斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲
原作:鋼屋ジン(Nitroplus)
著 :古橋秀之
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虚無《きょむ》――あるいは虚夢《きょむ》≠ニ言うべきか。
人間の想像力を無限に希釈《きしゃく》し、無そのものに等しくする無量の静謐《せいひつ》。
意志と生命の存在を許さぬ、圧倒《あっとう》的な無機の空間。
その背後には、幾《いく》千万の星々が小さな光を灯《とも》している。
至近|距離《きょり》から見るならば、それらのひとつひとつが、生命を創造し、あるいは灼《や》き減《ほろ》ぼす、神の力の顕現《けんげん》だ。
だが、恒星《ほし》の命とて、永遠ではない。宇宙という果てなき虚無は、星々の輝《かがや》きすらも、やがては闇《やみ》の色に塗《ぬ》り込《こ》めようとする。
光と闇の戦いは、闇の勝利に終わる運命《さだめ》なのか。
……否《いな》
否≠ニ叫《さけ》ぶその意志が、またひとつ、虚無の中に瞬《またた》く新たな光芒《ほし》を創造《つく》る。
+
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煌《こう》――!
鬼械神《デウス・マキナ》デモンベインの脚《あし》に宿った高密度の呪力《じゅりょく》、空間を歪曲《わいきょく》せしめるその力が、虚空《こくう》の只中《ただなか》に激烈《げきれつ》な輝《かがや》きを生み出しつつ、眼前の敵に叩《たた》きつけられた。
近接|粉砕呪法《ふんさいじゅほう》アトランティス・ストライク=B
巨大《きょだい》な鉄槌《てっつい》と言うべき鋼《はがね》の脚が、紅《くれない》の鬼械神《デウス・マキナ》、リベル・レギスの胸板に回し蹴《げ》りの形で打ち込まれた。畏《おそ》るべきエネルギーを帯びた、鋼と鋼の衝突《しょうとつ》。その余波が空間の波と化して星の海を震《ふる》わせ、リベル・レギスは後方に大きく吹《ふ》き飛んだ。
だが、その機体に損傷はない。鋭《するど》い両手の爪《つめ》が|空間に突き立てられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、虚空に長い爪痕《つめあと》を残しながら、やがて後退の勢いも止まった。並の鬼械神《デウス・マキナ》を――いや、小神格の旧支配者さえも破砕する超常《ちょうじょう》の一撃《いちげき》に、紅の機神は耐《た》え切った。超・超常の耐久《たいきゅう》力と言えた。
体勢を立て直すリベル・レギスの至近に、デモンベインが再び踏《ふ》み込んだ。脚部《きゃくぶ》の空間歪曲機構を作動し、|虚空を踏み締め《ヽヽヽヽヽヽヽ》ながら、再び脚を振《ふ》り上げ――
「連続起動! アトランティス・ストライク・ヴォーテックス!!」
(イエス、マスター)
デモンベインの搭乗《とうじょう》者、魔術師《マギウス》覇道鋼造《はどうこうぞう》の指示に、魔導書《まどうしょ》が答えた。
右、左、右、左、そして右――デモンベインの連続回し蹴りが、周囲の空間をも巻き込みながら、竜巻《たつまき》のような勢いでリベル・レギスに叩き込まれる。その一撃一撃に、必殺の破壊《はかい》力が確実に込められている。
「ほう――見事だ」
リベル・レギスの術者、大導師マスターテリオンの声≠ェ、デモンベインの操縦席に流れ込んできた。
「余が|これまでに戦ったデモンベイン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のこれほど力強い攻《せ》め手を持つものは稀《まれ》だ。|心臓を貸した《ヽヽヽヽヽヽ》甲斐《かい》があったというものだな」
「虚勢《きょせい》を張るな、マスターテリオン!」
不可思議な余裕《よゆう》を含《ふく》むマスターテリオンの口調に対し、覇道の言葉には焦《あせ》りが見える。
かつて、マスターテリオンの|目覚め《ヽヽヽ》の直前に、覇道鋼造はリベル・レギスの呪力|中枢《ちゅうすう》機関――無限の心臓≠奪取《だっしゅ》し、デモンベインの機体に組み込んだ。その結果、デモンベインは現在、元来の自前のものと合わせて、ふたつの心臓《エンジン》を備えている。最大級の攻撃《こうげき》呪法を立て続けに起動できるのは、その過剰《かじょう》とも言える出力があってのことだ。
また、この決戦の舞台《ぶたい》を宇宙に求めたのも覇道自身だ。|ここ《ヽヽ》ならば、地上の被害《ひがい》を気に掛《か》けることなく、デモンベインの破壊力を存分に振るうことができる。
地の利、時の利を確保し、かつてないほどに――いかなる時の輸においてもあり得たかったほどに、状況《じょうきょう》は有利だ。|有利なはずだ《ヽヽヽヽヽヽ》。この時をおいてほかに、永遠の宿敵・マスターテリオンを仕留める機会はない。
だが、心臓抜き《ハートレス》≠フリベル・レギスは、デモンベインの巻き起こす破壊の渦《うず》に巻き込まれながら、平然とその勢いに耐えている。
「感謝に堪《た》えぬぞ、覇道。老骨に鞭打《むちう》って、必死で余を楽しませてくれる」
歌うような口調で、マスターテリオソは言った。
「どれ……その意気に応《こた》えて、ひとつ、余も踊《おど》ってみるとしようか」
「吐《ぬ》かせ!」
デモンベインの脚が、ひときわ激しい光を帯び、リベル・レギスに叩きつげられた。
が――リベル・レギスは一歩後退しながら、デモンベインと同じ動作で脚を振り上げた。鋼の脚と脚が衝突し、デモンベインの回転が強制的に止められた。さらに、リベル・レギスは脚を踏み換《か》えながらもう一撃、デモンベインに蹴りを見舞《みま》う。
装甲《そうこう》の破片をばらまきながら、デモンベインがよろめいた。
――馬鹿《ばか》な……!
紛《まが》い物とはいえ鬼械神《デウス・マキナ》。特殊合金《ヒヒイロカネ》の装甲に加え、何重もの魔術《まじゅつ》的|防御《ぼうぎょ》に鎧《よろ》われた機体には、通常の攻撃では傷ひとつつけられないはずだ。つまり、リベル・レギスの蹴りには、アトランティス・ストライク≠フような強力な攻撃呪法が乗せられていたことになる。
(報告:右肩部《みぎけんぶ》装甲、七〇パーセント破損。腕部《わんぶ》への動力伝達、三二パーセントダウン)
「修復しろ」
(イエス、マスター)
デモンベインは大きく跳《と》び退《ずさ》った。同時に、攻撃呪法に回されていた動力が復元|呪文《じゅもん》の形で右肩に回され、フィルムの逆回しのように装甲と内部機構を再生する。
同様に、デモンベインの右手のひらの中に、無から生じるように巨大な回転拳銃《リボルバー》が現れ、リベル・レギスに向かって立て続けに呪力の弾丸《だんがん》を放った。
弧《こ》を描《えが》いて飛翔《ひしょう》し、着弾する呪力弾。リベル・レギスはそれを、ひとつ残らず手のひらで受け止め、そして、暗黒の重力弾に変えて投げ返した。
「……ッ!!」
デモンベインは再びリボルバーを連射。重力弾を空中で打ち消したが、撃《う》ち漏《も》らした一発が脇腹《わきばら》をかすめ、機体の一部をごそりと削《そ》ぎ落とす。
(報告:左腹部装甲|及《およ》び――)
「修復だ」
(イエス、マスター)
二歩、三歩――デモンベインはさらに大きく後方に跳び、間合いを取った。両脚の空間歪曲機構を作動しつつ、さらに五歩、十歩と空間を踏みしめ徒《か》ち渡《わた》るが、しかし、紅の翼《つばさ》を広げて追いすがるリベル・レギスを振り切れない。
なぜだ。マスターテリオソの超人的な魔力によって顕現《けんげん》しているとはいえ、本来の動力源を持たない今のリベル・レギスには、デモンベインを傷つけることなど不可能なはずだ。奴《やつ》はいったい、どこからその力を引き出しているのだ……!?
覇道の懸念《けねん》に、魔導書が答えた。
(推論:リベル・レギスはデモンベインの攻撃呪法を変質・反転)
「……そんなことが可能なのか?」
(推論:デモンベインの第二心臓《ヽヽヽヽ》は本来リベル・レギスのものであるため、感染呪術的な魔術回路が構成されている可能性あり)
リベル・レギスの攻撃力は、デモンベイン自身から発している――では、第二心臓を停止するか? しかし、限りなく不滅に近い最強の鬼械神《デウス・マキナ》<潟xル・レギスを、片肺で仕留めきれるものだろうか……?
(マスター、指示を)
「第二心臓を……いや、ここは全力で決める!」
覇道は言った。
「第一近接|昇華《しょうか》呪法・複式!!」
(イエス、マスター)
魔導書は主《あるじ》の指示に従い、デモンベインの装備する最大最強の攻撃呪法を展開し始めた。
(ヒラニブラ・システム発動。ナアカル語|符号《ふごう》呼出・確認《かくにん》。術式|解凍《かいとう》。第一近接呪法、封印《ふういん》解除。第一心臓、第二心臓、共に出力全開――)
左右の胸に内蔵された銀鍵《ぎんけん》守護神機関≠ェ最大速度で回転し、ふたつの無限の心臓≠フ出力を解放した。
同時に、デモンベインは剣指《けんし》を形作った両手を頭上に振《ふ》り上げ、振り下ろした。デモンベインの背後に、五芒星《ごぼうせい》形の|破邪の印形《エルダーサイン》が浮《う》かび上がる。
ヴォオオオオ――!!
デモンベインが吼《ほ》えた。設計限界の倍近い負荷を受けた全身の魔導機が、至るところで弾《はじ》け飛んだ。
「レムリア・デュアル・インパクト!!」
左胸から右腕《みぎうで》へ、右胸から左腕へ。光る血管のような魔力の流れが誘導《ゆうどう》され、両の手のひらに集中する。火花と破片を体中からまき散らしながら、デモンベインは輝《かがや》く両手でリベル・レギスにつかみかかった。
リベル・レギスはその攻撃《こうげき》を半身にかわしながら、デモンベインの左手のひらを、右手で受け止めた。即座《そくざ》に叩《たた》きつけられるはずのレムリア・インパクト≠フ無限熱量が、生の魔力の形で紅《くれない》の腕に引き込まれ、|反転させられる《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
デモンベインの手のひらが瞬時《しゅんじ》に凍結《とうけつ》し、粉々に砕《くだ》け散った。リベル・レギスはさらに指先を揃《そろ》えた右手をえぐるように突《つ》き込む。絶対|零度《れいど》の手刀ハイパーボリア・ゼロドライブ=B単なる超《ちょう》低温ではない、|負の無限熱量《ヽヽヽヽヽヽ》を帯びた右手が、デモンベインの左|前腕《ぜんわん》を砕き、さらに肘《ひじ》、上腕、肩《かた》を|砕き昇り《ヽヽヽヽ》、左胸の第一心臓≠ヨ――
その寸前、デモンベインはさらに大きく踏《ふ》み込みながら、右手のひらをリベル・レギスの胸の中央に打ち当てた。手のひらを中心に結界面が広がり、リベル・レギスの全身を球状に包み込む。左腕を囮《おとり》にして、レムリア・インパクト≠完壁に決めた形だ。
光射す世界に
汝《なんじ》ら闇黒《あんこく》
棲《す》まう場所なし――
覇道のロ訣《こうけつ》によって呪法が完成しようとした、その時。
卵の殻《から》が内側から割れるように、紅の手刀が結界を突き破った。その手には今なお、レムリア・インパクト≠ニ同様の呪力が宿っている。
わずかな|ひび《ヽヽ》を割り広げながら、リベル・レギスの上半身が結界から抜け出した。
だが、それも覇道の計算のうちだ。
ゴッ――!!
デモンベインが全身で打《う》ち当たり、リベル・レギスを|自分ごと《ヽヽヽヽ》結界の中に押し戻《もど》した。
もろともに、消滅《しょうめつ》する態勢だ。
「覇道――!?」
「この老いぼれが、今さら命を惜《》おしむと思ったか!?」
組み合った二体の鋼《はがね》の巨人《きょじん》を、球状の結界が急速に包み込んでいく。
「今日、この時を以《もつ》て、我々の戦いは終わる! 俺と共に逝《ゆ》け、マスターテリオン!!」
――ふと、結界の隙間《すきま》から、覇道鋼造の目に、禍々《まがまが》しい赤い色をした惑星《わくせい》が見えた。
火星――
地球の衛星|軌道《きどう》付近で戦っていたはずが、いつの間にかこんなところまで来てしまっていたのか。
それでよい。
自分とマスターテリオンの宿命的な戦いは、あの赤い死の星のみに見取られ、人知れず終結するのだ。それが相応《ふさわ》しい。
ほんの一瞬《いっしゅん》、覇道がそう思った時――
「ははは、やるな、覇道! これほどまでとは!」
異次元の劫火《ごうか》に機体ごと灼《や》かれながら、マスターテリオンが哄笑《こうしょう》した。
「汝の決意のほどに免《めん》じて、このまま相打ちに果ててやりたいところだが――ふむ、馴《な》れ合いは遊技の興を殺《そ》ぐというものか」
リベル・レギスは右手を持ち上げた。その指先に、溶《と》けた装甲《そうこう》の表面が、ひと筋の血のように流れ込んだ。指を弾くと、鋭《するど》い爪の先から血の玉のような滴《しずく》が飛んだ。高熱を帯びた、紅《あか》い溶岩《ようがん》の滴だ。
紅い滴は狭《せば》まりつつある結界の隙間をずり抜け、宇宙空間へと飛んでいく。
「なんだ!?」
(報告:射出された物体を追跡《ついせき》――|時間転移《ヽヽヽヽ》。過去方向に進行中)
「過去……だと?」
(報告:軌道|逆算《ヽヽ》の結果、射出体は約二万年前の火星表面に到着《とうちゃく》)
――ギュオン――
覇道の目の前で、一瞬、火星の像が歪《ゆが》み、そして|変質《ヽヽ》した。
赤い砂漠《さばく》に覆《おお》われた死の星から――表面に無数の直線上の筋を彫《ほ》られ、禍々しい生命の気配に満ちた星へと。
リベル・レギスの落とした血の一滴が、今《ヽ》、|この瞬間《ヽヽヽヽ》、ひとつの惑星の歴史を変えたのだ。
「――あの星になにをした、マスターテリオン!?」
「ふふ……さて、汝の決意が報《むく》われるか否《いな》か。ひとつ、賭《か》けてみようではないか」
「くッ!!」
覇道は魔導書《まどうしょ》に叫《さけ》んだ。
「電信装置! 地球に――」
○・五秒後、レムリア・インパクト≠フ結界は完全に閉じ、その内部に異次元の超エネルギーが解放された。死と消滅の閃光《せんこう》が、結界球を太陽のように輝かせた。
+
漆黒《しっこく》の宇宙に、またひとつ新しい太陽《ほし》が生まれたそのさまを、厭《いと》わしき嘲笑《ちょうしょう》と共に見つめるものがあった。剣奴《けんど》の試合を楽しむ観客のように、あるいは二|匹《ひき》の蟻《あり》の争いを見つめる子供のように――二体の鬼械神《デウス・マキナ》の超神的|激突《げきとつ》を、|それ《ヽヽ》は邪悪《じゃあく》な興味を以て観察していたのだ。
|それ《ヽヽ》は、盲目《もうもく》にして無貌《むぼう》、混沌《こんとん》として這《は》い寄り、魂《たましい》を喰《く》らうもの。王たる王の使者。夜に吠《ほ》え、闇《やみ》に棲む、燃える三眼――いや、たとえ百万言を費《つい》やしたとしても、その存在のひとかけらすら表すことはできないだろう。変幻《へんげん》自在の性格《ペルソナ》と不変の悪意こそが、その本質なのだ。
そう、|それ《ヽヽ》は|それ《ヽヽ》自身の計り知れぬ意志と便宜《べんぎ》によってさまざまた形態を取る。人たるに相応しき時には人に、獣《けもの》たるに相応しき時には獣に、怪物《かいぶつ》たるに相応しき時には怪物に――
だが、現在。観測する者とてない虚空《こくう》の只中《ただなか》にあって、それ《ヽヽ》に相応しい姿とは、はたして如何《いか》に。今、この瞬間の|それ《ヽヽ》を形容する言葉は人間の語彙《ごい》にはなく、ただ|宇宙的形態《ヽヽヽヽヽ》としか言いようがない。
|それ《ヽヽ》はマスターテリオンと覇道鋼造の打った、それぞれの|最後の一手《ヽヽヽヽヽ》とその波及《はきゅう》効果を、人智《じんち》を超《こ》えた感覚によって正確に捉《とら》えていた。
火星の表面には、リベル・レギスの血から生まれた|奉仕種族《ヽヽヽヽ》が急速に蔓延《はびこ》りつつあった。
また、覇道の放ったひと束の|電信情報《ヽヽヽヽ》が、光の速さで地球に向かいつつあった。
それらは、結界に捕《と》らわれたふたりの超人《ちょうじん》の、最後の賭けだった。
どちらが早く、その思惑を達成ずるか。それはまだ、分からない。
(――おや、これは面白《おもしろ》い)
|それ《ヽヽ》の中に、人間的な興味が芽生え、人間的た思考を形作った。
(世界の命運をも賭げた、一世一代の大勝負。ひとつ、私も乗せてもらおうか)
名状しがたき、巨大《きょだい》な宇宙的存在の体から、細い、長い、黒い腕《うで》が生えて出た。また、別の一箇所《いっかしょ》には、人間のような薄《うす》い唇《くちびる》が生じた。
「……Ny…a,r……」
薄い唇が人間の言霊《ことだま》を発し、いくつもの指輸をした黒い指が複雑な印を結んだ。
ナイアルラトホテップ!
ナイアルラトホテップ!
ナイアルラトホテップ、アイ、アイ!!
我は我が名を三たび呼び、
人の世に我が意志を果たしめん、アイ!!
|それ《ヽヽ》は、自らの存在をナイアルラトホテップ≠ニ定義し、人間の認知《にんち》しうる位相に|自ら招喚《ヽヽヽヽ》した。その立場は、|それ《ヽヽ》にとって好ましき状態であった。なぜならば、人間の認識しうる次元に行動することは、|それ《ヽヽ》が存在のうちに孕《はら》む|人間的悪意《ヽヽヽヽヽ》を、最も効果的に表現しうる状態であったから。
暗黒の王《ファラオ》ナイアルラトホテップは、狂気の哄笑《こうしょう》を放ちながら、人間の世界へと飛び去り、後に残された激烈《げきれつ》な光を放つ結界球――レムリア・インパクト≠フ名残《なごり》は、急速に収縮し、そして、消えた。
「――ハははハはハハはははははハはははハはハははハハハハハはハハハハ……!!」
最後に残ったのは、虚無《きょむ》の空間と、哄笑の残響《ざんきょう》のみであった。
一九〇×年。
新世紀を迎《むか》え、世界は大きく変化しつつあった。
アメリカの一都市アーカムシティに姶まる覇道鋼造の世界革命≠ヘ今や完成し、その影響《えいきょう》は物理的に、また文化的にも、文字通り地球全土を覆《おお》い尽《つく》くしている。
世界中の都市を結ぶ通信・輸送網《ゆそうもう》。何百という科学上の発明・発見。それに、政治的、経済的、文化的な無数の改革。
人々の生活は変わり、意識も変わった。
前時代的な迷信の闇《やみ》を吹《ふ》き払《はら》う、理性の時代。
人類には今や、万物《ばんぶつ》の霊長《れいちょう》としての無限の前進が約束されていると、皆《みな》が信じていた。
だが……瘴気《しょうき》を孕む名状しがたき影《かげ》は、理性の光の届かぬ暗がりに、ますます色濃《いろこ》くわだかまっている。
今日《こんにち》の人類の繁栄《はんえい》が、砂上の楼閣《ろうかく》の如《ごと》く頼《たよ》りない安定の上に築かれていることを知る者は少なく、それを支えるため、闇の世界に踏《ふ》み込んで戦う者はさらに少ない。
だが、しかし。
「少ない」ということは、「無ではない」ということだ。
希望の光を背負って闇にあらがう者は、わずかながら、確かに存在した。
人知れぬ秘境に、また、アーカムシティを始めとする世界各地の大都市に。
そして、ここロンドンにも――
+
霧《きり》の夜を、跳《は》ねる影≠フ噂《うわさ》が支配していた。
|それ《ヽヽ》は黒いマントを身に着けた長身の男で、目は赤く輝《かがや》き、鼻は鳥の嘴《くちばし》のように尖《とが》り、ロからは地獄《じごく》の炎《ほのお》を吐くという。そして、街灯よりも高く跳《と》び上がっては夜道を行く女性に躍《おど》り掛《か》かり、鋭《するど》い爪《つめ》で全身の肌《はだ》を切り裂《さ》くのだ。
人呼んで跳梁《ちょうりょう》せし恐怖《きょうふ》=A嘲笑《あざわら》う悪魔=Bまたの名を――
「――ジャンピング・ジャック=c…!!」
若い女の叫《さけ》びが、石畳《いしだたみ》の街路に響《ひび》き渡《わた》った。
眼鏡《めがね》を掛け日傘《ひがさ》を携《たずさ》えた令嬢《れいじょう》の前に、大きな黒い影が立ちふさがり、マントを蝙蝠《こうもり》の翼《つばさ》のように広げた。
「キャーッハッハッハッハ!」
怪人《かいじん》の口から、奇怪《きかい》な鳥のような笑い声と共に、硫黄臭《いおうしゅう》と青白い炎が噴《ふ》き出した。
眼鏡の女は身を翻《ひるがえ》し、怪人から逃《のが》れようとした。だが、怪人ジャンピング・ジャックはその名の通り異常な跳躍《ちょうやく》力を発揮し、女の頭上を軽々と飛《と》び越えると、その行く手をさえぎる形で着地した。
「キャーッハッハ!」
怪人は両手を胸の前に構えると、鉤爪《かぎづめ》をカチカチと鳴らす。
女は手にした傘の先端《せんたん》を怪人に向げて構えた。しかし、怪人は片眼鏡《モノクル》の奥の目を赤く光らせながら、前に踏み出してくる。
バン――ッ!
女の傘が発条仕掛《ばねじか》けで勢いよく開き、一瞬《いっしゅん》、怪人の視界をふさいだ。
「キァッ!」
怪人は鋭い爪のひと薙《な》ぎで、傘を切り裂いた。しかし、その隙《すき》に逃《に》げ出したのだろう。女の姿はすでになく、足音が傍《かたわ》らの路地の奥へと遠のいていく。
怪人はマントをはためかせながら、女を追って路地に飛び込んだ。
路地の中は暗く、視界が利《き》かない。袋小路《ふくろこうじ》とおぼしきその最奥《さいおう》へ怪人が踏み込んでいくと、
ガシャ、ガシャッ――ブゥゥン――
闇の中にかすかな機械音が生じ、そして突然《とつぜん》、ガス灯の何倍もの強さの、まばゆい光が怪人に叩《たた》きつけられた。
巨大《きょだい》な怪物の双眸《そうぼう》を思わせるふたつのアーク灯。それを背負っているのは、潜水《せんすい》服に似た、ずんぐりとした人影《ひとかげ》だ。
『暗いと不平を言うよりも〜〜っ! 科学の灯《あか》りをつけましょお〜〜っ!』
割《わ》れ鐘《がね》のようなスピーカーの音が、大音量で口上を告げた。
『我は科学の騎士《きし》≠ネリィ〜〜』
そう名乗ったのが、今しがた日傘を投げて逃げ出した令嬢であることに、怪人は気づいただろうか。
自らを囮《おとり》として怪人を引きつけ、路地の奥に用意した電動服《モーター・スーツ》を素早《すばや》く着用した彼女こそは、科学の騎士≠アとオーガスタ・エイダ・ダーレスその人であった。
『ロンドンの夜を騒《さわ》がす怪人ジャンピング・ジャック! 神妙《しんみょう》にお縄《なわ》につきなさい!』
エイダが手にした長い竿《さお》を構えると、先端の電極が放電した。
「キイッ!」
追う者と追われる者の立場が入れ替わり、怪人ジャックは身を翻すと、路地の出口に向けて跳躍した。
『逃がしませんっ!!』
エイダは電動服《モーター・スーツ》のブーツの足裏に仕掛けられた跳躍装置を作動させた。強力な発条《ばね》が、空中の怪人ジャックをさらに超える高さにエイダの体を打ち上げ、そして――傍らの建物から張り出したテラスの底面に、電動服《モーター・スーツ》の頭を打ち当てた。
「ふぎゃッ!?』
ガシャリと音を立てて路面に転がるエイダを捨て置き、怪人ジャックは通りへと飛び出していく。
「先生《ヽヽ》、どうしたの? だいじょうぶ?』
電動服《モーター・スーツ》のヘルメットに仕掛けられた小型スピーカーから、子供の声が聞こえてきた。
『ふぐ……も、問題ありません!」
エイダはスピーカーの声に答えた。
「ヘルメットの強度は充分《じゅうぶん》――ただし、緩衝《かんしょう》機構に若干《じゃっかん》改良の余地があるようです』
「頭をぶつげたんだ!』
スピーカーの向こうで、何人かの子供たちの笑い声が聞こえた。
『お静かに!』
エイダはぴしゃりと言った。
『怪人はそちらへ向かっています! 準備はいいですか!?』
『――了解《りょうかい》です、先生』
『いつでもOKだぜ!』
子供たちの声を聞きながら、エイダは電動服《モーター・スーツ》と共に路地に隠《かく》してあった電動自転車《モーター・サイクル》に飛び乗った。電撃槍《でんげきそう》を右|脇《わき》に抱え、左手でハンドルを握《にぎ》る姿は、なるほど、馬上槍試合《トーナメント》の騎士を思わせる。
電動自転車《モーター・サイクル》は蜂《はち》の羽音のような音を立てて急発進し、マントをはためかせながら走る怪人ジャックの背にみるみる追いついていく。
と――怪人ジャックの走り方が変わった。超人《ちょうじん》的な跳躍力を水平に近く発揮し、水面を跳《は》ねる石のように、あるいは三段|跳《と》びの選手のように、一歩ごとに低く、大きく進む。
怪人は再びエイダを引き離《はな》すと、川縁《かわべり》の柵《さく》を飛び越《こ》え、テムズ川の上空に飛び出した。川幅《かわはば》は蒸気船が通れるほどで、怪人の跳躍力を以《もつ》てしても飛び越えることはできないだろう。
だが、怪人ジャックはマントを翼《つばさ》のように広げると、猛禽《もうきん》の如《ごと》く滑空《かっくう》した。空中をすべるように移動し、このまま対岸に渡《わた》ってしまえば、もはやエイダの手は及《およ》ばない。
しかし、その時。
テムズの川面《かわも》が大きく盛り上がった。滝《たき》のように河水を振《ふ》り落としながら現れたのは、蒸気船を思わせる巨大な鋼鉄製の構造物だ。
塔《とう》のような煙突《えんとつ》から黒煙《こくえん》を吐《は》き、体中の歯車とクランクを軋《きし》らせながら浮上《ふじょう》した|それ《ヽヽ》は、人間の腕《うで》を模した長い機械腕《アーム》を、怪人ジャックに向けて伸《の》ばした。
「キッ!?」
水をしたたらせて迫《せま》り来る、その指先につかまる寸前、怪人はマントを操《あやつ》って空中で姿勢を変え、鋼鉄の手のひらを蹴《け》った。羽虫を捕《つか》まえるように素早く握られた機械の手は、しかし空《むな》しく宙をつかみ、怪人は元来た方向へと滑空していく。
『あっ、くそ!』
『前進、前進!』
巨大《きょだい》な鉄塊《てっかい》は両腕で水を掻《か》きながら川を渡り、河岸に手をついて陸地に乗り上がった。人間の上半身と蒸気船を組み合わせたような印象の機体上部に対し、下部は無限軌道《キャタピラ》によって地上を走行する仕組みになっていた。
科学の天才、オーガスタ・エイダ・ダーレスの設計にたる万能自走蒸気機関ゴリアテ≠フ全貌《ぜんぼう》である。
ゴリアテは騒々《そうぞう》しい機関音を立てながら川縁の街路を疾走《しっそう》し始めた。石畳《いしだたみ》を無限軌道で粉々に押し割り、ぶつかった建物を次々と半壊《はんかい》させながら、恐《おそ》ろしい勢いで怪人ジャックに迫る。
だが、最後の一手《ヽヽ》――機械腕《アーム》による捕獲《ほかく》はなかなか上手《うま》く行かず、二度、三度とつかみかかる機械の手を、怪人はひらりひらりとかわして飛ぶ。
『へたくそだなあ、もう!』
『うるせえな!』
言い争う子供たちの声に、もうひとり、子供の声がかぶった。
『前、前!』
『『わあっ……!』』
進路を誤ったゴリアテは、川縁から再びテムズ川に転げ落ちた。
『もう、なにゃってんだよ!』
『逃がしちゃったじゃんか!』
再び言い争いを始める子供たちに、
『いいえ、よくできましたよ、あなたたち』
と、エイダが言った。
怪人ジャックの追い込まれた先に、エイダの電動自転車《モーター・サイクル》が滑《すべ》り込み、そして急|制動《ブレーキ》を掛けた。
前のめりになった電動自転車《モーター・サイクル》から、エイダは振り落とされた。いや――あえて乱暴に着地し、そこから両脚《りょうあし》の発条《ばね》仕掛けで勢いよく跳び上がった。
滑空と跳躍、ふたつの軌跡《きせき》が空中で交錯《こうさく》する瞬間《しゅんかん》、エイダの電撃槍が径人ジャックのマントに叩《たた》きつけられた。
『えいっ!』
「ギェッ!!」
空中で力を失い、失速する怪人を、エイダの腕が抱えた。
そして、もう片方の手で胸元のひもを引くと、電動服《モーター・スーツ》の背嚢《はいのう》から飛び出した気球が急激にふくれ、その浮力《ふりょく》でエイダと怪人を軟着陸《なんちゃくりく》させた。
気球のガスを抜《ぬ》いて切り離しつつ、エイダはぐったりとした怪人を街路に横たえた。
ロンドンの生きた怪談《かいだん》たるジャンピング・ジャック≠フ正体は、地獄《じごく》の悪魔《あくま》とも、サーカスから逃げ出したカンガルーとも、(エイダ自身がそうしているように)発条《ばね》仕掛けのブーツを履《は》いた、悪戯《いたずら》者の紳士《しんし》であるとも噂《うわさ》されている。
どうやらカンガルーの線はなさそうだが……強力なアーク灯に照らされたその顔は、人とも魔物とも思える異相であった。
人であるならば警察に引き渡し、はたまた、ここ数年急激に増えている改生物の類《たぐい》ならば、覇道|財閥《ざいばつ》指揮下の、ミスカトニック大学|特殊《とくしゅ》資料室に連絡《れんらく》を取って、収容の手はずを整えねばならない。
まずは怪人の跳躍力の源である脚部《きゃくぶ》を検分しようと、エイダがジャックのマントに手を掛けた時、水中から再び浮上したゴリアテがエイダの傍《かたわ》らの川縁に手を伸ぼした。
次いで、巨大な本体の肩《かた》のあたりにあるハッチが開くと、中からいくつもの子供の顔がのぞき、そのうちふたりの少年が機械腕《アーム》を伝ってエイダの傍らに駆《か》け寄った。
「先生、捕まえた?」
「どんた奴《やつ》だった!?」
「それは今から確認《かくにん》するところです」
子供たちに答えながら、エイダは襟元のロックを外し、ヘルメットを背後にはね上げた。
その時――怪人が突然《とつぜん》上体を起こし、エイダの顔に青白い炎《ほのお》を噴《ふ》きつけた。
「きゃっ!?」
とっさに腕《うで》で顔をかばったものの、一瞬視界が奪《うば》われ、その隙《すき》に怪人ジャックはエイダの前から逃げ出した。
鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》を一杯《いっぱい》に広げ、駆けていくその先には、ふたりの少年が――
「オルソン! バート!」
「うわあ!?」
「ひゃあっ!?」
――ヒュソ――
風を切る音と共に怪人ジャックの体をなにかが通り抜け、次いで、その胴体《どうたい》がずるりと|ずれた《ヽヽヽ》。
すさまじい切れ味を持つ刃《やいば》が、怪人ジャックの体を通過したのだ。
怪人ジャンピング・ジャックの下半身は、両脚に力を込めると、高々と最後の跳躍《ちょうやく》をした。そして、上半身はその場に残され、だるま落としのようにベシャリと路面に落ちた。
眼鏡《めがね》から煤《すす》を落として歩み寄るエイダの目の前で、怪人の死体が異様な変形を遂《と》げた。
片眼鏡《モノクル》を掛けていた顔は鳥類を思わせる異形に、マントと思われた布≠ヘ、細い腕と一体化した皮翼《ひよく》に。
怪人とも怪鳥《かいちょう》ともつかぬ怪生物。それが怪人ジャンピング・ジャックの正体だった。
しかし、エイダの注意はずでに怪物から逸《そ》れ、怪物を斃《たお》した|もの《ヽヽ》に向けられていた。
怪人ジャックを両断した|それ《ヽヽ》。魔術《まじゅつ》的な光の尾《お》を引き、ブーメランのように回転しながら、主の手に舞《ま》い戻《もど》るそれは――
「|パルザイの偃月刀《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……!!」
「――え、なに?」
少年たちはエイダの視線の先を追って夜空を見上げ、そして息を呑んだ。
長大な湾曲《わんきょく》した刀――パルザイの偃月刀《えんげつとう》を片手に提《さ》げ、怪人ジャックよりさらに大きな翼を広げて空中に静止する、黒衣の男。
「なんだ、あいつ!?」
「誰《だれ》? 先生、知ってる人?」
……そう、見紛《みまが》うはずもない。エイダはその男を知っていた。
正確にはその男が持つであろう|称号《しょうごう》を知っていた。
魔刃《まじん》の使い手――
地上最強の魔術師《マギウス》――
「――死霊秘法の主《マスター・オブ・ネクロノミコン》=c…!?」
黒衣の男は、恐《おそ》ろしく皮肉な表情で嗤《わら》った。
「油断したな、え?」
その声は、エイダの知るマスター・オブ・ネクロノミコン≠フものより若く、そして野卑《やひ》な響《ひび》きを帯びていた。
「捕《つか》まえたら、すぐに殺せ」
「そういうわけにはいきません」
エイダは気丈《きじょう》に背筋を伸《の》ばし、黒衣の男を見上げた。
「一見|怪《あや》しいものであっても、その正体を見極《みきわ》めずして排除《はいじょ》しようとするのは迷信的|行為《こうい》というものです」
「ヒャハハ、迷信けっこう! 化け物鳥に目玉をつつかれるよりはな!」
「ではお聞きしますが、そういうあなた自身は、間答無用で捕らえられ、殺されてもいいというのですか」
「そうだぞ、おまえなんか、怪しさじゃさっきのと|どっこい《ヽヽヽヽ》だ!」
助け船のつもりか少年のひとりが囃《はや》し立てるのを、エイダは左手の仕草で制し、右手に握《にぎ》った電撃槍《でんげきそう》を黒衣の男に向けて構えた。
だが、
「捕まらねえし、殺されねえよ。俺は|殺す側《ヽヽヽ》だ」
そう言って、黒衣の男は薄《うす》い笑《え》みを浮《う》かべるばかりだ。
「もしあなたが魔術を能《よ》くする者ならば、その能力は正しき目的のために振《ふ》るわれねばなりません。覇道|財閥《ざいばつ》と連絡を取りますので、同行を願います」
「興味はねえな」
「それでは、お望み通り、問答無用……ということになりますが」
エイダが言うと、黒衣の男の顔に、殺気とも嘲笑《ちょうしょう》ともつかぬ表情が疾《はし》った。
「言ったろう、俺は捕まらねえ!」
黒衣の男は右手のひと振りに加え、左手でもうひと振りの偃月刀を空中から抜《ぬ》き出すと、左右の腕《うで》を大きく広げて構えた。右手の魔刃は灼《や》けたように赤く、左手の魔刃は凍《こお》りついたように青白く、燃焼と凍結《とうけつ》の魔力《まりょく》が込《こ》められる。
次いで、黒衣の男は両腕を交差させるように、二本の魔刃を投げ放った。
先ほどの数倍の速度で回転し、何重もの弧《こ》を描《えが》きながら、赤と青の魔刃はエイダと少年たちの周囲を飛び回った。その軌道《きどう》上にあるものは、街灯も、石造りの建物も、ゴリアテの機械腕《アーム》の一部ですらも、まるで空気のように切断される。無論、人聞の体を両断ずることなど造作もない。
エイダたちが一歩も動げずに魔刃の動きを目で追っていると、やがて、ふたつの魔刃は左右から彼女らに迫《せま》り、目の前で衝突《しょうとつ》した。
ジュバッ――!!
