TITLE : 恋のすれちがい
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目 次
韓国の男は口説きの達人
韓国人処女信奉事情
「カカア天下」と「夫は神」
恋愛の技術と呪術
日韓恋物語の昔と今
キャリアウーマンの恋愛と結婚
激しく純愛、なんとなく純愛
男と女のいる風景
喜ばしい出会い
別れという名の旅立ち
あとがき
韓国の男は口説きの達人
韓国の男たちは女を口説くことにおいて実に熱心である。そして、いったん狙《ねら》いを定めたら、それはもう、徹底して口説き続けるのである。自分のことで気がひけるのだが、とりあえず、数年前に韓国へ帰省したときの私の体験をそのままお話ししてみよう。
韓国の教会では徹夜祈《き》祷《とう》会がしばしば行なわれるが、久し振りに参加してみようと、夕方から、かつてソウルに住んでいたときに所属していた教会へ行った。会堂の椅《い》子《す》に座りお祈りをはじめてしばらくすると、私の隣に一人の若い男性が座ってきた。彼は祈りながらも私のほうをしきりにチラチラと見ている。なんだか嫌な感じなので、トイレへ行くついでに別の席に移ってしまおうと思い席を立った。そして、トイレから出て入口のホールへ向かうと、そこに彼が立っていて、ニッコリと笑いながら近づいてくる。
「やあ、あなたがあまりにチャーミングなので、つい隣に座ってしまいました。どちらからいらしたのですか?」
こぎれいなスーツにきちんとネクタイを締めた、まあ品のいいビジネスマンといったところ。だいたい遊び半分に決まっているから、私はあからさまに嫌な顔をして見せ、「構わないで下さい」とひとこと言って会堂へ入っていった。日本でならばこれで話はおしまいとなるのが普通だが、韓国ではここからがはじまりである。「ここに座ってよろしいですか?」とまたまた彼は私の隣に座りこむ。「失礼します」と席を代える私。しばらく経《た》ってもやって来ないので、諦《あきら》めたのだろうとホッとしてお祈りにいそしんでいた。
夜が更けてくると私はすぐに眠くなるタチで、それまでにも徹夜祈祷を貫徹したことはついぞなかった。周りを見ると、あちこちに、居眠りをはじめる者、椅子に身体を投げ出して眠り込んでいる者がチラホラ目につく。眠気を覚まそうとホールに出ると、あれあれ、くだんの彼氏が待ち構えていたかのように近づいてくる。私がそのまま戻ろうとすると、彼はサッと私の前に来て行く手をはばみ、
「すみません、ほんのちょっとでいいですから話を聞いてもらえませんか、お願いしますよ」
と、しきりに懇願するのである。これだけ男に姿勢を低くされると、無《む》下《げ》には断りきれなくなる。私が無言で立っていると、彼は畳みかけるように話しはじめる。
「熱心な信者のようですね。何を祈っていたのですか? 私もいろいろと思うことがあってお祈りをしに来たのですが、あなたのこともお聞きしたいですね。ちょっとここを出て、どこかでお話ししませんか」
ほらきた。ビシッと断るしかない。
「私はここにお祈りに来たのですし、あなたとお話ししたいとは思いません。失礼します」
そう言ってすり抜けようとする私をなおも制して、彼は、
「そんなこと言わないで、決して失礼なことはしませんから安心して下さい、ほんのちょっとだけお時間をぼくに下さいませんか」
と執《しつ》拗《よう》である。こんなときの韓国の男たちの口調は実に乱れなく紳士的なのだ。それでも私は彼を無視し、憤然とした面持ちをみせるや、サッとスカートのすそをひるがえすようにして会堂へ入っていった。
もういいかな、と思って再びトイレへ行くと、彼はそのまま入口のホールに陣取っていたらしく、足早に通り過ぎる私に「お願いしますよ」と悲痛な声を浴びせてくる。なんとしても乗るまいと自分に言い聞かせて席に戻ったが、これでは帰ろうにも帰れない。それにしても、まあ朝までには諦めるだろうとお祈りを続けているうちに、やはり私は眠りこんでしまっていた。
気がついてみると朝の六時である。会堂の中はガラガラで、ほとんどの人たちはすでに徹夜祈祷を終えて帰ってしまったようだ。さきほどの彼氏もまさかこの時間まで待機しているわけもないだろうと、教会を出て階段を降りていくと、「やあ」と手をあげて例の彼氏が近づいて来る。うんざりするとはこのことなのだが、ここまでくると、私の意地もほとんどくじけそうになってしまう。
「いまからどちらへ? 朝までやっている店を知っていますから行きませんか」
「いいえ、ちょっと用がありますので」
「こんなに早くから? どこへ行くんですか」
余計なお世話も甚《はなは》だしいのだが、なんとか上手に断らなくてはこの場を逃げだせそうにもない。
「田舎《いなか》から出て来て叔父《おじ》の家に泊まっているので、徹夜祈祷を終えたらすぐに帰らなくてはならないのです。ですから失礼します」
「それならお送りしますよ」
「いえ、けっこうです」
「そうですか、それならば、今度必ずつきあっていただけますね」
なんだかガックリと疲れて私が肩をおとすと、彼はすかさず、
「それでは電話番号を教えて下さい。私から電話でお誘いしますから」
と言ってペンと手帳を取り出す。
そこで仕方なくデタラメの電話番号を教えて、やっと解放された、というしだい。
こんな話を自分ですると、なんだ自慢話じゃないかと言われそうな気がする。またある人からは「それほどしつこい人はめったにいないでしょうに、よほどあなたのことが気に入ったんでしょうね」と言われたことがある。が、断じてそうではないのである。
恥を承知で書いたついでに言えば、私は残念ながら殿方に執念を燃え立たせるような麗しき女《によ》人《にん》にはほど遠く、またそれほど若くもない。いくらひいきめに見ても「まあまあ」の程度を出るものではなく、この彼氏の「しつこさ」は韓国ではごくありきたりの平凡なものに過ぎない、というのが事実である。それがわかっていないと、この私の体験談は特殊な話に終わってしまう。これと狙ったら、最後の最後まで、徹底的なアタックをかけるのが韓国のふつうの男である。
韓国のコトワザに「(斧で)十回叩いて倒れない木はない」というのがある。何でも一生懸命にやればできないことはない、ということだが、多くの場合、男が女を口説く意味で使われている。
彼らの狙いには、ちょっとした遊び相手が欲しいといった場合から真剣な恋心を感じての場合まで、さまざまなものがあるだろうが、とにかく「落としたい」と思ったら、攻めて攻めて、相手が根負けするまで諦めることなく攻めまくるのが韓国の男なのだ。
そして、女のほうと言えば、これまた徹底的に拒否の態度を示し続けるのである。男に誘われたらまずは断るもの。それが韓国の女の鉄則である。なんて嫌な人だという態度を見せつけ、場合によっては「変態!」とか汚い言葉を男に浴びせもする。いかに優しく紳士的に言い寄られようとも、徹底して無視をする。母は娘に「たとえ男が乞《こ》食《じき》のように懇願してきても相手になるな」と教えもする。
それは、韓国の女が身持ちが固く、男の誘惑には決して応じない、ということなのではない。男の誘いに簡単に応じる女は女としての誇りをもたない者、だからこそ、とことん突っぱねるのである。いくら気に入っている男でもそうするのである。そうすればするほど、韓国の男はいっそう近づいて来る。断っても断っても、低い姿勢に立ってつきあいを懇願してくる男に、やがて女は「私にそこまでしてくれるのか」と心を許すのである。
そんな韓国から日本にやって来たばかりのころの私は、せっかく素敵な男性から誘われながらも振られてしまうという、なんとも愚かな失敗をしたことがある。
あるとき、通訳としてしばしば顔を出していた日本企業で仕事をすませて帰ろうとしていると、ひとりの男性社員から「よかったらお茶でも飲みませんか」と誘われた。以前から感じがいいなと思っていた人でもあったので、私は内心とても嬉《うれ》しかった。ここが肝心なところだから、すぐに「はい」と言ってしまってはいけない。ちょっとつっけんどんに「今日は忙しいので失礼します」と断ったのである。
そして、少したって、再びの誘い。「またいつかにして下さいませんか」と、今度はやんわりとした口調で断った。三回目は少々強引に誘ってくるに違いない、そのときにはしぶしぶの態度でオーケーしようと思って私は彼の誘いを待った。ところが、なぜかなかなか三回目の誘いがこないのである。それどころか、彼は会社で会っても、わざと私のほうを見ないようにしている。明らかに避けているのだ。もはや、彼からの誘いのあり得ないことを知ったが、あれだけ誘っておきながらなんて勝手なの、日本の男の気持ちってわからないと、大いに悩んだものだった。へんな話だが、そう簡単に誘いに乗らないということは、相手の男性に対する礼節でもあるのだ。
韓国の男は困ったことに、女のほうからのアプローチを受け入れるなんてみっともないことだと思っている。あくまで口説き落としてこそが男の子、ハントするべき者がハントされてしまってはならないのだ。だから、韓国の女はふつう、相手を好きでもこちらから先に「好きだ」とは言えない。それどころか、相手が言い寄って来れば、あからさまに嫌な顔をしてみせる。そうすればいっそう男の気がひけるからである。これで日本の男性との恋愛に失敗した韓国の女性は、私の知るだけでも数人はくだらない。
韓国の男たちは、教会においてすら女を口説くことに遠慮会釈がないのだから、他の場所では推してしるべし、である。また、そういう男たちに囲まれている韓国の女たちのほうとしては、口説かれることがないとなると、自分だけ取り残された思いでさみしくなるだけでなく、「男に声をかけられない女」としての自分を、このうえなく恥ずかしい思いで耐えなくてはならなくもなってくる。無意識の習慣になってはいるものの、韓国の女たちの多くが、何をおいても美容第一に身を処すところには、そうした恥はたとえ死んでも受けたくないという心の規制が大きく働いていることは明らかである。
韓国の男たちの主な「猟場」は喫茶店だと言ってよい。最近流行の喫茶店は、国際ホテルのラウンジなどにある、日本でもおなじみの明るいコーヒーショップ。韓国人の気分ではモダンな雰囲気を味わうことができる場のひとつである。コーヒーを飲むと言えば、韓国ではいまだに「近代的、カッコいい」のイメージがあって、女性のサービスがつく男性専門の伝統的な「茶房《タバン》」には足の向かない女性でも気軽に一人で入ることができる。
ただ、こういう喫茶店に若い女性が一人で入ると、しばしば見知らぬ男性から声をかけられることにもなる。
韓国にいた時には、喫茶店で男性から声をかけられることがしばしばあったのに、日本へ来てからというもの、喫茶店に一人で入っていてもそういうことがほとんどなかった。そのため、来日して間もなかった当時の私は、「もてない」思いでがっかりしていたものである。私は日本の男性には好かれないタイプなのかなと、けっこう悩んでもいた。そんなころ、韓国へ所用で行ったおりに、時間待ちにと喫茶店へ一人で入った。すると、ややあって、私に声がかかってきた。
「誰かを待っているのですか?」
仕立てのよい紺のスーツに身を包んだ三〇代かっこうのビジネスマンである。なかなかのハンサムでもあった。しかしナンパなんかに引っかかっている暇はないので、私はツンとすました顔で彼氏を見やりながら、
「そうです」
と冷たく言って目をそらした。すると、
「待っているのは男性ですか、女性ですか」
と聞いてくる。私はイライラしたそぶりを見せながら、
「女性ですよ」
と言うと、
「相手の方がいらっしゃるまで話相手になってもらえませんか」
と突っ込んでくるや、もう空いた席に座り込んでいる。
「困りますよ」
「来たらすぐにどきますから、心配ありません」
そんなこんなで、仕方なく相手をしながら、このときもデタラメの電話番号を教えて退散したのだった。もっともそのときには、一応、これで私がもてなくなったわけではないことが立証されたと、ホッとひと安心もしたのであった。そう言えば、私は久し振りの韓国でうっかりしていたのだが、こんな場合は「男の人を待っています」と言えば、すぐに諦《あきら》めるのである。
ともかくも、韓国の男たちが、暇さえあれば女を口説くことに力を入れているのはほんとうのことだ。これがイタリアやフランスでのことではなく、かつての東洋の君主国、しかもお固い儒教のお国がら、韓国でのことなのだから、どういうわけなのかと首をかしげてしまう人は多いに違いない。
それに関連して、もうひとつ日本人の首をかしげさすだろうものに、大学生たちの恋人探しのシステム、ミーティングがある。
ミーティングとは、ありていに言えば、ボーイフレンド、ガールフレンドをつくるための集まりなのだが、名目としては大学祭のためにということで行なわれる。現代の韓国では、毎年の大学祭に出るには、パートナーのいることが必《ひつ》須《す》の条件となっている。とくに女子大学などでは、パートナー同伴でなければ学校の中にすら入れてもらえないから大変だ。そもそも、どこの大学でも学園祭には同伴パーティーが開かれるので、パートナーがいなければ話にならないのである。そのため、相手がいなければ臨時のパートナーでもと必死に走り回ることになる。それでもだめなら、兄でも妹でも同伴してかっこうつけるしかないのである。
最近のミーティングにはさまざまなバリエーションが生まれているが、最も伝統的なミーティングはもっぱら次のような形で行なわれている。
まず男子グループの誰かが幹事になって、女子大や女子の多い学部や学科の女子学生たちのグループにミーティングの申込みをする。会合の場所はレストランか喫茶店。参加者はひとつのミーティングで男女それぞれ一〇人から二〇人くらい。ここまでは日本の合同コンパと同じだが、次からがちょっと異なる。
みんなが集まると、幹事が番号を書いた紙を折ってみんなに配り、同じ番号に当たった男女が互いにパートナーとなる。そこで決まったパートナーは、気に入っても入らなくても、その日一日はともかくもペアを組んでみんなで遊び、途中で解散となった後に、好みに応じて映画館とか卓球場とかへ行くのである。その後は二人の気持ちしだい、しばらくつき合ってみて本格的な恋人関係へと発展する場合もある。でもお相手が気に入った人物でなければ、次から次へと別のミーティングを求めて走り回る、という寸法。
ある年私は、学園祭を目前に控えてパートナーのいないことに気づいた。なぜかうっかりしていたのである。駆け込むようにしてひとつのミーティングに参加した。ところが運が悪いことに、よりによって、「頼むからあの人には当たらないように」と願った人物が相手になってしまった。もう学園祭までにミーティングの予定はなかった。仕方なくその人にパートナーになってもらってパーティーに参加するはめになってしまった。なんだかとてもみじめな思いをしたことを覚えている。また、これとは逆の体験も多かった。「なんとかしてよ」と頼みこまれて、相手のいない人のためにパートナーになってあげたこともたびたびあった。そんな具合で、パーティーに参加すること十数回、ミーティングには二、三十回は参加するのが当時の女子大生では普通のことだった。
韓国では戦後、西洋化の波を被るや、日本の鹿鳴館時代ではないが、上流の人々の間で、あたかもモダンの象徴のごとくに、男女同伴パーティーが盛んに行なわれるようになった。それを受けた大学生たちのパートナーづくりが、ミーティングを生むきっかけとなり、やがて恋人づくりの場ともなっていったのである。
これほど韓国の大学生たちが恋人づくりに熱心なのは、ひとつには、韓国人がきわめて見栄っぱりな性格であることが大きくかかわっている。いったん同伴パーティーへの出席が上流のステイタスを意味するものとなるや、われもわれもと出席を目指すことになる。出席しないと、なんだ、あいつはパートナーもいないのか、と言われることになり、そんなみじめなことに耐えてはいられないのが韓国人である。そのため、血眼になってパートナーを探すことになる。
それともうひとつは、結婚となるといまだ見合い結婚が大半を占めていることとも無関係ではない。もちろん、インテリ層の間には、見合い結婚に反発する女性も男性も増えてきている。だからこそ恋愛をということになるのだが、女性の職場進出がまだまだ限られている韓国では、恋人を作るチャンスは欧米人や日本人に比べてきわめて少ない。そこで大学がそのチャンスを得るまたとない場となるのだが、女子大学が多い韓国では男女が出会う機会もそれだけ少なくなる。ミーティングは、そうした韓国の状況が近代化の過程に生み出した、若者たちの「新習俗」と言ってもよいだろうか。
確かに、韓国の大学生たちは恋人づくりにやっきになっている。それに比べると、日本の大学生たちはあまりにも積極性に欠けていると思える。そもそも彼らは、いったいどこで恋人を見つけているのか、しばらくの間、そのへんが不思議でならなかった。
やがてわかったことは、キャンパス以外の場で、たとえばアルバイト先などで出会うことが多いということだった。学校の時間以外には各種のミーティングでパートナーを見つけるのにいそしんでいる韓国の学生とは違って、日本の大学生はそのほとんどをアルバイトで費やす者が多い。「だから、自然にアルバイト先で知り合ってつきあうようになることが多いんだよ」といった話を日本人学生たちから聞いた。これは、日本に来て間もなかったころの私には驚くべきことであった。
なぜならば、日本の学生のアルバイト先は、家庭教師や塾の講師はもちろんのこと、お中元・お歳暮のデパートの発送係、コンビニエンス・ストア、ビデオレンタルショップの店員、ウエイター、ウエイトレス、ガソリンスタンドのサービス係など多岐にわたり、そのほとんどが、韓国では、いわゆる3K仕事だからである。そんな場で出会った人を恋人に選ぶなんて、なんと誇りのない人たちなのか、そう思うことがたびたびだった。
一方、韓国の学生アルバイトはその多くが家庭教師である。いまやそろそろ地に落ちかけてはいるものの、韓国で大学生といえば、いまだ選抜された高級インテリのイメージが強い。旧時代からの文官エリートの誇りを受け継いだ自尊心の高さが、しっかりと抱え込まれている。そのため、韓国の大学生にとっては、3Kに当たる業種につくことは自らの誇りを失うことに等しい。ただ、人を指導したりものを教えたりする仕事ばかりがふさわしいのである。そこで家庭教師がアルバイトに選ばれるのだ。したがって、日本の学生が普段やっているアルバイトのほとんどは、韓国の学生にとっては恥ずべき職種として敬遠されるものばかりとなる。
韓国ではアルバイトをする学生には、いまだ苦学生のイメージが強い。そういう境遇にある者は「親に徳のない不幸な人たち」にほかならず、親の徳を受けられない者ほどみじめな者はない。とくにインテリ意識の強い学生たちにとっては、人からみじめに思われることは自尊心が許さない。だから、韓国ではいまだに、学生はアルバイトをしないのが普通である。私は日本に来た当初、大企業の重役を父親に持つ学生が、アルバイト先を見つけるために必死に走り回っているのが、なんともわからなかったものである。
それでも最近では、収入が多いということから、韓国でも3Kのアルバイトをする学生はかつてよりは多くなった。しかし彼らのほとんどはそのことに恥ずかしさを感じているといってよいだろう。たとえそうしたアルバイト先で異性の学生と出会っても、そこでは相手を異性としての対象とはみないのが普通だ。なぜならば、このみじめな姿の自分は、誇るべきほんとうの自分ではなく、たまたま仮の姿をとっている、自分ではない自分だからなのである。彼らにとっては、あくまでミーティングこそが、そのふさわしき場なのである。
ところで、韓国の女性雑誌に最近掲載された「女性問題特集」の見出しに、〈韓国ほど女が男につくす国はないが、また韓国ほど女が男になぐられる国もない〉というのがあった。実にその通りの現状があるわけで、近年では、夫の暴力に苦しむ妻たちのために、駆け込み寺のような施設をもって支援活動を行なうボランティア組織が各地につくられるようになってもいる。アメリカでも「殴られ妻」の問題が深刻だと言われるが、それが突出した一種の「現代病」であるのに対して、韓国のそれは「古き悪しき伝統」としてあり続けてきたもので、民主化の進行に伴って、ようやく社会問題として取り上げられるようになった、という性格のものである。
結婚すると、男は女に徹底した従順さを求め、女は男に徹底してつくそうとする。たとえば、夫の歯ブラシに歯磨き粉をつけて渡してあげたり、おかずを御飯の上に置いてあげたり、さらにはおかずを箸《はし》でつまんで口にもっていってあげたりするのは、韓国の奥さんではとくに珍しいことではない。新婚夫婦の甘い戯れならばいざしらず、なぜそんなことを何十年もやっていられるのかと言えば、それが韓国の夫婦の古くからの習慣だからである。それは家父長の威厳に対応するものであり、その威厳確保のために、ワイルドな夫たちが輩出することにもなる。
それならば、韓国の男性ははじめから女性に対してはワイルドいっぽうなのかと言うと、例の執《しつ》拗《よう》な口説きの場面での男性の態度をみてもわかるように、決してそうではないのだ。さきほどの雑誌の見出しに関連させて言えば、「韓国ほど結婚前と結婚後とで男の態度が変わる国もない」のである。これは性関係をもつ以前と以後とも言えるが、そこのところを基点にして、まさしく君子のごとくあった男が豹《ひよう》のごとくに変ずるのである――多くの場合。
韓国の男は未婚の女性に対しては品位を保った優しく寛大な態度で接し、また女のほうもそれ相応の品格と気位の高さを示そうとする。そこで、執拗な口説きと執拗な拒否という、韓国的な男女の攻防戦が映し出されることになる。
もちろん、リードするのは男で、女はリードされるところで自分を表現することになるのだが、そこだけを見て、韓国の男はなんて紳士的でソフトなのだろうかとの感想をもつ日本の女性は多い。ある在日韓国人の女性から、「韓国の男性は女性にとても優しいですから、妻に暴力をふるったりすることはまずないんですね」と韓国体験の感想をきかされたことがあったが、そうした「誤解」も、未婚の女性に対する男たちの態度から出たものに相違ないと思う。
たとえば、韓国の女子学生たちは多くの場合、女子学生どうしでいるときよりも、男子学生といるときの方がずっと楽しいと感じているはずである。私にしてもそうだったのだが、それは男子学生たちが女子学生に対してきわめて優しいからにほかならない。女どうしだとなにかと互いに競争心をつのらせることになるので、角突き合わせて気が重くなってしまうことが多いのである。
韓国の男子学生は女子学生にはとても寛大で、女性に対してはまるで競争心がなく、むしろ負けてあげようとする気持ちを強く示した。女の子特有の甘えた気持ちや態度をそのまま受け入れてくれる。というよりは、むしろそうしたほうが喜んでもらえる。だから、女子学生にとっては男子学生と友だちになった方が得でもあった。
一方、日本の男子学生は、優しげな物腰で近づいてくる者もあまりいないし、とくに女性だからという配慮をみせる者は少ない。当時の私は、韓国の男たちへの批判意識を強くもってはいたが、こうした点については、韓国の男たちの方がよっぽど紳士的だし、また近代的なんだと思ったものである。そのときには、「強きもの=男」と「弱きもの=女」という、脈々たる古き韓国の男女観が、単に西欧モダンな装いを借りて表現されているに過ぎないという、当然気づいてしかるべきことになぜか気づくことがなかった。
「貞女は二夫にまみえず」といった倫理が人々の意識を強く律している社会では、いったん性関係をもつや、女の立場はどうしても弱いものとならざるを得ない。男はもはや女が、自分以外を男とすることができなくなるのを知る。そして女は、なんとしてもこの男と離れてはならないと思う。残念ながら、韓国における「君子の豹変」が、多くの場合そうした条件の下で起きているのは確かなことだと思う。
韓国人処女信奉事情
私が日本に来る以前、いまから一一、二年くらい前のこと、半年ほどソウルの日本語学校へ通った時期があった。その時の教師は年配の女性だったが、戦前に日本の小学校と中学校を出ていて、日本のことにはとても詳しい人だった。彼女は、「日本人って、とっても恥ずかしがり屋の人たちなのです」とか「日本の文化はとがってなくてまあるいのですね」などと私たちの興味を引いておいて、「たとえば……」と具体的な話をしながら講義を進めるのが常だった。
多くの韓国人にとって、外国人といえばまず欧米人がイメージされて、日本人はお隣のよく似ている人たちという印象が強く、どこか外国人意識が希薄になっている感じがある。それは日本人にとっても同じことなのを後に知ったが、当時の私は彼女の話に登場する日本人を、異文化に生きる外国人というよりは「我々の枠組みからズレているいっぷう変わった人たち」というイメージで受け取っていたように思う。
私たち生徒は驚いたりあきれたりしながらも、それらの話を楽しんだものだったが、中にはどうしても理解できずに首をかしげざるを得ないものも少なくなかった。とくに次の話は、当時の私を含めた韓国の若い女性を驚嘆させるに足るものだった。
「日本の女性は結婚前は、あちこちへ遊びに出かけるなど、とても自由奔放なんです。でも結婚するとそういう奔放さはピタッとなくなり、家を守り夫に対して実に従順な妻となるんです。奥さんとしては世界の中でも最も模範的なのが日本の女性でしょうね」
彼女は「その証拠に」と言って一冊の本を取り出し、その掲載写真を回覧させた。それはおそらく戦前のものだったと思うが、朝方に玄関前に正座して夫を仕事に送り出し、同じようにして夕方に夫を出迎える日本の妻の姿であった。正座は韓国では、上位の者に怒られる時や囚人が監獄でやらされる、罰として服従を示す座り方なので、私たちは不思議な面持ちで写真に見入っていた。すると彼女はこんなふうに話を続けた。
「それにね、日本の男性は奥さんの過去にはあまりこだわらないんです。ようするに、結婚するまで処女だったかどうかを、韓国の男性のように気にすることはないんです」
それは、当時の平均的な韓国人であった私には、とても考えられないことであった。男女同権の本家、欧米のことではあるまいし、同じ儒教倫理の洗礼を受けたと聞く日本で、結婚前の娘に自由奔放な行動が許されるとはどういうわけなのか、しかも戦前の話ならばなおさらのことではないか。また、それが結婚とともにピタッとやめられるなどということが、そう簡単にできるものか、大いに疑問だった。
私が質問すると、日本の女性はそうした二重性をもっており、そのように、時がくれば娘から妻へとスッと転移できるからこそ立派なのだ、との答え。そして再び、男は結婚の相手が処女でなかったとしても、それほどこだわりをもたず、またもったにしてもこだわりをとろうと努力するのが普通だと言う。そんな男がほんとうにこの世の中にいるのだろうか? 後に長らく住まうことになるとは思いもしなかった日本、その地に住む男たち、女たちのことを不思議な思いで頭に描いたものだった。
韓国では「男は最初の女を望み、女は最後の男を望む」という名句が、実にリアルな響きをもって通用する。最初の女とはもちろん処女のことで、最後の男とは、女を知りつくした究極に自分を選んだ男、ということである。世相にいくらかの変化があるとはいえ、多くの韓国の男女にとって、この名句はいまだに世の常識のごとくに受け取られていると言ってよいだろう。
日本人にも「結婚するなら処女」の意識が強い男性はいるだろうし、「結婚するまでは処女を守り通す」と決意している女性もいるに違いない。また戦前には、それを倫理的な善と考える風潮が強かったことも確かだと思う。しかし、それを絶対的な結婚の条件にまで祭り上げるほどにゴチゴチな性倫理は、歴史的にも日本人にはなかったように思う。肉体的に処女であるかどうかよりも精神的な処女性こそが大切だ……。結局のところ、日本人はそんな具合に心を働かせようとする人たちである。そこが韓国人とは違うのである。
韓国では、結婚前の女性にとって処女は何よりも高貴な宝物と考えられている。それは将来結婚する男性にだけ捧《ささ》げなくてはならない必《ひつ》須《す》のプレゼントであり、男性にとってはそれを貰《もら》わなくて何の結婚かというほどに決定的に重大なモノなのである。したがって、処女を守るためには本人はもちろんのこと、両親は執《しつ》拗《よう》なほどに注意を傾ける。なにしろ、男にとってはどれだけ女を知りつくしているかが良いこととされるのだから、処女たちは常に男たちに狙《ねら》われているとして間違いないのである。
この、男にとってだけ都合のいい倫理が相変わらずのものであることは、韓国の女性誌で「男女の過去」を特集したさいに、韓国のある女性ライターが書いた次の文章からも明らかだろう。
「時代が変わってもびくともしない倫理の二重性――。実際、我々の親の世代が学校へ通っていた時と今とでは、どれだけ多くの変化があったことか。……しかし、女性と男性にかかわる倫理の二重性は強固に変わろうとしない。この世で人間ほど大切な存在はないとは言うものの、男女で比較すると、『女性』の大切さは半減してしまう。それは男女の過去にまつわる問題だけを見てもはっきりしている」(『ヤングレディ』一九九二年一〇月号)
そして彼女は、韓国の社会は根本的に「男性にとっての過去が『美談』となり、女性にとってのそれが『一生の傷』となる」構造をもっているとして、激しく批判している。
同誌に載った未婚の男女五〇〇人に対するアンケートからは、かつては圧倒的な多数をしめていた「結婚までは処女を守る」が、最近では「結婚を前提にすれば婚前交渉があってもいい」への傾斜をみせていることがわかる。ところが一方の男たちでは、「結婚の相手は処女でなくてはならない」と答える者がいまだに圧倒的な多数をしめている。そのため、婚前交渉があって結婚できなかった場合には、女性だけが傷を負うことになってしまう。こうしたケースは、韓国では姦《かん》淫《いん》罪《ざい》(婚姻憑藉姦淫罪)で女性のほうから訴えることができる。結婚をエサにした性交渉で刑法上の姦淫罪が成立するのである(一九九五年の廃止が決定されている)。そのことからも、韓国ではいかに処女が貴重な財産とみなされているかがわかるだろう。しかし大半の被害者は世間に知られることを恐れ、訴訟を起こすことなく一人、深い心の悩みとして抱え込んでいる。
それが他人に知られたときには、ほとんどの場合、初婚の若い男性を結婚相手に選ぶことができなくなる。傷を負った者は、韓国の社会では、それなりにマイナス要索をもった者を結婚相手に選ぶしかなくなってしまうのだ。処女であるか処女でないかは、未婚の女性にとっては、ほとんど正統的な婚姻を準備する者に相応《ふさわ》しいか相応しくないかに等しいのである。
この雑誌には「女性問題電話相談窓口」が設けられているが、その担当者が書いた文章によれば、相談の内容は大きく、夫の暴力、夫の浮気、未婚の女性問題と分かれるそうである。未婚の女性問題は全体の一〇パーセントをしめているが、そのうち半分が婚前の性関係にまつわるものだ。そして、夫の暴力の原因として最も多いものが、妻の過去、つまり結婚前の性的な関係なのである。相談事例をいくつか紹介してみよう。
