冬の巨人
著者 古橋秀之/挿絵 藤城陽
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)巨人《ミール》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|この世《ミール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ミールの足跡[#「ミールの足跡」に傍点]
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CONTENTS
序章
第一章
第二章
第三章
第四章
終章
あとがき
設定資料
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序章
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吹雪《ふぶき》は夜のうちにやみ、夜明けは曇天《どんてん》のわずかな明るさとしてあらわれた。
雪洞《せつどう》から抜け出したオーリャがまず最初にしたのは、夜の間に半《なか》ば埋もれてしまった雪上車が再び走りだせるように、スコップで周囲の雪を掻《か》くことだった。
夜の間にこわばった背筋を痛めないように注意深く体を動かしていると、やがて体が温まってきた。
小一時間ほどで作業を終えると、
「ご苦労、休憩したまえ」
と言って、ディエーニン教授が湯気の立つカップを差し出した。
車の炉に石炭をくべ、汽缶《ボイラー》が暖まるまでの間、ふたりは炉の脇《わき》で暖《だん》を取った。ディエーニンはこの調査行の計画書を確認し、オーリャは毛布を被《かぶ》って紅茶をすすった。紅茶には、たっぷりの砂糖と少量のウォトカが入っている。
再び雲が厚くなり、雪が吹き込み始めると、ディエーニンが顔を上げた。
「いかんな。身動きが取れなくなる前に走りださんと、今日中に帰り着けん」
オーリャは黙ってうなずいたが、実のところ、雪洞を掘って吹雪をやり過ごすことは、それほど嫌いではなかった。食料も燃料もまだ余裕があるし、ディエーニンと過ごす時間は、作業による疲労はあれ、決して苦痛ではない。
しかし、ディエーニンは天を見上げ、雪雲に向かって挑《いど》み掛かるように言った。
「呪《のろ》わしきは千年風雪[#「千年風雪」に傍点]! この雲と雪のさまたげがなければ、我々はもっと的確に、かつ詳細に|この世《ミール》のありようを知ることができるだろうに!」
「はあ」
オーリャは紅茶から立ち上る湯気《ゆげ》を顔に当てながら、上目遣《うわめづか》いに言った。
「でも、街《ミール》のことなら、わざわざ外に出なくても、街《ミール》にいたほうがよく分かるんじゃないでしょうか」
ディエーニンはくるりと振り返った。
「嘆《なげ》かわしいぞ、オーリャ。君は街の凍結《こちこち》頭どもよりは物の分かる人間かと思っていたが、それはわしの見込みちがいであったか?」
オーリャは一瞬、自分がなにか失言をしたかと思ったが、ディエーニンは問答《もんどう》を楽しむ表情を眼鏡《めがね》の奥に浮かべつつ、さらに言葉を続けた。
「物事には、対象の外部からでなければ観察し得ない事実というものがある。例えばオーリャ、君は――君の脳髄《のうずい》に宿る君の精神は、自分自身のことをどれだけ認識しているかね?」
「ぼく自身の……? はあ、まあその……たぶん、ひと通りのことは」
「よろしい、では言ってみたまえ」
「え……はい、じゃ、ええと……」
口頭《こうとう》試問《しもん》の真似事《まねごと》のつもりで、オーリャは姿勢を正した。
「ぼくの名前はオレグ。歳《とし》はもうすぐ十五になります。家は右肩街の第五三|廃坑《はいこう》通り。ええと……以上です。特に変わった人間ではありません」
「それで? それが君のすべてかね?」
「はあ、たぶん……そう思います」
「では今度は、わしがわしの知る君[#「わしの知る君」に傍点]について語ろう」
ディエーニンは眼鏡の位置を直し、白い口髭をなでつけた。頭の中のノート[#「頭の中のノート」に傍点]を読み始める際の癖だという。
「オレグ・姓不詳《ニカコイヴィチ》。愛称、オーリャ。性別、男性。生年、大巡歴九八四年第二十八歩[#「歩」に傍点]、よって現在の年齢は十四年と四十八歩。ミール右肩甲区に住まいする外市民。現在は橋梁《きょうりょう》神学院教授ディエーニンの助手を務める。
――と、ここまでの理解は君と同様だが、まだ続きがあるぞ――
髪と目の色は薄茶。中背|痩身《そうしん》・猫背気味の姿勢のためやや虚弱に見えるが、その実、健康状態良好にして身体|頑健《がんけん》。一方、日常の経済状態、ひいては食料事情及び居住環境に難ありといえど、それをことさらに口にしないのは自分なりの節度と矜持《きょうじ》のためだ。さよう、君は誇り高い人間である。
そして、知っているかねオーリャ。君は他者との会話中にしばしば目をそらす。まるで、相手の視線から逃げたがっているようだ。誇りと自意識の鏡像としての自己の評価への不安[#「自己の評価への不安」に傍点]が、君を消極的にしてしまうのだな」
オーリャはコップに落としていた目を、あわてて上げた。ディエーニンは構わず言葉を続けた。
「だがその内省的な性質は君の長所でもある。すなわち、君はよく観察し思考する習慣を持ち、そして、なにがしかの気づき[#「気づき」に傍点]を得た時に初めて、その表情を太陽のごとく輝かせる。実に好ましい性格的特性だ」
「はあ、どうも……あの、最後の“太陽のごとく”っていうのは?」
ディエーニンの話は、早口の上に難しい言い回しを含むので、時々よく分からないことがある。どうやら悪い意味で言ったのではないらしいけれど――
「うむ、それは古い修辞的《しゅうじてき》表現で『たいへんに輝かしい』という意味だ」
ディエーニンはまっすぐ頭上を――車の天蓋《てんがい》を指した。
「“太陽”とは雲層《うんそう》の上に存在する天然の光源であり、昼夜を分かつものである」
「はあ」
“雲層の上”と言われても、オーリャには――大多数のミール市民と同様――“あの世”という程度の意味にしか聞こえない。昼と夜とはうすぼんやりとした明るさの違いでしかなく、また、窓の外では、雪雲はますます厚みを増している。
「それはまた、なにやらたいそうな……神様みたいなものですか」
「うむ? ふむ……まあ、そう言っても差し支えなかろう。さよう、君の中には、信仰[#「信仰」に傍点]に値する資質が存在すると、わしは考える。自らを信じ、敬いたまえ」
「はあ……なるほど」
「理解できたかね、オーリャ?」
「ええと、間違っていないといいんですが……つまり、教授のおっしゃっているのは、こういうことでしょうか。つまり――『自分の鼻を見るには、他人の目が要《い》る』」
「うむ。さらにひとつ付け加えるならば、先のわしの言は『君の鼻はなかなかいい形をしている』という指摘《してき》をも含んでいる」
「教授の鼻も、ご立派だと思います。ただ、ずいぶん赤くなって、寒そうだ」
「おお、それはわしにとって新たな発見だ!」
ディエーニンは片手で自分の鼻をつまみ、そしてもう片方の手でオーリャの頬《ほお》をつまんだ。
「しかし、そういう君は顔中が真っ赤だぞ!」
言われてみて、オーリャは自分の頬の火照《ほて》りを意識した。車外から入り込む冷気の中、燃える石炭と紅茶の熱が体内に蓄積《ちくせき》され、頬を突き抜けて外に出ているかのようだ。
「どうかね、我らは互いを客観的視点から観察することによって、初めておのれの鼻の色[#「鼻の色」に傍点]を知った!」
ディエーニンは会心の笑みを浮かべた。
「よろしい、理解したようだな、オーリャ――君は今まさに、太陽のごとく笑っておる」
紅茶を片づけると、ふたりは雪上車を出発させた。
ディエーニンの運転の下《もと》、蒸気《じょうき》機関とキャタピラによって雪を踏みしめ、乗り越えながら、雪上車は果てしない雪原《せつげん》を進んでいく。
右も左も、雪と雲のほかはなにもなく、距離感もない。どれだけ進んだのか、あるいは同じところをぐるぐる回っているのか、それを判断する材料は、周囲にはまったくない。
いや、ただひとつ――地平線の向こうに、帰るべき街《ミール》の姿が影のように見えている。それゆえに、吹雪に完全に巻かれさえしなければ、ふたりが道に迷うことはない。
窓から吹き込む雪と寒風に晒《さら》されながら、オーリャは炉に石炭をくべ続けた。いや、むしろその運動が、オーリャを凍《こご》えから守っていた。
機関の一部になったかのように働き続けながら、オーリャは考えた。
ディエーニン教授は偉大な人だ。なんでも知っていて、神学院での地位もあり、それに、六十を越えているというのに心が老いることがなく、街にいる誰よりも快活《かいかつ》だ。
しかし、今日、自分はそんな教授が知らなかったことを発見し、教授を驚かせたのだ。
――今、教授の鼻は赤い。
なんでもない、つまらないことだけど、自分が黙っていればこの世にいる誰も――教授自身さえも知らなかった、それはオーリャだけが見つけた真実だ。
――教授の鼻は赤い!
引き裂くような風音の中にそっとその言葉を吐《は》くと、小さな発見はたちまちどこか遠くへ吹き飛ばされ、乱れ舞う雪の中に消える。
――教授の鼻は赤い!
――教授の鼻は赤い!
労働歌のように節をつけて呟《つぶや》きながら、オーリャは体を動かし続けた。
やがて、風音と機関の騒音を割って、運転席からディエーニンの声が聞こえてきた。
「オーリャ!」
「はい!?」
いつの間にか大声で叫んでいたかと、オーリャは思わず口元を押さえた。しかし、ディエーニンは車を止めると、運転席から振り返った。
「君は今朝、“客観的観察”の意義を知った。ひいてはこの調査行の意義を理解したということになる」
「はあ、はい」
「そこで、わしは君に聞きたい」
ディエーニンは前方を指差《ゆびさ》した。
「我々の行く手に見えるもの……あれはなんだ!?」
「はい、あの……?」
オーリャは質問の意味をつかめず、師の顔と、その指が指し示す方角を、何度か見返した。
ふたりの進路の前方にあるのは、帰途の間ずっと目印にしてきた、街《ミール》の姿しかない。
「なにって――あれは、ミールでしょう」
ディエーニンはかぶりを振った。
「『ミールはミールである』。さよう、その言葉に間違いはないが、しかし決して充分とは言えん。我々が知ろうとしているのは、ミールのすべて、そして、ミールを含むより大きな[#「より大きな」に傍点]理《ことわり》のすべてだ。さあ、観察せよ、オーリャ。ミールはどんな鼻の色をしている[#「ミールはどんな鼻の色をしている」に傍点]?」
「あ……はい」
オーリャはようやく理解した。今問われているのはつまり、先ほどディエーニンがオーリャに対してしたように、“外からの目”によって、自分が現在持っている知識以上のなに[#「なに」に傍点]かをそこに見出《みいだ》せないか、ということだ。
オーリャは大きく息を吸い、遠く前方に目をこらし、まるで初めて見るもののように、それ[#「それ」に傍点]を見た。
吹雪の空間の彼方《かなた》、暗い空とほの白い雪原の交《まじ》わる地平線に、黒い塔のようにそびえ立つもの[#「もの」に傍点]。
それは“ミール”と呼ばれている。
その言葉は“世界”を意味し、“街”を意味し、“巨大なもの”をも意味する。極端な長身の人物をからかい、“のっぽ”の意味でそう呼ぶこともある。
それらの言葉はすべて、オーリャの目にしているそれ[#「それ」に傍点]にも当てはまる。
ミールは“世界”だ。極寒の混沌の中にあって秩序だった意味を持つ、唯一の存在だ。
同様に、ミールは“街”だ。千年の歴史と十万の市民を孕《はら》む、人の住む場所だ。
そして――ミールは“巨大な人”だ。
比喩《ひゆ》的な意味ではない。ミールは人間の十万倍ともそれ以上とも言われる大きさを持つ、人の形をした存在[#「人の形をした存在」に傍点]だ。
彼[#「彼」に傍点]が文字通りの意味で“生きている”のかは分からない。その鉱物質の体は、人や動物のような生き物よりはむしろ、この雪原の、厚い雪層の下から採取された凍土《とうど》に似ている。
また彼が、どういう仕組みを以《もっ》て歩いている[#「歩いている」に傍点]のかも、分からない。
彼自身の体熱を動力源とする、蒸気機関のような機械的な仕組みだという説がある。
あるいは、人智を越えた霊的な力によって突き動かされているのだという説もある。
はっきりとした理屈は誰にも分からないが、ともかくミールは、七昼夜に一歩を歩く。右足と左足、合わせて十四昼夜の周期を以て、歩き続けている。
これはおよそ千年にわたる街《ミール》の歴史の中でも、変わることのない事実だ。
暦《こよみ》の上で、一年は五十二歩とされている。それが千年というと――
千年に五万歩を数え、なお雪原を歩くもの。
その、老人のように曲がった背には、大きな丸い瘤《こぶ》のようなものがつき、その周囲にはささくれたような構造物が見えている。
瘤《こぶ》は内市民が住む“天球《ニエーバ》”、ささくれはオーリャたち外市民が住む居住区と、鉱工業区。共に人間の手によって建設され、発展してきた領域だ。
オーリャにとっては――そして多くの市民にとっては、それら人工の領域こそが街《ミール》であり、また“世界《ミール》”だ。その土台となっている“巨人《ミール》”そのものは、街を支える台座のようにしか考えられていない。ディエーニンのような学者でもなければ、ミールの外に大雪原が広がっていることすら知らないだろう。
だが、改めて、偏《かたよ》りのない目でその存在を見てみると――
背を屈《かが》め吹雪の雪原を歩き続ける、巨大なもの[#「もの」に傍点]。あれはいったい――
「――ミール、大いなるもの!」
吹雪の音を圧して、ディエーニンが叫んだ。
「“世界”を背に負い、永遠の雪原を行く――彼は何者だ[#「彼は何者だ」に傍点]、オーリャ!?」
「あの……分かりません」
オーリャはおずおずと言った。
「ぼくは今まで、ミールはミールであるとしか……」
――しかし、本当に。
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あれはいったい、何者なんだろう。
ぼくたちはいったい、なんの上に住んでいるんだ?
「――よろしい、君はまたひとつ、重要な事実を学んだ」
「え……いえ、ぼくはただ、分からないと……」
「それこそが重要だ、オーリャ。“知る”ということの第一歩は、“知らぬということを知る”ことなのだからな」
ディエーニンは再び雪上車を発車させた。
「では、我らが街《ミール》へ帰るとしよう。彼[#「彼」に傍点]に、彼自身の鼻の色を教えてやろうではないか」
幸い、雪は視界を奪《うば》うほどにはならず、ふたりはその日の昼にはミールの足元に辿《たど》り着くことができた。
ミールに近づくにつれて、その印象は塔のように、山のように、そして上方と左右に果てしなく続く岩壁《いわかべ》のようなもの――ミールの足の一部だ――に変わっていった。あまりに大きいため、間近に見ると人間の視野を越え、その形が判別できなくなるのだ。
なるほど、教授が“外からの目”にこだわるのはこういうことか、と、オーリャは悟《さと》った。
ミールを“人”とするならば、自分たちのような人間は、一匹のダニのようなものだ。ダニは人の体に止まっていては、人の姿を知ることはできない。充分に離れたところから、その姿を見渡さなければならないのだ。
そしてまた、ダニがそう考えるためには、まず、人から離れる必要がある。そうでなければ、ダニにとって人は、ただ自分が取りつく広大な皮膚の平面にすぎず、それが“人の形をしたもの”であることなど、思いつきもしないだろう。
だとすれば……ディエーニン教授は、なんと偉大なダニだろう[#「なんと偉大なダニだろう」に傍点]! 自分が取りついた皮膚、自分が吸う血、そうしたものの来歴に思いを馳《は》せ、その途方もない全体像を想像し、それを確認するために、住み家《か》である人体をすら飛び出す。その思考は、ダニの枠《わく》を越えた大きさを持っている。
言うなれば、教授は雄大なミールの尺度で思考する、精神の巨人なのだ。
オーリャは今日、巨人の肩に乗って、その視界の一部を垣間《かいま》見た。
巨人の肩に住んでいる小さな自分が、もうひとりの巨人[#「もうひとりの巨人」に傍点]の肩に乗って、自分の宿主《やどぬし》、自分の住む世界の姿を知ったのだ。
そして今――
間近から見上げるミールは、再び人の目には把握できない巨大な存在となっている。
だが、今やオーリャは、今目にしているものが、巨人の体の一部だということを知っている。その姿を思い描くこともできる。
オーリャもまた、巨人の目を得たのだ。
今日は、七昼夜を一単位とする“歩”の中日《なかび》だった。これが二、三日以上前か後になると、ミールの踏み下ろした足が巨大な体重によって雪原に沈み、あるいはミール自身の力によって地面から引き抜かれていくため、安全に乗り移ることができない。周囲の雪面がたわみ、盛り上がり、かつ、巨大な雪の塊《かたまり》が雪崩《なだれ》のように崩落《ほうらく》し続ける、それは真っ白な視界に轟音《ごうおん》のみがとどろく、地獄のようなありさまだ。
しかし、現在ミールの左足は、まるで何百年も前からそこにあったように、安定して接地していた。ふたりはミールの足の側面から、雪上車ごと昇降機《しょうこうき》に乗った。昇降機はレールに刻まれた歯と蒸気の力で回転する動力歯車を噛《か》み合わせながら上下する仕組みで、言うなれば、縦方向に進む蒸気機関車のようなものだ。
昇降機は、巨人の岩石質の体表面を、半日以上の時間を掛けて上昇した。足から腿《もも》、そして腰を回って背中へ――
ディエーニンが今回の調査行に使っているこの一本の他にも、千年紀の以前から存在する何百本もの路線が確認されているという。
「――世界の外[#「世界の外」に傍点]を見に行こうとする人が、昔はそんなに多かったんですか?」
昇降機の窯《かま》に石炭をくべながら、ふとオーリャが問うと、ディエーニンは答えた。
「そうではないぞ、オーリャ。これは外の世界[#「外の世界」に傍点]からの物資の搬入が日常的に行なわれた時代の痕跡《こんせき》だ」
「外の世界……?」
そう言われても、オーリャには、果てしない吹雪の平原のイメージしか湧《わ》かない。
「雪か水でも運び込んでいたんでしょうか?」
市内で消費される水は、通常、ミールの上に降り積もる雪を融《と》かすことで得られるが、それとても充分ではない。そこで、例えばミールの足元で熱して融かした水を、容器に詰めてこの昇降機で運ぶとか……しかし、それにしたところで、昇降機の上下に使われる燃料と引き換えにするほどのものだろうか?
「あるいは、なにかもっと価値あるものを運んでいたのかもしれん」
ディエーニンにもそれがなにかは分からないようだったが、しかし、彼は続けて言った。
「ミールは歩いている。つまり移動している[#「移動している」に傍点]のだ。ミールの来た場所、あるいは行く先には、雪と氷以外のなにかがあるのかもしれん」
「……ああ!」
オーリャは声を上げた。
それはまったく新しい考えだった。
オーリャにとっての“世界”には、世界の本体であるミールと、“それ以外”の雪原しか存在しなかった。そして、“それ以外”はどこまで行っても“それ以外”、つまりミールを取り巻く「周囲の空間」という程度の認識しかなかった。
しかし、ミールは移動している[#「移動している」に傍点]。より広大な空間の中を、ある一点から別の一点へと、千年を掛けて移動しているのだ。
それはまったくもって雄大な、宇宙的とも言えるイメージだった。
「つまり――ミールはいつか、どこかに“辿り着く”かもしれないんですね? ぼくが朝、家を出て、そして教授の研究室に着くみたいに」
ディエーニンはうなずいた。
「その通りだ、オーリャ。いにしえより伝わる祭文にも『巨神《ミール》の歩み千年にわたれば、終《つい》に冬の果てに至る』とあるだろう」
「はあ、それは別に意味のない、ただの結びの句かと思ってました」
「一見無意味な慣用句にも、それが作られた時代の観念が背景にある。少なくともミール創生期の人間には、その旅の終わりが見えていたのだろう」
ディエーニンは両手を大きく広げた。
「ミールが大雪原を越えてどこに至るのか! それは我々の認識を越えた、大いなる主題と言うべきだろう!」
「……仕事場に着いて、働き始めるんでしょうか」
オーリャが呟くと、ディエーニンは破顔一笑《はがんいっしょう》した。
「おお、巨人の街に、巨人の社会か! それはすばらしく壮大な想像だ、オーリャ!」
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第一章
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街《ミール》の外れにある昇降機《しょうこうき》の発着所にはディエーニンの研究室の人間が夜通し詰《つ》めていて、ふたりが無事に帰り着くと、たちまち仲間を呼んできた。この種の調査行はオーリャが生まれるより前から定期的に行なわれており、手際《てぎわ》は完璧《かんぺき》に近い。
簡単な報告を済ませて、雪上車の格納やいくつかの事後点検を彼らに引き継ぎ、オーリャが帰途に着いたころには、時刻はすでに深夜となっていた。
発着所の中に設けられた仮眠所で休むこともできたが、オーリャはあえて、この日のうちに帰宅した。街灯も地下道の暖房も、共同住宅の昇降機の電源さえも落ちていて、オーリャはへとへとの体にむち打って、鉄の階段を十階あまり上った。
「ただいま、母さん。ただいま、アンドリューシャ」
ドアの鍵を開けながら言うと、暗く冷えた部屋の中に、何者かが動く気配がした。
その場に膝《ひざ》をついて荷物を降ろすと、オーリャにはもう立ち上がる気力もなかった。寝台に這《は》い上り、外套《がいとう》を脱ぐ間もなく手探りで毛布をかき寄せると、毛布の中から唸《うな》り声がした。
「ごめんよ」
意識を失う寸前、一匹の猫がオーリャのふところに滑り込み、喉《のど》を鳴らし始めた。
ごろごろという音に混じって、もうひとつ別の震動《しんどう》が、オーリャの体に伝わってきていた。
巨人《ミール》の体内深くから発する、低い地鳴り[#「地鳴り」に傍点]だ。
“巨人の生命の音”とも言われるそれは、千年の間絶えることなく都市に響《ひび》いており、普段は意識に上ることもない。
しかし、街の静まりかえる深夜、静かに寝台に横たわっていると、その音ははっきりと聞こえてくる。
巨人の命を感じながら、オーリャは深い眠りに落ちていった。
翌朝、窓から射し込む薄明かりと、動きだした鉱工業区の騒音、それに、ざらざらとした舌が頬《ほお》をなめ上げる感触《かんしょく》が加わって、オーリャはようやく目を覚ました。
寝台の上で伸びをすると、背中がみしみしと痛んだが、それはむしろ心地よく感じられた。若いオーリャの体には、充分な回復力があった。
寝台から飛び降りた牡猫が、オーリャを見上げてひと声鳴いた。餌《えさ》の催促《さいそく》だ。
二歩[#「歩」に傍点]にわたる調査旅行の間、彼、アンドリューシャが飢《う》えることがないように、オーリャは干し魚と水をたっぷりと出しておいた。また、アンドリューシャは通風口を通って自由に外に出ることができる。いざとなったら近所にごみを漁《あさ》りに行ってもいいし、そのまま帰ってこなくてもいい。もともと、アンドリューシャはオーリャの飼い猫ではない。何年か前にふらりとやってきて、そのまま居着《いつ》いてしまった、老いた野良猫だ。
しかし、オーリャはアンドリューシャを友だちと思っているし、いなくなったらさびしいだろうな、と想像する。また、それはアンドリューシャも同様だろう。でなければ、一週間もの間、暗い、寒い部屋の中で、黙って留守番をしてはいない。
「おはよう、母さん」
オーリャは壁に留めた古いスケッチに声を掛け、それからストーブに火を入れた。炭が切れかかっていたので、火はごく小さくした。
アンドリューシャがもうひと声、干し魚ではない新鮮な朝食を所望《しょもう》した。
「ごめんよ、昨日帰ってきたところで、あんまりいいものはないんだ」
言い訳しつつ、オーリャはアンドリューシャのために古いハムを切り分けてやり、自分も同じものを口にしながら、窓の外を見た。
オーリャの部屋からは、ミールの街並みが、かなり遠くまで見渡せた。
鉄とセメントで出来た背の高い構造物に、圧《の》し掛かるようにたれ込めた低い雲が、重く湿った雪を降らせていた。また、鉱工業区に林立《りんりつ》する背の高い煙突からは黒々とした太い煙が、その足元のいくつかの工場からは真っ白な湯気が、もうもうと湧き出ている。
――そして、“天球《ニエーバ》”。
巨大な球体が、灰色の風景の中に、ややくすんだ色彩を浮かべていた。
“天球《ニエーバ》”の外見は、金色のたが[#「たが」に傍点]と軌条《レール》に支えられた、青みがかったガラス球だ。その球の中には、オーリャの住んでいるのと同じくらいの規模の市街と、農産や畜産、魚類の養殖などが行なわれる広大な土地が収まっている。
中に住んでいるのは“内市民”と呼ばれる、政治家や工場主など、地位と財産のある人々だ。“天球《ニエーバ》”の中では、熱鉱山から引いてきたミールの体熱がふんだんに使われ、また、優先的に供給される照明や動力は一年中途切れることがない。
これらの風景は、オーリャが物心ついたころから変わらずに存在していた。昨日も今日も、そして、きっと明日以降もずっと変わらない、街《ミール》のありさまだ。
しかし、風景は変わらなくとも、オーリャの見方[#「見方」に傍点]には若干《じゃっかん》の変化があった。
これまでは、ただ漠然《ばくぜん》とした“世界”であり、“街”であったものが、今はその土台[#「土台」に傍点]である巨人の肉体に食い込んだ構造物として想像できた。
オーリャはノートと鉛筆を持ち出し、目の前の風景と、自分の想像の中にある巨人の姿を合成しつつスケッチした。脳裏《のうり》にあふれかえる映像を、体の外に吐き出す――精神的な排泄《はいせつ》行為とも言うべき、それは長年の習慣だ。
昨日遠目に見た前屈《まえかが》みの姿、そして重々しい足取り――半ば無意識に鉛筆を動かしていたオーリャはふと、自らノートの中に描き出したイメージを意識し、驚いた。
そこに描かれた巨人は、まるで業病《ごうびょう》に冒された老人のようだった。苦痛に耐えることにすら倦《う》み果て、心を凍《い》てつかせながら、重い歩をただ進める――
忌《い》まわしい想像を打ち消すように、オーリャはノートを閉じた。
気がつけば、十分あまりも鉛筆を走らせていたようだ。窓の外には早出の労働者たちの姿がちらほらと見え始めている。
オーリャは少量の湯を沸《わ》かして体を拭《ふ》き、シャツを着替え、外套《がいとう》を羽織《はお》って外に出た。
「それじゃ、いってきます。また留守を頼むよ」
出ぎわに寝台に向かって言うと、アンドリューシャが顔を上げ、ひと声鳴いた。
仕事に出る前に炭を仕入れておこうと、オーリャは階の端の管理人の部屋に寄って、呼び鈴を押した。
「どうも、おはようございます」