灼《や》けた鉄塊《てっかい》と氷の塊《かたまり》を打ち合わせたような爆発《ばくはつ》と共に、真っ白な煙《けむり》が空中に発生し、エイダたちの視界を奪《うば》った。
数秒後、白煙《はくえん》が風に吹《ふ》き払《はら》われた時には、すでに男の姿はなかった。
「――ヒャハハハハ! 俺は捕まらねえ! 捕まらねえよ!」
嘲笑《あざわら》う声のみを霧《きり》の夜空に残し、黒衣の男が消えると、周囲の空間を圧迫《あっぱく》していた異様な緊張感《きんちょうかん》もまた、消えた。
ふたりの少年――オルソンとバートは大きく息をついた。
エイダは黒衣の男が去った空を、険しい顔で見上げ続けていた。
+
覇道鋼造はその世界|制覇《せいは》――いわゆる覇道革命≠為《な》したのち、経済と科学の発展に加え、世界的な福祉環境《ふくしかんきょう》の整備に努め始めた。いくつもの基金を設立・運営し、また、多くの国家の政策に大小の形で干渉《かんしょう》することによって、児童、病人、貧者など弱者の救済に力を注ぎ――
当初、それは売名行為として受け取られた。成り上がりが社会的な権威《けんい》を得ようとする、お定まりの行動であると。しかし、おざなりな、名ばかりの活動ではなく、他の事業を推進するのと同様の、いやそれ以上の精力と的確さを以《もつ》て進められる各種事業によって、世界的な市民生活の水準の底上げが為されつつあることが実感されると、そうした批判意見は、やがて影《かげ》をひそめた。
「世界はもっと豊かになり、力を蓄《たくわ》える|必要がある《ヽヽヽヽヽ》」とは、覇道銅造の言葉である。
それが|なんのために必要とされるのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、彼が語ることはなかったが――ともあれ、ロンドン郊外《こうがい》に敷地《しきち》を構える|その学校《ヽヽヽヽ》も、覇道の福祉活動の一環として運営されていた。
「先生、おはよう!」
「先生、おはようございます」
「おはよ、先生!」
下は三歳から上は十二歳まで、さまざまな年頃《としごろ》の子供たちが、廊下《ろうか》を歩く若い女教師を追い越《こ》していく。
「はい、皆《みな》さん、おはよう」
女教師は生徒のひとりひとりにうなずきながら、教室に入ろうとした。
が――
「せんせぇ、ラムジーがおねしょした!」
と、背後から大声で呼び止められた。
ここミスカトニック大学ロンドン校付属学園=\―またの名を、学園長|兼唯一《けんゆいいつ》の教師を勤める弱冠《じゃっかん》二十余歳の才女、オーガスタ・エイダ・ダーレスの名を取って、単にダーレス学園≠ニ呼ばれる――は、学校と言うよりは孤児院《こじいん》の趣《おもむき》を呈《てい》している。
総勢三十名の生徒は皆、ロンドン出身の身寄りのない子供たちだ。
この状況《じょうきょう》をして「その学園とやらでは、家族にも国家にも帰属意識を持たない孤児たちを集め、覇道財閥にのみ忠誠を誓《ちか》う財閥の次世代幹部としての英才教育を施《ほどこ》しているのだ」という噂《うわさ》が立ったこともあるが……その現場を実際に見れば、ここがそうしたエリート養成校≠ニいうより動物園≠ノ近い施設《しせつ》であることは、一目|瞭然《りょうぜん》だ。
最年少生徒のラムジーの下着を替《か》えさせ、シーツを洗濯《せんたく》に出し、エイダが教室に入ったときには、生徒たちは追い駆《か》けっこをし、ほうきとちりとりでチャンバラをし、紙飛行機を競《きそ》って飛ばしていた。
「皆さん、お静かに! 授業はもう始まっていますよ!」
エイダは教鞭《きょうべん》でノートを叩《たた》いて注意を促《うなが》すが、その音も子供たちの甲高《かんだか》い叫声《きょうせい》の中に埋《う》もれてしまう。
「お静かに!」
実のところ、この学園の生徒は他校では扱《あつか》えないであろう問題児ばかりだ。彼らは皆、この学園に来た当初は、教育どころか一般《いっぱん》的な躾《しつけ》すら受けたことのない、都市に住む野生児とでも言うべき存在だった。
しかし、教育の理想に燃える若き学園長、オーガスタ・エイダ・ダーレスの辞書には、諦念《ていねん》や後悔《こうかい》、その他いくつかの陰性《いんせい》の単語が欠けていた。彼女の信念によれば、人は自覚と訓練によって|人となる《ヽヽヽヽ》のであって、その初期過程において動物に近い存在であるのは、むしろ当然のことなのだった。
教室の様子に取り乱すことなく、エイダは懐《ふところ》から懐中《かいちゅう》時計を取り出し、つまみをひねった。すると、教室中に大きなベルの音が響《ひび》き渡《わた》り、生徒たちは跳《と》び上がって各々《おのおの》の席に着いた。
最後までほうきを振《ふ》り回していた年長の生徒を、エイダは威厳《いげん》を以てにらみつけた。
「オルソン! 私の不在中の教室は、あなたたち級長にまかせてあるはずです。そのあなたが率先して騒《さわ》いでいるのでは、お話になりませんね」
舌を出して席に着こうとするオルソンに、
「馬鹿《ばか》だなあ、もう」
と、眼鏡《めがね》を掛《か》けた少年がぼそりと言った。ダーレス学園のもうひとりの級長、バートだ。
「なんだと!」
オルソンがバートにつかみかかると、エイダが教鞭を鳴らした。
「早く着席なさい。仲良くしないと、ふたりともお尻《しり》を叩きますよ!」
オルソンはあわてて席に着いたが、途中《とちゅう》で振り返ってバートを威嚇《いかく》する表情をした。一方。バートは、眼鏡と襟元《えりもと》の位置を直すと、ふんと鼻を鳴らして正面を向く。
「……では」
教室が静まるのを待って、エイダは口を開いた。
「先日から予定していた通り、今日は午後からロンドンのウェルズ天文台で社会見学を行ないます。そこで、この時間は通常の授業を中止し、本日のテーマとなる火星についての知識を深めることにします。――まずは皆さんの、火星という星について知っていることを教えてください」
エイダが教室を見回すと、子供たちがいっせいに手を上げた。
「ハイ!」
「はいッ!」
「はぁい!」
「――赤いんだ!」
「知ってるよ。ワクセイなんだ」
「ワクセイってなに?」
「あたし見たことある! ワクセイ!」
「それって、ロンドンにあるの?」
「火星《マーズ》っていうのはローマの神様だから――」
「イタリア人?」
「ローマ人だろ」
「火星人! 火星人!」
「ローマに火星人がいるの?」
「運河がハッケンされましたぁ!」
「運河はベネチアじゃなかったっけ」
エイダは子供たちの発言を満足げに聞いていたが、やがて意見がひと通り出|尽《つ》くすのを待って、バートを指した。
バートは椅子《いす》の上で背筋を正しながら言った。
「ええと……火星は太陽系の四番目の惑星《わくせい》で、地球のひとつ外の軌道《きどう》を巡《めぐ》っています。太陽からの距離は地球のおよそ一・五倍で、とても寒い星だと考えられています。また、直径は地球の半分ほどで、おそらく質量と重力も少ないはずです。それから、およそ二年と二ヵ月ごとに地球に近づきますが、前世紀後半の大援近のときに、地表全土を覆《おお》う筋《すじ》状の地形と、ふたつの衛星が発見されました」
「はい、たいへんよろしい」
エイダが深くうなずき、一瞬《いっしゅん》、教室が静まったその時、
「火星には、でかいタコみたいな火星人がいるんだ。今も地球を狙《ねら》ってるんだぜ……!」
ことさらに声を低め、となりの女生徒をおどかすオルソソの声が響いた。
「ひゃあ!」
「それ本当!?」
「火星人が攻《せ》めてくるの!?」
教室は蜂《はち》の巣《す》をつついたような騒ぎになり、
「お静かに! 皆《みな》さん、お静かに!」
エイダは再び懐中時計のベルを鳴らし、教室が静まるのを待って言った。
「今オルソンが言ったのは、読み物の中のお話です。実際に観測された事実とは分けて考えなければなりません。とはいえ……仮に『もしも火星人がいたら』と考えてみることには、想像力の訓練という意義があるかもしれませんね」
「先生、火星人はタコに似てるんですか?」
「ほんとに地球に攻めてくるの?」
「科学者や小説家の中には、そのような想像をした人もいます」
エイダは黒板に大きな円を描《えが》き、その円の中に三つの小さな円を、また、その下に数本の線を描《か》き足した。ふたつの大きな目、ひとつの小さな口を描かれた風船のような頭から、ひものように細長い、手足とも触手《しょくしゅ》ともつかないものが生えている……といった絵だ。
「これが、現在考えられている鮹のような火星人≠フ姿ですが、これは火星の溝《みぞ》状地形の正体を人工的な運河≠ニ仮定したことから生まれてきたイメージです。つまり――」
エイダは教鞭《きょうべん》の先で鮹≠フ頭を指した。
「もし火星人が火星の全土に巨大《きょだい》な灌漑《かんがい》設備を作り上げるほどの知能を持っていると仮定するならば、彼らはわれわれ地球人類と同等以上の頭脳を収めた、大きな頭部を持っていると考えられます。一方、火星は地球上より重力が小さいため、頭部を支える手足は細いもので充分《じゅうぶん》です。それで、このような姿が想定されたわけです。また、火星人が火星の地表を縁化しようとしているとすれば、豊かな水に恵《めぐ》まれた私たちの地球は、彼らにとって格好の植民地と考えられますね。そのため『火星人は地球を狙っている』という考えが生まれたわけです」
火星人|幻想《げんそう》≠フ成立過程について、エイダはよどみなく説明した――が、子供たちはもっぱら、黒板に描かれた絵の感想を述べ始めた。
「変なの!」
「なんだか弱そう!」
「こんなの怖《こわ》くないよな!」
「外見によって他人《ひと》を侮《あなど》るのは、愚《おろ》かなことですよ」
エイダはひときわ大きな声を上げていたオルソンを、教鞭で指した。
「オルソン、あなたは|この《ヽヽ》火星人と戦っても勝てると?」
「俺がそんな|へなちょこ《ヽヽヽヽヽ》に負けるかよ!」
「では、競技種目が算数の試験でも?」
「えっ……」
オルソンが思わず口ごもると、子供たちがどっと笑った。
「……算数は関係ないじゃんか」
「関係は大ありです」
と、エイダは言った。
「火星人は私たちとレスリソグをしに来るわけではありません。たとえば、われわれが異境の、あるいは未開の地に赴《おもむ》くとき、自ら頼《たよ》りにするものはなんでしょう? 頑健《がんけん》な肉体、不屈《ふくつ》の冒険《ぼうけん》精神、もちろんそういったものもあるでしょう。しかし、それら以上に重要なのは、分野を間わない広汎《こうはん》な知識と、諭理的な思考です。火星人もまた同様。彼らの武器は、|この《ヽヽ》巨大な頭脳に宿る知性そのものなのです。あなたがたも、火星人に対抗《たいこう》しようと思うならば、体と共に頭を鍛《きた》え、彼らに負けない知性と教養を身につけなければなりませんね」
「でも、あんまり頭がよさそうには見えないわ」
「それは単に、先生の絵が下手だからだよ」
バートが隣席《りんせき》の生徒と言い交《か》わすと、
「……とにかく、これはあくまでもしも≠フお話です」
と、エイダは顔を赤くしながら、雑巾《ぞうきん》で黒板の絵を拭《ふ》き消した。
「火星人は万が一、ひょっとしたら℃タ在するかもしれませんが、おそらくは空想の中の存在に留《とど》まることになるでしょう――」
エイダが話題を締《し》めくくろうとした時、窓の外――学園の上空から、動物の唸《うな》りにも似た爆音《ばくおん》が聞こえてきた。
「なに?」
「火星人!?」
「わあっ!」
子供たちのうち半分ほどは机の下に隠《かく》れ、残り半分はエイダと共に窓に駆《か》け寄った。
「あれは……」
エイダが見上げた空を、巨大な蜻蛉《とんぼ》を思わせる影《かげ》が横切った。ほんの数年前に覇道|財閥《ざいばつ》が開発した、複葉式飛行機だ。一般的な実用化はまだされていないはずだが……。
複葉機は上空を二、三度|旋回《せんかい》すると、学園の校庭に着陸した。
「おい、見に行こうぜ!」
オルソンが窓から飛び出し、何人かの子供たちがあとに続いた。
「あなたたち、教室にお戻《もど》りなさい! 授業中ですよ!」
そう言いながら、エイダもスカートの裾《すそ》を持ち上げ、あとを追って駆けていく。
複葉機のプロペラが止まり、操縦席からひとりの男が地上に降り立つと、たちまち子供たちに取り巻かれた。
「すっげえ!」
「どこから飛んできたの?」
「火星人? 火星人?」
エイダは子供たちを掻《か》き分けるように前に出ると、男に呼び掛《か》けた。
「ミスター覇道……?」
「……いや、|あの覇道《ヽヽヽヽ》でなくてすまないね」
そう言ってゴーグルと飛行|帽《ぼう》を外したのは、エイダが想定した|あの覇道《ヽヽヽヽ》――覇道財閥|総帥《そうすい》・覇道鋼造ではなく、エイダより五つほど歳上の青年だった。覇道と同じ東洋人ではあるが、覇道の野性味を帯びた風貌《ふうぼう》に対して、こちらはどこか品のよい印象がある。
「――あら坊《ぼっ》ちゃま」
と、エイダは言った。
「坊ちゃま≠ヘやめてくれないか」
青年はちらりと周囲を見回し、肩《かた》をすくめた。
「いい歳《とし》をして坊ちゃま′トばわりじゃ、子供に笑われるよ」
「あら、坊ちゃまは坊ちゃまですわ」
エイダが即座《そくざ》に切り返すと、ふたりのやりとりを聞いていた子供たちが、くすくすと笑った。実際、青年の育ちのよさを感じさせる物腰《ものごし》には確かに、どこか坊ちゃま¢Rとしたところがある。
青年の名は、覇道兼定《はどうかねさだ》。
あの覇道鋼造の息子《むすこ》、つまり、覇道財閥の後継者《プリンス》だ。
「それで、いったい当学園になんのご用で?」
「ああ、それなんだが……」
兼定はもう一度、はばかるように辺りを見回し、小さな声で言った。
「僕の父が――つまり、覇道銅造が、消えた」
+
最寄りの駅から鉄道でロンドンへ着き、徒歩で天文台へ向かう道すがら、エイダと兼定は覇道鋼造の行方《ゆくえ》について話し合った。
「あわてることはありませんわ」
エイダは事も無げに言う。
「覇道鋼造はいつもこの世界のどこかを跳《と》び回っていて、その居場所は誰《だれ》にもつかめない――今に始まったことじゃありませんもの」
体にまとわりつき衣服を引っ張る子供たちを適当にあしらいながら、兼定は答えた。
「それは確かにその通りだが……今回ばかりは、本当に行方が分からないんだ。執事《しつじ》にも、財閥の幹部の面々にも一切《いっさい》言付けはない。それに、覇道銅造が訪《おとず》れたとなれば、世界中のどこであろうと、無線|通信網《つうしんもう》によってなんらかのニュースはアーカムに伝わってくるはずだ。ところが、それさえも一切ない。今、覇道鋼造はこの地上から消えてしまっているとしか言いようがないんだ」
「あら、まあ」
「幹部の中には、父が旅先で死んだと考えている者もいる。僕も半分はそう信じ始めているくらいだ。もしそうでないとしても、覇道鋼造が不在のまま、覇道財閥という超巨大《ちょうきょだい》組織を維持《いじ》することは、ほかの誰にもできはしない。数ヵ月のうちに財閥は解体され、覇道|帝国《ていこく》≠ヘ消滅《しょうめつ》するだろう。その場合、僕はパイのように分割された資産の、大きなひと切れを受け取ることになる。それすらも、ひとりの人間には大きすぎる財産だけれどね」
「その急を告げる事態にあって、私ごときを訪ねた理由はなんですの?」
エイダが間うと、兼定は言葉を続けた。
「ここ数週間、僕は財閥の資産を確認《かくにん》していた。理由のひとつは父の行方の手がかりを得るため、もうひとつは|覇道鋼造の死後《ヽヽヽヽヽヽヽ》の財産の整理のためだ」
「それは少々気が早いのではないかしら」
「まあ、念のためさ。『先んずれば人を制す』という奴《やつ》でね――ともかく僕は、覇道鋼造という人間の行動を理解するために、その分身である覇道財閥の富の流れを理解しようとしたわけだが、これにはまったく骨が折れたよ。たとえば『財産を目減りさせないように、手堅《てがた》い賭《か》けを何重にも張る』――それが企業《きぎょう》経営というゲームの定石《セオリー》だと僕は教えられてきたし、それは事実だと確信している。しかし、そうした観点から父の経営手腕を評価するならば――|でたらめ《ヽヽヽヽ》だよ。彼は何十回、何百回と連続で大穴に張り込んでは、そのすべてを当ててしまうんだ。覇道鋼造が今、なにを考えているかは誰にも分からない。しかし、何年か――ひょっとすると何十年かあとに振《ふ》り返ってみると、彼は無駄《むだ》なことなどひとつもしていなかったということが分かる、という寸法だ」
「まあ、そんなところでしょうね。覇道鋼造の観察者のひとりとして同意しますわ」
と、エイダは言った。
「それで、私の質問への答えは?」
「ああ、なぜ君を訪ねたか、ということだね。その質問の|答え《ヽヽ》は、ふたつの質問《ヽヽ》になる。ひとつは先ほどから言っているように、覇道鋼造の行方の手がかりを得るためだ。ミス・ダーレス、
約二年間、アーカムで覇道鋼造の側近のひとりを務めた君なら、この間いに答えられるかもしれない――」
兼定は一旦《いったん》言葉を切り、ひとつの単語を強調するように言った。
「――デモンベイン≠ニはなんだ?」
「……さあ」
エイダは首をかしげた。
「なんですの、そのデモンなんとか、というのは?」
「いや、今はただ、なんらかの暗号名らしいということしか分からないが……覇道財閥の大小の投資のほとんどが、間接的にそのデモンベイン≠ノ関連しているらしいとの報告がある。その正体を知れば、父の行動も読めるかもしれない」
「あらまあ。お役に立てたくて残念だわ」
兼定は「気にするな」というように軽く片手を上げ、言葉を続けた。
「まあ、これに関しては、僕もそれほど期待していたわけじゃない。忘れてくれ。それより重要なのは、もうひとつの質問のほうだ」
「どうぞ、うかがいましょう」
エイダは兼定を見上げた。すると、兼定は決まり悪そうに目をそらしながら、
「あー……ミス・ダーレス、君が優秀な人材だということに疑いはないし、君の教育に対する情熱も尊敬ずべきものだと思う。しかし――」
「はい?」
「ダーレス学園に対する覇道財閥の出資は、他の保健教育機関に対するものとは多少形態が違っている。たとえば金を出すにしても、研究機関であれぼその研究成果、教育機関であれば優秀な人材に対する権利は覇道財閥が優先的に取得する、といった付帯条件を設けて利益を確保するのが父のやり方だが、ダーレス学園に関してはそれがない。また、その金額自体も、学園の規模から想定されるものとは桁がいくつも違う」
「たいへん感謝しておりますわ」
「それは構わないんだが……どうも僕には、父が君に対して、通常の利害を超《こ》えた立場から援助《えんじょ》をしているように思える。|その理由とは《ヽヽヽヽヽヽ》、|なんだろう《ヽヽヽヽヽ》?」
「つまり、私の理念に対する共感ですわね」
昂然《こうぜん》と胸を反らすエイダに対し、兼定は頭を掻《か》きながら答えた。
「いや、僕が言うのはそういうことではなくて……あー、悪い意味に取らないでおくれよ。つまり、もし君が覇道の|遺族《ヽヽ》として遺産を受け取る立場になったとしたら、なるべく公正に対処したいと思うんだ」
「はい? おっしゃる意味がよく分かりませんが……遺族?」
「君も知っての通り、父の行動には謎《なぞ》が多い」
兼定は言った。
「ある日、急に弟妹《きょうだい》が増えたとしても、僕は驚《おどろ》かないよ」
「あなたの……|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》?」
エイダはきょとんとしながら、兼定と自分の顔を順番に指した。
――そして、日傘《ひがさ》を畳《たた》むとクリケットのように振りかぶり、兼定の尻《しり》を叩《たた》き上げた。
「今の発言は、あなたのお父様の名誉《めいよ》に関《かか》わることですよ、坊《ぼっ》ちゃま!!」
「いたッ! いたたッ!」
兼定が尻を押さえて跳《と》び上がると、子供たちがわけも分からずに喜んで、蹴《け》りを入れ始めた。
「その件に関して、私が特別にお答えするような事実は一切《いっさい》ありません」
エイダは言った。
「ただひとつだけ助言するならば――あなたのお父様を信じることですわ、坊ちゃま」
「そうしたいのは山々だけどね」
兼定は子供たちの蹴りをよけながら言った。
「あの男の、なにをどう信用しろと言うんだ!?」
「なにもかも、全面的に、ですわ。それに坊ちゃま、ご自分の父親のことをあの男≠ネんて言うものじゃありません」
「分かった、分かったよ! 僕のほうも納得《なっとく》がいった! 確かに君は、覇道鋼造の子供であるということがどういうことか、これっぽっちも分かっちゃいない。それと、もうひとつ――君こそ坊ちゃま≠ヘやめてくれ」
「あら、坊ちゃまは坊ちゃまですわ」
エイダの切り返しに、兼定が思わず口ごもった時、
「ヒャハハ! 情けねえな、おい!」
粗野《そや》な笑い声が、ふたりの会話に割って入った。
声を上げたのは、通りに面したパブの店頭席に着いた、若い男だ。
歳は二十歳《はたち》になっているかどうか。エイダよりも下だろう。しかし、黒い革《かわ》に金属の鋲《びょう》が打った服を着たその姿は、威圧《いあつ》的な空気を放っている。
「生意気な女は引っぱたけ。素直《すなお》になるぜ」
男はうっそりと立ち上がった。その身長は、長身の兼定と同じくらいだ。
「……悪いが、それは僕の流儀《りゅうぎ》じゃない」
兼定はエイダをかばうように、一歩進み出た。
男は刃物《はもの》のような目で兼定とエイダを睨《ね》めつけると、皮肉な笑《え》みを浮《う》かべた。
「へっ、まあ好きにしろや、|坊ちゃま《ヽヽヽヽ》」
「あなた――」
兼定の背後から、エイダが身を乗り出した。その視線は男の手元に据《す》えられている。
「――|その本は《ヽヽヽヽ》!?」
男は左手に、大きな革表紙の本を持っている。エイダはその本を知っていた。
と、その時――
ズズズ……!!
パブの店頭に置かれ、歌謡曲《かようきょく》を流していたラジオが、大きな雑音を立てた。
「おっと、|始まったな《ヽヽヽヽヽ》!」
男の手元で、革表紙がひとりでに開き、何百枚というページが、突風《とっぷう》に吹《ふ》かれたように飛び出した。
「――ヒャハハハハ! またな!」
鳥の羽ばたきのような音を立てながら、ページは渦《うず》を巻いて男の姿を覆《おお》い隠《かく》し、次の瞬間《しゅんかん》には、人も本も、跡形《あとかた》もなく消え去った。
「……なんだ、今のは……?」
兼定が呆気《あっけ》にとられて呟《つぶや》き、子供たちが騒《さわ》ぎ始めた。
「皆《みな》さん、お静かに! 公道で騒いではいけませんよ!」
子供たちを静めようとするエイダにバートが近づぎ、小さな声で言った。
「先生、あの人、昨日の……?」
エイダはうなずいた。
彼女は男が持っていた本を知っていた。
アル・アジフ=\―またの名を死霊秘法《ネクロノミコン》=B
その所有者とはすなわち、死霊秘法の主《マスター・オブ・ネクロノミコン》≠セ。
パブのラジオが、再び歌謡曲を歌い始めた。
一瞬、異常さをのぞかぜたこの世界は、再び平穏《へいおん》な日常を取り戻《もど》したかに見えた。
だが、そうではない。
今、この瞬間。鉄道の路線がポイントによって切り替《か》わるように、時の流れはあり得ざる歴史≠ノ切り替わったのだ。
+
――その頃《ころ》、ダーレス学園の一室に備えられた無線電信装置が、通信電波を捉《とら》え、自動的にバンチカードを吐《は》き出し始めていた。
カードの群れはやがて、自然に渦を巻き、ひとつの形態を取ろうとした。子供ほどの大きさの、人の形――
+
ダーレス学園一行は、予約の時間通りにウェルズ天文台に到着《とうちゃく》した。
ウェルズ天文台は学術的な天体観測の傍《かたわ》ら、プラネタリウムや一般《いっぱん》向けの展示を行なっている施設《しせつ》だ。特に前世紀の大接近以来、火星の観測を継続《けいぞく》的に行なっていることで知られ、「地球上で最も火星に近い場所」と言われている。
兼定は少々|焦《じ》れた様子で、子供たちの列の最後尾《さいこうび》に付いて歩いていた。エイダとの話も半端《はんぱ》な状態であり、また、先ほどの奇妙《きみょう》な男についても気になっているが、エイダはそれらの事柄《ことがら》より、予定通りの社会見学を優先している。それを中止させるほどの強い理由も強引《ごういん》さも持たない兼定は、なしくずしにつき合うばかりだ。
天文台の案内係は若い学者だった。この手の仕事には慣れているのだろう。施設や展示物の説明にもよどみがない。
「――このように当施設は、他の天文台とも連絡《れんらく》を取り合い協力しながら、日々宇宙への理解を深めているのです。なにかご質問は?」
案内係が振《ふ》り返ると、子供たちがいっせいに手を上げた。
「はい、はぁい!」
「火星人はほんとにいるんですかぁ?」
「ですから、それはお話の――」
苦笑《くしょう》混じりにエイダが否定しようとすると、案内係はいたずらっぼく笑い、
「私たちも、今探しているところです」
と言った。
「当施設では、通常の天体観測のほかに、火星にアンテナを向けて電波を捉えようと試《こころ》みています。それでは、皆さんもここで火星からの音≠聞いてみましょう。ひょっとすると、あなたがたは火星人のラジオ放送を聞いた最初の地球人になれるかもしれまん」
そう言いながら、案内係はまず、自分がヘッドフォンをつけて、電波観測装置のチューニングを始めた。
十秒――二十秒――意外に手間取っているのか、無言で装置に向かう案内係の背に、先ほどの子供が呼び掛《か》けた。
「火星人はいますかぁ?」
「……はい、|います《ヽヽヽ》」
案内係が答えたとき、子供たちはそれを冗談《じょうだん》だと思って笑った。しかし、振り返った案内係の顔からは、人間的な表情がごっそりと抜《ぬ》け落ちていた。
「ほんの少し前まではいませんでした。でも今はいるのです。たくさんたくさんいるのです今ここにもいるのですうぼあー」
案内係の口から、鮹《たこ》の脚《あし》のような触手《しょくしゅ》が生えて出た。次いで目鼻から、ヘッドフォンと顔の隙間《すきま》からも、細い触手の先端《せんたん》がはみ出し、ぴちぴちと動く。
子供たちは悲鳴を上げて飛び退《の》いた。案内係は逃《に》げ遅《おく》れたそのひとりの腕《うで》をつかまえ、ヘッドフォンをあてがおうとする。
「ごぼぼぼぼさあ皆《みな》さんも火星からの音≠聞きましょうそして火星人になりましょぼぼぼぼぼう」
「やめろ!」
兼定が案内係の腕をつかんだ。しかし、細身の案内係は異常な怪力《かいりき》を発揮して、今度は兼定にヘッドフォンを押しつけてくる。
「やめなさい! えいっ! えいっ!」
エイダも日傘《ひがさ》を振って加勢するが、効果はないようだ。じりじりと力負けする兼定の目の前で、触手に押し出された眼球がぽろりと落ち、眼窩《がんか》の奥に緑色の光が見えた。
耳元に迫《せま》ったスピーカーから異様な|音ならぬ音《ヽヽヽヽヽ》が響《ひび》き、一瞬、気が遠くなる。
その時、兼定は幻視《げんし》した。
荒涼《こうりょう》と広がる赤褐色《せつかっしょく》の大地に立つ、無数の人影《ひとかげ》――いや、それは人ではない。直立した鮹のような怪物だ。各々《おのおの》が、弱々しい太陽の光に向かって数本の触手を差し伸《の》べている。
そして、そのうちの一体が兼定の視線に気づき、意外なほどの速度でするすると近寄ってきた。
――まずい。
兼定は本能的に危機を直感した。
――奴は僕に|取って代わる《ヽヽヽヽヽヽ》つもりだ……!
