源氏物語・隣りの女
向田 邦子 著
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目 次
源氏物語
花嫁
当節結婚の条件
愛という字
七人の刑事――十七歳三ヶ月
隣りの女――現代|西鶴《さいかく》物語
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源氏物語
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源氏物語
TBSテレビ(資生堂テレビスペシャル)
一九八〇年一月三日
●スタッフ
プロデューサー―久世光彦
雨笠明男
後藤勝彦
演出――――――久世光彦
音楽――――――都倉俊一
タイトル美術――横尾忠則
製作――――――KANOX+TBS
●キャスト
光源氏―――――沢田研二
桐壺・藤壺―――八千草薫
夕顔――――――いしだあゆみ
末摘花―――――風吹ジュン
六条御息所―――渡辺美佐子
紫の上―――――叶和貴子
空蝉――――――朝加真由美
女二の宮――――山口いづみ
女三の宮――――藤真利子
朧月夜―――――倍賞美津子
葵の上―――――十朱幸代
頭中将―――――竹脇無我
惟光――――――火野正平
柏木――――――ジョニー大倉
小侍従―――――岸本加世子
右大臣―――――成田三樹夫
左大臣―――――金田龍之介
右馬頭―――――植木等
朱雀院―――――仲谷昇
敦賀の扇――――伴淳三郎
桐壺帝―――――芦田伸介
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●御所|渡殿《わたどの》[#「御所|渡殿《わたどの》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]光源氏が歩いてゆく。
[#1字下げ]月の光に輝き、折れ曲って闇《やみ》に溶け、また折れ曲ってあらわれ、若い獣のように足音も立てず、小走りにゆく。
[#1字下げ]直衣《のうし》が夜風をはらみ、獲物《えもの》に襲いかかる黒い巨《おお》きな鳥に見える。
[#1字下げ]テロップ――光源氏[#「光源氏」はゴシック体](沢田研二)
[#1字下げ]物かげに王命婦《おうみようぶ》(藤壺《ふじつぼ》付きの女房《にようぼう》)、目だけで首尾を告げながら、掛け金をはずす。
[#1字下げ]その手が震えている。
[#1字下げ]源氏、中へすべり込む。
●御所・藤壺[#「御所・藤壺」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]藤壺、気配に振り向き、息をのむ。
[#1字下げ]立っている源氏。
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藤壺「何という、大それたことを――。ここへお入りになれるのは、みかどだけ――あなたのお父君だけです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]テロップ――藤壺[#「藤壺」はゴシック体](八千草薫)
[#1字下げ]藤壺が袖《そで》をはらい、抱きすくめようとする源氏の手を払いのけ、懸命にあらがう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「お帰り下さい。お帰りを」
源氏「―――」
藤壺「誰《だれ》か(呼びかける)」
源氏「(押えて)お呼びになっても、誰も来ません」
藤壺「どうして、ここへ、――王命婦!」
源氏「どうかあのひとをとがめないで下さい」
藤壺「手引きをしたのは、あの女房ですね」
源氏「身分をかさ[#「かさ」に傍点]に私が無理を言ったのです。何年も前から、おどしたり、こうして、頭をすりつけて一目でいいから、お目にかからせてくれと」
藤壺「――正気の沙汰《さた》とは思えません」
源氏「恋をすると、ひとは正気でなくなります」
藤壺「―――」
源氏「お慕いしております」
藤壺「人違いをなさっていらっしゃる。私は、あなたの――母ですよ」
源氏「母ではない。母上に一番似たおかただ」
藤壺「みかども、そうおおせです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、源氏の手を振りはらって、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「覚えておいでですか、私が、女御《にようご》として御所へあがった日のこと――」
源氏「おぼえておりますとも。私は、あの日から(言いかける)」
藤壺「みかどは、こうおっしゃいました。『あなたは、この子の母に生きうつしだ』」
源氏「たしかに、はじめは母でいらした。しかし」
藤壺「ご一緒に遊びましたねえ。貝合わせをしたり、絵巻物を読んで差し上げたり」
源氏「あなたの芳《かぐわ》しい息が、かかると、体が熱くなるのが判《わか》りました」
藤壺「あなたの笛とわたくしの琴を一緒に」
源氏「ほめていただくと、その日一日しあわせでした」
藤壺「あなたが元服なさった時はうれしゅうございました。これで、亡《な》くなられたお母上も」
源氏「わたしは悲しかった。今日限り、あなたの御簾《みす》の中に入れないかと思うと、胸がつぶれる思いでした」
藤壺「葵《あおい》の上とのご婚礼も。六条のかたとのお噂《うわさ》も」
源氏「六条|御息所《みやすどころ》は、私のいわば学問の師の君です」
藤壺「(笑って)数々の美しい方とのなまめいたおはなしを伺うにつけて、ああ、大人になられた」
源氏「それもこれも、思ってはいけないただひとりのひとを忘れるため」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]抱きすくめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「お放しを。私は母ですよ。お父君の妃《きさき》ですよ」
源氏「――ご本心ですか」
藤壺「―――」
源氏「あなたも、私のことをいとおしいと思っていらした」
藤壺「ですから、母として」
源氏「嘘《うそ》だ!」
藤壺「―――」
源氏「それならどうして、震えておいでになるんです。どうして、お手が、ここが、ここが――汗ばんでおいでになるんです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、押し倒そうとする。
[#1字下げ]遠くで右近衛府《うこんえふ》の官人の宿直申《とのいもう》しの声(宿直の武士が名乗り合う儀式)。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
男「丑《うし》の刻でありまする――」
藤壺「人目に立たぬよう、お引きとり下さい。二度と、こういうことはなさいませんように」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]すばやく几帳《きちよう》のかげに身をかくす藤壺。
●御所・廻廊《かいろう》[#「御所・廻廊《かいろう》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]帰ってゆく源氏、ふりかえる。
[#1字下げ]御簾のかげでじっと見つめ見送っている藤壺。
[#1字下げ]その目はさっきのきびしい拒否の目ではない、恋する女の目になっている。
[#1字下げ]戻《もど》ろうとする源氏。
[#1字下げ]それより早く、さっとおりる御簾。
●道[#「道」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]枯野をゆくおしのびの車と供の列の影。
[#1字下げ]はじめは影法師だが、月の光につれて、形や色があらわになってゆく。
[#1字下げ]車の中で揺られている源氏。
[#1字下げ]ナレーション「光源氏は、あるみかどの二番目の皇子として生れた。
[#1字下げ]千年の昔。平安の都が栄え、御所には、女御とか更衣《こうい》と呼ばれるひとがいた頃《ころ》の物語である。
[#1字下げ]みかどを仮りに桐壺のみかどと呼ぶことにしよう。
[#1字下げ]母は桐壺《きりつぼ》更衣と呼ばれた美しい人で、みかどの寵愛《ちようあい》をひとり占めしていたが、三歳の源氏を残して亡くなった」
●桐壺[#「桐壺」はゴシック体](回想)
[#1字下げ]真夏。
[#1字下げ]蝉《せみ》の声。
[#1字下げ]みずら髪の三歳ほどの御子(光源氏の幼年時代)が、うしろ向きに坐《すわ》っている。
[#1字下げ]死の床の桐壺。
[#1字下げ]沈痛な面持《おももち》の御所の桐壺のみかど。
[#1字下げ]テロップ――光源氏の母・桐壺[#「光源氏の母・桐壺」はゴシック体](八千草薫)
[#1字下げ]      光源氏の父・桐壺帝[#「光源氏の父・桐壺帝」はゴシック体](芦田伸介《あしだしんすけ》)
[#1字下げ]桐壺、大きく喘《あえ》ぎ、絶え入る。
[#1字下げ]まわりの女房たち、声を上げて泣く。
[#1字下げ]桐壺のみかど、涙を押える。
[#1字下げ]御簾の向うから読経《どきよう》の声わき上る。
[#1字下げ]蝉の声。
●車の中[#「車の中」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]揺られてゆく源氏。
[#1字下げ]ナレーション「嘆き悲しんでいたみかどは、やがて桐壺更衣に生きうつしの藤壺を女御として迎えられた。
[#1字下げ]源氏は藤壺を母と慕ったが、その気持はいつの間にか、恋に変っていた」
●絵巻物[#「絵巻物」はゴシック体]
[#1字下げ]源氏物語絵巻風のもの。
[#1字下げ]御所のかずかずのあそび。
[#1字下げ]みずら髪の幼い御子が、美しい女御のひろげる絵巻物に見入っている絵。
[#1字下げ]その絵は、たちまち現実のものとなる。
●御所・藤壺[#「御所・藤壺」はゴシック体](回想)
[#1字下げ]藤壺に甘え、寄りかかって、絵巻物に見入るみずら髪の光源氏。
[#1字下げ]藤壺、気がつくと、少年は寝入っている。
[#1字下げ]桐壺のみかどが入ってきて、藤壺を抱きしめる。
[#1字下げ]藤壺の手から、絵巻物が落ち、帯のようにころがってゆく。
[#1字下げ]ねむっていたとみえた少年が、絵巻物をつかむ。
[#1字下げ]几帳のかげでむつみ合う男と女の絵を、破れそうなほどきつくにぎりしめる。
[#1字下げ]その男と女の絵と同じ姿かたちでむつみ合う桐壺のみかどと藤壺。
[#1字下げ]うたた寝のみずら髪の源氏。
●藤壺[#「藤壺」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]あらがったあとの、乱れた衣裳《いしよう》、髪のまま、じっとしている藤壺。うるんだ目は、酔っているように見える。
[#1字下げ]遠くから見ている王命婦。
●夜の道[#「夜の道」はゴシック体]
[#1字下げ]車でゆられている源氏。
[#1字下げ]御簾の向うに、従者の惟光《これみつ》の顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「いま、どのあたりだ」
惟光「二条に差しかかるところでございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]テロップ――惟光[#「惟光」はゴシック体](火野正平)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
惟光「どちらへ参られます」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]とまる牛車《ぎつしや》。
[#1字下げ]惟光、源氏の顔色をうかがいながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「お屋敷へおもどりになられますか。それとも葵の上様をおたずねに――それとも六条の御息所――そういえば」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]惟光、すり寄って御簾を嘗《な》めんばかり、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「御息所の女房どもが通りかかった私めの袖を引きまして――近頃、源氏の君のお渡りがないが、恋こがれ、やつれておいでのわが女あるじの胸の内、お察し下さいと――いや、こんなことを申し上げては、葵の上様に恨まれますな」
源氏「――惟光。お前の好きなところへ連れていってくれ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]牛車、再びゆるやかに歩き出す。
[#1字下げ]ナレーション「六条御息所は、亡くなった皇太子の妃だったひとである。たしなみの深いみやびやかな人柄《ひとがら》の未亡人だが、源氏に対する思いは、誰よりも強いものがあった」
●六条御息所の邸《やしき》[#「六条御息所の邸《やしき》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]女房の案内で入ってくる源氏。
[#1字下げ]写経をしている六条御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「相変らず、おみごとな筆跡《て》でいらっしゃる」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]テロップ――六条御息所[#「六条御息所」はゴシック体](渡辺美佐子)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「もう、あなたには、かないません」
源氏「(経文の一節を誦《よ》む)」
御息所「お経をうつしておりますと、平らかな気持になります」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いながらあかりを消そうとする。
[#1字下げ]源氏とめて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「お顔が見えなくなる」
御息所「(あらがって消す)年を経た女には、月あかりが似合います」
源氏「あなたはお若い」
御息所「本当に若い姫には、お若いとはおっしゃらないでしょ」
源氏「そう言えば(笑って)その通りだ」
御息所「(これもおかしそうに笑って)女は本当のことを言って心をゆるして下さる方が、飾ったことばより、うれしいものです」
源氏「それは男も同じですよ。いつ、たずねてもゆきとどいた挨拶《あいさつ》をされるより、少しはやきもちをやいて泣いたり拗《す》ねたりされるほうが――あなたの前だと妻のそしりまで口に出来る――」
御息所「おたしなみのよい方なのですよ、葵の上は」
源氏「冷たいのです。身も心も、取り乱すということがない」
御息所「――あなたの浮名が多すぎるので、いちいち、取り乱してはいられないとお考えなのですよ」
源氏「―――」
御息所「あなたを見ていると、叡山《えいざん》で出逢《であ》った猟師を思い出します。小さい獲物《えもの》は逃したり取り捨てていました。『もっと大きいものを』と、目がけだもののように光っていました。夜となく昼となく木《こ》の下闇《したやみ》を歩き走り――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、放心している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「――足から血が流れていました――何を考えておいでです?」
源氏「――月に、月にみとれておりました」
御息所「つめたいものを考えていらっしゃる目ではなかった。血の通った、あたたかいものを想《おも》う目の色に見えました」
源氏「――こちらへ伺うのは命がけだ。ときどき、矢がグサリと、このあたりに突き刺さります」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御息所、端正な所作とは別人のように艶《つや》っぽいしぐさで源氏の直衣《のうし》をぬがす。
[#1字下げ]写しかけの経文の上にとりどりの男の衣裳が。
[#1字下げ]源氏の裸の胸に唇《くちびる》を押しあてる。
[#1字下げ]源氏、年上の情人を抱きしめ、深情をいとおしく思いながらも、目の中に冷たいものがまじる。
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体](夜あけ)
[#1字下げ]一番|鶏《どり》が鳴いている。
[#1字下げ]火桶《ひおけ》のそばでうたた寝からさめて大あくびの敦賀《つるが》の翁《おきな》。
[#1字下げ]媼《おうな》が白湯《さゆ》を持ってくる。二人とも寒い。
[#1字下げ]テロップ――敦賀の翁[#「敦賀の翁」はゴシック体](伴淳三郎《ばんじゆんざぶろう》)
[#1字下げ]      敦賀の媼[#「敦賀の媼」はゴシック体](浦辺粂子《うらべくめこ》)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
媼「あんな年上のどこがいいんだか」
翁「年上ったって、アチ、おふたかた、おいでになっぞ」
媼「ゆうべは、六条だね。左大臣さまンとこの、葵の上さまじゃないよ」
翁「判《わか》るかい?」
媼「あたしが男でも、葵の上さまはご免だけどさ」
翁「さびしい夫婦だよ――あれも」
媼「身分じゃないねえ。女は」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]牛車のきしみ。
[#1字下げ]人の気配。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
媼「あ、おかえりだ」
[#ここで字下げ終わり]
●出迎え[#「出迎え」はゴシック体]
[#1字下げ]頭をさげる翁の顔をのぞきこむ源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「寝て待てと何度言ったら判るのだ」
翁「ねておりましたぞ。ちゃんと」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]翁、太刀を受取って源氏のうしろから入りながら――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「目が赤イワシだ」
翁「(あわててつむる)」
源氏「イワシといえば、じいの在所の、敦賀で食べた魚は、うまかったなあ。また、とって食べさせてくれ」
翁「もう、そんな元気はありませぬ」
源氏「――そこで遺言だと思って聞いてもらいたいのだが――とこうくるのではないか」
翁「――先に言われては、言いにくくて、かないませぬ」
源氏「言えよ。父親代りに意見をするんだと、女房《にようぼう》たちの前では、こう(胸をはる)しているそうではないか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]翁大弱り。
[#1字下げ]うしろからついてくる媼、おかしくてたまらない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「それじゃ、申し上げますが葵の上さまのところへ、おいでなさいまし」
源氏「――じいは、葵がひいきだな」
翁「夫婦というものは、添ってさえいりゃ、いつかは、ほどけたり、潤《ほと》びたりするもんでございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]じっと目を見る源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「のろけかい、じい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うしろでクックッと媼が笑っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「へへへ」
源氏「あすにでも行ってみよう」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣の邸・廻廊《かいろう》[#「左大臣の邸・廻廊《かいろう》」はゴシック体]
[#1字下げ]ナレーション「源氏の正妻、葵《あおい》の上は、左大臣の娘である。二人の結婚は、葵の上十四歳。源氏十二歳の春のことであった。すべてを取りしきったのは、父左大臣である」
[#1字下げ]庇《ひさし》の雨だれが間遠になっている。
[#1字下げ]女房の案内でゆく源氏。
[#1字下げ]とび出してくる左大臣。
[#1字下げ]テロップ――左大臣[#「左大臣」はゴシック体](金田龍之介《かねだりゆうのすけ》)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「これはこれは婿君《むこぎみ》、ようお越しなされた」
源氏「左大臣じきじきのお出迎えとは、痛み入ります」
左大臣「(つと寄って)娘は情がこわいようにみえましょうが、本心は源氏の君、あなたにぞっこんなのだ。やさしい言葉をかけてやって下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏一礼をして入ってゆく。
[#1字下げ]見送る左大臣。
●葵の上の部屋[#「葵の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]礼儀正しく手をつかえ、源氏を迎える葵の上。
[#1字下げ]テロップ――葵の上[#「葵の上」はゴシック体](十朱幸代《とあけゆきよ》)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「お訪ねしようしようと心にかかりながら(言いかける)」
葵の上「御無理を遊ばすことは、ございませんのに。御所の御用がお忙しいと父や兄から伺っております」
源氏「ゆきとどいたごあいさつだが、どうもそう言われると、あとの言葉が固苦しくなる」
葵の上「いけないとおっしゃるのですか」
源氏「たまにはすねたり愚痴ったりするのが、夫婦ではないのですか」
葵の上「それは、ほかの方のお役目でございましょう」
源氏「――雨もあがったようだね」
葵の上「降る雨は、いつか上ります」
源氏「――いい色目の衣裳をお召しだ。あやめの襲《かさね》がとりわけ」
葵の上「この前も、同じことをおっしゃいました」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]かげで気をもむ左大臣。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「つむり[#「つむり」に傍点]が痛みますので、さがらせていただきます」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また一礼して、静かに権高《けんだか》なうしろ姿を見せて退《さが》ってゆく葵の上。
[#1字下げ]取り残される源氏、庇から落ちる雨のしずくを手に受け、濡《ぬ》れるにまかせている。
[#1字下げ]源氏の手指からしたたり落ちる雨のしずく。
●廻廊[#「廻廊」はゴシック体]
[#1字下げ]退ってゆく葵の上、その頬《ほお》に涙が流れている。
●御所・清涼殿《せいりようでん》[#「御所・清涼殿《せいりようでん》」はゴシック体]
[#1字下げ]執務中の源氏。
[#1字下げ]山のような書類。
[#1字下げ]諸国の受領《ずりよう》たちからの申請書に目を通し、署名をして花押《かおう》を記してゆく。
[#1字下げ]下の位の男たちが書類を仕分け、束ねたりしている。
[#1字下げ]源氏の額に汗がにじんでくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「惟光! 惟光!」
[#ここで字下げ終わり]
●御所・物かげ[#「御所・物かげ」はゴシック体]
[#1字下げ]所在なさそうにぶらぶらしている惟光。
[#1字下げ]向うから王命婦《おうみようぶ》がくる。
[#1字下げ]扇で顔をかくし、すれちがいざま何事か囁《ささや》く。
[#1字下げ]惟光、ハッとなる。
●御所・清涼殿[#「御所・清涼殿」はゴシック体]
[#1字下げ]源氏のうしろから、汗を拭《ふ》く惟光、何事か囁いてそっと退る。
[#1字下げ]源氏、さりげなくあとを追う。
[#1字下げ]戸のかげ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「あのお方が、三条のお邸《やしき》へ宿下りをなさいます」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●枯野[#「枯野」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]風。
[#1字下げ]闇にまぎれて馬が走ってゆく。
[#1字下げ]乗っているのは顔をかくした貴人(源氏)。
[#1字下げ]みるみる供の惟光を引きはなしてゆく。
●藤壺《ふじつぼ》の邸[#「藤壺《ふじつぼ》の邸」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]小走りに奥へ進んでゆく源氏。
[#1字下げ]出てきてさえぎろうとする若い女房には目もくれず、横に押しのけるようにして入ってゆく。
[#1字下げ]物かげの王命婦のこわばった顔、のどがごくりと鳴る。
[#1字下げ]源氏、御簾《みす》を引き千切る。
●藤壺の部屋[#「藤壺の部屋」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]細い灯《ひ》の下に長い黒髪が、帯のように這《は》っている。
[#1字下げ]不意に灯がゆらめく。
[#1字下げ]立っている源氏。
[#1字下げ]藤壺、起き上るのがやっとで、声も出ない。
[#1字下げ]怖《おそろ》しさとうれしさと相反するふたつが、はげしくせめぎ合う。源氏、一語一語絞り出すように、うめくように言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「ひとつだけ――お答え下さい」
藤壺「―――」
源氏「この前おっしゃったのは、ご本心ですか。この私を、母としていつくしんで下さった。本当に、本当にそれだけだったか」
藤壺「―――」
源氏「長いこと、お慕いして来ました。人に言えないこの思いは、死ぬまでここにかくしておくつもりでした。でも、気がついたのです。あなたも私を思って下すっている」
藤壺「(小さな叫びを洩《も》らす)おそろしいことをおっしゃる」
源氏「違いますか。私は長いこと、思い違いをしていたのですか」
藤壺「―――」
源氏「答えて下さい」
藤壺「――申せません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]逃れようとする。
[#1字下げ]その長い髪を両の手で床に縫いつけるように押える源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「やっぱり――やっぱりそうだ。あなたも、私のことをいとおしいと思っていて下さる」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、逃れようとするが、髪を押えられているので大きくのけぞり、体が弓なりになる。
[#1字下げ]源氏、はげしく抱きすくめる。
[#1字下げ]外の風強くなり、几帳《きちよう》の裾《すそ》があおられる。
[#1字下げ]灯がまたたいて消える。
[#1字下げ]色とりどりの衣裳《いしよう》、黒髪が波うつ。
●藤壺の邸・庇[#「藤壺の邸・庇」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]王命婦が魂の抜けたように坐《すわ》りこむ。
[#1字下げ]その手は、仏に許しを乞《こ》うように合掌している。
[#1字下げ]野分、ますますはげしい。
●藤壺の部屋[#「藤壺の部屋」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]ならんで横たわる源氏と藤壺。
[#1字下げ]闇《やみ》を照らすのは、戸の間から洩れる冷たい月の光だけ。
[#1字下げ]野分ははげしいが、ここには不思議な静けさがある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「こういう夜は、絶対にこない。くる筈《はず》がないと思いながら、小さく賭《か》けていました。今朝、朝やけを見られたら、気持がとどく。しぐれたりすると、いまの賭けはなかったことにしよう」
藤壺「おんなじでした」
源氏「あなたも――」
藤壺「光の君は、わたくしをあきらめて下さる。いや、あきらめて下さらない――あきらめて下さらない方に何度も賭けていました」
源氏「ああ――」
藤壺「人を思うと他愛《たわい》なくなります」
源氏「やっと笑って下すった」
藤壺「笑っていますか。私は泣いていますのに」
源氏「かわいいかただ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、黒髪をまさぐりながら、額に唇《くちびる》を押しあてる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「長い間、闇の中を歩いてきました。いま、やっと光がさしてきた思いです」
藤壺「私は闇に墜《お》ちました。このまま死にたい」
源氏「嫌《いや》だ。生きていれば、またお目にかかれる。次の宿下りはいつですか」
藤壺「これ以上罪をおかすことは出来ません」
源氏「罪がなんだというのです。このいっときのしあわせのためなら、どんな罪もよろこんで」
藤壺「二度とお目にかかることはありません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]その唇をふさごうとする源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「もう二度と――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒髪が大きな蛇《へび》のように波うってみえる。
[#1字下げ]恋人たちの吐息も涙もすべて闇の中に溶け込んでゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「私のことは、お忘れ下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]はげしい野分。
●御所・小庭[#「御所・小庭」はゴシック体]
[#1字下げ]秋晴れ。
[#1字下げ]菊が美しい。
[#1字下げ]四人の貴公子が青海波《せいがいは》の舞いの稽古《けいこ》をしている。
[#1字下げ]四人がまず輪台の序を舞い、のちに二人(源氏と頭中将《とうのちゆうじよう》)がすすみ出て青海波を舞う。
[#1字下げ]テロップ――頭中将[#「頭中将」はゴシック体](竹脇無我《たけわきむが》)
[#1字下げ]楽に合せて、師の言う通りに足を踏む。
[#1字下げ]間違ったりする。笑いながら繰り返している。
[#1字下げ]注意を与えていた師が、ふと廻廊の方を見て、深く礼をする。
[#1字下げ]桐壺《きりつぼ》のみかど。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「みかどのおでましだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、頭中将もこれにならう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
みかど「これはなつかしい。わたしも、その位の年頃《としごろ》に青海波を習ったが、波間にただよう千鳥のように舞えというもあり、いや波のように袖《そで》を動かせというもありで――なかなかむつかしいものだった」
中将「いまも変らず、むつかしゅうございます」
みかど「頭中将も源氏の君と連れ舞いでは、骨が折れよう」
中将「いつも引き立て役でございます」
みかど「(たのしそうに笑われて源氏に)どうされた。いつもなら、何かひとことあるであろうに――お疲れか」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みかど、笑いながら、青海波の一節を口ずさみ、入ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「(源氏に囁く)お気に入りの藤壺の女御が宿下りなのでみかども所在なくていらっしゃるらしい。どうされた――お顔の色がすぐれないようだが」
源氏「青海波を舞ったので、波に酔ったのかも知れぬ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]遠ざかってゆくみかどの背をみつめ、目を閉じる。
[#1字下げ]闇の中の藤壺のおもかげがよみがえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「(エコー)私のことはお忘れ下さい」
源氏「(うめくように呟《つぶや》く)父上――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]頭中将、源氏を見る。
●北山の僧院の一室[#「北山の僧院の一室」はゴシック体]
[#1字下げ]高熱、悪寒《おかん》にさいなまれる源氏。
[#1字下げ]脂汗《あぶらあせ》をかき、はげしい震えは、敦賀《つるが》の翁《おきな》が体ごと押えこんでも振りとばすほど。
[#1字下げ]当時の流行《はや》り病いの『わらわ病み』である。
[#1字下げ]念仏をとなえながら、冷やし続ける媼《おうな》。
[#1字下げ]ナレーション「『わらわ病み』は、その頃の『はやり病い』である。
[#1字下げ]高熱を発しわらわらと体がふるえることからそう呼ばれたというが、源氏の場合は、病いだけではなかった。
[#1字下げ]父を裏切った罪の重さに体が震え、それでも思い切れない煩悩《ぼんのう》に魂がおののいたのであろう」
[#1字下げ]部屋の隅《すみ》で祈りつづける老僧。
[#1字下げ]ひかえている惟光《これみつ》。
[#1字下げ]幻覚を見る源氏。
[#1字下げ]夜の闇でむつみ合った藤壺。
[#1字下げ]子供の頃の絵巻物。
[#1字下げ]父帝とむつみ合う藤壺。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「(エコー)私のことはお忘れ下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うなされ、震えつづける源氏。
[#1字下げ]ナレーション「わらわ病みに験《げん》のあるという北山の僧の祈祷《きとう》も一向に効き目はあらわれなかった」
●北山の里[#「北山の里」はゴシック体]
[#1字下げ]北山杉《きたやますぎ》。
[#1字下げ]野をゆく源氏のおしのびの車。
[#1字下げ]やつれた源氏がゆられている。
[#1字下げ]ナレーション「ようやく病いの癒《い》えた源氏の車は、都へ向っていた。
[#1字下げ]心のふさぐ時、源氏はいつも、あの、春の日のことを考える」
●絵巻物[#「絵巻物」はゴシック体]
北山の里で、白い下着に山吹襲《やまぶきがさね》の馴《な》れたのを着た一人の愛らしい女の子が伏籠《ふせご》に入れた雀《すずめ》の子に逃げられてベソをかいている。
[#1字下げ]慰めている初老の尼君。
[#1字下げ]少し離れたところに立っている貴公子は光源氏に似ている。
[#1字下げ]ナレーション「あれは何年前のことか、源氏は幼い女の子の遊んでいる姿を垣間《かいま》見て足をとめた。その子の面差《おもざ》しには、ひそかに恋い慕う藤壺の面影があったからである。源氏はこの幼い子を若紫と呼んだ。祖母にあたる尼君に礼を尽くし、時々訪れて若紫と共に過し、亡《な》き母や、藤壺への思いを癒していた」
[#1字下げ]絵巻物。ひな遊びの貴公子と少し大きくなった女の子。
●北山の里[#「北山の里」はゴシック体]
[#1字下げ]ゆられてゆく源氏。
[#1字下げ]少しなごんだ表情になっている。
[#1字下げ]御簾《みす》の外の惟光。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「惟光――」
惟光「心得ております。若紫様のお住まいへ向っております」
源氏「お前は、どうしてそう、人の心が読めるのだ」
惟光「人間ひとつぐらいは取柄《とりえ》のあるものでございます」
[#ここで字下げ終わり]
●北山・若紫の住まい[#「北山・若紫の住まい」はゴシック体]
[#1字下げ]若紫が祖母の尼君を病いの床に助け起している。
[#1字下げ]若紫は下うつむいているので、顔はまだ見えない。
[#1字下げ]見舞っている源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
尼君「長いことおいつくしみをいただきましたが、このあたりでお別れを」
源氏「一体どういうことです」
尼君「この分では私の先も知れております。この子の母は生《な》さぬ仲ではございますが、これの父親が自分の邸《やしき》に引きとりたいと申しておりますので」
源氏「しかし、いずれは私の邸にきていただくつもりで」
尼君「かりそめのお約束をいただいたのは、何分にも前のこと。なかったことと思《おぼ》し召《め》して、あなたからもごあいさつを」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]顔を上げる若紫。
[#1字下げ]藤壺に似た顔立ちは匂《にお》うように美しい。
[#1字下げ]テロップ――若紫[#「若紫」はゴシック体](叶和貴子《かのうわきこ》)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「よく似ている――いや、しばらく見ぬ間にそっくりになられた。藤壺――(言いかけて言葉をのむ)いや、亡くなった私の母に」
尼君「桐壺さまに――」
源氏「生きうつしになられた」
尼君「もったいないことをおっしゃいます」
源氏「このひとだけは誰《だれ》にも渡したくない。若紫。あなたはわたしをお嫌《きら》いか」
若紫「いいえ。お兄さま」
源氏「(笑って)お兄さまはやめておくれ。わたしもあなたを――一日も早く紫の上と呼びたいと思っている」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]恥じらう若紫。
●御所・清涼殿《せいりようでん》[#「御所・清涼殿《せいりようでん》」はゴシック体]
[#1字下げ]書類の山に埋れて大忙しで執務中の源氏。
[#1字下げ]頭中将、うしろに立って見ている。
[#1字下げ]ナレーション「頭中将は、左大臣の長男であり、源氏の正妻、葵《あおい》の上の兄にあたる。源氏とは義理の兄弟であり、心を許したただひとりの友であった」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「よく遊ぶ人間はよく働くというのは本当だな」
源氏「―――」
中将「源氏の君のことですよ。どうなさったんです。ただのお働きではないようにみえる」
源氏「何事でも、区切りをつけるというのは、いいことだ。諸国の受領《ずりよう》から差し出されたものに目を通して決裁する。名前を書き花押《かおう》をしるす。決断には本当にこれでいいのかという迷いがつきものだが」
中将「決断するということは、小さいものを切り捨てるということですよ」
源氏「切り捨てるのではない。封じ籠《こ》めるのだ。自分の心の中に塗りこめて、新しいものに向って何とか。(ムキになっていう)」
中将「何かおありになったとみえる」
源氏「ひとつを断ち切ると、そこから小さいものが生れて、生きる支えになるんだなあ」
中将「――花の色は――何色です」
源氏「若い紫とだけ答えておこう」
中将「――いつものことながら、妹には内緒にしておいて上げます」
源氏「大分借りがたまったようだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「そうだ、肝心のことを忘れていた」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]少し声をひそめて、物かげに引っぱるようにして、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「おめでとうございます」
源氏「(わからない)」
中将「あなたの弟御か妹御がお生れになるわけだ」
源氏「弟か妹――」
中将「どうしてどうして、みかども、おやりになるものです。大きな声ではいえないが、あのお年で、このところ、病いがちと聞いていたのに――いや、お盛んで、めでたい限りだ」
源氏「―――」
中将「藤壺《ふじつぼ》の女御《にようご》が御懐妊だそうですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、おどろきのあまり、手にした筆を落してしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●藤壺の邸[#「藤壺の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]坐《すわ》っている藤壺。
[#1字下げ]立っている源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦《おうみようぶ》「源氏の君様――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]踏み込もうとする前に、切って落したように御簾が下がる。源氏の前に立ちはだかる王命婦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「あるじは、どなたにもお逢《あ》いになりません」
源氏「お見舞いに、いや、お祝いにあがったのだ」
王命婦「お見舞いでしたら、私が代って」
源氏「のいてくれ」
王命婦「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]王命婦に体ごとにじり寄る源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうしても伺いたいことがある」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御簾越しに藤壺の顔が、目がある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「子供は、わたしの、わたしたちの子供ですね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏にむしゃぶりつく王命婦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「みかどの、みかどの御子をお生み遊ばすのです。あなた様の弟君か妹君」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、御簾ににじり寄る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「いや、ちがう。わたしたちの、わたしの子供だ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、かすかに笑う。
[#1字下げ]笑いながら大粒の涙をこぼす。
[#1字下げ]源氏、こらえ切れず中へ入ろうとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「なりません。これ以上の御無体は、お名前にさわりましょう。お引き取り下さいまし。どうか、お引き取り下さいまし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]王命婦の頬《ほお》にも光るものがある。
●夜の道[#「夜の道」はゴシック体]
[#1字下げ]源氏のおしのびの車がゆく。
[#1字下げ]まるで葬列のように。
[#1字下げ]ナレーション「断ち切った筈《はず》のものは、恐ろしい実を結んでいた。わが子の誕生をよろこぶ父の車は、罪におののく葬列のように見えた」
[#1字下げ]ゆられている源氏。
[#1字下げ]御簾の向うの供の惟光、チラリと主の顔を見る。
[#1字下げ]これも、主と同じ重く大きいものを噛《か》みしめるような顔になる。
●左大臣家・葵の上の部屋[#「左大臣家・葵の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]やつれ果て疲れ果てた源氏、崩れるように坐り込む。
[#1字下げ]心憎いほどキチンとした身のこなしで迎える葵の上。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「わらわ病みは、もうよろしいのですか」
源氏「どうにか、もとの体になりました。そうだ、あなたの父上や兄上から手厚いお見舞いをいただいた」
葵の上「私も、かげながら、加持祈祷をたのみました」
源氏「ご自分では、祈って下さらなかったのか」
葵の上「その道を極めたものの方が、効き目があらたかでございましょう」
源氏「あなたの言われることは、いつも理にかなっている。その通りだ。だが、理というものはえてして、冷たいもの。夫婦は、理ではないと思うがね」
葵の上「わたくし、夫婦とは――共にすごす時の長さだと思っております」
源氏「――言葉を飾らずに言われたらどうだ。なぜもっと、たずねてくれぬ。わたしの妻ではないか――」
葵の上「お気持のこもらぬおたずねは、ぬけがらも同じでございましょう」
源氏「あなたとは、言い争いも出来ない」
葵の上「ご不満ですか」
源氏「―――」
葵の上「――お祝いを申し上げるのが、あとさきになりました。藤壺さま、おめでたとのこと、おめでとうございます」
源氏「―――」
葵の上「お生れになる御子は、あなた様の弟君か妹君。それにしては、お顔が晴れませんね」
源氏「――みかども、もう、お年だ。御子が大きくなるまで、お元気でおられるかどうか――それと、人が一人生れるということは――よろこびも苦しみも、共に生れるということだ。それを思うと、あわれというか」
葵の上「おやさしいこと、私がみごもらないのもそのお気持のためでしょうか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]敵意のこもった挑《いど》むような目。
[#1字下げ]源氏、葵の手をつかむ。
[#1字下げ]冷たく振りはらってすッと立つ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「御寝所《ごしんじよ》の支度、ととのっております。わらわ病みのあと、お大事になさいまし」
[#1字下げ]入ってゆく。
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣家・車寄せのあたり[#「左大臣家・車寄せのあたり」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]おしのびから帰ってきた頭中将《とうのちゆうじよう》。
[#1字下げ]ほろ酔いで中へ入ろうとする。
[#1字下げ]桜の木の下にとめてある源氏の車に目をとめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「源氏の君か。珍しい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]通りすぎようとする。
[#1字下げ]車の中から、いびきが聞える。
[#1字下げ]のぞくと、中でねむっているのは惟光《これみつ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「源氏の君」
惟光「あ、これは、頭中将さま」
中将「どうだ惟光、車の乗り心地は」
惟光「これはえらいところをみつかりました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]泡《あわ》くって下りようとする惟光をとめる頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「そのままでいい。可哀《かわい》そうな男だなお前も。同じ乳を分け合った乳兄弟でありながら――一人はここ。一人は、そこだ(内と外)」
惟光「身分がちがいます。いや、身分を抜きにしても、一人は花も実もあるお方」
中将「お前はどうだ」
惟光「こっちはハッパみたいなもんで」
中将「ハッパには、ハッパのおごり[#「おごり」に傍点]があるだろう」
惟光「――ないことも、ございません」
中将「ほうれみろ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]従者は車の中。貴人はよりかかって立ちばなし。
[#1字下げ]桜の花びらが酔った二人に散りかかる。
[#1字下げ]惟光、かくしていた酒を差し出す。
[#1字下げ]頭中将、口をつけてのむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「実は、ここに坐ると、あるじの心が判《わか》るかな、と思いまして」
中将「判ったか」
惟光「――判りました」
中将「やっと病いが直って、久しぶりに妻をたずねれば、これが身分を鼻にかけた権高《けんだか》な女で」
惟光「中将さま」
中将「心が休まるどころではない。かといって、自分の邸へもどったとて、ぬくめてくれるあたたかい肌《はだ》があるわけじゃなし――といって、ひそかに育てた手生けの花は、まだ固い蕾《つぼみ》だし――」
惟光「――(呟《つぶや》く)若紫さまのことも」
中将「さりとて、思いつめて待っておいでの六条の御息所《みやすどころ》では息がつまる」
惟光「(ぐっと息がつまる)」
中将「気をもむな。知っているのはそこまでだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]惟光、フウッと空気が抜ける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「少し、やつれられたようだな、源氏の君は」
惟光「いいクスリはないものかと思います」
中将「クスリか。金のないときに一番|利《き》くクスリは金ではないか、受けた傷のもとをたどれば女――」
惟光「クスリも女だとおっしゃる」
中将「ただし、気の張るのは、よせよ。何のなにがしとも知らぬ野の花を一輪、手折《たお》るんだ。そうすれば、気もまぎれるさ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手を振ってフラフラと入ってゆく頭中将。
[#1字下げ]散る桜。
●御所・廻廊《かいろう》など[#「御所・廻廊《かいろう》など」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]雨に濡《ぬ》れている。
[#1字下げ]宿直所《とのいどころ》に灯がまたたいている。
[#1字下げ]テロップ――御所・宿直所[#「御所・宿直所」はゴシック体]
●御所・宿直所[#「御所・宿直所」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]雨が降っている。
[#1字下げ]灯も静かにまたたいている。
[#1字下げ]頭中将と右馬頭《うまのかみ》が文を見せる見せないで揉《も》み合っている。
[#1字下げ]源氏だけは一段高いところ。
[#1字下げ]脇息《きようそく》に寄りかかり雨の音を聞いている。
[#1字下げ]テロップ――右馬頭[#「右馬頭」はゴシック体](植木等)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「あ、それは差しさわりが」
右馬「そういうのを見たいんですよ。差しさわりのないのなら、物の数でもない、この私でももらうことがありますからね」
中将「右馬頭が何を言われる」
右馬「あ、この字は――(耳打ち)でしょう」
中将「(手を振る)」
右馬「いや、この字はまさしく」
中将「では、右馬頭のところにも」
右馬「物固いように見えて、実はああいう女が一番(耳打ち)」
中将「(笑いながら)文というのも罪つくりなものだね。字がうまい、歌がうまいでとりのぼせて逢ってみると、これが知ったかぶりで、もう」
右馬「居たんですなあ、ひとり――」
中将「ほう」
右馬「寝物語にも『子|曰《いわ》ク』」
中将「(笑う)」
右馬「おかげで少し利口になりましたので、恩義は感じておりますが、この女、風邪をひくと、木根草皮《もくこんそうひ》の知識があるんで、何やら強い薬を用います。これが何と『にんにく』ですよ」
中将「『にんにく』」
右馬「しかも、この匂《にお》いが抜けた頃《ころ》においで下さいという歌をよんで渡してくれます。鼻つまみとはこのことですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]鼻をつまみながら受取るしぐさ。
[#1字下げ]頭中将、物思いの源氏の気分を引き立てようと、さそうように笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右馬「そうかと思うと、よその女に心を移したというのでいきなり」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]右馬頭、自分の指を一本出して、ガブリと噛《か》みつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「食いつかれたのか」
右馬「まだ痕《あと》が残っております。指だからいいようなものの――(深刻な顔をしてみせる)」
中将「――『いろごのみ』も命がけだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、何とか源氏を笑わせたい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「まあ見渡したところ女として面白《おもしろ》いのは『中の品』だな」
右馬「中?」
中将「中」
右馬「そういやあ、上流の娘なんてものは、親と身分と金が作ったようなもの。肩が張るばかりで」
中将「面白くもおかしくもない」
右馬「そうかといってはした女《め》のたぐいも、諸事違いすぎて――(手を振る)」
中将「そこへいくと、中程の身分の娘は」
右馬「十人十色。おやじはデブっちょ。兄貴も醜男《ぶおとこ》。これじゃ娘も大したことないわいと思ってるとこれが絶世の美女だったりしますからなあ」
中将「軒のかたむいた邸《やしき》に、気品のあるかしこい娘がいたりしてね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、少しずつ、二人のはなしに耳を傾け出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右馬「しかし、なんですな、いっときの遊び相手ならともかく、さて妻となると揃《そろ》った女は滅多にないもんですなあ」
中将「美人で目はしが利くかと思うと移り気だし」
右馬「しっかりしているとよろこぶと、髪を耳にはさんで、なりふりかまわず働く味気ない女だったりして」
中将「いるいる」
右馬「強いのは、いやですな。物ねだりする。あてにする」
中将「しなすぎるのも、切ないものだよ」
右馬「当節、そんなのはいないでしょう」
中将「(いやいや)恥をひとつ話そうか。大分前のことだが、ひそかに面倒を見ている女がいてね。これが実にいじらしいひとで――ほかに身よりもないので、わたしひとりに頼って暮しているのに、足が遠のいても、少しも恨んだりしない。口数が少なくて、ひっそりしているのに、そこへゆくと、身も心も休まるのだ。遊びのつもりが本気になって、行末までも面倒を見ようという気になったところが、不意に姿をかくしてしまった」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、少し心を動かされた様子で身を乗り出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「どうも、妻の実家の者が嫌《いや》がらせをしたらしい」
源氏「それで行方は――」
中将「それっきりですよ。はかなげな人だったから、いまも心残りで」
右馬「行方が判ったら、私も通いたい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三人、笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「源氏の君の笑い顔は久しぶりだ」
源氏「―――」
中将「どなたのことを思っておられるのか、このところ物思いにふけってばかり」
源氏「いや、ただ雨の音を」
右馬「どなたです。源氏の君ほどの人に溜息《ためいき》をつかせるひとは」
中将「妹には洩《も》らしません」
源氏「雨の夜に、女の品定めもみやびなものだ」
中将「――ごまかして――」
[#ここで字下げ終わり]
●都大路[#「都大路」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]源氏の車がゆく。
[#1字下げ]ナレーション「源氏の車は、方違《かたたが》えのため、紀伊守《きいのかみ》の邸へ向っていた。方違えとは、陰陽師《おんみようじ》のすすめで、悪い方角を避け、よその邸に一泊して、わざわいを逃れるという慣わしである。
[#1字下げ]紀伊守は、紀伊の国守りをつとめる男だが、父親はあいにく国許《くにもと》へ出かけており、息子の紀伊守が源氏を迎えた」
●紀伊守の邸[#「紀伊守の邸」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]さほど大きくはないが、手入れのいい庭。
[#1字下げ]ほたるが飛んで、もう初夏になっている。
[#1字下げ]若い紀伊守の案内で入ってゆく源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
紀伊守「突然のことで取散らしておりますが」
源氏「迷惑をかけます。私は方違えを気にしていないのだが」
紀伊守「年寄りや女たちが気にするようですね。守らないと曲々《まがまが》しいことが起るとさわぎ立てまして」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]廊下を曲ったあたりで、若い女(空蝉《うつせみ》)を垣間《かいま》見てしまう源氏。
[#1字下げ]空蝉、ハッとして顔をかくす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
紀伊守「義理の母でございます」
源氏「ずい分とお若いが――」
紀伊守「父とは三十もはなれております」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]テロップ――空蝉[#「空蝉」はゴシック体](朝加真由美《あさかまゆみ》)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「(心を残して振り向きながら)そういえば、あのかたは以前、宮仕えをなさるはなしが進んでいたのではないか。みかどがあのひとは、どうされたのだろうと、おたずねになったことがあったが――そうか、あなたの義理の母になっておられたのか」
紀伊守「世の中というのは、わからないものでございますね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、気になる。
●紀伊守の邸・廂《ひさし》の間[#「紀伊守の邸・廂《ひさし》の間」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]横になっている源氏。
[#1字下げ]暑さも手伝って寝苦しい。
[#1字下げ]源氏、そっと部屋を抜け出す。
[#1字下げ]闇《やみ》の中を声のする方へ歩いてゆく。
[#1字下げ]灯をかき立てているらしく、あかりがあかるくなる。
[#1字下げ]しどけない女房《にようぼう》たちの寝姿が闇の中に浮かび上る。
[#1字下げ]足を開くもの、ボリボリ尻《しり》をかく者、胸をはだけて風を入れるもの。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女A「ああ、今夜も蒸すこと」
女B「(パチンと叩《たた》く)しつこいヤブ蚊――」
女C「ねえ源氏の君は、どのあたりにおやすみなの」
女D「廂の間――」
女A「ああ――」
女C「ため息ついたって、どうなるもんでもないでしょ」
女B「ほんと――あ、また(パチンと蚊を叩く)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]灯がまた細くなって、あたりは闇。
[#1字下げ]源氏、そろそろと進んでゆく。
[#1字下げ]また闇の中からひそやかな声が聞える。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
空蝉「中将! 中将はいないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]遠くから、女房のねむそうな声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女C「お湯を使いにいっております」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また闇。
[#1字下げ]源氏、障子のかけ金をはずし、さまざまな道具をよけて入ってゆく。
[#1字下げ]几帳《きちよう》のかげにふせっている空蝉。
[#1字下げ]源氏、物音を立ててしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
空蝉「中将ですか。いつもは長湯なのに今夜はずい分と早いこと」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
空蝉「あ」
源氏「こうしてひとつ廂の下で一夜をあかすのも、何かのご縁と思って下さい」
空蝉「おはなし下さい。身分の低い者とあなどってご無体を」
源氏「男と女に身分はありません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、はげしくあらがう空蝉の体を抱えて几帳の奥へ運ぼうとする。
[#1字下げ]湯道具を抱えた湯上りのふとった女房(中将)がくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「あら、この香りは――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]女主人を抱えた源氏が立っているのに気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「や」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ポカンと立って湯道具を落してしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「(静かに囁《ささや》く)あけ方、奥方を迎えにくるように」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]中将、気をのまれて立ちつくす。
[#1字下げ]横抱きに抱かれながら、尚《なお》も小声であらがう空蝉。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
空蝉「夫のある身でございます」
源氏「さっき、物かげから私をみた目は、夫のある目ではなかったが」
空蝉「――まだ縁の定まらない娘の頃お目にかかっていたら、どんなにうれしかったでしょう」
源氏「今夜の出会いをうれしいとは思って下さらないのですか」
空蝉「―――」
源氏「もしもあなたが宮仕えに上っていれば、御所で必ずこうなっていた――そういう縁なのですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏のやさしいしぐさに崩れてゆく空蝉。
[#1字下げ]手の力が抜けてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「世間ではいろいろに噂《うわさ》されているが、私はいつも本気です。このいっときを、一生と思っているのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]空蝉、今までの固い視線とは別人のような、なまめいた目で源氏を見る。
[#1字下げ]自分から頬《ほお》をよせてゆく。
[#1字下げ]それから灯を吹き消す。
[#1字下げ]あたりは真の闇。
[#1字下げ]源氏、そっと手をのばす。ところが、触れたものは、空蝉が脱ぎ捨てた薄衣《うすもの》一枚だけ。
[#1字下げ]源氏、あたりをさぐる。
[#1字下げ]月がようやく雲間から出たらしく、白くあえかな色のふわりとした薄衣を照らしている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「蝉のぬけがらだ――空蝉だ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]薄衣を顔に押しあてる。
[#1字下げ]少し離れた闇の中で空蝉が立っている。
[#1字下げ]とびかう蛍《ほたる》。
●御所・清涼殿《せいりようでん》[#「御所・清涼殿《せいりようでん》」はゴシック体]
[#1字下げ]真夏日。
[#1字下げ]仕事に疲れた源氏、いたずら書をしている。
[#1字下げ]うしろから読む頭中将《とうのちゆうじよう》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「空蝉の身をかへてける木《こ》のもとに
[#ここから改行天付き、折り返して−1字下げ]
[#1字下げ]なほ人がらのなつかしきかな」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
中将「蝉はつかまえましたか」
源氏「いや、逃げられた」
中将「尚更に思いが残るでしょう」
源氏「あなたがいつぞやはなしておられた――」
中将「ああ、行方知らずになった昔の――」
源氏「(うなずく)やっとあなたの気持が判《わか》った」
[#ここで字下げ終わり]
●五条あたり[#「五条あたり」はゴシック体](夕暮)
[#1字下げ]小さな家の建ちならぶ五条大路を源氏の車が、身なりをやつしたおしのびの姿でゆく。
[#1字下げ]供は惟光《これみつ》。いつもにくらべ、元気がない。
[#1字下げ]ナレーション「惟光の母が病気になった。この母親は、源氏の乳母をつとめたことがある。源氏は、おしのびで、五条のわび住いへ見舞いに出かけた。帰り道、車は滅多に通ることのない、小さな家の立ちならぶあたりにさしかかった」
[#1字下げ]牛車《ぎつしや》の前に、はだかの汚れた男の子が走り出てくる。
[#1字下げ]その母親らしいのが叫びながら引っかかえ、子供の尻を打ちながらもどってゆく。
[#1字下げ]泣く子供。
[#1字下げ]その間、牛も車も待っている。
[#1字下げ]一軒の家。
[#1字下げ]半蔀《はじとみ》を半分ほど上げて、白いすだれをかけた小ざっぱりした家から、女の美しい額から目のあたりがのぞいている。
[#1字下げ]車の中の源氏、気になる。
[#1字下げ]切懸《きりかけ》(いまのよろい戸のようなもの)に青いつる草がからまり、白い花がうす闇にぼんやりと浮かんでみえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「惟光」
惟光「はい」
源氏「あの花は何だろう」
惟光「夕顔でしょう」
源氏「はかない花だな」
惟光「一枚、もらって参りましょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]惟光、心得顔にゆく。
[#1字下げ]中へ向って何かことわりを言いながら、花を折る。
[#1字下げ]中から白い扇が差し出される。
[#1字下げ]さっき見ていた女。
[#1字下げ]源氏と女の視線が合う。
[#1字下げ]惟光、源氏に扇の上の花を差し出す。
[#1字下げ]扇に薫物《たきもの》の匂《にお》いのあることに気づく。
[#1字下げ]白い扇にのった白いあわれな花一輪。
[#1字下げ]牛車、きしんで動き出す。
[#1字下げ]女はまだ見ている。
●光源氏の|邸[#「光源氏の|邸」はゴシック体]《やしき》
[#1字下げ]源氏に報告している惟光。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「つい先頃《さきごろ》、召し使う女房ともども越してきた女だそうでございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏の手に白い扇。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうも、心に残って、しかたがないのだ。惟光――(言いかける)」
惟光「早速わたくしめが渡りを――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]胸を叩いて腰をうかしかけて、ちょっと源氏を見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「かまわないよ、あの人は」
惟光「私はまだ何も申しておりません」
源氏「目が物を言ってるよ。『六条|御息所《みやすどころ》はいいのですか。ここのところ、足が遠のいておりますが――』」
惟光「――(参った)あの女《かた》は、妙に気になります。呼んでおいでのようで、六条のあたりを通っただけで、胸苦しくなります」
源氏「私も心にかからないではないが、いまは気の晴れるところへゆきたいのだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏の声には切実なものがある。
●六条御息所の邸[#「六条御息所の邸」はゴシック体](夕暮)
[#1字下げ]写経をする御息所。
[#1字下げ]気品高くもの静かなそのたたずまい。
●夕顔の家・表[#「夕顔の家・表」はゴシック体](夕暮)
[#1字下げ]夕顔が咲いている。
[#1字下げ]闇が濃くなり、白い花の色がきわだって夜更《よふ》けとなる。
[#1字下げ]徒歩《かち》の主従二人の足が立ちどまり、中へ入ってゆく。
●夕顔の家[#「夕顔の家」はゴシック体](夕闇)
[#1字下げ]闇の中に白く浮かぶ女、夕顔。
[#1字下げ]ひっそりと坐《すわ》っている。
[#1字下げ]テロップ――夕顔[#「夕顔」はゴシック体](いしだあゆみ)
[#1字下げ]わざと粗末な狩衣《かりぎぬ》姿の源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうして名前をたずねない」
夕顔「あなたもお聞きにならないから」
源氏「心細くはないのか」
夕顔「(いいえ)夕顔の花が咲く頃おみえになって、あけ方夕顔がしぼむ頃お帰りになる――それでいいのです」
源氏「『夕顔』か。名前は人間臭いが、ひっそりした花だ。夕闇の中で声も立てずに笑っているように見える」
夕顔「(ひっそりと笑っている)」
源氏「あなたとおなじだ」
夕顔「―――」
源氏「衣裳《いしよう》はどんな色目のものがいい」
夕顔「いりません。一度に二枚は着られません」
源氏「(笑ってしまう)欲のない人だ」
夕顔「―――」
源氏「――ほかの男にも、そう言われたのか」
夕顔「――はい」
源氏「男は、何と言った」
夕顔「あなたと同じことを」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、また笑ってしまう。
[#1字下げ]女も、ひっそりと笑っている。
[#1字下げ]源氏、やわらかく抱き寄せる。
[#1字下げ]目をとじ、やわらかくもたれてくる夕顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「女というものは、心を見せないものだと思っていた。歌やことばで飾り、衣裳で包んで、時には裏腹なことを言う。だが、あなたは違う。まるで、じかに心を抱いているようだ――」
夕顔「―――」
源氏「こんなに心が安らいだのは、はじめてだ」
[#ここで字下げ終わり]
●夕顔の家・垣根《かきね》[#「夕顔の家・垣根《かきね》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]月の光に咲く夕顔一輪。
