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キサラギ
原作・脚本/古沢良太
ノベライズ/相田冬二
本書は、映画『キサラギ』に関するネタバレがございます。
ご了承のうえ、お読みください。
[#改ページ]
ひょんなことから。
正確に言うなら、ひょんひょんひょんひょんひょんなことからだな、五人いるから。
ひょんが五つ集まって僕たちは出逢《であ》った。
世の中には、どうでもいいことがたくさんある。その、どうでもいいことはとりあえず素通りして、どうでもよくないことに立ち止まってみる。僕らは、いや、少なくとも僕は、自分の時間をそんなふうに移動することで、なんとなく生きてるって感じている。そう思い込んでいる。思い込めるシアワセ。錯覚だって誤解だって、なんだっていい。思い込めることがあるのは、ハッピーなことなのだから。
ひょんがなんであろうと、僕にはどうでもいい。いままでもそうだったし、これからもきっとそうだ。ひょんが何を意味しているか、語源はどこにあるのか、そんなことはネットでも辞書でも調べたくはないし、「ねえ、ひょんって何?」なんて、知り合いに訊《き》いてみたりなんて、そんなこっ恥ずかしいことは絶対にしたくない。
「センセー、ひょんなことからの、ひょんってなんですか」
国語教師に、純朴そうな顔して尋ねたりするケンゼンな子供でなかったことは、僕の人生の数少ない誇りのひとつだ。だってケンゼンってタンジュンってことだろ。無知で結構。アマノジャクでおおいに結構。向上心丸出しのタンサイボウ人間より、よっぽどマシじゃないか。
たとえばこれが、僕にとって、どうでもいいわけではないことだ。
そして、今日、集まってくれるはずの四人も、少なくとも一年前までは僕同様に、思い込めるシアワセを持って生きていた人たちなのだろう。
そんなことを考え終えると、自然に鼻歌が洩《も》れてきた。僕は鼻歌を声に出して歌ったことはない。鼻歌はいつもアタマの中で鳴っている。鼻歌ではなくアタマウタと呼びたいくらいだ。
鼻歌はいつだって同じ曲。如月《キサラギ》ミキの「ラブレターはそのままで」だ。全然、名曲だとは思わない。けれども僕にとっては特別な曲だ。
♪彗星《すいせい》流れた おしゃべりの途中
ミキちゃんのへたくそな歌声が、拡がっていく。そうだ、この声を汚したくないから、僕はいつも鼻歌を頭の中だけで歌っているのだ。
♪恋のナゾ解き 不意に始まる
つんのめって、転ぶのにも失敗したみたいな歌い回し。好きだ、好きだ、好きだ。
♪本当の気持ちは明かせない
歌詞を追うといい曲だ。しかし、歌を聴いている限りは決してそう思わせない。そこが素敵なところだ。たぶん、ミキちゃんが詞の意味をわからないまま歌っているからなのだと思う。情感というものがまるでない。けれども僕は、歌い手が言葉の意味を深く理解して、それを説明して念を押すような歌い方が大嫌いだ。あれが歌が上手《うま》いということなら、下手なほうがよっぽどマシだ。
♪貴方から誘ってほしいからなんて
脳という宇宙の中に、ミキちゃんのかけがえのない声だけが響きわたる。染みわたり、満たされていく感覚。
♪宛名のないラブレター
まだまだサビは遠いのに、ふらつく音程は早くもピークを迎える。最高の瞬間だ。
♪テーブルにおいたまま
僕は、いつもここで泣いてしまう。お、い、た、ま、ま。調子っぱずれに急上昇しながら、あてどのない階段をのぼっていくミキちゃん。いつ踏み外してもおかしくない足取りなのに、かろうじて爪先が一段一段の角にくっついているような感覚を呼び起こすスリリングな歌唱。
初めてこの曲を耳にしたときから、ここがいちばん好きだった。お、い、た、ま、ま。この無意味な上昇気流が、僕の心を完全に決めさせた。もちろん歌手デビューするずっと前から追いかけてはいたが、この娘に本気でついていこうと思ったのは、このときだった。
人生で本気になったことなど、なかった。本気になってばかりいるヤツらが嫌いだったし、本気になれる機会もなかった。本気にならなくても、とりあえずは生きていけるし、死ぬまで本気になることが訪れなくても別に平気だと思っていた。この考えはいまでも変わらない。でも僕は、あの日、生まれて初めて本気になってしまった。
鼻歌をアタマの中で歌うと、本気になった瞬間のことを思い出して、かなり恥ずかしくなるし、ちょっぴりうれしくもなる。そして涙がこぼれる。あの日まではそうだった。
♪テーブルにおいたまま
頭の中で勝手にスクラッチして、大好きなフレーズをもう一度聴いた。今日の涙は、三百六十六日前に流した涙とは違う。
鼻歌は、歌う日の体調や精神状態で僕への影響に変化があって、この箇所で泣くのは定番だが、どこの部分が感情に触れて泣いているのかは毎回異なっていた。恥ずかしさだけで泣いているときもあったし、うれしさだけで泣いているときもあったし、単純にミキちゃんの歌声のあまりの下手さに泣いているときもあったし、理由なく悲しくなって泣いているときもあった。
けれど一年前の今日から、涙の意味はひとつになった。
如月ミキが、この世からいなくなったからだ。
お、い、た、ま、ま。
僕たちは、僕は、おいていかれた。
二〇〇六年二月四日、ミキちゃんは死んだ。
僕は、鼻歌をやめずに、準備を続ける。
追悼会の会場にあるロフト下のスペースに、用意してきた大きな紙を貼り付けた。紙製の花で彩られた僕の文字が、微笑んでいた。
〜永遠の清純派グラビアアイドル〜如月ミキ一周忌追悼会
ひょん、ひょん、ひょん、ひょん、ひょん。ひょんが五つ集まるとパワーアップするのだろうか。相殺しあってレベルダウンするのだろうか。
安男さん、オダ・ユージさん、スネークさん、いちご娘さんが、もうすぐ僕の目の前に現れることを考えると、そわそわしてきた。
二〇〇七年二月四日。今日は如月ミキの一周忌だ。
如月ミキ。本名、山田美紀。一九八四年に生まれた彼女は「ミスミラクル」オーディションで準々グランプリに選ばれデビューした。準グランプリなら聞いたことがあるが、準々グランプリなんてほとんど耳にしたことがない。ウワサによると、審査員の一人が強固に彼女を推したらしい。相当駄々をこねたと伝えられているが、僕たちはその駄々に感謝しなくてはいけない。
如月ミキというソリッドな芸名とは裏腹に、受けるイメージの輪郭がポワンとした娘だった。根本的な野心が感じられないと言えばいいのか。野心なき笑顔と黒髪に、僕たちは惹《ひ》かれた。
主にグラビアで活躍したが、決してスタイル抜群ではなかった。公式スリーサイズは八五・五八・八〇。すこぶる豊満なわけでも、めちゃくちゃスレンダーなわけでもない、中途半端でアンバランスなボディは、彼女のとりとめのない魅力のひとつの象徴だった。
血液型はO型。繊細なわけでも、マイペースなわけでも、バランスをとるタイプでもなかった。芸能界が向いていたかどうかは定かではないが、とりあえず余計なことを考えないカラダとアタマはタフだったと思う。僕はいまでもタフだったと信じている。
趣味はお菓子作り。かわいいといえばかわいいけれど、いまどきアイドルが公言するには、あまりに冴《さ》えない趣味だ。けれども、好きな色はイエローとピンクというのだから、これはこの種の女の子の特性として、もうしかたがない。つまり、純朴。僕たちは、このパッとしない純朴さをココロから愛した。
十八歳でデビューした彼女は二十一歳で、この世から引退した。
七夕に生まれた彼女は、立春に死んだ。
二月四日は「銀閣寺の日」らしい。なんだそれ? でも銀閣寺という響きは如月ミキにどことなくつながっていて、結局「金」にはなれなかったグラビアアイドルの命日にはふさわしいと思う。「金閣寺の日」があるのかどうかは知らないけれど。
──一周忌に、みんなで集まりませんか。
そう言い出したのは、ハンドルネーム「オダ・ユージ」さんだった。
僕が始めた〈ミキちゃんを応援する掲示板〉で僕たちは出逢《であ》った。もともと如月ミキのファンはそう多いわけではないという共通の認識と、自分たちは少数派なのだという若干の同胞意識から、僕たちはコミュニケーションを開始した。とはいえ、ミキちゃん自身が決してコアだったりマニア受けする存在ではなかったから、極端にとがった会話になることもなければ、いやらしい妄想に発展することもなく、結果日々|他愛《たわい》のない話題だけで盛り上がることができた。少なくとも僕は、そのぬるま湯感覚が好きだった。
自分のアイドル論を叫ぶヤツや、如月ミキ改造計画を主張する輩《やから》は次第に消えていき、気がつけば五人だけが残った。「オダ・ユージ」さん、「スネーク」さん、「安男」さん、「いちご娘」さん、そして僕、「家元」。
オダ・ユージさんの提案を受けて、僕はみんなに招集をかけた。ミキちゃんがいなくなってから、当然のように掲示板は盛り下がった。ショックが悲しみになり、それを自分たちにとっての日常としてそれなりに受け取ることができるようになると、新しい話題はなくなった。当たり前のことだが、如月ミキに関するトピックはもう永遠にやってこない。僕は、五人で集まれば、そのとき僕たちにとってのトピックが生まれるのではないかと考えた。それが誤解でも錯覚でもかまわない。呼びかけて応じてくれる人がいるのなら、やってみよう。本来、オフ会の類《たぐい》は好きではなかったが、オダさんのアイデアに素直に便乗することにした。なぜなら、僕には、みんなに直接伝えたいことがひとつだけあったから。
僕は、テーブルに紙皿を並べ、椅子にクッションを置いた。
だが、いざ追悼会の準備をしていると、これはしてはいけないことだったんじゃないだろうか、という想いがじわじわと生まれてくる。うきうき気分だったはずなのに。さっき鼻歌で泣いてしまったからだろうか。
不安、ではない。むしろ自分の中のドキドキ感をさらに昂揚《こうよう》させようとしているのかもしれない。何かとんでもないこと、後戻りのできないことを僕は始めようとしているのではないか。ヘンな予感に軽く揺り動かされる。
四人とも来なかったら、笑い話だな。いちばんネガティブなことを考えたら、途端に気が楽になった。
この部屋に最初に来るのは、誰だろう。その瞬間、僕はいったいどんな顔をしているのだろう。
そのときは意外に早かった。
視線を感じて振り返る。真ん丸く太った風体の男が入口に立っていた。
アイコンタクト。とりあえず会釈。こういうときはいったい、何と声をかければいいのだろう。僕は言葉なく、ただ立っていた。
実際には数秒足らずなのだろうが、顔を見合わせての沈黙は、ドラム式洗濯機内部で回転している洗濯物をスローモーションで眺めているぐらい長く感じる。
何か、言わなきゃ。
ぼんやり考えていると、視線の主のほうが先にドラム式洗濯機をゆっくり止めた。
「家元さん、ですか?」
「はい」
ええ! そうですよ!
本当は小躍りしたいぐらいうれしかった。ばきゅーんと、西部劇の決闘で撃たれるみたいに気持ちよかった。
僕のハンドルネーム「家元」は、当たり前のことだが画面上にしか存在していない。それが肉声に変換されるとは、これまで考えたこともなかった。
「家元」という名前を選んだのは、字面よりも語感が気に入ってのことだった。なのに、「家元」が音になるということを想像したこともなかったことに気づかされた。
家元、いえもと、イエモト、iemoto……。この人が発する「家元」は、ひらがなのニュアンスがある。
字だけなら「家元」はたったひとつの存在に思えるが、人間の声を介すると無限に拡がる。自分の中にしか存在していなかった「家元」がもう一人増殖したと思った。人格を与えられ、立体化した気分だ。
掲示板で何度「家元さん」と呼びかけられても感じなかった喜びが、むくむくとふくらんできた。ドラム式洗濯機を開いたら、無数の泡が溢《あふ》れ出してきて、青空に向かってわたあめの花を咲かせているみたいだった。
「家元」という名前にして正解だった。
この人も、自分のハンドルネームで呼ばれたら、うれしいのかな?
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、名乗ろうとしている彼をさえぎり、思わず言った。
「待って! 当てます」
掲示板の「家元」は、クールでポップで素直なキャラクターだと僕は考えている。
いま言ったことは、我ながら「家元」らしい発声であり、「家元」らしい落ち着いた言葉だと思った。
ああ、僕は「家元」なんだと実感すると、気が大きくなり、余裕をもって、スローペースで語りかけられる。
「オダ・ユージさん……じゃないですよね。スネークさん……でもない」
僕は相手を吟味するように言葉を重ね、決定を引き延ばした。
「ということは……」
彼の風貌《ふうぼう》を識別した。
茶色のハンティング帽をかぶっている。首元には黄色のマフラー。フードのついたカウチン柄のボアジャケットの下に、極太の毛糸で幾何学模様が編み込まれた赤い色のセーターを着ている。しかもおなかのあたりは模様がなく、真っ白。シロクマのおなかみたいだ。このファッションセンスは……ありえない。
平たく言えばダサい。が、オタクっぽくはない。よく言えば、素朴。
存在そのものが、ひらがなみたいだ。牧場というより、ぼくじょう。牛乳というより、ぎゅうにゅう。
「安男さんだ!」
「安男です!」
考えてみれば安男さんは、掲示板の文章もどことなくひらがなの雰囲気漂う人だった。自分の中での一致感が無性に楽しい。
どんな人だろうなんて、イメージさえしていなかったのに、現実にその人が現れると、僕たちの脳は、後追いで、自分がそれまで知覚していた情報や印象を猛スピードで補足していく。そう、「やっぱりね」などと口にするときの僕たちはみんな自分勝手な生きものだ。
緊張からなのか、安男さんは「おまねきいただき」の「おまねき」がうまく言えず、何度言い直しても「おねまき」になってしまう。そして、焦っては自分で自分の頬を叩《たた》いている。確かにパジャマが似合いそうな人だ。ジャージ派ではなく、絶対パジャマ派だろう。
「イメージ通りの人ですね」
僕は、「家元」らしく、柔らかい口調で言った。
「書き込み、毎日してくれてますよね。日に二度も三度も書き込んでいるときもある」
「俺の唯一の楽しみみたいなもんだから」
質素で控え目な言い方は、まさに安男さんだ。掲示板でもイイ人だとは思っていたが、本当にイイ人なんだ。
安男さんは、しつこいくらいに書き込みをしてくれるが、押し付けがましいところが一切ない。それは、いかに如月ミキについて知っているか、自慢するような素振りが全然ないからだ。もちろん安男さんだってミキちゃんについて詳しい。けれども、それをひけらかすのではなく、どうして自分がミキちゃんを大事に思っているかを最優先にせつせつと綴《つづ》ってくる。
僕の勧めた椅子に恐縮しながら腰を下ろした「イイ人」は、次の瞬間、目を輝かせて、部屋の奥を見つめる。
「ひょっとして……あれは……」
僕の宝物に気づいたようだ。この部屋でいちばん目立つところに飾ったのだから、気づいて当然といえば当然だ。
「これが楽しみだったんです! 家元さんの〈如月ミキ パーフェクトコレクション〉! いいですか……見ても」
「もちろん。あ、でも汚さないようにお願いしますね」
さあどうぞ、と手招いた。
追悼会の準備をしたといっても、ミキちゃん専用のソファを用意し、そこに花を飾る。それから、部屋の真ん中にテーブルを置き、椅子を並べ、お菓子とおつまみと飲み物を用意し、「追悼会」と書いた紙をロフトに貼り、部屋の奥にパーフェクトコレクションを陳列しただけのささやかなものだ。会のメインディッシュといえばこれぐらいで、あとはミキちゃんの思い出話をそれぞれが勝手に話し、それぞれが勝手に聞いていればそれでいいと僕は考えていた。
コレクションには、如月ミキの雑誌媒体に関する露出はすべてスクラップしている。安男さんがこれから完璧《かんぺき》なコレクションを初めて目にするのだと思うと、収集したこっちまでドキドキしてきた。なにしろこれは、ファンにとっては、森の中のいちばん大きな木の下に埋まっている宝石箱を開くようなものである。
安男さんは、コレクションの一冊におそるおそる手を伸ばしながら、一瞬その動きを止めた。あまりに神々しくて、まぶしかったのかもしれない。神聖なものに触れる瞬間は、何か罪を犯すような気持ちになるものだ。
ドラム式洗濯機が止まるように、安男さんはつぶやいた。
「やっぱり、みんなが来てからにしようかな……ぬけがけはよくないし、楽しみはとっておいたほうが……」
思いやりのある「イイ人」である。
「じゃあ、みんなで見ましょう」
「はい! ごめんね、ちょっと待っててね」
パーフェクトコレクションに向かって優しくそう語りかける姿には、ひらがなの感触があり、またもや僕はうれしくなった。
それは、まだ待ち合わせ時間の少し前のことだった。
安男さんは、ゆっくり話した。
「あ、俺、こんな格好で来ちゃったんですけど、まずかったですかね、やっぱり喪服じゃないと」
「いいんです! 僕もこの通り。追悼会といっても気楽なパーティです。楽しくにぎやかにやったほうが、ミキちゃんも喜ぶと思いますし」
決まった。宴《うたげ》の主催者らしい、快活で無駄のないオープンな物腰だ。
「そうですよね! 俺もそう思って、とびきりトレンディなやつを着てきたんです」
安男さんが着ているものはトレンディという言葉から程遠いデザインだった。それ以前に、そもそも安男さんがトレンディな服を着こなせるとは思えない。
そんなことよりも、トレンディという言葉を聞いたのは何年ぶりのことだろうと考えると、気が遠くなり、一瞬思考が停止した。安男さんは世間との接触が極端に少ない人なのかもしれない。
僕の身体の中にあるドラム式洗濯機が再回転しはじめた頃、安男さんの身にまたトラブルが起きているようだった。
「あれ? アップルパイがない……昨日作ったんです。俺、お菓子作り趣味なもんだから」
お菓子作り。ミキちゃんと同じ趣味とは、律儀な人である。
「コンビニだ! 早く着きすぎたんで時間つぶしてたんです。バカだな俺は! なんで置いてくる! ちょっと取ってきます! すぐに戻りますんで!」
自分にツッコミを入れながら、安男さんはバタバタと出ていってしまった。
悪い人じゃないんだけど。という形容語句がある。消極的否定として用いられることがほとんどだ。特に女の子が使う場合、その男は「悪い人未満でしかない」と言っているに等しい。つまり、彼女たちにとっては「悪い人」のほうがはるかに魅力的なのだ。
安男さんは、まさにそうだった。イイ人ではあるが、間が悪い。相手の調子を狂わせる。イラつかせる。テンポよく事が運ばれていくわけでは決してないタイプの人間だ。安男さんがモテる、モテないはさておき、結局女性という生きものは何事もとりあえず調子よく進めていく「悪い人」が好きなのだろう。
とり残された面持ちでぼうっとしていると、入れ替わるように、すぐに二人目が来た。
サングラスをちょっと下げ、こちらを窺《うかが》っている。軽薄そうな、いかにもモテそうなルックスの男である。
「家元さんスか?」
たぶん彼はそう言ったのだと思う。が、
「YEAH! モトサンスカ?」
と僕には聞こえた。
YES! モトッス。
と答えようかと思ったが、相手を当てることにした。このインチキ臭い英語風の「家元」発音は……。
「オダ・ユージさん?」
じゃないですよね、という顔をして問いかける。
「まっさかー、カンベンしてくださいよぉー」
「スネークさんですね!」
「スネークっす。よろしく」
いきなり握手を求められてしまった。WOW! 外国人みたいだ。
「あなたもイメージ通りだ」
僕は安男さんのときと同様、やはり満足気につぶやいた。
「何? イメージって」
「書き込みの文章。〈俺、スネーク。如月ミキを愛する気持ちは誰にも負けないつもりなんで、よろしく。〉。まったく同じ文章を七回も書き込んであった」
「あれは俺、インターネットってよくわかんなくって、何回も押しちまってさ」
僕は愛想よく、彼を部屋に招き入れた。スネークさんはダウンジャケットを脱ぐと、下には細身のスタイリッシュな喪服を着ていた。ネクタイにはシルバーの大きな星形のピンがついている。腰には、同じくシルバーのチェーンが。「俺、スネークっす」と顔に書いたまま歩いているような、ロックンロールな人である。
「さっきの人は?」
「安男さんです。なんか忘れ物みたいで」
「毎日書き込んでる人だ。そっか。てことはオダ・ユージはまだなんだ」
スネークさんも、やはりオダさんのことが気になっていたのだ。
僕は、ちょっとした共犯感覚を味わった。
「どんな奴っスかね〜。自分でオダ・ユージって名乗るくらいだから……本人だったりして? いや、意外とそうかもよ、文章も男らしくて、しっかりしてたしさ」
いやいや、それはないない。
僕が笑って首を振ると、後ろのほうから、ものすごくわざとらしい咳払《せきばら》いが聞こえた。
ウォッホン。
字で書いたような咳だ。
これは絶対、カタカナ系のあの人でしょう。
スネークさんと僕は、ココロでコンタクトを交わし、期待に満ちたまなざしを入口に向けた。
「はじめまして。私……」
「オダ・ユージさん!」
僕たちは自然と声がそろった。
その人は、しっかりうなずいた。僕はうれしくなって、満面の笑みで迎えた。
「ようこそ! 僕、家元です。こちら、スネークさん」
本当は、「WELCOME!」と言いたいぐらいだった。スネークさんがすぐに訊《き》いた。
「同姓同名?」
「いや、掲示板に書き込むときに名前何にしようかなって思っていたら、たまたまテレビに彼が出ていて……。軽い気持ちでつけてしまい、いまとなっては後悔しています」
仕立てのよさそうな黒いコートにカシミアのマフラー。右手には黒のアタッシェケース。おそらくきちんとした人なのだろう。さっきの咳払い同様、オダさんはまるで台本の台詞《せりふ》を最後まで言い切るように、やや緊張した面持ちで説明する。
「軽い気持ちでつけると後悔するんですよね、ハンドルネームって」
軽いノリと親しみを演出するつもりだったが、オダ・ユージさんの硬い表情に変化はなかった。
「要するに、憧《あこが》れてるんでしょう?」
スネークさんが、本来ならある程度タイミングを見計らって言うべきことを、軽いパーティジョークのように平気な顔で口にする。さすがインチキ外国人だ、一切ものおじしない。当然、オダさんは、ムッとした。
「違いますって!」
オダさんの顔つきは最悪な状態になった。顔岩石。
部屋に入ってきた瞬間から感じていたことだが、オダさんの顔には、不安になったときのちびまる子ちゃんのように額にタテ線が入っている。漫画並みに深刻で暗い顔だ。
オダさんは差し入れに一升瓶二本を持参している。しかも、きちんと包装された、二本結わきになった状態で、だ。追悼会には日本酒。そうした固定観念があるのかもしれない。
僕は、日本酒を飲んだことがほとんどない。そもそもアルコールの類《たぐい》を飲むことがまずない。安男さんは、飲むだろうか。お菓子作りが趣味の人が、日本酒を飲むとは想像しにくかった。飲むとしてもせいぜいチューハイぐらいだろう。スネークさんもビールやワインは飲んでも、日本酒は飲みそうになかった。日本酒を飲むのは、おそらくオダさんだけだ。一人で一升瓶二本担当してもらおう、僕は心の中でそう決めた。
掲示板でも、カチッカチッとした文章で、正しくないことは許せない、社会派、いやシャカイハ風の人だったオダ・ユージさんは、実際に会っても、やはりカタカナ系の人だった。
はやく「イエモトさん」と、カタカナで呼んでくれないだろうか。
そう思うなり、オダさんに問いかけられた。
「イエモトさん、そのカッコウで?」
オダさんのカタカナを漢字に変換するのに一瞬、時間をとられた。
「はい?」
「着替えないんですか?」
「あ、そうか、お二人とも喪服なんですね。今日は気楽なパーティなんでラフな感じで楽しくやろうと思ってるんです」
よし、また決まった。
「なんだ、そうか、着てきちゃったよ」