例1 結婚を前提として八カ月間つきあっていた男性が、婚約の日に次のようなことを言ってきた。「結婚生活では互いに信じあっていかなければならない。これからの二人の愛のためにも、過去のことをすべて告白してきれいに水に流そう」。そして彼は自分のほうから先に、以前に水商売をしている女性と性関係をもっていたことを告白してきた。自分のほうにはそれまでに男性経験がなかったので、「私にはする話がありません」と言ったのだが、まったくないわけはないだろう、何でもいいから話して欲しいというので、相手の気分に合わせようと記憶を探ってこんな話をした。大学一年生の時にミーティングで知り合った男性にしつこくつきまとわれたことがある。ある日、その男性が酒に酔って家の前に待ち伏せしていて、私に近づいてきて突然抱きしめるや、サッとそのまま逃げて行った。こんな話をしたのだが、それ以後、彼は忙しいと言ってまったく会おうとしなくなり、やがて「お前は女の質が悪い」と婚約破棄を通告してきた。
例2 見合い結婚をして一年ほど経《た》ったある日のこと。一人の女性が家にやって来て子どもを置いていった。結婚前に夫と数カ月間同《どう》棲《せい》していた時に生まれた子どもだという。大きなショックを感じたことはいうまでもないが、これも「運命」と諦《あきら》め、その子を引き取って育てていた。それから少し経って、夫は家に帰って来るなり、いきなり「不潔な女だ」と言いながら私を殴るのである。それからは毎日のように、夫の暴力に苦しめられている。なぜ殴るのかは次のような理由からだった。以前、同じ故郷の男性との間に結婚話があったが、その人は交通事故で亡くなってしまっていた。夫はどこかでその話を聞きつけてきて、「お前はおれをだました」というのである。
例3 私たちはとても愛し合って結婚した。新婚旅行中に夫は、しきりに「愛する間では秘密があってはいけない。どんなことがあっても理解しあわなければならない」と強調する。言われればその通りの気がするし、愛する男をだますような女にはなりたくなかった。母からは「女の過去の秘密は(男には話すことなく)お墓までもって行かなければならない」と忠告されてはいたのだが、夫の言葉を信じたかった。そこで、小学校二年生の時に、近所のおじさんに性的ないたずらをされたことを告白した。それ以来、夫は「汚れた女」とたびたび口に出しては罵《ののし》り私を苦しめる。なんとか優しく接したいとは思っても、もはや限界にきてしまっている。
これらの例では、女たちはいずれも処女のまま婚約や結婚をしている。それにもかかわらず、この程度の話で男たちは「宝物」に傷がついていると大騒ぎなのだ。あまりに幼児的で身勝手と言うしかないが、韓国ではとくに珍しい男たちのことではない。それぞれ、教養も社会的な地位も平均的かそれ以上にある男たちのことなのである。
自らは女を知りつくしながら、相手は男のオの字も知らないウブな娘がいいという、そうした関係を理想というよりは現実のものとしなくてはならないと、多くの韓国の男たちは本気で考えている。この雑誌の同じ特集で二六歳の男子大学生の意見が紹介されているが、それは実に現代韓国の若い男性の意識を象徴するものと言える。要約すると次のようになる。
「男どうしが集まると軍隊の話から始まり女性体験の話で終わるのが一般的だ。そこでは実に矛盾した男の態度を容易に見いだすことができる。それは、男の過去の性体験はまったく問題視されないのに、女の純潔についてはことさらに重要視されることである。しかし、男女間の愛は、そういうことよりも、理念や思想を越える美しさをもつところに価値があると思う。理性ではそう思うのだが、正直に言って、私自身、女性の婚前の性体験は、他の女性については理解できるが、自分の女については決して許すことができない。これは、私が保守的な考えかたをしているせいもあるかもしれないが、韓国の男の大部分がもっている利己的な考えだと言ってよい。確かに、女たちの過去が問題なのではなく、男たちの処女性に対する態度により問題があると思うのだが……」
ここに、一般的には近代的な価値観をもちながらも、自分のこととなると旧時代からの価値観から脱することのできていない、韓国の男たちの典型的な意識のありかたが正直に物語られている。
今年(一九九三年)の三月、ある日本の雑誌の依頼で「韓国の女性事情」を取材し、多数の若い韓国人未婚女性にインタビューする機会があった。いずれにも婚前の性交渉について聞いてみたが、その八割までが「結婚までは処女を守る」の答えだったことには、いまさらながら驚かされた。残りの二割の中では「結婚を前提としてならばいい」が多く、その次に「愛しているならばいい」がわずかながらあった。
中でも、韓国の一流女子大学でありお嬢さま大学としても名高い梨花《イフア》女子大学四年生が次のように力説したのは印象的だった。
「いくら愛する相手であろうとも性の関係はしたくありません。結婚の日に何よりも大事なプレゼントとして処女を捧げたいと思います。最近の若者たちは性の関係が乱れていると言われますが、私の周りでは処女を守り通そうとする者がほとんどです。私はそのことを韓国の女として誇りたく思います。それに、結婚生活でも性の問題はほんの一部分に過ぎないでしょう」
また、ある女子大学の二年生はこんなことを言っていた。
「私は独身主義なんです。我が国《ウリナラ》のお母さんたちはみんな結婚は苦痛だと言っていますよ。だから、経済的な能力さえあれば結婚したくないと思います。独身生活をするにしても、男たちから声をかけられるような軽い女にはなりたくありません。処女を失うことは男に対する敗北です。ですから生涯強く処女を守って生きていきたい」
取材に同行した日本人の男性編集者、女性カメラマン、いずれも、この二人の女子大生の言葉には「考えられない」と大きなショックを受けたようだった。
そんな韓国にも、手渡されたオレンジを受け取ればセックスOKのしるしだとかで名高いオレンジ族なる若者たちが登場するようになった。確かに堂々と自ら名乗るなど新しい流れには違いないが、これを韓国的な性革命の兆候とみるには早いと思う。そもそもオレンジ族とはそういう若い男たちが自称し、後にそれを取り巻く女たちもまとめて呼ばれるようになったものだ。オレンジ族の男たちは、外車を駆るいいところのお坊ちゃんたちで、韓国で言うKSマーク(品質保証のマークのこと、日本のJISマークにあたる)だから、それを狙《ねら》って遊び好きな女の子たちが群がる、そういうことなのである。
彼らとも会っていろいろと話を聞いてみたが、その中の一人、自らオレンジ族と名乗る若い女性は次のように言っていた。
「四、五年前から登場したオレンジ族は、韓国社会の伝統的な性に対する古い考えかたに反発して、西洋的な方向を目指していた。ディスコで酒を飲んで気の合うパートナーをみつけ、よければそのままホテルに直行するっていう、まあ、節操のない風景が続いていたのね。でも、去年の暮れあたりからちょっとやりすぎじゃない、みたいな気分をもつ者も多くなってきて、最近ではオレンジ族がオレンジ族を批判する、なんてことにもなって、なんとなく白けてきている。私もオレンジ族だけど、今では性関係にはずいぶん気をつけているわ。ほんとうに好きな相手ならばいいけど、単に一時的な相手と性関係はしたくないわ」
不景気になってきたからか、飽きてきたからか、それとも非難囂《ごう》々《ごう》へのポーズなのかわからないが、もはやオレンジ族は通俗化したからと、彼らなりによりトレンディなスタイルを考えているようでもあった。しかしながら、彼女たちはやはりKSマークのお嬢さまではなく、KSマークのお坊ちゃんあってのオレンジ族に違いなかった。KSマークのお坊ちゃんオレンジ族に同じKSマークのお嬢さま女子大生が同調しない限りは、オレンジ族は貴族たちが下々の娘に手を出すといった範囲を出るものとはならないのだ。
最近の韓国では強《ごう》姦《かん》事件が多発しているが、先進国と比較するとアメリカの次に発生率が高いという数字が出ている。今、この問題は韓国では大きな社会問題となっていて、この前の大統領選挙の時(一九九二年一二月)にも、多くの有権者たちが抜本的な解決を強く訴えていた。韓国の政府はこの強姦事件の多発を防ぐために全力をあげて取り組んでいると称している。何をしているかといえば、ヌード雑誌やポルノ的なビデオの輸入禁止であり、それに相当する国内刊行物の禁止である。韓国で初めてと銘打たれた某有名女優のヌード写真集が、発売直前に出版を差し止められたり、派手なSEX小説を書いて問題となったマ・グアンス教授の逮捕、拘束などが、この問題に韓国政府がどのようなセンスで取り組んでいるかをよく物語っている。
こうした禁止に続いてとられている政策が、なんと女性の隔離ともいうべきものなのである。電車には女性専用車両が設けられ、それに呼応するかのように、ロッテ・デパートなど大きな公共の場には女性専用の駐車場が設けられた。
強姦、あるいは強姦まがいに好きでもない男に犯されたとすれば、どんな女性でも心に大きな傷をもたざるを得ない。その傷の深さには個人差があるだろうが、韓国の女たちにとっては、そのことで自分の一生を根本からみつめ直さなくてはならなくなる。それは単に悔しい、屈辱だという心理的な苦悩だけではなく、明らかに女としての価値の欠如の意識が大きくのしかかってくるからである。そのため、ひとたび汚れた肉体はもはや大事にする意味を失ったと、性意識を一八〇度変えて突然、体を売ることを何とも思わない女へと変身をとげる者も少なくない。それは、処女であることを一〇〇の価値とし、処女でないことを価値ゼロとみなす社会を前にしての、悲しい女たちの敗北なのである。
売春まではいかなくても、処女を失ったことによって自らを「正統的な婚姻の失格者」と決め込み、ネオンまたたく夜の世界へと流れてゆくケースが韓国では実に多いと言われる。私の知っている限りでも、韓国人ホステスたちが水商売に入るきっかけでは処女喪失がほんとうに多いと思う。日本ではホステスは女たちの職業のひとつに過ぎないとも言えるが、韓国では身を落とした女たちが就く、哀れで卑しい職業とみなされ続けている。
強姦あるいはそれに類似する体験で処女を失った韓国の女が、どんな心理状態で苦《く》悶《もん》しているかを知っていただくために、ある韓国の女性誌の相談コーナーに載った記事をご紹介しておきたい。彼女は現在、二七歳で貿易会社に勤務している。
「二五歳の時、同じ職場の女性職員たちと団体ミーティング(社会人たちのミーティング)に参加した男性にしたたかにお酒を飲まされ、朦《もう》朧《ろう》とする意識の中でホテルに連れ込まれて処女を奪われた。彼は『あなたは男をよく知っているんじゃないの』とのひとことを残したまま、二度と会おうとはしなかった。天が崩れるような思いで男を恨んだその日から、ただひとりで悶《もん》々《もん》と苦悩するしかない日々がやってきた。処女を失ったことに加えて、簡単に男に抱かれてしまった自分に悲観し、自己嫌悪ゆえの自己虐待を繰り返しながら二年が過ぎ去った。そして最近、ひとりの男性から愛を告白され、だんだんと彼のことを好きにもなって、今では深く彼を愛するようになった。しかし、そうなればなるほど、過去の体験に対する罪の意識に襲われ、また悲しみの底へと心が深く深く、沈みこんでいくのである。愛する彼に捧《ささ》げるべき処女を失っているという事実は、今の私に、彼に対する大きな罪の意識とともに、これ以上ない悲しみを与えている。思い切って処女膜再生手術をしようかとも思うが、そうすればさらに彼に対する罪を重ねることになってしまうので踏み切れない。過去のことをいつ彼に知られ、いつ別れがやってくるのかと、不安の毎日を送っている」
被害者意識が強すぎるとか自尊心がなさ過ぎるとは、現代の日本や欧米に育った者には言う資格のない言葉だろう。幼いころから、親・兄弟から学校、社会をあげて、なくてはならない最も大切なものと主張し続けられてきたものを失った心の痛みは、やはり失った者にしかはかることのできないものに違いない。
女性の処女性を重視する考えが、もともとは父系の血の一系性を守ろうとする、父権的な家族の制度に発するものであることははっきりしていると思う。母系の血の一系性を守るためならば、それほど女性の処女性にこだわる必要はないはずである。
日本も戦前までは、結婚前の女に処女を求めたことでは韓国と同じだと言う人は多い。しかし私は、かつて韓国の日本語教師が語ってくれた、戦前の日本でも結婚前の女性に奔放な行動が許されていたとか、男性もそれほど結婚前の妻の処女性にこだわらなかったとかいう話は、やはり真実のことだったと思う。それは、戦前はもちろんのこと、戦後も十数年ほどの時期までは、日本に古い時代の母系制社会以来の風習が各地に根強く残っていたことを知ったからである。民俗学などでは、近代化される以前の日本には、各地に「山遊び」とか「浜遊び」と称され、特定の一時期、結婚前の男女が自由に性交渉をもつ風習のあったことが推測されている。その名残りが、村の若い男女たちがひとつ屋根の下に雑魚《ざこ》寝《ね》の状態で寝泊まりし、共同で籠《かご》編みの作業などを行なった「若者小屋」であり、その形はつい最近まで地方では見られたという。
また、四〇代以上の男性からは、しばしば村の女性に「夜《よ》這《ば》い(呼ばい)」をかけたという体験を聞くことがあった。その時には、わざわざ家に鍵《かぎ》をかけないでおく家も多かったという。また、ある人からは、一年に一度の祭りの夜には町の灯りをすべて消し、暗《くら》闇《やみ》の中で出会った男女がそのときに限りセックスをしてもよいとされていた、という話を聞いた。
これらの風習は、共同体が主催する原始的な婚姻から、母系制時代の招婿婚までを含む、いろいろな段階の婚姻形態の名残りを示すものと思われるが、韓国ではおよそそうした時代の面影をとどめるものを見ることができない。しかし、少なくとも李朝(一三九二〜一九一〇年)以前の韓半島にはあったものと推測できる証拠はいろいろとある。
たとえば、高麗時代(九三五〜一三九二年)には性の観念はきわめて開放的なものとしてあり、川などでの男女の混浴が行なわれており、離婚、再婚も大きな障害なく行なわれていたという記録もある。こうした風潮は李朝初期まで続いたと思われ、オーストリアのイエズス会士マルティン・マルティーニが一六四〇年代に書いた『支那新国』には、次のような記述がみられる。
「(朝鮮の)女性の品行は中国人のように脆《ぜい》弱《じやく》ではない。女性が男性と自由自在に話をしたりすることには何らの制裁を受けることもない。そのため中国人たちは、半島人女性の気風を軽薄だと批判している。また、半島人の結婚も自由だった。二人の意見さえ合えば、両親の許可を受けなくてもよいし、また結婚について両親に服従する義務もなかった」
また、一七世紀オランダの宣教師アーノルド・モンタヌスの『日本誌』にある一六世紀の朝鮮関係記事のくだりには次のようなことが書いてある。
「高麗人の妻には大胆な自由が与えられ、家の外を自由に歩き回り、男と泰然と連れ添って歩くことができる。また、二人が気に入れば、親の許可なしに結婚が可能である。満州人は妻を家に囲いこむのだが、高麗人はそうではない。満州人が高麗人を差別するのは、彼らが自由自在にふるまうことに対する道徳的な反感であった」
また、日本の「山遊び」や「浜遊び」と同じものもあった。新羅時代(六七六〜九三五年)には、「福会」といって、仲春の訪れる四月八日から一五日の間は、若い男女がお寺に集まって殿塔を回るという風習があった。この会で気が合った男女の間にロマンスが作られたという。この風習は高麗時代の一時期には国家的な規模のものともなり、お城を巡る「径行習俗」となっていった。これは農耕の豊かな生産を祈る儀礼として行なわれたが、高麗末期に途絶し、李朝初期に仏心の強かった王様によって復活したこともあったが、やがて消え入るようにして絶えていってしまった。
済州島では女が強いなど、地方の山間部や離島にはかすかにそうした時代の名残りが感じられるともいわれる。が、日本とは違って、近代の韓半島に母系的な性の風俗やそれに基づいた男女観が消失してしまったのは、李朝期に国策として取り入れられた父権絶対主義ともいえる儒教的な倫理・道徳の普及が強力におしすすめられ、韓半島のすみずみにまでいきわたっていったためであることは間違いないだろう。
もうひとつ、もしかしたら処女を宝物のごとくに考えることに関係があるかもしれないと私が思うのは、中国や韓半島に古くからあった「少女同寝」という養生の思想である。長命を保ち若返りする地上の妙薬として「二七小陰」というものがある。これは二×七で十四歳前後の少女の肉体に触れて養気を得るという風習である。必ずしもセックスをするわけではないが、小陰を捧げること以上に老父への孝行はないとも言われ、古くは奴《ぬ》婢《ひ》(奴隷)たちが自分の娘が養気を生むに相応しい歳《とし》となれば、そのために娘を殿上にささげることが道理であり、また不文律でもあった。
この考えかたは「元気相火」という道教的な原理に基づくもので、男女の接触によって火が起きる、つまりエネルギーが生じる、というものである。韓医学に決定的な影響を与えた中国の書物『本草綱目』(一五九六年刊)にも、「二七以前小陰同寝藉其薫蒸最為有益」、つまり「一四歳以前の少女と同寝することは、その香気を蒸す(その気を食す)には最も有益である」とある。晩年の毛沢東が若い女性たちをはべらせて、この「少女同寝」による健康法にいそしんでいたことは知られている。また、韓国のマスコミの報道では、金日成がつとにこの養生法を用いていると言うのだが、もちろん真相は知るよしもない。ただ、そうした養生法をかつての貴族階級の者たちがしばしば実行していたところから、そう推測することにそれほど無理はないとは思う。
日本にもこうした養生法が伝わってはいるのだが、ついぞそうした風習があったという話は聞かない。あったとしても、特殊な形でひっそりと行なわれていたのだろう。
私は、日本人が処女へのこだわりが比較的柔軟であるのは、西欧的な近代化そのものによるのではなく、それを受けて従来からの母系的な価値観が強く働いたためで、逆に韓国人が処女に強くこだわるのは、父系的な血の一系性への強烈な守護の意識が母系的な価値観を意識の深部に圧伏しているためだと推測している。そして「少女同寝」の風習にみられる「未通女の純粋な気」とも連結していると思うが、いずれも確かなことは不明だと言うしかない。しかし、すでに述べたように、そもそも処女性の重視が父系の血の一系性を守るための制度的な思想に発していることは疑いないと思う。
韓国の強固な処女信奉は、今後の西欧的な近代化の進展によってゆるみはするだろう。しかし、日本のように潜在する古い母性優位時代の価値観の働きを得ての力強い変化を期待することはまずできないと思う。
「カカア天下」と「夫は神」
ひさしぶりに大学院の同じ研究室の先輩に会った。先輩とはいえ私より少々年下の彼女は、カナダのケベック州に生まれ、中学の時に日本へ帰ってきた体験もあって、英語とフランス語と日本語を完《かん》璧《ぺき》に話す。彼女は、大学院修了後、カナダ問題の専門家としてある研究所に所属したが、二年ほど前に日本人の男性と結婚して、つい最近二番目の子供を産んでいた。結婚直後に会ったときの彼女はとても幸せそうだったが、最近、結婚生活にはいろいろと不満を感じているという。
「最近、ストレスがたまってイライラしているのよ。子供が二人もできると本を読む時間もないし……。ねえ、日本の男って世界的にみてもちょっと理解がなさすぎるんじゃない? 共稼ぎのときも損な立場だなあって思ったけど今はもっとひどいわ。私、家で翻訳の仕事をやってるでしょう、でも彼は仕事から帰って来ると『疲れてるんだよ』って言ってね、家の仕事はほとんど助けてくれないのよ。子育てプラス翻訳の仕事プラス家の仕事なんだから、私のほうがよっぽど疲れていると言っていいじゃない? これが私だけじゃなくてみんなそうなんだから。こんな先進国って他にあるかしら」
仕事を持っている既婚の日本女性からはしばしば聞かされる話だが、アメリカやカナダに長らく生活したことのある彼女にしてみれば、なおさらのこと、「なんて日本の男は」とボルテージが上がるのはよくわかる。でも日本の女性の場合、多くがこうした不満を実に客観的に語る。アメリカの女性ならば、もっと内側からの思いを突き出すようにして語るだろう。彼女にしてもそうだが、日本の女性は多くが外側から自分の家庭を見やるような位置で語る。そんな場合には、内面の苦悩にまでは至らないような、何かの力が作用しているはずなのだ。私は常々そのへんのことを知りたいと思っていた。
「確かに、アメリカやカナダの男性のほうが家庭の仕事はよくしますね。でも個人差があるし、いまや主婦が抱えている問題に、それほど大きな違いはないんじゃないですか。少なくとも、精神的な面で見る限り、日本は欧米や韓国なんかよりも女性の地位がずっと高いと思いますよ。そもそも日本人の考え方や感性のあり方が女性的でしょう? だから、日本の女性は精神的なきつさをそれほど感じなくてもよくなってるんじゃないんですか」
アメリカやカナダの実情をよく知る彼女には、かの地には法的・社会的に先進的な男女平等主義がある一方で、現実の生活面では、心理的に男権主義の強い圧迫を女性たちが感じていることがよくわかっているはずだった。日本の男性の亭主関白ぶりは、けっして妻に精神的な圧迫感を与えるようなものではない。
彼女は「それはそうなのよね」という具合に私の言葉にうなずくと、にこっと明るい笑い顔をひとつ見せてから言った。
「そう言えば、日本は確かに母系的だわね。私の両親もそうだけど、同じ孫でも息子の子供よりも娘の子供への愛着のほうを強くもつ親が多いみたい。うちの親なんか私の兄の子供には丁寧語を使ったりしてね、どっちが内孫かわかんない感じよ」
私はこうした発言に接すると、しばしば虚をつかれたような気持ちになってしまう。つまり、日本を知っているはずの私が、日本人ならば大いにあり得る発言にも「えっ?」と一瞬の驚きを感じてしまうのである。
韓国人の親一般が感じる孫に対する気持ちは、彼女の言うこととはまったく逆なのだ。韓国人にとっては、嫁がせた娘の子供はあくまで他人の子供である。だから、その孫に強い愛着を示すことを何か悪いことのように感じてしまうのが普通だ。日本人ならば彼女の言うことは特異なことでもなんでもない。そのことを私はよく知っている。でも私の自然に養われた意識は韓国人のもので、息子のほうの孫に大きな愛着を感じるのが世の常識だと感じている。だから、いきなり正反対の発言をされると、ついつい驚いてしまうのである。
一外国人の感想ということで言わせてもらえば、日本の社会は根本に女性原理があって、それを男性が忠実に実行しているという感じなのだ。日本に来てしばらくたった時、あっ、これは女がやらせている社会だなと思った。だから日本の女性には精神的なゆとりがあるんだなと思った。現代日本は制度的には父系制の社会には違いないが、強固な父系制社会である韓国からきた私にしてみると、日本はなぜか父系的な力をストレートに発揮しようとはしない国である。
日本の男女のかたちは、韓国の男女とも欧米の男女とも違う、何か独特なものだとずっと感じていた。それは、垂直にも水平にもなろうとはせず、シーソーのように上下しながら、巧妙に斜めの位置をとろうとしているような、そんなかたちなのである。そこには、欧米的な男女平等への意思とも、韓国的な男女の上下をはっきりさせようとする意思とも違う、何か別の意思が働いているように感じられてならない。
今年(一九九三年)の二月に日本の総合研究開発機構(NIRA)が、独身・既婚の男女四三九人を対象にした電話による意識調査では、独身女性には「封建的な考え方の男性とは結婚したくない」といった意見が多いのに対して、独身男性には「しっかり家を守ってくれる女性」を結婚相手として求める者が多いといった結果が出たという(『朝日新聞』一九九三年五月二四日)。このアンケート調査の結果は、先の彼女の不満が多くの日本の女性たちのものであることをよく示しているように思われる。と同時に、私はこんなふうにも思う。結局このように、一見すれ違った考えをもつ男女が互いに結婚する。そこで、亭主関白とカカア天下が両立するという、世にも不思議な日本の家庭がつくられるのではないかと。
「うちは亭主関白だ」とか、「カカア天下だ」とか言う場合、そのほとんどが冗談めかして言われるにせよ、心理的な感触としての真実を語っていることは明らかだ。自分の体験からいっても、「おたくのご主人はどう? 亭主関白なの?」と聞くと「そうなのよ」と答えるから、さらに「でもあなたもけっこうカカア天下なんじゃないの」と聞いてみると、「それもそうね」という言葉が返ってくることがほとんどだ。そして、そうした言葉がスムースに返ってこない場合、その家庭はどこかうまくいっていないことが多いように感じられる。その点が重要に思えるのだ。
日本の男たちは女に対しては多くの場合、自ら行動に出る前に女の側の反応をうかがおうとしている。韓国の男たちのように、自分のほうからストレートに行動を提起することがないのだ。最初はそれが弱々しく感じられて嫌だったが、やがて、そのためにこちらの心に大きな余裕ができることを知るようになった。当時は、日本の女たちがそうした男たちの姿勢を当然のごとく受け取っていることを、なんともうらやましく思ったものである。私の感じでは、レディー・ファーストとも民主的な男女平等とも違う、明らかな心理的女性優位の感性が日本の男たちの行動を形づくっているのだ。
ようするに、行動面では男性優位で精神面では女性優位である状態、それがうまくいっている夫婦が亭主関白とカカア天下が両立している夫婦なのだと思う。これを母子の関係にみたてる人は多い。確かに、ご主人を含めて「うちには子供がふたりいる」とか「三人いる」とかいう奥さんは多い。女性優位の精神性が母性に由来することは確かだが、だからと言ってそれが母子関係の再生産だとは思えない。行動面では夫が実権を握っているにしても、精神面ではどうしても日本の父性は母性の上に立つことができない、そういう伝統の問題なのだと思う。
それでも、現代日本の家庭の主婦は、子育ての時期が終わると、その多くが家庭と社会との間で宙《ちゆう》吊《づ》りになった気分を抱えこまざるを得ない。そして仕事をもとうとすれば、お手伝いさんを雇ったり、夫と共同で家事などを行なったりができない限りは、家庭と社会との板挟みになるという新たなジレンマを抱えるしかない。それならば、家庭にこだわることなく、女も男も共同で稼ぎ、共同で家事を行なう家庭をつくればよいではないか――そういう考えが女性解放論の立場から出されている。そして、欧米では日本よりは多くの男女がそれを実行に移している。
私も行動面ではそうできればいいなと思う。しかし精神面での、亭主関白に対するカカア天下という、日本的な夫婦関係には捨てがたいものを感じる。この欲張りなふたつの思いは、もちろん現実的には両立できるはずがない。なぜならば、伝統的な家族を選択しない以上は、亭主関白もカカア天下もありようがないからである。
そんなことができるかどうかは別にして、伝統的な家族を捨てて社会に向かうのではなく、亭主関白とカカア天下の両立をもって社会を開いてゆく方法はないものかと思わずにはいられない。
韓国は日本とは違って、行動面でも精神面でも圧倒的に男性優位の社会である。単なる父系社会ではなく強固な父権社会である。強固な父権社会とは、ひとつには強固な女性蔑《べつ》視《し》の社会であり、それだけ肉体的にも精神的にも、女が苦痛を強いられることを避けることができない社会である。韓国はその代表的な国と言ってよいだろう。
韓国では伝統的に女は不浄な存在とされてきた。そして、女の不浄を忌避する習慣がいまだにまかり通っている。たとえば、韓国の女性は現在でも朝一番に人の家を訪ねることを避けている。これは家庭の教育が厳格な家ほど厳しく守られている。相手の家に大事なことがあれば、とくに気をつけなくてはならない。隣の家で誰かが旅立つようなことがわかると、万が一にも、女の不浄に接してその人に事故があってはならないと、隣の家に女が行くことを避けようとするのが普通だ。また、大事な用があって出かける前に、道で女性と会ったり、女性に道を横切られたりすると、女の不浄な汚れを落として運を回復するために、唾《つば》を三回吐くということも行なわれた。
正月に初めて訪ねて来た者が女だった場合は最悪で、その一年の運が悪くなるとされる。もし女が訪ねて来たりすれば塩をまいて厄払いをする。私も小さい時から「正月には人の家に行くな」と厳命されてきた。それなのに弟にはさっさと行かせるのである。私は歓迎されたと喜んで帰ってくる弟を、いつも、いいなあとうらやんでいた。
現在でも、韓国では女は朝早くタクシーに乗せてもらえない。また、朝一番に会社に女が電話をかけることもよくない。そうした女性不浄の観念に支配されていた私は、日本に来た当初は少なからず心の葛《かつ》藤《とう》を感じざるを得なかった。たとえば、日本のある会社で事務のアルバイトをしていた時のこと。急な用事があって、朝早くに取引先の会社へ電話をしなくてはならなかった。しかし私は、もし私の電話が一番最初だったらどうしよう、やはり日本でも失礼なことになるんだろうなと思い、電話をするかすまいか躊《ちゆう》躇《ちよ》していた。アルバイト先の上司は、なんで早く電話しないのかと私をせかす。そこで私は理由を述べて「そういうわけですから代わって電話をしていただけませんか」と頼むと、上司は「朝一番に女性から電話があったなんて、そのほうが嬉《うれ》しいですよ」と笑う。日本にはそんな迷信はないと言われ、ほっとしたことを覚えている。
また、「韓国の働く女性たち」という特集番組を日本のテレビで見た時のこと。たまたま女性不浄の問題が話題にのぼった。彼女は二〇代半ばの、韓国には珍しい女性カメラマンで、男性カメラマンに負けないガンバリ屋で腕もよい。結婚式の取材写真を撮りに式場へ行ったのだったが、いくら頼んでもどうしても中へ入れてもらえず、しょんぼりと式場の外に立つ彼女の姿が寂しげに映しだされていた。これから新しい人生を出発させようとする神聖な儀式の場には、たとえカメラマンであろうとも、不浄なる女性を入れてはならないのである。
女性不浄のタブーは、若くて未婚の女であれば、ある程度はゆるくなる。しかし、結婚している女性、とくに中年以上の女性に対して感じる不浄の意識には強いものがある。そのため、中年以上の女性が働く職場に制限が加えられることも多く、たいていの場合は人の目につかない場で働くことになる。食堂の厨《ちゆう》房《ぼう》などがその典型だ。おしゃれなレストランなどでは、ウエイトレスはまず若い女性しかいない。中年以上の女性が料理を運んで来たりすると、お客のほうでどうしても「汚い」という意識が先にたつからである。私も、日本に来た当初は、食堂などでお年寄りの女性が料理を運んで来ると、とても嫌な気持ちがしたものである。
