ブラッドジャケット
古橋秀之
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
〈例〉吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
〈例〉|バチ喰らいやがれ《DAMN YOU》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
〈例〉[#地付き]――W・F・ロング『吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》秘史・二人のナイトウォーカー』より
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CONTENTS
0 神鳴る拳を持つ男 CRACKKNUCKLE
1 屍体蘇生業者 RE-ANIMATOR
2 鮪 MAGURO
3 緋色の聖人 St.SCARLET
4 修羅 OGRE
5 フック兄弟 HOOK BROS.
6 夜を往くもの NIGHTWALKER
エピローグ EPILOGUE
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0 神鳴る拳を持つ男
CRACKKNUCKLE
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積層都市〈ケイオス・ヘキサ〉。混沌《こんとん》の名を冠するこの巨人都市の底知れぬ闇《やみ》の中には、極限の恐怖が潜んでいる。
紅《あか》き双眸《そうぼう》に狂気の光を宿し、罪なき人々の生命を刈り取る夜の魔人――吸血鬼《ヴァンパイア》。
今日もまた、永劫《えいごう》の夜の静寂《しじま》を切り裂いて、無残な悲鳴がこだまする。
だがここに、闇の脅威に立ち向かう一人の男がいる!
最高最強のコマンドチーム〈吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》〉を率い、闇を貫く雷《いかずち》のことく駈《か》け抜けるその男の名は、キャプテン・ジョン・R・ドレイク!
人は彼を〈|神鳴る拳を持つ男《クラックナックル》〉と呼んだ!!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]――『キャプテン・ドレイク 〜神鳴る拳を持つ男〜』|OP 《オープニング》より
「|野郎ども、突入だ《ゴー・ブラッズ》!」
「|Yah《ヤー》!」
怒号と共に鋼鉄製のドアが蹴《け》り開けられ、ダークレッドの護法胴着《チャームドジャケット》をまとった男たちが室内に突入した。先陣を斬《き》るのは言うまでもなく、我らが英雄キャプテン・ジョン・R・ドレイク。またの名を〈|神鳴る拳を持つ男《クラックナックル》〉。その行く手にいかなる危機が待ち受けようとも、不敵な笑みを浮かべつつ、ためらわず死地に身を投じる男だ。勇猛果敢にして一騎当千の吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の猛者《もさ》たちもまた、そんな彼に喜んでその命を託している。
室内に転がり込んだドレイクは愛銃R&VM92Eマグナムを右手に構え、周囲を索敵。
物音一つない、完全な闇《やみ》。だが、彼の鋭敏な感覚は瞬時に感じ取る。血臭漂う闇の中に息づく無数の敵意を、その中でもひときわ大きい、圧倒的な悪のパワーを!
「ようこそ、ジャック」
闇の奥から見事なテノールが呼びかけた。気品と余裕を感じさせるその声はしかし、悪意ある揶揄《やゆ》のトーンをも含んでいる。
「〈ロング・ファング〉!」
その名に呪《のろ》いあれ! 〈ザ・ヴァンパイア〉の異名《いみょう》を取る今世紀最大最悪の吸血鬼《ヴァンパイア》、人類の天敵にしてキャプテン・ドレイクの最大の好敵手が、まさに今、この闇のベールの彼方《かなた》に潜んでいるのだ!
「私がこの手の無粋な訪問を好まないということは、とうに理解してもらえたと思っていたのだがね……実に残念だよ」
パチンと指を鳴らす音と共に、照明が点灯した。同時に、部屋の隅に構えたオーケストラが、ゆったりとクラシックを奏で出す。
「!」
ドレイクに続いて突入し、配置につきつつあった隊員たちが絶句した。
瀟洒《しようしゃ》な調度の数々に彩られた広い室内、玉座《ぎょくざ》のようなソファに腰掛けた美貌《びぼう》の青年――〈ロング・ファング〉を取り巻くように、イブニングドレスの美女(いずれもミズ・ユニバース級だ)が十数人、妖艶《ようえん》な笑みの端に牙《きば》をのぞかせて立っている。
対吸血鬼戦は多対一をもって基本とする。わずか五名の突入班で一〇体以上もの吸血鬼《ヴァンパイア》に当たるのは自殺行為だ。
「どうします、キャプテン?」
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》のNo.[#「No.」は縦中横]2、“|氷の《アイス》”アイザックがドレイクに耳打ちした。ドレイクが右腕と頼むこの男は、いついかなる時にも冷静さを失わない。
「この場は撤退し、区画《ブロック》ごと爆破消毒を行なうのが最上と考えます」
「数千の市民を巻き添えに、か?」
「最小限の被害です。キャプテン、決断を」
ドレイクは答えの代わりにヒュウ、と口笛を吹き、
「まさか、このご婦人方を我々にけしかけたりはするまいな、〈ロング・ファング〉!!」
「もちろんだ」
〈ロング・ファング〉は傍らの女の首筋にくちづけていた唇を放し、優雅に立ち上がった。
「君たちは招かれざる客だが、主人《ホスト》の役目を果たすとしよう。――彼らに飲み物を」
女はうなじから流れる二筋の血をハンカチで拭《ぬぐ》うと、ゆったりと一礼してグラスの並ぶテーブルに向かった。
「パーティーを楽しんでくれたまえ。気に入った娘《こ》がいたら、ダンスを申し込んでみるといい」
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の面々を見渡していた〈ロング・ファング〉は、次いでドレイクを正面から見据えた。
「だがジャック、君とは二人きりで話がしたい」
狂気に彩られた紅《あか》い瞳《ひとみ》が、鋭い光を放つ。吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の標準装備である抗邪視・凶眼偏光グラスを通してさえ、並の人間の魂を瞬時に砕くパワーが込められているその視線を、ドレイクは真っ向から受け止めた。
「いいだろう」
〈ロング・ファング〉はふっと表情を和らげると、うながすような視線を奥のドアに流し、ドレイクに背を向けて歩き出した。
「キャプテン、危険です」
小声で引き止めるアイザックの背をぽんと叩《たた》き、ドレイクは〈ロング・ファング〉の後を追った。
「ダンスを楽しめよ」
「しかし……!」
アイザックをさえぎるように割り込んだ女が、数杯のグラスの載ったトレイを掲げ、鋭い牙《きば》をのぞかせて微笑《ほほえ》んだ。
「お飲み物を」
ドアを抜け、古風な造りの螺旋《らせん》階段を上ってたどり着いた室内は闇《やみ》に包まれ、先ほどよりさらに濃厚な血臭に満たされている。
「実のところ、私には今一つ理解できないのだ。……なぜ君のような男が、むきになって私の行動を制限しようとするのか」
〈ロング・ファング〉は壁際に近づくと、そこにある何物かに無造作に腰掛けた。不思議な弾力を感じさせる動きを伴って、その体がわずかに沈む。
「掛けたまえ」
「結構だ」
ドレイクは既に気づいていた。壁際にうず高く積まれたもの、今〈ロング・ファング〉が腰掛けているものが何であるかを。
〈ロング・ファング〉は芝居がかった動作で肩をすくめると、言葉を続けた。
「君の能力は賞賛に値する――尊敬しているとさえ言っていい。肉体的にも、精神的にも、私の知るうちで最高の男だ。頭もいい。君との駆け引きは、極めて刺激的なゲームだったよ。……だが、それもそろそろ飽きてきた」
〈ロング・ファング〉は一旦《いつたん》言葉を切ると、軽く笑った。艶《つや》めいた、それでいて品を失わない、余裕ある微笑。だが、その唇の端にのぞく長大な犬歯は、彼が油断のならない魔物であることをはっきりと示している。
「そこで君に訊《き》きたい。君を動かしているものはいったいなんだ? なにが君を地表の家畜どもの柵《さく》の中に繋《つな》いでいるのだ? 『正義』? それとも『愛』? くだらんね。豚の正義、豚の愛になんの価値がある? 君は豚の仲間ではない。むしろ我々に……私にこそ近いものだ」
ドレイクの表情に、冷たいものが疾《はし》った。
「屋内でも決してサングラスを外さないのはなぜだ? そこらのチンピラのようなその牙《きば》は? たまにはその暑苦しいボディスーツを脱いで、恒常日照区《サンフィールド》でバカンスと洒落《しゃれ》込んでみたらどうかな?」
「……ずいぶん俺《おれ》のことをよく知ってるじゃないか」
転じて、ドレイクはぎりりと犬歯を剥《む》き出して笑った。見る者を思わず総毛立たせる、獰猛《どうもう》な笑みだ。
「お返しに、おまえのことを教えてやるよ」
「ほう?」
「おまえは屍体《したい》にたかる蛆虫《うじむし》だ」
〈ロング・ファング〉が立ち上がった。彼の腰掛けていたもの、壁際に高く積まれていたもの――老若男女を問わぬ無数の人間の屍体――その一部が、重く柔らかい音を立てて崩れた。血と屍臭の入り交じった匂《にお》いが、新たに立ち上る。
吸血鬼《ヴァンパイア》の顔から、笑みが剥《は》がれ落ちていた。後に残されたものは、禍々《まがまが》しい魔物の本性だ。
「君とは友人になれると思っていた。……その友情に対する答えがそれか」
「蛆虫の友情か」
「貴様!」
〈ロング・ファング〉の意識が怒りに支配された一瞬を衝《つ》き、ドレイクは抜く手も見せずに
|E《エンチャント》マグナムを構え、その額を照準《ポイント》した。
「|動くな《フリーズ》、〈ロング・ファング〉。貴様といえども、頭をジャムにされては無駄口も叩《たた》けまい」
五〇口径の巨砲に見据えられた〈ロング・ファング〉の顔に、再び笑みが戻った。ゆっくりと、開いた両手を頭の横に上げながら、
「ここに至ってなお警告を発するとはな。君に対する非礼をわびねばならんようだ。君は紳士的な男だ。実に公正だよ。……だが甘い!!」
降伏の意を示すように掲げられた両手が転瞬《てんしゅん》、固く握り締められると、凄《すさ》まじい勢いで背後に打ち振られた。〈ロング・ファング〉の背後の屍体《したい》の壁が二つの拳《こぶし》に砕かれ、崩れ落ちる屍体と、血と脳漿《のうしょう》と膿汁《のうじゅう》のシャワーが吸血鬼《ヴァンパイア》の姿を覆い隠す。
ドレイクは立て続けに発砲した。一、二、三、四、五、六発。強力に呪化《じゅか》されたハローポイント弾が、瞬間、死者の雪崩《なだれ》に血しぶく穴を穿《うが》つ。
銃声が、長い尾を引いて闇《やみ》に溶けた。
「甘い、甘い」
降り積もった屍体の山から突き出た一本の腕が、人差し指をチッチ、チ、と左右に振った。次いで、〈ロング・ファング〉は屍体を撥《は》ね散らしながら飛び出し、ドレイクの目の前に降り立った。数発、被弾している。だが致命傷ではない。襟《えり》の大きく開いた胸元に大きく口を開いた銃創が、ドレイクの目の前でみるみる治癒していく。血にそまった美貌《びぼう》が、悪鬼の笑みを浮かべた。
「クラッカーはパーティーのとり[#「とり」に傍点]までとっておきたまえ。少なくとも、最後の一発は」
ドレイクの手から、ごとりと銃が落ちた。彼の左胸が、尖《とが》った骨片に深々と貫かれている。屍体の山の中から〈ロング・ファング〉が放ったものだ。
だが、口から血の塊を吐きながらなお、ドレイクは不敵な笑みを浮かべた。
「とっておきは他《ほか》にあるのさ」
ドレイクは左手を開き、〈ロング・ファング〉にその甲を示すように顔の横に掲げた。続けて、あたかも中空の霊気を握り込むように力強く拳を固める。その拳が機械的な唸《うな》りを発し始めた。
「おまえは俺《おれ》のことをよく知っている……だが、肝心なことを知らないと見える。たとえば、俺がなぜ〈|神鳴る拳を持つ男《クラックナックル》〉と呼ばれるのかを!」
ハム音が急速にトーンを上げるのに応じて、左手の甲に埋め込まれた十字架型《クロス・》ゲージが発光し始めた。初めは鈍く赤く、そして、燃えるように白く。
「それは……!?」
〈ロング・ファング〉がたじろいだ。単なる十字架に対する反射行動ではない。彼の鋭敏な感覚は、ドレイクの拳に秘められた異常なパワーを嗅《か》ぎとったのだ。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。昔いまし、今いまし、のち来たりたもう主たる、世にも貴き三|位《み》一体の御名において――」
三位相封環《トリニティ・セイフティ》、全相解除。ゲージからパチパチと青白い火花が散り、光の筋を描いて拳にまとわりついた。ドレイクは呟《つぶや》くように聖句を唱えながら、幾筋もの電弧《アーク》をまとい回転鋸《かいてんのこ》にも似た金切り声を上げる拳を大きく振りかぶり――
「――|バチ喰らいやがれ《DAMN YOU》!!」
閃光《せんこう》、そして轟音《ごうおん》。その拳《こぶし》が〈ロング・ファング〉の体に突き込まれると同時に、ドレイクの鋼鉄の義手に封印されていた雷霆《らいてい》が解放され、怒濤《どとう》の如《ごと》くほとばしった。バッテリーや呪術《じゅじゅつ》誘導による放電とは桁《けた》が違う。〈ケイオス・ヘキサ〉最上部の避雷針を通し異相空間に蓄電されていたそれは、文字通りの『青天の霹靂《へきれき》』――本物の〈神の怒り〉だ。そして今、ドレイクの拳を媒介に、怒れる神は〈ロング・ファング〉の全身を一瞬にして焼き尽くした!!
〈ホテル・セントラル・ヘキサ〉。上層階級《ハイ・クラス》が利用する、その中でも最高級のホテル。〈ケイオス・ヘキサ〉A層中央付近に位置し、この都市において最も得難い自然の恩恵、陽光を十二分に享受すべき立場にあるその最上階――そこにまさか、闇《やみ》に潜むべき吸血鬼《ヴァンパイア》が巣喰《すく》っていようとは! その事実は当局の追跡を惑わす盲点であると同時に、華美とリスクを好む〈ロング・ファング〉の性格を示すものでもあった。
黎明《れいめい》のA層に轟音《ごうおん》と振動が響き渡り、中央の数|区画《ブロック》が停電した。その中心では、ホテルの最上階が消失し、瓦礫《がれき》と粉塵《ふんじん》の帽子となってビルを飾った。〈ロング・ファング〉に打ち込まれた雷撃は、その肉体を滅ぼすのみならず、大量のプラズマと衝撃波による破壊を周囲にまき散らしたのだ。
「キャプテン!」
階段を駈《か》け上ってきたアイザックがまず目にしたのは、紺碧《こんべき》の空一面に輝く、これまでに見たこともない、そしてこれからも見ることはないであろう多量の星々。その美しさに彼は息を飲んで立ち尽くした。
『ジャック……ジャック!?』
肩口に装備された交霊式通信機《トランシーバー》から発する女の声に、アイザックは我に返った。彼の傍らに降りてきた青白い霊体――妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》マージョリー・ファイブは通信機を通じてアイザックに問うた。
『ジャックは……!?』
彼らの周囲にあるのは、剥《む》き出しになった鉄骨と、屍体《したい》とコンクリートとがシェイクされた瓦礫の山。それはいわば、死と破壊を象徴し、生者の存在を否定するために造られた舞台装置だ。
M5の霊体が揺らいでいる。不安のためばかりではない。彼女の依代《ホスト》は一階のフロントで待機状態にあるはずだ。轟音を聞いて飛んで[#「飛んで」に傍点]きたのだろうが、このような長距離の霊体投射は自我消散の危険を伴う。
「M5、待機に戻れ」
『でも……』
足元の瓦礫がごとりと動いた。
「そうつれなくするな、アイザック」
左手で体をささえ、瓦礫《がれき》の下から半身を起こしたドレイクが、焼け焦げた顔を歪《ゆが》めてにやりと笑った。
『ジャック……!』
胸元に跳びついたM5に添えられたドレイクの腕は、前腕の半ばまでが炭化し、骨を剥《む》き出しにしている。いまだ帯電しているそれが時折発する火花に干渉されて、M5の霊体に小さな波紋が生じた。
アイザックは形式通りの敬礼と共に、状況報告を開始した。
「源吸血鬼《ルートヴァンパイア》〈ロング・ファング〉の消滅によって、階下の吸血鬼《ヴァンパイア》は無力化。うち、吸血鬼化第二度までの者は吸血鬼根絶特別法による保護観察下に移行、第三度以上の者は――」
アイザックの顔に、一瞬、苦渋に満ちた表情が走った。
「――規定通り処理しました」
「そうか」
ドレイクは再び上体を倒し、仰向けに空を見上げた。星は光を、空は色を失い、白々と夜が明けつつある。
『ジャック、もう時間が……』
「〈ロング・ファング〉は死んだ……残りは小物だ。アイザックに任せればどうにでもなる」
『ジャック……?』
「なあ、マギー。夜明けと共に消え去るってのは、なかなかの死に様じゃないか……?」
割れたサングラスの奥で、紅《あか》い瞳《ひとみ》が微笑《ほほえ》んだ。
『そんな……』
M5は助けを求めるようにアイザックを仰ぎ見た。だが、彼は答えない。永遠に闇《やみ》に生きる宿命を背負ったこの男の悲哀を、彼は誰《だれ》よりも深く理解しているのだ。
「ハ、ハ!」
何者かが、嘲《あざけ》るような笑い声を立てた。
崩れた壁際の瓦礫の山を撥《は》ね飛ばして立ち上がったそれは、大まかな人型をした消炭の塊だ。古い特撮映画の|コマ撮り動画《ストップモーション》のようなぎこちない動きで腕を組み、人差し指をチッチ、チ、と振る。
「〈ロング・ファング〉……!?」
消炭は黒焦げの顔を歪めた。頬《ほお》のあたりから、黒い塊がぼろぼろと剥《は》げ落ちる。黒い顔面に冗談のように並ぶ真っ白な歯、その中でもひときわ目立つ巨大な犬歯。
「いや、諸君! 今日は楽しかったよ。私は失礼してもう休むとするが、次回のパーティーにも是非出席してくれたまえ」
「待て!」
アイザックの放った対不死《アンチ・アンデッド》ナイフが一筋の銀光の如《ごと》く空間を疾《はし》り、〈ロング・ファング〉の心臓に突き刺さった。だが、〈ロング・ファング〉は意に介する風《ふう》もなく、笑いながら数歩を後退《あとずさ》り、ビルの縁から背後に倒れ込む。その行く先は、闇《やみ》に満たされた摩天楼の狭間《はざま》。遠ざかる哄笑《こうしょう》はやがて、ビル風に吹き消された。
『追跡します!』
M5が飛行形態を取り、〈ロング・ファング〉を追って降下していった。
『ジャック……追ってきて!』
短いノイズと共に通信は切れた。アイザックは通信機を止め、瓦礫《がれき》の山を振り返った。
「……ジャック、私は今、生まれて初めて、吸血鬼《ヴァンパイア》を仕留め損ねたことに満足しています」
ドレイクに向けられたアイザックの顔には、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「我々はあなたを必要としている」
階下から残りの隊員たちが上ってきた。アイザックの前に整列、敬礼する。
「任務完了!」
「よし」
アイザックは再びドレイクを振り返った。その顔は再び、氷の表情を持つ有能な副官のものとなっている。
「キャプテン、命令を」
ドレイクは犬歯を剥《む》き出してにやりと笑い、胸に刺さった骨を引き抜いた。その心臓が力強く鼓動を始め、彼の焼け焦げた顔、焼け落ちた左腕が急速に治癒していく。
十字架の印を刻み込まれた鋼鉄の義手が、高々と天に突き上げられた。
「|野郎ども、撤収だ《ターン・ブラッズ》!」
「|Yah《ヤー》!」
[#地付き]THE END
[#ここから1字下げ]
――以上のシーンは八三年から三年間にわたって放映された人気TVドラマ『キャプテン・ドレイク 〜神鳴る拳を持つ男〜』からの一場面である。
当初、吸血鬼学やミリタリーに関するTVドラマとしては非常に正確な考証が話題となり人気を博したこのシリーズも、八六年からの『キャプテン・ドレイク大活躍』、その翌年の『がんばれドレイク』へとその対象年齢を低くしていき、近年に至っては、ドレイクはその名を苦笑と共に語られる道化《どうけ》と化していた。
だが、放映開始当時の社会情勢を顧みる際に、『吸血鬼《ヴァンパイア》にして吸血鬼《ヴァンパイア》ハンター』、不死の肉体に正義の心を宿したこの英雄が〈ヴァンパイア・ショック〉から立ち直ろうとする人々の心の支えとなったことを忘れてはならない。
そのドレイクにモデルとなった人物が存在したことは『キャプテン・ドレイク』再評価の気運の高まる昨今では周知の事実とされている。
アーヴィング・ナイトウォーカー。
当時最大の吸血鬼として恐れられていた〈ロング・ファング〉を斃《たお》し、市内の相当域に繁殖していた吸血鬼《ヴァンパイア》をわずか二ヶ月で駆逐した〈吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》〉の隊長としても名高いこの男の素顔はしかし、意外なほどに知られていない――
[#地付き]――W・F・ロング『吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》秘史・二人のナイトウォーカー』より
[#改丁]
1 屍体蘇生業者
RE‐ANIMATOR
[#改丁]
「おいアーヴィー、知ってるか? 『ナイトウォーカー』ってのは、『蚯蚓《みみず》』って意味なんだぜ。そうだよ、あのニョロニョロした、あれさ。おまえは『蚯蚓野郎』ってわけだ」
そう言ったのは、中学の同級生だったろうか。
ほんの何年か前のことなのに、よく覚えていない。顔も思い出せない。
どういういきさつでそんな話が出たのか、それも今となっては判《わか》らない。
『蚯蚓』と言われて、自分は怒っただろうか?
いや、多分《たぶん》、あいまいな愛想笑いを浮かべたくらいだ。
きっと、今の自分と同様に『蚯蚓野郎』とか言われた男が、何百年か前の先祖にいたのだろう。
それもまた、自分には似つかわしいことのように思える。
列車がトンネルに入った。
窓に映る自分の顔に、かつてと同じあいまいな表情が浮かんでいた。
腹立たしいのか、懐かしいのか、それとも滑稽《こつけい》なのか。
自分でも、よく判らない。
今朝《けさ》起きたのは、いつも通りに午前五時。だが、母が気分が悪いというので、熱を計ったり氷を用意したりして、結局家を出たのは六時過ぎだ。朝だというのに三〇分に一本しかない廃線寸前のローカル螺状線《らじょうせん》に駈《か》け込み、通勤経路は約二時間。どうにか間に合ったと思ったら、人身事故で三〇分停車。
アーヴィング・ナイトウォーカーが職場に着いた時には、午前九時を一〇分ほど回っていた。所長はすでに作業着に着替え、『侠慈《キョージ》』のバンから一便《あさいち》の荷を受けたところだった。いつもなら、八時前には出社するアーヴィーが事務所の掃除の次にしている仕事だ。
「あ、あの、す、すいません。は、は、母の具合が……」
バンが出ていくのを待って、アーヴィーは恐るおそる声をかけた。所長は聞こえているのかいないのか、アーヴィーを無視して伝票にチェックを入れている。
「あの、それ、て、手伝いましょうか?」
所長は無言。チェックが終わるまでの数十秒間、アーヴィーはその傍らに所在なく立ち尽くしていた。所長は最後の印をつけると、クリップボードに伝票をはさみながら、「早く着替えてこい」とだけ言った。怒っているのか、それとも気にしていないのか、それは結局|判《わか》らない。
アーヴィーが作業着のファスナーを上げながらロッカールームを飛び出すのと入れ替わりに、ヒューイットが「よーっす」と右手を上げて入ってきた。
ウエスト所長に、ヒューイットとアーヴィー。この三人が『ウエスト屍体蘇生《リアニメーション》センター』の全社員だ。主な業務は事故|屍体《したい》の一次蘇生保全処置。ここで処置された屍体は一定期間公安の遺体安置所《モルグ》に置かれた後、引き取り手がなければ公共|呪業《じゅぎょう》や民間のボディバンクに転売され、憑霊《ひょうれい》媒体や臓器移植等に使用される。小口の仕事も請け負うが、業界二位の私設レスキュー組織(というより屍体回収業)『侠華慈徳善堂《きょうかじとくぜんどう》』の下請けと言い切ってしまっても、おおよそ間違いはない。
防寒着を羽織《はお》って薄暗い作業場に入ると、猛烈な腐臭が立ち込めていた。すでに所長が『荷物』を広げているのだ。
「うわ、ひ、ひどいですね」と、アーヴィーが言ったのは、匂《にお》いのことではない。一便は夜の間に腐敗が進んでいることが多いし、作業場は低温を保つために換気ができない。いつものことだ。腐臭にはとうの昔に慣れている。
作業台の上に開かれた『荷物』――大きく呪蔽印《じゅへいいん》がプリントされた屍体袋の中身はどれも分断屍体――屍体というよりは一山の肉塊だ。最近はこんな屍体《モノ》が多いが、今日のは特にひどい。
「うぉわ」遅れて入ってきたヒューイットが口笛を吹いた。「〈|ぶつ切りハック《ハック・ザ・ハッカー》〉の再来か」
ヒューイットはロッカーから持ってきたラジカセをデスクの上に置き、ポケットから何本かのカセットを取り出した。
呪蔽《シールド》された屍体袋《したいぶくろ》から出された屍体にものが憑《つ》かないように、作業中は音楽をかける。憑物は騒音を嫌うからだ。
「BGMはなにがいいスか? スートラ? それともコーラン?」
「好きにしろ」と所長。
「イエッサー」
カチャ、という小さな音の三秒後、轟音《ごうおん》というか爆音というか、ものすごい音が作業場に響き渡り、ボーイソプラノの超音波シャウトがアーヴィーの頭蓋《ずがい》を突き抜けた。たしか、『|地獄の聖歌隊《ヘル・クワイア》』とかいう名の賛美歌パンクだ。ヒューイットの話では今、街で流行《はや》っているそうだが、アーヴィーはよく知らない。繁華街には行かないし、ラジオも聴かない。
ともあれ、匂《にお》いには慣れたが、この音にはまだ慣れない。
でも、いつかは慣れるだろう、とアーヴィーは思った。どんなことだって、我慢してるうちにどうにかなるもんさ。
絨毯《じゅうたん》爆撃を連想させる騒音の中、三人は作業を始めた。
完全屍体の保全処置の場合、体を拭《ふ》いて防腐剤と賦活剤《ふかつざい》を注射するだけでいいのだが、侠慈《キョージ》を通じてここに送られてくる事故屍体《わけあり》はたいがいどこかが破損している。破損部には血液が通わないので防腐剤が行き届かず、屍体は傷口から腐り始める。そうならないように、破損部は注入する賦活剤に工業用|霊液《エリクサー》を混ぜ仮生状態にしてやるのだが、今回のような分断屍体は厄介だ。屍体袋の中身は輸送中にシェイクされ、開いた時には立体ジグソーパズルと化している。
三人はそれぞれの作業台の上に、ばらばらの手足をならべ始めた。一通りのパーツがそろったら、断面に霊液《エリクサー》を塗布して接合してやるのだ。一応形だけでも完全にしておけば、バラより長持ちするし、管理もしやすい。
アーヴィーの開けた屍体袋の中身は、若い女だった。腰の辺りが切断されているが、幸いにも上半身はほぼ無傷。血糊《ちのり》を拭いてやると、なかなかの美女らしいと判《わか》った。
誰《だれ》かに似ている…?
女の体を傾けて脇《わき》を拭いてやりながら、自然と母の体を拭いてやる時の姿勢を取っていることに気づいた。
この屍体《ひと》は母さんに似ているのか。……いや、そうじゃない。
母さんが屍体に似ているんだ。
アーヴィーの母は何年も前に脊椎《せきつい》を痛め、ベッドから起きられなくなっている。彼女の身の回りを世話し、清潔を保つのはアーヴィーの仕事だ。昼と、遅くなるときの夜の食事は近所の人に頼んでいるが、そう頼ってばかりもいられない。もう少し給料が上がれば、パートの看護人を雇えるのだが。
とはいえ、別に現状を悲観しているつもりはないし、屍体が嫌いなわけでもない。屍体も母さんも、そして自分も、皆それぞれの事情でそこにある。ただ、それだけだ。別によいことでも悪いことでもない。
「お、いい女だな、畜生。ちょっと貸せよ」とヒューイットが言った。
なかば冗談から出たセリフだったが、アーヴィーは、
「い、いいっスよ」と答えた。自分はどんな屍体《したい》が相手だって構わないし、ヒューイットもより楽しく仕事ができるなら、それに越したことはない。
「悪いな、しょぼ」と言いながら、ヒューイットはアーヴィーと場所を替わった。アーヴィーは、ヒューイットが取り組んでいた、むくつけき親父《おやじ》ジグソーに挑む。
ヒューイットはアーヴィーを『しょぼ』と呼ぶ。「いつもしょぼくれているから」だそうだ。
「俺《おれ》はただ、普通にしてるだけですよ」と言ったら、「その普通がしょぼくれてんだよ、おめーの場合」と言われた。そんなものかな、とも思う。
「あ、あ、あの、先輩」
今度はアーヴィーがヒューイットに声をかけた。ヒューイットは一昨年の秋にアーヴィーより一ヶ月遅く入社した。よって、職歴ではアーヴィーの方が『先輩』なのだが、ひと回り年上のヒューイットを立てて『先輩』と呼ぶことにしている。
「こ、この人、右手が二本あるんです、けど」
「馬鹿《ばか》、そんな奴《やつ》いるか」
ヒューイットが組みかけの親父をのぞき込んだ。その傍らで、アーヴィーは片腕に二本の右前腕を抱え、伝票を繰りながら、途方にくれている。
「ったく、侠慈《キョージ》の連中、目方で詰め込みやがったな」
複数の寸断屍体が同時に出た場合、屍体のパーツが混じってしまうことがある。規則ではきちんと仕分けしてパックすることになっているが、時にはこんなミスも生じる。それがあまりにも著しい場合を皮肉って「秤《はかり》で目方を計って詰め込む」というのだ。
「あまったら捨てっちまえよ」
「でも、ひ、左手が、ないです」
伝票には『中年白人男性・全体』と記載されている。欠損屍体にしてしまっては、引き取りのときに買い叩《たた》かれることになる。『バラ』で保管してある左手を使えば一応完全にはなるが、今度はそちらの帳尻《ちょうじり》が合わなくなる。
「ああん? 世話のやける野郎だな、おめーは。んなモン、適当でいいって」
ヒューイットは肉に食い込んだ破片などをこじるために置かれているナイフを手に取ると、アーヴィーが持っている腕の一本をとり上げ、その親指をごつりと切り落とした。次いで、小指側の肉を薄くそぎ落とし、
「おい、DC」
「あ、は、はい」
DC‐7の缶を開けると、霊液《エリクサー》特有の甘い香りが漂った。専門書には「薔薇《ばら》の花の香りに似た――」とあるが、アーヴィーは本物の薔薇《ばら》は見たこともない。
独特の青白い蛍光色を放つその液体を刷毛《はけ》につけて渡すと、ヒューイットは切り取った親指の切断面にそれを塗り、小指側に接着して一丁上がり。
「ほらよ」
「は…?」
アーヴィーがふたたび手にしたそれは、なんとも珍妙な『左手』だ。霊液《エリクサー》の活性化作用で神経が刺激され、ピクピクと動いている。
「バレやしねえって」
「あ、ど、どうも…」
こういったことに妙に機転が利くヒューイットを、アーヴィーはいつも頼もしく思う。
「しっかし、ひでえなこりゃ」
自分の作業に戻ったヒューイットが、袋の中からなにかをつまみ上げた。
「はは、見ろよしょぼ。こっちにゃチンポが入ってやがった」
「はあ。そ、そういえば……」
「あん?」
「な、な、なんか、きょ、今日の、お、お、『お客さん』はみんな、お、男みたい、ですけど」
「は? おめ、なに言ってん……」
アーヴィーの差し出したクリップボードをひったくり、屍体袋《したいぶくろ》の番号を照合する。
『白人青年・全体』備考欄に『胸部に豊胸手術跡』。
「うわ。俺《おれ》様、やる気半減」
「わ、わ、悪いですよ。そんなこと、い、言ったら」
所長が二体、ヒューイットとアーヴィーが一体ずつ。一便の四つの屍体を処置し終えたときには、午後二時近くになっていた。所長はなにかの用事で街へ行き、その直後に侠慈《キョージ》の二便がきたが、それはひとまず作業場に放り込んでおいて、二人はいつもの通りロッカールームへ。
遅い昼休みが始まった。
いつもなら弁当を出すところを、アーヴィーは参考書を取り出し、読み始めた。
『八一年度版・上級遺体蘇生保全処置技術者資格試験傾向対策集』。所長との間に、上級免許が取れたら給料を上げてもらう話がついている。
「あん? 飯も喰《く》わねえでお勉強かよ。いい子ちゃんだな、おめーは」
「はあ、す、すんません」
ヒューイットは『お勉強』に対するアレルギーのためか、アーヴィーが本を読んだりしているとあまりいい顔をしない。
「学校じゃ、さぞかし優等生だったろうよ」
「はあ、せ、成績は、よかったです。わ、わりと」
「じゃ、なんで……」
「屍体屋《したいや》なんぞに」と言いかけたところで、ヒューイットは以前、アーヴィーの家庭事情について聞いていたことを思い出した。中学を卒業する年に母親が体を壊し、進学をあきらめたのだという。
「すまん、俺《おれ》が悪かった。私が悪うございました。辛気臭《しんきくさ》い顔すんな」
弁当の菓子パンをぱくつきながら、ヒューイットはばつの悪い顔でそっぽを向いた。その様子を、一応気をつかって参考書を閉じたアーヴィーが、することもなく、ぼおっと眺めている。
「あんだよ、おめ、飯はよ?」
「え? あ、朝ちょっとバタバタし、してたもんで……」
この辺りにはパン屋も定食屋もない。もしあっても割高につくので、アーヴィーは外食はしない。
「つくづく哀れを誘う奴《やつ》だな、おめーは。……飯がまずくなるぜ」
「は、はあ、すんま……」
パンが二つ飛んできた。
「食欲なくなった。喰《く》え、おめーが喰え。責任持って処理しろ」
「え? ……あ。す、すんません。お金、払います。え、一二〇の、にひゃ、二八〇…」
「黙って喰え、馬鹿《ばか》」
ヒューイットは照れ隠しに、ロッカーに持ち込んでいる小型テレビのチャンネルを|漫然と変える《ザップ》。
午後二時のニュース。一昨年に壊滅した〈ケイオス・トライ〉からの難民の大量流入のため、〈ヘキサ〉のホメオスタシス機能が飽和状態になりつつあるとかいう……まあ、どうでもいいような話だ。
「俺様のような優秀な人材が屍体屋なんぞをやらされてるのも、〈トライ〉の連中が仕事をさらっていくからだな」などとヒューイットは言っている。
「よそからきて、ずうずうしいもんだぜ。なあ?」
「はあ…」
実際には、そうした人々のほとんどは、まともな職もなく最下層などの行政区画外に住まざるを得ない。
多分《たぶん》、先輩もそれは判《わか》ってはいるのだ、とアーヴィーは思った。ただ、誰《だれ》かのせいだと思わなきゃ、屍体屋なんかやってられない。
そういう自分はどうなんだろう?
