家、琢磨小次郎と茣座右門の、二人の死骸を後にして、首と胴とから捕縄を垂らし、火柱の主がノロノロと、南に向かって歩き出したのは、それから間も無くの事であった。
小幡尾張守と下条民部、二軒の屋敷に挟まれて、小広い小路が出来ていた。その小路を東へ向け、一条通の方角へ、忍びやかに歩く人影があった。
小路を抜け出した正面に、原加賀守の屋敷があり、焚きすてられた焚火の火が、尚余焔を上げていた。
その火影《ほかげ》に照らされて、しょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立った人影は、他ならぬ三合目陶器師であった。
何んの変った所もない。利休茶の十徳に同じ色の頭巾、瀟洒で美しくはあるけれど、表情の無い仮面のような顔、是迄通りの彼であった。只衣裳の裾や袂に、点々と斑点の付いているのは、返血を浴びた為だろう。
増山通を北へ執り、蘆田屋敷の裏門の方へ軈《やが》てフラフラと歩き出した。焚火の光の圏内から、彼の姿が消えた時、闇がワングリと夫れを呑んだ。併し間も無く彼の姿は、八幡の境内へ現われた。
そこには二箇所焚火があり癩患者がそれを囲繞《とりかこ》み、動物のように蠢いていた。
だが陶器師は刀も抜かず、二つの焚火の間を通り、跡部|大炊《おおい》の屋敷の方へ、小路伝いに歩いて行った。初鹿源五郎の屋敷を過ぎ、御廏小路へ来た時である。行手に二つの人影が見えた。
焔を上げてはいなかったが、カッと熾《おこ》っている焚火に照らされ、老人と老婆だということが、陶器師の眼に見てとれた。老人の額には蟇の形をした、大きな痣が印されてあり、老婆の眼瞼《まぶた》には指先ほどの、大きな黒子《ほくろ》が附いていた。二人乍ら旅姿で、城下の者とは思われなかった。
チラリと陶器師は二人を見た。だが其の儘擦れ違った。彼は殺人に飽きていた。刀を抜くさえ大儀なのであった。
四
一間余り行違った時、不図《ふと》陶器師は振り返った。
「む。」と彼は呻き声を上げた。「ああ酷似《そっくり》だ! 後姿!」
刀の柄へ手を掛けた。足音を忍ばせスルスルと、二人の背後へ追い逼《せま》った。
身に逼る殺気を感じたのであろう、二人の男女は振り返った。焚火の光にぼんやり照らされ、闇に浮き出た二人の顔は、源之丞でも無ければ園女でも無く、百歳を過ごした尉と姥の、醜い恐ろしい相好であった。
「何んだ是は! 似も似つかない!」
刀の柄から手を放し、陶器師は呆然と佇んだ。
闇に消えようとする老人老婆の、背後姿を見送ると、復《また》も陶器師は首を傾《かし》げ、考えざるを得なかった。
「間違は無い! 彼奴等だ!」
老人老婆の後を尾《つ》行け、陶器師はフラフラと歩いて行った。
広い空地を中に隔て、伝奏屋敷の北方に、武田左典廏の宏大な屋敷が、夜空を抜いて聳えていた。
その土塀の一所から、話の声が聞えて来た。「どうも是では手がつかない。」直江蔵人の声らしかった。「神出鬼没というやつだ。出たかと思うと消えて了《しま》う。消えたかと思うとヒョッコリ出る。」
「そうさ。」と答える声がした。塚原卜伝の声らしかった。
「全く変な化物だ。ノロノロとした歩き方だのに、それで何うにも捉えることができない。」
「俺はすっかり匙を投げて了った。」
「薬師《くすし》としては無責任だな。」クックッと笑う声がした。
「それも何うも仕方が無い。謂わば俺の手に余ったのだからな。」
「いや俺の手にも余ったよ。と云って火柱の主では無い。得体の知れない例の奴だが、全くあの時は浮雲《あぶな》かった。」
「うん彼奴か、彼奴にも参った。」蔵人の声は皮肉に響いた。