「……ああ、あんたは」
「はい、オレグです。そこの、角の部屋の」
管理人は帳面を持ち出して、オーリャの顔と交互に見比べた。
「家賃が十歩[#「十歩」に傍点]分、滞《とどこお》っているね」
「すいません」
「丸十四歩で出て行ってもらうことになるよ。規則だからね」
「はい、今日給金が出ますので、必ず……あの、一部分は」
オーリャが言うと、
「まあ、よろしく頼むよ」
と、管理人は表情をやわらげつつ、言葉を継いだ。
「しかし、あんたも独り身なら、もっと小さい部屋を探してもいいんじゃないかね」
「はあ……はい」
オーリャの部屋は、広さから言えば、二、三人の小家族用のものだ。
母が亡くなってからは、オーリャがひとりで住んでいる。管理人の言うように、やや持て余し気味の部屋だ。
それでもここを出て行かない理由は、いくつかあるが――
例えば、建物が古く、家賃が相場よりは安いこと。
家族の思い出が残る部屋を移りたくはないこと。
生まれ育った街区を離れることには、いくらかの不安があること。
アンドリューシャを連れて行くことができるかどうか。
――どれもこれも、それほど大きな問題というわけではない。ただ、それらの細々《こまごま》とした理由の蓄積《ちくせき》が、オーリャの腰を重くしていることは確かだった。
それで(とにかく、ここにいられる間はいよう)、オーリャはそう決めていた。
「ところで……炭が切れそうなんですが、回していただけますか?」
燃料の管理は共同住宅の棟ごとに、また、さらに小分けして階ごとに行なわれている。オーリャは割り当て分をこの場で受け取り、部屋に放り込んでから出かけるつもりだったが、
「それは、いくらかでも家賃を入れてからだね」
「はあ」
オーリャはおとなしく頭を下げ、その場を辞した。
燃料を担保として差し押さえられることには、筋が通っている。家賃が居住者から徴収《ちょうしゅう》できない場合、その分は管理人が立て替えることになるからだ。
ただ、アンドリューシャには今夜も寒い思いをしてもらうことになりそうだ。
オーリャは肩をこごめ、昇降機に乗って共同住宅を出た。
高い建築物に左右を挟《はさ》まれた街路には、空のわずかな明るささえも、ほとんど届いてこない。強く吹き下ろしてくる風が、雪と冷気だけを運んでくる。
そこから地下道に入ると若干の暖房があり、肩に積もった雪が融けだした。
反対に、高い建物同士を結ぶ吹きさらしの橋梁《きょうりょう》部に出ると、強い寒風に熱を奪われ、服についた水滴がその場でバリバリと凍り始める。
単純な気温の低さだけで言えば、ミールの外のほうが、よほど厳しい。手持ちの燃料が尽き、あるいは露営《ろえい》の仕方を誤っただけで、すぐにでも雪に巻かれて死んでしまう。
しかし、なぜだろう。時として、街を歩くときのほうが肌に染みるような寒さを感じる。
風の中を足早に通り抜けながら、オーリャは考えた。
それは、街中のそこここで変わる場の温度[#「場の温度」に傍点]の差のためかもしれないし……あるいは、そうした温度の調整を自分以外の者に管理されているという状況のためかもしれない。
そもそも、“外界”への調査行に当たっては、ディエーニンとオーリャは充分な燃料と食料を持たされていたのだが、ミールの中では、そうではない。
つまり、真に焦点《しょうてん》となるのは、外気の温度よりも、自分自身がどれだけの熱源を保有しているかという――つまり、経済の問題なのだろう。
例えば、もしも自分が中流程度の家庭に生まれていたならば、すきま風の入らない部屋に住める。金持ちの子供ならば、熱管暖房つきの家に住んで、さらに暖炉を盛大に焚《た》いて過ごすことだってできるだろう。大資産家の子弟ならば、街全体が快適に保温されている“天球《ニエーバ》”に住むことさえ――
――まあそれは、あくまでもしも[#「もしも」に傍点]の話。
“天球《ニエーバ》”そのもののように大きくふくらんだ想像は、あっさりと、急速にしぼんだ。
周りを見回せば、街路の片隅にちらほらと、霜《しも》の降りたぼろ布の塊《かたまり》のようなものが見える。夜の間に力尽きた凍死者。この辺《あた》りでは見慣れた光景だ。
――どう考えても、自分の立場はこっち側だ。
大した感慨もなく、オーリャはそう思った。
例え話でもなんでもなく、半年ほど前の自分は、職を失って途方に暮れていたのだ。たまたま若い働き手を求めていたディエーニン教授に拾われなければ、おおかたこう[#「こう」に傍点]なっていただろう。手元の燃料をやりくりしてどうにかするといった水準ではなく、もっと、はるかに大きな物事の流れによって、あの時、自分の命は消えかかっていたのかもしれない。
それはまったく、人の身には抗《あらが》いようもない、重く巨大な流れだ。
と――
「そなえよ、終末《しゅうまつ》に!」
ふと気がつくと、オーリャの周囲を、千人を超える人の群れが、通りいっぱいに押し合いへし合いしながら流れていた。考え事をしながら歩いているうち、うっかり“終末|党《とう》”の行進に巻き込まれてしまったのだ。
行進の参加者の大部分は失業者やその家族だが、列の先頭には顔まで覆《おお》う白い頭巾《ずきん》をかぶった終末党員が居て、人の群れを先導《せんどう》している。
「そなえよ、終末に!」
白頭巾[#「白頭巾」に傍点]がスローガンを声高《こわだか》に叫ぶと、
「そなえよ、終末に!」
先頭近くの参加者がそれに唱和する。
その声に続く者、さらにその後に続く者――と、うねる人の海の上を、声の波が遠く渡っていく。
「あの、すいません、通りま――」
オーリャは行列から抜けようとしたが、その声はひとたまりもなくかき消され、その体は川の水に飲み込まれた木の葉のように、くるくると回りながら流されていく。
このままどこまでも、際限なく運ばれてしまうかと思えた時――
「赤槍[#「赤槍」に傍点]が来たぞ!」
鋭い声が行列の一角から上がり、人の流れはにわかに混沌としたものとなった。
「お、と、と――」
蠢《うごめ》く人|混《ご》みにひと揉《も》み、ふた揉みされたのち、オーリャは路肩に弾《はじ》き出された。
行進の参加者たちは潮が引くように走り去り、入れ替わりに現れた神学院直属の衛士《えいし》隊が数十人、赤い槍《やり》を構えて目の前を駆《か》け抜けていった。
“橋梁神学院”は“天球《ニエーバ》”のほど近く、巨人の首の付け根に当たる位置にある。
その門戸は内外両市民に広く開放され、子供から青年までの学生層、そして中年から老人に至る教士[#「教士」に傍点]及び教授陣が集《つど》っている。ミール市民のほとんどが、少なくとも人生の一時期にはこの神学院に籍《せき》を置く。
その主な活動内容は、まずミール信仰の教義や、世界の成り立ちと歴史についての研究。そして各種機械装置の設計、新築あるいは老朽化建築物の補修のための強度計算、地熱利用や各種農工業物の生産計画などの研究。また、それらの若い世代への教育、などなど――
市民の子弟の多くは神学院の初等科のみを卒業し、それぞれの職に就いていく。
すなわち、巨神《ミール》の威光の下、工場の子は工場へ、農場の子は農場へ。巨大な機械とも言うべきミール社会の、新たな世代の歯車[#「歯車」に傍点]を生産することは、神学院の存在意義の中でも、最大のもののひとつだ。
その他、中等科へ行くのは教養を佳《よ》きものとする裕福な内市民の子、高等科にまで行くのはミールの工業面の導き手を目指す技術志望者が大部分だ。
ほとんどの外市民がそうであるように、オーリャは初等科のみを卒業し工場に勤めていたが、その工場が閉鎖されたために職にあぶれ、現在はディエーニン教授の助手として、神学院の準職員のような立場になっている。
ディエーニンはオーリャに、いずれ再入学して中等科以上の授業を受けてはどうか、と勧めている。彼はオーリャを気に入り、自らの後継者のひとりとしようと考えているのだ。もっとも、その通りにしたとして、本当にディエーニンのような学者になれるかというと、怪しいところだが……それでも、誰かに気に掛けてもらえるというのは、ひとりぼっちでいるよりもずっといいことだと、オーリャは思う。
ともあれ、今日は調査行の後始末――機材の点検や報告書作りで一日が潰《つぶ》れるだろう。その合間を見て事務窓口に行って、給金を受け取らなければ――
そのように考えながら、オーリャは神学院の敷地に入り、いくつかの棟を抜けて研究室に出頭した。
室内に入るなり、何人かの助手の視線がオーリャに集中した。
それほどひどく遅刻してしまっただろうか、と一瞬考えたが、すぐに自分の身なりのせいだと気がついた。全身がよれよれで、あちこちのボタンやベルトが外れてしまっている。
「あの、来る途中、行進に巻き込まれてしまって――」
と、オーリャは苦笑いをしかけたが、あわてて口をつぐんだ。
ディエーニンと研究室の面々のほかに、何人かの客が来ていた。きちんとした服装から言って、どれも“天球《ニエーバ》”の住人、しかも相当な地位のある人物であるようだ。
「――例の“終末党”ですか」
眉《まゆ》をひそめたのは、上級教士の装束《しょうぞく》に身を包んだ、三十過ぎの男だ。
名は確か、ウーチシチと言う。背は高く、やせ型で、線の細い整った顔立ちの中に、刃物のような鋭さがある。この歳で上級教士にまで上り詰めているのだから、相当なやり手なのだろう。いずれは神学長ともなるであろう人物だ、と、いつだったかディエーニン教授が言っていたのを覚えている。
「まったく嘆《なげ》かわしい。信仰の下に結束し、“天球《ニエーバ》”を支える礎《いしずえ》となるべき外市民が、安易な反社会思想に踊らされるとは。煽動者《せんどうしゃ》を厳重に取り締まらねばなりません」
ウーチシチの背後には、オーリャが先ほど見かけたのと同様、赤い槍で武装した屈強《くっきょう》な衛士たちが何人も控えている。必要とあらば、今すぐにでも反社会分子たちとこと[#「こと」に傍点]を構えようという姿勢だ。
「いやいや、教士殿」
助教授のブニコフが、取りなすように手を広げた。
ブニコフは柔和《にゅうわ》な顔をした、大柄な人物だ。ディエーニンの信頼は篤《あつ》く、先の調査行でもミール側に居残った支援要員の長を務めている。
「無論、決して褒《ほ》められたものではありませんが、あのような活動もまた、社会の摂理《せつり》の一環と解釈すべきでしょう。白頭巾[#「白頭巾」に傍点]を何人捕まえたところで、根本の原因たる社会全体の閉塞《へいそく》的傾向を解決しないことには、行進の列に続く人間が代わりに頭巾《ずきん》をかぶることになるだけです」
「しかし、不満分子の組織化を野放しにしていては、いずれ深刻な事態を招きます」
「いや、むしろ組織化すべし、と私は思いますな」
ウーチシチに真っ向から反論しながらも、ブニコフは笑顔を絶やさない。ふくよかな容姿と相まって、独特の人当たりのよさがある。
「もしも行進をしていた外市民が丸ごと暴徒と化していたならば、ほら、このオレグ君も、外套《がいとう》のボタンをなくすだけでは済まなかったでしょう」
「まあ、それはそうですが……それにしても、理解しかねます。あんな行進などして、いったいなにがどう解決するというのか」
「はあ、あの、その点ですが……」
オーリャはそろりと手を挙げた。気づいたことがあれば臆《おく》せず発言するようにと、日頃からディエーニンに言われている。
「ぼくには大きな話は分かりませんけど……行進に参加する人なり[#「なり」に傍点]の理由なら、分かるような気がします」
「ほう……?」
一同の目が、オーリャに集まった。
「あ、いえ、馬鹿げたことかもしれません」
顔を伏せるオーリャに、ディエーニンが声を掛けた。
「言ってみたまえ。君の意見が聞きたい」
「はあ、では……行進に参加してるのは、職にあぶれた人たちですよね。仕事を探しに通りに出たけれど、特に当ではないっていう」
「うむ、この件は経済と雇用の問題として考えるべきだろうな」
ブニコフの相づちに曖昧《あいまい》にうなずきながら、オーリャは言葉を続けた。
「はい、で、その……たぶん、そういう時って、じっとしてると寒いんです[#「じっとしてると寒いんです」に傍点]」
「――なるほど、それは新鮮な解釈だ!」
ブニコフが吹き出した。ディエーニン教授やその他の面々も笑っている。ウーチシチだけが眉をひそめ、鋭い目でオーリャを一瞥《いちべつ》した。
――別に、冗談で言ったわけじゃないんだけど。
とオーリャは思ったが、それは口には出さず、ただ愛想《あいそ》笑いを返すだけだ。
半年前の自分にとっては、それは冗談どころか、まさに生死に関わる問題だった。
家に帰っても火を焚く薪《まき》もなく、工場や商店を手当たり次第に訪ねて、仕事の口が見つかるのが先か、それとも自分の生命の火が燃え尽きるのが先か――そんな時、ぎゅうぎゅうに押し合いながら練り歩く人の群れが通り掛かったら、後先のことはさておき、自分もそこに飛び込んでいたかもしれない。行進に参加している数時間は、少なくとも凍《こご》えることはないからだ。
自分の場合、実際には、通り掛かったのは大荷物を抱えたディエーニン教授だったのだけれど……。
「おお、そうだ」
そのディエーニンが、オーリャを手招いた。
「はい……?」
「ザヴォーティン議員、助手のオレグです」
進み出たオーリャを、ディエーニンは目の前にいた男に紹介した。
「やあ、オレグ君。今回はご苦労だった。君は前途《ぜんと》有望《ゆうぼう》な少年であると聞いている」
「は、ど、どうも……ありがとうございます」
市政議員ザヴォーティンは年齢五十歳ほどで、背は高く、肩幅は広く、まるで鋼鉄を削りだして作ったような頑健《がんけん》な印象の人物だった。握手する手も力強く、あと少し力を込められたら、オーリャは痛みを感じていただろう。
ザヴォーティンがミールの市政議会で最も有力な議員であり、かつ、ディエーニンの後援者であることは、街中の誰もが知るところだった。先の調査行の費用も、ザヴォーティンの口利きによって特別予算が下りている。また、その一部にはザヴォーティン自身の私財が投じられているそうだ。
ザヴォーティンは握った手をひとしきり振ると、それきりオーリャには興味を失った様子でディエーニンとの会話を続けた。オーリャは目立たない壁際へ下がると、そこで手持ちぶさたになり、ただぼうっと突っ立っていた。会話に割って入るほどの知識や立場もなく、かといって、先ほどのように呼ばれることがあるかもしれないため、席を外していいものかも分からず、といった態《てい》だ。
と、そこに、
「……ちょっと。そこのあなた、ちょっと」
会話の中心から外れたところから、呼ぶ声がした。なにごとかと振り返ると、着ぶくれした大人たちの体の間から、白い、細い手が突き出ていた。
じたばたともがくその手をつかんで引っ張ると、十二歳かそこらの少女が抜けて出た。
「ありがと」
少女は薔薇《ばら》色に上気した顔で大きく息をつくと、外套をぱたぱたとはたき、ずれた帽子を被り直した。身なりのよさから言って、“天球《ニエーバ》”の内市民の子女だろう。
「あなた、オレグっていうんでしょ?」
「……え?」
少女はまっすぐに、挑戦的とも言っていい目つきで、オーリャを見上げた。
「“変人教授”の助手の“変わり者のオレグ”。ちかごろ有名だわ」
「え……そうかな」
オーリャは思わず自分の頬をなでた。教授はともかく、自分はそんなに目立つようなことはないと思うけど……。
それにしても、ずいぶんはっきりと物を言う子だな、と思いながら、
「ええと……君は?」
オーリャが問うと、少女は誇らしげに胸を張った。
「エフゲーニヤ・コンスタンティナ・ザヴォーティナ」
「……ああ、ザヴォーティン議員のお嬢さん」
そういえば、神学院の構内で何度か見かけたことがある。華のある立ち振る舞いのせいか、遠目にも目立つ娘なのだ。
それに、言われてみると、小柄《こがら》ながらぴん[#「ぴん」に傍点]と伸びた背筋や、意志の強そうな目鼻立ちは、父親ゆずりのもののようだ。ザヴォーティン氏が削り出し[#「削り出し」に傍点]の鉄塊《てっかい》なら、この娘はしなやかな鋼線《こうせん》の束だ。
「たしか、初等科の……?」
オーリャが言うと、少女は不満げに眉をひそめた。
「中等よ」
「ああ、ごめ――」
少女はいきなり、オーリャの腕を引っ張りながら、ザヴォーティンを振り返った。
「お父様! オレグさんに、このあたりを案内していただいてもいいかしら」
ザヴォーティンは一瞬会話を止め、ディエーニンと視線を交わした。
「そうして差し上げなさい、オーリャ」
と、ディエーニンは言った。
「あの、お嬢さん、どこへ向かって……?」
先に立ってぐいぐいと腕を引っ張る少女に話し掛けると、
「お友だちはみんな、あたしのことを“ジェーニャ”って呼ぶのよ」
と言って、少女はオーリャの顔を見上げた。
「ねえ、あなたもそう呼びたい?」
「え……さあ」
オーリャがどっちつかずの答えを返すと、少女はつんと顎《あご》を突き上げた。
「そう呼んでいいのは、お友だちだけなんですからね」
「あ、ええと……それは残念だなあ」
すると、ジェーニャは口を尖《とが》らせながら言った。
「……でも、どうしてもって言うなら、そう呼んでもいいのよ? 代わりに私もあなたのこと、“オーリャ”って呼ぶけど」
「ああ、うん、それはどうも」
「じゃあ、友情を誓《ちか》ってくれる?」
「へ、友情?」
「知らないの?」
ジェーニャは立ち止まって、オーリャと向かい合った。背丈はオーリャの胸ほどまでしかないのに、胸を張って立つ姿は、よほど堂々としている。
「お互いの信頼を、大切な人に誓うの」
「大切な人って?」
「家族かお友だちの中で、生きている人と、死んでいる人、ひとりずつ。あたしは亡くなったお爺様と、生きているお父様にするわ。あなたは?」
「あ、それじゃあ、死んだ母さんと、生きている教授……は、友だちってわけじゃないから……ええと、アンドリューシャに」
「それ、だれ?」
「うちの猫」
からかわれていると思って、ジェーニャが怒るだろうか。そう思って、オーリャは一応つけ加えた。
「友だちなんだ」
するとジェーニャは、
「あら、それじゃあたしも、うちのヤーブラカにすればよかった。あたしがブラシを掛けてるのよ。長毛種なの」
「へえ」
「ま、いいわ。それじゃ手を出して」
オーリャが言われた通りに右手を出すと、ジェーニャは自分の手袋を外し、お互いに押し合うような形で、右手同士の手のひらを合わせた。
「『私ことジェーニャと友人オーリャは、これより生と死を通じて、永遠の友情を誓い合います。もしもあたしがオーリャの信頼を裏切った時、生きていればお父様が、死んでいればお爺様が、あたしのお尻をぶつでしょう! そして、もしもオーリャがあたしの信頼を裏切った時――』」
ジェーニャに促《うなが》されて、オーリャは言葉を引き継いだ。
「『もしもぼくがジェーニャの信頼を裏切ったとき、生きていればアンドリューシャがかかと[#「かかと」に傍点]に噛《か》みつき、死んでいれば母さんがため息をつくだろう』」
「よろしい! わたしたち、これでお友だちよ」
ジェーニャはオーリャを見上げてにっこりと笑い、それから、その腕を再びぐいぐいと引っ張った。
「それで、どこへ行くの、お友だちのオーリャ?」
――さて、「このあたりを案内」と言っても、ただの研究棟に、これといった見どころがあるわけでなし……。
オーリャは行き先についてしばし逡巡《しゅんじゅん》したのち、少女を中庭に連れて行った。
「ええと、あれが――」
と、指差したのは、ちょっとした建物ほどの高さの彫像だ。髭《ひげ》を蓄《たくわ》え、腰布だけを身にまとった、筋骨隆々とした壮年男性で、肩にはひと抱えもある球体を担いでいる。
神学院のシンボルであり、ミール全体の宗教的思想の象徴でもある、“ミール像”だ。
しかし、ジェーニャの感想は、ごくそっけないものだった。
「知ってるわ。来たことあるもの」
「あ……そう。じゃ、帰ろうか」
オーリャが来た道を戻りかけると、ジェーニャはその腕を引っ張りながら、傍《かたわ》らの階段に座り込んだ。
「ねえ、あたしの知らないお話をしてよ。あなた、ミールを外から見てきたんですって? すごい冒険だってお父様が仰《おっしゃ》ってたわ」
「え? ああ、うん」
「で、どんなだった? やっぱりあんな風にお髭が生えてるの?」
ジェーニャが指差すミール像を見ながら、オーリャは首を傾《かし》げた。
「うーん……あんな風、じゃあなかったなあ。もっとゴツゴツして、岩みたいな……あ、そうだ。こんな感じだよ」
オーリャは鞄《かばん》の中からノートを取り出し、余白のページを開いて手渡した。
そこには、今朝スケッチしたミールの図が描かれていた。
「あら」
ジェーニャはミール像と手元のスケッチを、何度も見比べた。
片や、天球を力強く支える巨神。片や、病魔に憑《つ》かれうなだれ歩く異形《いぎょう》の怪物――
「……これ、なんだか怖い絵ね」
「うん……そうだね」
ジェーニャはもう一度、ミール像を指差した。
「もっと、ああいう風に描けばいいのに」
「あ……うん」
そこで、オーリャは鉛筆を取り出すと、その場でスケッチを始めた。
白い紙の中に、髭を蓄えた神々《こうごう》しい男性の姿が、みるみる形を取っていく。
「あら、上手じゃない!」
ジェーニャはたちまち、ミール云々《うんぬん》ではなく、オーリャの筆さばきに夢中になった。
「ねえ、今度はあたしを描いてよ!」
「うん、いいけど……」
少々|面映《おもは》ゆい気持ちになりながら、オーリャはジェーニャに向き直った。そういえば、人前で絵を描くのも、それでほめられるのも、初めてだ。
「あ、ちょっと待って!」
ジェーニャはオーリャに向かって腕を突っ張ると、帽子を脱いで顔の前に捧げ持った。
「この帽子、あんまり好きじゃないのよね。それに、この上着もなんだか野暮《やぼ》ったくて……そうだ!」
ジェーニャは立ち上がると、オーリャの手を取った。
「いっしょに来てくれる?」
オーリャはジェーニャに腕を引かれて階段を上り、神学院の敷地内の鉄道駅に入った。
橋梁神学院はその名の通り、“天球《ニエーバ》”と外市街をつなぐ橋のような構造をしており、“天球《ニエーバ》”への主要な窓口のひとつとなっている。“天球《ニエーバ》”の住人が最も外市街に近づく場所が神学院であり、また逆に、そこは外市民が最も“天球《ニエーバ》”に近づく場所でもある。神学院は、本来交わることのないふたつの世界の住人の人生が、わずかに交錯する場所なのだ。
それゆえ、「神学院こそが“都市《ミール》”の中心である」という考え方もある。
特に、ウーチシチ教士のような、そこに籍を持つ教士たちはそう考えているだろう。
“天球《ニエーバ》”と外市街をつなぐ神学院こそが、“世界《ミール》”の精神的な要《かなめ》である――というのは、実際、一面の真実ではある。
他方、ジェーニャやザヴォーティン氏はもちろん“天球《ニエーバ》”を中心に考えているだろうし、オーリャのような外市民は自分たちの街、外市街こそが世界そのものだと考えている。
つまり、人はみな、それぞれの立場で“世界の中心”を定めているのだ。
――では、教授はどうだろう?
ディエーニン教授は広義には神学院に属する人間だが、その立場は“教士”ではなく“教授”である。“教士”の務めがミール信仰の揺《ゆ》るぎない教義を体現《たいげん》し、確実に次世代に伝えることにあるならば、“教授”の務めはその時々で改良されるべき、機械や建築など世俗の問題を扱《あつか》うことだ。
ディエーニン教授は、もともとはウーチシチ教士のように将来を嘱望《しょくぼう》された教士だったが、研究の結果得た持論《じろん》が神学院の主流教義から外れだしたため、神職の座を辞したのだという。
言い換えれば、彼は神学院の白亜の塔の上から物を見ることをやめ、自分の足で歩きだした人だ。“天球《ニエーバ》”にも行くし、外市街に出ることもあるし、炭坑《たんこう》の奥に潜《もぐ》り込んだり“都市《ミール》”の外縁部を超えて巨人の体を探索したり、そして、オーリャを伴った調査行のように“巨人《ミール》”そのものを抜け出して外から観察したり。ディエーニン教授ほど自由自在な視点を持つ人物は、“世界《ミール》”中探しても見つかりはしないだろう。
ディエーニン自身は、自らのそうした立場を“相対化”という言葉で表現している。複数の視点を持つことで、物事を様々な面から理解することができるのだと――
「こっちよ」
ジェーニャが“天球《ニエーバ》”行きのゲートに向かったが、オーリャはそのあとに続くことを躊躇《ちゅうちょ》した。
まったく、自由な視点を持つというのは簡単なことではない。誰もが教授のように自由に振る舞うことができるわけではないのだ。例えば、自分はここから先――内市民の乗る鉄道に踏み込んだことはないし、それに、なにより――
「どうしたの、オーリャ」
「汽車賃がないんだ」
オーリャが肩をすくめると、ジェーニャはオーリャと腕を組んで、改札の職員にバスを掲《かか》げて見せた。
「ザヴォーティンの身内よ」
職員は帽子のつばに手を当ててちらりとオーリャを見たが、なにも言わずにふたりを通した。
客席に並んで座ると、やがて汽車が動き始めた。
汽車は歯車状の車輪を回転させながら、螺旋《らせん》の軌跡を描く高架鉄道を上っていく。降りしきる雪と相まって、汽車がそのまま真上に移動しているような錯覚《さっかく》を覚える。
「お財布くらい、ちゃんと持って歩かなきゃ」
「うん、そうだね……おっ」
車内をきょろきょろと見回しながら、ジェーニャの言葉にあいまいにうなずいていたオーリャが、車窓《しゃそう》に身を乗り出した。
螺旋《らせん》鉄道からの見晴らしは、オーリャの部屋からのものより数段よい。
頭が届きそうなほどに低い雲と、ひときわ巨大な“天球《ニエーバ》”、そして、雪にくすみ[#「くすみ」に傍点]ながら、はるかに小さく、遠くまで見える街並み。口を半開きにしながら街を見下ろしていると、ジェーニャがくすくすと笑った。
「ミールを丸ごと見てきたって言う人が、鉄道の景色がそんなに珍しいの?」
「うん……」
生返事《なまへんじ》をしながら、オーリャはなおもその風景に見入った。
街を上から眺めると、自分の部屋からの眺めとは、また違ったものが見えてくる。例えば、鉱業街の高い煙突の中には、煙を吐《は》くのをやめて久しいものや、半ばから折れてしまっているものがいくつもあるのが分かる。また、それらの煙突や工場の跡を含んだ一区画が、丸ごと朽《く》ち果てた廃墟となっている部分もある。遠目にはまるで錆《さび》の塊のように見えるそこは、簡単に言えば、掘り尽くされた炭坑や、涸《か》れた熱井戸の跡だ。巨人の肉体に食い込むように掘り進められたそれらは、数百年を掛けて掘り尽くされ、あるいは汲《く》み尽くされ、設備ごと打ち捨てられていく。外市街には、そのような場所がいくつもある。
また、そうでない[#「そうでない」に傍点]部分もある。稼働《かどう》中の工場や鉱山でも、それらの廃墟でもなく、きちんと設備の整った工場から、生命の火のみが抜き去られたような場所だ。建設されてから、せいぜい数年から数十年で、いきなり放棄されたように見える。
しかし、なぜ?
鉱工業区の運営は他の産業と同様、市政議会によって充分に検討された計画の下に行なわれているはずだ。真新しい設備を放棄するような無計画なことが、はたして行なわれるものだろうか?