しゃーない、しゃーないと、スネークさんがネクタイをはずしにかかる。シンプルでオープンマインドな人だ。さすが、インチキ外国人である。
ところが。
「追悼会、なんですよね」
もったいぶった句読点の間が、鋭く響く。
「死者を偲《しの》ぶ、わけですよね」
僕はキンチョウした。
「礼節、という言葉、ご存じですよね」
ツイトウカイ、シシャ、レイセツ。どれもこれもカタカナがぴったりの冷たい言葉だと、ぼんやり思った。
「亡くなった人間に対する真摯《しんし》な思いがあるのならば、おのずとそれにふさわしい服装というものがあるんじゃないでしょうか」
シンシ、フクソウ。まだまだ続く。
「うん、そうだ」
オダさんのマジな顔に、スネークさんはひとつ咳払いをして、ネクタイを締め直す。
「そうですね! そりゃそうですよ!」
僕はあっさり白旗をあげた。これは危機回避の条件反射である。喪服に着替えるだけでこのちくちくと針を刺されているような時間から解放してくれるなら、お安い御用だ。
オダさんが、台詞棒読み大根役者風の朗々とした声で、さらに追い撃ちをかけてくる。
「最近の何でもかんでも賑《にぎ》やかで楽しければいいという風潮には私は嫌悪感を……」
オダさんは、ロフトのほうを睨《にら》みながらケンオカンと言った。僕は慌てて、後ろを振り返った。
〜永遠の清純派グラビアアイドル〜如月ミキ一周忌追悼会
と書かれた大きな紙には、色とりどりの紙製の花があしらわれていた。
「あ、いや、これは違うんです! こんなの誰が作ったんだろう、まったく! ちょっと失礼します! これ、捨ててきちゃいますね!」
人間、しどろもどろになっているときのほうがおしゃべりになる。その場を取り繕うことしか考えていない言葉たちを置き去りにして、僕は急いで紙を剥《は》がし、丸め、バッグをひとつ持って、そそくさと部屋をあとにした。
腋《わき》の下に冷たい汗をかいていた。
集合時間には、まだもう少しだけ時間があった。
僕は、部屋の外の人目につかない場所で、なるべく時間をかけて喪服に着替えた。
ホッとした。喪服を用意してきた自分の慎重な性格に、感謝した。
追悼会の会場は、マンションの最上階だった。僕の住んでいる部屋ではない。「天国の如月ミキに近い場所で」というオダさんの要望に対して、僕が見つけたちょっと広めの空き部屋だった。大家さんに頼むと「今日だけなら。片付けをきちんとすること」の条件だけで貸してくれた。
オダ・ユージさん、スネークさん、家元。そんなヒエラルキーが、喪服問題によってすでに出来上がってしまった。この圧迫状態に身を置き続けるのは、単純にツライ。不自由すぎる。戻った頃に、ほとぼりがさめているといいのだが……。そんなことを考えながら、ゆっくり着替えた。
安男さんはコンビニから戻ってきただろうか。喪服を持ってこなかったことで、いま頃、二人に責められているかもしれない。
ようやく身支度を終えた僕は、部屋に戻った。
安男さんは、いた。そして、僕の喪服姿を見て、驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。
「あ、家元さん……えぇー!」
哀れ、安男さんの声は、裏返っていた。
それはそうだろう。僕が逆の立場だったら、これは最低の事態である。
オダさんとスネークさんに責められた安男さんは、おそらくこう言っただろう。「でも、家元さんはこのままでいいと言ってましたよ」と。しかし、弁明の矢先に、僕という三人目の喪服姿の男が現れたのだから、動揺するに決まっている。
安男さんを裏切るつもりはなかった。
もし、安男さんがあのとき部屋にいてくれたら、事態は変わっただろうか? そう考えた。喪服を着ている人、二人。喪服を着ていない人、二人。二対二である。
だが、それでもオダさんは僕たちが喪服を着ていないことを責めただろうし、結局僕は喪服を着ることを選んだだろう。後ろめたさという観点からいえば、安男さんの目の前で、喪服に着替えるために立ち去るよりは、いまのほうがまだマシだったかもしれない。
「やっぱり、ふさわしい服装ってあるから」
僕は、すました顔で、さらりと告げた。
「そ、そんな! 持ってきてたんですか! ど、ど、ど、どうしよう!」
安男さんが悪いわけではなかった。単に僕が姑息《こそく》なだけだった。
さらにこうも言った。
「安男さんはもう仕方ないですね。それでいきましょう」
我ながら卑怯《ひきよう》な台詞だと思った。安男さんは思い切りうろたえている。
「いや、でも、それは。どうしよ、家帰って着替えてこようかな」
僕は訊《き》いた。
「家、近いんですか?」
「福島県|耶麻《やま》郡西会津町奥川|大字《おおあざ》……」
県名以外はよくわからなかった。とにかくここから遥《はる》かに遠い場所であることだけは確かだった。スネークさんが、ご苦労様、と言わんばかりの、ちょっとバカにしたような表情を浮かべながら尋ねた。
「そこからこのためだけに出てきたの?」
「はい、片道六時間弱」
なんと半日の半分である。唖然《あぜん》としながら、僕はさらに抑揚のない声で言い放った。
「行って帰ってくる頃にはここには誰もいないでしょう」
「で、でも……」
気の短いスネークさんが、場を大雑把《おおざつぱ》にまとめはじめた。
「あんたはもう仕方ないよ。それでいいじゃん。いいよね? オダちゃん」
「仕方ないですね」
オダさんも容認した。安男さんは恐縮するばかりだった。
「す、すいません」
もう集合時間は過ぎていた。
喪服を着ている人、三名。喪服を着ていない人、一名。安男さんには申し訳ないが、誰もが平等に生きられるわけではないという「社会の縮図」が、わずか一時間足らずの間に出来つつあった。
長いものには巻かれろ。
本当は認めたくない言葉だが、少数派を容認する大多数派の一人に属することを選び取った者としての安心が、このときの僕には間違いなくあった。
ようやく落ち着きを取り戻した僕は、声をかけた。
「それじゃあ一応そろったようなので、追悼会、始めましょうか」
「失礼、まだお一人、いらしてませんが」
オダさんは、やっぱりきっちりしている。
スネークさんが掩護《えんご》射撃する。スネークさんが同調しやすい性質なのか、この二人は人間のタイプとしては正反対であるにもかかわらず、いつの間にか組んでいることが多い。
「そうだよ! いちご娘! いちご娘忘れちゃダメでしょ! 女の子で如月ミキファンは珍しいもんね。かわいいかなあ? いくつぐらいなんだろう?」
スネークさんがはしゃいでいる。僕は、面倒くさそうに答えた。
「さあ」
興味はなかった。もちろん男子として、興味がないわけではないのだが、意識的に興味をもたないようにしていた。なぜなら、僕は裏切られるという苦い感覚を味わわないように、常に必要以上に期待することを避けて生きてきた人間だからだ。
「文章の感じからすると相当若いと思うんだ。〈如月ミキさんは、私の憧《あこが》れのお姉さまなんです(笑)〉だもん!」
それがアブナイのだ、と僕は言いたかった。
オバサンという可能性だって、充分考えられる。文章がしっかりしているあたり、むしろ怪しい。どこかキケンな香りがする。たとえば、文学少女の気分のまま婚期を逃して、女の子のアイドルに対して〈憧れてます〉などと書いているとしたら? これはありえない仮説ではないと思う。歌舞伎やバレエや狂言や能など、独身女性たち定番の伝統芸能系に乗り切れなかった。かといって、韓流にも日本の若い男の子にも夢中になれない。その結果、普通の年輩女性がまず興味をもたないであろう、グラビアアイドルに価値を見出し、結果的に何を間違ったか如月ミキにはまってしまう……ということだってあると思うのだ。
けれども、場の空気を乱すのが苦手な僕がそんなことを口にできるワケもなく、ただ薄ら笑いを浮かべ黙っていると、オダさんの妙に真剣な顔が目に入った。
オダさんも期待しているのだろうか。人は見かけによらない。これが俗に言う、ムッツリスケベというものなのか。
僕の思惑などおかまいなしに、スネークさんの妄想はより具体性を帯びていった。
「十七、八ってとこじゃねえか。楽しみだねえ」
スネークさんは、マジだった。いや、こういうアタマがシンプルな人は、結局、どんなときでもマジなのだと、あらためて思った。
僕は、今日の会の参加者が五人から四人になるかもしれないことを伝えた。
「その、いちご娘さんなんですが、来られるかどうかわからないということで……」
「え〜そうなの〜? 野郎だけか……」
スネークさんは、あからさまに落胆の声を上げた。この反応は当然だろう。だが、オダさんまでもが無言のままがっくり肩を落とすとは思わなかった。
安男さんからの反応は特になかった。期待していた人、二名。期待してなかった人、一名。どうでもいい人、一名といったところか。野郎どもが四人集まるだけで、「社会の縮図」は刻一刻と変化する。
軽くシラけた雰囲気の中、僕は精一杯さわやかに言った。
「まあ、いいじゃないですか。男同士で如月ミキを語り明かすのも」
本当にそう思っていた。いちご娘さんから「微妙」という返事をもらったとき、正直ホッとしていた。男同士のほうがいい。ここにいる四人だけで充分だと思っていた。
かわいくても、若くても、女の子が一人いたら、めちゃくちゃ話しづらくなると思うのだ。この会はそもそも、僕らが世界中でいちばん好きな女の子について話す会である。いちご娘さんが、やはりオバサンだったとしても、たとえどんなキューティガールが来るとしても、いずれにせよ女子が一人いるだけで、男子である僕たちはかなり気兼ねすることになるはずだ。それに僕には、今日この会で、ひとつみんなにどうしても伝えたいことがあったし、それは女の子相手にはかなり話しづらいことでもあった。
「ま、気を落とすなって、オダちゃん」
「別に、気を落としては……」
スネークさんが、うなだれたオダさんを敏感に察知し、声をかけた。確かに、スネークさん以上にオダさんは気落ちしているように見える。さらに深くなった額の「ちびまる子タテ線」が、それを強調している。
そんなときだった。
しゃっくりしながら街を歩いていたら、後ろから知らない人に、どん、と背中を叩《たた》かれたような事態が起こった。
「わっ」
僕らは全員いっせいに、短い声を上げた。
ロフトの下に掛かっているカーテンの隙間から、見知らぬ中年男が顔だけ覗《のぞ》かせていた。ぎょろっとした目が、こちらを凝視している。
「おどかさないでよ! 大家さん!」
スネークさんが叫んだ。だが、それは違う。
「え? 大家さんじゃないですよ」
僕は、なるべく冷静に言った。
まったく見覚えのない男だった。誰だ?
「大家さんじゃないの? だって、さっき雑巾《ぞうきん》かけてたぜ」
僕が着替えにいっていた間、七三分けのこの中年男が、掃除をする真似をして入ってきたそうだ。そして、スネークさんもオダさんも、大家さんに違いないと思い込んだようなのだ。
「違うんですか? ジャンパー姿でバケツを持ってましたよ!」
「じゃ、誰?」
二人とも、呆気《あつけ》にとられている。
ぎゅいーん。脳裏にサイクロン掃除機のイヤな音が鳴り響き、高速回転でスクリーン全体をずたずたに切り裂いていく。いきなり状況は予期せぬ急展開を迎えた。
男がカーテンを一気に開けて、全身を現した。喪服を着ている。
僕が想像していた、最悪の予感が的中しつつある。
「いちご、娘、です」
乱入者はさらりと言った。
いちご娘さんが発する句読点は、オダさんの句読点とは違う。オダさんの句読点はカタカナの句読点だが、この人の句読点はなんだろう。よくわからない句読点だ。
安男さんは、ひらがなの人。スネークさんは、インチキ英語の人。オダ・ユージさんは、カタカナの人。だとすれば、いちご娘さんは、漢字の人であるはずだった。
だが、違う。この人は、漢字の人ではない。僕が他の三人に対して行ってきたカテゴリー分けに属さない人だ。外にいる人。強いて言えばこうなる。
カテゴリー、なし。
そんなことを考えていられたのは、同時に奇妙な安堵《あんど》感に包まれてもいたからだ。
いちご娘さんが女の子ではない可能性、それは最悪の可能性ではあったが、僕のココロの片隅にブンチンのように置かれていることでもあったから。
ああ、やっぱり。
この脱力感は、実は気持ちいい。がっかりしないように周到な準備をしてきたことが報われたような気分だ。
だが、場の空気は、明らかに変わった。ゲームで言えばステージが更新されたようなものだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! なんでこのオッサンが、いちご娘なんだよ! オカマか? オカマなのか!」
スネークさんが詰め寄った。彼の動揺と行動にはブレがない。これは、いわゆるひとつの素直な反応、というやつだ。
「オカマじゃないです」
いちご、娘、さんは、ややオカマっぽい、高い声でそう言った。ギャグで声色を使ったわけではないだろう。単に、こういう声なのだ。
「じゃあ、なんで、いちご娘なんだよ!」
スネークさんはシンプルな人だ。「いちご娘」と名乗って女言葉で文章を綴《つづ》っていた人が男性であっていいのですか? と、泣き叫びそうな勢いで異議申し立てをしている。
が、正体不明の男は悪びれもせず、ニュートラルな調子でこう言った。
「まあ、戯れです」
「たわむれえ?」
スネークさんは、「戯れ」という漢字をひらがなに翻訳しそこなったような素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。
人間、怒りが発動するとき、相手が自分と同じテンションではないことに対して爆発している場合がかなりの割合をしめている。通常なら、相手と自分の感情の温度が違っていても当たり前のこととして容認しているが、自分が熱くなっている際には相手が冷たいままだと許せなくなる。つまり「こっちがこんなに真剣なのに、お前はどうしてそういう態度なんだよ!」ということだ。まったくもって、理不尽な生きものだ。誰もが同じでないことなど当たり前なのに。
「俺たちを、騙《だま》したのか!」
スネークさんのテンションは急上昇していた。僕はやむなくレフェリーストップをかけることにした。
「スネークさん、こういうのもアリなんですって」
「アリ?」
「自分以外の別人格になりきってコミュニケーションすることは、インターネットの世界ではよくあることです」
「え、そうなの?」
スネークさんは、一気に拍子抜けしたように、素直な表情をのぞかせた。
「ま、私は男だと思っていましたけど」
オダさんは、掲示板への書き込みのときと同様、クールな面持ちでそう口にした。が、本当は期待していたはずだ。いちご娘さんが来ないかもしれないと伝えたとき、表情がさっと変化したことを僕は忘れていない。
「そうなの? 信じてたの、俺だけ?」
いや、スネークさんだけでなく、オダさんも、おそらく安男さんも、女の子が来ると信じていたはずだ。僕だけが男が来る可能性を考えていたのだと思う。
ここまで場を混乱させておきながら、妙に冷静なトーンでいちご娘さんが言った。
「では、お詫《わ》びのシルシに」
この場合のシルシは「印」か「徴」か「標」か「験」か「記」か?
僕は、この事態がどこか遠いところで起きているようにしか受け取らなかった。そのほうが、自分を安全地帯に避難させておけるからだ。いちご娘さんの言葉のひとつひとつが、国語の入試問題でも解いているかのような気分を呼び起こす。
スネークさんがクールダウンしたのを見計らったように、いちご娘さんは、おなかに抱えていた手提げ袋から、がさごそと何かを取り出した。
ピンクのカチューシャだ。イチゴが二つあしらわれている。いちご娘さんはアタマにつけると、満足そうにニッと笑った。
「気持ち悪いンだよっ!」
スネークさんが即座にまた怒鳴った。
おぞましい、というより、シュールだった。いちご娘さんはロン毛ではないので、カチューシャがカチューシャの役割を果たしていない。カチューシャはすでにカチューシャであることをやめて、別な物体へと変化を遂げている。
カチューシャをアタマに載せると、いちご娘さんの小動物のような風貌《ふうぼう》が際立った。森の小動物。よく見れば、目がくりくりっとしている。基本的にはむさ苦しい、無精ひげのオヤジなのだが、その姿を人間ではなく、あえて森の小動物として捉《とら》えれば、かわいいと思えなくもない。僕はこういう童顔な人ほど、それがイヤでひげを生やしてるものなんだと、妙な納得をしながら、好意的にその存在を受け止めた。それにしてもいちご娘さんは何歳なのだろうか。独身であることだけは間違いないだろう。
気がつけば、これで、参加予定者すべてがそろったことになる。
満を持して僕は、開会宣言をする。
「まあまあ、とにかく皆さん座って。これで五人全員そろったわけですから、追悼会を始めましょう!」
まずは主催者、つまり僕の挨拶《あいさつ》からだ。僕は書いてきた文章を読みはじめた。
「えー、本日は、若くして残念ながらこの世を去った我らがアイドル、如月ミキの一周忌追悼会にお越しいただきありがとうございます。いままで文字のやり取りしかしてなかった皆さんにこうしてお会いできて、本当にうれしいです」
こういった決まりきった台詞《せりふ》にも意味や効能はあるのだと、僕は思うようにしている。だって、何かしら言わなければいけないときに、紋切り型の挨拶は便利だから。自分を取り繕うにはもってこいなのだ。僕は、主催者らしいサービス精神を発揮して、極力棒読みにならないよう、抑揚をつけて言葉を発していく。
ミキちゃんがいなくなってから、僕はまた本気になることをやめる生活を始めた。いや、意志的にではなく、そういう生活が何事もなかったかのように、再び勝手に始まったのだ。
この一年間は、掲示板の中でだけ、ミキちゃんに本気だった頃の自分を偽装する生活を続けてきた。それがいまの僕にとっては「家元」という人格だ。
本当は、ミキちゃんが生きていたあの頃、「家元」がどんな感覚で掲示板に書き込みしていたか、僕にはもはや思い出せない。だが、「家元」として言葉を連ねていると、何となくこうだったはずだという気分に落ち着くことはできる。正確に言えば、言葉と気持ちは一体化していないにもかかわらず、僕は、目的もなくスパイ活動しているように、ちょっぴりスリリングな感覚に酔いながら、ほんの少しだけ安心できた。
まだミキちゃんのことが好きなんだ──。
そう思えた。無理なく自分に言い聞かせられた。
厳密に言えば、たぶんいまの僕はもう「家元」ではない。だが、「家元」として振る舞うときには、あらゆることに本気にはなれない、かつての僕がよみがえってきても、「家元」のふりをすることに対してだけは、しらけずに向き合えた。
ミキちゃんはいなくなってしまったが、「家元」はまだいる。つまり、そういうことだ。そして「家元」の中には、きっと僕だけのミキちゃんがいるはずなのだ。
僕は「家元」の存在に感謝しながら、決まりきった挨拶を続けた。
「私、如月ミキ愛好家、家元でございます。普段はしがないコームインですが、如月ミキに関することなら誰よりも詳しいと自負しております。今日はミキちゃんを偲《しの》んで、大いに語り合いましょう!」
それではカンパイ! と言いそうになったが、いちご娘さんのカチューシャをじろりと睨《にら》んで以降、額の「ちびまる子タテ線」の陰影がさらに深く険しくなったオダさんの反応が気になり、確認を取ることにした。これは、彼のレイセツに反していないだろうか。
「……乾杯はおかしいですかね」
「天国の如月ミキに、ということならいいんじゃないでしょうか」
オダさんは、笑みこそ浮かべないものの、丁寧な言葉遣いで答えてくれた。
僕は、安心して、ミキちゃんのために用意した黄色いソファに向かって、紙コップを掲げた。
「では、天国の如月ミキちゃんにカンパイ!」
みんなも紙コップを差し出した。
僕はそのとき、自分の中にいる「家元」も、そろそろ天国に送り出してあげないといけないのかもしれないと思った。
そもそも僕はそのために、今日の会を呼びかけたのではなかったか? 「家元」が何者だったかを伝えるために──。
宴《うたげ》は、こうして始まった。
まずは、自己紹介からだ。僕は言った。
「安男さんからお願いします」
「ほんとうに……こんなかっこうでごめんなさい……」
いちご娘さんが突然登場した一件で、僕たちはすっかり安男さんのことを忘れていた。
安男さんは喪服問題から全然立ち直っていなかったのだ。
「っ」とか「ぇ」とか「ゃ」「ゅ」「ょ」。
安男さんは小文字だけで話していた。ちいさく、ちいさくなっていた。僕は、優しく声をかける。
「いいんですよ。もう」
「まだ気にしてたのかよ」
スネークさんは男らしく、ざっくばらんに思ったままを口にした。
「安男です……本名です……福島で農業やってます……今日は盛り上がりたいと思います……」
どんな場合でも自己紹介の一発目は損な役回りだが、安男さんは損な役回りを押し付けられる前から、損な役回りを演じている人だった。
本当は「本名です」のくだりで、くすっとしてしまったが、そこでどう突っ込んでいいのかがわからなかった。ここでうまいツッコミを入れられたら、この場の空気も変わるだろうと思いながら、けれども失敗することが何よりもコワイ僕はただやりすごして、しゅーんとした空間の一部になって、白い壁のふりをしていた。
「言葉と表情が違いすぎるぞ」
スネークさんが威勢よく声をかけた。
自己紹介というものは、こういう人から始めるべきである。単純で明るくて騒がしい奴。こういう人間から始めないと、場が盛り下がるだけなのだ。僕は自分の配慮のなさをちょっとだけ後悔した。
次は、そのスネークさんの番である。
「俺、スネーク。如月ミキを愛する気持ちは誰にも負けないつもりなんで、よろしく」
WOW! 僕がスネークさんだったら、ギャグでこう言おうと思っていた通りの言葉が飛び出した。掲示板のまんまである。しかも狙っていない。おそらく彼は小難しいことなど何も考えないで、本能のままに話しているのだろう。僕のように、用意してきた文章を読み上げているわけではないのだ。
自己紹介はミョーな時間ではあるが、確かにその人の自己が表出する。この奇妙な時間にどう対処するかという、その人の人格が問われる。つまり面接試験と同じだ。何を話すか、ではなく、どう話すか。その肌ざわりが、その人を紹介することになる。
「誰にも負けないつもりなんで、よろしく」はやはり、誰にでも言えることではない。僕は自己紹介で、「如月ミキに関することなら誰よりも詳しい」と言ったが、この「誰よりも」はスネークさんの決め台詞「誰にも負けないつもり」からインスパイアされたものである。いや、正確に言えば、単なる真似だ。「誰にも」には作為がないが「誰より」には作為を隠蔽《いんぺい》するための強調がある。ホンモノとパクリはそこではっきりする。結局、僕はニセモノなのだ。
「雑貨屋で働いてます。たまたま家元さんの作ってるホームページ見て、この会知って、来てみようかなって。お互い見ず知らずの人間がこうやってミキちゃんのために集まるって、すげえ素敵なことだと思うっす。今日は飲みます!」
スネークさんの自己紹介は簡潔かつ明瞭《めいりよう》で、何よりも彼自身の「紹介」として有効だった。僕は思わず拍手した。
続いてオダさん。
「えーホームページにはオダ・ユージという名前で書き込んでしまいましたが、もちろん本名ではありません。本名は……」
「本名なんかいいよ! あんたはオダ・ユージなんだから!」
間髪を容《い》れずにスネークさんがさえぎる。
「いや、しかし」
オダさんは、頬を引きつらせて、力なく抵抗した。
僕も、オダ・ユージはオダ・ユージでないと困る。スネークさんも、たぶん安男さんも、いちご娘さんはよくわからないが、僕たちはきっとハンドルネーム「オダ・ユージ」が掲示板に書いていたからこそ、彼の文章から何か迫るものを感じていたはずだ。それをなかったことにされるのは、困る。少なくとも、僕は困る。
僕はルール徹底宣言に、この想いを込めた。
「そうですね、我々はずっとハンドルネームでやり取りしてきたので、本名はいいんじゃないでしょうか」