大きな丸い頭部と、ふたつの緑色に光る目が、兼定の視界いっぱいに迫り――
ヒュン――
なにかが風を切る音が、兼定を現実に引き戻《もど》した。
同時に、頭を縦に断ち割られた案内係が倒《たお》れた。床《ゆか》に頭を打ちつけた衝撃《しょうげき》で飛び出した|その中身《ヽヽヽヽ》は、軟体《なんたい》質の頭部と触手からなる、赤黒い鮹のようなものだ。
「火星人だ!」
オルソンが叫《さけ》んだ。
その鮹≠ヘ、案内係の頭蓋《ずがい》に、脳の代わりに収まっていたことになる。いや、あの音≠聞いた彼の脳が、何者かの意志に乗っ取られ、このような形態に変異したのだ。
おそらく、あと数秒の間、あの音≠聞き続けていたら、自分もこのような姿になっていただろう。
案内係を斃《たお》した武器――パルザイの偃月刀《えんげつとう》は、ブーメランのように回転しながら持ち主の手に戻った。
「ヒャハハ! 危ないところだったな、え、坊《ぼ》ちゃま!?」
天窓から屋内に身を乗り出しているのは、先刻の男――
「――マスター・オブ・ネクロノミコン!」
エイダが言うと、男は再び窓を抜け、戸外へ飛び出した。
「お待ちなさい! 話があります!」
窓を見上げるエイダに、兼定が呼び掛けた。
「いや――僕たちも外に出たほうがいいようだ」
見れば、白衣を着た学者たちを中心に、何人もの人間がうつろな目を|内側から緑色に光らせ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、のたくるような奇妙《きみょう》な動きで歩いてくる。おそらくそれは、彼ら本来の動きを模したものだ。
次いで、館内の放送設備から、音楽とも風の唸《うな》りとも、はたまた邪教《じゃきょう》の呪文《じゅもん》ともつかない異様な音が流れ始めめた。
「みんな、あの音≠聞くな” 耳をふさいで!」
「外へ出ましよう!」
兼定とエイダに促《うなが》され、子供たちは外に飛び出した。
すると――ロンドンの街は様相を一変させていた。
老若男女の別、また社会的階層を閏わぬあらゆるロンドン市民が、あるいは馬や犬といった家畜《かちく》までもが、目を緑色に光らせ、のたくり歩いてくる。
そして、街頭に流れる、あの異様な音――
「ラジオか……!」
兼定はうめいた。
「奴らは電波≠ニ音≠ナ侵略してくるんだ!」
気がつけば、周囲は緑の目の火星人≠ノ取り巻かれ、身動きが取れなくなりつつある。
と――
パルザイの偃月刀が上空から投げ込まれ、縦横に回転しながら火星人の群れの中を踊《おど》り狂《くる》った。血肉と触手《しょくしゅ》の断片が嵐《あらし》のように舞《ま》い散り、兼定、エイダ、子供たちの周囲に雨のように降り注ぐ。
同時に、周辺のラジオも的確に破壊《はかい》され、当面の危機は去ったかに見えるが――
兼定は子供たちを血の雨から守りながら、空を見上げた。そこには、偃月刀の使い手――マスター・オブ・ネクロノミコンが、黒い翼《つばさ》を広げ、空中に浮遊《ふゆう》している。
「なんてことを――」
兼定の傍《かたわ》らで、エイダが叫んだ。
「――彼らは人間なのですよ!!」
「ああ? 馬鹿かてめえ」
マスター・オブ・ネクロノミコンは答えた。
「人間|だった《ヽヽヽ》、だろ。今はそうじゃねえ――よっとォ!!」
マスター・オブ・ネクロノミコンは両手に構えた偃月刀を振《ふ》りかぶり、前方に投げ放った。片方は灼熱《しゃくねつ》、片方は凍結《とうけつ》、性質の違《ちが》うふたつのカを宿したふた振りの魔刃《まじん》は、二重|螺旋《らせん》を描《えが》きながら、巨《きょだい》な穿孔機《ドリル》のように建物をくり貫いた。
「さあて、逃《に》げ道は作ってやったぜ。文句があったらここで死ね! ヒャハハハハ!!」
マスター・オブ・ネクロノミコンは高笑いをしたがら飛び去った。その行く手に、血と瓦礫《がれき》のしぶきが次々と上がる。
「おやめなさい、マスター・オブ・ネクロノミコン!――聞こえているのでしょう、|アル《ヽヽ》・|アジフ《ヽヽヽ》!!」
エイダの肩《かた》に、兼定が手を置いた。
「どうやら、今は彼の言う通りにするしかなさそうだ」
見れば、周囲には再び火星人が集まりつつある。エイダたち一行は偃月刀が切り開いたルートを駆《か》け、テムズ川の河畔《かはん》に辿《たど》り着いた。
「ミス・ダーレス、これからどうする!? この分では鉄道も機能しているかどうか――」
兼定が言い掛《か》けた時、川水の中から巨大な物体が浮上した。
蒸気船に二本の腕《うで》をつけたようなその姿は――
「ゴリアテ……! いったい誰が操縦しているの!?」
+
「ヒャハハハハ! 死ね死ね死ねタコども!!」
血肉の奔流《ほんりゅう》を巻き起こしながら、マスター・オブ・ネクロノミコンはロンドンの街を低空飛行する。
しかし、火星人の勢力は、すでにロンドン全域に及《およ》んでいるらしい。光る目の怪人《かいじん》たちは、無尽蔵《むじんぞう》に湧《わ》いて出るかのようだ。
「あ゛、あ゛、あ゛――きりがねえ! アル・アジフ! 一発デカいのをやるぜ!!」
マスター・オブ・ネクロノミコンは、黒い翼を広げ、急|上昇《じょうしょう》した。
「返事はどうしたァ!?」
(……了解《りょうかい》した、エドガー……我が主《あるじ》)
「ヒャハハハハ――アイオーン!」
ゴッ―ー!!
マスター・オブ・ネクロノミコン――エドガーの体を中心に、巨塔《きょとう》ほどもある鋼《はがね》の巨神が顕現《けんげん》した。
鬼械神《デウス・マキナ》アイオーン。魔人《ひと》の意志を以《もつ》て振るわれる、魔神《かみ》の力の化身だ。
鋼の巨体を得たエドガーは、火星人の群れを踏《ふ》みつぶし、周囲の建造物を打ち壊《こわ》し始めた。
「ヒヤハハハハ! 面白《おもし》れェェェ!」
石造りの建物を蹴《け》り崩《くず》し、巨大な偃月刀《えんげつとう》を呼び出して鉄塔を両断し――そのさまはまるで、積み木を崩して遊ぶ子供のようだ。
それは確かに、火星人に対する効率的な殺戮《さつりく》かもしれない。しかし同時に、あまりにも見境いのない破壊であるとも言える。
『おやめなさい!』
スピーカーからの声が、ロンドンの街に響《ひび》き渡《わた》った。
『無益な破壊|行為《こうい》は許しません!!』
「なんだァ?」
エドガー=アイオーンが振り返った先にいるのは、建物から頭ひとつを飛び出させた巨大な機械――エイダたちの乗り込んだゴリアテだ。
「人がせっかく助けてやりゃあ……邪魔《じゃま》するなら死ね!!」
アイオーンの右半身が瞬時《しゅんじ》に赤熱し、関節から炎《ほのお》を噴《ふ》き出した。その熱は瞬《またた》く間に巨大な偃月刀に伝わる。
すさまじい熱量を孕《はら》んだ偃月刀が、空気を焦《こ》がしながら、ゴリアテに向けて投げ打たれた。鋼鉄の塊《かたまり》をも両断する威力《いりょく》の込められた一投だ。
しかし、
ガシッ――
ゴリアテの武骨な手のひらが、偃月刀の柄《え》をつかんで止めた。
刀身に込められた熱がゴリアテの腕を鈍《にぶ》く光らせるが、本体にまで熱は伝わっていないようだ。
「あァ?」
アイオーンはもう一本、左手で偃月刀を呼び出した。凍結《とうけつ》の魔力《まりょく》を孕み、青白い光と粉雪のような白い輝《かがや》きを纏《まと》っている。
アイオーンはゴリアテに向かって突進《とっしん》し、冷気の尾《お》を引く偃月刀を叩《たた》きつけた。
ゴリアテは灼熱《しゃくねつ》の偃月刀でその攻撃《こうげき》を受け止める。
ジュバッ――!!
両者の手元で爆発《ばくはつ》が起こった。ゴリアテは仰向《あおむ》けに転倒《てんとう》し、アイオーンは後方に吹《ふ》き飛ばされた。
「てめェ……!」
アイオーンが鋼の翼《つばさ》を広げ、飛び上がった。瞬く間にロンドンの街並みを飛び抜け、ゴリアテが豆粒《まめつぶ》ほどに見える高度にまで上昇する。
(エドガー……ならぬ!)
主の意図を悟《さと》ったアル・アジフが言った。
「うるせえ!!」
エドガー=アイオーンが構えた両手の前方に、巨大な光の柱が生じた。無数の魔術文字からなる、魔術式の螺旋《らせん》だ。
「呪文螺旋《スペル・ヘリクス》――神銃形態《ヽヽヽヽ》!!」
螺旋は回転しながら収束し、金属質の光沢《こうたく》を帯びる、杖《つえ》とも銃《じゅう》ともつかない棒状の武器に変わり、アイオーンの両手に握《にぎ》られた。
次いで、アイオーンが杖≠フ先を眼下のゴリアテに据えると、杖≠ヘ先端《せんたん》を展開し、巨大《きょだい》な砲口《ほうこう》を開いた。
「燃え尽《つ》きろ!!」
杖≠フ周囲を幾重《いくえ》にも取り囲む魔|砲《ヽ》陣が高速回転し、炎精神格《クトゥグァ》の砲弾を撃《う》ち出す……!!
アイオーンが持つ最大の超破壊《ちょうはかい》力が、上空からゴリアテに叩きつけられた。
+
アイオーンの杖≠ノよって発生し、ロンドンを焼き尽くした恒星《こうせい》のごとき光球は、急速に収縮し、そして消減《しょうめつ》した。
あとに残ったのは、鎔《と》け残った鉄柱と、沸騰《ふっとう》するガラスの荒野ばかり――いや、その中に、半径数十メートルの円形の土地が燃え残っていた。
その中心に存在するのは、右手を宙に掲《かか》げたゴリアテ。その手のひらには、発光する|破邪の印形エルダー・サイン》が浮かび上がっている。
『無事か』
ゴリアテに|宿ったもの《ヽヽヽヽヽ》が問うと、
「ええ、おかげさまで」
と、ニイダが答えた。
兼定も、子供たちも、今はゴリアテの機内に収まっている。
一方――瞬間《しゅんかん》的にすべての力を出し尽くしたアイオーンの機体が分解し、気を失ったエドガーが落下してきた。
ゴリアテは手を差し伸《の》べてエドガーの体を受け止め、昇降《しょうこう》ハッチを開いて機内に収容した。
「なぜ、あの男を……?」
兼定の問いに、エイダが答えた。
「彼とは一度話し合う必要があります。それに、あのような人物にこそ、教育と啓蒙《けいもう》が必要なのですわ」
アイオーンの杖≠フ一撃《いちげき》によって壊滅《かいめつ》したロンドンの跡地《あとち》を、ゴリアテはキャタピラを鳴らして進んでいく。
子供たちは教室ほどの大きさの居住スペースへ収容され、操縦室にはエイダと級長|兼《けん》助手のオルソンとバート、それに兼定と、意識を失ったマスター・オブ・ネクロノミコンがいる。
「なんてことだ……」
潜望鏡《せんぼうきょう》で機外の様子を見ながら、兼定がうめいた。
「……ロンドンには数十万の市民が生活していたんだぞ!」
「――しかし、その大部分がすでに火星人に寄生されつつあった」
そう答えたのは、エイダでも子供たちでもなかった。
操縦室の片隅《かたすみ》に横たえられていたマスター・オブ・ネクロノミコンの黒い術衣がほどけ、呪式《じゅしき》を記された紙片となって渦《うず》を巻き、十二歳ほどの少女の姿になった。
「なっ……!?」
兼定と、ふたりの子供たちが絶句したが、
「お久しぶりです、アル・アジフ」
エイダは落ち着いた様子で前に進み出た。彼女はこの魔導書《まどうしょ》の化身《けしん》とは、旧知の仲なのだ。
「もちろん私も、魔導書アル・アジフとその主《マスター》が、理由もなく殺戮《さつりく》と破壊《はかい》を行なうとは考えていません。わけを話していただけますね?」
「別段、深い理由などない」
アル・アジフは目を伏《ふ》せたまま言った。
「エドガーは妾《わらわ》の歴代の主《マスター》の中で、最も破壊的な男だ。ナイアルラトホテップがエドガーと妾を引ぎ合わせ、『火星人の襲来《しゅうらい》に備えよ』言った。邪神《じゃしん》の言葉ゆえ信用は旋らぬが、事実、この事態にあって此奴《こやつ》が我が遣《つか》い手となったことには意味がある。疫病《えきびょう》の如《ごとく》く増殖《ぞうしょく》する火星人に対抗するためには、都市《まち》をも焼《や》き尽くす、此奴の力が必要なのだ」
「いっしょに焼き尽くされるところだった身としては、大賛成とはいかないね」
兼定の皮肉を受け流すように、アル・アジフは呟《つぶや》いた。
「ああ、先ほどの、エドガーの一撃に耐《た》えた汝《なれ》らの力――あれはなんだ」
『それは私の力だ』
機内スピーカーを通じて、少女の声が操縦室に響《ひび》いた。
アル・アジフと似た声だが、やや抑揚《よくよう》を欠いたそれは、スピーカーの音声である点を差し引いても、機械的に聞こえる。
ゴリアテの制御《せいぎょ》用|解析《かいせき》機関から、パンチカードが吐《は》き出され、螺旋《らせん》状に渦巻き、アル・アジフと同年代の少女の姿になった。
「|この姿では《ヽヽヽヽヽ》、初にお目に掛《か》かる。我が原本《はは》よ」
「汝《なれ》は……?」
怪訝《けげん》な顔をするアル・アジフに、エイダが言った。
「紹介《しょうかい》しましょう――と言っても、私たちもつい数分前に会ったところですけれど――彼女はミスター覇道の所有する魔導書――【ネクロノミコン・機械語写本】の化身です」
「なに?……いや、道理で覚えのある気配だ。しかし……」
アル・アジフは再び眉《まゆ》をひそめた。【機械語写本】は、彼女の知るうちで最も年若い魔導書である。【死霊秘法《ネクロノミコン》】――すなわちアル・アジフ自身――の内容を最新の解析機関に読み込ませるために作成されたというその経緯《けいい》からして、まだ生まれてから十年とは経《た》っていないはずだ。如何《いか》に最強の魔導書の分身とはいえ、それほどに歴史の浅い魔導書が自らの意志を発揮するとは考えにくい。
言外の問いに答えて、【機械語写本】の少女は言った。
「不審《ふしん》に思うのももっともだ。だが、私はデモンベインの制御用魔導書として、獅子《しし》の心臓≠フ神気を数年にわたって受け、自ら化身を為《な》すに充分《じゅうぶん》な力を蓄《たくわ》えたのだ。我が力を以てすれば、解析機関によって制御されるあらゆる機械《エンジン》は、鬼械神《デウス・マキナ》に匹敵《ひってき》する魔導機械となる。ことに――」
【機械語写本】の少女は、ゴリアテの操縦室の内壁《ないへき》をなでた。
「|これ《ヽヽ》は我の力と馴染《なじ》みがよい。デモンベインの改良に従事した経験が設計に生かされているな。我がもうひとりの母よ」
「え……?」
少女に視線を向けられ、エイダが自分の鼻先を指した。
「我は我が主《マスター》覇道鋼造によって、エイダ≠ニ名付けられた。あなたにあやかり、あらゆる機関《エンジン》の支配者となるように、との願いが込められた名だ。つまり、オーガスタ・エイダ・ダーレス、あなたもまた我が原型《モデル》のひとりと言える」
「あら、それはどうも。光栄ですわ」
「――ちょっと待て! 待ってくれ!」
兼定が会話に割って入った。
「君たちはいったいなんたんだ!? 僕の父――覇道鋼造とはどういう関係だ!? それに、|デモンベイン《ヽヽヽヽヽヽ》だって!?」
「それらの件に関しては、のちほど説明いたしましょう」
エイダは兼定の言葉を片手で制し、
「小さいエイダ《リトル・エイダ》=A常に主《あるじ》と共にあるはずの魔導書が単独行動を取っているということは、なんらかの非常事態が進行しているとみるべきですね」
「その通りだ、オーガスタ・エイダ・ダーレス」
【機械語写本】の少女――|L《リトル》・|A《エイダ》はうなずいた。
「覇道鋼造は現在非常に困難な状況《じょうきょう》にあり、身動きが取れずにいる。また、地球を襲《おそ》っている事態は|その経緯の一部《ヽヽヽヽヽヽヽ》だ。地球を救い、かつ、我が主《マスター》の目的を果たすために、この場にいる全員の協力が必要だ」
「加えて、覇道財閥《ざいばつ》のすべての力が――ですわね」
あごに手を当てて、エイダは呟《つぶや》いた。状況を呑《の》み込むのに、数秒の時間が掛かった。
「――しかし我が写本《こ》よ、エドガーは他人のために働く男ではないそ」
「ミス・ダーレス、僕の質問の答えは――」
「先生、そろそろ川に出ます」
口々に問題を呈《てい》する面々に向かって、
「――よろしい!」
と、エイダは顔を上げた。
「それでは――バート、このままテムズ川に進入し、進路を下流ヘ! 本機はこれよりアメリカへ向かいます!」
「……なんと?」
「なんだって?」
「了解《りょうかい》!」
「アメリカ……アーカムへか? 今、この場からかい?」
「合理的判断の結果ですわ、坊《ぼっ》ちゃま」
エイダは答えた。
「火星人に掌握《しょうあく》された無線通信経路は使用不可能、となれば、覇道財閥の勢力との接触《せっしょく》が見込める場所まで、我々が直接出向かなければなりません。このゴリアテは蒸気客船並みの航続力と収容能力を備えていますから、道中の補給の心配のありません」
「しかし……子供たちを抱《かか》えたまま?」
「この状況下では、ロンドン郊外《こうがい》も安全とは言い切れません。それに対して、私たちと同行するならば――魔導書二冊にマスター・オブ・ネグロノミコン、覇道財閥|御曹司《おんぞうし》まで同行とあれば、これ以上に安全な旅はないというものです」
「いや、それは……そうかもしれないが……」
「それに。これは世界一の大都市の姿を子供たちに見せておく、いい機会ですわ」
エイダは胸を張り、堂々と言い切った。
「つまり、社会見学です!」
+
マスター・オブ・ネクロノミコン、エドガーが目覚めると、暗い、低い天井《てんじょう》が目に入った。
「起きたか、 エドガー」
アル・アジフが顔をのぞき込んだ。
「……どこだ、ここは」
「オーガスタ・エイダ・ダーレスのゴリアテ≠フ内部だ。汝《なれ》は三日の間、昏睡《こんすい》状態にあった」
エドガーの意識がはっきりしていることを確認《かくにん》すると、アル・アジフはさっそく小言を述べ始めた。
「呪文螺旋《スペル・ヘリクス》≠ヘ軽々しく使うなと言ったはずだ。汝《なれ》自身の心身に及《およ》ぶ影響《えいきょう》はもちろん、あの場で救うべきダーレスや人間たちまで巻き込むところだった――いや、実際、多くの生き残りの人間たちを殺してしまった」
「うるせえな」
エドガーは蝿《はえ》を払《はら》うように手を振《ふ》り、
「どうせ死ぬはずの連中だ。ほっといても火星人のエサにしかならねえだろうが」
「それは、そうだが……」
「なら文句言うな」
エドガーは毛布を振り払い、起き上がった。
「行くそ」
「無理だ。今ゴリアテから離《はな》れることはできん」
「あァ?」
「我らは今、イギリス海峡《かいきょう》を越《こ》え、大西洋の只中《ただなか》にいる。術衣形態《マギウス・スタイル》を取ったとて、また、アイオーンを招喚《しょうかん》したとても、いずこかの陸地にたどり着く前に力を失い、海中に没《ぼっ》するだろう。アメリカの地に着くまでは、ダーレスらと行動を共にするしかあるまい」
「ちっ、面倒《めんどう》くせえ……」
「どこへ行く、エドガー」
「ここは息が詰《つ》まる」
船室を出て、機内を当てもなくうろついていると、やがてふたりはゴリアテの甲板《かんぱん》に出た。
青い空、強い陽射《ひざ》しの下、ポールに張り渡《わた》されたロープに何十枚という白いシーツが干され、潮風にはためいている。背後に目を転じれば、鈍《にぶ》い色をした海が、遠くかすむ水平線まで続いている。
「あっ!」
洗濯《せんたく》物を干していた少年のひとりがエドガーの姿を認めると、柵《さく》から身を乗り出して、下方に向かって叫《さけ》んだ。
「先生! 魔術師の人が起きたよ!」
その言葉が終わるか終わらないかといううちに、腕《うで》をまくり、洗濯かごを抱えた覇道兼定が大股《おおまた》に歩いてきた。
「よう、坊ちゃま」
からかうように言われると、兼定は軽く顔をしかめたが、ふっと息を抜《ぬ》いて、エドガーと並んで立った。
「君たちとは話がしたかった。エドガー。それにアル・アジフ」
「俺のほうは別に、話すことなんざねえぜ」
「そう言うな。なんでも。君は世界最強の……その、魔術師、だそうじゃないか。僕はつい先日まで、そんなものが存在することすら知らなかった。当然、興味はある。君がどうやってそうした力を手に入れたのか、また、その力をどう使うつもりなのか――」
「うるせえな。おまえの知ったこっちゃねぇ。俺は好きなようにやるだけだ」
「そうはいかない。君の力は、個人が恣《ほしいまま》に振るうには大きすぎるものだ。そういった力は、ただ存在するだけで他人に大きな影響を与《あた》える。実際、ロンドンではこっちが死ぬところだった」
「へっ、それで説教か」
「真面目《まじめ》に話を聞くんだ。大都市を一撃《いちげき》で破壊《はかい》し得《う》る君の力は、世界の命運をも左右するものなんだぞ」
「あのなあ」
エドガーは挑発《ちょうはつ》的に首をかしげると、兼定に言った。
「知らないようだから教えてやるが、魔術師ってのは自分の命と正気《しょうき》を削《けず》って力≠ノ変えるんだ。俺の命の便い道を、なんでおまえが指図ずるんだ、え? 俺は俺の好きなように暴れて、勝手にくたばるだけだ」
「それならばなおさら、その力を意味のあることに使おうとは思わないのか。目的もなく暴れて死ぬだけでは、獣《けもの》と同じだ。君自身はそれでいいのか」
「ああ、それでけっこう! 俺はおまえみてえなお坊《ぼっ》ちゃんじゃねぇ。生まれついての野良《のら》犬だ。この力を手に入れたのだって|たまたま《ヽヽヽヽ》だ。いきなり生き方まで変わるわけがねえ」
「しかし――君はどうなんだ、アル・アジフ。君のパートナーが狂犬《きょうけん》のように生き、そして死んでも構わないというのか?」
不意に水を向けられたアル・アジフは、数瞬《すうしゅん》|逡巡《しゅんじゅん》したのち、重く口を開いた。
「……妾《わらわ》の使命は、主《あるじ》の力を得て魔と戦うことにある。その目的に適《かな》う限りにおいては、主《あるじ》の思惑《おもわく》に口を出すことはない」
「そういうことだ――アル・アジフ!」
エドガーの意志に従い、アル・アジフの体がページ状にほどけ、黒い術衣《マギウス・スタイル》と化して主《あるじ》の体を覆《おお》った。
次いでエドガーは、|魔術師の翼《マギウス・ウィング》を広げて飛び立とうとする。
「待て、どこへ行くつもりだ!」
(エドガー、先にも言ったように、単独での大西洋横断は不可能だ)
「知ったことかよ」
エドガーは空を見上げ、眩《つぶや》いた。
「飛べるところまで飛んで、あとは落ちるだけだ。なんならこの場でアイオーンを呼んで、このゴリアテとやらをぶちっと漬《つぶ》してやっても――」
と、その時。
「目が覚めたのですね、エドガー!」
ばたばたと足音を立てて、エイダが駆《か》けてきた。
「体調はどうですか? おなかは空《す》いていませんか?」
「あ?……まあ、そういや腹は減ってるかな」
すると、エイダはエドガーを手招きしながら歩き出した。
「よろしい、ではまず食事をお取りなさい。そのあと、あなたの雑務の分担を決めましょう」
「あァ?」
+
「……なんでこうなるんだ」
甲板《かんばん》の縁《ふち》から釣《つ》り糸を垂らしながらエドガーがぼやくと、
「まあそう言うなよ、兄貴」
と、同様に生鮮《せいせん》食料調達の任に着いたオルソンが言った。
「俺はおまえの兄貴じゃねえ」
「そうは言ってもミスター≠チて感じじゃねえし……それに坊ちゃま≠ヘ絶対ちがうだろ?」
「へッ、そりゃまあ、そうだ」
「じゃあ、兄貴≠ナ負けといてくれよ」
「ふん」
気のない調子で生返事を返すエドガーに、
「へっへ」
とオルソンは笑ってみせる。どういうわけか、この男を気に入ったようだ。
「……ちッ、くだらねえ」
エドガーは釣り竿《ざお》を放り出すと、ごろりと転がった。
「働かざる者|喰《く》うべからず、って言うぜ、兄貴」
「ふん、誰《だれ》が言うんだ? あの先生様か?」
「まあ、そうだけど」
「けッ、|べからざれば《ヽヽヽヽヽヽ》どうだってンだ。飯|抜《ぬ》きか、尻叩《しりたた》きか」
「ダーレス先生は俺たちの食事を抜いたりしないぜ。『子供の食事を抜くのは保育学的に論外』なんだとさ。尻は時々叩くけど。あと、説教は長いな」
「ヘッ、話がくどそうな女だ」
「まあね。でも、とにかく、先生は俺の飯を取り上げたりしない。だから、食えなくなることはないけど、仕事をさぼったあとだと、多少気がとがめて飯がまずくなる――なっ、と」
オルソンが竿を上げると、四十センチほどのカレイが掛《か》かっていた。
「へへ、釣りは俺が一番|上手《うま》いんだ」
「ふん」
「なあ、いっしょにやろうぜ、兄貴。晩飯までに人数分釣らなきゃ、カッコがつかねえや」
「格好なんざ、別にどうでもいいだろ」
「それがさ……。バートってのがいるんだ。眼鏡《めがね》でへなちょこの。あいつ『君はずっと遊んでたいのかい』とか言うんだ。嫌味《いやみ》な奴《やつ》さ」
「生意気な奴はぶっ飛ばしておとなしくさせろよ」
「何度もそうしたんだけど、あいつ、嫌な目でこっちをにらむだけで、殴《なぐ》り返しもしないんだ。ほんと、嫌な奴だよ。だから俺、あいつよりたくさん働いて『おまえはずっと遊んでたのかい』って言ってやるんだ――おっ」
にわかに海面が波立ち、無数の黒い背びれが音を立てながらゴリアテの周囲を追い越《こ》していった。
回遊するマグロの群れだ。
「ひゃあ、ずげえなあ!」
オルソンは声を上げて立ち上がり、甲板から身を乗り出した。
「……でも、あれはでかすぎて釣れねえなあ」
「ふん……?」
エドガーが起き上がった。
「よし、見てろ――アル・アジフ!」
魔導書《まどうしょ》の形態で傍《かたわ》らに置かれていたアル・アジフがページの形で宙に舞《ま》い上がり、黒い術衣《マギウス・スタイル》と化してエドガーの体に纏《まと》いついた。
エドガーは翼《マギウス・ウィング》を広げて甲板から飛び立つと、魚群の上に滞空《たいくう》した。
「アイオーン――捕縛呪法《アトラク=ナチャ》!!」
ゴッ――!!