韓国では今でも、「女は結婚した日から苦生門がほのぼのと見えてくる」とよく言う。言葉通り、結婚とともに女たちはこの世の安逸な生活に別れを告げ、苦しい生の門をくぐらなくてはならないということである。結婚して幸せになりたいという若い女たちの願い、そうあって欲しいという母親たちの願いは、韓国ではことのほか強い。しかし韓国の女にとっては、幸せな結婚生活は骨身を削るような苦痛なくしてはあり得ないものと考えられている。韓国の多くのお母さんたちは、自分たちの体験の上に立って、結婚生活では苦痛と引換えてこそ幸せがあるのだと、今なお娘たちに説き続けている。
つい最近まで韓国の母親たちは、嫁に行く娘に対して必ず次のような忠告をしたものだった。「聞かざるで三年、言わざるで三年、見ざるで三年、そうして木石と化し、世間を知らない女になってこそ幸せの道があるのだ」と。
今ではさすがにこれほどあからさまな言い方をする親は少なくなっているが、形を変えた言い方で、結局は同じような忠告が依然として行なわれている。そして、それに反発する娘たちもいまだ多いとは言えない。
また、「夫は神であり、妻は三日殴らないと天に昇る(有頂天になる)」という、古くからの言葉がいまだに使われている。
「夫は強いものであり、妻は弱いものであるという立場が常につくられていなくてはならない。夫が弱さを見せ、妻に文句を言われたり尊敬されないようになったりすることがあってはならない。そのためには、夫は妻を奴隷のごとくに扱うことが肝心である。そうしないと、妻のほうが夫よりも強くなってしまう。そして、妻が強くなることは家を滅ぼすことになる」
これが私たちの母の世代までの韓国の男女が、当然のごとくに受け取ってきた夫婦の上下関係のあり方であった。私が韓国にいたころも、夫が妻を殴る姿は日常茶飯事のように見られた。そして、周りの人々は必ず殴られている妻のほうを非難する。私も当時は、殴られる妻のほうに問題があるのだと思っていた。
こうした、伝統的とも言うべき、夫が妻に暴力をふるうことを当然とする状況は、いまだ現在のものである。ただ、この二年ほど前から夫の暴力が改革すべき社会問題として取り上げられるようにはなっている。その結果、最近の韓国保健社会部(厚生省)の調査では、「既婚の女性の六一パーセントが夫から肉体的な虐待を受けており、精神的なことまで含めると、九〇パーセント以上の妻たちが虐待を受けていると推測できる」という、衝撃的な発表も行なわれている。そして、妻が夫に殴られる理由の最大のものが、夫の言うことに対して妻が口答えをするケースであるという。
殴ると言ってもピシャッと頬《ほお》をはたくような生易しいものではない。それがどれほどのものであるか、韓国ではとくに珍しくもない一般的な事例を、韓国の女性雑誌『クイーン』(一九九三年五月号)の記事からご紹介してみたい。
「彼女はソウルの大学を出てすぐに結婚した三〇代の妻。夫はとても親切な人で、ことのほか殺生を嫌い、蚊一匹殺すことができなかった。その夫が結婚後三カ月ほどすると妻を殴るようになった。初めのうちは、殴ってもその後でいつも謝るのでつい許してしまい、またしばらくすると殴られる。そんなことを繰り返していた。子供が二人できると夫の虐待ぶりはいっそう激しくなり、三日とおかずに殴るようになり、それも二時間も三時間も続くのである。ある時、革のベルトで首を絞められ、まさしく死の恐怖を味わされた」
そうして、ついに我慢しきれずに彼女が姑《しゆうとめ》に告げると、姑はこんこんと嫁に説教をはじめたのである。
「私は四十年間も殴られ続けてきたんだよ、お前はたかが三年殴られているだけじゃないか。私もずいぶん苦しめられた夫だったけれど、今ではあの世に行ってしまわれて寂しいよ。だから殴る夫でもずっと側にいたほうがいいんだよ」
結婚したら女には苦痛はつきもの、それを世間の常識として受け取りつつ、韓国の若い女たちは結婚を頭に描くことになる。それで言われることが、「女の運命は井戸水を汲《く》む釣《つる》瓶《べ》だ」という言葉である。ようするに、男の操るままが女の運命となる、ということにほかならない。それでもなお、韓国の若い女たちのほとんどは、あたかも結婚以外に人生の選択肢がないかのように、年頃ともなればできるだけはやく結婚したいと思うようになる。それは韓国の社会に、結婚をしなくては一人前の人間とはみなそうとしない傾向が極度に働いているからである。そのため、韓国の婚姻率はきわめて高い。
『国際連合統計月報』(一九九三年三月版)で世界の婚姻率の比較を見ると、韓国は二九カ国中二番目の高率を示している。人口一〇〇〇人あたりの結婚数(婚姻率)は、最も低いノルウェーで八〇年に五・四、八九年で四・九、日本も低いほうで、八〇年に六・七、八九年に五・八と、他の先進国同様いずれも下降を示している。それに対して韓国は、八〇年に九・二、八九年に九・五と高率でしかも上昇中である。平均は六〜七で、韓国より高率の国はモーリシャスだけで、八九年に一〇・五であった。韓国が特別に結婚適齢期人口の比率が高いわけではない。それにもかかわらず、ことさらに高い婚姻率を示し、しかも年々上昇傾向にあるところには、やはり特殊な要因を考えなくてはならないだろう。
結婚生活が苦しいものと最初からわかっているならば、結婚をあせることなく当面は独身主義でやればよい、そしてよい人とめぐりあった時に結婚を考えればよい――そうした意見も最近少しは出るようになっている。しかし、適齢期を過ぎても女が独身でいるためには、親孝行のできない罪人として、周りから白い目で見られ続けて生きることを覚悟しなくてはならない。韓国人にとって、男を得られない女、男に守ってもらうことのできない女とみなされる存在ほど惨めなものはない。そうした惨めさに耐えて生きることは、結婚生活の苦しさよりもさらに苦しいことだと、多くの女たちが感じている。
そして、女たち自らが、また両親たちがなんとしても結婚をと考えるのには、もうひとつ深い理由がある。私の場合を例にとってお話ししてみよう。
私は三〇代半ばを過ぎても独身でいるため、国に電話をするたびに母から、結婚しなくては安心して死ねないとか、お前のために親《しん》戚《せき》や近所で肩身が狭いとか、なんて親不孝な娘なのかと言われ続けている。母から厭《いや》味《み》を言われることを覚悟で最近国に帰ったおりに、結婚をして子供のいる姉から、「結婚してくれないと私も大いに迷惑なのよ、そのことをあんたはわかっているの?」と言われた。なぜかと聞いてみて、私はいまさらながら韓国の「結婚熱」のすさまじさを思い知らされて愕《がく》然《ぜん》とした。
姉は私に、「独身のままで死ぬと子孫がいないわけでしょう? そうしたら誰があんたを祀《まつ》るの? 私の嫁ぎ先で私の子供たちがやることになるじゃない、そのへんをどう考えているの」と言うのである。韓国では人が死ぬと、三年の間は毎月旧暦の一日と一五日にその子孫が親類縁者を呼んで祭《さい》祀《し》を行なわなくてはならない。そして、それ以後もずっと、亡くなった日に祭祀を行なうことが必要となる。死んだ者に子孫がいなければ、最も血筋の近い者が代わりに祭主となるのが普通だ。となると、やはり姉の嫁ぎ先に回ることになるだろう。姉の嫁ぎ先は長男家だから、祀るべき祖先や縁者がたくさんいる、毎月のように人を呼びそれなりのもてなしをして祭祀をやらなくてはならない、それなのに私の分までやらなくてはならないとなると、姉の嫁ぎ先――姉の息子たちに対する大きな迷惑となるのである。
そんなに面倒なら祀らなければいいではないかというわけにはいかない。なぜならば、結婚適齢期を過ぎて独身のままに死んだ女の霊をソンガクシあるいは処女《チヨニヨ》鬼神(未婚男子の死霊をモンダル鬼神という)というが、この霊の恨みは最も恐ろしいものとされているからである。その恨みの理由としては、性的な関係が出来ずに死んだから、子供を産む能力を発揮しないで死んだから、自分の子孫を残さずに死んだから、などがあげられる。
この霊が祀られることがなければ、町なかや親戚の間を動き回っては人々を苦しめるのだと言う。古くは干ばつをもたらす原因とも言われ、李朝の時代には中央から派遣された守令(官職名)には、その町に未婚の男女がいれば、何とかして結婚させることが役目のひとつでもあった。
独身の女が死ぬと、処女《チヨニヨ》鬼神を墓に封じ込めようと、棺の上下に刺《とげ》のある木をたくさん詰め込んだりするが、霊的な結婚の意味で入棺時に男の服を着せたり、棺の中に男の藁《わら》人形を入れたり、未婚の男性の墓のすぐ側に埋めたりなど、地域によって多少の相違はあるものの、現在でもかなり行なわれている。また、霊どうしを結婚させることもしばしば行なわれる。
私の故郷済州島では霊どうしの結婚は多く、小さい時からよく見る機会があった。藁で男女の人形を作って新郎新婦の服装をさせ、親戚の者たちが集まって結婚式をあげるのをなんべんも見ている。私には二三歳で独身のまま亡くなった兄がいたが、死後数年してから、隣村で未婚のままに亡くなった女性との間で霊どうしの結婚が行なわれた。結婚の時、彼女の親が祭祀に使う黄銅の食器を持ってきたが、私の親はいまだにその祭器を用いて彼女の命日に祭祀を行なっている。そして、彼女は私の家に入籍されていて、彼女の両親は私たちの親戚として、何かの用事があると必ず家に訪ねて来る。
また、これは姉から聞いた話だが、家の近くの女性が未婚のまま二一歳で自殺してしまい、その親が遠い村で死んだ独身の男性を探して霊どうしの結婚をさせた。ところが、その後、その家にたびたび不幸な事件が続くので占い師に見てもらったところ、この結婚はクンハップ(宮合=男女の相性のこと)が合わないと出た。そこでさっそく離婚をさせ、他の男性の霊を探して結婚させたところ、不幸なことが起こらなくなったという。
私の姉は話の最後に、「あんたがどうしても独身主義を通すなら仕方がないけど、後々霊になってから私の子供たちに被害を与えないでちょうだい。でも、なんとかかっこうだけでも誰かの籍に入って戸籍を処理して欲しいわね」と真顔で言ったものだった。
韓国の男は封建的で、韓国の女は家を守るものと考えている、というように話す限りでは、「日本だってたいして変わらないよ」という答えが返ってくる。しかし、少しばかり足を突っ込んで男女、結婚、家族というテーマをめぐってみると、いかに日本と韓国には大きな違いがあるのかが、くっきりと浮かびあがってくるように思う。
日本と韓国が本格的に父権主義社会の波を被《かぶ》るようになったのは、ともに今から数百年前のことである。日本は室町時代から、韓国は李朝から、さまざまな父権主義的な制度や道徳が社会に浸透するようになっていった。女性史の本などを読むと、当時流布されていた道徳観は日韓で驚くほどの一致をみせている。
『内訓』などの書物で女性のあるべき姿が教育されたこと。「女に学問はいらない」と考えられたこと。「無才・無知が婦徳の第一」とされたこと。「夫は天であり神である」と教えられたこと。夫が妻を一方的に離婚してもよい七つの理由があったこと。女性が恋愛をすれば、それが妻ならば「姦《かん》通《つう》」、娘ならば「私通」として禁じられたこと。あげていけばきりがないが、そのほとんどが、いずれも中国の後漢の時代に大成した、儒教的な立場から女性の道徳を説いた『女《じよ》誡《かい》』などに範をとったものであることがわかる。
日韓がほぼ同時期の数百年前に父権制社会の波を被り、しかも同じ中国渡りの女性道徳を受け入れていながら、現在の日韓の男女事情があまりにも異なっていることは、なんとも不思議なことではないだろうか。日本人の習俗や伝統的な感性が母系制時代に発するものであることは明らかである。だとすれば、なぜ韓国では母系的な色彩が失われ、李朝以降の父権的な価値観が伝統となってしまったのか。そして、なぜ日本は韓国と同じように父権制社会の波を被りながらも、母系的な習俗や感性の伝統を失うことがなかったのか。この違いがどこから生じ、そしてこの違いが現在に何をもたらしているのかが、日本でも韓国でも、男と女の問題を考える時にはとても重要なことだと思える。
日本は西欧的な男女平等主義を制度・思想として受け入れたが、それをきっかけに母系制以来の女性優位の感性が解放され、その作用によって日本独自の近代的な男女関係を育てていったのではないだろうか。韓国もまた西欧的な男女平等主義を制度・思想として受け入れたが、現実はいまだ惨《さん》憺《たん》たる状態にある。李朝以前の韓半島人が抱え込んでいたはずの、母系的な価値観や感性はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
恋愛の技術と呪術
私は済州島の出身だが、一般に済州島の女は「強い」と言われる。古くは漁労民であり海女《あま》のメッカでもあったためか、本土の女たちよりも自立心が強いことは確かなように思える。漁労と畑作中心の時代には、やや極端に言えば、済州島の男たちは、たまに魚を採ったらあとはブラブラしているだけで、畑仕事も土起こしなどのとくに力のいる仕事以外はほとんど手を出すことなく女にやらせたし、村の作業の多くも女たちがやった。また女たちは、自ら採ったサザエやワカメを売ったりして得たお金を蓄え、部分的に男たちと別の経済をもってもいたらしい。かつての沖縄の糸《いと》満《まん》漁民の女たちもそうだったと言われる。
私は幼いころから、テレビや雑誌などで知る陸地(半島のことをこう言う)の女たち、つまり男に従順で「弱い」女たちに憧《あこが》れていた。私にとって彼女たちはとても品がよく思われ、済州島の女たちの自立心の強さを野卑な田舎者ゆえのものと軽《けい》蔑《べつ》していた。実際、そうした思いをもったのは私に限ったことではなく、多くの済州島の若い女たちのものでもあった。早い話が、済州島の女たちの多くが、お嬢さま育ちのソウルっ子に憧れていたのである。
高校の時から陸地の生活にふれることの多かった私は、さらにいっそう、陸地の「弱い」女たちの影響下に入っていった。そういうわけで、当時の私は「強い女」と言われるのが嫌で、「弱い女」と言われることを好むようになっていた。
そういう私が、日本に来てさらに変身をとげることになった。それをひとくちで言うのは難しいのだが、ひとつには、韓国一般の女たちの、男に対する従順さや弱さとはさよならをして、済州島の女たちの自立心の「強さ」を見直すことになったこと。そして、もうひとつには、謙虚でソフトでおしとやかという、日本の女たちの「ふり」に素敵な味わいを感じるようになったことである。そうした「ふり」の中では、自分の気持ちがおのずと落ちつきをもってくるように感じられた。そして、我ながらけっこううまく身についているじゃないかと勝手に思ったりしている。
ということで、私は私なりに変身をとげたつもりなのだが、どうやらそれは怪しいのではないかと感じる体験を最近することになった。それは昨年(一九九二年)アメリカへ行って遠縁にあたる在米韓国人の家族に招かれたときのことである。
夫妻が渡米したのは二〇余年前のこと、アメリカで三人の子供が生まれ、すでに一八歳の長女がいる。長女は将来弁護士を目指しているとかで、一年後に法科大学に入るための勉強に専念しているという。彼女は訪問した私のために勉強を休み、私と一緒にスーパーへ買い物に行ったり、バーベキューを作ったりしながら終日つきあってくれ、気が合ったのか、あれこれと楽しい話のつきることがなかった。
数日後、彼女の母親から電話があった。
「娘のビザはね、毎日あなたの話をするのよ。そして、『呉さんのようになりたい』って言うの。これまで誰のような人になりたいなんて言ったこともないのにね。よっぽど気にいったのかしら」
いかに同性であっても、そんなに言われると嬉《うれ》しくなるのは当然のこと。私のどこを気にいってくれたのだろうかと聞きたくなってくる。そして聞いてみた答えに、私は「えっ」と一声あげ、途端に力が抜けていくような気がしたのである。答えはこうだった。
「呉さんはとても強くて勇ましい女だ。会っているとパワーを感じるし、独立心も人いちばい強そうだ……」
私には思ってもみない言葉だった。私は「奥ゆかしい」とか、「落ちついている」とか、そんな言葉を期待していた。そして、さらに自分の反応を考えてみると、明らかに「強い女」と言われたことにショックを感じていた。つまり、男性から「守ってあげたい」と思われるような、いわゆる韓国で一般的に女の魅力とされる、世間知らずの「弱い女」として「素敵だ」と言ってもらいたかった自分が、いまだにどこかにあることを感じざるを得なかったのである。
それにしても、彼女はとくに男まさりの女ではなかった。普通の女の子と同じように、「素敵な男性とめぐり会いたい」と言っていた。が、そこは韓国ではなかった。彼女は韓国人でもアメリカに住む韓国人二世なのである。彼女の言う「強さ」とは、アメリカ社会の中で生きてゆくために当然なくてはならない女の「強さ」なのだったろう。もちろん私にそんな強さがあるわけもないのだが、いまだ少女の彼女にしてみれば、ひとりで日本に渡り一応自分の力で御飯を食べ、アメリカまで来て何やらしきりに取材などをしている私にそんな感じをもったのだろう。
「強い女」「弱い女」「奥ゆかしい女」それぞれが、それぞれの地域の文化を背景に発せられる言葉だからこそ、それが嬉しい言葉ともなり、またがっかりする言葉ともなる。そんな当たり前のことに、ようやく気づいたしだいである。そして、結局のところ、私もやっぱり済州島の女なのかなあとも思うのだった。
韓国の「弱い女」は「強い男」との対比において存在している。「強い男」の能動的な行動に対して徹底した受け身であること、韓国の女たちの多くは、そのように自らが受け身としてある「弱い女」であることを望んでいる。次の文章は、最近の韓国の女性雑誌に載った、「女はどうして『押し込む力』に弱いのだろうか」という記事の引用である。そこに、結婚前の韓国の「弱い女」と「強い男」の典型的な関係のパターンをみることができる。
「高い学歴、高い収入、高い背といった三高(日本から導入した言い方)を結婚の条件だといった話が飛び交っている今日、『でもやはり、女は男の押し込む力には弱い』という事実はいくらでも証明できる。
ある若い男性の会社員が最も美人といわれる女性社員を好きになった。男のほうは学歴もよくなく、外見もとりたてたところがなく、ひとつも女の目をひくような魅力がない。そうした男が美人をものにすることはほとんど不可能かもしれない。しかし、彼は毎晩のように彼女の家に電話をかけては愛の告白を続けた。彼女は同じ会社の者だということもあって、冷たく電話を切ることもできなくて大変困っていた。彼は、彼女が嫌がっていることは十分に分かっていたが、女の心理をよく心得ていた。そこで彼は、嫌がられるのを承知で、電話をかけ続けることを止《や》めようとはしなかった。
ところがある日から、彼の電話が突然こなくなったのである。明日はくるに違いないと思ってはいたが、それ以来まったくかかってこなくなった。すると彼女は、急に恋人を失ったような気持ちになって、いらいらとするようになり、彼からの電話が待ち遠しくて仕方なくなってしまった。それからしばらくたったある日、彼女はついに自分のほうから電話をかけたのだった。こうして二人の恋が始まったわけだが、やがて女のほうがいっそう意欲的となり、結局半年後には結婚に至り、ついに男の卑屈さが勝利したのである」
こうした話は韓国ではとくに珍しいものでも何でもない。この記事のライターは、このように「卑屈なまでの男の押し込み」に受け身一方の女が崩れ、そこからようやく女が男を愛するようになるという韓国特有のパターンが、依然としてあるということを言いたいために、この事例をあげているのだ。
このライターは記事の中で次のように分析している。
「これは心理学では『単純接触』という。毎日のように相手に近づくとか電話をかけたりすることを繰り返せば、だんだんと相手に好感を持たれるようになる。続けて短い接触を繰り返しているうちに、感情が極端化されるからである。全く嫌な相手でない限り、『根気よく押し込む手』は通用する、ということである」
確かにそういう面はあるが、もっと大切なことは、女から断られ続けながら、自らを卑屈にしてまでもなお自分に思いを寄せ続けてくれる男の存在を前に、すでに述べたように「そんなにまでして自分のことを愛してくれているのか」という思いが女の中に生まれ、そうした男の姿勢にほだされて、ようやく自分のほうから相手を愛することができるようになる――韓国の女にはそういう「男の押し込みによってこそ開かれる」性向というか無意識の倫理のようなものがあり、韓国の男たちはそのことをよく知っていて執《しつ》拗《よう》に迫ってくる、ということなのである。
また、その場合韓国の男たちの言葉や態度は実に巧みなのである。先の例ならば、彼はきっと彼女に対して、「今日のあなたの服装はとてもセンスがよかったよ」とか「あなたの今日の仕事の処理は素敵だったな」とか「今日のあなたに対する上司の態度は僕も不満だったね」とか、彼女が具体的に関心のある言葉を連発して、彼女の心を巧みに引っ張っていたことは想像にかたくない。つまり、他の誰もが指摘してくれなかった自分の魅力を指摘してくれると、そう思わせるのが口説きの鉄則なのだ。
韓国は強固な父権制社会の伝統をひいているため、男たちは愛《あい》妾《しよう》を抱えるなど、どれだけ多くの女を口説いて自分のものにするかを誇りとしていた。その反面女には貞淑さが要求されたから、男のほうにだけ一方的に恋愛技術が発達し、女のほうにはまったく恋愛をめぐる文化がなかったと言ってよい。
私は自分の体験からも言うのだが、こうした韓国の男の「押し込み」はほとんど無意識の演技なのである。つまり、そうした女の口説き方がいわば文化の「かたち」として定式のようにまでなっているのだ。したがって、この「押し込み」をそのまま男の誠意と受け取ってしまうと、結婚してからとんでもないことになってしまう。その点、韓国の男性と恋愛をしようかという女性には、ぜひともご注意申し上げたい。
たとえば、私の友人でそうした「押し込み」によって恋愛結婚をした女性はこんな体験をしている。「天地にかけてあなたを一生幸せにしてみせる」という男の言葉にほだされて結婚してみると、数カ月もたたないうちに男の態度がガラッと変わり、平然と浮気をして悪びれない。彼女が「なぜあなたはたった半年でそんなにも変わることができるのか」と聞くと、彼はこう言ったそうである。「俺は結婚前にお前に対してすべての自尊心を捨てた。だから、いまこうして自尊心を取り返しているんだよ」と。
実際、女性雑誌のアンケートなどによると、多くの男たちが結婚後ほぼ三カ月以内に、結婚前には女の前にぬかずき太陽のごとくの賛美を浴びせていたものが、妻をきわめてぞんざいに扱う夫へと豹《ひよう》変《へん》してしまっている。
なぜそうなのか。男のほうの問題を別にして言えば、男の「押し込み」にほだされる場合はおうおうにして、女たちが男の個性に自覚的に触れようとしていないからだと思う。
「それほどまでにして自分のことを」という迫力を前にして、男の個性に勝手な幻想をもってしまい、ほんとうの意味での人格に触れる機会を逃してしまうからなのだ。
先日テレビを見ていたら、女優の小林千《ち》登《と》勢《せ》さんが、やはり俳優のご主人と一緒に登場してそのなれそめを語っていた。小林さんは当初、ご主人がまったく嫌いなタイプであることから、共演をしても個人的に話をすることがいっさいなく、ご主人のほうも生意気な小娘と思っていて、やはりまったくつき合おうという気持ちすらなかったという。それが、たまたま撮影スタッフへのお礼をと、デパートへ一緒に買い物に行くことになった。買い物を終えてデパートから出ると、彼は重たい荷物をさっと小林さんの手からもぎとるようにして持つと、汗をだくだくと流しながら必死になってタクシーをつかまえようとあちこち走り回るのだった。小林さんはそうした彼の姿を見て、いっぺんに好きになってしまったということである。小林さんはきっと、そこに彼の誠実な個性の所在を直観的に確認したのに違いない。
私は、韓国で女性に「なぜあなたは彼を好きになったのか」と聞いた場合、この小林さんのような答えが返ってくることはきわめて稀《まれ》なことだと思える。私の知る限りでも、多くの場合は「彼の力強い愛の心にひかれて」とか、せいぜい「勇気のある人」とか「信頼できる人」とかの抽象的な言葉か、あるいは「私の誕生日に花束を送ってくれて」といったもので、個性に直接触れるような言葉が返ってくることはほとんどなかったと言ってよい。
かつての私の思いから言うのだが、韓国の女は結婚の対象としての男には、まず個性から入ることはしない。第一に考えるのは相手の男の環境である。社会的な地位、家柄、さらにはお金など、その男を取り巻く環境から入ってゆくのが普通だ。その次が、どれだけ自分を愛してくれているかということ。その次に個性を思うのである。
再びなぜそうなのか。それは結婚が家と家との結婚であったという伝統から、女にとっても男にとっても、個人的な個性を互いに見抜き、その接点をめぐって恋愛を展開するといった歴史がおよそ無きに等しかったからではないのかと思う。こう言うと、それは日本でも同じことだと言われそうな気がするが、私は必ずしも日本ではそうでなかったのではないかと思っている。
その証拠というわけではないのだが、柳田国男の『明治大正史・世相編』(一九三〇年)の中に「恋愛技術の消長」という小文がある。それによると、近代以前の日本における結婚は、だいたいは同じ土地に生まれた男女が自由に結婚の約束を交わしたものだった。しかし、時代が下るとともに結婚の対象としての家を選ぶ範囲が広くなり、家柄や家筋の詮《せん》議《ぎ》に面倒な事務を要するようになって、結婚相手を選ぶ役割が親や他の親《しん》戚《せき》などに移っていった。
「こうなると仮に女に相応なる思慮分別が養われて居《い》ても、もはや判断は何人かに委《ゆだ》ねなければならぬ。問われ人の知能技術などは、用いる所が殆ど無くなった。その上に早婚を安全と考えるような傾向も加わり、又いいなずけなどということも必要になって、女性の感覚の十分に成熟するまで、待って居ることも出来ない場合が多く、しばしば固めの酒を親兄が代って飲むようなことがあった」
こうして、「問われ人の知能技術」が時代とともに不要なものとなっていったが、明治という時代の文化史は、そのように一方的に問われるだけの存在と化してしまった女性の「ようやく眼ざめんとした疑惑の声に夜明けて居る」と述べられている。
この「問われ人の知能技術」とはどのようなものだったのだろうか。現代ふうに言えば、言い寄ってくる男たちに対して、断るにせよ受け入れるにせよ、豊かなセンスをもっての巧みな受け応《こた》えの技術が女性にあった、あるいは、男たちに問いかけさせずにはおかない立ち居振る舞いを女性は一種の技術として身につけていた、さらには、最初の接触から結婚の約束に至るまでの「恋愛のかたち」のさまざまな段階を、それぞれに相応《ふさわ》しい態度・姿勢をもって一歩一歩上り詰めてゆく知恵と技術が女性にはあった、そういうことなのだろうか。
私にはどうもそのように思われてならない。
日本の男性の多くは、気にいった女性がいたとして、積極的に接近していこうとするよりも、まずは相手に気に入られるようにと努力をするもののように思える。そして女性の場合は、積極的に男性を誘うことは少ないのだが、「ちょっと相談があるんですが」とか「教えてもらいたいことがあるんです」とか、間接的に接触の場を自ら設定するケースが多いように思う。私はどうもそこに「問われ人の知能技術」の伝統を思ってしまうのである。考えすぎかもしれないが、いずれにしても、日本の女性には、東洋の女性としては珍しく、恋愛関係の中で自ら男性の個性を見抜く目が伝統的な文化風土の中で自然に養われてきているように思われてならない。
一方、誘う者=男、誘われる者=女という区別が倫理的な道理にまでなって根づいている韓国では、多くの場合、好きな男性ができても、女はまず自分のほうから好きだとは言えない。また、自分のほうから積極的に接点をつくっていくこともできない。ではどうしたらいいのか。
第一には、ともかくも男から誘われる魅力をなんとか自らのものにしようと、ことさらに美の装いに力を入れることである。現代の韓国に整形美容がすさまじい流行をみせているのも、韓国で不況知らずのエステティック・サロンの隆盛ぶりも、おそらくは日本や欧米よりもずっと切実な女の意思が加担しているはずである。
そしてもうひとつの方法は、古くから女たちの間で行なわれてきた、「男の心を引き寄せる愛の呪《じゆ》術《じゆつ》」である。
最もポピュラーなものは、ムーダン(巫女《みこ》)に頼んでお守りを作ってもらう方法である。それらのお守りには、呪文のような文字が書かれてあったり、絵やマークが描かれてあったりする。絵の場合には龍や蛇がよく用いられる。昔から、妊婦が夢に龍を見ると男の子が生まれ後に立派な人物となるとされており、また蛇は堂々たる男子の象徴とされている。男の子を得ることが男の望みであり、男の子を産むことのできる力が女の最高の価値とされてきたから、男の心を引くためには龍や蛇の絵が描かれるのだろう。
こうしたお守りは、日本の神社やお寺などで売られているように、数百円から数千円といった安いものではない。日本に来ている韓国人ホステスを相手に日本へやって来るムーダンは多いが、彼女たちが売るお守りは、安いもので五万円から、上は二〇万円、三〇万円、五〇万円のものまである。私が日本語を教えていたことのある韓国人ホステスたちからは、二〇万円のもので効かなかったから五〇万円のものを買ったといった話をよく聞かされる。
とくにムーダンなどにたのまずに、自分ひとりでやるお呪《まじな》いもある。たとえば、好きな相手の名前を韓《かん》紙《し》に書いて天井に貼《は》っておき、それを毎晩寝る前にじっと眺めるのである。そうすれば、相手の男性に好感をもたれるようになると言われている。また、夜中の一二時にトイレの中で鏡をじっと眺めると、そこに自分の結婚相手の人物の顔が現れるとも言われる。ずっと若いころに私も大真面目にやってみたことがあるが、途中で怖くなってやめてしまった。
日本でも若い女の子たちの間ではお呪いがけっこう流行《はや》っているらしい。消しゴムに相手の名前を書いておき、その消しゴムを使いきると相手との恋が実るとか。その場合、他人が一度でも使ってしまうと効果がなくなるらしい。そのほか、コックリさんとかいろいろあるようだが、いずれも少女の無邪気な遊びかその延長に過ぎない。韓国で大のおとなの女たちが、大枚をはたいてまでも真剣にやっているのとは、おのずとわけが違う。
韓国では恋の病、つまり強い片思いのことを相思病と言うが、この場合には相手の男性の家の土をこっそり採ってきて食べると、相手の気持ちがこちらに向くと言われる。高校生などがよくやるのだが、私の記憶でも、誰かが相思病にかかったとなると、友達が代わりに相手の男性の邸内に忍び込んで土を採り、水と一緒に飲ませるようなことがしばしばあった。私もその手の企てに加わったことがあるが、だらしのないことに邸内にまで立ち入る勇気もなく、入口の前の土を採ってきて友達に飲ませたことがあった。