[#1字下げ]やがて夜明けの色にかわってくる。
[#1字下げ]どこかで鶏が鳴く。
[#1字下げ]戸を繰る音。
[#1字下げ]老若男女《ろうにやくなんによ》の話し声が聞えてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
老人「うー、夏場だというのに、あけ方は冷えるな。世の中不景気だから、お天道《てんとう》さままで、ヘソ曲げてるんだろうよ」
老女「どうだね、田舎の店のあきないは」
老人「どうもこうも――食べるにやっとだよ」
老女「おたがいだ――」
[#ここで字下げ終わり]
●夕顔の家[#「夕顔の家」はゴシック体](あけ方)
[#1字下げ]ひとつ衾《ふすま》で共寝の源氏と夕顔。
[#1字下げ]夕顔、源氏の方を見て、きまり悪そうに目で笑いかけ衾で少し顔をかくすようにする。
[#1字下げ]しかし、卑下しているというのではなく、おっとりとしている。
[#1字下げ]ごろごろと唐臼《からうす》の音。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「?」
夕顔「となりで唐臼をついているのです。雷みたいでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]砧《きぬた》を打つ音がまじる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「あれは砧を打っている」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ガシャンという音。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「誰《だれ》かが土器《かわらけ》を落したわ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]かぼそく鳴くこおろぎ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「あれは?」
源氏「こおろぎだろう。そのくらいわたしだって」
夕顔「いいえ。ただのこおろぎではありません。壁の中で鳴いているのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]こおろぎを聞く二人。
[#1字下げ]老人らしい男の咳《せき》ばらい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「このあたりは騒々しくて」
源氏「(抱き寄せて)こうして聞けば、かえって風情《ふぜい》があって面白《おもしろ》いよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また、こおろぎ。
[#1字下げ]朝の光の中で静かにむつみ合う二人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「近くに知り合いの邸がある、そこへゆこう」
夕顔「―――」
源氏「いますぐ」
夕顔「そんな急に」
源氏「わたしのいうままにするのではなかったのかい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うなずく夕顔。
[#1字下げ]老人たちの祈りの声が聞えてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
老人(声)「南無当来導師《なむとうらいどうし》 南無当来導師」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]地からわき出るような、さそい込むような祈りの合唱。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「御嶽《みたけ》の行者たちです」
源氏「あの祈りのようにわたしたちも来世をたのみたいものだ。次の世も二人は一緒だよ」
夕顔「私は運のない女です。そうはならない気がします」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、強く抱きしめる。
●河原の院[#「河原の院」はゴシック体]
[#1字下げ]もとは風流な別荘だったらしいが、いまは荒れている。
[#1字下げ]忍草が生い茂った廃園。
[#1字下げ]深い霧が立ちこめておどろおどろしい雰囲気《ふんいき》。
[#1字下げ]霧が晴れると、源氏と夕顔がいる。
[#1字下げ]夕焼け。
[#1字下げ]月の光。
[#1字下げ]闇夜《やみよ》。
[#1字下げ]さまざまの光の中の二人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「この世の中に、二人きりでいるような気がする」
夕顔、源氏の顔を見つめながら、ゆっくりとまばたきをする。
夕顔「一年――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もう一回、ゆっくりと目を閉じる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
夕顔「二年――」
源氏「?」
夕顔「しあわせな時は、まばたきひとつが、一年に思えます」
源氏「(ゆっくりとまばたきして)三年」
夕顔「四年――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]抱き合ってねむる二人。
[#1字下げ]ゆれる忍草。
[#1字下げ]風が吹いてくる。
[#1字下げ]また霧が深くなる。
[#1字下げ]夕顔の枕《まくら》もとに夢ともなくうつつともなく、女が一人すわっている。
[#1字下げ]顔かたちは髪にかくれてよくみえないが、かなり美しい女のようである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女(六条御息所の声)「あなた。あなた。あなた――」
源氏「―――」
女「夜がくるたびにおいでをお待ちしておりますのに、私をうとんじて、このような女をご寵愛《ちようあい》なさるとは。口惜《くちお》しい、口惜しい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]女は、ねむる夕顔をはげしくゆさぶる。
[#1字下げ]うなされる夕顔。
[#1字下げ]源氏、目をさます。とたんに灯が消える。
[#1字下げ]霧が渦巻《うずま》いて流れ込む。
[#1字下げ]闇の中に女の声とも風ともつかぬ音だけがひびく。
[#1字下げ]夕顔をゆさぶる女、うめく夕顔。
[#1字下げ]源氏、枕もとの太刀をとり引きぬき、闇に切りつける。
[#1字下げ]そのまま、とまり、闇をうかがう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「惟光《これみつ》! 惟光!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手を叩《たた》く音。
[#1字下げ]呼ぶ声が木魂《こだま》になってもどってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「惟光! 紙燭《しそく》をともせ、早く!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]紙燭を手に駆けてくる惟光。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「弓はないか、魔よけの弦打《つるう》ちをせよ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]紙燭の火も風に消え、闇の中で弓の弦を鳴らす音がひびく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「火危《ひあやう》し! 火危し!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、火をつける。
[#1字下げ]かすかな光の中で、夕顔の枕もとにすわるのは、六条御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「六条御息所――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]女の顔が悲しげに源氏を見て消える。
[#1字下げ]源氏、ぐったりしてあえぐ。
[#1字下げ]梟《ふくろう》がなく。
[#1字下げ]夕顔を見て、ハッとなる。
[#1字下げ]こと切れている。
[#1字下げ]抱き起す源氏。
[#1字下げ]夕顔の手も、頭も、ガックリと力なく垂れる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「死んでいる――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また梟がなく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「生きかえってくれ! たのむ、もう一度、生きかえってくれ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、夕顔にくちづけし、ゆさぶる。
[#1字下げ]霧が晴れ、月の光、狂ったように泣き叫ぶあるじの手から、夕顔のむくろをおろす惟光。
[#1字下げ]呆然《ぼうぜん》とすわる源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「名前も、氏素性も聞かないうちに、逝《い》ってしまった――」
惟光「――もしかして、頭中将《とうのちゆうじよう》さまのゆかりの方では」
源氏「――頭中将――」
惟光「いつぞや、このかたの身許《みもと》を聞きに、隣り近所をたずねておりました折に、こちらの女《め》の童《わらわ》が頭中将のお車が通るとかけこんできたことがありました。しかも、女の童や女房《にようぼう》たちが頭中将のお供のかたがたの名前をよくご存知で大きな声でなつかしがるのを、この方がとめておられました」
源氏「それでは、いつぞや頭中将が話していた、ある日ふっつりと姿をかくしたというのは、この人か」
惟光「――たしかめてから申し上げるつもりでおりました」
源氏「あわれなことを――惟光、どうして早く言ってくれなかった――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]白く安らかな夕顔。
●河原[#「河原」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]前駆の者が松明《たいまつ》をかかげて、源氏の車がゆく。
[#1字下げ]不意に車の戸があいて、源氏が顔を出す。
[#1字下げ]供の惟光。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「もどってくれ。もう一度、なきがらに別れを言いたい」
惟光「――(目でとめている)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、戸をしめる。
[#1字下げ]ゆっくり歩き出す車。
[#1字下げ]中から、かすかに嗚咽《おえつ》が洩《も》れてくる。
[#1字下げ]影絵のようにゆく車。
●御所・産屋[#「御所・産屋」はゴシック体](夏)
[#1字下げ]白い几帳《きちよう》。
[#1字下げ]白ずくめの調度の中心に横になる、白ずくめの衣裳の藤壺《ふじつぼ》。
[#1字下げ]産婦の枕もとで老僧が経を誦《しよう》す。
[#1字下げ]御簾《みす》の向うから読経《どきよう》。
[#1字下げ]庭では鳴絃《めいげん》を行う随身たち。
[#1字下げ]日輪が欠けはじめる。日蝕《につしよく》。
[#1字下げ]離れたところで端然と坐《すわ》るみかど。
[#1字下げ]少し下って王命婦《おうみようぶ》。
●御所・清涼殿《せいりようでん》[#「御所・清涼殿《せいりようでん》」はゴシック体](夏)
[#1字下げ]政務をとる源氏、頭中将。
[#1字下げ]みるみるあたりが暗くなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「日輪が欠けはじめたようだ」
源氏「日蝕か――」
中将「曲々《まがまが》しいことが起らねばいいが」
源氏「――中将。あと五年、いや十年たったらあなたに詫《わ》びをいうことがある」
中将「また先の長いはなしだな。なんです」
源氏「いや。――あ、うぶ声が――」
中将「そら耳でしょう。ここまで聞えるはずがない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あたりはますます暗くなる。
●産屋[#「産屋」はゴシック体](夏)
[#1字下げ]几帳のかげから元気のいいうぶ声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女の声「男御子でございます!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みかど。
[#1字下げ]王命婦。
●清涼殿[#「清涼殿」はゴシック体](夏)
[#1字下げ]日蝕。
[#1字下げ]源氏、頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
声「男御子でございますぞ」
声「男御子がお生れになりましたぞ!」
源氏「男御子……」
中将「――それはめでたい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、つと立って廻廊《かいろう》へ出る。
●曠野[#「曠野」はゴシック体]
[#1字下げ]曲々しい枝ぶりの黒い木の下に、佇立《ちよりつ》する源氏。
[#1字下げ]なにも見ていない源氏の目。
[#1字下げ]テーマ、流れる。
[#1字下げ]日蝕で夜のように暗い中に立っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●御所[#「御所」はゴシック体](春)
[#1字下げ]若君、参内の儀式。
[#1字下げ]ナレーション「光りかがやく春の日に、若御子参内の儀式が行われた」
[#1字下げ]花吹雪の中を若君を抱いたみかど。
[#1字下げ]うしろに藤壺。
[#1字下げ]みかど、源氏に若君を示すようにする。
[#1字下げ]きげんよく笑う若君。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
みかど「血は争われぬものだ。よく似ている。あなたの幼い頃《ころ》に生きうつしだ」
源氏「―――」
藤壺「―――」
みかど「ほかにも御子はいるが、幼い時からひざに抱いていつくしんだのは、あなたひとりだ。ほかを知らないからそう思うのかな」
源氏「―――」
藤壺「―――」
みかど「もっとも、赤子というのはみんなこんな顔をしているものなのかな」
源氏「―――」
みかど「あたたかくて、やわらかくていい匂《にお》いがする。赤子を抱いていると、人の世のわずらわしさなど、小さなことに思える――そうではないか?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みかど、御子を源氏に差し出すようにしてよろめく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「父上――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]父を支える形で御子を抱きとる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●御所・病室[#「御所・病室」はゴシック体]
[#1字下げ]病の床のみかど。
[#1字下げ]そばに朱雀院《すざくいん》、弘徽殿女御《こきでんのにようご》、左大臣、右大臣、源氏などの姿が見える。
[#1字下げ]ナレーション「病いがちとなった桐壺のみかどは、第一皇子の朱雀院に位をゆずられた。朱雀院の生みの母、弘徽殿女御は、大后《おおきさき》と呼ばれ、縁の近い右大臣と共に、時めくことになった」
[#1字下げ]テロップ――朱雀院[#「朱雀院」はゴシック体](仲谷昇《なかやのぼる》)
[#1字下げ]      弘徽殿女御[#「弘徽殿女御」はゴシック体](東恵美子《あずまえみこ》)
[#1字下げ]      右大臣[#「右大臣」はゴシック体](成田三樹夫《なりたみきお》)
●左大臣家・廊下[#「左大臣家・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]左大臣と源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「無理に引っぱってきて、婿殿《むこどの》には御迷惑だろうが」
源氏「いや。今日あたり伺おうと思っていたところです」
左大臣「あちこち、顔を出さねば恨まれるところもあるのは承知だが」
源氏「しゅうと殿――」
左大臣「どうしても、お耳に入れたい知らせがあってな。いや、このところ、弘徽殿のクソババアはのさばる。右大臣も肩で風切るで面白《おもしろ》くないことつづきだったが、これで、胸のつかえがとれました」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣家・葵《あおい》の上の部屋[#「左大臣家・葵《あおい》の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]横になっている葵の上。
[#1字下げ]源氏を押しこむようにして、入ってくる左大臣。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうなされた、加減が悪いのか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]高らかに笑う左大臣。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「婿殿は、まだまだ女をご存知ないとみえる」
源氏「は?」
左大臣「生れるのですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]左大臣、源氏の背中をどやしつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「あなたのはじめてのお子が」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]横を向いていた葵の上。
[#1字下げ]一瞬、微妙な表情をみせた源氏をチラリと見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「それは――めでたい」
葵の上「本当にめでたいとお思いですか」
源氏「何をいわれる。天下晴れて抱ける自分の子供(言いかけて、ハッとなる)」
葵の上「晴れて抱けないお子がおいでなのですか」
源氏「そうではない」
左大臣「ことばのあやだ。(源氏に)女はみごもると些細《ささい》なことで気の立つものだ。これの母親のときも、もう、たかぶって(ひっかくまね)十月十日、男も辛抱です」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「めでたしめでたし。子供が生れてはじめて、本当の夫婦になれるものだ。めでたしめでたし」
源氏「―――」
葵の上「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ナレーション「人は死に、生れ、また死に、生れてくる。人の世のはかなさとしたたかさを、源氏は苦く噛《か》みしめている」
●透垣《すいがい》[#「透垣《すいがい》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]かなり傷《いた》んだ透垣(竹や木で間を透かして作る垣根《かきね》)の奥から、あまり上手でない琴が聞えてくる。
[#1字下げ]聞きながら歩いてくる源氏。
[#1字下げ]ふと、もう一人、顔をかくした男が立っているのに気づく。
[#1字下げ]二人、さりげなく顔をかくして、すれちがおうとして、太刀がぶつかってしまう。
[#1字下げ]ハッとして、ふり向くと頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「頭中将」
中将「源氏の君――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、バツが悪い笑い。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二人「なんだ――」
中将・源氏「あなたも――やはり(垣根の奥を指す)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、同じしぐさになってしまう。
[#1字下げ]またバツの悪い笑い。
[#1字下げ]二人、垣根の奥をうかがい、琴の音に耳をかたむけながら、ヒソヒソばなし。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「さる宮家の末の娘で――」
中将「顔だちは知らないが、気だてのよい、琴のうまいひとがいると聞いたので」
源氏「いや、気だては知らないが、大層な美しい娘だとか」
中将「えてして、こういうところに極上の品がかくれ住んでいるものですよ」
源氏「さすがは中将、場数を踏んでおいでだ」
中将「ところで――文は――」
源氏「三通ほどもたせたのだが」
中将「どういうわけかなしのつぶて」
源氏「同じだ」
中将「―――」
源氏「さて――」
中将「どうぞ――お先に」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、またもや同じしぐさでゆずり合うが――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「まあ、かち合ったのが運のつき」
源氏「今夜は連れ立って引き上げよう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、心を残しながら、帰ってゆく。
[#1字下げ]垣根の奥の琴の音、大きく間違える。
[#1字下げ]二人、ちょっとよろけ、また歩いてゆく。
[#1字下げ]どちらからともなく、垣根に向って連れ小便。
[#1字下げ]おたがいに見くらべたりする。
●末摘花《すえつむはな》の家[#「末摘花《すえつむはな》の家」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]灯までケチっているとみえて、うすぐらい中で、もっさりした姿の姫が琴をひいている。
[#1字下げ]また間違える。
[#1字下げ]テロップ――末摘花[#「末摘花」はゴシック体](風吹ジュン)
[#1字下げ]入ってくる大輔《たいふ》の命婦《みようぶ》。
[#1字下げ]三十五、六位の気の利《き》いた女。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
命婦「困ったことになりました。源氏の君がおみえです」
末摘花「源氏の君? あ、どうしよう」
命婦「子供じみたことをおっしゃっては困ります。親御様もおいでにならないのですし、いつまでも世間をこわがっていたのでは、女の幸せはつかめませんよ」
末摘花「何ていっていいか判《わか》らないもの」
命婦「教えて差し上げます。ただ黙って――私の言う通りになさいまし。それから――どんなことがあっても、明るくなさいませんよう。あ、おみえです――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]灯を暗くして、物かげにかくれる命婦。
[#1字下げ]入ってくる源氏。
[#1字下げ]くるりとうしろを向く末摘花。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「――ほの暗いあかりというのも、ゆかしくていいものですね」
末摘花「―――」
源氏「不躾《ぶしつけ》な文を、怒っておいでですか」
末摘花「ハー」
源氏「姫」
末摘花「ハー」
源氏「姫――」
末摘花「ハクション」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]身を縮める命婦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「お風邪ですか」
末摘花「グシュー(洟《はな》が出ている)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、懐紙を手わたす。
[#1字下げ]末摘花、びっくりするほど大きな音で洟をかむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「お返事がないのは、ひとりで山道を歩いているようで、さびしいものだ。せめて、しゃべるなとでもおっしゃって下さい」
末摘花「(シャベルナと言いかける)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]命婦、末摘花の尻《しり》をつついて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
命婦「(小さく教える)何とお答えしてよいやら」
末摘花「何とお答えしてよいやら」
命婦「迷いまして」
末摘花「迷いまして」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、おかしくなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「世間ずれしておいでにならない。今どき珍しいかただ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いきなり近づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「あッ!」
源氏「言葉は、口移しがきくが、こちらは、それが利きませんよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いきなり抱きすくめようとする。
[#1字下げ]末摘花、琴をほうりつけて、逃げるが、待ちかまえていた命婦、抱き取って、ポンと源氏にほうり返す。
[#1字下げ]源氏、強く抱きすくめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「いや! だれか、だれかきて――助けて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]命婦、おかしいやら、あわれやら、少しほっとするやらで、そっと出てゆく。
[#1字下げ]少したって、琴の糸が一本、プツンと間の抜けた感じで切れる。
[#1字下げ]犬の遠吠《とおぼ》え。
[#1字下げ]いささか興ざめな顔で横になっている源氏。
[#1字下げ]顔をかくしている末摘花。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「あの――あたくし、引っ掻《か》いたんじゃないでしょうか」
源氏「すこし――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏の頬《ほお》のあたりがみみず腫《ば》れ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「すみません。はじめてなもので」
源氏「いや――当然です」
末摘花「こ、こういうときどんな、ことおはなし、したら、いいんでしょうか」
源氏「――別にきまりは、ありませんが」
末摘花「あ、あたくしの髪、匂うでしょ」
源氏「え?」
末摘花「今日、洗うつもりでいたら、日が悪いからいけないって言われて」
源氏「女の髪は少し匂う方が、風情《ふぜい》があっていいものですよ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏の闇《やみ》に馴《な》れた目に、まわりが見える。
[#1字下げ]昔はよかったのだろうが、古く傷んだ調度。
[#1字下げ]そして、顔をおおった末摘花は、何とも不細工な黒貂《ふるき》の皮衣《かわぎぬ》、つまり黒テンのチャンチャンコを着込んでいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「珍しいものを召してますね」
末摘花「あ、これ、あったかいんですよ。火桶《ひおけ》の節約になるんです」
源氏「正直なひとだ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]少しげんなりしながら、源氏、火を大きくする。
[#1字下げ]末摘花の横顔を盗み見て、ギョッとなる。
[#1字下げ]ゲジゲジ眉毛《まゆげ》に、何よりも鼻の先が真赤。
[#1字下げ]あわててかくす末摘花。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「これは失礼を。さきほどお貸しした懐紙に紅がついていたようだ」
末摘花「いいえ、生れつきです」
源氏「―――」
末摘花「おかしいでしょ」
源氏「いや――」
末摘花「亡《な》くなった父は私のこと、『末摘花』って言ってました。茎の末の方からつみとって、紅染めの材料にする紅花のことですって。でも、うちでは、姉たちはみんなかたづいて、末のあたくしは一番ビリになりました」
源氏「―――」
末摘花「この鼻なら、男に生れたほうがよかったって思ったこともありました。でも――やっぱり――女でよかった」
源氏「―――」
末摘花「本当いうと、あなたがもっとみにくい男だと、うれしかったのに」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いじらしくなってつい抱きしめてしまう源氏。
[#1字下げ]とはいうものの、やはり赤い鼻は、おかしくてしかたがない。
●若紫の住居[#「若紫の住居」はゴシック体]
[#1字下げ]若紫の前で鏡を見ながら、自分の鼻の先を赤く塗っている源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
若紫「(クスクス笑う)」
源氏「(ふざけて)あ、取れない」
若紫「え? いや、大変。どうしましょう、お兄さま」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]若紫、半ベソでこすったりする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「大丈夫。洗えば取れるよ。わたしのこと、お兄さまはもうやめる約束だよ」
若紫「はい」
源氏「――鼻の先の赤い人を見ても笑っちゃいけないよ」
若紫「はい(といいながら笑っている)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏も少しおかしい。
●末摘花の家[#「末摘花の家」はゴシック体]
[#1字下げ]惟光《これみつ》が新しい衣裳《いしよう》、調度などを運び込んでいる。
[#1字下げ]感激している命婦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
命婦「こんなに沢山――源氏の君様に何とお礼申し上げてよいやら――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]末摘花、美しい衣裳をひろげながら、さびしそうにポツンと言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「この次は、いつみえて下さるかしら」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣家・葵の上の部屋[#「左大臣家・葵の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]腹のせり出した葵《あおい》の上。
[#1字下げ]鼻を赤く塗った源氏がすまして坐《すわ》っている。
[#1字下げ]軽蔑《けいべつ》の目で赤鼻を見る葵の上。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「どうなさったんです。そのお顔では葵祭にお出になれませんよ」
源氏「あなたこそ、そのお腹で見物は無理でしょう」
葵の上「いいえ。夫の晴れの姿を見るのは妻の役目。あしたは一番よい場所で拝見いたします」
[#ここで字下げ終わり]
●葵祭・都大路[#「葵祭・都大路」はゴシック体]
[#1字下げ]ナレーション「葵祭は、御所にも縁の深い加茂のやしろの儀式である。行列には、とりわけ様子の立派な貴公子が選ばれるが、光源氏もこの年、みかどの勅命で、先頭に立つことになった」
[#1字下げ]ぶつかり合う二台の物見車。
[#1字下げ]見物の道筋で前に立ちふさがった六条|御息所《みやすどころ》の車をあとから来た左大臣家の車が退《さ》げさせようとしてもみあっている。
[#1字下げ]供人《ともびと》は、たがいに相手をののしり、車をぶつけあってあとへ引かない。
[#1字下げ]左大臣家の葵の上の車は美々しく飾られた今様のもの。
[#1字下げ]御息所の方はやや小さめの少し古びた網代車《あじろぐるま》。
[#1字下げ]だが、下簾《したすだれ》の品のいい様子、裳裾《もすそ》の色目がのぞいて、かなりの身分の女人のおしのびと判る。
[#1字下げ]供の中でも年寄りは分別もあり、とめに入るが、酒の入った若い連中に押されてとどかない。
[#4字下げ] \「のけのけ」
左大臣家の供人 | 「じゃまだよ」
[#4字下げ]| 「何やってンだ」
[#4字下げ] /「のけよオ」
御息所の供人(「なんだと!」
[#ここから改行天付き、折り返して−1字下げ]
[#3字下げ]「なにすンだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#4字下げ]「さわるな! このお車は、お前たちが勝手に押しのけていい車じゃないんだ!」
[#ここから改行天付き、折り返して8字下げ]
左大臣家の供人(「なんだと! 物知らずめ! こっちをどこの車だと思ってるんだ」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所の供人「そっちこそ退《さが》れ! 尊いお方の車だぞ!」
左大臣家の供人「大した身分でないのが、大きなツラをして――蹴散《けち》らせ! 蹴散らせ!」
御息所の供人「無礼な! 亡き東宮の妃《きさき》であられた六条御息所のお車が判らぬか!」
左大臣家の供人「ヘン、こっちはな、源氏の君の奥方さまのお車だい」
御息所の供人「世が世なら、みかどのお妃様だぞ、こっちは」
左大臣家の供人「葵祭は源氏の君がお出になンなきゃ、はじまらないんだよ」
[#ここから改行天付き、折り返して8字下げ]
左大臣家の供人(「奥方さまは正面席でご見物と決ってンだ」
[#4字下げ]「用のないのはひっこんでろ」
[#ここから改行天付き、折り返して8字下げ]
御息所の供人 |\「成り上りの田舎大臣がなにほざいてんだ」
[#ここから改行天付き、折り返して−1字下げ]
[#3字下げ]/「みかどのご縁つづきが先だ!」
[#ここから改行天付き、折り返して8字下げ]
左大臣家の供人(「ここで退いたら、左大臣家の名折れだぞ」
[#4字下げ]「おう! 押せ押せ!」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所の供人「負けるな! 押しかえせ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみあい大きくかしぎ、ゆれる二つの車。
[#1字下げ]中には身重の葵の上。
[#1字下げ]六条御息所がのっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「およしなさい! 何をはしたないことを言うのです。ののしるのをやめさせなさい。早く車を退きなさい。人中で御息所と争うとは――おやめなさい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御息所はひとことも発せず、青ざめて耐えている。
[#1字下げ]低い声で――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「もうよい。帰りましょう、早く! あちらのお車に失礼ですよ。早く退りなさい、早く!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]といっているうちに車は大きくかしぐ。
[#1字下げ]左大臣家の供人。中に酒ぐせの悪いのがいたらしく車の御簾《みす》を引き千切ったのがいる。
[#1字下げ]アッと叫ぶ間もあらばこそ、御息所の体は下にころげ落ちる。
[#1字下げ]見物人からどよめきと笑い声が起きる。
[#1字下げ]葵の上も御簾越しにみかける。
[#1字下げ]このとき、左大臣家の車も大きくかしぐ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所の供人「やったな! こうしてくれる!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いきり立った御息所の供人が葵の上の車をひっぱる。
[#1字下げ]これは左大臣家の供人が束になってとめたので千切れはしなかったが、御簾が破れ、葵の上はころがり落ちた御息所の不ざまなさまを、目の下に見る形になってしまう。
[#1字下げ]一瞬の視線のからみ合い。ひるまず見返す葵の上。
[#1字下げ]次の瞬間、二人の貴婦人は袖《そで》や扇で顔をかくす。
[#1字下げ]御息所、供人に助けられ車に這《は》い上ろうとして、また大きく墜落して、衣裳がはだける。
[#1字下げ]どっと笑う見物たち。
[#1字下げ]御息所の車は横倒しになっている。轅《ながえ》を据《す》える台もみなヘシ折られている。
[#1字下げ]葵の上の車、前へ出る。
[#1字下げ]ちょうど、馬にのった美しい衣裳の源氏、通りかかる。
[#1字下げ]御簾のかげの葵の上に気づいて会釈《えしやく》をする。
[#1字下げ]そのうしろで、泥《どろ》に汚れた顔で唇《くちびる》をかむ御息所。
●イメージ[#「イメージ」はゴシック体]
[#1字下げ]御息所が葵の上を打ち据えている。
[#1字下げ]はげしく頬《ほお》を打ち、髪をもって引き倒し、唾《つば》を吐きかけ、更に打ち据える。
[#1字下げ]血が流れるが、容赦はしない。
[#1字下げ]いつもの典雅な貴婦人の面影《おもかげ》は消えて、夜叉《やしや》のごとし。
[#1字下げ](真白の背景)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女房《にようぼう》の声「源氏の君様、おみえでございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]脂汗《あぶらあせ》をかき、うなされている御息所。
●六条御息所の邸《やしき》[#「六条御息所の邸《やしき》」はゴシック体](昼間)
[#1字下げ]源氏の前でにこやかにあいさつする御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「今日は、お詫《わ》びに伺いました」
御息所「何のことでしょう」
源氏「先日、葵祭の折、妻の供の者が、御車に無礼を働いたそうで」
御息所「(さもおもしろそうにゆったりと笑う)何のことかと思えば。祭のもめごとは、いわば景気つけ。見物衆のたのしみです」
源氏「しかし、お車の轅の台は折れ横倒しとなって、あなたは」
御息所「――そんなことより、葵の上さま、おさわりはありませんでしたか。そろそろ産み月におかかりでしょう。御安産を祈っております」
源氏「そう言っていただくと――」
御息所「これから御所ではありませんか」
源氏「――そうですが(立ちにくい)」
御息所「(立つようにうながして)お役目大事になさいませ。何をしても許される立場の方こそ、身をつつしまれなくては」
源氏「いつもながらのお心づかい――では――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御息所、静かに一礼する。
[#1字下げ]源氏、立って帰りかける。
[#1字下げ]不意に、優雅に手をついて送っていた御息所、裾《すそ》を乱して走り寄る。
[#1字下げ]源氏の衣の裾を押える。
[#1字下げ]源氏の体にしがみつき、身を揉《も》むようにする。
[#1字下げ]行きとどいた言葉とは裏腹の、その目がじっと源氏を見る。
[#1字下げ]庭のあたりから、遅い主人を案じ顔に惟光がくる。
[#1字下げ]几帳《きちよう》のかげで、白昼、大胆にもつれ合う源氏と御息所を垣間《かいま》見てしまう。
[#1字下げ]御息所、別人のごとき喜悦の顔を見せる。
[#1字下げ]源氏の裸身にからみつく黒髪。
[#1字下げ]指の先々にまで執着をみせる御息所。
●葵の上・産屋[#「葵の上・産屋」はゴシック体]
[#1字下げ]大きくあえぎもだえる葵の上。
[#1字下げ]白衣、白一色の調度の中で、産み月のおなかが目立っている。
[#1字下げ]侍女たちが取り囲んで、額の汗を拭《ふ》いたりしている。
[#1字下げ]隣りの部屋では、修法《ずほう》の僧たちの調伏《ちようぶく》の声。
[#1字下げ]左大臣と頭中将《とうのちゆうじよう》、廊下でオロオロしている。
[#1字下げ]小走りにくる源氏をみると、左大臣、大きな体でころがるようにとんでくる。
[#1字下げ]半泣きになって、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「婿殿《むこどの》、娘に物の怪《け》がとりついて、はなれんのだ」
源氏「物の怪――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、ギクリとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「女どもは、六条御息所の生霊《いきすだま》ではないかと」
頭中将「父上、滅多なことをいうものではありません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]産室のうめき。
[#1字下げ]源氏、中へ入って葵の手を握る。
[#1字下げ]長い黒髪を一つに束ねて横に流してある。
[#1字下げ]童女のように、たよりなく愛らしくみえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうしたのだ」
葵の上「――(夫を見て、涙をボロボロこぼす)」
源氏「大丈夫だ。きっとよくなる。わたしがついているではないか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]夫にすがりついていた手を虚空にひろげ、突然切なげに泣く。
[#1字下げ]またもだえ苦しむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「しっかりするんだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]修法者たちの調伏の声も高くなる。
[#1字下げ]葵の上、身をよじり――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上(御息所の声)「お願い致します。お祈りをゆるめて下さい」
源氏「その声は――あなたの声ではない――」
葵の上(御息所)「護摩壇《ごまだん》に焚《た》く芥子《けし》の匂《にお》いで胸が苦しい。――源氏の君に申し上げたいことがございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]凍ったように源氏すわる。
[#1字下げ]左大臣が入ろうとするのを、頭中将が体でとめている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「(御息所の細い切ない声で、なつかしげに言う)こうして迷ってこようなど思ってもみませんでした。あまりにも強く人を思うと心は生身をぬけ出すものとみえます。私の力ではどうにもなりません。どうか私の魂を、私の体にもどして下さいまし」
源氏「どなたです。はっきりと名をお名乗り下さい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、アッとなる。
[#1字下げ]寝ているのは葵の上ではなく、御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「(うめく)御息所――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]修法の声高くなる。
[#1字下げ]次の瞬間、御息所は消えている。
●御息所の邸[#「御息所の邸」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]髪を洗っている御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「芥子の匂いがする――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]髪の匂いをかぎ、衣の匂い、水の匂い、手の匂いをかぐ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「やっぱり芥子だ。物の怪退散の護摩に焚く芥子の匂い――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御息所、手を洗ってはかぐ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「魂が体を抜け出して、あの方を苦しめている。あの方のご安産を心から願っているのに――どうして芥子の匂いが――消えない――消えない――あの女があの方の子供を生む――あッ! どうして、こんなことを口走るのか――思ってもいないのに――私は心から安産をねがっているのに――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]だが、御息所は修羅《しゆら》の相。
●左大臣家・産屋・廊下[#「左大臣家・産屋・廊下」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]立っている源氏、頭中将、左大臣。
[#1字下げ]産声《うぶごえ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三人「あー」
女房の声「男君でございますよ。男君がお生れになりました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]左大臣、グウッと源氏の手をにぎり、嗚咽《おえつ》する。
[#1字下げ]ねむる男君。
[#1字下げ]源氏、産褥《さんじよく》の葵の上の手をにぎる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「あたくし、どうしたんでしょう。急に胸が苦しくなって判《わか》らなくなりました」
源氏「もう大丈夫だ。薬湯をお上り」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手をそえ飲ませてやる源氏。
[#1字下げ]その手を握る葵の上、甘えている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
葵の上「あなた――」
源氏「心に沁《し》みるような声で、呼んでもらった」
葵の上「心の中では、いつもこう呼んでいました」
源氏「知らなかった」
葵の上「私も、あなたがこんなにやさしくして下さるとは、知りませんでした」
源氏「すまなかった――」
葵の上「どこからどうかけ違ったのか――わたしたちは、夫婦ではなかった」
源氏「いや、夫婦だ。いがみ合ったり憎み合ったり、その分だけかりそめに睦《むつ》み合う間柄《あいだがら》より絆《きずな》は強いのではないか」
葵の上「(深くうなずく)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、しばらく黙っている。
[#1字下げ]侍女、源氏をうながす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「御所へ伺うが、すぐもどる」
葵の上「あなた」
源氏「―――」
葵の上「いってらっしゃいまし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]やさしい目。
[#1字下げ]やさしい声。
[#1字下げ]源氏、ふり返って出てゆく。
●御所[#「御所」はゴシック体]
[#1字下げ]左大臣、右大臣、参議、源氏、頭中将など重だった面々が居流れている。
[#1字下げ]菊が薫っている。
[#1字下げ]ナレーション「御所|清涼殿《せいりようでん》では、秋恒例の司召《つかさめし》が行われていた。五位以上の役職を決める行事である」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「以上をもって、五位以上の任命を終りたいと思うが、いかがですかな、右大臣殿」
右大臣「さしたる異議もないが――両三名ほど」
左大臣「(いやな顔をする)では、みかどに申し上げるのは」
右大臣「しばらくお待ちを願いたい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]使いが駆けこんでくる。
[#1字下げ]左大臣に耳打ち。
[#1字下げ]ガタンと立ち上ってよろめく左大臣。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「皆様方、お役目中、申しわけないが、わが娘葵の上ただいま危篤《きとく》という使いが」
源氏・頭中将「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]つづいてもう一人の使い駆けこんでくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
使い「ただいま、おなくなりになりました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]左大臣、ペタンとすわりこむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣家・産屋[#「左大臣家・産屋」はゴシック体]
[#1字下げ]物言わぬ人となった葵《あおい》の上。
[#1字下げ]呆然《ぼうぜん》とすわる源氏。
[#1字下げ]号泣する左大臣。
[#1字下げ]うしろに頭中将。
●鳥辺野のあたり[#「鳥辺野のあたり」はゴシック体](夕暮)
[#1字下げ]やつれ果てた源氏が、鈍色《にびいろ》の衣で、奥つき(墓)の前に立っている。
[#1字下げ]鐘の音が聞えてくる。
[#1字下げ]ナレーション「心から睦み合い、寄りそった夫婦ではなかった。あたたかいものが通った時は別れであった。
[#1字下げ]鳥辺野の奥つきの前で源氏が呟《つぶや》くのは、遂《つい》に言うことのなかったねぎらいの言葉であり、妻への詫《わ》びの言葉であった」
[#1字下げ]夕暮れの鐘。
●御所・院[#「御所・院」はゴシック体]
[#1字下げ]桐壺院《きりつぼいん》の前のやつれ果てた源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
院「大分やつれたようだ」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]女房が高坏《たかつき》(膳《ぜん》)をはこんでくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
院「毎日精進をしていたのだろう。慈養をつけなくては気力も出ないぞ。さあ、お上り」
源氏「いや――ここがふさがる思いで」
院「食べなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]箸《はし》をつけるまでは動かぬぞといった院。
[#1字下げ]半搗米《はんつきまい》を高盛りにした飯《いい》を中心におめぐり(調味料)として塩、醤《ひしお》、あめ、すがおかれる。
[#1字下げ]中央の懸盤には、蒸しあわびの切身、魚の切身、海藻《かいそう》、かぶの羹《あつもの》。
[#1字下げ]左の折敷《おしき》には焼とり、煮茸《にたけ》、デザートの唐菓子、柑子《みかん》、栗《くり》など。
[#1字下げ]源氏、一礼して箸をつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「父上――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]食べながら父の目を見る。
[#1字下げ]涙をこぼし、嗚咽をこらえながら、食べる源氏。
[#1字下げ]御簾《みす》の向うで涙を拭く藤壺《ふじつぼ》の姿。
[#1字下げ]やっと歩ける御子が、よちよちと出てきて、院に甘え、源氏の折敷の柑子に手をのばす。
[#1字下げ]取ってやる源氏。声を出して笑う若宮。
[#1字下げ]じっと見ている桐壺院。
[#1字下げ]ナレーション「このすぐあと桐壺の院は亡《な》くなられ、世は朱雀帝《すざくてい》の御代となった」
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]女房《にようぼう》たちにかしずかれて、婚礼のための十二|単《ひとえ》の試着をしている若紫。
[#1字下げ]遠くで見ている源氏。
[#1字下げ]ナレーション「葵の上が亡くなったあと、六条|御息所《みやすどころ》が正妻に直るという噂《うわさ》が御所に流れた。だが、源氏は幼ない日から、長い間かかっていつくしんだ若紫と結婚することになる」
[#1字下げ]弾んでいる女房たち。
[#1字下げ]白|小袖《こそで》に紅の張袴《はりばかま》。
[#1字下げ]単、五衣《いつつぎぬ》、表衣《うわぎ》を重ねて打掛、更に唐衣《からぎぬ》を重ねてゆく。
[#1字下げ]冠もつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女房A「あ、お気をつけなさいませ」
女房B「晴れの日のご衣裳《いしよう》。汚しでもしたら」
女房C「ほら、ツバが飛びます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]笑いながら着つけてゆく。
[#1字下げ]几帳《きちよう》のかげから尻《しり》をおったててのぞき見している翁《おきな》と媼《おうな》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁・媼「似てるねえ」
翁「ほんと」
媼「そっくりだよ」
翁 )「え?」
媼[#1字下げ] 「だれに」
媼 )「桐壺さま」
翁[#1字下げ] 「藤壺さま」
翁・媼「何てった?」
媼「だから桐壺さま」
翁「藤壺さま」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、顔を見合わす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
媼「なんのかんのいっても男なんて、一人の女、追っかけてンだねえ」
翁「浮気なんてもな、ぐるっと廻《まわ》って女房かおふくろだよ」
媼「キレイだねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いつの間にか源氏の姿は消えている。
●嵯峨野《さがの》・野宮[#「嵯峨野《さがの》・野宮」はゴシック体]
[#1字下げ]ナレーション「六条御息所は、伊勢《いせ》へ下ることになった。亡くなった皇太子との間にもうけた姫が、伊勢神宮の斎宮《さいぐう》に選ばれたからである」
[#1字下げ]白木造り。簡素な神域。
[#1字下げ]小柴垣《こしばがき》。黒塗りの鳥居。小さな板屋など。
[#1字下げ]老神官が咳払《せきばら》いをしたり、庭掃除をしながらのたき火が細い煙を上げている。
[#1字下げ]風に乗って楽人の奏《かな》でる神楽《かぐら》の曲が流れてくる。
[#1字下げ]北の対。
[#1字下げ]御簾の奥の御息所。
[#1字下げ]縁にすわる源氏。別人のような地味な衣裳。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「お目にかからずに、伊勢へ発《た》つつもりでしたが、お声を聞くと決心など、霜柱よりもろく崩れてしまいます」
源氏「お詫びにきました。少しばかり年若をかさ[#「かさ」に傍点]にきて、私は思い上っていた。あなたは何でも許して下さる。あなたの心の奥を考えたことはなかった」
御息所「若くて美しい人は、それでいいのです。それが似合うのです」
源氏「あなたの苦しみをおぞましく思っていました」
御息所「―――」
源氏「あなたの苦しみを、私は」
御息所「(かぶせて)おぞましいと思ってらした」
源氏「だがおぞましさは、あなたとわたくしを結ぶ黒い帯だった」
御息所「苦しい帯――」
源氏「息がつまるよろこびもありました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御簾越しの二人の目。
[#1字下げ]御息所の胸があえいでいる。
[#1字下げ]切り裂くような笙《しよう》の音がひびく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「――いまのひとことで、お別れが出来ます」
源氏「あなたほどの執着をもってくれる人は、もう決してあらわれないでしょう」
御息所「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、燃え上るものをかろうじて押える。
[#1字下げ]幽玄にひびく楽の調べ。
●秋の野[#「秋の野」はゴシック体]
[#1字下げ]源氏の車がゆく。
[#1字下げ]御簾越しに見る紅葉《もみじ》で、源氏の顔も染まって見える。
[#1字下げ]道をさえぎるように出た一枝。
[#1字下げ]みる間に散ってゆくその赤い葉。
[#1字下げ]ナレーション「御息所を送った源氏は、自分を支えているもう一本の大きな柱のあることに気がついた。
[#1字下げ]亡き桐壺のみかどの菩提《ぼだい》を弔《とむら》っている藤壺である」
●藤壺院[#「藤壺院」はゴシック体]
[#1字下げ]王命婦《おうみようぶ》がみごとな紅葉の一枚に写経をしている。
[#1字下げ]藤壺に差し出している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「源氏の君さまからでございます」
藤壺「源氏の君――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺の顔にも紅葉の照り返しで赤みがさす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「みかどがおかくれになられてからは、何の花が咲いて何の花が散ったのか、知らないうちに過ぎました。もうもみじになっていたのですねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「あ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]枝にかくれるように小さく結び文がしてあるのに気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「――ごらんになられますか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手にとる。結んだままかたわらの仏壇の灯明にかざす。
[#1字下げ]燃える文。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「紅葉は、いかがいたしましょう」
藤壺「瓶《かめ》にいけて、廂《ひさし》の間にでもおいておきなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]王命婦、一礼して去る。
[#1字下げ]去ったあとに紅《あか》い落葉が散っている。
[#1字下げ]灰になっている結び文、廂の間の柱のもとで、大きな瓶に紅葉が枝ごと投げ込んである。
[#1字下げ]遊んでいた幼ない御子が、風に散る紅葉の落葉で遊んでいる。
●藤壺院の一隅《いちぐう》[#「藤壺院の一隅《いちぐう》」はゴシック体]
[#1字下げ]源氏と王命婦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「お返事はいただけないのか」
王命婦「ございません」
源氏「御簾越しでいいのだ。お目にかからせてくれ」
王命婦「さきのみかどの喪中でございます。おつつしみ下さいまし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏立ち上る。
[#1字下げ]王命婦を押しのけるようにして中へ入ろうとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「おつつしみ下さいまし、おつつしみを」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、かまわず中へ入ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
王命婦「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●藤壺院[#「藤壺院」はゴシック体]
[#1字下げ]合掌する藤壺のうしろに立つ源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「どうぞ、おまいり下さいまし」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、座をゆずる。
[#1字下げ]源氏、気圧《けお》されたようにすわる。
[#1字下げ]香華《こうげ》がゆらいでいる。
[#1字下げ]うしろで、紅葉で遊んでいる若君の声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「父上はご存知だったのではありませんか。あの子の、本当の父は私だということを」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ](間)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「判《わか》りません――すべて御見通しなのだと――申しわけなさに身の震えることもありました。よかった。やっぱり何もご存知なかったと浅間しい吐息をもらすこともありました」
源氏「父上は知っておられた。知っておられたくせに何事も知らないお顔で」
藤壺「――そうかも知れません」
源氏「毎日が針のムシロだったでしょう」
藤壺「いいえ、違います」
源氏「―――」
藤壺「ただの一度も、私を責めるおことばはありませんでした。私は、大きな胸の中に犯した罪ごと抱きとられていたような気がしています」
源氏「―――」
藤壺「まもなく一周忌がまいります。(呟く)その時に私――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、そっと長い髪に触れる。
[#1字下げ]源氏、アッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「髪をおろす――」
藤壺「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺がたぐり寄せようとする黒髪を押える源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「やっぱりそうだ。このみごとな髪を――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、源氏の手から髪を引き抜く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「世を捨てるということは、あの御子を、このわたしを見捨てるということだ」
藤壺「ほかにどんな道があります」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、今まで見せたことのない激しいものを見せる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
藤壺「そうでもしなくては、わたくしの煩悩《ぼんのう》は断ち切れません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、もう一度、強い衝撃を受ける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「煩悩――では、あなたは、いまでも私のことを、思っていて下さる」
藤壺「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]藤壺、今は否定せず、強い視線で源氏をみつめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「逢《あ》っている時も闇《やみ》、逢わずにいる間も、闇でした」
源氏「どちらの道も闇ならば、罪人二人、手をとりあって俗世の闇を」
藤壺「子供はどうなります。わたくしたちの子供は」
源氏「(わたくしたちの子供――)」
藤壺「日数をいつわり、私はあの子をみかどの子として生みました。でも、父親はあなたです」
源氏「―――」
藤壺「父として、ひとつだけ、あの子に罪をつぐなって下さい」
源氏「―――」
藤壺「わたしの出家を許して下さい。亡きみかどに代って御子の力になって下さいまし」
源氏「―――」
藤壺「(少し微笑《ほおえ》む)わたしたちの罪はみ仏にすがっても、救われるとは思いません」
源氏「どうしたら、いいのです」
藤壺「生涯《しようがい》、苦しむのです。苦しみながら――やはり、あなたに逢えて、私はしあわせだったと――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、はげしく抱きしめる。
[#1字下げ]真赤な紅葉。
[#1字下げ]ゆらめく香華。
●源氏の邸《やしき》[#「源氏の邸《やしき》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]すっかり若妻らしくなった紫の上が、夫の脱いだものの始末をしている。
[#1字下げ]その間から一枚の紅葉がこぼれる。
[#1字下げ]縁に立って暗い庭を見ている源氏。
[#1字下げ]黙って紅葉をもてあそぶ紫の上。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「なくしものを、したことがおありかい」
紫の上「ございます。小さい時分、大事にしていた赤い勾玉《まがたま》を失《な》くして、何日も何日も泣いたことがありました。この夏の川遊びでは、一番気に入っていた扇を川に流してしまいました」
源氏「――(少し笑って)わたしは、今日、大きいものを二つ、失くしてしまった」
紫の上「大きいもの――」
源氏「大きくて重たいものだ」
紫の上「――またみつかるかもしれません。わたしの勾玉は、あとでみつかりました」
源氏「今日、失くしたのは、二度とみつからないものなのだ」
紫の上「――では新しいのを、おみつけなさいまし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]紫の上、たたんだものを抱えて出てゆこうとする。
[#1字下げ]源氏、ふっと笑ってしまう。
[#1字下げ]笑いながら、紫の上を抱きしめる。
●都大路[#「都大路」はゴシック体](秋)
[#1字下げ]落葉がひとかたまりになって、風に舞っていたのが、急に風向きが変ったのか、渦巻《うずま》きになって風に舞い、或《ある》いは反対側に吹き寄せられてゆく。
●寺[#「寺」はゴシック体](秋)
[#1字下げ]藤壺《ふじつぼ》の黒髪をおろす横川《よかわ》の僧都《そうず》。
[#1字下げ]合掌する藤壺。
●都大路[#「都大路」はゴシック体](秋)
[#1字下げ]舞う枯葉。
[#1字下げ]尚《なお》も、はげしく散ってゆく。
[#1字下げ]ナレーション「御所の風向きが大きく変ってきた。朱雀帝《すざくてい》とその母の弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさき》の縁につながる右大臣が時めくようになった」
[#1字下げ]ほんのひとにぎりの枯葉だけがもとのところで、頼りなげに動いている。
●御所[#「御所」はゴシック体](廻廊《かいろう》など)
[#1字下げ]朱雀帝と右大臣、弘徽殿大后とすれちがう源氏。
[#1字下げ]道をゆずり臣下の礼をとる源氏。
[#1字下げ]朱雀帝、近くに寄って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「固苦しいあいさつもいいが――たまには、あなたの笛とわたしの琴で――一曲、合せたいな」
源氏「みかどには、そんな閑《ひま》はないでしょう」
朱雀帝「閑は、つくるものだ」
源氏「その通りです」
朱雀帝「(耳打ち)不自由なものだよ、みかどという商売は」
源氏「(笑う)」
朱雀帝「いい女がいてもおしのびで通うというわけにいかないのだ。みつくろいのあてがいぶち」
源氏「―――」
朱雀帝「あなたがうらやましい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]右大臣は咳払い。
[#1字下げ]大后は扇をパチンと鳴らす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「では――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏が一礼して見送る。
[#1字下げ]これらの情景は、御簾《みす》越しにのぞく若い女、朧月夜《おぼろづきよ》の目としてとらえられる。
[#1字下げ]三人、角を廻《まわ》ったところで、大后、朱雀帝の袖《そで》を引く。
[#1字下げ]朧月夜、源氏をうっとりと見送るが、そっち側の御簾のかげへ廻りこむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「何ですか母上」
大后「お振舞いが軽すぎます」
朱雀帝「しかし源氏の君は、母こそちがえ、私の弟です」
大后「いまは、臣下にくだった者です」
右大臣「弘徽殿の大后はどうも源氏の君がお嫌《きら》いとみえる」
大后「そういう右大臣こそ――」
朱雀帝「どうしてです。花も実もある男ではありませんか」
右大臣「花も実もある。毒もある――」
朱雀帝「私にあの毒があれば、もう少しお二人を満足させる政事《まつりごと》が出来るだろうが――」
二人「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]聞いている朧月夜。
[#1字下げ]源氏が、向側の廻廊を歩いている。
[#1字下げ]三人の肩越しに源氏を見て溜息《ためいき》をつく朧月夜。
[#1字下げ]テロップ――朧月夜[#「朧月夜」はゴシック体](倍賞美津子)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「源氏の君――」
[#ここで字下げ終わり]
●左大臣家・内庭[#「左大臣家・内庭」はゴシック体]
[#1字下げ]二羽の軍鶏《しやも》(真黒と赤笹《あかざさ》)が真赤なトサカを振りたて、羽毛を散らしてはげしく蹴《け》り合っている闘鶏を見ながらぐいぐいと大杯をあおる左大臣。
[#1字下げ]頭中将《とうのちゆうじよう》も、そばで仲間の貴公子と酒をのみながら勝負ごと。
[#1字下げ]一同、首引きや耳引き(たがいの首と首、耳と耳に輪になったひもをかけ、引き合う力競《ちからくら》べ)など、下賤《げせん》な遊びに興じたりして、やけ気味の大騒ぎ。
[#1字下げ]源氏、それらに目もくれず通り抜け、左大臣の前に立つ。