「どうやら俺はお前のために、二度命を助けられたらしい。」
「礼を云ったが可かろうぜ。」卜伝の声は笑っていた。「それにしてもお前は暢気だよ、如何に火柱が現われたと云って、あんな場合に駈け出すなんて、正気の沙汰とは思われないな。」
「そうは云ってもあの時は、はじめて火柱を見たのだからな、夢中になるのが当然さ。」
「咄嗟の場合、薬箱を投げて、彼奴の気勢を反らせたので、お前は斬られずに助かったものの、そうで無かったら今頃は、閻魔の庁に行っているだろう。」
「だがお蔭で薬箱は、綺麗に形無しに破壊されて了った。さて、弁償して貰うかな。」
「おや此の爺途方も無い、命を助けられて苦情かえ。」どうやら卜伝は呆れたらしく、復もクックッと笑う声がした。
柳町通の方角で、叫喚の声が湧き起った。
「ははあ今夜も出たらしい。」
「おい蔵人、行ってみよう。」
「そうさな、ポツポツ行ってみよう。」
左典廏屋敷の土塀に添い、闇を縫って東の方へ、二人の者は小走って行った。
曾根下野守の屋敷の方から、真丸《まんまる》に塊った一団が、柳町通の方へ押し出して来た。
鉄砲足軽の群であった。
粉のような火花がパッパッと、闇の空間で明滅するのは、火縄の口火が散るからであろう。
規律正しい武田家の、鉄砲足軽というにも似ず、足並も揃えず伍も組まず、互に体を食っ付け合わせ、おどおど[#「おどおど」に傍点]しながら歩くのは、恐怖に蝕まれているからであった。
一度城下へ現われるや、悪病を振蒔き人を殺し、信玄公をして門を閉めさせた、火柱の主というものが、彼等足軽の輩には神秘の物に思われた。
迂闊《うっかり》そんなものを撃ち取ろうものなら崇《たたり》があるに相違無い。これが彼等の本心であった。
小路を抜けると柳町通で、遥か北の方角から、叫喚の声が聞えて来た。
「出たぞ!」
「出たらしい。」
「火柱大明神!」
足軽達は囁き合い、一層足を鈍らせた。
五
神明の社《やしろ》の手前までその一団が来た時であった。行手にあたって煌々と、火の柱が燃え上った。
「ワーッ」と彼等は声を上げた。バラバラと幾人かが後へ逃げ、幾人かが横へツッ走った。だが十二三人の足軽は、一列に並んで折敷いた。
ド、ド、ド、ドン――と鉄砲が放された。
すぐにド、ド、ド、ド、――と反響《こだま》が起こり、その反響が止んだ時一時に城下《まち》がひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。
何んの変ったこともない。依然として火柱は立っていた。標的《まと》を外して撃った弾丸が、火柱の主に中る筈が無い。
「尾《つ》行いて来るようでございます。……気味の悪い男が……私達の後から……。」
「俺は何んだか恐ろしくなった。……早く歩こう……まかなければならない。」
跡部大炊の屋敷を過ぎ、今沢石見の家の前を通り、小幡、下条、栗原、長坂、屋敷屋敷の門の前を、老人と老婆は足早に、南へ向かって歩いて行った。
時々振り返って背後を見ると、ボッと黒い人影が、二間の彼方から足音を忍ばせ、何処迄も執念く追って来た。
大熊備前の屋敷の前、伝奏屋敷の南側に、一筋の小路が通っていた。
つと二人は駈け込んだ。
だが、夫れも無駄であった。
依然人影は尾行《つ》けて来た。
小路を抜けると柳町通、南北に一筋広い往来《みち》が、真直に人気無く延びていた。
顛倒した二人は其の道を、北へ向かって小走った。
矢張り二間の背後から、同じ人影が追って来た。呼び掛けもせず、切っても掛からず、いつも同じ間隔を置き、ヒタヒタと尾行けて来る人影から、何んとも云えない一道の殺気が、鬱々として逼るのは、一体何うしたというのだろう?