李朝時代には「七去之悪」と言って、夫が一方的に妻を離縁することのできる七つの条件があったが、その中のひとつに妻の嫉《しつ》妬《と》があげられている。嫉妬したら離婚とはひどい話だが、これはどうやら最も大きな罪だったらしく、姦《かん》淫《いん》、つまり不倫よりも厳しい罰を受けた。そのため、かつての娘たちは親から、夫にいくら愛人があろうとも決して嫉妬をしてはいけないと教えられたものだった。それは当時の上流階級の両班《ヤンバン》の家であれば、より厳しく教育された。
両班の男であれば愛《あい》妾《しよう》がいて当然だったし、愛妾を多く抱えていればいるほど力のある男と言われた時代だった。また、庶民でも余裕さえあれば愛妾をもっても当然のことであった。とくに、父系の血を代々伝えるためには男の子が生まれなくてはならなかったため、正妻に男の子ができなければ愛妾をもつことが制度的にも善なのであった。そういうわけで、韓国の女たちの結婚は多くの場合、夫の愛妾との確執なしには考えられなかった。だからこそ、女の嫉妬を最も重い罪として禁止したのである。
現在では愛妾をつくることは公には「悪」とされているものの、この伝統ばっかりは容易なことでは崩れそうにもない。韓国ではいまだに「男の浮気」は「男の甲斐《かい》性《しよう》」と考える者は多く、婦人雑誌の人生相談などを見ても、夫の浮気が妻の悩みの大半を占めていることが察せられる。
さて、いくら法で禁止しようとも女たちから嫉妬の心がなくなるわけもない。そこで韓国の妻たちは、嫉妬を悪とするモラルに圧迫されながら、呪術をもって嫉妬の心を解放しようとしたのである。韓国で出版された『韓国女性の意識構造』(李圭泰著)には「嫉妬の呪術を使うと、嫉妬の相手が死ぬとか奇病にかかるとかする。また、相手の愛を取り戻すことができると信じられている。その方法はいろいろで、朝鮮時代の文献から探した方法だけでも数十種類がある」とあり、次のような方法が紹介されている。
@猫を殺して相手の女の家の塀の下に埋めたり、呪《のろ》いの言葉を大《たい》紅《こう》緞《どん》子《す》(紋織物の一種)に書いて埋めたりする。
A相手の女の絵を描いて針で目を刺し、相手の女の家の台所の灰の中に埋める。
B相手の女の家の犬をその家の裏で殺す。
C金色の毛の猫の目玉を針で刺して瓶の中に入れる。
D相手の女の家のネズミを捕らえて踏み殺し、梅の木に掛けておく。
E相手の女の家の西側の塀の下に白い牝《めす》の犬をおく。
F相手の女の家の裏側にカラスの足をふたつ縛って投げる。
G白い犬の黒い目玉を取って赤い色に塗り、相手の女に見せると相手の女は目が見えなくなる。
この本の著者も言っているように、いずれの方法も相手の領域に進入しなくてはできないことなので、それだけ必死の覚悟も必要なのである。
私が子供のころに見た大人の女たちがやる呪術では、藁《わら》で相手の女性の人形を作り、包丁でズタズタに切り裂いて燃やしていた。男の心を取り戻す呪術にはほかにもさまざまなものがあるが、李朝時代の皇太子の妃《きさき》が行なった呪術として有名な話がある。
李朝四代目の王、世宗大王(ハングルを作った王で李朝歴代の王の中でも最も偉大な王とされる)の皇太子は、結婚のその日から妃の部屋に入ろうとはせず、二人の宮女におぼれていた。そのため、ほぼ二年の間独守空房の生活を続けた妃を見かねて、妃に仕えるひとりの女がこう進言した。
「相手の女の靴の踵《かかと》を削り取り、それを燃やしてお酒に混ぜて飲めば相手の女から情がなくなり殿下は戻ってこられます」
嫉妬をすれば退妃となることは分かっていたが、妃は勇気を振り絞って女たちに二人の宮女の靴の踵を削り取ってくるように命じ、見事成功するとさっそくそれを燃やしてお酒に混ぜて飲みほした。しかし、いくらたっても効果が現れず、かえって秘密がばれてしまうのではなかろうかという不安だけが大きくなっていった。妃に仕える女たちはさらに効果の大きい呪術を耳にはさんできて妃に勧める。それは、性交の最中の蛇を見つけ、行為が終わってからその精液を採り、それを布に浸して肌身に着けておくという呪術だった。話を聞いて恐ろしくはなったものの、妃はその計画に乗り、採ってきた液を浸した布をそっと下着の下に着けて効果が現れることを待った。しかしやはり効果を見ることがなかったばかりか、秘密が漏れて宮廷の内外に大きな噂《うわさ》がたつことになってしまった。
その結果、妃は退妃となり実家に戻ったが、心を鎮める間もなく、父親が採薬した毒をあおって死の責任をとらされることになってしまった。そして、娘が妃になることによって大きな出世をとげたその一家は、親戚一族もろとも滅ぼされていった(金英坤著『王妃列伝』高麗出版社より)。
この話には女の靴が出てくるが、女の靴は韓国では昔から女のシンボルを意味している。靴の形が似ているからなのかもしれないが、韓国固有の女の靴の模様は明らかに女のそれを模したもののように思われる。男が病気になれば、女の靴を門の前に掛けておくと男に力が戻るとも言われ、また藁で作った女の靴を燃やす呪術を子供のころにたびたび見たことがある。今でも、靴がなくなる夢を見ると、恋人に逃げられるという。夢でなくとも、靴がなくなると愛情の面に問題が起きるといって気をつける韓国の女は多い。
また蛇の精液については、妃に仕える女の話によると、動物の中で性交する時間が最も長いのが蛇なのだという。おそらく、その精液を身に着けておくことで女の体が魔力を帯び、男を引き寄せる力になるという呪術なのだろう。
このように、韓国には女の側から男の愛を手にするための呪術の話がたくさんあるのだが、私の知る限りでは日本にそうした話を聞くことはまずない。あったとしても、それは韓国のような切実さとはほど遠いパターンで語られているように思う。また、豊臣秀吉の奥方は嫉妬深いことで有名で、秀吉がおおいに手を焼いたといった話や、嫉妬深いお妃の話だとかが堂々と語られている日本でもある。嫉妬の心の所在を相手に示すこともまた恋愛の技術であってみれば、それだけ、古き日本には「問われ人の知能技術」が豊かにたゆたっていた、ということなのだろうか。
日韓恋物語の昔と今
感じるままにいえば、日本の男女関係は自然な流れに乗っていこうとするが、韓国の男女関係は自然な流れを横切ろうとする。この感じは、恋愛をテーマとした日韓の代表的な古典文学からも同様に伝わってくるものでもある。日本では『源氏物語』、韓国では『春香伝』である。『源氏物語』は一〇世紀の平安時代、『春香伝』は李朝後期一八世紀ごろに成立した小説で、その間八百年ほどの時代差はあるものの、いずれも日韓に特徴的な恋愛をめぐる男女の姿をすぐれて語っているような気がする。
李朝時代の社会は身分階級の制度が厳しく、支配層の両班《ヤンバン》と庶民との間の結婚はきわめて困難であった。そんな時代に書かれた両班の息子と賤《チヨン》民《ミン》であるキーセンの娘との恋物語が『春香伝』である。以下、物語の筋書きを簡単に紹介してみたい。
時は一七世紀のころ、所は全羅道《チヨンヤド》の南原《ナヌウオン》。新しく赴任した使道(守令・地方の知事)の息子イ・モンリョン(李夢竜)はこの地方の景色が絶品だと聞き、さわやかな五月の風が匂《にお》う時節に、詩文の取材にもなろうかと出かけて行った。モンリョンは南原随一の観望所といわれる城に登って四方を眺め、その絶景に感嘆していた。その時、遠い所に何やらひらひらと舞う美しいものが目に入ったので、供の者にいったいなにかを確認してくるように命じた。
その日はちょうど端午の日だった。端午の日に村の女たちはいっせいに着飾って外に出る。そして、ブランコ(鞦《しゆう》韆《せん》)に乗って遊ぶのが恒例の行事だった。モンリョンが見たのは、ゆっくりと大きく弧を描きながら揺れるブランコに乗ったひとりの美しい娘であった。供の者の報告によれば、娘の名は春香《チユンヒヤン》でキーセンの子だったが、母親は娘をキーセンにすることは望まず、ひと一倍の教養を身につけさせていた。春香は美しいばかりでなく、詩文をよくし、礼節をよくわきまえた孝行な娘だと、このあたりではきわめて評判の高い女性だという。
それを聞いてモンリョンは春香に強く興味をもって呼び寄せ、二人は出会った。大きな身分の差からモンリョンのプロポーズに春香はかしこまってはいたものの、互いの一《ひと》目《め》惚《ぼ》れから二人の仲は進み、すぐに一生を誓い合うまでに発展する。身分の違いからモンリョンの家では大反対だったが、二人の愛はよりいっそう深いものとなっていった。
二人が出会ってから一年ほど経《た》ったある日、モンリョンの父親がソウル官庁に栄進することになり、急《きゆう》遽《きよ》、父親に従って家族一同上京しなければならなくなってしまう。モンリョンと春香にとっては、まさに青天の霹《へき》靂《れき》である。「今はどうしても連れて行けない、近いうちにきっと呼び寄せるから」というモンリョンを、春香とその母親は泣き叫びながら、「賤民《チヨンミン》だからといって軽く捨てることができるのですか」となじるのだが、どうすることもできない。モンリョンは涙をふりしぼり「必ず迎える」といい残して、ソウルへ発《た》っていった。しかし、上京したモンリョンからは、科挙(高官登用試験)の受験勉強に余念がないためか、まったく便りがこない。それでも春香は、生涯を誓った夫としてモンリョンからの迎えを待ち続けることを決心する。
南原には新しい使道が赴任してきた。その男は元来女好きで名高く、春香という評判の女性がいるという噂《うわさ》を耳にするや、自らの新任披露の宴《うたげ》の席に嫌がる春香を強引に呼び寄せ、自分の妾《めかけ》になることを強く誘った。しかし春香は「貞女は二夫に仕えない」というではないかと強く断る。使道は「官長の命令に逆らう罪は厳刑に値する、嫌だといえば流刑に処す」と脅し、命令として自分の女になることを強要する。が、春香は死んでもそれには応じないと固く拒否する。
いかに口説いても頑《かたく》なに拒否し続ける春香に、使道はついに激しい怒りを爆発させ、春香を厳刑に処すと宣言して縄をかけ投獄してしまう。そして、間もなくやってくる自分の誕生日に豪華な宴会を催し、その日の余興に春香を死刑にすることを決定した。
そのころモンリョンは、科挙に合格して暗行御史《アムヘンオサ》(地方の官権たちの治績と民生を見回るために王命で秘密に派遣された特使)となっていたが、偶然にも全羅道暗行御史に命が下り、南原に向かったのである。そこで春香が死刑囚となっていることを知ったモンリョンは、使道の行政を調査して数々の悪徳行為の証拠を固め、一隊を率いて使道の捕縛へと向かった。そして、いままさに死刑になろうとしている春香を助けるのである。こうして晴れて結婚することのできた二人がソウルへ旅立つところで物語の幕が下ろされる。
命を懸《か》けて権力の横暴に抗し貞節を守り通した春香……。今日でも春香は烈女(徹底して貞節を守り通す女)の代名詞である。
モンリョンと春香の愛は、両班と賤民という身分制度の壁に大きく妨害されている。日本では、個人を越えたさまざまな制度や権力から妨害を受けるという恋愛の形は、すでに物語としてのテーマ性を失っているが、韓国の現代小説ではいまだに中心的なテーマになり得ている。
現代小説では、制度や権力の妨害が描かれるにしても、男女の愛が制度や権力に打ち勝つところでテーマとなり得ていることはいうまでもない。一方この物語では、モンリョンが「善意の権力者」になることによって「悪意の権力者」を打ち破り、その結果、二人の愛を貫き通すことができた。そこでは、男女の愛の行方はいずれにしても権力によって左右されるものとして描かれている。
この物語はけっして権力に打ち勝った愛の物語ではない。また春香は、権力に抵抗して自らの愛を守り通した人物と単純に評価すべきものでもない。李朝期の社会は「良い権力者」か「悪い権力者」かによって民衆の運命が決定された。また女とは、たとえ口約束でも結婚の約束をしたら、その時から何があろうとも一生その男の妻として生きるべき存在であった。たとえ相手の男が結婚前に亡くなろうとも女は生涯を未亡人で通さなくてはならず、相手の男がほかの女と結婚したとしても、女はその男と別れて他の男と結婚するべきではない――。そういう時代の倫理があったからこそ、春香はあくまで権力に抵抗し死を賭《と》してまで貞節を守り通す女として描かれなくてはならなかった。
韓国の代表的な古典『春香伝』の主張は、女が貞節を貫く倫理は死よりも重く、その倫理を犯すことはいかに身分の高い者であっても許されず、必ずや善意の権力によって滅ぼされることになる(天罰を受ける)、という「教え」なのである。
韓国の古典小説に描かれた男女の出会いは、階級の異なる男女の接触がきわめて少なかったことから、劇的かつ運命的な関係を強調しての、偶然な出会いによる一目惚れのケースが多い。『春香伝』もまたその例にもれない。
ブランコに戯れる美女、春香を見初めたモンリョンは、春香がキーセンの娘ではあるものの、文の才能もあると聞いて心を奪われる。そして下人《ハイン》に春香を連れてくることを命じるのだが、その時春香は強く断るのである。
「貴公子(トリョンニム)が私を呼ぶはずもありません。もしそうだとしても、この私が呼ばれるままに行くような女だと思いますか」
拒絶の言葉をつきつけられてモンリョンは、さらに春香に魅せられてゆくのである。そして再び次のような言葉を下人《ハイン》に託す。
「私は貴女をキーセンと思って誘っているのではありません。貴女に文の才能があると聞いて招くのです。ご機嫌を悪くなさらないで、ほんの僅《わず》かな時間でよろしいからいらっしゃって下さい」
品格高い貴公子の誘いを受けて、春香も内心は行きたい気持ちになっているのだが、自分から立ち上がる姿勢を見せることができない。その時春香の母親が、
「両班が呼んでいるのに行かないわけにはいかないでしょう。行っていらっしゃい」
とうながして、春香は仕方ないふりをしながら立ち上がる。
モンリョンは春香に姓を確認すると、早速次のように求婚する(同姓は結婚できない決まりがある)。
「天が定めた縁で私たちは出会ったのだから、二人で万年の楽を遂げてみましょう」
それに対して春香は次のように答える。
「烈女は二夫に尽くすことはできないと言われます。お殿様は貴公子であり、小生は賤民《チヨンミン》であります。一度情を捧《ささ》げた後に捨てられますと、悲しい心を一人で抱えたまま泣かなくてはなりません。その恨《ハン》はだれに分かってもらえるでしょうか。そのようなお言いつけは二度となさらないで下さい」
さらに強く拒否されたモンリョンは、彼女によりいっそうの魅力を感じてしまう。モンリョンは「私たち二人が因縁を結ぶ時は金石盟約を結びたい」と言って、正式に結婚の申し込みを行なう形をとろうと述べる。モンリョンはその晩春香の家を訪ね、母親同席のもとで正式に結婚の約束を結ぶ。その時モンリョンは、春香の母親に次のように言うのである。
「私はお嬢さんのことを初婚のように認めますから、私が父母の下にいる独身だからと心配することはありません。また私にとって初婚だからと遠慮することもありません。大の男が決めたことです、なんで薄情な行動ができましょうか。許可さえして下されば大丈夫です」
こうして春香はモンリョンの妻となることを決めるのだが、それまで春香は、モンリョンと心を通わせたいと思っているにもかかわらず、強く何度も断るのである。そしてモンリョンは、激しい拒否にもまったく臆《おく》することなく意志を貫き通し続け、春香の心を引き寄せることに成功する。この男女の愛の駆け引きはそのまま現代韓国のものでもある。今でも韓国では「恋愛は男の方が気に入ったらほとんど成功する」ということがよく言われる。強固な男権社会の伝統をひいているゆえのことといえるだろう。
モンリョンは春香を「初婚のように認める」と言っている。当時の社会では、身分階級が下の相手との結婚は、後妻か妾でなくては可能でなかった。そのため、春香の母親にしてみれば、両班階級の男の初婚の相手として娘が選ばれることは、身分に過ぎた事態として不安であるとともに、もったいなくも気がひけることだったのである。
『春香伝』ほど長くもなく『春香伝』ほど今日の韓半島の人びとを感動させる物語ではないが、似たような李朝末期の小説に『彩鳳感別曲』がある。この物語では、『源氏物語』のような艶《つや》のある内容ではないが詩文のやりとりが行なわれる。
平壌《ピヨンヤン》のある両班の家に、結婚適齢期(一六歳)を迎えたばかりの、文才に長《た》けた美しい娘がいた。名前は彩鳳《チエボン》。彼女は下女と一緒に、春風に服をなびかせながら裏山に登り春景色を味わっていた。その時、突然男の声が聞こえた。ふと見上げると貴公子然とした男が立っている。上品な服装、鋭いほど熱気に溢《あふ》れる目つき、濃くきりりとした眉《まゆ》毛《げ》、鋭い鼻すじ、きりっとむすんだ口元……。その凛々《りり》しい姿は、一度見た女ならば誰もが心を揺るがせずにはいられない。
わくわくする気持ちを抑えながら、二人の女は急いでその場を立ち去るのだが、彩鳳はハンカチ(帛)を落としてしまう。その男、副使(副知事)の息子ピルソンが拾ってみると、手上手な刺《し》繍《しゆう》で娘の名前が書いてある。ピルソンはそのハンカチの香りから因縁を感じ、彩鳳のことを思うのだった。
彩鳳はハンカチを落としたことに気づき下女《ハニヨ》を取りにやらせると、まだその場にいたピルソンはそのハンカチに次の詩を書いて下女《ハニヨ》に持たせた。
美しい方が落としたハンカチであるだけにその香りは何とも言えません。
これは神さまが、この情に溢れた私に与えて下さったお土産《みやげ》かと思います。
これに互いに想《おも》う恋しい気持ちを詩文で書いて送り、
この神さまから与えられた機会を美しい因縁を結ぶ糸口として考えようと思います。
(帛出佳人分外香/大公付與有情郎/慇懃寄取相思句/擬作紅糸入洞房)
彩鳳は受け取ったハンカチに自分の気持ちを詩文で書いて送る。
偽りの夢など見ないようにお願いします。
学問に専念され高級官人への出世のことだけをお考えなさいますよう。
(勤君莫想陽臺夢/努力攻書入翰林)
ようするに彩鳳は「男子たるもの学問第一、本意でもない心で女を惑わさないようにして下さい」というのである。日本の男が女からこんな「教育的」な拒絶の仕方をされたらギョッとするに違いない。『源氏物語』では断るにしても婉《えん》曲《きよく》だし、その受け流し方のセンスで男は女の心を推し量る。こうも形式的に、しかもズバリと断ることは、日本では相手のプライドを甚《いた》く傷つけることになってしまう。しかし、韓半島では拒絶が強ければ強いほど、たやすく男の誘いに乗らない貞女であることを示すもので、なんら男のプライドを傷つけることにはならず、それどころか男の愛をいっそう高める効果を生むものなのである。この点では昔も今も変わりがない。
ピルソンにしても、拒否されてさらに彼女を魅力的に感じるようになり、何とか自分の女にしたいと必死になっていろいろと考えをめぐらせ、下女を通じて自分の気持ちを伝えるがまたもや拒否されてしまう。そこでピルソンは、彩鳳が裏山に散策に行く時を狙《ねら》って、ある春の満月の夜を楽しんでいる彩鳳の前に突然姿を現す。彩鳳はおどろいてその場から逃げようとしたが、殿様の息子とわかって丁寧にお辞儀をした。その時、ピルソンは次のように述べた。
「小生の話は下女《ハニヨ》からお聞きになったと思います。お願いですから小生の懇《ねんご》ろな心情をわかっていただき、小生を将軍として支えてくれることを望みます」
彩鳳は余りにも単刀直入なピルソンの言葉にあっけにとられ、少しの間ぼんやりとしていたが、すぐに近くの山小屋へと姿を隠してしまう。実際には、彩鳳の心はピルソンへの想いでいっぱいだったのであり、物語は最後にピルソンとの幸せな結婚で幕を閉じる。
ここでも、男のほうで気に入ったとなると、男は絶対の自信を持って女にせまっている。その反面、女の方は気持ちはあるものの、『春香伝』同様、強い拒否を何回か続けるのである。現代韓国の男女関係にも一般的に見られる「男の執《しつ》拗《よう》な誘い」と「女の執拗な拒否」の構図そのままが、現存する最古の恋愛小説にも見られるのである。
『源氏物語』は、韓国人には容易に想像のつかない恋愛の世界を描いている。私が初めて『源氏物語』に接したとき、とはいっても古文を読みこなす力のない私ゆえに現代語訳のものであり、しかも第一巻の「桐《きり》壷《つぼ》」から「花《はな》散《ちる》里《さと》」までのあたりをざっと読んだに過ぎなかったのだが、気弱な色男の女性遍歴小説という以外にさしたる感想をもてなかった。そして、なぜこんな不道徳な浮気物語が日本最高の古典物語であるのか、なんとも理解できなかったものである。
『源氏物語』の描く世界が韓国の古典の描く世界とまったく異なっている理由は、なんといっても書かれた時代が古代であることだ。小説としては一七、八世紀の古典が最古のものである韓国では、古代の男女の愛がどのように交わされていたかを知ることができない。いま少しずつ『源氏物語』を読み進めている私の興味は、韓国の古典からはかいま見ることのできない古代人の愛の形にある。
『源氏物語』の世界は、一般人の生活から隔絶した王朝貴族間で行なわれる一夫多妻制の世界である。そして男女が別居する母系的な招婿婚(妻問い婚)の慣習が、表の父系的・男権的な制度とは別個に行なわれている世界である。こうした時代背景がわからなければ、『源氏物語』の多重に錯《さく》綜《そう》する恋愛関係や姦《かん》通《つう》容認的な男女の愛の世界は、あまりに不道徳な淫《いん》乱《らん》世界でしかない。
古代母系制の下では通常、男が求め女が許せばその場で性交・結婚が行なわれた。そして原則として父母はそれを事後承認すべきだった。そのため、両親は結婚の相手に相応《ふさわ》しい異性や家柄について息子や娘たちに多くのことを教え、また相応しくない結婚が起こらないように最善の注意をはらった。とすれば、それはほとんど現代の自由な男女関係とも見えてしまう。古代的自由とはこうしたことも含めていうのだろうか。
田辺聖子氏は『新・源氏物語・上下』(新潮文庫)の中で、次から次へと新たな女性の獲得に動き回る光源氏の行為を、しばしば「冒険」という言葉で表現している。確かに光源氏は、人妻、妃《きさき》、敵対的な権力者の娘など、あえて危険な関係への挑戦に燃えたつ性格のようである。露顕すれば地位を失い、この世界から抹殺されることは明らかである。光源氏は実際、自分の兄である天皇がとくに愛する女《によう》御《ご》であり、かつ政敵の娘でもある朧《おぼろ》月《づき》夜《よ》の君と通じ、官位を失い長らく地方に蟄《ちつ》居《きよ》しなくてはならなかった。これは「冒険」には違いないが、そこにはさらに、なにか抵抗しがたいものに突き動かされてのタブー侵犯の意識を感じないではいられない。
なぜ「たかが女」にこれほどの危険を冒さなくてはならないのか。また女のほうも、なぜ「たかが男」に身の破滅を覚悟の上で通じ合おうとするのか。そして、なぜ、主体性のなさを感じさせずにはおかないズルズルとした関係を持続させてゆくのか。そのへんが私にはどうにも理解できていない。
身分の違いということで、あえて『春香伝』と似たようなケースを考えてみると、空《うつ》蝉《せみ》を取り上げてみてもよいかもしれない。色好みの貴公子たちの間で「単に上流の女がよいというのはセンスのないことで、下流となるとちょっと殺伐としてくるが、中流のなかには意外に教養や品格の高い魅力的な女がいるものだ」といった「品定め」が行なわれ、それにピッタリ相応する女として空蝉が登場する。もちろん、ここでの上流、中流というのは貴族階級の中での上流、中流であり、庶民階級の者は最初から目的の外にある。それも、王家と姻《いん》戚《せき》関係を結ぶ権力中枢の家柄にある貴公子たちにとっては、その外部の貴族たちはもはや庶民に過ぎなかっただろう。
空蝉は人妻だったが『源氏物語』の世界では、人妻であることは恋愛にとってそれほど大きな障害ではない。この世界では、夫がありながら他の男と浮名を流す女たち、あるいは愛情の交歓を楽しむ女たちは、かなりな範囲で容認されることが多かった。そうした条件のもとでは、空蝉にとって、天皇の息子でもある貴公子と愛情の交歓ができることは身に余る光栄であり、もし発覚したにせよ、身分の低い夫は文句をいえる立場にはない。また空蝉自身、光源氏に大きく心を動かされている。ところが、空蝉は光源氏をなんとしても拒否するのである。
空蝉は韓半島の女たちのように、貞節を守り通す倫理からだけ拒否するのではない。空蝉は貴公子たちの「品定め」の意味をよく知っているのだろう。つまり、身分の低い女たちに物珍しさを感ずるという、身分の高い色好みの貴公子たちの趣味がそうさせているのであって、どこまでも真剣な愛として続くものではない。いつでも浮気として片づけることができるだろう。しかし、身分の低い自分としては真剣な愛を求め続けるほかない。そんな苦しみを味わうことが目に見えているとするならば、いかに光源氏に心がひかれようとも拒絶し続けることが賢明なことだ――。空蝉はそう考えたに違いない。
これほど光源氏を拒否した女はほかにいなかった。藤壷も光源氏との愛情関係に入ることを拒否し続けたが、藤壷は中宮であり光源氏の実父である天皇の妻であるという点で空蝉とはまったくケースが違っている。いずれにしても、貴公子たちよりもいっそう身分の低い女に光源氏が強く拒否されたことに興味をひかれる。
『春香伝』でも、春香は最初、貴公子モンリョンに身分の違いを述べて拒否の態度を示している。そこには空蝉同様、高位の者の愛の告白への疑念があったかもしれないが、それよりも、男の誘いに簡単に乗るふしだらな女ではないことを示すのが第一の目的だった。そこでモンリョンはさらに自分の信義を示し、春香はそこまで身分の高い男がいうのならば拒否することはならないと、その時点から男に自分のすべてを委ねるのである。
『源氏物語』では多くの場合、いきなり寝室に忍んで来た男に女が身を任せてしまい、そこから恋愛が始まる。『春香伝』の世界ではあり得ないことだが、仮にそうなったとしたら、李朝期の倫理観では、女はそこでもはやその男のものになるしかなかった。空蝉は忍んで来た光源氏に強引にせよ抱かれてしまった。それにもかかわらず、そのことでもはや光源氏の女になってしまったという気持ちにはなっていない。光源氏にしても自分のものになったとは思っていない。そこに、時代と地域を隔てた倫理の違いがあるのだが、その違いは現代の日韓の恋愛観の違いにも大きくかかわってくるように思う。
現代韓国の男女関係の主題は、明らかに『春香伝』の伝統をひいている。もちろんそれが「女の貞節」であることはいうまでもない。では、現代日本の男女関係の主題はどうなのだろうか。もしそれが、危険なエロスの関係にあえて挑戦する不倫の問題だとすれば、『源氏物語』の伝統をひいているといってもおかしくはない。しかし、現代日本の男女関係の主題がそこにあるとはいえない。そうしたことではこの二つの古典を比較することはできないのだが、『源氏物語』はまた別の意味で現代日本の男女関係の主題につながっているように思われる。
『春香伝』など韓半島の古典は、貞節な女と信義に厚い男があくまでその高い倫理を一貫させることによって、妨害を受けていた恋が正式の結婚の成就として実る、といった形で描かれる。『源氏物語』では、女の貞節と男の信義の一貫しがたさの中で、さまざまな矛盾を抱え込み悩み悲しむことになる人生のあわれな模様が描かれる。
『源氏物語』から聞こえてくるのは、そうした「なよなよとした弱さ」に終始する人間の姿への肯定的なトーンである。制度をはみ出して流れる自然的な人間の欲望を、主人公たちは一様に、どうすることもできないものとして受け取っている。そして愛情は、ほのぼのとした春から燃え立つ夏へ、そして秋枯れのわびしさを経て冬へと至り、この世から遠く離れた彼方へと流れ去る、というように、あたかも自然な季節そのままのように流れる。『春香伝』などでは、自然の流れに対して人間社会の倫理をもって立ち向かう。なんとしても自然の流れを横切って向こう岸へ渡り着こうとする。その点が決定的に違っている。
現代日本人にあっても、「自然の流れには逆らうことができない」という考え方は強い。出会いにしても別れにしても、どこかで「自然な流れ」が意識されている。失恋して恋人を思い切る場合でも、「仕方がないこと」と自分に言い聞かせようとする。一般的にも、「できてしまったことは仕方がない」とか「やってしまったことは仕方がない」といって過ちを犯した者を慰めようとする人は多い。何事も「運命であればしようがない」と自然の流れを容認しようとする傾向が日本人には強いといってよいだろう。
現実の世界では、およそ女はどんな男と出会えるかで運命が変わるものではないだろうか。少なくとも韓国ではそうなのだ。韓国人にとって運命は人の力で変えられるものであり、うまくいかないことを運命だからと片づけてしまうことは、とてもみっともないことなのである。とくに韓国の男たちは「なせば成る」という格言をことのほか大切にしている。天災などを除けば、世の中のことはほとんど人間が「なせば成る」ものなのである。だから、好きな相手に対しては粘り強く口説く。現実はどうあれ、人を好きになったり嫌いになったりすることは、人の力でいくらでも調整できるという思いが韓国人にはある。多くの日本人にとっては、それは自然のままに成るしかないことのようなのだが。
結婚している日本人に「あなたはなぜ彼(彼女)と結婚したのか」ときいてみると、多くの人が「たまたまそうなった」というような答え方をする。てれ隠しにそんな言い方をしているのも確かだと思えるが、そう主張したい意識がどこかにあることも確かなように思える。とすると、自分の主体性はどこにあるのか。自分の生涯のパートナーになる相手を「何となく」という意識で決められるわけがないではないか。なんと不思議な人たちなのだろうという思いはいまだに拭《ぬぐ》えない。
『源氏物語』の登場人物たちからは、どこか人生の機微を知り尽くしその奥深さに触れた老人の感懐を呼び込もうとする意思が感じられる。そうした秋から冬へと流れる季節の訪れを迎えることによって、現世のさまざまな矛盾も解消してゆく。一方、『春香伝』では、現実に負けることなくあくまで理想とされる倫理を貫き通そうとする青春期の人間に特有の純粋さと正義への強い意思が特徴的だ。
その意味では『春香伝』は、春の訪れとともにはじまり春の盛りに完結することを必須の要件とする物語である。熱き情念に燃える青年期の純粋な愛が、紆《う》余《よ》曲《きよく》折《せつ》を経ながらも一貫することによって結婚に至り幕を閉じるのである。したがって、それ以後に必ずや訪れることになるだろう、二人の労苦に満ちた人生――父権的な一夫多妻制のもとでの身分低き妻とそれを娶《めと》った男の人生が織りなすドラマは描かれることはない。『源氏物語』がいきなり、「それほど身分の高くはない桐壷の更衣」の悩みから物語がはじまるのとは対照的である。
『春香伝』は自然の流れを横切ろうとする若き現在から未来を照らそうとするが、『源氏物語』では、結局は自然の流れに逆らって生きることはできないと知った老成した未来から現在が照らされているように思える。確かに韓国人の人生観・恋愛観は『春香伝』的であり、日本人のそれはやはり『源氏物語』的であるように感じられる。
キャリアウーマンの恋愛と結婚