オダさんは、口惜しそうに、もう一度抵抗した。
「いや、待ってください。皆さんはいいでしょう。安男さんは本名だし、家元さんも気に入っているんだろうし、スネークさんなんてすごくかっこいい。でも……私はちょっと照れ臭いというか……ねえ、いちご娘さん」
助けを求めたオダさんに対して、いちご娘さんは平然と答えた。
「僕は気に入ってるけど」
「気に入ってるんだ」
オダさんは絶句した。
「僕はいちご娘でかまいませんので」
「あんたは、むしろ変えろ!」
即座にスネークさんがツッコミを入れた。
僕は自分の本名を言うつもりはない。みんなの本名も聞きたくはない。
「あ、名前を変えるとややこしくなりますから。オダさんはオダさんで。じゃあ、いちご娘さん。お願いします」
「……」
いちご娘さんは、何も言わなかった。首を振って遠慮の態度を示す。
僕はもう一度言った。
「お願いします。何でもいいので」
「いちご娘です」
森から来た小動物はそう言って座った。
「それだけかよ!」
スネークさんがまたいちご娘さんを攻撃するので、僕が柔らかく促した。
「もう少し何か」
「無職です」
その言葉には「……」がまったく入らなかった。立って「無職です」と言ってすぐに座った。躊躇《ちゆうちよ》も逡巡《しゆんじゆん》もまるでなかった。もちろん、社会人としての社交性など皆無だった。
ぐしゃぐしゃアタマの中で、ぶつぶつ生まれるつぶやきを、くっちゃくちゃに丸めてゴミ箱にポイすると、僕は小さな声で言った。
「うん、言わないほうがよかったかなぁ、それは」
そして、僕がコームインなどと言ったのがいけなかったのかな、と思った。
安男さん、農業。スネークさん、雑貨屋。いちご娘さん、無職。
無職は、やはりカテゴライズしにくい。つまり、職業なし、なのだから。
考えてみたら、オダさんだけが職種を名乗っていない。オダさんの仕事って何なんだろう。
いや、それより、この場をなんとかしなきゃ。
僕は、状況をリセットするべく威勢よく言った。
「それじゃ、早速、皆さんにこれを見ていただこうかな」
「待ってました!」
全員、パーフェクトコレクションのことだと理解したらしく、四人の代弁者としてスネークさんが声を上げた。
いちご娘さんも近づいてくる。思ったより俊敏な動きだ。しかも、ズボンのポケットからデジカメを取り出して、僕の目を盗むように、コレクションの表紙を撮影しはじめた。
僕はうれしくなって、走行中のマラソンランナーに補給飲料を手渡すような軽快さで、彼に微笑みかけた。
「いちご娘さん、食いついてきましたね」
「まあ、果たしてどの程度のものか拝見させてもらいますよ」
いちご娘さんは、皮肉な笑みを浮かべながら、そう言った。真っ当な反応である。
含みのある呼びかけに、含みのあるリアクションを示す。これがコミュニケーションというものだろう。
パーフェクトコレクションに群がる男たち。実に健康的な光景である。
ところが、一人だけ、参加していない人がいた。この期に及んで、安男さんはまだヘコんでいたのだ。持参したアップルパイを黙々と食べている。さっきはあんなにうれしそうにスクラップブックに話しかけていたのに……。
僕は、安男さんに呼びかけた。
「安男さん、開けちゃいますよ。安男さん」
「やっぱり着替えてきます」
安男さんは、アップルパイの入ったタッパーの蓋《ふた》を閉めると、いちご娘さんが「無職です」と言ったときと同じように、すっくと立ち上がった。そこには一切の迷いもなかった。
ずっと我慢してきた人が、遂にはっきり決断したニュアンスが読み取れた。こうなったら、もう誰も止めることはできない。安男さんも、ある意味、社交性が欠如した、言い換えれば、場の空気が読めない人だった。
「何言ってんのよ」
「もうそれでいいですよ、あなたは」
スネークさんとオダさんが一緒にとりなしている。だが、安男さんの決意は固かった。
「しかし、一人だけこんな格好では、やっぱり気分的にすっきりしないし。このままでは盛り上がれないんです! 買ってきます! そこに洋服の青山があったから、喪服買ってきます!」
「ちょっと安男さん!」
「別にそこまでしなくても」
僕らは、安男さんをなだめようとした。が、安男さんは当初の「イイ人」の印象を大きく裏切って、もはやどうしようもなく頑固な人に変身していた。これでは単なる駄々っ子である。
「喪服を着れば盛り上がれるんです!」
そう宣言すると、財布を掴《つか》んで飛び出していってしまった。
止まっていたドラム式洗濯機が、僕の脳の奥でまた回り出した。回転する洗濯物をぼんやり眺めながら、僕は安男さんの心の内を思った。
安男さんは、洋服の青山の存在に気づいたとき、まさか自分がそこに喪服を買いにいくことになるとは考えていなかったはずだ。福島に帰る以外に喪服を手に入れるにはどうしたらいいか。スネークさん、オダさん、いちご娘さんが自己紹介している間、そのことを考え、ひらめいたとき、これは名案だと喜んだのだろう。
いちご娘さんまでもが喪服を着ている以上、安男さんが喪服を着なくていい理由はたぶんなかった。僕は、安男さんを裏切ったことにほとんど後ろめたさを感じないまま、洋服の青山に向かって飛び出していった安男さんの幸運を思った。
オダさんも、スネークさんも、唖然《あぜん》としていた。いちご娘さんは何も感じていないようだった。
「なんなんだ、あいつは」
「喪服を着れば盛り上がれるというのもすごいな」
最初から喪服を着てきた二人は、そんなことを言い合った。
テーブルの上に、安男さんのアッパルパイが置いてあった。「手作りお菓子」の存在をすっかり忘れていたことに気づいて、僕は言った。
「これ、安男さんの手作りだそうですよ」
スネークさんがタッパーの蓋を開けた。
「……なんか臭いな」
「食べないほうがいいですね。リンゴが腐ってます」
オダさんが冷静な判断を下す。匂いを嗅《か》いだ僕も、簡単に同意した。
「やめときますか」
残念ながら、まったくもって美味《おい》しそうではなかった。一瞥《いちべつ》して、口に入れたくないと思った。
それにしても、なんてことだ。片道六時間もかけて運ばれてきたアップルパイは、一瞬にして話題の場から消え去った。あまりに非情な結末だった。
そして、すでに、喪服を着た男たちは、次の展開を待っている。
アップルパイのことなどどうでもいいという風情のいちご娘さんが、もうそろそろ、とでも言いたげなつぶらな瞳《ひとみ》で訴えかけてきた。
さあ、お待ちかね。
僕は、気分よくパーフェクトコレクションを手にして言った。
「では第一巻。如月ミキ、デビューから」
「週プレだな!」
「プレイボーイの星空シリーズ≠ヒ」
いちご娘さんは、満足気につぶやいた。
僕は一冊目のスクラップブックを開いた。
「こ、これは……」
オダさんの額から、「ちびまる子タテ線」が消えた。
その瞬間、この会を開催してよかった、パーフェクトコレクションを作ってきてよかった、心からそう思った。
「『胸、はじけちゃう。遅れてきた清純派、如月ミキちゃん登場』……」
スネークさんが、僕のかわりにグラビアのキャッチを読み上げ、すぐに素直に驚いた。
「なんだよ、これ、こんなの見たことねえ!」
そうでしょう、そうでしょう。
僕は得意げに説明を始めた。
「はい、おっしゃる通り、一般に如月ミキのデビューは二〇〇二年十月三日号の『週刊プレイボーイ』と言われています。しかし、実はその三ヶ月前、七月二十八日号の『月刊ホットレモン』ですでに誌面を飾っているんです。これが本当のデビューなのです!」
「メジャーデビューする前か」
オダさんがつぶやいた。
そう、アーティストでたとえるなら、メジャーデビュー前にインディーズで一枚出していたということだ。
「いや、俺もひそかにかなりのコレクターだと思ってたんだけど、こりゃ負けたわ」
スネークさんが、参りました、というような顔を見せた。
「さすが家元と名乗るだけのことはありますね」
オダさんにこう言われるとうれしい。「家元」という名前にして、ほんとうによかったとあらためて思った。
もはや、得意げになることに躊躇はなかった。
「それほどでも、ありますけどね。いかがです、いちご娘さん」
いちご娘さんの反応が気になった。
「ま、なかなかですね」
表面は取り繕っているが、興奮で声が震えていた。しかも、再びデジカメで盗み撮りをしようとしている。
「撮影はやめてください!」
いちご娘さんのゲリラ攻撃を慌てて制止しつつも、いちご娘さんも如月ミキの本当のファンなのだ、と感じた。
わかっていたはずの当たり前のことを、はっきり自分なりに実感できて、僕はすっかり上機嫌になった。
しっかり場が温まってきた。この調子のまま、別なレアものも披露することにする。
「こっちにはもっと珍しいものがありますよ。なにせ『月刊ホットレモン』と違って一般には流通していませんからね」
出すのが早すぎるかなと思わないでもなかったが、『ホットレモン』を超えるレアものといえば、やはりこれしかない。
じゃーん、と開いて見せる。
それは、彼女が、母校の学校新聞のインタビューに答えたものである。
「おー!」
「事務所を通してない仕事だな」
オダさんが、これまでと同様、冷静にコメントする。
ひょっとしてギョーカイの人間? そう思うほど、事務的な響きだった。
頼みもしないのに、今度はいちご娘さんが声に出して読みはじめた。
「『デビューのきっかけはスカウトです。すごく迷ったけど、思いきって芸能界に……』」
僕は、この学校新聞の特筆すべきポイントを解説した。
「そんなことはどこでも答えていることです。それよりここですよ。このあたりは実にミキちゃんらしい面白いことしゃべってますよ」
いちご娘さんは続けて朗読した。
「『私すごくおっちょこちょいなんです。この間なんかヘアスプレーと間違えて殺虫剤を頭にかけちゃって。言っとくけど、頭に虫がわいてたわけじゃないですよ(笑)』」
「やりそうやりそう!」
「彼女らしいね」
みんなうれしそうだ。本当のデビューグラビアも貴重だが、こっちは、そうだよそうだよミキちゃんってそういう娘だよ、とミキちゃんファンなら納得できる超包容力のあるエピソードである。如月ミキという歴史に残るのは、おそらくこちらだと僕は思っている。
ミキちゃんファンなら、きっとみんなそうだと思う。僕たちは彼女のルックスもさることながら、こうしたまぬけでおばかな性格にこそ惹《ひ》かれていた。
「すごい」
いちご娘さんがつばを呑《の》み込んだ。
すっかり調子に乗った僕は、さらにこう告げた。
「驚くのは早いですよ。極めつけを見せちゃおうっかな」
「キワメツケ?」
「この上、まだあると?」
面白いほど、予想通りのリアクションが返ってくる。僕は、とっておきのお宝を開陳することにした。
これは場合によっては見せないつもりだった。
みんながイイ人でよかった。安心して僕はこれを見せられる。
息を吸い込んで、言った。
「如月ミキ、直筆の手紙」
「ウソ!」
追悼会の主役が、そのとき決まった気がした。スポットライトが、手紙に向けられた。
僕は、授賞式のスピーチでもするように、堂々と言った。
「この僕に宛てたものです」
「宛てた」という言葉が自分でもくすぐったくって、これは最高の表現だと思った。
「なんで! なんで!」
騒ぐな。いや、騒げ。もっともっともっと。
心の中でははしゃぎながらも、僕は涼しい顔で答えた。
「ファンレターの返事です。僕は三年間毎週必ず一通は送っていました。計二百通近く書いたことになります」
「二百通」
オダさんが目を丸くした。やっと感情を表した。
「マジかよ」
スネークさんが呆《あき》れた声を上げた。
マジですよ、スネークさん。僕は人生であんなにマジだったことはありません。生涯でたった一度のマジです。二百通はその証明なのです。
アタマの中でそう語りかけながら、こう言った。
「それくらいやらないとこういうものは手に入りません」
「果たしてこれが本人の手によるものであるかどうか。事務所の人の代筆ということもあるからな」
いちご娘さんが、これまでで最も洞察力のある発言をした。
僕の気分は依然として絶好調。すらすらすらと、言葉が続いた。
「本人の手によるものです。第一、漢字が異常に少ない。かわりに誤字脱字が異常に多い。事務所がチェックしてない証拠です」
ミキちゃんの手紙を解説しながら、思った。
彼女は、ひらがなのおんなのこでも、カタカナのオンナノコでも、漢字の女の子でもなく、もちろん英語のgirlでもなく、ただ単に文字を書くということに不向きなコだった。だから、その彼女が書いたということだけでも、この手紙は価値がある。
たったこれだけの文面でも、ミキちゃんは結果的に相当時間がかかっただろうと僕は想像している。そう考えると、一文字一文字を抱きしめたくなるのだ。全然上手じゃない、いかにも勉強ができなそうな丸文字たちが、心の底から愛《いと》おしく思えてくる。
スネークさんも、オダさんも、いちご娘さんも。全員の視線が一通の手紙に集中していた。
「本人だな。これは」
オダさんが確信をもった言い方で、手紙を凝視する。
なぜ、オダさんは、そこまで断定口調なのだろうか? 根拠はどこにあるのだろう?
ここにいる誰もがミキちゃんの字を見たことがある。雑誌には直筆のコメントが載っていたから。しかし、サインを別にすれば、肉筆の文字を直に見たことがある人はいないはずだった。
根拠なき断定は、断定される側にとって不利益である場合は、大いに否定される。だが、断定される側にとって有益であれば、大いに歓迎される。占いというものが世間に認知されているのは、きっとそのせいだ。
僕は、この手紙がミキちゃんの手によるものでない、などとは一度たりとも疑念を抱いたことがなかった。そして、オダさんの根拠なき断定は、この手紙の価値をさらにアップしてくれた。
オダさんは読み上げた。
「『ミキは家元さんのお手紙にいつもはげまされています。お仕事で幸[#「幸」に傍点]いことがあっても、家元さんのお手紙をみると、お仕事ガンバロ〜! と思る[#「る」に傍点]んです。ミキの命より大事な宝物です。』……か」
こんな短い部分にも誤字脱字が二箇所もある。小学生低学年並みの書き取り能力である。
いちご娘さんが、負け惜しみを言った。
「な、内容はこれ、お世辞だな」
手紙の真偽を断定する人。手紙の内容に言及する人。そしてもう一人、そうしたレベルを超越した人がいた。
「家元さん、これ、コピーもらえない?」
スネークさんは、どこまでもざっくばらんな人である。
そもそもこれは、僕宛てのプライベートな私信だ。コピーしたところで、そのコピー物に価値は認められない。
しかし、コピーでもいいから、ミキちゃんからの手紙を手元においておきたいというスネークさんの気持ちは、とてもよくわかった。僕が逆の立場だったら、そう思うだろう。
ある意味、この文面は、すべてのファンに宛てたものとしても理解できるから。
どうしようかなあ、という表情を僕が見せると、スネークさんはすかさずこう返した。
「トレードってのは?」
そして、財布にしまっていた写真を大事そうに取り出した。
「ほう、生写真ですか」
「一品もの! 一品ものだよ! これ、焼き増しするからさ、そっちコピーして」
僕は白手袋をはめて、値踏みする。確かにプライベートな生写真だった。どこかのショップを訪れたミキちゃんを撮ったものである。彼女はカメラ目線でスマイルを浮かべていた。後ろのほうに店の従業員らしき男が写っているのが玉にキズだが、レア物には違いない。僕は、余裕を見せながら、取り引きに応じた。
「いいでしょう。トレード成立!」
「オッケー! じゃ、あとで」
そのとき、もの欲しそうな視線を感じた。いちご娘さんである。
「いちご娘さんも、何かトレードするものがあるなら、いいですよ」
「と、当然、あるとも」
手提げ袋から取り出したのは、サイン色紙だった。日付は二〇〇四年六月二十日となっている。僕はがっかりした。
「サイン色紙は僕、持ってますから。結構出回ってますよ」
いちご娘さんは、にやっと笑いながら、色紙を持っている手をずらし、あるものを見せつけた。
キスマークだぁー!
我ながら、声のトーンが変わってしまったことに気づきながら質問する。
「ど、どこで手に入れたんですか?」
「トレードしてもらえますか」
いちご娘さんは、質問には答えずに、そう言った。一も二もなく、僕は応じた。
「当然ですよ。むしろいいんですか? こんな貴重なものを交換してしまって……」
「ええ。僕のキスマークなんかでよろしければ」
「ふざけないでください!」
「僕のじゃダメか……」
当たり前だ。僕はサイン色紙を乱暴にいちご娘さんに返した。
すると、いちご娘さんは、思わぬ行動に出た。
「じゃ、ミキちゃんのカチューシャ」
いちご娘さんは、アタマのカチューシャをはずして、手渡そうとする。
僕は突っ返しながら、叫んだ。
「バレバレのウソじゃないですか!」
そのとき、鋭い視線を感じた。トレード話にまったく参加してこなかったオダさんが、椅子に座ったまま微動だにせず、カチューシャを凝視している。手紙のコピーは全然欲しがらなかったくせに、こんな明らかにニセモノのカチューシャに、異常なまでの強い興味を示すとは……。
僕にはオダさんのこれまでの言動が理解できない。謎の人物である。ある意味いちご娘さんも謎の存在だが、こちらは正体不明の生きものだと表現したほうが正しい。スネークさんに謎はない。安男さんにも謎は感じられない。
性格的に、手紙のコピーなど欲しがらないということは理解できる。おそらく物質的価値がそこには生じないからだ。だとすれば、あのカチューシャには物質的価値があるということなのだろうか。あのいちご娘さんがアタマにくっつけている物体に? 価値が?
「大磯ロングビーチ! このイベントはよかった!」
トレードを無事に成立させたスネークさんは、もうパーフェクトコレクション鑑賞に夢中になっている。スネークさんは感慨深げに大きな声を出した。僕といちご娘さんは、再びスクラップブックを覗《のぞ》き込んだ。
「カメラ持ち込み禁止だったはずでしょう」
と、椅子に座ったままで、オダさんが言い放った。その声には責めるような響きがある。
「まあ、固いこと言わずに!」
建て前論を振りかざされてしまっては、パーフェクトコレクションは成立しない。
「やっぱりいい笑顔してるなぁ」
きらきら輝くミキちゃんのショットを眺めながらスネークさんは、うれしそうなため息をついた。僕にとって理想的な追悼会のひとときだった。
すると、隣で奇妙な唸《うな》り声が聞こえた。
ぐるる。
いちご娘さんが、大磯ロングビーチで撮った一連の写真の中の一枚を睨《にら》んでいた。
「この男、許せない……」
指さした写真には、汗を拭《ふ》いている太った男が写っていた。
如月ミキのマネージャーだ。
「デブで茶髪のデブッチャー≠ネ。真冬でも汗拭いてたな。嫌なマネージャーだったな」
スネークさんらしい、ストレートな命名だった。
「僕は彼に突き飛ばされた。握手タイムのとき、ちょっと長く手を握っていただけなのに。離しなさい! って」
いちご娘さんが半べそをかいたような表情で抗議した。
確かに厳しいマネージャーだった。
「ミキちゃんにはふさわしくなかったよ」
スネークさんもうなずいた。
「訴えるべきだった」
「まあ本人も仕事でしょうから」
オダさんが、フォローする。
スネークさんはよっぽど大磯ロングビーチのミキちゃんが好きなのだろう。記憶の中のあの日の陽だまりの中にまだまだくるまっていたいようだった。
「ミキちゃんのプロポーション好きだなあ」
「決してスタイルがいいわけではないんですがね」
と、僕はスネークさんの真意を感じながら、応じる。
「この垢《あか》抜けないプロポーションがいいんだよ」
スネークさんの正直な感想に、僕は心の底から同意した。
わかってるなぁ。アタマの中でハンドシェイク。ミキちゃんは、なんといっても寸胴《ずんどう》なべみたいなボディがカワイイのである。
ところが、おもむろに、シリアスモードの声が響きわたった。
和みかけていた場のムードが、あっという間に硬直した。
「皆さんは、見てみたかったですか」
オダさんだった。僕はイヤな予感をおぼえながら、訊《たず》ねた。
「何をですか」
「ヘアヌード写真集ですよ。出るって噂が流れたでしょう」
僕たちは、言葉を失った。沈黙が流れる。
へあぬーど。この言葉を耳に入れたくなかった。カタカナにすると僕の中に温存しておいた如月ミキのメモリーが汚されるような気がして、僕はひらがなに変換した。
確かに噂はあった。ミキちゃんが死んだのは二月四日。その前の年の年末ぐらいから、へあぬーど写真集が出るかもしれないという情報が、あるサイトに書き込まれはじめた。一月中旬には、その噂が現実のことになるらしいと、ほとんどのファンは認識していたように思う。
ただ、今日はその話題は禁句だったはずだ。今日だけじゃない。掲示板でもその話題については、これまで誰も一言たりとも口にしなかったではないか。ここにいる全員、いまは洋服の青山にいる安男さんも含めてその噂は知っていたはずである。けれどもそこには触れないで、ここまでやってきたのではないか。
スネークさんが、声を荒らげた。
「見たくないに決まってんだろ! 遅れてきた清純派だぞ」
またしても、断固同意。
「脱いだらダメだよ、絶対に……」
いちご娘さんの「絶対に」はものすごく強い口調だったが、同時にものすごく物悲しく響いた。そう、実際如月ミキは絶対に脱ぐことはなかった。なぜなら、もうこの世界にはいないからだ。
へあぬーどのことを考えると、どうしてもそのことに行き着くしかなくなる。だから、へあぬーどのことはこれまで考えないようにしていた。
ファンの一人として、単純に脱いでほしくなかった。
この願いは、ミキちゃんが死んだことで文字通り、死守された。その意味を考えたくない僕がいた。
もちろん、ミキちゃんが生きていたほうがよかったに決まっている。ミキちゃんが死ぬことで守られたものが、彼女のへあぬーどだったとしたら、それはものすごく哀しい。死んでいるだけで悲しいのに、さらに哀しくなる。へあぬーどを苦にして自殺だなんて、絶対に思いたくない。
僕は人が死ぬということがどういうことなのかまだよくわからない。だから「いなくなった」という認識しか抱けない。肉体が存在しないとは、はたして、どういうことなのだろうか。
如月ミキはアイドルなのだから、たとえ僕がどんなに愛していたとしてもやはりヴァーチュアルな存在だ。よって厳密に言えば肉体は存在していない。肉体の存在立証らしきものをたくさん目撃し、それに耽溺《たんでき》してきたにすぎない。
僕は、ファンにとってのアイドルの実存がわからなくなり、一度自分なりにそれを確かめようとしたことがある。だが、結局何もわからなかった。
だから、状況を本当に正確に認識するとすれば、僕は如月ミキの姿を見かけなくなった、ということなのだ。それはつまり、表面上は引退とさほど変わらない。
自殺、という報道を信じなければ……。死んだ、という情報をまやかしだと思えば……。僕の目の前からミキちゃんの姿が消えたということは、ただ単に彼女がメディアの一線から退いたということでしかない。
へあぬーどは、バリバリの肉体的情報だ。へあぬーどの是非については、これまで多くのアイドルマニアがネットで自説を披露してきたが、僕はそうしたアイドル論を語りたくはないし、そんなことをするために、今日集まったわけでもない。
僕は毅然《きぜん》と立ち上がって言った。
「ミキちゃんの最大の魅力は目です! あのパッチリ二重の目。脱ぐ必要なんかないんです!」
僕は、言葉をあえて現在進行形にした。「脱ぐ必要なんかなかった」とは言いたくなかった。如月ミキを「過去」になんかしたくなかった。
話題を強引に変える必要があった。そうするために、腹から声を出した。
「歌ってましたねえ! 『ラブレターはそのままで』!」
大磯ロングビーチのステージで歌っているミキちゃんの写真を見せ、みんなに呼びかけた。
「でも音痴だった! 俺、朗読してるのかと思ったもん」
スネークさんが切り返した。
そうそう。こういう話がしたかったんです!