[#1字下げ]源氏、何か言いかけようとするが、左大臣は軍鶏をけしかけて知らぬ顔。
[#1字下げ]源氏、仕方なく頭中将に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「左大臣の職をしりぞかれたそうだが」
中将「今朝、みかどに辞表を奉《たてまつ》ってきたところですよ」
左大臣「奉ったのではない。叩《たた》きつけたのだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]左大臣、闘っている軍鶏をふみつぶさんばかりにしてやってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「気に入らん! なにもかも気に入らん!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]土器《かわらけ》をひとつずつ叩きつけながら、荒れ狂う左大臣。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「娘が、葵の上が死んだのも気に入らん。あなたを婿《むこ》と呼べなくなったのも気に入らん! あの英明な桐壺《きりつぼ》のみかどが亡《な》くなられたのも気に入らん! お人がいいだけが取柄《とりえ》の朱雀院がみかどになられたのも気に入らん!」
中将「父上!」
左大臣「みかどの生みの母御というだけで、でかいツラをする弘徽殿の大后も気に入らん! つながる縁でし放題の右大臣のしゃらくさいツラは、もっと気に入らん!」
中将「(父の口まねをする)わたしらの一族というだけで、昇進もさしとめ、禄《ろく》も上らぬという『えこひいき』も気に入らん」
源氏「藤壺さまのところへの月々のものも、なんのかんのと理由をつけて、とどこおらせていると聞いたが――弘徽殿の大后の差し金か」
左大臣「うちの若い者にもあんなくさったところへはゆくなと言っておる。源氏の君(よろける)」
中将「気をつけて下さい、源氏の君、弘徽殿の大后と右大臣にとって、あなたは目の上のこぶだ」
源氏「(うなずく)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ナレーション「左大臣去り、頭中将の姿もみられない、心楽しまぬ御所づとめがつづいて、桜の宴の夜のこと――」
●御所・庭[#「御所・庭」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]夜桜。
[#1字下げ]白い花吹雪。
[#1字下げ]管絃《かんげん》の、酔った人々のさんざめきが聞えてくる。
[#1字下げ]月は朧ろ。
[#1字下げ]廂《ひさし》の下をかくれるようにして歩くほろ酔いの源氏。
[#1字下げ]御簾の内側から、すばやい身のこなしで若い女がついて歩いている。
[#1字下げ]朧月夜|尚侍《ないしのかみ》。
[#1字下げ]源氏。
[#1字下げ]花吹雪。
[#1字下げ]源氏、いくつかの情事を思い出してか、なまめいたなつかしい気分になる。
[#1字下げ]ふと、御簾のかげから若い女のうたう声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「※[#歌記号、unicode303d] 朧月夜にしくものぞなき」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、つられて呟《つぶや》く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
[#2字下げ]朧月夜にしくものぞなき』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御簾のかげから美しい色目の衣裳《いしよう》がのぞいている。
[#1字下げ]源氏、手で引き寄せる。
[#1字下げ]御簾がゆれて、好奇心に輝く若い女の瞳《ひとみ》がのぞく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「古い歌はいいものです」
朧月夜「(目でうなずく)」
源氏「朧月夜がお好きとみえる」
朧月夜「(うなずいて)花も人も、美しく見えます」
源氏「花より、あなたの方が美しくみえる」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]朧月夜、源氏を強い目の色でさそっている。
[#1字下げ]源氏の手を引いて中へ。
[#1字下げ]花吹雪。
[#1字下げ]遠くの管絃のさんざめき。
[#1字下げ]御簾のかげで抱き合う二人。
[#1字下げ]さまざまの衣がぬぎ捨てられる。
[#1字下げ]花吹雪が舞い、また違う色目の衣裳が、男と女の手がからまり合い、生きているようにまた衣裳が重なり、花吹雪が舞ってゆく。
[#1字下げ]やがて、ならんで横たわる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「はしたないとお思いでしょ。女のほうから、さそうなんて――」
源氏「いや、さそったのは、わたしの方(言いかける)」
朧月夜「いいえ、あたくし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]おっとりと気品のある物腰ながら、実に生き生きして自然。愛敬《あいきよう》にあふれている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「今夜なら、月のせいに出来る。花のせいに出来る。歌のせいに出来る。お酒の酔いのせいにも出来ます」
源氏「あなたのようなひとははじめてだ」
朧月夜「普通、女はこういうことは言わないものだっておっしゃるんでしょ。フフ。あたくし、いつも一番上の姉に叱《しか》られます」
源氏「一番上の姉上――はて、どなた(言いかける)」
朧月夜「女ってずるいんですよ。おなかの中じゃ、あたくしと同じこと考えているくせに、そんなこと思ってもみません、なんて顔してるんですもの」
源氏「どんなことを考えておられる?」
朧月夜「どんなことって――一日のうち、半分以上は男の人のこと、考えていて――」
源氏「ほう」
朧月夜「み仏を拝むときだって、美男のお釈迦《しやか》様だったりするとあの衣の下は、どうなっておいでなのかしら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、笑ってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「おかしいかしら」
源氏「近頃《ちかごろ》、こんなに楽しく笑ったのははじめてだ。名前を教えて下さい」
朧月夜「朧月夜とだけ――」
源氏「――今夜の思い出に扇をとりかえよう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、扇をとりかえる。
●御所・弘徽殿[#「御所・弘徽殿」はゴシック体]
[#1字下げ]大后が起きている。
[#1字下げ]そっと見つからぬように忍び入ろうとする朧月夜。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
大后「どこへいっていました」
朧月夜「廂の間で朧月夜を」
大后「軽はずみをしてはなりませんよ。みかどの妃《きさき》にあがる身だということを忘れないように」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]大后、入ってゆく。
[#1字下げ]朧月夜、うっとりと目を閉じる。
●源氏の車[#「源氏の車」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]車の中の源氏。
[#1字下げ]手には朧月夜の扇。
[#1字下げ]ナレーション「朧月夜に出逢《であ》った女は、右大臣の娘で、弘徽殿の大后の末の妹であり、みかどの妃として入内《じゆだい》の決っていることを知ったが、源氏は、豁達《かつたつ》で情熱的なこの人を忘れることが出来なかった。気がついた時はあとへ引けなくなっていた――人目にたったら身を滅ぼすもとになると知りながら、逢瀬《おうせ》は朧月夜が妃として入内したあとも、つづけられた」
●御所・内裏[#「御所・内裏」はゴシック体]
[#1字下げ]五壇の御修法《みずほう》がはじまっている。
[#1字下げ]みかどは中央不動明王の前で、合掌している。
[#1字下げ]読経《どきよう》の声が蝉《せみ》しぐれのように聞える中で、別の小部屋、または、塗りごめの中で逢い引きする源氏と朧月夜。
[#1字下げ]読経の声はげしくなる。
[#1字下げ]二人の愛の姿もはげしくなってゆく。
●夜の道[#「夜の道」はゴシック体](夏)
[#1字下げ]牛車《ぎつしや》がゆく。
[#1字下げ]供は例によって惟光《これみつ》である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「どちらへ」
源氏「(囁《ささや》く)」
惟光「ゆけませぬ。弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさき》のお邸《やしき》へなど」
源氏「風邪をひいて、宿下りをしておいでなのだ」
惟光「――敵陣へ一人で乗りこむようなものです」
源氏「だから、ゆくのだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]惟光、悲しそうに主人を見る。
[#1字下げ]牛車、ゆっくりと動き出す。
[#1字下げ]大粒の雨が牛の背中を叩き出す。
[#1字下げ]
●弘徽殿の邸[#「弘徽殿の邸」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]几帳《きちよう》の中で抱き合う源氏と朧月夜。
[#1字下げ]おもては夕立。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「風邪がうつります」
源氏「あなたの風邪なら、うつりたい」
朧月夜「くしゃみはしないで。ここで男のくしゃみは、あぶない――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]遠雷。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「あなたを御所へかえすのが嫌《いや》になった。みかどの、いや兄上のものを盗むのはうしろめたいが」
朧月夜「人のものを盗んだのは、はじめて?」
源氏「大きいのは(きびしい目になって)二度目かな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]夕立、雷鳴はげしくなる。
[#1字下げ]そのたびに、朧月夜、源氏にしがみつく。
[#1字下げ]いきなり御帳台の外に男の声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右大臣「大きい雷だったが、こわくはなかったか」
朧月夜「あ、父上」
源氏「右大臣――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]朧月夜、あわてて身づくろいをしながら外へ出る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右大臣「顔が赤いようだな。熱があるのではないか」
朧月夜「いいえ、父上、もうよくなりましたから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて――朧月夜の足に薄紫色の男帯が一本からまって出て来たのを見つける。
[#1字下げ]右大臣、ひっぱろうとする。
[#1字下げ]朧月夜、足でとらせまいとする。
[#1字下げ]その拍子に衣の下から、懐紙にいたずら書きをした文反古《ふみほご》が出てきてしまう。
[#1字下げ]朧月夜、さすがにあわててかくそうとするが、間に合わない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右大臣「男文字ではないか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]朧月夜からうばいとる。また稲光り。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
右大臣「誰《だれ》の書いたものだ。けしからん、よこしなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみあいながら、体でかくしている御帳台の奥を見てしまう。
[#1字下げ]しどけない格好でゆったりと横になっているのは源氏である。
[#1字下げ]右大臣に顔を見られたことを知ると、不敵にもじっと見返し、それからゆっくりと形式的に袖《そで》で顔をおおう。
[#1字下げ]気圧《けお》されて絶句する右大臣。ワナワナとふるえ、しばらく立ちつくす。
[#1字下げ]朧月夜も、今はひとことの申しひらきもせず、じっと父の前に立っている。
[#1字下げ]堂々とした恋人たちに対して、体中でふるえながら証拠の文反古を手に、御帳台を倒さんばかりによろめき、出てゆく右大臣。
[#1字下げ]しかし、父の姿が見えなくなると、さすがに青ざめがっくりとすわりこむ朧月夜。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朧月夜「どうしましょう――」
源氏「しでかしたことだ、しかたがない。――(笑いかけて)泣き顔は、あなたに似合わないよ」
朧月夜「(精一杯に笑って)覚悟の上でやったことですもの――後悔はしてません。ただ、これからあなたがどうなるかと思うと――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]抱き合う二人。
●御所[#「御所」はゴシック体]
[#1字下げ]右大臣、弘徽殿の大后、証拠の文反古。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
大后「これは、みかどに対するご謀反《むほん》です! さっそく、みかどに申し上げて」
右大臣「――なにもそこまで表|沙汰《ざた》にしなくとも」
大后「いえ、わざわいは、今のうちに断たねば」
右大臣「それでは娘にもキズがつく」
大后「傷はついても、カスリ傷でしょう。みかどは、あの子にぞっこんでいらっしゃる」
右大臣「つけこむような真似《まね》はしたくない」
大后「目ざわりな源氏の君を追い落せば、わが一門に大きく陽《ひ》がさすのです」
右大臣「親として、娘を売るような真似は」
[#ここで字下げ終わり]
大后「ご立派な親だこと――あ、みかど――」
[#1字下げ]朱雀帝《すざくてい》がくる。
[#1字下げ]二人、頭を下げる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「身内で言い争いかな」
右大臣「いえ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いながら、例の文をさりげなく朱雀帝の足許《あしもと》に落す。
[#1字下げ]ひろい上げて目を走らせる朱雀帝。
[#1字下げ]大后、表情も変えぬ右大臣に囁く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
大后「男にはかなわないわ」
右大臣「今頃、お判《わか》りですか――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]朱雀帝――
●左大臣家[#「左大臣家」はゴシック体](早朝)
[#1字下げ]左大臣、頭中将《とうのちゆうじよう》の前に源氏。
[#1字下げ]体をふるわせて怒る左大臣。
[#1字下げ]沈痛な面持《おもも》ちの頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
左大臣「何という気の利《き》かぬ男だ。娘のところに男がしのんできていたら、娘の恥ずかしさを察して立ち去るのが親ではないか!」
源氏「いや、すべては私の不徳のいたすところ」
中将「――あれほど気をつけよと言ったのに――」
源氏「(静かに)――身を滅ぼす予感がありながら、闇《やみ》の方へ闇の方へと歩いてゆく――どうしてなのか、自分にも判らない」
中将「―――」
左大臣「どうなさる。右大臣や弘徽殿の性格を考えるととても、このままでは――」
源氏「――沙汰のある前に、すべての官職を辞して――須磨《すま》あたりで身をつつしむことにいたします」
左大臣「婿君《むこぎみ》――」
中将「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体](未明)
[#1字下げ]見送る紫の上。
[#1字下げ]旅装束の狩衣《かりぎぬ》姿の源氏。
[#1字下げ]供は惟光。翁《おきな》、媼《おうな》。
[#1字下げ]泣き伏す紫の上を翁がはげましている。
[#1字下げ]ナレーション「源氏は若い妻を残して、須磨へ旅立って行った。
[#1字下げ]事を荒立て、万一|藤壺《ふじつぼ》との間に生れた御子に、わざわいが及ぶことを恐れたのである」
●須磨の荒磯《あらいそ》[#「須磨の荒磯《あらいそ》」はゴシック体]
[#1字下げ]荒涼とした磯に波が砕けている。
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体]
[#1字下げ]簡素なつくり。
[#1字下げ]潮騒《しおさい》が聞える。
[#1字下げ]縁のところで、釣《つり》の道具をつくる翁と惟光。
[#1字下げ]漁師の女から魚を買う媼の姿も見える。
[#1字下げ]写経をする源氏。
●寺[#「寺」はゴシック体]
[#1字下げ]尼姿の藤壺。
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体]
[#1字下げ]写経をする源氏。
●伊勢《いせ》神宮[#「伊勢《いせ》神宮」はゴシック体]
[#1字下げ]斎宮《さいぐう》の娘のそばの御息所《みやすどころ》。
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体]
[#1字下げ]写経をする源氏。
[#1字下げ]潮騒が聞える。
[#1字下げ]縁のあった女たちの様々の姿態が、見えがくれする。
[#1字下げ]振り捨てるように経をうつす源氏。
[#1字下げ]縁のところで、釣の道具をつくる翁と惟光。
[#1字下げ]漁師の女から魚を買う媼の姿も見える。
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]文机《ふづくえ》の上に源氏からの文。
[#1字下げ]紫の上、涙を拭《ふ》きながら、かとりの白い直衣《のうし》、指貫《さしぬき》。
[#1字下げ]いずれも無紋のものを、女房《にようぼう》たちを指図してととのえさせている。
●御所[#「御所」はゴシック体]
[#1字下げ]朱雀帝と朧月夜《おぼろづきよ》。
[#1字下げ]ぼんやりしている朧月夜。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「わたしのそばにいながら、あなたは須磨にいる人を思っている(苦く笑う)」
朧月夜「私にはおとがめがないのですか、どうして」
朱雀帝「姿かたちも、よみかき、弓、馬、管絃――男として、どれをとっても、兄のわたしより一段上だった――」
朧月夜「―――」
朱雀帝「あなたがあの男に心をうばわれたのは無理はない。いささか口惜しいがね」
朧月夜「――(じっとみつめて)わたくし、あなたのことを少し好きになって参りました」
朱雀帝「源氏とどちらが好きだ」
朧月夜「やはりまだあの方のほうが――」
朱雀帝「――(笑う)」
[#ここで字下げ終わり]
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体]
[#1字下げ]縁のところで釣竿《つりざお》の仕掛けをつくっている源氏。
[#1字下げ]漁師の子供らしい丸裸の男の子二人ばかりがいたずらをしている。
[#1字下げ]源氏は粗末な身なり。
[#1字下げ]陽やけして、かつてのみやびな貴公子は精悍《せいかん》な青年にかわっている。
[#1字下げ]潮騒が聞えている。
[#1字下げ]源氏に一人の男が声をかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「何が釣れるのですか、このあたりでは」
源氏「鯛《たい》と――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]答えかけて、アッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「頭中将!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]立っている旅装束の頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「都からはるばると――」
中将「あなたのいない都は、味気なくてね」
源氏「わたしは罪人だ。罪人をたずねたとあっては弘徽殿の大后や右大臣の」
中将「それで罪におとされるのなら――ここで一緒に住めばいい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人笑う。
[#1字下げ]頭中将、走り出てくる惟光《これみつ》や翁の肩を叩《たた》いてねぎらう。
[#1字下げ]二人共、横を向いて涙を拭いている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「みやびな住まいではないか」
源氏「すめば都だ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、釣竿を振ってみせる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「宰相の位より漁師の方が、のんきでよさそうだな」
源氏「ところが――大漁もあるがシケもある。急に潮がかわって船が流されることもある」
中将「苦労は、同じというわけだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、また笑って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「今夜は飲み明そう」
中将「(うなずく)」
[#ここで字下げ終わり]
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]魚をさかなに酒をくむ源氏と頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「往事ハ渺茫《びようぼう》トシテ都《すべ》テ夢ニ似タリ。旧遊ハ零落シテ半バ泉《せん》ニ帰《き》ス」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]盃《さかずき》を上げる源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「酔ウテ悲シンデ涙ヲ春ノ盃ノ裏ニ灑《そそ》グ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]往事渺茫都似レ夢 旧遊零落半帰レ泉 酔悲灑レ涙春盃裏 吟苦支レ頤暁燭前(白楽天)
[#1字下げ]盃を上げる中将、そうだと思いついた様子で、荷の中から一枚の黒貂《ふるき》の皮衣を出す。
[#1字下げ]虫が食ってボロボロ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「これに見覚えは――」
源氏「あッ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、高坏《たかつき》にのっていた赤いもの(木の実など)を同時に鼻にあてる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将「この間ふと思い出して」
[#ここで字下げ終わり]
●末摘花《すえつむはな》の住居・表[#「末摘花《すえつむはな》の住居・表」はゴシック体](回想)
[#1字下げ]垣根《かきね》は朽ち、軒はかたむき庭の手入れもしていないらしく、荒れ放題。
[#1字下げ]中からたよりなげな琴の音が聞えてくる。間違える。
[#1字下げ]すっかり容色のおとろえた大輔《たいふ》の命婦《みようぶ》が出てくる。
[#1字下げ]何やらたずねている頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中将(声)「あなたからはなしは聞いていたから別に、色ごのみの気持ではなかった。通りすがりに、――あまりに荒れていたので、気になって――ところが、あのひとはあなたをじっと待っていたのだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]中へ案内されてゆく頭中将。
●末摘花の住まい[#「末摘花の住まい」はゴシック体](回想)
[#1字下げ]荒れ放題の邸《やしき》にポツンと坐《すわ》っている末摘花。
[#1字下げ]涙を押えて語る命婦。
[#1字下げ]抜けた床を用心しながら坐る頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
命婦「縁つづきの者が下総《しもうさ》の国司《くにのつかさ》として下ることになりまして、その侍女にと言ってくれたのですが、どうしてもお帰りを待つといわれて――」
中将「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]末摘花、自分の着ていた皮衣をぬぐと、頭中将の前に差し出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
末摘花「これをあの方に――お風邪を召さぬようにと、お伝え下さいまし」
[#ここで字下げ終わり]
●須磨のわび住まい[#「須磨のわび住まい」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]末摘花の皮衣を着ている源氏、その目がうるんでいる。
[#1字下げ]頭中将。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「わたしは心おごっていた。年も若く力もあった。手に入らないものは、なにひとつ無いと思っていた」
中将「―――」
源氏「欲しいものがあれば、相手の人のふしあわせも考えず、手に入れた。命を賭《か》けたものもあったが、かりそめの遊び心のものも多かった。人の心も判《わか》らなかった。わたしのために命を落したひともいた。押え切れない煩悩《ぼんのう》に身をやきつくしたひともいた。あげくのはては、この始末だ。花ざかりに浮かれていたつもりが、今思うと暗い闇《やみ》の中を這《は》いまわっていたような気がする」
中将「――ひと廻《まわ》り大きくなられた。あなたが都へ帰る日がたのしみだ。待てよ、これは考えものだな、あなたが帰って一番ワリを食うのはわたしだからね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人のライバル、笑いながら盃を上げる。
●海伝いの道[#「海伝いの道」はゴシック体]
[#1字下げ]牛車《ぎつしや》がゆく。
[#1字下げ]遠景。
[#1字下げ]ナレーション「眼病をわずらわれ弱気になったみかどは、源氏を須磨から呼びもどされた」
●山寺の石段の下あたり[#「山寺の石段の下あたり」はゴシック体]
[#1字下げ]待っている源氏の車、供の人たち。
[#1字下げ]ナレーション「帰り道さるお寺へ詣《もう》でた折り、源氏は珍しい人に出逢《であ》った」
[#1字下げ]寺の山門をおりてくる源氏。
[#1字下げ]色浅黒く、男っぽくなっている。
[#1字下げ]すれちがった老いた男と若い妻、足をとめる。
[#1字下げ]かなりの身分らしい身なりと供ぞろえ。
伊予介《いよのすけ》「もしや源氏の君様では」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「さようですが」
伊予介「紀伊の国の受領《ずりよう》をしておりますもの」
源氏「伊予介どの――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]はっと気づく。
[#1字下げ]妻は、あの空蝉《うつせみ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
伊予介「いつぞや、方違《かたたが》えの折にわたくしどもへお越しいただきましたそうな。私はあいにく、留守をしておりましたが、これなる妻が、おいたわりのお言葉をいただいた由《よし》――」
源氏「――あの折は、いろいろと――」
空蝉「―――」
伊予介「都へおもどりとのこと。おめでとうございます」
源氏「―――」
伊予介「ここにお目にかかったのも何かのご縁、心ばかりのお祝いを少々――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]伊予介、自分の車の方へゆき、供の者に酒か何かを出させている。
[#1字下げ]源氏と空蝉。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「あなたの残してゆかれたうすものの色は、まだ目の底に残っています」
空蝉「―――」
源氏「操《みさお》の固いひとだ」
空蝉「(首を振る)わたくし、気持はあなた様と共寝《ともね》をしておりました」
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]酒を抱えて夫がもどってくる。
[#1字下げ]静かに立っている空蝉。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]待っている紫の上。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
惟光「お帰りだぞ!」
翁「お帰りになられたぞ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]走り出る紫の上。
[#1字下げ]全力で走り、ころぶ。
[#1字下げ]起きて走り、うちかけがひっかかってぬげたのも気づかず、走る。そして、源氏に体ごとぶつかってゆく。
●御所[#「御所」はゴシック体]
[#1字下げ]正装して廻廊《かいろう》をゆく源氏。
[#1字下げ]ナレーション「都の花を賞《め》でるひまもなく、みかどのお召しがあった。久しぶりの御所である」
●御所[#「御所」はゴシック体]
[#1字下げ]みかどと源氏。
[#1字下げ]みかどは、少し目が不自由らしい。
[#1字下げ]みかどに一礼し、あいさつをしている源氏。
[#1字下げ]少し離れたところでは、数人の貴公子が、笛や三絃《さんげん》の合奏を楽しんでいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「形通りのあいさつも、つきぬはなしもあとということにして、聞いてもらいたいことがある」
源氏「―――」
朱雀帝「わたしの末の姫のことだ」
源氏「三の宮の――」
朱雀帝「三の宮の後見をたのみたい」
源氏「わたくしでよろしければ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]このあたりから若い侍女の小侍従が、みかどのうしろにひかえている。
[#1字下げ]テロップ――小侍従[#「小侍従」はゴシック体](岸本加世子)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「三の宮の婿《むこ》を考えているのだが、なかなか意に叶《かな》うものがない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ひときわ鮮やかに鳴る笛。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「あの笛は」
朱雀帝「柏木衛門督《かしわぎえもんのかみ》――あの男ですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木が、こちらを見る。
[#1字下げ]テロップ――柏木衛門督[#「柏木衛門督」はゴシック体](ジョニー大倉)
[#1字下げ]精悍な若者。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「一時はあの男を婿にと思ったが――気性に難があってね――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小侍従、知らんぷりをしながら熱心に聞いている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「そこで――後見といっても、ただの後見ではない。夫として、と考えてもらえまいか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みかど、小侍従に合図。
[#1字下げ]立ってゆく小侍従。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「私には、紫の上という方が」
朱雀帝「判っている。だが、三の宮は末の姫で、わたしが甘やかした。まだ世の中を知らないが、それだけにいとしくて――つまらぬ苦労をさせたくないのだ。あなたなら」
源氏「私には、その資格はありません。みかどが一番ご存知の筈《はず》です」
朱雀帝「いまはちがう。目をわずらっているが、まだそのくらいは見える」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みかど、手をつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「源氏の君、この通りだ」[#1字下げ]小侍従の案内で三の宮が入ってくる。黒い猫《ねこ》を抱いている。
[#1字下げ]テロップ――女三の宮[#「女三の宮」はゴシック体](藤真利子《ふじまりこ》)
[#1字下げ]若く気位が高い感じ。
[#1字下げ]源氏に会釈《えしやく》もなく坐る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
朱雀帝「源氏の君だ、あいさつを」
三の宮「――(あいさつ)」
源氏「(かえす)」
朱雀帝「源氏の君。いい返事を、たのみます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]笛が高くヒョウとひびく。
[#1字下げ]突然、猫が毛を逆立て、走り出てゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「あ! 『黒丸!』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]猫は、御簾《みす》をくぐり奏楽の貴公子の方へ。
[#1字下げ]柏木、笛をほうり出し、猫を捕える。
[#1字下げ]御簾近く進んで猫を手渡そうとする。
[#1字下げ]三の宮、ゆきかける。
[#1字下げ]二人の目が合う。
[#1字下げ]小侍従、間に入り猫を受取る。
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]紫の上、庭の方を見て、じっと動かない。
[#1字下げ]源氏、その黒髪と肩を見ている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「みかどは、あなたの気持を一番気にしておられた。文を書こうともおっしゃった」
紫の上「御婚儀はいつになさいます? みかどの三の宮の御降嫁です。手落ちがあれば、私が笑われます」
源氏「いいのか、あなたは」
紫の上「――末長く仲よくして下さいましと――宮にお伝え下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]しかし、一度も夫の方をふりかえらず、庭を向いたままである。
●三の宮の婚礼[#「三の宮の婚礼」はゴシック体]
[#1字下げ]晴れの衣裳をつけた三の宮。
[#1字下げ]人まかせで着つけをさせながら、その胸には黒い唐猫を抱いている。
[#1字下げ]源氏が入ってくる。
[#1字下げ]三の宮は表情も変えず、立っている。
[#1字下げ]猫を小侍従が受取る。
[#1字下げ]祝いの楽の音がわき起る。
[#1字下げ]ナレーション「婚礼は盛大であった。そのあと三日の間、毎晩夫は妻のもとへ通わねばならぬしきたりがある」
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]夫の衣裳《いしよう》に香をたきしめている紫の上。
[#1字下げ]入ってくる源氏、妻のしぐさに胸をつかれる。
[#1字下げ]庭の向うに、西の一の対がみえる。
[#1字下げ]灯《ひ》が入り、はなやか。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「すまない」
紫の上「――(笑う)」
源氏「これからのちも、決してあなたを粗略には扱わぬつもりだ」
紫の上「わかっております。さ、早くいらしてお上げなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]衣裳を着せかけて送り出す。
[#1字下げ]黙って坐っている。
[#1字下げ]西の対の明るい灯。
[#1字下げ]こちらの灯は心なしか暗く小さい。
[#1字下げ]紫の上、灯をおおった紙に、自分の涙を指にとりつける。
[#1字下げ]紙が涙のあと通りにぬれる。
[#1字下げ]すぐにかわく。見ている紫の上。
●三の宮の寝所[#「三の宮の寝所」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]源氏、入ってゆく。
[#1字下げ]大胆な寝相で、寝入っている三の宮、その裾《すそ》に、例の唐猫が丸くなってねている。
[#1字下げ]立往生の源氏。
[#1字下げ]案内の小侍従。
[#1字下げ]源氏は猫が苦手らしい。
[#1字下げ]小侍従が猫を抱き取ろうとするが、源氏、そのままでいいよ、という感じで手でとめる。
[#1字下げ]しかし小侍従は、猫を抱き、心得顔で退《さが》ってゆく。
[#1字下げ]源氏、三の宮の寝顔を見ている。それから読みさしの絵物語を見る。
[#1字下げ]眠っていると見えた三の宮、目をあけ醒《さ》めた目で源氏をじっと見る。
[#1字下げ]源氏がふり向く前に、目を閉じる。
●西の対の廂《ひさし》[#「西の対の廂《ひさし》」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]猫を抱いた小侍従、全身を耳にしてすわっている。
[#1字下げ]源氏の声が聞えてくる。
[#1字下げ]うしろ向きのまま、尻《しり》ですさって聞き耳を立てる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「(物語を読まされている)」
[#ここで字下げ終わり]
●三の宮・寝所[#「三の宮・寝所」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]春の宵《よい》。花吹雪。
[#1字下げ]絵巻物をひろげ読まされている源氏。聞いている三の宮。別のことを考えている目。
[#1字下げ]源氏、読むのをやめる。
[#1字下げ]花吹雪が縁のあたりから――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「花吹雪がきれいだ」
三の宮「桜は嫌《きら》いです」
源氏「―――」
三の宮「一本の木に、沢山の花が咲くでしょう。花は不満ではないのかしら。沢山の中のひとつだなんて」
源氏「そういうことを考えず、無心に咲くから花は美しいのではないかな」
三の宮「私だったら、せめて一番先に散りたいわ。まだ誰《だれ》も汚していない黒いしめった地面に、一番先に」
源氏「―――」
三の宮「つづきを――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]読む源氏。
●廂の間[#「廂の間」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]小侍従、フンといった顔で聞いている。
●紫の上の部屋[#「紫の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ひとり寝の紫の上、こちらは匂《にお》うように女っぽい。
[#1字下げ]ねむらず、転々とするたびに、長い黒髪も生きているように動き悶《もだ》える。
●庭[#「庭」はゴシック体](あけ方)
[#1字下げ]源氏が帰ってくる。
[#1字下げ]苦いやり切れない疲れがある。
[#1字下げ]立ちどまって、大きく吐息をもらす。
●物かげ[#「物かげ」はゴシック体]
[#1字下げ]闇の中に男の目が光っている。柏木。
[#1字下げ]向うから光るものが近づく。こっちは四つの目玉。
[#1字下げ]唐猫を抱いた小侍従。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「お返事は――」
小侍従「(首を振る)」
柏木「いただけないのか」
小侍従「(うなずく)」
柏木「宮は、三の宮は私の文を」
小侍従「――(五、六通、束ねたのを返してよこす)」
柏木「どうして取次いでくれない」
小侍従「わたしあぶない橋をわたるのいやなんです」
柏木「礼はする。金か、衣か」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小侍従、じっと柏木をみつめる。どうやら好きらしい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
小侍従「実るものなら、お手伝いもたのしいわ。でも」
柏木「でも――」
小侍従「高嶺《たかね》の花よ」
柏木「腰をかがめて花を摘む人間もいる。命がけでガケを這《は》い上って、背のびして花を摘む男もいるんだ」
小侍従「手をすべらせたら」
柏木「花を手折って死ねば本望だ」
小侍従「――二の宮さまと婚礼をなさったばかりで、そんなこと言っていいのかしら。同じきょうだいでも二の宮さまの方がよっぽど美人で色っぽいというお噂《うわさ》じゃないの」
柏木「人には好みがある。――やわらかいのが好きもいれば固いのがいいというのもいる」
小侍従「源氏の君さまは、固いのがおきらいみたいね」
柏木「どういう意味だ」
小侍従「―――」
柏木「宮のところへおはこびはないのか」
小侍従「――遊び馴《な》れた方には、物足りないでしょうよ」
柏木「――たのむ。もういっぺん取りついでくれ。命がけでおしたいしておりますと――」
小侍従「――『まあおそろしい』とおっしゃったわ」
柏木「誰が」
小侍従「(じらすように笑う)」
柏木「宮がか! 三の宮か!」
小侍従「――(笑う)」
柏木「では、文はよんで下すったのだな」
小侍従「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木、手をのばして、猫を抱きとる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「猫はにげました。そう申し上げるんだ」
小侍従「―――」
柏木「宮と思って、大切にする」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いとおしそうに猫の背をなでる。
●柏木の|邸[#「柏木の|邸」はゴシック体]《やしき》
[#1字下げ]美しい女二の宮、ひっそりと坐《すわ》っている。
[#1字下げ]テロップ――女二の宮[#「女二の宮」はゴシック体](山口いづみ)
[#1字下げ]柏木は、坐っているが目は何も見ていない。笛を手に取ろうともしない。
[#1字下げ]ひざに黒い猫、その背を、いとおしみ愛撫《あいぶ》する柏木の手。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女二の宮「やさしい手をしていらっしゃる。まるで『ひと』を撫でているみたい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]じっとみつめる女二の宮。
●御息所《みやすどころ》の邸[#「御息所《みやすどころ》の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]ナレーション「みかどがかわり伊勢《いせ》神宮の斎宮《さいぐう》もかわった。娘と共に伊勢から都へもどっていた六条御息所は、急に病いがおもくなり、重態となった」
[#1字下げ]病いの床の御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「今生《こんじよう》のお別れでございます」
源氏「何をいわれる。お心を強く持たれて」
御息所「気休めをおっしゃいますな、あなたにみとっていただいて、命を終れたら、これにまさるしあわせはありません」
源氏「(手を握る)」
御息所「今は、たのしい思い出ばかり」
源氏「(うなずく)」
御息所「心残りは、なにもございません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]死相の浮かんだ顔に、平安な笑顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「ひとつ、おねがいが――(息が苦しくなる)」
源氏「何なりと――」
御息所「娘の後見を、おたのみいたします」
源氏「(うなずく)」
御息所「ただ、これだけは――これだけはおねがい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]裾の方に、若く美しい秋好《あきこのむ》中宮の、姿が浮び上る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「(苦しい息を振りしぼって微笑しながら)――、どうか、――なまめいたお相手にはなさらないで下さいまし――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、胸をつかれる。うなずく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「ありがとう――ございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]絶え入る。安らかな死に顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中宮「母上様(泣き崩れる)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏――
●三の宮[#「三の宮」はゴシック体]
[#1字下げ]絵巻物を手に、所在ない三の宮。
[#1字下げ]うしろに小侍従。
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]病む紫の上を介抱する源氏。
[#1字下げ]ナレーション「紫の上が、はやり病いの床に伏すようになった。源氏は、その枕《まくら》もとを離れず看病した」
[#1字下げ]背をさすり薬湯をのませる源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「苦しくないか」
紫の上「(首を振る)うれしゅうございます」
源氏「―――」
紫の上「病いは辛《つら》いもの、苦しいものと聞いておりましたが私はちがいます。こんなに、たのしい思いをしたのは、はじめて」
源氏「―――」
紫の上「あなたのお顔のほくろのありかも、いま、はっきりと覚えました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]紫の上、手を出して、恥じらいながら愛撫する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「今まで知らなかったのか」
紫の上「ほかの方は、みんな御存知なのでしょうか。あなたのお体の、どこにほくろがあるのか」
源氏「あなたでもそういうことを言うことがあるのだね」
紫の上「(恥じらって顔をかくす)病いの熱のせいだと思って下さいまし」
源氏「――ほくろのことを言ったのは、あなただけだ」
紫の上「―――」
源氏「信じていない目をしている」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、そばにごろりと横になる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
紫の上「葵《あおい》の上さまは、いかがでした」
源氏「夫婦であって夫婦でなかった。気持が通じあうのがおそかった」
紫の上「朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》さま」
源氏「火の玉が二つ、ぶつかり合ったようなもので――ほくろもそばかすも何も見えはしなかった」
紫の上「六条御息所はちがいますでしょ。数えきれないほどのあなたのまわりのかたを、実はねたましいと思っておりましたけれど、その中で御息所は一番大きな」
源氏「たしかに大きな人だった。いや人というより沼だ。男をさそい込んで、どうもがいても抜けられぬ」
紫の上「―――」
源氏「女の業《ごう》というのだろうね。ひかれながらおぞましく、おぞましく思いながらも離れられなかった。(失笑して)あなたには何でも話せる」
紫の上「―――」
源氏「気にかかることは何でもお聞き、あなただけにはかくしごとをしたくない」
紫の上「気になるのは三の宮さまのこと、この三月ほど、わたくしをご看病下さって、あちらへはおわたりがないのではありませんか」
源氏「あの人は絵物語があって唐猫《からねこ》がいれば、安らかに眠れる人だ。たわむことを知らない曲《きよく》のないまっすぐな小枝なのだ。へたに手を出すと、ポキンと折れてしまう。男と女も気持のひだも、まだ、何にも判《わか》っていないのだ」
[#ここで字下げ終わり]
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]女三の宮が、絵物語をひろげている。
[#1字下げ]しかし、その目は何もみていない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「小侍従! 小侍従!」
[#ここで字下げ終わり]
●西の対・物かげ[#「西の対・物かげ」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]追いつめられ、柏木《かしわぎ》に刀でおどされている小侍従。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
小侍従「あたしを殺したら、元も子もないわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]紙のように白い顔が、ガタガタ震えながらも、柏木の目をまっすぐに見つめながら言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「お前は、人を好きになったことはないのか」
小侍従「あるわ」
柏木「それなら、俺《おれ》の気持は判るだろう」
小侍従「―――」
柏木「昼も夜も、もうその人の顔かたちしか見えないのだ」
小侍従「そうよ、ここ(胸)が痛いわ。痛いところにあなたの刀があたって――いい気持――」
柏木「小侍従、それではお前の好きな男というのは――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小侍従の目が涙でいっぱい。
[#1字下げ]柏木、小侍従の恋の相手が自分だと知る。
[#1字下げ]柏木、ガラリと、刀を捨て、手をつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「小侍従、すまない、許してくれ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]土下座する男を見て、かなしく笑う小侍従。
[#1字下げ]涙が顔を伝ってこぼれる。
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]几帳《きちよう》のかげの女三の宮。
[#1字下げ]部屋の隅《すみ》に、黒い影のようにうずくまる柏木。
[#1字下げ]三の宮はおどろきと恐怖で立ちすくみ声も出ない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「ああ、誰か、誰か!」
柏木「手荒な真似《まね》は致しません。どうか話だけでも」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三の宮、絵物語、脇息《きようそく》などをほうり投げて抵抗する。
[#1字下げ]柏木、何があっても全くひるまず、じりじりと三の宮を追いつめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「誰か! 小侍従!」
柏木「お慕いしております。命がけでお慕いしております」
三の宮「(もう投げるものはない)」
柏木「いや、はじめはそうではなかった。はじめは、出世のためだった。みかどが一番|可愛《かわい》がっておいでの三の宮を妻にいただければ出世が出来る。位ものぼり、禄《ろく》も増え、栄燿栄華《えいようえいが》が出来る。いやしいとお考えでしょうが、いくさのない世の中で、身分の低い者がのし上がるには、これが一番手近かな道なのです」
三の宮「―――」
柏木「私は、笛の稽古《けいこ》にはげみました。みかどは、笛や三絃《さんげん》をお好きです。笛で名人と呼ばれ、お目にとまりたい。夜も昼も笛を吹いた。咽喉《のど》が破れて血が出ました。どんなきびしい稽古も辛くはなかった。一歩一歩あなたに近づいている。咽喉から血が吹き出ると、あなたに血で文を書いているような気がして体がふるえました。その時、自分の気持に気がつきました。俺は本気になっている。欲得ずくのつもりが、出世の方便のつもりが――恋になっている。死ぬほど好きになっている」
三の宮「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三の宮、恐いだけのこわばったものが、すこしずつ消え、やわらかく、あたたかいものが生れてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「笛がきっかけで、私はみかどのお目にとまった。私の身分としては出世もした。あなたの婿《むこ》の候補のひとりにわたしの名が上っていると聞いた時は、天にも上る気持だった。ところが、みかどはあなたを源氏の君にお与えになった。私には二の宮を、あなたの姉上を下さった。人は名誉なことだというけれどそんなものじゃないんだ。私が欲しかったのは、あなたなのだ、三の宮なのだ!」
三の宮「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三の宮の頬《ほお》に赤みがのぼり目がきらきら輝いてくる。
[#1字下げ]気位の高い皇女は女に変ってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「あなたのいない出世。あなたのいない栄燿栄華(自嘲《じちよう》の叫び)そんなものが何だっていうのだ!」
三の宮「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]激していた柏木、黙りこみ、うめくように言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「人は一度しか生きられないのだ。だったら、この世に生を享《う》けたしるしを抱えて死にたい。『死ぬほど好きだ』ということをどうしてもあなたに言いたかった――」
三の宮「―――」
柏木「――しあわせですか」
三の宮「―――」
柏木「女として、生きていてよかったとお思いですか」
三の宮「―――」
柏木「――あなたをさらって逃げたい。家を捨て、出世も捨てて、あなたと山の中で暮したい。木樵《きこり》をしても猟師をしてもあなたを飢えさせはしない。夜、月の光でわたしは、あなた一人のために笛を吹く」
三の宮「―――」
柏木「叶《かな》えられないから、夢というのでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木、笑うが、泣いているように見える。
[#1字下げ]柏木、わが目をうたがう、あれほど死にもの狂いの抵抗をした三の宮が、徐々に体の力を抜き、じっと柏木の目を見ながら横たわる。
[#1字下げ]長い黒髪がさっき投げつけた絵巻物と交差するように柏木の足許《あしもと》にうねっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「宮――」
三の宮「生れた時から決めるのはみな父やまわりでした。ひな人形も衣裳《いしよう》も――夫も――」
柏木「―――」
三の宮「ひとつぐらいは、自分で決めたい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木抱きしめる。感動の余り言葉にならない。咽喉がヒュウと鳴ってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「あ、あなたの咽喉、笛みたい」
柏木「―――」
三の宮「あなたの笛を聞いた事があります。命がけで吠《ほ》えているけだものみたいだと思ったわ。体中に稲妻が走って瞼《まぶた》の裏が熱くなって、体が弓なりになって気が遠くなった――」
柏木「――(けもののようにうめく)死んでもいい。いつ死んでも悔いはない」
[#ここで字下げ終わり]
●すすき野[#「すすき野」はゴシック体](夜あけ)
[#1字下げ]恋のよろこびに、刀ですすきをなぎはらい、けだもののように吠える柏木。
[#1字下げ]離れたところで見ている小侍従。
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夜あけ)
[#1字下げ]落花|狼藉《ろうぜき》のあと。
[#1字下げ]横たわる女三の宮。静かな満ちたりた横顔に夜が明けてくる。
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]小走りに渡ってくる源氏。
[#1字下げ]侍女がころがるように、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
侍女「紫の上さま、御臨終でございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]侍女を振りとばすように走り出す源氏。
●紫の上の部屋[#「紫の上の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]こと切れている紫の上。
[#1字下げ]老女、涙を押えながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
老女「急にご容態があらたまり、たったいま、息を引きとられました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、紫の上の体をはげしくゆすぶる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「そんな理不尽なことがあってたまるか! いま一息で全快といっていたではないか!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、狂ったように叫ぶ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「弓弦《ゆづる》を鳴らせ! 米をまけ! 寿命なら寿命でいい。あといっとき、半ときでも、生きかえらせてくれ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]護摩《ごま》のけむり。
[#1字下げ]御簾《みす》のうしろから祈祷《きとう》の声わき上がる。
[#1字下げ]源氏、自らも懸命に祈る。
[#1字下げ]血の気の失《う》せた若紫の顔。
[#1字下げ]突然、裾《すそ》の方にひかえていた女《め》の童《わらわ》、胸をかきむしり、絶叫しながら狂い廻《まわ》る。
[#1字下げ]髪をふり乱し、衣裳を乱し祈る僧たちにつかみかからんばかりに狂い廻る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「どうした、落着け、落着くのだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]押えようとする源氏や侍女たちを振りとばし、源氏の前に立ちはだかる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
女の童「とりついてやる! 殺してやる!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]長い髪ごと顔を上げる女の童は、六条|御息所《みやすどころ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「なぜ、なぜ夫婦の寝物語にわたしをそしるのです。ふたりだけの秘めごとを、人もあろうに、なぜ奥方に言うのです。死んだ女に、なぜ恥をかかせるのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]たしなみ深い生前の御息所とは別人のごとく、嫉妬《しつと》をあらわにして迫る御息所。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「わたしは全身全霊を賭《か》けて、あなたをいとおしんだのですよ。それをなぜ、さらしものにするのです。なぜ恥をかばってくれないのです!」
源氏「―――」
御息所「この世に迷いが残って、死ねない! 成仏《じようぶつ》出来ない!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]御息所、横たわる紫の上を抱き上げ、衣の下に掻《か》い込もうとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
御息所「とりついてやる、とり殺してやる!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、念仏をとなえながら、刀を抜きかける。少し迷って、刀をもどし――やわらかい悲しい目でじっと御息所をみつめる。
[#1字下げ]御息所、その目を見る。ひるみ、たじろぎ、――紫の上を下におろす。
[#1字下げ]そのままがっくりとうつ伏す。
[#1字下げ]御息所の姿は女の童になっている。あえいでぐったりしている女の童。
[#1字下げ]紫の上、目をあける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「よみがえった!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]抱きしめる源氏。
●西の対・物かげ[#「西の対・物かげ」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]小侍従が柏木に笑いかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
小侍従「いい知らせよ」
柏木「―――」
小侍従「宮が御懐妊になられたわ」
柏木「御懐妊」
小侍従「あなたの子供よ、うれしいでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木、色を失って立ちつくす。
●西の対[#「西の対」はゴシック体]
[#1字下げ]凝然とすわる三の宮。
[#1字下げ]物かげでひそひそばなしの女房《にようぼう》たち。
●源氏の邸《やしき》[#「源氏の邸《やしき》」はゴシック体](物かげ)
[#1字下げ]指を折っている敦賀《つるが》の媼《おうな》。
[#1字下げ]横から翁《おきな》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「なにやってンだ」
媼「日が合わないのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、顔を見合わす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「合わなきゃ、合わせるさ」
媼「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏が通りかかる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
媼「あッ――」
翁「このたびは、三の宮様、おめでたの由《よし》、おめでとうございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]源氏、何も言わない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二人「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夕暮)
[#1字下げ]入ってくる源氏。
[#1字下げ]三の宮の姿はない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「宮! 小侍従!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]呼びながらふと、しきものの下から文がのぞいているのに気づく。
[#1字下げ]源氏、ひっぱり出そうとする。
[#1字下げ]ころがるように入って来た小侍従、文をひったくろうとする。
[#1字下げ]破れる文。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「(読む)恋が罪となって実ろうとは」
小侍従「―――」
源氏「だれだ、この字は」
小侍従「―――」
源氏「誰だ、言え!」
小侍従「――柏木《かしわぎ》さまでございます」
源氏「手引きをしたのは、お前だな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小侍従の頬を打つ源氏。
[#1字下げ]小侍従顔を上げ、源氏を見据《みす》えて言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
小侍従「わたくしのあるじは三の宮様でございます。あなた様の折檻《せつかん》を受けるいわれ[#「いわれ」に傍点]はございません」
源氏「――柏木を呼べ」
小侍従「(首を振る)」
源氏「今夜、ぜひ笛を聞かせてもらいたい」
小侍従「(凍りつく)」
[#ここで字下げ終わり]
●渡殿《わたどの》[#「渡殿《わたどの》」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]小侍従の案内で蒼《あお》ざめた柏木がくる。
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ひとりすわっている三の宮。
[#1字下げ]源氏の邸の方から風に乗って笛の音が聞えてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●源氏の邸[#「源氏の邸」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]源氏の前で笛を吹く柏木。
[#1字下げ]不意に扇で激しく脇息《きようそく》を打つ源氏。
[#1字下げ]柏木、笛をやめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「音が濁っている」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木、吹く。
[#1字下げ]源氏、また激しく脇息を打つ。
[#1字下げ]柏木、吹くのをやめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「笛は、人の息が魂が凝って音《ね》になるものだ。魂がにごっていれば、いかに手練《てだれ》でも、音はにごるとみえる」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]柏木、吹く。
[#1字下げ]源氏、また打つ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「盗人《ぬすつと》の笛だ。いやしい音がする」
柏木「源氏の君。申し上げたいことがございます」
源氏「わたしが聞きたいのは、お前の笛だ。笛を聞かせてくれ」
柏木「おねがいでございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、はげしく咳《せき》こむ。
[#1字下げ]おおった手の下から、口のまわりに血が。
[#1字下げ]かけよる敦賀の翁。
[#1字下げ]自分の衣の袖《そで》で、血のりを拭《ぬぐ》ってやる。
[#1字下げ]代りに源氏に頭を下げる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「お許し下さいまし。どうかお許しを」
[#ここで字下げ終わり]
●西の対[#「西の対」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]すわっている三の宮。
[#1字下げ]小侍従。
●柏木の邸[#「柏木の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]病いの床にあえぐ柏木。
[#1字下げ]まめまめしくみとる女二の宮。
[#1字下げ]柏木、咳こむ。
[#1字下げ]また血を吐く。
[#1字下げ]拭ってやる女二の宮。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二の宮「なまぐさい血の匂《にお》い。なまぐさい。なまぐさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]枕《まくら》もとに飾られた笛。
[#1字下げ]縁で鳴く黒い唐猫《からねこ》。
●西の対[#「西の対」はゴシック体]
[#1字下げ]産褥《さんじよく》で苦しむ三の宮。
[#1字下げ]手が虚空《こくう》をつかみもだえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「苦しい! 苦しい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]産声《うぶごえ》が聞える。小侍従。
●柏木の邸[#「柏木の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]死の床の柏木。
[#1字下げ]にじり寄って囁《ささや》く翁。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
翁「お生れになりましたぞ」
柏木「(呟《つぶや》く)生れた」
翁「男君でございます」
柏木「男の子」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]翁、うなずく。
[#1字下げ]柏木、枕もとの笛を、目で示す。
[#1字下げ]翁、取ってやる。
[#1字下げ]柏木、翁に押しもどす。
[#1字下げ]咽喉が笛のように鳴る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
柏木「(うめく)源氏の君に、お許し下さい――と」
翁「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]目をあいたまま息たえる。
[#1字下げ]翁、目を閉じてやる。
[#1字下げ]身じろぎもせずすわる女二の宮。
●柏木の邸[#「柏木の邸」はゴシック体]
[#1字下げ]笛を抱いて帰ってゆく翁。
[#1字下げ]足許《あしもと》を見て凍りつく。
[#1字下げ]三の宮の唐猫が死んでいる。