母さんのせい?
駄目駄目、そんな風《ふう》に考えちゃいけない。
アーヴィーは軽く頭を振って、テレビに集中する。
続くニュースは、最下層市街を中心に猛威をふるう吸血鬼|禍《か》はいまだ衰える気配を見せず、降魔管理局《A・S・C》の働きかけで公安の呪装戦術隊《S.E.A.T.》に配備される対吸血鬼用装備に、各方面から多大な期待が寄せられている、とか。
「お、見ろよ、Eマグだ!」と言って、ヒューイットが身を乗り出した。
画面には拳銃《けんじゅう》やショットガン、ゴーグル、スプレー缶などが並んだ映像がちらりと映ったが、アーヴィーには普通のものとどう違うのか、よく判《わか》らない。
「吸血鬼は都市に巣喰《すく》う癌《がん》だ。転移する前に、切除しなければならない」
切り替わった画面の中で、初老の男――吸血鬼学者ウィリアム・ヘルシングが言った。
小柄な体格に、ぼさぼさの髪。総じてさえない風貌《ふうぼう》だが、貫くような鋭い眼光が不釣合で、あまり学者らしくないな、とアーヴィーは思った。
「おっさんはいいから、もっとGUNを映せよGUNをよ! …ん?」
作業場の方で、ごそりと物音がした。
「なんか言ったか?」
「…い、いえ?」
二人は顔を見合わせ、聞き耳を立てる。
音楽が聞こえない。
「まさか……」
一足先に飛び出したヒューイットが叫んだ。
「やべ! しょぼ、歩いてる[#「歩いてる」に傍点]歩いてる!」
中年男性と若いニューハーフ、二つの屍体《したい》が作業場の中をうろついている。
音楽がかかっているから大丈夫と、きちんと屍体袋に入れておかなかったのだが、いつの間にかテープが終わっていたのだ。
屍体たちはぎこちない一歩を踏み出すごとに、腹の底から「オオ」とか「アア」とかいう声を吐き出しながら、アーヴィーたちに向かってきた。
『歩く死者』は人肉を喰らう。屍肉も喰らうが、なぜか共食いだけはしない。なにか呪術的な意味があるらしいが、アーヴィーは知らない。ともあれ、お好みはより新鮮な生きた人間の肉だ。
視力はほとんどないはずなのだが、どういうわけかこうした場合、『歩く死者』はまっすぐ生きた人間に向かってくる。匂《にお》いで判るのだともいうが、鼻がつぶれていても関係ないので、それはどうかな、と思う。
どちらにしても、雑霊にとり憑《つ》かれた屍体は、ふんじばって除霊師を頼むか、頭部を破壊しなければならない。経済効率からいって、ここで選ぶのは当然後者だ。
「オカマ野郎からいくぜ!」スコップを手にしたヒューイットが言った。
「は、はい!」
アーヴィーはモップを持ってニューハーフの正面から近づき、胸のあたりを強く衝《つ》いた。ニューハーフはよろけながらも、どうにか踏みとどまる。意外と動きがしっかりしている。
『歩く死者』の動作は概して緩慢なものだが、今回のように霊液《エリクサー》を使用している場合、肉体のポテンシャルはむしろ生者より高いことが多い。ただ、神経が切れたり骨格がねじれたりしていて、うまく力が出せないのだ。
姿勢の崩れたニューハーフの脚を、脇《わき》に回り込んだヒューイットのスコップが払った。うつぶせに倒れるその首筋を、アーヴィーがモップで押さえつける。
ヒューイットはニューハーフの後頭部にスコップを当て、足をかけ、
「そぉ、ら!」
かけ声と共に踏み抜く。
モップの下でニューハーフの体が何度か大きく痙攣《けいれん》し、やがて収まった。アーヴィーは大きく息をつく。
「しょぼ、後ろ!」
「うわ!」振り向いたアーヴィーが叫んだ。
親父《おやじ》の屍体《したい》が二便の袋に屈《かが》み込んでいる。
「く、喰《く》っちゃ駄目、喰っちゃ駄目」
開いた屍体袋の中身を口に運んでいる親父に駈《か》け寄る。その足が床に転がる臓物に滑り、派手に転んだアーヴィーはコンクリートの床に後頭部をしたたかに打ちつけた。
「馬鹿《ばか》!」とヒューイット。
頭を押さえて丸くなるアーヴィーに、親父がのしかかった。濁った眼《め》、黄色く変色した歯が目の前に迫る。
ヒューイットは歩幅を調節しながらステップ・イン。安全靴のつま先で、親父の頭をサッカーボールのように蹴《け》り飛ばす。首の接合面がちぎれ、親父の頭はきれいな放物線を描いて壁にぶつかり、掃除用のバケツにがぽりと入った。
「……おい、生きてるか、しょぼ」
「はあ、な、なんとか」
親父の体を押しのけ、頭をなでながら起き上がったアーヴィーは、作業場の惨状を見渡し、
「こ、これ……ど、ど、どうします?」
「……そうだな、とりあえず所長《じじい》が帰ってくる前に――」
所長が帰ってきた。
「片づけろ」の一言で、この一件は片づいた。
屑《くず》屍体を廃棄ポッドに収め、床を流した後に二便の処置をし、その他《ほか》に飛び込みの仕事を一件片づけて、ようやく仕事が終わる頃《ころ》には一一時を回っていた。
今日は泊まっていくというヒューイットと所長に挨拶《あいさつ》をして終電に駈《か》け込み、家に着くのは午前一時過ぎ。
アパートの伝言板に、新しい貼《は》り紙が入っていた。曰《いわ》く――
この近辺でも吸血鬼《ヴァンパイア》の被害が増加しています。外出はなるべく日照配給時間内に済ませ、市販の十字架や数珠《じゅず》を携帯しましょう。もし吸血鬼《ヴァンパイア》に襲われたら、視線を合わせないように目を閉じて、一心に神仏に祈りましょう。吸血鬼《ヴァンパイア》を発見された方、被害を受けた方は、すぐに最寄りの公安連絡所へ通報を。
――これ、あんまり意味ないよなあ。
そう思いつつも、アーヴィーは律義《りちぎ》にメモを取り、足音が響かないように気をつかいながら階段を上った。
ドアを開けると、薄暗い部屋の中から澱《よど》んだ空気が流れ出してきた。
そういえば、このところエアコンの調子が悪いみたいだ。
「ただいま、母さん」
部屋を横切りつつスイッチをOFF。啖《たん》の絡んだような音を立てていたエアコンは、二、三度しゃっくりをした後、大きなため息をついて止まった。
アーヴィーは窓を開けながら、「具合はどう?」
他人と話すときに出る吃音《きつおん》が、家では不思議と出ない。多分《たぶん》、母さんと話しているときの自分が一番自然なんだろう、とアーヴィーは思う。
母はアーヴィーのほうに顔を向けた。
やつれた顔だが、それでもきれいだ、とアーヴィーは思った。元気だった頃の母さんを花に例えるなら、今の母さんはさしずめ、ドライフラワーだ。
美しいまま、枯れていく。
「ずいぶんよくなったわ、アーヴィー」と母は答えた。「今日は遅かったね。どうしたの? どこへ行ってたの?」
「仕事が遅くなったんだ」
すっかり溶けた氷嚢《ひょうのう》を脇《わき》にのけ、汗で湿った体を起こしてやりながら、アーヴィーは言った。
「――どこにも行きやしないよ、母さん」
母さんを置いて、どこかに行けるわけがないじゃないか。
冷えた空気に、ポンプの鼓動。それと、微《かす》かな薔薇《ばら》の香り。
頭上には巨大なパイプがうねり、からまり、脳髄《のうずい》にも似た印象をもつ奇怪なオブジェを形作っている。
ライマン脳。
降魔管理局《A・S・C》本部の中枢に位置する大|論理器械《プログノメータ》。玩具《がんぐ》好きの降魔局《A・S・C》が抱え込むがらくたの一つだ。その中核は、戦前に制作され、一〇〇年をかけて器物霊《ツクモガミ》を宿すに至った絡繰《からくり》時計だという。
吸血鬼学者W・ヘルシングは、チューブと歯車で構成された巨大な顔に対峙《たいじ》していた。ライマン脳のインターフェイスだ。
目を閉じ、緩やかに呼吸している。まるで眠っているようだ。
人間の身長を三倍するサイズと、すべてを見通すかのような眼差《まなざ》しをもつこの顔面を「皮を剥《む》かれた神の顔」だと言う者もいる。
だが、「違う」とヘルシングは思う。
神などいない。
「始めていいでしょうか」と傍らに立つ降魔局《A・S・C》のオペレータが言い、ヘルシングは無言でうながした。
オペレータは目を半眼《はんがん》に閉じ、大きく息を吸うと、腹の底から絞り出すような声で巨顔に命じた。
『起動せよ、起動せよ。息吹の器《うつわ》、知の坩堝《るつぼ》。言の葉の繁る大木よ』
無数の歯車がささやき、さざめき、数秒の後、ごうん、という音と共に、鋼の巨顔がゆっくりと目を開いた。人の頭ほどもある黒い瞳《ひとみ》が二人の姿を映す。
『息吹の器たる我を、知の坩堝たる我を、言の葉の繁る大木たる我を起動せしめたるは何者か?』
巨顔はオペレータと同じ、独特の韻律を持つ言葉で答えた。人間と論理器械《プログノメータ》との直接対話のために作られた、高級器物言語《ハイ・アーティフィシャル》だ。
『我が名はヘンリー・マクファーソン。混沌六芒《こんとんろくぼう》の民、降魔局《A・S・C》の使徒、汝《なんじ》、付喪《つくも》の霊と語るを職《しき》とする者なり』
『しからばヘンリー・マクファーソン。混沌六芒の民、降魔局の使徒、付喪の霊と語るを職とする者よ、汝《な》が魂の名は如何《いかに》』
マクファーソンは巨顔に、〈ケイオス・ヘキサ〉当局によっておのが魂に呪《じゅ》的に刻印された登録名を告げた。巨顔はゆっくりと瞬きをした後に言った。
『ヘンリー・マクファーソン。六芒の民よ。我は汝《なんじ》を確認せり。汝《な》が名を、汝《な》が魂の名を確認せり。しこうして、汝《な》が存在を確認せり』
くだらん手続きだ、とヘルシングは思った。だが彼は、自分がここで得られるかも知れない情報を必要としていること、この一見回りくどくみえるかけ合いはそのための最短ルートであることを理解していた。器物との対話には、人間のような融通が利かない。
彼は冗長を好まないが、それが必要ならば、必要なだけ待つことができる。
今までも、そうしてきた。
六〇時間前、これまでに無力化した吸血鬼《ヴァンパイア》から採取した血液を鑑定した結果、このたびの〈ケイオス・ヘキサ〉における吸血鬼|禍《か》の呪詛型《タイプ》が特定された。
〈タイプ・スクエア〉。その源吸血鬼《ルートヴァンパイア》はかつて〈オクタ〉、〈スクエア〉、及び〈トライ〉においてその存在を確認された感染源不特定類吸血鬼《URV》〈ロング・ファング〉だ。
現在市内に増殖しつつある吸血鬼《ヴァンパイア》は、その大部分が吸血鬼化第三度以下――まだなりたて[#「なりたて」に傍点]だ。源吸血鬼《ルートヴァンパイア》との感染魔術的連携を強く保ち、〈親〉を押さえることによって一気に解呪《かいじゅ》もしくは無力化できる。
だが、年経た吸血鬼《ヴァンパイア》は抜け目ない。それが〈|親知らず《URV》〉ともあれば、なおさらだ。ただの|死にぞこない《アンデッド》が、何世紀も生き延びられるわけはない。
事実、〈ロング・ファング〉は常に巧妙にその足跡を消し、遠視者と予知能力者が束になっても足どりをつかめないでいる。
『我は次なる者の情報を欲す。其《そ》の真《まこと》ならざる名を、かりそめの住まいを、今、この瞬間《とき》に如何《いか》に在るかを』
徹底した合理主義者であるヘルシングが、巨大なブラックボックスともいえるこの論理器械《プログノメータ》の情報に頼らねばならないということは、事態が手詰まりとなりつつあるという事実を示していた。
『しからば、汝《なんじ》は我に其《そ》の魂の名を告げよ。其《そ》の真《まこと》ならざる名を、かりそめの住まいを、今、この瞬間《とき》に如何《いか》に在るかを知ることを欲するならば』
『其《そ》は魂の名を持たざる者なり。其《そ》は魂を持たざるなり』
ヘルシングは、マクファーソンが「|魂の名《コード》を入力できれば一発なんですがね」と言っていたことを思い出した。だが、〈トライ〉からの難民に紛れて侵入した〈ロング・ファング〉は、ヘルシングと同様〈ヘキサ〉での登録名を持たない。また、それ以前に、吸血鬼《ヴァンパイア》はその存在を特定すべき魂を持たない。それゆえに呪術《じゅじゅつ》的追跡が困難なのだ。
彼らを扱うときには、人や生き物ではなく、人の形をした『現象』としてとらえる必要がある。例えるなら――吹き抜ける風を追うときに、風を見ようとしてはならない。舞い散る塵《ちり》や土煙から、その動きを読むのだ。
この論理器械《プログノメータ》に情報を求める理由もそこにある。〈ケイオス・ヘキサ〉全域を網羅する降魔局《A・S・C》の監視網にチェックされる、膨大な数の不自然現象[#「不自然現象」に傍点]。その情報を統合すれば、必ずどこかに長い牙《きば》を持つ人型の空白《ブランク》が浮かび上がるはずだ。
『しからば、汝《なんじ》は我に其《そ》の属性を告げよ。さらに其《そ》の主観的特徴を告げよ。其《そ》の主観的特徴を幾重《いくえ》にも告げよ』
一発で特定できないのなら、外側から何重にもカテゴライズしていこうというわけだ。
『其《そ》は「生ける死者」なり。其《そ》は魂を持たざる者なり。其《そ》は人を象《かたど》る者なり。其《そ》は長き牙《きば》を持ち、永劫《えいごう》の夜を往く者なり』
巨顔は長いこと思案するように目を閉じ、その巨大な唇の上にいくつかの音にならぬ言葉を形作った。そして――
『六芒《ろくぼう》に「生ける死者」は数多《あまた》在り。魂を持たざる者は数多《あまた》在り。人を象《かたど》る者は数多《あまた》在り。長き牙を持ち、永劫《えいごう》の夜を往く者は数多《あまた》在り』
つまり、「誰《だれ》のことか判《わか》りません」か。うすのろめ。
ヘルシングは内心で毒づいた。だが、殊《こと》、魔物に関しては、公安の捜査能力はこのとぼけたがらくたにも劣るのだ。
『其《そ》は長き中にて、さらに長き牙を持つ者なり。其《そ》は〈ロング・ファング〉と呼ばわれたり』
マクファーソンはさらに言葉を重ね、条件を絞り込んでいく。
巨顔は再び黙考の後、
『六芒に、長く、長き牙を持つ者は数多在り。しかれども、〈ロング・ファング〉と呼ばわるる者は在らず』
当然といえば当然だ。〈ロング・ファング〉とは、かつていくつかの都市で彼を追う者たちが判別のためにつけた名にすぎない。この〈ヘキサ〉において彼自身がそう名乗ったわけでも、彼にその名で呼びかける者がいるわけでもない。
もともと、吸血鬼《ヴァンパイア》の個体差は判別しにくい。吸血鬼化と共にあらゆる肉体的欠陥は修復され、その行動パターンはすべて同一のもの――衝動的な吸血行為――となる。
〈ロング・ファング〉はその中ではかなりの「個性派」ではあるのだが、その長大な牙だけでは決め手にはならない。さらに奴《やつ》の特徴を挙げるとすれば――
ヘルシングはマクファーソンに告げた。
「奴は『人喰《ひとく》い』だ」
わたし。
強い腕に抱かれて。
心臓が、ドキドキしてる。破裂しそう。
ドクン、ドクン。
彼の口づけたうなじから、熱い血が、鼓動にあわせて。
ドクン、ドクン。
手足がすうっと冷たくなって。彼の胸がよけいに熱くて。
わたしの手をとった彼、すこし迷ってから、小指を口にふくんで、かじりとる。
薬指、中指、人差し指、親指。手首から、ひじの上まで。
なくなった腕が熱くて。指の先まで熱くて。
このままのこらず食べられたら、わたし、どうかなってしまいそう。
なんだか怖くなって、彼の眼《め》を見る。
紅《あか》い瞳《ひとみ》……泣いてるの?
わたしはいいのよ。もっと食べて。もっと、もっと、わたしを食べて。
首筋、乳房、太もも、そして……
固いものが、体の中につきこまれる。
灼《や》けるほどに冷たい、ナイフの刃。
すごい力で切り裂いていく。息もできないほど。
気がとおくなりそうで。どこかに消えてしまいそうで。
もっと、切って。
バラバラにして、のこさず食べて。
わたしはおいしい?
わたしは、おいしい?
「ごっつぁんです」とおどけてみたところで、笑ってくれる相手はいない。
さびれた廃屋の中、彼はひとり哀《かな》しく微笑《ほほえ》むと、静かにため息をついた。
可愛《かわい》いあの娘はもういない。
優しく微笑む大きな目、紅い唇、甘い肌。肉の感触、血の香り。
すべてはおのが胃袋の中。
口もとの血糊《ちのり》をぬぐい、血まみれの両手をじっと見る。
喰《く》った後には心が痛む。喰わなきゃ腹へり、胃が痛む。
今の自分にできることは、食後の祈りをささげることくらい。
手を組んでから、考える。誰に[#「誰に」に傍点]? 神に? 嫌なこった。
神様は嫌いだ。
コツコツと、ヒールの音。五メートル手前で立ち止まる。
「ヨー・ホー!」彼はわざとらしい歓声を上げた。「キレイなお姉さんのお出ましだ」
確かにいい女だ。蒼《あお》い唇に涼しげな笑みを浮かべなにげなく立つ姿は、優雅で、かつ隙《すき》がない。その肉体が美術品の均整と航空機の機能美を兼ね備えていることは、無造作に羽織《はお》った外套《がいとう》の上からでも容易に想像できる。
だが……。感覚に訴えるものがない。どこか人工的だ。
例えて言うなら、ショウウィンドウの食品サンプル。完璧《かんぺき》だが「食べられません」。
彼は警戒心もあらわに、女をすがめた。
「降魔局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》、ヴァージニア・フォーです」と女は名乗った。
微《かす》かに漂う薔薇《ばら》の香り。霊液《エリクサー》……亜生体《ホムンクルス》か? いや、この女には魂がある。目には見えないが、気配がする。
外観とはうらはらに、不安定に揺れている。
揺れる魂を感じると、彼は切なくなる。
おのが魂の空虚を感じ、切ないほどに、腹がへる。
抱きしめたい。
一つになりたい。
喰《く》らいたい。
俺《おれ》は今、ひどく卑しい顔をしているのだろうな、と彼は思う。
だが、女―V4は恐れる風《ふう》もなく、全身を血に濡《ぬ》らしたまま彼女をうかがう彼に、青い眼《め》をひた[#「ひた」に傍点]と据えている。その瞳《ひとみ》には瞳孔《どうこう》がない。青水晶のように、透きとおっている。
「その、なんとか局の魔女《ウィッチ》さんが?」
彼はV4に先をうながした。
「警告です。〈ロング・ファング〉」
彼は長い牙《きば》をのぞかせて笑った。
「その名で呼ばれるのも、久しいな」
V4は皮肉めいた微笑《ほほえ》みを浮かべ、
「他《ほか》にお気に入りの名前があれば、どうぞ」
「あんたがそう呼ぶなら、それがお気に入りさ。警告ってのは?」
「公安の呪装戦術隊《S.E.A.T.》――その中でも対吸血鬼用に武装された一部隊が、こちらに向かっています」
「そりゃ大変」
〈ロング・ファング〉は大袈裟《おおげさ》に逃げ出すそぶりをして見せる。
「それ自体は問題ではありません。重要なのは――あなたが彼らに、そして我々にマークされる存在となったことです。あなたはもはや姿なき災厄ではなく、狩られるべき害獣に等しい存在となりました」
「おとなしく狩られはせんぜ」
吸血鬼《ヴァンパイア》の顔を、魔物の表情がかすめた。
V4はうなずき、
「我々もそう望んでいます。あなたはとても興味深い存在です。――なんでも、体内に『マクスウェルの悪魔』を飼っているとか?」
〈ロング・ファング〉は若干拍子抜けしながら、
「俺《おれ》を殺せば、吸血鬼騒ぎも収まるんだぜ? そっちは放っとくのか?」
「今回の吸血鬼|禍《か》の被害はいまだ許容範囲内――むしろ、当市の人口調整に貢献しているといえます。……あと二ヶ月のうちに収まるのなら」
「俺なら〈親〉を押さえておくね。ヤバくなったら、いつでも殺せるように」
「他《ほか》に方法がなければ」V4はあっさり認めた。
「しかし、あなたとの交流によって得られるメリットははるかに大きく見積もることができます。我々はあなたを殺さずに事態を収拾する方法を模索中です」
「そりゃどうも」〈ロング・ファング〉は微笑《ほほえ》み、「しかし、今あんたについて行く気はない」
「ええ。我々も、あなたとの交渉はもっと有利な状況下で行ないたいと思います」
「じゃあ、ここへはなにしに?」
「あなたが殺されないように」V4の蒼《あお》い唇が、笑みを形作った。
「以下の助言は手つけ[#「手つけ」に傍点]と考えて下さい。『日焼けに気をつけて』――いいですね?」
きびすを返し、
「では……そろそろ時間です」
「ちょっと待った」
「なにか?」
「…ありがとう」
思いがけない言葉に、V4の魂が揺らいだ。
「俺は元来、役人って奴《やつ》とはウマが合わないんだが……あんたとは、友達になりたいと思うよ、ヴァージニア」
そう言って、〈ロング・ファング〉は右手を差し出した。
「今度から、ジニーと呼んでもいいかい?」
紅《あか》い瞳《ひとみ》が、微笑んでいる。
暖かく、柔らかに。
紅く。
紅く。
V4は吸い込まれるように〈ロング・ファング〉に歩み寄り――
精神|浸蝕《しんしょく》が危険レベルを突破。V4の魂は凍結され、器体《ボディ》の制御は魄《サブ》に移行。緊急退避。V4は一瞬で数メートルを跳び退《しさ》り、壁を蹴《け》って跳躍、天窓を突き破って、消えた。
窓から差し込む街灯の光の中、埃《ほこり》とガラス片がきらきらと舞っている。
「ちぇっ」
〈ロング・ファング〉は行き先を失った右手を頭にやり、
「身持ちの堅い女だ」
その時、部屋のドアが蹴《け》り開けられた。舞い上がる埃《ほこり》の中、四つの銃口が〈ロング・ファング〉を捕え――
数十発の散弾がその体にめり込んだ。
〈ロング・ファング〉は着弾の衝撃で壁際まで突き飛ばされた。
倒れる寸前に、かろうじて被弾を免れた右脚で跳躍し、部屋の隅に積まれた家具の山に飛び込む。その軌道を、|絞り《チョーク》を解放した短銃身フルオートショットガンの猛射が追う。
タンスの陰に入り、負傷を確認。擦過傷《さっかしょう》と貫通銃創は、一秒を待たずに治癒。吸血鬼《ヴァンパイア》の再生能力の前に、常識は通用しない。だが、問題は体内に入り込んだ散弾だ。血流を阻害し、治癒を遅らせている。
真っ先に、心臓近くに入った二発の散弾をジャックナイフでこじり出す。痛いが我慢。盛大に血が吹き出すが、これも我慢。弾を出してしまうと、二秒で血は止まった。弱りかけていた心臓が、力強い鼓動を再開する。まずはよし。
弾は銀製の六ミリ弾。破壊ではなく体内に撃ち込むことを目的とした装弾だ。聖別された銀の散弾は吸血鬼《ヴァンパイア》の体内にアレルギー反応を起こし、再生能力をさらに低下させる。どうやら「対吸血鬼用の武装」という言葉は、ハッタリではなさそうだ。
しかし、不幸中の幸いというべきか、貫通力のない散弾は〈ロング・ファング〉が盾にしているタンスでもどうにかふせぐことができる。
左脚に入った弾を取り出すため、おおざっぱに肉を切る。銀に触れている部分を一緒に切り取ってしまうことで、かえって速く治癒する。
どうにか機動力を回復したところで、次なる行動を思案する。ベストコンディションなら闘いようもあるが、腕と腹に三〇発ばかり弾の詰まったこの状態では、脱出もままならない。ハラキリをして弾を出している余裕もない。
窓から飛び出そうか、と思った瞬間、あの魔女の言葉を思い出す。
『日焼けに――』……まさか?
タンスの陰から一瞬だけ首を伸ばし、窓の外を垣間《かいま》見る。
やはり、そうか。
街路に乗りつけられた、三台の太陽灯照明車。あの反射鏡径からして、直射を浴びたら一瞬で中までカリカリだ。慌てて飛び出していたら、えらいことになっていた。
このやり口は――
思わず口元が緩み、くくく、と笑みが漏れる。
ウィリアム・ヘルシング。
昔|馴染《なじ》みに会うのはいいもんだ。
ドゴン、とタンスに大穴が開いた。その次の瞬間、ドドドドド、とサブマシンガンのフルオート射撃。タンスは舞い散る木片と化し、盾を失った〈ロング・ファング〉の右胸が大きく弾け、左手首が吹き飛んだ。
装弾は五〇口径のミスリルチップ・ハローポイント。かつて〈ケイオス・トライ〉の吸血鬼《ヴァンパイア》ハンターが使用していた超強力弾頭《モンスター・ブリット》だ。吸血鬼《ヴァンパイア》といえども頭部か心臓に直撃すれば御陀仏となる。
だがその反面、近距離で使用した場合は着弾部をきれいに破壊しつつ貫通するので、急所以外の部分には当たってもほとんど意味を成さない。吸血鬼の再生能力は腕の一本程度なら数秒で再生する。行動力を奪うなら、散弾の方が確実だ。
事実、〈ロング・ファング〉の破裂創は一呼吸で癒え、失われた左手首もまた、見る間に再生。呪装戦術隊《S.E.A.T.》の射撃も、再びショットガンのものに切り替わった。
確実に動きを止めた後、再び急所を狙《ねら》うつもりだ。
一か八か。〈ロング・ファング〉は頭と心臓をかばいつつ、戸口に向かって跳躍した。
だが、跳躍した〈ロング・ファング〉はショットガンの斉射を受けて失速、部屋の中央に仰向けに転がった。
そして、五秒経過。
ぴくりとも、動かない。
だが〈ロング・ファング〉に狙いを定めたまま、呪装戦術隊《S.E.A.T.》隊員は近づこうとしない。吸血鬼《ヴァンパイア》に対して、注意深すぎるということはない。
右脚にハローポイントが撃ち込まれた。膝《ひざ》の下が弾け、足首がちぎれ飛ぶ。
吸血鬼《ヴァンパイア》にとって、大したダメージではない。このくらいは数秒で生えてくる。
だが、再生しない。
心臓に散弾が入ったということも考えられる。吸血鬼《ヴァンパイア》の再生能力は血流に依存する。
ここから頭部を狙撃《そげき》できればよいのだが、角度が悪い。サブマシンガンを持った|PM《ポイントマン》が、ゆっくりと〈ロング・ファング〉に歩み寄った。
その顔が見える位置にまで移動する。
見開かれた紅《あか》い瞳《ひとみ》が、こちらに向けられている。
残る隊員のうち半分は、PMに照準を合わせている。吸血鬼《ヴァンパイア》はしばしばその視線のみで人間の精神を浸蝕し、支配する。今、この瞬間にも、彼が吸血鬼《ヴァンパイア》の下僕となり、その銃口をこちらに向けるかも知れないのだ。
PMはゆっくりと銃をかまえ、引き金を引いた。
〈ロング・ファング〉の右肩が爆《は》ぜ、右腕が転がった。
やはり、再生はしない。
次いで、左肩。
――なぜ、とどめを刺さない?
チームの者は皆、彼が獲物をいたぶるような男ではないことを知っている。また、吸血鬼《ヴァンパイア》を相手にもたつくことが、いかに危険なことかを。
PMは仲間の疑念を知ってか知らずか、さらに腰に二発。〈ロング・ファング〉の下半身が、きれいに切り離された。
残ったのは、頭部と上半身のみ。散弾の入った肉体は[#「散弾の入った肉体は」に傍点]、きれいになくなった[#「きれいになくなった」に傍点]。
その事実が意味することに皆が気づくより早く、彼は腰だめにしたサブマシンガンを、振り返りざまに掃射した。
その足元で小さな呟《つぶや》きが漏れたことにもまた、誰《だれ》も気づかなかった。
「よし……『マクスウェル[#「マクスウェル」に傍点]、もういいぜ[#「もういいぜ」に傍点]』」
〈ロング・ファング〉の大脳旧皮質に憑依《ひょうい》する極小の情報制御|人造霊《オートマトン》――〈マクスウェル〉とは、熱や情報を操作するという形而上《けいじじょう》的存在『マクスウェルの悪魔』の名をとって、洒落《しゃれ》でつけた名前《コード》だ――が、おのが抑制《セーブ》していた再生命令を増幅・解放した。
薄い壁を打ち抜いたハローポイント弾によって、廊下に待機していた突入班員の半数が負傷。移動するPMに向けて残る隊員の応射が始まり、彼が蜂《はち》の巣になるまで五秒。
充分な時間だ。
再び〈ロング・ファング〉に注意が向けられた時には、彼の肉体は完全に再生を終え、戦闘態勢に入っていた。
「ヨー・ホー!」と彼は言った。
[#改丁]
2 鮪
MAGURO
[#改丁]
給料は毎月末の就業後に、所長から手渡しされる。
ロッカールームに戻ったアーヴィーは、二つに畳んだ給料袋を両手の間にはさみ、目を閉じた。
軽く、薄く、頼りない。――それでもこれは、俺《おれ》と母さんのひと月分の生活の重みだ。
「なにニヤついてんだよ」と、ヒューイットが笑っている。
「はあ、す、すんません」と言いながら、アーヴィーは早くも頭の中で家計簿をつけ始めた。
家賃に食費、電気、ガス、水道。今月は少し余裕がある。エアコンを修理に出そうか、それとも、少し多めに貯金をしておいたほうがいいだろうか?