エドガーの背後の空間から突《つ》き出した、鉄道の客車ほどもある鋼《はがね》の柱――部分|招喚《しょうかん》されたアイオーンの右腕《みぎうで》――その手のひらから、光のロープで編まれた蜘蛛《くも》の巣のような網《あみ》が生じ、海中に投じられた。
エドガーが拳《こぶし》を突き上げる動きに連動して、アイオーンの鋼の腕が、網の端《はし》を握《にぎ》ったまま持ち上げられた。綱にはマグロの群れがぎっしりと掛かっている。
「そォ……らァッ!」
アイオーンの腕は、網を振《ふ》り回すようにしながらゴリアテの甲板の上に移動させ、中身をぶちまけた。
体長三メートルを超《こ》えるマグロが数十|匹《ぴき》、海水と共になだれ落ちると、機体を揺《ゆ》るがすほどの勢いで跳《は》ね回った。
「いったいなんの騒《さわ》ぎ――なんだこれは!?」
甲板に駆《か》け上がった兼定が叫《さけ》んだ。
「……すげえや!」
「お魚いっぱいだぁ!」
「はっはァ! どうだ、人数分あるかァ!?」
「おい、気をつけてくれ! 洗濯《せんたく》物がめちゃめちゃだ!」
「ヘッ!」
エドガーは空中から兼定に言い放った。
「もう一度洗えよ、坊《ぼっ》ちゃま!」
+
その日の後半、甲板《かんぱん》はマグロの解体作業に専有され、洗濯は翌日に持ち越された。
翌日の朝、日が昇《のぼ》ると、兼定とバート、ほか数名の子供たちは、大きなたらいと洗濯板で、昨日海水に浸《つ》かったシーツや三十人分の下着を手洗いしていった。
「まったく、海の上じゃ、真水は貴重なのに」
バートが手を動かしながらぼやくと、兼定が相づちを打った。
「同感だね。洗濯と漁は日をずらす必要があるな」
「どうせオルソンが焚《た》きつけたんです。あいつ、人のやることをすぐ邪魔《じゃま》するんですよ。そのくせ、自分はさぼってばっかり」
そのオルソンは今、昨日で航海中の仕事は済んだとばかりに、エドガーと共にひなたぼっこをしている。
「たぶん、狩猟《しゅりょう》型というか、一発勝負に向いている子なんだな」
と、兼定は所感を述べた。
「まあ、世の中にはそういうタイプもいるのさ。僕らはせいぜい堅実《けんじつ》に行こう」
「はい、でも孤児院《こじいん》じゃ――あ、僕とオルソンは同じ孤児院の出なんですけど――ああいう|はしっこい《ヽヽヽヽヽ》連中ばかりが得をするんです」
「ああ、監督《かんとく》者の目の行き届かない施設《しせつ》では、そういうことになりがちだろうね。でも、ミス・ダーレスは君たちをちゃんと公平に扱《あつか》ってくれてるんだろう?」
「ええ、ありがたいことに。でも、あいつはきっと、僕が先生にひいきされてると思ってるんだ。僕はただ、当たり前のことを当たり前にやっているだけなのに」
「ふむ」
兼定はふと、手を止めて言った。
「彼はきっと、自分がダーレス先生に愛されているか不安なんだろうな。だからつい気を惹《ひ》こうといたずらをしてしまう。もっと言えば、彼は君のことがうらやましいんだと思うよ。当たり前のことを確実にできる君のことがね」
「はあ、それは……そうかもしれません。でも、そんな風に考えたことはなかったな」
バートは兼定を見上げた。
「兼定さんは、なんで僕たちのことがそんなによく分かるんですか?」
「ん? ああ。僕もある意味、孤児院の出《で》だからね」
「え?」
「あれ、聞いてないのかい? 僕は三つから五つまでの二年間、アーカムの孤児院で育ったんだ。正確には、母が亡《な》くなってから、父が迎《むか》えに来るまでの間。思えば、あれは僕が初めて政治というものを学んだ場所だったなあ」
「それは、その……すいません、意外でした。てっきり生まれついての御曹司《おんぞうし》かと――」
「ああ、そう思うのも無理はないよ。覇道鋼造の息子《むすこ》≠ニいえば、世界一のお坊ちゃんだからね。しかし、ここだけの話、あの人はあんまり、父親としてはあてになる人間じゃたいんだ……おっと、僕が覇道鋼造の悪ロを言っていたことは秘密だよ。ミス・ダーレスに知れたら、また大目玉だ」
やがて、兼定は手にしていたシーツをたらいにつけ込むと、
「やれやれ、君にはとんでもない弱みを握られちまった! どうか共犯関係と願いたいね――よっと!」
と、腰《こし》を押さえながら立ち上がった。
「ロープを張るのを、手伝ってくれるかい?」
+
その後、大きな時化《しけ》に遭《あ》うこともなく、航海は順調に進んだ。
十日後、翌日には北米の陸地が見えるであろう、最後の晩――
「……駄目《だめ》だ、やはりつながらない」
兼定が無線機から顔を上げた。
覇道|財閥《ざいばつ》の、ニューヨークやボストンの支部からは応答があった――ただし、そこから聞こえてくるのは火星人の呼び声。それらの都市はすでに、火星人に占拠《せんきょ》されているのだ。
そうした状況《じょうきょう》下にあって、アーカムシティとの回線だけはノイズの音が聞こえるのみで、意味のある音声を拾うことはできなかった。
しかし、
「よろしい」
エイダは室内の面々を見回して言った。
「どうやら、まだ最悪の事態には至っていないようですね」
電波によって侵略《しんりゃく》する火星人が状況を支配したならば、より強力な攻撃《こうげき》的信号を発信するはず――つまり、アーカムシティは未《いま》だ、敵の手に落ちてはいないのだ。
会議室|兼《けん》司令所に割り当てられた船室には今、エイダ、兼定、エドガー、それにオルソンとバートが詰《つ》めている。そのほか、二冊の魔導書《まどうしょ》の化身《けしん》のうち、L・Aはパンチカードと化してゴリアテの操縦に当たり、アル・アジフは書物の形態でエドガーに携《たずさ》えられている。
エイダはテーブルに広げられた地図を指でなぞった。
「本機は明日、ナラガンセット湾《わん》からミスカトニック川河口を遡《さかのぼ》り、アーカムを目指します。エドガー、あなたには進路前方の斥候《せっこう》と先導を頼みます」
だが、
「いやだね」
と、エドガーは言った。
「俺はもともと、おまえらやアーカムや、覇道財閥やら地球の運命やら、そんなものがどうなろうが知ったこっちゃない。ただ、好きなように飛び回って、壊したいように壊すだけだ」
「まだそんなことを言っているのですか!」
エイダはテーブルに両手をつぎ、身を乗り出した。
「事はもはや、あなた個人の問題ではないのですよ!」
「ああ、うぜえなあ」
エドガーは立ち上がった。
「ここまで陸に近づけば、もうこんなチンケな船に乗ってる必要もねえ。俺はもう行くぜ」
「待て」
出口に向かって歩いていくエドガーの前に、兼定が立ちふさがった。
「我々には、君の力が必要だ」
「そいつは筋が違《ちが》うんじゃねえか? あ?」
エドガーはあごを上げて、兼定を見下ろした。
「前にも言ったろ。俺の力は自分の命を削《けず》って出してるんだ。いきなり『みんなのために使いましょう』じゃ通らねえよ。手伝って欲しけりゃ、ちゃんとお願いしてみせな」
「それば……確かにそうかもしれない。どうか――」
兼定が下げた頭を、エドガーは思い切り殴《なぐ》りつけた。
「い・や・だ・ね! ヒャハハ!」
「う……!」
兼定がその場にうずくまり、代わってエイダが、エドガーの肩に手を掛けた。
「真面目《まじめ》に話をお聞きたさい!」
「触《さわ》ンな、くそアマ!」
「きゃっ!!」
「ヘッ! 俺は誰《だれ》の言うこともきかねえよ!」
突《つ》き飛ばされ、床に倒れたエイダに、エドガーは言い放った。
「どら、死ぬまでに火星人に奪《うば》われた都市《まち》を二、三個|潰《つぶ》してやる。せいぜい感謝――」
その言葉が終わらぬうちに、立ち上がった兼定が、エドガーの頬《ほお》にストレート・パンチを叩《たた》き込んだ。
「ガッ!?」
「なめるな、チンピラがッ!」
兼定はドスの利《き》いた声で言うと、拳《こぶし》を顔の前に構えた。
訓練を受けたものではないようだが、場数を感じさせる、堂に入った構えだ。
「言って分からないようなら、拳《こいつ》で教えてやるぞ!」
「てめェ……! ブッ殺す!!」
エドガーは魔刃鍛造《まじんたんぞう》≠フ口訣《こうけつ》を短く唱えると、右手にナイフ状の魔刃を呼び出した。パルザイの偃月刀《えんげつとう》≠フ小型版といったところだが、その刃《は》は必殺の呪力《じゅりょく》を帯び、殺傷力は充分《じゅうぶん》だ。
だが、喉元《のどもと》に死の刃を突きつけられながら、兼定の勢いは止まらない。
「はッ! おまえのような奴《やつ》のやることはいつも決まってる! 手前勝手な理屈《りくつ》が通じないと見れば、すぐに安っぽい光り物を持ち出すんだ!」
「てめ――」
「だがな、たとえそいつを使って僕を黙《だま》らせても、おまえの体に染《し》みついた負け犬の匂《にお》いは消えはしないぞ! おまえがハッタリだけの小狡《こずる》い理屈屋であるごとを、おまえ自身が知ってしまったんだからな! そうとも、おまえは一人前の責任を負うこともできないただのガキだ! 分かったか!?」
「……ッ!」
エドガーと兼定は、数秒の間、恐《おそ》ろしい目でにらみ合った。
やがて、エドガーが背後を向くと、船室の鉄扉にナイフを振るった。
非常時の浸水《しんすい》に耐《た》える分厚い鉄扉が、バターのように切り裂《さ》かれ、蹴《け》り開けられた。この刃が兼定に振るわれていれば、彼はひとたまりもなく両断されていただろう。
「兄貴――」
オルソンがおそるおそる呼び掛けると、エドガーは振り返りもせずに言った。
「俺はおまえの兄貴じゃねえ」
有無を言わさぬ動ぎで船室を出ると、エドガーは術衣《マギウス・スタイル》を身に纏《まと》い、夜の海上へと飛び出していった。
「……坊《ぼっ》ちゃま!」
その後、最初に口を開いたのはエイダだった。
「相手の態度にも問題があったとはいえ、人を説得しようという人が、あのような暴言を吐《は》き、あまつさえ暴力に訴《うった》えるなど……とても紳士のすることとは思えませんね!」
「あ、いや……」
兼定の表情から険が抜《ぬ》け、彼はしどろもどろに答えた。
「すまない、ついカッとなって……」
「エドガーにば、次に会ったときに謝罪するのですよ」
エイダは両手を腰《こし》に当て、ふん、と鼻を鳴らした。
「まったく、男の子の扱《あつか》いの難しいことといったら!」
+
翌日正午、ゴリアテは北米東岸・ナラガンセット湾《わん》に進入した。
湾内から望める陸地は、かつてプロヴィデンス≠ニ呼ばれ、現在は焼野≠ニ呼ばれる、不毛の地だ。この地は数年前、突然《とつぜん》原因不明の大災害に襲《おそ》われ、数十万の市民と共に、跡形《あとかた》もなく壊滅《かいめつ》したのだ。
地形すらも変わり、今は不自然にえぐれている湾に、かつてのプロヴィデンス川に代わって、流れの変化したミスカトニック川が流れ込んでいる。
世界の首都・アーカムシティの玄関《げんかん》口に当たるこの地には、災害以降、何度も再開発の計画が立ったが、その度《たび》に原因不明のトラブルに見舞《みま》われ、計画は頓挫《とんざ》している。
そのため、アーカムシティには、意外なことに海運による物流ルートは存在せず、もっぱらボストン・ニューヨーク経由の鉄道輸送によって成り立っていた。
その失われた海運ルート≠、今、ゴリアテは粛然《しゅくぜん》と進んでいる。
ミスカトニック川河口から進入し、潜航《せんこう》しつつ西側上流へ向けて進行――
途中《とちゅう》、潜望鏡を向けて観察する地上の風景は、地獄《じごく》のように荒《あ》れ果て、人影《ひとかげ》ひとつ――火星人の姿すらも――ない。この呪われた地は、火星人にとっても魅力《みりょく》のない場所なのだろう。今、この時だけは、それがむしろありがたい。
水面下を進むこと四十キロ余りにして、ゴリアテはアーカムシティの水門に辿《たど》り着いた。
通常は衛星都市との連絡《れんらく》船が往来しているはずのミスカトニック川は、アーカムシティの市内に入っても、ひっそりと静まりかえっている。それどころか、川沿いの通りにさえ、車や通行人の姿はない。
「僕が様子を見てこよう。君たちはここにいてくれ」
兼定がそう言って、ゴリアテを浮上《ふじょう》させた時、一台の自動車が桟橋《さんばし》に向かって走ってきた。
車から降りてきたのは、スーツ姿の老齢《ろうれい》の巨漢《きょかん》――覇道鋼造の執事《しつじ》、クロフォードだ。
クロフォードはゴリアテから身を乗り出した兼定に、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、兼定坊ちゃま。それに、お待ちしておりました、エイダお嬢様《じょうさま》」
+
ゴリアテを上陸させ、子供たちを覇道|邸《てい》の地下|施設《しせつ》に収容すると、兼定とエイダはクロフォードに呼ばれ、ミスカトニック大学のアーミティッジ教授と面会した。
アーミティッジは、兼定にとっては何度か顔を見たことがある程度の人物だったが、エイダとは古くからの知り合いであるらしい。また、この種の非常事態≠ノおける現場指揮を彼が任されているということは、ふたりにとって――いや、クロフォードにとっても――当然の成り行きであるようだ。
「そんな重要なことを、僕だけが知らなかったとは……」
兼定は頭を掻《か》いた。
「つまらないことを気にするようだが、蚊帳《かや》の外に置かれていた気分ですね」
「申し訳ありません、ミスター覇道ジュニア」
アーミティッジは、ごく事務的に答えた。
「しかし、我々の誰《だれ》もが、この世の有り様の一部しか知ることはできないのです。わたしもまた、自分の持ち場のわずかな領域の知識しか持ってはいません」
――ともあれ、アーミティッジの説明によれば、半月前のあの日、地球上の主要な大都市は一斉《いっせい》に火星人の手に落ちたのだという。わずかな例外が、鬼機神《デウス・マキナ》アイオーンの手によって壊滅させられたロンドンと、アーミティッジの機転によって速《すみ》やかに都市全域に妨害《ぼうがい》電波を流されたアーカムシティである。
「つまり、このアーカムが人類最後の砦《とりで》≠ニいうわけですか?」
兼定が言うと、
「現代社会の、という意味ではそうです」
と、アーミティッジは答えた。
「しかし、彼ら火星人が侵略《しんりょく》の経路としたラジオ放送設備が、都市部にしか配備されていたなったことは、我々にとって幸運でした。つまり、彼ら火星人の侵略は、未《いま》だ点≠ノしかすぎません。最悪の場合でも、占領《せんりょう》された都市群を最新の原子|爆弾《ばくだん》で焼き払《はら》い、彼らを地球から追い払うことが可能です。むしろ、なぜ火星人がこのような尚早《しょうそう》な時期に侵略を開始したのかが疑問と言えます」
「あと十年待てば、人類の領土すべてにラジオ放送網《ほうそうもう》が完備されていたのですものね」
エイダが合いの手を入れると、アーミティッジはうなずいた。
「しかも、地球に攻《せ》め込んできた火星人がこのまま環境《かんきょう》に適応して定住できるとは考えられません。今のところ、乗っ取った人間の体を乗り物のように操《あやつ》っているようでずが、本来の脳を失った肉体は、やがて腐敗《ふはい》して動けなくなります。その後、彼らが単独で地球の重力や大気に適応できるかははなはだ疑問です」
「つまり彼らには、そうした不都合があってすら『あと十年』が待てない理宙があった……ということですかしら」
「そのように考えています」
「なにか、確信があるような口ぶりですね」
兼定が言うと、アーミティッジはもう一度うなずいた。
「ミスター覇道のカノン計画≠ェ、その引き金になったと考えられるのです」
「初耳だな。なんですか、それは?」
アーミティッジはわずかに逡巡《しゅんじゅん》したが、意を決した様子で兼定に向き直った。
「いいでしょう。ミスター覇道不在の今、あなたはすべてを知る必要がある」
「すべて?」
「大まかに言えば、ミスター覇道は人類と|それ以外の勢力《ヽヽヽヽヽヽヽ》との闘争《とうそう》の最前線に立っていた……ということです。さらに言えば、敵対勢力の尖兵たるマスターテリオン≠ニ呼ばれる存在との戦いこそが、ミスター覇道と覇道|財閥《ざいばつ》、さらには人類すべての存在意義であると――少なくとも、ミスター覇道はそう考えていました。その戦いの最終局面となるのが、先月実行に移されたカノン計画=Bフロリダの地に極秘裏《ごくひり》に建設された超巨大砲《ちょうきょだいほう》によって、ミスター覇道その人を地球|大気圏《たいきけん》外まで打ち上げ、マスターテリオンとの最終決戦に臨《のぞ》むという計画です」
「ちょっと待った」
兼定は軽く手を挙げた。
「一から十まで夢みたいな話ですが――火星人やら魔術師やらをこの目で見た以上、信じないわけにもいかないでしょうね。それに、巨大な大砲によって人間を地球の外に送るという話は僕も聞いたことがあります。実用化されているとは知らなかったが、あの父ならそれくらいのことはやってのけるでしょう。しかし――大気圏外での戦いというのは? 爆弾か機関銃でも持っていくんですか? それにしたって、そんなところで戦う理由が分からない」
「第一の疑問への答え――ミスター覇道の武器はデモンベイン≠ナす」
「デモンベイン=c…!」
兼定は身を乗り出した。
「すでにミス・ダーレスからお聞きになっているかもしれませんが――デモンベインは覇道財閥が総力を結集して作り上げた巨大|魔導《まどう》機関です。覇道ジュニア、あなたがロソドンで見た鬼械神《デウス・マキナ》アイオーン≠フ機能を人工的に再現したものと考えれば分かりやすいでしょう。ただし、潜在《せんざい》的なパワーはそれ以上――いや、理論上無限と言えます」
兼定はうなずいた。デモンベインの存在とその概要《がいよう》については、ロンドンがらの道中でエイダに説明されていた。
アーミティッジは言葉を続けた。
「また、その超絶的なパワーこそが、第二の疑問への答えです。デモンベインと、同等の力を持つと考えられるマスターテリオンの鬼械神《デウス・マキナ》との激突《げきとつ》は、地上にいかなる被害《ひがい》をもたらすか予測できません。地球そのものの破壊《はかい》をも辞さないマスターテリオンに対し、ミスター覇道には、地上の安全を確保しつつ戦える戦場《フィールド》を求める必要があったのです」
「それで、その戦いの結果は? 父が戻《もど》っていないということは、まさか……」
「不明です」
アーミティッジはかぶりを振《ふ》った。
「ミスター覇道との連絡《れんらく》は途絶《とだ》え、火星付近での確認《かくにん》を最後に、地上からの観測においても見失っています。おそらくは共に地上への帰還《きかん》能力を失って、漂流《ひょうりょう》しているのではないかと思われます。また、そうした展開もミスター覇道のシナリオのうちにありました」
「つまり、最初から相打ち狙《ねら》いということか――」
兼定の顔に、複雑な表情が浮《う》かんだ。
「相変わらず、勝手な人だな……」
「それで、今のお話の、カノン計画≠ニ火星人との関係は?」
エイダの質問に、
「その件については、ふたつの可能性が考えられます」
と、アーミティッジは答えた。
「まず第一に、長年地球を静観していた火星人が、ミスター覇道のカノン計画≠ノ対し、地球人による火星侵略≠フ脅威《きょうい》を感じた――というシナリオ。つまり、火星人による先制|攻撃《こうげき》です。そしてもうひとつは、マスターテリオンとなんらかの協方関係にある火星人が、|地球人によるミスター覇道の救助《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を妨害《ぼうがい》しようとしている――というシナリオです」
「なるほど……しかし、後者であるとすれば、それは逆説的にミスター覇道の生存の可能性を示唆《しさ》することになりますわね――L・A、正解は?」
「は?」
怪訝《けげん》な顔をするアーミティッジの目の前で、エイダの抱《かか》えていたパンチカードの束が渦《うず》を巻いて舞《ま》い上がり、十二歳ほどの少女の姿を取った。
「【機械語写本】! なぜ君がここに!?」
L・A――【機械語写本】の精霊《せいれい》は答えた。
「我が主《マスター》覇道鋼造は、|マスターテリオンと共に封印される《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》寸前、私を無線電信情報の形で地球へ送ったのだ」
「救助の要請《ようせい》のためか? ミスター覇道は生きているのだな!?」
「それは不明だ」
L・Aは言った。
「私の帰還の目的は、あくまで火星人の妨害≠セ」
「妨害――火星人の目的が分かっているのか?」
「イエス。彼らの目的とはマスターテリオンの意志の遂行《すいこう》だ。彼らはマスターテリオンによって火星の地表に|発生させられた《ヽヽヽヽヽヽヽ》奉仕《ほうし》種族であり、その種族的存在意義は、彼らの神であるマスターテリオンの、封印《ふういん》からの解放だ。一方覇道鋼造の望みは、我々がそれを妨害し、自らはマスターテリオンと共に永久に封印されることにある」
「なんと……」
「つまり、父は僕らに、自らの帰還の可能性を完全に断てと言っているのか」
「イエス。それが我が主《あるじ》の望みだ」
「そんなことが、できるわけがないだろう……!」
「しかし、そうしなければマスターテリオンは復活し、我が主《あるじ》の希望は無に帰するだろう」
「しかし……」
「選択《せんたく》の余地はない。手をこまねいていれば、人類の未来そのものが潰《つい》えるのだ」
L・Aの言葉に、その場が重い沈黙《ちんもく》に支配され始めた、その時――
「――ふむん」
と、エイダが鼻を鳴らした。
「ミスター覇道を助けるにしろ、言いつけ通り見殺しにするにしろ、なにはともあれ――火星に行かないことにはお話になりませんね」
+
覇道鋼造は、宿敵マスターテリオンとの決戦の場を宇宙に求めた。しかし、デモンベインに飛行能力はない。脚部《きゃくぶ》の空間|歪曲《わいきょく》機構によって瞬発《しゅんぱつ》的な機動力を得ることはできるが、それのみで地球の重力を振り切ることは不可能だった。
そこで覇道鋼造が考案したのが、カノン計画≠セ。
まず、フロリダに砲身《ほうしん》二七〇メートルのコロンビヤード式|超巨大砲《ちょうきょだいほう》を建設する。その巨大砲から発射される弾丸《だんがん》とは、覇道鋼造の搭乗《とうじょう》する小型宇宙船だ。
地上から打ち出されたそれが地球周回|軌道《きどう》に乗ったところで、覇道鋼造は手荷物として携《たずさ》えていた【機械語写本】と共に招喚儀式《しょうかんぎしき》を行ない、デモンベインを地上から呼び出した。覇道|邸《てい》地下に建設された虚数《きょすう》展開カタパルト≠ヘ、覇道鋼造の意志の存在するところにデモンベインを送り出すことができるのだ。
宇宙空間に出現したデモンベインは、呪術《じゅじゅつ》的な力場《フィールド》によって覇道鋼造を保護しながら、宿敵マスターテリオンとの決戦に向かい――その後の顛末《てんまつ》は、アーミティッジとL・Aが語った通りだ。
アーミティッジの見立てによれば、この度《たび》の火星人の攻撃は、地球人の都市を無力化するに留《とど》まり、その波及《はきゅう》効果は甚大《じんだい》ではあるものの、それ以上の被害《ひがい》を直接的にもたらすものではなかった。
曲かりなりにもこの一撃《いちげき》に耐《た》えた地球人類の、次は反撃の手番である。
「しかし、どうやって? もっと大きな大砲を作るのかい?」
兼定が言うと、エイダが答えた。
「それもひとつの方法ですが、選択|肢《し》は他《ほか》にもあります。例えば大型飛行機を改良した地上/宇宙輸送機や、噴射《ふんしゃ》推進式の宇宙|戦艦《せんかん》など――もちろん、魔術《まじゅつ》の応用も視野に入れるべきでしょうね」
アーミティッジが言葉を引き継《つ》いだ。
「とにかく、まずは地球から火星人を一掃《いっそう》して、反撃の足場を固めることです。幸い、我々の拠点《きょてん》となるこのアーカムシティは無傷、かつ、時間は我々に有利に働くはず――」
しかし、|その目算は甘かった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
彼らの会見が終わるより早く、アーカムシティ全域に非常|警戒《けいかい》を告げるサイレンが鳴り響《ひび》いた。
+
その日、アーカムシティを襲《おそ》った|それ《ヽヽ》は、遠目には海に浮《う》かぶ海月《くらげ》に似ていた。
ただし、巨大な鋼鉄の。空飛ぶ海月だ。
直径十五メートルほどの円盤《えんばん》状の頭部から、三本のコンパスのような細い脚《あし》が、触手《しょくしゅ》のように垂れ下がっている。円盤部の上面では蒸気機関車のような煙突《えんとつ》がもくもくと黒煙を吐《は》き、下部にはこれまた蒸気機関車の前照灯を思わせる|ひとつ眼《ヽヽヽヽ》が、ちかちかと点滅している。また、円盤の周縁《しゅうえん》部はレール状になっており、高速で回転していた。
海月≠フ数は三体。ニューヨーク方面から鉄道沿いにアーカムシティに接近し。路線を封鎖《ふうさ》するバリケードを次々と。風船が飛ぶようにふわりと乗り越《こ》えた。その動きは重さを感じさせないものだったが、着地するや、三本の脚は路面や鉄骨の入ったビルを打ち崩《くず》した。頭部と比べれば細く見えるが、その脚の一本一本が、削岩機《さくがんき》にも似た鋼鉄のスパイクなのだ。
三体の巨大海月――火星人の戦闘《せんとう》マシンは、汽笛のような音を立てながら歩き始めた。
アーカムシティ市街は先日来、戒厳令《かいげんれい》下にあり、通りには人影《ひとかげ》はなかったが、次々と打ち崩される建物の中から、市民らは飛び出し、あるいは負傷した体を引きずりながら逃げまどった。そして、それらすべての人々の上に、戦閾マシンのひとつ眼《め》≠ゥら放たれた熱線が降り注ぎ、彼らは路上に焼け焦《こ》げた影のみを残して消減《しょうめつ》した。
アーカムシティの中心部に向かって突《つ》き進む三体の戦闘マシン、その目的は明らかに、侵賂《しんりゃく》電波に屈服《くっぷく》することのない、地球人類の反逆の砦《とりで》アーカムシティを、物理的に蹂躙《じゅうりん》し灰燼《かいじん》に帰せしめることにあった。
やがて彼らの前方に、マサチューセッツ州軍の砲兵《ほうへい》隊が布陣《ふじん》し、砲撃《ほうげき》を浴びせ始めた。
しかし、野戦砲の直摯を受けても、戦闘マシンはその姿勢を大きく傾《かたむ》かせるのみで、ゆらゆらと揺《ゆ》れながらすぐに立ち直ってくる。まるで風船を殴《なぐ》って壊《こわ》そうとするようなもので、手応《てごた》えがない。火星人は強力な装甲《そうこう》の代わりに、砲弾の衝撃《しょうげき》力を不可思議な方法で受け流すことによって防御《ぼうぎょ》しているのだ。
地上を走る熱線のひと薙《な》ぎで、砲兵隊は壊滅《かいめつ》した。もはや阻《はば》むもののない火星の軍勢は、思い思いの方向に飛び回り、死と破壊をまき敵らした。
そのうち一体が、放射状の大通りに誘《さそ》われるように、都市の中心部・覇道邸へと向かい、熱線砲を撃《う》ち放った。その余波のみで街路樹を炎上《えんじょう》させ、駐車《ちゅうしゃ》されていた自動車を爆発《ばくはつ》させながら、熱線は一直線に覇道邸へと走り、そして直撃した。
――否、その威力《いりょく》は屋敷《やしき》の直前で非実体の盾《ヽ》に阻まれた。
見れば、覇道邸の敷地の一部が坂状に落ちくぼんでいた。そして、地下格納庫への出入り口となるそこから、万能自走蒸気機関・ゴリアテが発進しつつあった。前方にかざされた手のひらには、輝《かがや》く五芒星《ごぼうせい》が浮かび上がっている。
『火星人の皆《みな》さん!!』
ゴリアテの拡声器から、オーガスタ・エイダ・ダーレスの声が響き渡《わた》った。
『おとなしく引き下がりなさい! これ以上の横暴は許しませんよ!!』
しかし、その言葉の意味を理解したのかどうか、火星の戦闘マシンは頭から突っ込むようにゴリアテに接近し、数十メートル手前で大きく飛び上がると、三本の脚を広げて空中からつかみかかった。
「前進ッ!!」
「はい!」
エイダの号令でバートが操縦席のレバーを倒《たお》し、急発進したゴリアテは、鋭《するど》い爪《つめ》の下をかい
くぐって走り抜《ぬ》けた。
それだけではなく、
「つかまえたァ!!」
腕部《わんぶ》操作を担当するオルソンが叫《さけ》んだ。
ゴリアテの右手は、すれ違《ちが》いざまに戦闘マシンの細い脚を捉《とら》えていた。
「行くぜタコ!」
ゴリアテは頭上で戦闘マシンをハンマーのように振り回し、仲間の一体に叩《たた》きつけた。二体のマシンは共に頭部から火を噴《ふ》きながら、地上にくずおれる。
その隙《すき》に、残る一体が背後からゴリアテに組みついた。
ゴリアテは脚をつかんだが、戦闘マシンの位置は死角になる上に、脚のカが思いのほか強く、引きはがすことができない。
「後退ッ!!」
「はい!」
ゴリアテは後ろ向きにビルに打ち当たった。しかし戦闘マシンは脚をゴリアテの機体に絡《から》ませたまま離《はな》れず、さらに頭部のひとつ眼=\―熱線砲を向ける。
「パルザイの偃月刀《えんげつとう》=I」
(――了解《りょうかい》した)
ゴリアテの頭脳たる解析《かいせき》機関に宿ったL・Aが答えると、空中に巨大《きょだい》な魔刃《まじん》が生じ、ゴリアテの右手に収まった。
「オルソン、投げて!」
「おうッ!」
ゴリアテは右手を振りかぶり、偃月刀を前方に投げ打った。偃月刀はブーメランのように回転しながら上昇し、ゴリアテの頭上で大きな弧《こ》を描《えが》くと、今度は垂直に落下し、ゴリアテに組みついた戦闘マシンの頭部を貫《つらぬ》き、爆発させた。
+
エイダは三体の戦闘マシンの残骸《ざんがい》をゴリアテで回収すると、解体し、内部構造を調べた。
戦闘マシンの頭部――直径十五メートルほどのパンケーキ状の円盤《えんばん》の内部には、一体ずつの火星人(の蒸し焼きになった死体)が入っていた。操縦装置に当たるものはなく、彼らは神経束の延長である触手《しょくしゅ》の先端《せんたん》を直接機械の中に差し込み、神経伝達信号によって操作しているのだった。
これは彼らが地球人の肉体を操《あやつ》るのと同様の方法であり、つまり、この戦闘マシンが彼らの新しい肉体≠ナあることを示していた。しかも、肉のスーツ=\―地球人の体――と違い、内部に相当規模の生命|維持《いじ》装置を備えているため、長期間の活動が可能と見られた。
そのほか、円盤部には蒸気機関が内蔵され、マシン全体に動力を供給している。また、円周部の回転するリングは、内部機構と併《あわ》せて一種の反重力装置を構成していると見られた。
この反重力装置や、各機に一基ずつ備えられた強力な熱線|砲《ほう》は、地球では知られていない原理によって作られていたが、材質や加工技術は常識的な地球のものだった。つまりこれは、火星人が地球上の技術で作り上げた鋼《はがね》のスーツ≠ネのだ。
このマシンを戦闘《せんとう》兵器と見るならば、ゴリアテによってどうにか対応できるため、決定的た脅威《きょうい》にはならない。しかし、これが火星人の地球上における活動を支援《しえん》する装置であると考えると、アーミティッジの予想における、地球側の時の利≠ェ失われることになる。これら火星人の鋼鉄の肉体《ヽヽ》は、現在、地球上の工業|施設《しせつ》によって量産されつつあるだろう。今や火星人は、時と共に力を蓄《たくわ》えていくことになる。時間は彼らに有利に働くのだ。
はたして、それから三日後――
無数の戦闘マシンが、再びアーカムシティを襲《おそ》った。
+
それはまさに、地獄《じごく》の津波《つなみ》のごとき軍勢だった。
大気を轟《とどろ》かせる汽笛の音、雨雲の如《ごと》く天を覆《おお》う黒煙《こくえん》を発生させながら、火星人の戦闘マシン群はアーカムシティを蹂躙《じゅうりん》した。
この事態を期して住民はすでに避難《ひなん》させられていたが、アーカムシティの司令塔たる覇道邸とそのスタッフは最後まで都市に居残っていた。
その覇道邸を、ミキサーのように建物を粉砕《ふんさい》しながら迫《せま》った何百機という戦闘マシンが呑み込んだ。
と――
覇道邸の地下から、巨大な鋼鉄の塊《かたまり》が飛び出した。
アーカムシティ脱出《だっしゅつ》の最終組――エイダやアーミティッジのほか、ダーレス学園の子供たちが乗り込んだゴリアテである。
ゴリアテはキャタピラを鳴らして走り出した。戦闘マシンの群れをすり抜け、時には乱暴にぶつかって押しのけながら、覇違邸への鉄道の引き込み線の線路上に乗り上げ、キャタピラを鋼鉄の車輪に換《か》えてさらに加通する。
二、三体のマシンが前方に立ちふさがったが、ゴリアテは偃月刀で斬《き》り払《はら》い、走り抜ける。
後方に取り残された戦闘マシン群が、熱線砲を一斉《いっさい》にゴリアテに向けた。
その時、上空からプロペラ音を鳴らして急降下するものがあった。覇道兼定の複葉機だ。
複葉機は機体の尾部《びぶ》にスモークを焚《た》き、ゴリアテの背後に色つきの雲を作り出した。戦闘マシンの発する熱線はスモークによって拡散し、威力《いりょく》を半減させる。
すると、戦闘マシンは反重力ジャイロの回転を上げ、次々に浮上《ふじょう》し、複葉機を追い始めた。
兼定は右に左に機体を切り返し、戦闘マシンの合間を飛び抜《ぬ》けていく。速度も小回りも兼定の複葉機が勝《まさ》っているが、風船を思わせる戦闘マシンの群れに、徐々《じょじょ》に押し包まれていく。
そこで、ゴリアテは手のひらに魔銃《まじゅう》を呼び出し、地上から兼定を支援した。
巨大な回転拳銃《リボルバー》から発射される呪力《じゅりょく》の砲弾《ほうだん》を受け、兼定の前方の戦闘マシンが火を噴《ふ》いて落下し、前方に空間がひらける。
しかし同時に、ゴリアテの進路の確保が手薄《てうす》になった。戦闘マシンの一体が熱線砲を閃《ひらめ》かせ、ゴリアテの前方の線路を大きく灼《や》き切った。
「ジャイロ始動!」
「はい!」
ふわり―ーと、ゴリアテは地上から五十メートルほども飛び上がった。先日回収した戦闘マシンの残骸から取り出し、機体に組み込んだ、反重力ジャイロの効果である。
もっとも、ゴリアテと戦闘マシンでは元々の自重が違《ちが》うため、完全な空中移動には及《およ》ばない。ゴリアテは数秒間|滞空《たいくう》すると、平たい放物線を描《えが》いて、再び線賂の上に着地する。
そのさまを見て、兼定が胸をなで下ろした時、戦闘マシンの脚《あし》が鞭《むち》のように複葉機を捉《とら》え、翼《つばさ》を切り裂《さ》いた。
第二章妖都躍踊
「……ッ!」
兼定は操縦席から放り出された。その姿を、戦闘マシンの目が捉える。空中で熱線に灼かれるか、はたまた地上に衝突《しょうとつ》するか――
結果はそのどちらでもなかった。
ゴッ―ー!