[#1字下げ]うしろから、二の宮の号泣が聞える。
[#1字下げ]かなしみも嫉妬も怒りもすべてをこめた、魂をゆさぶるような声。
●西の対[#「西の対」はゴシック体]
[#1字下げ]赤子のなき声。
[#1字下げ]三の宮を見舞う朱雀院《すざくいん》。
[#1字下げ]三の宮の几帳《きちよう》のうしろあたりから、赤子のなき声が聞えている。
[#1字下げ]三の宮を助け起す小侍従。源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三の宮「父上にお願いがございます」
朱雀院「祝いのしるしに、また黒い唐猫をさがしてくれというのだな」
三の宮「父上のお手で、髪をおろしたいのです」
源氏「髪をおろす――」
朱雀院「出家したいというのか」
三の宮「はい」
源氏「何を言われるかと思えば(言いかける)」
朱雀院「子供を生んで、これから花が開こうという時に」
三の宮「私の花は、もう終りました」
[#ここで字下げ終わり]
●枯野[#「枯野」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]荒涼とした冬枯れの野に、源氏が立っている。胸に抱くのは罪の我が子。
●藤壺院《ふじつぼいん》[#「藤壺院《ふじつぼいん》」はゴシック体](回想)
[#1字下げ]ゆらめく香華《こうげ》の前で合掌する藤壺。
[#1字下げ]うしろで、紅葉《もみじ》で遊んでいる幼ない御子。
[#1字下げ]源氏。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「父上は、ご存知だったのではありませんか。あの御子の本当の父は、私だということを」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]赤子を抱き、にこやかに源氏に手渡す桐壺帝《きりつぼてい》のおもかげ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
藤壺「――そうかも知れません。でも、ただの一度も、私を責めるおことばはありませんでした。私は、犯した罪ごと大きな胸の中に抱きとられていたような気がしています」
[#ここで字下げ終わり]
●枯野[#「枯野」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]たたずむ源氏。
[#1字下げ]翁がくる。笛を手渡す。
[#1字下げ]源氏、黙って受取り、赤子の懐《ふところ》に差し込んでやる。
[#1字下げ]遠くで、笛が聞えたような。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
源氏「――父上。あなたは大きい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ナレーション「源氏の目に平安がよみがえってきた。多く愛し、愛の数だけ苦しんだひとは、いま、父を裏切った罪を自分の苦しみであがなった。父と子に、夜が明けてくる」
[#改ページ]
花嫁
[#改ページ]
花嫁
TBSテレビ(東芝日曜劇場)
一九七七年一月九日
●スタッフ
プロデューサー―――石井ふく子
演出――――――――山本和夫
●キャスト
片倉ちよ――――――市川翠扇
片倉巴(次女)―――倍賞千恵子
片倉洋子(三女)――沢田雅美
片倉良一(長男)――安井昌二
片倉雪子(その妻)―大森暁美
三田村節子(長女)―草笛光子
黒崎宇一――――――佐野浅夫
[#改ページ]
●片倉家・玄関[#「片倉家・玄関」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]東京は文京区あたり。焼け残った一画の古い小さな家である。
[#1字下げ]黒光りする柱。ガタビシと建てつけの悪い戸障子。雨もりのしみが浮き出た壁。
[#1字下げ]読経《どきよう》を終えて帰る僧侶《そうりよ》を、ちよ(62)と長男良一(43)が送り出している。
[#1字下げ]今日は、ちよの亡夫の七回忌なのである。
[#1字下げ]盆にのせたお経料をさし出すちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ・良一「ありがとうございました」
僧侶「(ご丁寧に――)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、会釈《えしやく》して、土間に下り、格子戸《こうしど》に手をかけて開ける準備をしながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「――建てつけが悪くなって。うちの人間でないと、いっぺんで、ヨイショ! 開かないんですよ」
良一「直せっていってンですけどねえ、取りこわしだから勿体《もつたい》ないってんで――」
僧侶「あとは、なにか――」
良一「大家さんがマンションでも建てるんでしょう」
僧侶「そうすると、ここで御命日をするのも、今年が最後ですな」
ちよ「新しい住所が決りましたら、お寺さんのほうにご通知させて戴《いただ》きます」
僧侶「それじゃ、どうも」
ちよ・良一「ありがとうございました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、ウム! と小さくうなって、格子戸を持ち上げるようにして開け、僧侶を送り出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「冷えてきましたから、お気をつけて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]格子戸をしめて上りかけた時、茶の間との境の障子が開いて、長女の節子が顔を出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「お母さん、皆さん、お帰りだって」
ちよ「あら、まだいいじゃないの」
節子「天気予報だと、雪になるんですって。早目に引き上げるって」
ちよ「そうですか」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]七、八人の親戚《しんせき》や友人たちが帰り支度をしている。いずれも五十代、六十代の男女。(内田光江、立花英二、それと隅《すみ》の方に黒崎《くろさき》宇一(65)もまじっている)
[#1字下げ]仏壇には、黒枠《くろわく》の写真。香華《こうげ》がゆらいでいる。
[#1字下げ]色の揃《そろ》わない座布団《ざぶとん》。
[#1字下げ]手をつけた寿司桶《すしおけ》など。
[#1字下げ]ちよ、良一。節子、良一の妻、雪子、三女の洋子が、客のコートを出したりして世話をやく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「寒いから、着て下さいよ」
一同「それじゃ遠慮なく――」
内田光江(62)「なんのかんのいっても、浩《こう》さん、えらいよ。七回忌にこれだけ集るんだもの」立花英二「いやあ、仏の前だけど、そら、浩さんじゃなくて、奥さんだよ」
内田「ほんとだ。浩さん、奥さんで保《も》ってたもンなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、笑いながら、一同を玄関の方へ送り出す。
[#1字下げ]客の一人、黒崎だけが、コートを手に、モタモタしながら、仏前へ進もうとして、送りに出ようとした良一や雪子とぶつかってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「あの――もういっぺん(手を合せて、拝ませてもらおうと思って、という感じ)」
良一「あ、どうぞ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、仏前に進み、じっと写真を見つめ、律義《りちぎ》に合掌する。
[#1字下げ]すしをつまみながら、早々と座布団を片づけている洋子、チラチラと黒崎を見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ(声)「本当にまあ、忙しいとこ、ありがとうございました」
良一(声)「ありがとうございました」
ちよ(声)「おやすみなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、洋子に目礼して出てゆく。
●玄関[#「玄関」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]黒崎が、帰ってゆくところ。
[#1字下げ]見送るちよ、良一、雪子、節子、うしろから洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「黒崎さん、お仕事のほう、いかがですか」
黒崎「はあ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、バカに固くなって、モタモタしている。
[#1字下げ]節子、コートを着せかけながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「ご発展みたいよ」
ちよ「そうですか、そりゃそりゃ」
良一「この不景気に大したもんじゃないですか」
黒崎「いやあ、個人企業ですから、大したこたァー(あれ!)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、コートの袖裏《そでうら》の破れたところに手を突っ込んだらしく、手が出ないでモタモタする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「あらら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、見ないフリ。洋子だけが小さく吹き出して、ちよに突つかれている。
[#1字下げ]黒崎、不器用なタコ踊り。
[#1字下げ]やっとのことで袖が通る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「(取りなすように)男の方はねえ、仕事第一ですよねえ」
節子「ほんと――」
黒崎「……(節子に小さく)ひとつ、よろしく」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、目で大丈夫よ、任せて、という感じ。
[#1字下げ]小さく胸を叩《たた》く。
[#1字下げ]黒崎、ちよの顔を見ないで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「失礼いたしました」
良一・ちよ「ありがとうございました」
節子「おやすみなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、帰ってゆく。
[#1字下げ]雪子、格子戸をしめようとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「雪子さんにゃ無理だ。このうちの建具はね、ヘソ曲りだから、ヨイショ――」
良一「オレやるよ、ほら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]良一もやるが、きしむだけ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「(代りながら)うちにいる人間でないとね、ウム! しまらないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]やっとしまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「なんか、くるたんびに、ガタついてんな」
ちよ「そらアンタ、人間だって建物だって、五十年六十年たちゃガタがくるわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、玄関の板の間の一ケ所だけギュウと鳴るところに乗って、ギュウギュウいわせている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「ああ、この音きくと、実家へ帰ったって気持になるわね」
雪子「あら、節子さん、お嫁にいったときから鳴ってるの」
良一「いやあ、オレ、大学いってた頃《ころ》から鳴ってたなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三人、踏んでいる。
[#1字下げ]先に茶の間に入ったちよ、洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「うちこわさないで頂戴《ちようだい》よ」
洋子「早く入ってよ。寒いんだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三人、茶の間へ。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ちよは、仏壇の線香を立て、良一は大あぐらでたばこを出す。女たちは座布団を片づけ、寿司桶を一つに集めて――。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「やっと落ち着いた――雪子さん、そっちいいから(灰皿《はいざら》の片づけ)ゆっくり戴こうじゃないの」
ちよ「ちょっと巴《ともえ》の分、取っといてやんなさいよ」
節子「どしたの、巴は」
雪子「仕事、忙しいんじゃないの」
良一「医者ならともかく、薬剤師だろ。急患があるわけじゃなしさ、帰るつもりなら、帰れるよ」
ちよ「一周忌じゃないんだから、目くじら立てることないよ」
洋子「おデイトじゃないかな」
節子「清村さんだっけ、インターン、まだつきあってンの」
洋子「(うなずく)時間の問題じゃないかな」
良一「そういうのがいるんなら、今晩連れてくりゃいいんだよ、お父さんだって安心するよ」
ちよ「ま、決ってからってつもりなんだろ」
節子「そーお。ハナシがしやすくなった――」
一同「え?」
節子「うん。あとでね、あら、すし富、味が落ちたんじゃない?」
ちよ「アンタの口がおごったのよ」
雪子「節子さんとこ、景気がいいから」
節子「貧乏ひまなし、あ、すみません。うちの人、やっぱり、こられなくて」
ちよ「(やわらかく)この寒いのに義理でくることないわよ」
良一「何かスースーすンなあ」
洋子「何ともないけど。すき間ッ風に馴《な》れてるから」
ちよ「マンションにくらべりゃ、このうちは寒いわよ。チャンチャンコ、貸そうか」
雪子「すみません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、チャンチャンコを取りに立つ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎(声)「ごめん下さい」
節子・洋子「ハーイ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]洋子、口をモグモグさせながら、立ってゆく。
●玄関[#「玄関」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]洋子、口を動かしながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「どうぞ! 開いてます!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]きしみながら、戸が少し開く。
[#1字下げ]のぞく黒崎の顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「あの、マフラー」
洋子「あ、すみません。ねえ、マフラー忘れたって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]障子があいて、節子がのぞく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「あら、黒崎さん」
洋子「マフラー」
節子「おかしいわね。マフラーはお預りしたとき、コートのポケットに――」
黒崎「え? あ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎、コートのポケットから、マフラーをズルズルと引っぱり出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「こりゃ、どうも」
節子「――(口の中で)まだ。これから――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]またしても節子、何やらサインの感じ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「あとで(電話する、とジェスチュア)」
黒崎「ども、おじゃましました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]すっとんでゆく。
[#1字下げ]洋子、しめる。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]良一、節子、雪子、洋子、入りながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「ね、今の人、なんてったっけ」
節子「黒崎さん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]チャンチャンコを手に入ってくるちよ。
[#1字下げ]良一に着せる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「あの人、ちょっと厚かましいんじゃないかなぁ」
節子「どして」
洋子「だって、お父さんとさ、そんな親しかったわけでもないんでしょ。七回忌のさ、うちの法事にノコノコくるって神経|判《わか》らないな」
節子「それはね(言いかける)」
洋子「よくいるじゃない。結婚式だのお通夜《つや》っていうと必ず顔出して、ビールのんで、おすし食べてく人」
節子「あのねえ(言いかける)」
ちよ「そういうこというもんじゃないの」
洋子「帰りぎわにさ、もいっぺん拝んでったじゃない。『オレはこれだけ親しかったんだぞ』って感じで」
節子「そうじゃないのよ。黒崎さん、お父さんにあいさつしてたのよ」
一同「え?(アイサツ?)」
節子「ま、そんなとこも含めまして、ちょっとハナシがあンのよ」
雪子「あら、あたしたちもオハナシあるんだけど」
節子「え?」
良一「――お母さん、うちへこないか」
ちよ「だって、あんたのマンション、部屋数がさ」
雪子「子供が大きくなるとねえ、泥《どろ》がないと駄目《だめ》なんですよ。そいでね。今のマンション手放して、少し離れたとこに建売買おうってことにしたんですよ」
良一「お母さんはうちへくる。巴と洋子はこのうちの引越料を頭金にして、どっかのアパート探すのが一番いいんじゃないか」
雪子「到らない嫁ですけど(あいさつしかける)」
節子「ちょっと待ってよ。あのねえ(言いかける)」
ちよ「そういってくれるのはうれしいんだけどねえ。お母さん、もう決めたから」
一同「え? 決めたって」
ちよ「住み込みで家政婦やろうと思って――八百辰《やおたつ》さんに聞いてもらってるのよ」
一同「お母さん!」
良一「なにも家政婦するこたァないじゃないか」
雪子「そうよ。あたしたちが笑われますよ」
ちよ「そんなこたァないだろ。なにも、良一の名刺おでこに貼《は》って歩くわけじゃなし」
節子「ちょっと待ってよ。あのねえ」
良一「お前、さっきから、人の話の腰折ってばっかりいるけど、なんだよ」
節子「――縁談があンのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、大きいバッグから、ハトロンの袋を出しかける。
[#1字下げ]とたんに大テレの洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「やだ。あたし、あと一、二年は遊ぶっていったでしょ」
節子「誰《だれ》がアンタのだっていったの」
洋子「だって――巴姉さんは――半分決ってるようなもんだし――あと居ないじゃない」
節子「いるじゃない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、ちよを見る。
[#1字下げ]一同、アッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「(スッ頓狂《とんきよう》に叫ぶ)お母さん?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、吹き出してしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雪子「やだァ!」
良一「お母さん、いくつだと思ってンだよ」
ちよ「――親、からかうもんじゃないよ。お父さんの命日だってのに」
節子「命日だから、そいってンじゃない」
一同「?」
節子「マジメなハナシなのよ。年は六十五で、三年前に奥さん亡《な》くしてンの。小さいけど、会社の社長。――そういやあ判るでしょ。あたし、すっごくいい縁談だと思うけどな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、まだ判らない。
[#1字下げ]洋子だけが「ア」と小さな反応。
[#1字下げ]節子、大きなハンドバッグから、ハトロンの封筒を出す。
[#1字下げ]写真その他の書類を出す。
[#1字下げ]写真は黒崎《くろさき》。
[#1字下げ]マジメくさった正式の見合写真。
[#1字下げ]一同アッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雪子「あ、さっきの」
ちよ「黒崎さん!」
洋子「いま、あ、そうじゃないかなと思ったの」
良一「なんだ。凄《すご》くいい縁談ていうから」
節子「すごくいい縁談ですよ。ほら、みて経歴書。去年とおととしの納税証明書。財産目録。土地。預金――みてごらんなさいよ。ほら、兄さん!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]良一につきつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「フーン。かなり手広くやってるねえ」
節子「娘さん一人いるけど、もうとっくにかたづいてるし。自分のうちで、お手伝いもやといましょう。決して苦労はかけませんていうのよ」
ちよ「(何かいいかける)」
節子「老後のたくわえも、この通りありますから、仕事引退したら、二人で旅行でもしたい」
雪子「なあにこれ――」
洋子「健康診断書よ」
節子「ねえ、律義《りちぎ》な人でしょ。あたしねえ(言いかける)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]玄関の戸があく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「惚《ほ》れちゃったわねえ」
洋子「玄関あいたんじゃない」
ちよ「巴かい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]玄関のしまる音。
[#1字下げ]障子があいて巴が帰ってくる。
[#1字下げ]普通に振舞おうとしているが、どこかに無理とこだわりがある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「――ただいま」
良一「今日ぐらい早く帰れなかったのか」
ちよ「まあいいじゃないか。ごはん、まだだろ」
洋子「ごはんどこじゃないわよ。ね、凄いニュース!」
巴「なによ」
雪子「お母さんに縁談あったのよ」
巴「えッ! お母さんに」
雪子「年は六十五で個人企業だけど会社の社長さんで」
良一「――黒崎さんだよ」
巴「本気なの」
雪子「本気も本気。おねえさん通じてちゃんと書類|揃《そろ》えて、正式のお申し込みなのよ」
良一「(笑いながら)お母さんも捨てたもンじゃないねえ、え?」
洋子「あたしさ、お母さんなんて、チリガミ交換も持ってかない粗大ゴミと同じだ、なんていってたけど。ワルいことした」
節子「そうよ、あやまンなさい」
良一「適齢期の娘二人をさし置いて、プロポーズされたんだもんな」
雪子「悪い気しないでしょ。お母さん」
ちよ「やだよ。お母さん、いい笑いものだよ」
洋子「その割にはうれしそうじゃないの」
節子「そりゃ女は、いくつになっても、モテるってのはうれしいもンよ。お母さん、テレないで見なさいよ」
良一「大したもンだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、はしゃぎながら、書類を示す。
[#1字下げ]巴、その手を払うようにして、強い調子で言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「お姉ちゃんもお兄ちゃんも、そんなにお母さんの面倒見るの、やなの」
良一 /「おい巴」
節子 |「ちょっと、アンタ」
雪子 |「巴さん」
洋子 \「お姉ちゃん」
巴「この年で、お嫁にゆけってことは、ウバ捨てと同じじゃないの」
良一「おい」
雪子「巴さん」
節子・洋子「あのねえ」
巴「いいわよ、みんながそういう気持なら、お母さんの面倒はあたしが見ます! 母さん、一緒に暮そ。ネッ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]良一、カッとなる。
[#1字下げ]声を荒げて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「なんて言い草だよ。えッ!」
雪子「巴さん、少し言いすぎじゃないんですか。あたしたち、いま、お母さんにうちへきて下さいってそいってたとこなのよ」
節子「なによ、偉そうに、アンタ、普段からナマイキよ!」
ちよ「ちょっと。仏さんの前で兄妹《きようだい》げんかはやめとくれ(巴に)口に毒があるねえ。女のくせに、実もフタもない言い方すンだから」
巴「あたしが悪いっていうの?」
ちよ「よかないだろ」
巴「じゃあ、お母さん、お嫁に行きたいの」
ちよ「バカバカしい。苦労はいっぺんで沢山」
節子「あら、黒崎さん、ラクさせるってそいってンのよ。この一年、かげながら拝見してて、お母さんの人柄《ひとがら》に惚れたっていうのよ」
ちよ「惚れたハレタの年じゃないよ」
節子「年、関係ないでしょ。あたしねえ、マジメに考えていいと思うな。第一さ、こういうもの、全部揃えて、マジメに申し込むなんて人、そうそういないわよ。テレちゃってさ。そりゃ二枚目じゃないけど、あたし、惚れたなあ」
ちよ「惚れたんなら、お前、お嫁にゆきゃいいだろ」
節子「お母さん――」
ちよ「――巴と洋子、かたづけて、それでも長生きしてたら、茶のみ友達としてつきあって下さい。そういうことにしといておくれな」
一同「―――」
ちよ「巴。おまいり先だろ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、巴をうながして、仏前へすすませる。
[#1字下げ]巴、カネを叩いて合掌。
[#1字下げ]ちよもうしろで手を合せながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「――フフフ、黒崎さんて人も、物好きねえ。こんなおばあさんのどこがいいんだろ」
雪子「コートの袖裏のほころび、縫ってくれる人が欲しくなったんじゃないんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、まだ未練がましく書類を見ている節子に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「(やわらかく)しまっとくれ。お父さんがやきもちやくといけないから。ああ、やだやだ。こんどから女廃業って札下げて歩こ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]といいながら、ふっと女っぽい恥じらいがこぼれる。
●脱衣所[#「脱衣所」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]浴室の湯気でけむる鏡の前に、じっと立っている巴《ともえ》。着衣のまま、脱ごうともせず、鏡を見るでもなく立っている。
[#1字下げ]外から声をかけるちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ(声)「石けん、大丈夫? 新しいの、おろそうか」
巴「ううん、大丈夫(くぐもり声)」
[#ここで字下げ終わり]
●廊下[#「廊下」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]ちよ、声の気配で、巴が泣いていたことに気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「――お前、清村さんと、けんかでもしたんじゃないのかい」
巴(声)「ねッ! 振られた女も、結婚祝いって出すもンかな」
ちよ「―――」
巴(声)「(サバサバした口調で)清村さん、結婚するんだって」
ちよ「誰と」
巴(声)「看護婦。年は二十二で――あ、やっぱり石けん、ダメだ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、ガラス戸をあける。
[#1字下げ]巴の手が出る。
[#1字下げ]ちよ、石けんを掌《てのひら》にのせてやる。
[#1字下げ]スーと引っこんで、ガラス戸がしまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴(声)「あたしたちもさ、バアッと豪華にマンション買おうか。二十年のローンかなんかで――」
ちよ「そうだねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちよ、くもりガラスの向うの娘の影を見ながら、何か考えている。
●縁側[#「縁側」はゴシック体]
[#1字下げ]日曜日のひる。
[#1字下げ]足袋を干しているちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「(どなる)洗濯《せんたく》ものは、いいの? あとになって出したって乾かないよ」
洋子(声)「今日はいい」
巴(声)「あたしも――」
ちよ「おひる、なんにするの? ごはんは二人分しかないから、ラーメンでもつくろうか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]気配を感じてふりかえる。
[#1字下げ]外出支度の巴と洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「あら、あんたたち、出かけるの」
巴「ちょっと、友達ンとこ」
洋子「あたし、スキーの靴《くつ》、みに――」
巴・洋子「そこまで一緒にいこうか」
ちよ「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、出かけていく。
[#1字下げ]ちよ、また一人で足袋を干す。
[#1字下げ]手を休めて、考えごと。
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]良一と雪子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雪子「ハッキリ言えないから困ってんじゃないの。賛成っていやあ、姑《しゆうとめ》の世話するのやだから、追ン出そうとしてるっていわれるし、反対っていやあ、義理で、心にもないこと言ってるって思われるもの。あーあ思うことポンポンいえる娘、実の娘が羨《うらやま》しいわよ」
良一「ウーン」
雪子「アンタどうなのよ。掛値なしの本当の気持」
良一「ウーン」
雪子「この間から、うなってばっかりいるんだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ドア・チャイム。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雪子「ハーイ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ドアをあける雪子。
[#1字下げ]節子、巴、洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雪子「いらっしゃい」
節子「おじゃまします――(入りながら)あら、兄さんとこ、こんなにせまかった?」
良一「荷物がふえたんだよ」
節子「もう一つ、大きなお荷物背負おうかどうかって瀬戸ぎわよ。なんていうとまた巴がカッとなるけど」
巴「今日は徹底的に話し合おうじゃないの」
節子「ね、ここへきてること、気がついてるかな? お母さん」
洋子「買物にいくっていってきたから」
節子「それじゃあ大丈夫。では――(と勢いこむが)――おなかすいてない?」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]佃煮《つくだに》をおかずにポソポソと昼ごはんを食べるちよ。
[#1字下げ]仏壇の方を見ながら食べている。
[#1字下げ]ふと気がついて、口を動かしながら立って、婦人雑誌をとる。頁《ページ》をめくって、
[#1字下げ]『女性体力テスト。あなたの肉体年齢は何歳か』
[#1字下げ]というページをさがす。
[#1字下げ]たたみにひろげて、やってみる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「『柔らかさのテスト。両足が通りますか』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]図面を見ながら、両手を輪にして、そこへ片足を入れる。
[#1字下げ]とても入らない。ウンウンいったあげく、引っくりかえってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「『お腹の力。両足で――数字がいくつ書けますか』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]図を見ながら、やるちよ。
[#1字下げ]あお向けにねて、足を揃えて空中に上げ、『1』『2』『3』の数字を空中に書くテスト。
[#1字下げ]『1』を書くのがやっとで、頑張《がんば》るが、バタンと足がおっこちる。
[#1字下げ]ハアハアいっている。
[#1字下げ]エンピツをさがして、広告の紙の裏にメモをして、次にゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「『腕の力のテスト。足を引きずって歩けますか』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]両手をたたみについて、のばし、足を引きずったまま前進する。
[#1字下げ]もちろん、すぐへたりこむ。
[#1字下げ]たたみにアゴをつけて、ハアハアいっている。
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]良一、雪子、節子、巴、洋子が、店屋物《てんやもの》を食べ終ったところ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「あたしねえ。こやって集ること自体、バカげてると思うな」
節子「どうして」
巴「だって、お母さん、『ゆく』わけないもン」
洋子「そうかな」
巴「お母さんの性格、考えりゃ判るじゃない」
節子「そりゃ世間体とか、あたしたちに対する遠慮があるからよ」
雪子「おみかん、小さいのしかないわ」
節子「気を使わないで頂戴《ちようだい》よ、雪子さん。食べにきたんじゃないんだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]と、いいながら、真先にとって、皮をむく。汁《しる》を飛ばしたらしく、アッと洋子が目を押える。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「お姉ちゃん――」
節子「みかんのおつゆが飛んだぐらいで、さわぎなさんなよ。女の一生の相談してんだから」
洋子「女の一生もいいけど、ああ、しみる――」
節子「あたしね、お母さんを、もいっぺんお嫁にやりたい気、してンのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]良一、みかんに手をのばしながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「そりゃ、オレもチラッと思うね。このまま終ったんじゃあ、女としてちょっと可哀《かわい》そうかな、ってね。お父さんも悪い人間じゃなかったけど――身勝手だったからねえ。自分の仕事がうまくいかないと、お母さんに当ってさ」
節子「お金の苦労はお母さん。もうかった時派手に使うのは自分だけ――(洋子に)お酒に飲まれちゃうタチでね、お母さんに、これ(暴力)やるのよ」
良一「あれ、小学校の二年生か三年のときだったなあ。おふくろさんにね、一緒にうち出ようって言ったことあるんだよ。おふくろさん、おやじにブン殴られて、腫《は》れたほっぺた冷しながら――お父さんが出てけっていうのは、『出ていくな』、『うちにいてくれ』そういうことだっていうんだよ」
節子「あれ、兄さんも言われたの」
良一「なんだ、お前もいわれたのか」
節子「あたしね、芸者さんになって――お母さんたべさせるから、うち、出ようって――」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]体力テストをつづけているちよ。
[#1字下げ]電話帳を二冊、たたみの上に重ね、目覚し時計をにらみながら、その上で両足をひろげる。
[#1字下げ]パッと飛んで空中で両足のかかとをパッと合わせ、またもとの所にもどる。これを、早いスピードで反覆する。など、いろいろ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子(声)「お父さん。お母さんに指環《ゆびわ》なんて買ってあげたことなかったもンね」
巴(声)「指環どころか、きものだって――」
洋子(声)「あたし、お母さんのショールっていえばエンジの――」
節子(声)「ずうっとあれ一枚だったわよね」
洋子(声)「お母さん、京都も奈良《なら》も知らないし――」
節子(声)「お父さん、どこへも連れてかなかったから。あたしね、こんどの黒崎《くろさき》って人がどんな人間か、つきあってみなきゃ判《わか》んないけどね、一緒に旅行したり、もの買ってもらったり――そういう女として、フワッとした気持、味わせてやりたいって思うんだなあ」
[#ここで字下げ終わり]
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]良一、雪子、節子、巴、洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「お嫁にゆかなくたって出来るでしょ。あたしたちが親孝行すりゃいいんじゃないの」
良一「無理だね。お母さん、子供からもらった金じゃ、ゼイタク出来ない人間なんだよ」
洋子「――お母さんて、いつも指の先で、エプロンのポケットの中の五円玉、十円玉かぞえながら生きてるとこあるじゃない。あたしねえ、一度ぐらい、お母さんにゆったりした気持で、お金使わせたいな――」
巴「――それ、しあわせかな」
良一「ヤキモチやくなよ」
巴「お兄ちゃん! なんで、あたしがヤキモチやくのよ。そっちこそキレイごといってるけど、年寄り背負いこむの、やなんじゃないの」
良一「おい!」
雪子「ほらほら二人とも――」
巴「――あわてることないわよ。あと二、三日してごらんなさいって、お母さん、ちゃんと断ってくるって」
洋子「そんなことしたら『お父さんが化けて出る』」
巴「判ってるじゃない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]電話のベル。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一同「ハーイ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]と、いったものの、みかんを口の中に押し込んだところ。
[#1字下げ]良一が受話器をとる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「片倉です。――あ、お母さん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]節子、自分たちがきていることは内緒にして、というサイン。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]たたみにペタンとすわったちよ。電話している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「あ、この間は、お経料、心配してもらってすみません。そっちに、みんな、集ってンじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]良一のまわりに鈴生りになっている一同。一斉《いつせい》にいないというサイン。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「――いや。きてないよ」
ちよ「あら、そっちへいったとばっかり思ってたんだけど――フーン。いってないの」
一同「―――」
良一「誰《だれ》もいないよ」
ちよ「じゃあ、あんた一人?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]雪子、自分もいないというジェスチュア。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「うん――子供連れて、買物にいった――」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]ちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「実はねえ。この間のハナシだけど」
良一「この間の――ああ、縁談のこと?」
ちよ「あれねえ――おつきあいしてみようかな、って思ってンだけど」
[#ここで字下げ終わり]
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]おどろく良一。そして一同も目引き袖《そで》引き――
[#1字下げ]洋子の如《ごと》きは、食べかけのみかんにむせて、声を出しかけ、巴たちが折り重なって口を押えたりしている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「つまり、結婚を前提にしてつきあうってことかな?」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]ちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「いい年してきまり悪いけどさ。お母さん、『ラク』したくなっちゃったのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]電話機の横にちよのテストの採点表。
[#1字下げ]広告の裏には、
[#1字下げ]足の力 五十代。
[#1字下げ]腕の力 五十代。
[#1字下げ]すばしこさ 四十代。
[#1字下げ]体のやわらかさ 六十代。
[#1字下げ]などの採点がしてある。
[#1字下げ]そして意外に醒《さ》めているちよ。
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]電話を切る良一。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「『ラク』したくなったって――」
一同「――(沈黙)」
巴「本心じゃないわね。お母さんさ、みんなの負担になンのいやで――ウバ捨て山の代りにお嫁に行くのよ」
洋子「でも、半分位は本当じゃないの。誰だってラクしたいもの」
節子「――ヘンなもンね。お母さんに、お嫁にいってもらいたいなんて思ってたくせに、『いく』っていわれると、なんてのかな、ちょっとヘンな気持――」
良一「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、少し釈然としない感じ。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]洋子に肩にトクホンをはってもらっている、ちよ。
[#1字下げ]手も足もはっている感じ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「なんでそんなに急に体が痛くなったのよ」
ちよ「どうしてだろうねえ。アタタ」
洋子「こんなことじゃお嫁にゆけないわよ」
ちよ「ほんとだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入りかけた巴《ともえ》。固い表情で、母を見る。
●病院・薬局[#「病院・薬局」はゴシック体]
[#1字下げ]白衣姿で調剤している巴。
[#1字下げ]ガラスの小窓が外からノックされる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「(細目にあけて)お薬だったら、3番に札を出して下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]といいかけてアレ? となる。
[#1字下げ]外来者のちよ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「お母さん――」
ちよ「健康診断の申し込みって、何番の窓口なの?」
巴「あっちの12番だけど――お母さん、受けるの?」
ちよ「(うなずく)そりゃお前、向う様だって健康診断書、見せて下すったんだもの。あと、歯を直して」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]行きかけて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「巴、お前、もちっと、お化粧した方がいいよ」
巴「え?」
ちよ「なんか、お前、利口そうにみえるよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手をふって行ってしまうちよ。
[#1字下げ]うしろから肩を叩《たた》く同僚の中島保二(35)。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
中島「あの人? お嫁にゆくってお母さんは」
巴「まだ決ったわけじゃないけど」
中島「――なんか――キレイだねえ」
巴「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]鏡台の前で、顔をパタパタ叩いてマッサージしているちよ。
[#1字下げ]うしろに立つ巴。マニキュアをひったくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「黙って人のもの使わないで――」
ちよ「あ、ちょいと小指にためしただけじゃないか。ごめんなさいっていってるじゃないか。すぐ怒ンだから――」
巴「マッサージしたって、気持のしわは伸びないわよ」
ちよ「うまいこというねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あまり気にしていない感じで、合せ鏡をしたりしている。
[#1字下げ]タンスをあけ、いろいろな色の衣裳《いしよう》をとり出し、あててみる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
卓也《たくや》(八歳の声)「ボクノオバアチャン、オヨメニユクトイッタラ、ハラクンヤ、キイチクンヤ、マツモトクンガ、ウソツキトイイマシタ。ケンカニナッタラ、ボクハミンナニヤラレマシタ」
[#ここで字下げ終わり]
●良一のマンション[#「良一のマンション」はゴシック体]
[#1字下げ]良一、雪子。
[#1字下げ]次男の卓也の作文をみている節子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
卓也の声「ダカラボクハ、イマ、パパニボクシングヲナラッテイルノダ。二ネン四クミ カタクラタクヤ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]顔に赤チンとバンソウコウで口惜《くや》しそうにムッとしている卓也。
[#1字下げ]大笑いの大人たち。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「うまくいってンのかねえ」
節子「時々おデイトなんかして、結構、やってるみたいよ」
雪子「巴さん、相変らず反対なの?」
[#ここで字下げ終わり]
●喫茶店[#「喫茶店」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ちよと黒崎が向い合ってすわっている。
[#1字下げ]固くなっている黒崎。
[#1字下げ]ちよの方が少しゆったりしている。
[#1字下げ]コーヒーに砂糖をいれたりしている黒崎。
[#1字下げ]何かハナシをしている。
[#1字下げ]少し離れた所からみている巴と洋子。
[#1字下げ](洋子が巴を引っぱってきたらしい)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「あたし、帰る――」
洋子「怒ることないでしょ。あとでワッておどかしてさ、黒崎さんにご馳走《ちそう》になりゃいいじゃない。かえって喜ぶって」
巴「やあよ。招ばれてもいないのに」
洋子「融通きかないな。だから恋人に振られンのよ」
巴「大きなお世話!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ムッとして巴が立ちかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「シッ!(突つく)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黒崎がテレながら指環のケースをちよに差し出している。
[#1字下げ]ちよ、あわてて辞退している。
[#1字下げ]黒崎、ケースをあけて中をみせ、大したものじゃないといった感じで受取ってもらおうと汗をかいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「ダイヤかな――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]巴、立って出てゆく。
●縁側[#「縁側」はゴシック体](夜中)
[#1字下げ]パジャマにセーターを引っかけてトイレに起きた感じの巴。
[#1字下げ]茶の間にあかりがついているのに気づく。
[#1字下げ]そっとのぞく。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜中)
[#1字下げ]あね様かぶりにたすきがけのちよが押入れの整理をしている。
[#1字下げ]古い所帯らしく、アメ色になった掛け軸の箱や、青の酒器、煎茶《せんちや》セットなどの箱。それを部屋に四つに分けて積んでいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「お母さん、何時だと思ってンのよ」
ちよ「起しちまったかい。あしたでもいいかと思ったんだけど、思い立ったら、もう、気になっちまってさ。あ、これとこれと、お前、どっちがいい」
巴「え?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ねぼけまなこで起きてくる洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
洋子「引越しなら、まだ先でしょ?」
ちよ「あ、ちょうどいいや。洋子はどっちがいい?」
二人「?」
ちよ「こっちがお兄ちゃんで、こっちが節子。ここにあるのが、お前たちにいく分なんだけどね」
洋子「なんだか、形見分けみたい――」
巴「よしなさいよ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]巴、ふと今までとは違った目で母を見る。
[#1字下げ]昼間の華やぎはなく、老いた母の姿がそこにある。
●病院・廊下[#「病院・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ベンチにすわっているちよと白衣の巴。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「やめるって――どういうイミよ。健康診断書もほら、ちゃんと」
ちよ「手数かけてすまなかったけど――お母さん、気が変ったんだよ」
巴「――じゃあ、黒崎さんとはもうおつきあい――」
ちよ「なかったハナシにしてもらうわ」
巴「どして? お母さん、乗り気だったじゃないの」
ちよ「死んだお父さんが可哀《かわい》そうになっちゃったのよ」
巴「―――」
ちよ「お父さん、生きてる間は、ほら、したい放題で、お母さんのこと、散々泣かせたろ。だから、お母さん、カタキ討ちしてやれ、と思う気持もちょっぴりあってさ――年寄と暮すと娘は益々《ますます》縁遠くなるっていうしさ。それと――住み込みの家政婦に行くよかいいと思ってね。あんたたち、差しおいて決心したんだけど――イザとなると、なんかっていうと、お父さんのこと思い出しちゃうのよ」
巴「―――」
ちよ「そりゃね、黒崎さん、本当にいい人だし、お金のゆとりがあるのはいいもンだよ。でもねえ、お父さんだって、好きで貧乏したわけじゃない。めぐり合せが悪かったんだ。そう思えてねえ。それと――」
[#1字下げ]ちよたちの廻《まわ》りを老人たちが行ききする。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]成人専門らしく、やたらに老人の姿が目につく。
[#1字下げ]一人でポカンとしている老人。老いた夫につきそう老いた妻。嫁につきそわれた老人など――
[#1字下げ]若い看護婦のピチピチした姿が、笑いながら足早に通りぬける。
[#1字下げ]そして、おなかの大きな妊婦とその若い夫。
[#1字下げ]赤ん坊、子供たち――
[#1字下げ]様々な、さながら人生アルバムに、ちよの声が重なる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよの声「結婚ていうのは、なんにもないところから――おかま一つ、お皿《さら》一枚のところからうちを作って、子供生んで育てて――そういうもんだと思うんだよ。でも、こんどのは――うちはある。子供生んで育てることもない――これじゃあ、よそのうちに死にに行く支度してるのと同じだって気がついたんだよ」
巴「お母さん――」
ちよ「――若いうちだよ、結婚は」
巴「――(うなずきながら)お母さん、この一月の間に、キレイになった」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ちょっとはにかんで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「――見られてると思うと、女はかまうんだね。ほら、こやってるときでも、手、こやって(マッサージ)るだろ。こんなスベスベになっちゃった」
巴「――あたしたちのシマのくつ下、この頃《ごろ》はかないもンね」
ちよ「ひとつぐらい、いいことなきゃ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]フフと笑って、ちよ、ヒョイと立ち上る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「ほら、立つ時ドッコイショって言わなくなったろ」
巴「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]良一と節子がきている。
[#1字下げ]ちよ、巴、洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「断ってほしいって――やだ、どういうの、これ」
三人「え?」
良一「実はね、ついさっき、黒崎さんに同じこと言われてきたんだよ」
節子「『誠に申しわけないが、このハナシ、なかったことにして頂きたい』」
洋子「――お母さん、振られたわけ?」
節子「そうじゃないのよ」
良一「黒崎さん、会社が倒産したんだよ」
三人「倒産!」
節子「親会社が急につぶれたんですってさ。アオリくって、バターン」
[#ここで字下げ終わり]
●喫茶店[#「喫茶店」はゴシック体]
[#1字下げ]やつれた黒崎が良一と節子の前で、顔を下げている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「苦労はさせないと言う約束が駄目《だめ》になりました。家も、使用人も、車も――みんな、手放して裸一貫から出直しです」
二人「―――」
黒崎「若いうちなら、先があります。だが私たちには、そう先がない。十年辛抱してくれ、とは言えません。それだけが、無念です」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]じっと下うつむく黒崎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
黒崎「短い間でしたが、枯木に花が咲きました。一生の思い出にします――」
二人「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]良一、ちよ、節子、巴、洋子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「セコい人かと思ったら、いや実にいさぎよくてさ、惚《ほ》れ直したなあ」
節子「でもさ、お母さん、運が強かったわよ。お嫁に行ったとたん、バターンじゃ、目もあてられなかったわ」
良一「まあ、こっちも断わるつもりでいたんなら、恨みっこなしとするか」
巴「『枯木に花』か――」
節子「お母さんの方もそうだったわねえ。色っぽくなったわよ」
洋子「これで一生威張るな。『お母さん、六十二の時に見染められて、プロポーズされたんだよ』なんてさ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]子供たち、笑う。
[#1字下げ]一人だけ笑わないちよ、ポツンと言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「良一」
良一「うん?」
ちよ「――ねえ、お母さん、お嫁に行っちゃ、いけないかねえ」
一同「え? あの黒崎さんとこ?」
ちよ「(うなずく)」
節子「なに言ってんのよ。黒崎さんとこつぶれたのよ。アパート一間で、人もおかずに裸一貫からやり直しだって。わざわざ苦労しにゆくことないでしょ」
ちよ「(首をふる)ううん。お母さん、そのほうがお嫁にいった気がするね」
一同「え?」
ちよ「張り合いがあるじゃないか。それに、お金に目がくらんだんじゃなけりゃ、死んだお父さんもひがまないしさ」
一同「――お母さん」
ちよ「羽ぶりのいい時なら、コートの裏が破けてたって、男はみじめじゃないんだよ。今は、誰かつくろう人がいた方がいいよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
巴「――お兄ちゃん。オッチョコチョイの母親ですが、もらって下さいますかって――言ってきて――」
良一「アレ? お前、反対じゃなかったのかい」
巴「――あたしも気が変ったの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、笑いのうちに。
●玄関[#「玄関」はゴシック体]
[#1字下げ]留袖《とめそで》でかけこんでくる節子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「ごめんなさい、車がこんで――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「あら――いいじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]華やかにめでたい投げ入れの花。
●茶の間[#「茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]良一、雪子、巴、洋子。
[#1字下げ]とびこむ節子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
節子「あら、お嫁さんは」
巴「それがねえ、なんか探しもの、してンのよ」
節子「お母さん、なに探してンの」
洋子「言いなさいよ、なによ」
巴「あとでとどけて上げるから」
ちよ(声)「あった、あった」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]色紋付のちよ、出てくる。
[#1字下げ]手に一通の書きつけ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「(良一に)良一、すまないけど、これと同じようなの、一筆、書いとくれよ」
良一「電気|洗濯機《せんたくき》の保証書じゃないか」
ちよ「ここンとこさ」
良一「『保証期間内(お買上げの日より一ケ年間)に、正常なる使用状態において、万一故障した場合には、無料で修理いたします』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「一年以内に病気したらさ。悪いけど、こっちで面倒みておくれよね」
巴「お母さん、バカだなあ(涙が出てくる)」
節子「(これも涙声で)なにがバカよ、女って、そういうもンなのよ」
洋子「―――」
良一「あとでちゃんと一筆かいてとどけてやるよ」
ちよ「それからさ――」
良一「お父さんのお位牌《いはい》だろ」
ちよ「それは持ったの」
一同「え? お位牌、持ってくの」
ちよ「黒崎さん、いいっていったから」
巴「すごいお嫁さんだな」
洋子「早くいかないと、車込むわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]立ち上りかける一同の前に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「ちょっと待っとくれな」
洋子「また、さがしもの?」
節子「ご不浄なら、裾《すそ》持とうか」
巴「出がけに、いつもこうなんだから」
ちよ「そうじゃないよ。あの――(改って)『長い間――』」
一同「(キョトン)」
ちよ「『長い間、いろいろ、ありがとうございました』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、笑いと涙が、いっぺんにこみ上げる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
良一「なにやってンだよ」
節子「それは、お嫁にゆく娘が親にいうことばじゃないの」
ちよ「お母さん、親はもう生きてないもの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一同、シュンとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「人があいさつしてンのにさ」
節子「――お母さん、体だけは大切にね」
巴「辛《つら》かったらいつでも帰ってらっしゃいよ」
雪子「待ってるのよ。お母さん」
洋子「やだ。親のいうセリフ、子供がいってる」
良一「――お母さん。黒崎さんに可愛《かわい》がってもらいなよ」
ちよ「うん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]良一、さあいこうとうながす。
[#1字下げ]一同、ちよ、出てゆく。
●玄関[#「玄関」はゴシック体]
[#1字下げ]出てゆきかけたちよ、例のギューと鳴るところを踏む。目をつぶる。もういっぺん、足袋が踏む。ギュウと鳴る。一同、じっと見ている。
[#1字下げ]雪子がたたきに下りて、ぞうりの鼻緒をゆるめて待っている。黒光りして、きしむ玄関の上りがまち。
[#1字下げ]ちよの白足袋が、ふととまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ちよ「あ、そうだ」
一同「なによ」
ちよ「はばかりの窓の戸締りと、ガスの元栓《もとせん》、したかい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]女たち一斉に、
[#1字下げ]「とめたわよ」
[#1字下げ]「大丈夫よ」
[#1字下げ]「早く早く」
[#1字下げ]「ヘンなお嫁さん」
[#1字下げ]にぎやかに出てゆく一同。
[#1字下げ]巴がヨイショと格子戸をあけ、しめる。
[#1字下げ]おもてから、カギをかける音。
[#1字下げ]色とりどりの晴れ着と笑い声がガラスの向うに遠ざかってゆく。
[#改ページ]
当節結婚の条件
[#改ページ]
当節結婚の条件
TBSテレビ(東芝日曜劇場)
一九七九年一月一四日
●スタッフ
プロデューサー―石井ふく子
演出――――――柳井満
●キャスト
汐見悦子――――十朱幸代
汐見順造――――船越英二
高森寛治――――下条アトム
鎌内良彦――――寺泉哲章
三好達男――――織本順吉
[#1字下げ]        *
春川ハル――――水谷良重
[#改ページ]
●タイトル[#「タイトル」はゴシック体]
[#1字下げ]タイトルの一隅《いちぐう》に、素人《しろうと》のとった八ミリの結婚式風景が入る。
[#1字下げ]花嫁に腕を貸して、ヴァージン・ロードを進む父親。
[#1字下げ]バイブルに手をあてた宣誓。
[#1字下げ]指環《ゆびわ》交換。
[#1字下げ]新郎新婦の記念撮影。
[#1字下げ]仲人《なこうど》の紹介、ならんで立つ二人。
●おでん屋「はる川」二階[#「おでん屋「はる川」二階」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]壁に八ミリのつづきがうつっている。
[#1字下げ]フィルムをまわしているのは、花嫁の父三好達男(54)。
[#1字下げ]見物は、友人の汐見順造(54)と「はる川」のおかみのハル(37)。
[#1字下げ]フィルムは来賓の祝詞を受ける新郎新婦。
[#1字下げ]聞いている父の三好、ハンカチを目にあてる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造(声)「ほうらきた! このへんから、駄目《だめ》になったんだよ、な」
三好(声)「いやあ、吉岡先生が殺し文句、いうからさ」
ハル(声)「吉岡先生って――」
順造(声)「お嬢さんとりあげた、婦人科の先生――ああ、まただ。あーあ。あーあーあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]泣いている三好。
[#1字下げ]見物の二人も、こみ上げている。
[#1字下げ]順造も、泣いている自分のテレかくしでひやかしている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三好(声)「意地悪いんだよ。新郎新婦とるよかこっちの顔をうつしてンだもの」
順造(声)「それが狙《ねら》いなの――いい記念になるよ、あーあ、盛大だねえ。あー。もうどうしようもない――ああ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]両親に花束贈呈。
[#1字下げ]親におじぎをする新郎新婦。
[#1字下げ]泣く父親。
[#1字下げ]フィルム、切れてしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三人「アッ!」
順造「切れたの?」
三好「もうおしまい。みっともなくてしょうがないよ」
ハル「よかったわよ。最高!」
順造「何度見ても、いいよオ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、電灯をつける。
[#1字下げ]明るくなる室内。
[#1字下げ]住まいになっているので、せまい中にタンスなどのつつましい家具。
[#1字下げ]出窓には洗濯《せんたく》もの。
[#1字下げ]三人、ハナをすすって、争うようにそばのティッシュの大箱に手をのばす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「ありがとうございました。ステキなの、見せていただいて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、盛大にハナをかみながら、頭を下げる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三好「あれ、おハルさん――」
順造「お前さん、泣くことないじゃないの」
ハル「駄目なのよ。こういうの見ると――もう駄目。結婚式――駄目、幼稚園の運動会――駄目。ほらテレビやなんかで子供がピアノのお稽古《けいこ》してるじゃない。あれ見ても、涙がファー」
順造「泣く」
ハル「自分がやりたくても出来なかったもの見ると――駄目なのねえ」
三好「幼稚園の方は『なに』としても、結婚式の方はのぞみあるじゃないの。――いずれは? え?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三好、二人の顔を見くらべて――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「その前にさ、あっち片づけないとねえ」
三好「そりゃまあ、モノには順番があるけどさ」
板前(声)「おかみさん!」
ハル「いまいきます! いま、いくウ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三好、映写機を片づけながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三好「――人のこと、笑ってるけどな、おまえだって、泣くんだよ。悦ちゃん時、オレ、絶対|仇討《かたきう》ち(フィルム)廻《まわ》してやるからな」
[#ここで字下げ終わり]
●階段[#「階段」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]三人、急な階段をおりてゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「早く仇討ち、されたいよ、三十になろうてのに、まだ――(言いかけて)――実はね、今晩呼んであるんだ」
三好「悦ちゃんをか」
順造「まさか――取引先で、いいの、めっけたんだよ」
三好)「男か?」
ハル  「悦子さんのお相手?」
順造「(二人に)見てもらおうと思ってさ」
[#ここで字下げ終わり]
●おでん屋「はる川」[#「おでん屋「はる川」」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]先に出てくるハル。
[#1字下げ]二、三人入っている客に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「いらっしゃいませ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]つづいてさりげなく出てくる順造と三好、隅《すみ》の方に坐《すわ》りながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三好「悦ちゃんの――出版社――どうなの、景気は」
順造「あんまりよくはないらしいけどね。(板前に)あ、いつもの」
[#ここで字下げ終わり]
●坂本出版・編集部ドア[#「坂本出版・編集部ドア」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]編集部のドアにも壁にも、赤いはり紙。
[#1字下げ]計画倒産を許すな、団結せよ!