「彼女に歌は無理でした」
かなりシリアスモードではあるが、椅子に座ったままのオダさんが加わってきた。
しかし、「彼女に」なんて、またまた客観的な物言いだ。
僕は、大磯ロングビーチシリーズの中ではいちばんのお気に入り写真を見ながら言った。
「走ってますねえ」
砂浜を走るミキちゃんの姿。
スタイルもさほどよくなかったが、走り方も、どたどたしていてキレイではなかった。そこがよかった。決してお尻《しり》が大きいわけではないのに、重心が低いコだった。
「思いきり顔面からこけましたけどね」
オダさんが、初めて含み笑いを交じえてそう言った。
この人も、ミキちゃんのこと、ほんとうに好きなんだ……。
僕はやっとオダさんが身近に感じられた。僕は言った。
「でも、笑ってました……」
砂浜の砂に足をとられてコケたミキちゃんがフラッシュバックしただけで、涙が出そうになった。泣くな。いまは笑うときだ。
「いつだって笑ってるところがいいんだ……」
スネークさんのその一言は全員の想いだった。
ぐるる。
いちご娘さんは耐えきれず、ひざを抱えてうずくまってしまった。どんどん小さくなるいちご娘さん……。
臆病《おくびよう》な僕は、人前で涙を見せられない。急いで次の話題を探し、空元気な声を上げた。
「ほら、騎馬戦ですよ! 騎馬戦!」
だが、言葉はたどり着くべき場所を見失い、宙に呑《の》み込まれ、空虚な響きとなって落下した。
間に合わなかった。いちご娘さんには、もう限界が来ていた。
「泣くなって!」
スネークさんの一言が、拍車をかけた。
沈黙とすすり泣き。
窓の外が急速に暗くなっていったように感じた。いったい、いま何時なのだろう。
安男さんはまだ帰ってこない。
小学生の頃、夕方一人で留守番していたときの時間の流れ方を思い出した。いちご娘さんの嗚咽《おえつ》を聞きながら、僕らは、四人の時間を共有することをやめて、それぞれの時間を噛《か》み締めはじめた。
この時間が終わらなければいいのに……。
僕は、僕らが地球で最後のひとときを過ごしているようなセンチメンタルな気分になりながら、漠然とそう思った。
終わらない時間など、あるはずがなかった。
静寂をやぶったのは、やはりオダさんだった。
「去年の今日、なんですね」
誰も何も応《こた》えなかった。何も言いたくなかった。
「なぜ自殺なんかしたんでしょう」
オダさんはやはりその話がしたかったのだと思った。僕がオダさんに感じた違和感はすべてそこに起因していたのだった。
「皆さん、どう思います? 如月ミキはなぜ自殺を」
「知るかよ」
スネークさんが口をとがらせた。
僕は、力なく公式見解を述べた。
「仕事が思うようにいかず、悩んでいたと……」
「確かに、そう新聞には書いてありました。そんな理由で納得できますか? これが自殺するような子の笑顔ですか!」
オダさんは、真剣だった。
もちろん、納得なんかしていない。誰もしていないはずだ。ミキちゃんのイメージと自殺は、あまりにかけ離れている。
オダさんは、なおも言い募った。
「死に方だってそうです。なんであんな死に方する必要があるんです?」
いちご娘さんが耳をふさいでいる。僕も同じだ。ジサツとかシニカタなんて言葉、この場で聞きたくない。僕は急いで、けれどもできるだけやんわりと言った。
「この話はやめませんか。一周忌です。楽しくやりたいんです」
「一周忌だからこそ話すべきです」
「思い出すのが辛《つら》い人だっているんです!」
僕は思わず声を荒らげていた。言葉が言葉に覆いかぶさった。オダさんの額の「ちびまる子タテ線」が厳しくなった。
「私だって辛い。でも、この話題に触れずにいくんですか。皆さんだって気になっているはずでしょう。彼女がなぜ死んだのか」
「あの子は死んでなんかいないよ」
いちご娘さんは立ち上がると、生クリームを絞り出すように、声をこぼした。それは悲鳴だった。哀願だった。
「ミキちゃんは生きてる! 僕の心の中に! ここにちゃんといる! いつも一緒にいる! 死んでなんかいない!」
オダさんは、あくまでも冷酷に言い放った。
「現実逃避だ」
「現実なんて何の意味がある! 自殺の真相を突き止めたって、彼女が生き返るわけじゃない。何の意味もない」
いちご娘さんの言ってることは矛盾しているが、正しかった。
ゲンジツトウヒ。多かれ少なかれ、僕たちはゲンジツというやつに目を向けることがあまりにヘヴィな状況にいたからこそ、ミキちゃんを愛していたのではなかっただろうか。如月ミキ自殺というゲンジツをいきなり突きつけられても対処できなくて当たり前だと思うのだ。
人間の死というものの実感は僕にはまだないけれど、たとえば家族とか恋人に先立たれた人が、そのゲンジツをたった一年やそこらで受け入れられるはずがない。
「同感だね」
僕の気持ちを見透かしたようにスネークさんが言った。
だが、オダさんのペースはまったく崩れなかった。
「自殺じゃないとしたら」
沈黙の中、雷の音が響く。外では雨が降りはじめていたことに、気づかされる。
「それでも意味ないですか?」
オダさんの声と雨の音だけが、静寂を支配する。
「私はこの一年間、事件について自分なりに調べてきました。現場に何度も足を運び、可能な限り関係者に話を聞きました。そして得た結論です。如月ミキは自殺なんかしていない……殺されたんです」
「誰に? 誰にだよ?」
混乱したスネークさんが叫ぶ。
オダさんの揺るぎない断定口調に、僕はもう穏やかなままではいられなかった。体内のカウントダウンは止めようとしても、もうスタートしていた。
「警察の見解は誤りだというわけですか」
僕はあくまでも冷静に問いかけた。
「私は正直、警察への怒りを禁じえません」
「あんた、私立探偵か?」
スネークさんはややケンカ腰だったが、彼の言う通りだと思った。なぜ一般人が現場検証や関係者証言を取ったりできるのだ?
「そう思ってもらってもかまわない」
オダさんは平然としていた。
「聞かせてくれよ」
スネークさんは瞬時に決断した。
「楽しい雰囲気じゃなくなりますよ」
やめてとお願いしたときにはやめなかったくせに、話せと言うと、こんなことを言う。オダさんはイヤミな人だ。だが、直情型のスネークさんはまったく窮しない。
「かまわねえよな。家元さん、いちごのオッサン」
何事も先送りにして、人生のあらゆることの決断から逃げてきた僕に、答えが返せるわけはなかった。
「避けては通れない話題だよ。ミキちゃん殺した奴がわかるかもしれねえ。さあ、始めてくれ」
揺るぎないスネークさんと、毅然《きぜん》としたオダさん。硬い表情のままただ立ち尽くしているいちご娘さん……。
「では」
オダさんはアタッシェケースを開くとおもむろに黒いシステム手帳を取り出した。よどみない動作は確かに、私立探偵のようだ。
僕たちが覚悟を決めた途端、雨に濡《ぬ》れた喪服の「部外者」が飛び込んできた。
「買って来ましたよ! ちょうどぴったりのが吊《つ》るしてあって! 新品だから水をはじくんですねえ! これで心置きなく盛り上がれますよ! あ、コレクション、見ちゃいますね! こ、これは! 〈胸はじけちゃう。期待の新星、如月ミキちゃん登場〉、こんなの見たことないよ!」
喪服になって帰ってきた安心感から、安男さんは上機嫌だ。僕らの重苦しい空気がまったく読めていない。相変わらず、場違いな人だ。つくづくタイミングが悪い。
「あとにしてもらえませんか」
僕は、安男さんからスクラップブックを取り上げながら、なるべく丁寧な口調で言ったつもりだったが、その言葉|尻《じり》の冷たさは隠せなかったし、隠すつもりもなかった。
「その話題一通り終わったから。これからね、楽しい雰囲気じゃなくなるのよ」
ざっくばらんなスネークさんも、明らかに面倒くさそうな態度を取った。
「な、なんで?」
安男さんは、この部屋の緊迫した空気をまったく感じ取れていなかった。これは「イイ人」ではなく、単に鈍感なだけかもしれない。
「オダ・ユージ探偵がしゃべるから」
「探偵?」
「誰か、説明してやってよ」
スネークさんがイラついた声を出した。
僕にしても、安男さんの相手をするつもりなど、毛頭なかった。
「聞いていればわかりますから」
「そうだ、黙って聞いてろ」
スネークさんが、トドメを刺した。
僕はオダさんに質問した。
「自殺ではないという根拠をお聞きしましょうか」
「まず死に方が不可解です」
「それは確かに」
スネークさんも「死に方」への疑問を口にした。
「丸焼けだもんな」
オダさんは続ける。
「警察の発表は実に曖昧《あいまい》でした。仕事で悩んでいて、つい絶望し、油をまき……」
「正確にいきましょう」
僕はオダさんを制止すると、パーフェクトコレクションの最後のページにある新聞記事を開いて、読み上げた。
「二〇〇六年二月四日夜、タレント如月ミキさん、本名山田美紀さんは、仕事が思うようにいかないことに悩み、自宅アパートにて発作的に自殺を決意。所属事務所のマネージャーの留守番電話に『やっぱりダメみたい。私もう疲れた。いろいろありがとう。じゃあね』と遺言を残した後、部屋中に油をまき、ライターにて着火。一酸化炭素中毒および全身|火傷《やけど》にて死亡……」
オダさんは深くうなずくと、一つ目の根拠を述べた。
「彼女の部屋は全焼、のみならず上の部屋まで燃やしてしまった。他には死傷者が出なかったからよかったものの、一歩間違えれば大惨事ですよ。彼女がそんなことすると思いますか。死ぬにしても、せめて人様に迷惑をかけないようにと考えるのが如月ミキだとは思いませんか」
僕はこのとき初めて、オダさんが、一度も「ミキちゃん」とは呼んでいないことに気がついた。オダさんはずっと「彼女」と呼んでいた。そうでなければ、いまのように「如月ミキ」としか言わない。ファンとしては、不自然すぎる。
ヒトサマという、世間慣れした言葉遣いも気になった。いったい何者なんだ? 僕は、動悸《どうき》を抑えながら、答えた。
「精神的に錯乱状態にあり、冷静な判断を欠いた。警察の見解です」
「何者かが彼女を殺し、油をまいて放火した。そう考えるほうが自然じゃありませんか。現場も遺体も燃えてしまえば証拠も残らない」
オダさんは、挑発的に、しかも自信たっぷりに言い放った。スネークさんがすぐに同調した。僕は反論した。
「遺言はどうなりますか? 『やっぱりダメみたい。私もう疲れた。いろいろありがとう』。マネージャーの留守電にメッセージが残ってるんですよ」
言い終わって、掩護《えんご》射撃を探した。
いちご娘さんは、聞きたくないという言葉通り、ロフトの下で耳をふさいでうずくまっている。安男さんはこんなシリアスな展開の中、アップルパイを食べながら聞いている。
「あ、犯人がミキちゃんの声を真似てしゃべったんじゃねえかな。犯人はモノマネ名人なんだよ!」
スネークさんはミキちゃんの声色を真似た。そのおふざけが、僕の「導火線」に点火のきっかけを与えようとしていた。
「声紋鑑定もしています!」
「犯人が如月ミキにしゃべらせたんじゃないでしょうか。脅して、遺言を強要したんです」
オダさんの物言いには、冷静さが感じられなくなっていた。同時に僕の言葉遣いも、クールでポップで素直な「家元」からはどんどん離れつつあった。
「根拠がなさすぎますよ。犯人の心当たりでもない限り単なる空想にすぎません」
せせら笑うように、オダさんは爆弾発言を投下した。
「皆さん、ご存じないでしょう。如月ミキが悪質なストーカー被害に遭っていたことを」
一瞬にして室内の空気が凍りついた。そんなとき──。
「おええ!」
突然、安男さんの苦悶《くもん》する声が響いた。まったく、どこまでタイミングが悪い人だ。
「気持ち悪いんですか」
安男さんは、うずくまっておなかと口を押さえながらうなずいた。
腐ったアップルパイを食べたからだろう。話に参加しづらい状況だっただけに、自分が持ってきた「手作りお菓子」でも食べるしかなかったのだろう。
「ト、トイレ……」
「出て右です」
「続けててください。すぐ戻りますから」
安男さんは、どたどたと部屋を立ち去った。
「戻ってこなくてもいいけどな」
スネークさんの一言は、部屋を覆ったまぬけな沈黙を、際立たせた。
僕は、一呼吸置いて、質問を再開した。
「オダさん、ストーカー被害というのは?」
「自宅付近で怪しい男が何度も目撃されています」
オダさんの口調は依然として冷静沈着だが、語る顔つきは明らかに緊張で引きつっている。これを言わなければ前に進めない、そんな苦々しい決意が見て取れた。
「以前、如月ミキが痴漢に襲われたことがありましたね」
「ああ、それなら知ってる」
スネークさんが反応する。オダさんは貝の砂を吐き出すような趣で続けた。
「仕事からの帰宅途中、自宅付近の路上で、突然後ろから男に羽交い締めにされた。しかし、彼女はとっさにバッグの中からボールペンを取り出し果敢に応戦……足を刺された男は逃げていった」
胸の奥がうずいた。
性急なスネークさんが話をまとめようとする。
「そいつがストーカーってこと?」
僕は何か言わなければ、と思い、こう言った。
「でもそれは三年以上も前のことですよ」
口の中が乾いていた。舌がスムーズに動かず、声が少し嗄《か》れていた。
オダさんは、僕の消極的否定を強固に否定した。
「その後もずっと付きまとわれていたんですよ」
刑事コロンボならアタマをぽりぽりかきながら話しはじめるところだろう。相手に対して高圧的な態度に出る、オダさん本来の余裕が戻っていた。
「一度、これは事件の一週間ほど前のことですが、如月ミキの留守中に寝室の窓から何者かが侵入した形跡もあります」
「空き巣ではなく?」
僕の問いに、オダさんは答えた。
「金品は盗まれていなかったそうです。かわりに溜《た》まっていた食器が洗ってあり、ベッドの掛け布団がきれいにたたまれていた」
「お母さんみてえなヤツだな。変態野郎ってわけだ」
スネークさんのツッコミは案外的確だった。
「二月四日、つまり事件当夜も、駆けつけた消防隊の話によると、寝室の窓は開いていたそうです」
「あの日も忍び込んだのか!」
スネークさんがヒートアップする。
「隣の部屋の住人が、男の声が聞こえた気がする、とも証言していたそうです。異常者が手の届かない相手を殺害することによって、自分のものにしようとする例はいくらでもあります。あるいはヘアヌード写真集の噂が犯行の引き金かもしれない」
「そうだ! 犯人はそいつだ! 警察はなんでそんなことを見逃すんだ!」
スネークさんは、いたってシンプルな人である。オダさんの発言にしっかり合いの手を入れている。
「私は何度も再調査を依頼した。だが、警察はもう結論が出たのだからの一点張り。取り合ってもらえませんでしたよ。お役所仕事そのものだ。警察は会社じゃないはずなのに、なんで正しいことしようとしないんだ!」
「やっぱり、あの人≠ノ憧《あこが》れてるでしょ」
「いまのは偶然ですよ」
スネークさんは、オダさんの弁解を一蹴《いつしゆう》した。無責任に盛り上げた末、勝手にオチをつけた。熱弁をふるう私立探偵オダ・ユージは確かに、あのドラマが好きだと思わせる雰囲気を醸し出している。
自分の緊張を悟られないように意識していた僕は落ち着きを取り戻して、やや低い声を出した。
「……なかなか面白い話ですね。オダさん、その情報はどこから得たものですか。マネージャー本人から直接聞いたとでも言うんですか?」
オダさんの話には、事務所関係者でなければ知らない情報がありすぎる。オダさんは、立ち上がると、当たり前だ、という顔を見せ、スクラップブックのある写真を指さした。
オダさんが示した写真に写っていたのは、ミキちゃんのマネージャーだった。
「デブッチャーに?」
スネークさんはあくまでも自分の命名にこだわる。僕はさらに、言葉を重ねた。
「彼のでっち上げかもしれません。タレントに自殺されたマネージャーの責任逃れでしょう。ミキちゃんがストーカー被害に遭っていた話なんか聞いたこともない」
「プライベートなことです。あなたが知らなくて当然だ」
オダさんは、僕に負けじと、脅しにも受け取れる凄《すご》みある声を出した。
刻一刻と、そのときは近づいていた。もう引き返すことはできない。オダさんも僕も、もはや一歩も退かなかった。
「警察にも通報していないのはなぜです」
「警察には通報したそうです」
「していません!」
「したんです」
オダさんの語気に負けないように、僕は言いきった。
「していない。警察にそんな記録は一切ありません」
「あんた、何なんだ!」
オダさんが激昂《げつこう》した瞬間、ココロのカウントダウンはゼロを迎えた。
僕は、軽いため息を洩《も》らしたあと、内ポケットから黒い手帳を取り出した。そして、オダさんの目の前に、水戸黄門の印籠《いんろう》のように差し出した。
警察手帳。これが僕のゲンジツだ。僕が向き合うことを避けていたゲンジツだ。
できれば、出したくなかった。
もう一度、あらためて自己紹介をした。
「警視庁総務部情報資料管理課勤務です」
「マジかよ」
スネークさんは、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。
「驚いた……」
予想外の展開に、オダさんは戦闘モードを中断した。手帳を手に取って、身分証明書の写真と僕の顔を見比べる。
「しがない公務員なんて言ってたくせに」
スネークさんの声には、多分に不満が感じられる。
「しがないコームインですよ。父は警視総監ですけど」
僕は、いちばん言いたくなかったことをつい、口走ってしまった。自分を制御できないほど、興奮していた。
「しがなくないよ、ソレ」
スネークさんに対して反射的に弁明したかったのは、僕は父親とは違う、ということだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
僕が警察で働いているのは、親が警察関係者だから、僕も……という理由に他ならなかった。主体的選択などまったくないに等しい。事実、僕は自分の仕事に誇りをもったことなど、一度もなかった。
親と同じ職業を選んだ人間は、しかれたレールに乗って生きる安楽さと引き換えに、較べられるコンプレックスと後ろめたさを引きずり、それと付き合っていく運命にある。
本当の意味で、社会に出たわけではない。依然として、親の庇護《ひご》の下にある自分がそこにいる。
おそらく、ほとんどの人は、こうした後ろめたさを解消し、乗り越えるために、努力を重ねる。自分の仕事として自信をもてるようになるまで、切磋琢磨《せつさたくま》する。
ところが、ケンゼンな向上心を逆恨みするような意気地なしの僕は……。何かに一生懸命になった見返りが何も叶《かな》わないことであることを極端におそれる弱虫の僕は……。ありとあらゆる決断を先送りにすることで結局何ひとつ自分で決めることをしてこなかった単なる責任逃れの僕は……。
同僚や上司から「役立たずのお坊ちゃま」とバカにされ、陰口をきかれていることを、僕は知っている。なのに、知らないふりを通している。コンプレックスに目を背け、目の前にあるゲンジツを見て見ぬふりをする「達人」に成り果てたからだ。
けれども。
如月ミキの死が謎に包まれていることを知ったとき、如月ミキ愛好家「家元」としてではなく、警察官である僕として、僕はそこに立ち向かおうと思った。思えたのだ。
ミキちゃんの自殺について調べるのは、仕事でもなければ、労働でもなかった。僕が、僕でいるための、最後の砦《とりで》だった。
僕は如月ミキに感謝した。
生まれて初めて、僕という人間を本気にさせてくれただけでなく、たとえ一瞬にしろ、物事に真剣になることを教えてくれたのだから。
警察の中にいながら、父親の存在を意識しないでいられる日々が続いた。夢中で調査した。それは、長い呪縛《じゆばく》からの束の間の解放でもあった。
しかし結局、新事実を発見することはできなかった。自殺と断定せざるをえなかった。
僕は、きっぱりとオダさんに伝えた。
「警察に、如月ミキのストーカー被害に関する報告は一切ありません。如月ミキに関するありとあらゆる調書、資料に目を通した、この僕が言うんだから間違いありません」
「すべてに目を通したんですね」
「はい。僕も初めは自殺を疑っていましたからね。でも他殺の可能性を示す要素は一切見つからなかった。もちろんストーカー被害の報告もありません」
「警察に資料がなくても何ら不思議ではありませんよ。むしろ当然だ」
オダさんは、君が警察関係者で好都合だ、と言わんばかりの好戦的な態度を取り戻していた。
「どういうことですか」
「処分したからですよ。ストーカー被害に関する情報すべてを。いいですか、如月ミキのマネージャーは……」
「待った! デブッチャーでいこうぜ」
オダさんは不満げに一瞬顔をゆがめたが、マネージャーの呼び方を「デブッチャー」に統一するというスネークさんの提案を受け入れた。額には「ちびまる子タテ線」のかわりにうっすら汗が浮かんでいた。
この人も必死なんだ、と思った。だが僕だって必死だ。
「デブッチャーは、ストーカー被害に遭っていることを何度も警察に相談していました。しかし警察は調子のいい返事だけして、何一つ対策を講じてくれなかった」
僕は思わず怒鳴った。
「その責任回避のために関連情報を隠蔽《いんぺい》したと? だとしたら警察もまた共犯ということになります。そんなことあるはずがない!」
聞き捨てならなかった。警察の名誉のためなんかじゃない。僕の本気と真剣が、汚されようとしているのだ。
「ちょ、ちょっと待って。話わかんない。俺、二時間ドラマのサスペンス劇場も途中で話わかんなくなるんだよ。置いてかないでくれよ」
情けない声を出して中断を希望するスネークさんを置き去りにしたまま、オダさんと僕の対決は続いた。
「つまり、あなた方が何らかの対策をとっていてくれたら、あの事件は起きていなかった。いわば如月ミキを殺したのは、あなたがた警察なんだっ!」
「根拠のない臆測《おくそく》にすぎない」
「可能性はありませんか。まったくないと言えますか!」
「言えんのか!」
スネークさんは、いつの間にか便乗して、オダさん側についている。状況が把握できたのかどうかは定かではないが、それにしてもスネークさんは変わり身が早い。
僕は声を張り上げた。
「警察はそんなことしない!」
「警察はそういうことをする! あなただって本当はそう思ってるはずだ!」
「そうだ!」
スネークさんの無責任な合いの手が耳ざわりだった。
「あなたも自分の目と耳で調べればいい! すぐに私と同じ結論にたどり着きますよ! 資料を読んで事件をわかった気になっているが、本当は何一つわかってないんだ!」
「わかってないんだよ!」
「事件は現場で起きてんだ!」
「やっぱり憧《あこが》れてるんじゃん!」
「憧れてて悪いか!」
またもや同じ展開。スネークさんはオダさんをおちょくってツッコんできたが、ここにいたって、ついにオダさんは認めてしまった。
それにしても「何一つわかってない」というオダさんの言葉はショックだった。これは単に如月ミキに関する調査だけにとどまらず、僕の人生全般に対する批判に思えた。
お前は、何も、わかっていないんだよ。
まるでそう宣告されているようなものだった。
返す言葉が見つからなかった。
いちご娘さんが、この極限状況にたまりかねたように叫んだ。
「やめてくれ! おじゃましました」
あろうことか彼は、手提げ袋とバッグを抱えて、いままさに帰ろうとしていた。
「とても聞いていられない。警察だのストーカーだの、もううんざりだ。失敬」
そのとき、オダさんが、怖い声で凄《すご》むようにいちご娘さんに告げる。
「もう少し、いてくれませんか」
「僕は今日、ミキちゃんのことを語り合いに来たんだ。醜いののしり合いを聞きにきたんじゃない」
いちご娘さんの言うことはもっともだと思った。
ところが、オダさんの目は血走っていた。言葉遣いも一変した。
「逃がさねえよ」
「何言ってるんだ?」
立ちはだかるオダさんを押しのけて、いちご娘さんは出ていこうとした。すると、ものすごい力で、オダさんがいちご娘さんを押し飛ばした。僕には一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「ちょっと! オダさん!」
「突き飛ばすことないじゃん。帰りたいヤツは帰らせればいいよ」
いちご娘さんが痛がっているのを見て、スネークさんもさすがに止めに入る。
「家元さん、証拠も何もないとおっしゃいましたよね。お見せしますよ、証拠を」
オダさんの様子は明らかに尋常ではなかった。
何を言っているんだ? いったい、何を始めるつもりなんだ?