轟音《ごうおん》と共に飛来した鋼鉄の巨鳥《きょちょう》――鬼械神《デウス・マキナ》アイオーンが兼定の体を空中で捉え、鋭《するど》い翼で数体の戦闘マシンを切り裂きながら飛び抜けた。
「エドガー……!?」
「ヒャハハハハ! どうしたよ、坊《ぼっ》ちゃま!?」
エドガー=アイオーンはけたたましく笑いながら、線路を走行するゴリアテに速度を合わせ、その甲板《かんぱん》上に兼定を放り出した。
次いで、アイオーンはゴリアテを追い抜きながら両手にパルザイの偃月刀《えんげつとう》を呼び出した。右腕《みぎうで》に炎《ほのお》、左腕に氷の呪力が宿り、それぞれの手に握《にぎ》った刃《は》に集中していく。
「オォラッ!!」
アイオーンは二本の魔刃《まじん》を構えると、頭から砲弾のように回転した。
線路上に赤と青の二重|螺旋《らせん》が疾《はし》り、戦闘マシンを巻き込み、破壊《はかい》しながら飛び抜ける。
――やがて、ゴリアテは都市部を抜けた。背後には遠く、至るところから火の手の上がるアーカムシティの街並みが見える。
また、思い思いに破壊を繰《く》り広げる戦闘マシンの中の一群が、ゴリアテ追撃《ついげき》のための隊列を組みつつある。今は逃《に》げ切れても、やがて線路沿いに同様の軍勢が追ってくることになるだろう。
前方を飛行していたアイオーンが空中で反転すると、ゴリアテの甲板に飛び乗った。
「おい、|あれ《ヽヽ》をぶっ放すぜ! 文句はねえだろうな!?」
「なに……!」
兼定は逡巡《しゅんじゅん》したが、
「……いいでしょう!』
と、エイダは答えた。
『今は火星人の追撃を断つことを最優先します!』
「ハッハァ、 よく言った!」
アイオーンは両手を前方に向けて開いた。
「それじゃ、遠慮《えんりょ》なく行かせてもらうぜ――呪文螺旋《スペル・ヘリクス》!」
光の二重螺旋が生じ、長大な神銃《しんじゅう》≠ニ化して、アイオーンの両手の中に収まった。
「ぶっ飛べ!!」
魔|砲《ヽ》陣が高速回転し、超《ちょう》魔力の砲弾を撃《う》ち出し、そして――
着弾点に生じた巨大な光球が、アーカムシティの街を呑《の》み込んだ。
拘束《こうそく》は恐怖《きょうふ》を生む。
自由を奪《うば》われることは、すなわち生命を奪われることに等しい。
その事実をエドガーが思い知った時、彼はまだ幼く、拘束をはねのける力を持たなかった。
エドガーと弟のアーサーは、バーミンガム界隈《かいわい》のほうぼうの孤児院《こじいん》に転がり込んでは、数週間で脱走《だっそう》する――という生活を繰り返していた。政府や覇道基金の助成金目当てに孤児を受け入れ、子供の頭数を揃《そろ》えようとする孤児院は多がったが、大抵《たいてい》の場合、そうした施設《しせつ》の環境《かんきょう》は劣悪《れつあく》で、その内部では公然と虐待《ぎゃくたい》が行なわれ、時には売春や人身売買が横行することすらあった。
その夏、兄弟が拾われたのは、慈善《じぜん》家で知られるトマス神父の教会だった。
「やあ、いらっしゃい」
神父は慈父《じふ》の微笑《ほほえ》みを浮《う》かべながら、両手を大きく広げた。
「今日からここが君たちの家だ。遠慮することはない。私たちは皆《みな》、神の子なのだからね」
「ありがとうございます」
神父の顔をまっすぐに見上げ、アーサーは言った。辛《つら》い境遇《きょうぐう》にあってもねじれることのない素直《すなお》な心は、兄のエドガーが身を挺《てい》して守ってきたものだった。
一方、当のエドガーは、
「ああ、その、どうも」
と、曖味に頭を下げた。人の厚意を受けることには慣れておらず、警戒《けいかい》心が先に立った。
しかし、
(……ここは、今までの場所とは違《ちが》うかもしれない)
そのような期待が、エドガーにもあった。弟を抱《だ》き締《し》める神父の表情には、偽《いつわ》りのない慈愛が顕《あらわ》れていたからだ。
その日のうちに、ふたりには温かい食事が与《あた》えられ、また、教会の子供たちに紹介《しょうかい》された。
「彼らは皆、今日から君たちの兄弟だ。寂《さび》しくはないよ」
これだけの人数を喰《く》わせるのはなかなか大変たことだろう、とエドガーは思ったが、子供たちの中にはやせこけたり怯《おび》えた目をしていたりするものは見あたらず、みな幸福そうに見えた。
その理由は、神父の副業にあった。
教会の裏庭は大きな花壇《かだん》になっており、趣味《しゅみ》の園芸家である神父が自ら手入れをしていた。
そこで栽培《さいばい》された様々な種類の珍《めずら》しい花が、同好の園芸家たちに高値で買い取られ、教会の運営費にされているのだという。
数日して、エドガーたちが教会に馴染《なじ》み始めたころ、神父はふたりに花壇を見せた。
「この花はナス科の植物の一種でね」
そう言って神父添指し示したのは、五角形のラッパ型の花だ。
「普通《ふつう》は白や青の花を咲《さ》かせるんだが、栽培法を工夫《くふう》してこんな赤い花を咲かせることに成功したんだ」
花の説明をする神父の口調は普段《ふだん》よりもやや饒舌《じょうぜつ》になり、目には陶酔《とうすい》的な表情が浮かんだ。その表情になにか得体《えたい》の知れないものを感じたのか、エドガーの腕《うで》をぎゅっとつかみながら、アーサーは言った。
「……まるで、血みたいな赤ですね」
神父は満足げにうなずいた。
「うむ、そうだね。実に美しい」
「……あれ?」
ふと、アーサーが庭の一角に目を留めた。
「この庭には、物置がふたつあるんですね」
エドガーがその視線を追うと、なるほど、庭にはふたつの小屋が建っていた。エドガーたちの近くにあるひとつは白いペンキが塗《ぬ》られた真新しいもので、一方、やや離《はな》れた庭の奥にあるもうひとつは、教会の母屋《おもや》と同じくらいに古び、苔《こけ》むした、石造りのものだった。伸びた雑草を踏《ふ》み分けたあとが、獣道《けものみち》のようにそこに続いている。
「ああ、古い方の小屋はこの教会の敷地《しきち》に昔から建っていたものでね。肥料置き場に使っているんだよ」
アーサーが、ふと顔をしかめた。
「……なにか、変な匂《にお》いがします」
「うむ、肥料の匂いが服につくから、あまり近づかないほうがいいね」
「はあ……」
神父の話をうわのそらで聞きながら、アーサーは廃壗《はいきょ》じみた小屋を見つめていた。彼には昔からどこか勘《かん》の鋭《するど》いところがあり、現在もまた、言葉にならないなんらかの気配を察知しているようだった。
――それから数週間は、何事もなく過ぎた。
アーサーは他の子供たちと徐々《じょじょ》に打ち解けていき、エドガーはやや離れたところでそのさまを見守った。彼自身は積極的に輪の中に入っていくことはなかった。馴《な》れ合うのは苦手なのだ。
しかし――昼間は|はつらつ《ヽヽヽヽ》と遊んでいるアーサーが、夜になるとしばしば、なにものかの気配を感じ、怯えた様子でエドガーのベットに潜り込んできた。
ある夜も、また……。
「兄さん、兄さん」
「うん……?」
エドガーは目をこすりながら言った。
「どうした、アーサー」
アーサーは耳を澄《す》ますような仕草をしながら言った。
「庭のほうから、なんだか変な声が聞こえるんだ」
「気のせいだ」
エドガーはいつものように、弟の肩《かた》を毛布の上から優《やさ》しく叩《たた》いた。
「さっさと寝《ね》ろよ。俺がいっしょにいるから、怖いことなんかないだろ」
「でも、兄さん。ほんとに聞こえるんだ」
その時、床《ゆか》がみしりと鳴り、アーサーはエドガーの胸にすがりついた。
「神父様だ」
「妙《みょう》だな、こんな時間に……」
「きっと、庭へ行くんだ」
「庭なんかに行って、どうするんだ」
「あの赤い花に、特別な手入れをするんだ」
「この夜中にか? 手入れって?」
「みんな言ってるよ……神父様はあの花に人の生き血を吸わせてるんだって。子供を集めてるのもそのためなんだ。あの庭の片隅《かたすみ》の古い小屋には、人間から生き血をしぼり取る拷問《ごうもん》の道具がぎっしりつまってるんだって」
「馬鹿馬鹿《ばかばか》しい」
エドガーは笑い飛ばしたが、アーサーはその胸にすがりつくばかりだ。
「怖いよ、兄さん」
その様子につられて、エドガーも息をひそめると、神父の足音はゆっくりと子供たちの寝室《しんしつ》の前を通り過ぎていく。
「……よし。俺が様子を見てくる。神父様がなにをしてるのか確かめればいいんだろ」
エドガーがそっとベッドを抜《ぬ》け出そうとすると、シャツの裾《すそ》をアーサーが握《にぎ》った。
「いやだよ、兄さん。怖いよ」
だいじようぶ
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。おまえはここにいろ」
エドガーはアーサーに言った。
「それに、知らなきゃいつまでも、ずっと怖いだろ。なんだって、種を明かしてみりゃなんでもないことさ。なあに、どうせ庭で小便でもしてるんだ」
「それじゃ……それじゃ、僕もいっしょに行く」
アーサーは意を決して言った。
「ひとりじゃ、よけい怖いから……」
「よし」
エドガーはアーサーの肩を叩いた。
それから、兄弟は物音を立てないように靴《くつ》を履《は》き、寝室を抜け出して、神父のあとをつけた。
神父はランプを持って外に出ると、細い月の下、中庭の花壇《かだん》に入っていく。さらに、眠《ねむる》るようにたたずむ花々の間を抜けて、中庭の奥へと――
「……やっぱり聞こえるよ」
アーサーが、兄の腕《うで》にしがみついた。
「あの小屋だ。あの古い小屋の中から、変な声がする」
やがて、エドガーにもその声≠ェ聞こえてきた。うめくような、ぶつぶつ呟《つぶや》くような……。
神父はその声の方向に歩いていき、やがて小屋の中に入った。
「行くぞ」
「兄さん?」
「ちょっとのぞいてみるだけだ。おまえはここにいろ」
「いやだ、いっしょに行くよ」
ふたりは足音を忍《しの》ばせながら、神父のあとを追い始めた。
「ま、どうせ豚《ぶた》か羊でも飼ってるんだろ」
「なんでそんなもの、夜中に見に行くのさ?」
「さて、そこだ」
エドガーはにやりと笑った。
「豚のケツでも掘《ほ》ってるんじゃねえのか?」
「『ケツを掘る』って、どういうこと?」
「神の愛を分け与《あた》えたさる、ってことさ」
「それっていいことだよね? なんで昼間にしないの?」
「……しッ、聞こえるぞ」
エドガーは小屋の周囲をざっと見回すと、神父の入っていった戸口に近づき、ドアの取っ手に手を掛《か》けた。
ドアを細く開けたとたん、塊《かたまり》のような悪臭《あくしゅう》が噴《ふ》き出し、鼻先に叩きつけられた。
「うぶッ……!」
思わずこみ上げる吐《は》き気《け》がおくびとなって漏《も》れると、小屋の奥からランプの光が差し向けられた。
「誰《だれ》だね……!?」
「ひゃあ!」
アーサーが思わず声を上げ、戸口から飛び退《の》こうとした拍子《ひょうし》に足を滑《すべ》らせて転んだ。
「おい、大丈夫か!?」
「おや、君たちは……」
神父が奥から出てきた。小屋に籠《こ》もる悪臭を、彼はまるで気にしていないようだ。
「わあ、なんだこれ!?」
アーサーが叫《さけ》んだ。
「ベタベタしてる! それに臭《くさ》い!」
「ああ、この辺りは床《ゆか》に肥料がこぼれているからね。エドガー、君は大丈夫かい?」
それから、アーサーが落ち着くのを待って、神父はふたりに聞いた。
「なんで、こんな夜中に出歩いたりしてるんだい? 子供はちゃんと寝《ね》なければ駄目《だめ》だよ」
「はあ、その……」
エドガーがここまでのいきさつを話すと、
「はっは!」
神父は噴《ふ》き出した。
「私が子供たちの生き血を絞《しぼ》って肥料にしているって? それで、赤い血を吸った花が血の赤に染まると?――ふふん、モリスにマークだな? あの子らは、新入りの子が来るといつも、そんな嘘《うそ》をついてこの小屋に来させるんだ」
「はあ……いったいなんのために?」
「それはつまり――」
神父は説明した。
「ここは足下《あしもと》が悪いだろう? 夜などは特に、慣れていないとすぐに転んでしまう。肥料まみれになってべそを掻《か》く仲間の姿を指さして笑ってやろうという寸法だ。あまり質《たち》のよくないいたずらだね。一度、きちんと注意してやらなくてはいけないな」
神父はひとしきり笑うと、こう言った。
「ともあれ、だ。こう言っては悪いが、園芸というのはそんなに単純なものではないよ。日照や土壌《どじょう》、病気や害虫への対策。肥料ひとつとっても、窒素《ちっそ》、燐酸《りんさん》、加里《カリ》、石灰《せっかい》、苦土《くど》、硫黄《いおう》、その他の微量《びりょう》要素などのバランスが重要なんだ。……そうだ、ちょっと耳をすましてごらん」
ふたりが言う通りにすると、闇の奥からふつふつとなにかが呟くような音が聞こえてぎた。時々、げっぷのようなゴボリという音も混じっている。
「この小屋では堆肥《たいひ》と豚の糞《ふん》を混ぜて発酵《はっこう》させていてね。ああして、いつもガスが出ているんだ。君たちが聞いた『不気味な声』というのは、あれのことだね」
ふたりがうなずくと、神父は言葉を続けた。
「前にも言ったかと思うが、ここの肥料は特別製でね。夜中にも窓を開けたり火を焚《た》いたりして、室温を調整しなければ上手《うま》く仕上がらないんだ。一事が万事《ばんじ》、私が日頃《ひごろ》どれだけ微妙《びみょう》な調整をしているかを思えば、『血を吸った花が赤くなる』などという乱暴な物言いは実に心外だねえ!」
「はあ、あの……すいません。怒《おこ》りましたか?」
「冗談《じょうだん》だよ」
神父は両手にエドガーとアーサーの肩《かた》を抱《だ》いて言った。
「君たちにはいずれ造園を手伝ってもらいたいと思っているからね。私の知識の秘中の秘についてまで伝授するつもりだ」
その提案は、アーサーの興味を引いたようだった。
「僕らにも、あんなきれいな花が育てられるんですか」
「あの赤い花かい?」
神父はかぶりを振《ふ》った。
「あれももちろん珍《めずら》しいものには違《ちが》いないが、しょせんは売り物だからね。実はもっとすごいのがあるんだよ。――よし、こっちにおいで」
神父はふたりを連れて、小屋の奥に入っていった。
小屋の奥にあった階段を下りると、前方からゆるやかに風が吹いてきた。
地下は意外と広く、通路を数十メートルも歩く頃には、この小屋が単なる物置ではなく、地下道の入り口とも言うべきものであったことに、エドガーは気づいていた。
周囲の壁《かべ》は地下の水気がにじみ出た、洞窟《どうくつ》の壁のような状態になっている。通路の幅《はば》は左右に手のひらが突《つ》けるほど。天井《てんじょう》も妙に低い。また、道はところどころで枝分かれし、迷賂のように入り組んでいた。まるで、蟻《あり》の巣穴だ。
この地下迷路がどれだけ古いものかは分からないが、少なくとも教会が建つより前からあることは間違いないだろう。
「いったいどこまで歩くん……」
エドガーが言い掛《か》けた時、
「さあ、着いたよ」
と、神父が立ち止まった。
地下道の突き当たりにある古い、小さな扉《とびら》を開くと、その向こうから、なにかの光が漏《も》れだしてきた。
クローゼットほどの広さの、やはり天井の低いその部屋の中央に、大きな花が生けられていた。ひと抱《かか》えほどもある大きな花弁を広げた、見たこともない花だった。
しかし、大きさや形は問題ではない。なによりも目を引くのは色≠セった。
燃える炎《ほのお》のように輝《かがや》かしく、星の光のように鋭《するど》く、宝石のように複雑で、虹《にじ》のように変幻自在《へんげんじざい》なそれは、紛《まぎ》れもない赤=Aただし、エドガーたちが想像したことすらない、異次元の赤だった。地上の植物が――いや、他のいかなる物体とても、このような見事な色彩《しきさい》を生み出すことができるとは信じがたかった。
しかし、現実にそれは存在した。先ほど漏れ出た光は、この花から発しているものだ。
「どうだね?」
ふたりが言葉も忘れて見入っている様子を見ると、神父は満足げに言った。
「これは冥府《めいふ》の紅花≠ニ呼ばれている、たいへん珍しい花でね。陽《ひ》の光の全く当たらない、洞窟の奥でしか咲《さ》くことがないんだ」
「すごく、きれいですね……」
憑《つ》かれたような口調でアーサーが言うと、
「うむ、実に美しい」
と、神父は答えた。
「この地下通路は原始的ながら精巧《せいこう》な空調装置になっていてね。この花を咲かせるためだけに、この巨大《きょだい》な設備があるといってもいい。これを作ったのがはるか太古の穴居人《けつきょじん》か、それとも人間以前に栄えていたなにかの生き物なのかは知らないが、彼らが美というものを理解していたことは間違いないね」
「じゃあこの花は、神父様がここに来る前からあったんですか」
「うむ、この場所に根を張ってね。しかし、今よりずっと弱って、枯《か》れかけていた。私が手を尽《つ》くして、ここまでの生気を取り戻《もど》させたんだ。ひょっとすると、この花自身が助けを求めて、私をこの場所に呼び寄せたのかもしれないね」
神父は赤い花に向けて、大きく手を広げた。
「この花は実に不思議な存在だよ。|彼女《ヽヽ》が土中から吸い上げているのは、水や通常の栄養素だけではなく――私は学者ではないから正確なことは言えないが――土地の霊気のようなものも含まれるんだ」
「なんだ、そりゃあ……」
とエドガーは眩《つぶや》いたが、神父の言葉は、ある程度の真実を含んでいるように思えた。炎のように揺《ゆ》らめく赤い花弁は、何ヵ月も燃え続ける油田の火災のように、霊気――と神父が呼ぶ、なんらかの要素――を地中から吸い上げて、燃焼させているのだ。
アーサーもまた、同様の印象を覚えた様子で、
「なんだか……分かるような気がします」
と、真顔でうなずくばかりだ。
「同意してもらえて、うれしいよ」
神父はアーサーの背をそっと押した。
「さあ、もっと近づいて、よく見てごらん」
アーサーは憑かれたような足取りで、赤い花にふらふらと歩み寄った。
そして、揺らめく花弁に触《ふ》れようと、手を差し伸《の》べた時――
花弁に隠《かく》れた茎《くき》から鞭《むち》のような蔓《つる》が飛び出し、アーサーの腕に巻きついた。
「アーサー!?」
エドガーが駆《か》け寄ると、別の一本の蔓が、エドガーの首に巻きついた。指ほどの太さしかない蔓だったが、その力は意外に強く、エドガーが両手でつかんでも引き離《はな》すことができない。もう一本、さらにもう一本――エドガーとアーサーの手足に次々と蔓が巻きつき、瞬《またた》く間にふたりをがんじがらめにした。
「兄さん……!」
「くそ……なんだこりゃ!?」
エドガーが叫《さけ》ぶと、神父が一歩進み出た。だが、注意深く一定の距離《きょり》を保っているようだ。
「ああ、言い忘れていたが、この花はハエトリソウのような性質を持っていてね。近くに寄ってきた栄養源を、自分で捕《つか》まえるんだ」
「な、ん、だと……!」
エドガーは唸《うな》るように言った。喉《のど》に巻きついた力強い蔓は、しかし、ある程度以上は締《し》めつけては来ない。この場でエドガーを絞《し》め殺すつもりはないらしい。
「そう、この冥府の紅花=\―伝説の花を私が見つけたとき、彼女は枯れかけていた。この土地は霊的な力を失って久しく、また、彼女に養分を供する崇拝者《ヽヽヽ》も絶えて無く、生きるための栄養が足りていなかったんだ。そこで、私は彼女のための肥料を調達することにした」
「てめえが肥やしになりやがれ!」
「いやいや、自分が養分になるのもいいが、より多くの養分を与《あた》えて美しい花を観賞することは、それに勝《まさ》る喜びだよ」
神父はちらりとアーサーを見た。
「感受性の豊かな子供は、特にいい栄養になるようでね。もう何人か与えてやれば、紅花≠ヘ往年の力を取り戻すだろう。そうすれば、彼女は今まで以上に強力な精神の波長で、周囲の人間を自由に呼び寄せ、餌《えさ》とすることができるようになる。私に頼《たよ》らずとも、人間の天敵にして支配者たる生物として、地下の世界に君臨することになるだろう」
「て、めえ――」
エドガーが毒づこうとした時、
「ああ……兄さん! 兄さん!」
アーサーが叫んだ。
次の瞬間《しゅんかん》には、エドガーにも|その感覚《ヽヽヽヽ》が襲ってきた。
額に当てられた蔓の先端《せんたん》から、さらに細く霊妙《れいみょう》な|霊気の蔓《ヽヽヽヽ》が伸び、エドガーの頭蓋《ずがい》に侵入《しんにゅう》してきた。
蔓は脳髄《のうずい》の内側を這《は》い回りながら、エドガーの精神を揺さぶり、掻《か》き回し、そして|吸い上げていく《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
それは異次元の感覚を伴《ともな》う、激烈《げきれつ》な苦痛だった。エドガーの視界が、この世のものならぬ赤に染まった。エドガーを縛《しば》る紅花≠ヘ、彼の|精神の色《ヽヽヽヽ》を吸い上げ、ますます赤く咲き誇《ほこ》るのだ。
「兄さん、助けて……!」
アーサーの声を聞きながら、エドガーもまた絶叫《ぜっきょう》し、全力で手脚《てあし》をよじった。
しかし、紅花≠フ蔓は一向にゆるむ気配はない。むしろ反射的にエドガーをきつく締め上げるばかりだ。
「くそったれ……弟だげでも放せ!!」
エドガーが叫ぶと、
「そうはいかんよ」
と、神父は答えた。
「彼女《ヽヽ》は無垢《むく》な子供を好むんだ。むしろ君のほうが|おまけ《ヽヽヽ》だね」
「じゃあ俺を放せ! てめえをブッ殺して、こいつも切り倒《たお》してやる!!」
「それもごめん被《こうむ》るよ」
神父はにこやかに笑った。
「しかし、その調子でどんどん怒《おこ》ってくれ。君の怒《いか》りは、彼女にまた鮮《あざ》やかな色を添《そ》えるだろう。とても楽しみだよ」
神父はふたりを置いて、部屋を出て行った。
ランプの光が去ると、室内を照らすのは紅花≠フ発する赤い燐光《りんこう》のみとなった。
エドガーは必死で身をよじった。しかし、紅花≠フ蔓《つる》の拘束《こうそく》が解かれることはなかった。
最初、きつく締められた部分の血が止まり、このままでは腐ってしまうかと思われたが、手脚の温度かなにかを感じ取ったのか、蔓の力がゆるんだ。しかし、手を引き抜《ぬ》こうとすると、即座《そくざ》にぎゅっと締まってしまう。エドガーたちは半ば宙づりになったまま、地下深く取り残された。不可思議な魔《ま》の花の肥料として。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか。数時間か、数日か。
紅花≠ゥらの|吸い上げ《ヽヽヽヽ》は断続的に行なわれ。その合間は思考することも、口を利《き》くこともできた。ただ身動きだけが取れないのだ。
「アーサー、大丈夫《だいじょうぶ》か」
エドガーが呼び掛《か》けると、アーサーは弱々しくうなずいた。
「必ず助けてやるからな。がんばれ」
そう言って励《はげ》ましたが、なんの当てがあるわけでもなかった。
魔花の蔓はふたりの体力と精神力を徐々《じょじょ》に吸い取り、やがて抵抗《ていこう》の気力をも奪《うば》い去った。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか。数時間か、数日か、それとも数週間か。
永遠と思える時間だった。
アーサーはずいぶん前からぐったりとして、口も利けない様子だ。
ただ、数時間に一度、蔓からの吸い上げ≠ェある時には悲痛な叫びを上げるので、生きていることだけは分かる。
また、その苦痛が|精神の蔓《ヽヽヽヽ》を逆流してエドガーにも伝わってきた。エドガーとアーサーの精神が、怪《かい》植物を介《かい》して一体と化している――いや、共に怪物に取り込まれつつあるのだ。
エドガーはその予想に恐怖《きょうふ》し、再び脱出《だっしゅつ》を試《こころ》みた。
すでに体を縛る蔓は解けていた。しかし、異次元の蔓は依然《いぜん》として彼の脳と精神を縛っており、指一本動かすことはできなかった。
何日か、何週間か――ひょっとすると何ヵ月かの時聞を掛けて、彼の知覚はじわじわと鈍《にぶ》っていき、死の恐怖さえも徐々に薄《うす》れていった。
そし、ついに――アーサーが死んだ。
その感触《ヽヽ》が、エドガーの脳にも伝わってきた。
同時に、弟と融合《ゆうごう》しつつあったエドガーの精神の一部も死んだ。エドガーの精神の半分は、凍《こお》りつくような死の虚無《きょむ》に支配された。
だが、残りの半分は――
(く……そ……!!)
恐俺と苦痛を超《こ》える感情が、エドガーの精神の奥底から湧き出してきた。
(くそくそくそ、くそったれ……!)
それは、怒り。
炎《ほのお》のような怒り、頭蓋《ずがい》を内側から破裂《はれつ》させるほどの爆発《ばくはつ》力を秘《ひ》めた怒りだった。
――トマス神父が再び冥府《めいふ》の紅花≠フ下《もと》を訪《おとず》れたのは、|翌日の晩《ヽヽヽヽ》だ。
エドガーとアーサーが味わった苦痛の日々は、実際にはわずか一晩の間の出来事にすぎなかった。一般《いっぱん》に辛《つら》い時間が長く感じられるように、無限の苦痛は無限の時間として感じられるのだろうか。
いや――神父が見下ろすアーサーの死体は、まるで何年も前に死に、そこに放置されていたかのように、やせこけ、干《ひ》からびていた。あたかも全身に巻きついた蔓が、養分と共に少年の時間までも吸い取ってしまったかのようだ。エドガーもまた、老人のような、骸骨《がいこつ》のような姿を床《ゆか》に転がしていた。
神父は満足げにうなずくと、鉤《かぎ》のついた竿《さお》を使って、まずアーサーの死体を引き寄せた。次いで、エドガーの――
その時。
完全にミイラ化していると思われたエドガーの腕《うで》が動き、竿の先端《せんたん》をつかんだ。
「く、そッ……た、れ……!」
干からびた腕が、恐《おそ》ろしい力で竿をたぐった。不意を突《つ》かれた神父ば、たたらを踏《ふ》んで前方によろめいた。そこは冥府の紅花≠フ蔓の射程|範囲《はんい》だった。
蛇《へび》のように躍《おど》り出た蔓が、神父の脚に巻きついた。
「うお……!」
神父が叫《さけ》び声を上げた。何人もの子供たちを魔の花への生《い》け贄《にえ》としてきた彼自身が、ついに魔の花の餌食《えじき》となったのだ。
さらに、エドガーは残された精神力を、その怒《いか》りのすべてを、体内で爆発させた。
炎のような怒りが、|精神の蔓《ヽヽヽヽ》を逆流して紅花≠フ本体に到達《とつたつ》した。
赤い花弁が、燃料を投入された炎のように激しく揺《ゆ》らめき、ふくれあがった。
「おお、これは……」
神父は陶然《とうぜん》と呟《つぶや》いた。
「美しい……!」
しかし、エドガーの怒りは紅花≠フ許容量を超えていた。蔓が、葉が、花弁が、内側からの熱で火を噴《ふ》き、全身をうねらせ、蔓を振《ふ》り回しながらもだえ苦しんだ。
紅花はさらに、土中から根を引き抜きながらうねり狂《くる》った。
根を張った蔓が急激に引き抜かれ、床や壁《かべ》がぼろぼろと崩《くず》れ落ちる。
そしてついに、天井《てんじょう》が崩落《ほうらく》した。
「うおお……!」
「ヒャ、ハ、ハ、ハ…………て、めえ、らも……道連れだァ……ッ!!」
+
エドガーは闇《やみ》の中にいた。
幸運なことに、全身が土砂に埋《う》まることは避《さ》けられた。弱った体を懸命《けんめい》に動かして土の中から這《は》い出ると、そこはまだ、地下室の中だった。
神父と怪植物は、土砂《どしゃ》の中に埋まってしまったようだ。
偶然《ぐうぜん》である。
なんの勝算があったわけでもない。ただ本能的に、体内の精神力を爆発させたにすぎない。それが、怪植物の生態に破壊《はかい》的に作用したという、ただそれだけのことだ。
そもそも、この状況《じょうきょう》とて勝利≠ニ言えるものではない。
先ほどの崩落は、この地下室の通気口と出入り口を塞《ふさ》いでしまった。この上、土砂を掘《ほ》り進む体力は、もはやない。立ち上がることさえできないのだ。
――今度こそ、死ぬ時だ。
漠然《ばくぜん》と、そう思った。
恐怖も、後悔《こうかい》もなかった。
ここで死ぬのが自分の運命だと言われれば、そのような気もする。
もともと、誰《だれ》に望まれて生きてきたわけでもない。好きなように生きて、力尽《ちからつ》きたところで死ぬ。そのことには、なんの文句もない。ただ、他人の思惑《おもわく》のままに、なすすべもなく死ぬのが嫌《いや》だっただけだ。
しかし……幼いアーサーのことだけは、残念だった。エドガーの心には、弟の死の感触《かんしょく》が未《いま》だ色濃《いろこ》く残っていた。
アーサーは自分とは違《ちが》う。世間と馴染《なじ》み、平凡《へいぼん》に、幸福に生きていくはずの子供だった。
そのアーサーを死に追いやった運命に対して、漢然とした怒りがあった。だがそれは、本人にとっても、どこに向けるべきか分からない、方向の定まらない感情だった。
いらだちにも似た想《おも》いを胸に、エドガーが目を瞑《つぶ》った時――
視界の隅《すみ》に、かさりとなにかが動いた。
それは一|匹《ぴき》の鼠《ねずみ》だった。不思議なことに、闇の中になお黒く浮《う》かび上がるように、はっきリとした輪郭《りんかく》を持って見ることができた。さらに不可思議なことに、それは燃えるように輝《かがや》く三つの眼《め》を持っていた。
――幻覚《げんかく》か、それとも――
エドガーは何とはなしに呟いた。
「死神って奴《やつ》か……」
「いいや、違うね」
と、|黒い鼠は答えた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。理知的な、しかし、どこか潮笑《ちょうしょう》じみた響《ひび》きを帯びた声だった。
「私は君の味方だよ――今はね」
「嘘《うそ》つけ。味方なら、もっと早く助けに来るだろ」
と、エドガーは言った。鼠が人の言葉をしゃべることには、不思議と違和感《いわかん》を覚えなかった。
すると、鼠は平然と言った。
「ああ、すまない。そういう意味の味方ではないんだ」
鼠は二本の後肢《あとあし》で立ち上がると、エドガーを見上げて胸を反らした。
「私は|とあるゲーム《ヽヽヽヽヽヽ》の観客にしてプロデューサー≠ニいった立場でね。直接手を出すことはできないが、力を望む者にそれを与《あた》えることができる。ただし、誰でもって訳じゃない。それ相応の才能がある人間に対して――たとえば君がそうだ」
鼠は気取った手つきで片手を上げた。
「君は本来、|ここで死ぬはずの人間だ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。魔《ま》の植物との精神的|格闘《かくとう》の末、地下室に生き埋め――ふむ、小物とはいえ魔の存在の一端《いったん》に触《ふ》れた者としては、そこそこまっとうな死に様と言える。これは君の本来の運命であるから、君にはもちろんこれを選択《せんたく》する権利がある」
さらに、鼠はもう片方の手を胸の前で広げた。
「そして、私が提示するのは、もうひとつの運命だ。君は生きてここから抜《ぬ》け出し、力を手に入れる。人として最強の、いや、人間以上の力だ」
「ふん、どうも胡散臭《うさんくせ》え話だな」
と、エドガーは言った。
「なにやらごたごた言ってるが、いったいなにが目当てだ」
すると、鼠は答えた。
「いやいや、私は元来、混沌《こんとん》に奉仕《ほうし》する者だからね。君の振《ふ》る賽《さい》の目がどう出るか、私の興味はそこにこそある。君にはちょっとした仕事をしてもらうつもりだが、それとても強制されるものではない。……さあ、どうかね? 君は定められた運命におとなしく従うか、それとも新たな力を手に入れて、自らの運命を切り開くか――ただし、その新たな運命の行く手は、今より悲惨《ひさん》なものかもしれないがね」
小さな手で鼻面《はなづら》をこすっていた鼠は、不意に顔を上げると、にたりと笑った。魔物の笑《え》みだった。
「……ははあ、さては貴様、死神じゃなくて、悪魔か」
「ああ、それは当たっているかもしれない」
と、鼠はこともなげに言った。
「私のことをそう呼ぶ人間もいるよ。まあ、呼び名などはどうでもいいことだがね」
「代わりに魂《たましい》をよこせ、ってか」
「いいや、君からはなにももらうつもりはないよ。ただ、君の起こす行動が、私にとって有利な展開を呼ぶかもしれないと期待しているだけだ。まあ、相互《そうご》利益といったところだね」
「ふん」
「さて、どうするね? すぐに決心がつかないのなら、君が窒息死《ちっそくし》するまでは待ってあげよう。私は気が長いんだ。時間もまた、私にとってはどうでもいいことだからね」
鼠は傍《かたわ》らの瓦礫《がれき》に腰掛《こしか》けると、人間のように脚《あし》を組んだ。
しかし、
「よし、いいだろう。その話に乗ってやる」
と、エドガーは即答《そくとう》した。
「てめえの言いなりも癪《しゃく》だが、定められた運命とやらはもっと気に喰《く》わねえ。だが、いいか? 俺をはめようなんぞと思ったら、てめえを踏《ふ》み漬《つ》してやるからな!」
「では、契約《けいやく》は成立だ」
鼠はそう言うと、深呼吸をするように、大きく胸を反らした。
「――いつでも踏み潰してくれて結構だよ」
エドガーの目の前で、鼠の体がむくむくとふくらみ始めた。
大きく、大きく、さらに大きく――鼠の体は犬よりも、人間よりも、牛や馬よりも大きくなり、やがて部屋いっぱいに体を押し込める、巨大《きょだい》な魔獣《まじゅう》の体を為《な》した。三つの眼はかがり火のように燃え盛《さか》り、耳まで裂《さ》けた口からは杭《くい》のような牙《きば》が何十本と覗《のぞ》き、そして――
ボッ――!
低い破裂《はれつ》音と共に、その巨体が爆発《ばくはつ》した。
エドガーはその爆発に巻き込まれた――かと思うと、教会の庭に放り出された。
いつの間にか、体力が回復していることに気づき、エドガーはおそるおそる立ち上がった。
視界が、いつもと違《ちが》う。
その違和感の正体が、|視点の高さ《ヽヽヽヽヽ》であることにエドガーは気づいた。
両手を見ると、長い指をした大人の手が見えた。
エドガーは自分の顔を触《さわ》り、それから水瓶《みずがめ》の水面を覗き見た。
水面から覗ぎ返してきたのは、記憶《きおく》にある自分より十歳ほども年長の、青年の姿だった。
怪《かい》植物にとらわれて過ごした時間が彼を強制的に成長させたのか、あるいはあの黒い鼠《ねずみ》が与えると言った力の一端がこの姿なのか。
「ハハハハハハハ――」
細い月の下、風に乗って、魔物の笑う声が聞こえてきた。
「さあ、まずは一冊の本≠探すことだ。その本の名は【死霊秘法《ネクロノミコン》】。君に力をもたらす、最強の魔導書だ――」
――数日後、トマス神父の姿が消え、教会はちょっとした騒ぎになっていた。
神父は行方《ゆくえ》不明の子供たちを捜しに出たまま、自らも消息を絶ったのだという。
しかし、その騒ぎの最中にひとりの青年がふらりと現れ、再び消えたことには、何人《なんびと》も注意を払《はら》うことはなかった。
+
「エドガー……?」
翡翠《ひすい》色の瞳《ひとみ》が、エドガーの顔を覗き込んでいた。
「どうした、うなされていたようだが」
「てめえの知ったこっちゃねえ」
「……そうか」
「ここはどこだ……?」」
エドガーは半身を起こし、周囲を見回した。
簡素な部屋だが、先日のゴリアテの船室よりは広い。エドガーはベッドに横になっていた。
「覇道|財閥《ざいばつ》の大砲《たいほう》基地≠セ。汝《なれ》が昏睡《こんすい》している間に到着《とうちゃく》した」
それだけ言ってアル・アジフが黙《だま》り込むと、しばらくして、エドガーはぽつりと呟《つぶや》いた。
「……昔の夢を見てた」
「昔?」
「俺は早く大人になりたかった。大人の力を手に入れて、弟を守るつもりだった。しかし、いざ大人になってみると、弟はもういねえ。皮肉なもんだ」
「……魔術師《マギウス》の運命《うんめい》とは、しばしばそうした矛盾《むじゅん》を孕《はら》むものだ」
と、アル・アジフは言った。
「適切な目的と力を持った者はまっとうな運命を生き、果たし得ぬ目的と大きすぎる力を持つ者が魔道を往くのだ。汝《なれ》が魔術師としての運命を得たのは、生きる目的たる血族を失った、まさにそれが故《ゆえ》であろう」
「ちッ」
エドガーは舌打ちをした。
「もしそうだとしたら、運命とかいう奴《やつ》は俺の敵だな」
「ならば、運命に抗《あがら》うがよい。それもまた、汝《なれ》の運命なれば」
「てめえ、俺を馬鹿《ばか》にしてんのか? 混ぜ返しやがって」
「そうではない。妾《わらわ》はただ警告するのみだ。汝《なれ》は破滅《はめつ》の縁《ふち》に立っていると――他の多くの術者がそうであったように」
アル・アジフはエドガーを見上げて言った。
「エドガーよ。しかし、汝《なれ》の生命を徒《いたずら》に消費させることは、妾の本意ではない。また、ナイアルラトホテップの思惑《おもわく》に従う義理もない。汝《なれ》はまだ引き返せるのだ」
「引き返してどうすんだ。戻《もど》る居場所なんざどこにもねえ」
エドガーはペッドから降りた。自前の革《かわ》の服は、畳《たた》んでサイドテーブルに置かれていた。ジヤケットに腕《うで》を通しながら、エドガーは言った。
「ふん、結構じゃねえか、火星人退治。せいぜいでっかい花火を上げてやるさ」
エドガーが左手を突《つ》き出すと、アル・アジフは一瞬《いっしゅん》もの言いたげな顔をしたが、書物の形態を取ってエドガーの手に収まった。
と、そこに――
「目が覚めたか、マスター・オブ・ネクロノミコン」
そう言って、覇道兼定が入ってきた。
「起きられるようなら、こっちに来てくれ。今から計画の説明がある」
「計画だァ?」
エドガーは兼定を突き飛ばすようにしながら、戸口に向かった。
「俺は俺のやりたいようにやる。そう言ったはずだ。計画だの筋書きだの、知ったこっちゃねえよ」
「そう勝手なことを言うな。だいたい君は――」
「だいたい俺が、なんだって? あ?」
エドガーがあごを上げると、兼定もまた、鼻先をぐっと突き出した。
揺《ゆ》るぎない視線が、正面からエドガーの目を見据《みす》える。
――やっぱり、こいつは気に喰《く》わねえ……!