神明の社の前まで来た。西に向かって小路がある。駈け込んだ二人は真直に、その小路を駈け抜けた。と、すぐに四辻へ出た。それを北の方へ曲がった途端、カッと眼を射る光物があった。
焔々と燃え上がる火柱が、一間の眼前にユラユラと、揺れ乍ら立っているのであった。
と、真紅の光の中に、蝋燭のような白い物が、二本ソロソロと上へ上った。
「俺の祝福を受けてくれ。……」嗄《しゃが》れた声が聞えて来た。「旅人よ、触らせてくれ!」
光に射られた老人と老婆は、両手で顔を蔽い乍ら、思わず後ろへ蹣跚《よろめ》いた。
背後から追い逼る殺人鬼! 前からは寄って来る悪病の主! 間に挿まれた老人と老婆は、ベタベタと道へ蹲居《うずくま》った。
道服姿の二老人が、西の辻から走って来たのは、そのキワドイ瞬間であった。
「やッ火柱だ!」
「おッ彼奴だ!」
彼奴だ! と叫んだ老人は、腰に挿んだ木刀を、スルリとばかり引き抜いた。
卜伝が陶器師へ向かったのである。
「逃げろ逃げろ! 早く逃げろ!」
もう一人の老人――蔵人は老人と老婆へ声を掛け、パッと其の間へ身を踊らせ、ひたと[#「ひたと」に傍点]火柱に向かい合った。
ユラユラと進んで来る火柱の主、ジリジリと後へ退り乍ら、仔細に観察する直江蔵人、左典廏屋敷と神明の社に、左右を断ち切られた宮小路を、南へ南へと移って行った。
突然光の消えたのは、火柱が辻を廻ったからであろう。ふたたび闇となった小路の中で、呼吸使いの声の聞えるのは、人が居るからに相違無い。
三合目陶器師と卜伝とが、向かい合って構えているのであった。
構えた木刀の切先から、卜伝は向うを隙《す》かして見た。二間を隔てた暗中に、物の姿の見えるのは、陶器師が構えているのであろう。進もうともせず退こうともせず、静まり返って立っている。
刀と木刀とが触れ合って、鈍い響を上げたのは、稍久しい後のことで、ほんの一瞬の出来事であった。そうして其の次に起ったのは「むッ」という苦悶の声であり、地に仆れる音であった。
六
山県屋敷を南に眺め、東に続いている鍛冶小路を、夢見山の方へ走って行くのは、例の老人と老婆であった。恐怖のために正気を失い、無我夢中で逃げるらしい。道が消えて熊笹となり灌木の這っている山路となり、行手に森林の聳えているのも、彼等二人には気が付かないらしい。
山は次第に険しくなり、やがて浅い谷となった。
尚二人は逃げて行く。
谷を越すと丘であり、丘は林に続いていた。もう振り返っても甲府城下は、山に隔てられて見えないだろう。一里以上も来たのだから。
しかし二人は尚逃げた。
と、行手に朦朧と、生白い物が見えて来た。巨岩が連なっているのであった。岩と岩との間を潜り、老人と老婆は向うへ出た。
是は一体何うしたのだ? 平坦な人工の往来が、一筋延びているではないか。
だが夫れは未可《まだよ》かった。
その往来を一隊の人数が、粛々と歩いて来るではないか。
松火《たいまつ》を持った甲冑武者が、その先頭に立っていた。後に続いた数十人の者は、いずれも究竟《くっきょう》の若者であったが、一人残らず縛られていた。そうして夫れ等を警護するように、抜身の槍、抜身の薙刀、半弓を持った甲冑武者がその左右に附いていた。
二列縦隊に蜒々と、東へ東へとあるいて行く。
正気に返った老人と老婆は、復新しい驚《おどろき》に、眼を瞠《みは》らざるを得なかった。
二人の前まで来た時である、先頭に立った甲冑武者が、
「誰だ!」
と叫んで足を止めた。
と四五人の甲冑武者が、グルグルと二人を取り囲んだ。
「これ、貴様達は何者だ!? 何んと思って此処へ来た? 見れば他国の人間らしい。うん、貴様達は細作《かんじゃ》だな。」
一人の武者が威猛高に云った。
「いえ旅人でございます。迂闊《うっか》り道を取り違えまして。」
老人は急いで弁解した。
「いや細作に相違無い。此処は夢見山の間道だ。人の出入りを禁じている。それを承知で入り込んだのだろう。……これ、此奴等をふん[#「ふん」に傍点]縛れ!」
鳥渡《ちょっと》小競合が行われたが、勝負は問題にはならなかった。
くくし[#「くくし」に傍点]上げられた老人と老婆は、一隊の最後《うしろ》に引き据えられた。