オーリャは漠然《ばくぜん》とした不安と違和感を感じたが、それ以上の考えがまとまることもなく、ほんの数分ほどで汽車は“天球《ニエーバ》”の駅に着いた。
――流されるままにこんなところまで来てしまったが、自分が“天球《ニエーバ》”に入っていいものか分からないし、そろそろ帰りのことも心配だ。
「ねえ……どこまで行くつもりだい?」
「いいから!」
ジェーニャに引っ張られ、二重の扉を備えた大きな門をくぐって、オーリャは“天球《ニエーバ》”に踏み入った。
ストーブの焚かれた部屋に踏み込んだような、心地よい暖気がオーリャを包んだ。照明も、駅の構内の薄暗いものとは違って、充分な明るさを持つ電灯が、いくつもの方向から照らしつけてくる。目もくらむようなそれらの照明装置の背後には、“天球《ニエーバ》”のガラス壁が青黒く見えていた。
石畳の街路は、じめじめとした外市街のそれと違って、清潔で、乾燥していた。オーリャの周りで、何人もの内市民が外套を脱ぎ、わが家に帰ってきたというように、ほっと息をついた。
見れば、オーリャの傍《かたわ》らでも、ジェーニャが同じように外套を脱いでいた。上物ながらやや地味な印象の外套を脱ぐと、つぼみが花開くように、真っ赤な服が現れた。何重にもひだ飾りの付いた、ワンピース仕立てのドレスだ。目に残像を残すような鮮やかさが、ジェーニャの華やかな立ち振る舞いによく似合っていた。
「あなたも脱げばいいのに」
そう言われてオーリャは自分も外套を脱いだが、あちこちに染みや鉤《かぎ》裂《ざ》きの跡のあるシャツは、人目にさらすには、いかにもみすぼらしい。周りにいるのが身なりのいい内市民たちであるだけに、なおさらだ。
肩をすぼめ、自分の体を隠すように外套を抱えるオーリャに、
「持ってくださる?」
と、ジェーニャが自分の外套を差し出した。よく見れば、周囲の内市民たちも、男女で連れ立っている者たちは女の上着を男が抱えている。そういう作法[#「作法」に傍点]があるということを、オーリャは初めて知った。そういえば、屋外で外套を脱ぐのも、女の子と連れ立って歩くのも、初めてかもしれない。
香水かなにかだろうか、いい匂いのするジェーニャの外套を、自分のそれ――アンドリューシャの毛や、ひょっとすると蚤までもがついた――といっしょにしてもいいものだろうか、オーリャが逡巡《しゅんじゅん》していると、ジェーニャは赤いドレスの裾をひるがえして、小走りに駆けだした。
「こっちよ!」
“天球《ニエーバ》”の中には広大な農地と点在する屋敷、用水路、それにちょっとした森林までもがあった。たしか、こういうのを「田園風景」って言うんだ――と、オーリャは以前に本で読んだ単語を思い出した。
まるで絵に描いたような青と緑の景色の中に軽やかに駆け入っていくジェーニャを見て、確かにここ[#「ここ」に傍点]こそが彼女の属する世界なんだ、と、オーリャは思った。
彼女にとってはこの色彩にあふれた空間こそが本当の“世界”で、雪と鉄で出来た灰色の外市街などは、野暮《やぼ》ったい外套を着て行って帰ってくる[#「行って帰ってくる」に傍点]“外”にすぎない。
ジェーニャは親を呼ぶ子供のように振り返った。
「こっちよ! 早く!」
オーリャが連れ込まれたのは、大邸宅の庭の片隅にある、小さな温室だった。
その半透明のガラス張りの小屋の内部は、“天球《ニエーバ》”の中にあってさらに暖かく、むせるような薔薇《ばら》の香りがした。専用の電灯が、肌に光の圧力を感じるほどに、煌々《こうこう》と輝いている。
「お父様の薔薇園よ。たまのお休みの日は、一日中お花の世話をしてるの」
「へえ……」
あのザヴォーティン氏にそんな趣味があったとは、正直意外だった。なんとなく、草花のような弱々しいものは嫌いなのではないかと思っていた。
「ここ、あたしのお気に入りの場所なの」
ジェーニャはそう言うと、薔薇の花壇の間に分け入るように進み、その最奥に据えられていた椅子にちょこり[#「ちょこり」に傍点]と座った。まるで、温室の花の一輪になったように、その姿はしっくりと周囲に収まった。
「ここにいる時のあたしが一番|可愛《かわい》いって、お父様は言うのよ。あたしもそう思うわ」
よく見れば、温室内の照明や花は、ジェーニャの座っている席を引き立たせるように配置されている。そのさまを正面から見る位置に移動すると、彼女に向き合う形で、もう一脚の椅子があった。ジェーニャに促されて、オーリャはそこに腰掛けた。
「そこがお父様の席。いつもそこに座ってお話するの」
「あ……じゃあ勝手に座っちゃだめかな」
あわてて立ち上がろうとすると、
「いいのよ、今日は特別」
ジェーニャは自分の椅子の上で腰を浮かし、すとん[#「すとん」に傍点]と座り直した。それで、オーリャも再び腰を落ち着けた。
「でも、ここは本当は、あたしとお父様の秘密の場所なんですからね」
「それじゃあ、やっぱり……?」
オーリャがそろりとあたりを見回すと、ジェーニャが言った。
「さあ、描いてちょうだい」
「え?」
「だから――」
ジェーニャは椅子の上でぱたぱたと足を動かした。
「一番可愛いあたしを、そこで描いて」
「え、あ……うん」
オーリャは抱えていたふたつの外套を椅子の横の鉤に掛けると、荷物の中からノートと鉛筆を持ち出した。それから、ひとつ深呼吸をしてジェーニャに向き直ると、ジェーニャはすました顔をして背筋を伸ばした。
いざ意識を集中して観察してみると、この席からの視界は、ジェーニャを中心とした見事な構図を為《な》していた。決して偶然ではなく、周囲の花や器物のひとつひとつが美的な意図を以て慎重《しんちょう》に配置されているのだ。品種による薔薇の発色《はっしょく》の違いや、複数の照明装置の微妙《びみょう》な光の色合いの差、そしてそれらがジェーニャの白い頬に映《は》えるさままでもが、完璧に計算されている。
時計仕掛けのように精密な、そしてガラス細工のように繊細《せんさい》なこの空間は、ジェーニャの父、ザヴォーティンの作品[#「作品」に傍点]なのだ。
――こんな時、絵の具が使えるといいのにな。
と、オーリャは思った。オーリャの絵は、普段使っている筆記具で手慰《てなぐさ》みに描いているもので、芸術的な目的で訓練したものではない。絵の具は持っていないし、欲しいと思ったことも、あまりない。オーリャはただ手を動かして描くことが好きなだけで、華やかな色のついた絵には、それほど興味がなかった。灰色の街に住んでいるオーリャには、色というもの自体に対する興味が薄かったのだ。
しかし、今、目の前にあるもの――鋭敏《えいびん》な感覚と理詰めの的確さによって表現された色彩の調和を出来る限りすくい取りたいと、オーリャは思った。娘への想《おも》いからこれだけの美しい空間を作り上げたザヴォーティンに、我知らず共感したのかもしれない。
オーリャが真剣な顔で鉛筆を動かし始めると、ジェーニャはじっとすました顔をしていたが、何分もしないうちに姿勢を崩し、オーリャに話し掛け始めた。
「ねえ、あたしが今日、なんであなたたちの研究室に行ったと思う?」
「え……さあ」
半《なか》ば上《うわ》の空で鉛筆を動かしながら、オーリャは答えた。ジェーニャが動くのは、別段気にならなかった。オーリャの絵は目で見たままの像を写し取るものではなく、頭の中のイメージを描き出すものだった。ジェーニャのくるくるとよく動く表情は、オーリャが少女に対して抱く印象を立体的にこそすれ、それが紙の上に像を結ぶことを邪魔するものではなかった。
「ザヴォーティンさんについてきたんじゃないのかい?」
オーリャが問うと、ジェーニャは言った。
「そうよ。学院にお父様がいらっしゃるのって、珍しいでしょう? あたし、お父様がお外で働いてらっしゃるところを見るの、大好きよ」
「ああ、あんなお父上がいたら、さぞ鼻が高いだろうね」
オーリャが相づちを打つと、ジェーニャは胸を反《そ》らし、足をばたつかせた。
「ええ、そりゃあそうですとも! でもね、実はほかにもわけ[#「わけ」に傍点]があるの……聞きたい?」
「え……うん、もし、よければ」
「秘密よ? 誰にも言っちゃだめよ?」
「うん」
ジェーニャは身を乗り出し、周りをちらりと見回すと、声をひそめて言った。
「実はね、あたし、あなたに会いたかったの」
「ふうん……え?」
オーリャはノートから顔を上げた。
「ぼくに? なんで?」
そもそも、会ったのは今日が初めてのはずだ。
すると、ジェーニャは口を尖らせた。
「やっぱり覚えてないのね」
「はあ、うん……ごめん」
オーリャが神妙《しんみょう》に次の言葉を待つと、やがてジェーニャは気を取り直した様子で言った。
「あのね、もう三年くらい前だから、まだあたしがぜんぜん小っちゃかったころなんだけど、あたし、学院の中で迷子になっちゃったの」
「はあ」
「それで、あなたに会って、駅まで送ってもらったのよ。覚えてない?」
「うーん……」
オーリャはあいまいに首をかしげた。三年前ということは、自分も初等科にいたころだろうか。迷子の案内くらいは、まあ、見かけたらすると思うけど……。
「その時ね。この人、かっこよくてたよりになる人だなって思ったの」
「へえ……そう」
そんな風にほめられたのは初めてだ。オーリャは居心地《いごこち》が悪くなって、再び手元に目を落とした。
「それで、お礼もしたかったし、もっとお話したかったんだけど、通う棟がぜんぜん違ったでしょ。たまに見かけても、こっちに気づいてくれないし。一応、オレグっていう名前だけは分かったんだけど、今さら『あたし、あの時の迷子です』なんて話し掛けにくかったし」
「うん……」
「それで、ずっと、ずうっと気にしてたんだけど、こないだ、あの変人先生の冒険の助手にあなたが選ばれたっていうじゃない。これはチャンスだと思ったわ」
自分のことを以前から気に掛けていたというのは本当だろう、とオーリャは思った。
ディエーニンの定期調査行は、それほど外部に宣伝されているわけではない。未知の危険が多々あるその冒険は、失敗した時の悪印象や責任問題を鑑《かんが》みて、むしろひっそりと行なわれているのだ。
つまり、以前からオーリャのことを知っていたというのでなければ、得体《えたい》の知れない活動の、しかも脇役の助手に、彼女がわざわざ注目するということはないだろう。
「――それで、やっと今日、会ってお話できたっていうわけ」
「ああ、それは……よかったね」
他人事《ひとごと》みたいに聞こえてしまうかな、と思い、オーリャは言い直した。
「うん、とてもよかったと思うよ」
「ほんとのこと言うと、今日会った時、最初は、思ってたよりぼおっとしてて頼りないな、って思ったわ」
「え……ごめん」
「でも、絵を描いてもらった時、やっぱりこの人素敵だな、って思ったの」
「……そう」
気恥ずかしい想いから、オーリャはますますノートの紙面に集中し、作業に没頭《ぼっとう》した。
時折顔を上げてジェーニャを観察する目も、やがて、顔色をうかがうのではなく、彼女の内面を透かし見るような、透明な視線に変わっていく。
ジェーニャはなおも話し掛けてくるが、オーリャは生返事を返すだけで、ほとんど意識していない。しかし、ジェーニャは彼のそうした態度を、むしろ好ましく思っているようだ。
両手でほおづえを突き、オーリャの真剣な様子を楽しげに見ている。
「……素敵よ」
「うん……え?」
「なんでもない」
ジェーニャはくすくすと笑い、オーリャは再び絵に集中した。ジェーニャの表情は、いくら描いても描き終わる[#「描き終わる」に傍点]ということがなかった。薔薇園の奥に分け入っていくように、オーリャは少女の瑞々《みずみず》しいありさまを描写し続けた。
そのようにして、どれだけの時間が過ぎたろうか――
温室の戸が開く音ではなく、ジェーニャの背筋がぴくりと伸びる様子で、オーリャは侵入者の存在に気がついた。
「ここだったか」
そう言って中に入ってきたのは、この温室の持ち主。ジェーニャの父、ザヴォーティン議員だった。
「あ、あの――」
オーリャが立ち上がって頭を下げると、ザヴォーティンはわずかにうなずいた。強い拒絶の意志はないが、決して歓迎もしてはいない、そんな仕草《しぐさ》だ。
ザヴォーティンは、ジェーニャに向き直って言った。
「帰るならば帰ると、先に言わなければな。みなが心配したぞ」
「ごめんなさい、すぐ学院に戻るつもりだったの」
ジェーニャはいたずらっぽい仕草で肩をすくめると、椅子から飛び降り、オーリャの手からノートを取って、ザヴォーティンに掲《かか》げて見せた。
「オーリャ――オレグさんに、絵を描いてもらっていたのよ」
無言でノートを受け取り、紙面に目を落としたザヴォーティンの表情が、わずかに動いた。
最初はおざなりだった姿勢がわずかに正され、スケッチの一枚一枚を確認するようにページを繰《く》る。走り書きのようなものもあれば、細かい陰影をつけたものもあるが、そのどれもが娘の表情を生き生きと写し取っている。
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そして、ザヴォーティンの目が、あるページで止まった。
そこには見開きの形で、神々しいミール像と病的な異形の巨人の、対照的な姿が描かれていた。
「ね、とても上手でしょう?」
ジェーニャが自慢げに言うと、ザヴォーティンはうなずいた。
「うむ、よく描けている。君にこのような才能があったとは意外だ、オレグ君」
「ど、どうも……」
ザヴォーティンがオーリャに差し出したノートを、ジェーニャが横からかすめ取った。
「このノート、もう少し貸しておいて。よく見てみたいから」
そして、両手で胸の前にノートを抱えながら、ぱたぱたと戸口に駆けていき、
「あとで返しに行くわ!」
と言うと、温室から出て行った。
「あ……」
温室にふたりきりで取り残されたオーリャが、思わずザヴォーティンを見上げると、ザヴォーティンは無言のまま、目顔で出口を指した。
オーリャはあわてて自分の外套をつかみ、それからジェーニャのものをどうしようかと逡巡《しゅんじゅん》していると、ザヴォーティンの手がそれを持ち上げた。
温室から出ると、外気が少々肌寒く感じられたが、ややのぼせ気味だったオーリャには、むしろそれが心地よかった。
「娘が迷惑を掛けたようだ」
「いえ、そんな」
オーリャは愛想《あいそ》笑いを出しかけたが、ザヴォーティンの顔を見て、それを引っ込めた。揺るぎない表情のまま、彼は言った。
「しかし、君自身も少々不注意だったとは言える」
「はあ……はい」
「娘はまだ子供だが、君の歳なら分からないということはないだろう。人にはそれぞれの持ち場[#「持ち場」に傍点]というものがある。それを忘れて各々《おのおの》が勝手に動き回れば、社会というものが成り立たない」
「はい、その……分かります」
オーリャが神妙に答えると、ザヴォーティンの表情がわずかにゆるんだ。
「理解してくれてありがとう。君たちの働きには期待している。ディエーニン教授にも、よろしく伝えておいてくれたまえ」
朝と同じようにオーリャの手を強く握ると、ザヴォーティンは振り返った。
「ボロディン、オレグ君を送って差し上げろ」
温室の外に待っていた初老の使用人が、一歩進み出た。
ザヴォーティンは使用人とオーリャに軽くうなずくと、母屋《おもや》の方に歩いていった。大きな屋敷の戸口から身を乗り出したジェーニャが、手を振っていた。
温室で夢中になって絵を描いているうちに、どれだけの時間が経《た》っていたのだろうか。屋敷の敷地から外に出ると、“天球《ニエーバ》”の天蓋は、青黒い夜の色に塗りつぶされつつあった。街灯の光量も、昼間の半分ほどに落とされている。
ふたりきりになって歩きだすと、使用人の態度は急にぞんざいになった。
苦々《にがにが》しく舌打ちをし、面倒くせえ、と言うようなことを呟き、目も合わせずに歩いていく。
やがて駅の前に着くと、使用人は初めてオーリャに向かって口を開いた。
「旦那様のおっしゃっていたこと、分かってるな?」
「はあ……」
あいまいに答えると、いきなり横《よこ》っ面《つら》を張り飛ばされた。
「分をわきまえろってこった」
「あ……はい」
「お嬢様に取り入ろうなんてことは考えるなよ。餓鬼が」
痛みよりも突然のショックに目を丸くしながら、オーリャは頬を押さえ、ただうなずいた。使用人はそれきり、あとも振り返らずに歩いていった。
――自分はジェーニャに「取り入ろうとしていた」のだろうか。
もちろん、そんなつもりはなかった。しかし、目の前の華やかな少女に嫌われたくなくて、話を合わせていた部分はあるかもしれない。
つまるところ、そこが、
――「わきまえていなかった」……ってことか。
オーリャは肩をすくめ、駅の門をくぐろうとした――が、
「あ……」
汽車賃がなかった。
思わず背後を振り返ったが、ザヴォーティン家の使用人の姿はすでになく、また、もし見つかったとしても、今さら声を掛けるのはためらわれた。
やがて、オーリャが逡巡しているうちに完全に日は暮れて、その日の鉄道の運行が終了し、駅の門にも錠《じょう》が下りた。
オーリャは半ば途方に暮れながら、考えた。
夜になって冷えてきたとはいえ、“天球《ニエーバ》”の中なら、まさか凍《こご》えることはないだろう。いざとなったらこの場で夜明かしもできるが……しかし、そのあとはどうする? 翌朝、神学院へ行くジェーニャを捕まえて、汽車に同乗させてもらうか?
――それこそが、「わきまえていない」って奴だ。
オーリャはもう一度肩をすくめ、駅の周囲をうろついた。幸い“天球《ニエーバ》”の外へと続く勝手口が見つかり、それは“天球《ニエーバ》”の枠を支える支柱の一本に続いていた。
非常用の階段を百階あまりも降りると、外市街へ続く橋梁部への連絡路につながった。
それから、雪と寒風の中を三時間ほど歩いて、オーリャは帰宅した。
ドアを開けると、暗い部屋の中で、アンドリューシャがひと声鳴いた。
オーリャは外套を脱ぎ、雪を払い落とすと、寝台に滑り込んだ。
「ああ、ごめん。今日は炭はなし、食べ物もなしだ」
毛布を被り、不満げに鳴くアンドリューシャを抱え込みながら、オーリャは言った。
「もらったのはびんた[#「びんた」に傍点]が一発、それだけだよ」
――いや、本当に、それだけだったのだろうか?
オーリャの心の中には、色|鮮《あざ》やかな“天球《ニエーバ》”の世界、そしてザヴォーティン家の温室の奥に座るジェーニャの姿が、くっきりと刻まれていた。
螺旋鉄道の景色と、薔薇の香り。帰り道の惨めな疲れと寒さ。ジェーニャの笑顔、ザヴォーティン議員の厳《いか》めしい顔、その使用人の不快げな顔。無防備に顔を寄せてくるジェーニャの髪の香りと、打たれた頬の痛み。
よいものと悪いものがごちゃごちゃに絡まった、熱い塊が胸元までこみ上げてきて、オーリャは洟《はな》をすすった。
心配そうに鳴くアンドリューシャを強く抱き、そして、
「分をわきまえろ、ってことさ……」
と呟きながら、オーリャは眠りについた。
ミールの発する地鳴りの音が、地下深くから、夢の中にまで聞こえていた。
[#改丁]
第二章
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それから何歩[#「歩」に傍点]かの時が過ぎたが、相変わらず雲は低く、風は冷たく、オーリャの日常にもこれといった変化はなかった。
ディエーニン教授は調査行のあとにいつも行なうように、何度かの公聴会《こうちょうかい》を開き、また、ザヴォーティン議員と共に市内の有力者の何人かと会見の場を持ったが、彼らはディエーニンの業績をほめそやしながらも、彼の語る世界の像[#「世界の像」に傍点]、それそのものに積極的に興味を示している様子は見られなかった。せいぜいが、目新しい話の種を提供する変わり者の学者、といった扱《あつか》いだ。
しかし、
「まあ、そんなところだろうて」
と、これまたいつものように、ディエーニンは落胆《らくたん》した様子もなく言った。
「話題性と引き換えに資金の援助を受ける、今はそれでよい。我々が収集し記録した情報を元に、後世《こうせい》の学者がミールの実像により深く迫ることができるならば、それがなによりというものだ」
今するべきことは、この状況を利用して、さらなる情報を得ること――すなわち、新しい方式の調査行である、と、ディエーニンは言った。
「――そしてそれは、“空”から行なう」
「はい? 空って――?」
ミールの中で“空”とか“上”とかいった言葉が出た場合、それは普通、“天球《ニエーバ》”のことを指す。
しかし、オーリャが思わず窓の向こう、“天球《ニエーバ》”の方角を見ると、
「そうではないぞ、オーリャ。教授のおっしゃっているのは“雲の向こう”のことだ」
と、助教授のブニコフがディエーニンに代わって答えた。
「多角的な視点からの観察によって、ミールの真の在《あ》りようを知る――それが教授のお考えであることは、君も知っているな?」
「ええ、はい」
「ならば話は早い」
ブニコフは言葉を続けた。
「先日、君が同行したように、教授は長年、ミールを離れて外界の雪原《せつげん》を探索し、また、地上からミールを観察するという、偉大な挑戦を続けている。また、古い記録の中に半ば埋もれていた何百もの“地上への通路”を再発見し、それらが現在も使用可能であるということを証明したのは、教授の業績の中でも最大のもののひとつだ」
「はあ、はい」
「これによって、我々は『必要とあれば、誰もが地上に旅することができる』ということを知った。五十年後、百年後の“観察者”もまた、我々と同じようにその時々のミールを観察することができるというわけだ」
「はあ……でも、同じものを何度も確認して、どうするんですか?」
すると、ブニコフとディエーニンは顔を見合わせ、肩をすくめた。
「よいかな、オーリャ」
ディエーニンは学生に理解を促《うなが》す時の口調で言った。
「わしらは今見ている通りに、君のことをある程度知っておる。だが、それだからと言って、君の未来についてまで、すべてを知っているなどと言うつもりもない。ただ現在の姿から、ある程度の将来像を想像し得るのみだ」
「あ……つまり、こういうことですか」
合点《がてん》のいった様子で、オーリャは答えた。
「ある瞬間[#「瞬間」に傍点]を見ただけで、その存在のすべて見切れるわけではない……と」
「その通り」
と、横合いからブニコフが言った。
「それは『芋虫《いもむし》を見て蝶を見ない』ようなものだ。ましてミールは、我々とは違う尺度で存在する何者か[#「何者か」に傍点]だ。その実像をつかむためには、我々の寿命をも越えた長期的な視野からの観察が不可欠なのだ。我々にできること、我々のするべきことは、過去の記録を整理し、かつ現在の記録を残し、そして、未来の観察者のための筋道を残していくことだ」
「ああ……なるほど!」
オーリャは強くうなずいた。まったく、なんて大きな[#「大きな」に傍点]人たちだろう! 空間的にはもちろんのこと、時間的にも、この人たちはミールの視野でものを見、そして考えているのだ。
「そして今回は、百年後の人たちが参考にできるように、新たな観測法を提案するというわけですね。……でも、“空から”っていうのは、どうやって?」
天候観測用の熱気球はミールに古くから存在し、現在も活用されていたが、それに人を乗せるというのは前代未聞《ぜんだいみもん》のことだった。
主な障害となるのは、寒さと呼吸だ。ミールの体熱に守られていない上空の空気は、人間には耐えがたいほどに冷たく、薄い。
考え得る限りの防寒装備をし、また、呼吸用の空気を詰めた専用の加圧容器を積み込むと、その重量は相当なものになる。そのため、現存する最大の気球を用いても、そこに乗れるのはひとりだけということになった。
そして、そのひとり[#「ひとり」に傍点]として、ディエーニンは自ら名乗りを上げたが、ブニコフら主《おも》だった助手たちに反対された。地上への調査行にも増して、今回の条件は厳しいものだ。
彼らの推《お》すもうひとりの候補は、オーリャである。
いくつかの点でオーリャの適性が勝《まさ》ることは、ディエーニンも認めざるを得なかった。
すなわち、オーリャの方が若く体力があり、機械類の操作もそこそこに達者であり、そして体重が軽い。
それに今回は、前回のような長旅ではない。二歩十四昼夜にわたる地上の旅と違い、今回の“空中旅行”は、ほんの数十分ほどで往復が完了する小計画だ。それが成功すれば、二回目、三回目の計画はすぐにでも立てられる。その時にこそ、ディエーニンが飛べばよい――
しかし、そこまで言われても、ディエーニンはぎりぎりまで粘っていた。オーリャもまた、「前人未踏《ぜんじんみとう》の空間への旅」という状況に魅力を感じはしたものの、教授を差し置いて、というほどのつもりはなかった。なにしろディエーニンは、未知への旅に向かうために生まれてきたような人物なのだ。オーリャとは動機の強さが違う。
そんなディエーニンがついに譲歩《じょうほ》した理由は、一冊のノートにあった。
ある日、オーリャが研究室に出頭すると、ディエーニンをはじめとする研究室の面々に、ジェーニャがノートを広げて見せていた。先日オーリャが貸した、ジェーニャの肖像を描いたノートだ。
「ほら、上手でしょう? お父様もそっくりだって言ってたわ!」
まるで自分の手柄のように言うジェーニャを、みなは暖かい笑顔で囲んでいた。後援者であるザヴォーティンの娘という立場もさることながら、それにも増して、そこにいるだけで人を惹きつける、華やかな魅力が彼女にはあった。
ジェーニャはオーリャの姿を見つけると、駆け寄って腕に飛びついてきた。
「ねえオーリャ、みんなも上手だって!」
「ふむ……これを、君が描いたのかね」
ノートのページを繰《く》りながら言うディエーニンに、オーリャは頭を掻きながら答えた。
「はい、あまり上手《うま》くはありませんが……」
「謙遜《けんそん》は不要だ、オーリャ。むしろ、君の才能を見落としていたわしの方こそが、不明を恥じねばならん」
ディエーニンは眼鏡の位置を直しながら言った。
「君の描いたこれらの素描は、第一級の資料だと言えよう。描線の一本一本において、主観と客観が見事な調和を為《な》しておる」
「はあ」
「特に、これだ」
そう言ってディエーニンが開いたのは、ミールの絵が描かれたページだった。重い足取りで歩を進める、老いた病身の巨人。彼が足を取られる雪の大地や、吹きつける吹雪までもが感じられそうな、寒々とした印象の絵だ。
「わしもこれを見た[#「これを見た」に傍点]」
と、ディエーニンは言った。
「だが、わしには素描ほど雄弁に、この印象を他者に伝えることはできん。君はこの絵を、街《ミール》に戻ってから描いたのかね」
「はあ、はい。次の日に、思い出しながら……」
「つまり、君は自らの脳髄《のうずい》にこの光景を――いや、この存在[#「存在」に傍点]を焼きつけ、数十時間の後に紙の上に描き出した、ということか」
「はあ……そういうことになるでしょうか」
「ふうむ」
ディエーニンはノートをにらんだまま黙り込み、
「では、これで決まりですな」
と、ブニコフが言った。
「うむ、致し方あるまい。最もふさわしい者がその席[#「その席」に傍点]に着くべきだろう」
「はい……あの?」
ディエーニンはひとつため息をつくと、気を取り直したようにオーリャに笑いかけた。
「オーリャ、君が気球に乗るのだ」
まず第一に考えるべきことは、後世に資料を残すことだ――と、ディエーニンは言った。
「わしはわしの見たミールについて、古今の資料にわし個人の所感を交え、百万の言葉を尽くして書き綴《つづ》ることができる。しかしそれは、君の描く一枚の絵に及ばぬものかもしれん」
「いえ、そんな……」
「謙遜は不要だと言ったぞ、オーリャ」
ディエーニンは、オーリャの言葉をさえぎって話を続けた。
「無論わしとて、わし自身の残すものが無意味であるなどとは思わん。しかし、想像したまえ、オーリャ。初等科の子供たちにミールの姿を想像させるための資料として、千ページの書物と一枚の絵画と、どちらがよりふさわしいだろうか」
オーリャが黙っていると、ディエーニンはうなずいた。
「我々が残していくべきものは、より普遍《ふへん》性のある資料である。それを虚空《こくう》からつかみ取り、ミールに持ち帰るのは、オーリャ、君のつとめなのだ」
空中調査の計画が公表されると、オーリャの身辺は若干|慌《あわ》ただしくなった。
新たな援助を募るため、オーリャは“天《あま》翔《かけ》る若き英雄”などと大仰《おおぎょう》な紹介をされながら何人かのお偉方と握手をし、その合間に資料整理など通常の仕事をし、夜は遅くまで調査行の下準備をした。ディエーニンについていくだけだった地上の調査行と違って、今度の旅はオーリャが主役となる。機材の扱い方や調査行の段取りなど、覚えることは山ほどあった。
もっとも、こうした出来事に興味を持つのは、研究室の面々をのぞいては、やはり“天球《ニエーバ》”の内市民を中心とした一部の裕福な人々のみで、学内や外市街では、うわさひとつ聞くことはなかった。
――要するに、“雲の上の話”ってことだね。
オーリャ自身はやや冷めた気持ちでそう思い、日々を平静に過ごすように努めていたが、ジェーニャのはしゃぎようこそが見ものだった。
ジェーニャは毎日、中等科の授業が終わるや研究室にすっ飛んできて、オーリャに飛びついた。そして、彼の周りにまとわりつき、時には腕をぐいぐいと引っ張りながら、いっしょに歩きたがった。
「オーリャ、あなたの大冒険が成功したら、うちにお食事に来てよ! お父様も喜ぶわ!」
「うん、そうだね……」
オーリャは頭を掻《か》きながら、曇天を見上げた。
ザヴォーティン議員が求めているのは瞬間的な話題性だけで、自分にも、自分たちのやることにも、実のところ大して興味はないのだ――ということを、オーリャは知っている。また、オーリャたちがそう思っていることもまた、彼は承知の上だろう。お互いが、本音を口には出さずに、相手を利用している形だ。
しかし、ジェーニャにとってはそうではない。
この少女にとって、オーリャは英雄で、尊敬する父はその理解者であり後援者だ。そういう、輝かしく温かな世界に、ジェーニャは生きているのだ。
研究室の助手仲間でも口の悪い者は、
「お姫さまの機嫌をようく取っておけよ。上手いこと婿入り[#「婿入り」に傍点]なんてことになれば、我が研究室の経済事情は永久に安泰《あんたい》だ」
などと冗談交じりに言ったものだが、
――さあ、それはどうだろう。
と、オーリャは思った。
今度の空中調査の後、自分は上手くすればディエーニンの研究室の一員として正式な身分が与えられるだろう。そして、その後は教授と共に、また教授が死んだ後も、何年も、何十年も掛けて資料を整理し、保存し、時々引っ張り出して注釈を加える――そんな作業を繰り返しながら老いていき、やがて死ぬだろう。その間、自分の仕事はほとんど顧《かえり》みられることはない。ひょっとしたら百年後の、同じような立場の人間によって見出されるかもしれないし、あるいはそのまま埋もれていくかもしれない……まあ、そんなところだろう。
一方ジェーニャは、あと何年かすれば、今より何倍も美しい女性に成長するだろう。そして、自分などよりもっと気の利いた好青年か、さもなくば、親の決めた実直な男と結婚し、“天球《ニエーバ》”の中でなに不自由ない一生を送るのだ。
このように、ふたりの人生は、まったく違う道筋をたどることになる。多くの内市民と外市民が橋梁神学院の敷地ですれ違うように、オーリャとジェーニャも、それぞれの道程《みちのり》を進みながら、ほんの一瞬だけ並んで歩いている。ただ、それだけのことなのだ。
しかし、それでも――損得は抜きにしても、ジェーニャが心に描いている物語[#「物語」に傍点]を壊したくはない、と、オーリャは思う。ザヴォーティンにしてもそれは同様だろう。彼はあの繊細な温室を手入れするのと同様の熱意を持って、娘の心を守ろうとするに違いない。
ひと月先か、それとも一年先になるかは分からないが、いつか必ずジェーニャは自分のそばから離れていく。その別れが彼女の心を傷つけることがない、自然なものであるように、と、オーリャはそのことだけを考えていた。
つまるところ、オーリャは分をわきまえた少年だった。
「――あたし、こういうところって初めてよ。面白いわ」
ごみごみとした市場を見回しながら、ジェーニャは目を輝かせた。なんの変哲《へんてつ》もない、研究所の備品の買い出しでさえ、彼女にとってはちょっとした冒険なのだ。
よそ見をした拍子に露店《ろてん》の棚に突っ込みかけ、背負子を背負った物売りにぶつかりそうになり、かと思うと、雪交じりの突風に吹かれて悲鳴を上げ、オーリャの腕にしがみつく。
「外の街[#「外の街」に傍点]って、寒いのねえ! もっと暖房を効かせればいいのに!」
ジェーニャが屈託《くったく》なく言い、
「うん、ああ、そうだね……」
オーリャは頭を掻きながら、あいまいな相づちを打っていたが、ふと、考えた。
――本当に、なぜもっと暖房を効かせない[#「もっと暖房を効かせない」に傍点]んだろう?