エドガーの右手が、魔刃《まじん》を呼び出すヴーアの印を形作った時――
「起きましたね、エドガー!!」
オーガスタ・エイダ・ダーレスが飛び込んできた。
「お元気そうでなによりです! あなたの無事は、あなた自身のみならず、地球人類全体にとっての幸運と言えるでしょう。マスター・オブ・ネクロノミコンの存在は、火星人に対する我々の反撃《はんげき》作戦の要《かなめ》となるのですから!」
「あー……」
エドガーは悪態のひとつもつこうと口を開いたが、エイダの勢いに押されて声が出ない。
「さあ、こちらにおいでなさい!」
エイダはエドガーの手を取り、先に立って歩き始めた。
「ちッ――調子が狂《くる》うぜ」
引っ立てられるようにしながらエドガーがぼやくと、
「……その点は同感だ」
と、後に続く兼定が言った。
+
――それは、巨大《きょだい》な鉄の井戸《いど》だった。
内径二・七メートル、外径五・五メートル、深さ二七〇メートルの鋳鉄《ちゅうてつ》製の円筒《えんとう》。地面に掘《ほ》り抜《ぬ》かれた縦穴をそのまま鋳型《いがた》として、地中に鋳造されたそれは、覇道鋼造のカノン計画≠フ要、直径二・七メートルの砲弾《ほうだん》を衛星|軌道《きどう》まで打ち上げる性能を持つ、超《ちょう》巨大コロンビヤード砲だった。
井戸≠フ周囲には、溶鉱炉《ようこうろ》や資材|運搬《うんぱん》用の鉄道設備が解体されずに残され、また、再発射の準備のため、何百人という作業員が忙《いそが》しく立ち働いている。ふた抱《かか》えもある綿火薬の包みが人間の手で運ばれ、手動式クレーンでひとつずつ砲身の底に降ろされていく。引火を避《さ》けるため、蒸気磯関や電動機の類《たぐい》は用いられない。
トロッコに乗って井戸の口の至近まで来ると、アーミティッジは一同に説明を始めた。
ここフロリダ・ストーンズヒル山頂の大砲基地≠ノて、覇道鋼造が使用した設備と予備の資材をそのまま流用し、最大の打撃《だげき》力を持つ兵器を火星に送り込む――これが、アーミティッジの提案する第二カノン計画≠フ概要《がいよう》である。
そして、現状、地球人類の持つ最強の兵器といえば――
「それはあなたです、マスター・オブ・ネクロノミコン」
と、アーミティッジは言った。
「鬼械神《デウス・マキナ》アイオーンの破壊《はかい》力を考えるならば、あなたと魔導書《まどうしょ》【アル・アジフ】のひと組は、同重量の原子|爆弾《ばくだん》をも遥《はる》かに超《こ》える威力《いりょく》を持つ爆弾≠ネのです」
また、一同は傍《かたわ》らの倉庫に場所を移すと、巨大な釣鐘《つりがね》型の物体の前に出た。
「エドガー、あなたが乗り込むのはこの砲弾型宇宙船です。外壁《がいへき》はアルミニウム製、全長四・五メートル、直径二・七メートル、外壁厚四十五センチメートル、重量約九トン。内部には呼吸用酸素をはじめとする一ヵ月分の生命|維持《いじ》設備、それに発射時の衝撃《しょうげき》を吸収する緩衝《かんしょう》装置があります」
エイダは「どうだ」と言わんばかりの表情で、エドガーを見上げた。
「この宇宙船に乗り組むことは、人類の存亡に関《かか》わる重要事であるのみならず、非常に興味深い科学的体験です。なにしろ、前人未踏《ぜんじんみとう》の――いえ、ミスター覇道に続く――宇宙空間への進出なのです!」
「ええと、これには推進装置はついていないのかい?」
と、兼定が言った。
「火星に向けて撃《う》ったとして、万が一、狙《ねら》いが逸《そ》れてしまったら?」
その質間に、アーミティッジが答えた。
「もともと、この宇宙船と、発射装置であるコロンビヤード砲には、地球大気|圏《けん》の脱出《だっしゅつ》のための機能しかありません。照準装置もないため、火星を狙い撃つことは不可能です」
「では、どうやって――?」
「そこで、マスター・オブ・ネクロノミコンの出番です!」
まずエイダが言い、次いで、リトル・エイダが説明した。
「鬼械神《デウス・マキナ》アイオーンによる魔術的|飛翔《ひしょう》ならば、約五十時間で火星に到達《とうたつ》する事が可能だ」
「なるほどな」
アル・アジフがうなずいた。
「歴代の我が主《マスター》たちの中でも、地球を出て星の世界を垣間見《かいまみ》た者はまれだ。真空にして極寒《ごっかん》の死の空間に耐《た》えるのは、魔術師《マギウス》の力を以《もつ》てしても数時間が限度であるがゆえに。しかし、休息のための居住設傭が随行《ずいこう》すれば、我らの行動|範囲《はんい》は飛躍《ひやく》的に拡大する」
「その通り! 覇道鋼造の科学と【ネクロノミコン】の魔術が手を組めば、向かうところ敵なしということでずわ」
「ふむ……無謀《むぼう》ではあるが、完全に不可能というわけでもなさそうだ。エドガーよ、これは試《こころ》みてみる価値のある作戦やも――」
すると、
「けッ、嫌《いや》だね」
エドガーはきびすを返した
「俺ァ、穴蔵と狭《せま》い部屋が死ぬほど嫌《きら》いなんだ。アルミだかなんだかの棺桶《かんおけ》に何日も押し込められるなんざ、まっぴらごめんだ」
「まだそんなことを――」
と、小言を言い始めるエイダを制して、兼定が言った。
「ミス・ダーレス。彼とふたりで話をさせてくれ」
+
一同から離《はな》れ、空き倉庫のひとつに入って鍵《かぎ》を掛《か》けると、兼定はエドガーに切り出した。
「――まず、ひとつ謝罪させてくれ。先日、君をいきなり殴《なぐ》ったことは謝る。すまなかった」
「けッ、謝ったから帳消しだってか?」
エドガーは床《ゆか》につばを吐《は》いた。
「謝っていただく必要なんざねえよ。仕返しは俺のほうで勝手にやるぜ。半殺しにしてやるから覚悟《かくご》しとけ」
「ああ、それでいい。事が済んだらいくらでもやってくれ。ただその前に、もうひとつ提案がある」
兼定は胸の前に両の拳《こぶし》を構えた。
「君の進退だが――|こいつ《ヽヽヽ》で決めるとしよう」
「あァ? なんだそりゃ」
「僕は君がどの程度の覚悟でものを言っているのか、見極《みきわ》めさせてもらう。君は僕に覚悟の量を示す機会を与《あた》えられる。これはフェアな取引だ――行くそ!」
兼定は大きく踏《ふ》み込み、エドガーに殴りかかった。大味な動きだが、まっすぐに体重の乗った、鉄槌《てっつい》のようなパンチだ。
「馬鹿《ばか》かてめえ」
エドガーは兼定の拳をよけながらヴーアの印を結び、右手にナイフ状の魔刃《まじん》を呼び出した。
兼定は魔刃に一瞬眉《いっしゅんまゆ》をひそめたが、しかし怯《ひる》んだ様子はない。
「刃物《はもの》を使えば後悔《こうかい》が残るぞ! 君に誇《ほこ》りがあるなら、|武器はなし《ヽヽヽヽヽ》だ!」
「だからなんなんだよ、その妙《みょう》な理屈《りくつ》はよ」
エドガーはナイフを構えた。
「俺はもともと、てめえみてェな訳知り顔のお坊《ぼっ》ちゃんが大嫌《だいきれ》えなんだよ。てめえにどう思われようが関係ねえ」
「奇遇《きぐう》だな。僕も君のようなチンピラは大嫌いだ――だが、嫌いな人間に侮《あなど》られることほど不愉快《ふゆかい》なことはないだろう!」
兼定はナイフの存在を無視して、正面から突《つ》っ込んだ。
「く、この……」
エドガーは刃《やいば》を振《ふ》るうことに躊躇《ちゅうちょ》した。その隙《すき》をついて、兼定のストレートが頬《ほお》をかすめる。
二|撃《げき》、三撃と続けて踏み込んでくる兼定の肩《かた》に、
「――なめんなコラ!」
エドガーは肘《ひじ》を打ち込んだ。
「ぐ……!」
兼定は一瞬息を詰《つ》まらせたが、姿勢を立て直すと再び殴り掛かった。
エドガーは肘と脚《あし》で応戦するが、自分の構えたナイフが邪魔《じゃま》で、動きが鈍《にぶ》る。
一方、兼定の攻撃《こうげき》は徐々《じょじょ》に勢いを増していくようだ。
「くそ……!」
エドガーはナイフを放り捨てた。魔刃は床の上を一度|跳《は》ね、魔文字の粒子《りゅうし》に分解して消えた。
身軽になったエドガーの反撃《はんげき》が始まった、大振りの兼定の攻撃をぎりぎりで見切りながら、鋭《するど》く踏み込み、確実にカウンターを当てていく。
観客のいないボクシングの試合のように、ふたりの殴り合いは続いた。素早《すばや》さと立ち回りの巧《たく》みさではエドガーが勝《まさ》っていたが、一撃の重さ、そして心身のタフさでは兼定が勝っていた。殊《こと》に、エドガーの拳を何度|喰《く》らっても再び立ち上がるのは、単なる肉体の耐久《たいきゅう》力以上に、執念《しゅうねん》のなせる業《わざ》だろう。
喧嘩《けんか》の場数ではエドガーがはるかに勝っていたが、その経験の多くは一撃で勝負を決める、実戦的なものだ。このような、泥仕合《どろじあい》とも言える戦いになると、先行きは分からなくなってくる。
十分後――
「けッ……なにが『こいつで決めよう』だ。弱ェくせに」
床に這《は》う兼定を見下ろし、エドガーは血の混じったつばを吐き、そして――その場に尻餅《しりもち》をついた。
入れ替《か》わりに、兼定がよろめきながら立ち上がった。
「まだまだ……!」
「今日はもうやめだ。めんどくぜえ」
「負けを認めるか……!」
「そうじゃねえよ」
エドガーは床に大の字に転がった。
「てめえなんかと殴り合ってもなんの得にもならね。馬鹿馬鹿《ばかばか》しい」
「損得じゃないだろう、誇りの問題というのは」
「……さっきもそんなこと言ってたな。誇りがどうだとか、刃物がこうだとか。なんなんだ、いったい」
「ああ、あれは、つまり――」
しばし逡巡《しゅんじゅん》したのち、兼定は言った。
「……僕は一度だけ、人に刃物を向けたことがある」
「ほう、意外だな。喧嘩か? それとも恐喝《カツアゲ》か?」
「いや……殺すつもりだった」
「ヘッ、そいつは穏《おだ》やかじゃねえな。どこのどいつを殺《や》ろうとしたんだ?」
「覇道鋼造――僕の父だよ」
+
三つの時に母か死んで、僕は五つの歳まで孤児院《こじいん》で育った。
母に関してはうっすらと記憶《きおく》が残っているだけで、父については顔さえ覚えていたかった。
別に珍《めずら》しい話じゃないが、僕のいた孤児院も、あまり環境《かんきょう》のいい施設《しせつ》とは言えなくてね。腹が減ったり喧嘩をしたり、まあ、よくある程度に辛《つら》い思いをした。
で……子供ってのは世界が狭《せま》いからね。世の中の悪いことは全部、母を捨てて消えた父のせいだと考えた。なにか辛いことがある度《たび》に、まともに会ったこともない父への恨《うら》みを募《つの》らせたものさ。なかかとひがみっぽい、嫌《いや》な子供だったと思うよ。
そんなわけで、自分は天涯孤独《てんがいこどく》だと思っていたんだが、ある日、いきなり孤児院に連絡《れんらく》が来てね。僕の父が生きていることが分かった。
――今更《いまさら》、どの面《つら》下げて会いに来るんだ。
その時は、そう思ったよ。
今にして思えば、当時の父は単なる山師で、死んだ母は単なる運の悪い女だったということだったんだろうけれど……幼い僕にとっては、母の記憶は唯一《ゆいいつ》の心の拠《よ》り所《ところ》だったからね。ほとんど女神のように崇拝《すうはい》していたんだ。その母を死に追いやった男と言えば、悪魔《あくま》も同然だ。
――殺してやる。
そんな物騒《ぶっそう》なことを考えて、盗んだナイフをポケットに忍《しの》ばせて待ち構えた。
目の前に現れた父は、思ったより若い男だった。今の僕より歳下だ。
抱《だ》きつくふりをして、その腹にナイフを刺《さ》した。
しかし、所詮《しょせん》は子供の力――いや、実際には本当に人を刺す覚悟《かくご》なんて出来ていなかったんだな。ナイフの切っ先が三センチばかり刺さったところで、勢いが止まった。それ以上、刺すことも抜《ぬ》くことも出来ない。ナイフを握《にぎ》った僕の手の上に、父の手が被《かぶ》さった。
――殺される……!
そう思ったんだが、しかし――父はもう片方の手で僕の肩を抱いて、言ったんだ。
「さあ、行こうか」とね。
そして、自分の腹に刺さったナイフが周りに見えないように隠《かく》しながら、こう言うんだよ。
「君には辛い思いをさせたが、もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。さあ、俺たちの家へ帰ろう」
ここでウインクなんかしながら、
「ただし……その前に、病院に寄らせてくれ」
刃物《はもの》まで出しておきながら、反対に気遣《きづか》われてしまったわけだ。完全に僕の負けだった。
+
「その時から二十年余り……未《いま》だに父に対しては構えてしまう。正直言って、苦手な人だよ。父もそれを感じているんだろうな。あまり、僕とは話したがらない。まあ、世界で一番|忙《いそが》しい人だから、もともといっしょに過ごす時間なんてないんだが……たまにアーカムに寄ったときも、どうも避《さ》けられているような節がある。普段《ふだん》からろくに居所もつかめなくてね。今日はエ
ジプト、明日は南極。そして今度は火星と来た」
兼定は肩をすくめた。
「僕たちはどうにも、|距離のある《ヽヽヽヽヽ》親子なのさ」
「賛沢《ぜいたく》な話だな」
大の字に転がったまま、エドガーは眩《つぶや》いた。
「俺には親父《おやじ》もお袋《ふくろ》もいたためしがねえ。弟がひとりいたが、そいつも死んじまった」
「そうだな。多分、僕は賛沢なんだろう。まあ、世の中には|賛沢な悩み《ヽヽヽヽヽ》ってものもあるってことさ」
兼定はエドガーに向き直った。
「さて、君の質問には答えた。今度は僕の希望を聞いてくれ。『どうか地球を救ってくれ、エドガー』」
「てめえの言うことなんざ、聞かねえよ」
と、エドガーは言った。
「……しかし、てめえの苦手なその親父とやらのツラを拝んでみるのも悪くねえか」
その時。
大きなサイレンの音が、倉庫の薄《うす》い壁《かべ》を震《ふる》わせた。
次いで、表からドアを激しく叩く音がした。
「兄貴、坊《ぼっ》ちゃま、大変だ! 火星人だ! 火星人が来たよ!」
+
この大砲《たいほう》基地≠ヨの火星人の襲撃《しゅうげき》は、事前に予想されていたことではあった。オーガスタ・エイダ・ダーレスのゴリアテ≠ェ、火星の戦闘《せんとう》マシンを引き連れてくる形になったのだ。
ただし、ゴリアテのほうが速度が速いために、数日分の時間が稼《かせ》げる。その数日のうちにマスター・オブ・ネクロノミコンを大気|圏《けん》外に打ち上げ、地上に残った人員は大砲基地≠フ地
下|施設《しせつ》をシェルターとしてそこに立てこもる――という計画は、しかし、火星人の予測より早い到着《とつちゃく》によって変更《へんこう》を余儀《よぎ》なくされた。
その理由は、戦闘マシンに内蔵された反重力ジャイロの性質にあった。
それらの装置のひとつひとつは、鋼鉄製の戦闘マシンを一時的に浮遊《ふゆう》させる程度の効果しか持たなかったが、複数の機体が脚《あし》を絡《から》み合わせてひと塊《かたまり》になると、相乗効果によって何倍もの飛行能力を発揮するのだ。
地平線の上に、ひとつ、またひとつと、虫の子の塊のような戦闘マシン群が現れる。アーカムシティ襲撃の際より、総数はさらに増えているようだ。
マシン群体は次々と個体にばらけると、大砲基地≠ノ向けて隊列を為《な》して進み始めた。
+
倉庫から駆《か》け出した兼定が、アーミティッジに駆け寄りながら言った。
「エドガーは火星行きを了解《りょうかい》してくれた!」
「それはなにより。では――」
アーミティッジが、手元の通信機に向けて指示を出した。
「現時刻から十五分後に緊急《きんきゅう》発射する! 九〇〇秒より、秒読み開始!」
『了解、九〇〇より秒読み開始。八九九、八九八、八九七――』
作業を監督《かんとく》する司令塔《しれいとう》から秒読みの放放が流れ、発射場内はにわかに慌《あわ》ただしくなった。
速《すみや》やかに火薬の装填《そうてん》作業が終了《しゅうりょう》し、砲弾《ほうだん》宇宙船が一同の前に引き出されてきた。
「エドガー、さっそく宇宙船の中へ! 時間がありませんよ!」
ガチャガチャと音を立てて、電動服《モーター・スーツ》姿のエイダが歩いてきた。
「魔術師《マギウス》であるあなたは、緊急時には|魔術師の衣《マギウス・スタイル》によって身を守ることができますから、この宇宙用電動服《スペース・モーター・スーツ》を着る必要はないでしょう。アル・アジフと共に、速やかに宇宙船の中へ!」
しかし、
「……駄目《だめ》だ」
砲弾宇宙船を見上げていたエドガーが、眩いた。
青ざめた顔でくるりと振り返り、
「俺はあっちの火星人どもを片づけてくる壁」
「いけません、エドガー!」
その行く手を、エイダが遮《さえぎ》った。
「あなたも知っての通り、今はこの第二カノン計画≠フ遂行《すいこう》こそが最重要事です! しかし、計画の要《かなめ》たるコロンビヤード砲は一体の戦闘マシンによって容易に破壊《はかい》されてしまいます。数百機の戦闘マシンから同時にこの装置を守りきることは、アイオーンの力を以《もつ》てしても不可能でしょう。また、もしそうなってしまった場合、我々に再建の機会が与《あた》えられるかははなはだ疑問です。よって、今はとにかく出発してしまい、そして、速やかに火星人の本陣《ほんじん》に打撃《だげき》を与えることを最優先します! お分かりですか!?」
「あ、ああ……」
「分かったら入りましょう!」
「いや、やっぱり駄目だ!」
「まだそんなことを言っているのか!」
兼定が前に進み出た。
「ミス・ダーレス! いいから詰《つ》め込んでしまおう」
「了解ですわ!」
「やめろ! 嫌だ! 狭いのは嫌だーッ!!」
(これも運命だ、我が主)
エドガーの懐《ふところ》で、アル・アジフか言った。
エイダに両足を、兼定に両脇《りょうわき》を捕まえられ、エドガーはじたばたともがいたが、ふたりは協力して、昇降《しょうこう》口から砲弾宇宙船の中に、エドガーを放り込んだ。
「うごおおお!」
続いて、
「行きますよ、リトル・エイダ」
(了解した)
【機械語写本】を携《たずさ》えたエイダがガチャガチャと船内に入り、右手を上げた。
「では、行ってまいります!」
「よい旅を!」
エイダと兼定がそう言い交《か》わすと、係員が駆け寄ってきて昇降ロの扉《とびら》を閉め、ロックした。
次いで、宇宙船はクレーンでコロンビヤード砲の砲口に運ばれ、三分余りの時間を掛《か》けて砲身の底部に降ろされた。
『四一二、四一一、四一〇――』
秒読みは続いている。
ドォン――!
数百メートルほど離《はな》れた倉庫が、爆発《ばくはつ》した。
「くそ、もう来たか……!」
この辺り一帯が、戦闘《せんとう》マシンの熱線砲の射程距離《しゃていきょり》に入ったのだ。
「皆《みな》さん、地下へ避難《ひなん》してください!」
大声で叫《さけ》びながら、兼定もまた駆け出した。
その傍《かたわ》らの路面を熱線の束が灼《や》き――
めくれ上がり、はじけ飛んだコンクリートの破片が、兼定の周囲に降り注いだ。
ゴッ――
兼定の目の前に鋼鉄の壁《かべ》が出現し、破片の雨を防いだ。
万能自走蒸気機関ゴリアテ≠フ手のひらだ。
『先生たちは!?』
ゴリアテのスピーカーを通じて、オルソソが問うた。
「まだ砲の中だ!」
兼定は両手を口の横に添《そ》えて叫んだ。
「あと五分! あと五分だけここを守ってくれ!」
『了解!』
幸い、作業員の撤収《てっしゅう》は速やかに済み、また、コロンビヤード砲の本体は地中に埋《う》まっているため、直接|攻撃《こうげき》を受けることはない。直径わずか二・七メートルの砲ロのみを守り通せばよいのだ。
ゴリアテは甲板《かんぱん》上に据《す》え付けられた大小五基ほどの大砲《たいほう》を乱射し、奮戦した。砲はこの大砲基地≠ノ置かれていた研究用のものだ。
『撃《う》て、撃てェ!』
ゴリアテの水平|射撃《しゃげき》による弾幕《だんまく》が、戦闘マシンの隊列を乱し、押し戻《もど》す。アーカムシティでの戦いと同様、戦闘マシンに対し、実体弾の砲には決定的な効果はない。しかし、弾《たま》を当てることによって戦闘マシンの前進を止め、多少の時間を稼《かせ》ぐことができる。
しかし、
『九八、九七、九六――』
残り時間が百秒を切ったころ、徐々《じょじょ》にゴリアテが押され始めた。
リトル。エイダによる魔術防御《まじゅつぼうぎょ》がない今、至近|距離《きょり》から熱線砲の直撃を受ければひとたまりもない。
その時、熱線砲の威力《いりょく》を半減させるスモークを焚《た》きながら、覇道兼定の複葉機が飛んできた。
機体の尾部《びぶ》から下がったフック付きのワイヤーをゴリアテの手に引っ掛け、ワイヤーを伸張《しんちょう》しながら、兼定は戦闘マシンの脚《あし》の間を縫《ぬ》うように低空飛行した。
大きな弧《こ》を描《えが》いて戻ってきた兼定は、ゴリアテの手元で宙返りをしてワイヤーを手首に引っ掛け、自分の機体からは切り離した。
「――引っ張れ!」
『おうっ!』
ゴリアテがワイヤーを思い切りたぐり寄せると、十体余りの戦闘マシソが足下《あしもと》をすくわれ転倒《てんとう》した。隊列が大きく乱れ、火星人の軍勢は大きな混乱に陥《おちい》る。
「よし、退却《たいきゃく》だ!」
『二〇、一九、一八、一七。一六――』
秒読みの声を背に、兼定は急|上昇《じょうしょう》しながら、ゴリアテは坂を転げるように、それぞれのルートで基地を離れていった。
『五、四、三、二、一――』
そして、|その時《ヽヽヽ》が来た。
「発射!!」
アーミティッジの号令の下、スイッチが入れられた電気着火装置が、八百包の綿火薬を同時に発火させた。
火山の噴火《ふんか》を思わせる、しかし、より集中した凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》が、大地を轟《とどろ》かせ、大気を爆裂《ばくれつ》させた。
文字通りの地震《じしん》と嵐《あらし》が周囲をなぎ払《はら》い、体勢を立て直しつつあった火星の軍勢を、再び地面に打ち倒《たお》した。これを予想して山陰《やまかげ》に入っていなければ、兼定の複葉機は空中分解していただろう。
瞬間《しゅんかん》、光線のような爆炎《ばくえん》の束が天に向かって塔《とう》の如《ごと》く生じ、そして、太い煙《けむり》となってたなびいた。
地球の重力を振《ふ》り切る超《ちょう》加速度を以《もつ》て、ふたりの人間と二冊の魔導書《まどうしょ》を乗せた砲弾《ほうだん》宇宙船は一瞬にして雲を貫《つらぬ》き、一直線に天頂へと向かっていた。
砲弾《ほうだん》宇宙船は大気|圏《けん》を突破《とっぱ》し、地上千キロメートルの高度に到達《とうたつ》した。
しかし、発射時・秒速約十キロに及《およ》ぶその速度でさえ、地球の重力を振《ふ》り切るのに充分《じゅうぶん》ではなかった。初速が完全に減殺された後は、再び重力に引かれて落下する運命にある。
ただし、発射地点にそのまま落ちてくるわけではない。コロンビヤード砲にはわずかな射角がつけられていたため、砲弾は山高い放物線を描《えが》き、地平線の彼方《かなた》、地球の|丸みの向こうへ《ヽヽヽヽヽヽヽ》と落ちていく。そして、埴球を通り過ぎたその先で、なお重力に引かれ、その場から|さらに向こう《ヽヽヽヽヽヽ》へと落ち続ける。あまりにも大きな速度を持つものは、その勢いをもてあまし、地上に落ちることができないのだ。
地上の旅人が地平線を目指していくら歩いても、その先にさらなる地平線が現れるように、その旅程には終わりというものがない。つまり、ふたりと二冊の乗員を乗せたこの射出体は、夜空に浮《う》かぶ月と同様、地球の周囲を永久に巡《めぐ》る衛星となったのだ。
だが、もちろん彼らには、衛星の身に甘んじるつもりなどさらさらない。
推進手段を持たない砲弾宇宙船に、光の粒子《りゅうし》からなる翼《つばさ》が|生えた《ヽヽヽ》。部分|招喚《しょうかん》された、アイオーンの機動|呪法《じゅほう》シャンタク≠セ。
シャンタクの翼が大きく空間を掻《か》いて羽ばたき、砲弾宇宙船は加速を始めた。
巨大《きょだい》な羽根の生えた卵といった体《てい》の、その船体の上に、腕《うで》を組んだエドガーが立っていた。
真空、低温、宇宙線といった有害な要素は、術衣《マギウス・スタイル》の魔術《まじゅつ》的|防御《ぼうぎょ》で遮断《しゃだん》しているが――
(エドガー、中に入れ。無駄《むだ》に気力を消耗《しょうもう》するぞ)
アル・アジフが言うと、エドガーは答えた。
「中のほうがもっと消耗するぜ」
発射前後にはパニック状態になっていたエドガーだが、船外に出てようやく落ち着きを取り戻《もど》したようだ。
そこに、砲弾宇宙船の装置に読み込まれたリトル・エイダが、船内から声を掛《か》けた。
(原本《はは》よ、シャンタクの速度が充分に出ていないようだが)
(うむ)
アル・アジフはエドガーに言った。
(エドガー、機動呪法による飛行とは、すたわち|意識の旅《ヽヽヽヽ》の現実化だ。目的地に関するイメージが、術者の意識に強くあればあるほど速度は増す。目的地たる火星を強く、明確に思い描くのだ)
「ああ? 思い描くったって――」
エドガーはもごもごと呟《つぶや》いた。
「火屋ってのは、あれだろ……赤くて……赤いんだよな?」
ゴンゴン、と、船内から宇宙船の壁《かべ》が叩《たた》かれた。
『エドガー! 中にお入りなさい!」
そして――
「――現在存在が確認《かくにん》されている太陽系内の惑星《わくせい》は水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の八つ。火星はこのうち四番目の、地球のひとつ外側の軌道を巡る、地球によく似た惑星です。その公転周期は――エドガー!」
エイダが教鞭《きょうべん》代わりの鉛筆《えんぴつ》を、ノートの上にぴしりと叩きつけた。
「|授業《ヽヽ》に集中なさい!」
「うぜえなあ」
エドガーは目をそらしながら言った。
「のんびりやってりゃ、そのうち着くだろ」
「その間に地球が壊減してしまいます!」
(YES、その可能性は高い。現在の速度で火星を目指した場合の到着《とうちゃく》予想時間は、およそ三年二ヵ月と十八日。その間に火星人は地球上から人類を一掃《いっそう》できるものと考えられる。そもそも、この宇宙船の生命|維持《いじ》設備はそのような長期の航行を想定していない)
「俺の知ったこっちゃねえよ」
「怠惰《たいだ》の言い訳に厭世《えんせい》的態度を気取ることは許しません! あなたには、自分の身が人間世界の要《かなめ》であるという事実をよく自覚してもらわなければ困ります」
エイダはそう言って、かぶりを振った。
「まったくもってこれは、『大きな力があっても、正しい知識を伴《ともな》わなければ意味がない』という、よい見本ですね。あなたがこれまで本格的な教育の機会を得られたかったというのは不幸なことです。しかし、今からでも遅《おそ》くはありません。この事件が片づき次第《しだい》、我がM大付属学園に編入手続きを取りましょう」
「あァ? ガキといっしょにお勉強なんかできるかよ」
「もちろん、いっしょというわけにはいきまぜん。学園《うち》の子供たちはみな優秀《ゆうしゅう》ですから、あなたは彼らを追う形で初歩の科目から始めなければいけません。早く追いつけるように努力していきましょう」
「冗談《じょうだん》じゃねえぞ、おい」
しかし、エイダは真剣《しんけん》な口調で言った。
「エドガー、常人が望んでも得られない大ぎな力を、あなたはすでに手にしているのです。その正しい使い方を学ぶことは、あなたに課せられた義務だと――」
その時、ジリリリリ……! と、エイダの懐中《かいちゅう》時計がベルの音を鳴らした。
「――あら食事の時間だわ。話は後にしましょう」
エイダは食料の包みを保管用のラックから出し始めた。
「L・A、お湯を沸《わ》かしてください」
ふと、なにか思い出した様子で、エドガーは眩いた。
「……『ダーレス先生は子供の飯を抜《ぬ》いたりしない』ってか」
「当然です」
と、エイダは答えた。
「食生活はすべての人間的活動の基盤《きばん》です。これをおろそかにしてはいかなる成果も期待できません。――さあ、お析《いの》りをして、いただきましょう」
エイダとエドガーは濃縮《のうしゅく》スープと堅焼《かたや》きパン、それに塩漬《しおづ》け肉とピクルスの食事を取った。エドガーもそうだが、地球存亡の危機を前にしながら、エイダの食欲は衰《おとろ》えることがないようだ。
一方、二冊の魔導書《まどうしょ》は、その気になれば人間のように飲み喰《く》いすることもできたが、この場では、そのつもりはないとのことだった。長旅に備え、限られた食料を温存するという意味もあるかもしれない。
「ふん……思ったより|喰える《ヽヽヽ》な」
バターを塗ったパンをぱくつきながら、エドガーが言った。
「ええ、覇道|財閥《ざいばつ》の研究機関が用意したこれらの食料は、携行《けいこう》食としては最高品質のものです。あとは新鮮《しんせん》な野菜と……食後にアイスクリームがつけば完壁《かんぺき》ですわね。そう思いませんか?」
「そんな小洒落《こじゃれ》たもんは喰ったことがねえよ」
「それはいけませんね。人生の大いなる損失というものです」
エイダは大まじめに言った。
「我が学園では、給食には必ずデザートにアイスクリームを出すことにしています。『糖分なくして勉学ならず』。私の信念ですわ」
「ヘッ、甘いもんが喰いたくなったら寄ってやるよ」
すると、エイダは素直《すなお》にうなずいた。
「それでいいでしょう。きっかけがなんであれ、最初の一歩を踏《ふ》み出すことには大きな意義があります。必ず来るのですよ」
「皮肉も通じねえのかよ」
と――
(いや……妾《わらわ》もその提案に賛成する)
それまで無言で話を聞いていたアル・アジフが、ぽつりと言った。
(ひとたび魔道に踏み込んだ者が再び人間の世界に居場所を得ること、自らの意志で人類の代表戦士《チャンピオン》となること――そのような考え方を、汝《なれ》はダーレスから学ぶことができるやもしれぬ)
「なんだ? この先生様のことをずいぶん買ってるじゃねえか」
(オーガスタ・エイダ・ダーレスは、地球上で最も強い|希望《ヽヽ》を備えた人間のひとりだ。それは、我が著述者《ちち》アブドゥル・アルハザードが失い、かつ後生に期待した力そのものであるやもしれぬ。妾の預かる禁断の知とダーレスのような者らの伝える心の有り様を、ひとりの人間が併せ持ったとき、その者こそが|最強の魔術師《マスター・オブ・ネクロノミコン》の中において、さらに最強の力を持つ者となるやもしれぬ)
「俺が、そうなるってか?」
(それは分からぬ。分からぬが……エドガー、目的なき最強者よ。汝《なれ》が後悔《こうかい》なき生をまっとうすることを、妾は望む)
「……ふん、くだらねえな」
エドガーは鼻を鳴らした。
「俺は他人にあれこれ言われるのが嫌《いや》で、おまえを手に入れたんだ。そのおまえに指図されたんじゃ、なにがなんだか分からねえ」
そこに、エイダが口を挟《はさ》んだ。
「エドガー、人が自由に生きるということは、獣《けもの》のように瞬間《しゅんかん》の感情だけで生きることとは違《ちが》います。自分がなにを為《な》すべきかを知ることこそが、真の自由というものです」
「あー、うぜえうぜえ」
エドガーは顔をしかめた。
「いちいち|くでェ《ヽヽヽ》んだよ、話が」
「そうですね、こんなことを話している場合ではありませんでした」
エイダは再びノートを広げた。
「さあ、授業の続きです! 火星の風景がありありと想像できるようになるまで続けましょう!」
「うえ」
エドガーが顔をしかめたとき、
(その件だが、ダーレス――ひとつ提案がある)
と、L・Aが言った。
数分後、ヘルメットを被《かぶ》り、外部音声を遮断《しゃだん》したエイダに、
――無線機の状態は良好だ。
と、少女の形態を取ったL・Aが身振《みぶ》りで告げた。
「よろしい、では始めましょう」
L・Aの提案≠ニは、こういうことである。
砲弾《ほうだん》宇宙船に備えつけられていた無線機を解放し、地上のラジオと同様に火星人の侵略《しんりゃく》電波をあえて受信する。これによってエドガーの脳に火星のイメージ≠灼《や》きつけるのだ。
もちろんこれは、反撃《はんげき》計画の要《かなめ》であるエドガーを危険にさらす、不安定な作戦ではある。
だが、
「まどろっこしいお勉強なんぞより、よっぽど手っ取り早《ば》え」
と、エドガーはそれを了承《りょうしょう》した。
そして――
アル・アジフの体からなる術衣《マギウス・スタイル》が変形し、拘束《こうそく》衣のような形態となって、エドガーの体の自由を奪《うば》った。万が一、火星人に肉体を乗っ取られたときのための備えである。
エイダの合図でL・Aが無線機のスイッチを入れると、スピーカーから火星の音≠ェ流れ始めた。
エドガーの目が焦点《しょうてん》を失い、その顔が恐怖《きょうふ》にも似たゆがんだ表情を浮《う》かべる。
「ぐ……おお……ッ!」
無線機は三秒の間通電し、そして、再び電源を落とされた。三秒というのは、地上で覇道兼定が辛《から》くも火星人の精神的侵入を逃《のが》れた際の時間である。
そして、その間にエドガーは垣間見《かいまみ》た。
赤褐色《せっかっしょく》の極寒《ごっかん》の荒野《こうや》と、人なら異形の群れ――
「ク……クハハハ……」
(エドガー……気を確かに持て!)