「仕事と結婚」をめぐって思い悩む女性は少なくないだろう。私にしても平然と独身主義を唱えているわけではなく、「仕事と結婚」のテーマを前に迷いを重ねている。ただ、私がどんなふうに迷っているかを話すと首をかしげる人が多い。いろいろと人の話を聞いてみると、確かに私はとても変な迷いかたをしているようなのだ。
いまの私の仕事は、日本語という外国語で文章を書くという、かなりやっかいなもの。書くことだけで一日の大半を使い、読まなくてはならない日本語の書物も多い。また取材であちこちと出歩き、頻《ひん》繁《ぱん》に人と会って話をする。夫や子どもがいたら、このままではとてもやっていられないだろうなと思う。結婚してもこの仕事を続けるとしたら、通常の主婦の仕事をこなすことはまずできないから、身の回りのこまごまとしたことを助けてくれる人が必要となるだろう。でも私は、結婚したらなんとしても夫や子どもに尽くしたくなってしまう自分をよく知っている。主婦に徹すれば仕事ができなくなる、仕事に徹すれば主婦ができなくなる。仕事と結婚についてはどうにも折り合いをつける発想がもてない。ひとつにはそういう「どちらも犠牲にしたくない」という虫のよいジレンマがある。
知り合いのアメリカ人の女性に「あなたはなぜ結婚しないのか」ときかれてそんな話をしたら、彼女は「それならアメリカの男性と結婚すればいいでしょう。家事をやってくれる人はけっこう多いから」という。確かにそうかもしれないのだが、困ったことに、一生懸命に尽くしてくれる男性が現れて、掃除や洗濯や料理をやってくれるとしても心苦しくなるばかりで、たぶん私はそうしたタイプの男性を好きにはなれないのである。私の悩みのタネはそこにある。私はいってみれば「男に尽くしたいタイプ」の女であって、そういう女が一方では、社会的な仕事を力いっぱいやっていきたいとも思っている。そこに妥協のないことが、私を「結婚しない女」にさせている最大の要因なのだと思う。
男女が平等に家事と育児を分担するとか、あるいは女が仕事をして男が家事をするとか、さらには人を雇って両者の負担を少なくするとか、さまざまな結婚生活があってよいではないか、なぜあなたはそう考えようとはしないのか、そのような考えをもったパートナーを探そうとしないのか。私の話を聞いた日本の女性の多くはそういって首をかしげるのである。確かに、それはおかしなことに違いない。
自分を突き放して考えてみると、私は韓国近代化の過渡期にある女性たちのジレンマをやや極端ながらも典型的に抱え込んでいるように思う。意識のほうはいまだ前近代的な色彩を濃く残しながら、社会的な行動のほうは深く近代に突入してしまっている。一九六〇年代半ばからはじまった韓国の経済成長の速度は日本以上に急激で凄《すさ》まじいものだった。一九六五年の時点では一台の冷蔵庫もカラーテレビも生産していなかった国が、一九八三年にはそれぞれ一四〇万台、三七一万台を超える生産を達成し、カラーテレビではその時すでに日本に次ぐ世界第二位の生産量を誇るまでに至っていた。この間の一人当たりのGNPは一〇五ドルから二〇〇〇ドルへと実に二〇倍の成長をみている。その二〇年ほどの間で韓国の社会は目も眩《くら》むような急《きゆう》変《へん》貌《ぼう》をとげたのである。大人たちの多くが「意識が社会についていけない」思いを抱え込むことになったが、ちょうどその時期が青春時代にあたっていた私たちの世代では、誰もが大きくふたつの自分に引き裂かれる体験をしたに違いないと思える。
幼いころから家庭や学校で培われてきた意識や感受性がベースにあり、その一方で、日々変貌をとげる社会からこれまでになかった新しい物事を貪《どん》欲《よく》に吸収してゆくことによって養われてゆく意識や感受性がある。そこではしばしば、このふたつがかけ離れたものとなって対立し、意識の分裂や心の矛盾をつくり出すのである。そのあたりで私は、男に尽くす女になりたい気持ちを保存させたまま、キャリアウーマンへの強い志向をもつといった事態を招くことになってしまったのではないかと思っている。
もちろん、男に尽くすことは主婦になることではないし、主婦になることは単に掃除・洗濯・料理・育児などをすることではない。ほんとうに重要なことは、もっと目に見えない精神的なことだと思う。とはいっても、実際の生活では、具体的な行為と誠意とはそう簡単に切り離すことはできないし、私の感受性は、やはり好きな男の身の回りの世話をしたい女のそれとしてでき上がってしまっている。なんとも始末の悪いことである。
私の始末の悪さは、おそらく現代韓国の未婚女性が多かれ少なかれ同じように感じているものに違いない。そのあたりにズバリと焦点をあてた『水の上を歩く女』という大衆小説が最近、韓国でベストセラーとなっている。一九九〇年に発売されて韓国の女たちの間に大きな反響を巻き起こし、私も評判を聞いてすぐに読んだのだが、私たち世代の女性に特有なジレンマの質を巧みに取り入れた話の設定に大いに感心したことを覚えている。あらすじを簡単にご紹介してみたい。
ナンヒとミンヒという仲のよいふたりの女性が主人公だ。ナンヒは家庭的な問題が多く、経済的にもあまり恵まれない家庭の娘であり、ミンヒは上流の家庭の娘で精神的にも経済的にも豊かな環境に育った。同じ中学に通ったふたりは誰もがうらやむ仲のよい友だちとなる。ナンヒは父が経営する生地店の影響から、ミンヒは画家である母親の影響から、いずれも色彩やデザインに興味をもち、ともに服飾デザイナーを目指して同じ高校、同じ大学に通った。まわりの者から双子のようだといわれながら、ふたりはいつも一緒に行動してきた。大学を出たらフランスに留学してデザイナーとなり、生涯独身を貫いてキャリアウーマンとして活躍していこうと約束する。
大学四年のときにミンヒの父が重い病気にかかって亡くなる。父という大きな支えを失ったミンヒの心に変化が訪れはじめる。頼れる男との出会いを求めて、独身――キャリアウーマンを志向する意思が揺れ動くようになってきたのである。ナンヒは人生のパートナーを失ったような気持ちで心が沈んだが、ちょうどそのころ、大学の教授からある繊維財閥の御《おん》曹《ぞう》司《し》で系列会社の社長をやっている男性との縁談の話が持ちこまれた。しかしナンヒには、将来服飾デザイナーとして自立するために、自分でつくった戒律があった。それは、男に近づかないこと、男のために一秒たりとも浪費しないこと、男を愛することをしないこと、ただ目的の達成に向かって進むこと、であった。その男性ジェミンは実に素敵な人物であった。ナンヒは親友ミンヒにその縁談をゆずり、ミンヒの結婚の日にフランスへの留学に旅立つ。
ナンヒが五年間の留学生活を終えて韓国へ帰ってくると、ミンヒはふたりの子どもの母親になっていた。ナンヒはフランスを発つ前に、韓国で最大規模のファッション企業のデザイン室長に任命されていて、帰国するやマンション、家政婦、運転手付き自家用車を与えられ、いきなり華やかな人生のスタートを切ることになる。ミンヒはナンヒの目的達成をうらやましく思った。またナンヒからみれば、ミンヒは豊かな生活と夫の愛を受けてとても幸せな家庭生活を送っている。次々と事業を成功させますます会社を大きくしていっている夫を支え、ミンヒはしっかりと輝いている。そんなミンヒをみながら、ナンヒはそれまで否定的に思っていた結婚生活を見直すようになり、ミンヒの安定感こそが女としての勝利なのではないかと思うようになる。ナンヒは、結婚の幸せをミンヒが味わえてほんとうによかったと喜びながら、自分はデザイナーとして大きな成功をおさめることに専心しようとさらに決意を固める。ナンヒは、自分にとっての結婚は絶望と敗北以外のなにものでもないと思い続けた。仕事と家庭をともに手にしてこそ現代女性ではないかというかつての大学の教授のアドバイスにも耳を傾けることをせず、両方を手に入れることは不可能だと自分にいいきかせていた。
やがてナンヒは従業員二〇〇名の企業をひきいる経営者となり、社名を「ドゥヒファッション」(ふたりの名前のヒをとったもの)と名付けた。会社は国内有数のブランドと評価されるようになり、着実に伸びていった。一方、ミンヒの夫ジェミンの経営する繊維会社はますます隆盛を誇り、ジェミンは新聞紙上などで「今日の経済界が注目する有望な若手の企業家」と高い評価を受け、家族の写真とともにしばしば新聞や雑誌のページを飾るようになった。素晴らしい夫と可愛い子どもたちに寄り添われ、優雅な笑みを湛《たた》えているミンヒの写真をみながら、ナンヒの心は再び揺れ動く。やはり結婚こそが女の勝利なのだろうか。仕事がうまくいかないとき、困難な状況にぶつかったときには、ふとミンヒのような結婚に憧《あこが》れている自分を発見してしまうのだった。マンションの部屋にひとりいると、それまで感じたことのなかった孤独感が波のように押し寄せてくる。
「私の勝利、女の勝利」の言葉を胸に、いまにもうちひしがれそうになっていた心を奮い起こして再び立ち上がったナンヒは、さらに意欲を燃やして事業を拡張してゆく。妻の友人ということでジェミンから少なからぬ援助を受けていたこともあって、役員の中にはジェミンも名を連ねた。ナンヒは仕事と結婚したつもりで、あるだけの情熱を事業に注ぎこんでいった。ジェミンも間接的ながら積極的にナンヒの事業に協力した。やがて「ドゥヒファッション」は韓国の女性たちの間でも最も人気の高いファッション企業として成長し、ナンヒは大成功をおさめた有能な女性実業家としてキャリアウーマンたちの憧れの的となる。一方のミンヒは、自分の能力をいかんなく発揮して成功した女性として雑誌やテレビのインタビューに答えるナンヒをみながら、夫の力に頼っていくしかない自分のあり方にいいようのない苛《いら》立《だ》ちを覚える。夫を支え、子どもを育て、義務的なパーティーに参加するといった、機械のような日常の繰り返しに虚《むな》しさを感じて、ミンヒの心は苦しかった。
あるとき、ナンヒはパリのファッションの動きをみるために一五日間の日程でフランスに旅行した。ちょうどその時期、ミンヒの夫ジェミンもヨーロッパ各国をめぐる出張の旅の途上にあった。ナンヒはパリに来てから一〇日ほどたったある日、土産の品を買おうとデパートに立ち寄った。そのとき、後ろのほうから「ナンヒさん」と韓国語で呼びかける声が耳に入った。振り向くとそこにジェミンがいた。偶然の出会いに驚いたふたりは夕食をともにし、またグラスを重ねた。ナンヒはしだいに、ジェミンの前でひとりの女になってゆく自分をどうしても抑制することができなくなっていった。生まれてはじめて感じる気持ちだった。そんなナンヒの心の動きを感じたジェミンの心も燃えた。晩秋の夕日が落ちた黄昏《たそがれ》のシャンゼリゼは恋人たちの世界……。二人はまるで運命に導かれるようにして理性を失っていった。ジェミンはナンヒが三六歳にしてはじめて知った男となった。
そのときから、ナンヒは激しい心の嵐に巻き込まれてしまった。誰よりも大切な人生のパートナーであったミンヒ、その夫ジェミンへと急速に引き込まれてゆく自分の心をどうすることもできない。そればかりか、仕事にまったく集中することができなくなってしまった。社員一〇〇〇名の企業を営々として築いてきた女社長が、たったひとりの男によってまったく力を失ってしまった。ミンヒに対する罪の意識にさいなまれ、かたときもジェミンのことが頭から離れない。とても仕事に専念できる状態ではなかった。ナンヒの葛《かつ》藤《とう》はやがて、死を選択するところにまで及んでいく。
小説ではナンヒが再び立ち上がるところで終わっているのだが、作者の「まえがき」によると、このストーリーは実際にあった話から取材したもので、現実のナンヒは自殺をとげたとのことである。
ナンヒとミンヒは大の親友である。韓国で親友といえば、そのありかたは日本の友だち関係とは大きく異なっている。ほとんどの韓国人が、社会に出る前の学校時代からの友人関係をことのほか大切にしている。私にしても、同じ地域でともに育った同性の友だちには、いまだに特別な親しみをもっている。そして親友ともなれば、その関係の強さも深さも、おそらくは日本人一般の想像を絶している。韓国人の多くが血の通った家族の関係を何よりも大切にすることはいうまでもないが、家族の関係は必ず上下の関係で形づくられるため、対等な位置からほんとうの心の悩みなどを話すことがしにくくもある。したがって、だいたいが同年齢の親友をつくり、家族にすらいえないような悩みを話したり秘密を打ち明けたりするようになる。ふたりの間では、あなたのもの、私のものという区別をすることなく、可能な限り距離をなくそうとする。
夜中、新婚家庭にいきなり友だちが訪ねて来たとしても、友だちを歓待するのが韓国の男である。夫の友だちが毎晩家に集まって遊ぶので、その世話で大変だという妻たちの不満はよく耳にすることだ。男の場合はそんな具合で、結婚しても友だち関係がきれることは少ない。女の場合は、ひと昔前の韓国では結婚の相手は遠い地域の者ほどよいとされていたこともあり、結婚して友だち関係がきれてしまうことも多かった。しかし最近では、結婚しても深い友だち関係を維持し続ける女たちは多い。ナンヒとミンヒの関係はそうし
た現代韓国の実情をよく反映している。
ナンヒとミンヒは中学から大学までを一緒にすごし、ほとんど毎日といってよいほど一緒に行動した。ふたりは顔色だけで相手の気持ちを判断することができたし、相手の生理日まで知っていたと描かれている。あまりにもふたりがいつもピッタリとひっついているので、まわりの者たちは彼女たちを「ドゥヒ」(ふたつのヒ)と呼んでいた。ふたりは現実には別々の道を歩んだのだが、実はふたりがふたつの道を分け合って、ふたりしてふたつのものを手に入れたのだと私は思う。ミンヒの結婚はナンヒの結婚でもあり、ナンヒの仕事はミンヒの仕事でもあった。またジェミンとしては、ふたりの女のいずれと結婚してもよかった。現実にはひとりの女と結婚したのだが、それによってジェミンがふたりの女を手に入れたと思ったことは間違いない。少なくともジェミン自身は最後までそうしたかっただろう。
以前にも少し書いたことがあるが、ある仕事で知り合った韓国人男性から、ふたりの女性が並んで写っている写真をみせられて「これが妻です」といわれたことがある。実際には妻とその親友だったのだが、この三人の関係はナンヒ・ミンヒ・ジェミンの関係と似たようなところがある。そのふたりの女性も小さいときからの友だちで、ひとりが結婚するともうひとりは新婚旅行にまでついてきたという。また、未婚のほうの友だちは新婚夫婦の家にたびたび遊びに行っては泊まることが多く、同じ部屋で三人して寝たりするのだという。そして彼女は、「自分もあなたが好きだから他の男と結婚する気はまったくない」というそうなのだ。かといって彼との間に肉体関係があるわけではない。妻のほうは、その友だちが自分の夫とふたりきりで食事をしたり映画を見に行ったりしても、まったく嫉《しつ》妬《と》することがないということだ。面白いことには、三人で連れ立って街を歩いているときなど、彼がよその女性に目をやろうものなら、ふたりの女から同時に嫉妬されるのだという。
こんな関係が一般的にあるわけではないが、どこまでも一体化を求める韓国人の深い友だち関係のつくりかたからすれば、十分に理解できることである。私の知り合いのなかにも、長い間家を空けなくてはならないときには、夫や子どもの世話を友だちに任せる女性がいるが、彼女にとってはそこまで信頼できるからこそ友だちだというのがひとつの誇りでもあるのだ。こうしたことはそれほど珍しいことではない。
小説としては通俗の域を出ないものの、ナンヒとミンヒが「仕事か結婚か」で分裂する私のなかのふたつの自分に対応していることは明らかだ。そして、それがまた現代韓国の女たちの「引き裂かれたふたつの意識」の対立と矛盾を象徴してもいるとすれば、この小説はやはりなるべくしてなったベストセラーだというべきだろう。おそらくは、私がそうだったように、この小説を読んだ韓国女性の多くが、小説で展開されるドラマを我が心のドラマのように感じたに違いないと思える。
「いうまでもない」といわれそうなことをあえていうと、恋愛はあくまでも恋愛であって結婚とは別のものである、つまり恋愛と結婚をひとつながりに連続するものとはしない考えかたがある。こうした考えかたは現代日本の女性たちの間ではほとんど疑う余地のないものとなっている。私もそう思う。ただ、そう思うことは思うけれども、「いうまでもない」とスッキリといいきることができない。
なぜならば……。恋愛と結婚が別のものだとすれば、夫(妻)への愛情と結婚生活は並行していながらも別のものとなる。とすれば、夫(妻)以外の男性(女性)へと愛情が移り、しかも結婚生活はそれとは別に維持される、といった状態があり得ることになる。もちろん、そんなことを了解し合って結婚する人はまずいないだろうが、恋愛と結婚を分離させる考えがそうした問題を含んでしまうことは確かだと思える。そのへんがスッキリしない分だけ、恋愛と結婚が別のものだと、声高らかに主張することには躊《ちゆう》躇《ちよ》してしまうのである。
日本人ならばおそらく、ナンヒが結婚しない女として生きようとしたことは理解できても、男をまったく寄せつけない女として生きようとしたことは理解できないに違いない。結婚しなくたって恋愛をすればいいではないか、独身だって恋人がいればいいではないか、それなのになぜそこまで……という疑問をもつのが日本では普通だろう。ところが、私同様、恋愛と結婚を連続するひとつの地平に思い描く韓国の女にとっては、そうはいかないのである。ナンヒの恋愛が不倫だったから彼女が死を考えたのではない。けっして結婚として成就することのない、結婚から断ち切られた恋愛だったからこそ、彼女は絶望の淵《ふち》に立つしかなくなったのである。
数年前、二〇代から三〇代のアメリカ人の男女数人が集まったところで結婚が話題にのぼった。そのとき私は、「子どもは欲しくないけれど結婚はしたい」といい、みんなから「それはおかしい」といわれたことがあった。彼らがいうには、子どもを産んで家庭をつくろうとする者のために結婚があるのであって、男女関係だけならば結婚する必要がないではないかということなのだった。私は長い間、彼らがなぜそうした考えをするのか理解できなかった。
やはり数年前のことだが、雑誌にしばしば文章を書いている日本人の女性ライターとの話である。彼女は「子どもは欲しいけれど結婚はしたくない」という気持ちをそのまま実行したのだといって、連れていた二歳と四歳の子どもを振り返ってみせた。私はそういう彼女がどこか別世界の住人のように感じられ、大きく興味を動かされてその理由をきいてみた。彼女は自分の自由が束縛されることになる結婚などする必要性を感じないという。彼女は結婚経験者ではなく、また誰かと不倫の関係をもっているわけではない。恋人との間に子どもをつくり自分の籍に入れているのだ。私は一瞬、彼女の家庭環境を思った。平凡な家庭で育った人ならばそんな考えをもつようにはならないだろうと思えたからである。しかし話をきけば、どうやら彼女の育った家庭はきわめて平凡な家庭というにふさわしく、きょうだいもそれぞれ普通の結婚をしているという。この彼女のことについても、私は長い間理解することができなかった。
数年前までの私の常識では、「女は結婚してこそ安定が得られるのであり、男の戸籍に入って妻となることが女の道」であった。それは、恋愛の先に結婚があると考えていたからであり、このふたつが分離してしまうことは不幸なケースとして、なんとしても避けなくてはならないものであった。一方、当時の私は「子どもを産むことが女の幸せ」という韓国的な常識に反発していた。そこで、異性との愛情関係が第一で子どもはその結果のことだといいたいために、アメリカ人たちの前で「子どもはいらないが結婚はしたい」という言葉が口をついて出たのである。また同様に、「子どもは欲しいが結婚はしたくない」という日本人女性の言葉とも真っ向からぶつかってしまったのである。
遅きに失した感をまぬかれないが、最近ようやく彼女たちの考えかたが理解できるようになってきた。結婚という枠組みとは別に、人生のパートナーとしての男女関係は私にも可能なことに違いない。でも、私はそうした関係に耐えられるだろうか。そうなったらきっと、不安を抱え続けながら生きることになるのではないかと思えてしまう。
結婚へと連続することのない独自のものとしてある恋愛は、一見自由なようにみえて、ある場合には「生涯あなただけを愛し続ける」ということの自分自身への不信の表明であるかもしれない。またある場合には、恋愛という出会いを、「生涯をともに生きよう」とする抜き差しならない運命的な人生へとつなげることに自信と責任をもてない意識の現れであるかもしれない。しかし、神ならぬ人間の愛情関係にとっては、それはきわめて正直なことであるのも確かだと思う。いずれにしても、生涯の生活をともにすることから切り離された恋愛では、心が他の者へと移っていくことをとがめる権利は誰にもなく、またそうなることを防ぐ自分以外の力はどこにもないのである。そこで不安なく生きることは、どのように可能なのだろうか。
最近の新聞の調査によると、今日の日本の結婚率は世界でも最も低いほうに属している。実際、私の身のまわりをみても、三〇歳をすぎた独身の女性がたくさんいる。彼女たちの言動からは、とくにまわりを気にしているふうも、またあせっているような感じもみうけられない。そういう彼女たちのほとんどは、ごく普通に仕事をし、ときに恋愛をし、結婚はするかどうかわからないけど、といった風情をみせている。彼女たちにしても、やはり親からは「はやく結婚しろ」とせめられてはいるようなのだが。
彼女たちに「独身主義者か」ときいてみると、多くの人が「そういうわけでもない」という。そして、なぜ結婚しないのかときけば、「なんとなく」といった答えなのである。未婚の男性の場合は多くが「やはり結婚はしたい」というのに、である。私の身のまわりの人たちがいっぷう変わった人たちばかりではないとすれば、なぜこんな現象が起きているのだろうか。ずっと不思議に思ってきたが、最近は私も「なぜ結婚しないのか」ときかれると、自然に「なんとなく」と答えるようになってしまっている。「結婚しない女症候群」の末席に名を連ね、彼女たちの気持ちがわかるようにもなってきた。
雑誌を読んだり日本にやって来る留学生たちの話を聞いてみたりすると、最近では韓国の若い女性たちのなかに独身主義を唱える者が増えてきているようだ。また最近、私がソウルの街で若い女性たちに直接あたった体験では、「独身主義者か」ときけば、ずばりイエス、ノーの答が返ってくる。「なんとなく」なんていうのはないのだ。それは物事をはっきりという国民性からといえなくもないが、彼女たちの迷いの余地を感じさせない答えかたは、韓国の女たちにとってはいまだ、仕事と結婚が強い対立関係にあることを暗示させている。
韓国に、結婚したとしても仕事や社会的な活動を続けるほうが専業主婦よりは「勝ち」と感じている女性たちが増えていることは確かである。彼女たちも私のようにふたつの意識に引き裂かれて悩んでいるのだが、さらには、なんとかキャリアウーマンでいることを男に承認させ、家庭の束縛をできる限りゆるやかなものとしていきたいという積極的な姿勢がみえるようになってきてもいる。
それでも、韓国では家族関係からくる束縛はいまだに強く、また女性自身のほうにも、専業主婦となり夫と子どもに尽くすことを女の幸せと考える者が多い。家庭と仕事の両立は、韓国の女たちにとっては日本より何倍も困難な事業なのである。また、結婚から分離した恋愛の自立を考える女たちも少ない。そう考えたにしても、韓国の女たちは多くの場合、かのナンヒのように、ひとりの男を愛するようになったとたんに、それまでの社会性をすっかり失ってしまうのである。
日本の独身女性の多くが「なぜ結婚しないのか」ときかれて「なんとなく」と答えるのは、日本の社会がすでに、女が仕事を続けるうえで結婚がそれほど大きな障害とはならない状況へと入っているからだろう。ではなぜ早々に結婚しないのかといえば、恋愛と結婚を別のものとする考えが社会に根づいているからだと思う。日本では、ナンヒのように大きな企業を動かしている女性が、たかが恋愛をしたからといって、仕事を放棄せざるを得ない状態に陥ることはほとんどあり得ない。そうした設定の小説が日本で可能だとすれば、それは恋愛がどこか異常なものとしてある場合に違いない。ナンヒの恋愛は、不倫ではありながらもとくに異常なものとはいえない。それにもかかわらず、ナンヒが人生をなげうつほどの葛《かつ》藤《とう》を抱え込んでしまうところで、多くの韓国人女性の共感を得たのである。その点でこの小説は、韓国社会の現在が、近代化へと突き進む激しい過渡期のまっただなかにあることをよく物語っている。
なんとなく結婚しない日本の女たちを生み出している日本社会の現在はどこに位置しているのだろうか。容易に見当がつかないが、少なくとも彼女たちは、結婚によって仕事をしている自分が束縛されると考えているのではなく、仕事をしていくうえでの束縛されないパートナーを求めているのだと思う。それには、いちいち自分のすることに干渉しない男が望ましい。ところが、私を含めて韓国の女たちの多くは、好きな男には自分のすることに深く干渉してもらいたく、また自分のほうからも干渉したいのだ。これもまた、私にとってはなんとも始末の悪いことである。
激しく純愛、なんとなく純愛
日本語の「純愛」を韓国語ではなんというのかと聞かれて困った。韓国語で「純愛」は「スンエ」と読み、文学などではたまに出てくるのだが、一般的にはあまりつかわれる言葉ではない。「純粋な愛――スンスハンサラン」という言葉があるが、どちらかというと幼い愛を意味するからちょっと違う。普通はとくに「純」をつけることなく単に「愛――サラン」とつかっている。韓国人の感覚では「愛」といえば当然に純粋なもの以外ではないから、わざわざ「純愛」というと何かおかしな感じがする。
また、日本では肉体関係をともなわない精神だけの愛にプラトニック・ラブという言葉をつかうが、これも韓国ではほとんどつかわれることのない言葉だ。韓国で「愛――サラン」といえばそもそも肉体関係のイメージはないから、ことさらプラトニック・ラブという言葉の必要性がないのだともいえる。肉体関係のイメージは「愛」とではなく「結婚」と結びついている。
韓国人一般の間では、日本人のように、愛しあっていればセックスの関係があって当然だという意識は薄い。セックスは恋愛にともなうものではなく結婚にともなうものだという伝統的な考え方がいまだに根強いのである。そのため、とりたてて「純愛」という言葉はいらないのかもしれない。日本ではいつのころからかは知らないが、「肉体関係がなくても成り立つ愛」を意味する言葉を必要とするようになり、そういう意味も含む言葉として「純愛」がつかわれるようになったのではないだろうか。
もちろん、日本語の「純愛」は単に性関係のない愛を指すものとはいえず、総じて不純な要素のない愛をいったものだろう。でも、「セックスの関係はあるの」ときかれて「まだきれいな関係です」とか「純粋な愛です」とかいう答え方がまったく死んでいないものとすれば、やはり「純愛」はどこかセックスを少なからず除外する傾きをもった言葉の感が強い。また総じて不純な要素のない愛という点では、「純愛」は身体や社会と、つまり生々しい現実の生活とはあまりなじみのよくないものだとも感じられる。
そんなふうに考えれば、韓国人の意識での「愛」とは、日本語の「純愛」にかなり近いものといっていいようだ。
「純愛」には青春のイメージが結びつきやすいが、確かに若いころほど純粋な愛を求め、純粋な愛に燃えたいと思う。だからこそというべきか、その愛は、えてして一方的でかたくななものとなりやすく、どこか片思いのそれと似てくる。
中学生のとき、数学の先生に片思いをしたことがある。大学を出たばかりで新しく赴任してきた、若くてハンサムな教師、となれば、私に限らずまいってしまう女子生徒は多かったはずである。でもそんなことは思いもよらず、私だけが宝物を発見しているといった気分でひとり胸をときめかせていた。
ある日教室に入ると、番長(日本のクラス委員長)が生徒たちからお金を集めて回っている。なんと、その先生が結婚するのでプレゼントをするためだという。しばし茫《ぼう》然《ぜん》として声も出なかった。その日、だれもいないところでどれだけ泣いたことだろう。それからの数学の時間は、それまでのワクワクと心が浮き立つような時間から、一変して、先生に対する嫌な気持ちが身体《からだ》中に充満したままの、とても苦痛な時間となってしまった。
こんな体験は誰にも一度や二度はあることと思うが、このときに知った片思いほど愛を理想的に描くことのできた体験はなかったように思える。私の場合は相手の結婚によって崩れてしまったのだが、幼き片思いの愛は多分にどこか非現実の対象への愛となっていて、相手が現実化したとたんに壊れることの多いものである。
次は帰郷したおりに高校三年生の姪《めい》から聞いた話。
女の子の友だちが一年生のときからひとりの先生に片思いをして、さすがに現代っ子なのか、盛んに手紙を出すのだが返事がこない。あるとき意を決して廊下で出会った先生に直接「ふたりで会ってほしい」と頼んだのだが、まったく無視されてしまった。それ以後も、先生はいつもと同じように何事もなかったかのように授業を進め、一般の生徒と同じように彼女を扱う。彼女はそういう先生がますます好きになり、さらに思いをつのらせていった。二年生のときに先生が転勤となった。彼女は大きなショックを受けたが、せいいっぱいの愛を好きな人におくったという思い出を大切に心の中にしまって、もう先生のことは忘れようと努力をした。
いまだ忘れられない思いを残しながら期末試験を終えたころ、その先生から自宅に深夜、電話があった。「会ってくれないか」というのだ。そのとたんに彼女の熱はすっかり冷めてしまい、反対に嫌悪感すら感じたという。わざわざ私の電話番号を調べている惨めな先生の姿が浮かんできて、とても不愉快な気持ちになったという。また、受験勉強で夜遅くまで私が起きていることを計算に入れて、家の者が電話に出ないだろうと深夜に電話をかけてきたことがさらに嫌になるというのである。
あたりまえの人間の行為がこれほど不純に感じられてしまうのはなぜなのだろうか。いまとなっては不思議なのだが、この気持ちは当時の私の片思いの質に照らしてもよくわかるものだ。勝手といえば勝手、残酷といえば残酷なのだが、それは現実に対して勝手なのであり残酷なのである。
心の中で作り上げた像と現実の像とが異なるのは当然のことだが、そのちがいをうまく自分のなかで処理できないために恋愛に失敗することがある。つきあってみて自分がイメージしていた人とちがうな、といった感じで嫌いになってしまうような場合である。でもそうではなく、幼いころの片思いに似て、現実に触れたとたんに冷めてしまうという恋愛をこりもせず二度ほどしたことがある。