“天球《ニエーバ》”は暖かく、外市街は寒い。今まで、それは当たり前のことだとしか思っていなかったが……千年前か、もっと以前かにこの都市を作った誰か[#「誰か」に傍点]は、全市民が暖かく暮らせるようにとは考えなかったのだろうか?
千年の間に人が増えすぎて熱源の採掘設備が足りなくなったのか、それとも、市政を司《つかさど》る一部の内市民が、私欲から富と熱とを専有するようになったのか。あるいは――
オーリャは、以前|螺旋《らせん》鉄道から見下ろした風景を思い出した。
早々に放棄《ほうき》された熱井戸や工場。
――“巨人《ミール》”の熱自体が涸《か》れつつある……?
「――ねえオーリャ! ねえったら!」
上の空で歩くオーリャの腕を、ジェーニャが引っ張った。
「いつかお食事にいらっしゃいよ。あたし、お料理を練習しておくわ! あなた、食べ物はなにが好きなの?」
「え? うん、食べられればなんでも……」
「もう!」
ジェーニャがふくれたが、そもそも普段からオーリャが口にしているのは、まともな料理などではなく、固くなったパンの切れ端やハムの欠片といったものばかりだ。いきなり気の利いた答えが返せるものではない。
お茶を濁《にご》すように周囲を見回したオーリャが、ふと、目を留めた。
街灯の柱に、一枚のちらしが糊《のり》付けされていた。
寒風にひるがえるちらしには、ひとりの人物の姿と、何行かの見出しが書かれていた。
ミールは――
風がやみ、紙面の全体が見えた。
ミールは老いている。
終わりの日にそなえよ。
見出しの上に描かれている人物像は、大きな球を担ぎ上げた半裸の男性。ミールの神話的イメージだ。
しかし、一般的なミール像と違い、その肌は加齢にたるみ、髪は乱れ、表情には苦悩のしわが寄っている。そして、背に担ぐ“天球《ニエーバ》”は、今にもその老人を押し潰《つぶ》しそうなほどに、大きく、重そうだ。そして、その足元――老人の体を支える細い脚には、大きなひびが何重にも入り、今、この瞬間にも砕け散ろうとしている。
「いやあね。それって“終末《しゅうまつ》党”のでしょ?」
脇からちらしをのぞき込んで、ジェーニャが言った。
「うん……」
オーリャはあいまいにうなずいた。
「いたずらに不安を煽《あお》るハンシャカイテキな連中だ、ってお父様が言ってたわ」
「うん……」
確かに、“終末党”のこのような活動が、誰の、なんの役に立つのかは分からない。
もしも万が一、老いたミールがこの絵の通りに力尽き、倒れてしまうとして……それを警告されたからといって、いったい誰に、なにができるというのか。
金持ちを妬《ねた》んだ貧乏人の、嫌がらせかなにかだろうか。日々の生活の辛《つら》さから「いっそすべてがひっくり返ってしまえば」というような考えを持つに至る人間は、決して少なくはない。よくある話だ。
しかし、それでも、オーリャはそのちらしから目を離せずにいた。
そこに描かれている老いたミールの姿は、神学院の中庭にある像や、都市一般に定着している印象よりもはるかに、オーリャ自身の抱《いだ》いているイメージに近いものだった。
この度《たび》の空中旅行は、オーリャの人生において最も大きな事件となるはずだったが、その当日になってもなお、気分は平静《へいせい》だった。
「英雄さん、もうちょっとそれらしい顔をしたら?」
はたからジェーニャに指摘《してき》されるほどに、無感動だ。
社会や歴史の成り行きの、複雑な流れ[#「流れ」に傍点]。その中でたまたま一瞬、自分の位置が焦点になったというだけのこと――と、たとえそう承知していたとしても、もう少し高揚感のようなものがあってもいいはずだと、我ながら不思議に思う。
神学院でのちょっとした壮行会ののち、研究室の面々を中心とする調査隊は“天球《ニエーバ》”の外殻《がいかく》を支えるレールに沿って昇降機に乗り、その頂上に向かった。
“天球《ニエーバ》”の頂上には、数百年前からほそぼそと使われている天候観測用の設備がある。オーリャが乗り込む熱気球もその一部だ。
気球は“天球《ニエーバ》”の暖房用の熱管から引かれた暖気を球皮に孕《はら》み、浮上する仕組みだ。その後はミール上空の寒風によって急速に冷却され、浮力を失っていく。一応、加熱用のストーブも積んであるが、その火力はせいぜい、滞空時間を何割か引き延ばす程度のものだ。安全に着陸するためには、余裕を見て、気球に充分な浮力があるうちに|巻上げ機《ウインチ》で引っ張り戻す必要がある。
つまり、浮上していられるのはほんの一瞬。行って帰ってくるだけだ。
しかし、その一瞬の旅のためにオーリャに与えられたのは、実にものものしい装備だった。
体型が丸く見えるほどの分厚い防寒服。顔は大きなゴーグルとマスクに覆《おお》われ、肌の露出する場所はない。
また、マスクと服の数ヶ所にはそれぞれ太い管《くだ》がつながれている。装備一式を身に着けたオーリャが試しに、管につながったふいごを踏むと、管の先から空気を取り込んで、服全体がひと回りふくれた。
「まるで、気球の中に気球が乗り込むようだな」
と、ブニコフが笑った。
一方、観測小屋の外では、本物の[#「本物の」に傍点]気球の方にも暖気が送り込まれつつあった。ひと抱えもある熱管のバルブが開放されると、湯を沸《わ》かすことができるほどの高熱の空気が吹き出し、巨大な気球をみるみるふくらませていく。吹きさらしの雪景色の中にふくれあがっていくそれは、“天球《ニエーバ》”の屋根の上に現れた、もうひとつの“天球《ニエーバ》”――といった趣。固定用の金具をがちゃつかせながら、雪の空に伸び上がるさまは、今は地上に縛り付けられているが、自分は本来天に属するものである[#「本来天に属するものである」に傍点]――と主張しているかのようだ。
気球のゴンドラは、地上用の小さな橇《そり》を利用した即席のもので、内部には圧力容器と小型のストーブが備え付けられていた。圧力容器は極寒の希薄な空気の中で、呼吸を確保するための装備、ストーブはバルブの開け閉めによって気球内の熱とオーリャの体温を維持する仕組みだ。
オーリャはゴンドラに乗り込むと、容器とストーブに服から伸びる管をつないだ。ゴーグルと分厚い手袋のため、やや手元がおぼつかないが、万が一、上空で管が外れたりした場合は自分で直さなければならないため、こうした配管は普段から自分ですることになっている。
ふたつのふいごを動かすと、まず、容器から呼吸可能な空気が服の中に入ってきた。また、ストーブからは太い管によって熱気が気球の中に吐き出され始めている。オーリャがバルブを調節すると、ストーブの熱の一部が、汗ばむような暖気の形で服の中に入ってきた。本来気球に回される熱のおこぼれで、暖を取る形だ。
ブニコフが配管を確認すると、オーリャに向かってうなずいた。現在オーリャは耳も口も厚く覆われた状態であるため、意思の疎通《そつう》はお互いの身振りによって行なわなければならない。オーリャがうなずき返すと、ブニコフはゴンドラを出て、外に立っていたディエーニンとなにごとか話し合った。
(準備はよいか、オーリャ)
ディエーニンが身振りで確認を取り、オーリャは手を振って答えた。
そして、ゴンドラを固定する金具が外され、熱気球は浮上を開始した。
オーリャの眼下で視界いっぱいに広がっていた“天球《ニエーバ》”は、気球の上昇に伴ってみるみるうちに丸みを帯び、青い球体と化した。
次いで目に入ってきたのは、“天球《ニエーバ》”を取り巻く外市街と工業地帯だ。
耳元で唸る突風を意識しながら、オーリャは身を乗り出し、それらの光景をしっかりと目に焼きつけた。
こうして一望に見渡すと、単に現時点における都市の外観だけでなく、その構造や歴史までもが把握できるように思えた。つまり、“天球《ニエーバ》”を中心として、周辺部分がいかに発展してきたか――
いや、これを“発展”と言うべきか……?
“都市《ミール》”における人間の生活の基盤は、“巨人《ミール》”の体熱にある。
巨人の体表面から体内へと深く掘り込まれた“熱井戸”の底には溶岩状の体液が循環しており、そこから高熱を帯びた空気や水蒸気を“天球《ニエーバ》”や外市街に引き込むことで、人々は暖を取り、機械を動かし、あるいは電気を作り出している。家畜や畑の作物を育てるのも、なんらかの形で変換された巨人の体熱だ。オーリャら外市民は石炭や練炭を個人用の燃料として使うが、それは熱鉱山から排出される副産物であり、主たる熱源となるのは、あくまで巨人が体内に蓄えた熱そのものだ。
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都市の“発展”の歴史とは、鉱工業区の拡大の歴史だ。千年の時を通じて、“天球《ニエーバ》”の周囲には、より深く、より多くの熱井戸が掘られ続けてきた。なぜならば、個々の井戸から汲み出せる熱量は有限であり、新しい井戸は常に必要とされてきたからだ。
今のオーリャの目には、“天球《ニエーバ》”を中心として巨人の背を、そして全身を蝕んでいく[#「蝕んでいく」に傍点]都市の様子が、はっきりと見えている。巨人を緩慢な死へと追い込んでいく、鋼鉄の病巣だ。
そして、オーリャは気づいた。
――自分はこのことを知っていた。
先日、ミールを地上から見上げた時、この生き物の命が長くない[#「この生き物の命が長くない」に傍点]ことに、自分は気づいていたのだ。
ミールは人間とは異なる時間的尺度で歩《あゆ》む存在だ。終わりの時が実際に訪れるのは百年後か二百年後か、それとももっと先かは分からない。たぶん、自分が生きている間ではないだろう、とも思う。
しかし、時間の問題はあれ……都市にも巨人にも、自分を含めたあらゆる人間にも、未来などはないのだ[#「未来などはないのだ」に傍点]。
寒々《さむざむ》とした想像に、厚い防寒服の中で、オーリャは思わず身震《みぶる》いした。このところの浮かない気分は、この事実に薄々気づいていたからだと、今にして分かった。
ミールも、そして人間も、いずれ来る終末に向かってゆっくりと歩いていく、ただそれだけの存在なのだ。
オーリャが暗澹《あんたん》たる気持ちでミールを見下ろしている間も、気球は上昇を続けた。視界の中で巨人の背が小さくなっていき、やがて、雪と霧に阻《はば》まれて見えなくなった。
気球が雲の中に入ったのだ。
オーリャは数分間、自分の手さえも見えるかどうかという真っ白な空間に置き捨てられた。
都市も“天球《ニエーバ》”も神学院も、自分のほかの人間も、誰ひとり、なにひとつ、存在しない。
どこまでも真っ白な世界の中で、ただひたすらにひとり。
なんという孤独なのだろう。
このような状態に、ずっと置かれたら、自分ならば一日と耐えられないだろう。しかし、ミールはこれまで何百年も、千年も、そしてこれから力尽きて倒れるまでも、このような空間をただひとり歩き続けているのだ。
まったくそれは、なんという孤独なのだろう。
帰るべき家もなく、自分を待つ友もなく。
ミールは。世界は。なんと孤独なのだろう。
思わず涙がにじみ出て、オーリャはあわてて目をしばたたいた。この場では、ゴーグルを外して涙を拭《ぬぐ》うことはできない。
その時――オーリャの体を光が包んだ。自分の家はもちろん、市街でも、神学院でも、“天球《ニエーバ》”でも目にしたことのない、強烈な光だ。
不意の目の痛みに顔をしかめ、ようやくうっすらと目を開いた時、オーリャは自分が別世界にいることに気がついた。
“雲の上”――
それは普通、“死者の国”や“この世ではない場所”を示す言葉だが、オーリャは文字通りのそこ[#「そこ」に傍点]にいた。
どこまでも、見渡す限りの、白く輝く雲。
それは地上の雪原にも似た風景だったが、決定的に違うのは、見たこともない青い空、そして、頭上から降り注ぐまばゆい光だ。
オーリャは光の元を見上げ、正視できないほどに強力な、その存在に直面した。
――あれは……いや、あれが[#「あれが」に傍点]……。
オーリャはそれ[#「それ」に傍点]の名を知っていた。
いつかディエーニンの話していた、雲の上の、光の源《みなもと》――
――あれが、“太陽”……。
厚い雲の層を通して、その光は地上にまで届いている。しかし、直接に目にするそれが、これほどまぶしいものだとは……!
オーリャの胸に、先ほどまでの絶望じみた諦念《ていねん》とは違う、新しい感情が湧《わ》き上がった。熱気球のようにふくれあがる、喜びだ。
この空中旅行の遂行者として選ばれて、よかった。オーリャは初めてそう思った。
地上から直接には見えなくとも、この世には、まばゆく力強いもの[#「もの」に傍点]が存在する。その思いは、オーリャを勇気づけた。
――ああ、そうか。
自分はなんのためにここにいるのか。その問いに、初めてはっきりと答えられるような気がした。
これ[#「これ」に傍点]を見るためだ。
この事実を、実感を、自分の手でミールに持ち帰るために、自分はここにいるのだ――
ほんの一瞬か、はたまたもっと長い時間か。唸《うな》る風の音も、服にしみこんでこようとする寒さをも忘れ、オーリャの心は雲海《うんかい》いっぱいに広がり、晴れやかな静寂と一体化していた。
その輝かしい空間で、オーリャはひとりの少女に出会った。
青く透明な空にひるがえるその姿を見た時、オーリャがまず[#「まず」に傍点]したのは、ゴーグルを手袋の指でこすることだった。目の錯覚《さっかく》――ゴーグルに着いた霜《しも》に反射した太陽の光が、自分の目に、あたかも空中になにか不可思議なもの[#「もの」に傍点]がいるように感じさせているのではないか。そう思ったのだ。
しかし、そうではなかった。ゴーグルの霜をこそぎ落とし、再び空を見上げたオーリャは、さらにはっきりとその存在[#「その存在」に傍点]を目にした。
それは、オーリャと同い年かそこらの少女だった。
青い空を背景に、風に吹かれた細い体が、木の葉のようにくるくると舞っている。
服は着ていない。金色の髪と白い肌が、太陽の光を反射して輝いている。
顔の表情は見えないが、仕草から言って、どうやら雲海の中になにかを探しているようだ。
そして、彼女はオーリャを――オーリャの乗る気球を見つけた。
少女は体をひねると、なめらかな動きで高度を下げ、風に乗って飛んできた[#「飛んできた」に傍点]。
オーリャの顔に向けられた目が、興味深げに細められる。
少女は鳥のように自由に飛べるというよりは、雲の上の気流に流されているようだ。彼女が気球をかすめて飛び過ぎようとする瞬間、オーリャは思わずゴンドラから身を乗り出し、手を差し伸べた。
少女は一瞬驚いた顔をしたが、次の瞬間にはにっこりと微笑《ほほえ》み、同様に手を伸ばす。
風の速度で行き交うふたりの手が、触れ合おうとした瞬間――
急激にオーリャの体が沈んだ。
気球をミールにつなぐロープが、引き戻され始めたのだ。
――!
オーリャはとっさに、足元に設置された、非常用のペダルを踏んだ。
万が一、気球とミールをつなぐ鋼線のロープが都市の構造物に引っ掛かった時、墜落《ついらく》の危険を避けるために、ゴンドラからそれを切り離す――オーリャが踏んだペダルは、そのためのものだ。
なぜそんなことをしたのかは、自分でも分からない。ともかくオーリャは自ら命綱《いのちづな》を捨て、少女に向けてさらに手を伸ばした。
気球が風に吹かれて移動し、離れ始めた少女との距離が、徐々に縮まり始め、そして――
風向きが不意に変わり、少女はオーリャの腕の中に飛び込んできた。あわてて抱き留めたその体は、まるで空気の塊のように軽かった。
オーリャの目の前で、どこか動物じみた大きな瞳がまたたいた。
「あの、君はいったい……?」
その言葉は、呼吸を補助する管付きのマスクに阻まれて、もごもごとくぐもった音にしかならなかった。
その時――
気球が大きく揺れながら、高度を落とし始めた。
時間切れだ。
もともと、出発時に吹き込まれた暖気が冷え切るまでの、限られた浮力しか持たない気球である。ストーブの熱はその時間をわずかに引き延ばす程度の効果しかない。今しがた引き戻され始めた時点で、安全に着地できる時間は過ぎ去ろうとしていた。
本来、浮力を残した気球を|巻上げ機《ウインチ》で引き戻す段取りだったものが、オーリャがロープを切り離してしまった今は、急速に浮力を失いながら降下――いや、墜落[#「墜落」に傍点]するしかない。
オーリャたちの乗るゴンドラはみるみる高度を落とし、雲海の中に突入した。
その寸前、オーリャは少女に手を伸ばし、抱きしめた。
次の瞬間には、視界が真っ白になり、オーリャに感じられるのは、唸る風音と急速に染みこんでくる冷気、足元が崩れるような落下感、そして、腕に抱いた少女の感触のみとなった。
気球は上昇時の数倍の速度で雲層を突き抜けた。オーリャは眼下にミールの都市部が広がっていることを想像していたが、実際には真っ白な吹雪の空間が見えるだけだった。相変わらず上も下も分からない状態で、強《し》いて言うならば、落ちていく方向が下[#「落ちていく方向が下」に傍点]だろう――と想像がつく程度。それも、強い横風に煽られながらのことで、あてにはならない。
オーリャは半ば本能的に周囲を見回し、巨人の姿を吹雪の中に求めた。
――いた!
とっさには目測もできないが、距離は相当に離れているようだ。命綱なしで雲海の中を漂《ただよ》ううち、当初の位置から思いのほか離れていたらしい。
ある意味では、それは幸運だったと言える。半端な距離では、ミールの体表近くに生じる乱気流に巻き込まれ、なすすべもなく地表に叩きつけられていたかもしれない。
しかし、オーリャはますます速度を増す落下の中、強烈な危機感を覚えていた。
――ミールが……!
巨人の姿は雪に巻かれながら、急速に小さくなっていく。
――ミールが行ってしまう[#「行ってしまう」に傍点]……!
ミールの歩行速度はあくまで「七昼夜に一歩」。人間の尺度からすれば、止まっているようなものだ。ミールが気球から離れているのではなく、気球がミールから離れつつあるのだ。
しかし、オーリャにとってその光景は、ミールが、つまり世界そのもの[#「世界そのもの」に傍点]が、自分を拒絶して歩き去ろうとしているかのように見えた。
叩きつけるような横風と共に、再び気球の高度が急激に落ちた。風が吹くたびに、気球の中の空気から熱が奪われ、浮力が失われていくのだ。しぼみかけた気球と共に、ゴンドラはますます速度を増しながら、地上へと落下していった。
オーリャが目を覚ましたのは、暗い、せまい空間の中だった。
体の上に乗っているやわらかなもの[#「やわらかなもの」に傍点]を押し退けようとすると、それ[#「それ」に傍点]がもぞりと動いた。
「うわっ?」
思わず大きく身じろぎすると、ぼそりと音を立てて、頭の後ろで雪の塊が崩れ、わずかな光が射し込んできた。
オーリャは地上にいた。
幸運なことに、地上に厚く積もった新雪が、着地の衝撃の大部分を吸収してくれたようだ。また、横倒しになったゴンドラと、その上にかぶさった潰れた球皮がテントのような構造を自然に作り、オーリャたち[#「たち」に傍点]を凍死から守っていたのだった。
そう、オーリャと不思議な少女を。
オーリャの体の上に折り重なって倒れていた少女は、体を起こすと、その場で大きな伸びをした。
「君は……」
オーリャが話し掛けると、少女は首をかしげながら、オーリャを見返した。
白い肌、金の髪。雲の上で見た時と同様、一糸まとわぬ姿だ。
「あ、あの、さ……寒くない?」
オーリャはあわてて起き上がり、上着を脱いで少女に着せかけた。
「サムクナイ?」
と、少女は上着を羽織《はお》りながら、おうむ返しに答えた。
「あの、ぼくはオーリャ。君は――?」
「アノ、ボクハ、オーリャ、キミハ」
少女は不思議な瞳でオーリャを見つめ、
「……サムクナイ?」
と、もう一度言った。
――高空用の分厚い防寒着は、上着なしでもかろうじてオーリャの体温を維持《いじ》することができた。幸い雪はやみ、強い風もなく、また、オーリャには体を動かす仕事[#「仕事」に傍点]もあった。
つまり、ミールへの帰還――
オーリャは球皮のテントの中に少女を座らせると、ゴンドラを積雪の中から掘り出した。
いや、もともと地上用の橇《そり》を気球にくくりつけたものなので、気球を外した今は、ゴンドラではなく、単に橇と呼ぶべきだろうか。
オーリャは散乱した備品を集めて橇に積み、少女を身振りで呼んで中に乗せた。
地平線をぐるりと見渡すと、ミールはすぐに確認できたが、風に巻かれてだいぶ離れてしまったらしく、こちらに背を向けたその姿は遠く、小さく見えた。
――いくらなんでも、あそこまで橇を押していくのは無理だろう。
そう思いつつも、オーリャにはひとつの目算《もくさん》があった。
オーリャはミールの姿を再び確認した。ミールは背中をこちらに向け、歩み去ろうという姿勢のまま、止まって見えている。
真後ろ[#「真後ろ」に傍点]に近い位置に落ちたのは、運がよかった。
オーリャはまっすぐにミールを目指す代わりに、ミールの背に向かった状態から右手の方角に進路を定め、橇を押し始めた。
橇の重さは大したことはなかったが、雪に足を取られ、なかなかの運動になった。体がすぐに火照《ほて》り始めたが、着替えがないため、汗をかくのは危険だ。汗ばむ寸前の速度を維持しながら、オーリャは橇を押し続けた。
少女はこの状態をなにかの遊びと思っているのか、橇の上で立ち上がり、縁《ふち》から身を乗り出して笑った。
「大丈夫? 寒くない?」
「ダイジョウブ! サムクナイ!」
少女にはほとんど体重がないらしく、橇の上で体を揺すっても、縁から飛び出しそうなほどに高く飛び上がり、再び着地しても、橇を押すオーリャの手には、ほとんど重さの変化は感じられない。
――ひょっとすると、この娘は人間ではないのかもしれない。
高い空を飛び回る、なにか、精霊のようなもの――そんなおとぎ話じみた想像も、あながち外れてはいないような……とにかく、不思議な娘としか言いようがない。
オーリャは橇を押しながら、少女に話し掛けた。
「ねえ、君はどこから来たんだい?」
「キタンダイ?」
「どこへ行こうとしてたんだい?」
「シテタンダイ?」
「……ひょっとして、ぼくは君の邪魔をしてしまったのかな?」
オーリャは恐る恐る聞いた。
「君はあの時どこかへ行こうとしてる途中で……ぼくが手を出したせいで、いっしょに地上に落ちてしまったのかな?」
「タノカナ?」
「だとしたら、必ずミールに行かなくちゃ。ミールのディエーニン教授ならきっと、君が何者なのか知ってる。そして必要なら、もう一度君を、雲の上に連れて行ってくれるから」
「クレルカラ」
半日も橇を押していると、やがて雲が低く、重くなり、新たな雪が舞い始めた。
一旦足を止め、橇の上の少女のために、あらかじめ拾ってきておいた球皮の一部を幌《ほろ》にすると、オーリャは再び橇を押し始めた。
今、雪に巻かれるのはまずい。下手《へた》をすると、このままミールの姿を見失ってしまい、無限の雪原の中で立ち往生《おうじょう》することになってしまう。
――せめて、あれ[#「あれ」に傍点]を見つけてからでないと……。
焦《あせ》りと寒さ、それに周囲の単調な景色のためもあったろう。オーリャは、知らず知らずのうちに体力を消耗《しょうもう》しつつあった。何時間か何十分か――ひょっとするとほんの数分だったかもしれない――の後、手足から急に力が抜けた。
いけない、と思った時には、膝《ひざ》が折れ、その場に尻餅《しりもち》をついた。
一度は橇の縁《ふち》につかまって立ち上がり、幌の中に転がり込もうとしたが、その手が滑り、オーリャは再び雪の中に倒れ込んだ。
頬に触れる雪が心地よく感じられ、暖かな眠気が、手足の先から急速に全身を包み始めた。
凍死の兆候だ。
「オーリャ?」
幌の中から、少女がごそりと顔を出した。
「……だめだよ、中にいなきゃ……」
オーリャは力なく呟いたが、少女はするりと橇を抜け出し、オーリャの傍《かたわ》らに降り立つと、雪の上に手を突いて、オーリャの顔をのぞき込んだ。
「オーリャ? ボクハ、オーリャ?」
「はは……そうじゃないよ。オーリャはぼくで……君は……」
半ば眠るように、半ば気を失うように、オーリャは目を閉じた。
「……君は……誰だい……?」
夢の中に、入りかけていたのだろうか。
暖炉の炎にも似た光がオーリャの頬を包み、なにか暖かいものが額《ひたい》に触れた。
「……え?」
オーリャは不意に、はっきりとした意識を取り戻した。まるで充分な休息を取ったように、体の中心から新たな力が湧き出していた。
――今の光[#「光」に傍点]は……?