アル・アジフの声を無視し、エドガーは拘束を引きちぎりながら立ち上がった。
「……見えたぜ《ヽヽヽヽ》!」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」
(ひとまず休め、エドガー)
「必要ねえよーシャンタク!!」
エドガーは宇宙船の内壁《ないへき》に手のひらを当てて叫《さけ》んだ。
メギギギギ――
金属を凄《すさ》まじい力で無理矢理ねじり上げるような音と共に、砲弾宇宙船の外壁が震《ふる》えた。
巨大《きょだい》なアルミニウム製の弾丸《だんがん》から、さらに巨大な鋼鉄の翼《つばさ》が生えた。エドガーの|移動の意志《ヽヽヽヽヽ》によって、より明確に実体化した、機動|呪法《じゅほう》シャンタク≠フ姿だ。
「ぶっ飛ばすぞ!!」
エドガーの宣言と共に、鋼の翼に唸《うな》るような音が生じ、高まり、そして――砲弾宇宙船は発射時を思わせる、いや、それ以上の爆発《ばくはつ》的加速を開始した。
+
時は最接近に近い時期に当たり、火星は地球から約七千万キロメートルの位置にあった。
その火星へと、宇宙船は一直線に突《つ》き進む。
空間を歪《ゆが》めながら思考の速度で機動する存在に対し、このような比較《ひかく》は無意味だろうが――あえて言うならば、エドガーの推進する砲弾宇宙船はこの瞬間、通常空間における光速度に近
い速さで飛翔《ひしょう》していた。
わずか数分で、火星が地球から見上げる月ほどの大きさに見え、次の瞬間《しゅんかん》には、それは視界をいっぱいに覆《おお》う巨大な壁《かべ》となった。
乾《かわ》いた血の染《し》みを思わせる禍々《まがまが》しい赤褐色の大地。そして、地表を縦横に走る線状地形――
(あれは……!?)
(そうだ、我が原本《はは》よ)
アル・アジフの呟《つぶや》きに、L・Aが答えた。
(火星の地表を覆うあの紋様《もんよう》は魔法陣《ヽヽヽ》。彼ら火星人の神、マスターテリオンを招喚《しょうかん》するための魔法陣だ)
「私たちは当初、あれらの地形を運河≠ニ考えていたのですが――」
エイダの説明を、L・Aが引き継《つ》いだ。
(――それは正確な認識《にんしき》ではなかったが、一面の真実を捉《とら》えていた。あれら、魔法陣を構成する線《ライン》≠ヘ、火星の全霊力《ぜんれいりょく》を一点に集中させるための霊力|搬送《はんそう》装置でもある。つまり、火星という惑星《わくせい》全体が、ひとつの巨大な招喚装置なのだ)
「細かいことはいい。要はそいつをぶっ壊《こわ》せばいいんだろ」
「いいえ、そうではありません」
とエイダが言い、
(魔法陣を壊すのではなく、|書き換える《ヽヽヽヽヽ》のだ)
と、L・Aが言った。
マスターテリオンの復活を阻止《そし》しつつ、覇道鋼造とデモンベインのみを現世に喚《よ》び戻《もど》すために、火星人の計画そのものを利用する。
――これが先日来、エイダとアーミティッジ、そしてL・Aが計画していた作戦である。マスターテリオンを招喚するための儀式を、土壇場《どたんば》で|デモンベインの招喚《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にすり替《か》えるのだ。
(では、今から手順を説明する――)
L・Aが言い掛《か》けた時、火星の地表から、芥子粒《けしつぶ》のような一群の物体が現れた。
それは、地球を蹂躙《じゅうりん》した火星人の歩行戦車――いや、それによく似た構造を持つ|宇宙船《ヽヽヽ》だった。
大きさは歩行戦車よりひと回り小さく、その外装は黒い鋼鉄の代わりに半透明《はんとうめい》の樹脂《じゅし》様の物質でできていた。そして、三本の機械の脚《あし》の代わりに、長短七本のしなやかな触手《しょくしゅ》を備えていた。地球で作られたものは、これらのマシンのレプリカと言うベきものなのだ。
火星の本来の素材と技術によって作られた、これら真なる戦闘《せんとう》マシンの性能は未知数である。その動力は蒸気機関ではなく、そして、その武器は熱線|砲《ほう》ではなく――
頭部を先頭にして飛来してきた火星の戦闘マシンは、各々《おのおの》に、七本の触手で不可思議な印《ヽ》を結んだ。とー―白い滑《なめ》らかな頭部に発光する魔法陣が浮かび、そこから巨大な呪力弾《じゅりょくだん》が発射された。
一発、二発、三発――シャンタクの翼を持つ宇宙船は急激な機動でそれを回避《かいひ》するが、至近|距離《きょり》で呪力弾が通過するたび、空間の歪みに引きずられて船体がきしむ。
「やりやがったな――出るぜ!」
エドガーは気密|扉《とびら》をくぐり、船外の宇宙空間に飛び出した。
「アイオーン!」
ゴッ――!
鋼《はがね》の機体が空間を割《さ》きながら顕現《けんげん》し、そして、
「ヒャッハァ! ブッ飛べ!!」
エドガー=アイオーンは両手にバルザイの偃月刀《えんげつとう》を喚び出し、ひと息に投げ放った。灼熱《しゃくねつ》と冷気の呪力を帯びた二本の偃月刀は二重|螺旋《らせん》の軌跡《きせき》を描《えが》きながら翔《と》び、戦闘マシン群の密集点ヘ――
だが。
戦闘マシンは触手の印を組み替えた。すると、頭部の魔法陣が防御《ぼうぎょ》用のものに変わり――
機械の海月《くらげ》は偃月刀の刃《やいば》に弾《はじ》き飛ばされ、大きく後退した。だが、その機体に損傷はない。呪力の盾《たて》は魔刃《まじん》の威力《いりょく》を完全に防いだのだ。
「なッ――!?」
(油断するな! 奴《やつ》らの呪法は単純なものながら、呪力《ちから》だけならば鬼械神《デウス・マキナ》に匹敵《ひってき》するぞ!)
「くッ―ー!」
アイオーンの両手に、回転拳銃《リボルバー》が出現した。
ドドドドドド――!
魔銃の弾丸が乱射され、戦闘マシンは射的の的のように次々と弾き飛ばされる。だが、数秒後には、ふわりとした動きで元の位置に戻り、全体としてはじわじわと包囲の輪を狭《せば》めてくる。魔法の盾の群れが、群れをなして押し包んでくるような形だ。
やがて、戦闘マシンは各々の触手を絡《から》み合わせ、いくつもの、さらに強固な、巨大《きょだい》な平面を作り始めた。こうなると、弾き飛ばし、押し退《の》けることもできない。
その上、火星の表面からは続夷と後続が到着《とうちゃく》し、ある者は平面の端《はし》に結合し、ある者は呪力弾を発射する砲台≠ニなる。
十重二十重《とえはたえ》に迫《せま》る平面――いや、球面はやがて、アイオーンと砲弾《ほうだん》宇宙船を完全に包囲する完全な球体を構成し殆めた。
「くそ、なめやがって……!」
(熱くなるな! 今はこの場を切り抜《ぬ》けることだけを考えよ!)
「けッ、細けえこと言うな! 全部ブッ潰《つぶ》しゃいいんだろ――呪文螺旋《スペル・ヘリクス》!」
(エドガー! この空間で全力を使い果たせば、術衣《マギウス・スタイル》が維持《いじ》できずに死ぬぞ!」
「知ったことかよ!」
エドガー=アイオーンは術式の神柱を呼び出すと、杖《つえ》状の巨大砲に変えて両手に構えた。
と、そこに――L・Aを中継《ちゅうけい》して、エイダの声が割って入った。
『エドガー、聞こえまずか――』
「止めても無駄《むだ》だぜ!」
――五秒後、エドガー=アイオーンの神銃《しんじゅう》≠ヘ撃《う》ち放たれ、全力を使い果たしたアイオーンの機体は跡形《あとかた》もなく分解した。
同時に、包囲球を完成させた戦闘マシン群は、球の内側に向けて一斉《いっさい》に呪力弾を撃ち込んだ。
瞬間《しゅんかん》、球内は破壊《はかい》的呪力の嵐《あらし》が荒《あ》れ狂《くる》う死の空間と化し、再びそれが収まった時、そこには形あるものは、塵《ちり》ひとつ存在しなかった。
+
唯一《ゆいいつ》の障害である地球からの遠征《えんせい》隊を退けた火星人たちは、後顧《こうこ》の憂《うれ》いなく、火星開闢《かいびゃく》以来最大の儀式を開始した。
創造主マスターテリオンの招喚《しょうかん》。それは、彼ら火星人の二万年の悲願だった。この日のためだけに、彼らは|存在させられた《ヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。
火星全土を縦横に走る線=\―人工|竜脈《りゅうみゃく》の結節点それぞれに、軌道《きどう》上から帰還《きかん》した海月≠ェ取り憑《つ》き、その頭部に魔法陣《まほうじん》を浮《う》かび上がらせた。
これら海月≠フ正体は戦闘《せんとう》マシン≠ナはなかった。その本来の目的は、霊力《れいりょく》の流れの強力な制御《せいぎょ》装置。竜脈|綱《もう》の構成部品なのだ。
ある場所では堰《せ》き止められ、ある場所では流れの方向を変えられ、海月に制御された流れは、刻々と変化する全|惑星《わくせい》規模の魔法陣を形作った。
また、海月≠フ周囲には生身の火星人が何重もの輪を作り、横列|黙念《もくねん》結手の姿勢を取った。精神のみで他星の生物を支配しうる強力無比な頭脳が、各々の神経束を直列につなぎ、完壁《かんぺき》な同期を取りながら、彼らの神に向かって祈《いの》りを捧《ささ》げた。
るるふ らぅ るふるう
うぃーあ うぃーあ うぃーあ!
いふふ りぃ るふるう
うぃーあ うぃーあ うぃーあ!
希薄《きはく》な大気に、かすかな、しかし底知れぬ力を秘《ひ》めた呪文《じゅもん》が響《ひび》き渡《わた》り、火星とその周辺の宇宙空間に、禍々《まがまが》しい呪力の場が形成され始める。
次元の壁《かべ》が、徐々《じょじょ》に、しかし確実に薄《うす》くなり、その向こうに息づく何者かの気配が伝わってきた。
詠唱《えいしょう》は間断なく数時間に及《およ》び、その音調はますますいや高く、忌《い》まわしいものとなっていった。そして、儀式《ぎしき》が最高潮に達するころ、巨大魔法陣の霊力流の焦点《しょうてん》、火星シドニア地区の巨大|環状《かんじょう》列石の直上に、火星のふたつの月のどちらでもない、はるかに巨大な第三の月が生じた。暗い夜空を埋《う》め尽《つ》くさんばかりに視界いっぱいに広がる小|恒星《こうせい》――破壊的な超高エネルギーを封《ふう》じ込《こ》めた球状結界だ。
火星人は各々、触手《しょくしゅ》の先端《せんたん》を差し伸《の》べて神を讃《たた》えた。
結界の中に、蠢《うごめ》く超存在の影《かげ》が見えた。その姿はあたかも、胎動《たいどう》する邪竜《じゃりゅう》の卵だった。
その神気のわずかな余波を浴びるや、火星人たちの何割かは脳髄《のうずい》を破裂させて死に至り、そして生き残った者の間にはさらにおぞましい歓喜《かんき》の波が現れた。
彼らの神が現世に降臨するとき、その刃《やいば》は彼らの体を切り裂《さ》き、その毒は彼らの体を蝕《むしば》み、その炎《ほのお》は彼らの体を焼き尽くすだろう。それこそが彼らの望み。道具として創《つく》られた種族の、穢《けが》らわしく、計り難《がた》い感性であった。
火星人の間に、期待と恐怖《きょうふ》、苦痛と歓喜、狂気《きょうき》と官能の綯《な》い交ぜとなった名状しがたい情動の渦《うず》が発生した。その渦はますます空間をねじ曲げ、現世と異界のほころびを押し広げ、彼らの神のための産道を形作る。
――神が生まれる。
神が生まれる。
まさに、まさに今――
火星人の群れが、招喚呪文の最後の一節を唱えようとした時――
ドゥッ――!
天頂からひと筋の光が撃ち下ろされ、海月≠フ一体を直撃した。
それは海月≠破壊こそしなかったものの、その周囲にいた生身の火星人を衝撃《しょうげき》の余波で吹き飛ばした。また、海月≠ェ反射的に防御《ぼうぎょ》呪紋を展開したため、竜脈網の流れの一部が乱れた。
そしてさらに、
ド、ド、ド、ド、ドゥッ―ー!
はるか高空――火星の薄い大気|圏《けん》の外側から火星全域の地表に向けて、高密度の呪力|弾《だん》が立て続けに撃ち込まれた。
その一発一発が、過《あやま》たず海月≠フ頭部に着弾している。
『ヒャハハハハ――そらそら、どうしたタコども!!』
二丁の魔銃で海月≠狙撃《そげき》しているのは、鬼械神《デウス・マキナ》アイオーンだ。
――先刻、海月≠フ包囲を受けたエドガーら一行を救ったのは、オーガスタ・エイダ・ダーレスの機転であった。
エドガーはエイダの指示に沿って、アイオーンの最大の武器である神銃≠使用した。
しかし、その弾丸はそれまでのような、術者の全霊力を込めた呪力弾ではない。エドガー=アイオーンは、砲弾《ほうだん》宇宙船を神銃≠ノ装填《そうてん》して撃《う》ち放ったのだ。
アイオーンの機体が分解した時、エドガーとアル・アジフはすでに宇宙船の内部に移動していた。ふたりと二冊の乗員を乗せた砲弾宇宙船は、超物理的た速度で包囲の隙間《すきま》を突破《とっぱ》したが、火星人がその事実に気づくことはなかった。
そして現在。
エドガー=アイオーンは砲弾宇宙船と共に火星の高速周回軌道に乗り、狙撃衛星≠ニ化して火星全土に呪力弾の雨を見舞《みま》った。
火星人が、|声ならぬ声の悲鳴《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を上げながら、のたくり逃《に》げまどう。
しかし、エドガーはでたらめに魔銃を乱射しているわけではない。その一発一発に、計算し尽くされた意味が込められている。
予期せぬ攻撃《こうげき》を受ける時、海月≠ヘ反射的に防御《ぼうぎょ》の姿勢を取る。それは竜脈網《りゅうみゃくもう》の制御弁が瞬間《しゅんかん》的に閉鎖《へいさ》され、霊力の流れが変わるということでもある。
つまり、エドガーは海月≠フ反射を利用して、火星の魔法陣《まほうじん》を|書き換えて《ヽヽヽヽヽ》いるのだ。
L・Aが計算した手順とタイミングが、アル・アジフを通じてエドガーに渡され、アイオーンの二丁の魔銃は〇・一秒単位のタイミングを計りながら、正確に海月≠操作《ヽヽ》する。
魔法陣を構成する水路≠ェふさがれ、あるいは連結され、L・Aの計算通りに霊力《れいりょく》の流れを導かれていく。
その結果、地表に現れたのは――五芒星《ごぼうせい》形の魔法陣。火星全体が、巨大な五芒星を刻印された球体と化した形だ。
その姿はは覇道|財閥《ざいばつ》の地下格納庫に設置されている虚数《きょすう》展開カタパルト≠ノ酷似《こくじ》していた。
鬼械神《デウス・マキナ》デモンベインを実体から確率論的存在に変換《へんかん》し、任意の座標に再実体化させる魔衛的転送装置。事実、その瞬間の火星は、|それ《ヽヽ》そのものの機能を有していた。
火星そのものを転送装置《カタパルト》の代替《だいたい》品とし、デモンベインを招喚《しょうかん》する――そのプロセスが、L・Aの計算とアイオーンの干渉《かんしょう》によって着々と遂行《すいこう》されていき――
そして、エイダが最終段階の口訣《こうけつ》を唱えた。
憎悪《ぞうお》の空より来たりて
正しき怒《いかり》りを胸に
我等は魔を断つ剣《けん》を執《と》る
汝《なんじ》、無垢《むく》なる刃――デモンベイン!
空間が爆裂《ばくはつ》し、鳴動した。
火星の地表から六キロメートルの空間に発生していた第三の月=\―球状結界を割って、|それ《ヽヽ》は出現した。
「ふあ……?」
エイダが思わず気の抜《ぬ》けた声を出し、エドガーがのけぞった。
「ぬお――でけェ!!」
そう、それはエイダの見知ったサイズの十倍はある、|巨大なデモンベイン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だった。
しかも、その力は十倍どころではない。|その《ヽヽ》デモンベインはかつて存在したいかなる形態よりも、精緻《せいち》にして繊細《せんさい》、かつ、大胆《だいたん》で力強かった。装甲《そうこう》の表面は霊気を帯びた呪文《じゅもん》駆《か》け回らせながら高速で新陳代謝《しんちんだいしゃ》し、何対もの手脚から、光、炎《ほのお》、電気、冷気――あらゆる要素《エレメント》をほとばしらせている。その姿はまさしく神、実体化した機械の神だった。
(うろたえるな、エドガー)
アル・アジフが言った。
(神というものは招喚の仕方によっていかようにも形態を変え得《う》るものだ。彼奴《きゃつ》ら火星人は、惑星《わくせい》を丸ごと使い、マスターテリオンを最大の力を持つ形態で招喚しようとした。その儀式《ぎしき》を応用して喚《よ》び出したデモンベインがこのような姿で現れたとて、そう驚《おどろ》くことではない――紛《まが》い物《もの》とはいえ、あ奴もまた一柱の神なれば)
そのデモンベインは、巨大な眼《め》で周囲を見回し、神の洞察《どうさつ》力を以《もつ》て、一瞬ですべての状況《じょうきょう》を把握《はあく》した。
そして、視線を遠く七千万キロメートル先の地球に向けると、額の射出穴からただ一発の呪力弾を撃ち出した。
本体に比してあまりにも小さく見えたそれは、しかし、超《ちょう》強力な霊力の渦動《かどう》だ。光を超《こ》える速度で瞬時に地球に到達《とうたつ》したそれは、大気圏の手前で弾《はじ》けると、数千の小塊《しょうかい》に分裂し、雨の如《ごと》く地上に降り注ぐと、地球各地の都市で蹂躙《じゅうりん》を尽くす戦闘《せんとう》マシンの頭部を、ひとつ残らず正確に撃ち抜いた。
次いで、デモンベインが手のひらのひとつを開くと、その上に、地球の幻像《ヴィジョン》が浮《う》かんだ。
浮遊《ふゆう》する小さな地球儀《ちきゅうぎ》はゆるゆると自転していたが――突然《とつぜん》逆回転を始めた
エイダたちには知るよしもなかったが、その時、同時に地球上では不可思議な時間逆転現象が発生し、火星人に破壊《はかい》された都市|及《およ》び、アイオーンに破壊されたロンドンとアーカムシティが、元通りに復元した。また、火星人に脳髄《のうずい》を乗っ取られた地球人たちも、その肉体的変異は細胞《さいぼう》単位で修復され、精神的にも状態を復元された。
まさしく|万能の神《デウス・エクス・マキナ》――デモンベインの干渉によって、地球最大の危機は完全に修正《ヽヽ》されたのだった。
しかし、
「……ミスター覇道!」
エイダが歓喜《かんき》と共に呼び掛《か》けると、しかし、デモンベインは――いや、デモンベインと一体化した覇道鋼造の意志は彼女らに告げた。
『――すぐに私を封印《ふういん》しろ!!』
「はい!?」
(なぜだ、マスター)
『奴が来る――』
「奴とは――?」
(まさか――)
『マスター……テリオン!!』
その言葉が終わらぬうちに、デモンベインの胸を貫《つらぬ》いて、鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》を持った手が現れた。デモンベインのそれに匹敵する、巨大な手だ。
そして、さらにもう一本。
肩《かた》から、首から、全身の関節から霊気《れいき》と炎、そして血のようなオイルを噴《ふ》くデモンベイン。その右胸の内側から、二本の紅《あか》い腕《うで》が生えていた。
「ななな――なんですの、あれは!?」
(推測――)
L・Aの機絨的な口調に、若干《じゃっかん》の焦《あせ》りが混じった。
(――デモンベインの第二心臓が招喚経路に利用されている……!)
次の瞬間《しゅんかん》、紅い腕は亀裂《きれつ》を割り広げ、デモンベインの上半身をほとんど真っ二つに引き裂《さ》いた。その中から現れたのは、デモンベインと同様の大きさを持つ紅の機神――マスターテリオンの鬼械神《デウス・マキナ》リベル・レギス≠フ姿だった。
+
――覇道自身の言う通り、彼らは覇道鋼造を救おうとずるべきではなかったのかもしれない。 エイダらが招喚《しょうかん》した覇道鋼造とデモンベインは、火星人の脅威《きょうい》から人類を救った。だが同時に、さらに危険な存在を復活さぜてしまったのだ。
地球人は火星人に対して無力ではない。困難な戦いではあるが、時間を掛けて態勢を立て直し、火星勢力を押し戻《もど》していくことも可能だっただろう。
しかし、マスターテリオンは違《ちが》う。
彼こそは黙示録《もくしろく》の獣《けもの》=\―人類の歴史の終焉《しゅうえん》を告げる、抵抗《ていこう》不可能な存在なのだ。
『久しいな、アル・アジフ……それに、オーガスタ・エイダ・ダーレスと【機械語写本】の精霊《せいれいか》か』
巨大《きょだい》なリベル・レギス――マスターテリオンは言った。美しく、力強く、神々《こうごう》しいまでの威厳《いげん》を帯びた、まさしく神の声だった。
『やはり、ここは礼を言うべきであろうな……貴公らの働きによって、余の復活がより劇的なものとなった。遊技の興も増そうというものだ』
『マ、ス、タァァ……テリ……オン……!!』
リベル・レギスの背後から、半壊したデモンベインがつかみ掛かった。
しかしリベル・レギスは、デモンベインの手首をつかむと、ひと息に引き千切った。
『ぐぉ……!!』
腕の一本を肩から引き抜《ぬ》かれたデモンベインは、空間に膝《ひざ》を突《つ》いた。
『無論、貴公にも礼を言うそ、覇道鋼造。貴公の存在によって、此度《こたび》のサイクルにおいては、わずかながら無聊《ぶりょう》を忘れることができた』
「……テリ……オ……』
ガッ――
なおも立ち上がろうとずるデモンベインの首ずじを、リベル・レギスが踏《ふ》みつけた。
「だが、遊技は終わった。引き際《ぎわ》を心得よ、覇道』
さらにリベル・レギスは、デモンベインのむき出しになった胸郭《きょうかく》に手を突き込み、いくつもの光る泡《あわ》の固まったものを抜き出した。
『余の心臓も返してもらう』
泡の群れはリベル・レギスの手を離《はな》れ、胸の中に吸い込まれた。と――紅の機神の全身を覆《おお》う光が、その強さを増す。
『ふむ……現在の力と形態ならば、父君《ちちぎみ》を喚《よ》ぶまでもない。この場で門≠開き、|この世界《ヽヽヽヽ》を終わらせるとしようか』
ギギ、ギ……。
リベル・レギスは胸の中央に両手の鉤爪を突き刺《さ》し、その亀裂を割り広げ始めた。
「……なにをする気です!?」
エイダの疑問に、L・Aが答えた。
(推論:奴《やつ》はリベル・レギスの無限の心臓≠解放し、外なる神々を呼び込む門とするつもりだ)
「それは……どういうことですの?」
(つまり、この宇宙を消減《しょうめつ》させるということだ)
「なんですって――そんなことは許しません!」
「無駄だ、オーガスタ・エイダ・ダーレス』
リベル・レギスの巨大な眼《め》が、比率から言えば豆粒《まめつぶ》ほどの砲弾《ほうだん》宇宙船を捉《とら》えていた。
『今の貴公らの記憶《きおく》にはないことだろうが、これ時を超《こ》えた過去から、何千回、何万回と繰《く》り返されてきたことなのだ……飽《あ》き果てるほどにな。諦《あきら》めよ、オーガスタ・エイダ・ダーレス、……|余はとうに諦めた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》』
リベル・レギスの手にさらなる力がこもり、そして――
「――なに仕切ってんだ、このハゲ」
そう言ったのは、術衣姿《マギウス・スタイル》のエドガーだ。
エドガーは腕を組み、リベル・レギスの顔の前に浮遊《ふゆう》していた。
「俺を無視するんじゃねえよ」
片や身長数百メートル、片やニメートル足らず。ふたりの意志持つ者が、そのサイズの差を超えて対峙《たいじ》する。
『ほう、貴公――マスター・オブ・ネクロノミコンか』
リベル・レギスの眼が細められた。
『余の未《いま》だ知らぬマスター・オブ・ネクロノミコン……面白《おもしろ》い。では、今度は貴公が世界の命運を賭《か》けて余と戦おうと言うのだな?』
「ハッ! 世界がどうのなんざ知ったこっちゃねえが、俺の前でイキがるんじゃねえよ」
(エドガー――無謀《むぼう》なまねはよせ!)
アル・アジフの制止を無視して、エドガーは言った。
「さあ、遊んでやるからなにがしたいか言ってみな! 鬼ごっこか、プロレスかァ!?」
『いや、それを決めるのは貴公だ』
リベル・レギスが右手を広げた。その手のひらの上に、赤褐色《せっかっしょく》の球体――火星の幻像《ヴィジョン》が浮《う》かぶ。
と――リベル・レギスは球体を握《にぎ》りつぶした。
同時に、眼下で火星の地表に亀裂《きれつ》が走り、砂の塊《かたまり》のように砕《くだ》け散る。
「なッ――!?」
さらに、リベル・レギスは左手のひらの上に、青い球体――地球の幻像《ヴィジョン》を浮かべ、これも握りつぶす。
七千万キロメートルの彼方《かなた》で、人類もろとも、地球が粉々に砕け散った。
「てめえ――なにやってんだ!?」
『賭けるものが大きいほうが、より遊技に身が入ろうというものだ』
そして、リベル・レギスの巨大《きょだい》な腕が目に見えぬほどの速さで閃《ひらめ》き、空間をさらった。
巨木の幹ほどもある指先に、直径二・七メートルの砲弾宇宙船が捉えられた。
『貴公はこの者らから余の目を逸らそうとしていたようだが――』
リベル・レギスの指先に、ほんのわずかな力が込《こ》められた。だがそれば、小さな字宙船をすり漬《つぶ》すのに充分《じゅうぶん》な力だった。
『エド……!』
エイダの最後の言葉は、鈍《にぶ》い破壊《はかい》音に掻《か》き消された。
『――さて、今一度聞二う。貴公は余を|どうしたいのだ《ヽヽヽヽヽヽヽ》?』
ゴッ――!
エドガーの体を包み込むように、鬼械神《デウス・マキナ》アイオーンが顕現《けんげん》した。塔《とう》の如《ごと》きその巨体は、しかし、今のリベル・レギスの前では問題にならぬほどに矮小《わいしょう》だ。
『てめえ――ブッ殺す!』
だが、
(――そうではないぞ、エドガー!>
アル・アジフが叫《さけ》んだ。
(デモンベインだ! デモンベインならば、この事態を修正できる!)
「そうだ、貴公のみでは|足りぬ《ヽヽヽ》。デモンベインの力を使え』
『あァ!?――てめえらの言うことなんぞ聞くかよ!』
エドガーは神銃《しんじゅう》≠喚《よ》び出し両手に構えた。全力をはるかに超え、かつてないほどの、おのが生命に関《かか》わるほどの霊力《れいりょく》をそこに込める。
(ならぬ、エドガー! 汝《なれ》がここに果てれば、その時こそすべての希望が潰《つい》えるのだ!)
『ぐ――』
エドガーは逡巡《しゅんじゅん》した。
それは一瞬《いっしゅん》の、しかし、長い迷いだった。
オーガスタ・エイダ・ダーレスの、そして覇道兼定や子供たちの顔が脳裏《のうり》をよぎった。
そして――
『――ちッ!』
エドガー=アイオーンはデモンベインに向けて急降下した。
巨大な骸《むくろ》のように、デモンベインは宇宙空間に横たわっていた。
アイオーンは翼《つばさ》を広げ、デモンベインの頭部の前に滞空《たいくう》した。
(覇道鋼造、闘こえるか!)
『おい、覇道のジジイ!』
グォン――
低い起動音と共に、デモンベインの巨大な眼《め》に、わずかな光が宿った。
『……君たち……は……アル・アジフに……今のマスター・オブ……ネクロノミコン……か』
『だったらどうした! ヘタってんじゃねえぞ! 起きて手伝え!』
『……無理だ……機体は大破し、心臓がひとつ失われ、今ひとつも停止し……魔導書《まどうしょ》もいない……』
(魔導書の代わりは妾《わらわ》が務める!)
『じゃあ、俺は心臓の代わりだな』
アイオーンの機体が弾《はじ》けるように分解し、一瞬で再構成された。巨大なタンク状の外装の中に、アイオーンの術式|中枢《ちゅうすう》アルハザードのランプ≠フ出力を強化する増幅《ぞうふく》装置が何重にも張り巡《めぐ》らされたその構造は――
『アイオーン――機関《エンジン》形態!!』
一個の巨大な動力機関と化したアイオーンは、巨大なデモンベインの右胸の、リベル・レギスにえぐり抜《ぬ》かれた穴の中に収まった。機関と機体の双方《そうほう》から、生き物のようにチューブが這《は》い出し、両者が接続された。
「さあ、とっとと立ちやがれ――デモンベイン!!』
+
――これが…………これか、デモンベインか……!
デモンベインの内部に分け入りながら、アル・アジフは驚嘆《きょうたん》した。
自分がかつて見知ったデモンペインは、その巨大な存在の一断面に過ぎなかった。
アイオーンの、結晶《けっしょう》のように洗練された論理構造とは違《ちが》う、迷宮の如き、ほつれた糸玉の如き制御《せいぎょ》術式の塊《かたまり》が、現在もなお、力強く、かつ高速に、自らの存在を再定義しながら稼働《かどう》している。いったい何万回、何億回、増殖《ぞうしょく》と再構築を繰《く》り返せば、このように奇怪《きかい》な構造物が生まれるのか――おそらく、この鬼械神《デウス・マキナ》は、宇宙の寿命《じゅみょう》をはるかに超《こ》える、無限の刻を生きてきたのだ。
どうやって?
なんのために?
アル・アジフの間いは、術式の狭間《はざま》に深く吸い込まれ、消えていく。デモンベインは、その存在自体が巨大な謎《なぞ》≠フ塊だ。
だが、確かに感じるものがある。
邪悪《じゃあく》に対する戦闘《せんとう》の意志……潰えることのない無限の闘志《とうい》!
――よかろう。
アル・アジフは思った。
――妾のすべての術式《わざ》をやろう。その代わり、汝《なれ》のすべての力を貸せ、デモンベイン!
ヴォン――
論理空間の底から力に満ちた波動が湧《わ》き上がり、その呼び掛《か》けに応《こた》えた。
(クハ……こいつはすげえぜ!)
アル・アジフと共にデモンベインとアクセスしていた、エドガーが言った。
(こいつに比べりゃ、アイオーンはガキの玩具《おもちゃ》だな!)
(……気をつけろ……!)
覇道鋼造が告げた。
(現在のデモンベインは、それ自身の意志を持って回転する巨大な――巨大すぎる――超《ちょう》論理の歯車だ。巻き込まれれば、魂《たましい》のかけらも残さずに噛《か》み砕《くだ》かれるぞ……!)
(面白《おもしれ》ェじゃねえか)
(…………気をつけろ…………私は……もう……もたん…………!)
覇道の意志は、デモンベインの巨大で複雑な論理構造の狭間に呑《の》み込まれ、やがて感知できなくなった。
(ヘッ、ゆっくりおネンネしてな、ジジイ)
エドガーは、覇道が手放したデモンベインの主幹操縦術式をアイオーンのそれと同調させた。巨大な魔力《まりょく》の流れが、意識を消し飛ばさんばかりの速度と圧力を以《もつ》て、エドガーの体内を流れていく。
(|俺たち《ヽヽヽ》がチョチョイのパッと片づけてやるからよ――なあ、相棒《デモンベイン》!)
+
ヴォオオオオ――!
アイオーンから発したエネルギーは、まずデモンベインの左胸の獅子《しし》の心臓≠ノ送られ、これを賦活《ふかつ》した。そして、ふたつの心臓≠ヘ互《たが》いに共鳴しながら出力を上昇《じょうしょう》させ、機体を修復していく。
メギメギメギ――
破壊された腕《うで》を再生し、骨格と外装を組み替《か》えながら、デモンベインは立ち上がった。エドガーの呪力《じゅりょく》の影響《えいきょう》を受けたその有様は、神々《こうごう》しくも攻撃《こうげき》的な、左右非|対称《たいしょう》の姿だ。
『おお――このような展開は初めてだ』
マスターテリオンが笑った。
『ふふ……愉快《ゆかい》だな、アル・アジフ、それに新しいマスター・オブ・ネクロノミコン』
『御託《ごたく》は要らねえよ』
エドガー=デモンベインは再生した手を顔の前で握《にぎ》った。その拳《こぶし》に、ぎしぎしと音を立てながら、太いスパイクが何本も生える。
『無駄口叩《むだぐちたた》いてねえで、さっさと死ね』
第四章 宇宙的闘争
『これは失礼した』
リベル・レギスは両手を広げながら、前に突《つ》き出した。
「では、さっそく楽しむとしよう――闘争《とうそう》を!!』
ズォウ――!