[#1字下げ]などのスローガン。
[#1字下げ]ドアのところに食べ残りのラーメンのドンブリ。
[#1字下げ]光りのもれているドア。
●編集部[#「編集部」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]編集部員、いずれも、スローガンを書いた赤|鉢巻《はちまき》。
[#1字下げ]汐見悦子(30)と恋人の高森寛治(28)を中心に編集部員の前田守(45)、竹島厚子(25)、真下たつ子(35)、津田恭一(32)が、社長の坂本(50)に迫っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
坂本「君たちの言い分はよく判《わか》った。しかしねえ、ない袖《そで》は振れないんだよ」
一同「社長!」
坂本「発言は、執行委員長及び副委員長の二名に限るという約束じゃなかったかね」
寛治・悦子「社長」
寛治「委員長、――(ゆずる)」
悦子「この際、著者に対する未払い原稿料を全く棚上《たなあ》げにすることは、自殺行為です。銀行管理のもとに、会社を再建して、再び出版の仕事をするのであったら、たとえ、三分の一、五分の一を、半年、一年かかっても、キチンと支払いをして、社としての誠意を見せないと」
坂本「そうなると、社員の月給は払えんねえ」
一同「社長!」
坂本「発言は二名!」
寛治「社員の生活は限界にきてますよ、あとはサラ金あるのみ!」
悦子「サラ金は自殺行為よ。社長、この際、私財をなげうっていただきたいんです」
坂本「あの」
悦子「あたしたち、自分の貯金をさげて、原稿料払えない著者のとこ、自前でクッキー買って、頭下げて、書いていただきました。社長、三ケ月前に奥さん名義にした、ゴルフ場の会員権だって」
坂本「君は人のプライバシーにまでくちばし入れるのか」
悦子「入れたくないけど、背に腹はかえられないんです」
寛治「このままじゃ、サラ金あるのみ!」
悦子「副委員長は黙って。人生のスタートを、サラ金では出来ないわよ」
坂本「人生のスタート!」
悦子「あたしたち結婚するんです!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うしろの一同「やっぱり」とか「へえ」とかの声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
坂本「執行委員長と副委員長の結婚か、こりゃ倒産もひとつぐらいは功徳《くどく》があったわけだ」
寛治)「カンケイないすよ」
悦子  「カンケイありません!」
坂本「とにかくおめでとう。しかし、だから、遅配してる月給払えっていうのは」
悦子「社長!」
坂本「酷な言い方だが、こういう時期に結婚するなんて、ゆとりのある証拠だよ」
悦子「ちがいます!」
坂本「わたしなら、先にのばすね」
悦子「ゆとりがないから結婚するんです。待てないんです」
坂本「(何かいいかける)」
悦子「子供が生れるんです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]そばの寛治、グウとのどをならしたきり、凍りつく。
[#1字下げ]うしろの応援団も、一瞬、化石になる。
[#1字下げ]ポカンとしている社長。
[#1字下げ]思わずいってしまった悦子だけが、ガックリしながらハアハア言っている。
●「はる川」の店[#「「はる川」の店」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]カウンターでならぶ順造がいかにも若いエリートらしい鎌内良彦《かまうちよしひこ》(30)についでやっている。
[#1字下げ]カウンターの端でハルのお酌《しやく》でのみながら、順造たちを見て、OKのサインを出す三好。
[#1字下げ]うなずく順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
鎌内「出版関係といいますと、どういった本を」
順造「ベストセラーってやつとは縁が遠いんだが何ていうか――こういうんだねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]おしぼりをギュッとひねる。
[#1字下げ]鎌内もまねをする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
鎌内「こういう」
順造「良心的で、ひとひねりしたものが多いんだねえ」
鎌内「ああ、ひねった――ですか」
順造「ねころがってよむって本じゃないけど、半年一年たっても、古本屋には売れない、売りたくない本だねえ」
鎌内「なるほど」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]向うで、三好とハルが小さく手招きしている。
[#1字下げ]会釈《えしやく》して立ってゆく順造。
[#1字下げ]順造、三好の横に立つ。
[#1字下げ]ハル、腹話術師のように、口を動かさず囁《ささや》く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「三好さんがヘタクソって」
順造「え?」
ハル「リクツ言ってる閑《ひま》に、酔っぱらっちまえって」
順造「え?」
ハル「ヘベレケになって、送ってもらうのよ」
順造「あ、うち連れてって、悦子と逢《あ》わせる――」
ハル「三好さんときは、夜中に雪降ったんだって」
順造「雪――」
三好「※[#歌記号、unicode303d] 雪やこんこん
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]あられやこんこん」
ハル「――仕方ないから、泊めたんだって。それがさっきのオムコさん」
順造「あ、なるほど――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、急にフラフラしてみせる。
[#1字下げ]ハル、さりげなくポケットに入れてやる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「(囁く)はい、カゼぐすり――それから、トイレットペーパーとおしょう油、ぼつぼつ切れる時期よ。それから、ほら、あっちの方の定期――大口の方の――満期だから――城西の方へ移すでしょ。手続き(しなくちゃ)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小さくうなずいて、順造、フラフラしながら、鎌内のそばへもどってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「いやあ、酒ってやつは、立つといっぺんに廻るねえ」
[#ここで字下げ終わり]
●坂本出版・編集部[#「坂本出版・編集部」はゴシック体]
[#1字下げ]悦子が全員から握手攻めにあっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
前田「さすがは委員長!」
真下「『子供が生れます!』ブチかましとしちゃ最高!」
津田「日教組のマキエダさんに教えてやりたいよ」
竹島「カンちゃん、かわいそだったけどさ」
寛治「※[#歌記号、unicode303d] お国のためだ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
[#2字下げ]かまわずに
[#1字下げ]の心境」
前田「カンちゃん、やさしいから」
真下「ガマンしてくれるよねえ」
前田「これじゃ、社長もなんとかしないわけにゃいかないよオ」
一同「最高! 委員長! この調子でたのンまっせ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ニコニコして握手を受けている悦子。
●夜の道[#「夜の道」はゴシック体]
[#1字下げ]歩いている悦子と寛治。
[#1字下げ]寛治、まだ笑っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「イザとなると、女は強いよなあ」
悦子「―――」
寛治「ああいう嘘《うそ》が、ポンと出てくるもンなあ」
悦子「――嘘だと思ってンの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]寛治、ドキンとするが、まだ半信半疑の笑いで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「この際さ、そういうカラい冗談なしにしようよ」
悦子「―――」
寛治「ほんとなの?」
悦子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]寛治、うれしいのだが、反面怒りもこみあげる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「悦ちゃん。そういうことは、赤んぼが出来たってことは、人生――いや、オレたちの間の――すごく重大なことじゃないか。どして、オレに、誰《だれ》もいないとこで、オレだけに言わないんだよ。みんなの前で、一番先に社長に言うなんて、どういう(言いかける)」
悦子「あれ、あたしが言ったんじゃないのよ」
寛治「―――」
悦子「あたし――病院、行くつもりだったの。結婚のこと、父にも言ってないし、会社はつぶれるし、いま生れてきたら、子供|可哀《かわい》そうですもん。あなたにも内緒で、そういうつもりでいた――それなのに、気がついたら言ってた」
寛治「―――」
悦子「あれ、あたしが言ったんじゃない。おなかの子供が、(間)言ったのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、少し黙っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「――帰り、君のうち、寄ってもいいかな。オレ、お父さんに、言うよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、少し考えている。
[#1字下げ]決心して、うなずく。
[#1字下げ]はにかんで――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「三つのうち、今晩は二つだけじゃダメ?」
寛治「会社がつぶれました。結婚させて下さい」
悦子「(うなずく)」
[#ここで字下げ終わり]
●汐見家・玄関[#「汐見家・玄関」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ベルを押す悦子。
[#1字下げ]うしろの寛治、襟《えり》や髪の毛などを気にする。
[#1字下げ]玄関の格子戸《こうしど》の曇りガラスの奥の小さな電灯が明るく変る。
[#1字下げ]寛治、咳《せき》払い。
[#1字下げ]戸があく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「ただいま」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて――アレ? となる。
[#1字下げ]出迎えたのは鎌内。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
鎌内「お帰りなさい――」
悦子「え?」
鎌内「あ、お帰りなさいってよか、おじゃましてますかな」
悦子「あの――」
鎌内「あ、ども――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]鎌内、悦子のうしろの寛治に気づいて、モタモタする。
[#1字下げ]奥から順造の声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造(声)「悦子か? 悦子! なにグズグズしてンだ。早く上ってきなさいよ。別に固苦しい見合いじゃないんだから。第八商事の鎌内クンだ。若いけど、係長(言いかけて)酔っぱらっちまってさ、送ってきてくれたんだ。あ、鎌内クン、娘の悦子。坂本出版編集部勤務、賞罰ナシ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]フラフラしながら順造が出てくる。
[#1字下げ]外をよく見もせず、柱に抱きついて、よっぱらったフリでまくし立てる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「どうも、なんだねえ。男として一番手はやっぱり政治、経済の方に集まるねえ。そこいくと出版社なんてのは、男としちゃ三番手が集まるんじゃないの。こういうエリート見つけないから、びっくりして引きつけ起したんじゃないかと」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、アレ? となる。
[#1字下げ]立っている悦子のうしろに男の姿。
[#1字下げ]そして、バツの悪そうな鎌内。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「はじめまして、悦子です。あの――こちら――編集部の」
寛治「執行部副委員長の――高森です」
順造「え? どうも、こりゃ――ハハ、どうも」
[#ここで字下げ終わり]
●汐見家・門[#「汐見家・門」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]帰ってゆく鎌内。
[#1字下げ]ちょっと振りかえって、「なあんだよ」という感じ。
●玄関[#「玄関」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]昔風な玄関に、悦子のブーツとならんで、寛治のウエスタン風なブーツが寄りかかるように、支えあって、へたり込んでいる。
[#1字下げ]通りがかる順造、ひょいとのぞいて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「なんだ。馴《な》れ馴れしいねえ。(ブーツ)なんだい、こりゃ。西部劇やってンじゃないんだぞ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]男女のブーツを、手荒く引き離す。が、またもつれ合って倒れてしまう。
[#1字下げ]もっと手荒く引き離す順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子(声)「お父さん! どうしたの? トイレ?」
順造「うん――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、玄関の方へゆきそびれて、客間のところで用ありげにうろうろしてから、客間の方へ入ってゆく。
●客間[#「客間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]襖《ふすま》を開けて入る順造。
[#1字下げ]誰もいない。
[#1字下げ]隣りの茶の間の掘りごたつに入っている寛治。
[#1字下げ]茶の支度をしている悦子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「なんだい。こっちじゃないのか。そんなとこじゃ、お客さんに失礼じゃないか」
悦子「いいのよ。そっち寒いもの――」
順造「それにしたってさ(小さくブツブツ)はじめて――いきなりこたつ、入る方も入る方だよ」
悦子「(茶をドビンに入れながら)あ、いけない。帰りにトイレットペーパー買おうと思って――(忘れた――)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]部屋の隅《すみ》にハトロンの袋に入ったトイレットペーパー。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「―――」
悦子「気が利《き》くなあ。お母さん、病気長かったでしょ、三年だった?」
順造「前後、入れりゃ、そんなもんかな」
悦子「お父さん、あたしなんかよか、うちのこと、気が利くのよ。こっちは夜の遅い仕事じゃない。あ、いけない、冷蔵庫の中で、レタス、いかれてるな――ハムも、もうダメだな――そう思っても、なかなか捨てるひま、ない時あンのよね。ところがさ、あけてみると、ちゃんと、卵とハムは、買い換えてある、レタスは捨ててあンのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、悦子の口を封じるように、わざと固苦しくあいさつする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「父でございます。いつも悦子がお世話になりまして」
寛治「いや、こちらこそ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、すわるが、わざとこたつに足を入れない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「お父さん――どしたのよ。(手で入ンなさいよ)」
順造「うん。いや――」
悦子「遠慮しなくていいのよ」
順造「お仕事は、どういう」
悦子「カン坊ねえ、イラスト(言いかける)」
順造「カン坊?」
悦子「高森さん、名前、カンジっていうのよ。そいでね、編集部じゃみんなカン坊」
順造「カン坊――」
悦子「仕事はイラスト」
順造「お前に聞いてンじゃないよ、こちらさんに」
寛治「イラストやってたんすけど、ここんとこは、執行部の副委員長」
順造「組合専従ですか」
寛治「あ、いや」
悦子「いま、全員そうなのよ」
順造「え?」
悦子「会社、つぶれちゃった」
順造「つぶれた? どして、そういうことを早く言わないんだ」
悦子「急だったんだもの。ねえ」
寛治「朝起きたら、バターンて倒れてたんすよ」
順造「台風のあとの植木じゃあるまいし、気がつかなかったのか、それまで」
悦子「ドタン場まで言わないんだもの」
寛治「計画的だな、ありゃ」
順造「じゃ、お前も。その組合の」
寛治「悦ちゃん、委員長」
順造「エッちゃん――(いちいち引っかかる)お前、委員長――やってンのか」
悦子「みんなでね、うちの社長、男だと威丈高になるけど、女には、弱いからって――お前やれって――」
順造「そういうことしてると、嫁のもらい手なくなるぞ」
悦子「そんなことないわよ」
順造「そうだよ。駅前広場いくと、トラックにのってやってるだろ。女がスピーカーで『なんとかがア』『カントカガア』(尻《しり》上り)マシな男は絶対に惚《ほ》れないね」
悦子)「あたし、そんな」
寛治  「悦ちゃん、そんな言い方、しないすよ、ねえ」
悦子「そうよ」
順造「しなくたってね。可愛《かわい》げがなくなるんだよ。それでなくたって、もう――なになんだから、嫁のもらい手」
悦子「あるもの」
順造「え?」
悦子「カン坊――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、ひじで寛治を突つく。
[#1字下げ]順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「(アレ?)」
寛治「あ、あの、ぼくたち、結婚」
順造「結婚」
寛治「結婚さ」
順造「さ」
寛治「させてく――いや、結婚し」
順造「し――」
寛治「結婚したいと――いや、結婚す」
順造「す」
寛治「結婚することになりました!」
順造「―――」
悦子「――あ、雪降ってきた! ウワア――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]外はチラチラ雪。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「(ガックリしている)」
[#ここで字下げ終わり]
●「はる川」二階[#「「はる川」二階」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ヤケビールをのんでいる順造。
[#1字下げ]そばで、店にはり出す大きな品書を書いていた感じのハル。
[#1字下げ]なかなかの達筆。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「随分、急だったのね」
順造「―――」
ハル「悦子さん、つきあっている人いるなんて気がつかなかったの?」
順造「ドタン場まで言わないんだもの――」
ハル「―――」
順造「計画的だな、ありゃ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ぐいぐいのむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「物には順序ってもンがあるよ。いきなり人のうち来て、コタツに入ってさ、『結婚することになりました』」
ハル「そいったの?」
順造「普通ならだよ。その前に二、三べん顔ぐらい見せてさ。『結婚、さ、させて下さい』『結婚したいと思います』そういうのが、スジじゃないのか」
ハル「このごろは、スジはおでんでも人気ないのよ」
順造「それ、いきなり『スルツモリです』」
ハル「サシ、スルスレ――ス――あれ、そんな活用なかったか」
順造「さしすせそが、逆だよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、「さしすせそ」と書く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「式の日どり急ぐのも気に入らない、男が年下ってのも気に入らない、もう、気に入らないことだらけだ」
ハル「年下ったって二つでしょ。二つぐらい、カンケイないわよ」
順造「あんなアスパラガスのどこがいいんだ」
ハル「あら、アスパラガスだって、太いのは高いわよ」
順造「安いやつだよ。細くて。(溜息《ためいき》)まあ、何とか先へのばして、出来たら、つぶしたいね、このハナシは」
ハル「ぼつぼつくるんじゃないの?」
順造「オレはここでいいよ。呼んだのは三好の奴《やつ》なんだから」
ハル「店、ゆくんだったら、そこの非常階段からおりて――入口の方から――ね。あ、それから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、メモを手渡して、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「けんかしないでよ」
順造「そんな元気、ないよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、おりてゆく。
[#1字下げ]順造、ごろりと横になり、メモを顔の上にのせる。
[#1字下げ]品書きと同じ字で、
[#1字下げ]買いもの、卵、トマト、みりん。
[#1字下げ]風呂《ふろ》タイル屋、至急連絡のこと。
[#1字下げ]電話料金払込み。
[#1字下げ]墓地管理費、送金。
[#1字下げ]など、書きこまれたメモ。
●「はる川」の店[#「「はる川」の店」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]三好の前に坐《すわ》っている悦子と寛治。
[#1字下げ]三好、二人に酒をすすめながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三好「急なはなしなんで、わたしもびっくりしてンだけどね」
悦子「こんな時から可愛がってもらってるの、父の高等学校時代からのお友達」
寛治「どうも」
三好「つとめの方は、どうなの。見通しとしては」
寛治「それが、どうも」
悦子「時間がかかりそうねえ」
三好「式はそっちのカタがついてからの方が、ハッキリするんじゃないの。いや、おじさんね、大きなお世話だけど、応援団としちゃ、こんなこと考えてたんだ。悦ちゃん、結婚して、あのうち出てくだろ。そしたら(言いかける)」
悦子「はじめは出てくつもりだったんだけど――つぶれちゃったでしょ、会社。部屋代もバカにならないから、会社の方、メドついてから出てもいいな、なんて――」
三好「それからじゃ、いけないのかね。式あげるの――」
二人(「うん――」
[#1字下げ] 「ちょっと――ねえ」
悦子「なんてのかしら、タイミングっていうか、その時をハズセないことってあるんじゃないかなあ」
三好「いや、今のまんまじゃお父さん、不便だろうと思ってさ、悦ちゃん、片づいたとこで、お次は、お父さんに身を固めてもらいたいって」
寛治「再婚てことですか」
悦子「誰《だれ》か、あて――」
三好「そんなの、ありゃ、ハタで気もまないよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]少し離れたところに立っているハル。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「お父さんの奥さんになる人、気の毒だな」
三好「――どして」
悦子「苦労すると思うんです。だって、凄《すご》いんですもの。冷蔵庫の中のもの――いま、何が入ってて、何はもういたんでる、いつも手帳にバッチリ書いてあるし、フトンワタの打ち直し、大掃除ン時なんか、雑巾《ぞうきん》から洗剤までビシッと、買ってくるでしょ」
三好・ハル「―――」
悦子「奥さん、出る幕ないわよ」
三好「あ、そうお」
悦子「男がよくこんなとこまで気がつくって位に」
ハル「あの、何かお持ちしましょうか(おでん)」
三好「何か――悦ちゃん、アンタも」
悦子「そうねえ、カン坊――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]品書の字を見上げて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「そうだなあ、あの、これ、誰が書いたの――字?」
ハル「――あたしですけど」
三好「ママさん、習ってるもんな」
寛治「やっぱり習った字なのね」
ハル「はじめは、ひとに書いてもらってたんですよ。でも、もったいないと思って、お礼が。お月謝の方が安いんですもの」
悦子「えらいなあ」
ハル「ケチの一心――」
三好「見上げたもんだよ」
ハル「屋根屋のフンドシ――なんてごめんなさい。あの、ほんとに――バクダンかなんか」
悦子「いえ、いま(いいの、と手を振る)。父は、よく、おじゃまするんですか」
三好・ハル「ときどきねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、少し気分が悪い。
[#1字下げ]ムカムカするらしい。
[#1字下げ]気をもんでいる寛治。
[#1字下げ]その二人の感じを見てしまうハル。
[#1字下げ]さりげなく立って、手洗いにゆく悦子。
●「はる川」洗面所[#「「はる川」洗面所」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]洗面台に手を支えて、荒い息を吐いている。
[#1字下げ]悦子、鏡の中の自分を見る。
[#1字下げ]ドア、細目にあく。ハル。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「(目だけのぞかせて)ご気分悪いんじゃないですか」
悦子「ううん別に――」
[#ここで字下げ終わり]
●「はる川」二階[#「「はる川」二階」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]座布団《ざぶとん》をつないで、ひっくりかえっている順造。
[#1字下げ]枕《まくら》もとに坐るハル。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「帰ったかい」
ハル「―――」
順造「どした、三好の奴、式のばすようにいってくれたんじゃないのか」
ハル「――言っても、のばさないわね」
順造「え?」
ハル「――生れるもの」
順造「生れる――」
ハル「間ちがいなし。あたし、これだけはあたるのよ」
順造「――(絶句する)」
[#ここで字下げ終わり]
●駅・ホーム[#「駅・ホーム」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ホームの端のところで、つかまって荒い息をしている悦子。
[#1字下げ]背中をさすっている寛治。
●「はる川」店[#「「はる川」店」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]店を仕舞っているハル。
[#1字下げ]奥で一人、手酌《てじやく》でのんでいる順造。
[#1字下げ]板前、二人にそれぞれあいさつして帰ってゆく。
[#1字下げ]板前は順造に好意を持っている感じ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
板前「お先」
順造「ごくろさん」
板前「お先」
ハル「おつかれさま」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]板前、出てゆく。
[#1字下げ]ハル、そばにすわる。
[#1字下げ]酒をつぐ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「なんて言やあ、いいんだい」
ハル「―――」
順造「悦子にさ、こういう時、なんていやあいいんだい――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、小さな椅子《いす》用の座布団が、下に落ちているのを拾いながら――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「そうねえ。オザブか毛布でも、持ってってあげて――『生れるんじゃないのか』」
順造「(呟《つぶや》く)『生れるんじゃないのか』」
ハル「『冷えると、毒だぞ』」
順造「『冷えると毒だぞ』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]口うつしのリハーサルをやっている。
●汐見家・茶の間[#「汐見家・茶の間」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]食卓にうつ伏してうたた寝をしている悦子。
[#1字下げ]悦子、タタミにじかに坐っている。
[#1字下げ]うしろに立っている順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「あ、お父さん」
順造「――う、『生れるんじゃないのか』」
悦子「―――」
順造「―――」
悦子「(うなずく)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、手にした座布団を突き出すようにする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「『冷えると、毒だぞ』」
悦子「お父さん――」
[#ここで字下げ終わり]
●カタログ[#「カタログ」はゴシック体]
[#1字下げ]マンションのカタログが次々と――
●アパート[#「アパート」はゴシック体]
[#1字下げ]小さいが新しいアパート。
[#1字下げ]室内、見ている順造と悦子、寛治。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「陽《ひ》当りがいいのと、一階ってのがいいよ」
悦子「陽当りのいいのはいいけど、ねえ」
寛治「一階ってのは、問題あンじゃないかな。アパートの盗難てのは、ほとんどが一階だっていうじゃないですか」
順造「物と体とどっちが大切なんだ」
二人「え?」
順造「階段がさわるんだよ、体に」
悦子「ああ、――おなかの――」
寛治「あ、あ、そうか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、そのへんを調べて動き廻《まわ》る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「お前は動き廻っちゃダメだよ」
悦子「え? ああ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]高い開き戸をあけようとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「何をするんだよ」
悦子「なか、どうなってるかなと思って」
順造「高いとこへ手のばすのが一番いけないんじゃないか」
悦子「え? あら、そうなの」
順造「昔は、髪結うのも気をつけたくらいだっていうぞ」
悦子)「そうなの」
寛治  「おどろいたなあ」
順造「バケツに水いっぱい入れて持ったり――そういうのがいけないんだよ」
二人「(ポカンとする)」
順造「全く、何にも知らないんだねえ、自分たちのことじゃないか」
悦子「お父さんが知り過ぎなのよ」
順造「女親の分まで、頑張《がんば》ってンじゃないか。文句いうひまに有難《ありがた》いと思いなさいよ」
悦子「思ってるわよ、なんて威張ってるけど、お父さんの知識ってすごく、バラつきが多いんだ」
順造「なんだい、そりゃ」
寛治「なあに、バラつきって」
悦子「知ってるとなったら、もう、そのへんの、ヘタな主婦、顔まけってぐらい知ってンのよ。お鍋《なべ》ものするときなんて買いもの天才だもの、トリ二百グラム、白菜半分、かき、これだけ(てのひら)、エビ二匹、なんて買いもの、男の人がするなんて信じられないもの。ところがねえ。ポカッと、知らないのよ」
順造「え? そうか」
悦子「サワラとワラサは同じだと思ったりね」
寛治「あれ、別でしょ」
悦子「ヒラメの色の黒いのがカレイだと思ったりすンのよ」
寛治「え? ほんと?」
悦子「同じ人物だと思えないわよ。ね、お父さん――」
順造「男の知識なんて、そんなもんだよ、(ごまかす)建てつけも――ワルくないな、天井《てんじよう》の高さもまあこんなもんだろ。どうだい、このへんで――うむ?」
悦子「ごまかして――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あたたかくからかっている娘。
●カタログ[#「カタログ」はゴシック体]
[#1字下げ]家具、電気製品のカタログ、次々と。
●汐見家・居間[#「汐見家・居間」はゴシック体]
[#1字下げ]新しくとどいた呉服の畳紙《たとう》をあける悦子。
[#1字下げ]洋服の上に羽織る悦子。
[#1字下げ]姿見にうつる。
[#1字下げ]うしろで見ている順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「ねえ、これ、お父さんのみたて」
順造「――気に入らないのか」
悦子「ふしぎ、どうして、あたしの欲しいもの、バッチリ判《わか》るんだろ」
順造「おやこだから――何か、電波でも出てンだろ」
悦子「それだけかな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ギクリとする順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「それだけじゃないわよ」
順造「―――」
悦子「あたし、判ってたの」
順造「―――」
悦子「ずっと前から判ってたのよ」
順造「――(もうダメだ――)」
悦子「お父さん、白状しなさいよ」
順造「――(口、パクパクする)」
悦子「本の名前! 会社でとってた本の名前――」
順造「―――」
悦子「ミセス? 家庭画報? ウーマン? 婦人|倶楽部《クラブ》?」
順造「(ポカンとしている)」
悦子「うちへもって帰るとキマリ悪いもんだから、会社でとって読んでたんでしょ。だから料理のことも買いものも、女の着るものの知識も――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、笑い出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「いいカンだよ、参ったね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]笑いながらハアハア言っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「やっぱり、ああいう本は、役に立つねえ」
悦子「――ありがと――ございました」
[#ここで字下げ終わり]
●坂本出版・編集部[#「坂本出版・編集部」はゴシック体]
[#1字下げ]スローガンは前と同じ。
[#1字下げ]編集部員と寛治、悦子。
[#1字下げ]真下と握手をする悦子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
全員「委員長、ごくろうさまでした」
悦子「じゃあ、新委員長、あと頑張って」
真下「OK! そっちも頑張って、いい赤ちゃん生んでよ!」
寛治「どうも――」
前田「冗談から駒《こま》じゃなくて、赤んぼが出たわけ。あ、そうだ、ご招待、ありがと」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みんな、披露宴《ひろうえん》のカードを出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
津田「うまい字だね」
真下「女だよ、これ」
前田「相当書き馴《な》れてるな」
悦子「え、どれ? あら、本当、秘書じゃないかな、父の」
寛治「どれどれ――あ(ちらりと手にとって――あれ? 少しひっかかっている)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]宛名《あてな》の字。
●アパート[#「アパート」はゴシック体]
[#1字下げ]半分ぐらい家具が入っている。
[#1字下げ]見ている悦子と寛治。(ベッド大バーゲンのちらしを手に)。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「ダブルじゃ大きいじゃない」
寛治「シングル二つの方が、場所とるよ」
悦子「とにかく、あとで見にゆきましょうよ。すごいバーゲンだもの。あたしねえ、今朝、新聞の間に入ってンのみて、あ、こりゃ絶対いかなくちゃと思って」
寛治「ベッドぐらい自分たちで見定めなきゃなあ」
悦子「あたし、こんどぐらい父のこと、有難いって思ったこと、ない――。お金のことじゃなくて、心づかいのこと言ってンの。『お腹《なか》の子供にさわると大変だ』もう、あたしには、何にもさせないで、アパートみつけるのから、もう、何から何まで、ひとりでしたんだもの」
寛治「こっちは、会社のことがあって、全然動けなかったしなあ」
悦子「式だって、おなかが目立ったらかわいそうだって思ったんじゃない。キャンセルみつけてきてくれて――案内状の宛名書きから、みんなよ――アレ、会社で、仕事のあい間にやってたんだな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、いろんな家具をあけたり、さわったりしながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「うちの父は、母が生きてる時は、何にもしない人だったの。自分で買えるものったら、たばこぐらいで、靴下《くつした》ひとつ、下着ひとつ買えない人だったのよ。それが、この四、五年かな、本で勉強したのね、うちのこと、すごく、ちゃんと出来るようになったのよ。それも、へえ、お父さんがねえ、って感心してしまったほど――びっくりしたのは、こんどの、あたしの結婚の支度よ。だって、女ならこういう家具欲しいなって思う家具あるでしょ。長じゅばんから腰ひもまで揃《そろ》ってンだもの。もっとおどろいたのは、こないだ父の机みたら、『妊娠と出産』って本までおいてあンのよ」
寛治「お父さん、買ったのかな」
悦子「あたしね、お父さんがどんな顔してあの本買ったのかと思うと、おかしいやらかわいそうやらで――」
寛治「――次はお父さんの番だね」
悦子「その時は、おねがいね、あ――カミクズカゴまでみといてくれたんだ」
寛治「こまかいなあ」
悦子「ね、この調子なのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]かわいいカミクズカゴ。
[#1字下げ]何かメモが捨ててある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「(拾って読む)洗濯機、18日、はこび込み、スタンド19日、お米、5キロ、立花米店電話のこと――卵、ハム、サラダ油、メリケン粉、料金、払い込み」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]と字を見て、首をひねる悦子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「うちだなあ、これ――」
寛治「(のぞきこむ)」
悦子「立花米店て、うちの米屋さんよ」
寛治「お父さん、じゃないの」
悦子「字、ちがうもの、女よ、これ」
寛治「秘書じゃないの」
悦子「秘書がここまでするかしら、それと、この字――どっかで見たこと、あるみたいだけど――」
寛治「(少し思い当っている)」
[#ここで字下げ終わり]
●バーゲン会場[#「バーゲン会場」はゴシック体]
[#1字下げ]入ってゆく悦子と寛治、アッとなる。
[#1字下げ]ダブル・ベッドにならんで腰をおろして、プアンプアンと揃ってはねながら、スプリングの具合をしらべている順造とハル。
[#1字下げ]二人、店員にマジメな顔で何か聞いている。
[#1字下げ]聞くときも、一緒にはねている。
[#1字下げ]店員、答えながら、悦子たちに声をかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
店員「いらっしゃいませ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ふり向く順造とハル。
[#1字下げ]アッとなる。
[#1字下げ]凍りつく四人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「悦子――」
悦子「お父さん。あッ!」
ハル「(こわばった笑顔の会釈《えしやく》)」
悦子「あのメモの字――おでん屋の――あの字よ! スジ七〇円――がんも――のあの字よ!」
寛治「悦ちゃん」
順造「悦子――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]走り出る悦子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「悦ちゃん!」
[#ここで字下げ終わり]
●デパート・廊下[#「デパート・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]悦子と寛治。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
寛治「どこ、いくんだ」
悦子「返すのよ、家具も衣裳《いしよう》も、あの人のえらんだもの、みんな叩《たた》きかえしてやる」
寛治「よせ」
悦子「どうして」
寛治「残酷だな、君は」
悦子「どっちが残酷。何年もだましてた方が、お礼いわせてた方が残酷なんじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
●「はる川」[#「「はる川」」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]お色直しの衣裳を叩きつけるようにして返す悦子。
[#1字下げ]ハル、順造。
[#1字下げ]長じゅばんなど、次々と――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
順造「おい、悦子!」
悦子「マンションも三面鏡も洋服ダンスも――あたし、いらない。予約した会場も、みんなキャンセルして!」
順造「そこまでするこたァないだろ」
悦子「やなの、あたし、こういうの、やなの!」
順造「わたしが忙しいから、この人が――こうなったら一日も早い方がいいからって、自分の店そっちのけで」
悦子「お願いした覚え、ないわ。あたしは、お父さんがやってくれてるとばっかり思ってた――」
順造「わたしじゃこうは気がつかないよ。こうなったから、いうけどお前のおめでただって、この人が――」
ハル「―――」
悦子「――それで、お父さん、急に態度変ったのね」
順造「―――」
悦子「――重いものもつな、冷やすなとか――そいってたのは、この人からおそわったことなのね。机の上にのってた本も――」
順造「――買っといてくれたよ」
悦子「たまンないわ――たまンない――」
順造「こんどの支度の見立てだけじゃないよ。お前は帰りが遅いし、うちのことそうマメに出来ないだろ。この人がハバカリの紙が切れる頃《ころ》だとか、粉石けん、買っといたとか、夏冬の衣類の入れかえのときなんかナフタリンの端っこ切ったのまで持たせてくれたんだよ」
ハル「―――」
悦子「(激しい自嘲《じちよう》の笑い)判ったわ。この人が『ミセス』だったのね、『家庭画報』だったのね。『ウーマン』で『婦人倶楽部』だったのね。アハ、アハ、アハハハ」
ハル「―――」
順造「この人がいなかったら、あのうちはあんなにキチンとしちゃいなかったよ。いま、冷蔵庫の中に何と何が入ってるか、植木の手入れから押し入れの中から――この人は、お前よかちゃんと知ってるよ」
悦子「(何か言いかける)」
順造「そのおかげで、お父さんは、小ざっぱりしたなりをして、恥もかかずに人づきあいして、お前は、お茶にお花に稽古《けいこ》ごとだって出来たんだよ」
悦子「お父さん、そういうことされて、あたし、うれしいと思ってる。有難《ありがた》がると思ってるの?」
二人「―――」
悦子「三年だか五年だか知らないけど、知らない間に土足でズカズカ入りこまれてたのよ」
ハル「あたくし、伺っておりません。ただの一度も、お宅には」
悦子「もう、いいんです。いらしたことなくて、そんなうち中、知ってるなんて、おかしいわよ」
順造「おい(言いかける)」
悦子「式なんかあげなくてもいい。あの人のアパートでもなんでも、アタシたちだけでやってくわ」
順造「そこまでエコジになることないだろ。第一、買ったもの、もったいないじゃないか。マンションだって、シキとケンリ」
悦子「そんなこと、ないでしょ。お父さんたちで住めばいいじゃないの。三面鏡だって、整理ダンスだってみんな役に立つじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]順造、手を上げかける。
[#1字下げ]強く見返す悦子。
[#1字下げ]手をおろす順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「――(静かに順造に)先、帰って下さいな」
順造「―――」
悦子「あたし、帰ります」
ハル「待って下さい。おねがいします。おねがいします」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]静かだが有無を言わさないものがある。
●「はる川」表[#「「はる川」表」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]帰ってゆく順造、ふりむく。
[#1字下げ]のれんをしまって、中でうすく灯《あか》りがついている。
●「はる川」[#「「はる川」」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]灯りを落した中で向き合う二人の女。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「悦子さん――なんて、親しそうに呼んでごめんなさい。でも、逢《あ》ったことなかったけど、いつもお話伺ってたもんだから――」
悦子「―――」
ハル「悦子さんのおっしゃったこと、本当だわねえ。あたし、いま、判《わか》ったんですよ。悦子さんの体心配して、冷やさないようにとか、本、買って心配してたのも――義理や、ためを思う愛情だけじゃなかったのねえ。自分が子供生めなかったから――羨《うらやま》しいなあって気持とあたしの代りにって気持、あったのかも知れない――」
悦子「―――」
ハル「――アパートや、洋服ダンスや三面鏡や、着物も――自分が住みたいとこ、ほしいもの――えらんでたのかも知れない――夢に見ても叶《かな》えられないものを、悦子さん借りて、やってみて、しあわせな気持になってみてたのかも知れない。えらそうに、言うことなかったのよ。すみませんでした――」
悦子「―――」
ハル「でもねえこれだけは信じていただきたいんです。あたし、本当にこの五年間、ただの一度も、お宅、伺ったこと、ないんですよ」
悦子「まさか、だって、昼間あたしはいないし、夜だって、おそいのに――こようと思えばいつだって」
ハル「(ハッキリと静かに)『いってはいけない』そう決めてましたから」
悦子「―――」
ハル「でも、話だけで、行ったような気してるんですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハル、笑いながら、大きなカミを出す。
[#1字下げ]マジックで家の見取図を描《か》き出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「お玄関でしょ。こっちに下駄箱《げたばこ》があって、四段になってて、上二段お父さん。下が悦子さん。去年あたりから、お父さん一段で悦子さん三段使ってらした――」
悦子「―――」
ハル「上って――右手が縁側、左手が、ご不浄――あ、その前にもと電話があったとこに、小さなイス置いて――こういくでしょ、こっち曲って――ご不浄は、引き戸で――こっちかな――こっちだ、そして、こっちへちょっと引っこんでお風呂場《ふろば》。鏡はこっちについてて右のスミが欠けてるでしょ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]どんどん描いてゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「当ってるでしょ、ここが、階段で、階段は、十五段――下から三段目のところにクギが出てるのよ、フフ、フフフ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]クギとかいて笑い――。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「長い間、お世話になりましたけど、これで、おしまいにします。ですから、ご気分直して。ちゃんと、お父さん、呼んで式あげて下さいな。ええと、ここが――出窓になってて――。その下にツツジと八つ手が――あ、八つ手は、去年から枯れかかってるって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、いきなりハルの手をとって、引っぱる。マジックが落ちる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「なになさるの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、もっと強く引っぱる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ハル「いたい! ねえ、どうしたんですよオ、あいた、いたたた――」
[#ここで字下げ終わり]
●汐見家・茶の間[#「汐見家・茶の間」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]ひとりで、酒をのんでいる順造。
[#1字下げ]ガラリと勢いよく玄関のあく気配がする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子(声)「どうしたのよ! どうして入らないの!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハッとなる順造。
●汐見家・玄関[#「汐見家・玄関」はゴシック体](夜ふけ)
[#1字下げ]敷居の向う側に立ちすくむハルを、ひっぱりこもうと必死の悦子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「入ってよォ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]つな引きになって、ひっぱりこまれるハル。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「下駄箱右にかいてたわね、見て! ほら、逆なのよ――中、四段は、あってたわ。お父さん一段、あたし三段も正解――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ひっぱり上げて、以下次々に中を見せてゆく、トイレ、台所、冷蔵庫、茶の間。
[#1字下げ]一枚のドア、ひとつの棚《たな》がハルにとっては感動。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「引き戸はあってるけど――」
ハル「反対だ! あら! こんなとこに棚あったんですか」
悦子「棚っていってたじゃない」
ハル「あたし、下とばっかり思ってた――アッ! アラ――そこもちがう――あ、茶色っていうからあたし、もっと茶色かと思ったら、こんな色だったんですかあ、ここ、ガラス戸ってことも知らなかった。あたし、板戸だとばっかり――」
悦子「板戸? やだ!」
ハル「やだなあ、ずい分カンちがいって多いもんなんですねえ。あ、同じ! 思ってたのと同じ! あたし、ここ夢でみたことあるもの! 同じよ、同じ、あ、そこ、ゆきどまりですか、あたし、通りぬけられると思ってた」
悦子「やだ! 通りぬけたら、表へ出ちゃうじゃないの」
ハル「あ、そーか。バカだね、あたし」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]みている悦子にもそれが伝わる。
[#1字下げ]じっとすわって、全身で、娘と愛人の声、気配を聞く順造。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「襖《ふすま》の絵、これよ、知らなかったでしょ」
ハル「あたし梅だと思ってた」
悦子「お父さん、いい加減なこといってたのねえ。うち、ずっと昔からこれよ」
ハル「――あ、ちがってる! これちがったわァ!」
悦子「ね! ほら」
ハル「これは、あってた!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あってた――
[#1字下げ]ちがっていた――
[#1字下げ]笑いながらいつしかボロボロ泣いている二人。
[#1字下げ]聞いている順造。
●「はる川」[#「「はる川」」はゴシック体]
[#1字下げ]本日臨時休業の札がゆれている。
●汐見家・茶の間[#「汐見家・茶の間」はゴシック体]
[#1字下げ]花嫁衣裳の悦子が着つけを終ったところ。
[#1字下げ]地味な留袖《とめそで》で手伝うハル。
[#1字下げ]見ている父の順造。
[#1字下げ]悦子、すわり直す。
[#1字下げ]父は、別れのあいさつの気配を察し、オタオタする。
[#1字下げ]あいさつは、聞きたい、自分も何かいいたい。
[#1字下げ]しかし、気恥しく涙が出そうになる。
[#1字下げ]しかし、じっとこらえて、坐り直し、その姿勢をとり、待つ。
[#1字下げ]ハルは、さりげなく、台所の方へ立ってゆく。
[#1字下げ]悦子、――父、期待。
[#1字下げ]しかし、悦子は、父の前を通りすぎ、台所へゆく。
[#1字下げ]ハルの手を引っぱる、おどろくハル。
[#1字下げ]とんでもないという風に抵抗する。
[#1字下げ]また引っぱりっこになる。
[#1字下げ]花嫁の方が勝って、ハルをズルズルと引っぱってくる。
[#1字下げ]父のとなりにならばせる。
[#1字下げ]そして、手をついていう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「階段のクギの出てるとこ、下から二段目よ」
ハル「悦子さん――」
順造「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]涙でいっぱいの目が父をたのむ、というように笑っている。
[#1字下げ]また泣いてしまうハル。涙をこらえる順造。花嫁姿の娘。そして、もう一人、間もなく花嫁になるであろうハルがすわっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
声「お車、来ましたよォ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
愛という字
[#改ページ]
愛という字
TBSテレビ(東芝日曜劇場)
一九七九年六月三日
●スタッフ
プロデューサー―石井ふく子
演出――――――井下靖央
音楽――――――山下毅雄
●キャスト
影山直子――――長山藍子
影山菊次――――井川比佐志
守田踏夫――――津川雅彦
斉田さつき―――奈良岡朋子
●バスの中[#「バスの中」はゴシック体]
[#1字下げ]六月の初め、昼下り。
[#1字下げ]吊皮《つりかわ》にブラ下って揺れている六、七人の手。
[#1字下げ]その中に直子の右手もある。
[#1字下げ]窓の外は初夏の東京の街。
[#1字下げ]直子のブラウスの袖口《そでぐち》のボタンがブラブラになっている。左手で伸びている糸を巻きつけて応急処置をする。
[#1字下げ]左手には金カマボコの指輪。人さし指の絆創膏《ばんそうこう》が黒く汚れてそそけ立っている。
[#1字下げ]マニキュアのない指。
[#1字下げ]ふと、隣りの男の手首にはまっている腕時計に気がつく。
[#1字下げ]変った型。文字盤の中に汚れがある。
[#1字下げ]四十がらみの男の横顔(守田踏夫)。
[#1字下げ]体をのり出して、のぞく。
[#1字下げ]放心している男は気がつかない。
[#1字下げ]運転手が停留所名をアナウンスする。大学病院前。
[#1字下げ]降りてゆく守田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「降ります、降ります!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あわてて後を追う直子。
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]守田を追う直子。
[#1字下げ]二、三人を突き飛ばすようにして追いつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「あのオ」
守田「?」
直子「時計」
守田「あ(腕を見て)十二時四十三分です」
直子「あ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]拍子抜けする直子を残して行ってしまう守田。
[#1字下げ]一瞬ポカンとして立っているが、すぐあとを追う。
[#1字下げ]交差点をわたってゆく守田。
[#1字下げ]青信号、点滅し赤に変る。
[#1字下げ]が、直子飛び出してゆく。
[#1字下げ]車のクラクション。駆け抜けてゆく直子。
[#1字下げ]病院の前で守田に追いすがる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「あのオ、ちょっと伺いたいことが」
守田「あ、さっきの」
直子「その時計」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、息が弾んですぐはつづかない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「さっき、時間、言ったんじゃないかな」
直子「そうじゃないんです。その時計、見せていただきたいんですけど」
守田「これですか――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハアハア言いながらうなずく直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「それ、どういう」
直子「すみませんが、はずして、見せていただけないでしょうか」
守田「ちょっと急ぐんですがねえ」
直子「お願いします」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いながら、手をそえて、はずしかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「なにするんですか。失敬じゃないですか」
直子「間違ってたら、お詫《わ》びします」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]強引にはずす直子、裏ブタの数字を改める。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「『四六二―六〇一二』――間違いない――」
守田「あの――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、自分のバッグをあけ、あわただしく中を探す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「ああ――今日に限って、うち置いてきたんだ――出掛けるんでバッグ、取りかえたもんだから――番号書いた紙――修理に出した時の番号、写したの、いつも持ってたのに――」
守田「あの、それ」
直子「(宙をにらんで白目を出す)四六二―六〇一二――間違いないわ」
守田「あの」
直子「これ、どこでお買いになったんですか」
守田「(頭にきている)そんなこといちいち――こっちは時間の約束が」
直子「逃げるんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、守田の手首をつかむ。
[#1字下げ]このあたりから病院へ出入りする人たちが、一人二人と人垣《ひとがき》を作りはじめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「一緒に来て下さい」
守田「どこ行くの?」
直子「警察です」
守田「警察――」
直子「これ、主人の時計ですよ。番号も、文字盤のとこのしみも――三月前に空巣に入られて、現金とこの時計|盗《と》られたんです」
守田「ぼくが、空巣だっていうんですか」
直子「じゃあ伺いますけど、これ、どこで買ったんですか」
守田「どこって(目が泳ぐ)」
直子「どこの店ですか」
守田「店じゃないけど」
直子「個、個人から買ったんですか。その人の名前」
守田「ええと名前――(言いかける)しょっちゅう出入りしてるコーヒー屋にくる人間で、ほら香水だの、化粧品もって」
直子「名前何て方ですか」
守田「名前って言われても、我々オバチャン、オバチャンて」
直子「いつ頃《ごろ》ですか」
守田「二月《ふたつき》ぐらい前かな」
直子「とにかくいきましょう。(まわりの人にたずねる)あの、この辺で一番近い交番」
守田「待って下さいよ。その前に、ぼくがこれ買った喫茶店――そこのママが持ってきた人間知ってるから、証人になってもらおうじゃないですか」
直子「でも」
守田「これが盗品だとすれば、ぼくだって被害者なんだから――そうでしょう!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ゆこうとする守田、直子の手が上衣《うわぎ》の端をしっかりとつかんでいるのに気がつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「こりゃ何ですか。やましくないんだから逃げかくれなんかしないですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田、名刺を出す。一枚わたしてから気がついて、もう二、三枚わたす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「これだけあるんだから、本人だってわかるでしょ」
直子「守田踏夫――おつとめ先――」
守田「絵かきですからね、そんなものないですよ、さあ」
直子「絵かきさん――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田が直子を引っぱる形で人垣の中を抜け出す。
●喫茶店「さつき」[#「喫茶店「さつき」」はゴシック体]
[#1字下げ]クラシックな感じの小ぢんまりとしたコーヒー専門店。
[#1字下げ]カウンターに直子と守田。
[#1字下げ]女主人のさつきが電話をかけている。
[#1字下げ]カウンターの上に例の時計。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「あ、オバサン? さつき。オバサン――守さんに売った時計ね、あれ(言いかけて)は? モシモシ、オバサンじゃない――オバサン――ええと今西さん――あ、引っ越した――もう居ないんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]電話をひったくる守田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「モシモシ!」
さつき「(取返して)いつごろですか――二十日ばかり前――はあ、はあ、あ、そうですか。で、連絡先――聞いてらっしゃらない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]引ったくろうとする守田の手を軽く叩《たた》いて――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「どうも失礼いたしました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]切る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「あ――」
さつき「あとから入った人に文句言ったって、しようがないでしょ」
守田「だってさ」
さつき「――オバサンじゃないと思うな、身許《みもと》の方まではアレなんですけどね。――三、四年前から、香水だのライターだの――もってくる――人のいい――今までいっぺんもこういうこと――ねえ」
守田「参ったなあ」
さつき「どっちにしても――二月前にうちの店でこの人がオバサンから五万円で、買った――これだけは間違いないですから」
直子「判《わか》りました」
守田「ま、ぼくが空巣でないってことだけは判ってもらえたわけだ」
直子「申しわけありません。実はこれ、主人が上役の方から、おみやげにいただいたもので」
さつき「ご主人、おつとめ」
直子「(うなずく)代休とってゴルフに出かけてる間に、机の上にのせといたとこ空巣にやられて――あたしの戸締りが悪かったんですけど――会社で毎日、顔合わす相手なもんですから、とられましたって、言いづらくて――同じ型のないかと思ってさがしてた矢先だったもんですから――つい――」
さつき「空巣に入られたのは――」
直子「三月六日です」
二人「三月六日――」
さつき「二日目じゃないの」
直子「――?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]さつき、戸棚《とだな》の中をゴソゴソやりながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「何時頃ですか」
直子「夕方の四時頃だと思います」
さつき「それじゃ大丈夫、守田さん、絶対に空巣じゃない」
直子「は?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]さつき、守田の個展のポスターを出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「うちで個展やったんですよ」
守田「そうだ、二日目だ――」
さつき「雑誌社の人、来るっていうんで――ホラ二日目よ。おひるから夕方までずうっとここで――」
守田「コーヒーのみすぎて胃がおかしくなったんだ」
直子「申しわけありません――(ポスターを見て)絵かきさんでいらっしゃる――」
守田「カット屋ですけどね」
さつき「――(直子に)コーヒーでいいかしら」
直子「(うなずく)」
さつき「守さんは、やめときなさいよ。この人、胃こわしてて――あ、あんた病院、またすっぽかした」
守田「行ったよ。前で、これ(上衣をつかまえ)警察に行きましょ!」
直子「あ、じゃあ、あのとき、病院」
さつき「胃カメラ――守さん、ほっとしたんでしょ。――え? 『ああ、助かった――』」
守田「冗談じゃないよ。人だかりするし――もう――(急に本音で)――胃カメラよかいいか」
さつき「みなさい、(直子に)イクジがないの。目覚し、かけといてね、リーンての、聞くのこわいから五分前に目覚して、目覚し、これ(押す)やっちゃうって人なんだから」
直子「――あ――」
二人「?」
直子「あたしも――」
さつき「やっぱり――これ(押す)」
守田「いるんだなあ同じ人間が――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三人の前に時計。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「時計――」
直子「――ねえ」
さつき「こういう場合ねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「法律的にいうとねえ、たしか、守さん、責任ないのよ。つまり盗品だからって返さなきゃなんないってことは」
守田「だからって――こちらのだって判ってて」
直子「――ゆずっていただけないでしょうか」
守田「そりゃ――まあ」
さつき「問題は値段だわねえ」
二人(「うむ」
[#1字下げ] 「そうですねえ」
さつき「半分こっての、どうだろ」
守田・直子「半分こ」
さつき「二万五千円――」
直子「でも――五万円でお買いになったものを」
さつき「(守田に)ケガしたと思って――そういうこともあるわよ。ね。その代り――奥さんに病院まで送っていただくってのはどう」
直子)「そりゃもう」
守田  「いや」
さつき「まだ間に合うでしょ。今日いかないとまたずっといかないんだから――奥さん、さっきのアレで(上衣つかんで)胃カメラ、やらして下さいな」
守田「ママ――踏んだり蹴《け》ったり」
[#ここで字下げ終わり]
●病院・廊下[#「病院・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ならんでベンチに腰かけている守田と直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「やっぱり、朝起きた時ムカムカするとか」
守田「それもありますけど、あ、ご主人――」
直子「うちのは、胃腸は、もう――」
守田「お子さん――」
直子「うちのは、弱いのはのど――(言いかけて)一人です。そちら」
守田「うちは二人――」
直子「―――」
守田「いや、ねむってる時って、体、色ないっていうか、グレイみたいでしょ。そういう感じに思ってるでしょ。そン中で、胃だけ色づいてンだなあ」
直子「なに色――」
守田「パープルレーキかな」
直子「パープルレーキ――それ、色の名前ですか」
守田「ええとその辺に同じ色ないかな、パープルレーキ――」
直子「絵かきさんてやっぱり」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ドアから看護婦(鳥居良子)が顔を出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
看護婦「守田さん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、立ち上る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
看護婦「奥さんはそこでお待ち下さい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、守田の上衣を受取る。
●喫茶店「さつき」[#「喫茶店「さつき」」はゴシック体]
[#1字下げ]カウンターにすわっているさつき。
[#1字下げ]客は学生がひとり、本を読んでいるだけ。
[#1字下げ]カウンターの内側に個展のポスター。
●病院・廊下[#「病院・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]待っている直子。
[#1字下げ]持っている守田の上衣に、絵具がついている。
[#1字下げ]こすって見る。
[#1字下げ]自分の絆創膏をはがし、汚れをこする。
[#1字下げ]衿《えり》の匂《にお》いをかぐ。
[#1字下げ]バッグから時計を出す。
[#1字下げ]皮のベルトの匂いをかぐ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
看護婦「奥さん」
直子「―――」
看護婦「ご主人、気分が悪くなられたもんで――」
直子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●診察室[#「診察室」はゴシック体]
[#1字下げ]ベッドに寝ている守田、ハアハア苦しそうにあえいでいる。口の端からよだれ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「大丈夫ですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、ハンカチで口のまわりを拭いてやる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「いやあ、この頃のは苦しくないって聞いてたけど――」
直子「しゃべらない方がいいんじゃないんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#1字下げ]別の部屋でかすかに目覚し時計のベルが鳴っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「あ、目覚し――こんな時間に」
守田「クスリの時間かなんかで、かけたんでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、何となく笑ってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「勇気のある人ですよ」
直子「――ほんと――」
守田「そこいくと二人とも、イクジなしだ――」
直子「(うなずく)」
守田「――さっきはおっかない顔に見えたけど――ここから見ると――」
直子「――どんな顔」
守田「子供っぽい顔だな」
直子「リクツっぽい顔だっていわれますけど」
守田「誰《だれ》に」
直子「―――」
守田「子供っぽい顔ですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「あの――残りの、一万円ですけど、どちらへお送りしたら」
守田「――そこの――ポケットの中――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、個展の切符を出す。
[#1字下げ]二枚。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「出られませんか。その日」
直子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●影山家・居間[#「影山家・居間」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]建売住宅。
[#1字下げ]ごたごたしたリビングで、電話をうけている菊次。
[#1字下げ]ステテコにアンダー・シャツ。
[#1字下げ]体ごと受話器をかくすようにして、声をひそめてしゃべる。
[#1字下げ]まわりに、喪章をつけた黒い背広、ズボン、靴下《くつした》がおっぽり出されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「フーン。フーン」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、相槌《あいづち》をうっているが、少し退屈しているらしい。足の指で夕刊を引きよせ、めくって目を走らせながら、低い声でしゃべっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「え? ちゃんと聞いてるよ。うん、気持は判るけどさ、義姉《ねえ》さんも悪気があってやってンじゃないんだから――う、うん――十のとこ、十言っちゃうと、スーッとするけど、あと――あとが――うん、あとがねえ。うん。血がつながってないんだから――もっと可愛《かわい》がられる年寄りに――うん。うん。三畳でもいいったって――じゃあ、それじゃあ、うん、そういう出方しちゃ、兄貴――ねえさんだって――うん――そういうことは話し合って納得ずくで」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二階から足音の前ぶれがあって、長男の道彦《みちひこ》が下りてくる。
[#1字下げ]電話の横に突っ立つ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「電話か」
道彦「いい――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]道彦、玄関へ出てゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「じゃあまた、(切って)おい、電話あいたぞ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]道彦、玄関をあける。
[#1字下げ]ちょうど帰ってきた直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「あ、道ちゃん。あんた塾《じゆく》、どしたの」
道彦「今日休み」
直子「どして」
道彦「ペンキ、塗ったら、匂うんだよ。今日一日休み」
直子「どこいくの」
道彦「本屋!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]かけ出してゆく道彦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「おそくなンないでよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入りかけて、黒の靴に気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「お父さん?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入ってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「会社へ帰るっていってたんじゃないの? 告別式のあと、まっすぐうち?」
菊次「(ブスッとしている)お前、香典、いくら包んだ」
直子「一万円」
菊次「(何か言いかける)」
直子「五千円でもいいかなと思ったんだけど――親じゃないんだし、同居人たって、叔母さんでしょ。本当なら五千円よ。でも、時計もらってるし――あ、時計ってばねえ(言いかける)」
菊次「ちゃんと確認したのか」
直子「え?」
菊次「入ってなかったってさ」
直子「お金が?」
菊次「計理の津久井君がさ、言いにくそうに言ってたよ。『二人で一緒にあけたんで、間ちがいないと思います』」
直子「――(頭の中で、手順を考えている)――いっぺん、入れたのよ、入れたけど――キレイなお札でないといけないと思って、そうか――」
菊次「これからもあるこった、亭主《ていしゆ》に恥かかせるなよ。(言いかけて)あ、塩?!」
直子「塩?」
菊次「これ(まく)やらないで入ってきた。おい」
直子「いいじゃないの、もう入っちゃったんだから」
菊次「縁起悪いよ。(ほら)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、融通の利《き》かない性分らしく、ステテコのまま、ドアの外へ出る。
[#1字下げ]直子、時計を出しテーブルの上に置き、台所から塩ツボをとって、塩をまく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「で、香典、どしたの」
菊次「オレ、出しといたよ」
直子「――すみません」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、塩を払いながら、入ってきて、時計に気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「あったのか?」
直子「あ(言いかける)」
菊次「時計だよ、どこ、入ってたんだ」
直子「え」
菊次「みろ、盗《と》られた盗られたって大さわぎして。内職と塾で、ボーッとしてるから――気をつけろ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]時計を持ち、頭の塩を払いながら、入ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「お父さん」
菊次「なんだよ」
直子「ううん――(別に――)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]しばらく立っている直子。
●影山家・居間[#「影山家・居間」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]朝食。
[#1字下げ]朝刊をひろげ、目を走らせながら、口を動かす菊次。
[#1字下げ]物凄《ものすご》い勢いでサラダを食べパンをかじる道彦。
[#1字下げ]世話をやく直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「ハナシ、ないの」
菊次「え?」
道彦「しゃべると、単語忘れンだよ。期末テスト!」
直子「バリバリバリバリ――『おかいこ』が桑の葉っぱ、食べてるみたい」
菊次「(モグモグ)朝はどこも、(バリバリ)こんなもんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]口を動かしながら、例の時計をはめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●個展会場・表[#「個展会場・表」はゴシック体]
[#1字下げ]出てくる守田と直子。
[#1字下げ]展覧会のヌードのポスターの前で、放心している直子。
[#1字下げ]頬《ほお》も上気している。
[#1字下げ]その分、殊更《ことさら》に固くなっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「久しぶりにいいもの見せていただいて」
守田「いや、ぼくが描《か》いたわけじゃあないから」
直子「でも、ひとりじゃあ、来ませんもの――ありがとうございました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子バッグをあけ、モタモタしながら、一万円札を出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「これ――」
守田「こんなとこで」
直子「忘れるといけませんから――ありがとうございました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田が一万円札をてのひらにのせたところで、うしろから肩を叩《たた》かれる。
[#1字下げ]明らかに画家と判《わか》る大坪。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
大坪「久しぶりじゃないの」
守田「大坪――さんていわなきゃいけないのかな」
大坪「いわないの。すごいじゃないの。ここんとこ、どの雑誌見ても、目次カット、守田踏夫、もうかってしょうがないだろ」
守田「『カットも積れば山となる』」
大坪「(笑って)税金対策としちゃ、うまいよ。こっちは、筒抜けだもの」
守田「そりゃいいことばっかりないさ」
大坪「たまにゃ顔出しなさいよ。カミさんが君のファンなんだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]大坪、二、三人の男をしたがえて、手を振って入ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「同期ですよ。いま一番画商が追っかけてる男じゃないかな」
直子「よくグラビアなんかで見かけますけど、あちら、何だか絵かきさんて感じしないみたい」
守田「いや、ありゃ絵かきですよ。あれが絵かき、こっちはカット描き」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、歩き出す。
●道[#「道」はゴシック体]
[#1字下げ]歩く守田と直子。(セリフがかぶさる)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「どの辺から、道が別れたのかなァ。新入選でさわがれて、新聞の美術欄にはじめて自分の名前がのる。虫めがねで見なきゃ判んないくらいなのに、親は鬼の首でもとったみたいに、駅へかけ出して、新聞何部も買って――おふくろなんか、ひとつとこで何部も買うのきまり悪いっていうんで、電車にのって隣りの駅までいって新聞買ってきて――親戚《しんせき》に見せたりして――いい時結婚式あげたねえ、とよろこんで――。ところが、それっきりで――あとは、何となく、パッとしない。リキめばリキむほど裏目に出る。同期の奴《やつ》の名前が、のってる美術雑誌を買わなくなる。酒の量がふえる。時めいているヤツの絵を一日中、心の中でくさしつづける。自分の絵がどんどん機嫌《きげん》の悪い絵になってゆく。食えないから、カットを描く。画塾をやって、小学生に絵を教える。先生といわれると、ムッとする日がある――」
直子「でも、色使うんですもの、キレイなお仕事だわ」
守田「女房《にようぼう》は、ペンキ屋の方がもうかっていいっていってますよ。亭主の描いたカットをまたいでゆく――もう腹も立てなくなったなあ。絵のハナシもしなくなった――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「質問してもいいでしょうか」
守田「どうぞ」
直子「ヌードのモデルさん、恥しがらないですか」
守田「恥しがるのもいますよ。ぬいだとたん、パアって赤くなるのもいます」
直子「顔がですか」