「おい、しょぼ、どうするよ? これから」
ヒューイットの声で、家計簿が閉じられた。
今日は珍しく、残業はなし。こんな日にはたいがい、ヒューイットは街に遊びに出る。給料はそう変わらないはずだが、独り身の上貯金もしない彼は、アーヴィーより若干ゆとりのある生活をしている。
「はあ、で、電車で、帰りますけど?」
「かー、つまんねえ! つまんねえよ、そりゃ。それでいいのか、若人よ!?」
酒でも飲みに行こう、とヒューイットは言った。
「たまにはつき合えよ。おごってやっからよ」
「はあ、でもあの、は、母が、待ってますし」
「残業だと思えば同じだろ? 職場での円滑な人間関係の維持に努めるのも立派な仕事のうちだ」
「じゃ、じゃあ、所長を誘ったら……」
「じじいと飲んでどーするよ?」
「はあ…」
それでものこのことついてきてしまったのは、やはり多少息抜きがしたかったということなのだろうか。
ヒューイットとアーヴィーは路地をすり抜けた先にある怪しげなビルの小さな昇降機《リフト》に乗り、地下へ下ること数百階。ビルを出ると、辺りは喧騒《けんそう》と色とりどりの光に包まれた繁華街になっている。
最下層市街。
数十年前に閉鎖されて以来、公式には最下層に人は住まないということになっているが、ここ最近は〈トライ〉からの難民や上層を追われた犯罪者が住み着き、このような街が幾つも出来ている。
最下層閉鎖の原因となった、都市の地下から湧《わ》き上がる怨念《おんねん》は、最下層に住む者の肉体と精神に少なからぬ悪影響を及ぼす。生贄《いけにえ》カートリッジ式の身替わり護符や皮膚に施した護法|刺青《いれずみ》も、気休めにしかならない。だが、生まれた土地を捨ててなお生きようとする人々は、逆にそうした怨念を喰《く》らうようにして、ますますしぶとくこの空間に根づいていく。
もちろん、吸血鬼《ヴァンパイア》のような魔物の温床ともなるこうした街を『消毒』しようとする動きがなかったわけではない。だが、この街を追われた人々を、いったいどこに収容できるのか? D層以上の都市機能はすでに飽和状態にあり、また、市外への追放は死の宣告に等しい。これまでに何度か行なわれた『浄化キャンペーン』は、非公式市民の猛反抗に会い、頓挫《とんざ》している。
つまるところ、この都市《まち》に住む者がこの街を否定することはできない。この街は都市の抱える問題が凝り固まって生じた澱《おり》であり、その病んだ生命力は都市自体のそれ[#「それ」に傍点]が凝縮されたものなのだ。
猥雑《わいざつ》な活気に溢《あふ》れた繁華街を、ヒューイットはすいすいと歩いていく。その背中を見失わないように、アーヴィーは早足で後に続いた。何度も人にぶつかりそうになり、そのたびにすいません、すいませんと頭を下げる。
通勤電車では見かけることのない、雑多な種類の人々とすれ違う。宣伝用背後霊を背負ったサンドイッチマン。香油を塗った肌をてらてらと光らせて、水着みたいな格好で歩いている若い娘。全身にジャラジャラと護符を垂らした流しの呪具《じゅぐ》売り。なにかと目につくのは、大きな牙《きば》を生やし、瞳《ひとみ》を紅《あか》く染めた吸血鬼《ヴァンパイア》ファッションの男女――『|牙持ち《ファンギー》』さ、とヒューイットが言った。
改修されたビルに構えられた大型店舗もあれば、街路にはみ出した屋台の群れもある。それぞれの店先のスピーカーから様々な音楽が大音量で鳴り響き、それに負けない大声で呼び込みの声が張り上げられる。
まるでお祭りみたいだ、とアーヴィーは思う。
ある意味、それは正しい。この街の賑《にぎ》わいは、アーヴィーたちが仕事場でかける音楽と同様、おのが身にまといつく怨念《おんねん》を祓《はら》い落とすための祭祀《マツリ》なのだ。街が自身の生命力を示すように演じ続ける『祭り』。それが終わるときはすなわち、街が死ぬときだ。一時《いっとき》も眠らず、休むことさえ許されず、なにかに追われるように、祭りは続く。
暗い店内に、チラチラと蛍光が舞っている。カウンターの上にステージがしつらえられ、鮮やかな原色の光を発するコスチューム(というか下着というか)を着た女が数人、腰をくねらせて踊っている。
ヒューイットが笑いながら、アーヴィーに耳打ちする。
「…おい、ぽかんと口開けてンなよ。カモられるぜ」
「あ…」
AとOの間の形に開いていた口を閉じるより早く、見知らぬ娘がアーヴィーの隣に滑り込んできた。
黒と銀を基調にした化粧とアクセサリーが、黒みがかった銀色の瞳とよく合っている。
娘は体を擦《す》りつけるようにして、アーヴィーに話しかけた。
「あら、お酒飲めないの? かわいい」
ステージから流れてくるスモークが、カウンターの上に漂っている。アーヴィーの前には手つかずのコーラが置かれ、グラスに汗をかいている。
「あたし、なにか頼んでいいかしら」
「はあ、あ、あの…」
アーヴィーは助けを求めるようにヒューイットを振り返った。ヒューイットは胸、腰、背筋に和毛《にこげ》を生やした猫娘をはべらせなにごとかささやいていたが、アーヴィーと目が合うと、苦笑しつつうなずいた。
「じゃ、あの、あんま、た、高値《たか》くない奴《やつ》…」
娘はくすくすと笑い、アーヴィーの知らない名前の酒を注文した。
そして、「マグロよ」と彼女は言った。
マグロ…?
「マ、マグロって……?」
屍体屋《したいや》の符丁では『マグロ』といえば屍体のことだけど……いったいマグロがどうしたっていうんだろう?
「あたしの名前」
彼女は自分の胸を指してもう一度、「マグロ」と言った。
「あなたのお名前は?」
「え、あの、ア、ア、アーヴィング・ナイトウォーカー、です」
アーヴィーは耳まで赤くなりながら答えた。女の子と話すのには慣れていない。
「アーヴィングさん……アーヴィーでいいかしら?」
「はい、あ、あの……どうぞ」
注文した酒がきた。マグロはグラスを手に取り、
「じゃ、アーヴィー……乾杯」
マグロの唇は上が黒、下が銀で塗られている。彼女が笑うたびに、魚みたいにぴちぴちと跳ねる。
普段《ふだん》はどんなことして遊んでるの? と魚の唇が躍った。
「え、と、あの、休みの時は、ほ、本とか、読んでます」
へえ、どんな?
「さ、最近は、し、資格試験のとか…」
資格って?
「えと、い、い、遺体|蘇生《そせい》、保全、しょ、処置資格っていうのは――」
それで? それで?
アーヴィーが『試験に出る遺体蘇生保全処置関係法六―一・処置施設における衛生管理について』を暗唱し終える頃《ころ》、マグロが言った。
「ねえ、もっと落ち着いたところでお話しない?」
「え、あの、せ、先輩……」
猫娘の喉《のど》をくすぐるのに夢中のヒューイットは、アーヴィーに気づくと、
「あ? おう、ここは払っとくからよ」
ニヤリと笑い、
「ま、うまくやれや」
「あ、はあ…」
マグロは戸惑うアーヴィーの腕に胸を押しつけながら、
「ありがと、センパイ。ごちそうサマ」
アーヴィーを引きずるように店を出る。
路地を何度曲がったか、忘れてしまった。帰り道が心配だ。
アーヴィーはため息をついて天井を見上げた。
大きなしみが、一つ、二つ、三つ。
部屋の中は、埃《ほこり》じみて薄暗い。
マグロは部屋に入るなり服を脱ぎ捨て、バスルームへ。
アーヴィーは、ぽつんとベッドに腰掛けている。
――これって、やっぱり、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]だよな。
下心がなかったと言えば嘘《うそ》になる。しかし。
シャワーの音が、やけに遠く感じられる。
なぜか急に本が読みたくなるが、電灯が暗すぎる。
アーヴィーはスタンドでもないかと辺りを見回した。だが小さな部屋の中には、ベッドと小さな机の他《ほか》は、調度の一つもない。空虚な部屋だ。
やけに慣れた感じでマグロがふるまうので、最初は彼女の部屋かとも思ったが、それにしては生活感がなさすぎる。
つまり、ここはホテルかなにかの一室で、彼女はここをよく利用している、と。
――それって、やっぱり、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]なのかな。
どうしよう、とアーヴィーは思った。無駄に使う金は持っていないし、それに……頓珍漢《とんちんかん》なことをして笑われるかも知れない。
よし、彼女が出たらよく謝って、キャンセル料として相場の二割も払って帰らせてもらおう。でも、『相場』って、いったいいくらぐらいだろう? 先輩がいれば教えてもらえるのに。
ガチャリとバスルームのドアの音。そして、ふわりと石鹸《せっけん》の匂《にお》い。
桜色に火照《ほて》った肢体をバスタオルで包んだマグロは、胸の前を押さえ、はにかむように微笑《ほほえ》んだ。
「おまたせ」
マグロは長い足を見せつけるように部屋を横切り、アーヴィーの横に座った。たわんだベッドに彼女の体重を感じ、アーヴィーは赤面する。
「あ、あ、あの……」
「……あなた、ヘンな趣味はないわよね?」
「は、はい?」
――「趣味は読書」っていうのは、変だろうか?
「縛ったり、ぶったりとか」
「あ…」
ぶんぶんと手を振り、
「な、な、ないですないです」
「よかった」
マグロはベッドの上に横たわると、
「じゃ、あとは好きにして」
「は、はい?」
銀の眼《め》が、ふっ[#「ふっ」に傍点]と焦点を失った。
「あ、あの……?」
それきり、マグロはぴくりとも動かない。火照《ほて》っていた体が急速に血の気を失い、青白くなっていく。
慌てて彼女の手を取った。ひやりと冷たく、室温に近い。だが、わずかに脈がある。キーホルダー替わりにしているペンライトをポケットから取り出し、瞳孔《どうこう》反射を確認。まずは安心。
仮死状態の人間が早とちりで職場にかつぎ込まれたことが何度かあるが、ちょうどそんな感じだ。その中には、自分の意思で仮死状態になれるように神経にちょっと手を加えている人たちもいた。たしか、『能動擬死』というのだ。年に四ヶ月は電力供給の九五パーセントがカットされる辺境区の住人などは、そうやって長い『冬』を冬眠状態で過ごすのだという。
彼女も多分《たぶん》、同様のギミックを体内に持っているのだろう。
――なるほど、それで『マグロ』か。
ようやく合点がいった。体を売ることへの嫌悪感によるのか、はたまた屍姦趣味《ネクロフィル》の需要に応《こた》えてかは知らないが、これが彼女のスタイルなのだ。
屍体《したい》の相手ならお手のもの。
アーヴィーはマグロをきちんと寝かせ、頭の下に枕《まくら》を入れてやると、乾いたタオルで体についた水滴を丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》い、布団《ふとん》をかけた。そして、内ポケットから給料袋を取り出し、彼女の枕元に(たっぷり悩んだ末に)一万ワーズ紙幣を置く。
「……あの、すいませんけど、先に帰らせてもらいます」
聞こえてるのかな、と思いつつも、アーヴィーは律義《りちぎ》に頭を下げた。
微動だにしないマグロの銀の眼は、本物の魚の眼のようだ。
瞳《ひとみ》が乾燥しないように、アーヴィーは彼女のまぶたを閉じた。印象の強い瞳が隠れると、血の気の引いたその顔は、母にも似て見える。それならば――
最後に、母さんにおやすみのキスを。
ベッドにかがみ込んだとき、部屋のドアが凄《すご》い音を立てて開いた。
ずかずかと部屋に入ってきたのは、天井に支《つか》えそうな大男だ。大きな犬歯を威嚇するように剥《む》き出して、アーヴィーを睨《ね》めつける。
『|牙持ち《ファンギー》』だ。
「貴様、どういうつもりだ」とファンギーが言った。
「は、は、はい?」
――なんなんだろう、この人。
呆気《あっけ》に取られているアーヴィーの前を横切って、ファンギーはベッドに向かうと、マグロの布団を乱暴に剥《は》ぎ取った。
マグロは相変わらず、ぴくりとも動かない。
こいつになにをした、殺したのか、と言ってファンギーはアーヴィーに詰め寄った。
「あの、た、多分《たぶん》、の、の、能動擬死です」
心配|要《い》りません、と言ったら、いきなり殴られた。
「屁理屈《へりくつ》を言うんじゃねえ。おまえだ、おまえが殺《や》ったんだ。どうするつもりだ」と、ファンギーは早口でまくし立てた。
「は、あ、あ、あの、こ、こ、こ」
――このままでもじきに起きると思いますけど、なんなら医者を呼んでブドウ糖注射とマッサージをすれば、すぐ快復しますよ。
「この」まで言ったところで、また殴られた。
「人殺しが!」
――なんなんだろう、なんなんだろう、この人。わけが判《わか》らない。
床の上に尻餅《しりもち》をついた。
顔面が痺《しび》れ、暖かいものが鼻の中からつう[#「つう」に傍点]と滑り出た。鼻血だ。
熱いような、冷たいような塊が喉《のど》の奥に生じ、気管を塞ぎ、胸を締めつける。
涙で視界が霞《かす》む。
呼吸を確保しようと吸い込んだ息が、横隔膜の痙攣《けいれん》で、ひ、ひ、ひ、とスタッカート。なさけない嗚咽《おえつ》に変わる。
人間は怖い。
危険という点では『歩く死者』や路地裏の魔物の方が危険ではある。しかし、普通に生活している中で、部屋にまで入ってきて人を襲うのは、吸血鬼《ヴァンパイア》やマチサトリなどごく少数の例外を除けば、人間だけだ。
どうするんだ、人殺しめ、どうするんだ、と喚《わめ》きながら、ファンギーは床中に唾《つば》を吐き散らし、壁や椅子《いす》を蹴《け》りつける。
アーヴィーは、ひ、ひ、ひ、という自分の声を遠くに意識しながら、その姿を眺めていた。
――どうするもこうするも、俺《おれ》はなにもしてないし、そもそも彼女は死んでない。でも、いったいどうしたらそれを説明できるんだろう。
とにかく、今できることは、彼女が起きるか、この男が落ち着くかするまで待つことだけだ。
そう思いつつ、一〇秒間。
痺《しび》れを切らした様子でファンギーが叫んだ。
「金出せってンだよ、グズ!」
――なんで?
アーヴィーはやっとのことで、
「はひ?」と答えた。
ぷっ、とベッドの上で吹き出す声。続いて、「あはははは」と笑いながら、マグロが半身を起こした。
「ほどほどにしてあげたら? その子、ちょっとトロいみたいよ」
驚いたのは、アーヴィーよりむしろ「ファンギー」の方だ。
「おい、今起きちまったら…」
「駄目駄目。その子、本職だもの、もうバレバレ」
「本職だ?」
「そ、屍体屋《したいや》さん。……おっかしいわ、あんたたちの話、全然かみ合ってないんだもの」
ここにきてようやく、アーヴィーはことの次第に気がついた。
この二人はグルなのだ。
おそらく、色事の最中にぽっくり逝《い》ってしまった女を前におろおろしているカモの目の前に現れた男が「内密に処理してやる代わりに金を出せ」、そういう筋書きになっているのだろう。
そして、ファンギーもまた、マグロの笑いが――少なくともその半分は自分に向けられたものだと気がついた。
この男は自分が笑われることに馴《な》れていなかった。一瞬の当惑と羞恥《しゅうち》が怒りに変わり、その矛先はアーヴィーに向けられた。
振り返った顔が、真っ赤に染まっている。
「いい気になってんなよ、腰抜けが!!」
腹を蹴《け》られた。
体をくの字に曲げてアーヴィーは呻《うめ》いた。息ができない。
――なんなんだろう。この人、いったいなにが言いたいんだ。どうしたいんだ。金が欲しいんじゃないのか? なんで俺《おれ》を蹴るんだろう?
見上げた顔面が蹴り飛ばされた。
視界が暗くなり、眼《め》の奥で火花が散った。
だが、痛みが遠い。
不思議に意識が冴《さ》えている。
「ファンギー」が目の前に顔を突き出し、なおもなにかがなり[#「がなり」に傍点]立てているが、声が遠くて聞こえない。
大きな犬歯の根元に継ぎ目が目立つ。虫歯みたいに黒ずんでいる。
――あんまりよくない歯医者にかかったんだな、きっと。
やけに透明な気分で、そんなことを考えていた。
「それで、あり金取られて帰ってきたって?」
屍体袋《したいぶくろ》をかついだヒューイットがゲラゲラと笑った。
「丸々ひと月分? そいつぁまた、ずいぶんと貢いだな」と、また笑う。
「わ、わ、笑いごとじゃ、ないです」
顔をしかめた拍子に、目の周りの痣《あざ》が痛む。
同じく袋を抱えたアーヴィーは、精一杯の仏頂面で後に続いた。所長に給料の前借りを頼むか、定期預金を解約するか。金策に頭が痛い。
ヒューイットは作業台に『荷物』を降ろすと、
「すまんすまん、俺《おれ》が悪かった。今度はもっと、初心者向けのとこに行こうな、な?」と、アーヴィーの肩を抱くようにポンポンと叩《たた》く。
――この人、悪い人じゃないんだけど、人の不幸を喜ぶところがあるよな。
現に、昨日《きのう》あれからなにがあったのか、頬《ほお》に大きな引っ掻《か》き傷をつけて出社してきたヒューイットは朝から大層《たいそう》機嫌が悪かったのだが、アーヴィーの話を聞くなり、このとおり機嫌が直ってしまっている。
「い、いいですよ、もう」
アーヴィーは『荷物』を乱暴に放り出した。ジッパーの端から、肉汁がぐちゃりとしみ出す。
おっと、この人[#「この人」に傍点]には関係のないことだった、と、アーヴィーは袋を丁寧《ていねい》に置き直した。
「それで、おふくろさんにはなんて?」
長い三本の線が入った頬が、にやにやと緩んでいる。アーヴィーは再び口を尖《とが》らせ、そっぽを向いた。
家に帰ったら、気が緩んで泣いてしまいました、なんて言ったら、大笑いするに決まってる。
今日のBGMは〈バベラップ〉。無数の言語が口々になにかの主張をしているが、意味の判《わか》る言葉は一つもない。
「うひゃ、すげえなこりゃ」
アーヴィーの『客』をのぞき込んだヒューイットが言った。
作業台の上の屍体は、全身が大口径の銃弾に打ち抜かれて欠損していて、明らかに目方が足りていない。頭だけは運よく無傷に近いが、脇腹《わきばら》がごっそりと削《そ》げ、内臓はほとんどどこかに行ってしまっている。
「バラに回そうや」
『バラ』とはつまり、他《ほか》の屍体《したい》の補完用のストックパーツだ。
普段《ふだん》ならこの種の判断は所長がするが、朝から登記だかの関係で役所に行っている。今日は所には出ない、という電話があった。
アーヴィーは屍体の傷《いた》みの少ない部分を切り取り、聖水で希釈した霊液《エリクサー》と共に、個別にパックした。
次いで、切り取った部位を略号で伝票と管理ノートに記入し、残りは廃棄して、作業完了。
手が空いたので、ヒューイットの手伝いにまわる。
ヒューイットの『客』は、首から下はほぼ無傷。比較的処置しやすい『よい屍体』だといえる。
しかし、その脳天は首筋と下顎《したあご》にささくれた跡を残し、完全に吹き飛んでいた。
頭部欠損。アーヴィーは伝票に『頭欠』と記入。
「ひ、ひどいですね。……ど、ど、どんな死に方、したのかな」
なんの気なしに言うと、ヒューイットはにやりと笑い、屍体から剥《は》ぎ取った衣類を積んだワゴンの底から、一丁の拳銃《けんじゅう》を引っ張り出した。
「こいつさ」
「あ……」
銃にあまり詳しくないアーヴィーには、その銀色の拳銃がリボルバーと呼ばれる種類の物であることくらいしか判《わか》らない。ただ、冗談みたいに大きな銃口と胴回りが、やたらと物騒だな、と思った。
ヒューイットは屍体のすでに存在しない眉間[#「すでに存在しない眉間」に傍点]に向けて銃を構え、
「リード&ヴォーン九二型・五〇口径エンチャントマグナム。さっきの屍体《ホトケ》はサブマシンガンにやられたみてえだけど、装弾《タマ》は同じのを使ってるはずだ。…ハローポイントさ」
だあん、と撃ち真似《まね》をしてから、銃身に手を持ち替えてアーヴィーにグリップを差し出した。
「気ィつけろよ、タマ入ってっから」
アーヴィーは差し出された拳銃を恐るおそる受け取った。ヒューイットが手を離すと、ズシリと沈む。重い。
全体に妙にきれいなので、新品だろう、と思った。とすれば、この銃自体が使われたわけではない。なぜか少しホッとする。
試行錯誤の末、どうにか正しいグリップを決めると、その重さは不思議なほど手に馴染《なじ》んだ。掌《てのひら》に吸いつくようだ。軽く振ってみると、どの方向にもスイ、と過不足なく動く。それでいて、この巨大な存在感。『破壊力の塊』。そんな実感がある。
撃ってみたい。
その気持ちを、アーヴィーは頭を振って打ち消した。これは俺《おれ》のものじゃない。第一、危険だ。もし先輩に当たったりしたら……。
アーヴィーは台の上に横たわる屍体《したい》を見た。
そういえば、この人たちはなぜ、味方の弾で死んだりしたんだろう?
「な、な、仲間割れ…ですかね」
「ん? ……さあな」
ヒューイットも腑《ふ》に落ちない表情で生返事をするが、
「と、とにかく、しゅ、拾得物管理票《シュウカン》、書いときますね?」と、アーヴィーが踵《きびす》を返すと、
「まァ待て待て」と、後ろから腕で首を絞めるように引き止めた。
「固《かて》ェな、おめーは」
「は、はい?」
「いいか、九二ってのは|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》用に作られたモデルだ。最強のEマグだぞ?」と、噛《か》んで含めるように言う。「黙ってりゃバレねえって」
「で、でも、だ、だ、大事な物なら、なおさら……」
「あのな、屍体《こいつ》はもう、銃《そいつ》を大事にしたりしねーの」と言って、ヒューイットは拳銃《けんじゅう》を取り上げ「こいつは俺《おれ》が大事にしてやっから、な?」とワゴンに戻し、
「後で撃ってみようや」
にやりと笑って、血まみれの衣類をどさりと上にかぶせた。
濃紺の布地に白くプリントされた、簡単な防護印と大きな『SEAT』の文字を眺めながら、アーヴィーは、
「はあ」と言った。
――伝票処理は後にすればよかった。これじゃ二度手間だ。
アーヴィーは先ほどパックしたばかりの頭部を袋から出し、タオルで水気を切りながら、『頭欠』の横たわる作業台へ。
――そうしたら、先輩の方を『全体』で登録して……あれ?
「あ、あの、先輩」
アーヴィーは台の隅に頭部を乗せた。
「あん?」
ヒューイットは、スタンドで手元を照らしながら、屍体の首の断面をナイフできれいに揃《そろ》えている。下顎《したあご》のパーツは思い切って取ってしまった。アーヴィーは台の上に頭部を置きながら、
「こ、こ、この頭と、その、か、体を、くっつけますよね?」
「今やってンだろ」
「そ、そうすると、さ、再生したことになるのは、この人なんですか、それとも――」
アーヴィーは自分の持ってきた頭部を、次いで『頭欠』を指差した。
「こ、こ、こっちの人なんですか?」
「そりゃおめー……」
しばし思案の後、ヒューイットは、
「どっちだって同じだろ。屍体《ホトケ》は屍体《ホトケ》だ。『全体』一に『バラ落ち』一。数が合ってりゃいいンだよ」と言った。
そうか、それもそうだ。屍体《したい》は屍体。ただのモノ、ただの抜け殻だ。どっちがどっちでも関係ない。伝票の処理が簡単な方の名義にすればいいや。
アーヴィーもまた、そう思った。
しかし、ここにあるものは抜け殻ではなかった。
吸血鬼《ヴァンパイア》に支配された男の魂は、死した後もその肉体に呪縛《じゅばく》され続けていた。
狂気と共に。
「オォオアァァァ――!」
首がつながると同時に、屍体が咆哮《ほうこう》した。
びくびくと身をのけ反らせ、手足をめちゃくちゃに振り回す。
音楽は切れてないのに、なんで!?
あわてて押さえ込もうとしたアーヴィーが、はね飛ばされた。ワゴンをひっくり返しながら数メートルをふっ飛び、転倒する。
「しょぼ!」
注意を逸《そ》らしたヒューイットの二の腕を、屍体の手がつかんだ。人ならぬ異常な力を込め、無理矢理に捩《ね》じる。
肩のあたりで、ぐきり、と妙な音がした。
声にならない悲鳴を上げるヒューイットを突き飛ばし、屍体は作業台から飛び降りた。
アーヴィーは半身を起こして作業台の方を見た。
作業台から落ちて床に転がったスタンドが屍体を照らし、薄暗い作業場の壁と天井に、魔物のように揺れる巨大な影を映している。
屍体はヒューイットの後頭部をつかみ上げ、作業台に顔面を叩《たた》きつけた。
ただの『歩く死者』の行動ではない。明確な殺意を持っているのだ。
どうしよう、なんとかしなくちゃ。
そう思って立ち上がろうとするが、足に力が入らない。膝《ひざ》ががくがくと震えている。
屍体はわけの判《わか》らない叫び声を上げながら、何度も、何度も、飽くことなくヒューイットの頭を叩きつけている。
アーヴィーは、ただ震えながらそれを見ていた。
ヒューイットの体が完全に力を失うと、屍体はようやく手を離し、アーヴィーを振り返った。
不自然な角度に曲がった首が、ぐらん、と揺れる。首の骨がつながっていない。
こちらに向かってきた。
足を踏み出すごとに、すわり[#「すわり」に傍点]の悪い頭がぐらりと揺れる。
一歩、また一歩。頭が揺れるたびに、平衡感覚を失った体もぐらりと傾く。だが、倒れる寸前で踏みとどまり、さらにもう一歩。
大きな波線の軌道を描きつつ、確実に近づいてくる。
アーヴィーは床に尻《しり》をついたまま、必死で後ずさった。
すぐに、壁に背がついた。もう逃げ場がない。
距離が縮まった。
半ばパニックに陥りながら、左右を手で探った。濡《ぬ》れた布地に手が触れる。
壁際に、倒れたワゴンからこぼれ出た衣服の山が固まっている。
――この中に…!
アーヴィーは必死で山を掘り返した。固い手ごたえを見つけ、夢中でつかみ出す。
|E《エンチャント》マグナム。
安全装置《セイフティ》とおぼしきスイッチを動かし、両手で構える。照星がブルブルと震えている。
屍体《したい》は目の前に迫っている。覆い被《かぶ》さってくる。
引き金を引いた。
轟音《ごうおん》と共に、目の前が真っ白になった。強烈な反動に手首が跳ね上げられた。背中が壁に叩《たた》きつけられた。空気の塊が顔面に打ち当った。なにか微細な飛沫《しぶき》が全身に降りかかった。
それらすべてが、一瞬のうちに起こった。
恐怖が消えていた。意識も感情も、発砲の衝撃で吹き飛ばされてしまったようだ。
しばし、放心する。
どれだけの時間が経《た》ったのか、マズルフラッシュが焼きついた視界は、いつの間にか回復していた。
目の前に、屍体が転がっている。
屍体は再び『頭欠』になっていた。
――! そうだ、先輩は!?
アーヴィーは壁に手をつきながら、よろよろと立ち上がった。
「せ、先輩……?」
答えはない。
ヒューイットは、作業台の脇《わき》の床に、ぼろのように転がっていた。
首の骨が折れている。顔面は完全に潰《つぶ》れている。体温はすでにない。
死んでいる。
どうしよう、どうしよう、どうしたら……。
アーヴィーの唇は音にならない言葉を祈りの聖句のように繰り返し形作っていた。
だが、思考は停止している。頭の中は完全な空白だ。
作業台に腰掛け、両足をぶらりと下げ、両手でEマグを握ったまま、ヒューイットの亡骸《なきがら》を呆然《ぼうぜん》と見下ろしている。
ただ、なにかを待っている。
なにを?
自分でも、よく判《わか》らない。
がちゃりと音がして、BGMのテープが終わった。
それでも、待ち続ける。
どこか遠くで、六時のサイレンが鳴っている。
やがて――
ヒューイットが、もぞりと起き上がった。
『バラ』のパーツを廃棄ポッドに突っ込み、修正伝票を書いて、その日は退社した。
『頭欠』二。
とりあえず、数は合っている。
[#改丁]
3 緋色の聖人
St.SCARLET
[#改丁]
三年前、罪人《つみびと》であった彼は、ある少女の心《ハート》に触れ、神への愛に目覚めたのだという。
この最下層にも、かつては何十もの教会があった。だが、今ではそう呼べるのは、この一つだけだ。同様に、かつては何百人といた聖職者も、今では彼一人だけ。
厳密には、ハックルボーン神父は当局発行の第二種免許を受けた正式な聖職者ではない。法的に言うならば、彼は打ち捨てられた教会跡に住み着いた、一人のホームレスにすぎない。
だが、三年の間、彼は廃教会を修繕し、聖書をひもとき、一日も欠かさず朝晩にミサを行なってきた。
この街には神を信じる者は少ないが、救いを求める者は多い。そうした者たちの悩みを聴き、彼らのために祈り、彼らをその苦痛から解放することに身を砕いてきた。
彼の他《ほか》にいったい誰《だれ》が、これほどにおのが身を神に捧《ささ》げられるだろうか。
降魔局《A・S・C》の調査によれば、〈ケイオス・ヘキサ〉全域を通しても、彼に勝る信仰を持つ者は発見されていない。
神父は大きな紙袋から一本のパンを取り出した。
量にしておよそ五斤分。スライスされていない、一抱えもある長い食パンだ。
『取りなさい、これは私の体である』
感謝の祈りを唱え、端からかじりつく。
続いて、袋から葡萄酒《ぶどうしゅ》を三本。
『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』
瞬く間に胃袋に収まった。
聖餐《せいさん》を終えた彼は、短白衣《サープリス》と上着《カソック》を脱いで、傍らの信徒席にかけた。
上着の下は、トレーニングパンツとスニーカー。上半身には、革の手袋の他《ほか》はなにも着けていない。
うねる筋肉の束が、無数の傷跡に包まれている。
いったいいかなる仕打ちが、このような傷跡を作るのか。
腕や首をぐるりと回る、環状の刃傷《はきず》。肉がそぎ取られたようにへこんだ傷。あるいは、内側から弾けたような傷。
大きいものも、小さいものもある。
そのどれもが、古く、かつ新しい。
ふさがる暇もないほどに幾度となく血を吹き出し、果ては一つの器官として定着してしまったような、そんな傷跡だ。
蝋燭《ろうそく》の光を受けて深い陰影を浮かび上がらせ、薄く血を滲《にじ》ませている。
中でもひときわ目立つのは、胸板に深く刻まれた、十字の傷だ。
左肩から、右腰へ。そして、右鎖骨から、左|脇《わき》へ。斜めにかしいだ十字架のように、指二本分ほどの幅のひきつれた傷跡が交差している。
何者かがこの胸を割り開いて、心臓をつかみ出そうとした跡のようでもある。
神父は聖堂の最奥に設置された十字架に向かって跪《ひざまず》き、両手を組んで祈りを捧《ささ》げた。
そして、今度はその両手を肩幅に、身廊《しんろう》の床についた。
父なる神の下に、|腕立てふせ《プッシュアップ》を五〇〇回。
腹筋を五〇〇回。
スクワットを五〇〇回。
小一時間かけてこなした。
神に栄光あれ。
彼は跪き十字を切ると、再び床に手をついた。
すでに、その体からは滝のような汗が滴り、人気《ひとけ》のない聖堂の冷えた空気の中に、もうもうと湯気を放っている。いくつかの傷口が開き、血が流れ出ている。
しかし、彼の両腕はなお、器械のように正確なリズムで屈伸を繰り返している。その表情には一片の苦痛も見出《みいだ》すことはできない。
鍛練《たんれん》前の祈りのときと同様に、平静で真摯《しんし》な表情だ。
子なる神の下に、腕立て五〇〇を終え、再び腹筋五〇〇。そして、スクワット五〇〇。
神に栄光あれ。
再び十字を切り、聖霊なる神の下に、もう一セット。
「聖人の条件とはすなわち、いかなる艱難辛苦《かんなんしんく》にも耐え得る不感症である」とは、かつてある無神論者の吐いた皮肉だが、その意味では彼もまた、聖人の資格を十二分に持っているといえる。
彼の肉体はいかなる苦痛も覚えない。そのように生まれついている。
体内の、痛みや苦しみを感じる回路が、どこかで断線しているのだ。
それゆえに彼は、苦痛を恐れることなく、その肉体を物理的な限界まで鍛えることができる。
すべては神のために。アーメン。
三度目の十字を切ると、ようやく彼は体を動かすことを止め、立ち上がった。
古い絨毯《じゅうたん》が吸い切れなかった汗が、足元の床にじゅくじゅくとした水|溜《た》まりを作っている。
タオルを取り、血と汗をぬぐった。
「あの……」
正面扉が三〇センチほど開き、若い女の顔がのぞき込んでいる。
女は、振り向いた神父の傷だらけの顔面を見て息を飲んだ。
「ここ……教会ですよね?」と問う声が、裏返りかける。
「ええ」と、神父は微笑《ほほえ》んだ。
内側から光を放つような、聖人の笑みだ。
女はほっと息をついた。
「どうぞ、お入りなさい」と神父は言った。
マグロは告解を終えると、神父に礼を言って教会を後にした。
助平な男どもの下心につけ込んで小銭を巻き上げるくらい、どうということはない。だが、昨日《きのう》の『仕事』は、さすがに後味が悪かった。
『客』はまだ子供と言ってもいいような、初《うぶ》な少年だ。ちょっとドンくさいけど、結構かわいいコだった。
適当にあしらって、授業料[#「授業料」に傍点]を頂いて。そんな風《ふう》に思っていたのだが……。
うっかり笑ったりしてしまったものだから、彼[#「彼」に傍点]がキレてしまった。
さんざんに殴って、あり金残らず取り上げた。私が止めようとしたら、ムキになって蹴《け》りを入れてた。
悪いこと、したな。
そのことで彼と喧嘩《けんか》もしてしまったし、ずっと気がふさいでいた。
それで、いつもは素通りしていた教会に、立ち寄ってみたのだ。
変わり者の神父が一人でやっていると聞いていた。
確かに、変わってる。
ヒンズースクワットをやってる神父様なんて、初めて見た。まるでプロレスラーみたいな体だった。
あの傷だらけの顔じゃ、まず悪役《ヒール》ね。キャッチフレーズは『殺人神父』? それとも『地獄の宣教師』?