右手から九発、左手から九発、計十八発の重力|弾《だん》が、互いの重力に干渉《かんしょう》し合い、複雑な軌道《きどう》を描《えが》きながらデモンベインに迫《せま》った。
『オォッ――!!』
デモンベインは|三対の両手《ヽヽヽ》に魔銃を生み出した。
ドドドドドド――!
|六丁拳銃《ヽヽヽヽ》がそれぞれ三発ずつの呪力弾《じゅうりょくだん》を発射し、十八発の重力弾を残らず叩《たた》き落とした。
デモンベインはさらに六つの銃口を前方に向け、斉射《せいしゃ》。六発の呪力弾は六重|螺旋《らせん》を描くひとつの流れとなって、リベル・レギスに着弾する。
と――リベル・レギスは左手を開き防御呪紋《ぼうぎょじょもん》を展開。六発の弾丸をひと薙《な》ぎで打ち払《はら》った。同時に右手を開くと、周囲の空間から暗い金色に輝《かがや》く光の粒子《りゅうし》がその手のひらに集まり、金色の剣《けん》の形に結晶《けっしょう》化した。
リベル・レギスは突進《とっしん》した。黄金の剣を振《ふ》りかぶり、デモンベインの頭上に振り下ろす。デモンベインは三本の右腕を掲《かか》げてそれを受けた。二本の右腕が斬《き》られて飛び、三本目の半ばで刃《やいば》は止まった。
さらに力を込めて押し斬ろうとするリベル・レギスに対し、デモンベインは右足を上げ――
『――アトランティス・ストライク!』
至近|距離《きょり》から前|蹴《け》りの形で放たれた必殺の破砕《はさい》呪法を、リベル・レギスは両腕で防御し、その両腕を粉々に砕け散らせながら、大きく後方に吹《ふ》き飛ぶ。
デモンベインは斬られた腕を修復した。リベル・レギスもまた、二本の腕を再生する。
次いで、デモンベインは腕の二本ずつを使って、三基の|呪文螺旋《スペル・ヘリクス》を喚《よ》び出した。
右左一本ずつの神銃≠ェ、炎精神格《クトゥグァ》の、そして氷霊神格《イタクァ》の威力《いりょく》を秘《ひ》めた超呪力弾を撃《う》ち放つ。
そのふたつの必殺攻撃を、リベル・レギスは再び前方に突進することによって避《さ》けた。超威力を誇《ほこ》る神銃とて、懐《ふところ》に飛び込めば当たりはしない。右手にはハイパーボリア・ゼロドライブを起動している。砲撃《ほうげき》に対するカウンターで必滅《ひつめつ》術式を叩き込むつもりだ。
だが、デモンベインの三組目の腕が構えていたものは――
呪文螺旋《スペル・ヘリクス》――|神槍形態《ヽヽヽヽ》!
次の瞬間《しゅんかん》、超威力の斬撃によって、リベル・レギスの胴《どう》は横一文字に叩き斬られていた。
紅《あか》い下半身が胴を離《はな》れ、宇宙空間を浮遊《ふゆう》していく。
通常の状態ならば、それは即《そく》敗北とまでは言わなくとも、戦力の半減を意味しただろう。しかし、神に等しい力を持つ現在のリベル・レギスにとっては、なにほどのこともない。胴体の切断面から、太い機械の蛇《へび》のような下半身が再構成され、デモンベインの体に巻きつき、締《し》め上げた。デモンベインの全身の装甲《そうこう》がみしみしと音を立て、ひび割れていく。
だが、デモンベインはシャンタクの属性を強く顕現《けんげん》させつつ、その翼《つばさ》にバルザイの偃月刀《えんげつとう》の呪法を何重にも乗せた。魔刃《まじん》の羽根を持つ鋼《はがね》の巨鳥と化したデモンベインは、大蛇《だいじゃ》の胴を切り裂《さ》きながら脱出《だっしゅつ》し、星の狭間《はざま》へと翔《か》け上った。
『――天狼星《シリウス》の弓よ!』
リベル・レギスは左手に金色の長弓を生み出し、矢を放った。
天を貫《つらぬ》くように飛んだ金の矢は、空間の一点で数百本に分裂《ぶんれつ》し、デモンベインを追って飛び交《か》った。デモンベインはシャンタクの出力を増して回避《かいひ》するが。金の矢は各々《おのおの》が意志を持つ生き物であるかのように、デモンベインを追尾《ついび》し、その体をかすめ飛ぶ。
デモンベインは大きく弧《こ》を描いて反転し、リベル・レギスに向かって加速した。衝突《しょうとう》の寸前に再び人型の形態を取り、神槍を振りかぶる。
一方、迎《むか》え打つリベル・レギスは天狼星《シリウス》の弓を両手持ちの武器のように構えた。金色の弓が、巨大《きょだい》なハンマーを思わせる罪人の十字架《じゅうじか》≠ノ形態《かたち》を変える。
デモンベインは全霊《ぜんれい》を込めて神槍を打ち下ろした。
リベル・レギスは全力を以《もつ》て十字架を振り上げた。
神槍と十字架の衝突は激烈《げきれつ》な時空|震《しん》を発生させ、二柱の超鬼械神《ちょうデウス・マキナ》を時空の彼方《かなた》へと弾《はじ》き飛ばした。
そして――
はるかな星の狭間。見知らぬ巨大な星雲を背景とした宇宙空間の只中《ただなか》に、デモンベインは放り出された。
一瞬《いっしゅん》の見当識|喪失《そうしつ》状態。
「どこだ――ここは――奴《やつ》は――!?』
(下だ、エドガー!)
デモンベインの足下《あしもと》≠ゥら、空間の壁《かべ》を突《つ》き破り、無数の重力|弾《だん》が飛び出した。
反応が間に合わず、数発の重力弾が直撃《ちょくげき》。両脚《りょうあし》、右腕《みぎうで》、腰部《ようぶ》、頭部――機体の七割方が一瞬のうちにこそげ取られる。そしてさらに、第二波が一斉《いっせい》に、残る胸部へ――
デモンベインは左手を掲げた。ふたつの心臓《えんじん》のエネルギーが手のひらに集中する。
(――防御呪紋を――いや――|それでは相殺しきれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!)
デモンベインの胸部は超重力の塊《かたまり》に呑《の》み込まれ、素粒子《そりゅうし》レベルに分解しつつ消滅《しょうめつ》した。
空間に残されたのは、左腕の肘《ひじ》から先のみ。
その手のひらに、発光する時計の文字|盤《ばん》が浮《う》かんでいた。
時間操作呪法ド・マリニーの時計=B
ギリリリリ――!
軋《きし》るような音を立てたがら文字盤の針が逆回転し、|時間を巻き戻した《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
胸部、頭部。右腕、両脚――完全に消滅した機体が、因果律を逆転しつつ再生していく。
同時に、無数の重力弾がデモンベインを撃ち抜《ぬ》いた弾道《だんどう》を逆に辿《たど》りながら、空間の一点に吸い込まれていく。
『そこだァッ!!」
デモンベインは瞬時に神槍を組み上げると、重力弾の軌跡《きせき》を追って足下の空間に突き込み、
『オォラッ!!』
両脚を虚空《こくう》に踏《ふ》み締め、神槍を振《ふ》り上げた。|やす《スピア》に貫かれた魚のように、空間の界面下から、リベル・レギスの巨体が引き上げられる。超斬撃の切っ先は、過《あやま》たず紅《くれない》の胸を貫いていた。
ギ――
心臓を仕留められながらも、リベル・レギスは槍《やり》の柄《え》をつかみ、反撃に移ろうとする。
『させるかよ!』
呪力《じゅりょく》の波が、デモンベインの全身を螺旋《らせん》状に駆《か》け上がった。脚から腰、両腕を通して槍の柄、そして切っ先へ――
ヴォッ――!!
緕界生成過程も呪力|増幅《ぞうふく》の口訣もない、抜き打ちのレムリア・インパクト――呪文螺旋《スペル・ヘリクス》によって増幅され、方向性を与《あた》えられ昇滅《しょうめつ》呪文の渦《うず》が神槍の柄を中心に竜巻《たつまき》のように前方に伸《の》び、巻き込まれたリベル・レギスの機体は千切れた四肢《しし》を残して分解した。
「ヘッ、どうだ!』
(――まだだ。エドガー!)
デモンベインの視線が、千切れ跳《と》ぶ紅い左腕を捉《とら》えた。その手のひらには、発光する文字盤が――
ギリリリリ――!
先ほどデモンベインがそうしたように、リベル・レギスの機体は時間の反転によって再生した。リベル・レギスを破壊《はかい》したレムリア・インパクトの昇滅呪文が、|素の呪力《ヽヽヽヽ》に還元《かんげん》されながら、神槍の柄を通って逆流づる。
ドッ――!
全身の魔導機が過負荷に弾け飛び、デモンベインは後方に吹き飛ばされた。
『てめえ、この――パクリかよ!!』
「貴公らにできることは、余にもできる……貴公らが力を増せば増すほど、余の力も増していく。|そのように《ヽヽヽヽヽ》、|仕組まれているのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』
リベル・レギスは前方に左手を広げ、文字盤を掲《かか》げた。
『この呪法なら、余も使い慣れている――このようにな』
魔術《まじゅつ》的時計の秒針が、数秒の時間を飛ばした――と、デモンベインの目の前に、リベル・レギスが瞬間《しゅんかん》移動した。接近の時間を|消し飛ばした《ヽヽヽヽヽヽ》のだ。
リベル・レギスはさらに、絶対|零度《れいど》の冷気を宿した右手刀を振りかぶった。一撃必滅《いちげきひっさつ》――いや、|百撃必減《ヽヽヽヽ》。百発のハイパーボリア・ゼロドライブが、同時《ヽヽ》に打ち込まれる。全身の魔導機を修復中のデモンベインには避《さ》けようがない。
デモンベインは体内速度を極限まで加速しつつ、両脚の空間|歪曲《わいきょく》機構を作動――だが、リベル・レギスは左手をデモンベインに向け、
ギシ――!
|デモンベインの時間《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が止められた――いや、その寸前、デモンベインもまた、ド・マリニーの時計≠展開した左手をリベル・レギスに向けていた。
真っ向から組み合ったふたつの時間操作呪法が、互《たが》いにおのれに有利な時間の流れを作り出そうと、見えざる手で時空間構造をつかみ、ねじ曲げる。
ギ、ギ、ギ……!
強大なふたつの力に挟《はさ》まれ、ねじられた宇宙が音を立てて軋《きし》み、そして、弾け飛んだ。
そして――
見たこともない、色ならぬ色彩《しきさい》に満ちた宇宙に、デモンベインは出現した。
『ちッ、またか……!』
エドガー=デモンベインは素早《すばや》く周囲を見回した。
都市か、宇宙船か――デモンベインは巨大《きょだい》な人工構造物の上空にいた。
『奴め、あの中に隠《かく》れやがった――』
(いや、違《ちが》うぞ――|あれがリベル・レギス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だ!!)
アル・アジフが言うのと同時に、眼下の都市が急激に上昇《じょうしょう》し、同時に上空からも同様の都市が逆さまに下降し、デモンベインを挟み込んだ。
都市≠ニ見えたのは、リベル・レギスの指先の、ほんの表面――リベル・レギスは現在、デモンベインの一万倍もの大きさを持っているのだ。
上下からのすさまじい圧力が、デモンベインの骨格を軋ませる。
『こんなモン――反則じゃねえのかァ!?』
(|この世界《ヽヽヽヽ》は、我々の宇宙よりも現実の拘束《こうそく》力が弱いようだ――想像し、創造せよ、エドガー! 自らの、より強力な姿を!!)
「こ、う、か……!?』
ドォッ――!!
エドガーが無意識に選択《せんたく》したのは、爆熱《ばくねつ》のイメージ=B
原子爆発にも似たエネルギーの解放によってリベル・レギスの腕《うで》を破壊しながら、デモンベインはリベル・レギスと同等の大きさとなった。
『ほほう、やるな』
マスターテリオンが笑う。
『余裕《よゆう》ぶるンじゃねえ!』
デモンベインは全身からなおも高熱を発しつつ、リベル・レギスに殴《なぐ》り掛《か》かった。
リベル・レギスは右腕を再生しながら、その拳《こぶし》を拳で受け止める。
衝撃《しょうげき》で、周囲の空間がたわみ、軋んだ。
二体の鬼械神《デウス・マキナ》は飛び離《はな》れ、さらなる力を蓄《たくわ》え始めた。
リベル・レギスはさらに巨大化し、デモンベインもまた巨大化し、両者はさらに巨大化し、巨大化し、巨大化し――
互いの次なる一撃が衝突《しょうとつ》した時、宇宙がそのエネルギーに耐《た》えきれず、崩壊した。
そして――
彼らが飛ばされたのは、|巨大な宇宙《ヽヽヽヽヽ》だった。
宇宙を崩壊させるほどの質量とエネルギーを持っていたはずの二体の鬼械神《デウス・マキナ》が、ここでは分子のひとつにも満たない存在なのだった。
ビリヤードの玉のように互いに衝突し暴れ回る気体分子を避けながら、両者は超威力《ちょういりょく》の術式を撃ち合った。
そして――
彼らが飛ばされたのは、|遅い宇宙《ヽヽヽヽ》だった。
ここでは時間の流れはタールのように重く、両者の時間操作能力を以《もつ》てしても動かし難かった。
互いの技《わざ》の発生から到達《とつたつ》までが、はっきりと認識《にんしき》できる。防御《ぼうぎょ》も反撃《はんげき》も、充分《じゅうぶん》に間に合う。
そこには反応速度≠ニいう概念《がいねん》は存在せず、詰《つ》め将棋《しょうぎ》のような完壁《かんぺき》な戦術のみが勝負を決し得《う》るのだった。
そして――
彼らが飛ばされたのは、|死の宇宙《ヽヽヽヽ》だった。
完全な熱的|平衡《へいこう》を迎《むか》え、時間的にも空間的にも完全に安定した、なにも起こりようがない世界だった。
物質は存在せず、エネルギーは存在せず、デモンベインもリベル・レギスも、存在することはできなかった。
だが、彼らは存在によることなく、行動によることなく、通常の宇宙に存在するものには想像すらつかない手段で闘争《とうそう》を続行した。
そして――
二柱の超機神は大きさを変え、形を変え、術式構造を組み替えながら。何十、何百、何千という世界を、水面を跳《は》ねる水切り石のように飛び渡《わた》り、駆《か》け巡《めぐ》り、そして戦った。
両者はある時は千本の刃《は》を振《ふ》るい、ある時は一発の弾丸《だんがん》となった。
ある時はフェムト秒単位の瞬撃《しゅんげき》を交錯《こうさく》させ、ある時は何十億年もの時間を掛けた、重厚な一撃を衝突させた。
ある時は剣戟《けんげき》の余波で次元を震撼《しんかん》させ、ある時は砲撃《ほうげき》の流れ弾《だま》で空間を破壊《はかい》した。
因果の流れを加速し、逆転し、停止し、あるいは消滅《しょうめつ》させ、無数の宇宙を破壊し、創造し、何度も歴史を塗《ぬ》り替えながら打ち合った。
そして――
彼らが辿《たど》り着いたのは、超時間と超空聞を超《こ》え、超次元を上《のぼ》り詰めた超・超時空間。
そこでエドガーは、アル・アジフは、垣間見《かいまみ》た。
泡《あわ》のように現れては弾《はじ》ける無数の宇宙で、
鎖《くさり》のように連なる無限の時の輪の中で、
無数のデモンベインが闘《たたか》う/闘った/闘っていた。
それらは在り得べき可能性のひとつ。
それらは選ばれし可能性のひとつ。
それらは失われし可能性のひとつ。
血液の流れのように、無限に分岐《ぶんき》し、循環《じゅんかん》し、収束する、無数にしてひとつの運命、その|一部にしてすべて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だ。
永劫《えいごう》の刻のすべてを、永劫を超えた次なる永劫を、無限の永劫の連鎖《れんさ》を――
|魔を断つ永遠の剣《デモンベイン=アートレータ・アエテルヌム》は闘い、闘い、闘い抜《ぬ》いていく。
そして――
+
「――おっと残念、これは千日手《ヽヽヽ》のパターンか。じゃあ、|この流れはなしだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ナイアルラトホテップは、時計をきりりと巻き戻《もど》した。
+
――時間が逆転する!?
デモンベインやリベル・レギスの時計≠謔閨Aさらに上位の力。
時間と空間の外、超空間を統《す》べる超時間を、何者かが操作している。
永劫に等しい闘いの軌跡《きせき》が、一瞬《いっしゅん》にして巻き戻される。
――エドガー、さっそく宇宙船の中ヘ――
――どうか地球を救ってくれ、エドガー――
――いっしょにやろうぜ、兄貴――
――ならばエドガー、妾《わらわ》は汝《なれ》と契約しよう――
――エドガー――
――エド…――
+
――夢だったのか。
暗い、崩《くず》れた地下室の底で、飢餓《きが》と酸欠によって衰弱《すいじゃく》した少年が、誰《だれ》にも知られることなく、ひっそりと息を引き取った。
死の寸前、彼は三つの眼《め》を持つ黒い鼠《ねずみ》の幻影《げんえい》を見たように思ったが、それが現実になんらかの影響《えいきょう》を与《あた》えることはなかった。
彼の生涯《しょうがい》には、最初から最後まで、意味と言えるものは一切《いっさい》なかった。
「あの男の、なにをどう信用しろと言うんだ!?」
ロンドンの路上で兼定が叫《さけ》ぶと、エイダはすました顔で答えた。
「なにもかも、全面的に、ですわ。それに坊《ぼっ》ちゃま、ご自分の父親のことをあの男≠ネんて言うものじゃありません」
「分かった、分かったよ! 僕のほうも納得《なっとく》がいった! 確かに君は、覇道鋼造の子供であるということがどういうことか、これっぽっちも分かっちゃいない。それと、もうひとつ――君こそ坊ちゃま≠ヘやめてくれ」
「あら、坊ちゃまは坊ちゃまですわ」
エイダの切り返しに、兼定が思わず口ごもり――
ふと、ふたりは同時に顔を見合わせ、あたりを見回した。
周囲にはなにひとつ変わったことはなく、パブの店頭に置かれたラジオが、流行《はや》りの歌謡《かよう》曲を流しているばかりだ。
「あの……今、なにか?」
「いや、僕は別に……」
ダーレス学園一行は再び歩き出した。
「……なんだろ?」
列の最後尾《さいこうび》のオルソンが、首をかしげながら、パブの店頭席を振《ふ》り返った。
「あの辺が、やけに気になるんだよなあ……」
――その後、一行は予約の時間通りにウェルズ天文台に到着《とうちゃく》し、社会見学を開始した。
「火星人ですか? ええ、私たちも、今探しているところです」
案内の係員はいたずらっぽく言った。
「当|施設《しせつ》では、通常の天体観測のほかに、火星にアンテナを向けて電波を捉《とら》えようと試《こころ》みています。それでは、皆《みな》さんもここで火星からの音≠聞いてみましょう。ひょっとすると、あなたがたは火星人のラジオ放送を聞いた最初の地球人になれるかもしれません――おや、先客がいますね」
なるほど、電波観測装置にはひとりの中年男性が腰掛《こしか》け、熱心にチューニングをしている。
「しまった、こいつは一番乗りを取られてしまったかな? どうですか、ミスター。火星人はいましたか?」
案内係が声を掛《か》けると、男は顔も上げずに言った。
「いや、今のところ見つからないが、万が一ということもある。もう少し――」
「――父さん!?」
「うむ……?」
兼定の声に振り返ったのは、覇道|財閥総帥《ざいばつそうすい》・覇道鋼造その人だった。
「ミスター覇道!」
「やあ、お嬢《じょう》さん。それに……兼定。こんたところでなにをしているんだ?」
「それはこっちの|台詞《せりふ》ですよ、父さん。行方《ゆくえ》をくらましたと思ったら、こんなところに……いったいどういうことです?」
「いや、これは単なる直感なんだが……なんだか火星という星のことが急に気になってね。この火星に最も近い場所≠ノいろいろ調べに来たというわけだ」
「それは……はあ、そうですか」
一瞬《いっしゅん》、気まずい沈黙《ちんもく》が流れ、覇道父子は居心地《いごこち》悪そうに目を逸《そ》らし合った。お互《たが》いが、お互いを苦手にしているのだ。
そこに、
「あら、言ってくだされば調べておきましたのに」
とエイダが言うと、兼定が尻馬《しりうま》に乗る形で言った。
「ああ、そう、それですよ。父さん、なんでも自分でやろうとするのはあなたの悪い癖だ。その、もう少し…………僕たちを、信用してくれませんか」
「ああ、うん、すまない」
覇道は頭を掻《か》いた。
「これからは、なるべくそうすることにしよう。とりあえず、もう少しここを調べたら――」
「ミスター覇道」
エイダか言った。
「坊ちゃまにはいろいろと急ぎのお話がおありのようですわ。それと――そこの体験席は、この時間、うちの子供たちが予約しているんですの」
+
「彼もなかなか良いところまで行ったんだけどね。あれでは|ループ《ヽヽヽ》を破壊《はかい》するには至らない。だから、降りてもらうことにしたんだ。――エドガーという魔術師《まじゅつし》は最初から|いなかったのさ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
黒衣の女は薄《うす》く笑いながら、指から鎖《くさり》で下げた懐中《かいちゅう》時計をぶらぶらと揺《ゆ》らした。
「まあ、主役を張るにはちょっとばかり役者不足だったというところだね。闘《たたか》いを劇的なものとするためには、もっともっと|物語の力《ヽヽヽヽ》が必要だ。涙《なみだ》あり、笑いあり、恋《こい》と友情、冒険《ぼうけん》に復讐《ふくしゅう》! 大導師|殿《どの》、僕は腕《うでう》によりを掛けて、君のために最高の闘いを演出してあげるよ」
「さて――はたして、すべてが貴公の思惑《おもわく》通りに行くものか、どうか」
金色の闇《やみ》を瞳《ひとみ》に宿した少年は、物憂《ものう》げに言った。
「貴公が消し去った者もまた、未《いま》だこの世界に影響《えいきょう》を与《あた》え続けている。死を超《こ》える死を以てしてもなお、彼奴《きゃつ》らの闘いを終わらせることはできないのだ」
「おやおや、大導師殿はずいぶんとロマンチストだねえ」
「あるいは、貴公がな」
大導師マスターテリオンと這《は》い寄る混沌《こんとん》<iイアルラトホテップは、敵意と皮肉の混じった冷笑を交《か》わし合う。
+
「契約ってのは、こうやンのか?――なんかテレるな、おい」
「あ? 俺か? 俺の名前は――」
――?
浅い安どろみの中、ふと浮上《ふじょう》した記憶《きおく》の断片《だんぺん》に、アル・アジフは首をかしげた。
|自分の記憶にないマスター・オブ・ネクロノミコン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
アル・アジフはあらためておのが記憶を走査した。だが、やはり該当《がいとう》する主《マスター》の姿はなく、その名を思い出すこともできなかった。
夢か――アル・アジフはそう結論した。
書物である彼女も、時として夢を見る。
いや、あらゆる物語の登場人物は、|書物の夢《ヽヽヽヽ》の産物であるとは言えないだろうか。
+
はたして、|存在しなかった男《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、現実の世界に影響を与え得《う》るものだろうか?
エドガーはもういない。
彼を知る者、その存在を記憶の片隅《かたすみ》にすら留《とど》める人間《ヽヽ》は、もはやひとりもいない。
だが――ある時。
覇道|邸《てい》地下で待機中の機鬼神《デウス・マキナ》デモンベインの腕に、ほんのわずかな呪力《じゅりょく》の波が走った。
それは、鋼鉄の歯車の奥、デモンベインの魔術《まじゅつ》的構造の最奥《さいおう》に蓄積《ちくせき》された力の余波だ。
エドガーはそこにいる。
失われたマスター・オブ・ネロノミコン≠フ存在の痕跡《こんせき》は、邪悪《じゃあく》な運命の流れに抗《あらが》う大いなる意志の一部となるのだ。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
どうもどうも、お久しぶりです、古橋秀之です。
またデモンベインの外伝をやらせていただきました。前回の『機神胎動』がパソコンから家庭用ゲーム機への移植に合わせての企画《きかく》だったのに対して、今度の『軍神強襲』は新作ゲーム&アニメ化合わせということで、いや、大した勢いですなあ。
で、前回は一回こっきりのつもりであとのことは考えてなかったわけですが、せっかくもう一度機会をいただけたので、前回できなかったことをやろう、と思いまして。
具体的には派手∞勢い≠ニいったあたり。
前回は「渋《しぶ》めの線で行こう」という狙《ねら》いがあったのですが、反面、デモンベインにしてはちょっと地味かな、という部分もありました。というわけで、今回はあまりストーリーを分散させずに、アクションまたアクションで行けるところまでカッ飛んでみようと。
舞台《ぶたい》を宇宙に求めたのはそのためもあって、宇宙で戦うと足下の被害《ひがい》とか気にする必要がないのがいいですね。下手すると地球も割りかねないような連中だけに、地元(アーカムシテ
ィ)じゃ危なくて全力が出せない。
ちなみに今回のメインのネタは火星人=B具体的にはH・G・ウェルズの『宇宙戦争』なわけですが、一八九八年の発表当時、ウェルズがこの作品に込《こ》めた最大のワンダーというのは、「地球人が万物《ばんぶつ》の霊長《れいちょう》とは限らない」という視点。原題の The War of the Worlds というのも、我々地球人類の認識《にんしき》する世界≠ニ、それ以外のもうひとつの世界≠フ間の戦い、というニュアンスを含《ふく》みます。――と、実はこれ、クトゥルー神話の基本設定に近いんですよね。クトゥルーにも宇宙人みたいなのがよく出てくるし。
というわけで、火星人はクトゥルー的に|アリ《ヽヽ》! そういやタコだしな! と考えた昨年、ちょうど『宇宙戦争』のリメイク版映画が公開になりまして、合わせて原作の文庫版が書店に出回ったりして、資料探しに大変助かりました。
宇宙旅行の手段としては、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』をパクリ、もとい参考にしました。ウェルズ作品にも月旅行モノはあるんですが、ここは砲弾《ほうだん》宇宙船≠フ、勢いのあるイメージが欲しかった。巨大《きょだい》火器を振《ふ》り回す今回の主人公(?)、エドガーともよく馴染《なじ》むし。
また、登場人物は前作から続投のエイダを姶め、外伝オリジナルの人ばっかりなんですが、原作に絡《から》む人物として、覇道鋼造の息子覇道兼定≠ェ登場します。覇道瑠璃のパパですな。
この人、ゲーム本編ではすでに亡《な》くなっている上に名前も出てこない非常に影《かげ》の薄《うす》い人物なのですが、世襲《せしゅう》とはいえ覇道|財閥《ざいばつ》の総帥《そうすい》を務めていたくらいなので、やはりそれなりの人物だったのでしょう。しかし、魔術師《まじゅつし》というわけではなかったようだし、覇道鋼造もそっち方面にはそんなに深入り(ガンガン魔導書読ませたりとか)はさせなかったと思われる――というわけで「常識的な立場から財閥を切り盛りし魔と戦う者たち≠サポートする」といった人物像が想像できます。
本書の時点では、年齢《ねんれい》的にもルックス的にも主役を張ってもおかしくない立場なのですが、いざ書いてみると、場面場面での言動がやはり地味。エイダやエドガーがなにか言うたびに、
「な、なんだって!?」
と合いの手を入れる驚《おどろ》きキャラになってしまいました。
いや、好ぎなんですけどね。地味な人。
最後になりますが、今回の原稿《げんこう》もえらいこと遅れてしまって、関係者の皆様《みなさま》には大変ご迷惑《めいわく》をお掛《か》けしました。どうもすみません。
執筆《しっぴつ》開始時には「イラストのNiθさんが新作ゲームやアニメ化関連の作業で多忙《たぼう》で、スケジュールが取れないかもしれない」といった懸念《けねん》があったのですが、蓋を開けてみれば、Niθさんの体が空いてもまだ私は本文を書いていたという。しかし、おかげさまでまたしても新キャラを主としたイラストを大量に描《か》いていただけて、作品のためには幸運だったかな、と……社会人としてはダメダメですが。
ちなみに後半は角川書店様の会議室に通い詰《つ》めて作業していたのですが、担当編集さんや、Niθさんや原作の鋼屋ジンさんに「面白《おもしろ》いですよ! 続きも楽しみですよ!」と終始|励《はげ》ましていただきました。こんなに手の掛かるノヴェライズ作者というのもなかなかいませんが、大変|恵《めぐ》まれていることです。ありがとうございました。というか、やっぱりスイマセン。
そんなこんなで、時間は掛かりましたが、どうにか書き上がってよかったよかった。
楽しんでいただけると幸いです。
P.S.
あ、そうそう、五月末に出た新作ゲームの『機神飛翔デモンベイン』、実は私、担当さんに「作業が終わるまで預かっておきますので……」と言われてまだ触《さわ》っていないのですが、資料としていただいたシナリオを読むと、『機神胎動』のオリジナルキャラだったマスター・オブ・ネクロノミコン・アズラッドがけっこう出ずっぱりで活躍していて、なんともうれし恥《は》ずかしいですね。
こうなると欲が出てきて、今回のエドガーも『機神飛翔』の家庭用移植かなにかのおりに隠《かく》れキャラで出ないかしらん、などと思ったり……。
[#地付き]古橋秀之
[#改ページ]
解 説
[#地付き]鋼野ジン
仰天《ぎょうてん》した。
本書を読み終わった貴方《あなた》もまた、今の自分と同じ想《おも》いを共有しているに違《ちが》いありません。
荒唐無稽《こうとうむけい》は『デモンベイン』の本質なれど、さらなる荒唐無稽を以《もつ》てこれを迎《むか》え撃《う》つのがフルハシ流。たとえば『ブライトライツ・ホーリーラソド』に登場する巨大《きょだい》仏像、あるいは『タツモリ家の食卓』における特攻《とっこう》貴族ギルガガガンドス驚異《きょうい》の戦闘《せんとう》法、またあるいは『超妹大戦シスマゲドン』の超家兄妹等々、読者の度肝《どぎも》を抜《ぬ》く大仰なギミックは古橋秀之氏の得意とするところです。
今回の『軍神強襲』もまた「火星人の地球|侵略《しんりゃく》」という突飛《とっぴ》な発想から端《たん》を発します。SFの古典的名作として知られ、昨年にはスピルバーグによって映画化されたH・G・ウェルズの『宇宙戦争』が書かれたのが一八九八年。また全米を震撼《しんかん》させたラジオドラマ『火星人襲来』事件が一九三八年と、なるほど年代的にはデモンベインの舞台《ぶたい》に近いです。科学に空想が満ち溢《あふ》れていた時代。その奇想天外《きそうてんがい》さは、荒唐無稽な『デモンベイン』と実に良く馴染《なじ》みます。
「デモンベインの宇宙戦争」とでも呼ぶべき今作は、しかしながらその領域を踏破《とうは》して、否《いな》、むしろ|踏み外して《ヽヽヽヽヽ》、超《ちょう》宇宙的な拡《ひろ》がりを見せていきます。荒唐無稽も荒唐無稽、前代未聞《ぜんだいみもん》の空前絶後、もはや何かの冗談《じょうだん》みたいなスケールのインフレーションは、ですが同時に神話《サーガ》とでも呼ぶべき深遠に到達するのです。
さて、神話《サーガ》とは一柱の神や一介《いっかい》の英雄《えいゆう》によって創《つく》られるものではありません。人々の心の中にこそ生まれるものです。各々《おのおの》がその内に宿す「物語」を語り、また語られることで各々の、無数の、千差万別の「物語」が交じり合い、神話《サーガ》は創られてゆくのです。かつてプロヴィデンスの少年が見た悪夢が、巨大《きょだい》な神話となって今もなお発展し続けているように。
『デモンベイン』もまた神話《サーガ》に宿り、また神話《サーガ》を宿しているというのならば、それは独りが――たとえば原作者である自分が単独で創ったものではありません。書き手、描《えが》き手、語り手、歌い手、演じ手、読み手、聞き手……無数の「物語」の交差によって創られたものなのです。
そのような想いを込《こ》めて、自分(二卜ロプラス)は『斬魔大聖デモンベイン』(あるいは『機神咆吼デモンベイン』)の後日談にあたるPCゲーム『機神飛翔デモンベイン』を製作しました。このゲームは『デモンベイン』に関《かか》わった多くの人々の影響《えいきょう》を受けた物語なのです。
その最も端的な例として、古橋氏による外伝小説第一|弾《だん》『機神胎動』とリンクしている点が挙げられます。『機神飛翔』では過去のマスター・オブ・ネクロノミコンであるはずのアズラッドが登場し、九郎やアルと轡《くつわ》を並べて戦います。
また『機神飛翔』をプレイしていただいた皆様《みなさま》は既《すで》にお気づきかと思いまずが、本書『軍神強襲』もまた『機神飛翔』とリンクしています。
古橋氏のおかげで『デモンベイン』はかくも豊かな物語に育ってくれました。
無諭、古橋氏だけではありません。TVアニメ版『機神咆吼デモンベイン』をはじめとして『デモンベイン』の物語は無数の枝へと分岐《ぶんき》していきます。そしてその校の一本一本に無数の人々の、無数の想いが実ります。それは直接的であれ間接的であれ、互《たが》いに影響を及《およ》ぼし合い、次の新たなる物語を創り出す糧《かて》となるのです。
この、総《すべ》ての物語を繋《つな》ぐ巨大な輪こそが壮大《そうだい》な神話《サーガ》そのものです。我々は皆、その中を生きているのです。
ほんの少しだけネタバレになりますが、本警の終盤《しゅうばん》で古橋氏は冷酷《れいこく》にも「最初から最後まで、意味と言えるものは一切なかった」と断じます。しかし、そのように断じておきながらラストの一文で「そこにいる」と強く訴《うった》えています。
然《しか》り。人の「物語る」意志もまた消えることはありません。
語り継《つ》ぐ者がいるかぎり。聞き届ける者がいるかぎり。
動く者がいるかぎり。見守る者がいるかぎり。
彼がいるかぎり。彼女がいるかぎり。
私がここにいるかぎり。貴方がそこにいるかぎり――
『デモンベイン神話《サーガ》』の紡《つむ》ぎ手たちに、ありったけの感謝を。
[#改ページ]
斬魔大聖《ざんまたいせい》デモンベイン
軍神強襲《ぐんしんきょうしゅう》
原作:鋼屋《はがねや》ジン(Nitroplus)
著:古橋秀之《ふるはしひでゆき》
角川文庫14246
平成十八年八月一日
発行者――井上伸一郎
発行所――株式会社角川書店
東京都千代田区富士見二−十三−三
電話編集(〇三)三二三八−八六九四
営業(〇三)三二三八−八五二一
〒一〇二−八一七七
振替〇〇一三〇−九−一九五二〇八
印刷所――暁印刷 製本所――BBC
装幀者――杉浦康平
S156-13 ISBN4-04-427813-X C0193