「自供させます。犯人、つまりストーカー自身に」
オダさんは、いちご娘さんがストーカーで、なおかつ如月ミキ殺しの犯人だと言っているのだ。
「馬鹿馬鹿しい。君、頭おかしいんじゃないか?」
いちご娘さんが怯《おび》えを隠しながら、抵抗を試みる。
「このストーカー野郎!」
今度は、スネークさんが豹変《ひようへん》した。いまのいままでいちご娘さんを助け起こしていたのに、いきなり羽交い締めにしている。混乱に拍車をかけるのが、得意な人だ。
僕は、職業意識からではなく、あくまでも個人的な感覚からスネークさんに訊《き》いた。
「やめてくださいよ! 何の根拠があってストーカー呼ばわりするんですか!」
「第一印象だ! 最初見たときから怪しいと思ってたんだ! こいつの雰囲気、まさにストーカーそのものだ!」
論理性ゼロ。一〇〇パーセントの思い込み。スネークさんらしいと納得しつつも、これではあまりに思考が短絡的すぎるだろう。
人間を第一印象だけで決めつけてほしくない。
人一倍、自分の第一印象を意識する性質の僕は、心のどこかでそれを願ってもいた。
第一印象がストーカーに見える怪しさとは? いや、そもそもストーカーって何だ?
スネークさんをいちご娘さんから引き剥《は》がしながら、僕はできるだけ冷静な声色を装った。
「冷静になりましょうよ」
いちご娘さんは、苦しそうに咳《せ》き込んでいる。
インターミッションが欲しかった。こんな急展開は想定外だ。
そこに「ザ・休憩オトコ」が戻ってきた。
「いやあ、まいりましたよ。なかなか終わらなくて……」
安男さんのお腹もバッド、こちらの状況もバッドだった。今回は状況を察して、安男さんは言った。
「なんか、また状況が激変してる……。どなたか簡単に状況を……」
「ストーカーだったんだよ」
スネークさんが煩わしそうな声で一言だけ説明した。
「ストーカー? 誰が?」
「家元さんは警察の人で隠蔽してたんだよな」
「警察? 隠蔽? どういうことですか……あう! またきた……や、ば、い……」
安男さん、あえなく再び退場。
コンビニ、洋服の青山、トイレ、トイレ。追悼会への参加時間が極端に短い人である。だが、安男さんのおかげで、一瞬、僕自身のテンションが平常を見つけた気がする。
「こ、こんなことしてただで済むと思うなよ! 家元さん、彼らの行為は明らかな名誉|毀損《きそん》だ!」
いちご娘さんは、おびえているのか、威嚇しているのか、もはやわからない状態に追い込まれていた。
「お前に名誉なんかあるのか!」
再び、スネークさんがヒートアップする。僕は、とりなすように言った。
「スネークさん、オダさん、ちょっとひどいですよ」
「彼はストーカーです」
オダさんのまなざしには、ブレがなかった。
いったい何をすればストーカーと呼ばれることになるのだろう?
僕は尋ねた。
「理由はなんですか? まさか第一印象ですか?」
「理由はあります。そもそも私がこの会を提案したのは、この男をおびき出すためなんです。ホームページの書き込みです。家元さん、いちご娘さんのこの書き込み、覚えていますか?」
みんなの書き込みは全部覚えている。
オダさんは手帳を広げると読み上げた。
「二〇〇六年一月二十八日の書き込みです。〈こんばんわぁ♪ いちご娘ですぅ。最近わたしは、アロマキャンドルにハマってます。ミキちゃんのエイキョウかしら。皆さんも試してみては。よく眠れますよ〉。これ、あなたの書き込みに間違いないですね」
「それがどうした!」
いちご娘さんは叫んだ。
「そんな書き込みばっかりしやがって。アロマキャンドルってツラか! お前なんて毎日香で十分だ!」
スネークさんも吠《ほ》えまくる。が、オダさんはスネークさんをなだめると、あくまで冷静なトーンで話を続ける。
「ここには〈ミキちゃんのエイキョウかしら〉と書いてある。マネージャー、いや、デブッチャーに聞いたところ、確かに如月ミキはアロマキャンドルにはまっていたそうです。毎晩寝る前に焚《た》いていたと。しかし、問題は、それをなぜあなたが知っていたかだ」
「何かのインタビューで読んだんだよ」
いちご娘さんの言い訳口調には、すでに弱々しさがあった。何か中心が欠落した物言いだった。
「家元さん、如月ミキは何かのインタビューでアロマキャンドルについて、しゃべっていますか?」
「いえ」
オダさんからデータベースとして信頼された僕は、答えた。
アロマキャンドルなんて初耳だ。ミキちゃんは死ぬ直前にハマっていたのだろうか。思い返せば、死の二ヶ月ぐらい前からまともなインタビューを受けてはいない。趣味について公言できる機会がなかったのは間違いない。
「しゃべってるんだよ! あんただって一〇〇パーセント完璧《かんぺき》にチェックしてるわけじゃないだろう」
ドスをきかせた声で、いちご娘さんは言った。しかしそこには、何の根拠もないと思えた。僕は、平然と自信をもって、応じた。
「一〇〇パーセント完璧にチェックしているつもりです」
この件で、如月ミキ愛好家としての「家元」を否定する人間は、誰であろうと許さない。ここは絶対に譲れないところだ。
オダさんは、尋問を続ける。
「如月ミキの部屋にストーカーが侵入したのが一月二十六日、この書き込みの二日前です。あなたは如月ミキの部屋でアロマキャンドルを見たんじゃありませんか」
「違うよ……」
「二月二日の書き込み。〈ミキちゃんのエイキョウで、きたきつねラッキーチャッピーのグッズを集めてます〉。確かに彼女はラッキーチャッピーのファンでグッズを集めていたそうです。しかし、このこともインタビューでは……」
「しゃべっていません」
僕は、あたかも裁判の証言台に立っているかのように、正確な発声で言った。
「あなたは彼女の部屋でラッキーチャッピーグッズを見たんでしょう! 違いますか」
「……」
答えに窮したいちご娘さんに、スネークさんがにじり寄る。僕も、詰め寄った。
「いちご娘さん、答えてください」
困り果てた顔をしながら、しかしこれまで通りの口調でいちご娘さんは言った。
「……偶然の一致だろう……僕とあの子は心と心が通じ合ってるからわかるんだな」
ありえない。ふざけた負け惜しみだ。
スネークさんも、僕も、もういちご娘さんを逃すわけにはいかなかった。
窮地に追い込まれたいちご娘さんが叫んだ。
「物的証拠は!」
オダさんは、待ってましたとばかりに、弁舌を再開した。
「物的証拠ね。デブッチャーによる、家宅侵入された際の如月ミキの証言です。金目のものは一切取られてなかった。しかし、ただ一つ、いくら捜しても見つからないものがあると。愛用していた……」
「ま、まさか……ブラ的なもの……パ、パンツ方面……てめえ! 許せねえ!」
スネークさんが「物的証拠」に欲情し、熱くなった。
しかし、オダさんの答えは意外なものだった。
「愛用していた、カチューシャ」
僕は、とっさに、いちご娘さんに確認する。
「さっき、ミキちゃんの、って言いましたよね?」
「言ってないよ」
「いえ、言いましたよ!」
つい、ムキになってしまった僕。そして、ポツリとつぶやくオダさん。
「もしかすると、如月ミキの指紋がどこかに残っているかも……」
いちご娘さんは、素早く、カチューシャを服で拭《ふ》きはじめた。
「拭くんじゃない!」
スネークさんと僕は、いちご娘さんに飛びかかった。いちご娘さんを取り押さえるためではない、ミキちゃんの、ミキちゃんが愛用していたカチューシャをゲットするためだ!
「そこのコレクター二人! それは貴重な証拠品でしょう」
いちご娘さんから取り上げたカチューシャを、今度は奪い合っている僕たちに、オダさんの冷たい声が突き刺さった。
「もう指紋なんて残ってないと思うよ」
ちょっとだけ反省を込めた声でスネークさんが言った。オダさんは一歩また一歩、冷静にいちご娘さんににじり寄りながら言った。
「彼がいま取った行動こそが何よりの証拠です」
瞬間、いちご娘さんは慌てて逃げ出した。だが、オダさんは即座に捕まえ、殴り飛ばした。五人の中で最も非暴力的なキャラクターだと思っていた人が、いちばん凶暴なキャラクターに変身していた。
僕は、オダさんを制止した。
「オダさん、そこまでです! ここから先は警察が預かります!」
「警察に渡せるか! 信用できるはずがないでしょう。この期に及んで、まだ信用しろと言えるんですか?」
尋常さが薄れつつあるオダさんを前に、僕はできるだけ冷静を装って問いかけた。
「ではどうするつもりですか」
驚くべき答えを彼は用意していた。
「いま、ここで裁きます」
え?
オダさんは内ポケットからナイフを取り出すや否や、中腰になり、いちご娘さんめがけて刃を向けた。
「や、やれるもんなら、やってみろ……」
いちご娘さんは震えていた。
すべてをかなぐり捨てるように、オダさんが叫んだ。
「やってやるさ! こいつは如月ミキを殺したんだ! 憎くないのかよ!」
言葉とは裏腹に、オダさんの瞳《ひとみ》は、異様にクリアだった。すべては彼の台本通りに進んでいるからだろう。
僕は最大限の演技力で冷静に振る舞った。
「そんなことをしたら、あなたが犯罪者ですよ。僕は見逃すことはできない」
「かまわんね。如月ミキの仇《かたき》が討てるなら、私はどうなったっていい。逮捕しろよ。私はこいつを殺す」
オダさんは本気だった。
もはや一瞬の躊躇《ちゆうちよ》も許されなかった。僕はスネークさんと一緒に、オダさんを取り押さえた。
オダさんを押さえ込みながら、僕は言った。
「オダさん、必ず責任もって再調査します。僕が約束します。だから警察に任せてください」
スネークさんですら、オダさんをなだめる。
「オダ・ユージ、気持ちはわかるがそうしようぜ。どうせ死刑になるんじゃねえか。こんなストーカー野郎」
僕はいちご娘さんを尋問した。
「いちご娘さん、正直に話してくれますね。あなたはミキちゃんにストーカー行為をしていたことを認めますか」
いちご娘さんは、首を横に振った。
「僕はストーカーなんかじゃない! 僕は、前の道から二階のミキちゃんの部屋を毎日見守っていただけだ!」
「それをストーカーって言うんだよ!」
オダさんとスネークさんがいちご娘さんに怒鳴った。
「ストーカーと、見守るのは違うだろう!」
いちご娘さんの話し方は、言い訳ではなく、自分なりの確信をもった話し方だった。
確かに違う。僕だって、ミキちゃんを見守っていた。僕たちはみんな、それぞれのやり方で見守っていたんだろう。見守ることがストーカー行為なら、ファンは全員ストーカーだ。
僕は、怒りを爆発させている二人を制して、いちご娘さんの言い分を容認した。
「いいですよ。見守っていた、ということで。では、事件の一週間前、ミキちゃんの部屋に侵入したことは認めますか」
「侵入するつもりなどなかった」
いちご娘さんの供述が始まった。僕たちは固唾《かたず》を呑《の》んだ。
「あの日、ミキちゃんは窓を開けっぱなしで出かけてしまった……僕は閉めてあげなければと思った! だってそうだろう? 万が一、頭のおかしいストーカーみたいなのが入り込んだらどうするんだ」
「それがお前なんだよ!」
オダさんは、むき出しの敵意で、いちご娘さんを威嚇する。
「僕はミキちゃんを襲ってなんていない! ただ窓を閉めてあげようと思っただけだ。バルコニーまでよじ登ると、ベッドが乱れているのが見えた。そうなったら当然、整えてあげなきゃと思うだろ」
いちご娘さんは、聞いている相手を納得させるというよりは、自分自身に言いきかせるように語った。
「思わん!」
オダさんが一言でいちご娘さんを斬《き》って捨てる。もはや平常心のかけらもない。
僕も、いちご娘さん独特の思考回路にはついていけなかった。部屋に入っただと……。一気に脱力してしまった僕は、思わずこう洩《も》らした。
「布団直したんだ……」
スネークさんも僕に同調する。
「食器洗ったんだ……」
スネークさんと僕は、がっくり肩を落とした。
いいな……。僕の身体のどこかから、正直な心の声が聞こえる。
尋問、詰問ムードはどこかにすっ飛んでしまった。
もっと詳しく話してください。そんな気分になった。スネークさんと僕は、いちご娘さんを捕まえて、その先を促した。
いちご娘さんもいちご娘さんで、「聞きたいの? じゃあ仕方ねえな」とでも言い出しそうな雰囲気のまま、悠然と語りはじめる。
「意外と質素な部屋でね……枕元にアロマキャンドルがあって、食器は全部ラッキーチャッピーでね。奥にウォークインクローゼットっていうの? 小さい物置部屋があって、そこに脱ぎ散らかした服とか下着が山のように……」
瞳を閉じて、天使の部屋を想像した。
スネークさんが、おそるおそる訊《き》いた。
「な、なんかした?」
「なんかとは?」
「だから、いけないことを……」
「まさか! ちゃんとたたんでおいただけだよ」
「匂いとか、嗅《か》いでないよね?」
「まさか! いい匂いはしたけどね」
「したのかー」
僕らは、もはや、ツッコむこともできなかった。オダさんの顔は、怒りのせいだろうか、紅潮し、汗が噴き出している。オダさんは落ち着きなく拭《ふ》いている。いちご娘さんは、そんなことはおかまいなしに告白を続ける。
「でもそれだけで帰った。記念に何か欲しくてカチューシャを持って帰ってきてしまったが……」
「持ち帰るなよ!」
スネークさんといちご娘さんのやり取りは、小学生が友達から夏休みの冒険談を聞いているようなものだった。
だが、オダさんは、その和やかな雰囲気を、一気に尋問モードに戻しはじめる。
「去年の今日、二月四日は……?」
「部屋に入ったのは一度だけだ。あれ以降二度と入ってない」
「あの日もお前が目撃されてるんだよ!」
「確かにあの日も前の道からミキちゃんの家を見守ってた。だが、そのまま帰った!」
「嘘をつくな!」
オダさんがいちご娘さんの胸倉を掴《つか》み、また、突き飛ばした。スネークさんが慌ててオダさんを後ろから取り押さえる。オダさんが感情的になると、いちご娘さんもそうなる。逆効果だ。僕は、いちご娘さんの顔を覗《のぞ》き込みながら、穏やかな口調で尋ねた。
「いちご娘さん、夜十一時頃はどこで何をしていましたか」
「……足立《あだち》警察署にいた……留置場に……」
警察……それなら、すぐに証明できる。
「身分証ありますか」
いちご娘さんの運転免許証を受け取ると、僕はケータイで本庁に連絡を取った。
「時間の無駄だ」
オダさんは、いちご娘さんが突拍子もないことを言うので、かえって冷静さを少し取り戻したようである。スネークさんもオダさんを解放した。
いちご娘さんの供述は続く。今度の聞き手はスネークさんである。
「彼女が死んだことも、翌朝、警察のテレビのニュースで知ったんだ」
「そんな嘘、どうせすぐバレるぞ」
「嘘だったら殺せばいいだろ!」
「殺さなくたって、どうせお前は死刑だよ」
「ミキちゃんのそばに行けるなら、それでもいい」
「そばになんか行けるか! ミキちゃんは天国、お前は地獄だ!」
子供じみた二人のやり取りを小耳に挟みながら、僕は、いちご娘さんのアリバイ確認を急いだ。確認が取れた。僕はみんなに通達した。
「確かに留置されていました。無銭飲食です」
「無職です」の声が、脳裏によみがえる。
いちご娘さんが、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「アリバイ成立、というわけですね」
「……嘘だ……」
オダさんは激しく動揺し、その場にへたり込んだ。推論が根底から崩れ去った瞬間である。
「さて、どう謝罪してくれるのかな」
じわじわと詰め寄るいちご娘さん。
「どこかに真犯人がいるはずだ……いるんだ! 隣の人が男の声を聞いてるんだ!」
もはやオダさんの叫びは、負け犬の遠吠《とおぼ》えだった。
「……その声は……あいつの声だよ……」
いちご娘さんが、ゆっくりと話しはじめる。
「あいつ?」
またしても僕の知らないことを、いちご娘さんは告白しはじめる。ますます理解不能の人になってきた。
「何か見たのか?」
オダさんが食らいつくようにいちご娘さんに迫る。
「どうかな。ちゃんと謝罪してくれたら──」
場の主導権は、完全にいちご娘さんに移行していった。
「あの日、ミキちゃんの部屋を見上げていたら、若い男が訪ねてきてね。ミキちゃんは出迎えるなり、うれしそうな笑顔で抱きついて、そのまま部屋の中に……」
容疑者から目撃者への転身を華麗《かれい》に果たしたいちご娘さんは、得意げに話した。
ミキちゃんに、彼氏がいた!
ゲンジツとは、キビシイものである。このショックは、落ち込んだ、なんて簡単な言葉では言い表せない。
「僕もショックだったよ。だが考えてみれば彼氏くらいいて当然だ。そう自分に言い聞かせて帰った。だがやはりどうにもやりきれなくて、飲み屋で飲めない酒を飲んで……気がついたら所持金はゼロ……」
僕は、いちご娘さんのみじめな時間を想った。
無職、無銭飲食、留置場。ミキちゃんの彼氏を目撃した翌日、ようやく留置場を出ると、ミキちゃんの死を伝えるニュースが待っていた。ジェットコースター的な地獄の二日間である。
いちご娘さんから受ける、どこか異様な印象は、この日の濃密すぎる経験が背景にあると確信した。
ところで、ミキちゃんの彼氏とはどんな男だったのだろう?
「それがまたチャラチャラした軽薄そうなヤツでさ。あんなのどこがいいんだ」
話しながら、いちご娘さんは、どんどん興奮している。
「……あいつが殺したのか? ミキちゃんに別れ話を、持ち出されて……。そうだよ、あの子がいつまでもあんな男に騙《だま》されてるはずがないんだよ! それで……逆上して殺した!」
もはや、逆上しているのはいちご娘さんのほうだった。それはあまりに無茶苦茶な推理だった。すると、スネークさんが、意外にも冷静な言葉を吐いた。
「それはどうかなあ」
「可能性はある」
「でも、いまからそいつを見つけ出すのは……」
オダさんの熱さに反して、スネークさんはさっきまであおりまくっていたのはどこ吹く風の、冷静さである。同調しないのはいちご娘さんへの敵意がぬぐえないからなのか。
「男の特徴は?」
真犯人を捕まえたい一心のオダさんは、いちご娘さんに先を促す。
「あれだ、あれ、なんていうんだっけ……南国の鶏みたいな…………モヒカン」
「いまどき、モヒカン」
オダさんが呆《あき》れた声を上げる。
ん? モヒカンなら、どこかで見たぞ。
僕は、記憶の糸を必死でたぐり寄せた。どこで見たのかは思い出せないが、モヒカン男の映像だけはまざまざと浮かび上がった。その様を口にした。
「茶髪で先っぽのほうだけ赤く染めてて。でも全然似合ってなくて。にたーって笑ってて」
いちご娘さんが俄然《がぜん》反応する。
「そう、そう、そう! そいつ! あんた、知ってるのか?」
いつ見たんだっけ?
あみだくじを下からさかのぼるように、解決の糸口を探していく。
手紙。コピー。
ふたつのキーワードが降りてきた。そして、さらにもうふたつ。
トレード。生写真。
バラバラだったピースが、一つにまとまった!
「スネークさん! さっきの生写真ですよ! もう一回見せて!」
スネークさんは、いつの間にかパーフェクトコレクションのところに移動して、スクラップブックを眺めながら口笛を吹いている。ミキちゃんの彼氏問題なのに、急に興味がないような態度を取るなんて、おかしい。僕は、必死に抵抗するスネークさんから、写真を奪い取った。
「スネークさん、これ、どこで入手したんですか?」
「もらったっていうか……拾ったっていうか……」
スネークさんは、しどろもどろだ。
「ほら、これ! ミキちゃんの後ろで中指立てて笑ってるモヒカン!」
写真には、確かにモヒカンの男がいた……。
瞬間、僕らはひらめいた。顔を見合わせる。写真のモヒカン男は、スネークさんだ!