高校生のとき、知り合いの紹介でドイツ在住の韓国人男性と文通をしているうちに恋愛してしまった。彼は留学生としてドイツに渡り、卒業してそのままドイツで仕事に就いていた。そのころは、家に帰れば彼に手紙を書くのが日課で、彼からも毎日のように手紙がきた。写真を交換し、互いの手紙の内容はどんどん熱いものとなってゆく。ときどきプレゼントが送られてきたりもして、やさしい心づかいに胸がジーンとなることがたびたび。私はとても幸せな気分に満たされ、何かキラキラと輝いている自分を感じては鏡をのぞいてみたりしたものだった。あるとき彼は、職場と住いを変えるためにしばらく連絡がとれない、落ち着いたらすぐに手紙を出すからといって来た。
縁がないとはこのようなことをいうのかと後で思ったものだが、直後に私も下宿を移さなくてはならないことになり、その間一カ月ほど音信不通の状態ができてしまった。しばらくして手紙を出したが宛《あて》先《さき》人不明で戻ってきた。以前の下宿先へいってみたが、誰も住んでいない様子でどうにもならない。ドイツ語の先生にいくつかの言葉を教えてもらって、彼の以前の勤務先に電話をしたが転職先は「わからない」とのこと。こんなことになるならば実家の住所を教えておけばよかったと後悔しながらも、これでひとつの愛が終わったんだなあ、と何だか人ごとのようにけっこう簡単に忘れることができてしまった。それというのは、彼の手紙でちょっと嫌な思いをしていたからである。
彼は近いうちに国へ戻って、私の故郷である済州島に別荘を買いたいという。そのとき、私はなぜか理由もわからずとても嫌な気分になった。彼は別荘をもって私との幸福な未来生活を設計していたのかもしれない。しかし私はいきなり現実的な問題が提出されたことで、それまで彼に感じていた魅力が急速に色《いろ》褪《あ》せていってしまったのである。
もうひとつこれに近い話。軍隊に入ってまもなくのころ、初めての休暇に女子軍人の友だち三人で旅行して、そこでひとりの男性と知り合った。私たちがバスに乗ってやかましくおしゃべりをしていると、軍服姿の逞《たくま》しい男性が乗って来て、スッと隣の席に座る。そして「お嬢さんたち騒々しいね、どこから来たんですか」といった具合に話しかけてきた。彼は近くの駐屯地に勤務する軍人で、その日の夕方、四、五人の仲間とともに私たちと合流し、歌を歌ったりお酒を飲んだりしながら楽しい時間を過ごした。
彼は別れぎわに私に近づいて来ると、「あなたが一番すてきですね」とささやくのである。韓国の男性特有の口説き文句とはわかっていてもやはり嬉《うれ》しい。そのときこっそりと手渡してくれたメモにある彼の住所に、帰ってからさっそく手紙を出した。それから文通がはじまり、しだいに熱くなっていった。そのまま手紙の関係が続き、半年後に彼が退役して再会することになった。それまで私は、早く会いたい、早く会って熱烈な恋愛をしたいとばかり思っていたから、その日を心待ちに待って当日を迎えた。ところがである、会って話をしているうちに、それまで燃えていた心がどんどん冷めていってしまうのだ。彼は私との再会を心から喜んでいる様子で、手紙で書いてきたのと同じように愛の告白をし、自分の家族についていろいろと話をはじめた。そして、とくに「あなたと」とはいわないものの、早く結婚したいのだという。明らかに私と結婚したいという意志表示を受けて、なぜだかわからないが裏切られたような気分になった。そして、すぐにでもその場から立ち去りたい気持ちでいっぱいになってしまったのである。
片思いの場合と同じように、現実に対して実に勝手で残酷な愛の向け方である。生身の人間どうしの関係として現実化されないことによってこそ保つことのできる恋愛、私が文通で夢中になっていたのはそうした性格の恋愛だった。
なぜ人間はこんな非現実の愛に燃えることがあるのだろうか。単に幼いから、若いからというのではなく、思春期という現実超越的な意識の季節に原因があるように思う。そして「純愛」には、どこか現実を超えようとする愛の意志のようなものが感じられるのである。「純愛」が青春のイメージと結びつきやすいのもそのためだろう。
一九八六年に出版され、三、四年の間ベストセラーの上位を走り続けた韓国の「純愛小説」がある。『失われたあなた』(金潤姫著)というタイトルのこの小説は、実際にあった体験を当事者本人が筆をとっての、いわゆる「実録小説」である。現実にはほとんどあり得ないと思える恋愛体験を綴《つづ》ったこの小説は、奥さんたちから高校生にいたるまで、読んだ者は誰でも、あふれ出る涙でまぶたを腫《は》らしながら読んだものだという。私にしても例外ではなかったのだが。
最近この話をある日本人にしたら、日本にも一九六〇年代に大ベストセラーとなった、よく似た内容の「純愛」がテーマになっている本があると聞いた。当時、やはり多くの人々が涙を流しながら読んだという。互いに出し合ったラブレターを収録した『愛と死をみつめて』(大島みちこ/河野実共著・大和書房)である。さっそく探して手に入れ一気に読み終えたところで、再び『失われたあなた』を読んでみて、そのちがいや共通性についていろいろと考えさせられるところがあった。
『失われたあなた』のあらすじ。ユンヒ(潤姫)の恋人チュンシックがアメリカに留学することになり、ふたりは婚約式をあげて将来を約束する。ふたりは毎日のように手紙を出し合って愛を交換していたが、三カ月ほどして彼が交通事故で亡くなったという知らせが飛び込む。ユンヒはそのショックで半分死んだような状態で毎日を過ごす。それから一年が過ぎたある日、チュンシックの友だちから話をしたいと電話がかかる。会ってみると彼はチュンシックが生きているという。動転した気もそのままにチュンシックに会いにいくと、彼の顔半分は見るも無惨に焼けただれ、真っ黒に変質していて耳がちぎれている。なんとか話をすることはできるし思考にも問題はないが、全身はほとんど麻《ま》痺《ひ》状態で右の腕と顔が少々動くだけだ。ユンヒは一瞬身体が震えるほどの恐怖を感じるが、すぐに彼への熱情が呼び覚まされ、彼をおもいきり抱きしめてありったけの涙を流して泣いた。
そこから、親をはじめ世間の誰にも話すことのできないふたりの愛情関係が十数年間続くのだが、その間、彼女には次から次へと不幸な事態が起きてゆく。彼女はそうしたさまざまな障害と闘いながら、彼の生活の世話に力をつくし続ける。それらの日々は彼女にとって苦しくとも幸せであり、またなくてはならない生きがいともなっていった。
ある日、突然チュンシックの容体が悪くなり救急車で病院に運ぶ。医者はあと三カ月か五カ月ほどしか生きられないという。それでもユンヒは彼を、希望を失わずにがんばろうと励ます。入院して二カ月がたった日、チュンシックは看病のためつきそっているユンヒに、疲れているだろうから今日は家へ帰ってぐっすり休み、翌日の午後に病院へ来てくれればよいという。そのとき、自分が一八年間つけてきた日記をあなたにあげる、その理由は明日わかるというのである。わけがわからないものの、ともかく彼のいうままに家へ帰ったユンヒが翌日病院へ行ってみると、チュンシックはもはや帰らぬ人となっていた。覚悟の自殺であった。
ユンヒは本のなかで、「日々積み重なってゆく入院費や看護に疲れた私のことを思い、一日も早く死を選ぶことが私への愛情だと彼は思ったにちがいない」と書いている。そして、十八年間愛し続けた真心を裏切られた気持ちにもなり、すべてを失ってしまったと嘆く。後書きでは、「彼と死に別れて三年ほど経《た》ったいまでも、彼がいつか復活して目の前に現われるのではないかと思う」と書いている。彼女はすっかり生きる気力を失い、現在闘病生活を送っているという。
『愛と死をみつめて』は、入院中に知り合った一九歳のマコ(実)と一八歳のミコ(みちこ)との間に交わされた愛の往復書簡集である。マコは退院したものの、ミコの病状はますます悪くなり、ついに顔面の半分を切り取る手術をしなくてはならなくなる。ミコは悩みマコに相談する。マコは、ミコが健康になれるなら顔なんか問題じゃないといって彼女を励ます。ミコはマコの愛を信じて手術に応じる。
半分を切り取られた顔になっても、ミコはマコに会うことを恐れはしなかった。それはマコにしても同じだった。ミコの病気が治ることなく、長く生きられないことはふたりともわかっていた。それでもミコは一日でも長く生き延びることがマコのためだと信じて、生きることにせいいっぱいの力を注ぎ続ける。ミコの父親はマコの将来のことを考えて、マコにミコのことを忘れるようにすすめるが、それが無駄とわかってふたりの愛のよき理解者となる。
ミコは間もなく死ぬことがわかっていた。でも、近づいているマコの誕生日までなんとか生きて彼にプレゼントをしたいと思い、必死に生きようとした。しかしその前日、彼女はついに力つきて息を引き取ってしまったのだった。
本が出て話題となったのは『愛と死をみつめて』が六〇年代はじめから後半にかけて、『失われたあなた』が八〇年代後半から九〇年代はじめにかけてである。『失われたあなた』は韓国で現在の「純愛物語」として大きな評判をとっている本だが、『愛と死をみつめて』は現在の時点で出版されたとして、当時ほどの評判を呼ぶものとはならないだろう。六〇年代当時の日本であってこそ、それだけの感動をよんだものと思える。その意味では、六〇年代日本の「純愛」の表情には、どこか現在の韓国のそれと似たところがあったものにちがいない。
出版された時期には二十数年の開きがあるが、ミコは一九四二年生まれでマコはそのひとつ年上、ユンヒは一九四七年生まれでチュンシックはその五、六歳年上だから、ほぼ同世代なのである。社会背景のちがいはあるにせよ、また男女の関係が反対になっているにせよ、一方の肉体性が、しかもその個性の主人公ともいうべき顔が損なわれた状況下での、迫りくる死を予感しながらの恋愛という点では、同一の「純愛」の系列に属する本だといってよいだろう。
したがって、当然ながら共通するところは多いのだが、はっきりと違うところも少なくない。その第一は、『失われたあなた』ではふたりの関係は家族にもひとりを除いて他のすべての友だちにも秘密にされたが、『愛と死をみつめて』では家族をはじめすべてにオープンであった。日本の読者の多くが、ユンヒはなぜチュンシックが生きていることを家族に秘密にし、わざわざひとり孤立した苦しみをもったのかと疑問に思うにちがいない。
数年前、私がこの本を読んだときには、ユンヒ自身が書いているように、家族は強く反対するだろうしまたこんな顔で人の前に姿を現わしたくない彼の気持ちを思い、そうするしかなかったという彼女の心がよく理解できたように思った。しかし、再び読んでみて、本来のユンヒは、両親には何でも打ち明けるタイプの女性であることに気がついて疑問をもった。また、ユンヒの両親もものわかりのよい人格者だと思える。もしかするとユンヒは、彼が交通事故で亡くなったという知らせを受けてから、すでに幻想のなかにしか生きられなくなっていたのかもしれない。ユンヒもまた、どこか片思いや文通での恋愛が陥りがちな、生身の人間どうしの関係として現実化されないことによってこそ保つことのできる恋愛をしていたのではないだろうか。
第二には、相手が死ぬとわかったときにも相手が亡くなったときにも、『愛と死をみつめて』のマコは強く理性を求めてゆくが、『失われたあなた』のユンヒは理性を求めてゆくことには罪の意識を感じてしまうのである。そのためユンヒは、ただただ愛の心のおもむくままにチュンシックに尽くすこと、それだけを考えていこうとする。そのためチュンシックは、彼女に対する申し訳なさで心がいっぱいになり、そんな彼女へのいたわりから、痛みを訴えることをずっと我慢してしまう。それが死期を早めることにもなってしまった。
一方マコは、ミコの命がもはや長くないと知ったとき、ミコに次のように手紙を書くのである。
「僕は三年前の昔のマコに生まれ変わった。山男のように、荒っぽい気性まる出しで、ラグビーをやっていた時のように生きていく。……せっかく大学を出て社会の第一線で活躍出来ないなんて全く無意味だと思う。……マコの将来が心配でたまらないということをさせるより、安心して逝《い》けるようにしてあげた方が今のミコに対して唯一の恩返しだと思う」
私はこの部分を読んで一瞬、なんということをいうのかと腹を立てた。死に直面しているミコに対してあまりに酷《むご》いいい方ではないのかと。しかし、ミコは次のように返事を書いている。
「マコ、死んだ後の心づもりのために今から精神修養なさるのね。もし逆の立場だったらと考えるのですが、私だったらただオロオロしているだけでしょう。マコの勇敢さに敬服します」
それまで、「君なしには生きてはゆけない」といった態度をとっていたマコが、これからは君が死んだ後も強く生きてゆくと宣言するのである。どうしてこんなにも冷静になれるのだろうかと思う。
第三には、生き残る相手に対する自分の身の処し方がまったくちがっている。ミコにとっては自然死こそがマコへの愛情の表現であった。一方のチュンシックにとっては、自らの手で死を選び一日でもユンヒの負担を軽くしてあげることが愛情の表現だった。マコはそれで救われ、来るべきものが来たとして素直に彼女の死を迎えることができた。しかしユンヒは彼に死なれてしまったのであり、その死は生き残ったユンヒへさらなる苦しみを与えることになってしまった。ユンヒは最後の最後までチュンシックに尽くしたかったのであり、それが彼女の最大の生きがいだったのだから。
第四には、ユンヒはあれだけチュンシックに尽くしたのにもかかわらず、自分の愛情が足りなかったために彼を死なせてしまったと悔やみ、そのことが彼女を大きく苦しめている。マコは、自分はミコをせいいっぱい愛したのだという気持ちを一生懸命もとうとしている。
どちらがより人間的な態度だったといえるのだろうか。あるいはそういった問いは無意味なのかもしれないが、韓国人ならばきっと多くの者が、ユンヒの生き方こそ人間らしいというにちがいないと思える。私の回りの韓国女性の何人かに、この日本の「純愛物語」の話をして感想を聞いてみると、口々に「なんて冷たいの」という答が返ってきた。
激しく燃える純粋な愛というテーマは、ほとんど現在の日本で書かれる小説のものではなくなっている。そもそも、日本では胸のときめきを誘うような物語が小説として書かれることがずいぶん少ないように思う。現在日本の若い人たちの間でよく読まれている恋愛小説を読んでみると、いずれも物語の起伏に乏しく、何か平面を滑るように流れる感性の軽さがすずしげで、それなりにいい感じはするものの、心がうち震えるような感動を覚えさせられるものがない。
そんな体験を何回かしたせいか、それとも日本の社会に染まってしまったためか、最近韓国で女性たちの間に大きな感動を与えたといわれる『女の男』という、やはり「純愛物語」系列の小説を読んで、まったくシラケた気分になってしまった。好きでもない男と家の関係で結婚させられてしまい、彼女はがまんできずに家を飛び出して好きな男のもとへ逃げようとする。しかし現実は厳しく、自らの自由な意志で生きようとする彼女を許さない。が、彼女はそれに負けることなく真実の愛を求めて闘い、最終的に「純愛」が勝利する、というストーリーである。
なぜシラケたのかというと、日本的な環境に慣れてしまった私には、愛の前に立ちふさがる数々の障害という物語の設定にはもはやリアリティを感じることができなかったからだと思う。
現在の日本には、男女の愛を妨げる障害などほとんどないといってよいのである。あるといえばあるかもしれないが、韓国人からみれば、当人どうしがしっかりしていさえすれば、どうにでもなる程度のものでしかない。
そういえば、「純愛物語」はだいたいが障害があってこそ燃える愛の物語なのだ。そして、およそ肉体的なあるいは社会的な差別こそがその主な要素である。肉体の美醜、出身、地位、身分、名誉、金、知識、能力……などが物語の舞台の起伏を、つまり三次元的な世界のリアリティを形づくっている。そして「純愛」は、それらの起伏がおりなす山にぶつかり、谷に落ち、川に流され、ますます燃え盛ってゆく。やはり青春と死が主人公になってこそ、そうした舞台は生きるというもの。そんな感じがする。
現在の日本でも、もちろん多かれ少なかれ、肉体の美醜、出身、地位、身分、名誉、金、知識、能力……などの差別がある。しかし、それはもはや物語をもり立てる山や谷を構成するほどには激しくあることができないのだ。そこでは「純愛」は、燃えるような姿を現わすことはしないが、どこかいいなあと感じられる作品は、よく読むと微細な差異が作り出している小さな起伏をていねいにたどっているのである。そこに、なんとなく柔らかに燃えている「純愛」の所在を感じることができるようにも思う。吉本ばななさんの小説などからそんな感じを受けることがあるのだが、はっきりいうには心もとない。
ところで、アメリカでベストセラーとなっている小説『マジソン郡の橋』が、日本でも翻訳され大きな評判をよんでいる。これは「大人の純愛小説」ともいわれる。中年の主婦と中年をすぎたカメラマンとが偶然に出会い、四日間にわたって熱烈な愛を交換する。男は一緒に放浪の旅に出ようというのだが、女のほうは夫と子供に責任があるといい、ふたりは別れる。男は一生彼女を愛し続けて生涯独身のままこの世を去る。彼女もずっと彼のことを忘れることなく心のなかで一生愛し続ける。そういった話である。夫に抱かれながら他の男のことを思うのがなんで「純愛」かといういい方もできるが、「肉体関係とは別に成り立つ愛」ということでいえば、互いを心のなかで愛し続けた彼らの愛を「純愛」といってもよいだろう。
ここでは夫と子どもが障害となっている。確かに、現在の日本やアメリカの社会では、この障害がかすかにでも物語のリアリティを保ちえる唯一のものかもしれない。そして、この壁の存在が別れた以後のふたりの間の「純愛」を実現させたことは明らかだ。もし彼女が家庭を捨てて男と一緒になったとしたら、会うことのできない辛《つら》さに身を焦がし、それゆえにこそ相手を一生愛し続けることが可能となる、といった愛の形はもちろんあり得ない。愛は非日常の関係から日常の関係に入ってゆくのである。そこでどのような「純愛」が可能なのか。そこへつなげてしまっては「純愛小説」は成り立たないのだと、そう著者はいっているように思える。
ようするに、『マジソン郡の橋』にしてもそうなのだが、古典的な「純愛小説」の多くは、ありきたりの日常性の内部では耐えることのできない愛の姿を描いている。そして、片思いや文通の恋愛が陥りがちな落とし穴もそこにあり、総じて背景に生活史をもつことのない「純愛」はそこで立ちすくむしかないのである。
しかし先に述べたような、微細な差異をていねいになぞることによって、なんとなく柔らかに燃える「純愛」があるとすれば、それはそのまま日常性の内部で生きることが可能だ。現実の生活者はみんな、その日常性のなかでは、ささやかな変化へときめ細かなまなざしを向けることによって、たくさんの喜びや悲しみを味わっているからである。ほとんど小説とはならないわが凡人たちの「純愛」は、きっとそんな無意識の場面場面で、静かに、なんとなく燃えているのだ。
男と女のいる風景
韓国をよく知る日本人からは、「韓国には何十年か前の日本がある」という感想を聞かされることがよくある。韓国が日本と同じ東アジアの文化圏にあり、日本よりは後発の新興工業国であってみれば、そう感じられていることにそれほどの疑問はない。が、その一方で、それとは逆に「日本には何十年か前の韓国がある」と感じる韓国人も少なくないのである。この場合には、「どういうことですか?」と首を傾《かし》げる日本人がほとんどだ。ここはきわめて面白いところだと思う。
韓国にいた時分、近代化とは西洋のものをどんどん受け入れて西洋化してゆくことだと単純に考えていた私は、日本はきっとテレビや映画で見るアメリカやヨーロッパとほとんど変わらなくなっているに違いないと思っていた。ところが日本へ来てみると、超近代都市の東京の中ですら、人と人とが織りなす風景には、私が幼かったころの韓国にあったような古めかしさがあちこちに浮き立っているのである。
とくに、街のあちこちで目にする「男と女のいる風景」には、いまなお「何十年か前の韓国」を感じるときがしばしばある。象徴的な言い方をすれば、日本の男女は「ピッタリと寄り添う」ことがないのである。それは、「激しく西洋化されているはずの日本」に来たばかりのころの私にとっては、実に不思議なことだった。
なぜ日本の男女は、東京や大阪の街中ですら、ピッタリと寄り添う姿を見せることが少ないのだろうか。大学のキャンパスや街中で普通に見られる風景の限りでは、日本の男女はソウルの街を行く男女よりも、幾分か距離のある、よそよそしげな間柄に見えてしまう。私はそんな日本人を「何十年か前の韓国人」のようだと感じたのである。
日本人は一般に、「公衆の面前」では特定の個人に特別に親しい態度をとることをせず、周りの人たちとまんべんなく等しい距離を保とうとしているように感じられる。韓国人は、親しければ周囲にかまうことなく親しさをそのまま表そうとする。もちろん、男女の間については古くから距離があったのだが、社会の近代化が進むにつれて、男女の間でも親しさがかなりそのまま表現されるようになった。そのため、日本よりも韓国のほうが、男女関係で「進んでいる」ような見かけが生まれているのではないかと思う。
ところが、いうまでもなく関係の実質的な内容となると、韓国の男女の間は日本の男女の間よりも数段、前近代的な色彩を強く保っているといわざるを得ない。この点では、どうも韓国と日本では、表と中身で近代化のあり方が異なっているようなのである。そこには、互いの伝統のちがいからくる、近代化・西洋化の引き受け方のちがいが大きく作用しているように思える。
日本の大学生の男女間の「不《ふ》馴《な》れ」を感じて不思議に思っていたころ、日本の小中高の学校の多くが男女共学だと知って、不思議さはさらにつのった。またよく聞けば、それら共学の学校では男女が同じひとつのクラスに入っているという。そういう男女混合の状態は、韓国では多くの場合、生徒の少ない田舎《いなか》の学校でしかみられないことなのである。
韓国の小学校では四年生ころから男子は男子、女子は女子と別れて座り、またクラスも男女別に分ける学校が多いのに、日本の小学校では男女が隣りあわせに座るのが普通だという。さらに韓国では、中学校や高校は男子校、女子校が多く、共学であってもクラスは別にする。思春期のさなかに男女が一緒になれば勉強の妨げになるとの理由からである。そのため、高校を出るまで男女が出会う機会はほとんどない。
私の場合はたまたま中学校も高校も共学だったが、もちろんクラスは男女別々だった。それでも、男子校や女子校とは違って、サークル活動などを通じて男女が会う機会は多い。それで私はいつも親から心配されていた。共学の学校は、男女別の学校よりも社会的に低いイメージでとらえられていて、「男女の距離が近いところほど質の悪い学校」だとみなす者が多かった。「男女七歳にして席を同じうせず」の言葉が厳然として生きているのである。
私の記憶でも、小学校低学年までは仲よく一緒に遊んでいた隣家の男の子も、四年生になるとなんとなく遠い存在となっていった。一緒に遊ぶこともそこでバッタリと止まってしまうし、道で会ってもちょっと頭を下げるくらいで言葉を交わすことなく通りすぎていた。そのあたりから、誰もが強く異性を意識するようになり、大人たちも異性の接触にはことのほか気をつかうようになる。
韓国では多くの者が大学に入るまではそんな具合だったから、近代化の進んだ日本で、しかもずっと男女共学でやってきた日本人の大学生たちが、男女間の距離を感じさせるような状態に終始しているのはどうしたわけなのか、理解に苦しんでしまったのである。
韓国の大学生の男女が親密な姿を見せるようになったのは、確かに近代化のたまものではあったが、一方では伝統的な関係の新たな再生、という性格もあったように思う。韓国人は、姓・地域・学校を同じくする者との間には運命的な絆《きずな》を感じて、それら同一集団内部の者に対しては、兄弟姉妹のような親しさを感じるものである。そういった、兄と妹のような近寄りやすさの意識があることは、私自身の体験からもいえるように思う。
私の場合、中学二年生のころまで男女の距離は遠かったのだが、中学二年の後半に学生総会長選挙が行なわれ、それがきっかけとなって、男女間の接触に大きな変化が訪れることになった。
仲のよい者どうしがグループをつくって選挙運動に走り回った。私の中学は共学だったから、そこで男女の協力という事態が生まれる。男子の側から声をかけ、自《おの》ずと幼いころに一緒に遊んでいた近所の遊び仲間が再び集まることになる。そうして、わが仲間うちの一人のために一票でもたくさん票を集めようと選挙運動にいそしむのである。学校の雰囲気は俄《が》然《ぜん》、騒がしくなっていった。
とかく未成年の男女の接触には大人たちの抵抗が強い韓国だが、この選挙を名目に生まれた男女のグループには、教育的な意義があるから大人たちも文句を言わない。これを契機に、選挙が終わってもそのままの集まりが続いた。機会さえあれば誰かの家に一同が集まって、みんなで話をしたり食事をしたりするのである。冬は、オンドル(床暖房)部屋の最も暖かいあたりに一枚の布団を敷いて、その中にみんなで足を突っ込み、布団の上で花札をしながら遊ぶ。日本で言えばコタツを囲んで座るといった感じである。
そこで今思うに不思議なことは、小学四年生以降、それまで強く異性と意識していた男子生徒たちが、そうしてグループをつくっていると、なぜか同じ船に乗って航海をする同志のように思えてきて、ことさらに異性と意識することがなくなってしまう、ということだった。それは男子にしても同じことだったにちがいなく、実際、仲間うちで熱い間柄になった者はいなかった。たとえ仲間うちの男女がふたりだけでどこかで会ったとして、それを他の者が知ったとしても、それで二人が「怪しい関係」だとか疑う者はひとりとしていなかった。なぜだかそうした仲間の間には、そういう間柄となるには無縁の関係の質が自然にできあがっているようだった。
中学三年生くらいになると、アイツには恋人がいるらしいとかの噂《うわさ》があちこちから流れてくるようになるが、少なくとも私のいたグループでは、相手が仲間うちの者であることはまったくなかった。よそのグループで仲間うちにカップルが生まれたことがあったが、それはとても珍しいケースなのである。
私のグループの場合も他のグループの場合も、同一グループの仲間たちは、社会人となってからも、またそれぞれ結婚してからも、いまだに強い連帯感をもち続けている。
韓国では法律上、同じ姓どうしの結婚ができない。そのため、事実上夫婦生活をしているにもかかわらず、婚姻登録を受け付けてもらえない男女が二〇万人もいるといわれている。同姓の結婚は近親結婚のイメージが強いため、何か卑しいものを見るような目でみる者が多く、また彼ら自身も罪の意識にさいなまれながらひっそりと生活していることが多い。
そういうわけだから韓国では、相手が同じ姓であればできるだけ異性の感情をもつまいとする。というよりは、同じ姓ということがわかると、その瞬間から異性の興味がなくなっていくのが一般的である。そういう感情のコントロールのできない者は人間失格とさえみなされてしまう。
中学の時に仲間となったグループの間にも異性の意識は薄かったが、私たちはけっして同じ姓の集まりではなかった。ただ、その昔の韓国では、多くの場合同姓の一族で一村を成していたから、結婚の相手はよその村から選ばれ、その名残りから、今でも家が近ければ近いほど結婚をさける傾向が強い。そうした自然の規制を無意識に受けていたために、私たち近隣の者たちのグループの間で、異性としての意識の芽生えることがなかったのかもしれない。
いま思うに、私たちのグループのつながりは、韓国に伝統的な義兄弟の関係によく似ていた。私が中学生だった当時の一九七〇年前後の韓国は、六〇年代後半から突如、凄《すさ》まじい勢いでスタートを切った経済成長の昇り口で、伝統と現代が激しくぶつかり合い、ようやく社会のあちこちで流動化が起こりはじめた時期にあたっていた。私たちのグループもまた、そうした過渡期の産物であっただろう。きっと、伝統的な義兄弟の関係が近代的な装いをもって再編成された新しい形の男女サークル、というべきものだったのではないかと思う。
私たちの仲間はまるで兄弟姉妹のようなものだったが、韓半島では古くから仲のよい友だちどうしで義兄弟の縁を結ぶ習慣があった。かつては年齢を同じくする同村の者たちの間で、近代になってからは学校の同窓生である近所の者たちの間で、多くは同性どうしで義兄弟の縁を結んだ。現在では都会の中で同じ故郷の者たちの集まりがその代わりを果たしている。
義兄弟のほとんどが同年齢であり、その関係は場合によっては血のつながった親《しん》戚《せき》よりも強い。子どもたちは父親の義兄弟をオジさんと呼ぶ。私の父の場合は近所の同年齢七人が義兄弟となっている。父はすでに七〇歳を越えているが、いまなおその人たちとの間には強い連帯関係が保たれ続けている。たとえば、義兄弟の家に結婚式や葬式などの行事があれば、家族の手が届きにくい仕事などは義兄弟が率先して行なう。
彼らは確かに、困った時にはお互いに支え合い、また常に相手を強く頼りにしている。親兄弟にはいえないような話でも、また普通なら他人にはいえない恥ずかしいことでも、義兄弟には心おきなく話すことができる。親や兄弟は頼りにはなるものの、深い悩みなどを話すことはほとんどない。家族の間では上下関係のけじめがはっきりしているため、虚心坦懐に話をすることができないのだ。親は子どもに説教する立場にい続けようとするし、兄や姉は教える立場に立とうとする。どうしても対等な話ができないのである。そのため、とくに男女関係の問題や個人的な悩みなどについて、正直なところ頼りになる意見を聞くには家族ではだめなのである。
それができるのが義兄弟だった。義兄弟のほとんどが同年齢であるのも、そこに上下の関係が生まれないためであるだろう。
義兄弟の多くは男どうしで結ばれたが、戦後は女性たちの動きがいくらかは強くなったこともあって、女性の義兄弟関係も活発になってきた。やはり同じ年齢で結ぶのが普通だし、強い連帯感を持つことでも同じものだ。ある程度の年齢差があって、姉妹の関係になることもある。でも、そうすればやはり上下関係となってしまい、上の方はどうしてもかっこうをつけることになるから、深い心の悩みをうちあけるようなことができなくなる。
上下関係のある義兄弟は、男女が義兄弟となっている場合に多い。そうした男女の義兄弟が戦後、一時的に流行《はや》ったことがあった。男性が同じ学校の先輩で、お互いに好きなのにいろいろな事情から結婚できない状況に置かれた、といったような場合にしばしば見られたことである。私の知り合いにもそうしたケースがあった。
ふたりは同じ職場で知りあい、男性の方は既に結婚していた。おたがいに別れがたさを感じたふたりは、不倫の関係になるよりは義兄弟になった方がいいと考えたのである。彼は、ひとりで自炊生活をする彼女を家に呼び寄せ、一部屋を与えて住まわせた。彼女は奥さんとも仲よくなり、そしてその子どもたちとだけではなく親戚たちとも仲よくなり、まるで本当の家族のようにして暮らしていた。彼の両親が亡くなった時も、家族だけが着る資格のある喪服を彼女が着ることも許された。やがて彼女は他の男性と結婚をして子どももできた。それから二十余年が過ぎた現在でも、彼女はその義兄弟の男性とは実の兄弟以上のつきあいをしている。