守田「体中が――あれ、きれいだなあ。いとおしくなるなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「それから、描くときですけど、手や肩描くときと、――お尻《しり》描くときは、同じ気持で描けるもんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田、急に笑い出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「いい質問だなあ――(大笑いしながら)」
直子「―――」
守田「同じ気持ではないですよ」
直子「男の方にしちゃ笑い上戸なのね」
守田「こんなに笑ったの、久しぶりですよ」
直子「守田さんの絵、見たいな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田、地面にヌードを描く。
[#1字下げ]叱《しか》られたりする。
[#1字下げ]二人、立ち去りながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「ほかに質問ないですか」
直子「パープル――パープルレーキってどんな色でしょう。この間、おっしゃってた――」
[#ここで字下げ終わり]
●画材店[#「画材店」はゴシック体]
[#1字下げ]絵具を見ている直子。守田。
[#1字下げ]直子、読みあげながらひとつずつ手にとる。
[#1字下げ]丁寧に発音する。
[#1字下げ]その横顔をじっとみている守田。顔にその色のフィルターを重ねて眺《なが》めている。
[#1字下げ]はじめて名前を口にする絵具を手にとっている女のイキイキとした横顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「パープルレーキ。ローアンバー。インテンスブラック。テルベルト。サップグリーン。バーミリオン。ジョンブリアン。アイリスブルー。モーブ」
[#ここで字下げ終わり]
●「さつき」[#「「さつき」」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]電話を受けているカウンターのさつきの横顔も、窓からの夕焼けで「モーブ」に見える。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「ボカさないでハッキリ言いなさいよ。白なの、黒なの」
[#ここで字下げ終わり]
●病院・デスク[#「病院・デスク」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]さつきと同じ年格好の大川マキ子(婦長)がカルテを見ながら電話している。
[#1字下げ]胃のレントゲン写真。
[#1字下げ]こちらも、窓からの夕焼けで、白衣も顔も「モーブ」にみえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
マキ子「黒らしいわね」
[#ここで字下げ終わり]
●さつき[#「さつき」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]さつき。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「悪性のものってわけ?」
マキ子(声)「うたがわしいわね」
さつき「―――」
マキ子(声)「あんた、あの人に惚《ほ》れてるらしいから」
さつき「そんなんじゃないわよ」
マキ子(声)「惚れてない人の個展するわけないでしょ」
さつき「――ただのお客よ。常連」
マキ子(声)「念のため、あしたまでにもう一回しらべるっていってたけど――約束だから、報告しとくわ」
さつき「ありがと――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]切れてしまった受話器を持ったまま、少し立っているさつき。
[#1字下げ]守田と直子が入ってきているのに、気づいて受話器をかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「誰《だれ》か、死んだの?」
さつき「え?」
守田「いや、犬とか、友達とかが死んだわよ、って電話受けたみたいな顔してるから――(直子に)カン、いいんですよ。そういうのだけは」
さつき「縁起でもないこと、いわないで――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言ってしまってから、ハッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「縁起って――あ――ひょっとして、ママ、ぼくのこと、心配してくれてるんだ」
さつき「なあに、それ」
守田「あした発表だからさ。病院の――(胃)検査の結果」
さつき「芸術家ってこれだから、やあよ。『地球は自分を中心に廻《まわ》ってる』」
守田「やたらに芸術家扱いされる日だなあ。お世辞と判ってても、うれしいね。(直子に)『己《おの》れを語ってやまず』これ、芸術を志すものの――ウイスキーがいいな、今日は」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]つぐさつき。自分にも直子にもつぐ。
[#1字下げ]守田、ぐっとのんで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「どっちにしても、あしたこの顔ぶれでカンパイしたいな」
二人「―――」
守田「『時計がとりもつ縁かいな』」
直子「――フシギなご縁」
さつき「――ほんと――」
守田「―――」
さつき「守さん大丈夫よ、絶対、あたしが保証する!」
守田「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「――ずい分、買いこんだわね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]包みから岩絵具、ガッシュなどが出てくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「守さん、ふだん使わない色ばっかりじゃないの」
守田「彼女――」
直子「生れてはじめて――こんなプロの方の使う絵具、手にとったの。いろんな色の名前あるんですねえ」
さつき「――岩ねずみ――あたしの好きな色なんだ――」
直子「あたしはジョンブリアン」
守田「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三人、のむ。
[#1字下げ]さつきのグラスが細かくふるえている。
[#1字下げ]守田、直子、気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「岩ねずみ――ジョンブリアン――」
直子「―――」
守田「あれ、誰だっけなあ、女の――ほら、あんまり美人でない、丸っこいひと――」
二人「―――」
守田「林芙美子《はやしふみこ》――そう。林芙美子の書いたので、こんなのがあるんだ。電車にのると、必ずあたりを見廻して、いま、この瞬間にぶつかったら、誰と手をつないで逃げようかと考える――」
さつき「いいわねえ」
守田「あしたの結果――」
さつき「白と出たら――ジョンブリアンと逃げる」
直子「―――」
守田「―――」
さつき「――黒と出たら、岩ねずみと逃げる」
直子「反対の方がいいんじゃないんですか」
さつき「どうして?」
直子「だって――」
さつき「白と決ってるもの、守さん、ジョンブリアンと逃がして上げたいじゃないの」
直子「―――」
守田「どっちにしても、今晩、たのしくねむれるなあ」
さつき「人生そのくらいのたのしみがなくちゃ――ねえ、『奥さん』」
直子「ほんと――」
[#ここで字下げ終わり]
●影山家[#「影山家」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]菊次が踏台にのって、壁に絵を掛けている。
[#1字下げ]あまり趣味のよくない素人《しろうと》くさい砂絵。
[#1字下げ]夕刊をよんでいる道彦。
[#1字下げ]入ってくる直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「――ただいま、おそくなり(ました)」
道彦「おそいなあ」
直子「おそくなりましたって言ってるじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、苛々《いらいら》している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
道彦「おすし、また上ったよ」
直子「いくら」
道彦「千三百円」
直子「竹ずし、もうやめようか」
菊次「そんなこといってたら、とれるすし屋はないよ」
直子「なあにそれ?」
菊次「ちょっと見てくれよ、こっち上ってるか」
道彦「まっすぐ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]道彦、二階へゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「見もしないで、何だよ」
直子「誰の、それ」
菊次「部長の奥さんだよ。こないだから砂絵ならってて、スジがいいって」
直子「時計はいいけど、こんなの、いらないわよねえ」
菊次「まだ下ってるか――こっち――」
直子「あってないじゃない、この部屋に――」
菊次「ゴルフの帰りに、寄るとさ、マズいだろ」
直子「一年にいっぺんか二へんのことでしょ。その為《ため》に三百六十五日、や[#「や」に傍点]な思いするんですか」
菊次「――そう、目くじら立てるこたァないじゃないか。若い時、稽古《けいこ》ごとしなかった五十すぎの奥さんがさ、汗かいて作ったもンだと思やあ――」
直子「――ガマンするのも月給のうちかしらねえ」
菊次「――(チラリと直子を見るが、耐えて、額を直している)」
直子「いやな青――あなたはいいわよ。胃腸は丈夫だし、仕事の方も、まあ――まあ、順調だし――なんにも心配ごと、ないじゃないの」
菊次「―――」
直子「部長さんの奥さんの額をかけるかけないで、女房とやり合ってるなんて、男のしあわせよ、ねえ」
菊次「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、洗面器で手を洗っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「――白ならジョンブリアン、黒なら、岩ねずみ」
菊次「ねずみ、出るのか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手のしずくを切りながら、入ってくる菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「ううん、別に――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また額の具合を直す菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「シットって、どういう字だっけ」
菊次「オンナヘンに、こう――トは女ヘンにイシ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]虚空《こくう》に書いてみせる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「なんだ、オレにヤキモチ、やいてンのか」
直子「(え?)」
菊次「部長の奥さん、こうだぞ――(デブ)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、社名入りの封筒から書類を出しながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「お前、おかしいぞ。寝が足ンないンじゃないのか」
直子「―――」
菊次「先ねろよ」
直子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]昼間見たヌードのポスターが、ジョンブリアン、岩ねずみのフィルターがかかって見えてくる。
[#1字下げ]仕事をしている夫。
●影山家・居間[#「影山家・居間」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]あわくってごはんをかきこみ、カバンをつかむと、ななめになってすっとんでゆく道彦。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「いってまいりますはどしたの」
道彦「(口の中)いってまいります!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、新聞を見ながら、物もいわずに噛《か》んでいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「丈夫ね、おなかが」
菊次「おふくろに似たんだろ」
直子「お母さん、何ともいってこないわねえ。おねえさんと、うまくやってンのかしら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#1字下げ]直子、菊次の腕の時計を見ている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「――あのな(言いかける)」
直子「(かぶせて)特攻隊ってあったでしょ」
菊次「特攻隊――ああ、飛行機ごと――バーン――」
直子「あした出撃って前の晩、知らないで死んでゆくの、かわいそうだって、女の子が――一晩だけ――」
菊次「(モグモグやりながら顔を上げる)」
直子「そういう時でも、いかない女の子、いたわけでしょ。そういう子と、いっちゃう子と――あんた」
菊次「そりゃ、いく子の方がいいさ」
直子「―――」
菊次「女としちゃ、そっちの方が上等だろ」
直子「あたし、いっても、いいの」
菊次「――お前いくつだ。終戦のとき、二つだろ。朝っぱらから、なんのハナシ、するかと思やあ、バカ――」
直子「ハナシ、そのまま、受取るんだから――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]時計をはめる夫。
●病院・廊下[#「病院・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ベンチにすわる直子。
[#1字下げ]ゆうべのさつきの言葉が浮かんでくる。
[#1字下げ]ドアがあく。
[#1字下げ]出てくる守田、沈痛な顔をしている。
[#1字下げ]立つ直子。
[#1字下げ]守田の腕をとって、体を支える。
[#1字下げ]直子、何かいいかける。
[#1字下げ]それをさえぎるように、いきなり笑い出す守田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「―――」
守田「ホワイト――」
直子「――ホワイト――白なの」
守田「(うなずく)」
直子「だまして! だまして!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、胸をメチャクチャにブン殴る。
●「さつき」[#「「さつき」」はゴシック体]
[#1字下げ]電話を受けるさつき。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「え? 本当にそう言われたの?」
[#ここで字下げ終わり]
●赤電話[#「赤電話」はゴシック体]
[#1字下げ]病院の赤電話。
[#1字下げ]かけながら守田、直子の上衣《うわぎ》の裾《すそ》を、出逢《であ》ったときに直子がしていたようにつかんでいる。
[#1字下げ]当惑しながら、たかぶるもののある直子。
●赤提灯[#「赤提灯」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ならぶ守田と直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「おかげで、いろんな色の名前、覚えたわ」
守田「―――」
直子「あたしの人生になかったもの――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、カウンターに水で色と書く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「ぼくは――これだな。少しキザだけど、一生に一晩ぐらい、キザ言ったって、いいでしょ。無罪放免に免じて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田、「愛」と書く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「――この字は、ご縁がないわ。愛って、なんか外国の言葉みたいで――好きとか惚《ほ》れるっていう方がまだ判《わか》るんです。あたしなんか、一生、縁がないわ」
守田「ちがうな。いま、我々はそうなんじゃないですか」
直子「―――」
守田「さっき、ぼくが診察室から出てきた時、あなた、ぼくのここ、つかんだでしょ。あれ『愛』じゃないんですか。だましたって、ぼくなぐったの、『これ』じゃないんですか」
直子「―――」
守田「――もう一軒いきたいな」
直子「―――」
守田「仕事場があるんですよ。ぼくが、プログラムなんかのデザイン手伝ってるプロダクションでかりてるとこなんだけど、おそくなると泊ることもあるんです。酒もコーヒーも、ちょっといいレコードもある」
直子「――(少しためらう)」
守田「(手首を強くつかむ)こんどはぼくが引っぱる番だ。『一緒に警察へ行きましょう』」
直子「それ、言わないで下さい――」
[#ここで字下げ終わり]
●マンション・階段[#「マンション・階段」はゴシック体]
[#1字下げ]守田と直子。
[#1字下げ]暗いところ。
[#1字下げ]入ってゆく二人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「たしかに臆病《おくびよう》だったと思うな。目覚しのベル聞くのがイヤなように、落ちるのがいやで、展覧会には出さない。ドタン場に身をさらす勇気がなくて、いつも、欲しいくせに、その前に自分で、ストップかけてた――でも、一生にいっぺんぐらいはベル、ならさなきゃ――そうじゃないですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]守田、直子の手首をにぎりひっぱってゆく。
[#1字下げ]プロダクションのプレート。
[#1字下げ]中からかなり大きな音楽が聞えてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「ラジオつけっぱなしで帰ったな。今の若いのは、音楽鳴ってンのがあたり前だから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いながらカギをあける。
[#1字下げ]中は暗い。
●マンション[#「マンション」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]直子を体ごと押しこみ、ドアをしめ、ドアに押しつけるように抱きしめる守田。
[#1字下げ]音楽。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
明子「ねえ、誰《だれ》か来たんじゃないの」
実「ラーメン屋ならベル、鳴らすだろ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]パッと電気がつく。
[#1字下げ]カーテンの向うのベッドから、半裸の若い男女が二人、棒立ち。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
実「なんだ、先生――」
明子「――びっくりさせないで」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]おたがい、引っこみがつかない。
[#1字下げ]守田が何か言いかけた時、ノック。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「ハイ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]つりこまれるように、あける。
[#1字下げ]直子はドアのかげになる形。
[#1字下げ]管理人のマサ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
マサ「あ、やっぱりそうだ。先生からも言って下さいよ。ここは連れこみじゃないんだから。夜は、先生が仕事にくるぐらいで、あとは誰もいない。さわがないって約束で入れたのよ。それをレコードガンガンかけるわ、女の子ひっぱりこむわ、子供の教育にも――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、直子に気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「―――」
マサ「まあ、火の用心、とガスの元栓《もとせん》さえ、ちゃんとしてくれりゃ何しようと、いいようなもんだけど――」
守田「どうも――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]マサ、直子をじろりと見て、若い二人を見て出てゆく。
[#1字下げ]若いカップル何となく失笑する。マサ出て行く。
[#1字下げ]直子、走り出てゆく。追う守田。
●影山家・居間[#「影山家・居間」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]電話のベル。
[#1字下げ]とる菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「影山ですが――モシモシ――モシモシ」
[#ここで字下げ終わり]
●「さつき」[#「「さつき」」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]受話器をもって黙っているさつき。
[#1字下げ]離れた所にアベックが一組、ヒソヒソバナシ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次(声)「モシモシ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]さつき、メモをとりあげる。
[#1字下げ]「あなたの奥さんは浮気をしています」
[#1字下げ]そのメモを受話器に見せるようにする。
[#1字下げ]少し笑う。
[#1字下げ]泣いているようにもみえる。
●影山家[#「影山家」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「モシモシ――おばあちゃん? ちがうな――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]切る。
●夜の道[#「夜の道」はゴシック体](雨)
[#1字下げ]歩く守田と直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「おたがい、似合わないことしたら、バチ当っちゃった」
守田「―――」
直子「あたし、いま、判ったの、あなたは、うちの主人と同じ、あたしは、あなたの奥さんと同じ――」
守田「―――」
直子「重役になれると思ってたのに、課長どまりか――自分じゃ気がつかないけど気持のすみで、平凡なサラリーマンの主人のこと見くびってたわ。主人も、言ってもしかたないと思って――何もいわなくなっている――」
守田「―――」
直子「はじめて聞いた色の名前だから新鮮に聞えたのね。パープルレーキは、とりレバーの色――モーブは、うちの庭に咲くすみれの色だわ。毎日の暮しの中にあったのよ」
守田「――そうかも知れないな、病院でぼくの手首つかんだあの力を愛だなんていったけど、『空巣』と間ちがえてぼくの手首つかんだときの方が、強かったかも知れない」
直子「―――」
守田「ご主人への愛の方が強かったわけだ」
直子「物欲じゃないかしら、女はケチだから――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]苦く笑う二人。
●「さつき」[#「「さつき」」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]片づけているさつき。
[#1字下げ]入ってくる守田、黙ってカウンターにすわる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
さつき「(何事もなかったように)今年の個展、いつもと同じ日とっといて、いいの」
守田「うん」
さつき「よかったじゃないの。なんともなくて」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]水を出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
守田「あれ?」
さつき「早くうち帰って、奥さんと祝杯あげなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]いつものサバサバとした笑顔にもどっている。
●影山家・玄関[#「影山家・玄関」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]前に立っている直子。
[#1字下げ]すぐには、入れない。
[#1字下げ]濡《ぬ》れて立っている。
[#1字下げ]窓から縞《しま》になってもれる光の筋。
[#1字下げ]雨にぬれる植木の緑をじっと見ている。
[#1字下げ]ふと、低い話し声が、洩《も》れてくるのに気づく。
[#1字下げ]夫の声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「うん、うん、そりゃね、義姉《ねえ》さんも言葉きついけど、そんなもんだよ。うん、うん――。毎日の暮しってのは、そんなもんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
●影山家・居間[#「影山家・居間」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]電話している菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「気にはしてンだけどね。この前みたいにもめるんじゃ。あー、あの時はうちもせまかったけどさ――」
[#ここで字下げ終わり]
●影山家・表[#「影山家・表」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]立って聞く直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次(声)「そのうち、折りみて直子には話すけど――そっちも折れるとこ折れてくれなきゃ――またもめるって――うん。ま、も少しそっちで我慢して――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]そっと裏口から入ってゆく直子。
●影山家・玄関[#「影山家・玄関」はゴシック体](夜・雨)
[#1字下げ]電話している菊次。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「――肩は動かさなきゃ、ダメだよ。アイロン持って振るのが、いいらしいよ、痛くても使わないと――うん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]カタンと音。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「じゃあまた。うん。気つけて(切る)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]台所から入ってくる直子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
菊次「どしたんだ。おまえ――傘《かさ》」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]直子、こわばりかける自分をわざと陽気に振舞うことでかくす。
[#1字下げ]電話機にさわる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「浮気してたでしょ」
菊次「――(え?)」
直子「あったかくなって汗ばんでる。女の人としゃべってた――」
菊次「(おふくろと言いかける)」
直子「判ってるわよ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次の首にまいたタオルで頭のしずくをふきながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「元気なの、おかあさん」
菊次「うむ――」
直子「奥の三畳、片づけて――夏休みによんだら――」
菊次「いいのか」
直子「―――」
菊次「来りゃ、オンブにダッコで居すわるぞ」
直子「あなたが胃カイヨウになるよりいい」
菊次「なんだそりゃ」
直子「気にかかってたんでしょ、お母さんのこと」
菊次「―――」
直子「――どうして言わないの――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]菊次、黙って椅子《いす》を柱のとこへ運ぶ。例の砂絵の額をおろそうとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
直子「ねえ、それ」
菊次「おまえ、いやなんだろ」
直子「いいわよ」
菊次「無理に、いいよ」
直子「いいわよ、かけといてよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]妙に真剣になり半ベソをかく直子、もみ合う夫婦。
[#1字下げ]食卓の上に例の腕時計。
[#改ページ]
七人の刑事――十七歳三ヶ月
[#改ページ]
七人の刑事
TBSテレビ
一九七九年三月二日
●スタッフ
プロデューサー――中川晴之助
日向宏之
演出―――――――浅生憲章
●キャスト
沢田係長―――――芦田伸介
南警部補―――――佐藤英夫
久保田部長刑事――天田俊明
姫田刑事―――――中山仁
佐々木刑事――――樋浦勉
岩下刑事―――――中島久之
北川刑事―――――三浦洋一
貝塚陽一郎――――池部良
貝塚南――――――久我綾子
石川郁男―――――古尾谷康雅
半沢徳司(与作)―奥村公延
半沢たね子――――緋多景子
雨宮達久―――――椎谷建治
ママのケイ子―――絵沢萌子
[#改ページ]
●石川のアパート・表[#「石川のアパート・表」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]お粗末な木造モルタル二階建て。鉄骨階段下のごみ置場の塀《へい》のかげで張り込んでいる岩下刑事と北川刑事。
[#1字下げ]昨夜の名残りの雪がところどころに残っている。
[#1字下げ]散乱しているポリバケツとごみ。
[#1字下げ]寒さで足踏みしている二人は顔をしかめ、鼻を押えている。
[#1字下げ]サラリーマンや学生が出かけてゆく。
[#1字下げ]雪の消えた道の真中を急ぐ人の群とはただ一人反対に、一人の男が帰ってくる。バーテンの石川(22)わざと新雪の中を、短いブーツで 一歩一歩踏み込み、小学生の男の子のように、ゆっくりと歩いてくる。
[#1字下げ]ビニール塀の破れ目から見て、目くばせする二人。
[#1字下げ]石川の脇《わき》を登校してゆく女子高校生の一団が通る。
[#1字下げ]足をとめ、しばらく立っている石川。朝日に輝くその横顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「人、殺したにしちゃ、いい顔してるじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]小突く岩下。
[#1字下げ]石川の顔。
●石川のアパート・部屋の前[#「石川のアパート・部屋の前」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]新聞と手紙を手に石川のネームの出ているドアにカギを差し込む石川。
[#1字下げ]うしろから、岩下と北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
岩下「石川|郁男《いくお》さんですね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]キョトンとして、目をパチパチさせる。
[#1字下げ]警察手帳を示す岩下。一瞬、飲みこめないといった表情。次の瞬間、石川、新聞で岩下の顔をはたきつけ、牛乳ビンを北川に投げつけると走り出す。
[#1字下げ]追う二人。
[#1字下げ]階段をかけおり、雪道を逃げ、ごみ置場でポリバケツをはね飛ばして抵抗、取り押えられる。一斉《いつせい》に窓があき、のぞくパジャマの男。クリップをつけたガウンの女。
[#1字下げ]石川、二人に引きずられるように連行されてゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川(声)「なんだよォ、オレが何したっていうんだよ」
岩下(声)「店の常連で半沢っての、いたろ」
石川(声)「半沢? 知らねえよ、そんなの」
北川(声)「与作っていやあ判《わか》るだろ」
石川(声)「与作? 与作がどしたんだよ!」
岩下(声)「ゆうべ殺されたんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]おどろく石川の顔。
●回想――裏通り[#「回想――裏通り」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]小雪がちらついている。
[#1字下げ]片側はブロック塀。こわれて捨てられた屋台。
[#1字下げ]酔った中年男「与作」こと半沢徳司(48)が鼻唄《はなうた》をうたいながらくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「※[#歌記号、unicode303d] 与作 与作
[#2字下げ]もう日が暮れる」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]与作、ブロックに向って立小便をしようとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「※[#歌記号、unicode303d] 与作 与作
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]女房《にようぼ》が呼んでいる
[#2字下げ]ホーホー ホーホー」
[#1字下げ]うしろから唱和する男の声。
[#1字下げ]与作におおいかぶさるように影が近づく。
[#1字下げ]崩折れる与作。
●取調室[#「取調室」はゴシック体]
[#1字下げ]石川。
[#1字下げ]南警部補。岩下、北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「オレやってないよ。冗談じゃないよ。なんでオレがあんな出稼《でかせ》ぎのオッさん、やンの!」
南「じゃあ、なぜ逃げた」
石川「(何か言いかける)」
南「金、借りてたそうだな」
石川「―――」
南「故郷《くに》へ帰るから返してくれって、からまれてたそうじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
●回想――スナック「十和田」[#「回想――スナック「十和田」」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]バーテンの石川に与作がくどくどと食い下っている。
[#1字下げ]しわになった女房、子供の写真。地方なまりのママのケイ子。
[#1字下げ]常連の雨宮(28)たちが、はやすように「与作」をうたっている。
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] 与作は木を切る
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「利子はいいから。カンベンしてやっから。あさってまでに何とかしてもらわねば、オレ、故郷、帰れねンだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] ヘイヘイホー ヘイヘイホー
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「ワリィー(拝む)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] こだまはかえるよ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「こないだから、そればっかじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] ヘイヘイホー ヘイヘイホー
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「弁慶じゃねけどさ、あと一本で千本なのよ」
ケイ子「与作さん、一千万たまったの」
与作「出稼ぎで、そんなたまっかよ」
雨宮「ひとケタ、ちがうよなあ」
ケイ子「それだって、大したもんだわ」
雨宮「母ちゃん、よろこぶよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] 女房は はたを織る
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
与作「石にかじりついても、これだけ(両手ひろげる)持って帰ッぞって(胸|叩《たた》く)出てきたんだよ。半端《はんぱ》じゃ帰れねえんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] トントントン トントントン
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雨宮「バーテンさん、罪だよ」
石川「あした(拝む)」
与作「ほんとだよ(こっちも拝む)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合唱※[#歌記号、unicode303d] 気だてのいい嫁《こ》だよ
[#1字下げ]   トントントン トントントン
[#1字下げ]   与作 与作 もう日が暮れる
[#1字下げ]与作、みんなにビールをついでやりながら唱和している。文句をいいながら皆におごり、人気者になっているのが嬉《うれ》しいという感じ。
●取調室[#「取調室」はゴシック体]
[#1字下げ]石川。南。岩下。北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「ほんと、冗談じゃないよ。十や二十のはした金で、人|殺《や》るバカないよ」
南「ゆうべ店はねてから、どこにいた?」
岩下「一時から二時まで――どこにいた」
石川「――ホテル」
南「帝国ホテルか」
石川「女の子と――ホテル――」
南「ラブ・ホテルってやつか」
岩下「ホテルの名前!」
石川「いきあたりばったりで入ったから」
南「じゃあ女の名前」
石川「―――」
南「それもいきあたりばったりか」
石川「そ、そうなんす!」
岩下「いい加減なこというな」
石川「ほんとうだよ、本当!」
南「――つじつま合わないなあ、うん?」
石川「―――」
南「女の子とラブ・ホテルへ行った人間が、警察手帳みて、どしてすっとんで逃げるんだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]石川、三人を見て、ポケットから、赤い皮の定期入れを出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「貝塚《かいづか》南」
岩下「同じ名前じゃないすか」
南「高校三年」
石川「思い出した! 二丁目のみなと荘!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]定期券の写真。
[#1字下げ]五千円札が一枚入っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「盗むつもりじゃなかったんだよ――一回きりっての、やで――名前、教えないから、それでオレ――逃げたのは、あの子が訴えたのかなって、そう思ったからなんすよ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]南、北川に定期をあごでしゃくって目くばせ。
●警察署・廊下[#「警察署・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]出てくる北川。
[#1字下げ]待っている石川。
[#1字下げ]何か言いたそうにするが、北川、無視して出てゆく。
[#1字下げ]追う石川。
[#1字下げ]北川に体当りをくらわすようにぶつかってくる石川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「学校や、おやじさんに知れッと、かわいそうだから」
北川「常識! (歩きながら)逢《あ》った晩にホテルにしけ込んでンだろ。高校生にしちゃ、いいタマだよ」
石川「ショジョ――」
北川「え?」
石川「はじめてだったんだよ」
北川「はじめての女の子が行きずりのバーテンと泊るか」
石川「あの子、殺されるかも知ンないんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
●回想――ラブ・ホテル[#「回想――ラブ・ホテル」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ベッドの石川と貝塚南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川「誰《だれ》に?」
南「―――」
石川「誰に殺されるんだよ」
南「――パパ」
石川「パパって――お父さんか」
南「一家心中するつもりじゃないかな」
石川「(何か言いかける)」
南「いろんなこと、知らないで死んじゃうの口惜《くや》しいじゃない」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]無理に笑っている。
[#1字下げ]天井《てんじよう》を向いた横顔に涙が伝わって落ちる。
●高校・校門[#「高校・校門」はゴシック体]
[#1字下げ]立っている北川の手の定期券の写真。
[#1字下げ]女子高校生たちが帰ってゆく。
[#1字下げ]笑いながら、ふざけながら、三人五人と連れ立って歩いている。その中に、屈託なく笑い、友達の肩をカバンでどやしながら歩いてゆく貝塚南がいる。左側オーバーのえりを立て頬《ほお》をかくすようにしている。
[#1字下げ]北川、近づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「貝塚南さん――」
南「―――」
北川「定期券のことで、ちょっと――」
南「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●喫茶店[#「喫茶店」はゴシック体]
[#1字下げ]北川と貝塚南(オーバーのえりをたてている)。
[#1字下げ]テーブルに定期。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「落したの」
北川「どこで」
南「―――」
北川「新宿二丁目のみなと荘で落したんじゃないの」
南「―――」
北川「誰と泊ったの」
南「―――」
北川「名前」
南「関係ないでしょ」
北川「―――」
南「警察、関係ないでしょ」
北川「いや、関係あるんだなあ。ゆうべ、夜中の一時から二時の間に、人間が一人殺されたんだ」
南「誰?」
北川「スナックの客。出稼ぎにきてたオッサンさ。だからね」
南「どして殺されたの? どやって? 誰に?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]やや異常とも思える感じでたずねる南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「金じゃないかな。誰って判りゃ苦労しないよ」
南「人って殺されるのは昼間よか夜の方が多い?」
北川「多いかもしれないなあ――(言いかけて)面白《おもしろ》いこと聞くね」
南「―――」
北川「聞きたいのは、その時間に一緒にいた男の名前。(言いかける)」
南「アリバイ?」
北川「だれ? 名前」
南「さあ――」
北川「名前、知らないの?」
南「―――」
北川「十和田ってスナックのバーテンかい」
南「疑われてるの」
北川「そういうわけじゃないけどね、一応、ホラ、聞くわけ」
南「――(少しホッとしている)」
北川「一緒だったわけだ」
南「(うなずく)」
北川「ゆうべの一時から、今朝の始発まで一緒にいたことは間違いないんだね」
南「――(うなずく)」
北川「そこ、どしたの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川、立てているオーバーのえりをおろす。
[#1字下げ]赤くはれている左の頬。
●回想――貝塚家・玄関[#「回想――貝塚家・玄関」はゴシック体](早朝)
[#1字下げ]帰ってくる南。
[#1字下げ]返本を山と積んである玄関。
[#1字下げ]眠らずに待っていた父の陽一郎が立っている。陽一郎、娘を上から下までみつめ、玄関の鏡に押しつけるようにする。
[#1字下げ]目をそらす南。
[#1字下げ]陽一郎、烈《はげ》しく頬《ほお》を打つ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「パパ――」
陽一郎「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●喫茶店[#「喫茶店」はゴシック体]
[#1字下げ]北川と貝塚南。
[#1字下げ]テーブルに定期券。
[#1字下げ]南の手が、定期をいじっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「殴るの、当り前だよ、オレが親でも、ブン殴ってるね」
南「――(目を閉じる)」
北川「お母さんも、怒ったろ」
南「(ねむい)いないもン」
北川「お母さん、いないの?」
南「―――」
北川「何やってンの、おやじさんの職業」
南「出版――小さい――美術の本――」
北川「景気、どうなの。いま、出版は、大変だって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、南が居ねむりをしているのに気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「ねえ――ねえ――ちょっと――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川、ためらうが、南を突つく。
[#1字下げ]引きこまれるようにねむりこんで目をあけない南。
[#1字下げ]北川、急に手荒くゆさぶる。
[#1字下げ]強引に目をあけさせて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「ヤク、やってンじゃないのか」
南「?」
北川「クスリ――」
南「(首を振って)おねがいだから、ねむらせて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]南の寝顔。
[#1字下げ]定期をいじっていた南の手がゆるむ。
[#1字下げ]寝息を立ててねむっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川(声)「夜がこわかった。この一週間、安心して夜、ねむれなかった。今は安心してねむれるって、寝息立ててねむってんすがね――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]南の寝顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
石川(声)「おやじさんが、事業に失敗して、街のサラ金にまで金借りたらしいんすよ。そいで、ニッチもサッチもいかなくなって、一家心中するつもりらしいって、そいってンすけどね――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]けたたましい音を立てて、ボーイがスチールの盆を落す。ビクッとして、目をあけ、ちょっと北川に笑いかけて、またねむってしまう。
[#1字下げ]南の寝顔。みつめる北川。
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]沢田以下、南、久保田、姫田、佐々木、岩下、北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「ガイシャの身許《みもと》ですが、半沢徳司48歳。本籍青森県北津軽郡中里町一。農業。女房《にようぼう》と十をかしらに子供は三人。三年前から出稼《でかせ》ぎに上京。地下鉄工事などに従事。東京の住所は、新宿区北町のマツモト・ベッド・ハウス。ただし、ねるだけで、夜は、新宿のスナック『十和田』へ入りびたっていた――『十和田』でのあだ名は『与作』」
沢田「与作?」
姫田「アレ? おやじさん『与作』知らないんですか。素人《しろうと》のつくった歌で、北島三郎がうたってる――」
佐々木「※[#歌記号、unicode303d] 与作 与作
[#ここから改行天付き、折り返して−1字下げ]
[#2字下げ]ヘイヘイホー ヘイヘイホー」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「ああ、あれかい」
南「死因はひもなどによる、絞殺《こうさつ》。死亡推定時刻は午前一時から二時の間。スナックの閉店までねばって――一人でフラフラ出てったのを、ママや客三名が見てます」
久保田「金借りて、催促されたバーテンは」
岩下「石川は白です。女子高校生とラブ・ホテルに泊ってます」
沢田・佐々木「高校生?」
南「これがねえ、はじめて逢ってその晩ですからねえ! ススンでるというか」
佐々木「乱れてるというか」
南「高校生の方、ウラ、とれましたから」
沢田「シロか――」
南「問題は、ガイシャの所持金ですが」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]話をさえぎるように、沢田、拳《こぶし》でテーブルを叩《たた》き、放心している北川に注意。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「おう」
北川「え?」
沢田「(ちゃんとハナシを聞けというジェスチュア)」
北川「聞いてますよ。ちゃんと」
南「おたがいねむたい商売だけどなあ(いいかける)」
北川「一週間、ねてないらしいんだなあ」
一同(「え? 誰が」
[#1字下げ] 「ガイシャがかい」
北川「(一息にまくしたてる)おやじさんが、小さい美術出版やってたらしいんすが、この不況で倒産して街のサラ金にまで金借りて、ニッチもサッチもいかないんだなあ。おふくろさん死んで、父親と二人暮しなんで――サラ金の業者が毎日押しかけて、娘、トルコへ叩き売るなんておどかすもんでおやじさん、一家心中」
沢田「なんのハナシだい」
[#1字下げ] 「なんだ、そりゃ」
一同(「おいおい」
[#1字下げ] 「なに言ってンだよ」
北川「それだけじゃないんだよ。サラ金に責められて、たった一枚残ってた、何とかって有名な絵描《えか》きから預ってた絵を、売っちゃったっていうんだなあ。そういうことは業者からパッと伝わって、もうその社会じゃ相手にされなくなる――自殺行為だっていうんすよ。それ見て娘は、あ、もうダメだ……=v
一同(「待てよ」
[#1字下げ] 「おい!」
北川「いや、このままだとおやこ心中もあり得るんじゃないかと思って」
南「なんのハナシだよ」
久保田「ねぼけてンじゃねぇのか」
北川「だから、南」
南「南はオレだよ」
北川「南って名前、貝塚南」
岩下「バーテンと泊った女子高校生ですよ、カンケイないだろガイシャとは」
北川「直接関係はないすよ。だけど――」
岩下「一人の人間が殺されてンだよ。故郷じゃ、女房子供が泣いてンだよ。バーテンとラブ・ホテルにしけ込んだズベ公の心配よかホシを(言いかける)」
北川「ズベ公じゃないよ、ショジョ」
一同「え?」
北川「(しどろもどろ)ヴァージン」
一同「え?」
北川「いや、あのー、はじめてだった」
久保田「ショジョが、はじめて逢《あ》ったバーテンとホテルへしけ込むか?」
佐々木「ショショショジョ寺だよ。タヌキ!」
北川「そうじゃないよ!」
沢田「おい!」
北川「何にも知らな――セックスのこと――知らないで、死ぬの、さびしかったって、そいったって」
姫田「口実だよ、口実」
北川「なんすか、そりゃ」
姫田「そういう時、女の子にゃ、口実が要るんだよ。やましい分だけ(言いかける)」
北川「それ、言っちゃ、かわいそうだよ、もっと切実な」
沢田)「おい」
南[#1字下げ]  「待てよ」
北川「(聞かない)よそのうちのものは、毒入ってないから安心して食べられる、よその水は、安心してのめる――作りバナシなら、そこまで言わないよ」
沢田「おい!」
北川「それと、安心して、ねむりたかったんだよ。おやじさんに、殺されるんじゃないか、おびえて、夜、オチオチ眠れなかったって――オレの前でも、スースー寝息たてて」
佐々木「惚《ほ》れたんじゃねえのか」
沢田「話を本題にもどして」
北川「おやじさん、すでに死亡した人間のホシをあげることも大事ですけどね、起るかもしれない殺人事件を」
沢田「(南に)ハナシすすめてくれ」
北川「起り得る殺人事件を未然に防ぐことも警察の」
姫田「しつこいぞお前」
北川「しつこいとは何だよ」
沢田「ガイシャの所持金|判《わか》ったかい(ピシリ)」
南「八十万ですよ」
五人「八十万!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川だけが取り残されている。
●スナック[#「スナック」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]聞き込みの佐々木と北川。ママのケイ子と常連の雨宮。
[#1字下げ]石川は、グラスをみがきながら、口数少なく、時々、チラリと北川をみつめて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ケイ子「腹巻貯金が自慢でね」
二人「腹巻貯金?」
雨宮「ここ(腹)入れてンの」
ケイ子「毎月、あたしに報告すンのよ、『ママさん、五十五万になった』、『六十万になったよ』」
雨宮「百万ためて、カアちゃん、よろこばすンだって、いってたのになあ」
ケイ子「あんなに、うち、大事にする人もなかったねえ。家族の写真みせびらかしてさ、毎晩、九時になると、ここから、うちに電話かけンのよね」
佐々木「毎晩、長距離?」
ケイ子「オッキな声じゃいえないけどさ、電話って、かけても、向うがとらなきゃ、チン、て鳴るだけで料金とらンないじゃない、だから、一分たつと与作さんまたかけて――」
雨宮「九時になっと与作のカアちゃん、電話の前にすわってたんじゃないの」
ケイ子「『あ、うちの父ちゃん、今日も元気でやってンな』――ラブ・コールよォ」
雨宮「あれ、ママさんよ、刑事さんの前でこういうハナシまずいよ」
ケイ子「あ、やだ――どうしよう」
佐々木「――人に恨みかうようなことは」
雨宮「とんでもない」
ケイ子「与作さん、人気あったもの、ねえ、イッちゃん」
石川「おごり魔だったもんなあ」
ケイ子「おごるったって、自分のビール(つぐ)くらいだけどさ」
佐々木「八十万、いつも、ここに、入れてたの」
ケイ子「入ってたね、ふくらんでたもの。汗くさいから、時々、風入れた方がいいよなんて、アタシたち、よく、ねえ」
雨宮「犯人、まだ判んないんすか」
佐々木「うむ――」
雨宮「※[#歌記号、unicode303d] 女房はハタを織る
[#2字下げ]ヘイヘイホー ヘイヘイホー」
ケイ子「『トントントン、よ』雨宮さん、いつもそこ間違えンだから――」
雨宮「(小声でつづきをうたう)
[#1字下げ] ※[#歌記号、unicode303d]気立てのいい嫁《こ》だよ
[#2字下げ]トントントン トントントン」
[#1字下げ]石川、北川を見る。
北川「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●ベッド・ハウス[#「ベッド・ハウス」はゴシック体]
[#1字下げ]聞き込みの佐々木と岩下。
[#1字下げ]ベッド・ハウスのオバサンとヌシの如《ごと》き下村(55)が答えている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
オバサン・下村「八十万?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]下村とオバサン。
[#1字下げ]顔を見合せ、失笑する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
オバサン「仏さんにゃ悪いけどさ」
下村「『フロシキ』じゃないの?」
二人「フロシキ?」
オバサン「そんな、たまるわけないよ、出稼ぎで」
下村「こんなとこで、一日千円も取られんだから、いや、ためるつもりでいンのよ、みんな。ところが、だよ、現実問題としちゃヘタすりゃ、自分一人で、いっぱいよ。カアちゃんの方角に手合して、酒のんじゃうんだなあ――」
オバサン「あの人、ほら、新宿のなんとかってスナックに入れあげてさ」
下村「これ(小指)でもいたんじゃないの。毎晩|一張羅《いつちようら》着ちゃ。出かけてたもんなあ」
オバサン「強くもないのに、ムリして飲んでさ」
下村「バカだよ」
オバサン「八十万ねえ」
下村「ほんとに持ってたのかねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、首をかしげている。
●貝塚家[#「貝塚家」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]貝塚陽一郎の表札をたしかめる北川。
[#1字下げ]玄関のドアが半開きになって、サラ金の取り立ての若い男(角田)が、高声を立てて、陽一郎とやり合っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
角田「借りた金返せないで世の中通るかよ! なんなら、オート三輪車にスピーカーつけて、うちの前でどなってやろうか」
陽一郎「ハナシ、最後まで聞いてからどなって下さい」
角田「なんだと!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]妙に明るく冷静な陽一郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「あしたの午後三時に来て下さい」
角田「一日逃れの言いわけなら!」
陽一郎「支払います」
角田「なんぼ」
陽一郎「元利とも――全額です」
角田「おい(何か言いかける)」
陽一郎「これだけは、と思ってたもの処分したんですよ。とにかく、明日の三時、領収書を持参で来て下さい」
角田「そういうもンがあったら、はよ言やあいいんだよ! おい――あしたになって、また泣言いいやがったら」
陽一郎「お待ちしてます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]角田ガシャンとドアをしめてゆく。
[#1字下げ]北川に気づき、じろりと見て出てゆく。
[#1字下げ]中で電話のベルが鳴っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「貝塚です――、あ、山東商事さん――モシモシ、モシモシ――この件ですがね、あした三時に支払いますから、はあ、あしたの三時――元利とも――全額です。間ちがいありません。領収書持参で――迷惑をかけましたが、はあ、間ちがいありません。必ず――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]窓からのぞきこんでいる北川に気づく。
[#1字下げ]北川、玄関に廻《まわ》る。
[#1字下げ]いきなりドアが内側から開く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「どなたですか」
北川「(不意をつかれヘドモドする)いや、あの」
陽一郎「業者の方ですか」
北川「いや、あの、南さんの」
陽一郎「ゆうべ一緒だったのはアンタか」
北川「あ、あの件で」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川が言いかけるより早く、陽一郎の右手が北川の顔面に。よろける北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「パパ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]お使いから帰ってきた感じの南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「何すンのよ」
陽一郎「どこのどいつだ。人のうちの娘(言いかける)」
北川「人ちがいすよ」
南「ちがうのよ、ちがうの!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]電話鳴る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「(とる)貝塚《かいづか》ですが――あ、三和商事――モシモシ――あ、待って下さい。支払いますよ、あしたの三時――絶対間ちがいありませんから、三時にどうぞ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]鼻血の手当てをしかける南。
[#1字下げ]ギクリとする北川。
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ラーメンを食べながら、電話を受ける久保田《くぼた》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
久保田「なんだ北川か。おやっさん、席外してる。今晩がヤバイ? なにがヤバイんだ」
[#ここで字下げ終わり]
●公衆電話[#「公衆電話」はゴシック体]
[#1字下げ]鼻の穴にティッシュを丸めてつめながら、焦《あせ》って電話している北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「絶対ヤバイすよ。サラ金の催促に、みんな、あしたの三時に払うっていってンすよ。絵売った金は銀行に返してるんだよ。金なんてあるわけないよ。絶対今晩がヤバイよ。近所で聞き込みやったンすがね、親一人子一人で物凄《ものすご》く娘、可愛《かわい》がってたっていうンすよ。娘の方も、おふくろさん死んでから、女房《にようぼう》代りに、父親の世話して、一心同体っていうか――娘のほうもおびえちゃいるけど、逃げたりしないしねえ、おやじの方も、妙に明るくて落ち着いてンすよね。どう考えたって、今晩がヤバイすよ!」
[#ここで字下げ終わり]
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]久保田、岩下。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
久保田「お前、どっからかけてンだ。捜査に関係ないだろ、そんなこと――一家心中――お前な、どこの家だってハラワタのぞきゃなんかしらアンだよ。いつ起るか判んない心中だかなんか追っかけてたら、こっちは体いくらあったって足ンないよ! そういうのは休みの日にやれ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ガシャンと切って――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
久保田「いい加減にしろ、バカ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入ってくる沢田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「また値上りか、ラーメン」
[#ここで字下げ終わり]
●公衆電話[#「公衆電話」はゴシック体]
[#1字下げ]北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「バッカヤロオ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]鼻から、ティッシュが飛び出してしまう。
●貝塚家・居間[#「貝塚家・居間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]壁にそこだけ絵をはずしたあと。
[#1字下げ]ステレオに、明るいクラシックのレコード。
[#1字下げ]机の抽斗《ひきだし》を片づけ、不用のものを千切って、暖炉の火に投げている。
[#1字下げ]ウイスキーをのみながら――
[#1字下げ]カーテンのすき間から見ている北川。
●回想――喫茶店[#「回想――喫茶店」はゴシック体]
[#1字下げ]必死に説得する北川。
[#1字下げ]ねむいところを無理に起されている南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「パパに殺されそうだって、誰《だれ》が?」
北川「一家心中するかも知れないって――」
南「(笑い出す)冗談」
北川「――冗談にしちゃ、キツいよ」
南「自殺したいとかさ、そういうこと、言ってンの、流行なのよ、ブーツの次は、自殺、あ、これ、うまいでしょ」
北川「洗面器に水いっぱい入れて、顔つけたことあるかい」
南「―――」
北川「三十秒で苦しくなる。どんな人間でも五十秒でダメになるんだ。体がつめたくなって、瞳孔《どうこう》がひらいて、考えることも笑うこともない、タダのマキザッポになるんだよ。それが死ぬってことなんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]南――
●洗面所[#「洗面所」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]髪を洗い終った南、いっぱいに満たした洗面所の水をみている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川(声)「生きてりゃ、おもしろいこと、いっぱいあンだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]顔をつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川(声)「アブないと思ったら、おやじ突きとばして、逃げろ、いいな――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]苦しい南。
●貝塚家・表[#「貝塚家・表」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]うかがっている北川。
[#1字下げ]ウイスキーをのむ陽一郎。
[#1字下げ]ぬれた髪の南、入ってくる。パジャマとガウン。
[#1字下げ]暖炉の前にすわる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「髪、洗ったのか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うなずく南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「お前も、飲むかい」
南「いつも、いけないっていうのに――」
陽一郎「もう、おとなだろ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]父のかなしみ。娘のはにかみ。
[#1字下げ]娘の分のグラスにウイスキーをつぐ父。
[#1字下げ]二人のうしろの白く四角い絵をはがしたあと。
[#1字下げ]娘にグラスをもたせて、カチリと合せる。父の手がかすかにふるえている。
[#1字下げ]南ののどがごくりと鳴る。ウイスキーのグラスがこわい。
[#1字下げ]父の目を見ながら、のもうとする。
[#1字下げ]ドーンとガラス戸に何か大きいもののぶつかる音がする。
[#1字下げ]陽一郎、アレ? という感じで手を止める。
[#1字下げ]音はそれっきり。
[#1字下げ]父と娘、またグラスを合せようとする。
[#1字下げ]外の北川、体ごとガラスにぶつかる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「誰だ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]陽一郎。
[#1字下げ]グラスを置きカーテンをあける。誰もいない。
[#1字下げ]物かげにかくれる北川。
[#1字下げ]南、グラスを置く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「(かすれた声で)おやすみなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]そのまま、出てゆく。
[#1字下げ]陽一郎、しばらくじっとしている。
[#1字下げ]自分のグラスの酒をのむ。
[#1字下げ]物かげの北川、かすかに緊張するが――
[#1字下げ]陽一郎、デスクの片づけをつづけている。
●南の寝室[#「南の寝室」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]スタンドを消しベッドに入る南。
[#1字下げ]廊下に足音。電気がつく。ドアの下から明るい光の線がもれる。
[#1字下げ]ハッとなる。
[#1字下げ]ドアの外に立つ父の気配。じっとしている。こわくなって、はね起きる。ハダシで窓のそばにくる。
[#1字下げ]カーテンのすき間からのぞく男の目。
[#1字下げ]びっくりする南。北川と判《わか》る。けげんな顔。北川、自分の腕時計の文字盤を示し、十二時から六時までを指で示す。この間、ここに立って見ていてやるよ、というジェスチュア。
[#1字下げ]南、安心したように自分のベッドにもどる。
[#1字下げ]足音が遠ざかり、廊下の電気が消える。
[#1字下げ]少しあいたカーテンのすき間から北川の目とくちびるがみえる。
[#1字下げ]北川のくちびるが「オヤスミ」といっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「?」
北川「(くちびるで)オヤスミ」
南「(これもくちびるだけで)オヤスミ(目をとじる)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川じっとしている。
●居間[#「居間」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ウイスキーをのみながら、身辺の整理をする陽一郎。
●貝塚家[#「貝塚家」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]登校してゆく南、キョロキョロする。
[#1字下げ]物かげで見ている北川。
[#1字下げ]南は、気がつかず登校してゆく。
[#1字下げ]北川、あくびをしている。
[#1字下げ]家の中から、電話のベル。
[#1字下げ]裏口の戸じまりをしている陽一郎。
●上智《じようち》大グラウンド[#「上智《じようち》大グラウンド」はゴシック体]
[#1字下げ]走り高跳びをしている選手たち。
[#1字下げ]ぼんやり見ている陽一郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「惜しい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うしろから低いひとりごと。
[#1字下げ]沢田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「(ため息)」
沢田「惜しい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ぼんやりみていた陽一郎。
[#1字下げ]二人ならんで、ながめることになる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「あ、いまの、あれは、投げてるな」
陽一郎「―――」
沢田「はじめから、無理だとあきらめてる。あれじゃ跳べないな」
陽一郎「――そういう日が、あるんじゃないですか」
沢田「?」
陽一郎「先代の若乃花――今の二子山だったかな、現役時代に言ってましたよ。場所中に一日ぐらいは朝起きて、手をにぎっても力の入らない日がある。そういう日はどうがんばっても、ダメだ」
沢田「そりゃがんばり方が足りないんだ。死ぬ気になりゃ出来ないものはないでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]陽一郎、沢田の手にした新聞に気づく。
[#1字下げ]親子心中の大きな見出し。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「今朝のですか」
沢田「いや、二、三日前のでしょう。尻《しり》の下に敷こうと思って持ってきたやつだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]バサッとひろげて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「おやこ心中か――」
陽一郎「――新聞もいけないなあ」
沢田「―――」
陽一郎「こりゃ人殺しですよ。おやこ心中なんてキレイな言葉つけるから、マネする奴《やつ》がいるんだ」
沢田「(意外)」
陽一郎「死ぬのなら親は一人で死ぬべきですよ。道連れにしたい――迷う気持も本当だけど、子供は――知らない間に、子供じゃなくなってる――」
沢田「お子さん――」
陽一郎「娘が一人です」
沢田「そりゃ嫁にやる時が大変だ――」
陽一郎「(笑って)その前に死にたいですよ」
沢田「(これも笑って)そりゃ無理だ――第一、婿《むこ》の顔、見ないで死んだんじゃ、くやしくて、死んでも死に切れんでしょう」
陽一郎「恨みごとのひとつも言ってから――いや、恨みごとよりたのみごとかな――、あ――(選手)」
沢田「(笑って)あ、惜しい(走り高跳び)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]失敗した選手、すごすごとベンチへもどる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「どうしてもう一度、トライしないんだ(選手に言う形で)」
陽一郎「限界でしょう。自分でも判ってますよ」
[#ここで字下げ終わり]
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]南警部補に報告している岩下。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「目撃者?」
岩下「ホステスです。あの晩、酔って現場通りかかったっていうのがいるんです。『与作』うたってた二人の男をみたって」
南「二人の男?」
[#ここで字下げ終わり]
●オートメーションの写真を写すボックス[#「オートメーションの写真を写すボックス」はゴシック体]
[#1字下げ]写真をとっている南。
[#1字下げ]気取って――何ポーズもうつす。
●貝塚家・居間[#「貝塚家・居間」はゴシック体]
[#1字下げ]学校から帰ってくる南。
[#1字下げ]免許証用の小さい写真を何枚もテーブルの上にのせる。
[#1字下げ]いたずらをして、黒枠《くろわく》をつけてみる。サインペンが半分でなくなる。
[#1字下げ]父の抽斗をあける。
[#1字下げ]カラ。
[#1字下げ]次の抽斗。
[#1字下げ]カラ。
[#1字下げ]次々とあけてゆく。
[#1字下げ]カラ。
[#1字下げ]時計は二時半。
[#1字下げ]電話が鳴る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「貝塚です。あ、パパ! どこにいるの!」
[#ここで字下げ終わり]
●車中[#「車中」はゴシック体]
[#1字下げ]佐々木と北川、前方の車を追っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「ありゃ、絶対、無理心中だよ」
佐々木「落着けよ」
北川「みろよ、オレの言った通りだろ!」
佐々木「落着けっていってるだろ」
[#ここで字下げ終わり]
●車の中[#「車の中」はゴシック体]
[#1字下げ]ハンドルを握る陽一郎。
[#1字下げ]助手席の南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「パパこれから、どこへ行くつもりか、お前判るか」
南「(うなずく)そう思って一番好きな服着てきた」
陽一郎「?」
南「本当は、写真、もうちょっと美人にうつってるとよかったんだけど――、アタシ、ふざけてるのしかないでしょ、写真」
[#ここで字下げ終わり]
●貝塚家・居間[#「貝塚家・居間」はゴシック体]
[#1字下げ]黒枠をつけた写真が、テーブルに置いてある。
●日赤本社・前[#「日赤本社・前」はゴシック体]
[#1字下げ]車の中の陽一郎と南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「パパ――(けげんな顔)」
陽一郎「お前は、ここで生れたんだよ」
南「―――」
陽一郎「二千七百五十グラム――」
南「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]離れたところにある北川たちの車。
[#1字下げ]陽一郎の車、スタートする。追う北川の車。
●貝塚家・居間[#「貝塚家・居間」はゴシック体]
[#1字下げ]南の黒枠の写真。
●セント・イグナチオ教会[#「セント・イグナチオ教会」はゴシック体]
[#1字下げ]陽一郎と南。結婚式があるらしく、ウエディングマーチが聞えてくる。
[#1字下げ]南、父の顔を見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「あら、パパたち、ここで、結婚式あげたの?」
陽一郎「お前だよ、お前には、ここで式あげてもらいたかった――」
南「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ウエディングマーチ――。
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]電話をとる沢田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
沢田「車を見失った? それじゃあな、例のスナック――バーテンのいる――『十和田』か――うん、――『十和田』」
[#ここで字下げ終わり]
●スナック「十和田」・前[#「スナック「十和田」・前」はゴシック体]
[#1字下げ]止まる陽一郎の車。
[#1字下げ]おりて入ってゆく父と娘。
[#1字下げ]張っていた佐々木と北川、顔を見合わす。
●スナック「十和田」[#「スナック「十和田」」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]開店前の準備をしているママのケイ子。
[#1字下げ]入ってくる南と陽一郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ケイ子「すいません五時からなんだけど」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]中をのぞきこんでキョロキョロする南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ケイ子「だれか、待ち合わせ?」
陽一郎「ここで働いている男か」
ケイ子「バーテンさんなら、もうくるけど――なんかね、お金借りてたお客さんに不幸があってね、(声をひそめて)殺されたのよ。犯人、まだ判んないんだけど、そンでね、のこされた家族にお金返さなきゃ悪いって、金策にいってンのよ。こっちが貸してやれりゃいいんだけど、こっちもいっぱいいっぱいでしょ、バーテンさん、――何か――用?」
陽一郎「バーテンか――お前――」
南「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入ってくる北川。
[#1字下げ]うしろから佐々木。
[#1字下げ]陽一郎、北川の顔を見て、アッとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「やっぱり、お前か。ほかに男もいるだろうに、バーテン」
南「ちがうわよ、この人」
北川「オレ、バーテンじゃないすよ」
ケイ子「この人、刑事さん」
陽一郎「刑事――お前どうして刑事――知ってンだ。何かやったのか。おとといの晩、男と泊ったんじゃないのか」
北川「泊ってなんかいないよ。そこの、そこの椅子《いす》で、ねむっていたんだよ。高校生が夜中にひとりでこんなとこにねてちゃいけないって、説教して補導したんすよ。男と泊ってなんかいないよ。ねぇ、ママ。そうだよな」
ケイ子「(何か言いかける)」
南「違うわ。泊ったのよ」
一同「―――」
南「ホテルで泊ったの。ここのバーテンさんが、さそってくれて――一緒にホテルへ行ったのよ」
陽一郎「名前は――何て男だ!」
南「(首をふる)」
陽一郎「名前も知らないのか。名前も知らないバーテンとか! お前いくつだ。十七だぞ。十七歳と、三ヶ月なんだぞ、お前は」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いながら、南の胸倉をとり、烈《はげ》しくゆさぶる。
[#1字下げ]間にとびこみ、その手をふりほどく北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「なにをするんだ」
北川「十七歳と三ヶ月、殺そうとしたのは、誰《だれ》なんだよ」
陽一郎「殺す? なに言ってんだ。なに言ってンだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川、陽一郎の頬《ほお》を殴る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「とぼけるんじゃないよ」
南「アッ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]頬を押さえて次の瞬間、殴り返そうとする陽一郎。
[#1字下げ]北川と陽一郎の間に入る佐々木。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
佐々木「(二人を分けて静かに)娘さん、ホテルへ行かせたの、お父さんじゃないですか」
陽一郎「?」
佐々木「仕事がつまずいて、サラ金に追われて――身辺整理をされてた。娘さんは、道連れに殺されるんじゃないか――夜も安心してねむれなかった――おびえないで、一晩ゆっくりねむりたい――女と生まれて、このまま何も知らないで死んでゆくの、さびしい――そう思って一晩うちあけた――そういう娘さんの気持――」
陽一郎「(何か言いかける)」
北川「アンタに、子供、ののしる資格、ないよ。オレはね、どっか泊る親戚《しんせき》ないのかって、そう言ったよ。アブナイと思ったら、おやじさん、突きとばして逃げろって――でもね、逃げなかったじゃないか。父親一人で死なすのかわいそうだと思って、一緒に死ぬつもりで」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]陽一郎、北川をはじきとばす。
[#1字下げ]南に向う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「お前、そう思ってたのか」
南「(コクンとうなずく)」
陽一郎「バカ――バカだぞ。お前、道連れにするわけないじゃないか。死ぬんなら、ひとりで(言いかけて、ハッとなる)」
南「いま、なんて言ったの」
陽一郎「(絶句する)」
南「パパ!」
陽一郎「たとえばのはなしだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]陽一郎、ハンカチを出して額の汗を拭《ふ》こうとする。
[#1字下げ]航空券が落ちる。
[#1字下げ]北川、ひろおうとする。
[#1字下げ]もみあいになる。
[#1字下げ]航空券、床をすべる。
[#1字下げ]南ひろって、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「大島! パパ、一人でゆくの? なにしにゆくの! 自殺するつもりだったのね、パパ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみあう父と娘の真中にある電話が鳴る。
[#1字下げ]電話。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ケイ子「『十和田』です――え? いまちょうどみえたとこ――」
北川「(オレ?)北川です」
[#ここで字下げ終わり]
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]岩下がかけている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
岩下「ホステスの証言なんだけどね。『与作』うたって、ガイシャのうしろから近づいた男が、一ヶ所、歌詞間ちがえてうたってたっていうんだなあ」
[#ここで字下げ終わり]
●「十和田」[#「「十和田」」はゴシック体]
[#1字下げ]陽一郎、南、佐々木、北川、ケイ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「歌詞、間違えてうたってた?