「その頃、バンドやってたから……」
照れくさそうにアタマをかくスネークさん。
もちろんこの論点は、スネークさんにモヒカン時代があったことにあるのではない。
「お前が」
「ミキちゃんの」
「彼氏?」
オダさん、いちご娘さん、僕。言葉のバケツリレーが見事に完了した。水は一滴もこぼれなかった。
「YEAH!」
スネークさんは複雑な表情ながら、ピースサイン。
「お前がやったのか!」
その瞬間、いちご娘さんが、ムササビのようにジャンプして、スネークさんに襲いかかった。馬乗りになって、スネークさんの喪服のネクタイを、ぐいぐいぐいと絞め上げた。
僕は、動揺するあまり、いちご娘さんを制止することもできず、恥も外聞もなく、ただただはしたなく、次のような質問を繰り返した。
「やっ、やったの? えー! ねえ、チューは? チュー? 舌入れたの? まさか、あの……いくとこまで、いっちゃった?」
自分でも、自分が、何を言っているのかわからなくなっていた。
スネークさんは答えようとしていたが、首を絞められた状態では声が出るはずがなかった。
そこに、再び、「ザ・休憩オトコ」登場。明らかに険しい雰囲気に完全におろおろしながら、安男さんは言った。
「タップしてるよ、タップしてるよ、どうしたんですか? どうなってるんですか?」
それだけ言うと、安男さんは、また身悶《みもだ》える。急展開の最中に戻ってきたせいか、驚いて一瞬、下半身の力が抜けた安男さんは、哀れ、ちょっと粗相をしたようだ。安男さんは泣きそうな顔をしたかと思うと、ジーンズを掴《つか》んで内股で出ていった。
我に返った僕は、「死んじゃう!」と言いながら、慌てて止めに入る。が、いちご娘さんの指は自分でも制御できないくらい力が入っていて、それを外すのにかなり手間取った。
咳《せ》き込むスネークさんに、オダさんが再びナイフを持って迫る。
「お前がやったのか?」
「つ、付き合ってもいない」
「さっきは彼氏だって言ったじゃないですか」
僕も容赦なくツッコミを入れる。
「嘘だよ、なんか、つい言っちゃったの」
「チューとか、してない?」
「してない、してない! 真に受けるなよ」
孤立無援のスネークさんを、オダさんが執拗《しつよう》に追い詰める。
「正直に話せ。如月ミキとの関係を」
「友達だよ。いや、客と店員。ミキちゃん、ウチの店の常連だったのよ。いろいろしゃべってるうちに仲良くなってさ……俺、タレントだってこともずっと知らなくてさ」
「でも、あのとき、ミキちゃんはうれしそうに抱きついてた。ただの関係じゃない」
いちご娘さんはうらめしそうな声で責める。
「あんた、よく見てなかったろ! ミキちゃんは俺に抱きついたんじゃない」
「あなただ! あなたしかいなかった!」
「俺じゃない! ラッキーチャッピーだ。きたきつねラッキーチャッピーのボトルセットに抱きついたんだ。六本入りのボトルセット。入荷したら教えてって言われてたんだよ。ミキちゃん、よくウチでラッキーチャッピーのグッズ、買ってたの。俺はただ配達に行っただけだよ」
「なんで部屋の中まで入る必要があるんだよ」
さっきまでオダさんに尋問されていたいちご娘さんが今度はスネークさんを絞め上げる。
連鎖する尋問。今日は想定外のことが起こりすぎる。
「だってミキちゃん、ボトルにハンドソープとか詰め替えるんだって言ってたから、手伝おうかって言ってみたら、お願いって」
信じ難いことにこの男は、ミキちゃんに「お願い」された。そして、ミキちゃんの部屋に入った。この揺るぎない事実には、さらに自慢すべき特典が付いている。いちご娘さんのように、無断侵入したのではなく、スネークさんは如月ミキに招き入れられたのである。オダさんは戦意喪失、ナイフを床に落としてしまった。
「ハンドソープから台所洗剤、サラダオイルにオリーブオイル……頼まれてないやつも片っ端から全部詰め替えちゃった」
詰問されているにもかかわらず、スネークさんは意気揚々と状況を説明した。
「そしたら台所にゴキブリが出てさ、ミキちゃん、きゃっ、なんて。俺、やっつけてやったら、ありがとう、ステキ! なんて言われちゃってさ」
きゃっ、だと?
アタマの中にあるトンネル。そこでエコーが鳴り響いていた。
ありがとう、ステキ!
ミキちゃんがスネークさんに言った、その声を消し去るために、僕は何度も何度も、「きゃっ」だけをリピートした。自分がゴキブリになったみたいな卑屈な気分だったが、ミョーに気持ちよかった。ぞくっとした。僕は何かを思い出していた。
きゃっ。きゃっ。きゃっ。
「そのあとは」
いちご娘さんの執拗さに拍車がかかった。オダさんをも凌《しの》ぐ、激しい尋問である。
「お茶ご馳走《ちそう》になった」
「そのあとは!」
「家に帰ったよ」
「彼女が死んだ時刻は何をしていた」
「店にいた」
「家に帰ったんじゃなかったのか!」
「店長に呼ばれて戻ったの。あの日、地震があったろ」
「地震? そんなものはない!」
いちご娘さんの興奮は最高潮を迎えていた。スネークさんの言い分を黙って聞いていたオダさんが、冷静な声でピシャッと否定する。
「あったよ!」
あの夜、確かに地震はあった。いちご娘さんは泥酔した状態で留置場にいたから、おそらく感じなかったのだ。スネークさんは、やや落ち着きを取り戻して弁明を続ける。
「たいして大きな地震じゃなかったけど、ウチの店は商品がごちゃごちゃ置いてあるから、どれか一個倒れると、ドミノ式に何もかも倒れちまって。店長と二人で朝まで直してたんだよ。ミキちゃんが死んだのを知ったのは俺も翌朝のニュースだ。疑うなら店長に聞け」
スネークさんは、ケータイに雑貨屋の店長の番号を設定してそれごといちご娘さんに放り投げた。いちご娘さんは困ったような顔をして、オダさんに手渡そうとする。
オダさんは受け取るかわりに、こう言った。
「疑う余地はないな……まあ、いいだろ。ただ、なぜいままで黙ってた。如月ミキと面識があることを」
「いや、言おうと思ってたんだよ。タイミング見計らって自慢してやりたかったんだけど。家元さんが自慢してるあたりでは、次は俺の番とか思ってたんだけど、だんだんそういう雰囲気じゃなくなっていっただろ……下手なこと言うと疑われそうだし……オダ・ユージ、あんたコワイんだよ」
気が遠くなってきた。僕は自分に都合の悪い状況になると、子供の頃から、いつも、眠くなってしまう。トウヒだ。ゲンジツからのトウヒだ。
立ちくらみしているように、頭がくらくらする。もう何も考えたくない。
僕が如月ミキからの直筆の手紙を披露して、追悼会の中心にいたことが、もはや遠い過去に思えてきた。あれはたぶん幻だったのだ。
僕にだってまだ自慢したいことがあるのに、この展開では手も足も出ない。
それに主催者である僕の存在など、みんな忘れているようだった。
すっかりすねた僕から出た言葉は、これだけだった。
「一ファンみたいに装っちゃってさ」
「いや、一ファンだよ」
「友達じゃん! 部屋、入ったんじゃん! そんなファンいないよ!」
いじけた僕はもう、ただの駄々っ子だった。スネークさんが非難の矛先をいちご娘さんに向けた。
「俺はキッチンだけだもん。こいつは他の部屋もくまなく見てるけど」
「だが僕はお茶をいただいてない」
「ストーカーにはお茶は出さない!」
「ストーカー」でも「馴染《なじ》みの雑貨店店員」でも、肩書きなどどうでもいいではないか。僕だったら、ミキちゃんの部屋に入れるなら、どう呼ばれたってかまわない。
すっかり脱力したあとで、開き直って訊《き》きたいことを素直に口にした。
「ねえ、ミキちゃん、普段どんな感じ?」
「それがもう、すっげー気さくでさあ」
「どんな話したの」
「別に。軽くコクッたくらい」
コクッた。だと?
もはや二の句がつげなかった。
スネークさんが本当に軽い調子で、とんでもなく重大な告白を始めた。
「軽くだよ、軽く。即、フラれたけどね」
「バーカ、バーカ! 当たり前じゃん、当たり前!」
僕はスネークさんに嫉妬《しつと》してなじった。
「恋人がいるんだよ」
恋人?
「クッキー、焼いてたよ。ハート形の。いつも支えてくれている大切な人に贈ってあげるんだって言ってた……そいつの誕生日だったんだろうな……どんなヤツだか知らないけど……」
次から次へと新しい情報が報告される。僕が如月ミキについて完璧《かんぺき》に収集していたはずのパーフェクトコレクションの立場は、すっかり消滅した。
場の静けさを断ち切るのは、いつだってオダさんである。
「それはおそらく……」
彼は口火を切った。
「幼馴染みで初恋の相手、ヤックンだ。結婚の約束もしていると言ってた。ジョニー・デップに似てるんです、なんて照れながら言ってたっけ……」
「なんで、あんた、そんなことまで知っているんだよ」
スネークさんが当然の疑問を口にした。僕も続いた。
「確かに、あなたの知識はファンのレベルを超えている」
オダさんだけが自分の仕事を明らかにしていないことを思い出した。まさか本当に私立探偵というわけでもないだろう。
「どういう関係?」
いちご娘さんが、積年の恨みを晴らすかのように詰め寄る。明らかに自分を疑っていたことへの仕返しである。いちご娘さんはオダさんの服を引っ張った。
「放しなさいって!」
オダさんは、いちご娘さんを突き飛ばした。いちご娘さんは起き上がりながら、口惜しそうに言った。
「突き飛ばしたな……なんなんだ……このデジャヴは……こんなこと前もあった気がする……いや、さっきのことじゃなくて、もっと以前に……ま、さ、か……」
いちご娘さんは逡巡《しゆんじゆん》していた。
そして、事実にでも思い当たったかのように、慌ててパーフェクトコレクションを開くと、ある写真を凝視した。オダさんの顔と見比べている。僕とスネークさんも、後ろから覗《のぞ》き込んだ。
「うそぉ……」
「いくらなんでも……」
「何? なに?」
事態は、いきなりクライマックスを迎えていた。
スネークさんがモヒカン男だったことよりもさらに衝撃的な事実を、その写真は伝えていた。
僕は、おもむろに言った。
「オダさん、汗、拭《ふ》いたほうがいいですよ」
彼が、激しく、顔面の汗を拭いた。その仕草を見た僕たちは顔を見合わせた。
三人は一斉に声を上げた。
「デブッチャー!!!」
そしてさらに。
「激ヤセじゃん!!!」
オダ・ユージは、デブッチャー、つまり如月ミキのマネージャーだったのだ。
「この一年で五十五キロ落ちた……」
いちご娘さん、スネークさん、そしてオダさん。告白リレーは最終コーナーに差しかかっていた。
「ストレスが原因だ! ミキに死なれてから、ろくにメシがノドを通らない! 私はミキを殺した真犯人を見つけ出し、この手で復讐《ふくしゆう》する! そのことだけを考えてこの一年費やしてきたんだ! 体重も減るさ! あんたが真犯人だと思ってたのに……私のこの一年はなんだったんだ!」
そりゃ、詳しいはずだ。マネージャーだったのだから……。
一気に力が抜けた。
クイズの答えを先に言われてしまったようなものだ。
犯人を明かされたまま読む推理小説が面白いわけがない。
オダさんが、如月ミキについて異様に詳しいのは当たり前のことだった。
如月ミキ愛好家「家元」。そんなふうに名乗っていたことが、ひどく恥ずかしくなった。
「ミキちゃんの近くにいた人間が次々現れる……何がミキちゃんに関することなら誰よりも詳しいだ……いい気になって知識をひけらかせていた僕は滑稽《こつけい》すぎる……」
アタマの中のつぶやきが、そのまま声になって洩《も》れた。ヘラヘラ笑いが次々と込み上げてくる。
「いや、そう言うなって。家元さんのコレクション、マジすごかったもん。な!」
スネークさんになぐさめられると、余計自分自身が情けなくなった。
運動会でビリになったとき、親に「でもよく頑張ったね」と言われたことがあった。これは、そのとき以来のみじめさだった。僕はムキになって言い返した。
「でもあんたたちはミキちゃんと個人的な接点があるじゃないか! いちご娘さんは部屋入ってるし、下着たたんでるし! スネークさんなんか仲良しだし、コクッてるし! オダさんにいたってはマネージャーだもん! タレントと二人三脚のマネージャーだもん! 僕なんか所詮《しよせん》写真と記事を切り張りしている虫けらさ……」
シタギ、ナカヨシ、ニニンサンキャク。自分で口にした妙に語呂《ごろ》のいい言葉が、僕の涙腺《るいせん》をぐいぐい締め上げる。壊れかけの僕は、いまにも泣いてしまいそうだ。
「いや、家元さんは私より詳しい部分もありましたよ」
このフォローはつまり「如月ミキに関して本当にいちばん詳しいのはマネージャーであるこの私」という前提あっての発言だった。
「ただひとつ言わせてもらうと……」
オダさんは非情な言葉で、僕を谷底に突き落とした。
「あなた、ミキの最大の魅力はパッチリ二重の目だと言ってましたが、あれはプチ整形です」
人生は無情である。
「やっぱり虫けらだ……。この中で僕が一番ミキちゃんから遠い……」
絶望というのは、こういうことなんだろうな。
僕をなぐさめるつもりなのか、オダさんが「もう一人いますよ」と、廊下のほうを一瞥《いちべつ》する。
救いの神がそこにいた。喪服の上着にジーンズという、最悪のスタイルの安男さんは一人、入口付近の廊下で膝《ひざ》を抱えて座っていた。僕は、最大限の微笑を浮かべて、安男さんを部屋に招き入れ、椅子を勧めた。
安男さんだけは、僕の仲間だ。ミキちゃんに近い人、三名。ミキちゃんに遠い人、二名。追悼会は、このようにグループ分けして行うべきだと思った。
ところが安男さんは、僕が投げかけた、すがるようなまなざしを無視して、立ち上がると、こう切り出した。
「あの……しゃべっていいですか」
考えてみれば安男さんは、この会にほとんど参加していない。僕たちの話し合いにまったくと言っていいほど関わっていないのだ。僕は、そのことにいまのいままで気づきもしなかった。
こうして、四人目の衝撃告白が始まった。
物事には底の底があるということを、僕は鈍く感じていた。
「オダさん、真犯人なんていないんです。警察の言う通り、自殺だったんですから」
安男さんの丁寧な言葉遣いは変わらない。けれども、その丁寧さは誰に対してもひるむことのない自信からきていることが、いまの僕にはわかった。本当に自分に自信がある人は謙虚だ。僕はもともと自分に自信がない人間であり、なおかついま、最も自信がない状態であるからこそ、この言葉の意味も、安男さんの声から放たれる気の迫力も、ダイレクトに感じることができた。
「なんか急に中心に入ってきたぞ」
スネークさんがちゃかしても、安男さんは動じない。
「放っておかれてさびしかったのはわかるが、無理に議論に参加しなくていい」
オダさんの冷酷な制止をも物ともしない。
「いえ、あいつは自殺なんです」
あいつ?
耳を疑った。
「あんたが何を知ってるっていうんだ」
「毎日、電話で相談に乗ってましたから」
まいにちでんわそうだん。僕にとっては呪文《じゆもん》のような響きだった。
「プチ整形するときも俺は反対したんですよね一重のほうが可愛いって」
自信に溢《あふ》れている人は、流暢《りゆうちよう》に一気に、句読点なしで話すものである。
「それなのにミキっぺのやつ」
っぺ。
安男さんは確かにそう言った。
「安男さんって本名だったよね……」
まず一人目、いちご娘さんが核心に迫った。
「ミキちゃんの地元って……」
「福島……」
スネークさんとオダさんが、さらに踏み込む。
「よく一緒にお菓子作ったっけ……」
安男さんの次の言葉は、できれば聞きたくはなかった。
「ヤックンです」
いまさら自己紹介するな!
僕はアタマの中で怒鳴った。
何が喪服を着ないと盛り上がれないんです、だ。
「はじめまして。僕、ストーカーやってました」とは言わなかった、いちご娘さんも。
「俺、ミキちゃんの部屋でお茶ご馳走《ちそう》になったことあるッス。よろしく」とは言わなかった、スネークさんも。
「いままで黙っていてごめんなさい。マネージャーですと掲示板に書くわけにもいかず、オダ・ユージを名乗ってました」とは言わなかった、オダさんも。
これ以上、僕をみじめにしないでくれ!
そんな僕のココロの叫びには誰も無関心だった。話題の中心はあくまでもヤックンである。
「どこがジョニー・デップなんだ?」
さすがのオダさんも、目を丸くした。全員の視線が安男さんに釘付《くぎづ》けだ。
「ミキっぺが言うには後ろ斜め四十五度の角度から見るとちょっと似ているそうです」
おそらく、何度もミキちゃんに言われていたということだろう。安男さんはすらすらと答えた。発言には説得力があった。
スネークさんといちご娘さんは、後ろ斜め四十五度の角度から安男さんを見ようとしていた。
「わかんねえ」
「そもそもジョニー・デップをこの角度で見たことがない」
「恋は盲目、だな」
と、オダさんがため息交じりにつぶやいた。
つまり、盲目になるほどの恋をしたということだ、ミキちゃんは。安男さんに。いや、ヤックンに。
「嘘じゃない証拠にこれ」
安男さんは、写真を大事そうに取り出した。
「子供の頃、一緒にお風呂に入ったときの写真です」
なんと! 二人とも全裸である。
「確かにミキだ」
唖然《あぜん》としながらもオダさんは、確信をもって明言した。
「ま、子供のときですから」
安男さんは、「全裸、全裸!」と興奮するスネークさんの荒い鼻息を浴びつつも、余裕で受け流した。
たった一枚の写真が、僕のパーフェクトコレクションすべてを超越していた。このような決定的な一枚さえあれば、すべてを網羅する必要など、まるでない。僕が立っていた場所が、砂の城のようにどんどん崩れていった。
いちご娘さんが、素朴な疑問をぶつけた。
「結婚の約束、してたの?」
「約束といってもかわいいもんです。お互い子供でしたし」
「子供の約束、その手の類《たぐい》……ね」
「ミキっぺは本気だったみたいですけど」
「あ、そ」
「ずーっと黙ってるんだもんなあ」
僕は大きな独り言を言った。何か声に出して言わないと、平静ではいられなくなりそうな自分を感じていた。
「いや、言いたくても話に参加してなかったものですから……。話、戻していいですか」
スネークさんがうなずいた。
「そうだよ、ミキちゃんは自殺だって言ったな」
「オダさん……いや、デブッチャーさんか」
「その呼び方はやめてほしい」
「現にもうデブじゃないしな」
スネークさんが軽口を叩《たた》く。
「じゃあ、ヤセッチャーさん」
安男さんの右手にはいつの間にかナイフが握られていた。
もっともナイフが似合わなそうな人だったのに、豹変《ひようへん》である。
「オダさん、もし真犯人がいるとすれば……それはあなたですよね」
「どういうことだよ」
緊迫した状況に、スネークさんの声は上ずっている。
「ミキを死なせたのはオダさん、あなたじゃないですか」
「何を言ってるんだ!」
安男さんがオダさんに刃を向ける。オダさんも、もちろん僕らも思わずあとずさる。
「わかってるでしょう」
「わからんね」
「認めろよ! あんたが殺したんじゃないか!」
安男さんは、すっかり言葉遣いが変わっていた。ナイフを振りかざし、オダさんに近づこうとする。僕たちは全員で部屋の真ん中にあるテーブルを使って、安男さんの動きを止めにかかった。
「こいつが、こいつが、ミキっぺを殺したんだ!」
僕は、安男さんの気迫に圧倒されながらも訊《き》いた。
「安男さん、オダさんがミキちゃんに何をしたっていうんですか」
「ミキっぺは毎晩俺に電話をかけてくるたびに言ってたんだ……マネージャーが、超コワイ……マネージャー、マジ鬼みたい……もう死んでしまいたいって」
オダさんは、反論した。
「それでミキが死んだと?」
「あんたが追い込んだんだ!」
「マネージャーが厳しいのは当たり前だ! ミキはそんなことで自殺するような子じゃない!」
「ヘアヌード写真集、勝手に発売、決定したでしょう」
安男さんの言葉を受けて、僕たちはいっせいに、オダさんを睨《にら》んだ。
「……あいつも納得した上で発売を決めたんだ……」
「嘘だっ!」
「本当だ。あいつは自分でやると……」
「あいつ、泣いてた……何度も断ったのに、マネージャーが勝手に決めてしまったって! みんなに迷惑がかかるからもうやるしかないって。どうしよう……ヤックン、許して……ヤックン、許して……」
許して、許して。
僕たちは、ミキちゃんの哀願を夢想した。
「あ、あいつは強い子だ。そんなに悩んでいたはずは……」
「そう振る舞ってただけだ! 明るい自分を必死に作ってたんだよ! 本当は、泣き虫で落ち込みやすくて……死ぬほど苦しんでたんだよ! 芸能界なんて、俺は最初から反対だったんだ! あんた、あいつがなぜ俺の反対を押しきって芸能界入りを決めたか知ってますか? 四つのときに生き別れた父親に、成長した自分の姿を見せたかったからだよ! ヘアヌードなんてやりたいわけないだろう!」
「ミキちゃんは遅れてきた清純派≠ネんだぞ! 何してくれてんだよ、オダ・ユージ! いや、デブッチャー! いや、ヤセッチャー!」
スネークさんも立て続けに責め立てる。これまでずっとオダさんが僕たちを責めてきた。だが今度はオダさんが責められる番だ。
僕は決然と言い放った。
「あなた、自分のせいでミキちゃんが死んだことを認めたくないだけじゃないですか。警察のせいにして、真犯人でっち上げて、自分のせいじゃなかったことにしたいだけじゃないですか」
「お前が追い込んだんだよっ!」
「認めろ!」
男たちの怒号に、オダさんは言葉なくただ首を振った。その瞳《ひとみ》はうつろで、全身から力が抜けているように見えた。
「安男さん……やりなよ。あんたにはこいつに復讐《ふくしゆう》する権利があるぜ。こいつの罪は法では裁けない。だから、俺が赦《ゆる》す……」
スネークさんが焚《た》きつける。けれど、僕は、オダさんに近づいていく安男さんの手が震えているのを見逃さなかった。いちご娘さんはへなへなと床に座り込んでしまっている。
「愛してたんだ……あの子をなんとしてもスターにしてやりたかった……ブレイクさせてやりたかった……それがいけないことですか?」
憔悴《しようすい》しきったオダさんは、真摯《しんし》に訴えかけた。
僕は、オダさんがしたことも正しかったのだと思った。
僕たちはみんな自分にできることだけをしている。僕は如月ミキのために何ができるかを考え、パーフェクトコレクションを作った。そして、ファンレターを書き続けた。人から見れば自己満足、あるいはゲンジツトウヒかもしれないが、僕にとってはミキちゃんのために自分がいまできることを精一杯やっているだけだった。そのとき、オダさんがオダさんの立場で、ミキちゃんのためにできることは間違いなく、彼女をブレイクさせようと努力することだったはずだ。それは認めるべきだと、僕は自分に言い聞かせた。
「ブレイクしないまま消えていったタレントを私はたくさん見てきた……歌も芝居もできないんだぞ、ヘアヌードでもやらせて話題を作らないと……それしかないでしょう! それが間違いだったと言えるんですか! ねえ、あんたたちだって、ミキをスターにしたかったんだろう!」
おそらく、そこが違っていた。芸能事務所の人間と、一般のファンの認識とでは、この点にはっきりとした相違が生じていたのだ。
「このままB級、C級、D級タレントのまま終わってよかったのかよ! そのままだとお父さんにだって伝わらないんだぞ! そうだろ! このまま消えてしまってよかったっていうのかよ!」
激昂《げつこう》するオダさんに、僕は静かに告げた。
「よかったですよ」
スネークさんやいちご娘さんも続いた。
「死なれるよりマシだ」
「売れずに引退して、田舎の主婦になって……」
「そういうミキちゃんを僕たちは遠くで静かに応援していたかったです、いつまでも」
僕の本心だった。僕たちの本心だった。
明確にイメージしたことはなかったが、つまり僕はミキちゃんの将来をそのように考えていたのだと思う。
ミキちゃんは連ドラで主演を張れるような女の子ではなかった。演技力も、オーラもなかった。でも、そこがよかったんだ。歌はもちろん、リアクションの質が問われるバラエティもダメだったと思う。わかっていた。それをわかった上で応援していた。
もし田舎で主婦をしていたとしても、ミキちゃんなら、きっとステキな笑みを浮かべていたはずだ。
オダさんは、天に見放されたように、座り込んだ。
「殺してくれ……俺を殺してくれ」