先に紹介した韓国の実録小説『失われたあなた』のなかにも、この義兄弟の関係がみられる。交通事故に遇って身体不随となり、後に自殺した男性チュンシックには、大学時代からの同性の親友がいたが、チュンシックに恋人ユンヒができたとき、三人は「血盟を結ぼう」と誓いあう。男女三人で義兄弟となったのである。ふたりのデートの場にも常にその友人がいて、ふたりがちょっとしたいさかいをすれば、その友人が間をとりもった。チュンシックがアメリカへの留学に旅立つときにも、チュンシックは友人とユンヒに度々会うようにしてほしいと頼んだ。ふたりはいわれた通りに、しばしば喫茶店などで会って話をしている。
この友人とユンヒとの間には異性の感情はまったくないといってよい。お互いに性的な意識を抑制していたわけでも、互いに相手が好きなタイプではなかったというわけでもない。義兄弟の縁を結んだ相手には異性としての欲望がわいてこないのである。
現在では、急激な消費社会の発展とともに人々の動きも活発となり、行動範囲も広くなっていて、以前のようにしんみりとした義兄弟関係はあまりみられなくなっている。しかしその名残りは依然として社会のあちこちにみることができる。たとえば、合弁会社をつくろうとする場合、義兄弟のような関係をつくってからはじめようとするケースが多い。政治家たちが信頼関係をつくるときにも、やはり義兄弟の縁が結ばれることが少なくない。
義兄弟そのものとまではいかなくとも、韓国では気が合う仲間が強い義兄弟のような関係をつくってお互いに助け合うことを約束するのはごく一般的なことだ。ただ、強い約束を交わした反面、裏切られた時にはその恨みは人一倍強くなる。人生と政治の道で同志の約束を交わした金泳三氏に裏切られた金大中氏の、大統領選挙中にしばしばみられた執《しつ》拗《よう》なまでの恨み言葉は忘れられない。
最近では、韓国の国民党を脱党した鄭周永氏のことを、彼に代わって党代表となった金復東氏は次のように言っていた。
「彼は党を造るときに義兄弟を約す書面に署名することを私に強く要求した」
以前のような強い義兄弟の関係は薄くなってはいるものの、韓国人はいまだに気の合う人間とはできる限り強固な友人関係を結ぼうと努める。だんだんとその範囲が広くなれば、外国人とのつきあいでもそれを望まずにはいられなくなってくる。しかし、日本人にはそうした韓国的な濃密な関係には疲れてしまうという人が多い。
韓国人は一般的に、同性の間でも異性の間でも、親しい間ではその絆《きずな》の強さを具体的な何かで確認せずにはいられない傾向が強い。日本人のように、とりたてて言葉や態度に示すことなく、心のうちに思うことを察しあおうとする信頼関係のあり方は、韓国人にはどうしても情の薄さが感じられて不安感がつきまとうものとなりがちである。
このちがいは、強固な血縁関係を中心に社会を形づくってきた韓国と、血縁以外の者を含めた共同体やイエ集団によって社会を形づくってきた日本とのちがいに求められるのではないかと思う。つまり韓国では、血縁を結びつける力があまりにも強いために、そこから離脱した信頼関係をつくるには、それだけ特別な契りを交わさなくては、互いに信頼しあうことが難しいのである。韓国人の友だち関係は一般的に、どんな秘密でも互いに隠すことなくさらけ出して心を許しあう、きわめて強い心情的な絆で結ばれている。その点、ゆるやかで淡い、曖《あい》昧《まい》ともいえる日本的な人間関係とは大きなちがいがある。
とくに義兄弟の縁を結んでいなくとも、韓国人は親しい相手に対しては、心の中で思っていることを、はっきりと言葉や態度で示すのが普通だ。それはときに、日本人には「露骨な表現」と感じさせるものともなり、また日本人からみると「いらぬ対立を招くもの」ともなるのだが、韓国人は異性に対しても同性に対しても、日本人よりはずいぶん率直なものいいをする。
日本人は心の内面を表に現すことについては苦手なのか、はしたないことと思っているのか、それとも対立を避けたいためか、とかく相手への信頼をはっきりした言葉に出すことが少ない。それは男女関係でも同じで、異性への特別な親しみをストレートに言葉や態度で表現することがいたって不得手にみえる。
確かに日本人は、好きな相手への思いを伝える「愛の告白」、相手の心を誘引する「愛のささやき」、相互に愛を確認し合う「愛情表現の交換」などについては、どうひいき目にみてもへたくそな国民のようだ。詩文や書簡など、「書き言葉」としての「愛の言葉」の文化には、歴史的にも豊かなものがあるにもかかわらず、「話し言葉」の面ではおよそ奥手だというしかない。自分の心情をわかってもらうには、相手側の「察し」とか「気づき」が期待されていて、自分のほうでは間接的に相手の心を喚起することに努力が向けられるのである。
そのへんでイライラするという西洋人の話を聞くことが多いが、それは韓国人にしても同じことである。自分のことを愛してくれているはずの相手が、なんだかとても他人行儀に感じられてしまう、という韓国女性は多い。
私の想像でいえば、それはひとつには日本文化が旧来からの庶民文化に由来しているからなのである。そもそも、異性への愛の言葉をスマートな文化の位置へとすべりこませたのは貴族たちなのであって、庶民の間で技巧的となっていったものではなかった。
庶民文化が自立的な展開をとげた封建時代をもった日本では、貴族の生活はなんら人々の理想ではなかった。一方、王朝の貴族文化が近代まで存続し続けた韓国では、両班《ヤンバン》に代表される貴族の生活は多くの人々の理想であり、彼らの手の内にあった教養と文化は常に庶民が見習うべきものとしてあった。そして、戦後韓国の近代化は、文化的な面では、西洋化であるとともに両班的貴族文化の遺産の庶民化でもあった。
両班の男たちは立派な言葉をもって人々を感心させることのできる弁舌を誇ったが、同時に女性の心をとらえる詩的な言葉を磨き、それぞれ意中の女性の心をいかにとらえるかを競いもした。それが貴族の文化でもあった。庶民の時代となって多くの韓国人が、かつての貴族のものであった習慣や所作のさまざまな面を吸収していった。日本ではよくはわからないが、すでにマイナーなものとなってしまっていた貴族的な物腰などは、どちらかというと庶民にとっては揶《や》揄《ゆ》の対象となることのほうが多かったのではないだろうか。
日本の近代化は、西洋をモデルにしながらも、その貴族的な質に対しては、きっと無意識の拒否感を働かせてきたように思う。実際、日本人は西洋の文物をよく吸収しながらも、こと生活の面では、貴族趣味を軽《けい》蔑《べつ》する人が多いものだ。
現代日本人一般の生活文化のセンスは、明らかに伝統的な庶民文化の系譜をひくものにちがいないが、それは同時に、恥じらいと慎みをもって他者への慈しみとした、古きアジアの精神的な伝統に由来をもっている。その伝統の糸が韓国よりもいっそう太いものとして残ったのは、たぶん日本が、母系的な社会の色彩を色濃く残してきたことに関係があるように思う。そもそも日本文化の最大の特徴は、古きアジアの母系制社会に由来する考え方が、比較的壊されることなく残り、現代に至るまでその長い尾を曳いているところにあると私は考えている。
もちろん韓国も日本同様のアジア的な母系社会の伝統をもっており、すでに述べたように、文献からも李朝初期のころまでは、確かにそうした伝統の息づきを感じとることができる。ただ、歴史的にたび重なる外敵の侵略にさらされてきた韓半島では、日本とはちがって、父系血縁の男子成員が支配する社会の形成を、しだいに強めていくことを宿命とした。そうした経緯を経て、やがて儒教の倫理で人々を律する強固な父権制度に基づく中央集権的な世界が形づくられていった。義兄弟の縁を結ぶ習慣も、父系血族の強力な結びつきの外に、他者との信頼関係を築くためには、どうしても必要な手段なのであった。
韓半島の事情下では、アジア的な母系社会の伝統は時代とともに薄れてゆくしかない運命にあったし、江戸期の天下太平の時代のなかで庶民文化が花を咲かせるようなゆとりをもつこともできなかった。現代韓国と日本の男女が映し出す風景もまた、そうしたそれぞれの伝統とけっして無縁ではないはずである。
喜ばしい出会い
年々自分が出会いというものに対してだらしなくなってゆくような気がしてならない。それは年齢によるものもあるだろうが、ひとつには日本の社会が与えてくれる安定感に私が慣れきっていることにも関係があるように思う。韓国にいた時分、また日本に来て間もなかったころ、日本でいう一《いち》期《ご》一《いち》会《え》という言葉に近い感覚にリアリティーを感じていた時が確かにあったように思う。当時の自分と比べると、なにかいまの私には人との出会いに緊迫感が欠けているように思える。
明日の生死も定かではない社会に生きる者にとっては、いま当面しているこの出会いは、生涯に一度の出会いであるかもしれなかった。そこでは出会いは常に一期一会、覚悟の出会いとしてあった。それに対して、とくにいま会わなくとも明日は会えるという気分が現在のものである。
ある時、同じ東京に住む叔母《おば》から電話がかかってきた。
「ずいぶん会ってないじゃない、あした家に遊びに来ない? ちょっとあなたに言っておきたいことがあるし」
仕事、仕事で疲労ぎみの私は、「うん、いま忙しいからもうすこしたったら行くわ」と答えたのだったが、それから間もなく叔母は亡くなってしまった。叔母は私になにを言おうとしたのだろうか――考えるほどに、なぜあの時会わなかったのかと悔やまれてならなかった。その時にも、人との大切な出会いに対して自分がスキだらけになっていることを感じさせられた。
いつ会えるかわからないという気分があったなら、いかに疲れていたとはいえ、押して叔母の家へと向かったことだろう。なぜそういうことができなくなってしまったのだろうか。世界にまれにみるこの安定した社会に長らく生活していると、確かに「いつでも会える」と思えてしまうようだ。韓国もいまではそれほど不安定な社会ではないが、一九七〇年代のころまでは、明日何が起こるかわからないという空気が少なからずあった。そのころの私は、友だちが会いたいと言ってくれば、少々の難儀があっても優先していたように思う。
が、いまこの日本では、また明日、この場所で、この時間に会おうと言えば、まず会えることが信じられる。明日のことはわからない、これが最後になるかもしれないといった気分がやってくることはほとんどない。そこでは出会いのカンが鈍くなっている。その出会いのその一瞬を大事にする考えがしぼんでしまっている。そして、後になって、あの時の出会いがいかに自分の人生にとって大切なものであったかを、しみじみと知らされる。
若いころ、何度か「明日のことはわからない、これが最後になるかもしれない」といった出会いの感触をもったことがある。それは二〇歳前後のころ、少数の異性との出会いに対して感じたことだった。そんな体験のひとつをお話ししてみたい。
動物はある時期がくると、色、香り、体つき、しぐさなどで異性に対して自分を強く魅力づけるようになる。それは、異性との出会いへ向けて、自然に身体がせいいっぱい自己をアピールしている姿にほかならない。そんな身体の仕組みをもっているのは人間も同じことで、それは二〇歳前後の時期に当たっている。とくに娘たちはその年頃が近づくと、誰でもが急にどこか艶《つや》やかな色合いを帯びてくる。
韓国では二二、三歳が女の魅力の頂点だといわれる。どこの国でもだいたいそんな言いかたをすると思うが、韓国人の美意識はことのほか華やかな満開の美へと集中する傾向が強いせいか、その時期以後はもはや女としての価値は低下する一方だとみなす男たちは少なくない。私はその花盛りの季節を韓国の軍人として迎えていたので、まわりの人たちからは、せっかくの一番いい時期を軍隊で腐らせてしまうなんてどうかしている、とよく言われたものである。規律の厳格な軍隊の世界では、女性的な美を生かすすべなどないではないかと思えるからだろう。
軍隊が好きなように女性美をアピールできる場ではないことは言うまでもないが、女子軍人たちが多くの男子軍人たちから注目を浴びていたのは確かである。それもそのはず、なにしろ女子軍人は、六〇万陸軍軍人のうちせいぜい数百人に過ぎず、紅一点どころか、〇・〇一点という「稀《き》少《しよう》価値」だったからである。そのため、軍隊の中での女子軍人たちは、その存在だけで特別なアピールも要せずに男性の目を集めていた。
私が入隊したのは一九七〇年代の後半だったが、七〇年代の韓国では、男性の職業軍人の地位は今とは比べものにならないほど高かった。とくに陸軍士官学校出の軍人はエリート中のエリートとして、多くの娘たちの憧《あこが》れの的だった。普通ならば、彼ら青年将校は、家柄も親の社会的な地位もたいしたことのない私などが、とても近づける対象ではなかった。彼らには高い社会的な地位と権力が将来へ向けて約束されていたし、当時の韓国は今以上に、権力が経済的な未来をも約束するものとしてあった。
自らも軍人であれば、そういう彼らと接点がもてるだけではなく、星二つ、星三つの最高級の軍人と接したり、大統領や大臣クラスの権力者を間近に見る機会もあるに違いない――私の入隊動機には明らかに単純な権力への憧れがあった。
私は社会のなかで力いっぱい活動する女になりたかった。そのために、現実を動かすことのできるだけの力を得たいと思っていた。その思いが相当に強い反面、実際的な条件のほうはいたって悪かった。韓国では女が社会的な力を発揮することが難しいからというだけではなく、私自身、学校の成績がとくによいわけでもなかったし、何か飛び抜けた能力があるわけでもない、また親兄弟や親《しん》戚《せき》に社会的な実力者がいるわけでもない、どう考えても条件はよくない。
そんなふうに悩んでいたころ、ひとりの友達が「一緒に女子軍人の試験を受けないか」といってきた。考えてみたこともなかったし、女子軍人になったからといって権力者への道が開かれるわけではない。ただ、権力をもった者たちとごく身近に接することのできる位置にいられることは確かだった。そこから、社会で力を発揮するためのなんらかの可能性が開けるのではないだろうかとも思えてきた。今から思えば、世間をよく知らない田舎《いなか》娘の浅はかな考えかもしれなかった。家族からは「結婚適齢期の娘がいったい何を考えているのか」と強く反対されたが、私は強引に試験を受けて合格してしまった。
軍隊はやはり男たちの世界だった。規律も訓練も厳しく、女だからと容赦されることはなかったが、女子軍人たちの存在意義は多くの場合、「職場に添えられた花」と考えられていたように思う。それでも、私はやがて将軍の秘書として事務をとるようにもなり、大統領出席のある儀式の日にたまたま雨が降って私が大統領に傘をさしかける役割を与えられたり、若き青年将校たちからラブレターをもらったりと、実質的にはともかく、表面的には私の権力志向的な欲望は満たされていたといってよかった。そして、軍隊は一般社会よりもかなりリベラルで、男性もおおむね紳士的であり、女性の立場も尊重されているように感じられた。私は女子軍人となって、女としても人間としても、自分自身の力を惜しみなく発揮させてもらえていると感じていた。それは私だけのことではなく、多くの女子軍人たちが同様に感じていたことでもあったと思う。
とくに驚いたことは、女子軍人たちのもとには男子軍人たちから続々とラブレターが寄せられることだった。私たち若い女子軍人たちは、どれだけたくさんのラブレターをもらったかを自慢しあい競争しあった。
各種の祭典で行なわれるパレードなどでは、見栄えをよくするためだろう、背が高い者から順に選ばれる。そのため、一六〇センチの合格点ギリギリで軍隊に入った私は参加できないことも多く、その点でコンプレックスを感じさせられる日々も多かった。だからがんばったということではないのだが、もらったラブレターの数では他の女子軍人たちにそれほどひけをとることはなかった。その点では「私はもてる」とおおいに気をよくしていたのだが、そもそも女性が稀少価値なのだから威張れたものではない。そして私は女子軍人のなかではかなり目立った特徴をもっていた。女子軍人の多くは大柄なのだが、私は彼女たちのなかでは最もチビの部類に属するものだから、「あの小さい娘」という具合に焦点があてやすかったのである。私の「もてる秘密」はそういう、もうひとつの稀少性にあったようだった。
この軍隊のなかでのダブル稀少性ともいうべき私のメリットが、ひとりの異性との出会いを生みだすことになったのである。
一〇月一日は韓国では軍人の日。この数年間は、民主化運動の進展ともあいまって軍人の日の行事はあまり大きなものとしては行なわれなくなっているが、それまでは最も大きな国の行事のひとつだった。私が軍人だった七〇年代の末ごろは、軍人の日の行事は国家最高の年中行事と言ってもよかった。
この日のパレードのために全国の各部隊から選ばれた軍人たちは、八月から九月にかけての約二カ月間、ソウルにあるヨイドの広場で訓練を受ける。頭上からは最も暑い季節の太陽がギラギラと照りつけ、それを足元のアスファルトが容赦なく照り返してすさまじい熱気を充満させている。そんな状態のなかで一日中、来る日も来る日も訓練が行なわれた。女子軍人の中には、訓練の途中で倒れる者も多かったが、国家最高の行事に参加できる光栄を失ってなるものかと、みんな必死になってがんばった。
女子軍人は二五〇名が選ばれてパレードに参加する。本来なら背の低い私は選ばれないはずだったが、なんとメンバーに入っているのである。行事の時の制服が超ミニスカートだったので、脚の線のきれいな者を中心に選んだとのこと。幸いに、当時は比較的ほっそりとした足をしていたため、背が高くとも太めの足をしている同僚を押さえての合格だった。
中央のロイヤルボックスを正面に見て、左右に位置する男性部隊に挟まれるようにして、真ん中に女子軍人たちが整列する。一列五〇人の五〇列で正方形の隊列がつくられ、中で一番チビの私は列の最後尾に立たされた。一番後ろというのは不満だったが、私は一番右側の列に位置させられて気分をよくしていた。男性部隊から行進をはじめ、女子軍人がその後に続く。左回りに行進するので、一番右側の列は観客席に面することになる。しかも私は一番後ろだから隊列の角に立つことになる。テレビにもはっきりと映し出される所だから、田舎にいる家族や親戚の者たちにも見てもらえることが嬉《うれ》しかった。また、正面に向かって整列している時、女軍部隊の左側に軍楽団が立つが、右側、つまり私の列のすぐ隣に空《くう》挺《てい》部隊が並ぶこともまた私の心を浮き立たせていた。空挺部隊は最も勇ましい男たちの集まりとみなされ、女子軍人たちの間では一番人気のある部隊だった。
訓練がはじまり、厳しく苦しい日々が続く。熱射病で倒れる女たちが毎日のように出る。私たちは日焼け止めクリームやファンデーションを厚く塗って訓練に挑んだが、二、三日ですっかり顔が黒くなってしまった。長時間にわたって不動姿勢をとり、広場を行進で一周すると、それだけで頭がクラクラとしてくるが、そこで一〇分ほどの休みが与えられる。アスファルトの上にどっと腰を下ろしてただただグッタリとして時を過ごす。
小休止の間、女子軍人の隊列から五メートルほど離れて休んでいる空挺部隊の軍人たちから次々に声がかかる。「やあ、どこの部隊なの?」などと言いながらすっと近寄ってくる者、「手紙を下さい」と言って自分の住所を書いたメモをわたす者、なにげなく隣りに座り込んで親しげに話しかける者……。
そんな日が数日続いて、両部隊の間になごやかな雰囲気が生まれていったのだが、やがて彼らの部隊の中隊長が監視を始めるようになった。中隊長は私たちの部隊と彼らの部隊の間を歩き回り、「私語をするな」「隊列に戻れ」と指示を下しながら厳しい監視の目を光らせる。もう誰も私たちのほうに声をかけることはできない。
中隊長の帽子と肩には三つのダイヤモンド章が輝いている。大尉である。落《らつ》下《か》傘《さん》による降下の業績を示すマークが制服の胸にたくさんついている。そのきびきびとした態度、よどんだ空気を一瞬緊張へと引き戻す澄みきった声に、兵士たちはすっと姿勢を正す。思わず「かっこういい」の声が女子軍人たちの間からもれる。それにしても、小休止の間のわずかな楽しみを妨げるなんて、いやみな人ね、ともささやきあっていた。
ところが、兵士たちの乱れを監視するために歩き回っているその青年将校が、私のそばを通り過ぎるたびに、どういうわけか、何かのひとことを毎日のようになげかけてくるのである。
「あなたは日焼け止めクリームもつけないの? 顔の皮がむけてるじゃない」「今日はニキビが一つ増えてるね」「あなたはまるで黒人みたいだよ」など。
よけいなお世話である。いったい何のつもりかと私はおおいに気分をこわし、彼が近づいてくると、あからさまに嫌な顔を見せるようにした。
それでも彼は一向にかまう素振りを見せない。ある時は「あなたは何でこんなに背が小さいの?」と、私が日頃感じているコンプレックスをさかなでする。そうかと思えば「この中であなたが一番かわいいね」と甘い言葉を耳元に残してゆく。
やがて彼のささやきは、時にやさしく「今日のお昼は何を食べたの?」などと、また時にいたずらじみた口調で「あなたには大きな銃がかわいそうだよ」などと、そして時に無言のまま知らん顔で通り過ぎる、と三つのパターンの繰り返しになっていった。
こんな日が続くうちに、私はほとんど彼の術中にはまってしまっていた。はじめのうちは無視をきめこんでいたものが、しだいに「今日はどんな言葉がくるのかな」と期待するようになり、無言の日には「どうかしたのだろうか」と心が沈んだ。
パレードの当日がだんだんと近づいてくる。休む間もほとんど与えられない状態のなかで訓練が続けられた。そして、彼の言葉のなげかけは、ささやきからおおっぴらな声かけへと、しだいに大胆なものとなっていった。部下の兵士たちも援護射撃を送るかのように、いっしょになって揶《や》揄《ゆ》の言葉を発する始末である。「私語をつつしめ」もなにもあったものではない。
そのうち彼は、背に負った背嚢《ペナン》の中に隠していたカメラを取り出し、ちょっとのスキを利用して私の写真を撮ろうとするようになった。そのたびに私は素早く後ろを向いてしまうので、彼の挑戦はことごとく失敗に終わっていた。いつの間にか女子部隊の中に噂《うわさ》が広がっていた。
「あの中隊長はあなたに気があるんじゃないの」
確かにからかっているだけとも思えない、そうなのかなあ……とも思えて半分は嬉しいのだが、何しろ言葉がぞんざいなので「あんな失礼な男なんか」との反発心もある。
そして、やきもちの声も飛び出す。
「あの男ね、いろんな女に声をかけているそうよ」
そう言われると嫉《しつ》妬《と》心がわいてくる。なんとも複雑な気持ちになっていた。
パレード当日の前日、九月三〇日となった。韓国の九月末から一〇月にかけては、台風もなく日本よりもいっそう爽《さわ》やかな日が多い。八月のむんむんとした熱気はもはや遠く過ぎ去り、秋風がわずかに体温を奪って吹き抜ける。この季節になると、いつもなにか胸につまるような思いがやってくる。
本番とほとんど同じ模擬練習の連続で、彼が私に声をかける余裕もまったくない。ぷっつりと糸が切れてしまった感じがして、行進の間中モヤモヤとした気分が続く。からかい調子の言葉ではあっても、あの執《しつ》拗《よう》さは明らかに私への特別な関心を示しているはず。ほんとうはもっと別のことを言いたいのにちがいないと思えた。そうならば、あんな上ついた言葉ではなく、ほんとうに心にあることを感じさせる言葉をなぜ出してくれないのか……。
二カ月ほどの間、一方的に言葉をなげかけられるだけで、私のほうからはひとことも言葉を発することがなかった。明日のパレードが終われば、私たちはそれぞれの所属部隊へと帰還する。このままの状態で明日を迎えるのならば、お互いに所属を知らないのだから、まず再び会うことはできないだろう。そう思うと寂しい気がしてならなかった。
その夜はほとんど眠れなかった。生涯で再び味わうことができないかもしれない光栄な日を前にしての興奮、そして、彼とはこの曖《あい》昧《まい》な状態のままで別れることになってしまうんだなという感傷的な気分が交互にやってくる。宿舎の窓ごしに、あたりを覆う森の中を点々と照らす街路灯の淡い光をぼんやりと眺めていた。
朝早くから私たちは忙しく動き出した。日焼けのうえに寝不足までした顔には、化粧の乗りがまるで悪い。
「あんな男のことなんか考えるんじゃなかった。だいたい何を考えているのかわかりはしないし、どうせもう会えっこないんだから」
眠れなかったことを彼のせいにしながら、テレビに映されるんだから、この顔をなんとかしなくちゃと、必死になって鏡に向かっていた。
いよいよ本番である。国中が私たちのことを祝福してくれる時がきたと思うと、しだいに興奮がたかまってくる。ロイヤルボックスにはすでに、大統領をはじめ、国内外の著名人たちが集まっている。広場の観客席では学生たちのカードセクション(人文字)が展開され、空には空軍の戦闘機が描く五色の飛行機雲が鮮やかだ。
広場に整列した私たち軍人が不動の姿勢をとり続けるなか、ようやく儀式が終わり、広場を一周するパレードとなる。姿勢を正しく、しっかりと足をあげ、一糸も乱れぬようにと行進する。もうすぐロイヤルボックスの前を通る。全神経が体の中心部へ向かって激しく集中する感覚に襲われる。アナウンサーが次々とロイヤルボックスの前を通過する部隊の説明をしている。空挺部隊が通り過ぎると女子軍人という順番だ。
「次に大韓の娘である女子軍人たちが近づいてきます……」
アナウンサーのほとんど絶叫に近いかん高い声が広場に響きわたると、胸がジーンと熱くなってきて、不覚にも涙が目ににじんでしまう。二カ月間の苦労はこの瞬間のためにあったのかとも思えてしまう。この私の感激の中心にあるものは、国家への忠誠心なのだろうか、それとも国中の人々に見られているという自負心なのだろうか。一つのミスもおかしてはならないという意気を燃やし続けていた。
ロイヤルボックスの前をようやく通り過ぎて、緊張が少し和らいだ。アナウンサーが次の部隊の説明をはじめ、行進の終りが近づく。その時、前の部隊を引率して行進しているはずのかの青年将校が、いきなり私の所へ走り寄ってくるやパチパチと何枚かの写真を撮り、すばやく自分の持ち場へと戻って行った。あっという間のことだった。彼はきっと何回も行事に参加しているのだろう、だからタイミングをはかってあのように思いきった行動に出られたのに違いない。
パレードが終了して広場での行事が幕を閉じた。広場の裏に設営されたテントの中でみんなといっしょに休みながら彼のことを考えた。あの人は、私の写真を撮るためになぜあんな行動をとったのだろうか。国家最大の儀式の場で、しかも部隊を引率する中隊長の身分ではないか。一瞬とはいえ行進の列から離れ、しかも写真を撮るなんて、単なるいたずら心でできることではない。なんのつもりか、それが知りたい。彼に会って聞いてみたい、もういっぺん出会いたい、その時には私も彼に話しかけよう。そんな気持ちで心がいっぱいになっていた。でも、もはや彼がどこにいるのかはわからない。
午後三時からは市街パレードがある。しかしそのパレードでは、各部隊がばらばらになって行進するため、ほとんど出会いを期待することはできない。それでも、かすかな期待と予感を胸に残してパレードに臨んだ。
沿道に立ち並ぶ市民たちの歓迎を受けながら、私たちは胸を張っての行進を続けた。家族や知り合いの者たちが行進の隊列に飛び込んでは、兵士たちの首に花束をかけている。私には姉が小さな花飾りを胸に挿してくれた。それからしばらく行進を続けていると、どこからともなく彼が現れたのである。彼は行進する私の横を並んで歩きながら、
「あなたには花束を首にかけてくれる恋人もいないんですか」
と言い、自分の首にかけられた花束をはずして私の首にかけてくれた。そして、写真を送りたいから部隊の住所を教えて欲しいと言う。私は躊《ちゆう》躇《ちよ》することなく口ばやに所属部隊の住所を告げていた。それが私の、彼に対して発した最初の言葉だった。
人は幸運な出会いを得ると、それにはさまざまな偶然が重なっていて、不思議な運命の糸で結ばれたもの、と考えたくなるようだ。私のケースでは、彼の執拗なアタックが出会いを生んだ最大の原因だったのだが、そのことよりも、私はしきりに運命的なものを考えようとしていた。
本来ならば背の低い私はパレードに参加できなかったかもしれなかった。それが、たまたまパレードの制服に超ミニスカートが採用され、私が細めの足をしていたために参加することができた。そして、私はたまたま隊列の右角に立つことになった。監視のために巡回する彼からは最も目立たずに声をかけられる位置にあたっている。列の内部に私がいたなら、彼と出会うことがなかったのは確実だ。そして、後に知ったことだが、彼の好きなタイプの女性は、たまたま「ポケットに入れたくなるような」小柄でふっくらした顔の娘だった。当時の私はいまよりも頬《ほお》の肉がついていて、丸っぽい顔をしていた。彼はがっしりした体つきのスポーツマンタイプ。見るからに勇敢そうでしかも端正な顔つきは、どこまでも男らしく頼もしさを感じさせて私の心を引きつけるに十分なものだった。
いまから思えば、互いに軍人であることや晴れの儀式当日であったことを除けば、どこにでもあるような、ごくありふれた出会いにちがいないのだが、私は「こんな偶然ってあるかしら」と勝手に決めこんで運命の糸の導きを恩ったものである。
キリスト教的な考えからすれば、出会いは自分や相手の努力だけではなく「神の恩《おん》寵《ちよう》」の賜《たま》物《もの》となるだろうし、仏教の考えからすれば仏さまの「はからい」、あるいは宇宙的な「縁」で引き寄せられたもの、となるだろう。こうした考えかたも、一《いち》期《ご》一《いち》会《え》のように、一回性の出会いをこよなく大切にする考えに連なっている。幸運な出会い、生きていることの歓《よろこ》びを感じずにはいられない出会いであればあるほど、目に見えない力の働きを思い、その力の働きに感謝する。当時の私は、ほんとうにそんな気持ちで彼との出会いを受け止めていた。
少々緩んできたとはいえ、人との出会いを大切にしたいという気持ちにはずっと変わりはない。日本へやって来てから、さまざまな日本人と出会った。そのほとんどが幸運な出会いだったといってよい。なかには、とてつもない苦労を背負うことになった出会いもあったが、それとても、いまに思えば私に大きな糧を与えてくれていた。あの人との出会い、この人との出会い、どれを欠いてもいまの私はいないと思える。私自身の努力はほんとうにたかがしれていて、私は確かに人との出会いによって育てられてきた。それも、多くが偶然としかいいようのない、おそらくは二度と体験の出来ない出会いだった。そのことを思い返してみると、私はいかに出会いに恵まれていたのかと思わずにはいられない。それを逆に考えてみるとぞっとする。
よき出会いとは、自分から得ようと思って得られるものではなく、水が高い所から低い所へ流れるように、自然な流れに乗って向こうからやってくる。多くの日本人がそんな人生観をもっているようだ。私もそう思うのだが、単に待っていればよき出会いに恵まれるわけではない。心が他者に対して開かれていること、それが肝心なのは言うまでもない。そして、それはまたそう簡単なものではない。