くすりと笑う。
でも、いい人だった。小さい頃《ころ》に通っていた近所の教会の神父様と、同じくらい。
黙って話を聴いてくれて、最後に、
「神はすべてを赦《ゆる》されるでしょう」
まあ、そう言ってもらうことを期待してたわけだけど。
おかげでずいぶん気が晴れた。
さあ、もう彼とも仲直りして、今日もがんばって稼がなくちゃ。
娘の告解を聴き、送り返した後――
ハックルボーン神父は苦悩していた。
若い娘が肉体を売り、人を欺《あざむ》いて日々の糧を得る。
この街では日常的に行なわれていることだ。
『悪しき人と人を欺く者とは益々《ますます》悪に進み、人を惑わし、また人に惑わされん』
互いに貪《むさぼ》り合い、偽り合うことによってこの街は生きている。それを禁じることは、生きることを禁じるに等しい。
自分にはなにもできない。神の赦しを空約束する他《ほか》に、自分にできることはない。
神よ。私は……。
神父は祭壇に跪《ひざまず》き、固く手を組んだ。
手がぬるりと滑った。
革手袋の口から、血が流れている。
神父は手袋を外した。血にまみれた両手の掌《てのひら》の中心に、小さな硬貨ほどの大きさの、手の甲に抜ける貫通銃創がある。血はその傷から流れているのだ。
神との同調《シンクロ》によって生じると言われる、『聖痕《せいこん》』と呼ばれる現象だ。
『施すべき相手に善行を拒んではならない』
そうでした。神よ赦したまえ。
今から追えば、すぐに追いつけるだろう。
彼は立ち上がり、先ほどの娘の姿を思い描いた。
あの娘……どこかで会ったことがあるだろうか?
華奢《きゃしゃ》な体つき、白い肌。短い髪がよく似合っていた。
ああ、そうか。
神父は気づいた。
あの娘は、彼が一三番目に殺した娘に似ているのだ。
|ぶつ切りハック《ハック・ザ・ハッカー》。
それが彼の通り名だった。
『怪物』とも呼ばれた。
痛みを感じない体質がゆえに、他人の苦痛を理解することもなかった。
それまでに一二人の男女を惨殺したのは、あるいはそれを理解するためだったのかも知れない。
腹のスイッチを押すと『ミルクをちょうだい、ママ!』としゃべる人形を分解して、どこから声が出ているのかを確かめる。
そのようにして、悲鳴を上げる男の腕を叩《たた》き落とした。女の腹を裂いた。子供の首を刎《は》ねた。細切れにして、地面にぶちまけた。
五人殺したところで公安に追われた。
最下層に逃げ込み、七人殺したが、これは黙認された。
被害者を選ぶに当たって、これといった法則はなかった。大ぶりの鉈《なた》を常に持ち歩いて、状況が許せば殺した。
その少女を選んだのも、特に理由はない。
大きな|熊のぬいぐるみ《テディベア》を抱えているのが目についた。
うなじが白かった。
薄闇《うすやみ》に映える白いうなじになんとなくついて行き、人気《ひとけ》がなくなったので、後ろから組みつき、路地に引き込んだ。
テディベアが路面に落ちた。
娘は恐ろしく大きな悲鳴を上げたが、気にはならなかった。叩きつけるように押し倒すと、かは、と息を吐いて、静かになった。ショックでまともに息が吸えなくなり、かひ、かひ、と浅い呼吸を繰り返した。
服を剥《む》いだ。
小さな白い胸が、震えていた。
胸骨に鉈を叩き込むと、すぐに真っ赤になった。
刃があまり深く入らないように注意しながら、ごきごきと割り広げた。
心臓が見たかった。
心臓を中心に、十字に切れ込みを入れ、血溜《ちだ》まりの中に手を突っ込んだ。
少女の体内はとくとくと脈打ち、ぬるぬるとして、暖かかった。手を動かすたびに、体全体がぴくぴくと動いた。
肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》から、心臓に触れた。
その瞬間。
彼の胸に強烈な感覚が生じた。
生まれて初めて感じる『痛み』だった。
シャツの胸元に、血の十字架が浮かび上がった。彼の胸の、少女と同じ位置に、深い裂傷が生じていた。
いかなる理由によるものか――あるいは、奇跡というべきか――殺人者と被害者の間に、感染|呪術《じゅじゅつ》的な連携が生じたのだ。
シャツを引き破り、胸をかきむしって咆哮《ほうこう》した。
腕に、脚に、背に、腹に、顔に、かつて彼が他者の肉体に刻み込んだすべての場所に、肉を裂いて、新たな傷口が生じた。他者に与えた苦痛のすべてが、おのれの肉体に帰ってきた。
中でも一番鮮やかに、生々しく感じられるのは、目の前の少女の苦痛だ。
これもまた、奇跡というべきか――その時点でまだ、彼女には意識があった。
息絶える瞬間、最後の呼気と共に、
「かみさま」と言った。
少女と同調《シンクロ》していた彼は、彼女の死を体験した。
肉体からの離脱。意識の加速。上昇し、上昇し、そして――
彼は、神を見た。
永遠とも思える一瞬が過ぎた。
気がつくと、その場に跪《ひざまず》き、引きちぎった少女の心臓を胸に押し頂き、天を仰ぎ祈っていた。
涙を流していた。
歓喜の涙だ。
苦痛はすでに去っていた。
それ以来、彼は鉈《なた》を十字架に持ち替えて、神と人々のために尽くしてきた。
彼は、生まれ変わったのだ。
地響きにも似た振動が、マグロの背後に迫った。
振り返ったマグロは目を見開き、思わず十字を切った。
シュールな光景だ。
一・五メートルもある巨大な十字架をかついだ神父が、大気を震わせるようにして駈《か》けてくる。
十字架は、二〇センチ角の角材を二本、無造作に打ち合わせたものだ。グリップに当たる部分は丸く削り、革を巻いてある。
交差部には大きなテディベアが釘《くぎ》で打ちつけてあった。
神父が目の前に迫った。
「あなたに神の――」
十字架を振りかぶり、水平に打ち振った。
一瞬、十字架がまばゆい光を放った。
一撃で、首の骨が折れた。マグロの体がぐらりと傾いた。首が不自然な角度に曲がっている。
「祝福あれ!」
反対側から、再び打ち振った。マグロの頭は根元からちぎれ、塀《へい》を越えて飛んで行った。
右の頬《ほお》を打ったら左の頬も。
神はかくの如《ごと》く宣《のたも》うた。
『なにごともバランスが肝心』と。
神父の首の根のぐるり[#「ぐるり」に傍点]から血が吹き出し、裸の上半身に直接|羽織《はお》った短白衣《サープリス》を赤く染めていく。
両目から、つう、と涙がこぼれた。
苦痛の涙であり、歓喜の涙でもある。
彼の受ける苦痛はすべて、彼が手にかけた者たちのものだ。
そして、彼の喜びのすべては、神よりもたらされるものだ。
迷える魂を神の下《もと》へと導くとき、彼もまた神にまみえることができる。
マグロの魂を通じて、彼は全身を包むまばゆい光を感じた。パイプオルガンの響きにも似た、荘厳な調べを聞いた。
「アーメン」と彼は言った。
背後から、手を叩《たた》く者があった。
「お見事」
その女――降魔局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》ヴァージニア・フォーは言った。
「相転移に伴い、聖光効果《ハローエフェクト》と神聖和音《RHサウンド》を確認。今の一撃で、彼女の魂は間違いなく高次元に強制シフトされました」
「神に召されたのだ」と神父は言った。
「我々も同様に推論[#「推論」に傍点]……いえ、そう希望[#「希望」に傍点]しています」
「わざわいなるかな、偽善なる学者」
神父は言った。
「神を疑うなかれ」
六年前、〈ケイオス・トライ〉。
ウィリアム・ヘルシング教授は公正な吸血鬼学者として知られていた。通常、無条件に憎悪の対象として扱われる吸血鬼《ヴァンパイア》に対し研究者として曇りのない視線を向け、
「吸血鬼《ヴァンパイア》を火あぶりにする方法を考えることだけが、我々の仕事ではない」
そう公言する彼を、批判的な同業者は「親吸血鬼派」と呼んだ。
吸血鬼《ヴァンパイア》とはなにか?
吸血鬼《ヴァンパイア》を吸血鬼《ヴァンパイア》たらしめる複雑で強力な『呪《のろ》い』。その牙《きば》にかかった被害者の脳に感染し、その死亡と同時に消失する魂に代わって屍肉《しにく》を操る、高度な複合|呪詛《じゅそ》。それこそが彼らの本質だ。脳に残留する記憶から仮の人格を形成するが、それは狩りのための擬態にすぎない。ひとたび獲物を前にすれば、吸血衝動――本能的な『血の渇き』に駆られる殺戮《さつりく》器械と化す。また、宿主の肉体に、因果律をねじまげ物理法則をも無視する超絶的な再生現象を引き起こす。
人間の思考では解析も解睨《にら》も不可能とされるそれは『神』の手による呪《のろ》いとも言われている。
ならば、彼らの存在も我々と同様に、神の摂理のうちなのだ。
それがヘルシングの持論だった。
すさまじい繁殖力と生命力を持ちながら、陽光の一照で灰燼《かいじん》に帰す、いびつな擬似生命。彼らはいったいなんのために存在するのか。また、かつて幾度となく絶滅宣言が出されたにも関《かか》わらず、再び現れるのはなぜか。
人類の歴史と共に――あるいは有史以前から――繰り返されてきた吸血鬼《ヴァンパイア》の繁殖と撲滅《ぼくめつ》。その記録を紐解《ひもと》くうちに、ヘルシングはいくつかの事実を見いだしていた。一つには――
各時期に発生する吸血鬼《ヴァンパイア》の呪詛型《タイプ》は必ず単一だ。例えば〈タイプ・バルカン〉と〈タイプ・スクエア〉が同時期・同地域に混交して発生することはない。
「吸血鬼《ヴァンパイア》は常に特定の個体から繁殖し、その個体を残して絶滅する」
その仮定の元になったのは、〈タイプ・スクエア〉――現代的吸血鬼研究の初期に〈ケイオス・スクエア〉に見られた型の吸血鬼《ヴァンパイア》だが、それ以前に〈オクタ〉や他《ほか》の地域にも存在していたことが現在は確認されている――の源吸血鬼《ルートヴァンパイア》と目される個体だ。地図と年表の上を飛び跳ねるように出現する彼は、しばしばその身体的特徴から、その地域・その時代の言葉で、〈長牙《ロング・ファング》〉と呼ばれている。
また、近代以降、吸血鬼《ヴァンパイア》の繁殖時期は、人類の局地的、あるいは全地球的規模の人口爆発の直後に重なっている。さらに、過去に生じた〈タイプ・スクエア〉の吸血鬼|禍《か》が終結する際に「長い牙を持った」吸血鬼《ヴァンパイア》からの助言や協力があったという記録が数件、真偽は未確認ながら、残されている。
これらの記録から、ヘルシングは次のように結論した。
「少なくとも、この個体――いや『彼』は明確な意図をもって我々に接している。必要とされるときに吸血鬼|禍《か》を引き起こし、自らそれを収拾するというその行動は、密集した作物を間引く農夫のそれに似ている」
批判者の指摘した通り、この時点で〈ロング・ファング〉に代表される吸血鬼《ヴァンパイア》に対するヘルシングの視線は好意的なものだったといえる。
奇《く》しくもこの発言の翌年、〈ケイオス・トライ〉は大規模な吸血鬼禍に見舞われた。
〈タイプ・スクエア〉だった。
光度を押さえられた照明、低く呟《つぶや》くように流れる停滞の呪文《じゅもん》。強力な結界《けっかい》に閉ざされた室内に、時の流れさえも封じ込められている。
部屋の中央には、直径一メートル・長さ三メートルほどの金属筒が横たわっている。金属筒と、パイプや制御卓等の付属物以外に、室内にはなにもない。この半径五メートルほどの円筒形の空間は、部屋というよりは呪術的/物理的封し込め機能を持った実験用チェンバーに近い。
何重もの絶縁扉をくぐり、二人の人影が入室してきた。一人は初老の小男。もう一人は一二、三才の少女だ。
室内の空気が重い。
初老の男――ウィリアム・ヘルシングは水中を歩くようにして金属筒に歩み寄った。部屋の中央に近づくにつれて空気の粘度が上がる。金属筒から発する減速時場がヘルシング自身の生体場に浸透するまでに、若干のタイムラグがある。
傍らの少女の足取りも、同様にゆるりとしている。しかし、その表情や身のこなしに、力みは見られず、スローモーションフィルムのように、ごく自然にふわりと歩く。妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》ヴァージニア・スリー。その依代《ホスト》は生体の属性を持ちながら半ば器物に近く、呪術的な場に対する抵抗力は弱い。彼女は完全に時場に同調している。
V3が金属筒の傍らの制御盤をのろのろと操作すると、外装が大きく開き、さらに二重になった内壁が開いて、内側から光がこぼれ出した。呪的|遮蔽《しゃへい》が解け、金属筒から漏出した時場のため減速率が数百倍に跳ね上がり、空気が固化した。時場と同調するまでの数秒間、呼吸が不可能になるが、ヘルシングはあらかじめ空気を吸い、呼吸を止めている。
「――異状なし」
内部を一瞥《いちべつ》したV3が、短く告げた。
体の自由を取り戻すと、ヘルシングは(主観的な意味でも)ゆっくりと右手を上げた。そうしなくては身体各部の時差によって体組織がちぎれてしまう。それでなくとも、先ほどから神経パルスに縦波が生じ、めまいにも似た生理的な違和感がさざ波となって全身を走っている。
右手には、一輪の紅《あか》い花――造花ではなく、本物の生きた薔薇《ばら》。この男には似合わない嗜好品《しこうひん》だ。茎は短く、棘《とげ》は取り去ってある。娘が傷つかぬように。
金属筒の開口部の上に手を差し出し、薔薇《ばら》を放した。その落ちていく先は、乳白色に光る人工の羊水《ようすい》と、無数の薔薇に囲まれた少女の体。年格好も、顔の作りもV3に似ている。一つだけ大きく違っているのは、その右手だ。右手がない。肘《ひじ》の上で、切り落とされたようになっている。
隻腕《せきわん》の少女は目を閉じて、眠っているように見える。死んでいるようにも見える。また、そのどちらでもあるといえる。
ミラ・ヘルシング。
ウィリアム・ヘルシングの実の娘だ。
五年前のある日、吸血鬼《ヴァンパイア》に接触感染した。牙《きば》の跡のついた前腕を即座に切断したが、聖象徴反応試験《クロスリアクション・テスト》の結果は陽性。数時間以内に吸血鬼化することが判《わか》った。ヘルシングはただちに彼女を仮死の呪文《じゅもん》下に置き代謝を低下させた上で、さらに停滞呪文をかけた。
その前年に妻を事故で失っていたヘルシングにとって、娘は残されたすべてといえた。
それゆえに、判断を誤った。
もし完全に吸血鬼化すれば、ミラは仮死と停滞の呪文を振りほどき、周囲の人間を襲うだろう。
病室のベッドの脇《わき》に座り、拳銃《けんじゅう》を握り締め、ミラの切り株のようになった腕の断面を見つめながら幾晩も過ごした。腕が再生し始めたら、その時は。
まんじりともせずに、その時を待った[#「その時を待った」に傍点]。
ヘルシングはその後も研究を続けた。吸血鬼|禍《か》の最中とあって、資料は続々と集まってくる。そのどれもが『神の呪《のろ》い』を人の手で解くのは不可能だと告げていた。ただ一つの例外、吸血鬼化が重度(第三度以上)まで進行しないうちに源吸血鬼《ルートヴァンパイア》を抹消すること以外には。
また、〈トライ〉当局の要請を受け、ヘルシングは吸血鬼ハンターを率いて〈ロング・ファング〉を追った。吸血鬼《ヴァンパイア》の行動パターンを熟知するヘルシングはしばしば彼を追い詰めたが、〈ロング・ファング〉はさらにその裏をかく行動を取って逃げ延びた。
〈ロング・ファング〉は並の吸血鬼《ヴァンパイア》とは違う。非常にユニークだ。
例えば、その『人喰《ひとく》い』だ。〈ロング・ファング〉は通常、被害者の血を吸った後、吸血鬼化しつつあるその屍体《したい》を残らず食べる。他《ほか》の吸血鬼《ヴァンパイア》には見られない行為だ。彼は必要があるときしか仲間を増やさない。
以前のヘルシングならばそれを「理性ある行動」として評価していただろう。だが、今となっては、それも憎悪の対象だ。
〈ロング・ファング〉との戦いは〈トライ〉の|奈落堕ち《フォールダウン》によって中断された。ヘルシングは〈ヘキサ〉に移住、降魔局《A・S・C》にミラの身柄を託した。降魔局《A・S・C》は「できる限りの治療」を約束したが、〈ヘキサ〉においてミラの人権は認められない。モルモットに等しい扱いだ。しかし、それ以外に、ミラに必要な呪術《じゅじゅつ》処置を維持する方法はなかった。
そして、すべてが片づいたと思われたとき、〈ヘキサ〉に吸血鬼|禍《か》が発生した。〈トライ〉からの難民に混じって、〈ロング・ファング〉が〈ヘキサ〉に侵入したのだ。
ヘルシングは公安局の要請を受け、吸血鬼研究の専門家として呪装戦術隊《S.E.A.T.》の顧問となった。
すでに時間が立ちすぎている。今、〈ロング・ファング〉を殺しても、ミラが救われる可能性は低い。
だが、結果がどうあれ、奴《やつ》を地獄に叩《たた》き込まずに置くつもりはない。
ヘルシングの投じた薔薇《ばら》は落下と共にさらに減速し、減速し、減速。金属筒の内部に入る頃《ころ》には、ほとんど止まって見える。ヘルシングから見て数十分の一、絶対時の約三万分の一の速度で落下している。
その横には、前回投げ入れた薔薇が着水し、動かぬ波紋を形作っている。その隣には前々回のもの、少女の体を挟んだ向かいには、さらにその前のもの。
もし、娘が目を開いたならば、立て続けに降り注ぐ薔薇の雨が見えることだろう。娘はそれを自分を祝福するものだと思うだろうか。それとも――
「自分を生きながらに埋める、埋葬の土だと思うだろうか」と、V3が言った。
「…心をのぞくな、魔女め」
短く、強く、ヘルシングは言った。だが、怒ってはならない。他人の精神に小石を投げ込み、そこに生じる波紋を読む。それが降魔局《A・S・C》のやり方なのだ。怒りは心の片隅に圧縮され、暗い熱を持ったまま封じ込められた。
「ああ――すみません、つい」
青い瞳《ひとみ》を伏せるその表情に、ヘルシングはわずかに動揺した。一瞬、娘の死を願う心のうちを、娘自身に見透かされたような錯覚に陥りかけた。
V3は、あまりにもミラに似ている。
だが、それは当然だ。彼女の依代《ホスト》はミラに似せて作られている。ミラと同調《シンクロ》するに当たって、その方が効率がよいという話だが、むしろヘルシングに対する心理的効果を狙《ねら》ってのことかも知れない。実に降魔局《A・S・C》らしいやり方だ。
「でも、娘さんは幸せですよ」
なだめるような口調でV3は言った。
「私たちの本体には、面会はあり得ません」
この設備はもともと妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》の原版となる魔女を収容するためのものだ。魔女――人為的に『悪魔|憑《つ》き』にされた霊媒体質者は厳重に固定・封印され、おそらく二度と解放されることはない。ミラのように、誰《だれ》かが毎日のように結界内に入り、封印を解くなどということはあり得ない。
『吸血鬼の呪詛《じゅそ》』に感染し、さらに仮死と停滞の呪文をかけられた彼女の身に、どのような現象が生じるか、予測することは困難だ。そのため降魔局《A・S・C》は専任の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》を配し、その状態を定期的にモニターしている。
その場にヘルシングが立ち会う必要はないが、彼は時間の許す限りここに足を運ぶことにしていた。
娘の好きだった、紅《あか》い薔薇《ばら》の花を持って。
「誰《だれ》にも顧みられなくなったら、人は人ではなくなります。生ける屍《しかばね》、ただの『物』です。……あなたの娘さんが、本当にうらやましい」
――だから、あなたはとてもよい父親だ。毎日のように、数十秒の面会のため数時間を割くあなたは、とても娘思いだ。娘さんはきっとあなたを許してくれる――
「黙れ」
精神の奥に滑り込もうとするV3のささやきを、ヘルシングはさえぎった。
吸血鬼《ヴァンパイア》を許さぬように、おのれを許すつもりもない。
室内で三〇秒を過ごし外に出ると、三時間あまりが経過していた。
絶縁扉を出るなり、V3が言った。
「――ヴァージニア・フォーより、報告です」
同系列の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》同士の間に生じるシンクロニシティを利用した、共時性通信だ。通常|交霊経路《チャンネル》より高速で、雑霊干渉《ノイズ》もない。
「以前あなたが提示した要件を満たす人材を、確保しました」
〈ロング・ファング〉はD層の辺境の安宿に宿泊していた。どこで寝ようと大した違いはないが、人間の真似《まね》をするのが好きなのだ。
血に汚れたシャツを(なにかというと血まみれになってしまう)ダストシュートに投げ込むと、一風呂浴びて、ベッドに転がった。
さて、これからどうしようか?
ヘルシングの奴《やつ》と遊ぶのも悪くはないが、もう少し様子を見て、なんとかなりそうなら[#「なんとかなりそうなら」に傍点]――後のことは奴にまかせて、この都市を出て、久々に古い馴染《なじ》みを訪ねるのもいい。
外の廊下で、なにかが動く気配がした。
街で買ってきた着替えの袖《そで》に手を通しつつ、ドアに顔を寄せ外をうかがう。すると――
そいつは呪装戦術隊《S.E.A.T.》を引き連れ、コンクリートの壁をぶち破ってやって来た。
太陽灯を背にした、筋肉質のシルエット。
トレーニングパンツにスニーカー。傷だらけの上半身。テディベアを打ちつけた、巨大な十字架を引っ提《さ》げている。
〈ロング・ファング〉は即座に逃走姿勢に移った。だが、それよりも早く、十字架の男――ハックルボーン神父の体がぐんと沈み、凄《すさ》まじい勢いで突進。瞬く間に間合いを詰める。
ごう、と空気が震えた。
神父の体が、瞬間、背後からの照明を圧する眩《まばゆ》い光を放った。並外れた強度の信仰のため、聖光効果《ハローエフェクト》が可視波長にまで及んでいるのだ。
神聖な光が〈ロング・ファング〉の眼《め》を射、皮膚をちりちりと焦がした。
ひるんだ彼の全身に、神父に続いて突入・展開した呪装戦術隊《S.E.A.T.》の散弾が打ち込まれた。散弾で動きを止めたところに、神父の振りかぶった十字架が打ち下ろされる。
灼《や》けた鉄棒《てつぼう》を押しつけたように、じゅっと音を立てて〈ロング・ファング〉の肩口に十字架が食い込んだ。
神父はそのまま十字架を振り抜き、続けて第二打、三打を打ち込む。
脇腹《わきばら》と腿《もも》の肉が、ごそりと削《そ》がれた。
膝《ひざ》がくだけ、床に転げながら〈ロング・ファング〉は神父を見上げた。紅《あか》い瞳《ひとみ》が神父の眼と正面から向き合う。
しかし、神父は吸血鬼《ヴァンパイア》に支配されはしない。彼は何者にも魂を盗まれはしない。彼の魂はすでに、神に捧《ささ》げられているのだ。
十字架が再び振り上げられ、振り下ろされた。
〈ロング・ファング〉は体を反転させつつ回避。十字架は板張りの床を打ち、大きなひびを入れる。
立ち上がれない。十字架に打たれた傷が、再生しないのだ。〈ロング・ファング〉はうつぶせのまま、高速で匍匐《ほふく》前進。呪装戦術隊《S.E.A.T.》の足元を蛇のようにすり抜け、数丁のショットガンの銃口が彼を捕らえた瞬間、両手を強く衝《つ》き、跳躍。床を打つ散弾を眼下に高さ二メートルの二次曲線を描き、ダストシュートに取りついた。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》を蹴散《けち》らすように、神父が突進した。ダストシュートにもぐり込もうとする吸血鬼《ヴァンパイア》の腰に、十字架を打ち下ろす。
〈ロング・ファング〉の体が二つにちぎれ、落ちた。下半身は床の上に、上半身は廃棄孔の中に。
神父がダストシュートをのぞき込んだ。しかし、直径六〇センチほどの廃棄孔は、彼がもぐり込むにはせますぎる。
指揮車で報告を受けたヘルシングは、
「廃棄孔の行き先は?」
「最下層に直通です」と指揮車のオペレータが答えた。
D層にはこうした形式のダストシュートが多い。処理施設もなにもない、ただの不法投棄だ。
「掃除はどうしている?」
「水洗です。ここからコントロールできますが?」
「待て。洗浄液はどこから?」
「屋上の給水塔です」
「神父をそこに呼べ」
九〇秒後、ハックルボーン神父の手によって給水塔ごと祝聖された殺菌洗浄液が、ひと息に廃棄孔に解放された。
ヘルシングは降魔局《A・S・C》に連絡、〈ロング・ファング〉の追跡を要請した。
傷だらけの体を聖水の波にもまれれば、吸血鬼《ヴァンパイア》といえどもただでは済むまい。
だが、この程度でくたばってもらっては困る。
老吸血鬼学者の顔に、笑みとも歯ぎしりともつかぬ暗い表情が浮かんだ。
そうとも、この程度で済ませるものか。
廃棄孔を抜けた〈ロング・ファング〉は、巨大な廃墟《はいきょ》の上空に放り出された。
数百メートルを落下し、建築物の狭間《はざま》に膿《うみ》のようにたまり続けてきた廃棄物の山に、背中から突っ込む。
落下の衝撃は多量のガスを含むゴミの山に吸収された。だが、半ば流動的な塊と化したゴミの中に全身が深く埋まってしまい、ほとんど身動きがとれない。
呼吸ができない。死にはしないが、苦痛がある。それに、こうして埋もれていては、肉体の再生もままならない。
痛む腕を動かし、ゴミを掻《か》いて上昇する。奮闘すること一分半、ようやく空中に顔を出し、大きく息をついた。
その瞬間、数百メートル分の重力加速を得た一二〇トンの聖水が〈ロング・ファング〉を叩《たた》きのめした。
再びゴミ山がクッションの役目を果たし、どうにか圧死は免れた。
〈ロング・ファング〉の全身を思うさま翻弄《ほんろう》した後、聖水はゴミの隙間《すきま》に染み込んでいった。
聖水にもみしだかれた〈ロング・ファング〉の肉体は、コンパクトな白い塊となっていた。
下半身はD層に置いてきた。
左腕は今しがた、ちぎれてしまった。
全身の骨格が、粉々だ。
全身の皮膚が、強酸で洗われたように白く焼けただれている。
そしてなにより、再生が始まらない。
〈マクスウェル〉に命じて自ら抑制しているのではない。心臓が破損しているわけでもない。
十字架と聖水によって浄化された傷口の組織が、呪詛《じゅそ》の一種とも言える再生現象の発現をせき止めているのだ。
「聖水に洗われるのは、かなりこたえるようですね。……体内に注入したら、いったいどうなるのかしら?」
廃ビルの、大きく鉄骨を剥《む》き出しにしたコンクリートの割れ目から、何者かが〈ロング・ファング〉に呼びかけた。
「ご気分はいかが?」
〈ロング・ファング〉は声のした方向に頭を向け――いや、首の筋肉が断裂している。
「最悪だ」
「それはなにより」と、妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》ヴァージニア・フォーは言った。「吸血鬼に苦痛を与える手段は、そうはありませんから」
「――いったいなんなんだ、あのおっさんは」と〈ロング・ファング〉は問うた。
「ハックルボーン神父――降魔局《A・S・C》認定の超《ちょう》弩級《どきゅう》聖人です」とV4は答えた。
「ストロボ並の光度の聖光放射に加え、一一五立方メートルの不純水を一・五秒で完全聖別。これは最大の工業用|濾過《ろか》聖別装置と比較しても、およそ四〇倍の効率だわ。……もし望むなら、石をパンに、水を葡萄酒《ぶどうしゅ》に変えるくらいの奇跡は起こせるでしょうね」
「そいつあ食費が助かるな」
「たしかに」
V4はくすくすと笑った。
「なにしろ、彼はこの三年間、聖体拝領によって生命を維持していますから。――自ら祝聖したパンと葡萄酒以外、なに一つ口にしていません」
「『人はパンのみに生くるにあらず』じゃないのか?」
「ええ、ですから――パンと葡萄酒と信仰のみによって。この意味が判《わか》りますか? 彼の肉体は一切の不純物なしに、毛の一本、血の一滴に至るまで……細胞はおろか、原子レベルで聖別されているわけです」
「めでたい奴《やつ》だ」
「限りなく神の子に近い彼の肉体は、あらゆる邪悪を退けます。私たちにとって天敵のようなものですね」
V4の表情に、ふと影が差した。
「……あなたや、私のような者にとって」
「俺《おれ》と一緒ってのは、そんなに嫌かい?」
その軽口にV4は、
「失礼。ビジネスの話に移りましょう」と言って微笑《ほほえ》んだ。
V4は廃ビルから飛び出し、いくつかの粗大ゴミを飛び石のように踏んで、〈ロング・ファング〉の傍らに、軽やかに着地した。
「――あなたがつい先ほど経験したとおり、ウィリアム・ヘルシングが指揮する呪装戦術隊《S.E.A.T.》は、ハックルボーン神父を前衛に配置することにより、効果的な吸血鬼捕殺機関として機能します。およそ五六〇〇〇通りのシミュレーションを行なった結果、我々は、あなたが彼らの手を逃れ、この都市を脱出するか、一〇〇〇時間以上潜伏する可能性を、約一・二パーセントと見積りました」
「当たれば大穴だな」
「しかし、我々があなたに協力することにより、その可能性を約六七パーセントまで引き上げることができます」
「どうやって?」〈ロング・ファング〉は溶けかけた右手を使って頭の向きを変え、V4の顔をのぞき込んだ。
これで、吸血鬼《ヴァンパイア》はいつでもV4の支配を試みることができる。だが、V4は目をそらそうとはしない。これも予想されるリスクのうちだ。
「下手にかくまったりしたら、ヘルシングの奴《やつ》が黙っちゃいないだろう?」
「それについては、幾つかの非常にユニークな計画案が提出されています」
V4は微笑《ほほえ》みつつ、それ以上の説明をやんわりと拒否した。
「そりゃ楽しみだ。で、こちらの条件は?」
「差し当たっては、あなたの誠意と友情を」
「誓約と魅了の呪文《じゅもん》か」
「できればそうしたいところですが、その種の向精神呪文が吸血鬼《ヴァンパイア》に対して無効であることは確認済みです。我々としては、あなたを――あなたの行動原理を信じるしかありません」
「へえ、あんたらは俺《おれ》をどんな奴だと思ってるんだい?」
「修辞的表現を用いるならば……あなたは『羊の群れの中に住む、さびしがりやのオオカミ』です。羊を食べずには生きられない。しかし、独りで生きていくのはつまらない。群れを喰《く》い尽すことは、あなたの本意ではないはずです」
「首輪をつけようとする奴には、噛《か》みつくぜ」
「私にも?」
「いや……どうかな」
その躊躇《ちゅうちょ》するさまを見て、V4は悪戯《いたずら》っぽく微笑んだ。
「あなたは友達を欲しがっている。人間関係と、それに伴う束縛を、時には楽しみたいと思っている。我々は二つとも提供できますよ……友情も、束縛も」
「損得勘定で、友達をつくるのか」
非難めいた口調に、V4の精神が揺らいだ。
「私には……私たちには、それしか許されないから」
「すまん」と吸血鬼《ヴァンパイア》は言った。「あんたをとがめるつもりじゃなかったんだ、ジニー」
V4は一旦《いったん》伏せた目を再び〈ロング・ファング〉に向けた。
「私を友人のように呼んでくれるんですね」
「俺《おれ》の誠意と友情は、あんたのもんさ」
〈ロング・ファング〉は眼《め》を閉じた。吸血鬼《ヴァンパイア》の紅《あか》い瞳《ひとみ》は、奴隷を得るには役立つが、友を求めることはできない。
「契約成立、ですね」
V4は微笑《ほほえ》み、
「……ありがとう」と言って、抜き手の形にかまえた手刀を〈ロング・ファング〉の喉元《のどもと》に突き込んだ。
「見失っただと!?」
この矮躯《わいく》のどこに、これほどの気迫が生じるのか。
W・ヘルシングの怒声に、薔薇《ばら》の香りを持つ空気がびりびりと震えた。
灰色の眼が、論理器械《プログノメーター》オペレータ・マクファーソンに、ひたと据えられている。
殺気さえこもったその鋭利な視線を、マクファーソンはうつむき加減に受けとめ、低く繰り返した。
「我々が〈ロング・ファング〉と規定した存在は、現在、市内には確認されません」