オーリャは頭を巡《めぐ》らせた。周囲には未《いま》だ雪が降り続き、勢いを増して吹雪になりつつある。
上着一枚をまとった少女は、まるで風雪の勢いを楽しむように、裸足《はだし》のまま雪の上を駆けて――いや、軽やかに踊っていた。
「ねえ、君!」
オーリャは少女に声を掛けた。
「もう少しだけ移動しよう! 橇に乗って!」
しかし、少女はオーリャを振り返ると、橇から遠ざかるように駆けだした。
「あっ?」
十歩ほど行った先でもう一度振り返ってオーリャの様子をうかがい、少女はくるくると回りながらさらに先を行く。
オーリャは数瞬ためらったのち、橇を置いて少女のあとを追った。
「ねえ……君、待って!」
ふたりの行く先が、急勾配の上り坂になっていることに、オーリャは気づいた。
少女は雪の上を、まるで天に駆け上るように軽やかに走っていき、坂の頂上でくるりとオーリャに振り向いた。
数十歩の距離を引き離されていたオーリャは、ようやく少女に追いつくと、その先にある光景を見た。
見渡す限りに広く深い、氷雪の窪地[#「窪地」に傍点]。
オーリャが見下ろしているその縁は、雪の地層を見せる断崖《だんがい》となっている。
それは、つい今しがたまでオーリャが探していたものだった。
ミールの足跡[#「ミールの足跡」に傍点]――
広大な果てしない雪原に、ミールの計り知れない重量が刻印した、巨大な穴だ。
ディエーニン教授は、気球の命綱《いのちづな》が断たれた時の状況や風向きから、オーリャがミールの後方に落ちたことを予測するだろう。ミールの昇降機と、神学院の所有する雪上車とを使って、早ければ助けは一日のうちに来る。
しかし、それだけではまだ――無限の雪原の只中《ただなか》からオーリャを拾い上げることは、藁束《わらたば》の中に落とした針を探すようなものだ。
そこで、目印が必要だ。
ミールの後方に落ちたのは幸運だった。もし教授ならば、ミールの足跡を目印とする。それも、現在接地している左足の、外側の縁のどこか。それが地上に降りて一番探しやすい進路になるからだ。
ディエーニンならばそう考えることを、オーリャは知っている。
また、オーリャならばそう考えることを、ディエーニンは知っている。
「このあたりで一旦、雪を掘って休もう」
と、オーリャは言った。
「荷物を取ってくる。大丈夫、助けは必ず来るよ」
強いて懸念《けねん》するならば、ディエーニンがこのあたりまで救助の足を延ばしたとしても、オーリャたちが雪洞で休んでいる間に素通りしてしまう可能性がある。
拾ってきた球皮をいっぱいに広げたとしても、降り積もる雪の中、どれだけの目印になるだろう? せめて、橇の中に電灯のひとつもあればよかったのだが――
そう考えた時、雪の中に、ちらりと灯《あか》りが瞬《またた》いた。
「教授……!?」
オーリャはその場で飛び上がり、少女の手を取って、雪の坂を駆け下りた。
「ここです! ここです!」
やがて、吹雪の中にちらついていた頼りない灯りは、近づくにつれて力強い光となった。
オーリャの期待通り、それは雪上車の前照灯だった。
「教授!」
「おお――無事だったか、オーリャ!」
坂を駆け下りたオーリャと、雪上車から飛び降りたディエーニンが、ぶつかり合うように全力で抱き合った。
「ああ、今、教授が来てくれてよかった!」
オーリャは言った。
「もう少しですれ違うところでした!」
「いや、君の出した目印のおかげだよ」
「え……目印?」
ディエーニンは坂のふもとのほうを指しながら言った。
「先ほど、わしらは今少し離れた場所を通過するところだった。“足跡”にあまり近いと、雪上車の滑落の危険も考えなくてはならんからな」
「あ……」
「しかし、つい先ほど、こちらの方角に強力な光が見えた。そこで、わしらは進路を変更し、ここに辿り着いたというわけだ。オーリャ、君はいったいなにを燃やしてあのような光を作ったのかな」
「え……いえ、ぼくはなにも……」
オーリャは首をかしげたが、思い当たる節がないでもなかった。
先ほど、気を失いかけた時に一瞬感じた、暖かな光。
――そうだ、あの娘なら、なにか知っているかも……。
オーリャはきょろきょろと周囲を見回した。
「あれ……?」
「どうした、オーリャ」
「あの、このあたりに女の子が……雲の上で会ったんです」
すると、ディエーニンはかぶりを振り、オーリャの肩を抱きよせた。
「幻覚を見たのだな」
ふたりは並んで雪上車まで歩き、ディエーニンが扉を開けた。
「無理もない。オーリャ、君は極限状態を体験したのだ」
「は……ええと……はあ、そうでしょうか」
言われてみると、そのような気もしてきた。
だいたい、あのような娘が雲の上で飛んでいた[#「飛んでいた」に傍点]、ということからして、あり得ない。
ディエーニンが、雪上車の扉を開けながら言った。
「まずは紅茶を飲んで温まりたまえ。そして、雲上の神秘について話してくれ!」
すると、
「シテクレ!」
聞き覚えのある声が車内から聞こえ、ディエーニンがのけぞった。
雪上車の助手席に金の髪の少女がちょこんと腰掛け、首をかしげながらふたりを見ていた。
[#改丁]
第三章
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[#挿絵(img/1000get_126.jpg)入る]
[#改丁]
「これはすばらしい――いや、驚くべき収穫だ!」
寒さと興奮で鼻を真っ赤にしながら、ディエーニンは言った。
「“都市《ミール》”の外から来た少女! その存在が意味するところはなにか!?」
「はあ、あの……」
教授の勢いに気圧《けお》され、オーリャが口ごもると、機関室から合いの手が入った。
「つまり、ミールの外にも、人の住める世界[#「人の住める世界」に傍点]がある……ということですな」
「その通りだ、ブニコフ君」
背後に向かって答えると、ディエーニンは助手席のオーリャに向き直った。
「その少女は我々の世界を変えることになるぞ、オーリャ」
「はあ……はい」
せまい助手席で、少女はオーリャの膝に乗り、雪上車が走り出すとすぐに寝息を立て始めた。オーリャもまた日中の疲れから、うとうとと眠りに落ちかける。
「オーリャ、彼女は風に乗って飛んできたと言ったな?」
「え……あ、はい……」
「ふむ!」
ディエーニンは鼻を鳴らした。
「気象観測は古くから行なわれ、その記録は神学院の書庫に眠っておる。その記録を紐解《ひもと》けば、ミール周辺の気流の在り方も分かるだろう。少なくとも、彼女の来た方角はつかむことができるわけだ……」
途切れなく話し続けるディエーニンの声、蒸気機関の騒音、窓を振るわせる吹雪《ふぶき》の音――それらはいつしか意識から遠のき、オーリャは深い眠りに落ちていった。
巨人の足元に辿《たど》り着くと、先日の調査行とは違う昇降機を使って、オーリャらは“都市《ミール》”に帰った。千年期以前の、現在よりも優れた工業技術によって作られた昇降機は、現在もその精度を保ち、数百の路線のどれもが、燃料さえあればすぐにでも動かせるのだという。
「近いうちに、大規模な探検隊が組織されることになるだろう。彼女の故郷を探し出し、交流を持つのだ。ミール以外の“世界”との!」
ディエーニンは興奮を隠しきれない様子で言った。
「そもそも、彼女はいかにして雲の上の空間にいたのか。我々と同様の気球か、あるいは他の種類の飛行装置を用いたか、さもなくば――これは考えにくいことではあるが――彼女自身になんらかの飛行能力がそなわっているのか」
「はあ、ええと、『飛行』と言えるのかは分かりませんけど……この子、とても体が軽いんです。それこそ、風に吹かれたら飛んでしまうくらいに」
オーリャが言うと、彼に抱きついていた少女は、ぱっと身を離し、オーリャとブニコフの肩と、ディエーニンの頭を蹴《け》って、昇降機のケージの中をくるくると跳ね回った。まるで、かごの中を駆け回るリスのような動きだ。
「なんと」
ディエーニンは踏まれた頭をさすりながら、再びオーリャの胸に飛び込んだ少女に、手を差し伸べた。
「君は実に興味深い人だな、お嬢さん」
すると、少女はディエーニンの手を避けて、オーリャの腕にぎゅっとしがみついた。
「おやおや、ザヴォーティン氏の令嬢といい、君はずいぶん年頃の娘にもてるな」
と、ブニコフが笑った。
「はあ、あの」
「いや、実にけっこう!」
ディエーニンが言った。
「天に愛されるとはそういうことだ。わしの若いころも捨てたものではないぞ!」
オーリャの空中調査行は、公式には「不慮の事故のため失敗」ということになった。
曰《いわ》く、命綱が切れ[#「切れ」に傍点]、漂流、不時着した気球を、急遽《きゅうきょ》派遣された救助隊が回収した。死傷者が出なかったことは幸運だったと言えるが、今後、同様の調査は、より慎重な計画を以て遂行されなければならない――と。
件《くだん》の少女の件については、慎重《しんちょう》に伏せられることになった。
「え、なぜですか……?」
出発前の自分のように見世物扱いされるよりは、そのほうがいい――とはオーリャも思ったが、曲がりなりにも、この少女は今回の計画の最大の収穫である。自分はともかく、ディエーニン教授や他の人々がそれを隠したがるのは不自然に思えた。
まだ、時期|尚早《しょうそう》だ。――というのが、その答えだった。
そもそも、神学院の公式な見解としては、この種の調査行の意義はミールの絶対的な威信[#「絶対的な威信」に傍点]を証明することにある。後援者であるザヴォーティン議員も、そうした建前《たてまえ》は重視するだろう。そこに“別の世界”の存在を示唆《しさ》する証拠が持ち出されては、不興を買うことになりかねない――と、これはブニコフの意見である。
ディエーニンはそうした立ち回りには疎《うと》かったが、結果的には賛成した。彼の興味は真実の探求にあって、より邪魔の入りにくい形でそれが遂行《すいこう》できるならば、それに越したことはないのだ。謎の少女を表に立てて世間へのアピールを行なうか、その少女を相手に内々に研究を進めるか、ふたつの方針を天秤《てんびん》に掛けた結果、後者を選んだということになる。
さて、次の問題は、少女の身柄《みがら》をどう扱うか、ということだった。
少女はオーリャにのみ心を許している様子で、彼から離れようとはしない。そこで、彼女の寝起きできる場所を手配するまでの間、オーリャが彼女を預かることになった。
「まあ、ほんの数日の間だ。それまでに彼女に変わったことがあれば、すぐに知らせてくれたまえ」
「……はあ」
オーリャがあいまいに答えた時、研究室を訪れた客があった。
神学院の上級教士、ウーチシチだ。いつものように、武装した衛士を引き連れている。
ウーチシチはディエーニンやブニコフに二言三言あいさつをすると、オーリャに歩み寄った。以前出会った時と違って、今のオーリャはただのその他大勢[#「その他大勢」に傍点]ではない。曲がりなりにも、最新の調査計画の中心人物だ。
長身のウーチシチは、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、オーリャを見下ろした。
「オレグ君、この度はご苦労でした。たいへん勇敢《ゆうかん》な行ないです」
その口調は、丁寧《ていねい》ではあったが、あくまでも冷たい。
「しかし、非常に危険でもありました。君の身をそのような目に遭《あ》わせたのは、ディエーニン教授らだけではなく、私の責任でもあります」
ウーチシチは、オーリャの“失敗”を最大限に重く捉《とら》えているようだ。いや、あえてそのように扱うことによって、ディエーニンらの動きを制限しようとしているのだろう。ウーチシチはこれまで、ディエーニンの外界調査には常に反対している。ブニコフに言わせれば「千年|凍土《とうど》の如《ごと》き、がちがちの保守主義者」だ。
「“世界《ミール》の外”は神の領域《りょういき》であり、徒《いたずら》に踏み込むべきところではない――私はその点を、もっと強く主張するべきでした。君の命が助かったのは、まさに神の慈悲《じひ》の賜物《たまもの》と言うべきでしょう。今後、二度とこのような無謀な計画に許可が下りぬよう、私は神学長に提言するつもりです」
感情の籠《こ》もらない口調で滔々《とうとう》と述べるウーチシチに対し、オーリャは神妙な顔でうなずいていたが、最後におずおずと顔を上げた。
「はい、その幸運……いえ、神様の思《おぼ》し召《め》しには、とても感謝しています。ですが――」
ウーチシチの目が、怪訝《けげん》そうに細められた。鋭い視線に射すくめられ、思わず身を固くしながら、オーリャは言った。
「“雲の上”の光景は、その……とても、すばらしいものでした」
「君個人の目を楽しませることより重大な案件は、常にあります」
「いえ、ですが――」
オーリャはなおも食い下がった。我ながら意外なことだ。
「ぼくが見たそれは、いえ、そういうものがこの世にあるということは、みんなに伝える価値があるのではないかと……」
両手を落ち着かなげに広げながら、オーリャは教士を説得しようとしたが、
「それはつまり、信仰の領分です」
と、ウーチシチは即断した。
「“雲の上”におわす[#「おわす」に傍点]ものに想いを馳せることは、無論大きな意義のあることです。しかし、それは君のような個人が軽々しく手を触れるべきものではありません。さもなくば――考えられぬことですが――君は千年のミール信仰の教義を自分の手で書き換《か》えようと言うのですか?」
「いえ、そんな」
オーリャは広げた手をあわてて胸の前に戻し、小さく振った。
無表情のままにオーリャを見つめるウーチシチに対し、オーリャはなおも言葉を探した。
いったいどう言えば、この人に“あの感じ”が伝わるんだろう。
「ええと……」
再びオーリャが口を開いた時、
「オーリャ!」
横合いから飛び出してきたものが、オーリャの体に飛びついた。
別室で着替えを済ませた、例の少女だ。
ウーチシチの目が、再びいぶかしげに細められた。
「あ、いえ、その……失礼します」
オーリャはあわてて頭を下げると、少女の手を引いてその場を離れた。
「――ただいま、母さん。ただいま、アンドリューシャ」
その夜も、オーリャが自宅のドアを開けると、闇の中から猫の鳴き声が答えた。
少女は研究室の助手のひとりの着替えを借りていたが、オーリャが部屋に入って上着を脱ぐのを見ると、たちまち上着とズボンを脱ぎ捨てた。
「あっ、まだ寒いよ。今、火をおこすから待って――」
オーリャが言った時には、少女はアンドリューシャに目を惹かれ、駆け寄っていた。アンドリューシャはこの珍客に対し、半ば無視の態度を決め込んでいたが、無造作《むぞうさ》に抱き上げられると、面倒そうに尻尾《しっぽ》をぱたつかせた。
ストーブに火を入れると、オーリャは寝台に椅子を向けて、腰掛けた。少女はアンドリューシャを抱えて、ちょこんと寝台に座っている。
「彼はアンドリューシャ。ぼくの家族で、友だちだよ」
と、オーリャは紹介した。
「トモダチ……?」
「そう、友だち。さびしい時にはいっしょにいて、困ったときには助けてくれる、そんな人のこと。ああ、アンドリューシャは人じゃなくて猫だけど」
「ネコダケド」
「アンドリューシャ、彼女は――」
言いかけて、オーリャは自分が未だ少女の名前を知らないことに気がついた。
「君の名前は、なんて言うのかな」
「イウノカナ……?」
「名前……な、ま、え。ぼくはオーリャ、彼はアンドリューシャ、君は?」
自分と、アンドリューシャと、少女の鼻先を順番に指して言うと、少女は首をかしげながら復唱した。
「オーリャ、アンドリューシャ……」
「そう。それから、君は……?」
すると、少女は首をかしげたまま、何度か目をしばたたいた。まるで「自分の名前」という考えそのものを、理解できていないかのようだ。
ひょっとしたら、彼女の故郷では、親しくない他人に名前を教えたりはしないのかもしれない。ミールでも、普通は初対面の人にいきなり愛称で呼び掛けたりはしないから、それと似たようなものかも。
あるいは、お互いに名前を呼び合う習慣自体がないのかもしれない。ミールの工場でも、(あまり気持ちのいい習慣とは思えないけれど)就業時間中は番号でのみ呼び合う規則を採っているところもある。
「……じゃあ、ぼくらの間で仮に呼ぶ名前を、ぼくが考えてもいいかな」
と、オーリャは言った。
少女はオーリャの次の言葉を待つように、じっと目を向けている。
その仕草《しぐさ》を承諾《しょうだく》の意と取って、オーリャは言葉を続けた。
「ええと、それじゃあ……ベラ……タチアナ……いや、どうも違うな……」
呟きながら、なにかヒントになるものはないかと、オーリャは部屋の中を見回した。
もともとあまり物のないこの家は、埃《ほこり》じみて、がらんとしている。
ふと、壁際に貼られた紙に目が留まった。母が生きているころにオーリャ自身が描いた、肖像だ。若くして死んだ母は、ごく簡単なスケッチの中にも、少女めいた面影を残している。
「……レーナ」
と、オーリャは呟《つぶや》き、少女の問いかけるような視線に、あわてて言い足した。
「昔、死んだ母さんが言ってたんだ。ぼくが生まれるとき、男の子なら“オーリャ”、女の子なら“レーナ”って名前にしようと思ってたんだって。だから、ぼくに姉さんか妹がいたら、レーナっていう名前になっていたと思う」
数秒の間、オーリャと少女は無言で見つめ合い、
「……ねえ、こんなことを言うと変に思われるかもしれないけど――」
と、少しの間を置いて、オーリャは言った。
「雲の上で初めて君を見た時、そりゃあすごく驚いたけど、それといっしょに、こうも思ったんだ。『この子は、ぼくにとって特別な人かもしれない』って。ひょっとしたら君は、ぼくの生まれなかった姉妹[#「生まれなかった姉妹」に傍点]で、ずっと“雲の上”からぼくのことを見ていてくれたんじゃないかな――」
少女は不思議そうに首をかしげた。
「ああ、ごめん。そんなはずはないよね」
オーリャは頭を掻《か》き、目をそらした。
「でもやっぱり、君はなんだか特別な感じのする人だよ。ねえ、君のこと、“レーナ”って呼んでもいいかい?」
「レ、エー……ナ?」
「うん、レーナ」
自分とアンドリューシャと、そして少女を、オーリャは順番に、ゆっくりと指し示した。
「……オーリャ、アンドリューシャ、レーナ」
少女はオーリャの指先に目をこらしながら、それらの名前を復唱した。
「オーリャ、アンドリューシャ……レーナ」
「そう」
少女の顔色を見ながら、オーリャは繰り返した。
「オーリャ、アンドリューシャ、レーナ」
「オーリャ、アンドリューシャ……レーナ!」
少女は大きな笑みを浮かべると、寝台の上で体を揺《ゆ》すりながら、何度も繰り返した。
「オーリャ、アンドリューシャ、レーナ! オーリャ、アンドリューシャ、レーナ!」
それから、寝台から身を乗り出し、オーリャに向かって顔を突き出し、
「オーリャ!」
両手でアンドリューシャを持ち上げ、
「アンドリューシャ!」
寝台の上に転がり、両脚をばたつかせながら、
「レーナ! レーナ!」
「気に入ってくれた……のかな」
オーリャが言うと、少女は身を起こして笑った。
「レーナ!」
「それじゃ、レーナ……ぼくらの友だちになってくれるかい?」
「トモダチ」
「ぼくとアンドリューシャみたいに、お互いがさびしくなったり、困ったりしないように、いっしょにいてくれないかな。ぼくが君のそういう人[#「そういう人」に傍点]になれるように、ぼくは母さんとアンドリューシャに誓うよ」
少女――レーナの腕の中で、アンドリューシャが顔を上げ、尻尾《しっぽ》をぱたりと揺らした。
「だから君も、君の大事な人ふたりに……って、こんなややこしい話は分からないかな」
「オーリャ……トモダチ?」
「そう。ぼくたちは、君の友だち。君は……?」
「トモダチ……?」
レーナはふと、なにかを探すように室内を見回し、そして、天井を見上げて遠い目をした。
「トモダチ……」
ぽう……と、その肌や髪が、光を放ち始めた。
「え……?」
オーリャの目の前で、レーナの全身がランプのように輝き、部屋の中を暖かく照らした。
「レーナ……トモダチ」
ほんの数秒ほどで、レーナの光は収まった。
オーリャは目を丸くしながら言った。
「君は……不思議な人だね……」
――ところで、不思議なことはもうひとつあった。レーナはオーリャと出会ってから一日あまりの間、なにも口にせず、空腹を訴《うった》えもしないのだった。
都市に上がってくるまでも、研究室でひと息ついた時にもそうだったのだが、このオーリャの部屋においても同様、食事の際にオーリャが自分の食べるものを勧めても、首をかしげるばかりで食べようとはしない。まるでものを食べるという行為自体を知らないかのようだ。
「じゃあ、君の分はここに置いておくから、おなかが空《す》いたら食べておくれよ。……できたら、あまり冷めないうちに」
と、スープとパンをテーブルにおいても、手を触れようともしない。
その代わり、
(一日くらいなら大丈夫だろう。明日、教授に相談してみよう)
そう思ったオーリャが灯りを消して寝ようとすると、
「……!」
闇の中で、小さく息を呑む声がした。
「え、どうしたの?」
オーリャがあわててランプを点《つ》け直すと、レーナはランプの前に飛び出して、両手を小さな火の前にかざした。
「寒いの? いや、そうじゃないな……灯り……が、要るのかい?」
レーナは答える代わりに、目を閉じて、小さく息をした。
その呼吸に合わせて、レーナの体が微風に吹かれる熾火《おきび》のように、ゆるゆると明滅《めいめつ》した。
「君は、不思議な人だねえ……」
と、オーリャは言った。
翌日、オーリャはレーナを伴って家を出た。
レーナには新たな着替えとして母の遺《のこ》した古着を着せたが、少々|丈《たけ》が合わず、襟《えり》や袖《そで》口に隙間《すきま》が空《あ》いて、いかにも寒そうだ。
もっとも、本人はそれほど気にした風もなく(なにしろ、雪の上を裸足《はだし》で走っても平気でいる娘だ)、オーリャの周りを寒風と共にくるくると回っている。
と――レーナが足を止め、なにかに注目した。
道ばたのあちこちの軒先《のきさき》に、色とりどりの大きな張り子[#「張り子」に傍点]が置かれている。
「……ああ、もうそんな時期なんだ」
「ジキナンダ?」
「“踏み出し[#「踏み出し」に傍点]の祭り”だよ」
「ミールでは、時計の針が十二時間で一回転するみたいに、五十二歩で一年の暦《こよみ》がひと巡《めぐ》りするんだ。それで、その時期に合わせて、年に一度、街中でお祭りをするんだよ」
一年中変わることのない外市街の灰色の風景は、“祭り”の歩の間だけ、鮮やかな色彩に満たされる。いつもうつむきがちに、急ぎ足に歩いているオーリャは気づかなかったが、改めてあたりを見回してみると、街灯や看板のあちこちに、祭りのための花輪や電飾の準備が調《ととの》えられつつあった。
指を折って数えてみると、祭りまではあとちょうど一歩[#「一歩」に傍点]だ。
「いい時にこの街に来たね、レーナ。お祭りはとてもにぎやかで、楽しいよ」
「オマツリ? ニギヤカ?」
「今は右足の歩[#「右足の歩」に傍点]だから、背骨方向への道が下り坂になってるんだけど……この道が上り坂になるころには、街中がきれいに飾りつけられて、ラッパや太鼓が一日中鳴り続けるんだ。すごい音楽だよ」
「オンガク! ニギヤカ! オマツリ!」
突然、レーナは走り始めた。
「……オマツリ!」
まるで、もう、すでに祭りの場にいるかのように、くるくると回りながら、風のように坂道を駆け下りていく。
「レーナ! 待ってよ、レーナ!」
オーリャはあわててレーナのあとを追った。
途中何度か横道にそれかけるレーナを引き戻しながら、ふたりで研究室に着くと、教授が書庫で呼んでいると告《つ》げられた。
書庫は神学院の中でも最も古い棟の最奥に位置し、千年にわたる歴代の研究者の、肉筆の資料が収められている。
「あの……オレグです」
オーリャが入り口から呼び掛けると、暗い、埃《ほこり》じみた空気の奥でなにかが動いた。ディエーニン教授だ。
「おお、オーリャ。それにお嬢さん」
「レーナ!」
大声でレーナが言うと、ディエーニンは首をかしげた。
「レーナ……?」
「あの、仮の名前ってことで、そう呼ぶことにしたんです。……勝手でしたでしょうか?」
「いや――それはよい。“レーナ”とは“光明《こうみょう》”を意味する古語である。実によい名だ」
「あ、そうだ……“光明”といえば」
オーリャはディエーニンに昨夜の話をした。レーナが体から光を発すること、また、食事を取ろうとしないこと、暗闇を嫌い、ランプの光を喜ぶこと――
「――ふむ、実に興味深い」
ディエーニンは言った。
「体の異常な軽さといい、この少女は我々ミールの人間とは大きく異なる体質を持っていると考えられる。ひょっとすると、体を発光させる昆虫や、光を糧《かて》とする植物のような……」
「そんな、まさか……いや、でも……」
「例えばの話、ではある」
と、ディエーニンは笑った。
「しかし、この少女は我々の知らぬ世界から来たのだ。先入観は捨てて掛かるべきだろう」
「ベキダロウ」
「はあ……」
[#挿絵(img/1000get_146.jpg)入る]
[#挿絵(img/1000get_147.jpg)入る]
オーリャはあいまいに相づちを打ち、
「それで、用事っていうのは……?」
「おお、そうだった。オーリャ、資料を運び出すのを手伝ってくれ。現存する気象情報と都市開発の歴史のすべてを検証するぞ。彼女――レーナの出所に関する手がかりを探すのだ」
ディエーニンはそう言って、持ち上げた資料の束《たば》をはたき、もうもうと埃《ほこり》を舞い上げた。
オーリャはその日一日、ディエーニンを手伝って資料を運び続けた。その間、レーナはなにが楽しいのか、軽い体で資料の山から山へ飛び移ったり、舞い上がる埃や、窓から直線状に射し込む光を見て歓声を上げたりしている。
何往復目にか、資料の束を抱えて戻ると、中等部の就学時間を終えたジェーニャが研究室を訪れていた。
「やあ、ジェーニャ」
オーリャが声を掛けると、ジェーニャは腕組みをして、つんとあごを突き上げた。
「なあに、その汚い人」
「え……」
汚いといえば、オーリャもディエーニンも、体中埃にまみれて、まるで煙突掃除夫のようなありさまだったが、ジェーニャが険しい目で見ているのは、ふたりの背後にいるレーナだ。書庫中を跳《は》ね回っていたレーナは頭に蜘蛛《くも》の巣を被ったまま、にこにこと笑っている。
「ええと、その……この子は神学院の外[#「神学院の外」に傍点]から来たお客さんで……」
どこまで説明したものかと、オーリャが口ごもると、
「レーナ!」
と言って、レーナはオーリャの腕に飛びついた。
ジェーニャの目がますます険《けん》を帯びた。
「なによ、なれなれしい人」
ジェーニャはオーリャのもう一方の腕に組みつき、強く引っ張った。資料の束を抱え、片腕にレーナをくっつけたまま、オーリャがよろける。
「ねえオーリャ、お祭りの日はここもお休みになるんでしょ? いっしょに歩かない?」
「うん……」
オーリャがなんの気なしにレーナの表情をうかがうと、
「オマツリ!」
レーナはオーリャの肩に手を突いて飛び上がり、
「……あなたには言ってないわ!」
ジェーニャは口を尖《とが》らせた。
それから数日後、街は祭りの準備で浮き足立ちつつあったが、その一方、ディエーニンの研究室では別の話題が持ち上がっていた。
ことの起こりは、書庫から持ち出した資料の中にあった、一枚のスケッチだった。
「見たまえ、オーリャ」
ディエーニンは古びた紙を広げながら言った。
「はるかな過去にもやはり、君のような才能を持つ人物があり、我々と同様の計画を遂行《すいこう》していたのだ。我々は孤独ではないぞ」
紙に描かれていたのは、オーリャが描くものと同様の、鉛筆によるスケッチだった。
“天球《ニエーバ》”を中心とする都市全域を、空中から俯瞰《ふかん》する図――しかもそれは、図面から起こしたものではなく、その光景を直接眼にした者が描いた絵だ。細部の質感から、オーリャにはそれがはっきりと分かった。
しかし――
「あれ……?」
オーリャは数日前から描きかけていた、自分のスケッチを持ち出した。
空中旅行からの帰還ののち、秀《ひい》でた記憶力によって描き出されたそれは、明らかに今回持ち出された古い絵と、同じ風景を描き出していた。
ただし、同じ風景の、違う時代[#「違う時代」に傍点]をだ。
見比べてみれば明らかに、“天球《ニエーバ》”を取り巻く鋼鉄の工場区の規模[#「規模」に傍点]が違う。オーリャの描いた最新の図では、古いものと比べて、面積にして数倍以上、設備の規模から言って、熱井戸の深さも相当に進んでいることだろう。
「あの……これは、何百年前に描かれたものなんでしょうか?」
「うむ」
ディエーニンは紙の片隅《かたすみ》の署名部分を確認した。
「大巡歴八五六年、つまり、およそ百五十年前であるな。“何百年”というほどのものではないが……」
そう言ってから、ディエーニンはオーリャの懸念《けねん》の表情に気づき、深くうなずいた。
ミールの工業区は、ここ百五十年の間に、倍以上にふくれあがっていた。
二日後――
研究室を訪れたザヴォーティン議員に、ディエーニンらはひとつの表を広げて見せていた。オーリャたちが書庫から運び出した新たな資料を整理し、まとめたものだ。
ミールの千年の時間を横軸とし、工業区の面積や熱井戸の数を示したその図表は、その大部分で横ばいに近いゆるやかな線を描いていたが、約二百年前の時点から急激な上昇を始め、ここ五十年ほどには、その傾きはますます角度を増して垂直に近づきつつある。
「ご覧《らん》なさい、議員」
ディエーニンは表の上に指を走らせながら説明した。
「この二百年、ミールに人口や消費熱量の急激な増加があったという事実は認められておりません。されど、熱井戸とその周辺設備は毎年一割近い率で増加を続けている。これらの状況が示す事実とは、つまり……ミールの生み出す熱が涸れつつある[#「ミールの生み出す熱が涸れつつある」に傍点]、ということです」
その言葉を聞いたザヴォーティンの反応は、しかし、冷たいものだった。
「あなたがたに指摘《してき》されるまでもない。そうした事実は百年も前から確認されております」
「ではなにゆえに、然《しか》るべき対策を講《こう》じないのですか」
「さらなる熱井戸の開発、それが対策です。市民の消費熱量の制限も並行して行なっていますが、“天球《ニエーバ》”への熱供給を減らせば、今度は食料の生産に響いてくる。これ以上、人の身にできることはない」
「しかし、破綻《はたん》は目に見えている。現在の速度での体熱開発[#「体熱開発」に傍点]が、あと百年と持たないことは、あなた自身もよくお分かりでしょう」
ザヴォーティンはかぶりを振った。
「人が必ず死ぬように、ミールにも必ず最後の時が訪れる。それはどうしようもないことなのです。その時が訪れるまでの限られた時間に、有意義な生活を送ることこそが、我々個々人が、そして都市全体が天に与えられた使命であると、私は考えます」
「なるほど――しかし、世界はミールのみではない。なぜ老いたミールの外に新天地を求めようとしないのです」
「十万の市民を大雪原に放り出してなんになると言うのです。ミールのほかに人の住むべき場所など、ありはしません」
「いや、それが、ある――あり得る[#「あり得る」に傍点]のです」
怪訝な顔をするザヴォーティンに、ディエーニンは言った。
「証拠もあります」
眉をひそめるザヴォーティンに示すように、ディエーニンは右手を、傍《かたわ》らで話を聞いていたオーリャのほうに広げた。オーリャと、オーリャの腕につかまるレーナに――
しかし、ザヴォーティンはディエーニンの続く言葉をさえぎり、手にした杖を強く床に突いた。
「おやめください。ミールを導くべき立場にあるかたに、世迷《よま》い言《ごと》をおっしゃっていただいては困ります。証拠とやらもお見せいただく必要はありません。むしろそのようなことは、誰に対しても、二度と口にしないでいただきたい」
思いがけず強い口調で言うと、ザヴォーティンはきびすを返し、歩み去った。部屋を出ぎわにオーリャとレーナの姿を一瞥《いちべつ》したが、その視線は鋼鉄のように冷たく、揺《ゆ》るぎないものだった。
「……やれやれ、あのウーチシチ教士ならともかく、ザヴォーティン氏にまでこれほどの拒絶を示されるとは。前途《ぜんと》は多難ですな、教授」
ブニコフが肩をすくめたが、しかし、
「いや、こんなものだろうて」
と、ディエーニンはさして気にした風《ふう》もなく、さばさばと答えた。
「少々急な話ではあったが、ザヴォーティン議員とて決して物の分からぬ御仁《ごじん》ではない。どのみち、いつか我々は巨人の背を降り、自らの足で地に降り立たねばならんのだ」
ディエーニンは室内をぐるりと見渡した。
「今は、その日のために能《あた》う限りのそなえをしておくのみ――資料の検証を続けるぞ!」
号令一下、助手の面々がそれぞれの手持ちの仕事を始める中、
「はあ……あの、みなさん」
オーリャは少々|呆気《あっけ》に取られながら、あいまいに口を開いた。
ディエーニン教授も、研究室の面々も、“この世の終わり”を目《ま》の当たりにしながら――
「……なんでそんなに落ち着いていられるんですか?」
「それは年季という奴だな」
ブニコフが、笑いながら答えた。
「オーリャ、教授は君が生まれる倍も前から、このような状況を予見《よけん》していたのだよ。昨今の活動はみな、その仮説の証拠固めでもあった」
「はあ」
「滅びの日が訪れるのは五十年後かもしれんし、百年後かもしれん。しかし、いずれにせよ、未来のミール市民のため、生存への道を模索《もさく》することが、我々の使命だ」
「ああ……なるほど!」
オーリャは力強くうなずいた。なんて頼もしい人たちだろう!