安男さんはナイフを捨てた。安男さんはオダさんよりも脱力していた。怒りのエネルギーはある一定量が放たれると、急速にダウンしていく。そして、逆にカラダ全体のパワーを吸い取っていくものだ。
「いいのかよ」
スネークさんの問いに安男さんは答えた。
「ミキっぺは還《かえ》らない」
オダさんがそのナイフを拾って自分の首に突きつけようとする。いちご娘さんが俊敏にそれを制し、ぶん殴って言った。
「あんたに死ぬ権利なんかないよ」
僕も床に落ちたナイフを拾うと、冷酷な言葉に、気持ちを込めた。
「ミキちゃんに悪いと思うなら……その気持ち、一生背負ってください」
贖罪《しよくざい》。
オダさんが嗚咽《おえつ》を洩《も》らす。
生きること。生き続けることしか、生き残った者にできることはない。
僕も一緒だよ、オダさん。僕たちは生き続けるしかないんだ。
そう思った。僕たちは椅子に座ったまま、うつむくしかなかった。
やがて、安男さんが、取り返しのつかない後悔を口にした。
「俺も同罪です……無理やりにでも福島に連れ戻すべきだった……」
「僕も同罪かもしれません。オダさんだって、僕たちファンのために無理してミキちゃんに頑張らせていたわけだし。僕たちがいなかったら、全然ファンがいなかったら、ミキちゃん、すんなり引退できてたかもしれないでしょう。なまじファンがいたから……僕なんか、二百通もファンレター出しちゃって。彼女の気も知らないで、頑張ってください、頑張ってくださいって、こっちの思いばっかり一方的に押し付けちゃって……僕もミキちゃんを追い込んだ一人だ……」
僕も懺悔《ざんげ》していた。そして、こう訊《き》いた。
「安男さん、ミキちゃん、電話でそういうこと言ってなかった? 二百通も送ってきて超キショイとか」
「そういうことは別に」
……ファンレターの返事はくれたものの、僕の存在など結局その程度のものだったのだろう……。
いちご娘さんは、穏やかな表情で安男さんに尋ねた。
「毎日、どんなこと話してたんだい?」
「たいていマネージャーさんの悪口で……」
オダさんの表情がさらにゆがんだ。
「最後の日は? あの日も話したの?」
「はい」
「やっぱりオダの悪口?」
いつの間にか、スネークさんはオダ呼ばわりだ。
「あの日は、笑っちゃうんだけど、ミキっぺの部屋にゴキブリが出まして」
「え? スネークさんが殺したばっかりだったんじゃあ……」
「ごめん。本当は殺せなかった。俺、ゴキブリ、すげえ苦手なのよ」
「あいつ、雑誌丸めて叩《たた》き潰《つぶ》そうとしてたみたいですけど、すばしっこいらしくて。で、殺虫剤はないのかって言ったら、空っぽで」
これ以上オダさんを責めても仕方がない。僕たちは、そんな意識を共有していた。僕はおどけるように言った。
「ヘアスプレーと間違って使っちゃったんじゃないですか?」
「それで、ママレモンないかって、言ったんです。台所洗剤かけると苦しがって死ぬよ、って教えたんです」
「マジで?」
スネークさんはびっくりしていた。だが、確かにゴキブリは、洗剤をかけるとのた打ち回って死ぬのだ。
いちご娘さんがちょっと得意げな声でしゃしゃり出る。
「言っとくが、ミキちゃんちのは、ママレモンではなくファミリーピュアだった」
「どっちでもいいよ!」
スネークさんは、こういう細かいことにこだわる人間が嫌いなのだ。
「やってみるって言って、ゴキブリ追いかけ回してたみたいです」
「それで?」
「殺せたの?」
「わかりません。キャッチホンが入って、あとでかけ直すねって、切れちゃったから」
「誰だよ、こんなときに」
「私です。翌日の仕事の確認を」
「また、あんたかよ。ゴキブリ、結局殺せたのかな。気になるな」
「それっきりかかってきませんでしたから」
僕は、もはや会話に参加していなかった。僕の脳細胞はいま高速回転していた。ブーメランが旋回する大らかなターンを見つめているかのように、すこぶる快調だった。
「その直後に自分が死んじゃいましたからね」
「火事でゴキブリも死んだだろう。相討ちだな」
いちご娘さんが、とぼけたことを言う。
僕のアタマは、おぼろげながら、解決の糸口を見つけたようだ。僕は、疑問点を口にした。安男さんにミキちゃんと何時ごろ電話で話したかについて訊いてみる。
「夜の確か十時……」
「私が仕事の確認電話を入れたのが午後十時三十五分。警察にも話しました」
僕は、パーフェクトコレクションの新聞記事を確認した。オダさんの証言をチェックして、言った。
「確かに。オダさんは電話、すぐ切ったんですよね。その後、ミキちゃんのほうからオダさんに電話をかけてきた。『やっぱりダメみたい。私もう疲れた。いろいろありがとう。じゃあね』と」
「それが十時五十五分です」
「それがどうかしたの?」
スネークさんが答えを急《せ》かす。僕はちょっともったいぶってから話を続ける。
「十時三十五分の時点でゴキブリ追いかけていて、十時五十五分に遺言を言う。たった二十分でそんなに気持ちが変わるものでしょうか?」
これが僕がひっかかった部分だった。「ゴキブリ」というキーワードが自殺とまるで結びつかなかったからだ。
「急に思い立つもんなんじゃないの? 自殺なんて」
スネークさんは相変わらずアタマがシンプルな発言をする。いちご娘さんが拍車をかける。
「マネージャーの仕事の電話で、現実に引き戻されたんだな」
「それだ! やっぱりお前のせいなんだよ!」
スネークさんの強い断定にオダさんから再びすすり泣きが洩れる。僕は、歩き回りながら、推理を続けた。なにかがひっかかるのだ。
「ミキちゃんは安男さんに、あとでかけ直すねって言ったんですよね。なぜかけ直さなかったんでしょう」
「自殺を思い立って、そういう気分じゃなくなったんだろ」
スネークさんの考えは、常にざっくばらんだ。
「でも、オダさんにはかけている。遺言を残してる。オダさんに遺言を残して、なんで安男さんには言わなかったんです?」
少なくとも、あのとき、ミキちゃんにとって大切だったのは、オダさんより安男さんだったはずだ。どんなに気が動転していたとしても、遺言を大嫌いなマネージャーに残して、毎晩電話で話をしていた郷里の幼馴染《おさななじ》みに何も言い残さないというのは不自然だし、理不尽である。
オダさんからもひとつの疑問が提示された。
「そのことに関して言うと、私にも疑問な点があるんです。ミキは私に対していつも敬語を使ってました。言葉遣いは厳しく言ってましたから。なのに遺言は」
「『やっぱりダメみたい。私もう疲れた。いろいろありがとう。じゃあね』……」
暗記しているミキちゃんの「遺言」を、僕は繰り返した。
「そんな言葉遣い、私にしたことはありません」
オダさんの言い方は、母親のようだった。実の親がよろよろしながら「こんな娘じゃなかった」と言っているみたいだった。「人様に迷惑のかかるような死に方を選ぶ子じゃなかったんです」とオダさんが言っていたことを思い出した。
いちご娘さんが否定する。
「死のうというときに言葉遣いなんか気にしてられんよ」
「そうかもしれませんが……なんかしっくりこないんです。私に対して言ったような気がしなくて」
僕の推理も、そこに向かっていた。これしかない、と思った。
「安男さんに言ったんじゃないのかな」
「は?」
安男さんはきょとんとした。僕は続けた。
「オダさんじゃなくて、ミキちゃんは安男さんに電話をかけたつもりだったんじゃないのかな。経験ありませんか? ケータイでかけ直すとき、リダイヤルと着信履歴を間違えちゃうことって。一個前にかけた相手にリダイヤルしたつもりが、かかってきた相手にかけ直してた! これなら全部説明はつく!」
自信があった。僕が考えるミキちゃん像にも一致するからだ。
「確かにそんな間違いはしょっちゅうでしたが」
オダさんが認める。だが、スネークさんといちご娘さんが否定する。
「だからなんだっての?」
「オダさんにだろうと、安男さんにだろうと、あの子が遺言を残して自殺した事実に変わりはない」
僕は、強弁した。
「違いますよ! それだと、全然違うことになるんですよ!」
言葉は、その使われ方によって意味が変わってくる。相手によって変わってくる。言葉は関係性によって成り立っているのだ。時間と他者との関係性によって言葉は変貌する。
アタマの中がクリアだった。冴《さ》えわたっていた。僕には、僕だけの地平線が見えていた。
「遺言じゃないかもしれない。オダさんに言ったのなら遺言だ。でも安男さんに言ったんなら意味が違う」
「なんで?」
「安男さんと話した内容を思い出してください」
「ゴキブリ」
スネークさんが答えた。
僕たちは、ゴキブリを追いかけ回しているミキちゃんの姿を幻視した。
「ミキちゃんは安男さんのアドバイスに従ってファミリーピュアを片手に二十分間ゴキブリを追いかけていた。そして、安男さんに電話をかけ、言ったんです」
安男さんが、ミキちゃんの遺言を繰り返した。
「『やっぱりダメみたい。私もう疲れた。いろいろありがとう。じゃあね』」
「ダメって、ゴキブリやっつけるのがもうダメってこと?」
スネークさんが理解した。
「ゴキブリ退治に、疲れた」
安男さんも理解した。
「遺言じゃない……?」
「ってことは」
「自殺じゃない……」
「オダさん!」
安男さん、スネークさん、いちご娘さん、僕の順番で、言葉リレーが完走した。だが、オダさんはそのバトンを受け取ってくれなかった。
「い、いや……だって、現に部屋中に油まいて火をつけてるんだし」
「部屋中にまいたのは油じゃなくて、ママレモンだった」
「ママレモンではなくファミリーピュアね」
「ママレモンじゃあ燃えないでしょう!」
「わかんねえよ、ママレモンでも火はつくかも」
「つかないですね、ママレモンじゃ」
「だからファミリーピュアなんだってば」
くだらない。実にくだらない会話だった。だが僕らは、あくまで真剣に論議しているのだった。
ママレモンでも、ファミリーピュアでも、残念ながら火はつかないことを僕は知っていた。
「ママレモンとサラダ油を間違ってまいたのかも。あいつ、おっちょこちょいだから」
安男さんが言った。なにしろ、ミキちゃんはヘアスプレーと殺虫剤を間違えてしまう子である。
「いくらおっちょこちょいでもママレモンとサラダ油は間違えない。入れ物が全然違うんだから」
オダさんが、ウチの如月ミキをそこまでアホな子にしないでくれ、とばかりに反論した。
確かにヘアスプレーと殺虫剤はいずれもスプレー缶だが、台所洗剤とサラダ油では容器自体が違う。内容物の液体の出し方も違う。いくらミキちゃんでも、気づくだろう。
「あれ? 入れ物、違わないんじゃ……」
いちご娘さん、ビンゴ!
「詰め替えたって言いましたよね! ラッキーチャッピーのボトルに!」
僕の声はかなり大きかっただろう。興奮しまくっている。
「うん! 俺、詰め替えた! 片っ端から!」
スネークさんはうれしそうに答えた。
「よく思い出してくださいね。サラダ油を入れたボトルと、ファミリーピュアを入れたボトルは、そっくりだったんじゃないですか?」
「全然違うよ」
「違うんですか……」
僕は一気にしゅんとなった。
「サラダ油のはラッキーチャッピーがミルク飲んでるキャップで、ママレモンのはラッキーチャッピーがとうもろこし食べてるキャップだもん。全然違うよ」
それだけの違いかよ?
「ボトルの形は?」
安男さんがスネークさんにたたみかける。
「形は一緒」
「だったら、間違えても仕方ないですよ! だって、その日に詰め替えたばかりでしょう! オダさん、こりゃ自殺じゃないかもしれませんよ!」
僕は、すっかり舞い上がった。
けれどもオダさんはこの意見に同意せず、疑問点をぶつけ返した。
「火は? どうして着火したのか」
僕は考えに詰まった。
「ちょっと待ってください。落ち着いて考えましょう。ミキちゃんはゴキブリ退治で疲れ果てて……」
いつの間にか、僕たちは乾杯したときと同じように、テーブルを囲んで座っていた。
「もう寝ちゃおうと思った」
安男さんが言った。いちご娘さんがひらめいた。
「ってことはアロマキャンドルだ」
さすが、ストーカー! だてにミキちゃんの部屋に侵入してはいなかった!
「寝ようとしてアロマキャンドルに火をつけた。その火が何かの拍子に……」
「何の拍子ですか?」
「地震?」
スネークさん、やるじゃん! それだ! 一気|呵成《かせい》に事件は解決に向かっていた。
「地震でアロマキャンドルが倒れたんだ!」
すっきりした。これですべてが繋《つな》がった!
「自殺じゃない……!」
「自殺じゃねえぞ、これは」
「つまり、事故死……」
「オダさん、ミキちゃんは自殺じゃなかった! あなたのせいで死んだわけじゃありません!」
僕たちは、まるでオダ・ユージの弁護団のように口々に叫んだ。自殺ではないことを証明すれば、それはきっと如月ミキ自身の弁護にもなるはずだ。
「……なんか、すごい無理やりな気がする……」
当のオダさんは容易には納得しない。僕は説得した。
「でも、これなら一応スジは通りますよ」
みんなも加わる。
「運が悪かっただけ……」
「おっちょこちょいだっただけ……」
「あまりに都合のいい仮説だ」
「都合のいい仮説で何が悪いんですか。みんながいちばん納得できる仮説です。あなたも罪の意識から解放される。実際に何が起きたかなんて、いまとなっては誰にもわからないですよ。でも、だからこそ考えるわけでしょう。そして、真実は考えることができた者の心の中にしかないんじゃないですか。この説をみんなで信じることにしませんか」
正しいことを言っている実感があった。正しいことをしている実感があった。オダさんのためではなかった。僕たちのためだった。
僕は、立ち上がって、最も理想的な仮説を唱えた。
「如月ミキの死の真相は、とっても不運なる偶然の積み重ねと、天性のおっちょこちょいによって起きた事故死。いかがでしょう?」
ところが、僕のまとめが、意外な反応を次々に導いた。
まずスネークさんの言い分。
「だとすると、ボトル詰め替えまくった俺のせいなんじゃ」
続いて安男さんの言い分。
「それを言ったら、ママレモンで殺せなんて無責任なアドバイスをした俺のせいでもあります」
そしてオダさんの言い分。
「いや、ゴキブリの出るような部屋に住まわせていた私のせいとも言える」
さらにいちご娘さんにまで言い分があった。
「本を正せば、僕の責任なんだ……」
この事故死説で、ストーカーが負うべき責任とはいったい何だろう。
僕は諭すように言った。
「この場合、いちご娘さんに責任はないでしょう」
「あるんですよ……」
スネークさんが、いちご娘さんをちゃかす。
「わかった! あの部屋にゴキブリ持ち込んだのがお前だろう! 忍び込んだとき、ポケットから一匹逃げたんだろう」
「違う!」
「では、どんな責任ですか」
大団円を壊された僕は、ちょっと責める口調になった。
「僕がしっかりしていれば、そもそも芸能界に入ることもなかった……あの子の運命を変えてしまったのは……僕なんだ! 僕が甲斐性《かいしよう》がないばかりに、あの子の母親は愛想をつかして、あの子を連れて福島の実家に帰ってしまった……ミキが四つのときだった」
あの子……?
衝撃の告白大会は、まだ終わっていなかったのだ。
「あなたが、ミキっぺの……」
「パパ……」
いちご娘さんが照れくさそうに言った。
「お恥ずかしい限り!」
お恥ずかしい限りなのは、僕だった。
オダさんは、噛《か》み締めるように言った。
「ストーカーじゃなく、本当に見守ってたということか」
よりによって、僕たちはお父さんをストーカー呼ばわりしていたのだ。
だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
ここにいる僕以外は全員、ミキちゃんの身内だった。追悼会は身内の会だった。いわば関係者のみの会だった。僕がそこにお邪魔しているだけだったのだ。
「みんな、身内じゃん! ミキちゃんの純然たるファンってこの世界に僕だけしかいないんじゃないかな……」
そうだ。きっとそうだ。僕は、世界一のファンではなく、世界でたった一人のファンだったのだ。僕だけが……僕だけが……。
「僕以外は全員、ミキちゃんの死に責任があるっていうことで! いいですね! 僕だけ部外者なんで! 責任はないということで! いいですね! 決定でいいですね!」
僕は大声で泣きたかった。論理性なんて言葉は、今後一切放棄する!
みんな無言だった。何か言ったのかもしれないが、僕には聞こえなかった。
気がつけば安男さんが、オダさんに詫《わ》びていた。
「オダさん。俺、ずいぶんひどいこと言ってしまいました……」
「……」
「オダさん、ののしっていいですよ、俺のこと、ののしってください!」
安男さんは、丸い体を折り曲げて謝っている。でも、僕にはもうどうでもいい。
「やっぱり私だ。私がミキを死に追い込んだんだ」
スネークさんがとりなす。
「おいおいおい、この段階でそういうこと言うか? みんなであんたを救う説を考えたんだから、空気読めよ」
いちご娘さんも加わった。
「オダさん、よく聞いてください。ヘアヌード写真集の件、あなたの言う通り、あの子、実は納得していたのかもしれない。安男さんにはああ言っただけで、泣いていたのは案外嘘泣きということもありえる」
安男さんもこう言った。
「嘘泣き……俺的には複雑だけど、そういう見方もできます」
「そういうことでいいじゃん」
「自殺だよ、如月ミキは」
「オダちゃん! さっきの説に一つでも欠点があるか?」
「一つある」
「一つぐらいいいじゃんかぁ」
はるか彼方《かなた》に遠ざかっていた風景が、不意に現前に迫《せ》り出してきたようだった。
世の中には、どうでもいいことがたくさんあって、どうでもいいことをとりあえず素通りして、どうでもよくないことにまずは立ち止まってみる。
僕の推理に欠点があるって? これは、どうでもよくないことだ。僕はここで立ち止まる。
「オダさん、それは何ですか」
「ミキの死体が発見された場所です」
場所?
「いちご娘さん、ミキの部屋の間取り、覚えていますか?」
「もちろん」
渡された紙とボールペンで、いちご娘さんは見取り図を描いた。
「ここが玄関とすると、キッチンがあって、寝室。で、こっちの奥に小さな物置部屋」
「家元さん、ミキが死んでいたのは?」
そうか……。これは重大な欠陥だ。理由がうまくつけられない。ますます落胆する僕を尻目《しりめ》に、オダさんが説明を続ける。
「ミキが死んでいたのは、この物置でしたよね。いまの仮説通りだとすると、ミキの死体は寝室で見つからなければならない。仮に炎に気がついて逃げようとしたのだとしても、キッチンを通って玄関に向かうか、でなければ寝室の窓からだ」
「窓から逃げるのは結構コワいぜ」
スネークさんが思うまま、また、ちょっとずれた感想を口にする。
「あの窓は出入りが楽」
「経験者は語る、かよ」
この期に及んでも、スネークさんといちご娘さんは子供じみた言い合いをしている。それを聞きながら、僕は、火事では多くの人が窓から飛び降りる、普通の人間なら窓から逃げようとするはずだ、と思っていた。
「物置部屋に逃げられそうな窓は」
「あの部屋に窓はない……」
「あえて自分を逃げられない状況に追い込んだとしか思えない……」
オダさんが苦しげにそうつぶやいたとき、安男さんが、一休さんのような柔和な表情で「ひらめいた!」という顔をした。
「貴重品を取りに行ったのかも! ハンコとか印鑑とか実印とか」
「それ全部同じものですよ」
僕は低い声で言い放った。矛盾のない新たな説を発表しなければ、僕はますます蚊帳《かや》の外になってしまう。そんな焦りが声に表れてしまった。
「それに、印鑑と通帳は、寝室の鏡台の引き出し」
「チェックしすぎだろ、お父さんよッ」
「物置にあったのは、脱ぎ散らかした服と下着の山だけ」
いちご娘さんの言葉に、オダさんが、感慨深げに念を押す。
「高価な服なんか一着も持ってなかった子です」
あの子は質素な娘だった。
そんな重い一言に、僕たちは何も返すことができなかった。
沈黙の果てに、いちご娘さんが一言。
「自殺なのかな……やっぱり」
「気づかなかったことにしようよ。さっきの説で収めようよ」
スネークさんがそう言ったとき。
「あ」
いちご娘さんが、何かを思い出した。
「どうしたんですか」
「……段ボール……箱……あの部屋には段ボール箱があった」
「中身、見ました?」
「手紙、たくさん」
てがみ、たくさん。
僕は、いちご娘さんのこの声を一生忘れないだろう。
てがみ、たくさん。
それは人間の声ではなかった。神さまの声だった。
「二百通の手紙……ってこと?」
スネークさんに続いて、安男さんが言った。
「家元さんのファンレターを取りにいった……?」
「そんな馬鹿な。やめてくださいよ。なんでそんなもの取りにいく必要があるんです。命の危険をおかしてまで取りにいくものじゃないでしょう!」
現実感がまるでなかった。それはあまりに僕にとって都合のいい仮説だった。信じたいのに、信じられないファンタジーだった。幻想だった。
[#ここから2字下げ]
「ミキは家元さんのお手紙にいつもはげまさ
れています。
お仕事で幸[#「幸」に傍点]いことがあっても、家元さんのお手紙をみると、
お仕事ガンバロ〜! と思る[#「る」に傍点]んです。
ミキの命より大事な宝物です。」
[#ここで字下げ終わり]
オダさんがミキちゃんの手紙を読み上げる。その声も、聞いたことのない声だった。天使の羽音だと僕は思った。
「『命より大事な宝物』……」
いちご娘さんが手紙の一節をリフレインしている。神さまのリフレインだ。
「お世辞じゃなかったのか」
スネークさんのため息は、世界の吐息だった。かけがえのない自然の息吹きがそこにあった。
「あなたの手紙はミキの支えだった。ほんとうに命より大切な宝物だった……」
オダさんはメッセンジャーだった。慈悲深い表情の、天からの使者がそこに立っていた。
僕は、もう死んでしまうのだろうか? それとも、もう死んでしまっているのだろうか? でも、もう死んでもかまわない……。
「嘘ですよ、嘘に決まってます、だって僕はミキちゃんからいちばん遠い人間なんですから……」
金の斧《おの》か? 銀の斧か?
そう訊《き》かれているようだった。正直に答えた。
僕は、金の斧も、銀の斧も、落としてません。
安男さんが言った。
「気になってることがあるんです。スネークさん、あの日、ミキっぺはクッキーを焼いてたってさっき教えてくれましたよね」
「うん、いつも支えてくれてる大切な人に贈るって」
「俺の誕生日、もっとずっと先なんです」
心臓が止まりそうだった。
「家元さん、誕生日は」
安男さんが、笑顔で聞いてきた。
「……明日です」
天に召された瞬間だった。
「あいつを本当に支えていたのは、俺なんかじゃない。家元さん、あなたです……」
「友達でも、マネージャーでも、幼馴染《おさななじ》みでも、父親でもない、単なる一ファンの僕だったっていうんですか?」
「一ファンだからこそですよ」
ひらがなの人は最初から最後までひらがなの人だった。僕に救いの手を差しのべてくれた、イイ人だった。
いちご娘さんが感慨深い声で言った。
「アイドルだったんだ。正真正銘の」
ミキちゃんを形容する言葉は、これに尽きると思った。たぶん僕はいま、泣いている。喜びの涙が流れているはずだ。
オダさんが噛《か》み締めるように言った。
「仕事、頑張るつもりだったのか」
その顔にはもう汗も浮かんでいなかった。ちびまる子のタテ線も完全に消えていた。オダさんも救われたんだ。
スネークさんがオダさんの肩を優しくノックした。
「そうだよ、写真集もまんざらイヤじゃなかったんだよ……」
いちご娘さんが、これまででいちばん優しい表情で言った。
「オダさん、写真集のタイトル、ご存じないんですか」
「タイトルなんて決めてませんよ……」
「あの子は決めていたんです、自分で」
「ミキが……?」
「実は……去年、あの子の母親から十六年ぶりに連絡があってね。今度、ミキの写真集が出るから見てやってほしい。お父さんに見てもらいたがってるって……」
「タイトルは……」
いちご娘さんは、頬をイチゴ色に染めながら、少しだけうつむいた。
「『SHOW ME こんなに立派に育ちました…』」
「やる気まんまんじゃん!」
世界中の如月ミキファンがいっせいにツッコミを入れた。
ミキちゃん、最高だよ!