その傍らでは、鋼の巨顔が、素知らぬ顔で目を閉じている。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》が〈ロング・ファング〉と最後に接触してから、すでに六時間が経過している。
ダストシュートに飛び込んだ〈ロング・ファング〉を追い、最下層に降りたヘルシングらの見たものは、白くただれた、首なしの上半身。頸部《けいぶ》の断面から見て、何者かに首を切られ、頭部を持ち去られたものと思われた。
頭部を完全に潰《つぶ》さねば、再生の可能性が残される。いや、頭のみになったのはむしろ逃走の手段だろう。奴《やつ》は生きている。奴ならば、頭どころか脳髄《のうずい》の一片からでも復活しかねない。
ヘルシングは直ちに周囲五キロ四方のすべての昇降機《リフト》での検問を指示、自らはライマン脳による追跡の結果を確認するべく、A層の降魔局《A・S・C》本部に赴いた。
しかし、情報は得られなかった。ライマン脳がハックルボーン神父の起こした奇跡に干渉され、調整を必要としているのだという。
じりじりと身を焦がすような四半日の後、ようやくライマン脳が解放され、追跡を再開。そして、得られた結果は『目標喪失《LOST》』の四文字。
「逃亡か、潜伏か?」と、ヘルシングは問うた。
「不明です」
「最終確認時点からのシミュレーションは?」
「不可能です」
「なに?」
「論理器械《プログノメータ》による思考実験は実事象の因果律に干渉します。賢人級論理器械《ワイズマン》ともなれば、その思考の影響によって都市が壊滅する可能性すら生じます。そのため、ライマン脳の思考は常に『現在』を確認するためにのみ働くよう、拘束されているのです」
「非常事態だ。解除しろ」
「その権限はありません。私にも、あなたにも」
冷たい沈黙の後、ヘルシングは踵《きびす》を返した。
「進展があれば連絡しろ」
二ヶ月の間、進展はなかった。
[#改丁]
4 修羅
ORGE
[#改丁]
背中にリュックサック、肩に屍体袋《したいぶくろ》をかついだアーヴィーは、コンクリートの斜面から突き出た赤|錆《さ》びたステップを踏んで、作業場の裏の巨大な排水溝に降りていった。
排水溝の底は、減水期には堆積物《たいせきぶつ》の砂州《さす》に挟まれた溝《どぶ》川になっている。暗い灰色の廃水には虹色《にじいろ》の油膜が流れ、足もとには空き缶やビニール袋や小動物の死骸《しがい》の混じった泥が溜《た》まっている。発酵した汚泥から出る熱のため、水面や州の表面から瘴気《しょうき》まじりの白い湯気が立ち上っている。
泥の中に、いくつもの白いものが見えた。作業場から廃棄した人体|屑《くず》。水に晒《さら》された白い肉や、白骨化した人体のかけらだ。
アーヴィーは、州の比較的乾いた場所を探して屍体袋とリュックを下ろした。
袋を大きく開き、中身を剥《む》き出しにする。
中から出てきたのは、奇妙な屍体だ。
汚れた長い髪に、無精髭《ぶしょうひげ》の生えた顎《あご》。しなびた乳房を持つ左胸。筋肉質の右肩の先に、女の細い腕がついている。左右の脚も、長さがちぐはぐだ。
男なのか、女なのか。若者なのか、老人なのか。
確かなのは、それが屍体《したい》であるということだけだ。
正式な保全処置をしていないのだろう。アーヴィーが普段《ふだん》扱っている屍体には稀薄《きはく》な、屍体としての自己主張をしている。
ある部分には死斑《しはん》、またある部分にはガス壊疽《えそ》。
人の形をした汚物の塊。
それが全体の印象だ。
アーヴィーはリュックから極太の白いマーカーを取り出した。
カコカコと音を立てて数回振った後、屍体の青黒く変色した額に、大きな円を書く。
続いて、賦活剤《ふかつざい》の入った小瓶と注射器とを取り出した。
青白く光る液体を注射器に吸い上げ、心臓に打ち込んだ後、胸に手を当てて、数回心臓マッサージをしてやった。
屍体が何度か軽く痙攣《けいれん》した後、ゆるゆると呼吸を始めるのを確認すると、リュックを持って、中洲《なかす》と浅瀬を辿《たど》って対岸に渡った。
壁面に、排水溝に合流する大きな下水管が、丸い口を開けている。今は水が通っていない。
アーヴィーは下水管の口に腰掛け、リュックからEマグを取り出し、一発ずつ弾を込めだした。
拳銃《けんじゅう》やミリタリーに関する本を何冊か読んで、一応、基本的な扱い程度は覚えた。
装弾は、以前ヒューイットに連れられて行った、最下層の怪しげな銃砲店で買った。
ソフトノーズとかいう種類で、五〇発で三八〇〇ワーズ。はたしてこの値段が高いのか安いのか、アーヴィーにはよく判《わか》らない。だが、最初に装填《そうてん》されていたのと同じミスリル製のものは目玉が飛び出るほど高かったので、それに比べたら大分安いのは、まあ確かだ。
弾を込め終わった。
アーヴィーは、一五メートルほどの幅の灰色の溝《どぶ》川を挟んで対岸にある屍体袋を見ながら、Eマグを両手で握り、何度かグリップを確かめた。
そして、待った。
ヒューイットがいなくなってから、すでに二ヶ月が経《た》っている。
一度だけ、なにか心当たりがないかと所長に訊《き》かれたが、知らないと答えたら、それきりもうなにも言われなかった。
一人の人間が完全に消え去るために、他《ほか》になんの手続きも要《い》らなかった。
いつか自分がいなくなるときも、きっとそうなのだろう、とアーヴィーは思った。
ここに銃を撃ちにくるのは、六度目だ。
標的には、屍体を使う。
最初は空き缶などを使ったが、なにかしっくりこなかった。
そこで、屑屍体《くずしたい》を集めてマンターゲットを作ってみた。
次に、賦活剤《ふかつざい》を注射して動かしてみた。
部品が足りないときには、バラ落ちのパーツをごまかして当てたりもした。
伝票をごまかすのも、備品を失敬するのも、やってみると簡単だった。
『七人の侏儒《こびと》』というパズルがある。
何枚かに分かれるパネルに、おとぎ話に出てくる大きな頭巾を被《かぶ》った侏儒が、横一列に描かれている。パネルの組み合わせ方で、侏儒の数が、六人になったり七人になったりする。
月、火、水、木、金、土、と屍体を処理するたびに、少しずつパーツを浮かすとあら不思議、日曜にはどこからともなく七人目が現れる。
そのようにして、週に一体の標的を作り、撃った。
薄もやに霞《かす》む天井は、巨大な格子状の梁《はり》と、様々な角度に傾いた鏡面の配光板になっている。
アーヴィーは視線を天井から対岸に戻し、再び待った。
死んだ芋虫のように、屍体袋が転がっている。
配光板からぼんやりと供給される自然光のため、辺りには雑霊もあまりおらず、もの[#「もの」に傍点]の憑《つ》きが悪い。
目の前を、脚の生えたサッカーボールみたいに膨れた斑《ぶち》猫の屍体が、口からこぽこぽとガスを吹きながら流れていった。
やがて、白いもやの向こうで、屍体袋から立ち上がるものがあった。
いびつな入型のシルエットが、ひょこりひょこりと揺れながら、近づいてくる。
右肩を狙《ねら》い、引き金を引いた。
外れた。
銃声がコンクリ壁に反響し、幾重にもこだました。
もう一発撃った。
また外れた。
外れた弾丸は壁に当たり、銃声のこだまに固く鋭い音を加える。
膝上《ひざうえ》までを廃水に突っ込み、溝《どぶ》川を突っ切るように、人型は一歩一歩近づいてくる。その足が川底を引きずるたびに、泥の中から掻《か》き出された新たなガスが、ごぽりと水面に浮かぶ。
先ほどより、やや中心寄りを狙って、もう一発撃った。
脇腹《わきばら》に当たった。
広く飛び散った臓物が、たぱたぱと飛沫《しぶき》を上げた。
生きた人間ならばもんどりうって倒れるところだが、屍体は脇腹を大きく弾き飛ばされながらも、よろめくだけだ。すぐに体勢を立て直し、再び歩き出す。
もう一発。
左腕がちぎれ飛び、どぷんと落ちた。
屍体《したい》が川幅の中ほどまでくると、ようやくディティールが見えてきた。
額に白い丸を描かれた青黒い顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
ひょこひょことした足取りは、ふざけているようにも、傷ついているようにも見える。
嬉《うれ》しいのか、哀《かな》しいのか。
アーヴィーには判《わか》らない。
楽しいのか、憂鬱《ゆううつ》なのか。
自分のことだって、判らない。
ふらふらと揺れる白い丸を照星で追いながら、考えた。
こいつはいったい何者なんだろう。
いかなる生者であったこともない死者。無から現れ、無へと帰っていく。
そういう自分は、いったい何者なんだろう。
どこからきたのだろう。どこへ行くのだろう。なぜここにいるんだろう。
なにも判らない。なにも考えられない。
空白《ブランク》、空白《ブランク》、空白《ブランク》。
銃声に意識が引き戻された。
ざあ、と雨のような飛沫《しぶき》が水面を叩《たた》いている。屍体の頭部は破裂していた。
無意識に、引き金を引いていたのだ。
首のない屍体は、ゆっくりと廃水の中に倒れ込んだ。
アーヴィーの手の中に、反動とはまた別の、手ごたえのようなものが残っていた。
その感覚だけが、虚ろな心の中に、確かな実感を持って存在した。
それを確かめるように、また反芻《はんすう》するように、アーヴィーはグリップを握り直した。
その夜、再び装弾を買いに最下層に降りた。
夜とは言っても、時計の上でのことだ。D層以上では日照時間等の関係もあって一日二四時間のサイクルがおおむね保たれているが、ここ最下層には夜も昼もない。各々《おのおの》が、それぞれの周期をもって生活している。
銃砲店は閉まっていた。営業時間の表示はなく、戸口に「二〇時より」というメモだけが貼《は》ってあった。
あと一時間ほどだ。
ひまつぶしに街を歩いた。正確には、街路を歩く他《ほか》に時間のつぶし方も、落ち着ける場所も知らない。
上着の下には、装填《そうてん》したEマグを着けている。半分は用心のためだが、もう半分は……むしろ、なにかトラブルが起きないかと期待している。
一歩行くごとに、懐にその存在をズシリと感じる。誇らしいような、恥ずかしいような、むずむずする感覚。走り出したいような気分だ。
この間のファンギーみたいなのにからまれたら、ホルスターから引き抜いて、セイフティを外して、眉間《みけん》に照準して、引き金を引く。それだけだ。簡単じゃないか。
道行く通行人を標的に見立て、その額にマーカーで描いた白い丸を想像し、にやりと笑う。この距離なら外しやしない。
よそ見をした拍子に、前からきた女にぶつかりかけた。
「あ、す、すいません」
反射的に頭を下げた。
今までに聞いたこともないような悪態をつきながら歩み去る女を見送るうちに、なにやら急に気分が萎《な》えた。
――やっぱ、ガラじゃないよな。
冷静に考えれば、自分に生きた人間が撃てるわけがない。撃てないんなら、銃なんか持ってるだけ無駄だ。重いし、かさ張るし、弾だってただじゃない。
――もう、帰ろうかな。
一番確実な護身法は、危ない所に近づかないことだって、小学校の先生も言ってたじゃないか。
アーヴィーは肩をすぼめて昇降機《リフト》に向かった。
その背中に声がかかった。
「おい、貴様」
恐るおそる振り返ると、アーヴィーより首一つ分背の高い大男が、ものすごい目つきでアーヴィーを見下ろしていた。
剥《む》き出した鋭い犬歯の根元が、黒ずんでいる。
「…そうだ、やっぱり貴様だ」とファンギーは言った。
古いレンガ塀に背中を押しつけられ、いきなり殴られた。
「おい、あいつはどこだ」
――「あいつ」って?
と訊《き》こうとしたら、また殴られた。
「どこなんだよ!?」
二人の周囲には一〇人ほどの軽い人だかりが出来ている。半分はファンギーの自称友人。残りはただのやじ馬で、流動的に入れ替わっている。
「もうマグロちゃんはボクのもの、だとさ!」と『友人』の一人が言うと、周囲の数人が下卑《げび》た笑い声を上げた。
「寝取られ男は黙ってろとよ!」と、もう一人。
ファンギーの顔が真っ赤に染まった。
「貴様!」
アーヴィーの腹にひざが入った。
身を折るアーヴィーの髪をつかみ、顔面にひざをもう二発。
「なめんじゃねえぞ、オラ!」
なにかひとこと言うたびに、拳《こぶし》とひざが一発ずつ。合わせて二〇発も入れられたころ、アーヴィーはようやくファンギーの主張を以下の三点に要約することができた。
一、彼はこの二ヶ月間、マグロの行方を捜している。
二、それは彼のメンツに関《かか》わる問題である。
三、彼は自分をなめた奴《やつ》を許さない。
――なんだ、どれも俺《おれ》には関係ないことじゃないか。
しかし、それを言ってもまた殴られるだけだし、言わなくてもまた殴られる。
言葉は判《わか》るのに、意思が通じないことって、あるよな。
どうしたらいいだろう?
――殺してしまおうか。
先ほど捨てたはずの考えが、アーヴィーの心の中で、むくむくと頭をもたげてきた。
頭の中で、目の前の真っ赤な顔に、白い丸を描いてみる。
「――んだよ、その――」
ファンギーがなにか言っているが、よく聞こえない。
よく聞こえないけど、なんだかうっとうしいな。
黙らせてやろう。
Eマグを、ホルスターから引き抜いて。
セイフティを外して。
眉間《みけん》に照準して。
引き金を引く。
それだけだ。
簡単じゃないか。
そうするだけで、このでかい頭は花火みたいに弾け飛ぶんだ。
全部で一秒もかからない。
そうとも、簡単だ。
やってやる。
やってやるさ、今――
アーヴィーの手が懐にすべり込み
「喝《か》ッ!!」
ぴくりと硬直した。
アーヴィーだけではない。ファンギーも、他《ほか》のやじ馬連中も、雷に撃たれたような表情で身を強張らせている。
凝固した人垣を割って、気合の主がぬう[#「ぬう」に傍点]と現れた。
でかい。
目の前のファンギーより、さらにふたまわりはでかい。左手につかんだ合成酒の一升瓶が、まるでコークの五〇〇ミリボトルみたいに見える。
岩石を削り出して作ったような大味な顔は赤く酒やけし、これまた大味な笑みを浮かべている。
「いやあ、すまぬ、すまぬ」
ごつい右手が、無毛の頭部をつるりとなでた。その額には、どういう意味があるのか、太い刷毛《はけ》で乱暴に記したような、大きな×印がペイントされている。
「脅かすつもりはなかったのだが、ほれ、この若いのはもう、だいぶんこたえているようだ」
坊主頭の巨漢は壁際にへたり込んでいるアーヴィーを軽々と小脇《こわき》に抱え、
「これはもらって行くよ」
悠然と背を向けた。
一同は呆気《あっけ》にとられてその背を見送りかけた。
その姿が雑踏に紛れようとしたとき、ファンギーの仲間の一人が慌てて叫んだ。
「こら待てハゲ!」
コートの懐から、大きな黒い塊を取り出す。
サブマシンガンだ。
悲鳴と共に、人垣が大きく割れた。その中心に、アーヴィーを抱えた坊主が取り残される。
「てめえ、なめたまね――」
口上が終わらぬうちに、仲間を蹴飛《けと》ばすようにして、ファンギーがサブマシンガンを取り上げた。
眼《め》が血走っている。
坊主に向け、うむを言わさず引き金を引いた。
「哈《ハ》!」
坊主は酒瓶を捨て、気合と共に半転。遠心力と腕力でアーヴィーを人込みの中に投げ込み、空いた両腕で頭部をかばった。
二秒弱で、サブマシンガンの弾倉は空になった。
距離、わずか一〇メートル足らず。すべて坊主の体に着弾した。
足もとに転がった酒瓶から、とくとくと酒がこぼれていった。
坊主が、ふう、と息を吐いた。
そして瓶を拾い、次いで路面に転がったやじ馬の中からアーヴィーを拾い上げ、小脇《こわき》に抱えて、
「では、ごめん」と言って、去った。
坊主の立ち去った後には、その体を撃ち抜くはずだった数十発の弾丸が、ばらりと転がっていた。
「なんだ、ありゃあ……?」
後に残された一同を代表して、やじ馬の一人が言った。
「あ、あ、あの、すいません、もう、大丈夫です。あ、歩けま――」
「そうか」
ふいに手を離されたアーヴィーは、二、三歩つんのめった後、両手とひざを地面につき、四つん這《ば》いになった。
その横に、坊主がどかりと腰を下ろす。
そして、誰《だれ》に言うでもなく、
「…命を粗末にしては、いかんなあ」と呟《つぶや》いた。
「はい、あ、あの……き、気をつけます」と姿勢を正しながらアーヴィーが言うと、
「違う、違う」
坊主は笑いながら、
「俺《おれ》が言うたは、あ奴《やつ》らのことさ」と、きた道をあごで示した。
再びアーヴィーに向き直った視線に、一瞬、貫くような光がこもった。
「殺す気だったのだろう?」
「あ……」
「初めは捨て置こうと思ったが……おぬしの貌《かお》に鬼相が疾《はし》るを見て、な」
坊主は着ていた革ジャンを脱ぐと、街灯に透かした。
革ジャンの袖《そで》や脇に、いくつもの穴が開いている。
「あまり感謝はされなんだが……」と苦笑し、「まあ、これも功徳さ」
アーヴィーは坊主の体に数十発の弾丸が撃ち込まれていたことを思い出した。
「あの、か、体……!」
大丈夫なんですか、と訊《き》くと、坊主はさも簡単に、
「たいしたことはない」と答え、穴だらけのTシャツを脱いだ。
坊主の腕、胸、腹には、丸や線状の火傷《やけど》のような跡が、無数に残っていた。着弾の集中した腹部は特に広く、深くただれている。着弾時の摩擦熱《まさつねつ》によるものだ。銃器の本来の威力である衝撃には、ほぼ完全に耐えている。
コマンド・ヨーガ。
すなわち、機甲折伏隊《ガンボーズ》が制式採用している、ヨーガの行法をベースにした格闘術――厳密には肉体操作法とでもいうべきもの――の効果だ。
「人は、腹を打たれれば苦しむが……」と、坊主は説明した。「腹に充分に気を張っておれば、打撃に耐えることができる。その気をさらに集中すれば、刀剣の一撃にも耐えられる。さらに強く集中したならば、この程度の弾丸は受けられる」
あとは動体視力と反射神経の問題だ、と言った。
「すごい」
半ば感嘆し、半ばうらやむように、アーヴィーは言った。
「こ、怖いものなしじゃ、な、ないですか」
「そうもいかぬ」と坊主は言った。
「ライフルに撃たれていたら、どうだったか。なにしろ、ほれ。ライフル弾は先が尖《とが》っておるし、速い」
頭をつるりとなで、
「……おお、怖い、怖い」
「はあ」そんなものかな、とアーヴィーは思った。
「それ以外にも、死の呪文《じゅもん》に当たれば死ぬし、地竜に踏まれても死ぬ。飯を喰《く》わねば腹が減って死ぬ。なにもなくとも、いずれは年老いて死ぬ。……それを思うと、大変に恐ろしい」
坊主は中空を凝視しながら、なにかを確認するように、額の×印に手を触れた。
「俺《おれ》は恐怖を捨て切れなんだのさ」
「はあ」
アーヴィーの視線にふと気づくと、坊主は照れたように笑い、
「おかしいかね。こんな図体をしておっても、死ぬのが怖いのさ」
「い、いえ、そんな……」
「まあ、人の生き死になどはあっけないものさ。どんな人間も、ときがくれば、ころり[#「ころり」に傍点]逝《い》く」と、坊主は言った。「取るに足らんことだ」
坊主は消毒のつもりか、合成酒を口に含むと、火傷《やけど》にぷうぷうと吹きつけた。
アルコール臭が一面に漂い、アーヴィーは軽くむせた。
「…だが、その取るに足らんことの中には、あらゆる尊いものが含まれている」
曼荼羅《まんだら》さ、と坊主は言った。
アーヴィーはよく判《わか》らず、
「はあ」と言った。
遠くから、サイレンの音が聞こえる。
――またガス漏れ事故でも起こったのかな。
音がしているのは三区のあたりだから、うちは心配ないだろう。そう思いつつも、アーヴィーは足を速めた。外の騒ぎを聞いて、母さんが心配しているかもしれない。
痛む脚をひょこひょこと動かし、家路を急ぐ。
こんな傷だらけの顔を見たら、母さんは驚くだろうな、と思う。しかし――
いきさつを全部話して、もう危ない所には行かないと約束しよう。Eマグは引き出しにしまって、鍵をかけてしまおう。
そう決めてしまうと、不思議と落ち着いた。どんな風《ふう》に話そうか、と考えた拍子に、苦笑さえ浮かぶ。
――それでね、その助けてくれた人は、自分の手当てが終わったら、今度は俺《おれ》の顔に酒を吹きつけようとするんだ。「ぷぅーっ!」ってね。あわてて遠慮したよ。
面白い人だったなあ。あんな人もいるんだから、まあ、世の中悪い人ばかりじゃないってことだよね、母さん。
サイレンの音が、前方からやってきた。
大通りの歩道を行くアーヴィーの横を、非常灯を点《つ》けた指揮車を先頭に、二台のスクワッド・バンが通り過ぎ、遠のいていった。呪装戦術隊《S.E.A.T.》だ。
いつのまにか、三区の広報スピーカーのサイレンは止まり、『市民の皆様へのお知らせ』に取って替わられている。
『――をもちまして、当区画の非常警戒警報は解除されましたが、いまだ二次感染による被害再発の恐れがあります。市民の皆様はできる限り外出を控え、自宅にて平静を維持して下さい。また、吸血鬼《ヴァンパイア》に接触された方及びその親族の方々は、速やかに最寄りの公安連絡所に――』
さっきのは、吸血鬼騒ぎだったのか。それに、呪装戦術隊《S.E.A.T.》が向こうからきたということは――
胸中を不安がよぎった。呪装戦術隊《S.E.A.T.》の吸血鬼対策班は、ずいぶん荒っぽいやり方をすると聞いている。なにしろ――ふたたび懐のEマグを意識しつつ――サブマシンガンやショットガンを町なかで振り回すのだ。流れ弾が死傷者を出したことも多々あるという。
侠慈《キョージ》のバイク部隊(現場確保班)が、けたたましい音を立てて通り過ぎていった。
アーヴィーは駈《か》け出した。慌ただしく事後処理をする人々の間を通り、息を切らせながら数区画を駈け抜け、自宅のアパートへ。
アパートの周囲は蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになっていた。割れたガラスが街路に散乱し、建物の壁には何条もの連続した弾痕《だんこん》が走っている。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》に追われた吸血鬼《ヴァンパイア》が、アパートに飛び込んだのだそうだ。
直ちに突入した呪装戦術隊《S.E.A.T.》に吸血鬼《ヴァンパイア》はいぶり出され、事前に避難勧告が出されていたこともあって、死者は出なかったというが――
アーヴィーは興奮してまくし立てる女を後に、階段を駈《か》け上った。
鍵を出すのももどかしく、ドアを――錠が壊されている。力まかせに押し開けたように、ノブの周囲が歪《ゆが》んでいる。
「母さん――!?」
暗い部屋の中に範け込み、ベッドを見る。
いない。
狼狽《ろうぼい》するアーヴィーに、窓の方から声がかかった。
「おかえり、アーヴィー」
窓際に母が立っていた。
「今日は遅かったのね、坊や」と彼女は言った。
「母さん……平気なの…?」
震える声でアーヴィーは言った。
「平気って?」
「だって、吸血鬼《ヴァンパイア》が……」
「吸血鬼《ヴァンパイア》なら、逃げていったわ」
「あ、そうか……そうだったね」
そうじゃない。
そんなことが言いたいんじゃない。
「あの……体の具合は…?」
「とてもいいわ」
確かに、そう言う彼女の姿は、顔色こそ紙のように白いが、全体にやつれた感じが消え、いくぶん若返ってさえ見える。
「でも……今まで、起きることもできなかったのに、なんで……」
理由はもう、判《わか》ってる。
「急にそんな、立って歩いたりしたら、体に悪いよ…」
そういう問題じゃない。
「お願いだから、ベッドに寝ててよ、母さん」
なにを言ってるんだろう、俺《おれ》は。
「大丈夫よ、アーヴィー」
母は艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
「今日はとても気分がいいの」
あれ?
母さんの唇は、こんなに紅《あか》かったっけ。
きれいだな。
白い牙《きば》が、よく映えているよ。
紅い瞳《ひとみ》とも、よく合ってるね。
割れた窓から、一すじの風がすべり込み、母の長い髪をふわりと舞い上げた。
やっぱり、母さんの髪はきれいだね。
そりゃあ、短い方が手入れは楽だけど、やっぱり切らないでおいて正解だよ。
ああ、でも……
髪の毛に隠れていた首筋が、あらわになっていた。白い首筋から鮮やかな二筋の血が流れ、寝間着のえりを汚している。
これって、やっぱり……
吸血鬼《ヴァンパイア》・接触・感染……こういうのを、専門の言葉でなんて言うんだっけ?
まあ、どうでもいいや。
でも、困ったな。
俺《おれ》はいったいどうしたらいいんだろう。
どうしたらいいと思う、母さん?
「なにを困ってるの?」
なんだっけ?
「困ることなんかないわ。こっちにいらっしゃい、坊や」
そうだね。母さんと一緒なら安心だ。
両手を広げて待ってる母さんに向かって、大きく三歩。そうすれば、いつものように抱き締めてくれるよね。
そして、俺の首筋に牙を突き立てて、血を吸うんだね。
OK、今行くよ。一歩、二歩――
踏み出した脚が、ずきりと痛んだ。
吸血鬼《ヴァンパイア》の精神支配に、わずかな隙《すき》が生じた。押さえつけられていたアーヴィーの生存本能が全力で起ち上がり、その隙間に割り込んだ。
空白の意識の中、右手が懐にすべり込んだ。
Eマグが、吸い込まれるように掌《てのひら》に収まった。
セイフティを外しつつ、吸血鬼《ヴァンパイア》の眉間《みけん》に銃口を押し当てるように、照準。
動作は一瞬。よけるひまもない。
アーヴィーは引き金を引いた。
あれ?
どこに行ったの、母さん。
目の前に、『頭欠』の屍体《したい》。
嫌だなあ、誰《だれ》が持ってきたんだろう。
誰だって、仕事を家に持ち込みたくはないよね。屍体屋の場合は特にそうさ。
ただでさえ体に染みついた屍臭が取れないってのに(電車の中で嫌な顔されるんだ)、その上、屍体まで運び込まれちゃ、たまんないよ。
ごめんよ母さん。すぐに片づけるから。
でも、困ったな。うちには解体器具も薬品もない。どうしよう。
こんな時、先輩がいれば。
「適当でいいんだ、適当で」とか言いながら、あっという間になんとかしてくれるのに。
ああ、そうか。
先輩はもういないんだっけ。
屍体を残して、どこかに行っちゃった。
ちょうど、今とおんなじだ。
母さんも、先輩も、俺《おれ》を置いて行かないでよ。
独りでいるのは、とても不安だ。
どうしよう、どうしよう。どうしたらいいか、判《わか》らない。
困ったな。
本当に、困ったな。
どうしたらいいと思う?
母さん。
一件の吸血鬼騒ぎを片づけ、呪装戦術隊《S.E.A.T.》と共に公安本部に帰還したヘルシングに降魔局《A・S・C》からの招請がかかった。
なにごとか……?
〈ロング・ファング〉の失踪から二ヶ月、ライマン脳は沈黙を保ち、ここ数週間は娘への面会も止められていた。
指定された施設――病院のようだ――の廊下を行くと、白いドアの向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
子供の声。
記憶の底から浮かび上がるような、懐かしい響きだ。
――まさか?
ヘルシングの心臓が、大きな音を立てた。
転がるようにして入った病室の中央のベッドに、二人の少女が腰掛けていた。年頃《としごろ》も、背格好も、顔つきも、双子のように瓜《うり》二つだ。その一方は不安に耐えるようにうつむき、もう一方はなぐさめるようにささやきかけながら、うつむいている少女の手を両手で握っている。
うつむいている少女の、一つしかない手を。
ベッドの脇《わき》に立っていた担当医が、ヘルシングに歩み寄った。
「娘さんは今、意識を回復したところです。術後の経過は大変――」
ヘルシングは医師を押し退《の》けるようにベッドに駈《か》け寄った。
「……ミラ………!」
片腕の少女――ミラ・ヘルシングは、その声に顔を上げた。
もう一人の少女の手を振りほどき、顔をくしゃくしゃにしながら、飛び込んできた。
「パパ…!」
ヘルシングは戸惑った。何年もの間、父親としての態度を忘れてしまっていた。
「……ミラ…」
おずおずと手を差し出し、そして、強く抱きしめた。
ミラは灰色の髪をヘルシングの胸にこすりつけながら、堰《せき》を切ったように泣き出した。
「パパ……私の手はどこに行っちゃったの?」
そう言って、父を見上げた。
「…!」
ヘルシングは言葉を失った。娘を抱く手が硬直した。
胸の中から、涙に濡《ぬ》れた紅《あか》い瞳《ひとみ》が見上げていた。
「娘さんに施した治療とは、いうなれば、脳の一部に施した一種の封印です」
と、医師――降魔局《A・S・C》に所属する呪医《ウィッチドクター》――は説明した。
「これまで娘さんの全身に対して施されていた方法を、より局部的に行なったわけです」
「旧皮質…」と、ヘルシングは呟《つぶや》いた。吸血鬼《ヴァンパイア》を吸血鬼《ヴァンパイア》たらしめる爆発的情動・吸血衝動は、食欲、性欲などを司る『ワニの脳』、大脳旧皮質に発生すると考えられている。
医師はうなずきつつ、
「それに、脳幹の一部に」
こちらは、吸血鬼《ヴァンパイア》の異常な再生力の源だ。
「どちらも生命維持に必要な部分だ。永久に封印しているわけにはいかん」
吸血鬼《ヴァンパイア》の行動は、人間の個体維持本能が暴走した結果だとする説もある。それを封じることは、すなわち生命自体を封じることだ。
今、ミラは病室で眠っている。正常な、生きた眠りだ。
「無論、完全には封印しません。正直なところ、娘さんの肉体は、ごくゆっくりと吸血鬼化が進行しています。虹彩《こうさい》が脱色されていたでしょう? じきに、犬歯も生え変わります。何年かかけて、失った腕も再生するでしょう。……しかし、そこまでです。あとは常人と変わりませんよ。陽光をなるべく避けた方がよい程度です。精神崩壊の恐れはなし。完全に吸血鬼《ヴァンパイア》になることは、ありません」医師の口調に、軽い自得の響きが混じった。「我々の施した封印は、単なる呪的《じゅてき》遮蔽《しゃへい》ではなく、情報を選択的に透過させる性質を持つのです」
「どういうことだ?」
「人造霊《オートマトン》を――非常にコンパクトな超高性能|人造霊《オートマトン》を憑依《ひょうい》させた生体組織を、心霊手術的手法で脳幹に移植したのです。患者の生命維持に必要な信号のみを外部に解放し、過度の情動や超常現象の発現を抑制する、まさに――」
医師の言葉が止まった。
「『マクスウェルの悪魔』……!」
灰色の瞳《ひとみ》が、彼の魂を刺し貫いた。息もできないほどに濃密な敵意……いや、殺意が、目の前の小男から吹きつけてくる。
青ざめた顔で口をぱくぱくと動かす医師に叩《たた》きつけるように、ヘルシングは言った。
「……そんなものを、どこから手に入れた!?」
医師は答えなかった。
それが答えだった。
切り立った崖の上から、一筋の滝が流れている。さほど幅のない、糸のような滝だ。流れにそって見下ろしても、その行く先を見ることはできない。谷間を通る風に吹かれ、一〇丈と落ちぬうちに散りぢりとなって、夜霧に紛れていく。
傘を被《かぶ》った月を仰ぎ、深く息をついた。天地の合間をゆるやかに対流する気が、体内に流れ込む。人の街に澱《よど》む、濁った気ではない。清爽《せいそう》にして活力に満ちた、天然の霊気だ。
この霊峰の頂上に立ち、霧に煙る山並みを眼下に見下ろすと、なるほど、仙人が霞《かすみ》を喰《く》って幾千年と生きるというのも、ごく自然なことだと思える。
山がそこにあるのと同じように、まったく自然なことだ。
――ミラ。
おや、誰《だれ》かが呼んでいる。…ミラ?
「……起きて、ミラ」
急速に意識が覚醒《かくせい》した。山並みは夢の中に消え、周囲を取り巻くのは、薬品の匂《にお》いのする、病室の闇《やみ》。
誰《だれ》かが腕をつかんで揺すっている。
ミラは目をこすりながら、
「だれ……?」と言った。
「わたし」と、声の主は答えた。
――わたし……わたし?