「中でも、君にはたいへん重要な役目が割り振られているぞ、オーリャ」
「え?」
ブニコフはオーリャの肩に手を置いた。
「すなわち、外界からの“客人”との意思|疎通《そつう》を図ること、同時に、ザヴォーティン議員の周辺人物[#「周辺人物」に傍点]との友好的接触を維持することだ」
ブニコフは空《あ》いている方の手で、オーリャの腕にしがみついたレーナを、続いて研究室の戸口を指した。
「は……周辺……?」
オーリャがその仕草を追って目をやると、戸口の陰に半《なか》ば隠れるように、ジェーニャが立っていた。ふくれ面《つら》で、オーリャとレーナをにらみつけている。
「あ……」
「どちらも大切な仕事だ。上手くやりたまえ!」
ブニコフはオーリャの背中を叩いた。
それから数日が過ぎ、祭りの朝がやってきた。
オーリャがまだ目覚めぬうちから、花火やラッパの音が夢うつつに聞こえていた。
「オマツリ! オマツリ!」
興奮したレーナが跳び回り、部屋中に埃《ほこり》を舞い上げた。
アンドリューシャが小さなくしゃみをして、尻尾を不満げにぱたりと鳴らした。彼は体の調子が悪いのか、先日から元気がない。
「今、何時かな……」
と、オーリャは呟いた。今日は特別に休みをもらい(「いいや、これも仕事かな」とブニコフは笑ったが)、ジェーニャと会うことになっている。待ち合わせに遅れたりしたら、また不興《ふきょう》を買ってしまうだろう。オーリャはジェーニャが小さな肩を怒らせて口を尖《とが》らせるさまを想像した。それはたいへん可愛《かわい》らしいありさまだったが、もちろん、そんなことのないに越したことはない。
オーリャはひとつ伸びをして、寝台から降りた。窓から街を見下ろすと、灰色の街並みに、鮮《あざ》やかな彩《いろど》りが生じていた。花輪や看板、祭り用の傘などが、通りいっぱいに広げられているのだ。幸い、今日は降雪もなく、空は明るく曇っている。祭りの行進《パレード》も盛大に行なわれるだろう。窓を開け身を乗り出すと、その背に乗りかかるようにして、レーナが顔を出した。
そして――
「オマツリ!」
そのままオーリャの肩を蹴《け》って、空中に飛び出した。
「わ――レーナ!」
レーナは笑いながら、ひとひらの雪片のようにくるくると回転し、通りに落ちていく。
オーリャは上着を羽織《はお》ると、あわてて外に飛び出した。階段を駆け下りながら、レーナを目で追うと、彼女はときおり建物の間を吹き抜ける風に煽《あお》られ、ふわりと舞い上がる。その様子から、地面に叩きつけられることはないだろうと思えるが――
共同住宅の間をつなぐ橋に飛び出したオーリャは、レーナの落下地点へと走り、手を伸ばした――が、風に吹かれたレーナはその手をすり抜け、さらに下層へと落ちていく。
「レーナ!」
オーリャもまたそのあとを追い、数分後には、大陸橋の上に辿《たど》り着いた。
橋の上には、巨人の群れ[#「巨人の群れ」に傍点]がいた。常人の一・五倍ほどの身長の巨人たちが、列をなして練り歩いている。色鮮やかな張り子の上半身を持った、祭り用の仮装だ。各々、大きな丸い風船を、曲がった背中や頭の上につけている。これらひとりひとりが、ミールの繁栄を祈願《きがん》する、巨人の似姿なのだ。
「レーナ! レーナ!」
オーリャが呼んで回ると、
「……オーリャ!」
と、頭上から声が掛かった。張り子の巨人のひとりの肩の上に乗ったレーナが、オーリャに向けて手を振っている。
「レーナ、いけないよ! 降りて!」
オーリャがあわてて呼び掛けたが、レーナは巨人の肩を蹴ると、となりを歩くもうひとりの巨人に飛び移った。そして、張りぼての顔をのぞき込みながら、
「トモダチ……!」
と言い、風船の“天球《ニエーバ》”に抱きついて、ころころと笑った。
「レーナ、降りてったら!」
鳴り物と歓声の中、オーリャが両手を口に添《そ》えて叫ぶと、レーナはますます楽しげに笑い、巨人の肩から肩へと跳《と》び移りながら、パレードの前方へ、前方へと進んでいく。
いつしか、祭りの電飾に混じって、レーナの体がまぶしい光を放ち始めた。今まで見たこともないほどに――雲の上で見た太陽そのもののように、強い光を放っている。
それが祭りの仮装のひとつと見えたのか、周囲の人々から歓声と拍手が上がった。
頭上の窓や陸橋から降り注ぐ紙吹雪やキャンディーを両手で受け止めながら、レーナはますます輝き、笑い、跳びはね、そして前へ前へと進んでいった。
パレードは下層市街のあちこちから始まり、右肩街、左肩街の各大通りにまとまると、橋梁神学院の前で合流する。そして、螺旋歩道を半日掛けて登ると、開放された大門から“天球《ニエーバ》”の中に入る。
“踏み出しの祭り”の七日間は、外市民が“天球《ニエーバ》”に入れる、数少ない機会だ。外市街の灰色の風景の中から、“天球《ニエーバ》”の緑と青の風景の中へと踏み込み、ひと時の間、暖かさと豊かさを享受する。無論、重要施設や内市民の家屋は慎重に隔離されているが、それでも“天球《ニエーバ》”内のかなりの部分が祭りのために開放され、外市民の訪問を受けることになる。祭りの間は、“天球《ニエーバ》”において、ミール全市が一体となるのだ。
仮装の巨人の群れからなるパレードが、楽団を伴って“天球《ニエーバ》”に入った時、オーリャとレーナはその流れの中にいた。
パレードは“天球《ニエーバ》”の田園風景の中を練り歩き、やがて大きな広場に着いた。人々はそこで巨人の仮装を脱ぎ、振る舞い酒を飲み、軽快な音楽に乗って、いくつもの輪になって踊り始めた。
オーリャは踊りの輪に巻き込まれそうになりながら、レーナの名を呼んで駆《か》け回った。まばゆい輝きを目印にあとを追っていたのだが、それもいつしか見失ってしまった。
数十分か、それとも数時間かのち――オーリャはようやくレーナの姿を見つけた。
人の輪から外れ、祭りの飾りつけの書き割りの裏に、レーナは膝《ひざ》を抱えて座っていた。ほんの少し前には、電灯のように、いや、太陽のようにまばゆく輝いていた体が、今は光を失っている。
「レーナ、ここにいたのかい」
オーリャが駆け寄ると、レーナは顔を上げた。
レーナは泣いていた。いつも楽しそうに笑っていた顔が、見たこともないほどにしょげ返っていた。
「レーナ……?」
「トモダチ……ドコ?」
「友だち?」
オーリャは聞き返した。
「ぼくはここにいるよ。オーリャは君の友だちだ」
すると、レーナは力なく首を振り、
「トモダチ……」
と、もう一度言った。
オーリャはわけが分からないながらも、レーナに手を差し伸べた。
「とにかく、どこかでひと休みしよう。学院ならゆっくりできるかも……」
しかし、レーナはその手を取るなり、ぐったりと地面に倒れた。
「レーナ……?」
――おそらく“光”が問題なんだ。
と、オーリャは考えた。
まるで呼吸するように光を浴び、また放出していたレーナの体は、今、オーリャの腕の中で力を失い、浅い呼吸を繰り返している。
オーリャは頭上を見上げた。祭り用の照明の向こう、“天球《ニエーバ》”の天井は、すでに青黒い日暮れの色に染まり始めている。
――どこか明るいところ、太陽のような光[#「太陽のような光」に傍点]のあるところへ……。
そう考えたオーリャは、レーナの軽い体を背負って駆けだした。
数十分ほども走ったろうか――オーリャが駆け込んだのはザヴォーティン家の敷地にある温室だった。いつかジェーニャに連れてこられたそこは、オーリャが知るうちで、最も強い光が得られる場所だ。
荒い息をつきながら、オーリャは扉を開け、むせるような薔薇の香りの中に踏み込んだ。
温室の中は、今は灯りが消されている。磨《す》りガラスを通して入ってくる外の薄明かりをたよりに、オーリャは電灯のスイッチを入れた。温室の中が、雲の上の太陽の世界[#「太陽の世界」に傍点]のような光にあふれた。
オーリャは薔薇の花の間に分け入って、温室の奥の席にレーナを座らせた。そこはもっとも強く光が当たる場所だ。
レーナの顔が、髪が、全身の肌が、照明の光を反射して輝いた。
やはり、光の量によって体調が変わるらしい。しばらく様子を見ていると、やがて、レーナの呼吸が安定した。
若干安心しながら、オーリャはこれからのことを考えた。
まずは、母屋に行ってザヴォーティン氏かその家族に、勝手に立ち入ったことを詫《わ》びるべきだろう。下手《へた》にことを荒立てるより、このままこっそり立ち去ってしまったほうがよいか――と考えないでもなかったが、今後、レーナの体調が悪くなった時、また協力を仰《あお》ぐことになるかもしれない。
そのあとは……やはり、できるだけ早く、ディエーニン教授に再度の空中旅行計画を立ててもらい、レーナを空に帰すべきだろう。あの雲の上の、光あふれる世界こそが彼女の居場所であり、薄暗いミールの街では体が弱ってしまうのだ。
ほんのわずかの間でも、レーナから離れてよいものか。オーリャが逡巡《しゅんじゅん》しながら立ち上がった、その時――
温室の戸口に、ジェーニャが立っていた。
よそ行きの外套《がいとう》を着て、いつもと違う髪型をして、華やかにめかし込み――そして、目に涙を溜《た》めて、オーリャをにらみつけていた。
「……約束したのに!」
ジェーニャは小さな肩を怒らせて叫んだ。
「あたし、待ってたのに!」
「ジェーニャ……」
オーリャが歩み寄ると、ジェーニャは一歩後ずさった。
「なんでその子があたしたちの秘密の場所にいるの!? なんであたしの席に座ってるの!?」
「ごめん、ジェーニャ。この子は急な病気で――」
「知らない、知らない!」
ジェーニャは強く首を振った。長い髪が、顔の周りで渦を巻くように乱れた。
そして、
「お父様! ボロディン! どろぼうよ! どろぼうだわ!」
と言いながら、母屋のほうに駆けだした。
オーリャはため息をつき、その場に残った。下手にジェーニャを追いかけて言い訳をするよりは、ザヴォーティン氏と直接話した方がいいだろう。
レーナの傍らに戻り、顔に掛かった髪をのけてやると、レーナはなにか夢を見ているのか、目を閉じたまま、わずかに微笑《ほほえ》んだ。
やがて、ザヴォーティンが現れた。背後にはジェーニャといつぞやの使用人が控《ひか》えている。
鋼《はがね》のようなまなざしに威圧《いあつ》されながらも、オーリャは一歩進み出た。
「あ、あの……勝手に立ち入ってしまって、すみません。この子が急病で――」
ザヴォーティンはオーリャの肩越しに、椅子にもたれて眠る少女を見遣《みや》った。
「その娘は、先日研究室にいた――」
「はい、あの……レーナと言います」
「内市民かね?」
ザヴォーティンがそう問うたのは、レーナの手脚の細さや、寒さに荒れていない肌の具合を見てのことだろう。確かに、どちらかと言えば、彼女は内市民のように見える。
が――
「いえ、内市民でも外市民でもありません……その……」
オーリャは背筋を正した。今から口にするのは、非常に重要な事柄だ。
「……彼女はミールの外から来たんです」
しかし、ザヴォーティンはわずかに、怪訝《けげん》そうに目を細めながら言った。
「いや、彼女は内市民だ[#「彼女は内市民だ」に傍点]」
「え?」
「急病と言うなら、ひとまずうちで面倒を見よう。君はもう帰りたまえ」
「お父様、なんで!? そんな人、知らないわ!」
ザヴォーティンはジェーニャの肩に手を置くと、使用人を振り返った。
「オレグ君を送って差し上げろ」
「え……いえ、ザヴォーティンさん、できれば彼女についていたいんですが……」
そう言ったオーリャの横を、ザヴォーティンは無言で通り、温室の奥に入っていった。
「あの……」
「帰れ、ってんだよ」
オーリャの腕を、使用人の手ががっちりとつかみ、引っ張った。思いがけず力が強かった。
引っ立てられるように温室を出ると、ジェーニャがオーリャをにらみつけ、くるりときびすを返すと、母屋に駆けていった。
「あの、その子には光が要るんです! どうか……!」
夕闇の中に煌々《こうこう》と光る温室を振り返り、オーリャが叫ぶと、横合いから拳《こぶし》が飛んできた。
「うるせえぞ、この餓鬼」
この日は駅までは送られず、通りに出たところでさんざんに殴《なぐ》られ、放り出された。
酔っぱらいに混じって道路のすみに転がっていると、祭りの喧噪《けんそう》が遠く聞こえてきた。
少し休んでどうにか立ち上がれるようになると、ザヴォーティン家に戻ろうかどうしようか、オーリャはしばし迷った。
ザヴォーティン氏の真意《しんい》は不明だが、レーナを内市民として、また病人として扱うと言っていたから、そうそうひどい扱いはされないだろう。オーリャが連れ歩くよりも、むしろレーナの体にはいいかもしれない。
よくよく考えた末、オーリャは“天球《ニエーバ》”発の鉄道に乗り、神学院に向かった。
レーナが目を覚ました時に自分がいないと不安がるのではないかと、その点が心配だったが、付き添いを認めてもらうには、ザヴォーティン家で押し問答をするより、ディエーニン教授から話を通してもらうほうがいいだろう。
オーリャは殴られた体をさすり、傷の具合を確かめた。あちこちがあざになり、頬のあたりが腫《は》れ上がり始めているが、骨は折れていないようだ。
そうしながら、オーリャはさらに考えた。
――ジェーニャにも、謝らなくちゃ。
彼女が怒るのも無理はない。どんな理由があったにせよ、待ち合わせの約束を破ってしまったことは確かだ。レーナの体のことは仕方ないにしても――いや、それにしたって、自分がもうちょっと気をつけていれば、防げたことかもしれない。
とにかく今は、教授になにもかも話して、助言《じょげん》を得ることだ。
そう考えているうちに、列車が神学院の駅に着いた。
学園の敷地内も、“天球《ニエーバ》”の広場や外市街と同様、祭り用に華やかに飾りつけられ、また、晴れ着を着た人々が踊るように行き来している。そうした人々の群れの中を、オーリャは足を引きずりながら、ディエーニンの研究室に向かった。体中が軋《きし》むように痛んだが、それを気に掛ける余裕はなかった。
助手たちの大部分は祭りに合わせて休暇を取っているが、ディエーニン教授やブニコフたちは研究室に詰めているはずだ。特に、研究一筋の教授には、ほかに帰るべき家もないと聞いている。
――教授なら、相談に乗ってくれる。
――教授なら、なんとかしてくれる。
自分を励ますようにそう呟きながら、オーリャは歩を進めた。
が――
ディエーニンはいなかった。ディエーニンだけではない。他の助手も、山と積まれた資料も、なにもかもが消え失せていた[#「消え失せていた」に傍点]。
オーリャの目の前には、空き家のようになった研究室が、寒々とした空間を広げていた。
わけも分からぬままにオーリャは室内に踏み入り、その場に置き忘れられた椅子に、ただ呆然と腰掛けた。
どこからか、かすかに流れてくる祭りの囃子《はやし》が、ことさらに遠い世界の音のように感じられた。
その日――“踏み出しの祭り”の初日の夜、“巨人《ミール》”の千年の歩みが止まった[#「止まった」に傍点]。
[#改丁]
第四章
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ウーチシチ教士の手によって、ディエーニン教授の研究室は閉鎖《へいさ》された――何人もの衛士《えいし》が詰めかけ、あっという間にこと[#「こと」に傍点]を片づけてしまったという。
神学院の職員を見つけ問い質《ただ》すと、祝い酒でほろ酔いになった彼は、決まり悪そうに、そのように答えた。
「なにしろ、ほら。ずいぶん目をつけられていたみたいだから……」
「じゃあ、教授は? 教授は今、どこにいるんです?」
「さあ」
職員はあやふやに目を泳がせた。
「どこかに雲隠れしたか、捕《つか》まって牢屋にでも入っているのか……あんたもここにいちゃまずいんじゃないのかね」
その後、オーリャは考えをまとめるために、ひとまず自宅に帰った。
――いや、考えはすでにまとまっていた。ただ、区切り[#「区切り」に傍点]をつけるために戻ったのだ。
「ねえ、アンドリューシャ」
オーリャが声を掛けると、寝台の中で、アンドリューシャが気《け》だるげに身じろぎした。
「ぼくはあの子を助けに行くよ。ザヴォーティンさんにも、ちゃんと話せば分かってもらえると思うし……それから、上手く教授たちと会えるといいけど、もし教授がいなくても、気球を飛ばすだけならなんとかできると思う。たくさん練習したからね。ただ、またここに帰って来られるかは分からないけど……」
オーリャはアンドリューシャの背に、そっと触れた。
「君はどうする? いっしょに来るかい?」
アンドリューシャはオーリャを見上げ、ひと声鳴いた。からからに乾《かわ》いた、声にならない声だった。
オーリャはその声で、アンドリューシャの体が思ったより弱っていることを知った。
かつて、死の床にあった母もまた、このようにかすれた声を出したろうか。
「……うん。じゃあ、せめて今夜はいっしょにいよう」
オーリャはその晩、アンドリューシャを膝に抱き、話し掛けながら過ごした。
やけに静かな夜だった。
窓の外から、祭りの騒ぎがかすかに聞こえてくるが、それでもオーリャは、体の奥底がしんと静まったような、奇妙な静けさを感じていた。
明け方、アンドリューシャが舌を伸ばして、オーリャの手をなめた。そして、わずかに身震いすると、それきり動かなくなった。
その体が室温と同じに冷え切ると、オーリャは暖炉にありったけの薪《まき》をくべ、アンドリューシャを焼いた。
死者を“雲の上”に送るためには、荼毘《だび》の薪をふんだんに使い、火を強くすればするほどよいとされている。
――ひと足先に行って、“上”で待っていておくれよ。母さんといっしょに……。
オーリャはそれから、壁に留めてあった母の肖像を手に取って折り畳《たた》み、寝台に残っていた長い抜けひげ[#「抜けひげ」に傍点]をそこに包んで、外套《がいとう》のポケットに入れた。
もともと空き家じみたこの部屋には、その他に、持っていくものも、取っておくべきものも、なにもない。オーリャがここに留《とど》まる理由も、もはやなかった。
部屋の鍵をテーブルに置き、ドアを開け放し――錘《おもり》を捨てた気球がゆるやかに離床するように、オーリャは住み慣れた部屋をあとにした。
まずは、“天球《ニエーバ》”のザヴォーティン邸へ――
そう考えながら表に出ると、通りは奇妙な空気に包まれていた。
祭りはまだ二日目。前夜から夜通しの騒ぎがそのまま続いているが、その騒ぎが、妙に空々しく感じられる。
オーリャは通りを歩きながら、道行く人々を見回した。
酒を飲み、歌を歌い、笑いさざめきながらなお、人々の表情には不安の影のようなものが差している。
やがて、その“影”の正体に、オーリャは気がついた。
地鳴りの音が、しない。
ミールに暮らす限り、耐えることなく伝わってくるはずの世界の駆動される音[#「世界の駆動される音」に傍点]が、止まっているのだ。
考えてみれば、昨夜半から、地鳴りは止まっていたように思う。オーリャが意識しないままに感じていた違和感と同じものを、今、通りの人々も感じているのだ。
「――ついに“その日”が来た!」
不安に揺《ゆ》らぐ喧噪《けんそう》を押し退《の》け、拡声器の声が響《ひび》き渡った。
見れば、通りの辻々にある出し物の壇《だん》の上に、白|頭巾《ずきん》の終末《しゅうまつ》党《とう》員が数人ずつ塊《かたまり》になって立ち、群衆に呼び掛けている。
「今日この日こそは、約束された“終末《おわり》の日”であり、かつまた、新たなる“踏み出しの日”でもある! 急げ! そなえせよ、諸君!」
「なんだそりゃあ!」
「引っ込め、ボロ頭巾!」
祭りに茶々を入れられた、と思ったのか、野次を飛ばす者、果物や酒瓶《さかびん》を投げつける者がいた。だが、群衆の何割かは足を止め、神妙《しんみょう》に耳を傾けている。終末党は、外市街の労働者を中心に、暗然たる影響力を持っているのだ。
そこに、
「――衛士が来たぞ!」
通りの向こうから、声が上がった。
見れば、人波の彼方《かなた》に、赤い槍《やり》の穂先《ほさき》がちらちらと見えている。神学院の衛士隊だ。
衛士の一団は、通りいっぱいに広がった群衆を槍の柄で掻《か》き分けながら、こちらにやってくる。終末党を捕らえるつもりだ。
その一方では、
「赤槍[#「赤槍」に傍点]に引き渡してやらあ!」
「やめろ、馬鹿!」
壇上の白頭巾に足元からつかみかかっていく者、それを止めようとする者が、そこここで互いに押し合い、つかみ合いを始めた。
荒々しい混乱が、街路全体を支配し始めた、その時――
発破《はっぱ》のような大音響と共に、地面が跳《は》ね上がった。
街路上に広げられた卓や露店《ろてん》が次々と倒れ、人々は悲鳴を上げながら転倒した。
「――落ち着け、諸君!」
白頭巾の声が、恐慌《きょうこう》を未然《みぜん》に押さえた。
「これは予兆《よちょう》だ――しかし、冷静に対処《たいしょ》すれば恐れることはない!」
人々は不安げにざわめきながら、白頭巾の集団に注目し、彼らの次の言葉を待った。
「追って各街区の長より今後の指示があるだろう! 自宅にて旅立ちの荷物[#「旅立ちの荷物」に傍点]をまとめ、待機せよ!」
そう言うと、白頭巾の一団は次々と壇を飛び降り、駆けだした。
「我々は諸君と共にある! 諸君と共に、必ず生き延びる! そして――衛士諸君! 君たちも協力するのだ! 市民の生命を守るために!」
呆気《あっけ》に取られ、立ち止まっていた衛士たちが、あわてて捕り物を再開し始めた。
しかし、終末党の動きは速く、オーリャの目の前を白い突風のように通り過ぎる。
と――白頭巾のひとりが、オーリャの腕をつかみ、脇道に引き込んだ。
「え――な、な……!?」
白頭巾はうろたえるオーリャを引きずるように走り、二度、三度と路地を曲がった。そのつど、彼の仲間たちは二手、三手に分かれ、街に染み込むように紛《まぎ》れていく。
「あ、あの……?」
オーリャをつかまえた白頭巾は、追っ手が来ないことを確認すると、身を屈《かが》め、頭巾を脱いだ。
「私だよ、オーリャ」
見覚えのある顔が、オーリャの前でにこりと笑った。
「ブニコフさん……!?」
「しッ、大声を出さんでくれ」
「あ、は、はい……」
オーリャはブニコフに倣《なら》って声を低く落とし、周囲を見回した。
「あの、こ、これはいったい……?」
ブニコフは脱いだ白頭巾を胸の前で広げた。
「うむ、隠していてすまなかったが、“終末党”の組織の中核は、我々ディエーニン研究室の人員からなるのだよ」
「え……じゃあその、教授も一味[#「一味」に傍点]……いえ、お仲間[#「お仲間」に傍点]なんですか……?」
「もちろん。そもそも“終末党”とは、教授の予見された大崩壊への対策を講《こう》じるための実行組織なのだ。いつか来る“終末の日”へのそなえを一般市民に啓蒙《けいもう》し、来《きた》るべき日に確実な脱出計画を遂行《すいこう》するための――」
「はあ、それは、その……意外でした」
「君にもそのうちに参加してもらうつもりではあったのだが、『まだ、君の知性を枠《わく》にはめるべきではない』というのが教授のお考えだったのでね。若い君には、党の活動より先に学ぶべきことがたくさんあるだろうと……だが、事ここに至っては、そう悠長《ゆうちょう》なことは言っていられない。協力してくれるな、オーリャ?」
「はあ」
――協力って、なんだろう? さっきみたいに街頭で演説をしたり……?