日本に来て間もないころ、親しくなった日本人から「あなたの話は、何かと言えば困ったとか辛《つら》いとか、気分が滅《め》入《い》るような話が多すぎる。もっと楽しい話をしようよ」と言われたことがある。私は極力自分のほうから心を開こうとしていた。あなたにだけはこんな心の秘密も話せる、こんな恥ずかしいことも言える、親しくなった相手にはそんな態度を積極的にとっていった。そうなのに、相手のほうはなぜか心を閉じようとする。なぜそうなってしまうのか、そのへんでずいふん悩んだ。互いに親しくなりたいと思えば、何事も包み隠さずざっくばらんに打ち明けあう、とくに深い心の悩みを話しあう、それが親しい間柄というものであり、互いに心を開くということではないか。少なくとも韓国人の間ではそうだった。当時の私は日本で、そのままを地でいって壁にぶつかったのである。
やがて私なりにわかったことは、日本人には心の内面を直接表現することを避けようとする傾向が強く、多くの場合、間接的な表現に触れてその奥行きを探りあう、感じあうということをやっている、ということだった。その点韓国人は、嬉《うれ》しい、悲しい、辛い、苦しいなど、感じるままの情緒に乗せて、心のうちをストレートに相手にぶつける傾向が強い。日本人としては、日常的に耳にするには、強すぎ、重すぎ、また生々しすぎる表現をぶつけられ、かえって自分の言いたいことが言えなくなってしまうのだと思う。
いずれにしても、心の内面はいくら言葉で言っても言いつくせない性質のものだ。だから人は互いの心を察しあおうとするのだが、そこに文化のちがいがかかわってくる。私の心がようやく日本人と出会えたと思えるようになったのは、私が日本の文化にドップリと浸るようになってからのことである。
別れという名の旅立ち
人ときれいに別れるのはとても難しいことだ。恋人でも友だちでも夫婦でも、二人はそれぞれが紡ぎ出す糸をあちこちで絡み合わせ、さまざまに縒《よ》り合わせてきた独自の歴史をもっている。別れるとはそういう歴史を終わらせることを意味するのだから、簡単にひとつの結び目を解けばすむ、というものではない。糸の縒りをきれいに解きほぐすこと、それを怠ったままで別れれば、つまりいいかげんに別れてしまえば、その別れをきっかけとして、これまでとは違う新しい関係の世界へと旅立ったことにならない。旅立ったつもりでいても、同様の別れを何回も繰り返すことがあるのはそのためである。
別れは出会いのはじまり、新しい関係へ向けての出発点でもある。ところが、実際にはそうはならないことが多い。せっかくひとつの別れを手に入れたのに、何回となくかつてと同じような関係パターンにはまりこみ、同じような別れ方を幾度となく繰り返すことになる人はけっして少なくない。それは、いいかげんな別れ方をしてしまうからには違いないのだが、別れの対象は相手ばかりではなく、どこかでそんな別れへの道を歩いてきた自分自身でもあることに、人はなかなか気づかないのである。
異性から異性へと転々としている人、それも不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》からではなく真剣にそうしている人がいる。そうした人はきっと、自分自身との別れができていないのである。私の知り合いの韓国人女性にもひとり、ちょっと極端な例かもしれないが、そうした別れを繰り返している人がいる。
彼女は中小企業の社長をしている日本人男性と結婚して男の子を生んだ。経済的には豊かな生活が約束されていたが、彼はかなりの浮気者だった。それに気がついた彼女は、浮気の相手の女性に会っては彼と別れて欲しいと頼んだり、時にはすさまじいケンカをしたりして、必死に彼を自分のもとにとりもどそうとした。そうするといったんは浮気がおさまるのだが、しばらくするとまた彼の浮気がはじまる。彼女はそのたびに女たちのもとを走り回ったり、時には探偵を雇って調べさせたりしながら、彼と相手の女との間を切り裂くことに専念した。それでも彼の浮気は止まず、結局のところ彼女はくたくたに疲れてしまい、子供を連れて離婚してしまった。
彼女は今度こそよい男性にめぐり会いたいと思った。男の浮気にくたびれ果てていた彼女は、静かで平穏な暮らしさえあれば十分だと思った。そして、彼女にいつも優しく接してくれる、妻を亡くした六〇過ぎの老人に請われるまま、彼の後妻に入った。彼は以前の亭主との間の子供まで引き受けてくれたし、また彼との間に女の子も生まれた。経済的には何不自由ない生活だったが、やがて、彼には数人の愛人がおり、彼女たちの子供が合わせて十数人もいることを知った。またかの思いにうちひしがれはしたが、彼女はこれまでのことはいっさい目をつぶるから、これからは私ひとりを愛して欲しいと彼に頼んだ。彼はわかったと言って今後他の女性にはいっさい手を出さないと約束したのだが、それもつかの間、すぐに浮気の虫が騒ぎ出して新しい女をつくるようになっていった。
相手の女を探すのは前の亭主のことで慣れている、とばかりに、彼女は以前のように、次から次へと浮気の相手を捜し出し、彼女たちに脅しをかけていった。やがて彼女は女たちに対する時には、包丁でカーテンや布団をズタズタに切り裂くなど、どんなにひどいことも平気でやってのけるようになっていた。そんな時の彼女は、もはやそれが男への憎悪なのか女への憎悪なのか、自分でもわからなくなっていたに違いない。
それから彼女は男を三人も代えている。いずれも相手の浮気とそのための対策に疲れ果てたうえでの別れである。彼女は浮気者の男との別れを繰り返しながら、そうしたパターンを繰り返す自分自身とはいまだに別れられていない。
彼女の場合は動きが派手なだけに例外的なケースのように思えるかもしれない。しかし、少なくとも彼女のように、二度としたくないと思っていた別れ方を二度、三度と繰り返してしまう女性や男性は、意外に多いように思える。そんな時、人は自分が何か不幸な運命を背負わされているかのように思いがちだ。でもほんとうは、そうした別れの形へと陥ってしまう自分自身と別れることができていないのだ。それについては日本人も韓国人も変わりがない。そして私自身の中にも、そうなることが予感されて恐《こわ》くなるような気持ちがどこかにある。
時間をかけて、これまで縒り合わせてきた関係の糸のたばを、一本一本解きほぐしてゆき、全体がきれいにほどけたならば、そこから新しい人生がはじまり、二度と同じような別れを繰り返すことはなくなるはずである。どこかで糸がほつれたまま、それを放置したまま別れる時、それはほんとうの意味での別れとはなっていない。つまりそこでは、自分が相手とどのように関係してきたかが、よく自覚されていないからである。
出会いよりも別れのほうが難しい問題をたくさん抱えていることは確かだろう。だからなのかどうかはわからないが、一定の期間を定めての契約結婚をする人もいるそうである。期日がきた段階で二人がよければ契約を更新すればよいし、一方が嫌ならばそこで契約を終わらせればよいという考え方だ。一時欧米や日本で話題になったことがあったが、そんな人たちが増えたという話はまったく聞かない。
ところで、契約結婚ならぬ契約恋愛が、最近の韓国の大学生の一部に静かな流行をみせているそうなのだ。だいたい半年から一年の契約が一般的なようだが、彼らは契約の際にいろいろと条件をつけるらしい。毎日電話をすること、たびたび一緒に遊びに行くこと、お互いに心を支え合うようにすること、などである。そして、最も重要な条件が、別れる期日の厳守であり、その時にけっして未練を残さないことである。
週刊誌に載った体験者へのインタビュー記事などを読むと、彼らは自ら、新時代のモダンな先駆者をもって任じているとはばからない。とは言え、いかに契約とはいってもつき合っているうちにいっそう情がわいてきたり、前以上に好きになってしまったりで、別れる時には心から辛《つら》い思いをしている者が多い。それなのに、ほとんどの者が契約どおりに別れている。それはなぜなのだろうか。
韓国ではまだまだ恋愛結婚よりも見合い結婚のほうがはるかに多い。それどころか、最近では見合い結婚のほうが安心できるからという若者たちも多く、一昔前にもどりつつある感さえする。一九九一年の統計では、韓国の年間の婚姻数は約四一万組で、そのうち純粋な恋愛結婚といえるものは三五パーセントに満たず、残りの六五パーセントが見合い結婚だという(韓国の女性週刊誌『ヤングレディ』一九九三年九月号)。見合い結婚の相手は言うまでもなく、親や周囲の親《しん》戚《せき》たちによって選ばれるのだが、一族の子供の結婚は一族の地位や名誉にかかわるという考えがいまだに強く、多くの若者たちがそうした家族主義の枠組みに縛られている。
そこで、日本や欧米とは違った意味で、恋愛と結婚をまったく別のものと考える若者たちが出てくることになる。つまり、いつかは一族が決めた相手と結婚しなくてはならないという気持ちがあるところでは、恋愛はあくまで恋愛として考えるしかないのだ。そうなると彼らの恋愛は、いつ別れの日がやってくるかという不安につきまとわれた、苦しみの多いものとならざるを得ない。それならば恋愛をしなければよいではないかとは言っても、若い男女のこと、好きな異性ができないわけがないし、そうなればつき合いたいと思うのが人間だ。そこで彼らが考えたのが契約恋愛なのである。
彼らは、契約恋愛では別れなくてはならない期日がはっきりとわかっているから、それなりに心の準備ができると言う。大人たちの多くが、「新世代の道徳の乱れ」との非難を浴びせているが、彼らをそうさせているもともとの原因が大人たちのほうにあることは言うまでもない。また、日本人や欧米人からみれば、なんともだらしのない妥協の産物と映るかもしれない。でも、韓国で前近代的な家族観が個人と社会に作用する力は、日本や欧米とは比べものにならないほどに巨大だ。
別れの季節と言えばやはり秋ということになる。私もそうなのだが、韓国人には秋と雨が好きな者がいたって多い。日本人には雨がうっとうしくて嫌いだという人が多く、また秋よりは春や新緑の季節のほうが好きだという人が多いように思える。確かに、雨の多い日本に永く住んでいると、雨が嫌になる気持ちはよくわかる。韓国は日本と比べればずっと雨の降る日が少ないし、湿気も少なくカラッと晴れた日が多い。そんな国土に、思い出したかのようにときおり降り注ぐ雨は、韓国人には心地よい湿り気を与え、ロマンチックな気分を駆り立てるのである。
日本の秋はほとんど台風の季節だ。確かに紅葉はきれいだが、晴れた日に遠くまで見渡せるのはほんのわずかな期間に過ぎない。自慢ではないが、韓国の秋は実に素晴らしい。九月と一〇月、爽《さわ》やかな日々がずっと続く。くっきりと晴れ上がった空の下で、存分に楽しむことのできる紅葉は、韓国のほうにいっそうの艶《つや》やかさを感じさせる。だからこそ、葉の落ちる一一月の侘《わび》しさは人恋しさをかきたててやまない。若者たちには「恋人なしではいられない」季節である。日本の秋は、じめじめとする日が多く、ロマンチックな気分に浸ることができないという留学生たちが多い。
ロマンチックな気分には過去の追憶がつきものだが、日本人にも韓国人にも過ぎ去った悲しい過去を歌った演歌を好むものが少なくない。同じ湿潤アジアに生きた者たちの伝統的な心情にかかわっているからなのだろう。演歌は確かにアジア的な社会の庶民に共通する悲しみや不安とどこかで響き合っている。ただ、日本ではすでに演歌の全盛期は終わっている。日本が今以上にアジア的であった時代、団塊の世代あたりまでは演歌が、それも悲しい恋の歌が流行《はや》っていたようだ。韓国でもさまざまなリズムが受け入れられてはいるが、やはり主流となっているのは演歌のリズムだ。その分だけ韓国は、日本よりもいまだアジア的な社会の暗部を抱えこんでいるのかもしれない。
韓国の演歌でとくに多いのは、別れ、孤独、失恋など、光の世界を奪われた者たちが心の奥底からしぼり出すかのような絶叫のトーンだ。しんみりとした恋の歌にしても、まるで暗さを歌うことがひとつの約束事でもあるかのように、暗《くら》闇《やみ》の中から悲しい心のうめきが響いてくるようなものが多い。
現代日本の若者たちは、すでに演歌を演歌として歌うことはない。恋人どうしはできるだけ楽しく過ごそうとするし、家や社会から加えられる圧力のために、いつか別れることになるかもしれないといった不安を抱える心配もほとんどない。契約恋愛といった発想が生まれる条件など、日本の社会のどこを見渡しても目には入ってこないのだ。
韓国の若者たちは演歌を演歌として歌っている。そして恋人たちはしばしば、互いに自らの悲しい過去や境遇についての話をする。異性に自分の置かれた状況の哀れさを話したりすれば、それはそのまま愛の告白ともなる。韓国人のそうした情緒への執着は、いくばくかのアジア的な社会の不幸を物語っていることは確かだが、それは同時にアジアの庶民たちの美的な感性そのものでもある。日本人はそうした感性を帯びながらも、そこへの執着からはほとんど脱出してしまっている。
日本の若者たちの恋の季節はやはり昔からそうだったように春であり、韓国のそれは秋にとどめをさす。古典的な物語があてる焦点とは逆になるが、日本人は恋のはじまりを歌い、韓国人は恋の終わりを歌うのがいまのところはふさわしい。春は未来への希望を育《はぐく》むが、秋はやがて来るべき冬の季節を予感しての別れの時をはらんでいる。ある意味では、韓国の恋人たちはその終わりの時を、その別れの時を待ってもいるし、だからこそ心が燃え立つという体験の渦中にある。
誰も嫌な別れはしたくない、気持ちよく別れたい、そう思ってはいても、現実にはそうはならずに、嫌な思いを抱え込むことになってしまうことが多いようだ。なぜそうなってしまうのだろうか。一時は「あの人なしでは生きられない」と思っていたのに、別れた以後は、その人が思い出すのも嫌な人へと化してしまうことがあるのはなぜなのか。
少なくとも言えることは、男女の間柄では、好きから嫌いへの移行がとても激しいのである。恋愛の感情には、その中間に安《あん》堵《ど》を求めようとする方向性ははじめからないと言ってよいだろう。好きへと極度に感情が集中し、嫌いへと極度に感情が集中する、それが普通、恋愛のはじまりと終わりにあることだと思う。
私にも、そんな、好きから嫌いへと激しく感情が移行した体験がある。
私が軍隊にいたころ、軍人の日のパレードの当日にひとりの青年将校から所属部隊の住所を問われ、私がそれに答えたことからひとつの関係がはじまったことはすでにお話しした。それからすぐに、彼からは自分が写した私の写真を同封した手紙が届いた。そして私も返事を出して手紙のやりとりがはじまり、お互いに時間のとれたほうから相手の所属部隊に面会に出かけるようになった。空《くう》挺《てい》部隊に所属する彼は、山中での非常勤務が多いため、私が面会に行く先は多くが、寒さが厳しく交通が不便な難所ばかりだった。それでも面倒に思うことはまったくなかった。私のなかにあるのは、ただ彼に会いたい心、それだけだった。
彼とつき合っている間は、他の男性にはまったく興味がわかなかった。彼のことを考えるだけで胸がいっぱいで、毎日が生き生きとしていた。そんな時には当然ながら相手の欠点というものが見えない。日本的な表現で言えば「アバタもエクボ」で、今から思えばささやかな欠点までがいとおしくて仕方がないような気分になっていた。実際、彼はとても優しかったし、豊かな包容力にあふれているように感じられた。私は彼にグングンと引き込まれてゆき、この人とならば結婚してもいい、とまで考えるようになっていた。
彼とつき合うようになってから二年ほど経《た》ったある日、私は休暇を実家で過ごしているという彼を訪ねた。が、留守のようで誰も出て来ない。そのうち帰って来るだろうと家の前に立っていると、通りすがった若い女性に声をかけられた。
「呉さんですね、兄から恋人がいると聞いています、よろしくお願いします」
彼女はそれだけの言葉を残して歩き去ってしまった。彼からは妹がいるとは聞いていなかったし、妹にしてはなんとも不可解な態度である。やがて帰ってきた彼に聞いてみると、隣家のお嬢さんだそうで、昔から妹のようにしている子だと言う。私は彼の言葉をそのまま信じた。
それから間もなく私は退役したのだが、就職問題と家族問題とが重なって時間の余裕がなくなり、また彼のほうも政情不安のために毎日が非常事態に備える勤務の連続となり、しばらくの間、互いに会う機会をもてない日々が続いた。三カ月ほど経って、ようやく私のほうに時間がとれて、地方の山中深い所にある彼の下宿先を訪ねた。彼はまだ帰っていなかったので下宿屋のおばさんに頼んで待たせてもらうことにした。しばし彼女と雑談をしていると、最近までひとりの若い女性が毎日のように訪ねて来ていたと言う。私はとても信じられない思いで彼を待った。
やがて惟《しよう》悴《すい》しきった顔をして帰ってきた彼にその女性のことを聞くと、彼は正直に答えると言って話しはじめた。その女性は私が彼の実家の前で会った女性だった。彼女は私と会った時から急速に彼への接近をはじめた。そして彼女はある日、この山奥の彼の下宿にまでやって来て彼の帰るのを待った。夜中になって帰ってきた彼は、まさかこの寒い山中の道を歩いて帰すわけにはいかないからと泊めてしまったのである。それから、たびたび彼女が訪ねて来ては泊まっていくようになった。そして数日前、彼女はやって来るなり「妊娠した」とひとこと告げると逃げるようにして帰ってしまった。そして、なんとか時間をつくって彼女の家へ行ってみると、母親と一緒に家を出てどこかへ行ってしまっていたという。
彼は話し終わると「申しわけないことをした、どうか許して欲しい」と私に謝り、「私と一緒に彼女の行方を探してくれないか、そして、ほんとうに妊娠しているのならば、なんとしても堕《おろ》してもらわなくては困ったことになる。助けて欲しいんだ」と懇願するのである。大きなショックでしばらくの間口がきけなかったが、謝罪と懇願を続ける彼が哀れだったし、また彼を失いたくない気持ちが強くあって、私は彼を許すことにした。そして次の日から彼と一緒に彼女を探すために走り回ったのである。
やがて伝わってきた話では、彼女は母親と二人でどこかで暮らしているらしい。彼女の勤務する会社へ行ってみるとすでに辞めたあとだった。また家の近所の人たちの話では、子供は自分で育てると言い残して去って行ったと言う。
私のほうも忙しい時期だったし、当時は朴(元)大統領が暗殺された直後で、全(元)大統領の軍事クーデターが勃《ぼつ》発《ぱつ》し、市民や学生のデモが連日激しい勢いで巻き起こっていた。軍人である彼にとってはさらに時間の余裕はない。お互いに多忙な時間を割きながらの飛び回りに、身も心もすっかり疲れ果ててしまった。彼女の行方がわからないまま月日ばかりが経ってしまう。そして彼との間には、彼女のことで頻繁にケンカが起きるようになっていた。
それから一年ほどの間、私は彼とつき合いながらも、悩みに悩み、苦しみに苦しむことになった。生まれてはじめて体験する長くて辛い時間だった。愛に苦悩はつきものとは言っても、度の過ぎた苦悩はなんとか解決しなくてはならない。そう自分に言い聞かせ、彼の欠点をひとつひとつあげては嫌いになろうとしてみたりしたが、いつもうまくいかなかった。まわりの人の意見を聞いてみると、彼女の母親が一緒になっての工作だから、後になって辛《つら》い目に遭わされるのは私のほうだと言う。確かにそんな予感がするのだが、なかなか冷静に考えることができないままの状態が続いた。
とにかく冷静になって考えられる自分を取りもどしたかった。そこで私はまず彼と会う数を徐々に減らしていった。そして、できるだけ他の男性たちと話をする機会をもつようにした。故郷の同窓生と会ったり、職場の同僚たちの食事会にも積極的に参加した。そうした体験を通して、しだいに彼のことを客観的にみつめられるようになっていった。そして、彼もまた男の中のひとりなのだと思えるようになってくるにしたがって、だんだんと彼への執着心がとれていった。
そうなるとおかしなもので、彼に対する不信感がぐっと頭をもたげてくる。ひとりの女の誘惑に簡単に乗ってしまい、それを自分の問題として処理することもできずに恋人を苦しむだけ苦しませるような男っていったい何なのか。そんな男と結婚しようなんて考えた私がばかだった……。
そんな思いが確信のようにやってくると、彼の顔を見るのも嫌になり、電話がかかってきても忙しいからとすぐに切ってしまう。そうして彼の顔を見ない日がしばらく続いたが、ある日彼は職場に私を訪ねてきた。そのとき彼は、一階級上がったばかりの軍服をきちっと身に着け、運転手つきの軍用車でさっそうと現れた。かつての私だったら、同僚に対して鼻高々で彼を迎えたに違いない。しかしその時の私は、そうした威勢をかりた出で立ちで現れた彼にいっそうの嫌悪感を感じていた。こんな男のどこがよくて一年間も悶《もん》々《もん》とした日々を過ごしたのかと思うと不思議でならなかった。その時私は、これで完全に彼から解放されたと感じることができた。
考えてみれば残酷な話だ。男の彼が残酷ならば、女の私もかなり残酷になっていた。どっちが振ったのか振られたのかわからない、なにかとても嫌な別れだった。長い間彼のことは思い出したくもないほど嫌だったし、今も彼がどうしているかにはまったく関心がない。そんな気分になる別れをした人はたくさんいると思う。でも、この程度のことならば、年月が心の傷を癒《いや》してくれる。楽しかったことだけを思い出にすることもできる。勝手な話だけれども、人間はそうできるからこそ生きていられるのだとも思う。
日本に来てまだ二、三年しか経っていなかったころのこと、知り合いの男性二人に誘われてお酒を飲みに行った。彼らは、今日は酔っぱらって楽しくやろうと言うものの、電車の中でも店に入ってカウンターについても、ひとりの彼氏にずっと元気がない。どうかしたのかと思って聞いてみると、もうひとりの彼氏がこう代弁してくれた。
「彼が真剣に好きだった恋人がほかの男性と結婚してしまってね、こいつは今失恋状態なんですよ。だから今日は呉さんと一緒に励ましてやろうかと思ってね、それで誘ったんです」
それは……というわけで、私は私なりに彼を励ましていたのだが、心のなかではなぜ恋人を失うことになったのかが知りたくて、なんとなく話の水をそこへむけるようにしていた。それには元来からの私の物見高さもあるのだが、その時の私の興味は、日本人の女性はどうやって自分を好いてくれる男性を振ることができるのか、というところにあった。なぜならば、私の知るかぎりでは、韓国では男性が積極的であればあるほど、女性のほうから振るケースは少ないように思えるし、また恋人である女性が他の男性と結婚したと言えば、まず家族の問題がからんでいるに違いなかった。日本ではどうなのだろうかと思ったのである。
やがてボソボソと話しはじめた彼によれば、彼女は結婚を考えるに際して、ふたりの男性を秤《はかり》にかけた結果、恋人である彼が選ばれずに、別の男が選ばれた、ということなのだった。聞いてはいけないことを聞いてしまったという思いで私が黙っていると、「そんなわけで振られたんです」と彼は苦笑いをして見せる。心にズシンと響く言葉だった。
それから彼は、大きく伸びをひとつしながら、「彼女とは縁がなかったんだな」と言う。私はこの言葉にすっかり驚いてしまった。そういうところに縁があるなしの発想が出てくるとは思いもしなかったのである。
彼と彼女とは恋人どうしだったのだから、縁があったのである。そして、もうひとりの男性は彼女の恋人ではなかった。彼女と結婚したにしても、それにはとくに縁があったからではない。彼女が恋人である彼を捨てて他の男性を選んだのは、縁とは無関係のことであるはずだ。それは単に彼女を自分のもとへ引き止めておくだけの力の不足の問題で、あくまで彼自身の責任ではないのか。それを縁のせいにしようとしている――。そう解釈した私には彼の気持ちはとうてい理解できないものだった。
彼はおそらく、相手の女性の幸せを願うから、また自分の心の傷を忘れたいから、そもそも彼女とは縁がなかったと考えたかったのだろう。そうすることによって、恋人を忘れ、できるだけ早く立ち直ろうとしていたのだ。
韓国でも縁があるかないかはよく言われることだし、また縁を大事に考えることでも日本とそう変わりはない。しかし、韓国人には彼のような場合に縁と結びつけて考える者は少ないと思う。問題は縁ではなく自分の粘り強さが足りなかったからだ――韓国の男性ならば多くがそう考え、心の底からの悔しさを露《あらわ》にするだろう。そして、長い間苦しみ続け、長い間彼女と相手の男性への恨みが心から消え去ることがないだろう。また、これが女性であれば、さらに強く恨みをもち続けることが多いものだ。
日本人の縁の発想は精神衛生の上では実に有効である。テレビドラマを見ても、失恋した女性のだいたいはすぐに立ち直るように描かれている。ダラダラと悩み続け、泣き続け、恨みがましさを延々と展開する、といった場面はほとんど見ることができない。韓国のテレビドラマでは、そんな場合の女性は必ずと言ってよいほど、果てしのない深い苦しみと悲しみから、なんとしても逃れられない姿で描かれる。そして、そのように描かれるドラマが若い女性たちにはことのほか人気がある。
韓国人の発想では、出会いには縁を考えるが、あとはその縁を生かせたかどうかなのである。だから失恋は、縁とは関係のない現実そのものに対する敗北にほかならない。そのため、悔しさが簡単には消えないし、いつまで経っても悩み苦しむことになりがちなのだ。それで潰《つぶ》れてしまう場合もあるが、多くの者はそれをバネにより強く生きようとする。日本人の発想では、多くの場合、出会いも別れも縁である。一種の無責任のシステムには違いないが、そのた、失恋の痛手から早く立ち直ることができる作用を果たしているように思える。
恋愛を、春にはじまり、夏に燃え盛り、秋に衰えて、冬に終《しゆう》焉《えん》を迎えるというようにたとえてみると、縁ではなく自分自身による人生の選択の季節は、やはり秋のように思える。秋はやがて訪れる別れの季節を間近にひかえている。そんな時、私たちは何をすればよいのだろうか。去年と同じ春ではなく、新たな人生のはじまりとしての春を迎えるためには何をすればよいのだろうか。どんなに辛くても、面倒でも、それまでに二人で縒《よ》り合わせてきた関係の糸を、丹念に解きほぐしてみなくてはならない。自分たちはこれまでにどんな関係の仕方をしてきたのか、それをよく知らなくてはならない。それができなければどんなことになるかを、私は私なりに少しは知ってきたように思う。
恋愛にとって最も自分が問われるのは別れなのだ。なぜかと言えば、強力な外部からの力をもって引き裂かれた別れでないかぎり、別れは明らかに自分がとった関係の失敗を意味しているからである。そして別れとは、その失敗を乗り越えてほんとうの成功を手にするためにこそ、落ちついた心で、しっかりと、自分自身に対してやっておかなくてはならないものだと思う。別れは新しい人生へ向けての旅立ちなのだから。
あとがき
この本ではふれなかったけれども、私は神話に登場する男女神の織りなす物語に大きな興味をもっている。韓国でも日本でも、天上から降り立った男神が地上の女神と出会うことから国の歴史がはじまる。ところが、私の故郷済州島には、この天地のパターンとは異なる神話が伝承されている。しかも、そこにはなぜか日本が登場するのである。
済州島には、島の先祖である三氏の祖先神が出現した「三姓穴《サムソンヒヨル》」と呼ばれる、地上にあいた三つの穴がある。今でも、この穴には一滴の雨水も雪片も入ることがないと言われて神聖視されている。この穴から高乙那《コウルナ》、良乙那《ヤンウルナ》、夫乙那《プウルナ》の三神(高氏、良氏、夫氏の祖先神)が出現し、つぎのようにして済州島の国土(古くは眈羅《タムラ》国と呼ばれる独立国であった)を開拓したと伝承されている。
地上にあいた穴から出現した三神は山野で狩りをして暮らしていたが、あるとき、東海に臨む海辺に赤紫色の泥でおおわれた木箱が流れ着き、その中に一人の男(使者)と青衣の三処女が入っており、さらに子馬、子牛、五穀の種子が入っていた。使者の男は三神に次のように言った。
「私は日本国の使者で日本国王の命で三王女をつれてきました。日本国王は、西海の山麓に三神が降臨されてこれから建国なさろうというのに、相手となる妻がいなくては建国ができないでしょうと仰せられ、そこで三処女をつかわされました。どうかそれぞれをお相手にされて御大業を果して下さい」
こうして三神はそれぞれ妻を娶《めと》って国を開拓し、人々も増えて豊かな国となった(『高麗史』より)。
済州島の祖先神は、天から降って地上の女神と出会うのではなく、地上から出現し、海の彼方からやってきた日本の王女と出会い結ばれ、国土を開拓したのである。この、韓国の正統な神話とは異なる済州島の始祖伝説は人々のどんな心を語っているのだろう。古代以前の済州島の人々は海の彼方の日本に母の国を感じていたのだろうか。それとも、日本列島から訪れる人々を国土に恵みをもたらせにやってくる人々と感じていたのだろうか。いずれにしても、済州島が最初の男女の出会いの相手を日本と伝えることに大きな興味を抱く。
さて、私は神話とは逆に日本に流れ着いた済州島の女、というわけだが、そんな逆パターンの神話が古い日本にはあったっていいな、など勝手な思いも含めて、日本の神話伝説、とくに男女のかかわる神話世界についてもっと勉強してみたいと思っている。
本書に収めた論考を読み返してみると、恥ずかしさで頬《ほお》がほてるばかりである。自分の体験を臆《おく》面《めん》もなく綿々と書き綴《つづ》ってみたり、実際の恋愛では失敗ばかり繰り返しているのになんだかわかったような言い方をしてみたり……。とにかく本書には、自分を絞り出すようにして染めた模様が点々と散っているという印象が強い。それだけ、思いもよらぬ自分自身の発見も少なくなかった。
「恋愛」という大きなテーマに向かうチャンスを与えて下さった書籍第一編集部担当取締役の大和正隆さん、連載中に叱咤激励・疑問点指摘の役に徹して下さった元『野性時代』編集部の関口明美さん、お二人の力強い後押しに感謝の意を捧げたい。また、単行本・文庫化にあたって隅々まで目配りをしていただき、きれいな本に仕上げて下さった書籍第一編集部の江澤伸子さんに心からお礼を申し述べたい。
一九九七年八月吉日
呉  善 花
恋《こい》のすれちがい
韓《かん》国《こく》人《じん》と日《に》本《ほん》人《じん》――それぞれの愛《あい》のかたち
呉《お》 善《そん》 花《ふあ》
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平成13年12月14日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Sonfa O 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『恋のすれちがい 韓国人と日本人――それぞれの愛のかたち』平成9年9月25日初版発行
平成12年8月20日再版発行