闇の中に、自分と同じ顔が白く浮かび上がっている。
青く光る瞳《ひとみ》が、まっすぐこちらを見ている。
数秒間の混乱の後、それが最初に目覚めたときに会った娘だと気づいた。
目が覚めたとき、そこにいて、泣きたいほど心細かったわたしをなぐさめてくれた、わたしにとてもよく似た人。
確か、ジニーと言った。
「急いで、ミラ。ここを出るのよ」と、ジニー――妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》ヴァージニア・スリーは言った。「お父さんがあなたを殺しにくるわ」
「パパが…?」
「急いで」
わけが判《わか》らなかった。
だが、V3の真剣な口調に半ば気おされ、言われるままに彼女の持ってきた服に着替え、部屋を出た。
見たことのない廊下をいくつも走り抜け、『立ち入り禁止』のドアをくぐり、整備用のキャットウォークを渡り、はしごを登り、非常階段を降りて、小さな昇降機《リフト》の前に。
チン、と音を立てて昇降機《リフト》のドアが開いた。
「乗って」
「でも…」
「下へ」ためらうミラをボックスに押し込むようにしながら、V3は言った。「とにかく、できる限り低いところへ――」
「待て」と、男の声が命じた。
二人から一〇メートルほど離れたところに、非常階段の補助灯の光に照らされて、くたびれたコートを着た小男が立っていた。
怒り、憎しみ、哀《かな》しみ――幾つもの負の感情が入り混じった、凄《すさ》まじい表情をしている。
小型の拳銃《けんじゅう》をかまえている。
ミラを狙《ねら》っている。
「俺《おれ》を騙《だま》し通せると思ったか」と、ヘルシングは言った。
「パパ…?」
「ミラ、早く!」と、V3が叫んだ。
「どけ、魔女め!!」
ヘルシングが発砲した。
ミラの目の前で、V3の額に大きな穴が開いた。青白く発光する液体が血の代わりに噴き出し、ミラの顔面に降りかかった。
後頭部に撃ち込まれた銃弾が、貫通したのだ。
自分と同じ顔が破壊される瞬間を目《ま》の当たりにして、ようやくミラは理解した。
パパはわたしを殺そうとしている。
理解した後の行動は、すばやかった。
もたれかかるV3の体を盾にしつつ入り口の脇《わき》の死角に身を寄せた。
V3の背中に二発の弾が当たった。
昇降機《リフト》の一番下の階と『閉』のボタンを押した。
的確にして迅速。感傷も動揺も入る隙《すき》がない。彼女もまた、ヘルシングなのだ。
ドアが閉じた。
閉じるドアにガンガンと弾の打ち当たる音がしたが、下降が始まるとすぐに聞こえなくなった。
ミラはV3の亡骸《なきがら》を抱えたまま、ケージの中に座り込んだ。
――これは、わたしだ。
額に穴の開いた自分の顔を見て、そう思った。
パパに撃たれて、私は死んだのだ。
強い薔薇《ばら》の香りが、ボックスに充満し始めた。V3の体から流れ出す、霊液《エリクサー》の匂《にお》いだ。
自らの死の重量を全身に感じつつ、ミラは下降していった。
下へ、下へ。
その日のうちに、公安局に降魔局《A・S・C》からの請求書が送付された。品目は『妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》用|依代《ホスト》・一体』。呪装戦術隊《S.E.A.T.》の年間運用費の一七パーセントに相当するその補償額の捻出《ねんしゅつ》に、経理課は頭を抱えた。
どれだけの時間が過ぎたのか、判《わか》らない。
どこをどう歩いたのか。
川の流れのような最下層市街の人込みの中に、アーヴィーはいた。
この街が持つ吸引力に引かれたのかも知れない。自然とここに足が向いた。
何人かの通行人にぶつかり、何人かのポン引きに声をかけられたが、どちらもアーヴィーの虚《うつ》ろな表情を見ると、歯切れの悪い悪態をついて彼を見送った。
水音のようなさざめきの中、流れに逆らうように、また流されるように、あるいは、うずに巻かれる木の葉のようにくるりと一回転。
どこに向かっているのか、判《わか》らない。
どこにも行きたくない。どこにもいられない。
ただ、祭りの夜をさまようだけ。
おい。
――え?
おいきさまだよずいぶんさがしたぜ。
――今、なにか聞こえたな。
しかとすんじゃねえ。
加速、衝撃、しばらくして、痛み。
やっぱりきさまおれをなめてるだろうそうにきまってるちくしょうなめやがって。
外国語のラジオ番組のように意味不明な音の流れをバックに、泡を飛ばす口元にでかい牙《きば》。
――ああ、あんたか。また会えてうれしいよ。知ってる人がいなくて心細かったんだ。
なんだそのつらはもんくがあったらなんとかいってみろくずが。
衝撃、痛み。
――やっぱりそうきたね。あんたのやることは、とても判りやすいよ。なんだか、すごく安心する。
そらどうしたひとにたすけてもらわなけりゃなにもできないのかまたあのぼうずをよんでみろこのこしぬけがこしぬけがこしぬけが。
――それで、俺《おれ》はどうするんだっけ?
思考より速く、自動反応。
アーヴィーはEマグを懐から抜き、セイフティを外しつつファンギーの眉間《みけん》に照準、引き金を引いた。
紅《あか》い血の花を咲かせ、ファンギーが『頭欠』になった。
首の断面から、驚くほど高く血が噴き上がった。
とても、きれいだ。
…てめえ!
――おや、お仲間がいたね。
サブマシンガンを持ってるのが一人、拳銃《けんじゅう》が一人、ナイフが二人、逃げ出すのが一人。
全部で五人。きっちり五発。五輪の大きな紅《あか》い花。
五体の『頭欠』が倒れると同時に、凄《すさ》まじい混乱が沸き上がった。悲鳴を上げ、逃げ出す者、その場に伏せる者、武器をかまえる者。
――あれあれ、なんだかにぎやかだ。一緒に遊んでくれるのかい?
みんな、俺《おれ》のことなんか無視してたのに。いや、怒ってるわけじゃないんだ。本当さ。
うれしいな。すごく、うれしいな。心臓がどきどき鳴ってるよ。
アーヴィーは片手でEマグの排莢《はいきょう》をしながら、空いた手を上着のポケットに突っ込んだ。マグナム装弾がじゃらりと指に触れる。
――OK、楽しくやろうよ。
街から離れるにつれてまばらになった街灯の一本が、ぢりぢりと音を立て、一瞬点灯して、また消えた。
街灯といっても、近所の住人が手頃《てごろ》な照明器具をくくりつけただけのもの。闇《やみ》に乗じて忍び寄るものをよけるための、まあ、気休めだ。
街の音が遠い。
街から少し離れれば、狐狸妖怪《こりようかい》の類に化《ば》かされて路地裏を一晩中さまよったあげくに側溝に頭を突っ込んで死んだり、頭から鬼一口に喰《く》われたりと、そんなことは珍しくもない。
それでも、最下層に住む者の多くは、街外れにねぐらを構える。街は祭りの場であり、休息の場ではないのだ。
街灯が、ふたたび点灯して、消えた。
点滅する街灯の下を、一人の男が歩いている。
二メートルを越える巨漢だ。くたびれた革ジャンをきて、一升瓶を引っ提《さ》げている。
頭には一本の毛もない。丸坊主だ。酒焼けした額に、大きな×印が描かれている。
街の灯を背に、ねぐらを目指すその足どりは、酔っているようでいて、隙《すき》がない。
この辺りの区画は空調もあまり効かず、しっとりと肌寒いが、火照《ほて》った体には心地よい。
背後の路地から、足音が迫ってきた。駈《か》け足だ。がらくたを踏みつけ、飛び越し、かなりの速度で近づいてくる。
「む…?」
振り返った坊主の目の前に、牙《きば》を持った男が飛び出してきた。
紅い眼《め》が、さらに血走っている。
吸血鬼《ヴァンパイア》か?
いや、その表情は恐怖に引きつっている。吸血鬼《ヴァンパイア》は恐怖しない。
|牙持ち《ファンギー》だ。
「助け――」
言葉半ばにして、男の頭部が破裂した。生暖かい液体が、坊主の顔に降りかかった。
「ビンゴ!」
路地の中から、声がした。
「おぬし……」
路地の中の者を見て、坊主が言った。
かつて彼が助けた少年が、硝煙《しょうえん》を吐き出す拳銃《けんじゅう》を構え、そこに立っていた。
「やあ、また会いましたね。先日はどうも」と、少年――アーヴィーは言った。
驚きも、焦りもない。駅前でたまたま知り合いに会ったというような、そんな口調だ。
その表情の中に、以前とは違うなにかが潜んでいることを、坊主は即座に見て取った。
「……修羅道《しゅら》に堕《お》ちたか」と、坊主は呟《つぶや》いた。
「さあね」と言って、アーヴィーは引き金を引いた。
弾丸は額に着弾。坊主は仰向けに倒れ、受け身を取りつつ一回転し、路面に片膝《かたひざ》を立てた。
着弾点――額の×印の中心から出た血が、太い筋となって、鼻の横をぬるりと流れた。気の集中に加え、後転して勢いを逃がしていなければ、首を持っていかれたところだ。
「哈《ハ》!」
気合と共に、坊主の周囲が濃密なアルコール臭に満たされた。
坊主の体内一〇八箇所に埋め込まれた濾過《ろか》プラントが、血中のアルコールを瞬時に体外に排出したのだ。
酒気の抜けた顔に、アーヴィーと同質の表情が浮かんだ。
修羅《しゅら》の形相《ぎょうそう》だ。
「…へえ」
アーヴィーは感心したように言うと、引き金をたて続けに引いた。
腿《もも》に、腹に、胸に、弾丸を送り込む。あえて集弾はしない。
ただの拳銃弾《けんじゅうだん》ならばともかく、五〇口径マグナム弾の衝撃はヨーガの秘技をもってしても完全には押さえ切れない。ダメージが蓄積し、気の集中を遅らせる。
が、と呼気が漏れた。
胸への一発が、肋骨《ろっこつ》をへし折ったのだ。
気の制御が乱れたところに、額を狙《ねら》ってもう一発。
「ぬうっ!」
坊主の体が沈み、弾丸はその頭上をかすめて外れた。
手にした一升瓶を、坊主はコンクリートの路面に叩《たた》きつけた。合成酒とガラスの破片が飛び散った。
「|フン[#「口+享」]《フン》――」
瓶を投げた。
鋭く割れた断面を先にして、酒瓶は砲弾のような勢いで路地の中に吸い込まれた。
手応《てごた》えがあった。
アーヴィーが身をひるがえし、路地の奥へ駈《か》け出した。
闇《やみ》の中を、足音が遠のいていった。
路地の入り口に、大きな血痕《けっこん》が残っていた。
鮮やかに紅《あか》い血溜《ちだ》まりの中に、ぽつり、ぽつりと、白い物が混じっていた。
三本の、指であった。
残された坊主は立ち上がり、額に手をやった。ぬるりと血が滑った。
酒の抜けた体が、震え始めた。
寒さのためでもあり、おのれのうちの修羅《しゅら》への恐れのためでもある。アルコール依存症の禁断症状も混じっている。
「…やれやれ、飲み直さねば」
坊主は肩をすぼめて振り返ると、足を速め、ねぐらへ急いだ。
酒の買い置きは、まだあったろうか?
どこをどう走ったのか。
暗い路地を、あるいは人込みの中を、夢中で駈け抜けた。
左手の感覚がない。
あの時――
坊主の放った酒瓶は、一直線にアーヴィーのへその辺りに滑り込んできた。
まともに当たれば、内臓をかき回し、背中に突き抜けてしまいそうな勢いだ。
よけた。
よけたが、よけ切れなかった。路地は狭く、瓶は速かった。
瓶の軌道上に、左手が残った。
人差し指と、中指と、薬指が、ばらばらにちぎれて飛んだ。
見ると、皮だけでつながった小指が、ぷらりとたれ下がっていた。
手首も、掌《てのひら》も、獣に噛《か》み取られたように、肉が削《そ》げている。
腱《けん》か、骨か。白い肉の間に、固い物が見え隠れしている。
一拍して、すべてが真っ赤な血に埋まった。
胸の奥に、冷たい、黒い塊が生じた。
恐怖の塊だ。
一転して、狩人から、獲物に。喉《のど》をふさぎ、口中にせり出してくる恐怖を必死で飲み下し、アーヴィーは元きた道を駈《か》け出していた。
それから、どこをどう走ったのか。
どくどくと、心臓が鳴った。
どくどくと、左手から血が流れ出た。
視界が狭まり、暗くなった。体中にかいた汗が、嫌な冷たさを帯びている。
足元がふらついてきた。血が足りない。
ひどく、寒い。
いつの間にか、なにかの建物の中に入り込んでいた。
どこだ、ここは。
剥《む》き出しの鉄骨。剥き出しのコンクリート。ガタついたフェンス。
天井が低い。床は広い。厚く積もった埃《ほこり》の下に、黄色や白のペンキで描かれたマーキング。
三〇メートル四方ほどのスペースに、何台かの車が止まっている。
駐車場だ。あるいは、かつて駐車場だったところだ。
止まっている車の多くは、少なくとも一〇年以上は動いていないように見える。
どこか休めるところはないか、とアーヴィーは思った。
疲れた。それに、寒い。
一番すみに止めてあった車に近づいた。高級乗用車のなれの果て。
シートが盗《と》られてないといいが。
はるか昔に割られたのだろう、ガラスのない窓からのぞき込むと、埃じみた後部座席に毛布のような塊が丸まっていた。
丁度いい。
アーヴィーがEマグを握ったままの右手でドアを開けると、塊が、びくりと動いた。
「だれ……?」
毛布の下から、白い顔がのぞいた。
一二、三才の少女。
紅《あか》い瞳《ひとみ》をしていた。
あれ?
前にも、こんなことがあったな。
紅い瞳に見つめられて、どうしたらいいか、判《わか》らなくなって……
あの時、俺《おれ》はどうしたんだっけ?
ああ、そうか。
Eマグが、すっと持ち上がった。
少女の眉間《みけん》に規準した。
アーヴィーは、引き金を引いた。
[#改丁]
5 フック兄弟
HOOK BROS.
[#改丁]
ぶん、ぶん、ぶん、と、空気が鳴っている。
なんの音だろう?
「おかえり、アーヴィー。今日は早かったのね」と、職場の作業台に乗った母が言った。
うん、とアーヴィーは答えた。
――なんだか手が痛い。
「どっちの手?」
そう言われて痛む手を見てみると、左腕の先にあるそれは、掌《てのひら》の方から見て右側に親指のついた、右手首なのだった。
こういうのは、『右手』っていうのかな。でも、それじゃあ本当の右手と区別がつかないし……
掌をこちらに向けた二つの『右手』を交互に眺め、戸惑っていると、
「馬鹿《ばか》おめー、こんなのは適当でいいンだよ」と言って、ヒューイットが『左の右手』を取って作業台に押しつけ、手にしたナイフでごりごりと親指を切り離し始めた。
いたたたた、と悲鳴を上げると、
「じゃあ、母さんがおまじないをしてあげるわ」と母が言った。
それはいい考えだ。痛いところに唇を寄せて、ちちんぷいぷい。そうすれば、痛みはどこかに消えてしまう。
でも、困ったな。
唇を寄せようにも、母さんには頭がないじゃないか。
「いちいち細けェこと気にし過ぎンだ、おめーは」
そう言って、これまた頭のないヒューイットが、アーヴィーをこづいた。
それもそうだ。足りない部分は、その辺の『商品』から適当に引っぱってくればいいんだし。ねえ先輩?
「所長《じじい》にゃ内緒だぜ」
頭のないヒューイットがにやりと笑った。
頭のない母が、うふふ、と笑った。
アーヴィーもつられて、あはは、と笑った。
ぶん、ぶん、ぶん、と、空気も笑っているようだった。
「……はは」
アーヴィーは斜めにかしいだ低い天井を見上げながら、笑いを漏らした。
ぶん、ぶん、ぶん、と、背中の方から、なにかの振動が伝わってくる。
暑いな。
全身が熱い泥の塊になってしまったようだ。中でも、左手首が灼《や》けるように熱い。心臓の鼓動にあわせて、ずくずくと、脈打つように痛む。
なんだか息苦しい。空気が足りない。
胸にかぶさる毛布をはだけ、浅い呼吸を繰り返した。
「……起きたの?」と、後ろから声がかかった。
――母さん?
声の方向に頭を巡らすと、こちらをのぞき込む紅《あか》い瞳《ひとみ》。
反射的に、右手が懐に滑り込んだ。
紅い瞳の持ち主――狭い部屋の中、少し離れて椅子《いす》に掛けている一二、三才の少女が、
「鉄砲はそこ」と言った。
少女が指差したその先を目で追うと、枕元《まくらもと》に置かれた小さなキャビネットの上に、銀色に光るEマグが置かれていた。
「変わってるね、あなた」
少女はくすくすと笑った。
「弾のない鉄砲突きつけたかと思ったら、いきなりバタン、キュウ」
そう言われると、アーヴィーにもおぼろげな記憶の断片が蘇《よみがえ》ってきた。
自分はこの娘にEマグを向け、そして――
そうか、弾が切れていたのか。
よかった。
危うく、殺してしまうところだったんだな。
体を起こそうとして、左手首がなくなっていることに気がついた。血のにじんだ包帯(というか、柄物の布を細く裂いたもの)が巻かれている手首の先は、棒《ぼう》のように無表情で、なんだか間が抜けている。
「ああ、それ? 腐り始めたから、切っちゃった」と、少女は簡単に言ってのけた。
少女は座っている椅子《いす》ごとコトコトと音を立てて移動し、アーヴィーの隣に落ち着いた。逆向きの椅子の背もたれに左腕を置き、腕の上にあごを乗せて、興味深げにこちらをうかがっている。
アーヴィーは不自然に身をよじりながら、右手一本を突いて半身を起こした。その作業は意外な重労働で、寝ていたソファの上に起き上がったアーヴィーは、はあはあと荒い息をついた。心臓と左手がどきどきする。貧血で頭がくらくらする。
「寝て起きたら片手がなくなってるってのは、ちょっとショックよね」
と言って、少女は肩に羽織《はお》った大きな上着(よく見ると、それはアーヴィーの着ていたものだ)からくたりと下がった右手の袖《そで》を、左手でつまんでぶらぶらとゆすってみせた。
アーヴィーは、少女が上着を肩にかけているわけではないことに気がついた。
右手がないのだ。
その手はどうしたの、と訊《き》こうとして、アーヴィーはそもそも自分が目の前の少女のことをなに一つ知らないことに気がついた。
「あの……き、君は?」
その漠然とした問いに、少女は軽く首をかしげた後、小さな左手をのばして、アーヴィーの胸をとん[#「とん」に傍点]と突いた。
少女の手に、さほど力はこもっていなかったが、アーヴィーの体はバランスを失ってくらりと傾き、ソファに倒れ込んだ。
きちんとかけ直した毛布の上から、アーヴィーの胸を、子供を寝かしつけるようにトントンと叩《たた》いて、
「もう一度寝て起きたら、教えてあげる」と、少女は言った。
目覚めると、独りだった。
ぶん、ぶん、ぶん、と、機械的な唸《うな》りの他《ほか》に、気配はない。
ソファの上に起きた。さほど苦労はしなかった。いくらか体力が戻っている。
以前ほどではないが、まだ全身が気怠《けだる》く熱っぽい。左手が熱くうずいている。包帯の上から揉《も》むようにさすると、痒《かゆ》いところを掻《か》く快感と、膿《う》んだような鈍い痛みが、同時に生じた。一瞬の快感に対して、痛みは長く尾を引いたので、アーヴィーは左手をいじるのをやめ、辺りを見回した。
――ここ、どこだろう?
梁《はり》を剥《む》き出しにした、斜めの天井。あちこちに木屑《きくず》のようなものが溜《た》まった、埃《ほこり》じみた床。二方は補強用のモールドの入った鉄板の壁に、残る二方は天井近くまで積み上げられたコンテナに囲まれている。倉庫かなにかのスペースを、コンテナの壁で区切っているようだ。
窓はない。申しわけ程度の小さなダクトが通っているだけだ。
アーヴィーが寝ているのとは別に、ソファと毛布がワンセット。主の抜けた跡を残したそれは、巨大な蛹《さなぎ》の抜け殻のようにも見える。それから、椅子《いす》が二脚に机が一脚と、枕元《まくらもと》の小さなキャビネット。
そこらからかき集めてきたものなのだろう。どれも造りはちぐはぐで、古びて小汚いことだけが共通している。
全体の印象は、倉庫やゴミ捨て場で子供が作る『秘密基地』のようだ。
照明は、机の上の小さなスタンド一つだ。電源は積まれたコンテナの隙間《すきま》から這《は》い込んだ延長コードから取っている。
枕元のキャビネットの上に、スタンドの光を反射して、Eマグがぽつりとあった。
手に取ってみようか、と思ったが、なんとなく、やめた。
なんとなく、触りたくなかった。
壁の向こうから、街の喧騒《けんそう》が遠く聞こえてくる。
その音を聞くとはなしに聞きながら、他《ほか》にすることもなくぼうっとしていると、やがて、コンテナの陰から、ごそごそと小さな音を立てて、小さな人影が入ってきた。
「ただいま」と、小さく言った。
アーヴィーの上着を着た、紅《あか》い瞳《ひとみ》の少女。右手はポケットに突っ込んでいる。
「あ…起きてたんだ。大丈夫?」
そう言いながら、少女は左手に下げてきたずだ袋から、いくつかの瓶と包みと紙パックを取り出し、机の上に置いた。
「……あの…」
「喉《のど》、渇いてない?」
「あ…うん……少し」
少女は透明な液体の入った瓶をアーヴィーに手渡した。ミネラルウォーター。キャップがねじ式になっている。
左手に持ち替えようとして、手首がないことに気づき、戸惑った。
小さな手がすっ[#「すっ」に傍点]と伸びてきて、キャップをひねった。
「あ……ど、どうも」
アーヴィーが礼を言うと、少女は机のところに戻り、同じ瓶を持ってきてアーヴィーの目の前の椅子《いす》に腰掛けた。
あわててキャビネットに瓶を置いたアーヴィーが。同じようにキャップを取ってやると、にっと笑って、
「どうも」と言った。
水は、ぬるかったが、旨《うま》かった。三回の息継ぎで、五〇〇ミリの瓶を空けた。
ふう、と息をついてから、アーヴィーが、
「あの…」と言うと、
「ミラ」と少女は言った。
一・五秒ほど遅れて、今のはこの娘《こ》の名前なんだな、と気がついた。
「あ、あの、俺《おれ》は、アーヴィング――」
「お腹《なか》は?」
「あ、少し――ナイトウォーカー」と、アーヴィーは言った。
ミラは自分にバーガーと魚のフライ、アーヴィーには病人食のつもりでヨーグルトを買ってきていたが、アーヴィーが思ったより回復していたので、それらを二人で半分ずつに分けた。
「あの……ここは?」
アーヴィーが問うと、ミラは食べる口を休めて、
「わたしが見つけたねぐら」と言った。
「…ふうん」
アーヴィーはあらためて周囲を見回した。確かに、長いこと住み込んでいるという風《ふう》ではない。
「遠慮しなくていいのよ。お代は勝手にいただいてるし」
ミラはそう言って、膨らんだ上着のポケットを軽く叩《たた》いた。
「あなた、お金持ちじゃない。助かったわ。……でも」
うかがうように、アーヴィーを見る。
「財布をいくつも持ってる人って、珍しいね」
財布を――?
そういえば、覚えがあるような、ないような……
「もらったんだ……と、思う」
ここ数日の記憶が曖昧《あいまい》だ。
ただ、なんだかとても楽しかったような気がする。
「みんなで遊んで……それで」
言いわけするように、つけ加えた。でも、『みんな』って、誰《だれ》だろう?
「ふうん」とミラは言った。「賭《か》けごとするタイプには、見えないけど」
「……うん」とアーヴィーは答えた。
確かに、したことない。
食事が終わると、ミラはアーヴィーの左手の包帯を解き始めた。ひじの辺りを自分の膝《ひざ》で挟んで固定して、手際よく結び目を解く。
出血はおおかた落ち着いているようだが、切り株のような断面の周りは赤黒く腫《は》れ上がり、古くなった茄子《なす》の切り口のようになっている。
ミラは机からウイスキーの瓶を持ち出してきた。
横になるようにアーヴィーにうながし、ソファからはみ出るように突き出された左腕の上に腰を下ろすと、ウイスキーを含ませた布を、傷口にぽんぽんと押し当てた。
「!」
鈍痛が、アルコールの刺激を得て、鮮やかな激痛に変わった。
アーヴィーの左腕は、ミラの尻《しり》の下で五秒間ほど暴れて、静かになった。
消毒を終えると、ミラは新しい包帯をその腕に巻きだした。
すべての作業を、左手一本で器用にこなしている。
「…じょ、上手だね」
「もともと左利きよ……それに、もう五回目だし」
一日一回、包帯を替えたとして……自分は五日も寝てたのか。
「はい、おしまい」と、ミラが言った。
「これからどうするの……ママの所に帰る?」
食事と治療の後片づけをしながら、ミラが言った。
「え…?」
「寝てる間、ずっと言ってたわ。かあさん、かあさんって」
――母さん。
アーヴィーの脳裏に、やつれた母の、吸血鬼《ヴァンパイア》になった母の、『頭欠』になった母のイメージがフラッシュバックする。
胸の奥に冷たいものが湧《わ》き上がり、瞬く間に全身に染み渡った。
体が冷える。凍えそうだ。
ソファの上に転がり、アーヴィーは言った。
「帰らない」
胎児のように丸くなりながら、
「……もう、いないから」
「……そう」
しばらくして、アーヴィーの上に、ふわりと被《かぶ》さるものがあった。
ミラの体だ。
「ねえ」
耳元で、ささやいた。
「それじゃあ、わたしがあなたのママになってあげようか」
返事はない。
少し間を置いて、アーヴィーの右手が遠慮がちに伸びて、肩に添えられた小さな手を握った。
「……うん」と、アーヴィーは言った。
金だったら、黙って盗《と》ればよかったのに、とアーヴィーが言うと、
「それもあるけど……人間って、自分が不安なとき、自分より弱い生き物とか、かわいそうな人を見ると、ほっとするでしょ?」
嫌らしい考え方だけどね、とミラは言った。
「誰《だれ》かの世話がしたかったの。自分が安心するために」
ミラの頭が、アーヴィーの胸に寄せられた。
「まるでペット扱いだね……ごめん、怒った?」
顔を真上に上げて、アーヴィーを仰ぐ。
「ううん」とアーヴィーは言った。「昔から、そういう役回りが多かったよ。みんな、俺《おれ》を見ると安心するんだ。でも、それは決して悪いことじゃないって――」
ふと、黙り込み、
「――母さんが」
「……うん、そうだね」ミラはアーヴィーの左腕をなで、「こうしてると、すごく安心する」
「俺も」
アーヴィーはミラを抱えるようにしてもたれかかり、首筋に頬《ほお》をすり寄せた。
「くすぐったい」
ミラはアーヴィーの頭に左手を添えながら、
「ママとも、こんなことしてたの?」
「うん」とアーヴィーは答えた。
「じゃ、もっとして」
「うん」
ミラの体は体温が低く、肌を合わせるとひやりとした。
だが、強く抱いていると、染みるように暖かい。
ぶん、ぶん、ぶん、という音を聞きながら、アーヴィーは安心して眠りについた。
ぶん、ぶん、ぶん。
丁度この倉庫の床下に、空調のポンプ室があるのだそうだ。少々うるさいのが難だが、気配がごまかせるし、廃熱が床暖房のように上がってきて、具合がいい。
鼠《ねずみ》が一匹、チュウ、と鳴いて床の端を駈《か》け抜けていった。
「わたしたち、屋根裏に住む子鼠の兄妹みたいだね」
ミラは時々、こんなふうに、変に詩的なことを言う。
「ずっと、こうしていられると、いいね」
「うん」
「明日《あした》も、明後日《あさって》も、明々後日《しあさって》も」
「うん」
「ぱっと死んじゃうのも、いいかもね」
「うん」
「あたしが死んだらね…」
「うん?」
「お墓には、お花をいっぱい飾ってほしいな」
「うん……どんな?」
「紅《あか》い花。……血みたいに、真っ赤な」
「…うん、判《わか》った」と、アーヴィーは言った。
何日かすると、アーヴィーの体力はかなり回復したが、左手の腫《は》れは引かなかった。本来の倍近い太さに膨れ上がったそれは、紫色の皮膚が紅く裂け、黄色い膿《うみ》がじくじくと染み出すようになっていた。微熱も引かず、始終頭がぼうっとしている。
「お医者さんに行かなきゃね」
アーヴィーが左に、ミラは右に。二人で手をつないで、街に出た。
ミラはアーヴィーの上着を着て、右手の袖《そで》をしばって団子《だんご》にしている。この格好がお気に入りらしい。
アーヴィーは、替わりにミラがどこからか持ってきたコートを着ていた。暗い赤色に染められた、革製のコート。まるでバケツ一杯の生き血をぶっかけたみたいな、ぬれぬれとした、生々しい赤だ。
「ちょっと派手じゃないかな」アーヴィーが言うと、
「いい色だよ。似合ってる」と、ミラは言った。
実際に街に出てみると、なるほど、これくらい派手なほうが、ここではかえって普通に見える。まわりを見てみれば、肩からにょっきり生えた副頭《ふくとう》となにやら話し込む男、鞭《むち》のような尻尾《しっぽ》をくねくねと揺らす、青い肌の女……街路の向こうから、光を放ちつつ厳かに歩いてくる、電飾哲人《イルミナティ》の絢爛《けんらん》さたるや!
また、何色ともはっきりしないくすんだ色のアーヴィーの上着は、ミラが着ると灰色の髪とも相侯《あいま》って、吸血鬼《ヴァンパイア》風《ふう》の紅《あか》い目をぐっと引き立たせている。いかにも、流行《はやり》に乗っている風。
そうした感覚に疎《うと》いアーヴィーは、ミラのすることにただ感心するばかりだ。
でかい文字で『一発診療・即日完治』。そして、一回り小さな文字で『明朗会計・即金払い』。リパー診療所の看板には、そう書いてあった。
「どっちだ、患者は」
リパー医師はアーヴィーとミラを比較するように睨《にら》んだ。大柄な男で、およそ緻密《ちみつ》な作業には向いていないように思える。口調もやたらと乱暴だ。
「あの、お、俺《おれ》です」
「見せろ」
「は…?」
「患部」一言発するごとに、目玉がぎょろりと剥《む》かれる。
「あ…は、はい」
アーヴィーがポケットに突っ込んでいた左手を差し出すと、医師は乱暴に包帯を剥《は》ぎ取り、腫《は》れ上がった手首を一瞥《いちべつ》。
「ふん……どうする?」ぎょろり。
「どうって…」
「つけるのか」ぎょろり。
「な、なにを……ですか?」
医師はデスクに立ててあった分厚いファイルの一冊を取り出し、アーヴィーの目の前にばさりと広げた。もうもうとほこりが舞い上がり、アーヴィーは咳《せき》込んだ。
どうやら、義肢のカタログらしい。
開かれたページのクリアポケットには、手、手、手。いくつもの手首の写真が差し込まれていた。
男の手、女の手、子供の手。大部分は屍体《したい》や献体生活者から切り取ったのであろう、ボディバンクの容器に入った、生の手だ。妙に青白いのは亜生体のもの。金属製のものもある。変わったのでは、六本指のもの、鱗《うろこ》の生えたもの、吸盤つき、肉球つき、ヤットコ型に、蟹《かに》の爪《つめ》。手首が分銅つきの鎖になっている奴《やつ》などは、どう見ても実用性皆無だけど、いったい誰《だれ》が使うんだろう?
「いえ、あの、とりあえず、き、傷口の処置だけ――」
「いいじゃない」と、ミラが言った。「この際だから、つけてもらおうよ」
「これが、一五〇」と、医師は写真の一つを指差した。ごく普通の、成人男性の手だ。
一五〇万ワーズ。闇《やみ》パーツだということも考えれば、まあそんなとこだろう。
D層での部分|屍体《したい》の引取り価格を思い出しながら、アーヴィーはそう思った。
どのみち、そんな金はないけど。
「お金なら大丈夫。ちょっと心当たりがあるから。――好きなの、選んでて」
ミラはそう言うと、アーヴィーを残して、戸口からするりと駈《か》け出していた。
「え? あ…」
右手を宙に泳がせるアーヴィーに向かって、医師の説明は続いた。
「一八〇、一二五、二二〇、五五〇……」
奇形的なものほど値が高いのが、面白いといえば、面白い。が、それはともかく。
ミラがどういう考えなのかは判《わか》らないが、ねぐらに戻って有り金かき集めてきても、せいぜい二〇万といったところだ。さて、どう言ってことわろうか……
「一二〇〇」
いきなり飛び抜けた金額にアーヴィーは思わず興味を引かれ、医師の指し示す写真をのぞき込んだ。
ぬるりと黒光りする、金属製の手首。形状はごくシンプルで、小さな銀色の円盤が四つ、拳骨《ナックル》の部分にはまっている他《ほか》は、特徴といえるものはない。
「電撃ナックル。護身用だが、殺せる」と、医師が言った。
ミラが戻ってきたときには、治療は終わっていた。結局ことわるタイミングを逸したアーヴィーの左手首には、なしくずしに金属製の義手がはめられていた。
『|?《クエスチョン》』マークみたいな形の鉤爪《かぎづめ》型の、単純なものだ。値段は一二万ワーズ。結局、無難に一番安い奴を選んでしまった。
治療費込みで、
「一八万」
と、手術器具を洗浄器にぶち込みながら、顔を向けもせずに、医師が言った。
――足りるかな?