オーリャは逡巡《しゅんじゅん》しながら言った。
「もちろん、ぼくにできることなら……でも、あの」
路地の中から小さく区切られた空を見上げると、“天球《ニエーバ》”のガラスの天蓋《てんがい》の一部が見えた。
「できればその前に、ザヴォーティンさんのお宅を訪ねてもいいでしょうか?」
すると、ブニコフはうなずいた。
「うむ、私も、まさにそのことを君に頼もうと思っていた」
神学院の駅から螺旋《らせん》鉄道に乗って、オーリャは“天球《ニエーバ》”へ向かった。
列車に施《ほどこ》されていた祭りの飾りつけは、詰《つ》めかける乗客の体が当たって剥《は》がれてしまっていた。足元に落ちた造花《ぞうか》や風船が、何十という靴底に踏みしだかれていた。
“天球《ニエーバ》”に着くまでに、さらに二度、激しい地震があったが、幸い、鉄道はもともと“巨人《ミール》”の歩みによって生じる地盤の歪《ゆが》みを吸収する構造を持っていたので、列車は大きく揺れはしたものの、止まることはなかった。一方、揺れを直接に受ける外市街の被害は甚大《じんだい》で、オーリャの見下ろす街並みのあちこちから煙が上がり、人々が逃げまどっているのが見えた。
そしてまた、地震は支枠に支えられた“天球《ニエーバ》”をも激しく揺さぶった。そのため、ガラス球の天地の中にいた者は安全を求めて外市街へ移動しようとし、“天球《ニエーバ》”側の駅にも人が詰《つ》めかけていた。おそらくは、歩道とつながった大門でも状況は同じだろう。
人々は互いの進路をふさいで押し合っていた。みな、どこへ逃げればいいのか分かってはおらず、ただ「ここではない場所」へ行こうとしている。多少|目端《めはし》が利く者であっても「もはや“外”も“中”も安全ではない」ということを知るのみだ。
オーリャはもみ合う人の群れを掻き分けて“天球《ニエーバ》”に入り、苦労して人波の中心から抜け出すと、土の道に駆け込んだ。
田園風景をまばゆく照らしていた照明が、不安定に何度かまたたいた。
オーリャは走りながら空を見上げ、呟いた。
「たいへんだ……!」
周囲でも、何人かの内市民が空を指差《ゆびさ》し、なにごとか叫んでいる。
楽園の空――“天球《ニエーバ》”のガラスの球面に、大きなひびが入っていた。
ザヴォーティン邸への道を急いでいると、オーリャの体に風が吹きつけてきた。
“天球《ニエーバ》”に常に吹いている、空調の微風《びふう》ではない。外界から吹き込んできた寒風だ。
祭りのために“天球《ニエーバ》”を訪れていた外市民たちはあわてて自前の外套《がいとう》を羽織り、内市民たちは肩をこごめながら屋内に駆け込んでいく。
オーリャはぶるりと体を震わせ、先を急いだ。
やがて、ザヴォーティン邸の敷地が見えてきた。母屋の前に何十人かの人だかりができている。戸口を中心に、白頭巾の終末党と、赤槍の衛士隊がにらみ合っているのだ。
「もはや、この場で争っている場合ではありませんぞ!」
ディエーニン教授の張りのある声が、朗々と響き渡った。
「今こそ、我々は一丸となって市民の救命に尽くさねばなりません」
終末党の先頭に立ったディエーニンは、まず戸口のザヴォーティンに、そして向かいに立つウーチシチ教士に、大判のノートを広げて見せた。
「全市的な脱出計画[#「脱出計画」に傍点]についてはすでに多大なる検討が為《な》され、我が党の主立った構成員にその概要《がいよう》が伝えてあります。さらに行政府と神学院の協力があれば、十万の市民は安全にミールの外に脱出することができるのです」
「しかし、教授」
ザヴォーティンが重々しく口を開いた。
「……なんの当てもなく大雪原に歩み出すなどとは、自殺行為としか思えません。そもそも、この地震は一過性のものではないのですか」
ディエーニンはかぶりを振った。
「残念ながら、有史以来の記録を紐解《ひもと》いても、これは異例の事態としか言いようがありません。ここ二百年ほどの間に、ミールの身体[#「身体」に傍点]はある種の異常を来たしているのです。我々の研究では、さらに何百年かのうちにミールに急激な崩壊《ほうかい》が生じることは以前より予測されておりました。そして、今まさにそれ[#「それ」に傍点]は起きようとしている。巨人の肩に住まいする我々にとって、それはまさに世界の終末と言うべき大異変となるでしょう」
「教授、もしあなたのおっしゃるような崩壊が訪れるとして――」
ウーチシチが口を挟んだ。
「その時はミールと運命を共にするのが我々人間の領分というものではないですか。神の定めた運命に殉じてこそ、魂《たましい》の救済が為されるというものです。言わば、信仰が最も試されるこの時に、徒に人心を惑《まど》わす言動は控えていただきたい」
ディエーニンは答えた。
「滅びこそが神の示す運命《さだめ》――私はそうは思いませんな。我々人間の存在は、常に巨人《ミール》の歩みと共にあった。ミールが力尽き倒れたならば、その遺志を継ぎ、彼[#「彼」に傍点]の往《ゆ》かんとしていた目的地――すなわち“冬の果て”を目指すことこそが、我々の使命であると考えます」
「冬の果て……?」
ザヴォーティンの呟きを、ウーチシチが引き継いだ。
「『巨神《ミール》の歩み千年にわたれば、終《つい》に冬の果てに至る』……ですか」
ディエーニンは深くうなずいた。
「さよう、千年紀の節目《ふしめ》にこの異変が起こったことも、偶然ではないのかもしれません。“冬の果て”、すなわち大雪原を越えた新天地は近い。私はそう考えます」
「教授」
ウーチシチは眉をひそめた。
「“冬の果て”とは、巨人の歩みを以てしても永遠に辿《たど》り着くことがない、“この世ならぬところ”を意味する言葉です。それを字義《じぎ》通りに地上の土地と解釈するとは、いやはや、あなたらしい牽強付会《けんきょうふかい》だ」
その真っ向からの否定に対し、ディエーニンは落ち着き払って答えた。
「いやいや、“雲の上”が現実の空間として存在するように、“冬の果て”もまた現実に存在する、というのが私の考えです。ミール信仰における儀式や教典も、なんらかの現実的な事象を元にしているはず。その背後的な真実を見極《みきわ》めていくべきでしょう」
「それこそが、あなたが異端たる所以《ゆえん》だ。人々がみな、あなたのように勝手な解釈を始めたら、信仰も社会も一気に崩壊してしまう」
「――その点は同意します、教士殿」
ディエーニンはうなずいた。
「我々はあくまで傍流《ぼうりゅう》の存在であり、まっとうな社会[#「まっとうな社会」に傍点]の表通りを行くものではない。だが、このような非常時にあっては、我々のような者の働きこそが必要になると信じております」
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「つまり、今は我々[#「我々」に傍点]ではなく、あなたの時代であると?」
「いかなる時代であれ、我々[#「我々」に傍点]はそれぞれの持ち場で最善を尽くすべきなのです。今日この時を我々が生き残るためには、私どもの方法論と共にあなたがたの実行力が必要であり、また、さらに明日、明後日と生き延びていくにあたっては、再び神学院の主導する信仰を人々の営《いとな》みの基盤としていく必要があるでしょう」
ディエーニンはそこまで言うと、落ち着いた笑みを見せた。
「私どもの活動は、決して信仰と対立するものではありません。むしろそれを支え、補佑するものであると考えております」
対するウーチシチの表情からも、若干、険《けん》が取れた。
「なるほど……失礼ながら、思っていたよりはまともなお考えだ」
「それでは――」
身を乗り出すディエーニンをさえぎって、ウーチシチはかぶりを振った。
「だが、あなたの言葉を借りれば、私の持ち場は信仰を貫《つらぬ》くところにある。あるかどうかも分からない新天地への旅に市民を追い込むよりは、最後の時を祈りと共に過ごすことによって、魂を救うことを願います。あやふやな希望をちらつかせて、信仰をゆるがせにするべきではない。――あくまでもそれが、神学院を代表する私の立場です」
「いやいや、“あやふやな希望”とおっしゃいますが」
ディエーニンは快活に手を振った。
「我々には、それを主張するだけの論拠《ろんきょ》が……いや、生きた証拠[#「生きた証拠」に傍点]があるのです」
「証拠……?」
ウーチシチが怪訝《けげん》な顔をし、
「あ……」
それまで、終末党に紛《まぎ》れて一連の問答を聞いていたオーリャは、ディエーニンの言葉の意味するところに気づいた。
ディエーニンの言う“証拠”とは、もちろんレーナのことだ。外界から来た少女の存在は、脱出の先となる“目的地”の存在を明確に象徴するものとなるだろう。
つい先ほど、オーリャがブニコフに言付《ことづ》けられたのも、まさにそのレーナの件だった。オーリャが保護している[#「オーリャが保護している」に傍点]レーナを、ザヴォーティン邸を訪ねているディエーニンの下《もと》へ送り届けるようにと……。
ディエーニンはまだ、レーナがザヴォーティンの下にいることを知らない。
オーリャはまずザヴォーティンを説得してレーナの身柄を返してもらうつもりでいたが、事態は思いがけず切迫しており、すでにディエーニンがザヴォーティンの説得を始めていた。そこで、黙って成り行きを見ていたのだが……しかし、レーナの話が出た今、事情を知るオーリャがふたりの間に立たなければならない。
「あ、あの……!」
人混みから抜け出しながら声を出すと、赤槍の衛士隊も、白頭巾の終末党も、残らずオーリャの方を向いた。
一瞬|気圧《けお》されたオーリャに、ディエーニンがうなずき掛けた。
「おお、無事だったか、オーリャ。なにか意見があるのかね? それに、あの少女は?」
「はい、そのことなんですが……あの、ザヴォーティンさん」
オーリャはザヴォーティンに向き直った。
「教授の言う証拠というのは、昨日のあの子のことで……その、ええと……」
そこまで言うと、オーリャは口ごもった。なにをどう説明したものか、とっさに上手《うま》い言葉が出てこない。
しかし、おそらくはザヴォーティンも――昨日の態度から見て、ディエーニンやオーリャほど明確に意識してはいなくても、あの不思議な少女がミールの命運に関わる者であることに、薄々気づいているはずだ。レーナのことをザヴォーティンが思い出せば、あとのことはディエーニンとザヴォーティンが直接話し合えばいい。取りあえずオーリャは、その注意を促《うなが》しただけでも、最低限の用は足したことになる。
だが――
「――なんのことかね」
ザヴォーティンは言った。揺るぎない口調だった。
「え……?」
「うちの娘のことなら[#「うちの娘のことなら」に傍点]、昨日は約束を破られたと怒っていたが……それは私が口出しをするべきことではない。君たち自身がよく話し合って解決したまえ」
ザヴォーティンがあごで母屋を差すと、いつぞやの使用人がオーリャの腕をつかみ、力強く引き立てた。
「あ、いえ、その――」
わけも分からず、オーリャはその場を引き離されていく。
その姿を軽く見送ると、ウーチシチが言った。
「――ともあれ、私の意見は以上です。今後の方針について、どうぞよろしくご判断ください、議員殿」
ザヴォーティンはふたつの陣営のどちらにも視線を向けず、じっと足元の地面を見た。
ディエーニンは死にゆく“都市《ミール》”を捨て――あたかも自分たちひとりひとりがミールそのものであるように――大雪原の只中《ただなか》を歩いて行けと言う。
しかし、その先は? 巨神《ミール》さえもが力尽きる厳しい旅に、脆弱《ぜいじゃく》な人の身が耐えられるものだろうか。死の際《きわ》の苦しみを徒《いたずら》に増すばかりにはなるまいか。
一方のウーチシチの意見は、まさしく静謐《せいひつ》な絶望だ。
祈りと共に、心静かに死を迎える――あるいはそれは、この状況にあっては最も人間らしい選択であるかもしれない。
しかし、十万市民の生存の可能性を、個人の一存で断ち切ってしまってもよいものか。
困難な選択に、ザヴォーティンは迷っている。そのようにも見える。――しかし、彼の心がすでに決まっていることに、オーリャは気づいた。
ディエーニンの説を裏付けるレーナの存在を、あえて隠そうとしているということは――
ザヴォーティンは顔を上げた。
人垣の頭越しに見えるのは、ガラス張りの温室だ。
しかし、先ほどの地震で、何枚かのガラスはひび割れ、欠け落ちている。
「では、私の意見を申しましょう――」
ザヴォーティンが口を開くと、一同の視線が集中し、あたりはしんと静まりかえった。
その時、
「あ、あの――ザヴォーティンさん!!」
使用人の腕を振り払って、オーリャが駆け戻った。
「この小僧……!」
後ろから追いすがり、再びオーリャを捕らえる使用人を、ザヴォーティンが手を上げて止めた。冷徹《れいてつ》な視線が、オーリャの上に注がれる。
「ど、どうも……」
オーリャは背筋を伸ばし、深呼吸をして、ザヴォーティンの顔をまっすぐに見上げた。
「ええと、昨日は……それにいつぞやも、大事な温室に勝手にお邪魔してしまって、すみませんでした」
「君、今はそんな話をしている場合では――」
横槍を入れるウーチシチを、ディエーニンが目顔で制した。
ザヴォーティンは、オーリャをじっと見つめている。その表情は揺るぎなく、その内心は推《お》し量《はか》りがたい。
オーリャは言葉を続けた。
「勝手に入り込んでおいて、なんですけど……とてもよく手入れされている、いい花壇だと思いました。暖かくて、明るくて、いい匂いがして、まるで楽園というか、“天球《ニエーバ》”の中に、もうひとつ小さな“天球《ニエーバ》”があるみたいでした。だけど……」
オーリャは背後を振り返った。
「だけど、もう壊れてしまいましたね。残った花はどうするのがいいんでしょう。どこかに植え替えようにも、代わりの温室が見つかるかは分からないし……せめて折り取って花瓶《かびん》に生けて、しおれるまでのひと時を惜《お》しんだほうがいいのかも」
オーリャはためらいがちに言った。
「……今、みなさんが話し合っているのも、そのようなことですよね。確かに、無駄と分かっている仕事に時間を割くよりは、残された最後のひと時を落ち着いて大事な人と過ごすことのほうが、よほど価値のあることかもしれません。亡くなる家族を看取《みと》るように、みんながみんなを看取る[#「みんながみんなを看取る」に傍点]べきなのかもしれません」
終末党の集団から、不満げな低い呟きが漏《も》れた。しかしこれも、ディエーニンが無言のままに押さえる。
オーリャはさらに言葉を続けた。我ながら意外なほどに、饒舌《じょうぜつ》な言葉が口を突いて出た。
「でも、ザヴォーティンさん。人間は花と違って案外と丈夫なものです。“天球《ニエーバ》”の外、雪と鉄ばかりの外市街でもどうにか暮らしていられるくらいですから、その、案外と、“世界《ミール》”の外でも生きていけるんじゃないかと思うんです」
オーリャはそこまで言うと、大きく息をつき、ザヴォーティンの反応を待った。
「……オレグ君」
やがて、ひと呼吸ほどの沈黙の後、ザヴォーティンが口を開いた。オーリャを見下ろす視線の中に、初めて苦悩の欠片《かけら》が垣間《かいま》見えた。
「君は“天球《ニエーバ》”に生まれた内市民が大雪原の只中で生きていけると、本気で思っているのかね?」
オーリャはザヴォーティンの視線を、まっすぐに受け止めた。
「はい……そう、思います」
若干《じゃっかん》の躊躇《ちゅうちょ》はあったが、それはザヴォーティンに意見することに対する遠慮であり、自分の意見そのものに対する不信ではない。
「体温の保ち方も、吹雪のやり過ごし方も、知らないことは覚えればいいんです。ぼくや教授や、たぶんこちらの終末党のみなさんも、いくらかのことは教えられます。それから、旅がどれくらい長いものになるのかとか、その間、燃料や食べ物をどこから調達するかとかいったことは、いっしょに考えていきましょう。ぼくたちもまだ、ミールの外のことは、ほとんどなにも知りませんが……答えはきっと見つかるはずです」
「……外市民の君たちならば、あるいはそうかもしれん。だが君は、内市民が足手まといになるとは考えないのかね? 恵《めぐ》みあふれる“天球《ニエーバ》”の土地を失ってしまえば、彼ら自身にはなんの価値もない、とは?」
「えっ?」
オーリャは虚《きょ》を突かれたように、目を丸くした。
「別に、人の価値が持っている土地で決まるなんて……ああ、そうですね。そういう考えもあるのかもしれません」
オーリャは思わず、周囲をぐるりと見回した。外市民のオーリャにとって、“天球《ニエーバ》”は“天球《ニエーバ》”であり、それが誰かの所有物であるなどと考えたことはなかった。
「なるほど……これは確かにひと財産[#「ひと財産」に傍点]かもしれませんね――あ、いえ」
胸の前で小さく手を振って、オーリャは脱線した話を元に戻す。
「そういうものをさておいて、土地やらなにやらを抜きにしても……人はみんな、手や足や考える頭を持っているわけですし、それらは外の世界で生きていくにあたって、とても役に立つ財産[#「財産」に傍点]だと思うんです。例えばザヴォーティンさん、あなたなら――失礼かもしれませんが、並の大人の倍ほども力がありそうだし、人をまとめられる威厳《いげん》もある。ジェ……いえ、エフゲーニヤお嬢さんは、細かい仕事ができそうだし、なにより人の気持ちを明るくしてくれます。そういうのは、家屋敷とはまったく関係ない、あなたやお嬢さん自身の値打ちでしょう」
そう言いつつ、母屋《おもや》の方に目をやると、ザヴォーティンの背後にある玄関から、いつの間に来ていたのか、ジェーニャの顔がのぞいていた。
オーリャがわずかに会釈《えしゃく》すると、ジェーニャはあわてて引っ込んだ。オーリャはザヴォーティンに向き直り、言葉を続ける。
「それに、足手まといどころか……教授のおっしゃるような新たな土地に辿《たど》り着いたら、“天球《ニエーバ》”のみなさんに教えてもらわなければいけないことが、たくさんあります。ぼくたち外市民は、土のいじり方についてはなにも知りませんから……畑の作り方や、家畜の飼い方や――ああ、そうだ」
真摯《しんし》な様子で訴えかけていたオーリャが、なにを思いついたのか、ふと微笑《ほほえ》んだ。
「新しい土地に落ち着いたら……もちろん、何年かして、食べるものや着るものが充分にそろってからですが――」
オーリャはザヴォーティンに向かって、にっこりと笑った。
緊張に冷え固まった空気を融かすような、暖かく、明るい笑みだった。
「――薔薇の育て方を、教えていただけませんか」
ザヴォーティンは直立不動の姿勢のまま、しばし瞑目《めいもく》した。
ディエーニンもウーチシチも、それぞれの陣営《じんえい》の構成員たちも、彼の次の言葉を待って静まりかえる。
やがて、ザヴォーティンは重々しくうなずいた。
「……うむ」
「おお、ご協力いただけますか、ザヴォーティン殿!」
ディエーニンは大きな笑みを浮かべて歩み寄ると、ザヴォーティンの手を両手で握った。
次いでオーリャに向き直ると、肩を叩き、頭をくしゃくしゃとなでた。
「見事な説得だったぞ、オーリャ。実に心動かされる言葉であった!」
一方、
「――それは、市政議会の意思と見てよろしいのですかな」
ウーチシチは、仮面のような無表情のままに言った。
ザヴォーティンがうなずくと、ウーチシチは手にしていた錫《しゃく》を構え、一歩進み出た。
「では、もはや私の出る幕はありません」
「それは……?」
怪訝《けげん》な顔をするザヴォーティンに、ウーチシチは衛士隊への指揮権を表す錫を、両手で差し出した。
そして、背後に控える隊列を振り返り、朗々と言い放った。
「衛士諸君! 非常事態につき、衛士隊の指揮権は市政議会に委《ゆだ》ねられた! これより先は、権錫を携《たずさ》えし者の指示に従うべし!」
衛士隊は一瞬とまどった様子を見せたが、ウーチシチの冷静な表情を見ると、みな赤槍をまっすぐに立てて、承服《しょうふく》の意を示した。
「いや、教士殿、あなた自身のお力も貸してはいただけませぬか……?」
ディエーニンが言うと、ウーチシチはかぶりを振りながら、上級教士の地位を示す肩当てをも脱ぎ去り、手近な衛士に手渡した。
「学究《がっきゅう》の徒としてのあなたのご意見、また、市民の代表としての議員殿の選択は尊重《そんちょう》いたします。しかし、自らの言を簡単にひるがえすようでは、私は信仰者たり得ない」
ウーチシチはザヴォーティンに会釈をすると、きびすを返し、歩き始めた。
「教士殿、どちらへ」
「私は私個人の信仰を貫くのみです」
傍《かたわ》らを通り過ぎざま、ウーチシチはオーリャを刃物のような目で一瞥《いちべつ》した。
「……あ、あの」
オーリャがその背に呼び掛けた時、“天球《ニエーバ》”の大地が激しく揺れた。
「む……これは大きい! 議員殿、もはや一刻の猶予《ゆうよ》もなりませんぞ!!」
ディエーニンはザヴォーティンに、次いで、去ろうとするウーチシチに再度呼び掛ける。
「教士殿、あなたも協力を――」
しかし、ウーチシチの姿は、にわかに混乱し始めた人垣の中に、瞬《またた》く間に紛《まぎ》れてしまった。
オーリャがレーナの消息を尋ねると、ザヴォーティンはジェーニャを呼んで案内を言いつけた。彼女がどうやら丁重に扱われているらしい様子に、オーリャはほっと息をついた。
「――まったく、なんであんな子がお客様用のお部屋に寝てるのかしら」
廊下を先に立って歩きながら、ジェーニャはぷりぷりと不満げに言い、
「うん、ごめん」
とオーリャが頭を下げると、
「あなたが謝らなくてもいいの!」
と、ますます頬《ほお》をふくらませる。
「病気だって言うからしょうがないけど、元気になったら納屋《なや》に寝てもらうことにするわ!」
客室は、強い光に満たされていた。温室にあったものと同様の照明装置が何重にも設置され、寝台を明るく照らしているのだ。
「……レーナ?」
オーリャは寝台をのぞき込んだ。
“雲の上”を思わせる、光に満ちた空間の中心で、レーナはかすかな寝息を立てていた。その姿はやはり、どこかこの世のものではないように思える。
「……具合、よくないの?」
「さあ……」
横から顔を出したジェーニャに、オーリャはあいまいに答えた。
レーナの様子は昨日倒れた時ほどには悪くないように見えるが、なにしろこの娘については、なにからなにまで分からないことだらけだ。
起こしてみようか、様子を見たほうがいいのか――オーリャが逡巡《しゅんじゅん》していると、気配を感じたのか、レーナが目を開いた。
大きな瞳が二、三度瞬き、やがてオーリャの姿を捉《とら》えると、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
それで、オーリャも少し安心して、レーナに向けて微笑み返した。
「やあ……おはよう」
「……オーリャ!」
いくつもの照明から与えられている大量の光に加え、オーリャの微笑みが最後のひと押しになったのだろうか。レーナは急に元気を取り戻すと、寝床からぴょこりと飛び上がり、オーリャの首に飛びついた。
ジェーニャが反対側からオーリャの腕を引っ張りながら叫んだ。
「べたべたくっつかないで!」
半歩[#「半歩」に傍点]の後――
市政当局の先導の下、脱出計画は急速に進められていた。
内外ミール市民の混乱は、当初|懸念《けねん》されていたよりずっと小さなものに収まった。
以前より“終末党”の活動は外市街を中心に、秘密裏に深く根付いており、また、議会や神学院などの権威筋もこれに協力するとあって、組織立った反対運動が生じることもなかった。ますます頻発《ひんぱつ》する地震は小規模な暴動を誘発したが、それらは衛士隊を始めとする計画者側の組織に鎮圧《ちんあつ》され、また、全体的には計画の説得力を増していた。
現在は、巨人の体を血管のように這う何百という昇降機の路線が一斉に稼働《かどう》し、主要な物資と共に、一日に数千人の市民を地上に運んでいる。
“踏み出しの祭り”のために用意されていた飾りや菓子が、パレードの代わりに日に何度と出発する昇降機に向かって振りまかれた。なにはともあれ、これは新たな節目《ふしめ》、旅立ちの時である――この“大移動”は、そのような解釈の下、人々に受け入れられていた。
市民の半数はすでにミールの外、雪の大地に降り立ち、吹雪の中にテントの群れを作って暮らし始めている。頑丈《がんじょう》な仮設住居が作られるのはもう少し後、全市民が列を組んで移動を始めるのはさらに後になる。
――その頃。
オーリャは“天球《ニエーバ》”の頂上の、気球の発着所に向かっていた。レーナを“雲の上”に帰すためだ。
当初、ディエーニンはレーナを手元に置き、“大移動”の指針としようと考えていた。
だが、レーナ自身が状況を把握《はあく》しているとはとても思えず、有益な情報を得られる可能性はごく低い。また、なによりその体調が吹雪の大雪原で長く維持《いじ》できるとも思えない。
むざむざ弱らせ、死なせてしまうよりは――
「来たところへ帰してやれば、ひょっとして助けを呼んできてくれるかもしれませんし……」
オーリャの意見は甚《はなは》だ根拠《こんきょ》の薄いものだったが、ディエーニンはそれを承認した。
今や“大移動”の計画は巨大な歯車のように動き始めており、ひとりの少女の動向にかかずらわっている余裕はない。その上で、ディエーニンはもっぱらオーリャの個人的な気持ちを慮《おもんぱか》り、気の済むようにさせようと判断した。もちろん「速《すみ》やかにことを済ませ、その後は計画に助力するように」という条件をつけてのことではあるが。
またディエーニン自身も、この不思議な少女に対する個人的な興味を失ったわけではない。
計画書の山の中から顔を突き出し、ディエーニンはオーリャの傍らのレーナに呼び掛けた。