[#1字下げ] 女房《にようぼ》はハタを織る――
[#1字下げ] ヘイヘイホー ヘイヘイホー(?)」
ケイ子「(明るく叫ぶ)雨宮さんと同じだ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]階段を上ってくる足音と雨宮の歌声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雨宮「※[#歌記号、unicode303d] 女房はハタを織る
[#2字下げ]ヘイヘイホー ヘイヘイホー」
[#1字下げ]雨宮、入ってきて、
雨宮「お、今晩は、しょっぱなから、込んでるねえ」
[#ここで字下げ終わり]
●取調室[#「取調室」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]雨宮、南警部補、岩下。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
雨宮「やったのは、オレだよ。だけどね、金はちがうよ。八十万どころか――五千円もねぇんだよ」
南「そんなこたないだろ。腹巻に八十万」
雨宮「古新聞だよ、古新聞! 人、バカにしやがって――」
[#ここで字下げ終わり]
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]佐々木の前で、書類にサインしている陽一郎。
[#1字下げ]南、北川。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
佐々木「道交法違反――十キロオーバー、罰金は――」
北川「罰金、払えるうちがハナだよな。人間、死んじゃえば、もう――どうしようもねぇや」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]北川、まるで、トランプの札でも撒《ま》くように、何枚かの写真をテーブルにひろげる。
[#1字下げ]無惨な与作の死体の写真。
[#1字下げ]こわばって空をつかむ手。
[#1字下げ]顔。
[#1字下げ]はだけた衣類。
[#1字下げ]失禁したのか濡《ぬ》れたズボン。
[#1字下げ]ポカンとして目を見開いた顔。
[#1字下げ]道路にチョークで描かれた人形《ひとがた》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
北川「(低く口ずさむ)与作、与作」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]陽一郎――
[#1字下げ]北川、目をあげて陽一郎をじっと見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
たね子(声)「ハナシが全然ちがいますよ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]向う側のドアから入ってきたらしい二、三人の足音。
[#1字下げ]ついたての向うから女の声。
[#1字下げ]半沢たね子、ガサガサしたキツイ中年女。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
たね子「なにが女房孝行なもんかね。うち出て三年になっけど、ただのいっぺんも、手紙よこさねえで」
沢田「でも毎晩、スナックから電話かけて、元気だっていうサイン、送ってたそうじゃないか」
たね子「うち、電話なんかないですよ」
沢田「―――」
たね子「そういうフリしてたんですよ。気が小さいくせして、みえっぱりで、人によく思われないと、いらんなかった人だから――おだてられて、いい顔して、女房子供泣かせて、自分もなんもいいことねくて――ありもしねぇ、金、あるなんていうから、見ろ。父ちゃんのバカって、言ってやれ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]男の子がワッと泣く。
[#1字下げ]ののしっていたたね子も、不意に泣き出す。
[#1字下げ]ついたてをへだてた二組の家族。
[#1字下げ]沢田が出てくる。
[#1字下げ]陽一郎の前に立つ。
[#1字下げ]陽一郎、頭を下げる。
[#1字下げ]北川にも下げる。
[#1字下げ]出てゆく父と娘、与作の妻と子供の嗚咽《おえつ》、まだつづいている。
●警察署前[#「警察署前」はゴシック体]
[#1字下げ]出てゆく父と娘。
●刑事部屋[#「刑事部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]窓から見ている北川。うしろ姿の佐々木、南、久保田《くぼた》、沢田たち。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南「にわとりが先か、卵が先か」
一同「え?」
南「殺し≠ェあったおかげでバーテンがしょっぴかれた。あの女の子と泊ったことも、表沙汰《おもてざた》になった――」
佐々木「その口から、おやこ心中のおそれがあることが判《わか》った」
北川「あの段階じゃ、みんな、バカにしてたけどね――(得意)」
南「逆にいやあ、女の子が、バーテンと泊ったおかげで、一家心中――いや、ありゃ、はじめっから、やる気なかったから、父親の自殺か、自殺を未然に防いだってことになるわけだ――」
久保田「(北川の肩を叩《たた》いて)デカのカガミだよ」
北川「急にタイド変わって――」
沢田「ひとつぐらい、いいこと、なくちゃなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]帰り仕度の刑事たち、しみじみと、低くかなしく、ハミングする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一同「※[#歌記号、unicode303d] 与作 与作 もう夜が明ける
[#2字下げ]ホーホー ホーホー」
沢田「そのうた、よせよ」
[#ここで字下げ終わり]
●窓口[#「窓口」はゴシック体]
[#1字下げ]航空券の払いもどしを受けている陽一郎。
[#1字下げ]父に甘えている南。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陽一郎「払いもどし、お願いします」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]しっかりと金を受取る陽一郎の手。
[#改ページ]
隣りの女――現代|西鶴《さいかく》物語
[#改ページ]
隣りの女
TBSテレビ(西武スベシャル)
一九八一年五月一日
●スタッフ
プロデューサー――――田沢正稔
演出―――――――――浅生憲章
●キャスト
時沢サチ子――――――桃井かおり
時沢集太郎――――――林隆三
持田卓雄―――――――近藤準
文子―――――――菅井きん
益本雄一―――――――池田鴻
英子―――――――山本道子
土佐森よね(管理人)―宝生あやこ
浩司(管理人)―藤原釜足
三宅信明―――――――火野正平
麻田数男―――――――根津甚八
田坂峰子―――――――浅丘ルリ子
[#改ページ]
●道[#「道」はゴシック体]
[#1字下げ]東京・西武池袋線大泉学園あたり。
[#1字下げ]「かわいいかわいい魚屋さん」のメロディを流しながら、オート三輪の千葉の産地直売の魚屋がゆく。
[#1字下げ]そのアナウンス。
[#1字下げ]手前を東京都のゴミの車が行く。
[#1字下げ]アパートから飛び出して追いかける若い主婦。
[#1字下げ]時沢サチ子(28)。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「すみませーん! お願いします! 待ってエ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手に粗大ゴミを持ち、全力疾走で追いかける。
[#1字下げ]サンダルが片方脱げる。間に合わない。
[#1字下げ]車は共に行ってしまう。
[#1字下げ]サチ子、ガックリして、片足で飛びながら、サンダルのところにもどり、足の裏をはたいてはき、アパートの方へもどってゆく。
●アパート前[#「アパート前」はゴシック体]
[#1字下げ]アパートは木造モルタル二階建て。
[#1字下げ]門のところに、やはりゴミの袋を持って出てきた田坂峰子(38)。
[#1字下げ]髪を大きなカーラーで巻き、派手なガウン姿。
[#1字下げ]起きたばかりらしく、化粧気なしの蒼白《あおじろ》い顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(まだ息が切れている)ちょっと待ってくれたっていいのに。意地悪いんだから。ごみ集めだって、あたしたちの税金でやってるわけでしょ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、足の裏が気になるらしく、柱に寄りかかって調べているが、峰子はチラリと見るだけ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「奥さん、税金払ってんの?」
サチ子「あたしは納めてないけど――パートだととられるけど、内職でしょ。でも、主人の給料から天引きされてるから」
峰子「そいじゃあ大威張りだわ」
サチ子「奥さん――(言ってから、しまったという感じ)おたく税金」
峰子「さあ、どうなってんだろ。いい加減じゃないの」
サチ子「――でも健康保険やなんか(言いかけ、気づく)あ、そうだ。こないだ立て替えたガス代――すみませんけど――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、サチ子のうしろに視線をやり、小さく、あ、と声にならない声を洩《も》らす。
[#1字下げ]サチ子、振り向く。現場監督風の若い男、三宅信明(30)が歩いてくる。
[#1字下げ]峰子はとっさに片手で目だけ残して顔をかくす。
[#1字下げ]目に気持をこめて強い視線で見返す。
[#1字下げ]そのまま、身をひるがえして、階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込む。ドアをバタンとしめる。
[#1字下げ]三宅、サチ子に小さく目礼。
[#1字下げ]サチ子も、複雑な会釈《えしやく》を返す。
[#1字下げ]三宅、たばこをくわえ、火をつける。
[#1字下げ]そのへんを行ったり来たりする。
[#1字下げ]サチ子、家に入りかけ、ついでに郵便箱をのぞく。
[#1字下げ]押し込んであった車やサラ金のパンフレットが下に落ちる。
[#1字下げ]パンフレットは、並んだポストの下に束になって落ちている。
[#1字下げ]ほうきを手に出て来た管理人の土佐森よね、片付けながら、話しかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「一枚一枚じゃラチ、あかないもンだから、横着して。こういうのはね、千枚とか二千枚配っていくら、ってなってンのよ。ヨイショ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子も手伝って拾う。
[#1字下げ]しゃがみ込んだ二人の向うを、行ったり来たりする三宅のほこりだらけの靴《くつ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「入れてもらえないのかしら」
よね「塗ったくってるのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]よね、化粧のジェスチュア。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ああ。それで、さっき、こうやったのか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、手で顔をかくすまね。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「男が年下だとさ、女は化けなきゃなんないから――大変だ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]よねのうしろに夫の浩司《こうじ》(65)、金槌《かなづち》で何か修繕をしている姿が見える。
[#1字下げ]サチ子、峰子と同じように片手で目だけ出して――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「そうか。それでこうやったのか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]目に情感をこめてみる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ああいうの、色っぽい目っていうのねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]よね、笑って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「素人《しろうと》の奥さんがやったって駄目《だめ》よ」
サチ子「どこが駄目なんだろ」
よね「ご主人に食べさせてもらってるひとはね、モトのところが違うの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]よね、ちょっとやってみせる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あ。凄《すご》い目。管理人さん、年にしちゃ、色気あるわア」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三宅、思いつめた目で上を見上げる。
[#1字下げ]貧乏ゆすり。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子・よね「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二階の峰子のドアが細目に開く。
[#1字下げ]マニキュアをした峰子の片手が出て、おいでおいでをする。
[#1字下げ]三宅、たばこを指で弾き飛ばす。
[#1字下げ]たばこは、二人の間に飛んでくる。
[#1字下げ]三宅が鉄の階段を上ってゆく。
[#1字下げ]サチ子とよねの間で、うすい煙を立てているたばこ。
[#1字下げ]よねがゆっくり踏み消す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「――昼日中から、ご苦労さんなこったわねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、聞えないフリで行きかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「時沢さんとこ、丸聞えでしょ」
サチ子「え? さあ。あたし、ミシンかけてるから」
[#ここで字下げ終わり]
●アパート・時沢の部屋[#「アパート・時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]内職のミシンを踏むサチ子。
[#1字下げ]同じ柄《がら》のブラウスが何枚も。段ボールの箱など。
[#1字下げ]二DKのつつましい部屋。
[#1字下げ]サチ子、かなり激しくガーと踏む。
[#1字下げ]踏みながら、うしろの壁を気にしている。
[#1字下げ]複製の泰西名画のかかった白い壁。
[#1字下げ]向う側から、ガラスの器かなにかを壁に叩《たた》きつけたらしい、激しい音。
[#1字下げ]サチ子、ミシンのスピードを落して聞き耳を立てる。(声ははっきり聞きとれたり、聞きとれなかったりする)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三宅(声)「ふざけんじゃねえよ!」
峰子(声)「やめなさいよ!」
三宅(声)「ふざけんなよオ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また、ぶつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「やめて! やめて! 乱暴すンなら、出てってよ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみ合う気配。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「アブない! ガラス!」
三宅(声)「シオドキってのは、どういうイミだよ!」
峰子(声)「あんた、シオドキ、知らないの! シオドキってのはね、痛い!――離してよ! 離して! シオドキってのはね!」
三宅(声)「そっちはシオドキだってな、こっちはシオドキじゃあねえんだよ!」
峰子(声)「離してよ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、少しおかしい。
[#1字下げ]ミシンを踏みはじめる。
[#1字下げ]内職のブラウスが縫い上っていく。
[#1字下げ]壁の向うの声が、また高くなる。
[#1字下げ]サチ子、ミシンのスピードを落す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三宅(声)「誰《だれ》だよ! 誰なんだよ!」
峰子(声)「そんなひと、いないわよ」
三宅(声)「いないわけ、ねえだろ。誰だよ、名前! 名前!」
峰子(声)「関係ないでしょ」
三宅(声)「ぶっ殺してやる!」
峰子(声)「誰を」
三宅(声)「殺すったら、殺すからな」
峰子(声)「――そんなことしたら、あんた、タダじゃ済まないわよ」
三宅(声)「ああ、覚悟出来てるよ、俺《おら》ア、タダっての、嫌《きら》いなんだよ。欲しいものは、ちゃんと金払って買ってるよオ!」
峰子(声)「それでいいじゃないの。恨みっこなしでいいでしょ。なんなら、領収証、書いたげようか」
三宅(声)「バッカヤロ! 人、バカにしやがって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみ合う気配。
[#1字下げ]ドスンと壁にぶち当る音。
[#1字下げ]サチ子、壁の絵を押える。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「なにすンのよ。離して! 離して!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]もみ合う気配。音。
[#1字下げ]声にならない声。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「なにすンのよオ。なにすンのよオ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]声の調子が変ってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「ガラス、アブないでしょ。ねえ――ガラス――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、段々に壁にはりつくようにして、耳をすます。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「ねえ――ガラス、あぶない」
三宅(声)「――大丈夫だよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人の声、甘くなってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「ねえ、ガラス」
三宅(声)「大丈夫だよ」
峰子(声)「アブないったら――」
三宅(声)「峰子――」
峰子(声)「ノブちゃん――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あとは、二人の荒い息づかい。
[#1字下げ]喘《あえ》ぎになり、壁が細かに震動をはじめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三宅(声)「峰子――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]少し聞いているサチ子。
[#1字下げ]ふと気がつく。
[#1字下げ]おかしな格好で、壁にはりついて隣りの気配を聞いている自分の姿が、ミシンの横の姿見にうつっている。
[#1字下げ]サチ子、壁際《かべぎわ》を離れ、上の絵を直す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「別に曲っていないかも知れません。でも、直すのが癖になっています」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、買物カゴを抱えて、出てゆく。
●アパート・廊下[#「アパート・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ドアの前に、ポリ袋に包んだゴミが転がっている。
[#1字下げ]さっき、峰子が持っていたもの。自分のドアの前にでも置いたものが、風で転がってきたらしい。
[#1字下げ]サチ子、指先でつまんで持ち、「田坂」とある隣りのドアの前にポンと置く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「よそのうちのゴミは汚なく思えます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]汚ないものをつまんだあとの手つき。
[#1字下げ]手を振って、階段をおりてゆく。
●商店街[#「商店街」はゴシック体]
[#1字下げ]歩いてゆくサチ子。
[#1字下げ]肉屋へ入りかける。
[#1字下げ]ブラ下っている枝肉。
[#1字下げ]少し迷うが、やめて魚屋へ。
[#1字下げ]さまざまな魚の顔、魚の目。
[#1字下げ]サチ子、押したりしてたしかめる。
[#1字下げ]結局、鯛《たい》のアラを一山買う。
[#1字下げ]サチ子、また歩く。
[#1字下げ]洋装店のウインドーを横目で見ながら、八百屋へ。
[#1字下げ]ネギと豆腐を買う。
[#1字下げ]混み合っている。
[#1字下げ]順番待ち。
[#1字下げ]すぐ横の主婦が連れている二、三歳の男の子の頭をなでたりしてからかう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「あのとき生れていたら、このくらいになっていました。子供が出来たので共働きをやめたのですが、流産したのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]歩くサチ子。
[#1字下げ]本屋、レコード屋の前は中ものぞかず通り過ぎる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「本を買うことも、レコードを聞くことも滅多になくなりました。夫も同じです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ふと足をとめる。
[#1字下げ]またもどり、八百屋へ。
[#1字下げ]春菊と生|椎茸《しいたけ》をつまみ上げる。
[#1字下げ]ガマ口をあけ、中から金を出す。
[#1字下げ]小さくたたんだ五千円札。
[#1字下げ]八百屋のしみの浮いた鏡に、主婦たちにまじって表情のないサチ子の姿がうつっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「夫の給料はなんだかんだ引かれて二十万をちょっと切れます。私が内職で五万ちょっと。赤字にあてたり貯金をしたりしています。それだけで毎日が過ぎてゆきます。ときどき理由もないのに、大きな溜息《ためいき》をついています」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]札のしわをのばして、払っているサチ子。
[#1字下げ]聖徳太子の顔。
●アパート・廊下[#「アパート・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ネギやトイレットペーパーを山程買いこんで、階段を上ってくるサチ子。
[#1字下げ]足をとめる。
[#1字下げ]三宅が帰るところ。
[#1字下げ]ドアを半開きにして峰子が見送っている。
[#1字下げ]サチ子、三宅と階段の中途でスレちがう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三宅「どうも――」
サチ子「(会釈)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]髪が汗に濡《ぬ》れ、なまなましい峰子の顔がドアから引っ込む。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]激しくミシンを踏むサチ子。
[#1字下げ]ミシンの車が、だんだんゆっくりになってとまる。
●アパートの階下・廊下[#「アパートの階下・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]管理人の浩司が、しゃがみ込んで、古びた自転車の手入れをしている。
[#1字下げ]車を廻《まわ》しては、油をさしている。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]ミシンにうつ伏してうたた寝をしていたサチ子、隣りから聞えてくる声に少しずつさめてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子(声)「谷川岳――谷川岳って、どこにあるんだっけ」
麻田(声)「群馬県――上越国境――」
峰子(声)「そうすると、上野から上越線?」
麻田(声)「上野。尾久《おく》。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾《あげお》。桶川《おけがわ》。北本。鴻巣《こうのす》。吹上。行田《ぎようだ》。熊谷《くまがや》。籠原《かごはら》。深谷《ふかや》。岡部《おかべ》。本庄《ほんじよう》。神保原《じんぼはら》――神保原(すこしつかえる)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]男の声は低いが、響きのよい深い声である。
[#1字下げ]ひとつひとつの駅名をまるで詩をよむように言う。
[#1字下げ]誘い込まれるように壁に近づき、聞いているサチ子。
[#1字下げ]少しずつ、その声に酔ってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「神保原。新町。倉賀野。高崎。井野。新前橋。群馬総社。八木原。渋川。敷島。津久田。岩本。沼田。後閑《ごかん》。上牧《かみもく》。水上。湯檜曾《ゆびそ》。土合」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]男の声が、言い終って大きく吐息をつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「違っています。いつもくるあのひとと声が違っています」
峰子(声)「(クク、と笑って)よく覚えているわねえ」
麻田(声)「谷川に登るときは、勿体《もつたい》なくて、急行になんか乗れないな。上野から鈍行に乗って、少しずつ少しずつ、あの山に近づいてゆくんだ」
サチ子「―――」
麻田(声)「だんだん近づいてると思うと、何べんのぼっても、はじめてみたいに胸がドキドキするんだ。土合の駅おりて、見あげる時なんか、自分でも顔が赤くなって、ドギマギしてるのが判《わか》るんだ――」
峰子(声)「――男の子みたい――」
麻田「―――」
峰子(声)「キレイな山なの?――」
麻田(声)「山はみんなキレイだよ。どんな山だって――遠くから見ると、みな同じ格好に見えるけど、丁寧に一歩一歩のぼってゆくと、――違うんだ――なだらかな裾野《すその》があって――」
峰子(声)「――くすぐったい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子――。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「思いがけないところに、窪地《くぼち》がかくれてる」
峰子(声)「くすぐったいっていってるでしょ」
麻田(声)「光のあたっているところ。かげになってるところ。乾いてるところ。湿っているところ。みんな息をしてるように見えるんだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子の手が、横ずわりになった自分のからだを、そっとなでてゆく。
[#1字下げ]スカートがめくれて、肢《あし》がのぞいている。
[#1字下げ]窓から射し込む夕焼けが、からだに美しい光と影の地図をつくっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「山は朝見ると、神々《こうごう》しくみえる」
峰子(声)「昼間見ると」
麻田(声)「たくましく見える」
峰子(声)「夜見ると――」
麻田(声)「凄味《すごみ》があって、こわいな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子の含み笑いが聞える。
[#1字下げ]そして、壁がゆれはじめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]揺れる壁。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「―――」
峰子(声)「おねがい。さっきの――駅の名前――もう一度言って――」
麻田(声)「(駅名をくり返す)上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川。北本。鴻巣。吹上。行田。熊谷。籠原。深谷。岡部。本庄。神保原。新町。倉賀野。高崎。井野。新前橋。群馬総社。八木原。渋川。敷島。津久田。岩本。沼田。後閑。上牧。水上。湯檜曾。土合」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、目をとじる。
[#1字下げ]体中の力が脱ける。のぼりつめてゆく。
[#1字下げ]そして、頂きがきてぐったりする。
[#1字下げ]そのまま死んだように動かない。
[#1字下げ]夕焼けが夕闇《ゆうやみ》に変ってゆく。
[#1字下げ]ミシンの上の内職のブラウス。
[#1字下げ]時計のセコンド。
[#1字下げ]窓の外がうす暗くなる。
[#1字下げ]バタンとドアのあく音。
[#1字下げ]そのまま、うたた寝をしていたサチ子、はね起きる。
[#1字下げ]ドアをあけて、廊下をのぞく。
●アパート・廊下[#「アパート・廊下」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]廊下の外階段のところに、峰子が立っている。
[#1字下げ]帰ってゆく男(麻田数男)のコートを着た姿が見える。
[#1字下げ]峰子が片手をあげる。
[#1字下げ]男も、呼応するかのように振り向かず、片手をヒラヒラさせて足早に歩み去ってゆく。
[#1字下げ]見送る峰子。夕闇の中に化粧した顔が、生きかえったようになまめいてひどく美しい。そのまま、じっと立っている。
[#1字下げ]放心して立ちつくすサチ子。
[#1字下げ]いきなり夫の集太郎にどなられる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎(声)「なにぼんやりしてンだ」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]帰宅したばかりの集太郎が、水をのんでいる。
[#1字下げ]サチ子、同じ顔でぼんやりしていたらしい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「え? あ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、水のグラスを受取る。
[#1字下げ]集太郎、食卓の布巾《ふきん》をとる。
[#1字下げ]二人分の鯛チリがそのまま、のっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「遅いときは、先、食べてろって言ってるだろ。アテツケがましい真似《まね》すンなよ」
サチ子「そういうわけじゃないけど――おなか、すかなかったのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、洋服を脱ぎながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「みんな、やりたくてやってンじゃないんだよ。瀬田口だって河本だって、清水だって、たまには早く帰ってさ、寝っころがってテレビ見たいよ。でもねえ、課長にこう(パイをならべ、ツモる手つき)やられるとさ、一人だけ抜けるわけにゃいかないんだよ」
サチ子「――お風呂《ふろ》――」
集太郎「今晩いいや。三味線ていうだろ」
サチ子「三味線――(弾くまね)」
集太郎「なんにも知らないんだな。(パイを捨てるまね)やりながら、こう、なんだかんだヨタ飛ばすだろ――」
サチ子「ああ――あれ――」
集太郎「ああいうとき、スパァーと本音、言ったりするもんなんだよ。九時から五時までが仕事じゃないんだよ」
サチ子「――やっぱり、ジャン荘なんかで、やるわけ?」
集太郎「うち、連れてこられないだろ。給料が安いんで、女房《にようぼう》が内職しておりますってとこで(言いかける)」
サチ子「あなたの給料が安いから内職してンじゃないわよ。時間が余って勿体ないから」
集太郎「だったらさ、――オレ、帰ったときは、しまっとけよ」
サチ子「――(ブラウスを仕舞いはじめる)」
集太郎「いいよ。鼻の先でバタバタすンなよ。ハナシだよ、ハナシ――」
サチ子「空手でも習うかな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、飛び蹴《け》り。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「バカ。そりゃキックボクシングじゃないか」
サチ子「そうか――」
集太郎「余ってますね。こっちは――起きて、食って、揺られて働いて――寝るで精いっぱいですよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、言いわけのように言うと、寝室へ入ってゆく。
●時沢のアパート・寝室[#「時沢のアパート・寝室」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]あくびをしながら、パジャマに着がえている集太郎。
[#1字下げ]背広を持って入ってくるサチ子、洋服ダンスに仕舞っている。
[#1字下げ]サチ子、少し機嫌《きげん》が直っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「隣りのひとね」
集太郎「隣り?」
サチ子「(手で方向を示す)」
集太郎「ああ。スナックの――あれ、なんだ、やとわれママか」
サチ子「そんなとこらしいけど、あの人凄いのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、親指を立てて見せる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――二人もいるんだから、それもねえ一日に(言いかける)」
集太郎「よせよ」
サチ子「え?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎も親指を立てる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「女が、こういう手つき、すンの嫌《きら》いなんだよ。こういうのとか(親指)こういうのとか(小指)こういうのとかさ(マル)。素人《しろうと》の女のすることじゃないよ。下品だよ」
サチ子「じゃあ、どうすりゃいいの」
集太郎「口で言やあいいじゃないか」
サチ子「オトコっていうの? (小さく)そっちも下品みたいだけどなあ」
集太郎「男がどしたんだよ」
サチ子「二人、いるらしいのよ」
集太郎「別に不思議はないだろ。人の女房なら、大事《おおごと》だけどさ、ああいう商売の女に男の二人や三人」
サチ子「それにしても――おひる前に――いつもくる現場監督みたいな人が来たかと思ったら――夕方お使いから帰ってきてね、ミシンかけてたら、また声がするのよ。それがいつもの人の声じゃないのよ。別の(言いかける)」
集太郎「――一日、なにやってンだ」
サチ子「え?――(口の中で)自然に聞えるんだもの」
集太郎「ヘンなのと、つき合うんじゃないよ。ああいうのとつき合うと、ロクなこと、ないよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、あくびをして、布団《ふとん》にもぐりこむ。
[#1字下げ]サチ子、あかりを暗くする。
[#1字下げ]すぐには台所へゆきたくない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「谷川岳のぼったこと、ある?」
集太郎「谷川? (またあくび)ないよ(言いかけて)なんだよ、急に」
サチ子「上野から、谷川までの停車駅、言える?」
集太郎「――(うんざりする)八時間、ビッシリ働いてさ、つき合いマージャンやって帰ってきたんだよ。クイズなんかやるゆとりはないよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]くるりと向うを向いてしまう。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]手をつけなかった食卓を片づけるサチ子。
[#1字下げ]麻田の声が聞こえてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川。北本。鴻巣。吹上――」
サチ子(声)「あの声をもう一度聞きたいと思いました。どんな目をしたひとだろうと思いました」
[#ここで字下げ終わり]
●大通り[#「大通り」はゴシック体](駅前)
[#1字下げ]大風呂敷を抱えた、サチ子。
[#1字下げ]同じような包みを持った悦子が並んで歩いてゆく。
●モードKK[#「モードKK」はゴシック体]
[#1字下げ]裸のマヌカンが並び、布地、製品などで、ごったがえしている。
[#1字下げ]内職の発注元。
[#1字下げ]主婦たちが、出来あがった製品を抱え、検品係に見せているところ。
[#1字下げ]二、三人が順番を待っている。
[#1字下げ]検品されている三杉悦子(28)(クラスメイトらしい三枚目)。
[#1字下げ]すぐ後ろにサチ子がいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
社員「ちょっとこれ、まずいよ」
悦子「え? どこ」
社員「どこってさ、下糸がゆるんでるよ」
悦子「そんな事ないでしょ、どら」
社員「ほら、浮いちまってるじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子も真剣な目でのぞきこむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
社員「ほら!」
悦子「そうかなあ、浮いてないと思うけど」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]悦子、サチ子に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
悦子「ねえ、浮いてないわよね」
社員「浮いてるよォ」
サチ子「ううん。(困る)浮いてないみたいだけど、浮いてるかなって目で見れば、浮いてるような気もする――かもしれない」
社員「(笑ってしまう)そら、奥さんだって、言いにくいやなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]後ろから、声がかかる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
主婦「ねえ、急ぐんですけど」
社員「(舌打ちして)縫い直すと仕上げ汚なくなんだよなあ。じゃあ、こっち先――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ガックリした悦子、横へのいて、社員、サチ子のを検《しら》べる。
[#1字下げ]職業的な馴《な》れた手つきでしらべ、伝票を書く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
社員「ええと――」
サチ子「時沢です。時沢サチ子」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]社員、枚数を書き入れる。
[#1字下げ]会計で金を受け取るサチ子の手。
[#1字下げ]後ろに並んで、紙袋を持って、ぐったりした悦子。
●電車の中[#「電車の中」はゴシック体]
[#1字下げ]坐《すわ》っているサチ子。
[#1字下げ]六分通りの乗客が、並んだりパラパラと離れたりして、坐って同じリズムで揺られている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「麻酔をかけられて意識が無くなったときのはなしを聞いたことがあります。この人が、とびっくりするような、恥ずかしいことを言うそうです。気取っているけれど、本当はみな、かなり生臭いことを考えているのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]乗客たちの、まじめくさった顔。
[#1字下げ]無表情な顔、顔、顔。
●レコード店[#「レコード店」はゴシック体]
[#1字下げ]試聴コーナーで、ヘッドフォンをつけて、試聴しているサチ子。
[#1字下げ]ヘッドフォンをとり、のぞいた店員に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「これ、お願いします」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢のアパート[#「時沢のアパート」はゴシック体]
[#1字下げ]部屋にはいるとすぐ、レコードのジャケットから、レコードを出してかけるサチ子。
[#1字下げ]バッハの鎮魂ミサ曲を大きくかける。
[#1字下げ]そのまま洋服を脱ぎかけて、やはり壁が気になる。
[#1字下げ]絵を見る。
[#1字下げ]そっと寄っていく。
[#1字下げ]耳をくっつける。
[#1字下げ]レコードの音を小さくして、又、聞く。聞えない。
[#1字下げ]ついに、レコードを止めて聞く。
[#1字下げ]何も音はしない。
[#1字下げ]サチ子、いきなりク、ク、ク、と笑い出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「バカみたい、バカ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]自分の頭を叩《たた》いて笑う。
[#1字下げ]ドアノック。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ハーイ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]すっとんでゆきドアを開ける。
[#1字下げ]管理人のよねが立っている。
[#1字下げ]サチ子、笑いをこらえている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「ねえ奥さん、手、あいてる?」
サチ子「ええ――」
よね「池袋まで、ひとっ走りしてもらえない?」
サチ子「池袋」
よね「これ届けてもらえないかしら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]よねの手に、鍵《かぎ》の束。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「お隣りさん――出がけに、ポストのとこで立ち話したのよ、あたしと。その時、置き忘れたらしいのよ」
サチ子「自分で取りにくりゃいいじゃないの」
よね「近所で用足しでもしてんじゃないの。タクシー代もつからって」
サチ子「――何てスナック? 場所」
よね「行ってくれる?(拝む)あたし手があいてりゃ、行くんだけど、いっぺんのぞきたいと思っていたのよォ。あんまり小さいとこだと、アブないじゃないの。家賃取りっぱぐれたら、困るもの。奥さん、ちゃんと見てきて――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、鍵を渡される。
●池袋・バー横丁[#「池袋・バー横丁」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]地図を片手にキョロキョロして探しているサチ子。
[#1字下げ]バービルのスナック「パズル」の看板。
[#1字下げ]サチ子、入っていく。
●スナック「パズル」[#「スナック「パズル」」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]地下の階段をおりてゆく。
[#1字下げ]踊り場にビールの空箱など。
[#1字下げ]折れ曲ったところにスナック「パズル」。
[#1字下げ]ドアが半開きになっており、峰子が立て看板などを出しているところ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「すみません。間に合っちゃったの」
サチ子「え?」
峰子「来たらね、店しまってンのよ。てっきりバーテンさん、休みだと思って。あたしの鍵なきゃ入れないでしょ、あわてて管理人さんに電話してたのんだら、入れ違いにこの人、出てきちゃったのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]カウンターの中で働くバーテンが見える。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「追っかけて電話したら、奥さんもう出たって言われて――」
サチ子「もうちょっとゆっくり出ればよかったんだ」
峰子「すみません。あの、おいくら――タクシー代」
サチ子「あ、いいです」
峰子「駄目《だめ》よ、ちゃんと――」
サチ子「そうですか。じゃあ千四百八十円」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、三千円出して、ポケットにねじ込もうとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「こんなに――多いです(返そうとする)」
峰子「帰りの分――」
サチ子「あ、帰りは電車でいいわよ」
峰子「あら、タクシーで帰ってよ。こっちでお願いしたことだもの」
サチ子「ううん。勿体《もつたい》ないから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、二千円だけ受け取って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「いまお釣《つ》り」
峰子「固いこと言わないで――」
サチ子「でも、ええと――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、半端《はんぱ》な格好で、バッグをあける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「――あたしも気が利《き》かないな。なんか飲んでって――」
サチ子「そうお。じゃあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、中へ入る。
[#1字下げ]カウンターの隅《すみ》に男がひとり(麻田数男)。ルービック・キューブをやっている。
[#1字下げ]テーブルにアベックが一組。
[#1字下げ]サチ子、カウンターの反対側の隅に腰をおろす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「奥さん、――なに――」
サチ子「じゃあ、コーヒー頂きます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田が、チラリとサチ子を見る。
[#1字下げ]サチ子は勿論《もちろん》気がつかない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「いいお店――」
峰子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、手早く、水割りを作って、サチ子の前に、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あら、あたしコーヒーって」
峰子「イケるクチなんでしょ(押しやる)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子ちょっとベロを出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(折り目正しく頭を下げる)頂きます」
峰子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、さり気なく見ている。
[#1字下げ]粧《よそお》った女と、全く白粉気《おしろいけ》のない女が、カウンターを境に向き合っている。
[#1字下げ]赤い爪《つめ》のと、マニキュアなしの短い爪。
[#1字下げ]サチ子、かなり緊張して水割りをのむ。
[#1字下げ]とたんにむせてしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「大丈夫?」
サチ子「大丈夫。ヘンなとこ、入っちゃった――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、サチ子の背中を叩いてやる。
[#1字下げ]サチ子、その手を辞退する。
[#1字下げ]しかし、洟《はな》は出るわ、涙は出るわで、バッグをさぐる。
[#1字下げ]峰子、紙ナプキンを渡す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(洟をかみながらヘンな声で)固くなると、のどのとこ、ヘンになって、ときどきやるの――」
峰子「(バーテンに)おしぼり――」
サチ子「あたしね――ここ一番てとき、なんかしくじる癖あるみたい」
峰子「ここ一番?」
サチ子「見合い写真、うつすっていうときに鼻の頭に大きなにきび出来たり」
峰子「御主人とは、お見合い結婚?」
サチ子「いまどき、冴《さ》えないけど」
峰子「そんなことないわよ」
サチ子「まだあるの。去年ね、パリいくってときに、――内職してる友達とね、いつも、シビシビ働いてんだから、たまには豪華にいきましょうなんて、パスポートも全部用意したのに、盲腸になって」
峰子「いけなかったの」
サチ子「そういうとこあるの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、おかしくなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「あたしも盲腸やったのよ」
サチ子「最近?」
峰子「ムカーシ(昔)」
サチ子「あたし、このくらい(四センチくらい)」
峰子「あたし、――(六センチくらい)」
サチ子「ウワッ! 大きい!」
峰子「田舎のお医者さんでしょ。ずい分前だし」
サチ子「じゃあ、縫ったんじゃない」
峰子「あなた、パチンてとめる――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、峰子、顔をこわばらせる。
[#1字下げ]サチ子ふり向く。
[#1字下げ]ドアに三宅が立っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「いらっしゃいませ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入ろうとする三宅。
[#1字下げ]峰子はすばやくカウンターをくぐり抜ける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「(バーテンに)ちょっと、おねがいね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、三宅に体をあずけるようにして、ドアの外に押し出す。
[#1字下げ]サチ子、水割りを飲む。
[#1字下げ]グラスを拭《ふ》いたり、セロリのスジをとったりしているバーテン。
[#1字下げ]麻田が、すぐ前にある赤電話をかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「武智《たけち》先生のお宅ですか。朋文堂《ほうぶんどう》の麻田ですが――額縁をお引き受けした朋文堂の――はい、麻田です。あ、どうも――。期日の件ですが、二、三点少し遅れますので」
[#1字下げ]サチ子、はっとする。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田の横顔を見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「いや、あっちは大丈夫です。八十号と――はあ、八十号と六十号、静物の六十号、それと――、バラの四十号――四十号――もう二、三日――はあ、はあ、それは大丈夫です。はあ、はあ、はあ。では、そういうことで――どうも――」
[#1字下げ]電話を切る。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、水割りをのむ。
[#1字下げ]ちらりと麻田を見る。
[#1字下げ]あの日の声が聞え始める。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「新町。倉賀野。高崎。井野。新前橋。群馬総社。八木原。渋川。敷島。津久田。岩本。沼田。後閑《ごかん》――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、大きくため息をつく。
[#1字下げ]ガタンと立ち上る。
[#1字下げ]麻田がチラリと見る。
[#1字下げ]はじめて、顔を合わせる二人。
[#1字下げ]麻田は、自分を見つめるサチ子の強い視線を、少しはげしく、感じたらしい。
[#1字下げ]これも、じっと見返す。
[#1字下げ]二人の間に、電流が流れる。
●スナック・階段[#「スナック・階段」はゴシック体]
[#1字下げ]ビールの空箱を積んだ踊り場で、もみ合っている峰子と三宅。
[#1字下げ]三宅は峰子を踊り場の壁際《かべぎわ》に押しつけている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三宅「よお。よお、よお」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]泣くような声で哀願しているが、その右手にはチラリと刃物が見える。
[#1字下げ]峰子のひきつった顔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「ノブちゃん。馬鹿《ばか》なこと、しないで」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、出てくる。
[#1字下げ]あら、という感じで、少し困っている。
[#1字下げ]峰子、とっさにサチ子のほうへ飛び出しかけるが、急に思い直す。
[#1字下げ]フフとおかしそうに笑って、三宅をやわらかく抱き込むようにして刃物をかくす。
[#1字下げ]三宅も気がついたらしく、これも不自然にハハ、ハハ、ハハハと笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「(精いっぱい屈託なく言う)あら、奥さん、もう帰るの?」
サチ子「――ご馳走《ちそう》さま」
峰子「もっとゆっくりしてけばいいのに。(三宅に)彼女、ここはじめて――」
三宅「あ、そうお。そうお」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、またフフ、と笑う。
[#1字下げ]しかし、足がカタカタ震えている。
[#1字下げ]サチ子、抱き合うようにしている二人がまぶしく、目をそらせているので、気がつかない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「失礼します」
峰子「(わざと屈託なく)また、いらしてエ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]三宅も、引きつったような顔で笑いかける。
[#1字下げ]サチ子も笑いかえす。
[#1字下げ]少しぎくしゃくしながら、抱き合う二人の前を通りすぎる。
[#1字下げ]平気な顔をよそおって、階段を上るが、ノボせていたとみえて、踏みはずし、二人の足許《あしもと》に墜落してしまう。
[#1字下げ]峰子、すばやく三宅から離れ、サチ子を抱き起す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「大丈夫?」
サチ子「大丈夫――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、ほっとしている。
[#1字下げ]上から、二、三人の客が入ってくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「あら、いらっしゃい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]常連らしい客。
[#1字下げ]峰子、客と一緒に居間へもどってゆく感じ。
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]歩くサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「自分の姿がみすぼらしく見えました。私は、あんな強い激しい目で、夫から見つめられたことはありません。あんな声で、深いところへ誘い込まれたこともないのです。今頃《いまごろ》、マージャンをしているに違いない夫が、急に憎らしくなりました。ネオンまで、私を嗤《わら》っているように思えました」
[#ここで字下げ終わり]
●オフィスビル[#「オフィスビル」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]高層ビルの途中のあるフロアだけあかりがついている。
[#1字下げ]中で一人の男が働いているのが見える。
●集太郎のオフィス[#「集太郎のオフィス」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]働いているのは集太郎。
[#1字下げ]ほかに二人ばかりの若い男。
[#1字下げ]ワイシャツの袖《そで》をまくり上げ、きびしい表情で――
●時沢のアパート・ドア[#「時沢のアパート・ドア」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]紙がはってある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「下の管理人さんの部屋にいます」
[#ここで字下げ終わり]
●管理人の部屋[#「管理人の部屋」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]サチ子、よね。
[#1字下げ]よねのうしろで、背を丸め、黙々とガスストーブや扇風機の修理をしている夫の浩司《こうじ》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――お隣りさんも判《わか》んないなあ。新しく額縁屋の人、出来て、現場監督と別れたいと思ってるわけでしょ。それなのに、どうして、こんなこと(手で顔をかくす)したんだろう。どうせ別れるんなら、素顔でも何でも、みっともないとこ、ジャンジャン見せて、愛想《あいそ》つかされたほうが、簡単でいいじゃないねえ」
よね「――(笑う)別れると決った男にもよく思われたいのよ。そこがいいとこじゃないの」
サチ子「―――」
よね「嫌《きら》いになったんじゃないのよ。前の男も好き、新しい男のほうがもっと好き」
サチ子「(ため息をつきかけて)あら、それ、うちで前、使ってた――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]浩司の直しているガスストーブ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「そうよ。新しいの買ったとき、粗大ゴミで捨てたもンよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、気がつく。
[#1字下げ]テレビ、ラジオ、冷蔵庫、柱時計、扇風機、トースターなど、さまざまなぶっこわれた代物《しろもの》が、うしろの床の間に積み上げてある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「――まだ使える、直せば使える、アパートの人の捨てたもの、みんな拾ってるの。おアシのかからない、いい趣味でしょ」
浩司「使い込んでさ、使い勝手が判った時分になると、あきてポイなんだから――どういう気、してンだか」
よね「あんた、お茶」
浩司「これから味が出るってとこで、目移りすンだから――物の価値ってやつが全然判ってねえんだよ」
よね「いつもこれ。同じこと、言ってンの」
浩司「これから、味が出るんだよ。これからってときに、目移りすんだから、物の価値が」
よね「それ、いま、言ったの、ね」
浩司「だからさ、物の価値が判ってない」
よね「ハイヨハイヨ。それもいま、言ったの。(サチ子に)ハツカねずみが車|廻《まわ》すみたいにさ、同じこと言うのも趣味、こっちも、金、かかんないから――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、よね、ふと聞耳を立てる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あ、帰ってきた」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]たたみの上でねている集太郎。サチ子。
[#1字下げ]集太郎、酔っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「帰ってきたんなら、ちょっと声かけてくれりゃいいじゃないの」
集太郎「――え、ああ」
サチ子「今日はなんですか。マージャンでございますか、それとも、お仕事(言いかける)」
集太郎「一年生じゃないんだから、いちいち報告することないだろ(大あくび)」
サチ子「あくび、だんだん大きくなるわねえ」
集太郎「え? (また大あくび)どっかよそへ行ってやってたら問題だろ」
サチ子「結婚てのは」
集太郎「え?」
サチ子「家庭てのは、おっきいアクビ、するとこですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、立って水道からグラスに水を受ける。
[#1字下げ]水道をいっぱいに出して、グラスから溢《あふ》れるが、そのままじっとしている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「豊かな――溢れるほど豊かな女もいます。からっぽな女もいます」
[#ここで字下げ終わり]
●イメージ[#「イメージ」はゴシック体]
[#1字下げ]激しく抱き合う峰子と三宅。
[#1字下げ]そして、もっと激しく抱き合う峰子と麻田のイメージ。
[#1字下げ]あの声が聞えはじめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川《おけがわ》。北本。鴻巣《こうのす》――」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]うしろで大あくびの集太郎。
[#1字下げ]ごろりと畳にひっくりかえっている。
●アパート・表[#「アパート・表」はゴシック体]
[#1字下げ]出勤してゆくアパートの男たち。
[#1字下げ]新婚サンのドアがあき、夫が出てゆく。
[#1字下げ]益本雄一《ますもとゆういち》(32)が出てゆく。
[#1字下げ]妻の英子がとび出して、忘れたたばこを手渡している。
[#1字下げ]一番年かさの持田卓雄(65)が、二度目のつとめらしく、大儀そうに出てくる。
[#1字下げ]妻の文子(63)は、見送りの声もかけず、ゴミを捨てている。
[#1字下げ]集太郎が階段からおりてくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
英子「おはようございます」
集太郎「(口の中で)おはようございます」
文子「いってらっしゃいまし!」
集太郎「――ども――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、胃のあたりが重いらしく、あくびをしながら、冴《さ》えない顔で出てゆく。
[#1字下げ]サチ子、空いた牛乳ビンをボックスに入れて部屋の中へもどりかけ、鼻をスンスンやる。(頭にはクリップ、スカーフをかぶっている)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
新婚「おはようございます!」
サチ子「おはようございます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]新婚サン、意味もなく笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あのう、何かガス臭くありません」
新婚「いいえ、あたし、匂《にお》わないけど」
サチ子「気のせいかな」
新婚「ニンニクの匂いじゃないですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]何がおかしいのかクスクスと笑い、自分たちの表札の歪《ゆが》みを改めて、部屋の中へ入ってしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ニンニクとガスじゃ、全然違うじゃない。何言ってンのよ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]スンスンやって、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「気のせいかな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]入ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「さあ、仕事仕事!」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](朝)
[#1字下げ]ミシンをかけて内職をしているサチ子。
[#1字下げ]ミシンの部分を終え、手かがりになる。
[#1字下げ]ふと、手をとめる。
[#1字下げ]壁の向うに気配がある。
[#1字下げ]女のうめき声、男のうめき声。
[#1字下げ]サチ子、体を斜めにして聞いている自分の姿を、鏡の中に見つける。
[#1字下げ]振り切るように、プレイヤーをかける。
[#1字下げ]バッハの鎮魂ミサ曲を大きくかける。
[#1字下げ]サチ子、額の歪みを直し、針をすすめる。
[#1字下げ]やはり気になる。
[#1字下げ]レコードのヴォリュームをすこし下げる。
[#1字下げ]女のうめき声。
[#1字下げ]サチ子、ヴォリュームをまた上げる。
[#1字下げ]サチ子、カッとして、歪んでもいない額を直す。
[#1字下げ]バッハ、その合いの手に女のうめき声が入る。
[#1字下げ]また、小さくする。
[#1字下げ]サチ子、鼻をスンスンやる。
[#1字下げ]首をかしげながら、ベランダに出る。
[#1字下げ]ベランダから隣りをのぞく。
[#1字下げ]サチ子、身をのり出してのぞく。
[#1字下げ]隣りの部屋のカーテンが揺れている。レースのカーテンの向うから女の手がガラス戸をあけようとして空を掻《か》いている。
[#1字下げ]その手に血の筋がみえる。
[#1字下げ]サチ子、ベランダの境を乗り越える。
[#1字下げ]隣りのベランダでガラス戸をあけようとするが、あかない。
[#1字下げ]レースのカーテン越しに峰子が倒れているのがうかがえる。
[#1字下げ]サチ子、ベランダの枯れた植木鉢《うえきばち》でガラスを叩《たた》き割る。
[#1字下げ]サチ子、鼻を押える。割れたところへ手を入れ、鍵《かぎ》をあけようとする。
[#1字下げ]あわてているので、なかなかあかない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(叫ぶ)誰《だれ》か来て! 誰か来て! 管理人さん! 一一〇番!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]やっと鍵があく。
[#1字下げ]手首をガラスで切ったらしく血が流れるが、サチ子は気がつかない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「誰か! 管理人さん、呼んで! 一一〇番呼んで下さい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]叫びながら飛び込む。
●峰子の部屋[#「峰子の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ダブル・ベッドからずり落ちる格好で、ほとんど裸の三宅。
[#1字下げ]峰子は、ベランダのところまで這《は》ってきて倒れている。
[#1字下げ]サチ子、峰子を引きずり出そうとして、はげしく咳《せ》き込み、片手でガスをはらいのけながら、峰子を引きずり、ベランダぎわまで引っぱり出そうとするがうまくゆかない。サチ子、無意識に峰子のまくれた裾《すそ》を直す。それから、ドアに突進して、内から鍵をあける。
[#1字下げ]管理人のよね、浩司、新婚サンらの顔が一斉《いつせい》にのぞく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「オバさん!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]倒れている峰子の顔。
[#1字下げ]救急車のサイレン。
●アパート・前[#「アパート・前」はゴシック体]
[#1字下げ]人垣《ひとがき》の中を救急隊にかつがれた二つのタンカが救急車に走り込む。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
A「心中だってさ」
B「心中?」
C「死んだの」
D「まだ息あるらしいって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]走り去る救急車。
●テレビの画面[#「テレビの画面」はゴシック体]
[#1字下げ]インタビュアーにマイクを向けられているサチ子。
[#1字下げ]手首の繃帯《ほうたい》。
[#1字下げ]服も着替えず、髪もそのまま。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「さあ。隣りっていっても、越してまだふた月ですから――いえ、あっちが――そんな親しいってなにじゃないし――あら、これ、うつってるんですか。やだ、こんな格好で――アタマだって――あたしより管理人さんのほうが」
インタビュアー(声)「現場へ飛び込まれたときの気持は」
サチ子「もう――夢中っていうか、夢中ですね。もう――(ハアハア言ってしまう)こういうの、生まれて始めてなんです。ほら、毎日って、普通でしょ。自分の廻りには、自殺とか、心中とかそういうこと、絶対に起らないって、――なんかそう思い込んで暮してるとこあるでしょ。でも、そうじゃないんですよね。そんなこと思ってもいないときに、バシャッーって、ほっぺた引っぱたかれたみたいに、そういうこと、隣りで起きるんですよ。別にフシギでもなんでもないわけだけど――ほら、あの、西鶴《さいかく》ですか、『好色五人女』の樽屋《たるや》おさん、あ、おせんだったかな。それと、なんとかベエの、じゃないか――暦屋《こよみや》の、いまで言えば、カレンダー屋の奥さんの――あ、大経師、オ、オ――オサン――あれ、やだァ、まじっちゃった。(笑いながら)浮気したり、心中したりした――ああいう、思い切ったことしたひとの隣りには、普通の、ほんとに普通の女が住んでて――びっくりしたと思いますよ。ええ、あたしみたいに――これですか。戸、あけるとき――ガラスで――痛いんだか痛くないんだか、まだ判んないんです。あら、まだうつってンですか! やだ! こんな格好で――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]たかぶっているせいか、サチ子、やたらに笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「まさか、こんなことになるなんて思わないでしょ。こんなもン(クリップ)くっつけたまんまで――やだなあ。いつもはちゃんと、髪ぐらい、なにするんですけどねえ、今日に限って――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子の血のにじんだ手首の繃帯が、テレビの画面をおおうようにする。
●管理人の部屋[#「管理人の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]黙々と古い扇風機の修繕をする浩司《こうじ》。
[#1字下げ]古い型の白黒のテレビが、サチ子の、のぼせた顔を流している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「いえ、特別、派手ってことはなかったみたい――着るものだって――やだ、(ブラウスの襟《えり》もとに気づく)ボタン、ブラブラ。ハハハ。内職で、ひとのボタンつけてるくせして、――洋裁の――自分のって、かえって、いい加減ていう、こういうの紺屋《こうや》のなんとかって、いうんじゃないかしら。――フフ、フフフフ。あ、まだ、うつってンですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]おもてのドアを叩く音。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
声「管理人さん!」
浩司「いま病院! そのあと警察!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手を休めず、ねじ廻《まわ》しを動かす。
[#1字下げ]テレビの画面が流れ、乱れ、音声がおかしくなる。
[#1字下げ]浩司、ブン殴る。
[#1字下げ]音声が急に大きくなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「主人ですか、サラリーマンです。ごく平凡な――平凡なサラリーマン――やだ、まだ、うつってンですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]テレビの画面、乱れて、サチ子の笑い顔が、おかしな具合にゆがみ、スーと消える。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]部屋のまん中に放心しているサチ子。
[#1字下げ]まだ荒い息をしている。
[#1字下げ]冷蔵庫をあけて残り物のおかずを出す。
[#1字下げ]指でつまんでムシャムシャ食べる。
[#1字下げ]電話が鳴る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(食べながら)モシモシ、時沢です」
集太郎(声)「みっともない真似《まね》するなよ!」
[#ここで字下げ終わり]
●ビル・廊下・赤電話[#「ビル・廊下・赤電話」はゴシック体]
[#1字下げ]あたりを気にしながら、赤電話をかけている集太郎。
[#1字下げ]サチ子とカットバックする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「テレビだよ、テレビ!」
サチ子「テレビ、見たの?(目が輝く)」
集太郎「調子づいて、ペラペラペラペラしゃべって――人が死んでんだろ。それ、嬉《うれ》しそうにしゃべるバカ(あるかよ)」
サチ子「死んでなんかいないわよ。助かったわよ、あたし、助けたのよ!」
集太郎「助かったにしたってだよ。生き死にに変わりはないだろ。鼻の孔《あな》ふくらまして、笑いながらしゃべるハナシじゃないよ」
サチ子「笑ってなんかいないでしょ!」
集太郎「笑ってたよ。嬉しそうに――ヘラヘラ! 不謹慎だよ」
サチ子「――モシモシ――」
集太郎「それから、知りもしないこと、しゃべるなよ」
サチ子「え?」
集太郎「西鶴の五人女がどしたとか。聞いてて、オレ、冷汗出たよ。おせんとおさんの区別もつかないで――なにがカレンダー屋だよ」
サチ子「――だって学校のとき、試験に出たから」
集太郎「言うんなら、ちゃんと読んでから言えよ」
サチ子「普通のときじゃないのよ。こっちだって、のぼせて、まざっちゃったの」
集太郎「いくらのぼせたって、亭主《ていしゆ》のことまで言うことないだろ」
サチ子「なに言った? あたし」
集太郎「平凡なサラリーマンです――その通りだけどさ、なにもテレビに出てまで宣伝することじゃないよ」
サチ子「聞かれたから言っただけでしょ」
集太郎「会社の連中も見てンだよ。いい笑い者だよ」
サチ子「出たくて出たわけじゃないわよ。管理人さん、病院だし、ドア、ドンドン叩かれて、マイク突きつけられたら、仕方ないでしょ」