アーヴィーが不安顔で振り返ると、ミラはにっこり笑って、
「はいはい」と言いながら、アーヴィーに向かって手招きした。
「?」
口元に手を添え、唇を尖《とが》らせるミラに、アーヴィーは腰をかがめて耳を寄せた。
アーヴィーの右手に、なにか固い物が押しつけられた。かと思うと、それはまるで最初から手の一部だったかのように、しっくりと掌《てのひら》に収まった。
見れば、銀色に光る、Eマグ。全弾|装填《そうてん》されていることが、その重さから判《わか》る。
思わずミラの顔を見ると、ミラは再び口元に手を添えて、小さな声で、
「殺しちゃおう」と言った。
――あ、そうか。
と、思うより早くEマグが跳ね上がり、医師の後頭部を照準。
引き金を引いた。
紅《あか》い花。
「きれいだね」と、ミラが言った。
左手首にメスで切れ込みを入れて、剥《む》き出しにした骨に義手をボルトで固定して、生身の腱《けん》と義手のワイヤーとを接着し、肉を元通りに被《かぶ》せて、包帯と殺菌テープでぎりぎりとしばる。
医師の施した治療というのは、簡単に言うと、そういうことだ。もっとも、これ以上難しく言いようもない。
――あの高価《たか》い奴《やつ》にすればよかったな。
アーヴィーは黒く光る電撃ナックルを思い浮かべ、次に、左手についた鉤爪《かぎづめ》を見た。
これはこれで、よく出来ては、いる。鈍く光る真鍮《しんちゅう》の鉤爪は、左の筋肉を使うと、カキン、カキンと小気味よい音を立てて動く。しかし、他《ほか》のものと比べると、いかにも貧乏臭い。
アーヴィーがしょぼくれた顔で鉤爪を見つめていると、
「いいね、それ。かっこいい」と、ミラが言った。
「……そうかな」
まあ、ミラがそう言うのなら。
アーヴィーは気を取り直し、カキン、と鉤爪を鳴らした。
「聴け、お前たち、おお、お前たちよ!」
医者からの帰り道。街路の脇《わき》に横一列に並んだ、白い僧服の一団が、声を揃《そろ》えて言った。
皆、正中線にそって逆モヒカンに剃《そ》り上げた頭の天辺《てっぺん》に小さなアンテナを立て、長い後ろ髪は緩く結わえている。
神の声を聴くために神託チューナーを脳に埋め込んだ、『電波教』の信徒たちだ。
ざわざわと人が集まり始めた。ある者は立ち止まり、ある者は路石に腰を据えて、次の言葉を待つ。
「神は宣《のたま》えり、
神は宣えり、
神は宣えり――」
信徒の一団が、びくり、と中空を凝視した。なにかの啓示を受けているようだ。
次いで、大きく息を吸い、声をそろえて言った。
「――『七時のニュースをお知らせします』!!」
彼らが神の声として受け取っているもののほとんどは、チューナーに混線したラジオ放送だ。
聴衆の間に低い笑いが漏れたが、立ち去るものはいなかった。街頭ラジオの代用品として、電波教徒は人々に認められ、愛されている。
『――公安|呪装《じゅそう》戦術隊顧問ウィリアム・ヘルシング教授による吸血鬼駆除計画、通称ヘルシング・プランの要《かなめ》となる吸血鬼根絶特別法案が、本日〇時をもって正式に可決されました。これにもとづき行政会議の直下に設立される特殊呪装部隊が、近日、最下層市街を中心に投入される運びとなります。それに伴い、|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》の主導権は公安局から独立する形で新部隊に移動することになりますが、部隊の行動に際して無制限に近い権限が与えられることに対し、公安局は|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》に名を借りた公認及び非公認市民の「間引き」が行なわれる可能性があるとしてこれを批判。しかし、この抗議自体をブラックロッド、魔導犯罪特捜部に代表される公安局の特権性を維持するために行なわれたものとする見方もあり、ひいては部隊設立に関与した降魔局《A・S・C》への牽制《けんせい》の意味も――』
儀式の祭文のように、ニュースは続く。
「……ミラ?」
立ち止まったミラの紅《あか》い瞳《ひとみ》は、そこにいない誰か[#「そこにいない誰か」に傍点]を凝視するように見開かれていた。
「……パパがわたしを殺しにくるわ」
「え、なんだって? ……パパ?」
ミラはアーヴィーの手を取って、足早に歩きだした。
電波教徒の儀式は続く。
ニュースの後は歌番組。今週のヒットチャート一五位からの発表です――
ねぐらに帰ると、ミラは、
「いつからか、私の中に魔物が棲《す》みついてるの」と言った。
「まもの…?」
「いい者なのか、悪者なのか、判《わか》らない。けど、わたしたちの敵じゃ、ないと思う。いろんなことを、頭の中にささやくの」
「どんな…?」
「食べ物や着る物はどこで手に入れるのか、ねぐらはどこに決めたらいいか、これからどうしたらいいのか――」
「どうしたらいいって?」
ミラは首をかしげて、考え込んだ。
それとも、『魔物』と話でもしているのだろうか?
しばらくして、アーヴィーをまっすぐに見て、
「お金が要《い》るわ」と言った。
一週間後――
街に殺人者の噂《うわさ》が流れていた。
〈フック兄弟〉。片手の二人組だ。
日に何軒も商店を襲い、有り金奪って皆殺し。
最下層市街に殺人者は多いが、判《わか》りやすく派手な手口が特にうけていた。
兄は殺人鬼。右手の五〇口径で犠牲者の頭を吹き飛ばし、左手の鉤爪《フック》ではらわたを引きずり出す。着ているコートは常に、返り血で真っ赤に染まっているという。
弟は吸血鬼《ヴァンパイア》。獲物の生き血を一滴残らず吸い尽くす。右手の袖《そで》を肘《ひじ》の上でしばっているのが特徴だ。(しかし、ちょっと考えれば判りそうなものだが、片手の吸血鬼《ヴァンパイア》などというものはあり得ない。なにしろ、下半身が吹っ飛んだとしても、脳と心臓さえ無事ならば、すぐさま再生するという連中だ。片手のないまま歩いているわけがない)
いくぶん尾ひれのついたその噂《うわさ》を、一番楽しんでいるのは、ミラだ。
近頃《ちかごろ》は、『フック兄弟ごっこ』がお気に入り。
「早くするんだ、早く、早く!」
ドラッグストアのカウンターに、手にした缶詰をガンガンと打ちつけながら、ミラが言った。
「フック兄《あに》ィはおいらほど気が長くねえぜ。頭を吹っ飛ばされたいか? それとも鉤爪で引き裂かれたいか?」
帽子に髪を押し込んでささやかな変装をしたミラは、女の子に見えないとしても、せいぜい中学に上がる前のお子様だ。高い声できいきいと叫ぶさまは、冷静に見れば、微笑《ほほえ》ましくすらある。
しかし、アーヴィーにEマグを突きつけられた店番の親父《おやじ》は、冷静になるどころではない。青ざめた顔をして、レジから金庫から紙幣の束をつかみだし、ミラが投げつけたバッグの中に突っ込んでいる。
ちらり、と、上目づかいにアーヴィーの様子をうかがった。
アーヴィーは右手にEマグを構えたまま、親父によく見えるように左手を持ち上げ――
鉤爪を、ガキガキガキ、と鳴らした。
親父《おやじ》は青ざめた顔をさらに真っ青にして、自分の財布までバッグに投げ込んだ。
この演出は、ミラが考えたものだ。台詞《せりふ》をとちりそうだ、と言って心配するアーヴィーに、無言の殺人者の役を割り当てたのだ。あとは、つい笑ってしまわないように気をつけるだけでいい。やっぱりミラはさえている。
親父の手からバッグをひったくり、ミラが表に飛び出した。その後に続くアーヴィーは、戸口を抜けざまに、親父の頭に一発。身をかがめかけていた親父は、ショットガンを出そうとしたのか、馴染《なじ》みのヤクザに連絡を取ろうとしていたのか、まあ別に、今となってはどうでもいい。
表に生じつつあった人だかりを、Eマグを振り回して追い散らし、通りを駈《か》け抜ける。
問答無用のフック兄弟。邪魔する奴《やつ》は容赦しない。
あはははは、とミラが笑った。
「楽しいね」
「うん、楽しいな」と、アーヴィーは言った。
ほんとに、楽しいな。
バッグを逆さに振って、中身をぶちまけた。ぶんぶんと唸《うな》る床の上に、紙幣の束がばさばさと落ちる。
二人で紙幣を数えた。大部分は粗悪な海賊紙幣だが、いくらかは真札《しんさつ》も混じっている。それぞれ、額面ごとに分けて、一〇〇枚ごとに輪ゴムで束ねた。
あまり、金を扱っているという気がしない。まるで、ままごとに使う、玩具《おもちゃ》の札のようだ。
「一〇〇、二〇〇、三〇〇……」
これまでの分を合わせて、ミラが札束を数え始めた。
「……八〇〇、九〇〇、と」
贋札《がんさつ》で九七七万、真札で八二万。目の前に、積木のように積まれた。
今まで、金を集めてどうするんだい、とアーヴィーが訊《き》いても、ミラは、
「まだ、ひみつ」と言って、笑うばかりだった。
だが、よし、と言って顔を上げたミラは、アーヴィーに言った。
ちょっと目減りするけど、贋札は金と宝石に替えよう。金霊の宿った真札は、多分《たぶん》よそでも使えるから、そのままでよし。
――『よそ』って?
「都市《まち》の外……でなきゃ、外の都市《まち》」とミラは言った。
都市の外に…?
考えたこともなかった。
どこか遠くを見つめながら、ミラは呟《つぶや》いた。
「隊商に混じって、交易路に乗って、草原を渡って、山を越えて、東へ、東へ、どこまでも。行けるとこまでとことん行って……それから先は、また考えよ」
山? 草原?
本で読んだことはあるけど、どんなものなのか、イメージがわかない。
でも、それはミラもそう変わらないはずだ。彼女はあまり昔の話はしないが、確か〈トライ〉にいたはずだ。これも、例の『魔物』のアイデアだろうか?
まあ、それでもいいや、とアーヴィーは思った。
東へ、東へ。二人で『魔物』に連れられて。
「……ふん、〈ロング・ファング〉及びミラ・ヘルシング、いまだ発見されず、か」
「はい、なにぶんお嬢さんも、当市の市民登録を受けておられませんので……」
無登録の人間は、無登録の怪物よりさらに追跡が困難だ。常人の範疇《はんちゅう》で行動する限り、降魔局《A・S・C》の監視網にはチェックされない。
マクファーソンは、続く怒声に備えて、身を固くした。
しかし、ヘルシングは無言。
監視中の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》を破壊し、ミラ・ヘルシングの失踪《ロスト》を決定的なものにした――
事実はどうあれ、そのような口実を、降魔局《A・S・C》に与えてしまっている。今、強い態度に出るのは得策ではない。
吸血鬼|殲滅《せんめつ》部隊が正式に動き出せば、最下層市街もろとも焼き払ってやろう。
だが、おそらく、決着はそれ以前につく。
「……出都ルートの通常監視さえ、維持しておけばいい」と、ヘルシングは言った。
〈ロング・ファング〉――〈|ロング《LONG》〉は〈龍《LONG》〉。『東洋の竜』の名を持つ怪物め。
「奴《やつ》は、東へ向かう」
[#改丁]
6 夜を往くもの
NIGHTWALKER
[#改丁]
「さらば我らが古巣よ。そしていざ往《ゆ》かん、新たなる天地へ」
とミラが言い、二人でねぐらを後にした。
どうやってかミラが渡りをつけたというもぐり[#「もぐり」に傍点]の運び屋に、外周部近くで落ち合うことになったのだ。
昇降機《リフト》でD層へ上り、バスに乗り込んだ。多少、人目を引く危険があるが、最下層の無人地帯を突っ切るよりは、ずっと安全で、快適だ。
アーヴィーはようやく馴染《なじ》み始めた紅《あか》いコートを脱ぎ、暗い灰色のものを着ていた。左手はポケットの中。右手に下げたバッグには、現金と貴金属――二人の財産のありったけが入っている。
ミラの身につけているのはいつものセットだが、帽子を目深《まぶか》にかぶり、紅い眼《め》を隠している。右手の袖《そで》もしばらず、ポケットに入れている。
二人とも、全体的によれよれの薄汚れたなり[#「なり」に傍点]だが、ことさらに目立つというほどではない。
朝のラッシュをいくらか過ぎた時間帯で、バスは空《す》いていた。
スーツを着た勤め人、作業服の一団、学生|風《ふう》――まばらな乗客を、アーヴィーは別世界の生き物を見るような気分で、ぼんやりと眺めた。自分と彼らの間に、見えない膜が張られているようだ。空気の濃度や時間の流れる速度までが違う。
ほんのひと月足らず前には、自分もあちら側にいたのだ。
別に、そのこと自体は嬉《うれ》しくも哀《かな》しくもない。これといって実感はない。
ただ――隣に座ったミラの体温を意識しつつ――こちら側に独りぼっちじゃなくて、よかったな、と思った。
終点に近づくにつれ、客は二人、三人と降りていき、最後まで乗っていたのはアーヴィーとミラの二人だけだった。
二人を停留所に降ろすと、バスは道路の真ん中で無造作に車体を切り返し、元きた道を引き返していった。
まだ昼前だが、暗い。都市の外れだけに、陽光の供給がほとんどないのだ。
バスのテールランプを見送ってから背後を振り返ると、丈の低いビルの頭越しに、巨大な壁が黒々と見えた。都市の外壁の内側だ。
アーヴィーは思わず息を飲んだ。黒い壁が自分にのしかかってくるようだ。
数十メートルか、それとも一〇〇メートル以上か、どれくらい離れているのか、よく判《わか》らない。単に暗いからというだけでなく、あまりの大きさに、距離感が麻痺《まひ》している。
表面に大小のパイプをのたくらせ、所々に非常灯の明りをちりばめて、上にも、左右にも、壁は果てしなく広がっているように見える。
前にも一度だけ、同じ光景を見たことがある。確か、小学校の社会見学だ。
「ここが私たちの世界の果てです」と、先生は言った。
黒い壁のイメージは、本で読むどんな言葉よりも重く、なにか絶対的な限界の象徴としてアーヴィーの記憶に刻み込まれていた。
――この壁の向こうに行くなんてことが、本当にできるのだろうか?
近くの昇降機《リフト》を使って再び最下層に降りた。
先ほどのD層よりさらに暗く、灯一つない。外壁の方角を見たが、なにも確認できなかった。ただ、黒々とした闇《やみ》があるだけ。
用意してきた怨念《おんねん》よけの護符とマスクを身に着け、マグライトで足元を照らしながら歩く。路面を走る楕円《だえん》の光に追われ、いくつもの雑霊の気配が逃げていった。
目印に指定された、壊れた広告塔の下で一〇分ほど待つと、約束の正午ちょうどに、件《くだん》の運び屋が現れた。
運び屋は無口な男だった。
「あなたが…?」
ミラの問いに答える代わりに、男は二人を検分するように睨《にら》みつけた後、あごで外壁の方向を示し、歩き出した。
ミラは肩をすくめてその後に続き、アーヴィーがさらに後に続いた。
三人が歩くにつれて、街路に滞積していた埃《ほこり》が舞い上がり、アーヴィーは軽く咳《せき》込んだ。
近道なのだろうか、運び屋はなにかの建物の中に入った。真っ暗な、妙に入り組んだ通路を、ライトを片手に進む。
ごうん、ごうん、と、頭上からかすかな振動が伝わってきた。上の階? いや、もっと上、はるか上空から響いてくるようだ。いったいなんなんだろう? 知っているような気がするが、思い出せない。
ミラに訊《き》いてみようかと思ったが、沈黙を破ることにためらいがあった。言い出すきっかけを得られないでいるうちに、振動はやんだ。
やがて、通路の果てに光が見えた。
――あ、もう外なんだ。意外と簡単に抜けられるものなんだな。
通路の端の開かれたドアの向こうが向こうがどうなっているのか、まぶしくて、よく判《わか》らない。まるでトンネルの出口のようだ。『天国の門』。そんな単語が頭をよぎる。
『門』をくぐった。
暗い通路から出て眩《まばゆ》い光にさらされ、視界が真っ白になった。眼《め》が痛い。
電灯の光ではない。肌で判る。圧力さえ感じるほどの、強い陽光だ。
学校にいるときは、週に一時間だけ、日光浴の時間があった。一〇分も前からみんなで校庭に出て、配光板がゆっくりと動くのを見上げていた。ごうん、ごうん、と音を立てて……そうだ、さっきの振動は、配光板が動く音じゃないか?
突然、運び屋が駈《か》け出した。
「!?」
遠ざかる足音を、見えない目で追った。
視界は数秒で回復した。
三メートルほどの高さの壁と、何列もの観客席にぐるり[#「ぐるり」に傍点]を囲まれた、広く平坦《へいたん》なスペース。天井はなく、配光板からの陽光を直《ちょく》で受けている。なにかの競技場のようだ。
二人はその入口に立ち尽くしていた。
入口の左右の脇《わき》、通路からの死角になる位置に、横腹をこちらに向けて、二台の大型車両が停《と》められている。呪装戦術隊《S.E.A.T.》のスクワッド・バンだ。
その一台の陰に、運び屋が飛び込むのが見えた。
「その娘から離れろ、アーヴィング・ナイトウォーカー!」
バンに取りつけられたスピーカーが発した割れ鐘のような声が、競技場全体に、幾重にも反響した。
「…パパ!?」
ミラが一歩踏み出した。その視線の先、バンの傍らに、今の声の主だろう、マイクを手にした、初老の小男が見える。
――あれ? あの人、見たことあるぞ? 確か、|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》の関係者で、かなり偉い人だ。なんでこんな所にいるんだろう? なんで俺《おれ》の名前を知ってるんだろう? …パパだって?
いきなり両脇《りょうわき》から腕をつかまれ、強く横に引かれた。アーヴィーは転げそうになりながら、ミラから引き離された。
いつの間にか、紺色の戦闘服を着た呪装戦術隊《S.E.A.T.》隊員が何人も、バンの陰から半身を乗り出していた。銃口を二人に――いや、ミラに向けている。
わけが判《わか》らない。
思わずミラの方を見た。
小男を見つめるミラの横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。自分を狙《ねら》う銃も、目に入っていないようだ。
ミラのあんな表情は、初めて見る。
ああしていると、まるで――
小さな女の子みたいだ。
ある最下層の住人が東方ルートへ向かう密輸業者に連絡を取った、という情報をヘルシングが受けたのは、四〇時間前だ。
即座に連絡係を押さえ、依頼者を照会。ミラ・ヘルシングと確認した。
その際に、ミラと行動を共にする男の存在を知った。
アーヴィング・ナイトウォーカー。D層住民。屍体《したい》蘇生《そせい》業者。
ここひと月ほどの間に、ユニークなタイプの殺人者として降魔局《A・S・C》に注目されつつあった男だ。
吸血鬼化した実母を、正面至近距離――吸血鬼《ヴァンパイア》の精神支配圏から射殺したという状況証拠が提出されている。
吸血鬼捕殺者《ヴァンパイア・ハンター》としての、なんらかの特質を備えているのかも知れない。
その男が、ミラと共にいる。運命の皮肉か、それともなにかの必然か。
だが、今はどうでもいい。邪魔になるようなら、共に殺す。
逮捕した連絡係に精神拘束《ゲアス》を施し再びミラと接触させ、偽の情報を流した。そして、業者に化けた隊員の先導でこの競技場に呼び込んだ。
包囲しやすく、天井がない。格好のロケーションだ。
直上の、二〇年以上も使われていないという配光板を操作し、標準の三倍の日照量を、この競技場に集中させてある。
〈ロング・ファング〉――奴《やつ》が出て[#「出て」に傍点]くれば、その瞬間に黒こげだ。
ヘルシングは懐のホルスターから銀色のリボルバーを引き抜いた。
R&V M92E。|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》用に設計された大型|拳銃《けんじゅう》だ。この小男が構えると、ことさらに巨大に見える。
ミラの正面に立ち、眉間《みけん》を照準した。
この引き金を引けば、すべてが終わる。
「……パパ…」
紅《あか》い瞳《ひとみ》が、訴えるようにヘルシングを見つめている。
騙《だま》されるな。
「パパ、どうして?」
目の前の娘の表情が、急速に冷静さを取り戻していく。かつて、幾度となく目にしてきた、不可思議な気丈さだ。いったい誰《だれ》に似たのだろう。ヘルシングがそう言うと、妻は笑って、
「決まってるじゃないの」と――
違う。
これはミラではない。私の娘ではない。ただの擬態だ。
「私たち、都市《まち》を出るのよ。もう二度と戻ってこない。それでも駄目なの?」
「黙れ」
「どうして…?」
なぜだろう。なんのために? すでに妻はない。そして、娘さえも。ならば誰のために?
考えるな。とにかく、今は、この引き金を。
人差し指に力を込めた。
深い年輪の刻まれた額に、汗の玉が浮いた。
あらんかぎりの気迫を視線と指先に込め、ぎりぎりと歯を食いしばる。
二つの紅い瞳の間に、五〇口径の弾丸を。
だが――
照準を下にずらし、腹部に一発。それが精一杯だった。
内臓を背後に撒《ま》き散らし、踊るように回転しながら、ミラは倒れた。
ヘルシングは踵《きびす》を返し、
「脳を潰《つぶ》せ」と言った。
後方に待機していた、全身古傷だらけの巨漢――ハックルボーン神父が、うっそりと立ち上がった。
あれ?
ミラが倒れてる。
今、なにが起こったんだろう。よく判《わか》らない。
こんなこと、昔からよくあったっけ。
なにかの拍子に周りのみんなが一斉に笑い出すんだけど、俺《おれ》一人だけ、わけが判《わか》ってなくて。一人で浮くのはいやだし、ひとに訊《き》くのもなんだか場を白けさせてしまいそうで、結局、判ったふりだけして、一緒になって笑うんだけど、笑えば笑うほど、なんだか心細くて……
誰《だれ》か、ちゃんと説明してくれないかな。ミラが心配だ。あんなに血が出てる。それに、いくらか内臓がはみ出してるみたいだ。駈《か》け寄って確かめたいのに、なんで知らない人が俺のことを押さえつけてるんだろう?
ぐるるるる……
なんの音だろう? 獣の唸《うな》り声みたいだ。ぐるるるる。
――ああ、なんだ、俺の声だ。腕を背中にねじられて、地面に押さえつけられている俺が、喉《のど》の奥から搾《しぼ》り出している呻《うめ》き声だ。
まいったな。「下品な声を出してはいけません」って、昔、先生が。
まあ、今みたいな場合は特別かな。ぐるるるる。
おや、なんだかやたらとでかい人が出てきたぞ? すごい傷だな。かついでるのはなんだろう?
角材……いや、十字架? あんなでかい十字架って、あるかな。まるで、どこかの国で死刑に使う磔《はりつけ》台の柱みたいだ。あ、十字架ってのはそういうものだっけ。でも、なにかぬいぐるみみたいなのがくっついてるけど、なんなのかな、あれは。
ミラのところまで歩いてきて……どうするつもりだろう? 十字架をツルハシみたいに構えて――駄目だよ、そんなもの当てたら、ミラの頭が潰《つぶ》れてしまう。駄目駄目、駄目だってば――
「があっ!!」
獣の咆哮《ほうこう》と共に、アーヴィーの体が激しくもがいた。瞬間、拘束がゆるみ、アーヴィーを押さえていた隊員の体のどこかに、左手の鉤爪《かぎづめ》が引っかかった。かまわず引き抜く。背後でぎゃっという叫び声。と同時に全身が自由になった。横向きに地面を転がりながらEマグを引き抜き、三発。
まず、神父に一発。そして、自分を押さえていたのと、そのカバーに入っていた隊員に一発ずつ。二人の隊員は頭を破裂させて倒れたが、神父は大きくのけぞっただけだ。額から大量の血を吹き出し、ぎろりと目を剥《む》いてアーヴィーを睨《にら》む。
なんて丈夫な頭だろうと思いつつ、心臓にもう一発。
弾丸は貫通した。神父は突き飛ばされたように二、三歩よろめいたが、倒れない。体も丈夫だ。心臓が潰れても平気なのか、胸の十字傷の真ん中から血を流しつつ、ひと声|吠《ほ》えて、アーヴィーに突進。
神父の足元を、アーヴィーは這《は》うようにすり抜けた。その頭上を、神父の振り回す十字架が髪を薙《な》いで通過する。
ミラに駈《か》け寄り、抱き上げた。ずるりと腸がはみ出すが、かまわず左腕に抱え、入口に走る。
行く手に神父が立ちふさがった。空気を焦がすような勢いで鼻先をかすめる十字架を、アーヴィーは頭を反らしてやり過ごした。勢いはすさまじいが、とにかく大振りだ。避けるのはさほど難しくない。振り切ってたたらをふんだその傍らを駈け抜ける。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》の銃口がアーヴィーを追ったが、撃てない。射線上に神父がいる。
アーヴィーは入口に駈け込みながら、振り向きざまに二発。
共に神父の額に当たった。
今度はさすがに効いたようだ。空中に大きな破片のようなものが飛び散り、光を背にした神父のシルエットは、頭部を大きく陥没させた。
だが、倒れない。
神父は仁王《におう》立ちのまま天を仰ぎ、叫んだ。
「我が神、我が神、なんぞ我を――」
終《しま》いまで言い終えないうちに力尽き、競技場の入口に神父はゆっくりと倒れ込んだ。
巨体をまたぐようにして配置に着いた隊員たちが、通路に向けて銃撃を開始した。
その銃声を聞きながら、アーヴィーは通路の角を曲がった。顔のすぐ横で、コンクリートの角が、チュンと音を立てて削れた。
闇《やみ》に満たされた通路の奥へ、アーヴィーは再び駈け込んで行った。
明かり一つない通路を飛ぶように駈け、アーヴィーは競技場の建物を抜け出した。
直射光こそ当たってはいないが、街路は陽光に充分に照らされていた。
ごうごうと、空気が鳴っている。
なんの音だろう?
意識してよく訊《き》いてみると、内耳から鼓膜に吹きつけるようなそれは、自分の呼吸音だ。
「そら、もっと根性出せ、根性、根性」というのが中学の体育教師の口癖で、持久走の授業のときなんか死にそうになったけど、今の方がもっときつい。なにしろ人ひとり抱えてるんだから、理屈《りくつ》から言って倍は疲れるはずだ。
と思いつつミラの体を見ると、どこで落としてきたのかミラの腰から下はなく、はらわたの端がぷらぷらと揺れている。じゃあ一・五倍か。でもそれにしては疲れるなあ。まあ走る速度とかによっても違うのだろうけど。
それはいいけど、女の子の下半身のストックが倉庫にあったかな? ちゃんと確認しておかないと、先輩が適当なのくっつけちゃうからなあ。あの人はそれでいいかも知れないけど、伝票書くのは俺《おれ》だから、ちゃんとしないと困るんだよな。で、そう言うとまた「いちいち細かい」とか言って逆に怒るんだ。悪い人じゃないんだけど、ほんと、ああいうとこ、困るよなあ。
それにしても疲れたな。ちょっと休もうか。所長もいないし、ちょっとだけ。
前に一度だけ、先輩と二人でサボってるとこ、もろに見つかったっけ。所長はなんにも言わなかったけど、ああいうの、かえって怖いよな。先輩は平気な顔してたけど、あの人、図太いっていうか、そういうとこ、ちょっと鈍いんじゃないだろうか。それともやっぱり、俺《おれ》が神経質なのかなあ。
そんなとりとめのないことを思いながら、柱の陰に崩れるように腰を下ろし、ごうごうと息をついた。
手足から力が抜け、代わりに胸の辺りがぱんぱんに張り詰めて、心臓が口から飛び出しそうだ。
力の抜けた左腕からミラを取り落としそうになり、あわてて抱き寄せた。走っているときは夢中で気づかなかったが、やはり、軽かった。
ああそうか、死んでしまったんだなあと思いつつ、不思議と実感がわかないのは、多分《たぶん》その軽さのせいだ。
屍体《したい》は重い。重量としては生者と変わらないのだが、自重をささえるということをしないので、運ぶ際にはやたらに重い。その重さが、アーヴィーにとっての死の実感だったのだ。
今のミラは、重さからすると、屍体というよりはバラのパーツのみたいだ。
しかし、これはまぎれもなくミラで、ミラは間違いなく死んでしまったのだ。
冷たいタールのような感情が、胸の奥にじわりと染み出した。恐怖にも似た、ねっとりと濃い不安の澱《おり》だ。
どうしよう、と思った。
なにも思いつかなかった。
助けを求めるようにミラを見るが、血に汚れた彼女の死に顔は、半眼《はんがん》に閉じた目をあさっての方向に向け、なにも語りはしない。
Eマグを排莢《はいきょう》し、シリンダーを出したままミラと自分の体の間に挟んだ。空いた右手でポケットの装弾を探り、蓮根《れんこん》のように並んだ穴に、慣れない動作で一つ二つと落とす。
本来、二つの手が要《い》る作業だ。いつもはミラが手伝ってくれた。
「中国に『比翼の鳥』っていうのがいてね」
と、ミラは言った。
「一羽に一枚ずつしか翼がないの」左手を肩の横に上げ、指先を外に向けてぱたぱたと空気を仰ぐ。ひどくアンバランスな仕種《しぐさ》だ。「それじゃ飛べないでしょ。だから」
「うん?」
「いつも雄と雌がつがい[#「つがい」に傍点]になって飛ぶの。いい話でしょ」
「うん」
いい話だなあ、とアーヴィーは言った。
確か、その鳥はつがいの片方が死ぬと、飛べなくなって死んでしまうんだったな。
Eマグを装填《そうてん》したのは、別になんのためというわけではなく、いつもやっていることだからだ。伝票のファイルがきちんと番号順に並んでいるのと同様に、六発の装弾がEマグに込められていると、安心する。
しかし今は、その作業によってミラの不在がようやく実感を伴い、アーヴィーはかえって不安になった。
精神に生じた虚《うろ》を埋め合わせるように、冷たくなったミラの半身を強く抱き締めると、じくりと濡《ぬ》れた感触がした。ミラの(そして、もともとはアーヴィーの)上着は、六割方血に染まっていた。
ああ、よかったなあ、その色、好きだったもんなあ。
ぼんやりとそんなことを思っているアーヴィーの耳に、こそり、と物音が聞こえた。
ごうごうと耳は鳴りっ放しなのに、なぜだかやたらに気配が感じ取れる。
前から後ろから、一〇人あまりの人間が、足音を殺して近づいてくるのが、手に取るように判《わか》る。ほら、そこの角に隠れて、こちらをうかがってる。
どうしよう。俺《おれ》はどうしたらいいのかな。
あの人たち、なんで俺たちを追ってくるのかな。なんにしろ、お役所の仕事だろうから、多分《たぶん》、なにかすごくちゃんとした理由があるんだろうな。さからっちゃ駄目なのかな。それともめちゃくちゃに抵抗するのを期待されてるのかな。どっちだろう?