一旦止まった行列は、間も無く粛々と前進を続けた。
甲府に向いた一方の側は、人工の岩と木立であり、反対の側は険しい谷、その間を通っている一間幅の道を、武器を携えた甲冑武者と、縛られた無数の若者とが、物も云わずに歩いて行く光景《さま》は、一幅の地獄の絵巻物と云えよう。
溜息をする者、啜泣《すすりな》く者、列を放れて蹣跚《よろめ》く者、恐怖《おそれ》と疲労《つかれ》とで若者達は、萎え切っているように思われた。
二町余りも歩いた頃であった、逃走しようとしたのであろう一人の若者が列から離れ、谷の中へ飛び込んだ。
と、弓を持った一人の武士が、立ち止って谷を覗き込んだ。ピーンと弦音がしたかと思うと、谷底から悲鳴が聞えて来た。
何んの動揺も来なかった。
粛々と一隊は進んで行った。
グルリと道が迂廻した時、俄に光景が一変した。岩組も谷も影を隠し、切り立ったような山の斜面が、左右に聳えている真中を、ウネウネと道が付いていた。山の左右から道の方に向かい、打ち重なった喬木が、枝葉を交えているために、空を見ることが出来なかった。
それは隧道と云う可さである。
隧道の中を行くのであった。
数町歩いた頃である、その隧道の遥《はるか》行手に、一点の火光が見えて来た。
と、其処から笛の音が、鋭く一声聞えて来た。
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第二十回
一
甲府を荒らした悪病も、やがて終熄する時が来た。
一人の聖者が現われて、犠牲的の行動をしたからである。と云って決して其の聖者は、「紫の法衣《ころも》をお召しになり、金襴の袈裟をお懸けになり、片手に珠数、片手に水盤、刺繍をした履《くつ》を穿《は》いた。」そういう立派な人物では無く、穢いみすぼらしい[#「みすぼらしい」に傍点]乞食であった。いつも低く俯向いているので、その容貌は解らない。そうして何処から遣って来たものか、それも誰にも解らなかった。嗄《しゃが》れた声、悩み抜いた態度、慇懃の調子で云うのであった。
「私に障《さわ》らせて下さいまし。却ってご恩でございます。」
で、病所へ障るのであった。すると不思議にも悪病は、次第次第に快癒した。
「聖者様が参られた。」
「地獄の苦しみも無くなるだろう?」
「だが何《ど》う云うお方だろう?」
「立科の方から来たそうだ。」
「いや裾野から来たそうだ。」
「それにしても何うしてあのお方は、俯向いてばかり居られるのだろう?」
「何んて悲しそうなご様子だ。」
「それにちっとも[#「ちっとも」に傍点]お威張りにならない。」
「みんなの罪を背負ってるようだ。」
「只指の先を触れられるだけだ。」
「それだけで病気が癒って了う。」
町から町、人から人、聖者の噂は伝わった。
聖者の後へは数百人の者が、いつもゾロゾロ従《つ》き廻わった。癒された者は感謝のために、病気の者は癒されたい為に。
偶像にされるのが厭だからであろう、よく聖者は斯う云った。
「病気の癒ったお方には、私は用はございません。私を囲繞《とりまい》て下さるな。向うへ行って下さいまし。そうしてお働きなさいまし。」
だが然《そ》う云えば然ういう程、沢山の人が集って来た。聖者は逃げなければならなかった。逃げても逃げても逃げきれなかった。逃げれば逃げる程沢山の人が、聖者の行衛を探すのであった。
身の振方を尋ねる者、将来《ゆくすえ》の吉凶を尋ねる者、人相家相手相、などを、占なって呉れと頼む者、そういう者まで現われた。
しかし聖者はそういうことには、一言も返辞をしなかった。
饗応しようとする者があれば「私は乞食でございます。一食で結構でございます。」
こう云って夫れを辞退した。
黄金《かね》を呉れようと苦心しても、聖者は決して取らなかった。
その為一層その聖者は沢山の人に信仰された。
彼は真理の把持者でも無く、又決して予言者でもなく、そうして勿論名医でもなく、彼が自分で云うように、みすぼらしい[#「みすぼらしい」に傍点]乞食に過ぎなかった。だが何うして、悪病を、只指の先で触れるだけで、全快させることが出来るのだろう? それは奇蹟に相違ない! 奇蹟の出来る人間は? 神の子でなければならないではないか!