「お嬢さん、君の正体は結局分からずじまいとなったな。まことに残念だ」
「ザンネンダ」
「だが……何者であるにせよ、君の訪れば、我々に大いなる希望と転機をもたらした。今はひとたびの別れとなるが、いつかまた――うむ!?」
レーナの細い腕が伸び、ディエーニンの口髭《くちひげ》を引っ張った。
「む……ふむ」
目を白黒させながら口髭をなでつけるディエーニンの様子に、レーナがころころと笑った。ミール史上最高の賢者《けんじゃ》と、史上初の外界からの来訪者との、これが別れのあいさつだった。
そして――“天球《ニエーバ》”の壁面を昇る小型の昇降機から、オーリャはレーナを連れて降りた。これから気球でレーナを“雲の上”まで運び、オーリャが出会った時と同様、高空の気流に乗せる予定だ。
先行していた、研究室の何人かの助手が、器材の点検の手を休め、オーリャたちを出迎えた。ディエーニン教授やブニコフなど、研究室の主立った面々は、脱出計画の遂行に掛かりきりで、この場には来ていない。
だが――その代わりに、意外な客がオーリャを待っていた。背の高い細身の男が何歩か歩み寄ってきてから、ようやくオーリャは彼の正体に気がついた。
「教士様……?」
男――ウーチシチはうなずいた。今日は教士の装束《しょうぞく》ではなく、オーリャや助手たちと同様の防寒具を身に着けている。数日分の無精《ぶしょう》髭を生やしているせいでずいぶんと印象が変わって見えたが、鋭い視線は相変わらずだ。
「あの……なぜここに?」
オーリャが問うと、少し離れたところから、助手のひとりが言った。
「教授の言いつけで手伝いに来られたという話だが……聞いていないのか、オーリャ?」
「え? そんなことは――」
オーリャの言葉が、途中で止まった。ほかの人間には見えない角度で、白く光るナイフの刃が、オーリャの脇腹に突きつけられていた。
そして――ややあって、オーリャは助手たちに言った。
「すいません、連絡に不手際があったようです。今、確認します」
「――乱暴なまねをして、申し訳ありません」
ウーチシチは小声で言った。
「はあ、あの、それはどうも……」
オーリャはわけも分からず、あいまいに答えた。レーナが物珍しそうにナイフに顔を寄せるのを、あわてて押さえる。
「でも、いったいなぜ……?」
その問いに対し、ウーチシチはごく簡潔に答えた。
「私は“雲の上”に行きたい」
「あ……はあ、なるほど」
そのひと言で、オーリャは合点《がてん》がいった。
ウーチシチのような信仰者にとって、“雲の上”は一種の聖地――教義上の天界に当たる場所だ。ミールが崩壊してしまえば、地上の雪原からそこに昇ることは、ほぼ不可能になる。彼は、自分の人生において最後の機会になるかもしれないこの時を逃すまいとしているのだろう。
――それはたぶん、この人にとっては、とても大事なことなんだ。
そう思うと、オーリャはその要求を無下に断わる気にもなれなかった。
「うーん、そうですね……」
気球のゴンドラは元来ひとり乗りで、体の軽いレーナを合わせてぎりぎりふたりしか乗れないが……同行者はオーリャでなければいけないと決まっているわけでもない。しかし、ウーチシチに気球の操縦ができるだろうか――
逡巡したその時、ウーチシチが言った。
「――気球の発進や、命綱《いのちづな》の巻き上げなど、主な操作は地上の側で行なっているのでしょう? 気球側の操作はさほど複雑なものではないはずです」
「え? あ、はい……あの、お詳《くわ》しいですね」
オーリャが言うと、ウーチシチはうなずいた。
「この気球の運用については私も学んだことがあります。有人飛行用に改造されたものではありませんでしたが、基本は同様でしょう」
「あ……はあ、いったいどこで……?」
「君と同様、ディエーニン氏の下で」
「え――?」
――数分の後、重装備の防寒服を身に着けたウーチシチの傍らで、オーリャは暖気用の配管を確認していた。今回はほんの数分で“雲の上”までを往復するだけなので、気球の操作に関する説明は、いくつかの主要な装置のみに留めた。本人の言うように、かつてこの種の機材の扱《あつか》いを学んだことに加えて、もともとの頭のよさもあるのだろう。ウーチシチはいくつかの質問を挟《はさ》みながら、速やかに気球の操作を飲み込んだ。
一方、ウーチシチの方も、オーリャが手際よく作業を進める様子を見て呟いた。
「どうやら君は、一見の印象よりも、優秀な人のようですね……こんな状況でなければ、教士か技術者を志《こころざ》す道もあったろうに」
「はあ、ありがとうございます」
オーリャは頭を下げた。
「でも、ぼくなんかは外市街《そとまち》の生まれですから――」
「そうしたことは、大きな問題ではありません」
ウーチシチは手袋をはめた手で、自分の胸を指した。
「事実私も、かつて、外市民の身からディエーニン教授に引き立てられたのです」
「え――」
「意外ですか」
「ええ、その……はい、少し」
オーリャは素直に言った。
「あの……あなたはもっと、生まれついての学者とか、宗教家とか、そういう人かと思っていました」
ウーチシチの顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
「人は信仰者に生まれつくのではない。信仰という生き方を選択するのです」
どうやら“生まれついての宗教家”ではないということは、ウーチシチにとっては誇りであるようだった。
「――もっとも、逆に、その生き方を自ら捨て去る人物もいますが……」
「あ……」
思わず声を上げるオーリャに、ウーチシチはうなずいた。
「私が師事していたころのディエーニン氏は、教授[#「教授」に傍点]ではなく教士[#「教士」に傍点]の地位にありましたが、しかし、当時からすでに、いささか型破りな人物でもありました。神の存在に独自の手段で迫ろうとしては、教士の領分を逸脱《いつだつ》することがまま[#「まま」に傍点]あったことは否めません」
「はい、それは……きっと、そうだったんでしょうね」
オーリャは慎重に言った。自分にとって、教授のそうした性質は好ましいものだが、ウーチシチ教士にとってはそうではないかもしれない。
「分かってもらえるでしょうか……私はあのかたを尊敬していたが、その行ないにはついていけなかった。昇降機や雪上車に乗って、喜々として大雪原に飛び出すような勇気は――あるいは無謀さは、私には持てない。私は……外界の寒さが恐ろしいのです」
ウーチシチは、遠い記憶を呼び覚ますように、目を細めた。
「底冷えのする夜に一本の薪《まき》もなく、薄い毛布一枚を被《かぶ》ってまんじりともせずに過ごす……そういう経験が、君にもあるでしょう」
オーリャはうなずいた。
「ええ……外市街《そと》の人間は、みんなそうでしょう」
「信仰と規律こそが、人間をそうした状況から救ってくれると、私は信じました。しかし……それは単に、私個人が神学院での序列を上り詰め、寒気の届かない地位に至ることができたというだけのことかもしれない。つまるところ、私はずっと、外市街の寒風から逃げていただけなのです」
「いえ……あの、そんなことは別に、恥じることではないと思います。誰だって、寒いのはいやですから」
「私も、昔はそう思いました」
ウーチシチはうなずいた。
「師の行なっていることは単なる道楽であり、身に染みる真の寒さを知る者ならばみな、私のように行動するだろうと……しかし、君はどうです」
「え?……ぼくが、なんですって?」
「私と同様、貧困からくる酷寒《こっかん》をよく知りながらなお、ディエーニン教授の考えを飲み込み、彼の後について吹雪の中に飛び込みさえする……君と私の間にある違いとは、いったいなんなのでしょう」
「はあ。さあ、ぼくにはなんとも……」
オーリャは首をひねり、
「……ああ、でも、ひょっとしたら」
「なんですか」
外套《がいとう》のポケットを手で押さえながら、オーリャは言った。
「猫が一匹……友だちでした」
ウーチシチは眉をひそめた。
「猫……?」
「布団が蚤だらけになりましたけど、寒い夜にはとてもありがたかったものです。それで……ひとりきりでさえなければ、案外と寒さには耐えられる、そういう風に考えるようになったのかもしれません」
「なるほど……友人ですか」
ウーチシチは呟いた。
「確かに、私には友人と言える者はいなかった。いつも自分ひとりのことで手一杯でした」
「まあ、ただの猫ですけど……」
「いや、猫だけではありません。ディエーニン教授も、ザヴォーティン議員も、その少女も……みなが君を選ぶ。君の中の隠れた熱量が、周囲の人間を惹きつけるのでしょう」
「あ……ど、どうも」
意外な相手からの、思いがけないほめ言葉に、オーリャはとまどった。
そういえば、教授にも似たようなことを言われたことがあったけど――
――もしかしたらこの人は、自分で思っているよりもだいぶ、教授に似ているんじゃないだろうか。
そう考えると、この人物に対する構えた気持ちが融けていくように思えた。
「あの……ぼくたちは、生きて“雲の上”を見た、ただふたりのミール市民ということになりますね」
「はい……?」
オーリャは訥々《とつとつ》と、ウーチシチに話し掛けた。
「“上”は、すばらしい景色ですよ。なんていうか、この世のものではないようなすばらしいことが、やっぱりこの世につながっているんだと思える、というか――いえ、すいません、上手く言えなくて」
頭を掻《か》き掻き、オーリャは言葉を続ける。
「とにかく、下[#「下」に傍点]ではこれから、長い、たいへんな旅が始まるところで、そんな時こそ、こういうことをみんなに伝えていかなくちゃ、って思っていたんですけど……どうもぼくは言葉が上手くなくて、困っていたところです」
オーリャは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「でも、教士様なら説法が本業《ほんぎょう》だし、まさに適任ですね」
その様子を見て、ウーチシチの肩から、わずかに力が抜けた。
「なるほど、いい笑顔だ……すべて納得がいきました」
「それはなによりです」
オーリャは晴れやかにうなずくと、待機していた助手に手を振った。球皮に暖気が送り込まれ、気球は急速に立ち上がり始める。
それから、オーリャは背後を振り返り、レーナを呼んだ。
事前の検討の結果、レーナには軽い上着のみを着せてあった。彼女はもともと身ひとつで空を飛んで来たのだし、上空まで行けば、地上の服は脱ぎ捨てて飛んでいくことだろう。
オーリャはレーナの服装を確認すると、最後に彼女の細い手を取った。
「レーナ、ぼくはここでお別れだ。あとのことは教士様にお願いしてあるからね。それと、あの……ミールに来てくれて、どうもありがとう。とてもうれしかったし、ぼくもみんなも、おかげでとても元気が出たよ。今、街がたいへんなことになっていて、ちゃんとしたお別れもできないけど、いつかまた、きっと会いにいくからね。それから、ええと……」
オーリャはレーナの手を握ったまま、しばし言葉を探したが、それ以上の台詞《せりふ》は出てこなかった。
「……今は[#「今は」に傍点]それだけ。ありがとう。さよなら」
オーリャはウーチシチを振り返った。
「それじゃあ教士様、よろしくお願いします……さよなら、レーナ」
ゴンドラから出て行くオーリャの背に、ウーチシチが声を掛けた。
「オレグ君、私からもお別れを言いましょう」
「え……ぼくにですか?」
オーリャは笑いながら振り向いた。
「教士様には、またすぐに会えるじゃ――」
――ウーチシチの手は力強く、そして素早かった。
長大なナイフの刃が閃《ひらめ》き、厚い上着を貫いて、オーリャの腹に根本まで埋まった。
「え……?」
痛みよりもまず驚きから、オーリャは目を見開いた。
「――君は正しく、私は間違っていました」
ウーチシチは、静かに言った。
「困難な旅路に踏み出す勇気が、君にはあるが、私にはない。そのため、君はすべてを得るが、私はすべてを失う。君の世界は無限に広がっていくが、私の世界は音を立てて崩れ去る……それらのことが、すべて分かりました。それを教えてくれたのは君です、オレグ君。それゆえに――それゆえに、私は君が憎い」
「そんな……」
瞳に虚無《きょむ》の色をたたえながら、ウーチシチは言った。
「どうしますか、オレグ君。今となっては意味のないことではありますが――私はやはり、死ぬ前に“雲の上”が見たい。また、空のものは[#「空のものは」に傍点]、空に帰すべき[#「空に帰すべき」に傍点]だとも思います」
ゴンドラの中を見て回っているレーナも、少し離れて作業をしている助手たちも、オーリャの身に起こったことにはまだ気づいていない。
「……ぼくも……そう、思います」
オーリャはそう答えると、ナイフが刺さったままの腹をかばいながら、助手たちに手真似《てまね》で指示を出した。
すでに充分な浮力を得ていた気球は、固定金具を外されると、力強く上昇を始めた。
離床と同時に命綱が切り離されるのを見て、オーリャは悟った。
ウーチシチは最初から、地上に帰ってくるつもりはなかった――彼が行こうとしていた“雲の上”とは、この世ではないどこか[#「この世ではないどこか」に傍点]なのだ。
「オーリャ?」
ゴンドラから身を乗り出すレーナに向かって、オーリャはこわばった笑みを浮かべながら、手を振った。
気球は急速に小さくなり、厚い雲の中に消えようとしている。
しかし、気球が視界から消えるより早く、脚の力が抜け、オーリャは横様に倒れた。
異常に気がついた助手たちが、オーリャの名を呼びながら駆け寄ってきた。
そして、気を失う寸前――気球のゴンドラから、少女の姿が飛び出すさまが見えた。
[#改丁]
終章
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目覚めたのは、地上のテントの中だった。
時間にして丸々一歩[#「一歩」に傍点]の間、オーリャは眠り続けていたという。
腹部からの出血が激しく、一時は生命が危ぶまれたが、レーナが全身を発光させながら手当てをすると、急速に治癒《ちゆ》が進み、命を取り留めることができたそうだ。
シャツをめくってみると、脇腹に引きつれたような傷跡ができているのが見えた。
「やはり、彼女の発する光が君の生命活動を促進《そくしん》したと見るべきだろう。いやはや、彼女の存在は神秘の塊《かたまり》だ!」
何度もうなずきながら言うディエーニンに、オーリャは言った。
「それで、今、レーナは?」
力を放出し切った彼女は、今はザヴォーティン邸から持ち出された照明の光を浴びながら眠っているという。空には帰し損《そこ》ねてしまったが、当面、生命の危機はないようだ。
「まったく、電池かなにかみたいな人だわ」
そう言ってジェーニャが鼻を鳴らしたが、オーリャの回復と入れ替わりに倒れたレーナに、大あわてで寝床を手配したのは、共に看病に当たっていたジェーニャ自身だという。
オーリャはほっと息をつくと、続けて問うた。
「それと、あの……教士様は……?」
ディエーニンはかぶりを振った。
あの日、ほんの数分で地上に落下したであろう気球を探し、かつてのように捜索隊が派遣《はけん》されたが、オーリャの時ほどの運も、また、ウーチシチ自身の生還の意志もなかったためだろう、手がかりを得られぬまま、昨日捜索が打ち切られたという。
「優秀な人物であったが……惜しいことをした」
かつて師弟関係にあったというディエーニンにとってはなおさら、言い尽くせない思いがあるのだろう。オーリャは黙ってうなずいた。
それから数日間、オーリャは療養《りょうよう》を続けた。ジェーニャが看護婦気取りで身の回りの世話をしてくれた。
時々レーナの様子を見に行ったが、目覚める気配はなかった。発電機の割り当ての関係から、以前よりやや光量を落としているせいかもしれない。
その間、ディエーニンはザヴォーティンらと共に、市民の移動計画を練《ね》っていた。
地震がひどくなり、すでにミールからの物資の搬出は中止している。そのため物資は乏《とぼ》しかったが、偶発的な事故などで死んだ者を除き、一応は市民の生命をひと通り確保できたとあって、今のところ、全体の雰囲気は楽観《らっかん》傾向にあった。
だが、“天球《ニエーバ》”や工場街なしに、いかにして生活を成り立たせるか。今の手持ちの資材でどこまで行けるのか。依然、長期的な見通しは立っていない。
ミールは動かない。
低く安定した地鳴りの音が途絶《とだ》え、代わりに時折、唸《うな》るような、軋《きし》むような音が、風雪に混じって野営地まで届いてくる。
そして――ついに、最後の日が訪れた。
“踏み出しの祭り”の初日に歩みを止めた巨人は、ついにその次の一歩を踏み出すことなく崩壊を始めた[#「崩壊を始めた」に傍点]。
そのさまは、遠く離れた野営地からもはっきりと見えた。計画に奔走《ほんそう》するディエーニンも、生活の立て直しに勤《いそ》しむ他の市民たちも、その日は仕事の手を休め、かつての“世界”の消滅《しょうめつ》を見届けた。
暗い空の下、激しい吹雪の中、重荷を負った巨人の姿が、遠い地響《じひび》きと共に、ゆっくりと崩れていく。最初は震動《しんどう》と共に体の表面から欠片を落とすばかりだったが、やがて腕が落ち、膝《ひざ》が崩れ、巨人は頭からのめり込むように雪原に倒れ伏した。
その背に負った“天球《ニエーバ》”が、あまりの巨大さのため風船が潰《つぶ》れるように砕《くだ》け散った時には、市民の間に低いため息が漏《も》れた。もうこの先、暖かな大地を見ることはないかもしれない。
屑岩《くずいわ》の山と化したミールの周辺では、崩れた体の余熱によって、雪が融《と》けて沸《わ》き立ち、もうもうと湯気を立てた。ディエーニンの計算によれば、これも数日のうちに収まるはずだ。
その後は、もはやミールも“天球《ニエーバ》”もなく、地上には、無限の大雪原が広がるばかり――
並んで大崩壊のさまを見ていたジェーニャが、オーリャの腕にぎゅっとしがみついた。
「寒いわ……」
「――大丈夫」
オーリャはジェーニャの肩を抱きながら、空を見上げた。厚い雲に隠れて見えないが、そこにある太陽[#「そこにある太陽」に傍点]を、オーリャははっきりと感じていた。
と、その時――
「トモダチ……!」
「え――?」
オーリャが振り返るのと同時に、彼の肩を蹴《け》って駆《か》け抜けていくものがあった。テントを飛び出したレーナだ。
「トモダチ! ビョウキ……!?」
「ちょ、ちょっと――」
オーリャはレーナを追って駆け出した。
しかし、レーナは雪の上に足跡もつけず、羽織《はお》っていたシャツを脱ぎ捨てて、くるくると回転しながらつむじ風のように走っていく。とても人の足で追いつける速さではない。
「友だちって……」
オーリャは呟いた。
レーナの行く手には、山のようなミールの残骸がそびえている。
「ミールが[#「ミールが」に傍点]……君の[#「君の」に傍点]、友だち[#「友だち」に傍点]……?」
立ち止まったオーリャが呟《つぶや》くうちにも、レーナは雪原を駆け抜け、やがて見えなくなってしまった。
やがて、巨人の骸《むくろ》の頭のあたりで、なにかがちかりと光った。
レーナの発する、不可思議な光だ。
すると――
巨人の残骸の中から、新たな巨人が立ち上がった[#「新たな巨人が立ち上がった」に傍点]。
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先ほど崩れ去ったさまを逆に再現するように、崩れた山の中から、手が、脚が再生し、背筋を伸ばして立ち上がる。体格はひと回り小さいが、もはや背も曲がっていなければ、街を背負ってもいない。
若い巨人は天に向かって大きく手を伸ばすと、低くたれ込めた雲を掻《か》き分けた。雲間から強くまばゆい太陽の光が射し込み、大雪原を輝くように照らし上げた。
次いで、巨人は新たなる一歩を踏み出した。
雪原の中に踏み出された足。その周囲の雪が見る間に融け、露出《ろしゅつ》した地面から草むらが、また花や木々が、急速に伸び上がってゆく。一歩、また一歩、かつての老いた身とは比べものにならない軽い足取りで、大股に歩を進めるたびに、巨人の足元から緑が広がっていく。
巨人自身の体にも、無数の木々が生《は》え、獣の体毛のようにその表面を覆《おお》っていく。肩のあたりにちらちらと瞬《またた》いて見える光は、レーナのものだろうか。
地上に残る雪を融かしながら暖かな風が吹き、巨人の背を押した。巨人はますます大股に、ますます軽やかに、緑を振りまきながら歩いていく。
「なんと……ここが[#「ここが」に傍点]!」
ディエーニンが天を仰ぎ、頭をぴしゃりと叩いた。
「“冬の果て”――千年の歩みの終わり――今[#「今」に傍点]、ここがそうなのだ[#「ここがそうなのだ」に傍点]!」
晴れ上がった空、澄んだ空気の下、見晴らしは以前よりはるかによい。巨人は今や、はるか遠く、青い稜線《りょうせん》を大股に越えて歩み去ろうとしている。
「……すごいわ!」
呆然《ぼうぜん》と周囲を見回すミール市民の中から、ジェーニャが飛び出した。そして、レーナを追って前に出ていたオーリャを追い越すと、くるりと振り返った。
「見て、オーリャ! お父様! “天球《ニエーバ》”だわ! 千倍も万倍も大きな“天球《ニエーバ》”だわ! 前も後ろも、全部、全部!」
赤い薔薇のような少女は、再びくるりと回転し、巨人の背を追って、生まれ変わった世界へと駆け出していった。
鮮《あざ》やかな色彩の中に溶け込んでいくその後ろ姿を見て――
――ああ、絵の具が使えるようになりたいな。
と、オーリャは思った。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
出す出すと言い続けて丸一年引っ張ってしまった『冬の巨人』、ようやく出ましたよ。
いやあ、今回も難産でした。
この種の創作物というのは、もちろん理屈とか技術で書いている部分もあるのですが、逆に作者のその時々の気分みたいなものに支配されている部分もかなりあるかと思います。特に私ことフルハシはむらっ気[#「むらっ気」に傍点]の多いほうで、同じようなストーリーがその時々で書けたり書けなかったり、はたまた別のものに変わってしまったり。
舞台役者よろしく「ステージは生き物だから毎回変わるんだよ! 一期一会《いちごいちえ》の出会いを楽しんでよ!」などと言えばカッコはいいですが、ラーメン屋がいきなり「今日はラーメンって気分じゃないんだよ……」とか言い出すのは困りもの。
この本についても、「“破滅と再生の寓話《ぐうわ》”という感じでひとつ」みたいな素案は早々に出来上がって、昨冬の刊行を期して半分くらいは書いていたんですが、そこから先が、どうにも筆が止まってしまって。理由を問われても「なんとなく」とか「気分」としか言いようがなく……(まあその間、別の原稿を書いたりしていたわけですが)。
そんなこんなでこの一年、
「このままでは『春の巨人』になってしまいますな」
「夏の盛りに『冬の巨人』というのも乙なものでしょう」
「秋には……いや、もうちょっと待てばまた冬になりますし」
「……すいません、また春が来てしまいます」
などと間抜けなことを言っていたわけですが――
あらためて昨年を振り返ってみると、前半にちょっと体調を崩したり、そこから後半に減量と体力作りを始めて贅肉《ぜいにく》を十キロほど落としたり(おかげさまで、今はたいへん健康です)、というバイオリズムがなんだか本書の内容に符合しているような。言ってみれば、作者の体が物語に追いつく[#「物語に追いつく」に傍点]のを待っていたような塩梅《あんばい》でした。
まあ、読者さんにはあんまり関係ないと言えば関係ないのですが、個人的には「そういう時期に書いたんだよなあ」と、のちのち感慨《かんがい》深く思い出されるであろう、“節目”的な一冊であると思います。いやまあ「おまえの本は全部“気分”やら“節目”だろうが」と言われるとその通りなんですが。
さて、ではまた次の節目に向けて、がんばってまいりましょう。
ところでこの本の企画は、一昨年に徳間書店の担当さんから「なにかやりましょう」というお話が出たとき「じゃあ藤城陽さんのイラストでひとつ」というところから始まっています。
いや、藤城さんとは以前から仲よくしていただいていて「そのうちなんかやりたいですね」と言っていたのですが、結果、こっちから話を振って、表紙(ご覧《らん》の通り、すばらしいですな!)も早々に上げていただいた上に、「すいません、原稿がまだ……」で一年引っ張るという大|狼藉《ろうぜき》。
されど、担当さんも藤城さんも嫌な顔ひとつせず「いやいや、どうにかがんばっていきましょう!」と励ましてくださったりして――なんか私、どこへ行ってもそんな感じですが――たいへんありがたかったことです。
そのほか、読者及び関係者のみなさまにもご迷惑をおかけしました。すみません。
いや、社交辞令じゃなくて、刊行予定とか購入予約とかを何度も空打ちさせてしまっていたわけで、実質的な被害《ひがい》が出ている。ヤバい。
この辺《あた》り、「どうなっとんじゃ」と怒っていたかたもたくさんいらっしゃると思うのですが、その一方「フルハシの新刊が無事に出ますように」と祈ってくださるかたも見受けられて、ああ、自分は多くの人に支えられているのだなあ……と思いつつ筋トレに勤《いそ》しむ日々。
いや、まずは体から立て直して、あふれる健康パワーをみなさんに還元する方針で!
[#地付き]二〇〇七年一月   古橋秀之
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設定資料
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底本:「冬の巨人」徳間デュアル文庫、徳間書店
2007(平成19)年4月30日初刷
入力:iW
校正:iW
2008年1月31日作成