決めかねているうちに、右手が勝手に跳ね上がり、建物の陰からちらりとのぞいた呪装戦術隊《S.E.A.T.》隊員の頭を撃ち抜いた。
空中に花のようにぱっと散る血煙を見て、アーヴィーは、きれいだな、と思った。
その拍子に一つ、思い出したことがあった。
そういえば、ミラに約束してたっけ。
いっぱいの、紅《あか》い花。
たんたんたんとEマグが鳴るたびに、きれいな紅い花が咲く。
あたりは一面、真っ赤な花畑。
向こうの弾は当たらない。ショットガンを振り回したって、銃口がこっちを向く前に、ほら。後ろから狙《ねら》ったって駄目さ、ちゃんと判るんだ。振り返りもせずに、肩越しに、ほら。
百発百中、まるで西部劇のヒーローみたいだろ? と左腕のミラに同意を求めるが、あいかわらず死んでいるのでちょっとがっかり。
耳はごうごうと鳴り、手足の感覚はない。足元もふわふわと頼りなく、視界もおぼろにかすんでいる。
夢の中を駈《か》けているようだ。
あっちはヤバそうだ。こっちはいい感じ。ぼんやりとした空気のみを頼りに行動する。眼《め》は要《い》らない、耳も要らない。温度と匂《にお》いだけの、蚯蚓《みみず》の世界。暖かな気持ちのいいぬかるみでまどろむような胎児の幸福感の中、追跡者の気配だけがやけに鮮明だ。脅威ではなく、不快でもなく、きらきら光る宝石のように――ほら、物陰からのぞく白い丸い標的《ターゲット》に向けて引き金を引けば、ぱっと紅《あか》い花が咲く。
白いつぼみに紅い花。あれ、なんだか変だ。おかしいね、ミラ。
ははははは。
誰《だれ》かの笑う声。楽しそうだな。誰だろう? ああ、俺《おれ》か。
「だってあんた、つまんないんだもん」
誰の台詞《せりふ》だっけ? 隣のクラスの女の子だ。顔も名前も覚えてないけど、ただ言葉だけが今もある。一度だけデートに誘われて、別れ際に言われたんだ。確かにあのときは、なにをどうしたらいいのか判《わか》らなくって、俺もつまらなかったな。どうすればよかったんだろう? 今みたいにすればよかったのかな。とりあえず俺は楽しそうだ。はは。
隣の通りでぽすっという気の抜けた音がして、なにか拳《こぶし》ほどの塊が塀を越えて飛んできた。
なんだろう、と思うより早く、アーヴィーの体は弾かれたように跳躍。塊から飛び退《の》く。
塊――榴弾《グレネード》が爆発した。
視界が真っ白になり、体が爆風に舞った。
重力から解放されて、
はは、気持ちいい。
もう、遊びはおひらきなのかな。みんな、どこかに行ってしまった。
両足を投げだし、壁にもたれ、全身を覆う痺《しび》れと痛み。
おや、誰だろう。こつこつと足音を立て、こっちに歩いてくる。
小柄な男だ。足元だけが見える。うなだれた首を起こすのも億劫《おっくう》なのに、左腕だけはしっかりとミラを抱き寄せ――
右手が跳ね上がり、男の額を照準、引き金を引いた。
カキンと音を立てて、撃鉄が落ちた。
「意外な展開になりましたね」
アーヴィーを見下ろす小男――ヘルシングの背に、女の声がかかった。
青い瞳《ひとみ》が、涼しげな人工の笑みを浮かべている。
降魔局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》・ヴァージニア・フォーだ。
ヘルシングは答えない。
「我々もアーヴィング・ナイトウォーカーを過小評価していました。まさか、これほどのものとは」
リボルバーを一丁と、少女の亡骸《なきがら》(これは半分)。それだけを持つ、たった一人の男に、超人と言われたハックルボーン神父と二ユニットの呪装戦術隊《S.E.A.T.》が、壊滅的と言っていいダメージを与えられたのだ。
「さきほどの戦闘の際、彼の行動と表層人格とは、ほぼ完全に分離していました。あれならば、吸血鬼《ヴァンパイア》の支配下にありながら自律行動を取っていたこともうなずけます。私の依代《ホスト》も同様の機構《システム》を持っていますが、注目すべきはその副次的人格――いえ、あれは人格というより――」
V4が一歩踏み出した。瞳孔《どうこう》のない青い瞳が探るようにアーヴィーをのぞき込む。Eマグが跳ね上がり――
カキンと音を立てて、撃鉄が落ちた。
青い唇が、満足気に笑みを浮かべた。
「きわめて純粋な攻撃衝動の塊――精神仏理学者が『修羅《しゅら》』と称するものです」
賞賛するかのようなその口調に、ヘルシングの灰色の眼《め》が、いぶかるように細められた。V4は微笑《ほほえ》みをもってその視線に応《こた》え、
「得難い才能です」
誰《だれ》だろう、なんだか難しい話をしてるな。俺《おれ》と関係のある話らしいけど、半分も意味が判《わか》らない。
カキン、カキン、と引き金を引き続ける右手から、V4はEマグを抜き取った。もう、とっくに弾はない。
「どのみち、神父の抜けた穴は埋めねばなりません。あなたが誰を選択するにしても。ナイトウォーカーか、それとも――」
鉄板のへこむ大音響に、V4の言葉は中断された。
七、八メートル離れて駐車されていたバンのドアを蹴《け》破り、十字架を引っ提《さ》げた半裸の巨体がのそりと出てきた。死亡を確認され、収容されていたハックルボーン神父だ。
V4の青い瞳《ひとみ》――高性能|霊視眼《グラムサイト》が、大きく見開かれた。
「まさか……復活した?」
死亡は完全に確認されていた。脳は半壊し、心臓は潰《つぶ》れていた。『蘇生《そせい》』ではなく『復活』。医学ではなく、奇跡の領域だ。
だが、奇跡は敬虔《けいけん》なるハックルボーン神父の得意分野なのだ。
割れた頭と胸の銃創からぼたぼたと血を流し、神父はなにごとか言おうと口を開いたが、その拍子に頭蓋《ずがい》の割れ目から内容物がこぼれ出た。
それまで呆然《ぼうぜん》と見守っていた生き残りの隊員が二名、応急処置のために駈《か》け寄った。
十字架が一閃《いっせん》した。
一振りで、一人の首が飛びもう一人の背骨が折れ、共に即死。飛んだ首が、アーヴィーの足元に転がってきた。
神父の側頭部と脇腹《わきばら》――被害者が十字架に打たれたのと同じ部分から血が吹き出した。
「罪人《つみびと》たちよ」
恍惚《こうこつ》の表情で、神父は言った。
「神の愛は無限だ」
罪人って誰《だれ》だ? アーヴィーはぼんやりと考えた。
俺《おれ》、なにか悪いことしたかなあ。
神父はこちらに向かって歩きだしながら、ゆっくりと十字架を振りかぶり、転瞬《てんしゅん》、バンのボンネットに力まかせに叩《たた》きつけた。妙に機械的なその動きは、野球のピッチングマシンのようだ。
バンのエンジンが火を吹き、一瞬後、爆発。
破片と爆風をもろに浴びながら、神父の足どりは揺るぎない。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》の生き残り――今やわずか三名――が、銃口を神父に向け、視線をヘルシングに向けて、指示を仰いだ。
「ハックルボーン神父!」
自らもEマグを抜きながら、ヘルシングが叫んだ。いささかも冷静さを失ってはいない。
「君は混乱している。安静を保ち、治療を受けろ」
「そうではない」と神父は言った。「私は一度死に、再び蘇《よみがえ》った。神の愛を伝えるために、神の愛を万人に与えるために」
傍らの廃屋の入口に張り渡された鉄条網を引きむしり、割れた頭を有刺《ゆうし》鉄線でぎりぎりと縛る。鋼鉄で出来た、茨《いばら》の冠。
「子羊たちよ、もはや迷いはない」
どういうことだ?
確かに奴《やつ》は死んでいる、脳はこぼれ、左胸には大穴が開いたままだ。だが、生きて動いている。説教じみた言葉さえ吐く。
「いったいなんのからくりだ?」とヘルシングは言った。
「呪術《じゅじゅつ》操作や雑霊|憑《つ》きでないことだけは確かですが――」V4は答えた。「あとはただ、『奇跡』としか」
「ふん」
ヘルシングにとっては『神』も『奇跡』も、未解明の現象を放り込むがらくた箱にすぎない。「判《わか》りません」の代わりに「神のみぞ知る」だ。
神父の足が速まった。十字架を振りかぶり、突進。この場にいる全員を、一振りで神の下《もと》に送ろうという勢いだ。
「撃て」
ヘルシングは隊員に命じた。サブマシンガンが三丁。対吸血鬼用の、肉体の破壊を目的とした弾頭がフルオートで神父の体に叩《たた》き込まれる。巨体を突き飛ばし、貫き、削り、潰《つぶ》す。
神父は倒れない。
全身の骨が砕け、全身の筋肉の半分方が削《そ》げ落ちている。どう見ても立っていられる状態ではない。だが。
仁王《におう》立ちのまま、神父は天を仰ぎ咆哮《ほうこう》した。
その全身が、眩《まばゆ》い光を放った。
V4が叫んだ。
「……共鳴《ハウル》している!」
同時刻、A層|降魔局《A・S・C》本部・ライマン脳制御室。
処理中の問題をキャンセルし、鋼の巨顔が咆哮した。
論理器械《プログノメータ》オペレータ・マクファーソンはただちに緊急停止を試みたが、ライマン脳は停止コードを受けつけないばかりか、思考規制の解除を要求した。
『言え、ヘンリー・マクファーソン。ただひと言、「イエス」と』
巨顔を構成するチューブの間から染み出すように光が漏れ、瞬く間に顔面を覆った。煌々《こうこう》と輝く荘厳なその表情は、まさしく『神の顔』だ。
『しからば、神は存在する』
『神』…!
都市の、いや、人という種の抱えるあらゆる問題を解決し得るという超存在。神との接触は降魔局《A・S・C》の最重要課題とされている。もしライマン脳の言うことが真実ならば、降魔局《A・S・C》は今、この瞬間のために存在したとさえ言えるのだ。
自分の一言で、神が生まれ、世界が変わると言うのか。だが本当に?
もしなんらかの悪意あるものが、神の名を偽り、ライマン脳を手中にしようとしているのだったら?
また、もし本当に神が出現したとしても、それが我々にどのような影響を及ぼすか、それは予測不可能だ。
マクファーソンは躊躇《ちゅうちょ》した。そして、自らの家族、生活、ささやかな幸福を思った。神の前には存在の意味すら持たない、ちっぽけなものだ。しかし――
その決断は、一人の人間が負うにはあまりにも大きく、重い。
上層部の指示を仰ぐため、マクファーソンは通話器のスイッチを入れた。
轟《ごう》――
頭から、胸から、全身の古傷と銃創から光の束を吐き出しながら、神父の体が唸《うな》りを上げた。
光と共に、高圧の霊気がヘルシングたちに吹きつけてきた。
「神が――!?」
V4の体が弾かれたように倒れた。精密な計測機器の塊とも言えるその依代《ホスト》が、強烈な神気にあてられ、機能を停止した。
三人の隊員が戦意を失い、銃を捨て、跪《ひざまず》いた。
Eマグを握り締めたまま、ヘルシングは立ち尽くした。今までかれが否定してきたもの――全身を満たす神への畏怖《いふ》に、必死に耐えている。少しでも気を抜けば、隊員たちと同様に跪き、頭を垂れてしまうだろう。歯を食いしばり、目を逸《そ》らさずにいるのが精一杯だ。
神々しい光と荘厳な唸りを発しながら、神父が歩き出した。
万人に、等しく神の愛を。
眼《め》も耳も、なにも感じない。痛みも苦しみもない。ただ、冷えきった体を抱く、誰《だれ》かの腕の感触だけが暖かい。
『わたし、死んだのかな』とミラは思った。
『ああ、ばっちり死んでる。俺の都合[#「俺の都合」に傍点]でちょっとばかり脳を補強してあるが、まず助からない』
と、頭の中で誰かが答えた。
ミラの中の『魔物』だ。
『あら……ちゃんと話をするのは初めてね』
『あんまり出しゃばるのも悪いと思ってね』
『……ねえ、今、外がどうなってるか判《わか》る? アーヴィーは無事?』
『うん?』
魔物の気配がふっと消え、すぐに帰ってきた。窓の外をちょっとのぞいてきた、そんな感じだ。『えらいことになってる』と魔物は言った。
『どういうこと?』
『すぐそこで、直結[#「直結」に傍点]した奴《やつ》がいる』
『直結って?』
『なにか高次元の存在と同化して、奇跡やら怪現象やらを垂れ流すのさ』
『悪魔|憑《つ》きみたいなもの?』
『そんなとこだ』
「奇跡」という言葉から、ミラは大道芸人の行なう奇術の類を連想した。
『それがどうして「えらいこと」なの?』
『同化するのが神か悪魔かは知らんが、奴《やつ》らは必ず生贄《いけにえ》を求める。……皆殺しだ』
『! ……アーヴィーは?』
『まだ生きてるが、逃げる力はない』
『助けられないの?』
『難しいな。……だが、人はどのみちいつかは死ぬもんだ。奴に殺られりゃ、天国に行けるかも知らんぜ』
『あなたはそれでいいの?』
『俺《おれ》はもともと死んでる。それに、俺としちゃ、奴をやり過ごしてからの方が動きやすい』
『アーヴィーを、助けて』ミラは強い口調で言った。『あなた、わたしを利用して逃げるつもりだったんでしょ? わたしたちには借りがあるはずよ』
『それを言われると辛《つら》い』
魔物が苦笑した。生命に対する尊敬の念は薄いが、変に義理堅いところがあるのだ。
『……それじゃ、体をもらう[#「体をもらう」に傍点]ぜ。あんたは消えていなくなるが、いいな?』
『体を……』
ミラはしばし戸惑ったが、やがてきっぱりと言った。
『いいわ』そして、念を押すように『そのかわり、アーヴィーを』
『ま、やるだけやってみるよ』
脳の書き替えが始まった。
ミラ・ヘルシングの大脳旧皮質に移植された組織に憑依《ひょうい》する極小の人造霊《オートマトン》〈マクスウェル〉が、圧縮状態で保持していた魔物の記憶を解凍、灰白質に上書きしていく。急速に魔物に浸蝕《しんしょく》され、縮小、分解していく意識の中で、ミラは呟《つぶや》いた。
『わたしも「東」に行きたかったな……いい所なんでしょ?』
『ああ、いい所だ』魔物は言った。『もし生まれ変わりでもしたら、行ってみるといい』
その言葉は、ミラに伝わったのか。
ミラの意識はすでに消滅し、拠《よ》り所を失った魂はどこかにシフトしていった。天国か、地獄か、それとも他《ほか》のどこかか。魔物には、判《わか》らない。
ミラの体がもぞりと動いた。
思わず腕の中を見るアーヴィーの眼《め》を、紅《あか》い瞳《ひとみ》がまっすぐに見上げていた。
「ミラ……!?」
アーヴィーの呼びかけに、ぎらりと牙《きば》を剥《む》き出した魔物の笑みが応《こた》えた。
「『よし……マクスウェル!』」と魔物は言った。
ミラ・ヘルシングに移植された魔物の脳組織からの再生命令が、マクスウェルによって増幅・解放された。
ミラの心臓が、どくどくと力強く脈打ち始めた。
腰の断面から、再生された血管が網の目のように伸び、網の中に骨格が生じ、筋肉をまとい、新たな下半身が形成されていく。
一方、ミラの上半身の白い皮膚を内側から裂いて、赤い肉が盛り上がった。シャツを破り、なおも膨れ上がる肉の下で、ごきごきと音を立てて骨格が組み変わっていく。
上着の袖口《そでぐち》から、右手が生えて出た。
アーヴィーの腕を離れ、それ[#「それ」に傍点]は立ち上がった。赤い剥《む》き出しの肉の上に血に濡《ぬ》れた上着一つをまとう、均整のとれた、成人男性の肉体だ。アーヴィーより頭半分ほど背が高い。
全身を、青白い皮膚が覆った。魔物の笑みを浮かべる端整な口元から、長大な犬歯がのぞいた。
この間、わずか数秒。あまりに奇怪な出来事に、アーヴィーは恐怖さえも忘れ、魔物の紅《あか》い瞳《ひとみ》を見上げた。
「ミラ……あんたは?」
「〈ロング・ファング〉……!!」とヘルシングが叫んだ。
「ヨー・ホー」と、魔物――〈ロング・ファング〉は言った。
「貴様……!」
「積もる話は後だ。ズラかるぜ」
とヘルシングに言うと、〈ロング・ファング〉はアーヴィーを肩にかつぎ上げ、なおも唸《うな》りを上げる神父に背を向けた。
かつて何人もの『直結野郎』を目にしてきた彼も、これほどのものは見たことがない。全身から強力な聖光を発する神父の肉体は、吸血鬼《ヴァンパイア》にとって白熱した鉄塊に等しい。近くにいるだけで、青白い皮膚がちりちりと焼ける。まともに相手をするつもりは毛頭《もうとう》ない。
猛然とダッシュ。人ひとり背負いながら、驚異的な速度でみるみる神父との距離を開ける。
ヘルシングはその後を追った。吸血鬼《ヴァンパイア》を追っているのか、共に神父から逃げているのか、自分でも判《わか》らない。
背後で、ごう、と空気の唸る音がした。
ヘルシングの顔のすぐ横を、光を放ちながら高速で通過する物体。神父の投げた十字架だ。投げ槍《やり》のように飛んできたそれは、先を行く〈ロング・ファング〉の背を、串を刺すように貫いた。
吸血鬼《ヴァンパイア》の口から血と呼気の塊が吐き出され、アーヴィーの体が空中に放り出された。
完全に貫通する勢いで飛んできた十字架はしかし、横木に吸血鬼《ヴァンパイア》の肉体を引っかけるようにしてさらに一〇メートルを直進。行き止まりの壁に突き立った。
コンクリートの壁面に、放射状のひびが走った。その中心に釘《くぎ》づけになった〈ロング・ファング〉は、さながら蜘蛛《くも》の巣に捕らえられた羽虫《はむし》のようだ。
路面に叩《たた》きつけられたアーヴィーが、横様に数回転した後、低く呻《うめ》いた。
ヘルシングは振り向き、神父に向けてEマグを構えた。
神父は再びゆっくりと歩き始めた。傍らに跪《ひざまず》く呪装戦術隊《S.E.A.T.》隊員をなでるような仕種《しぐさ》をすると、三つの頭がなんの抵抗もなくジャムのように潰《つぶ》れた。
肉体から発する光が、さらに強さを増した。直視できないほどの眩《まばゆ》さだ。
ライマン脳との共鳴《ハウリング》によって、神父の体内に、なにか巨大なものが出現しようとしていた。聖光と聖和音の轟然《ごうぜん》たる振動を伴う、空間の歪《ゆが》み、因果の渦動《かどう》。
〈ロング・ファング〉の出現によって掻《か》き立てられたヘルシングの意志力が、再び急速に萎《な》え始めた。吸血鬼《ヴァンパイア》の瞳《ひとみ》にさえ動じない鋼鉄の精神が、眼前の超存在によって砕かれようとしていた。
ヘルシングの手から、Eマグが落ちた。
目の前の路面に、ごつりと転がったそれを、
アーヴィーが手に取った。
(取ってどうしようと思ったわけではない)
神父に照準した。
(撃てばどうなると思ったわけでもない)
無心に、
引き金を引いた。
一発。
二発。
三発。
四発。
そして――
突然、神父が苦悶《くもん》の叫びを上げた。
五発目の弾丸が、神父の頭部を吹き飛ばした。頭部は跡形もなく消し飛び、すでに蜂《はち》の巣状になっていた体も、背中から倒れたはずみに路面に四散した。
有刺《ゆうし》鉄線の輪が、からからと音を立てて転がった。
同時刻、A層|降魔局《A・S・C》本部・ライマン脳制御室。
『神の顔』が苦悶《くもん》の叫びを上げ、やがて沈黙した。後に残ったのは、もはや物言うことのない、鋼の死相。
都市全域で観測された因果律の偏向と盗聴した降魔局《A・S・C》内の通信からライマン脳の異状を察知した公安局が、黒杖特捜官《ブラックロッド》を派遣。その中枢を破壊したのだ。
こうして降魔局《A・S・C》は『神』との接触の最初のチャンスを逃し、再びそれを手にするまでに、長い研究期間を費やすことになった。
「いい様だな、〈ロング・ファング〉」
Eマグに弾を込めながら、ヘルシングが言った。
「貴様の命運も、ついに尽きたというわけだ」
〈ロング・ファング〉はいまだ、コンクリートの壁に角材の十字架で釘《くぎ》づけにされたまま。巨大な昆虫標本のようだ。十字架と肉体の接触面が、しゅうしゅうと煙を上げている。
「実を言えば、俺《おれ》もいい加減、生き飽きてるんでね」
と、〈ロング・ファング〉は言った。気道を通って口からも煙が漏れている。
「あんたくらい熱心な奴《やつ》になら殺されてやりたいところだが……今、俺を殺しても、|第三度以上の吸血鬼《おおもの》は残る。直結野郎もくたばっちまったし、後のことはどうする? 俺なら始末がつけられるぜ」
「……吸血鬼《ヴァンパイア》を殺せるのはお前だけではない。例えばこの、アーヴィング・ナイトウォーカーだ」
ヘルシングは言った。
「〈ロング・ファング〉は殺されねばならん。貴様が生きている限り、人は吸血鬼《ヴァンパイア》への恐怖に支配され続ける。……吸血鬼《ヴァンパイア》は、人の手で殺されねばならん[#「人の手で殺されねばならん」に傍点]」
「否定はしないが、そいつがやりたがるかどうか」
「協力しなければ、第一級殺人犯として処刑されるだけだ。選択の余地はない」
「そんな脅しが効くような奴かね」
〈ロング・ファング〉は精一杯首を回してにやりと笑ったが、それでもまともにヘルシングの表情を見ることはできない。
「……どうにも話しにくいな。これ、外してくれよ。今、あんたらに手は出さないし、逃げ出しもしない」
ヘルシングは引き金を引いた。
テディベアが詰め物を撒《ま》いて弾け飛び、十字架の交差部が砕け散った。
壁に腕を突っ張り、〈ロング・ファング〉は棒状《ぼうじょう》になった角材から体を引き抜き、路面に尻餅《しりもち》を突いた。
ヘルシングは誰《だれ》よりも〈ロング・ファング〉を理解していた。人を喰った人喰い[#「人を喰った人喰い」に傍点]だが、どういうわけか約束は守る。油断はならないが、信用はできる。十字架を差しておくより、約束をさせるほうが確実なのだ。
立ち上がった〈ロング・ファング〉に、ヘルシングは再びEマグを向けた。単なる意思表示だ。〈ロング・ファング〉がその気になれば、発砲の瞬間に銃口を避けるくらいはなんでもない。
「忘れるな。貴様は娘の仇《かたき》だ」
「ミラか……うん、あればいい娘だったな。あんたに似てた」
ただ、事実のみを語る口調。皮肉ではない。罪の意識もない。
――自分はいったい、なにに対して怒っているのか?
吸血鬼《ヴァンパイア》を睨《にら》みつけるヘルシングの表情から、急速に気迫が抜け落ちていった。
――これ[#「これ」に傍点]は人間ではない。人の形をした空虚《うつろ》なのだ。
「そう情けない顔するなよ。あんたに遊んでもらえなくなったら、俺《おれ》も生きる甲斐《かい》がない」
その言葉に、ヘルシングは燠火《おきび》のようになった意志力を無理矢理に掻《か》き立てた。
「貴様に生き甲斐など必要ない。アーヴィング・ナイトウォーカーが使える[#「使える」に傍点]となれば、その時は……!」
吸血鬼《ヴァンパイア》が、くく、と笑った。そうとも、そうこなくては。
「今、訊《き》いてみるよ」
〈ロング・ファング〉は屍体《したい》のように転がるアーヴィーの傍らに膝《ひざ》をつき、顔をのぞき込んだ。
「聞こえるか?」
アーヴィーは吸血鬼《ヴァンパイア》の顔を、ぼんやりと見返した。もう、腕一本動かす力もない。〈ロング・ファング〉の語る、おのれの置かれた状況を黙って聴いた。
「……まあそんなわけで、そこの親父《おやじ》は――」と、〈ロング・ファング〉はヘルシングを指し、「あんたを手駒《てごま》に使いたがってるが、嫌なら嫌と言えばいい。すべてはあんたのご希望次第さ」
「俺の……?」
俺の希望って、なんだろう? 俺はいったいどうしたいんだろう? 考えたこともなかった。
ミラだったら、なんて言うかな?
「ミラは……?」
「さあな」と〈ロング・ファング〉は言った。「今頃《いまごろ》は、天国かも知れん、地獄かも知れん。それとも、どこか東の方に飛んで行ったか。俺には判《わか》らん。……あんたはどうする?」
「……どうしよう」
「自分で決めな」
アーヴィーは長いこと考えた末に、一つの結論を出した。
アーヴィング・ナイトウォーカーがその生涯で自ら下した、最初の、そして唯一の決断だった。
半月後――
アーヴィング・ナイトウォーカーは最下層の繁華街を歩いていた。四六時中監視される身ではあるが、若干の自由は与えられている。自由になる時間は、尾行者を一ダースばかり引き連れて、こうした猥雑《わいざつ》な街に繰り出すのが常だ。これからの主な仕事場となる場所を見ておくことは必要だ。そう言われては、当局にもそれを禁じる理由はない。ただ一人、W・ヘルシング教授のみがこれに反対したが、その論旨に今一つ不明瞭《ふめいりょう》な点があったため、問題にはならなかった。
眼《め》には薄い色のサングラス、黒いつなぎの上には新品の軍用ジャケット。近々正式に動き出す対吸血鬼戦用の特殊部隊の制服だ。その隊長となるナイトウォーカー(彼には自警軍の階級に準じ、少佐の身分が与えられた)の要望により、ジャケットの色は『血のような赤』に決められた。一年後にはこの界隈《かいわい》でもまがい物の『赤ジャケ』が大流行《おおはや》りすることになるが、今はまだ、誰《だれ》も知らない。
人込みの中で、アーヴィーの肩が何者かにぶつかった。
「おっと失敬」
と言いつつ振り返って見れば、身長二メートルを越す、坊主頭の巨漢。
「いや、こちらこそすまぬ」と、額に掌《てのひら》をぺたりと当てる。
「おや、あんた……」
サングラスの奥の眼が細められた。
「イカスな、それ」
坊主の無毛の頭部、その額には、どういう意味があるのか、大きな×印がペイントされていた。坊主はそこに向けられた視線に気づくと照れたように笑い、
「別段、伊達《だて》ではない」
と言って、つるりと額をなでた。そして、その意味を語る代わりに、
「おぬしこそ、なかなかに洒落《しゃれ》ている」
「まあね」
アーヴィーは口元から長く鋭い犬歯をのぞかせて、にやりと笑った。そして、軽く二本の指を立てた左手をくだけた敬礼のように振ると、踵《きびす》を返して歩み去った。
何者か――?
なに食わぬ顔で別れ、数メートルを歩いた後、坊主は振り返ってみたが、血の色の背はすでに雑踏に紛れ、気配をつかむこともできなかった。
アーヴィング・ナイトウォーカー。
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》を率い、永劫《えいごう》の夜を往《ゆ》く、血塗られた英雄の物語が、始まろうとしている。
一時は市内で知らぬ者はいないとまで言われた英雄・アーヴィング・ナイトウォーカーだが、その最後を知る者は少ない。通説とされているのは最後の吸血鬼殲滅戦《ヴァンパイア・ハント》の際に感染、自ら命を絶ったというものだが、この話にはいささか悲劇、美談としての脚色の感を禁じ得ない。また、公安局の記録によれば、感染・逃亡の結果、呪装戦術隊《S.E.A.T.》によって『処理』されたのだともいう。
しかし、前出の資料から筆者が推測するのは、次のような結末である。
すなわち――
『殺人者としての前歴を持つアーヴィング・ナイトウォーカーはその特性を生かして吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の中核として働き、期待された仕事を終えた後、予定通り処分された』
[#地付き]――C・R・ハント『ナイトウォーカー 〜英雄の仮面〜』より
[#改丁]
エピローグ
EPILOGUE
[#改丁]
夜明け近く、一台のトラックが都市の外壁を抜け、市外の荒野に乗り出した。
運び屋はよくしゃべる男だった。
「なァに、本隊に合流しちまえば気楽なもんよ。祈祷車輪《ワッパ》ブン回しながらブッ飛ばしゃ、|物の怪《モノノケ》なんざァ寄っちゃこねえ。あとは『好《ハオ》! 好《ハオ》!』、中国娘の夢を見ながらお昼寝さ。……ま、途中で運の悪いのが二、三台、野生《ノラ》の魔神に踏みつぶされるだろうがよ」
と、ハンドルを切りながら荷台に話しかける。
積み荷は水、食料、貴金属に、何箱かの雑誌とビデオ。この手の二束三文の情報媒体が、異国の地では意外とウケるのだ。隊商の護衛車《ガード》に高い契約金《ギャラ》を払っても、充分に儲《もう》けが出る。
そして、今回はそれに加えて、客が一人。まだ少年と言ってもいいような、若い男だ。荷台のポリタンクと麻袋の間に、片膝《かたひざ》を立てて座っている。
「それよっきゃ、この結界《ゾーン》を抜けるのがコトなのさ。順路《ルート》をちょいとでも外れたら……おっといけねえ!」
九〇度近くハンドルが切られ、派手な土煙を上げて車体が傾いた。大きく片寄った積み荷の中、荷台の男は幌《ほろ》の縁をつかみ、必死で足を突っ張っている。
その様子を見て、運び屋が呵々《かか》と笑った。
「そう睨《にら》むなよ。これがルートなんだ。北斗七星の形に走るのさ。知ってるか? 北斗七星。でっかい柄杓《ひしゃく》だ」
知らない、と、男は短く答えた。
「はは、やっとしゃべったな、兄弟! 言葉が通じるなら、必ず気心も知れるってもんだ。ま、仲よくやろうや。……あんた、名前はよ?」
男は名乗らなかった。
名前は人にやってしまった、と言った。
それを聞いて、運び屋はさらに大笑した。
「面白い奴《やつ》だな、あんた! じゃあ、その手も人にやっちまったってわけだ!」
男の左手の手首から先は、鉤爪《かぎづめ》状の義手になっていた。
「よぉし、それじゃ俺《おれ》が新しいのをやるよ……ブルル!(と唇を鳴らし)そうじゃねえ、手じゃなくて、名前! そうだな……『ザ・フック』なんてのはどうだい、え?」
男は子供のようなきょとんとした表情を見せた。が、やがて、左手の義手を、カキン、と鳴らして、薄く微笑《ほほえ》んだ。
「はは、やっと笑ったな!」と言いながら、運び屋が再びハンドルを切った。
全部で四回の直角コーナリングを経て、トラックは〈ケイオス・ヘキサ〉の外周|結界《けっかい》を抜けた。
辺りの風景は相変わらずの荒れ地だが、目に見えない層を一枚|剥《は》いだように、空気が軽くなった。
白み始めた空を、風が渡っている。
「あれは……?」
荷台の男が呟《つぶや》いた。
運び屋の肩越しの、はるか地平線の向こうから、なにか巨大な光の塊のようなものが上昇してくる。
「はは、都市《まち》育ちにゃ、太陽が珍しいってか!」
「……まぶしいな」
男は眼《め》を細めながら、初めて目《ま》の当たりにする太陽に見入った。
「ま、じきに慣れるさ……どこに行っても、お天道《てんとう》様はついてくるもんだからな!」
運び屋はアクセルを踏み込んだ。
タイヤが悲鳴と土煙を上げて空転した後、トラックは地平線の太陽に向けて、飛び出すように加速した。
[#地から2字上げ]〔了〕
[#改丁]
あとがき
[#改丁]
屍体《したい》、ゾンビ、吸血鬼、人形、人造人間、サイボーグ、機械知性、奴隷《どれい》、etc。
昔からとにかく『人に似て非なるもの』が好きでして。
要は『生命』とか『人間』とか『アイデンティティ』とかいったような、若いもんが一度は語ってみたくなるアレコレを考えるにあたっての思考実験装置として、そういうものに惹《ひ》かれているのでありましょう。ちょっと前に『死体ブーム』なんてのがありましたが、ま、それと一緒。大層なお題目はさておき、その怪しげな雰囲気がたまらん、という点も一緒ですね。
さて、『人に似て非なるもの』には、二つのタイプがあります。すなわち、『モノがヒトになったもの』と『ヒトがモノになったもの』。ヒトとモノの境界のあいまいな部分に彼らは存在するわけです。が。
十年くらい前のTV特番で、サイバーパンクの人ウィリアム・ギブスンが、この先機械と人間は一つに融合していくのか、との質問に対し、こう答えていました。
「ノー、それらはもともと同じものだよ」
ヒトだってモノじゃん。
むむう、かっこいいぜ、サイバーの人!
結局、ヒトとモノを分けているのはイデオロギー(奴隷制、脳死問題etc…)だけなのか、ヒトの枠を定めているのはヒト自身なのか?
「いや神が決めた」ってのもまた、なんか豪快でいいっスね。
で、『神』ですよ。『神』の定義にもいろいろありますが、ここでいうのは唯一神とか絶対神とかいう全知全能の奴《やつ》。いやすごいですね、この『世界』を作っちゃったっていうんですから。私もあなたも等しく神の掌《てのひら》の中にいるというわけですよ。
ほんとか?
ん、とてつもなく嘘《うそ》っぽい一方で、『なんかそんなの』がいそうな気もしますな。ただ、もしいたとしても、神という大洋のごとき存在が、人間の器にすくい切れるはずもなし。それは人間なんかに理解できるもんではないだろうなあ。とはいえ、しょせんはそれも「人間の常識」ではあるし、うーむ。
結論・よく判《わか》らんス。
まあ真偽はともかく。『神』も『人に似て非なるもの』も、神話・伝説・SFなどではるか昔から扱われてきたネタではあります。が、しかし。いやあ、いまだに面白《おもしろ》いっスッ
今回もそのようなお話なわけです。
さて。
「今度はアーヴィング・ナイトウォーカーの話をやります」
と言って『ナイトウォーカー』の仮タイトルで書き進めてきたこのお話ですが、
「やっぱり『ブラッドジャケット』の方がいいよ」
という編集スズキ様の意見に従い、『ブラッドジャケット』のタイトルで刊行される運びとなりました。
う〜む、なるほど。確かに、禍々《まがまが》しくも力強い言霊《コトダマ》を持つ『ブラッドジャケット』の方がタイトルとしての押しは強いかもなあ。『ナイトウォーカー』はなんだか風俗情報誌みたいだしなあ。なんにせよ、ここはプロの意見に従った方が安全確実であることだなあ。などと思っておりましたある日、
「前作の節変え記号(*)が使えると思ったんだけど、『ブラッドジャケット』って、よく考えたら『BR』じゃなくて『BJ』だったね」
うーむ、なるほど。なるほどなあ。
いや、まあそれはいいんですが、ただ一つだけ気にかかるのは、今年の四月に文庫化された件《くだん》の前作『ブラックロッド』を講入された方が、
「ブラなんとか[#「ブラなんとか」に傍点]…? おう、もう読んだ読んだ」
と言って素通りしてしまうんではないかという点です。皆さんどうかご注意を。お友達にも教えてあげると、とても喜びますよ。
俺《おれ》が。
[#地付き]平成九年水無月吉日
[#改ページ]
底本:「ブラッドジャケット」電撃文庫、メディアワークス
1997(平成9)年6月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年11月10日作成