それでは彼は神の子か?
いやいや彼は乞食なのであった。
甲府城下は恢復《よみがえ》って来た。あちこちから笑声が聞えるようになった。少年達の歌う声にも、犬や、鶏の鳴声にも、争われない歓喜があった。
恐怖時代が過ぎ去ろうとしている。
春が逝って夏が来た。
四散した甲府の人々も、争って故郷へ帰って来た。活溌に人達は働き出した。商業も繁昌しはじめた。信玄の館の城門も開き、武士達も城下を歩くようになった。武家屋敷の窓も開き、夜な夜な灯火《ともしび》が射すようになった。
これ迄の苦痛が大きかっただけに、その喜びも著しかった。
それは或る日のことである、崇拝者の群から遁れたと見え、聖者は一人で歩いていた。
韮崎へ通う野道である。
依然として首を垂れている、依然として襤褸を纏っている、片手に持ったは飯桶で、足には草履さえ履いていない。顔を蔽うた梳《くしけず》らない髪、垢にまみれた[#「まみれた」に傍点]足や腕、体には何の威厳も無い。
野道はウネウネと蜒《くね》っていた。飛び飛びに農家が立っていた。それを避け乍ら歩いて行く。
夕立でも来そうな日射しであった。小鳥が葉蔭で騒ぐのは、その天性の敏感から、雨の降るのを察したからであろう。雨の前令《まえぶれ》の穏《おだやか》さ! 草の葉を戦《そよ》がす風も無い。何んとむしむし[#「むしむし」に傍点]と暑いのだろう。旅人一人通っていない。
聖者は何時迄も歩いて行った。放心したような様子である。何か口の中で呟いている。
「力をお与え下さいまし。」
聖者は光明優婆塞《こうみょううばそく》であった。だが最《も》う今は乞食なのである。
ポツポツ雨が降って来た。と、雷が鳴り出した。
紐のような豪雨が降って来た。嵐が加わって横になぐられ[#「なぐられ」に傍点]、優婆塞一人へ襲いかかった。だが彼は歩いて行った。
「私をお救い下さいまし。」口の中で呟いている。
道が二筋に別れていた。彼は無心に右の方へ辿った。それは細い細い道であった。
野宮に通っているらしい。
×
荒れた野宮の狐格子の中に、一個の生物《いきもの》が蠢いていた。
纐纈城主《こうけつじょうしゅ》、火柱《ひばしら》の主、即ち悪病の持主であった。
[#改ページ]
第二十一回
一
狐格子の中は暗かった。格子を通して外光が、光ということさえ出来ないほど、幽《かすか》に鉛色に射し込んでいた。
手枕をし、足を縮め、海老のように寝ている城主の姿が、ボッと薄紅く光っているのは、身に纏っている纐纈の袍《ほう》が、微芒を放っているからであろう。
彼は死んだように動かない。だが死んではいなかった。しかし死にかけてはいるのであった。持ちこたえていた悪病が、いまや勢力を逞うし、彼の脳髄を犯し出したのである。なかば意識が失われていた。
「此処は一体どこだろう?」考えたが解らなかった。そんなにも茫然《ぼんやり》しているのであった。「遠い昔に城を出た。……本栖湖の水城、俺の城、……五年前だったかしら、もっと前だったかしら?」
いやいや彼が城を出たのは、僅か数カ月前なのである。桜の花の咲く頃で、そうして今は木芙蓉の花が、白々と咲く夏なのである。
「どうして城を出たのだろう? ああそうだ思い出した、故郷の甲府を訪ねようと、或る闇の晩に城を出た筈だ。……うん然《そ》ういえば湖水へ出る、真鍮の扉の開いた音が、いまだに耳の底に残っている。ああ然うして帆鳴りの音が。……それから甲府へ行ったかしら?」
ここで意識が断ち切れて了った。
彼は気持が悪かった。何かウネウネした虫のようなものが、頭の中を這い廻っていた。そうして鋭い虫の歯が、コチコチと頭蓋骨を噛み砕いているように思われた。そうして絶えず耳元で、嗄れた声が囁いていた。