集太郎「だったら、うちに居なきゃいいだろ」
サチ子「どこ。行ってンのよ」
集太郎「そのくらい自分で考えろよ!」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]サチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「モシモシ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]電話ガシャンと切れる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(呟《つぶや》く)ケガのこと、ひとことぐらい聞いてくれてもいいんじゃないかな」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]手首の繃帯。
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]歩くサチ子。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]無人の部屋に電話のベルが鳴っている。
●集太郎のデスク[#「集太郎のデスク」はゴシック体]
[#1字下げ]電話をかけている集太郎。出ない。
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]歩くサチ子。
[#1字下げ]本屋へ入る。
●本屋[#「本屋」はゴシック体]
[#1字下げ]文庫本の『好色五人女』を引き抜くサチ子。
●喫茶店[#「喫茶店」はゴシック体]
[#1字下げ]コーヒーを前に「五人女」をひらいているサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「『巻二 情《なさけ》を入れし樽屋《たるや》物語』恋に泣輪《なきわ》の井戸替《いどかえ》、身は限りあり、恋は尽きせず、無常はわが手|細工《ざいく》の棺桶《かんおけ》に覚え、世を渡る業《わざ》とて錐鋸《きりのこぎり》のせわしく――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]コーヒーカップを持ち上げる手がカタカタと小刻みに震えている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「やだ。まだ震えてる――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ページをめくり、現代語訳を見る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「『人の命には限りがあるが、恋路はつきることがない』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]あとは目は字を追うが放心する。
[#1字下げ]あの声が聞えはじめる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「武智《たけち》先生のお宅ですか。朋文堂《ほうぶんどう》の麻田ですが、額縁をお引き受けした朋文堂の――はい、麻田です」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、文庫本をバッグに仕舞う。
●公衆電話ボックス[#「公衆電話ボックス」はゴシック体]
[#1字下げ]職業別電話帳をめくるサチ子。
[#1字下げ]絵画材料、額縁の項。
[#1字下げ]朋文堂の店名をみつける。
[#1字下げ]サチ子、ダイヤルを廻す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「朋文堂ですが――」
サチ子「―――」
麻田(声)「モシモシ! モシモシ! 朋文堂ですが、モシモシ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、受話器を置く。
[#1字下げ]住所を見る。
●電車[#「電車」はゴシック体]
[#1字下げ]乗っているサチ子。
●朋文堂[#「朋文堂」はゴシック体]
[#1字下げ]表に立つサチ子。
[#1字下げ]額縁の飾り替えをしている麻田の姿が見える。
[#1字下げ]仲間の店員と冗談を言って笑っている。
[#1字下げ]サチ子、中へ入ってゆく。
[#1字下げ]額縁を物色する。
[#1字下げ]麻田、気がつく。半端《はんぱ》な会釈《えしやく》をする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あのォ――」
麻田「―――」
サチ子「あのひとのこと、ご存じないですか」
麻田「あの人?」
サチ子「心中――ケガして――大変だったんです」
麻田「?――」
[#ここで字下げ終わり]
●朋文堂・倉庫[#「朋文堂・倉庫」はゴシック体]
[#1字下げ]立ちばなしをする麻田とサチ子。
[#1字下げ]まわりは、額縁の材料、つくりかけ、こわれた手入れ中のものなどが雑然と積んである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「心中――ですか。無理心中――」
サチ子「無理心中らしいって言ってました」
麻田「―――」
サチ子「命には別状ないそうです。ガスは少し吸ってるけど。ケガの方も大したことないって――」
麻田「――そうですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「ケガは――」
サチ子「ほんの、カスリ傷です」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「ぼくに知らせろって言ったの――あの人――」
サチ子「いいえ」
麻田「(判《わか》らない)」
サチ子「あの人の店の――カウンターで、電話かけてらしたとき、ここの名前――」
麻田「ああ。あなたがカギ、持ってきたとき」
サチ子「(うなずく)」
麻田「それにしても、どしてぼくのこと――そうか、アパート彼女の隣りだから、出はいりに、ぼくの顔――いや、でもアパートの部屋行ったのは、一回きり――」
サチ子「――声で判ったんです。あ、あの声だ――上野。尾久《おく》。赤羽。浦和。大宮」
麻田「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]失言に気づくサチ子、絶句する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あ――すみません。アパートの壁、薄いのかな。聞くつもりなくても、いびきやため息まで筒抜けなんですよ――あ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]また、失言。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――あ、あたし(どうしたらいいか――)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]すべてを聞かされてしまった男は、黙って横を向く。
[#1字下げ]沈黙して、額縁をさわっている。
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「おじゃましました」
麻田「どうも――」
[#ここで字下げ終わり]
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]店を出て歩き出すサチ子。
[#1字下げ]失言のミス。期待した分だけ手ひどい失望。
[#1字下げ]放心して歩く。
[#1字下げ]急ぎ足に来た男が急に、横にならんで歩き出す。
[#1字下げ]麻田である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「いっぱい、つき合って下さい」
サチ子「――あ」
[#ここで字下げ終わり]
●スナック[#「スナック」はゴシック体]
[#1字下げ]バーともつかずスナックともつかぬ店。
[#1字下げ]まだ陽《ひ》が落ちてないので空《す》いている。
[#1字下げ]カウンターで水割りをのむ麻田とサチ子。
[#1字下げ]うす暗い店内は客が二人だけ。
[#1字下げ]ボーイが、二人の前に水割りのグラスを乱暴に置く。
[#1字下げ]麻田、グラスをガツンと乱暴にぶつけてくる。
[#1字下げ]サチ子、その気持をはかりかねたように見ながら、グラスを繃帯《ほうたい》をした手で持ち上げる。
[#1字下げ]麻田、また激しくグラスをぶつけてくる。
[#1字下げ]そして、ぐーとあける。
[#1字下げ]サチ子も、ぐっとのむ。
[#1字下げ]無言の長いときが流れる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「この人は、一言も口をききませんでした。ひとことも口をきかずに水割りを三ばい飲み、私も二はい飲みました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黙々と酒をのむ男の顔を見るサチ子。
●街[#「街」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]街は暗くなっている。
[#1字下げ]サラリーマンの人たちの退《ひ》けどき。
[#1字下げ]駅へ押寄せる人の波に向って雑踏のなかをならんで歩くサチ子と麻田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「腹は、すいてないですか」
サチ子「――すいてます」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、甘栗《あまぐり》を買う。
[#1字下げ]歩きながら、カラをむき、いきなりサチ子の口に、乱暴なしぐさで押し込む。
[#1字下げ]サチ子、食べながら歩く。
[#1字下げ]麻田、自分も食べる。
[#1字下げ]また、むいて、サチ子の口に押し込む。
[#1字下げ]自分も食べる。
[#1字下げ]押し込む。
[#1字下げ]食べる。
[#1字下げ]サチ子、そのたびに、気持も、からだも高まってくるものがある。
[#1字下げ]またひとつ押し込まれる。
●ホテル[#「ホテル」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]ベッドで激しく抱き合う二人、そこだけ別のもののように頭の上に投げ出されていた繃帯のサチ子の手が、男の背中を抱く。
[#1字下げ]サチ子の目尻《めじり》から涙が流れる。
[#1字下げ]窓に夕焼。
●時沢のアパート・表[#「時沢のアパート・表」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]近所の主婦が買物かごをさげて、かたまって、アパートを指してヒソヒソばなし。
[#1字下げ]なかに、アパートの住人文子と英子の姿もある。
[#1字下げ]帰ってくる集太郎。主婦たち、道をあける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
文子「お帰りなさい」
集太郎「――(ただいま)」
文子「奥さん、大変だったのよ(まだ興奮している)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、会釈を返して、急ぎ足で階段を上ってゆく。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]無人の部屋。
[#1字下げ]やりかけの内職。
[#1字下げ]集太郎、ベランダに出てみる、乗り出して隣りのベランダをのぞく。
[#1字下げ]あかりの消えた室内。
[#1字下げ]カーテンをしめてない窓。割れたガラスにはり紙があてがわれて応急修理がしてある。
[#1字下げ]集太郎、部屋にもどり、たばこに火をつける。
●ホテル[#「ホテル」はゴシック体]
[#1字下げ]麻田がシャワーを浴びて出て来たところ。
[#1字下げ]洗った顔をバスタオルで拭《ふ》きながら、電気のスイッチをひねる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「電気つけないでください」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子はまだベッドにいる。
[#1字下げ]麻田、消す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(わざと屈託のない調子で)額縁の――いい額縁つくるコツってなんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]以下、ポツリポツリとしたやりとり。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「絵に嫉妬《しつと》しないこと――」
サチ子「―――」
麻田「ケチなやきもち殺して、どうしたら、この絵が引き立つか考えてやることかな」
サチ子「やきもち、殺すって、――じゃあ、本当は絵を描く――」
麻田「額縁よりも、まん中のほう、やりたかったから――」
サチ子「どうしてならないんですか」
麻田「才能ガナイ」
サチ子「チャンスガナイ」
麻田「才能のない奴《やつ》に限ってチャンスのせいにするんだ」
サチ子「―――」
麻田「――自分に引導渡すために、ちょっと本場、のぞいて来ようかと思ってね」
サチ子「パリ?」
麻田「ニューヨーク」
サチ子「ニューヨーク――」
麻田「一緒にいこうか」
サチ子「あたし?」
麻田「パスポート持ってるから簡単だ」
サチ子「どうしてそんなこと」
麻田「パリいく寸前に盲腸になったりして――ここ一番てとき、しくじる癖がある――」
サチ子「あッ――そうか、あのとき――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「去年、内職してる友達と、一緒に行こうと思って」
麻田「内職って、なにやってるの」
サチ子「縫製の下請けです、ブラウス一枚縫って千二百円――」
麻田「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●ホテル・バスルーム[#「ホテル・バスルーム」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]シャワーを浴びているサチ子の、繃帯をした右手。
[#1字下げ]湯がかからないようにかばって、シャワーの湯の横に突き出している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田(声)「シャワーは傷によくないんじゃないの」
サチ子「大丈夫です――」
[#ここで字下げ終わり]
●ホテル[#「ホテル」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]サチ子のバッグの口が半開きになっている。
[#1字下げ]麻田、閉めようとして、中から本がのぞいているのに気がつく。
[#1字下げ]「好色五人女」の文庫本。
[#1字下げ]パラパラとめくる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「『巻四。恋草からげし八百屋《やおや》物語』
雪の夜の情宿《なさけやど》。油断のならぬ世の中に、殊更《ことさら》見せまじき物は、道中の肌付金《はだつけがね》、酒の酔に脇差《わきざし》、娘の際《きわ》に捨坊主《すてぼうず》」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]苦笑する麻田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「道中の肌つけ金か――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]のぞいている赤い財布をあけてみる。
[#1字下げ]千円札が三枚と小銭。中にメモ。
[#1字下げ]ほうれん草一|把《わ》、豚肉二百グラム、紅しょうが、百ワット電球、洗剤、ミシン針、などの細かな文字。
[#1字下げ]麻田、ポケットから封筒を出す。三十万ばかりある新しい札の中から、三枚抜いてたたんで入れておく。
[#1字下げ]ドアをあける気配。
[#1字下げ]麻田、バッグをもとへもどし、さりげなく外の景色を眺《なが》める。ラブホテル街のネオンのまたたくガラス窓に、帰り支度をしたサチ子がうつっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「帰るの?」
サチ子「さようなら」
麻田「それだけ?」
サチ子「――一生の――思い出です」
麻田「さよなら」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、バッグを抱えると出てゆく。
[#1字下げ]バタンとドアがしまる。
●夜の街[#「夜の街」はゴシック体]
[#1字下げ]歩くサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「街が輝いてみえました。人がイキイキとみえました。足許《あしもと》のコンクリートが分厚い絨毯《じゆうたん》を踏むように思えました。なにか大きなものに済まないと思いながら――浮気ではない、恋をした自分に酔っていました」
[#ここで字下げ終わり]
●アパート・階段[#「アパート・階段」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]上ってゆくサチ子。
[#1字下げ]途中で足がとまる。
[#1字下げ]少しためらって、また上ってゆく。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]カギをあけて入ってくるサチ子。
[#1字下げ]すわってビールをのみながら夕刊を見ている集太郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ただいま」
集太郎「手、どした」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]やわらかい集太郎の言い方。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「大丈夫」
集太郎「ガラスか」
サチ子「大したことない」
集太郎「見せてみろよ」
サチ子「いいの、いいったら」
集太郎「女が飛び込むことないんだよ。とび込んだとたん、ガスが冷蔵庫の火花で爆発なんてことあるんだから」
サチ子「はい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、昼間の言いすぎを気にしているらしい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「あ、それからな、電話かかってきたぞ」
サチ子「だれ」
集太郎「坪田ってのと三杉《みすぎ》っていったかな」
サチ子「あ、悦子さん。内職の友達」
集太郎「テレビ見ましたって――」
サチ子「――ごめんなさい――(頭を下げる)」
集太郎「うん?」
サチ子「テレビのこと」
集太郎「済んだことはいいよ」
サチ子「―――」
集太郎「一年たちゃ、笑いばなしだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、顔を直す。それから台所へ立つ。
[#1字下げ]ヤカンに水を入れてガスを点火。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ごはん、まだでしょ」
集太郎「手、痛いんだろ。すしでも取りゃいいじゃないか」
サチ子「おすしねえ」
集太郎「たまにゃ、外へ出るか」
サチ子「――うん――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ガスの火をみつめているサチ子。集太郎、うしろから抱いて、首筋にキスをする。
[#1字下げ]ドア・ノック。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね(声)「奥さん、帰ってる!」
サチ子「あ、管理人さん、ハーイ! いま、あけます!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、とんでゆく。ドアをあける。
[#1字下げ]よねが立っている。クシャクシャの五千円札をヒラつかせている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「お借りした分。救急車にのるとき――」
サチ子「ああ。そうだ、あたしのほうも百五十円」
よね「え?」
サチ子「きのう、石焼芋――」
よね「あ、そうか」
集太郎「なんか、大変だったですねえ」
よね「十年に一度、ないんだけどねえ。ドカンだの、こういうのは(首|吊《つ》るまね)」
集太郎「そうしょっちゅうじゃ、こっちもたまンないですよ」
よね「ほんと。(お愛想笑いで)奥さん、大働き――」
集太郎「オッチョコチョイなんですよ、で、どうなんですか――(こっちはと隣りを指す)」
よね「一日か二日で退院出来るらしいんですけどね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、バッグからガマ口を出してくる。
[#1字下げ]二人の女、うす暗い玄関のあかりの下で、頭をくっつけるようにしてガマ口をさぐる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ええと百五十円」
よね「五十円、あるわよ(言いかけて)あ、奥さんとこ、石けん、変えた?」
サチ子「え?」
よね「匂《にお》い、いつもと違うから」
サチ子「やだ。同じですよ」
よね「湯上り?」
サチ子「いいえ」
よね「ツヤツヤしてるわよ。こんなねえ心中なんてあると、女はアタマに血がのぼるから」
サチ子「おばさんだって十ぐらい若返ったわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]笑っていたサチ子、けげんな顔になる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あら(札に気づく)」
よね「え?」
サチ子「ううん、ちょっと――」
よね「たしかに――おやすみなさい」
サチ子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ドアをしめるサチ子。
[#1字下げ]サチ子、ガマ口の中から札を出す。
[#1字下げ]新しい一万円札が三枚、折って入っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「すし、どうするんだ。取るなら取る、出るなら出る」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、玄関の暗いところに立ったまま、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――あたしのお財布、あけた?」
集太郎「おい。(気色ばむ)オレな、それだけはやったことないぞ」
サチ子「そうじゃなくて――抜いたって言ってンじゃないの、いま、あの帰ってから――出来るわけ、ないのよね」
集太郎「なにいってンだよ」
サチ子「――ゴミ、捨ててくる――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、ドアの外へ出る。
[#1字下げ]ポリバケツをもって階段をおりる。
●ゴミ捨て場[#「ゴミ捨て場」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]角のゴミ捨て場。
[#1字下げ]庭のブロック塀《べい》に「ゴミ集めの日以外は捨てないで下さい」の札。少し捨ててある。
[#1字下げ]その前にポリバケツを手にぼんやり立っているサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「お金を入れたのはあの人に違いありません。私は一生に一度の恋をしたと思っていたが、あの人は私を買ったのです」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]立ちつくすサチ子。
[#1字下げ]そばに集太郎が立っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「どうかしてるぞ」
サチ子「――あ――」
集太郎「昼間のこと、もう気にするのはよせよ」
サチ子「―――」
集太郎「全く、はた迷惑なのが隣りへ越してきたもんだよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、サチ子の手からポリバケツを受け取ると、肩を叩《たた》いてうながし、アパートへ入ってゆく。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ミシンを踏んでいるサチ子。
[#1字下げ]ミシンがとまる。
[#1字下げ]抽斗《ひきだし》をあける。入っている三枚の札。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「なによ。人、なんだと思ってンのよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ノック。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「はあい!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、覗《のぞ》き窓からのぞいてアッとなりあける。
[#1字下げ]蒼白《あおじろ》い顔をした峰子がガウン姿で立っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「いいかしら」
サチ子「どうぞ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、玄関に入りドアをしめる。
[#1字下げ]ケチな菓子折を出して、頭を下げる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「奥さん、このたびは――いろいろ――」
サチ子「あたし、別に(少しうしろめたい)」
峰子「手、ケガ――」
サチ子「ううん、ほんの――」
峰子「奥さん、飛び込んでくれなかったら、あたし――今頃《いまごろ》、このくらいの四角い箱」
サチ子「もう、いいの?」
峰子「まだ少しフラフラするけど」
サチ子「大変だったわねえ」
峰子「自業自得《じごうじとく》――。奥さん。ほかは何やってもいいけど心中だけはやめたほうがいいわよ。あれ、保険おりないから」
サチ子「相手がいないわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「立派なのが一人いりゃ沢山よ。その一人がいないから、こっちはバタバタしてンだから」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、ちょっとのぞいて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「同じ間取りなのに、別のアパートみたいねえ。やっぱし、『家庭』ってのはちがうわね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、うしろめたい、下うつむいてしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「奥さん、うつむくことなんかないじゃない」
サチ子「え?」
峰子「――みっともないことしたのあたしなのに――はなし逆よォ」
サチ子「――どこのうちだって、突っつけば、みっともないことひとつやふたつ、あるんじゃないの? おたがいさまよ」
峰子「あーあ。今日あたり、そういうこと言われると、こたえるなあ。廊下へ出ると、アパート中の人が、ギューって、こう――(顔に)矢でも刺さるみたいだもの。奥さんだけよ、やさしいの」
サチ子「――(困る)――盲腸の友だから――」
峰子「あ、そうか――(笑って)厚かましいけど、盲腸の友ってことで――いいかなあ」
サチ子「え?」
峰子「(二本指)――あ、なんなら(一本指)でもいいの。店ゆきゃあるんだけど――銀行いくと、また、じろっと見られるし――二、三日で――必ず『なに』しますから」
サチ子「あ、お金――ああ、どうぞ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、反射的にミシンの抽斗から札を出し、三枚の内二枚を峰子に渡す。
[#1字下げ]峰子、手刀を切って受け取り、改めて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「たしかに――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、アレッとなる。凄《すご》い目になって改める。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「どしたの? ニセ札?」
峰子「おかしなこと、あるもんねえ。世の中には、あたしと同じ癖ある人がいるのかな」
サチ子「え?」
峰子「あたしねえ、(じっとサチ子を見てゆっくりと迫力ある口調で)惚《ほ》れた男に金|貢《みつ》ぐとき――こっちもお世辞言ってお酒ついで、もうけた金ですからねえ。サヨナラのあいさつ代りに、こやって――端のとこに口紅つけて、バイバイすンのよ。そやって別れりゃ、いつか、どこかで、またそのお札にめぐり合うかも知れない、そう思って。これ、ついこの間、バイバイしたのと、同じにみえるけど――奥さん、このお札どこで――誰《だれ》に――」
サチ子「(あわててしまう)誰かな、うちのお金は主人の月給かあたしの内職だから」
峰子「それだけ?」
サチ子「それだけって、ほかにな、なにかあるんですか」
峰子「(じっと見る。フフンと笑う)」
サチ子「―――」
峰子「おじゃましました」
サチ子「あの、お金」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、複雑に笑って出てゆく。
[#1字下げ]持ってゆかなかった二枚の一万円札。たしかに隅《すみ》にハッキリ口紅がついている。
[#1字下げ]サチ子、ペタンと坐《すわ》り込む。
[#1字下げ]廊下で言い争う声が聞える。
●アパート・廊下[#「アパート・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]文子、英子、新婚サンに囲まれて、吊《つる》し上げられている峰子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「多少のご迷惑かけたことはお詫《わ》びしますけどねえ、別に人のもの泥棒《どろぼう》したわけじゃなし、こわしたガラス入れかえりゃ――なにも、アパート、出てくこと、ないと思いますけどね」
文子「どこいっても言われるのよ。『ああ、あのアパート――』って」
英子「なんかあたしたちまで――ねえ」
新婚「乱れてるみたいに言われるのよね」
峰子「乱れてる――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、うしろにサチ子がいるのを意識して、ゆっくりと言う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「『乱れてる』――ねえ。近頃は家庭の主婦のかたのほうが、ずっと乱れてるんじゃないんですか。金と引きかえに男に体売ってる奥さんも多いって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]うしろから、ほうきを持った、よね。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
よね「そういやあ、主婦売春ての、聞くわねえ」
サチ子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]凍りつくサチ子。
[#1字下げ]その前を通ってもどってゆく峰子。
[#1字下げ]ドアがバターンとしまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「主婦売春。主婦売春。新聞や週刊誌で見かけた四つの字が、大きく目の前に迫ってきました」
[#ここで字下げ終わり]
●朋文堂[#「朋文堂」はゴシック体]
[#1字下げ]サチ子が主人にたずねている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
主人「麻田ですか、いないんですけどね」
サチ子「帰り――何時頃」
主人「何時って、今日明日にゃ帰ンないですよ」
サチ子「え?」
主人「アメリカ――ひと月ほど、休ましてくれっていってたけど(他《ほか》の店員に)まあもどってくりゃめっけもンだな、ありゃ」
サチ子「住所、判《わか》りますか」
主人「おい! どっか書いてったなあ」
[#ここで字下げ終わり]
●ミシンの上[#「ミシンの上」はゴシック体]
[#1字下げ]口紅のついた一万円札。ニューヨークの住所と電話番号のメモ。
[#1字下げ]すわっているサチ子。
[#1字下げ]うしろに額。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]集太郎を拒むサチ子。
[#1字下げ]体を固くして逃れ激しくあらがう。
[#1字下げ]二人争って、布団《ふとん》からせり上り、ミシンの下に入り込んでしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「くたびれてるの、ごめんなさい」
集太郎「――内職なんかやめちまえよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、ごろんと向うを向く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「浮気なら、まだ言い訳は立ちます。でも金で売った形になった体です」
[#ここで字下げ終わり]
●アパート・廊下[#「アパート・廊下」はゴシック体]
[#1字下げ]ゴミを捨てに出ようとするサチ子。
[#1字下げ]廊下で峰子とよねがヒソヒソばなしをしているのを見て、ひるむ。
[#1字下げ]二人ちらりと見る。
[#1字下げ]サチ子、ドアの中へ引っこむ。
●八百屋[#「八百屋」はゴシック体]
[#1字下げ]買物をして一万円札を出しかけるサチ子、はっとなる。
[#1字下げ]英子、文子、新婚サンが、こっちをじっとみている。
[#1字下げ]だがそれは別人。
[#1字下げ]サチ子、手にした大根を置き、何も買わずに出てくる。
●旅行代理店[#「旅行代理店」はゴシック体]
[#1字下げ]入ってゆくサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「内職でためた定期を解約して、――ビザをとって――航空券を買いました。結果的にですが、金を受取った主婦売春という汚名を『恋』に変えてしまわなくてはならないと思いました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]パスポート、ビザのスタンプ。
[#1字下げ]「曾根崎《そねざき》心中」生玉社《いくたましや》前の段の下座が入る。
浄瑠璃《じようるり》「※[#歌記号、unicode303d] 立迷う 浮名をよそにもらさじと
[#ここから改行天付き、折り返して−1字下げ]
[#2字下げ]包む心のうち本町
[#2字下げ]焦《こ》がるる胸の平野屋に
[#2字下げ]春を重ねし雛男《ひなおとこ》」
[#1字下げ]文楽、人形の振りなどダブって――。
[#ここで字下げ終わり]
●成田空港[#「成田空港」はゴシック体]
[#1字下げ]旅客機が飛び立ってゆく。
●旅客機内[#「旅客機内」はゴシック体]
[#1字下げ]坐《すわ》っているサチ子、『好色五人女』をひろげている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「(一節を読む)よもやこのこと、人に知られざることあらじ。この上は身を捨て、命かぎりに名を立て、茂右衛門と死出の旅路の道連れ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]本の間に口紅のついた三万円がはさんである。
●イメージ[#「イメージ」はゴシック体](道行の場)
[#1字下げ]夜明けのビル街を駆けてゆく道行の二人。
[#1字下げ]手代風の男は麻田。
[#1字下げ]人妻風の女はサチ子。(眉《まゆ》を剃《そ》り、お歯黒をつける。ごく地味な衣裳《いしよう》で)
[#1字下げ]男が先を走る。女は必死に追う。ゴミの車を追うように裾《すそ》もあらわに全力疾走する。
[#1字下げ]ビルの間から太陽がのぼってくる。
●飛行機[#「飛行機」はゴシック体]
[#1字下げ]飛ぶジャンボ・ジェット。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]帰ってきた集太郎。
[#1字下げ]食卓の上の手紙。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「谷川岳へのぼってきます」
集太郎「谷川岳?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]さっぱりわからない集太郎。
●マンハッタン全景[#「マンハッタン全景」はゴシック体]
[#1字下げ]立ちならぶ摩天楼。
●ニューヨーク[#「ニューヨーク」はゴシック体]
[#1字下げ]ビルとビルの谷間。
[#1字下げ]さまざまな人種の雑踏の俯瞰《ふかん》。
[#1字下げ]そのなかに、小さなトランクを提げたサチ子がまじっている。キビキビ動く人のなかでひとりウロウロしているサチ子。
●二十八丁目[#「二十八丁目」はゴシック体]
[#1字下げ]タクシーをおりるサチ子。
[#1字下げ]メモを片手に番地をたしかめ、ロフトの建物を見上げる。大きな窓。
[#1字下げ]ロフト(古い倉庫を改装したもの)の横手へ廻《まわ》り、やっと入口を見つける。
●ロフト[#「ロフト」はゴシック体]
[#1字下げ]暗い古い建物。使っていないエレベーター。
[#1字下げ]階段を上ってゆく。暗く、こわれている。不安。
[#1字下げ]五階のとっつき。名刺が貼《は》ってある。
[#1字下げ]ノックをする。猫《ねこ》を抱いた若いアメリカ人の男が顔を出す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ハロー、(言いかけて)あ、エクスキューズ・ミー。あ麻田、あー、ミスター・アサダ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]男のうしろに、これも同じ柄《がら》の猫を抱いた麻田。
[#1字下げ]麻田、抱いていた猫を放す。
[#1字下げ]みつめあう二人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あんまりびっくりしないのね」
麻田「びっくりしても、顔に出ないタチなんだ」
サチ子「―――」
麻田「誰かと一緒?」
サチ子「ひとり――」
麻田「なんていって出てきたの」
サチ子「――谷川岳へのぼりますって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、笑う。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あの、あたし、お返ししなきゃならないものが」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ハンドバッグをさぐるサチ子の口を封じるように、乱暴なしぐさでトランクをもぎ取る麻田。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「どこ、一番先に見たい?」
[#ここで字下げ終わり]
●ニューヨークの街[#「ニューヨークの街」はゴシック体]
[#1字下げ]恋人同士のように腰に手を廻し、はしゃいでじゃれ合いながら歩く、麻田とサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「五番街! タイムズ・スクエア! ハーレム! ティファニー! カーネギー・ホール! ヴィレッジ・ソーホー! セントラル・パーク! ダコタ・ハウス!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]今度はサチ子が連呼する番である。
[#1字下げ]見たいといった場所が、二人の入った絵ハガキ風にうつる。
[#1字下げ]新しい街、古びた街を歩く二人。
[#1字下げ]黒人、ゲイ風、レズ風。肥《ふと》ったの、やせたの、老若男女《ろうにやくなんによ》、さまざまな人間の顔が二人の廻りを通りすぎる。
[#1字下げ]ウインドー・ディスプレーをのぞく二人。
[#1字下げ]劇場の前に立つ。
[#1字下げ]画廊をのぞく。
[#1字下げ]骨とう屋をひやかす。
[#1字下げ]果物屋でオレンジを買う。一つのオレンジを麻田がかじり、サチ子がかじる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「こんなすばらしい気持は生まれてはじめてでした。一分一秒のすき間もないくらい、ニューヨークという街に、しっかりと抱きしめられて、はじめての景色、はじめての匂《にお》いに、体中がジンジンするほど酔いました。生まれてはじめて恋をした男と、二人きりで、ニューヨークにいるなんて――信じられない気持です。ねえ、ここ本当にニューヨークなの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]夕方、陽の落ちたバーで、グラスを合わせる二人。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]合わしたグラスの向うで唇《くちびる》を合わせる二人。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「ニューヨークの上に恋という字、道行ということばが重なって、私のからだを溶かしました」
[#ここで字下げ終わり]
●ロフト[#「ロフト」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]ひろいロフトの隅《すみ》に麻田のベッドコーナー(むき出しの床にマットレスを置いたもの)。
[#1字下げ]抱き合ってねむる麻田とサチ子。
[#1字下げ]ロフトの中はかなり暗い。
[#1字下げ]点滅する前のビルのネオンだけがうすいあかりになっている。
[#1字下げ]サチ子、夢うつつで呟《つぶや》く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「のど、乾いた――ああ、のど――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、疲れのせいか目があかない。
[#1字下げ]麻田を集太郎と錯覚しているらしい。
[#1字下げ]夢うつつで麻田の腕をはずし、ベッドから起き上る下着姿のサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ちょっと、あたし――お水のんでくる。あ、(麻田を踏んでしまう)ごめんなさい。ヨイショ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]フラフラと歩き出し、三歩ほどで、ついたてにぶつかってしまう。
[#1字下げ]激しい音を立てて、ついたては倒れ、植木鉢《うえきばち》をこわしてしまう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]一瞬、なにが何だか判らないサチ子。
[#1字下げ]麻田、目をさます。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「―――」
サチ子「あたし――水飲みに――うち、ここ、このへん台所《だいどこ》なの――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]前のビルのネオンの点滅で、明るくなったり暗くなったりするロフト。
[#1字下げ]奇妙な飾りもの、天井に吊《つ》り下げてインテリアにした何台もの自転車。
[#1字下げ]猫を抱いて、起きてきた家主のアメリカ人の若い男。
[#1字下げ]ガランとした、天井《てんじよう》の高い空間にそれらが奇妙な影をつくり、ネオンで逆光になる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「やだ、やだ、あたし、自分ちの、アパートと間違えちゃった――アハ、アハアハハハ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子笑う。
[#1字下げ]笑いが、急にこわばり別のものに変ってくる。
[#1字下げ]サチ子、いきなりトランクに飛びつく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「帰ります」
麻田「―――」
サチ子「あたし、帰ります」
麻田「バカなこというんじゃない。ここは、ニューヨークだよ。日本とは一万五千キロ離れてるニューヨークだよ」
サチ子「(叫ぶ)帰る! 帰る!」
麻田「どやって帰るんだ。歩いて帰るのか」
サチ子「どうしよう、あたし、大変なことしちゃった」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]錯乱するサチ子を麻田、やわらかく抱いてやる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「こわい、こわい――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、激しく震えている。
[#1字下げ]麻田、きつく抱きしめる。
[#1字下げ]サチ子の恐れが、恍惚《こうこつ》と陶酔に変ってゆく。
●イメージ・密会の場[#「イメージ・密会の場」はゴシック体]
[#1字下げ]立ち腐れた地蔵堂の中で、抱き合う若い武士の麻田と武士の妻のサチ子。
[#1字下げ]とびらがあいて、侍姿の集太郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「不義者、成敗!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]斬《き》られる二人。
[#1字下げ]集太郎のうしろで、じっと見ている遊女風の峰子。
●ロフト[#「ロフト」はゴシック体]
[#1字下げ]ベッドで抱き合う二人。
●イメージ・心中の場[#「イメージ・心中の場」はゴシック体]
[#1字下げ](ロフトのベッドシーンの途中のイメージ)
[#1字下げ]人足風の三宅《みやけ》と遊女風の峰子が刃物で相対死に。
[#1字下げ]峰子、抵抗し逃げるが、三宅、追いすがり、刺す。
[#1字下げ]美しく化粧した峰子の顔が、みるみる蒼白《そうはく》の死相に変ってゆく。
[#1字下げ]人妻風のサチ子と絵師風の麻田の心中。
[#1字下げ]麻田、観念し手を合わせるサチ子の胸を脇差《わきざし》で刺す。
[#1字下げ]断末魔の表情が、ベッドのクライマックスの顔と重なる。
●ロフト[#「ロフト」はゴシック体](夜明け)
[#1字下げ]抱き合う二人。夜が明けてくる。
●ハドソン河のほとり[#「ハドソン河のほとり」はゴシック体]
[#1字下げ]昨夜の錯乱は嘘《うそ》のように、はればれとたのしそうなサチ子、麻田に体をあずけ、自由の女神像を眺《なが》めている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あれ、何持ってるの」
麻田「右手はタイマツ。左手は『独立宣言書』だったかな」
サチ子「独立宣言――あ、自由の女神って女なのね」
麻田「――自由の女神か」
サチ子「独立。自由」
麻田「女はそういう言葉が好きだね」
サチ子「持っていないからよ、女は。結婚したら、二つとも無くなってしまうもの。人を好きになっちゃいけないのよ。恋をするのは、罪悪なのよ。昔なら殺されたわけでしょ。結婚した女は死ぬ覚悟で恋をしたのよ」
[#ここで字下げ終わり]
●イメージ・河原の心中[#「イメージ・河原の心中」はゴシック体]
[#1字下げ]日本の河原。
[#1字下げ]河原の石に、ひとつひとつ「南」「無」「阿《あ》」「弥《み》」「陀《だ》」「仏」の金釘流《かなくぎりゆう》の文字が書いてある。
[#1字下げ]そばの千本杭《せんぼんぐい》に男女の心中死体がひっかかっている。
[#1字下げ]手首と手首をツナで結び合った麻田とサチ子。
●リヴァ・キャフェ[#「リヴァ・キャフェ」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]ハドソン河のほとり、ブルックリン橋のたもと。
[#1字下げ]マンハッタンの摩天楼のネオンを目の前にして、酒のグラスを合わせるサチ子と麻田。
[#1字下げ]二人は、またたのしげに囁《ささや》き合い、笑っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「何かおかしい」
サチ子「ニューヨークって、紐《ひも》が育つって書くでしょ」
麻田「ヒモが育つ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、テーブルに酒で書く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]二人、大笑い。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻田「いっぱいいるんだ、ヒモが――(笑って)オレと同じ――」
サチ子「――(困る)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、ガシャンとグラスをぶつけて、ぐっとあおる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ここ、どのへん」
麻田「ブルックリン橋のたもと」
[#ここで字下げ終わり]
●晒《さら》しの場[#「晒《さら》しの場」はゴシック体]
[#1字下げ]日本橋の橋詰《はしづめ》。
[#1字下げ]心中生き残りの男女が晒されている。
[#1字下げ]男は麻田、女はサチ子。
[#1字下げ]うしろに高札。人垣《ひとがき》。
[#1字下げ]唾《つば》をはき、はずかしめる人たちは、アパートの住人たち。
[#1字下げ]そのうしろに、じっと立っている町人風の集太郎。
[#1字下げ]そのうしろに、夜鷹《よたか》風の峰子。
●マンハッタンの砂丘[#「マンハッタンの砂丘」はゴシック体]
[#1字下げ]砂丘の向うに、嘘みたいにマンハッタンのビルがそびえている。
[#1字下げ]死んだ電気製品を積み重ねたオブジェが置き忘れられている。
[#1字下げ]立っている麻田とサチ子。
●ウエスト・サイド・ハイウェイ[#「ウエスト・サイド・ハイウェイ」はゴシック体]
[#1字下げ]廃止になったハイウェイ。
[#1字下げ]夕陽《ゆうひ》にひょろ長い二つの影はサチ子と麻田。
[#1字下げ]ジョーガーが犬をつれて走ってゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「ニューヨークには、死んだ景色が沢山あります。もう使わなくなった死んだハイウェイにうつる影法師は、二つの墓標みたいにみえました」
[#ここで字下げ終わり]
●イメージ・仕事場[#「イメージ・仕事場」はゴシック体]
[#1字下げ]白い衣裳《いしよう》。
[#1字下げ]ざんばら髪。竹矢来《たけやらい》のなかで、はりつけ柱にかかる麻田とサチ子。
[#1字下げ]夕陽。
[#1字下げ]ミシンの音がダブる。
●ロフト[#「ロフト」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]ねむっていたサチ子、ふと目をさます。
[#1字下げ]ミシンの音。
[#1字下げ]すぐ上に通風孔。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――ね、この上、縫製工場かなんか」
麻田「(目をとじたまま)いや――彫刻家のアトリエだよ」
サチ子「ミシンが聞える――」
麻田「空耳だろ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]麻田、寝がえりをうって、うつ伏せになる。
[#1字下げ]サチ子、そっと起きる。
[#1字下げ]バッグから金を出し、ブラ下っている麻田の背広に入れる。
[#1字下げ]ふり向いたとたん、眠っていたと思った麻田が立っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――私、お金、返しに来たの。あ、ちがう。それは口実です。あなたのこと、好きで――一生に一度でいい、恋がしてみたかった――」
麻田「――一緒に死んでくれるんじゃなかったの」
サチ子「一緒に死ぬ――」
麻田「ここで一緒に暮すことは、一種の心中だからさ」
サチ子「――ミシンが踏みたくなったの。帰りたくなったの」
麻田「帰れるかな」
サチ子「帰れます。昔の女は帰れなかったけど、あたしたちは帰れるわ。やり直すことが出来るわ――」
麻田「『恋を殺して――夫を選ぶ』か」
サチ子「―――」
麻田「たくましいね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]にらみつけていた麻田、苦い笑顔をみせる。自分の気持を精いっぱいこらえ、しっかりやれよという風に手を差し出す。
[#1字下げ]その手を強くにぎるサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「――(万感をこめて)ありがとう」
[#ここで字下げ終わり]
●二十八丁目あたり[#「二十八丁目あたり」はゴシック体](夜)
[#1字下げ]トランクを提げて帰ってゆくサチ子。
[#1字下げ]追ってくる麻田、歩くサチ子の背中まで追いつき、
[#1字下げ]ためらうが、結局声をかけず、うしろ姿に手を振る。
[#1字下げ]曾根崎《そねざき》心中の有名なさわり「天神森の段」が、ヴァイタリティ溢《あふ》れる男と女のロックで語られる。
[#1字下げ](死んでゆく恋の挽歌《ばんか》として)
[#1字下げ]※[#歌記号、unicode303d] この世の名残り 夜も名残り
[#1字下げ] 死に行く身を たとえれば
[#1字下げ] あだしが原の道の霜
[#1字下げ] 一足ずつに消えてゆく
[#1字下げ] 夢の夢こそ哀れなれ
[#1字下げ] あれ数えれば 暁の
[#1字下げ] 七つの時が六つ鳴りて
[#1字下げ] 残る一つが今生《こんじよう》の
[#1字下げ] 鐘の響きの聞き納め
[#1字下げ] 寂滅為楽《じやくめついらく》と響くなり
●空港[#「空港」はゴシック体]
[#1字下げ]飛行機が飛び立ってゆく。
●アパート・階段[#「アパート・階段」はゴシック体]
[#1字下げ]ラーメン屋の出前持が鼻歌をうたいながら上ってゆく。
[#1字下げ]目引き、袖引《そでひ》きの英子。文子。新婚サン。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
文子「奥さん、実家へでも帰ったのかねえ」
英子「そういやあ、ずっと見ないわねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]黙々と掃除をする、よね。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ラーメンをすすりながら、集太郎、電卓を叩《たた》いては、グラフを書き込んでいる。
[#1字下げ]ラーメンのつゆをこぼし、舌打ちする。衿《えり》に巻いたタオルで拭《ふ》く。
[#1字下げ]流しには汚れた茶碗《ちやわん》の山。
[#1字下げ]寝穢《いぎたな》く散らかった室内、万年床。
[#1字下げ]集太郎、散らかした新聞や週刊誌の下から、地図をひっぱり出す。谷川岳あたりを見ている。
●スナック「パズル」[#「スナック「パズル」」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]客は誰《だれ》もいない。
[#1字下げ]カウンターでひとりルービック・キューブを廻《まわ》す峰子。
[#1字下げ]手は動いているが、目は死んでいる。
[#1字下げ]集太郎が入ってくる。
[#1字下げ]カウンターに坐《すわ》る集太郎。少し酒が入っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「隣りの時沢です」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]廻っていたルービック・キューブの音がとまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「――(無表情に会釈《えしやく》)」
集太郎「水割り、ください」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、黙って水割りをつくる。
[#1字下げ]氷のカチカチと鳴る音。
[#1字下げ]黙って前へ置く。またまたルービック・キューブを廻す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「カミさん、なんか言ってなかったですか」
峰子「―――」
集太郎「――この間からちょっと『出てる』んですがね――『谷川岳にゆく』って書いてあるだけで(言いかける)」
峰子「谷川岳?」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子の手がとまり、はげしい反応をみせる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「――なにか――」
峰子「――谷川岳――」
集太郎「今まで山登りのヤの字も言ったことのない人間が、なんで急に谷川岳なのか、さっぱり見当つかないんで、なんか聞いてたら――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎も、なにかおかしいとカンづいてはいる。
[#1字下げ]峰子の反応を探り探り聞いている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「誰と行ったのか――ありゃ、素人《しろうと》がひとりで登れる山じゃないでしょう」
峰子「――谷川岳――ねえ」
集太郎「今まで、いっぺんも谷川なんて名前(言いかけて)そうだ、そういやあ、上野から谷川までの停車駅、言えるかっていったことあったなあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、突然笑い出す。激しく笑う。
[#1字下げ]集太郎、ムッとする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「あんた、随分、失礼な人だな」
峰子「(笑いつづける)」
集太郎「ぼくが隣りの部屋の人間だって判《わか》ったら――この間はすみませんでした――ひとことあってもいいんじゃないかな」
峰子「―――」
集太郎「カミさん、飛び込んで、手、けがして――そのこと恩に着せるつもりはないけどさ、いわば被害者でしょ。ひとことのあいさつもない――人が物聞いても、返事もしないで笑い出す――どういうんだい、そりゃ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、ウイスキーをつぎ、ストレートでのむ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「おかしいから――あんまりおかしいから笑ったのよ」
集太郎「―――」
峰子「奥さん、被害者だっていったけど、あたしに言わせりゃ反対だわね。被害者はあたし、お宅の奥さん、加害者よ」
集太郎「?」
峰子「奥さん、今頃《いまごろ》、谷川岳のぼってるわ。谷川岳ったって山じゃないの」
集太郎「――?」
峰子「オトコ」
集太郎「(ポカンとする)――」
峰子「あたしの――惚《ほ》れてた男」
集太郎「そんな、――バカな。サチ子、そんな気の利《き》いたこと出来る奴《やつ》じゃないよ。融通利かないし――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]言いかけて、峰子の視線に気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「色気よか内職、貯金て女だから――そんな――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]だんだん語尾が弱くなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「その男、谷川っていうんですか」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、ぐっと酒をあおる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「名前じゃないのよ。うちの部屋へ来て、あたしを抱きながら、『上野。尾久《おく》。赤羽。浦和。大宮。宮原』」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、高まってくる。目を閉じる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「―――」
峰子「上尾《あげお》。桶川《おけがわ》。北本。鴻巣《こうのす》」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、大きく溜息《ためいき》。ぐっとあおって、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「あんたの奥さん、あれ聞いたのよ。昼間から男引っぱり込んでるこっちもいい眺《なが》めだけど、アパートの壁に耳おっつけて、盗み聞きしてるお宅の奥さんも、ハハ、ハハハ、負けずおとらずのいい格好じゃないの」
集太郎「―――」
峰子「しかもねえ、お宅の奥さん、男からカ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]激してつい金、といいかける峰子。あやうく踏みとどまる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「男から、カ――」
峰子「(絶句する)」
集太郎「カって――なんですか」
峰子「カ、カ、カ、――隔離されてたでしょ」
集太郎「カクリ――あ、はなれるのカクリ――」
峰子「そうカクリ。(小さく)ああ、ドキッとした。尻取《しりと》りはむつかしいや」
集太郎「え?」
峰子「ううん。なんでもないのよ。とにかくね、カクリされてるからね、カーとのぼせたんじゃないの」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、それだけでない、なにかを感じる。
[#1字下げ]峰子を見る。
[#1字下げ]峰子、強い視線で見返す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「(何か言いかける)」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ドアがあいて、酔った一人の客(男)が入りかける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「すみません。看板なんですけど」
客「カンバン? 看板、出てて、カンバンてこたァないだろ」
峰子「でも、カンバンなの」
客「一パイね、一パイだけ」
峰子「すみません――カンバンですから」
客「一パイ――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]突然、集太郎がどなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「しつこいな、アンタも。カンバンたらカンバンなんだ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]酔客、びっくりして、出てゆく。
[#1字下げ]グラスを持つ集太郎の手が、ブルブル震えている。
[#1字下げ]ぐっとのむ。はげしく震える手。
[#1字下げ]峰子、カラになった震えるグラスにウイスキーを、ドクドクつぐ。
[#1字下げ]自分のグラスにもつぎ、のむ。
[#1字下げ]間。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「結婚して――」
集太郎「七年」
峰子「水商売ってのは、七年やりゃ一人前になれるもんだけど、夫とか妻ってのは七年じゃあ、ダメなのねえ」
[#ここで字下げ終わり]
●アパート・階段[#「アパート・階段」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]酔ってもつれ合って帰ってくる峰子と集太郎。
[#1字下げ]集太郎、自分の部屋の鍵《かぎ》をあけようとする。
[#1字下げ]峰子、鍵穴に自分の手をあててふさいでしまう。
[#1字下げ]目が誘っている。
[#1字下げ]自分の部屋の鍵をあけ、ドアを開いたままにして待つ。
[#1字下げ]集太郎、ドアの中へ入ってゆく。
[#1字下げ]物かげから、じっと見上げている管理人のよね。
●峰子の部屋[#「峰子の部屋」はゴシック体](深夜)
[#1字下げ]集太郎にグラスの水をもってゆく峰子。
[#1字下げ]「はい」と声にならない声をかけ、集太郎に手渡す。
[#1字下げ]集太郎も「お」、言葉にならない言葉で受けて、飲む。
[#1字下げ]峰子、空いたグラスを受取る。
[#1字下げ]集太郎の上衣《うわぎ》を脱がせ、ネクタイをほどいて取る。
[#1字下げ]何年も連れそった女房《にようぼう》のように、何も言わない。
[#1字下げ]集太郎も黙っている。
[#1字下げ]峰子、ワイシャツのボタンをゆっくりとはずしてゆく。
[#1字下げ]集太郎、部屋を見廻す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「おんなじ間取りだね」
峰子「そうよ。おんなじ間取りよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]ワイシャツを脱がせ、集太郎の手を、自分のからだに廻させる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「女も、おんなじ間取りよ」
集太郎「?」
峰子「目があって、くちびるがあって――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]誘ってゆく峰子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「胸があって――お尻があって」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、峰子をベッドに倒す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「どう? おんなじでしょ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、答えない。
[#1字下げ]答の代りに、峰子を抱きしめてゆく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「(喘《あえ》ぎながら、呟《つぶや》く)いつも――いつも、聞えるのよ、こういうとき」
集太郎「―――」
峰子「ミシンの音。壁の向うから、カタカタカタカタカタカタ――あれが聞えると、あたし、安心だったわ。声が聞えないから。でもねえ、だんだん口惜《くや》しくなったの。『あたしは、女房なのよ。世間に認められてるのよ、ちゃんと籍入ってるのよ』カタカタカタカタ。そう言ってるみたいに聞えるのよ。『あんたは何よ』『女としてはモグリじゃないの』何人、男、取り替えたって、サイの河原の石積み。積み上げれば積み上げるほど崩れて――なんにも残らないのよ。ミシン踏んで、内職のブラウス縫ってるほうは、ちゃんと家庭ってもンが残ってくのよ」
集太郎「仇討《かたきう》ちか」
峰子「そうよ、仇討ち――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]激しくからみ合う二人。
[#1字下げ]急に、集太郎が耳をすます。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「――?」
集太郎「(呟く)ミシンかけてるんじゃないかな――」
峰子「――空耳。なにも聞えないわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、抱きかける。また、聞えるような気がする。
[#1字下げ]自分の部屋の気配を気にする。壁のところへゆき、聞き耳を立てる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「帰ってないわよ。帰ってりゃあかりがついてるわ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、足許の上衣を拾う。
[#1字下げ]上衣に袖《そで》を通す。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「勇気がないのね」
集太郎「―――」
峰子「そうじゃないのかな。帰るほうが、帰るほうが勇気がいるのかな」
集太郎「――(苦しくうなずく)そう、思いたいね」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、ネクタイをしめ直しながら、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「(自嘲《じちよう》する)これが――『結婚』ですよ」
峰子「不自由なもんねえ」
集太郎「―――」
峰子「でも、ちょっとステキねえ。口惜しいけど」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子の目に光るものがある。
[#1字下げ]ドアをあけてやる。
[#1字下げ]集太郎。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「おやすみなさい!」
集太郎「おやすみ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]物かげから、よねがのぞいて忍び笑いをもらす。
[#1字下げ]よねを引っぱっている夫の浩司《こうじ》。
●アパート・表[#「アパート・表」はゴシック体]
[#1字下げ]何の祝日か、日の丸の旗が出ている。
[#1字下げ]シンとした路地をトランクをさげたサチ子が帰ってくる。アパートの階段の下で立ちどまる。
[#1字下げ]大きく深呼吸して、胸を張り、階段をのぼってゆく。
[#1字下げ]のぼってゆく、たくましい腰、尻。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「のぼり馴《な》れたアパートの階段です。でもいつもより段が高く、けわしく思えました。でも、これをのぼらなくては、私は帰れないのです」
[#ここで字下げ終わり]
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]万年床の枕《まくら》もとに缶《かん》ビール。
[#1字下げ]散らかし放題で寝ている集太郎。
[#1字下げ]立っているサチ子に気づく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「ただいま」
集太郎「―――」
サチ子「(大きな声で必死に明るく言う)ただいま!」
集太郎「――おかえり」
サチ子「―――」
集太郎「谷川は、どうだった」
サチ子「――あ、あたしねえ、本当は谷川岳なんか(言いかける)」
集太郎「よせ!」
サチ子「―――」
集太郎「(少しやわらかく)よせよ」
サチ子「―――」
集太郎「実は、オレも――麓《ふもと》まで行ったんだ」
サチ子「フモト――」
集太郎「登るより戻《もど》るほうが勇気がいるって言われたよ」
サチ子「だれに――」
集太郎「そのはなしは、七十か八十になったら、しようじゃないか」
サチ子「――うん。うん」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、言葉をさがして、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あたし、これから、うんとしっかりやる」
集太郎「しっかり、やってくれよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]集太郎、サチ子のたくましい尻をひとつバーンとはたく。
[#1字下げ]サチ子、くるりとうしろを向き、両手で顔をおおってすすり泣く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
集太郎「どっち見て泣いてンだ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]サチ子、くるりと向きをかえ、集太郎に飛びついて激しく泣く。
●峰子の部屋[#「峰子の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]ダブルベッドのなかで、目をあける峰子。
[#1字下げ]隣りの部屋からサチ子の泣き声が聞えてくる。
[#1字下げ]聞いている峰子。
●道[#「道」はゴシック体]
[#1字下げ]オルゴールをならしながら、ゴミの車がゆく。
[#1字下げ]あとからゴミの袋をぶらさげ追いかけるサチ子。
サチ子「お願いします! 待ってエ!」
[#1字下げ]サンダルを片方飛ばし、全力で走るが間に合わない。
[#1字下げ]車は行ってしまう。
[#1字下げ]ガックリして片足で飛びながらもどる。
[#1字下げ]サンダルをはきかけるが、何か踏んだらしく、片足でケンケンしてアパートの門柱に寄りかかり、足の裏を調べようとする。
[#1字下げ]別の手が添えられる。峰子である。
[#1字下げ]サチ子、こわばって、とっさに声も出ない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
峰子「大丈夫。なんともなってないわよ」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]峰子、いたずらっぽく笑いかけ、丁寧な手つきで、さするように足の裏のゴミをはたく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「―――」
[#ここで字下げ終わり]
●市場[#「市場」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]買物で、ごったがえす、主婦たちの中にサチ子がいる。
●魚屋[#「魚屋」はゴシック体](夕方)
[#1字下げ]一皿《ひとさら》だけ残ったタイのあらの皿盛りをひっぱるサチ子。
[#1字下げ]やはり手を伸した主婦と、ひっぱり合いになる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
主婦「ちょっとオ、それ、あたしが」
サチ子「あら、あたしでしょ(どなる)すみません! これ、包んでエ! (主婦に)ごめんなさい」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]イキイキと買物するサチ子。
●時沢の部屋[#「時沢の部屋」はゴシック体]
[#1字下げ]内職のミシンをかけているサチ子。
[#1字下げ]廊下で人声がする。
[#1字下げ]ドアを開けるサチ子。
[#1字下げ]廊下で管理人のよねや文子、英子、新婚サンが固まっている。
[#1字下げ]峰子の部屋のドアが大きくあいている。
[#1字下げ]中はなにもない。
[#1字下げ]入口に古新聞とビールやジュースの空瓶《あきびん》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あら、お隣りさん、引っ越したの?」
よね「引っ越しってよか、夜逃げだわねえ」
サチ子「―――」
文子「先月分の家賃、払ってないんだって」
サチ子「あ、そういえば、うちも――」
英子「どしたの」
サチ子「ガス代とクリーニング代、立替えたの、もらってなかったんだ――」
[#ここで字下げ終わり]
●街[#「街」はゴシック体]
[#1字下げ]池袋あたり。
[#1字下げ]内職のブラウスの大包みを抱えたサチ子がバスに乗っている。
[#1字下げ]信号でとまる。すぐ目の下にオートバイにのった男の腰にしがみついて笑っている峰子をみつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子「あ、――」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]声をかけたいサチ子。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
サチ子(声)「ひどくなつかしい人に逢《あ》ったような気がしました。声をかけたい、何か言いたい。でも、二つの車は、どんどん離れて、遠くなってゆきました」
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]しかし、信号は青にかわり、オートバイは先に走ってゆく。
[#1字下げ]見る見る離れる二つの車。
この作品は平成三年四月新潮文庫版が刊行された。