「まあ、英語は間違ってますけどね。『SHOW ME』じゃ、私に見せて、ってことだから」
全員、涙が出るほど大笑い。
「不思議な子だ……如月ミキ。捉《とら》えどころがない」
芸能活動中のあれやこれやを思い出しているのだろうか。オダさんが、感慨深げに笑った。
「本当に……我が子ながら、まるで虚像のようだ」
いちご娘さんが発したキョゾウという言葉には、まるで冷たさが感じられなかった。僕は生まれて初めてキョゾウという単語に温《ぬく》もりを感じた。
「アイドルは虚像。まさにそのものです」
僕が言った。
「ここにいる五人だって、同じようなものですよ」
安男さんが言った。確かにそうだった。僕たちは、何一つお互いのことをわかっていないのかもしれない。でも、それでいい。
「そうだよ。まだ何か隠してるヤツ、いるんじゃねえか? いままで言ったことだって本当かどうか」
スネークさんの意見にも同意した。
まったくだ。僕たちは全員、誰一人として、何一つ本当のことを言ってないかもしれない。
「本当なんてわからんよ。真実は常に主観でしかありえない」
オダさんの言う通りだった。
真実はそれぞれの胸の中にしかない。
僕は、今日みんなに伝えるつもりだった真実を、そっと胸にしまいこんだ。
いちご娘さんが僕の胸の内を見透かしたように、名言を口にした。
「人間は未知である……か」
他人に規定され、共有されるために存在するゲンジツというものを僕は信頼していない。それよりも、人がそれぞれ胸に抱えている真実こそを信じたい。
真実は、ゲンジツに置き換えようがない圧倒的なものだ。たったひとつの真実は、この世のあらゆるゲンジツを超越する。
そのことを僕は、僕の真実を告白することで証明するつもりだった。
けれども、その必要はなくなった。僕が真実を告げなくても、僕の存在は肯定されてしまったからだ。
真実とは主体的なものとは限らない。今日僕は、初対面の四人、安男さん、スネークさん、オダ・ユージさん、いちご娘さんとのコラボレーションによって、新しい真実を獲得した。人間の内部には、いくつもの真実が眠っている。目覚める真実と、目覚めない真実があるということだ。
ひとつの真実が覚醒《かくせい》したのだから、僕が用意してきた真実をここに召還しなくてもいい。
満ち足りた気分で、僕はおもむろに言った。
「みんな、夢みたいなもんだってことですよ。僕はミキちゃんに最高の夢を見せてもらいました」
夢は、目覚めなければ反芻《はんすう》することができない。目覚めなければ、夢は夢として存在しようがない。目覚めたとき、初めて夢は夢として認識される。
未知の存在である人間は、夢と同じだ。
僕たちはみんな、如月ミキという夢を見ていた。夢を見ているとき、人はそれを夢とは断定しない。目が覚めたとき、夢のかけがえのなさを知る。
僕たちは、いや少なくとも僕は、夢から覚めるのにミキちゃんの死から一年かかったということだ。
それは、素晴らしい夢だった。
僕たちは、僕は、素晴らしい夢だった。
気がつけば、「夢たち」は、口々にこんなことを言い合っていた。
「幸せだったのかな……ミキちゃんは」
「幸せだったに決まってますよ……こんなに皆さんに愛されてたんですから」
「あの子は幸せだった……幸せだった……なんて日なんだ今日は……皆さん……ありがとう! ありがとう! ありがとう!」
エコーに包まれたまま、僕たちは別れた。
二〇〇八年二月四日。
一年前、別れ際に翌年の再会を提案した僕にオダさんは言った。
「やめましょうよ、また集まろうなんていうのは」
スネークさんも、オダさんに同意した。
「そうだよ、今回きりにしておこうぜ。やるなら誰か他のヤツ誘ってね。世界中にあと一人ぐらいはミキちゃんファンっているんじゃねえの?」
この疑問形が、僕を刺激した。
なぜなら、世界中でたった一人の如月ミキファンは、この「家元」だからだ。
やがて、僕たちの掲示板にひとりのメンバーが加わった。
初めて書き込みをしたときから、妙な自信と余裕に満ちた筆致だったその男は、自らを「シシド・ジョー」と名乗った。
このネーミング。オダさんは心中穏やかではなかったに違いない。僕がオダさんだったら、それだけで俄然《がぜん》対抗心を燃やすと思う。
しかもジョーさんは、どこか芸能界ずれした言い回しで、オダさんに匹敵するほどのミキちゃんに関する新情報を次々に誇示して見せた。
僕はそんなジョーさんを敵対視した。僕を脅かす存在に思えた。半ばオダさんと結託する形で、みんなに集合を呼びかけた。
「ひょっとしたら本人かも……」と、オダさんのときと同じように能天気な予想をするスネークさんは一も二もなく快諾し、去年、結局僕のパーフェクトコレクションを見損なった安男さんもみんなに会いたい一心で参加を決意、そして「近頃めっきり人恋しい季節になりました」と四季を通じて掲示板に書き綴っていたいちご娘さんもすんなり了解した。
一度解散したバンドが再結成される場合も、案外こんな感じなのかもしれない。
僕たちの、いや僕の真意は「打倒シシド・ジョー」、これに尽きる。しかも、ジョーさんは自信満々で「この追悼会で、私が事件の驚くべき全容をお伝えしよう」などと書き込んできたのだ。
ところで僕はずっと今日の追悼会を「二周忌」と呼んでいたが、この前「それは間違っている」とオダさんに指摘された。一周忌はあっても「二周忌」というものは存在しないのだそうだ。「三回忌」が正確な言い方らしい。
これだけなら、本来僕が素通りするべき「どうでもいいこと」だ。だが、その理由をオダさんに告げられて、逆に「どうでもよくないこと」だと思った。
死んだ年を「〇」と数えず、「一」として数えていくからだという。
つまり、生きている間の年齢は「〇歳」から始まるが、死んだ後は「一」から始まるということなのだ。
死んだ瞬間に何かがリセットされ、ゼロになるのではなく、そのとき新しい何かの始まりが宣告される……そういうことだ。
二〇〇六年二月四日、何かが始まった。そして二年後の今日も何かが始まろうとしている。おそらく僕は、去年告白できなかった、もうひとつの真実をついに告白することになるだろう。
僕たちは去年と同じ部屋に集合した。全員喪服でシシド・ジョーの登場を待ち構えた。
やがて姿を現したシシド・ジョーは、なんと、あの僕らが愛してやまない大磯ロングビーチのイベント会場でミキちゃんが「ラブレターはそのままで」を歌った際の司会者だった。僕はあの日、ライブをハンディカムで撮影しており、その映像を何度も何度も繰り返し見ていたから、すぐにわかった。
シシド・ジョーは悠然と言い放った。
「あの日、何が起こったか、わかるかな?」
堂々とした体格を喪服に包んだ初老の紳士は不敵な笑みを浮かべて、先の曲がった針金、かなり使い込んだ様子のそれを僕たちに見せつけた。
「あの日、ミキちゃんの部屋に侵入したのは、この私だ。あの日、永遠に、如月ミキを私だけのものにしたのだ……私ほど、彼女を愛していた人間はいなかったからな……」
違う!
僕こそが、如月ミキを心底愛した「たった一人」のファンだ。
「ちょっと待ってください。その前に、僕の秘蔵の映像を見ませんか。シシド・ジョーさん、あなたも映ってますよ。憶《おぼ》えてますよね、大磯ロングビーチ……」
大磯ロングビーチが大好きなスネークさんが喜びの声を上げた。
「マジ? 動画も回してたの?」
安男さんのまなざしも期待に満ちている。オダさんが、困った人だ、という苦笑いを浮かべた。いちご娘さんも呆《あき》れて言った。
「とんだ警察官だな」
驚くのはまだ早い。お楽しみはこれからだ。
やっと、僕の真実の告白ができる。
僕の「愛」が、どんな山よりも高く、どんな谷よりも深く、どんな大河よりも広いことを、これから証明してやる!
「〜大磯ロングビーチで大はしゃぎ!!〜清純アイドル学園水着で大運動会!!」
はしゃいだ書体による、はしゃいだ語句が、ショッキングピンクや鮮やかなイエローといったはしゃいだ色彩をバックに、躍っている。
屋外ステージの上で、歌い踊るアイドル、如月ミキ。曲は彼女のデビュー曲「ラブレターはそのままで」だ。彼女を凝視する映像は不安定に手ブレを起こしている。
ときおり感極まったようにズームアップしたかと思えば、またすーっと構図をひく。そんなことをせずに、どっしり構えて撮影していたほうが映像としては安定するはずなのに、映像の撮り手は、如月ミキを近くで見たいという熱情と、全体像を捉《とら》えたいという欲望の間で行ったり来たりする自分を抑えきれない様子だ。
かけがえのないこの瞬間を永遠に記録したいという思いと、いまこの瞬間のドキドキに身を任せてみたいという本能に彼は引き裂かれており、結果、映像は構築と崩壊を幾度も繰り返すことになる。
イベント会場はひどく混雑しているようで、ときおり誰かがぶつかり、手ブレはさらに大きくなる。その都度、撮り手は舌打ちし、イライラしているであろうことが、映像の呼吸からも感じ取れる。
ただでさえ彼は如月ミキをアップで撮るか、ひきで撮るかに右往左往している。これ以上、煩わしいことは拒否したいはずだ。
被写体の歌唱音声にかぶることを恐れて、じっと我慢していたであろう撮り手は、ついにたまらず、小さな声で、周囲に告げた。
「おい! こっちに来るなよ!」
しかし、それでも隣の客がぶつかってくる。画面は大きく揺れた。
「来んな、って言ってんだろうが!」
そしてもう一度、さらに映像は凄《すさ》まじい揺れを起こした。撮り手が、如月ミキの歌声が聞こえなくなるくらい大きな声で叫んだ。
「痛い、って言ってんだろ! オレにぶつかるな! オレは足、怪我してんだから! ぶつかんなよ! オレの邪魔すんじゃねーよ!」
彗星《すいせい》流れた おしゃべりの途中
(流れ星が、僕の人生、立ち止まらせた)
恋のナゾ解き 不意に始まる
(隕石《いんせき》の謎、モノリスのように、屹立《きつりつ》し)
本当の気持ちは明かせない
(でも、教えてくれたね、真実を)
貴方から誘ってほしいからなんて
(誘ったのは、君のほうさ)
宛名のないラブレター
(僕は、見つけた、たどり着く場所を)
テーブルにおいたまま
(ここにいるよ、君のそばに)
書きかけのラブレター
(僕の気持ちは変わらない)
いつ切手 貼ろうかな?
(ずっと、ずっと、ここにいる)
ラストダンスに間に合うように
(僕は、君の声に)
いつまでも待つわ あなたに送るメッセージ
(いつでも耳を傾けていた)
ラストチャンスで私に決めてね
(君の心の、叫びのひだを)
一番大事なことは
(絶対に知っていた)
胸の奥に秘めている
(僕が選んで、君が選んだ)
月もニアミスで ため息もそぞろ
(だからこれは、運命なんだ)
何度もUターン ためすウインク
(もう逃がさないよ)
言葉にすれば もどかしいの
(あの日と同じように、抱きしめる)
どの夢を 私が欲しいのかなんて
(後ろから、ぎゅっと)
予想しない ラブ・ワーズ
(言葉なんて、言わせない)
息づかいで待っている
(唇を、ふさいでみせる)
シナリオない ラブ・ワーズ
(君のすべてを、感じてる)
白いまま 語りたい
(生まれたままの君と)
ラストダンスに間に合ったなら
(生まれたての僕と)
生まれ変われるわ
(こっちにおいでよ、ベイビー)
それまで伏せるメッセージ
(最終電車に乗り遅れたって)
ラストターンに すべてをかけるわ
(こわくはないさ)
一番素敵なことは
(始発電車まで待てばいい)
夢の中で待っている
(僕の瞳《ひとみ》に君が映るように)
ラストダンスに間に合うのかな?
(君の瞳に僕を焼きつけたい)
ドキドキしてるわ
(ドキドキしてるよ)
あなたに届けメッセージ
(キャッチした、誰よりも真っ先に)
ラストソングで まなざし決めてね
(愛は、惜しみなく)
一番いいたいことは
(与えるものだから)
瞳の中 描いてある
(僕はすべてを捧《ささ》げるよ)
今日も僕はミキちゃんとデュエットする。僕は永遠に歌い続ける。
日本で、世界で、地球で、宇宙でいちばん如月ミキを愛している「たった一人」のファンはこの僕なのだ、と。
[#地付き]END
[#改ページ]
「ラブレターはそのままで」
歌唱:如月ミキ
作詞:サエキけんぞう
作曲・編曲:佐藤直紀
(C) 2007 by NIPPON TELEVISION MUSIC CORPORATION
写真・ロゴ・イラスト提供/
(C) 2007『キサラギ』フィルムパートナーズ
撮影:三木匡宏(特写)
[#3字下げ]川澄雅一(スチール・劇用写真)
ロゴデザイン:大島依提亜
ミキ:エヌ・デザイン
ラッキーチャッピー:ドラゴンクラフト
[#改ページ]
今日はあなたの「キサラギ記念日」
[#地付き]映画『キサラギ』企画・プロデューサー 野 間 清 恵
私は、自分を「如月ミキのような女」だと思っている。特にスタイルがいいわけでも、顔がカワいいわけでもなく、何のとりえもない、ごくごく普通の女の子だからだ(コンマ0までバストサイズがミキと同じなんて偶然?)。けれども、そんな平凡極まりない私に神様がひとつだけ特別なギフトを与えてくれたとすれば、それは「天才的才能を引き寄せる能力」。だから私はプロデューサーという仕事がやれているのかもしれない。「才能×出会い×時×場所×運」をビーカーに入れて化学変化を起こさせる、いわば「触媒」と言える仕事。映画『キサラギ』では驚異的大爆発が起きてしまった……。
そもそも、天才的出会いは脚本家・古沢良太《こさわりようた》≠ゥら始まった。私は『キサラギ』というお話が大好き。それは、古沢良太が描き出す人間への愛にあふれた世界観が見事に凝縮されているから。
映画『キサラギ』はワンシチュエーションの密室劇。私はビーカーの中に、「小栗旬《おぐりしゆん》×ユースケ・サンタマリア×小出恵介《こいでけいすけ》×塚地武雅《つかじむが》×香川照之《かがわてるゆき》」という、ひとくせも、ふたくせもある役者五人をミックスしてみた。しかし、こんな個性豊かな五つの液体は、いったいどんな色になり、味になるのか想像もつかなかった。確かに古沢良太の脚本は緻密《ちみつ》に練られていて、スピード感も、セリフのパンチも、キャラクターの立体感もある。しかしそれに加えて、閉鎖された空間の中にいる天才役者同士から磨き出る演劇さながらの即興的なコメディセンスが加わったことにより、さらにそれぞれのキャラクターが際立ってきた。その結果、ストーリーのおもしろさが増幅したのだ。いちご娘のカチューシャが、ゥニャ〜っとずれたのも偶然なのか必然なのか? 本当に、「人間は未知」なる力の持ち主である。
それにしても「如月ミキ」は幸せな女だと思う。家元(小栗旬)、オダ(ユースケ・サンタマリア)、安男(塚地武雅)、スネーク(小出恵介)、いちご娘(香川照之)、という五人+αもの素敵な男性たちに愛されて昇天したのだから……。私が脚本『キサラギ』という作品に惚《ほ》れ込んだのは、ここだ。「どんなブッさいくだって、必ず自分を愛してくれる人が、少なくとも五人はいるんだ」って思うと、なんだか勇気が湧《わ》いてきませんか(笑)? 初めて、脚本『キサラギ』を読んだ時、大好きな人にギューっと抱きしめられているような安心と、みなぎってくる自信を感じたのだった。この幸せな気持ちを、皆さんにおすそわけしたい。この強烈な想いが、最後まで、映画『キサラギ』成立に向けての原動力となり、さまざまな人々にリレーしていったのだ。
しかし、ものごとはうまくいく時ばかりではない。
今では古沢良太も日本アカデミー賞受賞脚本家だが、当時は新人脚本家。今の映画業界、新人が書いたオリジナル脚本の映画化に、誰が出資してくれるというのか? 私もある映画会社の新人プロデューサーだった。情熱だけで映画化権を預かったものの、新人ゆえの無力さに打ちひしがれながら、夜の公園でひとりナミダしていた頃もあった。もちろん毎日のように、映画成立に向けて上司を説得し続けた。しかし最後は「お前も、もっと儲《もう》かるものをやれ……」と脚本も読まずに、この大切な脚本をテーブルに叩《たた》きつけた。だから私は会社を飛び出した。今考えると無謀なことをしたと思う。しかし不思議と私は負ける気がしなかった。家元が、オダ・ユージが、スネークが、安男が、いちご娘が、そして如月ミキが、いつも私に勇気を与えてくれていた気がする。
人生一度くらい何もかも擲《なげう》って、がむしゃらに走ってみる時期があってもいいのではないか。そうすれば必ず誰かが手を差し伸べてくれると信じたい。
それが、ユースケ・サンタマリア≠セった。「絶対ユースケさんも、『キサラギ』を愛してくれる」。この根拠のない自信が的中。ユースケさんの脚本『キサラギ』に対する想い入れは、小説『キサラギ』の家元がミキを愛するほど、狂おしいものがあった。きっと私は古沢くんとユースケさんの類似性を発見していたのだろう。「根っからのエンターテイナー。人を楽しませたがりやさん」。ものづくりの根底が似ているふたりは相思相愛。ユースケさんは、真っ先にオダ役を快諾してくれ、映画成立まで辛抱強く待っていてくれた。ここから映画『キサラギ』成立に向けて追い風が吹いてきた。
次に、エグゼクティブ・プロデューサー 三宅澄二≠フ参加。三宅さんは新人の才能に賭《か》けてくれた。そして最後まで私に、好きなように、わがままな映画作りをさせてくれた。だから私は三宅さんが、お父様から「澄二、よくやった!」と褒めてもらえるような映画を作ろうと思った。それが三宅さんへの恩返し。
そして私の拙《つたな》い日本語の行間から、何とか意図を汲《く》み取ろうとしてくれた監督・佐藤祐市=B撮影初日、家元役の小栗旬≠ェスタジオにあらわれた時、私は目を疑った。いかにも、なオタク風のロゴ入りトレーナーを着ているのに、カッコよすぎる……。そこにいるのは私がイメージしていた家元そのものだったのだ。それは小栗くんの俳優としての実力なのか、それとも佐藤監督の演出力なのか、とにかく私までもが映画『キサラギ』の世界観の中にいる登場人物のひとりになったような錯覚を覚えた。あの衝撃は今でも忘れられない。
「野間さん、こんなカッコいいオタクなんて、いないよ」と、映画『キサラギ』に出たくて出たくてたまらなかったのに出られなかった役者の男性マネージャーに言われた。うふふっ、してやったり(ニンマリ)。私は、いかにも、なオタクを描きたかったのではない。世の女性たちが、こんな男性たちになら、自分の卑猥《ひわい》な噂をされても嬉《うれ》しがれるような、そんな逆説的な美男子を描きたかったのである。目論見《もくろみ》は見事成功。
ここで撮影秘話。この人気者五人は毎日多忙だからスケジュールを合わせるのが至難の業。だから彼らをキャスティングした時点で、短期間での撮影が目に見えた。これは、いつも以上に、演技に集中してもらわねばならない。一番怖いのが、何かの関係で撮影が延びた場合。もう予備のスケジュールがないのだ。だから私は「女人禁制」をとったのだ(笑)。つまり如月ミキ(役)との接点を極力|失《な》くしたのだ。男性の役者がまず気を配るのは、女優とのコミュニケーション。だからまるで受験生の息子からエッチな本を奪い、ともすれば自慰にふけってしまう息子を塾へ行かせ万全の態勢で管理する母親のようだった。しかしある日、如月ミキが現場に顔を出してしまった! それも水着姿で……。その時の五人の様子は、DVDの特典映像で楽しんで欲しい。そしてよくぞ禁欲合宿をがんばった五人のキャストの皆さん! 次回は、かわいい女優さんとの共演企画をちゃんと用意してますから。
脚本『キサラギ』は、荒削りだけど若さみなぎるインディーズの「芝居」から始まった。当時、日本では、オタクという存在がフォーカスされ、海外でもジャパニメーションがフィーチャーされていた。だから、ピーンときたのだ。そして、ともすれば中野の小劇場でひっそりと終わっていた「芝居」を、ちょっとビターなメジャーキャストと、エンターテインメントなテレビの監督とをかけあわせることで、こうやって、メジャー「映画」に引っ張り上げた。そこまでには、ちょっと時間はかかったけれど、ちょうどオタクブームが定着して、文化になった今となっては、またタイミングがよい時期の映画公開となる。
そして、これは角川書店・加藤さんのセンスの賜《たまもの》だが、相田冬二《あいだとうじ》≠ニいう、これまた、類《たぐい》まれなる筆力を持ったライターをかけあわせて、「小説」へと、形を変えて『キサラギ』を導くことができた。「小説」は「映画」とは違ったエンディングになっている。こう来てくれたか! それもおもしろい! 映画製作の過程で、やむを得ない事情から、断念せざるを得なかったプロデューサーの想いを、見事成就させてくれた。古沢くんの世界観を大切にしながら、相田さんがほどよくスパイスをきかせている。ここでも、おそるべき才能の誕生に立ち会えた喜びを感じている。
そして今、脚本『キサラギ』は時代をスリップして江戸時代の「落語」へ、そして大海原を渡り映画の聖地「ハリウッド」へ漂流してしまった。こうやって独り歩きしはじめた『キサラギ』はいったいどこまで漂っていくのか? きっと私がそのひとりであったように、『キサラギ』に接した世界中のファミリーを、幸せにしていくのだろう。
私たちは、毎日すごくいい事があるわけでもなく、毎日を坦々《たんたん》と生きている。そんな何気ない日常の中であなたは『キサラギ』と出会ってくれた。そのことで、ささやかながら明日に向かってがんばれる……、今日があなたの「キサラギ記念日」になってくれれば嬉しい。
[#改ページ]
映画『キサラギ』
〈CAST〉
家元 小栗旬
オダ・ユージ ユースケ・サンタマリア
スネーク 小出恵介
安男 塚地武雅《ドランクドラゴン》
如月ミキ
司会者 宍戸錠(特別出演)
いちご娘 香川照之
〈STAFF〉
エグゼクティブ・プロデューサー 三宅澄二
企画・プロデューサー 野間清恵
原作・脚本 古沢良太
原案協力 48BLUES
監督 佐藤祐市
音楽 佐藤直紀
主題歌 ライムライト「キサラギ」
(SME Records)
制作プロダクション 共同テレビジョン
配給 東芝エンタテインメント
(C) 2007『キサラギ』フィルムパートナーズ
※この作品はフィクションであり、登場人物・団体名等は架空のものです。
本書は、二〇〇三年十二月に上演された舞台『キサラギ』及び二〇〇七年六月十六日公開の映画『キサラギ』の脚本をもとに小説化したものです。小説化にあたり、変更がありますことをご了承ください。
角川文庫『キサラギ』平成19年5月25日初版発行
平成19年11月1日6版発行