「やっと俺は思い出した、たしかに俺は甲府へ来た。躑躅《つつじ》ケ崎のお館を、俺はこの眼で見たような気がする。……だが一体何うしたんだ、俺がソロソロと歩いて行くと、みんな叫び乍ら逃げて行ったが……。」
嗄れた声が囁いている。何を云っているのか解らない。しかし彼は気持悪かった。で手を上げて追い払らおうとした。だが其の手は動かなかった。
「俺は祝福に来た筈だ。何故みんなは逃げたのだろう?……ああ五月蠅《うるさ》いな、何故囁くのだ!」
カサ、カサ、カサと嗄れた声が、矢っ張り耳元で聞えている。
「誰か此奴を追っ払ってくれ! このお喋舌《しゃべ》りの老人《としより》を!」叫んだ意《つも》りではあったけれど、口から出たのは唸声だけで、それもほんの[#「ほんの」に傍点]一声であった。
「俺はひどく弱ったようだが、病気をしているのではあるまいか?」
奔馬性癩患だということさえ、今の彼には解らなかった。
「俺は一体誰なんだろう?」驚く可き疑問が湧いて来た。と突然雪が見えた。降りしきっている雪である。つづいて赤いものが見えて来た。ヒラヒラヒラヒラと動いている。それは将《まさ》しく篝火《かがりび》であった。その横に一人の武士がいた。まだ若い甲冑武士で、何か不平そうに呟いていた。見覚えのある顔であった。
「ああ我君だ、晴信君だ!」はっきり夫れが思い出された。
雪に蔽われた城が見え、そこへ寄せて行く人数が見えた。と、一つの肉豊《ししむらゆたか》の、坊主首級《ぼうずくび》が現われた。それを握っている手が見えた。
「高遠城主平賀源心! あいつの首級《くび》だ、あいつの首級だ!」復《また》はっきりと思い出した。「源心の首級を握っている手! ああ、あれは俺の手だ!」
それこそ本当に遠い昔、彼が僅か十九歳の頃、晴信を進めて高遠城を攻め、一番乗りをした時のことを、フッと意識へ上せたのであった。
だがそいつ[#「そいつ」に傍点]は直ぐ消えた。そうして何にも見えなくなった。と、女の泣声が聞えた。一人の女が浮き出して来た。矢張り夫れにも見覚えがあった。と、その横に若侍が、悲しそうな顔をして坐っていた。
「妻の妙子、弟の主水!」こう思った時には二人の姿が、だんだんかすれ[#「かすれ」に傍点]て見えなくなった。
すると、今度は闇の中へ、巨大な鉞《まさかり》が浮かんで来た。鋭い刃がギラギラと光り、それが落ちかかって来そうであった。
「万兵衛の持っている鉞だ! オイ俺を切っては不可《いけ》ない!」
だが、鉞も消えて了った。
グ――ン! グ――ン! と唸る音!
「地下で調革《しらべかわ》が廻わっている。」
するとハッキリ唄声が聞えた。
[#ここから1字下げ]
いざ鳥刺が参って候
………………………
[#ここで字下げ終わり]
それもたった[#「たった」に傍点]一声であった。
もう何んにも見えなくなった。トロトロトロトロと脳の中で、何かがとろけ[#「とろけ」に傍点]るような気持がした。
「何かが顔の上へ冠さっている。」
で、そいつを取ろうとした。苦心してソロソロと手を上げた。手枕をしている右手ではない。床の上に這わしている左手である。纐纈袍《こうけつほう》の薄赤さと、社殿の暗さに取り巻かれ、白布で巻かれた一本の腕が、上へ上へと上がって行く。と、それが湾曲し、顔を蔽うている仮面の方へ、その指先が泳いで行く。仮面を取り退けようとするのらしい。ブルブル顫えている五本の指! その母指と食指とが、辛うじて仮面の頤《おとがい》へかかり、しばらく躊躇したかと思うと、ポッと仮面が顔から離れた。
[#地付き](未完)
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底本:「神州纐纈城」河出文庫、河出書房新社
2007(平成19)年11月10日初版印刷
2007(平成19)年11月20日初版発行
入力:で(ry
校正:
2008年6月29日作成